Fate/Next (真澄 十)
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序章 聖杯戦争

(重要事項1)公̣式には第六次聖杯戦争は起こらないのですが、起こってしまう、というIFの物語です
(重要事項2)本作品は現在「小説家になろう」にも投稿しています。小説家になろうへの投稿は現在休止中です。

凛ルートからの派生です。ある程度の予備知識がある方が読むことを前提で執筆しております。
また、一部作者の勝手な設定が入ります。
さらに、作者はアホなので、原作とは違う設定が入る可能性も高いです。やんわりと指摘してい頂けると有難いです


 この世には聖杯というものがある。それは神の血を受けた杯のことである。それは持ち主の願いを何でも叶えると言われる聖遺物だ。

 冬木市に決まった周期で降りるそれも、聖杯と呼ばれていた。しかしそれが贋作であることは証明済みである。それが願望機としての機能を備えていたためにそう称されただけだ。

 かつて冬木に降りた聖杯。それを英霊の力をもって破壊した。聖杯の器の少女を犠牲にしてしまったが、その心臓を抉り出した元凶を切り伏せ、心臓に降りた泥を破壊した。

 

 その戦いの末に。

 一人の男は、己の在り方に気付き、未来の自分とは違う道を歩むと決意する。

 一人の女は、そんな彼を見守ってやれ、と自らの従者に告げられる。

 一人の英霊は、答えは得たと笑顔で逝く。

 

 そんな彼らが、冬木に降り注がんとしていた災厄を退けた。血で血を雪ぎながら、それでもなお剣を振るい、命を燃焼させてそれを成した。

 聖杯はもはや災いしかもたらさない呪いの杯と化していたからだ。彼らは彼らの正義を信じ、それを貫いた。

 

 その偉業は誰も知りえないが、彼らはまさしく英雄で、

 ――どうしようもなく片手落ちだった。

 

 冬木の町には、聖杯が二つある。小聖杯と大聖杯と呼ばれるモノだ。

 小聖杯は、魔術師たちが血眼になって求める願望機。いかなる願いも成就する奇跡の器。そして、大聖杯が聖杯戦争の要。

 そも、小聖杯は英霊の魂の受け皿にすぎない。そしてそれ以上の能力は持ち得ない。

脱落した英霊の魂を一時的に受け入れ、それを開放することで願望機として機能する部品。

 

 それが英霊7体分の魂を許容する器ならば、杯だろうが生物だろうが構わないのだ。

 

 では、英霊の召還やマスターの選定は何が行うのか。その答えが大聖杯である。

 

 冬木の霊脈を枯らさぬように、長い時間をかけてマナを吸引し、英霊の召還に必要な魔力を蓄える。そして然る後に、聖杯の意思によりマスターを選出し、英霊を与える。これが大聖杯である。

 

 ――つまりは、小聖杯を破壊しても、大聖杯が無事なら何度でも聖杯戦争は行われるのだ。

 彼が、本当にこんな馬鹿げた争いを終わりにしたいと願うなら。――破壊すべきは大聖杯。

 

 しかし、それは為されなかった。

 平行世界の異なる世界であれば、聖杯戦争は協会の手によって解体されていた。―――だが、ここの彼らにそんな救いはなかった。

 聖杯は災厄をもたらすが、それでも根源に至るには有効な手段だ。もちろん、魔術協会の中には聖杯戦争の解体を快く思わないものが居た。

 魔術協会は決して一枚岩ではない。さまざまな考えが入り乱れる。

 その結果、聖杯戦争を解体せんと動いていた一人の名物教授は、そんな彼らの凶行にて殺されることになった。

 

 ――だから、こんな愚かな争いが、再び起こってしまった。

 

 聖杯の中に溜まった、未使用の魔力のせいで此度のサイクルは前回よりなお早い。

 たったの7年。7年で再び聖杯を奪い合う殺し合いが始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

  ◆◇◆◇◆

 

 

 ドイツの森の中に、時代錯誤も甚だしい古城がある。そこは常冬の森だ。

 白い雪の中に覆われた、厳粛な礼拝堂。今そこで音を立てるのは、しんしんと降る雪のみだ。その静けさがその厳粛な空気をより深く演出する。

 重々しい音をたて、その神聖なる場所への扉が開く。油の足りない蝶番は軋みをあげ、その静寂を打ち破った。石畳を叩く足音は二人分。だが、片方はヒトではない。

 ホムンクルス。人造人間であるそれは、ヒトに似て非なる存在。魂の宿らぬ、ただ生きているだけのモノ。感情など持たない、生きているだけの人形。

 だが、本当に稀有な例だが――彼女には人格があった。他の姉妹達には無い、人らしい感情。何故か彼女にはそれがあったのだ。多分、彼女が前回と前々回の聖杯戦争で用いられたホムンクルスを真似て造ったものだからだろう。それが人の真似事であったとしても、ホムンクルスとして過不足ない性能を発揮するのならば問題はないとホムンクルスの製造者は判断していた。

 

 ホムンクルスの名は、サーシャスフィール・フォン・アインツベルン。此度の聖杯戦争に備え、アインツベルンが急造したホムンクルスである。

 

 前回までの失敗を踏まえ、彼女には魔術師としての能力はもちろん、身体能力が大幅に鍛えられていた。アイリスフィールのように、代行者なんぞに遅れをとってはアインツベルンの名折れだ。

 戦闘能力が高いにこしたことはない。ここにきて、アインツベルンもいよいよ本気なのだ。

 

 もう一人は、ユーブスタクハイト・フォン・アインツベルン。第三魔法の成就という妄執に囚われた翁。彼が傍らのホムンクルスの生みの親でもある。

 しわがれた皮膚に白い頭髪。どう見てもひ弱な老人であるが、その窪んだ眼窩の奥の光だけは、並々ならぬ執念の炎を宿していた。

 

 2人は、無言で礼拝堂を歩く。翁が先を行き、ホムンクルスが後に続く。翁が立ち止まった先は、祭壇であった。

 

「サーシャスフィールよ、あろうことか冬木に聖杯が降りたそうだ」

 

 ややあって、老人はホムンクルスに背を向けたまま口を開く。後に続くホムンクルスは、無言で続きを促した。

 

「だが……ふん。愚鈍なるは聖堂教会と魔術協会よな。戦いは半年後だそうだ。大方、監督役の派遣に手間取っておるのだろうよ。半年も聖杯を待たせおって、如何な異変が起きても知らぬぞ。

 ……しかし、彼奴らの見立てでは、此度も10年はかかるという話であったろうに。……尤も、我らもここまで早く降りるとは思わなかった。よほど未使用の魔力が溜まっておるのだろうな」

 

 この翁がここまで饒舌なのは珍しい。どうやら相当に苛立っているようだ。しかしそれも無理はない。

 

 今回の聖杯はフライングじみた降臨だった。誰も彼も、それが降りる時期を見誤った。

 何せ、聖痕は誰にも発現しなかった。以前ならば、御三家ならば数年前から令呪を宿すこともままある。しかし今回はそうでは無いのだ。

 

 この変調の原因はいくつか考えられるが、危惧される事態がある。第三次、第四次、第五次と三度の小聖杯の破壊を経て、聖杯のシステムに異変が生じた場合だ。

 

 もしかすると、大聖杯そのものにも異常があるのかも知れない。それはあってはならないが――可能性として考える必要があるだろう。

 

「ですが、そのおかげで早めにサーヴァントを召喚できます。より練った作戦もとれるかと」

 

 老人が振り返り、ホムンクルスの顔をまじまじと見る。なるほど、ここに呼び出された意図は分かっているようだ。

 

「然り。……おそらく、召喚の準備が整っている者は殆どおるまい。結局どうやっても本格的に動き出すのは半年後よ」

 

 再び振り返り、ホムンクルスに背を向ける。老人は顎で、壇上の物体に傾注するよう促す。

 

 ホムンクルスは祭壇の前に歩み出て、それを見た。

 

 本来なら、神像などを捧げるべきであろう祭壇には、紅い布に包まれた物体がある。幾重にも巻かれたそれは、何を包んでいるのか俄には判別できない。

 サーヴァントの召還は触媒を用いることで、意図した個体を呼び寄せることが可能となる。何も用いなければ召喚者の精神とより近いものが選ばれるが、万全を期すならば英霊の遺物を用いるべきだ。

 アインツベルンはどのような英霊が呼び出されるか分からないという博打を打つつもりは毛頭ない。呼ぶならば最強の英霊だ。 

 

「お爺様。これが?」

 

 ホムンクルスが尋ねる。その声は澄んでいて、僅かながら緊張の色が混ざっている。

 

「うむ。かねてより探させていたものが見つかった。サーシャスフィール。確実にコレを呼び寄せ、聖杯を今度こそ我らの物にせよ。

 今度こそ、必ずや聖杯を手中に収め、第三魔法の成就を」

「御意に」

 

 彼女は深々と頭を下げる。それを横目に見ながら、アハト翁は礼拝堂を後にした。ホムンクルス相手に激励を贈るような神経は持ち合わせてはいないようだった。

 翁が礼拝堂を立ち去るまで下げられたままだったが、再び重々しい音と共に扉が閉ざされると同時に頭を上げた。

 

「……アジアの有名な英霊と仰っておられたけど……一体どんなサーヴァントかしら」

 

 サーシャスフィールはこの期に及んでも何も聞かされていない。ただ、今回はアジアで名を轟かせた英霊を選んだとだけ聞かされただけだ。

 英霊はその土地での有名さの具合で強さが上下する。有名であればあるほど神格化され崇拝の対象となり、精霊に近い存在である彼らはそれによって力を増す。

 アーサー王やヘラクレスも十分に有名であるが、欧州に比べると崇拝の段まで至ってはいない。ならばアジアで崇拝される英霊のほうが冬木で力を発揮できるのではないか――という判断に基づくものであった。

 

 興味津々といった様子で祭壇に置かれた遺物を観察する。布の上から見る限りでは、何やら平板のようだ。無論、布が英霊の遺物というワケではあるまい。問題なのは中身である。

 サーシャスフィールは慎重にその覆いを剥ぐ。中の物体が何であれ、百年はゆうに経過している物体なのは間違いない。だいぶ風化も進んでいるだろう。雑に扱って壊したら刎頚では済まない。

 

 中より出てきたのは、錆びた鉄板だった。いや、よく見れば片側には研がれた形跡がある。これは恐らくは刃だ。きっと柄もあったのだろうが、失われている。

 よくよく見ると、柄があったと思われる場所の付近には、なにやら蛇のような意匠が施されてあった。サーシャスフィールは知らなかったが、アジアにおける龍の姿である。

 

 だが、彼女の中にはこんな幅広な刃は知らない。刃だけでも、一抱えはある。彼女の知る剣や槍の刃とは、もっと細いものだ。

 そも、本当にこれは英雄の遺物なのだろうか。あちこちは錆び、もはや鉄屑だ。聞く話では、17年前にここでアーサー王を召還した際の拠り代の鞘は、錆どころか疵一つなく、光り輝く遺物だったというではないか。

 

 これにそれほどの威光があるのか、甚だ疑問である。が、そんなことで翁に意見するなど許されはしない。翁の命は絶対だ。逆らうことはおろか、疑問を持つことさえ許されはしない。

 これを用いて召喚しろと言われたのであればする。ただそれだけの事だ。

 彼女はコレを用いてサーヴァントを呼ぶ。何の英霊か、何のクラスかも聞いていない。ただ、ニホンは勿論、アジアでも有名な英霊だとしか聞かされていない。

 

 だが、それが何だというのか。

 

 彼女にとって、それは瑣末に過ぎない。彼女の命はただ、聖杯の完成の為にある。幾たびも阻まれたが、今度こそは第三魔法を成就させるのだ。

 

 ふと祭壇の奥に目をやると、そこには輝く杯が仰々しく保管されている。いや、飾られているというべきか。

 華美な意匠はまさしく聖杯と呼ぶに相応しい一品だ。それを見ているだけで、魂が吸い込まれそうになる感覚さえ覚える。

 

 今回の聖杯は生物ではなく、再び無機物の杯に戻してあった。

 外来のマスターは既に信用できず、かといってマスターの能力が終盤で鈍るのは些か宜しくない。破壊の危険は伴うが、それは生物でも同じこと。いっそ杯のほうが運用しやすいというものだ。

 

 煌びやかに光を反射するそれは、すでに聖杯として機能している。この調子なら、冬木においてもつつがなく機能するであろう。

 

 暫くそれを眺めていたが、おもむろに視線をそらす。

 

 ”……今は雑念を取り払わなくては”

 

 彼女は黙々と召喚の準備を整える。とは言え、陣は既に床に刻まれている。殆ど準備は済んでいるも同然だ。

 その陣が間違いなくサーヴァント召喚のものであることを確かめ、その溝に自らの血を混ぜた液体を流し込み、頭の中で召喚の呪文を再度詠唱し間違いなく暗記していることを確かめる。

 最後にその魔方陣に解れが無いことを確認し、準備は全て整った。

 

「……これでいいでしょう。さあ、英霊の座から降りてきてもらいましょうか」

 

 体中に魔力を漲らせる。魔方陣は赤く輝き、その言葉を待ち受ける。

 体の節々が悲鳴をあげるが、それは魔術師には一生ついて回るもの。その一切合財を無視し、精神を透明に澄ませる。

 

 ――これより彼女は、神秘を行う部品となる。

 

 

「告げる―――」

 

 足元の陣が、さらに閃光を放つ。もはや目を開けていられない。いや、閉じていてもその光は瞼を貫通して目を焼く。

 彼女は確かな感触を得ていた。サーヴァントを間違いなく呼べる。まだ召喚の儀式は始まったばかりだというのに、その桁外れの霊格を肌で感じていた。

 

「汝の身は我が剣に、我が命運は汝の剣に。――」

 

 魔法陣から、凄まじい風。それは渦を巻いて吹き荒れ、彼女の髪をかき乱す。

 

 

  ◆◇◆◇◆

 

 

 ちょうどその頃、ドイツから遠い地でも一人の男がサーヴァントを呼び寄せていた。その男は地下の工房で、自らに相応しい英霊を呼び出さんとする。

 

 彼もまた、聖杯に願いを求める愚者の一人だ。

 

「聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ――」

 

 髭を蓄えたその男の目は、狂気じみた色を持っている。口には歓喜の笑み。歪んだ口元からは涎が滴る。

 

 奇しくも、彼の召喚はアインツベルンとほぼ同刻。聖杯戦争の知らせを受け、すぐに準備を整えることの出来た幸運な二組だ。

 

 

  ◆◇◆◇◆

 

 

「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」

 

 彼女は予想以上の旋風に驚かされる。もはや、まともに直立することすら難しい。だが詠唱は決して止めない。彼女もまた、アイリスフィールの祈願の成就を切に願うが故に。

 四肢に力を込め、己の最大出力の魔力を以って召喚を続行した。

 

「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!」

 

 より強い閃光と風。サーシャスフィールは腕で光を遮る。そしてその顔は確信の笑み。

 そう、彼女は召喚した。

 

 ――光と風が収まると、そこには一人の益荒男。筋骨隆々、全身は鎧で包まれている。見るだけでも他を圧倒する存在。その男から放たれる魔力は、間違いなく規格外の存在だと訴える。

 

 彼は膝を折り、跪いたまま、顔を上げずに眼前のホムンクルスに問うた。

 

「問う。(なれ)が俺の主か?」



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Act.1 Man and Woman

 そこは、天然の結界とも言える空間だった。

 

 舞い上がる砂は、もはや弾丸となって襲い掛かる。それは老若男女分け隔てなく襲い掛かる暴力だった。この土地特有の乾燥した気候の影響で、土というよりも砂に近い。それが昨今の異常気象の影響だろうか、凄まじい突風で舞い上がり、降り注ぐのだ。

 

 びしびしと窓ガラスに砂粒が降り注ぐ。

 

 しかし室内に居る限りでは、身の安全は保障されているも同然だった。ゆえに此処は結界。

 

 コンクリートで固めただけの、人工物然としたこの小屋は、果たして外の弾丸から守るためのものなのか、それとも閉じ込めるための牢なのか、当人達にはもはや判別つかない。

 

「―――皮肉だよな。」

 

 小屋には3人がいる。そのうちぼんやりと外を見ていた一人が口を開く。

 

「……何が?」

 

 別の一人が答える。声は女のもの。凛とした声が特徴的だ。この辺りの慣習だろうか、顔は布で隠されている。

 

「俺たちはさ、この紛争を終わらせるのが目的でここに来たんだよな?……なのに、自分達の力じゃどうしようもない。結局この紛争を中断させたのは…自然の猛威。結局さ、何もしなくても良かったのかもって気になっちまって。俺なんかがいくら足掻いても、無意味なのかなーって思ってしまった。」

 

 女はふう、と深い溜息をつき、顔の覆いを解く。

 

「士郎。それ、アーチャーが聞いたら斬りかかってくるわよ。アンタ、お前とは違うってアイツに啖呵切ったんでしょ?その悩みはエミヤシロウのものであって、衛宮士郎であるアンタには許されないものよ。」

 

「……そうだった。すまない遠坂、なんだか弱気になっていたみたいだ。」

 

 男はふと、その胸にかかるペンダントに目を落とす。それはかつて、彼が彼女から命を貰った折の、運命の宝石。紅く輝くそれは、今はかつて程の魔力は込められていない。

 

「分かればいいのよ。……しかし、この砂嵐はいつになったら止むのかしらね。…いや、もしかしたらチャンスかも知れないわよ。この砂嵐に乗じれば、各勢力の指揮官の首くらい簡単に取れるわ。」

 

「……遠坂。それこそアーチャーに首を刎ねられる。俺の目的は紛争を止めることであって、首級をあげることが目的じゃないぞ。…そりゃ、最終手段として、そうせざるを得なかったことはあったけど…それを良しとしたことなんて一度もないぞ、俺。」

 

「冗談よ。私もこの砂嵐で鬱になっているのかもね。」

 

 彼女の冗談は、つくづく現実味がありすぎて嫌なのだが、それをわざわざ口にしない程度には彼は賢かった。おそらく口にすれば、嫌味や皮肉が数倍になって返ってくるのは目に見えている。見えている地雷をわざわざ踏むことは無かろう。

 

 男は再び窓から外を見る。もう1週間程、外は砂で覆われている。そろそろ食料を買い出しにいくか、民兵辺りから簒奪して来なければ、三食がまずいお粥になる。それは遠坂凛の許すところではない。最近の憂鬱、というより癇癪の種である。そしてその矛先は彼か、もう一人の男に向けられる。

 

 3人目の男、ここの家主は日本語の会話についていけず、ただ無為に過ごしている。時折思い出したかのように本を読み始めるが、それもすぐに机の上にも戻す。暇を持て余しているのは明白だ。先ほど昼食を食べたばかりで眠いのかも知れない。幸い、この嵐では反政府軍は行動しないだろう。そういう意味では、この嵐も歓迎すべきかも知れない。骨休めは今後暫くできないだろうから。

 

 

 

 ――衛宮士郎と遠坂凛は、中東のある国に訪れていた。中東ではよく内乱が起きている。今回の紛争も、内乱の類だった。現政府と、過激な反政府派の衝突。歴史の本を紐解けば、似たような内乱はそこかしこに溢れているのだろう。仮に反政府派が勝利し、現政府の重臣を処刑すれば、めでたくクーデターは成功。新政権の樹立だ。

 

 国土全土を巻き込んだこの内乱。ここは首都、最も激戦に曝されている地区だ。毎日何人もの人が殺戮され、犯される。ここはそういう場所なのだ。

 

 二人の目的は、内乱の終結。可能な限り平和的な解決を模索し、可能な限り血を流さない終結。一番理想的なのは、両陣営のトップが話し合いで解決すること。その場をセッティングする努力を二人は厭わない。

 

 そして一番暴力的なのが、片方の陣営を戦闘続行不可能な状況まで追い詰めること。武器・兵站の破壊で済めばいい。しかし時には殲滅を行わなければならない事態もあり、――幾度かそれを実行した。

 

 しかし今は幸いにして、砂嵐がすべてを遮断している。今のところ、その最悪な手段を実行する必要はない。その上骨休めまで出来る。彼らの少ない休養と言えよう。

 

 

 だが、その少ない休養も、突然の其れに終わりを告げる。

 

「いたっ――!?」

 

 遠坂凛にとっては、一度体験した痛み。焼鏝を押し付けられたかと思える程の熱さと痛み。

 

 しかしそれは一瞬のことらしく、びくりと反応しただけでそれ以上痛がることは無かった。その代わりに尾を引くのは、彼女の戸惑いの表情。

 

 何かに突き動かされたかのように、自身が纏っていた民族衣装の袖をまくる。士郎にとっては死角となり、彼女の行動の意味が分からない。

 

「?…遠坂、どうした?」

 

「……そんな…ありえないわ。」

 

 士郎は座っていた椅子から立ち上がり、彼女の背中に近づく。そして背中越しに見たそれに、目を見開く。

 

「なっ――!れ、令呪!?」

 

 そう、それは間違いなく令呪。士郎は前回の聖杯戦争では、彼女のそれを見ることはなかった。しかしそれでも断言できる。この赤い三画の紋様と、凝縮された魔力の気配は、間違いなく令呪のそれだった。

 

「い、いや。有り得ないだろっ!聖杯は、セイバーの宝具で跡形も無く吹き飛ばした筈だ!なんで令呪が再び発現するなんてことが起こる!?」

 

「そんなの知らないわよ!私が聞きたいくらいよっ!」

 

「まてまて、落ち着こう。……令呪が再び与えられたということは、だ…」

 

 凛も同じ結論に至っているのだろう。彼女はゆっくりと頷く。

 

「あの史上最悪の争いが、幕を開ける。そういうことでしょうね。」

 

 どこへ向けたものなのか。彼女の目には憎悪とも憤怒ともいえない色が宿っている。しかし口元には笑み。引きつったその笑みは、おそらくは自嘲の笑みだろう。

 

「遠坂。こうしちゃいられない、冬木に戻ろう。」

 

「当然よ。あれがもしもヤバイ連中の手に渡れば、それこそ世界の危機よ。」

 

 二人は手早く荷物を纏める。もっとも、荷物なんてほとんど持ち合わせてはいない。ものの数分で身支度は完了した。むしろ、砂の猛威に耐えるための装備のほうに時間をかけた。今や二人とも、素肌を見せている部分なんて無い。顔は木乃伊のように布をまきつけ、目には特殊部隊然としたゴーグル。手には糸で装飾された皮製のトランク。日本ならば職務質問を免れない珍妙ないでたちだ。

 

 凛が家主に礼を言い、暗示を解く。すると家主は糸が切れた人形のように崩れ落ちた。しばらくは意識を失ったままだろうが、数分で目を覚ますだろう。おかしな同居人のことは全て忘れて。

 

「急ごう。…飛行機は飛ぶだろうか。」

 

「ムリね。砂嵐が止んだとしても、今は反政府軍の管理下よ。どの便も飛んじゃいないわ。一旦陸路で国を出ましょう。そこから飛行機で成田まで。」

 

「分かった。……日本に戻るのは久しぶりだ。桜、元気だろうか。」

 

「心配ならもう少し頻繁に返ってあげなさい。」

 

 二人は砂嵐の中を歩む。道すがら、令呪が宿った訳について議論するが――議論の余地などない。

 

 冬木の町に、再びあの聖杯が降臨する。その選定のための戦争。即ち聖杯戦争の火蓋が、再び切って落とされた。

 

 凛は此度もマスターに選定され、殺し合いに身を投じる。

 

 ――これ以外の解答など、ありはしないのだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 長い陸路を辿り、隣国へ渡り、航空機で日本へ渡る。言葉で表せば易いが、実際はかなりの強行軍だった。

 

 それでもこの過程を3日でこなしたのは、偏に彼らの行動の早さだろう。

 

 空はまだ明るい。久しぶりの日本の空気は、何だか少しだけ暖かい気がした。

 

“まぁ、あの天候と比べれば当然か”

 

 日本は実に生活しやすい国だ。単に生まれた土地というだけではない。大きな内乱もなく、熱砂に焼かれることもない。一度国外へ行くと分かるが、本当に過ごしやすい国なのだ。

 

「士郎。冬木へはどうやって行く?」

 

 どうやら遠坂も税関を通れたらしい。彼女の場合、相手に暗示をかけているから通れないなんてことは無いだろうが。

 

「やっぱ電車を乗り継ぐことになると思う。冬木に飛行場なんて作らないだろうし。それとも近くの空港までは飛行機で行くか?」

 

「いいわ、新幹線にしましょ。飛行機って結構高いのよね、新幹線の方が数段マシよ。」

 

「ん。じゃあ駅まで行こうか。そうだ、桜に電話しとかなくいいか?」

 

「んー…そうね。急に押しかけたら驚くでしょうし、一応電話の一本くらいはしましょうか。こういうのは心の贅肉じゃないでしょうし。」

 

 今や絶滅しかけている公衆電話。時代の波に晒されたそれを利用する者は一人もいなかった。遠坂は10円玉の数を確認し、そのうちの一枚を投入する。

 

 電話番号は衛宮家の番号だった。

 

 呼び出すことおよそ一分。ようやく繋がった。

 

「もしもし。衛宮です。」

 

「あ、桜?私よ。」

 

「遠坂先輩!?どうしたんですか!?」

 

「やぁね。そんなに驚かないでよ。いやね、そっち何か変わったこと、ない?」

 

「…え、えっと……いえ、特には…」

 

「…そう。今日中には冬木に帰れるわよ。久しぶりに桜の料理、食べさせてね。士郎もいるけど代わる?」

 

「は、はい…!お願いします。」

 

 新たな10円玉を投入しながら受話器をよこす。彼は一つ咳払いをしてからそれを受け取った。

 

「…桜?元気か?」

 

「先輩…!はい、元気ですよ。藤村先生も、兄さんも皆元気です!」

 

「そうか、そりゃよかった。さっき聞いたように、今日の夕方にはそっちに帰ると思う。…家の面倒みてもらって悪いな。桜がいなかったら、中庭なんかきっと魔境だったと思う。」

 

「いえ、そんな…。それに、お庭のお手入れは藤村先生がやってくれていたんですよ。士郎が帰ってきたときにこんな荒れた庭じゃ悲しむからって。」

 

「あの藤ねえが…?信じがたいな。きっと矢が降ってくるに違いない」

 

「ふふ。藤村先生にもお伝えしときますね。おいしい料理作って待っています。」

 

「ありがと、桜。そろそろ切るぞ。」

 

「はい。お気をつけて。」

 

 

  ◆◇◆◇◆

 

 

「はい。ではそのように。」

 

 サーシャスフィールは受話器を置いた。17年前に外から雇ったマスターが引かせたらしい。オハト翁は嫌っているが、サーシャスフィールは別段嫌いではない。

 

 むしろ、外のヒトと楽に連絡がとれるのは好ましい。念話の類は魔術師にしか通用せず、一般人との連絡方法は、冬のアインツベルン城の中にあっては皆無に等しい。

 

 「…ふう。」

 

 もう何度目か分からない溜息。全てはあのサーヴァントの所為だ。

 

 自らの部屋を出る。足取りは決して軽くない。――きっと、彼ほど破天荒な存在を召喚したアインツベルンは存在しないだろう。

 

 破天荒?いや、違う。多分彼は本物の阿呆だ。

 

「ライダー」

 

 ノックも無しに彼にあてがわれた部屋に入る。そも、私室を所望するサーヴァントなんてそうは居まい。それだけでも稀有な例だが――

 

「おう、沙沙(しゃしゃ)。如何なさった。」

 

 ぐいーっと酒を呷っているのだ。

 

 足元には数々の銘酒の瓶。足の踏み場も無いとはこのことだ。

 

 いや、それよりもマスターの名を発音できていない。しかも開き直って別の名で呼ぶ始末だ。それならばマスターと呼べばいいものを、断固としてそう呼ばない。

 

「沙沙も飲むか?いや、この葡萄酒なかなかの一品。ささ、駆けつけ一杯。」

 

 頭痛すら覚える。…ホムンクルスとしての機能に異常があるのかも知れない。本気で診てもらった方が良いのかも知れない。

 

 しかも、頭を押さえる仕草をどう受け取ったのだろうか。

 

「二日酔いか?沙沙、二日酔いには迎え酒が一番よ。」

 

 ほれ、とさらに酒を勧める。

 

 

 ――この馬鹿はライダーのサーヴァント。およそ貴族のアインツベルンに相応しくない。きっとお爺様も部屋で頭を痛めているに違いない。

 

 それもそうだろう。召喚されてからというもの、飲酒以外に何もしていない。

 

 毎日、炙った豚を丸々一匹平らげ、酒瓶は無数に空ける。というか、サーヴァントが酔えるのか甚だ疑問だ。

 

 鎧も最初の、召喚された折からは身に付けていない。――というか、この格好は如何なものだろうか。

 

 アジア風だと言えばそうなのだが、何やら一枚の布を、腰の帯で留めているだけにしか見えない。ユカタ、というものが近いのだろうか。

 

 私はそれが好かない。というのも―――

 

 見えそうだ。中身が。

 

 胡坐をかいた彼の股の中など知る由もないし、知りたくもないが…下着ぐらい身に付けているわよね?というか床に座るな。何故テーブルと椅子を使わない。

 

「……酒は結構です。私はアルコールなどとりません。」

 

「なんと。沙沙は酒が飲めんのか。つまらんなぁ……酒宴でないとしたら、何用で?」

 

 一応真面目な話だという雰囲気は伝わったのだろうか。空気が読めるならもっと早く読むべきではないだろうか。

 

「貴方が所望していたものですが――半分は数日中に揃うでしょう。しかしもう半分は時間がかかります。此度の聖杯戦争に、貴方の要望通りの数を揃えるのは至難です。」

 

「うーむ…そうか。いや、揃えられる分だけ揃えてくれたので構わない。今揃っている分はどれ程か?」

 

「およそ20組です。要望の10分の1ですね。」

 

「とりあえずはそれで良いだろう。大体、揃ったからといって戦場にすぐ投入できるものでもない。訓練させなきゃならんからな。」

 

「そうですね。」

 

「よし。俺は一眠りする。起きたら練兵をする故、“姉妹”にそう伝えておいてくれい。」

 

「いいでしょう。」

 

 了承の意を聞くと、にんまりと笑う。…なんとも子供みたいな笑い方をする英霊だ。

 

 彼は胡坐の姿勢から、後転でもするかのように天を仰ぎ、足も天に向け、バタリと豪快に寝ようとして―――見えた。

 

「ヒッ―――!」

 

 なんでこいつはいてないの、とか色々考えたが、錯乱して一つとして言葉にならない。

 

「なんじゃ?」

 

 あろうことか、肌蹴た衣服の裾から、――ポロッと出ている。

 

 むしろモロッと言うべきか。

 

「キャァァァアアア!!」

 

 

 ――この日。サーシャスフィールに生涯消えないトラウマを植えつけたのは言うまでも無いことだった。

 



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Act.2 開幕

 その男は、運が良かった。

 

 まず、彼が魔道の家に生れ落ちたこと。

 

 その真理を探求しようなんて気はさらさら無い。男の家の嫡子は兄だ。そんなものは兄に任せれば良いと男は考えている。

 

 男は兄の所有する魔術書から知識を盗んだに過ぎない。が、聖杯戦争について知るには十分だった。

 

 次に、彼の兄が優秀な魔術師だったこと。男は兄が令呪を宿したことを知った。――だから殺して奪った。

 

 最後に、英霊の遺物が見つかったこと。令呪を奪って暫くの後、英霊を召喚するための遺物が届けられた。男は自らが殺した兄に頭が下がる思いだった。

 

 その男は、今はリビングを我が物顔で占拠している。そして時折、手の令呪を眺めては恍惚の表情を浮かべる。

 

“聖杯は、俺の手中にあるも同然だ――!”

 

 酒の入ったコップを呷り、それを乾かす。口元には笑み。

 

 狂気を滾らせたその笑みは、見れば怖気が走るであろう。幸いにして、それを見る人間はそこには居ない。――人間は、だが。

 

 傍らには、男が召喚したサーヴァント。古めかしい鎧を着込んだ男だ。白い衣服の上に鎧を着込んだその姿は、静かな威厳に満ちている。

 

「……魔術師殿。何も春に赴くことは無いのでは?全てのサーヴァントが揃うのは、半年以上も先の見込みでしょう。」

 

「ランサー、考えてみたまえ。狡猾なマスターなら、その時期に来日した者を狙う。コンチネンツァ家は名門とまではいかないが、歴とした魔術師の血筋だ。なおさら狙われるだろう。」

 

 だから少し早めに行くのが良い。早めに行って、慎ましい生活を送っていれば当分マスターだと露呈することは無かろう。

 

 男は自らの髭を撫でる。普段よりも饒舌なのは、興奮している故だろうか。

 

 ランサーと呼ばれた英霊は思った。腹に蓄えた脂肪は贅沢の産物だ。果たしてこの俗物に慎ましやかな生活など出来るのだろうか、と。

 

「…御意。」

 

 男は新たな酒瓶を空ける。サーヴァントを召喚してからずっとこれだ。

 

 地図を購入して、作戦を練るなり拠点を決めるなりすれば良いのに、とランサーは思う。そもそもランサーはこの男が不服だった。

 

 酒を呷り、貪るように食い、外へ女を買いに出る。欲の塊のような男だ。

 

 それは彼の最も嫌う人物像。別に酒や女を否定するわけではない。しかし度が過ぎれば醜悪というものだ。

 

 だから醜悪なものから目を背けようと、霊体となってその場を去るのだった。

 

 

 

 自らのサーヴァントの気配が消えて、男は清々したと言わんばかりに悪態をつく。

 

「ふん。使い魔風情が、主に意見しやがって。」

 

 男もまた、自らのサーヴァントが嫌いだった。あのサーヴァントが纏っている雰囲気が、殺した兄と何やら似ているのもある。

 

 だがそれ以上に、主である自分のことをそう呼ばないことが腹立たしかった。

 

 主従関係に執着しているように思われるのも不愉快極まるので、言及することは無い。しかし内心は穏やかならざるものがある。

 

 

 “しかしそれも、あと半年の辛抱だ。”

 

 男は、ランサーが聖杯に託す願いなど微塵も興味は無い。どうせ消えて無くなる存在だ。

 

 他の6人のマスターをくびり殺した後、男は自らのサーヴァントを殺すつもりでいる。

 

 彼に宿った令呪の力は、サーヴァントの意思を超えた行動を強制する。『自刃しろ』と命ずれば、即座に自らの獲物で心臓を穿つだろう。

 

 いわずもがな、男の目的は起源への到達などではない。それならば自身のサーヴァントを贄にする必要など無いが、男がそれを知ったところで考えは変わらないだろう。

 

 故に彼はランサーの願いなどどうでも良いのだ。奇跡とて有限なのは間違いない。あんなモノに奇跡を分け与えるのは馬鹿げている、というのが男の考えだ。

 

 では、男の願いは何かというと―――彼らしいと言えば聞こえは良くなるのだろうか。要約すれば自らの欲望を満たし続けたいというだけの事だ。

 

 極上の酒に極上の女、この世全ての快楽を賜りたいというのが男の願いだ。

 

 酒瓶をまた一つ空ける。

 

 アルコールを摂取しすぎた体は貪欲に睡眠を求める。男はそれに抗うこともなく、惰眠を貪るのだった。

 

 

  ◆◇◆◇◆

 

 

アインツベルンの城の前には、広大な森がある。その一部を切り開いて、そこを厩舎と訓練所としていた。

 

 白い衣服を着たホムンクルス達が、馬に跨り駆け抜ける。設置された障害物を乗り越え、些かの迷いもなく手綱を握っている。

 

また別のグループは、実戦訓練を兼ねて馬上試合を行っている。

 

「ほう。皆乗馬が上手いではないか。…ふむ、女ばかりであったから不安だったが、これなら大丈夫か。」

 

 ライダーが感嘆の声をあげる。相変わらず鎧は脱いだままだが、表は寒いのか厚手の着物に身を包んでいた。

 

 ―――これならポロリの危険は無いだろう。

 

“…あんなモノを拝むなんて二度と御免です!”

 

 思い出しただけで頬が引きつる。

 

「うん?何だ、沙沙は不満であるか?…確かに、まだ足りないのは間違いないなぁ。」

 

 何やら盛大に勘違いをしている様子。わざわざ訂正する気にはなれないが。

 

「…足りない、とは?」

 

「うーん…何というかだな。ただ乗馬が上手いだけではいかん。それだけではただの遊戯であって、戦場では殆ど役に立たん。」

 

「…なるほど。」

 

 ―――“可能な限りの馬と兵を用意しろ”

 

 ライダーは今後の方針を決める際、こう言い放った。以来、私は基本的にライダーに戦闘の方針は委ねている。

 

 おそらくは、マスター狩りで使用するつもりなのだろう。サーヴァント相手では、絶対に通用しない戦力だ。傷一つ負わせることは出来ない。

 

 しかしマスターが相手なら、騎馬による攻撃も有効だろう。武装した騎兵は強力な戦力に成り得る。…それが使える場所が広い平地に限られていて、しかも目立ちすぎることを度外視すればだが。

 

「あと半年で、サーヴァントと戦える程度にまで仕上げなければ。」

 

「…はい?」

 

「はは、何を素っ頓狂な声をあげている。…あれ、もしかして説明してなかったか?」

 

「全く説明されていません!サーヴァントを相手にとは、貴方彼女らを犬死にさせるつもりですか!?」

 

――いや、確かに武器に魔術的な強化を施せばサーヴァントを傷つけることも可能だろう。だがそれは無謀だ。

 

 例えるならば、赤子が徒手空拳で熊に挑むようなもの。絶対に勝ち目はない。

 

「そんなにおかしい話ではなかろう。俺は騎兵を率いる武将だった。これが俺の戦い方なのだが…」

 

「いくらなんでも無謀です!彼女たちはサーヴァントでは無いのですよ!?心中のつもりなら一人でなさい!」

 

「はっは。沙沙は優しいな。ホムンクルスをそこまで気遣うのはあの翁にはできまい。」

 

 サーシャスフィールの顔がみるみる赤くなっていく。鍋でも置けば湯が沸かせるに違いない。

 

「そ、そういう意味ではありません!大体―――」

 

「まあ、乗馬の腕は上々。次の段階に入っても良いだろうな。」

 

おもむろに走り終わった馬へ近づくライダー。話を折られたサーシャスフィールは激昂する。

 

「聞いているのですか!」

 

 その背中を追いながら問う。ライダーは激した主をよそに、飄々とした態度を崩さない。

 

「聞いているとも。まあ、こいつを見てから無謀かどうか判断すればいい。…くれぐれも刮目するがいい」

 

 首だけ振り返り、にやりと笑った。

 

 

 

 

 その馬の騎手は自身へと寄る主とそのサーヴァントの姿を認めると、馬上から降りようとしたが、それをライダーが手で制した。

 

「馬上でいい。お前は良い走りをするな。馬も騎手も優秀である。」

 

 ライダーは馬の頭を優しく撫でる。馬の扱いには慣れているらしく、馬も気持ちよさそうに目を閉じる。

 

「……」

 

 量産されたホムンクルスは言葉を発せない。だが礼を伝えるべく、深く頭を下げた。

 

「よし、この素晴らしい駿馬に俺が名をやろう。」

 

「?」

 

 サーシャスフィールはライダーの意図が汲めない。確かに彼女とこの馬は、最も優秀だ。だが、わざわざ話を折ってまで名を与えようとはどういうことか。

 

「…『黒兎(こくと)』。うむ、いい名だ。」

 

 ―――刹那の後、その駿馬に異変が起きた。

 

 

「「――――!?」」

 

 その驚愕は、サーシャスフィールと騎手両方のもの。

 

 馬の筋肉は膨れ上がり、より強靭な肉体になる。肥大した筋肉は、一部血管を浮き上がらせる。

 

そしてその黒い毛並みは、一部が紺に変色する。それは紋様を描き、まるで刺青を施したかのように馬を飾る。

 

「これは―――!」

 

 サーシャスフィールは理解する。これがこのサーヴァントの宝具の力だと。

 

 そう、これこそが万里を名馬で駆け抜けてきた彼がもつ宝具。

 

 地に足をつけていた時間よりも、馬上で過ごした時間のほうが長いかも知れない。そう言っても過言ではないほど、人生の多くを馬上で過ごした男。

 

 常に軍を率い、勝利を掴み取った将としての力。

 

 そんな彼が、聖杯戦争でも軍を率いるために得た宝具。

 

「―――『騎兵の軍こそ我が同胞(はらから)』、だ。」

 

「この馬……宝具化した…?」

 

 魔術師であり、マスターであるサーシャスフィールには理解できた。その馬の存在が、人智を超えた存在にまで押し上げられたことを。

 

「然り。さしずめ対馬宝具とでもいうべきか。馬に俺が名をつければ、ランクC相当の宝具となる。まあ、馬の能力で多少は上下するが。ちなみに、何度でも発動できるぞ。」

 

「―――。」

 

 サーシャスフィールはごくりと唾を呑む。確かに、これなら十二分に他のサーヴァントに対抗できるだろう。

 

「だが、これの弱点は騎手までは強化できんことでな。実力でどうにかしてもらう他ない。」

 

 確かに、こうなると騎手の脆弱さが目立つが――それを補って余る能力だ。それにいざとなったら馬だけで蹂躙攻撃をすればいい。つまるところ、ライダーは所有する馬の数だけ宝具を抱えていることになるのだ。ランクCとはいえ、物量で押せば大抵の相手は屠れる。

 

「あとは、これが一番の問題なのだが…百聞は一見に如かず、だ。ほれ、ちょっと乗り心地を試してこい。かなりやんちゃになっておるから注意しろよ。」

 

 騎手はこくりと頷き、宝具となった馬を駆る。

 

 その蹄は地を抉る。

 

 (いなな)きはまるで百戦錬磨の戦士の雄叫び。

 

 炎熱をもった蹄は容赦なく雪を蹂躙する。

 

 その疾走はまるで矢のよう。

 

 その筋肉の雄雄しい脈動はまさしく地震そのもので―――騎手を振り落す。

 

 意地で食らい付いてはいたが、その努力もむなしく落馬した。

 

「あ。」

 

 サーシャスフィールは合点がいった。確かにこれは問題だ。いかに強力な馬といえども、それを駆る騎手が必要だ。馬はその背に人を乗せてこそ、その真価を発揮する。

 

「…騎手の膂力が足りんとこうなる。宝具馬はとてつもなくやんちゃだ。」

 

「……そうですね。魔力放出や魔力による筋力の水増しで解決するしかないでしょう。」

 

「うむ。…悪いが俺にはそれは教えられん。任せていいか?騎乗は俺が教える。」

 

「いいでしょう。」

 

 かくして、半年間に渡る練兵が幕を開けたのであった。

 

 

  ◆◇◆◇◆

 

 

 そして半年の後、練兵は幕を下ろす。本当はもっと長い時間をかけたいのだが、仕方がない。

 

 もう戦いは目の前まで迫っているのだ。ここまで引き伸ばしたが、いい加減に冬木へ行かねばならない。

 

「結局、23騎しか使い物にならなかったですね。」

 

「仕方あるまい。23もいたなら上出来だ。…ところで、馬はどうやって送るのだ?この飛行機とかいう乗り物に積んでいるのか?」

 

「馬23頭はこのチャーター機では無理です。貴方と私の馬は乗せていますが、他の馬と姉妹兵は海路になりますね。私達は一足早く冬木へ行くことになります。」

 

 彼らはドイツ発のチャーター機の中にいる。目的地は冬木最寄りのF空港だ。

 

 ライダーも現代風の格好に着替えている。これはアインツベルンお抱えのテイラーが仕立てたのだが――その規格外のサイズに度肝を抜いていた。

 

「なんじゃ、一緒に行けば良いのに」

 

 今、彼は毛皮のファーをあしらったコートを脱いでいる。アインツベルン城は常冬の地なのでコートは欠かせないが、日本は夏だ。近づくにつれ暑くなったのだろう。

 

 というか、何でこいつは霊体化を嫌うのだろう、とサーシャスフィールは思う。曰く、霊体だと酒が呑めないと言っていたが、冗談だと信じたい。

 

「ぎりぎりまで練兵に時間を費やしましたからね。もう大方のマスターは揃っているでしょう。不戦勝など笑いものにもなりません。」

 

「そういうものか。…ところで、飛行機の原理が分からん。何故鉄が空を飛ぶ?妖術――沙沙のいう魔術ではないのか?」

 

「いいえ。そういった類ではありません。訓練を積めば一般人でも操縦できますよ。」

 

「はー…俺の時代にこれがあったらなあ」

 

ライダーの騎乗スキルがあれば本当に操縦できるのだろうが、おそらく彼の時代にこれを持ち込んだとて、誰も操縦できまい。いや、そもそも燃料が無い。サーシャスフィールはそう思ったが、黙っておくことにした。

 

 ライダーはしきりに窓の外を眺めては感嘆する。やれ、天下はこんなにも広大だったのか、などと言っているが、聞き流すに限る。

 

 そうやって落ち着きのないサーヴァントと空を飛ぶこと数時間、ライダーはおもむろに口を開いた。

 

「ふむ。そろそろか?」

 

「ええ。何故です?」

 

「黒兎が嘶いた。あやつは戦場の空気に敏感なようだな。何か匂いを嗅ぎつけたのかも知れん。」

 

 唯一この航空機に乗せているのは雌雄の馬の片割れ、彼が最初に宝具化した雄馬だった。結局、黒兎が最も優秀な宝具馬となったので、ライダーの愛馬とするに至った。

 

「そういうものですか。」

 

「何だ。気のない返事だな。戦場にあって、戦士は滾るものだがな。」

 

「…私は基本的には魔術師ですから。…でも、これでもかつて無いほど高ぶっているのですよ?」

 

 にやり、と笑ってみせる。

 

「ほう。そうは見えんが。」

 

「ふふ。そのうち分かりますよ。」

 

 なるほど、これから戦場に赴くというのにその余裕。大物なのは間違いないな、とライダーは思う。

 

“…殿に似てきたか。…俺の影響かも知れんが”

 

「…楽しみにしとこう。」

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

 その男がしていることといえば、やはり酒瓶を空けることだけだった。

 

 根城にしているホテルの高層階のスウィートに陣取った時点で覚悟はしていたが、こうも予想通りだと逆に開き直れるというものだ。

 

 男が敵の情報を自ら探すことは無い。使い魔を放ってはいるが、それは受身の姿勢だ。

 

 もっと積極的に動き、敵を叩くべきだ―――ランサーはそう考えると心中穏やかではない。

 

 だから彼は、あちこちを回って地の利を調べ、少しでも有利になるように単身で奔走していた。夜が終わり、空が白み始めた為それを断念し、今は帰還しているところである。

 

 建築物の屋根から屋根へ、飛翔するように駆け抜ける。

 

 霊体となっていないのは、マスターに視覚共有を行っているからだ。彼は時折、思い出したかのように視覚を傍受する。

 

 それが結局、彼にこの土地を把握させることに繋がるのだから構わない。その真意はよく分からないが。

 

 ―――いや、本当は大方予想がついている。彼は自分の粗を探し、それを出汁に自分を罵倒したいだけなのだろう。

 

 控えめに言ってもマスターとの関係が良いとは言えない。ランサーにできるのは、その軋轢が大事な局面で足枷にならないことを祈るだけであった。

 

 

 

 その姿を、遠くから眺める人影がある。鷹の眼をもつそれは、相手に気取られない距離を保ちつつ、その根城を突き止めようとしていた。

 

 白衣の騎士は高層ビルの壁を駆け上がり、霊体となってある一室の中へ滑り込む。

 

“…襲撃は次の機だ。無策では拙い。”

 

 動きやすさを重視したのだろう、軽装の鎧。皮でできたそれは、要所のみを鋼鉄で覆う。

 

 銀の籠手、銀の胸当て、銀の脛当て。銀に輝くその鋼鉄は、その長身と端整な(かんばせ)によく似合う。

 

 音もなく姿を消し、帰還する。

 

 ―――そこに残ったのは、活気が灯り始めた街並みだけであった。

 

 

 

 

 

 

 

 ―――かくして、役者は揃った。マスターになるべき人物はみな冬木に集結した。愚かなる戦いの火蓋は、今まさに叩き切られて落とされたのだ。

 



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Act.3 反英雄

 ―――眠りは、浅い。

 

 それは、多分机で寝てしまっているからだと思う。普段なら眠りはもっと深い。

 

 ―――夢を見た、気がする。

 

 多分それは、昔の話だ。私の見る夢はいつもそれだ。

 

 思い出すのは、17年前の大火事。私はそのとき幼稚園児だったと思う。

 

 それに巻き込まれた訳ではない。その赤い壁の外側から、それを見ていた。それによって誰かを失った訳ではない。

 

 だというのに、それを忘れられない。漂う焼死体の臭いが、目を焼く炎が、きっと強烈すぎたのだろう。幼い私のココロに、深く刻み込まれている。

 

 脳がそのシナプスを失おうと、魂は、心は覚えている。17年前の出来事を夢に見る程度には、それは強烈だった。

 

 幼いながらにも、いや、幼いからこそ理解に及んだのかも知れない。魔術師の家系でなければ気付きさえしなかったかも知れない。

 

 そこはきっと、ヒトならざる者がもたらした、本当の地獄だろうと思った。

 

 ―――友達が、たくさん燃えた。

 

 その壁の中には、私の友達が沢山居た。絵本が好きだった子、サッカー選手になると言っていた子、みんなみんなみんな―――燃えた。

 

 それは、誰に対しても平等な暴力だ。分け隔てなく、誰も彼もが死に絶えた。

 

―――助けたいと思った。

 

 だけどそれが叶うわけもない。そのとき私は魔術刻印すら持たぬ幼子で、その炎は極上の呪いより出でたものだった。

 

 飛び込めば、死は必死。だから私はその様子を見守るしかなかったのだ。母親の腕のぬくもりの中で。

 

 そしてあの中では自分と同じ年端の子が、灼熱の腕に抱かれている。

 

 ―――だからきっと、そのときだったと思う。

 

 私は魔道の道を覚悟した。私が進むのはあのような道で、決してあれを作ってはいけないと理解した。

 

 それは幼子にしては、出来すぎた決意だっただろう。でも私は、脳ではなくココロでそう感じた。

 

私は言葉ではなく、何か別のものでそう覚悟したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

「―――ん。――ゃん、起きて」

 

彼方から呼びかけられたかのような声。――これはきっと、私の友人の声だ。

 

起きろと言っている。なら起きなければまずいのだろう。

 

「澪ちゃん。授業終わったよ?」

 

 突っ伏していた机から頭を上げる。…眠い。どうも睡眠が足りてないようだ。

 

 目を擦り、ぼやけた視界を回復させる。この気質の柔らかい女の子は私の友人。名を遠藤楓。何というか、ふわっとした感じの子。

 

周囲を見る限り、どうやら授業は終わったらしい。自分と同じ学生が、各々の荷物を鞄に詰め込んでいる。

 

…いけ好かない講師も荷物を纏めている。やはり2限は終了したらしい。

 

「お昼、急がないとお弁当無くなっちゃうよ?」

 

 がばっ、と立ち上がる。そうだ。今は昼休み。急がねば鶏チリ弁当300円が売り切れるではないか!

 

「悪いけど、荷物見といて。ここで食べるでしょ?」

 

「うん。いってらっしゃい」

 

彼女は弁当組。私のグループで唯一の弁当持参だ。よって戦場へは一人で赴くことになる。

 

 人の壁をすり抜け、だーっと駆け抜ける。目当ては弁当屋だ。

 

 この学校には昼休みになると、弁当屋が弁当を販売しにくる。これが安い。弁当は実にシンプルなものだ。大量の白米とおかず、そして漬物という何ともオトコノコな弁当。

 

 女である私だが、弁当の体裁などは些細なことだ。300円という値段は、コンビニ弁当を買うよりも100~200円ほど安い。一人暮らしの私、八海山澪(はっかいさん みお)にとっては有難いものだ。

 

 その中でも鶏チリがお気に入り。鶏の唐揚げにチリソースをかけたものだが、これが白米によく合う。私は昼食の大抵をこの鶏チリ弁当で済ますのだ。

 

 夏を目前に控えたこの空はどこまでも青い。いかに綺麗な絵の具を用いようと、この青さは人には再現できないだろう。

 

 大学の構内は、授業が終わったらしい人達の波で溢れている。皆学食か弁当を買いに行っているのだ。

 

…これは出遅れたかも知れない。

 

 全力疾走…はみっともないので、小走りで弁当屋へ向かう。が――

 

時既に遅し。弁当屋には長蛇の列。そりゃもう、アナコンダもびっくりの長さ。

 

それでも並ばないと食糧は手に入らない。蛇の体の一部になる以外の選択肢は無い。

 

「…弁当残るかなぁ」

 

 半ば諦めの境地だが、それでも仕方がない。私は列の最後尾に並ぶのだった。

 

 

 

 

「…案外美味しいものね。」

 

 結局鶏チリ弁当は売り切れ、残っていたのは塩鯖弁当だけだった。同じく300円。

 

 長時間待たされた果てには、もう食べられれば何でもいいやー的な心境に至り、青魚が苦手にも関わらず塩鯖弁当を買ってきた次第だ。

 

 …しかし、鶏チリも大概だったが、こいつはそれを超えるオトコノコな弁当だ。しかし、眼前のコイツの弁当には負けるだろう。

 

「魚は美味しいものさ。肴にも最高だし。」

 

 そう言いながら小久保美希が頬張っているのは肉だ。ボリュームたっぷりのカツ。ソフトボール部らしい焼けた肌には、その肉食が似合いすぎる。

 

 つくづく思うが、およそ対極に位置するだろう楓とも友人なのか理解できない。東洋の神秘だ。

 

「そうだよねー。私はお酒飲めないけど、魚は好物だなぁ。」

 

「楓、多分コイツが言う魚は深海魚の類よ。ゲテモノに違いないわ。」

 

「失敬だなあ八海山!鮟鱇はゲテモノなんかじゃないぞ!」

 

「…本当に深海魚のつもりで話していたの?それとも魚類代表が鮟鱇?いや、答えなくていいけど。」

 

 後者だったら最悪だと思う。

 

 商店街の軒先に並ぶ、尾頭付きの新鮮グログロのお魚。お姉さん今日は鮟鱇が安いよーなんて勧められても買わないわよ私は!

 

「アンコウっておいしいの?お店で見かけたこと無いけど」

 

 なんて素朴な疑問を口にする楓。彼女はきっと鮟鱇の見た目を知らないに違いない。捌かれる前の姿でスーパーに並べば、たちまち食指が止まること請け合い。というかあの魚って柔軟性と粘性が強すぎて包丁が入らないんじゃなかったっけ。

 

 …そういえば鮟鱇の胃の中からペンギンが出てきたって話聞いたことあるな。うげぇ、何か食欲なくなってきた。

 

「むちゃくちゃ旨い。鍋も旨いが、ポン酢と紅葉卸のあん肝だな!これと日本酒をこう、くいっと!…かー、たまんねぇぜ!」

 

 …おっさんかコイツは。

 

 

 

 

 

 

 

 本日最後の授業が終了を告げる。時刻はおよそ4時半。

 

この時間帯は夏ならばまだまだ明るい。あと2時間もすれば、綺麗に照る夕焼けが拝めるだろう。

 

「じゃあ、また明日なー。」

 

「澪ちゃん、また明日ね。」

 

 友人二人が手をひらひらと振り、別れを告げる。美希も今日は部活が無いらしく、楓と帰宅するようだ。

 

 私は下宿生だから学校までは原付で通っているが、二人は自宅生だ。駅から出ているバスで通学している。

 

「お疲れ。また明日ね。」

 

 バス停を素通りし、バイク置き場に向かう。ちょっと苦労して自分の原付を見つけ出し、キーを挿して回す。

 

“今日はバイトか。だるいけど仕方ないわよね。”

 

 原付を発進させながらこんなことを思ってしまった。

 

 親は既に死去している。遠方に住む祖父母から仕送りが届いているものの、あまり大した額ではない。

 

 私の両親はそうでも無かったと思うが、祖父母は孫であろうと甘やかすタイプじゃない。少々古い型の人間だ。

 

―――勤労を以って大成すべし、がうちの家訓。正直言って、貧乏の言い訳に過ぎないと思う。

 

 それを爺様と婆様は堅実に守っているのだから、孫である私もそれに倣う必要がある訳だ。仕送りという弱みもある。

 

 …この地のセカンドオーナー、遠坂の家系ならこんなことしなくても良いんだろうなーと思ってしまった。

 

 私こと、八海山澪は魔術師だ。とにかく、魔術というのは金食い虫で、バイト代だってほとんどそれに消える。

 

 …というのは建前で、殆ど魔術の探求なんてしていないが。バイト代は主に娯楽費だ。

 

 多くの魔術師は起源への到達や、より深淵なる神秘の探求に明け暮れているというが…正直、うちの家系は割りといい加減だと思う。

 

“こんなモン真面目にやったって食っちゃいけないぞ。八海山の魔術を途絶えさせるのは許されないが、探求なんてほどほどにしておけ”

 

 というのが父の言葉だ。遺言よりもこっちが強烈に残っている。子供心に、「そんなので良いのか?」と思ったものだ。

 

 何せ先祖からの魔術を継いで、次の世代にバトンを渡せばそれでいいときた。何と気楽なのだろう。

 

 こんなお気楽な家系だからというのもあるが、何となくセカンドオーナーへ挨拶しに行くのは気が引けた。

 

八海山の家系は正直言って無名だから、多分発見されていないのだろうとは思う。今の私は、勝手に住み着いた寄生虫みたいなものだ。見つかったら多分ヤバイ。

 

 といっても大層な工房を設置している訳でもないし―――多分許してくれると思う。だといいな。

 

 と、余計なことを考えていたら事故にあう。今は深山の中心区、高いビルがそびえる場所だ。

 

 当然、交通量も多い。運転に集中しなければ。

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

 ―――そこは、濃縮されて汚濁した闇だ。

 

 正常こそが異常だと言わんばかりの空間。蝋燭の明りはその闇に食われ、その部屋の全貌を見通すのは不可能。

 

 外は夏の夕方。未だ炎天下の空であるのに、この空間は骨まで凍える。それは決して、この肌寒さだけでは無かろう。

 

 カツリ、と音が響いた。

 

 杖が石畳を叩く音である。

 

 そこは蟲蔵だ。間桐家の屋敷に設けられたそれは、狂気の産物だろう。

 

 人影は一人分。燭台を手に、蔵の主がそこを訪れた。蟲たちはキイキイと鳴き、一部の蟲はその翁の足元から這い上がり、それと同化する。

 

 マキリの初代当主――今は間桐と名前を変えた、間桐臓硯その人である。

 

 既に500年の時を生きる正真正銘の妖怪。その長き生に渡り、もはや魂は磨耗し、ただの外道に成り果てている。

 

 ―――この世全ての悪を根絶やしにする。かつて彼もその意思を掲げていたが、いつからだろう、それは失われた。

 

 そして残ったのが、―――この妖怪である。

 

 その体は無数の蟲で構築され、多くの命を吸い上げることで自らを延命している。そうして500年の間、延命に延命を重ね、搾取した命は数知れない。

 

 これを妖怪と言わずして、何であろうか。

 

「―――マスター。」

 

 もはや飽和した闇の中から、一人の異形が姿を現す。

 

 姿形こそ人間のそれだが―――其れが纏っている気配は、500年の妖怪にも劣らず醜悪だ。

 

 まるで闇で染め上げたかのように黒いローブにその長身痩躯を包み、宝石を設えた金具でそれを留めている。

 

 目はまるで焦点があっているとは思いがたい。ぎょろりと向かれたその双眸は、妄執に囚われたもののそれだ。

 

 そしてそれは間違いではない。彼は、その妄執によって巨大な力を得て、その妄執によって命を落としたのだ。

 

 ―――反英雄。英雄とは反する、怨霊と言うに相応しいモノだ。

 

「応、キャスターか。首尾はどうか?」

 

「はい。最良の地が見つかりました。―――先客がいたので殺して参りましたが、宜しかったですね?」

 

「構わん。面は割れてなかろうな?」

 

「はい。目撃者は存在しません。」

 

 臓硯は呵呵と笑う。そのくぐもった嗤いは蟲蔵の闇に反響する。向けていた背を翻し、跪く反英雄と対峙する。

 

「重畳、重畳。して、それは如何なる地か?」

 

「はい。冬木の教会でございます。」

 

「なんと。其処は不可侵が協定で義務付けられているのは知っていような?」

 

「はい。―――しかし、そんなことは瑣末でございましょう?」

 

 その反英雄は能面のような顔を破顔させ、凶悪な笑みを浮かべる。その悪性は何処までも―――その老魔術師と似通っている。

 

「然り。―――しかし、そうなると表立って儂が動く訳にもいかんのう。」

 

「マスター、気になさることは有りますまい。」

 

 だが老魔術師はかぶりを振って否定する。これにはキャスターも意外だったのか、虚を突かれたかのような表情を浮かべる。

 

「最早この老体には不名誉を引っ提げるだけの膂力がなくてのう。それに―――孫が玩具を欲しておってのう。」

 

 キャスターはまだ合点がいかない。偽臣の書によるマスター代行に不満はないが、果たしてその必要が本当にあるのだろうか。

 

「あれも、中々面白く歪んでおるからの。7年前聖杯に為りかけた故、さらに面白いぞ?器としての性質を得たのであろうな。魔術回路を持たん癖に、与えられた魔力は面白いように吸い上げよる。お前の宝具とも、相性は良かろう?」

 

 ここにきてキャスターも理解する。

 

 とどのつまり、この奸者は表向きのマスターとして、孫を矢面に立たせようというのだ。

 

 キャスターは破顔を通り越し、獰猛とも凶悪ともいえる笑みを湛える。

 

“やはり、この方は私のマスターに相応しい―――!”

 

 老魔術師が妖怪であるなら、キャスターもまたそうであった。その歪みきった在り方は、およそ凶行ともいえる老魔術師の行動にも、愉悦を隠し切れない。

 

「―――はい。あの方ならば、良いモノが出来上がるでしょう。」

 

「呵呵。良い良い、さらに重畳!…では、さっそく取り掛かろうかの。」

 

「御意に。」

 

 

 

「え―――?」

 

 間桐慎二の第一声は、素っ頓狂なものであった。言っている意味が分からない、といった風だ。

 

 ベッドの上から見上げる爺の顔は、にんまりと破顔したままだ。

 

 ―――前回の聖杯戦争で、間桐慎二は聖杯になりかけた。聖杯の少女の心臓を植え付けられ、その身を聖杯に変貌させた。

 

 その時の記憶は依然として残っているのだろう。それは彼のトラウマとなり、一日の大半を自室で過ごすようになっていた。

 

 外に出れば殺される、と思い込んでいる。さながら薬物の末期症状だ。

 

 特に拒絶反応を示すのが魔術に関わること。今や彼は自身の爺に会うのにさえ、動悸を抑えなければならなかった。

 

「此度もマスターとして参戦させてやろう、と言ったのだ。何、案ずることは無い。」

 

「い、―――嫌だ!怖い怖い怖い怖い、ヒィィィッ!」

 

 弾けたように起き上がり、部屋の隅でガタガタと震える。今や恐怖を隠そうともしていなかった。

 

 しかし、それも無理からぬことだろう。何せ、彼はサーヴァントによって殺されかけたのだ。

 

 その傷も癒えないうちに、サーヴァントを押し付けられたら恐怖に打ち震えるのは、きっと彼に限ったことではない。

 

 だが、当然ながらそんなことを斟酌する間桐臓硯ではない。

 

 部屋の隅で歯をカチカチと打ち鳴らして震える孫に歩み寄ると、その素首を掴み上げる。

 

「グッ―――!」

 

 足は地面に付いている。傍から見れば、爺が素行の悪い孫の首根っこを掴み、叱り付けているように見えるかも知れない。

 

 しかし、その締め上げる右手の膂力たるや、まるで万力のようだ。容赦なく指は首に食い込み、血液と酸素の搬送を抑える。

 

 間桐慎二はパクパクと金魚のように、酸素を求める。その顔はみるみる土気色になり、チアノーゼ一歩手前だ。

 

 そしてそれを頃合と見たのか、間桐臓硯の懐から一匹の蟲が飛び出した。

 

 臓硯の腕を這って疾走するそれは、一直線に慎二の口へ飛び込む。それを見計らって臓硯は五指の力を緩めた。

 

 間桐慎二の体は貪欲に酸素を求めて―――その蟲を飲み込んでしまった。

 

「ウグッ――――!」

 

 蟲は瞬く間に胃まで到達する。既に解け始めたそれは、臓硯の忘却魔術を胎に溜め込んだ蟲だ。

 

「暫し眠るが良いわ。7年余りのことを全部忘れさせてやろう。…覚めたら主は、生まれ変わっておるぞ?」

 

 間桐慎二の意識はそこで途切れる。

 

 眠りなどという生易しいものではない。まるでブレイカーを落とされたかのようなものだ。

 

 急に意識を剥奪され、間桐慎二はその場に倒れこむのだった。

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

 景山悠司は、ついぞ運が無かった。

 

 高校あたりから歯車はズレ始めたように思う。確か、部活を辞めたとき辺りからだろうか。

 

 いや、第一希望の高校に落ち、滑り止めの私立高校に通い始めた辺りからかも知れなかった。

 

 大学受験も悉く失敗し、今は浪人生。――いや、もう進学する気はない。だから浪人生というのは間違いで、フリーターと言うべきだ。

 

 付き合った女も酷かった。散々貢がせておいて、浮気の末の別れ話。こんなものはまだ可愛い。

 

 美人局や、借金の連帯保証人にされたりすることもある。

 

 就職もうまくいかない。フリーターを脱却しようと、何度も面接を受けるが悉く断られる。

 

 だからいつまでも貧乏だった。彼の総資産は、借金でマイナスへと針が触れている。

 

 何故、不幸の星が自分の頭上に位置するようになったのか、分からない。

 

 だからこんな自分がどうしようもなく嫌いだった。

 

 ――――まるで、この世全ての不運を背負っているような気分だ。

 

 そんな自分にもお守りのようなものがある。

 

 まず日本じゃ見かけない、一発の銃弾。尤も、弾頭は既に発射されている。いつも懐に忍ばせているそれは、空の薬莢だ。

 

 何故これがお守りなのか、自分でもよく分からないが―――

 

 多分この銃弾を受けた人はその瞬間、自分よりも不運な末路を遂げたに違いない。

 

 だから、これを持ち歩くと、自分よりも下が存在すると教えてくれるような気がして、何となく気分が朗らかになるのだ。

 

 汗水流して働いているときも、家で休んでいるときも、常に身に付けている。

 

 苦労してその真鍮に穴を穿ち、紐を通してネックレスにしている。それを人に見られないようにしていた。

 

 人に見られたら効果を失う、というのがジンクスのルールだが、実際の問題はそっちではない。

 

 これは景山悠司が偶然拾ったものに過ぎない。確か川辺を散歩している時だったろうか。草むらの中に輝くこれを見つけたのだ。

 

 当然、これが落ちているということは、誰かが撃たれたのだろう。これは殺傷の重要な証拠に違いないと思う。

 

 だから人に見られたら宜しくないな、と思うに至り、秘密の(まじな)いとしていつも首に下げている。

 

 気の持ち方が変わったのか、何となく全てが少しだけ順調に行っている気がしていた。人と比べれば不運だろうが、それを前向きに捉える程度には効果があったといえよう。

 

 そう、この金の真鍮は自分を祝福する輝き―――だと思っていた。

 

 

 

 景山悠司は、盗みを働いている。

 

 堕落に堕落を重ねた末、空き巣にまで身を落としていた。

 

 いくらアルバイトで稼いでも、借金の返済には全く追いつかない。

 

 裕福そうな家から拝借するのが最も効率的だという結論に至り、それに甘んじている。

 

 こういうものは薬物のようなもので、一度味を占めるとなかなか辞められない。

 

 何せ、上手くいけば数分間のうちに大金が転がり込むのだ。その金を借金に当てれば、これ以上生活を切り詰める必要もない。

 

 事実、借金の残額は徐々に減っている。500万はあったろう負債も、今は半分程度だ。

 

 テレビや市井の声は、空き巣に注意しろ、なんて叫んでいる。しかし実際にそれで戸締りを強化する家なんて殆ど存在しないのだ。

 

 精々、出かける前に施錠を確かめる程度だろう。それでは全く意味がない。鍵のシリンダーを最新のものにし、窓にはブザーを取り付けるくらいの心構えでなければ。

 

 そもそも鍵が開いているなんて期待してはいない。自分は運がないのだ。そんな幸運に巡り会えるわけもない。

 

 最も狙い目なのは―――古くて少々ボロの民家か、中の上くらいのアパートだ。

 

 前者は言うまでもないかも知れない。とにかく用心が杜撰だ。経験からすると、門がある家。

 

 内側から閂をかけられるような門だ。閂をかけて安心するのか、勝手口などに鍵をかけていないことが多い。事実、彼の実家もそうだ。

 

 だがあまり品格のある家は別だ。そういった家は大抵なんらかのセキュリティがある。

 

 後者については、オートロックが付いているところが好ましい。一度中に入ってしまうと、住民だと思われ疑われない。

 

 さらに、そういうアパートに住む住民の多くはオートロックで安心する。鍵も最初から備えられているものだし、窓にブザーも付けない。

 

 特にそれは二階より上階に住む者にその傾向が強い。だがそういうアパートの大抵は、上階の侵入など容易い。

 

 脚立を使ってもいい。工事現場風の格好をしていればまず疑われない。偽者のネームプレートでも下げておけば尚更だ。

 

 何か足場があるならそれでも良い。以前で一番楽だったのは、標的の部屋のすぐ隣に、雑居ビルの非常階段があったときだ。非常階段から身を乗り出せばすぐベランダだ。

 

 盗みを働いてくれと言わんばかりだ。

 

 そうやってベランダに進入し、然る後に窓を突き破って盗みを働き、帰るときは堂々と、諸手を振って正面から出るのだ。

 

 ほとんどノーリスクで盗める家は、決して少なくない。

 

 

 

 だからその日も、格好の標的が見つかったので盗みに入るつもりだった。

 

 閑静な住宅街にある、一見の民家。何となく、武家屋敷を連想させる。

 

 少々歴史あるように見えるが、決して品格が漂うものではない。ちゃんと手入れされているようであるから、空き家ということはあるまい。

 

 表札は―――衛宮?

 

 珍しい名前だ。何と読めばいいのだろう。素直にエミヤでいいのだろうか。名前というのは時々予想外の読みをするから厄介である。

 

 夜も深まり、辺りから聞こえるのは虫の声だけだ。人の目もなし。衛宮家も明かりは落ちている。

 

 ぐるりと塀の周囲を見渡す。監視カメラや赤外線センサなどの類も無さそうだ。この家に金品があるかは差し置いて、進入は容易い。

 

 十分な助走をつけて突進し、塀を一度強く蹴って跳躍する。両手はしっかりと塀を掴む。ポケットに忍ばせておいた軍手も着用済みだ。指紋も残るまい。

 

 筋力を頼りに半身を持ち上げ、そのまま塀の上にあがる。

 

 見る限りでは、それなりに良い家だ。本当に武家屋敷かも知れない。土蔵と道場、離れまであるではないか。

 

 庭に降り立つ。幸いにして番犬の類は居ない。

 

 その代わりに、カランカランという音が聞こえた。

 

「っ―――!」

 

 肝が冷える。空き缶でも蹴飛ばしたのだろうか。

 

 出来るだけ暗がりに身を隠す。体制を低くし、息を殺す。

 

 が―――異変はそこまで。家人が騒ぐようなこともない。それなりに大きな音だったが、よほど深く眠っているのだろうか。

 

“―――脅かせやがって”

 

 気を取り直し、あたりを見渡す。家でも良いが、あれだけ広いと金品の保管場所の見当が付き難い。

 

“土蔵が良いかな”

 

 現金は手に入らないが、値打ち物がある可能性もある。第一鍵もかかってないようだ。最初に検めるのに相応しい。仮にガラクタしか無いのであれば、家に侵入すれば良いのだ。

 

 ぎぃ、と古めかしい音を立てる。なるべく音を立てないように、静かに、ゆっくりと開ける。

 

 中は暗闇で、様子は分からない。

 

 景山悠司は背負っていたナップサックから懐中電灯を取り出し、そこを照らす。

 

 最初に目に入ったのは、何だろう。機械の部品のように思える。あとはやたら時代を感じるストーブ。ビデオデッキ。これらの中には埃を被っているものもある。

 

 さらに本の山だ。こちらには誇りから守るためにシートで覆われてあった。しかし値打ちのある本とは思えない。そもそも外国語で書かれていて、彼には読めない。

 

 残念ながら、正真正銘のガラクタである。

 

“はずれか。金庫でもあればラッキーだったんだけどな”

 

 手に抱えた本を山に戻す。そのとき一冊の本が落下したように思えたが、既にこれらの本には興味が無い。彼はそれを無視した。

 

 そして足の踏み場を探そうと電灯の明かりを床に落としたときに、それを見つけた。

 

「――――?」

 

 床に刻み込まれたその紋様は、円の中に二重の六芒星という如何にもオカルトじみたものだ。

 

 それらが誇りを被っているのは、下手人が亡くなったのだろうか。確かに、下手に掃除したら祟られそうで気味が悪い。

 

 その魔方陣の傍に、一冊の本がある。先ほど落下した本だ。何故かこれだけ、外国語の上に日本語で小さく約がつけられている。最初のページにはこう書かれている。

 

「何々?―――“聖杯の降臨とサーヴァントの召喚”?はっ、何だコリャ」

 

 何やらこれは別格だ。他の本にも、ファンタジーらしい挿絵が入ったりしていた。しかしこれは、いかにもという感じだ。

 

 ちゃちなイラストではなく、幾何学的な紋様が刷り込まれてある。

 

 しかも手描きの本だ。大量出版されたものとは違う。

 

 彼は知る由もないが、これは衛宮士郎と遠坂凛が、聖杯再降臨の疑問を解き明かすために引っ張り出した古書だ。注釈と約は凛が士郎も読むために付けたものである。

 

“ここの家人は、どうもオカルトに狂っていたらしいな”

 

 男は本を馬鹿にしながら、パラパラとページを捲る。

 

 ―――思えば、そんなものに興味を持ってしまった時点で運が無かろう。

 

 ふとページを捲る指が止まる。刻まれた魔方陣と同じ紋様の挿絵を見つけたからだ。

 

「サーヴァントの召喚方法ね。だいたいサーヴァントって何?――――えーと、『汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ』?」

 

 完全にジョークでその言葉を紡ぐ。サーヴァントが何者か知らないが、ランプの魔人みたいなものが出てきてくれれば借金も帳消しにしてくれてラッキーだな、程度の遊びだ。

 

「―――ま、そんなうまい話があるわけない、と。」

 

 特段何の変化もない。ランプの魔人はおろか、可愛い女の子が出てくるわけでもない。

 

 本をその場に放り捨て、土蔵から立ち去ろうと背を向ける。

 

 ―――異変はその瞬間だった。

 

 男は背中に圧力を感じてよろける。振り返ると、先ほどまで刻まれただけの紋様が、赤く発光する。先に感じた圧力は、陣から発する暴風だ。

 

 まさか、と思った。本当にランプの魔人でも出てくるのだろうか。

 

 光が収束し、一人の男が現れる。不精髭をたくわえたその男の目は、どこか虚ろなものを感じさせる。

 

 全身は黒い。髪も、目も、その外套も黒い。どこか幽鬼を思わせる。

 

 景山悠司は断じて魔術師などではない。ただ、遠い昔がそういう家系だったにすぎない。

 

 ただ、雨生龍之介がそうだったように、壊れた機械が突然作動を始めるように、魔術回路が突然開かれるという例が存在するのだ。

 

 彼もその稀有な例の一人だった。

 

 故に呼んでしまった。

 

 彼を、この家が持つ縁が、彼が所有する薬莢の縁が―――

 

「……アサシンのサーヴァント。反英雄、エミヤキリツグ。召喚に応じ、参戦した。」

 



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Act.4 奔走する男達

 結局、今日も戦果はなさそうだ。

 

 この半年、冬木のあちこちを奔走している。優れた霊脈を持つ地を中心に、考えられる要所を虱潰しにしてきた。

 

 聖杯戦争の再来。この謎を解き明かす為だ。

 

「……遠坂は何か分かったかな。」

 

 半年前から、遠坂は自分の屋敷の書庫をひっくり返し、聖杯に関する情報を漁っている。が、中には暗号化されているものも多いようで、難航しているようだ。

 

 さっき見てきたのは柳洞寺。坊さんが寝静まった頃合を計って再調査にいったのだが、やはり何も分からない。

 

 今は、さて次はどこへ行ってみようかなと考えあぐねているところ。

 

 ―――柳洞寺の境内を思い出し、あの時のことが脳裏に浮かんだ。

 

 慎二が聖杯になった日。ギルガメッシュにイリヤの心臓を植え付けられ、異形の聖杯へと変わり果てた。

 

 それを、遠坂が決死の覚悟で慎二を助け出し、セイバーのエクスカリバーで吹き飛ばした。

 

これで聖杯は破壊され、二度と聖杯戦争は起きない―――はずではなかったのか。

 

 考えてみれば不自然だ。前々回――第4次聖杯戦争の折にも、聖杯は破壊されたのではなかったか。

 

 二度に渡って起こったのならば、偶然ではなく必然。きっと、聖杯を破壊しようが、孔を破壊しようが、無駄なのだろう。

 

 遠坂曰く、きっと本体とも言うべきものが在る筈、とのこと。

 

 で、その本体を探すべく、俺こと衛宮士郎は脚を棒にしているわけだが―――。

 

「……もう時間切れだよな。」

 

 そろそろ街中をサーヴァントが闊歩しだす時期だ。あまり深夜に動き回っていると、殺されるかも知れない。

 

 聖杯戦争を終わらせるだけならば、必ずしもサーヴァントが必要とは限らないだろう、というのが俺と遠坂の意見だ。

 

 遠坂の言う『本体』を見つけ出し、破壊できたならサーヴァントなど呼ばなくても良い。

 

 むしろ、下手にサーヴァントを従えていると、聖杯を壊す目的を知られたら殺されかねない。

 

だが、既にこの段階に至ってしまっては―――もう先送りには出来まい。聖杯戦争を戦うためにサーヴァントが必要だ。

 

 恐らく、もう殆どのサーヴァントが召喚されているに違いない。下手をすれば、遠坂が最後かも知れない。

 

 しかし心配なのが――

 

「アイツに会うことになるのかな…」

 

 英霊エミヤシロウのことである。

 

 俺の理想の果ての姿。前回のアーチャーであるアイツには何度も殺されかけた。

 

 前回は遠坂のペンダントを縁にして召喚されたようだが、遠坂自身にエミヤシロウと衛宮士郎の両方に縁がある。呼べば今回も出てくることは必至だ。

 

 ―――遠坂談では、多分もう襲うことは無い、とのことだが…

 

「…不安だ。」

 

 空に向かって呟く。本当に大丈夫なのだろうか。遠坂も、他の触媒を用意してエミヤシロウを呼ばない努力はしてくれているが―――不安だ。

 

そんなに不安なら自分もサーヴァントを呼んで自衛すればいいではないか、という話になるだろう。

 

 さらに言えば、聖杯戦争を止めるつもりで動くわけだから、サーヴァントは必須なのだが―――

 

 出来ないのだ。

 

 かつてのセイバーを呼び出した、あの土蔵。あの魔方陣を修復し、呼び出そうとしてみたのだが、出来ない。

 

 遠坂に魔術書を借り、正式な召喚の呪文をもってしてもダメだ。

 

“きっと、『聖杯の意思』が衛宮の一族を拒んでいるんでしょうね。ほら、衛宮家って二回立て続けに聖杯壊しているし。現にシロウ、令呪宿してないじゃない。”

 

 というのは遠坂の意見だ。実にその通りだと思う。聖杯からしたらトンデモナイ一族だろう。

 

 ほら、よく言うではないか。『一発だけなら誤射かもしれない』と。

 

 そういう訳で、二発もぶっ放した衛宮家は完全に敵視されているワケである。

 

 

 

 と、そんなことよりも今のことだ。さてどうしよう。

 

不意にグウという情けない音。どうやら腹の虫が鳴っているようだ。

 

「…腹減ったな。」

 

 藤ねえと桜が帰宅してから、ずっと外を歩き回っていた。少々小腹が空く頃合だ。

 

 この後も暫くは外を歩くつもりだ。一度何か食った方が良いかも知れない。うん、そうしよう。

 

 どうしようか。住宅街であるこの付近に、こんな遅くまで営業している店はない。ここからなら遠坂邸のほうが近いが…夜食をねだりに行くのもどうだろうか。

 

「…たしかカップ麺の買い置きがあったよな。」

 

 ここから家までおよそ40分。…まあ我慢できない時間ではないだろう。コンビニが無いわけではないが、買い食いはあまり感心できない。

 

 何より、小腹が空いた時の為に買い置きしているのだ。それがまさに今だろう。

 

 よし。そうと決まれば一度帰宅だ。

 

愛車一号を漕ぎ、自宅へと向かう。既に結構な年代物だ。あちこちガタがきているが、まだ使える。なによりお気に入りの一台だ。そう簡単に捨てる気はない。

 

 

 

 

 ほどなくして、自宅前に着く。車庫を空けて自転車を格納する。

 

 屋敷を見ると、電気は既に全部落とされている。当然だ、藤ねえが帰宅したのを確認し、出かける前に全部電気は落としたのだから。

 

「…?あれ、土蔵開けっ放しにしちゃったかな。」

 

 …出るときには閉めたと思っていたが、勘違いだろうか。土蔵は半ば開いている状態になっている。

 

 『本体』探しに出る直前に土蔵で召喚に挑戦していた。藤ねえは帰宅したし、開けっ放しになっていたところで特に問題はないだろうが、無用心だったのは間違いない。

 

 まあ見られたところで、中身は正真正銘のガラクタだ。以前はなかった本の山だって、多種多様な言語で書かれているだけで普通の本だ。それらは旅をするにあたって、言語を習得すべく読み漁ったものだ。中には手垢に塗れた本もある。

 

 藤ねえもこの本の山に挑戦したが、あえなく撃沈。以来この本の山に近付こうともしない。

 

 一応、土蔵の中を覗いてみる。

 

 特に目立った変化は無いと思うが―――あれ?遠坂に借りた魔術書が落っこちている。

 

「…おっと。コレが出ていたか。しっかりしろよ、俺。小事を見落としていたら大事で事を仕損じるぞ。」

 

 自分に喝を入れる。ちゃんと隠してから出た気もするが、事実片付けていないのだから言い訳できない。

 

 それはこの中で唯一見られてはマズイ本だ。遠坂に借りた魔術書。サーヴァントの召喚に失敗し、ならば、と正式なサーヴァント召喚の知識を得ようと借りたものだ。遠坂は律儀にも暗号を解いて約してくれている。

 

その本を、本の山の中に隠す。木を隠すなら森―――というのは詭弁で、実際のところ、ここしか無いと言える。俺の自室は殺風景すぎて逆に目立つだろう。

 

 …なんとなく書生さんの部屋っぽくて似合いそうな気もするが、藤ねえに見つかったらヤツの興味を引かない訳が無い。確実に中身を読まれる。

 

その点、ここに出入りするのは俺だけだ。万一誰か入っても、この本には誰も気付かないだろう。消極的選択とはいえ、衛宮士郎が物を隠す場所なんてここ以外にない。

 

…なんとなくエロ本を隠しているみたいで気が引けるが。

 

「……あとは特に異常はないかな。」

 

 心なしか、置きっ放しにしている物の配置が変わっている気もするが、気のせいだろう。土蔵なんか数年間放置していたし、最近は本を読みに来ているだけみたいなものだ。細かい部品の場所なんて殆ど覚えていない。

 

 どことなく違和感があるものの、さほど気にする程ではない。そう結論づけ、土蔵の扉を閉じた。

 

 ぎい、と古めかしい音をたてる。一時凌ぎだが、いずれ蝶番に油でも差してやろう。

 

 今度こそちゃんと扉を閉め、大きく伸びをする。

 さて、腹ごしらえだ。たまに食べるとカップ麺も美味しいものだ。

 

俺はやや急ぎ足に玄関を上がり、台所に急ぐのだった。

 

 

 

 

 湯を沸かし、3分程待つ。ずるずると音を立てながら食うカップ麺は、やはり久しぶりに食うと美味しい。

 

 ―――まあ、もしこの場にあのセイバーが居たら、『シロウ、貴方には失望させられました。』と言われるだろう。召喚に失敗しているのは、この場に限り幸いだった…のかな。

 

…何故か彼女を思い出すときは必ず食事の風景なのだが、これは如何なる呪いなんだろうか。

 

「ふう。ご馳走様でした。」

 

 誰も居なくても、食材に向かって礼を言う日本人の美徳。

 

 席を立ち、カップを洗ってゴミ箱に放り込む。後片付けが終わる頃には、何だか眠くなってきた。…どうしよう、時刻は日付を跨いで1時間と少々。たまには早めに寝てもいいんじゃないだろうか。

 

 最近は夜遅くまで探索している。生活のリズムが大分狂ってしまった。たまには早めに寝てもバチは当たるまい。

 

 だが、それは目前に聖杯戦争を控えている、という状況で無かったらの話だ。今は惰眠を貪る時間なんてない。

 

 頭を振って自堕落な考えを追い出す。今は時間を無駄にすることなんて出来ない。よし、腹ごしらえも済んだんだ。もう一度探索に行こう。

 

 …といっても既に行くあても無く、ただ無為に外を出歩くのも如何なものだろう。

 

ここは一つ―――

 

「遠坂に電話してみるか。何か分かったかも知れない。」

 

 失礼にあたる時間帯だろうが、相手が遠坂なら別だ。間違いなく徹夜の勢いで書庫を漁っているに違いない。大体、魔術師に世間一般の常識など当てはまらない。

 

 

 

「収穫なし、ね。結局、協会も情報を開示しようとしないし。」

 

 遠坂は魔術協会ならば何か知っていることもあるだろうと思い至り、以前から知っていることを教えろと要求していた。

 

 ダメで元々、何か教えてくれれば儲けもの、程度の期待度ではあったが、やはり無駄のようだ。それも当然かも知れない。凛にも多大な前科がある。命を狙われていないのが不思議なくらいだ。

 

 起源への到達というのは全うな魔術師なら誰しもが志すもので、聖杯はそれを叶えうるアイテムだ。それを破壊したとあれば、世界中の魔術師から恨みを買って当然だろう。

 

 …中身があんなモノであると知れば、おそらく考えは変わるだろうが、いくら説明しても誰も信じようとしない。

 

時計塔や協会で地位のある人間の協力を仰ぐことも今後の課題である。

 

「そうか。こっちも収穫なしだ。」

 

「仕方ないわ。情報班が不甲斐ないせいですもの。ただ歩きまわせてしまって申し訳ないわ。」

 

 …何故だろう。遠坂が素直に謝るなんて嫌な予感しかしない。

 

「遠坂。お前何か企んでいるだろ?」

 

「し、失礼ね!企みなんて大層なものじゃないわ。ちょっとお願いしたいことがある程度よ。」

 

 図星だったらしい。少し声色に狼狽の色が見える。

 

 …まあ、別段断る理由も無いのだが。

 

「そうか、ちょっと安心した。で、何を頼まれて欲しいんだ?」

 

「新都の言峰協会まで行ってきて欲しいの。今日、急に監督役と連絡が取れなくなってね。離れて様子を見てきて欲しいの。本当なら使い魔を出すんだけどね。今使えるヤツがいないのよ。

…くれぐれも近付いたらダメよ。サーヴァントの仕業かも知れないんだから。明日、私もサーヴァントを召喚するから。本格的な調査はそれからよ?」

 

「ああ、分かった。遠くから探る程度でいいんだな?」

 

「ええ、じゃあ宜しくね。」

 

 ガチャリと一方的に切られる。まあ、その程度なら問題ない。サーヴァントに襲われたらマズいが…逃げ果せるくらいは可能だと思う。…多分。

 

 俺の投影魔術は、エミヤシロウの域にはまだ達しないが、多少は上達している。それは遠坂も認めてくれているのだろう。でなければ一人で行かせはしない。

 

 それに、以前にハンデ付きとはいえサーヴァントに一太刀浴びせているのだ。全く勝負にならない、なんてことは無いだろう。…多分。

 

 …多分、7年前の俺だったら、アンタ絶対無茶するから一人で行かせるワケないでしょー、と言われているだろう。なんてことを考えながら、再び施錠して出かけるのだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 ―――夜は更け、街中に人の姿も殆ど無い。

 

 この町は夜に出歩く人が少ない。17年前に大量殺人鬼が現れ、7年前にもガス事故、殺人騒ぎ、さらには死者多数を出した大災害。

 

 こんな物騒な町である。夜間に出歩く勇気のある人間は、最近こちらに越してくる人間ぐらいである。

 

 さらには、最近は空き巣も目立つ。敏感になっている住民は、その程度のことでも夜間の外出を控える。特に、オフィス街を中心に発展した新都の夜の閑散は不気味なほどである。

 

 17年という期間でこれほど多くの事件が起こる地なのだ。僅かな犯罪の匂いにも住民は敏感である。

 

“―――これならば、戦闘が目に付く危険も無いだろう。”

 

 その鷹の眼で、男は街を見下ろしていた。

 

 そこは新都の病院。南方に冬木教会を構える場所に建てられた二棟十階建てのそれは、大病院というに相応しい様相を呈している。

 

 病床数およそ850という数は、この男には多いのか少ないのかの判別はつかなかったが、少なくとも立派な設備が整っていることは理解している。

 

 ―――そうで無ければ、彼の主はここには居ないのだ。

 

 男は屋上に居る。決して背の高い建築物ではないが、周囲の警戒ならこれで事足りる。自身と主を見張る使い魔の類は存在しないか、その並外れた視力をもってつぶさに観察する。

 

 何度も繰り返し観察し、ここにはそのような類は存在しない、と結論付けた。

 

 今宵、彼は死地に赴くつもりだ。その間、主を守るものは居ない。加えて言うならば、主は魔術師ですらない。魔術回路は確かにある。やや心細いが、魔力の供給もされている。

 

 だが、魔術の行使はできない。そもそも魔術が何であるのか、それすら知らない。

 

 これは彼の推測だが、彼の主は魔術師の家系なのだろう。

 

 だが―――主の事情により、それは叶わなかった。以来、普通の人間として育ったに違いない。

 

 そんな主がどうやって自分を召喚したのか―――そこは甚だ疑問であるが、聖杯の意思である、と結論付けていた。事実、この男の結論は正しい。

 

 聖杯戦争が始まるにあたって、マスター不足が深刻だったのだろう。

 

聖杯は、それを必要とするものに令呪とサーヴァントを与える。魔術回路を持つだけの彼の主だが、彼が思うに確かに主には聖杯の奇跡が必要だろう。

 

 男はふと視線を空に上げる。今宵は雲もなく、月がよく見える。その月は明るく輝きながらも、孤独に震えていた。

 

 主の家族は、聞けば既に遠い地に越しているという。彼女に資金面での援助はしているが、数年前から面会に来ることも無い。

 

―――見捨てられたのだろう。それを思うと彼の胸は痛む。

 

 男は踵を返し、主の住む病室を目指す。とうに面会時間はすぎているが、構うことは無い。霊体になれば誰にも感知されずに済む。

 

 コンクリートの壁をすり抜け、一直線にそこを目指す。

 

 その部屋は日当たりの悪い部屋だ。建築する際の欠陥だろうか、そこは日中にあってもあまり日が差し込まない。

 

 しかし、彼の主が住むに相応しい部屋なのだ。

 

 男は部屋に入ると霊体から実体へと戻る。物々しい籠手や胸当てなどの防具は纏わず、身軽な姿での実体化だ。

 

男は主のベッドを見やる。彼の主は、カーテンを空けて空を眺めていた。

 

「…アリシア。」

 

 アリシアと呼ばれた少女はゆっくりと顔を男に向ける。

 

 その肌は、白い。透き通るような白さではない。蒼白というべき白さ、病的な白さだ。

 

「なぁに?」

 

 答えた声は、外見通りの少女のそれだ。痩せた体から発せられるそれは、まだまだあどけなさを残す。

 

「ちょっと出かけてくる。…君の病気を治す、いい薬が手に入るかも知れない。ちょっと知り合いのお薬屋さんに会ってくるよ。」

 

 男は少女のサーヴァントであるが、聖杯戦争のことは伏せていた。主は聖杯戦争などという血生臭い争いは知らない。ならば知らないままにしておこうという、男なりの配慮だった。

 

 しかし少女は面白い冗談を聞いたかのように、クスクスと笑う。それを見て、男は少しだけ、むっとした顔を作る。

 

「こんな夜遅くに?アーチャーったら幽霊さんなのに、人に会えるの?」

 

 聖杯については伏せているが、男は自分が亡霊であることだけは伝えていた。男の格好をみたら、下手な言い訳をするよりも騎士の亡霊だと正直に言った方が、かえって納得がいくというものだ。

 

 幸いにして、幼い彼女は割りとすんなり納得してくれた。

 

「ああ。現に君と話しているじゃないか。僕は君にしか見えてないわけじゃないよ。前にも言っただろう?確かに私は幽霊だが、物にも触れるし、人とお話だってできる。」

 

 そう言って跪き、彼女の手を握る。…彼女の手もまた白く、血が通っていないのでないかと勘違いしてしまいそうだ。

 

 ―――彼女の病気は、膠原病(こうげんびょう)というものらしい。

 

 疾患郡の名称であるそれは、様々な異変を体に起こす。そして、治療法は確立されておらず、対症療法が主となる。

 

 彼女は、紫外線に当たると皮膚に重度の炎症と発熱が起こる。長時間紫外線を浴びれば、死に至る。

 

 彼女のそれは相当酷いらしい。何重にもカーテンが閉められ、日中でもこの部屋は暗い。カーテンを開けて外を見ることができるのは、こうして夜の間だけだ。

 

 それでも窓に紫外線を遮断するフィルタが無ければ危険だという。

 

 さらには、当然ながら無断でこの部屋より出ることは禁じられている。当然だ。勝手に外に出れば、即座に死に至る可能性もある。

 

 生まれてすぐにこの病気を発症したアリシア・キャラハンは、実のところこの部屋からの景色しか知らない。

 

 筋肉を落とさないように、病院に設置されているリハビリ室などで適度な運動はする。そのためにこの部屋から出ることはままあるのだが、それも日中のことである。当然外の様子を伺うことなど叶わない。

 

このままでは、彼女が日の光を浴びてすごすことなど、永遠にないかも知れない。

 

「そうだったね。ふふ、アーチャーの手、あったかい。」

 

「ずっと握っていてあげたいが…今日もそうはいかない。夜が明ける前には必ず帰ってくる。」

 

「うん。待っているね。」

 

 名残惜しそうに手を離し、立ち上がる。そしてその手を、アリシアの頭の上においた。

 

 素手には、彼女の絹のような髪の感触が伝わる。

 

「ああ。…ちゃんとお留守番していれば、きっとアリシアの病気は治るよ。そうしたら、一緒に遊びに行こう。きっと、アリシアなら沢山お友達ができるよ。」

 

 一日の殆どをこの部屋で過ごす彼女には、当然友達と言える存在はいない。友達も居らず、親にも見離された彼女は、毎晩外を眺めながら孤独に身を震わしているのだった。

 

「…ありがとう。でも私、今はアーチャーがいるから寂しくないよ。えへへ、行ってらっしゃい。」

 

 アリシアは照れくさそうに笑う。

 

 アーチャーは、そんな彼女を救いたいと思っていた。かつての願いを置き去りにして、今だけは彼女の為に戦おうと思わせるほどに、彼女の笑顔は素敵だったのだ。

 

「ああ、行ってきます。」

 

 出陣の儀式を終え、彼は霊体となって窓の外へ駆ける。今日の夜は、いつもよりも何だか涼しい。

 

 それはきっと、彼の闘志の炎が身を焦がすせいだろう。

 

 ゆえに、彼は裂帛の意思をもって、この戦いに臨む。その手に聖杯を掴むために。

 

 願いは二つ。

 

 彼女の治療と、自らの受肉。

 

 前者はアーチャーの望み、後者はアリシアの望み。

 

 アリシアは、ずっと傍に居て欲しいとアーチャーに言った。

 

 サーヴァントは、聖杯戦争が終わると消え去る、泡沫(うたかた)のような存在である。そんな彼が、彼女の傍に居ようと思えば、受肉する他無い。

 

 聖杯を手に入れるには、六人のサーヴァントの犠牲が必要だ。

 

ならば、その全てを打ち倒そう。

 

“―――我が必殺の矢を、悉く全てのサーヴァントに浴びせてやろう!貴様らの心臓は、我が主の為の供物である!”

 

 首級をあげるべき敵を見つけようと、昨日まで奔走していたが、ようやくその成果が出た。おそらく彼もまた敵を求めて奔走していたのだろう。一方的に捕捉できたのは、僥倖であるとしかいえない。

 

 最初の生贄候補であるそれは、白い衣服を纏った騎士。彼は、おそらくセイバーかランサーであろうと当たりを付けている。

 

 三騎士のクラスである彼は強敵であろうが、必ず斃す。その策ならば、ある。

 

 その思いを滾らせ、どこまでも無人の街を駆け抜けるのだった。



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Act.5 流星

 ランサーのマスターは、名をスカリエッティ・ラザフ・コンチネンツァという。

 

 コンチネンツァ家は、彼が言うように決して名家でもなければ名門でもない。しかし、間違いなく貴族である。

 

 しかし、貴族らしい貴族であったのは、スカリエッティの父と兄である。彼自身は俗物を体現したかのような人物である。

 

 ランサーはそんな彼に辟易していた。

 

 彼の生活は、およそ聖杯戦争に参加したマスターのものとは思えない。日がな一日、ひたすらに悦楽を貪るだけである。

 

 己の主とは、もっと鷹揚に構え、それでいて朴訥なものだ。無骨で飾り気がないながらも、どっしりと構える人物でなければならない。

 

 それがどうだろうか。マスターであるスカリエッティはおよそそれに遠い存在だ。

 

 豪奢を好み、浪費を良しとする。さらには身に不相応な矜持をもち、欺瞞という衣で身を覆う。そのくせ裸体の彼は、矮小なまでの小心ときた。

 

それはランサーの考えるところの主の像とは乖離したものだ。

 

 無論。それを口にするランサーではない。不本意ではあるが、主として掲げている以上は不満を表に出すことはない。

 

 だが、それが態度にそれが出ているのは否定できない。無自覚ではあるが、己が主を『主』と呼ぶことを避けている。

 

 結果、『魔術師殿』と呼ぶに至る。

 

 ―――彼の出生を鑑みれば、彼にとって魔術師とは排斥すべき存在である。それは聖堂教会が魔術師を排斥するのと同じ性質である。如何様にランサーがマスターのことを思っているか伺い知れるというものだ。

 

 さらに、聖杯戦争における方針の齟齬も無視できない問題だ。ランサーにとって敵とは自ら進んで討ち取りにいくものだ。

 

 だというのに、主はそれを良しとせず、篭城を決め込んでいる。

 

 ランサーによる地理把握の名目に託けた斥候も、それを認めさせるために一日を費やしたほどである。

 

 さらには、敵を見つけても絶対に宝具を使うな、とまで言われている。

 

 令呪の縛りではないとはいえ、彼にとって主の命令は絶対だ。進んでそれを破ることは許されない。

 

 そして、その方針の意図が分からないほどランサーも愚かではない。

 

 こちらの真名を隠匿し、可能ならば相手のそれを引き出そうというのは、おそらく聖杯戦争において正しい行動だろう。

 

 だが、それを行動の第一に掲げるのはどういうことか。その命はサーヴァントに戦うな、と命じるに等しい。およそランサーにとって度し難い。

 

 つまるところ、男は自らを危険に晒すだけの度胸が無いのである。

 

 ランサーは、勝利とはリスクを踏み越えて手にするものと信じて疑わない。

 

 二人の間に軋轢が生じるのは、もはや避けようがないことなのかも知れない。

 

 スカリエッティは今日も日がな一日、酒を呷る以外に何をしていたかといえば、何もしていない。

 

 今もまたそうである。

 

 このホテルは夜景が売りだ。スウィートの窓は、その夜景を堪能できるように巨大な一枚の硝子窓となっている。

 

 嵌め殺し窓のそれは、街に面した方向の壁を、まるまる透明な硝子製だ。

 

 彼はその巨大な硝子窓に写る、夜景という人工の芸術を眺めながら酒を呷っていた。

 

 他のマスターを探す訳でもなく、策を練るわけでもない。戦闘そのものに対しても消極的ときた。

 

 戦うために召喚された自身に戦いを禁じるというのは、武人である彼にとって耐え難い屈辱であろう。

 

 だから今日こそは、マスターであるスカリエッティにも率先して参加してもらおうと進言しているのだ。

 

「魔術師殿。今日は是非ご同行願いたい。」

 

 スカリエッティは酷く酔ってはいるが、まだ理性は残されているようだ。ひっく、としゃっくりをあげると、アルコールで匂う口を開いた。

 

「何?使い魔程度が主に意見をするか?」

 

「申し訳ございません。しかし―――」

 

「喧しい!全く、自由意志をもった使い魔等、鬱陶しくてかなわん!始まりの御三家とやらはとんだ阿呆だな。」

 

 スカリエッティは魔術の知識に長けているわけではない。その所為か、どうもサーヴァントを勘違いしている節がある。

 

 使い魔とは、精々が獣を使役し、術者の手足として活動するものである。サーヴァントは、もはや人を超越したもの。言わば精霊に近い。

 

 それと同類とみなされたというのは、ランサーにとっては到底無視できない侮蔑であるのだが、彼はどうにか反論を飲み込んだ。

 

「―――申し訳ありません。しかし、魔術師殿の仰っていたことが気がかり。」

 

「―――ふん。冬木教会か。」

 

 男はその小心さ故か、頻繁に教会と連絡をとっていた。日課といってもいい。

 

 目的は、全てのサーヴァントが召喚されているのかどうか、という点だ。

 

 さすがに中立を決め込んでいるだけあって込み入った情報は教えてはくれない。

 

 しかし全てのサーヴァントが召喚されたか否か、という情報はランサー陣に与することにはならないと判断したのだろうか、是か否かだけは答えていた。

 

 全てのサーヴァントが揃った時点で正式に聖杯戦争は開始される。おそらくはそれを皮切りに全ての陣営は活性化するだろう。

 

 そういった事情も鑑みれば、教会に頻繁に連絡を入れる行動は間違っていない。しかし褒められない経緯でサーヴァントを手に入れた彼が、堂々と教会と連絡を取っているのは、傍から見れば厚顔無恥であったろう。

 

 幸か不幸か、彼にそういった細かい事柄に対する配慮など持ち合わせていない。いつも通り、今日も教会に連絡を入れていた。

 

 しかし、どういう訳か今日だけは連絡がとれない。だからどうした、という事もないのだが、ランサーは異常を感じ取ったのかも知れない。

 

 もしや、誰か凶行に走ったマスターやサーヴァントが、不干渉の掟を破ったとも限らない。

 

「確かに気がかりではあるが……私が行く必要もあるまい?」

 

「いえ。あの教会には優れた霊脈が存在します。そこを現段階から強奪しようとする輩がいたとするなら……キャスターの可能性が高いかと。」

 

 聖杯戦争の最終局面ともなれば、そのような行動に訴えるのも理解できる。聖杯を召喚するためには優れた地脈が必要だ。

 

 だが、序盤のこの段階からそこを陣地にする必要は一切ない。するとしても、不干渉の掟のない柳洞寺あたりを手中に収めるのが得策だろう。

 

 この段階で霊脈を手中に収め、掟を破ってまで教会に根を下ろすということは、何か特殊な大魔術を使う意図がある可能性が高い。

 

 例えば、広範囲から人間の魂を搾取するという魔術を行使するとなると、霊脈の存在は重要となる。

 

 冬木教会を選らんだ理由は、それが地理的な制限を受ける、等といった特殊な事情によるものだろう。

 

 とにかく、もしも冬木教会にある霊脈が簒奪されたのであれば、それを用いて大魔術を使用するつもりであるのは間違いない。

 

 そしてそれを成し得るサーヴァントといえば、キャスター以外には存在しないだろう。

 

「ふむ。それで?」

 

 スカリエッティの口調と目線は、本当に自分を駆り出すほどの理由があるのか、と問いかけている。

 

 その人を見下したような目線を無視し、ランサーは先を続ける。

 

「私には魔術の心得がありませぬ。如何な策を弄されるか知れたものではない。そこで魔術師殿の知恵を拝借したく存じます。単騎では、間違いなく苦戦を強いられる。」

 

「ほう?私が召喚したのはそのような軟弱物だったのか!これは失礼、今まで一人で夜歩きをさせてしまった。さぞや心細かったことだろう?」

 

 無論、スカリエッティとてキャスターのクラス固有スキル、陣地作成のことは知っている。

 

 キャスターの陣地へ乗り込むことは、自ら望んで死地に向かうようなものだ。何の策もなしに吶喊できる相手ではない。

 

 つまりスカリエッティは、分かっていて罵倒しているのだ。

 

 スカリエッティは、自分のサーヴァントを罵倒できる材料を見つけては、この様に理不尽な罵詈雑言を浴びせる。

 

「………」

 

 だがランサーはその理不尽な誹りを受けても、無言で耐えていた。気の短いサーヴァントであったら、この時点でスカリエッティは切り殺されていただろう。

 

 ランサーも、もし許されるのであれば、今すぐ自身の得物でその首を突いて穿ちたいと思った。

 

 その押し殺したはずの殺気を僅かに感じたのだろうか、急にスカリエッティは態度を変えた。

 

「そ、そもそもだ。何故打って出てやる必要がある?その辺のヤツが勝手に討伐してくれるであろう。」

 

「いえ。下手に泳がせると手出しできなくなる可能性もあります。最長で一日ほど教会に陣取っていることになりますが、おそらく一日程度では満足な陣地を作成できていないかと。他のマスターが教会の異常を感知しているとは限りません。」

 

「ふむ…」

 

「加えて、上手く立ち回れば教会に貸しができます。…もしかすると、今後の戦闘に有利に働く報酬を得ることも可能かと。」

 

 教会を出汁に使うのはやや気が引けたが、今回ばかりはマスター無しの戦闘は危険だ。使える交渉材料は使うべきだろう。

 

「…ふん。成程な。まぁ、私の助力が必要というのなら、そうしてやらんこともない。」

 

「…有難う御座います。助力、痛み入ります。」

 

「しかし私は魔術に精通している訳ではない。精々が、魔術発動の予兆を伝えることくらいだぞ。キャスターが使うような魔術など絶対に分からん。」

 

「それだけで十分で御座います。『来る』ことが分かった奇襲や奇策など、脅威にもなりません。」

 

「ふん。…しかし宝具の使用は、私の許可なく使用するでないぞ。貴様のそれは、発動に莫大な魔力を使用するうえに有名に過ぎる。おいそれと使うことは禁ずる。」

 

「…構いませぬ。魔術師殿の命によってのみ、宝具を使用しましょう。」

 

「よろしい。」

 

 聖堂教会からの報酬を餌に、ようやくスカリエッティは本当に重い腰を上げた。

 

 その贅肉がたっぷりと付いた体を大儀そうに椅子から持ち上げたとき、それは巨大な硝子を打ち砕いて飛び込んできた。

 

「―――っ!!」

 

 ランサーが喫驚する。

 

 それは銀色の光を尾に引きながら、鎌鼬を引き連れ、空気を切り裂き、音速にも迫る速度で一直線にスカリエッティ目掛けて飛来する。

 

 咄嗟に自身の得物を実体化し、スカリエッティを庇いながらそれを打ち払った。

 

重々しい鉄と鉄が激突する音がする。

 

 それは運動のベクトルを強烈な打撃で無理やり変えられ、無人の空間を切り裂いて壁に激突した。

 

 瞬きも出来ぬ程の速度でそれを為し得たのは、最速のサーヴァントであるからこそだろう。

 

「な―――!」

 

 スカリエッティはパニックに陥り、へなへなと床に尻をつく。そのスラックスの股に、濡れた染みを作っている。

 

「…魔術師殿、敵襲です!ここは危険故、どうかお逃げください。」

 

 スカリエッティを背中に庇いながら、油断なく槍を構える。

 

 全神経を外に向けながら、しかし目線だけは素早く飛来した物体の正体を確かめる。

 

 壁に小規模のクレーターを残し、刺さり固定されたそれは一本の矢だ。

 

 衝撃の余韻か、弦楽器を鳴らしたような音を鳴らしながら細かく振動している。

 

 普通の矢と違って矢じりから矢はずまで一体化しており、大層美しい銀製だ。矢羽は存在せず、ただ螺子のように螺旋が刻まれている。

 

 さながら切削工具のツイストドリル刃だ。円錐状ではなく、丸棒に螺旋状の溝を刻んだ刃がツイストドリル刃だ。その矢も、実のところ矢じりと思しきものは存在せず、一本の螺旋を刻んだ銀の棒に見える。

 

 ただ、サイズは作業用のそれを遥かに凌駕し、ただただその凶悪性を主張する。これを食らえば、肉をごっそりと削ぎ落とされるのは間違いない。

 

 おそらく弾いて相殺していなかったら、スカリエッティは切り刻まれて命を落としていただろう。

 

「…おそらくはアーチャー。既に補足されているのは間違いありませぬ。私は迎撃にでます。必ず、外から見えないように見を隠して下さい。決して、外を覗き見ようなどとお考えにならぬよう!」

 

 スカリエッティは、こくこくと頷くと這い回るようにドアへ近づき、転げまわりながら奥へと逃げた。

 

“―――この威力。下手をすれば壁ごと射抜かれるが、居場所が分からなければ狙撃できまい。”

 

 スカリエッティが身を隠したのを確認し、ランサーは夜景を渾身の殺意をこめて睨む。

 

 一体どこから狙撃しているのか知らないが、ここに居ては手詰まりだ。弓兵ならば、接近戦に持ち込めば自ずと勝機が生まれる。

 

 残念ながらランサーの探知能力は高くない。かなり接近しなければ居所は掴めない。

 

 だが、おおよその見当は付く。矢の飛び込んできた方向を考えれば、間違いなくオフィス街方向。

 

 そして、如何にも狙撃向きである、一際高い長身を晒す建物。新都センタービル。

 

 得物を強く握り、何も見逃すまいとセンタービルを睨む。

 

 彼の得物は、どこまでも無骨な槍。黒で艶消しをされた、およそ英雄の持ち物だとは思えないほど味気の無い槍だ。

 

 だが、それに込められた魔力は、それが破格の存在だと告げている。

 

 一度その槍の名を告げれば、それは最上級の力を解放する。

 

 ―――その宝具は、ランクにしておよそEX相当。

 

 その槍で下手人を貫くべく、ランサーは割れた窓から身を投げ出した。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

「………」

 

 新都センタービルの屋上で、アーチャーは舌を巻いていた。その表情は、感嘆と驚愕が同居した苦々しい顔だ。

 

 だがその目は睨むように敵に据えられ、一切動かない。剣の切っ先のように尖った目尻は、無言の圧力を敵に送り続けている。

 

 彼我の距離はおよそ1.2キロメートル。アーチャーにとっては十分に必中の射程内だ。

 

 しかし、確実にマスターを屠るつもりで放ったその矢は、例の騎士に弾かれた。成程、柔な英雄ではない。

 

 ―――確実に仕留めるには、宝具を使用すれば良かったのだが、開放した宝具では射程より外れる。なので通常の射撃ではあったのだが、十二分に必殺の威力だった筈だ。

 

 それを反応速度だけを頼りに打ち落とした。…あのサーヴァントは室内に居た。風切りの音が聞こえていたとは思えない。

 

よほど驚異的な聴力か、何かしらの加護を受けていない限り、それは自身の技能のみを頼りにマスターを守り果せたのだ。素直に感嘆に値する。

 

 さらにはすぐさまマスターを逃がした判断も優れている。壁ごと穿つことが出来ないわけではないが、位置が分からなければそれも叶わない。

 

 おそらく矢を迎撃できないであろうマスターを逃がした判断は、迅速にして正確。きっと幾つもの戦場で培った戦術眼に違いない。

 

「―――面白い。彼我のこの距離、名乗りもままならないが…いざ、尋常な勝負を。」

 

 再び構える。左手には、意匠を凝らした優美な弓が握られている。銀細工を施したそれは、間違いなく彼の宝具だ。

 

より大きな威力を出すため、滑車を付けたその弓は、現代では化合弓(コンパウンド・ボウ)と呼ばれるものだ。

 

 アーチャーが弦に指を沿わせると、魔力で編まれた矢がそこに番えられる。先ほどと同じ、銀色の螺旋矢だ。

 

 弓を引き絞る。その切っ先の延長には、あの英雄―――得物からするとランサーで間違いないだろう。それがこちらを目掛けて疾走している。最速のサーヴァントの足ならば、おそらくすぐにここへ到達するだろう。

 

 ―――弓兵の戦闘は、突き詰めると『近寄らせない』ことに勝機が存在する。もしも接近を許せば、矢を番えて放つまでの間に切り伏せられる。

 

 その鷹の目を活用し、遠方の敵を狙撃する。これ以外の戦法など無い。

 

 だから、狙撃が失敗したのであれば、すぐさま撤退するという選択肢が最良であろう。

 

 しかしアーチャーはそうはしなかった。理由はいくつかある。

 

 一つ目は、ここで逃せば根城を変更されるであろうこと。次にランサーと戦うときは一方的に攻撃できる立ち居地に陣取れない可能性がある。

 

 二つ目は、本来の彼は騎士道に生きている。奇襲、しかも一方的な狙撃など、正々堂々を良しとする騎士道から反すること。

 

 本当なら一発牽制を放ち、今から攻撃する旨を伝えてから攻撃したかった。

 

 それでも今回ランサーのマスターへの奇襲に至ったのは、あらゆる手を尽くして聖杯を手に入れると誓ったからだ。しかし、やはり自身への呵責は免れない。できるだけこのような卑劣な手段で手を汚す回数は減らしたい。できれば次のチャンスを待たず、ここで討ち取ってしまいたかった。

 

 そして三つ目は、―――

 

「食らえっ!」

 

 必中の確信をもって矢を放つ。射撃時に生じた真空は周囲の空気を巻き込み、旋風と鎌鼬を発生させる。その旋風はアーチャーの髪を掻き乱す。

 

 音速に迫る速度のそれは、気圧差で軌跡の周囲の像を歪めながらランサーに牙を剥く。

 

 闇夜を切り裂き、2秒余り空を駆けてランサーに到達する。月光を反射しながら猛進するそれは、さながら流星だ。

 

 だが奇襲ではなく、『来る』と事前に覚悟できている一撃。それに反応することは、ランサーには難しいことではない。

 

「舐めるな――!」

 

 槍を回転させ、槍の間合いに入る瞬間を計る。そして矢がその領域に踏み込んだ瞬間、強く踏み込み、槍を大きく薙ぎ、螺旋矢の軌道を力技で逸らす。

 

 遠心力をも味方につけたその一撃は、先ほどの一撃よりも危なげなく矢をランサーの後方へと送る。

 

“―――やはりあの建物の屋上からか!”

 

 螺旋矢が飛び込んできた方向と仰角より、狙撃地点を特定する。やはり、新都センタービルからの狙撃であるのは間違いない。

 

 アーチャーは、もはや居所は割れているものと諦めた。ならば遠慮なく攻撃するのみ。

 

 弓を引き、新たに螺旋矢を具現化させる。弦を引き絞るその手には、数本の矢も一緒に握られている。連射の構えだ。

 

「この街は死角が多いが…簡単に隠れられると思わない方が良いぞ、ランサー?」

 

 ランサーに向かって呟く。

 

 次の刹那には、螺旋矢は放たれた。今度はランサーを狙ってのものではない。ランサーが身を隠したいであろう場所を先んじて攻撃する。

 

 一射目は、雑居ビル群れで身を隠せる細道への入り口を容赦なく粉砕した。

 

 次の二射目は、反対側の裏路地への入り口を爆砕した。

 

 一息に放たれたのは五射。うち二射はランサーへの攻撃。残りは死角への逃走を防ぐ牽制。

 

 ランサーの攻撃によって威力の大部分を殺されてはいるが、その威力は凄まじいものだ。

 

 現に、ランサーの槍に弾かれてはいないものは、まるで戦車から砲撃でも受けたかのような有様だ。

 

 矢は地面のアスファルトを、火花を散らしながら掘削し、鎌鼬はその周囲を容赦なく凌辱する。掘削と切断で粉塵となった地面に火花が着火し、着弾時には粉塵爆発をも伴う。

 

 ランサーとて、狙撃を受けない死角に入り込みたいが、的確な狙撃と牽制でそれができない。下手に踏み込めば、あの螺旋矢は即座にランサーの上半身を挽肉にするだろう。

 

 少しでも目を離せば、それは死に直結してしまう。

 

 結局、即座に矢を迎撃できるように意識を前方へと傾け、前進するしかなくなっている。視線はセンタービルの屋上に固定されたまま動かない。

 

 新たに自分目掛けて猛進してきた流星を打ち払いながら、ランサーは自嘲気味に呟いた。

 

「ちぃ…。この私が、亀のように地面に縫い付けられるとは…。素晴らしい武人だ。これは拝見の誉れを頂戴せねばならぬ。」

 

 本当なら今のランサーのように地面を走るのではなく、屋根から屋根を飛び移るように駆けるほうが速い。

 

 しかし、この苛烈で正確な狙撃では、地面に脚がついていなければ、迎撃すらままならないのも事実。全速力で駆け抜けることのできないランサーは、その俊足を活かせず苛立つ。

 

 ―――センタービルまでは、目測でおよそ500m。この半分余りも踏破すれば、狙撃手を探知スキルで捕らえることができる。

 

 しかし、それが可能かどうか。

 

 さらに、もしセンタービルにたどり着いても、どうやって屋上まで上るのか。

 

 中に進入して屋上まで行くか?いや、論外だ。どのような罠を張っているか知れたものではない。

 

 ビルの壁を蹴って屋上まで飛翔するか?それは現実味に欠ける。壁蹴り自体は可能だが、その間に矢で撃墜される。

 

 何か良い策を講じなければ、いずれ王手詰み(チェックメイト)だ。

 

『―――この役立たずめ、一方的ではないか!何故私を頼らん、令呪を使用するぞ!』

 

 脳内から直接話しかけられるような感覚に、ランサーは驚いたが、すぐにその正体を看破する。

 

 スカリエッティからの念話だ。彼はホテルのトイレに身を隠しつつ、視覚を共有していた。

 

 一直線にどこかを目指すランサーには、どうやら狙撃手の位置が分かっているらしいことをスカリエッティは悟った。

 

 ―――そして、自らのサーヴァントへ助け舟を出そうとしている。

 

 ランサーはその申し出にやや虚を突かれたが、その意味を理解し、心中は喜びで溢れていた。

 

“ようやく私の主も、共に戦う気になってくれた―――!”

 

 ランサーは、どうせスカリエッティは終始身を隠したままであろうと思っていた。先ほどのように何か餌で釣り上げなければ、部屋から一歩も出ようとしまい。

 

 だからランサーは、スカリエッティの援護はキャスター戦以外で期待するつもりはなかった。どうせ令呪も渋って使うことは無いだろうと思っていた。

 

 それがどうだろうか。意外にも、正確に戦況を理解し、自身のサーヴァントを助けるべく令呪を使用すると言っている。

 

「…はい!令呪にて、私を新都センタービルの屋上まで転送を!」

 

 行き先を聞き、すぐさまスカリエッティは令呪を使用した。

 

『令呪を以って命ずる!ランサー、センタービル屋上まで即刻飛べ!』

 

 次の瞬間、ランサーに理解できたのは何か強力な魔術の対象にされたこと。すぐさま、これが令呪による空間跳躍だと理解し、抵抗もせず受け入れる。

 

 …これが不可能を可能にする令呪の力。三画のうち、一つを消費することで発動できる三度きりの強制行動権。

 

 その用途は様々だが、今回ランサーが行ったのは空間跳躍。その効力の及ぶ範囲ならば、如何なる障害をも無視してサーヴァントを転送する。

 

 ランサーが転送された後に残されたのは、螺旋矢による無情な破壊の爪痕のみだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

「お疲れ様でした。」

 

「うん、お疲れ。最近また物騒みたいだから気をつけて帰りな。まぁ、澪ちゃんだったら暴漢なんて張り倒すだろうけど。」

 

 見送ってくれている店長の背後から、「違いない!」だの「暴漢が可哀想だよな!」などとやたら威勢の良い声が聞こえる。呪われろ。

 

 笑顔で客に呪詛を送り、ガラガラとガラス張りの引き戸を閉める。この機会にガンドとかいう魔術を習得するのもいいかもしれない。

 

「―――ふう。疲れた。」

 

 八海山澪は丁度バイトが終わった頃であった。

 

 アルバイト先は、小さな居酒屋。オフィス街にぽつんと存在する、まるで時代に取り残されたかのような店だ。

 

 少々終わる時間は遅いものの自給は悪くない。何より、あの気さくな雰囲気が好きだ。

 

 客はほとんど常連客しか来ない。だから自然とお客と友達になり、働く方も飲む方も居心地の良い雰囲気を作っている。

 

 しょっちゅうお客が酒を勧めてくるが…そこは原付なので、という理由で殆ど断わっている。というよりも予防線だ。あまり仕事中に飲むのはよろしくないだろう。

 

 …店長は厨房で料理をしながら、味見と称して少し飲むこともあるが…よく刃物を扱いながらアルコールを摂取できると思う。

 

 ちなみに美希が言っていた鮟鱇がお勧め、という話も店長に通しておいた。俺は捌けないぞ、と言っていたが。

 

 …時刻はおよそ午前2時。女の子が一人で出歩く時間ではないだろうが、一応魔術師でもある私は、暴走族くらいなら追い返せる。ほとんど心配ない。…店長とお客の面々が言っていたことはあながち間違いではないのだから余計に腹立たしい。ますます呪われろ。

 

 ヘルメットを被り、キーを回す。

 

 …さて、アパートがある深山のほうへ帰るとしよう。こんな時間だし、さっさと寝て明日に備えるべきだろう。

 

 原付を走らせ、来た道を戻る。大通りに出ても自分以外の人影は見当たらない。

 

 ―――いつも思うが、一体この街の人は何に怯えているのだろう。

 

 僅かな犯罪にも、過剰と思えるほど敏感に反応する。まるで、深夜に外出すれば命が無いとでも思っている節がある。

 

 この時間なら、まだ夜遊びしている若者が街を闊歩している筈だ。しかし、誰もいない。

 

 誰も彼も大人しく家で休んでいる。

 

 昼間の賑わいと、夜間の閑散の落差がありすぎて、なんだか異世界に来たような気もする。

 

「……?」

 

 何かが一瞬光ったように思える。だが落雷という訳でもない。きっとライトが何かに反射したのだろう。あまり気にしないことにする。

 

 アクセルを手前に回す。エンジンは更なるエネルギーをタイヤに伝え、加速する。

 

 無人の道路も悪いことばかりではない。信号は既に黄色で点滅している。

 

 勿論警察に見つかればアウトだが、法規速度を超過したスピードを出せる。今はおよそ時速60キロメートル。この原付が出せる最高速度だ。実に法規速度の倍の速度である。

 

 騒々しいエンジンの排気音が響くが、どうせ無人のオフィス街だ。気にすることはあるまい。

 

 そのまま大通りを直進する。やや進んだところで、近道の裏路地に入る。

 

 直進しても良いのだが、裏路地を通って隣の道路に移った方が冬木大橋に侵入しやすい。

 

 一応ウインカーを出し、スピードをやや落としつつ左折する。

 

 ―――そのとき、凄惨たる破壊の爪痕を目撃した。

 

 暗闇をヘッドライトの形に切り抜かれて、顕になったそこには、まるで爆弾でも爆発したような有様だ。

 

 慌ててブレーキを踏み、減速する。このままあのクレーターに突っ込むのは危険だ。中の配管を傷つけたのだろうか、水溜りになっている。

 

「―――え?」

 

 状況がよく掴めない。なんだって地面にこんな大型の穴が開いているのだろう。

 

 原付のエンジンを留める。代わりに、拙いが暗視の魔術を起動する。

 

 下手人が何者か知らないが―――間違いなく危険だ。ヘッドライトの灯りでこちらの存在に気付かれたらよろしくない。

 

 それに、何か強力な魔術の残滓を感じ取れる。

 

 未熟な私にも感知できる程の大魔術。それが何を目的に使われた魔術なのかは知れないが、これほどの禍根を残しているのだ。ロクなことではあるまい。

 

 足音を殺し、穴の外周を苦労しいしい辿りながら、道路の様子を伺う。

 

 道路の路面はあちこちが抉られている。窓ガラスの破片が散乱し、街灯もいくつかなぎ倒されている。だが、それだけだ。

 

 ―――誰も居ない。だがおそらく、誰かがここで破壊の限りを尽くしたのだ。

 

 今はどこかに移動したのだろうか。今思えば、先ほどの光は転移か何かの魔術の発動だったのではないだろうか。

 

 

 

 ―――脳裏に浮いたのは、あの光景。

 

 辺りを見渡す。きっとそこまで遠くには行っていない筈だ。転移の魔術は大魔術だが、その範囲には限りがある。もしかしたら肉眼で確認できる地点にいるかも知れない。

 

 ―――炎の壁。絶対的な死の結界。

 

 もう一度何かが光った気がした。視界の隅に、確かに光るものを認めた。

 

 ―――さらには、父と母の死の光景。

 

 それは、新都センタービル。遠視の魔術で視力を水増しする。

 

 ―――ニンゲンのような化け物に切り殺された、私の両親。

 

 さすがに仔細な様子は分からないが、おそらく転移先はそこだ。人影らしきものも見える。

 

 ―――かつて私は、こう覚悟した。

 

 足元に転がっていた鉄パイプを拾う。もしかしたら戦闘になるかも知れない。

 

 ―――私が通るのはあのような道で、決してあれを作ってはならないと。

 

 原付に跨る。穴だらけのここは無視し、別のルートでセンタービルまで行こう。

 

 ―――そしてもう一つ

 

 鉄パイプを抱えたまま、全速力で原付を走らせる。先ほどと同じ時速60キロメートルだが、今度は随分と鈍足に思える。

 

 ―――あれを作ったものに、報復を。両親を屠ったものに、復讐を。

 

 徐々にセンタービルの姿が大きくなる。あと10分ほどで到着する。

 

―――ながらく復讐心を忘れていた。いや、忘れたかったのだろう。

 

「―――こんなことなら、魔術の探求やっとくんだったわ。」

 

―――魔術から離れ、一般人となることで忘れたかったのだろう。自らの黒い衝動を。

 

「これほどの力―――きっとあの魔女の仕業に違いない。」

 

 ―――だが思い出してしまった。だから足がそこに向かってしまう。

 

 ―――記憶の中のそれらは、間違えようもなく明確な悪。

 

 ―――ならばそれを滅ぼそう。正義で包んだ復讐の剣を以って

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

「―――むっ!?」

 

 ランサー目掛けて新たな螺旋矢を放とうとした瞬間、強力な魔力の残滓を残してランサーの姿が消えた。

 

“―――令呪を使ったか!”

 

 すぐに思い当たる。彼が自ら放棄した奇跡だ。

 

 アリシアに令呪のことをちゃんと教えるのは、彼女にこの戦いのことを教えることに他ならない。

 

 アーチャーはそれを嫌がり、ただ「どうしても会いたい時に、この痣に念じてくれれば、一生で三回だけ何時でも会いに行ける。」と伝えていた。

 

 つまり、自らの限界を超えた跳躍―――今見せたランサーのような芸当はできず、この場を離脱する時間などない。

 

 今更ながら、令呪の恩恵を放棄したことが悔やまれた。が、その表情に渋いものはなく、むしろ好敵手と巡り合えたことで喜びを湛えている。

 

 高層ビルの屋上。その空間の一端に、時空の歪が生じる。

 

 それは亀裂と閃光を伴い、そこからランサーが躍り出てきた。がちゃりと音を立て、重々しい鎧の槍兵がそこにいる。

 

 アーチャーは素早く照準を合わせる。ランサーは槍を地面に水平に構える。

 

 両者の距離は、およそ30メートル。

 

 まだ矢を放たない。この間合いだ、今番えている螺旋矢を外せば、次を番える時間など許してはくれまい。

 

 まだ踏み込まない。この間合いだ、下手に動けば対処する暇もなく射殺される。

 

 両者は睨みあい、不動。風の音だけが耳に劈く。

 

「―――弓兵殿!拝謁の誉れ、確かに賜った!」

 

 沈黙を破ったのはランサーだ。なるほど、武人らしく名乗りを上げたいらしい。そしてそれはアーチャーも同じだ。

 

「いや、それは私の方だ。これほどの猛者を相手に戦えたとあれば、この身に余る光栄だ。」

 

「否。ここまでの弓兵に出会えたこと自体が私にとって誉れ。さぞ、御身の前身は名のある騎士であったのでしょう。」

 

「それは貴方もだ。見たところ騎士、…ではなく武人といったところでしょうか。私は弓兵ゆえ、名乗りも上げられずに敵を討つことが多い。だから、こうやって対面できるのは私にとってこの上ない喜びです。」

 

 二人はその顔に微笑みを映す。両者とも、どこか優しげな笑みだ。

 

「名乗りを上げよう…と言いたいが、妙な縛りがある。いや、これほどまでの騎士に出会えたことに感謝すべきか。…ランサーのサーヴァント。主のために、参る。」

 

「アーチャーのサーヴァント。愛のために、参る。」

 

 クラス名だけを告げる名乗りの直後、弾かれたように横に疾走したのはランサーだ。

 

 さすがは俊足のサーヴァント。旋風そのものという健脚だ。

 

 だが、その程度で惑わされるアーチャーではない。その視力は、驚異的な敏捷性を誇るランサーの姿を捉えて離さない。

 

 ランサーは、乾坤一擲の覚悟で望んでいる。

 

 仮にこちらが重症を負おうとも、必ず首級をあげるという覚悟。

 

 ランサーは回り込むように動いてアーチャーに肉薄せんとする。

 

「―――螺旋矢を受けよ!」

 

 だが接近するということは、その分矢の到達時間が短いことを意味する。

 

 肉薄した白兵戦の距離ではなく、槍の届かないこの距離ならば十分にアーチャーの間合い。

 

 裂帛の気迫と必殺の確信をもって矢を放った。

 

 螺旋の矢は空気を切り裂いて放出し、鎌鼬を発生させる。弾いて相殺しなければ、矢を避けても後続の鎌鼬に切り裂かれる。

 

 しかし螺旋矢は弾かれることもなく、一直線に夜空の彼方に飛翔していった。残ったのはコンクリートに残された螺旋矢の轍のみだ。

 

“―――今の間に避けたのか!?”

 

 螺旋矢は風の猛威により、射手の視界を一瞬だけ奪ってしまう。その間に、ランサーは視界より消えてしまった。

 

 左右を見渡しても、どこにも居ない。が、夥しいほどの血痕が轍の途中から生え、それを辿っていくと―――

 

「何を呆けている!」

 

 背後からの一閃。アーチャーは殆ど反射的にこれを回避する。心臓を狙った一撃を、前転するかのように回避する。

 

 慌てて立ち上がり、背後を向くと、ランサーがその切っ先を既に引き戻し、追撃せんと迫る。

 

 その全身は傷だらけだが、どれも致命傷ではない。傷の多さゆえ出血も酷いが、ランサーのマスターがかけているらしい治癒魔術によって徐々に回復している。

 

 さらに速度を増した一閃。

 

 これをアーチャーは弓で弾く。逸らされた切っ先は浅く脇腹を裂く。

 

 アーチャーは弓をぐるりと反転させ、ランサーを弓で打とうとする。ランサーは槍を引き戻し、再び刺突の構え。

 

 引き戻しの分、僅かにアーチャーが早い。

 

“愚か者め!剣も持たぬ弓兵が白兵戦を選ぶとは!”

 

 だがランサーは気に留めない。骨を折られるかも知れないが、同時にこちらはアーチャーの心臓を貫く。

 

 肉を切らせて骨を絶つならぬ、骨を絶たせて命を絶つ。

 

“その心臓、頂戴する…!”

 

 アーチャーの打撃に耐え、この刺突を放てば勝利を手に出来る。

 

「――――ッ!!!」

 

 だが、ランサーは咄嗟に飛びのいた。無様にも転げまわるような退避。

 

 彼の首筋には―――真新しい切創。鎌鼬によるものではない。それは既に殆どが治っている。

 

 だからこの傷は、今付けられたものだ。

 

 刃を持たないはずの弓兵に。

 

「…なんと面白い得物か。まんまと騙された。」

 

「申し訳ない。本当はこの様な騙し討ちのような手を使いたくなかった。…だが、貴方を相手に手加減など出来そうもない。

 この弓は罠として広まったものです。おかげで、こんな戦い方ばかり上手くなってしまう。」

 

 その弓には、剣が付いていた。

 

 弓の二対の滑車を守るように、二対の刃が弓の弧の途中から生えている。さながら、自転車の車輪に付いている泥除けのようだ。

 

 その弓は、日本では弭槍(はずやり)と呼ばれる類のものだ。弓に刃を装着し、白兵戦でも戦えるようにした得物である。

 

 だが弭槍は大した威力はない。弧を描く弓では十分な刺突が適わないためだ。しかしこの弓から生える剣の刃渡りと切れ味は、十二分な脅威を秘めている。

 

 これぞアーチャーが、狙撃地点が割れても退避しなかった3つ目の理由。「そもそも接近戦で不利という常識が自分には通用しない」ということである。

 

 やはり銀色の刃は、片方には少量だが血で濡れている。言わずもがな、ランサーのものだ。

 今までは刃の部分を実体化せずに隠しておき、必殺のカウンターを狙ったのだ。

 

「いや、戦というものは両者共に策を尽くすものだ。気にすることもあるまい。」

 

「恐縮です。―――かく言う貴方の、その治癒能力。それが貴方の策ですか?」

 

 見れば既に、今までの傷は殆ど治っている。最初はマスターからの治癒かと思ったが、どうも違うように思える。

 

 そもそも怪我を負うことを前提にした戦術は、マスターからの治療ではなく、治癒能力を持つが故だろうとアーチャーは当たりをつけていた。

 

「策などと言うものではない。…生前に色々あってな。その時に得たスキルだ。私を倒したければ、一撃で首を落とすがいい。が―――ランサーたる私に、二度とその刃が届くと思わん方がよいぞ。」

 

「それは我が剣弓の剣戟に耐えてから言うべきだ、ランサー。」

 

 言い終わるや否や、踏み込んだのはアーチャーだ。

 

 剣弓で薙ぐようにして切りかかる。それをランサーが受け止めると、すぐさま反対側の剣で斬りかかる。

 

 そしてそれも受け止められると、次は袈裟に切り上げる。

 

 アーチャーの攻撃は例えるなら竜巻だ。左右、上下から交互に繰り出される剣は、アーチャーを中心に竜巻が唸りを上げているようだ。

 

 両方の刃を巧みに使いながら、アーチャーはランサーに剣戟で迫る。最初の数合は余裕の表情だったが、次第にランサーからその色が消える。

 

 すでに30合。ランサーはこの間に、ただの一度も反撃の機会を与えられない。

 

 決してランサーが弱い訳ではない。ランサーからすれば、左右から襲い掛かってくる剣を相手にしなければならないのだ。

 

 防戦に回ったとき、長い得物は不利だ。どうしてもその長さが邪魔になる。

 

 剣戟は重くはないが、その切れ味は無視できない。そしてその軽く鋭い剣戟は迅い。対になった剣の連撃には、およそ隙が無い。

 

「…くっ!」

 

 ランサーは一度仕切り直そうと、大きく跳んで距離を取る。

 

 だが、その隙を見逃すほどアーチャーも愚かではない。

 

「食らえ!」

 

 即座に弓を引き、螺旋矢を放つ。それは一直線にランサーに襲い掛かる。

 

「ぐぅ!」

 

 咄嗟にそれを弾くが、踏み込みの浅さからか威力を殺しきれず、腕に傷を負う。が、それも直ぐに塞がっていく。

 

 なるほど、たしかに強力な治癒能力だ。

 

 気付けば、既に傷は殆ど塞がり、鎧はすぐには修復できないのか傷だらけだが、それ以外は戦闘前と殆ど変わらない。

 

「その程度か?そのような重さを伴わない剣戟では、私を打ち倒すことは叶わないぞ?」

 

 ランサーはアーチャーを揶揄する。その肉体にダメージは既にない。

 

 ―――だが、内心でランサーは焦っていた。

 

 あのアーチャーには苦手な間合いというものが存在しない。近距離から遠距離までアーチャーの攻撃範囲内だ。

 

 加えて、あの縦横無尽な剣戟には隙が見当たらない。先ほどのように、一度受けに回って足を止めたら終わりだ。

 

 あの攻撃を回避するか流しつつ反撃する以外に活路はない。幸いにして、矢に比べると鎌鼬を伴わない分回避の余地がある。

 

「なに。この切れ味があれば重さなど殆ど必要ないだけのこと。それよりもいいのか?弓兵などに白兵戦で遅れをとって?」

 

 アーチャーも揶揄を返す。

 

 ―――が、アーチャーもまた焦っていた。

 

 白兵戦でアーチャーに分があったのは、あくまでランサーがこの剣弓に慣れていないというだけのこと。

 

 彼にとって予測不能の太刀筋で翻弄しているだけだ。もしも見切られたら、命を落とすのは自分のほうだ。

 

 槍を巧みに操り、隙有らば突き殺そうとするランサーを前に、どうしても攻めあぐねてしまう。

 

 加えて、アーチャーは長引けば長引くほど不利だ。

 

 ランサーの治癒能力がどれほどのものか知れないが、あれほどの傷を全て完治させているだ。彼の言うとおり、一撃で絶命させなければいけない。

 

 ―――ならば、使うしかない。

 

 アーチャーの弓が、必中にして必殺の真価を発揮しようとしている。

 

「ランサー、忠告する。」

 

 距離を保ったまま、アーチャーがランサーに言う。

 

「…何だ?」

 

 アーチャーが天に向けて弓を引き絞る。そこに例の螺旋矢が現れる。

 

「貴方はここで斃れる。それが嫌ならば疾く逃げることだ。」

 

 ゆっくりと弓を下げ、ぴたりとランサーを狙う位置で止まる。

 

「何を―――」

 

 言っているのか。私に退却など存在しない。そう言おうとしてそれに言葉を遮られた。

 

 あの弓と矢に、驚異的な魔力が迸っている。ただ月光を反射するのみであったそれらが、自ら銀に煌いている。

 

 急速に周囲の温度が冷える。

 

「そうか。退かぬなら、ここで斃れろ。」

 

 その鋭い眼光は、さらに鋭くる。

 

 アーチャーの手は、矢を限界まで引き絞る。剣弓はぎりぎりと軋みを上げる。

 

 ランサーは動けない。これほどまでに凄まじい魔力の迸りを前にして、警戒せざるを得ない。

 

 下手に動けば、即死につながるかも知れない。矢を引いているが、実際は全く違う攻撃方法かも知れない。

 

 よって開放の瞬間を待ち受ける。

 

 槍を構え、いつでも迎撃なり回避なりできる体勢で待ち受ける。

 

「―――その心臓を貫け。『無駄なし必中の流星(フェイルノート)』!!」

 

 矢を放った。それは音速を完全に凌駕している。鎌鼬以前に、その切っ先から真空の壁が生じている。

 

 それが圧倒的な銀色の光量を持って飛来する。一直線に、ランサーの心臓を目掛けて。

 

「舐めるな!」

 

 常人なら視界を完全に殺されるほどの光。だが、こんなものはランサーにとって些かも問題ない。アーチャーは知らないが、彼の目は特別だ。こんな光など、目くらましにすらならない。

 

 槍を渾身の力をもって振るう。それは正確なタイミングで銀の矢を打ち払う―――はずだった。

 

「―――!!!?」

 

 矢に槍が触れる瞬間、矢の軌道が屈折する。まるでフォークボールのように、しかしその下降は物理現象の括りを突破したかのように急激にベクトルを変える。

 

 ランサーの槍は宙だけを切り、虚しくも振りぬいてしまう。

 

 そして矢は地面に接触する瞬間、今度は浮き上がる。V字型に屈折した矢は、寸分も違わずランサーの心臓を、突き上げるような形で狙う。

 

「くっ!」

 

 慌てて身を捩って回避しようとする。しかし、矢はそれを見越したかのように再び屈折し、その心臓に到達する。

 

 銀の螺旋矢は、ランサーの胸の筋肉を抉り、心臓を穿ち、遂にはランサーを貫通し、血霧を撒き散らしながら飛翔する流星となって夜空に消えた。

 

「が……」

 

 突き上げられた形になったランサーは、その衝撃に負けて背中から倒れる。コンクリートに打ち付けられた衝撃で、口から多量の血を吐く。

 

 心臓を穿たれ、その胸に大穴を空けてもまだ存命しているらしい。だがそれも時間の問題だ。既に、その存在は希薄になりかかっている。

 

「ぐ…因果律の逆転、か…」

 

 ランサーが苦しげに呻く。

 

「そうだ。これぞ我が必殺の矢。『無駄なし必中の流星(フェイルノート)』。」

 

 因果律の逆転。『射抜いた』という結果が先に確定し、その過程が後より発生する。『射抜いた』という結果が先に存在する以上、いかなる回避行動も意味を成さない。

 

 これを回避するには、運命を覆すほどの幸運か加護が必要になる。

 

 これに心臓を貫かれたランサーは、どこにそんな余力があるのだろう、よろよろと起き上がる。

 

「…貴殿は……円卓が、一人…トリスタンか…」

 

 もはや息も絶え絶えで、うまく言葉を発せない。しかしまだ立ち上がれるのは、偏にあの治癒能力によるものだろう。しかし心臓を破壊されて無事であるわけがない。

 

「いかにも。私は円卓の騎士の一人、サー・トリスタンである。」

 

 円卓の騎士で随一のロマンスの逸話を残す英雄。トリスタン卿。自らの自慢の弓を用い、その栄光を残す騎士。

 

 イゾルデという女性を愛し、その末に暗殺された騎士。彼の恋路は様々な形で語られるが、どれも悲痛な運命を遂げる。

 

 悲恋の騎士、サー・トリスタン。

 

 それこそが、この銀のアーチャーの真名である。

 

 彼の弓は、アーサー王のエクスカリバーを真似て作られている。意匠は勿論、宝具開放時の銀の閃光も、『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』を模したものだ。

 

「…なるほど。その…栄光を集めたような銀の輝き、…見事だ。」

 

 言うや否や、再び夥しい量の血を吐く。もはや目も虚ろで、顔は青ざめている。失血死は間近だ。

 

「有難う。しかしもう眠るといい。…介錯が必要か?」

 

 ランサーはよろけるが、すんでの所で踏みとどまる。

 

 大儀そうに持ち上げた顔には…笑顔?

 

「いや、それには及ばない。―――魔術師殿、宝具を使用しても宜しいか?」

 

“―――許す!早く使え!”

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

【クラス】アーチャー

【マスター】アリシア・キャラハン

【真名】サー・トリスタン

【性別】男性

【身長・体重】180cm 65kg

【属性】秩序・善

【筋力】 B  【魔力】 B

【耐久】 B  【幸運】 C

【敏捷】 C  【宝具】 A

 

【クラス別能力】

 

対魔力:D

一工程による魔術を無効化する。

効果としては魔除けの護符程度なので、人間の領域のスキルといえるかもしれない。

 

 

単独行動:B+

マスターからの魔力供給が無くなったとしても現界していられる能力。ランクBは二日程度活動可能。

プラス補正により、魔力の温存次第ではさらに一日程度の活動も可能。

 

 

 

【保有スキル】

 

鷹の目: C

純粋な視力の良さ。遠距離視や動体視力の向上。

高いランクの同技能は透視・未来視すら可能にするという。

 

 

陣地選定: B

自分に有利な陣地を選定し、地の利を最大限に活かす能力。

ランクBは有利な位置関係を維持する限り、アドバンテージを決して失わない。

 

 

【宝具】

 

無駄なし必中の流星(フェイルノート):B

対人宝具・最大捕捉人数1

 

因果律の逆転により、必ず命中する矢を放つ。命中箇所は任意で設定可能。

その矢の形状により貫通力は凄まじく、半端な防御では確実に貫かれる。Aランク相当の防御手段でも、投擲に対する補正がなければ防御は困難。

ただし回復阻害などの付加能力は持ち得ない。

さらに、遠方の敵には使用できず、射程はおよそ100メートルである。

 

 



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Act.6 逃走劇

 冬木に降りる聖杯。しかし、これは神の血を受けた杯とは別物だ。

 

 聖杯の名を冠した魔術的な儀式装置。これが冬木の聖杯の正体である。第726聖杯であるこれは、本物の聖杯とは似ても似つかない。

 

 ただ、聖杯らしきもの、というだけである。

 

 本物の聖杯は、一級の聖遺物。

 

 では、それに類するものには何があるだろうか。

 

 聖十字架。聖釘。聖骸布が挙げられるだろう。いずれも神の血を受け、奇蹟の存在となったものばかりだ。

 

 神を磔にした十字架。神を穿った聖釘。神の骸を包んだ聖骸布。どれも一級の聖遺物である。

 

そして、この一大宗教に明るい人ならば、これも挙げるだろう。敬虔な信者でなくとも、この名前を知っている者は多いはずだ。

 

 聖槍。

 

 それは、かつて神の子が受難の末に死亡した際に、その死亡を確認するために彼の脇腹を刺した槍だ。

 

 神の血を受けたそれは、聖杯に並ぶ一級の聖遺物である。

 

 その槍は神の子を象徴する遺物の一つであるが、もとはある百卒長の得物であった。

 

 百の兵卒を束ねた彼だが、詳細はどの書にも記されてはいない。後に聖者と呼ばれるが、聖者である前の彼は誰も知らないのだ。

 

 ただ、文献にはこのように記されるのみである。

 

 白内障の百卒長は、神の子の死亡を確かめるためにそのわき腹を突いた。その時に血を目に受けると、たちまち彼の目には光が灯った…。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

「魔術師殿、宝具を使用しても宜しいか?」

 

“―――許す!早く使え!”

 

 ランサーの問いに、すぐさまスカリエッティが返す。その声は焦燥が極まったときのそれだ。

 

 ランサーはゆっくりと槍を構えなおす。弱弱しく槍を握るだけであったその手には、再び力が込められる。

 

 だが、アーチャーは胡乱な表情を返す。

 

 どう考えてもランサーは戦闘を続行できない。既にその存在は希薄になりかかり、足元は光の粒子となって消失しかかっている。

 

 そして、ランサーのその構えをみて、アーチャーの胡乱な表情は困惑を孕む。

 

 その構えは独特を通りすぎたものだ。

 

 高く掲げた槍の穂先は、ランサーを向いている。石突は天を向き、穂先は彼の喉を向いている。

 

 そしてその顔は天を仰ぎ、星空を透かして何かを見ているようだ。

 

 それは、自害のときのそれではないのか。

 

 しかしそれは妙だ。ランサーは宝具を使用するつもりなのだ。自害であるわけがない。

 

「…アーチャーよ、…貴殿も円卓の一人であるなら……この槍を目に焼き付けるがいい。あ、あなた方が求めた聖杯と…肩を並べる遺物であるぞ。」

 

 声も絶え絶えで、もはやランサーが死に体なのは明白だ。明白なのだが…その双眸の炎は未だ消えていない。

 

「―――!?」

 

 アーチャーは目を剥いた。黒く艶を消された槍が、魔力の奔走と共に白く変色していく。

 

 石突から穂先に向けて、一点の曇りもない白に塗り変わっていく。

 

 それはまるで、神の尊さを示すかのような美しい白だ。

 

 穂先までが白く塗り換わる。すると、その穂先からは血が滴り落ちる。

 

 アーチャーの血ではない。槍に付着していた彼の血は、白化の際に完全に浄化された。

 

 ランサーの血ではない。自害の如き構えではあるが、まだあの刃は彼を貫いてはいない。

 

 では、あれは誰の血なのだろうか。

 

「刮目せよ!神の奇跡を目に焼き付けるがよい!」

 

 死に体のどこにこのような力が存在するのだろう。アーチャーの『無駄なし必中の流星(フェイルノート)』をも凌ぐ魔力が白槍に込められる。

 

 それに応えるように槍が仄かに光る。

 

 『無駄なし必中の流星』のような煌びやかな輝きではない。だが、まるで蛍のようなその輝きは、荘厳な空気を纏う。

 

 その光は、人として正常な心を持つ者ならば、見惚れずにはいられまい。

 

「斯くの如くあれ(Amen)!『尊き血を受けし槍(ロンギヌス)』!」

 

 次の刹那、槍の一層の発光と同時に、ランサーは自らの首を刺し穿った。

 

「なっ!?」

 

 アーチャーが驚愕の声をあげる。首を刺し穿った凶行と、その槍の名の両方にだ。

 

 鮮血の花を喉から咲かせ、なおも天を仰ぎ見るランサー。誰が見ても、あの出血量では助からない。

 

 …しかし、崩れ落ちない。

 

どう見ても致命傷であるのに、倒れない。…いや、それどころか、希薄になっていた存在が戻りかけている。

 

消えかかっていた足元は、再び現界して強く地を踏みしめている。

 

「……な、に…?ロンギヌスだと…!?」

 

 風穴は、周囲の肉が盛り上がり、瞬く間に穴を塞ぐ。まず心臓を再生し、血管や骨を再生し、皮で塞ぐ。

 

 穴があき、傷だらけになっていた鎧も、まるで負傷などなかったと主張するかのように再生されている。

 

 ランサーが首から生えている槍を引き抜く。すると、刺し穿った痕など存在しなかった。

 

 実は、槍はランサーをすり抜けていたと言わんばかりだ。

 

 そして槍は、どんな治癒魔術でも成しえない、半ば魔法の所業を行った後にはもとの黒い槍に戻っていった。

 

 いまやランサーは、魔力こそ消費しているものの、体のコンディションは戦闘前のそれに戻っている。

 

 そしてランサーはアーチャーを見据える。アーチャーは、目の前のそれが信じられぬという顔をしている。

 

「…貴方は神の子か?いくら聖杯とはいえ、そんなことが有り得るのか?」

 

「有り得んよ。いくら奇跡を起こす杯といえども、神を召喚することなど出来ない。…私はただの一兵卒にすぎない。人々から聖人だなんてもてはやされたがな。」

 

「…そうか、貴方は聖ロンギヌス。ガイウス・カッシウス殿か…!」

 

「然り。盲目の百卒長、ガイウス・カッシウスだ。」

 

 ガイウス・カッシウス。それがランサーの真名だ。

 

 ロンギヌスの槍を持ちえるのは、神の子の他に彼以外いまい。白内障を患う兵。それがガイウス・カッシウス。またの名を聖ロンギヌスである。

 

 名前から分かるように、『ロンギヌスの槍』というのは、正式な槍の名前ではない。聖ロンギヌスの持ち物、ということだ。

 

 いつしか神の子を象徴するようになったが、本当の持ち主は彼しかいない。

 

「その槍が、聖杯と並ぶ聖遺物…『ロンギヌスの槍』ですか。成程、あの神聖を帯びた光、心を奪われるものでした。」

 

「…私の持つ槍はもともと何の変哲もない官給品だったのだが、神の血を受けたことで神聖の因子をもった。絶命する前であれば、いかなる傷も、呪いも、病も治す。」

 

「…これは私の手落ちでした。貴方の忠告通り、心臓ではなく首を落とすべきでした……。」

 

「いや、落ち込むのは早いのでは?まだ仕切り直されただけだ。よもや、これで終いとは言うまい?」

 

「……そうでした。貴方のような聖人を手にかけるのは忍びないのですが…私も退けないのです。」

 

「気にしなくていい。このような殺し合いに身を投じた時点で、私も罪人だ。」

 

 そう、本来なら彼は聖堂教会側の人間ということになる。異端である魔術師に手を貸しているなど、本来なら言語道断だ。

 

 しかし彼には目的があるのだ。

 

 神の子の受難。あれを無かったことにしたい。

 

 もしも、神の子が処刑されていなければ…もっと多くの人が救われていたのではないか?

 

 もう少しだけ、世界は良い方向に行っていたのではないか?

 

 彼を突き動かすのは、この一念だ。

 

 ランサーは槍を構えなおす。

 

 それを受けて、アーチャーも剣弓を構える。

 

「…分かりました。全身全霊でお相手させて頂きます。円卓の騎士が一人、サー・トリスタン。愛のために…。」

 

「百卒長、ガイウス・カッシウス。…我が主、神の子のために…」

 

 両者は裂帛の闘志で相手を見据える。

 

 奇しくも、アーチャーが軽傷を負っている以外は、最初の邂逅と全く同じ。立ち居地も、構えも同一だ。

 

 そして口上も同一。しかし隠す名がなくなった両者は、先刻の名乗りよりも声に気が入っている。

 

「「参る!」」

 

 両者が同時に踏み込む。

 

 その鋭い刃と刃が触れ合う瞬間―――

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 八海山澪は階段を駆け上っていた。

 

「ハァッ…ハァッ…何だって途中までしかエレベーターが通じていないのよ…ッ」

 

 鉄パイプを右手にもち、運転用のヘルメットを被ったまま階段を二段飛ばしで駆け上がる姿を見咎められたら、即座に通報されそうなものだ。しかし幸いにして今は無人のビルである。

 

 汗を流しながら一心不乱に駆け上がる。目的地は屋上だ。

 

 修練を殆ど積んでいない自分でも分かる。上階から伝わってくる圧力は、非常識なまでの魔力の奔走だ。

 

 間違いない。何か非常識なものが、屋上に存在する。

 

 普通の魔術師が、これほどの魔力を有するわけが無い。個人の魔力(オド)ではなく、大気の魔力(マナ)を用いた大魔術ということも考えられるが…どうやら魔力の発生源は二つあるようだ。

 

 ここまで近づくと、一つに思えた魔力源が二つであったことに気付ける。それが互いにぶつかりあっている。

 

 ―――おそらくは戦闘。

 

 だったら、あの魔女のような存在が最低でも二人以上いるのだ。

 

 それがあの魔女なのか分からないが…それに類するものなのは間違いない。

 

 あの魔女に近い『何か』。私では手も足も出ないかも知れない。

 

 ―――引き返したほうが良いかも知れない。そう思い至ったときにはもう、屋上と内部を隔てるドアの前にいた。

 

 ドア越しでも十分に分かる。この先に存在するのは、災害のような存在。

 

 こちらからはどうしようもなく、しかし向こうからは一方的に傷つけてくるモノだ。

 

 しかし、一度芽生えた復讐の炎が撤退を許さない。

 

 あの魔女…私の父と母を殺した魔女。漆黒のローブを身に纏い、骨の兵を率いる魔女。再び怒りという重油が炎に注ぎ込まれる。

 

 そしてその怒りに身を任せ、ドアノブに手をかけた瞬間。

 

「―――――っ!!??」

 

 目を焼かれそうなほどの閃光と魔力の暴風、そして轟音が飛び込んできた。片方の『何か』が何か魔術の類を発動したらしい。

 

 ドアノブのすぐ傍に設置された採光窓から光が差し込む。四角形に切り抜かれた光は、容赦なく私の目を眩ます。

 

 アルミ製のドアがビリビリと振動し、悲鳴をあげる。ビル全体が揺れているのではないかと思うほどだ。

 

 光はすぐに止んだ。

 

 目の眩みが消えるや否や、続いて圧倒的な魔力を察知する。

 

 もう一方の『何か』からだ。

 

 暴風のような奔走ではないが、すぐそこに非現実的な魔力が渦巻いているのは理解できる。

 

 それも直ぐに消えるが、未だにその発生源は健在だ。

 

 周囲は一応の静寂を取り戻す。足が竦む。

 

 この静寂がとてつもない圧力となって圧し掛かる。

 

 あの驚異的な魔力の奔走…どう逆立ちしても自分に勝ち目はない。

 

 いや、勝ち目がないのは分かっていたことだ。しかし、一太刀ぐらいは浴びせられるだろうと期待していた。

 

 とんでもない思い上がりだ。

 

 すぐさまここから逃げなければならない。私は死ぬわけにはいかない。

 

 ここにいては、巻き添えを食う。

 

一切の抵抗を許されず死ぬ。まだ死にたくない。

 

 既に戦闘中の『何か』に気付かれているだろうか?

 

 あれほどの魔力の奔走だ。魔術を知るものなのは間違いない。となれば…きっと目撃者を消そうとするだろう。

 

 採光窓から様子を伺おうとする。しかし曇り硝子になっているそれでは、外の様子は伺い知れない。

 

 逃げるべきだ。一目散に。

 

 気付かれないようにこの場を立ち去らねば、命が危ない。

 

 心臓は破裂しそうなほどに脈を打つ。

 

 手に汗が滲む。

 

 足音を押し殺して階段を下りようとする。

 

 最初の一段をゆっくり踏む。

 

 次いで、もう一つの足で次のステップを踏む。

 

 亀の歩みのように慎重に、しかし素早く。

 

 背後が気になる。逃走する私に気付いているだろうか。

 

 ゆっくりと視線を後ろに。

 

大丈夫、おそらく気付いていない。

 

 向き直ろうとしたそのときに…汗で手が滑り、鉄パイプを落としてしまった。

 

「――――ッ!!!」

 

 肝が冷える。生きた心地がしない。

 

 宙を舞う鉄パイプを即座に掴もうとするが、その手は虚しくも空を掴む。

 

 鉄製の手すりにぶつかりながら、鉄パイプは階段を転げ落ちる。

 

 鉄と鉄がぶつかるけたたましい音。

 

 静寂を取り戻した夜の空気に、その音は耳に劈く。

 

 狭い階段をこれでもかという程に衝突しながら落下する。

 

 何度も何度も手すりに当たり、その度に私という目撃者が存在したことを主張する。

 

“この大間抜けめ!!”

 

 自分に罵声を浴びせる。

 

 確実に気付かれた。そして、あの『何か』は私を消そうとするだろう。

 

 階段を飛び降りるように下る。騒々しい音がするが、もはや気にする意味が無い。

 

 途中で鉄パイプを拾い上げる。恨めしいが、これでも一応は武器だ。徒手よりは遥かにマシだろう。

 

 とにかく遠くへ。

 

 一秒でも早く外へ。

 

 原付までたどり着ければ活路はあるだろうか。

 

 いや、あの『何か』には転移魔術がある。

 

 ならば、早くここを立ち去って身を隠さなければ。

 

 雲隠れしてしまえば、生き延びることもできるだろう。

 

 八海山澪は、一心不乱に階段を駆け下りていった。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 その鋭い刃と刃が触れ合う瞬間―――

 

 ガランガランと、耳に劈く音が聞こえた。

 

 両者の刃は、髪の毛一本分の間隙を残してぴたりと止まる。

 

 意識と視線は、音の発生源…階段へ向けられる。

 

「…誰かに見られたらしい。」

 

 アーチャーが忌々しげに呟く。

 

「……私が行こう。」

 

 ランサーが苦虫を噛み潰したかのような顔を作りながら尋ねる。

 

「…いや、貴方のような聖人にこのような汚れた仕事を追わせるわけにはいかない。私だけで十分だ。」

 

 アーチャーがランサーを気遣って答える。

 

 両者とも、本音を言えばこのような殺しをしたくはない。

 

 しかし…魔術師でもない彼らは、目撃者を消すことでしか自らを守れないのだ。

 

 だから、どちらか一方が汚れることで、もう一方を守ろうとしている。

 

 眼前の好敵手(サーヴァント)の誇りを思うからこそ、彼らは自分だけが穢れれば良いと思うのだ。

 

「…忝い。この借りはいずれ。」

 

 ランサーは実体化を解き、霊体となってその場を去った。屋上に残されたのはアーチャーのみだ。

 

 アーチャーはランサーを見送ると、屋上の扉を蹴破り、逃亡者の追走にあたった。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 全身から汗が吹き出る。息が切れる。でも走り続ける。

 

 エレベーターは使えない。自ら袋小路に入るわけにはいかない。

 

 無様な姿だが、気にしている余裕などない。

 

 生き延びたければ、全身全霊で逃げろ。

 

 本能がそう伝える。

 

 私の全身全霊。つまりは魔術を行使するしかない。

 

「―――Einstellung(設定)Perceptual(知覚)Gesamtpreis(拡張)!」

 

 魔術刻印が術の支援をするために起動する。

 

 八海山の魔術的な特性は『送受信』に秀でることだ。あまり戦闘に向くものではない。

 

 得意なのは、念話や遠見の魔術の類。加えて言えば、攻撃用の魔術なんて私は知らない。

 

 ―――しかし、私が編み出した使い方がある。私にしか出来ない使い道がある。

 

Append(追記)Threat(脅威)Reflex(脊髄反射)Vermeiden(回避)Intercept(迎撃)!」

 

 先ず知覚の拡張。

 

 これは『送受信』のうち、『受信』にあたる機能。単なる五感の強化だけに留まらない。

 

 殺気や魔力。いわゆる第六感の強化拡張だ。

 

 背後から気配が一つ。強力な魔力を帯びている。

 

 先ほどの片割れなのは間違いない。

 

 速い。

 

 拙い。このままでは追いつかれる。

 

 それでも階段を下り続ける。

 

 きっと大丈夫。逃げに徹すれば、私は普通の魔術師よりも秀でる。

 

 走る。走る。走る。走る。走る―――

 

「御免!」

 

 遂に追いつかれた。

 

 鎧姿の男が、銀の刃を袈裟に振り下ろす瞬間が見える。

 

 無意識のままに、両手で握った鉄パイプを背後に向かって薙ぐ。

 

 鉄と鉄がぶつかる無機質な音。

 

 しかし弾けない。

 

 刃の切れ味は凄まじく、鋼鉄のパイプの中ほどまで刃が到達している。

 

 顔の数センチ手前で刃が止まる。あと少しでも鉄パイプが脆かったら、足を止めて受けに回らなかったら、首を断たれていたことは間違いない。

 

「…なに?」

 

 刃と融合した鉄パイプは、そのまま男に攫われた。構わない。どうせもう役には立たない。

 

 油断なく男を睨む。じりじりと後退しながら。そしていつでも走り出せるように体勢を整えながら。

 

 男は鉄パイプを引き剥がすと、足元に捨てる。あの得物…弓だ。弓だが、剣のようなものが生えている。

 

 オフィスビルにありふれた、四角形の螺旋状になっている階段に感謝する。そうでなければ、狙撃されて絶命していたかも知れない。

 

 視線を男にゆっくりと移す。端整な顔付き。豹のような四肢。美しい銀色の鎧。

 

 これが自分の命を脅かしている存在でなければ、きっと見惚れるほどの伊達男だろう。

 

 しかし、今はそうは思えない。あの銀の輝きが、死神の鎌の輝きにしか思えない。

 

「…加減したとはいえ私の剣戟を受けるとは、見事な反応です。貴方の名前は?」

 

「……八海山澪。」

 

「ハッカイサン殿。申し訳ないが、私は貴方を殺さねばならない。」

 

「やってみろってのよ…!」

 

 背を向けて階段を下る。飛び降りながら。

 

 あと数回なら避けきってみせる。その自身はある。

 

 ―――脊髄反射へ任意の行動を設定する魔術。それが私の自己流の戦闘方法。

 

 私自身の属性は『風』。特に微弱な電流の操作に秀でる。強力な電流は無理だ。修行不足である。

 

 しかし、微弱な電流の制御には絶対の自信がある。そう、例えば人体を流れる電気信号のような。

 

 外部からの脅威の存在を『受信』し、それに対してあらかじめ設定された運動パターンの電流を各筋肉に『送信』する。

 

 例えるなら、電子機器のようなもの。

 

 予め設定された信号を『受信』すれば、それに対して定められた信号を『送信』する機械を体に埋め込むようなものだ。

 

 特に、脳細胞を仲介しない脊髄反射にそれを予め設定することが肝要だ。

 

 (CPU)を経由せず、その部品が勝手に動作している。私の魔術はそういうものだ。

 

 言わずもがな、脳で考えてから行動するより、反射のほうが数倍早く行動できる。

 

 これによって、決められたパターン限定ではあるが、熟練の戦士のような反応速度を持ちえる。

 

 これの恩恵によって、戦闘経験のない私でも剣を受けることができたのだ。

 

 しかも、ここで知覚を拡張強化したことが効く。

 

 仮に視覚で反応できなくても、六感のうちいずれかが脅威の存在を『受信』すれば、反射で回避に入れるのだ。

 

「背中を見せるとは愚策!」

 

 すぐさま距離を詰める。人間とは思えない速度だ。

 

 背後から剣弓による刺突。心臓へ向けた容赦の無い一撃。

 

 しかし、風を切る音を聞いた。殺気を感じた。

 

受信:脅威の急速な接近。

 送信:回避行動に必要な筋肉に対する電気信号。

 

 足の筋肉が反応する。ヘッドスライディングのような飛込み。

 

 眼前は階段だが、死ぬよりましだ。もとより脊髄反射にはそんな事情を斟酌する能力はない。

 

 無様に転げ落ちる。だが、男の突きが裂いたのは私の服の一部だけだ。スカートにスリットが出来たが、気にする余裕はない。

 

 すぐさま立ち上がり、再び駆け下りる。

 

 すばやく階段に掛けられている文字を読み取る。

 

 およそ折り返し地点。この調子でいけば逃げ切れるか…?

 

 

 

 

 

「…すばらしい反応です。」

 

 それは先ほど、アーチャーがランサーの一撃を回避するのとそっくりの反応だった。

 

 突きの速度はランサーよりも数段劣るが、それでも生身の人間が相手なら必殺の一撃だったはずだ。

 

 アーチャーは目の前の標的を冷静に分析する。

 

 反応速度だけ見れば、英霊の域にも手が届くかも知れない。逃げに徹されると、少々厄介だ。

 

 接近してみれば、彼女から魔力も感じる。おそらくは魔術師。肉体の強化とあの反応速度があれば、下手をすれば逃げ果せるかもしれない。

 

 となれば、直線的な攻撃では回避されるだけかも知れない。剣士(セイバー)槍兵(ランサー)の一撃ならともかく、弓兵(アーチャー)たる自分の剣戟では仕留めるのに難儀する。

 

 となれば、回避できない一撃を叩き込むしかあるまい。

 

 宝具まで使う必要はない。アリシア(マスター)からの供給があるといっても、かなり微弱なものだ。

 

 もともと病弱なアリシアからこれ以上、生命力ともいえる魔力を吸い上げれば、どんな弊害があるか知れたものではない。

 

 よって宝具はむやみに使えない。

 

 相手は生身の人間だ。螺旋矢の一撃ならば、回避しても鎌鼬に切り刻まれて命を落とすだろう。それで事足りる。

 

 …できれば、女性は綺麗に死なせてやりたかったが、相手が魔術師となれば致し方ない。

 

 アーチャーは先周りすべく、霊体化して一直線に階下へ向かうのだった。

 

 

 

 

「…!先回りされた!?」

 

 八海山澪は刺突の一撃を回避した地点より、二階分ほど降りていた。

 

 さっきの瞬間までは、確かに頭上に気配を感じていた。

 

 しかし…一直線に、階段を無視して今眼前に現れた。

 

 いや、気配は間違いなく眼前…数メートル先の足元にあるのだが、何も居ない。

 

 と思うや否や、輪郭が生まれ、色彩が現れ、あの男が眼前に立ちはだかっていた。

 

「…あなた、亡霊?いや、物理干渉できる霊など存在するの…?」

 

 物体をすり抜けるあの挙動は霊だとしか思えない。しかし、有り得るのだろうか?物理的な干渉が可能な霊など。

 

「似たようなものだ。死んで長らく経つ。…ハッカイサン殿。申し訳ありません。私の未熟ゆえ、貴方には綺麗な死を与えられそうもない。」

 

「は…詫びるなら、殺すことを詫びろってのよ…!」

 

 まずい。あの男は既に弓を番えて、私を狙っている。

 

 ここは階段だ。左右に退路が無い。一直線に飛来する矢を回避しようと思えば、左右への回避しかないのに、それが出来ない。

 

「そうですね。貴方は良い魔術師になったかも知れませんが…ここで斃れて頂きます。」

 

 目は閉じない。最後まで眼前の(てき)を睨み続ける。

 

 そして銀に煌く死神の矢が放たれた。

 

 風の猛威で、思わず目を閉じてしまった。ああ、最後の瞬間まで敵を睨んでやりたかったのに―――

 

「『熾天覆う七 つの円冠(ロー・アイアス)』!」

 

「え?」

「なに!?」

 

 矢は私に到達していない。決して、狙いを外したのではない。

 

 私の目の前に、それを受け止めている人物がいる。男性だ。

 

 肌は少し黒い。小麦色というのが相応しいだろう。髪はオレンジ色だ。というより赤毛か。察するに若いだろうに、白髪が目立つ。服装はラフなものだ。

 

 この男性が、背後から現れて私を背中で守り、矢を受け止めた。

 

 差し出された右手の先には、花弁のようなものが展開されている。間違いない。魔術だ。しかも破格の。それが銀の男の矢を受け止めている。やがて矢は力を失い、赤毛の男の足元に落ちる。

 

 気付けば、赤毛の男の手には二振りの短剣が握られている。中華風の、黒と白の剣だ。

 

 八海山澪とアーチャーが知る由もないが、間違いなく衛宮士郎である。7年に渡る無茶な魔術行使の反動が現れはじめ、肌と髪は変色しかかっていた。

 

「……何者か?」

 

 銀の男が訝しげに尋ねる。赤毛の男は短剣を交差させるように構える。

 

「ただの通りすがりだよ。」

 

 事実、士郎は通りすがりだった。だが、冬木大橋を渡った直後に、新都センタービルから、何か輝くものが飛翔していくのを見咎めた。

 

 宝具。セイバー(アルトリア)の『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』の輝きと似ているため直ぐに思い当たった。少々毛色が違うが、未来永劫の王(アルトリア)が再召喚された可能性もある。それを確かめるために、ここまで侵入してきたのだ。

 

 だが、エレベーターを使っていたせいで、戦闘中と思わしき地点を通り過ぎてしまった。急いで階段をくだり、咄嗟に八海山澪を助けた次第である。

 

「では、何故ただの通りすがりが邪魔立てする?」

 

アーチャーの表情には、警戒と怒りが混合している。

 

「ちょっと聞きたいことがあったんだ。…オマエは、アーチャーのサーヴァントだな?」

 

「……」

「…アーチャー……サーヴァント?」

 

 この赤毛の男は何者だろう?知り合いなのか?いや、そんなそぶりはない。

 

 銀の男…アーチャーというのか。けったいな名前だ。

 

 アーチャーは警戒の色をさらに濃くし、沈黙を守っている。それは肯定を意味していた。

 

「そして…アンタは、マスターなのか?」

 

 構えはそのままに、首と視線を動かして尋ねる。

 

「え?マスター?」

 

 正直なところが、全く意味が分からない。

 

 その疑問符だけで十分だったのだろう。それ以上追求するでもなく、説明するでもなく、ただ視線をアーチャーに戻した。

 

「…この通り、この子は一般人だ。見逃してやってくれ。ついでに俺もマスターじゃない。見逃してくれると有難いんだけど。」

 

「出来ない。…貴方も聖杯戦争を知る者なのだろう?ならば、目撃者はどうなるか、どう処理すべきか、知っている筈だ。」

「…俺と同じか……」

 

 その呟きは小さいものだったが、八海山澪には聞き取れた。

 

 同じとはどういうことだろうか?だが、その疑問を今口にするべきではないことぐらいは理解できる。

 

「じゃあ、実力でどうにかするしかないのか…。アンタ、走れるか?」

 

 再び小言。私にしか聞こえないような声だ。

 

「…え、ええ…」

 

「じゃあ俺がアレを抑える。アンタはその間に逃げてくれ」

 

「…え、あ、はい。」

 

 言うや否や、赤毛の男はアーチャーに斬りかかった。

 

 右手から薙ぐ一閃。

 

 アーチャーの剣弓に防がれる。接触した瞬間に火花が散る。短剣を止めつつ、対の刃での横薙ぎ。

 

 それを左手の短剣で受け止める。

 

 鍔迫り合いの形となるが、アーチャーのほうが膂力はある。赤毛の男がじわじわと押される。

 

「行け!」

 

 全速力でその脇をすり抜ける。その時、赤毛の男の顔が見えた。

 

 私と同じくらいの年齢ではないだろうか。おそらく、僅かに男の方が年上だろうとは思う。

 

 だが、そんなことを気にしている場合ではない。正体は知れないが、あの男がいなければ私は確実に死んでいた。ならば、私は彼に借りを返さなければならない。

 

 それは何か。今は逃げることだ。私がいつまでもここにいては男が逃げられない。だから、一刻も早くここを立ち去るのが、彼への恩返しになる。

 

 息を切らしながら階段を下る。追跡者のいない逃走は、思いのほか素早いものだった。あと少しで、地上へ逃げられる。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 戦場は、長い階段からオフィスに移動していた。彼らの激しい攻防によって生じた旋風によって、フロア中を書類が飛び交う。

 

 いや、正確には旋風を起こしているのはアーチャーだけだ。士郎はそれに耐えているだけである。

 

 既に10合は打ち合った。士郎は始めてみる剣弓に惑わされながらも、双剣を巧みに操り防ぐ。

 

 アーチャーは、ランサーとは違う衛宮士郎の剣裁きに、素直に感心していた。

 

 決して才覚溢れる剣戟ではない。だが、切磋琢磨によって磨かれたその剣は、一種の機能美すら感じられる。数多の戦場で鍛えられた剣なのは間違いなかった。

 

 そしてアーチャーは、感心すると同時に、焦りと困惑も感じていた。

 

 アーチャーの袈裟へ切り下ろす一撃。士郎はとっさに干将で防ぐ。だが、干将はその手から弾かれてしまう。

 

 そこへ追撃の一撃。しかしその手には、何事もなかったかのように干将が握られている。

 

 すでに7本目だ。アーチャーがその業に困惑を隠しきれない。警戒したのか、大きく後ろへ飛び退く。

 

「…一体何本の剣を隠し持っているのやら……。貴方の名は?」

 

「……衛宮士郎だ。」

 

「エミヤ殿…。」

 

 その名を噛み締めるように反芻する。

 

「…エミヤ殿。貴方のような人を殺すのは惜しいが…これも聖杯戦争の定め。確かに貴方はマスターではないようだが、だからと言って見逃すわけにはいきません。」

 

「はは、そう何度も死んでたまるかってんだ…!」

 

 士郎が一気に距離を詰める。

 

「―――投影開始(レース・オン)。」

 

 干将・莫耶は既に手中になく、徒手空拳。しかし、その構えはまるで剣を持っているかのように構えられている。

 

「『害為す焔の杖(レーヴァテイン)』!」

 

 手には燃え盛る炎の剣。七世界を繋ぐ世界樹を灰燼にし、そのまま世界を燃やし尽くす運命を担った剣。それを下段に構え、逆袈裟に切り上げる。炎は、その剣の軌道を焦がしながら敵に襲い掛かる。

 

「宝具だと!?」

 

 アーチャーは剣を剣弓で受け止めたが…後続のそれは不可避だった。

 

 受け止められた瞬間に、『害為す焔の杖(レーヴァテイン)』は纏っている炎を膨らませ、アーチャーを火達磨にしようと襲い掛かる。

 

 鼻先を焦がし、肺を焼く炎。

 

「くっ!」

 

 慌てて飛び退く。その際に誰かのデスクが転倒し、書類が木の葉のように舞う。

 

 そのうちの一枚に、レーヴァテインの炎が移る。そして炎は次々にその触手を伸ばし、延焼させていく。

 

 だがそんなことも意中にないのか、二人とも炎の中で対峙し続ける。アーチャーは胡乱な顔を作っている。

 

「…レーヴァテインだと?…どういうことだ。生身の人間が何故、宝具を持っている?何故北欧の神の剣を持っているのだ?」

 

「…7年前に色々あってな。」

 

「7年…。貴方は前回の聖杯戦争の関係者か。…なるほど、それなら妙に詳しいことにも合点がいく。」

 

 灼熱は既に小火ではすまない規模になっている。火災警報器が作動し、天井からスプリンクラーで水が撒かれる。しかし火勢は衰えない。世界をも焼く炎は、ただの水での鎮火は困難だ。この炎は下手を踏めば世界を焼き尽くしてしまう。

 

「…じきにここに人がくる。今日はここで退いてくれないか?」

 

 すでに消防に連絡が届いているのは間違いない。あと10分もすれば、ここは消防と野次馬で溢れるのは間違いないだろう。

 

「出来ない。数分で片付ければ良いだけのこと。」

 

 火勢はますます強くなる。もはやフロアは一面が火の海だ。しかし、士郎がレーヴァテインの力を抑えていなければ、既にビルそのものが焼け落ちている。

 

 二人との丁度中間に位置していた机から一層大きな火柱を上げる。缶でも炸裂したらしい。一瞬だが、互いの姿を炎が隠す。

 

 士郎は思い出していた。17年前の大惨事を。自分の原初の光景を。

 

 火柱が霧散すると、アーチャーが弓を番えていた。螺旋矢は寸分の狙いも違わずに士郎の心臓へと向いている。

 

 それを受けて、士郎はロー・アイアスの設計図を脳内で引く。すぐに展開できるようにする。

 

 アーチャーの判断がすぐれていたのは、宝具を使用しなかったこと。投擲に対して絶対の防御を誇る守りの名を先ほど聞いていたため、それを使用しなかった。

 

 フェイルノートは因果逆転によって絶対の命中を運命付けられている。Aランク相当の防御でも貫くほどだ。しかし、投擲に対する加護に対してはその猛威を発揮できない。

 

 アイアスの盾…考えうる限り、最悪の相性だ。

 

「螺旋矢を受けよ!」

 

 矢を放つ。まるでモーゼが海を割るように鎌鼬によって炎を退けながら、一直線に士郎を穿とうと襲い掛かる。

 

「『熾天覆う七 つの円冠(ロー・アイアス)』!」

 

 しかし回転しながら猛進する矢は、七つの花弁によって受け止められる。高周波の音を立てながら拮抗する。矢の切っ先が削られ、火花を散らす。

 

 しかしアーチャーはこれを予期していた。

 

「遠慮はいらない。腹いっぱい食らうが良い!」

 

 新たに矢を番える。矢を引く手には数本の矢を握り、連射をかける腹だ。

 

 次々と矢を放つ。全てあわせて7本。一つの花弁に一つの矢が打ち込まれる。

 

 士郎は歯を食いしばって耐える。少しでも「貫かれる」と考えた瞬間に花弁は力をなくす。イメージしろ、勝利する己の姿を。この高周波の音に惑わされるな。

 

 螺旋矢は、次第に力を失っていく。一本、また一本と地にひれ伏す。

 

 そして最後の一本が平伏しようとした瞬間。

 

「―――ッ!!?」

 

 横合いからアーチャーが突進してくる。螺旋矢を受けきることに気をとられすぎて、周り込まれたことに気付けなかった。

 

 剣弓による刺突。慌ててレーヴァテインで弾くが、胴ががら空きだ。

 

その隙を見逃すわけもなく、アーチャーは突進の勢いそのままに膝を叩き込む。

 

「がッ!!」

 

 まるでボールのように空を飛ぶ。咄嗟にレーヴァテインの腹で受け止めようとしたが、無残にも砕け散った。

 

 投影が甘かったか。基本骨子の解明が不十分だったか。狼狽でイメージに綻びが生じたか。だが砕け散ったおかげで威力が緩和された。内臓も無事だ。

 

 しかしこの落下の衝撃では死亡するだろう。士郎は、勢いを殺せずに硝子を突き破り、高層ビルから夜の街へ投げ出されていた。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

「ハァ…!ハァ…!」

 

 八海山澪はどうにか地上まで逃げ果せていた。全身は汗に濡れ、足は乳酸で棒のようになっている。まるで夢遊病者のような足取りだ。

 

原付は律儀にも、駐輪場に駐車している。ビルの出入り口より少し離れたそこへ移動。キーを回したところで、上階の火事に気付いた。気付かないほうがおかしい。明らかに以上な明るさだ。

 

 見上げれば、フロアがまるまる一つ灼熱に覆われている。

 

 彼女もまた、17年前の火災を思い出していた。彼女は直接体験しているわけではないが、トラウマに近い記憶である。

 

 あの赤毛の男は大丈夫だろうか?あの破格の存在と、本当に渡り合えるのだろうか?

 

 と士郎のことを心配した矢先、その本人が燃え盛るフロアから飛び出してきた。いや、投げ出されたというべきかも知れない。

 

 頭から落下するその所業は、自殺でもない限り、自発的なものではないだろう。

 

「―――っ!!」

 

 澪は右手を捻り、原付を疾走させる。あの人を死なせてはいけない。私が助かって、正義の味方のようなあの人を死なせてはいけない。

 

 どこにこんな体力が残っていたのか。落下地点間際で原付を捨てる。棒になっていた足が動く。限界を超えて筋肉を酷使する。

 

 地面まであと10メートルもない。

 

 大丈夫、間に合う。既に落下地点に到達している。

 

 魔術刻印を総動員し、滅多に使わない術を行使する。

 

「―――Unsere einzige Waffe ist Yuki(我は己のみを武器とする)!」

 

 僅かな時間のみ、全身を強化する魔術。腕、背中、腰、足。全ての筋肉が一瞬のみに限定して爆発的強化される。

 

 まず腕で抱きかかえる。衝撃を殺すように、足を曲げながら受け止める。彼の体重に負けないように、背筋と腰でしっかりと支える。

 

 強化したといっても、元がひ弱だ。歯を食いしばって耐える。

 

 ―――間に合った。成功した。気を失っているが、ちゃんと呼吸をしている。硝子を突き破ったときに引っかいたのだろうか、生傷が痛々しい。

 

 澪はそのまま士郎を抱きかかえ、原付にまたがる。膝の上に座らせ、腕と体で上半身を支えるスタイルの二人乗り。気絶している人間を運ぼうとしたら、この体勢でないと無理だ。少々狭いが、運転に支障はない。

 

 アクセルを一気に限界まで捻る。喧しい排気音を撒き散らしながら、原付は一心不乱にその場から立ち去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 レーヴァテインが砕けたことによって神聖を失った炎は、スプリンクラーによってその火勢を衰えさせていた。

 

「…遠距離攻撃に対して強い耐性を持つから突き落としたというのに、悪運が強いのですね、エミヤ殿。」

 

 割れた硝子からアーチャーがそれを見送る。体には紅い布が巻きつけられている。一見するとただの布だが、アーチャーは未だその戒めから抜け出せずにいた。

 

 ―――マグダラの聖骸布。男に対して、絶対的な拘束力をもつ拘束用の宝具。外に投げ出された士郎が、咄嗟に放ったものだ。

 

 だが、慌てて投影したからだろうか、その組成は甘い。いや、そもそも士郎が投影したそれでは十全の効果を発揮できない。現に完全にアーチャーを封じることができず、ぎちぎちと聖骸布は悲鳴をあげている。

 

「ぬん!」

 

 アーチャーが渾身の力を込めると、聖骸布は無残にも裂かれてしまった。ただの魔力に戻ったそれは輪郭をなくして霧散する。

 

“…見失ったか?”

 

 既に、澪と士郎はビルの群れに溶け込み、死角へと逃げていた。

 

 

 

 

 60キロメートル程しか出せない原付に、澪は心底いらついていた。近いうちに、大型二輪の免許を取ってやろうと決心したほどである。

 

 しかも、明らかな重量オーバーで60キロメートルも出せない。一刻も早くここから立ち去るべきなのに、まるで亀の歩みのようだ。

 

 右左折を繰り返し、なるべく入り組んだ道を走り抜ける。暗い風景をどんどん背後に送る。

 

「……ぐ…。」

 

 意識が戻ったのだろうか。苦しげに呻いている。程なく目を開き、周囲を見回した。

 

 自分が女の子の腕に抱かれているという状況は理解できたらしい。一瞬で赤面した。

 

「ご、ごめん!」

 

「暴れないで!」

 

 飛びのこうとした士郎を澪が押し止める。だが、堪らずブレーキを握ってしまった。急ブレーキによってアスファルトの地面に黒い轍を残しながら、ドリフトをするように停止する。

 

 ちょうど良い。ここは裏路地だ。すぐには見つかるまい。一度ここでこの男を休めるべきかも知れない。

 

 澪はそう考え、キーを回してエンジンを切る。

 

「立てる?」

 

「あ、ああ…なんとか。」

 

 腕から開放されて、よろよろと地面に降り立つ。だがその足取りは、泥酔した人よりも覚束ない。

 

 膝の力が抜け、崩れ落ちそうになる。慌てて肩に手を回して支え、そこに座らせる。

 

「……良く聞いてくれ。とりあえず、姿は隠せたかも知れないけれど、すぐに見つかる。…俺がどうにか食い止めるから、アンタは逃げてくれ。」

 

 手早く脈を測る。異常はなさそうだ。だが体温が高い。

 

「その死に体でどうするつもりなのよ…!いいから大人しくしていて。アンタが落ち着いたら、原付で逃げるわよ。」

 

「そんな物じゃ、逃げ切れない。…ぐぅ……。」

 

 よほど苦しいのだろう。嫌な汗で濡れ、肩で息をしている。どこかの骨が折れているのかも知れない。目に見える部位では異常はなさそうだ。

 

 服の下に負傷があるのかもと思い、服を脱がせようと手をかけたそのときだ。

 

「いたっ…!?」

 

 右手の甲に鋭い痛み。どこかで切ったのだろうか。蚯蚓腫れのようなものが浮き出て、そこから僅かに血が流れている。

 

「……え?」

 

 だが、怪我をした本人よりも、この男の方が驚いている。信じられない、という風だ。

 

「ア、 アンタ魔術師か…?!」

 

 掴み掛かる勢いで問いただされ、泡を食う。だが、その表情が真剣なのは間違いない。

 

「え、あ、うん。二流だけど」

 

 僅かな逡巡。だが、意を決したようだ。

 

「…すまない。アンタ、生き延びたかったら巻き込まれてくれないか?アンタがマスターになるんだ。」

 

「え、マスター…?」

 

「さっきのヤツみたいなのを使役して、さっきのヤツを倒せってことだ…!」

 

 戸惑い。うまく理解ができない。だが、決して冗談ではないように思う。

 

「……アンタも私も、両方が生き延びようと思ったら、それしかないの?」

 

「多分、それしか無い。……命を危機にさらす事になる。暫くの間ずっとだ。断わってくれて構わない。」

 

「何言っているの!…やってやるわよ、どうせアンタが死んだら私もすぐに殺されるんだから!女は度胸よ、やってやるってのよ!」

 

 半ばヤケクソだ。日常からかけ離れた出来事に、こうも遭遇して、もうどうにでもなりやがれという心境に至っている。

 

「…すまない。じゃあ俺の言うとおりに、地面に魔方陣を刻んでくれ。」

 

 いつの間にか、手には一本の短剣。丈夫そうだが、特に変哲もない剣だ。

 

「まず、円の中に二重の六芒星を描き…」

 

 

 

 

 

 

 アーチャーは二人の姿を探していた。二輪の乗り物が走り去った方向、その死角をくまなく探索している。

 

 そう遠くには逃げられはしまい。鷹の目を持つアーチャーにとって、そう難しいことではない。じきに見つかる。

 

 ―――本当なら、見逃してやりたい。しかしそれは出来ない。何故なら、二人ともマスター候補だ。確かに今はマスターではないが、二人とも優秀だ。将来の障害になる可能性が高い。ここで倒さなければ、厄介なことになる。

 

 ―――いた。

 

 路地裏の一角。何やら地面に陣を敷いているようだ。恐らくは治癒用の魔法陣。エミヤという少年の負傷が酷いのだろうか。

 

 アーチャーは思案する。このまま狙撃した方がいいだろうか。いや、彼には遠距離攻撃に対して強い防御を持っている。フェイルノートでも貫けるか怪しい。しきりに周囲を警戒している。不意打ちの狙撃は成功しまい。ならば、このまま近づいて、剣弓で仕留めたほうが良いだろう。

 

 アーチャーは不可視の霊体となって、彼らにゆっくりと近づいていった。

 

 

 

 

 

 

「…そろそろ見つかる頃合だ。急いでくれ。」

 

「煩いわね!これでも最高に急いでいるわよ!」

 

 思ったよりも煩雑な魔法陣ではなかったようだ。二流の私でも敷ける。今は、大きな円で全ての陣を囲んでいる。これが最後の工程だ。

 

 がりがりとアスファルトを削る。そして円の始点まで溝が到達し、完璧な円が完成した。

 

「出来たわよ。…どこかに問題ある?」

 

 男が魔法陣を観察する。どこかに綻びがあれば、術者だけでなく周囲をも巻き込む恐れがある。

 

 男が大きく頷く。どうやら問題ないようだ。

 

「よし、それじゃあ呪文を教えるから、一度で覚えてくれ。」

 

 聞き漏らすまいと口元に耳を持っていく。息も絶え絶えで、こうしないと聞き間違えそうだ。

 

 受信:頭上から殺気。風切りの音。強力な魔力。脅威と認定。

 送信:回避行動。

 

 咄嗟に男の肩を掴み、押し倒すように飛びのく。ヘッドスライディングのような回避。

 

 刹那の前まで頭があった位置を、銀の刃が通過する。もしも魔術の設定を初期化していたら、間違いなく死んでいた。

 

 私の肩を刃が掠める。浅いが出血。魔法陣が血で濡れる。

 

 銀の刃はアスファルトを貫く。少し遅れてアーチャーが地に足を下ろす。

 

 まずい。まだ儀式は終わっていない。ここでこいつに見つかるなんて!

 

「―――呼べ!」

 

 汗だくの男が叫ぶ。アーチャーが地面の魔法陣を見咎め、目を剥く。

 

「――――っ!!」

 

「呼べ!呪文なんか無くても、サーヴァントは現れる!」

 

「き、来て!」

 

 ―――何でもいいから助けて!

 

 魔法陣が、紅く輝く。旋風が巻き起こる。

 

 アーチャーが剣弓を引きぬき、振り上げる。銀の煌きしか残さぬ唐竹割り。

 

 ―――お願い、助けて!私とこの男を!

 

 鉄がぶつかる激しい音。銀の煌きは、別の煌きによって弾かれる。

 

 そう、彼女の願いは叶った。彼女は助けられた。

 

 眼前に突如現れたのは、甲冑を着込んだ後姿。察するに男。甲冑の上からでも、鍛え上げたのであろう肉体が伺える。しかし、決して巨漢というわけではなく、機能美をも感じさせる肉体。ウェーブのかかったその髪は、まるで砂金を零したかのような色だ。

 

左手には盾をもち、右手には片手剣。柄は仄かに輝く金だ。刀身は、アーチャーの剣弓にも負けない程に磨かれた鋼鉄。その意匠は、決して豪奢ではないが、その威光を誇るかのようだ。

 

 がちゃりと甲冑が音をたて、私に振り向く。

 

 端正というわけではないが、優しげに整った顔つき。そして金の瞳が私を射抜く。強張っていた顔が緩み、無邪気な表情を作る。

 

「セイバーのサーヴァント、ここに!貴方を助けるべく、英霊の座より参った次第!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

【クラス】ランサー

【マスター】スカリエッティ・ラザフ・コンチネンツァ

【真名】ガイウス・カッシウス

【性別】男性

【身長・体重】182cm 80kg

【属性】中庸・善

【筋力】 B  【魔力】 B

【耐久】 A  【幸運】 E

【敏捷】 A  【宝具】 EX

 

【クラス別能力】

 

対魔力:C

第二節以下の魔術は無効化する。大魔術や儀式呪法などを防ぐことはできない。

 

 

【保有スキル】

 

聖眼:A

神の血を目に受けたときに得たスキル。魔眼とは異なる。外界からの視覚に対する干渉をほぼ無効化する力をもつ。

視覚によって外界へ干渉する魔眼とは対極にあるといえる。魔眼に対しても強い耐性を発揮する。

 

 

戦闘続行:A

往生際が悪く、瀕死の状態でも戦闘を続行するスキル。

彼の宝具によって、もたらされたスキルである。

 

 

 

【宝具】

神の血を受けし槍(ロンギヌス):EX

対人宝具・レンジ1~2・最大捕捉人数1

 

絶対の回復能力をもつ槍。彼の自己治癒も、この宝具による副産物である。

持ち主に「世界を制する力を与える」という伝承があり、ランサーはこれによって全体的な補正がかかっている。もともとの彼はさほど戦闘能力は高くない。

非開放時には、持ち主の傷を自動的に癒す力(リジェレネーション)しか持ち得ない。

開放時には、致命傷であっても瞬時に回復する力をもつ。これは外傷に限らず、病や呪いの類すらも退ける力がある。また、使用する対象は自分に限らず、開放時の槍で刺したならば例え敵であっても癒すことができる。

 

 

 

 

 

 

【衛宮士郎】

害なす焔の杖(レーヴァテイン)

北欧神話に登場する魔剣。士郎のそれは伝承等から得たイメージより作り出した完全な贋作である。投影魔術は本物を一度目にすることが望ましいことは言うまでも無いことだが、イメージさえ確固たるものならばその限りではない。本来、レーヴァテインは「害なす魔の杖」という意味だが、偽者という意味を込めて士郎はこう呼ぶ。

伝承から作り出した剣であるため士郎のイメージが弱く、本物よりも数段劣る。

本物は「レーギャルン」という箱の中に封印されており、シンマラとその番犬によって守られている。

もしも本物が世にでていたら、抑止の守護者であっても世界の崩壊を止められないだろう。



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Act.7 乱入

 そこに居合わせた人物は皆驚いていた。

 

 八海山澪は本当に召喚が成功したことに。傍に居るだけで大気を震わすほどの存在。この破格を自分が召喚したことが信じられない。色々なことが一度に起こったせいで頭は混乱しているが、今この瞬間だけは純粋な驚きでいっぱいだ。

 

 衛宮士郎は、八海山澪が剣の騎士(セイバー)を召喚したことに。彼の記憶にあるセイバー(アルトリア)とも勝るとも劣らない霊格だ。やや見劣りするようにも思えるが、それでも最良のサーヴァントの名に恥じぬ力であるのは間違いない。

 

 アーチャー(トリスタン)は事態の急変に。サーヴァントが相手になろうとは完全に予想の範疇を超えていた。前回の聖杯戦争の関係者が居たとはいえ、よもや英霊が出てこようとは。両者が魔術師であることは理解していたが、まさかこの場でサーヴァントの召喚をしてしまうとは。しかもよりによってセイバーとは。既にこの距離はセイバーの殺傷圏内だ。加えて先ほどの一閃は、一瞬なれども熾烈。セイバーはこちらに背を向けているとはいえ、迂闊な行動を取れる訳がない。

 

 セイバーはマスターの様子に。女であったことは問題ではない。だが、自ら召喚しておきながらこの狼狽。驚きというよりは戸惑いだ。召喚は問題なく行われ、魔力も問題なく流れ込んでいる。間違いなくマスターであると思われるのだが、こうも驚かれると問わずにはいられない。

 

「尋ねたい。貴方が我が(マスター)で相違ないか?」

 

「え、あ、はい。私があなたのマスター…です。」

 

「了解した。これより私はマスターの剣となり、盾となる。命令をくれ、マスター。」

 

「え、えっと…」

 

「…では最初の『お願い』から遂行しようか。」

 

 そう言うと、セイバーはアーチャーに向き直る。優しげな雰囲気は消え、一気に剣呑な空気を纏う。

 

「そこのサーヴァント、退いてはくれないか。見たところアーチャーだと思うが、この至近だ。貴方もここは仕切りなおしをしたい場面では?」

 

「……断る。倒すべき敵を前にして、背を向けるなど私の矜持に傷をつける。」

 

「やはりそうか。では、貴方にはここで倒れてもらおう。」

 

 そう言うと、セイバーは盾を前に突き出し、剣を構える。眼光は刃のような切れ味だ。重厚な甲冑に身を包んだセイバーのその構えには、およそ油断の類は見出せない。

 

 それを受けてアーチャーも剣弓を構える。矢は番えない。引き絞る間の隙に切り伏せられるであろうことは明白だからだ。勝機は、遠距離からの一方的な狙撃にしかない。

 

 ランサーを白兵戦で翻弄できたのは、偏に長得物が防御に不向きであるという弱点を突いたからに過ぎない。だが、このサーヴァントは防御に秀でるようだ。盾をもち、甲冑で身を包んだその装備は、いかな切れ味を誇る剣弓といえども断ち切れまい。

 

 確かに剣弓の切れ味は凄まじいが、それは魔的な要因を孕んではいない。単に刃物として切れ味が良いだけにすぎず、重厚な鎧を断ち切ることは困難だ。

 

 そして、あの剣が相当の業物であることは間違いない。相手はセイバーのサーヴァントである。その得物が鈍らであるなどという期待は抱かないほうがいい。

 

 だからアーチャーが狙うのは、撤退ではなく退避。セイバーと距離をおき、セイバーの殺傷圏内から離れつつ必殺の間合いの維持。相手が押せば引き、相手が引けば押す戦略。これが取れる位置関係につかなければいけない。

 

 両者は睨み合う。大気は両者の殺気に当てられて悲鳴を上げる。

 

「ハァッ!!」

 

 最初に踏み込んだのはセイバーだ。右手の片手剣による薙ぐ一閃。単純にして熾烈な一撃。

 

 それをアーチャーは刃で弾く。距離を取ろうと大きく後方に飛びのく。

 

 しかしセイバーはそれに食らい付いて突進する。距離を取らせまいと、盾の守りに物を言わせた体当たり。その重い一撃は受け止めることができず、突進の勢いをそのままに盾で強く殴られる。

 

「ガッ!」

 

 肺の中の空気が押し出される。強烈な物理エネルギーを受けて、弧を描いて弾き飛ばされる。

 

 セイバーの追撃。剣で両断せんと更なる接近。

 

 だがアーチャーは、弾き飛ばされる瞬間に螺旋矢を手中に召喚し、空中に投げ出されながらもセイバーの眉間を狙っていた。

 

 セイバーは肝を冷やす。あの一瞬で反撃の機会を掴み取るとは。

 

 矢を放つ。不安定な姿勢からでも、矢の軌道は正確だ。ミリ単位の正確さで脳漿を抉ろうと牙を剥く。

 

「破ァッ!」

 

 しかしセイバーは怯まない。その片手剣を正確無比のタイミングで振るう。

 

 セイバーが振るうその剣戟は、速くて重い。片手剣ゆえの扱いやすさから生じる初動の素早さ。そしてセイバーの膂力による重さ。この両方を兼ね備えた剣が、アーチャーの螺旋矢を捕らえる。

 

 鉄同士が衝突する轟音。しかし軍配はセイバーにあがる。螺旋矢はセイバーの頭蓋を貫くことは叶わず、剣に弾かれ地に落とされる。

 

 決してセイバーがランサーのような反応速度を誇るわけではない。アーチャーの矢の切っ先から軌道を読み、放たれる瞬間に合わせて剣を振るったに過ぎない。もしもセイバーが視認できない遠方から放たれていれば、おそらく射殺されていた。

 

 加えて言うならば、盾で防ごうとしなかったのも優れた判断だった。セイバーは矢の構造から、おそらく自身の盾では防げないだろうと一瞬で予測した。事実それは正しく、特別な宝具でもないセイバーの盾は、螺旋矢の貫通力の前では紙くず同然だった。

 

 セイバーは再びアーチャーに肉薄する。裂帛の闘志を込めた打ち下ろし。

 

 しかしそれは剣弓で弾かれる。

 

 すぐさま剣を返しての薙ぎ払い。再び防がれるが、盾による体当たり。剣は弾かれやすいが、盾はその質量と面積ゆえに弾くことが困難である。

 

 しかしアーチャーはそれを予期していたのか、大きく横に回避する。アーチャーは素早く体勢を整え、横合いから矢を放つ。剣を持たない左手の方向からだ。

 

 だがセイバーは体を捻りながらそれを打ち落とす。セイバーの剣は大雑把に見えて、その実精密な挙動を繰り返す。

 

 アーチャーは下がりながら。セイバーは追いすがりながら。剣と矢の激しい応酬。アーチャーは隙を見て矢を放つが、セイバーはそれを悉く打ち落とす。

 

 剣と矢が触れている時間は刹那。しかしそれらが空気を裂く時間よりも長い。目にも留まらぬ速度で飛翔する矢と、その速度ゆえ不可視の領域にまで踏み込む剣。

 

 両者が戦うだけで、刃を合わせるだけで、街は蹂躙される。彼らは疾風を纏い、否、疾風そのものとなり、街を駆ける。矢は容赦なく夜の街を穿ち、剣は安普請の建築物を容赦なく断つ。

 

 何合打ち合ったか、両者はすでに覚えてはいない。否、そんなことを考える余裕すらもない。

 

 アーチャーはセイバーを近付かせまいと。セイバーはアーチャーに近付こうと。追う側と逃げる側だが、それは両者共にぎりぎりの剣戟だった。先に根を上げたほうが死ぬ。これはそういう戦いだ。

 

「すごい…」

 

 八海山澪はその剣戟に心を奪われていた。剣と弓。前時代的だと嘲笑されかねない戦い。しかしその猛威は、人類が扱う小火器の類を完全に凌駕する。

 

 彼らが刃を合わせれば、大気は悲鳴をあげ、地は震える。もはや彼女には、戦いの全貌を把握することができない。ただ、両者が未だ存命していることを、大気の絶叫を通じて理解しているのみだ。

 

「………。」

 

 衛宮士郎は無言でそれを見守る。どうやら肋骨が折られたらしい。肺を傷つけた可能性もある。脂汗は滝のように湧き出て、身を動かせば刺すような痛みに襲われる。だから力なく座り込み、それを見守っている。

 

 セイバー…彼の知るセイバー(アルトリア)ではなかった。そしてアーチャーもまた、彼の知るアーチャー(エミヤシロウ)ではない。ここに来て実感する。これは、第五次聖杯戦争(ぜんかい)とは全く違う聖杯戦争。

 

 起こってはならなかった、次なる運命が留まる夜なのだ。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 その二人は夜の街を馬で闊歩していた。目的地は冬木教会。聖杯戦争に参加する意図を伝えるべく、二人は馬を歩ませていた。アインツベルンの城から新都までは相当な距離があるのだが、雌雄の馬にも、馬上の二人にも疲れの色は見えない。

 

 男はようやくその気になったらしく、今回は鎧を着込んでいる。中華の意匠――漢の時代のものであることは間違いない。主になめし皮を用いたそれは機動性に富み、しかし随所に仕込まれた鋼鉄の重厚さは武将を守るに十分なものだ。傷だらけのその鎧は、彼にとっては最高の武勲だろう。

 

 女の表情は硬い。ここは既に戦場だ。いつアサシンの襲撃があるか知れたものではない。いつでも馬具に括りつけたハルバードを抜けるように、神経を尖らせている。

 

「そこまで気を張らんでもよかろう。アサシンとて、いきなり襲撃をかけるような真似はすまいて。」

 

「それは分かっていますが…何やら白兎(はくと)が怯えているようです。」

 

 サーシャスフィールが乗っているのは、チャーター機で送った雌雄の片割れ、白兎であった。雪で染めたような白い毛並みをもつ雌馬だ。黒兎に劣らず、彼女もまた優秀な駿馬である。しかし、些か嫌戦的であるきらいがある。実力で言えば両者は横並びなのだが、黒兎のほうが好戦的であるため、戦闘の際には彼に軍配が上がる。

 

「ふむ…。確かに、風に乗って戦の匂いがするようにも思えるな。」

 

 ライダーの探知能力も決して高くはない。むしろ低い部類に入る。しかし、彼は何かを感じ取ったらしい。空気の張り詰め方。大気に含まれるマナの濃度。それらから、離れた場所で行われている戦闘を感じたのかも知れない。

 

「それは確かですか?」

 

「保障しかねる。が…まぁ行ってみる価値はあろう。」

 

 そういうと、ライダーは黒兎の手綱を操り、おもむろに左折する。冬木の教会からの最短ルートから外れた道だ。その先は、新都センタービル方面。オフィスビルが立ち並ぶ区画だ。

 

「沙沙。恐らくこちらだ。…おお、黒兎も滾っておるようだな。こういう気配には、人間よりも獣のほうが敏感なものだ。血の匂いを嗅ぎつけたか。」

 

 見ればなるほど、黒兎も普段と様子が違う。鷹揚な雰囲気を纏う黒兎であるが、今宵は何やら落ち着きがない。どうやら興奮しているようだ。

 

 ライダーは首筋を撫でてやり、黒兎を落ち着ける。

 

 サーシャスフィールもまた手綱を操り、黒兎に続く。半年の間に、サーシャスフィールの騎乗も様になっていた。自身の肉体を魔力によって強化することで、宝具馬をまるで手足の延長のように扱う。ライダーには劣るが、彼女もまた抜きん出た騎手と成長していた。

 

「…可能ならば、戦闘は姉妹兵が到着してからにしたいですね。貴方の実力を侮るわけではありませんが、やはり万全を期したいものです。」

 

「姉妹兵が到着するのに、あと2日はかかるのだろう?待てる道理がなかろう。戦況とは常に変動するものだ。期を見出したなら、即座に動くべきだ。」

 

「道理ですね。…確かに、冬木に到着してすぐに他の陣営を下せたならば、幸先良いことこの上ないでしょう。」

 

 そう言うサーシャスフィールの顔には微笑み。これより、戦地にその身を置こうかという人物にはおよそ似つかわしくない、とても澄んだ笑み。

 

 彼女は、表面にそれを出すことは殆どないが、その内面には熱く燃え滾るものがあるのだろう。その笑みは、まさしく誉れの戦場へ赴く百戦錬磨の(つわもの)のそれだ。虫も殺せぬ顔をして、その実は獅子の如き猛勇。

 

 きっと、聖遺物などなくとも、彼女はライダーを引き寄せていたに違いないだろう。二人は、同じものを内面に内包している。

 

 すなわち、戦場に恋焦がれる心情。すなわち、その果てに、自らの主を天に導くという心胆。サーシャスフィールはアハト翁を、ライダーはかつての主を。

 

 決して狂戦士(バーサーカー)ではない。しかし、その有様はまさしく一本槍。それしか己を表現できる処方を知らぬ二人。

 

 ライダーはその手に刃を持つ。それは、全体を見れば薙刀に似ている。しかしそれには竜の装飾が施されている。西洋の竜ではなく、蛇に似た東洋の竜。竜は得物の長い柄より生まれ、柄の終端に竜の顎と牙。その先には幅広の刃。丁度、竜の顎より刃が生える形だ。

 

 これは青龍偃月刀と呼ばれる類の武器であった。このおよそ18キログラムにも及ぶ得物を、ライダーは軽々しく携帯する。左手は手綱を握ったまま、右手のみでその質量を支える。

 

 サーシャスフィールもまた、自身の得物を抜いていた。それはハルバード。馬上でも扱いやすいように改良されたそれは、しかしそれでもなお華奢な彼女には不釣合いだ。しかし彼女は重さを感じさせぬ挙動でそれを扱う。魔術回路だけでなく、肉体にも大幅な改良を施された彼女にはこの程度ならばどうということもない。

 

「さぁ、まだ見ぬ敵兵よ。このライダーが行くぞ。この俺が来たぞ!」

 

 ライダーは黒兎を走らせる。まだ見ぬ敵を求めて。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 戦場は移動し、今は狭苦しい空き地へと移動していた。資材が散乱しているのは、業者がいいかげんな仕事をしたせいではないだろう。

 

 言わずもがな、セイバーとアーチャーによる戦禍である。マスターと離れてしまったが、それよりも今はアーチャーを踏破することにセイバーは全神経を注いでいる。

 

「敵ながら見事!だが、我が剣の錆となれ!」

 

 その初動の速さゆえに、もはや稲妻となった刺突。正確に喉元を狙ったそれは、しかしアーチャーの剣弓によって軌道を逸らされる。

 

 続けざまに心臓を狙った突き。だが踏み込みが浅い。これならば、身を捩るだけで事足りる。胸当てが浅い角度から入ったその刃を防ぐだろう。銀の胸当ての防御を頼りに、反撃の機会を見出す。

 

 だが、アーチャーの思惑は外れる。

 

 その刃は、まるで硬い胸当てなど無いがごとく、アーチャーの胸を裂いた。鉄が断たれる鈍い音と共に、皮一枚だけであるがアーチャーを傷つける。

 

“―――なんと凄まじい切れ味か!我が剣弓よりもなお鋭いだと!?”

 

 決して鈍らだと侮ったわけでない。しかし、あの角度からならば、どんな鋭利な刃も通るわけがない。アーチャーの経験はそう告げている。つまり、アーチャーが未だ見たことがないほどの切れ味を誇るのだ。

 

 アーチャーは再度大きく飛びのく。その際に螺旋弓を番え、引き絞り、放つ。しかしセイバーは何の苦もなくそれを弾く。

 

 ここにきて両者の攻防は千日手の様相を呈してきた。退きながら戦うアーチャーに対して、セイバーは決定打を与えられない。アーチャーはセイバーの猛攻に、致命の一撃を放てない。

 

 今しがた軽症を負わせはしたが、皮一枚にすぎない。戦闘に支障はないだろう。そしてセイバーの剣の切れ味を知ったいま、守りを当てにした戦法をとりはしまい。

 

 アーチャーは出来ることならフェイルノートを放ちたい。マスターからの供給が十分ならば、迷わず開放していただろう。

 

 アリシアが足手まといであるなどと考えたことはない。しかし、一日に二度の開放は躊躇われる。決して膨大な消費量を要求する宝具ではないが、アリシアに負担をかけるであろうことは明白だ。宝具の開放は、一日に一度までに抑える必要がある。

 

 肉薄したセイバーを切り伏せようと、アーチャーが剣弓を振るう。それをセイバーは左手の盾で受け止める。その隙を見逃すまいと、片手剣を振るう。しかし、もう片側の刃でそれを防がれる。

 

 鍔迫り合う刃からは火花が散る。だが、アーチャーは徐々にセイバーに押され始める。堪らず転がるように離れる。アーチャーはすぐさま立ち上がるが、セイバーに動く様子はない。いままでならすぐさま追撃していたセイバーだが、何故かその場に立ち尽くしている。

 

「…生前はさぞ高名な騎士だったのだろうな。これほどの騎士と手合わせできたこと、我が誉れとなろう。」

 

「…貴方こそ、その磨き上げられた剣戟、見事としか言えません。」

 

 アーチャーにとっては、今日だけで二回目の賞賛だ。しかしアーチャーは恐縮せず、本心から賞賛を送り返した。

 

 それを受けて、セイバーはにやりと笑う。邪気のない、無邪気な笑みだ。

 

「ならば、我が宝具を受けてみろ!私に倒されたことを誉れとし、眠るがいい!」

 

 言うや否や、セイバーは腰に帯びている鞘に剣を納める。

 

 アーチャーは動けない。戦いの最中に剣を納めるとは何事か。いや、宝具を使用するというのに、剣を納めてどうする?

 

 思案する。もしや抜剣術の類か。とあればうかつに踏み込めない。こちらの攻撃に対して反応するカウンターの宝具かも知れない。ならば矢も放てない。

 

 アーチャーは油断なく構えながらセイバーの一挙一足を凝視する。

 

 セイバーは空いた右手を天に掲げる。そしてその手に何かが現界しようとしている。凄まじい魔力を纏った何かだ。それがだんだんと姿を現し始めて―――。

 

「この(ライダー)が来たぞ!」

「「なッ!?」」

 

 セイバーとアーチャーは声の方向を向く。セイバーは宝具の開放を中断し、剣の柄を握り、抜く。

 

 馬の嘶きとともに突如巨漢が現れた。それはトタン材の塀を飛び越え、月光を背中に浴びながら名乗りをあげる。己はライダーであると。青龍偃月刀は月光を受け、妖しく、凶暴に光る。

 

「おおおぉぉ!」

 

 ライダーが吼える。セイバーに向かった突進。馬の右側をすれ違う形。すれ違いざまに青龍偃月刀による重い一撃を放つ。

 

「ぐっ!」

 

 馬の突進の勢いと、ライダーの並外れた膂力による一撃は、凄まじく重い。セイバーはその片手剣で受け止めたが、勢いを殺しきれず地面に轍を残す。

 

 旋回するように、次はアーチャーに向かった突進。すれ違う形ではなく、馬の蹄で轢殺せんとしている。

 

 嘶きと共に馬が足を振り上げる。足を振り上げた形の馬は、人の身長をゆうに越える。その圧倒的な身長差から振り下ろされる蹄の一撃。

 

「ちぃッ!」

 

 馬の左側面へ向かった回避。振り下ろされた蹄は地に罅を入れる。蜃気楼を纏うほどの炎熱を付与されたそれは、食らっていれば全身の骨を砕かれていたに違いない。

 

 そしてセイバーもアーチャーも自身の異変に気付く。傍から見れば両者に変化は無い。しかし当人たちには歴然とした変化であった。

 

「これは…?!」

「なんだと…?」

 

 体が重い。全身に枷をつけているかのような感覚。水の中で走っているようなもどかしさ。

 

 この場にマスターが居合わせていたならば気付いていただろう。セイバーもアーチャーも、ライダーと対峙した瞬間に全体的なランクが低下している。

 

 ステータスで言えば、全体的にマイナス補正から1ランクの低下がみられた。戦闘の続行は十分可能だが、無視できない足枷だ。言わば、サーヴァントそのもののランクが1つ落ちたようなものだ。

 

「ほう…思ったよりも動けるではないか。両者とも、さぞ名高い武人なのだろうなぁ。」

 

 ゆっくりと馬を反転させながら呟く。その顔は嬉しそうに笑っている。

 

「……一騎打ちを邪魔だてするとは、一体どういう了見か?」

 

 問うたのはアーチャーだ。その視線は怒りをも孕んでいる。

 

「いや、それは済まなかった。しかし邪魔をしたつもりなど無い。俺はどちらの首に肩入れするつもりも無いし、既に名乗りも上げた。ならばこれは一騎打ちではなく、純然たる乱戦となったのだ。異論はあるか?」

 

 セイバーもアーチャーも押し黙るほかなかった。

 そもそも聖杯戦争は決闘の類ではなく、まさしく戦争なのだ。横やりや乱入は当たり前の話。加え、ライダーは不意打ちを行なわずに名乗りを上げたのだ。少なくとも誹りを受けるほどの非礼や卑怯を行なってはいない。

 ライダーは二人から反論が無いことを認めると、両者をつぶさに観察した。そして一度頷き、名乗りを上げた。

 

「…貴様はアーチャー、そちらの奴はセイバーかな。俺はライダーのサーヴァントである。首級をあげるべく、参上した。」

 

 三者は睨み合う。全員が全員、各々から距離をとって警戒する。

 

「…これは貴方の宝具の力か?」

 

 次はセイバーが問う。

 

「然り。我が前に立ちふさがるならば、その剣、十全に振るえぬものと知れ。」

 

 髭を蓄えた顎を撫でる。ライダーは一見隙だらけだが、その実一瞬の隙もない。

 

 サーヴァント達の戦いは、ここにきて三つ巴の乱戦となってしまった。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 衛宮士郎と八海山澪はその場から離れようとしていた。セイバーとアーチャーの戦いは自分達から遠ざかる形だが、ここにいても出来ることは無い。衛宮士郎は負傷し、八海山澪は戦闘などできない。

 

 八海山澪は衛宮士郎に肩を貸す形で歩く。原動で逃走することも考えたが、セイバーがアーチャーと交戦中だ。身を隠しながら、どこかでセイバーを見守れる場所で休む方がいい。

 

「ぐ…すまない。」

 

 謝る士郎は相変わらず苦しげだ。

 

「いいからしっかり歩いて。…どこかに身を隠さなきゃ。」

 

「その必要はありませんよ。」

 

 背後から話しかけられる。驚き振り返る。

 

 路地裏の突き当たり。そこには、白い装束に身を纏った女性。白い馬上で、その衣装が妖しく映える。手には凶悪性を曝け出したハルバード。とてつもない重量だろうに、片手でそれを支えている。

 

「私はライダーのマスター。サーシャスフィール・フォン・アインツベルン。答えなさい。貴方達はマスターですか?」

 

 がちゃり、と音をたて、ハルバードの切っ先を向ける。

 

 至近でライダーと他のサーヴァントが戦闘を行っているのだ。この二人が無関係と断じることが出来ないのは当然だろう。

 

「ア…アインツベルン!?…するとアンタが、今回の聖杯なのか…?」

 

 衛宮士郎は狼狽を隠せない。イリヤの例でいけば、この女が今回の聖杯ということになる。サーシャスフィールは顔をしかめる。

 

「私の問いに答えなさい。…とはいっても、聖杯戦争を良く知っているという時点で答えになっていますね。何のサーヴァントのマスターか知りませんが、このまま見逃すことはできません。」

 

「へ…やってみろってんだ…!」

 

 士郎は澪の手を振りほどき、その手に干将と莫耶を投影する。満身創痍だが、戦闘は避けられない。どうにか死中に活路を見出すほか無い。

 

「威勢は良いですね。嫌いではありませんよ。」

 

「待って…!マスターっていうのが何なのか良く分からないけど、その人は違うわ!マスターっていうのは私のことよ。その人は関係ないわ!」

 

「バカ…!」

 

 澪からすれば、士郎を助けるつもりだったのだろう。しかし、士郎からすれば、サーシャスフィールが勘違いをしているのなら、そのまま勘違いさせておきたかった。自分一人が交戦している間に、澪には逃げてもらうつもりだったのだ。

 

「…関係ありません。関係者であることは間違いなく…私に立ちはだかるというのであれば、このハルバードで蹴散らすまで。まずは貴方です、赤毛。…そこのお嬢さん(フロイライン)は、どうやら素人のようですね。後でお相手しますゆえ、しばしお待ちを。」

 

 どうやら士郎を敵と判断したらしい。ハルバードを地面に向け、手綱を握りなおす。同時に、澪を脅威とならないと判断したらしい。彼女には一瞥をくれただけだ。それは正しい。澪は聖杯戦争が何か理解していない素人で、攻撃用の魔術など知らないのだ。

 

 士郎だけを目標に定めた彼女の判断は正しい。死に体とはいえ、衛宮士郎(まじゅつし)を侮れば、死あるのみだ。

 

「覚悟!」

 

 サーシャスフィールは手綱を操る。白兎は嘶きをあげ、アスファルトを、炎熱を伴った蹄で砕きながら突進する。

 

 澪は身を隠す。攻撃する術を持たない彼女だが、せめて士郎の邪魔になるまいと、彼から離れる。

 

Stark(強く)Schnell(速く)Wir sind Stahl Nogotokunari(我は鋼の如く)!」

 

 サーシャスフィールは全身を魔術で強化する。彼女の四肢は、強靭性、俊敏性その全てにおいて驚異的なレベルに達する。

 

 士郎は馬を狙わず、直接騎手を狙う。馬に一太刀入れようと、騎手が存命では自らが切り伏せられる。将を討たんと欲するなら先ず馬を射よとは言うが、それは十分な距離を置いているときの話だ。

 

 すれ違いざまの、突進の勢いに任せた一閃。それを士郎は双剣で受け止める。しかし、魔術的に強化されたハルバードの一撃は、満身創痍の士郎には重すぎる。

 

 双剣は粉砕され、士郎は側面の塀に叩きつけられる。

 

「がっ!」

 

 肺の中身を全て排出し、堪らずその場に倒れこむ。

 

「その程度ですか!」

 

 すぐさま反転し、倒れこむ衛宮士郎を斬殺せんと白兎を駆る。あの刃に切り裂かれ蹄に轢かれれば、まず助からない。

 

 士郎は相手の実力を見誤った。普段の士郎であれば、互角以上の戦いができただろう。しかし、今の士郎にはそんな力はない。四の五の言わず、澪に令呪を使わせてセイバーを呼ぶべきだったのだ。

 

 士郎は立ち上がる。限界は既に近い。折られた肋骨は、肺を抉っている。

 

「―――『害なす焔の杖(レーヴァテイン)』!」

 

 先ほどの投影とは程遠い。それは苦し紛れに近い。だが、その幻想は実体を帯び、神聖の炎を湛える。剣で太刀打ちできずとも、相手を火だるまにすることは出来る。まだ士郎は完全に死に体ではない。

 

 ハルバードの一撃に合わせた一閃を放つ。火炎の飛沫を撒き散らす一撃。

 

「白兎!」

 

 サーシャスフィールは振りかぶったハルバードを止める。士郎が持つ得物を、宝具級の何かだと瞬間的に察知したからだ。変わりに蹄での一撃に切り替える。宝具には宝具でなければ対抗できない。宝具化された白兎の蹄は、人間には耐え切れない―――!

 

 刃と蹄がぶつかる。

 

“―――想像しろ。イメージするのは、常に最強の自分!”

 

 例え満身創痍でも、自らに負ける訳にはいかない。それは投影に綻びを生じさせ、即ち死へと至る。

 

 士郎が剣を振りぬく。虚しくも、その剣の刃は中ほどで叩き折られてしまった。しかし、士郎は立っている。地に伏せたのは、サーシャスフィールの白兎。

 

 足を切られている。傷は炎に焼かれているため、出血はない。だが、馬というものは足を怪我すると立ち上がれなくなる。無様にも前足の片方を傷つけられ、その身を起こすことができないでいる。

 

 白兎の下敷きを免れたサーシャスフィールが立ち上がる。衣服の埃を叩き落とす。その姿は、白兎と違い無傷。その眼は、悲しげに自身の愛馬を見据える。

 

「…痛かったでしょう。少し経てば、その傷は癒えます。それまで辛抱してください。」

 

 見れば、徐々にその傷は癒えている。火傷は消え、広がった傷口も閉じる。サーシャスフィールに治癒魔術を行使した様子はなかった。しかし、『騎兵の軍こそ我が同胞』で宝具化された宝具馬には微弱ながら自動治癒が付与される。ライダーが十全の馬を駆るための能力だ。

 

「…私の白兎を傷つけた罪。贖罪してもらいましょう。」

 

 重々しい音をたててサーシャスフィールがハルバードを構える。どうやら馬上のみでの武芸ではないらしい。その構えには一分の隙もない。

 

 サーシャスフィールが動く。強く踏み込み、上段から振り下ろす一撃。ハルバードは槍と斧を組み合わせた大質量の武器だ。その振り下ろしは、重力の恩恵を受けてさらに凶悪性を増す。

 

 士郎は後ろに跳び下がる。さっきまで彼が居た場所をハルバードが通過し、アスファルトを粉々に粉砕する。

 

 澪はその様子を隠れながら見ていた。そしてその状況に焦りを感じていた。

 

“あの女の子―――降りたほうが強い!?”

 

 澪の見立ては正しかった。この狭い路地では、騎馬の最大の利点である一撃離脱(ヒットアンドアウェイ)が満足に行えない。それよりも、いっそ馬上の有利を捨て去ったほうが機敏に動ける点で優れる。

 

 振り下ろしたハルバードを、力技で旋回させる。竜巻のような一撃。両側面の塀を抉りながら士郎に襲い掛かる。

 

投影開始(トレース・オン)!」

 

 再び干将と莫耶を投影する。刃を交差させる構えでハルバードを受け止める。鉄と鉄が衝突する音。しかし今度は砕かれない。馬の突進に乗せた一撃よりも幾分か軽い一撃。干将と莫耶はどうにか耐え切る。

 

 士郎は相手の懐へと飛び込む。長柄の武器は、懐に侵入を許したが最後。特にハルバードは、その重量ゆえに薙いで迎撃することも難しい。

 

 干将を振り上げる。いきなり命をとる必要はない。気絶させ、その間に無力化すればいい。サーヴァントが駆けつけても、マスターを人質にとれば迂闊に手出しはできない。刃を反転させて刀背をサーシャスフィールに向ける。そのまま振り下ろして頭部を強打すれば、数時間は昏倒する筈である。

 

 勝利の確信を込め、干将の刀背でサーシャスフィールを打とうとした刹那―――

 

 背後から猛烈な力に押されて地に叩きつけられた。頭をアスファルトに打ちつけてしまう。

 士郎には何が何だか分からなかっただろう。しかし澪は見た。ハルバードの懐に入り込んだ士郎に対し、サーシャスフィールはハルバードを引き戻していた。その際、ハルバードの鉤爪(フルーケ)にかけられ、士郎は押し倒されていた。

 

 サーシャスフィールの足元に倒れこむ。即座に彼女は士郎の手を蹴り上げ、その手から双剣を引き剥がす。

 

 ぐるりとハルバードを反転させ、士郎の背中にぴたりとその切っ先を突きつける。背中越しに心臓に切っ先を合わせる。

 

「終わりです。…貴方のその怪我がなければ、死んでいたのは私かも知れませんね。」

 

 しかし士郎は諦めなかった。新たに得物を投影しようと意識を集中した。

 しかしそれを察したサーシャスフィールは容赦なく士郎を踏みつける。折れた肋骨がさらに深く肺に突き刺さる。

 

「余計な真似をしないように。答えなさい。貴方は第五次聖杯戦争(ぜんかい)のマスターですか?」

 

 聖杯戦争のことを深く知る士郎のことを、前回のマスターであると判断したのだろう。今回のマスターかと聞かないのは、澪の言葉からの推測と、士郎の手に令呪が見当たらないためだ。

 

「……そうだ」

 

「ならば尚のこと生かしておけません。貴方はここで死ぬ。」

 

 サーシャスフィールがハルバードを高く掲げる。このまま心臓を一突きするつもりだ。その切っ先が心臓目掛けて唸りをあげて―――

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

「おおおぉぉ!」

 

 ライダーは空き地を縦横無尽に駆ける。その空き地は決して広くはないが、それを意に介さないような手綱捌きだ。

 

 セイバーとアーチャーはライダーに翻弄されている。ステータスの低下は、単純な戦力の低下だけでなく、両者の精神を焦りで焦がす。

 

「螺旋矢を受けよ!」

 

 アーチャーはライダーの移動を見越して偏差射撃を仕掛ける。だがライダーは手の青龍堰月刀でそれを叩き落す。もう何度も矢を放っているのに、一向にライダーを穿つことができないでいた。

 

 ランサーのそれは純粋な技能と反射速度の賜物。セイバーのそれは経験と直感の賜物。しかしライダーのそれはどうだろうか。螺旋矢をまともに見もせずにそれを叩き落す。何らかの加護、あるいは強いスキルを持っているのは明白だ。

 

 アーチャーの矢は間違いなく驚異的な宝具なのだが、こうも立て続けに防がれると自信を喪失しそうだ。並みの人間ならばプライドを引き裂かれているのは間違いないだろう。

 

 アーチャーの矢を防いだライダーはセイバーに突進する。その刀による突き。それを回避しようとしたが、足が思うように動かない。ぎりぎりで避けきるはずだったが、ライダーの刀はセイバーの肩を浅く裂く。

 

「ちぃっ―――!」

 

 セイバーは宝具を使って両者ともに一掃したいのだが…それをライダーの猛攻が許さない。セイバーの宝具は未だ実体化されていない。召喚時にもう一つの宝具が実体化されないまま戦闘に移ってしまった。主を守るためとはいえ、臍を噛む気持ちである。

 

「素晴らしい益荒男どもだ!これほど動ける兵を俺は数える程しか知らん!ああ、天下は広いな!」

 

 顔に歓喜の色を湛え、ライダーは駆ける。次の標的はアーチャーだ。正面から突貫するライダー。しかしアーチャーの弓はライダーを狙っていない。

 

 その僅かに下方。ライダーの宝具馬、黒兎を狙う。

 

 遠距離攻撃が可能なアーチャーにとっては、将を討たんと欲するならば馬を射る作戦は有効だ。黒兎の眉間を狙って弓を引き絞る。

 

 アーチャーが弓を放つ。だが、指が弦から離れる刹那、その一瞬を先取り、黒兎はその四肢を巧みに使い、大きく跳躍していた。アーチャーを乗馬の障害物のように飛び越えんとする。

 

“何!?”

 

 アーチャーの螺旋矢はそのまま放たれ、黒兎を捕らえることはできなかった。しかし鎌鼬は黒兎の後ろ足を傷つける。だが黒兎は、白兎のようには怯まない。好戦的な黒兎は、軽症ならばその裂帛の気合で戦闘を続ける。

 

「呆けている場合か!」

 

 黒兎がアーチャーを飛び越える刹那、ライダーは刀を振り下ろす。頭上からの容赦ない一撃。アーチャーは剣弓で受け止める。地面にアーチャーの足を起点として、蜘蛛の巣状に罅を入れる。

 

「色男は馬に蹴られて死ぬがよい!」

 

 黒兎は着地するや否や、背中に送ったばかりのアーチャーに対して後ろ足で蹴りを放つ。頭上からの一撃で、地に足を付けてしまったアーチャーは体の反応が一瞬遅れる。

 

アーチャーは必死に回避しようとした。大きく後ろに飛びのいて回避しようとした。横に飛びのいたら、ライダーの刀の一閃がくる。追撃ができない走り去りながらの一撃ではなく、馬がその場に留まっているのだ。追撃してくるのは間違いない。

 

しかし、敏捷値もまた低下している。回避しきれず、その強靭な四肢から放たれた炎熱を付きの蹴りを右膝に受けてしまう。

 

「ガッ!」

 

 サーヴァントでなければ回避すら許されず、即死だっただろう。だがサーヴァントとはいえ、無傷で済む一撃ではない。

 

 アーチャーの膝は砕かれ、もはや立ち上がることすらもままならない。

 

 そして、その隙を見逃すほどライダーは甘くない。

 

「覚悟!」

 

 すぐさま黒兎を反転させ、その刃で首を刎ねようとしたその刹那―――

 

「■■■■―――!!!!」

 

 突如現れた黒い靄に襲われた。空を滑空するように大きく跳躍して、それはライダーの頭を叩き割らんと刃を振り下ろす。

 

「なに!!?」

 

 刃を咄嗟に返し、その刃を受け止める。

 

“何だ、こやつは!?”

 

 ライダーは強襲を仕掛けた下手人を観察しようとして、目を剥く。この至近にあっても、その風貌は一切窺えない。

 

 体中が黒い靄で覆われている。霞んで見えるなどという次元ではない。もはや霧そのものだ。黒い霧が、おぼろげに人型を留めているようにしか見えない。正直なところ、ライダーは自身が受け止めたものが、刃なのかどうか、それすらも分からない。ただ、自慢の青龍堰月刀から伝わる硬質な手ごたえを感じるのみだ。

 

「貴様、何者だ!」

「■■■■―――!!!」

 

 だがその咆哮は霧の中より発せられている。決して只の霧ではない。霧を纏った何かがそこに居るのだ。

 

 黒い霧はその手にもつ剣らしきものを振り下ろす。馬上と徒歩の伸長差を物ともせず、高く跳躍してライダーの首を狙う。ライダーは霧のせいで剣筋が正確に読めない。狼狽しながらどうにか一撃を防ぐ。

 

「こやつ…バーサーカーか!?」

「■■■■―――!!!」

 

 もはやライダーしか見えていない。その言葉にもなっていない咆哮。意思の疎通が全く図れない。バーサーカーのサーヴァントであることは間違いない。

 

 アーチャーはこれ幸いにと霊体化して逃げる。だれもそれを追おうとはしない。それよりも、この得体の知れないバーサーカーのほうが問題だ。

 

 セイバーもライダーとバーサーカーの殺陣を見守ることしか出来ない。セイバーとて、あのバーサーカーを相手にはしたくない。

 

「■■■■―――!!!」

 

 バーサーカーの攻撃が、まさしく暴風だ。ライダーにぴたりと食いつき、その俊足を殺しきる。

 

 その剣戟は、ライダーの宝具の効果が無いようにも見える。セイバーはそれには気付かないが、ライダーには自身の宝具がこのバーサーカーには通用していないことが理解できた。

 

“―――なんと厄介な相手か!!”

 

 新たなる乱入者の挙動により、乱戦はここにきて一騎打ちとなった。ただしその決闘の組み合わせは全くの別物だが。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 澪は駆け出していた。あの女に自分が適わないことは百も承知だ。だがここで動かなければあの男が殺される。だが間に合わない。今すぐ反転して逃げ出すべきなのかもしれない。しかしここで逃げても殺されるだろう。ならば、あの男を助けるべく動かなければならない―――!

 

「―――Fixierung(狙え),EileSalve(一斉射撃)!」

「え?」

 

 戸惑いの声を発した後、澪は声の主を見た。路地裏の奥から現れた一人の女性。赤い服を着て、人差し指を向ける女性。捲くった袖から見える腕には、魔術刻印が輝く。

 

 人差し指から弾丸が放たれる。軽機関銃のごとき連射。それは、質量をもった呪い(ガンド)の塊。

 

「!?」

 

 サーシャスフィールは被弾する。背中を見せていたために反応が遅れた。乱射されたガンドのうち数発を身に浴び、堪らず転倒してしまう。だが致命傷にはならない。全身を強化した彼女には、ただのガンドでは戦闘不能までに追い込めなかった。全身を打撲しているのか、苦労しいしい立ち上がるが、その瞳には未だ闘志が宿っている。

 

「…何者?」

 

 サーシャスフィールは問う。ハルバードを油断なく構える。新たなる脅威を排除するために。

 

 その赤い服の女は一歩前に出る。腰に手を当て、さっきとは反対の手でサーシャスフィールを指差す。

 

「遠坂凛!アンタ、私の恋人(パートナー)に手を出すなんて、いい度胸ね!」

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

【クラス】ライダー

【マスター】サーシャスフィール・フォン・アインツベルン

【真名】???

