【完結】 おれ会社辞めて忍者になるわ (hige2902)
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第一話 おれ会社辞めて忍者になるわ 【挿絵】
完結予定。
不快にさせる表現、展開がでてくる 可能性 があります。
閃乱カグラSV原作再構成です。
鈴音先生といちゃこらしたいという願望で書いたので霧夜先生の出番があれです。
オリ主と原作キャラがいちゃこらします。
もとはR18向けに書いてたやつを、思うところあってやっぱやーめたで通常に投稿したので、18禁描写をカットした不自然な区切りがあります。
「はあ?」
と、グラスを飲みさした手を戻して部下が言った。次いで周囲に聞かれてはいまいかと、小さなバーに視線をめぐらせる。幸い、寡黙にグラスを磨くマスターしかいない。
不幸中の幸いなのだろうか。いや、不幸だ。その幸いは不幸があって初めて成り立つ。そんな幸せはいらなかった。あのな、という無礼な言葉を飲み込んで、問題の言葉の主に声を潜める。
「あのですね、酔ってるんですよね。いっそ多次元宇宙大統領になるとでも言ってもらえると、じぶんもほろ酔い加減で帰宅して、ぐっすり安眠して明日の仕事に挑めるのですが」
「これなんだけどさ」 と、部下の配慮に対極するような口調で一人の男が答えた。彼はビジネスバッグからノートほどの厚さのカタログを取り出す。 「きょう、うちのごみ箱に入ってたのをたまたま見つけたんだけど、いま多いみたいよ、脱サラして忍者になるひと。今朝ポストを見たら同じものが入ってたんだけど、興味があるならあげようか?」
ぺらぺらとカウンターで捲られるカタログを眺めて、部下はいますぐ、なんでもいいからストレートを注文したくなった。そいつで不安にのたうつ心臓を黙らせる必要がある。上司にはロックがいいだろう。バケツ一杯の氷にワンショットでいい。そいつを頭から被せる必要がある。
「もう三十ですよね」 と感情を押し殺して部下。まいった、仕事のしすぎか? 休日と言えば撮り貯めていたTV番組、ナイトスクープを見る事くらいだったか。もっと癒しが必要なのかもしれない。
「いや、二十代だよ……なあ、武器、じゃなくて暗器って何がいいと思う? やっぱ手裏剣かな、鎖鎌もいいかも」 でも自分の手を切りそうだよな、と彼。
「数え年で、三十ですよね」
「ばか言うな、全然違う。おとこの年齢を把握するなんて意味のないことをするなよ。おまえの類まれな記憶力はもっと別の事に使え」
「はぐらかさないでくださいよ」
「年なんて関係ないよ、大事なのはやる気と元気と根気なんだってさ」
「たいていの物事には当てはまりますよ!」 声を荒げて部下。 「ていうか簡単に会社を辞められるわけないじゃないですか!」
「店の中だぞ、静かにしろ」 彼はマスターに、すみませんね、という目配せしてから、あやすように部下に言った。 「まあ落ち着けって」
言われて部下は、そういえばいつ辞めるかなんて彼が言ってないことに気が付いた ――それは希望に似ている、つまり脆く儚い―― 。ひょっとしたら老後の楽しみをじぶんに話しただけかもしれない。おじいちゃん忍者が何の役に立つのかはわからないが、定年退職して、その後も五年ぐらい役員かなんかやってくれたら忍者にでも殿さまにでもなればいい。
明日、なる。などとさえ言わなければそれでいい。
「すみません、ちょっといきなりだったんで」 と部下は落ち着きを取り戻して言った。
「いいよいいよ。でさ、おれが辞めた後の事なんだけどさ、引き継ぎとかはまあおまえに任せるよ」
「まずいいですかね、いつ会社を辞めるつもりなんですか?」
「明日、ってか十二時まわったから今日だね」
へへっと気恥ずかしそうに鼻下を人差し指でこする彼に、部下は天を見上げた。やわらかな木目の天井がある。本気だろうか、本気だろう。
部下はストレートを一杯と、無理は承知で氷一杯のバケツにワンショットを注文した。
シェリー樽の特級をグラスにいい気分の彼に、気が利くのかジョークのつもりだったのか注文を聞き入れてくれたマスターに感謝しながら、部下はバケツをひっくり返した。
そしてスコッチを一度で干し、店を出た。
部下はわかっているのだ。彼は、やる男だ。本当に辞めるだろう。あらゆる社会的制約を掻い潜り、今日、仕事を辞めるだろう。
そしてなる、のだろうか。
なんとなしに空を見上げる。祝福するような満月が、明瞭に輝いていた。冗談ではない、と部下は思った。会社になんて説明すれば。
適当にタクシーを拾う、車窓からは煌びやかな夜景が見下ろせた。その中でぽっかりと空いた穴のように暗い地帯がある。貧困街だ。家庭の電球はもとより、街灯の明かりの設置も遅れている。暗黒だ、虚無でもある。あそこに輝く富はない、だから暗い。
「なんとかなりませんかねえ」 運転手が部下の貧困街を見やる視線をバックミラーで捉えて言った。 「ようやく景気が良くなってきたばかりなのでしょうが」
「政府と資金用途においては胡散臭い支援団体はあてにならない。公的援助では貧困ビジネスの産む巨額な利益で作った、非合法な奴らの経済的土台を崩せない。都市開発の名目上、国交省が表立っているが、せめて国税レベルの強制力がなければ。二大財閥が率先すべきだ、多少の非合法手段を使ってでも。だが市場と世間と経済主体をめぐる競争関係にあっては、両財閥はパフォーマンス以外での資金と労働力を貧困街に投入しない。できない、そんな些細な隙で対立する財閥を滅ぼしてしまうほどに現両当主はやり手だ。投資するのは対立する財閥の市場を食いつぶす市場に関してだ。だからこそ不景気を脱却できたと言えるが」
はあ、と運転手。接客上の世間話のつもりだった。 「両財閥って大狼と鳳凰ですよね」
「はるか昔からこの国を支え、支配してきた化け物だ。家系図を読み解くだけで骨が折れる。そして溝は深い」 ひょっとすると貧困街の夜の闇よりも。部下は会話を打ち切るように深く溜息をついて瞼を閉じた。対立よりもやるべきことがある。そんなことは両当主も理解していそうなものだが。
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彼は翌日、鼻水をすすりながらカタログに記載してあった電話番号にダイヤルし、教育セットを注文した。数日後に届き、初心者におすすめの鎖鎌を練習することにした。 ――手裏剣やクナイは無くしやすいので――
いい時代になったものだとジャージ姿で庭に出る。通信教育で忍者になれるとは。
適当な高さの棚を用意して、その上に空き缶を置いた。無線イヤホンから流れるレクチャーに従って鎖鎌を振り回す。もちろん最初はうまくいかない。しかし大事なのは反復なのだ。
やがて一ヶ月が経過し、腕試しにと近所の鎖鎌大会に出てみることにした。そんなものが町内で開催されていたとは驚きだ。 ――しかも年に四回!――
彼は意気揚揚と日課となった夕方のランニングに出かけた。横腹も痛くならなくなったし、これは忍者になれるのも近いだろう。
それにしても忍者か、と思いをはせて路地を走る。たぶん、影分身とかできる。あと水の上を走ったり。
と、ふと眩暈に気が付けば、彼は市街の一本はずれた通りを走っていた。おもわず足を緩めて、歩きながらにあたりを見回す。あれ、こんなところを走っていた覚えはないが。
空は薄暗く、いかがわしいネオンが空気までもを怪しく演出していた。ようするに風俗やらラブホテルやらが軒を連ねる通りだ。
溜まっているのか、無意識にこんなところへ足が向くとは。
彼は踵を返して道を行くが、どうしてだか人の気配のない更なる裏路地へと向かってしまう。明らかにおかしい、自分の意ではないような。
彼が自らの思考をいぶかしむのと、手の入っていない雑居ビル群に少女らしき悲鳴が木霊するのは同時だった。
びびっているわけではないと後に語る彼の心臓が一際大きく鼓動した。薄暗い路地から、乱れた制服姿の少女 ――らしからぬスタイルの良い体型―― が飛び出した。前髪を左右に分け、背ほどまでに伸びたプラチナブロンドの髪を揺らし、瞳に涙を浮かべて彼の腕にすがる。大きな胸が彼の前腕を包み込んだ。
「た、助け。恐い人に、襲わ」
ひょっとしたら、おれが忍者になったのはこの日のためなのかもしれない。まだなってないけど彼は思わずにはいられなかった。安心させるように、されど周囲に警戒の眼をやって答えた。
「大丈夫。おじ、おにいさんが警さ……やっつけるから」
「いやでも」 と少女。ぐいぐいと彼の腕を引っ張る。 「えーとその、すっごい強そうっていうか、筋肉やばすぎな感じだし、逃げた方がいいんじゃない?」
なるほど、と一考して彼。 「つまり相手にとって不足なしというわけだな」
「どーみてもおじさんの方が弱そうなんだけど」
「うん?」
「いやおじさんの方が」
「うん?」
「おにいさん、しかも相手は十数人くらいでわたしを追い掛け回して」 少女はなんだか面倒くさそう。片手間にスマホをスワスワしだす。
「多勢に無勢か」 と彼、ニヒルに笑う。 「おもしろい、手加減できればいいが……っていうかきみ、わたしを引きずっていくの止めてくれない? ちょっと戦うから止め……なんだこの腕力……え、ちょ……つ、強い」
彼は半ば抱きかかえられるように連れ去られた。一泊置いて、もう一人の人影が現れ、短い舌打ちとともに後を追った。追いながら、なぜあんな普通の男が目標なのか。それにしても善忍か。タイミングが良いのか、はたまた護衛されているのか。心中で呟いた。
「でさ、きみ」 と彼は所在なさそうにベッドに腰掛ける少女を見て言った。 「ええと、暴漢から逃げてたんだよね?」
言われた少女は、足を組んでスマホを巧みに操作しながら、今度の休みに行く予定の映画情報を調べていた。恋愛物がいい、王道のボーイミーツガールはつまらない。 「別にぃ」
はあ。要領を得ない彼の言葉で沈黙が訪れた。とりあえずで口を開いてみる。
「ていうか、なんでラブホに逃げ込んだの? きみ制服着てるし、わたしが社会的にまずいんだけど」
「追手が入って来づらいかなあって……座ったら?」 自分の隣をポンポンと叩き、思い出したように制服の着くずれを直す。 「それに防音だから万一の場合、戦いやすいし。ていうか、おじさん何者なの?」 掌のタッチスクリーンから赤い瞳が向けられた。
きさま、何者だ。その言葉をいざ目の当たりにすると口元がにやけた。 「おじさんな、忍者なんだ」 恥ずかしげに口元を拳で隠して言う。
「え、あ、そーなんだ。なるほど、それでか」 なにか合点がいったように、少女。 「悪忍に狙われてたってことは、やっぱ善忍? どこの学び舎?」
心なしか距離が縮まった気がする。ぎしりとベッドが軋んだ。部屋はごてごての配色と光源に照らされている訳ではなくモダンな雰囲気だったが、場所が場所だけに彼はどぎまぎして答える。悪人? 善人?
