E 's Il Nome Della (ピュゼロ)
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序章

                                             .
BGM “Give your faith!” by GET IN THE RING
――近頃は神様も大変なのですね。


 何事も過ぎれば身を滅ぼすといい、例えばそれは、日曜日の夕暮れを見てふと憂鬱に囚われるような感覚を、同じ日の朝、起床した時にふと覚え、さらには土曜日金曜日とずるずる連なって感じるものではないか。

 生きている意義を見失う事。

 怠惰という名の身を滅ぼす病。

 ――えええええという驚嘆の声がみすぼらしい荒ら屋(あばらや)に響いた。

 薄い座布団に腰掛けて、雑誌を片手に持った秋穣子(あきみのりこ)は、キンキンと甲高い声でお姉ちゃんお姉ちゃんと叫んだ。興奮し、左足をばたつかせて騒いでいるのだが、季節柄がまだ秋でないためか、いつもは夕焼けのように真っ赤な瞳がちょっと虚ろな色を帯びていた。本当は畑に行って作物を育てなければならない時分なのだが、このところ梅雨のような雨が何日も続いていて、出るに出れないでいた。あるいはそれが良くなかったのかもしれない。

「お姉ちゃん、ほら、みてみて、ねえお姉ちゃん、ほら、これ、これ、これよ、お姉ちゃん、お姉ちゃんってば」

「わかった、わかった、わかったから、穣子ちゃん、うるさくしないで、やめて、響くの、やめて、やめて、穣子ちゃん、やめて」

 よくある卓袱台の端っこにそれぞれ腰を下ろしていて、そんな遠くもないのに妹のよく通る声で何度も何度も呼びかけられて、静葉(しずは)は締め付けられたかのような頭痛を感じていた。秋以外のシーズンには基本的に気を病んでいて、特に静葉は妹よりも自分達の信仰に切迫したものを感じていたから、まるで神経がささくれだつような心持を抱えていた。

 紙に書き付けていた筆を止めて、手でこめかみを押さえる。やめて、やめて、と苛立ちの混じった口調で繰り返した。

「うるさくしないでちょうだい穣子ちゃん、お姉ちゃん気分がよくないの、頭が痛いのよやめて、穣子ちゃん」

「でもほらお姉ちゃん、一部から七部まで出るゲームだよ、お姉ちゃん、お姉ちゃん、わたし承太郎使うからね、お姉ちゃんは知らないけどわたしは承太郎を使うから、承太郎はわたしが使うんだから」

「ねえ、本当に、やめてちょうだいねえ、やめてやめて、やめて、やめて」

「わた、わたし承太郎だから、お姉ちゃん、いっつも勝手に使うんだから、わたしは承太郎を使うの、承太郎使うのはわたしでお姉ちゃんは違うんだから、わたしは承太郎よ、お姉ちゃんじゃなくてわたしが承太郎使うの」

 締め切り直前の週刊誌に連載している漫画家か何かのような調子であるが、一年のシーズンの四分の三は大体こんな光景が見られた。静葉も常々これはいけないと思っているのだが、近頃は頭痛を感じない時の方が珍しくて、今も視界の端が白く霞みズキズキとした痛みが頭の中でのたくっていた。これで子供ないし眷族でもいたなら怒鳴り散らしていたのかもしれないが、幻想郷において彼女達の地位はそれほど高くなかったから、やっぱりこの諍いは二人の間だけで完結するより他なかった。それが果たして良い事なのか否かは断言する事ができない。

 ただ、多分あんまり褒められた事じゃあないだろうな、というのは、おこりでも罹ったように震える穣子や憎々しげに顔をしかめる静葉を見れば容易に想像がついた。神にも気の余裕というやつは必要なのだと考えさせられる光景だった。

 その時雨音に混じって小屋の戸ががらりと開き、どこも濡れた様子のない、メイという妖怪が現われた。手ぶらで、履いた下駄さえからりと乾いている。そいつは大体ろくでもない話をもってくるか、ろくでもない事態を持ってくるのが常だった。神というよりも、人に頼られる妖怪ってところが身の丈にあってるんじゃないですかね、などと言われた屈辱は静葉の脳裏に焼きついていた。

 ちはー、三河屋です、などという食欲妖怪に、静葉が何を思ったか訳のわからぬ言葉を叫びながら持っていた筆を突き刺した。ずぶり、と濡れた感触が筆越しに伝わる。そいつは一度己の腹を見て、なんじゃこりゃあ……と呟き、半眼で、怪訝そうな表情のまま、ゆっくりと……仰向けに倒れこんだ。

「栄光は……お前に、ある……ぞ…………オレは……おまえを見、守って……」

 静葉は逆さに筆を突き立てた格好のままただただ立ち竦んでいる。メイは唇に血をにじませながら、戻るだけなんだ、元に戻るだけ……ただ元に……と声もなくうわ言のように呻いて、指先が血で“犯人あき――”と描いた。思い出そうとして、思い出せぬまま力尽きたようにも見えた。

 穣子はそれらの騒ぎをまるで意に介さず、死んだ魚のような眼をまん丸く見開いて雑誌を見つめている。山の天狗からではなく外のもので、越境行為であるのだが、どういうわけか境界の賢者にさえ見つからないでいた。理由は定かではない。

 ぺらり。ぺらり。固まっていた静葉はやがてへらへらと笑い出し、右手で唇に触る。指先についた墨が黒い化粧になる。

 穣子は帽子の葡萄もへたっていて、いつもは甘く心安らぐような稔りの香りも、篭りきりでいたためか鼻につくむっとするようなものに変わっていた。ページを捲る指がぷるぷるぷるぷると小刻みに痙攣している。反対に、凝視する瞳はぴくりとも動かない。夏の暑さと湿気にやられ確実に精神が磨り減っていた。

 しとしとと降る弱々しい雨音だけが静かに小屋を包んでいた。

 ぺらりぺらり。へらへら、へら。

 ――この一件は、この少し後に、とある農家の子供が(数少ない穣子を信仰する一家だ)畑の事で言伝にやって来るのだが、穣子と静葉の名前をとっ違えて呼ぶ辺りで絶頂を迎える。その子供は、目を血走らせた二柱と足元の死体によって、しばらく眠れないほどのトラウマを抱えたという事だった。

 

 



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紅墨をたどる その①

                                             .
BGM “緋色のDance” by 岸田教団&The明星ロケッツ
――小生には我慢なりませんね。


一、

 

 紅魔館の華人小娘、色鮮やかに虹色な門番こと紅美鈴(ほんめいりん)は門の前に柔らかく立ち竦んで辺りを眺めながら、子供という生き物はどうしてあんなに虫を捕りたがるのかしらと思った。

 捕って眺めて遊んで、そして。

 ――死なすのだ。

 殺すのではなく、死なせてしまう。子供なのだから、ある意味では当然だといえるかもしれない。一点に向けた集中の気が強すぎる狭い視野は、興味の対象があっちこっちに移ろってしまう危ういものなのだから。

 おもむろに腕を突き出した。ぐっと、力を込めて拳を握る。

 ぺしゃりと潰せば死んでしまう。頭をもいでも死ぬでしょう。どころか、放っておけば、死ぬ。それはそれは容易く死んでしまう。子供はそうやって、大事な事を学ぶのだ。閻魔にだって大した罪には問えぬであろう。なにせ、初めッから何もかもを知っている生き物なんていないし、親に諭されて教えられる事と、実際にやってみるのとではやっぱり勝手が違う。生まれ落ちて、すぐ“己”を意識する人間、なぞ……。

 ――ああ、ああ。

 稗田が、と呟いた。

(あの、よくわからない輩かしら)

 言うまでもなく美鈴は妖怪である。そして、そこまで強い妖怪ではなかった。妖怪は生れ落ちた時既に大体の格というものが決まっていて、年経てもそれは変動しない。だが、彼女は素手での争いならば幻想郷で“中の下”ぐらいの力量はあるとされている。さすがに鬼の連中だとか、大妖怪相手には「ああっ、そんな気軽に言わないでくださいお嬢様無理ですって、ムリムリほら幽香さん怒ってらっしゃるおいレミリアやめろ押すな」となるしかないが、一様それなり(、、、、)ではあるのだ。

 その理由を一概に是と断ずる事はできないのだが、やはり彼女の根幹を成すその一面を取り上げるとするなら、それは武術にある、と見なす事もできる。

 美鈴は主に大陸の武をその身で研鑽してきた変わりものの妖怪だった。そのせいか、一時期カンフーと呼ばれるのが流行った。今でもあれは陰険ないじめであったと美鈴は振り返る。つまりカンフーという言葉には思わず呟きたくなる魔法が掛けられている。

 カンフー(正しくは中国武術に対しての尊称、というような意味)にはある決まった型というものがある。攻撃の型、守勢の型、その他いろいろ。彼女は妖怪である分、人より遥かに強くしなやかであるが、その肉体でもってしても、達人の域に達した人間には柳に吹く風の如くあしらわれる。年月を積み上げられた技というものである。数多の武術家が生命を賭して伝え切り拓いてきた歴史と、そしてそれを行う人間という生き物に、美鈴は深い敬意を持っているのだ。

 幻想郷の、弾幕ごっこと今一噛み合わない技術であるが。

 ――もちろん食事は食事で別の問題である。

 要するに美鈴は(比較的)人間好きであり、命を次代へ手渡す事こそ尊いものと考えている。

 すると、稗田とやらは転生を繰り返すなんだか人間なのかも怪しいヤツ、という事になる。それは死への恐怖から生にしがみついているようにも思えて、どうにも浅ましく見える。

 そして、幻想郷の知識を一所に集めるかのように振舞っておいて、里へ明け渡すものは一代に一度の幻想郷縁起のみ。自分が幾分しょっぱく書かれているのも気に入らない点の一つだった。

 紅い門の前で大きくううん――と伸びをしながら、ぽかぽかとした陽気の中そんな事を思っていた。

 いつかのときの巫女のように気を撒き散らして進んでくる輩なら、さすがに迎え撃ちに出向くが、基本的に普段は門の前で文字通り仁王立ち。なぜかといえばつまるところ形式である。

 幻想郷のヤツらが、例えば紅魔勢と事を構えようとするならば、それはまず正面から、つまり美鈴をぶっ飛ばして進もうとする。これは堂々争うというある意味スペルカードルールに似通った気風がある。「門番も倒せないの? バカなの? 死ぬの?」という事である。そもそも門番より主人達の方が強いという悲しい現実もあった。

 大体彼女の日々はこの門と庭とそれらの周辺で完結していた。傍らにひっそりと作られた番小屋で身を休め、時々現われる妖精を適当に追いやったり、時々迷い込む人間を丁重に追いやったりする事が主な業務と呼べるかもしれなかった。それと、土いじり。

 だがしかし、それらは決して美鈴が無能である事を示唆するのではなかった。彼女は心から幻想郷を愛する妖怪であるし、それを誇っている。自尊は自負であり、心根の真っ直ぐなヤツは総じて強靭だ。つまり何が悪いのかというと、ボス含め幻想郷の上位陣が狂っているだけで、彼女も総じて強い妖怪なのだった。

 とりわけ、あの――

 その時。

 あるはずもない視線を感じて、美鈴は背筋がぞわりと震えた。

 あの、境界の――妖怪が。

 

 

 

 

 

 二、

 

 不用意に踏みつけた枯れ枝が「パキッ」と思ったよりも大きな音を立てて折れ、知らず知らずのうちに息をのんだ。そして、それに続くようにして、

「あ、頭が……痛い」

 顔をしかめて呻いた。

 ドッピオは、森の中から急に開けた場所へ出たために、光に眼が過敏になったんだろうなと思った。

 そもそも、頭痛なんて気にしている場合では、ない。

 顔を上げると、湖の畔にそびえたった、辺りを睥睨する赤い洋館があった。山と緑ばかりの景色の中に悪びれもせずつくねんとあって、酷く浮いている。違和感も甚だしい。

 木の幹に手をついて、ゆっくりと目を細めた。

「あの館を、見張って……う、うう……」

 紅の色に意識の焦点を合わせると、疼痛が深くなる。だが強固な観念があれを見張れと、見計らっていろと、耳元で囁いている。彼にとってそれは何よりも優先されるべき事だった。

「まいったな……頭痛薬……お?」

 そこで何かに気付いたように左右をきょろきょろと見回す。なぜなのか、経緯も理由も定かではないのだが、まるで覚えのない場所に立っている。

 改めてドッピオはポケットに手を突っ込むが、頭痛薬どころか何一つ入っていなかった。何だってこんな森の中に、しかも手ぶらでいるんだろう……としばし振り返る。

 はっと、ドッピオはある恐るべき事態に思い至った。

「ケータイがないぞ……これじゃあ次の“指令”が受け取れない……」

 もちろん、こんな山の中に公衆電話の類も見当たらない。あるのは背後にある鬱蒼とした森と、半ば霧のかかった湖と、そして例の赤い館だけである。

「どっかに落っことしたのかなぁ……でも、あれ? さっきまで――」

 ぼくはどこにいたんだっけ。

 そう思って背後を、辺りを見回すが、それよりもまずは連絡だ、と思い直す。

「電話をどうしよう……ああすいませんボス、ぼくがうっかりしてるから……」

 湖から適度に涼を含んだ風が吹きつけるのか、頭上の陽光と比べると、感じる気温はずっとおだやかだった。周囲の雰囲気も合わせて、妖精(フェアリー)でも遊んでいるような静謐に満ちていた。

 あるいはそんな空気に影響されたのかもしれない。

 確かに彼は不安で注意力が散漫になっていたのだろうが、それでも、誰かが近づいてくれば気付かないはずがない。

「やあ、何かお探しかしら」

 だから――

 そんなセリフと共に「ポン」と肩を叩かれて、ドッピオは心臓がよじれるほどに驚いた。

「う、わッ、あ……」

 咄嗟に出した足が、もつれて――そのまますっころんだ。

「わ……うわああああ!」

 全身に電流でも流されたかのようにビリビリと得体の知れないものが走って、受身も取れないまま顔から地面に落ちた。情けない悲鳴が鼻血と一緒に勢いよく零れた。

「ひ、ひいいぃ! わああああ!!」

「あらら、ごめんなさいね。でもここはもう、お嬢様の領地……に、近いから」

 ドクンドクンと早鐘のようにこめかみがうずき、痺れるような感覚が指の先にまで広がっていた。何をされたのかまるで見当がつかなかった。

 土を踏む音がして、そいつが傍らに立ったのだとわかった。

「悪いけどもうちょっとそのままで頼むわ。いくつか、簡単な質問に答えてもらうだけだから」

「う、あ……な、んだって」

「ううん、拒否されると、私が困るなあ……」

 頭の上で声が――その声音からするにおそらく歳若い女性が、はふうと息をつく気配がした。

「えっと、まず、なんでお屋敷を見ていたのか教えて欲しいわ」

「それは……」

 言えない、とまず思った。あの館についてボスから届く何らかの指令を待たねばならない。そして、その事をこいつに知られるのは、確実に――まずい。

 とはいえ実際、何をすべきかわからずにいたのであり、そういう意味では推定無罪とか冤罪だと思った。

「な、なにも……ただ目立つから――それで」

「あのお屋敷を? お嬢様が住んでいると知っていて?」

「えっ、と……?」

 ドッピオの煮え切らない声に、そいつは「どうも本当に知らないみたいね」といった。

 それも本当だ。ドッピオは真実何も知らないのだから。

「そんな格好で森をうろつけるわけもないし……どうやら、あの八雲紫の仕業みたいねえ」

 外来人は食べてもいいって言い伝えられてたかしら……などと呟きながらそいつは、身動きのとれないドッピオの体をひょいと抱えあげた。まるで米俵か何かのように、今会話をしていたその女性が軽々と彼を持ち上げたのだ。

「うわっ」

「どうせだから君には――貴方には、妹様の遊び相手を努めていただこうかと」

 実に気楽そうな口調でそう告げると、そいつは軽い調子で歩き出してしまう。

(……でも)

 何をされたかはまったくわからないが、それでもこの状態は逆にチャンスではないかとドッピオは思った。ボスは――敬愛すべき我らがボスは、おそらくあの館の情報を求めているに違いない。秘密裏に処理すべき案件の中でもとりわけ群を抜いて重要である事が、ドッピオが出向く仕事の条件だからだ。それに、あれほどの大きさである。中には電話ぐらいあるだろうとも思った。その“遊び相手”とやらの隙を縫ってボスと連絡を取る事も可能なはずだ。

 いずれにしろ今は情報が必要だ。ドッピオは僅かに動くようになってきた指の感覚を確かめながら、自分を運んでいる女性に向かって訊ねた。いったいどういう具合なのかと。――内心で、こっそり舌を出しながらも。