【性別】男性

【身長・体重】190cm 100kg

【属性】混沌・善

【筋力】 A+ 【魔力】 E

【耐久】 B  【幸運】 C

【敏捷】 A  【宝具】 B

 

【クラス別能力】

 

対魔力:B

発動における詠唱が三節以下の魔術を無効化する。大魔術・儀礼呪法を用いても傷つけることは難しい。

 

 

騎乗:A

騎乗の才能。かつて慣れ親しんだ獣に似た姿であれば、魔獣・精霊種でも乗りこなすことができる。

彼の場合は、馬に似た姿であればどんな生物であろうと操れる。天馬や一角獣であろうと乗りこなすだろう。

 

 

 

【保有スキル】

 

矢避けの武芸:B

矢が飛び交う戦場で培った技術。加護ではなく、修練により培った経験。

投擲物による攻撃に対して、高確率で迎撃および回避を成功させる。ただし、超遠距離もしくは広範囲の攻撃には効果を発揮できない。

 

 

仕切り直し:C

戦闘から離脱する能力。

一撃離脱の戦法には重宝する。

 

 

軍略:B

多人数戦闘における戦術的直感能力。自らの対軍宝具行使や、逆に相手の対軍宝具への対処に有利な補正がつく。

 

 

【宝具】

騎兵の軍こそ我が同胞:ランクB

ライダーが、聖杯戦争でも騎兵を用いて戦うために得たスキル。

ライダーが名を与えた馬は宝具のカテゴリに昇格される。ランクは平均してC相当。馬の能力や性格によって個体差が生まれる。

また、微弱ながら宝具馬に対して自動治癒も持つ。平均的な魔術師の治癒魔術よりも劣るが、自然治癒とは比べ物にならない。

 

 

 

???:ランク?

?????????

 

 

 

黒兎:ランクC+

ライダーの愛馬となった馬。好戦的で、多少の負傷ならば物ともしない。黒い毛並みが特徴的。

 

白兎:ランクC+( C )

サーシャスフィールの愛馬。戦いを好まず、大人しい性格をしている。そのため、本来は黒兎と並ぶ実力をもつのだが、その実力を発揮できていない。白い毛並みが特徴。

 

 

 

 

 

 

 

 

【クラス】セイバー

【マスター】八海山 澪

【真名】???

【性別】男性

【身長・体重】178cm 70kg

【属性】秩序・善

【筋力】 A  【魔力】 B

【耐久】 C+  【幸運】 A

【敏捷】 B  【宝具】 A

 

【クラス別能力】

 

対魔力:A

A以下の魔術は無効化。事実上、現代の魔術で彼を傷つけることは不可能。

 

騎乗:B

大抵の動物を乗りこなしてしまう技能。幻想種(魔獣・聖獣)を乗りこなすことはできない。

 

 

【保有スキル】

 

 

直感:B+

戦闘時、高い確率で先の顛末を察知するスキル。

未来予知の領域には一歩届かない。

 

 

カリスマ:C

軍団を高い士気と統率力で用いるスキル。武将としては十分。

一国の王になるにはもう少し高いランクが必要になる。

 

 

 

【宝具】

???:ランク?

????????

 

???:ランク?

????????

 



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Act.8 指南と交渉

 遠坂凛はそのとき、サーヴァントの召喚の為の準備をしていた。

 

 自身の工房に魔方陣を敷く。とは言っても、以前に描いたものが残っているので、解れを直すだけだ。

 

 溶解して陣に流すための宝石も用意した。あとは、実際に召喚するだけ、という段階まで準備は終わっていた。

 

 凛は自分の「うっかり」を自覚している。可能な限り、自分の「うっかり」を回避する為にはどうすればいいか。その処方がこれだ。先立って準備を済ますことである。

 

 今回の召喚も、実行は明日の予定だ。一日先立って準備を済ませておき、24時間のインターバルを空けることで、客観的に見直す余裕が生まれる。それによって自らの「うっかり」を回避しようというのだ。

 

 事実これは有効な手立てだった。突発的なミスは致し方ないとしても、以前のように、時計が狂っている程度のミスには気付けるようになった。

 

 ぐるりと工房を見渡し、準備に不足はないか確かめる。道具の一々を指差して確認する。

 

「宝石は、よし。ちゃんと魔力が充填されている。…陣は、よし。解れもなし。……時計は…あとで電波時計と照らし合わせよう。」

 

 今は外しているが、凛は士郎の勧めで電波時計を所持することにしていた。これならば、時計が軒並み狂うなんてことは無い。

 

 さて、聖杯戦争で生き残るにはどうすればいいだろうか。それは「優秀なサーヴァントを召喚する」ことだ。勿論、優秀なサーヴァントを従えたとしても、確実に生き残れるほど甘くはない。しかし、例えばセイバーのような優れたサーヴァントであれば、大抵の状況は打開できる。

 

 聖遺物はまたも用意できなかったが、それも仕方がない。そちらの手回しよりも、聖杯戦争の『本体』についての調査を先行していたのだ。戦闘そのものは実力でどうにかすれば良いと凛は考えている。

 

 凛もまた一抹の不安を抱いていた。下手を踏めば、アーチャー(エミヤシロウ)を呼び出すことになってしまう。それは絶対に避けたかった。凛自身にエミヤシロウと縁があるため、高い確率で呼び出すことになってしまうが…願うべくは、アーチャーとキャスターのクラスが既に埋まっていることだ。

 

 セイバーのクラスには該当しないだろう。彼の剣技は、巧みではあるが決して卓越したものではない。一般人の延長線上にしかすぎないのだ。セイバーの条件は超越した剣技を持つことに尽きる。加えていうならば、彼は剣士ではないのだ。剣製の英霊だが、剣の英霊ではない。

 

 だからアーチャークラスが先に埋まってしまえば、彼は出てくることができない。彼をこんなバカげた戦いに二度と巻き込みたくないのが心情だった。

 

「…よし。とりあえずは問題ないかな。明日もう一度点検しよう。」

 

 一人呟く。夜はもう完全に深まりきっている。草木も眠る時間だ。それは魔術師には当てはまらないが、明日は大事な召喚の儀式を控えているのだ。今日はもう休むべきだろう。

 

 簡単に片付けを済ます。工房を退出し、その重い扉を閉ざそうとしたときだった。

 

「―――ッ!?」

 

 何の前触れもなく魔力を持っていかれる。それはさほど多量ではなかったが、確実に魔力が経路(パス)を通じて持っていかれるのを感じた。

 

 もって行かれたものの代わりに流れ込んできたのは、焦燥の感情。これら意味することは一つしかないだろう。

 

 衛宮士郎が戦っている。

 

 遠坂凛と彼はレイラインで繋がっている。それは魔力のやり取りを可能にし、相手の強い感情を汲み取ってしまうものだ。

 

 つまり、士郎は凛から魔力を分けてもらう必要がある程に苛烈な戦いを強いられている。そして流れ込んだ感情は、彼の劣勢を告げていた。士郎には凛に劣勢を伝える意思などなかっただろう。正義の味方を目指す彼は、人の助けに頼ろうとしない。それは第五次聖杯戦争(ぜんかい)からも分かることだ。つまり、意図せずして凛へ感情を垂れ流すほどに、彼は今危険なのだ。

 

「…サーヴァントと戦うなって言い含めたでしょうが!」

 

 今冬木で士郎が苦戦を強いられる状況。即ち、サーヴァントとの交戦に他ならない。楽観は許されない。今、この状況で最も可能性が高く、かつ最悪を想定する。

 

「ああもう!いいわよ、やってやるわよ!」

 

 閉めようとした扉を勢いよく開け放つ。蝶番を破壊せんとばかりの勢いだ。

 

 サーヴァントと戦うにはどうすればいいか。

 

 魔力を充填した宝石をありったけ持っていこうか。否、それでも足りない。対魔力がAランク程まで高くなると、魔術による攻撃は期待できない。そもそも、サーヴァントと直接戦うこと自体が最悪の選択肢だ。

 

 サーヴァントを倒すには、サーヴァントが必要だ。強い神秘には、それに並ぶ神秘で対抗する必要がある。

 

 急いで宝石を融解させる。急げ。今は時間との戦いだ。こうしている間に、刻一刻と士郎が窮地に追いやられているのは間違いない。

 

 幸運なのは、召喚の用意が整っていることだ。つい今しがた確認したので、目に付く不備はない。

 

 宝石に血を混ぜる。それを敷いた陣に流し込む。もう一度解れが無いことを確認する。本当は、もっと念には念を入れた儀式を行いたかったが、いかんせん今は時間が敵だ。

 

 大きく深呼吸をする。焦燥を、一時的にでも抑えなければいけない。儀式に失敗すれば、命が無いかも知れないのだ。

 

「素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公。 祖には我が大師シュバインオーグ。降り立つ風には壁を。 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」

 

 詠唱は淀み無く。確実に。

 

 足元の陣が光を放つ。魔術回路が起動し、全身から痛みを発する。これより遠坂凛は、奇跡を発現させるための機械となる。

 

閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)。 繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する。」

 

 魔法陣から光が溢れる。幾条もの閃光が迸る。幾迅もの旋風が吹き荒れる。エーテルが暴れ狂う。

 

「―――Anfang(セット)!」

 

 目を閉じる。詠唱により一層の集中力を割く。

 

「―――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ。」

 

 額に一筋の汗が流れる。決して夏を目前に控えた熱帯夜の所為だけではないだろう。

 

 閉じていた目を開ける。次の瞬間に現れるだろう英霊の姿を見守るために。今度こそは、居間を破壊するようなヘマをやらかしてはいない筈だ。

 

「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!」

 

 凄まじい閃光。目を開けていられない。だが、凛は感じていた。『何か』と確実に契約を果たした感覚。自らと新たなレイラインで繋がった何者かの存在を。

 

 目を開くと、そこには予想していたものの数段上を行く姿があった。

 

「■…■……!」

「―――これは。」

 

 おぼろげに人の形をした霧。漆黒のその霧は、どんな工業排煙の煙よりも黒いだろう。闇夜を人型に刳り貫いたかのような底抜けの暗さだ。

 

 その霧が、その英霊の輪郭を完全に隠している。輪郭どころではない。凛はその霧の奥を伺い知ることも適わない。つい今しがた自ら召喚したのでなければ、本当に英霊かと疑いたくなる。

 

「…聞くわ。アナタ、何のサーヴァント?」

 

 凛が声色を硬くして尋ねる。その霧の底抜けの暗さ。その、もはや狂気に囚われているとしか思えない声はまるで―――

 

「■…■■…!」

「…バーサーカー……!」

 

 まるで、反英雄ではないか。

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

ライダーは苦戦を強いられていた。霧の中より放たれる剣戟は太刀筋が非常に読みにくい。その上、いかな攻撃が飛び出てくるか分からない。今は剣戟のみでの攻撃だが、目を見張るような面妖な攻撃方法を持っていたら、対応しきれないかも知れない。

 

「■■■■―――!!!」

 

 咆哮。それに合わせるように、ぞわり、と霧が膨れる。すぐに元の規模に戻ったものの、依然としてその中身は知れない。

 

「我が宝具が全く効かぬとは・・・・・・。素晴らしいぞ、貴様!その中身、見せてもらおうか!」

 

 黒兎を走らせて、一度距離をとる。ぐるりと旋回して運動エネルギーを蓄える。そこから繰り出されたライダーの刺突。まるで破城槌のごとき一撃。だがそれは、バーサーカーのおぼろげな輪郭に惑わされ、中身を斬ること適わない。素早く横に動いたバーサーカーの鎧を掠めただけだ。鎧に傷をつけたとしても、その中身は無傷。

 

「■■■■!!!」

 

 バーサーカーが飛びのきざまに、その刃を振るう。ライダーはその刃はぎりぎりで届かないと踏んだが、目測を誤り、腕の皮を浅く裂かれる。

 

「ちぃっ―――!」

 

 戦闘には何の問題もない負傷だ。しかしライダーの焦燥の炎に油をそそぐ効果はある。

 

 刃までも覆ったその霧は、剣の間合いを正確に把握させない。その得物が霧よりも長いということはあり得ないが、どれほどの刃渡り、形状をしているのか全く予測が付かない。いや、ライダーは何度か打ち合ってその間合いだけは把握しつつあるが、それでもまだ不完全だ。度々、今のように皮膚を割かれている。

 

 だが、時間と共に有利に運ぶのはライダーのほうだ。バーサーカーのクラスというものは、その驚異的な魔力消費量に弱点がある。戦闘が長時間に及べば、マスターの魔力を吸い尽くし、殺してしまうのだ。

 

 よってライダーは時間を稼ぐだけで勝機を掴めるのだが―――その時間稼ぎもままならないのが現実だ。

 

 バーサーカーの猛攻はとどまる所を知らない。凄まじい魔力放出に支えられたその剣は重く、無視できない必殺の威力を秘めている。

 

 また、その不明瞭な剣戟によって、気を緩めれば即座に首を刎ねられる可能性もある。アメーバのように蠢くその霧は、あらゆる情報を敵から覆い隠しているのだ。今、バーサーカーはどちらを向いているのか。剣の刃はどちらを向いているのか。どのような構えなのか。

 一度でも目線を切るともはや何もかも分からなくなってしまう。よってライダーはバーサーカーに掛かりきりにならざるを得ない。

 

「……」

 

 セイバーは、バーサーカーもライダーも、自分を標的にする意思が無いことを察する。ならば、横合いから強力無比の一撃で一掃するのが良いのかも知れない。

 

 しかし、それが出来ないでいる。ライダーの宝具が何なのか分からないが、もしも宝具までその効果が及んでいれば、両者を一撃で屠れない可能性がある。そうなれば両者は自分を標的に定めるだろう。

 

 それは拙い。ライダーだけならばまだしも、あのバーサーカーは強力だ。そもそも、本当に生物なのかどうかも胡乱だ。下手を踏めば、千夜一夜物語に登場する煙の魔人ということも有り得るかも知れない。魔人というものが聖杯で召喚できるのかはともかく、あの姿はそう思えてしまうほど特殊だ。

 

 だからここは退却を選ぶことにする。うまくいけば、ライダーとバーサーカーが相打つ可能性もある。ここは無理に戦う必要は無い。

 

“弱気なようであるが―――マスターを放置してしまっている。ここは一度帰還すべきだろう。”

 

 先ほどのマスターの様子から察するに、彼女はおそらく聖杯戦争のことを良くは知らないのだろう。そうでなければ、自分を見てあれほど吃驚するということも無いだろう。

 

 とあれば、マスターをあまり放置するのは危険だ。孤立したマスターは狙われやすく、下手を踏めば、自身のマスターは戦う術を持たないかも知れないのだ。同じく魔術師らしい赤銅色の髪をした男がいたが、どうも負傷をしていたらしい。やはり一度帰還するべきだろう。

 

 音も無く霊体となる。誰もそれを追おうとはしない。いや、できない。

 

 ライダーはバーサーカーの相手に手一杯だ。まして会話が成立する相手でもない。必然的に戦闘に集中せざるを得なく、セイバーの撤退に気を遣る余裕などない。

 

 ここらで仕切りなおしが必要だ。

 

 ライダーはそう結論付けた。これ以上バーサーカーと戦っても益にはならない。バーサーカーにマスターを食い潰させるという手段も取れなくはないが、それがいつになるか分からない。そもそも、それまで自分が耐え切れるかも分からない。

 

 無論、このバーサーカーに自分が劣っているとは思わない。四六時中だって戦闘してみせよう。しかし、バーサーカーがここに居るということは、そのマスターがサーシャスフィールを狙っている可能性が高い。そうなると、サーシャスフィールはセイバーのマスターとバーサーカーのマスターから狙われることになる。さらに言えば、今しがたセイバーが帰還した。これは危険だ。

 

 機を見て、全速力で遁走しようかと思ったその瞬間だ。

 

“――――令呪を以って我が従者に命じます!私を助けなさい!”

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

「…何者?」

 

 サーシャスフィールは問う。ハルバードを油断なく構える。新たなる脅威を排除するために。

 

「遠坂凛!アンタ、私の恋人(パートナー)に手を出すなんて、いい度胸ね!」

 

 澪はもはや混乱の極みにある。今度の乱入者は、この男の恋人らしい。とすれば、私達の見方ということになるのだろうか。

 

 狭い路地裏に靴音を打ち鳴らしながら遠坂凛は歩み寄る。その眉間に皺を寄せ、目は怒気に染まっている。

 

「トオサカの者ですか。…ここでトオサカが出てくるとは。」

 

「アンタはアインツベルンね。ふん、イリヤスフィールに良く似ているわ。」

 

 澪はイリヤスフィールのことを知らないために判断つきかねるが、確かに似ていた。イリヤスフィールが大きくなれば、きっとこのような容姿であったことだろう。肩のあたりで切りそろえた髪の色は、まさしくイリヤと同じく、雪で染めたような色だ。

 

「いかにも。私はサーシャスフィール・フォン・アインツベルン。」

 

 かつり、と一層大きな音を立てて凛が立ち止まる。暗いながらも、凛は士郎を確認する。容態は宜しくないようだが、とりあえず死に至るということは無さそうだ。

 

“遠坂―――!お前、何でここに…!?”

 

 士郎は念話で凛に語りかける。ここに凛がやって来るとは予想していなかったようだ。どうやら念話で助けを呼ぶということすら失念していたのだろう。猪突猛進気味なこの正義の味方は、何でも自力でどうにかしようとする悪癖がある。

 

“魔力を持っていっておいてそれは無いでしょ。大変だったのよ、アンタの現在地を割り出すのは。…とりあえず大人しくしていなさい。後で治療するから”

 

 凛はレイラインを辿り、どうにか士郎の下へたどり着いたのだ。士郎へ魔力の供給がなされている。水の流れる方向を遡るように、その供給を辿ってきたのだ。手探りとも言える方法での探索だったため、一層到着が遅れてしまった。

 

 念話で直接聞かなかったのは、かえってそれが士郎を危機に晒す可能性があるからだ。一縷の余裕もない戦闘下で、念話に意識を割かれると危険だ。

 

本当に余裕のない戦いというものは、言わば何本もの針の穴に糸を通す作業のようなものだ。僅かでもしくじれば、死ぬ。先に糸を通すことに失敗したものが死ぬ。そういうものだ。そこで不意に話しかけられることがどれ程危険か、言わずもがなであろう。

 

 凛はその肩にかかる髪の房を掻き揚げる。

 

「退きなさい、アインツベルン。次は只じゃ済まされないわよ?」

 

 凛はそのポケットから宝石を取り出す。それには凄まじい魔力が込められてあり、ひとたび呪文を発すれば、それは敵を屠る牙として機能する。

 

 遠坂の必殺の宝石と、その殺意を前にして、しかしサーシャスフィールは涼しい顔をしている。その殺意を柳に風と受け流している。

 

「只で済まないのは貴方の方です、トオサカ。」

 

 だがその目だけは闘志を湛えている。そのハルバードで敵を打ち砕かんと、強く得物を握る。

 

「―――Drei(三番), Schlag(吹き荒れよ)!」

 

 宝石から魔力が発せられる。それは風という一定の指向性をもち、真っ直ぐに直進する。切り裂く為のものだが、もはや気圧差で衝撃波の領域にまで達している風の魔弾だ。一つ一つはボール大だが、それは無数に放たれる。かつ、それぞれ一発が、常人が受けたら骨を砕かれ、内臓を破裂させ、肉をずたずたに切り裂く威力を持っている。

 

「ハッ!」

 

 サーシャスフィールは大きく上方に飛び上がる。一秒前まで彼女が踏みしめていたアスファルトが見るも無残に抉られる。重いハルバードを持っているとは思えない身軽な動きだ。全身を強化しているとはいえ、その身体能力には舌を巻かずにはいられない。

 

「―――Funt(五番), Shine das Licht der Gerechtigkeit(放て、砕け、光よ)!」

 

 だが、避けられることまで凛の予想の範疇だった。この狭い通路で放たれた魔弾を回避しようと思えば、上空に飛び上がるしかない。それを撃墜する腹だ。

 

 宝石より、眩いばかりの光が放たれる。先ほどの風とは比較にならない破壊力と速度をもった光の矢だ。七条の光が、実際の光速には届かないものの、目にも留まらない速度で殺到する。

 

 その光の矢は純粋な破壊の力だ。破壊の指向性をもった魔力のみを凝縮したそれは、もはや圧倒的な破滅の光だ。もはや並の魔術では防御もままならない圧倒的な威力である。

 

「――――ッ!!!!」

 

 サーシャスフィールにとってその破壊力は、完全に予想を上回るものだった。トオサカの宝石魔術。それを聞き及んでいなかった訳ではないが、この破壊力は聞きしに勝る凄まじさだったのだ。

 

 サーシャスフィールとて、この追撃を予測していなかった訳ではない。しかし、彼女が用意したいかなる防御手段を粉砕する威力を以ってした攻撃。彼女にはもはや、それを防ぐ手立てが無い。

 

 爆発。間違いなく着弾。まるで砲撃でも受けたかのような轟音。サーシャスフィールが戦闘前に人払いの結界を張っていなければ、すぐさま通報されていただろう。

 

 空中に生じた粉塵の中から、白い衣服の女性が落下してくる。

 

 しかし―――その人影は一人分のそれではない。

 

「見事!見事なり、妖術師!いや、昨今では魔術師だったな。我が賞賛を受け取るがいいぞ、女!」

 

 黒い馬に乗った二人が上空より現れた。まるで羽のように馬が着地を決める。その背には、サーシャスフィールと、筋骨隆々の男が跨っている。青龍刀を持ったその男は、体中に軽度の火傷や切創を負っているが、どれも致命傷には至らない。

 

「…令呪でサーヴァントを呼んだか……取って置きの宝石だったんだけどな…。」

 

 ―――サーヴァントであることは間違いない。対魔力で殺しきれなかったのか、傷を負ってはいるものの、その力は些かも衰えてはいない。

 

 先ほどまでライダーはバーサーカーと刃を交えていた。セイバーは警戒してあまり積極的には戦闘に参加せず、様子見を決め込んでいたので、実質一騎打ちとなっていた。

 

 しかし、彼のもう一つの宝具がバーサーカーには通用しない。その宝具が無くともライダーは優れたサーヴァントだが、苦戦を強いられるのは必至だった。そこでの令呪よる強制召喚。ライダーは仕切りなおし、体勢を整えたかった。渡りに船だといえる。

 

「サーシャスフィール。バーサーカーが厄介だ。セイバーもここに向かっている。追ってくる前に退却しようぞ。…この女に令呪でも使われたら厄介でもある。」

 

 よってここは退却を選択する。バーサーカーと戦うとあれば、セイバーという第三勢力を交えない状況が必須だ。

 

「魔術師、追ってきても良いぞ。…状況から察するに、貴様があの霧のサーヴァント(バーサーカー)のマスターであろう。令呪で彼奴を呼んでも良いだろう。」

 

 傷は癒えたらしい白兎が起き上がり、サーシャスフィールに駆け寄る。黒兎に並ぶと、ライダーは背後に跨っていたサーシャスフィールをまるで猫のように摘み上げ、白兎に跨らせる。

 

「だが…この(ライダー)を追うとあらば、決死の覚悟を以って刃を取れ。生半可な戦力でこの俺を下せると思うなよ。」

 

 その瞳に射抜かれた瞬間、凛は体中が重くなるのを感じた。自分の周りだけ重力が増したかのような錯覚。指一本を動かすのにすら、渾身の力を込める必要がある。次の瞬間には、これがライダーの宝具の力だと理解する。

 

 サーヴァントならばステータスが低下する程度で済むが、生身の人間に対しては金縛りに近い効力を発揮するのがライダーのもう一つの宝具の力だった。

 

 ライダーは黒兎を、サーシャスフィールは白兎を翻し、凛たちから離れる。蹄がアスファルトを打つ音だけが夜の路地裏に反響する。

 

「……。」

 

 凛は彼らの背中を見送る。その姿が完全に闇夜に隠れてから、ようやく凛は体を動かすことが出来た。

 

 その瞬間、凛はその場に膝を付く。その呼吸は荒々しく、肩で息をしている。顔は脂汗で濡れている。

 

「――――消えて…バーサーカー……!」

 

 全速力でこちらに向かわせていたバーサーカーへの魔力供給をカットし、強制的に霊体化させる。バーサーカーの魔力消費は、凛の魔力量を以ってしても破格だった。いや、このバーサーカーの消費量が異常なのかも知れない。

 

 いざ戦闘が始まったとき、凛の意識は一瞬飛びかけた。それ程にとんでもない燃費の悪さだ。単に実体化させるだけならばさほど問題はない。しかし、戦闘となるとバーサーカーというのは爆弾だ。使い方を誤れば、敵だけでなく自らも滅ぼしかねない。

 

「だ…大丈夫!?」

 

 澪が駆け寄る。さっきまでガンドの嵐に腰を抜かし、ライダーの宝具で立ち上がれずにいたのだが、ようやく立ち直ったようだ。

 

「だ、大丈夫だから…そこを退きなさい。」

 

 だが凛はその手を優しく振り払う。そして弱弱しく立ち上がる。魔力を急激に失った為か、四肢にうまく力が入っていないようだ。

 

 苦労しいしい士郎の下へ歩み寄る。やはり重症なようだ。凛に負けず劣らず、士郎も衰弱している。

 

「全く無茶して…ほら、体起こせる?」

 

 士郎は凛に手伝ってもらいながら上半身を起こす。肺に刺さった肋骨のせいか、その際にも苦しげな表情を作る。

 

 凛は士郎の服を手早く脱がせ、その体に手を添える。凛の手が仄かに光り、士郎の体の異常を調べ上げる。

 

「…肋骨が肺に刺さっているわね。重症じゃない、何で助けを呼ばないのよ!」

 

「ご、ごめん遠坂…ちょっと必死になっていたみたいだ。」

 

「…ふう。今はいいわ、喋らないで。」

 

 凛は再びポケットから宝石を取り出す。その宝石にもかなりの魔力が込められていることを、背中越しに見守っていた澪も感じ取った。

 

「―――Anfang(起動)

 

 凛がその宝石の魔力を開放する。凛は士郎と旅をするにあたって治癒魔術を高いレベルで習得していた。何せしょっちゅう骨や内臓を痛めつける士郎のことである。自然と治癒のレベルも上がろうというものだ。

 

 まず、肋骨をこれ以上臓器を傷つけないように慎重に元の場所へ移動させる。同時に穿たれた肺の穴を塞ぐ。後に絶たれた血管を修復する。毛細血管までは不可能だ。主要なものだけを繋ぐ。次いで骨の接合。断面を融解させ、癒着させ、固定する。

 

「―――これで良し。全く、アンタのおかげで、私はちょっとした医者よ。」

 

「すまない遠坂、助かった。」

 

「いいわ。応急処置に近いから、しばらくは強い衝撃を与えないように注意してよね。」

 

「ああ、分かった。」

 

「分かれば良し。さて―――」

 

 そこで凛は右手を大きく振り上げる。座ったままの姿勢で、限界まで大きく振りかぶった右手。その右手は、見ている澪が逆に感心するくらいのいい音を立てて、士郎の頬を打った。そりゃもう、士郎の頬に紅葉形の跡が残るほどに。

 

「いたっ!?な、何するんだ遠坂?!」

 

「うるさいわよ!私に心配かけて!サーヴァントに気をつけろって言ったこと覚えていないワケ!?」

 

「お、覚えていたさ!だから最大限の注意を払って交戦したワケで…」

 

「交戦したこと自体が分かっていないってのよ、このバカ! いい? アンタがアーチャー(エミヤシロウ)に勝てたのは、そりゃあもうとんでもないハンデがあったからなのよ!?」

 

「な、なんでさ! 落ち着け遠坂、ちょっとでいいから落ち着け!」

 

「これが落ち着いていられるかってのよ! 下手したらアンタ、死んでいたかも知れないのよ!私を置いて死ぬなんて許さないんだからね!」

 

 凛は士郎の襟首を掴み上げ、有無を言わさない剣幕でまくし立てる。

 

 そのやり取りに圧倒されながら見守っていた澪の背後から、がちゃり、と音を立てて金髪金眼のセイバーが現れる。その顔は苦笑ともとれる微妙な顔だった。

 

「今帰ったぞ、マスター。……これも、“のろけ”というモノなのか?」

「…ご馳走さまです。」

「な、なんでさ…」

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

「・・・・・・さて、今の状況を確認しましょうか。」

 

 時刻は既に4時を回っている。早朝とも深夜とも言える微妙な時間だ。私達は、衛宮士郎というらしい男の屋敷に集合していた。道中は、もはや強制連行にも思えるほど剣呑な雰囲気だったため、何も口を開けずにいた。

 確か遠坂さんと言っていたか。彼女が衛宮さんと道中に僅かに言葉を交わしただけだ。私は誰とも言葉を交わさず、ただ連行されただけだ。

 

 正直な話、この女の子怖い。超怖い。“あかいあくま”と命名しよう。何かすごくしっくり来るし。

 

 今、和風の居間には三人の姿がある。あのセイバーとか言う男は姿を消しているようだ。どうやら、あのアーチャーという男と同じような芸当が出来るらしい。

 

 私の正面に腰掛けているのは、件の赤い服の女性。その隣、つまり私の対角に座っているのが、ここの家主らしい衛宮さんだ。

 

「簡単な自己紹介から入ろうか。俺は衛宮士郎。“魔術使い”だ。」

 

 魔術使いという言葉が気になるけども、今は追及しないことにしておく。それよりも大事な話があるだろう。

 

「私は遠坂凛よ。この冬木の管理者(セカンドオーナー)ね。」

 

 心臓が飛び跳ねた。セ、セカンドオーナー!そうだ、失念していた。遠坂といえばこの地のセカンドオーナーだった…!

 

 次は自分が自己紹介する番だ。知らない人の家ということもあり、かなり緊張している。出来るだけ物怖じせずにはっきり喋ろうと意識する。

 

「私は八海山澪。え、と・・・魔術師、です。」

 

 少し失敗だ。遠坂家がセカンドオーナーということを受け、後半がどもってしまった。だけど、この男には私が魔術師と知られている。告発は出来るだけ早いほうが良いだろう。

 

「・・・ふーん・・・・・・八海山さん?昔にそのような家がこの地に住んでいたことは把握していますけど、戻ってきたという知らせは受けておりませんわよ?」

 

 ぎくりとする。まずい。上品な口調が物凄く威圧的だ。何か折檻でも受けるのではないだろうか・・・。

 

「遠坂、今はそんなこと言っている場合じゃないだろ。」

 

「分かっているわよ。でも、一言ぐらいは言わせてよね。」

 

 衛宮さんが遠坂さんを嗜める。それで攻撃的な雰囲気はなりを潜めたが、次の瞬間には遠坂さんは真剣な面持ちになる。

 

「・・・・・・この冬木の儀式について、何か知っている?」

 

 おそらく、マスターがどうこうという話だろう。だけど生憎、何もかもが急激だ。蒼天の霹靂とはまさにこのことだろう。

 

「・・・何も。」

 

「でしょうね。コイツみたいに巻き込まれたクチだと思っていたわ。今回はコイツが巻き込んだみたいだけどね。まずは説明からね。」

 

 それはある程度予測された答えだったのだろう。遠坂さんは特に呆れるでもなく、軽く座りなおしながら、隣に座る衛宮さんを指差した。

 

「貴方が巻き込まれたのは、聖杯戦争という儀式よ。魔術師同士が殺し合う、最悪の儀式。」

 

「聖杯、戦争―――?」

 

「そう。この地には『聖杯』と呼ばれるものがあるの。それを懸けて魔術師が殺しあうのが、この聖杯戦争よ。」

 

「え、―――聖杯ってまさか」

 

「あ、八海山。聖杯って言っても本物の聖杯じゃないんだ。何ていうか、景品に万能の願望機としての機能があったからそう言われるようになったんだ。」

 

「万能の、願望機―――?つまり、何でも願いが叶うってこと?」

 

「そう。―――まぁ、これについては後で詳しく話すわ。とりあえず今は、聖杯戦争の全容について話すわね。」

 

「セイバー、いるか?」

 

 衛宮さんが虚空に向かって呼びかける。先ほどから背後に感じていた気配が一瞬揺らめき、その姿を現す。

 

「おう。ここに居る。私も会話に入ったほうが良いのか?」

 

 ああ、と素っ気無く衛宮さんが答える。セイバーも素っ気無くそれに答えて、私の横に座る。その時にその横顔を盗み見るが、改めてみれば中々に綺麗な顔立ちだ。純朴とは違う、全体的に優しげなその顔立ちは、見るものに安心感を与える。

 

「貴方には一言礼を言わないとね。道中、剣を抜かれるんじゃないかとヒヤヒヤしたわ。」

 

「何、貴方たちに害意が無いことは何となく分かっていた。どうやら主は貴方たちに助けられたらしい。私が貴方たちを蔑ろにできようか。話ぐらいは聞いても良いだろう。」

 

 そう、と凛は答える。セイバーに向いていた視線をこちらに戻し、硬い口調で言い放つ。

 

「澪。貴方の隣の、貴方が呼び出したモノ。それがサーヴァントと呼ばれるモノよ。」

 

「その通り。」

 

 私の隣の金髪を軽く揺らして首肯する。サーヴァント・・・これが破格の存在だということは、何とはなしに分かる。しかし、その正体が未だつかめない。

 

「サーヴァントというのは、過去の英雄の亡霊。つまり英霊のことよ。」

「・・・は?」

 

 過去の英雄?つまり、アーサー王であるとか、日本なら織田信長とかのコトだろうか?いや、しかし、有り得るの?私が二流だからって、使い魔程度は使役できる。勿論使い魔の知識もある。自我の薄い霊を使役するのは容易いが、自我の強い人間の霊を使役するのは至難。しかも、あまり意味がない。

 

「まあ、驚くのも無理は無いかもね。」

 

「え、いや・・・有り得るの?過去の英霊を使役するなんて・・・!い、いや。そもそも私にそんなモノを呼び出す力なんて無いわよ?!何かの間違いじゃ・・・。」

 

「何も間違いはないわよ?それを可能にしてしまうのが聖杯。その力がいかに凄まじいか分かるでしょう?サーヴァントを呼び出すのも、この世に留めておくのも聖杯によってサポートされているわ。通常なら、呼び出した瞬間に現世に留めきれずに掻き消えるだけよ。」

 

「・・・・・・・・・。」

 

 絶句する。それが本当なら、とんでもない魔力のサポートが得られていることになる。いや、それよりも・・・この隣に侍る男もまた、過去の英雄ということになるだろうか。

 

 ・・・そうは見えない。話が退屈なのか、大欠伸をしている。破格の存在だということは理解できるが、本当に過去の英雄?

 

「ここまではいい?続けるわよ。この聖杯戦争に参加できる魔術師は7人なんだけど、7人がそれぞれサーヴァントを使役し、聖杯を争奪するのが聖杯戦争というワケ。」

 

「ちょ、ちょっと待って。何のために、わざわざ過去の英雄を召喚するの?聖杯というものを良く知らないけど、魔術師が勝手に戦えばいいんじゃ・・・?」

 

「・・・中々に鋭いところを突くわね。それも後で詳しく話すわ。とりあえず今は、『聖杯戦争とは、サーヴァントと呼ばれる英霊を使役する、7組の魔術師(マスター)による殺し合い』、と理解しておきなさい。」

 

「は、はい・・・。」

 

 細かい箇所を話す前に、全体像を把握させようということなのだろう。その説明は簡潔で、しかも混乱を招く内容だけども、今はそれを飲み込むしかない。

 

「よろしい。じゃあ続けるわよ。…いくら聖杯とはいえ、無秩序に英霊を召喚することはできなかったの。あらかじめ7つの(クラス)を用意し、それに適合する英霊を召喚することで7体の英霊の召喚を可能にしたわ。」

 

 それはつまり、役所のようなものだろうか。自分に必要な窓口にいき、目的にあった用紙に記入する。(まどぐち)を分けることで、円滑かつ確実なサービスを提供する、ということだろうか。

 間違いなく的を射てはいない。だが当らずとも遠からずだろう。魔術的な知識に乏しい私は、何か身近な例に置き換えて理解する以外無い。

 

「その7つのクラスというのが、剣の騎士(セイバー)弓兵(アーチャー)槍兵(ランサー)騎乗兵(ライダー)魔術師(キャスター)暗殺者(アサシン)狂戦士(バーサーカー)よ。貴方のサーヴァントのクラスは・・・」

 

「皆知っていると思うが、セイバーだ。」

 

「・・・またしてもセイバーを人に取られるなんてね・・・。」

 

 遠坂さんは何故か不機嫌そうになる。そんなコト言われても、私は衛宮さんに言われるがまま召喚したんだ。文句を言われても困る。

 

「まあいいわ。ちなみに、私もマスターよ。クラスはバーサーカー。」

 

「…あのバーサーカーのマスターは貴方か。答えてくれ。あのバーサーカーは一体何者だ? マスターならば真名は分かるのだろう?」

 

 口ぶりからすると、セイバーはバーサーカーと交戦、ないし邂逅したようだ。よほどけったいな見た目でもしていたのだろうか。私の偏見だと、狂戦士って言われるとどこかの先住民みたいなモノを思い浮かべるけども、黙っていよう。間違いなく偏った偏見だし。

 

「…私も良く分からないわ。マスターである私ですら、そのステータスを読み取れないの。…とりあえず今は説明を続けるわよ。」

 

 きっ、と遠坂さんに睨まれて、セイバーは渋々言葉を引っ込めた。だがやはり何か言いたそうではある。

 

「今、私はこの男のことをセイバーと呼んだけども、これが名前でないことは分かるわよね?」

 

 それは今の説明で理解できた。セイバーとはクラスの名前であり、この男の名前ではないはずだ。英霊というからには、世に通った名前を有している筈だ。

 

「ええ、セイバーやバーサーカーという呼び方は、あくまで通り名としてなんですよね?」

 

「そうよ。士郎よりも理解が早いみたいで助かるわ。後でこっそりとセイバーの名前を教えてもらうと良いわ。」

 

 若干衛宮さんがいじけたようだが、遠坂さんはそれを華麗にスルーする。やはり“あかいあくま”という名が似合うな、うん。

 

「有名な英霊であるほど、その弱点も世に知られているわ。真名を敵に知られるというのは、弱点を敵にさらけ出すことになる。」

 

 それはつまり、英雄アキレスの腱のようなものだろう。たしかに、歴史には多くの英雄譚が残っていて、同時に英雄の弱点も残っている。私だって、アキレスが目の前に現れたら腱を狙う。

 

「同時に敵に知られないようにするべきものがあるわ。それが、英雄の持つ宝具よ。」

 

「宝具・・・?」

 

「英雄と対になる武器のことだ、マスター。例えばこの私の、この剣のように。」

 

 とんとん、と指で腰に帯びた剣を叩く。その顔は自信や誇りに満ちているように思えた。さっきまで何か言いたげな顔だったのに、泣いた烏がもう笑ったとは良く言ったものだ。

 

「そうよ。必ずしも武器とは限らないけどね。…宝具はどんな性質のものであれ、必殺の脅威を秘めているわ。だけど、そうおいそれと使うワケにはいかない。」

 

「…英雄と対になるものだから、所有する宝具が知られることイコール、真名を知られることになる…?」

 

「そう。だから、必殺を期したときだけ使用しなさい。」

 

「……だそうよ、セイバー。」

 

「はっは。善処しよう。」

 

 この顔は、いざとなったら使用する気満々だ。自我の強い人間霊を使役する弊害といえるだろう。主の意思を越えた行動を起こす可能性がある。

 

「…今のコイツみたいに、言うとこを聞かないサーヴァントに強制的に命令させる方法があるわ。」

 

 衛宮さんが席を立つ。話しに入ることが出来ないためか、お茶の準備を始めたようだ。

 

「貴方、体のどこかに刺青みたいなものが現れていない?」

 

「…これのこと?」

 

 右手の甲を見せる。そこには、赤い刺青なようなものが浮き出ている。三画の紋様からは、何か凄まじい魔力が込められていることが感じられる。

 

「そう。それが令呪。マスターの証でもあり、サーヴァントの意思を超えて強制的に行動させる強制命令権でもあるわ。」

 

「へえ…じゃあ『お茶を持ってこい』って命令したら、お茶を淹れざるを得ないんだ。」

 

「そうよ。でもそんなコトに令呪を使うのは止めておきなさい。その令呪は三回しか使えないわ。一回の命令ごとに一画を消費することになるわ。」

 

 なるほど。三回しかセイバーを律することが出来ないなら、それは慎重に使う必要があるんだろう。

 

「………。」

 

 セイバーは無言で立ち上がり、衛宮さんが淹れたお茶をひったくるように持ってきた。なんだコイツ、ちょっと可愛いな。

 

「さらに言えば、サーヴァントの能力を超えたことも可能よ。例えば、『今すぐ台所に転移してお茶受けを持ってこい』と命令すれば、コイツは台所に転移してお茶受けを持ってきた後、再び転移して戻ってくるわ。セイバーや貴方に転移魔術が使えなくとも、令呪の効果が及ぶ範囲でそれを可能にしてしまうのよ。」

 

「………。」

 

 再び立ち上がり、台所に向かう。衛宮さんが取り出してくれたお茶受けを、今度もまたひったくるようにして持ってきた。本当にそんなことに令呪を使うと思っているのか。可愛いなコイツ。

 衛宮さんも苦笑いを浮かべながら再び席についた。

 

「…例えば、『私の言うことに絶対服従』と命じれば、セイバーは一生私の命令に逆らえないの?」

 

 若干ぎょっとしてこっちを見るセイバー。そこまで驚かれるとこちらまで何故か驚いてしまう。

 

「…いえ、令呪は長く続く命令に関して効果が薄いわ。その命令では、上手くいって『マスターの言うことを尊重してやろうかな』程度の心変わりにしかならない。使わないほうが吉ね。ほとんど効果が無いわ。」

 

 安心したのかセイバーが胸をなでおろす。なるほど、令呪を一個無駄に使われると思ったのだろう。というか、遠坂さんも苦笑いを浮かべているのは何故なんだろう。

 

「つまり、短い効果で使うほうが効果的?」

 

「ええ。例えばさっきの『お茶を持ってこい』や『お茶受けを持ってこい』という瞬間的な命令ね。サーヴァントは逆らえず、確かな効果があるわ。」

 

 なるほど。有限であるなら、ここぞという場面で、確かな効果を期待するべきだろう。

 

「まぁ、こんなものかしらね。大まかな説明は。」

 

 話は一区切りついたらしい。遠坂さんは、衛宮さんが淹れてセイバーが持ってきた紅茶に口をつける。私も自分の分を飲んでみる。…おいしい。

 

「……ところで、何故私のマスターにこんな説明をした?貴方たちがしなくとも、私がしていたことだ。」

 

 セイバーも紅茶を啜り、かちゃり、と音を立てながら聞いた。心なしか音が大きい。その質問の意図は、何故こうも親切に聖杯戦争についての知識を与えるのか、ということだ。セイバーは何か裏があるのではないか、と警戒している。主の恩人でも、そのあたりは譲らないようだ。

 

「士郎が貴方を巻き込んだお詫びと…ちょっと交渉したいことがあるからね。」

 

「「……交渉?」」

 

 セイバーと私の声が重なる。

 

 遠坂さんと衛宮さんは、顔を見合わせ、アイコンタクトで意思を確認しあう。どうやら、衛宮邸までの道中での二人の会話は、この話についてらしい。

 

「単刀直入に言うわ。」

 

 今までよりも、より一層真剣な面持ちとなる。もはや剣呑と表現しても良いだろう。

 

「私たちと同盟を組まないかしら。…この交渉に応じてくれたら、聖杯戦争の裏側について教えるわ。」

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

【クラス】バーサーカー

【マスター】遠坂凛

【真名】???

【性別】???

【身長・体重】???

【属性】???

【筋力】 ?   【魔力】 ?

【耐久】 ?  【幸運】 ?

【敏捷】 ?  【宝具】 ?

 

【クラス別能力】

 

狂化:C

幸運と魔力を除くステータスをアップさせるが、言語能力を失い、複雑な思考ができなくなる。

 

 

【保有スキル】

???:?

 

 

???:?

 

 

 

【宝具】

???:ランク?

???

 

???:ランク?

???



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Act.9 一つの決断

 バーサーカーはただでさえ手綱を操ることの出来ない厄介なサーヴァントだ。戦力としては期待できるが、協力者としての機能を一切排除した存在。つまるところ、非常に危険な爆弾なのだ。遠坂凛の魔力の殆どを短時間で吸い上げてしまう危険性。これは到底無視できない。

 

 反対に、セイバーのサーヴァントは非常に優秀なサーヴァントである。マスターを守り、敵を屠る能力にも申し分はない。戦闘力の面だけで見れば、バーサーカーには時として劣るかもしれないが、それでも強力なサーヴァントだ。搦め手のような策にさえ気をつければ優勝候補の筆頭である。また騎士然としたものが多く、主人の言うことを従順に守る。協力者としても申し分ない存在だ。

 

 遠坂凛の心胆はこうだ。

 

 御しきれない可能性の高いバーサーカーは奥の手として温存する。セイバーさえ見方につけることができれば、凛と士郎は援護に徹することができる。セイバー陣に不足していると見える後方支援を補いつつ、双方の戦力をアップさせることが出来る。

 

 また、聖杯を破壊しようとしている彼らにとっては協力者の存在は大きい。下手を踏んでその目的が露呈すれば、残りのマスター全員が結託して襲い掛かってくる可能性もあるのだ。そのときにバーサーカーを駆り出し続ければ、まず間違いなく凛は自滅する。

 

 セイバーを引き込むというのは、その結託を抑止する意味合いもある。最も優れたサーヴァントであるセイバーがこちらの陣営につけば、そうそう簡単に手出しは出来ないはずだ。加えてバーサーカーも加えたら最高峰の火力である。正攻法ではまず陥落させるのは困難で、そういう意味ではランサーやライダー辺りは手出しが出来ない状況になるはずだ。

 

 もちろんセイバー陣にとってもいい話のはずだ。セイバーのマスター、八海山澪には攻撃用の魔術を使えない。凛はこのことを知らないが、あまり戦力として期待できないのであろうと踏んでいた。何せ聖杯戦争について何も知らない。戦闘を有利に運ぶ、礼装ないし装備の類は持ち合わせていないだろう。

 

 セイバーの陣営に遠坂凛と士郎の投影魔術が加われば後衛は十分な火力だ。セイバー陣営はかなりの高火力を有することになる。固有結界は、露呈すれば封印指定ものの魔術であるためにおいそれと使えまい。しかし、切り札としては十二分だ。聖杯戦争を勝ち抜く、ないし生き抜く目的があるなら無視できない申し出のはずだ。

 

「「……。」」

 

 しかし即答できる内容ではなかったのだろう。八海山澪とセイバーは思案顔で黙りこくってしまった。

 

 言うまでもなく、凛にとってこれは賭けだ。誰かに彼女らの目的を話すということは、最悪の状況を招く可能性もあるのだから。

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

「少し言いたいことがある。」

 

 私の横で難しい顔をしていたセイバーが声をあげる。さっきは大欠伸をしていたのに、その声には頼もしさが宿っている。やるときはやる男、ということだろうか。

 

「シロウ、リン。こちらに圧倒的に情報がない。これでは判断の下しようが無いではないか。…せめて、そちらの目的くらいは教えてもらわなければ。」

 

 なるほど正論だ。衛宮さんと遠坂さんが、聖杯に何を望むのか。聖杯をどうするのか。どうやって聖杯戦争を戦っていくつもりなのか。そこに致命的な軋轢が生じるようであれば、同盟など組めるわけが無い。

 

「…正論ね。……あらかじめ言っておくわ。セイバー、それに澪。…私にバーサーカーを出させるような真似は、今だけは止めてちょうだい。こちらに戦意は無いわ。…どんな言葉がこの口から飛び出ても、とりあえずは堪えてもらえる?」

 

「…内容にもよるが、了解した。マスターはどうか?」

 

「…私は大丈夫よ。」

 

「ありがとう、セイバー、八海山。俺からもお願いしたいんだけど、この先は他言無用でお願いできるかな?その…最悪、制約(ギアス)をかけることになるかも知れないんだけど。」

 

 あまり会話に参加できなかった衛宮さんも身を乗り出して口を開く。…どういうことだろうか。それほどに危険な話なのだろうか?

 

 制約(ギアス)。魂を束縛し、絶対に約束を違えさせない絶対尊守の儀式だ。魔術師にとって、ギアスによって誓うというのは名実共に重い制約だ。

 

「…はい。」

 

「マスターがそう言うのであれば、私も黙っていよう。」

 

「ありがとう。…俺から言ったので構わないか遠坂?」

 

 遠坂さんは、こくり、と静かに首肯する。その目は閉じられていて、その次に出てくる言葉が強烈な意味を込めているのが分かる。

 

「……俺達の目的は、聖杯を破壊することだ。」

 

「――――!!!!」

 

 セイバーの目が見開かれ、凄まじい殺気を帯びる。その手に剣を握ることはない。しかし強く握り締めた拳は、もはや出血していてもおかしくない。いや、もう数秒後にはその剣を抜いて切りかかるだろう。

 

「セ、セイバー。落ち着いて、お願い。」

 

「…ああ、マスター。大丈夫だ。…理由を聞かせてもらえるのだろうな?」

 

 だがマスターである澪の言葉でやや落ち着きを取り戻したようだが、その心中にはまだ穏やかざるものがあるらしい。

 

「ああ。…これから先が、さっき言っていた聖杯戦争の裏側にもあたるんだけど…もう言っちゃっていいよな、遠坂?」

 

「ええ。これについては隠さずに最初から言えばよかったわね。」

 

 その言葉を聴いて、衛宮さんは一呼吸置いてから再び語りだす。

 

「セイバー。もしよければ、アンタが聖杯にかける望みを聞かせてもらっていいかな?」

 

「…私はとある戦場で致命的な過ちを犯し、私どころか友までも死なせてしまった。私はその戦いのやり直しをしたい。せめて我が友だけでも生き残る道があった筈だ。」

 

 真名に繋がる部分は伏せているのだろう。具体性は帯びないが、その声色は真剣そのものだ。この場の誰が笑い飛ばせようか。

 

「…セイバー。隠してもしょうがないから、ハッキリと言う。その望みは聖杯では叶わない。」

 

「―――なに!?聖杯は奇跡の願望機だろう!何故それが出来ないというのか!!」

 

 セイバーは机を叩き割る勢いで拳を振り下ろす。その形相は驚愕や怒りが混合していて、語気も荒い。

 

「…聖杯は、所有者の願いを暴力ででしか叶えることが出来ない。昔はそうじゃなかったのかも知れないけど、今はそうなんだ。」

 

「…暴力、だと?」

 

「……つまり、暴力で解決不可能なことは叶えられない?」

 

「そうだ。この場合だったら、そうだな…おそらく、『セイバーの英雄譚を知る人間を全て滅ぼす』という形で実現されるんじゃないかな。そうすれば、セイバーが改竄したい過去は、擬似的にとはいえ無かったことになる。」

 

「…そんな結末を私は望まない。」

 

「ああ。それは俺達も同じだ。今や聖杯は、災害を振りまくだけの存在でしかない。だから俺達はそれを破壊して、二度とこの冬木を、いや世界を危機に晒さないようにしたい。」

 

「……それに対して、何か証拠でもあるか?今の言葉が、決して貴方たちの妄言では無いと、神に誓えるか?」

 

「誓える。それに、証拠もある。…俺達は、前回の勝利者だ。聖杯の中身を実際に見た。…アレは、この世に在っていいものじゃない。」

 

「それは貴方たちの証言でしかない。申し訳ないが、信頼に足るかどうかは疑わしい。」

 

「そうか。……八海山。」

 

「はい?」

 

「17年前の火災事故と、7年前の連続殺人。知っているか?」

 

 心臓が大きく打たれる音が聞こえた。嫌な汗が流れるのが分かる。…忘れるわけが無い。17年前のそれは圧倒的な災厄だったし、7年前の連続殺人事件によって私は両親を失ったのだ。

 

「……ええ、良く知っている。」

 

 声色が硬くなってしまっただろうか。できるだけ平静を装ったつもりだが、隠しきれていないかもしれない。

 

「ん?確か連続殺人ぐらいの時期に、八海山家は冬木から去ったと思うんだけど?」

 

 遠坂さんが疑問を投げかける。7年前の事だからだろう、遠坂さんはやや前後関係が曖昧なようだ。無理もないことだと思う。

 

「違うわ。連続殺人事件の後に冬木を去ったの。私は…その連続殺人事件で両親を亡くした。」

 

「!…そうか、嫌なことを聞いてしまったな。」

 

「いいの。悲しくないと言えば嘘になるけど、もう受け入れたことだから。」

 

「……そうか。八海山、じゃあコレはアンタにも関係することだ。良く聞いてくれ。」

 

 少し喋りづらそうだ。腫れ物を触るように、といえば適切だろうか。そこまでおっかなびっくり切り出すことはないのに、と思う。

 

「…17年前の大火災と、7年前の連続殺人事件。両方とも聖杯戦争で起こったコトだ」

 

「――――!!」

 

 どういうこと。聖杯戦争というものに、いまだに実感が沸かない。だけど…衛宮さんが言うように、もはや災厄を振りまくだけの存在なら、それも有り得るのだろうか。

 

 ―――あの猛火。

 

 ―――あの地獄。

 

 赤熱の壁は、誰も彼も逃がしはせず。それは幼い私の友達を奪った。

 

 覚えている。もはや詳細は胡乱だが、それでも心に染み付いている。あれは、最上級の災厄。あってはならない呪いの産物。

 

 脳裏に、殆ど忘れかけている記憶がフラッシュバックする。もう17年も前のことだというのに、忘れられない。いや、幼い私が受けた心的後遺症(トラウマ)だからこそ覚えているのかも知れない。

 

 頭を振ってその記憶を振り払う。聖杯ですって?とんでもない。中に溜まっているのはとんでもない呪いではないか。

 

 そして連続殺人事件。これについては何となく分かっていた。あの黒いローブの魔女が、セイバーと同じような存在だというのは感じていた。つまりアレも過去の英雄なんだろう。英雄というよりも、悪鬼という表現のほうがしっくりくるが。

 

 ―――衛宮さんの言葉を信じるのなら。私は冬木で起きた聖杯戦争に二度関わっているということになる。

 

 驚いた。両親が殺された背景が、次々と明かされていく。だというのに取り乱すでもなく、冷や汗をかくわけでもなく、冷静沈着。やはり私も魔術師ということなのだろうか。それとも、本当は血の通っていない機械なのだろうか。

 

「…マスターの様子を伺う限り、実際の出来事らしいな。」

 

「大火災については、聖杯そのものが引き起こした災害だ。セイバーは知らないと思うが、過去に聖杯によって大火災が起きたんだ。」

 

「……分かるわ。確かにアレは普通の火災ではなかった。一種の呪いのようなものを感じた記憶がある。」

 

「しかしそれは、17年前の優勝者がそれを望んだのでは?」

 

「それは違うセイバー。17年前に優勝者はいない。聖杯は使用されず仕舞いだ。つまり、誰にも使用されていないのに、ただそこに在っただけで大火災を巻き起こしたんだ。」

 

「……なるほど。聖杯の中身がロクでもない物なのは理解した。」

 

「これが俺と遠坂が聖杯を破壊しようとする理由だ。…八海山、協力してくれないだろうか?」

 

 長い沈黙。ここに至っても、まだ信じられない。矢継ぎ早に説明されたせいもあるのだろうか、現実感がない。

 とは言っても、私の傍らにサーヴァントが居るのも事実。そして、今後の方針をここで決定しなければいけない。だから、二つ返事なんて出来ない。

 考える。確かに私はマスターとして不十分かも知れない。セイバーのサポートすらできないだろう。だとすれば、衛宮さんと遠坂さんの申し出は渡りに船なのかも知れない。

 しかし…本当にこの二人を信用してもいいのだろうか。これも一つの搦め手、罠なのではないだろうか。

 

「……私は、」

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

 夏の夜は短い。もう5時にもなろうとしている。意外と長く話し込んでいたようだ。夜はだんだんと薄れ、白みがかっている。春は曙、なんて言うけれど、初夏の夜明けもまた美しいなと思えた。

 

「本当に良かったのか、マスター?」

 

「…良いのよ。きっとセイバーだってこうしたでしょう?」

 

「そうだな。しかし後悔をしていないかと心配してな。」

 

「そう、ありがとう。」

 

 今は原付に乗っているのだが、姿を消したセイバーの声ははっきりと聞こえる。朝早くということもあり、殆ど人が居ないということもあるだろう。

 

 深山の住宅街を走る。早起きの習慣があるのか、犬の散歩をしている人に時折すれ違う。だがそれもまばらで、無人だと言っても差し支えないだろう。

 

「後悔っていうよりも、混乱のほうが大きいわ。ふざけた殺し合いに巻き込まれたっていうことは理解できるけどもね。」

 

「混乱するのも仕方のないことだ。しかし、いつまでもそれでは困るが…このあたりか?」

 

 アクセルを緩めて減速する。もう目的地は目の前だ。住宅街の一角にある、無味乾燥な見た目のアパート。世帯数25、インターネット完備、冷暖房完備という、昨今では珍しくもないアパートだ。大家さんは勤め人らしく、実は未だに会ったことがない。

 

「ええ。ここが私の家、もとい借りアパートよ。工房は別にあるけどね。」

 

「意外に衛宮邸から近いな。工房はここから近いのか、マスター?」

 

「まあ近いわね。衛宮邸とは逆方向だけど。…ところでそのマスターっていうの止めてくれない?ちょっと私にはむず痒いわ。」

 

「ではミオと。いや、良かった。」

 

「…?」

 

 正面玄関はオートロックだ。内側から開けるには鍵は要らないが、入るときには鍵か、室内からのボタン操作が必要だ。ゴミ出しのときにうっかり鍵を持たずに出ると締め出されるというステキ仕様。

 

 3階建ての建物のうち、私の部屋は2階の奥まったところだ。そこの鍵を、正面玄関と同じ鍵で開ける。そこからの眺めは良いとはいえないが、珍走族も通らないこの界隈では快適に過ごせる良い部屋だ。

 

 手探りで、電気のスイッチを探して点ける。蛍光灯の眩しさが苦手な私は電球色で照明を統一している。やや明るさは足りないかも知れないが、自分は全く気にならない。

 

「さて…作業に取り掛からなくちゃね。セイバーも手伝ってよ。」

 

「それよりも先に、マスターに話しておきたいことがある。」

 

「何?」

 

「私の真名のことだ。申し訳ないが、秘密ということにできないだろうか。その…言いたくはないが、マスターは未熟だ。それこそ記憶を覗かれる、なんてこともあるかも知れない。」

 

「衛宮さんや遠坂さんに、さっきの間に暗示でもかけられたとでも言いたいの?」

 

「可能性の話だ。構わないだろうか?」

 

「いいわよ。セイバーの名前を知ったところで私が効率的に戦局を動かせるわけでもないしね。」

 

「感謝する、ミオ。いや、こうもあっさりと了承を得られるとは思っていなかった。」

 

 セイバーは屈託のない笑みをこぼす。今の言葉は捉えようによっては、「このお人好しめ」と取れなくも無いないが、そういう嫌味の意味はなさそうだ。

 

「話はそれだけ?じゃ、作業にとりかかりましょうか。」

 

「心得た。」

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

「―――これが聖杯戦争だ。君は、魔術師同士の殺し合いに巻き込まれた。」

 

 サーヴァントとなった衛宮切嗣は、自らのマスターである景山悠司に聖杯戦争の説明をしていた。当然ながら彼に魔術の知識などある筈もなく、魔術のことから説明しなければならなかったため、説明に朝までかかってしまった。

 

 此処は景山の貸しアパートだ。それも、ひどく薄汚れた家だ。部屋がではなく、建物自体が汚い。かなり昔に建てられたものなのは間違いなかった。

 

「………。」

 

 景山はじっと畳の一点を見つめて黙っている。放心状態といっても過言ではない。彼が何を思っているのかは当人しか知る由はないが、複雑な心境であるのは間違いないだろう。

 

「さしあたってマスターに言うべきことがある。」

 

 だがそんなマスターの心境を斟酌する気がないのか、あったとしても状況が許さないのか、切嗣は淡々と説明を続ける。切嗣は景山と違い、ずっと一箇所で直立不動の体勢だ。

 

「僕の記憶は欠落している。特に、サーヴァントになった経緯や死の直前の記憶がない。直前といっても、これが数日間なのか数年間なのかすら判断できない」

 

 これには興味を示したのか、景山が顔をあげる。その顔は怪訝そうだ。切嗣の様子を見ると、記憶が錯乱しているとは思いがたい。自身の名前も覚えているのに、そんな局所的な記憶喪失が有り得るのだろうか。

 

「不完全な召喚だったのか、僕自身に原因があるのかは分からない。だけど自分の名も、宝具の名も分かる。自分が反英雄というに足る存在であることもね。特に支障はないだろう。」

 

「…でも自分の記憶が無いっていうのは気分が悪くないか?」

 

「そうかも知れない。まあ、聖杯に託す思いは覚えている。それでとりあえずは十分さ。」

 

「…なんでも願いをかなえることのできる、聖杯か。……本当にランプの魔人みたいな話だったな。」

 

 切嗣はその言葉を無言で流す。前半については肯定の意味で、後半は聞き流す意図で。一晩中、動かなかった切嗣がおもむろに窓へ近付き、カーテンを開ける。夜は白み始め、もうすぐ街に活気が宿るだろう。

 

「巻き込まれたものは仕方ない。で、俺は何をすればいいんだ?」

 

「何もしなくていい。そして出来れば、この部屋から一歩も出ないで欲しい。」

 

「でもサーヴァントはサーヴァントと戦い、マスターはサーヴァントを援護しながら戦うってアンタ言ったじゃないか。」

 

 その言葉に切嗣は頭を振って否定する。机に置いてあった景山の煙草を一本拝借し、そばにあった100円ライターでそれに火を付けた。

 

「それは通常のサーヴァントの話だよ。」

 

 外を見るその瞳は、差し込む朝日を受けてもなお暗い。底抜けの暗さだ。そう、まるでこの世の全ての暗黒を湛えているような。

 

「僕は魔術師殺し(アサシン)のサーヴァント。狙うは、マスターのみ。」

 

 サーヴァントと戦闘をするつもりが一切ないのなら、マスターの援護など不要。さらに言えば、魔術師殺しである彼にとって、一般人に過ぎない景山など足手まといだろう。

 

「そしてこの戦いで、この世の流血を終わらせる。」

 

 彼は忘れている。聖杯は何者なのか。

 

 彼は忘れさせられている。今の彼は奴隷に過ぎない。

 

 彼は覚えている。かつての自分の願いを。

 

 彼は覚えていない。何故自分がサーヴァントになったのか。

 

 故に戦う。故に聖杯を求める。彼はもちろん守護者ではない。彼がサーヴァントになれるはずもなかった。

 

 最上の呪いを受けるまでは。

 

 この世全ての悪(アンリマユ)。その呪いを受けて彼は絶命した。しかし考えてみて欲しい。それほど禍々しい存在が、本当に安易な死を切嗣に与えるだろうか。切嗣の魂を逃がすだろうか。

 

 ―――絶対に、赦さない。

 

 これは切嗣に否定されたソレが漏らした言葉だったではないか。死ぬまで苦しめる。なんて生温い。全てを押しつぶす否定と怨嗟の渦は、切嗣の死で満足するだろうか。

 

 否、満足しなかった。

 

 ―――衛宮切嗣に呪いあれ。

 

 その呪いを受けて、彼の魂は消え去ることもなく、強制的に守護者に近い存在に昇格された。決して守護者ではない。彼は世界を救うために呼び出されるのではない。

 

 呪いによって記憶を剥奪され、世界の惨劇を見せ付けるためにそこに召喚される。切嗣が望んだ世界とは違う世界を見せ付けるために。その魂を永遠に苛むために。

 

 その瞬間で最も凄惨な戦地へと召喚され、その有様を見せ付けられる。死の直前の彼は、『正義の味方』を諦めたような状態だ。これでは苛むに足りない。記憶を奪われて、『正義の味方』に戻った彼はその惨劇に心を痛める。しかし何もすることはできない。そこに確実に存在するが、現世のものと干渉することは赦されない。分かるだろうか。何かを為すことが出来るのに、何も出来ない苦しみ。

 

 その存在は守護者に近い。ただそこに在るだけか、何かを為すかの違いはあるが、存在の格は似通っている。その魂は英霊の座へと束縛され、永遠に世界の奴隷となる。そして、場合によってはサーヴァントとして召喚される。

 

 そして何度も絶望させる。そのたびに記憶を奪う。召喚されるたびに心を打ち砕かれる。これが、アンリマユが切嗣に与えた死後の呪い。

 

 彼は空前絶後の異例だろう。守護者でもなく、英雄でもなく、ただただ『呪い』の副産物としてサーヴァントになったのだ。

 

 ―――そして彼は間違いなく、もう一度絶望するだろう。近いうちにもう一度知るだろう。聖杯の正体を。それも含めて、アンリマユの呪いかも知れなかった。

 

 彼は外を見ている。その風貌は、生前よりも精彩を欠いている。何度も何度も殺戮を見せ付けられ、何度も何度も絶望した末だ。

 

「しばらくは情報収集だ。……ああ、頭が痛い。」

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

 朝日が差し込み、街に活気が戻ってきた。とは言っても俺と遠坂は寝ていないこともあってあまり清清しいという心持ではないようだ。

 

 今はエプロンを身に付け、朝食の支度をしている。藤ねえと桜の分も用意する。藤ねえは相変わらず教師を続けている。貰い手が居ないのか未だ独身だ。いや、何度か見合いまでして、いいところまで行ったらしいが、全て御破算になったという。いい加減どうにかしやがれ、タイガー。

 

 桜は大学院で就学中だ。実家から通っているらしい。朝は今までの習慣通り、衛宮邸で朝食を取ることにしていた。俺の視点から見れば、7年前と変わったことといえば全員がそれなりに年齢を重ねたことだろう。精神的にではなく、肉体的に。言いたいことはつまり、皆相変わらずだということだ。

 

「お、今日はアジの開きなのね。大根もちゃんと摩り下ろしてあるじゃない。」

 

「ああ。遠坂はパンがいいって言っているけど、今日はちょっと枚数が足りなくて。というか、開きに下ろしは必須だろ?」

 

「まあ同意するわね。…それにしても眠いわ。」

 

 喉が渇いたのだろうか、冷蔵庫から牛乳を取り出しながら遠坂が話しかけてきた。いくら魔術師といえども一人の人間。疲れれば睡眠が欲しくなるのは当然だ。特に遠坂はバーサーカーを従えている。魔力の消費からくる疲労も半端じゃないだろう。

 

「バーサーカーか。確か遠坂も正体が掴めないんだっけ?」

 

「ええ。さっぱりよ。」

 

「俺はまだバーサーカーを見ていないから何とも言えないけども、武器さえ見れば解析できると思う。よければ後で見てみようか?」

 

 俺の解析は、その武器の構造だけに収まらない。それが辿った歴史も解析することが可能だ。それによってバーサーカーの正体が分かるかも知れない。

 

 勿論万能ではない。前提はその武器の名前が分かることでサーヴァントの名前も判明することだ。歴史に名前を残していない武器では、その担い手を判定できない可能性もある。とはいっても参考にはなるだろう、と思う。

 

「うーん……やるだけ無駄じゃない?そもそも武器が見えてないから。」

 

「セイバーの風王結界(インビジブル・エア)みたいなもんか?」

 

「違うわ。あれは剣を不可視にするものだったでしょう?そうじゃなくて…黒い霧で完全に覆い隠しているのよ。武器だけじゃなくて全身をよ。あれじゃ解析のしようが無いと思うわ。」

 

「その霧を止めることは出来ないのか?」

 

「私にはコントロールできないわ。多分宝具の一種ね。令呪を使えば霧を止めることも出来るでしょうけど…。」

 

「そんなことに令呪を使うのも勿体ない気がするな。とりあえずは先送りかも知れないな。」

 

「そうね。…ところで、士郎にはセイバーの真名分かっているんでしょ?剣も見ているんだし、解析済みでしょう?」

 

「……たしかにそうなんだけど、」

 

「フェアじゃない、と言いたい訳ね。分かっているわよ、澪もアンタと同じようにセイバーの名前を聞かないでいる可能性あるものね。ここでアンタが私に話せば、当の本人以外が知っていることになる。」

 

「ああ。澪はしばらく仲間になるんだからな。」

 

 澪の返答は、イエスだった。つまり俺達と同盟を組み、聖杯の破壊のために動いてくれるということ。色々な理由から、この家に居候させることにした。戦力を分散させるのは良くないし、何よりもセイバーには傍に居て欲しかったからだ。

 

「うおおぉぉ!!死ぬぅ!」

 

 そのとき玄関から大声が聞こえた。間違いない。セイバーの声だ。肺活量が並外れているだろう、とんでもない大声で危機を訴える。

 

「―――ッ!!遠坂、玄関のほうだ!」

「まさかサーヴァント!?警鐘の結界は発動していないわよ!」

 

 まずい!まさか中への進入を許した挙句、戦闘まで行われていた!しかもセイバーが窮地に追いやられるほどの相手。一秒でも速く助けなければ!

 

 思案の刹那すらなく駆け出す。遠坂もやや遅れて駆け出す。戦闘の気配は感じない。まさかアサシンか何かに襲われているのか?隠密性の高いアサシンならば、丁々発止の打ち合いとはならないだろう。戦闘に気付けないということもあるかも知れない。

 

投影開始(トレース・オン)!」

 

 夫婦剣、干将莫耶を投影する。遠坂もポケットから宝石を取り出し、臨戦態勢に移る。廊下を騒々しく走りぬけ、玄関まで到達する。玄関は閉じられている。家に入る前に戦闘になったらしい。くそ、これなら居間から庭へ降りたほうが早かったか!

 

「大丈夫か!」

 

 びしゃりと引き戸を開け放つ。剣を交差させ、いつでも斬りかかれる体勢。

 

「大丈夫なものか!うお、この(ドラゴン)火を吐きやがった!」

 

 しかし目に飛び込んできたのは、大きなバッグを肩に下げて携帯ゲーム機を操作するセイバーの姿だった。白いゲーム機を必至に操作している。ああ、なんかこいつ子供っぽいなー。数分後の遠坂の憤怒が目に見える。悪霊退散。

 

「ああ、死んでしまった。この『げえむ』というのは中々に面白いな、ミオ。」

 

「え、と…荷物、取ってきました。」

 

 澪がその傍らで、大きめのバッグを持っている。このあまり宜しくない状況は伝わっているらしく、かなり所在なさそうだ。

 

「……なんでさ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 般若。羅刹。遠坂さんの剣幕は、まさしく怒髪天を衝くという形容がぴったりだろう。だが当のセイバーは何処吹く風。全く堪えていない。それどころか説教が終わるや否や、私が貸したゲームを再開しやがった。音がうるさいだろうからと、ご丁寧にイヤホンまでしている。

 

 おかげで、未だ燻っている遠坂さんの怒りの矛先は私に向けられるのだった。セイバー、サーヴァントはマスターを守るものでしょ?今がそのときだとは思わないかね。

 

「……マスターに玩具をねだるサーヴァントね…。」

 

 衛宮さんは未だに食事の支度中だ。今は遠坂さんと向かいあって座っている。そういえばお腹空いたな。結局夕食も食べていないし。

 

「最初はトランプとかをねだっていたんだけど、家にあったゲーム機に目をつけたみたいで…。」

 

「へえ。なんていうか、子供っぽいサーヴァントね。」

 

「聞こえているぞ、リン。…なあ、ミオ。この敵はどの部位を破壊できるのだ?」

 

「…尻尾を切り落とせるわよ。あと、両方の翼と頭部。」

 

「なるほど。…あ、貴様!『空の王者』なんだろうが、また逃げまわる気か!」

 

「…遠坂さん、サーヴァントって過去の英雄ですよね?」

 

「そうよ。…ここまで順応しているのも珍しいでしょうけどね。」

 

 室内で鎧姿なのが気に食わないという私の意見もあり、セイバーは今甚平に着替えている。衛宮さん曰く、亡くなったお父さんのものらしい。サイズはぴったりだ。金髪の外国人に甚平というのも奇妙な組み合わせだが、似合っているといえば似合っていた。

 

「ミオ。翼と頭が狙いにくいのだが。」

 

「…アンタの装備、片手剣じゃない。もっと大振りの武器のほうが狙いやすいと思うわよ。私は片手剣使ったことないから分からないけど。」

 

「何をいう。右手に剣、左手に盾。この私と同じではないか。これ以外を使うつもりは無いぞ!」

 

「じゃあ根性でどうにかしなさい。」

 

「……アンタ達仲いいわね。」

 

「はっは。当然ではないか。」

 

 そのときである。玄関からチャイムの音が聞こえた。こんな朝早くから誰だろう。まだ早い時間だというのに。

 

「「……あ。」」

 

「「?」」

 

 前者の呟きは衛宮さんと遠坂さんのもの。後者の疑問符は私とセイバーのものだ。衛宮さんと遠坂さんは、何か重大なことを忘れていたかのような顔を作っている。士郎さんに至っては、なんか脂汗が全身から吹き出ているような気がする。

 

「しししまった!藤ねえと桜にこの二人のことなんて説明しよう!」

 

 士郎さんが目に見えてうろたえている。ちょっと面白い。

 

「落ち着きなさい、士郎。いい?二人とも口裏を合わせなさいよ。えーと…セイバーは今すぐ霊体化するか、偽名を考えなさい。」

 

「?…心得た。」

「?…はい。」

 

 霊体化は嫌なようだ。何しろゲームがいいところらしい。霊体ではゲームの操作はできないというのは道理だ。いいからさっさとゲーム終わらせなさい。

 

 そのときである。ドタドタという音が廊下から響いてきた。なんかハイテンションな足音という表現がしっくりくる。

 

「おっはよーーーう士郎!あ、今日は遠坂さんも一緒なんだー。」

 

 居間の扉を元気いっぱいに開け放ちながら飛び込んできたのは一人の女性。なんか虎を彷彿とさせる服を着ている。

 

「あ、ああ。お早う藤ねえ。」

 

「お早うございます、藤村先生。」

 

「うん、お早う。あれ?この人たちはどちら様?」

 

「知り合いです。この二人はしばらくこの家に居候させることになりましたので。」

 

 惚れ惚れするぐらいに直球ど真ん中。もう少し遠まわしな言い方があるんじゃないか。遠坂さんは目線で、今は黙っていろと伝えてくる。

 

「ふーん、そうなんだー。…え?」

 

 ほら、あまりにも剛速球すぎてこの教師らしき女性――藤村さんというらしい――がビシリと音をたてて氷結しているではないか。

 

「お早うございます、先輩。遠坂先輩も今日は一緒なんですね。」

 

 続いて現れたのは、何やら大人しそうな美人。清楚で物腰の柔らかいイメージ。私と目が合って、若干不審げに会釈をする。

 

「ちょちょちょちょっと待ったーーー!!そちらはどちら様よ!そんなどこの馬の骨ともわからない人間を寝泊りさせるなんて、お姉ちゃん許しません!」

 

「え?この人達を泊めるんですか先輩?!」

 

「い、いや藤ねえ…」

「藤村先生?この二人は、私たちの研究チームのメンバーでして。」

 

 …そういうことか。この二人は一般人に違いない。口裏を合わせろというのは、きっと上手いこと魔術師であることを隠せと言いたいに違いない。しかし研究とはどういうことだろう?夜歩きの言い訳にでもしているのだろうか?

 

「む。天体観測だっけ。」

 

「ええ。近々、彗星が地球に近づく可能性が高いということでして。日本ならどこでも観測できますので、ここ冬木で観測をするということです。」

 

 …なに、その言い訳は?確かに天体観測ならば夜更かしの言い訳もできるかも知れないけれども、もっと上手な言い訳ができなかったのだろうか。というか、その話を信じたのだろうか、この人は。

 

「むむむむ。そこの二人の素性はわかったわ。しかーし!いつからここは愛の宿屋になったのか!そんな卑猥なカップルを寝泊りさせるワケにはいきません!私には刺激が強すぎます!ただでさえ士郎と遠坂さんで飽和状態だというのに!」

 

「…は?」

 

 素っ頓狂な声を上げてしまった。誰がカップルだ、誰が。誰と誰がカップルだと言いたいのか。私か?私とセイバーか?なるほど、その目は節穴なのか。

 

「はっはっは。ミオは恋人ではありませんよ。私の友人です。」

 

 セイバーはゲームから手を離し、虎っぽい女性のほうへ歩み寄る。画面を見てみれば無事に返り討ちにあったみたいだ。ざまあみろ。

 

「信じられますか!そんな青い目をした外人さんの言うことなど!大体貴方はどこの国の方ですか!」

 

「フランスですよ、マダム。」

 

「私は未婚だこんちくしょーー!」

 

「それは失礼。ではお美しいお嬢さん(マドモワゼル)、どうかここに泊めていただけないだろうか。」

 

 気障っぽく手の甲にキスをしてみせる。ただし甚平で。あれで高貴な服でも着ていれば似合っていたかも知れないのに。傍から見ればただのバカだ。

 

「そうですかようこそ日本へ。士郎、お姉ちゃん許可しちゃいます。」

 

 今確信した。たぶん、セイバーの生前は女たらしか、とんだお調子者に違いない。たぶん後者だろう。なんとなくジョークでやっている風な雰囲気だ。

 

「あ、名前ななんて言うのー?」

 

「…八海山澪です。」

 

「リオだ。」

 

アンタそれさっきまでやっていたゲームから取っただろ。そのネーミングセンスはどうなんだ。

 

「ん。八海山ちゃんとリオくんねー。私は藤村大河、よろしく。」

 

「ま、間桐桜です。」

 

 桜、なんかだか綺麗な名前。この人の雰囲気にあっているような気がする。さっきからあまり会話に加わっていないが、特に気にする必要もないかな?

 

「桜も構わないか?その、今後はしばらく大所帯になるけれど。」

 

「え、は、はい。私は構いませんが…。」

 

「うんうん、賑やかでいいねー。」

 

 貴方さっきは全否定だったじゃないか。泊めてもらう側が言うのもおかしいから黙っているけれど。というか底抜けに元気な人だ。

 

「じゃ、士郎ごはんにしよー。」

 

「あ、先輩手伝います。」

 

「ああ、いいよ。もう配膳するだけだからさ。座っていてくれ。」

 

「そういう訳にはいきません。配膳は私がしますから、先輩こそ座っていてください。」

 

 桜さんがエプロンを身に付けながら台所に入る。なんだか夫婦漫才を見ている気分だ。というか士郎さんの恋人は遠坂さんじゃなかったっけ。もしかして、女たらしはこっちの方だった?…あまりそういう風には見えないから、天然なのかも知れない。…余計に性質が悪い気もする…。

 

「うーん、セイバーちゃん以来のお客さんねー。人数は6人、過去最高記録よ、コレ。」

 

 ああ、そういうことか。士郎さんと遠坂さんは前回の聖杯戦争の生き残りだったらしい。つまり、この家に前回のセイバーが居たのだろう。『セイバーさん』が二人居ては面倒だ。同じ名前というのも苦しいだろう。

 

「ところでリオさんはお箸持てますか?」

 

 台所から桜さんの声。そういえばサーヴァントって食事するのかな?元が霊なんだから必要ない気もするけれど。

 

「いやあ、日本に来てまだ一日程度でしてね。難しいかもしれません。ですが何事も経験、是非挑戦してみたいですね。」

 

 この様子だと食べるには食べるらしい。そそくさとテーブルの端に座り、食事の用意が整うのを待っている。しまった、居候が率先して手伝うべきだったな。

 

「そうですか。一応ナイフとフォークも持ってきておきますね。」

 

「ああ、申し訳ないです。」

 

 そして士郎さんと桜さんが手際よく配膳を終えた。一応、二人には小声で手伝えなくて申し訳ない旨は伝えておいた。

 

「お、今日は開きかー。いいわねー、日本の朝ってかんじで。」

 

「ほう、これが日本の食卓というものなのですか、タイガ。…箸の持ち方はこうであっているのか、ミオ?」

 

 聞けば聖杯からある程度の知識は与えられるらしい。だがそれは知識であって経験ではない。セイバーは苦労しいしい箸を持つ。でもまだ箸を持つには些か早い。

 

「合っているわよ。でもとりあえずは置いておきなさい。」

 

 そして程なくして全員が座る。6人で座るとなるとやや手狭に思えるけれど、問題はなさそうだ。

 全員で揃えて言うことはないが、各々はいただきますと一声かけてから箸を動かし始める。それをセイバーも真似る。

 

 やはり箸は慣れないようでやや危なっかしいが、ちゃんと箸は使えているようだ。まあナイフとフォークで開きを食べるのは難しいと思うけれど。

 

「おお、これは旨い!」

 

 ほうれん草が入った味噌汁を一口啜る。あ、本当に美味しい。次に厚焼き玉子を一切れ口に運んだが、これも上品な甘さがある。開きも焼き加減が絶妙だ。

 

「和食が口に合ってよかったよ。」

 

「でしょー!士郎のごはんはおいしいんだから!」

 

 何故か藤村さんがエヘンと胸を張る。

 

「ですな!いや、日本は食事が旨いと聞きますが、よもやこれ程とは。」

 

「ふふ。おかわりはいかがですか?」

 

「勿論食べるわー!」

「いただけますか?」

 

 決して下品ではないがすごい速さで箸を動かしている。藤村さんとセイバーが、だ。これほどの食いっぷりなら、さぞ作ったほうは気持ちがいいだろう。

 

「ふふふ…。リオくん、あなたも良い食べっぷりね。セイバーちゃんに匹敵するわ。」

「はっは。タイガもなかなか。」

 

 士郎さんと凛さんは、苦笑いを浮かべている。理由は知らないけれど、あまり突っ込んでいかないほうが良い気がする。

 

 テレビは点けっぱなしで、延々とニュースを流している。どうせ相変わらず、大した事件も報道していないのだろう。みんな、一応は耳を傾けているが、あまり興味なさげだ。

 

 だが、次の瞬間に聞こえてきた極めて物騒な事件に、全員が会話を中断してテレビを見る。私はテレビから一番遠い席だったから見えてしまった。士郎さんと凛さんの表情が、怒気すら感じるほどに強張っているのを。

 

「“では次のニュースです。○○県冬木市で、昨夜未明に殺人事件が起こりました。被害者は―――”」

 



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Act.10 嵐の前

「“では次のニュースです。○○県冬木市で、昨夜未明に殺人事件が起こりました。被害者一家は自宅内に押し入った犯人によって何らかの方法で殺害されたとの情報です。”」

 

「んー。また物騒な話ね。桜ちゃん、士郎?戸締りはしっかりするのよ?士郎と凛ちゃんはあまり夜歩きしないこと!」

 

 めっ、と人差し指を突き出す。こういうところは教師らしい。言うことはちゃんと言うようだ。そして我関せずと食事を続けるセイバー。お願いだからちょっとは空気を読んで。

 

 しかし、これは軽視できる事態なのだろうか。士郎さんと遠坂さんの様子は尋常ではない。空気を壊さないようにすぐに平常を取り戻したが、あの一瞬の表情はただ事ではなかった。

 やっぱり、聖杯戦争絡みだろう。何の目的があるのか知らないけれど、きっと私と同じパターン。常軌を逸したサーヴァントないしマスターが、凶行に走ったということなのだろう。

 

 ―――また思い出してしまった。ローブの魔女ではなく、父と母の死体。父は殆ど跡形もなく、母は心臓を一突きにされて死んだ。前者はもはや人ではなく、ただの肉塊だった。後者はまるで眠っているようだった。

 

 ああ、そうよ。私と同じような境遇の人を一人でも減らせるなら、私にそれが出来るなら、出来ることをやろうと決めた。それが、私が士郎さんと遠坂さんと結託した理由。この二人ならきっと信用できる。そう思った。

 

「藤村先生?そろそろ行かなくて大丈夫ですか?」

「え?あ、あー!マズイわ!」

 

 教師ともなると朝は早いのだろう。ちょっとテレビに気をとられすぎたせいか、時間がおしているようだ。

 すごい勢いで食事をかきこむ藤村さん。不思議なことに私には皿の中身が消滅したようにしか見えない。消滅イリュージョンの一種だろうか。

 

「いってきマース!」

「こけるなよ、藤ねえ!」

 

 そして嵐のように立ち去って行く。本当に元気な人だ。一方私は眠い。昨夜は寝てない上に、ハードだった。実際のところハードどころじゃなかったけれど、疲れたことには違いない。

 

「八海山さんは寝ていないのですか?何だか眠そうです。」

 

 ありゃ。顔に出ていたか。ちょっと反省。

 

「ええ…その、今朝まで観測をしていたもので…。」

 

「あら、じゃあ皆さん寝ていないんですか?」

 

「ええ、そうよ。だから朝食が終わって一息ついたら寝させていただくわ。桜は今日も学校でしょう?」

 

「はい。私もそろそろ行きますね。先輩、申し訳ないんですけど、後片付けお願いできますか?」

 

 残った全員がほぼ同時に食事を終え、桜さんが席を立つ。どうやら桜さんもあまり時間に猶予はないらしい。そそくさと部屋の隅に置いていた鞄を拾い、時間を確認する。士郎さんは手際よく食器を流しへと運んでいる。

 

「ああ、気にしないでいいよ。」

 

「すみません。では行ってきますね。」

 

 藤村さんと違い、ぱたぱたという音を立てて玄関へと向かっていった。うーん、遠坂さんも美人だけど、桜さんも違った方向で美人だと思う。悔しいけどこの二人には適わないかも知れない。

 

「さて、魔術師(わたしたち)だけになったところで、大事な話ができたわ。士郎も片付けは後にしてちょうだい。」

 

「わかった。」

 

 桜さんが家を出て行ったのを確認するや否や、遠坂さんが切り出した。基本的にリーダーシップを発揮するのは遠坂さんのほうらしい。

 

「さっきのニュース、士郎はどう思う?」

 

「…サーヴァントの仕業、と思うのが妥当じゃないかな。

 

「私もそう思う。でもそんなことをする理由があるの?」

 

 そう。今までそれが分からなかった。私の父と母が殺された理由。サーヴァントが人を襲う理由が、そっくりそのまま答えになるのではないだろうか。

 

「…人の魂を喰うためよ。」

 

「人の、魂を…?」

 

「澪、サーヴァントが基本的には霊であることは説明したよな?」

 

「ええ。――――!?ま、まさか?」

 

「そうよ。サーヴァントは人の魂を喰い、それを取り込むことで魔力を蓄えることができる。つまり、人を殺せば殺すほどタフになっていくわ。」

 

「つまり、力のないマスターや弱いサーヴァントは、一般人を襲って力を蓄える―――?」

 

「そういうことだ。澪の両親を殺したのは、前回のキャスターだ。アイツも魔力を蓄えるために人々を襲っていた。時には、そういうことも厭わないマスターやサーヴァントもいるんだ。」

 

 ――――ふざけるな!そんな、そんな下らない理由!?つまり、私の両親はただの餌として殺されたということ!?ああ、断言できるわ。今、目の前に前回のキャスターとやらが現れたら間違いなく殴殺している。セイバーの手によってではなくて、私自身の手で縊り殺さなければ気が済まない。

 

「だ、大丈夫か澪?!ちょっと落ち着け。」

 

「…ごめんなさい。ちょっと取り乱しちゃったみたい。…つまり、セイバーもそうしようと思えばできるの?」

 

 何故だろう。急にセイバーがちょっと怖くなってしまった。きっと、この優しげな青年が一般人に剣を抜く景色を想像してしまったからだろう。

 

「そういうことだ、ミオ。だがこの私にそれを実行させようと思うのなら、引き換えにその手の令呪の一画と、私との信頼を犠牲にしてもらう。」

 

 きっとそれはセイバーにとって侮辱だったのだろう。少し強張った顔で、怒ったように言い放つ。

 

「ふざけないで。むしろ絶対にするなって令呪を使いたいぐらいよ。」

 

 ああ、よかった。やはりセイバーはセイバーだった。この青年にそんなことをさせたくはないし、させるつもりもない。私の回答に満足したのか、顔の筋肉を少しだけ緩めた。

 

「話を続けてもいいかしら?そういう理由があって、今後もコイツは人を襲い続けるでしょうね。」

 

「そ、そんな―――!早くソイツを止めなくちゃ…!」

 

「そうね。その通りよ。だから私は、今後はコイツを討つことを考えようと思っているんだけど、どう?何か異論は?」

 

「俺はない。」

「私もないわ。…セイバーは?」

「ない。このサーヴァントを野放しにするのは癪だ。」

 

「決定ね。じゃあ今晩から動くわよ。とりあえず、今は全員眠いでしょう?サーヴァントが動くのは基本的には夜なんだから、今は睡眠を取っておきましょう。」

 

 それは賛成だ。霊であるセイバーはそうでもなさそうだが、少なくとも私は凄く眠い。セイバーに魔力をガンガン持っていかれているというのも勿論ある。これには少し慣れが必要そうだ。

 

 一同は解散し、それぞれの部屋に戻る。私に宛がわれたのは離れの一室。遠坂さんと一室空けて隣の部屋だ。どうせ部屋は余っているらしい。音が漏れそうな隣に陣取ることはないだろう。とくにセイバーは声が大きくて騒がしい。典型的な声のボリュームを調節できない人だ。

 

 鞄の中身から一冊の本を取り出す。寝る前の日課だ。睡眠前にこれを読み解くのが、数年前からの私の日課。死んだ父の書斎より発見した一冊の本。難解な暗号を用いていて、私にはてんでさっぱりだ。何か重要なことを書いているらしいけれど、読めなければ意味もない。

 

「なんだ、それは?」

 

 ベッドに潜り込んで本を開いた私にセイバーが語りかける。本は赤絹で装丁されたもので、重厚な雰囲気を纏っている。興味をもつのも当然だろう。

 

「多分、形見なんじゃないかな?」

 

「多分とはどういうことだ?」

 

「読めないのよね。暗号化されているみたいで、私にはちょっとサッパリね。いずれ読み解いてやろうと思っているんだけれど。」

 

「ほう…。」

 

 本の中身を覗き込んでくるが、一言漏らしただけだ。やはりセイバーにも読めないらしい。まあ、そう簡単に読み解かれては私の立つ瀬が無いのだけれども。

 

 再び本に集中する。何やら見たこともない文字が並んでいて、どう訳せばいいのか分からない。アルファベットでも、ルーンでも無ければ、アラビア文字でもヘブライでもない。

 

「だめね、やっぱりサッパリだわ。これ解読法を知っていなきゃ読めないように出来ているとしか思えないわよ。」

 

「はっは。精々諦めないことだな。」

 

「他人事だと思って…。まあいいわ、私は寝るから静かにしていて頂戴。」

 

「心得た。では外で見張りでもしていようか。」

 

 セイバーの姿が掻き消え、気配すらも部屋から無くなる。あの大声が隣にいては落ち着いて寝られない。もう世間では活動を始めている時間だが、眠気には勝てない。ああ、そういえば学校休まなくちゃ。寝る前に楓にメールしとこう。美希だとメールを無視する恐れがある。

 

「今日は休むから出席取れる分は代わりにやっといて。あと配布物も私の分お願い、と…。うん?しばらく休むことになるのかな。…まあいいや、とりあえずコレで。」

 

 自分は絵文字というものが嫌いなので、必要なことだけを簡潔に書いた味気ない文だ。

 

 やることをやったので本格的に寝る体制に入る。風呂は…起きてからでいいや。場所もよく分からないし。

 

 今日は本当に色々なことが起きた。今日は変な(トラウマ)も見ずに済みそうだ―――。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

「ハ、ハハハハハ!」

 

 笑い声の主は間桐慎二だ。彼がいるのは冬木教会の地下。僅かな蝋燭の明かりしかない薄暗闇の中で彼の声が木霊する。その手は血まみれ。きっとその血は、彼の足元に転がる死体のものだ。

 

「お気に召しましたかな?シンジ。」

 

 声に答えるのはキャスターだ。今は臓硯の指示により慎二をマスターとして仰いでいる。彼は血を浴びておらず、慎二と少し距離を置いて対峙してた。

 

「ああ…!最高だよ、キャスター…!」

 

 慎二はこの7年のことをすっかり忘れ去っていた。彼の時間は、高校時代まで逆行している。それでも学校に行こうとしないのは、キャスターによる刷り込みゆえだ。

 

「それは良かった。」

 

 にたり、とキャスターも粘着質な笑みを零す。慎二の残虐性が過去のそれよりも増しているのは、自らが殺めたその死体の血の匂いに当てられたからだろうか。

 

 うぞり、と周囲の闇が揺らめいた気がした。蝋燭の光が届かぬ闇の中から、確かに何かが動く気配がある。キャスターと慎二以外にも何者かがこの空間にいるのだが、慎二はそれを気にも留めない。ただ、無作為に選ばれた不運な生贄をいたぶることしか頭にない。

 

 死体は一つではなかった。一人は青年。一人は老婆。またある一人は少女。およそ統一性がない面々だが、共通しているのは一つとして五体満足ではないことだ。

 

「…ん?」

「おや。」

 

 両足を引きちぎられてもまだ息があったのだろう。少女が残った両手で体を引きずりはがら這う。そしてその手は慎二のズボンの裾を掴み、涙を溜めた目で彼を見上げていた。

 

「…タ、…タス、ケ…」

 

 すでに喉を潰してしまったのだろう。その声は少女のものとは思えないほど掠れてしまっている。

 

「何だよオマエ。誰に許可をもらって僕に触れているワケ?」

 

 慎二はそんな必至の声が気に入らなかったのだろうか、明らかに不快な顔を作る。足を掴む手を振りほどき、その顎をつま先で強く打つ。

 

「――――!!」

 

 少女は声にならない声をあげてのたうち回る。両足は既に無いため、まるで蚯蚓がのたうち回っているようだ。

 

「さっさと死んじゃえよ、オマエ!」

 

 少女を蹴った足を頭に振り下ろす。ぐしゃり、びちゃびちゃ。少女は、まるで水風船のようにその中身をぶちまけ息絶えた。頭を無くした四肢は力なく弛緩し、時々思い出したように痙攣を繰り返す。

 

「ヒャハハハハッ!何だよオマエ。もうちょっと粘れよな!」

 

「ふっふふふ。」

 

 慎二とキャスターの笑いに合わせるように、またも何者かが蠢く。その空間は血の匂いで充満していて、そこに居合わせた何者かはそれに群がっているに違いない。

 

「これなら…!これならお爺様だって見返せる。ああ、桜なんか目じゃないさ。衛宮だって僕に泣いて許しを請うに違いない…!」

 

「ふふふ…。シンジ、私は所要があります。その者たちは、煮るなり焼くなり好きに調理なさるといいでしょう。」

 

「ああ。今夜にはまたエモノを探しに行くぞ。それまでに帰って来いよ。」

 

「仰せのままに、シンジ。では私はこれで。」

 

 音もなくキャスターはその場から立ち去る。背を向けたその重い扉の向こうには、まだ慎二と哀れな生贄がいる。耳を澄ませば、ぐちょり、ぐちゃり、と生々しい音が聞こえる。それを無視して石造りの会談を上る。

 

「ふ、ふふふ…。マスターの目を確かだった…!彼は素晴らしい。ああ、何と醜くて美しいのだろうか。あのどす黒い衝動、あの偽らぬ衝動…!ああ、あのヴァルプルギスよりも甘美な興奮…!」

 

 キャスターは自身をその手に抱き、身を震わせる。しかし突如その形相は怒りへと変貌する。中庭へと進み出て、数時間前までは快晴であったのに今は曇り始めた天へと両手を掲げる。

 

「だがまだ足りない!まだ研鑽を極める必要がある…!あれでは足りない、もっと遥かな高みの境地へ!」

 

「呵呵。学問への欲求には果てが無いと見えるな、キャスター?」

 

 突然声をかけられ、驚いたのかキャスターが平静を取り戻す。振り乱した髪を手早く整え、普段の調子を取り戻した。

 

「…マスターですか。これは見苦しいところをお見せしました。…如何なさったのですかな?」

 

 中庭の薄暗がりの中に一つの輪郭が現れた。此処の地下に存在する気配と似ているが、ぞわりと纏わりつくこの気配は間桐臓硯しかあり得ない。

 

「なに。少しばかり近況を聞いておこうと思ってのう?」

 

「全ては順調でございます。ご子息はマスターの見立てどおりの人材でございました。」

 

「おお、それは重畳。貴様の力も十分に蓄えられつつあるかの?」

 

「ええ。お望みとあらば、すぐに首級を上げてみせましょう。」

 

「カカカ…。それは頼もしいのう。だが焦らずとも良い。今後の方針は慎二と貴様に任せることにしたでの。好きに動くといいわ。」

 

「御意に。」

 

 話すことは全て話したのか、その輪郭は崩れて姿を消す。一人になったキャスターはもう一度天を仰ぐ。その頬を一滴の雫が打つ。ついに降り出したようだ。

 

「まだ贄が足りない…。我が研究はまだ終えられない。あんな出来損ないではまだ足りぬ。まだ、まだ私は満足できぬぞ!」

 

 まるで空の底が抜けたかのような大雨が到来した。その雨は果たして恵みの雨か、それとも災厄の雨となるか。

 

「――――!!」

 

 キャスターはその大雨の中で何かを叫ぶ。だがその声は雨音にかき消されて誰にも届かなかった。

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

「ランサー、昨晩の戦いは見事であった。」

 

「有難き幸せ。」

 

 スカリエッティとランサーはあるホテルの一室にいた。昨晩襲撃を受けた部屋は引き払った。狙撃に晒される陣地に留まる理由はない、というのはランサーの進言である。

 

 確実に質は劣るが、これはこれで趣がある。スカリエッティは不満そうだが、ランサーは割りと気に入っていた。この質素な雰囲気はランサーにとって好ましい。先日までのただ豪華絢爛なだけの部屋よりはよほど好みに合っている。

 

「だが…宝具まで使用しておきながら、首級の一つも上げられないのは何故か?」

 

「…申し訳ありません。偏に私の力不足ゆえ。」

 

「ふん?そんなことは分かっている。何故アーチャーの背中を襲わなかった?あの女を追わせて、背後から刺し穿てば良かったのではないか?」

 

「…思い至りませんでした。」

 

 その言葉に嘘偽りはなかった。ランサーにはそのような考えなど、初めから存在していない。スカリエッティに揶揄されてようやくその選択肢に気付いた。聖人ロンギヌスにとって、騙し討ちなどあってはならないことだ。

 

「はん。先行き不安だな。」

 

「申し訳ありません。」

 

 スカリエッティの怒りとは、烈火のごとく怒り狂うものとは違う。静かに、それでいて纏わりつく嫌味という形で発揮される。喚かないだけ大人だとも言えるが、その意地の悪さは大人気ないとも言える。

 

 珍しく今は酒を呷っていない。気分が乗らないのか、考えを改めたのかはわからない。だがランサーはとりあえず良い傾向だと思っていた。だからこの嫌みったらしい言葉も甘んじて受けている。

 

「この挽回はどのようにするつもりかな?」

 

「今晩、キャスターを討とうと。魔術師殿に昨晩申したように、是非ご同行願いたい。」

 

「ふむ…。まあいいだろう。貴様一人で行けと言いたいところだが、既に決めたことだからな。」

 

「痛み入ります。そこで、魔術師殿の意見をお聞きしたいことがあります。」

 

「なんだ?」

 

「昨晩の殺人事件は既に耳に入っているかと思います。この事件、もしもキャスターの仕業であるとすれば、どのような事態が予想されますか?」

 

 ランサーはこの事件の犯人をキャスターであると思っている。考えれば簡単なことだ。未確認だが、冬木教会を強襲したのはキャスターであるのはほぼ間違いない。そのような輩である。一般人を巻き込む可能性も高い。

 

「さあな。単純に魔力源として殺したのだろうよ。」

 

 スカリエッティにも分からないようだ。当たり障りのない回答を返す。

 

「では今晩に冬木教会へと向かいます。今のうちに休養を取られるのが宜しいかと。」

 

「言われるまでもない。それまで貴様は見張りでもしておけ。貴様がまた間抜けをやらかして、狙撃されるかも知れんからな。」

 

「…御意。」

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

 ―――先頭情報(ヘッダ)、受信。

 

 ―――同期処理、完了。連続的(シーケンス)制御、完了。

 

 

 

 

 

 目の前に現れた光景は、ある軍の行進だ。万の騎馬は、騎手も馬も皆甲冑を身に纏っている。もっとよく辺りを見渡せば、そこはどうやら山嶺であるようだ。冬はもう訪れている。針葉樹の葉には雪が積もり、一層寒気を掻き立てる。

 

 そこに彼の姿があった。砂金を零したような色の髪と瞳。優しげな顔立ち。見れば他の騎馬の官給品とは違い、名匠が手がけたのであろう鎧を身に付けている。腰にはあの剣の姿もある。

 

 そして、彼の傍にはもう一人だけ豪奢な鎧に身を包むものがいた。彼と同じように金の髪。全体的に線の細い優美な顔立ちをしている。きっと普段ならばどんな女性も蕩けさせるような顔立ちは、今は険しく強張っていた。

 

 ―――どうしたのか。我が友よ。

 

 彼は男に尋ねる。だがきっと、彼は男の心中は分かりきっていたのだろう。その口調は不思議がるでもなく、ただ優しく問いかける。

 

 ―――本当に良かったのか?

 

 男が尋ねる。その顔は何か不安を抱えているように思える。よくよく見れば、周りの兵たちもどこか落ち着きがない。しきりに後方を振り返り、何かの姿を探している。

 

 ―――無論だ。

 

 もう何度も成された問答だったのだろう。男はやはりか、と小さく漏らして溜息をつく。そして何か思いつめた顔をし、こう切り出した。

 

 ―――友よ、この戦いの正義は我らにあるのだろうか。

 

 ―――何を言っている?君はそうは思わないのか?

 

 心底意外そうに彼は問い返す。男はその問いに答えず、ただ沈黙を返すのみだ。そしてややあってからようやく口を開く。

 

 ―――分からない。ただ僕は時々そう思うのだ。

 

 ―――私にも分からん。だがその悩みはこの遠征が終わってからにすることだ。戦場でそのようなことを考えていると、危険だぞ。

 

 ―――ああ。そうしよう。

 

 その時である。後方より声が聞こえた。敵が現れたぞ、と。

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

 どこからだろう。途中から気付いていた。今の情景は自分の記憶にはないもの。きっと彼の記憶だろう。彼とは霊的に繋がっているのだ。記憶を垣間見ることがあっても不思議ではないだろう。

 

 夢を見る前に、何やら私の魔術的な特性が動いていた気がするのが気になるけれど…考えても分からない。分からないことは考えないに限る。

 

「…惚けたヤツだと思っていたけれど、生前は真面目そうじゃないの。」

 

 少なくとも今の映像には、現世での浮ついたところがない。いや、それは分からないかな。夢でみた情景はどうにも深刻な場面だったようだ。セイバーがアーチャーと戦っていたときのことを考えれば、そこまで違和感のあるものではない。

 

 それよりも。このことをセイバーに言ったほうが言いのだろうか。人の記憶を覗くなんてことをしてしまったのだ。一言セイバーに言ったほうがいいかもしれない。

 しかし記憶を覗かれたと知って気分がいい筈はない。黙っているほうがいいかな。

 

 ―――うん。黙っていよう。素晴らしき日本の精神、事なかれ主義。

 

 じゃあ取りあえずはお風呂だ。やはり風呂に入らずに寝ると、全身がベタついて気持ちが悪い。士郎さんはもう起きているだろうか。風呂の場所を聞きたい。

 

 枕元に置いておいた時計を見る。時刻はおよそ2時。完全に昼食時を逃している。大体7時間は寝た計算になるだろうか。ちょっと寝足りない気もするが、そこは我慢。少なくとも体の疲労はある程度解消できた。代わりに軽い倦怠感もあるが、これ以上寝れば余計にだるくなる。

 

 気がつけば外は雨のようだ。きっと土砂降りなんだろう。嫌だな、雨はなんとなく憂鬱になる。

 

 軽く身なりを整えて部屋を出る。すると丁度、セイバーが部屋の前に立っていた。その手はノックをする形で止まっている。何となく負い目があって、つい目を逸らしてしまった。

 

「良いタイミングで起きたな、ミオ。シロウがそろそろ起きて欲しいと言っていたぞ。」

 

 乙女の寝室に忍び込むつもりだったのか、と言いそうになったが飲み込んだ。ノックして反応がなかった時は遠坂さんあたりを使っていたに違いない。

 

「そう。ありがとう。」

 

「風呂に入りたかったら使ってくれとも言っていた。場所も聞いておいたが、どうする?」

 

 士郎さんはなんて気の利く人だ。なんか、家主に気を使わせてしまって気後れしそう。だけど素直に有難いのでその申し出を受けることにする。

 

「入るわ。どこ?」

 

「こっちだ。ああ、上がったらなにやら軍議をするとも言っていたぞ。」

 

 きっと今晩の具体的な行動を決めるのだろう。まだ時間はあるが、有事に備えようと思えば早めにやるに越したことはない。

 

「ん。分かったわ。」

 

「ここが風呂場だそうだ。ではゆっくり疲れを落とすといい。」

 

「ありがと。覗いたらコロ…残念なことになるわよ。主にセイバーが。」

 

「はっは。肝に銘じておこう。」

 

 本気で覗いてくると思ったわけではないが、一応釘は刺しておこう。柳に風と受け流しているあたり、セイバーも覗く気がなかったのは見て取れる。

 

 さて、じゃあ体の汚れと疲れをちゃんと落としておくことにしますか。今夜も中々にハードそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっぱり、ニュースの『何らかの方法で』というくだりが気になるわね。」

 

 士郎と凛の姿は居間にあった。少し前に起きて、二人ともすでに風呂に入っていた。今はテレビの特集に耳を傾けている。話題はやはり、冬木で起きたらしい殺人事件についてだ。

 

「遠坂もそうか。変死体…ということか?」

 

「恐らくそうでしょうね。となると、ますますサーヴァントの可能性が高いわ。」

 

「昨日、俺が出会ったサーヴァントはアーチャーだけだ。こいつは候補から外してもいいと思う。」

 

「あとライダーにも出会ったぞ。残るはランサー、アサシン、そしてキャスターということになるかな。」

 

 澪を風呂場に案内した後、セイバーは居間に移動していた。士郎たちと情報を交換する目的である。澪の姿は当然ないが、この程度なら澪がいなくても問題はないだろう。

 

「アサシンがこんな目立つ行動をするとは考えにくいわね…となるとランサーかキャスターね。個人的にはキャスターという気もするわ。」

 

「俺もそう思う。前回のキャスターの例があるからな。」

「私も同意見だ。ランサーとは槍の騎士だ。騎士道に反した行いをするとは思いたくない。」

 

「やっぱキャスターの可能性が濃厚、か…。」

 

「…お待たせしましたー。」

 

 重い空気にやや気後れしたのだろうか。風呂上りの澪がおっかなびっくり居間にやってくる。やはり待たせていることが気がかりだったのだろう。ゆっくり風呂に漬かっていたという時間ではない。

 

「何だ、もっとゆっくりしていて良かったのに。」

 

「全員が揃ったみたいだし、今晩の動き方を決めるわよ。」

 

 全員が重々しく頷く。

 

「とりあえず、今夜は冬木教会に行こうと思っているの。」

 

「何故か?」

 

 セイバーがすぐさま尋ねる。やはり無駄に動き回りたくはないのだろう。その行動の理由から聞きたいようだ。

 

「教会にいる聖杯戦争の監督役からの連絡が途絶えたわ。澪の正式なマスター登録という意味も込めて、今日は教会へ行こうと思うの。」

 

「そこにキャスターが居るのか?」

 

 再びセイバーが聞く。

 

「分からないわ。もしかしたらアーチャーかも知れないし、ランサーかも知れない。アサシンかもね。」

 

「だけど遠坂。もしもキャスターが居るなら、そのまま突っ込むのは危険じゃないか?」

 

「シロウ。貴方は私を見くびっているのか。魔術師ごとき、この剣で切り伏せてくれよう。」

 

「セイバー、多分士郎さんが言いたいのはそういうことじゃないと思うけれど。」

 

「セイバーを見くびるわけじゃないけれど、確かにセイバーだけだと智謀策略を駆使されると危険になるかも知れないわ。だけど、こちらにはバーサーカーも、私もアンタも澪もいる。大抵の状況は打開できると思わない?」

 

 士郎は前回のキャスターを例にとって考える。確かに、セイバーの高い対魔力とバーサーカーの火力があれば問題ないという気もする。加えて数に物を言わせた高い戦力もある。士郎や凛にとって澪は未知数だ。だが士郎は澪がアーチャーを相手に生き延びたことを知っている。自分が居なければ危ないところだっただろうが、それでも数分は自力で逃げ延びたことは間違いない。足手まといにはならないはずだ。

 

「…そうかも知れないな。うん、問題なさそうだ。」

 

 何度か考えを反芻したのだろう。その末に問題ない、と結論づけたようだ。

 

「…もしも他のサーヴァントだったときは?」

 

 澪が発言する。士郎と凛がやや思案するが、セイバーは即答した。

 

「なおさら問題ない。」

 

「…でしょうね。アサシンが不安要素ではあるけれど、セイバーなら勝てると思うわ。」

 

「セイバー、アーチャーが遠距離から狙撃を仕掛けたとき、それに対応できるか?」

 

「…それは難しいかも知れない。私には遠距離攻撃に対する加護の類は無い。相手の姿を視認していれば問題ないが…。」

 

「士郎さん、そこは私の魔術である程度先立って察知できるわ。」

 

「そうか。なら問題ないかな。…ああ、澪。セイバーのステータスは読み取れるか?」

 

「え?ああ、アレのこと。変な情報を受けたから何事かと思っていたわ。」

 

「ちゃんと読み取れているようだな。それはサーヴァントの情報だ。敵サーヴァントの情報も読み取れる。…で、セイバーの幸運ランクがどれくらいか知りたいんだが。」

 

「えっと…Aね。」

 

「うーん…ちょっと難しいか…。」

 

「何のことだ、シロウ?」

 

 話の中心に立たされたことでセイバーは不思議がる。

 

「ああ、すまない。…実は、アーチャーの真名分かったんだ。」

 

「何!?それは頼もしい、奴は誰なのか?」

「え!?何で士郎さん分かっているの?」

 

 士郎の解析は、アーチャーの剣弓にも及んでいた。剣の概念を孕んでいたため、その歴史も一緒に解析することが可能だったことと、名だたる宝具であったことは士郎にとって幸いだ。

 だが士郎は、実はセイバーの名前を分かっているということを隠したかったのだろう。澪の質問には曖昧な返事で濁した。

 

「あ、ええと…ほら、澪と離れてアーチャーと俺だけで戦っていたタイミングがあっただろ?その時に、ちょっとな。」

 

「それで、ヤツは誰か?」

「士郎、私も聞きたいわ。」

 

「アイツはトリスタン。円卓の騎士の一人、サー・トリスタンだ。」

 

「何と!名高き円卓の一人であったか!いや、あの見事な弓さばき、納得もいこうというもの。」

 

「円卓の騎士、ね。これも何かの縁なのかしらね。」

 

 凛は小さく呟いたが、その声は誰にも聞こえなかったようだ。

 

「トリスタン…。じゃあ、あの弓はフェイルノート…?」

 

 澪が士郎に尋ねる。彼女もアーサー王物語の知識はあるようだ。サー・トリスタンが持つ武器といえば、『狙った場所に必ず当たる』という伝説をもつフェイルノートしか有り得ない。

 

「そうだ。あの剣弓は『無駄なし必中の流星(フェイルノート)』。因果律の逆転によって、必ず命中する宝具だ。」

 

「…では何故、私との戦いで使わなかったのだ……?何か事情がありそうだな。」

 

「それは分からないが…これを避けようと思ったら、何かしらの加護か強い幸運が必要だ。前回で似たような宝具を持つヤツがいてな、その時はA+ランクで致死傷だけは避けたくらいだ。Aだとちょっと怪しい。」

 

「そういうことか…だが問題ない。使う前に倒せばいいだけのこと。」

 

「まあそれしか無いか。澪、もしもフェイルノートで狙撃を受ける場合でも察知できるか?」

 

「むしろそっちのほうが察知しやすいと思うわ。」

 

「じゃあもしも狙撃を受けたと思ったらすぐに言ってくれ。一回ぐらいならどうにか防げるかも知れない。」

 

「…また無茶する気じゃないでしょうね。」

 

 凛が士郎に冷めた視線を送る。傍から見れば痴話喧嘩としか思えないやり取りが始まった。澪とセイバーが小さく「ご馳走様です」と言ったが、二人には聞こえなかったようだ。

 

「…とにかく、後は夜を待つだけね。それまで、各自自由行動ということで。」

 

 痴話喧嘩は終わったらしい。確かにこれ以上話し込んでも、詮無きことだ。もはやなる様にしかならない。一同は思い思いの行動をとりながら、それぞれ夜を待つことにした。

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

「じゃあねー、士郎。戸締りはしっかりとするのよ?あと、今日ぐらいは天体観測はお休みすること。」

 

「お休みなさい、先輩。」

 

「分かったよ。藤ねえと桜も気をつけろよ。」

 

 正直に言えばそんなつもりは無い。『天体観測』は今日やらなければならないんだ。

 

 二人だけで帰すのは些か不安だけれど、仕方がない。よほどの不運に二人が見舞われないように祈るしかないだろう。今日は冬木教会からサーヴァントが動き始める前にそこを叩く必要があるしな。ヘタに泳がせてしまうと、それこそ本当に二人が襲われるなんて事態になりかねない。

 

 藤ねえと桜が帰ったのを見送り、居間に戻った。皆真剣な面持ちだ。少なくとも、お茶で一服なんて空気じゃないな。

 

「二人は帰った?」

 

 遠坂が聞いてくる。すぐさま動くつもりだろうか。

 

「ああ。もう動くのか?」

 

「うーん。まだ少し早いけれど…どうせ冬木教会に人なんて寄り付かないし、深夜を待つ必要もないかな。」

 

「よし。それでは動こうではないか。ミオ、準備はいいか?」

 

「大丈夫。いつでも行けるわ。」

 

 澪が手首の関節を解している。そういえばさっき攻撃用の魔術なんて使えないと言っていた。俺と同じように前衛で戦うタイプだろうか。

 

「Einstellung《設定》.Perceptual(知覚),Gesamtpreis《拡張》」

 

 と思っていたら何か魔術を行使し始めた。これはドイツ語か?となると、八海山の家には遠坂家みたいにドイツの血が混ざっていることだろうか。

 

Append(追記).Threat(脅威),Eine Suche(探索)

 

 ある程度勉強したからドイツ語は読み書きならできるけれど、聞き取るのはちょっと無理だ。ここは素直に本人に聞こう。

 

「何しているんだ?」

 

「え?えっと…なんて言うのかな。ほら、私は攻撃の魔術を会得していないから支援専門になるじゃない。だからちょっと考えてみたの。今の魔術で、敵を察知することができるわ。狙撃に対しても有効なはず。」

 

「へー。すごいじゃない。レーダーみたいなもの?」

 

「そうね。そう思ってくれていいと思う。遠見の魔術の変則みたいなものね。」

 

 それはありがたい。セイバーにも敵を察知できる能力は備わっているはずだけど、やはり剣の英霊に広範囲の探索は無理だ。

 

「ミオ、それはどれ程の距離を探索できるのか?」

 

「敵の脅威の度合いにもよるわね。強い脅威で、一方向のみを探索すればいい状況なら500メートルは可能なはずよ。だけど弱い脅威で、全方位を探索したら100メートルでもギリギリね。」

 

 それがもし逆だったら絶望的だったな。だけど大事なのは強い脅威、つまりサーヴァントのほう。サーヴァントを察知できるなら有用な能力だと思う。道中で襲撃を受ける可能性も激減するだろう。

 

「それじゃ行きましょうか。」

 

 遠坂が号令を発すると、みんな揃って玄関へと移動する。セイバーもいつの間にか着替えている。さすがに鎧姿で出歩かせるわけにもいかなかったので、俺のツナギを貸した。

 

 ちょっとだけ良心が痛んだ。この剣の持ち主は、あの英雄しかいない。本人のあずかり知らないところで名前が流出しているのは、多分気分がいいものじゃない。

 

『あの戦いのやり直しがしたい』『せめて我が友だけでも』とセイバーが言ったことを思い出す。なんとなく、セイバー(アルトリア)と似通う願いだ。本当に悔やんでいたんだろうな。

 

 玄関を開けると、やっぱり外は大雨のようだ。澪とセイバーに傘をさす。この見通しの悪さだ。きっと澪の探知魔術が役に立つ。

 

「―――?」

 

 玄関を出てすぐのところで、澪がどこか明後日の方向へ振り向く。その後にきょろきょろと何かを探すような動作をした。

 

「何かあったのか?」

 

「いや。何でもないわ。」

 

 小さく「誤動作(バグ)かな」と言ったのを聞き逃さなかったぞ、澪。本当に大丈夫なんだろうな。―――これは先行きが怪しいぞ…



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Act.11 お前は美しい

 叩きつけるような雨の中で、一人の男が這い蹲っていた。全身が濡れるのも構わずその身を雨に晒している。その手にもっていた双眼鏡を顔から離す。ややその顔は苦しげだが、すぐに平静の色を取り戻す。

 

「―――まさか感付くとはね。これは奇襲が難しくなりそうだ」

 

 男は衛宮切嗣だ。いや、今はエミヤキリツグというべきなのかも知れない。衛宮邸を見渡せるビルの屋上に彼の姿はある。オフィスビルらしい無味乾燥なアスファルトの建築物だ。

 

 彼は今、偵察のために衛宮邸を監視していた。自身が呼び出されたのは知らぬ民家の土蔵である。あの民家の住人は間違いなく関係者だと断じることができるだろう。軍用の暗視双眼鏡越しに監視を続けて数時間。雨が強く、これ以上は監視が出来ないだろうと結論付けようとした矢先のことだ。まさしく僥倖だろう。

 

 澪は誤作動と勘違いしたようだが、間違いなく彼女の探索魔術はキリツグを捕らえていた。しかし、キリツグの機転とその宝具の効果によって彼女は看過してしまった。

 

 反英雄・エミヤキリツグの宝具の一つ、『固有時制御(タイム・アルター)』の効果。それは固有結界を自身の内面にのみ展開し、自身の時間を制御する宝具だ。時間を減速した場合その体を流れる魔力の流れも停滞する。実体化していてもその心拍数や体温を低下させ、気配遮断スキルを強いレベルで発動できる宝具だ。澪の探知魔術や、礼装などに付加される自律機構(オートマトン)というものは、ただそこにあるだけの魔力というものを察知するのが難しい。この宝具を使われたらまず察知できない。

 

 あの刹那のキリツグの機転は特筆に価する。澪の反応から自分の存在を感付かれたことを察知し、すぐさま固有時制御を発動し澪の探索の目を欺いた。霊体になるよりもこちらのほうが早い。もしも霊体化していたら澪を欺けなかっただろう。

 

“…どこかへ行くみたいだ。これは尾行する必要がありそうだな”

 

 この暗視双眼鏡はサーモグラフの機能を備えている。雨の影響で精度に難があるが、間違いなくサーヴァント特有の反応があった。まずは一組。サーヴァントの居所をつかんだことになる。

 

 無論のことキリツグは澪の探索魔術のことは知らないが、固有時制御をうまく使用するか、気配遮断スキルに物を言わせれば探知されないのは先ほど確認済みだ。恐らくレーダーかソナーのような魔術を行使しているものだと当たりをつけた。

 音も無く霊体となる。実体を持たない状態ならば気配を殺すことができる。宝具でなくとも、気配遮断スキルだけで事足りるはずだ。

 

 だが安心はできない。気配遮断を行いながらも、細心の注意を払いながら尾行が可能な距離まで再接近する。背後からゆっくりと。先ほどと同じほどの距離まで接近しても感付く様子はない。やはり気配遮断で欺くことができる。視認できる相手の数は4人。サーヴァントは一人しか見えない。

 

今奇襲すれば一組を脱落させられるかも知れない。だが―――却下だ。

 

 キリツグなら当然の選択だろう。あの4人の戦闘能力はいまだ未知数だ。念入りな調査に基づいた策を用意してから仕掛けるべきだ。

それに泳がせたほうが良い場合も存在する。今がそれだ。あの4人はどこかへ向かっている。迷い無く進むその様子は、目的があって何処かへ向かっているとしか考えられない。

 

 これは新都に向かっているのか…?

 

 住宅地を抜けるルートで東へ。この先にあるのは深山と新都を繋ぐ冬木大橋か公園しかない。予想通り大橋を渡り始めた。もしもこの橋で感付かれたら危険だ。身を隠す場所がない。気持ち距離を開けて尾行を続ける。

 

 橋を渡りきったら南の方向へ。この先にあるのは冬木病院と教会だ。病院に用があるのかと思ったら、道を外れて教会の方角へ進み始めた。

 

 ―――教会へ向かっているのか?不可侵の掟がある教会に一体何の用が?

 

 いよいよ教会が近付いてきた。教会へと続く坂に差し掛かったあたりで、教会へと先回りすべく大きく迂回する。

きっと何かが起こる。キリツグの暗殺者としての勘はそう告げていた。

 

 

 

 

 

 

 

 雨のせいか、今日の夜は寒く感じる。実際はそんなことはない筈だけれど、そう思えてしまうのだから仕方がない。緊張しているのだろうか。

 

 冬木教会。私はこんなところに来たことは無い。両親の葬儀だって神式だった。教会に足を運ぶ必要も機会も無かったから、これが始めての来訪だ。

 

「澪。何か感じるか?」

 

「…今のところは何も。だけど油断しないで。向こうがこっちを捕捉できていないだけ、ということも考えられるわ。この魔術は基本的に後出しになるから」

 

 目を閉じて術式に集中する。余分な情報をカットしたほうがこの探索の術式は効果を発する。だが今のところ何も居ない。だが何も居ないという証拠にはならないのだ。

 前提条件として、『脅威』であることが挙げられる。この術は私の第六感覚の及ぶ範囲を限定的に広げる術式だ。基本的にはアーチャー相手に使用したものと変わらない。殺気や強い魔力を探知する魔術。つまり今は脅威として認識できないだけ、ということも有り得る。

 

「いい?士郎。多分ここに居るのはキャスターだと思うけれど、別のサーヴァントの可能性もやっぱり残るわ」

 

「分かっているよ、遠坂。どのサーヴァントが相手でも対応できるようにしておけってことだろ?」

 

 士郎さんは濡れネズミになるのも構わずに傘を遠坂さんに預けた。投影開始(トレース・オン)と呟きあの双剣を握る。前も見たけれどやはり不思議だ。何の魔術だろうか。文献でしか見たことが無いけれど、投影魔術というものだろうか。投影されたものはかなりの得物だ。雰囲気というのだろうか。纏っている気配がただの包丁やナイフとは違う。士郎さんはかなりの投影魔術師だということになるのかな。

 

 セイバーも同じく私に傘を預けて鎧を身に付ける。魔力で編まれた甲冑を一瞬で身に纏う。左手には盾を持ち、腰にはあの片手剣。やっぱり夢でみたものと同じだ。

 

「行こうか。リンやミオは勿論、シロウも私の後ろに居てくれ」

 

 坂道を登り始める。先頭をセイバーが歩き、その背中を守るように士郎さん。さらにその後ろに火力支援担当の遠坂さんと、索敵担当の私がついていく形。

 

 この雨だ。セイバーだって索敵能力は低下するはず。ここは私の『目』が重要になってくる。戦闘においていち早く敵を捕捉できるのは大きなアドバンテージだ。

 

「待て、セイバー」

 

 士郎さんがセイバーを呼び止める。

 

「何だ?」

 

「…その先に結界が張られている」

 

「士郎、それは本当?…だとしたらキャスターで確定かしらね」

 

 結界。それは私の目には映らない。それが攻撃性のあるものならともかく、例えばただの人払いの結界では『脅威』として認識できないからだ。

 

「では、ここからいよいよ敵陣というワケか。」

 

「ええ。気を引き締めていきましょう。」

 

 遠坂さんも傘を畳む。手ごろな茂みにその傘を放置する。…あとで回収するつもりなんだろうか。ヘンなところでケチだな。まあ私もそうするんだけれど。

 

 雨は容赦なく振り続けて私の体を冷やす。否応無く不安な気持ちを掻き立てられる。目には見えないが、この先には結界という城壁が存在する。それが例え敵を拒み、閉じ込める機能が無かったとしても、その内側は敵を殲滅するための要塞だ。ここに踏み込めば、生きては出られないかも知れない。

 

「いい?この結界はただの人払いの結界よ。これ自体に攻撃性はないけど、間違いなくここに陣取っているキャスターに気付かれるわ。」

 

「ならばどうする?結界を剥がすことは出来るのか?」

 

「一晩中かけてもいいなら出来るかも知れないけれど…。」

 

「待てん。仕方あるまい、結界を抜けたら一直線に教会まで走り抜ける。これで良いな?」

 

 今ならまだキャスターに補足されていない筈。だったら一気に近寄って切り伏せる。うん、これしか無いかも知れない。結界内でまごついていると危険だろうし、ここは目的地まで走り抜けるほうが良いのかも知れない。

 

 全員が無言で首肯する。どうやら皆同じ考えのようだ。

 

 しゃらん、と流麗な動作でセイバーが剣を抜く。その片手剣はやはり綺麗だと思う。いつの間にか、いつもとは違う引き締まった顔をしている。ゲームをしているときとは違う空気。剣呑とはまた違う。だが初めて会ったときのような、優しくも真面目な雰囲気。

 

「準備はいいか?…いくぞ!」

 

 見えない壁を切り裂くようにその剣を振るったセイバーを先陣に私達は教会へと駆けていった。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 神の拠り所は静まり返っていた。もとより姦しい場所では無いのだが、何よりも空気が死んでいる。まるで一切の生物がその場には存在しないかのような空気だ。実際には“まだ”息のあるものも地下に若干名居るのだが、それでも空気に充満した死臭は些かも薄まらない。

 

 中はまるで光を嫌うかのような薄暗さだ。今は夜だということを斟酌しても暗い。電気が通っていないわけではないのだが、蝋燭の明かりだけで灯をとっている。そしてその光を避けるように、うぞりうぞりとあの気配は絶え間なく蠢く。

 

 キャスターと慎二は今夜の生贄を捕らえに行こうとしていたところだった。彼らが昨晩のうちに手を下したのはニュースで取り上げられた人家族では収まらなかった。一晩中かけて集めた生贄のうち、“つい”慎二が誤って殺してしまったものに過ぎない。

 

 彼らが直接手を下した犠牲者は、ニュースで取り上げられたもの達を含む数名に過ぎない。しかし彼らが関与している犠牲者という枠組みまで広げると、それはネズミ講式に増え続けていた。たったの二日ほどだが、すでに犠牲者は100を数えようかという勢いである。

 

 ネズミ講というのはまさに正しい表現だろう。何せ、いまや慎二とキャスターが何かをするまでもなく、勝手に“それ”は増え続けるのだ。慎二が求める生贄とは、ただ純粋に自分の嗜好のための犠牲でしかない。

 

 慎二は礼拝堂の信徒席、その最前列に腰掛けていた。その静謐すぎる空間の中で唯一音を立てている存在だ。苛立たしげにカツカツと指先を背もたれで鳴らす。待ち人は当然キャスターだ。

 

 慎二の不愉快を意に介していないのか、ゆっくりとした足取りでそれは現れる。歩む音は無く、やはり音を立てているのは慎二だけだった。

 

 その姿を見て慎二は喚く。

 

「何やっていたんだよ、このクズ!夜には出かけるって言ったじゃないか!」

 

「申し訳ありません、シンジ。少々研究に熱が入ってしまったようで…シンジが潰したあの少女、上手い具合に仕上げることができましてね。頭部を失った状態でも運用できました。これは大きな進歩です」

 

「ふん。僕はそんなコトに興味はないね。…まあいい、さっさと出かけるぞ。」

 

 慎二はキャスターに背を向けて入り口の扉へと歩き出す。その手が扉に触れた瞬間、キャスターは何かに驚いたかのように慎二から目線を動かした。

 

「お待ちください、慎二。…どうやら襲撃者が居るようです。」

 

「何だって?」

 

 キャスターはローブの中から一つの水晶を取り出す。一言二言なにか呟くと、そこには幾何学的な模様が走り、どこか別の風景を映し出した。

 

 その映像は、一直線に教会へと疾走する一団だった。先陣を切るのはセイバー。それに続いて士郎、凛、澪の布陣だ。

 

「セイバーですか。…魔術師(キャスター)の工房に突貫するとは、中々の気概ですね。…おや。如何なさった、シンジ?」

 

「衛宮ぁぁ…」

 

 慎二の記憶はほぼ完全に無いと言っていい。しかしいかに強力な魔術といえども、強い感情まで完全に消し去ることは難しい。彼には、『かつて衛宮士郎に屈辱的な仕打ちを受けた』という記憶が酷く胡乱に存在する。そして憎悪のような負の感情は、キャスターによって何倍にも増幅されている。

 

 今の彼は、復讐に囚われている。今にも歯を噛み砕きそうだ。そしてその憎悪の勢いをそのままに飛び出そうとしたが、それをキャスターは留めた。

 

「シンジ、主君は城内で腰を重く構えるものですよ。ここはこのキャスターめにお任せを」

 

「キャスター!命令だ、衛宮を殺せェ!」

 

「…ふふふ……仰せのままに、シンジ」

 

 その様子を見て、キャスターは酷く面白そうだった。

 

「さあさ、目覚めなさい。私の下僕共よ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 セイバーはその異様を感じ取っていた。確たるものではないが、彼の直感スキルはこの異常を感じ取っていた。

 

 ―――空気が死んでいる。

 

 セイバーはこの空気を知っている。これは死が充満した空間の肌触りだ。死体が溢れ、血が地を汚したときの空気。今のこの場所の空気はそれだ。

 

 今になって悔やんでも無益だが、セイバーはここに訪れたことを後悔し始めていた。

 

 ここは良くない場所だ。思い出したくない場所を思い出してしまう。

 

「見つけたわ。教会の中に、サーヴァントらしきモノがいる!」

 

 だがもはや遅い。キャスターには確実に進入を察知されている。今になって敵に背を向けるのは自殺行為に他ならない。ゆえに進む。せめて自分が先陣を切ることで後続が危険に晒されないように。

 

 些か拍子抜けだが、今のところ何の障害も無い。もう教会は目の前だ。このまま中に押し入って――――

 

「待って!!」

 

 だがその進軍を止めたのはしんがりを務めていた澪だ。雨音に負けないように声を張り上げて叫んだのは、彼女が感じた危険を伝えるためだ。

 

 彼女の探索魔術は『脅威』となるものを探索するのだが、それは彼女には気配のような形で伝わる。つまり、あの方向に何か嫌なものがいる、という感覚で伝わるのだ。しかし精度が悪いというワケではない。彼女にとっては手に触れるようにそれが感じ取れる。

 

 そしてそれが、今この瞬間に全方位に現れた。まるで、眠っていた何かが目覚めたかのようなものだ。100メートルほどの間隔を開けて自分達を方位する形で現れたそれは、サーヴァントには及ばないものの、生身の人間と比べれば強烈に過ぎる気配。

 

「囲まれている…!」

 

 教会を囲む雑木林の中。そこに、何かが居る。その気配のおぞましさを澪は感じることができた。これはきっと良くないものだ、と。

 

「いつの間に囲んだのやら…ミオ、リン。決して私から離れることの無いように。シロウ、剣の心得があると見た。可能な限り自分の身は守ってくれ。」

 

 先行していたセイバーが凛と澪の元へ駆け寄る。後衛を守るのは前衛の仕事だ。特にセイバーにとって澪はマスターである。命を賭して守るべき存在だ。自然と互いを背中で庇うような円陣を組む。外周にはセイバーと士郎が、内周には凛と澪が。

 

 雨音だけが響く。雨粒が目に入って前方が視認しにくい。しかしそれを拭うこともなく、4人は沈黙のままにじっと構える。

 

 セイバーは盾で身を守りながら。士郎は干渉・莫耶を交差させて。凛は宝石を指に挟んで。澪はさらに詳しく敵を探りながら。

 

「セイバー、来るわ!」

 

 雨で低下した視界でセイバーが敵を認識するよりも、澪の探索のほうが早かった。彼女が感じたのは、自分達を囲む何かの一つがセイバーに向かって飛び出したこと。

 しかも速い。普通の人間では目で追いきれないほどのスピードで向かってくる。もしももっと距離が詰まった状態からの行動だったら、きっと澪の声は間に合わなかったに違いない。

 

「破ァッ!」

 

 だがその速度はサーヴァントにとっては大した脅威にはならない。

 

夜の雨の向こうにソレの姿を認めた瞬間、その稲妻の如き俊足の刃を横薙ぎに振るう。声になっていない低い悲鳴。向かってきたソレをセイバーの剣は容赦なく両断した。

 

 どしゃり。

 

 何か大きいものが泥に倒れ伏す音がした。4人は敵の姿を見ようとそれを見下ろす。最初にそれの正体を見破ったのは目のいい士郎だった。

 

「こ、これは…」

「キャスター…やはり貴様は切り捨てなければならないようだな」

「……反吐が出るわね。士郎、キャスターはここで倒すべきよ」

「…同感。吐きそう」

 

 それは死体だった。セイバーが切り捨てたから死体だと言うのではない。それは、元から死体だった。

 そうと分かるのは、その肉のあちこちが腐り落ちていたからだ。一部は骨まで見える。目は当然のように失われていて、そこには大きな空洞が二つあるだけだ。よくよく見れば蛆がその体を啄ばんでいる。4人はそうしなかったが、鼻を嗅げば腐臭が漂っているに違いない。それが胴体を真っ二つに切り裂かれ、血を流すこともなく沈黙している。

 

 だが忘れてはならないのは、この死体が今しがた動いて襲い掛かってきたことだ。それも人間を凌駕する速度と澪が感知できるほどの魔力を孕んだ状態で。

 

「死者を冒涜するか、キャスター!」

 

 セイバーは天まで届くような大声で叫ぶ。澪は背中を見守ることしか出来なかったが、その怒気と嘆きは痛いほど伝わってきた。何故だかわからないが、セイバーはきっと泣いている。澪はそう感じた。

 

「冒涜とは心外な。これは神聖なものであるというのに。」

 

 そしてキャスターは教会から現れた。そのゆっくりとした足取りは余裕さえも感じられる。そしてそんな様子が余計にセイバーの神経を逆撫でする。

 

 キャスターの顔と声には嘲りの念が込められている。まるで、何も知らない幼子を相手にしているような態度だ。

 

「戯言を、外道め。これのどこが神聖だというのだ」

 

「―――完全な復活(リザレクション)

 

「…何だと?」

 

 突如呟かれた言葉にセイバーは怪訝な様子だ。およそ文脈が欠如したと思われるその言動には眉をしかめる。だが、キャスターはそんな様子を見てますますセイバーを嘲笑うかのような色を強めた。

 

「やれやれ。これだから剣を振るうしか能の無い奴原は…。いいですか、完全なる復活(リザレクション)です。完全なる肉体と魂の蘇生。これが神聖でなくて何だと言うのですか」

 

「戯け。これのどこが『完全なる』蘇生だ。貴様の行いはただ死者を弄んでいるだけであろう」

 

 彼我の距離は50メートル。セイバーはその遠方からキャスターを視線だけで殺そうと睨みつける。そしてその怒りの乗った剣の切っ先をキャスターの首に向ける。それの意味は語らずとも伝わった。

 

「全く…いつの時代も先駆者は理解されないのですかな。いいですか、貴方が切り捨てたそれは未だ完成に至らぬ不完全なもの。完全なる復活(リザレクション)とはかけ離れていると言っても過言ではありません。私は彼らの協力をもとに、いずれその境地へと辿り着く。死者の復活…とても神聖だとは思いませんか?」

 

「ふざけるな!関係の無い人たちを犠牲にして…!キャスター、俺はお前を許せない。早くこの人たちを解放しろ、さもないとココで倒れてもらう!」

 

 怒りを露わにしたのは士郎だ。セイバーと同じく、その烈火の視線をキャスターに注ぐ。

 

 その言葉と視線を受けて、キャスターは心底不思議そうな顔をする。そしてニタリと、あの粘着質な笑みをセイバーに向けた。セイバーだけではなく、その笑みを見た3人は背筋に何かおぞましいモノが這い上がってくる感覚を覚える。

 

「いやいや…倒れるのは貴方のほうですよ。折角良い研究材料が来てくれたのですから」

 

 そしてキャスターの視線は士郎、凛、澪へと注がれる。セイバーは直感した。もしも自分がココで倒れれば、この3人の末路は足元のソレと同じものとなるだろう。それ即ち、死してもその体を弄ばれ、キャスターの奴隷となるということ。

 

 その方法は分からないが、おそらくはキャスターの宝具だろう。死者を呼び覚まし使役するそれは、死者を冒涜しその尊厳を貶める許されざる魔術。

 

「いつまでそこで寝ているのですかな?他の者も早くこの者達を始末しなさい」

 

 その死体に背を向けていたセイバーは反応が遅れたが、円の対極に居た士郎にはその様子を見て取れた。

 

 ―――倒れたはずの死体が、気味悪く蠢いて起き上がろうとしているのを。

 

 気付けば切り裂かれた筈の胴体は繋がっている。若干の痕は見受けられるものの、確たる力を持ってセイバーの背後を襲おうとしている。その乱杭歯は一つ一つが鋭く、いかにサーヴァントといえどもその歯で喉元を食い破られれば致命傷だ。

 

「セイバー、危ない!」

 

 士郎は咄嗟にその双剣でソレの首を刈り取った。ソレは再び力を無くしてその場に倒れ付す。しかし頭部を無くしたにも関わらず、それは腐臭を漂わせながら再び起き上る。落ちた頭部を拾い上げ、切り口を合わせると凄まじい瘴気を発しながら傷口が塞がる。

 

「な、なんだコイツは…!」

 

「一斉に来るわよ、注意して!」

 

 だが士郎達に驚愕の暇は与えられなかった。ぐるりと囲んでいたソレらの輪は急激に半径を狭める。澪にしか分からないことだったが、まさしく逃げ場は無い。

 

「ミオ、数はどれほどだ!」

 

「ひ、100は下らないわ!」

 

 ―――その悲痛の叫びと共に、不死の軍団との闘争は始まった。

 

 声になっていない咆哮と共に、ソレは殺到する。その速度はやはり驚異的。サーヴァントに及ばないが、士郎や凛、もちろん澪には及びもつかない速度だ。

 

 セイバーはその左手の盾でソレらの腕と牙から体を守り、右手の剣で手当たり次第に切り裂く。その肉質は見た目からは予想もできない程に硬質だ。膂力も並大抵ではない。今にもその盾を引き剥がされそうだ。無論、セイバーだけなら難なく囲みを突破するだろう。しかしそれでは澪が危険に晒される。凛と士郎だけでは澪を守りきれない。

 

「ミオ、決して私の背中から離れるな!」

 

 戦闘が行えない澪を守るように、他の3人が背中で庇う。澪を中心とした円の形だ。

 

「くそ!」

 

 士郎はその双剣で敵をなぎ倒す。右で受けて左で叩き斬り、次は両方で受けて蹴り飛ばす。一体を裁けば他の一体が襲ってくる。だが士郎は流れるような動作でそれを捌く。7年前とは比べるまでも無い剣捌きだ。

 

「遠坂、大丈夫か!?」

 

「これが大丈夫に見えるなら眼科に行くことね!」

 

 一方凛はガンドと宝石魔術、さらには中国拳法を駆使して敵を殲滅する。接近を許したソレには拳を叩き込み、隙を見出しては魔術で攻撃する。

 

 宝石魔術やガンドは一工程(シングルアクション)で魔術を発動できるのが強みだ。勿論それを使う度に凛の財政は圧迫されているわけだが、今は命のほうが大事である。凛は手持ちの宝石を惜しみなく使用していく。

 

 だが凛もまた苦しい。宝石は使いきりの消耗品だ。いずれ底を衝く。ガンドも無限に放てるわけではない。凛の体術は見事ではあるが、それだけでコレらを打倒するのは困難だ。

 

 ならばバーサーカーを使えば状況を打開できるか?絶対に否だ。

 

 バーサーカーを運用する際に絶対してはいけないこと。それは持久戦や消耗戦だ。戦いが長引けば長引くほどマスターは死へと急速に近付く。

 まさしくこの状況がそうだろう。バーサーカーがいかに強力でも、この囲いを破る手立てとして有効かは怪しい。マスターである凛であってもその正体が掴めないのだ。この囲いを突破する力があるか、甚だ疑問が残る。

 

 囲いを破るのに梃子摺れば凛は死ぬ。徒に魔力だけを消費し、何も出来ないままに死ぬ。だからバーサーカーは呼べない。呼べるわけがない!

 

 セイバーは臍を噛む思いだ。彼の宝具ならこのような状況を打開できるかも知れない。だが彼の宝具はひどく扱いが難しいのだ。この位置関係では、ほぼ間違いなく3人までも巻き込む。ゆえに発動できない。それを発動できるならセイバーの剣はキャスターまで届くのに―――!

 

 次々にその乱杭歯で噛み千切ろうと殺到する。セイバーが切り裂く、士郎が刈り取る、凛が砕く。しかしソレらは何度も立ち上がる立ち上がる立ち上がる―――!

 

「く、キリが無いわ!」

 

 凛が悲鳴に近い声をあげる。この状況で不利なのは間違いなくセイバーたちだ。状況は時間が経つにつれてキャスターに有利に働く。キャスターの軍はいくら切り捨てても、それを肉塊にしようとも何度も立ち上がる。さすがに凛の魔術で木っ端微塵にすれば再生に時間が掛かってしまうようだが、100の軍勢を退ける前にそれは起き上がる。

 

 最初からこの状況は王手詰み(チェックメイト)。何か破格の力でこの囲いを踏破しない限り、セイバーたちに勝機は訪れない。

 

 澪を除く3人は次々に敵を打ち倒す。だが敵は倒れては起き上がり、一向に勢いは衰えない。当然だ。頭部を破壊されてもなお立ち上がり襲い掛かってくる。炎で攻めても、燃える速度よりも回復する速度のほうが速いのだ。

 

「おおおおおぉぉッ!」

 

 だがセイバーはその剣を振るうのを止めない。それを止めれば背中の澪に危害が及ぶ。それが無駄だとしても剣を振るうのを止められるわけがない。全ては守るために。聖杯が彼の望むものではないと分かった今、彼を動かすのはもう一つの信念のみだ。

 

 殺到するソレらを盾で防ぎながら、目に付いた一体の頭部を両断した。腐った血液が飛沫を上げる。直後に別の一体が牙を剥きだして襲い掛かるが、返す刃で胴を絶つ。盾で強く弾き、ひるんだソレらを払う一撃でまとめて切り裂く。

 

 まさしく暴風。ソレの腐った体液すらも寄せ付けない。しかし敵は海だ。いくら波を切り裂こうとも、新たな波が牙を剥く!

 

 仲間の死骸を踏み越えて新たな敵が襲い掛かる。足元では蘇生が既に始まっており、程なく立ち上がり再び彼らに牙を剥く。

 

 すでにセイバーは何体斬ったか分からない。全員合わせて敵の倍は切り裂いたはずだ。しかし敵は未だ尽きない。辺りに瘴気を撒き散らしながら立ち上がり、何度でも襲い掛かる。

 

「気をつけて凛さん…!」

 

 敵の攻撃にはある程度の波の大小がある。100体が綺麗に三分割で襲ってくるわけもなく、一方が手薄になれば他の誰かに集中する。

 

 澪は探索魔術で敵の動きを読み、次に誰に波が来るのかを伝える。今の彼女にできるのはこれだけだ。

 

「―――Zehn《十番》、Gletscher《凍てつけ》!」

 

 凛の宝石から極大の冷気が放出される。それは地面から針のような巨大な氷柱を次々に発生させる。氷柱は次々に敵を閉じ込め、その先端の針で刺し穿つ。

 

だが時間稼ぎにしかならない。こんなもので閉じ込めただけでは、すぐに氷の檻を砕いて復帰するのだ。現に氷柱はびしりびしりとヒビを入れられて悲鳴を上げている。

 

「ふっふふふ…良いですね、これは良い。これほど活きのいい実験体はそうそういません。そうだ、サーヴァントにも生身の人間と同じ術式が適応されるのでしょうか…これは是非とも実験しなければ」

 

 キャスターは笑みを零す。彼にはセイバー達は敵として写っていない。いや、人格のある人間として写っているかどうかも怪しい。

 

 ―――哀れにも囚われにやって来た実験体(モルモット)

 

 モルモットにかける憐憫の情など持ち合わせるわけもない。ただ必要があるから切り刻む。ただ興味があったから弄り回す。そうして出来上がった哀れな犠牲者があのゾンビのようなモノだ。いや、あるいは死徒というべきかも知れない。

 

 キャスターは彼らをこう呼ぶ。「悪臭(メフィティス)」と。それはブードゥーのゾンビでも死徒でも、もちろん真祖でもない。

 

 だがその力は、死徒であると言われても不思議ではないほど強力だ。四肢にこもる力は士郎よりも強靭であるし、それに内包された魔力普通ではない。魔術師である凛や澪には及ばないが、元一般人が持ちえる魔力ではない。

 

 さらには復元呪詛だとしか思えないほどの再生力。頭部を潰してもなお立ち上がるほどとなると、もはや真祖の領域である。

 

投影開始(トレース・オン)!」

 

 士郎は干渉莫耶を投げ捨て、新たな得物をその手に握る。

 

 不死殺しの『ハルペー』。鎌状のその剣で傷つけられたものは、その傷を決して癒すことは適わず、不死の力を無効化する能力をもった剣だ。

 

「おおぉっ!」

 

 気合と共にその剣を振るう。鋭利な鎌は唸りを上げてメフィティスの首を刈り取った。崩れ落ちるメフィティス。だが―――

 

「―――効かない!?」

 

 些か回復速度が鈍ったように思える。だが不死殺しの剣を以ってしてもその再生を止めることが適わない。

 

 士郎は考える。

 

 ―――強力な宝具の真名開放で蹴散らすか?

 

 …いや、ありえない。とんでもない愚策だ。この不死の軍団、例え『勝利を約束された剣(エクスカリバー)』であっても殺しきれない。囲いの一部を一時的に破ることはできるかも知れないけれど、確実にすぐに復活する。跡形もなく一撃で吹き飛ばしたとしても、これらが蘇生しないという確証にはならない。…いや、確実に蘇生する。復元呪詛に近いものを持っているのなら、確実に蘇る…!

 いや、そもそも一部だけを殲滅したんじゃダメだ。すぐにその穴を塞がれる。俺じゃエクスカリバークラスの宝具を連続で使用するなんて到底できない。

 

「おやおや…面白い得物を持っていますね。しかし私には効きませんよ」

 

 再生力は破格。ハルペーを以ってしても無効化できない。この再生が無ければ4人は難なく囲いを突破しただろう。しかし、本当の意味で不死身としか思えないその力のせいで、正しくキリがない。

 

 ―――いいえ。不死身など在り得ないわ。

 

 凛は考える。

 

 真祖であっても殺そうと思えば決して不可能ではないのよ。まして、吸血鬼でもないこれらが不死であるわけが無いわ。

 

 きっとこれらにはキャスターからの魔力供給がある。この脅威の再生力だって、きっとキャスターの魔術のバックアップがあってこそ。

 

 だったら持久戦に持ち込めばいずれ尽きる?

 

 ―――いいえ。それはできない。キャスターが力尽きるよりも私や士郎が倒れるほうが絶対に早い。

 

 だったらどうする?

 

 拙いのは位置関係。私達を取り囲む形ではなくて、例えば離れた場所で敵が密集してくれれば対処は出来る。

 

 答えは、一つしかない。

 

「士郎!」

 

 凛は背中の士郎に向かって叫ぶ。その意味は語らずとも伝わったようだ。

 

 固有結界、『無限の剣製(アンリミテッド・ブレイドワークス)』。士郎の心象世界を展開して現実の世界を侵食する大魔術。その猛威ならば、きっとこのメフィティスの囲いを殲滅し尽し、キャスターにもその刃を浴びせることができるだろう。

 

 士郎は剣を振るうのを止めずに世界を侵食する呪文を紡ぐ。

 

「―――I am the bone of my sword.(体は剣で出来ている)。」

 

 彼の内面にはただ無限の剣だけがある。ゆえに、彼の体は剣で出来ている。

 

「―――Steel is my body(血潮は鉄で), and fire is my blood(心は硝子).」

 

 彼の肉体はただ鉄を打ち、剣を鍛えるためにある。ゆえにその血は鉄。

 

 彼の心はただ鉄を打ち、剣を鍛えることしか無い。ゆえにその心はどこまでも透明で冷たい。それはつまり硝子。

 

「―――I have created over a thousand blades(幾たびの戦場を越えて不敗).」

 

 彼に敗北など無い。何故なら彼にとって戦闘とは己との戦いに他ならないからだ。

 

「何をしようというのですか?下策を弄したところで、私の『悪臭(メフィティス)』を破れるとでも?」

 

 キャスターは怪訝そうな顔をする。だが余裕を崩さないのは、サーヴァントでもない人間が自分に実害を与えるとは露とも思っていないからだろう。

 

「―――Unaware of loss(ただ一度の敗走もなく). Nor aware of gain(ただ一度の勝利もなし)

 

 己との戦いであるがゆえに敗北は無い。しかし、そこには勝利と呼べるものも無い。

 

「シロウ…?一体何を」

 

 セイバーもまた怪訝そうだ。剣を振るうのは止めないが、その顔は士郎の様子を伺っている。

 

「―――With stood pain to create weapons(担い手はここに独り). waiting for one's arrival(鉄の丘で剣を打つ).」

 

「セイバー、澪。これから起こることは他言無用よ。…絶対に」

 

「せ、世界が侵食され始めている…?!まさか、これは―――」

 

 『送受信』の八海山の血がそれを教えたのだろうか。あるいは『脅威』を探索する澪の魔術がそれを感知したのだろうか。

 

 士郎の言葉すべてに言霊が宿り、徐々に世界を塗り替えていくのが澪には感じられた。

 

 澪は思い当たる。この魔術の正体を。魔術師であれば大抵のものは知っている、その大魔術、禁断の術の名を。

 

「――I have no regrets.This is the only path(ならば、我が生涯に意味は不要ず).」

「―――My whole life was (この体は、)unlimited blade works(無限の剣で出来ていた)”」

 

 そして世界は侵食された。

 

 地面に炎が迸り、それは彼ら全員を囲む。そこから発せられる火の粉から目を守ろうと、士郎とメフィティス達以外は腕で目を庇う。

 

「これは―――固有結界…?」

 

 澪が最初に感じたのは、雨ではなく乾いた風がその頬を撫ぜる感触だった。恐る恐る目を開けると、そこに広がっていたのは―――。

 

 剣。剣。剣。剣。剣。

 

 ただひたすらに広大な荒野に、無限の剣が突きたてられている。火の粉舞う丘の上にいるのは、素手で佇む士郎だ。

 

 いつの間にか位置関係も変わっている。ぐるりとメフィティスが囲む形ではなく、距離をあけて士郎たちとキャスターたちが対峙する形。だが士郎だけが前に出ている。他の3人を背中で守る形だ。

 

 ―――アイツ(アーチャー)の背中に似てきた。

 

 凛はそう思った。背も少し伸び、筋肉は発達し、髪と肌の色までもエミヤシロウに近づいてきた。だが見た目の問題ではない。在り方、というべきか。纏う雰囲気が少し似てきたように思える。

 

 もちろん、普段は以前と変わらない士郎だ。だがこのような荒事のときに、ふとその面影が重なることがある。

 

「こ、これが…固有結界…!」

 

 圧倒的。澪にはその言葉しか浮かばなかった。そして悲しい。士郎の心象世界はこんなにも無機的で寂しい場所なのだと思うと。

 

「―――つ!?」

 

 そして叩きつけられるような激痛が澪を襲った。誰よりも背後にいたため、その異変に誰も気づけない。誰も彼も士郎の固有結界に目を奪われている。静かに地面に手をつく。

 

 ―――聖剣、

 ―――――炉に身を投げ、

 ――友を、

 ――――――――竜殺し、

 ――――勝利すべき、

 ――――――射殺す、

 ――――因果の逆転、

 ―――絶世の剣、

 ――――全て遠き、

 ――アイアス、

 ―――――――害為す、

 ―――無限の剣製、

 

 津波のように押し寄せては消える、意味のない情報の羅列。それらは凄まじい勢いで澪の脳内でガンガンと響き、その度に頭が割れそうなほどの激痛が襲う。

 

「なにこれ…。頭が、わ、れる…!」

 

 澪にとっては必死の叫びだったのだが、その声は虫の息使いよりも小さい。だが霊的に繋がっているセイバーは澪の異常を感じとったようだ。

 

「ミオ、どうした…!」

 

「キャスター、テメエが挑むのは無限の剣だ」

 

 士郎が右手を掲げると、突き刺さっていた剣が一斉に抜けて空で留まる。それらは一本一本全てが名剣、宝剣の類。そしてそれらが、ぐるりと向きを変えてメフィティスの群れへと切っ先を合わせた。

 

「な、な…」

 

 キャスターの指先は信じられないものを見たかのようにわなわなと震える。その顔面は蒼白になりつつあり、頬を冷や汗が伝う。

 

「いくぞ、キャスター。―――兵の数は十分か?」

 

「お、おのれェ…!メフィティスども何をやっている、私を守れェ!」

 

 メフィティスが密集してキャスターを守る。さながら肉の城壁だ。それも圧倒的速度で修復される城壁。

 

 剣が飛来する。それは軌跡に閃光だけを引き連れて城壁へと向かう。着弾。穿つ。切り裂く。抉る。爆発。

 

 流星群のごとく飛来する。それが着弾するたびにメフィティスの城壁は腐った血飛沫をあげ、肉片を撒き散らす。そしてすぐに爆発の炎に巻き込まれてそれすらも見えなくなった。

 

 最後の一本が着弾したときには、キャスター達の姿は黒煙で見えない。辺りには肉の焼ける匂いが充満している。

 

 その煙が薄らいだとき、キャスターは未だ立っていた。だが彼を守るものは無い。全て消し飛ばされた。だが、士郎の見立て通りすでに再生が始まっている。キャスターの周囲には瘴気が漂い、それが固まって徐々にメフィティスを再構築しつつある。

 

 だが、今この瞬間のキャスターを守るものは何もない。

 

 士郎が再び剣に号令を発すると、先ほどとは別の剣が宙に漂いその切っ先をキャスターに向けた。先ほどメフィティスに浴びせた剣と変わらない数の剣。貧弱なキャスターを葬るには十分に過ぎる威力の剣たちだ。

 

「これで、止めだ」

 

「―――いやいや、勝ち誇るのは早いのでは?」

 

 だがキャスターは急にその顔を余裕の色で塗り替える。その態度の急変に士郎は不審を抱く。だがその不審を無視して、宝具の軍勢に号令を下す。

 

 号令と同時に、数多の剣がキャスターを刺し穿とうと殺到する。それらは唸りを上げ、必殺の威力と速度を以ってキャスターを殲滅しようと疾走する―――!

 

「私を狙うのを待っていましたよ。我が宝具を以ってすれば、こんなもの無意味なことです」

 

 キャスターが右手を掲げる。そして高らかに宣言した。

 

「『留まれ、お前は美しい(グレートヒェン)』!」

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

【クラス】キャスター

【マスター】間桐慎二

【真名】???

【性別】男性

【身長・体重】174cm 65kg

【属性】混沌・悪

【筋力】 E  【魔力】 A

【耐久】 D  【幸運】 B

【敏捷】 E  【宝具】 A+

 

【クラス別能力】

 

陣地作成:B

魔術師として有利な陣地を作り上げる。工房の作成が可能。

 

道具作成:A

魔力を帯びた道具を作成できる。いずれは不死を可能にする薬を作ることもできる。

 

 

 

【保有スキル】

 

精神汚染:C

精神がやや錯乱しているため、他の精神干渉系魔術を低確率でシャットアウトできる。

このレベルであれば意思疎通に問題は無い。

 

知識探求:B+

未知に対する欲求。未知のものに出会っても短時間で混乱から立ち直り、それを理解する。

また、自分が扱う魔術体系の魔術であれば、低確率でそれを習得できる。

 

???:?

???

 

【宝具】

留まれ、お前は美しい(グレートヒェン):A+

対界宝具・レンジ1~999

???

 

 

???:?

??・レンジ?

???

 



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Act.12 哀れみを

 片田舎の、いつも鍬や鍬の音が聞こえる町。そんなドイツのある町に一人の男が居た。

 

 錬金術。彼の研究はそう称される学問だった。その時世では錬金術は決して魔術の一派と解釈されるものではなく、科学の範疇に属するものだった。

 

 だが、ある時期からそれが魔術に傾倒するようになる。

 

 ―――命のエリクシル。

 

 エリクシルとは元素を抽出した物体の総称だ。あるいは賢者の石と呼ばれることもある。エリクシルは卑金属を貴金属に変質させる力をもつものだ。四大元素を抽出してエリクシルを精製することが錬金術の到達点の一つである。

 

 しかしそこに一つの概念が投げ込まれた。

 

 曰く、命や魂を構成する元素が存在する筈である。曰く、その元素を抽出することで命のエリクシルを精製することが可能であり、それを服用することで不老不死へ辿り着く。

 

 ある錬金術師はホムンクルスを製造することで命のエリクシルへと辿り着こうとした。ある錬金術師は既存の魔術の概念と錬金術を融合することで命のエリクシルへと辿り着くと発表した。またある錬金術師は根源へ到達することで命のエリクシルへ到達すると考えた。

 

 こうして錬金術は学問の埒外へ飛び出し、魔術と呼ばれるようになる。エリクシルや賢者の石の概念が命のエリクシルの概念と入れ替わりだしたのはこの時期である。

 

 彼もまた、魔術的な錬金術を以ってエリクシルを追い求める一人であった。エリクシルによって人々に幸福がもたらされると信じていた。

彼は町では有名な変わり者。だが錬金術師としての実力は一級であった。偏にその知識欲と探究心の賜物である。

 

 そんな彼の元に、それはやって来た。

 

 ソレはヒトならざるモノ。口からは瘴気と悪臭を撒き散らしながらソレは彼の工房に現れた。

 

 ソレは言った。貴様にこの世の全てを見せてやろう。全てを体験させよう。貴様が望むものは全て貴様のものだ。だが貴様がそれらに満たされたとき、貴様の魂は私のものだ。

 

 ソレは彼に賭けを持ちかけたのだ。全てを与えるが、それに満足すれば魂を貰う。『瞬間』を感じたときに契約の言葉を口にすれば、死後の魂はソレに服従することになる。

 

 だが彼は迷わずそれを受けた。結果としてエリクシルへと辿り着くのならば、それでも良いと考えたのだ。

 

 彼はある町娘に恋心を抱いていた。美しく可憐な女性だった。それはまず町娘と彼を結びつけ、娘に彼の子供を身ごもらせた。ソレはその逢瀬の際に邪魔になる彼女の母親と兄を殺害した。

 

 そして次に彼は魔女の祭典であるヴァルプルギスの夜を体験した。魔女たちがブロッケン山で篝火をたき、春の到来を待つ祭典。彼女らの神々と踊り狂うその様を見て、彼はとても興奮して一緒になって踊り狂った。

 

 しかしその旅から戻ってくると、最愛の女性は嬰児殺しの罪に問われ処刑されていた。

 

 彼が狂いだすのはここからである。

 

 決して手を出さなかったホムンクルスの研究に埋没した。それも普通のホムンクルスではない。死体からホムンクルスを作りだそうとしたのだ。死者の魂を補修した死体に封印し、生前と同様かそれ以上の機能を実現する。

 

 これの長所は記憶を生前から引き継ぐことが可能なことだ。

 

 つまりは、完全なる復活(リザレクション)。エリクシルでなければ実現不可能と思われる領域。

 

 そのための知識はソレから手に入れた。死霊術をソレは彼に体験させ、彼はそれをものにした。よりよい研究を行うために王へ近付き、王宮に召抱えられた。

 

 だが彼はいくら手に入れても決して満たされなかった。ソレは彼に知識を与え、あらゆることを体験させたが、彼に即物的に何かを与えることはなかった。完全なる復活(リザレクション)やエリクシルへ至る方法は教えるが、それそのものを与えることはない。だから彼が本当に欲しかったものは自力で手に入れる以外になかった。

 

 だがいくら研鑽を重ねてもリザレクションには届かない。いくら知識を手に入れても彼女は戻らない。

 

 その苦悩に疲れたとき、彼は自身の工房からある音を聞いた。それはソレの眷属が彼の墓穴を掘る音だったのだが、彼には鋤や鍬の音に聞こえた。その音を聞いて彼はあの町のことを思い出す。

 

 思い出したのは、短くはあったが幸福だった最愛の人との時間。何でもない時間が幸福だった。ならば彼は既に満たされていたのだ。

 

 彼女を、リザレクションを諦めたわけではない。妄執に近いその信念は未だ健在だ。だが彼は疲れてしまった。死ねばこの魂はソレのものだが、もしかしたら彼女に会えるかも知れない。

 

 そして彼はソレと交わした契約完了の言葉を口にしてしまう。

 

 ――――留まれ、お前は美しい。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 キャスターがその言葉を唱えたその瞬間、剣の群れは力を失くし荒野に倒れ伏した。その言葉を宣言した瞬間に剣は速度をなくし、音を立てて墜落する。

 

「―――え?」

 

 士郎にとってそれは以外に過ぎることだった。剣を防がれるならともかく、まさか自分のコントロールから急に離れてしまうなど今までに無いことだった。

 

 いや、剣だけでは無い。固有結界そのもののコントロールは既に士郎から離れてしまっている。そして―――世界は崩れ始めた。

 

 とは言ってもそれは術式が維持できなくなっているに過ぎない。士郎には固有結界が維持できなくなっている。衛宮士郎の世界は急激に現実の世界へと塗り戻されていく。

 

「―――『留まれ、お前は美しい(グレートヒェン)』ですって…!」

 

 忌々しげに凛が呟く。そう、この言葉に代表される英霊は一人しか居ないだろう。冥界の大公と契約を交わした大錬金術師にして大死霊術師。

 

留まれ、お前は美しい(グレートヒェン)』。それを持つ男の名は―――。

 

 

 

 そして世界は現実へと振り戻された。放られたように士郎たちはその場に投げ出される。

 

 彼らは素早く立ち上がり状況を確認する。術式が士郎の手を離れた影響だろうか、場所は教会前ではない。

 

 ここは外人墓地だ。固有結界から抜け出す場所はそれを展開した場所から離れ過ぎなければ任意だ。今回は士郎の意思ではないため、偶然の産物だろうか。

 

「…なんでさ……!『無限の剣製(アンリミテッド・ブレイドワークス)』が、無効化された…!?」

 

「グレートヒェン…。間違いないわ、キャスターの真名は―――」

 

 ―――ゲオルグ・ファウストよ。

 

 声色を硬くしながら凛は士郎にそう伝えた。

 

「ゲオルグ・ファウスト…。…ファウストだって!?ファウスト伝説のファウストか!?」

 

「いかにも。私の名はゲオルグ・ファウスト。いずれ『完全な復活(リザレクション)』へと至る者。…あなた方には、その礎になって頂きます。」

 

「…くっ」

 

 最悪だ。特に、この場所が。

 

 死霊術師にとって最高のフィールド、それは間違いなく墓場。かの一大宗教では、死者は審判の日に復活して裁きを受けるとある。その時に肉体が無ければ審判を受けられない。そのような考えから荼毘に付すことはなく、遺体はそのまま柩に収められる。

 

 つまり―――この場所には多くの死体が眠っているのだ。多くは白骨化しているのだろが、ファウストにとってそんなことは関係ないかも知れない。

 

 考えられるのは増援。つまりメフィティスの増加。使者の軍勢はここにきて膨れ上がる可能性。

 

 士郎は葉を噛み締めながらも再び剣を構える。そうなる前に決着をつけるしかない。しかしその四肢は既に疲労困憊で力に欠ける。固有結界とは大魔術だ。その疲労は大きい。そして当然ながらその疲労は士郎だけのものではなく、凛もまた大きく負担をかけられていた。

 

 固有結界を展開するには、世界と契約していない士郎の魔力だけでは些か足りない。『無限の剣製』は士郎と凛によって展開されるのだ。

 

 しかし、彼ら二人よりも疲労しきっている者がいる。澪だ。

 

 投げ出された体勢のままで力なく地に倒れ付している。息はしているが荒々しく、全身は油を頭から被ったかのように濡れている。

 淡い色のシャツはべったりと肌に張り付いている。目は閉じて眉間に皺を寄せ、弱弱しく呻きながら苦痛を訴える。彼女の異変にいち早く気がついたセイバーは彼女の傍で身を案じることしかできなかった。

 

「あた、ま…われ、る……い、たい」

「しっかりしろ、ミオ!」

 

 ―――意思、思い、

 ―――――――過去の、

 ―――偉人、英雄、英霊、亡霊、

 ――――即ち死者、

 ――――思い出せ、いずれ思い出す。きっと辿り着く

 

「―――!? どうしたの澪、すごい苦しそう…!」

「どうした澪、キャスターに何かされたのか!?」

 

 ここに来てようやく凛と士郎もその異変に気付いたようだ。些か気付くのが遅すぎるきらいがあるが、彼らを責めるのは酷だろう。キャスターから意識を逸らすわけにはいかなかったのだから。

 

「リン、シロウ!ミオの様子がおかしい…!」

 

 医者でもないセイバーにはどうしようもない。勿論士郎と凛も医者ではないが、助力を頼まずにはいられなかった。しかし、澪を介抱する余裕などあるはずもない。目の前には敵が居るのだから。

 

「リン、ミオを任せていいか…?私ではどうしようも無い。私はキャスターを…!」

 

 そこでセイバーが前に出て澪と凛を守ることで介抱させる。少なくともセイバーが前に出ることで牽制にはなるだろう。しかしどうしても澪が気になるらしく、キャスターを見守りながらも背後の様子を伺っている。

 

「分かったわ…落ち着きなさい、澪。私の声は聞こえる…?」

 

 弱弱しく頷く澪。一応意識はあるようだ。

 

「キャスター!テメエ一体何をした!」

 

 最初に激高したのは士郎だった。セイバーは澪を気遣うあまり怒りが先に出て来られない。だから代わりに知ろうが最初にキャスターへ剣を向けた。今ここで澪に何か出来るのはキャスター以外にいない。

 

「…私はその女には何も。と言っても信じないでしょうが。」

 

 だがキャスターは知らないと言った。無論のこと士郎とてこの言葉を鵜呑みするわけではない。

 

「とぼけるな…!」

 

 干渉莫耶を破棄する。メフィティスはまだ蘇生しきっていないが、固有結界内と同じようにキャスターを囲む形で存在している。つまり先ほどのように士郎達が囲まれているわけではなく、そういう意味では固有結界を展開した意味はあったのかも知れない。

 

 しかしやはり数が圧倒的に違う。強力な制圧力で前面を覆わない限り、いずれ先ほどのように囲まれてしまう。

 

 そういう意味で澪の無力化は痛い。彼女ならばどこから回り込んでくるか察知できる。無論セイバーや士郎がそれに気付けないという訳ではないが、絶対にそれを察知できるかといえば否だ。

 

 だがこの位置関係は好都合。急げ。今ならまだ間に合うかも知れない。今ならば、キャスターの守りの囲いは薄い。今ならば、ファウストが新たなメフィティスを呼び出す前に、宝具の一撃で全てを終わらせられる―――!

 

投影開始(トレース・オン)!『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』ァァ!!」

「だ、駄目!士郎!」

 

 残り少ない魔力を全投入する勢いで剣を作る。前回のセイバー、騎士王アーサー・ペンドラゴンの聖剣『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』。

 

 その星の輝きを集めた閃光は、地を焼き墓標を薙ぎ倒しながら放たれる。それはまさしく必殺の威力をもって敵を蹂躙する―――はずが。

 

「まだ分からないのですかな。――『留まれ、お前は美しい(グレートヒェン)』」

 

 だが星の輝きは一瞬のもの。星光は燃え尽きて、誰の元へも届かない。ただ地を焼いただけである。

 

 士郎のもつエクスカリバーの実体が急に解れる。まるで内側から砕かれたかのように霧散する。士郎が破棄したわけではない。一度形作られた剣は、その作り手がそれを放棄しない限りそこにあるはずだ。だが、聖剣は何かによって破壊された。いや、棄却された―――?

 

「やれやれ、本当に剣を振り回すしか能が無いのですかな。冥界の大公との契約完了の言葉すら知らぬのですか?」

 

「――――留まれ、お前は美しい」

 

 士郎の代わりに代弁したのはセイバーだ。

 

「そう。そして其れこそが我が宝具、『留まれ、お前は美しい(グレートヒェン)』。私の誇る絶対完了の宝具。」

 

 契約の完了を表すその言葉は、「あらゆる神秘を完了させる」。宝具や魔術は彼の宝具の前に「完了」させられる。そして完了したものはそれ以上効果を発揮することは無い。ゆえに、ファウストを打ち倒そうと思えば宝具に頼らない純粋な力のみだ。

 

「…なんということか」

 

 キャスターの正体と宝具が分かった今、セイバーも宝具は使えない。今の士郎のように徒に魔力を消費するだけだ。今の位置関係なら、今ならば、彼の宝具はメフィティスを一瞬で焼き尽くしてキャスターにも一太刀浴びせることが出来たというのに―――!

 

「そして私のもう一つの宝具がこれです」

 

 キャスターは点を仰ぐように両手を広げる。そしてやや長い溜めの後、その宝具を使用した。

 

「―――『悪臭を愛する大公(メフィストフェレス)』!」

 

 その瞬間に士郎の恐れていた事態が起こった。

 

 死者はその宣言で目を覚まし起き上がる。だが審判の日が訪れたわけではない。いわずもがな、キャスターの宝具によって叩き起こされたのだ。

 

 近年ではこの墓地に死者が埋葬されることは殆どない。古い死体はもはや骨でしかない。

 

 だがその死体はおぞましい速度で肉を付けながら起き上がる。声にならない咆哮を上げながら、うぞり、うぞりと。それは程なく腐り果てた兵、メフィティスと成り果てた。

 

 その数、元の100からさらに倍ほどにまで伸びる。いや、もっと増える。今やこの場に眠る使者の全てが士郎達の敵―――!

 

 セイバーはその様を見て、どうしようもなく悲しくなった。その咆哮が、助けてと叫んでいるように思えたからだ。

 

「貴様ぁぁ!!どこまでも死者を愚弄するつもりか!その命、無いものとせよ!」

 

 その叫びを聞いてようやくセイバーの怒りは発火した。爆発と言ってもいい。血が出るかと思われるほど剣を握った拳を固める。

 

 だがその爆発の中で冷静は見失わない。決して闇雲に吶喊しない。ここでセイバーが澪から離れれば、本当に澪は食い殺される。キャスターの下僕となってしまう。

 

 その怒気だけで敵を押し返そうと睨みつける。だが際限なく増えるメフィティスは感情が希薄なのか、まったくそれに反応しない。ただキャスターの命のみを聞く奴隷なのだ。

 

「一度は死んだ身、何を恐れることがあるというのですか。―――しかし興味深いのはその男の魔術。固有結界などそうそうお目にかかれるものではありません。そして…今のは投影魔術ですかな。宝具を、しかも聖剣を投影するとは興味深い」

 

 ぶつぶつと呟くキャスター。その視線は士郎を捕らえて話さない。

 

「投影魔術…錬金術と通じる部分もあるかも知れません。もしやエリクシルに通ずる道があるやも。…これは是非、詳しく調べたいものです」

 

 メフィティスの数はもはや数えることが出来ないほどだ。唯一それが可能な澪が倒れたせいもあるが、何よりも数が多すぎる。

 

 これは拙い。相手は大群でこちらはわずか4人。いや動けるのは3人だ。しかも相手は死なずの兵。不死殺しでも殺せない大軍。

 

 今なら、今ならまだ後方が開いている。前方は森のような大軍。これは挑むだけ無駄だ。この囲いを破って前進するのは困難を極める。

 

「…士郎、セイバー。悔しいけれど、ここは退くしかないわ」

 

 忌々しげに凛が呟く。彼女の考えのように、今は逃げるのが最善手だ。多勢に無勢を体現したようなこの状況で宝具まで封じられたとあっては、戦闘するだけ無駄死にするだけだ。

 

「…分かった」

 

 そう言って士郎はじりじりと後ろへ下がる。横たわる澪をおぶり、いつでも逃げ出せるようにする。

 

 セイバーが澪を運ばないのには訳がある。逃走となれば必ずそれを追走する。それを受け止める役が必要なのだ。この場でその役目に一番相応しいのは誰か。

 

「では私がしんがりを引き受けよう。なに、しんがりの役目は慣れている」

 

 セイバーだ。最も危険なこの役目を担えるのは彼しかいない。

 

「…すまない、セイバー。ヤバくなったら逃げてくれ」

 

「そうしよう。だが、一つ頼まれてくれないか?」

 

「…何だ?」

 

「絶対に、誰も死なないでくれ」

 

「…ああ」

 

 アンタもな、と言い損ねたのはそれを聞いたセイバーが相好を崩したからだ。清清しい、という形容が丁度当てはまるだろうか。まるで死ぬ気配を感じさせない彼に、死ぬなとは言えなかった。

 

「…おやおや。逃げるおつもりですかな?どうぞどうぞ、私は追わせていただきますゆえ」

 

「―――行け!」

 

 その言葉に弾かれて凛と士郎は走り出した。目指すのは住宅街の方向。夜の雨は視界が悪く、すぐに見えなくなる。遠くから微かに水の跳ねる音が聞こえるだけだ。

 

「逃がしませんよ、行きなさい!」

 

 キャスターはメフィティスに命じる。それらは悲鳴に近い叫びを上げながら、二人を殺そうと殺到する。

 

「ここは通せない。―――私は彼らを守るのだから」

 

 その軍団を押し留めようとするのはセイバー一人のみだ。およそ物量が違いすぎる。だが彼はサーヴァント。一騎当千の騎士、セイバーなのだ。

 

 それに今ならば存分に戦える。澪が足手まといだという訳ではないが、縦横無尽に動ける方が十全に力を振るえるのは道理だ。

 

 それならばきっと、この軍勢にだってセイバーは互角以上に戦えるだろう―――!

 

「破ァァァッ!!」

 

 弾丸のような速度をもった突進。それは魔力の残滓を尾に引きながら、メフィティスの軍勢へと吶喊する。高速で迫り来る盾は、空気との摩擦で炎を吹き出す。さながら大気圏に突入するシャトルのようだ。

 盾の弾丸はメフィティスを吹き飛ばし、砕きながら軍勢の群れを突き進む。セイバーが通った後はまるで削岩機が通ったかのように何も残ってはいない。

 

 だが盾はその質量の前に止められる。削岩機を受け止めたのではなく、削岩機のブレードが突っかかってしまったのだ。

 

 動きが止まったセイバーに食らい付こうとメフィティスが押し寄せる。

 

 だがその俊足の刃が踊る。瞬く間に周囲のメフィティスを細切れにしていく。腐った血が舞うが、セイバーがそれに濡れることはない。なぜならば、それが舞うまでの瞬間にはもう別の場所にいるのだから。

 

「こんなものかキャスター!私はもっと多くの敵を一人で討ち滅ぼしたぞ!」

 

 信じられるだろうか。たった一騎でこの軍勢を押し留めている事実を。しかし討ち漏らしは存在する。この軍勢を全て一人で抑えることは不可能だ。いくら押さえ込んでも絶対に一部はセイバーを突破する。

 

 ―――士郎、凛。頼んだぞ。この程度ならば貴方達でも何とかなる筈だ。

 

 そう信じて剣を振るう。再び盾で突撃する。その度にメフィティスは倒れる。

 

 だが、やはりそれは強い不死性をもって立ち上がる。何度も何度も立ち上がり、セイバーを徐々に追い込む。

 

 セイバーにも消耗が見え始めている。メフィティスはセイバーに息をつかせないのだから無理もない。長期戦はやはり不利だ。ここらで撤退を始めるべきだろう。だが―――

 

 ―――もはや逃げられん、か。

 

 退路はもはや無い。セイバーは無数の敵の海の中で単騎、ただ一人である。前方も後方も敵。メフィティスの一部は士郎を追ったが、大部分はセイバーを標的に定めたようだ。ここでセイバーを抑えておくことは結果として追撃の成功率の上昇に繋がる。その冷静な判断がセイバーは憎らしかった。

 

「なかなか善戦するではないですか。ですが、それもいつまで保ちますかな?」

 

「貴様を切り伏せるまでだ!」

 

 剣が踊り血は舞う。一歩、また一歩と確実にキャスターへと歩み寄る。剣も足も決して止まることはなく、ただ不死の軍団を切り裂いて前進する。その剣は血糊で塗れているが、その切れ味を落とすこともなく敵を切り裂く。盾も宝具ではないにせよ一級の守りであり、セイバーを強固に守っている。

 

 だが、果たしてキャスターにその剣は届くのだろうか。すでにどれ程のメフィティスを斬ったのか分からない。あとどれ程切り伏せればキャスターに届くのか分からない。その手を伸ばせば届く距離まで近づけても、キャスターが身を引いてしまえばつかみ損ねるかも知れない。

 

 だがセイバーは決して諦めない。その意思はまさしく不屈。体はその意思に答えるかのように動く。

 

 ―――もう、決して誰かを失わない。

 

 セイバーの願いはただひたすらにそれだけだ。親友と呼ぶべき友を失い、自分を信じていた兵を失い、その悲しみの果てに願った。

 

 ―――この戦いを無かったことに、私にやり直しを。

 

「おおおおおぉぉッ!」

 

 しかし次第にメフィティスの爪はセイバーを捕らえ始める。キャスターは、セイバーの対処能力を超えた飽和攻撃を仕掛けさせるようになったためだ。

 一度に10を処理できるのなら、11を仕向ければ1は通る。単純にして力押しの策ではあるが、メフィティスとは使い捨てても問題のない兵力だ。まさしく最良の戦法。

 

 そして一度傷ついたダムが一気に崩壊するように、些細な負傷が更なる負傷を引き起こす。

 

 甲冑に身を包んでいても全身をくまなく覆っているわけではない。最初に傷ついたのは右手。浅くはあったが、その剣が鈍るには十分すぎた。次第にセイバーの体は傷だらけになっていく。致命傷を負わされることは無いが、体には無数の引っかき傷を刻まれていく。

 

 しかしセイバーは立ち止まらない。どれ程傷ついても、決して膝を折らない。

 

 前へ。前へ。前へ。前へ!守るために前へ!

 

 ―――だが。

 

「なっ!?」

 

 倒れていたメフィティスに足を捕まれた。止まってしまった足にさらに数体が纏わりつき、それを切り裂こうとしていた手をも捕まれる。数体掛りとはいえサーヴァントを押さえつける。

 

 間髪空けずに、眼前の一体の乱杭歯がセイバーの喉元に襲い掛かかった。

 

 ―――――――――ミオ。

 

 そして血の華が咲いた。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 ただひたすら走る。

 

 セイバーを信じて。セイバーが無事に帰ってくると信じて。

 

 凛と士郎は息を切らしながら教会からの道を下っている。士郎は澪をおぶった状態だ。具合の悪そうな澪を気遣いながら駆ける。

 

 雨の坂道は足が取られて走りづらいが、そんなことに構っている余裕などあるわけがない。跳ねた泥で汚れるのも無視して全速力で駆け下りる。

 

 雨音は否応無く五感を鈍らせる。その鈍った感覚で周囲を警戒すればするほど、得体の知れない焦燥と恐怖が二人を掻き立てる。

 

「士郎、大丈夫?!」

 

「なんとか!」

 

 魔力の消費は多く、全身に倦怠感が絡まる。だが立ち止まるわけにはいかない。敵を食い止めているであろうセイバーを助けるためにも、自分達がいち早く撤退しなければ。

 

 背中で澪が呻いているのが分かる。心苦しいが今は介抱している余裕もない。居心地は良くないだろうが、揺れる背中の上で甘んじてもらうしかない。

 

 士郎は走りながら考える。何故澪は倒れてしまったのだろうか。

 

 キャスターに何かされた?いや、キャスターの仕業なら真っ先に士郎やセイバーを標的にする筈だ。セイバーも士郎も無事である以上、キャスターの言葉を鵜呑みにするわけではないが考えにくい。

 

 あと考えられるのは―――固有結界だろうか。

 

 澪が倒れる瞬間は見ていなかったが、固有結界に取り込まれるまでは健全だったはずだ。固有結界内で何か起こったか、固有結界が何か起こしたか。

 

 後者のように思える。固有結界では一番後方に居たのだ。誰かに何かされたとは考えにくい。

 

「士郎、危ない!」

 

 思考を中断し、反射的に干渉を投影して振り向きざまに振るう。澪を背負っているため両手で剣は扱えない。

 

 剣がざくりと肉を裂く。剣技もくそも無いがむしゃらなものだったが、運よく剣は相手の首を捕らえた。

 

 倒れ付したものを確認するとそれはメフィティスだった。セイバーでも処理仕切れなかったようだ。こいつは討ち漏らしだろうか。

 

 背負っている澪の手の甲にはまだ令呪が健在だ。セイバーがやられたとは考えにくい。

 

「もう追ってきたのか…遠坂、先に行ってくれ。もう宝石も残っていないんだろ?ここは俺が食い止める」

 

 そう言って澪を渡そうとする。澪は決して重くない。身長も高いほうでもなく、むしろ軽い部類に入るだろう。凛でも問題なく背負えるはずだ。

 

「お断りよ」

 

 だが凛はそれを断る。呆気にとられる士郎をよそに言葉を続けた。

 

「何でもかんでも一人でどうにかしようとしないで。一緒に逃げるか、一緒にここで戦うかの二択しかないんだから」

 

 じっとその意思の篭った目に見据えられる。

 

 ―――傍に君が居てくれれば俺は安心だ。

 

 エミヤシロウ《アーチャー》の言葉が凛には忘れられない。士郎をアイツみたいな悲しい運命に囚われさせはしない。もしもそっちに行きそうなら、私がふん縛ってでも連れ戻す――――!

 

「……そうか。なら一緒に逃げよう」

 

「当然よ」

 

 やや遠くから複数の何かが泥の中を疾走する音が聞こえる。ここでいつまでも立ち止まっているわけには行かない。二人は再び走り出す。

 

「遠坂、俺が追手を処理する!澪を頼んだ!」

 

 走りながら、なおかつ澪に負担が掛からないように凛に渡した。揺らされるのはやはり苦しいのか、やや先ほどよりも眉間に刻まれた皺が深いように思える。

 

「了解。女の子にこんな荷物を運ばせるなんて、ホントに唐変木なんだから―――!」

 

 軽口を叩くほどの余裕がどこから出てくるのか分からない。しかし、それが今の士郎には有難く思えた。平常心を取り戻せたようにも思える。

 

投影開始(トレース・オン)と小さく呟き、干渉の番である莫耶を投影する。意識を常に背後に向けながら士郎は凛の後ろへ付く。

 

 ここでも澪の探索魔術が無いことが忌々しい。澪を責めるつもりは毛頭ないが、有るのと無いのでは大違いだ。士郎の目が良いと言っても一般人よりも視力が良いというのに過ぎず、こうも雨に打たれると視覚に頼れない。

 

 二体が踊りかかってきた。両手の双剣で一体ずつ捌く。次に三体。次には五体。メフィティスの数はまばらだが、徐々にその数を増している。当然だ。斬ってもすぐに復活するのだから、後方から来たものと合わさって数を増やしていくのは自明の理。士郎が捌ききれなくなってくるのは時間の問題だろう。凛も援護をするがもう魔力は底が見え始めている。あまり無茶は出来ない。

 

 こんなにもこの坂が長いなんて。ヘラクレス《バーサーカー》に襲われたときに比べればまだマシだと言えるだろうか。少なくとも、今この瞬間はそうは思えないほどの緊張と疲労だ。

 

 だがどうにか士郎は追手を捌いていく。士郎を援護しようと凛もガンドを放つ。僅かでも蘇生が遅れるように、余裕があればオーバーキルも辞さない。

 

 だがしかし。

 

 もはや士郎の能力を超えつつある。次に一度に襲い掛かられたら、この命は無いかも知れない。

 

 そうなったら最後の力を振り絞ってでも投影をするしかない。エクスカリバーか、あるいは他の広範に攻撃できるもの。一度に消し飛ばせばきっと凛と澪だけでも逃げることが出来るはずだ。

 

「――――あ」

 

 だけど、これは良くない。

 

 いつの間にか回り込まれていた。最初の折のように、いつの間にか囲まれていて全方位から一度に襲われた。

 

 これは、拙い。

 

 士郎はどうにかなる。だが、凛と澪を守りきれない。凛は澪を背負っているせいで反応が遅れ、もはやガンドで迎撃できる暇すらない。ましてや拳法など使えるわけもない。

 宝具で一部を消し飛ばしても、剣を投影するまでのタイムラグや真名開放するまでの間に食いちぎられる。やはり士郎は助かっても、凛が、澪が助からない。凛と澪を守りつつ全方位を攻撃できる手段など士郎にはない。

 

 スローモーションで十数体のそれが突進してくるのが分かる。実際にはかなりの速度なのだが、このような危機の際にはそのように写るものだ。これが走馬灯と言うのならそうなのだろう。

 

 そしてその時考えることも時として的外れだ。だが、士郎らしいといえばそうなのかも知れない。

 

 ―――セイバーとの約束、守れないや。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 その二人の姿は戦い続けるセイバーを捕らえていた。その戦いざまは獅子奮迅というに相応しく、裂帛の闘志が二人にも伝わってくる。

 

「ランサー。貴様はどちらに加勢するほうが良いと思う?」

 

 その二人とはスカリエッティとランサーだ。やや小高い場所から茂みに隠れ、戦うセイバーとキャスターの軍勢を観察していた。

 

 さすがに詳細は見て取れないが、大まかなことはランサーには分かる。おそらく正義はセイバーのほうにある。遠目で見てもセイバーが戦う軍勢は神を冒涜する存在だ。輪廻転生を認めない教義のこともあるが、何よりも死者の尊厳が軽すぎる。

 

「…セイバーかと」

 

「何故だ?」

 

 出来るだけ私情を挟まないように、理路整然とランサーは答えた。

 

「ここでセイバーを討ち取ったとて…私一人ではキャスターを下すのは難しいでしょう。私には『神の血を受けし聖槍(ロンギヌス)』があるとはいえ、それは私の負傷を無視できるに過ぎない。アレを無力化する手立てもありますが…キャスターに宝具を使われたら堂々巡りとなりましょう」

 

「しかしここでセイバーを強襲すれば、まずは一組脱落だ」

 

「いえ。セイバーも優秀なサーヴァントです。背中を襲ったとて確実に討ち取れるかどうか。それに、アレはセイバーと戦う私にも牙を剥くでしょう。ともすれば共倒れになる危険もある」

 

「ふん…ならば今は共同戦線を張るべきだ、と言いたいわけだな」

 

 スカリエッティはやや逡巡する。この機をただ見過ごすのは有り得ない。ここで撤退は有り得ないとのランサーの具申を聞き入れて、どちらに介入するか決めかねているところだ。

 

 ランサーの意見を一蹴せずに、一策として検討するあたりはマスターとして優秀だと言えた。

 

 アーチャー戦を経てスカリエッティの心情には僅かな変化が生じていた。それは、今はまだごく些細なこと。本人にも分からないほどの小さな変化。今はただ、「生き残りたければランサーの言うことを重んじるべきだ」という程度の心変わりでしかない。

 

 落としていた目線を上げる。どうやら方針は決まったようだ。

 

「セイバーと共同戦線を張る。だが馴れ合うな。機を見て、隙あらば刺し殺せ」

 

「―――御意!」

 

 それはつまり、セイバーを殺すかどうかの判断をランサーに任せるということ。馴れ合うなと釘を刺されはしたが、今のところは刃を並べることを許可された。

 

 キャスターの姿がどこにあるのかは良く分からない。きっとあの亡者の群れに紛れているのだろう。セイバーが亡者と戦い、その間にキャスターを討つのが理想だったが、ここは致し方ない。とりあえずセイバーに加勢するしかないだろう。

 

 ランサーは『神の血を受けし聖槍(ロンギヌス)』をその手にもち、いまだ戦うセイバーへと目線を落とした。

 

 見ればセイバーは多数の敵に動きを封じられている。これは良くない。

 

「行け!」

 

 スカリエッティの声を背中に送り、ランサーはセイバーの元へと踊りかかった。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

「…なに?」

 

 意外にもその牙は届かなかった。セイバーに食いつこうとしたメフィティスは、急に遠方から投げ込まれた槍にその頭部を刺し貫かれて地面に縫われ、その動きを封じられている。

 

 だがいつまでも困惑してばかりもいられない。纏わり付いていたメフィティスを力任せに振り払い、体の自由を確保する。

 

 ―――この槍に込められている魔力、並大抵ではない。間違いなくサーヴァント、それもランサーが近くにいる。意図は分からないが、三つ巴の戦いとなる可能性もある。槍が飛来した方向を凝視する。

 

 居た。メフィティスを足蹴にして跳躍し、一直線にこちらへ向かってくる。

 

「私はランサーのサーヴァント!セイバーよ、故あって加勢いたす!」

 

「加勢だと…?」

 

 重厚な鎧の音とともにセイバーの傍らに降り立ち、地面に突き刺さっていた槍を引き抜いた。メフィティスは新たな敵に困惑しているのだろうか、彼らからやや距離をとって様子を見ていた。

 

 セイバーはランサーを計りかねていた。加勢すると言ってはいるが、手放しで信用できるほどセイバーはお人よしではない。

 

 だがつい今救われたのも事実。セイバーに害意があるのなら、見殺せばよかっただけの話なのだ。信用する余地はある、のではないだろうか。それに正直なところ、こここでの加勢は実にありがたい。

 

「…背中は預けんぞ」

 

「それで良い。こちらも馴れ合うつもりで来たのではないのでな」

 

 ランサーは手に持つやりを器用に回転させてメフィティスを威圧する。そしてその切っ先はビタリとキャスターの居るであろう方向で止まった。その姿はメフィティスに隠れて見えないが、セイバーの進行方向に居るのであろうことくらいは予想がつく。

 

「キャスターよ。死者の尊厳を地に落とし、神を貶めるこの所業…その命、要らぬと見える。…懺悔の暇すら与える気もなし!」

 

「…これはこれは、ランサー。私の研究は命を生み出すという神にも等しき神聖なものです。それを神への冒涜などとは心外ですな……やれ」

 

 その一言を受けてメフィティスはランサーにも牙を剥いた。並んで立つ二人のサーヴァント目掛けて突進する。

 

 だがランサーの俊足を追いきれるものではなかった。ランサーは得物を縦横無尽に振るい、メフィティスを打ち砕いていく。純粋に攻撃範囲が広いこともあり、メフィティスはランサーに指一本触れることができない。

 

「やはり蘇生の呪いの類を受けているのか。…ますます気に食わん」

 

 遠目でも確認できたが、実際に近くで見てみると驚異的な回復力だ。ランサーの自動治癒にも劣らない。いや、頭部を破壊されても起き上がるという点では勝っているといえるだろう。

 

「ランサー、それらはキャスターの死霊術によって呼び出された死者だ!注意しろ、いくら斬っても蘇るぞ!それにキャスターには宝具の真名開放は使えない!」

 

 ―――ならばこれならどうか。

 

 ランサーは槍を振るいながらその聖句を口にする。

 

「私から離れろ、セイバー。消えたくなければ」

 

「―――?…心得た」

 

 ランサーの警告を受けて、セイバーはメフィティスを蹴散らしながら血路を開いてランサーから離れる。

 

「―――私が殺す。私が生かす。私が傷つけ私が癒す。我が手を逃れうる者は一人もいない。我が目の届かぬ者は一人もいない」

 

「…血迷いましたかな、ランサー。一体何を」

 

「装うなかれ。許しには報復を、信頼には裏切りを、希望には絶望を、光あるものには闇を、生あるものには暗い死を」

 

 近くにいたセイバーには感じられた。彼が振るう槍に、魔力や魔術とは違った気質の力が宿っていくのを。これはきっと、浄化の力。

 

「休息は私の手に。貴方の罪に油を注ぎ印を記そう。永遠の命は、死の中でこそ与えられる。―――許しはここに。受肉した私が誓う」

 

 ランサーが一体の胴を深く刺し穿つ。そして刺されたメフィティスの足元を起点にして、何か大きな紋様が地面に浮かび上がる。その光は荘厳で、かつ暖かい。

 

「―――“この魂に憐れみを(キリエ・エレイソン)”」

 

 その言葉を受けて、その紋様は光を増す。何十体ものメフィティスがその光に包まれる。まるでこの世の闇を許さないとでも言うような強烈な光だ。

 

 それは、穢れた魂を相応しい場所に送り返す洗礼。代行者が唯一習得を許される神の奇跡。ランサーは代行者ではないが、聖ロンギヌスにとっては知っていて当然の奇跡だ。

 

 その光が収まったとき、ランサーの周囲のメフィティスは一切合財が動かなくなっていた。死体は動かない。自然の摂理を当然のように厳守している。そこにあるのは、キャスターの呪縛から解放された屍が転がっているだけだ。

 

「なん…ですと…?」

 

 キャスターはそれが信じられないようだ。まさかメフィティスを無力化することが可能などと夢にも思っていなかった。

 

 キリエ・エレイソンを使ったランサーはその場に膝を折っていた。その全身は火傷を負い、ぶすぶすと燻っている。

 

「加護があるとはいえ…この体ではやはり私までも無事では済まないか」

 

 決してランサーの魂が穢れているわけではないが、霊体である以上キリエ・エレイソンを受けて平気である道理は無い。キリエ・エレイソンは神の奇跡であり、ランサーには神の加護があると言っても、無事には済まなかったようだ。

 

 だがその火傷は急速に癒える。瞬く間にその傷は全快した。

 

「なんと。…貴方は神に仕える身であるか」

 

 セイバーが呟く。その圧倒的な聖光を目の当たりにしたとあれば、ランサーの前身は神聖なものであったと察しがつく。あの奇跡は、まさしく神に仕えて神を敬うものにしか扱えないものだ。

 

 この光を見て、ランサーを信じられないものが居ようか。これほどの清らなものを持つ者を、疑うことができようか。

 

「然り。この身は神とその子に仕えたもの。…なればこそ、キャスター。私は貴様が許せない。神聖を騙り、死者の尊厳を貶めた貴様は万死に値する」

 

 ランサーの内に秘めた怒りは本物だ。セイバーのように外へ発散させない分、静かに、それでいて猛る怒りの炎。

 

「ぐ―――『腐臭を愛する大公(メフィストフェレス)』!」

 

 その言葉を受け、再び死者は起き上がる。力なく弛緩していた四肢に力が込められ、怨嗟と嘆きの叫びを上げながら呼び覚まされる。

 

「ほう、貴様はかのゲオルグ・ファウスト博士か。しかし…万でも足りぬと見える。よかろう、貴様が望むだけくれてやろう。聖書にはこうある。“目には目を歯には歯を”。他者を傷つけた貴様は、同じだけ傷つかねばならない!」

 

「同感だ。キャスター、貴様は報いを受けなければならない」

 

 セイバーとランサーはその得物を構えなおす。彼らは互いに確信した。

 

 ランサーだけでは足りぬ。彼のキリエ・エレイソンは一時的にメフィティスを封じ込めるが、突破力に欠ける。千日手の様相を呈するだけだ。

 

 セイバーだけでは足りぬ。彼には突破力があるが、それはメフィティスに阻まれてしまう。誰かがメフィティスを封じ込めなければならない。

 

 だから確信した。我らなら、キャスターに裁きを下せるものと!

 

「キャスター、その宝具を使用するのにも魔力を使っているのだろう?あと何回死者は蘇る?」

 

 ランサーはキャスターを揶揄する。今、この瞬間に限定すればセイバーとランサーは最高のタッグだった。ランサーの言葉にセイバーが続く。

 

「いくぞ、キャスター。魔力の貯蔵は十分か」

 

 そして二人は同時に地を蹴る。二人は互いの最高速をもって死者の群れへと吶喊する―――!

 

「「覚悟!!」」

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 その瞬間、時間は停滞したように思えた。

 

 私の前、いいえ全方位から死者が群れをなし、隊伍を組んで襲いくる。

 

 ああ、しまった。一瞬対応が遅れた。

 

「――――。―――。」

 

 背中で澪が何か呟いているように思えるけれど、それに構う余裕なんてない。何より声が小さすぎてわからない。

 

 右手を突き出し、目に付いたものを片端からガンドで打ち砕く。けれど、これはダメだ。一瞬のタイムラグさえなければまだ間に合ったかも知れないけれど、今になっては全てを倒しきることは出来ない。

 

 あ、士郎が焦っている。凄い勢いで自分に襲い掛かったものを切り捨てて、こっちを助けようとしている。けれどこれは無理じゃないかな。全方位から同時にくる攻撃は捌ききれない。

士郎が生き残れば澪と私は死ぬし、私と澪が生き残っても士郎は死ぬ。だってそうでしょ?一度に捌ける範囲と数は決まっていて、それは私と士郎を合わせても綺麗な円にはならない。澪を投げ捨てて両手を使えば私と士郎は生き延びるかも知れないけれど、澪は死ぬ。

 

 私が死ぬのも、澪が死ぬのもコイツは許せないだろうな。さっき一緒に逃げるって言った矢先だし、それには澪も勘定されている。全員欠かさず生き延びるって決めたんだから、律儀にも澪を抱えたまま不利を背負ってしまっている。

 

「――――。――受肉した私が誓う。」

 

 ああもう。何を呟いているのよ澪。アンタのおかげで今大ピンチなのよ。

 

 だってほら、今目の前に歯並びの悪くて鋭い牙が襲い掛かってくる―――!

 

「下ろせ、凛」

 

「―――――え?」

 

 反射的に澪を下ろしてしまった。その声は澪のもの。だけど、何か違う。決定的に何かが違う。

 

 澪の体が流れるように動く。さっきまで昏睡していた身とは思えない体捌き。震脚。そして蛇のように拳は流れ、メフィティスの顔面へ容赦のない拳が叩き込まれた。

 

 次から次へと来るそれに拳を叩き込み続ける。それは流麗に、蛇のように淀み無く。士郎は驚きながらも剣を振るうのを止めないが、やはり意識はこっちに向いているみたいだ。

 

「何を呆けている凛。右からくるぞ」

 

 慌てて右から来た死者にガンドを打ち込む。強めに撃ったガンドはそれを粉砕するが、きっとまたすぐに起き上がるのだろう。

 

「――――“この魂に哀れみを(キリエ・エレイソン)”」

 

 だけど、澪のそれによって死者は沈黙した。神々しい光が放たれ、山を成しつつあった死者を包む。そしてもとからそうであったかのように、それはひたすらに寡黙を貫く。

 

「ふむ…やはりこの体では筋力が不足しているか。…どうした衛宮士郎。それに凛。何か信じられないものでもあったかね?」

 

 気がつけば、私達を追っていたそれは全て沈黙していた。この、澪のような何かによって。

 

 勿論、半分以上は士郎と私が倒したものだけれど、何割かはこの何かが打ち倒して沈黙させたのだ。

 

 だけれど、何故だろう。この口調。雰囲気。そして人を見下すかのようなこの笑い。あらゆる要素が、私に一人の男の名前を連想させた。どうやら士郎も同じ考えらしく、おもしろいことに声が完全に重なった。

 

「「言峰―――綺礼?」」

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

【クラス】キャスター

【マスター】間桐慎二

【真名】ゲオルグ・ファウスト

【性別】男性

【身長・体重】174cm 65kg

【属性】混沌・悪

【筋力】 E  【魔力】 A

【耐久】 D  【幸運】 B

【敏捷】 E  【宝具】 A+

 

【クラス別能力】

 

陣地作成:B

魔術師として有利な陣地を作り上げる。工房の作成が可能。

 

道具作成:A

魔力を帯びた道具を作成できる。いずれは不死を可能にする薬を作ることもできる。

 

 

 

【保有スキル】

 

精神汚染:C

精神がやや錯乱しているため、他の精神干渉系魔術を低確率でシャットアウトできる。

このレベルであれば意思疎通に問題は無い。

 

知識探求:B+

未知に対する欲求。未知のものに出会っても短時間で混乱から立ち直り、それを理解する。

また、自分が扱う魔術体系の魔術であれば、低確率でそれを習得できる。

 

 

 

【宝具】

留まれ、お前は美しい(グレートヒェン):A+

対界宝具・レンジ1~999

キャスターとその宝具を対象にする宝具や魔術を無効化する。特に宝具に対する耐性が高い。

真名開放して使用するタイプの宝具に対してはキャスターも真名解放する必要がある。

キャスターとその宝具を対象にしないものについては全く効果を発揮できない。また、これの発動にも魔力を消費しているため弱い魔術に対しては使用することは有効ではない。

 

士郎の固有結界は世界を対象にしており、キャスターがこれを使用するには自身を対象にするまで待つ必要があった。メフィティスが狙われたときに使わなかったのは、可能な限り魔力を消費させる意図があったため。

 

 

腐臭を愛する大公(メフィストフェレス):B+

対軍宝具・レンジ1~50

死者の肉体を蘇生させ、そこに人口の魂を封印することで擬似的なホムンクルスを生み出す。

不死性も不完全ながら命のエリクシルの理論を応用しているため、封印された魂が現存する限り復活する。

しかしその魂が剥がされた場合にはただの死体に戻ってしまう。

 



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Act.13 友は逝き

「全く、相変わらず師を敬おうという気は無いと見える。兄弟子を忘れたのかね」

 

 言峰綺礼。元代行者にして聖杯戦争の監督役。第五次(ぜんかい)ではギルガメッシュとランサーを従え、間桐慎二をそそのかして聖杯の完成を画策した男。遠坂凛の拳法の師匠でもあり、どこまでも歪んだ者。

 

 声と姿は間違いなく澪のものだ。だがその言葉遣いや細かい動作、足運びから表情の作り方まで完全に言峰と同一。

 

 どういうことだ。こんなことが有り得るのか。キャスターの宝具じゃないんだ。死者が蘇るなんて。

 

「言峰…澪に何をした」

 

「そんな顔をするな、衛宮士郎。私自身、にわかには信じがたいことだ。が…こうなっては仕方あるまい。君達を家まで送り届けようではないか」

 

「信じられると思っているの、綺礼。…アンタが私にした仕打ち、忘れたとでも思っているのかしら?」

 

 遠坂凛は前回の折で言峰の策により束縛されて監禁されていた。その仕打ちを考えれば、言峰の言葉を信じられないのも無理もないことだろう。

 

「いや、全くだ。だが安心するがいい。少なくとも、今のところは私が君達に危害を加えることはない」

 

 そこまで言うと、(ことみね)は一人で歩きだした。呆気に囚われて凛と士郎はその背中を見送ることしか出来ないでいる。

 

「どうした、凛、衛宮士郎。セイバーを逃がすためにも君達がまず逃げねばならんのだろう?急ぐべきではないのかね?」

 

「「……」」

 

 二人は沈黙のまま歩き出した。困惑は大きく、(ことみね)に対してどう接したらいいのか分からない。やや距離をとり、睨むような視線をその大きくもない背中に送り続けながら坂道を下るのだった。

 

 道中は完全に無言。誰も言葉を発さない。この針のような空気は一体何だ。

 

 ―――言わずもがな、(ことみね)によるものだ。正確には(ことみね)と士郎及び凛との間にある軋轢ともいうべきか。

 

 士郎も凛も認めざるを得ない。これは間違いなく言峰綺礼である。姿形だけを変えて、あの男が黄泉帰ったとでも言うのだろうか。

 

 いや、それよりも。

 

 澪はどうなったのだろう。言峰が転生…いや、それは有り得ない。澪は言峰が死ぬ前からずっと生きているのだ。万が一にも転生は有り得ない。

 

 では憑依だろうか。言峰の魂が、澪の肉体に憑依したと考えれば納得がいくというものだろう。だが、それも少々考えにくいことだ。まず魔力を体に宿しているということは、魔力という防壁を纏っているということだ。意思を操られるのならともかくとして、魔術師がただの霊に体を乗っ取られるというのは、有り得ない話ではないのだが考えにくいことだ。

 

 ではこの状況はどういうことなのだろう。何故、澪は言峰のように振る舞い、言峰の記憶を持っているというのだろう。

 

 分からない。この状況が澪によるものなのか、言峰によるものなのか。それすら分からない。

 

「そこの者、何か用かね?」

 

 おもむろに(ことみね)が立ち止まり、茂みの中へ声をかける。士郎にも凛にもそこに誰が居るのか伺い知れないが、(ことみね)の探索魔術はまだ起動しているのだろう。ならばそこに誰かが居るのは間違いない。状況から考えると、キャスターのマスターだと考えるのが妥当なのだろうか。

 

 がさがさと茂みが蠢き、奥から人影が出てきた。まだやや遠く、雨の所為もあり誰かは分からない。

 

 怒気を隠そうともせずに、荒々しい調子で地面を踏み鳴らしながらそれは接近する。ようやくそれが誰か分かる距離まで近付いたときに、士郎は軽い衝撃に襲われた。

 

 間桐慎二である。

 

「ほう、少年。何用かね?」

 

「……」

 

 慎二は何も喋らない。だがその目が何よりも語っていた。

 

 ―――殺す。

 

 その目に狂気を宿し、叩きつけるような殺意を3人に送り続ける。その目線がぐるりと3人を順番に見渡し、衛宮士郎で固定された。

 

「慎二…お前がキャスターのマスターなのか」

 

 この状況で聞かない訳にはいかない。キャスターが至近に居座っていて、そこに現れた慎二。第五次(ぜんかい)の例もあることを考えれば、彼がマスターであることはほぼ間違いない。

 

「ああ、そうだよ衛宮。ボクがキャスターのマスターさ」

 

 ところで、と慎二は続けた。

 

「衛宮、嬉しいよ。キミがここに来てくれて」

 

「…そうか」

 

「ああ。何でかよく分からないけれど、ボクはキミを殺したい。ぶっ殺してやらないと気が済まないんだ。そういうワケだからさ、衛宮。大人しく殺されろぉお!」

 

 そこまで言うと慎二は突進してきた。顔を突き出す獣のような形で。その口から覗く歯は、ひどく鋭くて乱れていた。

 

 跳躍。人間にはおよそ不可能と思えるほど高い。その高度から、衛宮士郎を組み敷こうと落下する。

 

 だがその歯が衛宮士郎に届くことはなく、高く飛んだ慎二の顔面を(ことみね)の肘が打ってそれを撃墜した。

 横合いから頭蓋を粉砕する勢いで放たれた肘は、澪の容姿ということもありまるで舞いでも舞っているかのように士郎と凛には写った。しかしそれは常人が受けていたら、もはや意識を保てないほどの威力を秘めている。

 

「がぁ…くそがぁ…アンタから先に死にたいんだな…?」

 

 だが慎二はよろよろと立ち上がる。どうやら鼻を折ってしまったようだが、気絶することもなく立ち上がった。

 

 そして、その鼻の出血はすぐに治まる。さらに折れた鼻は逆再生でもするかのように、瘴気を撒き散らしながら元に戻っていった。そう、まるで――――あのメフィティスのように。

 

「ふむ、人外の匂い…少年、確か間桐慎二といったか…貴様、人を捨てたな?」

 

 え、と後方から二人分の声を(ことみね)は聞いたがそれを聞き流す。

 

「キャスターの魔術によって人を捨てたのだろう、少年?いや、貴様の意思があったか無かったは知らないがね。貴様は、あの哀れな擬似ホムンクルス(メフィティス)ではなく、本物のホムンクルスになったと見える。なるほど、死者の記憶をそのままに肉体を不死に近いものに作り変える。その凶暴性はキャスターに脳でも弄られたか。…神にでもなるつもりだったのかね、間桐慎二?」

 

 キャスターが慎二に行ったこと。最初は慎二の命を奪うことだった。そして肉体から離れた魂を捕らえておき、肉体を相応しいものに弄繰り回して改造する。しかる後に魂をその肉体に戻す。これでホムンクルスの完成だ。死んだとはいえ、元は自分の肉体だ。それに一度聖杯に成りかけたことによって得た性質もある。拒絶反応が起こる筈も無く、成功してしまった。

 

 キャスターの宝具は擬似的とはいえ一瞬でホムンクルスを大量に生産できることが強みだ。だが今の慎二はそのような量産品ではなく、キャスター手製の一級のホムンクルスである。

 

「……アンタ誰だ?どこかで会った気がする」

 

「…いやはや、私は誰にも覚えられていないのかね。少年、私は八海山澪。初対面だ」

 

 だが、と区切りながら(ことみね)は続けた。

 

「今は言峰綺礼。少年、7年前に君をそそのかしてギルガメッシュと聖杯を与えた神父だ。覚えているかね?」

 

 ひどく胡乱な記憶でも、その出来事は鮮烈に覚えていたのだろう。一瞬だけそれを思い出したのか、びくりと身を震わせた。だが一瞬のこと。すぐに狂気と殺気を取り戻す。

 

「ことみね、きれい…!」

 

 今まで眼中になかったようだが、今この瞬間に慎二は(ことみね)のことも標的に定めたらしい。(ことみね)にもその殺意を惜しみなく叩きつけている。

 

 一人蚊帳の外にいる凛だが、実際のところ幸いだと思っていた。もはや魔力は底をついていて、ガンドだってあと数発撃てるかどうかというところだ。ここで自分まで標的に定められてしまうと、士郎の足を引っ張ることになりかねない。尤も…ここで士郎と(ことみね)が倒れれば、次の標的は自身だろうが。

 

「こうなっては戻す方法は無い。…さて、衛宮士郎。どうするかね?私がやるか、それとも君がやるかね?」

 

 (ことみね)は士郎に、『引導を渡してやりたいか』と暗に聞いている。士郎ではキャスターのメフィティスに対して有効な攻撃手段を持たない。だがマスターである凛には分かった―――今の慎二に対して士郎は戦える。いや、(ことみね)も分かっていたのかも知れない。だから士郎に聞いたのかも知れなかった。

 

「…俺がやる」

 

「そうか、手早くな」

 

 やはり進み出たのは士郎だった。送り出す(ことみね)の言葉の裏に、『早く楽にしてやれ』という言葉を士郎は読み取る。その手には干渉莫耶。投影は、これを除いてあと1回が限界だろう。

 

「最初はやっぱ衛宮からか…さっさとおっ死んでしまえよぉお!」

 

 獣じみた突進。だが本能に任せた愚直な突進が、7年間戦場に身を置いてきた衛宮士郎に通ずるわけもない―――!

 

 双剣が踊る。体は最小限の動きで慎二をかわしながら、その双剣は容赦なく肉と骨を断つ。心臓を穿ち、頚動脈を断ち、肺を潰す。容赦の無さこそが慎二に対する最大の慈悲なのだから、衛宮士郎は迷わずその剣を執る。

 

 一瞬でずたずたのボロ雑巾のような物体に豹変させられ、慎二は突進の際の勢いそのままに地に伏せる。だが、やはりキャスターのホムンクルス。あの回復力はやはり慎二にも備わっている。

 

「が…がぁ…エミヤァ…」

 

 声帯も間違いなく切り裂いているはずだが、回復力ゆえだろうか、それとも執念ゆえだろうか苦悶の声とともに怨嗟を吐き出す。徐々に肉体は回復していて、すぐに起き上がるだろうことは間違いない。

 

「士郎!慎二には宝具が有効よ!」

 

 凛が叫ぶ。『止めを刺してやれ』と。

 

 キャスターの『留まれ、お前は美しい(グレートヒェン)』の効果は、相手の宝具や魔術を“完了”させ、無効化するというものだ。だが、その強力さゆえに効果範囲には明確な線引きがある。

 

 まず、宝具や魔術に頼らない攻撃は無効化できないということ。例えばセイバーが剣で切りかかれば、容赦なくその刃はキャスターを切り裂くだろう。

 

 そしてもう一つ。例え宝具や魔術で攻撃されても、キャスター自身とその宝具以外は守れないということ。つまり―――マスターを守ることはできない!

 

投影開始(トレース・オン)!」

 

 キャスターの魔術は既に効果を完了している。慎二はもはや完全な人の埒外の存在だ。『破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)』ではキャスターからのサポートを封じることができても、慎二を救うことはできない。

 

 干渉莫耶を地面に投げ捨て、新たな剣を投影する。それはハルペー。メフィティスの前にはその真価を発揮すること適わなかったが、今こそその力を見せ付けることが出来る。

 

 その鎌のような刃は正確に慎二の首を捉え、そして―――引き裂いた。

 

 慎二はその瞬間に、自分の中のなにかが霧散するのを感じた。

 

 首を落としてはいないが、その刃は首の骨の中ほどまで切り裂いた。不死殺し(ハルペー)によって不死性を失った慎二には、迫り来る死を回避することはできない。

 

「あ――――」

 

 訪れたのは穏やかな眠気。痛みもなく、苦しみもない。実際には脳細胞が死滅していく際の麻薬のような幸福感なのだが、今だけは慎二にとってとても心地いいものだった。

 

 そして慎二は、今度こそ眠りについた。

 

 

 

 

 

 

 その遺体は、今は雨に打たれない茂みの中に隠しておいた。キャスターに見つかったら大事になる。今は死体を埋葬することが適わないが、ささやかながらも弔ってやりたいという気持ちからだ。

 

「―――I know that my Redeemer lives, and that in the end he will stand upon the earth」

 

 葬式は茂みの奥の薄暗がりの中で進行していく。喪主など居ない。死者は手を組んだ形で眠っている。士郎と凛は、その心中に複雑なものがあるようだ。

 

「And after my skin has been destroyed, yet in my flesh I will see Gold; I myself will see him with my own eyes ――――I, and not another. How my heart yearns with me ……Amen.」

 

 その場で葬式を執り行えるのは(ことみね)だけだ。5分にも満たない葬式ではあったが、ちゃんと葬式を挙げることが出来るのはいつになるのか分からない。士郎の強い申し出によって、ささやかな葬儀が開かれた。

 

 その遺体は魔術によって守られている。まずその遺体は魔術的な処理によって発見が困難だ。よほどのことが無い限り人に見つかることはない。

 さらに防腐処理。そして防護。慎二の遺体は猛禽や虫に食い荒らされることはない。最低でも一ヶ月はこのままの姿を維持するだろう。

 

「全く―――凛に言わせれば『心の贅肉』だろうに。あのような外道に成り果てたものなど、捨て置けばいいものを」

 

 ささやかな葬儀が終わり、(ことみね)は言葉をこぼす。なるほど元代行者らしい物言いだが、凛は頭を振って否定した。

 

「いいのよ。心の贅肉だって時には必要なの」

 

「そのようなものかね。しかし長居は出来まい。亡者共は姿を見せないが、安心はできない。早く行くぞ」

 

 その背中に士郎が声を投げる。

 

「言峰、ありがとう。…その、落ち着いたらちゃんとした葬式を挙げてやりたいんだけど、その時はもう一度頼んでいいかな?」

 

「……やれやれ、私も懐かれたものだ。…だがやぶさかではない。死者を送り出すのも私の務めだ」

 

 一瞬だけ立ち止まり、(ことみね)は再び歩き出した。士郎はといえば、桜になんと説明しようかと暗澹たる気持ちに囚われるのだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

「おのれ、おのれェ…!」

 

 キャスターが吐き出したのは怨嗟の言葉だ。

 

 セイバーとランサーの二人の猛進は留まるところを知らない。もとよりセイバーとランサーというクラスはキャスターの宝具との相性が良いとは言いがたい。『留まれ、お前は美しい(グレートヒェン)』は宝具や魔術を無効化できるが、魔的な要素を持たない剣には効果を発揮できない。必然的に接近戦で優秀なサーヴァントには力負けする可能性が生じる。

 

 それでも相手が単騎であるならその物量で押しつぶすことが可能なのだ。だが、相手が複数になると危うい。

 

 セイバーとランサーの攻撃は息もぴったりと合っている。セイバーが切り込み、ランサーが魂を浄化させる。セイバーは血路を開くことに集中でき、ランサーはメフィティスを浄化することに集中できる。互いが互いを守ることでその実力は十二分に発揮されていた。

 

 次々とメフィティスを沈黙させる。ランサーは身を焦がしながらもその聖句を唱えることを止めない。それに答えようと、キリエ・エレイソンの範囲から逃れつつも先陣を切って突き進む。

 

 彼らは互いに一騎当千。千に満たないメフィティスの軍勢が、どうして二人を止められようか。

 

「破ぁぁ!」

「おおぉぉ!」

 

 二人が吼える。キャスターの方向へと、迷いなく進む。

 

 キャスターは心底恐れた。キャスターはメフィティスに頼らなければまともな戦闘が出来ないということもある。元が魔術師ではなく科学者だ。魔術を習得しているといっても錬金術の体系に組み込んだだけであり、戦闘など望むべくもない。

 

 だがこの恐怖はそんなものに拠るものではない。無敵と思っていた軍勢が次々と倒れ付す恐怖。そして何よりも、彼らの不屈とも思える闘志。これがキャスターには恐ろしい。

 

「おのれ、おのれ…!『死臭を愛する大公(メフィストフェレス)』ゥゥ!」

 

 もはや半狂乱だ。すぐさま逃げ出してしまえばいいものを、錯乱した思考ではそれが思いつかないらしい。なまじ理詰めで考える分、ひとたびパニックを引き起こせば容易には立ち直れない。

 

 倒れ付していた死者が立ち上がる。もはや数回目の発動だ。キャスターは魔力の無駄遣いであることは分かっている。分かってはいるのだが―――錯乱状態の彼には怨嗟を吐き出しつづけ、宝具を開放し続ける以外に己を保つ術がないのだ。これではいずれ魔力が尽きる。キャスターのこの宝具はかなりの魔力を浪費する。マスターからの供給も無尽蔵ではない。魔力の限界は既に見え始めていた。

 

「―――“この魂に哀れみを(キリエ・エレイソン)”」

 

 一方、ランサーの聖句は尽きることがない。その口が動く間はずっと聖句を唱え続けるだろう。聖句とは神の奇跡であり、魔力に頼らない神秘だ。それによって焦げた肉体の修復には魔力を要するものの、真名開放さえしなければ負担は微々たるものだ。

 

 ゆえにこの結末は必至。二人はメフィティスの向こうにキャスターの姿を見つけた。ついに彼らの刃は亡者の海を切り分け、キャスターへと至る。

 

「居たな、キャスター!覚悟!」

「見つけたり、キャスター!断罪を受けよ!」

 

 最後の防壁は破られ、ついにキャスターを守るものは無くなる。二人はキャスターを屠ろうと、さらに四肢に力を込めて吶喊する。

 

「ヒィッ…!来るな、こちらに来るな!」

「聞けん!」

「聞く耳を持たぬ!」

 

 そしてセイバーはその必殺の刃を振り上げる。ランサーは必殺の刃を引き絞る。両者が同時にそれを放ち、セイバーは首を、ランサーが心臓を狙う。

 

 そしてその刃がキャスターを絶命させる刹那の前に、キャスターは閃光に包まれた。

 

「な―――!?」

「これは―――!?」

 

 放たれた刃はそのままキャスターの居た場所を通過するが―――虚しくもそれは空を切っただけだった。

 

「令呪…」

「何ということか…」

 

 令呪だ。間違いなくそう断じられる。キャスターに空間転移の術が扱えるのであればもっと早くに使用している筈だ。おそらく遠見か何かで様子を見ていたマスターが、キャスターの窮地を悟って逃したに違いない。それにランサーは一度令呪による空間跳躍を経験しているのだ。間違いなく同質のものだと断言できる。

 

 両者は構えを解く。全身が脱力感で支配されているのが感じられた。

 

「ランサー、貴方の助力がありながら討ち取ることが出来なかった…。偏に私の不徳の致すところだ、申し訳ない」

 

 セイバーは悔しそうに歯を噛みながら呟く。

 

「否。貴方の所為ではない。貴方は十二分に戦った。それに…死者も眠りにつくことができた。今はそれで良いではないか」

 

 見れば、メフィティスは全て沈黙していた。キャスターから離れてしまうと魂を仮初の肉体に維持できないらしく、それらは全てただの死体へと戻っていた。

 

「とりあえずは安心だろう。あれほど消耗させたのだ。暫くは身動きとれまい」

 

「…そうだな、ランサー。礼を言わせてもらう」

 

「良い。私も礼を言いたいぐらいだ。セイバー、死者の為に戦ってくれた貴殿には感謝したい。その義憤は本物だった」

 

「はっは。これは参った、照れくさい」

 

 キンという子気味の良い音を立てて剣を納める。さて、とセイバーは仕切りなおして続けた。

 

「私はマスターのところへ行かねばならない。ランサー、いずれ手合わせを願いたい」

 

「うむ。いずれ」

 

 少なくとも今は闘争の雰囲気ではない。今はこの瞬間だけは二人は戦友であり、敵ではない。少なくとも、次に邂逅するときまでは刃は納めるべきだ。二人の意思はこの点で合致した。

 

 しかし――――

 

“ランサー、セイバーを殺せ!”

 

 令呪ではない。ここで令呪を一画消費するほど愚かなスカリエッティではない。ランサーがマスターの意思に従うのならば、強制的に令呪で従わせる必要はないからだ。しかし―――ランサーにとってこの言葉は破壊力に富むものだった。

 

「な、何故!?」

 

「ん?」

 

 スカリエッティに対して返す。状況がいまいち飲み込めないセイバーはその言葉に疑問符を返す。

 

“セイバーは手負いだ。今ならば討ち取れるだろう。ここで倒さない理由はないはずだ”

 

「……ッ」

 

 確かにそうかも知れない。だが―――それはあまりに義に欠ける。今この瞬間まで肩を並べていたものに刃を向けるなど、卑劣にも程があるのではないのだろうか。

 

セイバーは全身に傷を負っている。戦闘続行が不可能というわけではないが、その動きは多少鈍る。手負いの者を手にかけるなど、武人としても聖人としても考えがたいことだ。

 

「どうした、ランサー。難しい顔をして」

 

 セイバーは怪訝な表情だ。ランサーとスカリエッティの会話を聞き取る術のないセイバーだけが蚊帳の外にいる。いや、未だ戦火の中心に居ることに気付いていないだけだ。

 

“異議は聞かん。従えぬというのなら、令呪を使用するだけだ”

 

 サーヴァントにとって最大の脅し文句を突きつけられて、ランサーはその言葉に従うしか無くなった。

 

 ―――嗚呼、また一つ、罪を背負ってしまうのか。

 

「―――御意」

 

「何がだ、ランサー?ああ、念話か?存外に便利そうだな、私もマスターと―――」

 

 そこまで言ってランサーが槍を構え直していることに気がついた。顔は眉間に皺を寄せてはいるが、目は嘆きと共に敵意も孕んでいる。

 

「申し訳ない、セイバー。私は貴方を討ち取らなければならなくなった。許せとは言わない。私を憎んでくれ…私は罪人ゆえ」

 

 奇襲じみた攻撃を仕掛けなかったのは、ランサーの罪の意識だろうか。どこかその構えにも覇気が無いように思えた。

 

 セイバーは、ランサーはマスターと軋轢があるだろうことを悟った。所詮サーヴァントはマスターには服従せざるを得ない。良好な関係が築けなければ、意に沿わぬ命令を下されることもあるだろう。そしてそれに応えるしかサーヴァントには出来ない。

 

 セイバーは、ランサーの痛々しい思いを他人のこととは思えなかった。

 

「…そうか。それならば、応じよう」

 

 先ほど納めたばかりの剣を再び抜く。何百を切り裂いてなお、その剣は些かも切れ味は鈍ってはいない。だが、その担い手は疲弊している。

 

 構えるセイバーにもどこか覇気が無い。やはりセイバーもこのような戦いは望んでいないのだ。

 

「気落ちすることはない、ランサー。貴方のような武人、いや聖人と手合わせ叶うなど身に過ぎた誉れだ。…いざ」

 

「…忝い。……いざ」

 

 両者は同時に踏み込んだ。得物の長いランサーの刃が先にセイバーに襲い掛かる。覇気はなくとも、最高速で突き出された刺突。それをセイバーがいなし、懐に飛び込んでその剣を振るう。だがランサーはそれを予期していたのか、その俊足を以ってそれを避ける。

 

 二人の戦闘は丁々発止の打ち合いとなり、辺りには甲高い金属音が鳴り響く。それと同時に二人の得物は唸りを上げ、空気に悲鳴を上げさせる。その打ち合いは一瞬で十数合へ到達する。最速のサーヴァントと最良のサーヴァントの戦いは、ただ打ち合うだけで周囲を蹂躙する。

 

 ランサーの薙ぎ払い。だが今度はセイバーがそれを予期してあり、それを跳躍して回避する。セイバーの落下の勢いを上乗せした打ち下ろし。それをランサーは得物の腹で受け止める。

 

 鍔迫り合い。互いの得物から火花が散る。筋力はセイバーが勝ってはいるが、この剣は片手剣だ。両手で得物を握るランサーと拮抗する。

 

「見事だ、セイバー…!これほどまでに研ぎ澄まされた剣、賞賛に値する…!」

 

 ランサーが鍔迫り合いのままに賞賛を送る。偽りのない、心からの賛辞だ。

 

「その誉れ、有難く頂戴する…!貴方こそ、この迷い無き槍捌き…見事だ!」

 

 セイバーも賞賛を返す。セイバーは左手に持っていた盾の実体化を解き、剣を両手で握る。片手剣ではあるが両手で持てない訳ではない。柄の長さは両手でどうにか握れる程はある。

 

 左の腕の膂力も加わったことで拮抗は崩れた。徐々にランサーが押され始める。このまま組み敷かれれば命はない。ランサーは四肢に鞭打って一瞬だけ押し返し、その一瞬を活かしてバックステップのように大きく飛びのいた。

 

 大きく開いた距離をセイバーは詰めようとはしなかった。ただその場でランサーを見やるだけだ。

 肩で大きく息をする。玉のような汗を額に浮かべている。全身からは血が滴り落ちる。セイバーには疲弊の色がありありと見えていた。限界は遠くない。

 

「…申し訳ないが、そろそろ終いだ。セイバー、このような手合わせになったことを残念に思う」

「く…」

 

 ―――拙い。これ以上の戦闘は難しい。休息すら挟まない連戦には負傷が大きすぎる。ならばどうする。何が出来る。

 

―――宝具を使うほどの魔力なら、ある。

 

 (マスター)からの魔力供給は十分だ。連続で使用しない限りは問題ない。肉体の疲弊は大きいが、魔力は十分に蓄えられている。

 

 ランサーが槍を低く構える。もう幾分の猶予もない。空いた左手に“それ”を具現化させる。“これ”こそがセイバーの誇る最強の宝具。

 

「――――覚悟!」

「それは貴方のほうだ、ランサー!!」

 

 そしてセイバーは必殺の宝具を開放した。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

「やっぱり桜には暫く伏せておきましょう。桜は聖杯戦争については何も知らないわ。ヘタに慎二のことを話せば桜に危機が及ぶかも…」

 

 実際のところ桜は聖杯戦争のことをよく知っているのだが、二人とも彼女は聖杯戦争には関係がないと思っている。士郎に至っては魔術師ですらないと思っているほどだ。

 

 士郎の考えはこうだ。桜にはいずれ全部話す。その末に殺人罪に問われるのなら、それを甘んじて受けよう。だが、今は駄目だ。今そうなっては身動きが取れなくなる。衛宮邸で何か起こったときに、桜を守ることが出来なくなる。

 そうでなくとも、桜に事実を突きつけることで益は無いうえ、損ばかりが目立つ。

 だったらいっそ、今だけは何も知らないほうが全員にとって安全で最も良い選択だろう。全てが終わってから、全てを話すつもりだった。

 

「申し訳ないけれど今は黙っておくべきね。…それでいい?士郎」

 

「ああ」

 

 桜を騙すのは気が引けるけれど、と士郎が付け加える。頭では理屈が分かっていても、やはりそれをすんなりと受け入れる要領の良さは持ち合わせていないようだった。

 

「だから帰ったらいつも通り振る舞いなさい。いいわね?」

 

「分かった」

 

 少なくとも、士郎はこの7年間で平静を装える程度の要領の良さを獲得していた。その内面はともかくとして、上辺を見る限りでは平静を装い切れるだろう。

 

「――――ん?」

 

 (ことみね)がおもむろに振り返り、明後日の方向を凝視する。それにつられて二人もそちらを見るが、木々が深い上に雨で何も分からない。

 

「どうした、言峰?」

 

“セイバー、宝具を使ったな?”