「どこって、まあ、普通の国立だけど」 日本有数なだけに自慢じみているようで、言いづらそうにごまかして彼。
「へえ、いいとこなんだ」 半蔵学院かー、と心中で少女。
「いやでも学歴とかって、仕事に必ず関係するとは言えないと思う」 と、実体験から彼。 「結局、そういうステータスって、その人物がどれだけ忍耐強いかを数値化するのに適しているだけで。だから勉学が大事ではないというわけではないけど」
「あー、瞬時の判断力とか?」
「仕事量が膨大だと忙殺されて無用の長物になりがちだけどね。作業と化してしまって、適材適所に判断を用いたベストな効率よりもベターなルーチンワークに流されてしまうから」 前職を思い出して苦苦しく笑った。「偉くなると楽できるわけじゃないし……今更だけど、ラブホに逃げ込んだのはいい判断なのかもね」
フロントがないタイプとはいえ、さすがに十数人の男が出入りするのは躊躇われるだろうと彼は考えた。昨今のネット社会では、どこで写メを撮られてツイッタに晒されるかわからない。彼はその場合の濃厚なホモ祭りを頭の外へ追いやった。まあ、おっさんが制服姿の女の子にラブホへ担ぎ込まれてるなう、の場合も追放する。
「へえーおじさん、結構見る目あるじゃん」 と少女、大人に褒められたのが、どことなく嬉しそう。 「ま、エリート校だからって胡坐をかいてちゃダメだよねえ」
「ほんとそれ。ていうかきみ、いろいろ達観してるね。見た目とは」 言って、しまったと口を閉じる。
「いーよ、チャラい恰好してるのは自覚してるしね」 ぼさりとベッドに上体を預ける。 「わたし、四季。ひょっとしたらおじさんの下でお仕事するときもあるかもね」
脱サラして忍者やってるから、きみの上司にはならないと思うよ。と、彼は口にしようとしたがやめた。高校生であろうにも関わらず将来の事を考えているというのに、否定から入るのはよくない。
「なんか頼む? 奢るよ。シキって、季節の字?」
「えーおじさん、なんか手馴れてない?」 いたずらに四季が笑って言った 「そ、春夏秋冬の四季。それと、わたし高校生だよ」
ほんとかよ、とベッドに半身を横たえる四季を見やった。短い丈のスカートからは齧り付きたくなるような太もも、制服の上からでもわかるほどに豊満な胸。白い谷間が覗いている。吸い込まれるような、血の色をした瞳と目が合う。口角の下の小さなほくろが小悪魔的だった。
「制服を見れば学生だってわかるし、だからそれは犯罪だよ」
彼は突き放すように鼻で笑った。適当に冷蔵庫内のボタンを押して飲み物を取り出し、リモコンでフロントにピザを注文する。
「ふうん、たとえば恋愛感情であっても?」
「法的に犯罪なものは仕事をしだすと露骨に避けるようになるよ、軽微なものでもね。それに、きみは出会ったばかりのわたしに恋愛感情を抱くような人間じゃないだろう」 コーラを手渡してやる。
「どうしてそう思うの? わたし、身も心もチャラいかもよ」 受け取って四季、煽るように胸元のボタンを一つ外す。
「そんなやつが、どうしてわたしの身を案じて一緒に逃げようとするんだ」
「じゃあ、もしもわたしがおじさんの仕事仲間だったら?」
「仕事仲間と恋愛はしない、トラブルの元になる」
四季は膝を立て、挑発的にゆっくりと股を開いた。が、彼は目をそらして、ドア付近の小窓から差し出されたピザを取りに行く。
社内恋愛は身を亡ぼす。昔、それで同僚の一人は仕事を辞めた。四股をかけたのが原因かもしれないが。
「ふうん、やっぱり善忍なんだ。中年って、若いおんなの子がちょっと色気出すと、すーぐがっついてくるからさ」
感心したように、四季はほほ笑んだ。目の前で異様に伸びるチーズに四苦八苦してビザを食べている男と出会って、作り笑いでない初めての笑みだった。
「ふぁ、なに!? 四季くん、説教ってダサいし煙たがられるからあんまり言いたくないんだけどさ」
「あー、大丈夫大丈夫、お金貰ってあれこれとかしてないし」 本心で否定してピザを一切れ、ぱくり。 「ひょっと、ふぁらふぁって」エロ中年をからかった事があるだけ。とあつあつのを飲み込んで四季。
「あ、そっち」
「え」
「いや、わたしは中年じゃないから。実際そういうとこ気にしている人多いんだから、もうちょっと年上に対して気を使った方がいいんじゃないの? ねえ、聞いてる? おじさんは、なんか優しそうだし、親類関係を表す言葉でもあるからいいけど、中年って言葉の中に隠された脂っこさってなんなんだろうね、年はとりたくないね」
彼があまりにも真剣に言うものなので、四季は一瞬呆気にとられた後、笑った。笑って、前述のそっち、とはどういうことを指すのかを追及した。口どもる彼を見て、笑い転げた。
「ねね、ケー番教えてよ」 と四季、すっかりリラックスしてベッドでゴロゴロしている。
「いいけど、あんまメールとか上手くないよ」
「いーっていーって。人生の先輩として、いろいろ話を聞かせてよ」
それに、いずれはわたしも大人になるんだしさ。と省略して四季は言った。
四季から見て、彼はまぎれもなく善忍だった。忍びとしての仕事も忙殺されるほどこなす優良物件だ。唾をつけておいてもいいだろう。それになにより、面白い。
心なしか胸がときめく、身体が熱く……いや、これは? ちらと彼を見やる、わたしを恐れるように後ずさった。
「ようやく効きだしたか」 とどこからともなく声が響き、忍び服に身を包んだ人影が姿を現す。
油断した。と、四季は下唇を噛みしめる。おそらくピザに一服盛られていた。その可能性を忘却してしまっていたのだろうか。
いや、彼が悪いのだ。年上の善忍だし、心のどこかで背を預けていたのだ。らしくもない言い訳に自虐する。すべては自責だ、誰かのせいにしてはいけない。
発汗とは違う熱量が骨の髄から、心臓の鼓動のように肉体を蝕む。特に、下腹部を。秘部に伸びる腕を自制し、胸を隠すように自分を抱きしめる。
媚薬? だとしたらなぜ、と四季は朦朧とする意識を思索に走らせた。
人を薬で殺すのは簡単だ。極端な話、比較的手に入りやすい殺虫剤を飲ませるだけでも死ぬ。だが特定の症状を狙って起こすのは難しい。
例えば視力を一時的に奪う薬品は、現実に存在する。サイプレジン1%点眼液などがそれにあたる。
だが殺しの手段に比べて格段に選択肢は減るし、眼球に液を入れなければならない。要するに、人体に対して狙った効果を発揮させる薬というのは種類が限られていて、ましてや発情させるなどという生殖本能を刺激する薬は入手も製薬も困難なのだ。
少量でも、裏では空対空ミサイルより高価と噂されていた。
何のために? こんな高価な薬を使う。ちらと彼を見やった、さすがに経験を積んでるだけあって、わたしよりは耐性があるだろうと。
彼の眼はいいかんじにキマッていた。ジャージの上からでも、男性器の隆起がはっきりとわかる。四季は反射的に、羞恥から顔を逸らした。
ベッドの上に転がっている携帯に手を伸ばし、寸でのところで悪忍に奪われ、その辺に放られる。
彼が四季にのしかかるように四つん這いになった。
「え、ちょ、待っ」 と、押しのけようと胸板を叩くが、どうにも力が入らない。そればかりか、義務的な抵抗をすることで、さも不可抗力故に仕方がないと納得しかける無意識に、思考は警笛を鳴らす。 「わた、わたし初めてなんだけど!……ちょっと……ひぅっ」
彼の膝が四季の秘部に触れ、痺れるような刺激に予期せぬ声が口から洩れる。
こんな声を出すなんてと、おもわず片手を口にやる。
「まんざらでもないんじゃない」 沈黙を続けてきた悪忍が言った。 「助かったよ、あんたが代わりになってくれて」
代わり? と四季が悪忍を見やると、小さなカメラを向けていた。いったいなぜ、この悪忍は彼を狙い、この情事を撮影しようとしているのか。理解できない。
彼が四季の両手をベッドに押し付けるように固定する。ゆっくりと顔が近づけられる。膝は相変わらず秘部をグリグリと押し付け、四季の意に反して白い太ももはせがむように膝の愛撫を求めて彼の片足を挟み込んだ。
「やだ、ねえお願い、待って。初めてなの、唇も」 言うがしかし、舌はこれから行われる口内凌辱に備えていた。視界がぼやける、涙が滲む。
「無駄だよ」 悪忍が地球の裏側の出来事のような無関心さで、ハンディカメラのディスプレイを眺めて言った。 「その媚薬ははるか昔に作られ、再現不可能と言われている代物だ。そこいらの美術館なら丸ごと買える。ひとたび体内に取り込めば、日常生活のルーチンワークのように犯す。おんなを教えて貰え。いい機会じゃないか」
悪忍の説明など、四季の耳にはもう入ってなかった。彼の舌を受け入れるように赤い口を開く。開いて、言った。最後の救いを求めるように。 「……おじさん、お願い」
「おにいさんだって、おれ結構ナイーブなんだけど」
彼はもう少しでくちづける距離になって、ベッドに顔を沈めた。必然的に四季の耳元でそう囁く。
辛そうに一呼吸置くと、やおらベッドから立ち上がり、悪忍の方へ歩みよる。
「ちょっと近い、カメラに映らな」
そう悪忍が言い終わる前に、彼は殴り飛ばす。カメラが床に転がった。
ディスプレイに意識を集中していたせいか、手練れの忍びであったにも関わらず顎に一撃を受けた。強力な媚薬に胡坐をかいていたのもある。それでもフラフラと立ち上がるのは鍛錬の賜物か、呂律の回らない口で驚愕を漏らした。
「信じられ、あの媚……を、克服。ありえ……」
そのまま震える手で懐から煙幕玉を取り出し、お決まりのように煙が晴れた後には名も無き悪忍の姿は消えていた。
大丈夫か、と彼が四季へ振り向く。彼女は見てしまった、彼のその、生気のない仄暗い瞳を。―― 一般的には死んだ魚の眼と称され、月初めとかによく見られる――
別段、彼が意図して媚薬の支配を破ったわけではない。彼は前職において、部下にも仕事が忙しいときは心が虚無になっていると言われるほどに、膨大な仕事量をルーチンワークのように処理していた。
薬の強制力は、理性によって当然に隠されていた性欲を表層化するはずだったが、彼にとって当たり前とは仕事だった。
食欲、睡眠欲に続く三大欲求である性欲よりも馴染みのある仕事を彼に喚起させ、故に社会の凍てついた歯車の一つへと戻った彼は誘惑を断ち切ったのだ。よーするにクウネルシゴトという社畜の三大サイクルを回した結果だ。休日に電話がかかってくるのだ、胃がきりきりするのだ。月月火水木金金なのだ。
「近頃の暴漢はだいぶアグレッシブだな。カメラ片手に、ようつべにでもアップロードするつもりなのか」 と彼。気が付いたら四季に跨っており、しかも見知らぬ人物が部屋にいたのでとりあえず殴っておいた。にしても女みたいな体型をしていたがと心に留める。 「他にも仲間がいるかもしれないし、ここを出た方がいいかな」
不感無覚に言う彼を、四季はベッドに横たわったまま情感の籠った眼で見上げて思った。凄まじい精神制御能力だ、身体能力はそれほどでもないが、忍びにおいてはどちらかと言えば前者の才能を持つ人材の方が貴重だ。
精神制御は土台として大きく二つに分類される。薬物と忍術耐性だ。そこから幻術や催眠などで細分化される。しかし中でも相手を操る洗脳系は難易度が高い。特に、無意識の混濁などと違い意識が必要な行為は。
肉体や反射神経を鍛えることは人体工学や科学的な土台がある。どんな人間でも一定までは成果を出す。しかし内面はそうはいかない。筋骨組織よりも遥かに複雑な心神の構成を把握し、流動的な感情を凍結させることは困難だ。これといった科学的立証のある鍛錬方法がない。だから滝に打たれるなどという、見返りが必ずしも約束されていない修行に明け暮れるしかない。
本当にこれは意味のある修行なのかという不安を携えながら。そう思考してしまうことが非効率的であると認識していても、そもそもこの修行が効果的であるという前提がないと無意識しても。
理解はどこまでも遠大に位置し、故にそれこそが力だった。理解こそが、忍術の基本でもある。術の行使において、
例えば、炎を生み出すならば術者は炎そのものを個人的な主観により概念を把捉していなければならない。炎とはなんなのか、自分でケリを付けなければ術としては使えないのだ。
四季は気づけば、片手は自らの胸をゆっくりと圧迫と減圧を繰り返し、もう片方の手はスカート越しに秘所を探っていた。
視線を逸らし、彼は所在なさげに言う。 「悪いとは思うんだけど、なんというか」 部屋を見わたす。ラブホでうら若き乙女と二人きりなどいうシチュエーションに流されてしまったのか。急に欲情して襲ってしまうとは情けないと自答して続けた。 「自分でも情けないなとは思うんだけど、ちょっと流されたというか。その、ごめん」
四季は平謝りする彼を見て不可解に思い、遅れて彼が何を謝罪したいのかも見当がついた。媚薬に完全抵抗するまでのタイムラグがあったことを言っているのだ。むしろ美術館が丸ごと買えるほどの薬効を、あれほどの短時間で克服したことのほうが信じられない。普通なら、為されるがままだろう。
普通なら、と脳裏に先ほどまでの彼の男性器を想起させて更に考えた。
いや、これは考えるという思考法よりも、ただの妄想だ。だがもう一歩踏み込んでみたいという欲求に逆らえない。
四季は熱っぽく息を吐き出して言った。 「謝ること、ないと思うけど。不可抗力みたいなもんでしょ、よく我慢できたね」
「え、うーん」 と、彼。小首を傾げる。
彼は、襲いかけたのは場所とシチュエーションの所為にしたいと無意識に思っていたし、それを口にした。だがそれは本人をないがしろに責任逃れしていると咎められているのではないか。挑発的に、よくわたし相手に、と隠されて我慢できたねと言われると、そんな気もした。
たしかに彼女の肉体は艶めかしく、どこを触っても柔らかそうで、食べたい、という食欲にも似た歪な魔性の魅力があった。にしてもすごい自信家だなあ、でも否定するのも失礼かもしれないしと、言葉を続けて言った。
「ま、きみがその、男心をくすぐる肉体を持っていたから、というのはわたしの主観的な事実でもある。認めるよ、悪かった」
「わたしじゃなかったら、押し倒すこともなかった?」 彼の言葉に、一段と下腹部が熱を持った。
男相手に、気が付いたらラブホのベッドに押し倒していた、なんてことはさすがにない。 「たぶんね、でもきみ相手だと誰でも、というのは言い訳がましすぎるな。まいったよ、謝る以外に言葉がない。あんまりからかわないでくれるか、やめてくれ」
「おじさんがわたしに興奮したように、わたしもおじさんに興奮してるって言ったら。どうする? ね、こっち見てよ」 四季は上半身を起こし、見せつけるように膝を立てて足を開いた。 「将来の後輩に、手助けしてくれてもいいんじゃない? このままじゃ、収まりがつかないよ」
あー、これ完全に雰囲気に飲まれてるな、と彼。そうでないと、この乱れ具合は説明がつかない。少し前まで、将来について語っていた彼女とは思えなかった。
「きみ、処女なんだろ。そういうのはね、本当に好きな人としなさい」 なんだか父親になった気分。
「恐い?」 と指を舐めて、四季。
「きみが一時の判断を誤ったばかりに、後悔で眠れない夜を過ごすのが」
冷ややかな口調に、僅かながら四季の理性は本能から行動リソースを奪還した。そんなことは、わかっている。初対面のおとこの人に股を広げるなんて、自分ではない。こんなラブホテルじゃなくて高級ホテルか、あるいは相手の家のベッドがよかった。白馬の王子さまなんて子供っぽいことは言わないけど、悪忍に狙われている冴えない男性を見かけたので助けようとしたら逆に、なんてケチをつけたくもなる。逆ならよかった。逆なら……。
「じゃあさ、後ろからぎゅってして。それでいいから」
言って四季は素早く彼をベッドへと引っ張りやると、枕を背に、深く腰掛けるようにし、彼の股の間に肉置きの良い尻を置いた。
え? 何が起こった、と彼。遠心力に瞠目していると、いつの間にか四季を後ろから抱えていたのだ。
「体術はわたしの勝ち」 と嬉しそうに四季は彼に背を預ける。「これくらいならいいよね」 と振り返って彼を見上げた。
よくはなかったが四季はおかまいなしだった。
おとこの人が見ている前でするなんて、どうかしている。明確に恋愛感情を抱いているかどうかは、媚薬の支配下ではわからない。そういうことにしておこう。
だが、将来においてはわからない。好きに、なるかも。だったらやはり唾をつけおくべきだ。日日を困難な仕事で明け暮れているなら、もう会えない可能性もある、あの世でしか。だからマーキングしておこう、メスの香りをつけておこう。
四季は彼と足を絡ませ、背をよじって、発情した匂いを擦りつけようとした。 「ねえ、触ってくれるのもなし?」 懇願するように喘いで言った。 「手でしてくれたら、許してあげる。我慢、する」
媚薬を盛られていたので許すも何もなかったが、ひたすらに詫びていた彼はそれを欲しているようだった。交換条件ということなら、ひょっとすれば呑んでくれるかもしれない。
結局、ペッティングで事は終わり、四季は全力疾走したかのように呼吸を荒げて彼を背に脱力していた。なんとなしに彼のジャージのポケットに手を突っ込んで携帯を取り出すと、慣れた動作でカメラ機能をオンにして、自画撮りの要領でシャッターを切った。次いで自分の携帯に送信する。
「おいちょっと」 と彼。ふにゃりとした腕から携帯を奪い返す。 「どこに送った?」 画面にはすっかり惚けた表情の四季が、受けた快楽の度合いを物語っている。
「わたしの、記念に。はぁ……うん」 と四季は身をよじって、もう一度背を強く擦りつけた。 「ねえ、固くなってるよ」 言って前かがみになり、むっちりとした尻を押し付けた。
「そりゃな」 淡泊に言って彼は立ち上がった。帰るぞ、といった雰囲気。
「もうちょっといいじゃん」 ごろりとベッドに横になる。 「してあげようか、お返しに」
「だからそういうのはな」
「いいよ、おじさんなら。わたし、好きかも」 彼とは反対の方を向き、自分でも何故こんなことを口にするのか分からないでいた。
「それが完全に自分の感情だと言えるのか?」 と、彼。そういえば若者の性の乱れは昨今では著しいらしい。ラブホの雰囲気に加え、周りの友達が卒業済みとかで、焦っているのかもしれない。
「ま、そう言われるとね。否定できないけど」 と、四季。この胸の動悸が、媚薬のものである可能性は十分にある。むしろ九分九厘そうだろう。 「おじさんって、ほんと根っからの善忍だね。だいたいの男の人って、こういう言葉につけ込むものだと思ってたけど」 半ば呆れるように笑って言った。
「善人ってかモラルの問題のような気がするけど」 と、彼。積極的になる気がない理由を隠して言った。 「もう日が落ちた、夜道は危ないし。送ろうか?」
「職質されちゃうよ、大丈夫。一人で帰れるし」 ん、と両腕を差し出した。
「なに?」
「腰が抜けて立てない、出口まで抱っこ」
彼は一刀両断に断ろうと思ったが、結局はなぜかお姫様抱っこで四季を運んだ。彼女の微笑みが無垢に思えてしかたがなかったので。
「ねえおじさん」 と四季は両手を彼の首に回して言った。 「馬とか、飼ってない。白いやつ」
「ハムスターすら飼ってないよ」
ふうん、と少し前に途切れた空想の糸を手繰り寄せる。 「……逆にさ、わたしが悪忍に狙われてたら、助けてくれる?」
「逆の意味がわからんが、だろうな」 忍者だし、と付け加える。
彼は適当にランニングをした後に帰宅した。帰宅して、シャワーで汗を流してテレビをつける。前職で仕事の終わり、転じて休日を表すナイトスクープを見るためだ。
テッテッテレ。とオープニングが始まり、局長がアップになった瞬間に、彼は習慣的無意識下でルーチンワークを終了させた。仕事が終わり、遅れてやってきた媚薬による形容しがたいほどの欲情に冷汗が止まらない。
局長を見て勃起するなんて、おれはいつの間に超上級ホモになってしまったんだ!?