「あの――そのう、遊び相手って」

「そっちも、大丈夫ですよ。死にはしませんから」

 さらりと冗談めいた事をいわれるが、はたしてここは笑うべきところだったのだろうか。生死をかけた遊び――冗談じゃないぞと思った。

「とりあえずいわれた通りにお相手ください。あんまり失礼のないように――ん。そういえば、あんまり抵抗されないんですね」

 歩調と共に一定のリズムで上下に揺さぶられながら、まあ……と適当に相槌を打つに止めた。素直にいえるわけもないし、そもそも動けないんですけどと怒ったように返す。それに彼女は「あはは」と悪びれる様子もなかった。

 近づくにつれその赤い館は徐々に徐々に存在感を増して、ドッピオたちがその門を通り、中へ入ってもなお、じわじわと締め付けてくるようだった。

 勝手知ったる足取りで廊下を進む彼女――(ほん)美鈴(めいりん)というらしい――はどうやら話したがりであるようで、少し言葉を向けるだけでずっとぺらぺら喋り続けていた。油断は出来ないけど、でも順調かな、とドッピオが思うぐらいには。

 行く先が下へ続く階段となった時だ。

 ふと思いついたドッピオは何気なくいった。

「それにしても、よくずっと持っていられますね。というか早く下ろして欲しいんだけど」

「うーん。別に、普通ですよ? いやだって私、妖怪では非力な方ですし」

「――妖怪?」

「妖怪」

 ああそれと――。

 いいかける美鈴が一歩一歩、階段を下りていく。こつ、こつ、と薄暗いその場所に、足音が響く。

「妹様は、吸血鬼です」

「……吸血鬼…………?」

 いつだったか。なぜかその言葉には、覚えがあった。

 吸血鬼。吸血鬼、吸血鬼……は。

 吸血鬼、に、は――

「う……あ」

「――どうしました?」

 ズキンと、頭が痛む。瞬間、視界が真っ赤に染まって、痛みは治まる気配も無くズキズキと膨らむようにズキズキと、ドッピオの中のスキマにズキズキと広がりつつあった。

「あ、あ……『吸血鬼』……や」

 カツン、カツン……。

「ドッピオさん?」

「や、やめて……う、ああ」

「やめるって、何をです」

 苦痛に顔が歪むドッピオの中から、やがて一つの言葉が首をもたげ、みしりとその一つに塗り潰されていく。

 ――『吸血鬼には近づくな』。

「もうお部屋が近いですから、事情なり説明してちょっとだけ休ませてもらいましょう――」

「うあ、あ……頭が」

 頭が――痛い。

 

 



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紅墨をたどる その②

                                             .
BGM “摂理と反照” by SYNC.ART'S
――眠るように生きる。もう、いっそ死んじゃいなさいよ。


 一、

 

 死んだ死体が落ちて、粉々に砕ける音がした。

 割れたわ。

 ――割れたわ、フラン。

 フランドール・スカーレットはそれを大層不快に感じてゆっくりと寝台から体を起こした。自分の部屋の中を見渡すがとりわけ変わったものはない。そもそも彼女は何かが砕ける音を身の毛もよだつぐらいに毛嫌いしていたから、この部屋には死体で出来たものなんてない。あれば真っ先に叩き壊してしまう。

 ぽとぽとと歩いて、テーブルの椅子に腰を下ろした。半分埋もれるようだった。

 そんな一人で瀟洒な感じの椅子に座ったまま、目に映るものはどれもこれも赤く、赤く、どれもこれも赤かった。

 この部屋は一つの区分にカテゴライズされている。血のような真紅は愛する“おねえちゃん”――五つ違いのレミリア・スカーレットの意向だ。本来吸血鬼には必要の無い等身大の姿見も曰く「淑女の嗜み」であり、例えば家具などのちょっとした位置に施されている月の紋様はその姉自らがデザインしたものだ。無論フランドールはその事を知らない。だが、それらがまとめて一つに分けられる事は理解していた。

 彼女が今胸に抱きかかえている可愛らしいテディベアもこの部屋の分類の一つである。ただこれは近頃従者の咲夜がプレゼントしたもので、どういう考えがあったものか、吸血鬼にはあんまり馴染みのない極々一般的に普及している玩具だった。黒い瞳と茶色い毛皮が、赤々しいその場所でどこか浮いていた。

 この部屋に似つかわしくない部分があるという事、それはつまり別の分類である。

 咲夜の世界。

 レミリアの世界。フランドールは小さな世界を地下の奥深いところで囲っていた。

 そのぬいぐるみの、姉のささやかな抵抗は、胸元の赤いサテン生地のリボンにうかがえた。

 そもそもフランはぬいぐるみの遊び方など知らなかった。

 そもそも彼女は“ごっこ”以外の遊びなんて知らなかった。

 それでもフランドールは、優しい少女だった。

 

 

 コツ、コツ、と扉が鳴った。勢いよく振り返ったフランは、思わずはっと息を飲んだ。吸血鬼の鋭敏な感覚をもってしてもその鉄塊より外の事は何もわからなかったし、でなければ幽閉とは呼べないとも思った。

 心当たりは生憎たった二人しかいなかったから、ああ、美鈴か咲夜のどっちかな、と思った。それが多いのか少ないのかも半ば当てずっぽうだ。

 咲夜はおそらく最近で一番顔を合わせるようになったから、始めは咲夜かしらと考えた。しかし、咲夜は毎日針を合わせたようにきっかりと決まった時間にしかここを訪れない。つまり今、扉の外側で立っているのは美鈴という事になる。消去法で導き出せる程度の、薄い交友関係しかフランには心当たりと呼べるものはなかった。

 もちろん、心の隅では、ほんのかすかな期待もある。

 レイムかな。マリサかしら。それとも。

 ――おねえちゃん?

 ちょっとだけ、心が浮き立つ気がした。そしてこの心というやつが厄介なのだと、常々フランは思ってきていた。心があるから我を通したくなる。でなければ、おねえさまのいう事をなんでも聞ける良い子でいられるのに。

 そんな事を思った。

 はあいと返事をしてから、ぴょんと椅子を飛び降りる。レディーとしてはよろしくない行いだ。 でも、しかし。

 ぬいぐるみをぎゅっと抱きすくめて「どうぞ」と扉の外にいる誰かに言った。背中の羽が期待から僅かに上下している。フラン自身はその事に気づいていなかった。それどころではなかったのだ。

 扉に鍵はかかっていない。だからもう、厳密には彼女を閉ざしている障害はないともいえた。けれどフランは吸血鬼であり、わざわざ自分から陽の光の下へおもむく理由は――なかった。

 咲夜にお茶を淹れてもらったり、仕事を手伝ってみたりして。

 美鈴と一緒に夜半の館を守ったり、他愛も無いお喋りに興じてみたり。

 レミリアとただ、顔を合わせたりする事が、フランには途方もなくまぶしく思えたのだった。

 永い永い地下生活程度じゃ、肉体は衰える兆しもないけれど、今さら何かに手を伸ばすのが、堪らなく億劫になっていた。

 怖かったのだ。たくさんの姉の色と少しの他の色とに埋められた部屋の中で、彼女もまたそれを構成する一つだった。

 

 

 

 

 二、

 

 部屋の中は明るい。七曜の相克の、火と日の魔法がたっぷりと使われているからだ。ただ、もちろんフランはその術者を知らなかった。姉の親友であるとは聞いていたから、知識と日陰の少女、パチュリー・ノーレッジという魔女の事を、優しい人なんだろうな、という漠然としたイメージで捉えていた。

 その魔女が直々に手がけたという、シャンデリアに内蔵された白い明かりが厳しい扉になげかけられていた。

 白光が――やがて、割れる。

 ためらうように開いた僅かなスキマが長々とした闇を床に吐いた。

 少年はその黒い世界からそっと現われた。都合四人目に顔を会わせた人間だが、これといって特徴のない、説明に困る雰囲気をもった奴だった。目をつむってしまえば、そのまま余韻も残さず掻き消えてしまいそうとフランが思ったほどだった。物珍しそうに一度室内に目を走らせてから、柔和な笑顔でやあといってきた。

「――初めましてかな、お嬢ちゃん。名前を聞いても?」

「えっと。初めまして、フランドール・スカーレットよ。フランって呼んでちょうだい」

 小さく、これが自己紹介ってやつかしらと思い浮かべる。

 それから――。

 フランは、首をちょっと傾げてそいつの顔を見上げるようにして、問いかけた。そういうあなたのお名前は?

「ドッピオっていいます。ヴィネガー・ドッピオ」

「ドッピオは、ここに何の用事?」

「すみません、不躾で。つまり、その」

 まっすぐにフランを見つめてくる。

「電話を貸して欲しくて」

「でんわ?」

 箱入り娘の彼女には、縁のなかったものだ。無理もない事だが、地下にいて必要も無い道具を知りえる機会なんてそうそうない(きっと美鈴も知らない)。けれど、フランは優しい子だった。その上、短くない生涯でほとんど初めて人に頼みごとをされたのである。自然に何とかしてあげたいと考えていた。

 だから。

 ドッピオがフランの腕に抱かれた物を示していると気づいた時、ちょっとドキドキしながらも「これ?」といって手渡す事ができた。

「ありがとうフラン。携帯か、丁度良かった」

「けい――たい?」

「うん、少し――話したい人が、いてね」

 そういうとドッピオは熊のぬいぐるみを大事そうにもって、顔の横にあてた。

「ごめんね、ちょっと長くなるかもしれない」

「ううん、構わないけど」

 あんまり会話する事がなかったから、思わず、言葉が途切れる。今までのツケがやってきたかのようだった。

 デンワって、私にも使えるの――

 自分にさえ聞こえないような言葉は、分厚い扉によって防がれた。

 話したい人。そうドッピオがいったときに零した表情は、彼女の理解の外にあるものだった。

 話したいのかしら。それとも、怖い……?

 そしてそれは、私も同じ事だと思った。

 姉と最後に話したのはどのくらい前の事だったろうか。

 やっぱり、495年の月日は、吸血鬼の彼女にとっても――永すぎたのだ。

 

 

 ドッピオは戻ってきて開口一番に「ありがとう」といった。

 話したいといっていた、おそらくきっと大事な人と話した後なのに、なんだか落ち込んでいるように見えた。

「大丈夫?」

 ぬいぐるみを受け取って気づいたらそう口走っていたフランに、ドッピオは表情の端っこに悲しんでいるような色をたたえながらも首を横に振ってみせた。

「ごめん、ただ、繋がらなかったんだ」

「つながらない……お話できなかったの?」

「うん。ボスは、すごく忙しい人だから」

 しょうがないというドッピオは、口でいうほど気にしていないわけではないようだった。はあ……とつく大きな溜め息。見ていてもわかるぐらいにその様子が辛そうで、フランの方まで胸が痛くなる。

 裡の冷たい心臓がとくんと鳴った気がした。

「あの……その、ドッピオ?」

「うん」

「元気、だして。ね?」

 こんな時に、私はどうしてあげられるのか。フランが思い出したのは美鈴が優しく頭を撫でてくれたぬくもりだった。けれど、代わりに撫でてあげようとしても彼の方が背が高くて届かないから、しょうがなく肩の辺りをぽんぽんと叩くしかなかった。それでも精一杯気持ちを込めて、がんばって、といった。

 事情はうかがい知れないが、それでもドッピオにはそれだけ心を痛める事があるのだろうと思って。

「……あはは、そこまでいわれるとなんだか照れくさいなあ」

「そうかな――」

「ううん、でもありがとう。おかげで元気がでてきたから」

 にっこりと笑いかけてくる。とってもシンプルな笑顔だった。自分の中に一本の折れない“基準”があって、それをとても大切にしている目をしていた。

 咲夜と似てるわ、と思った。

 そしてそこで、ややあってからどうしてドッピオはここに来たんだろうと思い至った。咲夜か、誰かが案内のために一人はついてきそうなものだ。まさか誰にも会わなかったわけもないだろう。門のところにはいつも美鈴が出づっているはずだし。どうにもこうにも不思議なやつだった。

「さて――もう、行かなくちゃ」

「もう? せっかちなのね」

「うん、ごめん」

 全然、お話してないじゃない。そう文句を言うと、琥珀色の目を伏せて、もう一度ごめんと繰り返した。

「君のお姉さんが起きる前に、行かないと」

「おねえちゃんと、ドッピオは喧嘩してるの?」

「ううん――」

 ドッピオは困ったように頬をかいて言葉を濁した。

「喧嘩は――だめよ? 私は、よく知らないけど……」

「いや、喧嘩してるわけじゃあないんだ」

「ならどうして?」

 そう再び訊ねても弱りきったように笑っているだけだった。少しお喋りだったみたいと反省を胸中で呟いた。やっぱり最後にぼろを出してしまうのは、私の心だ。そう、思った。

 それはやがて日が沈む、少し前の事で――

 

 

 

 



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メイガスナイト その①

                                             .
BGM “ミセリコルディア -Misericordia-” by 桃梨
――争わないで手に入れられるものなんてあるんでしょうかね。


 一、

 

 その日は朝から何かがおかしかった。

 珍しく昼近くになってから目を覚ました魔理沙は、横になっていた薄い布団の上で“おや?”と思った。覚えのない不可解な感じが……なんとなくどこか調子が悪い気がした。

 その、何かが変だなという感覚は多少気になったが、いやいや大した事じゃないだろうとその時には軽く思っていた。

 けれどもすぐに、こりゃ異常だなと思い知った。

 着替えたりして動いている間中ずっと、体が徹夜明けで疲労しているみたいにずっしりと重くて、その上にいつの間にか頭痛まで感じる。

 こめかみに手をあてて、どうしたんだぜ、どうしたんだぜ、とぶつぶつ繰り返した。その奇妙な現象に動揺を隠しきれていなかった。意味もなく家の中をうろうろと歩いて、手助けを望める味方を探したりもした。すんすん鼻を鳴らして、二回ぐらいくしゃみをした。

「どういう……事なん、だ」

 さすがに事態がかなり不気味な方へと推移しだしていると感じた。とりあえずは、家から離れようとした。別に行き先も何も考えていなかったのだが、気弱になった思考は自然に博麗神社を思い浮かべた。昔から魔理沙は何かあると神社に飛ぶ。もう癖や慣れというか習性と呼べるレベルにまで染み付いた行動だったし、それは弱った野生動物が安心できる場所へ逃げ込もうとするのにも似ていた。

 家の前で箒を飛ばそうとした瞬間、理由もわからないままに“こてっ”と転んだ。そして、手の中から箒が転がっていってしまう。

 すぐに立ち上がろうとした。この魔理沙ともあろうものが一人で自宅前の土にまみれているのはとてもとてもよろしくないと思ったからだ。

 しかし、体に力が入らない。骨を全部コロイド溶液のゲルにでも変えられてしまったように、くにゃくにゃと力が抜けていってしまう。うんうん唸って、腹筋に力を入れてもだめだった。そもそもそれは魔法少女の腹筋であり、幻想郷の少女の腹筋が活躍する場面は弾幕ごっこの時と相場は決まっていた。

 次に、こいつは一体誰の仕業なのかと考えた。さすがに自分の中にこんな事の心当たりはなかった。次々と知人妖怪その他の顔が浮かぶが、どいつもこいつもやりそうになかったけれど、同じぐらい誰でもやりそうだと思えた。矛盾しているようだが、幻想郷の面々なんてそんな奴らばかりだった。

 そして、そうやって、次の瞬間。

 魔理沙は思い切り吐いた。

 

 

「二日酔いだったわ」

 吐くだけ吐いたらすっきりした。

 少しして不調から復活した魔理沙は風呂に入った後霊夢のところへ行って朝餉を共にした。神社には、朝っぱらから背筋をしゃんと伸ばして清まし顔のアリスがいた。基本的に、滅多に森から出ないヤツだ。魔理沙との相性はあんまり良くなかった。両者とも火力偏重の狭撃タイプであり、霊夢のホーミング性を見習ってほしいところだが、その頭悪いスタイルが相乗した火力の結果がマリス砲であるともいえるから、まあそこそこ仲良しさんなのかもしれなかった。

 味噌汁の具について多少アリスと魔理沙とで口論になったが、霊夢が二人を無視してジャガイモをぶち込んだために争いは収まった。

「シンプルに、豆腐でいいだろ。何だ蕪って」

「あら、食べればわかるわよ」

「別に何だっていいじゃない」

 どうも霊夢は食べられれば別に何だっていいじゃないとか考えている節がある。

 朝食がひと段落し、アリスが持参した茶葉をいそいそと淹れ始める。それは深橙色の紅茶で、日本ではもちろん栽培できない。そのため、紅茶に似た何かである可能性が高かった。こんな伴天連茶飲めたもんじゃないわと最初は口をつけるのを渋っていた霊夢も、強引に薦めるアリスに押し負けてちょっとだけ啜り、まあまあねと感想を零してアリスを微笑ませた。

 魔理沙はしばらく産地について説明されるものだと思って待っていたが一向にアリスが喋る気配をみせないから潔く諦めて“グィィィ――z__ッ”と一息に紅茶を飲み干した。

「えッ!」

「うそだろッ! オイッ!」

「うわお! バッチイッ! 飲みやがったこいつッ!」

「何飲ませたんだよお前ら」

 

 ※ ※ ※

 