 

 自身の体から魔力をごっそり持っていかれた。考えられるのはセイバーの宝具開放。雨と木々の覆いがなければその余波を垣間見ることが出来たかもしれないが、残念ながらそれは叶わなかった。

 

「――いや、何でもない。先を急ごう」

 

 だが(ことみね)はその顔を些かも動かさず、さも当然のように振舞う。ここでセイバーが宝具を使用したと教えれば、衛宮士郎は引き戻しかねない。二人の会話に倣う訳ではないが、今は黙ってくことに決めた。二人もあまり気にしなかったのかそれ以上追求することもなかった。

 

 黙々と坂道を下る。メフィティスも襲ってはこない。10分ほどゆったりと歩いて、特に問題もなく市街地に出ることができた。

 

 ここまでくれば安全だろう。そろそろ空も白みかける頃合だ。キャスターが存命かどうかは分からないが、日中の街中であれを動員するようなことは無い筈だ。

 

「さて、私はこの辺りでお別れだ」

 

 そこからやや歩いたところで(ことみね)はおもむろに告げた。

 

「そろそろ体を持ち主に返さねばならんだろう。…しっかり受け止めろ、衛宮士郎」

「え―――ちょっ?!」

 

 そう言うや否や、突如糸が切れたかのように(ことみね)が倒れこんだ。慌てて士郎はそれを受け止めて、顔をアスファルトに強打させることは防いだ。

 

「大丈夫か?!」

 

 体を支えたまま揺する。だが澪は目を覚まさない。しかし健やかな寝息を立てており、脂汗が流れることもない。気絶―――なのかどうか判別しかねるが、取り敢えず問題無い様子ではあった。

 

 眠りは深くて、簡単には起きそうもない。士郎が背負って帰るほかないだろう。…町に活気が戻ってくる前に帰宅したいものだ。ずぶ濡れの上に、見れば返り血で汚れている三人は職務質問あるいは通報必至だろう。

 

「…一体何だったんでしょうね」

「さあ…」

 

 四肢を弛緩させている澪を背中に背負う。気がつけば雨も上がったようだ。濡れないで済むのはいいが、既にずぶ濡れだ。いまさら晴れても関係ないといえるが、少なくとも澪の体をこれ以上冷やさなくて済むのはありがたいことだった。

 

 帰路に就こうと一歩を歩き出したとき、前方からサーヴァントが実体化した。セイバーだ。見れば痛々しい傷が全身にある。熾烈を極める戦いだったのは間違いないだろう。

 

「皆無事か、それは良かった…。シロウ、約束を守ってくれたこと、感謝したい」

 

「いいよ、そんなの。それよりもおかえり、セイバー。アンタが無事で何よりだ」

 

「はっは。コレが無事に見えるのならば眼科に行くことだな」

 

 その言葉は先ほどの凛の言葉をなぞったものだ。冗談を言えるほどの余裕があるということは、取り敢えず危機は去ったということだろうか。

 

「セイバー、キャスターはどうなったの?」

 

「…済まない、リン。キャスターは逃してしまった。だが、かなり疲弊させたので暫く身動きは取れない筈だ」

 

「あ、セイバー。キャスターのマスターは倒したんだ。そんなに疲弊させたんだったら、次のマスターを見つけるヒマも無いはずだ。解決したと言っていいと思う」

 

 キャスターの魔力がいかに優れていようと、供給が成り立たなくては消え去るしかない。確かにあれほど疲弊させれば新たなマスターを見つける暇もなく消えるしかないだろう。

 

「……?…そうか。ならば良いのだが」

 

 セイバーはどこか引っかかるものがあったようだが、今はそれを飲み込んだ。それよりも今彼が気になっているのは澪のことである。

 

「澪はまだ目を覚まさないか」

 

「あ、いや。一度覚ましたというか…なんというか…」

 

「…説明に苦しむわね。私たちにも何が何だかよく分からないわ。…まあ、今のところは問題ないことは間違いないのでしょうけど…」

 

「よく分からんが問題ないのだな?ならば良い。シロウ、私が澪を運ぼう。一足先に帰って寝かしておく。二人はゆっくり戻るといい」

 

 そう言って澪を士郎から受け取る。背負うのではなく、世に言うところに『お姫様だっこ』だ。そしてセイバーは屋根から屋根へ跳躍し、あっという間に見えなくなってしまった。あの速度ならすぐに衛宮邸に着くだろう。セイバーが送るなら安心だ。おそらく今冬木で最も安全な場所だろう。安心して澪を任せられる。

 

 日はもうすぐ昇り始める。冬木に新しい朝が訪れようとしていた。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

「何だ、あの宝具は…!」

 

 忌々しげに呟くのはスカリエッティだ。負傷が激しいランサーは霊体となって、雑木林を書き分けながら進むスカリエッティに傷を癒しながら随伴していた。

 

「あの宝具、まさに破格…。私でなければ即死だったかも知れません。そうでなくとも、アレを使用されたら手も足も出せなくなる」

 

 セイバーの宝具は強力無比で、ランサーはまともにそれを受けてしまった。ランサーの自動治癒が無ければ殺されていただろう。

 スカリエッティの命によって逃走を始めたランサーを、セイバーは追おうとはしなかった。セイバーは手負いだ。無理して追うのは危険だと判断したのだろう。捉えようによっては、見逃されたとランサーは考えるかも知れない。

 

「思い出したぞ、『攻撃は最大の防御』という言葉がこの国にはあるらしいな…!ああ、全く以って忌まわしい!」

 

 まともな道を通らずに獣道を進むのは、セイバーと再び鉢合わせにあることをスカリエッティが恐れたためだ。ランサーの誘導のもと、獣道を掻き分けて坂を下る。幸いにも慎二の遺体を安置している場所とは別の方向だった。

 

「しかし…セイバーの真名は分かった。今後の対策も取れるというものだ」

 

「確かに。セイバー…あの無双の剣戟、かの英雄譚の英霊だとすれば納得がいくというもの」

 

「うむ。ああ、忌まわしい!ランサー、次の機会では遅れをとることなど無かろうな?」

 

「無論。得体の知れた宝具など脅威ではありませぬ。次こそは必ず」

 

 次こそは、必ず十全のセイバーと手合わせ願う。何の憂いもない状況で、全力を出せる場面で。

 

 ランサーはそれを表には出さなかったが、やはり今でもスカリエッティのあの命令は不服だった。セイバーを襲わせたのも不服なら、撤退させたのも不服。撤退させるぐらいならば最初から襲わせなければ良いものを。

 

 霊体なのは都合が良かった。もしも実体だったならば、きっと顔に出ていたに違いない。霊体ならば、語気にさえ気を使えばマスターへの不服を伝えずに済む。

 

 がさがさと草木を掻き分けながら坂を下る。ほどなくして、市街地に降り立つことができた。やや東よりに進んできたことになる。確証はないが、おそらくセイバーと鉢合わせはしないだろう。

 

 スカリエッティは棒のような足を動かし、宿を目指すのだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 霊体のまま、坂を最短距離で下る存在がいた。エミヤキリツグ(アサシン)である。

 

 エミヤキリツグはずっとその様子を観察していた。正確にはセイバーとランサーの戦いの顛末を見守っていた。距離があったため宝具を使用したセイバーの真名は分からなかったが、それよりも有益であろう情報は多く手に入った。

 

 澪たちのほうを追わなかったのは、澪がエミヤキリツグを察知できるからだ。もし襲おうとしても失敗に終わる可能性が高い。セイバーを令呪で呼ばれでもすれば事だ。

 

 それよりもサーヴァント同士の戦いを傍観し、次の確実な機会に討ち取れるように構えることのほうが良い。どうせアサシンのクラスでは闇討ちでも他のサーヴァントを討ち取ることは難しいのだ。情報収集に徹したほうが無難かつ賢い。

 

 セイバーとランサーの戦いはそれほど長くかからず、ランサーが撤退したことで決着はついた。セイバーもランサーも足が速く、キリツグでは尾行の続行が不可能だった。

 

“これで確認できていないサーヴァントは、ライダーとアーチャー、それにバーサーカーか”

 

 頭の中で戦略を考える。衛宮切嗣は既に死んだ人間であり、生前のコネクションは使えなかった。C4爆弾や狙撃用ライフルくらいは揃えたいものだったが、無いものは仕方がない。現状で最良の策を考えるだけだった。

 

 しかしこうなってみると自分がどれほど武器や爆発物に頼っていたか分かる。それらが全て用意できないとなると、戦略の幅が驚くほどに狭くなっているのが分かった。

 

 だがそれでも策はある。取り敢えず、探索魔術を用いる者がいるセイバー陣営は後回しにする。これは策に策を重ねる必要がある。使い魔に監視はさせるが、それ以上の手出しは控えておく。

 

 ランサー陣営はすでに見失っている。キャスター陣営もそうだ。となると、やはりもう暫くは情報収集だ。

 

 特にセイバー陣営はつぶさに調べたい。何故だか分からないが、何か引っかかるものがある。そして深く考えようとすればするほど、割れるような頭痛に襲われる。

 

 だが何となく直感していた。セイバー達のことを調べれば、失っている記憶を取り戻すことが出来るのではないか?今、彼らを殺して本当にいいのか?

 あえて理由をつけるとしたら、失った記憶が切嗣の意思を引っ張っているということだろう。

 

 キリツグは召喚されたときから収まらない偏頭痛に耐え、景山悠司が待機するアパートへと戻っていった。

 



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Act.14 酒宴

 ―――聖杯戦争開始から、およそ2日が経過。現在は3日目の早朝である。

 

 未だ脱落したサーヴァントは居ない。アサシンを除く全てのサーヴァントが戦闘を行ったにも関わらず、その全てが健在である。

 

 さらに言えば、アーチャーを除けば、負傷らしい負傷をしている者すら居ない。セイバーは軽症を負ってはいるが傷は浅く、一日ほど休養すれば今後の戦闘に問題は無い。

 アーチャーもライダーに片膝を折られはしたが、一日の休養を経てどうにか戦闘が出来る程度には回復していた。もしもこれが腕や胸への負傷ならば、さらに暫く身動きが取れなかっただろうことを考えれば不幸中の幸いだろう。

 

 アサシンも戦闘こそ行っていないものの、セイバー及びランサーとキャスターの戦闘を観察し、多くの情報を得ていた。

 まず、セイバーとランサーに対して対峙することは決してあってはならない。この二体に関しては、マスターを狙うのが大前提だろう。それも、傍に彼らが侍る状況では駄目だ。マスターを殺しても暫くの間はサーヴァントが健在だ。それが僅か数秒でも、万全を期するならば戦闘は回避すべきだ。

 つまり、サーヴァントとマスターが離れた状態で、かつアサシンが一方的に攻撃可能な状況を待つ必要がある。

 

 キャスターに関しては、対峙することも可能だ。エミヤキリツグは魔術師殺し。それに自身のみでは攻撃手段を持たないキャスターならば、十分な勝機がある。

 

 だがまだ動くつもりは無い。情報が圧倒的に不足している。アサシンは一体たりとも真名を知っているサーヴァントが存在しない。少なくとも、確実に討ち取れるという確証を得ることのできる情報を手中に収めるまでは、日陰で暗躍するつもりである。

 

 士郎や凛にとって不幸だったのは、キャスター陣営が脱落したと勘違いしていることだろう。セイバーも違和感を覚えてはいるようだったが、特に異論を挟まなかったことも要因の一つだ。とは言っても、あの状況だとこのような判断を士郎達が下してしまうのも無理からぬことだ。責めるのは酷であろうから、不幸だと言うほかない。

 

 ―――繰り返すが、未だ7組全てが健在。聖杯戦争はまだまだ混戦、あるいは乱闘の範疇である―――

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 夏が目前とはいえ、早朝は過ごしやすいものです。アインツベルンの城はいつも雪に覆われていて、こうした小鳥の囀りさえも新鮮なものです。

 

 さて、ライダーはどこに居るのでしょう。

 

 敷地内に居ることは間違いなさそうですが、いかんせん広い屋敷です。ですが大方の目星はついているのでまずそちらに向かうことにしましょう。

 

 長い廊下を歩き、エントランスへ下り、表の様子を伺います。ああ、やはり表でした。

 

 おそらく日課なのでしょう。上半身を露出した状態で、青龍刀を振るっています。重い得物を縦横無尽に振るい、その度に大気が震えるのがここからでも分かります。いつからそこに居るのか、足元には汗で水溜りが出来つつありました。

 

 その鍛錬を邪魔していいものかやや逡巡しましたが、せっかく作った朝食を冷ますのも不本意なので声をかけることにします。

 

「ライダー、食事の用意が整いました」

 

 集中力が凄まじく、何度か声をかけてようやくライダーは私の声に気付いたようです。

 

「おう。風呂に入ったら直ぐ行こう」

 

 私は食堂に戻り、それからややあってライダーもやって来ました。柄にもなく鼻歌など歌っています。原曲は知りませんが、すごく音痴です。

 

 しかし…昨日からずっとそうでしたが、今日もまだ続いているとは思っていませんでした。

 

 ライダーの様子がおかしい。いえ、常日頃から奇怪な人物、もといサーヴァントであると断言できるのですが、昨日と今日は挙動不審といってもいいでしょう。

 

 やけに機嫌がいいのです。ニホンの酒、どうも米から造ったらしいそれを飲み干しながら、にやけ顔で鼻歌を歌うこともしばしば。

 

 昨日一日は無視を決め込みましたが、さすがにそろそろ聞かざるを得ないでしょう。実に不本意ですが。…というより、聞いて欲しいという目線を頻繁に送ってくるのです。

 

 ちらり。鼻歌を再開。

 

 ちらり。酒を呷る。

 

 朝から酒を飲むその感覚と肝臓の構造には甚だ疑問を感じますが、少なくとも脳は単純な構造であることは間違いなさそうです。“聞いてくれ”と如実に語っているのですから。

 

「……やけに機嫌がいいのですね、ライダー」

 

「おお!ようやく聞いてくれたか!」

 

 思ったことと口にしたことに不一致が無いのがこのサーヴァントの良いところであり、悪いところでしょう。すくなくとも今は悪い意味だと私は断言しますが。

 

「どうして俺の機嫌がいいか分かるか、沙沙!」

 

 何となく予想はしています。ライダーの機嫌がよくなったのは昨日の朝から。ということは一昨日の晩あたりに何かがあったのは間違いなく、そしてその時はセイバーやアーチャー、それにバーサーカーと戦闘をしたと報告を受けています。…今思えば、その報告の声も弾んでいたような気がしてきました。

 

「……セイバーやランサー、それにバーサーカーのことですか?」

 

「然り!いやあ、あの者達の強さと言ったら、俺の生前にも数えるほどしか居らんよ!」

 

 ちょっと声が煩いですよ、ライダー。ライダーが酒に酔ったところを見たことがありませんが、今だけは酔っているのかと疑いたくなってしまいます。

 

「沙沙は直接見ておらんから、分からんのも無理はない。それは見事な者達であった!敵ながら天晴れ、と言わざるを得んな」

 

「…そうですか」

 

 それのどこが嬉しいのでしょうか。正直なところ、私には厄介な敵が多いという憂鬱な情報にしか思えないのですが。

 

「まず、あのセイバーだ。あの研ぎ澄まされた剣戟…そう、例えるなら…誰だ、関羽雲長か?そしてアーチャー…夏侯淵といったところか…?そしてバーサーカー!呂布だな、あやつは!ああ、俺は多くの兵を見てきたが、まさしく唯一無二の者達であることよ!やめだやめだ、彼奴らを誰かに例えようとすること自体が愚かしい!」

 

 断言しましょう。ライダーは酔っています。それに私はカンウであるとか、リョフなどという人物は存じません。やめだ、などと言っていますが、一人で勝手に喋っているだけです。勝手に止めなさい。

 

「なんじゃ、沙沙は気乗りしないようだな」

 

 気乗りしません。ですが…まあ、ここはライダーに花を持たせるのも良いでしょう。調子に乗られると、それはそれで不快なので濁しておきますけれど。

 

「…そう見えますか」

 

「見える。己の武を試せる絶好の機会だというのに、勿体無い」

 

 己の武を試す…ですか。興味ありませんね。

 

 今日には姉妹兵がこちらに到着する予定なのですから、彼女ら相手に武を試しては如何でしょう。無論、度を越えないようにですが。

 

 …ああ、それは良いですね。姉妹兵の鍛錬にもなります。今後の鍛錬のメニューに入れておきましょう。あの無表情な姉妹兵たちの悲痛な叫びが聞こえた気がしましたが、気のせいでしょう。

 

 こうして、私達の朝の食事はつつがなく進行するのでした。

 

 しかし…私が同席しているときには飲酒は控えて欲しいものです。ワインやウイスキーの類でもそうでしたが、日本酒というものの香りは特に苦手です。昨日それをライダーに言ったところ、『酒の醍醐味がまるで分かっておらん!』と言われましたが、おそらく一生分からないでしょう。

 

分かる気もありません。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 アーチャーは、幼い彼女の体を優しく揺すって起こそうとしていた。基本的に日中で活動できないアリシアは夜更かししがちで、どうしても朝は遅くなってしまう。だが、そろそろ朝食が運ばれてくる。一度起きて食事を取る必要はあるだろう。

 

「ん……」

 

 僅かに目が開かれる。カーテンを幾重にも閉めたこの部屋は日光が入りにくく、朝になっても薄暗い。そのせいかアリシアはめっぽう朝に弱いのだった。

 

「……アーチャー、おはよう」

 

 まだ寝ぼけ顔だが、ちゃんと起きてくれたようだ。眠そうに目を擦っている。ベッドから足を下ろしてサイドテーブルへと向き直る。そこにあったくしを髪の毛に通しながらアリシアはアーチャーに問いかけた。

 

「あれ?アーチャー、今日は姿を見せているんだ」

 

「ああ、一日休んだら問題はないよ。転んでちょっと捻っただけだからね」

 

 嘘だった。転んで捻ったという程度では済まない。膝は、複雑骨折とはいかないが確実に割られていたのだ。

 

 だが霊体となって一日休めば大方の傷は回復する。アーチャーは全快とはいかないものの、弓を射ることに問題は無いと判断していた。

 

 だが、勿論のこと素早い動作は無理である。どうしても右膝を庇いながら歩いてしまうし、負荷をかければ鈍い痛みが依然として残っている。だが無視できない痛みではなく、膝を本格的に壊す覚悟で動けば以前と変わらない俊敏性を発揮するだろう。

 

「そっか。昨日は顔を見せてくれないから心配したよ」

 

 今日は顔が見られて良かった、と笑う彼女をアーチャーは愛おしく思った。

 

 無論のこと恋愛対象としてではない。だがこの無垢な少女を守ってやりたいと思うのは、人として当然の感情だろう。

 それに、彼女の笑い方はどこかイゾルデを思い出させた。恥ずかしげに笑うその様は、アーチャーの最愛の女性に瓜二つと言っても過言ではなかった。勿論顔立ちから髪の色まで違うのだが、その笑い方だけは彼女と見紛うほどだ。

 

 はにかむような笑み。無垢さを垣間見られる笑み。

 

 ―――ああ、絶対に守ってみせる。

 

「心配かけて済まなかったね、アリシア。ところで、昨日も夜更かししたのだろう?駄目じゃないか。大きくなれないぞ?」

 

「えへへ、ごめんなさい。…コホン。『規則正しい生活をしていなきゃ、アリシアちゃんの病気は治らないんですよ?』…へへー、先生の真似。似ていた?」

 

「はは、似ているな。でもそれは本当のことだぞ?今日からちゃんと消灯時間には寝ような」

 

 本当のことを言えば、規則正しい生活を送った程度のことでアリシアの病気は治ることはない。膠原病は対症療法しか確立されておらず、どうにか命を延ばすことしか出来ないのが現状なのだ。

 

「えー、だってつまんないんだもん」

 

 日中に起きていても、つまらない。アリシアの邪気のない一言に、アーチャーは打ちのめされる思いだった。アリシアに友達といえるものは居らず、それならば窓を開けることのできる夜間に外を眺めていることのほうが面白い。そうでなくとも、静かな夜に本を読みふけるほうが面白い。

 

 本当に、それでいいのか。

 

 そしてそれを甘んじて受け入れているアリシアのことが、痛々しい。

 

 いっそ自身の不遇を嘆き、周囲に当り散らすぐらいが正当な反応ではないのか。しかしアリシアはそれすらせず、ただ一人孤独に耐えているのだ。

 

 ―――“でも私、今はアーチャーがいるから寂しくないよ”。

 

 今は。つまり、アリシアはアーチャーに出会うまでは寂しさに震えていたのだ。アリシアにはそれをアーチャーに教える意図はなかっただろうが、それを汲み取るにはその一言は十分だった。

 

 だからこそ、アーチャーは負ける訳にはいかない。敗れてしまえば、後には死体すら残せない。きっと、アーチャーが突然居なくなればアリシアは心を閉ざしてしまうだろう。アーチャーはアリシアがどれ程自分に依存しているか自覚している。

 

 ―――ああ、少女を守るために戦うなど、まるで御伽噺の英雄ではないか。

 

 ふっ、と笑う。何を馬鹿なことを。アーサー王伝説に生きた自分こそ、紛う事無き“御伽噺の英雄”ではないか。アーサー王伝説は御伽噺ではなく英雄譚だが、この時代にあっては御伽噺のようなものだ。

 

 ―――英雄が登場する御伽噺の結末は、大団円と相場が決まっている。

 

アリシアに気付かれないように、硬くその拳を握るのだった。

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

 また夢を見た。昨日とは違う夢。また知らない風景だ。

 

 まるでスライドショーのように、場面が切り替わる。今見えたのは、どこか古風な町。いま過ぎ去っていったのは、十二単に身を包んだ女性の姿。頭に移る風景はどんどん時代を逆行していく。

 

 その風景に写るものは一つとして同じものはなく、そしていずれも私が知らない風景。でも何故だろうか、懐かしさを感じる。

 

 どこまで逆行するのだろうか。

 

 一瞬だけの風景が、写っては消え。消えては写る。

 

 ―――ああ、なんか歴史の教科書をペラペラと捲っているみたいだな。どこか現実感のない写真を並べられ、それを眺めているこの感じ。うん、きっとそれが近い表現だ。

 

 そして流れていった風景は、ある一つの風景で固定された。

 

 だけど、固定されたと思った瞬間に私は覚醒した。

 

 

 

 

 

 

「ん…」

 

 あまり清清しい目覚めではない。今みた夢の影響も少なからずあるだろうけれど、それよりも全身がべたついて気分が悪い。

 

 まるで、ずぶ濡れになるまで雨に打たれていたような――――

 

「んん!?」

 

 弾かれるように起き上がる。ちょっと待って、何でここに居るのか。私たちは確かにキャスターと戦っていて―――

 

 ――――戦って、どうなった?

 

「あれ…?」

 

 事の顛末が思い出せない。確か―――そうだ、士郎さんが固有結界を使ったんだ。アレ凄いよね本当に。固有結界なんて魔法に片足突っ込んでいるような魔術なのにとかそういう事じゃなくて…!

 

 おかしいな。そこから先が思い出せない。おぼろげに、頭が割れるような頭痛に襲われたことは覚えている。その後は確か…誰かに助けを求めたはず。誰に?…これも思い出せない。分かるのは全身に絡みつく疲労感だけだ。

 

 だが少なくとも、私がここで寝ているということは無事に戦いを切り抜けたということだろう。そうでなければ今頃私はこの世に居ない。

 

 時計を見る。時刻は1時ぐらいだ。外の様子を伺う限りは午後1時。昨日の雨が嘘のように晴れている。

 

 まあ、取り敢えず。士郎さんや凛さんを見つけて話を聞かなくては。風呂に入るのはその後にしよう。

 

 そう思ってベッドから立ち上がると、あることに気がついた。ずっと気付いてはいたのだが、眠りから覚めて再びそれを意識してしまう。

 

「…良い香りがする」

 

 

 

 

 

「ふむ…大体分かったが…何とも信じがたいな」

 

 セイバー、凛、士郎の三人の姿は居間にあった。凛と士郎の二人は短いながらも睡眠をとって、今しがた起きたところだ。

 

 昨日と同じような流れで、藤ねえと桜と一緒に朝食を取った後に休んだので十分な睡眠とは言いがたいが、特に二人は問題なさそうだ。士郎は昼食の準備を始めており、凛と全身のいたるところに包帯を巻いたセイバーが座って会議をしている。話題は、澪のことについてだ。

 

 ―――予断だが、藤ねえと桜には当然ながら何故澪が姿を現さないのか聞かれた。しかしそこは、“天体観測”が夜遅くまでかかってしまい、眠いのだろうと誤魔化した。セイバーの怪我についても帰り道で山道を転げ落ちたと説明した。昨晩の言いつけを守らなかったとして、烈火のような説教を受ける羽目になったがそこは仕方がない。

 

「それは私達もよ。まさか澪に言峰が、ねえ…」

 

「遠坂、やっぱり魔術師に霊が憑依することは考えにくいことなんだよな?」

 

 フライパンで何かを炒めながら、話を聞いていたらしい士郎が質問を投げかけた。

 

「ええ。魔力というものは、基本的に排他的なものよ。でなければ、ただの魔力の塊に破壊的な力を持たせることは不可能だしね。それを常に身に纏っているということは、言わば鎧を着込んでいるようなものよ。ただの霊にその鎧を打ち破る力なんてないわ。サーヴァントだって難しいでしょう」

 

「その通りだ。サーヴァントに限らず、ほぼ基本的に不可能と言っていい。それに私たちのような人間霊は自我が強い。憑依などしようとしても、宿主の自我とぶつかり合ってしまう。結果的に憑依が可能となっても、多くの力を体の支配に費やすことになり、一歩も動けないという事態にもなりかねない」

 

「例えば、澪は自分から憑依させた、ということは考えられないかしら?」

 

 霊であるセイバーが質問攻めにされる。セイバーしか疑問に答えられそうな者がいないので当然の成り行きだろう。

 

「やはり難しい。自分から招き入れたとしても霊と宿主の意思には齟齬が発生する。聞いた話ではミオはそのコトミネという男とそっくり同じような行動をしたらしいな。まず不可能だと断言できる。いかに強力な霊であろうと、いかに宿主と同じ思考を持とうと、完全に体を支配することなど絶対に不可能だ」

 

 生きている人間のほうが基本的に力は強い。精霊と人間となれば話は違うだろうが、人間霊と人間では死者のほうが圧倒的に弱い。意志がぶつかり合うということは、肉体の支配権を奪い合うということだ。そうなったら死者は敵わない。

 

 いかに意思を通わせたもの同士でも、わずかな考えの違いだけでその体は動けなくなる。これがセイバーの考えだった。霊であるセイバーの意見は異論を挟まれることもなく受け入れられた。

 

「そういえば、そろそろ目を覚まさないかしら。これ以上寝ているようだったらそろそろ何か考える必要がありそうね」

 

「…物騒な。ご心配なく遠坂さん。ちゃんと起きていますよっと」

 

 現れたのは澪だ。若干疲れが見えるが、見た限りでは体に異常は無いように思える。昨日からの定位置に腰を下ろし、会話に参加した。

 

「ミオ!大丈夫か?昨晩はいきなり倒れたから心配したぞ!?」

 

「あれ、私倒れていたの?あー…道理で昨晩の記憶が曖昧なワケだ」

 

「何も覚えていないの、澪?」

 

「いや…士郎さんが固有結界を使ったことは覚えているけれど…その後は全然ね」

 

「そう…」

 

 凛の目が素早くセイバーと士郎を捕らえた。その目は“黙っておけ”と告げている。セイバーと士郎は澪に悟られないように軽く頷いた。本人が覚えていないなら無理に教える必要はない。本人にも分からないだろうから、無闇に気味の悪い思いさせることはない。

 

「まあ、一言で言えばセイバーと士郎の尽力によってキャスターとそのマスターは撃破という所かしらね」

 

 嘘ではないが、マスターに関しては澪が居なければ危なかったことは伏せておく。隠し事が苦手なのか、セイバーと士郎は口を挟まなかった。

 

「それは良かった。とりあえず早急に対処すべき事柄は片付いたということで良いんだよね?」

 

「まあ、そういうことだ」

 

 士郎が厨房から返す。いまは大皿に野菜を盛り付けており、新鮮な緑が食欲を掻き立てる。

 

「それにしてもお腹が空いた。昨日もハードだったうえに朝食を抜いたせいね」

 

「はっは。昼食はしっかり食べておくといい。しかし、見たところまだ風呂にも入っていないのだろう?昼食が出来るまでまだ少しあるらしい。今のうちに入ってはどうか?」

 

「そうするわ」

 

 

 

 

 

 

 今日の昼食は麻婆豆腐だった。辛さもほどよく抑えていて、それでいてピリリとくる。豆腐も崩れておらず、綺麗な形を保っていた。

 

 中華は専門外だと言っていた気がするけれど…なんで手の込んだ麻婆豆腐なんかを作る気になったのだろう。まあ、そこまで興味は無いので聞かないでおく。

 

「―――ところで」

 

 そんなことよりも興味があることがある。ちょっと唐突だったかも知れないけれど、聞けるときに聞いておこう。

 

「士郎さんの固有結界、あの投影魔術とも関係あるんですか?」

 

「ああ。良く分かったな」

 

「まあ、なんとなく。ちょっと記憶が曖昧だけど、見渡す限りの剣はちゃんと覚えているわ。士郎さんの投影魔術で生成した剣もものすごい出来だし、心象世界である固有結界も関係あるのかなって」

 

 あの剣たちが何なのかよく知らないが、かなりの業物だということだけは分かる。いや…“かなり”などというレベルではない。あれは多分―――

 

「あれって…宝具、ですか?」

 

「……」

 

 セイバーも気になっていたのか、レンゲを置いて士郎を凝視する。睨むわけではないが、静かに次の言葉を待っている。

 

「…ああ。俺の投影魔術は、固有結界の副産物だ。俺の固有結界は“無限の剣製”といって、一度見た剣はあの丘に召し上げられ、以降はずっと俺の心象世界に残る。投影は固有結界から下ろしてきているにすぎない」

 

 やや逡巡があってから士郎さんは答えてくれた。

 

「無限に剣、いや宝具を内包する世界…」

 

 固有結界―――自身の心象世界で世界を侵食する大魔術。これを扱えるものは、一発で封印指定を食らいかねない代物だ。何せ、“心象”というものは唯一無二のものだ。同じものは決して存在せず、同じ固有結界は決して再現できない。再現不可能のものを保存するための措置、それが封印指定だ。最悪、脳漿だけがホルマリンに漬けられて保存されているという事態も有り得る。

 

 そういったリスクを分かっていないはずは無い。こんなことを話してくれるのは、既に固有結界を見せてしまったからだろうか、それとも私達を信用してくれているからだろうか。後者だと嬉しいな。

 

「その…宝具はどこまで再現できるの?」

 

「本物にかなり近いと自負しているよ。俺の投影は、剣の辿った歴史や作り手や担い手の思いまで投影できる。完成度はかなり高いと思う」

 

「作り手や、担い手の思い…」

 

 つまりあの固有結界というのは、剣だけでなく剣に込められた思いが渦巻く場所、ということになるのだろうか。

 ああ、今思い出した。“体は剣で出来ている”…だったかな。なるほど、士郎さんは剣そのものを内面に持っているといっても過言じゃないのだろう。

 

「……」

 

 セイバーが難しい顔をしている。…ああ、そうか。投影魔術でセイバーの真名が分かっている可能性もあるのか。一度見た剣は固有結界に取り込まれるということは、セイバーの剣も丘にあるはず。つまり、士郎さんにはセイバーの名前が分かっているのか。

 

 …でも関係ない。セイバーが私に対しては自身の名前を伏せたほうが良いと判断したんだから。これでもこの男には信頼を置いている。士郎さんがセイバーの名前を知っていようと、私は知らないままで良いんだ。

 まあ、セイバーは難しい気持ちだろうけれどね。でも士郎さんなら信頼できるとセイバーも思っているのだろう。そうじゃなければここで士郎さんに剣を抜きかねない。

 

「無限に剣を内包し、剣を作り出す世界…ねえ…」

 

破格。これ以外に私にはそれを表す言葉が思い浮かばない。だってそれって、精霊に近い存在であるサーヴァントにも対向できるっていうことだ。あ、いやでも、士郎さんは作るだけなのかな。アーチャーや、昨日の戦いでも苦戦していたし。それでもかなり強いのは間違いないけれど、まだ人間の範疇だったとも思える。人間の範疇越えていたらそれはそれで末恐ろしいけれど。

 

 冷静を装ってはいるけれど、正直言って動揺は大きい。固有結界の担い手というだけでも信じられないのに、その固有結界の凄まじさには舌を巻いてしまう。

 

 でも、やっぱり何だか悲しい。あんな、あんな無機質な世界が内面にあるなんて。草一本無く、ただ荒野に突き刺さる剣の群れと、熱い風に運ばれる火の粉だけの世界。

あの世界には、およそ人間的な要素がない。もっと言えば、士郎さんを感じさせる要素がない。つまりは、士郎さんは自分なんてどうでも良いに違いないのだ。

 

 人間というのは、やはり自分が大事なのだ。悪い意味で言っているのではない。生物である以上、自己を守ろうという意思が絶対に存在する。

 

 だけれど、あの固有結界からはそういうものは感じられない。剣は決して自己を守る概念ではない。士郎さんには…自己というものが希薄なんだ。他人はもしかしたら、士郎さんは壊れていると言うかも知れない。

 

 なんて悲しい人なんだろう。遠坂さんが、士郎さんを守ってあげなくちゃいけないと躍起になるのも納得できようというものだ。

 

 ――――でもなんで私は、士郎さんの固有結界に興味を持ったんだろう。

 

 

 

 

 

 昼食が終わり、各々ひと段落ついている。士郎さんに悪いので片付けは私がした。居候の分際で今の今まで何も手伝わなかったのはちょっと気が引けていた。

 

 士郎さんと凛さんは、手持ち無沙汰なのかテレビを見ているようだ。今日は金曜日。平日の昼間にそれほど面白い番組があるとは思えないけれど、遠坂さんは食い入るように通信販売の番組を見ている。…バランスボール?止めときなさいって、どうせあんなもの邪魔になるだけなんだから。

 

 ――――で、私が何をしているかというと

 

「音響手榴弾でも食らえ!はっは、“先生”とやらも大したことはないではないか!」

 

「はいはい。さっさと攻撃する」

 

 セイバーとパーティプレイをしていたりする。ハードは新型と旧型で二台持っているし、ソフトはある事情により二つ持っている。早い話が友人である美希の忘れ物なのだが、一向に取りに来ない上に忘れているようなのだ。セイバーに貸しているのは私のだが、今私が使っているのは美希の物だったりする。

 

「はっは、槍使いと片手剣士!いやあ今思い出しても心が躍るな!」

 

「…はあ?」

 

 私はランス使いだったりする。あえて理由をつけるとすると、周囲にこれを使う人が居なかったからだ。だけどこれが案外しっくりきて、以来はランスとガンランスで続けている。

 

 最初に私の装備を見たときは、「そうか。セイバーよりもランサーがいいのだな…」といじけていたが、何があったのか今日は逆に上機嫌だ。何があったかは知らないが、聞こうとも思えないこの不思議。

 

「しかし、やはり槍使いが鈍足だというのがいただけん!槍使いは俊足であるべきだろう!」

 

「うっさいわね。ランスっていうのは騎乗槍なんでしょ。それを徒歩で使っているだから足が遅くて当然よ」

 

「ならば新作では軽い槍も作るべきだ!パイクという名前で、軽くて機敏に動けるランスを!盾なんかいらん!」

 

 うざい。確かにそういう武器があったら面白いとは思うけれど、残念ながら次回作にはそういう武器は無い。

 

「お、先生がお亡くなりになったぞ!…くらえ、ミオ!」

 

「あ、ちょ!剥ぎ取りさせなさいよ!」

 

 よりよって対人戦最弱と思われるランスに襲い掛かってこないで頂きたい。次はガンランスで粉々に吹っ飛ばしてあげるから覚悟していなさいよ。

 

「澪、セイバー。ちょっと出かけてくるぞ?」

「留守番、よろしくねー」

 

 そんなことを思っていると、士郎さんがおもむろに立ち上がった。どうやら凛さんも一緒に行くようだ。デートだろうか。うらやましいなコンチクショー。

 

「おう、今晩の宴だな?私も手伝うが」

 

「もてなされる側が手伝ってどうすんのよ。いいからアンタは澪と留守番してなさい」

 

 ――――んん?何の話だろうか。

 

「…何の話?」

 

「ああ、そうか。澪は聞いていなかったな」

 

 士郎さんが答える。まあ、何となく話の流れで分かってはいるんだけれどね。

 

「藤ねえ発案で、澪とセイバーの歓迎会をするんだよ」

 

 

 

 

 

 

 酒池肉林を体現すればこうなるのだろう。

 

まず酒。6人も居れば当然酒の好みもバラバラで、私の好みが分からなかった士郎さんは色々と揃えてきたらしい。ビールに日本酒、焼酎、ワイン、チューハイなどなど。6人とは言え本当に飲みきれるのか疑問に思えるほどの量だ。明らかに人の胃袋の積載量を超過していると思う。これだけ買えば相当な額だったと思うけれど、聞けば昔のバイト先の店で買ってきたらしく、割安で売ってくれたらしい。確かコペンハーゲンとかいう店だ。今度利用してみよう。

 

 次に料理。士郎さんが腕を惜しみなく振るったらしく、色とりどりな料理が並んでいる。和洋中と節操の無い献立だが、酒の席なんてこんなものだろう。ちなみに中華は遠坂さんが作ったらしい。昼食が麻婆豆腐だったが、遠坂さんが作った中華もまた食欲を誘う。ちなみに、料理もまた大きなテーブルが手狭に感じるほどの量だ。

 

 ちなみに、うち数品は私が作ったものだ。さすがに何もしないのも気が引ける。主賓ということで士郎さんは手伝わなくていいと言っていたが、居候の分際でそうもいかないだろう。といっても、本当に軽いものだが。これ以上胃袋に負担をかける料理を増やすのは破滅的だ。

 

「うんうん、やっぱり宴会はこれくらい豪気じゃないとねー!」

 

 明日は藤村さんに特に用事は無いらしく、既に酔いつぶれる気らしい。…こういうときは素面の人が割りを食うんだよね。さっさと酔ってしまうべきだろうか。

 

「ふふ。藤村先生、あまり飲み過ぎないようにしてくださいね?」

 

「わかっているってー!」

 

 多分わかっていない。そして多分割りを食うのは桜さんだ。性格的にそんな気がする。酔いつぶれた藤村さんを桜さんが介抱する姿が目に浮かぶ。

 

「おし、これで準備は完了だ」

 

 台所で料理などをしていた士郎さんが席に着く。しかし、ここまで来るとお母さんと呼びたくなるほどの生活力だよね。

 

「おつかれ士郎―!んじゃあ、リオ君から乾杯の挨拶しろーい!」

 

「はっは。いやいや、ここはマ…レディファーストだろう」

 

「…そういうことなら私から。えっと…今日は私たちの為に、こんな豪勢な酒宴を催してくれて、ありがとうございます」

 

「お堅いぞー!」

 

 うん、確かにお堅いと思うけどさ、野次はやめてよ藤村さん。とりあえず苦笑いでお茶を濁しておく。

 

「いつまでお世話になるか分からないけれど、それまでよろしくお願いします!」

 

「いよっ大統領―!」

 

 藤村さん、既に酔っている…のかな。空気に酔っているのか、酒に酔っているのか分からないのが恐ろしい。素面であのテンションなのか?

 

「よし、次は私だな」

 

 よっこいせ、とビールの大ジョッキ片手に腰を上げる。例によって甚平姿だ。まあ、もう夏は目の前だし、涼しげでいいとは思うけどね。

 

「私は口が下手なので、何を言えばいいのか分からん。だから一言だけ言わせて貰いたい。ありがとう!乾杯!」

 

「「「「「乾杯!」」」」」

 

 セイバーに続いて五人が一斉に酒を掲げる。こういうときのお約束で、最初は皆ビールだ。

 

「…ぷはー!うまーい!この一杯の為に生きていると言っても過言じゃないわ!」

「…おお!ビールとやらも旨いなあ!」

 

 大ジョッキを一息で開けてしまった藤村さんとセイバー。…すごいな。私は炭酸で咽てそこまで一気飲みできないぞ。

 

「セ…リオはビール飲んだことなかったの?」

 

 凛さんが投げかける。まあ…少なくとも数世紀前の人間だろうし、フランスの英雄らしいから専らワインなんじゃなかろうか。それよりも、涼しい顔して凛さんも既にジョッキ開けている。なかなかの酒豪だなこの人も。

 

「うむ。何かと難しいところでな。ワインくらいしか飲んだことがない。あ、申し訳ないサクラ」

 

 桜さんがいつの間にかワインを空けてセイバーのグラスに酌をしていた。酌を返せと目線でセイバーに教えたが、どうやら上手く伝わったらしい。

 

「ん…。桜さんって…」

 

 ――――この匂いは、

 

「はい?」

 

「……いや、何でもないや」

 

「おお、この芳醇な香り!なかなかの上物だな!」

 

「ああ、それな。俺の元バイト先で良いものが入ったからって勧められたんだ」

 

 そういう士郎さんはあまり飲んでいない。ああ、確か下戸だと漏らしていた気がする。舐める程度だと言っていたっけ。…この酒を消化する人材が一人減ったのか。大丈夫か本当に。

 

「むお!料理も旨い!いやあ、士郎の料理の食わせるだけで戦争が一つ止まりそうだな!」

 

 つられて一口食べてみる。ただの揚げ出し豆腐だが…すごく美味しい。何コレ、バイト先の居酒屋よりも美味しいじゃないの。

 

 ようやく一つ目のジョッキを乾かす。ちなみに私はそれなりには呑めるけれど、セイバーや藤村さんには負けそうだ。自重してジョッキは大ではなくて中にしておいた。さて、次は日本酒でも飲んでみようか。あまり呑むとえらいことになるから、コップに半分程度にしておく。

 

「お?その透明な酒は日本酒というものか?」

 

「透明じゃないわ。良く見なさい、山吹色をしているでしょう?」

 

「おお、本当だ!どれ、私にも一杯。…おお!おお!旨い!」

 

 セイバー良く呑むな。今のところ、注がれた酒はその場で飲み干している。英雄に相応しい豪胆さで杯を乾かしている。藤村さんも同じようなペースだが、サーヴァントに付いていくあたりその肝臓はきっと鉄で出来ているに違いない。

 やや速度は落ちるが、涼しげにかなり呑んでいる遠坂さんも侮れないが。

 

 まあ、楽しいには間違いない。乱痴気騒ぎが苦手な私だが、こういう和気藹々とした雰囲気はいいものだ。

 

 杯は次々に乾かされ、その度に陽気に誘われ、そうして夜は更けていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 日付を跨り、草木もそろそろ眠りだすであろう時間になってきたが、宴会はまだ続いていた。

 

「一番、藤村歌いまーす!」

 

「いいぞー!やれー!」

 

 俺は舐める程度しか飲まないから、最初の乾杯からは専ら烏龍茶でお茶を濁していた。セイバーがやたら勧めてきたからいつもよりも呑んでいるけれど、まだまだ平常心だ。

 

 意外だったのは、澪まで見境を無くしたことだ。

 

 普段からそれなりに要領がいいことが却って意外性を生んでいる。もはや、普段の藤ねえと変わらないほどのテンションだ。ちなみに今藤ねえを煽っているのも澪だ。

 

 遠坂は一人黙々と飲んでいる。いや、それは語弊があるか。正確には桜に絡んでいる。桜が適当に流しているから一人で飲んでいるような錯覚に陥るだけだ。自発的に誰も絡もうとしないのは、遠坂の目が据わっていることも一因だろう。かなり近寄りがたい雰囲気をかもし出している。あの一角だけ魔境だ。

 

 セイバーもかなりテンションが高い。顔色からは酔っている風ではなく、どちらかというと単にはしゃいでいるだけだ。

 

「とぉびこえてぇけよぉるをぉお」

 

「引っ込め騒音!」

 

「はっは!よく言ったミオ!」

 

「なんだとコンチクショー!」

 

「遠坂さぁん。呑んでいますかぁ?」

 

 見たら分かるだろ澪。あと今の遠坂に近付くのは止めておけって。俺も恐ろしいから止められないけれど。

 

「…ひっく。うぃ…。呑んでいるわよ、見たら分かるえしょ?それでね、桜。私はこう思うわけよ…」

 

「へえ、そうなんですか。言われてみればそうですね」

 

「れしょー」

 

 遠坂、呂律が回っていないぞ。あと桜を開放してやれ。イヤな汗がうっすら流れているのが分からないか。

 

「二番、八海山澪脱ぎます!」

 

「いいぞー!やれー、ミオー!」

 

 うおおい!しまった、澪は脱ぎ癖があるのか!?そしてセイバーは煽らずに止めろ!

 

「ぬーげ!ぬーげ!」

 

 藤ねえも煽るな!

 

「ちょちょちょ!澪、ちょっと落ち着け。いいから脱ぐな」

 

 必至になって押し留める俺の背中にブーイングを浴びせられる。いい加減にしろ。

 

「んー…士郎さん良いにおーい…」

 

 そこまで言うと、糸が切れたかのように崩れた。呑みすぎだろう。急性アルコール中毒でもなさそうだし、横にしておけば明日には回復するはずだ。

 

「あー、澪ちゃんずるーい!私も士郎にだっこされたーい!」

 

 歳を考えろ、藤ねえ。

 

「では私もシロウのだっこを所望する!」

 

 セイバー、お前もか。サーヴァントは酔えるに違いない。今そう確信した。

 

「そういう悪ふざけはいいから。ちょっと澪を部屋に寝かしてくる」

 

「士郎がお送り狼になったぞー!みんな逃げろー!」

 

「…シロウ、ミオは私は部屋に戻そう」

 

 いやいや、真に受けるなよセイバー。遠坂も般若みたいな形相でこっちを見るな。桜がビビッてるだろ。

 

 でも、セイバーが送るというのなら異存がある訳ではない。とにかく、そろそろこの宴会もお開きにしなければいけないだろう。藤ねえや桜に今から帰れというのも酷だし、部屋を用意することにしとこう。

 

「ん。じゃあ任せた。藤ねえ、遠坂。そろそろお開きにするからそろそろ呑むの止めておけよ」

 

「んー…いやー、食ったし呑んだわー」

 

「士郎―…あとで私の部屋に水持ってきておいてー…」

 

「おけ。水差しでも持っていくよ」

 

 さて、部屋は余っているけれど布団は敷いていない。さっさと二人の寝床を作っておくとするか。

 

 

 

 

 

 寝入ってから数時間しかたっていないが、おもむろに目が覚めた。酒が入っていると、夜中に喉の渇きを覚えたりトイレに行きたくなったりで目が覚めてしまうことが多い。今回は前者で、皆を起こさないようにそっと部屋から出た。

 

 台所で水を汲んで飲む。あらかじめ買っておいたミネラルウォーターはよく冷えていて、酒気をほどよく和らげてくれた。

 

 しかし、皆盛大に食べたもんだ。作った側ながら多すぎると思ったが、何だかんだでほぼ完全に平らげている。特に奮闘したのが藤ねえとセイバーだったかな。

 

「ん…?」

 

 コップを定位置に戻そうとしたときに、コップが一つ足りないことに気がついた。誰かが水を部屋に持っていったというのは考えづらい。皆の部屋には水差しとコップを置いてあるんだから、わざわざ台所に出てくる意味がない。

 

 ミネラルウォーターのボトルを冷蔵庫に戻そうとして、さらに気がついた。…余った酒の瓶が一つ消えている。

 

 ―――あれだけ呑んでまだ呑むヤツがいるのか。これは一言ぐらい言ってやらないといけないな。

 

 そう思ったところで、縁側の端に人影を見咎めた。あの背中には見覚えがある。

 

 そうか、下手人はあいつか。またぶっ倒れる前に諌めてやらないとな。月見酒とは風情があるが、風情よりも体調の方が大事である。

 

「…澪、お前倒れたのにまだ呑むのか?いい加減にしないと病院に連れて行くことになるぞ」

 

 がらり、と窓ガラスを空けながら諌言を放つ。部屋の電気を点けているから俺がここに来たことは分かっているだろうに、逃げも隠れもしないとはいい度胸だ。

 

「口を慎め、下郎」

 

 だが帰ってきたのは、思いのほか強い言葉だった。

 

「な―――」

 

「分からぬか。本来であれば余の姿を拝謁することすら叶わぬのであるぞ。それを弁えず、あろうことか諌言を弄するなどそちの身に過ぎた行いであろ」

 

「え、あ…ごめん」

 

 つい謝ってしまった。なんというか、こちらが折れずにはいられない空気を纏っている。

 

「分かればよい。…まあ、そちに恩を感じぬ訳ではない。特別に会話を許そう」

 

「はあ…」

 

 見れば冷蔵庫に仕舞っておいた余り物の開きを肴にしているようだ。といっても余り口を付けていない。その代わりに酒はそれなりに呑んでいるらしい。

 

「でも、酒はそろそろ自重したほうがいいぞ?…さっきかなり呑んだんだし」

 

「余は呑んでいない。久しぶりの酒じゃ。多少は見逃すがよい」

 

 そう言ってちびりと酒で喉を潤す。ずっとこのペースで呑んでいたなら、ちょっとした時間ここに居たんだろう。

 

「うむ。世は良くも悪くも移り変わっていったが、酒は相変わらず旨いものよの。さて、そちには聞きたいことがあっての」

 

 じっとその瞳で見据えられる。普段からは想像もつかないほどにその眼力は強く、ややたじろいでしまった。

 

「衛宮士郎といったな。そちは、何を目指す?」

 

 心臓が強く跳ねるのが分かった。俺の名前を知っていたからじゃない。文面だけ見れば将来の展望を聞いているだけに思えるけれど、もっと深いところを探られているような気になる。

 

「…正義の味方だ」

 

 こういえば大抵の人は吹き出すであろう言葉なのだが、彼女は微動だにしなかった。ただ、その瞳の深さが増したような錯覚を覚えた。

 

「ふむ。して、如何にしてそれに至る」

 

「俺が出来るのは魔術だけだ。人には無いこの力で、俺は人を救いたいんだ」

 

「はんっ」

 

 ここで嗤われるとは思わなかった。しかも、明らかな嘲笑だった。

 

「戯けが、“これしかない”と思い込んでいるだけであろ。そも、魔術とは人を傷つける為のもの。どこまで行ってもそれは変わらぬわ。人を殺し、人を貶めることで救われるものなど無い」

 

「……」

 

 咄嗟に反論できなかった。いや、言い返す言葉はいくらでもあった。だけど、その一切をあの眼差しが封殺してしまった。

 

「世には消防士や警察官という職があるであろ。そちらのほうが、確実に人を救える。市井が言うには、正義の味方とはこういう者達を指すのではないか。それを、“魔術しかない”と勝手に思い込み、自分にはその力があると増長しているだけじゃ」

 

「それでも、俺は…」

 

 この道を進むと決めた。確かにそういう道が在ったことは間違いない。だけど、決めたからにはこの道を疑うことはしない。この道だって、間違いなく正義の味方への道のりなんだ。それに―――

 

「俺はこの道を進む。この道でしか救われない人が居るんだ」

 

 法規を超越し、常人を超越た存在を裁くことが出来るのは同じような存在だけだ。つまるところ、魔術師を処断するには魔術師しかない。そして、道を外した魔術師に虐げられている人々を救えるのは、魔術師である俺しかいない。

 

「…ならば良し!」

 

 苦言を重ねられるかと思っていたが、意外にも彼女はからからと笑い出した。心の底から満足したような笑みだ。

 

「うむ。その信念や良し。ここでそれを曲げるようならば、切り捨てることも考えていた。だがまあ、なんと曇りなきよ。いや、そうで無ければ固有結界なぞ扱えんわな。なんにしても、これならば澪を任せられるであろ」

 

 切り捨てるって…寸鉄すら帯びていないにも関わらず、それが冗談に聞こえないのは何故だろう。とりあえず一命は取り留めたということか?

 

「うむ、褒美にそちの質問にも答えてやろう。何でも良い、好きなだけ余に問うがいい。ただし答えられる範囲で、じゃがな」

 

 急に言われても、聞きたいことなんか直ぐには思い浮かばない。だけど取り敢えず聞いておきたいのは―――

 

「…名前は?」

 

 澪ではないだろう。言峰の例もあるし、澪ではない“誰か”なんだと思う。この人格に心当たりが無いし、名前は聞いてきたい。

 

「なんじゃ、そんなことで良いのか?…とはいえ、余の名前を明かすことは出来ん。それは澪自身が自力で辿り着かねば意味が無いのだ。余は澪の成長を望んでいるからの。まあ…今は澪子(みこ)とでも名乗っておこうか」

 

 空中に指で字体を書く。最初の一文字の読解に苦労したが、澪と子と書くことは理解できた。

 

「じゃあ、もう一つ聞いていいか?一体…澪に何が起こっているんだ?澪子といい言峰といい、全く分からないんだ」

 

「概ねの当たりは付けておるのであろ?そこから大きく外れてはおらん」

 

「だけど…」

 

「すまぬが、これも詳しくは話せん。澪が辿り着かなければいけないこと。…それよりも、本当にこんな質問でいいのか?何か悩みでもあると踏んでいたのだがのう」

 

 悩み…というと、あることにはある。だけれど、それを澪子に言ったところで解決するのかと言われれば疑問だ。だけど言ってみることにする。

 

「悩みと言われればある。…もっと強くなりたい。俺がもっとしっかりしていれば、慎二は」

 

「自惚れるなよ、衛宮士郎」

 

 俺の言葉は途中で遮られた。言葉は強いがその口調はその限りではなく、むしろ諭すような優しさがある。

 

「そちが如何に強かろうとあの男は助からなかっただろうて。あれはそちが与り知らぬ所で起こったこと。だがまあ…それを察知できていれば、と思う気持ちが分からんでもない。桜という女が居る手前、よくその感情を殺していたと感心もできる」

 

 内心のもやもやを言い当てられて、少したじろいでしまった。一体、どこまで分かっているというのだろうか。

 

 澪子は小さく呻いた。どうやら何かを考えているようだ。

 

「そうじゃの…余がそちに教えられることは殆どない。だが、“モノの見方”は教えられるな」

 

「モノの、見方?」

 

「そうじゃ。考え方という意味ではなく、物理的な意味でじゃぞ。…衛宮士郎、何故人間は遠くの物を見ることが出来ないと思う?」

 

 ちょっとだけ考えて、思いついたことを言ってみる。

 

「目のレンズの焦点が合わないから…だろ?」

 

「間違いではない。だが其れだけではないな。何故、街中では星が見えないと思う?」

 

 星が見えない理由?一般的には町が明るいからと言うけれど、思えば何で町が明るいと星が見えないのか良く分かっていない。

 

「分からんかの。町の光と星の光は同時に目に入ってくるのじゃが、そのときに町の街灯であるとかの光の方が強すぎるために目が微弱な星の光を認識できない。目には絶えず多くの光が飛び込んでくる。それらに紛れてしまうのじゃ。だから昼間には星は見えない」

 

「なるほど。…でもそれが、どう話に繋がるんだ?」

 

「まあ聞け。そこでじゃ、八海山の特性は『送受信』であると聞いているな。『送受信』を扱うということは、裏を返せば『送受信しない』ということにも繋がるわけじゃ。何を受け取り、何を無視するかを取捨選択できるということ。ここまで言えば何を言いたいのか分かるであろ。つまり、目的のもの以外を“見ない”ということじゃ。ああ、言っておくがこれは八海山家だけのことではないぞ。八海山のものは無意識にそれを可能するが、意識すればそちにも出来る筈じゃ。何しろ…未来のそちはそうやっているのだからな」

 

 また大きく心臓が跳ねた。澪子は…エミヤシロウ(アーチャー)のことを知っている!?

 

「どこでそれを?」

 

「7年前の戦い。多少は余も知っておる。本当に多少だが、エミヤシロウの投影魔術とそちのそれを見たときに分かった。全く同じものだとな。あとは推察を重ねれば自ずと答えは見えてくるというものよ」

 

「……」

 

 澪は7年前の聖杯戦争については、キャスターを垣間見ただけに留まっているはずだ。だとするとこの澪子という人格は澪の多重人格などではなく、完全に澪とは別の存在ということになる。

 

「聞きたいことはそれだけかの。では余はそろそろ休むとする。澪のことを任せたぞ、衛宮士郎。機会があればまた会おうではないか」

 

「…ああ、おやすみ」

 

 澪子が立ち去った後、しばらく縁側に腰を下ろして考えていた。

 

 エミヤシロウ(アーチャー)の鷹の眼。ランクにしてC相当。単純な視力の良さだけのスキルとは云え、2キロメートル先の標的を捉えるあのスキル。確かに、あれが俺にもあればアイツのような狙撃が可能になるだろう。正直に言って、今の俺の視力では弓を使わずに射出するだけで事足りてしまう。弓を必要とするほど遠方まで見通せないのだ。

 

 そのスキルを支えるものが、見るものの取捨選択。見たいものの映像だけを目に写しこむ。澪子は特別なことではないと言っていた。魔術師なら、あるいは俺になら、その気になれば可能だということだろうか。

 

 まだいまいち分からないが、取り敢えず今は棚上げしておくことにする。何しろ眠い。今日のところは、俺も休んでおこう。

 

「そうじゃ、忘れておった」

 

 腰を上げて、その場から立ち去ろうとしたときに澪がひょっこりと出てきた。

 

「またこやつが脱ぎそうになったら、そちが止めろ」

 

 苦笑いしか返せなかった。

 



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Act.15 依頼

「……頭痛い…」

 

 響くような鈍い痛みが絶え間なく私に襲い掛かる。完全に二日酔いだ。思ってみるとこの数日間に爽やかな朝を迎えたことがない。今回は完全に自業自得なんだけれどね。

 

 顔を洗い、髪に櫛を通す。本音は一日ベッドで過ごしたいような体調だけれどそうはいかないだろう。昨日は聖杯戦争をお休みした状態だ。二日続けて何もしないのも如何なものかと思う。

 

 居間にいくと桜さんが朝食の準備をしていた。藤村さんも頭を抱えている。私と同じように二日酔いのようだ。でも一丁前に胃袋を鳴らしているあたりやはりウワバミだったか、それとも大食漢か。私は食欲なんか無いぞ。

 

「おはよー、澪ちゃん。アツツ…頭割れそう」

 

「お早う、藤村さん。桜さんもお早う」

 

「お早うございます。体調はどうですか?」

 

「はは…。私も二日酔いよ。頭が爆発しそう。…ところで他の人たちは?」

 

「遠坂先輩はまだ寝ているみたいですね。先輩とリオさんは道場に行くと言っていましたよ?」

 

「…道場?」

 

 たしかに道場らしい一角を案内されてはいたが、何でそんなところに居るんだろう。筋トレでもやっているのだろうか。でもわざわざセイバーも一緒だという意味がちょっと分からない。まさかセイバーと打ち合っているなんてことは無いだろう。相手はサーヴァントだ、稽古になんかなる訳ない。

 

 ――――と思っていたのだけれど。

 

 いざ道場に入って目に入ってきたのは、汗まみれになりながらセイバーに二刀流用の竹刀を振るう士郎さんだった。二刀流の竹刀は一般的な竹刀よりもかなり短く、片腕の筋力でも十分に扱えるものになっている。二刀流は剣道の公式規約でも認められているところだ。

受けるセイバーは普通の竹刀だが、なんと片手で握っている。本来は両手持ちで構えるべきなのだが自分本来のスタイルで戦うということなのだろう。息をつく暇もなく繰り出される剣戟を涼しげに流している。しかもよく見ると汗一つ浮かべていない。

 

「シロウ、剣の速度が鈍っているぞ」

 

「うぉおお!」

 

 両手に持った竹刀を同時に突き出す。セイバーの胸元を狙った一対の刺突は、すばやいサイドステップによって回避される。そして腕を伸ばしきった隙を見逃す筈もなく、セイバーは擦れ違いながら目にも留まらない速度で士郎さんの額を打った。

 

 すぱん、と不思議なくらいに小気味好い音とともに士郎さんは床にひっくり返る。見事なほどの一本だった。

 

「やけくその一撃が通じるのは素人までだぞ、シロウ。双剣の利点はとにかく手数の多さだ。相手に反撃の機会を与えても立ち直りやすいという隙の無さも大きい。とにかく相手を圧倒することが肝要だ」

 

「はぁっ…はぁっ……。そうは言っても…セイバーに全部捌かれてしまって…疲れが先に来てしまうんだよ…」

 

 床に大の字になったまま大きく肩で息をしている。そこで寝ているだけで水溜りが出来るほどの汗だ。朝は涼しいといってもあれだけ激しく動けば当然のことだろう。

 

「いいか、シロウ。貴方には剣の才がない。これだけは言っておく」

 

 意外だった。これほど戦えるのに、士郎さんには剣の才能が無い。それだったら私なんて虫けら以下になってしまうぞ。

 

「ああ…何度か言われたことがある…」

 

「うむ。生まれ持った才覚、センスと言っても良い。これが貴方には欠けている。だが…その代わりに経験や理論による剣は振るえる。まずは相手を崩すにはどうすれば良いかを考えながら戦うことだ。それが経験になれば、いずれ考えずとも相手を圧倒できるだろう」

 

「オケ…じゃあ、もう一本」

 

 頬を両手で叩き、気合を入れてから立ち上がる。だが起き上がって竹刀を構えた士郎さんをセイバーが手で制した。

 

「集中していることは大変素晴らしい。だがそろそろお開きだな。ミオ、そろそろ食事なのだろう?」

 

「え?…あ、ええ。桜さんがそろそろ朝食出来上がるって言っていたわよ」

 

 どうやら士郎さんは私に気付いていなかったようだ。

 

「すまないな、澪。わざわざありがとう。片付けて顔を洗ったらすぐに行くよ」

 

 士郎さんはセイバーの分の竹刀も一緒に片付け、端に置いてあったヤカンから水をラッパ飲みする。片付けとは道場の掃除のことだろう。確かに道場に落ちた汗を放置するわけにはいかない。

 

「道場の雑巾がけなら私がするわ。顔だけじゃなくてシャワーを浴びたほうがいいわよ」

 

「いや、それじゃ澪に悪いだろ」

 

「はっは。シロウ、好意は受けておくものだ。掃除は私がする、貴方は水を浴びて来い」

 

「…じゃあお言葉に甘えて。掃除道具はその辺にまとめてあるから」

 

 汗で額を拭いながら道場の一角を指差す。そうと決まればさっさと掃除を済ませちゃおう。頭はやはり痛いけれど、少しでも体を動かせば楽になりそうな気がする。気のせいかも知れないけれどね。

 

「しかしさすがはセイバーね。士郎さんもかなり強いはずだけれど、軽く遊んでやったって感じ?」

 

 さすがに士郎さんに悪いので本人が立ち去ったことを確認してから言う。セイバーはからからと笑いながら答えた。

 

「はっは。いやいや、ミオ。確かに傍目にはそう見えるだろうが、そこまでの余裕は無かったぞ」

 

「え、そうなの?」

 

 意外だった。華麗に双剣をいなし、かわして反撃する様は鮮やかだったし、汗一つ流さずに士郎さんへ指南しているものだからそうとばかり思っていたのだが。

 

「並大抵の剣戟なら捌くまでもない。シロウのように短剣が相手ならば得物の長さを頼みに一撃を叩き込む。それで終わりだ。だが士郎相手にはそれが出来なかった。いやあ、剣の才は無いがあの機能美を感じさせる剣戟は見事だ」

 

「へえ…。ところで何で打ち合いなんかしていたの?」

 

「いや、士郎が鍛錬に付き合って欲しいと言うのでな。私としても士郎の剣には興味があったし、快く引き受けたという次第だ。やはりキャスターでの戦いで何か思うところがあったのかな」

 

 途中から記憶が無いけれど確かに私も思うところはある。私がもっと強ければ、私が戦うことさえ出来れば…士郎さんや遠坂さん、それにセイバーの足を引っ張らずに済んだかも知れないのにと思うと内心忸怩たるものがある。

 

「ミオも私と剣を鍛えるか?」

 

「遠慮するわ。私には接近戦は無理よ。こんな華奢な体じゃあね」

 

「そういうものでもないが。心技体はそれぞれ補える。体に難があるのなら心と技で補えばいいこと」

 

「簡単に言わないでよ。どれも一朝一夕で身につくものじゃないわ」

 

 脊髄反射に任意の行動を設定する反応魔術はとにかくその設定の難しさが難だ。“右から剣が来た”と認識すれば毎回同じ反応しか取れない。その上そういったこまごまとした動作を設定しようとすれば時間が掛かるし、かといって設定しなければ一瞬で負ける。どちらにしても実用に耐えない。

ちなみにずっと設定を維持するのは無理だ。神経に異物を挿入するにも等しいこの魔術をずっと使用しようと思っても体が保たない。

戦闘ではなくて逃走のみに用途を限定すればそれなりに使えるのが救いだ。

 

「そんなことより、さっさと掃除を済ませるわよ」

 

 セイバーも手伝ってくれるみたいだし、すぐに終わるでしょ。…そういえばセイバーは私以上に呑んでいた筈なのに元気だな。一体どういう体の構造しているんだろう。サーヴァントと人間では少し勝手が違うだろうけれどちょっと気になる。

 

 なんて愚にも付かないことを考えながら雑巾を硬く絞るのだった。

 

 

 

 

 

「…あー……」

 

 遠坂さんも一応起きてきたようだが、これは酷い。まず酒臭い。次に不機嫌。聞くまでも無く二日酔いだ。呑んでいた量は藤村さんと同じくらいかそれ以下だが、酒に弱いのかそれとも次の日まで残すタイプなのか、とにかく私達の中で一番症状が重い。

 

 やはりと言うべきか食欲がないらしく、なかなか朝食も進んでいなかった。とは言っても昨晩あれだけ飲み食いしておいて食欲だけは旺盛な藤村さんが異常とも言える。燃費悪すぎるでしょう、藤村さん。

 

「大丈夫ですか、遠坂先輩…」

 

 桜さんが心配して声をかける。まあ、大丈夫ではないでしょうね。

 

「大丈夫…だけど……後で冷蔵庫のウコン貰うわ」

 

 ウコンのドリンクは昨日の宴会時に誰かが買ってきていたものだ。この辺りの気配りは桜さんか士郎さんのお株だろうが、士郎さんが買ってきたものの中には無かったので必然的に桜さんだろう。凛さんが桜さんに断ったのも多分そういった理由からだ。

 

 その好意に甘えて乾杯前までに各々がそれを飲んでいたのだが、果たしてどれ程効果があったのかは謎である。

 勘違いされがちだがウコンドリンクを呑んだ後に飲むのは間違いだ。あれは呑む前に飲用しなければならない。

 

「遠坂さん、あれって二日酔いに効くの?」

 

「少なくとも気休めの効能はあるでしょ。飲まないよりかはマシよ」

 

 それは確かに。私も後で一本もらっておこう。こういう事態を考えていたのか6本入りのパックを二つ買ってあった。なんて用意周到な。

 

 遠坂さんも苦労しいしい朝食を平らげ、それを合図に食後の挨拶。その後は士郎さんと桜さんが食器を片付ける。私とセイバーも手伝ったが、人の台所は勝手が分からない上に4人居ると狭いので殆ど手伝えることは無かった。

 

「んじゃ、私は家に戻っておくねー」

 

「私も家に戻ってきますね。夜にはまた来ますので」

 

 片付けが終わってひと段落していたときである。二人とも一晩泊まったことが気がかりなのか一度家に戻るようだ。二人とも実家からここに来ているようなので家の人も心配しているだろう。…桜さんはともかく、藤村さんが心配されるような年齢と戦闘能力かと言われれば疑問だが。昨日知ったが剣道の有段者だったらしい。この家の戦闘力の平均値は狂っていると思う。

 

「おう、藤ねえも桜も車には気をつけろよ。最近はなにかと物騒だからな」

 

 そう言って士郎さんが二人を送り出す。さて、これで魔術師だけがここに残ったということになる。

 全員が揃っているタイミングを見計らって切り出した。

 

「これからの方針はどうするの?」

 

 昨日までの方針はキャスター戦に焦点を当てたものだった。しかしキャスターの件が片付いたため、今後の方針は気になるところだった。

 

「そうだな…遠坂、前回のときと同じスタンスでいいと思うか?」

 

 遠坂さんが手に持ったウコンドリンクを勢い良く飲み干す。“こっち”の話に切り替わったことで凛さんの表情を引き締まった。まだ苦しげだが少なくとも平常らしくは見える。

 

「そうね。それで問題ないと思うわ」

 

「シロウ、前回のスタンスというと?」

 

「夜に出歩いてサーヴァントを探して練り歩くってことだ」

 

「…ちょっと無計画すぎない?」

 

「いやいや、ミオ。そうでもないぞ。そもそも計画を立てられるほど我らには他のサーヴァントの情報は無い。キャスターの根城が分かったのも偶然に拠る部分もあるしな」

 

 確かにそうだ。キャスターの情報の出所は凛さんの監督役からの連絡が途絶えたということに端を発する。セカンドオーナーである遠坂と監督役が密に連絡を取ることに不思議はないが、凛さんに頻繁に連絡を取る気のない監督役だったならこうはならなかったかも知れない。

 

「それならばこちらから出歩いて誘き寄せる他ないだろう。敵とてこちらの情報を掴めてはおらんのだ。互いが篭城してしまったらいつになっても終わらんぞ」

 

 全く以って正論だ。よくよく考えれば、私達の戦闘能力は他の勢力と比べて劣るなんてことはそうそう無い筈だ。だったら誘き寄せて返り討ちにするほうが効率的だし、何よりこれ以外に方針もない。

 

 あ、でも待てよ。

 

「確か、サーシャ…なんとかとかいうマスターが居ましたよね。ライダーのマスターの。あの女性のことは何か知っているんじゃ?」

 

 互いに面識は無いようだったけれど、確かに士郎さんはあの女性のことを知っていた筈だ。正確にはあの女性ではなくその肩書きについて知っているみたいだったが。

 

「サーシャスフィール・フォン・アインツベルンね。アインツベルンって聞いたことない?」

 

 残念だけど私の家は時計塔にも関心がなければ他の家にも興味がないという世間知らずな家柄だ。私が知っていた魔術師はセカンドオーナーの遠坂と八海山の一族の面々だけである。

 

「アインツベルンっていうのは、魔術師の中でも最上位に位置づけられる一族よ。閉鎖的な家柄のせいもあってその実態を知るのは難しいけれど、錬金術の総本山と言っても過言では無いわ」

 

「へえ…で、そのアインツベルンの根城は何処にあるか分からないの?」

 

「いや、分かるんだが…あの城に乗り込むとなると乾坤一擲の勝負になるぞ。何重にも張られた結界と深い森。あれは天然の要塞だ」

 

「それ以前に不利を悟ったら一目散に逃げられるでしょうね。向こうはマスターもサーヴァントも馬に乗っているのよ」

 

 言われてみればそうだ。機動力は向こうが遥かに上回っている。セイバーの話ではバーサーカーがライダーを圧倒していたという。加えて今度はセイバーとバーサーカーは共同戦線を張っている。わざわざ不利な戦いをすることは無いだろう。その城とやらが無血開城されたとしても、そこを乗っ取る意味もメリットも無い以上は無駄足だ。

 

「私たちの陣営にはセイバーとバーサーカーが居ることはサーシャとライダーには知れているし、きっと戦闘にすらならないわ。足を運ぶだけ無駄よ」

 

 サーシャスフィールだからサーシャか。そちらの方が呼びやすいから私にとっても好ましい。

 

「確かに…囮作戦、それ以外に無いのかもね…。うん、私に異存は無いわ」

 

 私の探索魔術のこともある。サーヴァントの気配に気付いて寄ってくれば私のレーダー網に引っ掛かってフィッシュ。これでサーヴァントの一本釣りだ。

 

「じゃあ今日からその方針でいこう。ライダーはその時に釣れることを期待するしか無いだろうな」

 

「了解したわ。それじゃあ、昼間は自由行動?」

 

「そうなんだけれど、澪はちょっと私に付き合いなさい」

 

 何だろう。私に何か用だろうか。という疑問が顔にでていたらしい。すぐにその疑問の答えが返ってきた。

 

「遠坂凛の魔術講座よ」

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 蟲蔵には二人分の人影があった。間桐臓硯とキャスターだ。もっとも、彼らを人と称していいのかは甚だ疑問であるが。

 

 キャスターは何も喋らない。それは大敗を許したことと醜態を晒したことによる自責の念からか。魔力の消耗は著しく、昨日はずっと霊体となって消費を抑えていた。よってキャスターが一昨日の夜以降に臓硯と顔を合わせることがなく、今この瞬間がその最初の機会だった。

 

「カカカ…。手酷くやられたものじゃのう」

 

「申し訳ありません…。私が至らぬ故、マスターのご子息を亡くしてしまいました」

 

 正確に言えば一昨日の夜以前から慎二は死んでいるというべきなのだが、あえてキャスターはこのように言った。

 

 慎二はマスターではない。仮初のマスターですらないのだ。何故なら彼には令呪を譲渡されていない。そうでなければ臓硯がキャスターを呼び戻すことは不可能だった。

 

 考えてみれば当然だ。慎二はキャスターの傀儡であって主ではない。表向きはマスターとして扱っていたが、それは周囲を欺くための布石であり保険である。

キャスターの宝具はその性質上秘匿が難しい。墓を暴くのならともかく、メフィティスの材料を一般人に求めればどうなるのかは自明の理だ。メフィティスは霊ではないので姿を隠すこともできず、一般人からゾンビの目撃情報が上がるのも時間の問題だったろう。

そういった際に汚名をすべて慎二に被せ、彼が矢面に立つことで臓硯は気兼ねなく暗躍できるという図式だった。

 

「構わぬ。どうせ魔力回路も持たぬ出来損ないよ。彼奴がくたばったとしても何の問題はないわ。それよりも傀儡の材料はあれで足りたかの」

 

 早朝に間桐邸の蟲蔵に運び込まれたいくつかの死体。それが間桐臓硯の“養分”になる筈だったものか、キャスターの為に調達したのかは定かではない。しかしキャスターにとってそんなことは問題ではなく、指示されるままにメフィティスを量産して戦力を再び蓄えようとしていた。

 

「死体に問題はありません。ですが…少しお時間を頂けなければ、サーヴァントと戦うことは難しいでしょう」

 

 メフィティスの中のいくつかには臓硯の蟲を植え込んであった。キャスター流のホムンクルスの術式を孕んだそれはメフィティスを苗床にして増殖する。そのメフィティスを徘徊させ、それが人を食い殺した際に傷口から死体に入り込む。侵入した肉体をある蟲が改造し、またある蟲が人工魂の代わりを果たす。こうやってメフィティスをネズミ講式に増やしていた。たったの数日で100を越えるメフィティスを用意できたのもこういった手法による。

 

「ふむ…しかし今度は他のサーヴァントにも気取られていよう。数をそろえることは難しかろうな」

 

「はい…」

 

 セイバー陣営は上手く騙せたかも知れないものの、ランサー陣営はそうはいくまい。キャスターが存命であることは疑いようがない。ランサーがとると考えられる行動はキャスターの姿を追い求めることだ。その際にメフィティスを発見されない、という甘い見通しは捨てるべきだろう。

 メフィティスを発見されれば当然撃破される。ネズミ講式に増えるとはいっても、今動かせるメフィティスは少ない。運が悪ければ一晩で全て無力化されるほどの数だ。

 

 キャスターたちにとっては最も厄介な相手に睨まれた形になった。

 

「ふむ…キャスター、今晩教会の死体を回収するがよい」

 

「マスター!?なりませぬ、ランサーが待ち伏せていましょう!」

 

 教会にはメフィティスからただの死体となったものが転がっている。今冬木で最も死体が集まっている場所だろう。そこまで赴き、『腐臭を愛する大公(メフィストフェレス)』を発動すればそれらはキャスターの戦力として復帰する。手早く確実に戦力を集めようと思えばこれが最上だろう。

 

 だがこの程度の考えはランサーも及んでいるだろう。当然ながら待ち伏せは考えられる事態だった。それだけに臓硯の指示は不可解極まるものだった。

 

「異議は聞かぬぞ、キャスター。なに、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあるということよ。案ずることはない、貴様はランサーを足止めするだけで良い」

 

 ―――聞けば、此度の聖杯は再び無機の器に戻したという話であるしのう。

 

 その呟きはキャスターには届かなかったようだ。キャスターは怪訝な顔をしながらも、その指示に従う他無かった。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 同時刻にライダーとサーシャスフィールの姿は教会付近にあった。ライダーの懐には此度の聖杯の器が納められている。

 器が無機物であれ有機物であれ、それが損壊される危険は常に伴う。そこで不干渉の掟が存在する冬木教会へ聖杯を委任することで聖杯戦争の期間中に破壊されることを防ごうという腹だ。勿論教会が絶対安全という保障はないが、中立を誓約している分戦火には晒されにくいだろう。監督役も信頼できる人物であることもあり、サーシャスフィールは戦闘に専念できるという訳だ。

 

 二人の後ろには20近くの騎馬が整列したまま行進している。ライダーの練兵を潜り抜けた猛者たちだ。姉妹兵と呼ばれている彼女たちは一言も発することはない。ただその手綱を器用に操るだけだ。

 

 この異様な一団の姿が街中にあっても騒がれなかったのは、偏にサーシャスフィールの認識阻害魔術の効果である。一般人の目には一団の姿は映っているのだが、それを脳が認識しない。目には映っているので車も人も彼らを避けて通るのだが、それを記憶に留めることも出来ない。

アインツベルンの専門分野は錬金術であるが、魔術師にとって必修科目ともいえるこの魔術はサーシャスフィールも身に修めていた。

 

「…何やら騒がしいな」

 

「そのようですね」

 

 だから当然のこと、一般人に騒がれているという意味ではない。ライダー達の存在に関わらず、教会付近は慌しい様子だった。

 

 先ほどから何台かのバンやトッラクとすれ違っている。トラックは幌などで荷台をすっぽり隠せるタイプのものだ。そしてそれらは決まって教会の方面からやって来ているようだった。

 

 何より気になるのは、運転手などがライダー達に気がついているようであること。すれ違った数台のうち幾つかの運転手が目線をこちらに送っていた。さらに気になることは、その車から死臭がすることであった。

 

「教会で何かあったかな」

 

「かも知れませんね。…器を預けるのは見送ったほうが良いでしょうか」

 

「構わんだろう。そもそも相手方が今日を指定しているのだ。出直す羽目になるかも知れないが、かといって行かぬわけにもいかぬ」

 

「正論ですね。…これで15台目です」

 

 また一台、死臭を漂わせるバンが通り過ぎた。白塗りのそれは、一応は匂わないように処理をしているようにも思える。だが死臭というより腐肉の臭いは完全には除去されてはいないようだった。

 

「…そこの者達、止まれ!教会は不可侵地域だ。何用で来たのか?」

 

 教会へ続く坂の入り口で、カソック姿の男に止められた。見れば入り口には鉄柵で簡易なバリケードを構築してあり、今その鉄柵を開け放ってバンが一台出てきた。門番らしい男たちは睨むような目つきでサーシャスフィールとライダーを凝視する。

 

 私を認識できるということは、この者達は教会の代行者かそれに準ずるものでしょうか。それよりも教会側から日時の指定を突きつけてきたというのに、何用かとは随分な挨拶なことです。

 

「アインツベルンです。此度の器を預けるために参りました」

 

「器…?まだ受け取っていなかったのか。これは失礼を、預かりましょう」

 

 手を伸ばしてきた男を遮るように、ライダーの刀が割り込んだ。

 

「悪いが監督役を呼んで来ていただこう。あるいは監督役のところまで案内していただく。我らのことを聞き及んでおらぬ貴様を信用できるわけが無かろう?」

 

 その言葉を受けて男は苦々しい顔を作る。そして何やらばつが悪そうに唸ったあと、やや申し訳なさそうにこう答えた。

 

「監督役の神父様は殉職なされた」

 

「…なに?」

 

「おそらくキャスターの仕業と目されている。先日死亡が確認された。今は監督役代行が指揮を執っているため、我ら末端まで指示が届かなかったようだ」

 

 確かにサーシャスフィールは監督役としか連絡をとっておらず、器の受け渡しの際に簒奪される危険を危惧して情報の漏洩には気をつけるように念を押していた。まさか誰にも漏らしていないとは思っていなかったが、そうであれば門番まで聞きおよんでいないことは納得できるというものだ。

 

 しかし今回の聖堂教会の動きは素早い。いや、監督役が存命のときから代行は立ててあったのだろう。第四次、第五次と監督役に任命されたものは悉く死亡している。マスター達を監督し、事態の隠匿に奔走する者達の指揮する任を負っている監督役の席を空けるのは得策ではない。

 

「代行がいらっしゃる場所まで案内しよう。話は直接会ってされるがいい」

 

 門番の一人に案内されて向かったのは、教会ではなくその裏手の墓地であった。この辺りからサーシャスフィールにも分かるほどの悪臭が漂いだした。我慢できないわけではないが、食欲を無くす臭いであることは間違いない。

 

「代行。客人をお連れしました」

 

「ご苦労さま。下がっていなさい」

 

 後姿で振り返らずに答える。声は男のものだ。中々に低い声をしている。臭いのためか、スカーフのようなもので顔を覆っているようだった。

 

「…これは」

 

 ライダーが漏らす。サーシャスフィールは言葉にもならなかった。

 

 死体の山である。何の比喩でもなく、実際に死体が山を形成している。それらは既に腐敗しており、蛆のようなものさえ湧いている。

 

 そして作業着に身を包んだ男たちが、バンやトラック死体を運び込んでいた。死体をある程度は丁重に扱いながらも手早く作業を進めている。これで死臭漂う車の正体は分かった。あれは実際に死体を積んでいたのだ。だが正体が分かっても意味はよく分からなかった。

 

「用件は何かしら?」

 

「…聖杯の器をお持ちした。聖堂教会で保管をお願いしたい」

 

「あらん、やっぱりまだ預かっていなかったのね。申し訳ないけれど、教会までご足労願えるかしら?」

 

 重ねて言うが声は男である。

 

 振り返りながら顔を覆っていたスカーフを取るとそこには―――厚化粧をした壮年の男性がそこにいた。

 

 

 

 

 

 

 宝具馬と姉妹兵たちは表で待機させていた。まさか20を越える団体で応接間に押しかけるわけにもいくまい。護衛を置いて、二人は男に促されるままにソファに腰掛けていた。

 

「サーシャちゃん、紅茶でよかったかしら?」

 

「…お構いなく。すぐに帰りますので」

 

「そう言わないの。せっかく大切なものを運んできてくれたのに、茶の一つも出さないなんて私の気が済まないわ」

 

 そう言って彼は奥に茶を淹れに行った。男の名前は冬原春巳(ふゆはらはるみ)。名前の音だけを取れば女にも思えなくは無い。だが本人は筋肉質なもので、到底その輪郭から女を想像することはできまい。

 ただその動きは逐一くねくねと落ち着きが無いので、遠くからでもその異様な雰囲気だけは感じられるかも知れない。不幸にも最初の邂逅時には直立不動だったために覚悟ができていなかった。

 

 ややあって盆に紅茶の入ったポットと茶請け、それに人数分のカップを置いて持ってきた。陽気にも流行歌を口ずさんでいる。言及するなら、それは恋歌であった。

 

「どうぞ」

 

「…有難うございます」

 

「忝い」

 

 茶を受け取るも、それに口を付けようとはしない。冬原は苦笑しながらまず一口茶を飲んで毒を混入していないことを主張した。

 

 それを受けてまずライダーが、サーシャに出された分を飲む。臭いも細心の注意を払い、ゆっくりと舌で紅茶を吟味した後に無害であることを確認した。

 

 サーシャスフィールはライダーの分を取り、同じように毒の類がないか確認した後に口をつけた。毒は一切なく、ただダージリンの芳香が口を満たすのみである。

 

「申し訳ありません。第五次の監督役はマスターを殺してサーヴァントを奪ったという噂を耳にしていたものですから」

 

「言峰ちゃんね。まあ警戒するのも仕方ないことでしょうけれど、私は魔術師だからといって問答無用で切り捨てることもないし、特に叶えたい願いもないわ。…それとも、オカマの言うとこは信用できないかしら?」

 

 その言葉を慌ててサーシャスフィールが否定した。

 

「いえ、そんなことは…。ですがお伺いしても宜しいですか?」

 

 性に厳しい宗教のことである。まして監督役ともなれば代行者かそれに準ずるものが任される方針であると聞く。そういった戦闘集団の中にこのような際物が紛れたことには興味があった。

 

「ん~。性に厳しい教えだからかしら。ほら、うちの教義は自慰禁制じゃない。私は人並み以上にそういった欲求が強かったのか、代行者をやっているときにもかなり無理して抑えていた部分があったのでしょうね。どっかでそれが曲がっちゃったみたい。気がつけば性別不詳よ」

 

「…はあ」

 

 どこか宙を見ながら答える冬原は若干自信なさげだ。こういったものは往々にして“気がつけばなっていた”というものである。自分なりに原因が思い当たっているようではあるが確信は持てないようだ。

 

 しかし性別不詳と言い切ったことにはサーシャスフィールはやや呆れた。誰がどう見ても男である。性別は不詳だなどとぶち上げる勇気はある種感服に値した。

 

「教会としては、致死率100パーセントを誇る監督役の任につけて厄介払いをするつもりなんでしょうね。さすがに監督役は任されなかったけれど、代行という肩書きだけでも“あわよくば”という意思が見え隠れするわ」

 

 確かに彼を監督役として前に出せば、魔術師たちの反感を買いかねない。本人は至って真面目なのだろうが、周囲はそうは思わないだろう。そして彼を煙たがるのは魔術師だけでなく、どうやら同じ組織のもの者達もそうであるようだ。厚化粧をしたオカマが自分と同じ代行者だと思うと、周囲も内心穏やかざるものがあるのだろう。

 

「冬原殿。墓地の死体について聞いてもよろしいか」

 

「ああ、私ったら自分のことばっかり喋っちゃったわね。ごめんなさい。…あれは今回のキャスターの仕業よ。町を騒がしている連続殺人についてはご存知?」

 

 無言で首を縦に振った。

 

「それなら話は早いわ。キャスターは自分の所業の隠匿も行わず、無秩序に住民を食い漁っているわ。…放置すれば、数日中にここは死都となるでしょうね」

 

「な…!?」

 

 正確にはあれは死徒などではないし、ここを根城にするものも存在しないので死都というには語弊があるだろう。だが現状を説明するには最も適切な言葉に思えた。

 

「キャスターの宝具の力ね。墓地の死体は、キャスターがここに戻ってきた場合に備えてよ。本当は焼却処分しちゃいたいところなんだけれどね。焼いた程度で宝具から逃れられるのか分からないし、何より審判の日に体がなくっちゃねえ。上も動きを見せてくれないし、仕方ないから大急ぎで運搬しているのよ。死体がなくっちゃキャスターもどうしようもないでしょ」

 

「馬鹿な、教会は動いていないのですか…!」

 

 魔術協会は神秘の秘匿がなされている限りは動かない。いずれ露見する可能性はあるが、現状では動かないだろう。しかし聖堂教会は神の教えに反する異端を殲滅する機関でもある。現状で動かない道理はないはずだ。

 

「今死都と言ったけれど、アレは死徒ではないからねえ。死者の蘇生そのものは教義で否定しているわけでもなし。それに聖杯戦争中には聖堂教会は基本的に不干渉よ。少なくとも、今は動いてくれないでしょ」

 

「そんな…では、監督役の権限でマスターを召集したらどうです。キャスターの首に賞金をかければ」

 

「それも考えたんだけどね…」

 

 そう言って一口紅茶を飲む。茶請けのクッキーに手を伸ばしながら言葉を続けた。

 

「まず今回のマスターは教会に登録するものが少ないわ。約半数は届出がない状態よ」

 

 教会に連絡を入れたのは、間桐、遠坂、アインツベルン、そして八海山澪の4組だけだ。前回の監督役の動きから鑑みて、何のサーヴァントのマスターかは誰も明かさなかったが少なくとも一報は全員入れてある。残りの半数はイレギュラーであることが考えられ、ともすれば魔術師ですらない可能性すらあった。

 

「召集をかけたところで集まるとも思いがたいわ…。第一、キャスター陣営が召集に応じてしまったら意味がないじゃない。それにこれが最も重要なことなんだけれど、相応の見返りを用意できないのよね」

 

「令呪、とかは…」

 

「前回までならそうしていたわ。だけれどね、未使用の令呪は言峰ちゃんと一緒に燃え尽きているのよね」

 

 第五次の折、言峰はアインツベルンの城で焼死体として発見された。焼けた遺体から未使用分の令呪を回収することが適わず、マスターが食いつきそうな報酬を用意できないのが現状だった。

 

 魔術師など基本的には利己的な生物だ。自分に利することが無ければ誰が好き好んで教会の依頼を受けるだろうか。まさか金銭で釣れる輩が居るとは思えまい。

 

「で、ここからが本題なんだけれど…」

 

 冬原は襟を正してこう切り出した。

 

「サーシャスフィール・フォン・アインツベルン。御三家の一角に監督役代行として依頼します。近日中にキャスターはここ、冬木教会に襲撃するものと考えられます。暫くの間、ここを護衛して頂けないでしょうか」

 

 今までのややおどけた調子ではなく、そこには一人の代行者としての顔があった。厚化粧の奥に、戦禍を潜り抜けてきた兵としての顔を垣間見られる。

 

「提供が可能な見返りならば用意しましょう。しかしこちらから呈示できる物はありません。ただ、始まりの御三家としての矜持に訴えるのみです。聖杯戦争の場をキャスターの傍若無人な振る舞いで荒らされたくないとお考えなら、どうかお受け頂きたい。ここが死都となってしまえば、魔術協会も聖堂教会も動かざるを得ない。そうなれば…聖杯戦争はもう二度と行えない可能性もある」

 

 確かに二勢力が介入したとなると、残るのは焼け野原のみだ。それを隠匿するためにミサイルの一つでも落とすかも知れない。そうなってしまえば、霊脈や聖杯のシステムもただでは済まないだろう。二度と、いや今回の聖杯戦争すら行えない可能性まであるのだ。

 

「私は沙沙の意志に従う。どうする、沙沙?」

 

「……分かりました。私にもアインツベルンとしての誇りがあります。それを天秤に載せられたからには頷くほかありません」

 

「ありがとう、サーシャちゃん!」

 

 勢いよく立ち上がってその手を握る。そして腕がもげるのではないかと思うほどの速さでその手を振った。

 

「正直言って間桐は胡散臭いから依頼するつもりもなかったし、そもそも連絡取れないし!遠坂も何故か屋敷に帰っていないし!アインツベルンにまで断られたらどうしようかと思ったわ!」

 

 凄い勢いでまくし立てられてサーシャスフィールは乾いた笑いを返すしかなかった。

 

「せめてものお礼に、貴方にお化粧を教えてあげるわ!」

 

「…はい?」

 

「お化粧よ、お・け・しょ・う。貴方それスッピンでしょ?もとが凄くいいんだから、化粧すればもっと綺麗になるわよ~?」

 

 先ほどから握っていた手を離そうともせず、ぐいぐいと引っ張られる。このまま化粧台まで連行するつもりらしい。

 

「い、いえ…私、化粧は…」

 

「黙らっしゃい!化粧は女の嗜みなの、それを疎かにするなんて許さないわよん!さあ、痛くしないからついてらっしゃい!」

 

「ラ、ライダー…!助け…」

 

「俺も沙沙の化粧姿が見てみたい。早くしてくれよ、沙沙」

 

 後で覚えておきなさいよ、という悲痛な叫びは廊下の奥から響いてくるのだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

「『送受信』とは聞いているけれど、もう少し詳しく説明してもらっていいかしら?」

 

 ここは遠坂さんの部屋だ。いたるところに実験器具じみたものが散乱している。天体観測よりも夜行性生物の捕獲と解剖を行っていますと言ったほうが信じられるかも知れない。少なくとも天体観測を連想させるものなど一つとしてなく、藤村さんや桜さんはこの部屋に立ち入ったことが無いに違いない。

 

 遠坂さんは何故か眼鏡をかけていて、それがとても知的な雰囲気を作っている。とはいえ目は悪くないはず。きっと雰囲気から入るタイプの人だ。

 

「うーん…もはや言葉のままの意味なんだけれどね。魔力などの受信、送信を得意かな。パスの作成や、遠見の魔術、念話の分野ではどの家にも引けを取らないと思うわ」

 

「他には何かある?」

 

「他に…かあ。まあ…士郎さんみたいに普通とは違う、魔的な変化には敏感かな。『受信』の能力の部分の活用ね」

 

「確かに士郎が固有結界を展開するときに、いち早く世界の異常を察知していたわね」

 

「ええ。八海山の人たちは皆あんなものよ。六感全てが過敏だといってもいいわ。さすがに知覚過敏になる人は居ないみたいだけれどね。六感以外に何かあるかな…ああ、昔に読心術を使える者が居たって祖父母から聞いたことがあるわね」

 

「読心術?そんなものが可能なの?」

 

 読心を実現しようと思えばいくつか方法はある。最も難易度の低い方法は、既に通っているパスを使うものだ。対象の同意と契約によって実現するこの魔術は共感知覚に近い。経路で繋がれた者同士の強い感情は相手に伝わるということからも想像しやすいだろう。だがかなり熟練した魔術師でも、相手の深層心理や隠匿したい記憶や感情を読み取ることは難しい。

 

 逆に最も困難な方法は相手の意思に関わらず心を読む方法だ。これは経路や契約に頼らず、純粋に術者の技量だけで実現しなければならない。相手が眠っていれば十分に可能な範疇であろうが、起きているときは不可能に近い。人間の意志の力とは存外に侮れない。心の壁という言葉があるが、それが読心術には天敵となる。特に魔術師相手ならなおさらだ。

 

「もう何代も昔の人物が可能だったらしいわ。あまりに昔過ぎて、そいつの名前はおろか性別すらも分からないそうだけど」

 

「へえ。じゃあ澪も読心術を使えたりするの?」

 

「そんなわけ無いでしょ。ヘタに使えば破滅よ、あれは」

 

 人間の脳は、その人物の記録だけで埋まっている。それ以上の情報を押し込むことなんかできない。相手の身の上程度なら誰しも記憶できるだろう。しかし相手の出生から今までの全ての情報を叩きつけられたらどうなるか。人間の一生を全て余すことなく記せばどんな文章量になるか分るだろう。

空気を入れすぎた風船は破裂する。つまりはそういうことだ。

 

 運よく破裂を免れたとしても問題がある。いかに潔癖の人物でも負の感情というものは存在する。憎悪、憤怒、嫉妬、狂気などといった感情は、その感情の持ち主には甘美かも知れないが他人にとっては猛毒だ。風船の中に硝酸を混入するようなものだ。

 

「それに私にはそんな才能ないわ。断言できるわ。絶対に無理」

 

「でしょうね。それが出来たらサトリでしょうし」

 

 日本の妖怪、サトリ。確かにそれがイメージとしては一番近いと思う。

 

「じゃあこれについてはいいわ。他に何かある?」

 

「他に…あ、そういえば……いや、でもねえ…」

 

「何よ、煮え切らないわね。はっきり言いなさいよ」

 

「うーん…いや、自分でも自信が無いの。確証が持てたら話すわ。他には特に無いということで」

 

「…そう」

 

 凛さんはこれ以上追求しないでくれた。正直助かる。問い詰められても答えられないのが現状だ。言うなれば靄を掴んでいる感触だろうか。確かに何か掴んでいるだけれど、何を掴んでいるのか分からない。分からないものは答えようもない。

 

「じゃあちょっと実演してもらおうかしら。今すぐに出来ること、ある?」

 

「パスの作成かな」

 

「え!?いやだってホラ…アレだし…」

 

「…ああ。そういうのは要らないわ。血を一滴だけ貰えるかしら」

 

「…それだけでいいの?」

 

 経路を作成するのに、最も手っ取り早くて確実な方法がある。その…所謂『にゃんにゃん』することだ。だけれど八海山式ではそんなものは必要ない。というか、この場でそれを提案などしない。私にそっちの気はないぞ。

 

 遠坂さんは引き出しから短剣を取り出し、それで指先を浅く切った。鋭利な切り口なので血が出るまでにやや時間があったが、すぐに指先には血が溜まった。

 

「手の甲に一滴。…うん、これでいいわ」

 

 切った指先を手の甲に差し出し、一滴落とす。令呪の無い左手にも赤いものが置かれる。これで準備は完了だ。

 

「―――我ハ其ヲ知ル者ゾ」

 

 右手で左手の甲を包みながら唱える。ゆっくりと魔力を循環させ、血を拠り代にして凛さんと経路を接続する。

 

「繋ゲ、“経路形成”」

 

 右手離して血を大気に触れさせると、花火のように弾けて血痕は消滅した。代わりに凛さんと私には魔力のやり取りを可能にする経路が形成されている。

 

「…えらく簡単ね。それは良いとして…聞いていい?貴方、詠唱はドイツ語じゃなかった?」

 

「うん?ああ、私も良く分からないんだけれど、最近になって会得したようなものはドイツ語で詠唱するみたい。昔から八海山で扱われているようなものについては日本語よ」

 

「ふーん…まあ確かに単一の言語である必要はないでしょうけれど…そんな回りくどいことを?」

 

「八海山は元々魔術師と呼ばれるような存在ではなかったらしいわ。それが何代か前の当主が、魔術の体系を取り入れようとしてこうなった…という話よ。私も無意味に面倒だとは思うけれどね。それはそうと、ちゃんと経路は形成されているわね?」

 

「ええ、つつがなく機能しているわ。言っておくけれど、あまり無遠慮に魔力を持っていったりしないでよね」

 

「しないって。何なら今作った経路を破棄する?」

 

「いいわ。別に在って不自由なものでもなし、仲間同士なら経路の一つくらいなくちゃ不便だしね」

 

「私も遠坂さんの魔術について聞いていい?」

 

 士郎さんの魔術についてはある程度聞いた。だけど思い返してみれば遠坂さんの魔術についてはあまり知識がなかった。やはりある程度は知っていないと有事のときに困る可能性もある。敵を知り己を知れば百戦危うからず、は孫子の言葉だ。いいこと言うじゃない。

 

「遠坂の血筋は宝石魔術を得意としているわ。宝石に魔力を溜めて保存し、必要に応じてそれを開放する。戦闘にも儀式にも仕える便利なものよ。…財布には優しくないけれどね」

 

 確かにキャスター戦やライダーのマスターに対して宝石を使っていた。なるほど、アレが遠坂の魔術ということか。やたらに金のかかる魔術だな。私の少ない収入じゃ扱えない魔術だ。

 

「宝石を見せてあげましょうか。えーと…確かこの辺りに…あった」

 

 そう言って引き出しから宝石箱を取り出した。赤絹で装飾されたそれには、ただの箱ながら威厳を感じる。いや、ただの箱ということは無いだろう。凛さん以外が不用意に触れば只では済まないに違いない。

 

 留め金を外して蓋を開ける。するとその中には―――何も無かった。

 

「…遠坂さん、私には空に見えるんですが?」

 

「……キャスター戦で全部使い切ったんだった…」

 

 おーい。今もしも敵襲があったらどうするつもりだったんだ。結構恐ろしいうっかりをやらかしてくれね、遠坂さん。本当に前回の聖杯戦争を切り抜けたのか不思議に思える。

 

「…仕方ない。屋敷に少しストックがあるから取りに戻るわ。今日の講義はここまで。…といっても、私が教えられることはあまり無さそうね。ま、何か分からないことがあったら何でも聞いてね。答えられるものは答えるから」

 

「はいはい。帰りに宝石店でも行ってらっしゃい」

 

 こうやって午前は、遠坂さん以外は特に問題もなく過ぎていくのだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 時間は緩やかに過ぎていき、空は朱色に染まった。ライダーとサーシャスフィール、それに姉妹兵の姿は教会へ続く坂の中途にあった。そこには入り口のバリケードとはまた別のバリケードを構築してある。

運搬作業も先ほど終わったため、バリケードは土嚢で補強されて閉じられてあった。時間の都合と地形の攻略の困難さから森まではバリケードが伸びていないが、それでも気休めの効果はあるだろう。少なくとも森の中では組織だった動きはとれまい。

 

 そのバリケードの外側、つまり教会側ではないほうへ彼らは陣取っていた。城門から出て敵を遊撃する役目を任されている。

 

「何者か」

 

 おもむろにライダーが森に向かって声をかける。まだ日は落ちていないが、キャスターの可能性も捨てきれない。サーシャスフィールと姉妹兵は武器を一斉に武器を構えた。

 

「……」

 

 しかし森から姿を現したのは鎧姿の男だった。一点の汚れもない白衣に鎧を纏い、手には黒塗りの槍を構えている。警戒を隠そうともしていなかった。

 

 ランサーとライダーの間には一触即発の火花が散った。キャスターの前に、ここで互いに雌雄を決しようとするかも知れない。

 

「貴様はランサーだな?我らは監督役の任を負ってここに居る。キャスター討伐の任を果たすまでは貴様の相手は出来ん。黙って引き返されよ」

 

 だがライダーは平静だった。しかしそれはランサーにも言えることだったらしく、その言葉を受けて警戒を緩める。

 

「…キャスター討伐?何ゆえか問いたい」

 

「監督役代行の依頼。そして何より…あれは私も許しがたいでな」

 

“あれ”が何であるかは言わなかったが、ランサーには伝わったようだった。やや気を許したのか槍に込められていた力を少し崩す。

 

「私もキャスターを討つために動いている。貴方はライダーだな?このランサーも助太刀したい。以前にここで奴と戦い、そして逃がしてしまった。私にも責任の一端がある」

 

「ありがたい。では一つ頼まれてくれんか」

 

 ライダーはサーシャスフィールの意思を聞こうともせずに話を進める。しかしサーシャスフィールはライダーに戦闘に限り方針を委ねている。それに異論があれば口を挟むので、ライダーの言葉に異論はないということだ。

 

「代行の話では、今日あたりに此処か街中に彼奴が現れると思われるそうだ。ここは私が守るゆえ、貴様は町を回ってくれ。キャスターは現れずともその下僕は現れる可能性が高いということだ。こちらを任せたい」

 

「任されよう。見ればそちらは数が多い。あれらを止めるのは私より易いだろう。…墓地までキャスターを辿り着かせてくれるな、ライダー。彼らの悲鳴は心に痛い」

 

「しかと」

 

 その言葉を聞いてランサーは霊体となってその場を去った。互いにどこまで信用できるのか計りかねるが、一定の信用は出来るものと考えていた。

 

 ライダーには教会のバックアップがあるのを見て取れた。バリケードの外側に彼らは居て、何か別の目的があってそこに居るのならばそれはバリケードの内側に陣取るだろうからだ。

 

 ランサーはライダーの言葉を聞いて下がった。何か別の目的があったならば、あそこまで潔く引き下がるはずが無い。それにランサーの任は、仮にランサーがそれを放棄してもライダーにとって致命傷にはならない。

 

 短い問答ではあったが、十分な探りあいだった。その結果として今だけは信用する、という意志で両者は纏まった。

 

「…そろそろ夜が来るな」

 

 日はもうじき落ちる。そうすれば、その瞬間から魔術師と人ならざるモノたちの時間である。

 

 ―――空は、まるで天が燃え落ちているかのような色であった。

 



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Act.16 遊撃、篭城

 時刻は12時前。日は完全に落ちて、教会付近の界隈は静まり返る。もとより山間にある教会である。日が落ちれば暗闇に包まれ、街頭すらまばらなことも手伝い深い闇に覆われてしまう。若者ならばまだまだ活動している時間だろうが、この付近には彼らを惹きつけるものもないこともあって人気は完全に途絶えていた。

 

 キャスターは間桐臓硯の命令に従い、慌てて生産したメフィティスを引き連れている。数は50にも満たず、数日前の大軍勢に比べれば遥かに見劣りする。現在のメフィティスの全てをここで投入してもこの数だ。しかし50も揃えたことを評価すべきだろう。

 

夕方前に、伸るか反るかの賭けに出て手持ちのメフィティスを放った。今晩に向けて戦力を増強するためである。結果として半数以上が何者か――おそらくはランサー――に撃破されたものの、残りの半数はキャスターのもとに無事に帰還出来た。それが今の手持ちの戦力である。

 

 しかし払った犠牲もある。その強行ゆえにランサーの妨害を押し切れたのだが、かわりに隠匿は全くと言って良いほど施していない。もとよりそんなことを気にかけては居ないのだが今回は特に酷い。何せ日が落ちきるまえからの行動だ。一応騒ぎにならない程度に配慮はしたが、それでも一部で大騒ぎになったことには違いない。

 

「…何故マスターは教会へ強襲を指示したのか…」

 

 キャスターは疑問に思う。具申したように此処にはランサーか、そうでなくとも何らかのサーヴァントが陣取っている可能性は高い。そこに赴け、とは自殺行為にも等しいのではないか。

 

“―――いや、マスターには何か考えがあった様子。…ここは信じるしかないでしょうか”

 

 敵を欺くにはまず味方から、という考えもある。下手にキャスターに教えておかしな行動を取られても困るということだろうか。

 

「止まれ!ここは不可侵地域だぞ、何用で参ったのか!」

 

 教会への坂までもう一歩、というところで呼び止められる。カソックを身に纏い、やたらに短い柄の剣を持つ男が数名。彼らのことは知っている。キャスターの錬金術も宗教観の波に晒され、彼らの一派と接触する機会はあった。おそらくは代行者と呼ばれるものだろう。

 

 警戒心と敵愾心を隠そうともしない。その様子にキャスターはやや侮蔑の視線を送った。彼にとって口喧しく叫ぶ輩は等しく低能の烙印を押すに値する。

 

「退きなさい。私はこの先に用があるのです」

 

「…そのおぞましい死体の群れ、貴様はキャスターで相違ないな?貴様は発見次第討ち取れとの指令だ。悪いがここを通すことは出来んな」

 

 数は5名。これなら一瞬だ。

 

「…やれ」

 

 その号令の瞬間に彼の後ろで屯していたメフィティスが一斉に襲い掛かる。だが相手も異端を相手にしてきた代行者。死徒の出来損ないのような彼らに遅れを取ることは無い。

 

 彼らが持つ剣は黒鍵という。投擲用の細身の剣を数本指の間に挟み、鳥の翼のような独特の構えでそれらを迎え撃つ。5名は隊伍を組んでバリケードを防衛する。それを迂回しようとするメフィティスには黒鍵を投げつけて迎撃する。

 

 ――――だがしかし。

 

 その回復力はやはり破格だった。通常の死徒ならば頭部を破壊すれば少なくとも暫くは無力化する。しかしこれらはその程度では数秒の足止めにしかならず、あっという間にバリケードを突破されてしまう。

 

 そしてバリケードは内側から倒壊させられ、それを背中にしていた彼ら5人は10倍もの数のメフィティスに取り囲まれてしまった。代行者ではあるが末端である彼らにとって、これはもはや詰みだ。50のメフィティスで一斉に襲い掛かられれば、どんな高速で唱えたところでキリエ・エレイソンを発動させる暇はないだろう。いや、キャスター自身がこの場に居る以上はそれも時間稼ぎに終わるだろう。そして逃げ場もない。

 

 事実50の軍勢は一斉に踊りかかってきて、やはり詠唱を許す暇は一瞬としてない。キャスターはキリエ・エレイソンを警戒したのか聖句を呟くそぶりを見せれば集中してその口を塞ぎに来る。もはや対処は不可能だった。5人のうち、1人が倒れた。彼が倒れた穴を塞ぎきれず、次に2人が倒れた。

 

 撃破が不可能と判断すれば即座に逃げろ、という指示を代行から受けてはいた。しかしこの凶悪な異端を前にして、無謀ともいえる蛮勇を奮ってしまった。バリケードを突破された瞬間に一目散に遁走し、後方に待ち構えるライダーのところまでもどればあるいは生き延びる方法はあったかも知れない。

 

 だが彼らでなくてもそうはしなかっただろう。彼らには魔術師とは並々ならぬ遺恨がある。本来なら討つべき仇敵を頼るというのは、この上ない屈辱なのだ。

 

 こうなってしまえば、彼らに出来ることは一つしかない。

 

 残った二人は懐から手のひら大きさの物体を取り出す。発煙筒だ。もしも彼らが別の宗教を信奉するものだったならここで手榴弾でも取り出して自爆するのかも知れないが、あいにくと彼らの宗教では自殺は大罪だ。自ら命を絶つことすら出来ないのであれば、後方で備える本命に敵襲を伝えることだけだろう。

 

主よ来たりませ(マラナ・タ)!」

斯くの如くあれ(Amen)!」

 

 同時にそれを遠くに高くに投げる。瞬間に特殊な粉塵を混ぜた煙が立ち上る。それは霊視の目を持つものにしか見えない煙。あらかじめ用意されていた、黄色(敵襲)赤色(防衛不可能)の二色だ。一度発煙してしまえば中の薬剤が尽きるまで煙を止めることは困難。これで彼らがどうなっても、後方には伝わるだろう。

 

 ―――そう、もしも彼らが死者の軍勢に加えられたとしても。

 

 

  ◆◇◆◇◆

 

 

 その煙は確かに後方の者達の目に届いていた。坂の下の様子を伺うことは出来ないが、発煙筒を焚いたということは代行の読み通りにキャスターが襲ってきたということだろう。

 

「…黄と赤か」

 

「第一防衛線が突破されたようです。…ライダー、彼らを助けに行かなくても?」

 

 ライダーはその言葉を無言で首を横に振ることで否定した。

 

「…赤を焚いたということは、…彼らはもう生きてはいまい。忘れたか、沙沙。赤は『防衛不可』だ。そして彼らが異端を前にして遁走するか、と言われれば否だろう」

 

 最前線に送り込まれたのは聖杯戦争の裏方として滞在している代行者だ。その中でも末端ではあるが若くて確かな実力と気骨、そして強い信仰心を持った者達を選定している。若さゆえ、そして信仰心ゆえに彼らは引き際を知らないだろう。ゆえに、赤を焚いたということは全員殉職という事態が最も現実味を帯びる。

 

「構えろ、沙沙。すぐにキャスターが来るぞ。…我らは一騎足りとも欠けるつもりはないぞ、心して望め皆の衆」

 

 その言葉に姉妹兵たちは無言の雄叫びで答える。全員がサーシャスフィールよりも簡素なハルバードを構え、来る怨敵に向けて気を研ぎ澄ます。たった20余りの騎兵隊であるが、宝具馬に跨り半年間サーヴァントに剣を鍛えられた。彼女ら全てが優秀という範疇では収まらないほどの実力を持っている。

 

 陣は道一杯に広がる形での横列だ。ライダーは彼女らの陣には加わらず、一歩前に出て単騎の形を取っている。ライダーが相手を蹴散らし、崩れた相手を隊列が蹂躙する戦法だ。この戦法の要は先陣を切るライダーにある。しかしライダーもまた一騎当千を体現した存在であり、彼を信頼するには十分だろう。

 

 森の中にはサーシャスフィールに続く優秀な騎馬を複数配置している。遊撃の任務を負った彼女らは、隊列の剣を逃れた敵を各個撃破する役目がある。単騎と単騎の戦いならば彼女らがそうそう遅れをとることはあるまい。

 

「…来たか」

 

 おもむろにライダーが呟く。サーシャスフィールにはまだ分からないが、ライダーにはそれを察知できているようだった。

 

 暗闇の向こうに輪郭が現れ始める。腐臭を撒き散らし、キャスターはライダーたちの前に姿を現す。

 

「キャスターだな。生憎とここは通せん。」

 

「…サーヴァントの手まで借りたのですかな、教会は。私は今ここで貴方と戦う意思はありません。教会に忘れ物をとりに行くだけゆえ、どうか道を空けていただきたい」

 

 キャスターはどうにかしてサーヴァントと戦闘を避けようとする。ここで現れたのがランサーであったのならば交渉の余地は無いのだろう。しかし互いに初見であるはずのライダーならば上手く口で丸め込めば戦闘を回避する余地はある。

 

 だがしかし、キャスターの予想に反してみるみるライダーの顔には怒気がせり上がってくる。怒り心頭に発する、を体現した様子だ。

 

「……人を物と称するのか、外道…。…宜しい、ならば分かった」

 

「…何がですかな?」

 

「やはり貴様はここで死ぬべきだということが分かったと言った。今生の暇乞いは手早く済ませろよ」

 

「………」

 

 やはり、戦闘は避けられぬか。ならば構わぬ。些か手持ちの兵力は足りないが、足止めで構わないのなら十分だろう。手はずは分からないが、きっとマスターが何らかの方法で死体を運び出すはずだ。

 

「……やれ!」

 

 一斉にメフィティスを襲いかからせる。ライダーの軍勢にそれらが殺到するが、ライダーはまだ微動だにしない。

 

「軍勢を従えるとはこういうことだ、キャスター!亡者ども、その道を開けよ。この(ライダー)が首級を上げにいくぞ!さもなくば、首を刎ねる!」

 

 だが彼らに殺到するメフィティスには一分の動揺もない。もとよりこの者達にライダーの言葉を理解する能力は無い。

 

“―――チ。こやつも俺の宝具が効かんのか”

 

 本来ならライダーと敵対した瞬間に彼の宝具は発動する。ライダーに睨まれた凛のように、亡者の軍勢は動きを止めると思っていたのだが、どうやらそうはならないらしい。ライダーに知る由はないが、キャスターの『留まれ、お前は美しい(グレートヒェン)』はライダーの宝具にも及んでいる。

 真名開放せずとも常に発動するタイプの宝具に対してはキャスターも真名解放する必要もなく無効化できるのだ。

 

 いや、それでこそ腕が鳴るもの。それでこそ首級を上げる価値があるというものよ。

 

「瀑布の如く攻めよ!所詮やつらは亡者よ、我らの敵では無いわ!」

 

 ライダーは弾かれたように黒兎を疾走させた。それに姉妹兵も続く。宝具馬は矢の如き速さで、それでなお些かも隊列を乱さず疾走する。メフィティスの足は速いが、宝具馬はそれを上回る俊足だ。

 

「そこで待っておれよ、外道!こんな薄い守りで俺の進軍を止められると思うてか!」

 

 ライダーはただひとり亡者の中へ飛び込んだ。その青龍刀を振るえば一瞬でメフィティスはずたずたに引き裂かれる。亡者の海を手にもった青龍等を自在に操り、黒兎はライダーと以心伝心でもしているかのようにライダーの意思通りに動く。人馬一体とはこのことだろう。これほどの猛勇を奮えば、黒兎が通った後はただ血の染みと肉片が残るのみだ。

 

 だがメフィティスは瘴気を発しながら起き上がる。そこに、遅れて到達した姉妹兵が襲い掛かった。20足らずの騎兵ではあるが、50の亡者を相手にするには十分な戦力。面で制圧することが可能なライダーにとって、キャスターの宝具は脅威にはなり得ない―――!

 

「進軍しなくとも構いません、亡者を押し留めることに専念なさい!」

 

 サーシャスフィールはハルバードを巧みに操りながら姉妹たちに指示を飛ばす。皆がハルバードだけを握る中で、サーシャスフィールだけは別のものを手に握りこんでいた。

 

 それは一見すれば針金。だがその強靭さは只の針金ではない。しかし一定の柔軟性を維持しており、手の中で容易に操ることが可能だ。銀を混ぜ魔術的に強化されたそれは、サーシャスフィールのもう一つの得物。

 

shape(形骸よ) ist(生命を) Leben(宿せ)!」

 

 二小節の詠唱で魔術を急速に紡ぐ。針金はその身を互いに絡ませ、捻り、瞬く間に太いワイヤーを形成する。それがサーシャスフィールの手から離れて蛇のように動いた。

意志をもった鉄の蛇は倒れ臥していた一体のメフィティスに標的を定め、四肢が引きちぎれそうなほどの力を以って拘束する。

 

 捕らえられたものは喉を潰したかのような叫びを上げて戒めを解こうとするが、固く括られたそれから脱することは不可能だった。

 

 第四次の折にアイリスフィール・フォン・アインツベルンが使ったものと同質の錬金術だ。彼女の戦法は記録として残されており、サーシャスフィールもそれに倣ってこれを習得していた。

特に目的があってこれを習得した訳ではなかったが、芸は人を助けるとはまさにこのことだろう。これ以外ではまともにメフィティスを無力化できなかったに違いない。

 

 メフィティスを無力化する方法はいくつかある。それが魔術に頼らなければいいのだ。言峰綺麗やランサーのように神の奇跡によって魂を浄化させてもいい。もしくは物理的手段によって無力化すればいいのだ。

 

 直接的にメフィティスを対象にしなければ『留まれ、お前は美しい(グレートヒェン)』は発動できない。サーシャスフィールの魔術はその針金を対象にしたものであり、それが結果としてメフィティスに害を与えたとしても無効化できない。

 

「アインツベルンの錬金術を舐めないで頂きたいですね。この程度、先代や二代前のアインツベルンのホムンクルスの受難に比べれば!」

 

 サーシャスフィールは自身に襲い掛かってきた一体の首を刎ね、一瞬動きが止まったところで拘束する。次々と襲い掛かるメフィティスを彼女らは完全に押し留め、着々と相手の数を減らしていく。

 

「な…なんと……!これでは足止めどころでは無い…!」

 

 当然ながら物理的手段によって拘束されればキャスターが『|腐臭を愛する大公(メフィストフェレス)』を使用したところで意味がない。

 

自分と同じ錬金術を扱う女。自分には思い至らなかった錬金術の使い方だ。現代の錬金術はこのような形になっているのか。

 

 そしてライダーの猛進だ。騎馬の機動力も加わり、先日のセイバーとランサーを越える勢いで血路を開いている。これでは自分のところまで到達するのも時間の問題だ。

 

 一度この事態を経験しているためか今度は取り乱さなかったが、それでも圧倒的な戦力差は覆しがたい。偏に騎馬の恩恵だろう。馬上に居るだけで戦闘は圧倒的に有利に進む。上から振り下ろす一撃は徒歩のものにとって脅威だ。しかもこちらの軍勢は徒手空拳であり、騎手には爪が満足に届かない。宝具となった馬は爪を立てることさえ難しい。

 

 これはもはや駄目だ。相性云々の前に、戦略が戦力に潰されている。せめて騎馬をどうにかしなければキャスターには生き延びる道すらない。そして、彼の持つ魔術の知識ではどうしようも無かった。

 

 ―――だがしかし。キャスターには一つだけこの状況を打開できるスキルが備わっている。

 

“―――物質の変質を利用している。卑金属を貴金属に変えるのではなく、金属を金属として連続的に変質させることで操っているのか”

 

 知識探求のスキル。未知のものに対して高い理解力と吸収力を示したものが習得するスキルだ。キャスターのランクはB+。同じ魔術系統ならば、低い確率でそれを習得してしまう。

 

 この飽くなき探究心と吸収力が無ければ、メフィストフェレスが経験させた事象を自身のものに出来なかった。彼は全くの未知のものでも一目でその本質を見抜き、可能であれば自身のものにしてしまう。彼は今まさにアインツベルンの技術を我が物にしようとしていた。

 

 キャスターは膝を折って地面に手を振れ、確かめるように呟いた。

 

shape(形骸よ) Sammeln(集まれ)

「な―――!?」

 

 途端にサーシャスフィールたちの足元に異変が起こる。ずぶずぶと宝具馬の足が地面に沈む。これでは満足に馬を駆れない。底なし沼、ということは無いようだが白兎を初めとした宝具馬の機動力を殺された。

 

 すぐに思い至る。先日の雨だ。

 

 キャスターは明らかにアインツベルンの錬金術を模倣してみせた。自身が使うものと同質だとすれば、正体は明らかだ。

 先日の雨で地面はやや濡れている。ぬかるむことは無かったが、湿気を含んでいたことは確かだ。その水分をこの一帯に集めて攪拌すればこうなるだろう。もはや沼にも等しい足場は馬にとって好ましくない。その俊足は完全に殺された。

 

 しかも不思議とその泥に引っ張られるように足が沈む。ただの泥ではないことは明らかだった。キャスターの意思を汲み取り、対象を引きずり込もうと泥が蠕動している。サーシャスフィールの蛇と同じ原理で動いているのは明確である。

 

「く…!」

 

 その機動力を殺されたことで姉妹兵たちの足は止まる。急に足場が泥になったために馬が足を取られ、上手くそこを脱することが出来ていない。いや、信じがたい力をもって引きずり込もうとする泥からは片足を上げるだけでも全身全霊を必要とする。それに抗えている宝具馬を特筆すべきなのだ。

 

 サーシャスフィールは苦虫を100匹ほど一度に噛み潰したような顔をする。まさか長い歴史をもつアインツベルンの魔術が、こともあろうか一見で模倣されてしまうなど。

 この事実は少なからずサーシャスフィールの矜持に泥を塗った。

 

 だがサーシャスフィールも強かだった。この事態に甘んじるほど彼女は矮小ではない。

 

「この程度で私達の足を殺したつもりですか!shape(形骸よ)Welken(散れ)!」

 

 即座にサーシャスフィールが返す。地面から凄まじい勢いで水煙が上がり、一瞬で一帯は霧に包まれた。一寸先は白い闇である。

 もうもうと立ち上る霧のせいで相手の位置が確認できない。この霧に乗じて泥から脱し、体制を整えるつもりか。

 

 いや、この泥の水分を全て発散させて泥を固い土に戻すつもりか。直ぐに泥に戻せば済むが、これでは千日手だ。

 

「小賢しい―――!かくなる上は、この霧の水素を使って木っ端微塵にしてくれようか!shape(形骸よ)eleme(素なる)―――」

 

「阿呆が!貴様の相手は俺であろう!」

 

 そこに泥を物ともせずに進軍していたライダーが現れる。飛ぶように馬を跳躍させてメフィティスの囲いを飛び越え、キャスターの頭上より現れた。

 

 ―――そうか。この霧は単に泥を消すだけでなく、私の視界を奪うためであったか。跳ぶライダーを迎撃させないために。そしてこの様子を観察しているのであろう間桐臓硯(マスター)に令呪を使わせないために…!

 

 直後、サーシャスフィールはこの世のものとは思えない恐ろしい悲鳴を聞いた。

 

 ライダーの白刃は深くキャスターの胸を切り裂いていた。血が心臓の鼓動に合わせて吹き出す。紙一重で心臓は断たれていないようだが、もはや誰の目から見ても明らかな致命傷だ。令呪の力があったとしても絶対に助からない。内臓は飛び出し、骨は露出している。ランサーの『神の血を受けし聖槍(ロンギヌス)』の恩恵でもない限りは絶対に助からない傷だ。

 

 苦痛にのたうち回るキャスターの首を刎ねようと、ライダーは馬首を翻してその首目掛けて剣を振るう。それは情けではなく、一瞬たりとも生かしてはおけないという意志からだった。

 

「最後に貴様を討つ者の名を教えてやろう!冥土へ持ってゆけ、我が名は―――!」

 

 だがしかし。キャスターはその声を聞くことは叶わなかった。

 

 

 

 

 

 

 ここはどこだ。

 

 どこまでも白い空間。重力すらもなく、水に浮かんでいるかのような脱力感。ただここに私は浮かんでいるだけだ。淡い光の指すこの場所は、何故かとても心地がいい。ずっとここに居たいと思ってしまうほどだ。

 

 ああ、ここに居ると思い出す。彼女の腕の中で眠った日を。

 

 思えば波乱に満ちた生涯だった。安息の日々などどこかに置き去ってしまった。その末に磨耗し、何かを見失っていたかも知れない。

 

 ああ、何故今まで気がつかなかったのだろう。私は彼女に会いたい。だが彼女はどうなのか。

 

 静かなる眠りから起こされることを願っているのか。本当に私と再会することを望んでいるのか。

 

 望んでいたとしても。本当にこの方法は正しかったのだろうか。幾つもの屍に支えられたリザレクション。多くの人間の死の果てにあるこれを、本当に彼女は望むのか。

 

 彼女は優しい。きっとこのことを知れば悲しむだろう。私は彼女を悲しませたくはない。

 

「グレートヒェン…」

 

 彼女の名を口にする。自分の声は、自分でも驚くほどに邪気の無い声だった。

 

 ―――ファウスト。

 

 呼ばれた気がする。そんなことは無いだろう。ここには私一人しかいない。寂寥の思いは幻聴まで引き起こすのか。恋の病とは末恐ろしいものだ。

 

 ――――ファウスト。

 

 また聞こえた。二度続けば幻聴ではないかも知れない。上も下もないこの世界で、私を呼ぶものが居るのか。周囲を何度も繰り返し観察し、彼方にそれを見つけた。

 

 グレート…ヒェン……。

 

 はは、何だいその羽は。まるで君が天使になったみたいではないか。いやいや、それよりも。君は何も変わっていない。私はこんなにも荒んでしまったというのに、君は私を迎えに来てくれたのか。

 

 ああ。今なら声を大にして叫ぼう。心の底から、この喉が潰れようとも。この美しさを忘れぬように。この思いが留まるように。

 

 ―――留まれ、お前は美しい。

 

 

 

 

 

 

「…女の名前、か……。貴様が外道に落ちたのも、夢心地で逝ったのも、何か訳があるのだろうなあ」

 

 ライダーがキャスターの首を刎ねる瞬間。確かにキャスターは呟いた。グレートヒェンと。ゲオルグ・ファウストはドイツの英霊だ。アインツベルンはドイツに居を構える家であり、その伝承も少なからず残っているのだろう。サーシャスフィールが言葉を発した。

 

「グレートヒェン。ファウスト伝説に登場するファウスト博士の想い人です。メフィストフェレスに囚われる運命だった彼の魂を救ったのは、天使となった彼女だったそうです」

 

「いや、多分それは違うな」

 

 その言葉にサーシャスフィールは首をかしげた。

 

「おそらく、こやつは今救われたのだよ。そうでなければ、こんな顔をして逝けるものか」

 

 彼女とライダーの足元には首を刎ねられたキャスター。その身体の輪郭は薄れ、輝く飛沫となって消え去ろうとしている。

 その顔は、今までの妄執に囚われていた相貌からは考えられないほどに邪気が落ちていた。満たされた顔と言ってもいい。何かをやり遂げて逝く人は、皆このような顔をするのだろうか。

 

「…そうですね」

 

 そしてキャスターは完全に消滅した。メフィティスだったものは既にキャスターの束縛から逃れ、既にただの死体となっている。キャスターが消滅した今、彼らを脅かすものは何もない。

 

「さて、我らの仕事はこれで終わりだ。後は他のものに任せよう。出すぎた真似をすれば却って邪魔になる」

 

「そうですね。今晩は帰還しましょう」

 

 依頼された内容はキャスターの討伐のみ。これ以上ここに居ても出来ることは無い。

 

 空は雲ひとつない満天の星空である。町の光と月光が些か眩しいが、それでも見事なものだった。月の銀の光を浴びて、肩で切り揃えられたサーシャスフィールの銀髪が輝く。

 

 その様はまさに、夏の夜に咲く純白大輪の月下美人のようであった。

 

「心得た。……ところで沙沙」

 

「何でしょう?」

 

「その化粧、良く似合っておる。大層美しい」

 

 サーシャスフィールは顔が紅潮するのを覚えた。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 月は曇りひとつない。しかし、森を掻き分けて進むこの蟲にはそれは届いてはいない。キチキチ、ギチギチとその蟲の群れは進む。方角は南へ、つまり冬木教会の在る場所へ。深い森の木々は月光から蟲の姿を完全に隠していた。

 

 この蟲は間桐臓硯が操るものである。蜂のようなもの、蚯蚓のようなもの、蛾のようなもの。醜悪さを際立てる蟲の群が突き進む。

 

 蟲の数は両手の指ではまだ足りない。蟲の数を視認するのに二つの眼ではまだ足りない。それは圧倒的な数の蟲だ。一体どこにここまでの数の蟲を蓄えていたのか、その数は密集すれば日の光すら遮断できるだろう。

 

 いや、蟲を蓄えた方法は明らかだった。メフィティスである。

 メフィティスの中にはキャスターの魔術を孕んだ蟲を潜ませてあるものもあった。それと同時に、臓硯を構成するものや使い魔のように使役するための蟲の苗床としてもそれを利用してあったのだ。

 

 町の人全てを生贄にしかねない手法によって、間桐臓硯の軍勢は急速に力を蓄えた。何せキリエ・エレイソンでも蟲は死滅することはない。教会に放置されてあった死体の中にも蟲は多数潜んでおり、機を見てここに集合させたのだ。

 

 そしてその一軍は、教会の明かりを見つけた。教会の周囲に沿って開かれた森。その境界から出ないように、わんわんと羽音を響かせながらぐるりと囲む。すぐに境界は森に潜む蟲によって包囲された。

 

 それを頃合に、蟲の一部が密集し始め一つの輪郭を作り出す。出来上がったソレは間桐臓硯であった。教会を値踏みするように眺める。その口には醜悪とも凶悪とも形容できる笑みが浮かんであった。

 

 間桐臓硯の目的は、聖杯の簒奪である。

 

 聖杯はサーヴァントが無ければ使えない、というのは間桐臓硯に言わせればとんだ子供騙しだった。そもそも聖杯は七体のサーヴァントの魂を用いて根源への穴を穿つための装置。その使用にサーヴァントが必要だと言われれば堂々巡りだ。いつになっても使用できない。サーヴァントが必要だと説くのは、サーヴァントを自身が贄だと気付かせない為の詭弁に過ぎない。サーヴァントなど無くとも聖杯は使用できる筈だ。

 

 それは第四次の言峰綺麗が示しているだろう。彼はサーヴァントに頼らずにその恩恵を得ていた。結果的に臓硯の持論の根拠ともなりえる。

 

 つまりは聖杯を手に入れてさえしまえばサーヴァントなど不必要なのだ。そして聖杯を手中に収めるという行動は、自らのサーヴァントを捨て駒にしても余りある意味がある。

 

 聖杯を手中に収めておけば、いずれ完成するだろう聖杯を独占することが可能だ。サーヴァントは聖杯の奪還に躍起になるだろうが、全てが足並みを揃えることなど出来るわけが無い。それぞれが争って数を減らしいき、可能ならば蟲を用いてマスターを殺せばいいのだ。

 

 間桐臓硯は桜の心臓に核となる蟲を植え込んでいる。仮にその末に失敗したとしても決して破滅はない。現時点での聖杯簒奪は十二分に意味があることだった。

 

 これがもしも前回や前々回のように生物としての聖杯であったならば難儀だったろう。心臓を抉り出しても聖杯が完成する前にそれが腐敗してしまう恐れが大きかった。

 だが此度は無機物である。手荒に扱わねば砕かれることも腐敗することもない、実に第三者でも管理しやすいものであった。

 

 そしてここに聖杯が運び込まれたという報せは臓硯にも届いている。教会に死体が残っているのは好都合だった。そこにいる蟲を使えばすぐに会話から知れた。

 

 しかしあのアハトが教会に依頼するという事態は些か疑問が残る。だがアインツベルンが教会に依頼する、という事態は今までの経緯を考えればそこまで不思議でもない。何せ第三次、第四次、そして第五次と続けざまに聖杯の器を破壊されているのだ。それがどういった経緯にせよ、破壊に至ったのはアインツベルンの手落ちである。これ以上恥辱を浴びせられるぐらいならば、と教会を頼りにするのは道理から外れはしない。合理的に考え、聖杯を壊されないように保護しようとするならばこの行動は正しい。だが、あのアハトが本当に?

 

 間桐臓硯の思考はそこで蝶番の音に中断させられた。

 

「カカカ…。監督役が死んで間もないというのに、夜分遅く騒がせてすまんのう」

 

「………」

 

 教会から一人の男が出てきた。監督役代行、冬原春巳である。その姿を認めて、臓硯は一歩森から出て月光の下にその痩躯を晒した。

 

「……何か用かしら?お爺ちゃんが出歩くにしては遅すぎる時間じゃないかしら」

 

 その目に警戒心と敵愾心を露わにして叩きつける。問答次第では切り捨てることも辞さないという気配が垣間見えた。彼は常に武器を携帯している。必要があれば、その武器で臓硯を抹殺せんとするだろう。

 

「いやいや、大したことではないでの。少々聖杯の器をお借り申し上げたくてのう。……断るなどということは有るまい?」

 

「断るわ」

 

 どすの利いた臓硯の声を受けても冬原は即答だった。そして聖杯簒奪の意思(宣戦布告)を静かに受理し、その拳を強く握る。これが彼の臨戦態勢だった。

 

「うむ?いや儂の耳も遠くなったのう。よく聞き取れなんだ。そちらに使いの蟲をやるのでのう、もう一度言ってくれい」

 

 そう言って臓硯は殺意を以って三匹の蟲を放った。まるで釘のような角を持ち、褐色の甲殻で身を包んでいる。その速度は銃弾もかくやというもので、あの鋭い角をまともに受ければ骨を穿たれ臓腑を食い破られることは確実だ。

 

「―――シッ!」

 

 だが冬原はそれを避けようとせず、鋭く息を吐き出しただけだった。それだけに見えたのだが―――

 

 三匹のうち、心臓と肺を狙っていた二匹が黒板を掻いたような断末魔を上げて撃墜された。残りの一匹は冬原の喉を破ろうとしていたが、軽く身を捩るだけで回避されてしまう。勢いを殺せず背後の扉に深く打ち付けてしまい、自分から磔になる形になった。

 

「ほう。これは中々。昨今では武器に頼る者が多いなか、拳闘とはのう。それも中国拳法や日の本の空手とも違う。ボクシング、というものかのう?」

 

 彼の最大の武器はその鍛え上げた肉体である。黒鍵もカソックの下に忍ばせているが、それはサイドアームとしてのものだ。彼はその鉄拳によって幾多もの血路を切り開いてきたのだ。その速度はもはや常人では肉眼で捉えることが出来ない。牽制程度に放たれた蟲では彼を仕留めることは叶わないだろう。

 

 だが、その速度を少し見誤ったのだろうか。未だに背後でもがいている釘蟲によって頬を浅く裂かれている。そっと傷口に手を当て、その指が血に濡れたことを確かめた。

 

 次の瞬間に彼は怒気を何倍にも膨らませる。筋肉に力を込めすぎたのかカソックのボタンがいくつか弾けた。そして振り向きざまにハンマーのような鉄拳を背後の蟲に浴びせ、断末魔さえ許さずに叩き潰した。木製の扉は蜘蛛の巣のような罅とクレーターを残している。

 

 ゆっくりと臓硯に向き直りながらヒステリックに叫んだ。

 

「……貴様…よくも、よくも私の顔を!許さないわよ!」

 

「カカカ…案ぜずとも、直ぐに骸にしてやるわい。醜悪な骸を晒すのが嫌なら、余すことなく蟲の餌にしてやってもよいぞ」

 

 ぼきり、ぼきりと冬原が指を鳴らす。この時点になると我を忘れつつあるのか、普段の口調が崩壊を始めた。

 

「黙らっしゃい、この腐れド外道がぁ!タマ取ったるわボケェ!」

 

 若干激高するポイントが場にそぐわないようではあるが、かくして妖怪と聖職者の闘争は勃発した。

 

 森に潜んでいた蟲は一斉に羽音をけたたましく鳴らす。ぎちぎちと鳴らす歯は蟲には不釣合いなほどに鋭い。蚊のように口が針になっているものや、さきほどの蟲のように角のような凶器を持つものもいる。あれらの一撃を食らえば、鍛え上げた体など気休め程度の防御しか発揮しまい。

 

 だがそれは蟲にとっても同様だ。あの鉄拳の前では脆弱な蟲など一撃で絶命させられる。まるで鉄甲弾のような拳だ。重くて、圧倒的に早い。直線的な動きは武芸の達人ならば見切ることも可能かも知れないが―――脳の小さい蟲にそこまで望むべくもない。ただ本能で襲い掛かるだけだ。

 

 睨み合いは一瞬だけだった。冬原が臓硯に向かって鮮やかなフットワークで疾走する。ファイティングポーズを崩してカソックから黒鍵を抜き出し、最高速を以ってそれを放つ。放った手とは逆の指に黒鍵を握りこみ、間髪入れず再投擲。計六本の黒鍵は誤らず臓硯を刺し穿ったが―――

 

「カカ…その程度の腕で儂を殺そうてか。些か興醒めじゃのう」

 

 針鼠にしたはずだがその輪郭が崩れる。なるほど、これは妖怪だ。単純な物理的手段ではまともに臓硯を殺すことは叶わないだろう。そして、分の悪いことに冬原自身には物理的な攻撃手段しか持たないのだ。

 

 彼の主な武器はその拳と黒鍵のみである。代行者に許される神秘などキリエ・エレイソン以外になく、そして魔術など望むべくもない。

 

 だが、それは冬原自身の能力のみに限定した話である。武装というものは必要に応じて臨機応変に変えるものだ。

 

「地獄の猛火、先に味わってみなさいよ!」

 

 懐から幾つかの缶を投げつける。一見するとやや大きいスプレー缶だ。

 

 人道主義が基本の教会ではあるが、こういった異端殲滅に託けた荒事のためにある程度の武器調達には融通が利く。そのコネを今回は最大限活かしていた。普通の代行者ならば敬遠する方法だが、冬原は使えるものは全部使う主義である。特に今回は出し惜しまない。

 

 投げつけたのは焼夷手榴弾(サーメート)である。アメリカ軍御用達のAN-M14焼夷手榴弾は一見するとスプレー缶のようであるが、その凶悪性はそんなものの比ではない。それが破裂すると辺りに焼夷材(テルミット)と硝酸バリウム、少量の硫黄などの混合物を撒き散らす。それらは化学反応により一瞬で華氏四千度を越える高熱に達し炎を上げる。じつに鉄もゆうに溶かすことが可能な温度だ。

 

 殺傷範囲が狭いのが難点ではあるが、そこは正確無比な投擲でカバーした。投擲した全てが臓硯の居た場所に転がり、そして爆発的な燃焼を起こした。鉄とアルミニウムの燃焼する閃光は闇を切り裂いて余りある。燃焼時間は2秒余り。これだけの時間これだけの高温に晒されればひとたまりも無い筈だ。

 

 だが気配が消えない。炎から逃れたのか、それとも魔術的要因の無い炎では殺せないのか。気配だけは依然と残っているのだが、騒音じみた羽音の所為で正確に場所を掴めない。

 

「『カカカ…無茶苦茶やりよるわい。それは人に使うものじゃ無かろう』」

 

「おあいにく様…!人ならざる者と異端には容赦しないのが教義でね…!アンタが人だとしたら、ちょーっと私達の仕事がお暇になっちゃうのよ!」

 

 声がしたと思われる場所へ黒鍵を投げつける。だが手ごたえは無い。ただ木々に黒鍵が打ち付けられた音が返ってきただけである。

 

「―――チッ」

 

 舌打ちをする。相性が悪い。並大抵の魔術師や吸血鬼ならば一瞬で縊り殺す実力と自負ならばある。だが、霞のような相手と戦うには些か厳しい。霞を剣で切れるわけもなく、捉えようによっては不死身に近い相手だ。

 

 これは多分、勝てない。

 

「そろそろ幕引きかのう。まだせねばならんことも在るゆえ、そろそろ貴様には斃れてもらおうかの」

 

 一層羽音が大きくなる。そしてそれらが全方位から冬原に襲い掛かった。どれも弾丸に迫る速度で、圧倒的な物量を頼みに冬原を血祭りに上げるべく殺到する。

 

“―――この体は殺すことができても、魂を殺すことのできない者どもを恐れること無かれ。この体と魂をゲエンナで滅ぼすことの出来る者を畏れよ”

 

 黒鍵をミリ単位の正確さで振るい、拳とフットワークを十分に振るい、蟲を次々と撃墜する。だがそれを物ともせず蟲どもは殺到し、ざくざくと彼の身を削る。致命傷こそぎりぎりで回避しているものの、既にカソックはボロ切れとなり、体は無数の擦過傷と切り傷で血みどろだ。出血も酷く、視界は血で潰れている。

 

「―――ここまで、ね。」

 

「『潔いことだ。神の元へ行くが良い』」

 

 ふらつく足が体を支えきれない。礼拝堂の扉を背に彼は倒れこむ。

 

 空中で蟲が待機している。まるで獲物が生き絶えることをじっと待っているハゲタカのようだった。違いを挙げるならば、これらは自ら獲物を屠ることを選択するだろうこと。これは獲物に恐怖を与えようとする臓硯の悪趣味なのだろう。

 

 それに対抗するように彼は中指を立てて精一杯の揶揄を返す。

 

「貴様なんぞ恐れるに値せず、また畏れるに能わず。あっちに行く前に電話で神様に聞いとけ、腐れ外道。『ママのおっぱいは飲ませてくれますか』ってな!」

 

「『今際の綴じ目がそれかの。神に祈りでも捧げるものと思ったがのう』」

 

「はっ。…まだ早いってことよ。……後は頼んだわよ、少年」

 

 次の刹那、頭上より何かが振ってきた。それは勢いをそのままに地面に突き刺さる。見ればそれは一振りの剣だ。見事な意匠を施されたそれは威厳すら感じさせる。

 

 そしてその刀身からいくつかの火花が散り、それを火種に焼夷手榴弾とは比べ物にならない規模の炎が噴出した。冬原を守るように展開された炎は蟲を容赦なく焼き焦がし、灰燼へと変貌させる。

 

「いい仕事ね、衛宮君。塵は塵に灰は灰に。…全く、ヘンなメンツのお陰で血まみれよ。暫くは化粧もへったくれも無いわ」

 

 教会の屋上から『害為す焔の杖(レーヴァテイン)』を放ったのは、衛宮士郎その人であった。そしてもう一人の影がある。

 

「フユハラ、いい仕事は貴方も同じであったぞ。だが暫し休まれるがいい、後は私たちが引き受けよう」

 

 八海山澪のサーヴァント、セイバーであった。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

「『タマ取ったるわボケエ!』」

「………」

 

 元々札付きのワルだったらしい冬原さんらしい啖呵の切り方だ。だけど(タマ)なのか、それとも(タマ)なのか、どっちのタマだろうという疑問は敢えて口にしなかった。その疑問を口にしたところで栓の無いことのうえ、下品に思われかねない。

 

 その部屋には衛宮邸に身を寄せている全員の姿があった。その全員が一心にその映像に見入る。ここまで空気が張り詰めると余計なことを言うのは憚られるものだ。

 

 八海山澪は教会の中で洗面器に張った水を覗いていた。水晶ではなく水面に映像を映すのが八海山の遠見の魔術である。水面が振動することで声も明瞭に伝えていた。

 

 宝石を取りに屋敷に戻った凛を待ち構えていたのは教会の使いの者だった。聖杯戦争が本格的に始まってからというもの、ずっと衛宮邸で過ごしていたために教会の者が連絡を取れなかったらしい。家に張られていたのは気分が悪いが、教会からの言伝を聞いてはそれを口にするのも憚られた。

 

 つまるところ、キャスター存命の報せだ。

 

 具体的には、監督役の権限を使わないまでもそれを臭わした上でのキャスター討伐の依頼。御三家の誇りを天秤に載せられ、アインツベルンは快諾したとあっては遠坂も黙っているわけにはいかなかった。また賞与として宝石を幾つか与えるとあっては凛個人としても垂涎ものである。

 

 キャスターは存命、近日中に再び教会や死体を簒奪しようとすることは想像に難くない。アインツベルンが遊撃として出て、遠坂勢が篭城して守るという図式だ。間桐が黒幕とは意外というわけでもなく、結果として御三家の一角を残りが粛清する形となった。

 

 だが教会にも守らなければならないメンツがあるようだ。外部の魔術師に頼りきりという状況は現場の士気にも関わるらしい。自分が駄目ならば手を貸して欲しい、というのが具体的な指示だ。

 

 その時点では敵が誰かは分からなかったが、誰が相手でも戦えるように準備は整えた。その一環が澪の遠見である。

 

「…セイバー、そろそろ行こう」

 

「よし、心得た。こちらも十分に気をつけろよ」

 

 長い歴史を持つ聖堂教会だからこそ、捨てきれないメンツというものがある。誇りや矜持と言い換えても良い。長い歴史を持つ我らが、異端を葬ってきたのは我らが、魔術師風情を頼らなければならないという汚辱。

 

 教会が魔術師に頼りきり、という現状は教会にとって許しがたいものだ。実際に直面している現状を鑑みれば当然の成り行きとも言えるのだが、教会の防衛を魔術師に依頼するという案については現地の者からも少なからず反論が上がった。

 

 妥協案、あるいは折衷案としての共同戦線である。いや、この言い方には語弊があろう。基本的には教会で可能ならば全て片付けるという作戦だ。

 

 まず教会のみが全面的に出て対処する。それで対処不可能と判断すれば魔術師の助けも場合によっては受けるというのがこの作戦だ。最初のバリケードに代行者しか詰めていなかったのもこういった事情からだ。

 

 実につまらない意地だとは全員が思っている。だがそれでも守るべきものなのだ。表社会でも珍しくないテリトリーの張り合いは裏の世界でもある。特に互いに排斥し合う間柄である。この措置でも特例だといえた。

 

 だが冬原の本音は魔術師でなければ対処不能だろうということ。サーヴァントは並の吸血鬼を遥かに凌駕する存在だ。それを相手にしなければならない事態を想定するならば、同じ穴の狢に頼む他無い。だというのに教会の面々の多くは自分達だけで対処できる、魔術師に依頼する必要など無いと息巻いている。

 

 だから迅速に彼らに事態を明け渡すために、彼が遁走しなければならなかったのだ。使える手は全て使い、その上で無様に負けて誰にも分かりやすいような敗北を演出する必要があるのだ。そうすればサーヴァントの相手はサーヴァントにしか出来ない、現状の教会の備えでは対処不可能と分かるだろう。

 

 教会のメンツに泥を塗ることになるが、一応の体裁は保っている。そうやってお膳立てを済ませた上で、彼らが動く手筈だった。

 

「士郎さん。セイバーに敵の情報を伝えるわ。キャスター戦と同じように少数対多数よ、注意して」

 

「分かった。もしも進入を許したら、そっちで可能な限り対処してくれ」

 

「士郎、舐めないでよね?バーサーカーも居て、敵を察知できる澪もいる。こっちのが数倍安全よ」

 

「……器を壊さないようにな、リン」

 

 これだけ言って二人は出て行った。指示されたように屋上で身を潜めておくのだろう。冬原が先頭続行不可能に陥った瞬間から我々の出番だ。

 

 水面の映像は冬原が蟲を巧みに避けつつ、着実に相手の数を減らしている場面を写している。だが彼の読みどおり、彼では対処できないだろう。多勢に無勢、数が違いすぎる。現に処理能力を超えた攻撃を捌ききれず、瞬く間に傷が増える。たった数分で傷が無い部分を探すほうが困難なほどの負傷を負うことになった。

 

 ふらふらと扉に背中を預け、そのまま座り込む。だれが見ても明白な敗北だった。

 

 そろそろ二人は屋上に上がった頃合だろう。こちらから現状を伝えなければ。ここに来る前に事前に打ち合わせた波長でセイバーに念話を送る。問題なく繋がった。

 

“セイバー、そろそろバトンが回ってくるわ。敵はほぼ全方位、数は多すぎて把握できないわ。でも一体あたりは大した脅威じゃない。面制圧すれば十分に勝機はあるわ”

 

“それは士郎に任せよう。私はとりあえずフユハラを中に運び込む”

 

“オーケー。遠坂さんが礼拝堂まで迎えに行っているわ。受け渡したら士郎さんの援護をお願い”

 

「凛さん、礼拝堂まで行ってセイバーから冬原さんを受け取って。可能なら応急手当も。私はここから動けないわ」

 

「司令塔は座っているのが仕事よ。精々私達を顎で使いなさい。じゃ、気をつけてね」

 

「お互いにね」

 

 そう言って凛さんも部屋から出て行く。この応接間には私だけだが問題などない。いざとなったらセイバーを呼び戻せばいいだけだ。いや、この部屋には遠坂さんの封印を施してある。出入りには合言葉が無ければ必要だ。そうそう簡単にこの部屋へ侵入を許すことは無い。

 

 誰も居なくなった部屋で一人呟く。

 

「―――鼻が曲がりそうな臭いがする」

 

 腐臭とはまた違う。もっと気分の悪い臭いだ。あの蟲か、それとも枯れ果てたような老人からか分からない。しかし耐え難い臭いだった。

 

 いや、今はそんなことは良い。今は集中して敵を探らないと。一目して直感できた。アレは良くない存在だ。キャスターやその奴隷の死体に引けを取らないおぞましさ、汚らわしさ。

 

 ―――極めて汚も滞無ければ穢きとはあらじ。内外の玉垣清淨と申す。

 

 祝詞の一つ、一切成就祓だ。どのような汚れであっても、どんな悪事を働いても、どんな失敗をしても、どんなに悲しいことがあっても、それを滞らせないで祓い清めていれば穢れにはならない。

 

 だがアレは穢れてしまった。人として大事な部分が穢れてしまった。もはやそれは人ではなく、そこにいるのはただ一つの人外。同情だってある。元はああじゃなかったろうに。しかし今は違う。今は打ち倒すべき敵なのだ。

 

 さあ、夜はまだ始まったばかりだ。



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Act.17 贋作

 セイバーと士郎の二人は教会の屋上から飛び降り、軽やかに着地を決めた。セイバーは既に剣を抜いている。小さな蟲相手に剣は不利だ。よってセイバーは自分から切り込むことはしない。士郎を守ることに専念するつもりだ。

 

「シロウ、私はフユハラを!」

 

 セイバーは冬原を担ぎ上げて中に運び込む。士郎は地面に突き刺さった剣を抜いて構える。『害為す焔の杖(レーヴァテイン)』はその刀身に炎を湛え、夜を赤く切り裂いていた。冬原に群がっていた蟲はその炎で焼かれ、塵すら残しては居なかった。

 

「……間桐臓硯!一体何の用で教会を襲うんだ!」

 

「『それを説明せねばならんかのう?』」

 

 どこからとも無く声が聞こえる。まるで風呂場で反響しているかのようで、その声の主の居所を掴めない。

 どこに居るのだろうかと辺りを見回したとき、ある茂みの一角から這い上がるように一つの輪郭が現れる。明かりの届くところに出てきたそれは、やはり間桐臓硯であった。

 士郎は剣に込める力を強める。

 

「聖杯というものは確実に手中に収めるに限る。聖杯戦争の優勝者にしか使用できないような殊勝な代物ではないのでのう。手中に収めてしまえば、半ば目的を達してしもうたようなものじゃわい」

 

「……間桐臓硯。慎二は死んだ、このことは知っているのか?」

 

「知っておるとも。あの出来損ないめ、もう少し良い働きをするものと踏んでおったが、やはり出来損ないはそれなりの働きしかしないものじゃのう」

 

 士郎は自分の血管が切れる感覚を覚えた。眉間に皺を寄せて、爆発するのを必至に堪える。まだだ。まだ聞くことがある。

 

「……慎二が死んだ。間桐には後継者が居ない。……桜を魔術師に仕立て上げるのか?」

 

「……ふむ?……おお、そうかそうか。知らんのだったのう」

 

 臓硯はくぐもった笑いを漏らす。非常に愉快なことでも見つけたかのように、しかし醜悪さを感じさせる笑みすら浮かべている。喉の奥から出る嘲笑は、士郎を混乱させるには十分だった。

 

「な、何がおかしい!?」

 

「桜、のう……。そろそろ頃合かの。あやつはのう……」

 

 臓硯が次の言葉を捜す。どう表現すれば相手を打ちのめせるか、それを考えている顔はやはり妖怪に相応しいものだった。なおも笑いを零しながらも、士郎の内面を推し量るようにねっとりと視線で嘗め回す。

 その視線は、例えようもなく不快だった。

 拙い。アイツの言葉を聞いてはならない。聞けばきっと、打ちのめされる。でも動けない。臓硯の言葉に囚われ、次の言葉を待つことしか出来ない。

 呼吸が荒い。何だ、桜がどうしたんだ。桜に何かあるっていうのか。

 臓硯はようやく言葉を見つけたのか、口を開こうとしたその刹那―――

 

「シロウ、敵の言葉に耳を貸すな!」

 

 士郎の脇をセイバーが駆け抜けた。一直線に間桐臓硯へと飛び掛り、その肩口から胴へと袈裟に切り裂いた。両断したわけではないが傷は深い。皮一枚で繋がっているといっても過言では無い傷を負わされれば、たとえ魔術師であろうと死は必至だ。

 

「―――む!?」

 

 だが臓硯は倒れない。気味の悪い笑いを湛えたまま、そこに立ち尽くしている。よくよく考えれば血飛沫も無かった。

 負わせた傷を見て、セイバーは戦慄を覚えた。人間の本能に訴えてくる不快感。臓硯の体内には、汚らしい蟲がひしめき合っている。極大の蛆を集めて瓶に詰めているような、そんな不快感だ。いや、実際には瓶などない。これは蟲が集合して構成された、掛け値なしの化け物だ。

 

 セイバーがそれを悟ったときには反射的に剣を返して追撃を加えようとしていた。無数の蟲の集合ならば、ただの一撃で臓硯がどうにかできるわけがない。

 

 だが臓硯はこれ以上無意味に斬られるつもりは無いらしく、刃に襲われる前には蟲の集合を解いていた。まるで解けるかのように輪郭が崩れ、キイキイと鳴く蟲となって散る。いくつかをセイバーは踏み潰したが、大部分は逃れた。

 

「『害為す焔の杖(レーヴァテイン)』!」

 

 そこに士郎が『害為す焔の杖(レーヴァテイン)』を振りかざして疾走する。蟲の群れならば、広範囲に炎による攻撃が可能なこの剣が最も効果的だ。臓硯を構成していた蟲が逃げ込んだ茂みに向かって剣を投擲する。正確に剣は森の中へ飛び込み、次の瞬間に強烈な熱量を発した。燃え移る間すらなく炎の効果範囲を塵にする。下手に加減すれば辺り一帯は大火事だ。いっそ一瞬で塵にしたほうが燃え移ることも難しいためこちらの方が好ましい。

 

「『カカカ……。監督役代行といいお主といい、火遊びが過ぎるのう』」

 

 だが臓硯は炎から逃れたのか、声は未だ健在だ。かなりの数を焼き払ったのは間違いないのだが、致命傷にはならなかったらしい。またも森の中から声が響く。

 

「士郎、一度剣を握ったならば決して迷ってはならない。迷いは剣を曇らせる」

 

「……ああ、分かった」

 

 士郎は頭から雑念を追い出そうと、軽く頭を振る。剣を構えなおし、真っ直ぐに前方を見据える。そこにはもう迷いは見受けられなかった。

 

 ざわざわと木々が風に揺れる。わんわんと羽音が響く。じわりと汗が滲む。まるで森が心を焦がしているような錯覚を覚える。

 

 おもむろに四方八方から蟲が飛び出す。各々の持つ凶器で士郎とセイバーを蹂躙しようと牙を剥く。

 

「おおおッ!」

 

 気合一閃。それに応えるようにレーヴァテインから炎が噴出す。セイバーを巻き込まないようにぐるりと剣を回転させて炎の壁を作り出す。燃え移るものが何もないにも関わらず、炎はその場に留まる。

 その赤壁は外に向けて膨張し、襲いかかってきた蟲すべてを蹂躙した。最高位の炎の剣(フレイムタン)であるレーヴァテインの前には、蟲など脅威にもならない。役目を終えた炎は掻き消えた。

 

 だが、やっかいなのは森に火を放つことができないことだ。火が燃え移ってしまえば教会は間違いなく焼け落ちるだろう。神聖を帯びた炎は簡単に消せないため、鎮火する暇すら無いのは明白だ。山火事となれば被害が甚大に過ぎる。

 ここは聖堂教会の敷地である。例外的にこの場での戦闘を許可されてはいるが、ここを焼け野原にしてしまえば今後に遺恨が生じる。いやそもそも、そんな事態になれば街の人々が気付くだろう。この場に消防が殺到することは間違いない。

 

 それが分かっているのだろうか、蟲は森から積極的に出てこようとしない。先ほどのように真名開放して燃え移る暇すらなく消し炭にしてしまうことも出来るのだが、士郎の魔力量に不安がある。投影の精度のこともあり、あまり広範囲に発動できないのも難点だ。

 

「士郎、それを私に貸せ。私が森の中から炙り出してやる」

 

「……わかった、気をつけてくれ」

 

 剣に長けるセイバーだ。その魔剣としての力を完全に出し切ることが出来ないとしても、一振りの剣としては十全に振るうだろう。彼の得物の片手剣を仕舞い、波打つようなその剣を受け取る。

レーヴァテインの形状はフランベルジェと呼ばれるものが近い。刃が直線ではなく、何度も湾曲しているのが特徴だ。まさしく、炎の剣というに相応しい風貌である。

 炎の制御は持ち手の意思に依存する。セイバーは木々に燃え移らないように炎を抑制した。刀身に僅かな炎が宿るのみで、刀身を何かに押し当てない限り燃え移ることは無いだろう。

 

 両手持ちのそれを構えてセイバーが森の中に飛び込んだ。士郎からは木々に阻まれて姿が見えなくなったが、赤い光が漏れてくるのが確認できる。どうやら上手く戦っているようだ。やはり剣の英霊、片手剣から両手剣になっても十二分に戦えているようだ。

 

 隠れ蓑にしていた森に敵が潜り込んだことで尻に火がついたのか、先ほどとは比べ物にならない数の蟲が飛び出してきた。一斉に士郎を標的に定める。いや、聖杯を奪うために内部に侵入するつもりだろうか、明らかに背後の教会に向かっているものもいる。

 

 士郎はもう一本レーヴァテインを投影する。だが炎は遠方まで到達するのに時間が掛かる。背後の教会を標的にされるとレーヴァテインでは対処が難しい。

 

 よって士郎はもうさらに投影を重ねた。

 

「―――投影開始(トレース・オン)大通連(ダイツウレン)小通連(ショウツウレン)

 

 その昔、鈴鹿御前という鬼の娘が居た。その鬼が振るう三振りの霊刀のうち二振りが大通連と小通連だ。それは空を飛び、人外を斬ったとされる霊刀だ。その伝説がそのままこの剣の能力となる。即ち、『空を飛ぶ』及び『人外を斬る』ことに他ならない。

 

 士郎は教会に向かって飛翔していた蟲に向かって二振りを射出する。刀は喰らうべき標的を定め、物理法則を無視した軌道で空を駆ける。まさしく空飛ぶ刀に相応しく、切っ先を先端にして標的に襲い掛かった。

 

 最初の一体が大通連に切り裂かれた。人外に対しては、強い神秘の守りが無い限りその刃を防ぐことは適わない。硬い甲殻を歯牙にもかけない鮮やかさで両断した。

そのまま次の標的を喰らう。その柄を握る者が居ないにも関わらず、士郎の『蟲を殺せ』という命令を忠実に守り続ける。

 

 大通連の対となる脇差、小通連も同じく数体を切り裂く。番いは教会の両側に展開し、窓を突き破って進入しようとする蟲を無慈悲に切り裂く。

 

 士郎は自分に向かうものと、教会の正面から進入しようとする蟲を焼く。セイバーも姿こそ見えないが、どうやら奮闘しているようだ。そもそも蟲がいくら群れたところでセイバーに敵うわけもない。

 

 そうやって相当数の蟲を焼き払ったとき、セイバーはあることに気付いた。間桐臓硯の気配が消えた。

 

 もしや、教会の中に進入されたのだろうか。ならば中に入ってミオを守ったほうが良いのだろうか。

 

 ―――いや、ここはミオを信じよう。危なくなれば令呪を使ってくれる筈だ。それに、リンとバーサーカーも中に居る。命の危険など無いはずだ。

 

それよりも外の守りを薄くすることのほうが問題だ。狭い室内に蟲が殺到してしまえばそれこそ危険。あの空飛ぶ刀をすり抜けて中に進入させたのは手痛いが、ここで蟲を食い止めなければならない。

 

 茂みから飛び出してきた蟲を焼き払う。蟲はまだまだ残存しているようだった。

 

 

  ◆◇◆◇◆

 

 

 急に蟲が窓を突き破って侵入してきた。わんわんと喧しい音が耳に響く。襲い掛かってきたそれを、容赦なくガンドで粉砕する。

 

「士郎、もっとちゃんと守ってよね……!」

 

 自分でも無茶なことを言っていると思ったが、それでも漏らさずにはいられない。割られた窓から時折蟲が飛び込むせいで冬原の治療も思うように進まない。治療といっても応急処置にガーゼと包帯を巻くだけなのだが、こうも攻撃されてはいくら脆弱な蟲といえども問題だ。

 

 浮遊する小物体にガンドを当てるのは実際のところ至難の技だ。狙いの甘い私のガンドでは対処するには役不足。かといって宝石はほぼ品切れ状態で、蟲相手に使えるほど気安くはない。手持ちは5つ。魔力量は多くないが、それでも今は虎の子だ。

 

 失血が多いのか冬原は気絶している。あまり放置しておくと危険だが、もう少しで止血も終わる。あとちょっとの辛抱だ。

 

 天井付近を旋回していた蟲達が一斉に襲い掛かる。二人を逃すつもりは無いらしい。その数は既にガンドで対処できる量を超えていた。

 

「バーサーカー!!」

 

 バーサーカーを呼び出す。長期戦での運用は明らかに自分の首を絞めるが、常に出していなければどうにかなる。5つしかない宝石の投資先としては悪くない。少なくとも蟲を落とすのに宝石を使うのよりは燃費がいい。

 

「―――■■ァ■ァァ!!」

 

 霧の塊が現れる。やはり一瞬たりともその中身を知ることが出来ない。その不鮮明な輪郭が爆発的な動きを見せ、握っているのであろう剣で蟲を切り裂く。その技は狂化しているだけあって非常に雑だが、剣が巻き起こす猛威で蟲は地面に叩きつけられ、絶命させられる。

 

 凛は魔力の供給をカットして霊体化させる。バーサーカーを用いるなら僅かでも魔力の消費は抑えたいところだ。

 

 冬原の処置を終え、背中に担ぐ。苦労しいしい澪が居る部屋の隣の部屋に運び、その後に澪の部屋に入った。澪は目を閉じて索敵に集中している。何か気になることがあるのか、凛が入ってきたことを認めると口を開いた。

 

「今、無数の小さい脅威が集合した“何か”が教会内に進入したわ。今は礼拝堂あたり」

 

「どれくらい危険?」

 

「戦闘能力はさほど高いとは思えないわ。だけど……何か凄く嫌な感じ。この強烈な悪臭もこいつからよ」

 

「……悪臭?」

 

 凛はあたりの臭いを嗅ぐ。だが澪の言う臭いを感じることはできなかった。冬原の趣味らしくラベンダーの香りが部屋を満たしてはいるが、決して嫌な匂いではない。

 

「やっぱり感じられないかしら? ま、それについてはいいわ。それよりも注意して。多分、こいつの目的は聖杯よ」

 

 そう言って部屋の隅にある重々しい金庫を見る。この中に聖杯が二つ入っているらしい。一つはレプリカだが、もう一つは今回の聖杯。おそらく何らかの方法で封印しているに違いない。不用意に触れば死があるのみだろう。

 

 本当はここで壊してしまいたいのだが、そうはいかないのだ。今ここで聖杯を壊せば、聖杯戦争は中止となる。サーヴァントも現世に留まれまい。だが次の聖杯戦争は止められない。おそらく数年後には再び聖杯が現れることになるだろう。

聖杯の『本体』も、霊であるサーヴァントでないと触れることが出来ない可能性が高い。そうならば破壊できるのも、きっとサーヴァントだけだ。実際のところはどうか分からないが、出来ることならサーヴァントは最後まで保持したい。いや、必要だ。

 

 だからここで破壊する訳にはいかないのだ。前回と同じ轍をここで踏むわけにはいかない。だからこれはどうにか守る必要があるのだ。

 

 ―――しかし疑問なのは、アインツベルンが教会に聖杯を託したことだ。あの名家アインツベルンともあろうものが、第三者にこんな大事なものを委ねるとは。

 

「多分、間桐臓硯……。いいわ、私が相手をしてくる」

 

 今回の相手は間違いなく間桐臓硯である。士郎は相手の顔を見ている。間違えようがない。そして小さな何かが集まっているというのは、きっと蟲が集合して体を構築しているのだろう。自分の肉体を死徒にする者も珍しくない。中には人体と遜色ない人形に魂を移し変えるという信じがたい行動をする者も居るそうだ。それらに並べれば肉体を無数の蟲で構築している、というのは嫌悪こそ覚えるが不思議ではない。

 

「気をつけて。何か異常を感知したら念話で知らせるわ。……移動を始めたみたい。こっちに向かっている」

 

 何か確信があってこちらに向かっているのだろうか。礼拝堂に居た時間は少しで、あとは迷いなくこちらに向かっている。

 ならば、迎撃に出るしかあるまい。

 

 ポケットの宝石を強く握り締め、勢いよく部屋の扉を開け放った。

 

 早足で礼拝堂へ向かう通路を進む。間桐臓硯がこちらに向かっているのであれば、すぐに鉢合わせする筈だ。その考えは正しく、中庭のあたりでその姿を認めることが出来た。相手も気付いたらしく、怪訝な顔をする。

 

「衛宮の小倅が居ったから、もしやとは思ったがのう……。まさか御三家が集合しておるとは意外。もしや、遠坂の令嬢も間桐に敵対するつもりかのう?」

 

「今は聖杯戦争中よ。遠坂も間桐もないわ。敵のマスターは倒す。そうでしょ?」

 

 あえて殺すといわなかったのは士郎の影響だろうか。

 

 両者の間には、凍えた針のような殺気が蔓延している。針は一秒ごとに鋭さを増し、視線だけで相手を刺し殺せるほどだ。

 

「然り。ならば一つ、手合わせ願おうかのう。こちらはサーヴァントを持たぬ身、お手柔らかにの」

 

「お断りね。全力でいくわ」

 

 素早く動いたのは凛だ。大きく飛びのき、そこに従者を呼び出した。

 

「――――■■ァ■ァァ■■■ィィィ!!」

 

 バーサーカーがその霧を膨らまし、間桐臓硯に向かって疾走する。暴風のような突進に抗うこともなく、間桐臓硯はその場に立ち尽くしたままだ。棒立ちとなっている臓硯にバーサーカーは容赦の無い凶刃を浴びせる。

 

 肩口からばっくりと切り裂かれて、臓硯はたたらを踏む。力任せの刃は内部の蟲も巻き込み、周囲にその死骸を四散させた。

 

 即座に魔力供給をカットする。僅かでも足止めを果たせたのならバーサーカーの役目は終わりだ。バーサーカーでは臓硯に対する有効な攻撃手段は無い上に、その燃費の悪さは折り紙つきだ。

 

ポケットから宝石を一つ素早く取り出す。高速で詠唱を行うと、極大の炎を吹き出した。炎は狙い違わず間桐臓硯に直撃する。

 

 直撃した炎はその瞬間に膨れ上がり、この至近では目を開けていられないほどの熱量を吐き出す。この直撃を受けたとあっては、サーヴァントでもない限り生きてはいられまい。熱は一瞬で皮膚を焦がし、仮にそれを防いだとしても焼けた空気は肺を蹂躙する。

 間桐臓硯が蟲の群集だとしても、生物である以上は生命維持に必要な器官は必ず備わっている。当然肺にあたるものが存在する筈だ。炎は有効な攻撃手段の筈だ。

 

 炎が静まったときに残っていたのは塵だけだ。まだぶすぶすと燻っている。いくつか形状を残している蟲もいたが、完全に消し炭だ。これで生きている訳がない。

 

 だが、少々あっけなさ過ぎるのではないか?

 

“遠坂さん!何かヘンな蟲が飛び込んで――――”

 

 澪が居た部屋から爆発が起こったのはその時であった。

 

 

  ◆◇◆◇◆

 

 

 遠坂さんと、間桐臓硯というらしい存在が邂逅したようだった。やはり気分が悪くなる存在だ。吐き気がする。

 

 外では士郎さんとセイバーが蟲の大群と戦っているようだ。ここからでもその戦いぶりは何となく分かる。一言で言って、圧倒的だった。決して冬原さんが弱いわけでは無いだろう。ただ相性が悪かっただけで、士郎さんの投影魔術と相性が良いのだ。

 

 だが気になったことが一つある。蟲のうち、いくつかの固体の脅威が非常に大きい。それは実際のところたいしたことは無いのだが、他の蟲に比べると明らかに異様だった。

 

 しかも、士郎さんやセイバーとの戦闘を明らかに避けている。正面の士郎さんを避けて、教会の側面からじっと様子を伺っているようだった。

 

 部屋の外にある気配が膨らむ。これは遠坂さんだ。どうやら魔術を詠唱しているらしい。かなりの魔力が開放され、練られているのが手に取るように感じられた。

 

 しかし次の瞬間の轟音には肝を潰した。想像を遥かに上回る爆発音がガラスの窓を響かせる。つい探索の手を休めて扉のほうを見てしまう。だがすぐに我に返って、遠坂さんが戦っていたあたりに集中して探索する。

 

 気配は遠坂さんだけのものしかない。間桐臓硯という群れは、一つも余すところなく燃やし尽くされたようだった。

 

 安堵に胸を撫で下ろす。どうやらこれで危機は去ったようだ。

 

「――――?」

 

 しかし蟲の軍勢は主を亡くしたにも関わらず、その統率が乱れることは無かった。依然として外では戦闘が続いている。

 

 そして先ほどの不自然な感じがする蟲が驚くほどの速度で一斉にこちらに向かってきた。いくつかの固体は途中で撃墜されたが、数匹はこの部屋に一直線に突進する。さして広い訳でも教会だ。すぐに私のいる部屋の窓を突き破って侵入を果たした。

 

 やたらに硬そうな甲殻だ。ダンゴムシのような起伏の薄い体をしている。直ぐに攻撃されるかと思ったが、その場に留まっているだけだった。魔力が蟲の体内で渦巻いているのが分かる。何か不穏な印象を受ける魔力の流れだった。

 

 それが金庫にぴたりと張り付く。巨大な蟲がひしめく姿は気味の悪さを覚えざるを得ない。私は椅子から立ち上がったままのポーズで固まってしまった。

 

 これが何なのか分からないが、私には対処が難しいだろう。攻撃魔術すらない私は部屋の外にいる遠坂さんを頼るしかない。

 

“遠坂さん!何かヘンな蟲が飛び込んで―――”

 

 その時最後に見たのは、爆ぜる蟲と視界一杯に広がった炎だった。

 

 

  ◆◇◆◇◆

 

 

 聖杯を確実に手中にするとはどういうことか。

 

 間桐臓硯は桜という聖杯を手中に収めている。聖杯が二つあっては、中途半端に英霊の魂が割り振られてしまい両方とも十全に機能できないことまで考えられる。

 

 二つとも揃えて一つとして機能させるということも考えられないでもなかったが、そもそもそういう運用を前提としていないため不安要素が多い。

 

 万全を期すなら、聖杯は一つのほうが都合が良かった。ただそれだけである。

 

 そのためだけに自身を犠牲にして聖杯の守りを薄くさせ、蟲を自爆させて粉々にした。臓硯を構成する蟲もキャスターのおかげでかなりの数になっていて、わざと敗北してみせたのはそろそろ寿命が来る蟲ばかりだ。核は桜の心臓にいるので、いくら燃やされようとも痛くも痒くも無い。

 

 試合に負けて勝負に勝ったのは、間桐臓硯であった。

 

 部屋に飛び込んだ凛が見たのは、ばらばらに砕けた聖杯とボロ雑巾のようになった澪だった。すぐに士郎とセイバーも部屋に飛び込んでくる。

 

 蟲は目的を達したためかすぐに退却したようだが、澪の負傷は無視できないほど重かった。

まず全身に火傷。それに砕けた蟲の甲殻は澪の体のあらゆる部分を傷つけている。出血も火傷も放置すれば命に関わるほどだ。幸い脳にダメージはなかったが、火傷と出血のショックで気絶をしている。いや、意識が無いのは却って幸いかも知れない。起きていれば地獄のような苦しみに晒されるだろう。

冬原よりも治療を要するのは澪のほうだった。

 

「リン……!頼む、ミオを助けてくれ……!」

 

「言われなくても分かっているわよ!」

 

 いくつか宝石を取り出し、その魔力を使って澪の治療にあたる。士郎で鍛えた応急治療術が役にたったが、この負傷では危ない。すぐに病院に搬送して適切な処置を受けさせないと危険だった。

 

 だがそれが出来るわけが無いのは言うまでもない。神秘は漏洩させるわけにもいかないのだ。今から救急車を呼んだとして、この場に一般人を立ち入らせれば神秘の秘匿は守られないだろう。いたるところに蟲の死骸が転がっているのだ。

 

 かといって自分たちで病院まで運んでも同じだ。このまま病院に運んだところで、一般人の医者に施せる手は殆どない。

 

 しかし施せる手が無いのは凛も同じだ。刻一刻と流れ出る命を止める方法は、既に彼女には無い。額に玉の汗を流しながら賢明に食い止めようとするが、指の間から零れる水はどうしようもなかった。

 

「―――投影、開始(トレース・オン)

 

 士郎は何か思い至ったのか、目を閉じて何かを投影しようとする。その両手の中には黄金色の光が収束していった。

 

「『全て遠き理想郷(アヴァロン)!』

 

 投影したのは、セイバー(アルトリア)のアヴァロンだ。所有者は決して血を流すことの無いという伝説を持つ、『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』の鞘。アーサー王はこれを盗まれたために命を落とすこととなった。

 

 投影された蒼で装飾された黄金の鞘を、寝そべる澪に置く。すると澪の傷は瞬く間に消えていった。着ていた白いシャツだけが付着した赤黒い血で、負傷をしていたことを告げていた。

 

 

 

 

 

 

 暫くして冬原が目を覚ました。事情を話して個室とベッドを貸してもらう。

 

 傷は完全に癒えたはずだったが、澪はまだ目を覚まさなかった。体に負担が掛かっていたのは疑いようもないので、もう暫くは寝続けるだろう。

 

 冬原も傷だらけで木乃伊のおうに包帯を巻いている。だが血は既に止まっているうえ、自分で動けるようなので問題はなかった。適切な処置を受ければ跡も残らないだろう。

 

 だが集まった応接室の空気は暗かった。聖杯を破壊されたのは一大事だ。

 

「――――しかし、私が消えないのは何故だ?」

 

 聖杯が壊れれば、聖杯戦争は立ち行かなくなる。それが聖杯の『本体』の判断に任されるのか、その辺りの事情は分からないが、サーヴァントが未だ存在していることは若干の疑問が残った。すぐに消えはしなくとも、聖杯からのサポートを受けられなくなっても何ら不思議はなかった。

 

「そりゃそうでしょうねえ。どうせ、よこされた聖杯は偽物なんでしょ」

 

 答えたのは冬原だった。実にあっさりと言うので、むしろ周囲は固まるのだった。ややあって、全員を代表して凛が疑問を発する。

 

「……偽物?」

 

「あのアインツベルンが他人に聖杯なんか任せるわけない、そう思わない? ま、多分サーシャちゃんも知らなかったんでしょ。第四次、第五次の動きから鑑みれば今回も何かしら悪巧みをするのではないか、と思うのは至極当然のこと。聖杯そっくりの、まあ言わば発信機みたいなものでも作ったのでしょうねえ」

 

 仮にこの仮説が正しいとすれば、おそらくアハト翁は内部にすら内密に聖杯を冬木に送り込んでいるに違いない。偽物の聖杯を破壊されたことで隠し立てする意味もなくなったので、近日中に本物の聖杯がライダー陣営の手に渡ることだろう。

 

「……それを知っていて、私達を動かしたの?」

 

「知らないわよ。もしかしたら本物かも知れないし、何もしないわけにはいかないの。……それに、教会の汚名を濯ぐためにもこの依頼は受けざるを得なかった。受けてしまった以上、無下にすればそれもまた教会のメンツに関わる。それに聖杯にまで手を出すかどうかは微妙だったし、キャスターを討つために貴方たちに声をかけたのは本当。結果として仕事は全くの別のものになってしまったけれどね。……貴方たちにとっては不愉快な話でしょうけれど、だから私は私財を投げ打って提供できるだけの見返りを用意することを約束したの」

 

 実に不愉快だった。命を懸けて守ったものが、偽物でしたでは済まされない。重傷者まで出ていたのだ。笑って済ますような話ではなかった。

 

 だから凛は、渾身の力を込めてその脇腹を殴った。小突く程度などと優しいものではなく、腰の入ったフックが急所に入る。

 

 血の足りていない冬原はその衝撃に堪えきれず尻餅をつく。しかしあまりダメージを受けた様子もなく、むしろ殴った凛が悶絶する有様だった。想像以上に鍛え上げられた肉体はもはや鋼だった。

 

 倒れた冬原を数度足蹴にする。冬原は抵抗もせずに殴られ続けていた。その行動に呆気に取られていた士郎だが、慌てて止めに入った。

 

「……満足、したかしら?」

 

「人を何だと思っているのよ……!組織で生きて行く以上、仕方のないことだったというのは分かるわ。だけど、納得できるかは別よ!……不愉快よ。これで、帰らせてもらうわ」

 

 凛は踵を鳴らして部屋を出た。個室ではまだ澪は眠っていた。後からついてきたセイバーに澪を担がせて、礼拝堂へと向かう。出口はあそこが近い。

 

 早足でそこも通り抜けて、扉を開く。するとそこには数人の代行者らしき男たちが整列していた。凛はやや身構えたが、一斉に放たれた次の言葉は意外に過ぎるものだった。

 

 ありがとう。あなた方に幸多からんことを。

 

 戸惑っていると、冬原が追いついてきた。悲しそうな顔が演技かどうか分からなかったが、少なくとも今にも泣きそうな顔だった。

 

「皆、凛ちゃんたちには感謝しているわ。キャスターは私達からしても許しがたい相手だった。それを討つ手助けをしてくれたことは、本当に感謝しきれないほどよ。……宝石は、約束の倍ほど用意するわ。私には感謝を表す方法はそれしかない。それで、許してくれないかしら」

 

 一つ大きな溜息。ゆっくりと振り向いて、はっきりと断言した。

 

「……いいわ、澪が許すなら許してあげる。だけどここには二度と来ないし、出来れば二度と関わらないで」

 

 そう言って足早にその場を立ち去った。心なしか、凛から発せられていた怒気が若干ながら和らいだようにも思えた。

 

 

 

 そうやって戦いの夜は過ぎたのだが、問題が一つだけ残った。

 

 ――――澪の目が、一向に開かれる気配が無い。

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

【衛宮士郎】

大通連(ダイツウレン)小通連(ショウツウレン)

 鈴鹿御前という鬼の姫が持つ刀。またの名を立烏帽子。この鬼は天竺第四天魔王の娘といわれており、「年の頃は十六、七。天女の如き美しさ。揚柳の細身に十二単、濃い紅の袴姿」といわれており、相当の美人であったようだ。

 当時の征夷大将軍に恋をしていて、その征夷大将軍である田村草子という人物の依頼で大嶽丸という鬼を討つ。この二振りはその大嶽丸を最初に討つ際に奪い取ったもの。

 「人外切り」という属性をもち、「浮遊・飛翔」の特殊効果を持つ。しかしそれゆえに人に対しては効果を発揮できない。人外に対しては命中率と攻撃力にプラス補正がかかる。これは神性を持つものに対しても有効である。



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Act.18 眠り姫

 夏の凛とした月光が冬木の町に降り注ぐ。

 

 教会での間桐臓硯との戦いから丸一日経つ。キャスターは間違いなく討ち取ったとはいえ、何か事態が好転したのかといえば、衛宮邸に身を寄せる者達にとって必ずしもそうではなかった。

 

 澪が重厚な金庫を粉砕するほどの爆発に身を晒し、その結果意識不明の重態だ。

 

 命があるだけ儲けものと思うかも知れない。確かに全身は重度の火傷を負い、肉は抉られ骨どころか内臓まで露出していたようにも思える。即死しなかったのは幸運ゆえだろうか、それともとっさに肉体の強化を施したのか、それも分からない。

 

 澪は一向に目を覚まさなかった。

 

 傷は完全に治療されている。あのまま放置していれば一分で命を落としていただろう傷は、しかし『全て遠き理想郷(アヴァロン)』によって完治せしめられている。

 アーサー・ペンドラゴンが持つエクスカリバーの鞘。持ち主を癒し、傷から守るこの宝具を投影していなければ、澪は助からなかったかも知れない。他にも治癒効果を持つ宝具は存在するが、治癒効果などを鑑みてこれを選択した。その選択に間違いは無い筈で、投影にも失敗は無い筈だ。

 

 だがしかし、やはり澪は目を覚まさない。

 

 士郎は澪にあてがった部屋で看病をする。看病といってもそこで見守ってやるぐらいのことしか出来ない。

 

 ベッドの上には眠り姫がタオルケットに覆われている。その胸の上には『全て遠き理想郷(アヴァロン)』が置かれ、金色の微光を放ちながら今も澪を癒しているはずだ。

 確かに、オリジナルとは見劣りするかもしれない。不完全な投影かもしれない。

 だが治癒効果は間違いなく発揮されている。そうでなくてはココに転がっているのは死体だ。

 だが、どうしても目だけが覚めない。臓硯が何か魔術を施したのだろうか。いや、それは考えづらいか。

 

「士郎、入るわよ?」

 

「遠坂か、入ってくれ」

 

 本来の部屋の主に断りもなく遠坂が入室する。手には何か薬奏なものを満載した皿と、すり鉢を持っている。

 

 目線でそれは何かと尋ねると、何でもないように答えてくれた。

 

「気付け薬よ。脳にも異常は無い以上、精神や魂に何か異常があるとしか思えないわ」

 

 なるほど、それは確かに考えられることだった。

 

 アヴァロンの効果は、確かに対象の傷を完全に癒すだろう。それこそ神の子の血を受けた聖槍に匹敵するほどの回復力だ。聖槍と違い、それを手に取った者の傷しか癒せぬといっても、それでもやはり破格の宝具なのだ。

 

 しかしその効果は、持ち主の傷を癒すのみだ。精神や魂に異常をきたせば、アヴァロンでは癒しきれないのだろう。

 いや、仮にそれすらも癒すとしても、士郎の投影ではここまでが限界だった。

 

 もしかすると、澪の魂は半ば肉体から離れかけていたのかも知れない。澪にそれを引き戻すだけの力が残っていないとすれば、アヴァロンでも癒せない可能性は高い。

 

 それを正すための薬らしい。簡単な解説によれば、魂や精神をあるべき場所に戻すための薬らしい。古代の魔術師は魔除けにも使っていたという話だ。精神や魂に介入する薬などおっかなくて仕方がないが、ここは任せてみるしかないのだろう。

 

 自慢のうっかりが作動しないことを期待するのみだ。

 

「とは言ってもさほど強い薬じゃないわ。これ以上のものを作るとなると、錬金術の分野になるわ。アインツベルンの森まで行ってみる?」

 

「……いや、いい。遠坂の薬でやってみよう」

 

 この地に存在する最高の錬金術師は、言わずもがなアインツベルンだ。だが、今回のマスターであるサーシャスフィールとは面識こそあるものの、完全な敵同士である。

 イリヤならばあるいは手を貸してくれたかも知れない。だがサーシャからは完全に敵視されており、森に踏み込んだところであの騎馬隊に襲われるか、あるいは不利と見て退散するかのどちらかだろう。時間の無駄だ。

 

 凛がすり鉢の中に草をいくつか放り込み、擂り粉木でごりごりと擂り潰す。思ったよりも草には水分が多く、数分もすれば擂鉢の中身には濃い緑色の液体で満たされている。

 しかもかなり粘性が高く、臭いがきつい。臭いは気付け薬なのだからある種当然ともいえるのだが、この粘性は不快感を刺激する。

 

 凛はそれを指先に掬い、澪の上唇の辺りにそれを塗る。気化したそれを間近で嗅がされた澪は息が詰まったようで、苦しそうな声を一度だけ上げたが、それだけだった。

 

 少なくとも魔術的な効果のある薬である。臭いは慣れてしまったとしても、全く効用が見られないというのは眉を顰めざるを得ない。

 

「……はあ。もっと強い薬じゃないと駄目かしらね」

 

「遠坂、これ以上臭いが強いと澪が死んでしまうぞ」

 

 部屋の隅に退避してもこの臭いである。味など恐ろしくて確かめたくもない。

 

「そうかもね。よく分からないけれど、澪は臭いに敏感みたいだし。……士郎、今晩はどうする?」

 

 断じて浮ついた誘いではない。聖杯戦争の話だ。

 

「…………外に出よう。間桐邸に行く」

 

 たっぷりと悩んだ後、すっと立ち上がる。

 

 澪が目を覚まさないのは気になるが、だからといって聖杯戦争がストップするわけではない。

 本音はずっと看病しておきたいのだが、だからといってこちらを疎かにしていい訳ではないのだ。

 

 桜は無理を言ってこの屋敷に泊めた。藤ねえが付随してきたのが誤算といえば誤算だったが、これから強襲をかけようという間桐邸に帰すわけにはいかない。

 

 しかしこの原因になった間桐臓硯を完全に滅ぼしたところで、おそらく澪は目を覚まさないだろう。状況から考えて、間桐臓硯が澪に何か術を施す時間はなかったはずだ。これは澪の問題であり、臓硯は関係ないといっても過言ではない。

 

 それでも打ち倒すべき敵だ。もうマスターではないし、その目的もよく分からないが、あのまま放っておいていい相手でないことだけはわかる。

 

 報復などという殊勝な考えではない。ただ、あの翁を放っておくよりも倒してしまったほうが良いだろうと冷静な判断を下しただけのことである。

 

 もしも七年前の彼なら、聖杯戦争を放って看病していたかも知れない。目の前で苦しんでいる人が居るのに、それを放っておくなど言語道断だと切り捨てたかも知れない。

 だがそれを割り切れてしまう程度には、彼は『正義の味方』に近付いていた。

 

 それは悲しいことなのだろうか。凛には分からない。

 少なくとも、寂しいと思った。何だかあの赤い弓兵みたいに、するりと指の間をすり抜けてどこかへ行ってしまいそうで。

 

 ずっとそこに居たのだろう。セイバーが実体となって現れる。

 部屋着の甚平ではない。鎧を着込んだ戦装束だ。

 

「私はここに残るぞ。主を守るのも騎士の務め。悪いが、澪が目を覚ますまでは同伴できん」

 

「勿論よ。澪をしっかりと守ってね」

 

「頼んだ、セイバー」

 

 目線で硬い誓いを交わし、セイバーは目を伏せる。その姿にはどこか力が無かった。

 

 士郎と凛が退室する。これでこの部屋に居るのはセイバーだけだ。

 窓から差し込む月の光だけが、二人を照らしていた。銀の光を甲冑が反射する。

 

 額に乗っているタオルの水が乾いているのを見咎め、傍にあった水面器に浸して硬く絞る。タオルが引きちぎれる程に、強く。

 

“――――何が英霊か!”

 

 そっとタオルを額に置く。だがその拳はまだ力が込められたままだ。

 

“主を守れずして、何が騎士か! 私はまた、守れなかったのか!”

 

 正座したままの体勢で、強く腿に拳を打ち付ける。骨が折れるかと思うほど痛かったが、それでもセイバーの気持ちは収まらない。

 

 思えば、一度も澪を守り通したことなどない。セイバーに咎があるかと言われれば、万人が否と言うだろう。今までこれといった傷を負っていなかったのだから、役目は守り通したと言うだろう。だが、それでもセイバーの責任なのだ。

 

 必ず主を守り通すと誓ったものだけが背負うべき、セイバーだけの咎だ。

 

 召喚されたときには既に手傷を負っていた。しかしそれにも関わらず主から離れて戦闘を行い、挙句ライダーのマスターに襲われたという。

 下手をすれば澪は死んでいただろう。

 

 最初のキャスター戦のときもそうだ。後に聞けば、命を落としていても不思議ではなかった。澪が何か得体の知れない力を使っていなければ全滅だっただろう。

 あのとき主を逃がしたのは間違いでは無かったと思う。だが、他にも方法があったのではないだろうか。

 

 今回の翁との戦いもそうだ。目の前の蟲を切り捨てるのではなく、一貫して澪の護衛に努めるべきだったのだ。澪は戦闘が出来ない。だというのになぜ、一人にするような状況を作ってしまったのだろうか。

 

 結局、生前も死後も、誰も守れないのだ。

 

 ――――最後に立つは我のみぞ。

 

 彼の宝具は、後にこのように意味付けされた。この宝具の意味を知れば、彼の最後も自ずと見えてこようというものだ。

 彼が命を落とした戦いでは、最後に生き残ったのは彼だけだ。誰も彼もセイバーより先に死に絶えた。敵も、味方も。

 

 友の屍を乗り越えた先には、何も無い。誰も守れない騎士など存在する価値もない。

 後の人々は、セイバーは敵の凶刃に斃れたと伝えるだろう。だがそれは違う。

 

 自分で命を絶った。どの歴史もそうは伝えてはいまい。

 だがこれほど無双の剣を振るった男が、あの程度のことで死ぬわけが無い。

 

 しかし戦上手な彼は、大切な友を守ることは出来なかった。

 彼は強い。しかしそれゆえに敵を呼んでしまう。

彼の敵は味方にも居た。いや、味方こそが真の敵だったのかも知れない。その者は敵の手のものでもなければ、権力の簒奪を狙っていたわけでもない。それはよく知っている。

 

 だが、ほんの少し恨みを買ってしまった。ゆえに生存が絶望的な任務に就くことになってしまった。

それに付いてきてくれた友だけでも守ろうと密かに剣に誓いを立てたのに、それすらも出来ない。

 

 本当にお笑い種だ。

 何が剣の英雄(セイバー)か。自分がこの剣で何を為したというのだろうか。

 

 そしてセイバーが散った戦いは、後に大きな戦乱へと至る。

 セイバーが何を為したかといえば、戦乱の種を撒いたとも言えなくは無いだろう。

 セイバーが直接関わった訳ではないが、それを止めようともしなかったのは間違いなく咎であったように思う。

 

 澪の上唇についた薬をふき取る。効果が無いのならばこのような悪臭を嗅ぎ続けることはないだろう。

 心なしか表情が穏やかになったようにも思える。やはりこの薬は苦痛でしかなかったのだろう。

 

 胸に置かれた鞘を見る。

 その黄金の微光は、月に負けまいと光を放つのだった。

 

 

  ◆◇◆◇◆

 

 

 ここは何処だろう。

 

 周囲を見回しても何も無い。ただひたすらに広く、白い空間に漂う。

 

 まるで母の子宮の中に戻ったようだ。温かな羊水に包まれ、穏やかな抱擁。

 どこかへ流れるような感覚を覚えるが、そもそも私の体も既にあやふやだ。

 

 目を瞑れば、浮かぶのはどこかの風景。私の知らない場所だ。だが、どこか懐かしい。

 流されるたびに色々なものが瞼の裏に現れる。

 

 想像もつかないほど昔のものもあれば、そもそも日本では無い風景もある。それらは規則性もなく瞼に現れては消え、現れては消える。

 

 ああ、きっと、私は夢を見ているんだ。

 

 ここにいると、何が現実でどれが夢なのかわからない。覚めない夢は現実と一緒だ。帰るべき場所は、覚めるべき現実はどれだろう。

 

 中世の騎士が王に頭を垂れているこの風景だろうか。

 赤い外套を身に纏い、何かと戦っているこの風景だろうか。

 それとももしかして、帰るべき場所など無いのだろうか。

 

「よもや此処に来ようとは。これは喜ぶべきか、それとも憂うべきかのう」

 

 声がして目を開ければ、そこには一人の女性が居た。年の頃は私と同じくらいなのだろうか。何となく顔立ちが似ているかな、なんて愚にもつかないことを考えた。

 

 服装は現代ではまずお目にかかれないものだ。凄まじく古風な印象を受ける。サーヴァントなんて連中である程度見慣れたつもりだったけれど、それを上回る古さだ。

 

「貴方は?」

 

 もう何年も声を出していなかったのだろうか。一言発するのにも意外な労力を要求された。

 

「今は澪子と。さて、そちは何故此処にいるか分かるかの?」

 

 首を振る。そもそも此処がどこか分からない。思ったことが顔に出るタイプでは無いと思っていたがどうやらそうでも無いらしく、澪子という女性は私の答えを待たずに続けた。

 

「此処が何処かも分からないか。それが分かっておれば、そちは堂々と八海山を名乗れるのにのう。いや、嘆いても詮無きことよ」

 

 そこでおもむろに一つの方角を指差す。そこを見るが、やはり何も見えない。

 

「目を閉じてみよ」

 

 言われるままに目を閉じる。

 例の如く瞼の裏に風景が浮かぶ。知っている風景だった。

 

 冬木市だ。冬木の教会だが、微妙に細部が異なっている。風景は町の様子に切り替わるが、やはり微妙に違う。

 潰れた筈の定食屋があった。今は撤去された筈の公衆電話を見つけた。

 

 これは、過去なのだろうか。

 

「これはある者の記憶じゃ。以前、そちはこれを手に取ったのだが、覚えてないかの」

 

 もう一度首を横に振る。

 その反応は予期していたのか、さして驚くでもなく落胆するでもなく、淡々と続けた。

 

「ま、当然かの。……少しばかり、指南してやっても良いのかも知れん」

 

 やや長い逡巡の後、その女性は語りだす。

 しかし何故だろう。この女性は初対面のような気がしない。どこかで会ったような、そんな既視感。

 

「死んだ人間は、どこへ行くと思う?」

 

「え?」

 

 およそ脈絡が欠落した質問に面食らう。死んだ人間が何処に?

 

 地獄とか、天国とか、あるいは煉獄といわれるものだろうか。だけど宗教によってはもっと別の場所も用意されているはずだ。仏教だったら畜生道であるとか修羅道であるとかが六つ用意されてあり、六道と呼ばれている。解脱という考えすらもあり、単純な二択では収まらない。

 

 その他にも輪廻転生を認めるものや、そうでないものもある。死んだ人間がどこに行くかなんて答えようが無い。少なくとも現代の日本人では即答できる答えを持ち合わせた人間は少数派だろう。

 

「うむ。解釈は色々ある。今の魔術通説では、死者は世界の一部となり転生を待つのであったか? これは時代によって様々に解釈されてきた故、確かなことは誰にも分らん。確かなことは、『在ったモノが消える』とき、此処に置き土産を残していく。一言で言えば、魂の名残のようなものだ。人が死ぬとき、霊が消滅するとき。現世に現れていたものが幽世に行く際には、必ずここに落し物をする。これはもう、世界のシステムのようなものだ」

 

 置き土産……魂の名残?

 どういうことだろうか。言っている意味がよく分からない。

 

「何でこんなものが在るのか、それは誰にも分からない。世界が我らを観測していた記録、ある意味では『アカシックレコード』と呼ばれるものが近いか。もしかするとそれそのものかも知れんが」

 

 アカシックレコード……。聞いたことがある。アカシャとも呼ばれ、宇宙や人類の過去から未来までの歴史全てがデータバンク的に記されているという一種の記録をさす概念だ。

 

「『いたこ』というものを知っているかの」

 

 また文脈が乱れた質問だ。だがそれは聞いたことがある。黙って頷いた。

 

 死者を呼び寄せる、口寄せと呼ばれるものを使う巫女のことだ。魔術ともいえなくはないのだが、そもそも魔術の体系に乗っているとも言いがたく、魔術とは別系統として扱われることもままある。

 

「彼女らは、この場所……便宜上アカシャと言おうか。アカシャを覗き、他者の魂の残骸を自己に降ろす。……まあ、まだ神秘が世に溢れていた時代の話よ。今はアカシャを覗ける人間などそうは居まい」

 

 それはそうだろう。そんな人間がそう居てたまるものか。

 

 アカシックレコードへのアクセス。それはもう、魔法に近い所業だ。

 未来すらも見通せるアカシックレコード。それにアクセスするなんて、そんなことが出来る魔術師、いや人外を合わせても片手で十分数えられる程度しか存在しないだろう。

 

 ……いや待て、この話からすると。

 

「……ここは、アカシックレコード?」

 

「知らん。余にも分からんといっただろう。少なくとも未来など見えたことは無い。ここには過去しかない」

 

 ならばアカシックレコードの、過去の記録野ということだろうか。確かに、未来のことを見るよりも難易度は落ちる……のだろうか。

 

 いや、眉唾ものだ。信じられない。信じてたまるか。

 

 そんな魔法に近い所業を、私が? 一体何故、どうやって?

 

 いやいや待て。この女性、澪子はこう言っていた筈だ。『それが分かれば堂々と八海山を名乗れる』と。だとすれば、八海山の一族は皆ここに来られる、のだろうか……?

 

「いやいや、そうは行かん。太古はそうであったかも知れんが、昨今でここに来られたのはそちだけよ。先祖返りかと思うばかりじゃ。……そろそろ時間かのう。そちは未熟ゆえ、ここに居続けては帰れなくなるぞ。どれ、送り届けてやろう」

 

 とん、と胸元を押される。

 水の中のようで、重力など感じないこの場所ではその程度の力でも彼方へ押し出されてしまう。手足をばたつかせて抗うが、どうにも出来なかった。

 

 どんどんと遠くに流され、澪子の姿もそれに比例して小さくなる。ついには鉛筆の先端よりも小さくなり、見えなくなる。それでも私は流され続ける。

 

 そして次第に眠くなっていき、夢の中にも関わらず眠りについてしまった。

 

 

 

 

 

 何も見えなくなったそこで、澪子は一人漏らした。

 

「色々と嘘をついてしまったのう。久しぶりに人と話すと、つい大法螺を吹いてしまう」

 

 本当のところ、澪子はここが何処か知っているし、アカシックレコードなどでは無いことも知っている。

 何故なら此処は、彼女が作り出した世界だからだ。だがそれでもアカシックレコードに限りなく近い空間である。

 

 大法螺といったが、半分は本当なのだ。ただ説明するのにそう表現するのが手っ取り早かっただけである。

 

 人と話すのがだんだんと億劫になる。悪い癖だ。足りない言葉でつい惑わしてしまう。

 

 いや、今回はこれで良かったのかも知れない。彼女は少々この空間と波長が合いすぎる。

 どうやら現実で死に掛けたのだろう。この空間に魂が引き寄せられてしまうのも、無理はなかったのかも知れない。しかしこのまま長居させれば確実にこの世界に定着してしまう。

 

「さて、いずれちゃんと余を口寄せてくれよ。そうすれば何もかも分かるであろ」

 

 もう見えなくなった澪の姿を求めて、ずっと彼方を見つめていた。

 

 

  ◆◇◆◇◆

 

 

 間桐邸は光が完全に落ち、人の気配が全く感じられなかった。

 それどころか動くものさえ感じられない。だが油断は出来ない。紛う事無き魔術師の屋敷である。そこはまさしく死地というに相応しい備えがあるに違いないのだった。

 

 ぐるりと屋敷を見て回る。

 

 やはりこういうときに澪の探索魔術が無いと不便に思う。彼女ならここに何か居るのかどうか、踏み入るまでもなく察知できる。直接戦闘は出来ないが、サポートとしては優秀なのだ。

 

 さて、どうしようか。

 

 単純に間桐臓硯を討ち取るだけならば遠くに離れて宝具を射るのが最も効率的なのだろうか。しかし屋敷内に居るとも限らず、そもそも屋敷を破壊すれば桜が帰る場所が無くなる。

 

 ちなみに桜のためにも屋敷をあまり壊したくないと言ったときに、凛から『心の贅肉』というお言葉を頂戴したのは余談だ。

 

 

 直接乗り込むのが良いのだろうか。

 

 内部はある程度知っている。慎二とそれなりに交流があった頃にはたまに遊びにいっていたからだ。だがその慎二も、もう居ない。

 

「…………」

 

 拳を固める。慎二は死ななければならなかったのだろうか。

 

 臓硯の口ぶり。慎二をあんなモノにしたのは臓硯だ。しかしあれは本当に必要な行動だっただろうかと考えれば、必ずしもそうではない。

 私情抜きでの意見だ。慎二よりも、よほど臓硯のほうが戦闘向きだったように思う。相性の問題もあったのだろうが、冬原だって慎二が相手ならば圧倒していただろう。

 

 言うなれば、臓硯の気まぐれで死んだということだ。

 

 それは許されるのか。死ぬ必要が無かった人が死ぬ。

 

 許せない。被害者であった慎二の命を刈り取ったこの手が。

 だからそれに報いるために、自分が殺した人の死が無駄にならないように、自分は『正義の味方』でなくてはならないのだ。

 

 勿論、人の為に自分の力を使うという考えが消えたわけではない。ただ、そこに別の理由が付随されただけだ。

 今なら分かる気がする。エミヤシロウ(アーチャー)が絶望しながらも『正義の味方』を辞めることが出来なかった理由だ。ここで自分がやめてしまえば、殺めた人たちの命を蔑むようで、止まることが出来ないのだ。

 

 こんなモノになるべきじゃなかった、そうは思わない。だがもしも自分と同じ道を行こうというに人が居るのなら、きっと必死に止めるだろう。

 今だからこそ分かるが、もしかしたらエミヤシロウ(アーチャー)は自分を正義の味方というモノにさせまいと、だけどこのままじゃ確実にソレになることが分かっているから、自分を殺そうとしたのかも知れない。

 あのまま死んでいたのと、生きて手にした現状。どちらが幸福かと問われれば、即答できないかも知れない。

 あれはアーチャーの慈悲だったのかも知れない、と思うのだ。勿論自分のために剣を執っていたのだろうが、それに付随してこういった理由があるのかも知れないと、月を見ていると考えてしまう。

 

「結界、剥がせたわよ」

 

 長い時間が掛かっていたが、どうにか屋敷に張られていた結界は解除できたようだ。

 

 ここからは闘争の時間。雑念は脳から追い出し、これより衛宮士郎は剣を振るう一つの鉄となる。

 

 心は熱く、思考は研ぎ澄まし、体は淀み無く。

 

 それは一つの焼けた鉄。鋳鉄の魔術師、いや魔術使いに相応しいあり方だ。

 

 鉄に迷いは要らない。曇りなどあってはならない。

 

「|投影開始(トレース・オン)、『|害為す焔の杖(レーヴァテイン)』」

 

 屋敷をなるべく破壊しないようにと決めたばかりであるため、火力はやや抑える。一度決めたならば、それを曲げることもなく、決して省みず。

 

 凛が宝石を手に取る。冬原から頂戴した宝石はどうやらかなりの良品だったらしい。中世の貴婦人の持ち物だったものも多いらしく、以前の持ち主の思念が残っている文句なしの品だったそうだ。

 

 といってもそれほど魔力は込められていない。一日程度で充填できるほど気安い宝石ではないのだ。

 

 ゆえに今回凛は、宝石に頼らない戦いを心がける必要がある。

 つまりガンドと|サーヴァント(バーサーカー)を効率良く運用しなければならない。ガンドはともかくバーサーカーは相当に魔力を食う。あまり頼っていると自滅は必至だ。

 

 まあ、バーサーカーが出れば否が応でも屋敷を破壊することになるだろうが……多少は目を瞑る他無い。命あっての物種である。

 

 さて、これより魔術師の領域に飛び込もう。慎二の無念を晴らすためにも。

 慎二の無念は間桐臓硯の凶行に起因する。仇討ちといえばそうかも知れない。だが慎二のような犠牲者をこれ以上出さないためにも、間桐臓硯は討ち取らなきゃいけない。

 

「おおおおッ!」

 

 敷地内に吶喊する。遠坂がガンドで正面玄関の重厚な扉を爆砕する。粉塵立ち上るそこを通り抜け、見知った屋敷の中に進入した。

 

 どこに潜んでいたのだろう。昨日も見たような蟲が一斉に飛び上がり、暗いエントランスに犇く。

 

 だがこんなものは二人の敵ではない。

 

 士郎の剣が踊り、炎が舞う。凛の手が微光を放ち、質量を持った呪いを放つ。

 

「■■■ァァ■■ォォォッ!!」

 

 バーサーカーが踊りかかる。暴風じみた斬撃が蟲を陵辱して地に落とす。

 

「間桐臓硯、姿を見せろ!」

 

 蟲の羽音が響く音に負けまいと声を張り上げる。夜の屋敷にその声はどこまでも空虚に響くのだった。

 



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Act.19 Satisfaction

 ――――とっくに目は覚めていた。だが目を閉じたまま、しばし考える。

 

 あれは本当にアカシックレコードだというのだろうか。いや、どうだろう。なんとなく違う気もするな。あそこがアカシックレコードというのならば、澪子がそこに存在する理由はなんだろう。アカシックレコードの内部に何故、彼女は居る。

 

 アカシックレコードがどのような存在なのか、僅かな知識を総動員して考えても、彼女がそこに居る正当な理由は見当たらない。そうだとすれば彼女はアカシックレコードにとっては異物のはずであり、世界のシステムの一つであるアカシックレコードがそれを排斥しようとしないというのは不自然だろう。

 

 ならばあそこは、きっと似て非なる場所。

 

 得られた知識を繋ぎ合わせる。あそこが何か分かれば、正当な八海山であるという言葉を漏らしていた。だとすれば……あそこは八海山の為の場所だろうか。ある種の礼装、あるいは魔術によって作られたと思われるあの空間。そこに接続できるのは血筋によるアクセス権限を持っていなければいけない?

 

 いや、しかし……あの口ぶりでは死んだ人間全ての魂、あるいは記憶が貯蔵されていると思われる。そんな空間、本当にアカシックレコードかと思ってしまうほどの場所を作り出すなんて……宝具じゃあるまいし、有り得るのだろうか。

 

 あるいは、本当に宝具? はは、だとしたら八海山は名門中の名門ということになる。私が伝承保菌者(ゴッズホルダー)とは冗談も大概にするべきだろう。

 

 いや……突拍子もないが、あるいは有り得るのだろうか。こう言っていたじゃないか、『太古はそうであったかも知れん』、『神秘が世に溢れていた時代の話』、『昨今ではそちだけ』。この口ぶりからすれば、八海山は太古より存在していたと推測できないか?

 

 特に最後の言葉が決定的だ。昨今では私だけ、ということは、彼女はずっとあの場所に居るということだろうか。昨今という言葉の比較対象に据えられているのは神秘が溢れる太古の時代だ。八海山は皆あそこに接続できるのだろうか、という疑問の答えが太古はそうであったかも知れない、というものだ。つまり、私が知るよりもっと長い歴史を持つのだろうか?

 

 例えば名を変え、住処を変え、西洋の魔術形態の魔術師に成りすまし、そうやって連綿と血を絶やさずに、誰にも知られずに。

 

 誰にも知られないというのは、まあ分からないわけでもない。今までの仮定が正しいとすれば災禍の種だ。だってそれはつまり、失われた神秘すらも再現できる可能性もあるのだ。

 

 あの場所で見た記憶。誰の記憶かわからないが、確かにあの場所が過去を記録しているのは間違いないのだろう。それらを私は垣間見た。未だ実感を伴わないが、確かにあのとき誰かの記憶を『受信』していたのだ。あの場所に太古のものも色あせることなく存在して、それを覗くことが出来るとすれば、それは魔法への近道だ。

 

 魔術師は過去に向かって疾走している生き物である。だとすれば八海山は魔術師じゃない。なぜならば、八海山は過去に向かって“跳躍”しているのだ。

 

 なんという反則。遠坂さんが聞いたら卒倒するかも知れない。せいぜい余計なことを言って刺激しないようにしておきたいことだ。

 

 どうやら長く寝ていたのか、難しいことばかり考えていると少し疲れた。もっと脳を休ませることのできることを考えよう。深く考えず、ぼんやりと思い返す。

 

 過去を記録する場所。過去、か。

 

 過去という単語から昔を思い返してみる。いや、我が事ながらいい加減な人生だったと思う。

 魔術に染まるでもなく、表の世界に浸りきるでもなく。それは言わば惰性のようなものだ。ただ流れに身を任すだけの、そんな人生。

 

 それは治りがたい悪癖なのだろう。後悔こそしていないが、士郎さんや遠坂さんに協力しているのだって、流れに逆らうのが億劫だっただけなのだろう。信頼するに値すると思ったからこそだが、私がここに居る理由なんか無かった。

 拒絶すれば諍いを呼ぶ。拒絶せず、主張せず、常に一歩引いて周囲に気を使っていれば誰とも面倒を起こさずに済む。後々に皺寄せが来たとしても、それは今じゃない。

 

 ――――は。何が過去に跳躍する、だ。私には語るべき過去なんて無いじゃないか。

 

 両親を殺されたこと? 確かに憤りを感じるし、それで使命感を帯びたりもする。だが忘れてはいけない。その感情は、つい最近まで忘れていたのだ。

 

 つまりはその程度のこと。憤るのも、奮い立つのも疲れて、いつの日か忘れたのだ。多分この聖杯戦争中に感じたことなんて、数年もすれば綺麗さっぱり私の中から無くなる。キャスターの手に掛かった人々は無念だろうと思うし、キャスターやそのマスターであるらしい間桐臓硯は許しがたい。だがきっと、士郎さんのようにその感情を心に刻み付けることは出来まい。

 

 ――――何もかもがどうでも良い。

 

 その程度の薄っぺらな人間。過去が希薄なら、今も希薄。未来に期待もなければ夢もなし。

 

 ならなんで私は戦っているのだろう。命を賭してまで為さねばならないことなんて在るのだろうか。

 

 分からない。分からないからこそ、きっとこれからも惰性で戦うのだろう。人間というものは不思議で、分からないからといってすぐさま拒否には結びつかない。分からないが、それでも前に進んでしまうのだ。それは多分、分からないことを知るために。それに、これでも一応は魔術師。命を投げ捨てる覚悟は幼少のころに出来ている。

 

 ――――ああ、そうだった。一つだけ忘れずにいたことがある。あの大火災は覚えていた。うん、あれは忘れがたい。むしろ何でこれだけは覚えていたのだろうと不思議に思うほどだ。

 

 そうか。私でもちゃんと語るべき過去が一つあった。なら多分大丈夫だ。人間は過去を見つめて自己を形成する生き物だ。ちゃんと過去があるならば、私は大丈夫。

 

 脳を休めようとして、かえって精神を追い詰めてしまった。そろそろ目を開こう。きっとセイバーが心配している。それは本意じゃない。

 

 ちょっと鬱なことを考えたけれど何時ものように振舞わなくては。少し気合を込めてから、重い瞼を開くのだった。

 

 

 

 

 

「ミオ……! 目が覚めたのか」

 

 外はもう暗い。強い日差しに目が眩むかと覚悟して目を開いた分、やや拍子抜けだった。

 胸の上には荘厳な風格を備えた黄金の鞘が置かれてある。手に取ってみれば分かるが、凄まじい一品だった。士郎さんの投影品なのだろうか。

 

 なんでこんなものが置かれているのだろうと考えて、最後の記憶がフラッシュバックする。視界一杯に広がる爆発と全身を焼いた炎。我ながら、生きているのが不思議なほどの怪我をしたことは覚えている。

 

 携帯電話で日付を確認する。まだあの日から一日しか経っていないが、怪我は綺麗さっぱり消えていた。この鞘の効果だろうか。

 

「良かった。安心したぞ、ミオ」

 

「……ん。ゴメン、心配かけちゃった」

 

 軋む体を無理やり動かして起き上がる。淀みつつあった空気を入れ替えようと窓を開けると、空には明るい月が浮かんでいた。

 

「……ミオ、何か良くない夢でも見たのか?」

 

「…………なんで?」

 

「特に理由はない。だが、そう思ったからだ」

 

 思ったよりも鋭かった。隠しきれていないのだろうか。隠し事は人並み以上に上手なつもりだったんだが。

 

 正直に言おうか否か、やや逡巡する。セイバーには悪いけれど、今は黙っておくことに決めた。あれは不用意に口外して良いことだとは思えない。私自身の保身のためにも、ここは黙っておこう。

 

「いや……なんでもないわ」

 

 じっとこちらを見るセイバー。見透かされただろうか。セイバーが信用できない訳ではないけれど、それを説明できないジレンマ。

 

「……ならばいい。今日はもう、ゆっくりと休むといい」

 

「ん。……士郎さんと、遠坂さんは?」

 

「間桐家へ、戦いに赴いた」

 

「な……っ!」

 

 頭を殴られるのと変わらない衝撃だった。間桐家といえば、桜さんも間桐ではないのか。話によると桜さんは魔術師ではないということだったが、“そんな筈がない”。

 

 桜さんからは、微弱ながらもあの間桐臓硯の“臭い”が、――――魔術師の匂い、血の匂い、それらが僅かながらも、確かに感じたのだ。

 

 ――――何を考えているんだ、私は。知らない、私は知らないぞ、こんなことは。匂い云々は確かに私の経験だが、桜さんが魔術師だなんて断言できるほど確かな情報ではないはずだ。

 

 だが確かに知識がここにある。どこだ、どこで仕入れた知識だ。

 自明だ、あの場所。澪子の言うことが本当であるのなら……ソレを知っている誰かの記憶からだ。間桐桜の受難、悲劇を知るダレかの記憶。

 

 頭の中で再生される記憶情報。そうだ、私は桜さんを知る誰かを知っている……。

 

 ――――桜を、間桐から助ける為に――――

 

 一体いつ知ったのだろうか。私は思ったよりも長い時間あそこに居たのだろうか。それとも、無意識下でも記憶は流れ込んでくるのだろうか。

 

 ――――命を賭して戦いに赴き――――

 

 情報は断片的。ノイズだらけで、この記憶の持ち主がどんな最後を遂げたのか察せられる。だけれども、それを疑うことが出来ない。

 

 ――――何もかもを失い、最後には――――

 

 その記憶から伺えるのは、強い後悔と怨嗟。もうボロボロに擦り切れてしまっている記憶は、しかし強い思い故に未だ形を留めることに成功している。

 

 擦り切れたビデオテープのような記憶からは、その人と桜さんの関係はよく分からない。分かるのは、桜さんを間桐から救いたいという一念だけだ。そこには、命を賭したいと思うほどに大切な絆があった筈だ。

 

 ああ、この人の無念はいかほどだったのだろう。せめて、笑って逝ってくれていれば良いと思う。

 だが、報われたかどうかで言えば、きっとそれは否だ。だって、“間桐桜は未だに間桐”なのだから―――――

 

 ああ、さぞや恨みは深かろう。さぞや口惜しいことだろう。

 命を賭してもなお届かず、助けたいと思った人の受難は続き、それは今に至る。恨んでも、怨んでも、まだ足りないことだろう。その怨念が、この人をこうまで駆り立てたのだ。

 

 私の直感が告げる。この情報は、きっと正しい。こんなにも無念に満ちた思いが嘘であるわけがない。

 

「桜さんは!?」

 

「無理を言ってこの屋敷に泊めた。タイガも付いてきてしまったが」

 

 それは別にいい。でも良かった。桜さんと士郎さんが対峙するようなことにならなくて。そうなればきっと、臓硯は何かしら搦め手を弄するに違いないのだから。

 

 桜さんがこの屋敷に居るというのであれば好都合。私は私で、戦うべき場所があるということだ。

 

「セイバー、悪いけれど士郎さんたちの加勢には行かないで。私の戦場は、今回はどうやらここのようだし」

 

「……? 心得た」

 

 部屋を出て、桜さんに宛がわれた部屋をセイバーに聞く。私の部屋から幾つか跨いだ部屋だった。その扉の前に立ち尽くす。

 

 やはり、あの臭い。鼻が曲がりそうな、耐え難い悪臭の残滓が、確かにここにある。桜さんの優しい匂いに混ざり、隠れるようにしてそれがある。

 

 いつからだろう。小さい頃から、匂いで人を判断できた。良い匂いだと思えばそれは必ず良い人だったし、悪い臭いだと思えばそれは信用ならない人間だった。

 

 人の匂いというのは、香水なんかを使っても隠し切れない。いや、隠れていない。ファンタジー作品などで聞いたことがあるだろう、「人間の匂いがする」という科白を。私にはそれがよく分かり、空想の話だとは思えなかった。人間は、それぞれ個々で違う固有の匂いを放つ。それが私の、最も人と異なる部分だったのだろう。

 

 以前に凛さんと話していたこと。読心を使う八海山の魔術師が居たという話を思い出す。ああ、今思えば、これはそれに近いものがあろう。その人がどんな人間なのか、私に悪意があるのか無いのか、鼻を嗅がなくても匂いが伝わる。

 

 探索魔術も、実をいうとこれを応用したものなのだ。自分に悪意のある『脅威』であるか否かを判別しているのはこの能力に依存している。殺意、悪意、そういったものを鼻で感じるのではなく、もっと広義での感覚に置き換えて察知するのがあの魔術の根幹だ。知覚の拡張だって脅威探知の補助だけではなく、悪意の有る無しを正確に、かつ一度に複数を察知できるためのものなのだ。

 

 このヘンな能力があったからこそ、私は士郎さんと凛さんに協力しようと思ったのだ。あの二人の匂いは、どこか真っ直ぐで、それでいて危うい。特に士郎さんの危うさは凛さんのそれとは比べ物にならなかった。本当に協力を必要としているんだと感じたからこそ、私はここにいる。

 

 多分これも、あの場所に起因する能力であるに違いないのだ。あるいはあの澪子だろうか。

 

 いや、今は捨て置こう。今はやるべきことがある。

 部屋の扉に手を重ねる。目を閉じて意識を集中する。確かめなければならない。私の仮説と、あの不確かながらも訴えかけてくる情報の真偽を。

 

「――――Einstellung《設定》.Perceptual(知覚),Gesamtpreis《拡張》」

 

 知覚の拡張。本来とは違った特性の使い方、だけれど役に立つ使い方。

 

「Append(追記). Kreatur(生物),Eine Suche(探索)

 

 今回は『脅威』ではなく、生き物を探す。生き物には須らく魔力が宿る。それを探ればいいだけだ。ただ、普通の獣や一般人は極端にそれが少ないので普段はあまり役に立たないのが難点である。

 

 探索範囲を、この部屋だけに限定する。術を扱う私の処理能力に限界がある以上、範囲は狭ければ狭いほど精度が上がる。広い範囲から特定のものを探すのは骨が折れるが、狭ければ簡単に見つかる。この部屋程度ならば、ゴキブリの一匹さえ見逃さずに察知できる筈だ。

 

 ――見つけた。ベッドで寝ているらしい反応が一つ。やはり桜さんは魔術師だ。魔術を扱えるかどうかは捨て置いて、この魔力の量は普通の人間ではない。

 

 対象を桜さんだけに限定して探索する。全身隈なく、何も見逃さないように。

 

「――――これは……!」

 

 言葉に詰まる。これは、酷い。

 

 まるで蛆に集られた腐肉。ハリガネムシに寄生されたカマキリ。冬虫夏草……!

 

 全身、至る所に蟲が居る。桜さんの命を蝕み、それを代価に桜さんに魔力を提供しているのが感じられる。まるで魔術刻印だ。ここまで蟲に蝕まれて人間は生きていけるのか。人間に寄生する虫は確かに居るが、ここまでの量になって異常をきたさないのが不思議でならない。

 いや、異常を隠しているだけかも知れない。これで全く異常が無いなんてこと、有る訳がない。

 

一番深刻なのは心臓だ。ここに一際力の強い蟲が居る。心臓は人間が生きる上で最も大切な器官だ。ここに蟲が住み着いているとなると……いつ死んだとしてもおかしくない。

いや、この感覚。これは……間桐臓硯と同じ反応。

 

 何故だ。何故桜さんの中にあれが居る。

 いや分かっていたことだ。桜さんと臓硯が同じ匂いを発していた以上、これは予想された事態の筈だ。落ち着け。考えろ、八海山澪。

 

 間桐臓硯は無数の蟲の郡体だった。それは疑いようもない。あれは既に人間を辞めている。

 

 では、どうやってあの体を維持しているのだろう。蟲をただ寄せ集めただけでは、間桐臓硯という人格は形成できない。いくら精密に人体そっくりの肉の塊を形成したところで、一己の人格は宿らない。そこには魂が無いのだ。

 だとすれば、それを統率する主人格が必要となる。それが全ての蟲を統率することで間桐臓硯を構成できるのではないだろうか。

 そしてそれは、『間桐臓硯』だと思っていた集合体には存在しなかったのではないか。

 

 これは正しいように思う。臓硯と教会で邂逅したときも、蟲は一つの意思のもとに統率されていたはずだ。でなければ臓硯が全ての蟲を操ることなど出来ない。

 それと同じように、間桐臓硯の体も本体というべき何かによって遠隔操作されているとすれば? それならばいくら斬られようと全く堪えないのにも納得がいく。本体があの場に居たならば、運が悪ければそのまま切り殺されるのだ。あの場にそれが居ないからこそ余裕を持って斬られることが出来る。

 

 いや、そもそも臓硯はあのとき凛さんに完全に消滅させられていた筈なのだ。それなのに蟲に統率力は残っていたことが不思議である。

 ならばやはり、本体と言うべき何かは別の場所に存在するのだ。

 

 ――――それが桜さんの中に居るとすれば?

 

それならば桜さんの中に間桐臓硯の一要素が居ることに説明が付けられる。桜さんの命を吸い、桜さんを盾にして、自分はのうのうと生き延びている。桜さんが心臓を一突きにされない限りは安全で、そして生命力というべき魔力(えさ)が充満していて吸い上げる分には事欠かない。

 

こいつは素敵じゃないの。実に最悪だ。

 

 だとすれば、今間桐邸に行っている士郎さんたちは無駄骨だ。ここに間桐臓硯の本体が居る以上いくら蟲を殺したところで意味がない。こういうものは本体を叩かなければいずれ復活するのが常道だ。

 

“――――凛さん、今すぐ戻ってきて!”

“澪? 目が覚めたの!?”

“そんな事はいいから! そこには臓硯は居ないわ、臓硯は――――”

 

 ――――臓硯は、ここにいる。

 

 

  ◆◇◆◇◆

 

 

 本当にキリが無かった。もう百では収まらないほどの蟲を屠ったはずなのに、それでも次から次へと蟲が湧き出てくる。

 本当に屋敷ごと燃やしてしまいたい。しかしそれでは桜の帰る場所が無くなってしまう。それは本意ではない。

 

「■■■ォ■ォ―――ッ!!」

 

 バーサーカーがエントランスを駆け巡り、目に付く蟲を八つ裂きにする。調度品のいくつかが破壊され、壁には凄惨な爪あとが残されているが、この程度はいくらでも直せる。それよりもこの戦闘の先の見えなさに、俺と遠坂は焦りを覚え始めていた。

 

 臓硯も姿を見せない。蟲がこちらを認識して襲い掛かってくる以上は、臓硯も進入を察している筈なのだが、一向に姿が見えないというのは腑に落ちない。直接手を下すまでもなく処刑するということだろうか。それがこの蟲で可能とは思えないが。

 

 あるいは、戦う意思がない? 戦う意味がない?

 

 そんなことはない筈だ。間桐臓硯がマスターであって、聖杯を手にする意思が有るのなら、自らの領域に飛び込んできた自分達(てき)など確実に倒してしまいたい筈だ。

 いや、だったら何で聖杯を破壊しようとしたんだ?

 聖杯はもう要らない?

 

 馬鹿な。間桐臓硯のことを詳しく知るわけでは無いが、始まりの御三家の一角がそう容易く聖杯を諦めるとは思いがたい。

 

 いや、仮に本当に聖杯が不要だとする。だったら、自分達を排除する理由が無いはずなのだ。前回に俺と遠坂が聖杯を破壊したことを知らないはずが無いし、だったら俺達に協力こそすれ襲う理由がない。

 

 あるいは、既に聖杯を手中に収めている? 未だアインツベルンの手中の筈だが、もしもそうだとすれば?

 

 だったらどうだろう。無理に戦いは避けようとするだろうか。自然にサーヴァントの数が減るのを気長に待つ気があるならば、それは最も戦略的なのかも知れない。聖杯は勝者の獲得品だが、勝者しか使えないという道理は無いだろう。現に第四次の際には、勝者でないものが聖杯を使用している。

 だったらここで逃げの一手を打つのも納得が出来る。蟲たちを囮にして、自分は逃げる腹だろうか。

 

「――――騒がしいのう。このような夜半に、遠坂の令嬢が如何なる用向きで?」

 

 だが推論に反して、間桐臓硯は館の奥から姿を現した。カツリ、カツリと杖が床を打つ音が響く。蟲の羽音は相変わらず喧しいのに、何故かその音だけはよく響いた。

 

 枯れ果てたような手足に、しわがれた声。だがその窪んだ目から放たれる眼光だけは、それがただの人間ではないことを主張している。間違いなく、間桐臓硯その人であった。

 

 遠坂はそれが気に食わないのか、眉間に深い皺を刻む。その目は敵意に満ち満ちていた。

 

「……きっちり燃やしてあげた筈なのに、意外としぶといのね」

 

「カカカ……。いやいや、わしもあれは堪える。老体には響くものよ」

 

 その得体の知れない眼光が、つま先から頭までじろりと舐め上げる。爬虫類に這われているような、生理的な不快感を覚える。

 

「ふむ。さて、衛宮士郎といったか。先日の話の続きをしようかのう」

 

「――――」

 

 これは良くない。昨日のように、体が思うように動かせない。

 次の言葉を聞いてはいけないと分かっているのに、敵の言葉に耳を貸すなとセイバーに忠告されたのに、うまく行動できない。

 

「確か、桜を魔術師に仕立てるのか、という話だったの。……さてさて、どこから話したものか…………のう、遠坂の?」

 

「……黙りなさい」

 

 遠坂は下を向いたまま、静かに言葉を発した。手は血が滲んでいるのではないかと思うほどに握りこまれ、否、実際に血が滴るほどに握られている。表情を伺うことは出来ないが、遠坂にとっても聞いてはいけない話題なのか。

 

 臓硯はその様子を見て楽しんでいるのか、じっくりと嘗め回すような視線をよこす。口元は醜く歪み、その性悪さを殊更に主張してくる。遠坂に話を振ったのだって、遠坂にとって気分の良い話ではないことを知っていたからに違いないのだ。

 

「もう随分の昔になるか。第四次聖杯戦争が始まる前であったから、十七年以上も前の話よ」

 

「…………黙りなさい……!」

 

 遠坂の様子がよほど面白いのか、ますますその笑みを深める。

 遠坂は金縛りにあったかのように動かない。だがその全身から、怨嗟の渦が放出されていることだけは分かる。もしかしたら、遠坂は泣いているかも知れないとも思った。

 

「その頃に、ついに間桐からは魔術刻印が消えうせた。こうなってはもう、間桐の系譜は終わりかとも思ったがのう、天からの恵みというものが在った。魔術回路を持った子孫を作るため、遠坂時臣という当時の――」

 

「―――――黙れと言っているのよッ!!」

「■■■ァァ■■ォォ■ィィィッ!!!」

 

 目じりに玉を浮かべ、遠坂が吼えた。

 その圧倒的な怨嗟に応えようと、バーサーカーが冗談のような威力を秘めた剣を横薙ぎに振るう。まるで削岩機のような一撃だった。削岩機の刃に生身で耐えられる道理は無い。

バーサーカーが凄まじい速度で接近したと思った次の刹那には、臓硯の首は一刀の下に両断されていた。サーヴァントのクラスがバーサーカーであるということを差し引いても、肝が冷えるほどの容赦の無さだ。

 

 胴体から離別させられた頭が転がる。

 

 ――――だがあろうことか、首を絶たれてもその体は崩れ落ちること無く、転がった首を拾い上げた。

 

「聞く耳を持たぬ、とはこのことじゃのう」

 

「消えなさい、バーサーカー! 士郎、この蟲たちごと纏めて吹き飛ばしなさい、固有結界で!」

「あ、ああ……」

 

 もう完全に遠坂は我を失っていた。

 だが確かにこの期を逃す手は無い。さっきの推論が正しければ、臓硯は逃げを打つ可能性もある。だが固有結界の中に閉じ込めてしまえば、それも出来ない。

 

 加えてこの無数の蟲を倒すのにも都合がいい。屋敷を破壊する憂いもなく、魔力の無駄遣いと思えなくもないが、効率は良い。

 反対する理由はどこにも無いのだが、二の足を踏んでしまう。

こんな風に命令されるのは初めてだった。普段なら可能な限り使うなという程なのに、こんなことを言うほどに遠坂は取り乱しているというのだろうか。

 

 迷う俺を遠坂が凄い目つきで睨む。もはや、遠坂がバーサーカーかと思うほど憎しみに満ちた顔だった。その気迫に圧され、その呪文(ことば)を口にする。

 

「――――I am the bone of my sword.(体は剣で出来ている)Steel is my body(血潮は鉄で), and fire is my blood(心は硝子). I have created over a thousand blades(幾たびの戦場を越えて不敗)

 

「ほう……面白いものが見られそうじゃのう」

 

 臓硯が取れた頭部を切断面に押し付けると、それは元から傷などなかったかのように塞がる。キャスターのメフィティスとは違う、気味の悪さがあった。

 

「――――Unaware of loss(ただ一度の敗走もなく). Nor aware of gain(ただ一度の勝利もなし). With stood pain to create weapons(担い手はここに独り). waiting for one's arrival(鉄の丘で剣を打つ). I have no regrets.This is the only path(ならば、我が生涯に意味は不要ず)

 

 炎が迸り、蟲ともども此処に居る全てのものを飲み込む。

 肌に感じるのは焼けた風と熱い砂。剣を作り続ける、無限の剣の丘。

 

「―――My whole life was (この体は、)unlimited blade works(無限の剣で出来ていた)”」

 

 こうして世界は、俺の心象世界へと塗り替えられる。

 蟲は全て間桐臓硯の周囲に配置し、一塊にすることで一度に殲滅できるような位置関係を作る。

 

 腕を掲げ、それに合わせて剣が空に留まる。

 選んだ剣は、この世で名を馳せる炎の魔剣(フレイムタン)の数々。『害為す焔の杖(レーヴァテイン)』、『負けずの魔剣(クラウ・ソナス)』、『戦いの火炎(グンロギ)』、『煌く剣(リットゥ)』などから、名もなきフレイムタンも多数。

 傍にいるだけで肌に火が付きそうなほどの熱量。目の水分を瞬く間に持っていかれ、まともに前を見ることも難しい。

 

 『負けずの魔剣(クラウ・ソナス)』が炎とはまた違う白い光を発する。『戦いの火炎(グンロギ)』が唸る。『煌く剣(リットゥ)』がその姿を歪ませるほどに回転する。『害為す焔の杖(レーヴァテイン)』が、刀身から神聖を帯びた炎を吹き出す。

 

 それぞれが既に臨戦態勢。焼き尽くすべき獲物を見定め、それを自らの炎で絡め取ろうといきり立つ。

 

「――――Anfang(セット)」

 

 そしてそれは遠坂も同じだった。既にスカートのポケットから宝石を取り出している。冬原から貰ったものではなく、遠坂邸に在った虎の子だ。

 中に秘められていた魔力が開放され、それは凄まじい熱量の炎に変換される。

 

「お、おお……?」

 

 臓硯がこの圧倒的な火炎の前にたじろぐ。だがもう遅い。

 

「Ein KOrper ist Ein Korper《灰は灰に、塵は塵に》!」

 

 それを合図に、剣の群れと極大の火炎弾が射出された。

 

 瞬きする暇さえなく、それは狙いに寸分の狂いもなく、それらは間桐臓硯と脆弱な蟲たちに殺到した。

 着弾した瞬間に、それぞれの魔剣は火柱を上げてそれらを蹂躙する。遠坂の魔術もそれに負けじと炎を送り込む。

 

 限界まで熱された風が爆心地から吹き込む。炎は貪欲に次の獲物を探すが、もはや燃えるものは残っていなかった。徐々に炎は収まり、最後には溶けた地面と黒煙だけが残るのみだった。塵さえ残さない、一方的な殺戮だった。

 

 固有結界を解除し、元の風景に戻る。そこには数分前には居た諸々は居なかった。ただ暗くて静かな屋敷があるだけだ。比喩でもなんでもなく、塵さえ残ってはいないのだ。

 

「……はぁっ……はぁっ」

 

 遠坂の息が荒い。肩で息をしている。自分の息も荒いが、俺のそれは遠坂のそれには及ばない。

玉のような汗を浮かべ、否、滝のように汗を流している。

 あそこまで激高した遠坂は初めて見た。固有結界を俺に使わせるほどに、塵さえも残したくないと願うほどに、遠坂の理性は飛んでしまっていた。

 

 それはまさしく、逆鱗というに相応しいものだった。触れてはならない龍の逆鱗。それに触れたのならば、身を滅ぼされるしかない禁断の部位。

 遠坂にも逆鱗があるというのだろうか。トラウマか何かの類だろうか。それとも……恨み?

 

「……遠坂、大丈夫……なのか?」

 

「……大丈夫よ。……私は、大丈夫」

 

 自分に言い聞かせるような返答。未だ燻っているような気配はあるが、どうにか錯乱状態からは抜け出せたようだった。

 

 しかし、なにがそれほど遠坂を追い詰めたのだろうか。

 

 桜との間に何か在るのだろうか。確かに、間桐臓硯がこんな妖怪だったと知った今、桜がヤツに何かされていないのかと気遣う気持ちはある。だが……遠坂の反応は異常だった。

 

 一体何を知っているというのだろう。桜には、俺の知らない秘密があるというのだろうか。

 

 ――――魔術師? 秘密という単語からそれを連想した。その言葉の持つ意味を冷静に租借し、吟味する。

 

 有り得るか、有り得ないかで言えば……有り得る話だった。

 17年前に魔術回路が消えた……ということは、当然ながら慎二は正当な意味での“間桐”の跡継ぎではない。魔術師の後を継ぐのは魔術師だ。家の長にはなったとしても、魔術師としての間桐の長ではない。

 

 だとすれば、臓硯は跡継ぎをどうにか作りたいと考えただろう。魔術回路を後天的に付与する、養子を取る、あるいは魔術回路を持った子を産ます。考えられるのはこの辺りだ。

 

 しかし、養子を取ったところで意味はあるのだろうか。魔術というのはその血筋のものに以外には伝えることが難しい。誰にでも扱えるようなものはともかくとして、連綿と蓄積してきた魔術刻印の譲渡は不可能だ。

 

 ならば、その養子に子を産ませてはどうだろうか。間桐の血筋自体が途切れたのではない。あるいは子を産ますことも可能だ。これならば魔術刻印の譲渡も可能だろうし、魔術回路を持った間桐の子が生まれるだろう。

 なるほど、それが現実的なのだろうか。

 

 ―――――桜に……?

 

 待て、待て待て待て! これが正しいとすれば、桜はどこか別の家系から貰われてきた子で、しかも子を産むためだけに間桐に貰われたことになる。

 しかも……この地に魔術師は、隠れ住んでいる家系を除けば残りは遠坂だけだ。となると……間桐桜ではなく、遠坂桜…………?

 

 そんなことが許されるのか? 子供を産ませるためだけに子供を貰おうとする間桐と、そしてその現状を知りつつ子を渡す遠坂家。俺には“正当な”魔術師の考えなんか分からない。だが……あまりにも情がない!

 

 落ち着け、俺。今の段階では単なる妄想に過ぎない。ああ、いやでも。さっきの遠坂の反応を見れば真実味が増す。いやいや、早とちりするな。確かめなくてはいけない。遠坂に、何を知っているのか、聞かなければならない。

 

「遠坂……ちょっと聞いていいか?」

 

「澪? 目が覚めたの!?」

 

 おもむろに遠坂が声をあげ、かけた声が無視される。どうやら澪が目を覚ましたらしい。念話で話しかけてきたのだろう、ほっと胸を撫で下ろす。

 だが遠坂は取り戻しかけた余裕を失い、鬼気迫る様子だった。撫で下ろした胸に緊張感が戻る。どうしたのだろうか。

 

 念話が終わったのか、遠坂が突然走り出した。慌ててそれに付いていく。正面玄関を破るかのように疾走し、否、それを蹴破って外に出る。夏の纏わり付くような熱気が不快だった。

 

 庭を駆け抜け、街道へ出る。真っ直ぐに北の方角へ。どうやら俺の家に向かっているらしかった。

 

「どうした遠坂、お前なんかおかしいぞ!」

 

「臓硯はここには居ない。臓硯は、士郎の家に居るそうよ!」

 

「なっ――――」

 

 言葉に詰まる。俺の、家に?

 何が目的でそこに居るんだ。いや、そもそもつい今さっき跡形もなく燃やし尽くしたところではないのか。

 いや、それはいい。だが急がなければならない。

 

 そこにはセイバーが居るとはいえ、セイバー単体では間桐臓硯に対して有効な攻撃手段が無いのが事実だ。しかも、今日に限ってあそこには桜も藤ねえも居る。急がなければ、取り返しの付かないことになりかねない――――!