次次と映し出される、濃ゆいメンツの探偵たちにも反応してしまっているという螺旋に落下する錯覚に陥り。恐怖心から鎖鎌でテレビを破壊した。
その物音に気付いてか、階下へと階段を降りる足音がする。
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妖魔はたとえ、忍びの究極の称号とされるカグラを持ってしても対抗できるとは限らない。容赦なく殺される。
覆い茂る木木の間を縫うように、一人の忍びが音もなく駆けていた。忍びの腕が霞んだかと思うと、錆色の影がコリオリによる偏向まで計算された凍てつく軌跡で空間を貫徹した。宿命的予定調和で追っていた獣の後ろ脚が破裂する。大砲が着弾したかのような音が響き、遠方で鳥が羽ばたいた。
獣は走る体勢を維持できず、保持していた速力を中和できないままに地面を転がった。何本もの木をへし折ってようやく止まる。
獣は虎のような四足歩行する哺乳類に似ており、背からは巨大なミミズのような触手が数えきれないほど蠢いている。その触手の先端は人間の指と酷似していた。間接があり、爪と指の腹がある。尾は二股で、蛇の舌だ。腹は縦に裂かれたような口があり、滑った唇と魚のような歯が二重にある。頭部は蛆のようにブヨブヨの皮膚で、昆虫の複眼と人間の口が福笑いで取ってつけたかのごとく位置していた。
およそすべての生命を冒涜しているような異形の獣こそが、忍びの追撃する妖魔だった。妖魔は横たわったまま背の触手を伸ばすと地中に潜らせて、様様な昆虫や爬虫類を掴んでは触手ごと腹の口で食った。長大な蛇の舌の尾で周囲の地面や木を舐めとっては腹の口角で微生物をしゃぶった。次いで触手を数十匹切り離し、破裂させられた脚部へ癒着させて部位を復元する。
その間わずか一秒にも満たない。再生能力を超える致死的損傷によってのみ妖魔は消滅するのだ。
忍びが太陽を背に、再び錆色の線を投擲する。投擲された物質の質量、与えられた爆発的速力。切っ先が空気との摩擦熱で赤を帯びる。杭のような棒手裏剣が光線の正体だった。
妖魔は毛を逆立て、瞬時に触手を生やすとマイクロセカンド間で飛翔する物体を捕捉した。避ける体勢ではないので触手で掴み取ろうとするがしかし、妖魔という種が持つ頑強さを物理的に真っ向から打ち破るほど、杭に与えられた古典的な運動エネルギーは暴虐だった。銃弾でさえ傷つかないはずの触手は無い物として扱われ、瞬きの間に妖魔の胴は風穴を開ける。大地が抉れた。
かつ忍びは投擲と同時に不感無覚に思考していた。――絶・秘伝忍法――
忍びが
妖魔は複眼で忍びの背後に幻視した。猪を共にした陽炎の女神、摩利支天までをも。
後に残ったのは不気味にのたうつ触手が十数本と、酸のように地面を蝕む妖魔の血だけだった。しかし処理できたのではない。
妖魔は逃げた。あの状態では不可能に思えるが、卓越した精神制御術を扱うその忍びは確信していた。自らは妖魔の幻術の影響下にあった、とどめを刺したのは幻影であって実体ではない。
逃げられたのはこれで二度目だった。あの妖魔は惑わしの類に長けている。超高速で構築した秘伝忍法を後手で回避できるほど使う。発見と同時に秘伝忍法を発現させなければ。
まあいいさと忍びはその場を後にした。
されどその忍びは、数日後にこの世に存在しなくなった。
妖魔はたとえカグラを持ってしても対抗できるとは限らない。
R18はエロがまず読みたくてストーリーばっかだと微妙なんかなってことで通常投稿です。
書いてみてわかったのですが、霧夜先生がいない鈴音先生って魅力が減ってしまった希ガス。
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第二話 はじまり
「はあ? うちの管理している土地が、なんだって?」 と彼、部下に聞き返す。
「爆発、というか、急速に荒れたというか」 言いにくそうに、部下。
「何言ってんだおまえ」
「いやその、わたしもよくわかりませんがとにかくそのような報告が入っていまして。一応お伝えしておこうかと」
ふうん、と彼。ようやくPCのキーを叩くのを止めた。 「じゃあ見てくるわ、一区切りついたし」
「いやめちゃくちゃやり掛けじゃないですか」 部下はモニタをのぞき込んで言った。 「文章の最後のところなんかrで止まってますよ、母音を入力してくださいよ。ねえ場所知ってるんですか、車でもかなりかかるんですけど、いつ帰ってくるつもりなんですか? 目の下の隈がやばいですけど、運転できるんですか! タクシー使ってくださいね!」
彼はビジネスバッグ片手に会社を出ると、日差しの眩しさに目を細めた。ぶっちゃけピクニック気分だった。こんなことをしたら、ひょっとすると会社を辞める羽目になるかもしれない。ま、それならそれでいい。タクシーの車窓に反射するこけた頬の顔を見て、彼は思った。
その出会いは偶然の産物だった。妖魔討伐に赴いた善忍たちの貼った忍び結界は、忍びの血を持つという条件がパスに設定され、キーを持つ者しか侵入とその領域内を視認できず、侵入があれば領域内の全員に感覚させるという一般的な機能があった。しかし術者の死亡と、結界を揺さぶる妖魔の力によって瞬きの時間で揺らめいた。
その狭間に、山中で繰り広げられていた惨劇は大多数とは言えないが目撃された。流石と言うべきか、術者による結界は今際の際にあって全ての天命と引き換えに昇華され、より強固なものと変質した。
人里離れた場所であり、瞼を擦れば数瞬前と変わらぬ自然が広がっている。気のせいですまされる問題だった。
どんな些細な情報も報告しろ。という彼に、だから部下はツイッタで得た情報を伝えた。――サボる口実が欲しいだけだろ、と思いながら――
部下はサボってツイッタを見ていた訳ではない。会社に関するネット上のキーワードをリアルタイムで検索抽出してポップアップさせるクライアントをモニタの隅に常駐させていた。――実際は末端構成員がボトムアップ的に選別して上層部へと送られた情報―― ネガティブな単語を含むものは青字で、危険な単語を含むものは赤字で表示される。
滅多にない赤字のツイートが視覚の端で連続ポップアップしたので、少しログを遡って見て伝えるべきだと判断した結果だった。爆発、山肌が露出していた、死人? プラス、管理していた土地名。剣呑。
十中八九はガセだろう。だが、どうしてそのようなガセが発生したのかは知っておく必要がある。ネットの波は暴力的で制御が利かない、さざ波に留めるすべは手にしておくべきだ。
という建前を胸一杯に、彼は問題の山の麓にやってきた。空気がおいしい、バケツ三杯はおかわりできる、などとほざいてみる。
山を見上げた、やはり変化はない。しかし火のない所に煙は立たないのだ。革靴なのが辛いが、少し登ってみようかな、というところで、何かが道なき道で横たわっているのに気が付いた。心臓が凍てついた手で鷲掴みにされたように怯える。丸めた布団? 衣類の不法投棄?
そうであってくれと慌てて駆け寄ると、口元を布で隠した如何にもな忍者装束の女性だった。息はしているが、前腕からは白い骨が覗いていた。じっとりとした脂汗を浮かべ、苦しそうに呼吸している。口元の布をはぎ取ってやる。
「おい、しっかりしろ!」 携帯を取り出す。幸いに圏内だ、救急に連絡し、適切な処置を求める。
しかし特に力にはなれそうにもなかった。骨折は添え木の必要性がないほど重度の物だし、太もものあたりは出血しているのか、衣類の色とは別の赤黒い液体に濡れている。足の付け根からネクタイで止血した。
なんてことだ、普段はソースはツイッタとバカにしていたが、まさか事実だったとは。
女性が乾いた唇を動かした。
「うん? なに? 水とかいる? 眠眠打破とゼナしか持ってないけど、あとカロリーメイト」
女性は憔悴しているようだったので、ゼナの蓋を取ってひび割れた唇に添えてやる。口から血が零れているが、吐血によるものではない。半分ほど飲み込むと、言葉を零した。逃げろ、と。
「そうは言ってもこの山、うちが管理してるから。事件に巻き込まれたのかなんなのか知らないけど、というから逃げるって何から? 一応、警察にも連絡したけど」
「妖魔から」 という言葉が返ってきたのは背後からだった。彼が振り返ると、やはり忍び装束の集団。リーダー格らしい、白銀の髪をなびかせた男が続ける。 「後はわれわれが継ぐ」
「は、忍者」 と彼。女性のいでたちもそれだったが、こうも大人数で現れると圧巻ではある。
そうだ、という男の言霊で彼の思考は制御された。男は彼に興味を無くしたように、部下の手当てを受ける善忍に質問を投げかけた。妖魔の特徴、攻撃射程、有効無効な攻撃方法。最後に、名を聞く。後始末で所属する組織に書類を作成しなければならないからだ。
凛、と負傷していた忍びは言った。
彼は、ビジネスバッグにゼナや放り出していた携帯なんかをしまうと、背を向けて歩き出す。
気づけば彼はタクシーの中にいた。あれ、おれどこに向かってたんだっけ? 運転手に尋ねると、行先は会社だった。
しかしタクシーに乗った記憶がない。つい先ほどまでデスクワークに埋葬されていたはず。夢遊病に近い症状なのだろうか、まずい気がする。
バッグからゼナを取り出し、キャップを捻った。その感触はすでに一度封を切ったようで、つまり飲みかけだった。たった50mlの栄養ドリンクを一度に飲みきれないとは、どれほど胃が弱っていたのか。嫌になりながらも口をつける。
心なしか、
その後、彼が介抱した女性は鈴音と名乗り、救出した蛇女子学園の学園長の願いで教鞭を取った。妖魔討伐に失敗した善忍部隊の中で一人生き残り、のこのこと戻ることが躊躇われたのかもしれない。
あるいは善忍の戦いで損耗していたとはいえ妖魔を討伐せしめる悪忍の力に道を見出したのか。
「助かったよ、教員になってくれて」 と学長室で学園長が言った。彼に記憶操作術を掛けた、現役最強の忍びとされる人物だ。
まだ痛痛しい包帯の残る姿で無感動に鈴音。 「もう戻る場所はありません。ご厚意に感謝します」
「そうかな、善悪の彼岸なしに言うが、半蔵学園はそれほどに冷酷というわけでもあるまい。むしろ妖魔と戦って生き残ったというのは、忍びとして至高の経験だ。妖魔の殲滅は善忍悪忍の共通の存在理由だ」
「仲間を見捨てて」
「最上の判断だよ。戦闘続行が不可なら離脱すべきだ、そうして後続に情報を渡すのがセオリーだ。きみから妖魔の情報を聞けたからこそ、われわれは対処できた。きみは少しナイーブ過ぎるな。もしきみが、仲間の仇と情緒的感傷を背に負って立ち向かっていれば、それこそきみの仲間の死は無為に消える。厳しいようだが、事実はそれだけだ」
沈黙する鈴音に続けて言った。
「いいんだな、本当に。善忍の凛は死んだと、遺体も残らず妖魔に食われたと半蔵学院に報告書を作成するが。ここにいるのは、わたしの目の前にいるのは悪忍の鈴音でいいのだな。きみの記憶を操作し、善忍時代に関わった事柄を封印してくれという望みを実行しても」
忍びの教育機関の間での虚偽報告は重大な規則違反であり、厳罰は免れない。そのリスクを負ってでも学園長は手駒が欲しかった。とりわけ善忍で、時間を掛ければ光る原石であろう才覚の持ち主ならば尚の事。
水面下で不穏な動きを見せる、学園の出資者を名乗る道元なる人物に対して、将来においての切り札になりえる存在は是が非でも。この身はいつ妖魔の餌食となるとも知れないのだから。
頷き、退室しようとする鈴音の背に学園長は投げかけた。
「結界外できみを最初に発見して介抱した者についてだが」
鈴音は足を止めた。振り向かずに耳を傾ける。
「処置は未熟だったが、彼がいなければきみは危うかった、かもしれない。情報をわれわれに伝達することも難しかっただろう。われわれにとっても、きみにとっても恩人という訳だ。部下に素性を調べさせた、会いたければ会うがいい」
鈴音が振り返ると、学園長は一枚の封筒をデスクの上に置いた。彼女はゆらりと近づき、骨折していない方の手で器用に灰皿へ破り捨てる。もう、鈴音だ。凜ではないから。
それでいい、学園長は心中で鈴音の評価を一段階上げた。
しかしその後、意外な場所で鈴音は彼と邂逅を果たすことになる。
鳳凰と大狼が主催する社交界で、互いが養子にした忍びを紹介するらしい、という報が蛇女に入って来たので、鈴音が潜入し、偵察した際に彼と出会った。もっとも、彼は鈴音を覚えてなどいないし、変装しているのでわかるはずもないが。
鳳凰は斑鳩、大狼は、
出会いなどは、その程度のよくある話だった。その後、凛として彼と接触はせず、あくまで鈴音として彼に接し、タイミングのよいところで教師に転職すると告げると同時に同棲を始めたのだ。
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バタバタと二階から階段を降りてくる音が近づく。彼は反射的に鎖鎌をソファの下に隠した。
「どうかした? すごい音がした、けど」 と夜明け前の空のような髪色をした妙齢の女性。ボタンが留まらないのか胸元が大きく開いた白いパジャマに身を包んでいた。黒いレースの下着が薄らと透けて見える。テレビの残骸を見て、ずり落ちた赤ブチのメガネを掛けなおす。
「いや、これはその、ソニータイマーかな?」 火花を散らすテレビを見て、彼。とりあえずコンセントを抜いておく。 「ごめん鈴音、起こした?」
「パナソニックだったと思うけど」 と鈴音と呼ばれた女性。
「じゃあパナソニックタイマーだろうな」 両社に詫びながら、彼は鈴音の鋭い視線に耐え兼ねて口を開く。実は、自分でもわからないがニシダ局長を見た瞬間にカクカクシカジカで。
「違うんだ、おれは超上級ホモになった訳じゃないんだ」 と、勃起を隠すことすら忘れ、必死になって説明する彼を見て、鈴音はそれがなんだか滑稽に思えて少し笑った。
「わたしが久しぶりに帰って来たから、かも」
「いや確実にナイトスクープ見てからだった、おんなにはわからないよ。ひょっとしたら、道ですれ違うおっさんにすら欲情してしまうかもしれないという恐怖は」