 朝五ツ半(午前九時)ぐらいになって神社を文字通り飛び出した(基本的に箒で飛んで移動しているため)魔理沙はまっすぐ西へと向かった。紅魔館の地下、なんちゃら図書館が目的である。

 別れ際の一言もない二人の態度に涙眼になんてなっていない。

 魔理沙は強い子だった。

 愛用の箒は中空を滑るようにして彼女を運んだ。リボンのついた帽子や白くて黒いエプロンドレスの隙間から夏の青い日差しが照りつけてくる。金髪に縁取られた頬が、じんわりと熱を持つ。

 目の前に広がる魔法の森には色々な妖怪なんかが生息しているためか、上を飛んでいるとけったいな連中とのエンカウントが多かった。

「あ」

「あら」

「あっと」

「――ん。三妖精か」

 魔理沙の前に、金髪と金髪と黒髪の妖精たちが現われた。ちんまいのとロリいのとペドいのと言い換えてもいい。念願叶い見事STG作品ゲーム本編に出演した後も、妖精というだけで甘く見られているのか、大して株は上がらなかった連中である。

 三匹集まって、なにやらひそひそと話し込んでいたようだった。多分またぞろイタズラの相談でもしていたのだろうと魔理沙は思った。妖精といえばイタズラだ。なぜか阿求は蛇蝎のごとく妖精を嫌っているが、その理由もおそらくイタズラされたからだろう。子供程度の知恵は働くため、たまさか面倒な事をされたりもする。

 ちなみに三妖精は彼女の事を魔理沙さん魔理沙さんと呼んでいたりする。きっと妖精相手でもそれなりに構ってくれるからだろう。魔理沙の方も、まんざらではないようだった。

「魔理沙さんだー」

「今日はお出かけ?」

「こんにちは。いいお天気ですよね」

「私たちはこれから里の方へ行くつもりだったんですけど、そっちは?」

「サニーが、里は太陽の導きがどうのって聞かなくて」

「人里だと、ちょっと失敗すればすぐおっかないのが飛んでくるし」

「ちょっと待て、一人ずつ畳み掛けて喋るな」

 少しうっおとしくなって、エプロンのポケットに入っていたなめこ味の飴玉をそれぞれの手に握らせた。

 微妙に渋い顔をされたので、足早にそこから立ち去る事にした。

「はて、今どこぞで人気だとか聞いてたんだが」

 時と場所によるのかもしれなかった。

 小さいせせらぎの音がするような、眼下の森の少し開けた場所では、秋の神様がローキックの稽古に精を出す姿が見えた。魔理沙の経験上、この手の精神病患者が明るく振舞っている時にはそばに近寄るべきではないから、見なかった事にしてさっさと飛び去ろうとしたのだが、静葉がひょいと顔を上げ魔理沙を見つけて大声で呼び止めてきた。

 仕方なく、箒の高度を下げていく。正直なところかなり迷ったのだが、下手に逆恨みされてもおもしろくない。芋を焼く程度の神でも一応そのぐらいはしてきそうだった。

 顔がはっきり見えるぐらいにまで近づいてきて、何気なく足元を見るとスカートから伸びる白い膝に赤く滲んだ包帯が巻かれていた。

 両膝だった。

 手首には巻いていなかった。

「おおい、確か山で会った、魔理沙とかいったっけ……てぇおい何で逃げる!」

「別に逃げてるわけじゃない。誰だって火事があれば高みの見物するだろ? お前らみたいに飛び込む馬鹿は人間にゃいないぜ」

 季節が秋ではないからか、魔理沙の速度が速いのか、それ以上の反応は無かった。秋でも怪しいぜと魔理沙は思った。

 その後も、喧しい天狗に付き纏われたり、自称常識的巫女に絡まれたりしていたから、魔理沙が最初考えていたよりずっと時間を食ってしまった。下のアングルからシャッターを切る天狗を魔砲で撃退し、風祝と明後日に博麗神社でパジャマパーティーを行う旨の約束を交わした。

「――しかしそれって霊夢に伝えてるのか?」

「え?」

「えっ」

「当日まで黙っているからドッキリなんじゃないですか」

 早苗は清々しいまでのドヤ顔でそう言っていた。

 ああこいつは長生きするだろうなと魔理沙は思った。それから、そういや神なんだっけかと思い直した。

 魔理沙は今日も愛されています。

 

 

 二、

 

 手足のごとく箒を繰って縦とも横とも上下ともいえぬ微妙な飛行を繰り返す。

 ガリガリガリガリという――耳に残る弾幕とグレイズの小気味よい効果音。

 夢に出てきそうな色とりどりの大瀑布を相手取り涼しい顔をかけらも崩さない魔理沙は――目下のところ、“ごっこ”の真っ最中だった。

 小悪魔の弾幕は俯瞰的な視点を使った細かい円運動を強要される。そのくせ目先の空白地帯より早め早めで次の弾幕に突っ込んだ方が労力を使わずにすむ上、大玉の影から何気なく小玉が飛んできたりする非常に陰湿なものだ。魔理沙の竹を割ったような性格(パワーを溜めて物理で殴れ)とは相容れないものがあった。

 糸を針穴に通すため真心を込めたスレッジハンマーで打ち抜く。そんな心境で、弾幕を潜り抜けながらレーザーを大雑把にぶっ放す。矛盾しているようだが、弾幕ごっこをしている最中の魔理沙は大体そんな感じだった。位置の確認は一瞬、反撃の呪文詠唱も一瞬、それでいて全体把握は常に。幻想郷の少女達が皆、どいつもこいつも頭のネジの一本や二本外れている原因であり(そして“弾幕狂ども”として差別される一因でもある)、慣れぬ内は「なんだこのクソゲー」といいたくなる中の最たる理由でもあった。被弾しそうな瞬間指がボムのキーを押せるようになるだけでも随分違うから、まずは死んで覚えてください。正直魔理沙はピーキーだからまずは無難に霊夢のがいい。さすが博麗の巫女様……。

 余談だが、魔理沙はレーザーとビームを混合されるのが嫌いだった。恋する魔理沙はビームとかほざく輩をついついアヘらせちゃうの。

 彼女の弾幕は図書館のような暗闇の中で、とりわけ澄み渡った夜空の下が一番映える。レーザーも、星の弾幕も、爆発は一瞬だけまたたいてから闇の中へ吸い込まれるようにして消える。それは魔理沙の生き方を象徴していた。

 交わされる閃光と弾。絢爛豪華な、意志のぶつけ合い。

 幕引き――演題交換。

 その光景を頭上から四角く見下ろせば、そんなイメージが浮かぶのか。紫と紺が等差で織り成す、退廃的ながらどこか心惹かれる悪魔めいた弾の群れが天井に床に壁に水のごとく潜って消えていき、舞台が一時静まる。

 魔理沙の手がスペルカードを切った。

 紅魔館の妖精がよく繰り出すクナイ弾。鎖のように数列並んだ大玉の間をちかちかと光りながら、一斉に魔理沙目掛けて押し寄せてくる。

 どちらかといえば、ランダム弾は嫌いだった。単純ながら、覚えたらクリアできるというパターン作りこそがスペルカードの醍醐味であると思っている魔理沙からしてみれば、気をゆるめると変なところで落ちてしまうランダム系スペルは苦手な部類に入る。死んで、無敵時間の間に画面上部で急いでパワーを回収するのも見目が悪かった。

「例えば――そうだな、私だけキノコを取ったら一機アップとかどうだ?」

 弾の勢いが増した。

 新たなシステムを提唱するのは悪い事じゃない。人間は慣れて飽きる生き物だし、安易なリメイクを繰り返すよりか常にサプライズを忘れないでいる方がよほど有意義ではないのか。魔理沙はそう考えていた。

 ただし地霊殿の教訓は胸に刻むべきだ。

 そしてそれを許容する土台こそが、弾幕ごっこである。

 初見でレバ剣にあっさり一薙ぎで殺されようとも、残機零で泣きべそかきながら気合よけをする破目になろうとも、それこそがスペルカードの醍醐味だと魔理沙は断言できる。

 ――断言はできるぜ。明言しないだけでな。

 そんな風に、魔理沙は本日も図書館の愉快な警備装置と一戦交えていたのだが、それがその変事にいち早く気づく一因となっていた。

 図書館のどこか埃っぽいような風の中を翔る。相手の考える事を見透かして、相手の切り替えしの裏をかいて。赤い空間の中で、そのうちに声もなく会話しているような気になる。言葉も不要で酷く原始的な交流だ。

 そんなさなかの事だったのだ。

「あ、れ……?」

 気づいた時には一機減らしていた。被弾した覚えはないにも関わらずだ。

 自分の手のひらを見る。

「おい、お前、なんかしたのか?」

 ……返事はない。小悪魔は気絶している。本棚の向こうに墜落してすぐ見えなくなった。

「なんだかわからんが食らうと相打ちの形になる……ま、手間は省けたが」

 それにしても奇妙な現象だと思った。箒にまたがってふよふよと浮いたまましばし考え込んでいたが、ややあってうんうんと一人合点したように頷いた。

「まずは目的を果さないとな。それに、パチュリーなら何か知ってるだろ」

 一息で箒に魔力を巡らせてその場から弾けるようなスピードで飛んでいった。苦悩や悲嘆なんて欠片もなさそうなその背中はあっという間に小さくなって、黴臭い空気が再び落ち着きを取り戻す頃には、目を回した小悪魔がいるだけだった。

 恋色の魔法使いは今日も平常運転であるようだった。

 



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メイガスナイト その②

                                             .
BGM “二つの色” by 葉山りく
――汚らしく、雑じり合って。


 

 一、

 

 帰宅したらまずは撹拌していた鍋の様子を見て火から下ろさねばと、真っ直ぐに伸びた長い廊下を箒で飛びながら考えていた。しばらくはこの持ち帰った本を読みふけるという作業が待っているから、片手間でできるもの以外の実験を一旦やめなければならない。慎重を期するのは、以前本に没頭しながら複雑な工程を要する実験を平行して行っていたら、酷い目にあったからだ。忘れもしない、あの時は家中に魔力の残滓がこびりついてしまい、壁がじっとり湿ったり、木戸が膨らみ建付けが悪くなり、目は霞むわ咳は出るわ腋に汗は掻くわと、まあ酷い目にあったものだった。数日間、這う這うの体で駆け込んだ博麗神社での寝泊りを余儀なくされた。その失敗を前向きに生かし自動で鍋をかき混ぜる魔法を開発したりしたが、他はまだまだ研究中だった。

 ――あくまで本は借りたまでだ。

 長ったらしい廊下で、誰とも擦れ違う事なく、そううそぶく。いつもならそんな言葉へ律儀に突っ込んでくれるはずの、絶滅危惧種のメイド長は、どうやら外しているようだった。館の中はおおよそあいつの手の上みたいなものなのだから、侵入者に一言物申すぐらいはしてきそうなものだが、今日はまだ見ていない。つまりそういう事なんだろうなと思った。

 まあ、結果として、私はゆっくりしていくがな。角を曲がったところで、一息、ほうと言った。

 ……階段がある。普段の魔理沙ならば気にも留めない、これといった特徴もないものだ。

 魔理沙は箒で風をたっぷりと掴んで緩くブレーキをかけた。ちらちら赤々と壁の蝋燭の火が揺れている。まだ日は落ちてないというのに館の中は真っ暗で気味が悪くて、人間が住む場所とはとても思えなかった。しかし。

 音が、聞こえた気がした。

 小石のような、何か固い小さい物を床の上に落とした時のような。コトリと。うっかりと手をペン立てにひっかけて倒してしまったような。コトリ、と。

 いやいやそれは、そう。

 コツーン――。

 音がした。今度こそハッキリと聞こえたそれは、軽い足音のようだった。

 不愉快を装って、眉をしかめた。

 懐から取り出した手には愛用の八卦炉。階下へ、目を凝らした。時代がかった照明は至極頼りなく、ほとんど何も、見えなかった。

「そこにいるのは、ヒトか! アヤカシか!」

 むわっと、階段の下から、気配が膨れ上がって魔理沙を包み込むような感じがした。冷静で慎重に、こちらを探ってきている。警戒している。警戒すべきだ。

 ――ヒトか、アヤカシか!

 都合三度呼びかけた。そいつは黙りこくって、沈んだ雰囲気だけがあった。凛として張りのある魔理沙の誰何は膨れ上がった闇の中に響いてすぐに消えた。

 左手も、炉へ添える。箒の加減は股下で微妙な修正をつける。ちらりと左右へ目をやって、確認をして、すぅっと息を吸ったその時だ。

 階段を下ったすぐそこに、あまり見かけない気弱そうな男が一人立ってこちらを見上げていた。

 何も言わない。

 互いに見つめ合ったまましばらく無言を貫いていたが、上げた腕がつらくなり、構えを下ろす。よっと軽い調子で手を上げると、同じく返してくる辺り、とりあえず会話は成立しそうな手合いではあるようだった。そいつがやや強張ったような歩き方で魔理沙と同じところまで上がってくると、彼女も少し近づいていった。そいつは、停止する場所がわかっているようにすっと横に動いた。

 やや高いところから、帽子をくいと上げて顔を向ける。

 そいつは物珍しそうにじろじろと魔理沙を眺め回して、ええと、と言った。

「初めまして、ドッピオです。えっと、そっちは」

「霧雨魔理沙、見ての通り普通の魔法使いだ。別に珍しくもなんともないだろ?」

 あ、ああ……と生返事を打ち、ドッピオは目を泳がせて箒から飛び降りる魔理沙を見つめた。箒を肩に乗せる彼女へ、幽霊でも見たような顔を向ける。

 もちろん、幽霊もありふれたものであるのだが。

「……どーした。妖精が弾幕ぶたれたような顔して」

「あ、あ……いや」

 あははと力なく笑うドッピオは、今さっき妖怪とかいうのを見た後だけど、と前置きをしてから「魔法使いなんて初めて見たから」といった。

「妖怪も魔法使いも見た事ないなんて、そんなヤツむしろ私が見た事ないぜ。どうしてここにいるんだ?」

 その問いは魔理沙にだって跳ね返ってくる。と、小悪魔がいたなら口を挟んでいただろう。けれどそこには彼女達二人しかおらず、住居侵入の不法を責める者はいなかった。むしろ幻想郷にそんなものがあるのかも疑わしかった。

「……電話を借りに来たんだ。それで」

 ドッピオは言葉尻を濁らせ言いよどむと、それだけで暗闇の廊下に静寂が戻ってくる。端と端も見えぬような空間の広がりである。

 魔理沙は空白を埋めるように「それで、なんだ」と煮え切らないドッピオをうながした。

「マリサは出口を知ってるのかい」

「出口か、この館の? 残念ながら出るには」

 気合の入ったペドフィリアのせいで出れないぜ、と言いかけた。

 ――違うのか。

 どうもあのメイドは出ているようで、だったら。

 随分とだだっ広い館だ。真っ直ぐ向かっても時間がかかるし、その上陰険な邪魔が入る。しかし、今ならば。

「……ここは無駄にでかいし、窓がないから下手するとレミリアに出くわすまで迷子なんだが……」

 正直なところ、それほど興味の引かれるようなヤツではなかった。魔法への探究心こそが全ての原動力である魔法使い(例えばここの地下で引きこもってる近眼系魔法少女パチュリー・ノーレッジだとか、魔法の森に引きこもってる七色のフリーター、アリス・マーガトロイドなどに代表される)の目から見てもそいつは、地味で、どんくさそうで、特筆すべき点なんて見つけられそうになかった。しかし。

 しかしである。そんな平凡な少年が、どうしてここにいるのだろうか。窓が開いていたわけでもあるまいし、さすがに門番が止めるはずだ。――止めるはずだ。

 それが普通のヤツだったら。

 どちらにしろ、案内するぐらいなら、損はなさそうだなと魔理沙は思った。

「出口か。出口までな。よし」

 箒に再びまたがって、床からぎりぎりのところに浮かび上がる。

「ほら、乗れよ。此処は歩くにゃちと厳しいぜ? お前が飛べるってんなら別だが」

「あ、ああ……」

 肯定か否定か、ともかく、自力で飛べないのは確かなようで、魔理沙が箒を寄せてやると、その後ろにドッピオが腰を下ろした。

「掴まってないと、落ちる」

「あ……うん」

 おずおずと、手が腰に回された。

「それじゃあ、行くぜ」

 ぐんと急な勢いが力となって体を押し、勢いよく飛び出した二人は景色が背後に流れるような速度であっという間に廊下を駆け抜けていった。押し退けられた風が静かになる頃には、既に廊下は元の暗さを取り戻していた。

 

 

 二、

 