 

 走る。全力で、息をするのさえ忘れて。

 もっと、もっと速く。夏の熱気が纏わりついて俺の邪魔をする。それを振り払うように大きく腕を振り、足を限界まで動かして駆け抜ける。

 遠坂も俺の走りについて来る。桜のことが気がかりなのか、普段よりも随分速い速度が出ている。

 

「ハ―――ハ、ハアッ―――」

 

 肺が破裂するのと足が不能になるのと、どちらが先か考え出した頃に家に辿り着いた。

 全力疾走することおよそ十数分。魔力の消費も著しいこともあり、もう限界は目前だった。

 だが気を抜く訳にはいかない。一見したところ戦禍に巻き込まれている印象は受けないが、澪の話が正しければまさしく戦場の筈だ。

 

 だがそういった諸々の想像に反して、門にはそれに背中を預けて物思いに耽っている澪の姿と、周囲を警戒するセイバーの姿があるだけだった。

 

 セイバーがすぐにこちらに気付いて警戒を緩める。澪もこちらに気付いたようだった。

 

「澪、もう体は大丈夫なのか!」

 

「ごめん、急に呼び戻して。……話さなければならないことがあるの。ここでは拙いから、どこか別の場所に……」

 

 開口一番に謝罪する澪。だが話の流れがいまいち分からず、それが気に食わないのか凛が食ってかかる。

 

「ちょっと! どういうつもりよ、冗談でしたでは済まない話なのよ」

「遠坂さん」

 

 びしゃりと言い放つ澪。意外だった。澪があんなに語気を強めることが、今までにあっただろうか。

 

 その目は、何か不満を押し殺しているようにも思えた。敵意や殺意ではなく、ただ自分の不愉快を体現したような目つき。だが、そこに何となく悲しみのような、憐憫のようなものが混入している気がするのは気のせいだろうか。

 

「桜さんの話よ。桜さんと間桐家に関わる、大事な話」

「―――――……!」

 

 無言で驚きを表現する澪。それは臓硯に桜の話を聞かされようとしていたからか、それとも何か別の理由があるのか、それは分からない。だが、俺もあんなことを考えていた矢先なのでそれなりに驚きがある。俺のそれは飲み込むことが出来て、遠坂のそれは飲み込むことができなかっただけの話だ。

 

「……分かったわ。私の家でいいかしら」

 

 本人に聞かれたりすると拙いのか、それとも往来で出来る話ではないのか、俺達は遠坂の屋敷へと移動するのであった。

 その間、俺はぴりぴりと静電気を放つ空気をどうしたものかと悩まされ続けるのだった。

 

 

  ◆◇◆◇◆

 

 

 

 遠坂さんの家は、あまり帰っていないためかやや汚れが目立った。だが気になるほどではない。一人暮らしの男の家のほうがよほど汚いだろう。というか、私のアパートの部屋のほうが汚い。

 遠坂さんが四人分の紅茶を淹れる。私が持ちかけたとはいえ、長い話になりそうだった。

 

「さて遠坂さん、答えて欲しいんです」

 

 空気が帯電している。出来れば穏やかに話を進めたいところなのだけれど、これはそうはいかない話だ。色々と立ち入った話になる上に、下手をすれば遠坂さんと袂を分かつことになるかも知れない、デリケートな話だ。

 

「桜さん……桜さんが魔術師だということは、知っていたわね?」

 

 あの記憶で垣間見たことの中に、一つの風景があった。それはあの人の原動力ともいえる風景だったのだろう。強く、はっきりと、きっと最後まで心に抱えていた風景。

 

 それは、遠坂凛と間桐桜が一緒に野を駆ける姿だ。母親と思しき人物と一緒に、親子のように、姉妹のように。

 桜さんは髪の毛の色こそ違うが、紛れも無く桜さんだ。十年以上、下手をすれば二十年以上前のことなのだろうが、そこには同一人物だと断言できる面影がある。遠坂さんにも同じことが言える。

 

 その風景は、もしかしたら遠坂親子とその友達と判断できたかも知れない。だが……“そんな筈はない”。だってあの記憶は、確かに遠坂凛と間桐桜が姉妹であると断言しているのだから。

 

 自分でもあんな不確かなものを信じるなんてどうかしている。白昼夢、妄想の類かも知れないのに。でも……何故か疑えないのだ。

 

 質問を聞いて、一気に遠坂さんが殺気立つ。叩きつけられるような殺気を浴びるが、予想していたことなので怯まない。

 まずいな、これは本当にヘンに誤解を招けば袂を分かつことになりそうだ。

 

「と、遠坂……! それは本当なのか!?」

 

「黙ってなさい、士郎。……答えなさい、どこでそれを聞いたの?」

 

「答えられません。ある方から聞いたとしか、言いようがありません」

 

「……へえ。澪、臓硯から何か吹き込まれでもしたの?」

 

 これは良くない。今の遠坂さんは、何というか普段の冷静を欠いている。臓硯に何か吹き込まれたのはそっちではないのか、という言葉をすんでのところで飲み込んだ。これを口にすれば、遠坂さんはバーサーカーを出しかねない。

 

「…………リン、どうか落ち着いて欲しい。このままでは剣に腕が伸びてしまう」

 

「セイバー、悪いけれど消えていて。貴方が居ると遠坂さんが話せないわ」

 

 こちらが武器、というか戦力であるセイバーを出していればどうしても剣呑なものになってしまう。ここは悪いが霊体化してもらうか、いっそこの部屋から出て行ってもらうくらいで無ければ。

 

「……心得た。霊体化しておく。これで異存ないな?」

 

「十分よ。……さて、遠坂さん。私は別に遠坂さんを強請ろうとか、桜さんをどうかしようとか、そういう意図は一切ないの」

 

 実体を解いて姿を消したセイバーからもそれは伝わったと思う。そう信じるしかない。

 交渉ごととか、ディベートとか、私は苦手だ。自分の考えを主張するのが嫌いだが、今回はそうは言っていられない。ここでの立ち回りで、今後が決定してしまいそうだ。

 

「……じゃあ、どういう意図かしら」

 

「遠坂さん、これから話すことは嘘偽りの無い、私が実際に確かめた事実よ。落ち着いて聞いて」

 

 出来るだけ要領良く、事実のみを簡潔に、しかし詳細に話す。

 相手に話を信じさせるには、できるだけ感情を排除することだ。扇動するならともかく、感情的になれば相手はますます疑いを抱く。理路整然と、筋道立てて説明するのが最上だ。落ち着いて、私が誰よりも冷静になって、場を宥めるように言葉を舌に乗せる。

 

 それが功を奏したのか、遠坂さんも冷静になって話を聞いてくれた。こうなればこっちのペースだ。話すべきことを一気に話す。

 

 桜さんの今の体の状態のこと。間桐臓硯の一要素と思わしき蟲が心臓に寄生していること。

 

 ……そして、それには不可解な点が残ること。

 

「でもこんな危険なことを肉親にする理由がない。仮にも自分の血を受け継いだ子孫を、意味も無く虐げる魔術師は存在しないわ」

 

 あの不確かな情報に頼らず、理論的に話を進める。淡々と、私情を可能な限り排除して。

 

 虐待が考えづらいというのは、それは情に篤いという意味ではなく、利己的な意味が強い。

 魔術師にとって子孫とは神秘を託すための存在だ。自分の研究の成果を次代に引き継ぐのは、魔術師にとって義務ともいえる。

 それはつまり跡継ぎがいなければ自分の、ひいては先祖から受け継いだ研究成果を託せない。そうなっては全てが水泡に帰す。それを回避するためにも、跡継ぎを無意味に虐待するものは存在しない。跡継ぎが廃人では全くの無意味だ。

 

 そういった意味で桜さんの体は不可解だ。あれはまさしく命を代償にしかねない。度が過ぎれば、本当に寄生虫に殺される。

 桜さんの体質によってはある程度は耐えられるかも知れない。だが、あんなことを強いれば、遠からず破滅するだろうことが目に見えている。

 

 しかし間桐臓硯が不死身に近い体を持っているとすれば、若干話は違ってくる。そもそも跡継ぎを残す必要がないのだから。

 だが、それでもやはり桜さんに虐待する意味がない。魔術師とはどこまでも利己的な生き物だ。自分に害さえ無ければ、自分の利益にならないならば、人を虐待する暇を研究に充てる生き物なのだ。

 

 だから考えられるのは……別の家系の血を、間桐に寄せようとしたということ。

 その考えに至る根拠ならある。士郎さんの髪だ。今は白と赤銅色のメッシュとなっているが、以前まで地毛は赤銅色だけだったらしい。それが度重なる魔術使用の反動でそうなっているとか。

 

 そうなると桜さんの髪の色の変化にも説明がつく。前は遠坂さんと同じ黒だったのが、血をより間桐へと近づけようとした副作用としての変化。十分に考えられる話だった。

 

 つまり……その経緯こそ不明だが、遠坂家から間桐家へと貰われ、そこで間桐の血筋となるべく無茶な改造を受け続けたということだ。

 そして、多分それは遠坂さんも知っているはずなのだ。

 

「待って、何でそこで遠坂家が出てくるのかしら?」

 

「惚けないで下さい。この地に間桐と釣り合う家は、遠坂しか居ないはずです」

 

 始まりの御三家ともあろうものが、格下の魔術師から子供を貰うとは思えない。

 それに、今ならなんとなく分かるのだが、遠坂さんと桜さんは匂いが似ているのだ。育った環境が違うからか微妙に違うが、根本で同じものを持っているように思う。

 

「…………遠坂、澪……今の話、本当なのか?」

 

 おずおずと士郎さんが聞く。その反応も当然だ。信じられる話ではないだろう。むしろ卒倒するか、頭に血が上って暴走するかのどちらかだと想像していた分肩透かしを食らった気分ではあった。どこか頭の片隅で覚悟していた話なのかも知れない。

 

「私の話は、最後の推論を除けば真実よ。いずれにしても、桜さんからあの蟲を除去しなければ桜さんの命に関わるだろうし、臓硯と決着をつけたことにはならないわ。……でも、はっきりさせたいの。知ってしまった以上、当人からどう終結させるのか聞きたい。

 遠坂さん……桜さんを、どうして欲しいですか?」

 

 もしも……もしも、遠坂さんが桜さんの現状を知って、それでも知らないと言って切り捨てるようであれば……桜さんのことを既に他人であると言って切るならば……この人とは、袂を分かつ必要がある。

 だからこそ、遠坂さんの思いを確認しなければならない。だからこそ、この話を切り出した。

 

 遠坂さんは、じっと手に持ったティーカップの中身を眺めている。その水面は、小刻みに揺れていた。

 

「…………ある日、間桐から申し出があったらしいの」

 

 ぽつりと、呟くように、その独白は始まった。遠坂さんが顔を上げると、その目には今にも零れ落ちそうなほどの涙が湛えられていた。

 

「間桐の家には、ついに魔術回路が発現しなかった。そこで、よその家から子供を貰おうとしたらしいわ」

 

「…………」

 

 誰も口を挟まない。いや、挟めない。

 懺悔は、それが終わるまで優しく聞き遂げるべきだからだ。

 

「間桐から見れば運のいいことに、御三家の一角である遠坂には第二子が存在したわ。臓硯が言っていたけれど、まさに天恵だったことでしょうね。

そして私の父、遠坂時臣はそれを受け入れてしまった。父は立派な魔術師だったけれど、唯一恨むべき点があるとすればこの一点ね。

 紆余曲折を経て、その子は間桐の家に行くことになった。姉は遠坂の、妹は間桐の子として育つことになったわ。

 その後はもう、別の家の魔術師としてしか接することは許されなかった。二度と姉と妹には戻れなかったわ。……いまさら、戻れるわけもなかった。

 きっと桜は泣いている。あの子は泣き虫だから、堪えきれずに泣いている。そう分かっていながら……私はどうすることも出来なかった……!」

 

 きっと、遠坂さんも辛かったのだろう。そうでなければ、こんなに声を震わすはずがない。

 大人の勝手な都合で引き裂かれて、以前と同じように接するにはあまりに遠くて。

 もしも出来るのなら、二人とも姉妹に戻りたいのだろうと思う。幸せに過ごしてくれるはずだった(さくら)さんのことを思えば、罪に思わないはずがない。

 幸せになれるはずだった運命を、それを見過ごしてきた非道を、きっとこの人は許せないのだろう。だからこんなにも辛そうなんだ。

 ずっと、ずっと十字架を背負い続けた。いっそ完全に他人になりきれるならどんなに気楽だったのだろうか。

 でもそれが出来ないから……遠坂さんは、苦しみ続けたのだ。

 

「今さら、どんな顔をしてあの子に優しくすればいいの? どんな顔をしてあの子の姉として振舞えっていうの?

 私だけのうのうと暮らして、桜だけが苦しんで……! 桜がそんなことになっていることも知らず、知ろうともせず、私だけが日常を享受した……!

 私は、何もかもあの子から奪ったわ。遠坂家に居れば得られたであろう平穏を、あの子の好きな人も、何もかも、何もかも……っ!」

 

 震える手を抑えてティーカップをソーサーに置く。

 俯いたその目から、ついに涙が零れた。ぽつり、ぽつりと、まるで堰を切ったかのようにとめど無く。涙はティーカップに落ち、紅茶を涙の分だけ染める。

 

「だけど……だけどもし、私でも一つだけ願えるのなら…………」

 

 声を絞り出す。その声には贖罪の想いが込められていた。

 

 きっと、ずっと後悔していたのだと思う。遠坂さんは、そういうことを割り切れなくて、それがずっと心を苛むと知りつつも、何もできなくて。

 罪の意識は、この世で最も重く苦しいものだ。それをずっと背負い続け、ひたすら謝りたくて、でもそれも出来なくて。

 そういった思いが溢れ、それは涙となって零れる。

 抑圧されていた感情は制御するのが難しい。普段は完全無欠を装う遠坂さんが泣き崩れたとしても、誰が彼女を責められようか。誰が彼女を笑うことができようか。

 

 ――――ああ、良かった。この人が魔術師である前に、一人の姉であってくれて、本当に良かった。

 

「――――あの子を、桜を、…………助けて……!」

 

 こうして、近くて遠かった姉妹は遅すぎた一歩を踏み出したのだ。



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Act.20 春の桜

 恥の多い人生を送ってきました。

 

 これは太宰治の『人間失格』だったでしょうか。確か、転落の人生を描き、最後には薬漬けになって精神科に放り込まれる男の人の話。その転落を、主人公は「こうなっては人間失格だ」と自虐する。

 

 だったらきっと、私もそうなのだと思う。

 

 この体は恥辱で薄汚れている。転落というより、墜落に近い人生だった。もうこれ以下など、私には思いつかない。そのお話の主人公だって、私から見れば随分と幸せな人生だと思った。だからきっと、私も人間失格だ。

 

 数多の蟲を受け入れている体。それはきっと、そこらの娼婦よりも汚らわしいのだろう。恥だといえば、それは間違いなくそうだと言い切れる。だって、それに甘んじている私がここに居るのだ。

 

基本的な人権すら、幼少の頃に剥奪された。その頃にはもう、世間でいう虐待の類は一通り経験したはずだ。

 自分の人生すら、何一つ決定は許されない。太宰治のように、自決という最後の砦すら用意されていない。だからきっと、そのお話の主人公は幸せだと思ったのだ。堕落できる人生すら、私には許されないのだから。

 

 しかしこれほど自分の運命を呪い、それでも運命に抗うこともせず、ただ流されてきた私こそ恥じるべきなのだろう。

 

 だからきっと、私は恥辱で塗れるのがお似合いなのだ。

 

 ――――太陽の光が嫌い。

 

 汚らわしく、汚濁に塗れたこの体を直視してしまうから。太陽の光は眩しすぎる。その光は私の汚辱を暴くだけでは飽き足らず、この体を焼く。

 夜のように優しければ、どれほどこの世界は祝福に満ちていたことだろう。

 

 先輩との生活は、それは泡沫の夢のようだった。一時でも、光の下でも生きていけるんだと思わせてくれた。

 だけど、希望は時に人を苛むことを知った。希望があるからこそ、人は絶望に苦しむのだ。闇しかなければ心を殺し、じっと身を強張らせれば済むというのに。なまじ希望(ひかり)があるから立ち上がってしまい、転んで痛みを覚える。

 だから、光が嫌い。希望が無ければ絶望も無いというのに。

 

 ――――夜の闇が嫌い。

 

 それは私を苛む時間だから。蟲蔵は、外の大気からも遮断された、正真正銘の闇の異界だ。その闇は光を覆い隠すだけでなく、この体を蝕む。

 太陽のように朗らかなら、この世界は憎しみから解放されているだろう。

 

 もう何年続いたか分からない時間。私はずっと闇の中で彷徨っている。この世界が私の運命を狂わせ、捻らせ、怨嗟の色で染め上げた。

 だけど、絶望は長くは続かないことを知った。最後には、それを行う気力すら奪われる。ただ、日々を生きる人形となってしまう。それでも何とか人間でいられるのは、そこに一縷の希望が残されていたからに他ならない。

 だから、夜が嫌い。太陽よりも、もっと嫌い。キライ、キライ、キライ。

 

 全部、きらい。

 

 この世の全てが憎い。太陽も、夜も、他人も、自分も、なにもかも嫌い。

 どれもこれも、私を苛むことしかしないのだから。唯一、先輩だけは私を苛めなかったけれど、それでも私を救ってはくれなかった。私の気持ちに気付いてくれなかったから、嫌い。遠坂先輩と一緒になってしまったから、嫌い。

 

 勿論、遠坂先輩だって嫌い。先輩を取っていったから。私の気持ちを知っていたはずなのに、何食わぬ顔で掠めていったあの人が嫌い。

 

 兄さんも嫌い。死んでくれて、本当に良かったと思う。お爺様に聞かされたときは驚きもしたけれど、悲しくはなかった。あの人は、私に何一つしてくれなかった。

 

 八海山澪という女の子は……まだ分からない。あの人も私に何もしないけれど、どうせ私を苛めるんだ。だから、嫌い。

 

 嫌い、憎い、だから赦せない。

 

 私を苛む人を、物を、世界を赦せない。

 こんなに苦しいなら、こんなに辛いなら、いっそ何も無い虚無だったらよかったのに。

 

 ――――でも本当は、誰かを赦したいんだと思う。

 

 衛宮先輩、遠坂先輩、兄さん。お爺様は赦せないかも知れないけれど、きっと私は皆を赦したいんだと思う。

 

 やっぱり先輩は、私の好きな人だ。私に日常を与えてくれた大事な人。この人を赦せないと、私には二度と日常が戻ってこない。先輩がいたからこそ、私はまだ頑張れているんだから。

 

 遠坂先輩も、いつか姉さんと呼びたい。血の繋がった実の姉妹だというのに、こんな関係はやっぱり悲しいと思う。今はまだ他人だけれど……いつか本当の姉妹に戻りたいと、何度願っただろう。

 

 兄さんも、赦したかった。生きているうちに、赦したかったんだと思う。あの人の置かれていた立場を考えれば……私に当たるのも無理からぬことだったのじゃないかと思う。もう少しだけ、義理だとしても良い兄妹の関係を築けたはずだ。

 

 赦せない、赦したい。

 

 だけど私は、やっぱり今日も立ち止まってしまう。

 ただ一言。「姉さん」とあの人を呼ぶだけで良かったというのに。

 ただ一言。「助けて」と先輩に訴えるだけで良かったというのに。

 そうすればきっと、何もかも上手くいっていたというのに。きっと、これ以上何かに怯えずに済んだというのに。

 あの人たちは、優しいから。きっと私を守ってくれたというのに。

 

 ああ、ついぞ「姉さん」と呼べなかった私。ついぞ「助けて」と言えなかった私。何度も口にしようとしたのに、出来なかった私。

 

 なんて意志薄弱な私。その気になれば、いつだって言えたのに。

 

 寂しいよ。淋しいよ。辛いよ。

 

 一人で迎える夜は、いつだって肌寒い。私の世界は、一人で居るにはとても辛い。

 だから本当は、大声で叫びたい。

 

 姉さん、姉さん、姉さん。

 助けて、助けて、助けて。

 

 ――――姉さん、先輩、助けて。

 

 願えるのなら。

 これから迎える夏に、海に行き。

 すぐに訪れる秋は、月を眺め。

 いずれ訪れる冬は、温もりに身を寄せて。

 春になったら――――桜を見に行きたい。

 

 ――――寒いよ、寒いよ、寒いよ。

 

 もしも、夜に横たわる私の手を握ってくれる人が居たなら……私も、もう少しだけ勇気が出せたかも知れない。

 

 何も出来ず、何もしようとしなかった私だけど……運命に抗えるのかも知れない。

 

 だから、本当は今すぐにでも叫びたい。

 

 ―――姉さん、先輩――……寒いよ、助けて……。

 

 まどろみの中で、不意に頬に落ちる熱いものを感じる。

 その温かさに引かれて、少しだけ瞼を開く。

 

 ……あんなことを思っていたから。何度願ったかも分からない、私の左手を握る姉さんの姿がそこにあった。

 

 ずっと泣いていたのだろう。目は赤く、すでに腫れぼったくなっている。

 だけど私の手を握るその指先は優しい。もう片方の手で私の頭を撫でてくれる。

 ――――もう思い出せないほど、遠い昔。こうしてぐずる私をあやしてくれた気がするのは、何故だろう。

 

 気がつけば。私の右手には、先輩の手が。

 ああ、なんて心地いいんだろう。まどろみの胡乱では、これが夢か現実かもわからない。

 だけど、だけどもし、これが夢なら……覚めないで欲しい。

 

「――――桜。あなたを、助けに来たわ」

 

 私が起きていることに気がついたようで、まだ流れる涙を堪えようと、精一杯の笑顔を私に向ける。それが痛々しくて、嬉しくて。まだ寝ぼけている私も笑顔を返そうとしたけれど、口をついたのは間抜けな言葉だった。

 

「――――どう、して……?」

 

 きっと、その言葉の意味を理解できていなかったのだと思う。私には無縁だと思っていた言葉。私には過ぎた言葉を投げかけられ、それに喜ぶよりも、疑問が先に放たれる。

 

 ――――本当は、泣きたいくらい嬉しいのに。

 

「あなたは、私の妹だから」

 

 その言葉にどれほどの想いが込められていたのだろう。

 もう顔は涙でぐしゃぐしゃで、普段の瀟洒さは微塵も無い。

 だけれど、何故だろう。今なら、姉さんと呼べるような気がした。

 

「……姉さん」

 

 言えた。ついに、言えた。

 この肩に圧し掛かっていたものが、霧のように消えた気がした。姉さんもそれは同じらしく、何だか優しい顔をしている。

 

 救われたのは、私のはずなのに。何故か、救われたのはこの人じゃないかと思うほど――――優しい顔をしていた。

 

 先輩が名残惜しそうに指を手から離す。先輩も、なんだか泣きそうな顔をしていた。

 私の手の代わりに握られたのは一振りの剣。仏閣で見るような、柄の上下が鳥の爪のような形状をしている剣だ。刃は迷いのない鋼。優しく、温かな光を放つ剣だった。

 

 その剣の切っ先が私に向けられる。

 不思議と怖くはなかった。それを持つ先輩の顔が、とても優しかったから。

 

 その切っ先が迸る。

 

 感じたのは僅かな衝撃と、心臓の熱さ。

 痛みは無い。痛みを感じる間すらなく死ねるのであれば、それはそれで良いと思った。

 

 ――――だって、姉さんと呼べたんだから。

 

 心臓の熱さ。いいえ、温かさに導かれて、再び深い眠りに落ちていく。

 

 後悔なんて無いけれど、未練ならある。私の我侭だけど、これは私のささやかな夢だ。

 姉さんと、先輩と、私。何もかもが終わったら。胸を張って姉妹と呼べるようになったら。三人で――――春の、桜を…………

 

 

  ◆◇◆◇◆

 

 

 私とセイバーは、居間の縁側から月を眺めていた。

 

 私達が入っていける余地なんて、それこそ一寸たりともない。私に出来るのは、桜さんの異常を察知して、得られた情報から色々と推測することだけだ。これ以上、私が桜さんにしてあげられることなんて無い。

 降って沸いてきたかのような、ぽっと出の人物がこれ以上割り込んでいい問題ではないのだ。

 

 唯一できることといえば、あの人たちの問題がちゃんと解決できるように、席を外すこと。

 かといって先に寝てしまえるほど厚顔にはなれず、あぶれた者同士、月と星を眺めている。会話は無いけれど、不思議と苦痛ではなかった。

 

「……シロウたちは上手くやるかな」

 

 ぽつりとセイバーが洩らす。気が揉んで仕方ない、という訳ではなさそうだ。ふと思い出したかのような言葉は、しかし温かさに満ちている。

 

「上手くやるでしょ。あの剣を使えば、桜さんの肉体面の問題は解決する」

 

 士郎さんが投影したのは、不動明王の持つ『三鈷剣(サンコケン)』。これは、仏教に少しでも触れたことのある人であれば知っているだろう。

 柄は棒状で、その上下にフォークのような刃が三つついている。三鈷杵(さんこしょ)、あるいはヴァジュラと呼ばれているものと同じ形状だ。

 ただしその三鈷杵に、鋭利な剣が生えている。両刃の、一切の装飾が見受けられない剣だ。

 

 魔を絶ち、人とそれを別つ。煩悩を砕き、人とそれを別つ。それが三鈷剣。人を救うために、人から悪を切り離す剣。

 

 不動明王は、その右手に持つ三鈷剣で人を救うための明王だ。『羂索(けんじゃく)』という、悪を縛り上げ、また煩悩から抜け出せない人を掬い上げる投げ縄を左手に持ち、迦楼羅焔(かるらえん)という炎を背に負う者。

 「衆生を救うまでは、ここを動かじ」といって火生三昧(かしょうざんまい)と呼ばれる炎の世界に座し、民衆を教えに導きながらも人間界の煩悩や欲望が仏界に波及しないよう聖なる炎で焼き尽くすと言われる。

 

 まあ、つまり言いたいことは。士郎さんみたいだなということだ。

 

 人間界を魔術師が蔓延る裏の世界。仏界を一般人のための表の世界と言い換える必要があるが、その在り方はまさしくそうだろう。

 

 そんな士郎さんが三鈷剣を握ったのだ。剣がそれに応えないはずがない。

 三鈷剣は、余すところなく桜さんと“魔”を別つだろう。人に憑いた悪鬼を滅ぼすための剣だ。それが出来ない道理は無い。当然、人を救うことに特化した剣が桜さんを傷つけることも無い。

 

 だから、問題があるとすれば、

 

「心の問題は、これから徐々に解決するしかないけどね」

 

 少なくとも、差し迫った問題はこれで解決する。

 間桐臓硯は、三鈷剣の刃で殺されて。桜さんを苛むものは何も無くなる。

 

 だがそれは全て肉体面の問題であって、心の問題は時間をかけて解決するしかないだろう。

 おそらくは、三鈷剣が桜さんの迷いを断ち切るだろう。だが……それがどっちに転ぶかは、当人たち次第である。迷いがなくなった結果、完全に縁を切ることも考えられるのだ。

 

 迷いとは、時に現状を維持する力だ。それを絶たれたら……最悪、修復不可能な方向に針が振り切れることも考えられる。

 勿論、良い方向に転ぶことも考えられる。だがそれは、関係を修復する気があるのか、それとも関係を絶ちたいのか、というあやふやなものだ。少なくとも、まだ関係の浅い私には分からないこと。

 

 桜さんの心次第だ。どちらの方向に転ぶかは、もはや当人にしか分からない。

 

「だが、何故だろうな。心配せずとも大丈夫な気がする」

「奇偶ね。私もそう思うわ」

 

 確たる自信があるわけではないが、何となく、桜さんは大丈夫だと思うのだ。

 それに、実際のところ三鈷剣がそこまでするかどうかは不明だ。伝承には煩悩や迷いも断ち切るとあるが、それは悟りを妨げる要素としての迷いを指すところが大きい。多分だが、臓硯と蟲を断つだけで終わると思うのだ。

 

 まあ、仮に桜さんの迷いを切ったとしても。やはり大丈夫だろう。

 今でこそ捻れてしまっているけれど……遠坂さんと、桜さん。良い姉妹だと思うのだ。

 

「……ねえ、セイバー。私たちは、聖杯を壊すという目的があって動いているけれど。本当はどう思っているの?」

 

 ふと口から放たれたのは、そんな疑問。

 こうやってゆっくりと話す機会はあまり無かった。そう思ったら、何だかちゃんと聞いておかなくちゃいけないような気がした。

 

「……どうか、とは?」

 

 質問の意味を図りかねているようで、質問を返された。

 自分でもなんでこんなことを言ってしまったのかよく分からないけれど、やはり、この際だから心の問題は解決しておきたいと思ったのだ。

 

「聖杯を破壊する、ということは……私は、セイバーを否定したのよ。願いがあって召喚に応じたセイバーの目の前で、私はそれを拒絶した。

 他のサーヴァントのことなんて、よく分からないけれど……私、あのとき斬り殺されていてもおかしくなかったと思うわ」

 

「……さて、どう答えたものか」

 

 セイバーは月を見上げながら、困ったような顔をする。

 胡坐をかいて月を見上げるその様は、空に輝く月や星に負けず、なんだか貴いものに思えた。

 風がそっと頬をなぜる。それに合わせて、セイバーの金の髪も優しく揺れた。

 

「聖杯の正体を聞かされたことも一因であるのは間違いない。話によると、聖杯は世に出してはならないモノのようだ。

 だが、それで聖杯を諦められるのか、と言われれば……即答できんな」

 

 それはそうだろう。あのとき、セイバーは最後まで士郎さんの話を疑っていた。

 

「しかし、やはり過去を改竄することは、如何なる神秘を以ってしても不可能だと理解もしていた。それでも聖杯ならば、と淡い期待を抱いていたが、士郎の話で諦めがついたというものだ。

 それに……本当に叶えたい願いは、聖杯の助けなど必要ないからな」

 

「本当の、願い?」

 

「ああ。……ミオに私の名前を隠している手前、あまり話せないが。

 私には友が居て、彼を私の過ちで亡くしてしまったことは、既に話したと思う」

 

 黙って首を縦に振る。士郎さんに、聖杯にかける望みを尋ねられたときの話だ。

 その戦いを無かったことにし、せめて友だけでも死なせずに済む結末を。というのがそのときに話していたことだ。

 

 友というのは、やはりあの時夢で見たあの男のことだろう。セイバーの傍らで馬に跨り、数万の軍勢と共に行軍していたあの風景だ。

 

 ――――今思えば、あの夢は。霊的にセイバーと繋がっているからなんかじゃなく、あの不可解な場所から持ってきた記憶だったのだと思う。

 

「私はな、ミオ。その戦いで、私だけが生き残ったのだ。

 私には剣の他に、もう一つ宝具がある。それは生前に王から与えられたものなのだが、これの使いどころを間違った。

 ――――結果として、我が軍は私を除いて全滅。相手の軍勢もほぼ壊滅状態であったのだが、私の汚名を雪ぐ戦果では無かった。

 つまり言いたいことは、私は生前に誰も守れなかったのだよ。傍にいた友すら守れない騎士だ。私の過ちで数万の友軍を失い、そのくせに私だけが生き残る。

 騎士ではないミオには実感が沸かないかも知れんが……私は、誰かを守り通したいのだ。私は貴方の友として、貴方を守りたいのだ。そうでなければ胸を張って騎士などと言えん。武勇などもう要らない、ただこの手に何かを残したいのだ。

 それが、私がミオを切らなかった理由だ。このように美しい貴婦人(マスター)を守れるなど、騎士の本懐に尽きるというものだ。しかも、聖杯を破壊できれば町をひとつ守れる。こんな私でも、英雄になれるのだ」

 

 そう言って笑みを零す。いつもの、邪気のない子供みたいな笑顔だ。

 この笑顔は、好きだ。とても温かく、その笑顔を向けられた人は心が洗われるだろう。勿論のこと恋愛対象としてではないが、この笑顔を向けられて彼を嫌うのは、中々難しいことのように思えた。

 

 ……しかし、さらりと恥ずかしいことを言ってくれる。どう答えたものか、考えあぐねる。

 

「こんなところに居たのか」

 

 丁度良いところに士郎さんがやってきた。どうやら、全部済んだようだった。

 手にはビニール袋を持っているが、その中身は薄暗闇の中ではよく分からない。ちょっとした量があるように思える。よく見ると、少しばかり液体も混ざっているように思えるが、やはり中身は分からなかった。

 

「……なにそれ」

 

「間桐臓硯の本体と、桜の中にあった蟲の全部。死体を放置すると、腐って有毒なガスが出ちゃうからな。ちょっと苦労したけど、三鈷剣で全部摘出した」

 

 聞いて袋から目を背ける。なるほど、あの液体は蟲の血だったか。

 あまり見たくないが、こうなるとその量に呆れるばかりだ。人間に寄生する虫は、それなりに種類が居るけれど、こうまで大きい蟲はそうそう居まい。それどころかこの量、一般人であったらならば間違いなく致命的だ。

 ある程度分かっていたことだが、実際に目にすると、痛々しくて仕方がない。桜さんはこれに長年耐えてきたのか。

 

 蟲は剣で斬られたためか、ピクリともしない。三鈷剣は効果を存分に発揮したようだ。間桐臓硯も、桜さんに寄生していた蟲も、剣に切り裂かれて命を絶たれたようだ。

 少々呆気無い幕引きだったが、こんなものだろう。もともと脆弱な蟲のこと、潰れるときは一瞬だ。

 その蟲に意識不明の重態を負わされたのは、ちょっとした失態だったけれど。まあ、終わりよければ全て良しということだ。遠坂さんあたりからはお小言が来るかも知れないけれどね。

 

 士郎さんは縁側から庭に降りる。何をするのかと思って見ていれば、土蔵からシャベルを持ち出した。それを使って庭の片隅に穴を掘る。どうやら墓を作るようだ。

 正直言って、その辺りに放り捨てておけば良いと思う。だけど、これが士郎さんの良いところなのかも知れない。

 私としても、死者を貶める趣味なんかない。死者は語らず、動かず、何もしない。死者だからこそ、最低限の尊厳くらいは守ってあげてもいいかな、と思う。

まあ、死体がこうして残っていたから言える話だけれど。生きている人間には容赦なんかしない。士郎さんだって、生きている臓硯に対しては、死体も残さないぐらいのことをするだろうし。

 

 埋葬が終わったころを見計らって、気になっていたことを聞いてみることにした。そこにあったサンダルを履いて、芝生の覆う庭に出る。

 

「……桜さんは、どうしているの?」

 

「桜は今眠っているよ。遠坂が診ている」

 

 そっか、と小さく答える。さすがに直ぐに起きるなんてことは無いだろう。色々話したいが、それは遠坂さんが最初にするべきだし。次に士郎さんで、最後が私。

 藤村さんは、どうやら正真正銘の一般人であるみたいだし。彼女には全て内緒で事を進めなくちゃ。

 

 衛宮さんが、少し堆くなった土に墓標代わりの石を置く。

 澪子という女性に、葬儀というものは捨て置けないと言われた手前、手を合わせておくことにした。何なら祝詞ぐらい歌ってあげてもいい。

 ……といっても、神式の葬儀であげる祝詞は相手の略歴や人柄を盛り込んだものだ。祝詞があげられるほど、私はこの蟲翁のことを知らない。

 さてどうしようか、と困って。いつぞやの一切成就祓(いっさいじょうじゅのはらえ)をあげることにした。

 

 心の中で小さく呟く。さすがに声にだして歌ってあげるほど、私の心は広くない。

 ――――極めて汚も滞無れば穢とはあらじ。内外の玉垣清淨と申す。

 ……うん。ま、あの世なんてあるのか知らないけれど。そこで罪を削ぎ落とすといいよ。

 

「……これで大団円、かしらねえ」

 

「そう言うにはちょっと早い気もするけどな」

 

「確かに。……桜さんは、これからどうするんでしょうね」

 

 月を見上げながらぽつりと洩らす。

 

 桜さんには、今や未来を選択することが許される。今まで周囲に強制されていたが、それから開放された今、桜さんの意思が最重要だ。

 それはつまり。遠坂さんの妹として生きるか、他人として生きるか。

 さらには。魔術師として生きるか、一般人として生きるか。

 

 前者の問題は、セイバーとも話し合ったからあまり気にならない。だけど後者はちょっと胡乱だ。これこそどう転ぶか分からないのだ。

 肉親云々という問題は、まあ一般的な倫理に照らし合わせることも可能だ。よほどトチ狂った魔術師で無い限り、やはり倫理観は持ち合わせる。まあ、一般人のそれとは若干違うんだけれども。

しかし、魔術師といえどやはり人の子。やはり肉親は大事にしたいと思うし、一般的な倫理観に基づいて動くこともある。そういう意味で、ある程度は桜さんの方向性を推測できるのだ。

 

 だけど、魔術師か一般人か、という問題になると……どっちに転んでも、何も問題が無いだけに推し量れない。私みたいに、中途半端な中間地点を進むことだって可能だ。あるいは、士郎さんみたいに、魔術を目的ではなく手段として学ぶことも出来る。もちろん、そういった邪道ではなく、遠坂さんのように正道な魔術師として生きることもできる。

 

 そしてそのいずれを選んでも、誰も傷つかないし、誰も問題ない。全ての可能性が平等に存在するからこそ気になる。だから桜さんに近しい士郎さんに、意見を聞いてみたいと思った。

 

「……どうだろうな。魔術回路は全て残っている。さすがにそれを断ち切ると、どんな影響が出るか分からないからな。……それをどう使うかは、桜次第だ」

 

「本音は?」

 

「…………桜が魔術師だったというのは、驚きもしたし、軽くショックを受けた。俺にとって桜は、何て言うか……日常そのものみたいな感じだったし。勿論藤ねえも。

 だから……俺は、桜には魔術師以外の行き方をして欲しい」

 

 そう言うと思っていた。

 でも、私の意見では、桜さんは魔術師として生きるのではないかと思っているのだ。そういった、いわゆる“異能”は“異能”を引っ掛けてしまう。そういったものと無縁で過ごそうとしても、周囲から引き寄せてしまうものだ。

 私のアパートだって、弱いながらも並大抵の霊は進入できないように結界を張ってある。副作用としてゴキブリが寄り付かないのは大変好都合だ。

 

 閑話休題、とにかくそういった処方を覚える必要がどうしても出てくる。裏の世界には、裏の世界なりの世渡りの方法があるのだ。私のアパートや、この屋敷が結界を張っているように。

 

 そういった意味で……既に魔術回路が開いてしまっている以上、どうしても異能と無縁では過ごせまい。士郎さんが望む、魔術師以外の生き方というのはかなり難しい。

 当然、こっちの世界に来ることは無いと思う。桜さんに魔術師は似合わない。私みたいに中途半端に進むのならともかく、典型的な魔術師――――すなわち、自分の研究のためなら一般人に犠牲を出しても平気で、命よりも研究のほうが大事、という連中の仲間入りをしてほしくないのが本音だ。

 

 まあ、ここで士郎さんと議論を交わしても詮無きこと。最終的には桜さんが決めなければいけないことだ。

 

 他にも気になることは山ほどあるが、いずれもここで話しても仕様がないことだ。今後、遠坂と間桐どちらの名を名乗るつもりなのか。聖杯戦争の期間中、このまま衛宮邸に住まわせるべきか。エトセトラ、エトセトラ。

 

 まあ、どれも桜さんが目覚めてからだ。

 長い間昏睡していたからか、あまり眠気がない。今夜は月を眺めて過ごそう。セイバーと一緒に、月見酒も悪くはない。

 

 踵を返して居間に上がる。士郎さんもお酒に誘ってみたが、無下にも断られた。

 まあいい、士郎さんも色々と考えたいのだろう。気楽でいられるのは私とセイバーだけ。かといって眠くもなく、思案に耽るほどのこともない。

 

 ならば眠くなるまで呑もう。きっと、今夜の酒はどんな安酒でも美味しいと思うのだ。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 その場所で、目当ての者を待つ。

 保障などないが、クラスを鑑みれば此処に足を運ぶ可能性は高い。この町で一番高い建物――――新都センタービルの屋上の、その淵に腰を下ろして、じっと町並みを眺める。戦火が見えればすぐさま駆けつける心積もりであるが、もとよりそこまで視力は良くない。この近辺で戦闘が勃発すれば話は別だが、そのときはおそらく自分が戦火の中心だろう。

 

 ライダーは顔をあげ、星を眺める。

 目当てはアーチャーだった。絶対ではなかったものの、ここで一度顔を合わせるべきだとライダーは考えた。

 黒兎も白兎もここには居ないが、問題は無かった。階段やエレベーターで馬を上階まで運ぶのは非常に骨が折れるため、ここまで乗ってきた愛馬は近辺においてある。加えれば、サーシャスフィールもここにはいない。

 

 独断だった。

 

 アーチャーが足を運びそうな場所は此処以外には思いつかず、かといってこん場所はマスターを連れ込むには狭すぎる。特に相手はアーチャーだ。戦闘中にも常にマスターを庇うように立ち回る必要が出てしまう。マスターが射線に出た瞬間に射抜く程度の腕前は、当然持っていると考えるべきだ。

 

「……来たか」

 

 ぽつりと呟く。だが腰は上げない。無防備にも、出入り口に背中を晒し続けている。

 もとより、戦闘が目的でここに居るのではない。だが正直なところ、戦闘になったとて勝つ自信がある。

 ライダーが持つ、相手のステータスを低下させる宝具。ライダーが敵であると認識している相手を弱体化させるそれは、当然ながらアーチャーにも有効である。現に、以前アーチャーの膝を砕いた。既に完治しているだろうが、少なくとも自分を脅威と思っていることは間違いない。勝機は、それでこそ在ると考えていた。

 

 さて、彼は壁を蹴って上がってくるのか、それとも内部を通って来るのか、と愚にもつかないことを考える。どうやら前者だったらしく、壁を蹴って一直線にこちらに跳んできた。

 

 町に顔を向けているライダーのすぐ脇をアーチャーは飛翔し、軽やかな音ともにその背後に降り立った。

 ライダーは背中に、突き刺さるような殺意を感じた。否、下手な挙動を示せば実際に貫かれることは間違いないだろう。

 

「あー……ご覧の通り、俺に戦う気は無い。弓を下げてくれ」

 

 諸手を挙げて、抵抗の意思が無いことを示す。確かに彼は武器である青龍刀を持っておらず、圧倒的にアーチャーが有利の状況であった。いくらライダーが経験で弓矢を回避する武芸を身に付けていたとしても、寸鉄すら帯びていなければ無抵抗に殺されるだけだ。

 

 だがアーチャーは油断も、殺意を収めることもしない。確かにここは、いかにも狙撃向きであり、ここで街を見張るのがもはや日課となっている。敵を見つけるためと、見つけられるためという目的があってだ。よってこの状況は望むものであり、必要とあらば宝具を開放することすら厭わない。だが、ライダーの真意を図りかねているのも事実で、それ故にその矢が放たれるのは先延ばしにされている。

 

 ぎりぎりと弓を引き絞る。飄々とした態度のライダーに向けて、殺意を送り続ける。これほどの殺意を叩きつけられて、平然としているライダーの胆の太さは特筆に価するだろう。

 

「…………信じられると思うか」

 

「まあ……一度貴様の膝を割っている以上、当然の反応だろう。……だが、俺の生きた時代は、昨日の敵が今日は仲間になっているような世界だったのでなあ。その辺りは、俺の面の皮が厚いということで流してくれ」

 

 座ったまま、器用に体を反転させてアーチャーと向き合う。ライダーの顔はさも愉快そうに笑っており、さしものアーチャーもそれには毒気を抜かれざるを得なかった。

 

 そもそも、戦う気がないというのに、何故ここに居るのかアーチャーには理解できなかった。何かの密約、あるいは共闘を申し出ようというのだろうか。

 少なくとも、共闘は考えがたいようにアーチャーには思えた。ライダーの宝具は、相手サーヴァントの能力を下げる力を持っている。それに加えて、ライダーの近接戦闘能力はセイバーにも匹敵するほどのものだ。セイバーの片手剣が研ぎ澄まされた一撃だとするなら、ライダーのそれは瀑布のごとき一撃。的確に相手を無力化するよりも、圧倒的な一撃で相手を屠ることに特化した剣だ。

 

 しかし、いくら強力な一撃とはいえ、こちらも名を馳せた英雄である。受けることが無理なら回避すればいいだけのこと……なのだが。

 あの能力低下の宝具と組み合わされると凶悪なものとなる。筋力、敏捷、その他全ての能力を低下させられては、あの一撃を容易には回避できない。しかも馬上からの一撃だ。純粋な近接戦闘において、ライダーはおそらく今回のサーヴァントの中でトップに立つ。

 

 そんなライダーが、共闘を持ちかけることは考えにくい。それよりもサーヴァントを各個撃破していくほうが確実だろう。

 アーチャーはそう結論付けた……のだが。

 

「手を組まんか。(ライダー)貴様(アーチャー)、騎兵と弓兵ならば相性も良かろうと思うのだが」

 

 ある程度予測はしていたとはいえ、やはり意外だった。ライダーならどのサーヴァントが相手でも互角に渡り合えるだろう。わざわざここで手を組む理由が見出せなかった。

 

 よって殺気を鈍らせることなく、矢にかかる力を弱めることもなく、その心臓から狙いを外さない。せめて理由を聞かなければ、信用できるはずがない。

 ライダーと手を組めれば、それは確かに魅力的だろう。普通の弓兵と違って近接戦闘もある程度こなせるとはいえ、やはり本業は弓だ。サー・トリスタンは剣も達人であるのだが、弓兵として呼ばれて、弓であるフェイルノートのみを持っている以上近接戦闘は避けるべきだ。

 そこにライダーが参入してくれるならば、これは確かに心強い。だが、背中を襲われないという確信は全く持てず、せめて納得できる理由を聞かなければ到底頷けない話であった。

 

「理由を聞かせて頂きたい。何ゆえ、しがない騎士である私の手を借りたいと?」

 

「そう自分を卑下することもあるまい。……そうさな、どこから話せば良いものか」

 

 ライダーは自分の髭を撫で、明後日の方向に視線をやって悩む。およそ、そこには殺意や敵意のものは見出せず、アーチャーはその様子にますます困惑した。

 

「うーん……。アーチャーよ、貴様も思っているだろうが……確かに俺には他者と手を組む必要が無い。相手が一人ならば、だが」

 

 ――――……一人ならば?

 

「うむ。実はな、セイバーとバーサーカーはどうも手を組んでいるようなのだ。これは良くない、実に良くない。そこに戦力が集中してしまっておる。

 これを単騎で撃破できるものなど……おそらく居まいて」

 

「それは…………確かに」

 

 最も優れたサーヴァントとされる、セイバー。最も凶暴なサーヴァント、バーサーカー。

 この二体が手を組んでいるとなると、正攻法でこれを攻略するのは不可能に近い。それほどの圧倒的な戦力だ。あのバーサーカーの得体の知れなさはアーチャーも知るところだ。もちろん、セイバーの優秀さも知っている。

 

 それら全てを踏まえ、正面からセイバーとバーサーカーを破ることは困難であると結論付けるしかない。せめて、各個撃破が可能な状況でなければ、最終的に斃されるのは間違いなく自分だ。

 

「恥じることは無い。俺もその例に漏れず、あの二体を同時に破るのは難しい。現にバーサーカーには圧されたしなあ」

 

 その辺りの最終的な結論は、どうやらライダーも同じであるようだ。

 ライダーを見下すわけではないが、あの時不意を突かれたとはいえバーサーカーに圧倒されていたのは事実だ。圧倒というと語弊があるかもしれないが、少なくともあの時に唯一互角に戦った存在であるのは間違いない。

 

「そういう訳で、手を組みたいと思うのだ。どうだ、アーチャー。馬が欲しいなら、貴様が今まで見たことないような駿馬を貸し与えよう。ま、私や私のマスターの愛馬は貸せんが」

 

 そういってライダーは手を差し出す。握手を求めているようだった。

 

 アーチャーは弓を構えたまま逡巡する。

 正直言って、有難い申し出なのは間違いない。アリシア(マスター)は……正直なところ、数日後にはこの世に居ないかも知れないのだ。容態が悪くなったという訳ではないが、それほどに危うい病気なのだ。

 膠原病を患うというのは、生涯に渡って薄氷を踏み続けているようなものだ。冗談でも何でもなく、眠ったらそのまま目が覚めないというのも有り得る話なのだ。紫外線を浴びればそのまま死に至る可能性があるということはつまり……“外に逃げられない”。仮に、火事が起きたとする。仮に、地震が起きたとする。そのとき、アリシアは外に逃げられない。外に逃げればそれこそ死が待っている。その事態になったとき、既に彼女の命は詰んでいるのだ。仮定に仮定を重ねなければいけないが……聖杯戦争の真っ只中に居る以上、それも現実味がある。

 故にアーチャーは焦っていた。一刻も早く全てのサーヴァントを打ち倒す必要があると。だからこそ、こんな分かりやすい狙撃ポイントに毎夜姿を現しているのだ。敵を見つけて屠るため。敵に見つけられて、戦うため。

 

 そしてその焦りが、アーチャーの気持ちを後押しした。

 弓を下げて、ゆっくりと矢に込めていた力を弱める。完全に弦の力が零になったところで、それらの実体化を解いてそれを消し、警戒こそ怠らないが、ライダーの手を取った。

 

「……セイバーと、バーサーカー。どちらかを斃すまでだ」

 

「うむ、心得た! よし、では先ず我がマスターに話を通さなければな、実はこれは俺の独断なのだ。詳しい話は明日からだ、明日同刻にここで落ち合おうではないか。異論ないな?」

 

「ない。では明日に」

 

 そういって二体はその場から姿を消した。

 

 その場を離れながら、アーチャーは思った。

 ――――精々、ライダーと協力しつつ情報を探ってやろうと。

 

 

 

 

 

 

「さて、ライダー。どこに行っていたのか説明して頂けますね?」

 

 アインツベルンの森に戻ってきたライダーに浴びせられた一言は、字面こそ穏やかだか言葉に込められた怒りは身を刺すほどのものだった。さしものライダーも少し腰が引けたのか、サーシャスフィールを刺激しないように気を遣っている。ここでサーシャスフィールを激高させれば、令呪で縛り付けられるかも知れない。

 

「うむ。セイバーとバーサーカーを斃す策を持ってきた」

 

 矛先を収めさせるためにも、努めて喜ばしい事柄から話す。エントランスにライダーの野太い声が響いた。どうやら、既に多くのホムンクルスは休養を取っているらしい。

 ライダーの言葉が意外だったのか、サーシャスフィールの顔色から怒りが引いていく。

 

「ふむ、確かにセイバーとバーサーカーの結託はいち早く解決するべき事柄でしたしね。貴方がそこまで考えて行動しているとは意外でした。

 ……して、その策とはどのようなものですか」

 

「向こうが結託するなら此方もそうすれば良いだけのこと。アーチャーと契りを交わしてきたぞ」

 

「…………なるほど。アーチャーは信用できるのですか?」

 

「あれは、生粋の騎士であるからな。こちらが裏切らん限りは大丈夫だ。……それよりも、えらくあっさりしておるな。俺はてっきり、敵サーヴァントと勝手に接触したことを諌められるとばかり」

 

「……諌めて、悔い改めるようならばそうしますが?」

 

 どうせ言ったところで柳に風なのだろう、と言外に匂わせる。

 実に酷い扱いだとライダーは思った。これでは自分がバーサーカーのようではないか。

 まあ、この憎まれ口を叩く関係は自分にとって好ましいので文句の出ようもないのではあるが。それに、これも自分を信用してくれているからこそだろう。

 何にしても、思っていたよりも話が円滑に進むのは望ましいことだ。ある意味で、サーシャスフィールもまた傑物であると言えよう。

 

「沙沙ならばもっと良い案が在ったかも知れんが。しがない将に過ぎん俺にはこの程度の案しか思い浮かばなんだ」

 

「いえ、おそらくこれが最良なのでしょう。素直に賞賛します。しかし……ただ協力するだけでは許しませんよ、ライダー?」

 

 ――――やはり傑物であった。

 

「無論よ。俺の生きた時代は、今日の友が明日には敵になっていた。精々、弱点なり欠点なり探らせて頂くとする」

 

 そこまでで話すべきことは全て話したのか、サーシャスフィールは踵を返して部屋へ向かう。明日からはアーチャーと動くことになる。今日はこれ以上動く必要が無い以上、そろそろ体を休めるべきだろう。

 

「沙沙」

 

 廊下の奥へ姿を消そうとしていたサーシャスフィールを呼び止める。相変わらずの呼び方であったが、最早サーシャスフィールは気にしていないようだった。

 まだ何か用か、と目線で訴えかけてくる。

 

「裏切りの多い時代に生きてきたが、私は沙沙を裏切る気は毛頭ないからな」

 

 ふ、とサーシャスフィールは笑う。何を今更、そんなことは知っている。

 

「ええ、そうですね」

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 士郎さんは結局呑もうとしなかったものの、呑む私には付き合ってくれた。

 また呑みすぎたら困るから、という話だったが、今回はそれほど呑むつもりはない。そもそも私はそこまで呑むほうではないのだ。前回は……楽しすぎて、つい呑んでしまっただけなのだ。

 

 時間は大分遅くなってしまっているが、どうせ学校に行くわけでもないのだ。夜更かししたところで大した問題はない。それに、遠坂さんがやって来ないかなと期待もしているのだ。やはり桜さんのことは気になる。まあ、明日の朝聞けばいいだけのことだから、そこまで無理に待つ必要も無いのだが。

 

「――――ありがとうな」

 

「……何が?」

 

 おもむろに士郎さんがそんなことを言ってきた。用意してくれた軽いものを食べる手を休め、士郎さんに向き直る。セイバーも雰囲気を察してか、箸を止めた。

 

「うん、澪が居なかったら、もしかしたら桜のこと気付けなかったかも知れないし。だから、礼言わなくちゃなって」

 

「……私はそれを見つけただけ。結局どうにかしたのは士郎さんよ」

 

「ああ。それでも、言っておきたかったんだ」

 

「……そう。素直に受け取っておくわね」

 

 全く、不動明王というには優しすぎるのではないかな。これは何というのだろう。機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)というものだろうか。どんな困難な状況でも、神様とかそういう類が全部解決してくれるというアレ。どっちかと言うと、それのほうが近いようにも思えた。……ああそういえば、それに近い生活を最近まで送っていたそうな。いかなる紛争にも顔を出し、それを収束させようと奮闘していたそうだし、やはりデウス・エクス・マキナだ。

 

 ああ、私も酔いが回ってきたのだろうか。顔が熱いような気がする。士郎さんの言葉に照れているとは思いたくない、そんなの私らしくないと思うのだ。

 

「ねえ、ちょっと聞いて欲しいことがあるんだけれど」

 

 ああ、やはり酔っているに違いない。隠したほうがいい、とか思っていた筈なのに、こんなことを聞こうとしている。下手したら、全て話さなくちゃいけなくなるのに。

 だけど、何故だろう。士郎さんとはちゃんと話したほうが良いと思うのだ。何故だかは分からない。でも、そう思ってしまうのだ。

 

「士郎さん……例えば、眠っているときとかに何か見たことはある? 他愛無い夢とかじゃなくて、自分に関わるような何か」

 

「うーん……最近はあまり無いけど……剣、かな」

 

「剣……。それはやっぱり、心象世界としての?」

 

「まあ、そんなところだ。俺は剣を作ることだけに特化していて、それを夢にも見ていたんだろうな。……でも、どうしてこんなことを?」

 

 ほら、こうなるだろう。藪を突いて蛇が出てしまった。

 でも全て包み隠さずという訳にもいくまい。ある程度は伏せる必要があるだろう。何せ、私のこれは十分に危険で不可思議なんだから。

 

「……ある夢を見たの。そこは私の知っている何処でもなくて、知らない人が居た。その場所で、ある人の事を知ったの。その人は桜さんを知っている人で、桜さんが酷い目に合っていることを知っていた。だから私は、今回桜さんのことを知ることができたの」

 

「……うーん。……よく分からないな」

 

 そりゃそうだろう。この説明で分かる人なんて居ないと思う。

 

「ま、もしかしたら士郎さんなら何か分かるかも程度の話よ。気にしないで」

 

「でもさ、その言い分だと澪が固有結界を持っているように思えるんだけど」

 

 ―――――ガチリと、何かが噛み合わさる音がした。そうだ、固有結界。

 

 勿論、あれは私の固有結界などではない。私の固有の世界に、私の知らない情報ばかりがある訳が無い。

 だから、あれは別の人物の固有結界ではないだろうか。そう、例えば――――澪子とかいう人物の。

 それに触れることが出来るというのは、きっと私がそれに招かれたから。士郎さんの固有結界だって、展開時に周囲を巻き込むことができる。展開後に第三者を招き入れることができる固有結界があっても不思議ではないだろう。何せ、人それぞれで一定しないからこそ固有結界だ。

 

 例えば、そう。万物を記したアカシックレコードを観測し、それを写す固有結界。アカシックレコードだと彼女は言っていた。それは当然ながら嘘だと思うのだが、これなら十分に有り得る話では無いだろうか。

 それに触れることによって、否、それを読むことによって過去の情報を得ることが出来る。それならば、私が本来知りえない筈のことを知ることができる。無意識下で、その場所に辿り着いてしまい、そこで桜さんを知るだれかの記述を目の当たりにしたということだ。

ああ、何故か胸に落ち着く推測。“間違いない”という確信が、ある。

 

 さしずめ、アカシャの写本世界というところだろうか。『過去しかない』という彼女の言葉を信じるなら、既に終了した記述について写すということだろうか。

 いくら固有結果とはいえ万能ではなかろう。アカシックレコードをそのまま写してしまうことなど有り得まい。実時間に沿って、徐々に記述を増やしていっているのではなかろうか。

 一気に記述を写さず、つまりアカシックレコードの『過去』の分野だけを逐一写していく。『現在』『未来』を無視しているぶん、随分と労力は小さいはずだ。

 これなら、有り得るのではないだろうか。

 

 ――――有り得る、のかな。それこそ神秘が薄れた現代では有り得ないような所業だと思う。

 

 いや、有り得るか有り得ないかでいえば、多分有り得るのだ。無限に剣を作りだすなんて、本当に破格の固有結界も存在する。私なんかの常識を指先で覆してしまうのが固有結界なのだ。対象がアカシックレコードとはいえ、何かを書き写すだけの固有結界ならば信憑性もそれなりに出てくる。

 

 落ち着け、焦るな私。冷静に、推測を整理しよう。

 例えるならば、膨大な量の本がある。それは過去、現在、未来まで書かれた膨大な量の図書だ。

 それを一度に模写するのは大変に骨が折れる。だから、過去だけを模写し続ける。どうせ時間が経てば『未来』は『現在』に降りてきて、『現在』を過ぎれば『過去』になる。最終的に行き着くのが過去であるなら、そこだけを見張っていればいずれは原本を模写できるという理論だ。だから日々増え続ける過去のみを記述しておく。

 そして、私は誰かが模写した過去を読む。そうして私は先達の偉大な情報を知ることができるのだ。

 おそらく、私の置かれている状況はこういったものだろう。

 

 だが――――やはり問題は、何故私がそこに入れるか、という問題だろう。

 そして、固有結界の主を澪子であると仮定して、何故それを展開し続けているのか、という問題。

 

 前者は――――今までの澪子の口ぶりからすると、八海山の血筋に対してはワイルドカードが切られているということだろうか。それに触れられるかどうかは個人の技量だとして、八海山ならば誰でもアクセス権限を持っている?

 ……うん、多分これは正しい。あそこが何か分かれば、正当な八海山であるという澪子の言葉を咀嚼すれば、こういう意味になると思うのだ。

 

 後者は――――分からない。例えば、もはや結界を消せないなどの状況もあるのだろうか。

 

「澪? どうした、急に難しい顔をして」

 

「え? あ、あはは。何でもないわ。……そろそろ寝るわね、ちょっとお酒が回ったみたい。水を一杯だけ貰える?」

 

 これ以上考えても分かりそうもない。だが、ちょっと人の居るところで考えることではないように思えた。世の中にアカシックレコードを目指す魔術師は掃いて棄てるほど居る。士郎さんはそうではないけれど、どこから情報が漏れるか知れたものではない。

 

「一杯といわず、水差しごと持っていけ」

 

 前科があるからだろうか、無理やり水差しを持たされた。まあ、これも士郎さんの優しさということで。

 

 さてさて、今夜は久しぶりに安眠を享受できそうだ。酒で気絶するように寝てしまったり、蟲に吹き飛ばされて昏睡したり、最近はそういうのばっかりだったと思うのだ。

 酒に頼らないと眠れないわけではないが、若干のアルコールのおかげで深く眠れそうだ。

 

 自室に行き、網戸を残して窓を開けておく。いくら暑くてもクーラーを付けっぱなしで寝たりはしない心情だ。扇風機もまたしかり。

 無用心かも知れないが、セイバーが居るのだ。泥棒など入りようがない。

 

 水を一杯だけのみ、タオルケットで体を覆う。

 

「おやすみ、セイバー」

 

「お休み、ミオ。いい夢を」

 

 それに笑顔で答えると、セイバーの気配が部屋から消えた。

 ああ、今日こそは好い夢が見られるといいなあ。

 



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Act.21 遠い坂の桜

 いい夢が見られるかな、なんて思っていたけれど。実際にはそうそう夢なんか見ない訳で。まあ、夢を見ると何故か寝起きがスッキリしないことも多い気がするし、これはこれで快眠を得られたということで良い事だと思っておこう。

 ベッドから身を起こして、水差しから温くなった水を飲む。それなりに暑い夜だったみたいで結構汗をかいてしまっているけれど、総じていい朝だと言えた。

 空は快晴、雲ひとつ無い碧空。ミンミンと蝉が夏を謳っている。うん、いい朝だ。大きく伸びを一つ。

 

 ――――さて、そろそろ桜さんも目を覚ましていることだろう。

 

 色々と気になるし、話し合いたいこともある。……いや、実際のところは私が話し合うべきことなんか無いわけだけど。やはり事の発端における当事者としては、事の顛末は気になるとことだ。平たく言えば、野次馬根性というヤツだ。

 

 洗面所で顔を洗っていると、丁度遠坂さんもやってきた。朝に弱いようで、普段の瀟洒な雰囲気など部屋に忘れてきたらしい。

 人類の固有スキル、アイコンタクト。遠坂さんは軽く頷く。

 どうやら桜さんは目を覚ましているらしい。微かに漂ってくる味噌汁の香りは、もしかしたら桜さんが朝餉を用意しているのかも知れなかった。

 歯ブラシを口に突っ込み、洗面台を遠坂さんに譲る。私は朝食前に歯を磨くタイプだ。寝起きの口の中は雑菌だらけという話を聞いてからは、これが習慣になっている。歯を丁寧に磨きつつ、歯磨き粉の泡を飛ばさないように、かつ聞き取りやすいように口を動かす。

 

「――――藤村さんが出たら、桜さんと話し合うべきかと」

「勿論よ。桜もそのつもりみたいだしね」

 

 遠坂さんは顔を洗顔料で洗い、化粧水で肌を整える。さすが遠坂さん、高そうなものを使っている。ラベルを見る限りは外国製らしい。私も一応気にかけてはいるけれど、その辺りの薬局で売っている安物だ。

 続いて髪を乾かしてブラシで梳く。桜さんといい、遠坂さんといい、この姉妹の髪の毛は綺麗すぎるような気がしてならない。

 

「昨日は一日中桜さんの看病……というか、付き添いを?」

 

 ジェスチャーで洗面台を一度貸せと伝える。口を濯いでブラシに付いた泡を流す。鏡の前でにっと口を開いて歯を確認。食べかすが歯に挟まっていないことを確認して、満足する。

 

「そうね、部屋には戻らなかったわ。さすがに睡眠は取らせてもらったけれど」

 

 つまり、ドラマとか漫画でよくあるように、ベッドに寄りかかるようにして寝たということだろうか。……なんか絵になるなあ、なんて下らないことを考えてみたり。一体どんな遺伝子が混ざればこんな美人姉妹が生まれるのだろう。

でもそれって体の疲れは取れていない気がするけれど、大丈夫なのだろうか。昨日もかなりハードな一日だった筈なんだけれど。

という疑問が顔に出ていたようで、彼女が肩を竦めて言うには。

 

「大丈夫よ。長い間旅をしているとね、睡眠さえとれればどんな体勢や場所でも休めるようになるものなのよ」

 

 ということである。

 なるほど。確かに長時間の電車やバスでの移動は、慣れないうちはただ座っているのも疲れるものだけれど、慣れてくるとその中で体を休める方法が身についていく。そういうものなのかも知れない。

 それに、話を聞く限りでは相当にバイオレンスな旅だったようで、そういうスキルも必要だったのだろう。私は中東なんかに放り込まれたら、数日で殺されるかテロ組織かなにかの人質になっている自信がある。……まあ、一応魔術師だから一般人よりかは強いんだけれど、精神的に参ってしまいそうで。

 

 居間に移動すると、セイバーと藤村さんが歓談していた。厨房を見れば、やはり朝食を作っていたのは桜さんだった。士郎さんも一緒になって作っているが、どうもぎこちない。無理して平常を装おうとしているようにも見えた。ブリキ人形のような動きの悪さで、見ていて危なっかしさを覚える。とは言っても殆ど作り終えたようで、私が手伝えることはなかった。

 

 さて、本日の朝食もまた和風であったわけである。私は和食党であり、新参の私の好みに合わせてくれているらしい。遠坂さんが不満そうだったのはこの際捨て置こう。

 塩鮭、味噌汁、出汁巻き卵にホウレン草の御浸し、そして納豆。どこかの旅館でお目にかかるような食事メニューはしかし、なんとも言いがたい空気の悪さによって味が殆どしなかった。どうも他のメンバーも同じようなものらしく、どうにも会話にキレが無い。ただしセイバーと藤村さんは除く。

 

 いや、セイバーも藤村さんも分かってはいるのだと思う。分かっていて、それを打開しようと無理して明るく振舞ってくれているのだが、どうにもそれが空回りしていて、雰囲気はいよいよ悪くなる。

 だが雰囲気が悪いといっても、単に居心地が悪いというだけである。互いに言いたいことがあるのに言い出せない時の、時間の流れが停滞しているような感覚だ。決して剣呑な空気ではないことが救いだが、やはり和気藹々とは程遠い。

 カチャカチャと、いつもより食器が立てる音が大きく聞こえる。セイバーと藤村さんだけで会話が永遠に続くわけもなく、会話のちょっとした切れ目には一層雰囲気の悪さを自覚させられる。腫れ物に触るように、という表現は実に的を射ていると実感した。

 

 いつもより幾分か早く食事を終え、片付ける。その間も空気には腫れ物が存在していて、士郎さん、桜さん、遠坂さんの間で会話は在るものの、非常に当たり障りの無く、世間話にもならないような事ばかり喋っている。今は、今日の天気についての会話。洗濯物がどうとか、暇を持て余した主婦でももう少し面白い会話を提供できるだろうに。

 

 ややあって、藤村さんがいつもよりほんの少し早めに家を出た。気を遣ったのか、雰囲気の悪さに耐えかねたのかはさて置いて、正直ありがたい行動だった。

 これで魔術師同士の、藤村さんにはまだ伝えるわけにはいかないような込み入った話が出来るというものだ。

 

 全員の手が空いたあたりを見計らったのか、遠坂さんが集合をかける。私は席を外して置こうと思ったが、この件に一枚噛んでいるためか留められた。士郎さんが手早くお茶を用意する。

おずおずと、所在なさそうに、あるいは不安げに桜さんが定位置に腰を下ろした。

 

「…………」

 

 だがどう切り出したものか考えあぐねているようで、どうにも居心地の悪い沈黙が流れる。時計の音がやたらと大きく聞こえた。

 だが意を決したように、遠坂さんが顔を上げる。僅かな逡巡のあと、ようやく言葉が舌に乗った。

 

「――――…………桜」

 

「……はい」

 

「その……体のほうは、何か問題あるかしら」

 

 さすがに単刀直入に、という訳にもいかなかったのか、かなり婉曲した問いを出す。

 だが、確かに聞いておかなければならない問題なのは間違いなかった。もしも蟲を摘出する際に、どこかの神経や魔術回路を傷つけていたら大事になってしまう。

 だがその心配は必要ないというように薄く笑い、頭を振って否定した。

 

「いいえ、何も問題ありません。……お爺様も居なくなって、本当に何も問題ないようになりました。

……遠坂先輩からは、何も心配いらないとしか聞いていません。詳しく聞かせて……くれますよね」

 

 桜さんは、とても不安そうだった。それはそうだろう。昨日までガチガチに縛られていたのに、急に開放されたら不安を覚える。

 言い方は悪いが、刑期を終えた囚人の心理だろう。今まで規則や規律に縛られていたのに、急にそれが無くなったら、喜びを謳歌する前に戸惑いや不安が押し寄せる。

 いつも監視されていたのに、急にそれが無くなると、窓の外から誰かが覗いているような錯覚を覚える。厳しい校則の高校を卒業して、大学で一人暮らしを始めたときに、何もかも自由であることに戸惑いを覚える。人間とは、そういうものなのだ。

 しかも桜さんは、その覚悟すらできていない。急にサバンナの平原に放り出されたようなものだ。右も左も、自分が今どこに居るかさえ分からない。

 

 その不安を少しでも和らげようと、言葉を選びつつ説明をする。主に士郎さんと遠坂さんが至極丁寧に説明し、時々私がそれを補足する。

 まあ、私が“桜さんの過去を知る人格の記憶”に触れたのは秘密だ。おぼろげながら、その人の名も思い出せてきた。間桐雁夜といったらしい。きっと、この人は桜さんの為に命を賭けたのだろう。

 

 やや省きつつ、それでいて丁寧に説明をする。全ての説明が終わる頃には、湯飲みのお茶は温くなっていた。それを一口啜る。

 

「そう……ですか……」

 

 次は桜さんの番だった。今まで隠していたこと、打ち明けられなかったこと。中にはショッキングな話もあったけれど、遠坂から間桐へ名が変わってからのことを話してくれた。

蟲蔵で、教育を騙った虐待を受け続けていたこと。前回の聖杯戦争では、兄にマスター権を譲っていたこと。他にも、辛かったであろう色々な過去。

 部外者が言うのはおこがましいかも知れないけれど、それは辛かっただろうと思う。

 ずっと一人で、救いもなくて。

 

 桜さんはじっと湯飲みの水面を眺めている。どうすれば良いのか分からないという気持ちが、その表情からは伺え知れた。

 語るうちに、桜さんの目には涙が溜まった。桜さんはそれを堪えようとして、だけど堪えようとすればするほど涙は溢れてきて。

 

 ぽとりと、一滴の宝石が落ちる。堰を切ったように、止め処無く涙が溢れる。

 わんわんと、子供のように。だけれどそれを笑うものは居らず、遠坂さんと士郎さんは泣きじゃくる桜さんの肩を抱く。

 

 ――――姉さん、姉さん。

 

 泣き声は、遠坂さんのことを姉と呼んでいた。それに答えるように、遠坂さんはその肩を強く抱きしめる。遠坂さんの目にも、涙が溢れていた。

――ああ、きっと。ずっとこう呼びたかったに違いない。ずっと苦痛を訴えたかったに違いない。だからきっと、この涙は喜びに満ちているに違いない。だからこそこんなにも温かいのだ。

 

 ――――姉さん、先輩、私辛かった。

 

 慰めるように、身を寄り添わせる。

 ああ、良かった。本当に、良かった。桜さんはやはり、遠坂さんと姉妹となることを選んだのだ。

 きっと、遅すぎた和解なのだろう。これから、普通の姉妹になっていくには、想像以上に時間が掛かることだろう。

 だけどきっと、この二人の前にはそんなものは苦難にならない。何故なら、彼女らは紛れも無く、最高の姉妹なのだから。

 

 

 

 どれほど泣いていたか、にわかには分からない。だけれど決して短くない時間泣き続けて、涙が枯れる頃になると、全員冷静さを取り戻していた。

 遠坂さんが向き直り、こほんと咳払い一つ。

 

「……だからね、桜。貴方はもう自由なの。貴方を縛るものは何もなく、貴方を脅かすものは何もない。

 ……これからは、好きなように生きていいの」

 

「桜さん、とりあえず身近なことから決めましょう。まず、聖杯戦争中どうするかという問題から」

 

 桜さんは、もはや何にも縛られない。裏を返せば桜さんを守るものは無いのだ。実質、間桐は滅んだに等しい。例えば、聖杯を欲する者で、間桐を快く思わないものが存在したとすると、桜さんに危害が及ぶ可能性は大いにあるのだった。

 だからこそ、どこかに身を寄せなければならないだろう。

 此処、衛宮邸も一つの選択肢だ。だが……此処は紛れも無く戦地である。いつ戦火に巻き込まれてもおかしくない。例えばサーヴァントを全員引き連れて外を巡回したときに、敵サーヴァントの侵入を許せば桜さんの命は大いに危ぶまれるのだった。

 同様の理由で間桐邸、遠坂邸もアウト。今あそこは無人だ。そこに身を寄せるくらいならば、そこらのホテルに泊まったほうが数段安全である。

 

「教会に保護して貰ったらどうだ? 桜はマスターじゃないけど、あの監督役代行なら融通利かせてくれると思う」

 

「…………なるほど、確かにそれが安全かもね」

 

 私も遠坂さんと同じ意見だ。絶対中立で、如何なる勢力の介入を禁じている教会が一番安全な場所だ。

 冬原さんは、驚くほどに義理深い。そして、メンツというものを必至に守ろうとする。過去は良く知らないけれど、ヤクザに近い性質を持った人だ。本当に元ヤクザかも知れない。

 だからこそ、自分の責務を果たそうとするだろう。何か裏で暗躍しようとも、保護した人物を最優先で守るに違いない。保護した人に何か在れば、教会の名が汚れる。キャスターと共闘したときに、教会のメンツを立てようと一時的にとはいえ単身で戦ったことからもそれは伺い知れる。

 

 それに、この屋敷にいるよりは随分と安全なはずだ。少なくとも不可侵の掟を進んで破ろうとする事情が無い限り、誰も教会に手を出そうとは考えない。

 

「……はい。教会に保護を申し出ようと思います。…………あの、お暇なときで良いので、会いに来てください」

 

「当然だろ。来るなって言われても行くさ」

 

「士郎に同じ。…………せっかく姉妹に戻れたのに、また離れるなんて寂しいしね」

 

「……はい!」

 

 日本晴れのような笑顔だった。

 涙で泣きはらした顔なのに、今まで見たどんな笑顔よりも素敵に思えた。

 そうだ、どんなに離れようと、二人は姉妹だ。数日間会えないぐらい、何でもないさ。だって、これから二人で過ごせる時間は山のように用意されている。そのための必要経費だと思えば、異論など出る筈も無かった。

 

 さて、いい方向に話が進んでいるところで、嫌な話もしておかなければならない。遠坂さんや士郎さんでは言い出しにくいだろうから、私から切り出すのが最も良いだろう。

 

「さて、これもいつかは話し合わなきゃいけないことだから言うけれど、桜さんは今後、どうするつもりなの? 魔術師として生きるか、それとも一般人として生きるか」

 

 これはもう、避けては通れない問題だ。今すぐではなくとも、いつかは結論を出さなければならない。

 これは自分の将来を大きく決定してしまう。別に、身を守れる程度の魔術を会得して、あとは一般人のように暮らすことも十分可能だ。聞けば桜さんの魔術特性はかなり希少なものらしいけれど、無理してそれを活かす必要もない。

 逆に、魔術師として生きていくのも十分可能なのだ。今は間桐寄りになってしまっているけれど、確証こそないが時間をかければ元の遠坂の血に戻れるだろう。間桐の魔術を習うか、遠坂の魔術を習うか、ここでも選択の余地がある。

 

 これについては、桜さんの意思を尊重するべきだ。話し合ってそう決めたわけでは無いけれど、ここで強制すればそれこそ間桐臓硯と一緒だ。それは全員望むところではないだろうから、暗黙のうちにそのように意見が纏まっている。

 

「…………まだ決められません。少し、考えてみたいと思います」

 

 そして決定の延長もまた、尊重されるべき意見の一つだ。

 まだ戸惑いのほうが多いだろう。だが桜さんには、これから自由な時間が多く与えられるのだ。じっくり考えるといい。考えて、考えて、自分にとって最良の選択をすれば良いのだ。

 ……まあ。士郎さんと同じように、私も桜さんには魔術師としての道を歩んで欲しくはない。聖杯戦争を体験して、やはり魔術とは日の当たらない世界だと実感できた。

 かといって……全く無縁でもいられないだろう、というのもまた事実だ。やはり異能は異能を呼び寄せてしまう。ある程度の処世術は、やはり必要だろう。

 そういうわけで、私は私達よりももっと日に近く、しかし完全に日の下ではない、夕暮れのような道を歩んで欲しいと願うわけだ。そのぐらいの明るさのほうが、桜さんも居心地が良いだろうと思うのだ。

 きっと、桜さんには表の世界は眩しすぎると思う。きっと、桜さんには裏の世界は暗すぎると思う。だから、夕暮れ――あるいは朝焼けのような場所が、最も良いと思うわけである。

 

「そう。桜の選択に任せるわ。その……師匠が欲しいときは、言って頂戴。……お姉さんらしいことをしてあげたいのよ」

 

 魔術の師匠が、世間的にお姉さんらしいかどうかは議論の余地があろう。だが、お姉さんが妹の宿題を教えてあげているようなものを想像すれば、微笑ましくはあった。

 

「ふふ、分かりました。その時はお願いしますね、……姉さん」

 

 ちょっとだけ、頬を赤らめて。桜さんは遠坂さんをそう呼んだ。さっきは連呼していたが、冷静になってから改めて言うとなると、やや恥ずかしさみたいなものがあるらしい。

 

 ああ、いいなあ。私も妹が欲しいなあ。あんなに豊満な妹は、妹らしくなくてアレかも知れないけれど。もっと、こう……小動物のようなのがいいなあ。

 ……昨日のアルコールがまだ残っているのか、真剣に考える必要がありそうだ……。

 

 さて、そうと決まったからには行動は早いほうが良い。あまり私物は無いようで、少しばかりの荷物を纏める。藤村さんにも説明する必要があるが、こちらは私達でフォローしよう。……いや、いっそ藤村さんも暫く寄り付かないほうが良いだろう。どうにか言い含めて、暫くは遠慮するように言うか。いっそ一緒に教会に預けたほうがいいかも知れない。

 

 ということを士郎さんに言うと。

「猛獣は教会の管轄外だと思う」

 ひどいものである。

 まあ、藤村さんは仕事があるのだから、教会に閉じこもっている訳にはいかないだろう。確か夜歩きの言い訳に、天体観測をしているという話をでっちあげていた筈だ。彗星が近々観測できるという嘘八百も一緒に言っていた気がする。だったら暫くはキャンプ生活するからとでも言っておけば、この家には近付くまい。家の様子を身に来る、とか言うかも知れないけれど……その辺りのフォローは遠坂さんが得意だろう。お任せすることにする。

 

 考えてみれば今までが異常だったのだ。この家は間違いなく魔術師の本拠地である。そこに一般人が気安く出入りしているなど、人質に取ってくれと言っているようなものだ。アサシンが見たら喜んで食いつきそうな餌である。

 

 しかし、この家から桜さんと藤村さんが居なくなったら、寂しくなってしまうなというのも正直な感想である。まだこの家に身を寄せて数日ではあるけれど、やはりこの衛宮邸の一員であることは間違いないのだ。

 

 ……ま、それも命あっての物種だ。桜さんや藤村さんに何かあってからでは遅い。

 と自分に言い聞かせつつ。自分もまた死ぬわけにはいかないな、と決意を新たにするのであった。

 

 

  ◆◇◆◇◆

 

 

 今日も日は流れ、太陽が落ちようとしている。安息の時間は瞬く間に過ぎて、まもなく闘争の時間が訪れる。

 アーチャーは、いつものように一日中アリシアの面倒を見ていた。もはや、妹のようにさえ思える。マスターとサーヴァントの枠組みを越えた、親愛の情が芽生えていた。

 いや、そもそも主従関係にあるとも言い難かった。ただ、呼び出された当初は単なる“保護対象”であったものが、“守りたいもの”に変わっただけだ。だからこそ、アーチャーはこの少女を命がけで守ろうとする。この少女が望み、自分が叶えうることは全霊を以って達しようとする。

 

 少女は今、ベッドから身を起こして本を読んでいる。それは世に有り触れた騎士道の物語で、しかし今もなお色褪せぬ物語。

 タイトルは、『アーサー王物語』。トリスタン(アーチャー)は気恥ずかしくもあったが、本を静かに嗜む少女に口を挟まないことにした。あわや気取られたかとも思ったが、それもなかろう。少なくとも、こちらから何か言わなければ自分の正体に気付くことも無い筈だ。

 

 ――――別に、気付かれたとしても問題は無いとも思う。だがやはり、御伽噺の人物が目の前に居るという事態は受け入れがたいものもあるだろう。よって先ほどから少女の傍らに侍り、細々と身の回りの世話をするのだった。

 

 不意にねえと声をかけられる。本に栞を挟み、傍らのサイドテーブルに置いた。

 喉が渇いたのか、汗をかいたのか。それとも具合が悪いのかと思い、次の言葉を慎重に待つ。だが放たれたのは、今更とも思える言葉だった。

 

「アーチャーは、騎士の幽霊なんだよね?」

 

 やはり気取られていたのかと思ったが、絵本に近いその本から何か分かるとも思えない。実際のところは絵本というほど幼稚でもなく、挿絵こそ多いものの小学生相当の児童が読むにはやや難しいであろう本なのだが、それでもやはり真実を語っているとは思えなかったのだ。

 よって変に言い訳をせずに、一部を隠しながらも真実を口にした。少女が知りたいのであろう事を先んじて言う。

 

「ああ、そうだよ。王様に仕えていた」

 

 それを聞いたアリシアの顔が瞬く間に明るくなった。まるで大輪の花のような笑顔であった。

 飛び上がりそうな気配のまま、次の言葉を紡ぐ。

 

「すごい! ねえねえ、アーチャーが生きていた時のことをお話してよ!」

 

 さて、どうしたものかと考える。つい今しがた自分にまつわる物語を読んでいたのだ。あまり普遍的なことを言えば、おそらく気付かれるだろう。かといってその申し出を断るのは忍びない。

 少し迷った挙句、アーサー王の物語には記載されていないであろうことを話すことにした。その本はあくまで騎士王の物語であり、悲しみの子(トリスタン)については深く記載されていないはずだ。

 アーチャーは自分の正体を悟られないように言葉を選びながら、自分の物語を語った。

 

 

 

 

 

 

 

 ――――完璧な騎士、サー・ランスロットに並ぶ武勲を立てた人物を挙げろといわれれば、おそらく彼の名が挙がるであろう。

 悲しみの子と名づけられた、サー・トリスタンである。イゾルデ、あるいはイズーと呼ばれる女性との悲恋を綴った物語の騎士だ。

 

 マルク王の治めるコーンウォールに彼は生を受けた。彼は七歳の頃に、賢明にして壮士であるゴルヴナルのもとに預けられた。そこでゴルヴナルの指導のもと、トリスタンは気高く、美しく、立派な少年に成長した。だがあるとき、生まれの地であるコーンウォールから離れることになる。商人がトリスタンを攫ってしまったのだ。確かに、このように美しい少年であれば、好事家に高く売れることであろう。

 

 だが彼を乗せた船は、瞬く間に大嵐に見舞われた。トリスタンを乗せていることで、神の怒りを買ったのだと思った商人は、トリスタンを海に放り捨てた。すると、船からは嵐が遠のいたのだという。

 かくして見知らぬ地に流されたトリスタンだが、三年以上に月日を隔ててコーンウォールに戻る。その三年間は騎士としてアーサーとは別の王に仕えていたのだが、その王への忠義を果たせたことからコーンウォールに戻る決意をしたのだ。

 

 コーンウォールに戻った後の彼は、多くの武勲を立てる。

 例えば、アイルランドの軍使モルオルトを打ち破る。これが、トリスタンが愛することになるイゾルデとの、馴れ初めともいえる出来事であった。

 さらに例を挙げれば、ドラゴンをも倒したことがある。これがイゾルデと恋仲に落ちるきっかけともいえる出来事であった。

 

 恋に落ちた二人はしかし、イゾルデの父であるマルク王とその周囲からの姦計によって裁きを受けることになる。イズーはそのときには既にらい病集団の妃となる運命であり、それを嘆いたトリスタンが彼女と共に逃げたからである。

 

 その裁きの席に、アーサー王が出席していたのである。傍らにはサー・ガウェイン、サー・ガラハッド、そしてアーサー王の義理の兄ケイを伴い、厳かにそれを見守っていた。

 裁きの結果は無罪。確実に裁かれるであろう二人であったが、二人の機転により裁きを潜り抜けることに成功したのだ。

 しかしながら、イゾルデは罪を免れたものの、トリスタンは追放を免れ得なかった。

 

 そこでトリスタンはイゾルデを残して旅立ち、その行く先々で武勲を立てる。最終的に行き着いたのは、アーサー王の下であった。

 そこで至高の弓であるフェイルノートを手に入れ、さらにその武勲には磨きがかかった。

 完璧な騎士と称されるランスロットと双璧を成す程度には、トリスタンは素晴らしい騎士であったのだ。

 また、ランスロットとも交友が深かった。ランスロットと交友の深かった、兜の騎士サー・モルドレッドとも交友があったが、こちらはさほど深く付き合いをしたわけでも無かった。やはり、トリスタンの友といえばランスロットであったのだ。

 

 完璧な騎士と並ぶ武勇と、完璧な騎士との深い交友をもつトリスタン。そんな彼だからこそアーサー王も彼を重用し、また交友を深めた。

 完璧な王と、完璧な騎士と、そしてトリスタン。見目麗しいこの三人衆は、全ての騎士の憧れであり、全ての女を蕩けさせるに足るものであった。

 

 およそ二年間、トリスタンはアーサー王の下で仕えた。その間トリスタンは誠実な騎士であったし、誰もが壮士といって憚らない実力の持ち主でもあった。

 

 ここでランスロットとトリスタンの交友の深さと、トリスタンのイゾルデへの愛が証明され、そしてトリスタンの死を招く出来事が起こる。

 アーサー王に仕えている間、トリスタンは一度妻を娶った。それは確かに美しい婦人であったのだが、実のところトリスタンはあまりその婚姻を歓迎していなかった。

 一度色に惑えば、遠い地に残してきたイゾルデが思い出されるのは目に見えていたからである。いっそ剣のみを追い求めて生きていたほうがよほど気楽であったことだろう。

 

 ついにトリスタンはアーサー王の下を離れ、その妻と縁を分かち、イゾルデの居るコーンウォールに戻る。

 戻るや否や、イゾルデに会い、駆け落ちを持ちかけたのだ。イゾルデは自分のために遠方より舞い戻ったトリスタンの愛の深さに心打たれ、一緒にマルク王の元を離れる。

 このときにランスロットが二人のための住まいとして、「喜びの城」と呼ばれるものを提供したのだ。ここで二人は幸せな生活を享受することとなった。

 

 しばらくして、二人はマルク王と和解する。喜びの城を一度離れ、マルク王の下に身を寄せることとなる。

 マルク王自身、二人のことは許したものと思っていた。そこには姦計も何も無い、本心からの好意によるものである。

 だが――――イゾルデの前で竪琴を弾いているトリスタンの背中を見たとき、拒みがたい衝動に襲われた。マルク王からすれば、娘を攫った張本人である。一度は許したとしても、娘と仲睦まじく戯れる姿を見て殺意が沸いてきたのだった。

 

 一瞬であった。

 帯びていた剣を抜き、背中から心臓を一突き。

 

 瀟洒な竪琴が血に濡れる。いかな壮士の騎士といえど、死ぬときは実に呆気無いものであった。

 薄れいく意識のなかで見たものは、泣き叫ぶ愛しい人(イゾルデ)。そして瞼の奥に蘇るのは、彼女との幸せなひと時と、アーサー王に仕えた日々だった。

 

 ――――かようにして、美しく、気高く、そして愛に生きたトリスタンの物語は一度幕を閉じたのだ。

 

 

 

 

 

 

 勿論正体に繋がる部分は伏せてはいたが、自分の生涯を正直に語った。かなり割愛した部分も多いが、紛れもない真実の物語であった。

 ただ、アーサー王との日々を詳しく語るわけにもいかないのが残念ではある。当然ながらアーサーの名を出すわけにもいかず、アルテュール王というアイルランドでの呼び名を用いるほかなかったのも残念だ。

 

 それが功を奏したのか、アリシアはアーチャーの正体に気付いた様子もなかった。やはりアーサー王物語にトリスタンの生まれなどが詳しく記載されてはいなかったらしい。幸いなことであった。

 

「じゃあ……アーチャーはドラゴンを倒したことがあるの?」

 

「ああ。だがきっと、私の友達もドラゴンくらい倒してしまうよ。もしかしたら、私が知らないだけでとうの昔に倒しているかもね。

 あ、いや……もしかしたら、ドラゴン退治には行かないかも知れないな」

 

 トリスタンの言う友とはサー・ロンスロットを指すのだが、彼もまたアーサー王に仕える存在だ。アーサー王には竜の因子が含まれており、ドラゴンを退治するというのは些か気後れするかも知れない。少なくとも、トリスタンにはそう思えた。

 だがアリシアにはそのような細かい事情は興味がないらしく、竜退治やトリスタンの恋愛について興味津々のようだった。

 

「ねえねえ。なんでドラゴン退治に行ったの? やっぱり、囚われのお姫様を助けるため?」

 

 なるほど、やはりそのような発想になるか。もしそうであったら、年頃の少女らしいメルヘンなお話になっていたことであろう。

 アーチャーは苦笑まじりで返答した。

 

「いや、ドラゴンを退治したものには王女を妻として与えるといわれていたんだ。私は叔父に王女を与えるべく、ドラゴンに挑んだのだ」

 

「えー、それじゃあ王女様がかわいそうだよ。そんな風に景品にされて、好きでもない人と結婚するなんて。

 やっぱり、お姫様が悪いドラゴンに攫われちゃうほうが素敵だと思うな」

 

 ちなみにここでいう王女とは、イゾルデのことである。だが彼女はトリスタンのことを愛してしまったのだ。思えば、既にここから悲劇は始まっていたのだろう。

 

「そうだね。だけど、色々あって私はその王女様と結ばれることとなった。王女様も私のことを愛してくれていたようだし、幸せだったと思うよ」

 

 アリシアは、それを聞いてやや頬を赤らめる。まだ幼い少女には、愛だとか幸せという言葉は少々気恥ずかしいものらしい。

 生まれてからずっとこの病院で過ごしているアリシアは、きっと恋愛など手の届かないもののように思うだろう。まだ十にも満たない少女が恋愛を経験するものなのかは、アーチャーにもアリシアにも分からない。だが、初恋ぐらいは経験していてもおかしくない年齢であるとは思う。

 だがきっと、恋に落ちるという当然の権利さえも、きっとアリシアは放棄していることだろうと思う。なぜなら彼女自身が、普通の恋愛など出来るわけがないと認めているからだ。

 出会いなどあるわけもない。ずっと病院暮らしなのだから。よしんば在ったとしても、治らない病気であるアリシアはここから何処かへ行くことは出来ない。相手は十中八九、治る病気を癒すために病院に居るのだ。ずっと会えるわけではなく、近いうちに別れが来る。

 

 だからそれが、トリスタンには堪らなく悲しいのだ。

 愛に生きた彼だからこそ、自分の病によって恋愛を放棄するその様が、痛々しくて仕方がない。

 勿論、それだけが彼の原動力ではない。成人は迎えられないだろうという運命を覆したいという想いも、彼の中で多くを占めている。

 だがやはり。愛があるからこそ、人は生きていけるのだと思うのだ。愛があるからこそ、人は美しく、人生は輝くのだと思うのだ。それを知らず、知ろうともしない少女のあり方が、悲しくて、悲しくて。

 

「ね、アーチャー。もしも私が、悪いドラゴンに攫われたら―――――助けに来てくれる?」

 

 彼女は欲しているのだ。自分を日の光から守ってくれる、暖かい存在を。

 そこに恋愛の情など、おそらくないのだろう。ただ彼女は、泡のように現れたアーチャーがその存在なのか確かめたいだけだ。その証が欲しくて、この問いを投げている。

 

 アーチャーはそれでいいと思った。自分は、アリシアを守る鎧でいい。アリシアの恋がそこから始まることができるなら、それでいい。

 もしも愛が自分に向けられるのなら、それはそれで受け入れようと思った。見た目の年齢が倍以上離れているが、きっとそれは、家族への親愛と勘違いしているだけなのだ。家族の温かみすら知らない彼女には、きっと恋との違いが分からないに違いない。その時は、彼女がその違いに気付くまで、暖かく見守るだけだ。

 

 つまり何にせよ。アーチャーはアリシアを守り通すつもりなのだ。

きっと、イゾルデも笑って許してくれるだろう。

 

「もちろんさ。君は、私のお姫様だ」

 

 アーチャーはその場に膝を付き、アリシアの手を取って恭しく宣言した。何があっても守るという、騎士の誓いを。

 以前より心に誓っていたことであったが、言霊に乗せると確たる信念へと変わった。

 アリシアは、その答えが嬉しかったのか恥ずかしかったのか。顔を赤くして、思い出したかのように、慌てて読書を再開した。

 

 ――――外を見れば、既に日は落ちている。あと数時間もすれば約束の刻限だ。それからは、アリシアを守るために闘争に身を投じなければならない。

 それでいいのだ。私は一本の矢。誰かを守るために、戦場を駆けることしか出来ないのだ。その矢こそが、自分の中の芯だ。それを誇りに思う。

 

 アリシアが眠ったら、戦場を駆けよう。

 最後に日の光を浴びているのは――――自分とアリシアなのだ。

 

 

  ◆◇◆◇◆

 

 

 結局、桜さんが教会に行くのは日が落ちてからとなった。日が落ちたどころか、日付すら変わろうとしている。

 間桐邸は暫く無人ということになる。広い屋敷で、さらに地下室で妖しいことを行っていたということもあり、それらの処理にかなり時間を割いてしまった。

 だが、なるべく別れを先延ばしにしたいという気持ちも働いていたことは認めるべきだろう。遠坂さんと桜さんはようやく姉妹になったばかりで、それなのにいきなり離れるというのはやはり後ろ髪を引かれる。

 

 教会へは既に連絡してあり、桜さんの受け入れを認めるということであった。事実上、教会へ保護を申し出た人物は二人目ということになる。聖杯戦争始まって以来始めての人物は、間桐慎二――桜さんの義理の兄にあたる人物ということだった。

 遠坂さんは、二度と教会には寄り付かないと啖呵を切った矢先に用事が出来たことが不満なようだった。だがいくら愚痴を零したところで、これが最良であろうことは間違いない。

 

 向こうからすれば、やはり私達には借りがあることになるのだろう。渋々という様子もなく快諾してくれた。この辺りは冬原さんの人の良さともいえる。

 ……そういえば、桜さんに冬原さんのことを話していなかった。事前に、彼のことはある程度伝えておくべきなのだろう。だが、今は姉妹仲良く歓談に興じているところである。話の腰を折ってまで説明できるタイミングがつかめないでいた。

 

 そろそろ教会が見えてくる。名残惜しいが、暫くの間はお別れだ。

 とは行っても、聖杯戦争中全く会えないわけではなかろう。面会の機会くらいはあるはずだ。

 

 坂に差し掛かったあたりで、冬原さんが出迎えてくれた。数人のお供を連れて、こちらが来るのを待っていたらしい。こちらに気付くと、恭しく礼をした。こちらの礼を返す。

 

「今晩は、待っていたわ。監督役の殉職により、その役目の代行を任されております、冬原春巳という者よ。よろしくね、間桐桜さん」

 

 冬原さんがにこやかに笑い、軽く会釈をする。外国生活が長そうではあるが、初対面の挨拶が握手ではないことに、ささやかながらも日本人だということを思い出させた。

 桜さんは、彼の風貌と言葉遣いにやや驚いたようだったが、同じくにこりと笑って会釈を返した。大したものだ。私は初対面の折には数秒ほど思考停止(フリーズ)していたのだが。

 

「――――…………遠坂桜です。この度、間桐から遠坂に復縁することになりました。セカンドオーナー、遠坂凛の妹にあたります」

 

 たっぷりと間をとってから、桜さんはそう宣言した。

何も聞いていなかったため、そこに居合わせたほぼ全員が驚いていた。向こうのある程度の事情は分かっているらしく、こちらほどではないが驚きを露わにしている。

 だが、冷静になって考えてみれば。それは良い選択だったのだろうと思えてきた。

 

 ――――名は体を現す。姉妹に戻ろうというのならば、まずは名からだ。形式にすぎないけれど、やはり姉妹という気はするだろう。

 それに、忌まわしき過去から決別するという意味でも良いだろう。決してこれは逃げではない。前に進むための選択だ。過去と向き合い、それでいてそれに囚われないためにも必要な儀式だ。

 今の桜さんは、この選択ができるのだ。色々としがらみが未だに在るだろう。だがしかし、桜さんを縛り付けていた大きな枷は既に無いのだ。わずかに残ったしがらみが、どうして桜さんを止められようか。

 

 それに、実質的な事情を鑑みても、それが最良の選択であると思う。

 すでに間桐家は壊滅している。間桐の名を冠しているのは桜さんだけで、しかしながら桜さんは正当な跡継ぎという訳ではない。ある程度間桐寄りになっているとはいえ、魔術刻印を受け継ぐのは難しいだろう。そればかりか、魔術師として正常な教育すら受けていない。このような状態の彼女が、頼れるものが無い今の状況で、間桐の名を関し続けるのは重荷にしかならない。

 それならば、姉である遠坂の庇護下にあるほうがデメリットは一切ない。しかもメリットは溢れている。

 

「――――ええ、貴方は名実共に、私の妹よ」

 

 噛み締めるように遠坂さんが答える。当然、役所などで養子縁組などの手続きをしていないため、まだ間桐桜のままである。だが、遠坂さんがここでそれを認めた以上――彼女は、遠坂桜なのだ。

 

「……分かったわ、遠坂桜さん。貴女をこれより、監督役代行の権限において正式に保護対象に認定します。以降は我らの指示に従ってもらいますが、貴女には状況が許す限りの自由を認めます。

 ……また、面会も限定させていただきます。肉親以外のものとは一切の連絡を絶つことになり、肉親であっても面会の際には私の許可が必要となります。一同、それで構いませんか」

 

 桜さん、遠坂さん、士郎さん、最後に私の順番で意志の確認をとる。異論を挟むものなど居なかった。

 肉親ということは、遠坂さん以外は面会できないということだろう。というか、ここで復縁の宣言をしなければ遠坂さんであっても面会できなかったらしい。まあ、その時は保護者ということで強引に捻じ込んだのだろうけれど。

 

「では、これより遠坂桜を教会へお連れします。こちらへ」

 

 桜さんは、一歩前に出て教会の面々の中に加わる。屈強な男達に守られるようにして、教会へと向かっていく。

 だが不意に振り向き、遠坂さんをしっかりと見据えてこう言った。

 

「姉さん! 何もかも終わったら、海に行きましょう! もちろん先輩と、八海山さんも一緒に!」

 

「いいわね、そうしましょう! 一緒に水着を買いに行きましょう!」

「遠坂に同じ! しばらくの間、我慢してくれよ!」

 

 遠坂さんと士郎さんが、遠ざかる桜さんに聞こえるように声を大にして叫ぶ。私も誘ってくれるとは嬉しいことだが、そのときになったら辞退しようかと思った。この三人の邪魔をするのは、なんとなく気が引ける。

 

 桜さんの姿が見えなくなるまで、ずっとその場に留まっていたが、姿が見えなくなって暫くすると誰からというわけでもなく歩きだしていた。教会を背にして、衛宮邸に戻ろうとする。本当ならこのままの足で、敵サーヴァントを探すべく練り歩くべきなのだろう。

 だが、今日だけは家で歓談しているのも悪くない。きっと誰も文句は言わないだろうと思った。



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Act22. 目覚めよ

 約束の場所――新都センタービルには既にライダーがいた。まだ刻限までには余裕があるはずなのだが、どうやら相当早くここに来ていたらしい。マスターと思しき人物も一緒だった。益荒男を体現したようなライダーと、線の細く美しいご婦人との取り合わせは、まさに美女と野獣というべき印象を受けた。

 

「おう、来たか。貴様の馬も用意しておいたぞ。馬上だからといって、弓の腕前が落ちるわけはあるまい?」

 

「貴女は私を見くびっているようだな、ライダー。騎乗試合では私の右に出るものは、そうはいなかったぞ?」

 

 揶揄を飄々と受け流す。ライダーもそれを聞いて安心したのか、その受け答えが気持ちよかったのか、終始破顔した顔を元に戻そうとはしなかった。

 しかし事実、彼は変装をした上で騎乗試合に臨み、アーサーの敵方に回って円卓の騎士の数名を下している。サー・トリスタンの馬の腕前は折り紙つきだ。さすがにランスロットや王には劣り、スキルこそ備わっていないものの、馬であれば乗りこなせる。

 

 

「良い。知っているかも知れんが、我が馬は折り紙つきの名馬ばかりだ。何せ宝具として存在を押し上げられているからな。その分やんちゃだが、まあ姉妹兵が乗れて貴様が乗れぬ道理はあるまい」

 

 やはりそうであったか。

 アーチャーは一度、ライダーの黒毛の馬が放った蹄による一撃で膝を砕かれている。サーヴァントとなったこの身、通常の馬程度ではどうにも出来ない。蹴られれば怪我もするだろうが、そもそも普通の馬の蹴りでは掠りもしない。つまり、あの馬の身のこなしと一撃の重さは尋常ではなかったということだ。

 考えられるのは、彼の宝具ということだった。しかし意外だったのは、「存在が押し上げられている」という言葉。

 その意味を吟味すれば、元は普通の馬であったということだろうか。

 有り触れた馬を宝具まで押し上げるとなると、前身はよほど馬に縁のある人物だったのだろうか。あるいは、人馬一体ともいえる伝説や伝承を持つのだろうか。何れにせよ、よほど馬と共に在ったのだろう。

 

「ライダー、余計なことは言わなくて結構です。アーチャー、私はライダーのマスター、サーシャスフィール・フォン・アインツベルンと申します」

 

 余計な情報を与えたことを察したのか、ハルバードを持ったサーシャスフィールがライダーにこれ以上喋らせまいとする。

 やはり一筋縄ではいかないようだった。ライダーより、こういった場合の頭のキレはサーシャスフィールのほうが数段上であった。ライダーはこの大らかな性格ゆえ、腹の探りあいには破滅的に向いていない。

 正直、サーシャスフィールはこのサーヴァントとのイメージが世間とかけ離れていると思っていた。調べれば調べるほど、この男が冷静沈着、泰然自若とした武人だと伝えられていたことが分かってくる。他人の月旦評ほど当てにならぬものは無いと肝に銘じたほどだ。

 

 アーチャーはライダーを推し量るのをやめ、サーシャスフィールに恭しく礼をした。同盟を組んでいる以上、相手の主にも最大限の礼を尽くすべきだ。

 

「アインツベルン殿、見れば貴族の方とお見受けいたします。サーヴァントゆえに名乗れぬ無礼、お許しを」

 

 現代人が聞けば慇懃無礼と受け取られるだろう言葉遣いはしかし、サーシャスフィールにはもはや馴染みのものらしい。さすがは大貴族といった様子で、さらりとその言葉を流した。

 

「構いません。さてライダー、この後はどうするのですか」

 

「うむ。アーチャーの力も考慮したうえ、昨日から色々考えてみた」

 

 センタービル屋上はかなりの高層だ。夏を感じさせる温い風が頬をなぜる。

 ライダーはくるりと背を向けてその淵に立ち、ある一箇所をそこから指差した。あそこしか在るまいと言って指し示した場所は、冬木大橋であった。新都と深山を結ぶ唯一の鉄橋だ。深夜になると、そこを通ってどこかへ行こうという殊勝な人間は居ないらしく、ヘッドライトの明かりは皆無であった。

 

「――――橋ですか」

 

「理由を聞かせてもらえるか、ライダー」

 

「うむ。まず、我が軍の能力を発揮できるということだ。アーチャーは知らんだろうが、私にはおよそ20の宝具馬による騎馬隊が存在する」

 

 それが先ほど言っていた姉妹兵だということは、すぐに察することができた。首肯して先を促す。

 

「やはり騎兵をうまく活かそうとすれば、ある程度の広さを持った場所が必要だ。その辺りの街道で戦うのは手狭すぎる。また雑多な場所では馬の背後を取られかねん。

 それに、このほうがアーチャーも戦いやすかろうと考えたのだ。左右に大きく動かれる対象を射抜くよりも、移動を制限され、かつ遮蔽物が存在しない状態のほうが射抜きやすいだろう、とな。

 そこである程度の広さを確保しつつ、開けていているが動きに制限がつく場所。それがあの大橋というわけよ。我らが共に肩を並べるに相応しい戦場だな」

 

 なるほど一理あった。空を雄大に飛ぶ鳥を打ち落とすのは難しくとも、鳥かごの中に閉じ込めてしまえば簡単に射抜ける。

 だが、それでも疑問があった。今の口ぶりには、自分も戦場に連れて行くと聞こえた。大橋であれば、このセンタービルの屋上からでも狙撃できる。むしろそのほうが、相手の反撃を許さないぶん有利に戦えるはずだ。

 

 ―――――なるほど、裏切りを見据えているのか。もしも相手を屠った後に手のひらを返されたら、センタービルから狙撃されるのはライダーだ。それを許さないためにも、自分を至近に常に置いておこうという腹なのは間違いない。

 わざわざ私に馬を貸し与えるというのも、常に刃の届く場所においておくための楔なのだろう。徒歩で自由に動き回られるのは不都合に違いない。

 

 だが、ここでライダーの申し出を断れば角が立つ。そうでなくとも、ライダーの戦略には一理あるのだ。反論など出来るはずもなかった。だが一つだけ気になることがあるので、上機嫌に策を話すライダーへ割ってはいることにした。

 

「それに、こっち側とあっち側をつなぐ橋はあれ一つきり。戦略的には、あれを占領するのは大変有効ということだ」

 

「なるほど、それは分かった。しかしライダー、我らはセイバーとバーサーカーを討つということだったな」

 

「然り。それがなにか」

 

「今夜あの場所に、その二体がやって来るのか?」

 

 ライダーは何やら呻きながら、顎の髭を撫でた。どうやら考え事をするときや、困ったときの癖らしい。

 その反応でアーチャーはおおよそ理解した。どうやら戦場を定めただけで、そこに彼らがやってくる算段は無いらしい。それでは意味がない。いざ遭遇戦になってみて、策が使えなかったから負けたでは困るのだ。ただでさえ強力な二体を相手にするのだ。そのようなぞんざいな策では困ると、溜息を禁じえなかった。

 だが意外にも、サーシャスフィールから声が上がった。

 

「今日とは限りませんが。彼らがあそこを通過する可能性は高いのではないかと」

 

「……アインツベルン殿。詳しく話してもらえるか」

 

「アインツベルンは聖杯戦争が始まってからの全てに関わっていますので、過去の聖杯戦争についてもある程度なら知る事が可能です。

 始まりの御三家である遠坂家、現在の当主である遠坂凛は、前回の聖杯戦争の優勝者でもあります。アインツベルンも間桐もそうですが、屋敷は深山の方面に存在します。

 つまり、新都に用向きがあれば、あの橋を通る以外にない。しかもつい最近まで、間桐の下僕が街を徘徊していたのです。セカンドオーナーとしてはその影響が出ていないか調査をしたいところでしょう。近日のうちに、こちらまで足を伸ばす可能性は高いのでは?

 それに、別にセイバーとバーサーカー以外と交戦しない理由はないのです。なんにしても、ここを押さえるのは戦略的に大変有用だと判断しますが」

 

 そこまで言って、サーシャスフィールは不愉快な出来事を思い出した。キャスターのことと、それに破壊された偽の聖杯のことだ。

 今までお爺様から絶対に守りと通せといわれていた聖杯の器。あれが贋作であったということを、先日知らされたのである。不意打ちに近い情報であった。

 もちろん表立って抗議などしないし、戦略的に間違っているとも言いがたい。だが、せめて自分には伝えて欲しかったものだ。すぐさま本物の聖杯が運び込まれたものの、サーシャスフィールは内心穏やかざるものがある。

 あの偽の聖杯が破壊されるまで、お爺様は私に喋ろうとしなかったに違いない。二度と聖杯を破壊させまい、奪わせまいという執念は立派だが、せめて自身が生み出したモノくらいは信頼してほしいものだった。

 

 その微妙な表情をアーチャーはなんと取ったのだろうか。遠坂家と並々ならぬ因縁があるとでも思ったのか、あっさりとその言葉を信じたようだった。

 

「なるほど、アインツベルン殿が言うのであればそうであろう。暫くの間、夜間は我らがあの橋を占領することに異論はない」

 

 問題なのは、おそらく思い出したかのように散発的に現れるであろう一般人の車両だが、そこはアインツベルンの魔術に頼ることにする。

 どうせここまで来るのにも、なんらかの魔術で人の目を誤魔化しているに違いないのだ。問題はあるまい。

 

 全員の意見が揃ったところで、一同はセンタービルの屋上を後にした。衛宮士郎、遠坂凛、八海山澪、それにセイバーとバーサーカーの帰路が冬木大橋に差し掛かる、およそ30分前の出来事である。

 

 

  ◆◇◆◇◆

 

 

 数十分の間、誰も言葉を交わさず夜の街を歩く。人の姿はまばらで、誰も彼も家路を急いでいるようだった。

 

「一件落着、ということかな」

 

 沈黙を破ったのは霊体化したままセイバーだ。そろそろ新都と深山を結ぶ鉄橋に差し掛かろうというあたりである。

 既に人の姿は全くないが、姿を現すのは無用心すぎるだろう。普段は実体のままで過ごすことが多いセイバーだが、今ばかりは霊体化していた。

 

「いや、むしろこれからでしょうね。大きな問題は解決したでしょうけれど、細かい問題は山積みじゃない?」

 

 セイバーの意見に答える。

 養子縁組の手続きもそうだが、住まいはどうするのか、遠坂邸に移るのなら間桐邸はどうするのか、他にも先延ばしにした魔術師として生きるかどうかの問題もある。これから決めなければならないことは山のようにあるに違いなかった。

 だけれど、きっとこの姉妹ならそんなものは問題にならないに違いない。

 

「そうね。当面の問題は、あの子に負けない水着を考えておかなきゃね」

 

 そっちですか。

 ……いや、遠坂凛と遠坂桜にとってはこの程度のことは問題としてカウントされていないと考えておこう。文字通り、問題になっていないのだと前向きに捉えておく。

 

 冬木大橋に足を踏み入れる。

 人通りはない。もとより、この町にはこんな時間にここを通ろうなどという者は存在しないと言ってもいいだろう。徒歩で歩くにはやや億劫だ。

 車も当然のように走っていなかった。何となく物寂しい気持ちになる。

 ふと空を見上げれば、今日は星が綺麗な夜空であった。人里は空が狭い。それに慣れてしまった私達は、だからこそこうやって空を十分に拝めることが特別なことになりつつある。

 だがそうでなくとも。今日の星明かりは特別に思えた。

 士郎さんが人助けをする理由。何となくだけど、分かった気がするのだ。

 胸の中が暖かい。じわりと広がる温かさが心地いい。これがとても気持ちいいから、きっと士郎さんは人助けを続けているのではないかなと思うのだ。

 私だって、ボランティアぐらいはすることがある。魔術師は基本的に利己的だけれど、半端者の私はそういうのには疎い。むしろ普通の学生に近いと思う。だからボランティアをすることだってあるし、たまに学校でキャンペーンをしていれば献血をすることもある。

 そういったときにも、心が晴れやかになる。だがこれは、それよりももっと暖かかった。

 目に見えない誰かよりも、やはり目の前の誰かを救ったほうが実感を伴う。この手に残ったものがあるからこそ、それを尊いと思えた。

 だから士郎さんもきっと、この気持ちを今抱いているに違いないと思った。それを確認したくて質問を投げる。

 

「士郎さんは、何で人助けを続けているの? 中東まで旅立って、紛争を収めようと考えたの?」

 

 ――――言葉を舌に乗せてから気がついた。人助けにしては、自分の命が蔑ろにされすぎてはいまいか。

 

「……俺は昔、正義の味方に憧れていたんだ。いや、今も憧れている」

 

 士郎さんはどこか遠い空を眺める。その顔は昔を懐かしむような、それでいて悲しんでいるような、複雑な表情だった。

 正義の味方。なるほど、それはやはり機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)と言われるものだろう。困難な状況に現れて全てを解決してしまう、物語(せかい)にとって都合の良い存在。神だとか、精霊だとかが演劇ではポピュラーだけれども。正義の味方というのもそれに類する存在だろう。

 だが何だ、この危うさは。まるでか細くて弱い糸で吊るされているかのような、あるいはそれで綱渡りをしているかのような危うさだ。

 

「正義の味方になりたくて、戦い続けている?」

 

「まあ、そんなところだ。俺は今までに何度か命を救われている。だからこの命は、誰かのために使うべきだと思うんだ」

 

「……それは――――」

 

 それは、おかしい。

 

 自己犠牲や、自己献身と言えば聞こえは良かろう。だが、士郎さんは脅迫じみた強制概念に突き動かされているだけではないのだろうか。

 いや、確かに士郎さんの意見も正しい。それは救われたことに対する恩を返したいという気持ちだと解釈もできる。普通の人間だって似た感情を持つだろう。大抵の場合、それはボランティアを行ったり、あるいは犯罪や人の命を扱う職に就いたりしようとする。

 だが、私は知っている。士郎さんはその如何なる選択肢でもなく、厄介事を処理するための“正義の味方”としての道を選んだことを。それは自分の命を代価にして人助けを行っているということ。

 あまりにも自分の命に重みがない。

 

 私には分からない。それが正しい道なのか。士郎さんにかけるべき言葉が無い。士郎さんよりも人生経験の浅い私が、半端に魔術師を続けている私が、どうして士郎さんを糾弾できようか。

 ある人は言うだろう。それはとても尊いと。果たしてそうか。

 士郎さんの命を救った人だって、そんなものは望んでいないだろう。救った命なのだから、それを謳歌して欲しいと願うはずだ。せっかく救った命を蔑ろにして喜ぶはずも無い。

 ある人は言うだろう。それは人として壊れていると。果たしてそうか。

 少なくとも、人の倫理には沿っている。それは一歩間違うと破滅を呼ぶ危ういものではあるが、同時に人の倫理を体現した存在でもある。隣人には救いの手を、飢える者にはパンを与えよ。そして全ての不義に鉄槌を。秩序を愛し、悪を処断するその姿は人類の理想だ。

 だから私は分からない。士郎さんが壊れているのか、それともそれに危うさを感じる私がおかしいのか。

 遠坂さんは何も喋らない。薄く目を閉じ、何かを反芻しているかのようだ。そこに感じたのは僅かな決意。

 きっと、遠坂さんは士郎さんを止める為に中東まで同行したのだなと、そう感じさせる横顔であった。

 

「…………シロウ、全てを救おうなど考えないほうがいい。その考えを持ち続ければ、貴方はいつかきっと、人類を個ではなく総数でしか見られなくなる」

 

 私には何も言えなかったけれど、セイバーにはかけるべき言葉があったらしい。本格的に説教をするつもりなのか、実体化して姿を現した。人目が無いからか、それとも気が立っているのか。普段着兼用である甚平ではなく、鎧姿であった。

 セイバーの言い分は、なるほど的を射ていると思った。

 九を救うために一を斬り捨てる。九百の命を救うため、百の嘆きを残し。九千の喜びを守るため、千の怨嗟を淘汰し。九億の生を紡ぐため、一億の絶叫を無視して殲滅する。

 それは人類を数でしか見ていない。それは究極の平等で、そしてどこにも愛が無い。人類を愛するヒーローではなく、デウス・エクス・マキナの名の通り、機械的に人類を救おうとする化け物である。

 

「……ああ、そういうヤツを一人知っている」

 

「それはシロウから見て正しいか」

 

「いや……俺は、あのときアイツに食って掛かった」

 

「それが正しい。そして――――そうなってしまったとき、世界で最も嘆くのは貴方だ、シロウ。手元に残ったものがあるなら、せめてそれを愛おしいと思え。

何も手元に残せなかった私だからこそ、誰も救えなかった私だからこそ、断言できる。そうなってしまったとき、シロウは悲しむ。救ったものを顧みなかった自分を、手元に残せたものを投げ捨てた自分を後悔する」

 

 それはどんな思いだったのだろう。

 自分は残せなかったから、せめて貴方は残せ。後ろを振り返って、自分が救った命を愛でろ。さもければ、きっと後悔する。手元に何も残せなかった自分は、後悔しているからと。

 自分が達せられなかった夢を子供に託すような思いだろうか。それとも、間違っても自分のようにはなるなという戒めなのだろうか。

 セイバーの顔を見れば、今にも泣き出しそうな顔。ああきっと、セイバーはずっと嘆いているに違いない。せめて砂の一粒でも残ったのなら、どれほど救われただろう。きっとサーヴァントとなった今も嘆いているのだ。

 

 ――――私はその戦いのやり直しをしたい。せめて我が友だけでも生き残る道があった筈だ。

 

 セイバーが士郎さんに、聖杯にかける望みを聞かれたときに答えた言葉だ。何も残せなかったからこそ、せめて友だけは救いたい。

 この手に、ほんの一粒でいい。何かを残したい。

 セイバーの思いは、永い時間を経ても変わっていない。彼の心は、未だその戦いの中にあるのだ。後悔と、懺悔と、嘆きを伴って。

 

 だけれど、あまり士郎さんを苛めるのも良くないだろう。きっと、士郎さんからしたら何度も聞かされている話に違いない。なにせ七年ほどそんな生活を続けているのだ。何人もの人が説教したに違いない。耳にタコが出来る前に、切り上げさせるとしよう。

 

「まあまあ、セイバー。その辺で――――…………」

 

 察知する。夜間に出歩くときは常に起動させてある私の探索魔術が、それを捉えた。状況によってはサーヴァントの索敵スキルをも上回る範囲を誇るそれが、確かに敵を見つけ出した。視覚では捕らえられない。闇夜に完全に隠れている。

 

 そう、この大きな反応は間違いなく――――サーヴァント、それも二体! 片方はよく覚えている、これは――――アーチャー!

 

「士郎さん、前方にサーヴァント! 敵はアーチャーともう一体、こっちを狙っている!」

 

 そう言った瞬間、殺気が膨れ上がる。闇の向こう側からこちらの眉間に狙いを定めているのが手に取るように分かった。

 心臓が限界まで鼓動を早める。時間が止まったような感覚。殺気を叩きつけられて、緊張が全身を駆け巡る。

 次の瞬間には、あの凶悪な矢がこちらに向かって迸り、瞬きの間さえ許さずに私達を穿つだろう。逃げ場は既になく、あったとしても間に合わない。もとより、弓の英霊の一撃を、ただの人間である私達がどうにか出来る道理がない。

 

 だがそれを覆せる人物がここに居る。自身で適わぬなら、適うものを持ってくればいい、作り出せばいい。

 

「――――『熾天覆う七つの円冠(ロー・アイアス)』ッ!」

 

 弓が放たれ、空気を切り裂きながらこちらへ向かうのが分かる。月光を反しながら一直線にこちらに向かうそれは、まさしく必殺の一撃に相応しい威力。

 放たれた矢はもはや音速に迫る速度。それは鎌鼬と化したソニックブームを伴い、周囲の風景を歪めながら、標的を食い千切ろうと顎を開く。

 矢が私たちに到着するまでの時間は、もう一秒もない。

 それを受ければ、いかに頑丈な鎧を着込もうとも容易く射抜かれるだろう。

矢の特殊な形状より発生する鎌鼬は、対象の付近に暴虐の限りを尽くすだろう。

 

 ならば私たちの死は必至――――されど、それを覆してこその大アイアスの盾!

 

 刹那の後に着弾。

 腹の奥底まで響く轟音と、黒板を爪で掻くような高周波。びりびりと足場が震える。

 欄干を揺るがすには至らずとも、大気を切り裂くには十分に足る一撃。

 どんな鋼鉄も貫くほどの威力を以ってした一撃はしかし――――輝く七つの花弁によって受け止められていた。

 

 士郎さんの右手より現れた守り。それは花弁を広げ、確実に私達を守る。ただの一枚も撃ちぬかれはしない。

もとより、アイアスの盾といえば投擲物に対して無敵を誇る概念武装だ。攻撃手段が投擲である限り、これに対抗できる概念を持つものを持ってくるか、士郎さんの投影に綻びが生じない限りは矢がこれを貫く道理はなし。

 

「相手は車道側、橋の奥に居るわ! ここに居たら鴨撃ちよ!」

 

 次々と飛来する矢。それを受け止める度に不快な音が鳴り響く。それに負けまいと、敵の場所を叫んで伝える。

 

「車道に上がるぞ、私に捕まれシロウ!」

 

 セイバーは両脇に私と遠坂さんを抱える。士郎さんは狙撃地点と思われる場所を睨みながらも、空いている左手でセイバーを掴んだ。

 その瞬間、セイバーは跳躍する。空を跳ぶ私達に向けて、正確無比な矢が打ち込まれた。この速度で移動、しかも左右だけでなく上方向にも移動する物体に命中を得られるとは、恐ろしい腕前だった。

 だがそれら全ては、ロー・アイアスを展開し続ける士郎さんによって阻まれる。その着弾の度に宙に居る私達の体が押されるが、セイバーは見事に車道へ着地を決めた。

 振動を感じさせずに地面に足を付けた後、セイバー抱えていた私と遠坂さんを開放する。

 

 暗闇の向こうを睨む。相手は打ち抜けないと諦めて矢の無駄と判断したらしく、もはや狙撃の脅威には晒されていなかった。

 ここで私にも相手を探る余裕ができた。可能な限り詳細に相手を探ろうとして――――気付く。

 

 相手は二体なんかじゃない。サーヴァントらしき反応は二つ、しかしそれに付随する敵が――――およそ20は存在する。それがこちらに向かってくる。高速だ、おそらくなんらかの移動手段を用いている。

 

「――――Unsere einzige Waffe ist ein Lied (我は永久の歌で奮い立つ)

 

 魔術刻印からそれを起動する。いつかの一瞬に限定した肉体強化ではなく、長時間にわたって身体能力を強化する術。その分出力は劣るが、これが必要な場面であることは間違いない。

 

 いつかのキャスターとの戦いを思い出す。あのときも肉体を強化していたとはいえ、私は何の役にも立てなかった。今度こそ、足を引っ張らないようにしないと。

 頭の奥がちりちりと痛む。だがそんなことは無視しろ。今は雑念を全て追い出せ。

 

 私の魔術回路を全て起動しろ。士郎さんは撃鉄のイメージ、遠坂さんは心臓をナイフで刺すイメージと聞いた。

 私は熱機関のイメージ。熱機関に私という存在を接続し、蒸気から魔力というエネルギーを抽出する。

 

「……まさか、こうも順調に事が進むとはなあ」

 

 暗闇の向こうから声がかかる。橋からの明かりで、その姿を確認することができた。

 まず目に入ったのは、白装束を着込み、ハルバードを装備した軍団。やはり数は20ほど。どうやら特別なのは跨っている馬のほうらしいが、これほどの騎兵となると無視できない戦力なのは間違いない。

 次に、同じく馬に跨っているアーチャー。弓は下げられているが、隙あらばこちらを射抜こうという意思が伺える。私はゆっくりと移動し、士郎さんを射線に挟む。私にはあれを防ぐ手立てがない。申し訳ないが、士郎さんには盾になってもらう他ない。

 次に、中華風の鎧を着込んだ巨漢。三国志や封神演義などの作品でしかお目にかかれないような鎧だ。竜を模した薙刀のようなものを持っている。私であれば持ち上げることも難しいであろうそれは、しかしライダーの体躯に比べればむしろ華奢にも見えた。

 

 それは異様な取り合わせだった。アーチャーと白装束の騎馬は、西洋風の見た目から画にもなる。だが巨漢のそれは明らかなアジア風であり、その中にあっては凄まじい異彩を放つ。

 それらが列をなして、車道を封鎖するように進軍する。橋には人払いの結界が張られたらしく、結界の外のモノを拒絶する排他性のそれが張られる感覚を覚えた。

 

「ライダー……」

 

 あまり観察する暇はあのとき無かったが、確かにライダーだった。サーシャが令呪で呼び出したサーヴァントは、確かにあの男だったと断言できる。ライダーを見たのは私がセイバーを呼び出したその日の一度きりだったが、記憶に誤りはないはずだ。

 

「いかにもライダーである。

さて、遠坂とやら。早くバーサーカーを出すが良い。こちらもサーヴァントは二体、そちらも二体。昨今で言うところの、タッグマッチという奴だ」

 

 じろりとライダーが遠坂さんを睨む。その瞬間、体中に重石を乗せられたかのような感覚を覚えた。

 重力が急に何倍にも膨れ上がった感覚。体が満足に動かせない。膝が笑い、気を抜けば直立することも難しくなる。指一本動かすことにすら、全霊を傾けなければならない。まるで粘性の恐ろしく高い液体を張り詰めたプールで歩いているようだ。

 士郎さんも、遠坂さんも、どうやら同じ状況らしい。その場に縫い付けられたように、一歩も足を踏み出せないでいる。

 マスターとしての能力だろうか、これが宝具の効果であることを理解する。おそらく敵対する相手に対して、行動を鈍らせる宝具。常時展開しているらしく、その分対処に困る代物だ。

 何せ対抗手段が無い。それを無効化できる概念武装でもないかぎり、宝具を防ぐのは難しいだろう。しかも真名開放せずとも発動する常時発動タイプであるため、“使われる前に倒す”という単純にして最良の策をとることができないのだ。

 

 よって、まずライダーをどうにかする必要が出てくる。

 

「セイバー、まず狙うはライダーよ。バーサーカーがどこまで言うことを聞くか分からないけれど、援護させるわ」

「心得た。……やはり、私のステータスが低下させられている。アーチャーの前にライダーを倒す必要があるようだ」

 

 すらりと剣を抜くセイバー。いつもの剣と盾の装備だ。私を守るように前に進み出る。

 

「一応尋ねるが……このまま帰してはくれないだろうか?」

 

「断る。我らは今宵、ここで貴様等を打ち倒すために居るのだ。さあ剣を構えよ、さもなくばその首を刎ねるだけだ」

 

 セイバーが剣を構える。ライダーや、後ろに控えている白装束よりも遥かに細身の剣ではあるが、その刀身は力強く、ライダーの持つそれよりも高位なものであると周囲に知らしめている。

 だがライダーもそんなことでは恐れない。いや、真に恐れなければいけないのは、私達のほうかも知れない。話はある程度聞いている。ライダーはアーチャー、セイバーと同時に戦闘し、その両方を圧倒していたという。三つ巴の戦いだったとはいえ、それは驚異的な戦闘能力だ。

 

「では行くぞ。――――この(ライダー)が行くぞ! 我来々、我来々!」

「――――いざ……!」

 

 ライダーの声と共に、アーチャーが弓を構える。狙いはセイバーだ。士郎さんの守りは、投擲物に対して絶対の守りを誇る。フェイルノートが因果の逆転による必中の弓だったとしても、それを貫けるかは疑問だろう。だからこそ、必殺の弓は確実に討ち取れる相手に使用しなければならないのだ。

 

 ライダーが馬を走らせる。白装束がやや遅れてそれに付いてくるが、アーチャーはその場に留まり続けている。当然だ、遠距離攻撃が可能である以上、セイバーに接近戦を挑む道理が無い。

 ライダーの馬は下手な車よりも速い。スポーツカーには及ばないとしても、チーターになら勝てそうな程の俊足だ。

セイバーに接触するまで、およそ二秒。いや、それ未満。

 

「――――バーサーカーッ!」

「■■■ォォ■■ィィ■■ンンンッ!」

 

 それを遮るように、咆哮と共に一つの影が現れる。

 初めに見えたのは、吹き出すように現れた黒い煙。いや、あれは霧だ。

 それはこの闇夜を濃縮したような風貌であった。暗黒を湛えた霧の鎧。不定形の霧が、おぼろげに人の形を留めているに過ぎない。その中身は黒すぎる霧に阻まれ、一切を伺うことが不可能。まるで全身から炎でも噴出しているかのように、絶え間なく霧が発せられ、その輪郭を完全に隠し切っていた。しかも、橋からの明かりがあるとはいえ夜間である。油断すればその姿を見失いそうになるほどに、その姿は夜に溶け込んでいた。

 

 それはいかなる宝具なのだろう。私とて一応はマスターであるというのに、そのステータスは一切読み取ることを許されない。

 一切のステータスは完全に隠匿され、その姿さえも垣間見ること適わない。その霧の奥が、果たして男なのか女なのか、騎士であるのか戦士であるのか、それ以前に本当に人間なのか。それすらも全く分からない。

 ただ、これほど自身を隠匿する宝具を持つサーヴァントである。その前身が、よほど自分の名前や正体を周囲に隠し続けた人物であろうことは容易に想像が付く。あるいは、なんらかの呪いだろうか。

 

「現れおったなバーサーカー! 我が一撃を受けるがいいッ!」

 

 ライダーはそのまま直進し、バーサーカーの脇を通り過ぎるような進路を取る。大きく手に持つ青龍刀を振りかぶり、バーサーカーを両断しようと力を溜める。

 バーサーカーがライダーの間合いに入る。瞬間、大気よ揺るげというほどの力を以って刀が振るわれた。

 だがバーサーカーにはライダーのステータス低下が利いていないのか、大きく跳躍してその凶刃をかわす。刃はバーサーカーの霧の一端を掠めたにすぎず、中身の本体はおそらく無傷。

 

 ライダーの頭上から、落下の勢いを乗せた振り下ろし。だがライダーはこれを予期していたのか、青龍刀を巧みに操り、それを受け止める。空中に位置していては唾競り合うこと適わず、バーサーカーは、歩みを止めて大きく刀を振ったライダーに弾かれて大きく距離を取らされる。

 バーサーカーの一撃はライダーを屠ること適わなかったが――――そう、歩みを止めさせることには成功した。

 

「――破ァッ!」

 

 歩みを止めたライダー、その首を刈り取らんとする一撃をセイバーが放つ。だがこれもまたライダーは刀で受け止め、バーサーカーと同じく弾き飛ばして距離を取ろうとしたが、しかし知性を奪われてはいないセイバーはあっさりと身を引いてそれを回避する。

 騎馬と戦うときには、その俊足を活かさせてはならない。蛇のように纏わり付き、その足を殺せば自ずと勝機は見えてくる。一撃離脱の戦法を取られては反撃の機会が与えられなくなるため、それを封じることが最上なのだ。

 

 よってセイバーはライダーから距離を開けすぎないように動く。ライダーが青龍刀を薙げばそれを受け流して隙を作り、突けば盾で防ぎながらも同じく刺突で返す。

 セイバーは以前の辛酸を再び舐めるつもりは無いらしく、一部の油断も無くライダーに対処する。

 それ故か、ライダーは以前のように圧倒できていなかった。あれはセイバーやアーチャーが自身のステータスの低下に戸惑っていたことも大きい。ステータスが低下し、十全に戦えないなら、それを前提として戦えばいいだけのこと―――――!

 

「――――喰らえッ!」

 

 アーチャーが弓を放つ。だがそれは、射線に飛び込んできたバーサーカーによって叩き落された。否、あれは矢を喰らうつもりで飛び込んできたようなものだ。理性が無い分、負傷を恐れない。

 その暗黒の視線に射抜かれる。思えばこのサーヴァントと明確に敵対したのはこれが始めてだ。最初の邂逅の折は、このバーサーカーはライダーしか見えておらず、こちらに気を一切やらなかった。あのとき、ライダーがきっちり仕留めてくれればこのような事態にはならなかったものを、と悔やむ。

矢を叩き落されたのは偶然に過ぎないだろうが、しかしアーチャーにとってバーサーカーの相手は非常に厄介である。

 何せ、その霧に阻まれて急所の位置が特定できない。ある程度はその体躯から推測できるものの、例えば思っていたよりも背が低かった場合、一撃を外す可能性がある。

 『無駄なし必中の矢(フェイルノート)』は標的の狙った部位を確実に射抜く宝具である。それは因果の逆転によるものだが、これを放つには僅かながら制限がある。

 それは、狙った部位が視界に入っていることである。

 矢とは当然、目で狙いをつけて放つものだ。いかに因果を逆転しようと、視界に入っていないものを矢で打ち抜くことは不可能。よってフェイルノートを放つには、視界で相手を捕らえつつ、狙った部位の場所が正確に分かる必要があるのだ。

 ゆえにこのバーサーカーが相手ではフェイルノートが使用できない。

 セイバーとバーサーカーがライダーを集中して狙うように。ライダーとアーチャーも互いに標的を定めていた。それはセイバーである。

 バーサーカーは、ライダーとアーチャー、その両方の宝具に対して強い。アーチャーの宝具は発動できず、しかもライダーの宝具は効果が無い様子だった。だからこそ厄介な相手を後に回し、セイバーを先に倒そうという腹である。

 だからアーチャーはこれ以上バーサーカーを追撃しようとしなかった。理性が欠如している以上、追撃さえせずに身を引けばより近い標的―― つまりライダー ――を狙うはずだ。

 

 ――――だがしかし。

 

「■ォ……■ィィ……――――?」

 

 バーサーカーはライダーに向かおうとはしなかった。

 

 

  ◆◇◆◇◆

 

 

 セイバーと戦うライダー。セイバー射抜こうと矢を放ったアーチャーに割り込んだバーサーカー。

そして、それを避けるようにこちらに向かってきた、20騎ほどの白装束。これもかなりの俊足だ。こちらに向かって掲げる凶悪なフォルムのハルバードが、否応なしに恐怖を掻き立てる。

 

「――投影、開始(トレース・オン)

「士郎さん、私にも何か身を守れるものを」

 

 士郎さんが中華風の双剣を投影する。私の申し出に頷き、一振りの剣を投影してこちらに寄越した。

 それは、宝具でも何でもない剣。片手と両手、そのどちらでも扱えるようにと重さと長さを調整された――――|片手半剣(バスタードソード)。特筆すべきはその攻撃力の高さとリーチの長さ。馬上の相手と戦うのなら、この長さが頼みになる。

 だが両手剣は駄目だ。私の筋力ではとても扱えまい。そもそも剣の心得が無い以上、そんなものを寄越されても困る。

 片手剣でも駄目だ。ハルバードの一撃を受けきれず、また反撃しようにも刃が届かない。だからもっと長い武器である必要がある。

だが、重さ3キログラムにも満たないこれならば、筋力を増強した状態の私ならどうにか振ることが出来る。ハルバードを受け、反撃することも可能。

 

 セイバーやバーサーカーにはこちらを気遣う余裕が無い。自分の身は自力で守らなくてはいけないだろう。

だが大丈夫。こちらとて魔術師。それにキャスターのときに比べれば数が少ない。これならば、私は逃げることが可能だ。何せ、この魔術は逃げに大変重宝するのだから。逃げが取れる状況ならば。私は逃げ切ってみせる。

 

「――――Einstellung(設定). Perceptual(知覚), Gesamtpreis(拡張)――――Append(追記). Threat(脅威),Reflex(脊髄反射),Vermeiden(回避),Intercept(迎撃)!」

 

 脊髄反射に、回避と迎撃を設定。私に害なすものを認定次第発動。

数がおよそ20ならば、単純に考えて一度に相手をしなければならない数は7騎強。足場は一人の人間が動き回るには十分。7騎程度では、完全に包囲することは不可能。

ならば回避、迎撃、逃走。どの選択も取れる。キャスター戦とは状況が大きく違う。実力もそこまで開いていないし、加えて不死でもない。

 よって、微力ながら私も戦うことが出来る。

 ――――簡単に、私に刃を浴びせられると思うな――――!

 

 先陣を切っていたものが士郎さんと接触する。士郎さんはその双剣を使い、ハルバードの一撃をいなす。次から次へと襲い掛かるそれを、短剣の一撃が刈り取る。士郎さんは騎手の命を取ることはせず、しかし交差する瞬間に馬の足を斬る。

 足を傷つけられた馬は自重を支えるこができず、派手に転倒する。その際に周囲を巻き込み、縺れ合うように地面に投げ出される。

 だが士郎さんそれが全てを攻撃できる筈もなく、それを逃れたものが私に向かって突撃してくる。

 ハルバードを突き出した状態での騎乗突撃。受ければ即死。

 

 だが――――例え不意打ちでも、この状態の私ならば回避が可能。

 その切っ先を、大きく横に飛びのいて回避。驚くほど体が重い。体が鉛に置き換わったかのよう。

回避に全力を傾ける。そして武器の長さを頼みに、転がりながら破れかぶれに剣を振る。それは幸運にも突き出した相手の腕を浅く切り裂き、その激痛に耐えかねた相手が武器を取り落とす。

 

 追撃はしない。している余裕が無い。私なんぞがそんなことをしていれば死ぬ。

 

 次の一騎が襲い掛かる。否、二騎。片方を回避しても、次の一騎に襲われる。

 考える暇すらなく体が反応。魔術式が最適な行動を選択し、脊髄反射で行動を開始する。

 手に持ったバスタードソードを投げつける。闇雲ではなく、槍投げのように狙いをつけて、力の限りの投擲。それは先頭に位置する一騎の馬、その眉間に向かって牙をむく。

 こんな扱い方、しかも私の膂力では殺傷能力は期待できない。だが馬は視界が広い分、立体的に物を見ることが難しい。

 つまり正面から急激に接近する物体があると、急に目の前にそれが現れたように錯覚して――――この上なく驚くのだ。

 

 その馬は取り乱し、刃は浅く額を裂いただけにも関わらず大きく軌道を逸らす。もはやハルバードの殺傷圏内から私は逸れていた。

戦場に馬が慣れていないらしいことは僥倖で、この程度でも効果は覿面だった。

 一騎を後回しにして、それに続いていた一騎を見据える。今は徒手空拳。反撃は不可能。

 間合いまで近付いた騎兵がハルバードを薙ぐ。その場に倒れこむようにしてそれを回避。頭上を刃が通過し、後ろで纏めていた髪の一部が斬られる。しかし無視。髪ならいずれ生えてくるが、首は二度と生えない。

 

 一瞬で周囲を確認。最も至近には私が投げた片手半剣。さきほどの二騎が馬首を翻しているが、こちらのが早い。

 素早くそれを拾い上げ、滅茶苦茶に構える。こんなことならばセイバーに稽古をつけてもらっておけば良かった。

 

 再び周囲を確認。今私を狙っているのはこの二騎だけと判断。大部分は戦闘能力に長ける士郎さんと凛さんを相手にしている。

 視界の隅で戦っているのは士郎さん。私の闇雲な回避行動で距離が開いてしまった。

 双剣を隙なく振るう。相手を倒すことよりも生き残ることに重点を置いた戦法は、あまり戦闘経験が無いらしい白装束相手にとっては厄介らしい。

 士郎さんは今のところ心配に値しない。それよりも問題は遠坂さんのほうだ。

 

 バーサーカーを用いた戦闘は相当に堪えるらしい。

 嫌な汗を流しているのがここからでも分かる。騎兵に阻まれて戦闘の行方は伺えないが、黒霧のサーヴァントの絶叫じみた咆哮だけは聞こえる。

 バーサーカーとは、弱い英雄を狂化することによって無理やり強化したサーヴァントだという。しかしそれによるコストの増大、つまるところ魔力の消費量は半端ではすまない。

歴代のバーサーカーのマスターは、前回のそれを除いて魔力切れによる敗退。もっと噛み砕けば、サーヴァントに限界以上に吸い上げられて殺されたということだ。

 

 だが遠坂さんには宝石がある。それが幸いしたのか、どうにか一人でも戦えている状況だ。私のように逃げ一辺倒ではなく、近寄る敵を容赦なく魔術で攻撃する。

 それが功を奏したようで、白装束は遠巻きに様子を伺うだけで遠坂さんを積極的に攻撃しようとはしなかった。

 それでいい。遠坂さんはおそらく、サーヴァントへの魔力供給を自身の魔力で賄い、目の前の敵は宝石で攻撃している。一瞬で大魔術にも匹敵するような術式を放たれては、近寄ること適わない。――――いや、あまり宝石は残っていないはずだ。だが今はそれでいい。それを悟られなければ大丈夫。

 その分の皺寄せは士郎さんに行っているが、士郎さんはあまり問題ないようだった。

 よって問題はやはり凛さん。ここからで分かってしまうほどに、体力やその他諸々を消費している。あれでは限界が近い。

 

 ――――大きく遠坂さんがよろめく。これは、拙い。

 

 そこまで観察したところで、先ほどの二騎が足並みを揃えてこちらに突進。やはり戦いには慣れていないようだ。先ほどと殆ど変わらないフォーメーション、攻撃方法。

 だがぞわりと背中が粟立つ。脅威を察知、緊急回避――――!

 ヘッドスライディングのように回避。前方からは二体が迫っていたが、構わない。僅かな間隙を縫うように飛び込んだがワンタイミング遅れる。首筋を裂かれるが――無視。血管は傷ついていない。

 

 周囲の白装束の位置を察知し、最も安全だと思われる経路で遠坂さんに歩み寄る。士郎さんもそれに気付いたらしく、阻もうとするものをかわし、あるいは蹴散らしながら遠坂さんに駆け寄った。

 士郎さんの顔を見て安心してしまったのだろうか。遠坂さんがその腕の中に倒れこむ。

 三人が固まってしまったため、少々事態は厄介になっている。突破するには骨の折れそうな包囲を完成させている。とは言っても戦闘が出来ない私ではなく、戦うのは士郎さんになるだろうが、同じことだ。

 だが襲い掛かってこないのは、向こうの損傷も無視できないに違いない。士郎さんの戦闘能力を畏れ、様子見に徹することにしたようだ。士郎さんがセイバーたちの加勢に行かなければ問題無いと判断したようである。

 

「大丈夫か遠坂ッ!」

「遠坂さん、魔力はまだ残っていますかッ」

「、はっ――――、はっ……バーサーカーの、様子が、変……!」

 

 脂汗にまみれ、肩で息をする。すでに目の焦点は虚ろになりつつあり、意識が途切れるのも時間の問題に思えた。宝石をいくつか使って魔力の供給に当てていたらしいが、それでも追いつかない様子である。

 

 ――――思えば。

 魔力が枯渇しかかっているのなら、遠慮なく供給を絶ってしまえばいいのだ。気絶してしまったのならば話は別だが、魔力の供給をカットすればこれ以上の魔力の浪費は抑えられる。

 当然セイバーはより一層苦戦を強いられるだろうが、士郎さんの投影を駆使すれば決して覆らない戦力差ではない。

 だがそれをしないのは何か理由があるのだろうか。いや――――もしや、出来ない……?

 

「バーサーカーへの、魔力供給が――――カット、できない……ッ!」

 

 

  ◆◇◆◇◆

 

 

 ライダーの一撃は、どれをとっても熾烈を極めるものだった。

 その大味な外見を有した武器とは裏腹に、その攻撃は針に通すかのような正確無比。

 闘気は燃え盛るようにして、しかし一切を外に洩らさず。

 動きは最小にして神速、しかし岩をも切り裂かんとする重さ。

 手綱は軽く握るだけ、しかし馬のほうがライダーの意思に合わせるように動き、それはまさしく人馬一体。

 それは一切の誇張を交えずとも、今までセイバーが戦ったどんな相手よりも強かった。

 

 いや、実際のところ、本来もてる力は5分と5分である。ライダー自身が、己に匹敵する――ともすれば己を打ち倒すであろう存在であることを認めている。

 だがその拮抗を打ち崩しているのが、ライダーの宝具。敵対する全ての者のステータスを低下させる宝具であった。

 それの影響で均衡していた力関係は崩れ、ライダー有利の状況を作り上げてしまっている。同程度の実力の持ち主なら、己に勝利を引き込んでしまう。これがこの宝具の真髄ともいえる部分であった。

 そして、それに嵌ってしまっているのが他ならぬセイバーである。

 

 ライダーが青龍刀を振り下ろす。脳天から股下まで切り裂くであろう一撃はしかし、セイバーの剣によって受け止められていた。

 その膂力の凄まじさたるや、セイバーが踏みしめていたアスファルトに葉脈状に亀裂が走るほどである。

 ライダーは唾競り合うことはせず、すぐに刀を返して横薙ぎに振るう。それをバックステップで躱す。僅かに掠っただけなのに、その鎧を断ち切り、その中身の胸板から血が滲む。

 ここまで圧倒されると、もはや馬を仕留める余裕がない。馬に刃を向けた途端に、おそらくこの首を刎ねられる。一瞬たりともライダーの挙動から目を離せない状態が続いていた。

 

「――――これは、中々。我が刃をここまで受けるとは、騎士にも偉丈夫が多いことよ」

 

「貴方も、ライダー。アジアの出身とお見受けしたが、さぞ御身は名高い武人であったのだろう」

 

 ライダーは、この場にサーシャスフィールが居ないことを心から安堵した。この乱戦にあっては守るのも難しくなる。何かあっては拙い身の上である故に、この戦いにおいては離れた場所で見守らせている。

 それに、自ら共闘を持ちかけたアーチャーのことを、実のところ一番信用していないのがライダーである。

 

(ここまで気炎が高ぶれば、もはや他の事に気を割けん。それに……この男は、余計なことに気を回しておったらこちらが討たれるだろうよ)

 

 ライダーは薄く笑う。初めて顔を合わせた際の飄々とした態度は微塵も残ってはいなかった。今はそう、まるで一つの巌のような存在感。

 戦いが長引けば長引くほど、刃が触れ合えば触れ合うほど、ライダーの内にある気炎は燃え盛り、しかしそれは外に出ることもなく更に内で高められる。

 この段階に至ると、その気炎の大きさたるや普通の人間とは思えない。もはや武神の領域であろう。

 

 だがしかし。セイバーも決して負けてはいない。

 その証拠に、前回のライダーとの戦闘では成しえなかったことだが、ライダーに手傷を負わせることに成功していた。

 ライダーとセイバーが追っている切創は共に4つ。どれも致命傷にはならず、戦闘に支障はない。だがセイバーにとってそれは、倒しうるという確たる自信を持つ足がかりである。

 

「賞賛を受けとれい、セイバー。西洋の騎士は腑抜けばかりと思っておったが、それを改めよう」

 

「私からも賞賛を送ろう、ライダー。東方の戦士とは、いずれも蛮族の如きという謝った見聞を信じていた。非礼を詫びたい」

 

「これは手痛い。諸君らのように、美しさは一切求めておらなんだからな。――――さて、あの黒霧のサーヴァント、彼奴も中々の御仁。お主の首級を頂戴した後には、あれの相手もしたいところだ」

 

「いやいや、倒れるのは貴方のほうかも知れないぞ、ライダー?」

 

 そう言ってちらりと目線をやる。それはバーサーカーとアーチャーとの戦闘であった。

 圧しているのはバーサーカーに見えるが、アーチャーに目に見えた負傷は無い。馬を既に失ったらしいが、それだけだった。おそらく実質的な損耗はバーサーカーのほうが激しいに違いあるまい。

 正直に言って、バーサーカーに協力的な戦闘は期待していなかった。だがせめて、凛の命令があるならばライダーを標的にする筈だと踏んでいた。

 だからこそ、ライダーを完全に無視してアーチャーを襲っていることが気がかりであった。アーチャーを抑えてくれるのは有難いことだったが、これでは戦闘が長引く。

 バーサーカーのマスターにとってもっとも避けるべきは長期戦である。これは自明の理だ。一対一を二組でやるよりも、二対一を二度繰り返したほうが確実で手早い。だからこそ足並みを揃える必要がある。

 

 アーチャーがバーサーカーに向かって矢を放つ。それを暴風の如き一撃、否、実際に大気を陵辱する一撃でそれを叩き落す。

 

「■■ォ■■■ィィィ■■ゥゥッ!」

 

 絶叫と共に一撃。一瞬で肉薄したバーサーカーはアーチャーを腰から両断せんと剣を薙ぐ。

 だがその一撃は、火花を散らしながらもフェイルノートから生える剣によっていなされた。この一撃をまともに受ければ、剣が折れるであろうことはアーチャーにも分かっている。

 

 大きく後方へ跳躍、空中で再び矢を放つ。バーサーカーはまるでそれを予見していたかの動きで、矢が放たれる刹那の瞬間には、殺傷圏内から離脱していた。頭上から放たれた矢はアスファルトを砕くが、既にそこにバーサーカーはいない。

 そして、もはや何度目か分からない突進。わずかにアーチャーは慄く。

 

 何故なら。この剣戟は、アーチャーの記憶の片隅にある。

 バーサーカーと成った影響か、もはや技とも言えない滅茶苦茶な剣戟である。

だがしかし。その中、僅かな片鱗に、見知った何かを思い出させるのであった。

 

(これは一体誰だ―――どこで私はこの剣戟を知った!? コルナヴルか? ……違う。ならばサー・ランスロットか? ……絶対に否。ならばアーサー王か? ……やはり、違う!)

 

 アーチャーは戸惑う。このような得体の知れない者は、未だかつて見たことが無い。だが、遠い記憶の彼方にこの剣戟を知っている気がしてならない。

 

 その疑問は、再度の突進によって中断される。

 猪突猛進を体現したような攻撃はしかし、バーサーカーの胡乱さが手伝って有効な攻撃方法となっていた。あの霧の中は、おそらく鎌鼬に刻まれていることだろうが、それでも未だに止まる気配がない。おそらく死ぬまで限界を超えた戦闘を続けるだろう。

 

 そして、限界といえば、そろそろ凛の魔力も辛い頃合だ。セイバーはそう考えた。

 セイバーにはもはや何分、もしかすると何時間も戦っているのか分からない。だが凛の魔力が限界であろうことは間違いないと思えた。

 ならばここは――――乾坤一擲の覚悟でライダーに背を向け、バーサーカーと共にアーチャーを討つべきだと判断する。

 

 跳躍してライダーへの振り下ろす一撃。受け止められることは折込済みだ。

 思惑通り、セイバーを弾き飛ばす勢いで青龍刀を振るう。先ほどまでならこの勢いに抗うところだったが、今回は事情が違う。

 その勢いを殺さず、それに乗る。

 大きく弧を描いて宙を舞う。その着地地点を見積もった段階になって――ライダーも、セイバーの意図に気付いた。

 ――――俺の一撃を利用して、バーサーカーの助太刀に行くつもりか!

 

 既にセイバーは空中で体勢を整えている。轍を残し、勢いを殺しながらの着地。既にバーサーカーとアーチャーは目と鼻の先である。

 さすがにバーサーカーも味方には刃を振るわない。敵と味方程度の区別ができなければ、マスターにだって刃を振るうだろう。その認識ができていることは、最初の一撃の際にセイバーではなくライダーだけを狙ったことから判明している。

 

 ライダーは泡を食ってそこに割って入ろうとしたが、どう考えてもセイバーの一撃がアーチャーに達する方が早い。

 しかも、アーチャーからはそれが死角になっており、不運なことにもバーサーカーに掛かりきりの彼は気付いていない。

 ライダーは声に出して警告しようとする――――が、それも間に合わない。

 アーチャーよ、さらば。

 セイバーさえも必殺を覚悟した。

 

 そしてその片手剣から放たれる光速の一撃は、しかし――――

 

「■■■ァァ■ンンンッ■――――!」

 

 バーサーカーによって止められた。しかもあろうことか――セイバーに刃を向けた。

 バーサーカーは唾競り合う形から、膂力によってセイバーを後方に押しやる。予期せぬ攻撃によろけたセイバーの肩口を狙って、バーサーカーが袈裟に剣を振り下ろした。

 

 すんでのところで踏みとどまり、左手の盾によってそれを受け止める。かなりの名剣であったらしく、盾は半ばほどまで切り裂かれてしまった。それを握る手を切り落とされなかったのは僥倖としかいえない。

 

「なっ……! バーサーカー、何をする!?」

 

 必至の抗議。だが思考が胡乱なバーサーカーには届かない。

 バーサーカーには既に理性が無いことは、この場に居る誰もが了承していることである。だが、これは余りにも不可解であった。

 

 バーサーカーから大きく距離を取るセイバー。その瞳はバーサーカーから離れようとしない。

 もはや明確に、バーサーカーの挙動が語っていた。邪魔立てするのであれば殺すと。

 そこには既に協力関係など無い。自分の邪魔をするのであれば、例えマスターであっても容赦なく牙を剥くだろう。

 バーサーカーは低く呻き、周囲を威嚇する。もはや声にすらなっていない、地の底にまで響くような声。一体、このサーヴァントに何があったというのだろうか。並大抵ではこうは成るまい。

 響くその声に乗せられるのは怨嗟。その声に呼応するかのように、ゆらゆらと霧が揺らめく。

 

「■■■■ォォォォ■■ォォ――――ッ!」

 

 その天まで揺るがすような咆哮に、誰もが注意を傾けた。目を見開き、唾を呑んでそれを見守る。サーヴァント達だけでなく、姉妹兵たちすらもこちらを見守っている。

 誰も彼もが固唾を呑んで、バーサーカーの挙動を注視する。

 だがそんな中、一体だけ足を動かしたものが居た。それは驚くべき俊足を駆り、セイバーに接近する。

 

「首級頂戴するッ!」

「な――――ッ!?」

 

 ライダーはセイバーの一瞬の隙を突き、彼に肉薄する。

 馬の右側面をすれ違うように動き、それに合わせて青龍堰月刀を振るう。まるで梟の狩りのように刃は地面すれすれに潜り込み、セイバーを目前に雁首を上げる。セイバーの股下から頭上へかけて切り裂く一撃だ。

 

 ぞぶりと肉を裂く音。

 噴出する血。

 びしゃりと自分が作った血溜まりに倒れ付す音。

 

 ライダーの刃は確かにセイバーを捕らえたのだ。

 

「――――ぐ……ッ」

 

 だが、間一髪で即死には至っていない。

 その鎧をあっさりと断ち、わき腹から胸板を切り裂いたに留まっている。だが傷は決して浅くない。普通の人間であったなら――致死量とも思える血を流している。いや、即死は免れたとはいえ、傷自体も無視できるものではない。

 

 ――――だが、それでもまだ立ち上がる。

 既に満身創痍。すぐに霊体化して体を休めなければ、体力と血を浪費して事切れるかも知れない。

 美しかった金の髪は血に染まり、豪奢な意匠の剣は泥にまみれ、目は既に光を失いつつある。

 それでも――――剣を杖にして、立ち上がる。歯を食いしばり、肩で息をしながら、弱弱しくも立ち上がる。

 

「ミオ……逃げ、ろ……ッ!」

 

 マスターを守るために。守るべき、否、守りたい人を守るために。

 セイバーがこの戦いに望む願いとは、“守る”ことに終始する。ならばここで立ち上がらなければならない。

 立ち上がらなければ、騎士ではない。人ひとり守れなくて、何が英雄か。友すら守れなくて、何が英霊か-―――!

 

 だが。現実とは実に無情である。

 即座に立ち止まったライダーの愛馬黒兎は、セイバーが立ち上がったのを認めると、その後ろ足でセイバーの体を蹴った。

 急所は外れたが、その炎熱をも伴った蹄はセイバーの両肩を打つ。蹴り自体は幸いにも僅かに範囲から外れていて、セイバーに届かなかった。しかしエンチャントされている炎熱は避けようもなく、容赦なくセイバーの体を吹き飛ばす。

 

 セイバーはそれに抗うこと適わず、地面に叩きつけられた。骨も僅かに皹が入ったが、折れてはいない。しかしセイバーは、もはや立ち上がることができなかった。

 完全に、意識を刈り取られてしまったのである。

 

「しばしそこで寝ておれ。すぐに片付ける」

 

 ぴくりとも動かないセイバー。そうしている間にも、セイバーが寝ている場所には血溜まりが作られていく。

 誰の目にも明らかに、セイバーは死に体であった。

 

 ライダーはアーチャーとバーサーカーを見やる。どうやらあの二人は戦闘を再開しているようだった。どうやら相当に梃子摺っているようだが、今回は加勢しない。もっと確実な方法がある。

 

「おい、アーチャー。暫し耐えよ、今マスターを始末する」

「心得た! 早急に頼むぞッ!」

「■■■ァァ■■ォォ――――ッ!」

 

 バーサーカーはマスターが窮地に立たされていることが分かっていないのか、分かっていて無視しているのか、遠坂凛(マスター)を庇おうとはしなかった。

 ライダーは馬を歩ませて、姉妹兵が囲んでいるマスター達の下へ参じる。どうやら、姉妹兵たちは命令を忠実に守っていたようだ。

 マスター狩りが無理と判断すれば、足止めに徹せよ。

 補充の利かない戦闘要員である。今後も運用することを考えれば被害は最小限にとどめるべきという判断からの命令だった。

 

 ライダーが彼らの元に来たときには、以前確認したバーサーカーのマスター――つまり遠坂凛――はぐったりとしていて、意識も朧であった。動けるのはセイバーのマスターと、前回の参加者だと聞く男が一人。

 サーヴァント2体のうち、1体は戦闘不能。1体は完全に命令を無視して暴走している。ライダーを阻むのは、この二人しか居なかった。

 

 二人のうち、セイバーのマスターは武術の心得がないことがすぐに知れた。それでも剣を握り締めてこちらを睨んでいるのは、魔術での戦闘が出来ないということだろう。敵に値しない。

 もう片方、男のほうは中々の心得があると見えた。中華剣を構えるその姿には、若干ながら感心を覚える。少しは手ごたえが有りそうだった。

 

 しかし仮にこの男が磨けば輝く金剛石の原石だったとしても、ライダーは見逃すつもりは毛頭なかった。惜しいと思う反面で、どこかライダーの冷たい部分が、殺すべきだと告げている。

 だからこそ、この三人は一切の容赦なく屠る心積もりであった。

 

「さて……降伏するか?」

 

 一応尋ねる。抵抗さえしないのであれば、潔い死の機会も与えられよう。軍門に降るというのならば受け入れよう。

 だが、返答はライダーの予想したとおりのものであった。

 

「断るわ」

「断る。……投影開始(トレース・オン)

 

 男の持つ中華剣が砕けたと思った次の刹那には、新たな剣が握られていた。

 それは黄金の輝きを湛える剣。豪奢な意匠はセイバーの持つそれよりも華美で、おそらく王の威光を示すもの。星の輝きを集めたかのようなそれは、おそらくこの世に二つとない代物。

 

「……それは、遠きブリテンの地にあるという選定の剣か。なるほど、これは楽しめそうだな」

 

 ライダーは手に持つ青龍刀を天に掲げる。

 彼は『勝利すべき黄金の剣(カリバーン)』を前にしても、些かも臆することはなかった。もとよりこれを望んで聖杯戦争に臨んでいると言ってもいい。

 もっと強い怨敵を。

 我が武を高めることの出来る仇敵を。

 最強の武を見たい。叶えうるのなら、それを我が内に。

 だからこそライダーは笑う。この男こそがその望みを叶えるかも知れぬと思えば、胸は高まる。

 だがそれと反対に、思考は研ぎ澄まされて冷たくなっていく。ここで舞い上がらぬことこそが、ライダーの強さの根源だろう。敵が強ければ強いほど、彼は武人を体現した存在に変わっていく。

 セイバーは今までないほどに強かった。ならば、貴様はどうか。

 

「おおおおおッ!」

 

 衛宮士郎は剣を振りかざし、ライダーに吶喊する。

 黄金を湛える聖剣と、竜を宿した刀が火花を散らす音だけが、ライダーの耳の中でいつまでも反響していた。

 

 

  ◆◇◆◇◆

 

 

 自分の選択に後悔はなかった。

 セイバーを置き去りには出来ない。これは動かしようもない。

 アイツは普段、ちょっとふざけた奴だけれども。憎めない、いい奴なんだ。ここで見殺しにしたら……例え生き残ることができたとしても、一生後悔するだろう。

 ライダーが白装束の垣根を割って入ったとき、その僅かな隙間に倒れ付すセイバーを見つけた。血溜まりを作って、しかしピクリとも動かないその姿には否応なく嫌な予感がよぎる。

 だが、この手にはまだ令呪が残っている。ならばそれを信じるしかないのだ。

 そう思った瞬間には、逃走の選択肢は消えていた。

 

 だが、それは無理を押し通すということではない。そもそも、私には押し通せるだけの力がない。

 だからこそ、今私が出来ることをするしかない。それはつまり、士郎さんが戦えるように、遠坂さんの下から離れないことだ。

 隙あらば、白装束は遠坂さんを殺そうとするだろう。それを防ぐためにも、私がこの場から離れるわけにはいかないのだ。

 白装束は私に、マスターたるだけの力がると勘違いしているらしい。こちらに殺気こそ送るものの、一向に飛び込んでくる気配がなかった。実に好都合。

 

 士郎さんが、投影した剣を振るう。

 黄金色に軌跡を残しながら青龍刀とぶつかり、鉄と鉄が激突する音が響く。

 あの剣は本物の聖剣だ。もしかすると、士郎さんの刃はライダーに届くかもしれない。

 

 ――しかしその甘い希望は、十合を数える頃には打ち砕かれていた。

 ライダーによるステータス低下。当然ながら、今もずっとその効果は続いている。その効果さえ無かったら……もしかすると良い勝負ができたかも知れない。

 

 ライダーが大きく刃を薙ぐ。その破城鎚のような一撃は容赦なく士郎さんの体を吹き飛ばす。剣がその衝撃に耐えようとも、担い手がそれに耐えられない。

 その際に、剣は士郎さんの手から離れて乾いた音を立てて転がった。

 

 理解する。

 ライダーを打ち破ろうとしたければ、普遍的な多数ではなく、究極の一を持ってこなければならない。多くの武器を持っているに過ぎない士郎さんでは、あれを打ち破ることは難しい。

 例えば――――そう、あの聖剣の持ち主を呼ぶくらいでなければならない。

 その点では、未だ倒れ付すセイバーだけが頼りなのだ。しかし――本当に生きているのかも疑いたくなるほどに動かない。

 令呪を使えば回復させることができるか?

 いや、駄目だ。無理な回復の反動は全てセイバーに皺寄せが行くだろう。今のセイバーにそれに耐えられるほどの力が残っているとは思えない。

 

 故に――この状況は、最初から詰んでいるのだ。

 否、サーヴァントと対峙することが如何なることか、分かっていた筈だ。その答えがここに体現しているだけである。

 

 よろよろと起き上がる士郎さん。悔しいが、私には何も出来ない。本当に――悔しい。

 その首根っこを容赦なくライダーは掴み上げた。

 ライダーは士郎さんを宙吊りにしたまま、見せしめるようにその指に力を込めた。

 

「が、ぐ…………ッ」

「士郎さんッ!」

「あ、ぐ…………し、しろう……」

 

 ぎりぎりとその首を締め上げる。万力のような力に抗い、士郎さんから苦悶の声が漏れる。

 みるみるうちに顔が土気色に変化する。酸欠を起こしているのは明白だ。

 だが――――私には飛び込めない。足が竦む。肩が震える。

 ライダーを間近に見ると――――怖い。

 飛び込んで士郎さんを助けたいのに……怖くて、怖すぎて、出来ない。

 剣の切っ先が震える。視界が霞む。

 心臓が痛い。限界を超えて鼓動を刻む。

 がちがちと歯が鳴る。

 

「が……、あ……」

 

 士郎さんの口の端に泡が浮かぶ。既に筋肉が弛緩しかかっているのが分かる。

 私が助けにいかなければいけないのに、私がこの剣を振り上げなきゃいけないのに――――なんで、何で足が動かないの!

 

 だがそんな思いも虚しく。

 手に持った片手半剣を落としてしまう。

 私では、私では何も出来ない。

 

 極度の緊張のせいか、視界が霞む。頭が痛い。足がぐらつく。

 倒れるな。ここで倒れたら、本当に命は無い。ここで私が踏ん張らなければ――誰も助からない。

 

 だが私になにが出来るというのか。

 私に何を為せるというのか。

 

 何も――――出来ない。/ 足の力が抜ける。

 

「……が、あ…………ト、オサ、か……ミ、オ……にげ……、……」

 

 ―――――ならば。/ しかし渾身を込めて踏みとどまる。

 

 “足りないモノを他所から持ってくる”のは魔術師の大原則ともいえる。“自らが最強である必要はなく、最強であるものを持ってくればいい”のだ。

 それが魔術師というもの。

 そうだ。士郎さんはいつだってそうやって戦っている。

 ――――ならばそれを模倣してやろう。

 考えろ。諦めを踏破しろ。決して諦めてはならない。諦観こそが人を殺す。

 何を持ってくればアレに勝てるのか。

 何を為せば、アレに勝てるものを持ってこられるのか。

 私はきっと、既にそれを知っている。

 

 答えは足元に転がっている。

 自分がやろうとしていることが、とんでもないことだと理解できる。

 だが恐れるな。恐れれば道は無い。

 例えこの身が裂けようとも。ここでやらねば道はなし。

 

 限界まで、否、限界を超えて魔術回路を運用する。思考の隅で火花が散るのが分かる。

 全身が痛い。魔力回路の無理な運用で、全身が軋みを上げる。

 だが無視しろ。そんなものは雑念だ。雑念など炉にくべて燃やせ。

 

 そうだ。いつだってそれは、近くにあった。ならばそれを思い出すだけだ。

 

「――――泰山府君ハ我ニ在リ。泰山府君ノ祭ヲ此処ニ」

 

「……なんだ?」

 

 ライダーがこちらを見やる。いいぞ、精々訝しがるがいい。その分士郎さんに掛かった手の力は緩む。

 足元に転がるソレを拾い上げた。私の手には、士郎さんが落とした黄金の剣。

 

「我ハ汝ヲ知ル者ゾ。我ガ呼ビ声ニ答エヨ」

 

 ――――接続、仮称「アカシャの写本世界」。

 

 ――対象の全情報を受信開始。

 ――複合化開始、完了。

 ――体格差によるバイアス調整、――身体能力の圧倒的不足を確認――最適化。

 ――組み込み処理作業、待機。

 ――同期処理、完了。

 ――――Append(追記), Aktualisieren Sie alle Informationen(全情報更新),“Arthur Pendragon”――――

 

Starten(再起動)――Start(開始)

 

 行動の理念を鑑定し、

 基本となる人格を模倣し、

 蓄積された知識を取得し、

 全ての経験を体験しつくし、

 根本となる魂を観測し、

 礎となる精神を網羅しつくし――――

 ここに、失われた者は幻想となって覚醒する。



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Act.23 乱闘 -Side Mio-

 ――ライダーは確かに見た。

 

 人気の失せた冬木大橋。尋常なる者の姿はなく、ここには尋常ならざる者の姿しかない。それを分かっていた筈なのに、彼女を軽視したことをライダーは悔やんだ。

 尋常ならざる者は、尋常ならざる力を以ってして神秘を行うからこそ、尋常なる者と一線を画すのである。なればこそ、いかに貧弱なものであっても軽視することはあってはならない。

 地を這う虫けらでも、人を殺しめる毒を持つことがあるのだ。

 

 ――ライダーは確かに見た。澪の目に竜が宿るのを。

 

 その目はかつてライダーが何度も目にしたものだ。

それは絶対の意思。剣をその手に持ち、鎧を身に纏い、そればかりか心までも鋼鉄で武装した者が宿すことのできる炎。身を焦がしてもなお、何かを成し遂げようとするものが持つ炎。

 この場に居るものの多くはそれを持っている。セイバーとてそれを目に宿している。

 だが彼女には、ほんの数秒前までそれが無かったはずなのだ。

 だがこれはどういうことか。これではまるで、――“別人に成った”かのようではないか。

 

「――――その手を」

 

 澪が口を開く。その声は先ほどまでと変わらないものであるにも関わらず、別人のような響きを持っていた。

 手に持っていた黄金の剣に力が宿る。先ほどまでの滅茶苦茶なものではなく、まるでそれに精通しているかのような隙の無い構え。

 いや――ライダーは認めざるを得なかった。あれはまさしく、この世で最も高みに位置するであろう剣客である――!

 

「離せ下郎――――!」

 

 澪が剣を振り上げ疾走する。

 決して速くはない。だが両手が塞がっているライダーには黒兎を駆って回避することも難しく、黒兎もまた彼女の逃げ道を塞ぐような足運びの前に足を動かすこと叶わない。

 一気に肉薄する。ライダーは青龍刀を無理な姿勢で振るう。威力と速度はやや落ちるが、それでも十二分に必殺の威力である。女史、まして剣を握ったことが無いような者にこれを受けられる道理などなし。

 

 だが――――

 

「甘いッ!」

 

 澪はそれを受け止める。肉体を魔術で強化しているとはいっても、並みのものならばその剣を弾かれるほどの衝撃であったはずだ。

 だが澪はまるで長年剣と共にあったかのような身のこなしを以って衝撃を最小限に殺しきった。

 するりとライダーの刃をすり抜けて、士郎の首を絞める右手に狙いを定める。上段に振りかぶった剣はライダーの腕を切り落とす所存だ。いくら手甲に覆われているといえど、『勝利すべき黄金の剣(カリバーン)』の前には紙切れも同然である。

 

「ちぃッ―――」

 

 ライダーは咄嗟に手を離し、その刃から逃れようとする。だが刹那の差で間に合わず、その腕に傷を負う。

 その傷は深い。カリバーンはライダーの右手の腱を断ち切ったのだ。動かない右手のせいでライダーは咄嗟に反撃することが出来なかった。

 その隙に澪は士郎を抱えて距離を取る。その間にも目線はライダーから動こうとはしなかった。

 

 激しく咽こんで息をする士郎。ひゅうひゅうと空気が抜けるような音すら立てて空気を吸い込む。その背中を優しく澪はさすってやった。

 どうにか会話が出来る程度に回復した士郎は、真っ先に疑問を発した。

 

「澪……いや、もしかして――セイバー……?」

 

 ブリテンの騎士王。過去の王にして未来の王。アーサー・ペンドラゴン。

 全ての騎士の頂点にして、最高の剣の英雄。

 姿こそ違えど……その凛とした様は、まさしく士郎の知るそれであった。

 

「おや、私をお忘れですか、シロウ? 私は八海山澪であり、しかし今この時は――貴方の知る剣の英雄(セイバー)です。いや、セイバーというのは相応しくないでしょう。今はアルトリアと。

 ……さて、積もる話は後にしましょう、シロウ。今はあの下郎に然るべき報いを受けてもらわねば」

 

 (アルトリア)はあっさりとそれを認め、鋭く眼前の敵を睨む。

 まだ立ち上がれない士郎を守るように前に進み出る様は、まさしく彼の知る最高の英雄のそれであった。

 背丈こそ同程度とはいえ、髪、声色、眼球の色さえ違う。七年前のかつてのような鎧姿ではなく、白い七部袖シャツにチェック柄のクロップドパンツ。後頭部で髪を上品な飾りのついたゴムで止めるという出で立ちであるが、それら全てをかの騎士王と同じものに幻視させるなにかがそこにはあった。

 カリバーンもまた、幾分か輝きを増しているような錯覚すら覚える。それはきっと今の彼女の内面は、それを担うに相応しいものに変貌しているせいであろう。

 中腰に剣を構える。既にライダーの右手は、サーシャスフィールからの治癒魔術によって癒されていた。ライダーもまた、青龍刀を構える。

 

「――覚悟せよ下郎。我がマスターに手を出したこと、存分に後悔させてやろう」

 

「……貴様は何者か」

 

 ライダーは問う。問わねばならなかった。

 今の澪は、まさしく別人であった。肉体をそのままに、自らの内に死者を再現している。

 だから問わねばならない。今、何者が澪の内に存在するのかを。

 そしてその問いに、(アルトリア)は剣を掲げて答えた。

 

「もはや私はサーヴァントでは無い故に、名乗りを邪魔する制約もない。問いに答えよう、ライダー。

 ――私は第六次聖杯戦争のセイバーのマスター、八海山澪であると同時に――――第五次聖杯戦争のサーヴァント! ブリテンにて冠を抱く我が名はアーサー・ペンドラゴン、またの名をアルトリア!」

 

 ――士郎の魔術が投影魔術であるとすれば。

 ――――そう、これは同一化魔術と言うのが相応しい。

 投影、あるいは投射とは心理学で用いられる用語である。

 その意味は、「自己を他者に重ねる」というものである。自らが嫌悪するべき事柄、自分の好ましくない部分を相手に押し付けることで、「自分はそうではない」と精神を守るための働き。

 士郎のそれも自己のイメージを具現化し、外に押し出すことからこの名前は相応しいだろう。

 同じ心理学の用語で説明するならば。澪のそれは同一化魔術である。

 投影と逆の働きで、「他者を自己に重ねる」というものだ。他者の好ましい点を自己に重ねることで、自分の価値を押し上げようとする作用である。

 誰しも経験があるだろう。子供のころ、遊びの一貫としてテレビアニメのキャラクターになりきることが。人によっては衣装も持っていたかも知れない。

 そうでなくとも、自分の好きなテレビスターのグッズを身につけ、あたかもその人物に近付いたかのような感覚を覚える。この作用が同一化だ。

 

 澪の魔術は、まさにそれである。

 仮称「アカシャの写本世界」から対象に対する情報を持ってくる。その情報を基にして、澪は自身の中に他者を生み出しているのだ。一種の多重人格と言ってもいい。憑依とも、降霊とも違う。正真正銘、「なりきり」である。

 だがこの魔術が心理学のそれで言われるものと違うことは、もはや本人そのものであるということだ。「なりきり」というよりも複製と表現したほうが適切かもしれない。

 自らに持ってくる他者の情報は、その人物が有する全ての記憶である。それを全て正確に自身の中で活用し、それどころか高度理念、精神、魂までも観測してオリジナルに近づく。魂、精神まで模倣されるとすれば……それはもはや、「なりきり」ではなく模倣、複製と表現すべきだ。

 

「かのアーサー王……! なるほど、その手に持つ剣の担い手ということか。これは面白い、貴様は怪傑である! いかなる妖術か、自身に他者を呼ぶとは……!

 いや、そんなことは良いのだ。さあ、剣を交えようぞ騎士王。我が武を試すために、高めるために!」

 

「剣は民のために執るべきだ、ライダー。決して自らのためではない」

 

 両者の目線はもはや質量を伴って互いを射抜く。それは冷たい針となって体を苛むが、極限まで集中を高めた両者にそれを斟酌することなど出来ない。

 今はただ――眼前の敵を討つだけである。

 

「我来々、我来々ッ!」

 

 ライダーの疾走。すれ違いざまに振りかぶる一撃。

 姿勢を低く構える(アルトリア)。中心線を隠すかのように半身を前に投げ出し、剣を構えてライダーを待つ。

 

 互いが狙うは一撃での必殺。

 ライダーは、かの騎士王相手に長時間にわたる戦闘は危険であると判断した故に。仮に肉体が宿主の貧相な身体能力しか発揮できないとしても、その技量と戦術眼は長時間に戦闘になれば脅威となる。

 故に、技量も戦術眼も発揮させないために一撃で葬る。

 (アルトリア)は、ライダーが察したように身体能力が十分では無い故に。澪の同一化魔術は心技体のうち、心と技しか模倣できない。だからこそ、何度も打ち合うことは難しいと判断した。故に一撃必殺。衛宮士郎が投影した聖剣があれば、決して不可能ではない。

 

「――――『勝利すべき(カリ)

 

 ライダーの咆哮。

 両者は次の刹那、一瞬の瞬きすら許さぬ速度を以って交差するだろう。身体能力はライダーに優位があり。技には(アルトリア)に優位がある。

 なればこそ、両者の行く末は誰にも予想できまい。

 

 しかし覚悟せよ騎乗兵。

 貴様が挑むのは聖剣。王を選定する伝説の剣。その威光、銘すら分からぬ貴様の刀には及びもつかない。

 しかと目に焼きつけよ騎乗兵。

 その黄金の輝きを。この世で最も尊い聖なる剣が放つ輝きを。

 しかしして畏れるな騎乗兵。

 貴様が挑むのはかの騎士王。畏れては、恐れては、決して道は開かれない。恐怖を踏破してこそ道がそこにある。澪はそのようにしてこの神秘を手にしたのだから。

 

黄金の剣(バーン)』――――ッ!!」

 

 視界を覆う黄金の閃光。

 両者が交差する瞬間に放たれる斬撃。

 鉄と鉄がぶつかる音。それは剣と剣が触れ合う音か、それとも鎧が剣によって裂かれる音か。

 黄金の視界の中に散る紅い飛沫。果たしてこれはどちらの血潮か。

 

「――――この程度か騎士王ッ!」

 

 |澪(アルトリア)の一撃は確かにライダーに届いた。

 しかしその一撃はライダーの脇腹を抉ったに過ぎない。どくどくと血を流しているものの、未だライダーは意思軒昂。

対する(アルトリア)も無傷では済まなかった。浅いが肩口を裂かれている。いや、これでも賞賛に値するべきなのだ。心と技が騎士王のそれであっても、肉体は間違いなく澪のそれなのだ。サーヴァントに手傷を負わせ、五分と五分の傷で済ませたことが驚異的である。加えて、ライダーのステータス低下の状況下でだ。これがもし、(アルトリア)が十全に戦える状況であったならなばきっと。ライダーは地に倒れ伏していただろう。

 

馬首を翻し、(アルトリア)を討ち取ろうとするライダー。青龍刀を振り上げ、黒兎の嘶きとともに咆哮する。

ライダーへ再び剣を構える(アルトリア)。非常にまずいことに、澪の持つ魔力既に底が見えている。それゆえにカリバーンも本来の力を出し切ることが叶わなかったことも、(アルトリア)が打ち損ねた理由の一つだ。

ゆえに、次の一撃は圧倒的にライダー有利。

――だが彼は一つ忘れていた。

――そして彼女らは忘れなかった。

 

「首級頂戴するッ!」

「その首は一つか、ライダー? 忘れているようだが――――私は一人ではない」

「――――I am the born of my sword(我が骨子は捻れ狂う)

 

 その言葉を受け、弾かれたようにそれを見やるライダー。

 その視線の先は言うまでもなく、衛宮士郎である。

 黒い弓を構え、剣をそこに番えている。

 番える剣は捻れている。螺旋を描くようなそれは、トリスタン(アーチャー)のそれを連想させるが、矢そのものの質量と込められた魔力量は桁外れである。

 それが大気を凍てつかせるほどの殺意を以ってライダーを捉えていた。

 

「――『偽・螺旋剣(カラドボルグ)』!」

 

 そしてそれは放たれる。

 空間を歪ませ、否、捻じ切りながら飛翔する。

 紫電を放ちながら、一直線にライダーの心の臓腑を目掛けて牙を剥く。

 その剣は迷うことなく。

 ライダーを切り裂き。

 勝利を謳うように空の彼方へと飛び去っていった。

 

 後に残されたのは、ボロ雑巾のようになったライダーと、その愛馬だけである。

 直撃を咄嗟に回避したその反応は素晴らしかったが、その矢の速度の前に敗れた。

 硬い地面に叩きつけられた彼は全身から血を流し、もはや自立することも難しい様子である。それは彼の愛馬黒兎も同じ状況のようだ。

 もはや、完全に雌雄は決されたのである。

 

「ぐ……、これは迂闊だった。本当に迂闊、申し開きもできん。神秘の担い手は、騎士王を再現する女だけではないと知っておったのに……」

 

「申し訳ありません、ライダー。私の力不足ゆえ、人の手を借りざるを得なかった。一騎討ちを望んでいたのでしたら、このうえ無い侮辱と心得ています」

 

「良いのだ、騎士王。何も武とは一人で高めるものではない。かつての我が主も、人材を集めることで己の武の一部としたのだからな」

 

「そう言ってもらえるならば助かります。では……」

 

 (アルトリア)は刃を振り上げる。ライダーに止めを刺す所存だ。

 黄金の剣もまた、勝利を宣言するように高く掲げられる。勝利すべき剣は、またもその担い手に勝利をもたらしたのだ。

 せめて最後は痛みも苦しみもなく。慈悲に満ちた剣を振り下ろそうとしたその時――――

 

「■■ァ■■ァァァァッ!!」

「何ッ!?」

 

 バーサーカーが(アルトリア)に飛び掛り、その刃を向けた。



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Act.23 乱闘 -Side Tristan-

 このままでは殺されるのは自分かも知れない。

 アーチャーは正体不明のバーサーカーを前に、弱気ともとれる感情を抱いた。

 体を霧で覆い隠しているというのは、当然のことながら受けているダメージすらも相手に悟らせない。アーチャーは弓を放ったときや弓に付いている剣を振るったときの手応えでバーサーカーのダメージを図るしかないのだが、一向に衰える気配を見せないバーサーカーを前にすると本当にダメージが通っているのか疑わしくなってくる。

 

 ライダーはマスターを討つと言っていたが、それまで自分がもつかどうかは分からないというのが本音だった。

 バーサーカーの放つ一撃はどれをとっても無視できない。いや、剣と剣のぶつかり合いに無視して構わないような一撃がある筈もないのだ。だがその正体不明の風貌から放たれる一撃を相手取ったとき、全神経を傾けなければならなくなる。

 剣とは何も腕力のみで振るうものではない。足、腰、肩、さらには足や重心の動き。全身余すところなく用いているのだ。

 どのような剣法の使い手であれこの法則からは逃れられまい。とすれば、全身の動きを見ることによって次の相手の一撃を予測することが十分に可能なのだ。世に言う「見切る」というものがこれに当たる。

 だがバーサーカーからはそれらの情報を読み取ることが出来ず、ゆえに次の一撃が全く予測できないのだ。その風貌だけでなく、理性を無くしていることも大きな要因だろう。

 

 バーサーカーの咆哮。あるいは絶叫かも知れない。

 もはや形容不可能の域の声だ。理性を無くして狂ったものは、あれほどおぞましい叫びを上げられるものだろうか。あるいは、憎悪で身を焦がせばああなるのだろうか。

 

 バーサーカーの振り下ろす一撃。どうにか受け止める。

 放たれてから剣戟に反応せざるを得なくなっている。そのためにどうしても反撃をすることに二の足を踏んでしまう。下手に反撃すれば隙ができる。そうなると次の一撃で命を落とすのは自分かも知れないのだ。

 もはや何合目かも分からない衝突。

 バーサーカーの一撃は熾烈を極めた。

 剣の鋭さはセイバーの片手剣に劣るものの、その重さと相まってただごとではない威力を秘めている。剣の技は失われているはずなので、純粋に剣の切れ味がもたらしているのだろう。剣だけの格を問えば、かつての主であるアーサー王のエクスカリバーに届くかもしれなかった。

 その剣の一撃がどう放たれるのか、放たれてみるまで分からないのだ。

 むしろここまで耐えていることを褒め称えるべきだろう。肉薄されて距離を取れないでいるが、白兵戦で劣るアーチャーのサーヴァントがここまで剣を耐え凌ぐことが賞賛に値するのだ。

 

 一瞬の隙を突いて矢を放つ。バーサーカーは直撃こそ回避するが、間違いなく鎌鼬には捕らえられている筈だ。幾度もその身を切り裂かれている筈なのに、一向に倒れる気配を見せない。

 

「■■■ァァ■■ィィ!」

 

 バーサーカーは愚直に前に進み出る。前へ、前へ、前へ。ひたすらに突進する。理性を無くし、それしか出来ないのかも知れない。だがその様には、どこか鬼気迫るものがあった。

 アーチャーは剣を凌ぎながら、それでも懸命に考えていた。バーサーカーの正体を。

 わざわざライダーを無視してこちらに向かってきたということは、自分、あるいは自分が関わっている何かに反応しているのだろう。それに強い憎悪を抱いているとすれば、きっと自分もバーサーカーのことを知っている筈だ。そうでなくとも、記憶を辿っていけば何かヒントがあるかも知れない。

 

 咆哮と共に放たれる剣戟。受けた剣弓から火花が散る。手に伝わった衝撃で指が痺れる。大きく距離を取って矢を放つが、指に力が入らず威力が低い。

 バーサーカーが再び肉薄する。剣戟。

 先ほどからこれの繰り返しだ。バーサーカーは奇を衒った行動こそ取らないが、徹底して肉薄してくる愚直さはかえって厄介であった。

 しかしある程度パターン化されている行動である。アーチャーは思考に精神を割く余裕が次第に生まれつつあった。

 

 バーサーカーの正体。それに行き着く最大のヒントは、やはりあの正体を隠し切っている霧だろう。もしくは――あれだろうか。

 アーチャーは一瞬だけ視線をバーサーカーから外す。未だ仕事を完遂できていないライダーに舌打ちする。その視線の先には苦しげに呻く凛の姿があった。誰が見ても明らかに、バーサーカーが魔力を吸い上げすぎている。

 だがもし限界が近いのであれば、バーサーカーへの魔力供給をカットすればいいだけの話の筈だ。自らのサーヴァントが戦線離脱するのは戦力的に見れば痛かろうが、少なくとも今のようにマスターが倒れてしまうよりは随分と良い判断の筈だ。マスターが死んでしまえば何にもならないのだから。

 だから考えられるのは、何らかの事情でそれが出来ないということ。バーサーカーのスキル、あるいは宝具の力だろう。

 

 正体不明。そして魔力の強奪。自分もおそらく関わりのある人物。

 剣戟に耐えながら考える。思い出せそうで思い出せない。熾烈な一撃を受ける度に思考が中断され、結論がまとまらない。

 

 ――――そのときである。

 マスター達と戦っていたと思しきライダーの周辺から名乗りの声が上がった。その声は八海山澪のもの。だが、その声に宿る響きは全くの別人と化していた。

 

「私は第六次聖杯戦争のセイバーのマスター、八海山澪であると同時に――――第五次聖杯戦争のサーヴァント! ブリテンにて冠を抱く我が名はアーサー・ペンドラゴン、またの名をアルトリア!」

 

 その言葉を聞いた瞬間は時間が止まったようだった。

 自分の耳を信じられなかった。自分の目を始めて疑った。

 構えるは黄金の剣。ああ間違いない。あれは選定の剣。聖剣の名を恣にすることを許された剣。――勝利すべき黄金の剣(カリバーン)――

 

「アー……サー……?」

 

 自然に言葉が零れる。

 ああ、間違いない。姿が変わったところで誰が間違えようか。あれぞまさしく、アーサー・ペンドラゴンである。

 自分がこの日を如何に心待ちにしたことか。否、円卓に名を連ねるものに、この日を待ちわびぬ者など存在する筈もなし。

 王の最後を知ったとき、どれほど嘆いたことか。嘆いたのち、もう一度見えたいとどれほど願ったことか。

 

 ああ、アーサー王! 姿こそ違えど、あの凛とした様。あの澄んだ目に宿る炎!

 讃えよ、ブリテンの民。謳えよ、世界。我が喜びを知るがいい!

あれぞまさしく王の中の王。騎士の頂点に座す王。その名は騎士王、アーサー・ペンドラゴン!

 過去の王にして未来の王が、今此処に蘇ったのだ!

 

 騎士王がその剣を振り上げる。剣はかつてと変わらぬ黄金の閃光を放つ。まるでそう、王の復活を祝うかのようではないか。

 

「『勝利すべき黄金の剣(カリバーン)』!」

 

 涙が零れる。

 これは如何なる奇跡か。本当の王でなくともいい。魔術による仮初のものであってもいい。それでも、もう一度王に見えたいという、円卓の騎士全員の願いは確かに叶ったのだから。

 

「■■■■ァァァァァッ!」

「――ッ!?」

 

 |澪(アルトリア)に目を奪われていた一瞬の隙をバーサーカーに突かれた。

 バーサーカーの凶刃がアーチャーを捉える。肩口から袈裟にかける一撃。

 咄嗟に飛び退こうとするが間に合わない。

 アーチャーは冷たい刃が体を通り抜ける感触を覚える。

 吹き出す血潮。剣が通るときは冷たいのに、通った後は焼けるように熱い。

 バーサーカーの一撃はアーチャーの胸板から脇腹に向けて一文字に切り裂いた。決して浅くない。常人ならば、もはや立つこともままならない傷である。

 

 その場に倒れ付すアーチャー。硬い地面に背中を強かに打ちつける。それに合わせるかのように口から夥しい量の血を吐く。

 

 そのとき、がちりと音を立てて、アーチャーの中でパズルのピースが合わさった。

 

 アーチャーは知っている。決して人に素顔を見せようとしなかった男を。自らの出生を隠し、偽っていた者のことを。

 ただ一人、ただこの一人だけが目の前のバーサーカーと合致する。もはや疑いようもない。自分だけを標的に定めたのも、得心がいく。

 

 アーチャーを切り裂いたバーサーカーはしかし、もはやアーチャーを見てはいなかった。その目線は八海山澪(アルトリア)。自分に向けていたものよりも数段勝る怨嗟をその全身から発している。

 バーサーカーはアーチャーに止めを刺すこともなく、あの黄金の輝きを見つめている。

 

「■ァァ■■ァァ……?」

 

 声になっていない、もはや呻きとも解釈できる音を発する。アーチャーは、その呻きを理解できた。おそらくバーサーカーは、「アーサー」と言っている。

 

「■■ァ■■ァァァァッ!!」

 

 圧倒的な憎悪を振りまきながら、|八海山澪(アルトリア)に向かって突進するバーサーカー。アーチャーはもはや思考の外に追いやられてしまっているようだ。止めを刺すことも忘れ、一直線にそれに向かう。

 |澪(アルトリア)が一撃を受ける。明らかに狼狽していた。それは魔力の枯渇に呻く遠坂凛も同じである。

 

 ああ、やはり間違いない。あれは、彼だ。

 彼であったなら、私など目もくれずアーサー王に飛び掛るだろう。やはりあれは、彼だ。

 

 出来ることならば、アーチャーは|八海山澪(アルトリア)に加勢したかった。しかし体が動かない。そして誰もあのバーサーカーを止められない。

 今ここで動けるサーヴァントはバーサーカー本人以外には居ないのだ。

 アーチャーはせめてその戦いの行く末を見守ろうと、朦朧とする意識を落とさないことに全霊を傾けるのであった。



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Act.24 反旗を翻せ

 状況は混迷の最中にあった。

 ライダー、アーチャーの両名が戦闘不能。事実上はこのタッグマッチの勝者はセイバー陣営となるが、そのセイバーもまた負傷し意識を失った。現在、この場で活動が可能なサーヴァントはバーサーカーのみである。

 だがそのバーサーカーは、あろうことかセイバーのマスターである八海山澪に刃を向けた。アーチャーには、バーサーカーは澪の内面に内包されている擬似的なアーサー・ペンドラゴンに向けて反旗を翻したのであろうことは分かっていたが、他者からすればバーサーカーあるいはそのマスターが同盟関係を覆したとしか思えない行動であった。何にせよ、バーサーカーがセイバーのマスターに攻撃を加えているのが公然の事実である。

 

 (アルトリア)は咄嗟に凛に目線をやり、すぐにバーサーカーに戻した。一瞬しか姿を確認できていないが、凛の狼狽した様子を察するには十分だった。蒼白になった顔とそこに浮かんだ水滴は魔力の過剰な消費によるものだとしても、見開かれた目は苦痛によるものではない。バーサーカーの意図していない行動に戸惑っていることは明らかだ。反旗を翻したのがバーサーカーの意図で、凛の指示によるものではないことに安堵する。

 

 バーサーカーの咆哮。それに乗せた剣戟。振り下ろす剣には明らかに憎悪も上乗せされている。その重さは、常人の肉体の域を出ることの出来ない澪の肉体には到底受けきることの出来ないものだ。既に全身の到るところが軋みを上げている。肉体の限界はとうに超えていた。

 軋む体を突き動かして剣を避ける。空を切った剣はそのまま振り下ろされ、アスファルトで固められた地面を抉る。小さな礫が(アルトリア)の頬を切ったが、今は無視することにした。

 全身の筋肉が悲鳴を上げる。アーサー・ペンドラゴンとしての身体機能を発揮しようとするたびに、筋肉の繊維が切れていくような感覚。

 距離を取った(アルトリア)に対して、士郎が肉薄する。まだ若干足取りが危ういが、本人はそれを斟酌する気はないらしい。手には双剣、干渉莫耶。

 士郎は、僅かにタイミングをずらした二閃を放つ。片方を受け止めたとしても、もう片方で相手に一撃を与える腹積もりだ。

 

「■■■ァッ!」

 

 だがその双剣はバーサーカーの一撃によって砕け散る。横薙ぎに、膂力に任せて振るわれたバーサーカーの見えざる剣はたったの一撃で士郎の結んだ幻想を叩き壊した。その衝撃は殺しきれるものではなく、無様にもトラックに激突されたかのように地面を転がる。

 その体を、丁度バーサーカーと士郎の延長線上にいた(アルトリア)が受け止める。それだけでも体が悲鳴を上げたが、唇を硬く結んで声に発することは堪えた。

 

 再び(アルトリア)は凛を見やる。虫の息という有様だ。バーサーカーの過剰な魔力消費についていけていない。これではバーサーカーを抑える前に、凛の命が危ない。この戦いが長引けば長引くほど凛の命が削られることが分かっていながらも、連戦によってこちらも相当に魔力を消費してあり、バーサーカーを圧倒することが難しくなっていた。

 しかし蟷螂の斧と分かっていても、それを振り下ろさなければ何の意味もない。(アルトリア)は慎重深くバーサーカーの様子を伺い、一気に肉薄する。

 

 交差する黄金の軌跡と黒い霧の軌跡。刃と刃が触れて散ったであろう火花はしかし、バーサーカーの霧の中にあっては伺うこと叶わない。

 

「■■■ァァ■■■ァァッ!」

 

 遮二無二振り回すだけのような剣戟。しかしその手に持つ剣の鋭さと重さ、それにバーサーカーの膂力も相まって颶風すらも伴うものに昇華されている。さらには狂化されている中であってもかつての剣技を垣間見ることが出来る。それだけでも相当な剣の担い手であったことが伺えた。

 

 だが隙が多い。バーサーカーが剣を大きく上段に振り上げる。胸を反らして限界まで弓のように体を引き絞るが、胴ががら空きだ。

 そしてその大きすぎる隙を見逃す(アルトリア)ではない。体を低くしてバーサーカーの間合いに潜り込む。このまま、霧に覆われた胴体を両断せんと踏み込む。

 だがその踏み込んだ足からまるで何かが引き千切れるような音がして、そうと思った次の瞬間にはゆっくりと体が傾いでいた。

 

「――え?」

 

 戸惑いの声は(アルトリア)一人の声。

 左右の腿から遅れてやってきた激痛。うまく足に力が入らず、倒れる体を立て直せない。

筋断裂。そう判断したのはアスファルトの冷たい地面に体を完全に投げ出した後だった。

魔術で体を強化しようと、英霊の内面を完全に模倣しようと、澪の体は脆弱な女史のそれだ。英霊と同じように動けると誤った判断を下し、それを実行に移せばどうなるか。当然のこと、英霊の身体能力に一般人の肉体が付いていける筈が無い。当然、ある程度加減を加えながら戦闘を行う必要があるが、ライダーとバーサーカー相手にそれが出来る筈もなかった。

澪の両方の腿の筋肉はもはや使い物にならない状態だ。筋繊維は過度な疲労で断裂を起こすことがある。一部が損傷したものを肉離れと呼ぶが、完全に乖離したものを筋断裂と呼ぶ。澪のそれは後者。どちらが重症かは言うまでもない。

 

「■■ァァッ!」

 

 筋繊維が完全に引き千切れ、歩くどころか立つことも出来ない(アルトリア)に向かい、刃が容赦なく振り下ろされる。咄嗟にカリバーンでその刃を受けるが、組み敷かれているのにも等しいこの状況ではその刃を押し返すこともできない。バーサーカーは澪に馬乗りに近い体勢になりながら、全身の膂力と体重を刃に乗せ、澪をこのまま切り殺さんとする。

 

 バーサーカーの剣を圧し留めること叶わない。じわじわと刃が喉元に近付く。

 

「澪ッ!」

 

 士郎が叫ぶ。咄嗟にカラドボルグを投影しようとして、思いとどまった。宝具の真名開放は確実に(アルトリア)を巻き込むだろう。あそこまで肉薄されている状態だとバーサーカーだけを狙うことが不可能だ。また、バーサーカーは宝具の回避が可能だが(アルトリア)にはそれが出来ない。ここで宝具を開放することは出来なかった。

 よって士郎は手に干渉莫耶を投影しなおし、バーサーカーに突進せんとする。

 しかし投影が完了した頃合に、絶叫にも似た声は一つ上がった。

 

「……バーサーカーッ! 止めなさいッ!」

 

 士郎は凛を見る。渾身の力を以って突き出した手に宿る令呪が妖しく光る。凛は三度しか使用できない強制行動権を行使した。その命令は、『この戦闘を中止しろ』というものだ。転移などではなく、戦闘停止を命じた理由はまだアーチャーとライダーがこの場に居ることである。ここでバーサーカーをどこかに連れ出してしまうと、何らかの要因で二者が戦闘を再開した場合に対処できない。セイバーは未だ意識が戻らないのだ。魔力の消費は凄まじいが、居ないよりは随分良かろう。少なくとも、傷だらけの二者に対して意気軒昂のバーサーカーは牽制にはなる。

 朦朧とした意識の中で、凛はそういう賢さを選択してしまった。――そう、選択してしまったのだ。

 

「■■■■ァァァァァッ、■■ァァッ!」

 

 凛にとって意外だったのは、それでもなお令呪に抗おうとしたことである。

 バーサーカーには理性が無い。多少の抵抗はあろうが、それは獣が檻に入れられて気が立つようなものだと思っていた。令呪という強固な檻の前には逆らえず、すぐに沈静化するだろうと踏んでいた。

 つまり凛は、バーサーカーの憎悪を見誤っていたのだ。

 

 ばちばちと火花を散る。おそらく力ずくで令呪に抵抗し、(アルトリア)を抹殺せんと刃に力を込めている所為だ。もはや息をすることすらも忘れ、世界の全てを憎むかのような怨念を剣に乗せる。令呪の影響下であるというのに、押し返す澪の刃と拮抗した。否、僅かにバーサーカーが上である。

 そしてその並外れた怨念を実現するために、凛からより多くの魔力を簒奪せんとした。

 令呪に抗うとなると、当然消費する魔力量は増大する。凛は、既に限界を超過した魔力を奪われて、成す術もなく意識を刈り取られた。まるで操り人形の糸が全て同時に切れたかのように凛は力を無くし、地面に顔を埋める。その際に強かに額をアスファルトに打ちつけてしまい血を流したが、もはやその程度の痛みでは目が覚めぬほど凛の昏睡は深い。もはや一分もかからずして、バーサーカーは凛の命を奪うだろう。

 それを悟ったとき、士郎と(アルトリア)は同時に一つの決断をした。

 

「リンッ! ――やむを得ません、シロウ、『破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)』を!」

 

 即ち、バーサーカーを捨てる覚悟である。アーチャーとライダーのことも意識にあったが、それよりも凛の命を今は優先する。

 動けない(アルトリア)の変わりに士郎が動く。投影したばかりの干渉莫耶を棄却し、新たに一つの剣を投影する。その歪で、ひどく鈍らの剣の名は『破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)』。赤子さえも殺せないような剣であるが、ことあるものに対しては絶対の殺傷能力を誇る。

 それはあらゆる魔術による効果を初期化する剣。その力は、サーヴァントの契約にも及ぶ。

 魔力供給を絶たれたバーサーカーは、成す術もなく消え去るだろう。消費が激しいサーヴァントであるため、他のもののように暫く現界できるということは無い。

 士郎が向かった先はバーサーカーだ。単純にこちらの方が近いという理由である。

一息で肉薄する。こちらに気付いていないのか、|澪(アルトリア)にしか目が行っていないのか、それとも令呪の効果で動けないのか。未だ(アルトリア)と馬乗りの状態で唾競り合うバーサーカーの背後に近付き、その短剣を振り下ろした。

 

 濃い霧の中に腕を突き入れて感じたのは、硬質なものに刃が立つ感触。その瞬間、ルールブレイカーはその猛威を存分に振るった。

 がくりと力が抜け落ちるバーサーカー。それを悟った士郎がバーサーカーに渾身の蹴りを放ち、澪から引き剥がす。バーサーカーは倒れることこそ無かったが、その動きは酷く緩慢で、もはや戦闘の続行は不可能であることは明白だ。

 

「■ァ……■ァ……」

 

 しかしそれでもなお、搾りかすのような怨嗟を吐き出す。

 (アルトリア)は立ち上がることままならないため、士郎に肩を借りながらその様子を見守っていた。見ればライダーとアーチャーの姿が無い。どうやら逃走してしまったらしい。戦果らしいものは一切なく、こちらは戦力であるバーサーカーを失っただけであった。臍を噛む気持ちだが、それをぐっと堪える。

じっとバーサーカーを見守る。彼を覆う霧は次第に薄れているようだった。

 

「……貴方は一体何者だ」

 

アルトリアは以前にも似た経験をしている。あれは泉の騎士サー・ランスロットであった。彼のようにただひたすらに自分を標的にする行動と、また自身を隠匿する宝具という点で共通していた。

しかし前者はともかくとして、後者の宝具については全くの別物だと判断できた。ランスロットのそれは、姿が霞む程度で済んでいた。少なくとも、『全身を鎧で包んだ黒騎士』と分かる程度には姿を確認できたのだ。しかし目前のバーサーカーには、それすらも相手に悟らせない。霧の奥は果たして本当に人間なのか、それすらも分からないのだ。

 

 霧が薄れる。まずは足元からその霧の奥が伺えた。

 鋼鉄の甲冑の一部分が見える。足があるところを見るとやはり人間らしい。赤い装束が鎧の合間から見えた。

 次第に霧は晴れ、次は腰の辺りまで見えた。腰から下がる草摺(タセット)もまた、やはり血を吸ったように赤い。

 ここで(アルトリア)と士郎は疑問を抱いた。

 バーサーカーはこのまま消える筈である。しかし、目の前のバーサーカーは霧を消すだけでその奥にある本体は未だに健在なのだ。消えているのは霧だけであり、本体は仔細にその姿を確認できるほどに危なげなく実体を結んでいる。

 おかしい。

 そう思っている間にも霧は消え去り、ついにその手に持つ剣が露わになった。

 

 ――――その瞬間の士郎と(アルトリア)の驚きは筆舌に尽くしがたい。

 その剣は美しかった。銀色に輝く刀身、金を湛える鍔、そして紺碧の柄。それはまるで、『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』にも似た意匠。しかし刀身は中ほどと鍔により近い部分で盛り上がり、その力強さを強調していた。

 士郎はその剣の名と、その担い手の名を一目で看破した。解析の術のなせる業だ。

 |澪(アルトリア)もまた一目で看破した。その剣を知っているが故に。否、“所有していた”が故に。

 

「何故だ!」

 

 (アルトリア)の絶叫じみた問い。バーサーカーはそれに沈黙で応える。

 ――バーサーカーの持つ剣は、かつてアーサー王の所有していた剣である。エクスカリバー、カリバーンの名に隠れてあまり聞くこともない名だが、その剣の凄まじさは当のアーサー王がよく知っている。

 何せ、所有するだけで所有者に国を与える剣である。

 カリバーンは次の王の選定を行う剣だ。アーサー王はその剣で王の資格を認められたが、王位を確固たるものにする力はない。選ぶだけで後押しはしないのだ。

 正しい王が周囲からの理解を得られずに歴史の中に埋没する事例は星の数ほどある。アーサー王がそうならなかったのは、その剣の恩恵によるところも少なからずあっただろう。

 それは載冠剣。その所有者に、自らが立つ国を味方につけることで力を与える剣。

 その名も『王位を約束した剣(クラレント)』。載冠剣クラレントである。

 

「何故、そうまでして王位を求める! 兜の騎士――――我が息子、モードレッドよ!」

 

 霧が完全に晴れる。そこに現れたのは、山羊のような、あるいは悪魔のような意匠を湛えた兜の騎士。赤い装束の上に鎧を纏うその姿は、背丈は士郎の知るアルトリアと変わらないものだ。

 アーチャーの攻撃で傷ついていたのだろうか。その兜の目に当たる部分からは血涙を流していた。その様がより一層迫力を増す。

 しかしもはや兜が限界だったのだろう。おもむろに兜が砕ける。

 かつてのアルトリアを知るものなら、度肝を抜かれたであろう。その兜の内から現れたのは、かつてのアルトリアと寸分違わぬ顔立ち。しかし目は怨嗟に塗れ、憎悪しか宿していない。血管が浮き出たその顔は、もはや見目麗しいアーサー王とはかけ離れつつある。

 

 ゆっくりとモードレッドが剣を掲げる。すると剣は新たな王の誕生を祝うかのように輝きを発する。

 

「な、しまっ――――!」

 

 凛と士郎、それに|澪(アルトリア)の失策は二つ。凛はすぐさまバーサーカーを自害させなかったこと。もう一つは、凛とバーサーカーの契約を初期化したこと。

 マスターが居なくなったことで、本来ならバーサーカーは消え去る運命だっただろう。しかし彼が持つのは、“国を味方につける”という力を持つ剣。理性を失っていたために上手く扱えていなかったが、マスターが居なくなり、魔力の供給源を確保する必要が出てきたことでその真価を発揮する機会が訪れた。

 

「まずい、マスター権を書き換えられるッ!」

「何だって……!?」

 

 例えば、第五次聖杯戦争に呼ばれた佐々木小次郎。彼のマスターは、キャスターによって山門に変更させられていた。それによって彼は山門より動くことが叶わなかったのだが、今回のそれも同様の事態が起こっていた。

 バーサーカーの場合は、ここ冬木の地。所有者に土地を味方として与える剣は、その権威を存分に発揮した。バーサーカーのマスターには、ここ冬木の地が据えられる。つまり優れた礼脈が存在し、バーサーカー一人がいくら消費しようと尽きないほどの魔力を味方に付けたのだ。

 

「■■■■■ァァッ!」

 

 咆哮の瞬間、バーサーカーに流れる魔力の密度が濃くなる。もはや無尽蔵ともいえる魔力供給が確保されたとあって、誰がバーサーカーを止めることが出来ようか。

 

 バーサーカーは霊体化することもなく、橋から飛び降りた。凛の令呪はまだ利いている。しかし凛の令呪はこの戦闘に限ったことだった。これはより限定することで確実な効果を発揮するための制約だったのだが、一度仕切りなおせば令呪の効果は消える。戦えないという事実は狂化していても分かるらしい。傷も深かったことも逃走の一因だろう。

 

 (アルトリア)と士郎は呆然とそれを見送ることしか出来なかった。状況は混乱の極みにある。しかし彼らには一つだけ分かったことがあった。

 そう、つまり。この世でもっとも凶暴にして最強の獣。バーサーカーという野獣が檻を破って野に放たれたということだ。



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Act.25 暗躍

 夜はまだ明けない。月は明るく、しかしながら夜を照らすには些か暗い。

 一人の男が夜道を歩いていた。その男に実体は無く、それはつまり霊体。しかしながらそれに宿った命は今まさに尽きようとしていた。

 その男はアーチャーである。

 霊体化すれば肉体の枷から解かれ、いかな重症でもひとまずは命を繋ぐことが可能だろう。肉体が無ければ血を流すことも無い。気迫さえ十分ならば消えることは無いだろう。

 しかしアーチャーが受けた傷は、確実にその命を削り取るものだった。ここまでの負傷を負ってしまえばいくら霊体化していても苦しい。肉体が無いといっても、そもそもあの仮初の肉体は魂を元に構成されており、その肉体が酷く傷つけば霊体とて無事では済まないのは道理だ。心臓を断たれれば消滅せざるを得ないし、重症を負えば霊体であってもまともに行動できなくなってしまう。

 

 零れ流れる命を必至に圧し止め、帰還すべき場所に向けて歩を進める。

 英霊であっても絶対安静の傷だ。治癒魔術の恩恵を受けられるサーヴァントであれば霊体となってしまえば問題ないだろうが、マスターであるアリシアに扱える魔術など一切無い。よって自力での治癒にかけるしか無いのだ。

 一歩ごとに命が削られていく。それでもなお、アーチャーは歩み続けた。

 アリシアの元に帰ろうという意思のみが彼の背中を後押しする。彼女を悲しませる訳にはいかない。

 あの白い手の少女を守るために、あのか弱い少女の傍に居てやるために。その強い思いだけが今の彼の原動力である。

 アーチャーの傷は、もはや動くことままならないほどのものだ。いや、通常ならば既に息絶えているであろう。それでもなお彼の足が前に進むのは、その意思がかれを突き動かすからに他ならない。

 

 居並ぶビルの群れの奥に帰るべき場所が現れた。冬木病院である。その無機質な佇まいがあまり好きでは無かったが、今ならばそれも好ましく思える。

 もうすぐ、アリシアの元へ帰還できる。あの白い手を守ってやれる。

 ふと思い返す。ああ、やはりアリシアはイゾルデに似ている。あの無邪気な笑みは、まさしくイゾルデのそれだ。

 かつて愛した金の髪のイゾルデ。命を賭して守りたいと思う白い手のアリシア。否、あくまでイゾルデに重ねるのであれば、「白い手のイゾルデ」と呼ぶのが相応しいか。

 金の髪のイゾルデと、白い手のイゾルデ。ああ、いかにも吟遊詩人が好みそうな題目ではないか。

 ふっと笑みが零れる。後世ではもしかすると、自分の英雄譚にイゾルデが二人登場することになるやも知れぬと思った。

 

 苦痛によって弱気になっているのだろうか、と思い直して病院を見据える。あと少しだ。

 そう思った時アーチャーは全身を駆け巡る悪寒に襲われ、何か抗いきれない大きな力の標的にされたことを知った。

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

 その病室で、アリシアはただ一人黙々と物語の頁を捲ることに熱中していた。

 普段夜更かしばかりしているからだろうか、今日の寝付きは悪かった。一度は寝入ったもののすぐに目が覚めてしまい、しかしながらアーチャーの姿もないので仕方なく読みかけの物語に没頭することにした。

 消灯時間は過ぎているため、部屋の照明は消したままだ。サイドスタンドの明かりのみを頼りに本の文字を追う。趣味と言えるものが本しかないとあって、熱中すると周囲のことなど何も見えなくなるほどだった。薄暗いこの部屋にあっては、大抵の少女が暗闇に怯えるだろうが、この部屋の主はそのようなことに構うことはなかった。もとより、幽霊が自分の家族のようなものである。加えるなら、幽霊と見間違うようなものなどその部屋には置いていない。

 

 その部屋は、年頃の少女の部屋としてはあまりにも清潔にすぎた。在るのはいくつかの本と、活けられた花束。さらに申し訳程度に置かれた縫いぐるみ程度である。せいぜい熊の縫いぐるみを見間違う程度だが、定位置に置かれて久しいそれを幽霊と見紛うほうが難しいというものだ。

 以前は花すらもなかった。病院の職員は、金の援助だけは潤沢に受けているということもあってそれなりに世話は焼くのだが、頻繁に水を変えなければならない花は敬遠の対象であった。本や縫いぐるみの差し入れはあっても、生命を宿したものを贈るとあっては、部屋から一歩も出れない少女には荷が勝ちすぎるというものだ。花というものはただ置いて枯れるにまかせる分には気楽だが、ちゃんと面倒を見るとなると存外に世話がかかる。職員もそう頻繁に花の世話をするというわけにもいかず、そもそも自分の面倒を増やすような真似を好んでする者は居なかった。

 

 だからこの花は、アーチャーが活けたものなのだ。

 あまりにも殺風景なこの部屋を見咎め、どこからか花を見繕ってきたのだ。アーチャーは夜間以外は基本的にこの病室に居るわけだから花の世話には事欠かない。そのおかげか、そろそろ枯れる頃合であろうというのに鮮やかで、かつ艶やかな花弁を未だに誇っているのだった。

 その花の香りをそっと嗅ぐのが、アリシアの密やかな日課であり楽しみである。

 

 その花は日光を当てないほうが綺麗に咲くらしい。アーチャーのささやかな気遣いであろう。アリシアは花の名前などには疎いが、白い花を優雅に咲かせるこの花の名前は聞いておきたいと思った。何せ、うっとりするほど瑞々しい香りを漂わせるのだ。

 

 最初は花なんて飾って何になるのだろうか、と少女らしからぬ感想も抱いたものだ。しかし花の咲き具合に一喜一憂し、その香りと瑞々しい様を楽しむというのは病棟生活において欠かせぬものだと思うに至った。変化のない生活において、日に日に変化を見せる植物というものは本当に楽しいものだ。おそらく隠居した老人が盆栽を育てるというのも似た境地だろう。そう思うと、なんだか自分が実年齢よりも十倍ほど老けたように思えるのがアリシアの小さな悩みでもあったが、楽しみは楽しみであって簡単に捨てられるものではない。

 

小さな手がまた一つ頁を捲る。一文字を追うたびに物語は新たな冒険を綴り、アリシアを異なる世界に連れて行ってくれる。

 やがて文字は最後の一文字へ辿り着く。物語の終わりだ。別れを惜しむように、ゆっくりと表紙を閉じる。表紙に描かれたタイトルを眺めた。

 アーサー王物語。

 聖杯なんてものが本当にこの世にあるのかどうかは分からない。だがそれを持った人の願いを叶えるという偉大な杯に思いを馳せるのは、アリシアほどの年頃ならば許されることであろう。

 

 彼女の願いは、実にささやかである。それは健康な者なら当たり前に享受できる恩恵であり、しかしながら彼女にとっては満願のものである。

 外で遊びたい。ピクニックに行ってみたい。

 なんてささやかで、ありきたりな願いだろうかと思う。だが、自分の体のことを鑑みればそれは本当に困難なことなのだ。紫外線に一時間も当たれば死に至ることもある病気だ。ピクニックなどもってのほかなのだ。

 その風景を強く思い浮かべる。麗らかな春の陽気に包まれ、小高い丘の上を鳥の囀りに耳を傾けながら散策する。昼食にはバケットに入ったサンドイッチを食べ、日が暮れる前には歌を楽しみながら帰宅する。

 自分の隣に居るのは……アーチャーだった。

 出会って長いというわけではない。数ヶ月前に唐突に現れた彼は、しかしながら彼女にとっては既に紛れもない家族だった。父と母の姿などとうに思い出せない。家族はと問われれば、真っ先に思い浮かぶのがアーチャーの顔だ。

 降って湧いた家族。

 その言葉に人知れず微笑む。長い物語を読み終えた後は必ず詩的な言葉が浮かぶ。文才があるのかどうかなど知らないけれど、ちょっと筆を取ってみようかなと思った。

 

 だがそれをするにしても明日だ。さすがにもう眠い。

 やや厚い本を棚に仕舞い、ベッドに潜り込む。アーチャーに言われたのに夜更かしをしてしまった。夜は静かすぎるから駄目だ。ついつい読書に熱が入ってしまう。

 未だ未発達の体では少々遠いサイドスタンドのスイッチを切ろうと、腕を目一杯まで伸ばす。以前ベッドに入る前に電気を消したら、ベッドに強かに足の小指をぶつけた教訓からだ。

 

 手探りでスイッチを苦労しいしい見つけた。

 それを切ろうと込めた指先の力は――――ごり、と額に押し付けられた冷たく重いものの感触で霧散した。

 

「…………え?」

「声を出さないように。騒ぐと命は無い」

 

 手をサイドスタンドに突き出したままの体制で硬直する。頭上から覆いかぶさる知らない声、額から伝わる知らない感触、突き刺さるような知らない感情。

 怖い。

 それが今彼女を支配する感情の全てだった。

 そこに居る筈の人物の姿よりも、突きつけられたものを注視してしまう。額に触れているのは鉄。筒状になっていて、胡桃材の取っ手のようなものが途中から生えている。

 理性が暴走し、それを理解するまでに長い時間を要した。しかし眉間にぴたりと照準を合わせているものの正体が銃――それもひどく無骨な――だと分かったとき、暴走していた理性は凍りついた。

 

 突きつけていた銃を引っ込める。代わりに突き出したのは刃物だった。刃渡りが広く、刃と柄が一体となった頑丈な作り。それが果物の皮をむくような用途ではなく、もっと大きなものを切り裂くための武器であることは容易に想像が付いた。

 その刃が喉に突きつけられる。そういえば、銃よりも刃物のほうが痛そうだから、人質を脅すのに使えるという記述を本で読んだことがある気がした。たしか酷く怖い本だったとアリシアは現実から目を背けて思い返していた。

 

「アーチャーのマスターだね?」

 

 やや声色を落としてそれは尋ねた。半ば現実逃避していたアリシアの意識が強制的に引き戻される。それと同時に、その男自身を意識させた。

 ひょろりと高い背によれたコート。髪も髭も伸びるに任せた様子で、目からはおよそ力というものを感じさせない。そしてそれらの全てが黒い。コートも髪も髭も目も闇夜に溶け込むように黒い。

 幽霊だ。アーチャーよりも分かりやすい、恐るべきお化けがそこに居る。アリシアはそう結論した。それは万人が認める彼の風体であろうから誤りではない。

 そう、この風体とこの行動。この場に聖杯戦争をよく知るものが居れば確実にこう結論付けるだろう。この男こそ暗殺者のサーヴァント、アサシンであると。

 

「……ま、マスターって、何ですか……?」

 

 アリシアの言葉は極度の恐怖と緊張で言葉が上手く発音できない。裏返ろうとする声をどうにか抑えつけないと言葉の体裁すら保てない。

 アサシンはその言葉に怪訝な表情で返したが、すぐに彼女の置かれている身を理解したようだ。質問をやや噛み砕いたものに変更する。

 

「アーチャーのご主人様は君かい?」

 

 アリシアは、アーチャーと出会ったばかりの頃に彼が自分のことをマスターと呼んだことを思い出した。意味を尋ねると、自分の主人のことだと答えた筈だ。その一連のやりとりをアサシンの言葉で思い返したのだが、アリシアはアサシンを怒気すらも孕んだ涙目で見据えた。

 

「違います。アーチャーは私の家族です」

 

 アリシアにとって、アーチャーが自分のことを主人などと呼んでいたのは遠い昔のことだ。それはアーチャーにとっても同様であると信じている。それはもう、絆とも言えるものだ。

 だからこそ、自分とアーチャーの絆を目の前の男に侮辱された気がして、恐怖さえも一瞬忘れて反論した。だがそれは一瞬のことだ。すぐに突きつけられている刃を思い出して、その口を噤んでしまう。

 

「……そうか、ならそれでいい。お嬢さん、僕と取引をしないかい」

 

 アサシンは懐から一枚の羊皮紙を取り出す。そこにはインクで文字は書かれているが、アリシアには読むことが出来なかった。少なくとも日本語では書かれていない。

 魔術など何一つ知らないアリシアには分からないことだが、これは紛れも無く誓約(ギアス)をかけるための誓約書であった。相手の魂を縛り、交わした契約を決して違えることが出来ないようにする絶対の契約。

 その中身を要約するとこう書かれていた。

 第六次聖杯戦争のアサシンのサーヴァントである衛宮切嗣は、アーチャーを自害させるとこを条件にアーチャーのマスターへ如何なる場合でも危害を加えないことを誓約する。

 その言葉にはいかなる裏もない。単独行動スキルを持つアーチャーを確実に排除するには、マスターが令呪によって自害させるのが確実という打算があるだけだ。

 

「これは契約書だ。君は右手の痣に念じることで、アーチャーにどんな行動でも強いることができる。それで彼を自殺させれば、僕はこのまま帰る。これは絶対に覆せない契約さ」

 

 ――ただ、彼が何もせずとも彼女に危害が及ぶ可能性は否定できない。彼はそこを意図して隠す。

 そもそも彼がここに居るのは、夜な夜なセンタービル屋上に姿を現すアーチャーを発見したためだ。それを尾行すればこの病室の存在はすぐに割れた。向こうに気づかれなかったのは隠密行動スキルの賜物である。

 当然使い間を放ち、アーチャーが留守にする頃合を見計らっている。そしてより確実を期すために、二重三重の知略を巡らしているのは言うまでも無いことである。

 アリシアの真上に位置する病室。日当たりの悪い位置ということもあり今は空室となっている。その部屋に、彼はガソリンを撒いた。

 ガソリンの恐怖は液体ではなく気体時にある。液体に火をつけても勢いよく燃え上がる程度だが、気体となったそれに火がつけばどうなるか。

 凄惨な大爆発である。

 あらゆる通気箇所をふさぎ、気密性を増した部屋にガソリンをリットル単位で撒いた。ガソリンは恐ろしく揮発性が高いためにものの数分で部屋は気体化したガソリンで満たされる。頑丈なコンクリート作りとはいえ、周辺の幾つかの部屋を木っ端微塵にしてあまりある威力と化していた。言わば強力な爆弾が居座っているのと変わらない。

 アサシンが自身のマスターである景山悠司へ連絡を入れれば、彼はトランシーバーから連絡を返す手はずになっている。通信先のトランシーバーはガソリン部屋の中だ。それが電流を通せば火花が散る、簡易な起爆装置に繋がっている。

 アサシンは契約の内容に違えることなく、アリシアを抹殺する手はずを整えていた。銃も爆発物も手に入れることが出来なかったが、日常に有り触れたものを代用すればどうにでもなる。

 

「アーチャーを……私が、殺す……?」

「そうだ」

 

 うわ言のように呟くアリシア。白い顔はさらに蒼白になり、指先は小さく震えていた。

 それは死の恐怖か、それともアーチャーを殺せという命令への恐れか。いずれにしても、その小さな胸が今にも張り裂けんとしていることは容易に見てとれた。

 しかしアサシンはそれでもなお自らが出した要求を取り下げることはない。第四次聖杯戦争以降の記憶を悉く奪われている彼にとって、女子供であろうとも情状酌量の対象になろう筈もないのだった。

 アリシアは今もなおサバイバルナイフを突きつけるその男を見上げ、震える唇をどうにか総動員する。

 

「……もしも、嫌だって言ったら、どうなるの?」

「残念だけれど、君を殺すことになるかな」

 

 アサシンは手に持ったナイフの柄を強く握り直した。わざとアリシアにその様を見せ付けたのは、自分の言に偽りが無いことを主張するためだろうか。

 だがアリシアは、その様子に怯えることもなく、かえって何か悟ったような表情を浮かべる。

 

「う、嘘。アーチャーに自殺させたって、私を殺すつもりなんでしょ? ……す、スパイ物の物語って、大抵そうやって裏をかくもの……」

「…………」

 

 振り絞って吐き出したその言葉にアサシンは少なからず驚いた。まさか自分の腹の内をこんなに幼い子供に見透かされるとは。いや、魔術を最上のものと捉えている類の魔術師ではないからこそかも知れない。誓約(ギアス)には決して違えることが出来ないという先入観が無いからこそ、この契約そのものに疑いを持てるのだ。

 そうでなくとも、子供というものは大人の考えていることに敏感なものだ。年を重ねるごとに、直感で相手の心情を探る能力というものは失われてしまう。しかし齢が10にも満たないその少女には存分に備わっているようだった。

 

「……答えを聞こう。僕の申し出を受けるのかい?」

「…………」

 

 次はアリシアが言いよどむ番だった。

 死にたくない。死がいつも身近にあるからといって、死を覚悟しているとは限らない。むしろいつ死んでもおかしくないと思うからこそ、生にかける執着というものは大きい。

 もっと生きていたい。たとえ死ぬとしても、どうにもならない天命に最後まで抗いたい。刃物ではなく、病気と最後まで闘った上で死にたい。

 がちがちと歯が鳴る。震えを隠そうと歯を食い縛るが、かえって大きく音が鳴る。

 一筋の涙が零れる。その意味は涙した本人にすら分からない。

 汗が頬を伝う。脱水症状を起こしたかと思うほどに喉が渇く。

 突きつけられたナイフが冷たい。放たれる言葉は殺意に満ちているのに、どこか優しい声が恐怖を煽る。小さな心臓は限界まで酷使され、あまりに早い血流は視界と思考を霞で覆う。

 もはや視界はモザイクがかかったかのように曖昧で、思考もまた夢の中にあるかのように胡乱だ。

 しかし彼女を気絶に追いやらなかったのは偏に、その強い思いの成せる所業である。

 

「…………い、嫌です……!」

 

 放った拒絶は彼女の全霊をかけたものだ。何の比喩でもなく、体の奥底から絞り出した一声。

 あまりにもか細いその声は、しかし明確たる己の意思によって鋼のような強さを孕んだ一声であった。決して揺るがまいと、目を固く閉じてシーツを握り締める。痛みに耐えるかのようなその仕草は、何があっても意思を変えないという彼女なりの示威行為であった。

 

「私はアーチャーを殺せません……! いいえ、殺しません!」

「それでは君が死ぬとこになるけれど、いいのかい?」

「いいえ、私は死にません。だって――――」

 

 “ね、アーチャー。私がもしも私が、悪いドラゴンに攫われたら――――助けに来てくれる?”

 “もちろんさ。君は、私のお姫様だ”

 

 彼女を支えるのは、この短いやり取りのみだ。だかそれは彼女を支える杖であり、この場においては敵を退ける剣にもなる言葉。

 その言葉に全幅の信頼を置いて、その手に宿った絆に小さなその身に宿るだけの想いを乗せる。するとそれに答えるように手に宿ったソレは光を発し、彼女の想いを叶えようとその力を発揮せんとする。

 

「アーチャーは、私の大切な家族は、……私を守ってくれるって言ったんだから……!」

 

 相手を見据えたその瞳から零れたのは、星の輝きのごとく美しい滴。それを溢した瞳から発せられるは絶対の信念と意思。

 アサシンは確信した。この子もまた、幼くして魔術師たる血を引き継いだのだと。

 令呪はいよいよ輝きを増し、その真価を知らしめんとする。この場で令呪を使うとこあらば、それは強制転移に他ならない。まだ幼い子供ゆえ刃物で脅せば容易に従うだろうと思っていた己をアサシンは恥じた。

 とんでもない思い違いだった。魔術を知らないとはいえ、この子もまた歴とした魔術師の血を引いているのだ。

 そう判断した瞬間のアサシンの行動は早かった。

 

「Time(固有時) alter(制御)――double(二倍) accel(速)!」

 

 彼は己の宝具を解放した。それは固有時間を加速させることで敏捷に大きなボーナスを付与することを可能とする。霊体の肉体でも限界は三倍速まで。事実上、彼が戦闘で使用できる最高速度をここで発揮する。

 部屋の隅に空間の歪が生まれる。すぐにでもアーチャーがそこから召還されるであろうことは火を見るより明らかだ。

 

 アサシンはその瞬間に、目的を達するための機械と己を変えた。

 

「――――あっ……?」

 

 アサシンはどんな機械よりも冷酷かつ正確に、その刃を少女の心臓に付き立てた。常軌を逸した速度を以って襲い掛かる凶刃を僅か9歳の少女がどうにも出来るはずもなく、その白人は至極当然のように彼女の心の臓腑に吸い込まれる。

 彼女が感じたのは軽い衝撃と、焼けるような熱さ。遅れて感じたのは手のひらに残る、ねっとりと不快な自身の血潮の感触だった。

 しかしアサシンは己の成果を確かめることもなく窓を突き破って外へと逃れる。紫外線避けのフィルタは僅かながらもガラス窓の強度を上げていたが、防犯を視野に入れていないために簡単にアサシンの脱出を許した。フィルタに塗布された糊のせいでガラス片が散ることもなく、かえって隣室に異常を伝えないことに役立った。

 

 そしてアーチャーは一瞬ながら、しかし致命的な一瞬を逸してその場に召還された。その部屋の惨状と、逃げようとするアサシンと思わしき後姿を見て即座に状況を把握する。

 

「き、貴様ァッ!!」

 

 天まで揺るがすほどの咆哮。その怒りに合わせてばっくりと切り裂かれた胸板から血が吹き出る。

 驚くべき速度でこの場を離れようとするそれをアーチャーの鷹の目は逃すことは無かった。即座に矢を射掛けようとし、螺旋矢を番える。

 憎悪の一切を込めて矢を引き絞る。だがその矢が放たれる前に、アーチャーの体が先に限界を迎えた。再び胸板から夥しい量の血が噴出し、口からも赤黒いそれを喀血する。

 つい緩めてしまった指先から矢が離れ、しかし矢はあらん限りの憎悪を込めたにも関わらず明後日の方向へと飛翔して地を抉っただけだった。下手人は口惜しいことに……悠々と逃げ延びてしまった。

 風体からしてアサシンで相違ない。となればもはや追うことは不可能。もとよりこの傷では一刻の猶予すらも無い。

 あまりの無念からアーチャーは咽び泣いた。よろよろとアリシアが横たわるベッドに歩み寄り、彼女の手を取ってなおも涙を流す。

 

 アーチャーはこの場に呼ばれた瞬間から、どこか冷たい部分でそれを悟った。アリシアはもう助からない。

 零れる命を繋ぎとめる方法は無い。それこそ神の奇跡に縋らなければ成しえないことだ。

 もとより白くかった手が、どんどん血の気を無くして行く。それに呼応して握った手から熱が奪われていく。

 その度にアーチャーの目からは涙が溢れた。自身もまた余命幾許もない傷でありながら、足元を血溜まりで濡らしながら、それを意に介さず強く彼女の手を握り締める。

 

 ああ、神よ。御恨み申し上げるぞ。何ゆえ彼女がかような仕打ちを受けねばならぬのか。何ゆえ彼女にこれ以上過酷な試練を与えようというのか。

 このようにいたいけな少女の命を召し上げて、一体どうされようというのか。お望みならばこの命、いつでも献上しよう。

 だから、頼む。彼女を殺すな。彼女を死なすな。

 願わくば、願わくば、あの無垢な笑みをもう一度。

 ああ、ああ、命が零れていく。このトリスタンの両手をすり抜けて、命の熱が逃げていく。 

 

 アリシア、アリシアと何度も名を呼ぶ。しかし返事は無い。

 心臓から無骨なナイフを生やし、口の端から血を一筋流して横たわる少女。しかしその目が再び開かれる奇跡を請うように何度も名を呼ぶ。

 私は、この少女を守りたかったというのに……!

 愛のために戦いぬくと誓ったのに! 彼女が唯一自分と手にした……家族愛を守るために……!