ある日突然公園のベンチに腰掛けた青年にやらないかと声を掛けられたどうしよう。断り切れるのだろうか。心底沈んだ口調で彼は言ったが、身体はどうしてだか鈴音を抱き寄せて、薄手の肌触りのよい寝間着の上から、たっぷりとした尻を鷲掴みにしていた。シャンプーのいい匂いが髪から漂ってくる。
「じゃあわたしには欲情しない?」 メガネの奥で、挑発的に彼を見やって鈴音。見せつけるように両手で余る胸を押し付けた。谷間から除くホクロがエロチックだった。
「……バイなのかも」 彼は泣きそうな口調で言った。
「疲れてたのよ、きっと」
「だといいけど」
「試してみる? わたしとシて、まだ男に反応するのかどうか」 言って彼女は彼の首筋に唇を這わせた。Tシャツを脱がせ、鎖骨を舐める。
「いや、おれシャワー軽く浴びただけだから」
「じゃあこの手は何?」 パジャマに手をやり下着越しに秘部をまさぐる腕を内腿で締め付ける。
情事を終え、一息つくと鈴音が何の気なしにナイトテーブルのリモコンを操作し、テレビ画面に録画してあったナイトスクープが再生された。軽快なオープニング曲が流れる。
「どう?」 と鈴音。彼の肩に頭を預けて言った。
「局長を見ても興奮はしない。よかった、たまたまだったみたい」 と心底安心したように、鈴音の華奢な肩を抱き寄せた。
「違うでしょ。久しぶりにわたしとの時間ができたら。でしょ?」
「そうだった。ところでこのベッドのマットって洗えるやつだっけ」
「たぶん。このままでもいいけど?」
「鈴音は学校の寮があるからいいだろうけど、おれはどうなるんだよ。そういえば、今日は出勤しなくていいの?」
「昼からでいいから、一眠りして身体を洗う時間くらいはあるわ。ねえ、最近変わった事とかあった?」
「あったよ、それがもうびっくり」
彼は、自慢するように語った。暴漢から逃げるために少女とラブホに入り、つい状況に流されて ――としか彼には思えない。 ―― 押し倒してしまった。が、われに返ると暴漢がカメラ片手に、いつのまにか部屋にいたので撃退した事を。
「で、その少女とは?」
「抱きかかえて指で愛撫した。それで押し倒した事は許すと言われたから。すまない。おれにも責任は、あると思った」
「責めようとは思ってない、謝らないで。女の匂いがしたから、今日、わたしに声を掛けなかったのはひょっとして。って考えちゃっただけ。その子、可愛かった?」
「疲れてると思って。可愛かったよ、中身も真面目だった。今時珍しいと思った。というか、臭いする?」
「女にしかわからないかも」 発情した女の香りは、と省略して続けた。 「他には?」
「あるけど、まだ言わない」
そう。と鈴音は瞳を閉じた。彼は冗談以外で嘘をつかなった。これは経験上の問題で絶対にとは言い切れないが、小説の地の文レベルの信頼を置いていた。
同棲相手に、少女とラブホテルに行ってきたなどと平気で言う。理知的に邪な行為ではないと確信し、相手も理解してくれると考えているからだ。
だからといって赤裸裸ではなく、教えたくないことは言いたくないで終わらせる。鈴音にはこれで十分過ぎるほどだった。逆に彼は深く彼女に立ち入らない。今は高校の教師をやっている、という情報以上を求めようとしない。どこの学校だとか、何を教えているだとか。
優しさなのかもしれない。だが同時にこれ以上に親密になれない理由でもあった。鈴音には、彼に教えられない秘密がありすぎた。だというのに彼を拘束しようとするのは自分勝手に過ぎると思っていた。だから愛撫はもとより、他の誰と唇を重ねようと身体をまぐわせようと口を出す権利はない、とも。
ねえ、と鈴音。 「もうすぐ誕生日だけど」
「無理に休みを取らなくていいよ。個人的な意見だけど、記念日とかって好きじゃない」
「いくつになるんだっけ?」
「だから誕生日を祝うのは年末でもいいと思う。再来年でもいいな」
ばか。鈴音はくすりと笑って眠りについた。
生命は年を重ねるごとに寿命へと近づいていくわけだから、誕生日などというのは死に近づいた記念日のようなものだ。とりわけ十の倍数の年は最悪だ。
と、そこまで考えて彼も眠りにつくことにした。そろそろ鎖鎌大会も近い。デビュー戦なのでコンディションはしっかりと整えておきたかった。
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翌日の夜の風呂上がり。斑鳩は寮内自室の扉を開けようとし、脳裏を駆け巡る危機感から思考を高速化した。戦闘態勢に心身を切り替え、勢いよく扉をあけ放った。嫌な予感がする。義兄が、村雨が宝刀飛燕を ――盗む、という言葉は躊躇われる―― 心中でかぶりを振って否定する。
予感は、半分的中していた。部屋には村雨がいた。外れた半分は、飛燕を手にしておらず、鎖鎌を両腕に巻き付けたまま腕を組み、瞳を閉じて壁を背にしていたことだ。
「おにいさま?」 と怪訝に斑鳩。いつもならば、嫌味の一つでも投げかけてくるはずだった。
たっぷりと時間をおいて、村雨は口を開く。 「けりを着けよう」
「……どうされたのですか」
斑鳩は慎重になった。なにかおかしい。
「いや、着けさせてくれ、と言うべきか」 ゆっくりと壁から背を離し、だらりと腕を下げる。鎖が物物しく音を鳴らした。 「賭けてくれ、飛燕を」
正気、だろうか義兄は。油断なくその立ち振る舞いを観察し、飛燕を安置してある櫃へと手を伸ばす。ひょっとしたら既に飛燕はなく、櫃には罠が仕掛けられているのかもしれない。暗器での制圧を試みる。素手では危険だと本能が告げる。
「ここで、ですか?」
「忍びは場所を選んで戦えるほど上等だったか。飛燕を取れ、使わんのならおれが使う」
言って村雨はぞんざいに櫃を開け、鞘を握って宝刀を手にした。罠は、なかった。
村雨の抜刀よりも早く斑鳩が瞬動して飛燕の柄を握り、鞘走らせた。同時に空間をひしめく鎖を切断する。斑鳩に確信はない、だが加減してはこちらが危ういかもしれないという不気味な蛇が心中で首をもたげた。
空中で鎖から切り離された鎌と分銅は、一秒もせずに床に落ちるだろう。脅威は退けた。が、村雨は飛燕の鞘を上段から振り下ろしていた。宝刀の鞘を受け太刀はできない。最悪、切断してしまうかもしれない。故に峰で受ける。斑鳩が柄を反転させる動作の間に村雨は鞘を手放した。切られる恐れはない、なぜなら今向けられているのは峰だろうから。
結局のところ村雨が最終的に実行したのは、そのまま上体をかがめ、原始的な体当たりを鳩尾に試みる事だった。それはしかし失敗に終わった。顎に膝を貰って意識を飛ばした、と教えられたのは、布団の上で介抱されていることに気が付いてからだ。
村雨は、すぐ隣で団扇を扇ぐ斑鳩に言った。 「おれは、そうか……負けたのか」
「おにいさま、いきなりどうして」 困惑している。
「単に決着が欲しかった、合切の幻想に」 ゆっくりと上体を起こして、口どもりながらも続けた。 「悪かったな、今まで。おまえを、その、邪険に扱って」
さっと斑鳩の顔に驚愕の色が走った。両手で口元を覆う。まさか、あの義兄からこのような言葉を聞くとは思わなかった。
「おれは、わかったんだ。忍びに憧れていたのでも、才能を持つおまえにでもない。代代受け継がれていたあれに」 と傍らに納刀されていた宝刀へ視線をやって。 「憧れていたんだ。くだらないよ、あれは極論、ただの物に過ぎないのに」
「それは、違います」 と真っ向から否定しもよいものか。斑鳩は迷った。この否定は、自身に対する義兄の謝罪の言葉すら消滅させてしまうのではないかと恐れもしたが。 「飛燕は大切なものです」
「そうかな」
「そうです」
「おまえの命よりも?」 試すような視線が向ける。
「だと、思います」 耐えきれずに、目を逸らした。
「やっぱりな、おまえも、一歩間違えればおれのようになっていたかもしれん」 くしゃりと破顔して村雨は笑った。斑鳩はそんな顔を見たことがなかった。 「
言葉を躊躇う斑鳩に、続けて言った。
「事実、おまえは飛燕を大事に思うあまり命を落としかけた。あの時、鞘を傷つけることを恐れずに受け太刀すべきだった。もしもおれのような三下ではなく、手練れならどうなっていたと思う?」
「おにいさまは、その」 と遠慮がちに斑鳩。 「何か変です」
「かもしれない……そうだな、おまえにもあの人の事を話しておこう」
村雨は心なしか自慢するように、かの人物について語り始めた。
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彼は近所の公園へやってきた。予想よりも大人数で少し気後れしたが、まあ大丈夫だろうと参加者を見て楽観する。
適当に準備体操をしていると、町内会長がスピーカーを通して言った。
『それではこれより、町内鎖鎌大会を始めたいと思います。参加者の皆様は受付を済ませて所定の……』
熱い一日が、幕を開けようとしていた。
彼はバッグから愛用の鎖鎌を取り出した。といっても、先端の鎌の部分は競技用の専用ゴム製。重心はおよそ実物と変わらないが、最悪バスケットボールが当たったくらいの威力で済む素材だ。
参加者は総勢七名で、どうしてこれで年に四回の頻度で開催されているのかは謎だった。彼以外は驚くべきことに小学生が大多数 ――五名!―― で実際に一位争いをしそうなのは、シャツのボタンを全開にし、白いジャケットを羽織っている男だった。なんだこの変態は。
こいつにだけは絶対に負けたくない。つまり必然的に一位を目指してイメージトレーニングをしていると声が掛けられた。
「よお、あんたが最近になって鎖鎌に手を出したやつか」 と卑屈な笑みで変態。
「そうだが」 と拒絶するように彼。
「その年でか」
「年齢は関係ないだろ」
「その年で絶望を味わうなんてな。哀れだと思ってさ」 変態はくつくつと喉を鳴らして笑った。
「おまえはここの常連なのか?」
「いや、小学生のころはちょいとばかし有名だったよ」
「へえ、いまでも?」
「辞めたよ。もう来る気はなかった。ただ、中年にもなって鎖鎌の世界に足を踏み入れたやつがいるって情報が入ったんで、ちょっと揉んでやろうかと、ね」
「中年?」
彼は中年という言葉に異様なまでの敵意とも呪詛とも似た口調で返した。変態は思わず後ずさる。後ずさってから、それが無意識の内だと気が付き、歯がゆそうに 「せいぜい頑張るんだな」 と吐き捨ててその場を去る。
後にエントリーネームから、その変態は村雨というらしいことはわかった。彼は
第一部が始まった。台の上に載せられた空き缶を落とすといった基本的な内容であるが、彼はこれに関しては絶大な自信を持っていた。結果もそれに追随し、十の目標を最速タイムで落とした。十点満点。
村雨が忌忌しそうに顔を歪めた。そして五点といういまいちパッとしない成績。
勝ったな、と彼は優越感から小さく笑った。が、第二部の内容に愕然とする。
「う、動く目標なんて聞いてないぞ」 と、彼。驚愕の無得点だった。静止している目標ならば、絶対に命中させる自信があっただけにそのショックは計り知れない。木の枝に吊られて振り子運動するバイキンぐマンの目標に茫然と膝をついた。
鼻で笑って、村雨が彼の肩に手をかけた。 「ひっこんでな、おっさん」 言って、両腕に巻き付けた鎖を一瞬で解き、合図とともに揺らめかせた。
「五点じゃねーか」 と彼。半目に腕を組み、乾いた声。
「あんたはゼロだろーが」
「第一部では満点だからいいんだよ!」
「的なんて動いてねーじゃねーか!」
「う、うるせえな、満点は満点だろうが!」
町内会長に止められるまで、その言い合いは続いた。ルール上、彼と村雨は同順位だったが、そんな結果で満足などできるわけはなかった。
二人は視線を交わすと、無言で近所の河川敷へ向かい、相対した。
一目見た瞬間から、この決着のつけ方は予感していた。何が何でも解決しなければならない命題だ。でなければ自分が自分でなくなる。アイデンティティさえ危うい。
一陣の風が鋭く吹く。それが合図だった。
いい大人が二人して青春よろしく、殴り合った。だって鎖鎌だと怪我するから。殴っても怪我するけど。
その日、鳳凰財閥の当主、村雨の父が帰宅すると、珍しく息子の笑い声が聞こえた。わーっはっはと、実に上機嫌だ。珍しいこともあるものだ。斑鳩を養子に、飛燕を継がせてからあのように笑うことはなかった。
「なにか、あったのかね」 とメイドに尋ねる。
「なにやら気の合うご友人を見つけられたそうです」
「ほう、あの塞ぎこんでいた村雨をここまで愉快に笑わせるほどとは。そういった人間は得難い、恵まれているな」
当主はそのまま疲れを癒すために浴室に向かった。村雨には商才がある。その方向へと歩み、大狼に現れた強敵の対抗戦力になってくれればいいがと、僅かな期待を胸に。
そんな父の心配を知ってか知らずか、村雨の自室では上等なスコッチがすでに一本開けられていた。顔中青アザだらけの男二人が高笑いで乾杯している。つまり、青春なのだ。クロスカウンターからのダブルノックアウトで、温かい夕暮れを見上げて互いを認め合うのだ。年齢は関係ないのだ。
「わーはっはっは」 と彼。
「わーはっはっは」 と村雨。
もう幾度目かわからない乾杯をやっていた。強いアルコールが口内の切り傷を焼いた。だがそれでいいのだ、それがいいのだ。蒸留酒に鉄の味でいいのだ。
「いやー村雨くんが大学の後輩だったとはね」 と彼。嬉しそう。
「ペンを持つのは得意なんですよ」 と村雨。嬉しそう。
「えー、でも鎖鎌も得意だったんでしょ?」
「昔はそれなりに自信があったんですけどね。あの町内大会も、じぶんがガキのころは結構な規模だったんですよ」 無意識の内に棚に置いてある楯を見やる。町内鎖鎌大会、六位。と彫ってあった。
「へえ、じゃあなんで離れたの?」
「あー、そこ聞きます、聞いちゃいますかー」 口調とは裏腹に、後ろめたさを隠して言った。 「昔は忍びに憧れてたんですよね、じぶん。でもまあ才能の限界というか、それに気づいたときにはもう進路を決めなきゃって時で」