 身体に感じる力がまるで何か別のものに一瞬で切り替わったように、前から風が顔といわず胴と問わずぶつかるエネルギーは二人の素肌のところをびょうびょうと撫でていった。大空の下へ躍り出た途端、魔理沙はぐっと前傾になって箒の速度を上げたから、思わずドッピオは彼女の腰に回していた腕に力を入れて後ろからしがみつくような格好になった。ぱたぱたと服の端が纏わりつくようにはためいている。人が飛行するにはあまりに頼り無い装備だ。けれど魔理沙の魔法であるのか、気温や身体の負担を軽減する不思議な安定感が箒に備えられていて、ドッピオは恐々ながらも遠方へと目を凝らす事が出来た。人が、ひたすらに無粋な鉄の塊であるジェット機などから眺望するほどの高さではない。けれども身一つでは決して望む事の叶わぬであろう光景。ドッピオは魔理沙にしがみつきながら、どんどんと小さくなって視界から遠退いていく木々や赤い館、そして不意に目に飛び込んだ遥かな上空の眺めに、吸った息を吐くのも忘れてただ魅入っていた。魔理沙は勝手知ったるふうに言葉を投げかける。

「今下を通ったのが霧の湖ってヤツで、少し行くと人里がある。向こうのでかいのは妖怪の山だ。天狗が見えたら言ってくれ、あいつらはしつこいからな」

 言われたところで、ドッピオはただただ頷く事しかできない。あまりに“非日常”過ぎて、今までの経験から外れた事ばかりで、すっかり気が抜けてしまっていた。

「ハハハハ! ドッピオ、お前なんだってそんなマヌケ面してるんだ? ……いや、後ろに目はないし、してそうだなってだけだなんだが……本当の、ホントの本番は、これからなんだぜ」

 えっとドッピオが訊ね返す間もなく。

 猛獣が獲物に飛び掛る寸前“ぐぐっ”と全身に力を入れるように、魔理沙たちは僅かな風にふわふわと、流されるような上昇から一転して――弾丸のように気流を裂いた。

 体の真芯がすうっと引き抜かれたような寒気に似た感覚がドッピオの背筋を這う。今までの、頬を風がやや手荒く撫でていくような速度ではなく、たちまちドッピオの中から生来持って生まれたスピードに対する純然な恐怖が表に出てきて、

「ひぃぃぃッ!」

 という声が喉から滑り落ちた。目を閉じる余裕もなく、意識がかき回されてぐるぐると視界が上下にシェイクされる。魔理沙の「力緩めてくれよ、さすがに痛いんだが」という言葉も届かず、ひたすら「速い! 速い!」と声を張り上げ続けて、回した腕の確かな重みにだけ気持ちを集中させようとした。

 堪えきれず、とうとう魔理沙が吹き出す。黄金の瞳を輝かせて、狂ったように一層スピードを求めた。

 それほど、短い時間ではなかった。

 魔理沙が箒を森のとある場所に下ろした時にはもう、日は一際高く昇り、そして盛りをとうに過ぎて、ぬくいというよりは熱いまなざしを振りまきつつもやがて沈みかけているようなところだった。

 腰に手を当ててううんと伸びをしながら魔理沙は「イマイチ速度がでなかったぜ」とカラカラ笑っていた。ドッピオはその横で浮浪者のように四つん這いになって、ううう――と唸りながら、めちゃくちゃに千切れ飛んでしまった意識をなんとか取り戻そうと足掻いていた。

「吐くんなら家の前はやめてくれ。日にそう何度も何度も――」

「う、お……」

 意味の通じない呻き声が返される。話の通じなくなる前からどこに行けばいいかを聞いておかなかったから、とりあえず魔理沙は自分の巣につれてきたのだった。感覚としては、図書館で本を借りた、その延長に近い。

 おお、本当にお前飛んだ事なかったんだなと魔理沙が言った。しばらくそうしていたが、どうにも駄目くさかったから、肩をすくめて我が家たる“住処”の扉を押し開けた。

 本を入れた袋をどさりとその場に下ろす。あちらこちらへ乱雑に物が置かれている。こじんまりとした木造の閑居だ。

 元々魔法の試行で真水が必要になる事も多かったし、河童なんかとつるむ様になってから水回りの環境はけっこう改善していた。一々汲みに行かなくてもよくなって、温泉脈を利用した暖房の魔法を使えばいつでも風呂に入れるようになった。二日ぐらいぶっ通して魔法書に噛り付いた後に入る温い風呂は、魔理沙にこの世の真理さえ体感させた。

 もっとも、今はコップ一杯分の水を用意できればよかった。一応奥の部屋でざっと自動化処理していた実験のいくつかを確認してから、居間の窓を開け放つ。窓からはまだうずくまっているドッピオが見えた。

「――ほら、水だぜ。飲めるか、立てるか?」

「う……ありがとう……」

 ふらつきながらも立ち上がったそいつに肩を貸してやって、中へ連れこんで椅子に座らせた。なんだか酔っ払いの介抱みたいだった。魔理沙が肩を貸すのはもっぱら霊夢が主なのだが(それと同じぐらい魔理沙も神社で前後不覚にまで飲む事もある)、霊夢のヤツは変に強情なところがあって、布団を貸してやろうとしてもいらないと突っぱね、そのままテーブルに頭をつけて寝息を立てだすのである。そんな時は、いかにも巫女装束の腋が寒々しそうだなとか妙にしみじみ思ったりする。多分覚えていないが自分も同じ事をやらかしているだろうから、まあ精々がおあいこだろうと勘定していた。

 とりあえず、楽にしててくれとだけ告げて、帽子をテーブルの上に置いた。本来は食卓なのだが、今は本やらメモ紙やらが散乱していて、本分を果せない役立たずである。代わりにと、先ほどの本を持ち上げる。早目にちゃんとした保管場所に放り込んでおかないと、へそを曲げたりカビが生えたりする、酔いどれに負けず劣らず厄介な代物だった。

 奥へ続く扉に手をかけたところで、背後から弱々しいながらも、

「すまない……」

 という声が、耳に入ってきた。振り向くと、ドッピオが顔を上げて、若干青くなりながらも、気丈に唇の端を吊り上げていた。少年の精一杯の見得の痩せ我慢に、彼女はああとだけ短く返して、頷いた。ふと、私に礼を言われる筋合いはあるのだろうかとも思ったが、ともかく黙って、扉を閉めた。

 極々軽い音で扉は閉じられた。

 



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メイガスナイト その③

BGM “明星ロケット” by ichigo
――平和ボケって怖いな
  みんな目的無く闘っているみたいだ


 

 

 たとえばアンタらは考えた事がある?

 仲が良かったり、愛し合っていたり、単に気に食わなかったり、敵対していたり、心の底から信頼していた相手が、自分の知りえないところで自分の事を罵っているんじゃないだろうか、って。

 どーかしら。

 それとも逆かな。

 助けを求める手を無視して最初から気づかないフリをしたり、ちょっと鬱陶しいやつに「ごめんね、それは無理なんだ」って嘘をついてみたり。

 他人と接するのに、いつも頭のどっかで相手の悪意を警戒して、疑ってなくちゃいけない。

 何だか他人事ねえ。

 でもそれは仕方がないとも言えるわ。

 このわたし、“正体不明の正体”こと封獣ぬえは、それをきちんと理解している。

 その人間の本性というものをよーくわかっている。

 誰だって自分が可愛い。気の置けない友人ならともかく、他人が傷付くのは本音を言ってどうでもいいし、いつだって我が身は惜しい。自分が痛いのはダメ。苦しいのもすごく嫌ね。うん、わかるよ。すごく、わかる。

 でもそれは、仕方がない。何度も言うようだけれど。

 人間は悪意を持って生まれてくるからね。人間は他人に優しくない。そういうふうにできているんだからね。時折出てくる善の人は、そうやって数の理で殺されていくわけ。

 

 違うのか。

 そんなに絶対数が違うのなら、それはもう“別種”になるのかな。つまり人間は、新たな種に世界を乗っ取られるか否かの瀬戸際で、均衡している、ぎりぎりにいるのかな。

 ――聞いている自分にしてもそれは主旨がなく、要点の掴み辛い、まさしく彼女の“正体不明”を体現するかのような――

 

狸狂言語録 奴延鳥の事

 

 

 

 一、

 

 そこは居室であり、私室であり、実験室だった。

 よくお前は部屋が汚いだろうと揶揄される魔理沙であるが、これはまったくいわれのない悪評であり、彼女の人格を無視した言い様である事は疑いようがない。

 生活の場がとッ散らかっているのは落ち着かない性分だったし、まずもって、彼女は汚い部屋というのが堪えられない。この森ではカビやらキノコやらを甘く考えているとすぐに泣きを見る破目になるから、水周りなんかには、とりわけ気を配る必要があるのだ。

 しかしさすがに絶えず実験のために魔法を使うその部屋は、一見すると猥雑に見えるのも否定はできなかった。ごちゃごちゃと物が床のすぐ上のスペースを占拠していた。

(……しかし、どーするかな)

 袋から「借りた」本を取り出す。ふーっと息を吹いたりして、埃なんかをざっと確認しつつ、魔理沙は内心で少しばかり悩んでいた。

 もちろんそれはあの気弱なのっぽの事である。

 あいつは何しろ飛び切り厄介な事情、外来人という来歴を抱えているのだ。

 ドッピオをどうしてやるべきなのか。小娘の分際で他人の事をどうのこうの考えるなどおこがましい、弁えろと、そういわれてしまうのかもしれないが、一応極々短いながらも、見知った以上は里に放り出すだけでは目覚めが悪い。首を突っ込みたがる気質と責任感の強さは、今では何かしてやれないかという漠然とした気遣いになっていた。

 まずもって、このまま放っておく第一の選択肢がある。

 もちろんあの貧弱な少年は遠からず食われて死ぬだろう。

 ならば次善に、里へ連れて行き、知り合いなりに口利きをして、多少なりとも便宜を図ってもらう。そいう考えもある。現実的には、それぐらいが精々だろうし、それが一番だ。

 なにせドッピオは「戻れない」可能性がある。――いや、おそらくその方がずっと高いだろうと。

 実に奇妙な話であるし、魔理沙も又聞きでしかないから詳しくは知らぬのだが、幻想郷には忘れられたものがたどり着く事もあるらしい。何度か出向いた無縁塚、半ば紛れていた荒地は、魔理沙の目には酷くわびしいものに映った。いらぬ物、打ち捨てられた物々。すでに意味も価値も失せた品とその残骸たち。

 あいつは「あれら」の一つなのだ。

 幻想郷とそれ以外とを隔てる見えない知らない壁。……境界。

 魔理沙自身でさえどうにもならぬ、堅くて遠い、向こう側の領域の話である。

 境界をどうにか出来そうなのは、人間かそれ以外か、幾人かはいるだろうが、中でも確実だと思えそうなのはそのものずばり「境界の管理人」。

 そして博麗神社だ。

 あそこにドッピオをつれていくのは簡単だろう。大した苦労ではない。それこそ、魔理沙は年がら年中、三日とおかずに霊夢の顔を見に訪ねているほどだ。

 けれどもし、駄目だったら。

 彼がすでに「忘れさられたヤツ」であるといわれた時の事を思うと、魔理沙は一歩踏ん切りがつかないでいた。だったら初めから、あるかないかの希望を捨てて、端ッから里への移住をすすめた方が、いいんじゃないのかとも――思うのだ。

 頭を掻き毟って、うああと呻いて、鍋の頃合を見て、だぜだぜ呟いて。

 腹が減った魔理沙は、とりあえず夕食にしようと決めた。

 

 

 

 二、

 

 魔理沙の隙間ババアくたばれ3分クッキング、はじまるよ。わぁい。

 調味料……適当に。材料……も、まあある物で。

 手順だって簡単なものだ。

「腹減らないか? 減ったよな」

「え? ああ、う……うん」

 宿無しか、文無しか。明日の暮らしも定かではないドッピオに、魔理沙は安心しろとばかりにニカッと笑ってグッと拳を立ててみせた。まァまァまずは腹ごしらえとばかりに、何事か言いたげなそいつをひっ掴んで椅子に座らせた。

 マスパの要領で点火した火にフライパンを乗せると、大雑把に油を引いて熱が通るのを待つ。油はひまわりのものだ。里以外ではわりと一般的に使われていた。

「茶碗出しといてくれるか」

 次に、あらかじめ細かく切っておいた肉、ピーマン、たけのこをバラバラと投入する。魔理沙は和食派だが肉も食うし魚も好きだ。香霖堂においては朱鷺を鍋にして食うという暴挙に出たぐらいである。

 彩りになんとなく早苗の顔を想起しつつ、鉄肌にたっぷりと塩、胡椒をふりかける。鼻先に、じゅうじゅうと熱せられた具材が放つ、香ばしい匂いがただよい始めるのを待って、残ったキノコを入れた。数度鍋を反す。そそり立つ油の熱い香り。そのすぐ後、続けざまに調味料が落とされた。焦がされたしょうゆの、食欲をそそる匂いが広がる。

 キノコの類はすぐに風味が飛んでしまうし、へにゃっとなって具合が悪いから(霊夢はへにゃった方が好きらしい)最後にさっと火を通すような、通さないような、そんな感じがいいとアバウトに魔理沙は認識していた。

 それらと、おせっかいな妖怪が鍋ごと持ってきた蕗と油揚げの煮物もある。

「煮物は別に食わなくてもいいが」

「そんなコト」

「アイツが持ってきたからなぁ。変なもの入ってるわけじゃあないにしろ、なーんか、あるような、あるかもしれないような」

「……えっと?」

「わかんなくていいぜ」

 会話が途切れる。

 食卓について、そこから先は二人とも無言だった。

 手を合わせて、並べた料理をもしゃもしゃと咀嚼しながら、二人とも、なんとなく口を開くきっかけを見失っていた。

 やや冷めた白米を頬張り、蕗と油揚げを一緒に摘んでみる。冷たくなっても良いよう強めに味付けのなされた煮物はとろけるぐらいに柔らかく、噛むと旨みが舌にじんわりと広がった。あまじょっぱい煮汁に自然と箸が進む。

「ヒマワリ油」

「うん。妖怪が作ってるんだがまあ」

 黒くってどろりとした汁のたれのかかったキノコ炒め。ご飯にのっけて一緒に口へ運ぶと、熱いたれがご飯に染み込んで、思わず顔がほころびる。つやの出た照り。うっとりするような薫香。

 しかし……ハテ。使ったはいいが、この黒い調味料は、果たして。魔理沙が首を傾げる。これは以前、仕事の対価として譲り受けたものだったのだが。

 炒め物なんかに少量使うと味が立つ。そんな感じで使うと良いと聞いていた。

 たしかに美味い。

「ペスカトーレ、じゃないのかな」

「知ってるのか」

「魚介を使ってトマトソースで煮込んだやつさ。たぶんコレ、貝じゃないかな」

 首をひねりながらドッピオが言う。あまり正確には覚えていないようだ。

 正確には、現代でも極々おなじみのオイスターソース、というよりは偽・オイスターソースなのだが、要は魚介系たれの文化間での違いである。日本ではしょうゆの前身であるしょっつるにあたる。それらの広東省、中華料理でのものがオイスターソースとされる。

 イタリアのも多分似たようなものでしょ。

 しかし、山村たる幻想郷で牡蠣が獲れるかというと不可能に近く、まあ妖怪たちの文化レベルならば淡水での養殖も出来なくはないのかもしれないが、水生妖怪が嫌がるだろう。河童とか。そんな理由によって今魔理沙たちが舌鼓をうっているのは原料をきのこによってまかなったものだった。本来のものの味や風味を、手に入るものを使って再現しようというのだから偽装、もどきのソースになる。もちろん妖怪の間でしか出回っていないため、そこそこ貴重な品だった。

 なるほどなるほどと互いに頷き合う。そこからはむぐむぐと食べる事に二人の口が熱心になった。

 無言の中、途中に一度ドッピオが「このキノコは?」と尋ねたが、魔理沙は平気な顔して「大丈夫、死にはしないぜ。たぶんな」というものだから、彼は背中にひやりとしたものを感じる事になった。

 それでも、腹が膨れて人心地つけば小さな事は大した問題に思えなくなる。

 

 

 

 三、

 

 後片付けは手早くちゃっちゃっと済ませておく。神社の宴会の後なんかは手伝う事もある。職業柄か、てきぱきと効率よく物事を進めるのは得意分野だった。

 魔理沙は酒を求めて戸棚を漁った。

 ランプも点せる酒と、ランプも点せない焼酎とがあった。

「酒しかねーずら。まあ無礼講だ、気にしないでくれ。私は気にしないから」

 返事もそこそこに食卓にコップを二つと半分入った焼酎の瓶を置く。

 コップは地底で手に入れたものだ。

 

「だから私は言ったんだな。一人で遊んでも面白くないしな、って」

「……え?」

 

 その時突然、ガシャンと、何か硬質なものが割れる音がした。

 ドッピオはその長い四肢を振り回して「わ、わっ」と慌てふためいている。

「ん、ん? ……大丈夫、か? あー、怪我とかしてないか」

「ご、ごめん。怪我はしてない……けど」

「なら別にいいぜ」

 コップが床の上で粉々になっていた。原型もわからないぐらい、ばらばらに。

 惜しむものではない。驚くほど安価だったし。いわゆる安かろう悪かろうだと魔理沙は思っていた。地底に行った時のついでで買ってきたもので、まだ数はある。適当に、魔法で破片を外へ掃き散らした。その合間に、何気なくテーブルの上に目をやる。