 

「…………アーチャー……? 泣いているの?」

 

 それはどんな奇跡だろう。もはや決して目を開くことは無いと思っていた少女の目が薄く開かれた。それは蝋燭が消える前の一瞬の輝きかもしれない、だがアーチャーはその一瞬を全身全霊で受け止めなければと思った。

 

「……泣いてなんかいないさ」

 

 アーチャーは涙をぬぐい、精一杯の笑みを浮かべた。既に足元は輝く飛沫となって消えかかっている。傷はもはや致命のものにまで広がり、彼を現世に留めることが出来なくなりつつある。しかし彼はそのような気配を一切漏らさず、あらん限りの平常を装って彼女の手を優しく握った。

 

「私ね、なんだか、怖い夢を見たの」

「今日は寝苦しいからね、怖い夢も見るさ。私が手を握っているから、ゆっくりと休むといい」

「うん、なんだかとっても眠い……。ね、アーチャー……」

 

 アーチャーはアリシアの命の灯火が今まさに消えようとしていることを察した。だからこそ笑顔を作り、穏やかに彼女を送らんとする。

 

「怖い夢だったけど……最後にアーチャーが来てくれたから……私、嬉しかった……。えへへ、ありがと……アーチャー……」

 

 不意に……握る手から一切の力が無くなった。

 必死にアーチャーは呼びかけたが、もはや彼女からは何も帰ってこない。ただ微笑むように眠るだけである。

 アーチャーは彼女が死出の旅に出たことを知り、声を押し殺した呻くような声とともにベッドに顔を埋めた。

 慟哭の声は静かに、しかし止め処なく溢れる滴を抑えることは出来ない。彼女の血の上に大粒のそれを溢すことしか出来なかった。

 アーチャーは頭上から紅蓮の花が咲いてその身を包むまで、彼女との別れを惜しむようにその場に留まり続けた。

 

 

 

 

 

『……旦那、言われた通りにしたけれど』

 

 携帯電話から響く科学的に調整された音声。アサシンことエミヤキリツグは病院から離れた、かつアーチャーからは補足できないであろう雑居ビルの空き部屋の一つに身を隠していた。

 アーチャーから逃れた後にこのセーフハウスに駆け込み、すぐさま携帯でマスターである景山悠司に連絡、病院の一室を爆破した次第だ。

 

「……ああ、マスター。こちらからも首尾よく運んだことを確認したよ」

『そいつは何より。……で、このトランシーバーでどこかに連絡することに、どんな意味があったんだ?』

「知る必要はないよ、マスター。もしかしたら次もあるかも知れないけれど、そのときも宜しく頼む」

『はいはい、この軟禁に近い生活が早く終わるなら吝かじゃないですよって』

「助かる。すぐにそちらに戻るが、何か必要なものはあるかい?」

 

 アサシンは彼の身の回りのもの、切れ掛かっている必需品を聞き出して脳内のリストに書きとめた。帰り際に手早くそれらを買い集める予定を考える。

 だがその前に、懐から煙草を取り出して一服することにした。煙草の銘柄はそこらのコンビニで売っている一般的なもの、ライターも100円で買えてしまう安物だ。

 漂う紫煙と遠くで立ち上る黒煙を眺めながら考えた。

 自分はかつて、あのように敵の目の前に現れて交渉をするようなことをしただろうか。合理性と確実性を取るならば、病院を丸ごと爆破するようなことも行っていたように思える。

 現に、危うくアーチャーの反撃を受けるところだった。アーチャーが既に負傷していなければ、アーチャーのマスター共々脱落は免れなかっただろう。

 失った記憶の中にその答えがあるように思えたが、それを考えると決まって割れんばかりの頭痛に襲われる。まるでそれを考えることを体が拒否しているかのようだ。

 大きくため息をつく。それに合わせて煙草の煙が口からもうもうと上る。騒々しい音につられて下を見れば、消防車が大慌てで走り去っていった。あの量のガソリンだ。火災も並では済まなかっただろう。

 長くなり過ぎた灰が床に落ちる。もう吸い尽くした煙草を剥き出しのコンクリートの上に捨て、踵で揉み消した。

 ……何はともあれ、これで脱落したサーヴァントは二体。残るはセイバー、ランサー、ライダー、バーサーカー、そして自分アサシン。次の標的はまだ定まっていないが、趨勢を見て全力で漁夫の利を得に行く方針は変えるつもりは無かった。

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

 本来なら清清しいはずの朝なのだが、私にとってはそうはならなかった。正直に言おう。最悪といっても差し支えない気分である。

 昨晩、ライダーとアーチャーを相手にどうにか生還を果たした私達。帰るまでの道のりもかなりきつかったと記憶しているが、正直疲れ果てていたせいかあまり鮮明に思い出せない。士郎さんの投影した宝具の効果でどうにか歩けるまでに回復したセイバーが私を抱えて帰ってきたような気がするが、記憶にいまいち自身がもてなかった。

 確かなことは、未だに引きずっている両腿の鈍痛だけである。

 これもまた士郎さんの宝具によって治療したものの、一晩未満では満足に治らなかったと見える。どうにか歩けるものの、足をかばいつつ歩くことになり、何か支えが無いと自分でも危なっかしくて仕様が無いという有様だ。

 しかしこれでもセイバーが受けた傷よりはマシだ。何せ命の危険は無い。セイバーの傷は下手をすれば死に至るほどだったのだから、士郎さんが真っ先に治療を施したことに異論などあろう筈もない。今後は自分の身体能力も考慮しようと猛省するばかりだ。

 そしてある意味で一番軽症なのは遠坂さんだ。あの時は一番死に近かったものの、事が終った今では寝ていればすぐに全快できるという点で傷は浅い。私やセイバーは、ここできちんと治療を受けないと後遺症が残るかも知れないのだ。そうでなくとも足をかばった歩き方が癖にならないように注意するばかりである。

 

 苦労しいしいベッドから起き上がる。いつまでも寝ているわけにはいかないだろう。リハビリも兼ねて、とりあえず居間に向かう。胃袋はくうくうと音を鳴らして空腹を訴えているのだ。朝食の時間帯からは少々外れてしまったが、冷蔵庫を漁れば何か在るだろう。この大所帯、冷蔵庫が全くの空という事態は無いはずだ。

 壁に手をついて支えにし、どうにか居間に辿り着く。そこには全員の姿があった。

 まだ傷が痛むのか幾分大人しいセイバー。もう魔力切れから立ち直りつつあるのか、ぐったりしていながらもテレビを眺める遠坂さん。まだ本調子ではないだろうに、見て分かるほどの不調の二人に甲斐甲斐しく給仕をする士郎さん。士郎さんがもしサーヴァントになるとしたら執事(バトラー)というクラスだろう。容易に想像できるのが恐ろしい。

 

「澪、もう起きて大丈夫なの?」

 

 顔をテーブルに沈めたままの遠坂さんの声には覇気がない。というか元気が無い。やはり多少寝た程度では魔力は十分に戻ってはいないに違いない。今日は一日安静にするべきだろう。

 

「腿がまだ痛いけれど、じっとしている分には問題ないわ。それよりも遠坂さんとセイバーのほうこそ大丈夫なの?」

「私は大丈夫だ。戦闘は難しいかも知れないが、一日安静にしていれば治る。あのアヴァロンという鞘の力は本当に凄まじい」

「魔力がすっからかんだけど、体を休めておけば大丈夫よ。……全員が揃ったところで会議でもしましょうか。とりあえず差し迫った問題の方から」

 

 遠坂さんは沈めていた顔をテーブルから上げ、服の袖をまくる。そこに在るはずの令呪は既に消え、痣のようなものが残っているだけだ。

 

「バーサーカーは? ……いえ、別に責めるつもりは無いのよ。最後気絶しちゃったから分からないけれど、あの状況だとバーサーカーを斬り捨てるのが最上でしょうね。だからこれは確認」

 

 若干の食い違い。遠坂さんは最後、魔力を限界以上に搾取された影響で気を失っていた。だからおそらく私達はバーサーカーを切り捨てたと思っているのだろう。それは間違い無いのだけれども正確ではない。その話には続きがある。

 よほど言いにくそうな顔をしていたのだろう。台所で何か作業をしていた士郎さんが席について、私の代わりに話を始めた。

 

「バーサーカーはまだ生きている」

「……はあ? じゃあ何、前回のアンタのセイバー(アルトリア)みたいに敵に奪われたってこと?」

「……そうじゃなくて、……どこから話したらいいのかしら……。

 ええと、取り敢えずバーサーカーの真名から。あのバーサーカーの正体はサー・モードレッド。円卓の騎士の一人、って言わなくても分かるわよね」

 

 詳細な説明の必要が無いことは、遠坂さんの表情から理解できた。確かにアーサー王を前回従えていたのであれば、その伝承にも明るいだろう。

 反逆の騎士。簒奪の騎士。脱がざる兜の騎士。後世に不名誉ばかり残してしまった騎士、サー・モードレッド。

 自分と袂を分かつことになってしまったランスロットの元に遠征に行き、その際にキャメロットを任されたモードレッドは謀反を企てる。王の留守をいいことに王位を簒奪し、帰路についていた王の軍と対立する。最終的にモードレッドはアーサー王の脇腹をその剣で貫くが、自分もまた兜を叩き割られて死に至る。国土全土を揺るがす反逆は、双方共に倒れることで幕を下ろすのだ。

 そのモードレッドが今回のバーサーカー。おそらく、遠坂さんにアーサー王との契約の跡のようなものがあったのだろう。あるいは記憶だろうか。それを縁に、『遠坂凛のサーヴァント』という王の地位を『簒奪』するために召還に応じたのだろう。推測だが、既にアーサー王の立場を全て奪うことしか頭に無いのだと思う。

 

「モードレッド……これはまた、凄いヤツが呼ばれたものね……。ということは、宝具はクラレント?」

「ああ、あれは間違いなく載冠剣クラレントだった」

 

 士郎さんはその剣の力を掻い摘んで説明する。

 あの剣は王位を約束したものだ。王は国を統べる存在であり、国が王を支える。その理念を鋳造したような存在が載冠剣クラレントだ。

 一度その力を発揮すれば、持ち主に国を味方として与える。地形効果による恩恵を最大限に受けられるだけでなく、魔力供給を土地そのものから賄うことが可能となる。

 つまりマスター不要。マスターが死のうが、契約を破棄されようが、殺されるまで現界することが可能となる剣だ。

 

「ちょっと……それって、バーサーカーが自由に動き回れるってことでしょう……? 理性を完全に無くした狂戦士がどこにでも現れることが出来るって……一般人を襲い始めたりするんじゃ……!」

 

 ニュースからは昨晩起こったらしいガス爆発についての報道が成されている。事件の可能性も踏まえて捜査を続けるとある。死者数名、重軽傷多数という大惨事だ。どうやら9歳の女の子までも亡くなったらしい。

 しかしこれはバーサーカーとは関係ないだろう。バーサーカー絡みならば切創だ。とりあえず思考の外に追いやる。

 

「かも知れないな。だから一刻も早くバーサーカーをどうにかしないと……」

「……たぶん、それは無いわ」

 

 遠坂さんと士郎さん、そしてセイバーの6つの眼球が私を捉える。あまり凝視されるとこちらも不安になるというものだが、この案は正確には私の考えではない。思い切って出してしまうのが良いだろう。意を決して続きを語る。

 

「まず、クラレントは“国を味方につける剣”。だからそれを持つモードレッドが一般人を襲うことは無い、……らしいわ。

 国家の礎は王でもなく、土地でもなく、民よ。土地のあるところに、あるいは王の居るところに国が出来るんじゃないわ。民が居るところに国が出来て、より適した土地を目指し、そこから指導者たる王が生まれる。国の基盤は民であり、王ではないわ。

 とすれば、まがりなりにも王になった……それもクラレントに認められたモードレッドが民草を無意味に襲うとは考えにくいわ。国家の礎は民であり、その民を滅ぼせば王ではなくなる。そういうことみたい。

 いくら狂化していてもクラレントを握っている限りは一般人に手を出さないだろう、……ということらしいわ」

「……誰かに聞いたかのような物言いだな、ミオ。誰から聞いたのだ?」

「聞いたとうか……アーサー王流の考え方……というべきかしら」

「……そういえば澪、あなたライダーと対峙したときにおかしなことをしていたわね。アレについて、何か説明はあるんでしょ?」

 

 そういえばこれといった説明を何もしていなかった。私自身、全て分かっているとは言いがたいけれども説明はせねばなるまい。

 この際、あの過去の記憶のつまった場所のことにも触れざるを得ないのも止む無しだ。こちらからは言うわけにはいかないけれど、聞かれたら答えてしまおう。

 この面子の中で最も早く気を失ったために何も知らないセイバーに対してある程度の経緯を説明した後に、なるべく筋道立てて言葉を並べる。

 

「同一化魔術、と私は名づけることにしたわ」

「……同一化?」

「そう。“いたこ”というものをセイバーは知っているかしら。自分の中に他者の霊魂を憑依させる術を扱う人のことなんだけれど、それと近いことを行っているわ。

 例えばアーサー王。アーサー王の全ての記憶、行動理念、思考回路、ありとあらゆる情報を私は受け取る。それを元に、私は自分の中に架空のアーサー王を作り出すの」

「ちょっと待ちなさいよ。それって、自分の精神を作り変えているってこと?」

 

 かぶりを振って否定する。

 精神を作り変えるのは危険極まる。魔術師が行って大丈夫なのは精神をばらばらにするところまでだ。ばらばらにしただけならば作り直すことも比較的容易だが。作り変えてしまうとなると精神がそのまま定着する危険が生じる。つまり戻れなくなるのだ。

 だが私の魔術はそうではない。私の精神には一切手をつけないのだ。

 

「私の精神の上に、仮面を被せるようなものよ。えーと……何か達成した目標があるとするでしょう。それを達成するのに、私はAという方法しか持ち得ない。あるいはそれしか考えが及ばない。

 だけれども、それに私が精神に作り出した他者というフィルタにかけることで解決案Bというものが生まれるのよ。他人の思考法、知識というものがあるからこそ私には考えもつかないようなことが分かる、という仕組み。

 さっきの意見だって私には考えの及ばないものだったわ。昨晩私の中に作り出したアーサー王という人格のフィルタを通すことによって導き出された別解というわけ」

「……よく分からんな」

 

 だろうと思う。私自身完全に理解しているかといえば怪しいものだろう。

 仮面という表現が悪かっただろうか。他のたとえで言うと仮想OSというものが近いのだろうか。情報技術に多少精通してないと理解できないだろうから敢えて伏せた例なのだが。

 仮想OSとは、コンピュータに搭載されたOS上で、別のOSを仮想的に動かすというものだ。本来OSは同時に機動することができない。しかしAというOSの制御下で別のOSを仮想的に動かすことは可能なのだ。これによってAというOSが実現できないこと、不得意なことをBという仮想OSに実行させることによって可能にするのだ。

 Windowsに不可能なこと、不得意なことを仮想のLinuxに実行させるというのは情報系の学生では当たり前のように行われているらしい。Windowsはあまり開発環境に向いていないというのは、情報系の学科に居る友人の弁だ。

 

 つまりこの場合、全体を制御するOSが私。先刻のアーサー王のように作り出した人格が制御される仮想OSということになる。私という制御下で、別の人格を動かすのだ。

 しかし人間は機械ではない。制御下にある人格も主人格の影響を多少受ける。

 それは何かというと、あらゆる決定権は主人格のほうにあるということだ。つまり主人格――つまり私が絶対に嫌なことは、例えアーサー王でも実行することが出来ない。制御するOSとユーザーが一緒になっているのだ。

 

「といっても、一番しっくりくる説明は多分セイバーには理解できないだろうし……」

 

 あと遠坂さんにも。睨まれそうなので言わないけどね。

 

「とりあえず、人格をスイッチみたいに切り替えることが出来るという認識でいいわ。多重人格みたいにね。その人格というのが、過去の人というだけよ」

「情報を受け取るって言っていたけれど、それはどこから?」

 

 やはり来たか。この質問は避けられないだろう。

 私自身よく分からないけれど、と前置きして説明する。なるべく理解しやすいように言葉を選びつつ知る限りを語る。

 眠っている間に辿り着いた、謎の人物が居る世界。そこにはあらゆる人物の過去が記されていて、私はそれを垣間見ることが出来る。一度そこに辿り着いたからか、魔力という通行料を払えばそこにアクセス出来るようになっていた。今もその気になれば出来るだろう。

 そこから情報を必要な分だけ全て受け取り、あとは説明したとおりだ。それを元に人格を構築して制御する。

 全部話し終える頃には時計の短針がぐるりと一周していた。

 

「……なんてデタラメな」

「そう思うわよね」

 私もそう思っている。

「そんなのがあれば、魔法だって何だって思いのままじゃない」

「あー……それがそうもいかない事情があって。

 イメージして欲しいのは、何億という蔵書がある図書館かな。しかもジャンルも並びもメチャクチャで、そもそも棚に収まっているんじゃなくて山にして積んでいる感じ。しかも本の表紙にはタイトルも著者も無い。……どう、そこから狙った一冊を持ってこれる?」

「……無理だろうなあ」

 

 ぽつりと溢したのはセイバーだ。

 タイトルも著者も不明とあれば、本を開いて欲しい記述があるかどうかを調べる他無い。電子ブックなら文字を検索できるだろうが、あいにくこれは手書きだ。人によってはかなりの悪筆の場合もあるだろう。死の直前に自身の記憶が磨耗してしまっている場合だ。桜さんの過去に関わる記憶もこの状態であったことは覚えている。

 そんな状態から何億、いや億では収まらないほどの蔵書から目当ての記述を見つけ出すのは至難だ。魔法などの記述となると、それを記されている蔵書そのものが希少だろう。十本の指で数えられるほどしか無いに違いない。

 では何故アーサー王はすぐに引っ張り出せたのかというと、手に触媒があったからである。

 記憶からも、例の匂いがする。私の魔術的感覚を五感に変換するあれだ。それがどんな人物か、人目見たときに私はそれを在る程度看破する。

 これはよほど狂気に染まって、情報を引きおろすだけも危険なウイルスのような記憶を見分けることに役立つ。私も人の子、朱に交われば紅くなる。触れたくない記憶に触れると危険ということもある。今思えば、この能力はこの為に備わっていたものだろう。

 しかしこれはもう一つの使い道がある。図書館などにある、蔵書検索サービスの代用だ。手元に触媒となる強い力を持つものがあれば、それを頼りに目当てを引き当てることが可能となる。逆に言えばこれが無いと目当ての蔵書を見つけ出すのは不可能に近い。どれほどの力が触媒に必要かと言うと、宝具ぐらいだ。

 つまり事実上、私が持ってこれるのは士郎さんが投影できる物の持ち主だけということになる。時間さえかければ、その人の大事にしていた遺品などでも可能だろうが、そうなるともはや何週間かかるか分かったものではないというレベルだ。運がよければ一瞬だろうが、悪ければ数ヶ月だろう。

 以上のことをわかり易く噛み砕いて説明してやる。どこまで分かったのか知らないが、私だって自分が行っているとは思えない所業なのだ。架空とはいえアーサー王がこの身の内に在るなど、未だに信じがたい。

 

「……まあ、いいわ。じゃあバーサーカーは一般人には手出しをしないだろう、という仮定で。でも油断はしないわよ。暫くはニュースを見張っておかなくちゃね。辻切りなんて現代では物騒すぎるし」

「……リン、いつの時代だってそれは物騒だと思うのだが」

「そうかもね。でも、こっちから居所なんて掴めるはずも無いし。向こうが何かしらアクションを見せるまでこっちは何も出来ないわね。……こういうの、あまり好きじゃないわ。

 ……ところで、その謎の世界……澪の言うところで言うと、『アカシャの写本世界』というやつ。そこに居た人物というものが気になるわね……」

「遠坂、死んだ後も固有結界だけが残るということはあるか?」

 

 問うたのは士郎さん。固有結界持ちとあっても、人の固有結界のことまでは分からないらしい。それも道理だ。千差万別、人によって全然様相を異にするからこその『固有』だろう。

 遠坂さんはその質問に真面目に考える。

 

「分からないわね。だけど霊魂がこの世に留まり続ければあるんじゃない? 」

「……その人物、澪子って言ったんだよな?」

「ええ。それがどうかしたの?」

「ほら、藤ねえとかと一緒に宴会やったときあるだろ? そのときにさ、会ったんだよ、その澪子という人物に。そのときのそいつ、全部知っている風だったんだ。そいつの情報を持ってくることは出来ないか?

 ……今思えば、既にあのときから澪の同一化魔術は片鱗を見せていたな」

「……私は全然覚えていないけれど、名案かもしれないわね……。私もあの女性には興味があるし、あそこが彼女の世界なら彼女の情報もある筈……」

「宝具級のものが無いと駄目なんじゃないの?」

「一度持ってきたことがあるなら、多分どうにかなると思うわ。やる価値は在るんじゃないかしら」

 

 同一化魔術の真髄は戦闘ではなく知識にある。手繰り寄せる手段があるなら、時間はかかるかも知れないがあらゆることを知ることが可能なのが強みだ。

 現に、アーサー王の記憶は戦闘よりもその思考と記憶のほうが役に立っていると思うほどだ。戦闘を行えば自滅必至だが、弁舌で筋肉が断裂することは無い。

 

「……過去を全て記録する世界、か……。そういう人物、日本史に一人居た気もするわね」

 

 遠坂さんが漏らす。そういえばそんな人物が居たような気がするが、先入観は余計だ。

 目を閉じて集中する。

 ――――アクセス。

 探す。探す。この世界の中心となっているはずの記憶を探す。

 一度引き出したことのある記憶ならば、匂いで何となく思い出せるだろうか。これも違う、あれも違うと探し回る。

 

 (――――おやおや、何をそんなに探し回っているのやら。んん? そうか、余のことを知りたいのか。まあ、やや毛色が違うものの口寄せは成し遂げたのじゃ。合格であろ。それ、こっちに来てみるがいい)

 

「――――見つけた」



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Act.26 友の道

Starten(再起動)Start(開始)

 

 二度目の同一化は思ったよりもスムーズに進んだ。体が感覚を覚えていたらしい。

 いや、むしろ忘れていた何かを思い出したかのような、在るべき場所に在るという感覚がある。血の為せる技というのなら恐ろしい限りだ。

 情報を引き出し、己の中で再構成する。

 自身の中に生まれるもう一つの人格。仮初のものとはいえ、それはオリジナルと何ら変わりのないものだ。水面に影のように儚い存在だが、私が制御する間それは紛れも無い実像。

 私の中に在る炉を動かし、そこから抽出された魔力を練りこみ、一つの人格を完成させる。それは仮面のイメージ。これを被ることで私は別人となる。

 だからこそ注意が必要なこともある。あまりにも狂気に染まった人格などをこの身に移せば、それは即ち毒だ。だからこそ引き落とす前にそれを匂いによって察知する必要がある。魔術的な完成を嗅覚に変換しているのだから、かなり当てに出来るものだ。

 だからこの同一化も、もし自身に降ろすだけでも危険なものであると思ったらすぐに中止するつもりだったが……それがどうか。

 これほど透明な人格があるのだろうか。

 あらゆる匂いを発さず、まるで空気のような存在。およそ自身の意思というものが希薄。

 だがそれにも関わらず、まるで十年来の友が隣に侍るような心地良さもまた有る。何とも不思議だ。

 

 最終工程。この人格を私の精神に組み込む。

 まるでモジュール化された部品を換装するかのように、それは存外呆気無く完了した。

 身体能力に以上が無いか確認する。五感、良し。指先一つに至るまで正常に動く。成功だ。

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

 一人の人物の話をしよう。

 それは遥かの昔、まだこの国が別の名前で呼ばれていた頃の話だ。

 

 まず、歴史にその人物の記述は殆ど残されていない。そもそもその性別すらも定かでは無い。一説には男とされているが、女であるという説もまた有力である。

 その人物は、当時の天皇の勅命によりある書を記す。

 何故その人物が天皇から直々にその命を受けたのかというと、その人物には他の者には無い特殊な技能が備わっていたからだ。

 何故そのような大人物でありながら、歴史に殆ど残されていないのかは定かではない。同時期に書かれた書物にもその人物の名は出てこない。

 だが彼が残した書物は、およそこの国に生まれたものならばほぼ全てのものが知っていよう。その人物の名は知らずとも、その書物を知らぬものは殆ど居まい。

 

 天武天皇に仕え、歴史を書に記すも己を記すことの無かった人物。

 この日出国の高天原におわす神々。その物語を記し、後の世に多大なる影響を及ぼした書物。

 その書物の名は、「古事記」という。

 そしてその編纂者の一人。その名も――――

 

 

 

 

 

「…………澪、大丈夫か?」

 

 衛宮士郎は堪らず声を発した。澪は薄く目を閉じたまま一言も発さない。

 澪の同一化魔術は精神を改変する魔術に他ならないため、失敗した際の影響は計り知れない。最悪廃人ということも十分に考えられるため、その最悪のケースに陥ったのでは無いかと思ったが故だ。

 

「……澪は我が子孫ぞ。これしきで失敗されては堪らん」

 

 だが返答は澪のものではない。その声色や目の鋭さは凛や士郎が知る澪のそれではない。士郎はこの瞬間に、例の澪子という人格が表に出てきたということを悟った。

 凛とセイバーはその変貌ぶりに狼狽する。昨晩の折、セイバーは既に気を失っていた上、凛もまた意識が朦朧としていてあまり記憶に残っていないようだった。事前に説明を受けていたとはいえ、実際に目にすると驚きもひとしおだろう。

 

「……澪の顔で、全く別の口調で話されるというのも何か……違和感あるわね」

「同感だ、リン。ここまでミオとは別物だというのに、顔はミオであるというのはおかしな感じだ」

「慣れてもらう他無い。さて、衛宮士郎。余に聞きたいことが有るのであろ? 今度は隠し立てはせん。澪は自力で辿り着いた。余の言葉はすでに何の助けにもならんが、疑問を晴らすことは出来よう」

 

 澪子が以前、衛宮士郎の問いを跳ね除けたのは澪のことを思ってのことだ。

 問われるがままに答えるのは容易いが、それでは澪は一向に成長しない。無意識下で同一化魔術を成すほどの才覚を持っているが、それを伸ばす努力を怠れば才能の目は腐り落ちるしかない。澪が自力で辿り着いてこそ、その目を伸ばすきっかけになろうという判断からだった。

 しかし今、澪は自力でここまで辿り着いた。だからこそ彼女に隠すべきことは何もない。

 

「……澪子っていうのは本当の名前じゃないんだろ。本当の名前は?」

「余は稗田阿礼(ひえだのあれ)という。知っておるか?」

「稗田阿礼……」

 

 そう。古事記の編纂者の一人に名を連ねる彼女の名は稗田阿礼。古事記には以下のように彼女のことは記されている。

 あるところに一人の舎人が居た。姓を稗田、名を阿礼。年のころは28。非常に聡明な人物で、一度触れたものは即座に言葉にすることができ、一度見聞きしたものは決して忘れることが無い。

 古事記に記される記述はこれのみである。それは即ち、稗田阿礼という人物を記す全ての記述ということである。それ以降、稗田阿礼を記した文章はこの世に存在しない。同時期に綴られた日本書紀や、この時期を記した新日本書紀にもその名前は登場しないのだ。

 その特殊な技能を持ちながら歴史に名を残すことをしなかった人物。それは何故か定かではない。

 だが、もしもの話だが。稗田阿礼が魔術師、いや、この国のその時代においては妖術師や陰陽師と呼ぶべきだろうか。そういう類の人物であったとしたならどうだろう。どの国、時代においても神秘は隠匿すべき存在だ。だからこそ自身を記されることを嫌ったとすれば、天皇に重用される身でありながらも非常に短い記述しか書に見られないということにも道理が通るのではないのだろうか。

 

「見たものを決して忘れない。そちらの言葉で言うと、固有結界というものが余にはある。見聞きしたものを遍く書き記す世界。余は「森羅写本」と呼称していたが」

 

 最も、日本は西洋の魔術とは別体系にあったのだから別の言葉で呼ばれていたのだが、心象世界で世界を塗り替えるというものは存在した。稗田阿礼のそれは「森羅写本」。見聞きしたもの、触れたものを全て書き記し、その情報を必要とあらば引き出すことのできる膨大な記憶野の固有結界である。その記憶量には限りがなく、また本人の意思に関わらず一度見聞きすれば森羅世界に情報が書き込まれ、その情報は際限なく増え続ける。

 衛宮士郎の「無限の剣製」とある意味似ていると言えよう。それが剣ではなく知識、情報に置き換わっただけに等しい。それを自在に引き出すことが可能という点でも似通っている。

 

「だけど稗田阿礼はとっくに死んだ人間だ。どうしてその森羅世界はこの世に留まっているんだ?」

「うむ……ややこしい事情があっての。少々長くなるであろうが、まあ聞け」

 

 促されるままに彼女は語りだした。まるで何か台本があるかのようにすらすらと、まるで昨日の出来事のように淀みが無い。

 

 古事記を記した彼女はある一つの思いを抱くようになった。それはこの世全てを書き記したいというものである。森羅を写し取る世界を持つ彼女がそれを望むのはある意味で正常な感情だ。固有結界とは心象世界の具現である。森羅を書き写す固有結界の担い手が、全てを書き写すという欲求を持つのは至極当然のことだ。

 彼女は世界を回った。あらゆる物を見て、あらゆるものを書き写した。

 だが足りない。まだ知らないことが在る筈だ。もっと私に知識を。

 知識欲というものには限りが無い。食欲も睡眠欲も、性欲さえもいずれは満ちる。だが知識への欲求には限りが無い。無知なものほど興味がなく、多くを知るものこそ多くの知識を求めるという性質の悪い性質まである。知れば知るほど、より多くのことを求めてしまうのだ。果ての無い悪循環である。

 

「運の悪いことに、当時最高の腕をもっていた陰陽師と知り合いでの。阿迦奢への扉を開けば、全てを知ることが出来るであろと考えたわけよ。……いや、今思えば愚かなことをした」

「阿迦奢とは何だ、リン?」

「アカシックレコードのことよ」

 

 凛の言葉に頷き、阿礼は言葉を続けた。

 結果として、アカシャへ至る儀式は成功した。泰山府君を騙すよりも高度な術を見事その陰陽師は達成することが出来たのだ。今でこそ魔法に次ぐ奇跡だが、未だ神秘が世に溢れていた次代である。日本で最高の陰陽師(まじゅつし)となれば、決して不可能なことでは無かった。

 かくして稗田阿礼はアカシャへ触れることが叶うわけだが、一つ大きな誤算があった。

 すぐに書き記すことが出来るほど、アカシャの情報量は小さくなかったのである。アカシャと森羅写本の性質はよく似ている。おそらく協調してすぐに書き写すことが可能であろうと考えたのが運の尽きだった。

 何年たってもアカシャに記されているものを書き写すことが出来ない。それどころか、増え続ける過去の記述を写すだけで精一杯、一向に次のステップに進む気配が無い。

 やがて月日が経ち、稗田阿礼が死に至る段階になってもそれは終わらなかった。いや、死後も終わりはしなかった。

 稗田阿礼は紛れも無い英霊である。戦闘こそ出来ないから聖杯戦争に呼ばれることは無いだろうが、人類の守護者として召し上げられた存在と化した。それはつまり、永遠に魂が破滅することもなく、永劫とも思える時間を費やしてアカシャを書き写す未来を約束されたのと同義である。

 もしも森羅写本の見たものを遍く書き写すという性質が、稗田阿礼の意思によってどうにか出来るものなら良かったのだ。もはや森羅写本は過去の人物の記憶で埋め尽くされている。ただ記録されるときに、ある程度情報は纏められるのが救いだった。人ならば個々に仕切られて記憶されている。そうでなければ、今頃散乱した情報に自我が埋もれ、他人と己の区別が付かなくなっていただろう。

 かくして稗田阿礼は永遠にアカシャを観測する存在になってしまったのだが、あるときふと考えた。せめてこの能力を子孫に使わせることは出来ないだろうか、と。森羅写本は多くの知識の集大成である。神秘を追求する上で役に立つこともあるだろう、と。

 長い時間を費やし、森羅写本に一つ孔を空けた。稗田の血筋のものなら森羅写本に招くことが可能なように。

 さらに長い時間をかけ、子孫たちは先祖の固有結界が未だ残っていて、さらに自分達がそこに招かれることが可能だということに気が付いた。子孫たちが先祖の偉大な能力を探求し、彼女を一時的にだがこの世に現界させた結果である。

 

 森羅世界は誰でも侵入できるほど気安い存在ではなかったが、思い出したかのようにそれを可能とする有能な子孫を生み出し、時代の濁流に飲まれ、多くの魔術師の家系がそうであるように徐々に力を失い、そして今日に至る。

 その血が途絶えることが無かったのは僥倖だろう。森羅世界に入ることが出来るものが現れる期間が長すぎたため、その過程でその存在を忘れ去られたのは致し方ないことだ。その存在を忘れられないように、暗号化した書物をも記したのだが、そもそもその解読法が失われたのも大きな誤算だっただろう。あまり世に知れ渡って良いものではないため恐ろしく難解に作ったのは間違いないが、誰も読めないのでは意味がなかった。

 その書物とは澪が持つ形見の本のことであるが、それを読めなかったとて彼女を責めることは出来ない。凛に預けたところで読めなかっただろう。そもそも、自分の家に伝わる書物――それも形見――をそう簡単に人に見せられるはずも無かった。彼女自身の意地もある。

 

「と、こういう経緯を経て今日に至るというわけじゃ。稗田の名も中途で失われたのは嘆かわしいことだった。西洋魔術の形式を取り入れるのもあまり歓迎できることでは無かったが……結果としてこやつのように、優れたものが生まれたのだ。悪いことばかりでは無かったかの」

「澪は同一化魔術といっていたが、元々そういう使い方なのか?」

「うむ。本来は知識の貯蔵庫としての役割しか持ち得ないが、このような使い方をするものは過去に確かにいたぞ」

 

 ただ澪のそれは西洋魔術の系統に則ったもので、阿礼の言うそれは東洋魔術としてのそれである。よって阿礼のいうところの口寄せとは若干毛色が違うわけなのだが、あえて言う必要もないだろうと彼女は判断した。どちらにせよ、過去の人格を再現する点では同じである。別段手法の違いによって何か問題が生じるわけではないのであえて黙っておくことにした。

 

 阿礼は話の途中で出された茶を啜る。テーブルに置いた湯飲みの音が殊更大きく感じられた。

 

「さて、他に質問は?」

「前に士郎が固有結界を使ったときに、澪は気絶したわね。あれは?」

「澪はどういうわけか、余の森羅世界と繋がりやすくてな。これは生まれつきの相性であろうな。余のそれは過去の知識、そちのそれは過去の剣を貯蔵する世界であろ。しかも剣には作り手の理念やそれが経た歴史も一緒に込められているという話ではないか。かなり余のそれと共通点が多い。おそらく……それに触発され、澪の魂が余の世界に引きずり込まれたのだろう。他には?」

「前に一度会ったよな。そのとき澪は自分の能力について自覚していなかったけれど、あれはどういうことだ?」

「うむ。これは余の推論だが……。澪は自己が少し弱いのかも知れんのう」

「自己が弱い?」

「無論、自意識はある。自己も確かにあるのだが、それが少々弱いのかも知れんのう。それが原因であろ。無意識に余の森羅世界に接続し、引き出した情報と同化してしまうのだろう。……気をつけろよ、衛宮士郎と遠坂凛、それにセイバー。今後もこやつの預かり知らぬところで、誰かの人格が出てくることがあるやも知れん。特に、気絶などしたときが要注意だな。自分から進んで眠るのと違い、精神の守りが弱くなるからの」

 

 澪の言うように、澪が図らずして他者の人格を表に出すときは気絶などした場合だった。

 一度目、言峰綺礼の人格と同一化した場合には、先ほどにも説明されたように森羅世界に引き込まれて意識を失った時に。

 二度目、初めて稗田阿礼の人格と同一化した場合は、宴会を催した際に呑みすぎて倒れた際に。

 両方とも意図せずして澪が気を失ったときにその能力の一片を見せている。阿礼がいうように気絶をしたときというのは、精神の守りが少しばかり緩む。通常の眠りならば、魔術師でなくともこれから無防備な状態に陥るということを深層心理下で警戒している。そのため精神には多少の守りが存在するのだが、気絶という急激な意識の低下に陥るとそれに綻びが生まれるのだ。

 

 阿礼はぐるりと周囲を見渡し、これ以上質問が無いことを確認する。ややあってから湯飲みの中身を飲み干して一息ついた。

 

「話は無いな。では、そろそろ同一化を中断するぞ」

 

 そういうと四肢から力が抜けて体勢を崩す。だがそれも一瞬のことで、滞りなく主人格を表に出した澪が倒れることは無かった。このときには既に、纏う雰囲気は既に澪のそれだった。

 外見は澪であるのに、中身が全くの別物であるということに三人は戸惑っていたが、外見と内面が一致したことでやや安堵の表情を零した。

 澪は自分の後頭部を軽く掻いて、目を反らしながら言う。

 

「……とまあ、私のご先祖は結構な偉人でした、と」

「結構どころじゃないわよ。英霊よ、英霊。サーヴァントとして呼ばれることは無くても、れっきとした英雄よ」

 

 確かに凛の言う通りだ。稗田阿礼は戦闘などに呼ばれることは無くとも、その知識の量はおそらく全人類で最もたるものだろう。それも今もなお増え続けている。これを英霊と呼ばずして、何と呼べばいいのだろうか。

 だが澪は照れるのでもなく、苦笑するのでもなく、話はここで終わりだとばかりに席を立った。まるで有無を言わさないような言葉の強さで言う。

 

「……ちょっと、疲れたから部屋で休んでいるわ。同一化魔術って、それなりに魔力を食ううえに疲れやすくて」

 

 それが魔術である以上、澪の同一化魔術そのものにも魔力は必要とされている。その魔力量は士郎の投影魔術のそれには及ばない量であるが、澪の魔術回路は士郎のそれより本数が少なく、魔力の生成量は若干劣る。さらに自身の精神の上に他者の人格を重ねるというのは、以前から澪が使用している直感を駆使し脊髄反射に任意の行動を設定する魔術と同じく精神に異物を挿入する所業に他ならず、しかも異物としての排斥感はそれの非にならない。

 実のところ、澪の実感としては一時間も連続して使用できないであろうという見込みであった。

 昨日、ほぼ限界まで使用したところである。それも初めてのことだったので疲労もひとしおだ。今日の使用はもう限界だろうと感じていた。

 

「そうか。何か要るものがあったら言ってくれ」

「……大丈夫か、ミオ」

「ありがとう。……大丈夫だから」

 

 そう言って澪は、傷む足を引きずるようにして居間を後にした。まだ日は最も高い位置についたばかりで、一日はまだ長いと主張しているようだった。

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

 足を引きずり、どうにか自室に戻る。ドアを急くようにして閉め、鍵をかけた。ここまで大所帯の屋敷となれば、廊下は公道とさして変わらない。プライベートを守るためにも、自分の弱いところを見せないためにも、扉の内側から鍵をかけてしまう。尤も、自室に鍵をかけない魔術師など存在するのかは疑問だが。……士郎さんがそうだったか。

 

 投げ出すようにしてベッドに体を沈める。枕に顔を埋め、そしてじっとそうしていた。

 髪を掻き毟ってもいい。だが意味がないのでしない。

 泣きじゃくってもいい。だが余計に疲れるだけなのでしない。

 正直、自分の感情まで冷静に俯瞰している自分が憎らしい。どうしようもない感情が渦巻いているというのに、どこか違う部分でそれを冷静に見ている。自己が弱い、というのがこういうことなら、きっとそうなのだろう。

 

 先ほどから私の中で暴れる感情。それは恐怖に他ならない。

 怖い。例えようも無く、怖い。

 ライダーを前にしたときの恐怖とは違う。あの圧倒的な死の気配は確かに恐ろしかったが、それとは気質の違う恐怖なのだ。

 ライダーのそれが死の恐怖なら、今のそれは崩壊の恐怖。

 足元がゆっくりと、だけど徐々に崩れるに似た恐怖。あるいは至極緩慢に、だけど確実に落ちてくる吊り天井。今すぐ死に至ることは無くとも、いずれ確実にそれが到来し、しかも苦しみのうちにこの身を殺すだろうという恐怖。

 普通の人なら恐怖に耐えかね、発狂することもあるだろう。

 だが私は、それすらも冷静に見ているために狂うことが出来ない。いや、しない。

 それがまた恐怖を煽る。私は、本当は壊れているのではないだろうか。

 

 どれほどそうやってベッドで時を過ごしたのだろうか。一時間は軽く越えていたように思える。おもむろに、ドアをノックする音が聞こえた。

 

「……大丈夫か、ミオ。入ってもいいか?」

 

 この声はセイバーだ。ここで拒否するのは簡単だが、それでは要らない心配をかけてしまう。壁掛け時計を見れば午後一時少し前。おそらく昼食に呼びに来たのだろう。声色だけは平静を取り繕って入室しても構わない旨を伝えた。鍵は開けなくとも入ってこられるだろう。だというのにわざわざ許可を仰ぐあたりは律儀なことだ。

 

「では失礼する」

 

 短く答えて、ドアをすり抜けてセイバーが部屋に入ってくる。霊体とは存外に便利そうだ。

 

「あまり気分が優れないようだが、昼食は食べられるか?」

「ん。食べるわ」

「……ミオ。何か苦悩の種があるのなら、話してくれないか。私はミオの力になりたいのだ」

 

 ……これは参った。隠し通せなかったらしい。よほど酷い顔をしているのだろうか。それとも気付いていなかっただけで、私は泣いていたのだろうか。

 どうしようか、悩む。

 ここで誤魔化すのも簡単だ。いずれ話すと言って先延ばしにするのも易い。

 だが私は、――話すことを選んだ。

 私の力になりたいと言ってくれたのが嬉しかったのだろうか。それとも、話せば楽になると思ったのだろうか。

 気が付けば、自然と言葉が口を衝いていた。

 

「……怖いのよ」

「怖い?」

「そう。とても、怖い。

 自分のことを他人のように話す自分が怖い。寝ている間に、何か訳の分らないことをしているんじゃないかと思うと、怖い」

 

「ジキル博士とハイド氏」という小説がある。普段の人格はジキルという名だが、残忍な性格をしたハイドというものが表に出てきて、殺人を犯してしまうという二重人格を主題に挙げた物語。それが今、私の身に起こっているのだ。これが恐怖でなくて、何だ。

 私の知らないところで、私は何かとんでもないことをしているのではないか?

 私は自分でも制御が利かないようなこの能力のせいで、誰かを傷つけるのではないか?

 そして何よりも、私が恐怖するのは、

 

「私は、本当に八海山澪なの……? 怖いのよ、セイバー。八海山澪のものだと思っていた人生は、本当に私のものなの? 本当に私がオリジナルの人格なの? この感情も、この記憶も、誰かの間借りをしているだけじゃないの?

 そう思うと、怖い……。ねえ、セイバー。私は、本当に八海山澪なの……?」

 

 もはや自分の過去が信じられない。自分は本当に自分なのだろうか。自分が忘れているだけで、本当は過去に誰かの人格をかぶり、そのまま今日に至っているのではないのだろうか。

 何を以って、人は自分を認識するのか。何をもってアイデンティティを確立するのか。

 この問いの答えはきっと哲学的なものになるだろう。だが私は、「過去」であると思う。

 人間は過去を通して自己を形成する生物だ。今でもなく、未来でもない。そして過去を通してでしか今を認識できないのだ。過去という概念が在り、その上に現在と未来がある。過去というものを通してでしか今と未来を推測、あるいは評価できないのだ。

 今の私は、その過去が疑わしい。私の記憶が全て疑わしい。本当にこれは自分の記憶なのか、自分の思いなのか。

 その前提の崩壊はつまり、私の人格全てを破綻させるものだ。私は、何を以って私となったのか。本当に私は私なのか。

 だからこそ、今が分らない。未来も分らない。私は今、誰で、何をしたいのか? 未来に、私はどうなっているのか。数年後には別の人格にすげ代わり、別の名を名乗っているのではないのか。

 

 そういった感情、いや、衝動が胸中で駆け巡り、引き裂き、膿が溢れる。

 それは次第に疑心暗鬼を生じさせ、己を否定し、そして何もかも信じられない。急に宇宙に放り出されたかのよう。足場もなく、自分がどこにいるのか、自分がどこに流れているのかも分らない。このまま宇宙の塵になるのか、それとも別の顛末が待っているのか。何も分らない。

 だが、

 

「今、私の目の前に居るのは八海山澪以外に有り得ないッ!」

 

 屋敷どころか、周辺の民家にも響いているであろう程の声。その大声を間近で受け、驚きで身を竦ませてしまう。後にはキンと響く耳鳴りが残った。

 恐る恐るセイバーの顔を見たとき、私はぎょっとした。彼は大粒の涙を流していた。

 

「セイバー……?」

「仮に、……仮にだ、貴方が本当は別の人間だとしても。それでも私は貴方をミオと呼ぶ。

 私は、嬉しかったのだ、ミオ。友を失い、永く後悔していた私だが、再び友を得ることが出来た。全力で守ろうと思える人物に出会えた。それが堪らなく嬉しいのだ。

 お願いだから、ミオ。私の感情を否定することはしないでくれ。ミオが自分を否定するというのは、私が好いた友としての貴方をも否定することだ」

 

 八海山澪が自分を否定するということは、それを慕った全ての人間の感情をも否定することになる。

 胸を殴られたようだった。八海山澪を好いてくれた人物は、八海山澪を好きになったのであって「私のような誰か」ではない。私が自分を否定するということは、私自身が八海山澪を否定することに他ならず、それは私の友に対する最大の侮辱である。私は今、私を好いてくれた人の目の前で自らの命を断つに等しいことをやっていたのだ。

 大学で知り合った友人、遠藤楓と小久保美希の顔が浮かんだ。おっとりとして見るものを和ませる楓、破天荒だが根は優しい美希。しばらく連絡を取っていなかったが、今どうしているのだろうか。

 

「私には、貴方に強く生きてくれという他に言うべき言葉が見つからない。それは時に酷な言葉であると承知していながら、これ以外に私は言葉を持たない。

 だが……せめて、私と同じようなことをするな。私もその様だったのだ。友を私の失態で失い、私は己を否定し尽した。だがその先に、何も無い。ミオ、……私の友に、同じ道を歩ませたくはないのだ」

 

 己を否定するという悪癖において、私とセイバーは似ているかも知れないと思った。もしも何かの縁によって私がセイバーを呼び寄せたのであるとすれば、きっとこの悪癖によるものに違いない。

 彼のいつかの言葉を思い出す。私が、マスターと呼ぶのはむず痒いからやめて欲しいと言った時のことだ。そう、確かあの時彼は「ではミオと。いや、良かった」と言ったのだ。

 彼は再び友を得て嬉しいと言った。それはつまり、マスターと義務として守る存在ではなく、感情として守る存在で在りたいと願ったのだろう。つまり、それは友だ。

 彼はもう何度も友を失ったことを嘆く発言をしている。それは想像できないほどに深い後悔であるのだろう。だからこそ、彼は願った筈だ。

 もう一度、自分に友を守らせて欲しいと。

 故人となった彼の友を守ることは出来ないだろう。聖杯戦争にともに呼ばれたとしても、それは敵同士としてということになる。だからこそ、彼は新たな友を欲したのだ。

 マスターを友として守りたい。その願いのためには、主従としての関係が邪魔になる。だからこそ私がマスターと呼ぶなと言えばそれに安堵し、サーヴァントらしからぬと言われることを承知で私と遊ぼうとしたのだろう。よく知りもしないくせに、わざわざマスターとゲームをしようなどという英霊はそうは居まい。とにかく一緒に遊べば友になれるだろうという発想から来ているのだろう。

 ……全く、不器用なヤツだ。そしてやっぱり子供っぽい。そんなことをしなくとも、一時間ほど茶を共にするだけで人と人は友になれるというのに。

 

 くすりと零れた笑みにセイバーが怪訝な顔をする。ああ、話して楽になったのか、それともセイバーの言葉が利いたのか。私は私。それ以外の何者でもないというのに、つまらないことで悩んでしまった。

 いずれこの疑心は再び私の中で渦巻くこともあるだろう。だが、きっと大丈夫。その時はまたセイバーが傍にいてくれるだろうし、そうでなくともセイバーの言葉があれば私は持ち直せる。

 

「……心配かけちゃったわね。もう大丈夫よ」

 

 苦労しいしい立ち上がり、セイバーの胸を軽く叩く。自分が今できる最高の笑顔を見せてやる。

 その様子に安心したのか、セイバーもまた笑った。

 

「……そのようだな」

 

 気持ちよく笑うセイバー。私はこれからもつまらないことで悩むだろうけれど。セイバーのこの気質は見習おうと思った。セイバーは私と同じ、自己否定の病を乗り越えたのだから。そしてこの能天気とも取れるものに行き着いたというのなら、それはきっと、私に必要なものだと思えるのだ。

 

 セイバーに肩をかりて居間に向かい、昼食を取った。まだまだ一日は長い。今日はどう過ごそうかと、辛いカレーを食べながら考えるのであった。

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

 新都方面、海に程近い場所に構えられた宿には磯の香りが舞い込んでいた。宿の窓から遠く見える海を眺めながら、ランサーは思案に耽っていた。

 もう聖杯戦争が始まって一週間。他の陣営の詳細な進捗状況など知る由も無いが、何体かは既に脱落していると見て間違いない。ランサーはそう判断した。

 キャスターはライダーが打倒した。それは間違いない。それから数日たっているため他のものも脱落したのは間違いないだろうが、それを確かめようにも、マスターであるスカリエッティは頑なに部屋から出ようとしなかった。

 マスターが居なくとも戦闘はできる。だが居るのと居ないのでは雲泥の差がある。相手にマスターが補佐についていた場合には特にそれが顕著になるだろう。だからこそ、ランサーはスカリエッティも夜の徘徊に同行するように再三促したが、説得は難航していた。

 やはりアーチャーの奇襲が相当尾を引いていると見える。宿を転々とするほうがかえって危険にも思われたが、それでマスターの気が済むのであればそれでいいと判断した。宿から出さえしなければいくらでも守る術はある。さほど問題視はしていなかった。

 

 スカリエッティは昼食を食べ、その際にまた酒を呷ったこともあるのか部屋で休んでいた。あの調子で鯨飲を続ければ近いうちに体を壊すであろうことは明白だが、そもそも魔術師という人種は自分の体など二の次だ。スカリエッティは魔術こそ家から受け継がなかったが、その精神だけは受け継いでいた。というよりも、家人全員がそうであるために自然と身についたことである。

 スカリエッティは食後しばらくテレビを眺めていたのだが、興味を引くことは無かったらしい。テレビは点いたまま放置されていた。ランサーもまた、映像を視界に留めはしていなかったが音だけは注意して聞いていた。スカリエッティは無視したが、どうにも気になるニュースが報じられていた。

 

 それは冬木病院のガス爆発だ。どうにも妙である。

 ランサーは聖堂教会が誕生するよりも遥か前の人物である。昨今の医療の実体はよく知りはしないが、ある程度の知識は召喚の際に与えられている。その情報と照らし合わせた結果、一つの疑問が浮上した。

 ガス爆発というが、病室にガスは通してあるのか否か?

 火元が何の変哲もない病室の一つという話である。頼りない知識を総動員しても、ガスを必要とするようなものは思い至らなかった。そもそも危険である。病院で火事が起これば、おそらく多くの逃げ遅れが出る。五体と五臓六腑が満足ならそもそも入院などしていまい。となれば病院側が普通の病室にガスを通すということも考え辛いのではないか。とすれば、ガス爆発というのは些か妙である。報道にあるように、事件性も踏まえて調査するという言葉にも引っ掛かる。

 

 聖杯戦争の真っ只中であるこの時期。全くの無関係であるとは考えられなかった。

 このような手段に訴えるとすれば、サーヴァントであればおそらくアサシンだ。キャスターも疑わしいが、彼は既に脱落している。マスターの仕業となれば話はややこしいのだが、ここまで大仰なことをするマスターというのも考えにくい。そもそもこのような婉曲した方法を取ろうなどとは思わないだろう。だからこそ、徹底的に隠密を旨とするアサシンが疑わしい。

 

 まだ推定の段階に過ぎないが、おそらく間違いないだろう。何か収穫があるかは分らないが、その手口を確認することはできるかも知れない。

 ランサーは、今夜冬木病院に向かうことを決意した。その際、スカリエッティにも同行をして貰う所存である。アサシンの手口から察するに、おそらく近代の英雄に違いない。少なくとも己の武器よりも化学変化の猛威を選択する英雄など、ランサーは思い浮かばなかった。近代の科学技術などを使用することを厭わない相手となると、ランサーには未知の領分になりつつある。スカリエッティの同行は必須だと考えた。

 ――さて、どのようにしてスカリエッティをその気にさせようか。スカリエッティはずっと海の向こうを眺めたまま、それを考えるのだった。



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Act.27 来々

 日が落ちる前、空が暁に燃える頃合を逢魔ヶ時という。日の当たる時間は人の領域。日の当たらぬ時間は魔の時間。その境界の時間は、人と魔が出会ってしまう時間。ゆえに逢魔ヶ時。

 それはつまり、魔が蠢き出すための合図でもある。ここ冬木の地に、それを待ち望むものは二つあった。

 一つはバーサーカー。真名をモルドレッド。理性を無くし、自らを縛るマスターからも開放され、今か今かとその凶刃を振るう機会をただ闘争本能の赴くままに渇望する狂戦士。澪たちの考えの通り、彼の行動概念には一般市民を害するというものが無い。理性を無くそうと、その行動の根幹には生前の理念が反映されているのだ。加えて、『王位を約束した剣(クラレント)』の持ち主を王にするという効果は、民あっての王であるという剣の理念から生まれるものだ。裏を返せばその剣を手にする限り王となる宿命から逃れること難しく、それはつまり王たり得ない行動は制限されてしまうということなのだ。普通の人間の意志ならばそれに反することも可能だが、確たる自我のないバーサーカーにはそれに抗うことは出来なかった。

 そしてもう一つはライダー。真名は未だ誰にも知られていない。もし彼と同郷のサーヴァントがこの場に居たならば、おそらく彼の名は判明するに至ったであろう。それほど彼は広く名の知れた人物であるのだが、今回はそうならなかった。中華では知らぬもの無し、天下に響き渡る国士無双の武人であるが、それは弱点も広く世に知れているということにもなる。未だ名が割れていないのは彼にとって最も僥倖であろう。

 

 ライダーの姿は、アインツベルンの城にあった。

 昨晩の戦闘による傷は大方癒えている。サーシャスフィールの治癒魔術はその効果を遺憾無く発揮し、戦闘には支障の無い程度にまで癒えていた。白兎も黒兎もやや興奮気味ではあるが、戦闘に問題は無い。

だが他の馬は昨夜の戦闘で怯えてしまったのか、血を見て未だ興奮が収まらないのか、戦闘に駆り出せる状態ではなかった。いくら宝具に存在を押し上げられても元が普通の馬である。なるべく良い馬を揃えようとアインツベルンの財力に物を言わせたが、この時代に軍馬など滅多に存在しない。警察等の騎馬隊も戦闘用に調教されている訳ではない。当然だ。近代兵器の前に馬など役に立たないのだから、軍馬など調教するだけ時間の無駄である。必然的にライダー所望の馬の数と質など揃うわけもなく、せいぜい競走馬を引っ張ってくるのが関の山だ。無いものを取り寄せることなどできるわけが無い。ホムンクルスを作るにも、ライダーの「心の通じぬ馬に俺の命を預けることなど出来ない」という一言で一蹴された。

 ライダー曰く、人を人せしめるのはその心である。

 確たる意思を持つのであれば、例え人造の人であろうとも主として認める。逆に全うな人間であっても、己の意志を持たず、状況と周囲に流されるだけのものは人ではない。

 おそらく自分の言葉を失言と思ったのだろう。このとき慌てて入れたフォローにサーシャスフィールは笑った。

 だがサーシャスフィールは、あのとき笑ったことを後悔した。

 

 沈む夕日を城のラウンジからじっと睨むライダー。青龍堰月刀を抱くようにし、微動だにせずその夕日が沈むのを待っている。その全身から発する気に触れるだけで切り刻まれそうな、冷たく鋭利な気配を纏っていた。普段の様子からは想像もつかないほどの、圧倒的な武の気。彼の領域に一歩立ち入ったならば、首を刎ねられるであろうというほどの気迫。しかし恐ろしいのは、それほど圧倒的な気を放っておきながら、吼えるでもなく猛るでもなく、ましてや四肢に力が入っているわけでもなく。傍目には平常そのものであるということである。今ならサーシャスフィールは納得できる。自分が呼んだのは確かに伝承通りの武人であったと。

 ライダーの言うように人を人せしめるのが意思であるなら、彼の根幹を成すのは武なのだろう。果たして、今の武人然とした態度が仮初なのか、それとも普段の飄々とした態度が仮初なのか、もはや判別出来なかった。どちらも武を感じさせるものでありながら、その本質がまるで違っていた。前者は言うまでもなく、後者にも確かな武の息遣いは聞こえていた。それは多分、かつてライダーが言ったように集団による武を目指すものだ。集団を率いて、自分だけでなく他者をも考える武。常に味方の生き残りを考えていた彼の戦闘方針からもそれは伺えた。

 しかし今彼から感じるのは、ただ一人の部の息遣いだ。己のみ、ただ剣の一振りで目指す極み。他者を率いることなどまるで念頭にないような気配。いや、純粋に指揮することは可能だろうが、そこには自分の配下の兵を数でしか見ない冷酷さがある。

 個の武は冷たく、群の武は暖かい。個の武は鋭利で、群の武は柔軟。

 その矛盾した二つを彼は内包していた。己の武のみを求める心と、他者と共に在る武を求める心。両方とも間違いなく武であり、しかしおそらく行き着く先は異なる。

 だからきっと、彼は葛藤したはずだ。葛藤して、し尽くして、おそらく後者を選んだ。しかしなおも彼の中にある個の武を求める心は衰えず、こうして今それが表に表れている。

 ゆえにサーシャスフィールは後悔した。あのとき、慌てて入れたフォローを笑わず真摯に受け止めることが出来ていれば、今のライダーのかける言葉があったのでは無いかと。

 

「もうじき日が沈む」

 

 それは誰に向けた言葉なのだろうか。そもそも、その声色は普段のライダーとは思えぬほどに淡々としていた。しかしこの場にはライダーとサーシャスフィール以外誰も存在しない。何か返さねばと思い、ややあって彼女は苦労しいしい返答した。

 

「……そうですね」

「沙沙、今の俺が恐ろしいか」

「いいえ。ですが……どこか危うさを覚えます」

 

 おそらく万人が万人、今の彼を見ればその気配に圧されて足が竦むことだろう。だが、不思議と彼女はそう感じなかった。ライダーの問いの答えは本心である。

 代わりに感じるのは危うさ。何か大きな力が加われば、たちどころに崩れそうなギリギリのバランス。その冷たさと気の大きさ、そしてこの危うさは雪山のようだった。

 

「……案ずることは無い。久しぶりに完敗し、少々気が立っているだけだ。いや……昔を思い出しているというべきか」

「昔、ですか」

「然り。己の武にしか目が届かなかったときの話だ。誰かに言われた。己のみに拠る力はなんと危ういことか、と。確かに俺はそういう者を多く見てきた。呂布という男を知っているか? あれはな、おそらく天下無双の男であった。だが己にしか考えの回らない者でもあった。臣下の信を得られず、その死の所以もそれによる所が大きい。ゆえに、個の武は鋭利でありながら危うい」

「なるほど。独裁者というものは、いくら実力があってもいずれ足元を掬われる。そういうものかも知れません」

「然り。かつての主はそれを弁えておったよ。だから俺は、その群の武という一つの形を己のものにしようとした。……だが、三つ子の魂百までという言葉があるように、そうそう上手くいかん。大きな敗北を喫すると、こうやって素の自分が戻ってしまう」

 

 ならばこれが本当のライダーなのだろうか。確かに、この雰囲気では人が付いてくることなど無いだろう。群の武を目指すのであれば、この剣呑な気配を消さなければ誰も彼についていこうと思わないだろう。そういう意味では、彼はひとまず成功しているだろう。姉妹兵達は口を開かないが、彼を信頼していることは疑いようもない。

 

「もうじき日が沈む」

 

 ぽつりと、静かに同じ言葉を溢す。見れば既に太陽はその身の殆どを広大な森に沈め、その対極の空はすでに黒が差している。もうじき夜になり、そこからは魔の時間となる。逢魔ヶ時を過ぎれば、そこは悪鬼悪霊と魑魅魍魎が入り交じり、魔術師が神秘を振るって敵を殲滅せんと暗躍する領域となる。即ち、聖杯戦争が始まる。

 ライダーが一度だけ目を伏せる。ややあってそれが見開かれると、すでに彼の雰囲気は普段のそれに戻っていた。触れれば切れる抜き身の剣ではなく、手を取り合うことも敵を粉砕することも出来る拳へ。剣は力によって折れるが、拳はそれを受け止めることも出来る。

 

「人は意志によって人になる。ならば俺は、人ではなくただ一振りの剣なのだ」

 

 それはサーシャスフィールに言った言葉だ。彼女はその真意を測りかね、思案顔を浮かべる。それを見てライダーは微笑み、言葉をつづけた。

 

「俺をどう使うかは沙沙次第だ。俺はそれに従う。ゆえに俺は人ではなく、剣なのだ。今宵はどうする、沙沙。敵を求めて出るか、それとも籠城か」

「決まりきったことを。貴方は籠城など似合わない。出ますよ、ライダー。仕度なさい」

 

 ライダーは一度方針が決まればそれを詰める。おおまかな方針は常にサーシャスフィールに指示を仰いでいた。敵を求めて出るとなれば、敵を絶対に討つ心構えと戦力を以てそれを実行するべく細かな方針を定めるのが彼だった。ゆえに彼は、自分を一振りの剣と称する。剣はただ振るわれるのみ。何かを決定することなどはない。だから彼はただの剣なのだ。

 ならばサーシャスフィールはそれを持つ手なのだ。これこそが群の武の本質。剣と、それを支える手。ライダーはそれを理解するからこそ、抜き身の剣たる自分を鞘で覆うことを選んだのだ。自らの主を傷つけることが無いように。

 自分の心をも把握し、自らにとって最良の武の道を選択する――これが、中華で知らぬもの無しと言っても過言ではないほどの武勇を誇る彼の強みなのだ。

 

 短いやり取りののち、取り敢えずの行き先を決定した。マスメディア――というより家電一般――に疎いサーシャスフィールであったが、新聞は目を通す。森の中に配達など来るわけがないのでわざわざ姉妹兵に買いに行かせているのだが、今日の地方紙に気になる記事があったことを思い出したのだ。

 冬木病院で謎のガス爆発事故。別段、怪しい記事ではない。変死体が見つかっているわけでもない。相当な爆発だったようで、爆心付近の部屋の死体に五体満足のものが殆ど無いらしいが、それは状況を鑑みれば自然なことだろう。変死体とは言えない。――それを狙って犯行を起こした魔術師が居ない限りは。

 しかしそれは魔術師の手口とは言えない。魔術師ならば、もっと人目につかない方法を取るはずだ。魔術師が絡めば明らかな変死体があがっても不思議ではない。サーシャスフィールは魔術師による犯行ではないと思ったが、おそらく他のサーヴァントがそれを確認にくる筈だ。それを狙って待機する。

 相手を確認し、そのまま戦闘に持ち込んでも良い。不利を悟ったならば傍観しても良い。とにかく、生き残りのサーヴァントのいずれかが現れるのを待てばいいのだ。

 

 ライダーは、おそらくアーチャーは生きてはいないだろうと考えている。あの傷は自分よりもよほど深かった。間一髪で致命傷を避けた自分とは違い、バーサーカーの凶刃は即死に至らずとも命を脅かすに足るものだ。

 だからおそらく、生き残っているのは5組かそれ以下。自分たち、セイバー、ランサー、アサシン、バーサーカーだ。ランサーとアサシンは未だ邂逅していないため未確認だが、少なくともあと2組は生き残っていることだろう。

 聖杯戦争も既に一週間に差し掛かった。過去の例を見れば、今晩中に全ての陣営が倒れることも有り得る。相手の情報をある程度得て、穴倉を決め込んでいたものも動き出すことだろう。どこで均衡が崩れ、一気に決着まで行くことも十分にあり得るのだった。

 しかしそれでもライダーの心構えは変わらなかった。もとより、目についた敵を悉く切り伏せる覚悟である。籠城を決め込んでいたものが出てくるのであれば実に好都合。

 ライダーはすでに山々の輪郭を赤く映すのみになった夕日に向かって咆哮した。

 

「この戦も、そろそろ決着が付こう! まだ見ぬ敵よ、既に相見えた敵よ、この地に消える血の跡を残そうぞ! この(ライダー)が行くぞ、精々恐怖に震えるが良いッ!」

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 実はこのとき、4つの勢力が冬木病院を目指した。その4つとは、セイバーたちを除くライダー、ランサー、アサシン、バーサーカーである。セイバーたちは昨夜の負傷のため今夜の徘徊は見送った。これはセイバーの具申によるところだったが、それが結果的に良かったかもしれない。

 アサシン――衛宮切嗣との邂逅を、たとえ一夜限りでも引き延ばすことが出来たのだから。アサシンは記憶を失い、かつての暗殺者として動いている。そんな彼といま士郎が出合えば、その意見を違えることは必須だろう。そして衛宮切嗣は「敵」として衛宮士郎を排除しようとするに間違いないのだ。ここまで邂逅が引き延ばされたことは、双方にとって僥倖な事態だ。

 さて、ライダーは言わずもがな。アサシンとバーサーカーまで冬木病院に集ったのは訳がある。アサシンは、おそらく昨日起こした騒ぎによっていくつかの陣営が集まるであろうと考えていたからだ。その際、隙があればマスターの一人や二人暗殺すること吝かではない。いや、むしろ嬉々として行うつもりだ。狙うのは徹底してマスター。彼の戦闘能力ではサーヴァントを下すのは難しい。そういう意味ではバーサーカーは最大の脅威となるのだが、彼はそれを知らなかった。

 

 バーサーカーの場合は、いくつかの偶然と必然が緻密に折り重なっている。そもそも、ここ冬木市をマスターとして仰いでいる。マスターに異常があればそれを察知し、それを排除せんとするのは当然のことだ。冬木病院でのガス爆発は十分にマスターの異常と言うに足る。いくら狂化していようとその程度の知性――いや、生存本能と言うべきか――は残っていた。ここまでが必然である。

 偶然というのは、つまりバーサーカーの知性が胡乱なのが起因して病院までの到着が遅れたことである。正確には昨晩のうちから到着したが、多くの一般人が押しかけていたため姿を現すことが出来なかったのだ。前述のようにバーサーカーには一般人に害を加えるという選択肢は絶対に選択できない。自分にその意思がなくとも、姿を現すだけでパニックを引き起こすだろう。クラレントの意思によりそれは却下された。よって、姿を消したままここで待機していたのだが、それが結果的にこの場に戦場を作り出すことになるのである。つまり、ここ冬木病院は連夜にわたり戦場と化したのである。

 

 ランサーとスカリエッティは冬木病院へと歩を進めていた。ランサーはどうにかスカリエッティを説得することに成功していた。宿を出るときは未だ酒が抜けていないのか足取りが覚束なかったが、冬木病院が近くなってくるにつれて汗と共にアルコールが抜けたと見えて、今は至って健常な足並みであった。ただ体力はそれほど無いのか、次第に足が重そうになってきている。だが彼にそれを要求するのは酷だろう。何せ湾岸部からここまでの道のりは非常に長い。魔術師というのは研究者であって、実行者などの戦闘部隊でもない限り体を鍛錬することなど無いのだ。スカリエッティのスタミナ不足を詰ることなどランサーに出来るはずもなく、むしろここまで文句を言わずに歩いてきたことを褒め称えるべきなのだ。

 

「ここまで遠いとは思わなかったぞ、ランサー。こういうことならばタクシーを拾えばよかった」

「申し訳ありません。ですが、ここは戦場になるかもしれません。戦場は自分の足で一度確認せねば、マスターを守ることもままなりませぬ」

「その前に私が倒れそうだ」

 

 確かに既に肩で息をし、汗も額で玉のようになっていた。今夜も熱帯夜である。纏わりつくような暑さが容赦なくスカリエッティの体力を奪い続けていた。

 だがもうじき冬木病院である。戦闘になる可能性は確かに高いが、そうならない可能性もある。その場合はスカリエッティの言うように車両を拾って帰れば良いのだ。だがせめて往路は自分の足で確認せねば、いざスカリエッティを守りながら撤退するといった状況に陥った際に、より困難な状況に苛まれることになる。一度確認しながら歩けば土地勘はつくし、地の利は働く。既に徒歩、車両の両方を見据えた退路をいくつかその脳内に納めていた。無論、それが必要になる状況に直面しないことを祈るばかりである。

 

 冬木病院は目前に迫っていた。距離にするともう1キロもない。

 そしてそれを夜間暗視装置付きの双眼鏡で既に補足している者がいた。アサシンである衛宮切嗣である。切嗣は病院付近にある立体駐車場の最上階付近に陣取り、病院に向かっている者が居ないか見張っていた。この場所が最も死角が少なく、病院の爆破された側面を監視できるためである。今のところそれらしき者達は居なかったが、先ほど一人でこちらに歩いてくる男を発見した。間違いなくマスターであろう。あのサーヴァントは、以前の教会での戦闘を目撃したことがある。ランサーだ。その傍らに居る男がマスターと判断するのは自然な流れだろう。

 ここで狙撃できるものなら実行するところなのだが、生憎と数百メートル離れた相手を狙撃するような装備は持ち合わせていなかった。そもそも数百という距離はベテラン狙撃手でも難しいが、それ以前に装備している銃器がコンテンダーだけという現実が大きい。揃えようにも生前のコネクションが全く機能しなかったのは手痛いことだった。時間があればブローカーなどとも話は付けられたかも知れないが、資金や時間の問題がクリアできなかった。そもそもどこの誰かかも全く分らない相手に商品を捌くことは、用心深いブローカーなら避けるだろう。

無論、コンテンダーで狙撃というわけにもいかない。コンテンダーはライフル弾の発射にも十分耐える上に精度が高いという、拳銃というよりは小型のライフル銃と言うべきスタイルの銃である。だが、形状はやはり拳銃であるため狙撃になど不向きだ。手元では数ミリの誤差でも目標に到達する頃には数メートルの誤差になっている。そういった針の穴を通すような射撃には不向きな銃であった。

よって彼はひとまず静観を選択した。少なくとも必殺を期することが出来る状況でなければ仕掛けるのは早計。縦しんばマスターの暗殺に成功したとしても、すぐ傍にランサーが侍っている状況では圧倒的に不利なのだ。コンテンダーで確実に仕留めるには相当な距離を詰める必要があり、それは即ちランサーの間合いである。マスターが死亡しても僅かな時間とはいえ活動は可能だ。一瞬で心臓を穿たれて終了だろう。最速のサーヴァントたるランサーに、『固有時制御(タイムオルタ)』による撹乱がどこまで通じるか。甚だ疑問である。

 

 切嗣はおもむろに思い至り、さらに周囲を拡大された視界で見回す。あれ一組だけとも思いがたい。あと何組かはここに集まるだろう。状況によっては、この戦いの雌雄が決する可能性もあった。

 数分間見渡して、さらにある一組を発見した。やけに目立つ。何せ馬に乗っているのだから、気付かない筈が無い。おそらく視界避けの魔術を行使しているのだろうが、魔術師である彼を騙すには至らない。

 それを見るのは初めてであったが、あの風貌は間違いなくサーヴァントだ。まかり間違っても一般人ということはあるまい。加えて言うならば、あれはライダーで相違ないだろう。馬に騎乗している以上、そう判断するのが妥当に思われた。

 ライダーと、そのマスターは共に馬を操ってこちら――つまり病院方向に向かっている。このまま静観していればランサーとライダーの衝突は必至に思われた。ゆえに、彼は静観する。サーヴァントとマスターが戦闘に集中してくれればその裏をかくことは容易い。戦闘が熾烈を極めれば極めるほど、マスター暗殺の成功率は跳ね上がるのだ。

 ――ここで彼に落ち度があったとすれば、この二勢力以外にもこの場に向かう存在があったことを察知できなかったことだろう。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 木々がざわめき、それが一層不気味さを演出していた。見れば病院は一部が痛々しく損壊し、その事故――いや、おそらく事件の痛烈さをありありと伝えていた。本来ならおそらく、この時間であっても警官が事件究明のために忙しなく働いていてもなんら不思議はない。だがどういう訳か、一人としてその姿はなかった。

 確かに事件究明のためには一刻も早い捜査が求められるだろう。だが、現段階では事件ではなく事故の可能性も否定しきれておらず、手元が覚束ない状況での捜査は却って危険という判断もあるかも知れない。だがそれ以上に――教会、つまり聖杯戦争を監督しているものたちの働きが大きい要因であった。

 この爆発事件が偶然の産物であるとは考えにくい。教会側はこの爆発事故と同時にサーヴァント一体の脱落を確認しており、その要因がこの爆発事件であることは明白であった。魔術が人目に触れないように便宜を図るのが彼らの役目。警察に圧力をかけ、一晩立ち退かせる程度は平気でする連中である。一晩あれば神秘に行き着く可能性のある痕跡を消去できる。そしてそれゆえに、事件の真相はより暗部に引き込まれてしまうのだ。さすがにアサシンもここまで計算して行動したわけではなかったが、これは僥倖であった。

 このような事情があり、さらには入院患者は既に別の病院に搬送されていることもあり、周囲には人の気配が一切なかった。一部が抉られたように損壊していることも相まって、さながら廃墟の様相を呈している。

 

 ランサーは顔をしかめた。あまりにも空気が死んでいる。

 確証はないが、おそらくどこかに凶手が潜んでいる。アサシンの可能性もあるが、それならばこのような空気の変調をもたらさず、まるでそこに居ないかのように振舞う筈だ。それならば、この気配は別のサーヴァントのもの。

 思い出した。この独特の気配――氷で突き刺すかのようなこの空気は、おそらくライダーのものだ。キャスター討伐の折に一目見ただけであったが、この刃のような気配は覚えている。その目で捉えられた瞬間、得体の知れない感覚を植えつけられた程だ。あまりにも深い部分に叩きつけられたせいで、自分でもその正体が分からないが――あれは恐怖ではなかったか。その元凶が間近に居る。一度でもそう思い至れば、その考えを捨てることが出来なかった。そしてすぐにその考えが正しかったことを知る。

 

「久しいな、ランサー。キャスター討伐の折、手を煩わせた。礼を言おう」

「……やはりライダー、貴殿であったか」

 

 それは病棟の裏手側から現れた。月明かりを受けて、ライダーとその愛馬、都合4つの目が妖しく輝いている。さらにはその手に持つ刃もまた冷たく輝いていて、その様は異様なほどに強大であった。ランサーの、以前与えられた感情が今また胸の奥底で首をもたげつつあったが、それを無理やり押し込んで対峙する。

 やや遅れて、今度は白馬に跨った女性が現れた。サーシャスフィールである。今ここに、二体のサーヴァントと二人のマスターが揃ったのだ。

 ランサーは槍を実体化し、それを構える。本当は爆破事件の真相を知ろうとスカリエッティを駆り出したのだから、このような事態は不本意である。だが、この場にはこの両者しか存在せず、そして互いに協調の意思もなく、その志を違えていることは明白。ゆえにここは戦場なのだ。

 遠い過去から現在まで、人類史では多くの争いが起こったが、このような状況で起きることは常に決まっている。――どちらかが倒れるまで、剣を振るうことのみだ。ゆえに、ここは戦場なのだ。

 だが戦うのは両者の従者。つまりサーヴァント。マスターが戦って、紛れ――例えばスカリエッティがサーシャスフィールに勝利するような――を起こすよりもサーヴァントを全力で支援することがこの聖杯戦争の鉄則であり、唯一の攻略法。サーシャスフィールは前に出て戦うこともあるが、それは状況にもよるのだ。特に今回は、現存する全ての勢力が終結しても不思議ではない状況である。ここで下手な行動は取れない。

 

「……またその目だ」

 

 ぽつりと、月を仰ぎ見ながらライダーは呟いた。ランサーはその真意を測りかね、顔をしかめた。

 

「どういうことだ、ライダー」

「俺を前にすると、皆がそのような目をする。俺を恐れ、疎む、その目だ」

 

 本来ならば、ランサーはここで激昂するなり反論するなりするべきなのだろう。少なくともその文言は対峙するランサーを侮蔑している。だがそれが出来なかったのは、ライダーの寂しそうな顔が、月に照らされて晒されたからだった。

 

「……これは、知らずのうちに罪を働いていたようだ。謝罪したい」

「いいのだ。謝罪には及ばんし、どうせ俺の罪はとうに千を超えている。生前に一体どれほどの人を殺したか、もはや俺にも分からん」

「ヨハネの福音書八章――『罪の無いものだけが石を投げよ』ですか」

 

 姦淫の罪を働いたものを迫害しようとしたとき、神の子が言った言葉である。罪の無い者だけが罪人を責めよというこの言葉に従えば、ライダーにもランサーにも誰かを罰する権利など無く、そしてまた謝罪を受ける権利もまた無いのだ。

 だが東方で生まれ育ったライダーには馴染みの無い言葉である。しかしそれでもそのニュアンスは理解できるらしく、ランサーの言葉に頷いた。

 

「要らん話をしてしまった。そろそろ刃を交わそう。……貴様に神の加護があるならば、俺を打ち倒すこと叶うかも知れんぞ? 恐れずしてかかって来るが良い!」

「『神を試してはならない』。信仰によって神を試すのは神への冒涜だ。ゆえに――私は自らの意思を以って、貴殿を打ち倒すのだ!」

 

 ライダーとランサーは同時に動き、激突する。龍をあしらった堰月刀と黒塗りの槍が衝突し、闇を一瞬だけ照らす火花が散る。空気が唸りを上げる。両者共に長柄。互いに常人では目に捉えられないような速度で振るうそれらは、容赦なく闇夜を蹂躙し、断続的に鳴り響く大嵐の様相を呈している。丁々発止の打ち合い――という範疇ではもはや収まらない、まさしく理外の闘争であった。

 数合打ち合いの後、ランサーは瞬時に自身の異変を理解した。四肢が思うように伸びきらない。全身に錘を下げているかのような重さ。ステータスでいえば、全体的にマイナス補正がかかってしまっている。

 ランサーは思うように動かない体を突き動かし、その槍を縦横無尽に振るう。馬上のライダーの心臓を狙って一閃、首を狙って一閃、額を狙って一閃、肩、腹、さらには馬を狙って一閃ずつ。だがそのいずれもライダーの長刀に捌かれる。

 だが内心でライダーは焦った。白兵戦の技術はおそらくセイバーと同等程度。ステータスも自身の宝具の効果によりそこまで飛びぬけているわけもない。だがセイバーよりも、確実に脅威と判断した。それ偏に得物の差によるところである。

 セイバーの得物は片手剣。これは馬上の相手と戦うのに不利である。刃渡りがやや短いそれでは、馬上の相手に対して致命傷を与えるのが難しい。片手剣でなく、両手剣であったとしても、やはり難しいだろう。馬上の相手は想像以上に高みに位置する。だが、槍ならば十分にそれが可能なのだ。長い間合いは相対的に馬上の高さを下げる。ゆえに、ライダーにとってセイバーよりもランサーのほうが脅威となるのだ。

 

 ライダーの内心の焦りを読み取ったか、ランサーが猛追する。ライダーが平静を取り戻す隙を与えまいと、息をつく暇すら許さぬ猛攻。それをライダーが捌く度に火花が散り、二人の周囲はストロボライトを当てているかのように点滅を繰り返す。

 

 だがそれで怯むライダーであるわけがない。迅さがランサーにあるならば、一撃の重さは俄然ライダーにある。堰月刀における刃の形状は、大きく湾曲した三日月型だ。青龍堰月刀は肉厚であるため突きにも用いることは不可能ではないが、その本懐は薙ぎ払いにある。直線の軌道をとるランサーの刺突に対し、円を描くライダーの払いが遅れを取るのは道理。だがその出足の遅さを補って余りある脅威が――その並外れた膂力による破壊力だ。

 受けるにしても、流すにしても、その常識外れの一撃はどれをとっても必殺。まさしく瀑布――圧倒的物量で押し寄せる滝のような一撃だ。ゆえに、ライダーと戦う者は一度たりとて受けに回ってはらない。そうなれば最早、その水流にただ流されるだけになってしまう。

 

 咆哮と共に放たれる、堰月刀の振り下ろし。それをランサーはその神速をもって回避し、大きく距離を取った。互いに負傷は全く無い。それは両者の実力が拮抗しているというよりもむしろ、両者が攻めあぐねた結果だ。

 

 僅か数秒の間に交わされた剣は既に十合を超える。もはや正確な数を数えるのは両者共に辞めた。そのようなことに気を回せば、次の瞬間、胴体と首が繋がってはいない。

 

「……これは驚いた。戦闘技術はおそらくセイバーと互角。体格の良さではやや貴様が上とはいえ、ここまで俺が梃子摺るとは……。武器の違いもあろうが、貴様にはどういうわけか俺の宝具の利きが悪いようだ」

「……この胸の奥に根付いた、呪いじみている正体不明の感情。おそらく人の深層心理に”恐怖”を植えつけおるのが貴殿の宝具なのだろう。それによって相手のステータス低下を引き起こしている……違うか?」

 

 ライダーはその言葉を聴いて驚くでもなく、一切の感情の揺るぎを見せなかった。今また彼の中の気炎が燃え上がり、反比例するように瞳が冷たく鋭くなっている。冷たい微笑を浮かべ、ライダーはランサーの言葉に首肯した。

 そう、ライダーのもつステータス低下を引き起こす宝具の本質は対峙した相手に恐怖心を植え付けることである。それは深層心理に直接作用するため、対峙した相手が自分の恐怖心に気付くことは少ない。特に生前に多くの敵と対峙してきたサーヴァントとなれば、自身の恐怖心など克服してきたという経緯が却ってこの宝具の本質の看破を妨害する。いくら敵が強大とはいえ、それを讃えることがあっても恐れた英雄など居ないだろう。場合によっては初めて恐怖を経験したかも知れない。そういう経緯が、ライダーの宝具の本質を隠してしまうのだ。

 ゆえにバーサーカーなどには、もとより効き目が薄いのだ。だが、目の前の相手はバーサーカーではなくランサーである。何故、この相手には宝具の利きが弱いのか……ライダーには分からなかった。

 

「……よくぞ理解した。よほど自身の心と向き合っていると見える。

 その通りだ、我が宝具の本質は恐れにあり。俺は誰からも恐れられた。ゆえに俺は独り。それこそ我が本質。……しかしして今は独りに非ず。どちらが本当の自分か、最近よく分からん。

 ……いや、そんなことは良いのだ。貴様、俺は怖くないのか。それとも、深層心理に植えつけられた恐怖に打ち勝つ術でもあるのか?」

「マタイ福音書、第十章二十八節『身体を滅ぼしても、魂を滅ぼすこと叶わぬものを恐れるべからず。身体も魂をもゲヘンナにて滅ぼすこと叶うものをおそれよ』。……貴殿は私を殺すことが出来るが、魂までは滅ぼせぬ。ゆえに貴殿は恐れるにあたわず。私は私の身体と魂を滅ぼすことの出来ぬお方――つまり神以外を畏れることはない」

 

 ライダーはその言葉で虚を突かれたかのような表情を浮かべた。だが、すぐにその顔は綻び、声を上げて笑い始めた。

 

「ハハハッ! なるほど、神以外を恐れぬか! 多くのものが俺と、自身に根付いた恐怖に打ち勝とうとしたが……信仰によって俺への恐怖を薄めた壮士は始めてだ。 信仰というものは、逆境や苦境に見舞われた際に大きな力を発揮するものだからな。なるほど、一筋縄でいかぬのも道理か!」

 

 そしてライダーはひとしきり笑った後、得物を再び構え直した。その顔にはもはや相手を推し量ろうなどという打算は一切なく――全力で相手を叩き伏せようとする獰猛さのみが残る。

 いや、もしかするとライダーは歓喜しているのかも知れない。自分に恐れることなく刃を向け得る相手を、死してようやく得ることになったのだから。彼と戦うものは、必ずどこかに恐れを持っている。それは自分でも気付かぬものだったとしても、畏怖の念を必ず持つ。例えばセイバーであったならば、ライダーのことを『過去出会ったことが無いほどの強敵』と認識していることだろう。『東方の戦士は蛮族の如きと聞いていたが、その認識を改めよう』という、昨晩の言葉からもそれはうかがえる。つまり、恐れの大小は存在するが、ライダーと戦ったものはライダーを己の中の上位に置き、それを畏怖するのだ。相手が己の恐れを意識できていまいが、いなかろうが、関係はない。

 だがこのランサーは違った。ライダーと刃を交わしてもなお、ライダーを上位におかず、本当に居るのかも分からない神を最上に置く。そればかりかそれへの信仰心で自分の深層心理に根付いた感情を抑圧してしまうのだ。だからこそライダーは、ランサーと思う存分戦いたい――打ち倒したいと望んだ。

 

「紗紗」

「……なんですか」

 

 サーヴァント同士が戦闘を開始すれば、マスターに出来ることなど無い。ただその戦闘の邪魔にならぬよう、巻き込まれぬように見守ることぐらいである。

 別に蚊帳の外に置かれることが不満だったわけではないが、ここで自分の名を呼ばれるのが以外でサーシャスフィールは少し戸惑った。

 

「もしかすると、真名を明かすかも知れん。そのときは、許せ」

「……許可します。貴方の判断に任せますので、思う存分に戦ってください」

「心得た。……くれぐれも、俺の戦いに手を出さないでくれ、紗紗」

「そのように」

「……すまんな。……ランサー、最後に問答をしたい。これより先、どちらが倒れるにせよ問答の機会はなさそうだ」

「何か」

「人は、何を以って人か?」

 

 ランサーはその問いに何か裏の意味が無いか見出そうと、やや思案する。だがその問いにそれ以上の意味を見出せず、ランサーは自分の考えたままを答えることにした。

 

「神の慈愛によって」

 

 人は、神が創りたもうたからこそ人である。基督教の失楽園における、アダムとイヴの話だ。旧約聖書『創世記』で神が最初に創った人類。主なる神(ヤハウェ)は最初の人類を作り、最初の人類が知恵の実を食べてエデンから追われ、後に命の木を守るために天使ケルビムと輝く剣の炎――士郎が以前投影した『煌く剣(リットゥ)』がこれの原型にあたる――を置いたのは有名な話だろう。その教義によれば、人は神によって創られたからこそ人たりえるのだ。

 だが、ライダーは大きくかぶりを振った。神によって創られたわけもなく、死して神の広い懐に迎えられるでもない(サーシャスフィール)を守るために。

 

「否、断じて否! 人は自らの意思によって人たりえる! ゆえに俺は剣。他者を害することしか出来ぬ純粋戦士! 俺は剣によって生み出され、鐙の上で育ち、鬣の上で死ぬ! それに適うもの、俺を打ち倒すものを望んでやまぬ! さあランサー、その槍を俺に突き立ててみよッ!」

 

 黒兎がすさまじい速度でランサーに迫る。まるでライダーの気炎に後押しされているかのような、後に粉塵のみを残した疾風のごとき健脚。

 すれ違いざまに一閃。ライダーの刀はライダーの肩口を浅く裂き、ランサーの刃はライダーの脇腹を浅く裂く。

 すかさず馬首を返す。もはや物理法則を無視したかのような、四足歩行の獣とは思えない小回り。げに恐ろしいのは黒兎の機敏さだけでなく、そのような動きをされても振り落とされないライダーである。だが黒兎はこの程度でライダーが落馬するわけが無いとでもいうように、不規則な跳躍でランサーを霍乱せんとする。そしてランサーも、黒兎の足が伸びるがままに任せれば間違いないとでも言うように、あえて黒兎の動きを制御しようとはしない。まさに人馬一体。馬と人が完全に意思の疎通をみせ、その上以心伝心を越える一体感を成している。

 そしてランサーもまた動く。足を使う相手に対し、こちらが両足を地面に置いたままでは窮地に陥るだけだ。動く相手に対してはこちらも動く。馬と人の違いはあるが、足でも勝利できる算段は――ある!

 

 ランサーは黒兎を超える機敏さを誇った小回りで翻弄する。単純な速度は黒兎に分があるが、人を乗せた状態である以上限界はある。その分ランサーは身軽な歩兵。付け入ることは十分に可能――!

 

 ランサーは黒兎の正面に回るように動き、あろうことかそのまま黒兎に向かってぎりぎりの低姿勢で突進した。まさに乾坤一擲。強力な回復能力(リジェネレーション)をもつからこその行動だ。

 黒兎の蹄に蹂躙される刹那の前に、ランサーは右へさらに頭を低くして跳躍する。ランサーの刃が右手――つまりランサーから見て左側――に位置していたためだ。誇張でもなんでもなく紙一重で蹄を回避する。もはや地面と顔面が数センチの間隙しかない。だがライダーが素早く刃を翻し、その首元を狙う。熾烈な振り下ろす一撃。ランサーはヘッドスライディングのような姿勢の状態から手を突き出し、身体のバネを利かせて僅かに身体を持ち上げた。無理な体勢から膂力のみに頼った動きのため、ほとんど身体は浮かなかったが、ライダーの正確の一撃を避けるには十分だった。そして顔の横を通過する凶刃をそのまま見送り、身体を捻らせて電光石火の一撃を放つ――!

 ライダーの驚愕。だがライダーは身体を大きく反らせ、その電光石火を回避した。しかし薄皮一枚とはいえ、今度は胸を裂かれる。

 

 だがライダーはそれに怯まず、黒兎を駆って幾度と無く剣を交わす。すでにおの戦いはサーシャスフィールの理解の埒外にあった。もはや彼女に視認できるのは蹂躙される大気の歪みのみである。断続的に闇夜を照らす火花だけが両者が未だ健在であることを主張していた。ライダーに手を出すなといわれる以前に、手を出す余地がない。

 無論、それはスカリエッティも同様でる。むしろサーシャスフィールよりも早い段階で理解が追いつかなくなった。だからこそ今彼が恐れるのは、サーシャスフィールがマスター対マスターの戦いを始めることであった。戦闘の心得など全く無い彼が、目の前に現れた魔術師に敵う算段は皆無に等しい。しかも、相手は白馬に跨りハルバードを装備しているのだ。明らかに戦闘向けの人種である。

 だがそれをサーシャスフィールがしないのは、偏に彼女がライダーの尊厳を尊重するがゆえだ。誇りある戦士同士の一騎討ちを邪魔することは、その両者の尊厳を侮蔑することに他ならない。ライダーが他者の介入を許さない一騎討ちを望んだ以上、それを蔑ろにする意思は彼女には無かった。良きにしろ悪きにしろ、彼女もまたライダーの宝具によって彼に畏怖を抱く一人であることは間違いない。

 当然、そのような事情はスカリエッティの知るところではないが、彼女が自分では敵わない相手であることは承知している。だからこそ、この一騎討ちは成立していた。

 

 再び距離を取って睨み合うライダーとランサー。ここでようやくサーシャスフィールとスカリエッティにも戦闘の経過状況を知ることが出来た。互いに未だ意思軒昂。だがその負傷の度合いには徐々に開きが出ていた。明らかにライダーが押されている。

 単純な戦闘能力だけを比べれば、おそらくライダーが僅かに上か同程度。加えてランサーは、通常よりも効果を発していないとはいえライダーのステータス低下の影響を受けているのは間違いない。よって通常ならばランサーのほうが負傷が酷くなるのが道理に思える。

 しかしそれを覆しているのが、ランサーの唯一の宝具である『神の血を受けた聖槍(ロンギヌス)』である。

 蘇生の余地が無い一瞬かつ絶対的な死。心臓を破壊するだけでは駄目だ。血流が止まっても窒息死まで猶予があるため、すぐに回復されてしまう。よって狙うのは首より上――首を刎ねるか、頭部を完全に破壊するしか倒す手立てが無い。

 そのアドバンテージは白兵戦では大きい。負傷を前提とした一撃は予想以上に深く踏み込まれる。下手を踏めば相打ち。だがランサーは首より上さえ守っていれば、それは致命傷にならないのだ。その差は大きい。

 リスクを冒すことの出来るものだけが勝利する。これは何事にもおける鉄則だ。リスクを冒すからこそ流れを引き込むことが出来る。そして、そのリスクに遠慮なく突っ込んでいくことが可能なランサーに、この戦いの流れは向かっていた。

 

 両者を見比べれば、それは瞭然である。少なくとも大きなリスクを冒しているランサーが既に致命傷を負っていてもなんら不思議ではないというのに、その跡は見出せない。こうして睨み合っている今も傷は凄まじい速度で癒えている。対してライダーは、何れも軽傷とはいえ全身に傷を負っている。

 そうでなくとも長期戦はランサーに有利に働くのだ。この結果は必然といえなくもない。

 しかし、打ち破る手立ては十分にあった。

 なぜなら、サーシャスフィールは相手のサーヴァントの真名に感づいたからである。

 理由は幾つか在るが、決定的だったのはその信仰心と圧倒的な回復能力(リジェネレーション)を見たときである。新旧の聖書の詳しいことはあまり理由にならない。その程度ならばサーシャスフィールでも諳んじることが出来る。だがその強い信仰。得物が槍。そしておそらくその槍の効果であろう、回復能力。当該すると思われるのは聖ロンギヌス――ガイウス・カッシウスだろう。龍殺しのアスカロンを持つ、聖ジョージ――ゲオルギウスも槍使いとして候補に挙がるが、それでは回復能力の説明が難しい。ほぼ間違いなく、盲目の百卒長ガイウスだろう。

 

 そうと読むことが出来れば対抗策も練ることが出来るだろう。最初はそう思ったが、実際はそう易くない。何せこれといった記述が文献に残っていないだけに、弱点となる逸話もない。その上、おそらく宝具は死後の流血の奇跡に絡んだ効果、つまりあの回復能力だろう。これが非常に厄介である。単純であるがゆえに、これといった弱点も見出せない。

 そもそも弱点が分かったとしても、もはやサーシャスフィールがどうにかできる範疇をとうに超えているのだ。ランサー有利の流れを覆すのは難しいだろう。

 

 ――故に。ライダーは早々とその決断を下した。

 

 通常、恐怖には二通りある。その対象が明白である場合の恐怖と、不明である場合の恐怖だ。まず後者だが、これは一般に言う怪談の類いである。古来より人類は正体不明のものを恐れ、無理やり自分達が納得できる理由をつけてきた。神隠しなどもがそれに当てはまるだろう。恐怖の対象が分かるからこそ、神が連れ去っているなどという理由をつけて納得しようとする。

 前者は、単純に目の前のものが恐ろしい場合だ。虎や獅子を前にして平然としている人間などそうは居まい。それでなければ人間として何かが壊れているとしか言えない。同時にこれは、目の前のものの正体が分かったからこそ恐ろしいということでもある。目の前で対峙している敵が素人かそれなりの剣客なのか分からない状況よりも、自分では絶対敵わない剣豪であると知れたときのほうが畏怖の念は強まるだろう。

 前回や前々回の聖杯戦争におけるセイバーを例に取ればより理解できるだろうか。はじめ、彼女と対峙したものの大抵は“女だから”と少々見くびった態度を取る。第四次のランサー、ディルムッドなどは『女だてら』などと見下した言動も見て取れるが、彼女がかのアーサー王だと知れると揃って態度を改める。このように、相手の正体が知れた際に今まで抱いていた感情を改めるというのは別段不思議なことではない。

 そしてだからこそ、ライダーの宝具は相手に名が知れた状態のほうがより効果を発揮するのだ。

 相手の実力が知れない状態だと、状況にもよるが人間は最初に自分より下に見積もりがちである。しかし名というものにはその先入観を破壊する威力があるのだ。

 故に。ライダーの真名は攻撃的な意味をも持つ、切り札にもなるのだ。

 

「ランサー、しかと聞け。決して聞き漏らすでないぞ」

 

 その名は三国志の中に轟く無双の武将。彼の名はたちまち千里を駆け抜け、泣く赤子を黙らせ、万の兵を退ける。

 半日の間戦い続けてもなおも裂帛の意思を燃やし続け、消えぬ血の跡を作り上げる。死した後にも『本当に死んでいるにしても、軽々しくこれに当たってはならず、危機感をもって戦え』とまで言われるほど強力な軍を率いた将。

 その烈士の名は――――

 

「我が名は張遼(ちょうりょう)! 字は文遠(ぶんえん) !」

 

 続けて宝具の名を叫ぶ。本来、真名解放するタイプではなく常時発動するタイプのものであるが、それでも構わずにその名を叫んだ。自分の名を冠する宝具の名を。

 

「この張遼が行くぞッ! 『遼来々(リョウライライ)』、『遼来々』!」

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

【クラス】ライダー

【マスター】サーシャスフィール・フォン・アインツベルン

【真名】張遼

【性別】男性

【身長・体重】190cm 100kg

【属性】混沌・善

【筋力】 A+ 【魔力】 E

【耐久】 B  【幸運】 C

【敏捷】 A  【宝具】 B

 

【クラス別能力】

・対魔力:B

発動における詠唱が三節以下の魔術を無効化する。大魔術・儀礼呪法を用いても傷つけることは難しい。

 

・騎乗:A

騎乗の才能。かつて慣れ親しんだ獣に似た姿であれば、魔獣・精霊種でも乗りこなすことができる。

彼の場合は、馬に似た姿であればどんな生物であろうと操れる。天馬や一角獣であろうと乗りこなすだろう。

 

【保有スキル】

・矢避けの武芸:B

矢が飛び交う戦場で培った技術。加護ではなく、修練により培った経験。

投擲物による攻撃に対して、高確率で迎撃および回避を成功させる。ただし、超遠距離もしくは広範囲の攻撃には効果を発揮できない。

 

・仕切り直し:C

戦闘から離脱する能力。

一撃離脱の戦法には重宝する。

 

・軍略:B

多人数戦闘における戦術的直感能力。自らの対軍宝具行使や、逆に相手の対軍宝具への対処に有利な補正がつく。

 

【宝具】

・騎兵の軍こそ我が同胞:ランクB

ライダーが、聖杯戦争でも騎兵を用いて戦うために得たスキル。

ライダーが名を与えた馬は宝具のカテゴリに昇格される。ランクは平均してC相当。馬の能力や性格によって個体差が生まれる。

また、微弱ながら宝具馬に対して自動治癒も持つ。平均的な魔術師の治癒魔術よりも劣るが、自然治癒とは比べ物にならない。

 

遼来々(リョウライライ):ランクB

ライダーと対峙したものの深層心理に恐怖を根付かせ、それによってステータスの低下を引き起こす。自身の感情を制御するスキルや宝具などで緩和することが可能。よって狂化したサーヴァントにはあまり効果をもたらさない。

「泣く子も黙る」という言葉の元となった言葉。ランクBとはいえ、白兵戦においては絶大な効力を発揮する。元のステータスの高さとこの宝具の効力を鑑みて、生前から現在までを考慮しても彼に白兵戦で適う相手は少ないに違いない。

 

・黒兎:ランクC+

ライダーの愛馬となった馬。好戦的で、多少の負傷ならば物ともしない。黒い毛並みが特徴的。

 

・白兎:ランクC+(C)

サーシャスフィールの愛馬。戦いを好まず、大人しい性格をしている。そのため、本来は黒兎と並ぶ実力をもつのだが、その実力を発揮できていない。白い毛並みが特徴。



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Act.28 追走劇

 例えば、眼下に地を覆いつくすほどの敵兵が居る。それを退けたいのならば、こう叫べばいい。たちどころに敵兵は恐れをなし、蜘蛛の子を散らすが如く敗走するだろう。敵将は城を開門して明け渡し、要塞が敵の手に渡ったというのに自分の首がまだ繋がっていることに安堵する。

 ――遼来々。

 例えば、駄々をこねる子供が居る。言い聞かせなければならないことがあるならば、こう言えばいい。たちどころに子供は青ざめ、駄々をこねたことを深く後悔し、ただひたすらに許しを請うだろう。

 ――遼来々。

 それは悪鬼の名前か。それとも厄災の名か。否、ただ一人の男の名である。

 姓を張。名を遼。字を文遠。今も彼の名は中華の地に轟いている。三国志の武将とは知らず、ゲームの登場人物と思っている者も多いようだが、その名は多くの中国人が知るところだ。

 なぜならその名は中国全土に響き渡り、恐怖の権化のように扱われたからだ。

 彼に匹敵するものとして、関羽という武将が挙がる。だが、彼はこれほどまで恐れられる存在ではなかった。なぜなら、彼は優れた武将であると同時に政に携わる為政者であり、また徳の高い人物であったからだ。(きょう)という、国の力を決してたよることなく、民のために刃を振るう闇の結社が当時の中国全土に点在した。これは毒を以って毒を制すという考えで、義の心を持った民間兵だと思えばいい。関羽はそこの出身であり、それゆえに民からの人徳が篤い。死しては神のように祀り上げられるほどだ。

 しかし張遼は違う。

 彼は純粋戦士。人徳を以って人を惹きつける関羽とは対象に、その武勇によって人を退ける。ゆえに彼は人に崇められることなく、民草だけでなく味方からも恐れられた。

  遼来々。張遼が来るぞ。

 関羽が神ならば、張遼は邪神。誰からも恐れられ、それゆえに常に孤独。

 だが彼はそれでよかった。かえって武を磨くことが出来たから。

 その考えが否定されたのは、誰かの言葉。

 

「他者を省みることの出来ぬ刃は武にあらず。それはただの暴である」

 

 ――ならば。きっと俺はまだ武にすら至っていない。

 

 ただ一振りの剣は武に非ず。ただ一矢の矢は折れるのみ。

 ゆえに剣を携えた軍こそが武。数多に束ねた矢を砕くこと難い。

 だからこそ彼は、初めて他人を見た。自分に付き従う兵卒はいとも簡単に死に逝き、自分が全力の進軍を敢行すれば誰もそれに付いてこれず。

 しかしそれを改めたとしても、自分の悪名高く、それを払拭すること難い。

 ならば。

 病床に臥して、死の間際に願ったことは。

 もう一度、もう一度だけ武を追い求めたい。今度は悪名ではなく、人徳による武を。ゆえに俺は剣。剣はそれのみで武を成すこと適わず。それを持つものが居て初めて武となる。

 ――誰か、俺と共に武を目指す者を。

 

 そしてその願いを聞き遂げたモノがあった。

 ここはどこでも無い場所。時間からも隔離された、どこでも無い場所。はるか悠久の時間をまどろむように過ごす。いや、もしかしたら一瞬の出来事なのかも知れない。時間の法則など、ここには無いのだ。通常の感覚では量れない。

 そうやって永く、そして短い時間を過ごした。だがあるとき、自らを呼ぶ声を聞いた。女の声。鈴を鳴らすかのような澄んだ声だった。だが、その声の中には確かな意思が燃えているのが分かる。もとより拒むことなど出来ぬ召還だったが、彼は嬉々としてそれに応えた。

 

 ――――俺を必要とする者が、まだ居たとは。ならば応えよう! 求めていたのは主。剣たる俺を携えて、共に武と成す者! 遼来々。さあ、この張遼が行くぞ。主にたてつく悉くを退けよう。命を賭して主を守ろう! それこそが、武の本懐であると信じて疑わぬ!

 

 そして呼ばれた先は、彼がまだ見たことも無い様式の場所。石造りの壁に嵌められた瑠璃の窓の外で雪が降る音が聞こえる。

 眼前には女。外の雪よりもなお白い、銀の髪。線が細く上品な顔立ちに、しかし似つかわしくないほど意思の込められた炎。

 サーヴァントの召還は、座に居る本体から複製する形で行われる。召還されたのは複製ともいえるものだが、その能力、感情、全て本物と同一だ。だからこそ、彼は歓喜した。この女は、主に相応しいに違いないと。

 その澄んだ声を聞きたくて、分かりきっていたことを尋ねた。

 

「問う。(なれ)が俺の主か? 」

「その通りです。名乗りなさい」

 

 ああ、この声だ。毅然とした意思。揺らぐこと無い信念。通常の人と若干違う気配だが、そんなことは構わない。妖術を使おうが、人でなかろうが。戦いを前にして、ごく少数の者だけが発することのできる気炎。この者は――俺の新たな主に相応しい!

 片膝を立てて腰を落とし、右手を前にして両手の指を重ねる。その状態で、深く頭を垂れた。これは拝礼という、主から拝命を受ける際に用いられる臣下の礼である。

 

「張遼。クラスはライダーだ。さあ、共に武の頂点を垣間見ようではないか」

「頼りにしていますよ。私はサーシャスフィール・フォン・アインツベルン。呼びやすいように呼んで構いません」

「サ、サーしゃ……。しゃーしゃ? ……ええい、紗紗(しゃしゃ)だ。紗紗と呼ぶ」

 

 この日。張遼は生まれて初めて、主君として対する感情とは別の、おそらくはもっと深い部分で――ただ一人の女を守りたいと思った。だからだろうか、無意識に主やマスターと呼ぶことを拒否したのだった。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 遼来々。

 その言葉を聞いて、まず感じたのは圧倒的な圧力。信仰によってその効果を抑えているとはいえ、抗いきれないほどの衝動。今なら分かるだろう。ライダーの放つ圧倒的な気配と濃厚な死の匂い。数多の敵を屠り、戦場を駆け抜けてきたものだけがもつ眼力。

 そういった諸々を、その名を耳にしただけで意識させられる。ライダーの真名は、同時に宝具の名前でもあるのだ。

 本来、サーヴァントの真名は弱点になる。真名が割れればその伝承から弱点も知れるし、戦術、行動の傾向、宝具など諸々が相手の知るところとなる。少なくとも名が知れることに利はない。だからこそ宝具はおいそれと発動できないのだ。伝家の宝刀は、抜かぬうちが華だ。いつでも抜ける、と相手に思わせておくのが最も効果を発揮する。

 だが、この者においては違う。名前そのものが攻撃的な意味を持つ。この男にとって、宝具や真名というのは伝家の宝刀ではなく、抜いて振るってこそ意味のある鋭い名刀なのだ。その証拠に、彼の真名には宝具『遼来々(リョウライライ)』の効力を増加させる効果がある。

 今やランサーは、ライダーの姿を実際の何倍にも大きく感じていた。

 

「例え千年が万年であっても、この一瞬に敵うものか。我が喜びは刹那の中にあり。我が幸福は須臾の中にあり! 我が求むるは、ただ戦と武の所在よ。ゆえに俺は戦う!」

 

 その刃を振り上げ、ライダーは叫ぶ。

 この一騎打ちにこそ、ライダーの本懐があるのだ。ただ強者を求め、己を研鑽し、刃を研ぎ澄ます。それだけが彼を構成する元素。即ち武のみ。

 ライダーの顔には歓喜の色が浮かんでいた。だが破顔するではなく、ただ静かに、まるで聖者のような微笑を湛えている。だがその眼光は鋭く、例えようもない激情の色を放つ。

 その様、まさに気炎万丈。その背中、まさに威風堂々。指先一本に至るまで、魔力は満ち満ちていた。

 

「強者は悉くこの俺の前に姿を見せいッ!この張遼の全霊を以って無双の一撃を成し、その全てを打ち倒す! 遼、来々ッ!」

 

 咆哮一閃。黒兎の健脚に乗せた一撃。もはやライダーに小手調べという考えは微塵もない。ただ眼前の敵を滅ぼすのみ。これこそが純粋戦士。戦うのみの、一振りの剣。

 ゆえにこの一撃は今までのどれよりも重く、早く、――熾烈!

 

 鉄と鉄が衝突する音。この一合を制したのはライダーだ。速さに上乗せされた、重く早い一撃はランサーの虚を見事に突く。ランサーは咄嗟にそれを受けに回ったが、その一撃の威力は決して軽くはないランサーの身体を吹き飛ばすには十二分だった。

 まるで木の葉のように錐揉みするランサーに、ライダーはさらなる一撃を加えんと黒兎と共に宙を舞う。空中でもその槍の腹で一撃を防ぐランサーだったが、空中ではその威力を殺すことままならず、無情にも地に叩きつけられた。

 だがそれでもライダーの猛追は止まらない。一撃、一閃の悉くがランサーの命を奪うに足るもの。両者がぶつかる度に、ライダーの一撃は威力を増し、対してランサーは傷つく。だがそれでもランサーが耐えているのは、その自動治癒と長けた戦闘技術によるところが大きい。

 つい先ほどまでは勢いはランサーにあったというのに、既にこの戦いはライダーのものだった。

 

 咆哮。さきほどよりも強く。

 一合ごとにライダーの一撃はその重みを増し、早さを増す。疲れなどない。あるのはただ裂帛の意思。揺るがぬ、眼前の敵を討ち滅ぼすことのみに傾けた熱くも硬い鋼の意思。

 

「な、何をやっている、ランサー……! この体たらく、役立たずめ……!」

 

 罵声を浴びせるスカリエッティ。臆病な彼がこの場から逃げ出さないでいるのは、この戦闘の人知を超えた苛烈さゆえだ。腰が抜けているといっても良い。ライダーの名を聞いた途端、それを一目見たときから感じる恐怖に拍車がかかったからだ。一刻も早く逃げたいのに、足が既に固まってしまっている。

 だがこのまま攻められるに甘んじるランサーではない。

 一瞬の機を見出し、ライダーの一撃を避ける。皮一枚切り裂かれたが、構わす電光石火の刺突を放つ。しかしそれはライダーの流麗な捌きによって軌道を逸らされ、ライダーを仕留めるには至らなかった。続けざまに放つが、どれも防ぎきられる。逆に隙とも言えない隙を突かれて反撃に転じられた。

 

 ここにきて、両者は完全に拮抗した。攻勢と防衛の繰り返し。ランサーの自動治癒など、もはや今に至って戦いの行く末に関係なかった。これほどまで強烈な一撃だと、腕に食らえば腕を落され、胴に食らえば両断される。即死でなかろうが、それほどの状況に陥っただけで詰みだ。死ぬのが一瞬遅れるだけである。もはや、負傷前提で全身する戦術は意味を成さないといっても良い。

 互いに長柄。互いに俊足。一撃の早さはランサー、重さはライダー。

 もうこの戦いの行く末など誰にも分からない。

 ――それを操作しようというものが現れない限りは。

 

「■■■ァァ■■■ァァッ!!」

 

 身に走る電流のような感覚をランサーは感じた。眼前に敵が居ることなど忘れてスカリエッティの姿を求めたランサーは、喉笛から血を吐き出す自らのマスターを見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 アサシンにとって、これは実に好都合なことだった。

 サーヴァント同士の一騎討ち。しかも互いのマスターは傍観し、手を出す様子もない。こうなるとサーヴァントといえども次第に意識からマスターの存在が薄れる。マスターが戦いに介入していれば否が応でもその存在を意識させられ、マスターを守るべく動く。しかしマスターが介入しない一騎討ち、しかも拮抗しているとなればサーヴァントは眼前に集中する。

 マスター殺しなど、容易く行える状況が出来上がりつつあった。

 ではどちらを狙うか。

 ライダーのマスターは難しそうだ。武装していることもある。だがその雰囲気は生粋の魔術師のものだ。それよりも良い対象がこの場に居る。言うまでもなくスカリエッティだ。非武装のうえ、どうにも魔術師らしからぬ。おどおどとした態度といい、こういった荒事に慣れていないことが見て取れた。

 より確実な標的を確実に抹殺し、サーヴァントを一組脱落させる。その確実な標的が目の前で棒立ちしている以上、最初に狙うべき標的は定まった。勿論――可能であれば、両方のマスターを殺すつもりであるが。

 身体にも異常は無い。ライダーの真名を聞いたとき、たしかにステータスの低下を感じたが、もとよりサーヴァントを相手にするつもりなど微塵もない。多少コンディションが落ちたと考えれば、誤差の範囲内だ。加えれば、恐怖などの感情ではなく、徹底した理性によって戦局を動かすのが彼だ。ライダーの宝具は面倒ではあるが、決して脅威ではない。

 霊体化し、確実に距離を詰める。焦る必要はない。いざとなれば、『固有時制御(タイム・アルタ)』を用いれば逃走は可能なはずだ。

 音も無く暗殺し、サーヴァントがマスターの異常に気付いた時には既に気配を消して逃げおおせている。これが最高の運びだ。よってコンテンダーではなくナイフをそっと抜く。

 目測で、残り五十メートル。まだこちらに気付いてはいない。もとより、気配遮断を行っている状態で、ただの人間が気付けるようなものでもない。気付くとしたらサーヴァントだが、気付く様子もない。

 残り二十五メートル。一気に接近するべきか。……いや、こちらに全く気付く様子がない。まだいける。中途半端な位置から接近しても、感づいたランサーに阻まれる危険がある。

 残り十メートル。まだ近づく。

 残り五メートル。ここまで接近して、何も感じていないのであれば、おそらく相当の素人だろう。ナイフが届く距離まで近づける。

 残り三メートル。あと数歩だ。

 残り一メートル。手を伸ばせばもう届く――――

 

「■■■ァァ■■■ァァッ!!」

「――――ッ!」

 

 突如聞こえた理解不能の叫び。まずい。全員の意識が戦闘から離れる。

 だが、当初の目的だけは達する。ここでランサーが脱落すれば、逃げるのも易い。

 可能な限りの最高速で実体化し、無防備な標的の喉にナイフを押し当てる。そしてそのまま――引き裂いた。

 心臓の鼓動に合わせて血が噴出する。出血によるショック死は避けられないだろう。

 

「マスターッ!」

 

 ライダーを無視し、マスターに駆け寄るランサー。手に握る槍は、どういう原理か黒塗りのそれは純白に塗り代わり、淡い白光を放っていた。

 ランサーはマスターの窮地を救うべく、主の許可なくそれの解放を決断。己が最高速を以って接近した。

 

「『神の血を受けし聖槍(ロンギヌス)』ッ!」

Time(固有時) alter(制御)――triple(三倍) accel()! 」

 

 しかし、アサシンはそのことを読みきっていた。

 サーシャスフィールがそうだったように、彼もまたランサーの真名にあたりをつけていた。決して信心深いとはいえない彼であるが、この程度の知識は持ち合わせている。まず間違いなく、聖ロンギヌスだ。

 だからこそそれの持つ槍は死後の流血の奇跡にちなんだものだとみて間違いない。その槍で穿てば、傷つくどころか病すらも癒すという逸話もある。だからこそ、より確実に。

 懐から抜いたのはコンテンダー。大口径の銃口から放たれる銃弾の威力、この至近で受ければどうなるか。

 

 三倍速に加速する意識の中で、狙いを定めてそれを放つ。この速度でなければ懐から抜く前にランサーが間に合っただろうが、彼のほうが一手早かった。

 引き鉄を絞る。発砲音とほぼ同時に――その頭が爆ぜた。

 脳漿が飛び散る。頭蓋骨が砕ける。あまりの衝撃に眼球が眼窩から落ちる。

 アサシンは、誰が見ても一切の疑う余地を残さず、完膚無きまでにその命を粉砕した。

 

「あ――――」

 

 命は頭部に宿る。人は多少の臓器を無くそうともどうにか生きていける。心臓ですら昨今の医療技術によって代用が作られているのだ。機械仕掛けの心臓であろうと、人は生きることができる。また、人外に成ったものは、もはや心臓をただ抉っただけで死ぬことは出来ない。

 だが頭部は違う。こればかりいかな奇跡でも修復不可能。なぜならばここに命が宿っているからだ。人の生きようという意志はここに宿る。魔術を行使するのに必要なものも、突き詰めれば魔力ではなくそれを可能とする脳漿なのだ。

 ゆえに――『神の血を受けし聖槍(ロンギヌス)』であっても、飛び散ったスカリエッティの脳漿を修復すること敵わず、その命を取り戻すことは不可能なのだ。

 

「あ……あ……マスター……」

 

 心臓を確かに貫いているランサーの宝具。だがその槍は効力を発揮することは無い。いや、死後の流血の奇跡に相応しく、その身体の損傷だけは癒す。零距離で大口径の銃の一撃を受けたとあり、スカリエッティの頭部は熟れた果実のようになっていたが、外見上はその傷をも修復しきった。だが、これは見た目だけなのだ。再び心臓が鼓動を開始することは決してない。なぜならランサーの槍は蘇生ではなく治癒の能力。たった今、確実に死んだスカリエッティを蘇らせることは出来ない。

 死者の蘇生にはなんらかの魔法が絡む。時間旅行、無の否定、平行世界の運用。あるいはもしかすると、その定義が未だ明確でないもの。いずれにしても――ランサーの聖槍は、そこに至る礼装ではないのだ。

 

「――貴様ッ。このまま逃すものかッ!」

 

 ランサーは槍を引き抜き、返す刃でアサシンに切りかかる。だが先の戦闘で多くの魔力を消費していたランサーは、既にその存在が希薄になりかかっていた。本来、単独行動のスキルをもたないサーヴァントであっても数時間は持つ筈だが、それも状況による。最初から魔力不足の状態であれば、一分と持たないだろう。だがそれでもランサーは刃を振り上げる。おそらくこの刃は下手人を貫くことが出来ず、その前に自分が消えうせるであろうと理解している。だが、それでも戦わねばならないのだ。蟷螂の斧であっても、振り上げねば意味が無いのだ。

 

 神速の一閃。以前ならばもはや稲妻の一撃だが、存在が希薄な今、既にその姿はどこにもない。だがアサシンが相手ならばそれでも十分な速度の一撃の筈だ。しかし三倍の意識の中にあるアサシンにとって、それはさほどの脅威を孕んではいない。難なく回避し、この場を離れるべく踵を返した。このままここに居る意味はない。サーヴァントと戦闘をするなどあってはならない。

 だが、それを拒むものが、

 

「■■■ァァ■■ィィッ!」

 

 と咆哮をあげながら、ランサーと挟み撃ちをする形で猛進する。アサシンは一瞬でその固体のクラスを弾き出した。まだ邂逅していなかったバーサーカーだ。

 薙ぐ暴力的な一撃を紙一重で回避し、距離を取る。必要以上にバーサーカーは追撃しなかった。おそらく、他二体のサーヴァントを見咎め、どれを攻撃するべきか決めかねているのだろう。ランサーはもう消滅する。ランサーを除外したとして、未だ三つ巴の状態だ。

 アサシンは内心、臍を噛んだ。先ほどの叫び声はバーサーカーによるものだったのだ。となればここは4体のサーヴァントが一堂に会していたことになる。終始傍観していたら、もっと確実かつリスクの無い道があったというのに。

 

 もはや背を向けて逃げるのは危険。ライダーの足の速さは先ほどの戦闘を見て理解している。瞬間的ならばアサシンの『固有時制御(タイム・オルタ)』を用いれば勝るだろう。だが、逃げおおせるには至らない。そもそも長時間の運用が難しい魔術だ。ランサーのマスターを殺害したことによる、ライダーの一瞬の虚を突いてこの場を離脱していれば方法はいくつかあったが、今のように完全に標的にされてしまってはもはや離脱は危険。しかもバーサーカーが居る。先ほど追撃は免れたが、ここで背を見せれば追ってくるのは明白だ。

 

 がくりと膝を折るランサー。先ほどの一閃が彼に残された力の全てだった。もはや、ランサーにはその存在を繋ぎとめるほどの魔力は残されていない。だがその眼光は些かも衰えず、鋭くアサシンを射抜いていた。

 

「ここまでして聖杯を欲するか……! ここまでして、己の欲望を叶えたいかッ! イスカリオテのユダでさえ憚る下劣な行為! その罪は重く、審判を避けられぬものと知れッ!

 もはや、この命幾許もない。……第一コリント第十六章二十二節『主を愛さないものがあれば、呪われよ』! アサシン、貴様に呪いのあらんことをッ! ゲヘンナに貴様が落ちるさまを、しかと見届けてやるぞ!」

 

 もはや消え行く身体から、その余力全てを使って呪い殺さんという怨嗟を叩きつける。瞬く間に輝く飛沫となって飛散し、ランサーは完全に消滅した。この場に残ったのは、アサシン、バーサーカー、ライダーとそのマスターである。そしてあえて加えるなら、脳漿を四散させた、見るに耐えぬ骸が一つ転がっているだけであった。

 アサシンの当初の目的は達せられた。やや予期せぬ形ではあるが、これ以上ここに留まる必要は無い。だが――果たしてそれが叶うだろうか。今、おそらく機動力では全サーヴァント中随一であろうライダーが目の前にいる。加えてバーサーカーの乱入。これさえなければ、よもするとライダーのマスターもここで暗殺することが出来たというのに、実に厄介なタイミングで乱入してくれた。バーサーカーがアサシンの存在を認識していたかはともかく、サーヴァントの意思を戦闘から逸らさせたのは間違いない。

 睨み合ったまま如何にしてこの場から脱するか思案していると、今まで俯きがちだったライダーがおもむろに顔を上げた。その顔には明らかな憤怒の色があった。

 

「――我らが一騎討ちを蔑ろにするか、アサシンッ! 一騎討ちは互いの尊厳と誇りを賭けたものだ! それを蔑ろにすること、万死に値するぞッ!」

 

 ――また、これだ。

 アサシンは内心で舌打ちした。戦いというものを誇りや栄光で偽装し、何か尊いものであるかのように仕立て上げる。流血とは絶対に避けるべき手段であり、決して尊いものではない。そうやって戦いを神格化するからこそ、この世で流血が止まらない。殺戮を正当化するからこそ、この世で闘争が止まらない。

 殺戮は殺戮であり、そこに如何な理由があろうとも他者の命を奪ったという罪は歴然としてそこに在るのだ。その罪を薄れさせ、ついには消し去るものこそ、剣への誇りという痴れ事のほかに無い。

 この世を血で染めてきたのは、騎士や戦士だというものに他ならないのだ。

 

 ――また? 自分は一体、どこで同じような経験をしたのだろうか。

 その疑問を一度無視し、バーサーカーへと視線を動かしたとき、得体の知れぬ衝撃が全身を襲った。

 覚えが無い。だが、知っている。あの顔を、知っている。

 砂金を溢したかのような髪に、線の細く丹精な顔立ち。何かが決定的に違う気もするが、あのサーヴァントとよく似たものを知っている筈だ。

 あれはいつだったか、思い出せない、思い出そうとすると頭が痛い、痛い、痛い、割れるほどに、割れる、割れる、しかし思い出さなくては、そういえばライダーのマスターもどこか見覚えが、痛い、痛い、頭蓋が砕ける、心臓が暴走をはじめる、汗が止まらない、――――そうだ、間違いない。僕は確かに、バーサーカーの顔を知っている。ライダーのマスターによく似た人を知っている!

 

「邪魔立てすることは俺にもあった! 確かにランサーとセイバーの一騎討ちを邪魔立てした! だが、横から首級を奪うことはない。それは一騎討ちに臨んだものへの侮辱であり、剣への侮蔑だ!

 だがアサシン、貴様には分からぬだろう。勝利を得たのだから構わぬだろうと貴様は考えている筈だ。――舐めるでないぞ、この張遼、与えられた勝利に興味は無しッ。勝利とは己で勝ち取るものなのだッ。故に俺は、貴様を斬るぞアサシンッ!――遼来々!」

 

 爆発的速度でアサシンに迫るライダー。憤怒を込めた一撃は的確にアサシンを捉えたが――甲高い音と共にそれは阻まれた。

 

「貴様も邪魔立てするか――バーサーカーッ!」

「■■■ァァ■■ァァッ!」

 

 理性と人間のマスターをなくしたバーサーカーに、一度に複数の相手と戦う知恵など残されていない。ライダーがアサシンに襲い掛かったのだからそれを見守れば良いのだが、それが出来ない。単純に自分の目に付いたものに飛び掛るのみである。

 バーサーカーからすれば、初見のアサシンよりも今まで何度も刃を交わしたライダーのほうが優先的に倒したい怨敵だ。自分に害を加えたものをとことん襲うというのはまさに猛獣だが、もとよりバーサーカーとはそういうものである。

 これに関して、バーサーカーの行動はアサシンを助けることとなった。 

 

 アサシンは既に解けていた術式を再起動し、疾風となってその場を去る。それをライダーは見送ることしか出来なかった。バーサーカーは確実に脅威となる敵であり、それに背中を見せることなど出来るはずもない。

 だが――この場で唯一その限りでないものが居る。

 

「ライダー、私が追いますッ」

「ならん紗紗、仮にも相手はサーヴァントだぞ」

「サーヴァントも相手に出来るように訓練したのは貴方でしょうッ。それに、あのアサシンとの一騎討ちならば私に分があります」

 

 バーサーカーの猛攻を捌きながら、ライダーは逡巡した。

 確かに、あの戦闘能力であればサーシャスフィールのほうが強い。それは間違いないだろう。ライダーもそれについては異論は無い。

 だが、サーヴァントは須らくそれを覆す要素を持っているのだ。サーヴァント自身が劣っているのならば、それを覆す宝具を所持している場合がある。そうでなければ英霊と成りえない。

 おそらく宝具の一つはあの超人的な加速だろう。もはや人体の限界にまで踏み込んだ動きだ。アサシンらしからぬ、ランサー並の瞬発力である。

 だがそれは必殺の宝具とは言いがたい。ならばもう一つかそれ以上、宝具を隠し持っていると見るべきなのだ。

 

「――しかし」

「ライダー。私もまた貴方に魅入られた戦士なのです」

 

 ――これは参った。こうまで言われては、返す言葉もない。

 ライダーならば、一も二もなく追うだろう。それこそ目前のバーサーカーを放置しても。そうしないのは、偏にサーシャスフィールの存在があるからだ。ここでバーサーカーを置いてアサシンを追うことは難しくないが、そうなるとサーシャスフィールは付いてこれない。当然、バーサーカーの元にサーシャスフィールを置き去りにすることになる。

 そして、ライダーが自分を気にする余りアサシンを逃そうとしている。これを察することの出来ないサーシャスフィールではなかった。

 ライダーに魅入られたものとして、ライダーの足手まといにはならないとサーシャスフィールは言ったのだ。

 戦いに臨むものとして、足手まといは御免なのだ。邪魔な荷物になってしまうとしても、せめて軽い荷物でありたいのだ。

 

「……これではどちらがマスターか分からんな。

 紗紗、深追いはするな。アサシンは逃げに徹している。追うに留めて俺が来るのを待てッ。単騎での行動となるが、案ずるな。俺は誰よりも早く駆け、誰よりも早く斬る!」

 

 それを聞くや否や、サーシャスフィールはアサシンが消えた方向へと白兎を駆った。

 その蹄の音が遠ざかり、遂には消えたことを確認し、ライダーもまた黒兎を駆る。白兎が向かった先とは逆方向に。バーサーカーをサーシャスフィールから引き離すべく。

 

「さあ、バーサーカー。せいぜい俺を追え。俺は誰よりも早く駆け抜ける。さっさと見失い、諦めることだッ!」

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 アサシンは予想外の追跡者に驚いた。まさかライダーのマスターが来るとは。

 彼は既に予め用意しておいた車両で移動を始めていた。むろん盗難車である。彼の脚力では徒歩よりも車両のほうが遥かに勝るため、当然といえば当然の判断だった。

 だが、ここでマスターそのものが襲い掛かってくるとは予想外にすぎた。マスターが前線に出てくるなど、考えがたいことだ。

 考えがたいことだが――これならばかえって好都合かも知れない。あわよくばここで暗殺する。彼の中で方針が若干修正された。

 車両は一般的なセダン車だが、人を轢殺するには十分な重量と速度を併せ持っている。これならば勝機はある。十数メートル後方の敵の移動手段は馬。信じがたいことにゆうに時速百キロメートルをゆうに超えている。ぴったりと車両に喰らい付いている。むろんこの車の最高速度はもっと出るが、入り組んだこの路地でこれ以上の加速は自殺行為だった。引き離すことも出来ない。だが無理に引き離す必要もまた無くなった。

 

 左折した先が塀で見えなくなっているT字路を見つけた。道路脇に置かれた、子供の形をした飛び出し注意の立て看板がいやに目立つ。

 スピードを落とすことなく左折しきったと同時に、急ブレーキを踏みつつハンドルを切る。車体は地面にタイヤ跡を残し、綺麗に反転することに成功した。先ほど曲がったT字路を正面に見据える形になる。そしてタイミングを見計らい一気にアクセルを踏み込んだ。タイヤが空回りした後に殺意を以って車両は前進した。

 スポーツカーでないにしろ、人を轢殺するには十分な加速を得る。そして計ったとおりのタイミングで、馬に乗ったをそれはコーナーから姿を現した。

 しかし、すぐにそれは視界から消えた。

 車両を飛び越えたとアサシンが理解したのはT字路を完全に通過し切った後である。恐るべき反応速度であった。あのタイミグであったなら、立場が逆であったならば絶対に助からないであろうという必殺のタイミングだった。

 アサシンは認めざるを得なかった。身体能力だけをとれば、この女のほうが勝っていることを。

 パワーウインドウから腕を出し、コンテンダーの引き鉄を絞る。何発か発砲したが、いずれも命中しなかった。運転中という射撃に適さない状態もあるが、それ以上に騎乗している馬が賢しい。

 決して射線に留まろうとしないのだ。射線に入った次の瞬間には左右に動いて弾丸の脅威から主を守る。騎手もそれを理解しているため、騎乗に専念できる。

 ライダーほどではないにしろ、人馬一体の様相を呈していた。

 さながら中世の騎士だ。厳しいハルバードを構え、人馬の間には感性された何かがある。そしてその時代遅れの組み合わせが、徐々に車両を追い詰めているのだ。

 両者の追走劇は、入り組んだ路地から大通りへと移る。人通りは無い。街路灯の明るさだけが目に付く光だ。

 

 白兎の身体の隅々まで魔力が行き渡っていることをサーシャスフィールは感じた。今、白兎は最高の状態だ。

 白兎はライダーによって存在を宝具まで押し上げられた。そのあり方は独立した概念武装に近い。

 宝具馬に宿された概念は速くはしること。

 だからこそ宝具馬は並外れた運動能力を保有することを可能にしている。だが、ただの馬がサーヴァントが駆るに相応しいものになろうとすれば、神秘をその身に内包するしかない。

 ゆえに、彼らは魔力をその身に宿す。大源(マナ)を吸収し、自身の中で燃焼させる一個の内燃機関。

 本来、大源を利用するには大掛かりな儀式が必要になる。だがそれを可能にするのが宝具馬なのだ。

 無理を通せば道理は退く。宝具馬はただ速く走るためだけに、この世の道理を捻じ曲げた存在。

 彼らが走るだけで、その身には魔力が迸る。魔術回路など持ち得るわけがない。だがその身はもはや礼装。道具に魔術回路など必要はなく、ただ神秘を起こすのみ。彼らは、ライダーからの供給なしに成り立つ、確固とした魔術である。

 魔術が、宝具が固有のものであるように、宝具馬もまた特殊な力を持つことがある。宝具へと成る際、馬の能力や性格によって発現することがあるのだ。黒兎は騎手を勝利に導くため、正確に戦局を把握する目を。サーヴァントに匹敵せんとするほどの視力だ。ランサーとの攻防についていけるのはこの目によるところだ。

 そして白兎は、主を守る力を。目に見えぬ、薄く硝子のように巡らされる守りの概念。それが白兎の能力。その力は弱く、敵の宝具などは防げ得ないだろう。だが今、ただの弾丸程度ならば跳ね返すほどの硬度を白兎は得たのだ。

 もはや白兎を妨げるものは何も無い――!

 

 そして白兎の能力が過去最高に至っているのと同じように、サーシャスフィールもまた新たな技を身に付けていた。白星がなかなか上がらぬため、急遽考案したものである。

 サーシャスフィールは懐から針金を取り出す。一見するとただの針金だが、永きにわたるアインツベルンの錬金術の粋を集めた金属だ。そこに魔力を通し、一つの物体を形成する。

 それは人間の手だ。

 ただし、大きさはまさに巨人のそれである。巨人の腕の肘先からのみが、針金によって形作られていた。一本の長い針金を編んだだけのそれは、サーシャスフィールが持つ一端だけを支えに中空に留まる。彼女の右手の動きに合わせて、鋼鉄製の巨人腕の指もまた動いた。

 サーシャスフィールが大きく右手を前に突き出す。その手は拳の形に固く握られていた。

 直観的な判断によりアサシンは大きくハンドルを切る。車体がタイヤ痕を残しながら大きく揺れた。そして、つい先ほどまで居た場所に巨人の腕が凶悪な唸りをあげて通過する。針金の束は彼女の手で束になっている。それを解いた際のリーチは、アサシンが思っていた以上に長かった。

 咄嗟に回避しなければ車と一緒に潰されていたかも知れない。

 見た目どおりの質量と考えるならば、さほど威力はなかろう。だが魔術師の礼装であり、魔術そのものだ。楽観は出来ない。少なくとも一撃でこの車両を破壊するほどの威力はあると見るべきだ。

 だが――これは同時にチャンスでもある。

 

 衛宮切嗣の持つ最後の宝具――『起源弾』。

 生身の人間に使っても殺傷能力は持ち得ない。これは魔術師に使ってこそ意味のある宝具だ。

 これに魔術を以って介入した魔術師は、全身の魔術回路を流れる魔力の暴走による自滅する――これは魔術師においては必殺の威力を持つ弾丸である。

 アサシンはコンテンダーの中に新たな銃弾を込めた。今のところは通常弾頭である。

 これが真価を発揮するのは、相手が全力で魔術回路を運用した際である。アサシンは逃げながらもその機会を伺う。敵を調子付かせるか、あるいは追い詰めて全力を引き出す。

 

 再度の巨大な鉄拳も回避する。しかし何度も避け続けられるものではない。

 直接的な魔術による攻撃はできないらしいのは幸いであった。礼装などによらない攻撃はコンテンダーの一撃では如何ともしがたい。

 狙うのは針金の腕。あれに全魔力を傾けた運用をさせる状況を作らなければならない。あれには術者の魔力が込められているのは疑う余地なく、起源弾を一撃食らわせれば勝利も同然だ。

 アサシンはあらゆる状況を想定する。

 例えば自分が彼女を追い詰め、全力を引き出すことは可能か。否。実力差ははっきりしている。脆弱なアサシンの中でも一際貧弱な自分の戦闘能力では歯が立たない。そもそもそのような状況を作れるのならば起源弾など必要ない。

 ならば、相手が自分を与しやすい相手と捉え、不必要な追撃を行う状況はどうだろうか。挑発なども交え、相手を激させればどうだろう。

 現実的なのはこちらに思えた。

 

 アサシンは既に記憶を失っているが、第四次聖杯戦争のランサーのマスターであるロード・エルメロイにも用いた戦略である。相手の性格にもよるが、これが有効な手段であることは古くから立証されているのだ。

 孫子に曰く、これを下さんと欲するならば、まず与えて固くせよ。

 こちらから攻め立てると相手は防御に徹してしまう。そうなればこれを打ち倒すのは難しい。だが最初に相手に弱みを見せ、今ならば討ち取れるという印象を相手に与えるのだ。

 そうすれば相手は自ずと攻めに出てくる。これを討ち取ればよい。相手は劣勢に立ったとしても、最初の印象を拭うことが出来なければ、熱くなるばかりで決して退こうとはしない。

 ロード・エルメロイとの戦闘はこれを体現したかのようであった。アサシンは意識としては覚えていないが、習得して身体の一部となったものは体が忘れない。

 そういった無意識の選択がアサシンを逃げに徹せさせた。ライダーが現れるなど状況に変化が無い限り、振り切ってしまわないように留意して逃走する。この宝具は魔術によって干渉してもらわなければ意味がない。生身の体に当たったところで、大した負傷を相手に負わせることが出来ない。

 

 バックミラーで位置を確認しながら発砲する。白兎を狙ったものだ。だが、今度は白兎は回避しない。白兎の持つ守りの力は、弾丸を苦も無く退けた。

 すぐさま装填し再度発砲。だが何度これを繰り返そうとも守りを貫けない。

 外堀は徐々に埋まっていた。ここまで劣勢に立ったところを見せれば、ここで討ち取ろうと追撃してくるはずだ。

 路地を抜け、無人の国道を猛進する二体。法定速度などとうに超えている。大通りは直線が多く、身を隠すものが少ない。無理な射撃とはいえ十分に戦えた。直線ならば車体も安定して走行できる。狙いは若干甘くなるが、白兎でなく普通の競走馬ならば既に被弾していただろう。

 静かなオフィス街を騒がす排気と蹄が路面を抉る音。炎熱を伴った蹄がアスファルトを焦がし、抉り、蹂躙しつつ前進する。

 駆ける。走る。鋼鉄と化石燃料で走るそれに、古くからの馬が負けたのはいつからだろう。もっと早く移動したいと人が願ったときからだろうか。

 だがこの瞬間、その常識は覆される。魔力によって水増しされているとはいえ、生身の馬が車両に追いすがる。

 赤く灯る信号を、天を穿つビルを、そして月さえも後方に送る。あまりの速度に、サーシャスフィールの視界は極端に狭くなる。風圧で目から涙が出そうになるのを堪え、息さえもままならない速度に身を任せる。腿が攣りそうになるのを堪え、そしてその先に白兎の最高速度を迎える。

 

 宝具馬とは一種の概念武装だ。――それは。ただ速く走るための存在。

 命を濃縮し、魔力を燃焼させ、ただ速く走るための一個の機関。この世で最初に人類に速さをもたらした、得がたき友。

 ゆえに白兎は走る。主を守り、その手に勝利を導くために。

 逃げるのはアサシン。アクセルを限界まで踏む。

 アサシンは、運転に集中しながらも手早くコンテンダーのバレル・アセンブリを交換する。通常の拳銃弾である.22LRからライフルカートリッジへ。

 最後の布石だ。

 チャンバーへライフル弾を押し込む。コンテンダーはカートリッジの交換により多様な銃弾を放てるのが強みだ。ライフル弾の威力は拳銃のそれとは比べることも出来ない。弾の威力は、その速度の二乗と質量に比例する。火薬量の増大により速度も大幅に上がり、弾頭の質量もまた大幅に上がっている。

 その威力はまさに――悪辣。

 

 狙いを定めて放つ。今までと桁違いに重い発砲音。

 それは白兎の守りを突き抜けて、サーシャスフィールの肩口を掠めていった。

 

「――――ッ!」

 

 擦過傷により肩に激痛が走る。確認できないが、多少抉られたらしい。摩擦熱で傷口が焼けたのか出血は少ないが、尾をひく痛みがある。大の大人でも泣き叫ぶほどの激痛だ。

 だが声を飲み込み、眼前を睨み付ける。

 ――やってくれる。

 今までの銃弾とはわけが違う。なるほど、強かだ。今までの弾丸はこちらを油断させるための布石か。

 だがその必殺の弾丸も、手の内が知れれば防ぎようはある。

 サーシャスフィールは銃に疎いが、これ以上強力な弾丸があるとは思いがたかった。強力な弾丸を放つには、それなりの大きさを持つ銃器が必要だ。それを隠し持っているようには思えなかったし、なにより必殺を期するのに出し惜しみするとは思いがたい。

 勝てる。

 サーシャスフィールは今、ライダーの言葉を理解する。

 己の武を試す。何と心地よいことか。勝利を確信したときの、なんとも言いがたい愉悦か。

 アハト翁の作品である自分が、なぜこのような気持ちを抱くのかは知らない。だが鳶が鷹を産むこともあるのだ。この一瞬、確かにライダーの境地に至ったと確信した。

 アサシンが再び弾丸を放とうと窓から銃口をのぞかせる。この弾丸は先までの弾丸よりも速く、白兎の反応を越えている。よって回避はしない。

 サーシャスフィールは腕の形に編まれていたそれを解き、大盾をそこに形作る。高密度に編まれたそれは隙間などなく、またアインツベルンの錬金術の集大成でもあるその針金は既知のどんな金属よりも強靭だ。

 弾丸が放たれるが、音速をも超えたはずのライフル弾はその盾の前に弾かれた。盾には傷一つ残ってはおらず、その脅威の防御性能を物語る。

 

 そして遂に、白兎はハルバードが届くほどの距離まで接近した。

 躊躇わずサーシャスフィールはタイヤを突いた。高速移動中に重心が移動したため、車両は後部を滑らせたのちにスピンする。それに巻き込まれぬよう、白兎は速度を落とし今一度距離を取った。

 

 完全に停止したのを見計らい、サーシャスフィールは白兎を駆る。

 もう一度銃弾を放つだろうが、それは完全に防御可能なのは先ほど立証済みである。そしてアサシンの銃が連射不可能なのも分かっている。

 一撃を防げば、勝利は確実。

 サーシャスフィールは大盾に自分が持てるだけの魔力を注ぎ、その硬度を水増しする。

 

 ――この瞬間。互いに勝利を確信した。

 



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Act.29 銃弾

 サーシャスフィールとアサシンの戦いが騎馬と機械ならば、ライダーとバーサーカーの戦いは騎馬と徒歩(かち)だ。

 その脚力は歴然としている。人間の足が馬に勝てる道理がない。

 だが、それを覆すからこそ英霊。

 身体能力で劣ろうとも、それを宝具や技能によって穴埋めし、敵に迫る。バーサーカーとてそれは変わらない。

 ライダーにとってこの戦闘は必ずしも首級を上げるべきものではない。ここでバーサーカーに時間を掛ければサーシャスフィールはその分孤立していることになる。

よってここはすぐさまバーサーカーをサーシャスフィールの戦闘圏から離し、その後振り切ってサーシャスフィールのもとに参じるという、とんぼ返りを要求される戦いなのだ。首級が上がるならばそれで良いが、最も優先すべきは一刻も早くサーシャスフィールの元へ向かうことである。

 サーシャスフィールからバーサーカーを引き離すようにライダーは駆け、バーサーカーはそれを追う。速度はライダーが上回るが、背後からの妨害により引き離せないでいた。何事も、逃げる側よりも追う側が有利なのである。

 

 バーサーカーの持つ下克上の宝具。名を『命を賭して革命を(フォー・レボリューション)』。

その効果は、敵が自身よりもステータスで上回っていた場合、魔力消費を増すことで自身のステータスをそれと同等まで引き上げることである。魔力消費量は増加したステータスに応じて増大するが、それは『王位を約束した剣(クラレント)』の力により無視できる。魔力消費の問題さえ解消できるのであれば、どのサーヴァントと戦っても互角以上の戦力を約束する宝具だ。しかも、負傷を含めるいかなる場合にも、死に絶えるその瞬間まで戦闘能力が低下することはない。まさにライダーにとっては天敵ともいえる相手である。

 

 だが魔力消費よりも大きな問題が存在する。

 瞬間的ならば自分のステータスよりも高い能力を発揮することが可能なサーヴァントは多く居る。C+などがそれに当たる。C+ならば一つ上位のBクラスほどの能力を発揮することも可能ということだ。

 だが長期に渡ってそれを行うことは出来ない。何故なら、それはまさしく自分の能力の限界を超えているからだ。

 ライダーと刃を交えた八海山澪のように、限界を超えた行動は身体を傷つける。

 今まさにライダーを追うバーサーカー。彼が今発揮している身体能力は、身体の限界をとうに超えているのだ。

 

 駆け抜けた場所に血を滴らせ、それでもなおライダーを追う。

 黒兎が抉ったアスファルトの礫を浴び、甲冑を纏わない顔面から血を噴き出しつつ、しかしそれでも意に介せず猛進する。

 流す血は外傷によるものだけではない。限界を超えた身体の酷使で、甲冑の隙間から尋常ならざる量の出血が見られる。

 しかしそれでもなお、何かに突き動かされるように、赤い獣は夜を駆け抜けた。

 

 その顔は丹精だったのだろう。だが今は見る影もない。

 肌は血に塗れ、目は憎悪で染まり、髪を振り乱し、咆哮は涸れ果て、血管は浮き出ている。剣を握り、街路を駆け抜けるその様はさながら悪鬼である。

 

「こやつ、粘りおる……!」

「■■■ァァ■■ァッ!」

 

 次第にライダーは焦りを覚え始めていた。バーサーカーとまともに戦闘を行えば長引くだろうことを培った経験から悟った。バーサーカーは戦った相手と同程度の戦闘能力を発揮できるよう、宝具によって補正を受けているのだから、短期で決着をつけるのは難しい。

 いや、あえて言おう。まともに戦って勝てるという保障はない。返り討ちも覚悟せねばならない。

 だからこそ可及的速やかにバーサーカーを撒こうとしているというのに、かえって時間が掛かってしまっているようにも考えられる。

 いっそ今から刃を交えて討ち取るか。

 そう考えたが、すぐにその考えを捨てた。それは悪手だ。それも最もやってはならない事である。

 それを選択するのであれば、最初からそれを選択していなければならない。ここで戦闘を行うのであれば最初からするべきだ。今から戦闘を行ったとすれば、今まで逃走に時間をかけた分が完全に無駄である。初めに逃走が良いと考えたのであれば、機が転じない限りそれを改めるのは愚策だ。

 機が訪れた訳でもなく、怒りや焦りで進軍するものはこれを挫かれる。孫子に曰く、将の五危の一つである。ここで焦って戦闘を行い、逆に討ち取られる可能性だって十分にあるのだ。

 故にライダーは裂帛の意思を以って駆け抜けた。この逃走ことが彼にとっては戦闘である。

 

 張遼は間違いなく優秀なサーヴァントだが、大きな弱点が存在する。

 彼には真名開放をし、必殺の一撃を放つという宝具を持ちえていないことだ。持つのは通常の戦闘を有利に運ぶ類のものばかりである。

 それは即ち、ステータスを低下させられてなお自分に迫るものと戦闘した場合、それを確実に討ち取れるという確証を得られないということなのだ。

 必殺の宝具を持たないということは、ステータスで自分に完全に勝る相手と戦闘した場合に勝率が著しく落ちるということを意味する。

 実力通り、順当に勝つ。順当に負ける。地力で劣るものと戦えば勝利し、勝るものには負ける。大番狂わせなど無い。それがライダーなのだ。

 つまり今の状況で言えば、脚力で自分に迫るものが存在する場合、それを振り切る術を持たないのだ。

 

 ゆえにライダーは祈るしかなかった。サーシャスフィールの無事を。

バーサーカーは走れば走るほど負傷しているため、時間さえ掛ければすぐに行動不能に陥るだろう。だが時間はおそらく掛かってしまう。それが数秒後なのか、それとも数十分後なのか、バーサーカーの様子からは判断できない。

 沙沙、どうか深追いはするな。無事でいてくれ。

 この一念をひたすら祈った。

 張遼が生きた世では、妻や子は遠征に向かった先で新たに作れば良いという考えがある。それはいつ死ぬか分らない身には家族は重く、身動きが取れなくなるという考えも少なからず含まれる。

 とかく三国志の将は家族を顧みなかった。それは張遼とて変わらない。

張遼はともかく己の武を極めればそれでよかったのだ。

 そしてそんな彼が、生まれて初めて命を賭して守りたいと思った女がサーシャスフィールなのである。

 それを遂行せんがため、ライダーは黒兎を急き立てた。

 一秒でも早く主の下へ馳せ参じるべく、ライダーは吼えた。

 

「遼来々!」

 

 だが、距離は開かない。加えるなら、ライダーはバーサーカーをサーシャスフィールから遠ざけるべく、彼女らとは反対の方向に疾走しているのだ。

 つまりバーサーカーを振り切るのに時間をかければ、その分帰路も伸びる。ゆえにライダーは焦るのだ。

 ここで踵を返したとしても、サーシャスフィールのもとにバーサーカーを引き連れる結果になりかねない。かといって今更刃を交わす時間も無い。

 ――もし、サーシャスフィールに危機が迫っていても、馳せ参じることも出来ない。

 

「――――遼来々ッ!」

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 サーシャスフィールは勝利を確信した。

 アサシンの銃弾は、針金を編んで作り上げた大盾を貫通することは出来ない。それどころか傷さえ与えることが出来なかったのだ。銃弾は火薬の爆発の反作用で発射されるのだから、使用者の都合で威力を加減することなど出来ない。先ほどの一射で成せなかったことは、次の一射でも成せないのだ。

 故にサーシャスフィールは確信したのだ。次の瞬間にアサシンは銃弾を放ち、それを大盾は難なく弾き、しかる後に自分がハルバードでアサシンを貫く。

 アインツベルンの錬金術によって生み出された金属は容易に破壊出来ず、それは即ち盾とハルバードの強靭さを同時に約束する。

 白兎が跳びかかり、一気に距離を詰め、大盾に隠した身の後ろでハルバードを限界まで引き絞る。

 ――――全力の一撃を以って敵を刺し貫こう。

 

 アサシンは勝利を確信した。

 銃弾はあの盾を貫通することが出来ないが、そんなことは問題ではなかった。アサシンの起源弾は、それに魔術によって干渉した術者の魔術回路を破壊し、魔力を暴走させることによって術者を抹殺するという代物だ。つまり、障壁などに触れさえしてしまえば良いのである。まさしく魔術師殺しに相応しい弾頭であった。

 だが弱点もまた存在する。この宝具は、弾丸をアサシンの生前の体の骨から削りだして製造したという経緯があるため発動回数に制約がある。また、弾丸に魔術によって干渉しようとも、それが術者と独立した礼装などであれば術者は無傷であるということだ。例えば魔力の満ちた礼装に命中したとしても、その礼装は魔力の暴走によって破壊されるだろうが、それが術者と魔力供給の関係になければダメージは通らない。令呪などもそうだ。令呪の込められた魔力を何かに転用し、その転用先がこの弾丸に触れたとしても破壊されるのは令呪のみである。

 全てに共通して言えるのは、この弱点は確実に命中させ、かつ術者が直接扱っている魔術によって干渉させれば事足りるということだ。つまり勇み急いで撃たず、冷静に相手の戦力を分析した上で使えば確実にこの弾丸は魔術師を殺す。

今までに何度もこの弾丸を使用し、その数だけの魔術師を抹殺してきた。

――――今回もまた例外でない。

 

 両者ともに必殺を確信する。

 サーシャスフィールはハルバードを引き絞り、アサシンは照準を的確に合わる。

 彼我の距離はもはや一呼吸。サーシャスフィールは相手が発砲しないのであればこのまま轢殺する算段である。射線に体を晒したりはしない。大盾に身を隠したままだ。

 それゆえに、アサシンに不自然なほど感情の揺れが見られないことを察知できない。

 アサシンが引き鉄を絞る。狙いは恐ろしいほどに正確。

 

 そして轟音が夜を支配した。

 

 一瞬遅れて何かが倒れこむ音。アスファルトにハルバードが叩きつけられて乾いた音がした。まだ辛うじて息があるのだろうか、空気が抜けるような息遣いが聞こえる。身体が著しく破壊されたのか、白い体は鮮血で染まりつつある。

 

「ああ、白兎! 気を強く持ちなさい!」

 

 銃弾を受けたのは、白兎であった。

 時に動物は人間の理解の及ばぬ感性を発揮する。それが放たれる寸前、白兎は動物的な本能で銃弾の危険性を察知した。

 そして白兎は己の主を守らんがため、主を渾身の力で振り落とし、自ら銃弾をその身に受けた。

 被弾した胸元は歪に抉られている。ライフル弾を至近で受けたのだ、これでも比較的傷の浅い部類である。

 それは偏に、白兎の持つ守りの力、一種の障壁の為せる技であった。その力はライフルの威力を殺ぎ、ゆえに即死を免れるに至った。外面的な負傷のみを考慮すれば、適切な処理をすればよもや助かるかも知れない。

 しかし、白兎の命をまさに奪おうとしている要因もまた、その障壁にあるとは何という皮肉か。

 起源弾は、それに魔術によって干渉した対象を破壊するに足る力を持っている。それは白兎の障壁も例外ではない。

 魔術回路こそ持たないが、擬似的なものをその身に宿し、一個の礼装とした存在である。起源弾は白兎の擬似魔術回路を悉く破壊し、そこに流れていた魔力は奔流し白兎の身体を著しく傷つけた。

 

 もはや身体の内外を問わず、まともに機能している部位のほうが少ない。何故なら白兎は渾身かつ裂帛の意思を以って主を守らんとし、それゆえ障壁を自身が持つ最大規模まで展開していたからだ。起源弾の効力は被弾する側が運用していた魔力量に対応する。

 

 アサシンは臍を噛んだ。

 確かに引き金を絞るその瞬間まで、弾丸はライダーのマスターを屠るはずだったのだ。

 だがすぐにその考えを改める。これで問題は無い。

 

 車のドアを開け、静かに彼女に歩み寄る。確実に弾丸を命中させることが出来る距離まで。ライフル弾は反動が大きく、確実に命中させるにはある程度近付いておきたかった。今の距離でも彼ならば十分に命中を得られるのだが、万全を期す。

 

「白兎、いけません……! しばし耐えなさいッ」

 

 サーシャスフィールはアサシンがその場に居ることを忘れ、白兎に治癒魔術をかけようとする。――仮に完治したとしても、白兎がもう二度と走れないだろうことは分っていた。

 だがそれでも、そうせざるを得なかった。白兎は半年に渡って信を置いてきた、自らの片割れである。莫逆の友である。刎頚の契りを交わすに足る兄弟である。

 それが今、死に絶えようとしているのだ。無駄だと分っていても、何もしなければ後悔が残る。

 もはや僅かたりとも動かない白兎に向かって、必至に治癒を行う。

 

 コンテンダーの銃口は、サーシャスフィールの心臓を狙っていた。

 引き金には指がかけられ、今まさにそれを絞らんとする。

 

 しかしその時、わずかに白兎の瞳が開き、アサシンを捉えた。

 肺はすでに破裂しているというのに、白兎は一度だけ嘶く。

 ――捨て置けと。

 主が生き延びねば、自らが死ぬ意味がないのだと。

 

 どこまで行っても人と馬、言葉など分るはずもない。

 しかしサーシャスフィールはそれを理解した。彼女もまた人馬一体である。

 それを理解した瞬間、サーシャスフィールはハルバードを握り、それと同時に戦意をアサシンに叩きつけた。

 

shape(形骸よ) ist(生命を) Leben(宿せ)!」

 

 懐から先ほどの針金を取り出し、迷うことなくそれを唱えた。

 針金は瞬く間に編みこまれ、一つの形を成す。

 それは見事な針金細工の鷹であった。

 

「KYEEEEEEEE!」

 

 甲高い、もはや人類には発生できないような声を上げる。

 針金細工の鷹は飛び立ち、アサシンに鋭い爪を向けた。

 眼球を狙った爪は回避されたが、アサシンは発砲の瞬間に視界を奪われた。ライフル弾はサーシャスフィールの足元を抉る。

 銃弾が外れたのであればこちらのものだった。あの銃が連射できないことは確認済みである。

 

 転がっていたハルバードを拾い上げ、身体のバネを利かせて距離を一息で詰め、全身を使ってハルバードを薙ぐ。

 袈裟に振り下ろされた一撃をアサシンは回避し、宙を斬ったハルバードはアスファルトの路面を盛大に砕いた。

 

 不思議なことに、サーシャスフィールの中に怒りは無かった。

 それがホムンクルスゆえの感情の欠落か、それとも魔術師として死を当然のものとして捉えているからか、彼女は分らなかった。

 憎しみも無い。悲しみも無い。

 ただあるのは、ここでアサシンを誅殺すべしという、感情を越えた一念であった。

 

 いや、もしかすると、それこそが怒りなのかも知れない。憎悪かも知れない。

 何故なら彼女は、今までこのような激情に囚われたことは無かった。感情こそ備わっているが、それに翻弄させることは無かった。

 だから今、彼女は自身の胸の内に在る熱いものを理解できないでいるのだ。

 彼女は今、怒りと憎悪を知ったのだ。

 

「はァッ!」

 

 気合一閃。畳み掛けるような刺突から、熾烈な薙ぎ払いへの連携。

 だが固有時を加速させたアサシンを捉えきれない。確実に討ち取ったと思える一撃も、物理法則を無視しているかの如き加速で回避されてしまう。

 しかし、サーシャスフィールはこのとき、自身の持つ全てでアサシンを討ち取らんとしていた。

 

Faust()!」

 

 アサシンの頭上辺りで旋回飛行していた鷹が、その身を解き、新たな形を成す。それは先ほどの巨人の鉄拳であった。

 それがアサシンを殴殺せんと、唸りを上げて垂直落下する。それを転がるように避けた。

 アサシンはコンテンダーに起源弾を込めて鉄拳に向かって発砲するが、あまり密に編まれていないそれに命中を得ることは出来なかった。単なる偶然ではない。その腕は、確かに銃弾を避けるように網目を微妙に動かし、射線を空けたのだ。

 

 サーシャスフィールは憤怒の中でも十全の理性を保っていた。その理性で導き出した、一つの答えがある。

 あの銃弾、おそらく受ければ死に至る。

 だからこそ白兎は彼女の大盾から身を投げ出したのだ。あの銃弾そのものは盾で防げることは確かであるというのに、自ら身を晒した理由を考えればそれに至る。

 白兎の全身に見られる肉体の損壊の理由も、それである程度は説明がついた。あの弾丸は魔術的な何かだ。

 しかし全ての銃弾がそうではない。

 サーシャスフィールは一度、あの銃弾を受けているのだ。肩口の擦過傷はまだ痛みを引きずっている。

 しかし、白兎のような事態には至っていない。あくまで軽傷に留まっている。

 一般的な弾頭と、魔術的な弾頭を使い分けているのは明白だった。

 

 しかしその見分けなど不可能。込められる弾丸の違いなど、サーシャスフィールには分らない。

 ならばそれら全てを回避する。盾で受けることもしない。

 白兎に振り落とされた次の刹那、つまり白兎が銃弾を受けた瞬間、白兎が持つ魔力が暴走するのを感じた。それが白兎の身体を破壊しつくすのも、よく分った。

 魔術回路を破壊して魔力の暴走を招く代物であるのは明白であり、それを魔術的に防ぐのは危険だ。

 

 ゆえに弾丸を撃たせず、あるいは装填させる隙を与えぬように攻め続ける。それらを許したとしても、決して防ごうとは考えず回避に専念する。

 

 ゆえに魔力は針金のみに注ぎ、自身へは身体能力の強化に留める。針金を狙われても構わないように密に編まず、発砲される際には銃弾が通ると思われる部分を空ける。

 

 アサシンがサーシャスフィールに向かって発砲するが、銃口が向けられた瞬間に彼女はその射線から外れる。決して狙いを定めさせないように不規則に動き続ける。

 サーシャスフィールの身体能力は並みの人間をとうに凌駕していた。

 もとより、代行者などに遅れを取らないようにと身体能力にも大幅な改良を施された素体である。彼女は、かつての言峰綺礼と同等かそれ以上の身体能力を発揮せしめた。

 要するに、サーヴァントの足元に触れる程度には、彼女は強いのだ。

 

 並外れた反射神経と反応速度で銃弾を回避し続ける。いや、それでは語弊があるだろう。放たれた銃弾を見てから回避することは彼女でも不可能であるから、放たれる瞬間に射線から離脱しているのである。

 その様はまさに白兎であった。それもそのはずで、白兎の動きをサーシャスフィールは模倣しているに過ぎない。

 跳ねるような左右の動き。不規則な軌道に、アサシンは碌に照準を定めることが出来ずにいた。

 

 サーシャスフィールは確実にアサシンを追い詰める。

 ハルバードから繰り出される剣戟はそのどれもがアサシンにとって致命のものである。アサシン――つまり衛宮切嗣は、サーヴァントはおろか通常の魔術師の攻撃でも十分に死に至る脆弱な存在である。そもそも、本来ならばサーヴァントになれるような存在ですらないのだ。直接的な戦闘力はどのサーヴァントにも、ひいては直接戦闘を専門とする魔術師にも劣る。

 

 だがそんな彼をここまで生き残らしめたのは、偏にその手段を選ばない冷酷さと冷静さにある。

 追い詰められながらも、そこから活路を見出すべく思考を巡らせた。

 現在携行している武器の確認。弾薬の残量の確認。相手の戦力及び戦法の把握。

 暗殺を主にする彼にとって、このような直接的な戦闘は決して経験豊富とは言えない。だがそれでも、いくつもの修羅場を潜った戦略眼は確実に培われているのだ。

 

 現在携行しているのは、コンテンダーとその周辺部品、サバイバルナイフが三丁とささやかな爆発物、それにマスターとの連絡手段としての携帯電話とトランシーバーである。

 弾薬の残量はあまりない。無駄な発砲は控える必要がある。

 相手の戦力は、おそらく魔術的な攻撃はあまり得意ではない。錬金術を応用した攻撃は物理的なものである。得物はおそらくあのハルバードのみ。

 相手の戦法は明らかである。こちらに銃弾を撃たせまいと息を吐かせぬコンビネーションで封殺するのが狙いだ。熟練したハルバードの連続攻撃と、攻撃の合間の僅かな隙に放たれる鋼鉄の巨拳はこちらの反撃を許さない。

 もしも反撃を許した場合には、こちらの銃弾を防ごうとせず回避に専念する。

 

 これは――意外に厄介な相手だった。

 

 これまで、確かに彼は何人もの魔術師を地獄に叩き落した。

 だがそのいずれもが、戦闘には魔術的なものを用いていたのだ。ここまで物理的な相手は殆ど見たことがない。

 しかも銃弾を受けずに避けようとするのだ。物理的な方法で戦う者であっても、魔術師であれば受けようとするものである。第四次聖杯戦争のマスターの一人、ケイネスを見てもそれは明らかだろう。だから回避という選択は、まさしく一般的な人間と変わらない発想である。

 だが一般人であれば銃弾など避けられない。しかし、彼女はそれが可能なのだ。

 

 固有時を加速すれば相手を容易に捉えられるだろうと考えるかも知れない。相手が不規則に動こうとも、加速した時間の中であれば相手の動きは鈍く知覚される。

 それは間違いないが、戦術としては間違いなのだ。

 例えば通常の三倍で固有時を加速したとしよう。通常の十秒は彼にとって三十秒に感じる。このとき留意しなければならないのが、十秒間に目に入るはずであった光は、彼にとって三十秒にまで希釈されていることである。

 一秒間に十の光が目に入ると過程すると、彼は十の光を三秒間に渡ってでしか受けられない。一秒当たり、三分の一にまで明度が落ちる。

 つまり、固有時を加速すれば、視界は暗くなるのである。逆に遅延させれば視界は眩しく白むのである。

 

 実は、これにより固有時の操作は直接戦闘ではあまり使用できない。せいぜいが、とっさの回避や動かない目標を射撃する程度だ。とっさの回避であれば周囲が必ずしも見えている必要もない。その場から離れればいいのだ。

 固有時加速を攻撃に転用するならば、明度が半分や三分の一にまで落ちても十分である光源が周囲にあること――例えば火災のような――が条件となる。

 今回の場合、それは確保されていない。しかも今は夜間である。光源は周囲の民家から漏れる生活光や街灯程度。全く足りていない。

 この状況で固有時を加速することは自ら目を閉ざすことに他ならない。回避には十分使えるが、攻撃など望むべくもなく、かえって自らを危険に晒しかねないのは明白であった。

 

 だから固有時加速は用いられず、しかし彼女に銃弾が命中する望みも薄い。

 彼の勝機は、殆ど無いにも等しいのだ。

 

 勝機があるとすれば、おそらくただ一つ。

 それを実行するには、彼女が現代兵器に疎いことに賭けるしかない。

 アインツベルンは現世との交わりを絶った深い森の中に居を構える一族だ。おそらくある程度話は聞いていても、現代兵器の知識はほとんど無いに違いない。

 少なくとも、ある程度場数を踏んだ一般的な兵士であれば、このような小細工にかかることは無いだろう。

 だからこれは賭けである。彼女が無知であることに、加えるならば魔術師的であることに賭けるしかないのだ。

 

 だがこれを行うには距離が必要である。肉薄された状態では難しい。

 

 大地を割るが如く振り下ろされたハルバード。凶悪としか言いようのない風切り音が唸る。それを紙一重で回避すると、虚を斬ったハルバードは叩きつけられ、礫を撒き散らす。その礫が頬を切った。血が滴るが軽く拭うに留める。

 

 サーシャスフィールがハルバードを引き抜く一瞬の隙をつき、装填し発砲。

 だがまたしても命中せず。

 その強かさは、アサシンの中で一つの像を結びつつあった。

 もはや名は思い出せないが、僧衣を着た男。投擲用の剣を持った男。この強かさは、きっと彼と同等かそれ以上。

 異様な既視感。何か忘れ物をしているような気がするのに、それが何であるか分らないときの不気味さ。

 それに伴う頭痛。頭蓋の中で警鐘が打ち鳴らされる。

 

「が―――!?」

 

 突然の衝撃。身体が軋む音と、骨が砕ける音。

 彼女の鋼鉄の巨拳を正面から受けてしまったのだと気がついたときには、既にアスファルトに叩きつけられていた。受身を取る余裕もなかった。

 その一撃の重さは、ダンプカーに轢かれたのかと思うほどの重さであった。針金を疎に編んでいるだけであるのに、その見た目に反した質量を持っている。

 アサシンは地に伏せたまま、動けなかった。内臓も少しやられたのだろうか、口内は血と砂の味がした。

 

「立ちなさい。白兎を手にかけた罪、その程度で償えるとでも?」

 

 サーシャスフィールはその場から動こうとしなかった。自ら止めを刺しにいくことも自重している。

 彼女なりに、アサシンのことを最大限に警戒しているのである。これが演技であることも考慮していた。彼女の相手は紛う事無くサーヴァントである。こんな一撃で下せる相手ではないと思っていた。

 よって距離を保っている。

 だが現実はそうではない。通常のサーヴァントならともかく、彼にとっては十分過ぎるダメージである。

 しかし致命ではない。致命でないのであれば――活路はある。

 不幸中の幸いか、距離を取ることには成功したのだ。

 九死に一生を得るべく、彼は一瞬の躊躇もなくそれを実行する。

 

 誰にも聞こえない程度の声量で、口を開かず発音。

 Time Alter,triple accele.

 そして彼の世界は暗転し、それと同時に懐の中へ手を滑り込ませた。幸いにして、暴発はしていない。

 それは、自作したフラッシュバンである。

 フラッシュバンとは、殺傷を目的としない手榴弾の一種である。爆発と同時に閃光と爆音を発し、対象を一時的に行動不能にすることを目的としている。軍用のものであれば、六百万から八百万カンデラの閃光――日本最大の灯台が二百万カンデラである――を放ち、百六十から百八十デシベルの轟音――ジェット機のエンジン付近が百二十デシベルである――を発する。

 だがこれは、発煙筒の中にマグネシウムの粉末とキャンプ用品の発火装置を組み合わせただけの手製のもの。轟音も放たず、六百万カンデラになど遠く及ばないが、暗闇に慣れた目にとっては――

 

「なッ―――!?」

 

 熟練した兵士であれば、投げられたものを凝視せずすぐさま背を向けて伏せたであろう。だが彼女は魔術師である。本能ではなく理性で戦う魔術師としての反射行動は、投げ込まれたそれが何であるか理解しようとし、それを凝視してしまった。

 サーシャスフィールに知覚できたのは、ただただ白い閃光である。

 フラッシュバンには及ばないと言及したが、その光量は実に瞼の上からでも目を刺激するレベルである。それは一瞬で目を眩ませ、視覚を奪うのに十分であった。

 そしてそれは、サーシャスフィールの視界を奪うと同時にもう一つの意味を為す。

 本来ならば、背を向けるか目を覆わない限り、アサシンもその光で目を眩ますはずである。だが、そのいずれもしていないにも関わらず、彼の視界は明瞭であった。

 三倍速の時間の中で、光量も三倍に希釈しているためである。

 三分の一でも眩しいには違いないが、目が眩んで視界が奪われるには及ばない。アサシンにはサーシャスフィールの姿がしっかりと見えていた。

 

 既に弾丸は装填されている。あとは引き金を絞るだけである。

 装填されているのは起源弾。

 彼女が肉体を強化しているのは明白である。必殺とはいかずとも、確実に魔術回路を破壊するだろう。通常の弾頭では、魔術師が相手とするとストッピングパワーに欠くかも知れないが、これならば確実だ。命中すれば行動不能に陥らすことが可能である。

 

 標的は強い閃光に眩んで前後不覚に陥っている。すぐに持ち直すだろうが、それを待つ道理などない。

 そして再び必殺を確信し、それを放った。

 

 短い悲鳴。

 倒れこむ音。

 ハルバードがアスファルトを打つ。

 起源弾は、確実に彼女の肉体を抉った。そしてその効果を発揮せしめた。

 

「ぐ……ああぁッ!」

 

 だが彼女はまだ息がある。しかも、意識も保っていれば、魔術回路もほぼ無傷なのだ。

 ただ、右足にまるで壊死したような傷跡を残すのみである。

 信じられるだろうか。彼女は被弾する刹那の前、自らの身体強化を全て解いたのだ。それはまさしく、銃弾に対して防弾衣を脱ぎ捨てるに他ならない。それが自分の首を絞めると分っていても、それを咄嗟に判断できる人間などそうは居ない。それが例え魔術師であっても。溺れるものは藁にもすがるのである。

 

 身体強化を解いたならば銃弾を避けきれないであろうことは分っているはずなのに、あえてそれを選択したのだ。

 生き延びるために。

 白兎の死に報いるために。

 

 起源弾はその効果は発揮したが、真価はその限りではない。魔術によって介入されなかったため魔術回路を破壊することなく、ただ肉体を『切って』『嗣いだ』。

 切嗣の起源は『切断』と『結合』。それは不可逆の破壊である。

 サーシャスフィールの右足は一度切断され、すぐさま結合されている。表面上は、ただ古傷――というのよりも壊死したような痕が残るだけである。だがその内面は、筋繊維や毛細血管、神経が出鱈目に結合されている。細胞もかなり出鱈目に結合されているため、結果として壊死したような傷が残るのだ。

 言うまでもなく、サーシャスフィールの右足は二度と使い物にならないであろうことは明白である。

 

 ズタズタにされた神経は脳に激しい痛みを訴える。いっそ本当に切り落とそうかと思うほどの激痛だ。

 その痛みに呻くサーシャスフィールに、アサシンは新たな弾丸を薬室に込めつつ、ゆっくりと歩み寄った。もはや相手は無力である。

 落ちたハルバードを蹴ってサーシャスフィールから引き離し、針金も奪った。得物も失い、サーシャスフィールに抵抗する術はない。

 

「聖杯の器は?」

 

 アサシンは油断なく銃口を付きつけながら、サーシャスフィールに問うた。

 記憶を無くしてはいるが、聖杯の器をアインツベルンが用意することは調査すれば分ることである。

 聖杯を手中に収めることの優位性を理解するからこそ、アインツベルンにはそれを問わなければならなかった。

 だがサーシャスフィールは、屈強な戦士であろうとも泣き叫ぶような痛みを飲み込み、不敵に笑うのだった。

 

「……あれはアインツベルンのものです。あなたに教える謂れはありません」

「そうか。では後でゆっくり捜索させてもらおう」

 

 アインツベルンが持っているのであれば、それは森の城にあるに違いないのだ。時間をかければ発見できるだろう。無理に彼女から聞き出す必要は無い。いや、そもそも聖杯が顕現する段階になれば、隠しようもないのだ。

 これで終いであるとでも言うように、アサシンはグリップを握りなおす。引き金を絞る指に力を込めた。

 狙いは心臓。外しはしない。相手はもはや動けない、俎上の鯉である。

 サーシャスフィールは、まるで観念したかのように、抵抗しようともしなかった。ただ、その顔からは無表情が消え、まるで憑き物が落ちたかのような微笑みを浮かべるのであった。

 

「ああ。彼の豪胆さは実に心地良かった。私はきっと――彼を愛したのでしょう」

「――――ッ」

 

 アサシンは、これまで泣いて命乞いをする相手を殺したことがある。愛する二人を悪逆非道な方法で蜂の巣にしたこともある。まだ幼い子供を刺し殺したことがある。腹に子を宿す女を見殺したことがある。

 彼は、そんな言葉で引き金を絞る指を緩めたことはない。これからもない。

 だから彼を戸惑わせたのは、その微笑みである。それは、まるで無邪気な微笑みだった。

 

 ――――――……アイリ、――――――

 

 脳裏に浮かんだのは、今となっては何を指すのかも分らない言葉。

 その言葉は、追従して襲い来る頭痛にかき消される。

 だが彼は、無意識にその言葉を手放すまいと、頭痛に抗った。

 それが一瞬の隙を生んだ。その一瞬は、サーシャスフィールが闘志を取り戻し、唯一の活路を見出すのに十分であった。

 

「『来なさい、ライダーッ!』」

 

 令呪。すでに一画を消費していたため二画となったそれを、今一度消費する。

 今まで自分は常に有利に戦況を運んでいたため、それを使う機会は無かった。だが、今こそ使い時である。

 ライダーがバーサーカーをどれほど遠くまで引き離しているのかが懸念事項だが、それは彼を信じるしかない。

 アサシンは慌てて引き金を引いたが、それを見越していたサーシャスフィールは腕で地を蹴り、転がるように射線から外れた。回避しきれず上腕を掠めるが、右足の激痛でもはや痛みと認識しなかった。

 刹那のみ遅れて現れたのは圧倒的な光。空間を捻じ曲げ、そこから躍り出るように、張遼は現れた。

 

「遼来々!」

 

 アサシンにとって、これはもはや詰みである。

 起源弾は、使用者もサーヴァントとなったことにより英霊が相手でも使用できる。しかし、それが有効に働くのはせいぜいキャスター程度だ。その存在が魔力によって維持されているからといって、起源弾を受けたとてそれは魔力によって介入したことにはならない。人間と同様の効果しか発揮せしめないだろう。

 そして、直接戦闘においてアサシンに勝ち目は全くないのだ。

 アサシンの戦闘能力は通常の人間の域を出ない。人間とサーヴァントの戦闘は、赤子と熊が戦うようなものである。勝とうなどと考えるほうが愚かなのだ。

 ゆえに選択肢は逃亡しかない。

 

 アサシンは再び懐から自製フラッシュバンを投擲する。加えて、改造を施した発煙筒も投擲した。

 サーヴァントにとっても、この光は耐え難いものだったようだ。目を眩ますまいと咄嗟に目を庇ったため、視界が奪われることはなかったが、続けて投擲された発煙筒はもはやスモークと変わりない発煙量を誇っていた。

 路地はまるで濃霧に覆われたかのようになり、その場にいる全員の視界を奪う。それは無論アサシンとて同じなのであるが、彼は既に逃亡を開始している。白兵戦を仕掛けるわけでもないのだ、前が碌に見えなくても問題は無かった。

 

 ライダーの視界が奪われてから回復するまで数秒程度だが、アサシンが姿を隠し、気配を絶つには十分であった。

 ライダーにとっては、強制召喚されて状況を把握する前に閃光と煙幕を浴びせられた形になっている。アサシンに一太刀浴びせたいところであったが、それはとても無理な話であった。

 

「……逃がしたか。よく呼んでくれた、沙沙。あのままバーサーカーと夜明けまでじゃれあうことになるかと――ッ!?」

 

 礼を言いながら振り返ったとき、ライダーは自らのマスターの様子が尋常ならぬことに気がついた。

 汗は噴出し、顔色は蒼白。破けた装束の右足部分の下には、足が腐ったかのような傷がある。

 

「どうした、沙沙ッ! あやつにやられおったか!?」

「……何でもありません。……それより、白兎が」

 

 言われてその姿を探したが、確かに常にサーシャスフィールに寄り添っているはずの白兎の姿は見えなかった。ややあって、暗がりにその姿を見つけたとき、ライダーは奥歯を噛んだ。歯が砕けるほどの力で。あの姿を見れば、その運命の行く末は明白だ。助かっているはずがない。

 それを悲しむと同時に、サーシャスフィールが同じ運命を辿らずに済んだことに安堵した。

 

「白兎は……もう良い。それよりもお前だ、足を見せてみろ!」

 

 ライダーは右足の局部を押さえ続けるその手を掴み、その傷跡を一瞬で、しかしつぶさに観察した。指で触れて、その状態を確かめた。

 結論として、もはやこの右足は動かないであろうことを悟った。

 だが、脂汗を流して痛みに耐える彼女にその事実を告げることは酷に思えた。だから彼は偽りを述べる。

 

「……安心しろ。この程度であればすぐに治る。しばし耐えよ」

「嘘が下手ですね、ライダー。……二度と動かないことぐらい、分ります」

「…………そうか」

 

 彼女もまた魔術師なのである。自らの身体が今どういう状態にあるのかぐらいはすぐに分る。そもそも、既に痛み以外の感覚が無いのだ。ライダーに右足を触られたときだって、その感触を一切感じなかったのだ。触れられて痛みが増すでもなく、その温度を感じるわけでもなく。神経がやられていることを悟るには十分であった。

 しかし、ここで介抱をする時間はなかった。

 ある程度引き離しているが、バーサーカーがまだ付近にいることは明白なのだ。急いでここを立ち去る必要がある。

 その旨を告げるとサーシャスフィールは頷き、短く治癒の呪文を唱えた。もはや治癒に意味はないが、滅茶苦茶に繋ぎ合わされた細胞は酸素が行き届かず、まさしく壊死を起こしている。これを放置すれば足が腐り落ちてしまうことは明白だ。それを食い止めるべく、手短に治癒をかけた。

 だが神経までは治せない。これは治癒呪文の域をとうに超えている。これは治癒でなく、もはや再生させるしか手はない。そしてその設備は、アインツベルンの本城にしかない。

 幾分血色が良くなった足に力をこめるが、やはり動かない。自力で立ち上がることも困難だ。

 

「肩を貸す。沙沙は黒兎に乗るが良い。……丁寧に歩けよ、黒兎」

 

 ライダーは馬上を譲った。片足が不能に陥ったため、普通に跨ることが出来ず、下半身を馬の片側に投げ出す姿勢で乗馬する。所謂、お嬢様乗りやお嬢様乗りといわれる姿勢である。

 ライダーはと言うと、白兎の死体に歩み寄り、あろうことかそれを担ぎ上げた。

 あえて言及すると、白兎の体重は四百八十キログラムほどある。それをライダーは、軽々とまでは言わずとも持ち上げたのだ。ウェイトリフティングで百五キログラム超級の世界記録が四百七十二キログラムである。

 

「行くぞ。……今宵は帰らねばならん。凱旋とは程遠いな」

 

 ここからアインツベルンの森まで相当な距離がある。

 彼女らが無事に帰還する頃には、空は白み始める頃合だった。

 サーシャスフィールは右足を失い、白兎までも失い、ライダーの言うとおり、凱旋には程遠い帰還であった。



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Act.30 正義とは

 城に帰るころには、既に空は白んでいた。

 ライダーは庭先に白兎の亡骸を丁寧に置く。駆け寄ってきた姉妹兵に丁重に埋葬するように伝えた。姉妹兵は事情をすぐさま察し、すぐにそれに取り掛かった。姉妹兵は交代性で常に誰かが行動している。白兎の埋葬にそれほど時間はかからなかった。葬儀を行うか否かについては、今後の主の方針に従うことで彼女らは決定した。

 

 その主であるが、様態は芳しくない。その情報はサーシャスフィールを出迎えた一体が知るに至り、次に現在活動している姉妹兵ら全員が知るに至った。言語機能を搭載していない彼女らであるが、互いの意思疎通は十分に行える。

 最初に知った一体曰く、目立った外傷はないが、自力で歩行が出来なかったという。

 彼女らは自らの主を守り、補佐するように調整されている。その自動反応なのか、それとも自由意志によってその行動を選択したのか、彼女らはひっきりなしに主の自室を訪れた。手足の麻痺や治癒促進剤を持参した固体もいるほどである。

 だがそれらの一切を、ライダーが「今はゆっくりと休ませてやれ」と言って追い返した。彼女らがこうも忙しなく部屋をノックしては休めないのも道理である。

 だが本当の理由は別にある。そのような介抱を彼女は既に必要としていないのだ。正確には、そのような介抱はもはや無駄である。

 

 ライダーは姉妹兵の一体に鎮痛剤を持ってこさせるように言った。主は何か深手を負ったのかと気を揉んだため、自分が使用するのだ、セイバーの仲間に受けた矢傷がまだ痛むと言い聞かせた。その姉妹兵はかなり訝しげであったが、言いつけどおりに鎮痛剤を持ってきた。ライダーは、沙沙の言うように自分は嘘が下手なのだろうかと思ったが、そのような瑣事を気にかけている場合ではない。

 鎮痛剤に眠気を誘う成分でも入っていたのか、サーシャスフィールはすぐに眠りに入った。その頃には、彼女に見舞いも一息ついたのか、ドアをノックする音は聞こえなくなっていた。

 

「やれやれ。……慕われておるな。やはり、お前はあのアハト翁とは違う。自分の部下に慕われるのもまた将の才であるかな」

 

 その傍を、ライダーは決して離れようとしなかった。ずっと、血の気が薄れたように思えるその手を握っていた。

 

 睡眠というには短く、仮眠というにはやや長い時間が経って彼女は目を覚ました。その頃には顔色も平常と変わりなく、回復の色がはっきりと見えていた。もはや痛みは無いようである。

 しかし痛みが無いというのは、もはや治らないということに等しい。やはり神経がやられている。それを再確認させられ、ライダーは気を病んだが、それを悟られまいと平常を装った。だが、やはり彼女には見抜かれたらしい。

 やや呆れ気味に、サーシャスフィールは溜息をついた。

 

「貴方が気を揉んでも仕方ないでしょう。……この足は、どう足掻いても二度と動きません」

「……そうだが。それでもやはり、気を揉まずにはおれんのよ」

「仕方ありません。神経をやられています。いくらホムンクルスといえど、筋肉に命令を下す回路を断ち切られてはどうしようもありません。

 治すとなると、治癒ではなくもはや再生の域です。ホムンクルスであったことを感謝したくもなりますが、その設備はここにはありません」

 

 人体を再生させるとなるともはや時間逆行、吸血鬼の域にまで手を伸ばさなくては達成できないだろう。あるいは宝具の力に頼るか。いずれにしても、自由に身体を弄れるのはホムンクルスの特権だ。切れた神経を繋ぐことは出来ずとも、新たに作って入れ替えれば良い。

 だがその設備はここにはない。ここは聖杯戦争のための橋頭堡。仮住まいに過ぎないのだ。

 サーシャスフィールはサイドテーブルの水を飲み、短く咳き込んだ。足だけでなく内臓もやられていたか、とライダーは肝を冷やしたが、サーシャスフィールは何でも無いと手で制す。ただ咽ただけのようだ。

 

「例えば……いいか、仮の話だ。姉妹兵の誰かが、沙沙に右足を譲るといえば、足はすぐに治るのか?」

 

 足の移植。

 サーシャスフィールの足は、太腿の辺りから下が不能に陥っている。神経が途切れた部分より上部を切断し、別の足を移植すれば、理論上は動く足が手に入ることになる。

 無論、ライダーの足では駄目だ。サーヴァントの四肢は、ホムンクルスといえど爆弾のような存在である。だが、同じホムンクルス同士、しかも製造ラインを同じくする彼女らであれば実現可能のように思えた。

 サーシャスフィールが休んでいる間に、普段あまり使おうともしない頭脳を精一杯活用して見出した一つの解決法である。

 しかし彼女は、首を横に振った。

 

「いいえ。私の身体は特別製です。彼女らとは同じようで違います。つまり互換性がありません。仮に可能だとしても、以前のように動くにはリハビリが必要です。その間に――終わっています」

「……そうか」

「はい。ですので、以降に私は同行できません。白兎の代わりなど居るはずもないですし、最大限譲歩して居たとしても、この足では騎乗は出来ないでしょう。今後の戦闘は、貴方一人に任せざるを得ません。

 ですので、この城を離れた場合には現場判断で行動して構いません。ですが、必ず聖杯をアインツベルンの本城まで持ち帰ると、約束しなさい」

「無論約束する。もとよりそのつもりだ」

 

 正直に言って、ライダーはアハト翁のことが好かない。サーシャスフィールの手に渡るなら彼の士気も俄然高いのだろうが、一度彼女の手に渡った後にあの老いぼれた腐れ外道の手に渡ると考える気持ちも萎える。

 だが、それがサーシャスフィールの悲願であるならば、そのようなことは瑣事なのだ。

 愛するものが望むことは、すなわち彼の望むことである。

 必ずや、あの常冬の城に聖杯を持ち帰ろうと決心を新たにした。

 

 そこで、あることに気がついた。

 彼女は言った。「ここにはその設備はない」と。ここには無いということは、どこか別の場所にあるということを暗に含んでいる。考えられるとしたら、それはあのアインツベルンの本城に違いないのだ。

 そこに一度帰れば、彼女の足は治せるかも知れない。いや、治せる。彼女の言の裏には、設備さえあれば治せるという意が含まれているはずだ。

 決してすぐには治らないだろう。だが十日もあれば十分のはずだ。一度本城に帰れば、彼女は治せる、たったの十日で!

 

 彼女は再び咳き込んだが、さきほどよりも浅い。さきほど咽たのをまだ引きずっているのだろう。

 そんなことよりも、一度帰還することを薦めなければならない!

 

「沙沙、ここにその設備は無いと言ったな!? では、設備があれば治るのだな?」

 

 彼女は咳を飲み込み、息を整えてから答えた。

 

「……ええ」

「ではすぐに帰ろう! 完治させるとなると、どれほどかかる!?」

「そうですね、おそらく一週間もあれば十分かと」

 

 予想よりも三日も早く治せる!

 聖杯戦争は最後の一騎になるまで決着がつかないのだ。正確な数は知る由もないが、ここまでで既に二体の脱落をライダーは確認している。キャスターとランサーである。それに少なめに見積もってさらに一体か二体が預かり知らない場所で脱落したと考えて、およそ一週間で半数。あとさらに一週間はかかるかも知れない。そう考えれば、一週間の留守はそこまで痛いように思えなかった。帰ってきたときには、おそらく残り一体か二体にまで減っているだろう。それを叩けば良いのだ。

 十全になった自分と沙沙が居れば、手負いになっただろうサーヴァントの一体や二体は問題にならぬ!

 

「すぐに帰還しよう! 一週間程度ならば聖杯戦争から一次撤退しても問題はない!」

「そうかも知れませんね」

 

 サーシャスフィールは三度咳き込んだ。今度はさきほどよりも咳が酷く、息苦しそうである。口元を手のひらで覆い、ひどく大きな咳を繰り返した。

 傷口から何か菌でも入り込んだか。

 刀傷が元での発熱など、ひどく体調を崩すことは珍しくないことである。ライダーはベッドに腰掛ける彼女の背中を撫でた。

 ややあって咳がおさまり、長い時間をかけて息を整え、彼女は続けた。

 

「ですが、それではもう間に合わないのです。先ほども言ったでしょう、そのときにはもう終わっています」

「何が終わっているというのだ! 聖杯戦争は、最後の一騎になるまで続けられるのでは――――」

 

 ライダーはその続きを発することは出来なかった。

 代わりに目を見張り、息を呑んだ。

 何故なら、彼女の手は夥しい量の血で濡れていたからである。口元にも血の跡があり、喀血したのは疑いようも無かった。

 どうして、何故。

 その衝撃から立ち上がった後に湧き上がったのは疑問。傷は足のみのはずである。熱を出すことは考えられるが、この程度で喀血するほどでは無い。胸や腹を抉られたならともかく、足なのだ。

 最悪の想像が彼の脳裏をよぎったが、それはあえて無視をして、その考えを誤魔化すように声を荒げた。

 

「どうしたッ! 毒でも盛られたのかッ!」

「……違います。活動限界が近いのです。何度も言っているでしょう、一週間もかけていては、私の命が間に合わないのです」

 

 活動限界。

 その言葉を聞いて、ライダーは先ほど打ち消そうとした想像が現実であることを認めざるを得なかった。背けようとした現実を、至極淡白に彼女は突きつけた。

 おのれアハト翁。沙沙を、使い捨てに作りおったッ!

 拳を握り、机に叩き落した。爪が食い込んで血を滲ませている。

 彼は呪った。この不条理な運命を。

 それに抗うべく、彼は吼えた。

 

「――何故ッ!」

「いいですか、ライダー。これは初めから決まっていたことなのです。

 私はアインツベルンの長い歴史の中でも、屈指の戦闘力を誇っています。しかしその代償も大きい。

 ……私は短命なのですよ、ライダー。それも極端に。生まれたときから私の命は、聖杯戦争より先まではもたないと約束されているのです。

 生命維持に必要な機能を、全て戦闘に回しているのですから当然です。私の筋肉や魔術回路、反応速度は通常の人間には及びもつかないほど強力ですが、内臓はそこらの老婆にも劣るでしょう。

 ……半年ほど前、貴方が勧めた酒を断ったのを覚えていますか」

 

 ライダーは頷いた。あれはまだ召喚されて間もない頃だ。自分の自室を訪ねた彼女に葡萄酒を勧めた覚えがある。

 いや、それだけでは無い。彼女は徹底して酒を口にしなかった。葡萄酒だけでなく、ウイスキーや日本酒、ありとあらゆる酒がライダーのために振舞われたが、彼女の前に酒が注がれることは無かった。

 それに今思えば、日々の食事はやたらと栄養を考えられた規則正しいものだった。あまりに杓子定規な食生活だったため、かえって魔術師とはこういうものかと納得してしまった。それがあまり肌に合わず、ライダーはそれとは別に豚を炙らせて食べていたというのに、そのようなことを見落とすとは。

 あれは、それが好みでそうしているのではないのだ。あのような食事でないと、彼女は生き延びられなかったのだ!

 気付けといわれても無理な話だったかも知れない。だが、気付くべきだったのだ!

 

「本当はあの酒を飲んでみたかったのです。貴方の酒を断るのは本意ではなかった。酒とはどういうものなのか、興味があった。

 ……私がこのような身体であるばかりに、貴方には食事の面で不自由をさせたでしょう。貴方には物足りない食事だったでしょうね。豚など安いものです。それで貴方の不満が解消されるのであれば。……あの食欲と酒量には驚かされましたがね」

 

 そう言ってサーシャスフィールは微笑んだ。その笑みは、いつもと何ら変わりがなかった。

 なんと酷なことをしたのだろうとライダーは悔いた。食べられない相手の前で、豚を食らい、酒を勧めるなど、何て酷なことを! 自分の食欲などどうでもいいのだ。元より既に死んでいる身。食事など要らないのだ! 酒など不要なのだ!

 ――ただ、自分の我侭であったに過ぎないのだッ!

 せめて自分を罵倒してくれれば、少しはこの思いも晴れたのだ。お前の無神経な行いがどれほど不快であったかと罵倒してくれれば良かったのだ。そうすれば、詫びることも出来るというのに。

 ここで詫びたとしても、彼女は構わないというだけだろう。それがいたたまれないのだ。

 詫びろと一声でも言ってくれねば、自分の言葉を届けることが出来ないのだ。それが悔しいのだ。

 ライダーの頭の中にはあらゆる感情が入り乱れ、そしてそれは涙となって流れ落ちた。

 

「常々思っていましたが、貴方は変わっていますね。何故貴方が泣くのです」

「これが――涙せずにいられるかッ。愛するものが、もうじき逝くというのだぞッ!」

「……ありがとう、ライダー。その言葉が何より嬉しい。ですが、もう覆せないのです」

「何故……何故そこまでして戦う! 戦えば沙沙の命は、それだけ削れるのだろう!?」

 

 ライダーの言うとおりである。もとより生命維持能力を戦闘能力に当てているのだ。戦闘を行えば、それだけ彼女は寿命を縮めることになる。それも、大幅に。

 戦闘自体の回数は決して多くないが、半年前から練兵に参加している。そのことも加味すれば、もはやその命は幾許もないかも知れない。

 

「貴方と同じです、ライダー。私は戦うために生まれた。それが私の唯一の存在理由であり、己の表現方法なのです。貴方の言葉を借りれば、純粋戦士というやつですか」

 

 ライダーは唇を噛んだ。そして握った拳をじっと見つめた。涙を拭うこともしなかった。

 そういわれて、ライダーは何と言い返せばいいのだろう。剣によって生まれ、鐙の上で育ち、鬣の上で逝くと豪語するライダーが何と言い返せるのだろう。

 何も言えない。彼もまた、そうだからである。戦うことで生き、戦って逝くのを良しとしているのだ。彼も彼女も同じ生き様を選択しているのである。だからこそ、何も言えることは無いのだ。

 だが分ることはある。彼女にも心残りはあるはずだ。彼と同じならば、鬣の上で、戦って死ぬことを望むはずなのだ。理不尽に定められた寿命によってではなく、怨敵の刃で死ぬことを望むはずのだ。

 つまり、鬣の上で死ねない、馬に乗れないのであれば、ここは彼女の死に場所ではない。いずれ死ぬとしても、今は生き延びなければならないのだ。

 

「あと、どれだけ生き永らえることが出来る……?」

「……安静にしていれば、おそらく五日は。……ですが、次に戦えば、そのまま活動を停止するかも知れません。

 ですがいずれも断言できません。この右足の傷で、思いのほか体力を消耗すればもっと早いかも知れません」

「……分った。五日だな」

 

 五日あれば聖杯を手にすることができるだろう。聞けば、過去の聖杯戦争はいずれも十日ほどで終着しているのだ。五日あれば十分である。

 もとより、ライダーの願いは聖杯なんかなくとも叶えられる。いや、既に叶っているといってもいい。強者と戦いたいという願いは、もはや達成されているといっても良いのだ。

 だから、ライダーは聖杯を彼女のために使うことに決めた。アインツベルンの悲願が何か、アハト翁が何か、魔法が何か。聖杯の奇跡にすがれば、彼女は助かるのだ。

 

「良いか。沙沙は決してこの城から出てはならん。一人きりになることも避けよ。……五日以内に聖杯を持ち帰る。良いな」

 

 彼女は頷く。それを確認すると、ライダーは威嚇するように甲冑を鳴らして部屋を出た。

 今はもう日が出てしまった。もう外に出て敵を捜し求めるのは難しいだろう。

 だが夜になれば、ライダーは再び黒兎を走らせて敵を探しに行くだろう。サーシャスフィールを救うために。

 

 それが、彼女にとって辛いことだった。

 言えなかった。ライダーが聖杯で自分を救おうとしているのは明らかなのに。聖杯では誰も救えないと、言えなかった。

 聖杯はもはや暴力装置だ。所有者の願いを暴力でしか叶えられない。暴力で叶える救いなど存在する筈が無いのだ。

 だが、だからといってライダーにそれを言えるはずもなかった。彼の望みを取り上げるようなことは出来なかった。

 もしも、彼と彼女が出会った当初であれば彼女は平気でそれを口にしたかも知れない。だが今となっては――それは出来ないことだった。

 再び咳き込む。口の中は、再び血の味がした。

 

 果たして本当に五日も自分の命はもつのだろうか。思いのほか体機能が低下することも考えられる。

 体力の低下は避けねばならなかった。体力が低下すればそれだけ命も縮むだろう。落ちた体力を回復させるほどの機能は、もう望めないのだ。

だが五日と約束した。だから、それは守らなければならない。だからライダーの言いつけを従順に守り、城はおろか用が無ければ部屋からも出ないつもりでいた。

 ――――半年前の自分であったら、自らを顧みずにライダーと一緒に敵を求めていたであろう。一晩で全て片付け、その結果として活動が停止しても構わないと考えただろう。

 何が自分を変化させたのだろうと考えて、自分はライダーとの別れを惜しんでいることに気がついた。死など怖くはないが、彼との別れは嫌だ。自分が死んだ後に彼が悲しむであろうことが怖い。

 これが愛なのであろうかと考えると同時に、ホムンクルスの自分が人を愛せたということが、たまらなく嬉しく思うのであった。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 ある英雄譚をしよう。それは、一つの聖戦の物語だ。

 ――そう、それは聖戦というに相応しいものだった。

 ある王の軍は、瞬く間に異教徒どもの都を併呑した。その目的は領土拡大もあるだろうが、その奥には一つの目的が存在した。

 聖都奪還。

 再征服運動(レコンキスタ)である。

 レコンキスタとは即ち、聖戦のイベリア。イベリア半島で起きた、十字軍における遠征のことを指す。これは、その最初期の物語である。

 

 今は邪教の手にある神の国(エルサレム)を再び我らの手に。みなの者神を示す十字を纏い、異教の者を黒鉄の杖を以って陶器の如く打ち砕き、再び現れる我らの(イエス)のための国を築かん。

 彼らはエルサレムを目指し、異教の都を攻め、彼らの教義を敵に伝えた。従わねば、それは死を意味した。

 そうやって幾星霜。長年にわたり、多くの地を彼らは平らげた。残るは、これもまた異教徒の街をただ一つ残すのみである。

 

 その十字を身体に宿した軍勢に、一人の男が居た。

 砂金を零したかのような髪に細い線。瞳は碧く澄んで優しさを宿す。しかし剣の腕はその容姿に似合わず、数多の地にその名を轟かせる壮士である。

 腰に帯びるは、叔父にあたる王より授けられた宝剣。いや、聖剣。さらに、神の威光を知らしめ、邪悪な都を討ち滅ぼすための笛。

 その笛は立派な角笛である。いくつもの宝石を埋め込み、さらには煌びやかな装飾。神の名に相応しいものであった。

 優秀な駿馬に、すばらしい鎧。そんな彼が、一軍の英雄であると云われるのは至極当然の運びであった。

 

 彼は、この遠征に参加できることを誇りに思っていた。

 彼らにとって、彼らの聖都の奪還はまさしく正義である。そもそもその地は我らのものであると教義にある。約束された大地なのだ。それを、異教徒どもが侵略したのである。

 正義は我らにあるのだ。/本当に?

 あれは我らの地である。彼らはその地を不当に占拠している。/彼らはただ、住み慣れた地を守ろうとしているだけではないのか。

 我らは正義である。/我らは侵略者ではないのか。

 彼は軍勢の勇である。迷いなど、全て飲み込まねばならない。だから彼は、誰の前でも求められている壮士の姿で在り続けた。

 この戦いは誇りであると、自らに信じ込ませた。

 

 あるとき、攻めていた最後の異教徒の都から使者が訪れた。曰く、彼らの王は和平を望んでいるという。その見返りとして、莫大な財宝と人質の提供を約束した。そしてその使者はこう付け加えた。

「我らの王が、敬愛する汝らの王によって教えを授けられるよう、国に帰って次の聖祭の準備をなさってくださいますよう」

 彼らの王はすぐさま信用する重臣を呼び集め、相談を始めた。その中にはその男の姿もあった。

 彼は、この申し出に反発した。

 敵の王は、以前我らが遣わした使者二人の首を刎ねている。陛下、敵は信用ならない。いや、殺された彼らの復讐をするべきだ。

 しかし別の臣は申し出に賛同した。

 無碍に断るのは愚かなり。

 王はその意見に同意し、彼らの申し出を受けることとした。

 そうなるとただちにここを去らなければならない。しかしその前に、申し出を受けることを了承する意を伝えるため、こちらも使者を送らなければならない。

 彼は、では私がその任に、と申し出た。

 しかし王はそれを退けた。彼はこの申し出を不服に思っているので、敵の王との謁見時に剣を抜くことも考えられたからだ。

 彼は、では我が義父を、と言った。

 その意見は認められ、彼の義父が使者として遣わされることになった。

 彼は、使者の任は名誉であると考えた。

 使者の任は信用あるものにしか与えられない。王の代理として行動することは、その肩に王の威光を背負うことと同義である。だからこそ彼は自らを使者にせよと誰よりも早く進言したのだ。

 

 義父は、ただ危険なだけの任であると考えた。

 以前に使わした使者は首を刎ねられ殺された。この申し出が罠であることが十分に考えられるのだ。そうなれば、自らの命は既に無いも同然である。殆ど丸腰で敵の本陣に出向かねばならないのだ。

 義父は彼を恨んだ。心底、恨んだ。

 

 義父が使者となって出向く際、その案内として申し出を伝えた使者も同行した。一方は任務を終えて帰還する使者。もう一方はこれから任務を行う使者だ。

 二人の使者は、彼を悪く言うことで意気投合した。和平を伝えに訪れた敵の使者は内心では和平を快く思っておらず、また敵の象徴的英雄である彼を憎く思っていた。彼らにとっては、彼は味方を多く屠った悪鬼である。

 そしてこのとき、義父は裏切ったのである。

 敵の王との謁見時、義父は言った。

「奴を排除せよ。そうでなければ、あなた方に勝機は訪れない」

 ではどうやってそれを成す、と聞かれ、義父は答えた。

「貴方の申し出により、我が軍は橋頭堡より立ち去る。そのときに彼が殿を任されるよう、私が取り計らおう」

 

 その言葉の通り、彼は殿を任されることになった。

 言うまでもなく殿は危険な役割である。本軍と離れて行軍しその背中を守る。敵が追撃を仕掛ければその背後を襲われるのは必至。背後を守りきれないとなれば、本軍が逃げられるように自らの命を差し出して時間を稼がなければならない。自らを危険にさらして本隊を守るのが殿の役目なのだ。

 王は殿につくことになった彼を心配した。最初に彼には二万の兵が与えられたが、王は本隊の兵から半分を与えようと言った。

 だが彼は断った。義父を信じたからである。

 義父がうまく和平を取り計らったならば敵は兵を進めたりなどしない。ここでそれ程の兵を受け取ってしまえば、それは我が義父を信じぬことになる。

 その言葉に感嘆し、王は自らを恥じた。その代わりに、万が一異常があれば、与えた角笛を吹け。そうすれば本隊の兵が援軍に駆けつけると約束した。

 彼はそれを了承した。

 そうして王の本隊は橋頭堡を離れ、そこから時間を置いて殿である彼らも撤退を開始した。彼に付きしたがうのは、殿につくことになった彼を心配した友と、歴戦の壮士たちが十数人である。

 冬も深まったその日、彼らはその地を後にした。

 

 殿の任に付きながら、友が訊いた。

「本当に、正義は我らにあるのか?」

 彼は心臓が一層脈打つのを感じながら、しかし理想的な壮士であるべく、冷静を取り成し模範的な答えを返す。

「何を言っている? 君はそうは思わないのか?」

 分らないと友は返した。ときどきそれが分からなくなる、と加える。

 彼はこの話をあまり続けたいとは思わなかった。適当に理由を挙げてその話を打ち切る。

 そのときである。背後の兵が悲鳴にも似た叫びを上げた。

 敵が現れたぞ!

 

 彼はすぐに思い知ることになった。義父が裏切ったのだと。

 山嶺の彼方より現れた、敵兵。その数はじつに四十万。彼らの二十倍の兵である。

 彼らはすぐさま馬首を返し、その軍勢と向き合った。

 友が言った。その角笛を吹け。

 だが彼はそれを退けた。

 この笛を吹くのは恥である。これほどの軍勢、我らだけで討ち滅ぼそう。

 そもそも、殿の役目は本隊を守ることなのだ。殿が危険に晒されたとして、どこに本隊を呼び戻す殿が居ようか。

 殿の役目は援軍を求めず、背後の敵兵を退けることである。それを全うできないのであれば、それは騎士の名折れである。

 

 そして彼は剣を抜く。対峙する間もなく両軍は衝突した。

 一番槍は見方の軍勢であった。彼は叫んだ。

「見よ、我らに敗北など無い! 邪悪は外道、異教にあり! モンジョワ!」

 友はそれに続いた。

「――ああ、その通りだ! 我ら勝利を確信せり! モンジョワ!」

 彼に付いてきた壮士達も叫んだ。

地獄(ゲヘンナ)に堕ちよ!」

「悔い改めよ!」

「主を愛さぬものが居るならば、呪われよッ!」

 名も無き兵たちは皆一様に叫んだ。

再征服せよ(レコンキスタ)ッ!」「再征服せよ(レコンキスタ)ッ!」「再征服せよ(レコンキスタ)ッ!」

 

 彼は戦った。どこまでも戦った。

 騎馬で切りかかった者の心臓を貫いた。斧を投擲しようとしたものの首を刎ねた。槍で彼を穿とうとしたものの兜を叩き割った。

 歩兵の眼球を抉った馬の首を落とした逃げる新兵を両断した矢を取り落とした弓兵の腕を切断した半狂乱になって切りかかった騎士を縊り殺した自軍の兵を殺したものを殺した自らを慕って付いてきた壮士を殺したものを殺した友に刃を浴びせたものを殺した。

 殺した。殺して殺して、悉く殺した。

 神の名の下に、殺戮を行った。

 

 見方は次々と倒れていく。二十倍の兵力だ。当然である。

 そんな中、彼だけが刃を浴びることなく突き進む。

 壮士たちは既に事切れた。二万の兵も次々と死に逝く。

 そこはまさに、地上に現れた地獄である。

 動く者は、もう動かなくなったものの屍を踏み越えて殺しあう。大地に血が染みこみ、純白だった雪化粧は、紅で染め上げられる。

 両者は各々の正義を胸に戦った。戦って戦って、敵を呪いながら血溜まりの上に倒れていった。

 彼もまた逝った味方の屍を踏み越えて敵に切りかかり、一つ、また一つと屍を築き上げる。その戦い様はまさに獅子奮迅。無双の剣戟である。

 盾で一閃を受けて弾き、返す一閃で血の花を咲かせる。その血を浴びるのは、その哀れな死体の次に切り伏せられた死体。それはまさしく、電光の如き速さであった。

 気がつくと、敵兵は彼に恐れをなし、遠巻きに彼を睨むだけになっていた。誰も彼に近付こうとしない。

 敵兵の誰かが洩らす。あれは悪魔だ。

 

 彼はそのとき、友を守るように残存数万の敵兵を睨んでいた。敵と味方が入り乱れる中、偶然にも傷ついた友と合流したのである。友の傷は深く、助かる見込みは低かった。それでも、彼は必至に彼を勇気付けた。

 敵が恐れをなして一度距離を取ったため、味方は彼を中心に集まりだした。味方の残存する兵力の少なさに、彼は絶望した。

 ほぼ壊滅状態である。残るのは、信を置くドルイドと友。そして僅かな兵のみである。壮士達はことごとく死に絶え、兵も皆神の広い懐に召された。

 もはや、敗北は明らかである。

 彼は慌てて角笛を吹こうとした。

 だがそれを友は拒んだ。臓器が切られた腹部よりこぼれているのを意に介さず、叫んだ。

「それこそ恥ではないかッ! ならば何故、最初から援軍を呼ばなかったッ!」

 ドルイドは言った。

「……それでも、吹かないよりはましである」

 彼は涙を流しながら、角笛を吹いた。力の限り。

 王の援軍はこの音を聞きつけ、すぐに駆けつけるだろう。敵兵はたちまち滅びるに違いない。王の軍勢は四十万を越えるのだ。

 だがその前に、我が友は死に絶える。

 ドルイドは言った。貴方の選択の結果です。貴方の正義の結果です。せめてそれを貫きなさい。

 

 敵兵は戦意を取り戻し、再びこちらに刃を向けんとしていた。

 彼はもう一度笛を吹いた。

 今度は、その笛を武器として用いるためである。力の限り吹いた。脳の血管が切れるほどに、天までその音色を響かせんとするように。

 その時、敵兵は確かに神の威光を見たに違いない。

彼は再び、永遠とも思えるほどの時間を戦い始めた。

 

 だがその力を以ってしても、敵は多すぎた。彼はもはや数え切れないほどの、いや、数えることすら無意味に思えるほどの敵兵を地獄に叩き落した。

 だが見方は誰も残っていない。友も息絶えた。残るのは自分一人である。

 彼はその剣と笛の力を全力で振るい、戦い続けた。

 だがもはや自分には力が残されていないことを悟った。剣を握る手は感覚がなく、目は霞み、全身は血に濡れている。

 彼は自分の最後を悟った。

 彼は聖剣を敵に渡すまいと、近くにある大理石に剣を叩きつけた。だが剣は折れることなく、逆に大理石を断ってしまう。

 剣にまでも、己の正義を貫けないのかと言われた気がした。

 

 彼は死の刹那、深く後悔した。

 どこから過ちであったのだろう。

 どこで誤ったのだろう。

 王の本隊を断ったことか。

 笛を最初に吹かなかったことか。

 それとも――――正義を掲げたときからか。

 我らは正義かも知れない。しかし彼らは悪だったのか。

 本当にこの戦いは正義か。本当に避けられぬ戦いか。

 我々はもっと知るべきではないのか。敵が、何をもって戦うのか。本当に彼らは邪教の民か。

 本当に――我らは正義か。

 見よ、この大地を。

 大地は紅く染まり、炎に焼かれ、剣で穿たれ、死臭を漂わし、川は死体で埋まっている。

 この行いが正義か。これのどこに正義があるのか。

 

 正義を誰かに強要したとき、我らは既に悪であったのではないか。

 正義のために剣を振るったとき、我らは悪であったのではないか。

 

 多くの都市を、我らの教えで染め上げた。これが正義である。これが正しい教えである。

 信じよ。さもなくば呪いあれ。

 神の国を目指して進軍してきた。それが正義である。神の国を取り戻せ。

 その妨げは斬り捨てよ。

 

 ああ――もう分からない。

 正義とは何だ。悪とは何だ。

 ああ、友を許してくれ。私の勝手な正義で、貴方の命までも奪ってしまった。貴方を守れなかった。

 私が殺したも同然だッ!

 

 ――気がついたら、彼は自らの心臓にその聖剣を付きたてていた。

 それが、彼の生前の最後の記憶である。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 これはセイバーの記憶だ。

途中から全て分かっていた。いや、最初からだ。眠りに入る前から予感はしていた。

 同一化魔術を自覚した現在、それによって彼の記憶と同調することは十分に考えられた。

 だが、ある程度覚悟していたとはいえ、少々衝撃的だったことは否めない。

 

 もはやこれは悪夢に近かった。目が覚めた時、嫌な汗で服を塗らしていた。

 まだ朝日も昇りきっていない。きっと士郎さんは朝食を作り始めているだろうが、きっと私はひどい顔をしている。今は顔を合わせたくなかった。

 しかし自室にいるとさらに気分が塞がりそうで、あてもなく屋敷の中を歩いた。

 

 頭の中はごちゃごちゃだ。睡眠時に私は何度か別人格を表に出していたらしいが、基本的に私は覚えていない。だから無意識での同一化は記憶に留めづらいということなのだろう。そのせいか、上手く頭の中が整理できていない。

 いや、それは正確ではないのだろう。

 あの記憶を見て、色々と考えてしまい、だけどそれらが一向に形を成さないから、私の頭のなかはごちゃごちゃしたままなのだ。

 

 だが、一つだけはっきりしたこともある。

 セイバーの名だ。セイバーの、役割(クラス)に応じた名前ではない、本当の名前。

 隠されているもので、暴いたほうが良いものなど無い。隠されているには隠されているなりの理由がある。

 セイバーが私に名前を隠していたのは、私を守るためだった。魔術師として未熟な私は、敵の魔術師の催眠にかかるなどという事態が十分考えられる。その時、知らないほうが身のためであるということもあるのだ。

 だが私は知ってしまった。彼の名と、その過去を。

 そしてその過去を見て、私は考えざるを得ないのだ。

 正義の意味。正義の形。

 

 気がついたら、そこは道場だった。

 何となく、そこにセイバーが居るという確信があった。

 そっと扉を開けると、静かに佇む姿があった。セイバーだ。

 瞑想中なのか、目を閉じて正座をしたまま動かない。

 邪魔をしないように、音を立てないようにそっと近付いた。

 だがおもむろに目を開け、こちらを見据えられた。やはり気付かれていたらしい。

 

「今日はやけに早いのだな、ミオ。よく眠れたか?」

「ええ、眠れたわ。……ローラン」

 

 ローラン。それが彼の名前だ。

 

 フランス最古の叙事詩『ローランの歌』に出てくるシャルルマーニュ王の甥である騎士ローラン。その物語は、血戦と称されるロンスヴォーの戦いを主題に置いたものである。

 再征服運動(レコンキスタ)最初期の物語とも言われ、この物語によりヴァチカンとイスラムの幾度にも渡る戦いの歴史が幕を開けるのである。

 

 彼は以前に言った。私が成したことといえば、長い戦乱の種を撒いただけであると。

 それは――確かにそうなのかも知れない。ローランを失ったシャルルマーニュの軍勢は異教徒を殲滅する。それがその後の禍根にもなったといえば、そうなのかも知れない。

 だがセイバー自身も分かっているはずである。それは、彼自身の咎ではないことを。

 しかしそれでもセイバーは悔いるのだ。それが、その在り方が、何だか寂しかった。在りもしない罪に悩まされ続けるその背中が、何だか痛々しかった。

 

「……誰の名だ? そのローランというのは」

「夢で見たわ。貴方の記憶か、もしくは森羅写本から引き出した情報よ。そのどちらか私には判断できないけれど、いずれにせよ、貴方は騎士ローランで間違いない。

 ……貴方の記憶を盗み見るようなことになって、申し訳なく思うわ」

 

 セイバーはじっと私の瞳を見つめ、ややあって軽く溜息をついた。

 そして、隠し通せないと観念したのか、諦観の微笑みを浮かべた。

 ……今思えば、私自身が隠し通してしまえば良かったのに。私がローランと呼ばなければそれで済んだだろうに、そう呼んでしまった。

 仕方がないではないか。

 私はセイバーと話さなければならない。色々なことを。

 

「…………そうだ、私はローラン。シャルルマーニュ王の甥である」

「いつも隣にいた友人は、オリヴィエ?」

「うむ。オリヴィエは本当に優れた騎士であった」

「じゃああの戦いは、やっぱりロンスヴォーの血戦なのね?」

「……あの戦いを見たのか。……そうだ、あれが後の世に伝えられる再征服運動の始まりだ」

 

 セイバーは私から目線を外し、格子戸から覗く朝日をじっと見据えた。

 その目は青く澄んでいて、とても深い悲しみを宿しているようには思えない。普段の態度からも、それはあまり感じさせない。

 だがそれは違う。セイバーはいつも悲しんでいる。いつも悔いている。

 聖杯にあの血戦のやり直しを求めるほどに。それは一つの希望であった。

だがそれは叶わないと知った今、彼は今悔いるしか出来ないのだ。それが贖罪であるというかのように。

 ややあって、ローランは吐き出すように言った。まるで、懺悔室で神父に罪を告発して許しを請う罪人のようであった。

 

「……私は死後、無限とも思える時間を英霊の座で過ごした。いくらでも考える時間はあった。

 正義とは何か? 士郎は、正義の味方を目指すと簡単に言うが、そもそも正義とは何だ? 倒すべき悪とは何か? ……どう思う、ミオ」

「……正義が何かなんか分からないわ。でも、正義の味方は何となく分かる。

 誰かの為に自身を投げ出して戦う、そういう存在じゃあないかしら?」

「しかし、その手を差し伸べる先は、その正義の味方が“正しい”と思う方向だ。つまり正義の味方自身の“正義”に準拠している」

 

 つまり、どう転んだとしても、正義の味方を冠する以上は正義の定義は避けられないということだろうか。

 それは――とても難しいように思う。そもそも正義は時代や地域によって大きく変わる。

 例えば基督教の歴史が顕著だろう。基督教は、昔は排他的な宗教であった。レコンキスタの歴史を見ればわかるように、他の宗教は間違いであり、地獄に落ちるべき存在であるとまでされたのだ。どちらも同じ神ヤハウェを信仰しているにも関わらず、である。

 しかし当時はそれが正義であったのだ。だが、今は違う。

 基督教は基本的に全ての宗教に関して寛容である。少なくとも表立って対立することはない。

 それが今の正義の形なのである。このように、正義の形は時代によって変わる。手のひらを返すように。

 ――水面下では、未だにヴァチカンは代行者などを使って対立関係を展開することはあるが、少なくともそれは裏の話である。今はそれを考えない。

 

「……士郎さんは、明確なそれを持っていないと?」

「そうではない。はっきりとした形ではないにせよ、何かは持っているだろう。

 だがそれでは駄目なのだ。自分が何をもって正義とするか、それを把握しなければ。何が正しいのかを分からないまま剣を振るえば、それは破滅を呼ぶ。

 正義を貫くのは決して容易ではない。自信の中に確固たるそれがなければいずれ見失う。何が正義を見失った正義の味方など、それは既に正義の味方ではない」

 

 つまり、定義だ。

 何故自分を見失うのかといえば、それは定義が出来ていないからであるとセイバーは言う。それは、間違いないのかも知れない。

 何か問題が表れたとき、その問題の定義から始まらなければならない。何故ならそれがはっきりしないと、明確な解決法は生まれず、そもそも何について論じているのか分からず混乱を招くだけだ。

 それは正義というあやふやなものでも同じなのだろう。いや、あやふやで不定形だからこそ、自己の中だけでも明確な形を持たなければならないのだろうか。

 それは――とても難しいことだろう。おそらく、『自分は何者なのか』『何を以って自分なのか』というアイデンティティに踏み込まなければならない問題だ。

 自己を見つめ、それを定義することは魔術師の基本である。何を以って自己を成すのか、これをはっきりさせないと、神秘の海で自己を見失う。特に、私のような自意識を改変する魔術となれば、それは顕著だ。

 だがそれはあくまで基盤である。魔術師であるから、幸いにして基盤はできていよう。しかしその上に礎石を定め、何か――ここでは正義――を形作るのは、存外に困難だ。定義と構築を同時に行わなければならないのだから、自己の定義よりも一段階難しい。

 これは、本当に難しい問題なのだ。

 これ以上考え込むと会話が途切れそうで、取り敢えず最初に思い当たったことを口にする。

 

「分かりやすく、誰かに手を差し伸べる生き方に憧れた、とかじゃ駄目?」

「駄目だな」

 

 セイバーは至極簡単に斬り捨てた。

 多分、世の中で正義の味方と称される職業――例えば消防士や警察官――に憧れる理由は、その在り方が美しいからというものだろう。単なる憧れだ。その憧れを抱いたまま、その職業についてしまうことも少なくないだろう。

 だがセイバーはそれでは駄目だと言った。

 

「手を差し伸べた相手に裏切られたら? 利用されたら? 手を差し伸べたとしても、もはや手遅れだったとしたら?

 二つに一つを選択せざるを得ない場面ではどうする? 愛するもの一人と他人数名を天秤にかけられたら?

 ただの職業のうちは良いだろう。だが、それを信念として掲げるには足りない」

「それは――」

 

 答えられない。私自身に明確な正義がないから。

 何を以って自分は正義とするのか。それが無く、曖昧な正義、普遍的な正義の形では答えられない問いだ。

 例えば、自分の周囲だけを守りたいと願うのならばある程度答えられる。そもそも裏切りや利用されることは考え難いし、手遅れだったとしてもただ悲しむだけだ。他人と天秤にかけられたら、迷わず愛するものを選択する。

 だが全てを救いたいなどと願えばそうではない。裏切られる。利用される。身は一つだ、手遅れにもなる。二つに一つなど選択できるはずがない。

 そこに待つのは苦悩と破滅だ。

 だからこそ、明確な形が必要なのだろう。自分はこれ信じるから、これの為に戦うという信念。それが胸の中にあるならば、それは道標になる。それがあれば、苦悩することはあっても、道を間違えることは無い。

 

「そして、正義の味方とは何か? 正義の味方は正義か?」

「正義の味方だから、正義なんじゃないの?」

「前の休日の朝に、正義の味方を名乗る者達が戦う番組を見た。あれは果たして正義か?

 対立するものたちの話を、彼らは一度でも聞いたのか? 敵にも、何か信じるものや守るものがあり、それのために戦っているにすぎないのではないのか?

 それに、私は思うのだ。正義を強要することは悪なのではないか」

「どういうこと?」

「人は常に正義を求める生き物だ。だが、状況や環境により、その正義を選択できないこともある。

 そのようなものにまで正義を強要することもまた、悪ではないのか」

 

 スラムに住む子供に、盗みをやめろというのは簡単だ。

 だが、彼らは生きるためにその悪を選択しなければならないのだ。盗みが悪であることなど彼らとて知っている。だが、環境がそれを許さないのだ。

 そんな彼らに、盗みの罰であると拳を振るうことは――果たして正義なのだろうか。盗みをやめさせるのは、彼らから生きる術を奪うのと同じである。

 セイバーの戦隊シリーズの話にもあったように、悪であると決め付けて、力を以ってそれを正すことは正義なのか。悪を滅ぼすことは正義か。

 

 夢で見た、ロンスヴォーの戦いだってそうだ。

 敵は、住み慣れた地を奪われようとし、自分達の信じるものを奪われそうになったから剣を握ったに過ぎないのだ。剣を以って抗議することは決して最良の道ではないかも知れないが、それを選ばざるを得ないのだ。

 ではローラン達のシャルルマーニュ軍はどうか。彼らにもまた、明確な正義があった。

 神の国(エルサレム)にある、ゴルゴダの丘を取り戻したいと願っただけなのだ。それは神を信じるが故の、当然の行いなのだ。だれも彼らを責めることなど出来ない。

 

 だからこそ正義とは難しいのだ。正義の反対は、悪ではなく別の正義である。月並みな言葉だが、これが一番的を射ている言葉だろう。

 正義と正義は時に対立し、時に共存する。一つの言葉で定義することは難しい。

 自分だけが正義ではないのだ。別の正義もあることを認識し、認めなければならない。

 

「正義とは、難しい。簡単には名乗れぬ。……まあ、士郎はまだ若い。その答えを求めるには時期尚早かも知れないが」

「でも、いずれ見つけなければならない?」

「そうだ。人には各々の正義がある。その形を見つけなければならない」

 

 そのとき、道場の扉が静かに開いた。

 噂をすれば影が差す。今しがた話題に上がっていた士郎さんだ。エプロン姿のままであることを考えると、朝食の準備が出来たのだろう。

 時計を見てみれば、随分と長い時間がたっていた。もう朝食の時間である。

 別に聞かれて拙い話ではないが、何となく聞かれてしまったのではないかと気を揉んでしまう。だが、様子から察するに話は聞かれていないようだった。あの話を聞いていれば、今すぐにでもここでディベートが開かれるのは間違いない。

 

「何だ、澪もここに居たのか。朝食の準備ができたから、なるべく早く来てくれ。今日は遠坂の要望によりパンだけどな」

「和食のほうが好みだけど、パンが嫌いというわけじゃ無いわ。気にしなくていいわよ」

「私はパンのほうが好みだが。シロウ、先に居間に行っておいてくれ。すぐに行く」

「ん。分かった」

 

 話の重苦しさを悟っていたのか、何の話をしていたのかは聞かなかった。もしかすると、顔には出さないだけで話を一部始終聞いていたのかも知れない。

 ……セイバーの名前を聞かれたとしたら拙かったりするのかな。と思ったが、よくよく考えれば士郎さんは剣の解析でセイバーの名前は知っているはずだ。今更隠しても仕様がない。

 

「では暗い話は一度切り上げて、朝食にするか」

「そうね。……今までどおりセイバーと呼ぶほうがいいかしら」

「その呼び方にこちらも慣れた。今更真名で呼ばれるのもむず痒い。クラス名で呼んでくれ」

「ん、了解。私も今になって呼び方を変えるのは難しいわ」

 

 もう暗い話題は打ち切り。

 私とセイバーは居間に向かうべく立ち上がった。板張りの床は夏にあっては冷たくて気持ちがいい。

 居間に向かう途中、中庭の景色に夏の息吹を感じる。

 そんな清清しい空気を享受しながらも、心のどこかでずっと考えていた。

 

 正義の意味を。正義とは――何か?



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Act.31 少年は悩む

 彼にとっての正義とは、まさしく悪を滅ぼすことである。

 自分が正義の味方であるなどと騙る気などは無い。むしろ、おそらくその対極にあるのだろう。

 ――そしてそれ故に、彼は正義である。

 幾度もその引き金を引いた。これがこの世で最後の流血になると信じ、喉から込み上げる嗚咽を飲み込んで銃弾を放った。

 この身は救われた身である。救われた命である。ならばこの命は、きっと誰かのために使うべきなのだと、そう信じて銃を執った。

 魔術はその手段に過ぎなかった。魔術師にとって魔術とは、本来ならば目的である。魔術を練磨し高みへ目指すことが至上。それを手段に使うのは、これ以上ないほどの外道である。しかし、彼は魔術師の家系に生まれながら、不幸な境遇により外道へと成った。

 それに後悔など無い。むしろ、その境遇に感謝している。

 

 しかし、もしも自分が道を踏み外しているとすれば、あのときにおいて他は無い。

 自分の行動は正しいと思う。あのとき、肉親を殺すという倫理に則れば到底許されない行為が、間違っていたと思ったことなど無い。

 だがもしも自分が誤ったとすれば、あのときなのだ。あれは、まさしく人生の転機であったからだ。そのときから、衛宮切嗣は正義を行う機械になったのだ。

 

 そう、機械である。

 悪を自動的に滅ぼさんとするシステム。正義を理性(プログラム)によって実行する機械である。

 そこに感情など無い。感情など持つ余裕は無い。ただ、悪と認識したものをその銃弾で打ち抜くための存在だ。

 その身は、およそあらゆる戦場に姿を現した。戦争の理由は様々であるが、彼にとってその全てが許容しかねるものだった。それゆえに、彼は二束三文のはした金で雇われ、一日でも早い決着の為に戦った。――目の前に現れた敵は、悉く撃ちぬいた。

 正義を求め、その果てに殺戮を行った。

 彼のことをよく知らない人は、彼のことをこう呼んだ。狂人である、外道であると。

 他人にとって、彼の行動はまさしく殺人嗜好者のそれに他ならなかった。命を賭けるに足るとは到底思えない金で、ただひたすらに戦うその様は、悪鬼にしか写らないだろう。

 

 しかし、それが彼の正義なのだ。

 正義とは、悪を滅ぼすことである。悪を悉く撃ち抜いてこそ、正義を示せると、ただそれだけを信じた。戦うことで、いつか誰も泣かずに済む世界が手に入ると、本気で信じていた。

 なぜなら、それが彼の知る正義の味方の姿であるからだ。それしか知りえないからだ。

 それは決して間違いではない。それもまた、正義である。もとより、正義とは悪との対比によってでしか証明できないものなのだ。

 しかし、それによって平和を求めたとき、それは最良の道ではない。暴力によって得られる幸福など、ありえない筈なのだ。

 それをわかっていながら、彼は戦い続けた。自分がこの世全ての悪を担えば、この世はもっと良くなると信じた。

 それゆえに、彼は過去の英雄というものを嫌悪した。何故なら――まるで自分と同じだったからだ。

 戦ったその先に、より良い未来があるから戦う。この闘争は尊い。剣に誇りを。

 その向かう先は違えど、根本は同一と言っても良かった。結局、彼らもまたより良い明日の為に戦っていたのである。

 つまるところ、同族嫌悪以外の何物でもないのだ。

 

 ならばきっと、十七年前に彼とその従者は分かり合えた筈だ。その根本は、誰かを守るという点で一致していたし、取った手段も同じだ。彼は戦いに誇りを見出すのは殺戮者に他ならないと断言するが、誰かを守るために殺戮を許容せざるを得ないという点において、彼もまたその行為に意義を見出している点では同一なのだ。

 殺戮そのものは許容できないが、何かのためにはそれを行わなければならない。彼はそれに苦悩し、そして彼女らはその先に規範となろうとした。戦闘を殺戮にさせないために、模範となるべき存在として騎士となった。

 両者の本質は違わない。彼女(セイバー)は殺戮を許せないからこそ、騎士道を望んだのだ。

 

 しかし両者の正義は、ついぞ分かり合えなかった。

 どちらも正しい。殺戮を頑として拒む気持ちと、それを防ぐために規範とならんとする気持ち。甲乙などある筈も無いし、どちらもその根本を同じくし、そして両者ともに尊い。

 しかし正義を求める暗殺者は騎士王を許せず、騎士王はそれに涙した。

 何度だって言おう。どちらも穏やかな日々を望んだことに、違いなどある筈が無い。

 

 そうだ。彼が彼女を殺戮者と呼んだように。彼もまた他人から殺人嗜好者と呼ばれる存在なのだ。そこに違いなどある筈があろうか。

 ならば何故分かり合えなかったのだろうか。ならば何故――分かり合おうとしなかったのか。

 

 悲しむべきは、これについて考える存在が今となっては居ないことである。もしもの話であるが――これについて悩むことができるモノが存在するとすれば、それはアサシンが記憶を取り戻したときだろう。

 

 

 

 

 

 

「旦那、ボーっとしてどうしたんだ? 例の頭痛かい?」

 

 景山悠司はアサシンの言葉に従順に従っていた。外出を禁じられてから既に一週間になるが、元々出不精である。そろそろ退屈を覚えているようだが、さほど苦痛には感じていないようだった。

 しかしそのせいか、ことあるごとに彼に言葉をかけるようになった。初めは警戒心からか殆ど言葉を交わさなかったというのに、それに慣れてしまったのか、もはや単なる同居人程度にしか考えていない様子であった。

 アサシンにとってそれは不都合ではないが、どちらかと言えば干渉されないほうが好ましい。この質問も無視したい。だが、仮にもマスターである。変な反感を買って令呪を使用されてはたまらない。一応の愛想は保つ必要はあった。

 

「……ああ。生前から頭痛持ちだった、なんてことは無い筈だけどね。どういう訳か、発作的にひどい頭痛に悩まされるよ。何が理由なんだろうね」

 

 実のところ、理由はおそらく分かっていた。確証すらないが、確信はある。昨晩の戦闘において、この頭痛の理由は無いだろう。召喚されてからずっと頭痛が続いているが、今日は特に酷かった。昨日と今日の違いは、それを置いて無い。

 あのアインツベルンのホムンクルスの顔を思い浮かべる度に、耐え難い頭痛に苛まされる。あのバーサーカーの顔を思い出す度に、頭が割れそうになる。

 きっと、この頭痛は警鐘だ。

 思い出さないほうが良い。思い出せば、きっと自分が許せなくなる。そういう類の、自分に対する無意識下での防衛行動なのだ。記憶を無くした経緯すら不明だが、思い出したくない気持ちは、おそらく否定できない。

 しかし、そう思う一方で思い出さなければならないという気持ちはある。思い出さなければ、せっかく得た何かが零れ落ちるような焦燥感にも襲われる。その得たものが何か分からないが、失うことに恐れを抱かなかった自分がそう思うのだ。失ってはならないものに違いないのだ。

 

「サーヴァントって、幽霊だったな。幽霊にセデスって効く?」

「……いや、鎮痛剤は要らない。それに、それは眠くなるから好きじゃない」

 

 言われるがまま、景山悠司は一度棚から取り出した市販薬を戻した。しかしそれでも気になるらしく、棚を引っ掻き回して効きそうな薬を物色し始めた。

 確かに鎮痛剤は精神面から来る頭痛にも効く。単に痛みを和らげるだけでなく、「薬を飲んだから大丈夫だ」という安心感を与えるからだ。

 しかし、そのようなことで治るような類の頭痛ではないことは分かっていた。これは防衛反応なのだ。それこそ眠ってしまえば頭痛は治まるかも知れないが、そんな一時的な気休めでは意味がない。

 いっそ、思い出してしまえば頭痛は治まるのだ。

 

 もう一度だけ、と自分に課して昨晩を思い出す。あの二人の顔を。

 一人は、雪のような銀髪の女。一人は、紅い装束に身を包んだ女。

 前者は、どこか愛しみさえ覚える。決して彼女自身は知らない。だが、良く似た人を知っている気がする。そう、まるで長年連れ添ったかのような気安さだ。

 銀の髪に、整った顔立ち。その線の細さに似合わず、紅い瞳の奥には揺るがざる鋼のような信念がある。

 あれはそう、アインツベルンのホムンクルスだ。アインツベルンがこの戦いに参加することと、その製造品の特徴は調査すればすぐに分かった。あの銀髪と紅い瞳こそアインツベルンのホムンクルスたる証。それは、同じ製造ラインに見られる普遍的な特徴な筈なのに――あの顔は、絶対に誰かに似ているのだ。

 それは誰だ? ――分からない。あのとき、確かに一つの言葉が浮かんだ。それは、確か「アイリ」。それが人の名前か、ホムンクルスの名前か、それとも何か物の名前なのか、それすらも分からない。ただ、一つの手がかりであるのは間違いないだろう。

 

 そしてもう一人。紅い装束の女。バーサーカーのサーヴァントだ。

 それに対して抱くのは、複雑な感情。憎悪か、憤怒か、それとも贖罪か懺悔か。あるいはそれら全てか。分からない。あらゆる感情が複雑にもつれ、もはや解くことが出来ない。

 だが、それでもやはり確信できる。彼女を知っている。

 生前の記憶に、あのような人物が居るはずがない。目は血走り、髪をかき乱し、血管が浮き出ている。それはまさに狂戦士(バーサーカー)だ。紅い装束は血を思わせるし、手に持った剣は華美でありながら凶暴性を隠そうともしない。

 しかしそれでも――忘れがたい人物だと思うのだ。あの顔立ちに、自分はきっと見覚えがあるのだ。

 

 名前など思い出せない。もとより、自分の記憶にある人物とは別人であると直感で理解できている。両者ともに良く似た別人だ。

 だがそれでも、その良く似た人物を頼りに記憶を探る。

 そして何か掴めそうになって――またしても耐え難い頭痛によって思考が遮られる。

 それに声も上げず耐える。眉間に皺を寄せ、脂汗を流しながら、思考を止めてそれが収まるのを待った。

 

「大丈夫か、旦那。気休めでも薬を飲んでおくかい?」

「……ああ。やはり貰っておくよ」

 

 先ほどは断ったが、気休めが欲しい気分になったために今度は素直に受け取った。それを水で一気に飲み下す。薬を飲んだから安心だという気休めの効果は無かったが、少なくとも意識は僅かながら昨晩から離れた。おかげで少しだが頭痛は和らいだ。それら全てを含めて薬が効いたともいえる。

 深く深呼吸をして、自身のコンディションを確認する。これといった負傷は無い。昨晩の戦闘は命を落としてもおかしくないものだったが、幸運にもほぼ無傷で帰還できた。

 疲労も無い。肉体面と精神面ともに健常だ。薬による眠気も無い。もとより、市販薬の効果程度ならば魔術師であればその効能の程をコントロールできる。眠気成分は吸収されているが、精神から眠気をカットすればいいだけだ。景山悠司に眠くなるから嫌いだと言ったのは断るための詭弁にすぎない。

 その他諸々の事項を確認し、今晩の行動に支障は無いと結論付けた。

 

 もうじき、この長い戦いは幕を閉じるだろう。

 もはや拮抗状態で停滞する段階ではない。拮抗を形作っていた因子が一つ、また一つと倒れて逝った。もはや拮抗など存在せず、あるのは一気呵成の終結へ向かうのみである。物事の終わりはいつでも急だ。荒事となれば特にその傾向は顕著である。彼はヒットマンとしての経験から、この戦いの終結は近いと感じ取っていた。

 アサシンの戦いの基本は、序盤において間諜に徹することである。直接戦闘において勝機など存在しないのだから、当然の選択だ。だが中盤以降は、まさしく暗殺者として戦うのが至上。闇に紛れ、誇りなど求めずに、相手がそれと気付く前に葬る。

 衛宮切嗣は間諜としての役割を終えたがゆえに、アーチャーのマスターとランサーのマスターをその手にかけたのである。狙うはサーヴァントではなくマスター。それが最上の策である。

 そしてサーヴァントではなく人間が相手となったとき、強力な武器が存在する。ここ数日、いや召喚されて以来、彼はそれを入手するべく奔走していた。

 

 おもむろにアサシンの懐から電子音が鳴った。取り出したのは携帯電話だ。それが正規の契約に基づいたものなのか、それとも不法な手段によって入手したものかは景山悠司には判断できなかったが、あえて聞かないことにした。少なくとも自分の口座や現金で購入されたものでないことは確かだった。

 僅かな言葉が交わされる。景山悠司には理解できない言葉だった。少なくとも英語ではないとしか理解できない。だが言語の印象からして、イタリア語かロシア語ではないだろうかと思った。

言葉を交わすその表情から察するに、ろくな話ではないに違いない。いや、少なくとも自分に害のある話ではないのだろうが、首を突っ込む気にはなれなかった。

 

 電話が終わるなり、彼はアパートから出て行ってしまった。もはや夏は目前であるというのに、相変わらずのコート姿である。そのコートの中に、愛用しているらしい銃を押し込むのを景山悠司は確かに見た。ますます危なげな話である。

 何も言わず急に出て行ったしまったため、景山悠司はしばらく釈然としないまま時間を潰すことを強要された。訳の分からない男ではあるが、景山悠司にとって衛宮切嗣は唯一の話し相手である。電話やメール、さらにはインターネットなど外部とコミュニケーションを取れるツールは軒並み禁止されている。別に取り上げられているわけではないが、言いつけを破ると後が怖そうなどで素直に従っているのだ。よって彼が外出してしまうと、手持ち無沙汰極まる状況になる。精々が窓から外を見下ろし、気楽そうに散歩をする老人やカップルで自転車を走らせる高校生に呪いを振りまくことぐらいだ。テレビもずっと見ていたから既に飽きた。

 

 そうやって長くはないが短くもない時間を無為に過ごした後、ようやく衛宮切嗣はアパートに戻ってきた。ただいまの一言もなく、ただ無造作に扉が開けられただけの素っ気無いものだが、話し相手に飢えている景山悠司はすぐさま飛びついた。

 

「旦那、お帰り。どこへ行っていたんだ?」

「ちょっと買い物にね。ほら」

 

 見れば確かに大きな荷物を持っていた。それはゴルフクラブを入れるケースである。アサシンがそれを床に置くと、ガチャリと音を立てたことから中身は入っているらしい。

 だが、この男がゴルフに興じるような男ではないことは今までの経験から分かりきっている。ゴルフどころか、娯楽すらまともに知らないに違いないのだ。

 

「それは……?」

「見るだけだよ。あと、騒がないでくれよ」

 

 衛宮切嗣がそれを見せたのは、これの中身を詮索されて騒がれるよりよほど良いからだと考えたからだ。内緒で隠すには物が大きすぎるし、こういった類のものは拠点に置いておきたい。結果として、快く見せるしかないと結論したからだ。

 ゆっくりと横たわったゴルフケースのファスナーを下ろす。最初に景山悠司が感じたのは臭いだ。すぐには思い出せなかったが、小学生の頃に運動会などでよく使う、紙のような火薬を爆発させてスタートを切るあの道具の臭いだと思った。名前は確かスターターピストルだったか。

 次に、その色と形状を認識した。物体は二つ。両方ともくすんだ黒に、細長い形状をしている。一つはもう一つよりもやや長かった。

 それが、大部分が鉄で一部が木によって作られていると認識した次の刹那には、それの名称が稲妻のように現れた。

 ――銃である。

 

「――こいつはすげえ」

 

 ここで驚愕の悲鳴を上げなかったのは、彼にとって銃は初めて見るものではないからだ。衛宮切嗣の持つコンテンダーを何度か目にしている。

 しかし、それと目の前に鎮座する二丁は全く別の気配を持っていた。衛宮切嗣の銃が骨董品のそれを思わせるのに対し、目の前のこれらはまさしく実用品のそれだ。

 すげえ、という景山悠司の感想は至極まともだ。その存在感はコンテンダーとは一線を画すものだ。その重量感や僅かに漂う火薬の匂いが、まさしく人殺しのための道具であると強烈に主張している。

コンテンダーのようなピストル型の銃というのは、実のところ殺傷能力にあまり期待して設計されたものではない。無論、コンテンダーほどの大口径になれば人を十分に殺しえるが、本来拳銃の口径は小さいものだ。急所に当たらなければ死に至ることは難しく、それゆえに敵の殺害よりも行動不能に陥らせることが重要とされる。マン・ストッピングパワーというものだ。銃とは我々一般人が考える以上にひ弱な武器なのである。

 しかし目の前のそれは違う。大口径によって確実に相手を殺すための道具だ。口径も装填数もコンテンダーとは比較にならない。コンテンダーは小さめのライフル弾を単発で撃つのが限界だが、これはそれを何発も撃つことを想定されたものだ。

 

「こっちの大きいほうはドラグノフだ。比べて小さいほうはカラシニコフ。古い銃だけど、どちらも中東で未だに現役の銃さ」

 

 カラシニコフとは正式名称をAvtomat Kalashnikova-47といい、AK-47とも呼ばれるアサルトライフルである。その頑丈さと少ない部品数による修繕の容易さ、さらには安価さが相まって傑作の一つに数えられる銃である。

 ドラグノフは正式名称をSnayperskaya Vintovka Dragunovaといい、SVDとも呼ばれる。AK-47を基盤に作られただけあって、これも高い耐久力と信頼性を誇る狙撃銃だ。

 どちらも世界大戦以前のロシアで作られた銃でありながら、中東などの紛争地帯で未だ現役として多くの人の命を奪い続けている銃である。今回、なかなか武器ブローカーと交渉できなかったためにここまでずれ込んでしまったが、イタリアマフィアから密輸された正真正銘の本物である。この二丁の銃は、ほんの数ヶ月前まで実際に中東で使用されていたものだ。それをイタリアマフィア経由で切嗣が買い取ったのである。

 景山悠司は実際に見るのは勿論初めてだが、その名前はゲームなどで聞いたことがあった。その殺傷能力も、それらから察することが出来た。

 

「どうやって……」

 

 手に入れたのか、と景山悠司は聞こうとした後に後悔した。こんなものは非合法な手段によって手に入れたに決まっている。しかも、資金を持たないはずの彼がこんなものを買える金があるとは思いがたい。気味の悪いことだった。どこかの口座から不当に金を下ろしていると言われても納得せざるを得ない。いや、そうであるに違いないのだ。生前の自分の口座だといわれても、どうせその金自身真っ当ではないに違いない。

 そもそもどうやって武器ブローカーなどと話をつけたのか。どうやって日本に運び込んだのか。

 

「色々とね。コツがあるんだよ」

「……」

 

 もはや景山悠司は沈黙するしかなかった。

 彼が黙している間に、衛宮切嗣はゴルフケースの中から色々なものを取り出し、その品質を確認していった。まず弾薬。質素な紙の箱がこれでもかと言うほど出てきた。その中身はライフル弾である。彼の胸にある、苦労して鎖を通した真鍮製の空薬莢のアクセサリーとは比較にならないほど大きい。両者の銃の間では弾丸に互換性があるのか、特に弾丸に違いは見られない。それがざっと見積もって数百発。過剰とも思えるほどの量である。

 次に取り出したマガジンに、それらを込める。マガジンもかなりの数があった。それらに弾丸に粗悪品が混ざっていないか確認しながら丁寧に押し込む。銃の扱いなど知るはずもない景山悠司にとっては、その作業だけでも何かの弾みで暴発するのではと冷や汗を流した。

 最後に、スコープとレーザーサイトである。それらを手際よく取り付ける。スコープはドラグノフに、レーザーサイトをカラシニコフに取り付けると、洗練されたという印象をより強く受けた。レーザーサイトを衛宮切嗣は試しに点けてみる。銃が向けられている部分だけにぽつりと赤い点が浮かんだ。

 レーザーとは基本的に収束している光である。拡散しないため、その軌跡は人間の目には映らない。結果として光が物体に当たったときのみ拡散して目に映るのである。これが光源の全く無い夜間であれば薄く軌跡が見えることもあるし、粉塵などが舞っていればくっきりと軌跡が浮かび上がるのだが、日中ではそんなものは全く見えずに簡素な赤い点が標的に浮かぶのみである。景山悠司は、こんなもので狙われたら絶対に気付けない上にどんな素人でも命中を得られるだろうと思うと恐怖した。

 

 正直なところ、彼にとってレーザーサイトは必ずしも必要とはいえないが、何の装備もしていない銃というのも頼りない。手に入る機会を得たからついでで入手したようなものだったが、存外に幸運だった。

 昨夜のカーチェイスじみた戦闘のような状況に再び見舞われたとき、これは役に立つだろう。車体で移動しながら射撃するのは相当に難しいのだ。再びライダーのマスターと出会う可能性を加味すれば、全く無駄な買い物ではないはずだ。備えあれば憂いなし、とはよく言ったものである。

 

「今夜もどこかへ出かけるのか? その……ソレらを持って」

 

 恐る恐るといった様子で二丁の銃を指差す。まだ日が昇ったばかりだが、今夜さっそくその銃が使用されると考えると、景山悠司は怖気を禁じえなかった。

 景山悠司にとって、胸の空薬莢は一種のお守りである。自分は不幸だが、その空薬莢の中身を食らった人間は、その瞬間に限れば間違いなく自分よりも不幸な目に会っているに違いないからだ。

 だがその二丁の銃弾が孕んだ銃弾は景山悠司が持つそれよりもはるかに凶悪である。それはもう、不幸というよりも無残だ。その掃射を身に浴びれば一瞬でボロ雑巾のようになって死ぬのは目に見えている。景山悠司の持つ薬莢の銃弾では死体は綺麗に残るだろうが、ドラグノフはともかくカラシニコフが相手ではズタズタにされるだろう。

 ドラグノフはドラグノフで、反撃を許さない射程から一方的に攻撃を加えるという点はカラシニコフに負けず劣らず凶悪である。

 

「ああ。今日はセイバーのマスターが標的だ。アインツベルンの城に侵入するのは困難だし、バーサーカーのマスターは未だ不明だ」

 

 彼はキャスター戦の一部始終を見守っていたのだが、その際にセイバーのマスターが誰かは把握している。しかし遠坂凛はそのときバーサーカーを用いなかったため、衛宮切嗣はバーサーカーのマスターが誰か確認できていない状態だった。

 正確には遠坂凛は既にバーサーカーのマスターではないため、彼女を殺したところでバーサーカーは消えない。バーサーカーを間接的に殺すとなれば土地そのものを壊滅させるしかないのだが、そのようなことを彼が知るわけもなかった。

 

「場所はもう知っているんだ?」

「ああ。かなり早い段階で見つけていた」

 

 その答えに景山悠司は少なからず疑問を感じた。まだ短い時間しか経っていないが、この男のことはある程度知っている。敵の本拠地を知ったならば真っ先に潰しにいくだろう。この男は、病院を吹き飛ばす程度ならば平気でする男だ。

 あのときは知らされなかったが、ニュースを見れば明らかだ。あの時間、自分はこの男の指示によりトランシーバーでどこかに通信した。その行為の意味は分からなかったが、ちょっと考えれば分かる。おそらくこの男は自分を起爆装置に利用したのだ。

 

 だがそれに対して罪悪感を覚えない程度には、景山悠司は歪んでいた。

 

「旦那らしくない。旦那なら、そういうのは真っ先に潰すかと思った。病院を吹き飛ばしたみたいに、ドカンと一発」

「……色々と事情があるのさ」

 

 その点は、衛宮切嗣にとっても疑問であった。

 何故自分は、あの家を襲うことに対してここまで嫌悪感を抱くのだろう。どうしてあの家に近付くと頭痛がするのだろう。

 だが、その疑問もこれまでだ。近付くと頭痛がするというのなら、近付かずに仕留めればいい。ドラグノフの射程は六百メートル。そこまで離れれば頭痛もしない。

 セイバーのマスターの顔は覚えている。髪を後ろで束ねた女性だ。その眉間を打ち抜いて、それで終わり。魔術に拠らない直接攻撃だ。セイバーは反撃しようと試みるだろうが、こちらの正確な位置などわかる筈もない。

 気がかりといえば、彼女の探知能力である。以前の斥候の際、こちらの存在が危うく露呈しかかった。

 しかしそれは百メートルほどまで接近していたからだろう。その六倍まで離れれば知覚はできまい。その遠距離からの攻撃となればなおのことだ。そもそも、音速を超える弾丸に対して対処できるはずもないのだ。いくら六百メートルこちらの存在を知覚しても弾丸が到達するまで二秒もない。しかしこれはまだ現実的ではない。六百メートル先からの攻撃が知覚できる人間など、結界内でも無い限り存在する筈は無い。よってその半分の三百メートルが知覚可能な範囲としよう。そうすると一秒もない。

 サーヴァントならともかく、いかに魔術師であろうとこれに対応するのは不可能である。飛来する物体を認識し、それが危険であると理解した段階で頭を撃ちぬかれる。

 広範を見張る目があろうと、この一撃の前には無力である。障壁を張る間さえない。

 

「ま、夜まで時間はあるからさ。それまで話し相手になってよ」

「……僕は世間話なんか出来ないから、聞き手に徹するけれどそれでいいかい」

「構わないよ。ほら、その物騒なものを早くしまってくれよ」

 

 夜までまだ長い。というより、日が昇ったばかりだ。狙撃ポイントを確保するにしても早すぎる。動くべき時間になるまで、この男の話し相手になってやることで時間を潰すことにした。

 景山悠司の話に適当に相槌を打ちながら、来るべき今夜のために身体だけは休めるのであった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 前回の聖杯戦争は、今回に負けず劣らずの熾烈な戦いだった。しかし戦いそのものは重要な因子ではない。最も俺に変化をもたらしたのは、自分に出会ったことだ。

 それは何の比喩でもない。まさしく自分との邂逅だ。ただ一つ、時間の経過という差異を除いて全く同じ存在だった。

 自らの理想を信じ、それが自分に届かぬと知り絶望した自分の姿。しかし、あいつは決して立ち止まらず全身し続け、それゆえにその姿は借り物などではなく本物だった。理想を追い求め、絶望し、しかし立ち止まらず。今思えば、その姿は尊いのだろう。

 

 今でも断言できる。後悔なんか無い。

 聖杯戦争が終わった後、遠坂と俺はしばらく倫敦の時計塔に留学し、その後世界を回ることにした。時計塔では、遠坂はともかく俺は決して優秀な学徒ではなかった。だけど、それでも必死に学んだ。学生生活を終えれば、そこに待つのは荒野であることは知っているからだ。

 ――そう、荒野だ。

 自分が目指すのはあの荒野だ。ただひたすらに剣が居並び、火の粉舞う荒野。それこそが俺の目指すべき場所である。

 あの剣戟の残響を今でも思い出す。深い森の奥に佇む廃墟で交わした剣と剣が、火花を散らし、残響する音。その剣戟について、語るべきことなど無い。ただ、あいつは行き、俺は目指す。それだけのことだ。

 自分が選んだ道に後悔など無い。あいつだって言った。やり遂げなければ嘘だ。

 

 だけど――荒野へ至る道は、疑問という茨で敷き詰められていた。

 例えば、中東では互いの宗教観や政治的な対立によって紛争が耐えない。だからこそ俺と遠坂はここに戻る直前に中東に居た。しかし、やはりそこは疑問で満ちていた。

どちらの勢力が正しいのだろう。政府派か? それとも反政府派か? どうすればこの紛争は終わる? 両勢力が納得できる妥協点へ誘導する? それとも片方を殲滅する?