「いいじゃん。おれなんて先月くらいに脱サラして忍者目指したよ」
あっけらかんと口にした言葉に、村雨は開いた口が塞がらなかった。ややあって金魚のように口を開けては閉じて言葉を紡ぐ。 「へ、仕事やりながらじゃ、なくて? ですか」
「うーん、まあそれも考えたけど、やっぱやるからにはどこかで振り切らないとなーって思ってさ。半端な気持ちで忍者やりたくないし」
「あの、失礼ですけど、ご家族とかには……」
「結婚してないけど、同棲してる女性はいるね」 なんとなしに彼はメル友 ――死語!―― の四季を思い出した。明確に同棲相手と契っている訳ではないが、だけど不貞を働くわけにはいなかった。善人だから。
村雨は並並と入っていたグラスを床に落とした。
「うわっ勿体ない。おれの酒じゃなくても高い酒が無下になるのは気が引けるんだよね」
はははと笑って酒を一口やる彼に、村雨はどういった感情を向けていいかわからないでいた。 「その、女性は忍びになる事に関しては、なんと」 かろうじて喉を鳴らした。
「うーん、実はまだ打ち明けてない。そろそろおれの誕生日だし、その時でいいかなーって」
不覚にも村雨の視界が滲んだ。耐えきれずにソファを立ち、床に脛と掌をつける。そして叫んだ。すみませんでした。と。
「え、なになに村雨くん。どしたの急に」
「軽い気持ちで先輩が大会に出ているものだと思って、忍びかぶれのおじさんが手を出しても、結局は才能の壁にぶち当たって砕けるくらいなら早い段階で折った方がって思って。そう思って小学生ぶりに大会にエントリーしたんです!」
「あ、へー。そうなの」
「でも、本当は心のどこかで自分に重ねてたのかもしれません。才能の壁を前にしても、愚直におじさんの年齢まで忍びの憧れを捨てない人間がいたらって、もしかしたら、それはもしもの自分の将来なんじゃないかって」
村正の独白は慟哭へと変貌していった。気づけば涙が止まらなかった。嗚咽交じりの過去を、ただただ吐露していった。積りと積もった毒を吐き出すように。じぶんに忍びの才能がないために鳳凰財閥は養子を迎えた事、そして代代受け継がれていた宝刀はその養子の手に渡ったこと。
やるせなくて、惨めで。その養子がじぶんを気遣うのが堪らなく屈辱的で。
「だって。だって子どもの頃から憧れたんだ、忍びの親父に。親父が見せてくれたあの飛燕……」 前腕で鼻水を拭って続けた。 「父さんは、誇らしげに、これはおまえが継ぐんだって。でもおれにはそんな才能はなくて、それを知った時の父さんの顔が忘れられなくてそれで」
「まあ落ち着けよ」 彼は床に転がるグラスを拾い上げて、ボトルからではなく自分のグラスのスコッチを半分注いでやった。 「おれはおまえに、適切な言葉をかけてやることはできない。しようとも思わない。仮にできたとしても、そんなものは如何にも表層的で安っぽく、薄氷に過ぎると思うから」
説教は嫌いなんだ、ダサいから、と小さく笑って続けて言った。 「しかし、才能を持つ養子か。ひょっとしたらいつか、おれがおまえの義兄になるかもな」
いや町内鎖鎌大会でおれと同順位とか斑鳩の足元にも及ばんと思うが。と村雨は反射的に思考した。 「無理ですよ、そんなの」
「ふうん、そんなにその養子はすごいの?」
「そりゃあ、ええ。斑鳩っていうんですけど、とにかく剣技が凄くて、頭もいいし」
「村雨くんとどっちが頭いいの」
「まあ、勉学に関しては、おれ、ですけど」 ぽりぽりと頬を掻いて、村雨。
「おれの母校の後輩だしな。なんか弱点とかないの、その斑鳩くんは」
「それが器量が良くてまじめで。日本茶が好きで点てるのが上手で、それと日本料理の腕は抜群で、あでもそれ以外の料理は……」 と村雨は無意識に彼に注がれたグラスを口にした。強いアルコールが唇の傷にしみる。痛かった。肉体的な痛みはしかし、精神的な苦痛にとって鎮痛剤のようにも感じられた。
「勝ち目ないわ。飛燕は諦めよう」
「そりゃないですよ」 自棄になってか、それとも何年振りかの号泣で心なしか気持ちを落ち着かせて笑って言った。この人は、ひょっとしたら自分と同じタイプなのかもしれない。どこか自信家だが、実力は伴っていない。違いは腐らないところだ。
村雨は自身の鏡を見るようでしかし、他人の欠点を眺めているような気がした。自己の短所を客観し、初めて手に触れる。
「まそれはそれとして、なんで村雨くんは忍者になろうと思ったの」
「なんでって、カッコいいじゃないですか」
「うん、おれもそう思う。でも飛燕を手にできないイコール忍者になれないって訳じゃないじゃん。こんなこと言っちゃあ失礼かもだけど、斑鳩くん以下の腕前の忍者っているんじゃないの? そんなに彼女が完璧ならさ。ところできみ、飛燕が欲しいの? お父さんに認められたいの? 忍者になりたいの?」
緩んだ空気から鋭角に投擲された言葉に、村雨はたじろいだ。自己のもっとも根源的なものは。心の底で渇望していたものは。逡巡し、ためらいがちに口を開く。
認めてほしかった。
それは飛燕からではなく、父親からだった。
「だから、飛燕はいらない。それは一族の意思の象徴に過ぎない。おれはおれのやり方で一族の表を、財閥を継ぐ」 と、村雨は語った。 「おまえがそれを継ぐなら継げばいいと、おれは思う。でももしも、おまえが、その……鳳凰の一族として継いだのなら、じぶんの命よりも飛燕を優先することはない、とも思う。おまえが死ねば、それで鳳凰の忍びはいなくなる。一族の裏を、忍びを継ぐ者はいなくなってしまうから」
そっぽを向いて恥ずかしそうに言った村雨の言葉は斑鳩の心を打つに十分だった。認めたのだ、斑鳩を家族として。
「いままで、悪かった。酷い態度をとってしまって。許してくれ……斑鳩」
斑鳩は自身の名を呼ばれて、目じりを拭った。 「いいのです、わたしにはそれで、十分満たされましたから」
それから義兄妹は、麦茶を片手にしばらくの間、近況を伝え合った。
「で、時間があったらでいいんだけど。稽古をつけてくれないか」 どこか照れ臭そうに、村雨。
「それは、構いませんけれど」
「なんだよ、いいだろ? 大学生がもう一度夢見ても」
「ええ、ただ、わたくし、やるからにはスパルタでいきますから」 斑鳩は笑って言った。
「ところで斑鳩、彼氏とかいる?」
「ふぇあっ!」 と麦茶を手から落としかけて。顔を赤くして答えた。 「いき、いきなりなんですか!?」
「いや、例の先輩なんだけどさ」 村雨は余計な事かもしれないがと考えていた。脱サラして忍びになったなんて同棲相手に告白したら、普通どうなるかを。 「なあ斑鳩、彼氏とか気になる人がいないのなら、会ってみないか。ちょっと歳は離れているかもしれないけど、だらしない体型のおじさんじゃないし」
誰にとは言わずに村雨。真剣な表情で。だから斑鳩は、とりあえず今は忍びになるための修行が忙しいからと逃げることにした。
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第三話 超高度精神制御術者
「事を急かしすぎたかもしれない」
支配下にある忍びの報告書を聞いて道元は誰に言うでもなく呟いた。
薄暗い室内で、デスクに指を打つ。まさか媚薬の効果を克服するとは。にわかには考えにくいが、現実はそう答えた。効果は短時間だが、呪いと表現しても差し支えない薬効を一分もたたない間で克服した。薬師が知れば道を閉ざすだろう。
しかも、カメラも回収できず。
薬物に対する優れた抵抗能力? ぽつり、先天性の精神制御能力者か、とこぼす。
道元は洗脳や幻影術は得意とするが、
だがそれにしてもと跪く忍びを一瞥する。
少なくとも使えるレベルの忍びだ。目標は媚薬の支配下にあったという慢心があったとしても顎に一撃を受けるとはどういうことだ。自分だったら、どうだろうか。撮影を試みているのだから、小さなハンディカメラのディスプレイ越しだ。ひょっとしたら、偶然居合わせた善忍があまりにも醜悪で、自分に欲情している可能性もある。その場合は気配を殺せば済むが。いや、女の心理を探るのは限界があると思考を中断する。失敗は失敗だ
元より、道元の前で首を垂れる忍びは忍術による洗脳系精神制御術によって配下に置いたに過ぎない。めぼしい生徒の教科書に転写した、特定の人間にのみ作用する
道元にとってはこれが限界だ。教科書という日常的に目にする物体に
これは道元の術のレベルが低いのではない。むしろ扱いの難しい精神制御術をかなり高度に行使している方だ。間接的に暗示をかけるだけでも驚愕に値する。
道元は短く熟考した。
物理的な排除に乗り出すべきか、いやそれは意味がない。ここまでお膳立てした意味が。もう少し様子を見る。
零れ落ちてきた遇を拾うために、大狼と鳳凰の縁談を実行するために短期間で莫大な金を動かしてしまった。一部とはいえ、両財閥の本家の連中は実にがめつかった。
今更引き返して無為とするのは、今後の計画に支障が出る。何でもいい、何でもいいのだが。
と、道元は目標である彼の写真を頬杖をついて眺めた。
必要だ、引き金が。何でもいい。二つの忍びの学び舎を同時に衰弱させる計画を実行できるのは、彼という遇が存在する今しかないのだから。
あとは、大狼と鳳凰の縁談の話の経過を見てから考える。
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「別にいいのに」 と彼。まだアザが残る顔でノンアルコールのビールを鈴音のグラスに注いだ。怪我の理由を尋ねられたが、青春、とだけ返した。
「わたしが祝いたいの」 と鈴音。彼にお酌する。
「死に近づいただけだよ」
「そういう後ろ向きな考えはやめたら? 一つ経験を積んだと表現しましょう」
「鈴音ってさ、箪笥の角に小指をぶつけた時に、眠気が覚めて助かったとか考えるの?」
「少なくとも次からは気を付けるようにはなる。それに誕生日プレゼントも貰えるし、美味しいものも食べられる。ケーキのろうそく、何本だっけ?」
「今度から一口サイズのカップケーキにしない?」
「節分よろしく、歳の数だけ用意する?」
「その執念はどこからくる。ま、いいよ。食べよう。いただきます」
「いただきます」
鈴音がなんとか彼の誕生日に、午前中だけ時間を取ったということで早めの昼食で乾杯した。だからノンアルの発泡酒ではないのだ。彼の好物であるビーフシチューには、生クリームでハートマークが描かれている。
この日、鈴音は一つの決心をしていた。自らが忍びであることを告白しようと。もう何年も前から悩んでいた。たぶん、彼は冗談だと思うだろう。だから自分の生い立ちを説明しなければならない。仲間を見捨てて妖魔から逃げ出したことや、悪忍と呼ばれる後ろめたいことをする組織に属していることまで。
彼が鈴音の過去に不干渉なのはひょっとして自白させたかったのかもしれない。だから、同棲以上に親密になれないのかも。
一通り温かい物を食べて、彼は改めてといった風に口を開いた。
「あのさ、この間、言いたくないって話したの覚えてる」
「え、ああ。うん」 だが、どう切り出していいかわからない。忍びであるなどと。過去に、彼は記憶を操作されているだけで、一度会っているのだと。それと最後に、あの時助けてくれてありがとう、あなたは記憶していないでしょうけど。
「おれ忍者なんだ」
鈴音の意識は一瞬にして遠点に位置した。音がしてから、フォークを落としてしまった事に気が付く。
「特に意味もなく誕生日に言おうって決めてたからあの時言わなかったんだけど、まそれだけ」
少し恥ずかしそうに、まるで少年が将来の夢は宇宙飛行士だと告白するような口調はしかし、恐ろしいほどの鋭利さを持ってして、緻密に構成されていた鈴音の告白にも似た言い訳をズタズタに引き裂いた。
フォーク落ちたよ、ノンアルのくせに美味しいねこれ。という彼の言葉は理解の彼岸にあった。
鈴音の記憶が正しければ、善忍か悪忍かを尋ねたはずだ。彼は当然のように答えた。おれは善人だよ。
彼女はそれだけ聞くと席を立って玄関を出た。彼は追いかけたが、姿は見えなかった。
彼の耳には、いつまでも最後に彼女が呟いた言葉が木霊した。
――ごめんなさい――
彼は途方に暮れて、とりあえず昼食を平らげてから四季にメールを打ってみる事にした。
『日ごろから雑誌やなんかで女心を把握してるであろう四季くんに聞きたいんだけど。同棲相手にじぶんが忍者であるという事を伝えたら家を出て行かれた。どうしたらいいと思う?』
返信を待つ間に洗い物を済ますか、と袖をまくるとすぐに着信した。
『おじさんって同棲してたの?』
『うん』
普段はやたらデコった本文だが、異様に淡白な疑問文に返信すると今度は十分ほどかかって。 『一応聞いておくけど、相手は一般の人なんだよね?』
『高校の教師をやってる』
四季は携帯に映る文面に眩暈を覚えた。 『もうすぐお昼休みが終わって授業始まるから、また後で』 と返し、信じられないと机に突っ伏す。ややあってお手洗いに向かった。用はなかったが、とりあえず一人になりたかった。洋式に腰掛ける。
なんとなしにスマホをいじる。お手製の情報収集アプリを立ち上げた。まさか同棲相手がいたとは、と無意識的に彼について調べる。
がっかりしているのだろうか。わからない。幾度目かの『No| Data』という文字を眺めた。それなりの電子情報収集能力はあると思っていたが、彼の出自はさっぱりだった。半蔵学院どころか、どこの学び舎にも所属していない。少なくとも表の名簿には載っていない。
隠匿された存在。
四季はあの時見た彼の、色のない瞳を脳裏に浮かべて身震いした。まるでこの世の全てに諦観し、上司だろうと無意識の内に命を摘んでしまいそうな。
恐怖は興奮と密な関係にある。どちらを覚えるにせよ鼓動が高鳴るのがその証拠だ。ぞっとして腕に鳥肌が立つ。そしていけないと理解していても、一枚の写真をスクリーンに呼び出してしまう。じくり、と下腹部が熱を持つ。彼の肩に頭を預け、だらしなく達した自分がそこにあった。いまと同じ制服を着ている。