「疲れたのかな。なーんか……んん?」

 

 みしり。

 不吉な音が、魔理沙からドッピオから、この住処の四方が一斉に鳴って、そぞろな響きとなった。

「おっ……と。何だか知らんがこりゃマズイ」

「これは……」

 魔理沙は目の前で戸惑う顔に説明をしようと口を開きかけて、けれど面倒くさくなったから、手元の書付を一枚捲りあげた。

「ほら、これだ」

 その紙切れは簡易的なタリスマン(護符)であり、書かれた文字と円それ自体が力を発揮するタイプのものである。力ある者の名を刻んだ部分が黒く焦げていって、すぐさまちりちりに燃え尽きてしまった。

「お客さんだな。私か、あるいはお前にか。多分私なんだろうけど、あいにく心当たりはないな。……どっちにしろ面倒くさい相手だぜ、あいつは」

 酷いヤツなんだといった。狡猾なヤツだぜともいった。非情であるとも、短気であるともいった。

「あとな――なんていうのか。“やぼったい”」

 それらの弁はいくらか的を射ていた。

 そして、玄関が静かに開いた。

「どうも、今晩は」

 戸口には九尾の狐が立っていた。

 みしりと森を震わせて、いくらか鬱陶しそうに顔を歪めながら、魔理沙たちの前に突如として姿を現したそいつ。その、見る者を等しく畏怖させる九つの尾。

 虚空から這い出した八雲藍は、その艶やかな九尾を悠然とたゆたせ――二人をうっすらとねめつけた。そこに見て取れたのは、人が雀の群れを認めはしても一々数えたりしないで、大雑把に一つの群として捉えるような、「ああ、人間が二人いるなあ」という無関心で傲慢なものがあった。

「いきなり現われて、なんなんだ一体。ここは私の家だぜ」

「――では、ええと、そっちが霧雨魔理沙、だったかしら?」

「いいや違うな。人違いだ」

「おや。家主じゃなかったのか」

「家主は私だ。が、霧雨魔理沙はそっちのヤツだ」

 ドッピオを顎でしゃくってみせる。

「いずれにしろ、家主は不法侵入者を追い返せるし、敷地内の狐は獲っていいんだ」

「ふん。あまり調子に乗るんじゃあないよ」

 不機嫌そうに藍がいった。ごちゃごちゃ言い合っていてもしようがないというように、スペルカードを三枚、取り出す。完全に臨戦態勢だった。言葉で説得できそうにない――というより、できない。

 今のコイツは、そういうふうに式が打ち込まれているのだろうから。

 つまりは、このまま後ろのドッピオを庇って藍と戦うか、あるいは何も見なかったことにするか。シンプルな二択だった。

「お前に不法侵入云々という資格はあるのかしら」

「準一級だぜ」

「なら、私が勝ったら不法じゃなくなるんだな?」

「そんときゃ、煮るなり焼くなり好きにして構わないぜ」

「それはそれは」

 ――魅力的な提案だ。

 冷ややかな声だった。何の躊躇いもなく、ケツの穴にツララを突っ込んでくるような温度と雰囲気があった。

 もちろん、準一級資格保持者である魔理沙が尻穴を狙われる道理はどこにもない。しかし古来より「無理を通せば道理が引っ込む」という言葉が体現するように、道理のヤツは「アッー!」とヤられてしまうのがお似合いなのである。魔理沙が普段無理をツッ込む側であるというのもまた都合が悪かった。

「……八雲紫はお前が異変に首を突っ込む事をこころよく思ってはいない」

「……んあ?」

「好きにしろ、か。ふん、してもいいけどね」

「三食つくならペットも考える。週末は休みが欲しいな」

「お前を――お前を、お前をもし本当に好きにしたなら、あの悪食の馬鹿が噛み付いてくるからな」

「……」

「狂犬だよ、実際。人間と妖怪とのけじめなんかハナッから無視してかかる奴だ。忌々しい。守矢の風祝の比じゃない」

 魔理沙は帽子のつばを掴んでじっと俯いたまま、答えない。

 件のお節介焼きをどうも毛嫌いしているようだとか、最初の目的だとか、もうそんなものはどうでもよくなってしまっていた。わけもわからないままムカムカとしていた。腹の底が熱かった。こんなに熱くなったのは初めてキン肉マン2世のオープニングを聞いた時か、実家を飛び出した時以来かもしれなかった。

「あいつの名を……あのクズの名を出すな……」

「おお、怖い怖い」

 ぐぐぐっと腕を前に伸ばして調子を確かめるように肩をぐるぐると回せば、藍は心底呆れたというように鼻を鳴らした。右手に愛品の八卦炉を握る。ずしりとした頼もしい重みは魔理沙に多少なりとも落ち着きを取り戻させた。

「人間を――マルクを――残忍に殺しても気づきもしねえそのお高くとまった態度……………」

「そんな事言われても」

 藍が困ったようにきゅうと鳴いた。狐のさまだろうか。

 ところで一つの疑問なのだが八雲藍は白面金毛の九尾、つまりはキツネ。イヌ科である。一方の橙は黒猫、猫である。にゃーん。

 犬と猫であるというのだが、その形はどういった具合なのだろうか。小さい頃から慣らして飼えば仲良く育つ二種族であるし、実際イメージされるぐらいまで悪い関係では決してないが、それでも二次創作の類ではほぼ相思相愛である。

 それか、あるいは、勢いで式にしたものの橙に怖がられて威嚇とかされて涙眼になる藍の短編とかないのだろうか。

「――例えば、だ」

 仕切りなおすような藍の声だった。

 藍の尾は九本それぞれが自ら光を放っているかのように力と生気に満ちていた。一撫でするだけで人間をも容易く穢して腐らせてしまうような。しかし同時に目にした者を惹きつけてやまない艶やかさを持っていた。それらが空気を孕んで広がって、藍のめかたが五割増にも見えた。

「囚人のジレンマという話がある」

 藍はそこで一度言葉を止めた。魔理沙をじっと見て、それから視線を右にずらした。

「どうしてそこまで庇い立てする? 脳ミソがクソになってるのか?」

 心底、わからないという疑問が透けていた。

「そりゃ、人間の本質が裏切りじゃないってだけだろ」

 藍はその惚けたような答えに対し、

 

 と言った。「それは違う」と、そう返した。

 魔理沙は確かにそう言われた。そのはず、であるのに。

 

「お……おいこりゃ、あいつら」

 まだ自分が夢の中にいるのかと咄嗟に思ったほどだった。

 ドッピオと藍の二人はまるで始めから存在していなかったように何の余韻も残さず、その場からいなくなっていた。家から飛び出して、夜陰に紛れたとかそういうレベルでさえなかった。カンバスに白いペンキを乱雑な筆遣いで塗りたくったみたいに、完璧にいなくなっていた。

 咄嗟に、箒を手にとって、ばっと夜の中へ駆け出した。

 幻想郷の時空間は酷くあいまいなところがあって、そこら辺の妖精でさえも、たまにワープしていたりする。現実に重なっていて、しかし同時に酷く圧迫されて隙間に追いやられているふしがある幻想郷では、自分の居場所だとか立ち位置というようなものなど、向こう側が透けて見えるほど脆くて薄い概念であった。ふらふらしてる奴が多い原因もその辺りにあるのかもしれなかった。

 家からの明かりが、背後から差している。魔理沙の影が踊って、その光の届かぬ先からは、急に黒い色が深くなっているようでもあった。

「おい、おい……」

 魔理沙の中にはまだ情というものが燻っていた。その厄介な感覚は、このまま事件を放り出せば、どう転んだところであいつは良い事にはならないだろうと察しがついていた。

 

 次の瞬間、再び魔理沙の視界から全ての光が消えて何も見えない夜が覆い被さってきた。吸った息が吐けなくなる。

 咄嗟に魔理沙はその場から跳ね退いて、ばっと箒で飛びだした。この状況が何者かの攻撃だとするならば、同じところに留まっているのは良い的であるからだった。

 抱いた疑問はそのままで、急速に頭が弾幕をぶつ時のあの感覚へと切り替わる。動いて、観察して、対策を練っている。

 箒を走らせるその目に怯えはなかった。あるのは感情を自分自身で乗りこなし、冷静に事態を判断しようとしている魔法使いの眼差しだった。

 彼女とて、幾多もの異変を解決してきた――重度の、弾幕狂なのだった。

 その魔理沙の耳に、聞き慣れた音が届く。グレイズを稼ぐ特有のあの心浮き立つ効果音。近い。ぐるんと飛翔ルートを反転させて出所へ向かう。徐々に徐々に目が闇に順応してくる。そう、この暗さは、人が急に暗所へ入った時のものだった。夕暮れから一気に真夜中の、しかも地下室にでも放り出されたら、丁度こんな感じになるだろうか。

 暗いところへ……突然?

 うっすらと自分の家が見えた。やっぱり、場所は大して変わっていない。それは確かなようだった。疑問は再び同じ疑問へ回帰するが、今はまずやる事がある。

 ぐっと柄に伏せた身を切って木々を危なげなくかわしていく。目が慣れれば月明かりに薄く木々が見えてくる。

 怖いものなんて、なんにもなさそうな。

 夜の中を疾走するその姿は、まさしく彼女を体現するかのような一筋の流星だった。

 騒ぎの場は、少しずつ移動しているようだった。しかし当然、彼女のが速い。音がますます鮮明になってくる。やがて、藍が次々に地表すれすれを撃ち抜いているのが見えてきた。

 しかし、追われているのは――あれは本当にドッピオなのだろうか? イヌか何かじゃあないのか?

 よく見ようと、魔理沙が帽子を掴んで顎を持ち上げ、閃光のようにパッパッと明滅する光景に目を凝らす。

 次いで、ふわりと体が宙に浮いた。

 

「えっ?」

 地面に熱いヴェーゼをかました。

 気が付いた瞬間、箒から転げ落ちて空に飛び出していたのだ。

 激しく着地した勢いでがふッと声が、押し潰されたような呻きが漏れた。うげ、げほっ……と咳き込み、箒を探す間もなく、魔理沙の周囲にばら撒き弾が矢継ぎ早に着弾して土煙が上がった。焦る魔理沙がばっと身を翻してそれらから安地へと抜け出す。ごろごろ転がって、樹の一つにぶつかって止まった。心底悔しそうに、再びかッと叫んだ。この日、どうにも魔理沙は地面に倒れこむ厄日であるようだった。

「ひどいぜ、ひどいのぜ、私疲れてんのかな……むっ」

 前後にふらつく魔理沙の前に、ふよふよと藍もやってきた。

 どうやら今の一瞬で、ドッピオか何かを見失ったらしかった。どうにも腑に落ちないという顔をしていた。ありありと怒りを顕にする魔理沙を一瞥して、どこへ行ったというようにきょろきょろと首と尻尾を振る。

 

「ちくしょう、ちくしょう、よくもやってくれたな。アイツはどこだ? 隠すとひどいぜ。ひどいヤツだぜ、お前は。まったくなんてひどいヤツだ」

「まだ何も言ってないだろう……」

 胡乱気な目で藍が言った。

 なんだか、泥にまみれて小汚いから、あんまり近づくなといっているようにも見えた。

「それに、さて、私の方こそ知りたいぐらいだ」

「アアん? だらしねえな――」

 魔理沙は、藍が近づいてきた時からずっと構えていた八卦炉を下ろした。いつまで経っても相手がスペルカードを出さないからだ。その代わりに、疑問が口から飛び出した。

「ならなんでアイツを追うんだ? そーゆー趣味なのか?」

「さてね」

 はぐらかしているのを隠す気もない返事だった。

「さてさて。サービス残業もこのぐらいにしておくかな?」

「……あっ」

 待て、とか、逃がすか、などと魔理沙が叫ぶよりも早く、八つ目、九つ目の尾がするりと虚空の中へ埋もれるようにして消えた。

 それを見た魔理沙に、ふと一つの疑問が浮かぶ。

 そういえば……さっきのも、丁度今みたいなヤツだった気がするような……。

 気のせいだろうか。

「……なんなんだよ」

 彼女の呟きに答える声は、ない。あのおどおどとした少年はもう、影も形もなかった。

 鬱蒼としたこずえを透かして見る夜空には、目の奥にちかちかと突き刺さるような月が輝いている。

 

 



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Under Pressure その①

BGM “Under Pressure” by Freddie Mercury

 ――人間には夢が必要なのよ。


 ※

 

 藍は――

 星の燐火である。

 人は、大勢である。何処にでもある。人里にも、野山にも。或いは“外”にもある。群れている。

 それらは不思議な光景だった。それは、“外”で死に絶えたとされる種が姿を見せる幻想郷らしいものでもあった。

 妖怪に囲まれているにも関わらず――

 妖怪も、少なくはない。外にも僅かある。人里にもある。そちこちに溢れている。犇いている。

 痩せ衰え鈍麻不明と化したものたち。かつて失ったものを想い居並ぶものたちである。

 人間を襲えないにも関わらず――

 ……藍は、折々に考えている。

 彼女は誰にも見えなかった。役割なのか、性質なのか、強大で佳麗な狐に向けられる視線は彼女を素通り何でもない処を突き抜けた。さながら、夜空に輝く星々の煌めきが、それが眩しければ眩しいほど、決して個々の輝きとして意識されないのに似ていた。

 その数は次第に次第に増えていって――

 増えたと思えばふとした時には消え――

 ちらりと瞬きまた増えているような――まやかしの、ゆめまぼろしの、狐の燐火である。

 色さえ定かではなく、見る者を惑わすのか、追う者を煙に巻くのか、由来も目的もはっきりせず、ただそこにあるというだけなのに、それでもその存在は無視できないぐらいにはっきりしているという、なんとも曖昧で、厄介なものだった。

 誰にも藍は数えられない。

 華美で幽玄な狐の焔も、やがては落ちて跡形もなく消えるという。

 だから、誰にも藍は数えられない。

 冷徹で、身も蓋もない藍の明快な方程式は、情やら義といったぬくもりの入る余地のないものだった。

 それはあの、天に輝く目一杯の星空を眺める時の、手を伸ばしても決して届きはしないのに、それでも俯いて地面を見つめる気にはなれないという、あのどこか屈折した想いにも似ていた。

 

 

 一、

 

「まっずい酒ねえ。呑めたもんじゃないわ」

「左様で。でしたら別段呑まずとも結構ですよ」

 夜の中、やりあう二人分の声色がする。

 木造の、いかにも狭くて古い長屋の中である。

 べろんべろんに酔っ払い、酒臭い息を撒き散らしているのは、強かで強い古の妖怪、封獣ぬえ、その人だった。

 抱えた酒瓶には「消毒用アルコール」というような事が書かれていた。

 その厄介者の相手をしているのは、これは周囲から青島と呼ばれている狸の妖怪である。

 薄汚れた手ぬぐいをほっかむりにしたその下で、いつもいつも詰まらなさそうに顰め面をしていると、よくいわれている。

 ツラに関して言及するならば、そいつのところに顔を出すのがことごとく、面倒ごと厄介ごとであるせいなのかもしれない。

 人里に居を構えるそいつは、これはぬえとは反対にかなり弱い輩で、巷説に伝わる大妖怪をどうにかする事など不可能だった。酒の入った大妖怪様は、酷く手のかかる、ケラケラとよく笑い騒ぎ立てる、万事に不可解な生き物だった。

 だからそいつは、スペルカードを持っていなかったのだ。

 ようやくの事でそいつを追い返した時分には、すでにもう、月が顔を覗かせてさえいた。

 サテ、サテ。

 首を鳴らし、気を取り直して、文机に向かう。筆をとってしばらくうんうんと唸っていたものの、いっかないっこう手先が走り出す気配もない。尻の尾の生えた辺りがわさわさとさえしている。ハハア、これはまだ何事かあるなと思い至る。

 敷居も壁も何もかも薄っぺらい安普請の長屋である。顎などを擦りながら座布団の具合を意味もなく直したりしていると、ほどなくして何者かの気配がした。がたがたがたと、音がした。