 ――俺はどうしたい?

 例えば、その戦場には少年兵が居る。それは悲しいことだ、何とかしなければならない。誰しもそう思う。だが、幼少から銃を握り、敵兵を撃つことだけを教わってきた子だ。敵兵を殺したときだけ褒められて育った子だ。戦うためだけに生きている存在だ。戦場という地獄から介抱しても、普通の職にはつけないから、結局戦場に戻るかギャングになるしかない。災厄を教わった子が災厄を振舞うようになってしまうのだ。それがその子にとって、唯一の正義だからだ。

 その少年兵を前にして、救いの手を差し伸べて連れ出すことは容易だ。だが、ずっと面倒を見ることなど出来ない。ならばどうすればいい? 近い将来、死ぬか災厄そのものになることを知りつつ見捨てるか? それとも、いっそこの場で斬り捨てるのがより世のためになるか? 救いの手を差し伸べ、自分だけが満足してその子が戦場に戻るのを許容するか?

 

 分かりやすい悪ばかりではない。むしろ、正義と正義の対立がこの世の殆どだ。

 無論、明らかな悪も存在している。狂った魔術師が、街を一つ死都にしてしまったこともある。それを打倒し、被害の拡大を防いだこともある。――その魔術師は、自分の行為の正当性を最後まで主張していたが。

 このよう分かりやすい悪もあるが、殆どの場合において悪など存在しない。当事者であれば敵は明確な悪だろうが、第三者にはとっては両者ともに正しい主張だという状況が非常に多い。

 この世に悪など居ない。この世全ての悪など幻想に過ぎず、悪とは正義が正当性を主張するための方言である。きっと今の自分は、そう言われても納得できてしまうだろう。

 あのいけ好かない神父も言った。正義には明確な悪が必要だと。

 だから悩む。悩んで、悩んで、結局剣を執る道しか見つからず、それを執行する。後悔など無い。しかし、疑問は残る。

 これが最良の道だ。だけど、自分の知らない選択肢は存在しなかったか?

 

 それをいつも考える。決して後悔ではない。過去に後悔などしないし、未来に何があっても乗り越える。だが、振り返ることはしてしまう。

 遠坂は、胸を張りなさいと言う。そう在りたいと思う。だけど、俺は親父のような顔をできるだろうか?

 助けられたのは俺のはずなのに、まるで救われたのは自分であるかのような顔。あの安堵の顔。

 俺の原点はそれだ。あの在り方に憧れ、そしてそれを目指した。

 それは借り物だとあいつは言った。でもそれを貫けば本物である。もとより、偽物が本物に劣る道理など無い。偽者が本物を越えることもある。

 だけど俺は、今本物なのだろうか。

 多くの人を救った。それこそ、もはや数え切れないほどの人類を救っただろう。だけど、分母が大きくなるほど、零れ落ちた数も大きくなる。常に確率は一定ならば、分母が大きくなれば分子も大きくなる。それが、どうしても許せない。

 俺は、百のために一を捨てる選択は取りたくない。やむをえないこともあるが、目に付く全てを救いたい。

 だけどそれは難しいのだ。例えようもなく難しい。全てを救おうとして、結局誰も助けられなかったこともある。

 どうすれば全員を助けられたのだろうかと、一晩中考えたこともある。だけど、明確な答えなど無いのだ。

 全てを救える手段。何でもいいから、誰も泣かないで済む世界が欲しい。誰しもが幸せであってほしい。

 その為に、俺は剣を造り続けた。

 その反動で髪は部分的に白髪になってしまった。メッシュというヤツだが、意図してそうなった訳ではないから、ちょっと気にしている。肌の色も、ずっと日差しの強い中東に滞在していたからか、随分と焼けてしまった。

 

 自分の顔にあいつの面影を見たとき、強い焦燥感に駆られる。

 あいつの様にはならないと啖呵を切った。今でもそう思っている。だけど、自分の顔と目の奥にあいつの面影を見たとき、このままあいつになってしまうのではないかと不安に襲われる。

 

 そもそも俺は――正義の味方になりたかったんじゃないのか。

 じゃあ正義の味方って何だ。

 こんな悲しそうな顔をしながら人を救うやつが、正義の味方なのか。

 

 そんな思いに駆られたとき、決まって一つの歌が思い出される。子供ならば誰でも知っている歌だ。

 

 何が君の幸せ? 何をして喜ぶ?

 分からないまま終わる。そんなのは嫌だ。

 

 ああ――確か遠坂に言われたっけ。そんな辛い目にあったのならば、幸せも無ければ嘘だと。

 でも、俺は人を救いたい。人を救うのが自分の喜びと信じて疑わない。それは人として破綻しているというけれど、それでも俺はいいんだ。

 でも――それならば、何故俺は人を救ったときにこんなにも悲しい顔をしているのだろう。こんなんじゃ、救われたはずの奴が救われないじゃないか。

 俺の唯一の感情は、正義の味方になること。それに一歩近づけたのに幸せになれないのは、助けられなかった人のことを思うからか。それとも、対立した別の正義の正しさに悩むからか。

 

 これが正しいと信じて、剣を造り続けた。正義のために剣を造り続けた。だけど、本当は自分の正義の姿が見えていないのではないだろうか。

 地盤が固まらない土壌の上に、塔を作ろうとしているようなものだ。正義が見えていないのに、正義を成そうとしている。だから苦悩するのだろうか。

 でも、自分の正義が見えたところで、また別の正義と対立するだけだ。それはもう、長い流浪の旅路で学んだことだ。でも、やはりそれを見つけなければならないのだろう。

 分からないまま終わる。そんなのは嫌だ。

 

 

 

 

 

 

「……難しい顔をしているわね、士郎」

「え? ……ああ、考え事をしていたみたいだ」

 

 皿にサラダを盛る手が止まっていたようだ。見れば食卓で待ち構えている遠坂がこっちを訝しげな目で見ている。

 料理の際には考え事をしないように気をつけていたというのに、気が抜けていたみたいだ。包丁を持っているときや火を扱っているときに呆けていたら一大事になる。今の作業が大皿にサラダを盛るという、どう転んでも安全なもので良かった。

 各人の座る位置には既に焼けた卵とカリカリに焼いたベーコンがあり、それとは別の皿に厚切りのトーストが置かれている。ジャムは生憎と無いが、バターならばたっぷりと用意してある。あとはサラダがあれば準備は完了だ。さすがにサラダは各々が自分に皿に取り分けるようにしてもらう。

 典型的な洋風の朝食だ。澪や俺は和食のほうが好きだが、たまには遠坂の要望も通しておくべきだろう。

 

「どうせ、アイツのことでも考えていたんでしょ?」

「違う……と思う。いや、違わないのかな」

「ははん。分かったわ。自分は本当に『正義の味方』なのか、なんて悩んでいたんでしょ」

「まあ……そんなところだ」

 

 こういうとき、長年行動を共にした存在というのは厄介だ。隠し事を一瞬で見抜かれてしまう。別段隠し立てする必要は無いのかもしれないけれど、あまり明るい話ではない。わざわざ朝っぱらからする話ではないだろう。

 だから遠坂もそんなにこの話を続けるつもりはないらしく、その表情からあまり真摯さは感じなかった。朝に弱い遠坂らしく、まだ若干眠そうだ。頬杖をついたまま、手をひらひらさせて彼女は答えた。

 

「あんたは間違いなく正義の味方よ。胸を張りなさい」

「……そうかな」

「そうよ。断言できるわ。あんたは他の何者でも無い、正義の味方よ。

 危なっかしくて、見ていられないけれどね。でも死都になりかかった街を救ったこともあるし、災害で苦しむ村に手を差し伸べたこともある。これを体現する言葉は正義の味方以外に無いわ」

 

 これで話は終わり、とばかりに大あくびをする。

 だが、本当にそうなのだろうか。遠坂の言うとおり、今の俺を表現する言葉は正義の味方以外には無いのかも知れない。だが、それはそれ以外に表現が無い、ということであってそれそのものでは無いのだ。

 俺は正義の味方のようなものではなく、正義の味方そのものになりたいのだ。

 この身は誰かのためにならなければならない。親父に救われたこの命は、誰かのために使うべきだ。

 親父は、もしかしたらそれを悲しむかも知れない。せっかく救った命であるのにと嘆くかもしれない。

 それでも、俺はそれに憧れた。それに成るべく、俺は今まで血が滲むのも構わず前進し続けたんだ。

 だけど、終着点が見えない。救っても、救っても、俺は親父のようになれているのか分からない。終わりなんか無い旅路なのかも知れない。それでも、そうしていればいつかは親父のようになれると信じている。

 そうすれば、いつか誰も悲しまずに世界が手に入ると信じている。

 

 机にサラダボウルを置いたタイミングで今の襖が開けられた。実に丁度いいタイミングでセイバーと澪が来てくれた。パンと卵が冷めずに済んだ。

 さあ、辛気臭い頭を一転しなければならない。これは俺の問題だ。澪やセイバーにまで余計な心配をかけるような真似はしたくない。

 

「お、丁度準備が出来たところか。おはよう、リン。相変わらず朝は弱いか」

「おはよう。私にとって朝は天敵よ。ミオもおはよう」

「おはよう。……洋食でも相変わらずホテルの朝食みたいね。一人暮らしでは有り得ない品数だわ」

 

 そういえば澪はつい最近まで一人暮らしなんだった。女の子でも、一人暮らしとなれば朝食は食べないことが多いと聞くし、そういうものなのだろう。そこからのギャップを考えればこの程度でもホテルの朝食と比喩されるもの当然かも知れないな。

 とはいっても、俺と遠坂だって、こういうちゃんとした食事はこっちに帰ってきてからだ。倫敦に居たときや人里に滞在しているときはともかく、中東なんて今日食べるものに困っているような地域もざらにある。災害地でもそうだ。そういう場所では、俺達だって一日何も食べないことだってあるのだから、この食事は恵まれていると感じる。

 本当に日本は過ごしやすい国だ。

 

 洋風の朝食でも、澪とセイバーには好評だった。和食好みの澪からも良い言葉が聞けたのは嬉しい。洋食では桜に追い抜かれてしまったが、俺もまだまだ捨てたもんじゃないさ。

 ……そういえば、桜はどうしているのだろう。機会があれば一度面会に行きたいものだ。身の安全はあの怪しげな――というより怪しい神父が保障してくれたが、それでも不安は残る。

 ちゃんと食べているのだろうか。泣いてはいないだろうか。そもそも教会の安全は保たれているのだろうか。

 

「なあ、今夜あたり教会に顔を出さないか? 桜の様子が気になるんだけど」

「あ、私は士郎に賛成ね。養子縁組の書類に目を通しておいて欲しいし」

「うむ。それが良いだろう。……聖杯戦争もそろそろ佳境だろう。今夜を逃すともう行く暇が無いかも知れん」

「私も異論無いわ。遠坂さんと士郎さんが邪魔だって言うなら留守番するけどね」

「邪魔なんてコトあるわけ無いだろ。桜の件は、本当に感謝してもしきれないぐらいだ」

 

 これは本心からの言葉だ。そもそも澪が居なければ桜のことは気付けなかったかも知れない。身近に、苦しんでいる後輩が居るというのに、それに気付くべき俺は気付けなかったんだ。代わりに気付いてくれた澪には本当に感謝している。

 澪は照れくさいのか、曖昧に笑いながら頭を掻いた。その仕草は大学生らしく、何だか好感が持てた。初々しいとでも言おうか。

 その横に座っているセイバーはと言うと、大方食事を終えていた。セイバーがよく食べるのは知っていたから、あらかじめトーストは二枚置いておいたというのに。食べるスピードだけで言えばセイバー《アルトリア》にも匹敵するかもしれないな。

 セイバーの真名はローランだ。あの剣は聖剣デュランダル。以前、あの剣を見たときに解析したことで分かった。

 今のところ、それは隠し通せていると思う。遠坂にも秘密にしている。マスターの澪が知らないのだから、遠坂に教えるのはアンフェアだろう。

 とは行っても、既に知っているかも知れないというのがネックだ。分かりやすく真名開放するという場面があったわけでもなく、しかもその割には二人が単独でいることも多かった。既に知っているといってもおかしくないが、こちらからそのことを聞くのは裏があると解釈されそうで何だか気が引ける。

 何はともあれ、ローランもまた世界中で多く知られる優れた英雄であるには違いないのだ。これで三枚目のトーストを要求しなければ、もっと素晴らしい英雄なのに。居候、三杯目にはそっと出しという言葉を是非知ってもらいたい。

 

 

 

 セイバーは結局トーストを四枚平らげた。しかも一番食べたにも関わらず最速で食事を終えたのもセイバーだ。だけど、先に席を立つようなことはせずに全員が終わるのを礼儀正しく待っていた。やや遅れて、全員の朝食が終わる。誰も皿に食べ物を残していないし、あれだけあった大皿のサラダも綺麗に無くなっていた。

 それを待ちわびたとでも言うように、セイバーが口を開いた。

 

「シロウ。聞きたいことがある」

「ん? 今日の桜の所に見舞いに行く話か?」

「違う」

 

 その時、一番泡を食ったのは澪だった。何か慌ててセイバーに小声で話しかける。小声なのは間違いないのだが、あまり広くもない食卓だ。焦りもあってか、小さく聞こえた。セイバーは地声が大きいので内緒話にしては大きすぎるというのもある。

 

 ――その話を何も今話すことは無いでしょう……!? その……「正義」の話をするつもりなんでしょう? 今ここで問答をするつもり!? 空気を読みなさいよ!

 ――先ほどの例の話か。安心しろ、別件だ。

 ――本当に? 信用するわよ?

 ――何なら令呪を使うか? ……ああいや、冗談だ。怖い顔をするな。神に誓って、それとは別件の話だ。

 

 小さくだが、正義という言葉が聞こえた。

 考えれば、英雄というのはすべからく自分の正義を持つものだ。正義の味方を目指す身としては、セイバーの正義の話を聞いてみたいと思った。

 セイバー(アルトリア)の正義とは、民を守ることだった。民のために戦い、民のために身を粉にしてきた。人間ではなく、民を守る一つの装置となって戦い続けた。それは途方も無く尊く、眩い。

 ではローランはどうなのだろう。この男は何のために戦い、何を望み、その果てに何を得たのだろう。

 ――いや、セイバーは確かに言っている。何度も、『その果てに何も無かった』と言っている。

 それはもしかすると、アイツにも似た感情なのかも知れない。あの赤い弓兵と同じような過去を持っているのかも知れない。少なくとも、伝承に残る「ローランの歌」の逸話からは想像できないけれど。

 違うとすれば、アイツは理想という道を否定し、ローランは否定しないことだ。忠告はされたが、後押しをしているようにも思えた。

 

「私は聞きたいことはだな――」

 

 どんな問いが来る。おれ自身、自分が何をしたいのか未だ曖昧だ。アイツという結果だけが与えられ、その過程が分からず右往左往している。

 だが、答えなければならないのだろう。答えられなければ嘘なんだ。

 身を固くして身構えて、次の言葉を待つ。

 さあ来い。英雄ローランは、一体どんな正義を掲げ、俺に何を問う?

 

「いや、前に話していた“聖杯戦争の裏側”の話。あれが中途で終わっていたように思えるのだが」

 

 セイバーが俺に問うたのは、一週間前にやり残した話だった。そういえば、その話は後回しになっていたなと、今更ながら思い出したのだった。



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Act.32 裏側

「聖杯戦争の裏側の話……聖杯が暴力装置でしかないという話をしたとき?」

「確かそのような話のときだ」

 

 正直なところ、一週間前にした会話を正確に覚えているはずも無かった。かなりうろ覚えの状態である。

 あのときは、私が聖杯戦争について何もわかっていなかったときのことだ。マスターとなって、その直後のことである。その時は混乱もしていたから、正直なところセイバーが言う中途で終わった話があるかどうかも胡乱だ。

 それは士郎さんも遠坂さんも同じらしく、皆一様に首をかしげた。

 皆そのときのことを思い出そうとするが、セイバーの言わんとするところが分からない。

 セイバーもまた記憶が曖昧なのか、記憶を吟味している様子だ。だが、やはり何か思い当たる節があるのか、話を続けた。

 

「そうだ、確か澪が“何故魔術師同士が戦わないのか。わざわざサーヴァントを呼び出す理由は何か”と聞いていた筈だ。その答えをまだ聞いていない」

「……あー。そういえば、そんな質問もした気がするわ」

「……確かにしていたわね。答えていなかったかしら?」

「……遠坂、多分答えてないと思う。うやむやになったまま流れていた、ような」

 

 質問をした張本人も含めて記憶がいまいちはっきりしない。皆が忘れるような話なのだからどうでも良いという解釈もできようが、わざわざセイバーがその話を蒸し返すほどである。どうでも良いということは無いだろう。

 確か、あの質問は私が聖杯戦争の説明を受けていたときに発したものだが、その答えは聖杯が危険な暴力装置でしかないという話の衝撃で完全に忘れ去られていた筈だ。

 改めて思うと不可解なことだ。

 いくら強力な力を持つ聖杯といっても、奇跡は有限である筈だ。無限などというものは、世界の規則を変革しえる固有結界の中でも無い限り、基本的にこの世に存在しない。ならば、サーヴァントなどを呼び出さずに魔術師同士で戦わせたほうが奇跡を浪費せずに済むはずだ。

 そもそもサーヴァントを呼ぶ理由が不鮮明だ。何のために過去の英霊を呼び出す必要があるのだろうか。そんなものを呼び出さず、魔術師同士で戦ったほうがよほど分かりやすい。これならば強者が順当に勝ちあがるだろうから、実力者にとっては都合のいいはずだ。サーヴァント同士の戦いとなれば、それはどのサーヴァントを呼び出すかによっては実力の無い者が勝ち上がることも考えられる。……この私のように。

 確かにサーヴァントは優秀な戦闘手段なのだろう。だが必要ではない。それをわざわざ大規模な儀式によって召喚しているというのならば、そこには理由がある筈だ。

 

 聖杯が現れてから聖杯戦争が開催されるまでの半年間、遠坂さんと士郎さんは聖杯戦争の知らされざる事情について徹底的に調べ上げた筈だ。敵を知り、己を知れば百戦危うからずと言う。聖杯を破壊するべく動いているのならば、聖杯を知ることから始めないといけないのだ。

 

「一週間も前の話だから、もし同じ話を二度していたら言って頂戴。

 一言で言ってしまうとね、サーヴァントは生贄のために召喚されているの」

「――生贄、だと?」

 

 セイバーは怪訝な顔をする。それも当然だ。穏やかな話ではない。

 正確には死んでいるわけだから生贄というのは適切ではないだろうが、それでも物騒な単語だ。セイバーにとって気持ちのいい言葉ではないだろう。

 セイバーは眉間に皺を寄せつつ、次の言葉を促した。

 

「そう、生贄よ。ねえセイバー、どうやって聖杯が願いを叶えるか分かる?」

「それは――莫大な魔力によって?」

「ま、ある意味で正しいわ。

 いい? 聖杯の本来の使用方法は“根源に至る”こと。それに至るために孔を空けるのが聖杯の役割よ」

 

 根源はおよそ全ての魔術師の悲願だ。この世全ての発祥とされる、大いなる一。それに至ることが魔術師の最高到達点である。

 過去の全ての記憶を除き見することができる私であっても、その実体は計り知れない。

 私も、仮にも魔術師だ。根源を目指そうという気はさらさら無いが、興味はある。昨晩、寝る前に色々な記憶を覗き見してみたが、それでも根源が何なのか、分からないのだ。

 時間をかければ何かしら情報が得られるかも知れないが、何しろ森羅写本の情報というのはあらゆる記憶が乱雑に存在しているだけだ。一晩かけて、魔術師という人種さえろくに見つからない。

 便利に見えて意外と制約が多く、私のこの固有能力は使いづらいのだ。例えば人格も含めた完全コピーのストックは一人が限界だ。人格の情報を保存するのは私の脳なわけだから、単純に私の記憶力の限界である。また、たくさんの情報を一気に解読することも難しい。それは本を斜め読みしているようなもので、私の理解が追いつかないからだ。

 全知全能に見えるのは見た目だけで、その実は大量の蔵書に一つ一つ目を通していくに等しい。時間さえかければ大抵のことは分かるが、こういう稀有な事柄については私が死ぬまでのその情報を発見できるかどうか、というところだ。これが百科事典のようにカテゴライズして簡略にまとめられていれば非常に有用なのだが、そうはいかない。

 そういった事情から、遠坂さんの話は初耳であった。それはなかなか興味深い話だった。

聖杯の使用方法は願望器ではなく、根源に至るための手段だという。それならば、今まで六回もこのいかれた戦いが繰り返されているのも理解できる。魔術師は須らく根源を目指す生き物だ。存在理由と表現しても良い。

 そういう存在だから、どんな手段を使っても根源に至ろうとするのが魔術師だ。一般人が何人犠牲になっても構わない、自分が根源に至れるのであれば。そういう種族なのだ。

他人を犠牲にしてまで、永き生を得るために吸血鬼になるような存在だ。何十年かに一度起こる無差別殺人も、彼らにとってはとるにたらない些事なのだ。ゆえに、聖杯戦争は何世紀にも及んで存続し続けたのだ。

 

「孔を空ける……というのは根源に至る道を開く、ということよね?

でも、どうやってそんな孔を? ……冬木市を消し去るつもりでそれを実行するの?」

 

 人間の命とは、突き詰めると魔力である。魂というものは、魔力そのものでなくともそれを生成する材料なのだ。魂を燃焼させればそれは魔力として流用できる。

 そうであるからこそ、何か大掛かりな儀式を行う術式には生贄が付き物なのだ。命を燃焼させることで、足りない魔力を補うことが出来る。大源(マナ)を流用するにしても、その変換効率は術者の実力に拠る。だからこそ、実力以上に術式を執り行う場合には生贄を用いるのだ。

 実際、古代ではそういったことは頻繁に行われた。現代でも比較的ポピュラーな小動物を生贄するものではなく、生きた人間を使うのである。

 実際に、一晩で町が消えるなどということは珍しくなかった。それは魔術師が、自分の周囲の人間――それも街ごと――を術式の生贄にしたのが大部分だ。少数の一部は天災である。

 そこまですれば根源に至るものも居る。少ごく少数ではあるが、その手法によって根源に至ったものも存在するのだ。この方法は非効率的でありながら、有効な手段であるのは間違いない。

 だが、そもそも街一つを犠牲にしえるほどの術式を行えるのであれば、そもそもそのような手段に訴えずとも根源に至る道は見つかる筈なのだ。それゆえ、確実ではあるが非効率で野蛮な手段だとして、昨今では忌避される傾向にもある。加えて、そこまでしてしまうと協会はもちろん教会も黙ってはいない。その手段に訴えれば殺されるのをわかっていて、それを行うものなどそうは居ないのだ。

 そもそも孔を空けるという手段は、迷路を爆破して進んでいるようなものである。総計では分からないが、瞬間的に必要とされる火力は相当なものだ。長い目で見れば地道に迷路を進むほうが労力が必要かも知れないが、壁を砕いて進むとなれば短時間で済むが凄まじい労力だ。

 だからこそ、孔を空けるという表現に、この冬木市を犠牲にするという最悪の想像が頭をよぎった。だが、幸いなことに遠坂さんは首を横に振った。

 

「違うわ。分かると思うけれど、この街すべての生物を対象にした魔術自体がかなりの魔力を必要とするわ。聖杯戦争を考案した御三家はね、もっと効率的な手段を用意したわ。

 ――より少数で、街一つ分くらいの魂を持つものを呼び寄せることにしたのよ」

「より少数で、街一つ分? それは?」

「――――おい、リン。それはまさか……!」

 

 セイバーの鬼気迫る声で、私にも思い至った。

 魂には個人差がある。殆ど魔力にならないものもあれば、一つで何千人分にも匹敵する巨大なものもある。

 だが現代人ではそれほど巨大な魂を持つものは非常に稀有だ。己を練磨せずとも生活できる昨今で、それほどの魂を持つものは生まれにくい。

 だが、古代ならば違う。魔術や神秘を知るものならば違う。己の剣の技のみで世を揺るがす者ならば違う。それはまさしく破格の魂。世界と契約したり、神との混血であったり、死後に神の如く扱われたり、あるいは剣の技のみで世界の法則を揺るがしてしまうものであったり。そういったものは違う。まさしく、人の姿をしていながら明らかに人とは一線を画す存在。

 それは即ち英雄。過去の英霊。つまるところ――サーヴァントだ。

 

「まさか……我らの魂を使うというのか」

「……その通りよ」

 

 長い逡巡の後、言い難そうにそう答えた。

 このときのセイバーの心情を、推し量ることはできるが察することなど出来ない。それは、どんな憤慨だろう。もしくは憎悪か、それとも絶望か。

 自分が生贄のために呼ばれているなどと聞いて、その心情を知ることなどできるはずが無い。私はそのような経験をしたことも無ければ、想像したことすら無い。それは、きっと幸せなことなのだろう。

 

「聖杯は七つの英霊の魂を拘束し、開放することでその真価を発揮するわ。そのエネルギーは凄まじい。孔なんて簡単に空いてしまうわ」

「つまり、燃料みたいなもの? いや、火薬かしら」

「その解釈で間違いないと思うわ。何にせよ、サーヴァントが脱落したとき、座に帰ろうとする英雄の魂をこの世に無理やり留める。孔を空けるのに十分なサーヴァントの数が七つ。七つ魂が揃った時点で聖杯は完成するの。つまり、サーヴァントが脱落していく過程がこの儀式の肝なの」

 

自分がそれを持たないのであれば、他所から持って来ればいい。それが魔術師だ。

この聖杯戦争のシステムは、それに忠実に則っているということになる。それは非常に効率的だ。何千と必要な魂がたったの七つで済むのだから、術式はいくぶん容易になる。面倒なのは英霊の召喚だけだ。だが、これも魔力さえ十分であるならば通常の召喚術の応用で十分でもある。

 最初にこれを考えたものは優秀だ。実に無駄が無い。何千と魂を吸い上げるよりもよほど効率的かつ確実だ。英霊を呼び出そうなどと、だれが考えただろう。『奇跡』という餌を使って七体の英霊を釣り上げ、戦わせ、脱落させる。そうやって七体を消滅させれば聖杯は完成だ。

 ――七体?

 

「……遠坂さん。七体ということは――」

「……そうよ。サーヴァントは、最後には一体も残らないわ。聖杯は、召喚された全ての英霊の魂を使うことで完成する。……令呪はね。最後まで勝ち残ったサーヴァントを自決させるためにあるの。それゆえに、『令呪を使用するのは二回までにしろ』と言われるのよ」

「なんだと……ッ!」

 

 ――遠坂さんの言ったように、これは確かに生贄だ。

 セイバーは、その魂を利用されるためだけにここに呼ばれているのである。それはつまり、死ぬために呼ばれたのだ。

 これに対して憤りを感じないほうがおかしい。憎悪しないほうがおかしい。願いを叶えてやるからと呼ばれて、その実では都合の良いように利用されているだけなのだ。これに憤らずしてなんなのか。

 

 セイバーの心境を正しく知ることなど、私に出来るはずもない。だが、推し量ることは私にも出来る。

 彼が祈ったのは、過去の過ちの是正。それは、己の命を懸けるに足る悲願だ。あの戦いを垣間見た今、それを願う気持ちは痛いほど理解できる。

 何故なら、あの戦いは悲痛に過ぎるからだ。誰しもが正義を信じて戦った。正義のために戦った。片方は神のため、片方は故郷のため。その両者の正義の果てに何も無い。――何も残らない。

 残ったのは怨嗟と死体の山。幾万の命が散ったあの戦いの発端は、セイバーにあるのだ。それに後悔しないはずがない。その過ちを正したいという気持ちに偽りなどない。

 彼の正義を一言で言えば、それは信じたものの為に戦い、世に平穏をもたらすことである。信じたものは、その時はたまたま神であっただけだ。

 しかし、その末に災厄のみをもたらしたとあれば、そこにあるのは深い後悔と自責だ。

 だからこそ、彼はその修正を願った。人の身で過去の修正などできる筈が無い。時間旅行など魔法でしか為しえないだろう。だから彼が頼ることの出来たのは奇跡のみだ。

 しかし聖杯は暴力装置でしかないと彼は知った。今ならわかる。あのときの、彼の憤怒とも悲壮ともとれる表情は、信じたものに裏切られたことによる激情に他ならない。

 ――セイバーは、あのときと同じ表情をしていた。

 

「それでは――私は、奇跡などという甘い餌に騙されて、暴力装置を完成させる手伝いをさせられていたというのか……ッ! これでは道化ではないか!

 何故私にそのような手伝いをさせるッ!? 聖杯は完成させてはならない存在だろう!? 何故私にサーヴァントとの戦闘を行わせたッ!?」

 

 それは道理である。

 聖杯はサーヴァントの魂を利用することで完成するというのであれば、今までしてきたことは聖杯の完成を早めることでしかない。聖杯を破壊するのが目的であるというのに、それの完成を早めるというのはおかしな話だ。

 ……いや、聖杯が霊体であるから人間には触れられないというのは理解できる。しかし、それならば今すぐその聖杯を木っ端微塵にすればいいのだ。セイバーならそれが可能なのだから。

 しかし、遠坂さんと士郎さんは首を横に振った。

 

「……出来ることなら、今すぐ破壊したいわ。いや――聖杯は、確かに一度破壊されているはずなの」

「壊した? しかし、現に聖杯戦争は起きているではないか」

「そう。だから私たちも驚いたわ。前回、確かに聖杯を跡形もなく吹き飛ばしたはずなのよ。あれが偽物であるはずもない。中東から帰ってきてもある程度時間には余裕があったわ。その間に、調べられるだけ調べて考え付くことは一通り検証したわ。

 それで、こう推論したわけ。私たちが壊したのは、言わば使い魔。あるいは分身。とにかく本体となるものがどこかにあって、毎回聖杯戦争が始まるたびに、分身のようなものを生み出している。私たちが普通に聖杯戦争を進めていれば見ることの出来る聖杯は本体ではなく分身だから、それを壊したところで聖杯戦争そのものは止まらない。

 どう? これなら納得いく説明だと思うんだけれど」

 

 どこか理論に穴が無いか考えて、特に無いと結論付けた。あくまで可能性の一つで、推論でしかないのは確かだ。単に、跡形もなく破壊しようと自然再生されるような存在なのかもしれないし、そもそも壊せるかどうかも確かではない。しかしだ、始まりの御三家の名のように、聖杯は人が作り出したものだ。であるならば、絶対に壊れないなどという、魔法でしか実現できないようなことはありえない。そもそもこれほど複雑なシステムでありながら壊れない、壊れても完全に再生するという機能を付加することは実現不可能だ。人間の脳を再生させるに等しい。

 であるならば、やはり遠坂さんの意見に収束されるはずだ。私は賢いとは決していえないが、他の可能性は非常に薄いと断じられる。

 

「それが確かであるならば、分身には必要最低限の機能しかあるまい。その都度作り出すのだ、あまりに多機能ではそれだけで力を消費してしまう。もしかすると、英霊の魂の受け皿としての機能しか無い可能性もある」

「それでも英霊の魂を七つも格納する時点で、破格の存在よ」

 

 しかしセイバーの意見はもっともだ。故意にしろ事故にしろ、破壊される可能性があるのならば出来るだけダメージの少ないほうがいい。機能は最小限に抑えるべきだろう。それをいくら壊しても本体には影響はない。

 結論として、破壊するべきは本体ということになる。七年前に士郎さんたちが壊したのは分身のようなものであったということだ。

 しかしそうなると、もう一つ疑問が浮かぶ。その本体はどこか?

 分身は聖杯戦争がある程度進めば自ずと姿を現すという。しかし、本体はその分身を作り出すことから始め、マスターの選定など多くのタスクを抱えていることになる。四畳半の小部屋に押しこめるような代物ではないはずだ。少なくとも、この屋敷全体程度の規模のものだと考えるべきだろう。

 今考えれば、もっと早く考えるべきだった。聖杯が自然発生される自然現象ではなく、人の手によって組まれたプロセスである以上、それを管理するモノが必ず存在する。

 

「今すぐに本体を破壊したいのは山々なんだけれど、場所が分からないの。――いいえ。正確には、ここで間違いないという確信がある場所はあるわ。でも、そこに無いの。そこにしか無いはずなんだけれど」

「それは何処か?」

「柳洞山」

 

 話の流れを予測していたのか、いつの間にか士郎さんが地図をもってきた。その地図には、色々と情報が走り書きされていたが、一際目を引いたのは柳洞山をぐるりと囲む赤い線であった。

 柳洞山はここから南に少しばかりいったところにある霊山だ。その頂には柳洞寺を構える威厳溢れる場所である。

 威厳だけでなく、強い力にも溢れた場所だということは、しばらくこの地に住んでいた魔術師である以上は知っている。そもそも、霊的に強い力を持つ場所に神社仏閣は建てられてきたのだ。歴史ある寺院は必ずと言っていいほど土地そのものが強力なのだ。柳洞寺は、ただでさえ強い力を持つこの近辺でも抜きん出た場所だ。セカンドオーナーである遠坂さんの邸宅や教会もまた抜きんでた場所であり、それに並ぶほどである。

 しかも柳洞寺は、この魔術師同士の殺し合いに関与していないどころか、私の知る限り魔術師の存在すら知らないに違いないのだ。教会と違い、人の出入りもそれなりにある。私だって、昔はそこに初詣に行った記憶があるほどだ。魔術師として半端な家柄であるためか、近所付き合いを大事にしていたのである。

 

「そう思える理由は色々あるけれど、説明するのも億劫だから端折るわよ。肝要なことは、あそこ以外には考えにくいという点。だけど、いくら探しても無いの。境内の中はもちろん、山の中をひたすらに探し回ったわ。でも、無い。

 ――柳洞山じゃないのかも知れないけれどね」

 

 いや、しかし。冷静に考えれば、確かにそこしかないという気にもなる。

 これは私の考えになるが、聖杯戦争は凄まじく大がかりな儀式だ。いくらか簡略化に成功しているとはいっても、それでも破格の儀式であるのは間違いない。そのための装置が四畳半の居間に押し込めるような代物である筈がないのだ。

 そうなると、それなりの巨大な空間が必要となる。それもある程度霊的に優れた場所でなければならない。

 この地で優れた霊地は三つ。遠坂邸、冬木協会、柳洞寺。遠坂邸は論外だ。自分の家くらい、遠坂さんなら把握しているはずだ。冬木協会も考えにくい。不可侵の掟のある場所だから、怪しいといえば怪しいが、そうなると聖杯を降臨させるのに不都合だ。これも却下。

 そうなると、必然的に柳洞寺ということになる。他にも霊的に優れた場所が無いわけではないのだが、聖杯を降臨させるとなると力不足だろう。かなり広い土地も確保されてある。

 消去法ではあるものの、確かにここしか候補が無い。

 

「私も柳洞寺という案には賛成。……だけど、無いのよね?」

「ええ。根掘り葉掘り探したわ。文字通りの意味でね。だけど――無いのよね。裏庭にまで手を伸ばしたけれど、見つからなかったわ。聖杯の本体はおろか、隠し通路さえなかった」

「隠し通路? 本体とやらは地下にあるのか?」

「地上にあったらいつか見つかるでしょ。山に巨大な空洞――というか洞穴みたいなのがあると考えたほうが現実的よ」

「だとすれば――塞がれたか」

「考えにくいと思うけれどね。聖杯の本体を据えてある空間を完全に封鎖することは考えづらい。そうなると、代わりの隠し通路を掘らないといけないわ。しかも、そう易々と見つからない場所にね。そうなるとその入り口は柳洞寺から相当離れた場所よ。かなり現実離れしているわ」

「しかし七年経っている。不可能ではないと思うが。――特に、それを行ったのが魔術師かも知れないとなれば」

「それは……そうかも知れないけれど。確実にここだっていう確信があるわけでもないのよ? 仮に柳洞寺だとしても、新しい隠し通路なんて簡単に見つかるはずが無いわ」

 

 遠坂さんは、柳洞山を指していた指を明後日の方向に滑らせた。確かに、古い通路を塞ぐ理由があるとすれば安全上に問題があるか、あるいは発見される可能性があったからだろう。前回、遠坂さんたちは聖杯を一度破壊したとなると、今回の聖杯戦争に際しても再び聖杯を破壊する行動に出ることは十分に考えられる。それを防ぐため、何かしら問題の残っていた以前の通路を塞いでより安全な通路を掘ったと考えるべきか。となると、新しいものは相当に発見が困難な場所に入り口を設けるはずだ。

 裏山の奥深くに、例えば切り株に完全に偽装して設置などされれば、それはもはや発見不可能に近い。少なくとも聖杯戦争の期間内には不可能と言ってもいいだろう。

 

 地下の隠し通路を掘るというのは、かなり大規模な行動である。それが本当であるとすれば、短く見積もっても百メートルは地下を通る道を掘っていったことになる。

 それも、セカンドオーナーに見つからないように。――いや、セカンドオーナーは遠坂さんだ。前回の聖杯戦争が終わってすぐに倫敦へ行き、その後は世界を転々としていたという。ならば、比較的堂々と工事を行ったに違いない。

 あまりに大胆不敵。セカンドオーナーに黙ってそのようなことを行うなど、それは遠坂さんに喧嘩を売っているようなものだ。だが、一度ばれずに施工してしまったのであれば、今後しばらく聖杯の本体は無事だろう。リスクはやや高いが、あまりあるメリットがある方法だ。

 この考えは、無論確定ではない。柳洞寺ではない可能性も十分にある。加えて、百メートルを越える地下通路を掘るなどと破天荒極まる考えだ。

 そんな可能性よりも、本当はどこか別の場所にあると考えたほうがよほど現実的である。だからこそ士郎さんや遠坂さんも今までこの可能性を考えなかった。

 だがそれでも、遠坂さんの見立てが正しいとなれば、その可能性は十分に考えられるものだった。

 

 しかし、この推論が正しいとしても、やはり入り口の場所は問題だ。

 木を隠すには森の中だという。私ならばその言葉に従う。幸か不幸か、柳洞寺の奥には広い山林が広がっているのだ。その中から目当てのものを見つけ出すとなれば、落としたコンタクトレンズを探すのとは訳が違う。それこそ警察が大人数で数ヶ月かけてようやく山林から手がかりを探せば見つかるだろうが、たった二人で見つけるのはもはや不可能に近い。

 

 そもそもこれを行った下手人が誰かを考えたとき、おそらくそれは間桐かアインツベルンということになる。聖杯の本体が実在するとして、その存在を知ることが出来るのはおそらくこの二者において無い。その時、木を森に隠さなかったとすれば、自らの陣地にその入り口を置くことだ。

 だが、アインツベルンは聞けば郊外に居を構えているという。距離的に考えにくい。というか、そこまでの距離の地下通路を七年で掘るのは不可能だろう。

 では間桐はというと、これも考えにくい。間桐邸は住宅地に存在する。その地下はあらゆるライフラインで埋め尽くされているのだ。物理的に、これらを掻い潜って地下に通路を敷設するのは現実的ではない。

 そうなるとやはり、どこか訳の分からない場所に存在すると考えるべきだろう。まさか適当に穴を掘って調査するわけにもいかないし、この推測はここで手詰まりとなってしまう。

 

「隠し通路があるとしても……やっぱり簡単に見つかるとは思いがたいわね」

「でしょう? だから、局面がある程度進むまで待つしかないの」

「どういうことだ?」

「聖杯はある程度局面が進めば現れるわ。その時を待って、聖杯をとりあえず手に入れる。それをとりあえず安全な方法で封印するなり破壊するなりして、聖杯戦争が終結してからじっくりと調査する。

 目下、この聖杯戦争の勝者がどう聖杯を使うかが問題となるわ。本体は気になるけれども、それは今すぐ解決せずとも問題ない。差し迫ったほうから片付けないとね」

「……そう、かも知れないわね。うん、そうするしかないかな」

 

 確かに聖杯を手に入れたやつがどう聖杯を使うかは問題だ。狂ったやつが聖杯を手にすれば、後に残るのは阿鼻叫喚の地獄絵図だろう。

 だからこそ、とりあえず差し迫ったこの問題を解決するべく、士郎さんたちが勝ち残る。現れた聖杯を封印するか破壊するかして、本体の調査を続行する。

 これで問題ないはずだ――多分。

 

 ……本当に、これが正しい?

 確かに、本体の問題は差し迫っていない。聖杯を誰が手に入れるかが問題だ。

 だが、差し迫った問題を解決する過程で、誰か一般人が犠牲にはならないか? 本体の問題を解決すれば、もう片方も解決されるはずだ。今すぐ、こちらを解決したほうが誰も犠牲にならずに済むのではないか?

 だが、そうしているうちに狂ったヤツが聖杯を手に入れ、この冬木市を塵芥にするかも知れない。差し迫っていないほうを優先したばかりに、誰も助けられず、全てが水泡に帰すかも知れない。

 だから遠坂さんと士郎さんは正しい。だが――その選択は、犠牲が出るかも知れないことを許容しているのではないか?

 自ら肯定はしないが、その可能性が残るほうを選択しているということは、結果的にそうなるのではないのか?

 全てを救えるかも知れないが、誰も全て救えないかも知れない道と。一部が犠牲になるかもしれないが、確実により多数が残る道。士郎さんたちは、間接的ではあるが、後者を選択しているのではないか?

 

 だけど。

 その本体を解決する手段が全く分からない以上、こちらを片付けるしかない。

 そんなことは分かっている。絶対にこちらのほうが正しいと理性では分かる。

 だけど、心では納得しきれない。

 それは――遠坂さんや士郎さんも同じ筈だ。同じ筈だと信じている。

 

 セイバーが溜息交じりに沈黙を破った。

 

「結局、聖杯戦争を勝ち抜くしかないということか……」

「まあ、そういうことね」

「……この憤りをどこにぶつければ良いというのか」

 

 セイバーは憤懣やるかたなしという様子だ。というか、実際に憤懣の遣る方がない。

 ここで周囲に当り散らさないのは評価できるが、やはり抑えきることなどできるはずがない。自分は死ぬために呼び出されたと知って、その憤りが容易に収まるはずがないのだ。

 

「――よし。シロウ、鍛錬をしようではないか」

 

 ……前言撤回。周囲に当り散らしはしないが、巻き込みやがった。

 いや……確かに気が滅入ったときや塞ぎこんだときには運動は良い刺激にはなる。基本的に悩みや憎悪というのは自身の中で悪循環を生むが、適度な運動をすることでその循環から抜け出せる。心理的には正しい行動だ。溜まった怒りも、運動をすればかなり発散される。

 だが、このタイミングで誘われた士郎さんはご愁傷様というほかない。セイバーの気が晴れるまで、士郎はたっぷりと絞られるだろう。

 渋々といった感じで士郎さんは承諾した。する他無いといってもいい。あの笑顔には一種の強制力がある。恐ろしいことだ。

 私はそういった泥臭いのは好きじゃないし、変に巻き込まれる前に退散するとしようか。

 

「そうだ。ミオの固有能力の実力の程を確かめたい。今日は鍛錬に付き合ってくれ」

「――……え」

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 一つの話をしよう。それは、ある王の栄光の裏側の話だ。

 

 彼は、王と全く同じ存在として生を受けた。名をモードレッドという。

 母モルガンが王から作った、人造人間とも言うべき存在である。

 「五月一日に生まれた子が王を滅ぼす」という予言を受けた王は、その日が生まれの者を悉く島流しにした。その子の母は生まれを誤魔化そうとしたのだが、最後には露呈してしまい、結局その子もまた島流しにあった。

 だが、幸運か不運か、その子は奇跡的に助かってしまうのである。

 その子は、王ととても近しい存在であった。合わせ鏡のようなものである。そのためか、若くして騎士としての才覚を発揮することになる。

 母は徹底的にその子の出生の経緯を隠し通した。そうでなければ、再び王によって島流しに合うことは確実だったからである。子にすら自らの出生を語ることは無かった。

 そしてその子は、いつしか誉れ高きキャメロットへ招かれることとなる。

 彼は王に顔まで瓜二つであったため、母は子に命じることになる。決して違えてはならないと釘を刺した上でそれを告げた。

 ――決してその兜を人前で脱いではなりません。

 

 もしもその顔を王が見れば、たちどころにその子の出生の経緯を感づかれることとなるだろう。周囲が彼の出生の経緯を知れば、大きな騒ぎとなってしまうだろう。騎士となったその子はその命令を忠実に守った。幸か不幸か、その子自身も王と自分が瓜二つであることを理解していなかった。

 王に謁見する際、周囲は兜を脱ごうとしないその騎士を諌めた。だが王は、ゆるやかに制して言う。

 

「拠所ない事情があるのだろう。私への忠誠は円卓の椅子に座れたことからも明らかだ。兜は脱がなくとも良い」

 

 伝承に曰く、円卓の椅子にはマーリンによって細工がされてあった。

 円卓の騎士や王に不義を行う意志を持つもの。また、以前にその椅子に座っていたものより劣るもの。以上の条件を満たすものがその椅子に座ろうとすると、椅子はその人間を振るい落とす術が施されていた。

 円卓の一員となる意志を持つものは多かったが、この仕掛けにより本当の力と忠誠を持つ者のみが円卓の騎士を名乗ることを許されたのだ。彼は何の問題もなく椅子に座ることができた。よって、円卓の騎士の一員となることを許される。以後、兜の騎士と呼ばれるようになる。

 かくして彼は騎士としての道を歩むことになる。

 そもそも彼が騎士の道――ひいてはキャメロットを目指したのは、母の「私の子である貴方には王位を継承する資格がある。今はその身分を隠し、いずれは王を倒し貴方が王になるのです」という言葉を忠実に守ったからであった。しかし彼自身の心情はというと、そのような命令よりも純粋な王への憧れがあったからだ。

 モードレッドは幼い頃、王によって島流しにあったとはいえ、王に心酔しているといってもよかった。

 王はいつでも正しかった。騎士たる王は、騎士としての精神に則って政を進めていた。私利私欲に走ることは一度たりともなく、常に民草のためにその身を粉にしていた。

 モードレッドは王への憧れが導くままに、王に近づこうと一層の鍛錬を自らに課した。王の決定を聞き及べば、その真意を知ろうとした。近しい存在であったこともあるのだろうか、その真意を知れば知るほどその考えの深淵なることが伺えた。

 このようにしてその騎士は王により近い騎士になろうとした。

 

 ある時期から、様々な事情によりサー・ランスロットと共に行動することが多くなった。しかしモードレッドは人間嫌いである。ホムンクルスとして生まれている自分は人よりも成長が早く短命だ。ゆえに、普通の人間には嫉妬していた。

 しかしランスロットは完璧な騎士であった。その傍で行動を許されるというのは、自分もまた王に認められていることだ。ランスロットへの嫉妬心と同時に誇らしさもあった。また、ランスロットは人格者であった。他者に心を開こうとしないモードレッドに対し、友情を育もうと諦めず語りかけた。そして彼と長い間行動を共にするうちに、次第に嫉妬は友情に置き換わり、モードレッドの中にはランスロットへの友情と誇りのみが残った。

 

 それを母モルガンは快く思わなかった。

 モードレッドの母、モルガン・ル・フェイは魔女だ。それも国を狙う邪な魔女である。彼女はブリテンを我が物とするために純粋なモードレッドをキャメロットに送り込んだというのに、一向に野心を起こさず、それどころか王とその側近の騎士を崇拝している。

 モルガンはひどく怒り狂った。どうにかして、モードレッドに反逆の目を植えつけねばならない。

 モルガンは行動に出た。今までのような回りくどい方法ではない。今までは影の存在に甘んじていたが、もはや自分もまた動き始める時期であると悟った。

 モルガンは、モードレッドに自身の出生の秘密を明かした。

 ――お前は、アーサー王の分身なのだ。アーサー王から私が作り出したホムンクルス。いわば、私と王との間に生まれた不貞の子。お前は、汚らわしい身なのだ。

 

 それを聞いたモードレッドの衝撃は筆舌に尽くしがたい。今まで信じていた母からの言葉は、肉体はともかくまだ精神的に幼さを残すモードレッドには耐え切れるものではなかった。

 モードレッドが心の拠り所とできるのは、母とアーサー王、そしてランスロットのみであった。事情が事情なだけに、彼がそのとき頼れたのは父であるアーサー王だけであった。

 彼はアーサー王と内密に謁見し、事実を語った。

 王は正しい。いつも正義の士である。王ならば、きっと自分を救ってくれる。自分が進むべき道を示してくれる。モードレッドは縋るような気持ちであった。

 

「そうか――お前は、私とモルガンとの間の子ということになるのか」

「……はい。父上、どうかお願いです。私に載冠剣クラレントを。次の王に私を指名してください。父上の子として認めてください。そうでなければ――私は救われません」

 

 モードレッドは、母の言葉に従い一心不乱に騎士の道を進んだ。それはすでに母の命であるという分を超え、王への信頼と崇拝によるものだ。

 しかし、その王の不貞の子が自分だという。汚らわしい身であるという。

 せめて――王が自分を子と認めてくれなければ、この身は救われぬ。子に王位を譲るというのは、国の全てを与えても自分と同じように政を行うであろうという信頼に基づいたものだ。それは実の子であっても確約しかねることである。それをモードレッドに与えるということは、実の子以上に信頼を寄せ、我が子として扱うということに他ならない。

 そしてブリテンにおいて王位の象徴たる剣は、カリバーンでもエクスカリバーでもなく、クラレントという剣である。

 

 載冠剣クラレント。それは王が持つ宝剣の名であった。

 載冠とは王の冠を他者の頭の上に載せる儀式のことを指し、つまりは王位継承を意味する。それに用いられが宝剣であり儀礼剣であるクラレントであった。その剣は持ち主の王位を約束し、国を与える剣である。

 つまりモードレットは、クラレントを与えられねば、真にアーサーから子と認められはしないのだ。

 アーサーも、モードレッドがクラレントを求める理由は十分に理解していた。

 理解したうえで――それを拒否した。

 

「それはできない」

 

 その言葉の意味を理解した瞬間、世界は崩壊した。

 王に認めてもらいたい。認めてもらい、王を、父の後を継ぐのだ。

 兜の騎士にはそれしか無かったのである。彼にとってそれが世界の全てであった。それを否定された今、彼には何も残ってはいなかった。

 その後、王と何か言葉を交わしたのか。どのようにして自室に戻ったのか。モードレッドには全く記憶がなかった。気がつけば自室で放心していた。

 

 モードレッドは数日間に渡って廃人のような日々を送った。流行り病を患ったと偽り、自室に閉じこもった。そうしなければ胃の奥から這い上がる虚無感に呑まれそうになるのである。

 その虚無感から立ち直ったとき、兜の騎士には目に見えない変化があった。

 あれほど自身で否定していた王への懐疑心が、胸の中に渦巻いていたのである。忠誠心は怨念へと変貌し、騎士道は復讐の道具へとなり果てた。己を否定した者への復讐を誓う、人の形をした暴虐へと変貌を遂げた。

 王よ、自らの傲慢を恥じよ。

 貴様だけが神のごとき高みから人を見下し、己の正義を振りかざして他者を処断する。それが貴様の正義か。

 自らの法にだけ忠実で、それに反する人間を徹底的に処断する。それが貴様の掲げる理想か。

 王の器とは何か。他者に同情することすらせず、自らの決定にのみ忠実なことか。

 それは王ではない。そんなものが許されるはずが無い。

 その所業に悪を感じないのか。

 ああ、正義であることは正しいとも。誰もが正しくあろうとして生きている。

 だが、この世にはそうはなれなかった者が確かにいるのだ。状況や環境からその正しさを選べないこともあるのだ。そう、私のように。

 正義であろうとし、悪を憎むことは正しい。だがその正義を他者に押し付けることもまた、悪である。自らの正義のみを信じ、他者を顧みないこともまた悪である。

 

 ならば――貴様は悪だ、騎士王アーサー。

 身を焦がすのは圧倒的な怨嗟。恨み。憎しみ。狂った獣が胸の内に居る。

 他者が見れば、逆恨みだと嘲笑うだろう。だが兜の騎士は、それで良いと思った。

 そうだ、これは逆恨みだ。私が人生、私の全てを否定して打ち砕いたことに対する恨みだ。私は一度、心を王に殺されたのだ。この憎しみは、王の全てを以ってでしか相殺できない。王の全てを簒奪すべし。

 この世に王など要らぬ。人を処断する者こそが国を乱す。

 この世に騎士など要らぬ。正義を振りかざした悪こそが人を惑わす。

 騎士王はその両方を兼ね備えた巨悪である。

 私は王を打ち倒し、その後に騎士の名を冠するものを全て打ち滅ぼし、その末に自ら命を絶とう。

 

 そう決意したその日の夜。ある騎士から話を持ちかけられた。

 完璧な騎士ランスロットが王の妃と不義を行っているらしい。即刻これを暴き、王へご報告し、ランスロットを処断しなければならぬ。要約すればこのような話である。

 本来ならばランスロットの友として、出来得る限りランスロットに肩入れしてやりたいところだった。しかし、ランスロットには申し訳ないが王を計るには良いと思った。果たして正しき王は、朋友を如何様にするか。

 ランスロットもまた、状況や環境により「正しさ」を選択することが出来なかったのだ。王もそれを十分に承知している。ならば彼をどうするかによって、王の本質が見えよう。

 

 許すならばそれで良し。王にも人の心があったと認め、我が胸の内に潜む獣を飼い殺そう。

 処断するならば、それも良かろう。やはり王こそが悪であると認め、私は獣となってそれを解き放とう。

 並々ならぬ憎悪に後押しされて、その騎士に賛同した。すぐさま妃は追い立てられ、ランスロットは彼女を連れてキャメロットを後にした。

 その後は全てが驚くほど順調だった。もしも王がランスロットを討ちにいくならば、留守になった隙に反旗を翻せば良いのだ。さて、王は友えお許すや否や。その決断をモードレッドは待ちわびた。

 そして王の決断は、ランスロットの討伐であった。王は友を許さなかった。

 

 ――来たれ獣よ!

 やはり王は悪である!

 

 王の実の息子である、兜の騎士モードレッドは、宝物庫の守りを破いてその剣を手中にした。

 載冠剣クラレントはモードレッドを拒むこともなかった。その華美にして豪奢な意匠は新たな王の誕生を讃えるかのようであった。

 さあ、クラレントよ。私に力を与えるがいい。

 その剣は紛うことなく、「国を与える剣」であった。剣の威光に導かれ、多くの者が彼に賛同し兵を出した。剣の力によって国を味方につけた兜の騎士は、常に自らが踏みしめる地から力を与えられた。それらはもはや、王の軍勢と五分のものである。

 兵の数は膨大なものになった。多くの者が革命を望んでいた。王の留守を狙った卑小な賊と後ろ指もさされたが、モードレッドの巧みな弁論により反アーサー王の機運は高まりつつあった。

 そして機は来た。ついに王とランスロットの軍勢が衝突したとの一報。王の正規軍が優勢で、このままランスロットは討たれるであろうとの報せ。

 モルドレッドはこの機を見逃さず、すぐさま兵を出した。

 

 モードレッドは、正規軍がランスロットの軍勢との戦闘で疲弊しているところを狙った。決戦の地はカムランの丘である。

 さあ王よ。いつものように剣を執って私を処断するがいい。私も貴様を処断しよう。

 どちらが正しく、どちらが悪であるか。それはエクスカリバーとクラレントが決めてくれよう。

 王はやはりモードレッドの謀反を許さず、軍を動かした。それを見届けてからモードレッドも軍を動かし、自らも先陣を切った。

 

 戦いは熾烈を極める。疲弊した者が相手とはいえ、こちらは即席の軍勢が多くを占めている。

 だが好機は幸いにもすぐに現れた。傷ついたのか、エクスカリバーを杖にした王の姿を見つけたのだ。

 覚悟、と叫んでクラレントを振りかざす。だが王もまた渾身を搾り出し、その剣を振りかぶった。

 兜の騎士の一撃は、王の脇腹を切り裂いた。騎士王の一撃は、モードレッドの兜を叩き割った。事実としては相打ちだが、致命傷を与えられたのはモードレッドであった。もはや両者ともに余命いくばくも無いのは明白であった。

 モードレッドは最後に残り僅かな力を振り絞り、周囲を指差して王に言った。

 

「見たかアーサー王、これで貴方の国も終りだ。私が勝とうが貴方が勝とうがご覧の通り、全て滅びさった。貴方が私に王位を渡してさえいれば、こんな事にはならなかった。そんなに貴方の分身である私が憎いかッ!?」

 

 王はそれに答えた。その顔からはおよそ一切の表情はない。淡々と、ただ事実のみを答えた。血を吐きながら、腹から鮮血を噴き出しながら、それでも淡々と答えた。

 

「……私は貴公を恨んだ事は一度もない。貴公に王位を譲らなかった理由はただ一つ、貴公には王としての器が無いからだ」

 

 彼は感情のままに走り出した。これ以上王に言葉を継がせてはならぬ。今すぐその首を刎ねるべしと、憎悪の言葉を吐きながら駆け寄った。

 だが、アーサー王は転がっていた槍を拾い上げ、それで彼の心の臓腑を突いた。

 これが彼の最後である。

 

 

 

 

 

 

 どことも分からない場所に召され、モードレッドは永遠とも思える時間を自らの憎悪の培養に費やした。

 憎悪を膨らませるたびに、彼に巣くった獣は力を増す。

 言葉は繰り返せば呪いとなる。蓄積された呪いは死後も相手を苦しめる。

 そう信じて気が遠くなるほど永い時間、ただひたすらに呪い続けた。

 許すまじ、許すまじ。

 王を、騎士を、絶対に許すまじ。

 願わくば死後にも貴様に不幸を。決して報われることのない苦しみを。

 もしもこの世に、騎士なんてモノが居なければ。

 私は人並みの人生を送ったはずなのだ。ブリテンは、この世全ては平穏を享受できた筈なのだ。

 

 滅び去れ、全ての騎士よ。正義を振りかざす欺瞞の者よ。

 思い返すがいい。貴様等が為したことを。国を乱してきた貴様等の所業を。

 私はこの世全ての騎士を憎む。この世全ての王を憎む。

 滅び去れ、全ての騎士よ。それを従える王よ。

 それが成せるなら、私は獣になろう。騎士と王を食いちぎる一匹の獣になろう。

 その執念だけが私の力。その狂気こそが、私を支える一本の芯。

 騎士であった私は、騎士であってはならない。騎士とは程遠い獣でなくてはならない。

 さあ、来たれ狂気よ。誉も、理もなき獣であれば、あるいはこの執念は遂げられるやも知れぬ。

 

 ――――そして、一つの機が到来した。

 過去の騎士達が呼ばれ、殺しあう戦争。

 呼びかける魔術師からは、かつてアーサー王を従えたものであった。自身と王は同一の存在である。魔術を良く知らずとも、それを超えた感覚で理解できた。

 なるほど、この女も王に忠誠を尽くしたモノか。あるいは王を支えたモノか。

 ならば、呼びかけに応えよう。私が望んだように、一匹の獣となろう。

 精々私を上手く用いるがいい魔術師よ。

 そして刮目し、覚悟せよ魔術師よ。

 簒奪の騎士の真髄を。反逆の騎士の怨念を。

 私の剣が屠るのは、騎士達だけではない。

 仮初の主よ覚悟せよ。あの王と契約した貴様の罪は重い。

 

 そうして彼は記憶も胡乱な獣となり、憎悪のままに戦った。

 そして、もう一つの転機――いや、偶然というには僥倖すぎる奇跡が訪れる。

 それはどこかの橋の上。どこか見覚えのある、見ているだけで憎悪を呼び覚ます騎士と戦った。その直前まで相手にしていた騎馬武者を放置してまで、このものを滅ぼさねばという強い執念を覚える。もはや名前など覚えていない。昔、友に剣を握った中であった気もするが定かでは無い。

 その憎き騎士に一太刀を浴びせたときであった。

 

 ――――“勝利すべき黄金の剣(カリバーン)!”――――

 

 ああ、これは如何なる奇跡か。

 姿こそ思い出せぬが、あの剣を持つのは紛れも無くあの王。

 ならば、ならば今こそ無念を晴らそう。

 クラレントよ、今一度私に祝福を。

 ――――何故、そこまで王位を求める! 兜の騎士(モルドレッド)、我が息子よ!―――――

 否。断じて否。

 私はもはや王位など要らぬ。

 欲しいのは、貴様の首。貴様の命。

 

 貴様さえ居なければ――――私は誰も恨まずに済んだのだッ!

 



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Act.33 剣による教え

 断言できる。小学、中学、高校、大学と通して体を鍛えてなどいない。スタイルを維持する程度には運動しているが、鍛錬というには程遠い。この細腕を見れば一目瞭然だろう。ナイスなプロポーションであるなどと自惚れるつもりはないが、殴り合いができるような体格ではない。

 それが何ゆえ、サーヴァントと一緒に組み手をすることになっているのか。絶対に間違っている。

 責任者を問いただす必要がある。責任者はどこか。

 

 決して運動音痴を自称するつもりは無い。スタイルを維持する、といっても太らないようにするという程度だが、ジョギングは日課的に行っていた。最近はただ走るよりも俄然多くのカロリーを消費する毎日だからジョギングはやっていなかったが、もう何年も天気の良い早朝にはジョギングは欠かさなかった。だから運動音痴であるということは無いはずだ。

 しかしだ。それは体力と体型の維持であって向上ではない。断じてない。一日十数分程度のジョギングで体力が向上するとは誰も思っていないだろう。私も思わない。

 自慢にもならないが、殴り合いなどとは遠い日々を送ってきた。そもそも魔術師はそういうものから程遠い存在だ。大学の研究室に篭る学生のイメージが一番近い。素手での殴り合いも、武器を持った試合も、学校の授業で舐める程度嗜んだ経験があるだけだ。

 

 今日の鍛錬はいつもと趣向が違う。私が自分の能力を得たことにより、戦闘能力は向上している筈だ。それを図りたいという。よって、今この場にいる全員と一回ずつ組み手を行うということだ。道場をざっと見回す。どう数えても私以外は三人いる。士郎さん、セイバー、そして遠坂さんだ。

 物好きにも遠坂さんまで道場に顔を出したうえ、あまつさえこの私に対する処刑ショーに参加すると言い出したため、私の相手が一人増えた次第だ。呪われろ。

 もう一度細い指を眺めて溜息をつく。それに引き換え、私の相手をする猛者どもの何と屈強なことか。

 一番実力が近いであろう遠坂さんでさえ、中国拳法の使い手だというではないか。準備運動がてら軽く形を演じていたのを見たが、それだけで長年それを培ってきたのであろうことは容易に見て取れる。強敵だろう。

 次に士郎さんだが、これはもはや苛めの領域だ。まず性差に問題があろう。このようなか弱い乙女を相手取って打ちのめそうなど言語道断だ。加えるなら、大学の運動部連中なんかよりはるかに完成された体つきをしている。恐ろしい限りだ。

 最後にセイバーだが、こいつはもう別次元だ。そもそも英霊が相手などおかしいだろう。私を殺す気だろうか。しかも相手はあのローランなのだ。『ローランの歌』では、実のところ数万の兵と戦ったにも関わらず彼が負傷をしたという記述は無い。笛を力強く吹きすぎて脳の血管が切れて死んだと書かれているのだ。実のところは自刃であったようだが、それでも津波のように雪崩れ込む敵兵を前にこれといった負傷を負わなかったというのは恐ろしい戦闘能力だ。

 ここまでくれば明白だ。勝ち目などあってたまるか。何ゆえこんな事になっている。

 

「……見るからに不満そうだな、ミオ」

「そりゃそうでしょう。ボコボコにされること前提じゃない、これ。私は戦闘訓練なんか全く受けていないのよ? リンチみたいなものよ」

「私はそうは思わないがな。前にも言っただろう? 心技体はそれぞれ補える。確かにミオには「体」が欠けているが、ミオの同一化魔術によって心と技は他者を模倣できる。

 ――正直なところ、士郎ぐらいには勝つかも知れんと思っているのだ。士郎が投影魔術を使わないという条件で、かつ厳正なルールに則って試合をすればの話だが」

「……そんなわけないでしょ」

 

 確か、前にセイバーが士郎さんに言っていた。士郎さんには剣の才が無いと。

 私にそれが備わっているというわけではない。そもそも竹刀だって生まれて数度しか握ったことが無い私に剣の才などある筈もない。

 しかし、その才を私は誰かから借り受けることが出来る。セイバーの言うとおり心と技、つまり才能と言い換えても差し支えない部分を誰かから模倣すれば、あるいは士郎さんを超えることが出来るのかも知れない。

 勿論、セイバーの言うように投影魔術を使われたら勝ち目など無いのだが。

 その話を聞いていた士郎さんが、おもむろに聞きなれない言葉を発した。

 

「勝而後戦う」

「……え?」

「勝ってしかる後に戦う。聞きなれないだろうけれど、これは剣道用語だ。

 戦う前に気で相手に勝ち、心で相手に勝ち、そしてしかる後に戦え。戦う前から負けを意識していたら勝てるわけが無いという教えだ。気で攻めて理で打て、とも言う」

「……士郎さんの専門は弓道でしょう」

「藤ねえからの受け売りだ。ま、やるとなったものは仕方がないし、せめて気持ちだけでも前向きになっておかないとな」

 

 そのポジティブさが羨ましい。私は十分後の自分を想像するだけでも恐ろしい。恐ろしいから考えないことにしている。

 とはいっても、士郎さんの言うことは至極全うである。反論の余地すらない。どうせここで駄々を捏ねたところでこの組み手が中止にはならないだろう。だったら開き直るのも一つの手である。案外、人間開き直りの境地に至れば何とかなるものだ。

 よし、少しはやる気が出てきた。女は度胸である。

 入念に体を伸ばし、軽く準備運動をしておく。また筋断裂でもおこしてはたまらない。

 

「準備はいいかしら。最初は私からでいいでしょう?」

「問題ないわ」

 

 いきなりセイバーが来られても困る。こちらとしては、徐々に段階が上がるほうが好ましい。緒戦からセイバーと当たって、気絶させられて戦意喪失という未来がありありと浮かぶからだ。

 道場の適当な位置で対峙する。

同一化魔術は使用しない。まずは同一化魔術を行わない状態からのスタートということで意見の一致をみている。状態を分かりやすく対比するためだ。そういう意味でも、比較的戦闘能力の近い遠坂さんが緒戦に適切だ。この面子の中でも私が最も瞬殺されにくい人材だからだ。

 道場の適当な場所で対峙する。締まらないことに両者ともにジャージであるが、そこはご愛嬌だ。普段着というのも困るが、運動着はこれしかない。

 服装はなんとも締まらないものだが、私たちはともに真剣だ。乗り気ではない私でも、この覇気にあてられれば気持ちを引き締めざるを得ない。

 審判を仰せつかったセイバーが私たちの間に入る。私と遠坂さんを一瞥して、非常に簡素なルールの確認をした。

 

「二本先取だ。一本ごとに仕切りなおす。リンは拳法しか扱えないため、両者ともに武器の使用は認めん。だが、打突、投げ、寝技、果ては平手まで何でも認める。とにかく、私が有効であると思ったらそれが有効打だ。

 マスターであっても公平に審議する。贔屓はなしだ」

「当然よ。こっちだってそんなの願い下げだわ」

「いい心構えね。明らかな審判の不公平があった場合には、今後一週間は澪が食事当番をしてもらいましょうか」

「……そういうわけだから、私からも公平にお願いするわ、セイバー」

「確かに承った。では、両者ともに準備はいいか」

 

 ともに首肯する。

 遠坂さんは半身になる。体をほぼ真横に向けた状態でこちらを向くと、中心線がこちらから完全に隠れる。急所が見えないというのは、なるほど、実戦的だ。

 対して私の構えは滅茶苦茶だ。ウルトラマンもかくやという不恰好。一応、柔道の構えのつもりだ。柔道ならば高校時代に体育の時間でやったことがある。思い切り背負い投げを放っても大事にはなるまい。ヘタクソすぎて相手の頭から叩き落してしまいそうで怖いが、遠坂さんならどうにかしてくれると信じている。

 

「始めッ!」

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

「いやあ、まさかここまで差があるとはなあ」

「セイバー……言ったはずよ。素の私はこんなものよ」

 

 八海山澪が試合前に気と心で勝てたかどうかはともかく、結果は惨敗だった。

 まず遠坂凛に組み付こうとして平手を一発貰った。拳でなかっただけ感謝するべきだろう。

 次に平手に注意をしつつ、再び組み付こうとしたところ、手を払いつつ肘を顔面に放り込まれた。寸止めだが有効を取られた。澪は技の名前など知らないが、あれをそのまま叩き込まれていたら鼻を折られていたことは確実だ。

 結果、試合時間は一分に満たないぐらいである。払われた右手がまだ鈍く痛んだ。格の差というものは歴然だ。

 あまりに早く試合が終わってしまったため、両者ともに汗どころか息さえ全く乱れていなかった。ゆえに小休止なしで第二戦を行うことになった。

 第二戦の対戦カードは同じだ。ただ、澪は先ほどと違い同一化魔術を使用した状態で戦うことにしている。

 

 澪もまた魔術師である。森羅写本という、魔術師であれば垂涎ものであろう力を前にして、何もしていないわけがない。この能力を得てから二晩しか経っていないが、色々と試行錯誤をしてみたのである。

 その結果、いくつか面白い人格を見つけた。魔術師ではなく、格闘術において秀でた人物である。

 残念なことに、魔法や魔術についてよく識る人物というのはいまだ見つかっていないが、これでも一つの成果であった。そもそも、例えるならば兆を超えるほどの蔵書の中から特定の記述を見つけようとしているようなものである。それを見つけられただけでも僥倖なのだ。

 

Starten(再起動)Start(開始)

 

 再び対峙し、その人格を再構築する。

 それが完了したとき、澪の瞳には別人の色を宿していた。

 その人物は、とても興味深い人物だ。人間でありながら、その拳のみで人外と戦うための戦闘術を身に付けた。

 そういう意味で、今回の聖杯戦争監督係代行である冬原春巳とはとても近い人物だろう。だが彼はボクシングを基盤とした戦闘術であり、一方この人物は、遠坂凛のように中国拳法を基盤とした戦闘術である。

 人外の中には固い外殻で覆われるものも居るだろう。ゆえにそれは拳以外を基本の技としている。

 

「――名を聞こう」

 

 セイバーは彼女に問うた。いや、彼女という表現が正確かも分からない。現時点で、八海山澪の内面に存在するのが男性なのか女性なのか定かではないからだ。

 澪は体の動きを確かめるように掌を開いたり握ったりした後、その質問に答えた。その言葉遣いからは、やはり澪とは別人を思わせるものがあった。

 

「……九鬼流。如月双七(きさらぎそうしち)

 

 自らの流派まで名乗るそれは、まさしく尋常なものだ。とは言っても異種格闘技に近いこの試合である。自らの戦闘術を相手に告げるのは、正々堂々と戦う上では必須ともいえる。

 ゆえに凛もそれに応えた。

 

「八極拳。遠坂凛よ」

 

 名乗りの後、両者は拳を構えた。距離は先ほどと同じ一刀一足の間合い。だが、これが先ほどと同じような顛末になるであろうと想像しているものは誰も居ない。

 睨み合う。互いに拳を交える前に、相手を圧倒せんと対峙する。共に明鏡止水の境地。凛のそれは、長年に渡る功夫(クンフー)の賜物だ。魔術の片手間であるとはいっても、その実力は折り紙つきである。

 対して澪はどうか。功夫などとは無縁の人生であった。だが、それでも今この瞬間、凛とならぶ実力を持つであろうことをこの場の全員が暗黙のうちに悟っていた。心技体のうち、心と技を模倣すればこそだ。

 それはまさに、故人が澪に憑依したが如し。

 ここに居るのは、まさに澪であって澪ではない。体付きこそ貧弱であろうが、その内面には過去の壮士が存在する。それは、傍目には憑依となんら変わりはない。

 それこそが、稗田の末裔の血の為せる技だ。故人を決して忘れることの無い、稗田阿礼の力だ。

 

「初めッ!」

 

 緒戦と違い、仕掛けたのは凛だ。魔力で水増しされた脚力による爆発的瞬発力に乗せて放たれる拳は、まさしく電光石火の一撃。

 緒戦の澪であったならば、反応すら許されずその拳を顔面に叩き込まれていたであろう。しかし、ここにいるのは澪であって澪ではない。ならば、緒戦と同じ結果になる道理は無い。

 それは一瞬の出来事だ。

 澪が放たれた拳を捌く。その動作は流麗かつ鋭い。瞬きすら許さぬ間に凛の突き出した手首を握り、半身を入れ替えるようにして懐に入り込んだ。

 吶喊する凛はその動作に対応できず、懐に澪を入れてしまう。否、全力で吶喊していた以上、完全に懐に入り込んだ敵が放つ一撃を避ける術などある筈がない。

 

「――ッ!」

焔螺子(ほむらねじ)ッ!」

 

 弓のように引き絞った掌が、螺旋を描きながら凛の腹に叩き込まれる。それは円軌道に加え、掌そのものにも回転による威力を付加した掌底。

 それは打撃による破壊を目的としたものではなく、衝撃による内部へのダメージを狙ったものだ。かなり加減されているとはいっても、その威力を殺しきれるものではない。

 セイバーの一本、の声と同時に、凛は崩れ落ちるようにその場に膝をついた。

 一同はよもや最悪の事態かと冷や汗をかかされたが、凛の静止を促すように上げられた手で落ち着きを取り戻した。

 

「あぁ……。これは効いたわ……」

「大丈夫?」

 

 気がつけば、澪は元の人格に戻っているようだった。判別が難しいところではあるが、普段通りの雰囲気であるように思えた。

 凛は大丈夫であるとジェスチャーで答えたものの、平気ではなさそうだった。ある意味で当然である。人外を打倒すための拳法を生身で受けているのだ。加減されているといっても、内臓へのダメージは長引く。ボクシングでも、ボディでダウンすると容易には立ち上がれないというのはよく知られている。

 

「これでは続行は難しいか」

「ええ……。TKOでお願いするわ」

「うむ。では、第二戦は澪の勝利だ」

 

 澪は自分のことながら舌を巻いた。まさか勝てるとは露ほども思っていなかったからだ。

 体力のみに焦点を当てれば、おそらく凛のほうが上だろう。長年の経験も大きい。そういう点を考慮すれば、いくら故人の技術と精神を模倣しても敗北を喫するであろうと思っていた。

 しかし、現実はそうではなかった。セイバーの言う通りであることが証明された形だ。心技体のうち、どれか一つ欠けようとも残りでカバーできる。体力が無いのであれば、精神力と小手先の技で補えば各上の相手でも打倒しえる。

 加えるならば、体力の面で澪と凛はさほど大きな差が無かった。凛のほうが上ではあるが、話にならないというほどの差ではない。体力がほぼ同格であるのに、心と技が抜きん出たのだから澪の勝利は至極当然ともいえた。

 ここまで澪の成績は一勝一敗。同一化魔術の使用で戦闘能力の一時的な向上が確認された。ここからは、どこまでその戦闘能力を高めることが出来るのかという点が問題になる。

 今後も聖杯戦争を続ける上で、澪の戦闘能力がどこまでなのかを図るのは大事なことだ。今まではただ手放しに守っていればよかったが、今後は自分で自分の身を守れるということを前提として動くことが可能になる。相手のマスターに澪をぶつけるということも可能になってくるだろう。

 だがそのためには澪の戦闘能力を把握しなければならない。暴虎に丸腰の人間をぶつけるわけには行かないのだ。

 

 ここで焦点を当てるべきは澪の白兵戦での能力ということになる。いくら人の人格を模倣できるといっても、魔術はそれだけで実行できるものではない。特に澪自身の属性や特性が変化するわけではないから、人の魔術というものは殆ど扱えないと考えてもいい。魔術的な戦闘能力は全く向上できないといっても過言ではない。

 ゆえにここで問題となるべきは澪の白兵戦の能力だ。これが同一化魔術によって向上することは今しがた確認したばかりである。ゆえに、凛もまた魔術に拠らない戦闘によってそれを計ろうとしたのである。魔力による身体能力の水増し程度は澪も普通に扱えるため認められてはいるが、この模擬試合に魔術の発動は原則として禁じられている。

 ゆえに、第三試合のカードである士郎もまた、投影魔術を封じるという条件で戦うことになっていた。そもそも、投影魔術を発動すれば模擬試合では済まないため、当然の配慮とも言える。

 しかし、士郎が用いるのは拳法などではない。士郎は拳法など習得していない。士郎が扱え得るのは弓と剣のみだ。

 士郎が選んだのは、いつかも使っていた二刀流用の竹刀である。普通の竹刀よりもかなり短いそれは、一見してリーチの短さが弱みとなる。だがしかし、逆に強みでもある。相手が満足に剣を振るえない懐の奥深くまで踏み入ってしまえば、逆にその短さが強みになるのだ。

 加えて、二刀を持つことによる隙の無さは特筆に価する。一方で切りかかっても、もう一方で守れる。一方で守れば、残る一方でそのまま反撃が出来る。自由自在かつ攻守一体が双剣の真骨頂だ。

 

 体力は俄然士郎のほうが上である。凛と比べても士郎のほうが断然上だ。

 心技体のうち、迫れるのは心と技のみである。体で大きな有利を譲ってしまっている以上、凛のように一筋縄でいく相手ではない。長期戦を許せばそれだけ士郎が優勢に立つだろう。

 ゆえに澪は、士郎を短期戦で打倒しえる人物を選択し模倣する必要がある。

 

「このまま連戦で大丈夫か?」

 

 セイバーの問いに澪は首肯した。凛との戦闘は第一試合も第二試合もすぐさま終わったため体力はほとんど消費していない。

 澪は傍らに置いてあった竹刀を一本取った。さすがに丸腰で戦うには分が悪い。得物を持つのと丸腰では雲泥の差がある。澪が選んだそれは、士郎のそれと違い何の変哲もない一般的な竹刀である。それを両手持ちでしっかりと握った。

 

「よし、ではこのまま士郎との試合に移る。

 ルールは先ほどと変わらん。しかし士郎の投影魔術は認めん。道具は剣道のものだが、有効打突部位はその限りではない。相手の体の一部に、竹刀の刃の部分――つまり打突部を打ち込めばそれが有効打だ。だが踏み込みが明らかに足りないもの判定を棄却する。そこに留意しろ」

 

 竹刀は丸い形状をしているが、刃に当たる部分が定められている。竹刀には赤い弦が先端から柄に向かって張られている。弦が張られている側が峰にあたり、その反対側が刃に当たると定められている。

加えて、先端から三分の一ほどに中結いと呼ばれる鞣革を編んだ部位がある。先端から中結いまでも物打ちというのだが、竹刀の有効打突部は刃側の物打ちと定められている。

 つまりこの試合では竹刀側の有効判定は剣道のそれに従い、物打ちのみと定められる。しかし人間側の有効打突部位はその限りではない。

 剣道における人間の有効打突部位、つまり打ち込めば有効打と判定される部位は、面部、胴部、小手部、突部だ。突部とは面の下、つまり首付近にある突きを受けるための突き垂れのことである。

 しかし今回はより実戦に近づけるため、そのような限られた部位のみでなく全身が有効打突部位であると認められた。竹刀の判定が剣道のままなのは、そもそも刃の根元に近くで切りつけても、相手を切り伏せることが出来ないからである。むしろこの規定は残すほうが実践的だ。

 澪はそれらのことを細かくセイバーに確認した。剣道の心得が全く無いため、その辺りは確認しておかないと後々揉める可能性もある。ルールの細かい部分まで把握したのち、澪は再度同一化魔術を起動した。

 

Starten(再起動)Start(開始)

 

 セイバーは澪の同一化がつつがなく完了したことを、その構えの変化から感じ取った。

 隙が一切なく、力強い構えであった。

 士郎はその構えを見て、澪が同一化した人格に当たりをつけた。見間違う筈も無い。それは七年前に何度も目にしたものであるし、つい先日にも目の当たりにしたのだから。

 しかしセイバーはその限りではない。先日と同じ人格であろうことは理解していたが、その内面に確信はなかった。

 

「名を聞こう」

「アルトリア。いや、貴方にはアーサー・ペンドラゴンであると言ったほうが良いか」

「――騎士王アーサーか。これは凄まじい方を選んだものだ」

「お褒めに預かり光栄だ、聖騎士(パラディン)ローラン。……さて、シロウ。このような形ですが、また会うことになりましたね」

 

 内面は澪であることには間違いないのだが、この魔術の名前に相応しく、過去の記憶まで完全に同一となっている。士郎を見て、懐かしい気持ちになるのは、澪による仮初の人格であっても同じである。

 だからこそ士郎は戸惑った。外見は澪そのものだからである。

 しかし(アルトリア)もそれを理解しているため、あるいは予期していたため、あまりここで語り合おうとはしなかった。

 

「シロウ。私は仮初の人格ではありますが、かつての貴方を知っている。どれほど成長したか、見せてもらおう」

「……ああ!」

 

 片や二刀、片や一刀。一方は優れた肉体を持ち、剣の才こそ無いものの七年以上に渡る鍛錬によって機能美さえも持つに至った剣戟。一方は本来ならば心技体のどれも持ち得ないが、仮初の人格を宿すことで心と技を極限にまで高めた剣戟。

 長期戦では士郎が有利だろう。体力では明らかに勝っている。相手が疲労すれば、それは即ち勝機の到来である。

 対して短期戦では(アルトリア)が有利である。その卓越した技術は澪でも模倣できる。筋力がかなり劣っているため本来の鋭さは無いが、それは魔術による肉体強化で補える。

 剣の才では澪が、体力では士郎が。両者はその特性を異にしている。

 嘘偽りなく言ってしまえば、この試合の勝敗の行方は誰にも分からなかった。セイバーや凛は勿論、当の本人たちにも。それほどまでに、単なる白兵戦の優劣に限定すれば両者は拮抗していた。

 

「始めッ!」

 

 火蓋が切って落とされた瞬間に動いたのは(アルトリア)だ。短期決戦となれば、悠長にするよりも一気呵成に攻め立てるほうが良い。もとより少ない体力だ。出し惜しむよりも、速攻で二本を先取したほうが良い。

 しかし士郎はそれを読みきっていた。体力に難があるからこそ、こちらの体力切れを待つような真似はしないだろう。それではジリ貧だ。ゆえに、初手から攻めの姿勢であろうことは予期していた。

 それはまさに迅雷の如き。

殺傷能力の無い竹刀であるにも関わらず、両断せんとするような気迫に乗った裏胴。これが刃のついた本物の刀であったならば、鎧の上からでも相手を切り伏せるだろう一撃だ。

 それを士郎は片方の竹刀で見事に防いだ。(アルトリア)の竹刀を絡め取るように受けた竹刀を操ることで、澪の竹刀が受けに回ることを阻止する。そしてすかさず懐に飛び込み、相手の守りが無くなった頭部にもう片方の竹刀で打たんと一撃を放つ。

 しかし(アルトリア)は淀みの無いバックスッテプで一歩引いた。リーチの短い二刀流用竹刀はそれだけで宙を切る結果に終わる。

 だが(アルトリア)は引きながらも上段に一撃を放つ。剣道でいうところの引き面。密着した状態からバックステップをし、かつ相手の面に一撃を放つこれは、二刀流の間合いから脱しつつカウンターを放つには有効な手だ。

 その一撃を士郎は防ごうとしたが、紙一重で間に合わず肩口に一撃を受けることになった。

 

「一本ッ!」

 

 セイバーの鋭い声が上がる。まずは澪がリードした。

 士郎は驚きを隠せなかった。澪のことを侮っていたわけではない。決して、アルトリアであっても肉体は澪だから、勝てるだろうなどと見込んでいたわけではない。

 だがしかし、それでも舌を巻かずにはいられなかった。あの一撃の鋭さと踏み込みの挙動はまさしく彼の知る彼女のそれだ。外見に惑わされたといっても良い。あまり体力があるわけでもない澪が彼女と同じ挙動をするということに、分かってはいたものの驚いたことは事実だ。

 しかしそれも一瞬のことである。されど一瞬というべきだろうが、今回の勝敗にさほど影響を与えたわけではない。この一本は、紛れも無く彼女の実力によるところだ。

 士郎が敗北を喫した要因の一つは、想像以上の澪の体のキレだ。熟練の剣客を思わせる動きである。体力に難が在るという自評からは想像もつかない身のこなしであった。

 いや、考えれば当然なのだ。いくら筋力が劣ろうとも、英霊ともなれば筋肉の使い方や重心の移動、体のバネなど隅々まで熟知しているものだ。剣とは決して筋力のみで戦うものではない。“長年剣を執ってきた”という経験があるからこそ、その貧弱な体力と筋力でもその能力を十全に駆使する術を知っているのである。

 だがそれがいつまでも続くわけではない。やはり、体力は大きな足かせだ。もしもこれが長年スポーツに勤しんだ肉体であっても、やはり同じ問題はあるだろう。サーヴァント級の実力者の能力を発揮するには、通常の人間の体力では明らかに不足している。いつまでもこの動きを再現し続けられるわけではなかった。事実、今の攻防だけでも(アルトリア)は少しばかり息を乱している。試合というものはわずか一瞬の交差であっても体力を消費するものだ。鍔競り合うと特にそれは顕著だ。

 それを見て、士郎は戦術を改めた。

 

 一本ごとに仕切り直すというルールだ。一本という声が上がったらそれ以上の追撃は許されない。

 両者は対峙し構え直して、セイバーの号令を持った。一本を取れらたのは士郎だが、息があがっているのは(アルトリア)のほうだった。傍目にも、士郎との試合の前に小休止を入れるべきであったろうことは明白だ。

 

「始めッ!」

 

 今回先に仕掛けたのは士郎だ。号令と同時に、澪に向かって吶喊する。

 だが、二本の竹刀は隙無く構えられたまま、それを振るう気配は無い。当身か、と気付いて澪が剣を振るうも、それを二刀で受けて挟み込む。こうしてしまえば容易に竹刀を構え直せない。剣を押しのけるようにして懐に飛び込む。そのまま、半身を当てた。

 この試合はあくまで剣の試合だ。これで一本にはならない。有効であると判断できるほど澪にダメージが通ったわけではない。

 澪はよろけたが、それも一瞬のことである。すぐさま剣を構え直し、脳天めがけて一撃を放つ。しかし士郎はそれを見事に受け止める。

 澪は続けて何度も竹刀を振るうが、士郎はそれを全て捌ききった。

 二刀流は実は、防御にこそその真価がある。変幻自在、攻守一体の技は全て防御を基盤として組み立てられているのだ。というのも、二刀の強みとは一刀で相手の一撃を防ぎ、もう一刀で相手を攻撃するという防御ありきの戦術を取ることが基本とされている。実際の剣道における二刀流もそれが基本となる。

 二刀は生き残ることにかけては無敵と言ってもいいほどだ。上下左右、どの方向から攻めても必ず受け手が存在する。一刀では、例えば面を守ったとき胴が空く。しかし二刀ではそれがない。二刀から一本を取ることは至難の業だ。

 実際に二刀流が謳歌した時代では、団体戦において時間切れの引き分け要員として二刀流を入れるくらいである。先鋒に最も強い人物を置き、後に引き分けを重ねることで団体戦に勝とうという戦術だ。

 それほどまでに、二刀流は防御に秀でているのである。カウンターを考慮しない、単純な攻撃面では一刀に劣ると言っても過言ではない。

 ゆえに澪は、防御に徹せられた士郎を打ち崩せずにいた。これが肉体までもアルトリアを模倣できるのならば打ち崩すことも容易いだろう。しかし鍛錬を積んだ士郎を前に、筋力に難の在る澪ではそれを打倒するのは至難であった。

 

 再び澪の一撃は防がれ、鍔迫り合う。この試合には制限時間もない。本来ならばこういう試合には、無用に試合を引き伸ばすのは邪道であるとして、長い間鍔迫り合うと審判の指示で仕切り直される。しかし、試合時間も定められず、加えて実際の戦闘に近づけたルール下であるためセイバーは仕切り直しを宣言しなかった。勿論、場外なども存在しない。

 こうなったとき、押し負けるのは(アルトリア)だ。士郎を引き離そうにも、力技で押されて押し返すこともステップで距離を取ることも出来ない。どうにか引き離そうともがく間に、体力をどんどん奪われる。全身で腕相撲を数十秒間行っているようなものだ。両者ともに、一分ほど鍔迫り合ったところで珠のような汗が滴り落ちていた。無論、発汗は澪のほうが酷い。

 いくら内面にアーサー王が存在し、体の使い方が飛躍的に上昇しても、肺活量や筋力はそのままだ。もはや肩で息をしている。

 士郎が押し、澪が下がる。そうこうしていると、澪の目に自分の汗が入った。たまらず目を瞑ってしまった隙を、士郎は見逃さなかった。

 意趣返しとばかりに面を打つ。脇差サイズの竹刀は十分な威力が無いとして判定されて一本を得にくいものだが、その気合と踏み込みの強さ、そして剣筋の重さは十分なものを兼ね備えていた。

 

「一本!」

 

 その号令で、両者は一旦剣の構えを解いた。試合への遅延行動に対するペナルティなど存在しないため、息を在る程度整えてから(アルトリア)は遠慮なく士郎へ声をかけた。

 

「シロウ、強くなりました。私にハンデがあることを差し引いても、貴方は強くなった」

「……サンキュ、セイバー」

 

 士郎はかつてのように彼女を呼んだ。

 

「しかし、やはりまだ荒い。前回のアーチャーならば、もっと早く私を下したでしょう。いえ、一本すら許さなかったに違いありません」

「…………」

「それで良いのですよ、シロウ。貴方は彼とは違う道を歩んだが故です。

 それに、まだ荒いということは、まだ伸び代が在るということです」

 

 澪は、道場の傍らに置いてあった手ぬぐいを頭に巻きつけた。これで汗が目に入ることも無い。士郎もそれに倣った。両者ともに、汗で視界を邪魔されていた。

 そしてきつくそれを縛った後、両者は再び対峙する。両者ともに一本を得ている。試合は二本先取であるから、次で雌雄は決することになる。無論、引き分けなど存在しない。

 「負けるつもりはありません」と士郎だけに聞こえる声で澪が言い、それに「俺もだ」と士郎が返した。

 士郎はともかく、澪は疲労困憊である。しかしながら、(アルトリア)は士郎の言う「勝而後戦う」で負けているつもりなど毛頭無い。むしろ、気合では確実に勝っていると考えている。

 疲労で戦意を失うのは素人だけだ。熟練した者は、それが試合中の疲労であればかえって奮い立つ。つまるところ、両者ともに疲労しているものの、戦意だけは気炎万丈かち裂帛の勢いであった。

 

「稽古をつけましょう。シロウ、遠慮などせずに掛かって来ると良い」

「言ってろ、セイバー。今日こそ俺が勝つんだ」

「始めッ!」

 

 最後の一本を相手から奪わんと、両者ともにその号令で相手に踊りかかった。

 早いのは士郎である。澪に比べればまだ体力に余力がある。このまま、先ほどと同じように長期戦に持ち込もうとした。

 しかし、それを許す(アルトリア)ではない。同じ辛酸を無策で舐めることを良しとする彼女ではない。懐に飛び込んでくる士郎をあえて打とうとしなかった。

 そのとき彼女は、士郎の左の竹刀にそっと自らの竹刀を沿わせたのみである。

 

 次の瞬間、士郎は体のどこも打たれていないにも関わらず、わけの判らないまま天井を仰ぎ見ることになった。強かに腰を打ちつけ、呼吸が数秒止まる。

 仰向けになり混乱している士郎の残る一刀を握る手を、(アルトリア)は蹴り上げて得物を奪った。そして丸腰になった士郎の喉元に竹刀を突きつけたところで、セイバーが(アルトリア)に一本を与えた。

 セイバーが「一本!」と叫んだところで、ようやく士郎は負けたことを理解した。

 

 それはあまりに一瞬で、攻め手に意識がいていた士郎には理解できなかった。それをつぶさに見ていたセイバーと凛だけが、その技に目を剥いていた。

 その技は「巻き上げ」という。

 相手の竹刀を、相手の手からもぎ取る技だ。無論、手で得物を掴むわけではない。文字通り、剣で相手の剣を巻き上げる技である。通常は竹刀が宙を舞うだけで澄むが、この技は巻き上げ方をわずかに変えると合気道の小手返しの如く、相手を転倒させる技に姿を変える。容易な技ではないが、相手と直接触れ合うことの少ない剣術において相手を転倒させる数少ない技だ。

 澪の疲労は、もはや唯一の頼みである技術ですら十全に振るえない状態だ。その状態で士郎に勝つにはどうするか。答えは一つである。相手の反撃を許さず、圧倒的にこちらが優勢な状態を作ればいい。その優位な状況を作る方法が、相手の意表を突いて天を仰がせる巻き上げなのだ。小手先の技術であるため、疲弊していても繰り出せるのも大きな点だった。

 

「大丈夫ですか、シロウ」

「……さすがセイバーだ。こんな技知らなかった」

「相手を切り伏せるだけが剣の技ではないということです。このように、相手を無力化する技も存在するのです」

 

 そう言い、(アルトリア)は士郎を助け起こした。

 快進撃、とまではいかないものの澪は凛と士郎を下したことになる。無論、同一化魔術を用いなければ一本すら取れない。しかしそれでも、心と技を熟練した者へと模倣することでここまで戦えるようになるのである。いや、それはあのライダーと一太刀交えたことでも明らかだが、どれほどまで上昇するかは未知数であった。これであれば、連戦や長期戦でさえなかれば十分に戦力になりえるだろう。

 セイバーはここまでの試合で澪の実力を十二分に把握できた。ゆえに彼と澪が戦う必然性は無い。加えて澪は疲労困憊だ。これ以上の試合は無理であるように思えたが、一応セイバーは尋ねた。

 

「ミオ、私との試合だが、どうする?」

「パスするわ。……正直、体力の限界よ」

 

 澪はいつのまにか同一化を解いていた。同一化には集中力を必要とする。疲弊したことで同一化が解けたのかも知れなかった。

 セイバーも澪の体力は限界であろうことは察することが出来たので、これ以上澪を試合に引き込もうとはしなかった。あの見事な巻き上げが見られただけでも十分だ。これ以上無理をさせる必要などない。

 しかし、あれを見せられてセイバーは生殺しの状態だ。剣を執るものとして、あれを見たとあっては一戦交えたいと考えるのは当然である。いつか機会を見て、再び試合の機会を設けようと密かに考えた。

 それはそれとして、セイバーは士郎に小休止を入れたら稽古を入れると申し入れた。士郎もそれを快諾する。

 そもそもこの試合の事の発端はセイバーの憂さ晴らしである。あの巻き上げを見て大分気分が晴れたが、かえって自分も試合をしたいという気持ちが高まった。士郎とセイバーの運動量は、澪との試合のそれよりもはるかに多い。この一戦で息が上がっているものの、ここでリタイアするような士郎ではない。故に士郎もまたその申し入れを受け入れた。鍛錬とは常に、己の限界に挑み続けることなのである。

 

「士郎とセイバーが稽古を始めるなら、私は昼食の準備を始めておくわ。澪はシャワーでも浴びてきなさいよ。凄い汗よ」

「……ああ、もうそんな時間なんだ。じゃあお言葉に甘えてシャワーを浴びてくるわ。セイバー、士郎さんも疲れているだろうからほどほどにしなさいよ」

「心得た。士郎、そろそろ動けるか?」

「……ああ、もう大丈夫」

 

 士郎はやや澪が名残惜しそうである。士郎からすれば久しぶりにアルトリアに再会したようなものだ。姿形こそ違えど、内面がそれとほぼ同一なのだからそのような錯覚も起こす。積もる話もあるだろう。

 澪はそれを理解しているが、あえて残らなかった。これに依存されては困る。故人は故人であって帰ってこないし、模倣は模倣であって本物足り得ない。同一化魔術によって彼を思い出に浸らせることは容易いが、それは偽者で彼を騙していることには違いないのだ。それは澪の良心が痛む。

 偽者は偽者らしく、潔く消えるのが良い。どう繕おうと体は自身のものなのだ。その溝は埋まりがたく、きっと彼を悲しませるだけなのだ。

 加えて、同一化魔術は模倣人格の心の機微までも再現する。相手への好意や憎悪までもが術者に伝わる。同一化魔術を解けばそれはリセットされるものの、主人格にも影響を及ぼさないとも限らない。というより、影響を及ぼしている。澪は、自分にこれは他人の感情だと言い聞かせないと、彼に変な気持ちを抱かないとも限らないのだ。

 もちろん澪に人のパートナーを取るような趣味は無いし、するつもりもない。澪そのものは士郎に好意はあるものの、それは言わば友人としての好意であって恋愛の情などでは決して無い。だが、アーサー王はその限りではない。あまりその人格を模倣し続けると、模倣人格の強い思いは主人格にも影響を及ぼす。澪とて、自分の心の在り処がわからなくなることは御免だった。

 士郎は好感の持てる人物であるが、澪にとって恋愛の対象ではない。

 澪は早々とその場から退散し、凛も台所へ向かった。道場には士郎とセイバーだけが残された。

 士郎は大きく深呼吸をして息を整える。その間にセイバーは澪の残していった竹刀を拾い上げ、片手でそれを構える。

 いつもの稽古の風景だ。セイバーと士郎の稽古はいつも模擬戦闘によってのみ行われる。

 士郎が打ち込み、それをセイバーが捌いて反撃を叩き込む。言わずもがな、セイバーは同一化魔術を行った澪よりも強い。心技体のうち欠けている部分など存在しない。体力と筋力の無さにつけこむ必要など無く、あっさりと彼女を打倒することだろう。だが、さすがに宝具を持てば話は違ってくるかも知れない。強力な宝具であれば体力と筋力の不足など物ともせずに実力差を覆すかも知れない。そういう意味では、士郎と澪の組み合わせは強力だ。

 しかし通常の状態であれば、セイバーは今この屋敷に居る誰よりも強い。士郎がいくら打ち込もうとも、セイバーはそれを軽々といなしつつ、アドバイスを与えていた。

 時折セイバーも舌を巻くような動きを士郎は見せるものの、終始セイバーのペースである。しかしそれでも果敢に攻め立てる士郎もまた特筆に価する。

 先述したように二刀流は防御に秀でたスタイルだ。セイバーの剣戟を完全に防ぐことは出来ずとも、士郎はその剣戟の幾つかを確実に防いでいた。その防御率は日ごとに増している。対応しきれない一撃にも、次の日には対応しきってみせている。この成長率はセイバーを驚かせた。ゆえにセイバーもまた熱心に剣を教えているのである。

 セイバーは興味を持った。何が彼をここまで駆り立てるのだろう。

 夢や目標を持った人間は強い。それを直向きに追うことが出来るから、驚くほどの成長を見せる。セイバーは彼の内面を知りたいと思った。

 士郎の畳み掛けるような攻撃を捌きながらセイバーは問うた。

 

「士郎、何故強くなりたい?」

「正義の味方になるためだ!」

 

 しまった、と思ったときには遅かった。この話題をしないことは澪に止められていたはずなのに、こう答えが返ってくることは判りきっていたははずなのに、セイバーはつい尋ねてしまった。好奇心は猫をも殺す。そして一度聞いてしまえば、もはやそれを止める術はセイバーには無かった。

 

「何故正義の味方を目指す!」

「憧れたからだ! 親父のような正義の味方になりたいと思ったからだ!」

 

 士郎もまた、激しい動きをしながらであるというのに力強い声で答えた。その言葉には確かに信念が宿っている。

 ――ああ、これはいけない。これ以上はいけない。

 セイバーとてこれ以上の問答は争いしか生まないであろうことは理解している。きっと自分が激するだろうと理解している。

 しかしセイバーは止まらない。否、止められない。士郎の一撃を叩き落し、返す刃で反撃を放ちながらさらに問う。

 

「シロウ、貴方の最初の感情は正義の味方になることか! 正義を行うことか!」

 

 セイバーは、違うと言って欲しかった。彼の求めた答えは、何か成したいものを成した結果が、あるいはその一般的な名称が正義の味方であると言って欲しかった。

 決して、正義を成すために正義を為しているなどと応えて欲しくなかった。

 

「そうだ!」

 

 セイバーはもはや、抑えが利かないだろうことは十分に理解できた。

 正義とは、成そうとして為すものではない。決してそうであってはならない。それは欺瞞だ、自己満足だ、偽善だ。

 正義とは、何かを成した結果、他者からそう称されるべきものなのだ。成すべきことを為して、その結果に付随すべきものなのだ。

 決してそれが目標であってはならない。両者は周囲に与える結果が同じでも、その本質は根本的に違う。正義を為そうとして為しているのと、誰かを助けたいと思ってそれを為し、結果としてそれが正義であったというのではまったく異なるのだ。

 セイバーも理性では、士郎は単にその区別がついていないだけであろうことは理解できた。士郎が正義の味方を騙りたいがために正義を為しているわけでは無いことは理解している。

 しかし、これは以前から感じていたことなのだ。士郎はおそらくこの両者に違いを見出せていない。正義の在り処はこの問いの先にしか存在しえないのだ。

 士郎は誰かの恩人になりたいのか。士郎は誰かを助けたいのか。この二つは同じようで全く違う。

 前者は、正義の衣を被った欺瞞でしかなかろう。後者は、その先に正義が存在しよう。

 判っている。士郎は後者の人であると。しかし、これを混在したまま、ただ正義を掲げていたのではいけないのだ。

 それでは――かつての自分と同じではないか!

 

 自分と同じ過ちを士郎に起こさせないために、セイバーは士郎の竹刀を叩き折る勢いで打つ。今までとあまりに違う威力の一撃に士郎は思わずそれを叩き落とされる。そして士郎がそれを拾うことを、セイバーは許さなかった。自身の竹刀を放り捨て、それを顕現させる。

 

「シロウ――ここより先は、真剣稽古だ。抜け」

 

 セイバーは怒り狂っているような、悲しんでいるような、複雑な表情でそれを突きつけた。

 

 それは『絶世の名剣(デュランダル)』。決して折れることのない不滅の剣。大理石をも断ち切る無類の鋭さ。黄金をあしらい、柄に聖人の骨や聖骸布を入れたそれは今はその切っ先を士郎に向けていた。



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Act.34 誰がため

 汗でべた付く肌に、冷たい水が気持ち良い。

 全身が普段しないような運動で悲鳴をあげ、気だるささえも覚えるが、意外と気分はすがすがしいものだった。適度というには、少々私のスペックをオーバーした運動量であっけれど、こうやって冷たい水で汗を流せば不思議と気分は晴れやかだ。

 とりあえず顔を洗ったものの、まだ体がべた付いて気持ちが悪い。早くシャワーで体を洗い流したいものだ。汗臭い女性が好きな人も居ないだろう。

 着替えを洗面所に持ち込んで、服を脱ごうとしたところで誰かが入ってきた。あわや覗きかと思ったが、男性陣はまだ道場に残っている。鏡越しに確認すれば、やはり遠坂さんだった。こちらがすでに風呂に入っただろうと思い、顔を洗いにきたとみえる。

 シャワーを浴びるには至らないだろうが、遠坂さんとて運動をすれば顔を洗いたいであろう。快く体をよけて洗面台の前を開けることにする。

 狭い空きスペースで苦労しいしい服を脱いでいると、顔を拭いていた遠坂さんから不意に言葉がかかってきた。

 

「あの技のことなんだけど」

「あの技? ……ああ、『巻き上げ』のこと?」

「名前は知らないけど、そういうニュアンスのやつね。

 思ったんだけれどね。西洋の剣術って、剣の重みを利用して相手を叩き伏せることが基本的な骨子なわけじゃない? あの技――巻き上げはそういうのとは別物だと思うのよ。語弊を恐れずに言ってしまえば、アーサー王の技というにはちょっと違和感があるのよね」

「ああ、なるほど」

 

 遠坂さんの言うことはもっともである。

 指摘のように、西洋の剣術は日本のそれとは違って剣の重みによって相手を叩き伏せることに終止する。技が存在しないというわけではないが、基本的に力頼みの剣術だ。“切る”という概念も正確ではなく、その重い刀身を力任せに相手に叩きつけることで“引きちぎる”というのが正しい。16世紀を越えたあたりから金属の精錬技術が発達したあたりから、一般にレイピアと呼ばれるものが主流になり、技を主軸においた剣術になるのだが、アーサー王の時代は5世紀から6世紀の間である。基本的に技というものは二の次で、とにかく相手を容赦なく打ちのめすための剣が主流である。この時代において、基本的に剣は鈍器と大差ないのだ。エクスカリバーやカリバーン、あるいはデュランダルのような特殊な例外はあるものの、基本的に西洋の剣とは鈍らである。

 つまり小手先の業を頼みとするような剣術ではない。『巻き上げ』を行ったことに違和感を覚えるのは当然のことだ。良くも悪くも、剣道の鮮やかで流麗な一撃ではなく、獅子のように打ちのめし王のように君臨する剣なのだ。

 

「同一化を行った人格を模倣人格、私本来の人格を主人格とするわよ。

 模倣人格で行えることが、必ずしも主人格で実行できるわけではないのは理解してもらえるわよね? 今私が『巻き上げ』を実行できるか、といえば無理だと返さざるを得ないように。だけど、全てが無理というわけじゃないわ。例えば主人格の知らない知識をも法人格が持っていたとして、それを主人格に引き渡すことは十分に可能よ」

 

 そもそも模倣人格は主人格が模倣することで行われる。ここでの模倣とは、記憶や理念という精神や魂と表現しても構わないようなものまで及ぶ。その情報をもとに主人格内に模倣人格を生成するのだ。模倣人格を生成する前段階で、その人物のあらゆる情報は主人格に公開されている。それを私が自分の記憶に留めるのは、英単語を覚えることよりも簡単に出来てしまうのだ。

 

「それは逆も然り。模倣人格は模倣されるとき、状況認識に齟齬が発生しないように主人格から情報を受け取るの。

 昔ね、高校の授業で柔道と剣道を習ったことあるの。剣道の授業のとき、近所の道場の師範が指南してくれたのよ。遠坂さん、剣道のルールは知っている?」

 

 遠坂さんはかぶりを振って否定した。実のところ私もよくは知らないのだが、少しかじった分だけ遠坂さんよりも詳しいはずだ。少なくとも調べればすぐに分かる程度の知識は持ち合わせている。

 さすがに大まかなルールは知っているだろうから、要点となる部分だけを説明することにした。

 

「例えば、打ち合いの末に相手の竹刀を叩き落したとするじゃない? このとき、どちらかに反則が問われるのだけれど、どちらだと思う?」

「……叩き落したほう?」

 

 予想通りの答えだった。

 剣道の基本理念は、『相手と公正明大に戦う』ことであろうことは、剣道の経験が無くとも分かるだろう。それを考えたとき、相手の竹刀を打ち落とすことはそれに欠くとして、叩き落した側に反則を問うべきだろうと考える。

 反則二つで一本となる。つまり積極的に相手の竹刀を叩き落すことを狙うべきであるという戦術になり、それは正々堂々とした戦いからかけ離れるだろう。

 だが、実際はそうではない。

 

「叩き落されたほうに反則が入るの。竹刀を粉砕する勢いで打ち込んだのなら叩き落した側だろうけれどね。

 例えば試合中に手が滑って剣を落とすとするじゃない? そうしたとき、試合は一度中断せざるを得ないわけ。そうなると、まずい状況に陥りそうになったときに自分から竹刀を落とすことも許されるということになるから、落とした側に反則が入る。

 それを狙った技が存在するということを師範が生徒に教えるために、一度実演したことがあるの。それを私が覚えていて、その記憶をもとにアーサー王の人格で再現する。

 私に剣の心得が無いから、主人格では実現不可能。だけど模倣人格はその限りじゃない。西洋の剣術といえど、アーサー王ほどになれば卓越した剣技を誇るわ。十分に実行可能よ」

 

 実際のところ巻上げも歓迎される技ではない。剣道の基本理念は公正明大な打ち合い。相手を無力化する技が歓迎されるはずもないのだが、それでも確かに存在する技だ。

 そもそも試合の中で、相手が故意に竹刀を打ち落としたかどうかなど確認不可能だ。明らかに剣だけを狙って打っていても、相手の剣先を払うために打ち込み前に相手の竹刀を打つことは既に確立した戦術だ。それとの差異など分かるはずがない。巻き上げとてその例外ではなく、単に竹刀を払っただけなのか事実上確認不可能なのだ。傍から見て明らかに故意だとしても、本人が否定すればそれまでである。単に竹刀同士がもつれたようにしか見えないからだ。

 こういう事情も加味され、竹刀は落とした側がほぼ確実に反則を取られる。

 この技はあまりに鮮烈で、記憶に染み付いていた。あの技を見ると二度と忘れられないだろう。ただ打つだけの剣道が一転し、敵対する剣客の竹刀が宙を舞う光景は衝撃的だ。

 その経験が功を奏し、士郎さんの竹刀をもぎ取って転倒させ、勝利を収めたのだ。

 

「同一化魔術、やっぱり凄まじいわね。使いどころはかなり難しいみたいだけれど、使える状況ではかなりの威力を発揮する。まさしく切り札ってところね」

「そんな大層なものじゃないでしょ。大体、切り札は場に出されると必ず切られるのよ。使い捨てもいいところじゃない。人間に使う言葉じゃないわよ」

 

 遠坂さんはくすりと笑った。

 

「そうかもね。……ところで、その下着。私のなんだけど」

「……あれ、本当だ。ごめん、遠坂さん。畳まれた洗濯物の山から持ってきたんだけれど、間違えたみたい」

「いいわよ。澪の下着を持ってきてあげるから先に入っておきなさい。ここに置いておけばいいでしょ?」

「ありがと。じゃあお言葉に甘えて」

 

 うっかりしていた。

 男性陣――といっても洗濯が必要なのは士郎さんだけだが――と分けて洗濯していて、今朝遠坂さんが女性陣の洗濯ものを綺麗に畳んで置いてあった山から持ってきたのだが、間違えて遠坂さんのものを持ってきてしまった。それも上下セットで遠坂さんのものを。いくら普段しない運動で息が上がっているといっても、これは呆けすぎだろう。乳酸が脳にまで達したか。

 今後は、体を鍛えることを主眼において運動することも必要かも知れない。そんなことをぼんやり考えながら風呂場のガラス張りのドアを開けた。

 

 浴槽には湯を張っていない。浴びるのはシャワーだ。とりあえず必要ない。

 とりあえず体を流すことにする。ただ湯を浴びるだけでも良いのだが、やはり臭いが気になるのできちんと洗い流すことにする。汗を吸った髪を放置したくない。

シャワーヘッドから出る湯の温度を確かめて、頭からそれを浴びる。全身の汗が一気に流れていく感覚が心地良い。

 先ほどは水で顔を流すだけだったが、泡立てた石鹸で顔を洗えば、隅々まで汚れが落とされていくようで、実に清清しい。

 体を洗う順番など、どうでも良いことだろう。だが個々人にとって固有のプロセスが存在する。私はまず顔を洗い、次に髪を洗い、最後に体を洗う。化粧もほとんどしないからクレンジングオイルも必要ない。これでも一応は魔術師なのだ。魔術とは金喰い虫である。化粧品に資金を割く余裕があれば、服に回してしまうのが実情だ。

 次は髪を洗おう。シャンプーやコンディショナー、トリートメントなどは各人の髪質に合ったものを使うべきだ。いくらコンディショナーやトリートメントを使っても髪が痛む人は、市販のそれに入っている薬剤が合わない可能性が高い。ゆえに、遠坂さんと私のそれらは個人用のものが置かれてある。私のものは家から持ち込んだ。

 

 シャンプーを適量手に取る。ボトルを定位置に戻そうとして、いつもとボトルの色が違うことに気がついた。普段よりもずっと高級そうなボトルだ。

 ――あれ、これ遠坂さんのだ。

 しまった。また間違えた。どういうわけか、何の疑いもなく自分のものだと思って手にとってしまった。ちょっと遠坂さんのシャンプーがどんなものか興味があるな、とは思ったが、無意識に手が伸びてしまっていた。

 だが出してしまったものはどうしようもない。まさか戻すわけにもいかない。

 シャンプーだけはちょっとだけ拝借しよう。この高級そうなそれで髪が痛むとは思えないが、仮に痛んだら甘んじて受け入れるしかあるまい。

 もしも髪がつやつやにでもなったのなら、喜んで同じものを買おう。

 

 髪の汚れをシャンプーで落とし、コンデジショナーでケアをする。トリートメントはいいだろう。体もきっちりと洗い流す。

 

 じっと鏡に写った自分を見つめる。

 ちょっと体調でも悪いのかな。先ほどの下着を間違えたことといい、ちょっとおかしい。

 頭に手を置いてみたものの、浴場の中でそれが分かるはずもない。鏡に映る自分の顔色は健康そのものだ。

 だけどやっぱり、体調が悪いとしか思えなかった。

風邪をひいたときに風呂に入るべきか否かは定かではないけれど、湯冷めさえしなければ大丈夫だ。だったら湯を張ればよかったと後悔もするが、湯が沸くのを待つ間に汗で体が冷えるだろうから仕方がない。

 シャワーで体を念入りに温めてから、風呂場を後にした。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 士郎は、真剣稽古という言葉が真剣“に”稽古をするという意味ではないだろうことは、突きつけられた剣先で理解できた。真剣“で”稽古をするということだ。

 確かに真剣で稽古をするということは決して無い話ではない。居合道などは最終的に真剣で稽古をする。また、活人剣ではなく殺人剣として継承されてきた剣術などは有段者同士になると真剣で打ち合うことも確かにある。

 だが、目の前のセイバーの気合は、それらとは一線を画すものであろうことは想像に難くない。

 隙あらば殺す。抜かねば殺す。

 セイバーの目と剣先は、口よりも雄弁にそれを語っていた。セイバーの本意がその限りでないとしても、その充実した殺気は、セイバーの怒りを吸い上げて膨れていた。

 

「抜け。我ら剣客が語るには、言葉だけでは足らん。剣とは力と意思の象徴だ。

 ゆえに、私はシロウを剣にて試す。その力と意思を。それすら出来んというのであれば、ここで斬り捨てるほうが、きっと世のためだ。

 抜け、シロウ。抜かねば斬る」

 

 セイバーは理解していた。士郎の剣製は、自分の心を形にすることである。それすなわち、意思の具現。

 そしてセイバーもまた、己の意思を剣に託した騎士なのだ。

 剣心一如。剣とは人であり、剣とは心である。剣は心によって振るわれ、即ち剣とは心であり、心とは剣なのだ。剣の筋を問えば、それは人の心を覗くに他ならない。

 ゆえに、剣客同士が真に語り合うには、一振りの剣同士が交われば事足りる。その役目に竹刀では足りない。鎬を削りあう戦いにこそ、心が宿るのだ。

 

 士郎は両手に剣を投影した。干将莫耶、二振りの中華剣である。

 もとよりセイバーの剣戟を一刀で防ぎきることは至難だ。それを為すには二刀を要する。いや、二刀でも足りるかどうか。

 セイバーが本気で殺しにかかれば、士郎に勝ち目は果たしてあるのか。固有結界でも発動すれば勝機はあろう。だがそれを許すセイバーか。こちらの無二の技を知っている以上、それを封じる手立てを講じるに違いない。詠唱を許すつもりなど毛頭ないだろう。

 加えて士郎は、竹刀同士の打ち合いで、一度もセイバーに有効打を浴びせたことが無いのだ。のみならず、セイバーの迅雷の如き剣戟を捌ききったことすら無い。

 

 厄介ごとはまだある。セイバーの左腕は盾によって守られていた。

 盾とは実に難儀な代物である。それが在るというだけで、こちらの剣筋がかなり限定される。盾ごと切り裂くことも出来ないではないが、盾を切り裂くために要したコンマ一秒以下の剣速の落ち込みを利用し、迅雷の剣で切り裂かれるだろう。強固な盾に身を隠した相手はそれだけで厄介な相手だ。

 しかしそれは、それを持つ相手にとっても不利に働く。盾を構えた側から剣を放つことが難しくなる。大盾ではないにしろ、その重さも無視できない。

 しかしそれを覆してこそ剣の英雄。セイバーにとって、そんなことは些細なことである。

 ゆえにセイバーは強敵なのだ。聖騎士(パラディン)ローランは、数万の敵兵を前にしてなお、無傷で戦い抜く無敗の騎士なのだ。

 

 両者はにらみ合う。静かに、しかしながら士郎は自分の鼓動の音でかき乱される。

 剣先が触れ合うこともない。相手の剣を払って出方を伺うような真似をしなくとも、互いに互いの剣は知っている。知り尽くした互いの剣だからこそ、両者は無闇に踊りかかるようなことをしなかった。

 士郎は相手の一挙手一投足を油断なく視界に収める。集中を欠いた終わりだ。あの軽い片手剣から放たれる一撃は、重くはないがその鋭さは部類のものであり、速さにおいては誰の後塵を拝することも無いだろうという、絶世の名剣(デュランダル)なのだ。

 士朗は、かつてその剣を英雄王(ギルガメッシュ)の貯蔵から垣間見た。あれは原典であるが、ほとんど変化はない。その真価も知っている。

 デュランダルは真名開放をして放つ一撃必殺の類は持ち合わせない。あるのは、「絶対に折れず、曲がらず、欠けない」という不変性と、「持ち主がどうなっても、切れ味が落ちることはない」という不滅性だけだ。

 決して一撃必殺にはなりえない。だが、その剣が白兵戦においてどれほど脅威か。

 あのエクスカリバーやカリバーンですら折れ得るのだ。現にカリバーンは一度折れている。絶対に折れず、曲がらず、欠けず、切れ味を絶対に落とさない剣がどれほど頼もしいことか。

 加えて、あの大理石すらも断ち切ってみせる切れ味だ。よほどの業物でなければ、鉄すらも容易に断ち切るだろう。剣製の精度を落とせば、剣の刀身ごと切り裂かれるのは自明の理である。

 

 しかし――勝ってしかるのちに戦う。セイバーに叶わぬとしても、気だけは負けないように、その丹田から出る気炎を全身に滾らせた。

 

 先に動いたのはセイバーだった。一息に距離を詰め、脳天を叩き割らんと剣を振り下ろす。その速度は、まさしく人を殺めようとするそれだ。

 士朗はその剣を、二刀を交差させて受け止めた。鍔の無い干将莫耶だ。一刀だけで鍔迫り合えば指を落とされる。

 そのままセイバーは片手の膂力だけで、士朗と拮抗した。

至近でにらみ合ったまま、セイバーは士朗に言った。

 

「いつ見ても、投影魔術――いや、無限の剣製か。この力は目を見張る。

 偽の剣であってもここまで鍛え上げればそれは本物だろう。偽が本物を越えられぬ道理はない。借り物の信念でも、貫けば本物だろう。

 だが偽の正義を貫いたところで、本物には成れん!」

「偽だと……!」

 

 果たして、剣にも士朗の同様が伝播したのか。デュランダルの刀身が、干将莫耶の刀身に徐々に飲み込まれる。生半可な投影では、この鋭さを止めるには役不足だ。

 士朗の投影とは、士朗の心の具現である。心が揺らげば、剣は強度と鋭さを失う。

 セイバーの言葉は士朗の心を揺るがすに余りあるものだった。

 半ば以上刀身が食い込んできたところで、士朗は干将莫耶を捨てつつ大きく飛び下がる。傷つけられた一対を棄却し、すぐさま新たな一対をその手に投影した。今度は先ほどよりも硬度を維持できるよう、心を平静に保とうとする。

 

 油断なく剣を構えたまま、セイバーは再び吼えた。

 

「そうだ、偽善だ! 正義を成そうとして成す正義など偽善! あるいは欺瞞!

 いいか士朗。正義を掲げて何かを為せば、己が正義だと自称すれば、須らく偽善や独善の類!

 これを貫いても、決して本物になどなれん! 最後には逃げ道があるからだ! 自分のために正義を行っているのだから、自分が天秤に乗ればあっさりと身を引く!

 澪も言ったぞ。正義とは、誰かのために自分を犠牲に出来る人ではないかと。そんな考えでそれが成せるのかッ!」

 

 無論、セイバーとて士朗が自身を犠牲にし、中東で奮闘していたことは知っている。知っていてなお、問いかけざるを得ない。

 少なくとも、士朗は自分の命が本当に危険に晒されてはいるわけではない。自身の命を削ってはいるだろう。過度な魔術行使によって体には変調をきたしている。

 だが、それによってカタルシスを得る人種も存在する。自身を哀れみ、大儀のために自身を投げ打つ哀れな存在として自身を祀り上げ、自慰に耽る者も存在する。

 セイバーは、そこまで士朗の内面を理解しているわけではない。それは、そういった俗物と士朗は違うと断じられないということだ。

 そうであって欲しくないと願っている。士朗の剣は真っ直ぐだ。そんな邪な思いを内面に孕んでいるなどと思いたくは無い。

 だが、そうでないとも言い切れないのも現実なのだ。果たして士朗は、必至に誰かを助けるためなのか、それともそうすることで自慰に耽る邪なのか否や。

 それを問うための剣戟なのだ。

 

 先ほどよりも早く鋭い。狙いは手元。手首より先を切り落とさんとする剃刀のような一撃。

 その一撃を士朗は叩き落し、空いたセイバーの胴に向かって剣を放つ。だが、その間合いの狭さゆえ、セイバーは一歩身を引いただけで難なくそれをかわした。

 セイバーは振り抜いた士朗の隙を許さず、反撃を放つ。今度は相手に反撃を許さない、息をつく暇さえない怒涛の連撃。士朗は既に、反撃など出来る余裕を奪われていた。こえほどの速度で放たれる一撃一撃が全て必殺足りえる。防御に徹しなければ命はない。

 幾度も剣を弾かれるが、その度に新しいものを投影する。先ほどよりも硬く鋭く幻想を結ぼうとするのだが、徐々に剣がもつ鋭さは失われていく。結果として剣を砕かれ、新たに剣を投影する必要があるという悪循環に陥る。

 剣と剣がぶつかる音。その甲高い音に負けないように、セイバーは声をあげた。

 

「貫いた正義は尊い! だが、貫いた偽善は巨悪だ!

 正義を求める心は人として正しい。だが、それを掲げて何かを成せば、他の正義を許せなくなる!

 問う。シロウが今まで手にかけた者は、果たして悪であったのか!」

「――ッ!」

 

 違う、とは即答できなかった。

 少なくとも、何の関係のない者を巻き込むような事をしたことは無い。その点で、エミヤシロウと衛宮士朗は別物であると断じることが出来る。

 だが、自分が手にかけたものが果たして悪かと問われれば、士朗は閉口せざるを得ない。

 悪だとは思う。許すことの出来ない外道だったと思う。

 だけど、それは自分が見てそう思っただけだ。よくよく考えれば、その人物のことの何を知っていたのだろう。

 間違いなく巨悪だった、と思う。切捨てなければ、多くの涙が流れ、それよりも多くの死体が転がるような事態ばかりだった。

 だけど、それは自分と何が違うというのだろう。

 戦場という戦場、紛争という紛争に首を突っ込み、裏世界の厄介ごとにも手を出す。それは、他者から見れば戦闘狂の何者でもない。ただただ血に飢えた獣にしか見えない。

 だからこそエミヤシロウは絞首台へ送られるのだ。

 自分と、今まで斬って捨てたものに違いがあるのか。ある、と断じられるほど士朗は彼らを知らない。

 

 国際的なテロリストを秘密裏に註を下したこともある。果たして彼は、世界を統合し平和をもたらすために戦っていたのではないのか。手段は間違っていたかも知れないが、その理念が本物であったなら、分かり合うことは出来なかったのか。

 世界を混乱に陥れえる魔術師を斃したこともある。果たして彼は、世界の平和を希求し、新たな秩序を敷こうしただけでないのか。手段は不穏であったかも知れないが、その術式を吟味していたなら、手を貸すに足るものではなかったのか。

 士朗は分からなかった。ただ、正義をなして平和をもたらさなければならないという一念によって、それを忠実に実行してきた。

 だが、士朗は彼らが本当に悪かどうか、深く考えることはなかった。深く考えずとも、明らかに悪であると思ったからだ。許せない存在だったからだ。日を見るより明らかな邪悪であったからだ。

 疑わなかった。彼らが悪であると。自分が正義なのだから。自分は正義を為している筈だから。自分の信念と大きく違えるものは、悪に間違いないのだから。

 本当か? 少しでも彼らの言葉に耳を傾けたのであれば、分かり合えなかったか? 彼らは状況から、そうせざるを得なかっただけではないのか?

 

 もはや何本目か分からない干将莫耶が、セイバーの一撃によって再び砕かれた。

 

「各人が己の正義を持つ! 時にそれは相反し、戦いを産む!

 私がそうだった! 彼らの言葉に耳を傾けていれば、あの血戦は避けられたのだ!」

 

 人間は、結局主観的にしかものを見ることが出来ない。いくら客観的になろうとしても、それは主観によって客観的な判断をしているに過ぎない。

 つまり、自分の考えによって相手の評価は一変する。

 本当に憎い相手が何をしようと、いくら善行を積み立てていたとしても、きっとそれを認めないだろう。本当に憎しみに囚われたとき、その矛先がかつて愛した人であったとしても、あなたはその愛を認めないだろう。

 ローランの後悔はまさにそれだ。

 正義という大儀によって盲目になり、相手の言葉を聞こうとしなかった。同じ人間であるというのに、その存在を悪鬼か何かであるとばかりに切り捨てた。

 聖杯戦争に呼ばれた以上、サーヴァント同士は戦わざるを得ない。それは避けえないだろう。アーチャーと初めて邂逅したときのように、せめて撤退してくれと懇願することしか出来ない。

 だがランスヴォーの血戦は違うのだ。あれは、自分だけでも相手を信じていれば、避けえたのだ。相手が戦う理由を知っていれば、避けえたのだ。

 だからこそ――セイバーはその血戦の仕切りなおしを願ったのだ。友の死もまた重大な要因であることは間違いない。彼が自らの過ちに気付けたのは友人であるオリヴィエのおかげなのだ。

 だが、本当の思いは、自らの過ちを正したいという一念なのだ。

 

 ――私はあの戦いのやり直しをしたい。せめて友だけでも生き残る道があった筈だ。

 かつてセイバーはそう言った。それ即ち、あの戦いの回避。オリヴィエが生き残る道とは即ちあの戦いの回避に他ならない。

 もしあの戦いをやり直させてくれるのであれば、踊りかからんとする自軍を抑え込み、切りかからんとする敵軍を留め、互いに理解を深めるため話し合いたいのだ。

 そうすれば、何も手元に残らなかった自分だが、せめて砂の一粒ほどの何かを残せるかも知れないのだ。

 

 だがそれは叶わないと知った。ならばせめて――自分のような過ちを犯す者が現れないよう、死力を尽くすのみ。

 

 だから実のところ、セイバーに士朗を手にかける気などない。だが同時に、その殺意は本物だ。

 士朗を諭すべきだという理性と、その姿にかつての自分が重なった結果、その過ちは許せないという激情が混ざり合う。その結果、セイバーは憤怒とも悲壮とも取れる、もはやわけの分からない表情のまま、ただ遮二無二剣を振るう。

 この段に至って、セイバーは泣いていた。

 

「その思いの果てには……シロウの過ちの果てには……何も無い!

 正義を掲げて何かを成した愚か者の行く末は虚無だ! シロウもそうなるつもりなのか! この私のようになるつもりか!

 何故――何故自分の正義を疑わない!? 何故他者の正義を認めない!?

 それこそが――この世の悪の根源なのだ!」

 

 違う、と士郎は声をあげて否定したかった。自分はそうじゃない。

だが声はあがらなかった。

 士郎はかつてエミヤシロウに言った。自分は、選んだ道に後悔など抱かないと。

 それ即ち、自身を疑わないことである。選んだ道が絶対に正しいと妄信することの宣誓である。

 それが悪いとは限らない。むしろその直向な在り方は尊いものだ。

 だが、その行く先を間違えたとき、それは愚かさに変わる。自分の行く先が既に違えていることに気付けない。だからこそ士郎はエミヤシロウになる運命を持つのだ。

 そしてそうなったとき、それは他者の正義を認めようとしない。それを認めれば、自分が正義でなくなってしまうかも知れないから。正義であろうとして正義を成せば、その正義を否定されないがため、他の正義を駆逐することになる。

 その結果が血戦――十字遠征、『再征服運動(レコンキスタ)』なのだ。

 

「それでも――俺は親父のようにならなくちゃいけない!」

「その親父は、「正義」を騙るためにシロウを助けたのかッ!」

 

 セイバーの怒号。

 「違う」と士郎はあらん限りの力で否定した。切嗣はそのような考えで自分を助けたのではない。誰かの恩人になるために自分を助けたわけじゃない。

 そうだとしたら、あの表情に説明がつかない。あの、生き残ってくれて良かったと言わんばかりの顔の裏に、そのような考えがある筈が無い。

 

「ならば何故、シロウは父親を目指さない! 正義を為すためにシロウを助けたのでないのなら、シロウを救いたくてそれを為したならば、何故シロウはそれと違う道を進む!」

 

 それが正義の味方に見えたからか。正義の尊さだけに目がくらみ、それを手にしたいと願ったからか。正義の尊さだけを見せ付けられ、それに憧れた。だから順序が入れ替わってしまったのか。

 考えれば、士郎は切嗣のこともよく知らない。切嗣は、正義の味方を目指していたと言った。それはどういう意味だったのか、未だ分からない。だが、今なら分かる気がする。

 正義を掲げてそれを目指すことが出来るのは、子供までなのだ。いずれ気がつかなければいけない。正義を掲げて何かを為すことは許されないのだ。決してその言葉は、現実と折り合いをつけた諦観ではない。

 切嗣は気がついた。正義を称することは出来ない。何かを為し、結果として正義を残すことしか許されないのだ。だから切嗣は、正義の味方を目指すことを諦め、人のために戦おうとしたに違いないのだ。そこに正義など無い。それは後より付随するものだ。付随してこずとも、それで良い。自分が為したいことを為したのだから。ゆえにそれは正義の味方ではないのだ。正義のためではなく、己のために戦っているのだから。

 

 セイバーの剣戟は一層鋭さを増す。

 もはや、常人にはその閃光だけしか見えないだろう。だが、士郎はかろうじてそれに追いすがった。

 

「ありがとな、セイバー。何だかんだで、俺のこと心配してくれているのか」

 

 セイバーは無言のまま、剣を振るい続けた。

 そして気付く。士郎の投影する剣に、わずかながら鋭さと硬さが戻っているのを。

 

 士郎は誰にも聞こえないような声量で呟いた。

 ――体は剣で出来ている。

 どこで道を踏み違えたのか知らない。確かに自分は、どこか壊れているのだろう。

 だが剣として正常である。剣は誰かを守るために振るわれるべきなのだ。ゆえに士郎もまた一振りの剣。覇を成すための剣ではなく、誰かを守るための護剣なのだ。

 護剣が正義を称することを誰が許そうか。それは誰かを切り捨てるための刃ではなく、自分の後ろに居るものを護るための剣なのだ。

 

「確かに間違えていたのかも知れない。正義を自称するやつなんか、傲慢以外の何者でもないのかも知れない」

 

 士郎は確かに間違えていた。いや、それは正確ではない。

 混合していた。

 偽善と正義を。自分の中にある偽善と、本当の正義を。

 貫いた信念に付随してきた僅かな、そして致命的な誤謬。

 正義を求めること、即ち悪を希求すること。正義とは悪がなければ定義できない。だから正義たらんとする心は、悪という存在を求めることに他ならない。

 しかしその両者が自分の中にあるのだと知った今、士郎はそれを認めた。認めたうえで言った。

 

「だけど俺はこの道を進む! やり抜かなければ嘘だ! やることは何一つ変わらない!」

 

 変わったのは認識。それも、ほんの少し、他者から見れば違いなど見られないような小さな変化。

 だが、その小さな変化にこそ、真の正義があるのだ。

 

「俺は誰かのためにこの命を使う! 他でもない、俺がそうしたいんだ!」

 

 何のために生まれて、何をして喜ぶ。

 その答えが、一つ見つかった気がした。

 今までは、そうならなくてはならないという脅迫概念に突き動かされていただけだ。

 そして正義の味方になるためには、悪が必要なのだ。

 だがこの瞬間、衛宮士郎は悪を求める正義の味方ではなく、誰かのための正義を目指す。他者から見れば本当に些細な違い。混合して表現すべき存在。

 事実、士郎も混合していた。七年前、「正義の味方を目指す」「誰かのためにあるべきだ」と、区別して然るべきものを混合していた。

 

 目指した正義と、誰かのための行い。両者は非常に似通っている。

 だが決定的に異なるのだ。ニアリーイコールでは語れない、根本的な違いがあるのだ。

 士郎が目指すべき誰かのための正義は、まさしく誰かのために戦うのだ。

 為すことは同じでも、両者には根本的な相違があるのだ。それを今、士郎は知ったのだ。

 だからもう、迷うことは何もないのだ。

 正義の味方とは、自分のためではなく、誰かのために戦うことだ。

 正義を掲げるのは易い。だが、その定義を曖昧にしたままでは許されない。

 士郎はその定義を、今得たのだ。

 一貫した他者のための行為。それが、正義である。

 そしてそれさえ判れば、人は誰でも正義となれる。悪などおらずとも、正義は人に宿る。

 正義を求めれば悪を求めなければいけない。

 だが、ただ誰かのためにあろうとしたのであれば、悪など不要。

 ――だから今。士郎は間違いなく正義を手に入れ、正義の味方となったのだ。悪と相対して定義しなければいけないような矮小な存在ではない、あるべき姿なのだ。

 

 いつか、遠坂凛は士郎に言った。

 “それだけ辛い目にあったのなら、喜びもなければ嘘だ”

 喜びは既に手に入れていたのだ。他でもない自分が、そうしたいから為すのだ。それはもはや、そうしなければならないという脅迫観念から脱した、自由で強固な意志だ。

 

 士郎は今、信念に付随してきた誤謬を知り、認識し、それと袂を別った。

 士郎は以降、自分を正義と称することは無いだろう。

 誰かを救い続け、代わりに自分は傷つき、それでもなお止まらないだろう。

 しかし他者は士郎を正義の味方と称する。これが正しい姿だ。

 ――士郎は今、正しく「正義の味方」のなのだ。

 決意は変わらない。信念は揺るがない。ただ、その定義が明確となり、過ちに気付いただけ。

 獅子に巣食う小さな虫を取り除いたとて、それは獅子だ。士郎の信念は微塵も変わらず、しかしそれは一層の輝きを放つ。

 

「よく言った!」

 

 セイバーの上段から振り下ろした一撃を、士郎の干将莫耶は砕かれることも、刀身が食い込むことを許しもせず、完全に受け止めた。

 鎬を削る迫り合い。触れ合う刃と刃からは火花が散った。

 

「ここで自らの信念を曲げるならば、斬り捨てることも辞さないつもりだった! だがシロウは、それでもなお進むことを決意した!」

 

 士郎は稗田阿礼にも同じことを言われたことを思い出した。

 正義の味方を目指すと言ったとき、帰ってきたのは叱責だった。しかし、この力でしか救われない人が居ると言ったとき、こうも言った。

“ならば良し”

 彼女はあのとき既に理解していた。士郎の内面の混在を理解していた。その内面が、仮に偽善しかなかったのであれば、彼女は士郎を切り捨てていたのかも知れない。だが、そうではないと知ったからこそ、彼女は満面の喜びを湛えたのだ。

 

「だから、士郎の剣は本物だ。贋作であろう筈もない。

 シロウ、これより私は、私が持つ最高の技を放つ。それを見事受け、自身の心の硬さを示してみせよ!」

 

 剣心一如。

 士郎が言外に自らの意思の固さを示そうとすれば、それは剣によってでしかない。

 まして士郎の剣は自身の心の具現である。その硬さすなわち心の強さに他ならない。

 ゆえに次の一撃を放つのは、実のところセイバーではなく、士郎自身の心なのだ。士郎の戦いはいつだって自分自身との戦いなのだから。

 

 セイバーは大きく距離を取る。すると唐突に左手の盾の実体を解いた。

 そして空いた左手に現れたのは、一つの角笛だった。

 宝石を埋め込まれ、豪奢な意匠を施した笛。戦闘に使えるとはよほど思えないものだ。

 だが、そこに込められた魔力量が尋常なものではないと告げる。

 

「これは、傲慢な正義の体現だ。……受けてみろ」

 

 セイバーは角笛の吹き口を咥える。そして力の限りそれを吹こうとしたところで、予期せぬ乱入者に見舞われた。

 いや、予期はできた。ただそれに気を遣る余裕がなかっただけである。

 

「止めなさい、セイバーッ!」

 

 道場に殴りこんだ八海山澪は、動きを止めたセイバーに対して必死の形相で駆け寄り、その頬に平手をお見舞いした。



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Act.35 木馬

 セイバーは思った。

 それでも、士郎は足を止めることは無いだろう。

 それでいい。ここで足を止めては嘘だ。信念とは、折れず曲がらす、まさしく鋼で打った剣のようなものでなければならない。士郎の信念は、まさしくその性質を備えている。

 自分はただ、それに付随してきた錆の存在を示唆しただけだ。

 「正義を求める心」そのものが間違いである筈がない。正義を自称すればそれは悪だ。その点で譲るつもりなどセイバーには毛頭ない。だが、それでも人は正義を求めるのだ。

 正義であろうとする心は正しい。人は、正義を求めずには生きていけないのだ。

 だが――それでも、自らを絶対の正義と思うようなことがあってはいけないのだ。自らを正義と称してはいけないのだ。

 

 その先に、何も無い。在るのは虚無。後悔に彩られた無のみだ。

 他ならぬセイバー自身がそうなのだ。自らを正義と信じ、我ら以外に正義は無いと信じ、その果てで何もかもを失った。

 だが、そうではない。この世に生きる全ての者が、自らの正義を持つのだ。それに従って全ての人間は生きているのだ。

 時に、その正義と正義は相容れない。他人を蹴落としてでも、盗みを働いてでも生き延びるのが正義と考える人間と、それを正すのが正義と考える人間とでは、相容れるはずが無いのだ。

 前者は、状況と環境がその選択を迫っただけである。それが罪であると知っていても、己が生き残らねばならないとなればそれを破らざるを得ない。それが正しくないと分かっていても、それを選択せねばならない。

 それを正すこと、果たして正義か。誅すこと、果たして正義か。

 人は誰しも正義を求める。しかし、それを選択すること叶わないこともあれば、正義とは各人がその様相を異にする。

 なれば、自らの正義を掲げ、それを以って他者に剣を向けるのが、果たして正義か。

 

 この世に、普遍的な正義など無いのだ。それに気付くが遅すぎた。

 しかし、士郎はまだ若い。気付くのに遅いということはない。

 だから、気付かなければならない。それも、口で言っただけでは、人は真に理解することが出来ない悲しい生き物だ。

 体験しなければ、人は学べないのだ。

 だからこそ、剣を通し、それを体感させねばならない。剣心一如。剣と心は同一ならば、剣を交えることこそ、真に心を交わすことである。

 

 しかし、どこまで士郎が己の心を理解したか。それは士郎にしか分からない。

 言いたいことは山ほどある。伝えたい後悔は海を成す。

 

 ああ――ここはなんて狭い世界なんだ。

 見渡せば、目につくのは争いの歴史。

 皆が皆、己の正義を信じ、他者の正義を認めず、そして世界は戦乱へと墜ちていく。この世で起きる争いは、全てその一点に終始すると言ってもいい。

 なんて単純で、果ての無い。なんて狭い世界なんだ。なんて狭い正義なんだ。

 何故誰もが、自分だけが正しいと信じて疑わない。

 何故誰も、自分以外の正義を理解しようとしない。

 それこそが――それこそが争いの根源であるというのにッ!

 

 誰しもが零すことがあるだろう。

 ――彼の考えていることなんか、分からないし、分かりたくもない。

 ――人殺しの考えることなんか、分からないし、分かりたくもない。

 それこそが――悪なのだッ!

 相手のことを知らない。いや、知ろうとしない心こそが悪なのだ。その心こそが、この世に争いを生み、憎しみを生むのだ。

 そしてその心は、きっと正義を自ら掲げる。自分こそが絶対の正義だからだ。自分の行いが正義であると信じるからこそ、他者の正義を知ることを、不要と断じることが出来る。

 相手を愛すためには、知らなければならない。知らない相手を愛することなどできるはずもない。知らない相手は、それだけで恐れの対象となる。

 そして、愛さなければ、見えないこともあるのだ。愛がなければ、何も見えないのだ。

 愛があれば、相手の行動も好意的に捉えることが出来る。多少のことでは腹も立たないし、何よりその行動の真意を知ろうという心が芽生える。

 愛の代わりに、恐れしかなければ、相手は悪にしか見えないのだ。僅かな行動でも過敏に反応せざるを得ないのだ。

 

 士郎には――そのきらいが在った。

 正義の味方を目指す心は尊い。その尊さを、誰が汚すこと許されようか。その輝きは黄金よりも尊い。

 正義を求めることは尊い。だが、それを掲げれば悪だ。いや、掲げるだけならばいい。

 掲げて、誰かを誅すれば悪だ。自らの正義だけを信じ、誰かを悪と決め付けて処断すれば悪だ。

 それを独善という。

 

 人の子よ、正義を求めよ。しかし、正義を掲げるなかれ。

 人の子よ、正義と成すために正義を行うなかれ。救いを為すために己の心に従い、それを為せ。

 

 正義とは、己の心の中でこそ輝く灯火なのだ。

 それを誰かに強いたとき、それを掲げて何かを成したとき、それは輝きを失う。

 ゆめ、掲げるなかれ。強いるなかれ。

 それを目的とするなかれ。見失うなかれ。

 正義とは、儚い。己のうちにあるうちは正義だが、ひとたび外に出て大気に触れれば、様変わりしてしまう。

 各々がそれを持ち、それに従って生きれば良い。ときに分かり合えぬこともあるだろう。しかし、それを認めることだ。胸に秘めているうちはそれが出来る。

掲げれば、強いれば、己が掲げた正義に縛られる。

 信念は炎に、義務は鎖に似ている。胸に秘めているうちは信念だが、それを掲げたとき、それは「そう在らねばならない」という義務に変じ、鎖となる。

 士郎はまさにそうだ。己の信念を持つにも関わらず、それを己の唯一と掲げたばかりに、それに縛られる存在となり果てている。

 そしてその鎖に操られるがまま、悪を討つ一個の機械とならざるを得なくなるのだ。

 加えてその鎖に操られるがまま、自らの正義に反するものを正す機械とならざるを得なくなる。

 

 自分を正義と称するなかれ。正義とは、誰かを現すための三人称でなくてはならない。

 そう在ろうとすることは正しい。しかし称するな。

 そう在ろうとすることは正しい。しかしそう在ることが目的であってはならない。

 正義を求める姿こそ、正しく正義なのだ。自らを正義と称することは、即ち自分を完成した正義と称することに他ならず、完成した正義は正義ではない。

 しかしそう在ることを目的とすれば、それは正義に囚われた亡者だ。自らの正義に囚われれば、それを信じぬくことが難しい。

 正義とは名称、あるいは称号。それを求めるものには決して与えられることがなく、それゆえ尊い。それはいかなる場合にも目的に成りえず、そして手段にもならない。

 不変の輝きは、それを求め、それで何かを為そうとする者には、決して与えられないのだ。

 

 士郎は、それをどこか深い部分でそれを知っているのだろう。このままの自分では、決してそうは成れないことを知っている。

 だからこそ悩む。もしかすると、この道を選んだことをいずれ後悔するようになるかも知れない。

 だがそれでも進む。信念という剣に付随してきた錆に腐食されまいと、それを磨き続ける。

 その姿には、正義の一片が確かに根付いている。だが、完成にはまだ遠い。

 しかし士郎は、その錆がいかなるもので、どうやれば削ぎ落とすことが出来るか、きっと見つけるだろう。

 いや、とっくに見つけていたのかも知れない。ただ、目の前の現実に追われ、忘れていただけだろう。

 だからこそ――セイバーは、士郎に期待をよせ、己のように成るなと願うのだ。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 誰が迂闊であったのかと問われれば、私であると答えるほかにない。

 考えれば分かったのだ。セイバーと士郎さんが二人きりになれば、何をしようとするか。私に真名を知られ、もはや気兼ねするようなことが無いセイバーが士郎さんと問答をするであろうことは、予想して然るべきだったのだ。

 ならば、その激論の末に剣が抜かれるであろうことも、予想して然るべきだったのかも知れない。

 だがそうであっても、士郎さんに剣を抜いたセイバーに何の懲罰もなしでは、士郎さんと遠坂さんに示しがつかないのだ。

 加えて、このようなことに令呪を私に使わせたというのも内心穏やかざるものがある。

 

 あのとき、咄嗟の判断とはいえ、令呪を使うしかないことは自明だった。

 セイバーはあろうことか宝具を使おうとしていたのだ。私がそこに介入することは難しい。あの状況だと、私が言葉を舌に乗せる前にセイバーは宝具を開放しただろう。まして体を張って止めるという選択肢などは、何をかいわんやというほか無い。

 結局、あれを止めようとすれば令呪に頼るしか道が無いのである。その状況を作り出した張本人に、打擲の一つでもくれてやったところで後ろ指は差されまい。

 ゆえに、昼食抜きと家中の掃除及び夏に向けて伸び始めた雑草の除去を命じた次第である。サーヴァントの体力と運動能力では大した罰になるまいが、私が直々に打擲するよりは堪えるはずだ。

 そして私自身、平身低頭して許しを請うた次第である。

 

 セイバーの一撃が、仮に士郎さんを傷つけるに至らずとも、大惨事は免れない。良くて道場の消失。悪ければ付近一帯焼け野原だ。

 セイバーのもう一つの宝具の力は、夢で見たのでよく知っている。あれは宝具の名に恥じない威力でありながら、周囲への被害が尋常では済まない。広範に及ぶという訳ではないが、住宅地、まして屋内で使用できるような代物ではないのだ。

 それをあろうことか発動しようとした罪を考えれば、大掃除と草むしりが如何に温情に温情を重ねたか、推して知るべきだ。

 日本において放火は殺人に並ぶ重い罪だ。特に、建築物に人が居ることを知っていてなお火を放った場合には死刑に処される。それを鑑みれば、令呪で自害させたとしても妥当な判決だろう。

 それを免れて一時の肉体労働で済まされているのは、ひとえに士郎さんの鶴の一声に他ならない。

 

 曰く、セイバーは悪くない。稽古が白熱してしまった末、熱くなったセイバーがつい発動しそうになっただけだから情状酌量の余地はある筈だ。加えて、自分もまたセイバーに剣を向けている。

 二人の合意の末の決闘であるから、見逃して欲しい。

 

 殺されかけた当事者にそういわれれば、加害者側は黙るしかない。決定権は全て被害者側にある。

 だがそれでは私の気が済まないのと示しがつかないという問題は残る。そういう経緯からセイバーには肉体労働を強いているわけなのだ。

 時間と地理の問題さえ解決できるなら、シベリアにでも送ってやりたいところだ。

 

 令呪を一角使ってしまったのも手痛い。今まで一度も使ったことが無かったから、これであと二つだ。一つは聖杯を破壊させるときに使うことになるだろうから、実質使用できるのは後一回のみである。

 令呪を使用せずにここまで戦局を勧めてきたアドバンテージは大きいというのに、実に腹立たしい案件でそれを失ってしまった。

 考えていたらまた腹が立ってきた。やはり後であと一発くらいは平手をくれてやろうか。

 

「澪まで昼食抜きにすることは無いだろ。セイバーの分と合わせて食卓に残してあるから、食べてくれ」

「そういう訳にはいかないわよ。士郎さんだって同じ立場ならこうするでしょ?」

「ん……まぁ、そうかも知れないけど」

 

 私は私で、道場の掃除をしていた。セイバーに咎があるならば、私にもあるだろう。昼食くらい、抜いても問題は無い。これぐらいは甘んじて受け入れるべきなのだ。

 昼食を残しくれたのと、様子を見に来てくれたのは嬉しいが、それに甘えるというわけにもいかないのだ。

 

 世が世なら、切腹ものだ。

 これが長年連れ添った相方ならお互い笑って済ませるのかも知れない。例えば、士郎さんが遠坂さんに過失から負傷を負わせたとしても、遠坂さんは少々怒るだろうが関係が壊れるようなことは無いだろう。

 だがこれは違う。士郎さんと私は出会って一週間ほどしか経っていないのだ。一週間あれば恋に落ちることはあっても、壊れない信頼を築くことは困難だろう。

 互いに無傷だから良いようなものの、これが士郎さんに斬りつけていようものならば、致命的に関係が悪化することとてあるのだ。

 私がセイバーに士郎さんの暗殺を命じたと勘ぐられても、致し方のない状況なのだ。

 

 少なくとも、罪の意識はあるということを示すためにも、この程度の罰は甘んじて受けるべきなのだ。ポーズだけだと言われても、それすらも甘んじて受けるしかない。

 二人ともさほど根に持たず許してくれたのは、本当にありがたいことだった。

 

「……仕方ない。じゃあ、道場の雑巾がけが終わったら居間に来てくれ。遠坂が、ミーティングしたいって言っていたぞ」

「分かったわ。雑巾はあと十分もあれば終わるから、それまで待っていて」

 

 道場の雑巾がけは案外堪える。水で濡らした雑巾を一気に滑らせると、足腰に強い負荷がかかる。これは一種の筋トレだ。

 幸いにして、この道場はそれほど広いわけでもない。残り半分。休まずにやれば十分あれば終わるだろう。

 雑巾を固く絞り、それを滑らせながら道場を縦に一気に走りぬけた。

 

 

 

 

 

 やや予想に反して手間取り、あれから十五分後に居間に向かった。すでに足が棒のようである。

 セイバーも含め、全員が既に揃っていた。道場から戻るときに中庭を見たが、既にあらかたの雑草は抜かれている。もとより手入れはされていたので時間はかかるまいと思っていたが、これほど早いとは思わなかった。さすがはサーヴァントである。

 ……サーヴァントに草むしりをさせるマスターなんて、後にも先にも私一人であるような気がしてきた。それに応じるサーヴァントも、こいつ一人だけだろうという気もする。

 五分の遅刻を詫びて席につく。全員が揃ったのを見計らったのか、紅茶と茶菓子が振舞われた。

 紅茶はパックの安物ではない。茶葉から淹れている。見るからに高級そうだ。この香りはアッサムティーだろうか。

 茶菓子は紅茶と違い、缶に入った大量生産のものだ。だが、色とりどりに彩られたクッキー缶は見るからに美味しそうである。

 だが、こちらは断食の刑を受けている最中である。紅茶はともかくクッキーを頂くわけにはいかない。

 そう思っていると、「賞味期限が近いから食べるように」と釘を刺された。缶の裏のシールを見ると、なるほど確かに賞味期限は明日に迫っている。いまだ大量に中身が残っている。これを明日までに二人で食えというのが無理な話だろう。

 ……なんか謀られたような気もするが致し方がない。受刑者に選択の余地などあるはずがない。

 

「じゃあ、そろそろミーティングを始めるわよ」

 

 各々、缶から適当にクッキーを数枚自分の皿に取ったのを見計らい、遠坂さんが切り出した。こういうとき、仕切り役は大抵遠坂さんである。

 

「澪の戦闘能力を踏まえて、今後の方針を建て直しましょう」

 

 題目は予想通りであった。先ほどの道場での模擬戦闘を踏まえ、私をこのメンバーの中でどういう役割の位置させるのかを話し合う必要がある。

 通常ならば、マスターは守られているだけでいい。だが、戦闘能力をある程度もつならば、積極的に相手のマスターにぶつかっていくべきだろう。

 サーヴァントはサーヴァントと戦い、マスターはサーヴァントを補佐するかマスターを討ちに出る。聖杯戦争の最もセオリックな戦術だろう。

 その戦術のうち、補佐に徹するか、マスター狩りを行うのか。それをはっきりさせておくべきだ。

 臨機応変で許されるのは単身のときのみ。協力者が存在する場合は、そのチーム内で自分の役割をはっきりさせておく必要がある。

 

 例えば、士郎さんは前に出て戦うタイプ。その戦闘能力は、よもするとサーヴァントとも渡りえるかも知れないというものだ。白兵戦以外であればサーヴァントと戦っても勝機がある。

 対して遠坂さんはサーヴァントの補佐をするタイプ。無論、前に出ることも出来るが、それよりもサーヴァントの指示を出しつつ後方支援に徹するほうが本領を発揮する。

 通常、魔術師は遠坂さんのタイプだ。魔術は学問であり、魔術師は学徒である。文武両道を旨とする者も居るが、基本的に戦闘は得意としない。

 

 では私はどうか。

 真っ先に口を開いたのはセイバーだ。

 

「今まで通り、後方から支援に徹してもらうべきだ」

 

 これに対して士郎さんが反論する。

 

「いや、多少は前に出られるんじゃないか? 剣技のトレースは、ほぼ完璧だったといっても良いぞ。俺の投影魔術と組み合わせれば、サーヴァントは無理でもマスター相手だったら戦えると思う」

「それはどうだろうか。……確か、シロウはライダーのマスターと剣を交えたそうだな。アーサー王を模倣した澪と戦えば、どちらが勝つ?」

 

 士郎さんはやや逡巡する。

 ライダーのマスターは、確か名前をサーシャスフィールといったはずだ。私も、士郎さんに切りかかるサーシャを覚えている。

 あの戦闘能力は凄まじい。士郎さんは負傷していたとはいえ、投影した剣を砕くほどの膂力にあの身のこなし。

 おそらく、白兵戦の才能だけで言えば士郎さんよりも彼女が上だ。投影魔術を駆使して、ようやく勝ちが拾えるというレベルだろう。少なくとも通常の白兵戦で士郎さんが勝利を収めるのは難しいに違いない。

 加えて、あの馬は紛れも無い宝具だった。宝具を駆使する人間という点では士郎さんと同じだ。その実力が切迫するのも無理からぬことである。

 

 では私とはどうか。

 士郎さんの投影魔術によって作り出されて宝具で武装し、模倣魔術でアーサー王を模倣すれば、白兵戦の点では士郎さんよりも良い戦いが出来るだろう。だが、勝利を収めることが出来るかどうか。

 私のスタミナと筋力不足が非常に大きな足枷だ。長期戦になれば勝機はない。そもそも模倣魔術は長時間にわたる使用は難しいのだ。

 

「……難しいところだな。俺か遠坂が一緒なら勝てると思うけど」

「うむ。澪の模倣魔術は驚異的だが、戦闘能力だけを見れば中途半端だ。元々、知識の集大成としての性質のものを無理やり戦闘に転化しているわけだからな」

 

 ここまで黙っていた遠坂さんがおもむろに口を挟む。

 

「でも、それでもアーサー王(アルトリア)の技術を投影しているだけあって、澪に勝ちが見込めないほど弱いというわけでもないのよね」

「私としては、単独行動は難しいといわざるを得ないわね。士郎さんの言うように、誰かが一緒ならマスター相手にはまず負けないと思うけど」

 

 とはいっても、マスターの面が割れているのはサーシャだけのはずだ。

 アサシンは未だに一度も邂逅していないし、バーサーカーは既にマスター不在だ。ランサー、アーチャーもマスターは誰か分かっていない。

 しかし、大抵の魔術師ならば私プラスアルファでどうにかなるという気もする。私が前衛――というよりも壁役に専念し、後方から強力な一撃を見舞うことのできる人材が居ればいいのだ。

 つまり私に欲しいのは後衛。士郎さんは前衛寄りではあるが、近距離から遠距離まで問題なくこなすことが出来る。遠坂さんは言わずもがな。

 

「では決まりだな。澪は決して単独行動はしない。私から離れることはあっても、士郎か凛と必ず一緒に行動する」

 

 士郎さんと凛さんが別行動することはあるのか、とも思ったが、二人は長年戦場で培った阿吽の呼吸がある。一時的に分かれたとしても問題はあるまい。私には、戦場で単独行動するに十分な経験も体力も無い。ルーキーはベテランに付いていくべきだ。

 

「うん、そうだな。澪はそれが良いと思う」

「私も賛成ね。こちらのサーヴァントはセイバーだけになったわけだし、澪に何かあると困るものね」

「特に異存ないわ。むしろ有難いくらいよ。単独行動しろ、なんていわれていたら末孫まで呪ってやるところよ」

 

 確実に呪う。絶対に呪う。幸いにして魔術というものはその類に欠かない。

 この二人に呪いが効くかどうかは甚だ不明だが。遠坂さんなんか実験の片手間程度に呪詛返しをしそうだし、士郎さんだって呪い避けの剣なんかを身につけて終わりだ。

 じゃあ物理的な嫌がらせだ。家の前に毎日猫の死体を置いてやる。ざまあみろ。

 私も納得できる妥協点に落ち着いて本当に良かったと思え、お二方。……無茶言われなくて本当に良かった。

 

「じゃあ、この件はこれで終わりね」

「この件? 何か他に話し合うことがあるの?」

 

 今回のミーティングはこれで終わりだと思っていた。他に何か話し合うべきことがあっただろうか。

 遠坂さんは喋って喉が渇いたのだろう。紅茶で喉を潤してから続けた。

 

「ミーティングというか、確認よ。

 模倣魔術について、もう一度確認したいの。模倣魔術は、稗田阿礼の固有結界『森羅写本』から魂を情報化したものを自身に降ろし、その情報から、自分の精神内に他者の人格を再構築する。……間違いない?」

「ええ。その通りよ」

 

 人から説明されて気がついたが、凄いのは私ではなくご先祖様だ。私は稗田阿礼の固有結界にお邪魔させてもらって、それを転用しているに過ぎない。

 ……情けないなあ、私。他力本願も良いところじゃないか。

 

「――それって、何か弊害が出ないの?」

「……弊害? さあ、特に無いと思っていたけど」

 

 少なくとも、体調の変化や魔術回路への異状は無い。時折、気を抜くと寝ているときに他者の人格を降ろしてしまうことがあるくらいだ。だがそれも、昨晩セイバーの記憶を盗み見てしまったこと失敗から多少コツは掴んだ。

 あれはセイバーからの記憶の流出ではない。セイバーとのレイラインそのものを媒体に、森羅写本からセイバーの情報を引き出してしまったに過ぎない。

 だが、その失敗でなんとなくコツは掴んだように思える。次からは寝ているときに他人格が出てくるなんてことは無いだろう。

 乗り越えた弊害は既に弊害とは呼べない。だから私は遠坂さんに弊害は無いと答えたが、遠坂さんは納得の出来ない様子である。

 なにやら、遠坂さんは深く考え込んでいるようだ。とはいっても、私自身のことは私がよく分かっているはずである。特に何もないと思うのだが。

 

 それでも、魔術師としての見地からは何か思うところがあるのだろうか。魔術師として、私なんかよりも遠坂さんは遥かに上位に存在する。

 ややあって、俯いて考え込んでいた遠坂さんは顔を上げた。

 いまだ考えが煮え切らない様子ではあるが、遠坂さんは現段階の考えを吐き出すように述べる。

 

「他者を自身の中で再構築する。これは精神変革と言っても相違ないわ。弊害が無い、ということは無いと思うのだけど……」

「具体的に、どんなことが考えられる」

 

 こう言われて閉口していられないのはセイバーだ。私自身は、そんなことは無いと笑って流せる。だが自分のマスターに何か弊害が現れるかも知れないとなれば、セイバーは口を挟まざるを得ない。

 眉間に皺を寄せながら、遠坂さんは重々しく答えた。

 

「いい? 自分の中に、擬似的とはいえ他者が居るというのは、異常なことよ。その弊害として、例えば反転衝動なんかも考えられるわ」

「……まさか」

「反転衝動とは何か?」

「価値観の崩壊、あるいは逆転と言って差し支えないわ。自分の中にある“何か”を抑える理性が、その“何か”よりも下回った状態を反転と呼ぶの。禁忌と知っていながら、それを抑えることの出来ない状態を言うわ。

 澪は『混血』じゃないから、正確には反転衝動とはいえないかも知れないけれど。状態として反転衝動と同じことが起こるかも知れない」

 

 もう一度、まさかと言おうとして、遠坂さんの眼光に射止められて言葉に詰まった。

 でも、確かに考えられないことではない。他者を己の中で再構築するということは、あらゆる価値観と触れ合うことに他ならない。それも、無防備な自身の精神と触れ合わせるのだ。

 朱に交われば赤くなる。私自身の価値観や道徳観、倫理観が侵食されて壊れるというのは……有り得ない、と断じることも出来ない。

 反転衝動というのは、確かに語弊があるだろう。だがおそらく最も状態を表している。

 他者の価値観、精神からの侵食による自我の崩壊。そこから引き起こされるだろう暴走。

 それは、確かに反転衝動と称するのが一番理解を得られる状態だろう。

 

「価値観の崩壊、あるいは逆転……。それは例えば、愛するものを憎み、殺そうとするという考えでいいのだろうか」

「ええ。吸血衝動や反転衝動にはそのきらいがあるわ。『最愛の人の血を吸いたい』『最愛の人を殺したい』というのは、吸血種や混血にはよくある感情よ」

「…………」

 

 セイバーは押し黙った。

 確かにそのようなことも、可能性の一つとしては考えられる。

 だが、私自身が自分の中に再構築した人格をはっきりと認識し、これは他者であると割り切っている。それでも、このようなことが起こりえるのだろうか。

 それに、自分についてこれ以上好き勝手言われるのも癪だ。反論の一つでもしないと気が済まない。

 

「反転衝動は、自分の中にある矛盾した気持ちから発生するものよ。混血特有の、人としての倫理観と、人ならざるモノとの感情とのせめぎ合いの末の起こるもの。そうでしょう?

 それはつまり、一つの人格から二つの相反する感情が発生するからこそ。私は、私と他の人格を区別しているわ。模倣時の感情は他者のものだと理解しているし、区別している。

 反転衝動なんか起こらないわ」

「私だって反転衝動など見たくないわよ。でも、それを区別する自我が曖昧になったら?」

「……自我が曖昧に?」

「そう。度重なる模倣人格の構築は、自我と他者との線引きを曖昧にしないかしら?

 主人格と模倣人格の混同や、交代。澪が考える以上に、模倣魔術は危険な気がしてならないのよ」

 

 “ねえ、セイバー。私は、本当に八海山澪なの……?”

 脳裏を電光のように過ぎったのは、昨晩セイバーと交わした言葉だった。

 自我の曖昧化。他者との境界線の形骸化。私は、いつか私を八海山澪であると認識できなくなるのではないか。

 ぞくりと寒気がした。セイバーの言葉で大分平静を取り戻していたとはいえ、完全に乗り越えたとも言いがたい。

 形容のしようの無い恐怖が、再び足元から這い上がってくる。

 喉元に刃物を突きつけられるとは違う、全身が総毛立つ恐怖。それは極度の不安からくる恐れだ。心臓はその恐怖をかき消そうと鼓動を強め、そのせいか脳内から脈動を感じる。

 足元が何だか覚束ない。全身の血が脳に行ってしまっているのか、下半身が驚くほど自由にならない。

 嫌な汗が服の下を流れるのを感じた。おそらく、誰の目からみても蒼白になっていることだろう。

 

 だが、そんな震える肩に、暖かい手が置かれた。見ると、その手は隣に座るセイバーのものだった。

 心配など要らない。その表情がそう告げていた。

 

「つまり模倣魔術を乱用しなければ良いのだろう? ミオが模倣魔術を使うことのないよう、私が守れば良いだけのこと」

「……それは、そうかも知れないけれど」

「何も心配はいらない。なあに、物事は思っていたよりも容易く解決するものだ」

 

 能天気な、と思ったが、すぐ思い返した。

 私は昨晩、彼の能天気さを少しは見習おうとしたばかりではないか。

 先のことよりも、今のことを考えたほうがずっと良い。どうせあれこれ考えたとしてもなるようにしかならないのだ。

 セイバーのいうように、模倣魔術を乱用しなければ弊害が現れることもない。使用間隔を十分に取れば、おそらく重大なことにはならない。

 なんだ、難しいことじゃない。薬と同じだ。適量かつ適度な服用頻度ならば有益だが、度が過ぎれば毒となる。それだけのことだ。何も特別なことではない。

 そう考えれば、少しは気持ちが楽になった。

 

「……そうね。確かに澪が模倣魔術を乱用しなければ、それで済む話よ。

 驚かせるような真似をして申し訳ないわ」

「遠坂さんは私を心配して言ってくれたんだから、良いわよ。忠告として受け止めておくわ。……これでミーティングは終わり?」

「ええ。もう話すべきことは無いわ」

 

 何も難しくない。乱用は避けるだけ。

 こんな便利な能力を前に、思う存分それを試せないのは、魔術師として歯痒い気持ちもある。だがそれも仕方がない。

 そうだ、心配ない。セイバーが居るなら、何も問題が無い。

 でも、少しだけ気晴らしがしたい気分だ。問題は無いといっても、晴れやかな気分というわけではない。少し外に出たい気分だ。

 

「ちょっと買い物に出てくるわ。今晩の夕食の食材を買ってくる」

「ああ、今日の当番は澪だったか。じゃあ頼む」

 

 夕食を作るのも基本的に当番制だ。当然、当番になった人が買い物に行くことになる。

 冷蔵庫の中身を検めて、足りないものをメモに書きとめた。あまり冷蔵庫に中身が無い。とりあえず卵と醤油は買い足しておかなくちゃいけないだろう。

 後は買い物に出て、食材を吟味しながら選べばいい。一応これでも居酒屋でバイトをしている身だ。料理には多少自信がある。

 財布を持って靴を履く。当然ながら、セイバーは同行させることにした。昼間から襲うサーヴァントやマスターが居るとは考えがたいが、バーサーカーがいまだに野放しである状況だ。そんなことを斟酌する能力は無いと考えたほうがいい。自衛の手段は必要だ。

 だが長身で金髪の外国人が商店街を歩けばそれだけで注目を浴びる。あまり視線を集めるような真似はしたくない。セイバーは霊体化させて連れて行くことにした。

 

「行ってきます」

 

 居間でくつろいでいるらしい士郎さんと遠坂さんに向かって、玄関から声をかける。

 士郎さんの声が居間から返ってきた。

 

「行ってらっしゃい。気をつけろよ」

 

 一人暮らしをしていると、「行ってきます」と言うと「行ってらっしゃい」と帰ってくるという些細なことがありがたいと感じるようになる。

 ちょっとだけ気分が晴れやかになった。

 

 

 

 

 

 買い物はいつも商店で済ます。商店街にはスーパーマーケットが一軒ある。いろいろな店を回るのは嫌なので、私はいつもここで買い物を済ます。

そもそも、魚屋や八百屋の類はスーパーに飲まれてその大抵が姿を消してしまっているのだ。これも時代の流れである。

 時代の流れは、昔ながらの情緒を捨ててどんどんシステム化を進める。別に、野菜なら野菜だけ扱う八百屋の類に特別な思い出があるわけでもない。だが、潰れたまま残っている店先を見ると、何となく物思いに耽るのは、私だけじゃないはずだ。

 

 昼時を過ぎたスーパーマーケットは人がまばらになりつつあった。昼前の賑わいは見事なものだが、平日の午後らしいのんびりとした空気が漂っている。

 適当に見て周り、安い食材を探す。安い食材をいくつか見つけ、そこから作れる献立を考えるわけだ。

 やはり初夏らしく、茄子やトマトあたりが安いようだ。あと魚類でいえばアジが旬の頃合である。

 確か冷蔵庫の中に人参やピーマンが残っていた筈だ。だったらアジの南蛮和えにしよう。うちの居酒屋のお品書きのラインナップだから、作りなれている。メインディッシュはこれでいい。

 茄子も是非使いたい。焼いて焼き茄子にしよう。手間が掛からず美味しいのは素晴らしいことである。

 こうなると旬野菜で埋め尽くしたい。トマトもラインナップに入れよう。トマトはサラダで良いだろう。

 あとは適当に味噌汁でも作れば十分だろう。味噌はまだ残っているはずだ。スタンダードに豆腐とワカメの味噌汁で文句無かろう。

 

『知っていたが、食料がこうも簡単に手に入るとは富んだ時代だな。私が生きていた世は、誰しもが今日生きるためのパンを得るのに必死であったというのに』

 

 セイバーが霊体化したまま話しかけてきた。といっても念話だから、他人に聞かれる心配も無い。

 

『それは今もそうよ。皆、今日の食事にありつくために必死に働いているわ』

『しかし、それは働いてさえいれば食いはぐれることは無いということだろう? ごく僅かな例外を除けば、真っ当に生きていれば最低限の生活は約束されているそうではないか。

 私の生きた世は、必死に働いてようやくその日の食事にありつけるかどうか、という世界だ。働いたとしても、その日のパンがないこともザラにある』

 

 ローランが生きた世は七世紀ごろのフランスだ。カロリング朝の時代である。

 基本的に労働階級は奴隷に近い扱いである。そもそも市民として扱われていない世の中だ。市民として認められるのは商人や貴族の類だけで、その他は城壁の向こうに住むことを余儀なくされた。

 ローランは言うまでもなく貴族の出である。シャルルマーニュ王の甥である彼は、王位すらも狙える大貴族だ。

 シャルルマーニュはフランス語で彼の名前を呼んだ場合である。日本では、大帝カール一世として呼ばれることが多い。

 大帝カール一世は、聖釘を叩いて伸ばすことで作られたという「鉄の王冠」の加護により、齢200歳となった老騎士だ。その人生の大半は征服行で占めていた。記録にあるだけでも53回、彼は軍事遠征を行っている。

 当然、ローランの叔父である大帝カール一世の世は戦いの世だ。

 そのような時代では、国が荒れるのが常だ。戦いは領土の拡張と同時に治安の悪化を招く。

 そのような世では、貴族以外の者達に明日など約束されていない。日銭を稼ぐならば、悪行に手を染めるか、募兵に応じて兵士となる以外にない。

 そうなると国の地盤が緩み、ますます国が荒れる。

ローランの生きた世とは、そういう時代なのだ。

 

『……確かにそうね。夜中でもコンビニに行けば食事を得られる。そういう豊かな時代よ。もちろん、どこでもそうという訳じゃないけどね』

『うむ。有難いことだ』

 

 時代がシステム化されるにつれて、どんどん便利になる。そういうものなのだ。

 我々現代人はそのシステムに依存しきっているから、もはや戻ることなど出来ない。

 そういう諸々が、私たち魔術師を衰退に追い込むのだろう。いずれ、私たちもあの八百屋や魚屋のように時代に置いていかれるしかないのだろう。

 私たちが過去に向かって走っている人種である以上、もはやどうしようも無いことなのだ。

 

 だが、正直それでもいいのではないかと思うのだ。

 こんなことを祖父に言えば勘当されるかも知れない。少なくとも、八海山家次期当主となるべき私が考えていいようなことではない。

 だけど私は、自分が魔術師であることや、八海山という家に生まれたことを誇りに思ったことはない。当然、恨んでいるわけでもないが、煩わしく思うことは多々ある。

 別に、私は根源に至りたいとも思わない。魔法を手にしたいとも思わない。

 ただ、偶然にも八海山という魔術師の家系に生れ落ちただけである。

 祖父は、この血を絶やすことは許さないと言う。父は根源など至らずとも、目指さずとも良いと言った。

 ただ魔術師をやっていればそれで事足りるのだ。時代が神秘を完全に忘れようと、私の知ったことではない。

 とりあえず、今日の美味しい夕飯にありつくことが出来るならば、それでいいのではないかと思うのだ。そんな小さな幸せだけあれば人は生きていける。

 

 そんな小さな幸せだけで十分なのに、この世に争いは絶えない。

 その問いを投げかける相手は、セイバーしかこの場に居合わせない。

 

『……そんな豊かな時代なのに、争いが絶えないのは何故かしらね』

『……きっと、知らないからだ』

『何を?』

『相手の正義を。正義を掲げることはあってはならない。それは正義を成すために為すという欺瞞だ。だが、人は正義を求めている。

 相手が何を求めるのか。相手の戦う理由は何か。相手の正義とは何か。これを知らずに戦うことは、感情のままに相手を殺すことにほかならぬ。

 正義の恐ろしいところは、相手が憎いという感情に正義という価値が付加されることがあることだ。そういったとき、人は自分を信じ込ませるため、正義を掲げる。そうやって正義(かんじょう)のまま、相手を傷つける』

 

 正義とは、時として感情。

 この言葉は、私の胸を打った。何故なら、私は確かにそうやってこの戦いに首を突っ込んだからだ。

 初めてサーヴァントに邂逅したあのとき。センタービル屋上に、鉄パイプ一本で乗り込んだとき。私は何を思ったか。

 あのとき頭を埋め尽くしたのは、確かに両親を殺した怒りと憎しみだった。両親の仇が居るかも知れないのだと思ったとき、理性が感情に支配された。

 そしてその結果何を結論付けたか。

私は、自分を確かに正義だと思った。

そうだ。復讐という感情に囚われていると自覚しながら、それでも私は自分を正当化するために自らを正義と掲げた。

 

 セイバーが言う、正義を掲げるなという言葉には、もう一つの意味があるのだろう。

 掲げる正義とは、掲げねばならなかった正義とは、往々にして感情だ。私のように、自らを正義だと思わせるために、それを掲げなければならなくなる。

 誰でも分かる。復讐など何も生み出さない。復讐などあってはならない。

 だが、それを正当化するため、人は正義を掲げる。

 だから正義を掲げることなどあってはならないのだ。掲げる前に一歩踏みとどまれば、まだ道を外さずに済むのだ。

 

 正義を掲げることは、正義を成すために為すことに他ならない。つまり欺瞞。

 正義を掲げることは、己の感情を正当化するための免罪符となる。つまり歪曲。

 

 きっとセイバーは、正義を成すためにイスラム教徒を斬り、相手が腹立たしいという感情のままに敵を屠ったのだろう。

 だからこそ、それを悔いる。

 

 知ればよかったのだ。相手が何をもって戦うというのか。

 正義に普遍の形などないならば、悪だってそういうものだろう。時として、正義もまた悪に見えることがある筈だ。

 相手もまた己の正義に沿って戦っているのだ。ならば、この世に悪など無いのかも知れない。ただ、そこに在るのは過ちであったに過ぎないかも知れないのだ。

 だからきっと――この世に悪があるとすれば、それは相手を知ろうとしない心なのだ。

 

『正義って、難しいわね。それを見つけるのも、貫くのも』

『そうだな。私は間違ったまま貫き、後悔した。ミオにも、シロウにも、リンにも、私と同じ過ちを犯して欲しくない』

『私もそう願うわ』

 

 良いアジは無いかと物色しながら苦笑する。きっと、士郎さんは大丈夫だ。私も大丈夫。凛さんだって、当然大丈夫。そんなに心配しなくても、大団円だ。

 それが伝わったのか、霊体している状態であっても、セイバーの笑みを垣間見たような気がした。

 正義に良いも悪いもない。過ちだってない。あるとすれば、決して正義になりえないものを正義と思い込むことだ。

 でもきっと、士郎さんは正しく正義を得るだろうと思う。だから大丈夫だ。

 私なんかは、そんな哲学的なことを考えない性分だから、なおのこと大丈夫だろう。論理的な話は嫌いではないが、哲学的な話は苦手だ。私は理系なのだ。

 

 クーラーで冷やされているもののうちから、一番良いと思われるアジをカゴに入れた。

 正義について熱く論議するのもいいだろうが、今は夕飯の食材のほうが重要だ。

 カゴに入れた中身を確認する。必要なものが全部入っていることを確かめる。多分、忘れたものは無いはずだ。メモと照らし合わせても、全部揃っているように思える。

 

『じゃあ帰りましょうか』

『うむ? あ、ああ』

 

 セイバーの不思議そうな声が若干気になった。セイバーは何百年も前の人物だから、きっと目新しい何かを見つけたに違いない。だがいちいち説明していると多分きりが無いので、後で聞き出してみることにする。

 スーパーの大きな自動ドアをくぐろうとしたところで、不意に背後から声がかかった。

 

「お客さん! お会計済ませていませんよ!」

 

 レジの横にあるサービスカウンターに居る壮年の女性からだった。あまりに大きい声だったので少し踵が浮いた。

 

「あれ……。本当だ」

 

 ……事実、私はレジを素通りして商品を持ち去る寸前だった。

 あまりに堂々としていたため、さすがに万引きとは思われなかったようだ。大声で呼び止めた女性からは、「疲れているの? あんまりボーッとしていると危ないわよ」と心配された。一言詫びて空いているレジに並ぶ。少々注目を浴びてしまったので、気恥ずかしい。

 

『やはり金を払い忘れていたか』

『……教えてくれても良いでしょ』

『すまん。いや、現代の店をよく知らんから、金を払わずとも良い場合でもあるのかと思った。不思議には思ったが、私が無知なのだから黙っていようかと』

『……』

 

 セイバーを責めるのはお門違いだ。完全に私のミスである。だからこれ以上文句は言わない。

 そうだ、これは私の問題だ。いや、私に何か問題が発生している……?

 今日の私はどこかおかしい。

 凛さんの下着を持ち出してしまったり、シャンプーを使ってしまったりしたことは単なるミスで済む。ちょっと体調が悪いかな、程度で済ませることのできる話だ。

 ある意味で、今の行動も疲れているとか、眠気がひどいなどの理由で片付けることが出来なくもない。事実少々疲れている。

だが、一番の問題はそんなことではない。

 言われてから暫く、金を払うまではこれは他人のものであるという認識が無かったことだ。

 いや……自分を誤魔化しても仕様がない。端的かつ物怖じせずにいえば、注意されるまで、私はカゴの中身を『自分のもの』だと信じて疑わなかった……!

 今思えば、スーパーの商品を買わなければいけないという意識があったかどうか。自分のものだから持ち帰ってもいいと思わなかったか。

 衛宮邸を出るまでは正常だったと思う。買い物という意識はあった筈だ。

 

 “度重なる模倣人格の構築は、自我と他者との線引きを曖昧にしないかしら?”

 

 凛の言葉を思い出し、ぞくりと這い上がる何かを感じた。

 考えたくはない。決して認めたくはない。

 だが、目を逸らすことのできる程度の問題ではない。

 落ち着け。冷静を欠くな。

 一度引っ込んだ筈の嫌な汗が再び流れるのを感じた。

 

 今自分に何が起きているのか、断言は出来ない。だが推測できる。

 私は今――自我と他者の境界がなくなりつつある。そう思わざるを得ない。

 いきなり自己を見失うなんてことは無いだろう。何につけても順序と段階はある。

 おそらくだが……私は、所有権に関する部分で、自己と他者の区別がつかなくなっているのだ。

 

 物心がつかない幼子は、自己と他者の区別がつかないため、何にでも手をつける。人の食べ物に手を出すし、人の玩具であるなどといったことに斟酌だってしない。逆に、自分が目をつけたものを他者に取られると、それが本来自分のものでないとしても泣き喚くこともある。

 だが人は、そういったことを諌められたり、自分とは違う考えを持つ人が居るということを知ったりすることで他者と自己を区別するようになる。それはごく自然なことで、意識せずとも身につくことだ。

 

 私は今――精神の一部が、そういう状態になっているのではないか。私は今、自覚が無かっただけで、自己と他者が分からなくなっている。

 まだ幼児と同じ状態にまでは至っていない。意識して考えれば、自分が手にしているものが誰のものか分かる。だが気を抜くと、自分のものと人のものとの区別がつかなくなる。

 だからこそ私は、遠坂さんの下着を自分のものと思い、シャンプーを自分のものと疑いもせず使おうとし、そして店の商品を持ち去ろうとした。

 

 自我とは閾のようなものだ。

 その外側にあれば、それを他者と自覚できる。

 通常、よほど暴力的な手段に訴えない限り、この閾が破られるようなことはない。洗脳でも受けない限り、この閾が変更されることなどはありえない。

 だが――遠坂さんの言う通りだったのだ。閾の内部で再構築した、他者の自我が、その閾を侵食した。

 まるでトロイの木馬ではないか。そして私はそれを疑いもしなかった。

 トロイの木馬を疑うことをしなかった愚か者の末路は決まっている。破滅だ。人間とは、外部からの侵食には強くても、内部からの侵食には滅法弱い。そういうものなのだ。

 

 既にそこまで迫ってきた破滅の足音を聞いて、私は本当の恐怖とは氷のように冷たいものであることを知った。



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Act.36 決するは今宵

 自己と他者を区別するにはどうすればいいだろう。

 自己は何を以って自己と認識し、他者は何を以って他者と認識するのか。単に自分以外が他者とは言い切れない。そんな単純なものではない。物理的な意味だけにとどまらない問題なのだ。

 例えば、これが貴方だけのアイデンティティだと言えるものは何かと聞かれて、即答できる人間は少ないだろう。そもそも答えるのが難しい質問である。

 ある人は釣りが好きなことが自分のアイデンティティだと言うだろう。しかし釣りが好きな人はこの世に掃いて捨てるほど居る。これが唯一自分にだけ備わる独自性だと言い切ることなど出来ない。

 このように、自己と他者を隔てる特徴は難しい。物理的な問題ならば簡単なのだが、こと精神の面に触れたならば、この問題は難問へと様変わりする。

 そんなことは無い、と思う人も居るだろう。事実私もそう思っていた。

 では少しだけ別の面からアプローチしてみよう。貴方のその唯一自分だけの人格、性格、精神と思っているものは、生まれてからこのから一度も変質したことが無いといえるのか。

あるいは、自分のそれは仮の人格で、本来の自分の精神が未だ眠っていると仮定する。これを否定できるのか。

 どちらも悪魔の証明だ。どんな方法を用いても、無いことを証明するのは難しい。

 では、これから先、自分の精神が変質する可能性も否定できないということだ。

 

 精神は脆い。魔術師であるならば、それに外壁を建造し外敵から身を守ることも可能である。事実そうやって隠し通すべき記憶を隠匿する魔術師も存在するのだ。

 しかし精神は外敵から身を守る手段があっても、内面からの崩壊に弱い。それこそ、一度均整を崩したら雪崩のように崩壊する。

 私はいまだ、同一化魔術を数度しか使用していない。話に聞くだけでも、キャスターからの撤退戦、宴会後、そして橋上でのライダー戦、稗田阿礼を降ろして情報を聞き出したときと、模擬戦闘のとき。知っている限りで五回だ。

 たったの五回の使用で、もう精神に異常をきたしている。次に遣えば、悪くて廃人まで考えられる。冗談抜きで、そこまで考えられるのだ。

 身に過ぎた力は身を滅ぼす。今私は、何もしなければこれ以上悪化することはないが、少しでも下手なことをすれば破滅を呼ぶかも知れないという、薄氷の上に居るも同然なのだ。

 

 それでも治せるのであれば救いはある。しかし、治す方法などない。

 あるとしてもカウンセリングが精々だ。肉体を治す術を人類は多く獲得してきたが、精神を癒す確かな技術は持ち得ない。それは魔術でもそうだ。

 どう足掻いても、これ以上悪化させないという対症療法しか残されていない。

 私に取れる手段は、これ以上同一化を行わないことしかない。だが……これからも待ち受けるであろう激戦を前に、それが可能なのか。

 まだ存命しているだろうバーサーカーはきっと、私を狙うだろう。私がアーサー王の人格を模倣していたからだ。

 彼がアーサー王を憎むのは、その伝承を紐解けば自明の理だ。きっとアーサー王のまつわる全てを破壊しようとするだろう。バーサーカーとなった今では、それはなおさらだ。

 その状態で、アーサー王を模倣した私を見た。まともな思考を失っているからこそ、彼は私をアーサー王本人だと思うだろう。ライダーと戦ったとき、私に刃を向けたのも今となっては納得できることだ。

 きっと、どんな手段を使ってもバーサーカーは止まらない。そしてそれが私に剣を振るったとき、私は戦わなくてはならないだろう。

 戦えば精神を壊すかもしれないが、戦わねば死。この二律背反を前にして、私はどうすればいいのか。

 

 どうしようもない不安が押し寄せる。同一化魔術による精神崩壊の前に、不安と恐怖からの負荷で押しつぶされそうだ。

 

「……まさか既に症状が現れているとはね」

 

 一も二もなく、私は買い物から衛宮邸に帰っていた。

 よほど顔面蒼白だったのだろう。自室に引きこもるつもりだったのに、遠坂さんに見つかるなり居間に引っ張り込まれた。

 もはや隠す意味もない、話せば楽になるだろうかと思い、今私の中で何が起こっているのかを洗いざらい吐いた。

 だが不安は一向に解消されない。むしろ、現実に目を背けることが出来なくなって余計に辛くなった。

 

「これ以上悪化させないことは可能でしょうけど……良くなるのはもう無理と言ってもいいわ。それは理解しているわよね?」

「……ええ」

「リン、少し言葉を選んでくれないか」

「そんなことを言える状況じゃないのは貴方も分かっているでしょう。これはもう末期癌みたいなもんよ。だったら早めに宣告してやるのが情けってものでしょう」

 

 その通りだ。もはや私は廃人秒読みである。

 いや、廃人で済めばまだ幸せかもしれない。もう何も考えないでいいのはある種の救いだろう。

 つらいのは、価値観が崩壊・逆転し、大切な人を傷つけたときだ。

 通常、特定の人物を模倣しただけでは価値観の崩壊など起こさない。それが私と混ざることで、それは悪性を帯びるようになるのだ。

 例えるならば洗剤のようなものだ。それ単体では非常に有益だが、性質の違う二つが混ざれば毒を発生させる。

 人格も、それ単体では何の問題もない。私という精神だけが存在しているだけならば問題は引き起こさないだろう。だが、そこに他者という異質なものが混ざったとき、全てが悪性に変質する。

 それはもはや、自分の中にある自分ならざるもの。自分の意思ではどうしようもない、自分でありながら自分とは別の精神だ。

 それはどういう異変をもたらすのか未知数である。

 だが、遠坂さんの言うように、それは擬似的な人外化生の血となんら変わらない。擬似的な混血だと言っていい。自分の中に自分と違う意識が存在する点でなんら変わりはない。

 ならば、行き着く先は一つ。

 反転衝動。

 

 私はきっと大切な人を傷つけてしまう。

 自分が自分でなくなるのも怖い。自分が消えてなくなるのではないかと思うと怖い。心臓は締め付けられるような感覚を覚えるし、奥歯だってさっきから噛み合わない。

 例えようもなく恐ろしい。

 自分が自分でなくなる。それは単純な死よりも恐怖を覚える。

 人間は考える葦なのだ。その考える自己が消滅したら、それはもう人間ではない。私は自分が人間でなくなることが恐ろしい。

 

 でも、消えるのが私一人ならばまだ救いがあるのだ。諦めの境地にも至れよう。だが、もし他者を巻き込むのではないかと思うと、戦慄を覚える。

 反転衝動は、自分が大切なものを破壊しようとする現象だ。

 それを大切だと思う気持ちと、それを破壊したいという気持ちが融合したとき、それは引き起こされる。

 それは嫌だ。大切な人を殺すなんて、絶対にしたくない。

 

「……もう同一化はしないほうが良いわ。貴方が貴方でいられるは、せいぜい後一回か二回までよ。そこから先は分からないわ」

「……ええ。分かっているわ」

「そう。今日はもう休んでおきなさい。落ち着いたらまた話しましょう」

 

 言われるままに自室に引っ込むことにした。少し一人になりたい気分だ。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

「……予想以上に事態は深刻ね」

「……」

 

 遠坂凛は澪が自室に戻ったあと、今で士郎にため息交じりにこぼした。

 それに士郎は無言で返した。

 

 士郎の固有結界とて、決して気安く使用できる代物ではない。肉体にかかる負荷は相当なものであるし、それに伴う精神への負荷も相当である。

 士郎の固有結界は自分の精神世界を創造することに他ならない。使用限度を超えた酷使は肉体の破滅だけでなく精神の崩壊も起こす可能性がある。

 そもそも魔術とはそういうものである。廃人になってもかまわないというのであれば、限界などあっさりと超えることが出来るのだ。肉体、精神問わず、破滅もやるかた無しとなれば魔術師は想像以上の能力を発揮できるものだ。

 特に肉体よりも精神の崩壊は早い。人間の肉体は急所さえ傷つけなければ意外に丈夫に出来ている。だが精神はそうではない。魔術による過負荷で先に崩壊するのは精神と言ってもいい。

 加えて、士郎は通常の精神が魔術回路となっているという異常な状態なのだ。それゆえに固有結界を扱えると言ってもいいのだが、その代償も計り知れない。

 まず考えられるのは記憶の欠落。感情、倫理観の崩壊。人格の瓦解。まさしく精神の死である。

ゆえに己の限界を超えた使用をした場合、「植物人間」や「死」ではなく、「廃人」と言われるのだ。肉体の死ではなく精神の死であるからこそ廃人と表現されるのである。

 だが士郎よりも澪のほうがその危険により晒されている。

 士郎のそれは過度の使用による副作用である。風邪薬の服用量を超過したようなものだ。

 しかし澪のそれは違う。そもそも服用しているのが風邪薬などではなく劇薬だ。

 それに効用があろうと、体を破壊することが明白な毒である。毒を滅するために、さらに強い毒で細菌を殺そうとしている。毒を殺すことが出来ても、服用した毒に侵されるのは間違いない。

 

 そのことに気づかず、今までその劇薬を服用いていたのだ。

 全てが手遅れになってから気づく、ということも十分に考えられた。そう考えれば幸運であったと言ってもいいのかも知れない。

 気づけたのであれば今後のことも考えることができる。とはいっても、これといった療法が存在するのかといえば、そんなものはないというのが現状である。

 これ以上、同一化魔術を使わない。使うとしても、前回の使用から十分な間を空けること。これ以上考えられることは存在しなかった。

 精神は外部からの働きかけで治療することは難しいが、自力であれば時間とともに癒やすことが出来る。そうでなければ精神病が治るということはない。その場合、魔術について知るカウンセラーと長い付き合いを強いられるだろうが、背に腹は変えられない。

 

「士郎、あなたも他人事じゃないってことぐらい分かっているわよね?」

「……ああ。過度な使用は精神に異常をもたらす。廃人になる危険は常にまとわりつくってコトだろ」

 

 士郎とてそれは理解していた。しかし状況はそれを許さない。

 この七年で、髪の一部が変色するほどに使用を続けてきたのだ。それも世界と契約したでもない人間が。

 明らかに異常な魔力消費のペースである。自身に相当な負荷をかけているのは、傍目からも明らかであった。

 

「そうよ。魔術師である以上、その危険は常に纏わり付くわ。特にあんたもその傾向が顕著なんだから、少しは自重することを覚えなさいよ」

「……そうだな」

 

 この会話は果たして何度目だろうか。澪ほどではないにしろ、士郎とて無理を押し通せる体でないのは明らかだ。

 それでも彼は自身を省みず自らを窮地に追いやる。他人を助けるためと言って自ら破滅の道を一歩進むのだ。

 周囲の人間は気が気ではない。

 それが彼の美点でもあり、欠点でもある。少なくとも凛はその性質を改めて欲しいと常々思っていた。

 しかしこれでも多少は自重が利くようになっているのだ。あくまで多少だが。

 敵に勝とうと思えば、それこそ「全て遠き理想郷(アヴァロン)」を複数投影すれば済む。複数投影して各自がそれを持てば傷を負ってもすぐに回復させることが出来るのだから無敵だろう。だがそれをしないのは、偏にそれは自分の能力を超過しているからに他ならない。

 士郎の専門は剣である。鞘はその範疇には含まれていない。それが神秘を含まない器物であれば何のこともないのだが、それが宝具となると話は違う。

 アヴァロンを投影するとなると、それに全力を傾ける必要がある。全力といかずとも並々ならぬ精神を注がねばそれはまともな効果を発揮できないのだ。加えてこれらの投影物には基本的に世界からの修正力が働いている。それらに抗い続けて鞘を維持するのは、もはや針に糸を通すよりも難しい所業だ。

 一本だけならばまだいいが、複数となると不可能だ。一時的に一本を投影するのが限界である。

 「熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)」の習得にすら血反吐を吐く努力と時間を要したのだ。それを超える格となるアヴァロンとなれば、無理からぬことである。

 そんなアヴァロンの複数投影を行わないのは、それが確実に自分を破滅に追いやることを知るからだ。それを理解し、自重する程度の思慮は身に着けていた。

 とはいっても、それをせざるを得ない状況に見舞われたら彼は躊躇い無くそれを実行するだろう。状況を判断する思慮を身に着けてはいるが、自分の優先度が上がったわけではない。

 

「まあ士郎のことは良いとして……やっぱり澪が心配ね。相当落ち込んでいる様子だったけど」

「ああ。ムリもないことだけれど、相当ショックだったみたいだ」

 

 厳密に言えば、おかしな話ではある。

 魔術師である以上、死は常に身近なものだ。死を覚悟し許容することが魔術師の第一歩と言ってもいい。そしてそれを乗り越えてこそ一流だ。

 そういう意味で、澪は魔術師らしからぬ存在だ。

 元々、あまり神秘を追いかけることに情熱を燃やす家系ではないということが大きいだろう。西洋魔術ではなく東洋の神秘が本流であることも大きな要因かもしれない。

 周囲との協調を美学とする東洋の意識が根底にあるため、西洋に比べて敵を作りづらい。東洋系の系譜は比較的、死の覚悟が足りていない傾向がある。傾向があるだけで全てがそうではないが、文化の差異は大きいものだ。

 しかし澪がまったく自らの死を覚悟していないというわけではない。普通の魔術師と比べても十分過ぎるほど覚悟をしていた。

 

 だがそれは決闘で相手に敗れる覚悟であったり、魔術の暴走で命を落とす覚悟であったりといった具合の類だ。つまり、苦しみの有無は問わず、命を落としても許容するという覚悟である。

 しかし澪のおかれた状況は違う。自我の喪失は命の喪失とは別の覚悟が必要だ。何故なら、今まで自分を自分たらしめていたものが音を立てて崩れていくというのは、健全なものが思っている以上に悲壮なものだからだ。

 例えば、もし自分の中に何か得体の知れない寄生虫が居たとしたらどうか。それは次第に脳を侵食し、本人に気づかぬうちに自分と寄生虫が入れ替わる。体全部を寄生虫に乗っ取られるとしよう。

 こんなものはありふれたSFの設定だろう。だが、それに侵された人間の恐怖は筆舌に尽くしがたい。

 事実、このような妄想に囚われ、発狂する人間は世の中に多く居るのだ。

 澪の置かれた状況はこれに近い。発狂する可能性とて、少なからず在るのだ。

 

「どうにか治す方法は無いのか?」

「無いわ。精神のこととなると薬の類でどうにかなるわけでもないし、魔術に頼るとしても他人の精神なんか弄ったら本当に廃人になりかねないわ。

 ……士郎こそ、こういうときに役に立ちそうな剣とか投影できないの?」

「そんな剣ないだろ。体を癒す剣は何本か心当たりがあるけれど、精神を癒す剣なんか知らない」

「やっぱりそうよね……。澪、大丈夫かしら」

 

 凛は本気で澪の心配をしていた。果たして今一人にして大丈夫なのだろうかと思いつつ、さりとて傍に居てもどう声をかけるべきなのかも分からない。澪が強く在ってくれることを祈るしか出来なかった。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 ライダーの姿は柳洞寺の裏山にあった。たいした理由があるわけではない。単に、ここであれば姉妹兵を連れ立ったこの大所帯が身を隠すのに都合が良かったというだけだ。アインツベルンの森で待機していては、移動に相当な時間を割かれる。有限な時間を無駄にせずに活用しようと思えば、今のうちから戦場に潜んでおくことが良いと判断したに過ぎない。

 

 ライダーの懐には聖杯が収められていた。それは己の不退転の覚悟を固めるためのものだ。

 サーシャスフィールは、五日はもつと言った。しかしライダーはそれを鵜呑みにはしなかった。

 彼女の命が燃え尽きようとしているのは、通常のホムンクルスの理論値を超えた戦闘能力を発揮しているからに他ならない。使い捨てと割り切っているからこそ、サーシャスフィールはサーヴァントの足元に触れるほどの戦闘能力を持ちえるのだ。

 その戦闘能力を支えるのは卓越――というよりも超越した筋力と魔術回路だ。筋力は片腕で車を牽引する程度は難なくこなし、魔力は今までのホムンクルスに影も踏ませぬほどだ。

 しかしその両方が彼女の命を縮める要因だ。

フィジカル面に関して言えば、運動能力のみに機能が集中しているため、彼女の内臓は極めて脆弱だ。アルコールも摂取できなければ、下手に医薬品の服用もできない。

 その状態でフルに運動能力を発揮すれば、かなりのダメージを内部に負う。肺と心臓こそ強化されているものの、内臓器官は生命維持に最低限のものしか用意されていないのだ。

 汗をあまり流せないため、炎天下での活動はもちろん激しい運動は危険だ。体力の回復も難しいため、極度の疲労状態のまま睡眠をとればそのまま目を覚ませない可能性もある。

 そして魔術面でいえば、確かに魔術回路の本数やそれ自体の強度はもはや常人には及びもつかないものになっている。しかし、それはフィジカル面での脆弱さと相まって、危険な状態であるともいえる。

 そもそも魔術とは危険なものだ。魔力を過剰に消費すれば体調にも異変をきたす。

 今までライダーが派手に暴れてもおくびにも出さなかったのは、驚異的であると言ってもいいのだ。

 つまるところ、ライダーがこの世に顕現しているだけで彼女に負担をかけている。戦闘になればなおさらだ。

 まだサーシャスフィールに余裕のあるうちに全てに決着をつけなければならない。

 そもそも、あの足はいずれ切断しなければならないだろう。傷跡から壊死が始まれば、もっと早く命が燃え尽きるかも知れない。

 五日など待っていられるわけがないのだ。今日か、遅くても明日には全てを終わらせなくては。それ以上長引けば、自分が戦闘を行えるだけの余裕すらも失ってしまうだろう。そうなれば全てが終わりだ。

 今ならば、まだ自分が全力で戦っても彼女が倒れることはないはずだ。ならば、もはや何も考えず、敵を討ち滅ぼすのみだ。

 

 そうだ。何も考えずとも良い。今宵、全てを決する。

 ゆえに聖杯をここに持ち込んでいるのだ。詳しいことは知らないが、サーヴァントが脱落すれば聖杯は勝手に降りてくる筈だ。全てのサーヴァントを下した後に取りに戻るなどもどかしい。そもそも、完成した聖杯がどのようなモノなのか分からない以上、サーシャスフィールの傍には置いておきたくなかった。完成した瞬間に何か周囲に対して力を解放させるようなことがあったら、足の動かない彼女は逃げ切れない。それは避けねばならなかった。

 懐の中で輝く聖杯は、ライダーの不退転の覚悟を固めると同時に、愛した人を守るための措置でもあった。

 

 そしてライダーの懐に聖杯があるというだけで、姉妹兵の士気も肌で感じられるほど上がっていた。声帯が無いため言葉は発しないが、それでも彼女らの発する気は周囲を帯電させたかのように緊張させる。

 背水の陣、とはまさにこのことだ。聖杯は破壊されるわけにもいかない。敗北もまた許されず、退却ができる時間的猶予もない。

 ならば己らの武勇を持って血路を開く以外に道はない。

 まだ日は高く、戦闘を行うには十分すぎるほどの時間があるというのに、ライダーと姉妹兵は開けた場所から町を見下ろし、否、睨み付けて微動だにしなかった。そこに居るはずの宿敵に渾身の闘志と殺気を叩き付け続ける。

 

 策など無い。そのような賢しい真似が出来る彼ではない。

 ライダーたる張遼に出来るのは、ただ騎馬を指揮し、ひたすら戦うことだけだ。だから、策というものがもしあるならば、それは可能な限りの死力を尽くして戦うこと以外にない。

 果たして何対のサーヴァントが残ろうとも関係ない。もとより、最初からそのようなことを気にしてはいない。全てを叩き斬る。それだけだ。

 だが、策ですらない手ならば無いわけではない。

 サーヴァントは霊である。霊は魂を吸収することで、さらに力を増す。サーヴァントそのもののステータスは変わらないが、マスターからの魔力供給とは別に魔力を調達することが可能となるため、長期の戦闘が可能になる。

 だが、論外である。少なくともライダーはその選択を取ろうというつもりは微塵もなかった。

 剣は不祥の器である。しかし没義道を正し、主を守れば義の器だ。剣を執るときは常に義と共にあるべきだ。罪なき人を斬りその魂を食らえば、それは没義道に他ならない。それが武ではなく暴だ。

 ライダーが目指すは武の頂点。ならば、この手段は最初から無いのも同然だ。サーシャスフィールが令呪で命じても、ライダーは全力で抗うだろう。

 ならば姉妹兵を手にかけてはどうか。これも却下である。

 姉妹兵はライダーが命じれば、誰一人として逆らうことなく、従順に首を差し出すだろう。だが、ライダーにとっても彼女たちは半年以上寝食を共にした仲間なのである。

 もし彼女たちを殺して、サーシャスフィールの負担が多少でも軽くなったとしても、彼女はそれを快く思わないだろう。

 それに、サーヴァントにはさすがに苦戦しても、勝ちが見込めないほど彼女らは弱くない。単騎では決して適わないだろうが、二十あまり全てが一丸となって臨めば可能性はある。ここで殺して己の一部にするよりも、このままのほうがよほど戦力になる。

 だからこそ、ライダーは彼女ら全てを率いてここまで来たのだ。

 

 ライダーは己の手の内にある得物の感触を確かめ、気を放ち続ける。今彼の前に現れる者が居たならば、彼の姿は通常の何倍にも見えることだろう。

 手には一刀、成すは無双。

 迎え撃つ敵の数まだ計り知れずとも、胸の内にて猛る暴虎、その眼光些かも衰えることなし。

 武の本懐と本領がここに在るならば。主を守ることに武の片鱗でも存在するならば。一刀に宿いし青龍、その威光を以って敵を打ち砕かん。

 敵は悉く平伏せ。我は張遼、字は文遠。無双の武人であるぞ。我を畏れよ、しかる後道を明け渡せ。我を恐れよ、しかる後死ね。

 この張遼が、長き戦いに終止符を打とうというのだ。遠からん者は音にも聞け、近からんものは目でも見よ。俺の青龍堰月刀の煌く様を。我が軍が敵を蹂躙し、天を掴む様を。

 

 容赦も加減も一切なく、今宵、ライダーは全てを打ち砕くつもりであった。

 

 アサシンを恨む気持ちもある。彼奴だけは必ず自らの手で切り伏せたいとも思う。

 だがその感情は水面下で押し殺した。怒りに囚われれば大局を見誤る。ライダーが今すべきことは主の仇を殺すことではなく、聖杯をアインツベルンにもたらすことである。

 無論、あわよくば仇討ちをと考えているが、それは優先すべきことではない。

 ライダーの優れているところは、激しやすいようであるが、それは表面だけであり気炎高まるほど己の内面は氷のように冷静になることである。炎の如き激しさと氷の如き冷静さ。この矛盾する両面を併せ持つからこそ、ライダーは将としても武人としても類を見ない力を持つのだ。

 アサシンが目の前に現れたら切る。だがそれは他のサーヴァントでも同じこと。

 この勝負、最後に生き残ったものが勝者なのだ。より多くの敵を倒したものが勝者ではない。

 だがしかし、ライダーには穴倉に引きこもって期を待つほどの時間は残されていないのだ。ゆえに、今宵打って出る。

 

「遼来々ッ!」

 

 ライダーは町を見下ろしながら吼えた。その様は、獅子と虎とも、あるいは龍と例えても見劣りしないほどの勇ましさであった。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 衛宮切嗣(アサシン)はとある廃ビルの屋上に姿を現した。

調査したところによると、一年ほど前に不審火によって焼失し、以来買い手も居ないまま放置されているビルである。一階は料理屋で、それより階上はオフィスとして貸し出していたらしい。不審火によって数名が焼死体の状態で発見され、以来近隣住民は気味悪がって近寄ろうともしない。火によって建物全体が崩れやすい状態であるため入り口は厳重に封鎖されているため、子供が肝試しに来ることもない。

 こんな危険なビルが放置されているのは、やはりその崩れやすい危険性からであった。

 下手に崩せば大惨事を引き起こしかねない。道路に面しない三方は密着するような形で民家が存在するため、背の高いこのビルが倒壊すれば下敷きになる。

 慎重な解体計画を進める必要があるのだ。そのため、ビル周囲に足場を組み、かつ予期せぬ倒壊を防ぐため多少の補強をしているものの、解体作業にはなかなか着手できていない。

今すぐに倒壊するということは、土木業者の懸命の努力によりまず無いといえる。不審者が一人忍び込んだとて、下手に暴れなければ命の危険に晒されることはない。そうでありながら人気が無い。

 ビルの背も高く、狙撃目標の家を見張るには申し分のないポイントであった。

 

 担いでいるゴルフケースの中から銃を取り出す。ドラグノフ狙撃銃だ。

 それを手摺の隙間から銃口を覗かせる。手摺の足の間隔はそれなりに広く、スコープ越しの視界が遮られることはなさそうだ。

 スコープを覗いて狙撃地点に問題が無いことを確認する。その屋上内で最適と思われる狙撃地点を定め、クッションの上に銃を据えた。

 近代の銃はクッションではなくバイポッドを利用することが多い。バイポッドとは銃身に取り付ける二脚のことだ。これにより銃身の位置を高く保ち、マガジンやグリップが地面に接触することによる射撃への弊害を解消することが出来る。また、射手の呼吸による手ブレも抑えることもできる。加えて銃の自重を射手と分担して支えるため、長時間の射撃には不可欠と言ってもいい。

 狙撃銃に限らず、機関銃や突撃銃などを固定して射撃する際には重宝する有能なものだ。

 バイポッドを使用できない場合は、銃を固定するにはクッションが適している。構えた状態の銃身にクッションを高くして置いておけば、バイポッドと同様の効果を得られる。

 

 これで狙撃の準備は大方整った。後は標的が姿を見せるのを待つばかりである。六百メートルまで離れてしまうと射角が浅くなり、玄関と中庭と思しき場所を捕捉するのが限度であるが、それで十分だ。出入り口や庭は住民が姿を現す頻度が高い。

 もはや非の打ち所の無い狙撃ポジションである。

 

 狙撃とは戦場において脅威となる戦術だ。アサシンは身に染みてそれを理解している。

 弾丸は目に見えない。暗闇であれば弾道が見えるのではと思うかも知れないが、それは曳光弾の場合のみだ。

航空機からの射撃や対空射撃の場合、自分の位置を隠すよりもどこに弾が飛んでいるのか確認する必要がある。その場合に曳光弾と呼ばれる射撃時に発光しながら飛ぶ弾丸を使用するのだ。それを見ながら射線を修正する。

 しかし通常の弾丸は射撃時に銃口から光が洩れる程度で、発光は決してしない。ゆえに狙撃はどこから弾丸が飛んできているのか、特定するのが難しいのだ。訓練を積んだ狙撃手は、射撃後にも位置を欺き続ける術を習得している。それが位置特定の困難さに拍車をかける。

 優れた狙撃手が一方的に相手を蹂躙するのはこのためである。

 

 周囲には同じように狙撃向きのビルが存在する。この地帯は新都からは川を隔てているものの、開発の流れがわずかながら波及した結果建てられた貸しビル群だ。自分ならばここを狙撃地点に選ぶ、という場所があと三つはある。

 この状況はかえって狙撃地点の特定が難しいだろう。数射撃っても位置は特定できまい。

 それだけあれば、相手のマスターだけでなく全員を撃ち殺すことも可能だ。狙撃されていることを理解しきれないまま、全員をあの世に送ることが出来る。

 

 まさに一方的な状況だ。

 だがここまでアサシンに有利な状況に身を置いているにも関わらず、不安要素はある。

 通常、狙撃は観測手と射手の二名で行われる。スコープ越しの視界は極端に狭い。標的を発見するのが難しいこともままある。それを補うのが観測手だ。観測手は射手に目標までの正確な距離と数を伝えることで、狙撃の確実性を増すのである。

 だがそれは望めない。マスターである景山悠司はそのような訓練を積んでいるわけではない。居るだけ邪魔である。

 一人で観測と狙撃をこなさなければならない。これはなかなかに難しいのだ。

 加えて、ドラグノフは優秀な銃ではあるが、近代の銃に比べれば見劣りする。狙撃は十分にこなせるであろうが、六百という長距離になるとその命中精度が問題になる。決して粗悪ではないが、信用は出来ない。しかも払い下げの中古である。これで信用しろというほうが無理な話なのだ。

 

 だがそれでも、今できる最善を尽くすしかない。装備に泣き言を言っても仕方が無いのだ。

 以前に衛宮邸を観測したときに使用していた軍用の双眼鏡を用いて狙撃対象を監視する。時刻はまだ午後三時を回ったあたりだ。

 狙撃対象の生活リズムなど知る由もない。だが聖杯戦争の局面を進めるつもりならば、夜にかけて外出する可能性は高い。今更引きこもるなどということも考えづらいだろう。

 今夜、アサシンはセイバーの陣営を脱落させる心積もりだ。ゆえに、よほどのことが起こらない限り狙撃を中止するつもりなどない。もし他の陣営――考えられるのはライダーあたりか――と交戦を始めたのであれば渡りに船だ。その背中をゆっくりと狙い撃てばいい。

 

 またずきりと頭が痛む。一体、この頭痛は何だというのか。

 頭痛の理由について断定はできないが、記憶を失っていることが関係するだろうことは確かだ。記憶を失っているのに無理に思い出そうとしているのか、それとも深層心理では思い出そうという気持ちと思い出したくないという気持ちが鬩ぎ合う結果なのか。

 その両方であろうことはアサシン自身も理解していた。

 そして、セイバーの陣営を全員脱落させれば、この頭痛とも決別できるのではないか、と心のどこか深いところで感じていた。それがどういう結末を呼ぶにしても、この頭痛からは開放される。直感にも似た部分でそう感じた。

 

 頭痛は、おそらくそれを為すまで治まることはない。だが、アサシンが戦うのは頭痛から開放されるためなどでは断じてない。

 この世の流血をこれで終わらせる。これが世界で最後の流血にする。

 そう本気で願うからこそ、彼はあえて銃を執り戦うのだ。

 馬鹿げているのだろう。きっと誰もが彼をあざ笑うのだろう。

 だが、それだけが彼を突き動かす全てなのだ。そしてもはや聖杯しかそれを成せるものは存在しないのだ。

 

 人を救うため、何人も見捨てた。

 悪を正すため、正義を人をも利用した。

 そうするしかなかったのだ。非力な自分はそうでなければ正義をなしえなかったのだ。ゆえに自分が正義であるなどと、口が裂けても自称することはない。誰が自分を正義などと騙ることが出来ようか。

 そこには正義しかなく、そしてそれゆえに正義ではない。なんという矛盾。だがその矛盾の中でしか生きられなかったのだ。

 だがその葛藤からも、ようやく開放されるのだ。聖杯を手にすれば、この世の流血はこの聖杯戦争で終わりに出来るのだ。

 この世に武器のない世界を。誰も他人によって傷つけられ、殺されることのない世界を。

 それはまさしく、理想郷ではないか。

 そして、その悲願の成就は目前に迫っているのだ。

 

 ――彼がかつて拒絶した、「この世全ての悪(アンリ・マユ)」の呪いは、彼にとって効果的に働いているといえよう。

 彼は記憶を失っているがゆえに、もう一度聖杯に希望を乗せて自らを求めようとしている。

 その末に、今度こそ我を認めよ。この世全ての悪を許容せよ。

 さもなくば絶望せよ。もう一度絶望の味を思い知れ。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 バーサーカーの姿は、柳洞寺の境内にあった。

 この地下に聖杯が存在している。土地を味方として掲げる彼は、無意識に最も力の強い地を選んでいた。

 もっとも、最も魔力が満ちているであろう大聖杯の場所へは行けない。どこから行けばいいのか、今の彼には理解できない。

 もしも狂化されていなければ、もしかすると大聖杯まで辿り着いたのかも知れない。土地を味方につける剣、載冠剣クラレントを所持しているのだ。意識を集中すれば、入り口の大まかな場所は分かったかも知れない。

 だが狂化されていてはそれも叶わない。結果、大聖杯の真上である寺の境内に根を下ろすことになった。ここでも十分な魔力供給が行われている。

 霊体となっているため、寺の住民に気づかれることはないだろう。霊的に優れた者ならば彼の姿を知覚したかもしれないが、幸か不幸か今の寺にそれほどまで徳の高い者は居ない。

 

 彼もまたライダーのように、その小高い山から町を見下ろしている。だがライダーと違うのは、その刃の向かうところはアーサー王に他ならない。ひいては、八海山澪が標的である。狂化さえしていなければ澪がアーサー王とは違うことを理解できたであろうが、ひとたび彼女をそれと認めてしまった今、その誤りを正す思考は持ち合わせない。

 ただ感情のままに暴れる獣なのだ。獅子でも虎でもなく、ましてや龍でもない。ただの獣だ。もはや意志も理性もなく、呪いじみた怨嗟を剣に乗せて吼えるだけの一匹の獣。

 憎きアーサー王。自分を捨てた騎士王。

 ならば自分は全ての騎士を滅ぼそう。

 全ての王を打ち倒そう。

 そのための獣。そのための剣。

 それだけが自分の正義。獣となってなお遂行すべき正義なのだ。

 

「■■■ゥゥゥ……」

 

 人知れず唸る。霊体となっていても声を発すれば聞こえることもあるのだが、そのあまりにも低い声は木々のざわめきに遮られ、誰の耳にとまることもなかった。

 その声はまるで慟哭のようだ。あまりに悲壮で、それゆえ憎しみも深い。

 彼は、本当は獣になど身を落としたくなかったのだ。本当ならば、自らの父である王に牙を剥くことなどせず、平穏な日々を享受したかったのだ。

 しかし、それは叶わなかった。一度根付いた怨嗟は抑えること難しく、王を許すことも出来ず、ただ狂える獣となるしかなかったのだ。

 今や彼を人として表現するのは誤りだろう。それはもはや人の道を外れた獣。人を呪い、ただ殺すためだけに生きるのが人の道から外れているのであれば、もはやバーサーカーは人にあらず。その身はただ一匹の獣。復讐に燃える一匹の獣。

 いや、獣など生ぬるい。もはや鬼だ。復讐鬼である。

 

 バーサーカーは期が来たならば、果たすべき正義を果たすために打って出るだろう。

 畏れるがいい王よ。騎士よ。

 今宵貴様を狙うは一匹の鬼。復讐の鬼。身を捨ててこそ浮かぶ瀬があるならば、人としての道を捨ててこそ辿り着く境地もまたあるはずである。

 聖杯に望むことなどありはしない。モードレッドの願いは、アーサー王を殺すことで満ち足りる。

 

 手に持つは「王位を約束した剣(クラレント)」。それを手に持つ者は王となる奇跡の剣。

 彼が呪うのは全ての王と騎士。ならば、それを持つ己も死なねばならぬ。

 ゆえに、もしも聖杯にかける望みがあるならば、己を殺すことのみ。アーサー王を殺したのち、聖杯を手に入れること叶うならば。その奇跡は自らを滅亡させることに傾ける。

 復讐など誰も救われはしないし、救いもしない。

 しかしそれを許容し、己の感情のままに戦うからこそ、彼は鬼なのだ。

 

 彼の怨嗟と騎士王の正義。どちらが勝るのかは、クラレントとカリバーンが教えてくれるだろう。

 手には一刀、成すは復讐。

 一匹の復讐鬼は、今宵、その悲願を果たすつもりであった。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 今宵。きっと全てが決する。

 奇しくも残存する勢力は、各々の思惑を抱え、八海山澪らを狙う。己の正義を以って戦う。

 生き残るのはただ一組。名を残すのは勝者のみ。敗者について語るべきことなどない。

 聖杯を求め、その果てに己の願いを叶えようとするのはただ一人。アサシンのみ。願うは世界の平穏。他のものは聖杯にかけるべき願いなどない。

聖杯を求め、その果てに他者の願いを叶えようとするのはただ一人。ライダーのみ。その者を本当に愛するがゆえに。

 復讐のみを誓うはただ一人。バーサーカーのみ。己の正義をなすために。正義という感情を遂行するために。

 聖杯の破壊を望むはただ一組。セイバーたちのみ。聖杯は万能の釜ではなく、災厄の坩堝であるゆえに。

 

 全ては今宵決する。

 それがどんな結果をもたらそうとも、どんな災厄をもたらそうとも、全ては勝者の願いひとつだ。

 逢魔ヶ時にはまだ遠い。だが、さりとて気長に構える時間は、八海山澪らには残されていないのだった。

 



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Act.37 対狙撃手

 どうして私がこんな仕打ちを受けなければならないのか。私は長い間を、天井の同じ一点を凝視し、世を呪うことに費やした。

 そろそろ小学生が下校する時間なのだろう。ときおり、外から無垢な笑い声が聞こえる。

 ああ、私はもうそちらには二度と戻れないのだな。

 もとより住む世界が違う。だが、そちらに行こうと思えばできた。

 だけどもう駄目だ。そちらとこちらでは、決定的に違う。私は、もう笑うことも悲しむことも出来ない、ただ生きているだけの人間になり下がるかも知れない。

 不幸になって欲しい。私は外の子供たちに対して、そんな感情を抱いた。

 幸せに笑っているのが恨めしい。それを享受できるのが当たり前だと思っているのが腹立たしい。

 そしてそんなことを考える自分に嫌悪を抱き、どうしようもなく気分が塞がる。気分が塞がれると、さらに呪いを振りまくようになる、という悪循環。

 

 自分が自分でなくなる、というのが恐ろしい。

 私は一体どうなってしまうのか。一体どんな変異をもたらすのか。

 認知症のようになるのか。それとも、狂ってしまうのか。分からない。

 そもそも私の自我ってなんだ。これが私であると誇れるようなことがあったのか。あるいは、最初から私は自我障害を持っていたのではないのか。

 自分の変化は自分では分からない。特に精神の変化など誰が分かろうか。

 私はいつから狂い始めたのだろう。私はいつまで正常でいられるのだろう。

 

 もう頭がぐちゃぐちゃで、わけが分からなくて、不安で掻き乱されて。でもだからといって考えるのを辞めるなんて割り切った真似もできず、結果周囲に呪いじみた気を振りまいて。

 私、とても嫌な子だ。

 でも……どうすればいいのだろう。誰かに助けを求めたとしても、解決する問題ではない。士朗さんや遠坂さんに助けを求めたとしても、何か出来るわけでもないだろう。精々私を励ますぐらいだ。この問題は、宝剣の力やウィッチクラフトの類で解決できる類ではない。

 そもそも、安っぽい励ましなどして欲しくない。「頑張れ」なんて言われても、これ以上何を頑張れというのか。「負けるな」なんて言われても、何に勝てば良いのか。私は現状で限界なのだ。これ以上、私をはやし立てるな。

 今なら、鬱病患者の気持ちが分かる。

 ああ……本当に嫌な子だ。

 自分を嫌悪する気持ちすら、今は愛おしく思えた。この感情もいつか消えて失せるのかも知れないと思うと、呪いを振りまく自分すら愛でたくなる。

 それはとても悲しいと、自分でも思う。

 ならどうすれば良い。どうすれば。

 

 どうしようもない。そんなことは分かっている。

 だからこそ、絶望するのだ。

 何時間かぶりにベッドから起き、引き出しを漁る。すぐに目当てのものは見つかった。

 それは儀式用の短剣。儀式用短剣にもいくつかあるが、これは普通の短剣に装飾がついただけの最下級のものだ。

 だがこれでも一端の剣である。刃は常に鋭く研いであるから、大抵のものは難なく切れるだろう。

 

 せめて、私が私であるうちに。今後、自分の意思で己の趨勢を決められないのであれば、今ここで幕引きを選択する。

 他でもない私の手で。

 死の覚悟はできている。それが無ければ魔術師ではない。

 五感に働きかけ、痛覚を遮断する。即席にしてはあっさりと術式は成功した。八海山の家系の特性は「送受信」。それは痛覚から伝達される電気信号を受信しないこと、つまり遮断することで成し得る。

 覚悟が出来ていても痛いのは嫌だ。せめて苦痛なく逝きたいものである。

 喉元に刃をあてがい、動脈の位置を確認する。少しだけ力を込めてみたら、刃が皮膚を割いて血が流れたが、痛みは全くなかった。局所麻酔を打たれたようなものだ。

 これなら何も躊躇う必要はない。

 一気に頸動脈を切断しようと、短剣を握る両手に力を込めた。

 

 鮮血をまき散らす筈の刃は、しかし薄皮一枚を割いただけであった。驚き慌てて力を込め直すが、短剣はそれ以上微動だにしなかった。

 そしてようやく、短剣を握る私の手の上から、さらに別の手が握りこんでいることに気がついた。その手が、短剣がこれ以上食いこまないように、信じられないほどの力で抑えていた。

 その手の主はセイバーだった。

 

「やめろ。やめてくれ」

 

 それはもはや慟哭に似た声だった。

 しかしその嘆願にも関わらず、セイバーは短剣を私の手から奪い取った。その切っ先を悲しそうに見つめ、それが本物の刃であることを確認すると、黙ってその短剣を机の上に戻した。

 

「……婦人の部屋を覗くなんて感心しないわね」

「紳士としての無礼よりも、騎士としての務めを優先したまでだ。

 ……ミオ、私は貴方の気持ちを多少なりとも理解しているつもりだ。何が分かるのかと思うのかも知れないが、全く分からぬほど阿呆でもない。ミオが死を選択しようとしたことも無理からぬことなのだろうと思う。

 だがそれでも、やめてくれ。如何なる理由があろうとも、それだけはやめてくれ」

「……もう、疲れたわ」

 

 そう、もう疲れたのだ。もう休ませてくれ。聖杯戦争が始まってから色々なことがありすぎて、私はもう限界なんだ。

 だからもう、休ませてくれ。楽にさせてくれ。

 頑張れなんて言わないでくれ。これ以上何を頑張らないといけないのか。これ以上頑張らないと生きていけないのか。

 強くあれなんて言わないでくれ。これ以上強くなんて無理だ。今にも折れそうなのに、いや、既に折れているのに、強くなんて無茶だ。

 死んで、頑張らずとも、強くあらずとも良いようになりたいのだ。

 

「ならば……ならば、貴方を愛した私はどうすれば良いのだ!」

 

 ――――何を。

 

「私はどうすれば良いのだ。この想いを抱いたまま、消えろというのかッ!?」

 

 その言葉は、私の脳内に渦巻く諸々を吹き飛ばし、かつ新たな混乱を生みだすに足る衝撃だった。

 さっきとは違う混乱。さっきまで頭を埋め尽くしていたごちゃごちゃが吹き飛んだにも関わらず、もっと別の何かでめちゃくちゃだ。

 部屋が暑い。エアコンの利きが悪くなったんじゃないのか。何だか顔が火照っているような気がする。汗が滲んでくる。

 それになんだか動悸が激しい。おかしいな。精神の異常は肉体面にも影響が出るのかな。

 

「じょ、冗談はやめてよ」

「冗談なものか! 私は貴方を愛したのだ!