そして禁じられた果実に触れるように、画面の中の自分への羨望から下腹部へ手を伸ばす。チャイムが鳴った。
しばらく個室に籠り、教室へ顔を出して教師に一言伝えた後、保健室へ向かった。ベッドに横になる。
あの時、ラブホで誘惑に乗らなかった理由がなんとなくわかった気がする。同棲相手がいたからだ、不義理を働くわけにはいかないから。
白状してしまえば四季は、同棲していると知ったときは少なからずの衝撃を受けた。なぜ? と自問する。同時に家を出て行かれたと聞いて嬉しくもあった。人の不幸を喜んでいるとすると、わたしは悪だろう。
こんなにいやらしい子だったっけ。四季は寝返りを打って自己嫌悪に落ちる。欲情している。それは認める。だがそれは性欲からくるのか恋愛感情からくるのか、あるいは優秀な種子が欲しいという生存競争からくる動物的本能なのか。判断するすべはない。
思い悩む。いや、消去法で。
四季はメールを打った。 『近いうちに会えない?』
『きみ授業中じゃないの?』
こっちの決意をまるで無視するような内容に、四季は小さく笑った。
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道元に報告した忍びが第三句暗号を用いて書いた小さな報告書を、学園長は解読していた。
洗脳術については道元が一枚上手だが、生徒の理解に関しては学園長に理がある。道元が目を付けそうな生徒に予防策を張っておいた結果だ。
近頃の道元の動きは活発になっている。些細な事でも把握しておきたかった。しだいに記号のような文字を追う眼球の動きが早くなる、鼓動が比例して警笛を鳴らした、脂汗がしたたり落ちる。すぐに鈴音を呼んだ。
緊急時における秘匿召集だったが、マニュアルが規定する七秒前に鈴音は駆けつけた。偶然にも学園に到着したのと同時の召集だったのもある。
丁度いいかもしれない、と鈴音。彼が忍びであったことを報告しなければならない。しかも理念上対立する善忍。
学園長は一枚の写真を投げ渡し、静かに言った。この男は覚えているなと。
手に取ってみれば、彼だった。
「まずいことになった。失敗に終わったものの道元がその男に姦計を仕掛けた。二重スパイによればわが学び舎が保管してある禁忌級の媚薬が使用されたことは間違いないが、目標はそれをいとも簡単に克服した。女性にはそれほどだが男性には恐ろしく作用する、そういう薬効だったが。……先天的な才能である可能性がある。なぜなら、その目標は事前の調査では一般人だと判断されたからだ」
焦りを隠そうともせず続ける。
「しかしその事実こそが問題だ。きみが悪忍についたときに彼の詳細が書かれた封筒を出したのを覚えているな? 当時のわれわれの調べでも彼は一般人であると判断した。だが、だとすると不自然な点が一つ浮き上がる。彼が先天的な精神制御能力という才能を身に着けていたなら、なぜ、きみを介抱した際の、わたしが施した記憶操作は受け付けたのかということだ」
「記憶操作を受けた後になんらかのコネクションを使って忍びになったか、精神制御の才能に開花した。あるいは精神制御と一口に言っても、薬物に対してのみという可能性はある」 これまでの常識が、日常的事実が泡のように音を立てずに割れつつあるのを心中で認識し、意図的に忘却した。
「もちろんそうだ。だが道元は先天性の精神制御能力者と評価しており、行動がそれを否定している。なぜ道元が媚薬を用いて彼の情事をスナップしようとしたのか、当然脅すためだろう。その内容に関してだ」
鈴音は学園長が言いたい危機を理解した。正確には会話の途中でしていた。本能は時間をかせぎたかったが、忍びとしての理性が勝る。背を凍てついた手でなぞられたかのような感覚に陥る。走馬灯のように過去が明滅する。足が震える。
「道元の狙いが姦計による脅しで、彼を半蔵に対する虚偽報告の証人にさせることであるなら、媚薬を使用せざるを得なかった。なぜなら
「道元が彼に対して行った姦計と結果が事実なら、そう考えるべきだ。もう一つ問題がある、こちらの方が重要で危うい。あの時わたしの記憶操作を受け付けていないのならば、どうして彼はさも記憶操作されているかのように振る舞ったのか、だ。術者であるわたしからしても、彼の振る舞いは完全に術の制御下にあったと、今でも断言できる。彼はわたしによって記憶操作されていたと言い切れる」
「単純な先天性の精神制御能力者のみならば、彼は記憶操作の影響下にある振る舞いはしない、できない。才能はあっても知識がないから。よって彼はあなたの記憶操作術を看破していたということになる。一見でどのような作動原理の忍術で、どのような効果を及ぼすかを理解する深い知識も身に着けていることになる。つまり彼は忍びだった。それも当時、現役最強とうたわれるあなたを欺くほどに精神制御術に長けた」
「まずい事になった、本当に。半蔵学院に対する虚偽報告を知っているのはわたしときみと、その場にいた直属の精鋭数人だ。だがここにきてもう一人増えた。彼が当時から忍びであるなら、きみが過去に善忍であるということまで既知であるかもしれない。凜が妖魔に食われて遺体も残っていないという、現実に対する矛盾を知っている。その可能性は無視できないほどに高い、道元が動いているのがその証拠だ」
学園長は両手を組んで、顎を支えた。 「道元はなんらかの情報源から、きみが唯一生き残った善忍の妖魔討伐部隊で、現悪忍蛇女教師らしいというネタを掴んだのかもしれない。確証はないだろうが、だからこそ事実を知っていると思われる彼を抱き込むつもりなのだろう。凜イコール鈴音が表沙汰になった時点で、わたしの虚偽報告は確定する」
「でも道元はどうして、彼が当時の記憶を保持していると、記憶操作を免れる才を持っていると考えたのか。だとしたら、なぜ精神制御術者である彼に対して媚薬を用いたのか」
「前者については不明だ。憶測の域をでないが、なんらかの任務の最中に誤って彼に精神操作を行ってしまった。しかし反応はない、そこに目をつけて探りを入れたのかもしれん。後者についてだが、媚薬を用いる時点では記憶操作術に対する忍術抵抗力のみを評価していたのだろう。が、実際は失敗に終わった。薬物においても彼は背理する、理不尽なまでに一般性を貫徹する。先天性の、忍びの歴史上で最も完成に近い超高度精神制御術者だ」
「それも、術をかけた本人でさえ気づかせないほどの演技力。加えて数年経過しても、その綻びを見つけさせない忍耐力」
「幸いなのが近接戦術戦闘能力は低いという点だ。もっとも、そのように演じているだけかもしれんが」 力なく学園長は笑った。 「一つ聞かせてくれ。きみは彼と同棲状態にあるな。彼を自らに従わせることは可能か? 無論、苦痛を伴う肉体的にではない、強制的な精神制御でもない」
学園長は、つまりこう言っているのだ。親密なのかと。強制的でない精神制御とは言ってしまえばお願いだ。わたしの為に口を閉じていてくれと言って、彼が応じたとして、それに背を預けられるのかという。
「わたしときみは一蓮托生にある。きみがわが学び舎にとって良い影響を与えると考えたからわたしもリスクを負った。同時に、道元という怪しげな出資者に対するカードになると。現にきみはよく働いてくれている、きみが彼を信頼しているならわたしも彼を信頼しよう。道元は彼を使ってわたしを完全に失脚させるつもりだ。彼をわれわれに引き込む必要がある」
「彼は、善忍です」
「なに?」
「きょう、いましがた告白されました。善忍の忍びであると」
「絶望的だな。で、きみは彼を杖に暗闇を歩くことはできるのか」
それは、と言いさして鈴音は口をきつく結んだ。彼は、ずっと昔から知っていたのだ。わたしが忍びであることを、しかも妖魔に敗れ、一人逃げ伸びたことも。当然、当時現役最強と名高い蛇女学園長のことも知っていただろう。学園長がわたしを保護したのも、記憶操作術を掻い潜り、制御下に置かれた振りをして知っているはずだ。道元はその過去の出来事に確証はないと思われるが姦計を試みたという行動からして、鈴音と学園長の持つ情報と照らし合わせると、それを裏打ちしている。
その精神制御術に見合った地位を持っているなら、いや、持っていなくとも妖魔に関する報告書くらいは盗み見ることは容易そうだ。現実では介抱したにもかかわらず、書類の上では妖魔に遺体も残らず食われたという矛盾を。
それを、聞きもせず黙って。
そう考えたところで雫が鈴音の頬を伝った。涙が止まらない。震える身体を抱きしめる。
「わたしには、無理です。彼に付いていくことはできない。そんな資格はない。彼はずっと待っていたのかもしれない。わたしが元善忍で、卑怯にも一人生き延びて悪忍へと寝返った事実を告白するのを」
「わかった。だが客観的に言葉を選べ、当時のきみの判断は正しかった。わたしが保証する……雅緋、そういうことだ」
学園長は部屋の隅で壁を背に、瞳を閉じた石像のように押し黙って腕を組んでいた少女の名を呼んだ。ショートカットの、学園長と同じ白銀の髪の色をしていた。温度のない黄昏色の瞳を露わにする。
「聞いてのとおりだ、彼を傀儡化するすべは現時点で、少なくともわれわれが有している手段は存在しない。殺して口を封じることも不可能だ」
――例えば一定期間連絡がなければ情報を発信する協力者が存在する可能性がある。また、精神制御の観点からしても自白薬などで協力者についての口を割らすこともできない。
肉体的苦痛も与えられない。大抵の忍びは情報漏えいを防ぐ名目のもと、さまざまな自決手段を用意するのは基礎中の基礎のため。彼の基礎は鎖鎌を投げる時はしっかりと足を開くことだが――
「わかっています、父上」 と雅緋と呼ばれた少女。 「それで父上を復権させる事ができるのなら、わたしも忍びの端くれ。この身を使命に捧げる覚悟はできています」
「すまない、この身が病に侵されていなければ」 学園長はそれだけ言うと、退室を命じた。わかっているな、と鈴音に視線をやって。
室の扉が閉まるのと同じくして、学園長は痛ましくせき込んだ。薬を服用して写真の中の彼を見やる。鈴音と同棲仲にあったのだから人となりはいいのだろう。ぼんやりと思った。
少し起き過ぎたかと床に就く。この身が正常であれば怪しげな者にここまで学園を好きにはさせなかった。夢うつつに自分の病が完治し、雅緋の修行に付き合ってやるさまを空想する。もし本当に近接戦術戦闘能力が低いなら、彼も鍛えなければならないな、と。
完成に近い超高度精神制御術。どのような感覚なのだろうか。仮に義父になったとしても、詳しく聞くつもりはない。また、己の記憶操作を見破り、被害を詐称したことについても。それは彼にとって秘中の秘であることは想像に容易い。
悔しくはある。認める。だが彼が口を開かない限りは聞かない。技術は忍びの人生そのものだ。むやみに吐露する必要はない。万一にわたしが傀儡化された場合に、彼の秘術が露見してしまう可能性もある。ただ、雅緋との子を大切に思って継承してくれればいい。それも彼の意思を尊重するが。
彼は酒をいける口だろうか。だといいがと学園長は不意に所帯じみたことを考えた。妻は、若くして娘を庇うために妖魔に殺された。まさかこれほど早く娘の夫となる人物が決まるとは、数時間前まで考えもしなかった。天国で妻はわたしを咎めるだろうか、軽蔑するかもしれない。一人娘を己が保身のために利用している。きっとわたしは地獄に落ちるだろうから引っ叩かれなくて済むのはありがたいが。
あいつは遠慮というものがなかったから。
学園長は少し顔を緩めた後、戒めるかのように口を堅く結んだ。
道元。わたしが病にさえ侵されていなければ蛇女と半蔵学院を巻き込んだ事件の因果関係を探ってやるのに。動かせる部下はいるが、多数を管理できるかと問われれば否だった。世間の情報にも疎くなってしまった。
加えて事件に関与していた蛇女当事者の忍びは抜け忍になってしまった。真相を語るつもりはないという事だ。
道元はパトロンという立場がある。別のあてがない以上、事は慎重にならねばならん。
学園長は咳き込み、浅い眠りについた。人間として鈴音に謝罪をし、忍びとして使命を課した正当性を主張して。
そして軽く夢を見た。妖魔と戦う夢だ。雅緋と一緒になって、最後の一匹を追い詰めている。だが他の個体とは様子が違う。慎重に、しかし妖魔は待ってくれない。刹那の判断で距離を詰め、妖魔の保身行動に対する猜疑心を増幅させる精神制御術を実行した。本当にこの回避行動でいいのかという戸惑いの隙を突こうとするがしかし、彼がわたしに殺意を送る。――敵意ではなく、瞬間伝達する危険信号としての――
わたしは寸でのところで攻撃を中止し、その場から離脱する。妖魔の身体が僅かに揺らめいた。幻術の兆候がある。気づかぬはずはない、ということは、わたしは既に妖魔の精神制御術の影響下にあったのだ。おそらく攻勢行動に対する殺意の増幅か、保身行動に対する細心の減少、あるいはその両方を受けた。
危ない所だった。
完成に近い超高度精神制御術者の彼は、どのような原理かわからないが、結界内の忍びの精神構造をリアルタイムでモニタしているらしかった。平時と戦闘状態の精神構造を記録参照し、一定数の乱れが生じた場合を感知する。
雅緋が彼の強力な対精神制御支援を受けて対妖魔の装備で両断するが、すでに実体はなかった。幻影が霧散する。
こうまで高度な幻術を使う妖魔は初めてのタイプだ。いたとしても不思議ではなかったが、現実性はなかった。早急に対抗策を練る必要があると、わたしと彼と雅緋で帰投する道すがら話し合った。
雅緋と鈴音は並んで学園の廊下を歩いた。沈黙はあったが、最初に破ったのは鈴音だった。
「彼はきっと、あなたを抱かない」
「男勝りであるとは自覚はしています」 と雅緋。ボーイッシュ故に女生徒から人気があるが、容姿端麗なのは間違いない。抱きしめればさぞ良い感触だろうと想像させる体つきをしている。
「そういう意味ではなく、彼は性交渉には応じない」