 邪魔するぜ。表の方から声が聞こえる。

 ハイハイ開いておりますよとぞんざいに返した。

 声より先に戸口から現れたのは、月明かりの薄闇の中でさえも見紛う事のない――

 黒白の魔法使い、霧雨魔理沙であるようだった。

「いきなり、悪い。いま、いいか?」

「ええ、ええ。構いませんとも」

 機嫌よく頷いたのは、もちろん彼女の手にぶら提げられていた酒のためである。

 せまっ苦しい長屋では、少女が一人増えただけでますます手狭な感じになる。

「すいませんねェ、気を遣ってもらってしまって」

「いや、押しかけたのはこっちだしな。あー、ちと立て込んでて、酒しか持ってきてないんだが」

「呑める酒はないので丁度いいのですよ。……まあ、もう呑めない酒もなくなりましたがね」

 恨めしげに、横目でちらりと空になった瓶を見る。閉ざされた里の中では貴重なものだ。そいつは賢くも強くもないなりに、医者の真似事などをして日銭を稼いでいるのだ。

 長い金の髪が揺れる。

 狸妖怪の向かい合ってどかりと腰を下ろし、ちょいちょいと座布団を引っ張ってくる。お互いに慣れたものだ。

 その拍子に、ふわりと眼前の少女の……体臭が届く。

 それは少女たちにだけ許された甘い甘い、酷く蠱惑的なものだった。

 薄れて掠れ、ほとんど忘れかけていた食い意地がふと顔を出すような……そんな気がした。

 ごほん、ごほん。

 心中浮かんだ気持ちをごまかすように咳払いをした。

 魔理沙の方は、常の陽気なさまをどこかに隠し、なにやら終始、難しい表情をしている。

「私はいいから、気にせずかけつけてくれ」

「よろしいので?」

「いまは……そういう気分じゃない」

 彼女はそう言って、そこでようやく帽子を脱いだ。

 八卦炉も畳の上に置いた。箒からも手を離した。

 ずいぶんと、重装備だった。

 ちらりと彼女に目をやって、改めて話の続きをうながした。

 しかし彼女は首を振って、呑めと言う。そのあたりは、少女特有の気難しさにも思えた。

「では、失礼をして」

「うん」

 二人の立場はまったくの対等である。妖怪は彼女に歯が立たないし、彼女は自分よりも遥かに老齢なそいつに素直な敬意と愛情を抱いているのだ。

 その上で、まったく、嫌味だとか悪意を感じさせないところは、魔理沙の人柄のなせるものかもしれない。

 そして、星と熱量の魔法使いはそんな事おくびにも出さず、ひけらかさず、あくまで自然体だった。妖精などにも慕われる一因だった。

 深く考えてないだけといえば、そうなのかもしれなかったが。

 

 

 二、

 

 珍しく億劫げな魔理沙が、ようやく口を開いて、ぽつりぽつりと語りだした話。

 とぎれとぎれに、話している本人でさえも迷いながらのその話を、飲み込んで一つにまとめるなら、それは一人の人間が消えた話。

 いや、むしろそれは――

「“消えた人間”の話。でしょうか。ふむ……」

「その門番にも再度話した。だけど、誰かと戦ってずたずたにされたようで、そいつはよく覚えていなかったんだ。そもそも私としか戦っていないと言う。けど、あそこまで手酷くやった覚えはないし、そもそも私が通った時はぴんぴんしていた。だから私とは別に這入ったヤツがいるはずなんだ」

 その侵入者を、即座にイコールでドッピオと結びつけるには、早計だろうか。

 だとしても、まったくの見当違いの線ではないだろう。

「おまけに八雲のとこの狐まで出張ってきているみたいだ。絶対に、何かが起こってる。冗談じゃすまないような事が。……だけど、何がどーなってるのか、それがさっぱりなんだ」

 あの気弱な少年を単なる人間とするには、あまりにも状況が捩れている。

 しかし……魔理沙の中で、あのおどおどとしたドッピオというヤツのイメージと、それらの符号の断片とが、うまくくっついてくれないのだ。

 話すにつれて、改めて自分の中を見渡す余裕ができる。

 それは、「私はどうしたいんだ」というところにいきつく。

 会ってあいつをいっぺんぶん殴ってやりたいのか。それとも、騙していたな、と怒ったりするのか。

 でも、騙すってなにをだ。

 門番をぶっ潰したのはお前なのか。そもそも、どうしてあんな場所にいたんだ。何か、お前にはやるべき事があるのか。その目的に、わたしは……。

 わたしは。わたしは。わたしは……。

「どうすれば……いいのか」

 そう言って、力なく、魔理沙は目を伏せた。黙して項垂れる様は年相応の幼い少女である。

 黄色いまなざしを下ろした先にあるのは、ところどころほつれた跡のある、年季のうかがえる古臭い畳の縁だ。

「迷っておられるのですか」

「迷う……? いや……」

 そいつの声は、普段話す時のものと同じく、おおよそ温和といってもさしつかえない。

 しかし、どこか苛立たしそうでもある。手ぬぐいの下で眉間に皺を寄せたその顔は、なんともつまらなさそうだった。「こんな簡単な事もわからないのか」という表情をありありと浮かべていた。

「迷うというのは、これは信じていないんです。それどころか、実につまらない事を考えてしまっている」

「あー。いや、信じるっつーかさ……」

「別にいいじゃないですか。難しく考える必要はない。信じて何の不都合があります」

 畳の縁をすうっとなぞっていくように視線がからっ滑りしていく。肩の上でくるくると髪をいらう。

 狸はとんとんと畳の縁を叩いて、とくに力をこめたりもせずに、いった。

「それとも、やめますか」

「やめるって、何をだ」

「他人を信じる事をですよ」

 さらりとそういった。

 魔理沙は初め、何を言われたのかよくわからず……沈黙した。さっぱり、わからなかったのだ。

「信じねば救われぬ、とはよく聞く御題目ですがね。ならば最初から信じなければ? でなければ他人に手酷く裏切られたり、その結果傷つかなくてもすむでしょう」

「……」

「嘘をつかれなくともすむのです」

「嘘を……って、そんな大した事じゃないんじゃないか。ついほらぐらい吹く時だってあるだろう。それをなんか、裏切り、だとかさ。そんな、大袈裟な……」

「そうですか。でも、嘘をつかれるのは嫌な事ではありませんか?」

「嫌かどうかでいったら、そうだけど。でもさ、ほら……優しさでつく嘘……とか」

「本当は寝過ごしてしまって約束に遅れてしまったが、そのまま言うよりかは当たり障りのない嘘をつくような?」

「そうそう」

「聞いたら傷つくような事実も、ちょっとごまかして伝えた方がよい」

「うーん?」

「例えば、そうですね……肉親の死だとか」

「あー……」

「――突き詰めて、信じるという事を、他との関わりを否定して、そして真の意味で一人でいても平気なまでになったなら、あるいは貴方は、人間という境地からぶっちぎりで超越できるのかもしれません」

 人間を超越する――

 そうやって、青島はとんでもない事を言い出して、それでもその口ぶりは、どこまでも当たり前の事しか話していないような感じだった。

「なあ、いったい何の話だよ」

 つられて話している内に、魔理沙はすっかり訳が分からなくなって、困り果てた声を出した。

「ですから、最初から話していますよ。信じるという事について。わたしたちは、信じなくてはならない。そういうふうにできているのです。本当は、もっと良い方法があるのかもしれず、しかしそれは今のわたしたちには通用しないものでしかない。であるなら、そうしないでは生きていられないのです。例えそれが、決して貴方に優しいばかりでなくともね」

 狸の口調はのんびりとさえしていた。

 信じた相手に裏切られる事。

 そのからだを蝕むもの。

 毒のようなものだ。

 しかし、例え恐ろしい猛毒であったとしても、そうと知って摂する分には、あるいはそれは、薬にもなり得るものなのかもしれない。

 それを聞いた魔理沙は。

「そうしないでは……生きて、いられない、のか」

「これはわたしが妖であるからなのかもしれませんが。別に人間なんて食って寝てひり出していればそれで生きていけるのでしょうし」

「そうか……」

 魔理沙は、何度か口の中でぶつぶつと、たった今言われた意味の通じにくい言葉を繰り返していた。

 ぶん殴るのか、それとも蹴り倒すのかさえもまだ決まっていなかったが。

 そもそも自分は魔法の森の職業魔法使いだ。

 霊夢との勝負はやや負け越し勝ち。和食派。魔法の力は、環境にも優しく、世に役立たない方向でふるうのが好き。

 すんなりと、胸裡に落ちたわけでは、決してない。

 けれど、いまこの瞬間にすべき事は。

 これは、迷う必要はないようだった。

「私は、ひとまずあいつを……追う事にする。世話をかけたな」

 その信条は、弾幕はパワー。当たって砕けろ、そこから足掻け、なのである。

「追いかける、ですか。左様で……」

 魔理沙の言葉を聞いた青島は、しばらく頭を手のひらで何度か擦っていたが、やがて。

 大きく二度、頷いた。

「あい、お話はよくわかりました、魔理沙さん。そういう事情でしたら、もしかしたらば、力になれるかもしれません。今から教える場所にすぐにでも向かいなさい。おそらくですが、あなたはあの方に会うべきだ」

「うん? ……そいつはいったい誰なんだ?」

「ブン屋さんですよ。きっと、話せばすぐにでもわかるはずだ」

「……なるほど。あいつか」

 きっとそのとき、魔理沙は相当に渋い顔をしたのだろう。

 あの堅物そうな渋面が、ちょっと黙ったあとに、小さく笑い出したからである。

「そこまで嫌そうにしますか。お気持ちは重々わかりますがね。天狗らが弱いものをいじめるのは、これはもう仕方がないと諦めた方が、色々と良いのではないかと思いますよ。それになんといっても、彼女は里に一番近い天狗ですから」

「いやあ、そういう事じゃあなくて……なんか困ったら射命丸だしとけ、みたいな風潮がさ……」

 ううん……と首を一二度ひねった魔理沙は、ともかくそれで気持ちを切り替えた。

「とにかく射命丸に会えばいいのか?」

「はい。その通りです」

「あいつは何を知っているんだ? どうして会う必要が――あるんだ」

 どうして、ですか。簡単な話です。

 追いかけるものが同じなら、直接訊かれるがよろしいでしょう。

 笑顔が辛そうだといつもいつも言われている渋面柔和な妖怪狸は、普段と同じくした様相のまま。

 そういう事を言った。

 

「ドアぐらい、開けてから出て行かれても遅くはないでしょうに」

 別れのと謝辞が混在した言葉が狸にまで届いて、それをそいつが拾い上げた時。

 そこにはすでに誰もいない。

 ぽつりと小さくつぶやいた。

 

 

 ※

 

 それは誰にも存在しない。

 絶対に。

 誰にも――自分自身の、確かな意志というものなど。

 

 

 三、

 

 魔理沙が古馴染みのところを訪ねる少し前。

 魔法の森の中である。

 その名の通りに、森の瘴気は人間が生きるにまるで適さない。くしゃみが死ぬまで止まりそうにない、鼻水が尋常ではない勢いで吹き出る、などの凶悪な症状が間断なく襲ってくる。とりわけ、藍のふわふわと浮かんでいく森の深奥は、いっそう瘴気が凶悪で、濃過ぎていて、おおよそ人間などがいるとは思えなかった。

 右に、あるいは左に、力ある九つの尾が地面のすぐ上をゆれていくように、彼女の眼差しはふらふらとそこら辺を見ている。探している。

 まるで、その辺に人間の死体でも落ちていないかしらというように。

 

(――結局、自分だけの思いだとか、何ものにも縛られない自由な気持ちなんてものは、どこにもない。そんな事を言い出すやつ、そいつがそもそもは他人の目を気にしているものだ)

(意志というものは……ゆだねるものだ)

(そして、世界を形作るのが、星のごとくある誰かの意志である限り)

(誰も、そこから自由ではいられない。その影響から逃れて無関係でいられる事など、不可能だ)

 

 藍はそうやっていつも考えている。計算をしている。

 何故なのだろうか。どうして人は嘘をつくのか。どうして他人の嘘にはとても厳しいのか。そうやって「偽る」事は、そいつ自身にとって、何か有益なのだろうか。人が嘘をつく存在で、人は嘘が嫌いだというのなら、本質的に、人は人自身の事が嫌いなのだろうか。

 人は誰かに嘘をつく。

 その、ごまかし。

 目の前に広がる世界さえ真っ直ぐ見る事ができないで、目をそらして、ごまかしている。

 そこにあるのは不安だ。

 

(すでに今、こうして世界は形ができてしまっていて)

(人は互いに嘘をつく)

(つまり、世界は不安で満ちている)

 

 あらゆるところに不和があり、闘争がある。世界は冷たくて厳しい。世界というものが先にある以上、人もそこに生まれてくるしかない。選びようもないし、拒否もできない。

 絶対不変の真理などというものもない。どんなに正しいような事でも、別のどこかでは間違っていて、世界にはそうした矛盾が積み重なっている。

 多少の想像力があれば容易にわかる事だ。

 世界は人に優しくなんてないが、そうしたものを看過しているものまた、人なのである。

 

(中途半端は――駄目だ)

(殺すべき者を殺し損ねているというのは、この世でも一等の不都合だ)

 

 何かを信じるという気持ちは不安から生まれているのではないのか。現実を直視するだけの力がなくて、その上で、自分の思うがままにあって欲しいのだ。

 けれどそんなもの、起きながら見ている夢のような勝手なものでしかなくて、慌ててそのつじつまを合わせて、そのまま平気な顔をしている。そもそもの不安がどこから来ているのか、自分がどんなものの上に立っているのか、それさえ知りもしないままに。

 だからああも簡単に――心が折れる。

 

(死ぬべき人間を――)

(確認されたはずだ)

(八雲紫が御自ら確かめられた筈。あの少年の事は)

(もうすでに)

(レクイエムという現象下の中、一連の戦闘で、死んでいる筈で――)

 

 もちろん、あらゆるものは戦いの果て、死の上にそびえ立っているのであり。

 この世界、幻想郷も、その下には殺された無念のものたちが無数に蠢いているのだ。

 

 藍は常にそれを考えている。

 このちっぽけな囲われた世界のために。

 誰かが死ぬ……殺されるだけの価値は、はたして本当にあるのだろうか。

 

「いいや――」

 

 どこからか、幻想郷では珍しい、少女以外の声がした。

 

 その時、藍は実に奇妙な反応をした。「ブルブル」と突然身震いをしてみせたのだ。それは、体のいくつかの部分をその場で厳重に押さえつけられて、さらには見えない巨人の手で左右に無理矢理「揺さぶられた」かのような動き方だった

「……うぁっ」

 その動きは痙攣のようで、しかし藍の驚愕する表情から、それが思ってもいない事なのは確かだった。

 九つの尾がばさりと莫大な妖気を持って広がり、ぶわっと森の中を見えない強風のようなものが通り抜けていった。

 それは一瞬の事だった。

 遠くから見れば、藍の姿が少しの間、握った拳の一つ分宙に浮いたように見えた。彼女がその場でぴょんと飛び跳ねたと言われてもおかしくないぐらいだった。

 そして「すとん」と地面に降り立った。

 藍はふと、自分の腹を、道着の上からぽんぽんと叩いてみた。

 しかし、触れるはずの指先は、するりと何もないところを突き抜けた。

 それは、嘲笑うハロウィンかぼちゃのようにぽっかりと空いた大穴だった。

 藍にはそこを突き抜けていた紅い腕を目の当たりにする事もかなわなかった。

 どう見たって、決定的な、致命傷であり――

 

 ――死ぬのはお前の方だ。

 

 

 

 




更新してなかった(あほ)
いまさらですが、「ジョジョの奇妙な東方Project」さまの方ではちょっと更新が早いので、よかったらどうぞ。


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番外:鈴仙ちゃんの突然の死

BGM “Sk8er Boi” by Avril Lavigne


 

 ※

 鈴仙はわずかに脚を引きずるようにして歩きながら、ぶつぶつと口の中でひとり言を呟いていた。

「うーっ……あー、もう……!」

 ちくしょう、とかすかに毒づいた。

 彼女の師、八意永琳から言いつけられたお使いが、到底達成不可能で、果せそうにないからだ。

 すでに丸二日、不眠不休で動いているが、頼まれた捜しものの糸口でさえ掴めずにいる。……そしておそらく、自分には言いつけを果たすのが不可能だとも思う。単なる徒労でしかなくて、実に無駄な事だ

 彼女の現在の主人の頭をブチ割って、まんまと屋敷から逃げおおせた下手人を挙げて来い――などと。

 ただの兎でしかない彼女には、確かに手に余るものだったのだ。蓬莱人なんていつもいつも無茶ばかり吹っかけてくるとまで思ったぐらいだ。

 だから――

 知らぬ顔をして、ほっぽりだす事にした。

 

 

 一、

 

 鈴仙がふと顔を上げると、陽光が真っ赤に燃えながら沈んでいく、まさにその瞬間だった。

 大層ご機嫌な感じだ。

 右手にお団子。そして飴湯。

 徹夜が続いて、少々疼痛のする頭に、甘くて温かいものがとても嬉しい。

 店先の腰掛けに落ち着いて、足をぶらぶらと遊ばせる。その影が夕日に長く長く伸びて見えた。靴先がぐんにゃりと奇妙に歪んでいて、耳のところがお化けみたいにゆらゆら揺れていた。

 隣の男もだいたいそんな感じだった。

「……で、ごめんなさい。何て言ったっけ」

「ドッピオですよ」

「ああ。そう、それだわ」

 しょうが湯から上る湯気ごしに、小さな苦笑が見えた。

 覇気がない、というのだろうか。大人しそうなやつではある。人里ではあまり見かけない名前に、髪の色。珍しいのか、鈴仙の耳をじろじろと見てきた。鈴仙はわりと身長が高いが、そいつもわりと低かった。話しかければ、案外気安さはあった。