 気づいたら、もう後戻りできぬほど、貴方に惹かれていた。ミオ、私は貴方が愛おしくて、守りたくて、それを成すためならば命すら惜しくはない!

 私は、ようやく知ったのだ。正義に唯一の答えなどないが、忘れてはならない原初の要素――それは、人を愛することに他ならないのだ! それをミオが教えてくれたのだ!」

 

 自分の顔がみるみる赤く染まっていくのが、手に取るように分かった。

 何で今、それを言う。

 死ぬに死ねなくなるではないか。だって、私だって、セイバーのことが――

 

「部屋から出ていって! ちょっと一人にさせて!」

 

 締め出すようにセイバーを退室させる。

 ああもう、私が理解できる事態を超えている。だからこの体の暑さは熱暴走なのだ。そうに違いない。

 訳がわからない。なんで? いつから?

 恋仲に落ちるきっかけなんか有っただろうか。いや――無いと思う。共通の話題といえば、基本的には聖杯戦争の殺伐としたものしか思いつかない。

 いや――そういうものなのかも知れない。気がつけば恋に落ちていた。それが本当の恋なのかも知れない。

 そもそも、恋に落ちたのはセイバーだけでは……ない。何故や、何時からという疑問をセイバーにぶつけても意味などない。他でもない私自身、分からないから。

 セイバーが隣に居るのが当たり前で、自分の気持ちに気付かなかった。今の瞬間まで、セイバーを好く気持ちに、本当に気付かなかった。これっぽっちも。

 だけど――気付いたら、それはもう無視できないほどに大きいことに分かる。大きすぎて、目に留らなかったのか。それとも気付かないふりをしていたのか。

 恋は「落ちる」と表現される。それは抗えないからだ。そして落ちてから、それと気づくからだ。それを、私は身をもって知った。

 

 もう、何が何だか分からないけれど。将来はどうなるか分からないけれど。少なくとも、今すぐに死のうという気は無くなっていた。

 消えない悲しみや苦しみがあるならば、生き続ける意味だって在ってもいいと思えた。

 命短し恋せよ乙女。

 空を見れば日は落ちかけ、空は私の胸の内のように、赤く燃えていた。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 日の落ちた暗闇は狙撃手にとって鬼門でもあり、天の恵みでもある。

 索敵能力が必須である狙撃手にとって、日が落ちてしまうという状況は歓迎できることではない。夜間暗視用のスコープでもあれば話は違ってくるのかも知れないが、そんな装備は望むべくもない。

 だが同時に天の恵みでもある。こちらの存在を徹底的に隠すことができるからだ。

 しかし今回はその恩恵のみを受けることができそうだ。なぜならば、狙撃対象は民家――つまり光源の傍に現れるであろうと考えられるからだ。いくら夜間でも光の傍に立ってくれれば通常のスコープで捉えられる。加えて、スコープではないが双眼鏡は夜間暗視装置を備えているため、暗闇に紛れても位置の確認までは出来る。

 ならば、もうすぐ落ちる日は自分に利することになるだろう。

 手すりに吊るしたハンカチで風の有無を確認する。幸いにして今夜は無風だ。射撃距離も地球の自転を考慮に入れなければならないほどではない。天候も良好で降雨の心配はない。狙撃において、これ以上ないほど良好なコンディションであった。

 

 狙撃位置についてから、狙撃可能な地点である中庭と玄関において人影を補足できていない。だが無人ではない。日が落ちてきたため電灯を点けたのを確認している。

 ならば好機が訪れるまで待つ。もとより狙撃手とはそういうものだ。何時間でも、あるいは何日でも唯一のチャンスが訪れるまで待ち続ける。

 この世の流血がこれで終わりになるのであれば、例え一年でもここに根を下ろす覚悟がある。

 

 だが、いかにして聖杯がそれを実行するのかは彼にも分からなかった。分かるのは、もしも自分がそれを実行するのであれば、今までと同じ手段しか無いということだ。つまり、僅かな悪を殺し多くの罪なき者を救うということだ。

 聖杯ならば、自分の理解も及ばぬほどの神秘でそれを成し得ると信じている。そういうモノであるという触れ込みであるからだ。

 だが、実際はそうではない。

 聖杯は第三次聖杯戦争において、かつての無色の力ではなくなったのだ。それは一つの呪いであり、そして全ての悪である。それによって指向性を持たない純粋な力は、「人を殺す」という指向性を持つようになってしまった。ゆえに、もはやソレは人を貶める形でしか願いを叶えることが出来なくなってしまう。

 しかし、それでも願いが叶わない訳ではない。過程さえ度外視すれば、確かに願いは叶う。

 もし彼が聖杯を手にしたならば、それはどういう形で実現されるのだろうか。

 聖杯まであと指一本のところまで辿り着いたことはあるものの、実際に聖杯にそれを願ったことは無いため憶測でしかない。しかし言うまでも無いことだろう。願いが世界平和であるならば、「平和を乱す可能性のある人類を滅ぼす」ことで解決される。

 

 では、どうやって平和を乱す可能性があるかどうかを判断するのか。全人類を滅ぼしてしまっては、それは願いから大きく外れる。なぜならそこには既に平和という概念が無いのだ。平和という考えは人間特有のものであり、それを観測する人間が居なければこの願いは達成できない。

過程だけでなく結果まで願望と異なる結果を聖杯はもたらさない。ゆえに聖杯は、全人類の滅亡には踏み切らないだろう。加えて「人を全て滅ぼす」という行為が既に「平和を乱すもの」であり、そうなると聖杯はまず自らを滅さなければならないという自己矛盾に陥る。

 ならばどうするのか。さらなる指向性を持つ手段を取ればいい。もとより人を殺すという指向性に特化するようになったのだ。それは容易いことである。

 平和を乱す可能性があるということは、どういうことか。武器を持つ人間。戦う意思を持つ人間。少なくとも聖杯はそう判断するだろう。

 そしてそれを見つけ出すため、なんらかの手段を取る。己の泥を人型に固めて操り、人を襲うかも知れない。その泥人形に僅かでも反抗すれば殺し、また武器の類を所持していても殺す。どこまで武器と見なすかもまた議論の対象であろうが、おそらく聖杯は広義に捉え、人を傷つけ得るものをそれと見なすだろう。

人間の生活の場において、武器にならないものなどほとんどない訳であるから、ほとんどの人間は殺される。結果として大量殺戮が行われるであろうが、「世界平和」は確かにこの世にもたらされるだろう。おそらく、寝たきりの病人や精神病患者、あるいは運の良かった無害な一般市民しか生き残らないであろうから。

 

 それを知っていれば、彼は当然ながらこの戦いに参加などしていない。それを知らないからこそ、彼はここに居るのだ。

 

 そして数時間の後、中庭に人影を見つけ、それがサーヴァントのマスターであることを確認したアサシンはドラグノフ狙撃銃のトリガーに指をかけた。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 あれからしばらく部屋で考えてみたが、結局私はどうしたいのかよく分からなかった。

 たった一言で死ぬ機会を逸するとは、我ながら単純な人間であると思う。それとも人間が単純なのだろうか。いずれにせよ、もはや今死のうとは思えなかった。将来は分からないけれども、少なくとも短剣を喉に突き刺す気力は失せていた。

 でも人生に希望が持てたかというと、そういうわけでもない。一寸先は完全なる闇である。

 しかしそれでも、今この瞬間に一条の光を突き付けられた今、死ぬは及ばないという気持ちにもなるのだ。やはり単純なものだ。

 問題は、その光を私が持て余しているということである。

 聖杯戦争が終わったらセイバーは消える。聖杯の中身を浴びれば受肉も出来るという話であるが、そもそも聖杯を壊すつもりであるのだから考えても詮無いことだ。

 聖杯のサポート無しにサーヴァントを留めることが出来ないという訳ではない。決して不可能ではないだろう。

 だが私の魔力量では絶対的に容量が足りない。遠坂さん辺りならば不可能ではないだろうが、人の手を借りてまでこの世に居ようとするだろうか。

 

 それとも、私のためだと言って残るのだろうか。あいつならば言いかねない。ああ見えてキザな一面もある。キザというかお調子者というか。

 ……なんて恥ずかしい妄想だ。

 

 気がつけば、暗いことではなく将来のことに目がいっている自分に気づく。死のうと思っていた自分が馬鹿らしく思える。死のうだなんて、一時の感情じゃないか。ただパニックになって、訳も分からず死を選びそうになっていただけじゃないか。なんて馬鹿なんだ。

 私は今後どうするかで頭がいっぱいなんだ。死なんて選んでいる暇なんぞあるものか。

 なんて単純。だけどそれが人間の良いところだ。

 心変わりに一晩も要るものか。ほんの一瞬、ほんの一言で人の心は百八十度変わることが出来るんだ。

 

 もちろん、自分のことに不安はある。セイバーを好く気持ちがいつか消えうせるのかと思うと怖い。

 だけど、それなら今この瞬間を享受するのが最上なのではないか、と思えるようになったのだ。いつか消えてしまうかも知れないならば、それが享受できる今を全力で受け止めるべきではないのか。

 セイバー(あいつ)のポジティブさを見習おうと決めたのだから、これぐらいで良いのだ。なぁに、心配なんか要らないって。案外なんとかなるものさ。

 セイバーにはそう思わせる力がある。もしかすると、つまらないことで悩む私は、そんなところに惹かれたのかも知れなかった。

 

 少しすると夕食の準備が出来たと呼ばれた。今日は私の当番だったのに、すっかり忘れていた。色々あったからと気を使ってくれたのだろうが、かえって今は何かに集中して胸の内の靄を一時的にでも払ってしまいたかった。

 だがありがたいことには違いない。メニューは私が考えていたものとは少し違ってしまったけれど、それに文句を言う筋合いなどあるはずもない。

 意外と元気だった私に遠坂さんと士朗さんは面喰っていたようだけれど、そんなことより、私はセイバーと何を話せばいいのかと焦ってそれどころではなかった。目が合わせられない。まるで流行歌に出てくるような「恋する乙女」ではないか。それを考えると顔から火が出るほど恥ずかしい。何が恥ずかしいって、そんな恥ずかしいことを考えていることが恥ずかしい。ああもう、また訳が分からなくなってきた。

 

 セイバーはそんな私の心境を察しているのかいないのか、食事中は何も言わなかった。普段通りに話しかけられても、私をして普段通りではないからまともに受け答えできないだろうからありがたいような、寂しいような。乙女心とは複雑である。自分でも、どうして欲しいんだと言いたくなる。

 そんな私を見て同姓である遠坂さんは何か思うところがあったのだろうか、「やっぱり仲が良いのね」と言っただけだった。

 だがその一言の威力は筆舌に尽くしがたく、セイバーはからから笑い、私は言葉を無くした。

 

 

 

 

 夕食の間、正直なところ落ち着かなかった。無駄に顔を赤くしたり汗をかいたり、とにかく疲れた。

 自室に戻ったものの、なんとなく風に当りたい気分になり、中庭に出られる縁側に腰かけて星でも眺めようかと思った。すると廊下でセイバーに出くわした。

 なんて声をかければ良いのだろう。そう考えあぐねていると、セイバーから切り出した。

 

「おお、ミオも風に当りに来たのか?」

「……ええ」

「今日は雲もない良い夜であるから、星がよく見えるだろうな」

 

 なんでこうも平常通りなのか。変に意識している私が阿呆みたいではないか。

 

「隣に居てもいいか?」

 

 心臓が飛び跳ねる音を聞いた。それを飲みこみ、なんとか平静を装う。どこまで装えているかは分からないけれど、セイバーは笑うようなことはしなかった。

 

「……もちろん」

 

 窓を開けて縁側に腰をおろし、空を見上げる。風は無かったから思ったほど涼しくはなかったけれど、果たして滲む汗が無風の熱気によるものだけなのかは、私にも分からなかった。

 だが星は、なるほどセイバーが言うように綺麗だった。琴座のベガが一際明るく輝くのが印象的だった。ベガは七夕の織女星としてよく知られ、鷲座のアルタイル、白鳥座のデネブとともに夏の大三角を形作る。

 隣に座るセイバーは呟くように、静かに話しだした。

 

「最初は私自身、それとは気付かなかった。最初に気付いたのはいつだったか……。

 ミオがかの騎士王を模倣したとき、私は一抹の寂寥を抱いたのかも知れない。私の知っているミオがどこかへ行ってしまったような、そんな感覚だ。そう思ったとき、ミオを大事に思っている自分に気づいたのだ。それが果たして騎士としての責務としてそう思うのか、一人の女性としてミオを守りたいと思っているのか、分からなかった。

 それがきっかけかも知れないな。私が自分の心の気付いたのは」

「……そう」

「ああ」

「…………」

「…………」

 

 会話が続けられない。中学生じゃないんだから、もう少し上手にコミュニケーションを取ったらどうなんだ。

 変に意識して会話が出来ないなんて。いつも通り接すれば良いじゃないか。セイバーの気持ちを知ったからって、いつもと違う会話をしなければいけないなんてことは無い筈だろう。

 しかしそれでも、色々と話したくて、でもなんて言えばいいのか分からなくて。また頭の中がごちゃごちゃだ。

 

「……ねえ、セイバー」

 

 なんとか絞り出した一声。その後に続ける言葉なんて考えていない。

 後に続ける言葉を探す思考は、しかし突如真横から聞こえた奇妙な音に遮られた。

 それはガラスの割れる音だ。横にスライドさせていた中庭と廊下を隔てるガラスが、誰かの悪戯なのか突如音を立てて割れた。

 見れば後方の壁にも穴が空いている。スリングショットか何かで石でも打ちこんだのだろうか。悪質な悪戯をする人もいるものだ。

 

「ミオ、隠れろ!」

 

 セイバーは必至の形相で私を地面に押し倒した。何事かとパニックになる私の上、今まで頭があった付近を、何かが猛スピードで通り抜けるのを風切りの音で知った。

 二つ目の「何か」が再び壁を穿ったのを見るや否や、セイバーは私を抱えて屋敷の奥に転がりこんだ。放り投げるように扱われ、腰を強かに打ちつけたが、そんなことを斟酌する余裕は私にも無かった。

 

「今のは!?」

「ミオ、今の世には長距離を狙い撃つことの出来る銃が存在する……間違いないな?」

 

 そう言ってセイバーは手早く開けていた障子を閉める。この廊下はガラスと障子の二重で仕切られている。

 その後に、身を低く保ちつつ先ほど穿たれた壁の穴まで近づき、その穴に指を入れ何かを掘り出してきた。

 確認してくれ、と差し出されたそれは、テレビで見るような円錐型のそれであった。まさしく銃弾である。

 

「シロウとリンを呼んで、絶対に遠方からは狙えない部屋に集まろう。常に身を低くして、一カ所に留まらないようにな」

 

 私は黙って頷いた。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 アサシンの初弾が外れたのは運が良かったとしか言いようがない。ドラグノフ狙撃銃の有効射程ギリギリでの狙撃であるため、懸念していたとおり精度に難があった。もっと接近していたならば誤差は小さくなるが、離れれば離れるほど誤差は大きくなる。

 

 一同は協議の末、屋根裏部屋に車座になって話し合いをすることになった。部屋に居ると窓から狙撃されかねない。中庭を狙撃されたから反対側が安全とは言い切れない。狙撃手が狙撃地点を変更してしまえば、窓がある部屋は全て危険に晒される。ならば絶対に屋外から狙えない屋根裏で息を潜めるのが良い。明りも必要最低限に抑えればこちらの位置は捕捉できないだろうし、捕捉したとしても瓦を敷いている屋根をそうやすやすと弾丸が貫通するとは思えない。

 この判断は士朗と凛によるものだった。戦場に身を暫く置いていたため、二人には対狙撃手戦の心得がある。

 狙撃手と戦うには、第一に身を晒さないこと。こちらに注意を惹きつけつつ、相手の位置が分かったのであれば友軍に通信してそれを排除してもらうのが良い。歩兵が狙撃手の排除にあたることもあるが、大抵の場合は砲撃や爆撃で排除する。狙撃手一人にそれほどの火力で臨む必要があるのかと思うだろうが、そうせざるを得ないのだ。狙撃手に狙われているというだけでその隊は物陰から身動きが出来ない。たった一人の敵に何人も縛りつけられ、任務の続行が難しくなる。ゆえに、戦場ではいかに相手の狙撃手を排除するかが重要視されるのだ。

 それが出来ないのであれば対抗狙撃戦が最も良いとされる。狙撃手の役割は三つある。一つは敵の要人を排除すること。一つは敵の兵を減らすか、前進を阻止すること。一つは、敵の狙撃手を排除すること。このうち、敵狙撃手の排除はかなりの訓練を積まなければ成し得ない高等技術だ。

 なぜなら、相手もこちらも狙撃手である以上はどこかに身を隠す。狙撃しやすいうえ、体を隠せる場所に陣取るのだから、必然的に敵狙撃手の発見も困難になる。敵狙撃手がこちらを発見するよりも敵狙撃手を発見し、それを排除する。言うのは容易いが非常に難しい技術だ。

 

 そしてこの面子のなかで、それを実行可能であるのは士朗だけである。

 士朗もこの七年間でいくつかの戦場を渡り歩き、その中途で対狙撃手戦を強いられたことがある。そのどれをも打ち破ってきた。

 しかしそれは遠坂凛の魔術的なサポートに支えられていたのは間違いのない。凛が濃霧を発生させたり、認識阻害の魔術を併用したりすることで敵狙撃手と渡り合ってきたのだ。

 今回に限っては、その支援もどれほど功を奏すのか不明である。何故ならば、このような手段に訴える以上、相手はアサシンとみて間違いないだろう。つまりサーヴァントだ。魔術の類がどこまで通用するのか問われれば、全く通用しないことを前提に行動したほうが良い。特に此度のキャスターとの戦いを鑑みれば、そう考えざるを得ないのも無理からぬことだ。

サーヴァントが近代の小火器を用いることに違和感を覚えるが、それを協議するよりも今の状況を打破することが先決だ。

 

「弾丸は7.62mm×54Rか。まさか汎用機関銃で単発射撃をするとも思えないし、SVDとか64式とかの狙撃銃で狙われたんだろうな」

「当然、砲撃支援や航空支援なんか無いわけだから、必然的に対抗狙撃戦になるわね」

「ああ。だけど敵の位置が全く分からない。これじゃどうしようも無いぞ」

「夜だし、そう易々と位置の特定は出来ないでしょうね……。中庭を捕捉できる方角、かつ窓ガラスと壁に空いた穴から推測される射角の浅さから、この辺りのビルが狙撃地点かと思うのだけど。SVDだとすると有効射程ギリギリね」

「大体600メートルか……。角度から推測できる狙撃地点の高さは……大体100メートルくらいか? このビルの全長もそれぐらいの筈だよな。多分、狙撃地点はその辺りだろうけれど、もう移動しちまったかも知れないな」

 

 二人は薄暗闇で地図を広げて議論を重ねている。

 しかし澪とセイバーは二人の会話に殆どついていけなかった。澪がかろうじて狙撃地点の高さは三角関数で計算しているのだろうということを推測できただけである。

 魔術的な話ならばともかく、七世紀に生きたセイバーはもちろん現代に生きる澪ですら銃撃戦の専門的な用語のほとんどが理解できない。用語を文脈から推測したとしても、話の流れを理解するのが遅れ、当然会話には参加できなくなる。そもそも銃撃戦の心得など一切無いのだから、もとより口出しできる筈もないのだが。

 FPSと呼ばれる類のゲームの経験でもあれば多少はふたり の会話に理解が示せたのだろうが、ゲームは携帯ゲーム機でしかやったことのない澪にとってそれは全く未知の言語であるにも等しい。

 

「となると……囮が必要になるわね」

 

 だがこの単語には反応できた。何を言わんとするのかも。それはセイバーも然りである。

 確かに相手がどこに居るのか分からない以上、確かに囮を出すしかない。囮が狙われている間、狙撃手はなんらかの反応を示す。

 撃たないならそれで良い。撃てば、音や弾丸の飛来する方向、さらにマズルフラッシュを視認できれば正確な位置が分かる。実際の戦場でも当たり前のように用いられる戦術である。

 その有効性は銃撃戦に疎い澪でも理解できる。しかし、感情としては受け入れがたい。だが反論しようにも代替案が無いため口を噤むしかなかった。

 では誰が囮をやるのか、というのが問題になる。

 

「俺がやる」

 

 真っ先に名乗り出たのは士朗であった。全員がその反応を予測していた。

 

「シロウ、馬鹿を言うな。ただの弾丸であればサーヴァントである私には通用しない。囮には私が適切だ」

「それは違う。囮とは別に、狙撃手を排除する役目のヤツが要るんだ。相手はサーヴァントなんだから、俺じゃなくてセイバーにその役目を担って欲しいんだ」

 

 相手が何者か知れない以上、その戦闘能力を甘く見る訳にはいかない。アサシンは戦闘能力が比較的低いことが多いから士朗でも勝つ見込みはあるが、万全と確実を期すならばセイバーが適切だ。

 

「それに、俺には『熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)』がある。全方向は防御しきれないけど、狙撃手の方向さえ大まかに掴んでしまえば、射撃に対して無敵の宝具だ。銃弾が利かないのはセイバーだけじゃない」

 

 確かに士朗のそれは、トリスタンの放った矢すらも防ぐ防御性能を有している。さすがに宝具を解放した一撃は貫通されるかも知れないが、ライフル弾をも遥かに凌ぐ運動エネルギーを孕んだあの一撃を防ぎきった以上、弾丸など脅威にならない。

 士朗の指摘には一理あった。反論しようにも、それが最も適切であることにしか考えが至らず、結局その案は暗黙のうちに受け入れられることになった。

 

「ならばミオを連れていくのはどうか。ミオ、弾丸の接近を予知できるか」

「出来ないわ。それが出来ていたらさっきだってもっと早く逃げていたわよ。

 いい? 私の探査は生物か魔力による脅威しか探知できないわ。物理界にまで探査は及ばない。弾丸に魔力が込められていたならともかく、これはどう見ても通常の弾でしょう? それだと私は全く探知できないわ」

「だとしたら、ミオを連れるのはかえって危険か。となるとミオはここに残ることになるが――たった一人で残す訳にもいかない」

「そうね。私が澪と一緒にここに残るわ。状況に応じて臨機応変に動ける人員も必要でしょ」

 

 澪は単独行動が出来ないため常に誰かと一緒に行動する、というのは既に取り決めたとおりだ。そうでなくとも銃撃戦に疎い澪が誰かに付いていったところで邪魔にしかならない。邪魔なだけならいいが、命を落とす可能性も十分にあるのだ。

 これでそれぞれの役割は決まった。士朗が囮になり、敵の位置を割り出す。セイバーがそれを受けて狙撃手を排除する。凛と澪は状況に応じて適切に動けるように待機。どの役割も危険だが、士朗が一際危険である。だが士朗の顔に暗い部分は見当たらなかった。むしろ勝利を確信しているかのような、自信に満ちているようにも思えた。

 

 かくして、かつての親子は敵として対峙することになったのである。

 



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Act.38 乱入、再び

 対狙撃手戦における囮の役割は、とにかく狙撃手の注意を惹きつけることにある。狙撃手としては自分に接近する敵は排除せざるを得ない。排除しようと思えば、無論発砲することになる。しかし囮の最大の目的はそれだ。一発の銃弾は多くのことを語る。射手の位置、銃の種類などだ。現に、士郎たちはそれらに大体のあたりをつけた。距離はおよそ六百メートル、入射角からおそらくビルなど高層な建物からの射撃、そして弾丸からおそらくドラグノフ狙撃銃であろうこと。そしてこれらの情報は、敵が一射放つごとに精度を増す。とりわけ位置情報についての精度は急激に高まる。囮は被弾を避けねばならないが、狙撃手に発砲させ、そこから敵の位置を割り出すことを期待されるのだ。

 無論危険である。銃撃戦において先手を譲るということは、そのまま頭蓋を打ち抜かれることも十分に考えられるということだ。だがそれでも士郎にはロー・アイアスに頼れば無抵抗に殺されるという事態はかなり回避しやすくなる。実際の敵の排除はセイバーに任せるため、やはり士郎が囮をやるしかないのだ。

 

「いい? 無茶は禁物よ。……特に士郎。注意を惹きつけることだけに専念して」

「わかっているよ遠坂。大丈夫、ちゃんと帰ってくる」

 

 士郎たちは玄関に集まっていた。まず囮である士郎が玄関から飛び出す。中庭にいた澪を補足できたのであれば、おそらく玄関も捕捉できるはずだ。士郎が飛び出して注意を惹きつけたのち、セイバーが補足できないであろう裏手から出る。その後、士郎は狙撃手がいるのであろう地点に左から回り込むように接近し。対してセイバーは右から回り込むように接近する。これで挟撃の形となり、視界が狭い狙撃手はセイバーの存在には容易に気づけないであろうと考えられる。

 凛は既にこういった事態には慣れているのだろう。堂々たる落ち着きぶりであった。だが実際に狙撃され、あと少し銃弾が逸れていたら即死だったという事態に直面した澪は気が気ではない。今こうしている瞬間も、相手は実は舌舐めずりをしてこちらを狙っているのではないかと思うと、先ほどの屋根裏に引きこもりたい気持ちになる。こんな薄い扉一枚よりも、瓦を敷いた屋根のほうがよほど信用できる。

 

「澪、使う機会なんいか無いと思うけど、一応渡しておく」

 

 そう言うと、士郎の手の中に一振りの黄金の剣が投影された。『勝利すべき黄金の剣(カリバーン)』である。華美な意匠を施したそれはまさしく王の風格に相応しく、明かりを最小限に落としてあっても威風堂々と輝く。しかしそれを受け取ったとて澪の不安が晴れるわけではない。剣一本あったとて、これで銃を相手にどうしろというのか。まさか漫画みたいに銃弾を切り落とせとでも言うつもりなのだろうか。だがそれを突き返すことはしなかった。心許無いが、無いよりは遥かに良い。武器を持っているという事実が僅かながらも心を静める。

 

「もしも何かあったとき、俺とセイバーはすぐに駆けつけることができないかも知れない。それで何とか凌いでくれ。……でも同一化魔術は絶対に使っちゃ駄目だからな」

 

 澪は黙って頷いた。もう同一化は使えない。無論使おうと思えば使えるのだが、次に使えばどうなるのか予想もつかない。さほど影響なく切り抜けられるかも知れないし、同一化したままもう戻れないかもしれないし、廃人になるかも知れない。いずれにせよ、同一化魔術は危険すぎる。もう使うつもりはない。

 使うつもりは無いが、果たして状況がどこまでそれを許容するのだろうか。

 この家がいつまでも安全である保障はないのだ。そもそもバーサーカーはこの家の場所を知っている。何せつい先日までここに居たのだ。今まで強襲しなかったのが不思議である。いつ襲われてもいいよう、注意だけはこの数日緩めたことがない。その心構えが狙撃に対して迅速に反応できたと思うと、バーサーカーに感謝したい気持ちにもなる。

 

「ミオ。……今回の戦いは、士朗の言うようにすぐに助けに入れるような類のものではない。何か危険があったら、迷わず令呪を使え」

「……分かったわ」

 

 残り二画。マスターの最大の強みであるそれは、既に一画が失われている。戦時になればこそ、その一画が惜しい。千里の道程を一瞬で踏破することも、限界を超えた行動を実行することも、あと二回しかできない。

 セイバーが続けて言った。

 

「おそらくだが……今までの激戦を経て、他のサーヴァントは決着をつける頃合いであると踏んでいる筈だ。特にバーサーカーは今すぐこの家に踏み込んできても不思議ではない。もしかするとアサシンと戦った後、いや、最中にでも他のサーヴァントが乱入するという事態も予測できる。そうなったとき、ミオに宝具使用の可否を問う暇は……おそらくない。

 だから今のうちに許可を求めたい。私の過去を見たミオは分かるだろう。私のもう一つの宝具は周囲への被害が尋常では済まない。それを踏まえた上で、私の判断で使用しても構わないだろうか」

「いいわ。貴方の判断で、思う存分やってちょうだい」

 

 セイバーのもう一つの宝具は、対軍宝具の枠組みでは済まない。対城でも済まない。それは下手を踏めば街を一つ消滅させるほどのものだ。さしずめ、対都市宝具とでもいえばいいのだろうか。実際に街を消滅させることは、おそらく無い。その宝具は『それ』本来の力と比較すれば微々たるものだ。だが『それ』は都市を一瞬で壊滅させたという伝承がある以上、『それ』の模倣であるその宝具もその危険性を孕む。

 

「ただし、市街地での使用は絶対だめ。一般人が周囲に居ない場所でなら、好きに使っていいわ」

「もとよりそのつもりだ」

 

『それ』が何か知らない士朗さんと遠坂さんは怪訝な顔をする。語弊を恐れずに言ってしまえば、セイバーのもう一つの宝具は『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』よりも神聖で、かつ周囲の被害が大きい。指向性を持つ力ではなく、使用者周囲を全て対象にする圧倒的な力だからだ。

 なぜならそれは、十字遠征を戦うものたちが望んだ神の威光。不浄なる都を滅ぼす『それ』を、彼らは神罰の象徴として欲し、ついには人の手によってそれを再現した。

 再現された神の威光。それこそ、セイバーの最後の宝具の力なのだ。

 

 だからきっと大丈夫。セイバーは無事に帰ってくる。そう自分に言い聞かせる。

 不思議なもので、一緒に戦っているときよりも強くセイバーの身を案じてしまう。どこか私の預かり知らない場所で彼が戦い、そして傷つくのが何より怖い。出来ることなら、私も一緒に行きたいという気持ちが逸る。だが、それは出来ない。私がついていっても邪魔にしかならない。ならば、ここで待つしかないのだ。バーサーカーが襲ってくるかも知れないという危険は確かにあるが、それは可能性の一つにしかすぎず、現状で最も安全なのはこの家なのだ。

 だから私はここでセイバーの帰りを待つ。お荷物にしかならないとしても、せめて軽い荷物でありたい。

 

 セイバーが腰に帯びた剣を抜く。決して折れず、曲がらず、欠けず、切れ味を落とさない『絶世の名剣(デュランダル)』。聖騎士(パラディン)ローランの持つ聖剣は、セイバーの闘志を映し出すかのように、強く輝いていた。

 それに続くように士朗さんも両手にいつもの中華剣を投影する。黒と白の二振りの剣は、装飾を徹底的に排除した無骨なものであり、あくまで実戦向け。肉厚の刃は静かに、かつ鷹揚に、不思議な存在感を放ち続けていた。

 

「じゃあ遠坂、行ってくるよ」

 

 遠坂さんは軽くうなずいただけだった。別れを惜しむキスも、抱擁もない。ただ淡泊に、「いってらっしゃい」と送り出すだけだ。それは遠坂さんが冷たいとかではなく、士朗さんが必ず帰ることを確信しているが故だろう。だから別れの儀式など要らない。ただ、いつものように送り出すだけで事足りるのだ。

 それを悟ったからこそ、私はこの二人の短いやり取りの奥にある断ち難い絆と信頼を垣間見たのだった。それは言うなれば二人だけに共通した呼吸。以心伝心にも似た、無敵の絆。

 それを私は羨ましく思った。

 

「シロウが出てから一分で私は裏の勝手口から出る。間違いないな?」

 

 セイバーが士朗さんに最後の確認をとる。士朗さんは黙って頷いた。

 苦戦するのか、それともあっさりと勝利を収めるのか、私には全く分からない。何せ相手は銃を持ち、遠距離から攻撃する相手だ。それもアーチャーのサーヴァントとは全く毛色が違う。単に遠距離戦を得意とする相手ではなく、闇に紛れ、相手がそうと気づかないうちに殺すことを旨とする相手。

 セイバーはどこまで戦えるのだろうか。そういった暗殺者と戦う術はもっているのだろうか。いや、相手の得物が銃である以上、近代戦に近い。近代戦の延長線上に位置する相手と考えたほうが良いだろう。そういった相手と戦うとき、セイバーはどうしたら良いのだろう。

 

「案ずることはない、ミオ。大丈夫、暗殺者ごときに遅れなど取らない」

「……うん」

 

 そうだ、私が心配していても仕様がない。それに私があまり心配している様子を見せていてはセイバーが安心して出ていけない。軽い荷物でありたいのなら、ここは平然としてみせなければ。

 私は自信の不安をかき消すように、少々無理に笑ってみせた。引きつった笑みだっただろう。だがセイバーもまた笑った。

 

「そうだ。ミオは笑っているときの顔のほうが美しい。ミオは頭が良いから考えすぎるのだ。時には能天気に笑っていたほうが、きっと楽しいぞ」

「あんたはちょっと能天気すぎるときがあると思うけどね」

 

 私はくすりと笑った。これは作り物の笑顔ではなく、胸の奥から出た本当の笑顔だった。

 

「はは、その調子だ。……さて、そろそろ行こうか、シロウ」

「ああ、行こう」

 

 遠坂さんが玄関に一つだけ宝石を放る。聞き取れなかったが、目を閉じて詠唱を始めた。その詠唱が終わった瞬間、宝石から濃い濃霧が噴き出す。まるで消火器のような勢いで濃霧を噴射し続け、あっという間に玄関は白く染められた。

 

「スモークはこんなもので良いかしら」

「ああ、十分だ。サンキュ」

 

 慎重に、しかし勢いよく士朗さんが引き戸を開け放つ。行き場を無くしていた濃霧は溢れだすように玄関先へ流れる。

 なるほど、スモークっていうのは煙幕のことか。囮だからあまり身を隠していては意味がないけれど、建物から飛び出す瞬間は危険極まるだろう。私の浅い知識でも、この場合は外へ通じる場所を狙い続け、視界に敵が入った瞬間撃ちぬけるようにしておくだろうことは分かる。

 

 士朗さんは十分に煙幕が充満するまで待ってから、勢いよく飛びだした。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 これは認識を改める必要があるかも知れない。アサシンはそう判断した。

 狙撃に対する反応の良さは、サーヴァントが傍に居るからそこまで特別視しなかった。危機に対する最善の行動を脊髄反射で実行する存在だ。一瞬で狙われていることに気付き、身を隠すのは当然といえば当然なのだ。

 しかしその後の行動の的確さには舌を巻く。相手は魔術師だ。何かしら小細工はすれこそ、堂々とした立ち会いを望み、馬鹿正直に玄関先から出てくるであろうと踏んでいた。そうでなくても、使い魔を飛ばして周囲を探るだろうと思っていた。

 だが相手が選択したのは、狙われている玄関先の視界をスモークで遮り、身を隠しつつこちらに接近することだ。まるで戦場に居るようだ。あの屋敷のなかに、傭兵の経験のあるものでも居るのだろうか。

 目標はこちらの位置をある程度掴んでいるのだろう。だが完全ではないように思えた。相手から見て右手側に進路がずれている。目測を誤ったらしい。ならば今のうちに排除するべきだ。

 

 手すりに吊るしたハンカチを見る。無風。この距離はおよそ五百。コリオリ力を考慮するほどではない。この距離では誤差はおよそ一センチ。今はそこまで精密な射撃を要求していないので無視する。

 標的を再確認。武器はおそらく両手に持った剣のみ。ならば相手にならないだろう。ここまで判断は的確だったが、銃を相手に剣で戦おうなど無謀の極みだ。悪運はここまでだろう。

 

 ずきりと頭が痛む。だがそれを無視する。何故か掌に嫌な汗が浮かぶが、射撃に問題はないと拭き取りもしない。

 意味もわからず震える指を抑え込み、引き金を引いた。ドラグノフは精度よりも耐久性を重視し、そしてセミオートでの射撃を可能にした狙撃銃だ。精度はボルトアクションの後塵を拝するが、制圧力ではそれの比ではない。

 

 相手の移動速度と距離を考慮し、相手のやや先に照準を合わせる。偏差射撃は命中率に難があるのは当然だ。こういった場合にセミオートの狙撃銃は生きてくる。

 四発撃つ。だがその瞬間に、相手はまるでいつ引き金を引くのか先刻承知とでもいうように別の路地に入りこんだ。銃弾はおよそ一秒遅れてそこに到着したものの、何もない空間を通り抜けただけである。

 

 アサシンは再び驚いた。この動き、対狙撃手戦の経験があるとしか思えない。相手が撃ちたいであろうタイミングを知っている。

 焦る気持ちが僅かに芽生えた。近代戦の心得がある魔術師など、おそらく自分だけであろうと思っていたからだ。だが即座に冷静を取り戻す。相手に近代戦の心得があるならば、それを前提として狙撃するだけだ。アサシンは再び引き金を引いた。

 

 だが、相手の力量に驚いたのは士朗もまたそうであった。

 狙いをつける速度が尋常ではない。かといって狙いが悪いわけでもない。迅速で正確な狙撃だった。ある意味でこの長距離に助けられている。銃弾がこちらに到着するまでの僅かな時間がこちらに有利に運んでいる。短いインターバルで頻繁に進路を変更すればそう簡単に弾丸を食らうことはない。直進は決してせず、蛇行や速度の緩急をも織り交ぜれば被弾は無いといってもいい。

 だが相手はこのまま進んでいれば確実に被弾したであろうという正確さとこちらの想定を上回る照準速度でこちらを狙っている。これは容易に接近できそうもない。

 

 もしかすると通常のサーヴァントのほうが捌きやすいかも知れない。例えばトリスタンが相手だとしても、音速を超えるもののあの銀の矢は僅かな光も反射するため視認が可能だ。だが銃弾は違う。そもそも容積が小さい上に、発光もしなければ反射もしない。暗闇では視認など不可能だ。その状態で弾丸を回避し続けることがいかに困難か。

 ロー・アイアスで銃弾を受けとめることも出来る。だがあれはいざという時の切り札だ。切り札は最後まで隠すからこそ、いざという時に力を発揮する。それにロー・アイアスを展開し続けてしまっては、相手は分が悪いと判断して逃げてしまう。今後、狙撃の脅威に晒されないためにもここで排除することが望ましい。だからロー・アイアスはぎりぎりまで使わないつもりだった。

 おもむろに音声が耳に飛び込む。澪を中継したセイバーからの念話だ。

 

『シロウ。私も今屋敷から出た。そちらはどうだ』

 

 だが光明はある。こちらは必ずしもアサシンの元へ行かなくても良い。それはあらゆる点で戦闘能力が勝っているセイバーに任せればいいのだ。自分は時間稼ぎだけに専念するだけで済む。セイバーの行動を悟らせないように、徹底して自分に注意を向けさせることが今の自分の役目だ。

 

『こっちは大丈夫だけど急いでくれ。予想以上に腕がいい』

『心得た。向かう先に変更はないな?』

『ああ、どうやら最初から当りを引いたみたいだ。予定通りに動いてくれ』

『任せておけ』

 

 そこで念話は途切れる。直後、再び進路を変更する。ビルからの死角に入り、ここで息を整える。

 狙撃手にとって、一番狙いやすいのは規則的に動く相手だ。例えばずっと一定速度で直進する相手ならばさほど難なく撃ちぬくことが出来るだろう。

 それを逆手に取ればいい。相手の照準速度をある程度予測できれば、相手が照準を合わせる頃合いまで直進なりしてわざと狙わせ、照準をつけ終わったと踏めば進路をランダムに変えて身を隠すなり回避するなりすればいい。相手はなまじ照準を合わせる余裕を与えられるため、意識はこちらに集中させられる。これこそ、士朗が数年に渡り中東で戦闘を重ねた末に編み出した対狙撃手戦の戦法だ。かなりの長距離からの狙撃であることが前提条件だが、条件さえ合っていれば狙撃手にとって厄介で、そのうえ無視できないという泥仕合を演じることが出来る。囮としては最大の効力を発揮できていると言える。

 

 それが功を奏し、セイバーは今のところ何の障害もなく前進することが出来ていた。アサシンが居るとされるビルに決して姿を晒さぬように、慎重かつ迅速に進む。

 

(……大したものだ。剣の才は無いが、戦闘者としての才能はその限りではないということか?)

 

 セイバーは素直に感嘆していた。敵と認めたならば最短距離で疾走し、剣が届くところまで寄って斬る。セイバーに出来ることといえばそれしかない。ある種、究極の極意ではあるが、愚直でもある。

 その点、士朗は違う。士朗の剣戟からも窺える、論理で構成された戦術。いかにして相手に勝つか。矜持や思想を徹底的に排除し、ただ戦闘に勝利することのみを目的とした刃。それは、邪剣と表現しても差し支えないのだろう。だが、セイバーはそれを美しいと思った。彼には信念があり、そのためには勝利しなければならない。その事情を知るからこそ、その無機質な剣戟に美を見出す。

 それはこの作戦も同じだ。セイバーならばこんな手段は使わない。正々堂々、弾丸を全て叩き落とすか回避して、一太刀浴びせる。それがセイバーの戦い方であるし、騎士の戦いであると信じている。

 だがそれでも、今すぐ飛び出して名乗りを上げたい気持ちを抑えてでも、ここは士朗に従うことに決めた。

 

 こういった状況は士朗のほうがより知っているからという理由もある。だがそれ以上に、セイバーは士朗の通った道を、士朗のとる選択を通して見てみたいと思ったのだ。士朗は何を選び、何を切り捨てるのか。それを見てみたい。だからこそ士朗に委ねてみた。

 

 士朗の通った七年間を聞くことが出来ない。それはきっと悲痛な道であっただろうから。

 自分が通った一生と同じか。それとも違うのか。聞いてはならない。安直に問いをかけることが、時として人を傷つけるから。

 なればこそ、士朗の選択を見届けたい。交わした剣戟で、自分の思いは伝わったのか、それを知るためにも。

 

 夏を前にした新緑を揺らし、突風となって突き進む。しかし静かに。物陰に身を隠しつつ、アサシンに気取られないように。そう、自分がアサシンになったつもりで動くのだ。

 一刀の間合い、否、一息の間合いまでこのまま近づこう。ビルの上に陣取っていようと、構うものか。垂直に佇む壁など踏破してみせる。

 

 一度立ち止まり、ある民家の塀に身を隠しつつ、目標とされているビルの屋上を睨む。サーヴァントの目と勘は常人よりも優れるが、非常に優れているというわけではない。千里眼のスキルがあれば下手人の顔を見ることも出来たかも知れないが、ここからでは全く分からなかった。

 だが、一瞬、ほんの僅かに光るものを見た。それは気のせいで片づけることも出来る、ごく僅かな光。だがセイバーはそれを、銃口から漏れた炎――つまりマズルフラッシュ――であると確信した。

 

『シロウ、ビルの屋上から一瞬だけ光が見えた。下手人はそこに居るとみて間違いないな?』

『俺も確認した。マズルフラッシュで間違いないだろう。予定はこのままだ』

『うむ。あと二分もあれば到着する。それまで持ちこたえてくれ』

『分かった!』

 

 さて、あと目測で半分ほどの道程は踏破した。残り半分。そこまで辿り付ければ勝機はある。

 一瞬で進む道程を決める。ビルに近づきつつ、しかし死角に隠れ続けるとなると場当たり的に進むわけにはいかない。

 決定したルートを進もうと一歩を踏み出す。だが、二歩目は背後よりかけられた声によって引きとめられた。

 

「おう、セイバー。探したぞ」

 

 まさか、と弾かれたように振り返る。

 着込んだ鎧の上からでも分かる隆々とした筋骨。重い得物を片手で軽々と持ち上げる益荒男。黒い毛並みの軍馬に跨り、眼光鋭く、セイバーを見据えるその男は、セイバーと幾度も刃を交えた相手であった。

 

「ライダー……」

「何をこそこそとしている。こそ泥でも始めたか?」

「……」

 

 これはまずい。セイバーは奥歯を噛み締めた。

 ライダーとの対峙を想定していなかったわけではない。だが、アサシンとの戦闘前に出会ってしまうことは考えていなかった。ライダーがここで自分を逃すとは考えにくい。そうなれば、士朗が自分でアサシンを排除しなければならない。

 アサシンは暗殺者であるから、通常の戦闘であれば士朗でも十分に勝機はあるかも知れない。だが危険極まる。かといって、ライダーを相手にするとなると、自分がアサシンを相手にする程の余力を残せるかといえば、疑問であるとしかいえない。

 

「まさかセイバー。俺がこのまま貴様を逃すなど、考えているわけではないだろうな。

 何やら火急の用がある様子だが、そんなことは俺の知ったことではない。構えろ、セイバー。さもなくば首を刎ねるだけだ」

 

 見ればライダーの背後には、白装束で身を包んだ姉妹兵の姿があった。その全てが同じ得物で武装している。

 これは逃げられない。セイバーはそう判断した。もとより騎乗したライダーの速度には勝てない。加えて、ライダーの宝具馬の速度もまたかなりのものだ。逃げようがない。

 逃げられないのであれば、もはや戦う以外にない。速攻で片づけて、アサシンの元へ向かうしかない。

 

『シロウ。邪魔が入った。ライダーに出くわしてしまった。

 ……どうにか持ちこたえるか、自力で排除してくれ。すまない』

 

 返事は聞かなかった。いつまでも会話している余裕はない。

 だがセイバーは最後に、澪には念話で語りかけた。

 

『ミオ、聞いていただろう。ライダーに出くわしてしまった。出来るなら、リンと一緒にシロウを助けに行ってくれ』

『……わかった。気をつけてね、セイバー。全部終わったら、また宴会でもしましょう』

『それは楽しみだ。次は脱ぐなよ』

 

 未来への約束をするのは、必ず帰ってこいという思いの表れ。セイバーは、ならばそれに応えようと気力を全身に漲らせる。

 左手には盾。右には剣。それらを握る力は信念と決意。

 退くことは叶わない。勝利を収めねば何も成せない。なればこそ、残るは不退転の覚悟のみ。決して屈せぬ。決して負けぬ。

 我、勝利を確信せり! モンジョワ!

 

「そこを退けえッ!」

「出来ぬ! 我が屍の先にそれを成すがいいッ!」

 

 強い踏み込みと共に放たれる剣と、それを受ける堰月刀が激突する酷く重い音。その残響が、暗い夜を引き裂くようだった。



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Act.39 意気衝天

「……状況は芳しくないわね」

「ええ。でも、やるしか無い。遠坂さん、そうでしょう?」

 

 待機していた私たちにセイバーから状況が伝えられた。セイバーはライダーと邂逅。そのまま戦闘になったことは疑う余地もない。つまり士朗さんは一人でアサシンと対峙することを余議なくされている。

 いくら相手が丁々発止の戦闘を得意としないアサシンであっても、人間とサーヴァントの戦闘能力を比べるべくもない。なぜならサーヴァントとは伝承の英雄である。伝承に残る人物は英雄、反英雄を問わず規格外の戦闘能力を持つ。伝承に名を残すでもなく、また優れた戦闘能力を持たない例外も確かに存在するだろうが、それは極めつけのイレギュラーだ。つまり極めて少数の非英雄を除けば英雄と人間が戦うなど自殺行為にも等しい。

 士朗さんは優れた魔術師だ。研究者としてではなく、戦闘者として優れている。宝具さえも複製する投影魔術は唯一無二のものであり、そして強力無比の火力を発揮する。しかしそれでもサーヴァントと対峙するべきではない。少なくとも一人で対峙してはならない。

 その結論に至ったならば、私たちがすべきことは明白だ。一刻も早く、士朗さんの助勢に向かわなければならない。

 

 しかし、だ。私たちが行ったところで何ができるのか。

 私の同一化魔術は使えてあと数回。もしかすると一回の使用にも耐えられないかも知れないのだ。加えて、同一化を行なってもサーヴァントを打倒するほどの戦闘能力は発揮できない。投影を行なわない状態の士朗さんを倒すのがやっとなのだ。士朗さんが投影を行なえば私は叶わないし、ましてやサーヴァントなど。遠坂さんだってサーヴァントを倒すほどの能力はもたないはずだ。策略を巡らせれば一矢報いる程度の実力はあろう。だが倒しきることができるかどうか。よほど相性が良い相手でなければサーヴァントを超えることなど出来ないだろう。

 

しかしそれでも行かなければならない。ここで震えて縮こまるのは簡単だ。だけど、それでは誰も助けられない。『正義』とは何なのはかまだ見つからないけれど、助けを求める手を振り払うことが正義な筈がない。それだけは分かる。セイバーが伝えてくれた士朗さんの窮地を知りながら無視できるほど、私は達観しきれていない。

士朗さんに渡された『勝利すべき黄金の剣(カリバーン)』を強く握る。手のひらに汗が滲んでいるのがわかった。

 

「そう、やるしかないわ。アサシンがどんな相手かわからないけれど、僥倖だったと思うべきかも知れないわ。私たちが相手するべき相手がライダーやバーサーカーだったら、きっと私たちに勝ち目はない」

「ええ。アサシンが相手なら士朗さんの火力があればゴリ押しでどうにかなるかも。私たちがそれをバックアップする。これならどうにかなるかも」

「多分、それ以外にプランは無いわ。問題点は……山ほどあるから無視する。とりあえず、アイツの足にどうにかして追いつかないとね」

 

 おそらく士朗さんは今もアサシンに向かって疾走している筈だ。狙撃手を相手にして、無為に立ち止まることが危険なことは私でも分かる。そうなると常に移動する士朗さんと合流することは難しい。士朗さんの運動能力はかなり高い。私たちの足ではきっと追いつけないだろう。無論、徒歩に限った話だが。

 

「私の原付を使いましょう。二人乗りだとかなり速度が落ちるけど」

「いや、確か藤村組からメンテナンスを頼まれたバイクがガレージにある筈。それに乗りましょう。……澪、大型二輪の免許は?」

「……一度も乗ったことが無いのだけれど。遠坂さんは?」

「私も無いわ。機械の類は苦手でね」

 

 遠坂さんは機械類が苦手なのは知っていたが、精密機械だけでなく乗り物にも適用されているのは初耳だ。いや、多分苦手意識があるだけだろう。バイクもデリケートな部分はあるが、コンピュータの扱いと別種のものだ。その気になれば乗れる……と思う。

 

「私が運転するわ。ある程度は知識もあるから、なんとかなる筈」

 

 遠坂さんと私を比べれば、運転技術は私に軍配があがる。普段原付に乗っている分、公道の走り方、二輪の曲がり方、そして慣れのアドバンテージがある。原付と大型二輪では勝手が違うのは当然だが、それでもなんとかしなければならないのだ。

 そうと決まってからの行動はお互いに早かった。必要な装備を数分で整える。その数分が命取りかも知れないが、丸腰で出るわけにはいかない。私はカリバーンを腰にベルトで留め、遠坂さんはありったけの宝石を装備する。バイクウェアは無かったので、関節にサポーターを身につける。遠坂さんにも装備させた。もし転倒した際、これがあると無いのでは大違いだ。

 ガレージ内で鎮座ましましていたのは「ホンダCBR-1000RR」というらしい。傍に置いてあった仕様書にはそう書いてあった。総重量211kg、999㎤エンジンを搭載、そして滑らかなフォルム。どれをとっても原付とは比較にならないほどの性能だ。色は夜に溶け込むほど黒い。しかし外装からのぞく銀がガレージの光を反射させながら眠るその様は、さながら得物に飛びかかる直前の獣を彷彿とさせた。

 

「藤村組の若い衆から預かったものなのだけど、車検があるから無改造に戻してあるらしいわ。もともと化け物みたいな改造を施していたらしいけれど、これなら澪にも運転できるはず。はい、鍵」

 

 傍に置いてあったらしい鍵を受け取る。私はそれを受け取りながらも仕様書に素早く目を通す。エンジンのかけ方と扱い方、燃料消費率、そして原付には無い変速機構。これらについて、僅かでも理解を深めなければならない。こんなこと、同一化が使えればわざわざ調べる必要もないことなのに。同一化魔術の利便性を痛感する。

 知りたい項目にはざっと目を通した。仕様書を元の場所に戻し、車体に跨る。そして車体を支えていたサイドスタンドを仕舞い、完全にコントロールを私の五体に移す。そこで初めて気がついたことがある。

 

「……背が高い」

 

 原付に比べ、なんと視点の高いことか。ハンドルや計器の大きさ、車体を支える足に伝わる重量感。どれをとっても原付とは比肩しえないスケールだ。

 だがそれに圧倒されている暇もない。キーを差し込み、エンジンを始動する。次の瞬間、眠っていた獣が野性の唸りを上げた。999ccにも及ぶ排気量は驚くほど低い音を響かせ、ビリビリと肌を刺激する。まるで釣り上った目のようなデュアルヘッドライトは、ラインビームタイプの閃光を放ち、その精悍な顔立ちを強調している。この貌は猛獣などではない。これは――猛禽だ。まるで鷹のような、鋭く、力強い目をしていた。

 ゆっくりとアクセルを捻る。思いのほか素直な動きでガレージから出てくれた。これならいける。安全運転は望むべくもないが、とりあえず走ることは可能だ。大型二輪を運転した経験は無いが、原付の延長でどうにかなる。

 

「いけそう?」

「いくわ。後ろに乗って、腰に手をまわして」

 

 フルフェイスのヘルメットを装着する。タンデム用なのか、ヘルメット内部にはヘッドセットが内蔵されてあった。どうやら遠坂さんのヘルメットと通信できるらしい。これならば遠慮なくエンジンを吹かしても会話に支障はない。携帯に繋げば通話だってこなすだろう。

 夜を斬り裂くヘッドライト。唸るエンジン。それらすべてが私を後押しする。これなら、大抵の窮地は走りぬけられる。そう確信するに足る確かな気配がこの車体からは発せられていた。

 遠坂さんがしっかりと捕まったことを再度確認し、それを発進させる。エンジンの唸りはさらに大きくなり、車輪に伝わるエネルギーが増幅し、驚くほどの加速で景色を背後に追いやる。

 士朗さんの整備が良いのか、肩すかしを食らうほど扱いやすかった。正直に言えば直進することすら難しいかと思っていたが、成せばなるものだ。いや、正直に言おう。初めて乗るはずなのに、既にどこかで乗ったことのあるような感覚。何となく、感覚のみで次にどうするべきなのかが分かる。

 それが何故なのか、思い当たる節は一つあった。私の同一化魔術は、既に私自身の自我を崩壊させつつある。今のところ自分と他者の境界があやふやになるという、一般人でも発症し得る精神病程度の症状しか見えていなかった。だが、それは突き詰めると既に他者との意識が半ば混在しかかっている状態に他ならない。

 つまりである。私は、私自身であるときでも、少しだけ他者を内に取り残してしまっているのだ。誰かの意識の「残りカス」が私を崩壊させつつあり、それが思わぬ副産物をもたらした。すなわち、同一化魔術を使わずとも、過去に同一化した人物の知識やスキルをある程度再現できてしまうのだ。

 それは非常に些細な変化だ。今まで乗れなかった自転車にある日突然乗れるようになるという程度に過ぎない。だが、素晴らしきかな騎士王、セイバーのサーヴァント。「騎乗」のスキルから得た操舵法の知識。アーサー王がどういういきさつで大型二輪の操舵法を取得したのかは知らない。わざわざ記憶を掘り返す意味もない。だが、無意識のうちに私に取り残されたこの知識はまるで長年連れ添った莫逆の友のごとく、CBR-1000RRの扱い方を教えてくれる。

 どのように重心を移動すればコーナーをスムーズに通過できるか。どこまでの速度であればハンドルが暴れずに済むのか。私の身体能力と合わせて考えた場合の、この車体の限界はどこにあるのか。

 私がこの猛禽を難なく扱えるのは偏にその恩恵によるものなのだ。ここまで崩壊が進んでいるのかと驚く一方、この恩恵には感謝しなければなるまい。いずれ、私は自分が誰なのか分からなくなり、そして何者でも無くなってしまうかも知れないが、今だけはこの力に感謝しなければならない。私という色を取り除いて無色になった後、私は何者にもなれる。今、私は大部分が「私」で、残りの一部が「騎士王」なのだ。

 メーターは既に100の値を大きく上回っている。市街地で出すには狂気の沙汰だろう。だが、不思議な確信を以って私はアクセルを捻りこむ。大丈夫、絶対に事故なんかしない。目の前に子供が飛び出してきたって、きっと回避しきってみせる。

 

「澪……ッ、スピード出しすぎ……!」

「スピードを落としていたら手遅れになるかもしれないわ! フルフェイスだから息は出来るでしょう!? 少しだけ耐えて、リン!」

 

 遠坂さんを「リン」と呼んだのは、本当に無意識のことだった。腰に留めたカリバーンが騎士王の人格を刺激するのだろうか。同一化魔術は使っていないのに、私はもう半ば「アーサー王」だ。だが、それを嘆く心も次第に失せていた。

 早く。もっと早く。助けを求める誰かの元へ。市街地を抜け、大通りへ出る。この速度で走行していれば、仮に狙撃手がこちらを狙っても狙撃は不可能だろう。何せ常に100キロオーバーで走行する二輪だ。車ならともかく、圧倒的に小さく高速で移動する標的を狙撃できたとしたら、それはもう人間が可能な所業ではない。アーチャーのサーヴァントでもない限り不可能だ。

 大通りの通行は既に皆無であった。前日の病院爆破事件はテロ組織による犯行であろうと警察が結論付けたことにより、夜は外出を控える旨が冬木全域に通達されている。おかげでこんな夜更けに通る車は居らず、無人の道路を疾走できた。

 そろそろビルまでの道は折り返し地点にきたか。ならばそろそろ士朗さんと合流できるか。そう考えた矢先、後方から制止を求める声が投げかけられた。

 赤い回転灯に耳を劈くサイレンですぐに気付く。警察だ。テロ事件と暫定的に決定したため、周囲の巡回は強化されている。一般道を100キロオーバーで走行する大型二輪を見逃す要素は皆無だ。

 

「厄介なのが出たわね……」

「構っているヒマは無いわ。撒きましょう。どうせ人のバイクだし、ナンバーを見られても構わないわ」

「澪、アンタなかなか良い性格しているわね」

 

 それはどうも。

 相手は警察の警ら車両だ。一般的なセダン車をベースにした白黒の車両に、赤い回転灯。相手にとって、不足は大アリだ。こちらはスーポースポーツ車両。加速の伸びも、小回りも、何もかもこちらが上だ。自ら制止しない限り、こちらが負ける要素はない。

『そこの黒い大型二輪。直ちに減速し、道路左脇に停車しなさい。危険な走行は直ちに止め、こちらの指示に従いなさい』

 

「お断りね」

 

 方向指示器も出さず、通りを左折する。左折した先で180度ターンする。これで次に左折してくるであろうパトカーを待ち受ける形になる。目論見通りパトカーは左折してくる形になるが、こちらは既にパトカーとすれ違うような形で直進している。そしてさらに左折して元の通りに戻った。パトカーは左折した先で取り残される形になっている。すれ違うとき驚いてブレーキを踏んだためスムーズなコーナリングは出来まい。あちらがようやく元の通りに戻ったころにはこちらは遥か遠くである。

 だが。空しく響くサイレンの音を遥か背後に置き去りにしようとしたとき、その姦しい音が不意に途絶えるのを感じた。それだけではない。まるで、金属が拉げるような嫌な音さえも響いた。

 不思議に思い、停車して後方を確認する。そして運転に集中するために閉じておいた探査魔術を起動させる。

 このときの驚きは筆舌に尽くしがたい。不運を嘆けばいいのか、それともこれだけ喧しく走行していれば当然であると達観すればいいのか。

 

「■■■ァァァ■■■ァァッ!」

 

 今や、バーサーカーはこの冬木の王である。いや、城内と言って良い。よって、バーサーカーの領域内で何か大きな動きがあれば、それは即ちバーサーカーの知るところになるだろうと予測はしていた。しかし、魔術的なものにも依らない、ただの騒音で嗅ぎつけるとは思ってもみなかったのだ。いや、これだけ静かな夜なのだ。気づいてもおかしくは無いのかも知れない。

 遠坂さんが呟く。

 

「最悪だわ……」

 

 全くもってその通りである。最悪だ。次々と作戦に障害が現れる。アサシンと士朗さんの対決はある程度織り込み済みだった。だが、その後にセイバーがライダーと邂逅し、その後に私たちがバーサーカーに遭遇するなんて、こんなことあってたまるか。

 いや――これはある意味予想されて然るべき事態だったのだ。バーサーカーが今まで私たちに襲撃をかけなかったのは、その時々でバーサーカーが他に優先すべき事柄があったに過ぎないのだ。機さえあればすぐさま私たちを襲撃することは目に見えていたのだ。それがたまたま今であった、それだけなのだ。ライダーにしたってそうだろう。あの豪放な雰囲気からして、夜な夜な外を徘徊しているに違いないのだ。特にライダーのサーヴァントは優れた移動手段を持つのだから、それを十分に発揮することだろう。だから、移動中のセイバーと邂逅する可能性は十分にあったのだ。

 不運なのは間違いない。だが、有り得ないほどの事ではない。目先のアサシンに囚われ、他のサーヴァントの存在を考えなかった私たちが悪いのだ。だから、この状況を嘆く前に、打開する方法を考えなければならない。

 

「……逃げるわ。私たちが叶う相手じゃない。遠坂さん、背後は任るからアイツの足をどうにか止めて」

「無茶言ってくれるわね。仮にもアーサー王と同じ存在を足止めなんて」

「■■■ァッ■ァァァ!」

 

「私たちという獲物を横取りしようとした不埒な輩」を一瞬で排除したバーサーカーは警官らのものと思しき血で全身を濡らし、しかしなお血を求めて私たちを睨みつける。

 氷のような殺気を浴び、私はアクセルを捻りこんだ。すぐにCBR-1000RRは猛烈な加速を行ない、10秒ほどの所要時間で最高速まで達する。マシンの性能は300キロメートルオーバーだが、私が扱うとなると200が限界である。それ以上になると暴れるハンドルを抑えることは難しく、さらに恐怖が胆力よりも上回ってしまう。加えていえば、リアシートに人を乗せている状態での最高速度は無謀の極みと言うほかない。

しかし200キロメートルで疾走したときに目に映る世界はもはや別次元だ。あまりの速度に視界が狭まる。フルフェイスのヘルメットでなければ、目を開けることも息をすることも難しいだろう。

 しかし、それほどの速度であるにも関わらず、あろうことかバーサーカーは食らいついてきた。信じられるか、二足歩行の人類が200キロメートルを超える速度で走行する車両に食らいついてくるのだ。これはもはや人類の限界を突破しているとしか思えない。何か宝具の力を頼らねば不可能だ。

 だとすれば、バーサーカーには何か身体能力強化の宝具を持つに違いない。地味だが強力で、それ故にその存在が露呈しづらい。ただでさえ狂化で身体能力が底上げされているというのに、さらに身体能力を強化する宝具を持つとなれば、こちらがスーパースポーツバイクに跨っていることにどれほどのアドバンテージがあるというのか。しかしそれでもこの機体を信じて疾走する意外に道は無いのだ。それも、出来るだけセイバーや士朗さんから遠ざけなくてはいけない。

 ライダーと戦うセイバーのもとへバーサーカーを引き連れることなどできない。バーサーカーがどちらを標的に定めるか不明だが、最悪の事態を想定すればこれが最大の愚策であることは間違いないのだ。戦いの基本は一騎討ち。先の読めない乱戦は死んでも避けるべきなのだ。士朗さんのところに連れていくのは愚策を通り越して戦犯である。バーサーカーに獲物を献上するようなものだ。

 

 だからこそ遠ざからなければならない。だがどこへ逃げればいいのか。どこでなら逃げ切れる。バーサーカーは自身の宝具により、この地で起こることごとくを直観的に知ることが出来るだろう。その力がどこまで及ぶのか知る由もないが、どこに居てもバーサーカーの脅威に晒されるという覚悟で臨まなければならない。

 そのバーサーカーから逃げ切らなければならないのだ。この停止することを知らぬ獣と。いわば猛牛である。追う猛牛に対し、こちらは自転車で逃げているも同然なのだ。

 それほどの実力差がありながら逃げ切れる場所はどこか。まず市街地においてそれはあり得ない。あまりにも見通しが良く、身を潜める場所すらない。一瞬たりとてバーサーカーの視界から消えること叶わないだろう。

 可能性があるとすれば、この際バイクの走行に不向きでも良いから視界の多くが遮られるような場所。この際バイクは捨て置いてもいい。とにかく視界が悪い場所だ。そして一般人が居ない場所でなければならない。そしてさらに重要なことだが、あまり離れすぎればバーサーカーの追撃を受けるだろうことだ。遠ければ遠いほどこちらが不利である。

 そうなれば自ずと答えは決まる。柳洞山しかあるまい。寺が存在するが、それさえ避ければあそこは追手を撒くのに最高の場所だろう。加え、あそこには結界が存在する。わずかばかりでもバーサーカーの歩が鈍れば、それ即ち勝機となる。

 

「柳洞山まで突っ切るわよ! バーサーカーは私たちでなんとかしなくてはいけない!」

 

◇◆◇◆◇

 

 幾合か打ち合った後、セイバーとライダーは距離を置いて睨みあった。

青天の霹靂とはこういうものか。いや、これはあるいは必然か。セイバーはこう考えた。神は自分を試しておられるのだ。自分と、自分に周囲のものに試練を与えているのだ。主は我らに敵を与え、これらを見事打倒すべきだと言っておるのだ。その真意など知らぬ。人が神の真意を知ろうとするなどおこがましいことだ。だが、これが試練であるというなら乗り越えなければならない。主は、乗り越えることの出来ない試練は決してお与えにならないのだから。

 

 腰のデュランダルを構えなおす。折れず、曲がらず、欠けない不滅の剣は不滅の神の威光を宿していた。そう、デュランダルは不滅の神の威光の象徴である。デュランダルの柄の中には三人の聖人の聖遺物が封印されているのだ。

 

「負ける気がせんぞ、セイバー。俺が勝ち、そして貴様は敗れる」

「あるいはそうかも知れん」

 

 セイバーはそう言うとデュランダルを天に向ける。まるで天を穿たんとしているかのごとく、澄みつつも鋭い覇気を放っていた。

 

「だが、この私――未だ帰るべき場所と、やるべきことがある。それが我が使命ならば、神はここで死ぬ定めとせぬと信じている」

「なるほど、それが貴様の天祐か。……あの素晴らしきランサーも、貴様と同じように『神』とやらを信奉しておった。俺にはその『神』とやらは分らず、また天の実態も知るに至らず。しかし、敵の武勇を測ることはできよう。セイバー、貴様はあのランサーに匹敵するものだ。なればこそ、俺は最大限の一撃を以て貴様を切り伏せる。貴様を斬ることは俺の誉れとなろう」

 

 その言葉は、一種悲痛なものを含んでいた。ランサーとの一戦をアサシンに邪魔され、あろうことかランサーを撃破されてしまったからこそ、セイバーとの戦いは憂いの残らぬものであって欲しいという悲願である。

 ライダーは青龍刀を握り締め、それを振りかざし、その穏やかざる胸中を吐き出す。その言葉にセイバーは虚を突かれた。あろうことかサーヴァントが自らの名を明かしたのである。

 

「我が張遼、字は文遠! セイバー、貴様は名乗らずとも良い。これより斬る敵の名に興味などなし! 貴様が何者であろうと、何をしようと、俺は『天』に至るッ! 我が天命は未だ分からずとも、それを求める主がいる。ゆえに、俺は天を掴む!」

 

 ライダーには魔法の何たるかが分からない。サーシャスフィールから第三魔法「天の杯(ヘヴンズフィール)」を説明されても何のことやら分からない。彼が理解できたのは、『天』の一文字のみ。

 ライダーは、自らの主は天を目指すものでなければならぬと信じている。呂布奉先然り、曹操孟得然り。最高の武の先に天は在り、武の真髄こそが天に在るのだ。武の頂点を目指すものは天を知らずにはいられない。

 故に、ライダーは天を渇望するのだ。そして自らに負けず劣らず『天』を求めるサーシャスフィールを心から敬愛する。だからこそライダーはサーシャスフィールに従い、彼女のために命をかけて戦うのだ。自らの武を天へ導くために、主を天に導くために。

 

「静かなれども意気衝天、我が精鋭に告ぐ!」

 

 そのとき、死角という死角からか騎馬が姿を現す。その数は十を数える。アインツベルンのホムンクルスの中から選りすぐった二十から、さらに白眉たる者を厳選した末の十騎である。セイバーはその者たちに覚えがあった。あの大橋の上で邂逅した際に見た姉妹兵の一部に相違ない。

 その者たちは斬りかかる様子はない。しかし、その手に持つハルバードの切っ先は、命あらば今すぐにでも斬りかかると雄弁に語っていた。

 

「我が一刀で蒼天を穿つ! 散開し、我が目となれい!」

 

 黒兎がその健脚を存分に発揮し、目にも止まらぬ速度で突進する。ここにきてライダーの一撃はより激しさを増していた。否、それはセイバーの錯覚である。ライダーの宝具『遼来々(リョウライライ)』は己の存在と名を武器と化す宝具である。ライダーと対峙したものはその身が竦み、名を聞いたものは震えを抑えることが出来ない。これは、本来サーヴァントにとって致命的な弱点になり得る真名を開示することで、相手のステータスを低下させる宝具なのだ。ゆえにセイバーは、その名を聞いたことにより、さらに体に枷を強いられた。ライダーを視界に収める限り、セイバーは以前の身体能力を発揮することは不可能である。

 

 セイバーは黒兎の突進を回避する。馬を狙った一瞬の隙にライダーは首を刎ねるだろう。一瞬であっても馬上のライダーから視線を逸らすことは許されない。

 すれ違いざまにライダーは落雷のような一撃をセイバーに振り下ろした。それを件の腹で受け止める。通常の刀剣であったら、否、聖剣や魔剣の類であっても得物の格によってはへし折られていたかも知れない。

 ライダーの気炎を受け止めたセイバーは、返す刃が来る前に姉妹兵の動向を確認した。一瞬のみ視線をずらして姿を確認したに終わったが、ライダーと姉妹兵の連携の如何はすぐに知れた。

 姉妹兵は言わば斥候である。ここは市街地だ。如何なる妨害があるか分からない。結界や魔術の類を持ち合わせないライダーがこの地で存分に剣を振るうには、事前に露払いをする存在が必要なのだ。また、セイバーの一挙手一投足をライダーの死角から監視する役目をも担っている。姉妹兵がセイバーと戦うには荷が勝ちすぎているが、一定の距離を保って援護を行なうことは出来る。おそらく、視覚もある程度共有しているのだろう。言わばセイバーは、姉妹兵とライダー合わせて十一人、都合二十二個の目で見られていることになる。

 

 その証拠とばかりに、先ほどの一撃を受けてセイバーがたたらを踏んだその瞬間に、ライダーは首元を狙って剣を薙いだ。馬上、かつ肉薄している状態ではセイバーの下半身の動きは完全に死角である。それにも拘わらずそれを狙い澄ました一撃は、姉妹兵から見られているとしか考えられなかった。

 ライダーが魔術を理解するとはセイバーには思えなかった。ならばこれは、マスターか姉妹兵のいずれかからの入れ知恵に違いない。

 

 ライダーの剣戟は常に的確であり、迅速かつ破格の重さ。さらに人馬一体の馬術。それに加え、十を超える視線での監視。セイバーの一挙手一刀足は全てライダーに見られ、隙とも言えないような隙でさえ致命的なものに転化されてしまう。

 厄介などという言葉で表現が出来ないほど、セイバーは追い込まれつつあった。

 

 しかしセイバーは宝具を使うわけにはいかなかった。デュランダルに加えてもう一つセイバーが所持する宝具は制御が非常に困難な上に周囲を巻き込む。市街地で使える宝具ではない。しかしここから移動することも困難である。全方位から視られていては、背を向けた瞬間に斬られてしまうだろう。一発逆転の奇策があったとしても、事前に察知されてしまうのは必至である。

 

 長得物でありながらライダーの剣戟は、もはや刃を返す瞬間を察知できないほどである。過剰なほどに幅広で重厚な刃、さらに大きな龍の装飾を持つ青龍偃月刀であるにも関わらず迅速な一撃。

 しかしそれと剣を合わせることが可能なセイバーもまた卓越した剣術であった。まともに受け続けていては死ぬは必至と悟ってからは、ライダーの剣を流し、いなし、かわすことに専念する。だが、誰の目から見ても防戦一方であった。

 

「そのいじけた構えで、この俺を斬れるのかッ!」

「見ているが良い!」

 

 セイバーは虚勢を張るが、必殺の一撃の剣戟を立て続けに放たれては手も足も出ない。しかし諦めてはいなかった。ここで闘志を折られるほどセイバーは軟弱ではない。しかし体は見る間に切り刻まれていく。捌ききれなかった一撃は、セイバーを絶命させるに足らずとも身を裂くには十分に苛烈であった。剣を合わせること既に百を超え、セイバーの体は血で染められつつある。もはや刀傷の無い部位を探すほうが困難である。いや、未だ立っていることのほうが信じられないほどだ。

 

「どうしたセイバー! もはや目も霞んできたか!?」

「黙れッ!」

 

 ライダーの一撃を紙一重で回避し、ライダーが刃を返すよりも素早く刺突を放つ。まさしくそれは閃光の一撃であった。ライダーはそれを弾こうとしたが、渾身の力を込めて放った一閃を叩き落とすには至らず、ライダーの腿を裂いた。

 しかし、一矢報いたとセイバーが考えるよりもライダーが青龍偃月刀の石突で肩を突くほうが早かった。青龍偃月刀のこの部位には刃が無い。肩は鎧で覆われていることもあって致命的な傷を負うには至らなかったが、鎖骨に罅が入った。完全に折れた訳ではないが、この痛みは尾を引く。一方ライダーのほうも、唯一の負傷であるが、無視できるほどの浅さでもない。腱を断たれたわけでもなく、大動脈を断たれたわけでもないが、騎乗の際には腿の力で上体を支えているのだ。ここに浅くない傷を負えば、騎馬全体の動きに支障が出る。

 

「腿にも鎧を着込んでおるのに、それをも裂いてしまうとは……。その剣の鋭利さは俺の想像を超えておった」

「……何せ、大理石をも叩き斬る剣であるので」

「ほう、それは凄い。俺が使っておったならば、あるいは生前で天を掴んでおったかな」

「それは恐ろしいが、この剣は貴方には使えまい。貴方の剛力で振るうには、この剣は役不足だ。貴方にはその剣が似合う」

「確かにその華奢な剣では俺の膂力に似合わん。ふむ、やはり俺にはこの得物が良いか」

 

 今一度ライダーは青龍偃月刀を眺める。そしてその切っ先をセイバーに付きつけ、不敵な笑みを浮かべた。

 

「では、そろそろ終わらせよう。この後、バーサーカーとアサシンも斬らねばならんのでな。……この程度の傷で、この張遼の一撃が軽くなると期待せぬほうが良いぞ。

 遼来々ッ! この(ライダー)が行くぞ!」

 



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Act.40 激戦

 三者がそれぞれ別の敵と邂逅したことは士郎にとっても予想の埒外であり、そして異常事態でもあった。士朗はその事実を凛からの念話で聞かれたとき、そちらを加勢すべきかと考えた。しかし、どう考えてもそれは出来ない相談であった。

 あの狙撃手から背を向けて逃げられるものか。仮にも相手はサーヴァントなのである。遠距離からの狙撃が可能な相手を前に背を向けて走り出すなど、相手に首を差し出すことと何ら変わらないのだ。何せ相手からすれば完全に一方的な攻撃を加える好機である。ここぞとばかりに猛攻を仕掛けるだろう。士朗からすればサーヴァントを相手にし、ただ一人でビルの屋上に釘付けにしているこの状況こそが望みうる最高の戦果である。ここから離脱することも難しければ撃破することも困難。既に進退ままならぬ状況に身を投じてしまっている。狙撃手を相手にする戦いとはえてしてそういうものだ。近づくことも困難だが逃げることも困難。だからこそ通常は隊を複数に分割して攻略するのだ。

 士朗も今まさにそのような状況にあった。ある程度の距離を踏破することはできたものの、これ以上先に進むことが難しくなってしまっている。かといってここから逃げ出せば背中から撃ち抜かれるであろう。士朗は家屋の塀に身を隠したまま、立ち往生を強いられていた。

 

 しかしそれはアサシンにとっても同じであった。通常ならば、今すぐにでもこのビルを離れるべきである。狙撃手にとって最大の強みとはこちらの位置を隠したまま攻撃を加えることが出来る点であり、その強みが失われたのであればここに居座る意味はない。むしろ対抗狙撃の的になる可能性も考えれば、次の狙撃地点に行くべきなのだ。

 それが出来ない理由は、他に狙撃地点が存在しないと言っても良い点と、近代戦に長けた魔術師という自分以外に類を見なかった敵の存在である。

アサシンに言わせれば、魔術を目的にする輩は取るにたらない得物である。魔術をあくまで学問の範疇で用いているならば近代兵器が遥かに強大なのだ。しかしそれを戦闘に特化させた場合、近代兵器にならぶ脅威を持つに至る。例えば何も無い空間から炎が噴き出たり、限界まで身体能力を強化して音速に至るほどの速度を身につけたりといったことが魔術では可能となろう。

だがそれは近代兵器では事もなげにやってのけることである。炎が欲しいならば火炎放射機やマッチがあれば良く、音速に至りたいのであればジェット戦闘機にのれば良い。しかも特別な素質がなくとも扱え、魔術よりも広範かつ高威力を簡単に保有できるという長所をもつ。魔術の利点といえば、兵器のように大がかりな装置が必要にならないことだけである。

しかし近代兵器と魔術が融合したとき、そのどちらをも超える戦闘術が編み出される。亜音速の移動速度で超音速の弾丸が人の身から発射される。通常の銃弾ではありえない、物理的にも魔術的にも防御不可能の弾丸を射出することも出来る。

衛宮切嗣が『魔術師殺し』として悪名を轟かせたのも、また幾つもの戦場を潜り抜けたのも、この特殊な戦闘技術によるところが大きい。手段を選ばない残忍さをさることながら、誰も真似ようとも実行しようともしなかった戦闘技術にこそ衛宮切嗣の真価が存在する。例えば、相手が魔術師であれば殺すのは容易い。彼らは一発の銃弾に注意を払わず、また払ったとしても軽視する。魔術的な殺傷能力を付加させた銃弾を前に、障壁を張っても張らなくとも倒れることは決定しているといっても過言ではない。引き金を引かせた時点で死は確定的なのだ。一般人を殺すことは更に容易い。何故ならば彼らは魔術を知らぬ。

しかし、それを自分に向けられることは無かった。あくまでこの戦闘技術は己のものであり、人からそれを向けられることは皆無であった。

格闘術や剣術に魔術を取り入れることは多々ある。だが、近代戦を知りつつそれに魔術を取り入れた存在は今まで自分ただ一人であった。

 

しかし、今対峙している男は違う。あの男は自分と同じだ。ここまで接近を許したことがそれを証明している。通常の魔術師であれば既に絶命しているだろう。あの動きは市街戦を知るものにでなければ不可能である。それも、魔弾や矢による攻撃ではなく銃弾による攻撃に対する処方である。飛来する様が視認できる前者とまず不可能な後者では処方は大きく異なるのだ。

故に、アサシンはこの男に最大級の危険性を認めた。自分を殺す相手が居たとすれば、サーヴァントのようにあまりにも実力が離れた相手であるか、自分と似た戦闘技術を持つ相手である可能性が高いからだ。――例えば、実際に銃を持たずとも銃弾飛び交う戦場で戦い続けた者のような。

そしてアサシンは男に危険性を認めるがゆえ、ここで排除することを決めた。リスクは高いが、ここで殺さなければ後々に危険に晒される。自分の戦闘方法――闇討ちやだまし討ち――に自分が晒されるよりも、ここで危機を潜り抜けたほうが確実かつ安全であると判断したのだ。自分と似た者が現れたため、その相手に自分を重ねて考えた結果の判断である。

アサシンにとって、これは初めての経験であった。純粋に身体能力が高いものや、高い魔術的素質を持つものによって追い詰められたことは幾度もある。だが、そのいずれも銃の前に倒れてきた。しかし、魔術師でありながら銃に対抗する処方を身につけ、自分の銃弾を卑下せずに向かってくる相手など皆無であると言って良かった。

 

しかし、だからと言って慄くアサシンではない。そして、狙撃に怯む士朗ではない。両者とも不退転の覚悟でこの戦いに臨む。ここで退却を選択すれば、後々に危険に晒される。ゆえにここで倒すべしだと、両者は同一の結論に達したためだ。

アサシンは士朗が身を隠す物陰へ向かい、牽制するように数発銃弾を放つ。無論、通常の弾丸である。起源弾は必殺を期したときのみ使用するべきものである。訓練の足りないものであれば、数発の銃弾で牽制されただけで冷静を欠き、遮蔽物から飛び出ることが多い。だが士朗は平常心を乱しはしなかった。身を隠す塀はコンクリートで固められている。対物ライフルによる射撃でない限り、これを貫通することはあり得ない。ならば好機を見出すまでここに身を隠し、体勢を整えるべきだ。

 

しかし好機など訪れるのだろうか。頼みの綱のセイバーはライダーと交戦中、保険であった澪と遠坂はあろうことかバーサーカーと交戦中である。ここで機を窺っていても真綿で首を絞めるようなものだ。ならば好機は自分で切り開くべきなのではないのか。

ではどうするのかと言えば、どうすることも難しい。そもそも狙撃手に狙われた時点で、狙撃される側は圧倒的に不利である。

唯一取れる手段は対抗狙撃である。これは、狙撃手を狙撃することであり、対狙撃手戦でよく用いられる手段である。狙撃手は動かずに構えていることが多いため、よい標的となる。これを狙撃するのだ。士朗の場合、弓で射るということになる。

だが、いくら士朗の視力が良くとも限度というものがある。現在は夜間であり、狙撃手はその闇に溶け込むように擬態しているであろう。この状態で距離百メートル弱かつ高度五十メートル先にいる標的を目視できる筈がない。通常ならば、その相手を裸眼で狙撃するなど不可能である。せめてビルに光源があれば見えるだろうが、電気は遮断されているのか全くの闇であった。正直な話が、ビルの輪郭すらまともに捉えられない。

士朗の弓は引き絞ればその程度の距離は容易に射程に収めることができる。そもそも弓道の遠的は90メートルで行う場合もある。その程度は飛ばなければ話にならない。だが、士朗の視力がそれに追いつけていないのだ。

英雄エミヤシロウの持つ鷹の眼を士朗は未だ持つに至らない。魔力で視力を水増ししようと、光源の無いビルの屋上を見るのは不可能である。

何故、英雄エミヤシロウは鷹の眼を得るに至ったのか。視力というものは訓練次第で伸ばすことは可能であるが、英雄エミヤシロウのそれは訓練で説明できる代物ではない。ならば特別な何かが存在する筈である。

その答えを、士朗は既に受け取っている。稗田阿礼は言った。余計なモノを見ないことだ、と。目がモノを見るには光が必要だが、光とは即ち粒子の波である。波であるから、他の波と混合してひとつの光となってしまうことがある。ちょうど、騒音の中で話しかけられても弁別できないように、光もまたそのような属性を持つ。ならば、可能な限りノイズを除去することだと彼女は言った。

ある程度までなら、魔力による視力の水増しで遠方を見ることが出来る。だが、これでは限界が存在するのだ。現に士朗の視力は英霊エミヤに大きく劣る。

ノイズの除去を、如何にすれば実現できるのか。その術に士朗は辿りつけずに居た。

 

(……迷っている暇なんかない。ちょっと被害が大きくなるかも知れないけれど、ここは一発お見舞する)

 

 彼我の距離は百、高度差は五十、即ち弾道距離は約百十一。狙撃手は見えなくとも、ビル最上階の大まかな位置はわかる。損害は最小限に抑えたかったが、今は拠無い事情がある。ビルのオーナーが保険に入っていることを願うのみだ。

 

「――投影、開始(トレース・オン)

 

 投影される剣は負けずの魔剣(クラウ・ソナス)。ひとたび抜き放てば、光と火炎を放ち必ず敵を仕留める剣である。赤原猟犬(フルンティング)で無いのには理由がある。相手を視認できない状態から放っても、クラウ・ソナスおよびフルンティングは満足な効力を発揮できない。命中に僅かな補正は得られるだろうが、それでも必中とはいかないだろう。ならば当てずとも火炎による負傷を期待できるクラウ・ソナスのほうが有利である。

 

 剣に続いて弓を投影する。英霊エミヤと同じ漆黒の弓である。

 士朗は弓に(クラウ・ソナス)を射掛け、身を隠したまま機を待つ。銃の装弾数はマガジンの改良や換装によっていくらでも増減するが、あまり大きなマガジンは狙撃の際にかえって邪魔になる。装弾数はそこまで多くない。ここでじっと身を隠し、マガジンを交換する機を窺う。

 

 一方、マガジン交換による隙はアサシンにとって致命傷につながる要素となる。通常、マガジンの換装によって生じる隙によって危険に晒される状況というのは、比較的近距離での銃撃戦に限った話である。銃撃戦ではなく狙撃戦と称されるような距離では換装の隙など隙とは表現できない。だが、こと魔術師同士の戦いにおいて、わずか数秒でも反撃が不可能な時間が生じるというのは致命的と言わざるを得ないのだ。

 よって牽制で放つ銃弾も抑える必要がある。マガジンに入っている弾丸はもう残り少ない。予備はまだ大量にあるが、今換装すると相手に反撃の機会を与えることになりかねない。

 結果、両者は互いの動きを待つ姿勢に入った。全神経によって相手の一挙手一投足を注視する。士朗はむろん物陰に隠れつつであるが、鏡を巧みに使って相手の位置を監視し続けた。鏡程度で視認できるわけがないが、何か大きな動きがあった場合に見逃すほうが痛手となる。

 

 だがこの拮抗は長くは続かなかった。あえて先に動いたのは、仲間が別の場所で危機に晒されている士朗である。可及的速やかにアサシンを排除し、そちらへ向わなければならないのだ。相手もマガジン交換の機を悟らせまいとしていると察知し、あえて先に仕掛ける手を選ぶ。

 クラウ・ソナスをひと薙ぎする。すると剣からは火炎が迸り、周囲を瞬く間に覆った。しかし火炎はアスファルトを焦がすのみに留まり、延焼を起こす気配はない。士朗がクラウ・ソナスの出力を巧みに操っているからである。

そして士朗は、その火炎を目くらましにして遮蔽物の壁から躍り出た。だが火炎が士朗を焼く気配はない。クラウ・ソナスは抜けば敵を必ず貫き焼き払う剣であるが、術者を焼くようでは炎の剣(フレイムタン)として不完全である。

だがアサシンがこの隙を見逃すはずもない。素早く照準を定め、トリガーを引いた。素早く、的確に。

しかし士朗もまたこれを見越している。士朗はビルの屋上を睨んだまま、クラウ・ソナスの力を再び引き出した。

その瞬間に士朗の眼前に現れたのは、火炎の壁と表現すべきものである。決して大きくはないが、士郎を覆いきるほどの高温高密度の火炎が姿を現した。それはもはや、溶岩の壁と言っても遜色ない。いや、溶岩などとうに超えた温度を有するだろう。

アサシンの放った弾丸は狙い通り士朗を撃ち抜く筈であったが、その進路上に火炎の壁が生じたことで、必然的に弾丸はこの壁に突入することになる。

当然ながら鉄は高温に晒されれば液体となるし、さらに高温であれば蒸散する。音速を超えた速度で放たれた弾丸は、火炎の壁に突入するや否や一瞬で蒸散した。むろん、士郎は無事である。

アサシンはこの結果に驚いた。まさか、魔力で編んだ障壁に身を隠すでもなく、弾丸を融解させることで防ぐとは。

この防御手段では仮に起源弾を撃ち込んだとしても効果は期待できない。そもそも術者に命中していない。火炎を打ち消すことが出来るかどうかは怪しいが、それを成し得た瞬間には蒸散しているのだから結果は同じである。

――いや、それよりも。

あの剣は一体何か。どこに隠し持っていたというのか。いや、隠し持てる筈がない。あの剣は明らかに隠し持てるサイズを凌駕している。あらかじめあの場所に隠していたとも考え難い。ならば、“何らかの手段で生成した”と考えなければならないだろう。

投影魔術。

その答えに行き着いた瞬間、耐えがたい頭痛がアサシンを襲った。そして同時に悟った。あの男もまた、かつての自分が知る人物だ。

ある意味で、セイバー陣営に手を出すのは時期尚早であると今の今まで襲撃を遅らせたアサシンの直感は正しかった。あの男はきっと、自分を知っているのではないか。おそらく、心のどこかでその意識があったからこそ、アサシンは衛宮邸を攻撃してこなかったのだ。

しかし、こうして対峙した以上、アサシンには引き金を引く以外の選択肢はない。正確には、自ら他の選択肢を閉ざした。己の心を押し殺し、正義を実行する機会であるために。そうでなければ今まで生き残れなかったし、これからもそうするのだ。

 

かぶりを振って冷静な思考を呼び戻す。本当に投影魔術であるとすると、これは少々厄介だ。

投影魔術には起源弾が通用しない可能性が大いにあるためだ。

起源弾の特性を簡潔に述べると、相手に命中した際に相手の魔術回路を暴走させ、破滅させるという代物である。これは礼装に命中しても効果が得られる。なぜなら、通常ならば礼装には術者の魔力が巡っており、これを介することで術者もろとも破壊することが可能であるためだ。

そのため投影魔術に対してもそれは期待できる。だが、例外は常に存在する。

そもそも投影魔術によって具現化した代物は、言わば一つの完成品であるといってもいい。つまり、術者の魔力が循環していない場合、投影品を破壊するに至っても術者は破壊できない。白兎を起源弾で抹殺せしめた時の状況がそれを物語っている。白兎はこれ以上ないほど凄惨な死を迎えたが、宝具の術者であるライダーは全くの無傷である。

つまり、それ一つで独立した存在であれば、起源弾は効果を及ぼさない。

投影した物品は礼装の類であれば問題はない。だが、魔的な力を持たない通常の物品であった場合、それは術者の手から離れた物体である。術者の魔力で編まれているといっても、その物体と術者との間に繋がりがなければ起源弾は封殺されるも同然なのだ。

 

 投影魔術を戦闘に用いている場合、どのような対抗策を取るべきか――それを考えていたとき、おもむろに火炎の壁が四散した。

その奥から、こちらを黒い弓で狙う士郎の姿をアサシンは見た。しかも、矢ではなく剣を番えている。

この瞬間のアサシンの驚愕は、もはや理の通らぬものである。どう考えても、あんなものでこちらを攻撃できる筈がない。いくら魔術師といえどもそれは無理だ。

だが、アサシンは咄嗟に退避を選択した。固有時制御を駆使し、屋上から階下に伸びる非常階段へ一目散に駆け抜けた。

 

その様子を士郎が知る術はない。ただ、アサシンは屋上にいるものと決め打ち、屋上ごと攻撃する腹積もりである。

士郎は狙いを定め、クラウ・ソナスに命じる。屋上に存在する敵を穿てと。

そして必殺の気迫とともに、射掛けた(クラウ・ソナス)を放った。その瞬間、剣は夜を一直線に斬り裂くような光を放ち、それと共に火炎を引き連れ、屋上へと飛翔した。

射角を考えれば敵を穿つことなど不可能である。また、明確な標的を設定されていないため、アサシンを追尾することも出来ない。

しかし剣は術者の命令を忠実に実行すべく、屋上まで到達した瞬間、今まで以上の閃光を発し爆発的な火炎を放った。いや、爆発以外の何物でもないだろう。炎は一瞬で膨れ上がり、膨張した空気は熱い衝撃波となり、ビルの窓ガラスをことごとく破壊しつくした。赤い火炎の花が咲いた後、一瞬だけ送れて轟音が鳴り響いた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 咆哮と共に放たれるライダーの一撃を、セイバーは受け止めるのではなく捌くことで防いだ。ライダーの一撃はどれをとっても必殺に足る重さを孕んでいる。それを弁えたのであれば、受けるのではなく流すように捌くことが最上の策である。こちらの体力の消費を最低限に抑え、相手が憔悴するのを待つことが勝利への最短距離であると考えた。

 しかし、ライダーは未だ意気軒昂。それどころか一撃ごとに重みを増している。まさに鬼神のごとき強さであった。

 そのライダーの攻撃をここまで防げたのは、偏にセイバーの宝具「絶世の名剣(デュランダル)」の力によるところだ。折れず、曲がらず、決して欠けることの無い剣は白兵戦において絶大な効果を持つが、それは何も攻撃に限ったことではない。

 相手の一撃を防ぐ際、盾以外の防御手段を問えば、それは刀剣以外に無い。剣を以って敵の剣を防ぐ。しかしこの際、刀剣の歯が欠けたり、あるいは折れたりすることは想像に難くないだろう。

 相手の攻撃を防ぐと、期せずしてこちらの攻撃能力が減衰するのである。

 しかし、デュランダルを持つ者に限っては例外が適用される。どんな過酷な状況に晒しても決して折れぬのであれば、極論、盾よりも優れた防御手段になりえる。

 現にセイバーは既に盾の具現化を解き、デュランダルを両手で構える。ライダーの一撃は普遍的な盾で防ぐにはあまりにも脆弱であった。

 セイバーは攻撃と防御を同時に行なえる利を取って盾を装備していたが、仮に盾がなくともセイバーの力はいささかも衰えない。今まで攻撃主体の装備であったのが、盾を捨てることで却って防御主体になった、ただそれだけである。

 

 黒兎がその健脚をいかんなく発揮し、決して広くはない路面を縦横無尽に駆ける。空間を必要最低限かつ最大限に活用したその動きから放たれる一撃必殺かつ一撃離脱の刃は、セイバーをかつてないほど苦しめた。

 通常、一撃離脱の戦術はよほど速度が相手に勝っていないと使えぬ戦法である。加え、攻撃を放った後にすぐさま安全な間合いに身を置くことが可能なだけの空間が必要だ。そのため、このように狭い路地ではあまり有効に働かない。走り抜けた後、すぐに馬首を返す必要が出るためだ。

 

 しかしライダーはただの一度も追撃を許さなかった。セイバーは、ライダーが馬首を返すその瞬間を幾度とも狙ったが、その度にライダーはこちらを一瞥もしていないというのに、馬首を返すその勢いに乗せた一撃をこちらの喉元に放つ。そのため、隙が確かにあるにも関わらずそれを活かしきれない。

 ライダーと姉妹兵十人の間で行なわれている視覚共有の効果は思いの他絶大であった。こちらの死角は死角とならず、敵の死角は常にこちらの目がある。

ライダーはこの知恵を授けたサーシャスフィールに感謝した。存外、魔術も便利なものである。

しかし特筆すべきは、初体験である筈の視覚共有を難なく自分のものにしたライダーの器量である。術式自体は姉妹兵が行なっているものの、己の目以外から見る視界にやすやすと対応できるものではない。通常、己の目は閉じて視界を遮断し、その上で他者の視界を共有するものである。それをあろうことか、自分の視界もそのままに、十を超える視界を認識し続けている。

恐るべき集中力と対応力であった。いや、そうでなければここまで卓越した戦士として名をはせることは無かったかも知れない。

 

セイバーは歯ぎしりを抑えられなかった。ここまでの強敵が存在するとは。

せめて、こちらも馬上であれば。あの速度に対抗できれば。

あるいは、ここで宝具が使えたら。だがそれは出来ない。ここで放てば、まさしく無差別殺戮と化してしまう。それは――もう嫌だ。

 

 ライダーが馬首を返し、セイバーまで突進する。そのまますれ違いざまに振り下ろす一撃。それをセイバーは一瞬の見切りで回避し、逃がすまいと刺突を放つ。しかしライダーはセイバーの稲妻の一撃を、堰月刀を巧みに操り、柄で弾く。鉄製の柄から火花が散るが、刃の腹を弾いたために切り落とされはしなかった。

 ここにきてセイバーはライダーの攻撃に対する処方を身につけつつあった。

 堰月刀は、分類としては湾刀にあたる。湾刀とは刃が極端に湾曲したものである。刃が湾曲することで切れ味は格段に増すが、その分刺突には不利になる。湾曲した分、切っ先を突き立て辛くなる上、得物によっては折れ曲がる。

 加え、堰月刀は重心が刃の側に極端なほど寄っている。こうなるともはや刺突は困難であると言ってもいい。これならば薙いだほうが遠心力による破壊力の増大という恩恵を最大限に得ることが出来る。

 必然、ライダーの攻撃は直線軌道を描く刺突が少なくなり、円形軌道の攻撃が多くなる。

 同じ速度で放つのであれば、円よりも線が早いのは道理。ならばライダーの一撃や反撃を恐れず、こちらから一撃をねじ込めば良い。

 刺し違える覚悟が無ければ、ライダーは打倒できない。腕の一本を叩き落とされたとしても、心臓を貫いてみせる。

 

 ライダーが再び馬首を返す。今度の一撃の構えは大きい。体を捩じり、獲物を大きく振りかぶっている。あの構えから刺突は放てない。今こそ好機であるとセイバーは悟る。

 ライダーが横薙ぎの一撃を放つ直前、セイバーは跳躍してライダーの懐に飛び込んだ。

 ライダーの驚愕の表情、その眉の動きさえも分るほどの距離である。この距離こそセイバーの間合い。ライダーがセイバーを叩き落とさんと獲物を振るうが、セイバーはそれと同時に刺突を放っていた。

 心臓を狙った一撃は、しかしライダーが咄嗟に身を捩ったことにより狙いが逸れる。しかし刃は左肩を捉え、深く鋭く突き立った。しかしライダーは激痛に顔を強張らせながらも、振りかぶった刃を振りぬいた。長柄ゆえに刃はセイバーの背後に位置するが、その重量で振りぬかれた柄に強く打ちすえられ、セイバーは地面へと叩き落とされた。

 

「が――あッ」

 

 セイバーが喀血する。あの重量で肋骨の付近を強打されたのだ、内蔵に対するダメージも並大抵では済まない。破裂しなかっただけ幾分ましである。

 だがそれほどの重症に見舞われながらも、決して剣は離さなかった。ライダーの肩に剣が留まり続けるのを避けるため、叩き落とされながらも剣を引き抜いた。

 結果、ライダーの傷口は歪に広げられ、ライダーもまた耐えがたい痛みに呻いている。だが、その痛みをまるで意に介さぬかのように笑みを浮かべ、高らかに笑った。

 

「良い――。良いぞ、セイバー! これぞ戦闘というものだ。あのランサーすら届かなんだ我が心臓に、確かにお前の手は届いていた!

 遼来々――遼来々、遼来々ッ! この張遼が行くぞッ、貴様の首を叩き落とし、我が主を天に導くためにッ!」

 

 セイバーは、この男とまともに戦うことは無謀であると弁えた。戦闘能力で劣るという意味ではない。負傷を負い、しかしながらそれで闘志を燃やす相手が敵をなれば、一撃のもとに両断するのが最も良い。だが、ライダーを相手にそれは無理だ。加え、張遼という英雄には目立った弱点が存在しない。名を知ったところで、弱点も割り出せず、宝具の特性を推察したところで防ぎようもないのであれば、名など大した意味がない。

 そうであれば、残るは宝具を使用した一撃である。もとより、ライダーに打ち勝つにはこれしか無いと言っても良いのだ。

 そうと決めればセイバーの行動は迅速であった。ここで宝具を放てないのであれば、それが可能である場所まで移動するしかない。しかし、それを実行するにはライダーの移動速度が壁となって阻み、それを許さない。

 ならば回答は一つである。宝具を放つため、ここを移動する。移動するためには、ライダーと拮抗できる移動手段を入手するしかない。

 実際のところ、移動手段の選択肢は唯一であったが、選り取り見取りといって良かった。何せ、ライダーと拮抗できる「足」は十を数えるのだから。

 

 セイバーは口の中に溜まった血を吐き出すと、大きく後ろに跳躍した。狙いは、最も自身が標的にされることを想定していなかったであろう、セイバーの背後に位置する姉妹兵の一人である。

 

「――貴様ッ!」

 

 その意図を理解したライダーが、憤怒の声と共にセイバーを追う。だが他ならぬライダー自身が気づいていた。セイバーの動きに戸惑い、足を止めてしまった時間は実質一秒にも満たない。だが、その一秒の重みは大きい。もはや追っても、間に合わぬ。長距離ならいざ知れず、この近距離では出足の早さが全てである。

 

 セイバーは栗色の毛並みをした一頭とその騎手目掛けて疾走した。僅か二歩でその間合いに踏み込む。

 姉妹兵は一瞬戸惑ったものの、長きに渡るライダーの練兵の成果故か、反射的に手にもつハルバードで迎撃を試みた。

 だが、通常の人間よりも遥かに優れた身体能力を持つホムンクルスであっても、サーヴァントには遠く及ばない。ライダーの一撃に比べ、遥かに軽く遅い一撃を難なく回避する。そして、一刀のもとにそのハルバードを斬り落とした。デュランダルは岩をも絶つ剣である。ライダーの剣を両断できないのはライダーの技量によるところであり、数段以上格下の相手となればデュランダルとセイバーは相手の得物と鎧ごと斬り裂くことも可能だ。

 姉妹兵は長さが半端な竹やりのようになってしまった得物を捨て、徒手での反撃を試みる。だがそれもセイバーは回避し、その腕をつかんだ。そのまま騎手を馬上から引きずり降ろし、馬上へと素早く跨る。

 馬へと駆け寄り、それを奪うまで、まさしく一瞬の出来事であった。

 

 そこへ遅れたライダーがようやく到着し、振り下ろす一撃を叩きこんだ。しかしセイバーはその一撃を剣の腹で受け止める。刃と刃の間に散る火花越しに、両者は睨みあった。

 セイバーは今までの一撃より、幾分か軽いという印象を受けた。当然である。上から下へと振り落とす際が最も威力が高いのは自明の理であり、両者の位置が対等になった今、ライダーのみが馬上であったというアドバンテージは消失しているのだ。

 この威力ならば反撃は可能。そう悟ったセイバーは、ライダーの得物を押し返し、意趣返しとばかりに脳天をたたき割る一撃を振り下ろす。

 しかし間合いに差がある。ライダーは反撃を予期し、黒兎を走らせることでそれを難なく回避した。

 そのときセイバーは跨る馬は一連の出来事に驚いたのか少々暴れたが、セイバーの馬術によってすぐに大人しくなった。セイバーとて騎士である。馬の扱いは十分に心得ていた。

 

「――馬とは戦の道具である。それが敵の手に渡るのも、やむなし。だが……腹立たしいぞ、セイバー。我が宝具、我が友が敵に渡る屈辱、何度味わっても許し難い」

「私も、手段を選んではいられない。しばし借り受けるぞ、ライダー」

 

 ライダーの宝具の力は馬に名を与え、力を与えるところまでだ。ライダーの一存でそれを奪うことは不可能である。

 実のところ、ライダーが各宝具馬に騎手を与え、戦闘訓練を課したのは馬を奪われることを避ける目的が大きい。ライダーの体は一つである。いくら宝具馬が強力で、無限に増やせるといっても、それを敵に奪われては本末転倒である。

しかし騎手が存在すれば、馬はその能力を十全に発揮できるだけでなく、馬を守ることも出来る。だからライダーは半年もかけて姉妹兵を育て上げたのだ。

 

「その馬は赤捷《せきしょう》という。大事に扱え」

「心得た」

「ところで、その矮小な武器を使って馬上で戦うには無理があるのではないか?」

「悪いが、私は生前から馬上でこれを使っているのだ。貴方のように大ぶりな武器は使わない主義であったのでな」

「そうであったか。では、その絶技をとくと拝見しよう。――遼来々ッ!」

 

 ライダーとセイバーは互いに交差するように馬を走らせ、互いに渾身の力で斬りかかる。しかし互いに相手に傷を与えることが出来ず、ライダーが仕切り直しとばかりに馬首を翻したとき、それを知った。

 セイバーは馬首を翻すそぶりを見せない。あろうことか、ライダーから逃れるように走り抜けていく。

 

「――貴様ァッ! 俺を侮辱するかッ!」

「私を追ってこい、ライダー! さもなくば天を見逃すぞ!」

 

 ライダーは姉妹兵を置き去りに、疾走するセイバーを追うべく、落ちるような闇夜の中を走り抜けた。



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Act.41 カムラン

 バーサーカーとの追走劇の中で、次第にバイクのクセを理解する。

 単なる直線であれば、そう簡単に追いつかれることはない。問題はコーナリングである。どうしてもコーナーでは速度を落としてしまう。

 澪のみが乗っているのであればまだ減速せずとも曲がれたかも知れないが、狭い後部座席には凛が座っている。あまり無茶な運転は凛を振り落とす結果に繋がりかねない。バーサーカーがすぐ後ろから追ってきている以上、それは死を意味する。

 

「■■■ァァ■■ァァッ!」

 

 バーサーカーの咆哮。全身を大重量の鎧で覆い、しかも徒歩であるに関わらず、バーサーカーは時速百キロ超で疾走するバイクに食らいついていた。いや、その距離は徐々に縮まりつつある。

 

「―――Funt(五番),Shine das Licht der Gerechtigkeit(放て、砕け、光よ)!」

 

 後部座席から身をよじり、バーサーカーに向かって凛が魔術を放つ。宝石から発せられた閃光は七条の光の帯となり、バーサーカーへと殺到する。凛にとって、破壊力――むしろ貫通力と速度に特化させたそれは、およそ対人戦において最大の攻撃手段である。回避を許さぬほどの速度を持たせつつ、狙いの甘さを補うために七つの閃光を打ち出すそれは、もはや凶悪なショットガンと言って遜色ない。

 バーサーカーはその光を避けようとしなかった。いや、致命的な一撃になるだろう攻撃は身を翻して回避するが、裏を返せば致命傷でなければ避けようともしない。結果、攻撃を重ねられるごとにバーサーカーは傷つき、血塗れになっていく。

 しかしバーサーカーが倒れる気配も速度を緩める気配もない。凛の攻撃による効果の程は、一瞬のみバーサーカーの動きを鈍らせるにとどまっている。

 

 当然といえば当然なのだ。それが『命を賭して革命を(フォー・レボリューション)』の効果である。自らの能力を敵と同レベルまで引き上げるだけでなく、例え死の淵に立たされようとも命絶えるその瞬間まで自らの負傷を無視し、戦い続けることを可能とする宝具。どんな負傷を負っても戦意を喪失することなく、戦闘能力が落ちることのないその効果は、まさしくバーサーカーの名に相応しいものだ。

 結果、バーサーカーは街道に血の轍を残しながらも、澪が駆るバイクの速度に迫っている。もしも凛が後部座席からバーサーカーを迎撃しなければ、とっくに澪は追いつかれていたことだろう。あるいは、バーサーカーが遠距離攻撃の術を持っていたら、反撃の機会すらなく屠られていたことは間違いない。

 しかし、僥倖にもバーサーカーは近接攻撃の術しか持たない。それならば、少しの間であれば逃げ切ることは可能だ。アクセルを捻り、さらなる加速。だがこちらが加速すれば加速した分、バーサーカーの速度は上昇する。それに応じてバーサーカーの肉体は内側から傷ついているのは間違いないが、そもそも英霊というものは卓越した身体能力を持つ。二人乗りの状態では、バーサーカーを自滅に追い込める程の速度は発揮できなかった。

 

 この追走劇の中で、澪はバーサーカーの脅威を改めて実感する。こちらが強ければ強いほど、早ければ早いほどバーサーカーは力を増す。傷つこうとも決して剣が鈍ることはなく、死の淵まで戦い続ける。それは長期決戦においてどれほど脅威であろうか。両者の実力が拮抗するならば、両者は互いに少しずつ負傷する状況は容易に想像できる。丁々発止の打ち合いは実力が拮抗したもの同士でしか実現しえまい。その際、片方は徐々に戦力を低下させるが、片方は常に序盤の戦闘能力を発揮できるとすれば、結末は自明の理である。

 そもそもバーサーカーというクラスで召喚された英霊は、その魔力消費の高さ故に短期決戦に持ち込まざるを得ない。これは、自滅を極力避けるのであれば自然と導き出される自明の理である。しかし、モルドレッド自身の宝具「王位を約束した剣(クラレント)」の効果により土地そのものをマスターとして据えることによって無尽蔵と言っても遜色ない魔力供給を実現している。

 まさしく、王位簒奪の英霊、下剋上の騎士の真価はここにありといった有様だ。かつてのマスターにも構わず牙を向け、そして怨敵であるアーサー王と見れば周囲を顧みず襲いかかる。凛は、前回のバーサーカーとは違った意味での狂気に触れ、それに恐怖を覚えた。狂気の名は憎悪。憎悪にて熟成された狂気は、ヘラクレスのそれとは異なるものであった。

 

「■■ァァ■■■ィィィッ!」

「ちっ――澪、こんな程度じゃ足止めできないわ!」

「森に入ってしまえば活路はある! それまで、どうにか食い止めて!」

「――簡単に言ってくれるわねッ」

 

 凛はバーサーカーを倒すことではなく、足止めすることに専念することにした。そもそも、英霊を倒そうとするのが間違いである。足止めに終始するのであれば、方法はいくらかある。

 凛は宝石を取りだす。そして高速で詠唱を済ませたのち、石に込められた力を解放した。それは蒼い弾丸であった。速度は先ほどの閃光には遠く及ばないが、数個の魔力の礫がバーサーカーに襲いかかる。

 バーサーカーはそれを剣で叩き落とすように薙いだ。だが、次の瞬間にバーサーカーは胡乱な意識の中で己が悪手を打ったことを悟った。

 

「■■ァァァァァッ!?」

 

 魔力の礫はバーサーカーのクラレントによって切り裂かれた瞬間、超低温の冷気となってバーサーカーに絡みついた。冷気は瞬時に周囲の水蒸気を冷却・凍結させ、零度の檻となってバーサーカーを閉じ込めた。

 しかし、氷漬けにされた程度でバーサーカーを仕留めたとは凛も思っていない。案の定、すぐに氷塊は内側から発される凄まじい膂力により、亀裂を生じさせ、瓦解した。

 

「ああもう――私のサーヴァントながら、厄介なヤツね!」

 

 バーサーカーを使役する際におけるマスターの役割は、バーサーカーの力を抑えて制御することである。その肝心のマスターが現在は冬木市そのものであり、リミッターに成り得ない。箍が外れたバーサーカーが強敵であることは明白である。

 

 だが、澪は一つの可能性を見出していた。無論、逆転の可能性である。

 そもそも、モードレッドの戦闘能力を微分し解析したならば、その強みの大半を占める要素は“下剋上”である。そしてその要素こそが宝具に違いないのだ。バーサーカーのステータスは、それだけ見ればライダーやセイバーに劣る。魔術師から生まれたという出自から魔力値は高いものの、それを白兵戦に活かすことはできていない。しかし現実にはバーサーカーは突出した戦闘能力を持つライダーやセイバーに肉薄している。それは何故かといえば、やはり『命を賭して革命を(フォー・レボリューション)』の力である。自身のステータスが相手より劣っていた場合、魔力消費の増大と毎ターン発生するダメージ判定と引き換えに、相手と同程度までステータスを増大させる宝具である。

 

 しかしこの万能の宝具にはひとつだけ欠点がある。相手が自身より劣っていた場合、そのステータス補正を受けられない。いや、そもそも宝具を発動すら出来まい。あの宝具がバーサーカーを下剋上の英霊たらしめる所以であるならば、己より弱者を前にして発動できるのは理屈に合わない。つまり、弱者に対してはバーサーカーは素の力で臨まなければならないということだ。

 今こうして追走を許しているのは、バイクに乗ることによりこちらの速度が格段に上昇しているからに他ならない。こちらが普通に走れば、バーサーカーは自身が持つ本来の速度でしか移動できない。

 いや、もしかすると、「死の瞬間まで一定の戦闘能力を発揮する」能力も消失する可能性がある。

 この仮説が正しいならば――下剋上の英霊は弱者からの下剋上に対し、脆弱。

 

 勝てるかも――いや、生き延びることが出来るかも知れない。死中に活路を見出す。

 だがいずれにしても、この見渡しのいい路面では不利だ。相手が自分たちよりも強いのは明白。それを打ち破るには、ゲリラ的な手段を取るしかあるまい。

 

「――見えたッ!」

 

 T字路にタイヤ痕を残しながら曲がり切ったとき、視界の先に目指す山林が見えた。この山の頂きには柳洞寺があるが、こちらは参道ではない。完全に閉じられた森である。だが、それでこそ活路がある。

 

「山の中は、結界でサーヴァントの動きが鈍るわ! とにかく、山の中に突っ込んで!」

「言われなくても!」

 

 あとは直進である。アクセルを限界まで捻ると、息をするのも困難なほどの風に晒される。だがそれに構っている余裕などない。暗がりの先で樹木に激突することも覚悟の上とばかりに加速した。

 

「■■■ァッ!」

 

 しかし、こちらが早くなればそれに合わせて早くなるのがバーサーカーである。バーサーカーは凛から迎撃されないよう、周囲の民家を利用し三次元的な動きでこちらに迫ってきた。

 凛はそれを撃墜しようとするが、その先に民家があることを悟った瞬間、わずかに攻撃が遅れる。それを見越していたとばかりに、バーサーカーは鋭く跳躍し、剣の間合いまで踏み込んだ。

 

「しまっ――」

「掴まって!」

 

 澪は振り下ろす一撃を回避しようとハンドルを捻る。だが回避は間に合わず、ホイールごと後部のタイヤを両断された。

 タイヤが斬られたことで、ただでさえ緊急回避のために危うかったバランスは完全に崩れる。もはや立て直しは不可能と判断した二人はバイクから飛び降りた。

 その瞬間、澪は中空で凛が宝石を放るのを視界の隅に認めた。その宝石から炎が迸ったのを理解した瞬間、澪は地面に叩きつけられた。

 横転して横滑りしたバイクは、すぐ近くに在った電柱に叩きつけられる。高速で電柱に激突した衝撃で、ガソリンタンクは致命的な損傷を与えられた。すぐに揮発性の高いガソリンが漏れ出す。そこに凛が炎を放ったことにより、バイクはバーサーカーもろとも爆発を伴って炎上した。

 

「無茶苦茶なことをするわね……」

「つう……これぐらいしないと目くらましにもならないでしょ」

 

 二人ともどうにか受け身を取れたため目立った怪我はない。だが服はところどころ破れ、全身に擦り傷を負ってしまった。

 ガソリンは派手に燃え、澪たちとバーサーカーを遮る壁になった。しかしバーサーカーのことである。すぐに炎を乗り越えてこちら側に来るだろう。

 

「行くわよ……とりあえず、山の中で身を隠しましょう」

 

 澪はそれにうなずき、痛む四肢を引きずるように山の中へ駆け込んだ。

 

 

 

 

 

 

 二人が考えていた以上に木々は深く、そこを突き進むのは存外に体力を必要とした。月明かりさえも木々で遮られてしまう闇の中では、小枝を避けることも出来ず体のいたるところに裂傷を負う。そうなると体を守ろうと全身が強張り、余計に体力を消耗する。

 しかしそれでも二人は黙々と山林の奥深くへと進み続けた。生き残るには、どうにかバーサーカーから逃げる他ないだろう。参道に出れば整備された道はあるが、そこには結界が存在しない。視界も開けている。それではここに逃げ込んだ意味がない。

 だが、果たして逃げ切れるのかという疑問は尽きない。そもそも出会った時点で最悪なのだ。ただの人間二人にどうにか出来るほど、英霊は甘くない。

 しかしそれでも、二人は可能性を模索し続けた。少なくとも、光の無いこの山林の中であればバーサーカーも容易にこちらを追えない筈である。じっと息を殺していれば、バーサーカーはこちらを察知できまい。

 一番現実的なのは身を隠してやり過ごすことだろうか。戦闘を避ければひとまず窮地は脱することが出来るだろう。

 だが問題は、逃走に使える足が既に無いことである。仮にうまくやり過ごしたとして、いくらバーサーカーでも二人が見つからなければ逃げたと判断するだろう。土地をマスターとして据えている以上、本気で人探しをすればバーサーカーに見つけられない相手はいない。澪の計画では、バイクが大破することは想定していない。やり過ごした後に一気にバイクで逃走する予定であったのだ。しかしその足が無くなったことで、逃げ切れない可能性が一気に高まった。

 いや、そもそも同じ理由でやり過ごせるとも限らない。わずかでも逃げ切る可能性があったのが、結界が存在するこの山の中だったというだけのこと。視界および霊的に大きな制限を課せばあるいは、という希望に基づいた計画でしかない。

 

 ならば――ここで迎撃するしかないかも知れない。二人は言葉を交わさずとも、その結論に達しつつあった。

 無論、それが無謀であることは重々理解している。だが逃げ切れる算段もないのであれば、まさしく背水の陣、死中に活を求めるしかないのである。

 それに、無謀ではあるが勝算が全く無いとも言えない。相手はバーサーカーである。まともな思考が出来ない獣が相手ならば、人が銃で武装することで熊や狼を抹殺せしめるように、手段によっては対抗できる。

 

 二人は腰を下ろせそうな場所を見つけ、そこで体を休めつつバーサーカーから身を隠すことにした。本来ならば火でも起こすところであるが、追跡者が存在する現状では望むべくもない。

 遠くから、「■■■ァァァッ!」という咆哮が聞こえた。まだ距離はあるが、果たしていつまで隠れていられるか。思っていた以上に精神的な負荷も大きかった。

 

「……隠れたはいいけれど、やり過ごせるか微妙ね」

 凛の言葉に澪は頷いた。

「ええ。今のバーサーカーは、自分が居る場所そのものがマスター。隠れていても、時間稼ぎにしかならないかもしれない」

「……バイクが走れたなら時間稼ぎでも逃げ切れたんだけどね……。こうなったら仕方がないわ。ここでバーサーカーを迎え撃つしかない」

「私もそう思うわ。……でもどうやって?」

「戦力差は明確よ。まともに戦って勝てる相手じゃない。……例え、士朗が投影した『勝利すべき黄金の剣(カリバーン)』を持っていても、ね」

 そう言って凛は澪の腰にある剣を指差した。澪はその通りだと首肯した。

「なら、まともじゃない方法しかないわね。……奇襲、知略、だまし討ち、囮。どれが一番成功率が高いと思う、遠坂さん」

「……全部使うしかないんじゃない? 出し惜しみは無し。実力差を覆すには、一点突破か初撃必殺しかないでしょう」

「一点突破?」

「地力で劣る以上、賭けに出るしかないじゃない。総合力じゃなく、相手を打倒し得ると思われる一点に賭けるしかない。――例えば、カウンター狙いとか」

「まだ最初の一撃で討ち取るほうが現実的かもね」

「そうね。邂逅した瞬間、持てる最大火力を以て瞬殺――格上の相手を倒す際の常套手段ね。それに、通常のサーヴァントが相手じゃ私たちに勝ち目は無いけど、バーサーカーならばやりようがある」

 

 無論、上手くやり過ごすことが出来たならそれでいい。だが、こちらに気付かれた瞬間、持ち得る最大の火力を以て打倒する。勝算はあまりに低く、それは二人とも理解している。

 だが、最も生き残れる可能性が高いのもまた、この作戦である。

 凛は、澪に同一化魔術の使用を禁ずる旨を改めて伝えた。澪もそれは理解しており、静かに頷いた。次に使用すれば、精神が崩壊する可能性があることは重々理解している。

 だが――使用しなくとも、既に危険であることもまた理解していた。自らの中に再現した他者の人格を完全に除去することは難しい。除去したつもりでも僅かに主人格への影響を残す。思考、言葉づかい、僅かな癖――本人が気付かない部分から徐々に影響は出る。

 以前の澪であれば、ここで迷わず逃走を選んだことだろう。だが、今や彼女の精神はアーサー・ペンドラゴンの影響を受けている。その影響が、「ここでモードレッドを打倒さなければならない」という意識を生んでいる。

 澪が同一化魔術を完全に自分のものにしたならば、あるいはこの弊害を取り除くことは出来るかも知れない。だが、澪はこの魔術を取得して日が浅い。過ぎたる力に副作用はつきものである。

 

 二人は静かに、しかし素早く迎撃の準備を始めた。最大火力と言っても、澪にそれを期待することは出来ない。ダメージソースは専ら凛となる。

 よって、自ずと澪の役割も決まってくる。凛の一撃が最大の効果を発揮できるよう、バーサーカーの足止めおよび囮を引き受けることになる。ただでさえバーサーカーは澪を標的に定めることが予想される。この役目は澪にしか出来まい。

 それに、澪は同一化魔術以外にも探査魔術を持つ。脊髄反射と組み合わせた探査魔術を上手く運用できれば、数合であればバーサーカーとも打ちあえるだろう。何せ、あのアーチャーの一撃を数度であれば回避できる程度には有用である。

 遠くから、再びバーサーカーの咆哮が耳を打った。今度は先ほどよりも近い。二人は、身を隠すと同時に迎撃出来るよう、手早く準備を進めた。

 

 そのときバーサーカーは、澪たちの姿を求めて山林の中を徘徊していた。バーサーカーは土地をマスターに据えているため、この土地に居る限りは大抵のものを察知できる。だが、大きな音、光、あるいは魔力の発散が存在しなければ大まかな情報しか入手できない。息を潜められると、大まかな方向程度しか察知できないのだ。

 加え、柳洞寺を起点として結界も存在する。バーサーカーにはそれが“結界”であることは理解できなかったが、思ったように体が動かせないことは理解していた。

 しかし、それでもバーサーカーは進み続けた。己の敵を粉砕するために。憎きアーサー王を抹殺せしめるために。

 それこそ彼の正義だからだ。人の心を持たぬ王を抹殺し、革命を世にもたらすことこそ、彼の正義だからだ。それを追い求めるが故に、彼はバーサーカーへ身を落とす。そうしてでも達成すべき正義なのだ。

 バーサーカーにとって最終的な目標は聖杯でなくアーサー王の抹殺であるから、それを粉砕することに一切の加減はしない。例え余力を無くし、そこで力尽きる結果になろうとも。

 今、バーサーカーは『命を賭して革命を(フォー・レボリューション)』の恩恵は全くなかった。澪の読み通り、これは自身より勝る相手と戦うための宝具であり、自身より劣る者との対峙で効果は発揮できない。よってバーサーカーは今、傷を受ければその分動きは鈍り、剣の鋭さも失うことになる。そのことを朧に理解しておりながら、それでもなおバーサーカーは進軍を続けた。

 それこそ、かのカムランの戦いを再現しているかのようなものだ。モードレッドは己の命と引き換えにしてでもアーサー王を粉砕すべしと戦い続け、アーサー王の姿を求め続ける。両者が出会えば、既に和解の機会など無く、剣と剣によって命を削りあうのみ。

 ならば、眼前の茂みから抜けた瞬間に、倒すべきアーサーが悠然と待ち構えていたこともまた、あの戦いの再現か。

 

「■■ァァ■■■ァァッ!」

 

 咆哮と共に吶喊。あまりにも愚直で、それ故にむき出しの感情を乗せる。

 憎悪、怨嗟、憤怒、慟哭、それら全てが融和した感情にあてられ、澪はややたじろぐ。だが逃げ出しはしなかった。死を前にしても逃げ出さない程度の胆力は澪にも備わっていた。

 バーサーカーの振り下ろす一撃。それを澪は回避しつつ受け流した。探査魔術と脊髄反射を組み合わせた回避術は、理論上では人類が発揮できる最高速度での反応を可能にする。何せ脊髄反射は信号が脳を経由すらせずに直接筋肉へ伝達する信号なのだから、反応速度のみならば英霊にも迫るだろう。

 こと回避にかけて、澪は達人級の能力を限定的に発揮できる。それならば、回避に専念すればバーサーカーが相手でも僅かながら持ちこたえることも可能だ。そして何合か持ちこたえたならば、必ずや隙は生まれる。

 バーサーカーが横に薙いだ剣を澪はバックステップで回避する。限界まで振りぬいた剣が停止するか否かの刹那、剣が太い幹の半ばまで突き刺さった。剣が勢いに乗っているときならば樹木ごとき斬り倒しただろうが、勢いが殺がれた時に刃を突き立ててしまっては、いくらクラレントといえども斬り倒すには至らない。

 予期せぬ場面で剣が半ば固定されてしまったため、うろたえたバーサーカーの動きが一瞬だけ鈍った。

 その瞬間、別の樹木の上で身を隠していた凛が躍り出た。丁度バーサーカーの背後を襲う形である。バーサーカーの意識は澪と木に突き刺さった剣に向いており、凛に気付いた様子は無い。

 手には宝石が七つ握られている。そのいずれも、最大級とまでいかずとも強力な魔力が込められている。凛は落下しながら自身の最高速度で詠唱、そして戦略どおり最大の火力を放出する。

 

一番から七番(Sieben auf einen)、連立起動《Koaliton anfang》――放て、穿て、光よ《Shine das Licht der Gerechtigkeit》!」

 

 単一の宝石から単一の術式を行使するのではなく、複数の宝石で単一の術式を実行する。結果、一つの術式に使用する魔力量は増加するため、それを攻撃に用いたのであれば高い火力を実現できる。

 複数の術式を同時に、あるいは立て続けに実行することも考えられるが、この方法の利点は、仮に相手に対魔術スキルが備わっていようともそれを強引に突破することも可能である点だ。複数の術式では、術式一つ当りのランクは変化しないが、術式一つ当りの魔力量を増加させればランクアップも図れる。これは前回のバーサーカーを知る凛だからこそ打った策である。

 

 七つの宝石の間に火花のような、あるいは電流のようなものが迸る。そして次の瞬間には、各宝石から眩い閃光が一つずつ、都合七条の閃光が発せられた。

 その閃光、今までのものとは比較できないほど凶悪。速度、威力――どれをとっても、文句無しに最大級の一撃。

 バーサーカーは背後を襲われたことを悟ったが、背中を向けていたバーサーカーにそれを回避する術はない。いや、それさえしようとしない。むしろ澪は凛が飛び出した瞬間に距離を取ったため、それを追おうとした程である。

 凛の魔術は狙いが甘いが、閃光はその質量も肥大させている。外すほうがむしろ難しい。結果、七条の閃光はあますことなくバーサーカーに直撃し、爆発を伴い爆砕せんとする。

 直撃の衝撃で土埃と白煙が舞い上がり、バーサーカーの姿を覆う。だがその余波は垣間見える。まるで迫撃砲の直撃を受けたかのような有様である。小火が辺りに燻り、何かが焦げる嫌な匂いが鼻孔をつく。

 

「――まだ息がある」

 

 警戒を怠らずに探査魔術を走らせていた澪が最初に気付いた。気配は相当に弱ったものの、まだ残っている。だが、まだ息があるというだけだ。あれの直撃を受けて無事である筈がない。

 

「……あれを受けて即死しないなんて。いくら英霊でも、直撃すればひとたまりもない筈なのに……」

 

 凛は悔しげに呟く。七つもの宝石を使い捨てた結果、望んだ成果が得られなかったとあれば当然の反応である。

 それも、あの一撃で手持ちの宝石を全て使いきったのだ。二の手は存在しない。あるとすれば、ガンドのみである。

 凛はバーサーカーに向かってガンドを放った。質量を持った呪い、それを幾度も立て続けに放つ。それらはバーサーカーが居る筈の場所を穿つが、正直なところどれほどバーサーカーに効いているかは不明である。

 その時突如、この世の全てを呪い殺すかのような声が響いた。

 

「■■■■■■ァァァァアアァァァ■■■■■■■■■ァァァッ!」

 

 咆哮と共に、バーサーカーが煙の奥から飛び出した。澪に目掛け、剣を振り上げながら疾走する。その姿は既に満身創痍。鎧は一部が砕け、その奥には焼け爛れた皮膚が覗く。全身を血で濡らし、その風体を見れば指一本さえ動かすことが出来るようには見えない。

 澪は咄嗟の判断で凛から遠ざかる。近くに居ては巻き込みかねない。

 バーサーカーが剣を振り下ろす。だが、今までと比べれば格段に速度と威力が劣る。澪は難なくその一撃を捌いた。

 

 凛の一撃はサーヴァントを瀕死の重傷を与えるという快挙を成し遂げた。あの一撃の威力のみに限れば、執行者すら凌駕する戦闘能力である。それを作り出したのは、それを成すことが可能となる状況を巧みに作り出したが故である。

 まず視界の悪さと障害物の多さ、そして結界が存在するこの山に逃げ込んだこと。つまりは澪の判断がこの結果をもたらしたといっても過言ではない。

 また、真っ向から勝負を挑まなかったことも大きい。普通のサーヴァントであれば、二人のうち一人しか姿が見えなかったのだから、当然警戒する。しかしバーサーカーにそこまでの思考は残されていない。殺すべき相手を見れば斬りかかるのみである。それゆえ背後を襲うことが可能となった。

 これらが重なった結果、ただの人間が英雄を打倒することも不可能ではなくなる。それもあのモードレッドを――騎士王の子息に致命傷を負わせるという、針の穴よりも小さい可能性を実現せしめたのだ。

 しかし――そこまでの僥倖を重ねても、英雄を殺しきるまでは至らなかった。

 それまでに英雄とは高みに位置する存在なのである。

 だが凛の一撃は決して無為ではなかった。そして、二人の読みは決して間違っていなかったことを証明する結果になった。

 バーサーカーの動き、ひいては戦闘能力が低下しているということは、即ちフォー・レボリューションの効果が発現していないことの証明に他ならない。つまりバーサーカーは「死の瞬間まで戦闘能力が落ちない」という強みを根こそぎ失ったのだ。

 バーサーカーの強さを分析、分解すれば、「膨大な魔力供給」「強力なステータス補正」「能力低下無効」の三つとなる。しかし、うち二つは澪と凛相手では失うのだ。つまり、バーサーカーの強みは魔力供給が十分に行なわれること――バーサーカーでさえなければ通常のマスターでも事足りる程度のアドバンテージしか得ることが出来ない。バーサーカーにとって、マスターの自滅の可能性が消えるのは僥倖であるが、それが戦闘能力の根幹を支えることにはならない。

 極論を言えば。今やバーサーカーは通常のサーヴァントよりも弱体化しているといっても良いのだ。

 

 しかし、それでもサーヴァントが人類を超越した存在であることは間違いない。バーサーカーは凛がもはや手出しできないのを良いことに、澪のみを標的に絞った猛攻を仕掛けた。

 一閃、などという生易しいものではない。それは一陣の暴風である。いかに澪の探査と脊髄反射の複合魔術が回避と防御に特化しているとはいえ、英霊の攻撃を凌ぎ続けるほどではない。当然避けそこない、捌きそこなう一撃が生まれてくる。

 横薙ぎの一撃を捌きそこない、もろに受け止めてしまう。澪の華奢な体でその衝撃を殺しきることも出来ず、澪は弾き飛ばされ、大木に叩きつけられる。

 気絶するほどの激痛であったが、それさえも許されない。恐ろしい一撃が畳み込まれる。もう駄目か、と思ったが体が反射的に動いた。背髄反射の長所は術者の戦意に関係なく体が反応する点にもある。間一髪のところで一撃を回避した。

 しかし、澪の地力だけでバーサーカーと戦うのはもはや限界である。こちらは反撃の糸口すら与えられない。このままではただ一方的に殺されるだけである。

 

 ――対抗策は、無いわけでない。同一化魔術を使えば、少なくとも技術的、心理的な面はバーサーカーを超えたポテンシャルを発揮できる。

 だが、それを使えば破滅に一歩近づく。使う訳にはいかない。使えば自分も只では済まない、諸刃の剣である。

 

 澪はそう理解していた。だが、戦いの最中、その考えの馬鹿馬鹿しさに呆れかえった。

 ――何が破滅に近付く、だ。破滅というならば既にそうだろう。このままでは殺されるのが目に見えているというのに、今更保身を考えてどうなるというのか。

 剣と剣の戦闘は、相手に強く踏み込んだ者が勝つ。逃げ腰では相手に傷を負わせることが出来ない。死の恐怖を乗り越え、危険を冒すものだけが勝利するのだ。

 ならば、今ここで踏み込まなければ道はない。恐れるな、恐れれば道はない。

 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあるならば、身を捨ててこそ生き残る道もまたある。確かにもう一度使えば精神を壊すかも知れないが、そうならないかも知れないのだ。案外、人格が主人格を侵害せず、別人格として定着するだけかも知れない。

 ならば、やれ。生き残りたいのであれば、死の淵を飛び越えろ!

 

Starten(再起動)――Start(開始)

「え!? 澪、止めなさい!」

 

 ごめん、と澪は凛に言った。それに凛もまた心の奥で理解している。バーサーカーを即死させられなかった時点で詰みなのだ。それを覆すのであれば、澪の魔術に頼るしかない。

 そして澪は同一化魔術を行使した。ならばここから先にあるのは、殺すか殺されるか、その二者択一を問う闘争しかあり得ない。この瞬間、一方的な殺戮から、「殺し合い」に場は姿を変えたのだ。

 バーサーカーは剣を振り上げたが、澪の気配の変化に戸惑い距離を取った。そして朧な意識でそれを理解する。今対峙する者は、こちらの攻撃に耐えるだけの贄から、こちらを狩り得る「敵」になったのだと。

 

「――久しいな、モードレッド」

「■■ァァ……? Ar……thur……?」

「その通り。正確にはアーサー・ペンドラゴンのようなモノだが、……それを言ってももはや分からないか」

「■■■ァァ■■■ァァッ!」

「……悲しいことだ。ランスロットに続き、貴方までもこんな姿になってしまった。貴方が信じた正義は、既にそこには無い。あるのはかつて正義だったモノだ。

 ……私は貴方を斬りたくはない。カムランを繰り返したくはない。だが――」

 

 澪は淀みない挙措で剣を構えなおし、鋭い眼光を放つ。そして戦火の口火を切るべく、声を荒げた。

 

「それでもなお斬らねばならないッ! 貴方が私を殺すために剣を執るならば、私もまた剣を握らねばならないッ!」

「■■■ォォォッ!」

 

 死に体のバーサーカーのどこにこれほどの力が残されているのだろうか。狂ってもなお失われなかった憎悪の産物か。バーサーカーは信じがたいほどの気迫と膂力で澪に斬りかかった。

 今まで澪が受けた剣よりも遥かに驚異的な一撃を、しかし澪は事もなげにいなす。

筋力は変化していないため、やはり受けることはしない。

 剣の技術を決定づけるのは、偏に「読み」にあると言っても良い。相手の動きを読み、次の動きを読む。極論だが、それに尽きる。いかに肉体が優れていようと、相手の剣が速度に乗ってから反応していては遅い。相手が己の剣を受けきったのを確認してから追撃していては遅すぎる。相手の初動を見逃さず、予測することが全てだ。それを時には見切りともいう。

 これは経験と才能がものをいう。その点で、アーサー・ペンドラゴンはその両方を兼ね備えている。ただ激しいだけの剣など、アーサーの前にかかれば児戯も同然。その激しさも度を超えれば脅威になるが、手負いのモードレッドはそこまでの激しさを持ちえない。

 

 バーサーカーが立て続けに剣を振る。剣を合わすこと既に十合。しかしアーサーは反撃しきれないでいた。

 やはり筋力の不足は無視しがたい。剣をいなすことに全力を傾けなければならない。そこから反撃に転じることは困難である。

 しかしアーサー王としてではなく、澪としては一つ策があった。本で読んだだけの知識だが、アーサー王の剣技を以てすれば十分に実行可能であると直感的に理解した。

もしもバーサーカーを打倒しえるとしたら、それしかあるまい。澪はその一瞬、一点に賭けることにした。バーサーカーに勝つには、もはや一点突破以外あり得ないのだ。

 

 凛はその戦いの趨勢を見守ることしかできなかった。宝石もなく、またガンドも澪を巻き込みかねないとなれば、もはや手も足も出せない。

 せめて戦いを見逃すまいと、瞬きをこらえてそれを目に焼き付けていた。

 バーサーカーは剣を振り上げる。バーサーカーには奇策というものが存在しない。ただ力に任せた一撃を振り下ろそうとしているのは明白だった。

 澪は、振り下ろす一撃に対しては剣を横へ逸らさせることで対処していた。真下への軌道へ横へのベクトルを加えることで、斜め下へ剣を運ぶのである。そうするのが一番確実にバーサーカーの剣をいなせるからだ。

 しかし、この一撃に限り澪の行動は違った。あろうことか、澪もまた剣を振り上げた。

 振り下ろす一撃に対し、剣を振り下ろす一撃を放つ。そこには防御がない。まるで相手より先に斬り伏せれば良いとでもいうような反応。

 しかしそれが不可能であることは明白だ。剣の速度のみならばおそらく同等のものを発揮できるだろう。剣の速度は膂力ではなく体のバネによるものである。手負いのバーサーカーであれば剣速のみは同等。しかし、バーサーカーの剣より速いということは決してない。

 それを鑑みれば、攻撃に攻撃で対処する澪の行動は暴挙。しかし駄目だと叫ぶ瞬間などありはしなかった。凛が声を上げるよりも両者が剣を振り下ろすほうが明らかに早い。

 

 バーサーカーが剣を振り下ろす。一瞬遅れて澪もまた剣を振り下ろす。

 ――相打ち。凛の脳裏にはそれが浮かんだ。両者ともに必殺の間合いと剣筋。相手より先に剣が届いても、相手の剣は止まらず己に届く。この状況では両者共に生き残れはしない。

 

 濃縮された時間の中、しかし凛は不可思議なものを見た。

 空中で剣と剣が触れ在った刹那、バーサーカーの剣は逸れ、澪の剣は相手を梨割りせんと頭部を捉えた。

 バーサーカーは剣を回避しようとしたが遅く、結果肩口から一直線に斬り裂かれた。

 

 これぞ一刀流剣術の極意――「斬り落とし」である。剣には通常、「鎬」と呼ばれる部位が存在する。刃に対し、盛り上がった刀身部分のことだ。刃を形成する以上、大なり小なりこれは発生する。相手の鎬と己の鎬を合わせ、文字通り鎬を削り、相手の剣を逸らさせ逆に己の剣は中心を取って相手を斬り伏せる。

即ち、攻撃と防御が同時に存在する一撃である。攻撃中を狙う一撃であるため、斬り落としが成功してしまっては回避も不可能。まさに一撃必殺の妙技である。

この技を成功させるには、「斬られてもやむなし」という覚悟が必要となる。まさに身を捨ててこそ実現できる究極のカウンター。

 

 斬られたバーサーカーの傷は完全に命を摘み取るに足るものだった。左の肩口から一直線に斬られ、心臓まで絶ち切られていた。誰の目から見ても、既にバーサーカーに戦闘能力はない。あとは失血死を待つだけの獣である。

 しかし死ぬまでの僅かな時間、バーサーカーは狂化の呪縛から解放される。もはや言葉を発することすら難しい筈なのに、バーサーカーは笑って言った。

 

「……カリバーンを持っているだけで、その実、王とは似ても似つかないではないか。父と見紛うとは、私も落ちたものだ」

「堕ちたからここに居るのです、モードレッド」

「その口ぶりもまた、王によく似ている。……察するに、精神だけは王そのものなのか」

「はい。その通りです」

 

 モードレッドは夥しい量の血を吐いた。もはや長くないことは、本人でなくとも明らかだ。既に足元から光の粒子となって消えかかっている。

 

「ならば知らぬ誰かよ、貴方を我が王(アーサー)とみなし、最後に問う。ずっとこれだけを問いたかった。……父上、私のどこが、悪かったのですか」

 

 ――貴公に王位を譲らなかった理由はただ一つ、貴公には王としての器が無いからだ。

 モードレッドを獣に落としたのは、アーサー・ペンドラゴンの言葉だ。アーサーのクローンである筈のモードレッドが、王の器が無いとは如何に。

 突き詰めれば、この問いの答えが得られなかったからこそ、モードレッドは反旗を翻すことになるのだ。

 

「……私と同じだったからだ」

「――どういう、ことでしょう」

「剣、知略、そして魂の在り方――それらすべてが、私と同じだった。だからこそ王の器ではない。

 モードレッド、私は王となったことを悔いていた。私など王にならねば良かったのだと。それを存命中でも、心のどこかで思っていたのだろう。だからこそ、私は貴方を王位に就かせなかった。……結果的に、それが原因でブリテンは滅びてしまったのだが」

「は――はは、……何ですかそれは。その様な理由――いくらでも和解の余地があったではありませんか」

 

 (アルトリア)は黙って頷いた。だが今となっては遅い。ブリテンが滅びるという過去を覆すことなど出来ない。

 モードレッドの罪は、王位を簒奪したことではなく、『敵』の言い分を聞こうともしなかったことだ。和解の道など無いと決め付けたことが、最大の罪なのだ。ゆえにブリテンは滅びた。

 もはや自力で体を支え切れなくなったモードレッドが吸い寄せられるように倒れる。しかし(アルトリア)はその体が地に打ち据えられる前に、しっかりと腕に抱いた。

 力なく抱かれるに任せるモードレッドは、まるで眠る赤子のような顔をしていた。

 

「――はは、父上。これではまるで本当の親子のようではないですか」

「何を言う。貴方は紛れもなく私の子だ。――私の自慢の息子だ」

「願わくは、あの悲劇を生む前にそれを聞きたかった。……聞く耳を持たなかったのは私ですが。

 ああ……もう限界のようです。父上、私はもう逝きます」

「……はい。アヴァロンにて」

 

 全て遠き理想郷(アヴァロン)――アーサー王が死して辿り着く林檎の園。ならば。王の嫡子たるモードレッドがそこに至る資格も当然あろう。

 そこで待つ。その言葉の持つ意味は、推して知るべきだ。

 

 モードレッドは最後にもう一度だけ笑うと、光る粒子の残光のみを残し、血すら残さず消滅した。まるで初めから誰も居なかったかのような、そんな気さえする。

 だが、アーサー・ペンドラゴンが一度ならず二度までも我が子に手をかけてしまったという事実は、確かにそこにあった。

 何故ならば、澪《アルトリア》の肩は長い時間、涙を堪えるかのように震え続けていたからだ。

 



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Act.42 夜駆ける

 ライダーの一撃は依然重く、鋭い。しかしセイバーもまた一騎当千の騎士(シュバリエ)であり、大聖堂きっての聖騎士(パラディン)である。意志の揺らいだ剣を前にして遅れを取るほど、ローランの名は落ちぶれてはいない。

 

 一合二合と打ち合い、刃と刃が触れる度に火花散る。

 もはや二人の速度に姉妹兵は追いつけない。追いつける筈もない。二人とも高ランクの騎乗スキルを有するのだ。同じ宝具馬に跨るといっても、騎手の技術および身体能力に明確な差がある。サーヴァント二人が誇る速度を姉妹兵らが出せないのは至極当然である。

 もはや姉妹兵の姿ははるか後方、闇夜に遮られ視えなくなってしまった。蹄がアスファルトを踏みならす音は微かに聞こえるものの、それももはや朧で、もうじき聞こえなくなるだろう。

 セイバーとランサーはそれほどの速度と激しさを伴って疾走し続けた。かつ、セイバーはライダーを巧みに誘導し続けた。木々に覆われた山へ。

 いくら現状では拮抗していても、馬上の戦闘ではライダーに軍配が上がることは間違いない。ならば馬を無力化せねばならない。

 

 咆哮一閃、気炎を伴ったライダーの一閃を、しかしセイバーは難なく受ける。デュランダルが片手剣である最大の理由は、騎乗時に両手持ちの剣は扱えないことに起因する。考えてみれば当然だ。馬上で両手を離すことは相当に困難であり、熟練の古兵であっても、容易に馬上から引きずり降ろされる危険を伴う。武器は片手で持ち、空いた手は手綱を握る、これが最も安定していて、かつ基本の型であることは議論の余地がない。巨大な突撃槍(ランス)であっても、決して両手では構えず、脇で挟んで支えることで片手での取り回しを可能としている。そうまでしても片手。両手はある種、異端なのだ。

 それは言いかえれば、デュランダルの真価は片手で十二分に発揮されることに他ならない。ならば、ライダーが両手で得物を構えていようが、セイバーの技巧を以てすればそれを受けること容易い。馬による疾走の勢いに乗った一撃ならばそれでも受け難いが、並走している以上、ライダーの一撃は以前ほど脅威ではなくなったのだ。

 

 故にライダーはセイバーを馬上から引きずり下ろすことも、突き落とすことも、ましてや打倒することも出来ずにいる。ライダーとて誘導されていることは理解しているものの、あろうことか馬を奪取された怒りで冷静な判断を欠いている。

 地の果てまでもセイバーに食らいつき、その首級を頂戴する所存である。

 

「どうしたライダーッ! 攻め手が甘いのではないか!」

「その減らず口、首ごと貰い受けてやるわ!」

 

 青龍刀を横薙ぎに振るい、セイバーの首を断たんと吠える。

 しかしセイバーは、それを受けることはしない。そもそも得物の質量はあちらが圧倒的に勝っている。下手に受ければ得物を弾かれるか、あるいはセイバー自身が落馬するかだ。セイバーは剣を寝かせ、剣の腹でライダーの一撃を捉えた瞬間、剣筋を無理やり逸らさせる。

 この無理に打ち合わず、剣をいなす防御法にライダーは苛立った。何度打っても柳に風、まるで手ごたえというものがない。

 無論、打ち合いを避ける姿勢を非難するわけではない。得物の差を考えれば至極当然の結論だ。ライダーが苛立つのは、馬を奪った怨敵を前にして、相手に心胆寒からしめることが出来ないでいる己自身である。

 もはや何十合と打ち合っている。ならば、もう決着しても良い頃合いの筈だ。だというのに、未だセイバーは存命である。この事実が苛立つのだ。

 

 しかし、怒りで剣の生彩を欠くほどライダーは脆くない。セイバーもまた苦しい。

 長柄の武器をまるで手足のように扱い、急所を的確かつ容赦なく捉える。しかも、デュランダルの刀身は馬上の相手を斬り倒すに十分な長さを持っているが、相手の間合いが広すぎるため、攻勢に転じることが出来ない。

 それでも刹那の見切りで猛攻を凌ぎつつ、馬を無力化できる場所まで誘導を続ける。

 

 馬というものは白兵戦において脅威である。馬によってもたらされる速度、騎乗時の急所の高さは、純粋な一騎打ちでは歩兵に勝ち目が無いほどに強い。

 しかし、高機動戦力というものは、それが馬であろうと戦闘機であろうと弱点が伴う。馬であれば、視界の開けない森や山に踏み込むことが自殺行為となることである。木々に覆われた森などでは木々に左右の動きを封じられ、簡単に馬首を返せない。また、騎手は縦横無尽に駆け抜けているつもりでも、それは木々に誘導された前進となってしまうことである。しかも、騎乗しているともはや身を隠すことはできないが、歩兵ならば身を隠すことなど造作も無い。視界と自由な移動さえ遮ってしまえば、もはや馬など脅威ではなく、むしろ歩兵のほうが脅威となる。これは、戦いの時代に生きた者であれば当たり前に知っていることだ。

 つまり、一度森に入ってしまえば、セイバーはライダーの視界から容易に離脱することが可能となり、セイバーさえ馬上から降りてしまえば有利に戦況を進めることが可能となる。ここに勝機はある。

 ゆえにセイバーは、今ここで無理にライダーと鎬を削り合う必要は無い。今は耐え、勝機を待つのみだ。

 しかしライダーは違う。ライダーとてセイバーの狙いは気付いている。しかし、ライダーにはもはや時間が無いのだ。サーシャの余命は幾ばくもない。今夜を越せるか、本当はそれすら怪しい。だからこそ、ここで決着をつけなければならないのだ。ゆえに苛立つ。セイバー一人に時間を浪費する余裕などないのに、と。

 

 丁々発止の打ち合いは火花を散らす。剣と堰月刀、前時代的も甚だしい筈なのに、どんな現代兵器でも追いつけないほどのエネルギーを発する。

 二人の意志と刃はどこまでも強く、そしてそれ故に決して分かりあえないだろう。命を削り合い、己の意志を示す。

 セイバーにも意地がある。ライダーにも意地がある。だから二人は吠える。お前が倒れろと。生き残るのは己であると。そして意地に後押しされるかのように、二人の速度は上がり続けた。もはや、二人は一陣の旋風である。もし今、二人が進み続ける路地裏に人が居たとしても、きっと蹄が地面を抉る音と、鉄と鉄が打ち合う音と、そして旋風しか感じまい。二人は今、もはやただの暴力と化している。それほど熾烈で、人智を超えていた。

 

 しかし、その弾丸の如き疾走も終着点が見えてきた。柳洞山の裏に位置する山の裾が、二人の眼前に小さく現れた。

 ライダーは舌打ちした。そして逡巡する。山に突入してしまえば、己の優勢は失い、セイバーの側に戦況が傾くのは明白。黒兎を置いて歩兵として戦うとしても、乗り続けるとしても、いずれもセイバーの有利に働く。決して勝てない訳ではない。だが、必勝とは言えない。

 だが、ライダーの決断はその迷いを覆すものだった。構わない。貴重な時間が流血を続けている。今は一刻を争う事情があるのだから、不利を承知で誘いに乗るしかない。

 そう決断するとライダーは剣戟を緩め、黒兎を奔らせた。黒兎は一馬身分、セイバーを後方に押しやる。セイバーも優れた騎乗スキルを持つが。ライダーには及ばない。並走しようと宝具馬を急かしたが、一度ついた差を覆すことが出来ず、むしろ少しずつ距離を離されていく。全身全霊を騎乗に費やしたら、速度においてライダーのクラスに及ぶものなど存在しない。

 

「貴様の目的地はあの山であろう! 一足先に行くぞ、精々のらりくらりと付いてこい!」

 

 そう言うと、速度すら落とさず、ライダーと黒兎は深い木々の中を突き進んでいった。セイバーは普通に追走することはせず、こちらの位置を一旦隠蔽するために、ライダーとは違う位置から山に入って行った。

 

 そして、セイバーはその手に角笛を召喚し、そっと腰の帯に留めた。その角笛は、宝石によって彩られ、ある種の荘厳さを感じさせるものであった。

 



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Act.43 塩

 馬は人に速さをもたらす。人には及びもつかないほどの速度で、遥か彼方まで人を運ぶ。

 輸送に使えば金銭をもたらし、通信に用いれば情報をもたらす。そして、戦に用いれば勝利をも運ぶ。

 馬にまたがれば、矮小な農夫でさえ将軍の威風を纏うことが出来るだろう。

 しかし万能ではない。馬は縦横無尽に走ることが出来るように見え、その大きな体躯ゆえに、ある程度開けた場所でないと方向転換もままならない。

 例えば――今セイバーが踏み入れた山林の中などでは、前方を満足に見渡せないどころか、側面や背後から強襲をかけられたとしても満足に反撃できないことになる。方向が変えられないのだから当然だ。馬に跨りながら背後の敵に応戦するなど至難の業である。

 

 故に、セイバーは拿捕した赤捷をここで解放することを選んだ。深い木々の中では、むしろ馬は邪魔である。手綱を引いて随行させることも考えたが、赤捷から降りた途端、彼が激しく抵抗を始めたためそれもままならなかった。

 手綱を離すと、それ以上セイバーに抵抗することはなく、一目散に山から下りて行った。先に山に入ったライダーは既に山の中腹以上に居るのだろうから、ライダーから離れる選択をしたということになる。おそらく、本来の主人に向かって進むことで、主人の位置を教えてしまうことを嫌ったのだろう。宝具馬は本当に賢いとセイバーは実感した。もしも自身が過去に体験した戦いの際、この馬が手元に居たならばと考えてしまう。

 

 馬を手放したことでセイバーは徒歩となる。ライダーは果たして馬で先行するか、それとも馬を捨て歩くか、既に相手の位置は伺い知れないために採択した選択肢は不明である。だが、騎乗し続けていたとしても、現状では脅威とならない。馬が走れば、必ず大きな音がする。落ち葉を踏みしめる音、小枝を折る音、馬の息遣い。この静かな森の中では、それらの音は非常に目立つ。

 故にセイバーは慎重に歩み続ければ良い。いずれ会敵する瞬間に先手を取れるよう、周囲に気を配ってさえいればそれでいい。

 こういう時、間違いなく澪は役に立ったろう。戦闘能力は限定的とはいえ高いが、サーヴァントはもちろん士朗や凛に劣る。状況が噛み合えばあるいはサーヴァントすら妥当し得るかも知れないが、正面切った戦いではまず勝てない。だが、こと敵を探すという一点においては右に出る者はそう居ないだろう。

 

 セイバーは歩み続ける傍ら、澪について思案した。よくよく考えれば、澪の魔術特性は一体どういうものなのか。八海山の家系は魔術的なパスを繋ぐことに長けているという。しかし、それでは澪の探査魔術の説明が困難である。

 澪の魔術特性を正しく説明できるとすれば、言わば『組み込み』ではなかろうか。人体という既に完成されたシステムの中に、新たな機能を組み込むチカラ。他者との相互通信を可能にするパスを組み込み、探査魔術や脊髄反射魔術という自動機構(オートマトン)を組み込み、他者の人格を己の人格として組み込むチカラ。

 ――下手をすれば己を超人と化すことも可能ではないか。ただ懸念すべきは、組み込んだ何かしらの『機能』を正常に取り外すことが出来ない可能性である。いわば、羊皮紙にインクで書きこんでいるようなものだ。既に完成された文章に新たに書き加えることは可能だ。だがインクで書いた以上、書きこんだものを完全に消しさることは不可能である。インクを消すにはナイフで羊皮紙を削る他無い。しかし言うまでも無く羊皮紙は損傷する。それが、今澪に起きていることに他ならない。

 羊皮紙という名の自我・精神が、書き込みと訂正を繰り返したことによって摩耗している。それも驚くほど速く。

 利点は多い。汎用性に富み、人でありながら人を超えた身にすることも容易い。だがそれは不可逆の変換だ。一度削れた羊皮紙は二度と元には戻らない。

 

 もはや時間が無い。今まさに澪はバーサーカーと出会い、刃を交えているに違いない。あるいは、既に同一化魔術を使ったかも知れない。使っておらずとも、窮地に立たされていることは間違いない。事は一刻を争うのだ。澪と繋がったパスを通じて、恐らく澪が向かいの小山――柳洞山の中腹あたりに居ることは間違いないとわかる。全力で走ればそこまで時間はかからない。だが、ここで自分が澪の元へ向かえばライダーまで付いてくるだろう。バーサーカーとライダーを同時に相手することは不可能だ。故にセイバーが今できるのは、全力でライダーを叩き、返す刃でバーサーカーを斬り伏せる。これしかない。

 

 足を急かして歩み続けると、強い魔力の奔流を感じた。それはもはや一種の瘴気である。強い殺意と闘志が渦を巻き、辺り一帯を包みこんでいる。セイバーはそれに驚くと同時に、心のどこかでこれを予期していた。

 やはりライダーめ。逃げも隠れもしない。引き連れていた姉妹兵を置き去りにする結果になった以上、今望むのは尋常な一騎討ち。

 邪魔も入らず、ただただ命を削りあう殺し合い。心の奥底で、セイバーもまたそれを望んでいることに本人は気付かなかった。騎士であれば、より強い相手と剣を交えたいと願うのは自然な心の機微だろう。斬り伏せたのであれば己の誉れとなり、切り伏せられたのであれば相手の誉れとなる。

 騎士や戦士の戦いにおいて、戦闘は必ずしも命のやり取りに留まらない。そこには誇りと誉れのやり取りがある。ならば、それに相応しい戦場と状況を望むのは、セイバーもライダーも同じだ。

 

 故に、ライダーの誘いにセイバーは乗り、またライダーもセイバーの誘いに乗って、今に至るのだ。ライダーは数を頼みにした戦術をとることもあるが、それは勝利を第一に考えてのことだ。最も良い戦術と本人の心境が必ずしも一致するとは限らない。

 軍団での戦いを得意とするライダーが、その実一騎討ちを望んでいる。ならば、セイバーもまたそれに応えるべきだろう。戦術的にもライダーがそれを望むのであれば、今セイバーがそれを拒む理由はない。

 

 ライダーの放つ気炎の元へ歩み続けると、やや開けた場所に出た。偶然か、もしくは昔火災でもあったのだろうか、草が茂るのみで木々の類が全く無い、言わば広場のような場所であった。木々で覆われていないため、相手の姿を視認できる程度には月明かりで照らし出されている。そこにライダーの姿があった。広場の中央で騎乗し、その双眸はセイバーを射抜いていた。

 

「セイバー、俺も貴様も、あれほどの速度で駆け抜けてここに辿りついた。我らの速度に迫るサーヴァントはランサーのみであったが、それも既にアサシンの凶刃に斃れた。故にここには我らのみ。

 ――セイバー、俺はつくづく思うのだ」

 

 そう言うと、ライダーは得物を手に取った。セイバーにとってはもはや見慣れた青龍堰月刀。重厚で、凶悪で、それでいて華美。

 それを天に掲げ、まるで詩でも諳んじるかのように高らかな声でライダーは言った。

 

「矜持と命を賭けた戦いに、相手の名も知らぬとはあるまじきことだと! 我が名は張遼! 字は文遠! 天の杯を主にもたらすため、主が怨敵を打ち砕く者なり!」

 

 セイバーはライダーが真名を告げたこと自体には驚きはしなかった。現に先ほど名乗っている。張遼――セイバーと同じように、彼もまた無敵の武人であったのだ。

 その武人に名を名乗られたとあれば、セイバーもまた名乗らないわけにはいかない。先ほどは名乗れなかったため、ここでセイバーはライダーと同じように剣を掲げて己の真名を宣言した。

 

「我が名はローラン! 聖騎士(パラディン)ローランだ! ライダー、問答を交わす機会は今を逃すともはや在るまい。故に聞く、泣く稚児を黙らせる誉れ高き張遼は、如何なる理由で戦うのか!」

「我が主が天の杯を欲したからだ!」

「聖杯は、もはや人にとって災厄でしか無いのだぞ!」

「それは俺の知るところではない。俺は主が掲げた正義の為に戦う走狗にすぎぬ。故に俺には如何なる義も存在しない。

 そもそも、闘争に理由など要らぬ。如何なる義を掲げて闘争を正当化しようと、人を殺めるという罪は依然としてそこに在るのだ。人を殺めることは、紛れもなく人道を外れた行為である。故に俺は人ではなく、一振りの剣であり、走狗にすぎぬのだ」

「ならば――貴方の主君を外道と言うつもりなのか」

「否。我が主は人を殺める罪を知り、それでもなお手を血に染める者だ。己の罪を知りながら、より深き罪を断つために剣を執る者、これを人という。己の罪を知りながら、大義名分で罪を塗りつぶすもの、これを外道という」

 

 セイバーはその言葉に打ち据えられた。ライダーと己の胸中はあまりにも似ている。セイバーもまた、己が正義を掲げて剣を執る者を悪とする。人はその歴史と心中を異にする。故に万人には万人の正義がある。であるならば、己の正義を他者に押しつけることこそこの上無い傲慢で、悪である。セイバーは己の罪の末にそれに至った。

 セイバーは悟る。ライダーは自分を悪とし、自分もライダーを悪とするしかない。そして両者とも自己矛盾と罪を自覚している。自分の罪を知りながら、さらに罪を重ねなければならないという矛盾。

 そして震える手を抑え込み、ライダーの双眸を負けじと射抜き、そして吼えた。

 

「それは――傲慢だ! 己の理想を掲げて他者の理想を蹂躙するなど、あってはならぬ傲慢だ!」

「然り! 人は誰しも理想を求めるが、己の理想が他者と相容れるとは限らぬ! 今の市井であれば、言葉で和解し、互いの理想を認め合うこともできよう。だが俺はそのようには出来ておらぬ。俺は一振りの剣であり、走狗に過ぎぬ故に!

 然らば、語り合う術は一つしか残されておらん。古今東西、最も愚昧で単純明快な方法だ」

 

 そう言うと、ライダーは得物を握り直し、黒兎を走らせる。気勢だけならば、およそ人類に到達できる限界にまで達していよう。

 咆哮。しかしながら呼吸は整然と。指の末端まで力を漲らせた一撃は、セイバーの胴体を両断せんと唸りをあげる。見る者が見れば、ライダーの一撃よりもギロチンのそれのほうが手緩いであろうと見抜くであろう。

 

 無論、それほどの一撃を素直に受けるセイバーではない。セイバーの得物は片手剣である。長柄かつ大振りの得物か放たれる一撃を受け止めるようにはなっていない。だからと言って盾で受けることも愚策。この一撃ならば盾もろとも切り裂くだろう。

 よって、セイバーは剣を寝かしてライダーの一刀を沿わせ、熾烈な一撃を受け流した。

 

「闘争だ! 俺はそうやって生きてきた! セイバー、それは貴様もそうだろう」

「……そうだ。私は神の名のもとに、敵を斬り伏せ、集落を焼き払って生きてきた。そうして付いた異名が――『狂えるオルランドゥ』。知っているか、この私は狂人なのだ」

 

 ローランという名は英語圏での名である。ローランの武勇が未だ轟くイタリア、そのイタリア語でローランはオルランドゥと発音する。即ち、『狂えるオルランドゥ』という名は狂人と呼ぶのと何ら変わらないのだ。

 互いに一閃、されど万人のそれを束ねたよりもなお熾烈。鉄と鉄がぶつかり合う音と共に、星明りよりもなお明るい火花が周囲を照らす。

 

 ライダーの振り下ろす一撃を流し、間髪入れずに刺突による反撃を放つ。それをライダーは難なく叩き落とし、返す刃でセイバーの首を狙う。

 一撃、回避、反撃。常人であればもはやそこで戦闘が行なわれていることすら理解出来ぬ程の応酬。それは幾度となく繰り返され、互いの体を徐々に削っていく。

 だが互いにそれで剣が鈍ることはなく、むしろ速度を増していく。技巧ではセイバーに軍配が上がるが、膂力ならばライダー。ライダーの砲撃のような一撃、そしてその間隙を突くセイバーの閃光のような一撃。

もはや、二人の間に徒歩と騎乗の差は無いと言ってもいい。セイバーは幾度となく繰り返されたライダーとの戦闘で、その対処法を身につけつつあったのだ。即ち、自ら剣に飛び込むこと。長柄の刃が速度を完全に増す前に、刃が立つか立たないかの瞬間を身切っての踏み込み。鼻先を黒兎の胴を掠めるかという距離こそ、セイバーにとっての必殺の間合いである。

 

 故に今、二人は完全に互角。どちらが優れているわけでもなく、どちらが勝ることもない。拮抗した状況を覆そうと動けば、残る側がそうはさせまいと動く。

 

 刺突、薙ぎ払い、振り下ろし、殴打、互いにあらゆる手段を以って敵を討ち滅ぼそうとするが、それも叶わず宙を割く。

 セイバーは思った。神の血を継ぐわけでもなく、祝福を受けた剣を執るわけでもなく、ただ一身のみを頼りに上りつめた男。人の身のみでここまで人は強くなることが可能なのか。あるいは、ライダーが聖杯を手にする未来もあっただろう。

 

 だが、それを許すわけにはいかないのだ。あの災厄の釜を誰かの手に渡してはならないのだ。それが例え――稀代の大英雄であっても。

 

 ライダーが一度距離を取るのを見るや、セイバーはおもむろに構えを解いた。それを見てライダーは怪訝な顔をする。ここにきて戦意を失うセイバーではないことは重々承知している。……いや、その場に居合わすものならば明らかだ。むしろ、殺気は先ほどの比ではないほどまでに膨れ上がっている。

 来る。セイバーの、必殺の宝具が。

 

「……私は悔いているのだ。馬鹿げていると思うだろうが、過去の改竄を聖杯に求めたほどだ。

 己の理想を持ち、それでありながら他者にそれを強いることはしない。私がそうであれば、我が友は救えただろう。そして、世界はもっと平和であっただろう。

 ……そして、語り合う言葉を捨てた時、人は人ではなくなり獣となるのだ」

 

 セイバーは盾の具現化を解除した。もはや無用の長物である。そして空いた左手に、腰に留めておいた角笛を握った。

 その行動だけで、ライダーはセイバーが『本気』であることを悟った。今まで決して手を抜いていたわけではない。それは今まで幾度となく鎬を削り合った過去を鑑みれば自ずと知れる。

 例えるならば、敵国の都市に核攻撃を敢行するようなものだ。選択肢は常に存在していたが、最後の最後まで実行してはならない苦渋の策。

 その角笛は、セイバーにとってはそれほどの意味合いを持つのだ。その効果範囲の広さ、無差別性そして制御不能の破壊――言わば極小の核弾頭である。加え、セイバーにとっては己の心的外傷(トラウマ)と向き合うことに他ならない。

 だが――この場ならば、その無差別破壊の宝具を使用することに憂いは無い。都市を焼き払う心配はないし、人目に付くことも配慮しないでいい。加え、ライダーはこの宝具を使うに値する。過剰すぎるということは決してない。

 もはや、セイバーが宝具を使うことに対する制約は、セイバーの心持ち次第である。そして、セイバーは既に覚悟している。再び己の心的外傷に――最大の過ちと向き合う覚悟はある。

 

「貴方は私だ! 私もまたこの様だったのだ! 貴方が自分を走狗であると称するのと同様に、私もまた一匹の獣であった。語り合う言葉を捨てた、人の形をした畜生だ!

 そして――今から私は一匹の獣に戻る。理想を掲げて剣を振るう獣、理想の鬼だ!

 見よ――神の威光を模した人の業を、背徳の街々(ソドム・ゴモラ)を焼き払った断罪の炎を! 響け、『最後に立つは我のみぞ(オリファン)』!」

 

 その名を宣言した次の刹那、角笛が淡い光を発する。角笛を象っていた膨大な魔力が、その真価を発揮せんと牙を剥く。今ならば誰しも納得するだろう。ただの角笛が、どうして必殺の宝具成り得るのか。その真価は知れずとも、その渦巻く魔力を見れば誰の目にも明らかである。

 

 そしてセイバーは、その恐ろしい肺活量を限界まで駆使し、角笛を力の限り吹いた。かつて八海山澪は、セイバーの声に対して「声量が調節できていない」と称した。だがそれはある意味で間違いである。単に、下限が人外れて高いだけだ。それは魔物じみた肺活量が生み出した副作用に過ぎない。

 鼓膜が断裂するかと思うほどの音圧は、しかし耳に心地いい。その音色は荘厳かつ神々しく、それでいて雷鳴のように力強い。

 それはこの世のどんな歌よりも清らかで、どんな言葉よりも胸を打つ。そう、まるで神の威光を知らしめるかのようだ。

 

「何だ、この音は……!?」

「――我らの罪は深く、罰を受けねばならぬ。怒りの日は来る。ダビデとシビラの教えにあるように。かの音は審判者が鳴らす裁きの音色。そして審判の後、罪深き者はもはや居ない」

 

 ライダーは頬を熱い風が掠めるのを感じた。その正体はすぐに知れることとなる。

 角笛(オリファン)から凄まじい炎を発している。――否、もとよりそれは炎で編まれた器物。その奇跡的な構造が解れ、元の炎に戻ろうとしているだけである。

 やがて角笛は炎の礫となり、セイバーの手の上で留まる。次の刹那、その炎は急速に収束を始めた。やり熱く、高密度に。

 

ライダーは直感した。この場に留まっていては命が無いと。あの炎の収束は、言わば恒星が超新星爆発を起こす直前の崩壊だ。完膚無き破壊の直前に与えられたわずか数秒の猶予時間。この時間を、セイバーを斬り伏せることに充てても良い。だが、それでは共倒れは必至。もはやあの炎球は、セイバーが絶命したとしても止まらない。

 

 逃走は必然。だがライダーはそれを拒否した。

 敵の心の機微はいざ知らず、それが大きな決断であったことは分かる。ならば、それに応えるもまた武人の心得であろう。そもそも逃げ切れるのかどうかも定かではない。ならば背を見せず対峙し続けるべきだ。

 サーシャスフィールに、必ず聖杯を持ち帰ると誓った。ならばそれから遠ざかるような真似は一瞬たりとも選択しまい。それが、ライダーの覚悟である。

 

「ライダー、一つ念を押しておくがオリファンの所有者は我が宝具によって傷つくことはない。私が相打ちを狙っているなどと楽観はしないことだ。

 もう一つ言うならば、ランサーはこの宝具に耐えてみせたぞ。お前はどうだ、ライダー?」

「無論、正面より受けてみせよう。そして凌いでみせる。然る後に貴様を斬り伏せる」

「その意気やよし。――ならば全身全霊で受けてみせろッ!」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 セイバーの咆哮に応えるように、その手の炎球が爆ぜた。

 否、ライダーにとってそれは「爆ぜる」などという認識に留まらなかった。最初に目に映ったのは、網膜を焼くほどの閃光。そして迫りくる炎の壁である。もはやライダーにとって、それはもはや球ではなく壁であった。瞬時に膨れ上がったそれは、圧倒的な光線と熱、そして体積の所為で「壁」としか認識できない。

 そしてその球が己に到達するか否かの瞬間に、木々をなぎ倒すほどの衝撃を総身で受けた。冗談じみた気密差は破城鎚のような衝撃をライダーに叩きつける。

 ライダーは黒兎から投げ出され、地面に叩きつけられる。ライダーは、顔面を守った左腕を骨折したのみで済んだが、黒兎はそうはいかなかった。急所である顔面に真っ先に衝撃を受け、まず脳震盪を起こした。次の瞬間には襲い来る炎を吸い込んでしまい、肺を焼かれる。体内に入り込んだ炎はそれだけに留まらず、黒兎の血液を瞬時に沸騰させ、黒兎を瞬く間にショック死させた。重度の脳震盪により既に意識が無かったため、ある意味では苦しむ暇すらない安らかな死であったと言える。

 

 しかしライダーにその死を悲しむ暇など与えられなかった。衝撃波に晒されたのは一瞬のみであったが、吹きつける暴風と炎熱は、ライダーの肌と体力を焦がし続けた。

 声すら出せない。否、呼吸すらままならない。未だ吹きつける火炎は、ひとたびライダーが口を開こうものならば容赦なく入り込むだろう。そうなればもはや助からない。肺を焼かれてしまってはもはや死を待つのみである。

 熱い。熱い。アツイ。

 髪を焼き、髭を焼き、肌を焼く。姿勢を低く保ち、可能な限り炎と接する部分を減らす。顔は常に地面に向け、口を外套で覆い、煙と炎を吸い込まないように保つ。

 しかしこの高温に晒され続けていては、いずれ死は必至。体中の水分が失われ、肌の至るところが火傷を追う。

 

 ライダーは舌を巻いた。なるほど、今まで使わなかった訳だ。

 こんなものを市井で使える筈が無い。あまりに犠牲が多すぎる。ある程度は効果範囲の制御が効くのだろうが、それでも下手を踏めば街一つを焼きつくしてしまうかも知れないのだ。そんなものを気安く使うことが出来る者がいたとすれば、それはもう反英雄かバーサーカー以外にあり得ないだろう。無関係な人々を巻き込む心配の無い、深い山の奥だからこそ、セイバーも使ったのだ。

 そしてもう一つ驚くことは、これを人が作り出したということだ。ここまで人の信仰とは凶悪になれるのか。神が祝福したわけでもなく、妖精が鍛えたわけでもなく、星が産み落としたわけでもなく――ただの人が敵を殲滅せんとし、その大義名分を欲したというだけで――ここまで容赦の無い奇跡を生み出せるのか。傲慢と言えば傲慢。神聖と言えば神聖。これが人の業であるというならば、なんと罪深いことか。堕落した二つの都、ソドムとゴモラを焼き滅ぼした炎がこれだというのであれば、人の身でどうして太刀打ちできようか。

 

 勝てない。一発逆転の宝具を持たない自分に、この状況を打開する術はない。立ち上がれば前進を炎に晒すことになり、かといって身を低くしていても死を待つのみ。炎もいまだ吹き荒れ、留まることを知らない。

 勝てない、絶対に。剣の技が劣っていたとは思わない。むしろセイバーよりも勝っていよう。だが、この武器の差は覆しがたい。否、覆せない。

 それを悔しく思いはすれ、卑怯だとは思わない。戦闘とは、それが起きるまでに何をするかで趨勢が決する。だからこそ、自分も姉妹兵の鍛錬を行なったのだ。偶然、セイバーが強力な武器を手にして、自分はそれを超える武器を手にしなかった。言わば己の力量不足である。真に優れた武人であれば、窮地を救う何かを予め手にしているものである。それを与えられなかったのであれば、それは己の力量不足。

 

真の武人は天をも味方につけ、窮地にこそソレを発揮するものなれば、我はその器にあたわず。

 

 本望ではないか。自分を打倒し得る敵の手によって斃れる。これを常に望んでいた筈ではないか。

 だが、何故か胸の内は暗い。いや――その理由は明らかである。沙沙だ。彼女に聖杯を持って帰ると誓った。必ず自分が死の運命から救い出して見せると誓った。それが叶わぬから、胸のこんなにも苦しいのだ。

 しかしもはやどうしようもない。自分には過ぎた荷だったのだ。許せ、沙沙。我が愛しい主、我が愛した人ならざる人、美しい女よ――。

 

「許しません」

 

 もはや耳は聞こえない。その声が聞こえたとしたら幻聴か、あるいは――念話か。

 そのときライダーは眼前に、一匹の蛇が飛び込むのを見た。しかしよく見れば、それは蛇などでは断じてない。その姿は銀。炎の中でなお煤をその身に寄せ付けず、光り輝くソレは幾重にも編み込まれたワイヤー。それが生き物のようにうねる。

 これは沙沙の――と思った次の刹那には、編まれたワイヤーが解れてその場に展開される。そして中空に新たな形を象る。

 現れたそれは大盾。ライダーの巨躯を覆い隠すほどの大盾である。その大盾は炎の暴力からライダーの体を守る。圧倒的な熱量に晒されてなお、その盾は融解することもない。まさしく堅牢そのもの。

 

 そしてライダーがその事態を飲めないでいる中、ライダーは自分が治癒の魔術の対象にされたことに気付いた。全身に負った火傷が瞬く間に癒される。熱によって失われた水分はどうしようも無いが、それでも十分に剣を振るえる程度には回復した。

 ライダーはこの状況を整理する。決して賢くはないライダーだが、正答に辿り着くまでに時間は要しなかった。

 この場にサーシャスフィールが居る。これしかあり得ない。

 おそらくセイバーの宝具の効果範囲からは外れているのだろう。それでなければこちらに助け舟を出す余裕などありはしない。しかし、こちらが窮地に陥ってから盾を出現させるまでの間隔は、サーシャスフィールが比較的近くに居ることの証明に他ならない。

 

 どうして、どうやって。

 いや、そんなことは決まっている。今宵で全ての勝負を清算しようとしている自分を助けるべく城を出たに違いない。片足を失っているが、サーシャの錬金術であれば針金を編み込んで義足の代わりとすることも容易い。負傷による高熱で騎乗が困難ならば、城に側近として残した姉妹兵を一人使えば事足りる。

 

「一人で全てを終わらせるつもりですか、ライダー。許しませんよ、そんなこと。私と貴方は一心同体でしょう? ならば最後まで私も戦わせてください。倒れそうになったら、支え合えば良いではないですか。私も貴方も満身創痍ですが、まだ戦えます。二人ならば!」

「――然り、然り、然り! 我は一振りの剣。ならばそれを執る主が居てこそ十全!」

 

 ライダーは立ち上がり、眼前に鎮座する大盾を手に取った。アインツベルンの粋を集めて鋳造した金属は、熱伝導率が術者の意志で変化する。炎に晒されている面は高温に達しているが、その熱が裏の取手側に伝わることはない。

 

「我は張遼! 炎が赤壁を超え、敵の首級を頂戴する者なり!

 沙沙、主は陣の奥で鷹揚に構えておると良い。敵の首を食いちぎるは走狗が役目! それこそ武人が華! さあ、セイバーよ待っていろ、この張遼が行くぞッ! 決して臆することなく――我が剣戟に付いて来られるか!? 遼来々、遼来々!」

 

 そしてライダーは常識外れの質量を誇る大盾をものともせず走り出す。ライダーの早さの所以たる黒兎はもう居ない。だがそれでも、ライダーは裂帛の闘志を以て駆け抜けた。長柄で大振りの青龍刀に、身を覆い隠すほどの大盾。もはや人類が扱える重量ではない。だが、まるでライダーの周囲だけ重力が軽減されているかの如く、ライダーは爆心地たるセイバーの元へ駆け寄った。

 

 迫りくる炎と暴風を盾で防ぐ。既に焼き尽くされて灰になったのだろうか、純白の地面を踏み抜く。ライダー自身、未だこんな余力があるとは驚きだった。

 愛しい誰かが傍に居る。ただそれだけのことで――こんなに足が軽いとは!

 そして炎の奥に、セイバーの姿を認める。ライダーは吠えた。渾身の力を以て、声だけで相手を殺さんとするほどに。

 

「セイバァァァァッ!」

「やはり向ってくるか、ライダー!」

 

 激突する刃と刃。だが騎馬による速度を失った分、ライダーの一撃は今までのそれよりも軽い。

 セイバーはライダーの一撃を弾き返し、返す刃で刺突を放つ。それをライダーは大盾で防ぐ。しかし、セイバーのデュランダルは大理石をも断つ切れ味と、不壊の加護を持つ聖剣である。刃はライダーの盾を貫き、ライダーの肩口を浅く裂いた。

 セイバーはこのまま盾ごと切り裂こうとする。しかし、セイバーが剣に力を込めるよりも早く、盾の一部が解けて蠢く触手となり、デュランダルを絡め取ろうとした。

 慌てて剣を引き抜くセイバー。内心では焦りを禁じえなかった。

 

 ライダーが今まであのような盾を使ったことはなかった。騎乗していたからか、それとも別の理由かは知らないが、軽視できる存在ではない。ライダーに聞こえぬよう、小さく舌打ちをした。

 対してライダーはこの盾を非常に頼もしく感じていた。先ほどの盾の挙動はライダーによるものではない。盾を制御しているのはサーシャスフィールだ。だが、まるでこちらの意を先んじたかのような動き。まさしく一心同体。

 

 セイバーは油断なく剣を構えたまま、ライダーを見据える。あの盾の得体が知れない以上、うかつには飛び込めない。下手を打てば剣だけでなく、手足の自由を奪われる。ライダーの地力を鑑みれば、そうなってしまえば死は必至である。

 

「面妖な盾を持つのだな、ライダー」

「使うのは始めてだ。だが莫逆の友のようにも感じる」

「……仕方あるまい。ここで睨み合いをしている時間も惜しい。決めさせてもらうぞ、ライダー」

「決める? 貴様の手の内はもう終いであろうが」

「誰が言った? 私の宝具は二つだなどと。私の宝具は……三つある」

「……はん。出し惜しみは無用だ。俺は耐えてみせよう、遠慮無く出すがいい」

 

 ライダーは構えなおし、セイバーを睨む。これ以上何が飛び出してくるというのか。炎の次は氷河か、それとも落雷か。

 だが防御力という点では、ライダーは先ほどよりも堅牢になっている。この盾を構成する金属は強固でありながら柔軟性に富み、熱伝導率や絶縁率も術者の意のままだ。如何なる攻撃が来たとしても凌いでみせよう。少なくとも、オリファンを超える宝具などもはや所有してはいない筈だ。これほどの宝具を二つも三つも持てる訳がない。

 

「知っているか。ソドムとゴモラを焼き払った炎は、それを見たものを塩に変える。私が操るコレは模造品ゆえに、直視しようが触ろうが塩になるほどの力はない。だが、この炎が一カ所に集まればどうなるか? さすがに見ただけではサーヴァントには効果が無いが――触れたとあれば保障は出来んぞ。

 そして……私は先ほど言ったな。私もまた一匹の獣であると。その意味、とくと知れ。

 ――『封印:狂える炎熱(オルランドゥ)』!」

 

 セイバーが剣を掲げて宣言すると、今までセイバーの左手から噴き出していた炎がその剣に収束を始める。それだけではない。既に周囲にまき散らした炎も剣に吸い込まれる。

 ライダーからすれば、常に噴き出す炎によって発生した斥力に晒されていたのが、急にそのベクトルを反転させて引力に変じたように感じた。そのせいで一瞬のみだがバランスを崩す。

 

 炎が剣に集まる。それに合わせて剣が熱と赤みを帯びる。既に、尋常な剣であれば熱で融解しているだろう。だが、ことセイバーのデュランダルはそうはならない。何故なら、いかなる状況であろうとも、例え所有者が絶命しようと、デュランダルは決して壊れない。その姿を変質させることもなく、その切れ味も決して落ちることはない。

 

「□□ァ……□□□ァァァッ」

 

 ライダーはその場に相応しくない声を聞いた。それは、理性を失ったものが放つ声であった。まさしくバーサーカーの声である。だがこの場にバーサーカーが居る筈もない。居るならばとっくに乱入している筈だ。それに、声色が微妙にライダーの知るそれと異なる。

 

 炎が剣に封印されていく。剣の内部で再構成されていく。『封印:狂える炎熱(オルランドゥ)』は角笛の状態から炎に戻ったオリファンの炎を、剣の内部でそれに相応しい形で再構成する宝具。人の手で作り出された模造品であるからこそ、人の手で制御も可能。この宝具は、デュラダルを制御するための術式である。

 だがいくら模造品とはいえ、それは神の奇跡。これを人の身であるセイバーが制御するとなると代償が必要となる。

 

「□□□□ァァァァアアアッ!!」

「お前か、セイバー……? 貴様、炎と一緒に正気までも封印したのか!」

 

 この炎を剣に封印するには、剣と一緒に精神も封印することでしか成し得ない。剣の外部からではなく、内部から押しとどめなければ不可能なのだ。剣が門だとするならば、炎は荒れ狂う獅子。外から門を閉めるだけでは溢れかえるというならば、内から獅子を静める必要があるのだ。

 そして正常な精神が封印された後に残るのは、セイバーのもう一つの側面。そう――狂えるオルランドゥ、狂人としての側面のみが残る。

 一時的とはいえ、宝具によって己のクラスを変更することが可能な唯一のサーヴァント。それがローラン。今、ローランはセイバーからバーサーカーへ変貌を遂げる。セイバーの言葉を借りるなら――正義を掲げた狂人、理想に取りつかれたバーサーカーへとなり果てる。

 

「それがかつての貴様の姿であるというのか! それが貴様の正義の末路か!」

 

 ローランはそれに応えない。返答の代わりに咆哮を以て答える。

 セイバーの狂気の声に呼応するように、デュランダルへ炎が吸い込まれていく。熱で赤みを帯びた剣は次第に白へ変化し、輝きを増す。それはまさしく極小の太陽と言っても過言ではない。炎を封印していくにつれ、より熱く、より眩い光を放つ。そして炎をすべて封印しきったとき、その剣は月よりも明るく闇夜を照らしていた。昼よりも眩く、どんな炎よりも鮮烈に。

 その輝く剣は、まさしく神の威光を束ねたもの。罪深き者を焼き尽くし、罪なき者を救済する断罪の剣。

 ソドムとゴモラを焼き尽くした炎は今――まさしくセイバーの手の中にある。

 

「□□□□ァァッ!!」

 

 ライダーに視認できたのは、尾を引く剣の軌跡のみであった。あまりの閃光に剣筋が見えない。だがそれでも刹那の見切りで身を引き、盾で身を守った。

 セイバーの薙ぐ一閃はライダーの盾を袈裟に切り込む。だがそれは金属と金属が衝突する音では断じてなかった。ライダーの耳に聞こえたのは、ただ剣が空気を切り裂く音のみ。盾に伝わる衝撃も驚くほどに軽い。

 だが決してセイバーの一撃が空振りに終わったわけではないことは、ライダーには疑う余地もなかった。何故ならばゴトリという音と共に、切り裂かれた盾の一部がライダーの足元に転がったためである。まるで熱したナイフでバターを斬るかのように呆気なかった。断面は赤熱し、一部が融解している。

 あまりの熱量の所為で、斬りつけたものを溶かしながら斬る剣。それがセイバーの宝具の真髄。

 まさしく防御不可能の一撃だ。不壊の属性を持つ武器や防具でなければ決して防げない一撃だ。そしてライダーにはそのような武器は無い。防御ではなく回避に専念する意外に活路は無いが、この閃光の前では剣筋を身切ることは困難。

 

「□□□□ァァ、□□ァッ!!」

「――ッ!」

 

 逆袈裟に振り下ろす一撃。踏み込みは深く、セイバーの一撃を避けることは不可能。

 だがそれでもライダーは最後の瞬間まで回避を試みた。それと同時に得物での防御を試みる。ライダーの右側面から振り下ろされる一撃を、ライダーは左へ飛ぶことで回避せんとした。しかし、セイバーの剣はライダーの得物の柄を斬り落とし、そのままライダーの腕を肘から切り落とした。

 

「がああッ……!」

 

 流血は無い。斬られた瞬間には傷口を焼かれている。だがその圧倒的な熱量はライダーの血を煮え滾らせる。ライダーは煮えた血が全身に回らぬように、握り潰すほどの勢いで肩口を押さえた。いや、実際に握り潰していた。それほどまでしなければショック死は必至。もし常人がセイバーの刃を受けていたら、間違いなく煮えた血が全身を回り絶命していたことだろう。

 

「ぐ、おおお……」

 

 身を焼かれる痛みは筆舌に尽くしがたいものだ。だがライダーはその痛みに耐える。双眸はセイバーを睨み続ける。その眼光は、未だ闘志に燃えていた。

 そのときセイバーの動きが止まる。剣に施された封印を保てなくなったのか、剣から炎が噴き出し始め、それはセイバーの眼前で再び角笛の形を象っていく。

 それと同時に、セイバーの狂気の目に理性が戻る。封印:狂える炎熱(オルランドゥ)の効果は僅か数秒しか持続しない。必然的に、セイバーのクラスからバーサーカーのクラスへの移行も僅か数秒しか持続しない。

 

「まだだ……まだ腕が一本落ちただけだ! まだ俺は両足で立っている、まだ左の腕が残っている!」

 

 そう言うとライダーは半ばほどで切り落とされた青龍刀を拾い上げ、左腕一本で構える。額には大粒の汗が浮かび、息も荒い。しかし闘志だけはいささかも衰えてはいなかった。

 しかしセイバーは構え直さなかった。

 

「いや……もう終わりだ、ライダー」

「何をッ――」

「得物を良く見てみると良い」

 

 ライダーが目線を青龍刀へとやる。その変化は歴然であった。何やら白い物体が青龍刀の断面に付着していた。そしてその物体は凄まじい速度で青龍刀を侵食し始めた。否、そうではない。断面からおぞましい程の速度で、青龍刀が白い物体に変質し続けていた。

 驚きの声を上げる暇すらなく、青龍刀は完全に白い物体に変質してしまった。そしてライダーが少しだけソレを握る手に力を加えると、それは音もなく崩れる。手に残った僅かな粉末をライダーは観察した。そしてそれの正体を知った時、自分の命運もまた知った。

 

「――塩」

「そうだ。背徳の街を焼き滅ぼす炎は、炎に触れた者を塩へ変える浄化の炎。周りを見てみろ、ライダー。見渡す限り白い世界へと変わっているだろう。これは灰ではない。全て塩だ」

「……つまりは俺の命運もここまでか」

「……そうだ。今際の際に、何か言うことはあるか」

「何も無い。俺は最善を尽くした。故に悔いることなどない。……主との誓いを果たせないことは遺憾極まるが、それを今更言っても仕方があるまい。……もはや令呪の力を以ってしても覆せぬ死の運命だ。せめて笑って逝くのが武人だろう」

 

 ライダーは左腕に感じていた痛みが引いていくのを感じた。見れば、既に左腕は殆ど塩に変質している。

 この塩化の神秘は強力無比だ。これを覆すには、運命すらも覆すほどの強力な治癒が必要になるに違いない。成程、あのランサーだけは生き延びることが出来る筈だ。裏を返せば、ランサー以外にこれに耐えられる者が存在しないのではあるまいか。

 

「……セイバー。悪いが、前言撤回だ。一つだけ頼みがある」

「内容によるが、聞こう」

「おそらくこの山中に我が主が身を隠している。俺の死に報いようと、お前を襲おうとするやも知れん。だが、何があっても見逃してくれまいか。

 アレも、俺と同じ。すぐそこに死が待ち構えている命運よ。ならばせめて一秒でも長く生きていて欲しいのだ」

「……聞き遂げた。貴方のマスターには手を出さないようにしよう」

「すまない。セイバー、貴様を信じるぞ。……聞いたか沙沙、それが俺の最後の願いだ。断じて、俺の後を追おうなどと考えるでないぞ」

 

 ライダーの塩化は首元まで進んでいる。呼吸が出来なくなるまでもはや幾許も無いだろう。

 ライダーは不敵に笑い、そして手を天に掲げ、高らかに謡った。

 

「我が名は張遼! 字は文遠! 古今無双たる我が名を聞け! そして我を破った武人に誉れあれ!

 さらばだ沙沙! いや、サーシャスフィール・フォン・アインツベルン! 俺は先に逝く、せいぜいのらりくらりと、遅れて付いて来るが良い!」

 

 そう言い終わるや否や、ライダーの心臓は塩へと代わり、ライダーは苦しむ暇も無く絶命した。絶命した後の塩化の速度は今までの比ではなく、一秒足らずで全身くまなく塩となった。後に残されたのは、ライダーの形をした塩の像である。

 だがそれも自重に耐えかねて崩れ落ちる。そうして出来た塩の山は徐々に光る粉末へと変じ、ほどなくしてライダーは完全に消滅した。

 

 セイバーはそれを確認すると、踵を返して往路を戻り始めた。決してライダーのマスターを探そうなどとはしない。

 山を下る途中、一度だけ女が泣く声を聞いたが、それを気の迷いと打ち捨てて進み続けた。結局、セイバーの前に誰かが現れることはなかった。

 

 

 

//-------------宝具情報---------------//

最後に立つは我のみぞ(オリファン):A+

対城宝具:レンジ1~999

 

 人が造り出した神の炎の模造品。通常は角笛の形をしているが、その実それは炎で編まれた器物。真名解放の後に笛を吹くことで発動可能。解放されると、周囲全方位に渡って神の炎を噴出する。

 無差別性ではおそらく右に出る宝具は無いと思われる。唯一効果の対象外となるのは所有者のみである。ある程度効果範囲の指定は可能だが、最低でも半径50メートルは火の海となる。

 また、この炎を見た者や触れた者を塩の塊へと変質させる効果を持つ。通常、解放した状態では一般人すら塩に変えることは出来ないが、草木や無機物などであれば塩化させることが可能。炎を集中させればサーヴァントでさえ塩化させ得る。

 

 ◆

 

封印:狂える炎熱(オルランドゥ):C

対人宝具:レンジ1

 

 オリファンの炎を何かに封印することを可能にする宝具。オリファンの無差別性を排除し、ある程度の汎用性を持たせる為に編み出された術式。しかし、一度オリファンを解放させた状態でしか使用できないため、無差別性が完全に排除されたわけでない。

 デュランダルに封印することで、オリファンの塩化効果を最大限に発揮させることを可能とする。事実上、この宝具はデュランダルが無ければ使用不可能である。なぜなら、不壊の効果を持つ宝具と対で使わなければ、封印させる器物そのものが塩化してしまうからである。逆に言えば、塩化されても構わないのならばなんにでも封印することが可能。

 この宝具を使用する代償として、術者は自分の理性をも炎と一緒に封印しなければならない。結果、術者のクラスは自動的にバーサーカーへと移行する。その際の凶化スキルはD相当となる。



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Act.44 邂逅

 アサシンが居たビルの屋上は、もはや冗談としか形容できない程の破壊に見舞われていた。一切の誇張なく、負けずの魔剣(クラウ・ソナス)がもたらした破壊は無慈悲なものだった。

 まず、ビルの屋上はもはやその原型を留めていない。正確に言えば、屋上は完全に瓦解しており、階下のオフィスが吹き抜けになっている。鉄筋すら残っていない。超高温の炎に晒され、瞬く間に蒸散してしまった。

 故に、アサシンが目立った負傷もなく生存できたことは、本人とっても僥倖であるとしか形容が出来ない幸運であった。咄嗟に非常階段で階下に退避したことが功を奏したか、アサシンの負傷は軽度の打撲と火傷程度であった。

 ただし、ドラグノフ狙撃銃は失うことになってしまった。狙撃銃とはえてして重量があるため、あのような緊急避難を強いられた状態では置き去りにせざるを得ない。残骸を確認はしていないが、跡形もなく蒸発していることは間違いないだろう。運よく蒸発を免れていたとしても、使い物にはなるまい。結果、アサシンの装備は、ホルスターに収めていたコンテンダーとAK47自動小銃(カラシニコフ)のみである。コンテンダーはもとより、カラシニコフの残弾もそう多くは無い。予備のマガジンが二つあるのみである。火器以外では、手製の閃光手榴弾とコンバットナイフ程度だ。本来ならグレネードも欲しいところだが、今回はそこまで装備を整えることができなかった。購入が無理ならば閃光手榴弾のように自作するということも考えたが、そもそもグレネードの火薬は一般的な黒色火薬や花火とは訳が違う。マグネシウムの粉末を詰め込めば済む閃光手榴弾とは訳が違うのだ。そこはどうしても諦める必要があった。

 

 しかし、人間一人を相手にするだけならば過剰ともいえる火力を有している。アサシンの装備は、少なくとも中東あたりのテロリストよりも上等な装備だ。カラシニコフは申し分の無い整備が施されており、弾薬も新品同様のものばかりを購入している。また本人の射撃の腕前も相当なため、民兵相手ならば一個小隊程度を殲滅できよう。

 だが、それほどの装備を手にしていても、まだ足りないとアサシンは考えていた。

 その原因は、言及するまでも無くあの青年である。あれは一体何者だというのか。少なくとも一般人ではないことは確かである。あれは戦場を知っているものの動きだ。少なくとも狙撃手の行動や心理は知り尽くしている。いくら遠距離からの狙撃とはいえ、アサシン(切嗣)の狙撃を何度も回避できる一般人が存在する筈が無い。

 次に、魔術師であることも間違いない。ビルの屋上を吹きとばす程に、戦闘に優れた魔術師である。以上の点から導き出される答えは、自分のように戦場に身を置き、その中で魔術を行使し続けた者――すなわち魔術使い。

 

 魔術を知りながら魔道の探求を捨て、己の目的のためだけにそれを行使する存在。その心中はいざ知らず、自分と同じくそういう存在であることは間違いない。であるならば、自分はどのようにこれを打ち破ればいいのか。アサシンはそれを考え続けた。

 

 ただの魔術師ならば造作も無い。魔術を過信するその心理を逆手に取ればよいだけのこと。ただの武装した兵ならばさらに問題ない。魔術を知らない相手に魔術を行使して屈服せしめるのは、赤子の手を捻るよりも容易いことだ。

 しかしその両方ならば、どうすればいい。――しかしこれも容易い。敵が自分ならば、どう考えてどう行動するか。これを考えればその裏を突くこともさほど困難な話ではない。

 

 まず、自分ならば相手の生死を確認する。今回の場合、相手を抹殺せしめたと考えるのはどう考えても早計だ。相手もろくに視認していない状態での威力に任せた爆撃、これで相手を確実に仕留めたと考えないほうが良い。ビルごと破壊したならば話は違うが、今回の場合だと相手は回避が不可能ではない。――実際、今自分が生き延びているように。

 ならば、相手は危険であろうことを知りつつ、ここに足を運ぶ以外にない。少なくとも、このビルは周囲で最も背が高い。周囲のビルから自分の姿を探すことが困難な以上、自分の足でここに来る以外に無いのだ。

 ならば待ち伏せれば良い。それが最良だ。ここでやはり、グレネードを持っていないことが悔やまれる。それさえあれば、簡易なトラップを仕掛けることも難しくは無いのだが、無いものを悔やんでも詮無いことだ。

 アサシンは今や屋上となってしまった最上階のオフィスに身を隠し、けたたましく鳴り響く警報の音を聞きながら、敵がこの場に来るのを待った。侵入経路は、ビル内部の階段とエレベーター、そしてビル側面に設置されている非常階段の3つだ。

 

 自分ならば、ここでエレベーターは使わない。万が一爆薬でも設置されていたら袋の鼠だ。逃げ場がない。非常階段も可能ならば避けたいところだ。非常階段は薄い鉄板を組み合わせただけの簡易なものであり、周囲から身を隠すことが出来ない。また、鉄板が足場となるため、足音を消すことも難しい。よって、自分ならばビル内部の階段を選ぶ。左右にもある程度の幅が確保できているし、逃走時に階下のオフィスに潜り込むことも可能だ。あらゆる状況に柔軟に対応しようと思えば、この経路しかない。

 よって、アサシンは階段が良く見える位置に陣取り、カラシニコフをそこに向けて侵入者を待ち続けることにした。

 

 ◇◆◇◆◇

 

 士郎はアサシンの思惑通り、ビル内部に侵入して敵の生死を確認することを選んだ。これがもしライダーやランサーならば、一矢報いたことを良しとしてこの場を離脱することを選んだだろう。本来の役目は陽動であり、サーヴァントの排除は過ぎた荷である。

 しかし、相手がアサシンならば話は別だろう。

 新旧問わず、戦の終盤において肝要なのは残党の処理である。一定の局面が終盤であればあるほど敵対勢力は機会さえあれば仕留めにかかるべきだ。終盤となれば各陣営取るべき行動は自ずと定まり、すなわちそれは奇襲や奇策の標的になる。この終盤にアサシンが残り続けたことは実のところ脅威と言えるのだ。

つまりここで逃がせば、今後も常に背後を狙われる危険に晒される。アサシンも今までのように身を隠してばかりではない。今回、澪を狙撃したのも、聖杯戦争が終わりに近づいたことで雌雄を決めにかかったに違いないのだ。今までアサシンに狙われなかったのは、ある意味で御しやすしと舐めてかかられていることになる。いつでも倒せるなら今は泳がせておこう、と。

 

 事実、澪は戦闘に長けているわけではない。セイバーはセイバーで、搦め手には疎い。屋敷にも防御結界が張られているわけでなく、外敵からの不意を突いた襲撃には弱いと言わざるを得ない。

 その状況を鑑みれば、ここでアサシンを討つべきだ。現在、セイバーはライダーと、澪と遠坂はバーサーカーと戦っている。アサシンを倒せないにしても、ここでアサシンを釘づけにしておくことには大きな意味がある。この終盤で、アサシンが勝つことがあるとすれば、自分以外の二者が戦っている最中で身を隠し、いずれかが勝利を収めた瞬間を狙うのが得策である。特に、バーサーカーと戦っている筈の澪と遠坂が危険だ。バーサーカーが生き残った場合はその限りではないが、澪が勝ったとしてもそれは辛勝に違いない。アサシンの奇襲を防ぐ手立ては存在しないだろう。

 

 ならば、ここでアサシンを討つしかないのだ。それが叶わないとしても釘付けにして時間を稼ぐ必要がある。距離で言えば、士郎よりもセイバーのほうが澪達に近い。ましてや士郎の移動速度はあくまで常人のそれだ。ならばここはセイバーが間に合うか、澪達が勝利を収めるほうに賭けるしかあるまい。

 それに、何やら胸騒ぎがするのだ。もしアサシンの討伐を誰か他の人に任せれば、自分は後悔するような――もしくは嘆くか。行かねばならない。そんな、第六感とも言い切れない、不思議な脅迫概念に後押しされて、士郎はビルに踏み入った。

 

 侵入経路の模索は、まさしくアサシンと同じ考えだった。エレベーターは論外で、外の非常階段も出来れば避けたい。相手の裏をかくという意味では有効かも知れないが、相手が非常階段へ注意を払っていないということはあるまい。少なくとも、全くの想定外ということは絶対に無い。

 消去法で、ビル内部の階段を進むことにした。最も危険とも言え、それでいて最も安全とも言える道のりである。

 

 さすがに正面玄関は避け、裏口に当たる搬入口から侵入。シャッターには鍵がかかっていたが破壊した。搬入口は非常に簡易な作りであり、一見してセキュリティの類は見当たらなかった。おそらく普段から人の出入りがあるのだろう、意図して防犯を放棄した節がある。そもそもこの建物は非常に陳腐な貸しビルなのだ。セキュリティなど期待するほうが間違っているだろう。警備員も当然居ないようだった。

 ただ、先ほどの騒ぎですぐに人が集まってくることは明白であった。すぐに事を済まさなければならない。

 搬入口から一部屋ずつ油断なくクリアリングしていく。正面玄関まで回ってきたところでオールクリア。一階には何の脅威もない。罠の類が無かったのが拍子抜けであるが、そもそも急ごしらえの罠では満足な効果が期待できないとの判断だろうか。それとも罠を張る暇は無かったか。

 

 ここで士朗は、想定しうる罠について考え巡らせた。

 そもそも――アサシンは何処の誰なのだろうか。アサシンに成りうる英雄は基本的にハサン・サッバーハ以外には有り得ないとされている。十字軍の要人を暗殺して回った、イスラームのシーア派に属する暗殺教団の頭目――それがハサンである。ある意味ではセイバーの不倶戴天の敵と言っても過言ではないだろう。

 

 その暗殺教団が――銃器に頼っている?

 今回受けたアサシンの攻撃は、狙撃銃による遠距離射撃である。それも一朝一夕で身に付けた技術などではないことは、対峙した士朗にとって身にしみている事実である。生前から銃器を用いていたと考えるべきだ。

 ならば誰だというのか。暗殺教団の時代は中世ヨーロッパである。その時代の銃は日本の火縄銃と大差ない。英霊ともなれば火縄銃で百メートル超の狙撃が可能なのかも知れないが、ならばあの射撃間隔の説明がつかない。あえて言及する必要もないことだが、火縄銃は一度射撃すると次の射撃までに時間がかかる。士朗が受けた狙撃は、順当に考えれば自動小銃によるものだ。相当に譲歩してもボルトアクション式である。

 

 ならば少なくとも近代の英霊でなければ説明がつかない。前回のように、何かのイレギュラーでハサン以外の英霊がアサシンに当該していると見るべきか。

 ならば誰か。真っ先に考えたのは、白い死神と言われるシモ・ヘイヘであった。彼ほど狙撃に精通した人類はいまい。あるいはホワイト・フェザーと呼ばれるカルロス・ハスコックか。それとも旧ソの女傑、リュドミラ・パブリチェンコか。

 彼らは間違いなくサーヴァントとして呼ばれてもおかしくない英霊たちである。だが、実際のところどうなのだろうか。これらの狙撃手はアサシンではなくアーチャーに当該する類のものではないだろうか。暗殺者とはやはり違うように思える。

 

 あの英雄でも、この英雄でもないと思案しているうちに、一人の可能性に思い当たった。義理の父――衛宮切嗣。

 士朗とて、前回の聖杯戦争から数年間は戦場に身を置いてきた。かつ、魔術の深い位置にある程度ならば通じている。魔術の深淵を知るにつれて、その噂話を聞く頻度は増えた。

 長期に渡り海外で生活する以上、その先々で日銭を稼ぐ必要も出てくる。時には魔術師からの依頼をこなすことも当然ある。そのとき、衛宮の性を名乗っただけで白い目を向けられたことも、あるにはある。問いただしてみたこともある。

 曰く、魔術師殺し。魔術師専門の暗殺者。衛宮切嗣はそう呼ばれていた。具体的にそれがどのようなものなのかを説明できる人は遂に見つけられなかった。遠坂曰く、それはつまるところ、自分の魔術が相手の知るところとなれば自分が百年目だが、それを知った時には相手が百年目ということ。言いかえればそれはまさしく必殺。命中さえさせれば敵を必ず殺す類のものであり、かつ傍目には説明が難しい類のものということだ。

 しかも、その話は防御すら不可能ということを如実に示唆している。

 そして、その魔術師殺しを確実に遂行するために、搦め手の類を好む。銃、爆薬、毒薬、脅迫――そして魔術。手段は問わず、使えるものは何でも使う。特に銃器を主な武器として使用していたらしいと聞き及ぶ。

 

 まさに暗殺者にして、狙撃手ではないか?

 いや、馬鹿な考えだろうと一蹴したが、それは靴底に張り付いた得体の知れない粘液の如く、いつまでも思考の隅に居座り続けた。

 有り得ないと考えつつ、その可能性を検討し続ける。そもそも英霊として座に存在すること自体が考え難い事だ。基本的に、世界と契約した人間か死後に英雄として祭り上げられた人間でないと英霊として存在出来ない筈である。

 その他の可能性は有るのか? とびきりのイレギュラーとして存在している可能性は?

 

 ――もしサーヴァントとして召喚されていたとして、自分は父親を殺せるのか?

 

 本当の父親ではない。しかし、本当の父よりも大事な人だ。己の人生の大半を決定づけた、誇るべき人だ。

 その人を攻撃することができるのか?

 

 いや、よそう。有り得ない事の筈だ。

 もしそうだとするなら、何故自分たちを攻撃するのか。何故顔を見せようとしないのか。

 それらの事実が、今から邂逅するだろうサーヴァントが衛宮切嗣ではないということを示唆している。

 

 ここまで考えていると、いつの間にか二階の部屋は全て確認していた。何とも気の抜けたクリアリングである。もしも敵が潜んでいたならば、反応する暇もなく惨殺されていただろう。

 士郎は無理やり思考を脳から追い出し、機械的に部屋を改めて回った。

 手には中華剣・干将莫邪。大振りの二振りは咄嗟の状況において、良い働きを見せてくれることだろう。狭いオフィスビルではどう間合いを広くとっても中距離程度にしかならない。白兵戦の距離で邂逅したならば銃よりも優位な状況に立て、中距離ならば身を隠しつつ剣を投擲して対応、しかる後に何らかの刀剣を投影しての応戦。あらゆる状況に柔軟に対応できる。

 

 二階もクリア。三階も特に異常は無い。

 その調子で上階に次々に上がっていくと、遂に最上階だけが残った。いや、正確には現時点での最上階である。案内板にはもう一つ上に階がある筈だが、階段が瓦礫で埋まっている。

 士郎が放ったクラウ・ソナスの威力は凄まじく、屋上がほぼ全壊であることは地上からも見て取れた。これより上の階はほぼ全壊ないし半壊だろう。ここが最後の階であると当りを付けた。

 

 明りらしい明りは無い。先ほどの破壊の影響で、諸所に炎が付いている。しかし作動したスプリンクラーの所為で大半が鎮火している。唯一の光源は燻っている燃え残りのみである。

 これより階下はまだ電気が通っていた。そのおかげでクリアリングも幾分か楽であったのだが、この階はそうはいかない。何かを見ようとすると光源を手に持つしか無くなるが、それは敵にこちらの位置を教えていることに等しい。

 結局のところ、暗闇の中を手さぐりで探すしかない。士郎はもともと目が良いため、魔力で視力を水増しすれば何とか敵影を確認する程度は可能である。それでも見落としの可能性は増すだろうが、光源を持つことの不利に比べれば幾分ましである。

 いっそこの階を丸ごと焼き払ってしまえば片付くかと思ったが、そうはいかない事情がある。現在、最優先すべきことはアサシンの足止めである。間違ってもセイバーや凛のところにアサシンを向けてはならないのだ。今逃せばそれは両者の危機に直結する可能性がある。アサシンは雌雄を決しにかかっている。搦め手専門であると野放しにできる時期は既に終わったのだ。

 

 ならば無理にいぶり出すような行動はアサシンを泳がせる結果に繋がる。おいしい餌をちらつかせ、ここに釘付けにすることが肝要だ。

 

まず階段の踊り場から慎重に身を乗り出す。罠の類が仕掛けられていないか確認した後、通路の確保。通路には敵影なし。

 入口が一番近い部屋の前に立ち、耳をすます。物音は無い。ドアノブに手をかけ、蝶番が軋まないように力を微妙に加減する。手のひらに嫌な汗が纏わりついて不快だった。しかしそれを拭うこともせず、ゆっくりとドアを開き、いつでも剣を投擲できる体制のまま徐々に視界を確保する。

 ドアを全開にしたところで再度部屋の全体を見渡す。やはり敵影なし。後ろ手でドアを閉める。これでもしこの部屋で出入りがあれば気づける。やや雑多なオフィスを念入りに見て回り、完全を検めたことを確認する。

 他の部屋を検めるため一度通路に出る。部屋から半身だけ通路に乗り出したとき、視界の片隅に銃を構えた男を見た気がした。

 

「――ッ!」

 

 次の刹那に通路の奥より連続した発砲音。マズルフラッシュが眩しく光る。

 士朗は咄嗟に、後方へ倒れ込むようにして室内に体を引き戻した。直後、半分ほどまで開いていたアルミ製のドアが無残にも蜂の巣にされる。下手人は照準をやや横に動かし、室内にも銃弾の雨を浴びせかけたが、士朗は既に死角に入りこんでおり、銃弾が届くことはなかった。いくつかの銃弾はドア付近の壁に命中し、生々しい弾痕を残している。

 士朗にとっても下手人にとっても、これは一つの情報であった。

 見た目は安普請だが、以外にも作りは頑丈だ。弾丸が貫通しないのであれば、遮蔽物に事欠かないことになる。銃撃戦の基本は遮蔽物の確保となるため、早い段階で銃弾が貫通する物体の確認をするのは重要な要素である。

 加えて士郎は、相手の銃を知ることができた。銃を確認したのは一瞬であったが、まずカラシニコフと思って間違いない。士朗は長らく中東の紛争地域にいたのだ。

 壁がカラシニコフの銃弾を通さないことが分ったため、士朗は壁に寄り掛かり、ドア付近で息をひそめる。壁越しにアサシンの行動を探る。少なくとも接近する気配は無い。

 

 ならばこちらから仕掛けるか。そう考えた刹那、士郎の足元に何かが投げ込まれた。

 士郎は反射的にそれを注視した。周囲は暗闇の中であるが、魔力で水増しした視力であればなんとか判別することができた。

 それは透明な容器に入った何らかの粉末と、容器に付随したタイマーのようなものとライターのようなものだった。粉末の正体はおそらくアルミニウムの粉末。

 

 そこまで判断したとき、瞼を開けていられないほどの強烈な閃光が放たれた。目を塞ぐよりも僅かに閃光手榴弾の発火のほうが早かった。

 目をやかれたのは一瞬であっても、暗闇で瞳孔が開いていた眼球には十分すぎるダメージだ。視界はホワイトアウトし、瞼を閉じていても白い光が映し出される。当然、目を開いても何も見えなかった。

 

 もしこれが一般人やあまり訓練されていない新兵ならばパニックを起こしていたであろう。だが、士郎はかろうじて冷静を失わなかった。いや、内心では相当に焦っている。焦ってはいるが、ここで半狂乱になっては駄目だと自分に言い聞かせた。

 視力の回復までは時間がかかる。魔力の浸透した目は回復も早いが、それでも十数秒は無力だ。それまで戦闘は避けなければならない。銃を持った相手ならば、十数秒もあれば相手を蜂の巣にできる。

しかし逃走は不可能だ。唯一の出口は敵が見張っているのだから。

 ならば投影魔術による防御か。そう判断し、右手を掲げる。『熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)』を投影しようとして――中断した。

 

 確証はない。確信もない。

 ただ、それは危険だと思っただけだ。分かっている。このまま投影を使わないほうが危険である。相手の主な武器は銃だ。それならばロー・アイアスを使えば凌げる。そんなことは分かり切ったことだ。

 だが――魔術師殺し。

 そうだ。相手は魔術師殺し。衛宮切嗣じゃないとしても、その可能性は疑うべきだ。

 敵の使っている銃はおそらくドラグノフ、そしてカラシニコフだ。両方の銃ともに魔術的な処置を施しているとは考えにくい。それは何度も対峙したことから理解している。

 となれば、かのサーヴァントの宝具は別にあるのだ。その正体が知れない内から防御に徹するのは危険である。ロー・アイアスは投擲に対して無敵を誇る宝具だが、それ以外に対してはさしたる効果を持たない。安易にこれに逃げるのは危険だろう。

そもそもこちらは視力を奪われているのだ。回り込まれでもしたら全て無意味である。

 

 結果、士朗は記憶を頼りに逃げるしか道はなかった。一時的とはいえ目を潰された時点で敗色は濃厚である。サーヴァントを相手に、このような状況での戦闘は自殺以外の何物でもない。

 とはいえ、逃げることもままならないのも事実である。そもそも出入り口は一つしかない。もはや士朗には、なるべく相手に気付かれにくい場所に身を隠して視力の回復を待つしかなかった。

 士朗は転がりこむようにオフィスの奥に逃げ、横たわっていたアルミ製の机に身を隠した。それと同時に何物かがオフィスに駆け込む気配。間違いなくアサシンである。

 

 視力はまだ戻らない。視界は白く染められたままだ。

 アサシンの気配が消える。こちらが身を隠したことを悟り、気配を可能な限り押し殺したのだろう。

 きっとこちらの視力が戻るよりも、相手が自分を見つけて殺めるほうが早い。とっさに身を隠したが、そもそもまともに隠れられているのかも定かではない上、こんなものは隠れたうちに入らない。遮蔽物に身を隠しただけだ。断じて隠れたなどとは言わない。

 

 士朗の全身から嫌な汗が噴き出る。気配を消そうとしても呼吸が荒くなる。

 何秒たったか。おそらく十数秒程度だが、圧倒的に濃度の高い時間であった。しかしまだ視界は回復しない。

 さらに数秒。そろそろアサシンが士朗を見つける頃合いか。ようやく視力が戻り始めるが、まだ殆ど見えない。焦りでさらに呼吸が荒くなるのを何とか抑える。生唾を飲み込む音がやけに響いた気がした。

 破裂しそうな心臓の脈動を聞きつつ、さらに数秒。もういつ発砲されてもおかしくない。視力が大分回復し始めた。視界の隅に黒いコートの男の姿を捉えた。顔をはっきりと確認することはまだできない。靴先はこちらを向いているため、こちらに気づいてはいるようだ。ならば何故襲ってこないのかという疑問を抱いたが、それならばまだチャンスはある。

 

 相手の顔がある位置を士朗はにらみ続けた。視界はより一層クリアになっていく。

 アサシンの顔は亡霊じみたものだった。痩せこけた頬に、乱れるに任せた髪。薄汚れたコートと靴、そして背広。しかし士朗の注意を惹いたのは、光を映しているとは思えないほど淀んだ瞳。

 

 もはや間違えようもない。士朗はこの男を知っている。忘れる筈もない。

 

 アサシンは銃口を士朗に向けたまま、苦痛に歪んだ顔で問いかけた。

 士朗は驚きの表情を隠そうともせず、その驚愕を口にした。

 

「僕は君を知っている……のか? 君は……一体、何者なんだ?」

「まさか……親父、なのか?」

 




 お待たせしました、最新話です。
 この話が今回投稿分であり、これ以前の分は「にじファン」からの移転となります。今後はこちらで活動することになりますので、よろしくお願いします。

 ちょっと事情があり遅くなってしまいましたが、ようやく投稿することができました。遅れて申し訳ありません。
 思うところがあって3月までには完結させようと考えているので、今後は以前のように1~2週間ペースで投稿できればと思います。遅れるときは告知しますね。

 twitter:mugennkai


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Act.45 終結

 両者はそれぞれ武器を構えたまま、互いの顔を凝視した。

 互いに予感はあった。ここで敵の顔を拝まなければ後悔するような、それでいて見てしまうと大変なことになってしまうような、そんな予感。だからこそ、両者はこの場に留まり続けて戦闘を行なった。

 ある意味で、その決着がつかなかったのは幸運であっただろう。もしかすると、親殺しや子殺しという大罪を犯すところだった。

 しかし、士郎はともかく切嗣には記憶が無い。目の前の人物を知っているような、失ってはならないような、そんな胡乱な気配があるだけだ。

 その気配を押し殺しても良いものか、切嗣は測りかねていた。このまま引き金を引いて敵を殺めるのは容易い。相手がこちらを攻撃する動きがあれば躊躇わずに引き金を引く覚悟はある。だが、こちらから引き金を引くという鋼鉄の決意は揺らいでいた。

 切嗣は頭が割れそうな頭痛を堪えながら、眼前の敵に問いかけた。

 

「君は誰だ。答えろ」

「……何言っているんだ。俺だよ、親父! 士郎だ、衛宮士郎だ!」

「……シロウ? 親父? 君は、僕の子なのか?」

 

 切嗣の頭痛はもはや耐えきれるようなものではなかった。しかし、それででも毅然とした態度を崩さなかった。痛みで溢れる汗を堪え、震える指先を無理やり抑え込む。猛烈な吐き気を飲みこんで、ようやく平静を装っていた。

 

 このときの士郎の心中は推し量るには余りあるものだった。

 亡き父親に再会できた喜びもあり、しかし自分を忘れているという悲しみもまたある。それらの感情が胸の奥で渦となり、もはや名状し難いものになってしまっている。士朗もまた、汗と指先の震えを禁じえなかった。しかし士郎もまたそれらを飲みこみ、必至に耐えた。

 まだ両者は武器を構えたまま、油断を許さない状況である。この距離ならば、互いに殺傷圏内だ。切嗣は士郎の眼が潰れていたために接近したが、士郎の眼が回復した今となっては互いに必殺の状況となってしまった。

 

「そうだよ、親父。忘れたのか? 昔――17年前の聖杯戦争のとき、俺を救ってくれたじゃないか」

 

 脳漿が弾けているのではないかと思うほどの頭痛が切嗣を襲う。痛みで気を失いかけたが、どうにか耐えた。

 

「僕は、君を知らない。――とも言い切れないらしい」

 

 士郎は確信した。錯乱しているのか、魔術的な要因か、原因は不明だが切嗣の記憶は無い。完全に忘却しているとも言えないらしいが、少なくとも自分のことは覚えていないらしい。

 だが、記憶を失っていること自体にはさほど驚かなかった。前回のアーチャーとて償還時に記憶を失っていたという。

 ならば分かりあえる筈だ。記憶を失っているだけならば、話し合う余地はあるはずだ。

 まだ剣を振るには早い。ローランなら、きっとこう言うだろう。切嗣なら、きっと武器を手にとっていただろう。今までの士郎なら――多分、悩みながらも戦う以外の選択肢を知らなかっただろう。

 

 だが士郎は新たな選択肢を知っている。ローランから教わった、一つの選択肢。

 他者の正義を認めること。自分の正義を理解してもらうこと。

 他でもない、己の敵を理解すること、理解しようと努めること。

 

「……親父。アンタは俺のことを忘れているみたいだけど、俺は覚えている」

 

 そう言って、士郎は両手の剣を捨てた。士郎の意志によって破棄されたそれは、ガラス細工のように砕け散り、粒子となって消滅した。

 

「俺は親父と殺し合いたくない。……なあ、親父。ちょっと久しぶりに、月でも見ながら世間話でもしよう」

「……何だって?」

 

◆◇◆◇◆

 

 切嗣とて、その言質を信じているわけではなかった。

 しかし、相手は明らかに敵愾心を失い、武器を放棄している。ここで射殺することは容易いが、果たしてそこまでする意味はあるのか。

 いや、意味は当然ある。敵対勢力の一角をここで抹殺すれば、今後有利な展開になることは間違いない。

 はっきり言ってしまえば、ここで相手が対話を持ち出す意味がわからない。あるとすれば命乞いの類か。そうならば、話の展開次第では生かしておく意味も出てこよう。士郎がマスターでないにせよ、セイバーの陣営に属していることは切嗣も承知している。ならば人質や、スパイとしての使い道も存在する。ここですぐ殺すには惜しいという判断もできる。

 いずれにせよ、この男と対話する意味は少なからずある。切嗣はそう判断した。

 

 士郎はまず、互いに武器を捨てて話し合うことを提案した。切嗣としては承諾しかねる申し出である。当然却下した。

 ならばせめて場所を移そうという申し出には、切嗣も同意した。ビルの屋上を消し飛ばすほどの破壊は、間違いなく近隣住民の注目を集めただろう。結果、警察と消防へは既に連絡が行き渡っていると考えるべきだ。その場からの脱出は容易い話だが、カラシニコフだけは英霊の武具として召喚されたものではなく、現世の物品である。よって霊体化してしまうと運び出すことが出来ない。結果として、警察の手に渡ってしまい、しばらくはコンテンダーとナイフのみで戦うことを強いられる。それは避けたかった。

 

 つまり、切嗣としてもこの申し出は利するところがある。

 とはいっても、いつでも相手を殺傷せしめることが出来る状況を手放すことは、やはり戦略上頂けない話だった。

 よって切嗣は、親指を人差し指に沿うようにぴったりと閉じさせ、結束バンドできつく縛ることを強要した。この拘束を両手の指に行なう。こうすると拘束を解かない限り何かを掴むという動作が満足に行なえない。士郎の攻撃は剣戟によるところが主であるため、剣を掴めないことは、即ちほぼ無力化された状態である筈という判断である。

 実際は手を使わずとも士郎は攻撃手段が存在する。投影魔術による剣製は何も手で持って戦うだけではなく、そのまま射出するという用途もあるのだが、切嗣はそれをまだ見ていないため知る由もない。

 

 そして拘束された両手をポケットの中に収めれば、傍目には何の不自然もない。

 切嗣はといえば、カラシニコフをその当りに転がっていた旅行用鞄に詰め込み、代わりにコンテンダーを取りだした。それを自らのコートで覆えば、傍目にはコートを脱いで手に持っているようにしか見えない。

 このようにして切嗣は、可能な限りこちらが有利な状況を保ちつつ、相手を無力化させる状況を作り出した。相手は両手を満足に使えない上、こちらは単発のコンテンダーとはいえいつでも発砲できる。しかも往来を行き来しても人目につかない工夫も凝らした。

 

 二人は階下へ降りながら、どこへ移動するのかを相談した。結局、切嗣が指定した未遠川の深山町側、冬木大橋付近にある海浜公園へと行くこととなった。もはや夜も深いため、人目も皆無だろう。この場所から近く、うってつけの場所であった。

 二人が一階まで降りると、正面玄関は既に人だかりができており、そこから出ていけば注目を浴びることは必至だった。しかし、ある程度の常識はある野次馬ばかりだったのか、ビル内部まで侵入しようという者はおらず、裏口にも人は居なかった。二人は全く人目につくことなくその場を離れることに成功した。

 海浜公園までの道中はたがいに緊張が絶えなかった。士郎にとっては背後から常にコンテンダーの銃口に睨まれ、切嗣にとっては得体の知れない敵の監視に油断を許さない状況である。さらに、切嗣の頭痛は治まる気配すらなく、彼を苛み続け、集中力を刈り取っていく。

 しかしお互いに何か挙動を起こすこともなく、無人の海浜公園に辿り着くことができた。

 

 海浜公園は静寂そのものだった。ときおり付近の冬木大橋を通った大型トラックの走行音が遠巻きに聞こえるのみである。そよ風が通り過ぎる音すら大きく聞こえるほどの、不気味な静寂がその場を支配していた。

 

「そこのベンチに腰をおろしてもいいかな、親父」

「……好きにするといい」

「親父も座れよ」

「僕はいい」

 

 士郎は、「そうか」と言いながら未遠川に向かって腰をおろした。対岸の新都、そのネオンの明るみの遥か上空に明るい月が漂っていた。

 士郎が、「いい月だな」と呟いたが、切嗣はそれに答えなかった。それでも構わずに士郎は言葉を続けた。

 

「あのときもさ、こんな月だった気がするな」

「……何のことだ」

「覚えてないかな。俺が……正義の味方になるって言った日さ」

 

 切嗣は今までで最高潮の頭痛に襲われた。それはもはや痛みという認識を超え、意識が白く霞む感覚に陥った。しかしすんでのところで耐える。

 

「正、義」

「ああ、正義さ。覚えてないみたいだし、わざわざ言ったこともなかったけどな……俺、親父のようになりたかったんだ」

 

 やめろ、と切嗣はか細く言ったが、その声は士郎の耳に入らなかった。切嗣は痛みのあまり多量の脂汗を流し、肩を痙攣させている。

 

「でもさ、最近ちょっとわからなくなってきたんだ。正義ってなんだろう、俺が目指すべき姿、目指したいと思った姿は何だろうと思うと、わからなくなる」

「そんな話はどうでもいい。用件はなんだッ」

 

 切嗣は声を荒げた。彼は今、普段の冷静を欠いていた。

 

「用件なんかないよ。親父と話がしたいって思っただけだ」

「……ふざけているのか」

「ふざけてなんかないさ」

 

 士朗は月を眺めたまま、背後には一瞥もくれなかった。

 切嗣はまだ銃をつきつけたままである。だが士朗は、切嗣は決して撃たないと確信していた。少なくとも、自分が大人しくしている間は手を出さない。先程まで殺しあっていたにも関わらず、理由もなしにそう思った。久しく忘れていたが、これが親子というものかも知れない。

 

「なあ、一度ちゃんと話し合いたかったんだ。俺が正義の味方を志したときには、親父はもう居なかったじゃないか。だからさ、こんな機会は二度とないだろうし」

 

 言うまでもなく、切嗣は既にこの世に居ない人間である。こうして話ができるのが一種の軌跡であるのは間違いないことだ。

 澪に頼めば、会話すること自体は難しい話ではないのだが、それは完全に「本人」ではない。父親が自分を忘れているとしても、こうやって父親の温度を感じながら会話できるというのは、やはり例えようもなく嬉しいことなのだ。

 

「なあ親父、親父にとっての正義ってなんだ?」

 

 切嗣の表情には、苦痛の上に怪訝な色が浮かんでいた。

 切嗣はこの問いを無視する選択肢がある。しかし、切嗣はこの問いを無視してはならない気がした。理由は定かではない。だが、何かに後押しされるように口を開いた。

 

「……僕は、たとえ僕がこの世全ての悪を担うことになっても、この世界を変えてみせる。この戦いで、僕はこの世から流血をなくしてみせる」

「……大多数を救うため、少数を切り捨てて?」

「そうだ。より多くを救うためには、自らが手を汚して泥をかぶり、少数を見すてなければならないんだ」

 

 理想が大きければ大きいほど、現実との軋轢は大きくなる。その軋轢の末に導きだした答えが、切嗣の信条である。

 より多くのものを救い続け、より少ないものを殺め続けた。この世から争いを無くすために、戦場へ赴きそれを収めた。戦いを未然に防ぐために、戦いの目があればそれを摘み取った。

 この世から流血を無くすために流血を許容する。その矛盾の果てに理想が成ると信じ続け、それを実行し続けた。

 

 士朗もそうである。少なくとも、英雄エミヤシロウとしての過去はそうであった。

 しかし、士朗は知っている。その果ての姿を。果てに成った結果を悔いた者の姿は、今は既に遠い過去のものだ。しかし、鮮明に覚えている。

 

 その男の後ろ姿に、後悔なんかしないと誓った。

 その誓いは果たして守られているのか、それは分からない。

 

 正義とは何か。悪を滅ぼすことか。それとも弱きを助けることか。はたまた、全く別の何かなのだろうか。

 それを違えてはならないと、士朗は知っている。もう一人、正義に溺れて悔いた男の姿を知っているから。

 私の正義の果てに、何も無かったと、その男は言った。

 敵対したものを悪と断じ、正義の名の下に斬り殺した。正義を騙って虐殺を是とした。悪を全て斬り殺せば、この世は平和と神の慈愛で溢れると信じてそれを続けた。しかし、その果てにはただ虚無しかなかった。

 

 他者に自らの正義を押し付け、顧みようともしないことも、また悪である。

 自分はどうであったか。これからどうしたらいいのか、まだ分からない。

 

 だが、士朗は心のどこかで思っていたのだ。自分の唯一の原動力。その源となった男と語らうことが叶えば、きっと答えは得られる。

 だからこそ、士朗は切嗣に問いかけた。

 

「みんなを救う選択肢は存在しなかったのか」

「……場合によってはあっただろう。だが殆どの場合、誰かの犠牲が無ければもっと大勢が死んでしまう状況だった」

「……そうだよな。俺もそうしてきたし、そうするしかなかったと思っている」

 

 やや間があって、士朗は言葉をつづけた。

 

「でもさ、それって結局、自分の正義を他者に押し付けているに過ぎないんだよ。しかも命っていう唯一無二の犠牲を強いる形で」

「仕方のないことだ」

「そう、仕方のないこと。だけど、見捨てられた人はどう思うのだろう。彼らも仕方ないと思うのか? 見捨てなければならなかった人たちは、本当に見捨てないとどうしようもなかったのか? 除かねばならなかった悪は、どうしても殺さなければならなかったのか?」

 

 切嗣は答えない。長い沈黙が流れた。

 切嗣の頭痛は、常人ならば既に卒倒しているほどまで悪化している。しかしこうして会話が出来ているのは、偏に切嗣が痛覚を魔術によって操作していることと、意志の力であった。ここでは倒れてはいけない。敵前だから、ではない。いかなる理由があってもこの会話を絶ってはいけない。

 理由のわからぬ脅迫概念が、いま切嗣を支える唯一のものである。

 

「……わからない。ただ、それを貫けば理想は成ると信じて、ひたすらに戦った」

「親父、俺の友人は言ったよ。その果てには、何もない。残ったのはひたすら空虚な後悔のみ。……親父も、そうだったんじゃないか?」

 

 痛い。頭が痛い。痛覚は遮断したはずなのに、抑えきれない激痛。

 万力で頭を締め上げられているかのような痛みだ。もう、いつ倒れてもおかしくない。しかし切嗣は倒れまいと、脂汗を流しながら耐えた。

 

「わからない。何も覚えていない。しかし……何故か否定できない。その通りだったと思う。――君の言うように、君と僕は対話が必要だ」

 

 ややあってから、切嗣は言葉をつづけた。

 

「では聞きたい。君の言う正義とは何だ? 正義のあるべき姿とは何だ?」

「うーん……実はさ、俺もまだよく分からないんだよね。少なくとも、『普遍的かつ不変的な正義』は存在しないんじゃないかな。時代も変われば、正義も変わる」

「では、今あるべき正義って何だ?」

 

「だからよく分からないんだって。だからこそ親父に相談しているんだよ。なあ、親父も一緒に考えてくれよ」

 

 少し考えてから、士朗はつぶやくように続けた。

 

「……さっきの友人がさ、こうも言ったんだ。『正義を称して剣を掲げるな』ってさ。正義の名の下に行なう殺戮を許してはいけないって、そう言ったんだ」

「……だったら僕は、きっと落第だな。正義を成すために、理想をこの世にもたらすために、数えきれない程の人を殺した」

「俺だって落第だよ。でもさ、やっぱりおかしいって思ったんだ。誰かの血の上に成り立った平和って、本当に平和な世の中なのだろうか? 暴力によって実現された世界は、結局は暴力を許容するんじゃないか?」

「しかし、犠牲なしに革命は成しえない」

「そうかも知れない。だけど無血革命を目指すことだって可能だ」

「それでも……僕はこの方法しか知らない。もう後には引けない。僕が今まで殺め、背負ってきた命のためにも」

「本当にそれで良いのか、衛宮切嗣!」

 

 そこで切嗣の体力は限界を迎えた。切嗣の視界は白い靄でじょじょに覆い尽くされ、足元に力が入らなくなった。直立することができず、その場に倒れこむ。

 士朗は背中ごしに人が倒れる音を聞いて、父親の名を叫びながら駆け寄った。見ると既に顔面蒼白で、夥しい量の汗が流れていた。だが、意識はまだ保っているようだった。意識があるならば、まだ危険な状態というほどでもない。安堵のため息をもらす。

 

 そのとき、暗闇から不意に乾いた拍手の音が聞こえた。一人ぶんの拍手と、歩み寄る足音。その姿は闇に紛れてしまい、その正体は知れない。

 その暗闇の中から、一人の男の声が投げかけられた。

 

「正義とは難しいわ。ある人から見れば正義でも、別の人から見れば悪になる場合もある。……でも、だからこそ話し合う必要があるのよ。我々は敵と語らう必要がある」

 

 聞き覚えのある声だった。少なくとも最近に聞いた声のはずだった。

 暗闇から街灯の明かりの下まで足音は移動して、その正体が映し出される。その男は黒いカソックを身に纏っていて、その挙措と体躯からは鍛え上げられた肉体を思わせた。

 顔にも見覚えがあった。その男は冬原春巳。第6回聖杯戦争の監督役代行にして、鉄拳の代行者。

 

「しかし、もはや語り合う時間は残されていない。結論を先延ばしに出来る時期は、もう過ぎたの。アサシンのサーヴァント、私の言葉は聞こえていますか」

 

 切嗣は答えられなかったが、目線だけはそちらに向けた。

 

「よろしい。私は代行者、冬原春巳。第6回聖杯戦争の監督役の補佐でしたが、監督役の死亡により私が代行を務めております。

 本日は、聖杯戦争の終結を連絡しに来ました」

 

 その言葉と、次に綴られた言葉は士朗に強い衝撃を与えるものだった。

 

「第6回聖杯戦争の監督役代行として宣言します。今回の戦いは、アサシンの勝利としてここに終結を宣言します」

 




 短くてすみません。
 リアルでの忙しさが半端なくて、遅くなった割には大した量が書けなかったです。今後も文字数は一定しないと思いますので、ご了承ください。
 とにかく投稿することを優先したいと思います。

 さて、この続き(というかセイバーがどうなったのか)は皆さん気になるところでしょうし、1~2週間の間に投稿したいと思います。ですがリアル事情により遅れることもありますので、悪しからず。


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Act.46 彼女はもはやどこにも居ない

 私の意識は、もはや自覚できないほどの速度で混濁していった。

 名前も既にわからない。己の性別すらもう分からない。

 私は何者なのか。何者だったのか。

 私は誰だろう? 私の肩を揺らすこの人は誰だろう?