「善忍だからですか、それとも……」 盗み見るように鈴音を見上げるが、そこに意思は読み取れなかった。 「……それとも先生を」
「わたしは彼に相応しくない」
「では方法は一つしかありません。金か……その、おんなか。目標は金銭に執着している様子はなので仕方がありません。やりとげなければならない。彼を迎え入れる、悪忍へと招き入れなければ」
学園長が画策したのは、ようするにそういうことだった。身内となり、危機を共有する。一蓮托生させる。単なる口約束ではなく、明確な絆の拘束。
病から現在では最強の座を譲ってしまったが、それでも忍で知らぬ者はいない名家。次期学園長の椅子も用意されているようなものだ。道元を排除し、かつパトロンを確保できれば、の話だが。彼がその点に助力してくれれば一石二鳥でもある。手練れの忍びでも垂涎ものの逆玉の輿。
そして悪忍は、善忍の強大な戦力を一つ奪うことになる。完成に近い超高度精神制御術者を。
「わたしは教師の資格すらない、勇気がないから教え子にこんな真似をさせる」
「偽って彼を信頼している、と父上に報告しないのは正しい判断だと思います。もし先生が正直に己の内を言ってくれていなければ、半信半疑の信頼関係の上で秘密を握ったままにさせていました。必要なのは確実性です、先生は忍びの教師として模範的な行動をしたと思います。上司に正確な報告をするというのは」
雅緋は一歩先を進み、振り返った。 「ですから、お願いします。辛いかもしれませんが」
「彼は優しいから。あなたに酷い事はしない」
鈴音はそれだけ言うと雅緋を抱きしめた。雅緋も腕を回す。そっと目を閉じた。身長差から雅緋は鈴音の胸に顔を埋めた。父上から元善忍と聞いたときは、それなりに距離をとった。だが短くない教師と生徒の関係から、鈴音を信用していた。
だからこそ、心苦しい。乱暴に言えば許可を取って寝取るようなものだから。
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その夜、彼は鈴音に携帯で呼び出された。玄関を出るとぽつりと来たので、念のため傘を二本持っていく。場所は近所の公園だった。彼の輝かしいとはいいきれない、鎖鎌大会のデビュー場所でもある。つくころには本格的に降り出してきた。
雨音が支配する場であたりを見渡す。腕時計を確認すると、時間は合っているはずだが。と、公園の街灯が、切れかけの電灯のように数回点滅した。その瞬きの間で、明かりの下に人影が現れた。
どことなく感じる鈴音の面影に近づく。だがいでたちは彼が目にしたこともなかった。口元を布で覆い、胸部をくっきりと浮きだたせた黒いスポーツブラのような上半身と長手袋。股上がほとんどないような鳶装束につるりとした脛当て。
忍者みたいな格好だと彼は思ったが、鈴音がずぶ濡れだったので一先ず傘を差し出す。
受け取ろうともせず、頬に濡れた髪を付けて鈴音が言った。
「ごめんなさい」
「いや、おれもちょっとその、きみの気持ちを考えてから口にすべきだった」
「いいの。わたしが悪いわ。あなたが何と言おうが、その気持ちはある。その上で厚かましいのだけれど、一つお願いがあるの」
「うん?」
「近近、たぶんあなたは婚約を持ちかけられると思う。承諾してほしい」
「ええと、と思うって事はつまり、誰から?」
鈴音はそれ以上口を開こうとはしなかった。ゆっくりと彼に腕を回し、顔を近づける。 「約束して」
彼は茫然と口を開けた。何言ってんだ? が、抱き寄せられた彼女の吸い込まれそうな瞳の奥を見ると何も言えなかった。漆黒だった。泣いているようでしかし、雨なのだろうか。
鈴音は逡巡し、彼の頬に小さく口づけると後ずさり、闇に溶けるように消えた。
彼はしばらくそこに立ち尽くした。たぶん、今朝と同じように追っても無駄だと理解していた。
帰宅し、熱いシャワーを浴びてベッドに潜り込む。鈴音の残り香を肺に入れて熟考する。意味のない事を言う人間ではない、つまり鈴音には自分と何者かが婚約しなければならない理由があるのだ。
その場合、では唯唯諾諾に婚約すべきなのだろうか。
次回 街による寝取り
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第四話 街による寝取り
たぶん金曜日までに過去話にルビを振ったりしてます。
なんで金曜以降にざっと過去話をスクロールさせておくとラストに納得しやすくなるかもです。ルビ振るだけなんで必要不可欠な事柄ではありません。
気の引き締まる早朝。
斑鳩の心を大きく占有する事柄があった。忍び学科のみに出入りを許された寮のこじんまりとした食堂で新聞を片手に、そのうちの一つに関して思案にふけった。
見出しは大きく貧困街周囲の犯罪数の増加傾向を伝えている。小さく溜息をついた。
鳳凰財閥は金銭的な援助を続けている。しかし、焼け石に水のような気がしてならなかった。抜本的な改造を行わなければ現状を打破できない。そんな当たり前の足取りで、思考は深く積もった雪原を往復するように道を作っていた。
実のところ、外国には貧困街を改善するための実験都市となったモデルはある。上下水道や公道の整備、たとえ公衆トイレからトイレットペーパーを盗まれても補充し続ける。そのうちにトイレットペーパーを盗む価値はなくなる。失敗は多かったが、中には成功と言ってもよい一例もあった。多くの住人が、自分たちのいる場所が貧困街だとは認識しなくなった。
だが斑鳩が貧困街出身の元悪忍、詠と定期的に貧困街の治安維持の為に見回りをしていて感じたことは、単純なスラムではないということだ。あそこは、独自のコミュニティを持っている。自警団を名乗る集団が存在し、夢破れた裁判官かぶれが一緒になって裁定し、機械化された大量生産に居場所を奪われた農家が作物を育てている。現代についていくことのできなくなった人たちの最後の逃げ場となっていた。
無論、自称の司法行政府が非人格性を持ち、公平性を満足させているのかと言われると、一見では信用はできない。ただ、住民との仲は良好そうだった。
こういった善良そうな市民は貧困街の外周に位置している。問題は中心部だった。明らかに非合法的な集団の根城となっている。自警団が仲介するのは、おうおうにして外周部と中心部の干渉によるものだ。
暗黒は、中心部にある。外周のほがらかさを隠れ蓑にされているのではないかと思う事すらあった。
斑鳩は一度、中心部に足を踏み入れてみようとしたが詠に止められた。
『いけませんわ』
『なぜです? 大抵の脅威ならば、わたくしたちの障害にはなりません』
詠は稲穂のように美しい色の長髪をかき上げ、恨めしそうに中心部を見やって言った。
『大抵の脅威ではないからです。わたしも詳しくは把握していないのですけど、どうも抜け忍が用心棒として雇われているようですの。外周民などには手を出しませんけど、忍びが相手なら容赦はない。そういう話です』
『そういう話?』
『貧困街に住む者には周知の事実、ルールのようなものですわ』
詠の言葉に、ひどく排他的な響きがあると斑鳩は無意識に感じてしまった。もちろん詠は、貧困街出の経験から事実を述べただけで、親友 ――口にして確かめたことはない、恥ずかしいので―― の身を案じただけだ。
それでもやはり、鳳凰に引き取られて金銭面では何不自由ない生活を送ってきた斑鳩には刺さった。それに気づかず詠は続ける。
『中心部は複雑に入り組んだ建物で構成されています、裏道や、表通りと思ったら唐突に袋小路になっていたり、下水道を通ってしかたどり着けない場所もあるそうです』
『汚れなど、気にしません』
気丈に言った斑鳩に、詠は安心させるような口調で言葉を紡ぐ。
『わかっていますわ、斑鳩さん。あなたが貧困街に何の偏見も持っていないことは。わたくしが言いたいのは、地の利は向こうにあるという事です。悪事とはまったく無縁の一般人が監視の役を担っていたり、撤退するつもりが包囲網の中に突き進んでいたりすることがある、ということですわ。抜け忍が何人いるかもわからず、ひょっとしたら妖魔も出現するかもしれません。この状況下での侵入を試みるのは好ましくありませんから』
『そう、ですね。わたくしとしたことが冷静さを欠いていました』
斑鳩はその理由がわかっていた。詠に中心部に踏み入ることを止められた訳を、汚れに関することだと無意識してしまったからだ。貧困街の汚れなど、今さら気にするものかと思ったのは本心だったが、実際は不透明な戦力による待ち伏せなどの危険性を勘案した結果だった。自分ひとりが貧困街の汚れを意識してしまったことに罪悪感を覚える。しかも詠はそれを見通して、仕方のない事と寛容している。その事実がさらに斑鳩を良心の呵責と自己嫌悪の混沌へ埋める。
『わたくし……ごめんなさい、そんなつもりじゃ』
『いいのです、斑鳩さん』 詠は斑鳩の心境とは対極的にからりと笑って言った。 『昔のようにつまらないことで難癖を付けるわたくしではありませんわ……さ、まいりましょう』
その後、心のしこりを拭うように、力いっぱい外周民のこどもの遊び相手になった。
陽が傾きかけ、カラスが鳴くころになって二人は帰路についた。斑鳩は学生寮へ、道元が絡んだ蛇女と半蔵のいざこざ故に抜け忍となった詠は仲間のいる隠れ家へ。
その途中、斑鳩が口を開いた。
『中心部への侵入についての算段は、どれくらいついているのですか』
『少なくとも、わたくしたち抜け忍の五人では突入する気にはなりません。誘えば彼女たちはついて来てくれるでしょうけれど、危険すぎます』
『わたくしたち半蔵の学生を加えても?』
詠はゆるりとかぶりを振って言った。
『もし分断されたら? 籠城を余儀なくされれば飲食物の問題もあります。外周民を人質に取られるかもしれません。調査は続けていますが、そもそも目標とする組織や人物は? 中心部に諸悪の根源が必ずしも存在するとは限りません。あるいは』 密やかな瞳で斑鳩を見やる。 『中心部そのものかも』
気づけば斑鳩は立ち止まり、泣いていた。理由は自分でもわからない。ただ、己の力ではどうしようもない現状を悲観していることだけは確かだった。
詠は消え入りそうな笑みで斑鳩を抱きしめた。
『いいのです、あなたが涙を流しているという事実だけで、わたくしも救われます。同じ気持ちですから』
耳元で囁かれた言葉で、斑鳩は決意を固めた、貧困街の問題の解決に向けての意思を。
寮に戻り、休日に実家に帰って義父に相談してみたが手ごたえのある言質は取れなかった。いまは大狼との睨みあいにあって自由に動ける身ではない。
それはいつまで続くのかと斑鳩が問うと、案外すぐかもしれないと返ってきた。斑鳩は一瞬の顔のほころびを見せたが、続く言葉に表情は凍結した。
『大狼で凄まじい経営管理手腕を持つ者が現れた、
そんな、という義娘の言葉を制して鳳凰当主は続けた。
『わたしとても問題は解決したい、テレビで流れている安っぽいパフォーマンスでなく。だがもしも鳳凰が倒れた後に、大狼の当主は変わっているかもしれん。その新しい当主が貧困街に関心を示さなかったら? どうするね。……ここだけの話だが、大狼当主と水面下で緊張緩和の道を探っている。だが組織は、長が右を向けば全体がそれに倣うとは限らんのだ、本当のところはな』
『大狼との和解の道を阻害する者がいると?』
『いて、当たり前なのだ。組織だから当然だ。気に食わんやつを排するのは簡単だ。だが多種多様な意見を聞き、多角的に物事を見るためにそういった人間は必要だよ』
いずれ、かの者が大狼を纏める立場に立った時、鳳凰に対抗戦力がなければ……。言いさして神妙に口を閉ざす義父を見て、斑鳩は顎に手をやり言った。
『その者が貧困街の問題に関心を寄せていれば……』
当主はまるで無垢な妖精を見つけたかのように笑った。 『そうだな、そうだといいが』 優しく斑鳩の頭を撫でて続けた。
『おまえは優しい子だ、己が運命よりよも他者を優先するとはな』
言われて、斑鳩は一族の存続を蔑ろにしている事に気付く。慌てて取り繕うとするが、当主は柔らかく諌めて、組織のことは任せておけと話を打ち切った。
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その日、彼は珍しく正装で車に揺られていた。嫌だなあ、と流れる風景を眺める。点点と夜に浮かぶ街灯が過ぎては現れる。鈴音の言葉がまだ耳に木霊してしょうがない。
やがて海を一望できる小高い場所に位置する豪邸にたどり着く。
門をくぐり、執事が扉を開ける。レトロなシャンデリアに楽団のBGM。テンプレートのような社交界だった。居場所ないんだよなあ、と隅の方でちびりとシャンパンを一口やった。酸っぱいような、甘いような。シャンパンはわからない。
話す相手もいないしとぼうっとしていると、珍しく覚えのある顔を見かけた。最後のパズルのピースを発見した時のように合点をいかせた。
ドレスだのタキシード姿の人混みを縫うようにして近づき、背後から声をかける。
「村雨くん?」
振り返り、村雨。目を白黒させて言った。 「うわっ! びっくりした、こんなところで会うなんて奇遇ですね」
再開を喜ぶにこやかな村雨に、彼は声をかけたことを半分は後悔しはじめた。 「ねえ、きみ、どうしても前のボタンは留めたくないの?」
まだ暑いですよという答えに、彼はきっと冬になってもコートの前面は開けるのだろうなと確信した。なんとなく人気のないテラスへ移動する。 ――周りの人間は村雨くんのファッションセンスに動じていないのか――
「それより、言っちゃあなんですけどここに招かれたってことは名のある身分なんですよね」
「ストレートだね」 彼は苦笑して言った。 「いやおれは大したもんじゃないよ。むしろこっちが驚いたよ、村雨くんが財閥の関係者だったとは」
「まあ、家に行く前に一杯ひっかけて酔ってましたからね。そういうのって自分から言うのは自慢みたいで嫌ですし」
「言ってよ、どっかであったことあるなーとは思ってた、たぶん今日みたいなパーティだな。そういえば、件の義妹くんとはどうなった?」