「ま、お互い大変よね。探し人なんて。里こそけっこう狭いけど、ここで見つからないとなるともう、どこへ行けばいいやら、ね」

「この辺りにいないなら、外にいる事になるのかな」

「そうじゃない? でもまー、妖怪なら何やらに、食われるほど弱くなければ……だけどね」

「例えばどこに行けばいいだろう?」

「ん。んー? 一番近いとこからしらみ潰しに、って?」

「そうするしかないのかもしれない」

「いや、でも……あそこはやめといた方がいい。なんてったって悪魔の館よ」

「なんだって?」

「ほら、あそこ。あの畔のとこ。赤くて趣味悪いやつ。血に飢えた吸血鬼が住んでるからね」

 話す彼女はけっこう生き生きとして、楽しそうだった。

 それは、ドッピオの人当たりの良さがそうさせるのかもしれないし、周囲の事情からくるものなのかもしれない。永遠亭において、輝夜は主人、永琳は師、てゐは年長、その他妖怪ウサギたちは皆手代のようなものだ。気楽に話せる対等の仲という意味ではむしろ、巫女や黒白といった、弾幕を撃ち合ったりする外の連中との方が多いのかもしれなかった。

 

「まあ、やるしかないけどね。頼れるのは自分だけだわ」

「……そうだね」

 

 鈴仙は月の兎である。赤い瞳にすべてを映す。

 月から逃亡を果たした身の上であるが、その能力はたとえ地上でも無敵で最強だ。

 両目でじっとそいつを見つめると、湯呑みにふーふー息を吹きかけていたドッピオは、少しばかり困ったように笑った。

「どうしたの?」

「……そもそも、なんであんたは話しかけてきたんだっけ」

「それは……珍しかったからさ」

 そう言って、何を馬鹿な事を、というように口元を押さえた。

 思わず、口から零れてしまった、という様子だ。

「何が珍しいの。兎ならそのへんにもいるし」

「俺が……見えているようだからな」

 鈴仙の瞳は狂気を湛えている。

 その目が捉えるそいつは酷く、酷く酷く極々短い波長で、あまりに短く隙間が空いていて、その波長の間隙をうまく縫えば、まるで人ひとりぐらいは隠れられそうなほどにいびつで歪んでいた。

 あるいはなんか足りないのかもしれないぐらいだ。こっそりそう思った。

 この世のすべての空間の、光の、感情の波長、それらは普通目には見えないが、鈴仙にはそれがわかる。

 彼女の無敵の能力は、それらを意のままに操れる。

 病的なまでの臆病さ。それがそいつの本性のようだった。

 

「あんたさ、何でそんなにびくびくしているの」

「――あ?」

 

 鈴仙は反応できなかった。

 もちろん、手にはお団子を持ってもぐもぐと頬張っていたし、地上に来て串物を食べる時いつも思う事だが(これこのまま喉に刺さったら怖いなあ)とも心配していたし、あいにく夕日が煌々としていても季節柄そろそろ膝の辺りが寒いなあとも考えていたし、この探索上いつもの仕事のスケジュールはこなせていないが師匠はたぶん戻っても溜まった仕事を手伝ってくれないなあなどと心配もしていた。

 それでも反応は難しかった。

 きっと、空の雲はちぎれ飛んだ事に気づきせず、消えた炎も消えた事を自身さえ認識できない……そういった、何かをぶっちぎった、理解の及びもつかない超常の現象だったのだろう。

 さっとかすかに赤い光がきらめいた。

 たったそれだけだったのだ。

「ザケてんじゃあねーぞッ!! なんだってどいつもこいつもまるでどーでもいいような事に首突っ込んでくんだあああああッ!!」

「……う、うう……」

「コケにしやがってッ!! テメーに関係があんのかよ、ええッ!?」

 鈴仙は優秀な兵士だった。

 その兵士としての感覚が、けたたましく盛んに警報を鳴らして、うるさいぐらいだった。

 それはもちろん命の危機を知らせているのだ。

 片方の耳は完全に千切れてしまったようであるし、もう一方も半分ぐらいしか残っていないようだ。

 鈴仙は自分の頭が軋む音を聞く羽目になったが、泣き言をいうわけにもいかない。なにせ博麗の巫女は異変の最中ならまだしも、普段の態度は行雲流水、お金がなければやる気もなさそうだ。瞬間移動に似た所業はできるが、いまこの瞬間に間に合うかは完全に不明、たぶん無理。そもそも襲われている鈴仙は妖怪の区分に入り、妖怪バスターの霊夢はこの場にいても事態を静観した可能性さえある。

 だから反射的にぶっ放した。

 鈴仙・優曇華院・イナバは優秀な兵士だった。

 兵士が相手を殺すのは自分の意志ではなく訓練によって刷り込まれた反射行動だ。

 手加減ゼロ、遊びでない本気の弾丸を撃って、そして鈴仙の意識はそこで終わった。

 危険な感じにぼーっとする頭で最期に思ったのは、姫さま用に包んでもらったお土産のお団子が、どうも無駄になったかな、という事だった。

 



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番外:鈴仙ちゃんは二度死ぬ

 ――この銃の引き金を引くために、私には耳障りの良い言い訳が必要なんです。

BGM “Girlfriend” by Avril Lavigne


 一、

 

 どうしても、片方の耳がうすっぺらの枕の下になってしまっているような気がして、鈴仙は何度も身じろぎをした。

 しんと静まり返った病室の中で、やっとこさ具合のいいところに耳を落ち着けたと思っても、しばらくじっと瞼の裏側の虚空を見つめていると、漠々とした違和感がむくむくむくむく膨らんでくる。

 もちろん鈴仙はけがの回復を待っていて指の一本も満足に動かせない。

 それも一因になっているのかもしれなかった。

 

 彼女の上司である永琳は、おつかい(蓬莱の人の頭をカチ割って逃走した犯人を捕まえる事)を果たせず、やられて戻ってきた姫のペットにあまりいい顔をしなかった。

 必要上の治療だけを施したのち、ベッドの上に鈴仙を放り出してそれでおしまいだ。「首のすわるまで」一晩大人しくしているように、とだけ言い残していった。そのあんまりな扱いに、鈴仙の口から月にいた頃使っていた罵倒や悪態が山ほど出かかったが、聞かれたらコトであるので内心でこっそりとつぶやくに止めた。

 同居人のてゐが嫌がらせに、顔へ真っ白い布を被せていったので、彼女の無敵の能力もいまいち力の振るいどころがなかった。

 長い耳をひたり、ひたり、頭から四方へ伸ばしても、横たえさせられた寝台のその狭さが把握できただけだ。

 これでは暇で暇で仕方がない。

 退屈をつぶすために、頭の中で知り合いと知り合いを挨拶させて、こいつらは相性が良さそうだとか、こっちは会ったとたんに殺し合いを始めそうだとか考えていたが、それもすぐに飽きてやめてしまった。

 ……そんな頃合いである。

 なんの前触れもなしにいきなりがらりと扉が開いたのだ。

 鈴仙はびっくりしてそちらに首を向けた。

 

「……」

「……し、師匠?」

 鈴仙が震える声で一度ぽつりと誰何して、誰も答えてくれずにそれっきり、沈黙が大きく手を広げて圧し掛かってきた。

 知らず知らず、耳がわずかに「くの字」に曲がっていた。なぜなら、最強の鈴仙の能力にも例外というものがあって、その盲点とでも呼ぶべきものがまさに目の前にいたからだった。

 たぶん。永琳さまか、姫さまよ……あの二人にも、あんまり効かないし。

 そうでなかったなら……おそらく、鈴仙はここで腹筋ぼこぼこにされてしまうだろう。……相手が永琳の場合でも、最悪の結末を考えると、あり得る事ではあった。

 そうやって鈴仙が、想像と警戒と、ありもしない苦痛の想起によってぶるぶるぶるぶると震えていると、どこか躊躇うような気配ののちに、ややあってから声がした。

 中空に垂らされた水の一滴のような、快晴の空のまなざしのようなその声は、鈴仙が聞いた事のあるものだった。

「おはようございます」

「お、おはようございます……。……えっ?」

 その声に、聞き覚えはあった。しかし。

 鈴仙の脳裏では最悪の結末が意地の悪そうな妖怪の姿をして、師匠と肩を組んで鈴仙の事をげらげらとあざ笑うのが見えた。二人して、指で下品なしぐさをしたり、「負けて死ね」という意味の書かれたプラカード(おそらく師匠の仕事用の医療カルテ)を振り回していた。

「月の兎(せんし)よ。けがをされたと聞きました。今日は、そのお見舞いに来ました」

「……純狐さん、ですよね?」

 思わず鈴仙がそう尋ね返すと、純狐と呼ばれたその人は、にっこりとした笑みでにうんうんと頷いた。

 それだけで、怖気の走るような力が部屋中に溢れだし、渦巻き始めるのだ。

 それは先だってのかの異変の折に彼女と対峙した際、真の意味での古い力、神霊である彼女がぶつけてきたものとまったく同一だった。

 そしてその時に、投げつけられた言葉たちも、ありありと思い出せる。

 

「だが、不倶戴天の敵、嫦娥(じょうが)よ

見ているか?

お前が出てくるまで

こいつをいたぶり続けよう!」

「お前に良心の呵責というものがわずかにでも残っているのなら、大人しく観念しろ!

さもなくば嫦娥よ、聞け!

こいつの生皮をはがし、おもてに塩と香辛料を擦り込み、風通しの良い日かげで適度に寝かせ、熟成をみ計らい、からだのいたるところが裂けて血の吹き出すまで転がしてやろう!」

「口だけではないかと疑っているのか?

私は本気だ!

見よ! このうさぎの、臆病そうなくせして妙に増上慢な表情を! 見ているだけでついつい苛めたくなるさまを!

私の怒りは混じりけがないぞ!」

「そして見せよ!

こいつが生きて帰られなくなるか、さもなくば腹筋ぼこぼこにされた上で帰れなくなるか

二つの道を前にして、お前が選ぶものを。お前の答えを待とう!

このうさぎの極限の状態を前にして、お前の純粋なところが露わになる

どちらにしろ、穢れたるこいつの行く末など決まりきっているがな!」

 

 鈴仙の耳はしわしわになった。

 純狐はそれにまったく気づいた様子もなかった。覚えてくれていて嬉しいです。そういって、両の腕を広げて伸ばし、彼女を掻き抱こうと待ち構えた。

 その光景が見えていない鈴仙は、ぎこちなく笑おうとして失敗し、指の先になんだかぴりぴりとしたものが走り、その耳は見る間にしわしわになった。

「お見舞いって……どうしてまた、そんな」

「いけませんか?」

「あの……いえ、お気持ちは素直に嬉しいのですが……」

 ずっとずっと、大きく腕を広げて待ち構えているのに、鈴仙が飛び込んでこないため、純狐は不思議そうな顔をして腕をおろした。

「はて――その顔。どうしたのです? けがをしたのは違うところだと聞きましたが。幻想郷(ここ)では病人にそのような事をするのですか?」

「ああ、これは……てゐが。いえ、同居人なんですが……悪戯で。……えーと、とにかく」

 鈴仙は言葉につっかえた。詳しい説明が(とくに相手が純狐であるので余計に)億劫になった。

 それに、目隠しをされたまま人と話すのも、なんだか変な感じがしていたのだ。

 だから鈴仙は言ってしまった。

 野に生きる兎は、ずる賢さでは狐に及ばず、牙も爪の鋭さもなく、駆ける脚でも到底勝てない。だから彼女らにできるのは、わずかでも早く先に相手を察して、「追いかけるのは面倒だな」と相手が思うのを祈りながら、逃げる事だというのに……鈴仙はそれを忘れていた。

 それを彼女はすぐさま思い知る事になった。

「あの、良かったらですけど……この、目の布を取ってもらえたら嬉しいんですが……」

 そういう事を言ってしまったのだ。

 

「いいのですね?」

 

 ぴったりと。

 鈴仙と純狐の、頬と頬がくっついた。

 

「そうね。やっぱり鈴仙ちゃんもそう思うわね」

「??? ……???」

「ほんとはね、先にお薬屋さんにね、手をふれてはダメだって言われていたの。大事だものね? 今日のところはね。ほんの少し、あいさつをするだけ。もし万が一、何かあったら困りますからね」

「……! ……!」

「でもやっぱり。お話しするには、目と目を合わせて、手で撫ぜたりしなければいけないわ。こんなふうにほっぺたの柔らかさを感じたり、指を握り合ったりね。仲良くお話しするためにはね」

「……!! ……!!」

「大丈夫よ。大丈夫。落ち着いて。貴方はあの日見た時からずっと、強いわ。ずっと、ずっとね。すこしの夾雑物も、地上で暮らすものの愛嬌のようなものでしょう。貴方は大丈夫です。すこし、疲れているのですね。私はそれを知っている。いまはただ、ほんのすこし、疲れているだけ」

「……!!! ……!!!」

「ああ、暖かい。やわらかい。あの子を思い出す。すてきですね。毛が生えてふさふさしていて、こんなにも可愛らしいのに、これも確かに貴方の一部分なのですね。まるで違うのに、なんだか懐かしい。ぬくもりが。暖かいです。ねえ。あの子があの子じゃなかったら、私、鈴仙のような娘がほしかったわ。そうでなくとも、あの子と鈴仙が一緒になってくれたなら、きっととてもすばらしいわ。きっと、とっても。ああ……。私の前に立ち塞がるほどにつよくて、優しい子……。おお……。おお……。ああ……ああ!」

 

「嫦娥よ!!」

 

 間一髪で――鈴仙は、片方の耳を頬と頬の間に挟みこみ、ぎりぎりのところで彼女の接触を防ぎ切っていた。

 でなければきっと、もっと凄い事になっていただろう。

 どうやら、純狐は鈴仙の耳をしわしわにする事に相当長けているようだった。もしも因幡てゐが見ていたならば「なかなかやるじゃないか、あいつ」と評しただろう。

 

 

 ※

 

 純狐にふれられ、鈴仙は自力で上半身を寝台に起こす事に成功した。

 おそらく、脊椎動物だから頭と背中をぐしゃぐしゃにされた後遺症で動けません、などと言っていられなくなったからだろう。

 

「そうだ。お土産があります」

 純化した想いが膨れ上がり、気の弱い兎ならば心臓がひっくり返るような力を一面にばらまき、鈴仙の耳をしわしわにした純狐は、それですっきりしたようで、けろりとした顔でそういった。激昂してトチ狂いそうになるとそうやって頭を冷静にすることにしているのかもしれない。

 鈴仙はなんだか笑みのようなものを浮かべようとしたが、顔が引き攣って失敗した。「き…気持ち悪いぜ。ダダっ子のように泣きわめいてやがる」とは、もちろん言わなかった。

「はあ……? あの、すみません、なんと」

「少しばたばたして忘れていましたね。ああ、ほら、これです」

 そういって純狐は持ち込んだ風呂敷包みから、畳まれた衣類のようなものを取り出した。

 その変なTシャツにはなんだか見覚えがあった。

 そのTシャツには、「GO TO HELL(地獄に落ちろ)」というのが殴り書きされていた。

「……」

 ふと鈴仙は、地獄の女神ヘカーティアが言った言葉を――純狐から「目の前の兎は、われわれの策を台無しにした敵である」と話を聞かされた時の、

「しょうがない

消すしか無いか」

 という言葉を思い出した。

 その冷たい目を……いたいけな兎の一匹など、なんとも思っていないような目を思い出した。

 鈴仙は耳がしわしわになった。

 ちなみに、その時鈴仙は彼女に対して、

「そうか、月で見た妖精のご主人様って

貴方の事ね

変な格好してるからすぐに判ったわ」

 と言ったのを忘れてしまっているが、それを指摘するものもいなかった。

「ヘカテーからですよ」

「……私、ヘカーティアさんを怒らせましたか」

「あら。どうして?」

「急にあの人に……本当に突然なんですけど、嫌われている気がして」

「そんな事ないわ」

 手に持って広げていたTシャツを裏返して、純狐が不思議そうにいった。

「ほら、ぜひ地獄に遊びに来てください、と書いてあります」

「そうでしょうか……」

 

 二、

 

「貴方の髪は艶々していてとっても綺麗で、わたしは好きでした。どうしたのですか?」

 

 ――どきりとする一言だった。

 純狐はお見舞いに来た患者の家族用のパイプ椅子に腰掛けて果物をしゃりしゃりと剥いていた。「お見舞いに来た」という言葉は、少なくとも彼女にとっては嘘も偽りもないようだった。

 鈴仙は「早く帰ってください! お願いします!」という念を込めた狂気の視線が「ああ、この椅子に座ればいいんですか。わざわざありがとうございます」という受け止め方をされてしまい、随分と気落ちしていた。しょうがないので、どうにかわかってもらえないかなあと考えあぐねながら、すっかりしわしわになってしまった耳を頭の前にもってきて、付け根のところから耳の先へ何度も擦っているところだった。