 分からない。もう何も分からない。私の中には私ではない何かがいて、それと混じり合い、打ち消し合い、そして最後に原型を失う。

 私の中に在った私は、私ではない何かによって削られ、残ったものは私だった何か。もう私は私ではない。もう二度と私に戻ることはない。

 

 誰か大切な人が居た気がする。失いたくない誰かが居た気がする。

 でも、それが誰か分からない。顔も名前も思い出せない。

 何もかもが飽和した海に沈んだが、最後に一つだけ、人間としての感情が残った。

 それは、こうなる直前に強く思ったこと。私が強く願ったこと。

 

 ――目の前の敵を倒さなければならない。

 

 何のためにそうする必要があるのか分からない。誰のためにそうするのかわからない。誰が敵なのかも、もう分からない。

 でも、自分とは明らかに違う者が敵だったことは覚えている。人間を超えた何かが敵だったことは覚えている。

 それが敵ならば、それを除かねばならない。倒さなければならない。

 私は、私ではなくなった私に問いかける。どうやって倒すのか。私は答える。方法はいくらでもある。私は既に個ではなく群としての私。問われれば、剣でも銃でも、徒手空拳だろうと敵を倒す手段を答えよう。

 敵が切りつけてきたときの対処、敵を欺く方法、人体の急所とそれを破壊する方法。目的は既に胡乱だが、手段だけは無限に存在していた。

 

 あらゆる手段を用いて、私は人外を殺さねばならない。人の形をした人外を倒さねばならない。

 右手には剣。どういう経緯で手に入れたかもはや知れぬ、黄金に輝く美しい剣。私にはもう、美しいと感じる感性は残っていないけれど、私の中の誰かがこれは美しいものだと教える。

 

 男が来た。もう誰か覚えていない。必死に記憶の残骸を漁ろうとしたけれど、どんなに探しても残骸そのものが残っていなかった。

 私の中の何かが伝える。これは人ではない。人の体をした人ならざるモノ。

 ならば、――私のすべきことは決まっているのだろう。

 

 ◆◇◆◇◆

 

 凛が彼女の異変に気付くまで、そう多くの時間は必要なかった。

 バーサーカーが消えてもなお、澪はその場に座り込んだまま動こうとしない。それどころか、次第に全身が脱力し、弛緩していく様が見てとれた。

 近づいて顔を覗き込むと、明らかに顔から表情らしいものが抜け落ちており、目も焦点が合っていない。しかしその口からは、聞き取れないほど小さく何かを呟いているのはわかった。

 

「澪……?」

 

 彼女は答えない。こちらに対する反応は何もなかった。軽く頬を叩くが、それでも反応は無い。今の彼女は、ただ生きているだけの存在だった。もう自我や魂といったものは存在しないも同然だった。

 

 理由ははっきりしている。

 自我と他者の境界が消滅してしまい、それらが一つに混ざってしまったのだ。澪の魔術は他者の精神に直接触れる。他者の精神を自分の精神で再現することで、澪はその他者が生前持っていた技術や知識を行使できるのである。

 そして、それゆえに弱点も明確だった。

 他者を己の中に投影し続ければ、自我が確立できなくなるのは当然のことだ。自己の意識とは、自分が自分であるからこそ確固たるものになる。その基盤を揺るがすほど、澪の魔術は危うく、それ故に強力なものなのだ。

 名画の上にさらに絵具を塗りたくるような所業。後から上書した絵画がいかに名作であったとしても、塗りつぶされた絵画は完全に復元できない。

 

 凛は何度も叫んだ。彼女の精神は完全に消滅したわけではない。ただ、他のものと混じってしまっただけである。

 それならば、なんらかの原因で澪が自己を取り戻す可能性はある。それを信じて何度も語りかけ、肩を揺らした。

 しかし澪は何もない虚空を見つめたまま、何も反応を示さなかった。

 

 十分間ほど凛は必至に語りかけたが、おもむろにそれを止めた。もはや無駄であると悟ったのだ。

 今の澪はよほどのことが無い限り、外界からの刺激に反応を示すまい。それが何なのかは分からない。セイバーなら何らかの反応があるかも知れない。でも、仮に反応があったとしても、それは以前の澪ではないだろう。

 見捨てるつもりはない。しかし、どうすれば良いというのか。

 精神を操作する魔術の類ならばあるいは澪は治せるのか。しかし、多群に溶けた個体を見つけ出し、それを復元することなど果たして可能か。例えるなら、樽に詰まったワインの中にコップ一杯の水を落とし、それらが混ざり合った後にコップの中にあった水だけを抜き出せと言っているようなものだ。事実上、不可能である。

 

 だから、彼女自身の力で戻ってくることに期待するしかないのだ。彼女自身が精神を操作する魔術の使い手である。混ざり合ったワインの中から、コップの中の水を見つけ出せるとしたら、それは水自身にしかできないことだ。

 

 凛は、澪をそっと肩に背負う。全身が弛緩した人体は思いのほか重かった。凛の背中越しに伝わる、死体のようになってしまった澪の体温が、凛にとってはかえって悲しかった。しかし、不思議と手に持っていたカリバーンだけは手放そうとしなかった。これを吉兆とみるべきか凶兆とみるべきかは分からなかった。

 凛は、このまま柳洞寺を目指すことにした。凛の見立てでは、もう聖杯戦争も終盤とみて間違いない。凛が脱落を確認しているサーヴァントはアーチャーとキャスターのみ。一概には言えないが、自分たちの知らない所で戦闘は行なわれているのだから、この倍は脱落しているとみていい。もちろん一概には言えないが、一定の目安にはなる。ならば、セイバーを除く六組のうち四組が既に脱落したとみて良いだろう。そして今夜現れたのはライダーとアサシン。残っているのはこの二組だとすると、計算はぴったり合う。

 セイバーとライダーは交戦中。澪の手にはまだ令呪があることを考えれば、ライダーが脱落したかも知れない。そしてアサシンと士郎も交戦中。こちらの経過は分からない。残るランサー、アーチャー、バーサーカー、キャスターが脱落。

 

 この状況を考えれば、もう次の瞬間にも勝者が確定してもおかしくはない。士郎がアサシンを運よく倒し、そしてセイバーがライダーを倒せば勝者は確定する。

 ならば柳洞寺に行かねばならない。聖杯を降臨させる場所は柳洞寺に限らないが、この場所から一番近いのがそこだ。

 

 聖杯本体の所在は知れないが、柳洞寺を押さえておくことに意味はあるはずだ。そう当りを付けて、凛は移動を始めた。

 さほど距離のある道程ではないのだが、バーサーカーと戦った傷と疲労、そして背負う澪の重さも手伝い、山道に出る頃には凛は汗と泥にまみれていた。

 いったん澪を下ろし、小休止を挟む。纏わりつくような熱帯夜の空気を吸い込み、呼吸を整えた。

 そうやって体を休め、呼吸が静まり汗も引いたころ、山道の入り口側からよく知った気配を感じた。サーヴァントの気配はわかりやすい。これはセイバーのものだった。

 

「セイバー、無事だったのね」

「ああ、ライダーを倒してきた。……殺さねばならかった。彼は、最後まで優れた武人であった」

 

 思えば、セイバーは敵のサーヴァントを倒したことがなかった。これが初めてだ。

 それはセイバーが無能であるとか、弱小であるという意味では断じてない。それは凛が知っている。純粋な戦闘能力ならば、かのアーサー王にだって引けを取らないだろう。何故なら彼はパラディン・ローラン。無敵と名高い騎士である。

 ならば何故、聖杯戦争において敵を倒したことが無いのかというと、それはきっとセイバーの内面の問題なのだろう。

 彼が過去に後悔していることは凛とて知っている。きっと、あのレコンキスタの忌まわしい記憶が彼を未だしばっているのだろう。和解の道が見える相手ならば、セイバーはきっと敵を殺したくはないのだ。キャスターのように、明確で分かりやすい悪ばかりが敵ではない。話し合えば理解しあえる相手も居た筈だ。そう考えると、セイバーは相手を殺すことを戸惑ってしまう。無論、相手は既に死んだ英雄なのだから気にすること自体がおかしな話ではあるし、サーヴァントとして主人を守らなければならないという義務からも反する。

 セイバーの正義は矛盾だらけである。敵を殺したくないと思いつつ、そうするしかないと分かっている。その矛盾との軋轢の果てに、今のセイバーがあるのだ。

 そしてそれ故に、セイバーは今の今まで、サーヴァントに剣を向けることはあっても殺したことが無かったのだ。

 

「そんなことより、ミオの様子はどうだ。何やらマスターの異変を感じ取ったので、ここまで駆け抜けてきたのだ。……見たところ、いたく憔悴しているようだが」

「……セイバー、落ち着いて聞いて。もう澪は、澪ではないの。澪はその他大勢の海に呑まれて、混濁してしまった」

 

 その言葉だけで、セイバーは事の顛末を知った。

 澪が同一化魔術を行使し、そして澪という精神が消えてしまった。それはつまり廃人と化してしまったことに他ならない。

 セイバーの眼には涙が溜まり、そして本人にも知れないうちに流れ落ちた。その場に崩れ落ち、強く石畳を殴る。石畳は砕けたが、セイバーの手もまた傷ついたのだろう。籠手の隙間から赤い血が流れていた。

 

「……ごめんなさい。私がついていながら、止められなかった」

「リン……私は貴方を責めないし、そのつもりもない。私が許せないのは、私自身だ! 私はミオを守ると誓った! 友として、主人として、そして――愛した女性として! しかし、またしても私は何も守れなかった……。何が騎士だ、何がサーヴァントだ! 私はこんなにも無力だ……。またしても、友を殺し、私だけが生き残った!」

 

 セイバーは再び手を打ちおろした。最初の一撃に比べると、非力ともとれる弱々しさであった。そして打ちおろした両手を天に掲げ、嗚咽を漏らしながら叫んだ。

 

「神よ! 私は過去に大罪を犯した。貴方の名を借り、正義という欺瞞の剣を掲げ、殺戮を行なった! その罪は消えないものと知っているが、ミオに何の罪があったというのか!」

 

 澪がこのようになってしまったのは、自業自得であると断じることも出来る。同一化魔術など二度と使わなければよかったのだと、第三者は言うかもしれない。しかし、状況がそれを許さなかった。バーサーカーと邂逅してしまった時点で、この顛末は確定していたのだ。

 それを使えば、自分は自分ではなくなると知りつつも、自身が消滅する恐怖を飲みこみながら、澪は同一化魔術を使った。結果、澪も凛も生還できた。

 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある。しかし、浮かんだ瀬に待つのが自己の破滅では、結局のところ溺死したのと変わらない。

 

 セイバーは横たわる澪のそばでまで歩み寄り、顔を覗き込んだ。流した涙が零れ落ち、澪の頬へ落ちた。

 

「ミオ、私が分かるか!? 頼む、答えてくれ。戻ってきてくれ……」

 

 澪は答えない。沈黙を守ったままだった。

 しかし唐突に、その両目がセイバーを捉える。まるで爬虫類のように眼球だけをぎょろりと動かし、その双眸でセイバーを見つめる。そこにおよそ感情らしいものはない。まるで人感センサーのついたカメラを思わせる、機械的で無機質な視線だった。

 

「……ミオ……?」

 

 セイバーは、澪が反応を示したことに喜べばいいのか、明らかに異様な空気を放つその瞳に戸惑えばいいのか分からなかった。

 逡巡していると、おもむろに彼女は起き上がる。その間も視線はセイバーから離れることなく、不気味な眼光を放ち続けた。

 手には、ぎらりと光る黄金の剣。その剣を澪は握り直し、静かに呟いた。

 

「倒さなくてはならない」

 

 セイバーはこの状況がよく理解できなかった。いや、本当は理解しているのだ。しかし、それを頑なに拒否した。それを信じたくはなかった。

 彼女が剣を握り、自分に敵意を向けるなど、決してこの現実を許容できない。私を愛していると言ったではないか。私も彼女を愛している。なのに、殺し合うなど出来る筈がない。それを想像するだけで恐ろしい。

 

「敵を倒さなければならない。サーヴァントを倒さなければならない」

 

 やめろ。やめてくれ。

 セイバーは叫んだが、澪の耳には届かなかった。

 次の刹那に放たれた一撃は、セイバーにとっては驚天動地の剣戟だった。澪は剣など持ったことはない。いくら同一化魔術を使うと言っても、それを再現する筋力と体力がないため、戦闘に限れば完全な再現は不可能である筈だ。

 しかし、この一撃は今まで澪が見せた全てと比較しても群を抜いた鋭さだった。セイバーは不意を突かれたこともあって完全には避けきれず、喉を狙った一撃は薄皮一枚を削いだ。

 

 仕方なく、セイバーもまた武装を顕現させる。無論、澪を傷つけるつもりなどないが、応戦はしなければならない。うまい具合に気絶させるしかセイバーに取れる策はなかった。

 続いて放たれる一撃、さらにもう一撃。それらをセイバーは捌くが、その鋭さと的確さはサーヴァントの足元に触れる程度には必殺の威力を持っていた。

 言うなれば、澪の体格と筋力に適した剣技。非力な少女が振るうにふさわしい剣技だった。剣の鋭さに頼み、決して力技に走らず、刺突を主とし、速さに重きを置いた剣技だった。

 少なくとも、セイバーはこのような剣技は知らなかった。レイピアでの戦闘方法とも違う。もっと踏み込みは浅い。まるで踊るような足取りだ。かといって、セイバーの持つような長剣での戦いとも違う。相手を斬り伏せようという気概がまるでない。

 あくまで合理的。一切の無駄を省いた、彼女のための剣技。そういう意味では、士郎の戦い方に似ていた。

 

 セイバーにはすぐに分かった。今、澪は多くの人間の精神と同化している。それらのものが持っていた剣の技を、ひたすらに抜粋しているのだ。自分に合うであろうものを取捨選択し、組み合わせ、独特な剣技を完成させている。

 単一の人物のトレースではなく、複数の人物をトレースしその中から取捨選択をするという所業は、少なくとも通常時に澪には不可能である。既に精神の海に自己を埋没させてしまっているからこそ成し得る、奇跡のような剣技だった。

 

「倒れろ。倒れろ。倒れろ」

 

 叫ぶでもなく、澪は静かに呪詛を吐き出し続ける。一撃ごとに、愛したはずのセイバーに呪いを浴びせる。

 セイバーはその声を聞き、悲痛な色を顔に浮かべた。溢れる涙を堪えようともしなかった。

 眼前は涙で霞み、澪の挙措もまともに分からなくなってくる。しかしそれでも、セイバーは澪の剣を捌き続けた。澪の剣は驚異的な技巧を誇っていたが、サーヴァントを打倒するにはやや力不足である。ここが柳洞寺とはいえ、山道には結界が存在しない。結界の中に飛び込んだバーサーカーならともかく、セイバーはこの程度の剣で倒せるほど軟弱な英霊ではない。

 

 澪もそれを理解したのだろうか。おもむろに動きを止めた。そして、何やら虚空に向かって何やら呟く。その声はか細く、誰も聞き取れなかった。

 そして、手の甲に視線を下ろした。それは令呪のある側の手。まるで、――令呪の残りを確認したかのような仕草だった。

 

 セイバーはそれを察した。澪はまだ一回しか令呪を使用していない。つまり、後二回の使用権利を有している。

 それをする前に気絶させようと、セイバーは全速力で駆け寄ったが、澪のほうが圧倒的に早かった。

 

「“自害しろ”」

 

 セイバーはそれ以上駆け寄ることが出来なかった。セイバーの右手は何か強い力に後押しされて、自らの喉元に向かって剣を唸らせる。しかし、その切っ先が喉に触れた瞬間、それ以上剣が喉を悔い破ることはなかった。

 だが、さすがの対魔力を誇るセイバーのクラスである。令呪ですら、彼を完全に縛ることは出来なかった。

 

 これが前触れもなく放たれた令呪であれば、耐える間すら無く喉を突いていただろう。しかし、彼女が令呪を確認したおかげでそれは免れた。きっと、残りの回数の記憶が消滅していたのだろう。それに救われた。

 

 しかし、これ以上は微動だに出来なかった。令呪に逆らうだけでも相当な負担である。令呪に抗う反動か、セイバーの全身から青白い火花が発せられる。令呪の力とセイバーの抵抗は拮抗しており、セイバーはそのまま制止したまま動けない。

 もはや、これまでだった。

 

 これは拙いと飛び込んだ凛の両腕をするりと避け、澪はセイバーに剣を突きたてた。まるで、セイバーの腕の中に飛び込むようで、それでいて悪意に満ちた抱擁だった。

 剣はセイバーの心臓付近を貫通し、背中まで突き抜けた。澪の刺突は正確に心臓を狙っていたが、どうにか回避しようとセイバーが動いた結果、即死は免れた。しかし、即死していないというだけで、これはもう誰が見ても致命傷だった。

 澪は、カリバーンをセイバーから乱雑に抜いた。その瞬間、セイバーの傷口から夥しい量の血が流れる。心臓付近の動脈を断たれたのだろう。傷口から噴水のように血が流れ落ちた。

こうなると、もはや仮に令呪の力を行使してもセイバーが助からないのは明らかである。死の運命を覆すほどの奇跡――それこそ、『神の血を受けし聖槍(ロンギヌス)』の力でもない限り、セイバーは助からない。

 

 確定した死の運命からか、セイバーにかかっていた令呪の効力が突如消えた。それに合わせ、澪もそれ以上の攻撃は加えなかった。確実に死ぬものに、わざわざ止めを刺す意味は無い。少なくとも、今も澪にとっては無意味な行動だった。

 

 澪の眼は再び虚空を見つめ、崩れるようにその場に座り込んだ。それとほぼ同時に、セイバーもまたその場に崩れ落ちた。

 

「セイバーッ!」

 

 凛はセイバーに駆け寄り、その傷口を確認した。傷口は思わず目を背けたくなるほど大きく、グロテスクなものであった。

 凛は急いで宝石を取り出し、傷口を癒そうとする。しかし、手持ちの宝石では傷口だけを塞ぐのが限界だった。断たれた動脈を復元することはどうしても出来ない。それでも必至に治療しようとする凛の手を、セイバーはそっと握った。

 

「良い……もう良い、十分だ。私はここに捨て置け。もはや助からないのは、リンもわかっているだろう」

「それでも、見捨てるなんて出来るわけないでしょう!」

「……それでも、見捨てろ。私のことより澪を頼む。私のそばに置いておくと、いつまた豹変するか分からん。次は貴方まで傷つけるかも知れん。私は、そんなミオを見たくない。早く、彼女を連れて行ってくれ」

 

 そこまで言ったところで、今度は喀血した。瀟洒な鎧が自らの血で汚れる。

 凛は、握られた手を強く握り返した。

 

「ライダーも、この私も斃れ、残ったのはアサシンのみ。これで、この血で塗れた戦争も終わりだろう。……私がいなくとも、最悪の事態だけは回避してくれ。聖杯を使わせてはならない」

「分かったわ……。分かった、貴方の犠牲は決して無駄にしない。でもまだ死んだら駄目よ、最後まで諦めず、生き抜いて。もし澪が戻ってきたら、令呪の力でなんとかできるかもしれない」

「……そうだな。なあに、私は無敵のローランだ。血さえ止まったのなら、この程度の傷で……そう簡単には死なない。……ああ、そうだ。私の懐の中に、ライダーが持っていた聖杯がある。これを持っている限り、儀式は完了しない筈だ。……では、後は頼んだぞ」

 

 そこまで言うと、セイバーは静かに両目を閉じた。

 凛はセイバーの手をそっと胸に置いた。そして座り込む澪にビンタの一撃をくれた後、彼女を再び背負いこみ、柳洞寺の境内を目指して歩き始めた。

 

◆◇◆◇◆

 

「これが、事の顛末よ。セイバーはまだ完全に絶命した訳ではないけれど、それも時間の問題。我々には時間が無いの。アサシンには、さっそく儀式の準備に取り掛かってもらいます」

「セイバーを、澪が殺しただって……?」

「そうよ。紛れもない事実。これは各所に散開させている私の部下が伝えてくれた事実。柳洞寺には常に数人の監視の目があるの。あそこで起こったことは筒抜けよ」

 

 冬原は切嗣に歩み寄り、うやうやしく礼をした。

 

「第六回聖杯戦争の勝者、アサシン。さしあたって、柳洞寺に向かいます。そこに聖杯があるので、それを奪還した後、直ちに儀式に」

「……わかった」

「親父! 聖杯を使ってはいけない!」

 

 士郎の言葉に弾かれたように、冬原は士郎を睨んだ。その眼光の鋭さは一種の殺意すら孕んでいた。

 

「黙りなさい。聖杯は使われなくてはならない。言ったでしょう? 結論を先延ばしにできる時期は、もうとうに過ぎたの」

「どういうことだ?」

「答える義理はない。大した理由でもないけれど、それを知ったところで貴方にはどうすることもできない。……ここで私を止めてみる? 指を縛られたその状態で?」

 

 士郎の指は、まだ結束バンドで縛られたままだった。

 しかし、この程度の拘束ならば、士郎にとって解けない戒めではない。そもそも、手など使えなくても十分に戦える。

 

投影(トレース)……」

 

 冬原から発せられる、鋭く息を吐く音。引き絞った矢のような速度に乗せられた、鉄槌のような拳。

 これら全て、以前に教会で見せた時のそれを凌駕して余りあるものだった。

 士郎は彼の実力を見誤っていた。彼の速度と拳の威力を見誤った。ゆえに、彼の鉄拳をまともに腹で受けてしまう。

 士郎の口から苦悶の声が出る。内蔵が破裂したのではないかというほどの威力だった。あまりの苦痛に腰を折ったところを、針の穴に通すよりも正確で、剣のように鋭いアッパーカットが士郎の顎を捉えた。

 

 士郎の意識は、一瞬で彼方に追いやられた。一切の抵抗を許さない、ある意味で芸術的なコンビネーションとフットワークだった。

 

「能ある鷹は爪を隠すって言うでしょう。あの時の私が全力だと思って? 私は代行者。吸血鬼すら縊り殺してみせる」

「……恐ろしいな」

「アサシン、貴方がこちらの意図に反しない限り、私は貴方に危害を加えるつもりはありません。さて、さっそく移動しましょうか」

 

 二人は士郎をその場に放置したまま、柳洞寺に向けて歩みを進めた。勝ち残ったアサシンの歩みを止めるものは、もはや存在する筈もなかった。

 もしそれを止めるものが居たとすれば、それは目を覚ました士郎と凛以外に居ないだろう。いや――あるいは澪もその可能性があるかもしれない。少なくともセイバーは、眠りながらそれを強く願い続けていた。

 




 久しぶりに1週間での更新。
 怒涛の展開……に書けていたらいいなあ。書いていて結構楽しかったです。

 次は少し遅れるかも知れません。2週間~3週間以内に投稿できたらと思います!

 twitter:mugennkai


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Act.47 伝えること

 冬原が士郎を叩きのめした後、冬原と切嗣は豪奢なリムジンで市街地を移動し始めた。夜が更けてきたとはいえ、先ほどのビル火災の野次馬がちらほらと見えた。しかし、その下手人の片割れが乗っているリムジンには、通行人が一瞥こそくれるものの全く意中に無いようだった。

 運転は冬原の部下らしい者に任せ、二人は後部座席で無言のまま外の景色を眺めていた。冬原は、リムジンに備えてあった酒瓶にやおら手をつけ、それをグラスにも注がず呷り始める。さして美味そうな顔でもなかった。

 

「こんな時に酒かい」

「こんな時だからよ。全く、嫌な仕事よ。本当はこんな洋酒じゃなくて、辛口の日本酒が飲みたいところだけどね」

 

 運転手が不備を詫びる。冬原はそれを軽く流し、もう一口酒を呷った。銘柄は「マッカラン」だった。紛れもないウイスキーなのだが、それをまるで水のように喉に通していく。

 

「酒が好きなのかい」

「自他共に認める辛党よ。安酒でも、度数の高い酒はだいたい好きね。だけど――今日はちっとも酔えないわ」

 

 そう言って最後の一口を呷った。あそこまで一気に飲めば喉が焼けそうなものだが、全くその様子は無かった。なるほど、確かに辛党であった。

 切嗣は、今のうちにコンテンダーとカラシニコフの点検をすることにした。コンテンダーは未使用であったため、特に問題はない。カラシニコフの方はだいぶ弾を使ってしまっていた。使用済みのマガジンを抜いて、新しいマガジンを押しこむ。

 予備の弾丸は豊富にあったのだが、士郎の攻撃によってドラグノフごと蒸発してしまった。いまさら悔やんでも詮無いことだが、手痛い損失であることは間違いなかった。

 

 切嗣に油断や慢心の気配は微塵もない。聖杯戦争の勝者として勝ち残ってはいるが、まだマスター達が残っている。最低でも二人、自分の前に立ちはだかる可能性がある者が居るのだ。

 一人は先ほど戦った士郎。冬原によって気絶させられてはいるが、命までは取っていない。あの時に切嗣は、あの場で殺してしまえば後の憂いを絶てば良かったと考えていた。いや、今はそう考えている。少なくとも、あの時はその考えが浮かばなかった。浮かんだとしても、きっとその考えを捨てていたことだろう。

 彼の父親としての自覚も記憶もない。だが、あるいはそうかも知れないと今になっては思うのであった。

 そしてもう一人は遠坂凛。切嗣は彼女と面識はないが、遠坂の名が意味するものは知っている。この地のセカンドオーナーであり、始まりの御三家の一角。強敵であることは間違いない。

 

 士郎は事が済むまで目覚めない可能性もあるが、遠坂は聖杯を持っている。彼女との戦闘は避けられまい。

 だが、切嗣は始まりの御三家が相手でも必ず勝つ自信があった。

 起源弾――魔術師が相手ならば必殺の弾丸。これを受けて無事で済む魔術師は居ない。仮に一命を取り留めたとしても、二度と魔術は使えない体になる。

 さすがにサーヴァントが相手となると不利になるが、そのサーヴァントももはや自分のみ。ただの魔術師が相手ならば、御三家だろうが問答無用で打倒する術が切嗣にはある。

 故に、切嗣は必殺を確信しているのだ。

 

 遂に聖杯が手に入る。この世から争いと流血が無くなる。

 ――本当に?

 聖杯の力を以てすれば、あらゆる奇跡は可能になる。自分が望んだ世界が実現される。きっと誰も泣かずに済む世界になる。

 ――何かを忘れていないか?

 何も問題はない。何もミスは無い。

 ――思い出したくないのでは?

 

 頭が痛い。いつまで経っても慣れることのない痛み。

 時に締め付けるような。時に刺すような。時に割れるような。常に変化し続け、苛み続ける頭痛。きっとこれのせいだ。これのせいで、自分は何もかも忘れているのだ。何も思い出せないのだ。

 

 衛宮士郎。あの男の名を思い出すだけで、意識が遠のくほどの頭痛に襲われる。

 自分と同じ衛宮の名を持つもの。恐らく、自分と同じように正義を志す男。しかし方法は違う。彼は彼なりの正義を模索しているようだった。

 ――正義の名のもとに行なう殺戮を、決して許してはならない。

 

 しかし、それ以外に何の方法が取れたというのだろう。話し合うどころか、既に銃を手に殺し合っている人たちを前に、自分に何が出来たというのか。どちらかの勢力を叩き、一刻も早い解決でしか事態を収束できなかったではないか。

 話し合いなど悠長なことをしている暇などなかったのだ。

 

「ところでアサシン。貴方は不思議な英霊ね」

 

 やおら、冬原が口を開いた。こちらには一瞥もくれず、ずっと窓の外を眺め続けていた。

 

「……何がだい?」

「明らかに他の英霊とは違う。過去の英霊ではなく、現代人であることは容姿から明らか。自分のために聖杯を求めず、世界の改変を求めている。今よりももっと良い世界のために。この世から争いを無くすために」

 

 切嗣は、冬原がそれを知っている理由を模索したが、考える間でもなくすぐに思い当たった。この男は、さっきのやりとりを盗み聞きしていたのだ。ならばそれを知っていてもおかしくはない。

 しかし、アサシンのサーヴァントに気付かれることなく潜み続けるとは、この男の実力もまた計り知れないものがあった。少なくとも、単純な身体能力であれば切嗣に勝ち目はない。切嗣はそう思った。

 

「立派なことね。その理念を実現するため、あらゆる犠牲を許容した。理想と現実の軋轢に耐えながら、それでも諦めなかった。素晴らしいわ。きっと神も貴方を見守っているでしょう」

「……何が言いたい」

「別に、何も。……ただ、私はあの士郎とかいう坊やの考えに賛同する。どちらかと言えば、ね。彼は甘ったれだけど、貴方の正義よりも輝くものを持っている。だから私は、貴方よりも彼を応援したい。それだけよ」

「……」

「私にも私の正義がある。人は無知ゆえに悩むことは無い。無知な者は知恵も諭しをも侮る。だから、無知な坊やは現実を知らなければならない」

「……話の筋が見えないな」

 

 冬原にも色々な過去があったことは間違いないだろう。しかし、自分の過去を話そうという雰囲気ではなかった。怒りにも、悲しみにも似た感情がその肩から窺えた。

 

「だから貴方に伝えるべきとこがある」

 

 そう言うと、冬原は足元に置いてあったアタッシュケースから書類の束を差し出した。日付は7年前の冬であった。

 

◆◇◆◇◆

 

 遠坂凛は、柳洞寺の境内に足を踏み入れた。危険が無いか当りを見渡すが、魔術や結界の気配は一切なく、ひとまずは安心してよさそうだった。

 

 彼女の背中には澪が居た。さっきまでの機敏な動きが嘘のように弛緩しきっており、遠目で見れば死体であると思ってしまうだろう。目もどこか生気が無く、虚ろであった。

 そして、凛の右手には聖杯が握られていた。セイバーの懐に入っていたものだ。前に教会で保存されてあったものが偽物であった以上、これもその恐れがある。しかし、凛にはどうもこれが本物であるように思えた。この聖杯から発する、神々しくも邪悪な気配は間違いなく聖杯のものだ。7年前に聖杯を見たことがある彼女だからこそ、それが分かった。

 

 適当に休めそうな場所を探し、そこに澪を寝かせる。澪は相変わらずの様子だった。今、彼女にできる処置はない。事が済んだら根気強く治療を試みるしかあるまい。

 凛は、その手にある聖杯に目線を落とした。豪奢で、頑丈そうな作りであった。ちょっとやそっとでは壊れそうもない。サーヴァントの一撃には耐えられないだろうが、拳銃の弾丸くらいならば弾いてしまいそうだった。

 何の金属なのかもわからない。少なくとも、凛が知っている金属のいずれでも無い。

 しかし、これを破壊するだけならば、セイバーが居なくても問題はなさそうだった。凛の宝石魔術にかかれば、この程度の器物を破壊することは造作もない。至極簡単なことであった。

 だが、凛はこれを破壊することに二の足を踏んでいた。

 

 形こそ違うが、聖杯は7年前に破壊した筈だ。跡形もなく消しとんだ筈なのだ。

 だからこそ推測を立てた。これは本体ではない。破壊すべきモノは他に存在する筈だと。これを破壊してしまうと、また手がかりを無くしてしまう。それは避けたい。ずっと『本体』を探し続けていたのに、結局見つからなかったのだ。

 聖杯戦争という大掛かりな儀式を行なう以上、本体は大掛かりな装置であることは間違いない。物理的にも巨大なものである筈だ。それを隠し通せる場所となると、自ずとその場所は限られる。一つはここ、柳洞山だった。他の候補には教会、アインツベルン城の周辺に広がる樹海などがある。しかし、御三家がそれを許すわけがない。教会の管理下に聖杯を置くのは絶対に避けたいし、御三家の一角が突出するのも避けたい。結果、柳洞山が大本命である。しかし、いくら探しても見つからなかったのだ。

 

 だからこそ、本来の通路を塞がれたと結論づけた。これにはセイバーも澪にも同意したが、そうなると代わりとなる通路が必要となる。

 そうであれば、その新しい通路の入り口は過去のものとは離れた場所である筈だ。そうでないと新しい通路を作る意味が無い。しかし、物理的に離れた場所まで地下通路をつなぐとなると、7年の歳月があったとしても長距離の通路は不可能だろう。重機を使えばあるいは可能かも知れないが、秘密裏に事を運ぶ必要があるのだ。

 

 万が一にも誰かに出入り口を発見されることなく、それなりに離れた場所。候補はいくつかあるが、範囲が広大すぎる。探索は困難だ。

 結局、推論できる情報はここで止まる。ゆえに長い時間をかけても本体の場所を突きとめることが出来なかったのだ。いっそこの山に縦穴でも開けてしまえば見つかるだろうかと思うが、危険すぎる上に時間が圧倒的に足りない。

 

 どうしたものかと考えあぐねていると、誰かが境内に現れた。石畳を叩く金属の音が、まるで鈴を鳴らすかのうようだった。

 

「聖杯は……どこですか」

 

 その声の主は、サーシャスフィール・フォン・アインツベルンであった。凛は身構えたが、彼女の様子はどこか活力がなく、弱々しかった。大振りなハルバードを杖にし、苦労しいしい歩み寄る。

 その右足はどうやら義足のようだった。銀色に輝く針金が足の形を象っている。どこかで右足を失ったのだろうかと凛は思った。

 サーシャスフィールの傷つき弱々しい体とは裏腹に、その眼光のみは異様なほどの気を放ち続けていた。その様相に押され、凛は声をかけた。

 

「サーシャスフィール……?」

「答えなさい。聖杯はどこですか」

 

 凛は聖杯を隠そうとしたが、既に遅かった。サーシャスフィールは凛の手にある聖杯を見咎める。その瞬間、失せていたと思われていた覇気がみるみる回復し、その両目からは強烈な敵意を放っていた。

 ハルバードを構え、切っ先を凛に向ける。凛もまたそれを受けて、ポケットから宝石を取り出した。

 

「それを返しなさい。それはアインツベルンのものです。私はアインツベルンの悲願を――いえ、ライダーの願いを成就させなければなりません」

「……ライダーは既に脱落した。アインツベルンは聖杯戦争に敗北したのよ」

「そんな事は分かっているッ!」

 

 サーシャスフィールは凛の言葉を遮るようにして言った。手に持ったハルバードの切っ先は震え、その目には涙すら浮かべていた。

 

「それでも――私はそうするしかないッ! 私は神ならざる者に作られ、廃棄されるだけの存在。そんな私を人と認めてくれた彼に報いるには、こうするしかない!」

 

 サーシャスフィールは凛に斬りつけようとしたが、一歩踏み込んだ瞬間、鮮血をその口から吐いた。

 明りの無い闇夜のせいで人目ではわからなかったが、顔も青白い。必至に押し隠してはいるが、指先の力すら満足に込められない。

 彼女の寿命、活動限界はもはや間近であった。安静にしていれば数日は生きながらえただろうに、無理をおした結果、もう余命いくばくも無い。

 

「あなた――そんな状態でどうするって言うの。今すぐ治療しないと大変なことになるわ!」

「貴方を倒した後にそうしましょう。良いですか? 私は貴方に武器を向け、貴方と戦う。もはや私たちは分かりあえず、分かりあうつもりも私には無い。ならば、どうするべきか分かるでしょう!」

 

 そしてサーシャスフィールは、苦痛に顔を歪めながらも詠唱を始めた。肉体だけでなく、魔術回路も限界が近い。

 文字通り、彼女は命を代価に闘争へ身を投じようというのだ。

 

Stark(強く)Schnell(速く)Wir sind Stahl Nogotokunari(我は鋼の如く)!」

 

 全身の運動能力を強化。瞬発力、強靭性ともに人智を超えた領域へ達する。

 そして次の瞬間、サーシャスフィールは渾身の力で走り抜いた。凛はガンドで応戦したが、サーシャスフィールはそれらを最小の動きで回避し続ける。

 ハルバードの間合いに入った瞬間、必殺の確信を込めた薙ぎを放つ。しかし、その一撃は予想もしない方法で止められた。

 

 ハルバードを止めたのは澪だった。いつの間にか起き上がり、ハルバードの一撃を受け止めた。圧倒的な質量差をものともせず、当たり前のように防いでいる。

 

「貴方も居たのですか」

「……人ならざる者を倒さなければならない。敵を倒さなければならない」

 

 サーシャスフィールは澪の実力を知っている。決して侮ることの出来ない相手だが、基礎となる体力は貧弱。ゆえに守りに徹すれば、自ずと勝機は見える。サーシャスフィールはそう踏んだ。

 しかし、すぐにその考えを改めることとなる。

 澪の剣戟は踊るようでいて、一切の無駄を省いた合理の剣。膂力も体力も無い澪が敵を倒すことのみに特化した剣舞。殺気の類が読みにくく、ある意味で予測しづらい一撃。

 首元を狙った刺突、太ももを切り裂かんとする逆袈裟、手首を斬り落とす薙ぎ。どれも急所のみを狙っており、動きは最小かつ無駄な力が入っていない。全て剣の鋭さに頼んだ一撃だった。あのアーサー王の持つカリバーンだからこその剣戟。

 

 しかも、一撃を放つ度にその動きは変化し続けた。同じ首を狙った一撃でも、進入角度を変え、時に回り込むような軌道となり、予備動作も常に変化し続ける。敵対した相手を殺すに相応しい剣戟へと、常に最適化し続けているのだ。あらゆる試行錯誤の中から有効と思われるものを選択し、さらにそれを基盤として変化させる。

 そして変化するたびに、サーシャスフィールにとって対処し難い剣へと変容していった。その度に、捌ききれなくなった剣で浅く傷ついていく。

 

 いくら衰弱したサーシャスフィールでも、まさか澪に押されるとは予想していなかった。だが、それは彼女の矜持が許さない。こんなひ弱な女性に遅れをとるなど、あってはならないのだ。サーシャスフィールは天を掴まなければならない、その決意の為にあらゆる障害を撥ね退けて見せなければならないのだ。

 

「調子にのらないで頂きましょうッ!」

 

 剣劇の合間の隙とも言えない隙を見出だし、裂帛の意志を込めた薙ぎ払いを放つ。胴を両断せんと放ったそれは、しかし澪の剣に軽く受け流される。

 しかし、サーシャスフィールはそれを見越していた。こんな単純な一撃で倒せる相手ではない。剣を受け流した後、ほんのわずかに澪に隙が出来た。全体重を乗せた一撃に、ほんの少しだけよろめいたのだ。

 サーシャスフィールはその隙を見逃さなかった。ハルバードを振りぬいた体勢のまま、渾身の蹴りを放つ。性格に頭部を打ち抜くハイキック。右足は針金で編まれた義足である。その重い右足で頭部を打ち据えられたとなれば、澪もたまらず倒れ込んだ。

 倒れた澪に引導を渡そうと、ハルバードの切っ先を心臓に向ける。それを振り下ろさんとした瞬間、視界の隅に飛来する魔力塊を見た。

 咄嗟にハルバードで受け止めるが、その勢いに押されてサーシャスフィールもまた倒れ込んだ。その拍子に持っていたハルバードから手を離してしまい、遠くまで弾き飛ばされてしまった。

魔力塊の正体は凛が放った宝石魔術であった。澪を庇おうと咄嗟に放った一撃は、狙いが甘い彼女の割には正確なものとなった。

 

 サーシャスフィールはすぐさま起き上がる。だが、それよりも澪が起き上がるほうが早かった。

 必殺の機会と見たか、澪はカリバーンを手に駆け寄る。躊躇も迷いも無い挙動であった。ここで必ずサーシャスフィールを殺すという、静かな意志が剣には込められていた。

 

 サーシャスフィールは咄嗟に右足の義足を解き放つ。足を象っていた針金は瞬く間に解け、三槍を携えた触手となる。

 三槍はそれぞれタイミングをずらし、澪に向かってその牙を突きたてた。その刺突の速度はもはや視認すること難しく、残像しか目に留まらない。

 しかし澪の突進は止まらなかった。最初の槍を受け流し、次の槍を打ち落とし、最後の槍は薄皮一枚の際どさで回避してみせる。

 もはや二人の距離は一挙手一投足。片や剣を携え、肩や徒手空拳。片や無傷で、片や義足を解放したため起き上がることもままならない。

 

 だからこの結末は、もう決まっていたのだ。

 澪の剣はサーシャスフィールの胸を貫いた。心臓は貫けなかったが、十分に致命傷の一撃である。

 だがサーシャスフィールは、喉か上がってくる血を無理やり飲み込み、澪を睨みつけた。自分を貫いた剣を右手で掴み、決して離すまいと渾身の力を込める。無論、手が斬れて血が流れ落ちたが、彼女はそんなことを斟酌しなかった。

 そして空いた左手で澪の首を掴み、渾身の力で締めあげた。

 しかし、あろうことか左手に満足に力が込められない。彼女の限界は先ず左半身の機能不全から始まった。

 

 サーシャスフィールは針金を再び操り、澪を刺し貫こうとした。しかし、澪の当然の抵抗により回避されてしまう。それでもサーシャスフィールは左手を離さなかった。

 ならばこうするまでと、サーシャスフィールは針金を蛇のようにしなやかに操作する。そしてそれは澪の首に巻きつき、万力のような力で締めあげる。そのまま澪の体を宙に持ち上げ、抵抗を許さない形にした。

 澪はなんとか逃れようともがいたが、すぐにそれも弱々しくなる。口から泡を吹き、肌も土気色に変化していった。

 

「聖杯を手にするのは――私ですッ! 貴方はここで死ね!」

「させない!」

 

 凛が慌てて駆け寄る。

 だが次の瞬間、サーシャスフィールは口から大量の血を吐いた。もはや逆流する血液を抑え込むことも不可能だった。

 同時に、じんわりとだが恐ろしい速度で全身に麻痺が広がっていく。離すまいと力を込めていた指先も、もはや動かすことすら難しい。

 体の限界は運動能力だけではない。魔術回路ももはや満足に起動しなかった。針金は力を失い、ただの美しい金属に戻る。澪を持ちあげる力すら無くなり、澪は崩れるように地面に落ちた。

 凛が駆け寄ったとき、すでに澪に意識はなかった。元から意識があるとは言い難い状態だったが、今度は完全に失神している。だが命に別状はなさそうだった。みるみる顔色が回復していく。一命は取り留めたようだった。

 

「……私はもう聖杯を手にすることなど出来ない。分かり切っていたことです」

「あなた、まだ喋れるの!?」

「私は人間とは違います。会話程度ならまだ可能です」

 

 しかしそう言うと、彼女は激しく咳こんだ。会話が出来るとしても、もうあまり長くないことは明白だった。

 彼女は倒れ込んだまま、天を見ていた。その目には涙が浮かんでいるように見えた。

 

「……私の昔話を聞いて頂けませんか?」

 

 凛はゆっくりと頷いた。きっと、これが彼女の最後の言葉になる。その命を直接奪った自分には聞く義務があると凛は思った。

 ありがとうと言って、サーシャスフィールは話を続けた。

 

「聖杯を手にする、ただそれだけのために生まれました。それを果たすために武器を持ち、魔術を体得しました。およそ娯楽の類は一切知りません。私が知っていることは、お爺様が教えてくださった事ばかりです」

 

 そこで彼女は目を閉じた。まだ死んだ訳ではないのは、呼吸により上下する胸でわかった。きっと、目を開けておく事が億劫になったのだろう。もしくは、何か思い出に浸っているのか。

 

「でも、人を愛する心だけは自分で学びました」

 

 それが誰か、など無粋なことを聞くつもりは凛には無かった。サーシャスフィールと接点のある男性など数えるほどしかいない。いや、ほぼ皆無だ。だから自ずとその相手はわかる。聞くまでも無いことを聞いて、彼女の話を邪魔したくなかった。

 

「彼の願いは叶えられないものでした。長生きを願われても、もう体のあちこちが壊れていて、どうしようも無いことは明らかでした。

 だから、私には聖杯が必要だったのです。……そこで寝ているお嬢さん(フロイライン)には悪いことをしました。貴方から謝罪を伝えておいて下さい」

「……わかったわ」

「……よく考えれば、アインツベルンの為にではなく、自分の為に戦ったのは初めてかも知れません。全く、最近は生まれて初めての経験が多すぎますね」

 

 サーシャスフィールはまたしても激しく咳こんだ。そして、今度は先ほどよりも遥かに大量の血を吐いた。

 凛は彼女の顔色をうかがう。どんどん血の気が失せていく。出血が多すぎた。だから胸に刺さった剣は抜く訳にはいかない。抜けば血が吹き出てショック死してしまう。かといって、彼女に施せる処置はもはや皆無だ。ホムンクルスを治療する技術は凛には無い。

 

 サーシャスフィールは再び目を開いた。その眼光は弱々しかったが、どこか幼い気配を思わせた。

 考えてみれば、何も不思議なことではない。彼女は今回の聖杯戦争のために急造されたホムンクルスだ。見た目の年齢よりも、実年齢が遥かに幼いとしても不思議ではない。

 

「……ねえ、遠坂の人。聖杯はもはや災厄でしかないって、本当?」

「本当よ」

「そう。……セイバーが、ライダーにそう言っていた。でもライダーは、そんなことは知らないって。私が欲しがったから手に入れるんだって言っていた。

 ……でもライダーは、本当はこうするべきだって思った筈よ。私も、きっとこれが正しいと思う。だから、私は貴方に伝えるべきことがある」

 

 そう言うと、サーシャスフィールは苦労しいしい右手を上げる。その手は東の方角を指示していた。

 

「聖杯を壊して。もう二度と人の手に渡ることのないように。壊すのはあの器物としての小聖杯ではなく、ここ柳洞山にある大聖杯。

 柳洞山には大洞窟があり、そこに大聖杯がある。入口は一度塞がれ、こことは別の場所に繋いだとお爺様が。

 ……この先に穂群原学園という場所があるわ。そこに入口がある。魔術的な隠蔽はされていないから、かえって見つけづらいかも知れない」

 

そう言うと、彼女はその詳細な場所を凛に伝えた。

聞けば、その場所はグラウンドの隅にあるそうだ。そこには植木が並んでいるのだが、茂みに紛れるようにしてマンホールのような見た目の地下式消火栓が設置されている。それは紛れもなく消火栓なのだが、バルブを引きぬけるように改造されているそうだ。そうすると剥きだしの水道管が現れ、そこに大きな横穴が開けられているらしい。

なるほど場所を知っていなければ絶対に見つけられないと言えるような場所だった。というより、異常なほど手が込んでいる。よほど前回に聖杯戦争を邪魔立てされたのが気にくわなかったと見える。わざわざ道を作り直すほどの手の込みようだ。

 

 柳洞山に入口を作れば、凛たちに見つかっていたのは事実だろう。現に、凛と士郎はそう踏んで柳洞山を根ほり葉ほり探したのだから。

 だからと言って学園まで穴を掘るとは、本当に恐れ入る執念である。

 今すぐ学園に向かおうとした凛だったが、門の向こう側から何かが近づいてくる音が聞こえた。何か大勢が石畳を踏む音。それも何か固いものが踏みぬくような音だった。

 

「私の姉妹兵よ。……優しい子たち、私を心配して来てくれたのね」

 

 その言葉が正しいことはすぐに知れた。ほどなくして騎馬隊の一団が柳洞寺に乗り込んでくる。凛も見覚えのある、白装束のホムンクルス達だった。

 彼女たちは、サーシャスフィールが剣で貫かれて倒れているのを見ると、各々の得物を構えた。彼女たちとてサーシャスフィールがもう助からないことは分かったが、それでも報復しようとした。これが、聖杯をアインツベルンにもたらすために取った行動なのか、サーシャスフィールを想うゆえの行動かは、誰にもわからなかった。

 

「みんな、この人を傷つけては駄目。何があっても手を出してはいけないわ」

 

 だがサーシャスフィールの一言で、姉妹兵は武器を収めた。

 姉妹兵とサーシャスフィールの間には絶対の主従関係がある。サーシャスフィールが止めろと言えば、誰ひとり反抗することなく止める。彼女たちはそういうものであり、そのように作られたのだ。

 サーシャスフィールは姉妹兵の一人を指さして言った。

 

「あなた、この人のために馬を貸してあげて。

……遠坂、今から徒歩で行っても時間がかかるわ。きっと、もうすぐ聖杯は現れる。だから急いでね」

 

 そう言うと彼女は静かに目を閉じた。

 その眠りはとても穏やかで、とても永いものになる。そこに居る者は誰も口を開かなかったが、誰もがそう思った。

 




 お待たせしました!
 最近は投稿速度を重視していたためあまり長い文章を書いていませんでしたが、今回は久々の1万文字超です。

 次も一週間後くらいが目標。クリスマス間近だからって特別なことはしません。リア充爆発したまえ。

 twitter:mugennkai


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Act.48 自身は何処だ

 不思議な場所に居た。私はたゆたう中空に浮かんでいて、常に安定しない。私はここを知っている気もする。私はどこにいるのだろう。

 いや、そもそも。私は誰だっただろう。名前はもう分からない。

 右手を見てみたけれど、輪郭があやふやで常に不安定だった。私という存在は一体どうなってしまったのか、私はどうするべきなのか、何も分からない。

 辺りを見渡せば、あらゆる景色が浮かんでは消え、これもまた不定だった。歴史や国すら一定ではなく、ありとあらゆる情景が生滅を繰り返す。

 やはり、私はこの場所を知っているような気がした。

 

「まったく、無茶をやるのう。ここに引き込まなんだら、どうなっていたか知れたものではないぞ」

 

 背後から唐突に声が聞こえ、そちらに振り向いた。そこには美しい着物を着た女性が居て、顔はどことなく見覚えのあるものだった。でも、やはりどこで会ったのかは思い出せない。

 当たり前だ、そもそも自分のことが思い出せないのだ。人のことを思い出せるはずもない。

 

「貴方は?」

「……やはり記憶がないのか。我はこの固有結界、森羅写本が主の稗田阿礼。……自分の名前も忘れているのであろ?」

 

 私は黙って頷いた。すると阿礼は悲しそうな顔をした後、すぐにその気配を隠す。何でもないような顔を作って、彼女は微笑みを浮かべた。

 何故だか知らないけれど、ちょっと胸が痛んだ。

 

「汝(なれ)の名は八海山澪。魔術師であり、我の子孫である。私から数えて何代目かは、正直数えるのも億劫であるが。――世間話をしている暇が、あるようで無いのが現状でな。お前には一つ選択をしてもらわんといかん」

「……選択?」

 

 何を選択しろというのだろう。私は何も覚えていないし、何も分からない。選択のしようも無いと思う。

 阿礼は私に指を突きつけ、言った。

 

「全てを思い出して辛い現実を知るか、全てを忘れて安穏のうちに此処に留まるか。いいか、汝がここに来た経緯を教えてやる。それを聞いて判断しろ」

 

 何を言っているのか、正直分からない。でも、きっと私は話を聞かなければならないのだろう。記憶は無いけれど、何か心に引っかかるものがあった。辛い現実――きっと、私が忘却してしまった何かを、彼女は知っている。ならば聞かなければならない。

 

「汝は、自分の精神を代価に強敵を討ち果たした。それは他者の精神を自己の中で模倣と再現を行ない、現世に蘇らせる奇跡の技である。しかし、自己のうちに他者を作り出すことは自己の破壊と同意である。

 いいか、此処に居るお前は精神だけの存在。汝が何も思い出せず、かつ輪郭が不定なのは、精神が全壊寸前まで追い込まれた事を示している」

 

 私はもう一度自分の手を見た。相変わらず胡乱で、安定しない。ここが精神の世界で、私もそうであるならば、安定しない姿は精神の崩壊を意味している。ここまでは分かった。つまるところ、私はあと一歩で消滅するところだったのだろう。

 ならばどうして助かっているのか。

 

「汝に消えるのは我も望むところではない。よって、こちらに引き込んだ。今のお前の体の中には、他者の精神が渦巻いている。だがここならば我が汝を守れる。これ以上お前が傷つくこともない。

 ――まあ、完全に引き込めたわけではないのだが。ごく一部だが、体に残してきてしまったものもある。汝の瞬間的な感情まではこちらに引き込めなかった。……それが原因で、お前には辛い現実を突きつけなければならないかも知れぬ。不徳の致す限りだ」

 

 辛い現実とは一体何なのだろう。名前すら思い出せない今の状況では、何の予測も立てようがない。

 何とも表現し難い不安に襲われる。精神の世界であるというのに、嫌な汗が出てきた。

 

「『あちら』に残った感情は、一種の暴走を引き起こした。今は、我が汝の体に介入して止めておるから安心して良いがな。

 とまあ、これが今伝えられる事の顛末だ。『辛い現実』を知るかどうかは、お前次第だ。

 だが、これだけは言っておく。思い出すにしても、それが今すぐに出来るのか、それとも何十年もかかるのか、我には分からん。お前次第だな」

「私次第?」

「汝はこれから――この広大な情報の海の中から、『自身』を見つけ出さねばならん。この海は過去の記録に他ならない。この中から失った自身を見つけ出し、補完していく。何十年、いや百年あったとて足りるかどうか」

「……それって、思い出す意味あるの? 思い出したとしても、私は年老いて先がないかも知れないのに」

「そうさな。それは一理あろう。だがな、それで悲しむ人もおるのだ。今、汝の体は私がある程度制御している。だからな、ある程度は周囲の状況が分かるのだが、きっと奴らは悲しむだろう。……きっと、お前が愛した人も悲しむだろうて」

「私が愛した人? 誰?」

「……まあ、それを忘れてしまったからこそ、という話でもあるのだが。名前くらいは覚えていないか? 彼の名はローラン。フランスが誇る屈指の聖騎士(パラディン)・ローランだ」

「ロー……ラン」

 

 何も思い出せない。愛した人の名前や顔すら思い出せないという事実が、私の胸を締め付ける。

 だけど、それだけじゃない。何か懐かしいようでいて、温かい気持ちになる。それが誰なのか私にはわからなくなってしまったけれど、それが大事だったことだけは何となくわかる。

 思い出せと言われても、私には何がどうなっているのか分からない。だけど、その名の響きだけで、私が選ぶべき道は示されているように思った。気のせいかも知れないし、このまま此処に留まったほうが幸せなのかも知れない。

 

「ローラン。この響きを私は知っている。けれど思い出せない。……なんだか、それはとても悲しいと思う」

 

 だから私は決めた。私の道を、他でもない私自身で。

 

「思い出すわ。何年かかっても問題ない。ここは現実じゃなくて、現実に私の居場所がある筈よ。だったら、私は思い出す。私自身を取り戻す!」

「……ならばよし! よく言ったぞ、澪。それでこそ我が子孫!」

 

 私は、現実を諦めない。つらい現実も、悲惨な過去も受け止めてみせる。

 ――それが、私の正義。

 

「我も手助けしようぞ。なあに、この空間は過去に何度も汝が接続し、情報を引き出していた場所。すぐに慣れるだろう」

「あなたには、私の情報がどこに格納されているか分からないの?」

「難しい質問じゃのう。一言でいえば分からん。この空間は我の固有結界、私が見聞きしたものを全て記録する無限の書架。だが、いまやこの空間はアカシャのバックアップシステムとなっている。もはや私の認識をはるかに超えた情報量だ。探せばどこかに情報があることは間違いないが、どこにあるのかと問われるとなあ……」

「……結局、自分で探すしかないのね」

「そうだ。手当たり次第に誰かしらの情報を読んでいくしかない。ここは言うなれば、表紙の一切ない本をひたすらに詰め込んだ蔵書の樹海だ。中身を読んで、それが誰の情報なのか判断するしかない」

「……仕方ないか。あれ、でも私には記憶がないのに、それらを見ても分かるの?」

「自分の記憶だ。見ればそれと分かる筈であろ。……確証がないのが痛いところではあるが。……では、手始めにこの人物から始めようか」

 

 彼女がそういうと、手の平の上に光の靄が現れた。何やら甘い匂いのする光だった。その光をじっと見ていると、誰かの記憶が脳裏に浮かんでくる。記憶から判断するに、この人は男性らしい。これは除外しても良いだろう。

 これを判断できるまで、体感で二十分。これは長い戦いになるだろう。

 この人は違うと彼女に言うと、残念そうな顔をした。そして直ぐに新たな光を差し出した。見た目は一緒だが、今度は鼻の曲がりそうな匂いがした。まるで汚物のようだった。

 その光もじっと見ていると、その人物の記憶が伝わってくる。この人は女性だったようだが、何やら違うようだった。何も感じるところが無いどころか、正直に言ってろくな人間じゃなかった。清々しいほどの悪女であった。

 この人物を判断するのにかかった時間は、おそらく五十分。さきほどよりも断然長くかかった。

 

「これも違うか。一応、同年代と思われる人物を引っ張ってきてはいるが、それでも総数が多いからの。仕方がない。では次だ」

 

 次々と差し出される光を凝視し続け、その全てが違うように思えた。本当に地味な作業で、彼女が言っていたように何十年かかるか知れたものではなかった。

 でも、私は決めたのだ。私は決して、私自身を諦めない。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 この空間には昼夜というものがなく、それゆえに時間の指針が全く存在しない。私がこの空間に来てから何時間、いや何日経ったのかもはや不明だ。もしかしたら数分しか経ってないかも知れないし、既に何年もたっているかも知れない。

 彼女いわく、この空間と現実の時間は流れる速度が違う。精神の世界は現実に比べて時間の流れが早い。こちらで一時間経ったような気でいても、現実には十分も経っていないということもある。

 だからと言って、あせりを感じないわけではない。そもそもこの空間でどれだけの時間が経ったのか全くの不明であるから、現実での時間経過を推し量れない。

 その点、彼女は分かっているのだろう。私の体に介入していると言っている以上、現実との接点がある筈だ。だが、あえて聞かないことにしておく。もし、現実では既に十年も経過していると言われたら、私はきっと気力を無くしてしまうだろうから。

 

 私が見た光の玉は、もはや数百個に達している筈だ。ある程度まで数えていたが、その無意味さに気付いてからは数えるのをやめた。

 仮に三百に達していたとしても、せいぜい村レベルの人数でしかない。現在、地球上に存在する数十億の人類の内たったの三百。これでは一生を費やしても終わらないかも知れない。

 そもそも、一つの光を見るのに一時間以上かかることが普通にある。性別が明らかに違うと判断できる場合もあるが、大抵は四十分から百分ほどの時間を必要とする。この時間もあくまで体感なので具体的な数字は不明だが、逆算すれば既にこの世界では十日ほど経っていることになる。

 

 さすがに彼女も疲れてきたのだろう。肩を揉みながらぼやいた。

 

「記憶のあるときの汝は、ほとんど一瞬でこれを成しておった。せめてそれを思い出してくれればな……」

「……何それ、初耳なんだけど」

「言うておらんかったか? 前の汝はな、この世界に接続するなり、目当ての記憶を直ぐに抜き出しておったぞ。どうやっていたのか、我にも分からん。一種の才能であるよ、あれは」

「……それを思い出したほうが早いんじゃ」

「思い出す手掛かりもないのにか? こうやって多くの情報を閲覧しているうちに、何かが引き金となって思い出してくれればと期待しておったのだが、なかなか上手くいかないものであるよ」

 

 そう言って、彼女はまた新たな光を差し出した。今度のは何やらすえた臭いがしているように思えた。

 

「また臭いやつ? 匂いの悪いのは基本的に嫌な人間な気がするんだけど」

「……匂いとな?」

「いやほら、今度のヤツ匂うじゃない。カビ臭いというか……」

 

 そこまで言ったとき、彼女が怪訝な顔をしていることに気がついた。光に鼻を近づけて嗅いでみて、さらに怪訝な色が強くなった。

 記憶がないから定かじゃないけど、実は私嗅覚がおかしかったりするのだろうか。いや、こんな匂いは誰だって嫌だと思う。カビ臭いのを好む人間はそうそう居ないと思うのだが。

 

「おい。これはただの情報の塊ぞ。匂いなどある筈もない。……汝、何を言うておる?」

「え? いやほら、すえた匂いがするでしょ? あれ、私って嗅覚おかしいの?」

「……では、これはどんな匂いがする?」

 

 そう言って彼女は別の一つを差し出した。これは良い匂いがする。レモンのような、柑橘系のさわやかな匂いだ。

 

「……柑橘系の匂い?」

「……なるほど」

 

 そういって彼女は、その光を凝視し始めた。その仕草はまるで何かを確かめているかのうようで、時間が経つにつれてその顔に歓喜の色が浮かび始める。

 その情報を最後まで閲覧しきった時には、その顔には自信と確信に満ちた顔をしていた。

 

「よし、聞け。汝がどうやってこの空間で、特定の人物の情報を探し当てていたのか分かった。汝の魔術は、自身の体に新たな機能を付け加えるものだ。あるいは、既存の機能を変更するものだ。汝は忘れているだろうが、そういう魔術を得意としていたのだ。

いいか、汝の中にはな、最初から常人とは違うものが組み込まれているのであろ。それは、『他人の性質を匂いに置き換えて知覚する』というものだ。これが生まれもった特別なものなのか、幼少期あたりに魔術の失敗でこうなってしまったのかは定かではないがな。きっと、今までだってそうだった筈だ。それを処世術として無意識に活用していたんだろう。『この人は信用できる』とか『この人はろくでもない人間だ』とかな」

「……人の性質を匂いに置換?」

「お前はな、第六感すらも自分の機能の一部として使っておった。その活用と考えれば良いかも知れんの。相手を一目みて、その性質を六感で感じ取り、それを嗅覚に置換して感じ取る。六感はそのままだと胡乱な感覚でしかないが、嗅覚や視覚で訴えれば確たる情報だ。

うむ、さすがに偶然だろうが、我が固有結界との相性は抜群である。我のそれはただ貯蔵するだけの空間であるが、汝はこの雑多な空間から特定のものを探し当てることが出来る。素晴らしきかな、我が子孫は」

 

 そう言って彼女はからからと笑いだした。しかし、まだ私は腑に落ちない部分がある。

 

「……でもそれって、既に嗅いだことのある匂いであるとか、匂いの元となる何かが無いと同定できないでしょ? 自分自身の匂いなんて、私分からないんだけど」

「だからこそ確実に分かるであろ!」

「……はい?」

「汝にとって無臭の情報こそが、汝自身に他ならん筈であろ!」

「……あー、なるほど」

「何をぼけっとしておる! 今まで一つあたり相当な時間を食っていたが、匂いだけ追っていけば一瞬で終わる! おい、これは急ぐ必要が出てきたぞ。言うておらんかったがな、汝の周辺は結構大変なことになっておるようなのだ。上手くいけば、事が済んでしまう前に帰れるぞ、澪!」

 

 そういって彼女は次々に光を差し出してきた。しかし、今までのように一つにつき数十分を費やすこともない。一秒もあれば十分だった。何せ、何かしらの匂いがあったらアウトという非常に単純な話である。

 しかし気になるのは、外は結構大変なことになっているという言葉だった。記憶が全くないために何も推論できないが、私は早く元に戻るべきなのだろうか。

 そして、辛い現実という言葉がいまだに心の奥で燻っていた。一体何があったというのだろう。きっと、ローランという人が関係していることは間違いないだろう。一体、その人に何があったというのだろう。最悪の場合、その人の死を覚悟しておくべきかもしれない。

 

 だが今は余計なことを考えないほうが良いだろう。私は再び情報の海の中から自身を探すために、目の前の仕事に没頭することにした。そうしないと、不安に押しつぶされそうだったから。




 皆さんあけましておめでとうございます。
 新年早々ですが、研究室であるとか実家に帰って色々なことの手伝いやらで忙しく、あまり文章量がありません。
 しかも物語にあまり動きのない回というね。ほんと申し訳ない。

 こんな真澄ですが、新年もどうかよろしくお願い申し上げます。


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Act.49 ここは通せぬ

 姉妹兵たちはサーシャの最後の命令を忠実に守った。凛たちに危害を加えることも一切なく、うち一騎は素直に馬を明け渡した。

 しかし凛は騎乗の心得などない。その旨を伝えると、姉妹兵は再び馬に跨った。やや前に詰めて座っており、どうやら後方に乗れと言っているようだった。言葉を発することがなくとも、動作でその意図を察することは出来る。

 しかし、澪をここに置いておくことは出来ない。ここは決して安全な場所ではない。放置していては危険に晒してしまう。さすがに、一騎に三人を乗せることは困難だ。

 それを察したのか、さらに別の一騎が進みでた。どうやら、澪を運んでくれるらしかった。

 その澪はというと、まだ気を失っているのか、その場に倒れ伏したまま動かなかった。見れば外傷もなく、息も安定しているためじきに目を覚ますだろうが、やや心配であった。

 

「彼女を頼むわ」

 

 姉妹兵の一人にそう言うと、彼女は静かに頷いた。サーシャスフィールの命令は凛に馬を貸してやれというもので、姉妹兵たちに凛たちを目的地まで送ってやる義理はない。しかし、それでも姉妹兵たちは自らの意思でそれを選択した。

 きっと、サーシャスフィールならばこう命令するのだろう。彼女たちの行動理念は、現在においてその一点のみである。

 姉妹兵たちは澪を丁重に抱え、ある一騎の後ろに乗せた。しかし澪は意識が無いため、このままでは落馬してしまう。姉妹兵たちは、細いロープでその一騎に乗っていた者と澪を固定した。ロープは境内に放置されていたものである。

 

 凛は境内の端に放置していた聖杯を回収した。幸いには傷はない。ここで破壊してしまう手もあるが、跡形もなく吹き飛ばさなければ何が起こるか知れたものではない。今、彼女にそこまでの火力は無かった。とりあえず確保しておけば、聖杯が使われることも無い筈である。

 

 ふとサーシャスフィールを見てみると、澪と同じようにして馬に乗せているところだった。どうやら城に連れ帰って、そこで弔ってやるのだろう。

 よんどころない状況であったとはいえ、命を奪った側としては心が痛む。せめて安らかに眠って欲しいと願うばかりだ。

 

 さて自分も馬に乗せてもらって、教えてもらった場所まで移動しようかという時、その異変は起きた。

 

 凛が手に持っていた聖杯から、どろりとした泥のような物がこぼれ落ちた。その泥は絶えることなく流れ続ける。

 

「なッ……」

 

 凛はその異変にすぐさま気がついた。咄嗟の判断で、付近にあった池に聖杯を投げ捨てる。池は瞬く間に、黒い汚泥に浸食し始めた。

 そして辺りには瘴気が立ち込める。その場に居る人間を呪い殺そうとするような、圧倒的で凶悪な瘴気であった。常人であれば即座に昏倒しているだろう。魔術師であれば問題は無いものの、気分の良いものではなかった。

 

「何とかしないと……!」

 

 凛がその池に近づこうとしたとき、後方から強い力で襟を掴まれた。振り返ると、凛を乗せることになっていた騎手が、恐ろしいほどの力で凛を引きとどめていた。

 まるで子猫の襟首でも掴んでいるかのように凛を持ち上げてしまい、そのまま馬の後方に無理やり乗せる。

 

「何をしているの!」

 

 降りようとする凛を、その騎手は恐ろしい力で肩を掴んで押しとどめた。そして凛の目を凝視し、首を横に振る。

 その目は口ほどに物を言っていた。ここに居ても、あれをどうにか出来る術などない。ここは他の姉妹に任せろ。貴方にはやるべきことがある。

 姉妹兵は何も言わない。だから凛の妄想であると言われればそれまでだ。だが、凛はその目から強い意志を確かに感じたのだ。

 

 ホムンクルスは人ではない? ただの人形?

 笑止千万である。確たる意志を持つ彼女らが、人で無い筈がない。彼女らを人ではないと称するならば、この光景を見るが良い。誰の命令でもなく、自らの意志を持ち、成すべきことを為している。

 

「……わかったわ。ここは任せる」

 

 凛はその瞳の力に負けた。強固な意志の前にして、凛は彼女らを信頼するに足ると信じることにした。

 彼女らが言うように、凛がここに居てもできることなどない。そもそも聖杯をどうにかしようと考え自体が愚かなのだ。あれを破壊するのも、今となっては手遅れた。溢れだす泥は最大級の呪物であることは、凛も感じていることである。魔術で破壊を試みようとも、泥に阻まれるであろうことは想像に難くない。あれは、宝具級の何かでないと破壊することは難しいだろう。

 

 中身の溢れた聖杯に対しては、もはや打つ手がない。ならばせめて、寺の住民に被害が出ないように努力することぐらいしか出来ない。

 凛は寺に残っている人を避難させるよう、姉妹兵たちに言い付けた。彼女らは短く頷き、それを了承する。

 それを確認すると、凛は自らが跨る馬の騎手に、目的地へ向かうように告げた。騎手は手綱を操り、矢のごとき速度を以て石畳を疾走する。澪が乗っているほうの馬も、凛について行くように走り出した。

 その馬らは、どちらも既に宝具としての力を失っている。宝具馬として存在できるのはライダーが存命している間だけだ。宝具としての力を失ったそれらは、ただの優秀な軍馬でしかない。神秘も身に纏わず、馬鎧も最低限のものしか身につけていない。

 しかしながら、その走りは並みの競走馬など影すら踏ませぬほどのものであった。少なくとも、凛はそう思った。馬上の恐怖から来る勘違いではない。本当に、信じられないほどの速度であったのだ。宝具馬として活動していた期間が長いため、基礎的な筋力が強化されたのか。それとも体の使い方を覚えたのか。いずれにしても、その馬たちの足取りは軽く、迅く、頼もしいものであった。

 

 二頭の馬は夜を駆け抜けた。石段を危なげなく下り、舗装された路面を我がもの顔で疾走する。

凛は、その背中から伝わる筋肉の脈動を頼もしく思った。敵として対峙していたときはあんなにも恐ろしい存在であったのに、味方となれば頼もしい。まるで一騎当千の戦友のようである。

 そしてそれを操る騎手にも、同様の感情を抱く。並みの騎手には到底扱えきれないほどの駿馬である。それを難なく操ってみせる彼女たちの姿は、戦場を駆ける戦士のそれに他ならなかった。

 

 静寂の街並みを、二頭の軍馬が掻き乱す。だが誰の目に留ることもない。蹄の音に驚いた住民が居たとしても、窓の外を窺う頃には二頭の姿は遥か彼方である。この時間に車を走らせる者も既におらず、徒歩で歩くものが居たとしても認識阻害の魔術の餌食だ。ゆえに、彼女らは誰にも見られなかった。

 

 ほどなくして、目的地の学園まで後少しという所まで迫る。

 だがそこに待ちうけていたのは、夜に溶けるような黒衣を身に纏い、銀に光る剣を両手に握る男の集団であった。

 

 姉妹兵らは、男たちを見るなり雄叫びをあげる。声帯が無いため、それは既に言葉ではない。ただ息が通り抜けるような音を発したのみだが、その迫力は幾千の言葉を連ねようと及ばぬものだろう。

 言葉など無くとも、その場に居合わせた全員がその意を解する。退け、退かねば殺める。

 それを証明するように、彼女らは馬を止めるどころか速度を増し、腰に留めたハルバードを抜いた。

 それを見た男たちも、もはや実力行使しかないと知ったのだろう、手に持った剣を構えた。それは黒鍵――魔力で編まれた、投擲を目的とした剣であった。

 それを見て、姉妹兵の背中越しに見ていた凛も彼らの正体を知る。

 

「代行者……!」

 

 教会め、邪魔をする気か。凛は内心で毒づいた。理由は知らないが、明確な敵意を以てそこに立っている。こちらが話し合いを望んでも、それに応じる相手ではない。あちらに話し合う気があるならば、何故既に抜刀しているのか。何故方陣を組み、敵意に満ちた目でこちらを睨んでいるのか。

 もはや力づくで突破するしかない。時間は一刻の猶予も無いのだ。説得をしている暇がないのであれば、こちらもそれなりの強行に出なければならない。

 

「止まらねば安全は保障しないッ!」

 

 男のうちの一人が吠える。だが彼女らはその言葉を嘲笑で返した。今更降伏を迫っても襲い。こちらとしても、邪魔立てする意志があるならば打ち砕くのみ。そう意志を決めている。

 

 二頭はそのまま直進した。こちらは僅かに二騎、敵は十を超える。数の上では圧倒的に不利であるが、それでも構わぬと突き進む。

 先手を取ったのは凛だった。馬上から側面に身を乗り出し、手に宝石を握って詠唱。一秒にも満たぬ後、宝石から暴風を圧縮した礫が放たれる。放たれた弾丸は五つ。いくら狙いが甘くても、十を数える標的ならば外すことはあり得ない。

 だが代行者たちも、数多くの戦場を切り抜けた猛者たちだ。弾丸を視認した次の瞬間には、すでにその着弾点から退避していた。回避しつつも、目は彼女らを向いて離れない。詠唱後の僅かな隙に反撃に転じるつもりだった。

 しかし、凛のほうが僅かに用意周到であった。暴風を圧縮したそれは、着弾すると同時に膨れ上がり、強力な爆風を生じさせた。それは着弾したアスファルトの地面を砕き、その破片を舞い上がらせる。微細な破片と風力は容赦なく代行者の視界を奪った。一時的なものであっても、今は十分だった。

 

 姉妹兵はこの隙を逃すまいと吶喊した。まるでそれ自体が一本の矢であるように、迷いなく一直線に。

目を潰されなかった数人が彼女らを目掛けて剣を投擲する。しかし二頭の軍馬は、まるでそれを見越していたかのように跳躍して回避した。凛は振り落とされそうになったが、どうにか耐えた。

 そしてそのまま、人の垣根を砕かんと速度を増す。轢殺されそうになった代行者の一人は横に避けたが、馬上の姉妹兵がそれを許さなかった。振りかぶったハルバードを容赦なく叩きつける。男は両手に持った剣を交差させて防いだが、馬の突進にのせた一撃はあまりにも重すぎた。剣は砕かれ、その勢いで彼は弾き飛ばされる。その勢いを削がれることなく、民家の塀に激突してしまった。死んでこそないものの、しばらく目を覚ますことは無いだろう。

 

 そのまま追撃することなく、彼女らは代行者たちを後方に送る。そこはもう学園の正門であった。正門をくぐったとき、そこで姉妹兵らは馬を止めた。

 不思議に思う凛に、降りろと身振りで示す。もう片方の騎馬に乗った澪も、騎手と固定されていた荒縄を解かれ、丁寧に馬から降ろされていた。意味が分からぬまま、とにかく彼女の指示に従う。

 二人を下ろした騎手と軍馬は、今くぐった正門に並んで立ちふさがり、そのハルバードを交差させて居並んだ。ここは通さない。その挙措が示すのは、それ以外にありえない。

 

「何を……」

 

 しているの、と言いかけて、凛は言葉を飲み込んだ。二人の姉妹兵は、どちらも剣が突き刺さっていた。片方は肩、片方は太もも。傷はそれほど深くないようだったが、今も血が流れ続けていた。流れた血は、軍馬の美しい毛並みを朱に染めていた。

 彼女たちは首だけこちらに向け、その強い視線を凛に向ける。後は自分たちで行け、とその瞳は訴えていた。

 彼女たちを連れて行きたいのはやまやまだ。だが、話によるとこの先は狭い地下道になっている。どう考えても馬は連れていけない。加え、負傷した彼女たちを連れて行くのも危険極まる。何にせよ、ここに置いていくしかない。

 

 凛は短く頷き、澪を背負ってその場を離れた。目的の場所は、すでに目と鼻の先である。見る限り、これ以上の障害はなかった。ならば、早く目的を達して迎えに来てやることが、彼女たちを救う唯一の手段である。

 後ろ髪を引かれる思いを振り払い、凛は地下道への入り口を探した。

 

 凛が立ち去るのと、入れ替わるようにして先ほどの代行者たちが正門の前に現れた。一人が昏倒したため、数は一人減っている。だが、それは姉妹兵たちも同じ。凛が一人減った。ただ、それだけ。

 ならばまだ戦えると、姉妹兵たちの目は闘志を訴えていた。

 

「……どけ、人形」

 

 代行者の一人が口を開く。姉妹兵は首を振ってそれを拒絶した。

 ここは一人も通さない。一人として凛たちの邪魔はさせない。私たちの防衛を突破せんと試みるならば、命を賭して臨むが良い。

 彼女たちは無言のまま、眼力でそう訴える。それに応じるように、代行者たちは手に黒鍵を握り、構えた。

 

「――黒鉄の杖をもて彼らを打ち破り、陶工の器物のごとくに打ち砕かん」

 

 故に諸々の王よ、賢くあれ。戒めをうけよ。恐れをもって主に仕え、その足に口づけをせよ。さもなくば主はお怒りになり、貴方の道を燃やして閉ざすであろう。

 詩篇2、8節から12節である。

 神を信じず、それを恐れない者を諌める言葉。神を信じない者には災いが降りかかるであろうという言葉である。

 姉妹兵たちは、神の地上代行者を拒絶し、その意に逆らおうとしている。ゆえに罰を受けるであろう。この男はそう言ったのだ。

 

 だが、その言葉を聞いて姉妹兵はせせら笑った。万物の創造主の作りだされた訳でもない我らが、それに従う道理もなく、罰を与えられるいわれなど無い。

彼女たちには、およそ感情の類は持ち合わせていない。だから、感情がある振りをしているだけであるが、それは代行者たちの神経を逆なでするに十分であった。

 

「――Anathema Maranatha(主を愛さぬ者がいるならば、呪われよ)

 

 そういう言うや否や、代行者達は姉妹兵に向かって飛びかかった。

 

 ◇◆◇◆◇

 

 目当ての地下式消火栓らしきものは、すぐに見つけられた。らしきというのは、既にそれは引き抜かれた後であり、剥きだしの地下道が口を開いているからだった。

 凛は、何者かが既にここに入ったことを悟った。正門前に待ち構えていた代行者たちから鑑みるに、この奥に居る人物はすぐに察することができた。

 ならばきっと――戦闘は避けられないのだろう。話し合いで解決する気がないことは、先ほどの代行者からの様子からわかる。

 

 ならば、ここに澪を置いて行ったほうが良いだろうか。そう考えたが、すぐにその考えを否定した。ここは既に代行者たちが足を踏み入れた後である。ここに置いていけば、澪はきっと捕獲されてしまうだろう。悪いようには扱わないだろうが、良いようにも扱うとも思えない。

 代行者たちが澪を捨て置いたとしても、やはりここに置いておく訳にはいかなかった。いつまた暴走するとも分からない。今度は一般人にまで手を出そうとするか分からない。多少危険でも、目の届くところに置いておくべきだった。

 

 意識を失った人の体は、存外に重いと聞いたことがある。だが、それを差し引いても澪は軽いと凛は感じていた。ならば大丈夫。背負ったまま地下道を延々歩いたとしても、疲れ果てるということもあるまい。

 凛は意を決すると、暗い地下道に足を踏み入れた。

 

 地下道の中には明りの類は一切なかった。底知れない闇がそこに広がっている。凛は懐から携帯電話を取り出し、カメラ用のライトで周囲を照らした。

 何の変哲もない地下道だった。所々に支柱があり、崩落を防いでいる。酸素も十分に行き渡っているようだった。

 だが、この圧迫感はいかんともし難かった。一人がようやく通れるだけの道幅に、頭を打ちそうなほど低い天井。換気など二の次のため、淀んだ空気。携帯のライトなどでは到底払拭しきれない闇。

 照らしきれない闇の向こうから、何か異形のものが飛び出てくるのではないか。そう思わせるほど、人の心を苛む空間がそこにはあった。

 

 息が詰まる感覚に襲われながら、それでも凛はそこを走り抜けた。

 歩みなどしない。時間の問題もさることながら、速度を落とせば何かに背後を襲われそうな気がした。

 だから走り抜ける。一心不乱に、狭い通路の側壁で肩を擦ることすら構わずに。息はしだいに荒くなり、額を汗で濡らす。舞い上がった埃が汗に溶け、もはや凛の顔は泥に塗れているかのようだった。優雅とは程遠い。それでも、彼女は走り抜けた。

 

 しばらく行くと、手入れされた地下道はしだいにただの横穴になっていく。気が付けば、支柱すらないただの洞窟であった。おそらく、手入れされた地下道までが新しく作った道であり、この辺りが古い道になっているようだった。道は途中で合流する形になっていたようである。

 ならば、そろそろ敵に接近してきたということだろう。ここからは慎重さを要する。

 凛はそう判断し、走る足を緩めた。一歩一歩踏みしめるように、それでいて音をたてぬように慎重に、彼女は歩き続ける。

 そのまま暫く行くと、横穴の先に仄かな光を見つけた。先人が火でも焚いているのか、それとも何か発光する物体でもあるのか。いずれにしても、携帯の明りはもう必要なさそうであった。こちらから相手に居場所を教えてやる必要もない。

 ここで、凛はこの空間が何か瘴気じみたものに覆われていることに気付く。いや、断じて瘴気ではない。魔力の奔流である。

 いや、何も不思議なことではない。ここは柳洞山、冬木の霊脈の一つである。この地の魔力が集まる場所がここであり、この場には聖杯の「本体」が眠っている筈なのだ。ならば、何が起こったって不思議である筈がない。

 

 そう覚悟していたから、予測していたから、道が開けて大きな空洞に出たとき、そこに待ちうける人物には全く驚かなかった。

 

「……来たのね、やっぱり」

 

 冬原春巳。聖杯戦争の監督役代行の男がそこに居た。

 凛は彼を睨み、そっと宝石を握り締めた。他にも仲間がいるかも知れないと周囲を警戒したが、どうやら彼一人だけのようだった。

 凛は警戒心と敵愾心を隠そうともせず、冬原に言った。

 

「何で教会が出張ってきてるのよ。教会は不干渉の筈でしょう」

「そう言ってられないの。第三次、四次、五次と続いて聖杯は使われなかったのよ。もう、いつ中身が溢れだしてもおかしくない。アインツベルンは頑張って大容量の器を作ったみたいだけど、もう限界でしょうね」

「答えになってないわ」

「まあ聞きなさい。教会の意向はこうよ。冬木の聖杯は使われなくてはならない。紛いものでも聖杯であることには違いない。それを破壊することは許されず、かつ溢れだした中身で被害を起こすことは避けなければならない。なら、誰かしらに使わせる他ない」

「アンタもそう考えるわけ? この聖杯は――」

「災厄でしかない。そんなことは知っている。それでも、使わなければ今度こそ冬木は滅ぶ。第四次のときは、溢れだした泥で都市区画が丸々一つ焼け落ちるほどの火災をもたらした。今度そうなったら、ここに居る誰も生き残れはしない」

「だから、私たちは聖杯を破壊する!」

 

 そう言って凛は、冬原の後方に佇む光の柱を指さした。その存在感は、これこそが聖杯であると如実に語っていた。疑いようもない。あれを破壊しなければ、いつまでも聖杯戦争が続いてしまう。

 

「本当に、素晴らしい考えだと思うわ。出来れば道を譲ってあげたい。未来ある若者の道を閉ざすのは本当に心苦しい」

 

 冬原は深いため息を吐く。そして頭を強く掻いた後、その拳を握った。

 

「でも、私にも私の正義があるの。人を助けるなんて高尚なものじゃない。人に選択を与えよ――そして、聖堂教会に忠誠を」

「はん、矛盾しているわ。私たちに選択肢は?」

「帰れ。もしくは戦え」

「……選択肢なんて、有って無いようなものね」

 

 その言葉を聞いて、冬原は自嘲ぎみに微笑んだ。既にその拳は堅く握られ、足はステップを刻んでいる。

 凛がこのまま退く筈が無いことを知った上で、有りもしない選択肢を与えたことを、その双眸のみが悔いていた。

 凛は背負った澪をその場に寝かせた。さすがに背負ったまま戦うのは無理だ。冬原はそれを黙って見守っていた。

 

「矛盾しているのは百も承知なのよ。でも――貴方達の考えも実に浅はか。気に入らないから破壊しろなんて、思慮ある大人の対応じゃないわ」

「気に入らないなんて安っぽい感情じゃない!」

「それも知っているわ。さっきも言ったでしょう、出来れば道を譲ってやりたいのだと。でも私は聖堂教会でしか生きられないのよ……こんな殺人マシンのような人間は、こういうところでしか生きられないの。聖堂教会の意向に逆らうことは、私には出来ない。だから「こう」するしかない」

 

 そう言うや否や、冬原の目から自嘲の色が抜け落ちた。代わりにそこに宿っているのは、鋼の闘志である。己の信念を突きとおすという、絶対の意志。

 凛も人差し指を冬原に向けた。他でもない彼女の戦闘態勢。質量ある呪いを以て、冬原を倒す。その意志が、凛の目にも宿っていた。

 

「最後にもう一度言うわ。帰りなさい」

「お断りね。貴方こそ帰れば?」

「それが出来たら良かったのにね」

「だったら――」

「貴方が戦うと言うのなら――」

 

 冬原の拳は岩石のような硬さに達し、凛の指からはガンドが迸る。冬原は顔面目掛けて飛来したガンドを、その鉄拳で泥団子のように易々と砕いてみせた。

 冬原は一歩前に踏み出し、吠える。凛はその場に腕を組み、堂々たる声で叫んだ。

 

「「貴方を倒す!」」




 今回はお待たせしてしまいました。申し訳ないです! しかもその割りにあまり文章が長くないというね。本当にすみません。

 さあて、もう終盤も終盤ですね。そろそろ次回作を考え出しております。
 次を書くとしたら、リリカルなのはで書こうかなと考えています。変更するかも知れませんが。

 次はなるべく早めに投稿します!

twitter:mugennkai


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Act.50 親子

 貴方を倒す。それは互いにとって、確たる決意であり、不退転の覚悟であった。

 凛にとって、それは排除しなければならない障害であった。聖杯を破壊するという目的を阻むのであれば、それが誰であっても取り除かねばならない。

 かつて共闘したこともある。だけど、今となっては、彼は敵だ。倒さねばならない敵なのだ。敵に、なってしまったのだ。

 殺さない自信など、微塵もありはしなかった。相手は代行者である。そもそも勝てる見込みが希薄だ。殺すつもりで戦わなければ、殺されるのは自分である。ならば、持てる全てを以て、全身全霊で当らなければならない。

 殺さないという贅沢は、この相手では享受できそうもない。ある意味ではサーヴァントと同等に考えなければならない相手だった。

 

 ふと目線をやれば、そこには妖しく輝く光の柱。きっと、あれが聖杯の「本体」なのだろう。ここに彼が居たことと、彼の口ぶりから考えて、聖杯戦争には必須のものだということは測り知れる。

 ならば、そこに辿りつかなければならない。こんな馬鹿げた戦いに終止符を打つためにも、繰り返さないためにも。それを阻むのであれば、戦わなければならない。

 

 もはや和解の余地はなく、その時間もない。ならば帰着は至って単純。力を競い、勝った者が己の信念を通す。

 古今東西、最もシンプルな問題解決法だ。

 

「――Anfang」

 

 凛は冬原を睨み、その指先を彼から逸らすことなく呟いた。体中に魔力が迸り、右手の魔術刻印が光を帯びる。

 そのまま冬原にガンドを浴びせた。もはや乱射に近い。渾身の魔力を込め、直撃を受ければ昏倒では済まない威力のそれは、怒涛の勢いで彼に殺到した。

 だが彼は、一息のままにそれら全てを打ち落とした。いや、打ち落とすなどという生易しいものではない。それは字のごとく――打ち砕いていた。

 

「――わたしたちはさまざまな議論を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、そして、あなた方が完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである」

「……コリント人への手紙、だったかしら?」

「あら、よく知っているわね。ちょっと意外だわ」

「魔術師でも、新約聖書くらいは読んでいるものよ」

 

 そう言うと彼は自分の手のひらを開き、凛に見せた。その手には大層美しい指輪が嵌められていた。だが、それがただの装飾品ではないことは明らかであった。何故なら、それはこの薄暗闇の中で淡く光り、その神秘の力を隠そうともしていなかったからだ。

 

「聖パウロの遺骨を混ぜ込んだ銀の指輪よ。先ほどの聖句もびっしりと刻んである。――神の愛に即さぬ奇跡は、この指輪に触れた途端に霧散する。この指輪程度では大した力ではないし、サーヴァントほどの相手には効かないけれど、ガンド程度ならば十分」

「……切り札を持ち出してきたって訳ね」

「忘れているの? 私は代行者。あらゆる魔術師と悪魔を皆殺しにする使命を帯びた、神罰の代行者。この程度の備えは当然でしょ?」

 

 だったら、と凛は聞き取れない程の速度で詠唱を始める。ポケットから宝石を取り出し、それに秘められた魔力を解放せんとする。

 一節、二節と淀みなく詠唱を進める。そして残り一節になったところで、狙いに定めていた冬原が、凛の視界から掻き消えた。

 いや、そうではない。実際は冬原が地面の岩を殴りつけただけだ。だが、ただの一撃で岩は粉微塵となり、その粉塵が舞い上がり、彼の姿を完全に覆い隠した。

 恐るべき一撃であった。あれをまともに受けては、骨が折れるだけでは済まされないだろう。内蔵まで破裂することは間違いない。まるで戦車砲の一撃であった。

 

 そして彼がその粉塵から身を現し、凛がその姿を捉えたとき、すでに彼我の距離は相手の息が聞こえるほど詰められていた。

 しまったと言う暇すら与えず、冬原は顔面にその鉄塊のような拳を放つ。すんでのところで凛はそれを避けた。そしてガンドで反撃しようと腕を向けたが、それを見越していたかのように腕を掴まれる。

 拙い。拳を脇の下、神経が集中している部位に叩きこまれるまでの間に思考できたのは、その一言だけだった。

 

 拳が人体の弱点に的確に叩きこまれる。その音は、もはや拳で人を殴る音ではなかった。まるで鈍器で殴りつけたかのような、重々しく凶悪な音である。

 

「が……あ……」

 

 ようやく口から絞り出せたのは苦悶の声。目を限界まで見開き、口からは唾液が零れ落ちる。だが、意識を失うことは無かった。よろよろと覚束ない足取りであるが、しっかりと二本の足で立っていた。

 だが凛もこのまま一方的にやられるつもりは毛頭なかった。苦悶に染まっていた顔には次第に闘志が蘇る。

 凛は冬原の追撃が来る前に、自分を掴む手を逆に掴み返した。そして体の外側に向かって捻り上げる。抵抗すれば腕を折り、抵抗せねば地面に叩きつける、凛が放ったのはそういう技だ。

 だが冬原はその捻り上げる力に逆らうことなく体を回転させ、そのまま地面に叩きつけられる寸前で体制を立て直し、そのまま着地する。全く危なげないその所作は、凛が技をかけ損ねたかのようにすら思えた。

 

「身体強化……驚いたわね、今の一撃を耐えるとは。死んでもおかしくなかったのよ?」

「殴り合いも、昨今の魔術師には必須科目なのよ」

 

 冬原はくすくすと笑い、「何それ」と呟いた。

 そのまま掴まれた腕を振り払い、少しだけ凛から離れて拳を構える。ならばその格闘技がどこまで通じるのか、試してみると良いとでも言いたげであった。

 それに答えるように、凛もまた己の構えを取る。

 

「中華の流れを汲む拳法ね。詠唱を伴わない魔術では指輪の守りを突破できず、かといって詠唱を許す私ではない。格闘戦の選択は間違いではないわ。でも、私の土俵で戦って、勝ち目はあるのかしら? 万に一つ、それとも億に一つ?」

「ゼロではないのなら、試す価値はあるんじゃない?」

「その意気やよし。相手してあげるわ、かかって来なさい魔術師!」

 

◇◆◇◆◇

 

 衛宮士郎が目を覚ました時には、既に切嗣も冬原もその場から離れていた。眠っていた時間は十分ほどであったが、焦りを覚える程度には時間を浪費していた。

 今は一刻を争う事態であることは、痛いほど理解している。不意打ち気味であったとはいえ、手を拘束しているとはいえ、失神している暇など許されてはいない。そんなことは百も承知である。

 だからこそ士郎の行動は早かった。すぐさま短剣を投影し、指を拘束している結束バンドを切断した。これで十全に戦える。そして辺りを見渡し、監視の目が無いか確認した。士郎にはそれを見つけることが出来なかったが、状況を鑑みれば教会側の監視があるだろうことは容易に想像がつく。見つけ出して切嗣の行き先を聞きだそうと思ったが、当てが外れてしまった。

 

 だが、行き先に心当たりが無いわけではなかった。昏倒していたものの、いくつかの会話は耳に入っている。完全に気を失うまでの、白濁した意識の中で、しっかりと彼らの会話は耳に入れていた。

 そんな状態での聞き耳のため確証こそ無いが、彼らは柳洞寺に向かうと言っていた筈だ。ならば、士郎もまたそこに行かねばならない。そこで聖杯を降臨させるつもりなのだろう。

 猶予はどれほど残っているのか分からない。一時間はあるかも知れないし、もう五分もないかも知れない。

 

 士郎は手のひらに浮かんだ汗を、擦りつけるようにして服で拭った。

 それでも汗はとめどなく滲んできて、何とも不快だった。

 

 士郎は大きく深呼吸する。まるで自分の覚悟を定めるように、深く力強い呼吸だった。

 ただ一度だけのそれを終えると、士郎は大通りに向かって駆けだした。この公園は人通りが少なすぎる。とにかく大通りに出て、車を拾わねばならない。

 とは言っても、もはや車の往来すら途絶える時間帯であった。タクシーを運よく拾えるかは、運否天賦の賭けである。それも分の悪い賭けだ。しかし、そうと分かっていても、そうするしか手段はなかった。

 大通りに出てみたが、やはり車は走っていない。額に脂汗が滲み、唇が渇く。

 

 徒歩で行けない距離ではないが、時間がかかりすぎる。だからと言って、その辺りの民家に侵入し、車を奪うのは出来れば避けたい手段だ。倫理観や正義感の話ではない。それで騒ぎになれば、かえって身動きが取れなくなってしまうからだ。

 八方ふさがりになり、右往左往する。この間にも貴重な時間は失われ続けている。

 落ちつけと何度も自分に言い聞かせるが、焦りはもはや抑えられる程度を超えていた。

 立ち止まっている暇は無いと自分を説得し、この際柳洞寺まで走ろうと決意し始めたころ、視界の隅にそれを見つけた。

 それは路肩に鎮座する乗用車であった。黒塗りのため気づくのに時間がかかったが、一度気づいてしまえば無視できない存在である。路上駐車のうえ、周囲に人影は無い。拝借したところで、騒ぎになりようが無い。

 まさしく天の恵みであった。

 

 しかし、士郎は懐疑的であった。

 こんな近場に、こんなにも都合よく車が置かれているなどとあり得るのだろうか。切嗣や冬原ならば、ここを離れる前に、こちらの足になる物を潰しておくのではないだろうか。

 こちらを足止めする意図があるならば、こんなものを放置するわけがない。これは、罠だ。

 一度でも脳裏に根付いた疑惑の種は、決して頭から消えることはない。それは根を伸ばし枝を広げ、思考を支配し始めた。

 絶対に信用ならない。しかし、それでいて無視できるものではなかった。

 もしも、本当に見落としていたのであれば。見つけていたが、何らかの事情で放置せざるを得なかったとしたら。もしそうであれば、これほど今の士郎を後押しする存在は他にないだろう。

 そう思うからこそ、慎重にその車を調べた。外観、タイヤ、車体裏、そしてウィンドウ越しに内部を観察する。目に見える限り、何か細工をした様子は無かった。

 しかもあろうことか、どうやらキーが刺さったままになっていた。つまりドアもロックされていないと考えられ、この車を奪取することは非常に容易な状態であった。

 

 ますます罠に思える。外からは見えない位置に罠を仕掛けている可能性は十分にある。キーを回したとたんに車が炎上する等、あらゆる事態が想定される。

 それでも、刺さりっぱなしのキーは魅力的に過ぎた。これさえあれば、事態は一気に好転する。

 

 ええい、ままよ。虎穴に入らずんば虎児を得ず。リスクを冒してそれを踏破してこそ、勝利は得られる。

 そうやって自身を鼓舞し、意を決しドアノブに手をかけた。一度だけ周囲を見渡し、人が居ないことを再び確認する。

 細心の注意を払い、ドアを開けた。拍子抜けするほど、難なくそれは開いた。とりあえず、ドアに罠は無いようだった。

 まだシートに座るようなことはせず、体を車外に置いたまま中を調べる。石を投げ込んでみたり、士郎の魔術で物体を解析してみたりしてみたが、特に異常は見当たらなかった。

 これは、ひょっとすると、ひょっとするかも知れない。

 

 士郎は覚悟できるまで入念に、しかし迅速に調べたのち、革張りのシートに腰を下ろした。やはり、何も異常はなかった。

 すぐに脱出できるよう、ドアを開けたままキーを回す。エンジンは小気味よい唸りを上げ、計器も正常に動作を始めた。

 入念に調べたことが徒労に思えるほど、いたって通常の車であった。

 

 ドアを閉め、アクセルを踏み込む。加速の良い車だった。

 異常が無いのであればと、そのまま柳洞寺に向かう。往来の途絶えた道は思いのほか走りやすく、速度規制を超過した速度で街を駆け抜けた。

 

 今のところ、何の障害もない。だからこそ不安になる。

 本当にこの車は、単に見落とされていただけなのだろうか、と。

 

 ◇◆◇◆◇

 

 士郎が柳洞寺に辿り着いたとき、そこは不気味な静寂に包まれていた。聞こえるのは木々のざわめきだけ。士郎は周囲に気づかれないよう、参道よりやや離れた位置に駐車していたが、その必要はなかったかも知れない。

 不自然なほど人の気配がなく、かえって圧迫感を覚える。士郎はにじむ脂汗を拭い、慎重に石畳を歩み始めた。

 

 目に魔力を循環させ、視力を底上げする。月明かりも星明りもない暗闇であっても、士郎にとっては十分であった。

 だからこそ気付けたが、石畳に蹄の跡が複数あるのを見つけた。それも二頭や三頭のものではなく、十を数えるほどの蹄跡であった。

 サーシャスフィールが持つ姉妹兵のものであることは、疑う余地がなかった。ならばこの先で待ち受けていると思うべきだ。

 だが、士郎よりも切嗣が先に柳洞寺へ向かっていたはずだ。ならば、姉妹兵と切嗣が戦闘していると考えて然るべきだろう。その気配がないというのは、一体どういうことなのか。

 もしや、既に決着した後なのだろうか。決着がついているとすれば、勝者は姉妹兵と考えるべきだろう。切嗣は優れたアサシンだろうが、彼女らの戦闘能力と頭数の前では勝機は殆ど存在しないと言っていい。いや、切嗣が遠方からの狙撃に出たのであれば、姉妹兵たちが全滅する可能性も十分ある。あの白装束は、この暗闇の中であっても目立つだろう。

 

 ――ならば急ぐ必要がある。この静寂も、狙撃戦となったために、姉妹兵が息をひそめていると考えれば得心がいく。

 息が荒くなる。決して疲労によるものではない。

 だがそれを飲み込み、士郎は山門へと急いだ。可能な限り、木々に身を隠しながら。

 手に中華剣を投影し、いつでも戦闘に移れるようにする。

 あらゆる事態を想定し、慎重に行動する。狙撃を受けたとしても、対処してみせる。もしいきなり目の前に現れたなら――現れたなら、どうすればいいのだろう。

 士郎は少し迷って、自分の心中を知った。

 

 ああ、そうか。こんなにも心がざわめく理由がようやく分かった。

 親父が敵として現れたなら、俺はどうすれば良いのだろう。士郎の心に巣食う不安や疑惑の種の根源は、この一念に他ならないのであった。

 どんな顔をすれば良いのだろう。どんな話をすれば良いのだろう。

 それとも、語り合う言葉すら持たずに戦うことになるのだろうか。あるいは、戦わずに済むのだろうか。

 その考えをはっきりと意識してしまった今、考えれば考えるほど、胃が縮むような感覚に襲われる。

 自分は本当に、義父と戦うことができるのだろうか。先ほどのオフィスビルでの戦闘とは状況が違う。あのときは、相手が何者かなんて知らなかった。

 相手が何者か知らないからこそ、気兼ねなく戦うことができた。でも、今は敵の正体を知ってしまった。

 不思議なものだ。知らない敵ほど簡単に殺してしまおうと思えるのに、それが知人だと知るや否や、その考えが恐ろしいものだと思える。相手が誰であろうと、その命の重みに変化などあろうはずも無いのに。

 

 あの神父は言っていた。私たちは、敵と語りあわねばならない。

 セイバーにそれを教えられていた筈なのに、それを実践できているとは言い難いことだった。いや、そもそも易々と実践できるようなことではないだろう。でも、最大限の努力をしていたのかと問われれば、閉口せざるを得ないのもまた事実だった。

 俺の正義って何なのだろう。

 敵を打ち砕くことが正義かと言われれば、それは違うと思う。俺はただ、苦しんでいる人を救いたいだけだ。もう誰も悲しまないで済む世界が欲しいだけだ。

 

 セイバーの言葉を全て信じているわけではない。セイバーにはセイバーの正義があって、その姿を俺に見せてくれただけ。大層なことを言ってはいるが、俺に道を示そうなんて事は、本当は考えてなどいないのだろう。

 ただ、見失ってしまった己の正義を、俺を通して取り戻そうとしているだけなのだ。それを知っているからこそ、多少説教じみたことを言われたって、甘んじて聞き入れよう。

 でも、これだけは言える。俺の正義と、セイバーの正義はイコールで結ばれるわけではない。

 

 だからこそ、士郎は彼自身の正義を見つけなければならないのだ。きっとそれは果てしない道で、きっと立ち止まってしまうこともあるだろう。

 だけど、それを見つけたとき、士郎は義父の前に、胸を張って立てる気がしたのだ。

 正義を志しては見たものの、その正義が何なのかは曖昧だった。人を救いたいなんて胡乱な考えでは、きっと彼はまた迷ってしまうだろう。

 

 かつて出会った、未来の彼のように。最近知り合った、ふざけた態度の裏に苦悩を隠した剣士のように。

 そして、彼の義父のように。

 

 今思えば、かつてのアーチャー(エミヤシロウ)は、こう伝えたかったのではないかと思うのだ。私のようには決してなるな。二度と迷うことのないように、己の道を貫け。

 不器用なヤツだ。道を誤った己を踏破させることでしか、それを伝える術を持たないなんて。

 語る言葉を無くしてしまった男の、あの憐れであり、それでいて大きな背中を忘れることができない。

 

 ならばきっと。――ああ、そうだ。始めから道は示されていたではないか。

 俺は語る言葉を無くしてはいけないんだ。

 

 きっと、士郎は剣を捨てることは出来ないだろう。それは戦場にあって己を守る道具であり、己の意志を貫く手段だ。

 だがそれでも、最後までこの口から語る言葉を無くさないでおこう。剣に語らせてはいけない。きっと、セイバーが言いたかったことはこれなのだろう。剣によって正義を称するなと言いながら、彼が剣を捨てられないのも同じような理由だろう。

 

 先ほどまでが嘘のように足が軽くなる。山道を登り続け、気が付けば、既に山門は目と鼻の先だった。

 そのときには既に、不思議と胸のわだかまりは消えうせていた。

 

 山門を見やると、何とも不思議な光景が広がっていた。白装束の女性たちが、山門や木々に身を隠し、じっと息をひそめていた。彼女らには見覚えがある。サーシャスフィールの姉妹兵たちだ。

 彼女たちはしきりに境内の方向を窺っている。士郎もまた木陰に隠れて、彼女たちの人数を確認した。十数人というところか。見れば、彼女らの馬もまた物陰に退避させているようだった。

 もうしばらく様子を見ようかと思っていたところ、彼女らの一人が士郎に気付いた。士郎は己の失態を毒づくよりも先に、剣を構えて臨戦態勢を整える。だが、彼女は得物のハルバードを構えるわけでもなく、ただ付近の姉妹兵たちの士郎の存在を伝えただけだった。そして士郎に向かい、手の甲を上に向けた状態のまま上下させる。姿勢を低くしろ、と伝えているようだった。

 士郎は怪訝な表情を作ったまま、それに従う。彼女らに戦う意志が無いのであれば、士郎もまた戦う理由はない。例えそれがライダー陣営の兵士であったとしてもだ。

 そもそも冬原が、此度の聖杯戦争の勝者はアサシンであるとはっきり宣言している。ならばライダーも敗北している筈であり、彼女らはこれ以上戦う理由が無いはずなのだ。話くらいは聞く余地がある。例え、彼女らには言語能力が無いとしても。

 

 姉妹兵の一人は、士郎が自分の指示に従ったのを確認すると、今度は指先を軽く動かす。こちらに来いと伝えていた。

 今度も士郎はそれに従う。士郎が近寄っても、彼女たちは警戒する訳でもなく、ただ当然のように士郎を安全な物陰に隠した。

 これまでの状況を鑑みて、平時ではないことぐらいはすぐにわかる。きっと、アサシンからの狙撃を受けているに違いあるまい。狙撃手に睨まれたとき、遮蔽物に隠れるのは常套手段だ。

 士郎は周囲にしか聞き取れないほどの声量で、姉妹兵の一人に問いかけた。

 

「一体、どうしたって言うんだ」

 

 彼女たちは答えない。いや、答える術を持たない。

 しばし考えたのち、問いかけられた一人が足元に落ちていた小枝を拾い上げた。そしてそれを使って、何やら地面を削って絵を描いているようだった。士郎はポケットから携帯電話を取り出し、その明りで地面を照らす。明りが無くても見えるが、彼女は多少の光源がなければ正確な絵が描けないだろう。

 

 やや大きめに書かれたそれは、どうやらこの柳洞寺の見取り図のようだった。彼女たちが境内の詳細を知るはずもないので、やや簡略化されていたが、すぐにそれと察することができた。

 士郎は、これは境内の見取り図かと彼女に確認する。彼女は短く首肯した。

 自分の意図が伝わったことを確認した彼女は、その見取り図の一角に新たな絵を描き加えた。それは池がある場所だった。

 書かれた絵は、杯のような絵だった。その絵の下には「Heilige Gral」と書かれている。ドイツ語で聖杯という意味である。

 士郎は驚きを隠せなかったが、声にだけは出さないように飲み込んだ。既に聖杯が降臨しているというのか。ならば、今すぐ聖杯が使用されてもおかしくない。

 思わず飛び出そうとする士郎を、彼女は肩を掴んで押しとどめた。その細腕からは想像もつかないほど強い力だった。

 士郎の視線を強引に見取り図に向けさせた後、彼女はさらに一つの絵を描いた。それは山門とは逆方向の屋外を起点とし、山門方向へ伸びる一本の矢印だった。そしてその矢印の傍にも単語が添えられる。「Schnepfe」と書かれており、ドイツ語で狙撃という意味だった。

 

「アサシンが狙撃をしているんだな? だからここに身を隠すしか無かった?」

 

 彼女は首肯する。やはり、想像していた通りの事態であった。

 あの絵からすれば、アサシンは境内にはおらず、自分たちと同じように木々の奥から狙撃をしているようだった。場所は、ちょうど境内を挟んで向かい側。この暗闇では、木々に隠れる狙撃手を見つけることは困難だろう。

 士郎は彼女に負傷者の有無を聞いた。だが彼女は首を横に振った。助からないという意味なのか、負傷者はいないという意味なのかと聞いたら、どうやら後者のようであった。

 狙撃しているにも関わらず、負傷者はいない。とすれば、単に聖杯に人を近づけたくないだけだろうか。

 意図がよく分からないが、とにかく狙撃されているのならば聖杯を破壊するのも難しい。どうにかして、切嗣を無力化しないといけない。

 

 士郎は物陰から身を晒さないようにしながら、山門の影まで移動した。そして小ぶりな手鏡を投影する。剣以外の投影は苦手だが、全くできないという訳ではない。特殊な礼装でない限りは、十分な代物を投影することができる。

 手鏡だけを物陰から出し、境内を観察する。池の方向には、たしかに聖杯らしきものがあった。黒い泥を溢れさせながら、池のやや上空に浮遊している。あれが聖杯で間違いないだろう。池の周囲は瘴気のような霧に包まれていた。

 次にアサシンの姿が見えないものかと木々の方向に鏡を向けた瞬間、突如その鏡が砕けた。投影の限界ではない。物理的に破壊されていた。

 なんと目ざといことか。どうやら狙撃銃によるものではなく、アサルトライフルによる狙撃らしい。銃声は一発のものではなく、数発立て続けに聞こえた。そして、発砲音からすれば、二百メートルは離れた位置に居るはずだ。その距離から、この暗闇の中で小さな手鏡に命中させるとは。

 さすがは暗殺者。魔術師殺しと言われただけのことはある。一筋縄でいく相手ではない。

 

 だが士郎には不思議な確信があった。

 切嗣は自分を撃たない。言葉も交わさず、遠方から一方的に撃ち殺すようなことはしない。

 だって、親子なんだ。例えそれが義理であっても、言葉すら交わさずに殺すなんて悲しいことを、切嗣がするとは思えなかった。

 だからこそ、士郎は思いきった行動に出る。付近にいた姉妹兵が止めようとしたが、士郎はそれを仕草で制止した。大丈夫だから、と。

 

 士郎は物陰から飛び出て、境内の中心に佇んだ。撃つなら撃てとでも言うかのように、堂々とそこに居座る。

 そして、境内どころか柳洞山全域に響くかのような声で、父に語りかけた。

 

「じいさん! 俺、まだ話したいことがあるんだ! 出てきてくれないか!」

 

 大声で叫んでみたものの、帰ってくる言葉はない。しかし、銃弾もまた飛んでくることは無かった。威嚇射撃すらなく、ただ冷たい静寂のみが響き渡る。

 やはり撃ってこない。話し合うことはできる。

 ならば士郎は、根気強く待つことにした。

 ややあって、不意に人の気配を感じた。気配の遮断をするつもりは無いようだ。その気配の元、暗がりの奥から男の声が聞こえる。間違えるはずもない。切嗣の声だった。

 

「……じいさん、か。懐かしい呼び名だね」

「……記憶は、戻ったか?」

 

 その暗がりから男が現れる。使い古したコートに、無精髭。何かに疲れたような、何かを諦めたかのような、生気が抜けた瞳。口には煙草が咥えられており、手にはコンテンダー。

 先ほどと何ら変わらない、切嗣の姿がそこにあった。

 

「ああ。何もかも思いだした。士郎、君のおかげさ。最後のひと押しはあの神父だったけど、君の声が無ければ思いだせなかっただろう」

「じいさん、思い出したなら分かるだろ。聖杯を使っちゃいけない」

「そうかも知れないね」

 

 そう言うと、切嗣は肺に貯めた煙を吐き出す。

 士郎は、その姿にあの日の彼が重なった。安心したと言い、逝ってしまったあの日。何故かはわからない。理由など分かるはずがない。それでも、そう感じたのだ。

 

「あの神父は、七年前の記録を僕に見せてくれた。十七年前に僕は聖杯を壊したと思っていたけれど、今回も含めて既に二度も聖杯は現れてしまっていたんだね。……僕のやってきたことは、本当に、無意味なことだった」

「そんなこと……!」

「無い、なんて言えるかい」

「言えるさ! 俺はじいさんに救われたんだ! 無意味だったなんて、言わないでくれよ……!」

「そうだったね、すまない。でもね、アレだって僕がしくじらなければ、起こらなかった災厄だ。君をこんな風にしてしまったのは僕に他ならない」

「それでも、じいさんは俺の父親なんだ!」

「……ありがとう。僕は良い息子を持った」

 

 切嗣は煙草を捨て、踵でもみ消した。

 火が消えたとき、切嗣の目には何かの決意の色が見えた。誰に何と言われようと、己の信念を貫いて見せる。不退転の覚悟がその瞳には宿っていた。

 

「士郎。まだちゃんと答えを聞いていなかったね。改めて聞くよ。君の正義って、何だい」

「……まだ、うまく言葉にできない。それでも良いか」

「君の言葉で聞かせてくれ」

「さっきさ、じいさんに言ったよな。剣を以て正義を称してはいけないって。でも、やっぱり剣を捨てることは出来ないと思うんだ。

 この世には暴力が満ちていて、それに対抗するには言葉だけじゃ足りないと思う。襲い来る理不尽を退ける力も必要なんだって、俺は思うんだ。

 でもさ、だからと言って、力でねじ伏せるだけじゃ、結局その『理不尽な暴力』と変わらないんだよな。だからさ、俺は――やっぱり、話し合いたいんだよ。何でこんなことするんだ、他に方法は無いのかって」

「それに応じる相手ばかりではないだろう」

「そうだな。でも、最大限の努力はしたいんだ。無血革命を目指す正義の味方が居たって良いと思うんだよ。相手を殴るだけが正義の味方じゃないって、確かめてみたいんだ。

 それって、多分俺にしか出来ないことなんだと思う」

「そうか……君は、ちゃんと正義の在り方を見つけることができたみたいだね。僕は戦うことでしか、己の正義を示せなかった。僕と違う道を選んでくれたことは、嬉しく思う」

 

 そう言うと、切嗣は士郎に銃口を向けた。指は既に引き金にかかっている。

 狙いは正確だった。外すつもりは無いのだろう。威嚇すらせず、一瞬で命を奪ってみせると、その銃口は如実に語っていた。

 

「じいさん……?」

「士郎、僕は語り合う術を持たない。僕は戦うことでしか、己の正義を示せない。

 僕は聖杯を使う。君がいくら言葉で訴えようと、必ず使う」

「そんな……! 分かっている筈だろ、聖杯は災厄でしかないんだぞ!」

「そうかも知れないな。これは破壊すべきなんだろう。でも、どうやって? 僕は十七年前に、確かに聖杯を壊した。でもこうやって聖杯はまた降臨している。これをいくら破壊したって、きっと無駄なんだろう。

 だったら為すべきことは明白だ。聖杯に、聖杯戦争の終焉を望めばいい。単純明快な答えだろう?」

「やめろ! そんなことをしたって無駄だ! 聖杯は暴力の塊に過ぎない。それを望めば、きっと周囲を蒔きこむ災厄が起こる!」

「……そうかも知れないね。でも、今後に聖杯戦争の犠牲になる人の数を考えれば、百年もたたずに帳尻が合うだろう。それに、それは杞憂に終わるかも知れない。

 すまない、士郎。これが僕のするべきことだ」

 

 そう言うと、切嗣は士郎にコンテンダーの銃弾を放った。

 士郎はとっさに二振りの中華剣で急所を守る。銃弾は心臓を守った干将に命中し、あっけなくそれを砕いた。だが幸いにして、仮にも宝具に命中した弾丸は直進することができず、弾道を大きく逸らす。コンテンダーの大口径は、士郎の肩をわずかに掠めただけだった。

 

「士郎、まだ剣を捨てないと言うなら、僕と戦え。その剣を僕に突き立ててみせろ」

「やめてくれ……やめてくれ、じいさん!」

 

 切嗣は素早く空薬莢を排出し、新たな弾薬を込める。

 淀みなく再装填を完了させ、再び狙いを定める。その所作には、一切の躊躇が見られなかった。

 

「戦わないなら、このまま死ぬだけだ。襲い来る理不尽を退けてみせろ」

「……クソッ!」

 

 もはやヤケクソに近い。それでも、相手が自分を殺めようとするならば、戦わなければならない。

 死んでも良いなどとは思わない。義父が自分に銃を向けたことが悲しくても、それを受け入れることなどできない。

 投影したのは、一振りの剣。それは、折れず、曲がらず、決して欠けることのない、不屈の剣。必ず貫き通してみせるという意志を孕んだかのような、美しく、そして砕けることのない剣。

 『絶世の名剣(デュランダル)』――その剣ならば、銃弾すら退けてみせるだろう。不屈の剣が、ただの銃弾などに阻まれる筈もない。

 士郎は銃口から予測される弾道にデュランダルを構える。音速を超えて飛来する弾丸を見切ることなど、士郎にはできない。だが、単発式の銃から放たれた単独の弾丸ならば、防げない訳ではない。

 ロー・アイアスではなく、あえてそれを選んだのは、立ち止まることはないという意志の表れか。それとも、不屈の意志の代弁か。

 

 切嗣が弾丸を放つ。その銃弾は吸いこまれるように、デュランダルに命中した。

 しかし、今度は砕けない。その剣は大口径の弾丸を受けてなお、威風堂々とその鋭さを誇り、銃弾を弾き飛ばしてみせた。

 

 士郎は駆ける。切嗣に向かって一直線に、その目に涙を溜めながら。

 どうして、親子で殺し合わなければならないのか。

 いくら己の胸に問いかけても、答えは返ってこない。胸を締め付ける苦しみに後押しされるように、士郎は剣を握りしめた。

 

 切嗣は、コンテンダーに起源弾を込める。士郎の剣が届くよりも、再装填して弾丸を放つほうか幾分か早い。

 襲い来る切っ先に動じることなく、正確無比の狙いを士郎の眉間に定める。

 さようなら、士郎。

 誰にも聞き取れないような声で呟き。引き金に指をかける。

 

 そして切っ先が切嗣に届く刹那の前、切嗣は引き金から指を離した。

 

 士郎の剣の切っ先は、切嗣の胸を貫いた。

 わずかに遅れて、抉った胸から血があふれる。それに呼応するように、切嗣はその場に倒れた。

 

「じいさん……?」

 

 士郎は、切嗣がわざと刺されたことに気付いていた。そもそも切嗣ならば、今の単純な刺突を回避できない筈がない。回避してくれと願って放った一撃だったのに、切嗣はそれを拒否した。

 だからこそ、士郎は困惑していた。

 何故だ。どうしてわざと死ぬようなことを。

 

「これで、いいんだ。……子供の道を望んで閉ざす親など、居るわけがない」

「何で! 何でこんなことを!」

 

 士郎は切嗣のコートに大粒の涙を落した。

 その涙は流れる血にさらわれ、すぐに見えなくなってしまった。静かに微笑む切嗣の口からも、血が流れていた。

 士郎はアヴァロンを投影しようとした。アヴァロンの力ならば、まだ回復させることができる。ここでお別れなんて御免こうむる。まだ、話したいことが色々あった。

 切嗣の昔話、切嗣が死んでからの十年余り、そしてこれからの話。

 だが切嗣はそれを察したのか、士郎の手を強く握り、それをも拒絶した。

 

「僕はもう、静かに眠りたいんだ……。僕は通常のサーヴァントじゃない。だから、死ねばもう解放されるかも知れない。……確証は、ないけどね」

「でも、こんなやり方……!」

「最善ではないだろうね。もしかしたら、士郎を殺してしまったかもしれない。でも、こうでもしないと、君は僕に剣を向けてくれないだろう? どうせ誰かに殺されるか、自害しなければならないのなら、僕は君に看取ってもらいたかったんだ」

「馬鹿野郎! 大馬鹿野郎だよアンタ……!」

「本当に、ね。だからこそ、こんな事になってしまった。わざわざ車を置いて、士郎をここに導いてまでやる意味があったのか分からないけれど、最後の時間を過ごすなら君だって思ったんだ」

「クソッ……クソッ!」

 

 士郎は自分を責めていた。こんなことになったのは自分のせいだと。

 七年前、確実に聖杯を壊しておけば。切嗣の銃口には、その実殺意など微塵も無かったことに気付けていれば。切嗣の苦悩を知ることができたのであれば。

 士郎は零れ落ちる命を押しとどめようと、必至に傷口を押さえた。服が血で汚れるのも構わずに、ひたすら懸命に。

 

「まあ……やり方は不器用だったけど、次の世代に道を譲るのも、道を作ってやるのも、じいさんの役目さ。もう、僕の影を追い回す必要はない。だから、自分の道を歩んでくれ」

「ああ……誓う。俺は正義の味方になってやる。それは、じいさんの選んだ道とは違うけれど……胸を張って、そう言えるようになってみせる」

「ああ……安心した」

 

 それは、いつかと同じ言葉。

 切嗣の顔は、これから消えゆく者とは思えないほど安堵に包まれたものであった。既に体の末端は消え始め、存在が胡乱になり始めている。

 士郎は切嗣の手を強く握った。

 

「……だからじいさん、安心して眠ってくれよ」

「そうするよ。最後に、僕のお願いを聞いてくれないか」

「ああ、なんだって聞いてやる」

 

 切嗣は最後の力を振り絞り、聖杯を指さした。

 

「あれを、今度こそ眠らせてやってくれ。あれは可哀想なやつなんだ。二度と呼び醒まされることのないように、今度こそ、眠らせてやってくれ」

「ああ……誓うよ。こんな戦いは二度と起こさない。聖杯も二度と現れない」

「ありがとう……。ああ、頭痛が消えている。こんなにも心地いいなんて。

 そろそろ僕は行くよ、士郎。アイリとイリヤが呼んでいる」

「ああ、二人に、よろしくな」

 

 そうして士郎は、最大限の笑顔を作り、切嗣を見送った。

 そこに残されたのは、荘厳な輝きを放つ一振りの剣のみ。士郎はそれを握り、聖杯の前に立った。

 手には黒塗りの弓。それにデュランダルを番え、引き絞った。

 

「もう二度と会うことは無いだろ。じゃあな」

 

 士郎の周囲には、ありとあらゆる剣の群れ。士郎は、今の己に発揮できる最大限の火力を以て、切嗣の願いに応えようとしていた。

 切嗣が聖杯の器に吸収されたことで、完成に近づいたのだろう。聖杯の背後に、何やら黒い孔が開いた。それは夜の闇の中にあってもなお、色あせることのない暗黒の孔だった。

 だが、そんなことは関係ない。

 切嗣がそれを願った。ならば何が起ころうとも斟酌する必要もない。

 

 士郎がデュランダルを聖杯に向けて放つ。聖剣は、当たり前のように聖杯に突き刺さった。そしてそれに続くように、投影した剣が立て続けに殺到する。聖杯も、その背後の孔すらも、跡形も残さぬと言うように。

 

 そして、ひとしきりソレらを浴びせた後、士郎はその剣たちを破壊した。『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』――十を数える剣たちの爆発は、聖杯と孔を完膚なきまでに凌辱した。

 

 その爆風と砂煙が晴れたとき、そこには既に何も存在していなかった。そこに池があったことすら、もはや分からない。もちろん、聖杯も孔も、欠片すら残ってはいなかった。

 やり遂げたという達成感は、思いのほか空虚のものだった。

 士郎はその場に座り、しばし空を眺めるのであった。

 




 あと二~三話+プロローグで終わると思います。あともう少し、丁寧に仕上げたいところ。
 今までもそうですが、もう好き放題やっていますよねぇ。こういうのがお嫌いな方には受け入れてもらえないかも?

 次は一週間後を目標に投稿したいと思います。乞うご期待!

twitter:@mugennkai


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Act.51 戦いの終わり

 冬原春巳は、ボロ雑巾のようになった『彼女』を乱雑に放り投げた。冬原自体も無事では済んでいないが、目立った外傷はない。対して、遠坂凛の怪我は目を覆いたくなるようなものであった。

 ほぼ全身、余すところなく打撲による内出血が起こっており、元の美しい肌は見る影もない。内臓を破裂させられてこそない――というより、彼女自身が肉体強化の魔術によりそれをかろうじて防いでいたのだが、致命傷を負っていないことだけが救いだ。鼻血を流し、肋骨も折られ、髪は元の髪型が分からぬほど乱れ、呼吸もか細い。それでもなお、瞳の奥の闘志だけは変わっていなかった。逆に言えば、それ以外は殴られ続けたことにより痛々しく変化してしまっている、と言える。

 しかし、彼女は一度たりとも意識を失いはしなかった。常に戦い続けた。

 だが、それももう限界なのだろうか。凛は起き上がろうともがくが、手足が言うことを聞いてくれなかった。上体を起こすのが精いっぱいで、起き上がることは出来なかった。

 

「……まったく、しぶとい女の子ねえ。そういうのって素敵だと思うけれど、女の子がすることじゃないわね。お化粧どころか、顔が変形しちゃっているじゃない」

 

 冬原はそう言うと、自分の額から流れる血を拭った。凛の投石により、不覚にも切ってしまった傷だ。自らの顔を傷つけられた冬原が激昂した結果が、彼の前に横たわる凛の姿だった。

 

「まあ、ちゃんと治療を受ければ治るでしょ、たぶんね。最近は傷跡もレーザー治療なりで綺麗に治るらしいし。……まあ、ちょっとやりすぎたかも知れないけど、私の顔を傷つけた罰よん、これは。目には目を、歯には歯をってね」

「……それは復讐を肯定する言葉じゃないでしょ」

「あらん、まだ喋れるの」

 

 凛は口内も切っているため、流暢には喋ることができないが、それでもはっきりとした声だった。だがそのか細い声からは、当人の感情を読み取ることは難しかった。怒りや憎しみの色を含ませようにも、それが困難である。

 

「貴方の罪は同等の対価をもってしか償えないでしょ? だから、その綺麗なお顔をボッコボコにしてあげたのよ。おわかり?」

「反吐が出るわ」

「血反吐の間違いでしょ」

 

 そう言うや否や、冬原は凛のわき腹をけり上げた。決して本気ではないが、肋骨が折れている凛には地獄の苦痛でしかないだろう。

 冬原は澪を見る。未だ起き上がる気配はない。彼は彼女のことを憐れに思うものの、かける情けなど持ち合わせてはいない。

 無抵抗のものを嬲る趣味は無いが、それでも放置するわけにはいかない。彼女もまた魔術師であるからこそ、確実に無力化するまで安心はできない。

 とは言え、何も殺す必要はない。詠唱が出来ぬように歯を折り、猿ぐつわを噛ませ、手足の腱を切断するだけでいい。

 気分の良い仕事ではないが、それも致し方なしと澪に近づく。魔術の代償として昏睡していることは知っているが、なんとも憐れな姿だ。自らの意志ではなく、謀の類ではなく、ただ自我を汚染されたが故に最愛の人を手にかけた、その姿。ただ眠っているだけの筈なのに、どこか魂が抜け落ちているかのようだった。

 

 澪の胸倉を掴んで持ち上げ、反応を窺う。ここまでしても、一切の反応がない。死人ではないかと思うほどだ。

 手始めに歯を叩き折ろうかと腕を振り上げる。しかし、弓のように引き絞った腕を掴むものが居た。言うまでも無く、凛だった。

 

 冬原が振りむくと同時に、凛は冬原の顔面に拳を叩きこむ。よろめいた冬原にガンドの掃射を浴びせるが、冬原はすぐさま体勢を立て直しそれを撃ち落とした。

 

「まだ動けるなんて、本当にしぶといわね。予想外よ」

「……怪我ばかりする阿呆が身近に居るものでね。治療魔術は、わりと上達したのよ」

「なるほど、自己治癒の魔術ね。とは言っても、自慢の治癒でも立つのが精いっぱいかしら? あんな蚊が刺したみたいなパンチで、私が倒せるとは思ってないでしょうね?

 勝算はどれぐらい? このまま寝ていたら、命だけは助けてあげても良いのに、愚かなことね」

「よく喋るわね。それに、私たちは負けないわ。決して負けない」

「気概こそ良いけど、そんなボロボロじゃあね。何か秘策でもあるのかしら、怖いことね」

「澪は必ず帰ってくる。必ず目を覚ます。私はね、それを信じているのよ。

 だったら、ここで私が諦めるわけにはいかないじゃない。負けるわけにはいかないじゃない。だから『私たち』は、絶対に負けないわ」

 

 澪にはこれと言った戦闘能力があるわけではない。つい最近まで、魔術こそ知っているものの普通の大学生と変わらない生活を送っていたのだ。

 しかし、彼女には唯一と言っていい力がある。同一化魔術は、バーサーカーを倒し、セイバーを倒し、サーシャスフィールを追い詰めるほどの力がある。

 有利な条件が揃っていたとはいえ、それは凛には出来ないこと。

 

 思えば、此度の聖杯戦争は澪が居なければ立ちいかないことばかりだった。そもそも凛のサーヴァントはバーサーカーであり、最終局面まで運用できる保証が皆無であった。加え、士郎はサーヴァントを召喚できなかった。聖杯が士郎を許さなかったからだ。

 彼女自身はか弱い女子大生に過ぎない。だが、彼女の傍にはセイバーが居て、その補助として彼女は能力を発揮して、実に良いコンビだった。彼女自身も、他者を己に呼び込むことで、限定的ではあるが高い戦闘能力を発揮できた。

 

 だからこそ、ここまで辿りついたのだ。セイバーと澪がいなければ、きっと早期に脱落していたことだろう。

 

 そうだ。こと今回に関して、凛たちは救われてばかりだ。桜のことにしたって、感謝したってしきれない。

 彼女はたまたま特異な魔術を有していただけ。でも、それが無ければ桜は未だ暗闇の底だっただろう。

 

 だから、このまま諦めるわけにはいかない。ここまで澪にお膳立てしてもらって、勝たなければ嘘だろう。

 彼女が闘えるときは、私たちが全力で補佐する。彼女が戦えないときは、私たちが闘う。

 私たちが持っていないものを彼女は持っていて、彼女が持っていないものを私たちは持っている。

 

 ――なんだ、私たちも結構いいコンビじゃない。

 

 だったら、やはりここで気張らないといけない。得がたい仲間が、帰ってこようと闘っているのに、自分だけ諦めるわけにはいかない。

 凛は満願の思いを込めて、冬原に言った。貴方を倒す、と。

 

「……そうね。有利な条件が揃っていたとはいえ、バーサーカーを倒したのは貴方達。でも勘違いしちゃダメよ。バーサーカーを倒したのは八海山澪であり、貴方じゃない。

 セイバーは『もうじき』消えるわ。彼はこの場所を知らないし、知っていたとしてももう間に合わない。令呪でも使わない限り、ね」

 

 ――もうじき。つまりまだ生きている?

 

 その時、澪の指先が僅かに動いた。

 凛はその反応を見逃さなかった。また暴走を始めるのかも知れない。しかしその考えは、ある感情の後に沸いたものだった。

 最初に思ったのは、澪が帰ってこようとしている。眠っていても耳は聞こえているのだろうか、肉体が彼女の魂を呼び戻そうといているのだろうか。

 いや、何でも良い。彼女は帰ってくるために足掻いている。ならば、手を差し伸べてやらなければ。

 そうじゃなければ、正義の味方のパートナーとして、失格ではないか。

 

「澪! 聞こえているんでしょ! セイバーはまだ生きているのよ! 貴方を救うために死と闘っている! 貴方、彼の最後を見届ける義務があるでしょ。そこで寝ていて良いと思っているの!」

「その口を閉じろッ!」

 

 冬原は直感した。ここで凛と澪を倒さなければ、死ぬのは自分である、と。

 間合いを詰め、凛の腹へブローを叩きこむ。凛は防ぐことができず、その場に倒れこんだ。呼吸すら困難であろうが、しかしそれでも言葉を続けた。

 

「澪! 帰ってきなさい! セイバーが貴方を待っているのよ!」

 

 その言葉に応えるように、澪の目がゆっくりと開く。寝ぼけ眼のようでいて、しかし明確な意志をその目は宿していた。

 セイバーがまだ生きているのなら、今すぐ起きて闘わないといけない。その目はそう訴えていた。

 

「そのまま寝ていなさい!」

 

 冬原は標的を澪に変更する。澪を目覚めさせてはいけない。彼女自身は無力だが、『彼女の周囲の者たち』はそうではない。セイバー然り、彼女が再現できる人格たちも然り。

 立ち上がろうとする澪に、強烈な蹴りを放つ。だが、背後からの攻撃によりそれは阻まれた。凛が冬原にガンドを浴びせたのだ。

 凛は小さく呟く。ようやく当った、と。

 倒れ込む冬原と対照的に、澪は起き上がる。そして周囲を見回した後、澪は言った。

 

「……ただいま」

 

 その言葉に安堵の表情を浮かべながら、凛は答えた。

 

「おかえり」

 

 澪は凛に言いたいことが山ほどある。ようやく自分を見つけた、無茶をしてごめんなさい、待っていてくれてありがとう、セイバーが生きているとは本当か、今どこにいるのか、私が刺した記憶は本当なのか。他にもたくさんあるが、それら全て飲み込んだ。

 今はするべきことがある。

 

 右手には、未だ一角の令呪が残っていた。

 

「セイバー! 貴方の力を貸して!」

「させない!」

 

 冬原はすぐさま起き上がり、不慣れな黒鍵を懐から抜いた。柄だけのそれは、しかしすぐに刀身を構成し、澪の令呪を切り落とさんと唸りを上げる。

 だが、澪の眼前に現れた次元の歪から現れたソレにより、全て叩き落とされた。

 砂金を零したかのような髪、澄んだ瞳、細身で華美な剣。見紛う筈もない。そこに現れたのはセイバーだった。

 

「剣の騎士、セイバーがローラン! 姫君の願いにより、ここに推参!」

 

 澪はセイバーの姿を見た途端、今にも泣き出しそうな顔になった。再び会うことが出来た喜びと、彼を刺した悲しみが同居した、複雑な表情であった。

 

「セイバー……!」

「澪、待たせたな。そして待っていたぞ、よくぞ戻ってきた」

「ごめんなさい……! 私、貴方を……」

「良いのだ。幸いにも心臓は逸れていた。不死身と称された私だ、この程度の傷、焼いて塞げばまだ闘える! そしてこの少ない命、ミオのために燃やしつくすことができるなら、この上ない喜びだ! さあ、命じてくれ、マスター! 私はまだ闘える、お前のためなら!」

 

 セイバーは澪たちと別れた後、オリファンの力を使って自らの傷を焼いて塞いだ。そして一秒でも長く生き延びるため霊体となり、目と耳を閉ざし、命の消費を抑えることに専念した。

 全ては澪が再び帰ってきたときのため。来るであろう、再び自分の力が必要とされる時のために。

 

「ごめんなさい。私、今まさに死んでしまおうとする貴方の命を、使い切ろうとしている」

「それでこそ騎士が華。……今度こそ、友を――愛した人を守って死ねるのだ。私の願いは、ようやく叶う。だから悲しむことはない」

「セイバー……私、貴方を愛しているわ」

「私もだ、澪」

 

 セイバーと澪は、その場で口づけを交わした。愛の証であり、別れの儀式であり、別れを惜しむ心の現れでもある。

 愛し合う二人は、およそそれらしい事をしないまま別れることになる。手を繋いで市井を練り歩くことも、体を寄り添わせて眠ることも、他愛のない与太話で時間を潰すことも。

 二人が愛し合った証は、このキスだけだった。しかし、二人にとってはこれで十分なのだ。これ以上は何も望まない。

 

 だからこそ、その短いキスの後には、二人とも覚悟は決まっていた。

 澪は、セイバーと別れることを。そもそも聖杯を破壊すれば、セイバーはこの世に留まることができない。聖杯の補佐なしでサーヴァントを限界し続けられるほど、澪の魔力は多くない。

 しかし、問題はそこではない。自らの意志で、セイバーの命を使い切ることを覚悟したのだ。聖杯を壊すべきであるとか、人々のためであるとか、そのような理由ではない。彼がそれを望んでいるから。もはや助からない命を、澪のために使いたいと言っているから。だから彼女は、それを受け入れ、彼女もまたそれを望んだ。

 セイバーは、澪と別れ、ここで倒れることを。助からぬ命、この短い時を澪と共に過ごしたいという気持ちは少なからずある。しかし、それでは己の願いは達せられない。セイバーは、澪を守りたいのだ。自分が闘うことを放棄して、澪を連れてこの場から逃げることは簡単だ。しかし、それでは澪は後悔する。自分もまたそれは望まない。

 だからこそ、澪のために、両者が共に後悔しない道を選んだ。

 

「セイバー。聖杯を破壊して。障害を物ともせず、……自らの命を顧みず、貴方が為すべきこと、成したいことを成して」

「確かに承った、澪。ならば今すぐここから逃げるといい。……宝具を使う。私の全てを燃やしつくし、聖杯もろとも全てを焼く。ここに居ては巻き添えを食うぞ、早く逃げろ!」

 

 澪はセイバーの目をじっと見る。ややあってから、短く頷き、凛を抱えてその場を離れた。澪はここまで来た経緯を詳しくは覚えてないが、元より出入り口は横穴一つのみ。それも一本道であるため、迷う余地など元より無かった。

 セイバーは澪の足音が聞こえなくなるのを確認した後、冬原に向き直った。

 

「澪を逃してくれたこと、感謝する」

「……礼を言われる筋合いなど。私は元より、あの子たちには帰って欲しいと思っていたのよ。むしろこちらが礼を言いたいくらいだわ」

「……闘う意志が無いというのなら、貴方もここを離れると良い。ここに居ては、確実に命を落とすぞ」

 

 その言葉は、セイバーのせめてもの抵抗だった。セイバーとて、人殺しをしたい訳ではない。己の意志を貫くために、剣を振るうのは、既に本意ではないのだ。

 例え、冬原がこの場を離れないことを分かっていても、そう言わざるを得ないことだった。

 

「あらあら、死に損ないが何を言うのかしら。きっちりと地獄に送り返してあげるから、覚悟しなさいな」

「地獄なら、もう見あきた」

「まだまだ見られるわよ。地獄にてさらに千年、次の召喚を待つと良いわ! 愚かなパラディン、ローラン!」

 

 冬原はセイバーに向かって疾走した。それはまさしく死に向かう行軍であった。

 分かり切っている。いくら死に損ないとはいえ、セイバーを倒すことなど出来ないということは。

 自分の拳が届くより早く、セイバーは宝具を使うだろう。

 だが、それでも冬原は立ち向かった。己の死に場所はここと決めているから。

 冬原の本心は――聖杯は破壊されるべきという考えである。だが、それはできない。教会に背くことはできない。教会は聖杯を破壊されてはならないという考えだ。

 その板挟みの中、自分の思いを貫き、教会からの指示に従う方法はただ一つ。聖杯を壊しに来たものと全力で戦い、そして敗れて死ぬこと。

 死を以てしか、彼の願いは成就しない。

 セイバーはそれを察していた。だからこそ、こう思った。なんと不器用な男なのだろうか。

 

「……これでこの愚かな戦いも終わりだ。全てを飲み込め、『最後に立つは我のみぞ(オリファン)』!」

 

 腰に帯びていた角笛を抜き放ち、その真名を告げる。

 角笛はそれに応え、その真の姿を曝け出す。この世に存在するどんな炎より高貴で、それでいて凶悪なその姿。燃え盛る炎の礫は、今まさに周囲の喰らい尽くさんと唸り声を上げていた。

 

「……さよなら、澪」

 

 次の瞬間、炎球は猛烈な勢いで爆ぜた。岩を砕き、砂を溶かし、明りの乏しい洞穴を朱で照らす。決して広くはないその空間の酸素を瞬く間に奪い、そこに存在するモノ全てを食らいつくし、塩に変えていく。

 冬原は、最初の爆発になぎ倒され、四肢の骨が砕けた。次の瞬間には、容赦なく襲いかかる炎に瞼を焼かれた。しかし、炎だけは吸い込まぬよう、肺を焼かれないように口を手で覆い続けた。そのおかげで即死を免れる。どのような一撃が来るかわかっていれば、最低限の対処はできる。

 だが、そのささやかな抵抗が無駄であることは、本人にも分かり切っていた。だがそれでも、諦めてしまっては教会に背くような気がして、抵抗を続けた。

 光も音も既に閉ざされた。瞼は焼け焦げてしまい、もう開くことはない。耳の鼓膜は爆発の衝撃で破れてしまった。彼が感じることが出来るのは、身を焼く炎の熱さだけだった。

 

 冬原の意識がしだい遠のく。この地獄のごとき猛火に晒され続けて、生きていられる人間など居るものか。ライダーやランサーが異常なのだ。並みの人間なら最初の爆発で命を落とし、運よく生き残っても後続の炎に焼かれて絶命する。最後に生き残れるのはセイバーのみ。

 ――最後に立つは我のみぞ。あの血戦でのローランの姿を現す名であり、宝具の力をこの上なく表すものである。

 

 セイバーは地に伏せて炎に耐える冬原に近づいた。

 全身が焼け爛れていて、もはや余命いくばくも無いことは明らかだった。セイバーが近づいても気付く様子がない。

 もうこれ以上苦しませる必要はない。せめてもの情けと、セイバーは彼の心臓に剣を突きたてた。冬原は苦しみの声すら上げず、ただ力を無くして絶命した。命を無くし、ただの肉の塊となった冬原は、体の末端から塩の塊へと変化していく。

 オリファンは、『封印:狂える炎熱(オルランドゥ)』の力で圧縮しない限り人間やサーヴァントを塩に変えることはできないが、無生物なら話は別だ。

 塩に変じ始めた彼の体は、その命が付きたことを如実に語っていた。

 

 セイバーは冬原が完全に塩になるのを見届けた。

 その時、喉の奥から上がってきた熱い何かを堪えることが出来ず、床にそれをぶちまけてしまう。それは赤い血だった。

 セイバーは、自分もまた最後の時が近いことを悟った。元より、瀕死の身であったのだ。澪に心配をかけまいと気丈に振る舞ってみせたものの、もはや令呪の力を以てしても覆せぬ死の運命、それを意地と気合で先延ばしにしたに過ぎない。

 だがそれも限界。宝具の使用に体が追いつかなくなった。だが、それでいい。ここで死ぬ定めであるならば、どんな無茶も許容される。

 

 セイバーは、未だそびえ立つ光の柱を睨んだ。これが聖杯の根源であることは疑う余地すらない。ならばこれを破壊しなければならない。

 見れば、その光の柱は炎の脅威をものともせず、未だ堅牢にそびえ立っていた。

 そうはさせない。耐えさせてなるものか。

 

 セイバーは光の柱に近づき、その基盤に足を踏み入れた。直感的に、足元の魔法陣こそが本体なのだと悟る。魔法陣を睨むと、やめろという声が聞こえてくるかのようだった。

 そうはいかない。これで、この馬鹿踊りも終いにせねばならない。

 多くの者が死んだ。希望を胸にし、野望を握り締め、血で染まった者がいる。過去に犠牲になった者のためにも、これを破壊しなければならない。

 

「最後の仕事だ、デュランダル。……私の命も、体も、全て炉にくべてやろう! 怨嗟の根源を焼きはらえ、デュランダルよ! オリファンよ! ――『封印:狂える炎熱(オルランドゥ)!』

 

 そう言って掲げた宝剣に、神の炎が収束を始める。剣の内部に炎を孕み、セイバー自身の理性をも一緒に封印し、そしてその度に剣は輝きを増す。

 太陽のごとき白い輝き。薄暗い洞穴を、昼よりもなお明るく照らす剣。

 己が正義のために、大罪をも許し、血を許容した炎。人々の正義を集めて炎となした輝き。その誉れ高き名を称えよ。その名は――オリファン。

 

「□□□□□□ァァァッ!」

 

 セイバーは剣を足元の基盤に突き立てる。突き立てた個所が赤熱し、溶けて始める。溶けた岩が自らの足を焼くのも斟酌しない。ただただ、柄に力を込め続け、もっと深く刺し入れることしか考えない。

 足元を焼く溶岩が、ごぼりと弾けた拍子に、その飛沫がセイバーの衣服に火を付けた。その炎は瞬く間にセイバーの全身を舐め始めるが、それでも力を緩めることはしなかった。

 そして刀身の半分以上が基盤に食い込んだ頃、やおらデュランダルから輝きが失われた。炎が噴出し、再び角笛の形に戻り始める。オルランドゥの効力が切れたために、剣に炎熱を封印できなくなった為だ。

 そして、未だ炎に焼かれ続けるセイバーはその場に倒れた。もはや指先すら動かす力はない。このまま炎に抱かれて死ぬのを待つのみだ。

 しかし、最後の力を振り絞り、眼前の風景を睨み続けた。聖杯が破壊されるのを見届けなければ、身を焼いてまで剣を振り下ろした意味がない。

 

 デュランダルは未だ岩盤に刺さっている。そして、そこを起点として、冷め始めた溶岩が塩へと変わっていく。塩化の速度は、炎がセイバーを焼きつくすよりも早かった。加速度的に魔法陣を侵食し始め、奇跡の結晶を無垢な塩へと還す。

 禍々しい光を放っていた魔法陣は光を失い、その光で出来ていた柱も消滅を始めていた。

 

 ――私はやり遂げた。澪、私はやったぞ。

 

 セイバーは、もはや動かぬ口の代わりに、心でそう訴えた。

 安心したのか、セイバーの四肢から力が失せて行く。それに対応するように、体の末端からセイバーの体は粒子となって消えようとしていた。

 

 ――澪、貴方を愛している。

 

 セイバーが最後に思ったのはそれだった。

 苦しみも、痛みも既になく、セイバーは安らかな顔で逝った。まるで幼子が遊び疲れて眠りにつくような、清らかな表情であった。

 

 セイバーが逝った直後、洞穴は崩落を始めた。この密室空間でオリファンを使ったために傷ついた地盤に加え、至るところが塩化したために自重を支え切れなくなったのだ。

 崩れ落ちる岩は、ここに在ったもの全てを覆いかくし、破壊した。

 後世の者が聖杯戦争の残骸を探そうとしても、ここにはもう何もない。聖杯は二度と目覚めることはない。それらは全て塩となり、厚い岩石に覆われた。

 

 数百年に渡った戦いは、サーヴァントの全てと多くのマスターの命を引き換えにし、確かに今終わったのだ。

 

 ◇◆◇◆◇

 

 澪と凛の姿は横穴の終着点近く、即ち学園内にある出入り口付近にあった。

 セイバーが逝ったことは、澪にはすぐに知れた。令呪を見ると、そこにすでに跡すらなく、聖杯戦争に巻き込まれる前と変わらぬ様子であった。

 

「セイバー……」

 

 遅れて、足元に伝わる振動。きっと、あの洞穴が崩落した音に違いはない。

 それが意味するところは、「聖杯の本体」の破壊は成されたということだ。士郎、凛、そして澪の願いは成就した。

 出入り口に辿り着くと、そこには姉妹兵が居た。ここまで二人を送ってくれた、あの姉妹兵だった。全身に酷い傷を負っているが、命に別状はなさそうだ。あの代行者達を相手に、ここまで戦い果せたのだ。大金星と言っていい。

 姉妹兵の手を借りて、二人は地上へ上がる。代行者の姿は既に無かった。聖杯が破壊されたことを知り、引き上げたのだろうか。聖杯が破壊されてしまった以上、戦い続ける理由はない。そう考えるのが妥当だろう。

 

 澪は、凛を柔らかい芝生の上に寝かせた。彼女はすぐに病院に搬送すべきだ。澪は携帯電話から救急車を呼んだ。怪我の原因を聞かれるだろうが、そこは適当にごまかすしかあるまい。澪は、暴漢に殴られたことにしておこうと考えた。

 

 救急車を待っていると、士郎が血相を変えて走ってきた。二人はパスで繋がっている。凛が瀕死の重傷を負ったことを、士郎はパスを通じて知った。居場所は、横穴から出る前に凛が士郎に伝えたのだった。

 

 澪は凛には休ませて、士郎に彼女の容態を伝えた。士郎は魔力がほぼ完全に枯渇していたため、治癒が可能な剣を投影することは出来なかったが、代わりに包帯を投影して凛に応急処置を施した。

 傷口の止血をしたら多少楽になったのか、凛が口を開く。

 

「終わったわね」

「ああ……これで、こんなバカな戦いは終わりだ」

 

 これからが忙しいんだけどね、と凛は呟いた。澪はその真意を凛に問う。

 凛は口内が痛むのを堪え、それに応えた。

 

「魔術協会に、色々と報告しないといけないでしょ。それに、聖杯戦争の完全終結――根源に至るために聖杯を利用しようという一派は、協会内に少なからず居るわ。そんな派閥を解体するために、もう少しだけ闘わないとね」

「ロンドンへ行くの?」

「ええ。もっとも、この傷が治ってからしましょうか」

 

 澪は俯いて、何かを考えている様子だった。ややあって顔を上げたとき、そこには不屈の意志が宿っていた。

 誰が何と言おうが構うものかという、強い意志だった。

 

「私も、ロンドンに連れて行って」

「……何を言っているの」

「私、この力を使いこなすために、もっと学ばないといけない。そのためにはロンドンへ、魔術協会へ行くべきだと思ったの。

 それに、凛さんと士郎さんの手伝いをすることは、きっと私にとっても正しいことだと思うの。私は、私に出来ることを投げ出して日常に戻るなんてしたくない。私は、現実と戦うの」




 残すところ、エピローグのみです。
 既に書きあがっているため、予約投稿にて、一時間ほどの誤差の後に投稿するつもりです。


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終章 新たな旅立ち

 それから数日の後、澪は離れた地にある実家に顔を出した。大学の友達、楓や美希にはもうしばらく休むと伝えた。えらく心配されたが、あまり追求されなかったのが幸いだった。

 久しぶりに見た家は、なんだか懐かしくて、涙が一粒こぼれ落ちた。ようやく帰ってきたんだと、実感できた。

 澪は愛おしむようにインターホンを鳴らした。ややあってから家の中が騒がしくなり、慌ただしく門が開いた。開けたのは、実の祖父と祖母だった。

 祖母は澪に抱きつき、体裁も気にせず泣きじゃくった。

 

「よう帰ってきた……! よう帰ってきたな、澪……! 爺さんや、うちの悪たれが帰ってきよった……。最後に残った、私らの孫娘が帰ってきた……!」

 

 祖父はただただ、うむ、うむと頷くだけだった。だがその目には涙を堪えていることが分かった。

 澪には訳が分からなかったが、祖父母の涙がたまらなく温かくて、澪もまた泣いた。涙が枯れるまで泣いた。

 

 落ち着いて話が出来るようになった頃には、もう夕方を迎える頃合いだった。

 話を聞くと、どうやら冬原が澪の両親に伝言を残していたらしい。貴方達の孫娘は今日死ぬかも知れない、と。つまり冬原と最後の戦いをする直前、冬原は澪の両親と連絡をとったということだ。

 澪の祖父母は古い魔術師だ。電話などの近代的な通信手段は持ち合わせない。ゆえに冬原自身がここに来たのではなく、使いの者をよこしたのだろう。どうやって調べたのかは知らないが、教会の手足は長い。きっと造作もないことだったのだろう。

 そして私の命の危機を知らされていたからこそ、二人はここまで心配してくれていたのだろう。

 魔術師の家ならば、きっと帰ってきて当たり前とでも振る舞うのだろう。だが、八海山の家はそこまで魔術に浸かりきっているわけではない。かなり俗世じみた家柄だ。子や孫が死ねば、悲しむし涙も流す。

 

 そしてだからこそ、帰ってきた澪に喜びを隠しきれないのだ。

 その喜びがありありと表れている豪勢な食事を歓談しながら頂いた後、澪は大事な話があると切り出した。

 きっと、この老いた祖父母は悲しむだろう。私が死ぬわけではないにしろ、暫く会えないことは確実だ。

 

「……何だい?」

「……私、ロンドンに行きます。魔術協会に行って、やらなければならない事があります」

「……そうかい」

 

 否定も肯定もしない。澪には、それが堪らなく心苦しかった。

 ややあってから、無口な祖父が口を開いた。

 

「行ってくるといい」

「え?」

「行ってこい。どうせ止めたって、お前は行くのだろう。変な所で頑固だからな、お前は」

「……ごめんなさい」

「謝る必要なんかない。……何となく、そんな気がしていた。お前はきっとわしらの元を離れるとな。……お前がやりたい事があるならば、やると良い。わしらの事など心配するな。先行き短い老人が、若者の足を引っ張るなど本意ではない。お前は、存分に自分の道を歩め」

 

 そう言うと祖父はやおら立ち上がり、箪笥の中から一つの封筒を澪に手渡した。やたら分厚い封筒であった。

 断ってから中を検めると、そこには現金がぎっしりと詰まっていた。軽く見積もって二百万はある。

 

「これは?」

「選別だ。お前が何かをやりたいと言いだした時のために、婆さんと二人で貯めておいた。ロンドンに行っても、仕事が見つかるまではこれで食いつなげるだろ。だが無駄遣いするんじゃないぞ」

「……ありがとう。本当に、ありがとう……」

 

 そう言うと、澪は再び泣いた。

 二人が自分のために貯金をしていたという事実が嬉しくて、自分を引きとめようとしなかった心遣いが優しくて、耐えきれずに泣いた。

 

 

 

 

 それから澪は、旅立ちの直前までの時間を祖父母と過ごした。そしてついに旅立ちの日がやってくる。

 その日の朝食は皆が黙りこんで、何の味もわからなかった。

 祖父母の元を離れたくないという気持ちもある。老いた二人を残していくことを心苦しく思う。

 それでも、やらないといけないことがある。

 強い意志と感情との間で揺れ動く。だが、もう決めたことだ。後悔なんて無い。

 

 特に何かをしていた訳でもなく、時間だけが過ぎ、もう発たなければいけない時間になった。大きな旅行鞄を持ち、靴を履く。パスポートや、その他必要なものは全て持った。

 鞄の中には、「ローランの唄」の邦訳版が入っていた。

 

「じゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃい。水には気をつけるんだよ」

「……体を大事にな」

「はい!」

 

 澪は笑顔で二人の元から発った。士郎と凛が待つ空港まで、高鳴る胸が収まる気配はなかった。

 

 空港に着いたときには日が高く登っている頃合いだった。成田空港はいつ来ても人で賑わっている。ビジネスや休暇で旅客機を利用する人たちで、空港はごった返していた。

 その中に、目当ての二人の姿はあった。休暇という装いでもなく、ビジネスでもなく、ある意味異質な二人であった。

 士郎と凛である。二人ともいつもの装いであった。凛の傷は綺麗に癒えていた。おそらく治癒魔術によって治したのだろう。普通の人間はこんなに早く回復できない。

 

「待った?」

「いえ、私たちも今来たところよ」

 

 三人は一緒に窓口へ行き、荷物を預けてチェックインを済ませた。

 日本からロンドンまではおよそ12時間のフライトとなる。長い旅になりそうだった。三人はフライトまでの少ない時間を、なにやら思いつめた表情で過ごした。

 やおら、凛が口を開いた。

 

「本当にいいの?」

「もちろん」

「……簡単に言うけどね、私たちに付いてくるってことは、命の危険があるってことよ」

「もう決めたから。私、この力を使いこなさなきゃいけないの。そうしたら、きっと貴方達の手伝いができる。人々をきっと救える。……まあ、荒事は無理そうだから後方支援だけど」

「ロンドンだって危険なのよ。聖杯戦争は根源に至るには、ある意味では有効な手段なの。それを解体しようっていうんだから、命を狙われても不思議じゃないわ」

「命なら、もう何度もかけているわ。今更よ」

「……後悔はしないのね?」

「ええ。後悔しない道を選んだわ」

 

 澪の決意は固い。

 セイバーは彼女に多くのものを残していた。正義とは何か、それを明確に言葉にすることは難しいけれども、彼女の中には確かにそれがあった。

 それは彼女の人生を変えるものだろう。セイバーは澪の人生を大きく変える。きっと、聖杯戦争に巻き込まれなければ、魔術師でありながら、ありふれた人生を送っていたことだろう。

 

 だが、それで良いのだ。

 己が何を為すべきなのか、何を為したいのか、それを知らぬまま一生を終えるなんて、きっと悲しいことなのだ。

 逆に、人のそれを潰してしまうことだって、きっと悲しいことなのだ。セイバーの為したことは、きっと悪意を以て解釈すれば、悪にすぎないだろう。

 数万の軍勢を勝ち目の無い戦いに放り込み、己の蛮勇によって全滅させた。思慮もなく、気品もない乱暴者。こう解釈できるだろう。

 だが、彼には彼の正義があり、それに従っていただけなのだ。それが間違っていたとしても、彼にはそれしか無かったのだ。

 

 誰が彼を責めることができようか。誰も彼を責める権利などない。彼はただ、己にできる最善を尽くしただけなのだ。

 

 考えてみると良い。貴方が悪と思う人間は、本当に邪悪な人間か。その人には、その人の信念があって行動しているだけではないか。

 あらゆる事象は、観測者によって姿を変える。好意を以て観測しなければ、その人の心は見えない。愛がなければ見えないのだ。

 

 だから、私たちは敵と語り合わなければならないのだ。最大限の好意を以て。

 それはきっと困難なことだろう。理想論だと罵られても仕方が無い。

 だけど、澪はそれを実行しようと決意していた。セイバーがそれを教えてくれたから。最愛の人が、そうであろうとしていたから。

 惜しむべきは、聖杯戦争という戦場に呼ばれてしまったことだろうか。彼がいくらそう望んでも、それが出来ない環境に放り込まれた。

 きっと、現世でもそんなことばかりだろう。それでも、この思いを貫きたい。澪はそう思った。

 でも、思いを貫くには多少の力が必要だ。幸い、澪にはその力がある。

 

 澪には、将来についての考えがあった。まだ実態は見えてないが、きっとうまくいく。

 力を使いこなせるようになったら、士郎たちの助けになれるようなNGO団体でも作ろう。国をまたにかけて活躍できて、人々の助けになれるような、そんな団体だ。

 士郎たちはきっと世界を股にかけて活躍するだろう。行く先々で、孤児を保護することもあるかも知れない。

 そうだ、孤児院なんかを経営するのも悪くない。様々な理由で国に居られなくなってしまった人に、救いを差し伸べることができたら面白い。

 

 自分がやりたいことが見つかるだけで、こんなにも将来が明るく楽しいものに見えてくるなんて。

 セイバーには感謝しきれない。

 ――もう一度会いたい。話をしたい。

 

 澪はそう思ったが、それは叶わない願い。同一化魔術を使ったとしても、澪自身は彼と話すことはできない。

 いや、上手く力を制御すればできるかも知れない。きっと出来る。

 なんだ、未来は明るいじゃないか。

 

 その時、ロンドン行きの便への搭乗を始める旨のアナウンスが鳴った。三人は各々の鞄から搭乗券を取りだす。

 澪は、胸を張って言った。

 

「さあ、行きましょうか!」

「ええ」

「ああ!」

 

 三人の顔は、未来の不安に陰ってなどいない。むしろ、希望にあふれた顔だった。

 足取り軽やかにゲートをくぐり、新たな旅立ちに乗り出した。

 

 士郎や凛、そして澪の前には、今後も多くの困難が待ち受けることだろう。だが、彼らは決してそれに挫けはしない。

 何故なら、彼らの胸の中には、彼らだけの正義があるから。三者三様のそれは、どれも光輝くものだ。

 

 三人は煌めく輝きを胸に、明日のために、今日を闘う。

 そしていつの日か、彼はきっとこう呼ばれるのだろう。彼こそが正義の人だと。その日が来るまで、そして命果てるまで、彼の物語は続く――

 




 くぅ~疲れましたw これにて完結です!

 と冗談はほどほどにして、皆さま長らくお付き合い頂いてありがとうございます。
 このように長編を書くのは私にとって初めてあり、そういった意味ではこの作品は処女作となっています。そのため、(特に最初のほうは)至らない点も多かったと思います。
 しかし、不相応に高い評価を頂き、嬉しい限りでございます!
 ありがとうございます!

*あまりにアッサリと終わり過ぎたので、少し加筆しました(2012/3/26)

twitter:mugennkai

 さて、この後は主にtwitter上で要望のあった設定集を作って完全に終了としたいと思います。

 次回作は「魔法少女リリカルなのは」でオリ主ものをやろうと思います。もしくは、またFateで書くかも知れません。
 次回でも拙作を読んで下されば幸いです。

 重ね重ね、ありがとうございました!


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設定集

 予告していた通り、一部から要望のあった資料集です。
 人物、サーヴァント、武器についての設定を記載しています。


 注意:多大なネタバレを含みます。本編を先に見ることをお勧めします。

 なお、原作キャラについての説明は割愛しています

 

◆◇人物編◇◆

 

【名前】八海山 澪

【読み】はっかいさん みお

【性別】女性

【年齢】21

【魔術】同一化魔術・反射反応魔術

【その他】大学生・セイバーのマスター

 

【魔術詳細】

同一化魔術:

 間接的とはいえ、アカシックレコードに触れることのできる強力な魔術。しかし、この魔術の特性ゆえに「既に亡くなった人物」の情報しか読み取ることができない。膨大な情報の海から特定人物の情報のみを取得し、それを自己の中で再現する。いわば、故人になりきることが可能である。

 ただし、再現可能であるのは精神面のみである。肉体面の再現は不可能であるため、単純に身体能力に秀でた故人を再現しても意味は薄い。技術面の再現は、それに身体能力上での制約が無いのであれば可能。つまり、何らかの故人を再現した際に、体力は澪のそれだが知識と技術は故人のそれとなる。

 この魔術の最大の弱点は「自己の希薄化」である。他者を自己の中に再現するということは、自分の中に他者が存在し始めるということに他ならない。いわば一種の多重人格である。例えるなら、真水の中に墨汁を垂らすようなものだ。同一化魔術の場合、水と墨汁は後から分離が可能だが、完全には分離しきれない。水は次第に墨汁に近いものとなり、いずれ「少し薄い墨汁」になってしまう。つまり、自己の意識が消失してしまうのである。

 これを防ぐには高度な精神操作や精神防衛の魔術を同時に使用する必要があるが、澪にその技術は無い。

 

脊髄反射魔術:

 人体には危険から身を守るために脊髄反射という機能が備わっている。例えば針の先に触れたとき、人間は痛みを感じた瞬間には針から指を遠ざけようとしている。この反応は脳を仲介せずに行なわれるため、人体で最も早い反応速度を誇る。

 注意すべきは、脊髄反射は脳を仲介しないという特徴ゆえに、恣意的な反応は不可能である。しかし脊髄反射魔術は、あらかじめその反応を追記・変更しておくことで任意の行動が可能となる。先ほどの例では、「指を遠ざける」のではなく「針を遠ざけさせる」という反応に変更することができる。

 これは戦闘において、「矢が飛んできた」と認識した瞬間には既に回避を行なっているという行動も可能となる。また、この魔術は第六感にまで及ぶため、「殺気を感じた」という程度でも反応することが可能。

 この第六感までおよぶという特性を活かしたのが探査魔術である。殺気や敵意というものを知覚することで、一種のレーダーの役目を果たす。また、知覚方法も様々で、視覚や聴覚、嗅覚などといった情報に置換して認識することが可能。嗅覚の場合、「何か良くないものだ」と認識した場合、悪臭として知覚する。

 

【備考】

 第五次聖杯戦争におけるキャスターに両親を殺害された過去を持つ。聖杯戦争には、その過去を思い出したことが原因で参加することとなる。一種の私怨によるものだったが、それを正当化していたことにセイバーに諭された。現在は祖父母の援助で一人暮らしをしている。

 聖杯戦争を通じ、何度も自分を助けてくれたセイバーに恋心を抱くようになった。絶対に叶わない愛だと知っているからこそ、彼女は自分からそれを打ち明けることは無かった。

 澪は本人の魔術特性を『送受信』であると表現したが、実は少々異なる。その特性は自らの肉体への『埋め込み』である。つまり、自分の体に新しい機能を追加、あるいは既存の機能の変更こそが正しい特性である。

 同一化魔術も脊髄反射もその特性より生まれたものである。この特性は新しいパスの生成などでも強い効果を発揮するため、澪は勘違いをしていた。

 また、八海山は幾度と名を変えた歴史があり、その中で海外の血が混ざることもあったため忘却されてしまったが、その歴史は実に深い。魔術師としての始祖は稗田阿礼。

 聖杯戦争のなか、セイバーに惹かれていった。容姿もさることながら、彼の後悔や信念を知るうちに恋慕の情を抱くようになる。

 

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【名前】稗田 阿礼

【読み】ひえだ の あれ

【性別】女性

【年齢】不明

【魔術】森羅写本

【その他】古事記の編纂者・故人・八海山の始祖

 

【魔術詳細】

森羅写本:

 稗田阿礼は「見聞きしたことを絶対に忘れない」という伝説があるが、それはこの森羅写本の特性に起因する。これは見たこと、聞いたことを全て記録する固有結界である。

 生前、優れた魔術師(陰陽師)と共にアカシックレコードを垣間見た。稗田阿礼とその友人はその際に死亡。稗田阿礼はアカシックレコードのバックアップとして世界に取り込まれることになった。その所為で彼女の肉体は滅びたが精神だけが現世に留まり続けている。

 なお、現在の森羅写本に保存できるのは『既に亡くなった人物』の情報のみである。

 稗田阿礼は長い時間をかけて世界の一部となった森羅写本に穴を穿つ。稗田阿礼の子孫ならば森羅写本にアクセスできるよう試みたが、それが自発的に出来たのは数人。ここ百年では一人もできなかった。澪が出来たのは才覚ではなく、偶然にも濃い血が発現したためである。

 この森羅写本にアクセスするのは術者の精神のみである。森羅写本は無差別な情報の海であるため、よほど強い心を持ったものか、精神防衛の魔術を行使しないと自我を失いかねない。その為、よほどのことない限り稗田阿礼の意志でこの森羅写本に子孫を引き込むことはしない。また、森羅写本にアクセスした際には彼女に出会える可能性は高い。

 

【備考】

 八海山家の始祖。戦闘こそできないが、紛れもない英霊である。彼女は八海山家の再興を願っており、そのため見込みのある子孫が現れたときに助力しようとする。ただし、成長を促すだけであり、問いは出すが答えは与えない。

 稗田阿礼は暇つぶしがてら森羅写本を通して子孫とその周辺を見守っている。そのため第五次聖杯戦争のことも多少知っている。

 八海山澪が持っていた本は彼女が記したものの写本だが、それには森羅写本にアクセスする方法が書かれていた。また、この本自体が森羅写本の通行手形の役割を持つ。しかし長い年月とともに、暗号の解き方が忘却されてしまう。あまりに難解であるため、忘却されてしまってからは誰も解けなかった。

 

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【名前】アリシア・キャラハン

【読み】ありしあ・きゃらはん

【性別】女性

【年齢】9

【魔術】不可

【その他】先天性の膠原病・アーチャーのマスター

 

【備考】

 生まれ落ちたときから重度の膠原病を患っている。膠原病は疾患群の名称であり、様々な居変を身体に起こす。彼女の場合、紫外線に当たると皮膚に重度の炎症と発熱が起こる。

そのせいか、魔術師である両親からは見捨てられている。ただし入院費用だけは工面して貰っている。これは温情ではなく、いずれ魔術実験の被験者になってもらおうという意図のもとである。

アリシアは長時間紫外線を浴び続ければ、一時間と経たずに死に至る可能性が高い。この病気の厄介なところは治療法が確立されていないことである。また、膠原病を患った場合、多くは短命である。

日光に当たれないため酷く色白である。そのためアーチャーからは「白い手のイゾルデ」と称された。また、まともに日光に浴びたこともなく、大した運動もしたことがないため非常に虚弱である。彼女にとっての娯楽は読書しかなく、日中でも常に本を読んでいる。夢にあふれた物語を好み、もっぱら英雄譚やファンタジーの類を愛読する。一方で、スパイものやミステリーにも手を出している。

作中では語られていないが、彼女がアーチャーを召喚したのは両親の意図によるものである。いわば、彼女の両親は自らの娘を実験体にし、聖杯戦争の真偽を確かめようとしたのだ。今まで両親の顔すら知らなかったが、始めて両親からの手紙が届き、アリシアは喜んだ。その手紙の通りに儀式を実行した結果、彼女はアーチャーを召喚したのである。

 

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【名前】スカリエッティ・ラザフ・コンチネンツァ

【性別】男性

【年齢】42

【魔術】基礎的なものならば可能

【その他】享楽主義者・ランサーのマスター

 

【備考】

 魔術師の家系の次男坊。コンチネンツァ家は名門でも名家でもないが、それなりの実力はある。後継者は兄であったため、魔術の知識は乏しい。本来は聖杯戦争に参加する筈ではなかったが、長男を殺害し聖遺物を奪取し、ランサーを召喚した。しかし本人が戦闘に参加する意志はまるでない。あくまでサーヴァントに任せる腹積もりである。ちなみに妻も子も居ない。

 ちなみに、彼の兄は聖人ロンギヌスが身にまとっていたとされる衣服の切れ端を入手していた。旧知の魔術師が保有していたものを譲り受けた形である。聖堂教会でも同様のものを保有しているが、その魔術師が所持していたものは教会の持つそれとは神格が圧倒的に劣るもの。しかしサーヴァントの召喚には十分であったようだ。

 

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【名前】サーシャスフィール・フォン・アインツベルン

【性別】女性

【年齢】推定25歳

【魔術】錬金術・治癒魔術

【その他】ホムンクルス・ライダーのマスター

 

【魔術詳細】

錬金術:

 アインツベルンの魔術は錬金術であり、彼女もまた錬金術を扱う。錬金術の応用は多岐に渡り、医学、薬学、物質科学などが主な応用分野となる。彼女は物質操作を戦闘に応用している。これはアイリスフィールが用いた錬金術と同様のもので、針金を操作し編み込むことであらゆる形状を象ることができる。猛禽、巨大な拳、義足、大盾、槍状の先端を持つ触手などを実際に使ったが、実際はさらに多様なものに変化可能。

 

治癒魔術:

 対象の負傷を癒す魔術。彼女のそれは突出して秀でているわけではないが、軽傷程度ならば癒すことができる。重傷になると完全な回復は難しい。

 

【備考】

 アインツベルンの急造ホムンクルス。急な聖杯降臨に合わせて作ったため、細部に問題がある。その一つが寿命、すなわち活動可能時間の短さである。聖杯戦争中はかろうじて生きられるが、その後の保障は全くない。また、アルコール等の分解機能も未熟であり、酒の摂取は禁物である。そのような理由もあり、サーシャスフィールに聖杯としての機能は備わっていない。

 ホムンクルスとして誕生したのは1年ほど前だが、精神年齢と肉体年齢は二十代半ばほどである。ただ、一部の身体的機能に限れば六十代後半であると言われても不思議ではない箇所がある。特に腎臓、肝臓、胃、腸の機能は不完全であり、正常に機能している臓器は脳ぐらいしかない。

 しかしながら、戦闘能力は今までのどのホムンクルスよりも秀でている。魔術・身体能力のどちらも尋常ならざるものである。魔術面でいえば、聖杯から満足なサポートがなくともサーヴァントを実体化させることが可能なほどであり、肉体面では十キロをゆうに超えるハルバードを片手で軽々と振り回すほど。

 ライダーと共に闘ううちに、彼に恋心を抱くようになった。体の非常に弱い彼女にとって、心身ともに屈強な彼に憧憬の念が芽生え、それはしだいに恋慕へと変わった。

 

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【名前】景山 悠司

【読み】かげやま ゆうじ

【性別】男性

【年齢】27

【魔術】不可

【その他】フリーター・空き巣常習犯・アサシンのマスター

 

【備考】

 多大な借金を抱えたフリーター。借金の返済に窮し、金策のために空き巣に手を出している。盗みの才能があったのだろうか、何度も犯行を重ねているが一度も見つかったことがない。警察は昨今の連続空き巣事件を追っているものの、犯人の面相すら分かっていないのが現状だ。

 サーヴァントの召喚には、七年前に川の岸で偶然拾った空の薬莢。これは衛宮切嗣が七年前にキャスターのアサシンを狙撃した際、回収できなかった薬莢である。また、サーヴァントの召喚自体も偶然である。

 聖杯戦争の期間中は自室に籠っている。これはアサシンが絶対に外を出歩くなと言いつけているためであり、本人も素直にそれに従っている。とはいえ、本人の同意があると言っても、軟禁状態なのは変わらない。一応、昼間の明るい時間なら多少の外出は許可されているが、彼自身が面倒事に関われば死ぬであろうことを自覚しているため、それすらしようとしない。

 聖杯戦争が終結する直前、即ち士郎と切嗣が闘う直前、切嗣から別れを告げられた。結局、元の生活に戻ったが数日後に逮捕される。

 

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【名前】冬原 春巳

【読み】ふゆはら はるみ

【性別】男性

【年齢】35

【魔術】不可

【その他】代行者・聖杯戦争監督役代行

 

【備考】

 先任の聖杯戦争監督役がキャスターによる凶行で死亡したため、その代行を任された。また、激しい禁欲のため、最終的に性同一性障害になるに至った。いわゆるオカマである。とはいっても、筋骨隆々の肉体をそう簡単に隠せるはずもなく、見た目は男性寄りになっている。

 代行者の武器として黒鍵が挙げられるが、彼はその扱いを苦手としている。使えないわけではない。彼はボクシングスタイルでの拳闘を得意としており、位の低い吸血鬼ならば縊り殺すほどの戦闘能力がある。しかし、群体への変身が可能な者や、そもそも体が何かしらの集合体である者とは相性が悪い。彼の戦闘方法はあくまで一対一の状況で進化を発揮する。

 彼の切り札として、聖パウロの遺骨を練り込んだ指輪がある。これは低級の魔術を霧散させる力があるものの、上級の魔術にはお守り程度の力しかない。また、これのせいで程度の低い治癒魔術を弾いてしまうというデメリットも存在する。

 彼は教会へ絶対の忠誠を誓っている。本人の意図に反しようとも、教会の指示には絶対に従う。彼の神への盲信が為せる所業である。教会に従うことで神のために働けるのであれば、例え自分の命すら投げ出すだろう。

 自他共に認める辛党。辛党とは「辛いものが好き」という意味ではなく、「酒好き」を表わす言葉である。度数の高い酒ならば大抵のものは好む。度数の低い酒も飲むが、酔う前に腹が水で満たされてしまうため、あまり好きではないらしい。

 

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【名前】遠藤 楓

【読み】えんどう かえで

【性別】女性

【年齢】21

【魔術】不可

【その他】澪の友人

 

【備考】

 澪の友人の一人。心優しく、大人しい性格。大学では澪と美希といつも一緒にいる。ときおりレズではないのかと噂されるが、実は一つ年上の彼氏がいる。ただし、本編中にその設定は全く活かされなかった。というより、彼女自身の出番もほぼ皆無という有様である。

 サークルには所属しておらず、有り余る時間を家庭教師のバイトで潰している。ただ、大した趣味もなく、金を使う遊びもしないので残高は増え続けている。

 ちなみに、当然のことながら彼女は魔術師ではない。しかしその資質は僅かながら存在する。サーヴァントほどに強力な霊魂であれば、見ることは無理でもその存在を感じ取るだろう。

 

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【名前】小久保 美希

【読み】こくぼ みき

【性別】女性

【年齢】21

【魔術】不可

【その他】澪の友人

 

【備考】

 澪の友人の一人。活発で破天荒な性格。ソフトボール部に所属している。男勝りな性格か、異性よりも女性に好意を寄せられることが多い。楓と同様、彼女自身にもレズ疑惑があるが、その設定は本編で全く活かされなかった。ちなみに彼氏はいない。

 魚や肉が好物。珍味の類を特に好む。酒も好むがさほど強くはない。そのくせ調子に乗りやすい性格が災いし、部の飲み会では真っ先に潰れる。彼女自身は美人の類に入るため、送り狼になろうとした猛者もいたが、それら全てが彼女に好意を寄せている女性達に阻まれている。

 

 

◆◇サーヴァント編◇◆

 

【クラス】セイバー

【マスター】八海山 澪

【真名】ローラン

【性別】男性

【属性】秩序・善

【筋力】 A  【魔力】 B

【耐久】 C+  【幸運】 A

【敏捷】 B  【宝具】 A

 

【クラス別能力】

対魔力:A

A以下の魔術は無効化。事実上、現代の魔術で彼を傷つけることは不可能。

 

騎乗:B

大抵の動物を乗りこなしてしまう技能。幻想種(魔獣・聖獣)を乗りこなすことはできない。

 

【保有スキル】

直感:B+

戦闘時、高い確率で先の顛末を察知するスキル。

未来予知の領域には一歩届かない。

 

カリスマ:C

軍団を高い士気と統率力で用いるスキル。武将としては十分。

一国の王になるにはもう少し高いランクが必要になる。

 

戦闘続行:B+

生還する能力。程度によるが、重症を負っても数十分から一時間であれば存命可能。「不死身である」と周囲に称されたことで付いた因子。

 

【宝具】

最後に立つは我のみぞ(オリファン):A+

(対城宝具:レンジ1~999)

 人が造り出した神の炎の模造品。通常は角笛の形をしているが、その実それは炎で編まれた器物。真名解放の後に笛を吹くことで発動可能。解放されると、周囲全方位に渡って神の炎を噴出する。

 無差別性ではおそらく右に出る宝具は無いと思われる。唯一効果の対象外となるのは所有者のみである。ある程度効果範囲の指定は可能だが、最低でも半径50メートルは火の海となる。

 また、この炎を見た者や触れた者を塩の塊へと変質させる効果を持つ。通常、解放した状態では一般人すら塩に変えることは出来ないが、草木や無機物などであれば塩化させることが可能。炎を集中させればサーヴァントでさえ塩化させ得る。

 

封印:狂える炎熱(オルランドゥ):C

(対人宝具:レンジ1)

 オリファンの炎を何かに封印することを可能にする宝具。オリファンの無差別性を排除し、ある程度の汎用性を持たせる為に編み出された術式。しかし、一度オリファンを解放させた状態でしか使用できないため、無差別性が完全に排除されたわけでない。

 デュランダルに封印することで、オリファンの塩化効果を最大限に発揮させることを可能とする。事実上、この宝具はデュランダルが無ければ使用不可能である。なぜなら、不壊の効果を持つ宝具と対で使わなければ、封印させる器物そのものが塩化してしまうからである。逆に言えば、塩化されても構わないのならばなんにでも封印することが可能。

 この宝具を使用する代償として、術者は自分の理性をも炎と一緒に封印しなければならない。結果、術者のクラスは自動的にバーサーカーへと移行する。その際の凶化スキルはD相当となる。

 

【備考】

 フランスの英雄叙事詩である『ローランの歌』に登場する人物。架空の人物ではなく、実在した英雄である。彼は叔父であるシャルルマーニュ王(大帝カール)から聖剣デュランダルを授かった。

それと同時期、聖堂教会には|再征服運動≪レコンキスタ≫の機運が高まっていた。神の国エルサレムを奪還するため、神学者はその正当性を示す何かを欲していた。そして出た一つの結論が、かつて背徳の街を焼き滅ぼしたと言われる神の炎である。これさえ手にしたならば、十字軍の行動は神の意志によるものであると主張できるためである。そしてそれは成り、当時きっての騎士であったローランにそれを託した。それがオリファンである。

聖杯にかける望みは、かつてのロンスヴォーの血戦のやり直しである。あの戦いで無謀な行動をとってしまったローランは、かつての友であるオリヴィエを戦士させてしまった。それを酷く悔い、そして自身の信じていた正義の在り方に疑問を覚え、自分の無思慮さを恥じた。もしも血戦をやり直せたのであれば、きっと自分の正義を知ることができるであろうと信じていた。しかし聖杯では過去の改竄が叶わないと知り、せめて『今度こそ友を守る』という願いを成就させようとしている。そのため、澪と友人になりたく、現代の娯楽を知ろうとしていた。澪と出会った当初はふざけた態度で澪の気を引こうとするが、その必要も無くなってからは至って真面目な態度となる。

 最終的に、澪には友人としての情ではなく恋心が芽生えることになる。

 

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【クラス】アーチャー

【マスター】アリシア・キャラハン

【真名】トリスタン

【性別】男性

【属性】秩序・善

【筋力】 B  【魔力】 B

【耐久】 B  【幸運】 C

【敏捷】 C  【宝具】 A

 

【クラス別能力】

対魔力:D

一工程による魔術を無効化する。

効果としては魔除けの護符程度なので、人間の領域のスキルといえるかもしれない。

 

単独行動:B+

マスターからの魔力供給が無くなったとしても現界していられる能力。ランクBは二日程度活動可能。

プラス補正により、魔力の温存次第ではさらに一日程度の活動も可能。

 

【保有スキル】

千里眼: C

純粋な視力の良さ。遠距離視や動体視力の向上。

高いランクの同技能は透視・未来視すら可能にするという。

 

陣地選定: B

自分に有利な陣地を選定し、地の利を最大限に活かす能力。

ランクBは有利な位置関係を維持する限り、アドバンテージを決して失わない。

 

【宝具】

|無駄なし必中の流星≪フェイルノート≫:B

(対人宝具・最大捕捉人数1・レンジ1~100)

 因果律の逆転により、必ず命中する矢を放つ。命中箇所は任意で設定可能。

その矢の形状により貫通力は凄まじく、半端な防御では確実に貫かれる。Aランク相当の防御手段でも、投擲に対する補正がなければ防御は困難。

 ただし回復阻害などの付加能力は持ち得ない。

 さらに、遠方の敵には使用できず、射程はおよそ100メートルである。

 

【備考】

 円卓の騎士の一人、サー・トリスタン。円卓の騎士の中でもロマンスに生きた英雄である。トリスタンはランスロットやモードレッドとも親交が深かったと言われている。

 フェイルノートという名称は、実のところ出所が不明である。出典が明らかな名としてArc qui ne faut(アッキヌフォ)というものが挙げられる。Arcとは弓を表す言葉だが、罠の名であるとの伝承も存在する。また、フェイルノートは「狙った獲物を決して外さない」という名称があるが、これがトリスタンの能力に依るものなのか、フェイルノートの能力に依るものなのかは不明だが、どうやら宝具の能力に依るものだったらしい。

 彼の物語は「トリスタンとイゾルデ」という演劇で有名である。しかし、その伝承は様々である。イゾルデという女性が二人いるとされる場合もあり、片方は金の髪のイゾルデ、もう片方は白い手のイゾルデと呼ばれることが多い。だが、いずれの伝承においてもトリスタンは悲恋かつ悲運の人生を辿ることとなる。

 彼は聖杯にかける望みは無かった。強いて言えば、イゾルデと結ばれることである。しかしアリシアのサーヴァントとして召喚され、彼女の境遇にいたく同情し、彼女の病気を癒すために聖杯を欲するようになる。

 

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【クラス】ランサー

【マスター】スカリエッティ・ラザフ・コンチネンツァ

【真名】ガイウス・カッシウス

【性別】男性

【属性】中庸・善

【筋力】 B  【魔力】 B

【耐久】 A  【幸運】 E

【敏捷】 A  【宝具】 EX

 

【クラス別能力】

対魔力:C

第二節以下の魔術は無効化する。大魔術や儀式呪法などを防ぐことはできない。

 

【保有スキル】

聖眼:A

神の血を目に受けたときに得たスキル。魔眼とは異なる。外界からの視覚に対する干渉をほぼ無効化する力をもつ。

視覚によって外界へ干渉する魔眼とは対極にあるといえる。魔眼に対しても強い耐性を発揮する。

 

戦闘続行:A

死を遠ざける力。瀕死の状態でも戦闘を続行するスキル。

彼の宝具によって、もたらされたスキルである。

 

【宝具】

神の血を受けし聖槍(ロンギヌス):EX

(対人宝具・レンジ1~2・最大捕捉人数1)

 絶対の回復能力をもつ槍。彼の自己治癒も、この宝具による副産物である。

 持ち主に「世界を制する力を与える」という伝承があり、ランサーはこれによって全体的な補正がかかっている。もともとの彼はさほど戦闘能力は高くない。

 非開放時には、持ち主の傷を自動的に癒す力(リジェレネーション)しか持ち得ない。

 開放時には、致命傷であっても瞬時に回復する力をもつ。これは外傷に限らず、病や呪いの類すらも退ける力がある。また、使用する対象は自分に限らず、開放時の槍で刺したならば例え敵であっても癒すことができる。

 

【備考】

 盲目の百卒長。イエスの死を確認するためそのわき腹を槍で突いたとき、盲目の瞳にその血が散った。その瞬間、彼の目には光が戻ったという。

 古代では囚人の死を確認するとき、そのわき腹を突いたという。わき腹を突いたときの出血によって、死亡確認をしたとされる。その役目を負ったのが、ガイウス・カッシウスである。後に聖ロンギヌスと称され、聖人となった。ロンギヌスの槍という名称は有名であるが、これは「聖ロンギヌスがイエスのわき腹を突いた時に使用した槍」という意味である。槍はもともと官給品であり、何の変哲もないものであったが、神の子の血を受けたことにより神聖の因子を持つに至った。

 これらの出自から分かるように、本来ならば聖堂教会側の英雄である。つまり、彼にとって魔術師とは唾棄すべき存在に他ならない。スカリエッティ本人の性格もあり、彼との相性は最悪であった。明確に衝突することをランサーは避けていたが、いつ殺し合ってもおかしくなかった。

 ランサーはマスターさえ恵まれていれば、おそらく最終局面まで残っていたであろうサーヴァントである。即死さえしなければ、即座に傷を癒す力は驚異的であり、彼自身の戦闘能力もライダーやセイバーに匹敵するものである。だが、相応に魔力を消費するので乱用はできない。

 やはりランサーはマスターで悩まされるべきだろうという悪意の生贄である。

 

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【クラス】ライダー

【マスター】サーシャスフィール・フォン・アインツベルン

【真名】張遼

【性別】男性

【属性】混沌・善

【筋力】 A+  【魔力】 E

【耐久】 B  【幸運】 B

【敏捷】 A  【宝具】 B

 

【クラス別能力】

・対魔力:B

発動における詠唱が三節以下の魔術を無効化する。大魔術・儀礼呪法を用いても傷つけることは難しい。

 

・騎乗:A

騎乗の才能。かつて慣れ親しんだ獣に似た姿であれば、魔獣・精霊種でも乗りこなすことができる。

彼の場合は、馬に似た姿であればどんな生物であろうと操れる。天馬や一角獣であろうと乗りこなすだろう。

 

【保有スキル】

・矢避けの武芸:B

矢が飛び交う戦場で培った技術。加護ではなく、修練により培った経験。

投擲物による攻撃に対して、高確率で迎撃および回避を成功させる。ただし、超遠距離もしくは広範囲の攻撃には効果を発揮できない。

 

・仕切り直し:C

戦闘から離脱する能力。

一撃離脱の戦法には重宝する。

 

・軍略:B

多人数戦闘における戦術的直感能力。自らの対軍宝具行使や、逆に相手の対軍宝具への対処に有利な補正がつく。

 

【宝具】

・騎兵の軍こそ我が同胞:ランクB

(対馬宝具・レンジ1・最大捕捉人数1)

ライダーが聖杯戦争でも騎兵を用いて戦うために得たスキル。

ライダーが名を与えた馬は宝具のカテゴリに昇格される。ランクは平均してC相当。馬の能力や性格によって個体差が生まれる。なお、宝具となった馬は毛並みが変化し、蹄には炎熱がエンチャントされる。

また、微弱ながら宝具馬に対して自動治癒も持つ。平均的な魔術師の治癒魔術よりも劣るが、自然治癒とは比べ物にならない。

 

遼来益(リョウライライ):ランクB

(対人宝具・レンジ1~20・最大捕捉人数1)

ライダーと対峙したものの深層心理に恐怖を根付かせ、それによってステータスの低下を引き起こす。自身の感情を制御するスキルや宝具などで緩和することが可能。よって狂化したサーヴァントにはあまり効果をもたらさない。

「泣く子も黙る」という言葉の元となった言葉。ランクBとはいえ、白兵戦においては絶大な効力を発揮する。元のステータスの高さとこの宝具の効力を鑑みて、生前から現在までを考慮しても彼に白兵戦で適う相手は少ないに違いない。

 

・黒兎:ランクC+

ライダーの愛馬となった馬。好戦的で、多少の負傷ならば物ともしない。黒い毛並みが特徴的。

 

・白兎:ランクC+(C)

サーシャスフィールの愛馬。戦いを好まず、大人しい性格をしている。そのため、本来は黒兎と並ぶ実力をもつのだが、その実力を発揮できていない。白い毛並みが特徴。

 

【備考】

 三国志に名を馳せる名将。字を文遠という。元は董卓の配下であったが、董卓が呂布に暗殺された後は呂布の配下となる。また、呂布が曹操らによって処刑された際に降伏し、以後は曹操に仕える。

 彼は関羽と深い親交があった。袁紹と曹操が決選した官渡の戦いでは、劉備の将である関羽と共に先鋒を務めたという。その中で、青龍堰月刀の扱いを覚え、それを愛用するに至る。いわば、彼との友情の証である。青龍堰月刀でなくとも、大抵の武器は巧みに操れる。

 彼の戦闘能力は関羽に匹敵するものであり、為政者であり武神と称えられた関羽とは対照的に、悪鬼のごとく語られた。その伝説を象徴するものとして、遼来々(あるいは遼来遼来)という言葉がある。これは、ぐずって泣き止まない子供であっても、こう言えば恐ろしさのあまり必ず泣きやんだというものである。これが「泣く子も黙る」の語源となった。彼の最後は病気によるものであったが、病床についたままであっても孫権を震え上がらせたという。

 演義よりも正史のほうが彼の戦いぶりを強烈に描いているという珍しい存在である。仕えた主君がいずれも苛烈な人物であることも、彼の伝説を肥大させる一因であるだろう。

 聖杯戦争において、サーシャスフィールを愛するようになる。可憐な女性でありながら、男性よりも強い鋼の心を持つその姿に惹かれた。

 

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【クラス】キャスター

【マスター】間桐臓硯(間桐慎二)

【真名】ゲオルク・ファウスト

【性別】男性

【属性】混沌・悪

【筋力】 E  【魔力】 A

【耐久】 D  【幸運】 B

【敏捷】 E  【宝具】 A+

 

【クラス別能力】

・陣地作成:B

魔術師として有利な陣地を作り上げる。工房の作成が可能。

 

・道具作成:A

魔力を帯びた道具を作成できる。いずれは不死を可能にする薬を作ることもできる。

 

【保有スキル】

・精神汚染:C

精神がやや錯乱しているため、他の精神干渉系魔術を低確率でシャットアウトできる。

このレベルであれば意思疎通に問題は無い。

 

・知識探求:B+

未知に対する欲求。未知のものに出会っても短時間で混乱から立ち直り、それを理解する。

また、自分が扱う魔術体系の魔術であれば、低確率でそれを習得できる。

 

【宝具】

留まれ、お前は美しい(グレートヒェン):A+

対界宝具・レンジ1~999

キャスターとその宝具を対象にする宝具や魔術を無効化する。特に宝具に対する耐性が高い。魔術に対する耐性も低くはないが、完全に無効化するのは難しい。また、真名開放して使用するタイプの宝具に対してはキャスターも真名解放する必要がある。常時開放型の場合は、こちらも解放する必要がない。

欠点として、キャスターとその宝具を対象にしないものについては全く効果を発揮できないことが挙げられる。つまり、マスターをこの宝具によって守ることはできない。また、これの発動にも魔力を消費しているため低級の魔術に対しては使用することは有効ではない。

 

腐臭を愛する大公(メフィストフェレス):B+

対軍宝具・レンジ1~50

死者の肉体を蘇生させ、そこに人口の魂を封印することで擬似的なホムンクルスを生み出す。復活した死者をキャスターはメフィティス(悪臭の意)と呼称していた。メフィティスは思考というものがほぼ完全に失われており、キャスターの命令に従うだけの人形と言っても過言ではない。

不完全ながら命のエリクシルの理論を応用しているため、封印された魂が現存する限り不死性を有する。肉体が破壊されようとも即座にそれを修復する。

しかしその魂が剥がされた場合にはただの死体に戻ってしまう。

 

【備考】

 ゲーテによる「ファウスト」の元となった人物。錬金術のみならず、死霊術にも精通している。彼は自己の尽きぬ知識欲のために、悪魔メフィストフェレスと契約した。その代価として、メフィストフェレスは賭けをもちかける。メフィストフェレスはこの世全ての知識を与え、ファウストが満たされたと感じた瞬間、「留まれ、お前は美しい」と言う。もしそれを口にしたとき、ファウストは死に、メフィストフェレスに魂をやらなければならない、というもの。

 ファウストはその力により若返り、グレートヒェンという女性に一目ぼれをするが、彼がワルプルギスの夜から帰ってくると、彼女は赤子殺しの罪に問われ処刑されていた。そこから彼は狂いだす。死霊術に手を染め、グレートヒェンを復活させるために魔術に没頭するようになる。錬金術において命を構成する物質される、命のエリクシルを追い求め、それにより彼女を復活させようとした。だが、悪魔の知識を以てしてもそれは叶わない。

 というのも、悪魔は知識を得るための手段は与えるが、知識そのものを即物的に与えることはなかった為である。

 ある日、研究と人生に疲れたファウストは、屋外から聞こえる鍬や鋤の音を聞く。その音から、かつて彼女とすごした平穏の日々を思いだし、つい契約完了の言葉を口にする。しかし、最終的にその魂はグレートヒェンの祈りによって救われた。

 聖杯にかける望みは、もちろんグレートヒェンの復活である。例え、その目的のために何人が犠牲になったとしても、もはや彼には他人の命など目に映ってはいない。

 非常に分かりやすい悪の姿とも言えるが、彼はただ最愛の人と再開したいと望んだだけである。手段はともかく、その思いは純粋なものである。純粋さゆえに狂ったとも言え、解釈によっては哀れな人物である。手段を選び、多少の理性を残していればセイバーや士朗たちと和解する余地もあったかも知れない。

 

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クラス】バーサーカー

【マスター】遠坂凛and冬木市(マスター不在時)

【真名】モードレッド

【性別】男

【属性】混沌・狂

【筋力】 B   【魔力】 A

【耐久】 B  【幸運】 B

【敏捷】 C  【宝具】 B+

 

【クラス別能力】

狂化:C

幸運と魔力を除くステータスをアップさせるが、言語能力を失い、複雑な思考ができなくなる。

 

【保有スキル】

簒奪:A

マスターより魔力を強奪する能力。マスターが魔力供給をカットしようとした際に、それを阻害することが可能。Aランクだと、もはやマスターは自身の魔力さえも自由にできない。ただ、魔力供給カットの阻害であるために、魔力供給が行われていない状態からの簒奪は行えない。

スキル発動の判定はサーヴァントの意思に準拠する。

狂化の影響でうまく扱えていないが、強い怨念をぶつけるべき相手を前にしたときには、無意識のうちにこのスキルによってマスターから魔力を奪うだろう。

 

扇動:B+

話術によって他者を味方につける能力。狂化によって失われている。

国政・知略において有利な補正が与えられる。また、大義名分を掲げれば一国をも覆す兵を手にすることが出来るだろう。

また、挑発によって敵の理性を損なわせることも可能である。逆に、敵を懐柔し味方につけることも不可能ではないが、成功率は低い。

 

【宝具】

我が母の命により(オーダー・オブ・モルガン):ランクC

(対人宝具・レンジ1~20)

決してその兜を脱いではならない、という母モルガンの命令。彼にとって母の命令は絶対であった。

背丈ならず、声、顔までアーサー王と同一の彼がキャメロットに、ひいては円卓の騎士となるには顔を兜で隠すほか無かった。長きに渡って顔と出生を偽り続けた伝承から生まれた宝具。

全身を黒い濃霧で覆い隠し、そのステータスの一切を隠蔽する。当然マスターもそのステータスを知ることが出来ない。またこの宝具の発動中は、彼の真名に至るあらゆる事象に妨害が発生する。具体的には、彼と縁のあるサーヴァンとが現れたとしても、その正体を感づかずに行動することが可能。一種の認識阻害の呪いとも言える。

 

王位を約束した剣(クラレント):ランクB+

(対人宝具・レンジ1)

これを持つものが王位を得ると言われる剣。所有者は自身が存在するエリアそのものを味方として与えられ、地形効果による補正の恩恵を最大限に受けられる。マスターが不在でも国、あるいは土地をマスターとして据えることで魔力供給を可能とする。

この効果は『我が母の命により(オーダー・オブ・モルガン)』の効果と重複できない。王は万民の前で雄姿を晒さねばならない。自らの姿を隠したまま王になることは不可能である。それを可能とするのは、ギリシア神話におけるロバ耳の王、ミダースのみである。

 

命を賭して革命を(フォー・レヴォリューション):ランクB+

(対人宝具・レンジ1)

格上の相手を必ず討ち滅ぼすという信念。不屈なる下剋上の意思。

相手サーヴァントのステータスのいずれかがこちらを上回っていた場合に自動的に発動。いかなる場合にもこちらのステータスが低下することは無く、余剰に魔力を消費することでそれに応じたステータス補正を得られる。補正を受けられるのは相手に劣る項目のみであり、相手と同じランクにまで引き上げるのが限界である。また、引き上げた分に応じたダメージ判定が毎ターン発生する。仮に全ステータスを2ランクアップさせたとすると、10ターンほどの行動が限界であろう。

ステータス低下阻止の効果は魔術・宝具の効果だけでなく、負傷による戦力低下にも影響する。死の瞬間まで戦意を失うこともなく、無傷の状態と変わらない戦闘能力を発揮できる。また、精神に介入する類の魔術・宝具もCランクを下回る場合には無効化される。

この宝具最大の弱点として、自らより劣る敵に対しては全くの無力であることが挙げられる。その際には、ステータス低下防止の能力すら失われ、負傷や魔術・宝具の効果によるステータス低下が発生しうる。

 

【備考】

アーサー王から作られたホムンクルス。アーサー王のコピーであり、モルガンによって作られた。

円卓とその椅子にはマーリンによって魔術が施されており、「前にその席に座っていた者よりも劣る者、また王に忠誠を誓わない者」が着席したとき、椅子が暴れてその者を振い落すと言われている。円卓に着席できた彼が、なぜアーサー王に謀反を起こしたのかは諸説あるが、円卓の騎士として戦ううちに心変わりしたというのが通説であるようだ。

 彼は自らの出自を知り、深く悲しんだ。人ならざる身として生きることに苦痛を覚え、アーサー王に自らの子として認め、次期の王として認めて欲しいと懇願する。しかし、アーサー王はこれを退ける。モードレッドはこれに悲しみ、「人の心を持ち合わせない」アーサー王を深く憎むようになる。それが、かの「カムランの戦い」を引き起こした。カムランの丘で戦ったモードレッドとアーサーは相打ちとなる。モードレッドは斬り伏せられ、アーサーは瀕死の重傷を負い、その後死亡する。

 彼はこれらの経緯から、王や騎士は「自らの傲慢で人々を惑わせる悪」と考えるようになり、これらを深く憎んだ。此度の聖杯戦争においてはバーサーカーとして召喚されたが、対峙した者が王や騎士の類であると見ると見境なく襲いかかる。おそらく、凶化してなくとも同様の行動を取ったであろう。

 凛に召喚されたのは、かつてアーサー王と契約した経験があるため。アーサー王と契約した時点で彼とも縁が生じることとなり、モードレッドは「王の後を継ぐ」という出自の影響で優先的に召喚される。むろん、聖遺物の類があればそれが優先される。

 また、クラレントの影響でマスターが不在でも行動できるという稀有な存在でもある。クラレントは王位簒奪の象徴として扱われることが多いが、それはクラレントを手にしたモードレッドの行動であり、剣そのものの効果ではない。理性あるサーヴァントならば特に問題は起こらなかっただろうが、バーサーカーであれば一般人を殺戮する危険すらあった。しかし、生前のモードレッドは騎士道に溢れた者であり、元より一般人を殺戮する考えが無かったため、それは杞憂に終わる。結果として、凛たちと敵対するに留まった。他のバーサーカーならば危険であっただろう。

余談だが、本作を作った後に発表された作品で、本来は女性であることが明らかになった。本作で召喚されたのは、男性としての側面であるという後付けをここに記しておく。言い訳乙。

 

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【クラス】アサシン

【マスター】景山悠司

【真名】エミヤ キリツグ

【性別】男性

【属性】中立・中庸

【筋力】 C   【魔力】 C

【耐久】 D  【幸運】 D

【敏捷】 E(A) 【宝具】 C+

 

【クラス別能力】

気配遮断:C(A)

サーヴァントとしての気配を絶つ。暗殺を繰り返すことで身に付いた呼吸法。

宝具の恩恵でランクを底上げすることが可能だが、アサシンのサーヴァントとして優秀とは言いがたい。

 

【保有スキル】

無我:C

私欲を断ち切る。致命傷かそれに順ずる負傷でない限り、戦意を喪失することはない。

また、精神に対する干渉への抵抗力にボーナスが付加される。

 

【宝具】

固有時制御(タイム・オルタ):C

(対人宝具・レンジ1)

固有結界を自己の中でのみ展開させる。それによって自身の固有時間への干渉を行い、時間の加速及び減速を可能にする。

加速時には敏捷へ、減速時には気配遮断への大きなボーナスが付加される。

だが宝具展開後に僅かながらも自身へのダメージ判定がある。これは歪ませた固有時間が普遍時間とのズレを修正しようとすることに起因する。実際の肉体は無いものの、加減速ともに三倍速までが限界である。しかし三倍となると反動が大きく、頻繁な使用は避けねばならない。

界王拳は2倍までにおさえておけ、いいな。と界王さまが仰っています。

 

【備考】

第四次聖杯戦争にて、聖杯の中身より「絶対に赦さない」と呪いを受けた人物。死後は聖杯に囚われ、この世界の血の歴史を見せ続けられた。「お前の願いは成就しない」という聖杯からの強烈な意趣返しの犠牲である。

正規の英霊ではないが、存在としは英霊に近いため、聖杯戦争にも呼ばれる可能性はある。此度はアサシンとして呼ばれた。本来、アサシンはハサンの血族しか召喚されないが、正規の英霊ではないためアサシンの枠に落ち着くことになる。

英霊としての力は乏しく、近代兵器と智謀策略によって闘い抜くしか道はない。単純な戦闘能力のみに限れば、サーシャスフィールの方が明らかに上である。

彼は聖杯に「この世の平和」を求めていた。平和を求めるあまり、現実との軋轢により正義を半ば捨てた人物。平和のためならば、あらゆる犠牲を許容し、その罪は自らが背負うという正義を持つ。ある意味では事後犠牲の塊である。

この願いは第四次聖杯戦争が終了した時点で捨てられることとなるが、聖杯としては彼がまだ正義と平和を求めていなければ復讐が出来ないため、第四次聖杯戦争から以降の記憶を抹消した。しかし此度の聖杯戦争における最終局面にて、記憶を取り戻し、士郎に自らの命を絶たせる。

また、記憶は完全に無くなったわけではなく、ほんの僅かに残っていた。しかしそれは自覚できるほど確かなものではないため、結果として士郎とも闘うこととなる。だが最終局面まで手を出さなかったのは、その僅かな記憶が「手を出してはいけない」という直感じみたものとして彼の行動を抑えていたためである。

戦闘能力も低く、無比の宝具を持たないにも関わらず、信念と智謀策略によって聖杯戦争の(一応の)勝者となった。

 

 

◆◇登場武器編◇◆

(サーヴァントが持つ宝具は除く)

 

害なす焔の杖(レーヴァテイン)

北欧神話に登場する魔剣。士郎のそれは伝承等から作り出した完全な贋作である。本来、レーヴァテインは「害なす魔の杖」という意味だが、偽者という意味を込めて士郎はこう呼ぶ。

伝承から作り出した剣であるため士郎のイメージが弱く、本物よりも数段劣る。

本物は「レーギャルン」という箱の中に封印されており、シンマラとその番犬によって守られている。

もしも本物が世にでていたら、抑止の守護者であっても世界の崩壊を止められないだろう。何故なら世界を滅ぼすことを約束した剣であるからである。

 

・無銘:青龍偃月刀

ライダーが持つ青龍刀。実は彼の持っていたとされる特定の武器は存在しない。

後にあらゆる者が彼の英雄譚を記述し、彼に様々な武器を与えるが、その武器の名は一定しない。どうやらよほどの鈍らでない限りはどんな武器でも扱えたようだ。

この青龍刀にも銘はあったのだろうが、歴史に残されていないという関係上銘が失われている。

青龍偃月刀は装飾が複雑であるため量産が困難であり、またその重量から扱える人物も限られる。重量は軽く見積もっても十数キロは下らない。そもそも武器として扱われていたのかも定かではなく、儀礼や演舞用の刀剣であったのではないかとの説もある。

 

・ハルバード

サーシャスフィールの持つ武器。槍と斧を合わせたような形状をしている。用途は、突く、叩く、引っ掛けると様々だが、それゆえにそれの習得にはかなりの修練を必要とする。これが活躍した時代であっても、主に装飾や儀礼としての役割が大きかったようだ。

実戦では馬上の相手を引きずり下ろすことに効果を発揮したようだ。鉤爪(フルーケ)で相手を馬上から引き倒すという用途において猛威を振るったらしい。

イリヤの付き人、リズの持っていたものはとても馬上での戦闘に耐えないため、それとは別物である。ある程度の軽量化がなされ、造形も単純なものになっている。だが、それでもアインツベルンの錬金術の粋を集めた一品であるのは間違いない。

 

大通連(ダイツウレン)小通連(ショウツウレン)

 鈴鹿御前という鬼の姫が持つ刀。またの名を立烏帽子。この鬼は天竺第四天魔王の娘といわれており、「年の頃は十六、七。天女の如き美しさ。揚柳の細身に十二単、濃い紅の袴姿」といわれており、相当の美人であったようだ。

 当時の征夷大将軍に恋をしていて、その征夷大将軍である田村草子という人物の依頼で立烏帽子は大嶽丸という鬼を討つ。この二振りはその大嶽丸を最初に討つ際に奪い取ったもの。鬼を前にして鞘から剣が解き放たれ、宙を舞ってこれを斬ったといわれる。

 「人外切り」という属性をもち、「浮遊・飛翔」の特殊効果を持つ。しかしそれゆえに人に対しては効果を発揮できない。人外に対しては命中率と攻撃力にプラス補正がかかる。これは神性を持つものに対しても有効である。

 

負けずの魔剣(クラウ・ソラス)

ケルト神話の神、ヌァダの持つ魔剣。鞘から放てば光と火炎を放ち、必ず敵を仕留めるという。

興味深いのは、必勝の剣ではなく「不敗の剣」であると記されていることである。それはつまり、相打ちは防げないということであろうか。

ちなみに、「負けず」の「まけん」であるからといって駄洒落ではない。断じて違う。

 

戦いの火炎(グンロギ)

北欧、ゲルマンの伝承で、「ギースリのサガ」にでてくる剣。担い手はスケッギという男であった。「グンロギの剣は唸り、サクサの島はどよめく」と吟じられており、どうやら相当の力を持つ剣であったようだ。

 

煌く剣(リットゥ)

バビロニアの伝承、マルドゥーク神の炎の剣。この炎の剣リットゥは、智天使ケルビムとともにエデンを守るために置かれた剣の炎(ラハット・ハヘレヴ・ハミトゥハペヘット)の原型のようである。

エデンとは基督教の伝承に登場する、アダムとイヴが追われた失楽園のことである。

 

焼夷手榴弾(サーメート)

作中で登場したものはAN-M14焼夷手榴弾。実際に米軍で使用されているものである。一見するとスプレー缶のようであるがそれが破裂すると辺りに焼夷材(テルミット)と硝酸バリウム、少量の硫黄などの混合物を撒き散らす。それがテルミット反応を起こし、一気に燃焼を起こす。

約二秒間に渡り華氏四千度の熱量を発するが、これは鉄をゆうに溶かす温度である。実際は対人の兵器として用いられることは(殺傷範囲が狭いため)稀で、単純に攻撃目標を燃やしたいときに使う。そもそも、火炎放射器が非人道的であるとされているのに、これを人に使用することは外道としか言いようがない。

 

三鈷剣(サンコケン)

「魔を絶ち、煩悩や迷いを砕き、人を守る」という剣。人を救うために、人から悪を切り離す。三鈷杵というものに剣がついた形状をしている。仏教における不動明王の持つ武器。不動明王は「衆生を救うまでは、ここを動かじ」といって火生三昧(かしょうざんまい)と呼ばれる炎の世界に座し、民衆を教えに導きながらも人間界の煩悩や欲望が仏界に波及しないよう聖なる炎で焼き尽くすと言われる。

ちなみに三鈷杵は『金剛杵』の、いくつかある形状のうちの一つ。本来の金剛杵はその漢名どおり、金剛(ダイヤモンド)でできており、雷を操る。しかし剣を付加し、不動明王が持つことによって属性が変わったようだ。

 

片手半剣(バスタードソード)

その名の通り、片手でも両手でも扱える剣である。

ときおり「バスターソード」という架空の剣(身の丈を越すほどの巨大な剣)と混合されるが、本来は前述の通り片手でも扱えるほどの長さと細さしか持ち得ない。この誤りはBastard(雑種・私生児)とBusterd(破壊者)という似通った言葉によるものだろう。正しくは前者の雑種という意味である。

鋼鉄の製造技術が伝わった14~16世紀のドイツで作られた。雑種の名を冠することにも諸説あるが、「片手剣」と「両手剣」の中間に位置するからだといわれている。

 

・AK47(アブトマット・カラシニコフ)

7.62mm弾を使用する自動小銃。アサルトライフルに分類される。

言わずと知れた、ロシアが産んだ名銃。現在においても中東で流通している。対人において高い殺傷能力を有したことから、主に市街戦で使用されている。構造が大変優れており、改良を施した後継機が多く存在する。また、あらゆる国で製造されていることでも有名であるが、その中には少なからず模造品が含まれている。

切嗣はこの銃をイタリアマフィアから入手した。イタリアマフィアは今もなお中東に市場を持つと言われているが、真贋定かではない。少なくとも、切嗣と取引したマフィアは中東で使用された武器を買い取ることで糊口を凌いでいたようだ。

 

・ドラグノフ狙撃銃

7.62mm弾を使用する自動小銃。スナイパーライフルに分類される。

こちらも知名度の高い狙撃銃。カラシニコフと同様にロシアが産んだ傑作。カラシニコフを参考にして作られているため、カラシニコフと共通のものを使用できる。弾丸の調達が困難であったため、切嗣は弾丸の互換性を考慮してこの銃を選択した。遠距離での精密射撃よりも市街戦での連射性を重視した狙撃銃であることも一因である。かつてのロシア軍は、カラシニコフの射程を補うために分隊につき一丁のドラグノフを支給したと言われる。

また、有効性はともかくとして、一部のドラグノフには着剣機構が備えられたものもあったらしい。これもカラシニコフ用のものと共通である。

西側の狙撃銃と比較して、軽量であり運搬性に優れていることも特徴として挙げられる。

 

・手製閃光手榴弾

マグネシウムリボンに着火装置を付けただけの簡単なもの。マグネシウムは燃焼すると激しい光を放つため、これを切嗣は閃光手榴弾の代わりとして用いていた。本来ならば手榴弾も用意したいところであったが、爆発物までは密輸できなかったため、手製の閃光手榴弾をいくつか作成していた。

日中であっても効果があるが、夜間では特に絶大な威力を発揮する。瞳孔が開いた目にマグネシウムの閃光を浴びせれば、わずかな時間ではあるが敵の視力を完全に奪うことができるだろう。ただし自分の目を焼く可能性もあるため、使いどころは考える必要がある。

 

・指輪

聖パウロの遺骨を混ぜ込んだ銀の指輪。「わたしたちはさまざまな議論を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、そして、あなた方が完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである」という聖句が細かく刻まれている。だが細かすぎて、肉眼で読むことは難しい。シングルアクション程度の魔術では、この指輪に触れた瞬間に霧散する。一種の魔除けのお守り。

冬原はこれを用い、凛を追い詰めた。

 




 もし記載漏れや、追記して欲しい情報等ありましたら感想欄にてご連絡ください。
 追記にて対応したいと思います。

 これでFate/Nextは完全に終了です。
 ありがとうございました!


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[番外編] 主従、死の前に

※これは番外編です。本編のネタバレを含みますので、こちらよりも先に本編をお読みになることをお勧めします。


「王よ、ただいま参上致した次第」

「張遼か、よく来てくれた。入るがよい」

「御意」

 

 一体何を言っているのか、と張遼は扉の前で笑う。自分がどれほど高みに上り詰め、人々に傅かれているのか理解しているのか。

 礼というものをろくに知らぬが、最大限の敬意をもって入室する。入室したのちに扉の前で膝を折って座り、左手の拳を右手で包んで礼をする。

 部屋の主はそれを見て、寝台に腰かけたまま笑った。

 

 張遼はそれ受けて部屋の主の顔を見る。随分と老け込み、毒気が抜けてしまったかのように思える。しかし内から発する強力な気配は未だに顕在。即ちそれ龍の呼吸である。

 

 かつて自分が仕えた呂布に武は及ばぬ。ただし呂布のそれが暴のそれだったに対し、このお方のそれは理と天のそれだ。単純な強さではなく、確たる信念と天佑に裏付けされた武の気配。それは誰にも真似できぬ呼吸であり、故にこのお方は誰よりも強い。

 既に死去した関羽に人徳は遥かに及ばぬ。社会の悪を闇から闇に葬ることを生業とし、それを為政と戦で振るってきた彼の者に比べれば、人心は離れやすく反しやすいだろう。しかしそれに対し、このお方は誰よりも法を重んじた。人心や人徳などという移ろいやすいものを軽々しく信用せず、その代わりに普遍の法によって諸侯をまとめ上げた。それもまた理と天佑に基づく独特の呼吸であった。

 

 人は言う。魔王の如し熾烈であると。非情であると。

 しかしそれは法を尊重するがゆえ。罪を罪として裁き、誰であろうと漏れなくその対象としただけのこと。より多くのものを救済し、今と未来に多くの者を生かそうとした結果、今助からぬ者を切り捨てただけのこと。その折々で最も合理、かつ最も結果に繋がる手段を選択しただけのこと。

 

 それは武人として、武将として、そして政に携わる者として必要な気質を不足なく備えていたがゆえ。

 だがそれゆえに人々はこのお方を恐れ、畏れ、そして高みに押し上げた。

 ついにはこのお方は天子より王の位を授かる。その身分ゆえ、このお方の気質ゆえ、呼ばれれば何があっても応じなければならない。

  なればこそ、夜もすでに深まった頃合いであっても参上したのだ。よく来てくれたという労いはそもそも的外れである。

 

「改めて見ると、なんだ。お前も年を食ったものだ」

「それを言うならば殿もでありましょう」

「おいおい、なんだその畏まった物言いは。まったく似合わん。変に恰好を繕わんでいいから、いつも通りの声を聞かせろ。俺はそれが聞きたいのだ」

「己の肩に乗っておる位の重みくらい、いい加減に自覚すればよかろうに。だが、殿がそう言うのであればそうしよう」

 

 このお方は曹操――曹操孟徳である。天子から魏王の位を授けられ、漢の政をこの手に担うお方だ。しかしそれでいて武人。大乱世に相応しい王であり、指導者だ。しかし自らが天子になろうとはしなかった。

 血を吸った剣を履き、血を纏った鎧を着た天子などおらぬ。曹操は政を行なうために地位を授かったにすぎず、天子たらんとする意志はない。

 それを知るがこそ、多くの者が曹操に付き従った。天を知りて天を畏れず、しかし天を敬いそれを支える。

 だからこそ曹操にとって地位や位など大した意味はないのだ。単に己が行使できる権限の尺度を明確にしているにすぎぬ。ゆえに王の位だろうがなんだろうが、何の重みには感じてはおらぬ。だからこそ曹操は曹操なのである。

 

「もうこれ以上は行かぬぞ」

「そうであろう。この上はもはや天子しかない。天子たる意志がないのであれば、これ以上はなかろう」

「然り。だがそういう意味ではない」

 

 そういうと曹操は窓を開けて空を見た。今宵はよく晴れており、月も星もその輝きを誇らしげに晒している。

 いつだったかこのお方は言っていた。斯様な夜は天が近い。天下を論ずるに相応しい夜であると。天が近いから己の天命が手に取るように分かり、それ故に天下が動く時なのであると。

 そうだ。呂布がこの方に倒され、主君であった呂布の死に殉じようとしたとき。このお方が俺を用いると言い出したときもこんな夜であった筈だ。冷静の中に激情を隠し、激情の中に理念を孕ませたこのお方の武にもっと触れていたい。己の武だけでなく、他者のそれを巧みに操り上り詰める武。個ではなく群の武。あるいは軍の武。己には、呂布にはなかった武だ。

 ならば張遼はそれを知らねばならぬ。武の頂点を目指すものとして、個の武だけでなく群の武を知らねばならぬ。そう思い、死の覚悟を反故にしてこのお方に仕えることにした。畏れ多くも言葉にするならば、このお方の天命に俺の天命が動かされた夜だった。なるほど、確かに天下が動くのはこのような日であるのだろう。

 ――であるならば、今宵はどのような天下が動くというのだろうか。

 

「張遼よ。俺が信を置く将や軍師、そして臣には既に話をした。今宵はお前の番である」

「おや、畏まっているのは一体どちらかな。殿ならば、何の前触れもなく重大な決定を投げてよこすものとばかり」

「俺もそうしようかと思ったが、どうもそういかんらしい。口うるさい軍師やらが後生ですからと泣きつきやがってな。己のことすら自由に決定できぬとは、身分や位というのも度を過ぎれば面倒ばかりが増えるものだ」

 

 曹操は一度大きく息をし、両手の平で腿を打った。

 今宵は何かが違う。曹操という人物が何か己の決定について下知を行なうとき、決してこのように神妙に行うものではなかった。まるで天を切り裂くように、目を見開くようなことを言ってのけるのが常である。

 だから今宵は何かが違う。曹操に何か変化が起きている。――それも致し方ない事なのか、このような天下が動くに相応しい夜ならば。

 

「張遼」

「何だ」

「俺はもうすぐ死ぬぞ」

 

 思った以上に衝撃はなかった。いずれ来る、遠くない未来にそれは起こると覚悟していたからだろうか。ただ一点のみ驚いたのは、まさか自分の死すらこうもあっけらかんと言い放ってしまうこの人にである。

 しかしそれでこそこの人らしい。今わの際が近いからといって覇気を無くしてしまっては、それはもはや曹操ではないだろう。

 

「人はいずれ死ぬ。それも定めであろうな」

「なんだ、お前も死ぬのか?」

「当たり前だろう。不死などこの世にある筈もない」

「泣く子も黙る張遼がいずれ死ぬと言われても、どうにも信じられぬな。関羽のように祀ってやるべきか」

「俺は関羽のような徳はない。ただ武を追い求め、お前の剣となりて駆け抜けただけだ。ただの剣が折れたからと言ってそれを祀るような者はいまい」

「道理であるな。……だが残念である。お前はまだ生きるが、俺は本当に先がない」

 

 とてもそうは見えないが、この人がそう言うのであれば事実なのだろう。老いで耄碌した爺様が言うならばまだ元気であろうがと笑い飛ばせるが、この人が言えばそれは即ち事実だ。

 

「老いたとはいえ、未だに健常に見えるがな」

「見た目の上ではそうかも知れん。だが内より気が漏れ出てしまい、もうそれを止める力もない。人から見れば俺から気が出ていることには変わりなかろうが、それが放たれているのか漏れているのかは大きな違いだ」

「なるほど、言われれば確かに相手を威圧するような気ではない。ついに自身から龍が抜け出てしまったか」

「然り。俺が天命を全うするより先に、俺の天運が尽きてしまったよ」

「それで、俺を呼んだのは介錯が必要だからか? お望みとあらば、痛を感じる暇もなくその首を落としてみせるが」

「それは魅力的な申し出だ。苦しみの中死ぬより、武人らしい死を頂戴するほうが曹操らしい。だが、そうではない」

 

 そういうと曹操はどこか遠い目をする。彼方に居る敵のことを思い描いているのやら、それとも己が亡き後の世を思っているのやら。

 張遼には何とも判断できなかったが、そもそも曹操が思っていることを推測できた事など数えるほどしかない。それが死に直面した者の思考とあっては猶更である。

 

「張遼、お前は俺よりも生きるだろう」

「さて、明日にでも討ち死にするやもしれぬ身。何とも言えんな」

「いや、お前は生きるよ。お前が誰かに敗れるものか。ゆえにお前は俺より生きる。よってお前に頼みがあるのだ」

「ほう、これは珍しいこともあったものだ」

「かもしれぬ。命令ではなく頼み事をしたのは久方ぶりな気もする。で、頼みの前に一つ問を出したい」

 

 曹操はそこで言葉を区切った。言葉を選んでいるようでいて、単に焦らしているだけのようにも思える。

 ややって再び口を開いたとき、それは考えもしなかった言葉であった。

 

「人は死したらどうなると思うね?」

「……よもや死後の世界が怖いのか?」

「まさか。そうならばもう少し徳を積んだ」

「だろうな。さて、その問いに答えるのは本当に難しい。何せそんな事は初めて考える。しかしあえて言うのならば、どこかこの世ならざる場所で転生を待つのではないか」

「その心は?」

「例えば人の心や魂が消えてなくなるのかと言えば、それは可笑しな話だ。もし消えてなくなるのであれば、俺の心はどこより生じたというのだ。しかし地獄や天上の世界があるかは知らぬ。何せそこに行って帰ってきたと言うものがおらん。地獄が凄惨な場所で、天上が極楽であるならば、一人くらいあの世の事を覚えていても良いものだ。ゆえに人は死すれば、揺蕩う湖のような場所で一時の眠りの後に全てを忘れ去り、忘れた後に魂が新たな生に引き継がれるのではないか」

 

 曹操はその言葉を愛おしむように頷く。張遼の言葉を口の中で繰り返し、反芻し、吟味する。ひとしきりそれらが終わった後に顔に浮かんだのは笑顔であった。

 

「ならば確たる意志があれば、あの世のことを覚えたまま再び生を受けることも不可能ではないということか」

「あるいはそうだろう。誰もそれを成し得たものはおらぬが」

「ならば俺が最初にそれを成す。俺は死んだ後も曹操でいたいのだ。生まれ変わったとしても曹操でありたい。それが可能だというならば、もはや死後など憂うに値せず」

 

 あの世でも政を行なうつもりか、と張遼は笑った。曹操はそれを否定せず、ただ薄く笑うだけであった。それが肯定を意味する反応であることは、長年にわたる付き合いの中で自ずと知れた。

 張遼はその言葉に心打たれた。死してもなお曹操で居たい。言うは容易いが、果たして本心からこう言える人間がどれほどいるだろうか。

 誰しも己の中に至らぬ点があることを知っている。願わくば、生まれ変わった後はより理想に近い人間になりたいと思う。しかしこのお方にはそれがない。自身の優れた点も至らぬ点も含めて、それら全てが己であると認め、それを愛している。

 

 他の者が言えば自惚れであると一笑に付されるであろう言葉も、何故かこのお方が言うとそうは思えぬ。だからこその曹操であり、その曹操と共に歩めたからこそ張遼もまた張遼たらんとしているのだ。

 

「俺も、死してなお張遼でありたいものだ」

「そうであれ。それが俺の頼みごとだ」

「……俺が理解するにはまだ言葉が足りぬ」

「張遼。お前も決して先が長いとは言えぬ。故に! もしも死したら、あの世で会おう。曹操と張遼としてだ!

 そして願わくば、転生した後も俺に従え。俺はまだやり残したことが山のようにある。故にお前は俺が亡き後の世をしっかりと記憶し、あの世で俺に伝えよ。そうしたらあの世で軍議を行ない、しかる後に期がきたらば転生するのだ。さすれば、また俺とお前でこの世の武を極めることができる。この荒れた世を治めることができるぞ!」

 

 老人の戯言と言えばそうなのだろう。だがどうしてもそうは思えなかった。

 どこまでも本気だ。本気でそれを成すつもりなのだ。

 

「どういう訳かな、これが出来ぬ筈がないと俺の中に微かに残った龍が囁くのだ。これを成したならば、再び我が内に戻ってくれようと龍が語りかけるのだ!」

「ならばこの張遼、死してもなお殿のために武を捨てるわけにはいかぬな。俺は殿にどこまでもついていき、この手で天を穿ち、天まで殿を護ってやらねば」

「それでこそ張遼だ。老いたからと言って剣を捨てるには早いぞ。我が覇道は死してもなお続く。お前の武もまだまだ続くのだ」

 

 死後もなお武を追い求めることが叶うのであれば、それは張遼にとって最上の喜びだ。それが張遼の生きる道であり、生きる術である。行住坐臥の全てを武に費やし、今の場所にいる。

 しかしそれでもなお、武という険しい山脈の頂には立てていまい。何合目なのかもわからぬ。既に八合目まで上ったのかも知れぬし、まだ中腹にすら立っていないのかもしれない。ただ一つ分かっているのは、これより上が未だ存在しており、ただしそれを上る時間は己には残されていまいという事のみだ。

 

 それがどうか。死後もそれを上ること許されるのであれば。それは至上の喜びに違いない。

 

「殿。しからば死後も忠誠をここに誓おう。張遼は死後もなお二君を抱くことなく、殿ひとりに従う」

「ふむ。それは嬉しく思うが、それに拘る必要はない」

「どういう事かな?」

 

 曹操はやや考える。回答を吟味しているようであり、張遼にも理解できるように噛み砕いているようでもある。

 しかしあらかじめ回答そのものは定まっていたのだろう。思慮に費やす時間はさほど長くはなかった。

 

「張遼、お前は武の道を進んでこそ美しい。しかし俺はもう死ぬぞ。俺しか主として認めないと言うのであれば、我が子である曹丕にも従わんという事だろう。もっと言えば、俺より優れた主がいても仕えぬという事だ。それでは誰がお前を用いてやるというのだ? 戦場に出ねばお前の武は鈍ってしまうのではないか? それはいかん。故に、お前は主たる素質があると見たならば俺に構うことなく忠誠を誓うといい」

「心遣いを嬉しく思うが、俺が誰か主を抱いている時に殿が転生したらどうするのだ。俺は二人の主に仕えるほど器用ではないぞ」

「その者を俺が殺してお前を奪おう」

「……それでこそ殿である。ならば殿が好敵手と認めるような者を主に抱かねばなるまいな」

「楽しみにしておこう。お前が一層の精進を果たせる主君であることを切に願う」

 

 きっと人によっては感涙のあまり言葉にならなかっただろう。このお方に死してもなお会いたいと言われることが、どんなに重みのある言葉か分かるならば胸が熱くなるだろう。

 張遼もまた然り。張遼はそれらを飲み込み、強く頷いた。

 

「殿! 万の宝にも値する言葉を頂戴し、有難き幸せ! 故に! 曹操孟徳に問いを発したい!」

「おお、張遼が俺に問いを投げるとは珍しい。いや、初めてか? まあ良い。それで、この曹操に何を問いたいというのだ」

 

 張遼は張遼として転生したい。殿の真似事であっても、そうありたいと思った心は本物だ。

 しかし、それでもなお一つだけ己を改めてみたいと思うことがある。それを成すには、おそらくこのお方の許しが必要だ。ゆえに張遼は問うた。

 

「俺は剣によって生み出され、鐙の上で育ち、鬣の上で死ぬ! それに適うもの、俺を打ち倒すものを望んでやまぬ!  俺は武の道を歩むに憚らず!

 ――しかれども、いまだ武の全貌はこの目に写ることがない。その山が険しいことは分かっているが、どこが頂点なのか……いや、そもそも武とは一つの山なのかすらわからぬ。ゆえに曹操孟徳に問う。武とは一つの山なるや否や」

「いくつもの山が連なった山脈である。百人いれば百の武の道があり、それぞれに頂点がある。それらが重なって一つの山に見えるが、実際は幾重にも連なった山々なのだ」

「では武を極めるとは何か」

「己の山を登り切る事にはあらず。山脈を全て己のものとすることである」

 

 期待した通りの言葉だったのだろうか。張遼は満足げに頷いた。

 

「ならば。この張遼、そろそろ隣の山に目を向けても良い頃合いかもしれませぬな」

「むしろ己の山に目が行き過ぎだ。それゆえ人よりも高みにいるが、人の山の形を全く知らぬであろうが」

「然り。ゆえにこの張遼、転生叶ったならば他の山を己のものとしよう。叶うならば、そうだな。殿のようにどこか常人離れした者がいい」

「それはいい。人外であっても面白いな。あの悪鬼羅刹のごとき恐れられている張遼が妖怪や物の怪の類に仕え、人々を震え上がらせる。これはこれで胸躍る」

「確かに面白い。だが俺は、誰かと共に歩む武を選びたい」

「ほう。それはいかなる心境か?」

「一人で歩む武とは、すなわちそれ暴と同じ。――ならば。きっと俺はまだ武にすら至っていない」

 

  ただ一振りの剣は武に非ず。ただ一矢の矢は折れるのみ。

 ゆえに剣を携えた軍こそが武。数多に束ねた矢を砕くこと難い。

 だから初めて他人を見た。自分に付き従う兵卒はいとも簡単に死に逝き、自分が全力の進軍を敢行すれば誰もそれに付いてこれず。

 しかしそれを改めたとしても、自分の悪名高く、それを払拭すること難い。

 ならば。 それを来世で己のものとしよう。

 張遼は張遼のまま、新たな武を会得する旅に出るのだ。

 

「その言葉で全て悟った。お前の武に必要ならば好きにすればいい。さあ、こっちに酒を用意してある。来世で会うまで暫しの別れになろう、餞別として受け取れ」

「頂戴しよう」

 

 見れば確かに部屋の隅に酒が置いてあった。曹操の酌でそれを受け取り、唇を潤す前にその香りを確かめてみる。

 この胸の高鳴りのせいだろうか。今まで飲んだどんな酒よりも芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。口を付ければ、喉の奥まで甘さと香しさが突き抜ける。文句のつけようもなく極上の一献だった。

 

「殿。このような極上の酒を心行くまで楽しみたいとは思うが、この一杯までにしておこう。この続きは殿と再び見えたときに」

「そうするか。来世ではこれ以上の酒に出会えると良いな」

「ならば、俺が先に生まれ落ちたならば十分に味見と吟味をしておこう。その上で届けに参上するとするか」

「おう、張遼の酒を飲む日を楽しみにしているぞ」

 

 張遼は入室した時と同じように抱拳礼で退室した。その背中を見送りながら、曹操は一人つぶやく。

 それは己に語るようでいて、どこか誰かに言い聞かせているようでもあった。

 

「己の人生はこれ一個。ゆえにこの死を以て曹操の生は完結する。

 しかし俺がやり残したこと、まだやるべきだった事は数知れず。然らば我が天命はまだ潰えてはおらぬ。そうだろう? ゆえに来世で生まれ落ち、曹操は曹操のまま、それでいてまっさらな己になって再び新たな一歩を踏み出すのだ」

 

 そうだろう、天よ。俺の天命がまだ終わらぬのだから、多少は良きに計らってくれ。

 誰に言うでもなくそう呟いた。

 

「しかし張遼め、まるで俺のほうが遅く生まれるような口ぶりだったな。……ああ、俺が先に生まれたら、また俺の死に目を見なくちゃいけないからか? 何人も切り殺してきたというのに、まったくおかしな奴だ」

 

 しかし、それはそれで良い。何せあいつが酒を吟味して待っていてくれている。

 水のように酒を飲む張遼の事だから、これも美味いあれも美味いとあらゆる酒を山のように用意してあるのだろうな。

 

 そうしたらあいつは言うのだろう。俺に酒を届けに参上して、門を叩き壊す勢いで鳴らしながら、嬉しそうな顔をして。

 

 ――遼来々! この張遼が来たぞ!




 皆様お久しぶりです。一年とちょっとの期間を経て、完結したNextに番外編を投下することと相成りました。
 完結となった以上、それ以上続けるよりも断ち切るべきだと考えていたのですが、こういうのも悪くないかなと。

 また番外編を思いついたら書くかも知れませんが、その時はまた見てやってくれればと思います。


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