「……えっ?」

 振り向くと、彼女の澄み切った瞳に正面からぶつかった。

 ぱちぱち、ぱち。三度、瞬きをした。

 きらきらと光るような純狐の目を見ていて、鈴仙はそれが瞬きをまったくしない事にきづいた。

「髪って……あっ」

 後ろに手をやって、短く叫んだ。

 元々は足首にまで届かんとするほどの長さだった。それが今では、肩にほんの少しかかるぐらいまでになってしまっていた。これではさすがに一度矛を交えただけの純狐であっても、嫌でも気づくだろう。

「これは……姫さまの仕業みたいだわ」

 前からある事ではあった。一晩の間に彼女の髪はさまざまな長さに姿を変えて、自分より先に主人によっていじくられる事がある。

 言ってどうにかなる気はしないし……どうにかなる相手でもない。

「貴方はそれでいいのです?」

「私は姫さまのペットですから」

 その言葉に、純狐は小さく頷いた。

 そうですか。

 しゃりしゃりと止めていた手を再び動かした。すももとりんごである。どちらも小さく食べやすく切り分けられていた。

「食べられるかしら」

「……ありがとうございます」

 それっきり沈黙が二人の間を通り抜けていった。しばらく、鈴仙のたてるしゃくしゃくという音だけがしていた。

 それは鈴仙にとって別に悪い感じはしなかった。

「好きなものはありますか」

「……なんですか、急に」

「ヘカテーが、こんな時にはそういったものを聞くものだと言っていました」

「あー……ヘカーティアさんですか。いえ、特には……」

「そうですか」

 そういって純狐は頷いた。にこにこと笑顔だ。何をしてなくとも楽しい、彼女に手を焼かされているだけで嬉しい、そういう感じだ。

 そのまなざし。透き通っている。

 鈴仙はうつむき気味で、視線こそ外していたが、確かにそれを見た。

 もちろん、この世で鈴仙以上に視線に敏感な兎もいないのだった。

 頬に突き刺さってくる、自分の胸内を丸裸にしてどこまでも赤裸々に見透かさんとするそれは、彼女が今まで我が身の事として体験した覚えはなかったけれど、どこか懐かしささえあった。

 もちろんそれは、あらゆる生命の上に歴然としてそびえる一つの事実なのだ。

 鈴仙の知らないそのまなざしは、母親という生き物の持つものである。

「え、ええっと……」

 鈴仙は、急に気恥ずかしくなった。

 好きなものの一つも言えないなんて、どんなに心が貧しくて、つまらない生き方をしているヤツなんだろう。

 ……そんな気がしてきたのだ。

「でも、美味しいなって思うものは……たくさんあります。この前は姫さまが筑前煮を作ってくれて、ほらここって竹林ですから筍が採れるですけど、それで……」

「ほう。美味しかったのです?」

「はい! それに……あと、この季節は、よく裏でお芋を焼いたりします。そういう時に限って、天気は良いのに風がぴゅうぴゅう強く吹く日だったりして、待っている間にすっかり耳や指先がかじかんで冷たくなったりしますけど、その分、てゐ達とおしゃべりしてるのは嫌いじゃないですし……」

「そうですね」

「月にいた頃は寒さに震えてるなんて、無駄でしかないと思っていたのに、きっと昔よりお芋は何倍も何倍も美味しいんです」

「そうね、鈴仙ちゃん」

「あいつら(清蘭や鈴瑚の事)と話した時にはっきりと、私は地上の兎だってわかったんです。そりゃあ、久しぶりに見た月が懐かしくなかったわけじゃないけど……。自分の生まれたところ、一つのルーツですから。でも、それでも、どうしようもないくらいに、思い出すと胸が痛くなるのは……地上での暮らしの方で」

「……それはね、鈴仙ちゃん」

 美しいものばかり、楽しい事ばかりの楽園では、もちろんない。

 日々押し付けられる雑用はキツいし、永遠亭でのヒエラルキーはいっこうに上がらないし、食用兎肉の撲滅活動は難航し、まわりの連中も変なヤツばっかりだ。

 ちょっとしたサボりでもばれたらえらい事になるし、突然襲撃されて腹筋ぼこぼこにされたりするし、ちょっと過激でちょっと頭のおかしな人物はいきなり現れてくるし。

 自分では一生懸命頑張っているのに、それは無駄だ、お前は何もやってないんだと突き付けられる事もある。意地悪なヤツがいて、ただ善意のみで人に迷惑をかけるヤツもいて、嫌な事はたくさんある。

 とつぜん偉い人に「地獄に落ちますよ」と言われた事のある者が――そして言われた方の気持ちがどんなものか、はたして想像できるだろうか?

 ただもしも。

 本当に地獄に落ちる時が来たなら(もちろん鈴仙は、こんなに頑張っている自分に限ってそんな事ありえないと確信していたが……)。

 思い出すのは幻想郷なのかなと、ぼんやり考えるぐらいである。

 

 

 三、

 

 あの天に輝く太陽を射止める事など、すでに誰にもできはしない。

 全ての事象に縛られる事などなく、時間はめぐる。抗いようもなく朝日は天に昇るし、どうしたって夕日はやがて沈む。

 それを止める事は誰にもできない。

 決して。

 覆水は盆に返らない。

 無敵で最強の能力を持つ鈴仙でも、不可能な事はもちろんある。神ならぬただの兎の身で叶わぬ事は世界にごまんとあるのだ。

 

 ある日突然鈴仙を襲撃した神霊は、長い事話し込んでいた兎の姿を見て、とある感慨を抱いたようだった。

 そのために、彼女は突如として凶行に及んだ。それは鈴仙からすれば、茶屋で仕事をサボって一休みしている時にいきなり頭をカチ割られた時ぐらいの衝撃だった。

 その時彼女はどえらい表情をしていて、丁度それは、鈴仙でのルートでいう、

「月の民のその様な姿を

見たくは無かったですね」

 というような時の顔をしていた。

 

「やっやめてください! ちょ、お前、やめろってバカ!」

「怖がらなくていいのです。大丈夫、落ち着いて。大丈夫よ、大丈夫……」

 

 シーツに忍び込んでくる手を払いのけ、鈴仙は必死で抵抗した。

 しかし……この世で、無名の存在の添い寝を拒める者などいるのだろうか?

 もちろん、彼女の純化した想いは、この世で最も古き力あるものの一つである。

 いかな鈴仙の無敵の能力でも、それを妨げる事など不可能だった。

 

「大丈夫ですよ。いまはわたしがいます。さあ、ゆっくり休みなさい……」

「いやいやいやいいや! 本当にもう……!!」

「子守歌を歌ってあげましょうか?」

「いらないですって!」





しばらく会ってなかった母ちゃんに会うとなんとなく元気が出るような感じするよね。
だからきっとこれは母親といういきものだけが持っている特別な能力なんだ。


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陽落ちて その①

 おうどんである。

 熱々の鍋焼きうどんである。

 土鍋に一人前のおうどんを入れ、ぐらぐらと煮え滾るぐらい猛烈に熱くした料理である。

 伝統の幻想ブン屋、射命丸文の前にだされたものには、おうどんの他にシイタケ、シメジ、マイタケを初めとしたキノコなんかや、ネギ、ホウレン草、三つ葉、ニンジンなどの野菜が入っていて、他には衣のさくさくとした鳥の天ぷら、紅白のかまぼこ。そして一番上に生卵が割り落とされていた。

 麺はやや柔らかくあげられている。塩は貴重なため、どちらかといえば味付けはやや甘めであるだろう。ネギは二通り、白い部分をざくざくと乱切りにしてだし汁に染み込ませ、葉は刻んで散らして彩りに。

 湯気と共に鍋の香りが立ち昇る。卵が少しずつ少しずつ固まっていく。

 夜の人里で、メシを食わせる処は少ない。夜は妖怪の時間だからだ。

 射命丸がメシ食う店屋の二階の部分は大きく吹き抜けになっていて、風通しもすこぶる良いし、上空で弾幕でもぶたれていればそれを肴に酒も呑める。人の里という立地を考えなければ、天狗にとって中々気分のいい店だった。

 もっとも、彼女らにとっての最良は、いちいち歩いて階下の暖簾などくぐらせずに、そのままうえから飛んで出入りさせる事であるのだが。

 射命丸文はもちろん、そんな仕草は毛ほども見せてはいなかった。

 

「手のひらを前へ……ひじは直角……」

「なにしてる?」

「これですか? 記事を書く前の準備体操です。……だそうです。同僚がやってたんでマネしてみました」

「取材か」

 机の対面からは、極々小さい、騒霊の声。

 小さく灯された明かりに浮かぶ金の髪を揺らして、ルナサ・プリズムリバーは小首をかしげた。

 ちょっぴり、面倒そうな感じがする。

 人里まで顔を出せと、突然言われていそいそとやってきたはいいが、ただ酒を呑んで終われるようではなさそうだ。天狗も中々話がわかると思ったのは間違いだったらしい。

 酒とうどんが用意されていたところまでは順調だったのだが。

 妹たちに目的も告げず、黙ってこっそり、しめしめとほくそ笑んで来たのがよくなかったのかもしれない。

「ま、あの子なんかは準備体操がどーのよりもまず、自分の脚でネタを稼ぐという事がわかってないんですけどね」

「そうか。自分から動くのは……大事だな」

「いやあおっしゃる通りで。ささ、どうぞどうぞ」

「すまない。うん」

 示し合わせてぐいと酒をあおった。

 昼間と夕暮れと長く続いていた太陽の照り付ける視線もようやく落ち着いて、代わりに月の明かりの下でよどんだ風がふわふわと吹き抜ける夜だ。

 ぐびりと喉を落ちた酒は熱くもぬるくもなく、そのさまはまるで、生きてる人間みたいだった。

 

 

 一、

 そんなような事のあったかどうかは定かでないが、魔理沙がやっとこさ射命丸を探し当てた時、そいつはすでに相当できあがっていた。

 先に見つけたのは彼女の方からだ。

「あ。魔理沙だわ。おーい魔理沙ァ。この白黒やろう」

「あ? 誰だよ、おい、どこだ?」

 夜の往来の中で魔理沙の金髪は店の二階からでも目立つのだろう。うえうえぇ、ここですよーう、などという声を探してあちこちきょろきょろ見渡す魔理沙の魔女帽子に、こつんと何かが投げつけられて、拾い上げればそれは濡れたお猪口だった。

「アハハ。なんだろあいつ、白黒。すっげー暑苦しそう。ウハハハ」

「いってぇ……お、お前これ、よくも二階からこんなもの投げてくれやがったな」

 帽子を脱いで小脇に抱え、頭を恐る恐る撫でてみると、ちょっとたんこぶになっていた。

 魔理沙は涙目になった。

 怒りのままにだかだか二階へ駆け込むと、アホみたいに大笑いしている射命丸がいて、もう一人、金髪で黒いとんがり帽子の、微妙にキャラ被りしている仏頂面のやつがいた。

「……よ、よう。……ええと、久しぶり? かな」

「上昇気流……」

 異変の時に一度会ったきりで記憶も曖昧な相手からなげられる言葉としては、それはちょっとよくわからなかった。

 魔理沙はややひるんだ。

 とはいえ彼女には、はっきりさせるべき事があった。

「で、どっちがこれ、投げてきたワケ?」

「あっちの、ルナサさんですよ」

「ゆ゛る゛さ゛ん゛!!」

「上昇気流……?」

 

 しばらくそうやって、ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ二人して騒いでいた。

 もちろん、魔理沙はただ遊びに来たのではない。狸のやつに言われたように、この天狗から何とかして情報を問いたださなければならないのだ。

 だけど、魔理沙が焦っているとみるやいなや、一転、射命丸はまだ箸の付けてないおうどんを盾にとった卑劣な遅延作戦へとうってでた。

 遅延というか、射命丸自身もまだ熱くて食べられないんじゃないかと魔理沙はこっそり思った。

 猫舌ってか……ほら、カラスの、なんとかって言うだろ? あれだ。

「ねえ……わかりますかねえ。魔理沙さん? どこにヒトが飯食ってる時に邪魔するやつがいますかね」

「ほらほら。見てくださいよこのこだわりの麺の具合をさあ。ここの自慢のところなんですって」

「ホントかどうだかまぁったく知りませんけどね! アハハハ」

 魔理沙はよっぽどぶん殴ってやろうかと思った。かなりの葛藤があったが、あんまり酒の入った天狗を強くゆすったりすると、なんというか、ひっくり返ってしまうのだ。胃袋の中身があれしてあれで。

「マアマアマアマア、ね? 食べ終わるまで待っててくださいよおぉ」

「こっちは急いでるんだ。早くしろよ」

 逆に文の方がゆさゆさと肩をゆすってくる。

 魔理沙は取り付く島もない。

「ネエネエネエネエ、まま落ち着いてください。どうです? なんなら、御一口」

「そういうのいいから。噛まなくて良いから」

 しかし、そんなふうに言われたら、絶対におちょくってかかるのが天狗という種族だ。そういう意味では文も間違いなく天狗だった。レンゲで掬って、わざとらしく啜ったりしている。

 ルナサは静かにうどんを食っていた。

「それにしても、何だか暑いっすねー。冷たいモノ頼んでいいですかー?」

「ならわたしが食わせてやるよ」

「ちょっやめっ、あつあつあっつつつ!!!」

 こいつらいつも何か食ってんな。

「わたしはお前と遊んでるほど暇がないし、お前がおうどん食うのを待つ気もない。いいか? わたしの質問に二秒以内でお前は答えるんだ。それ以外はない。でないと次はそこのゆーれいの番だ」

「……えっ?」

 ルナサはびっくりして、うっかり口の中のおうどんをほとんど噛まずに飲み込んでしまった。ルナサ以外の二人はむしろ、こいつうどんぐらいでいつまでもにゅもにゅやってんだと思っていたぐらいだった。

 魔理沙は静かに八卦炉を構えた。ぴたりと、その照準が射命丸のこめかみに合わさった。

「ウーノ。ドゥーエ」

「ぼくのまぶたが!! おりて来るよォオオオオオオッ」

「じゃあ死ね」

 射命丸は撃たれた。

 パァニ……パァニ……。

 

 二、

 

 痛てて、ホントウに撃つんだもんなあ……と射命丸は頭を擦りながらいった。

 彼女の黒髪が黒以外の色に染まるぐらいで、ちょっとやばい感じだったが、幸いにもアルコールが多量に入っていたため、大事には至らなかった。お酒……飲んでてよかったな……と射命丸は心から思った。

「それで、なんですって。えーと、なんだか」

「人を探しているんだっての。何べんおんなじ事を言わせるんだよ。……マジで何回目だよ。外来人だかどうかも定かじゃないが……日本人っぽくなかったな。それで、なんというか……あれだな」

 魔理沙はぐもぐもと何度も言いよどんで、未だ自分の中で整理のつかぬ全体像を簡潔に言葉にしようとした。

 何の痕跡も残さず、忽然と消え去った人間。

 そうした中で、まんまと妖怪をぶっ殺したと思しき人間。

 ありのまま起こった事を話せばそうなるのだろう。

 そういう事を言った。

 

 射命丸はそれを聞いてもなおへらへらと笑っていた。

 そしてそのまま、軽薄な笑みを浮かべたまま、すっと一段低い声で言った。

 

「それはいったいどっから聞いたんだ?」

「は?」

「狸か? それとも狐か? ああ……いったいぜんたいどうしてまた、貴方たち愛すべき人間というのは、記者でもないのに、どーでもいいような事に首を突っ込んできて、知るべきではない事を知りたがるんでしょうね?」

 

 下から見上げるようにして、忌ま忌ましげな、どこか棘のある絡みつくような口調で、射命丸は睨みつけてきた。

 まるで……魔理沙の事を、ここで殺しても問題ないかどうか、その判断に迷っているようだった。

 辺りに人目はあるのか? 暗いからばれないか? こいつと最後に話したのはどいつだ?

 カラスの羽の濡れたように艶々とした瞳の奥では、そういう事をいろいろと――考えてはいたのかもしれない。

 もちろん……彼女は間違いなく、天狗という妖怪である。

 ちょっとだけズルをすれば、問題が楽になったり解決するという時でも、真面目ぶって融通を効かせられない妖怪だ。

 間違いなく、文もまた天狗なのだった。

 その目は、魔理沙が揉め事面倒事厄介事に首を突っ込む時の、妖怪連中がこぞって浮かべるものと同じだった。そういう目つきをされるのは慣れている。本気で殺されるわけではないし、向こうもそこまで本気ではない。彼女だって自分より弱いやつにむざむざ殺されてやる理由もない。

 ただ、射命丸がそういう目をするとは思っていなかった。だから。

 だからちょっと怖くなっただけだ。

 背筋のところに言いようのないぞわぞわしたものがあって、きっとそれは悪寒というものなのだろうと思った。

 それからやっぱりむかついたので、右手でぐーを作ってからぶん殴ってやった。

「痛いっ!? ちょっ……まって、今ちょっと本気で……お、おえっ」

「天狗か? 天狗の仕業か?」



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