もっと言えば、大狼と鳳凰の養子を紹介するという名目の、釘の刺し合い社交界だ。大狼からは貧困街出身の叢、鳳凰からは斑鳩。そこで給仕をしていた鈴音と出会ったのだ。
「会いましたっけ」 と半笑いで村雨。 「義妹に関しては、ええ、なんとか許してもらえました」
「許す?」
「逆恨みですけど、きつく当たってたんで」
「ふうん、よかったじゃん」 ウェイターを読んで新しいグラスを取って続ける。 「ところで今日のお祭り、なんなのか知ってる?」
「いや、じぶんも親父に急に呼ばれて。そんなに気になります? あ、そういえば斑鳩も来てますよ」 きょろきょろとあたりを見回して。 「ええと、親父とお偉方にいろいろ挨拶回りしてるはずなんですけど、後で会ってやってくださいよ」
「主催がね、ライバル関係にあるはずの大狼と鳳凰の二大財閥ってのが」
「すぐにわかる」
と、第三者の声が厳かに二人に言った。 「こんばんは、たしか村雨くんだったね。悪いが彼を借りていいかな?」
落ち着いた色の和服に身を包んだ大狼財閥の現当主だった。否定などできるはずのない。当主の後を追おうとする彼に、村雨は視線で問いかけた。
「おれは分家の身だよ、大狼一族の。本家との接点はほとんどない。だから、そんなおれが呼ばれたのが不思議だった。これから教えてくれるらしいけど」
去り際に彼はそれだけ言って、当主の後についてホールを出た。長い廊下をわたり、こじんまりとした書斎に迎えられる。古めかしい燭台が橙の光で室を揺らめかせた。
当主に言われるがままにソファに腰掛け、上等なスコッチをご馳走になる。
「村雨とは仲がいいのか」 水を飲むようにグラスを干して、当主。
「夕暮れの河原で殴り合いの喧嘩をするくらいには。村雨くんはわたしと似たタイプですよ、商才がある。苦労するところまでは似てほしくないですけど。お久しぶりですね」
当主は面白くない冗談だというふうに鼻で笑った。 「そう言えばおまえと同じ大学だったな。しょっちゅうこういった場に呼ばれても渋い顔をするだろうに」
「本家の人間もね」
「本家はおまえの事をよく知らん。ぽっと出の馬の骨だ。本当に一族の者かという
「部下は優秀ですよ。わたしがいなくても会社は回っているようです」
「それはきみが上にいたからだ。きみが優れた能力を持ってして現場の人間以上に労働し、部下を労わり、高給取りでなかったからだ。発泡酒をよく飲むそうだな、それにちなんで第三の経営者などと呼ばれているらしいぞ」
「安くてほどほど」
「そうだ、庶民の味方だ。いまは味方が不在だ、いつ業績が悪化するかわからん」
「大狼が抱える会社はわたしのところだけではないでしょう」
「人材は、おまえのところだけだ。部下が優秀と言ったな、それはいる。だからおまえもいる。まあ建前は置いて端的に言うが、一族というものは暴走しがちだ、外のものからの客観的視野を取り入れる必要がある。そういう意味でも分家は必要だ。本家の連中はおまえが結果を出していることに不満を持つものも少なくない、声が大きくなればわしも抑えきれん」
「そうは言われましても、わたしはもう戻れません」
「なぜだ」
「言いたくはありません」
「わかった、きみはそういう男だったな。話を変えるが、未婚だったな」
「はあ、まあ」
「鳳凰財閥の者との縁談がある」
「冗談でしょう」 彼は飲みさしたグラスを机に置いた。脳裏に雨に打たれた鈴音が想起される。
「これはおまえには関係ないし知るすべもないと思うが、少し前に鳳凰が関与している施設と、理念上対立する施設とのいざこざがあってな。大狼と鳳凰はライバル関係にあるが、大狼が同じように関与している施設と鳳凰の関与している施設が掲げる本質は同じなのだ」
彼は自称忍者であるにもかかわらず微塵も知らなかったが、鳳凰一族である斑鳩は国立半蔵学院に、大狼一族の叢という少女は死塾月閃女学館に属している。両学び舎は善忍であるという共通点はあるものの、責任者であり旧友の忍び、半蔵と黒影は過去に対立していた。つまり、善忍であるという本質は同じだがケツ持ちとトップは友好な関係とは言い難かった。
そんなおりに半蔵学院と悪忍の教育機関である私立蛇女子学園とのいざこざが起き、悪忍に対抗するために善忍校どうしの友好を深めようという訳だった。
「施設どうしのレベルにあっては協調路線でいきたいというわけですか」
「競争関係にあるのはいいが、両財閥間の溝は深すぎる。関係修復の切っ掛けが欲しい、施設の責任者同士の仲も修復できるとの見込みがある。そこで、鳳凰からは斑鳩という娘。うちからはおまえだ」
「分家の人間を当てつけるのは失礼なのでは。それに、政略結婚なんて前世紀的ですよ」
「斑鳩は養子だ。鳳凰の血は通っていない。握手のようなものだ、いきなり本家の人間同士を突き合わせるわけにはいかない。お見合いをしたという事実だけでいい」
ううーん、と彼は唸って腕を組んだ。このままでは本当に村雨くんの義兄になってしまうかもしれない。 「高校生ですよね?」
「歳は十八、婚約可能だ。まあ形だけだ、村雨との関係のように、仲良くなるだけでもいい。第一、うら若き乙女がおまえのような中年を選ぶとは思えん。だからぶちまけると向こうも本気で結婚するとなど考えていない」
「それだけはやめてください、中年だけは……でもまあ話すだけならいいですよ。後で村雨くんが紹介するって言ってましたし」
「なら今でも構わんだろう」
へ、と彼が間の抜けた返事をすると、本棚が縦を中心軸として回転した。忍者屋敷よろしく、二つの人影が現れた。一人はパリッとしたスーツを着こなした、立派なカイゼル髭を蓄えている男性、鳳凰一族の現当主。もう一人は胸元がざっくりと開いた白のドレスに身を包む、美しい黒髪の少女、斑鳩。
すげえ、忍者みたいな登場の仕方だ。と、彼は思った。
「失礼だが、会話は聞かせてもらっていた。ずいぶんとわたしの息子を買ってくれているようだね。仲も良くしてくれているようだし」 気さくに笑って鳳凰当主、握手を求める。
立ち上がり、彼。右手を差し出した。 「事実を言うだけで買えるほど村雨くんは安くはないですよ、大狼の大きな障害になることは間違いありません」
「たしか似たタイプだと言っていたね、きみが鳳凰の障害となっているように? きみの存在は掴めなかったよ、所得も目立たないから。大狼の者とはね」
「もう身を引きましたよ。分家が目立っては本家もいい顔をしないので、たぶん家系図を端から端まで見ないとわたしが大狼一族の所縁の者とはわからないでしょう」
「きみが管理していた会社に対する影響力は、今でもまったくないとは言い切れまい。現状はきみ直属の部下が纏めているようだが、構成員は退いたきみと現管理者である部下の命令が食い違った場合、どちらを取るね?」
「現管理者の部下ですよ。わたしは社員証もないので会社には侵入できませんし、部下に口をきいてもらって内情を探ることもできません。完全な部外者の扱いです。構成員は業務上のヒエラルキー構造を無視して動きません」
「その徹底した行動理念が脅威なのだがね。紹介するよ、娘の斑鳩だ」
義父に背を押されてぺこりと頭を下げた少女は、村雨の言った通りの雰囲気だった。切りそろえられた前髪といい、腰まで届く長髪といい。委員長と言った感じ。
「はじめまして、娘の斑鳩です」 顔を赤くして、軽くお辞儀した。
その仕草があまりにも初初しいので、可哀想に、こんなくたびれたおっさんと縁談とは。と彼は他人事のように無意識した。たしか、村雨くんが言っていた義妹のはず。忍者として養子に迎えられたとかんとか。
「ではま、後は若い二人にまかせて」 と、唐突に大狼当主。鳳凰当主もそれに続いてにこやかに扉へと後ずさる。 「飲食物は左の引き戸型本棚の裏にあるから」 付け加える。
斑鳩の顔は羞恥で紅に染まった。彼はなんだかあほらしくて、口を半開きに両当主を半眼で眺める。
「それとおまえの事だから余計な心配はないと思うが」 と大狼当主は声色を凍てついたものに変えて言った。 「その娘には秘密がある。億が一に契りを交わしたとしても、おそらくそれを知ることはないだろう。ある日突然、数日姿を消しても、われわれがもう会うことはないと伝えない限り待たねばならんかもしれん。それを忘れるな」 一般人である彼には、斑鳩が忍びであることは伏せておかねばならない。
「わたしも秘密を持っていますよ」 と彼。一般人である当主たちには、じぶんが忍者であることは伏せておかねばらない。それにしても、大狼当主は斑鳩が忍者と知っているのだろうか。少なくとも鳳凰当主は既知だろうが。
同じ志を持った男同士ということで村雨はともかく、自慢したいがために四季くんに言ったのは軽率だったかしらん。鈴音の事を思い出すと今更ながらに考えないでもない。
リアクションから察するに、忍者の存在を容認している村雨はともかく。四季くんと鈴音の対比を見るに、前者は単に冗談だと思ったか。
忍者。
かっこいいのはわかる。幼少期は折り紙で手裏剣を折って投げていた。けど、忍者ってなんだよ。ばかばかしい、そんなのいる訳がない。部下が呆れるのも当然だ。
なんで忍者になるだなんて、おれは言い出したんだ。早く会社に復帰しないと。だがもしも、忍者が現実に存在するのなら、なりたい。なぜ? よくわからない。忍者は実在するのだろうか。それはサンタクロースとは別次元の実在性を持っている。どちらかといえば、国家が秘密裏に所有する組織に似た意味を持つのだろう。
いや、それはいま考えるべきことではない。客観的に思考を切り替える。
それよりも、と斑鳩を見やった。緊張からギュッとドレスのお腹あたりを握りしめている。とりあえずソファに座るように促して、例の本棚を操作してみる。車のスライドドアのように手前にせり出て、収められてる本の重量を感じさせない軽快さで冷蔵庫の中身を晒した。電動的なアシストが働いているようだ。
隠し扉の本棚そのものが冷蔵庫のドアになっているらしい。こういうの、うちにも欲しいなー、と彼。
庫内には白ワインなどの軽いアルコールやミネラルウォーター。フルーツやチーズが個別に小さな皿に盛られ、ラップで保存されていた。その中からなるべく高そうなノンアルのスパークリングとつまみを数皿取り出して、ローテーブルに並べる。流石に未成年の前で飲酒するのは躊躇われた。
「そういったことでしたら、わたくしが」
と、斑鳩が言ったので戸棚に収めてあるグラスを頼んだ。対面に座って適当に乾杯の音頭を取る。
「へえ、半蔵学院なんだ。優秀なんだね」
「それほどでも、お義兄に比べればわたくしなどまだ未熟ですわ」
「でも村雨くんはきみのことを凄く褒めてたけど。ええと、フェンシングじゃなくて」 と村雨と飲んだ時の事を思い出す。 「剣……道、だっけ。居合術?」
「ええ、まあ」 と斑鳩、どことなく探るような表情を彼に向ける。だが、義兄が褒めていた、という点に関しては少し嬉しく思った。義兄妹として打ち解けたとはいえ、まだどこか距離を探っている感じはあった。言葉の少ないコミュニケーションで相手を賛美するのは、少少照れ臭いものだから。
だがどうしてその情報を知っているのか、一応は出所を訝しむ。
大狼当主との会話を見るに、彼は義兄と同じ大学らしい。おそらくサークルか何かの繋がりがあって、そこで親しくなったのだろうと推察した。義兄がどこまで自分の事を話したのかは知らないが、さすがに一般人に忍び関係の事情まで口にしたとは考えられない。
「恐縮ですわ」
「大会とか、そういうのには出てたりする?」
「いえ得には。剣術に関しては精神統一の意味合いで修練しているので」
「部活とかは」
「それも特に……」 いいさし、なんとなく自分が会話を打ち切っている感じがして迷った後。 「クラス委員の仕事があるので」
「ああ、村雨くんに聞いたよ。わたしは委員なんてやったことないけど大変そうだね、クラスを纏めるのも」
「そうなんですの」 と斑鳩。グラスを小粋に傾けた。 「個性は大事だと思いますけれど、過ぎれば集団としての規律が曖昧になりますわ」
「なんとなくわかるよ。わたしも会社で管理者という立場にいたから。たまに、悪気はないんだろうけど、何言ってんだこいつって開口するときがあるよ。規則にないイコールやっていいってわけじゃないんだよな」 チーズを口に放る。 「常識の範囲をいちいち記述していたら……なんだこれ、美味しい」
「まったくですわ、良識を持って行動……あら本当、美味しい」 規律や規則という言葉に斑鳩の何かに火がともったのか、それまでのぎこちない会話が流れるように続いた。
「……で、この子たちがわたくしの学友ですの」 言って斑鳩は、谷間に手を差し込んで一冊の生徒手帳を取り出した。カバーと冊子の間に挟まれた名詞サイズの写真に、彼女を含める五人組が笑って映っていた。
え、今どこから取り出した? 彼は瞠目したが、隣で写真の人物についてあれこれ説明されたのでとりあえず意識は耳に集中させる。
「ねえこの金髪の葛城って子、なんとなく村雨くんに似てない?」
「そうですか?」 と顎に手をやり神妙に。 「うーん、あまり共通点は。お義兄とは、というより一般的な人と比べて少し大らかすぎます。隙さえあればいつも誰かの胸や……」 言って、しまったという表情。 「その、スキンシップが過剰というか」
「いやでもシャツのボタンを留めない服装とか……」 言って、しまったという表情。 「その、風通しが良すぎるというか」
セクシャルな会話のネタに、微妙な沈黙が訪れた。
やはり、葛城さんのスクールシャツ一枚でボタンを留めないのは注意しなければならない。斑鳩はそう固く誓い、生徒手帳を胸の谷間に収めた。
彼はその様子を見て、目を擦った後にボトルのアルコール度数を確認した。0だった。どういう原理で胸に生徒手帳を収納したのか。場所が場所だけに追及は躊躇われる。
いやそれよりも、と思索の糸を手繰る。これが鈴音の言っていた縁談だろうか。他に考えられない。隠していた訳ではないが、鈴音は自分が大狼の一族と知っていたのかだろうか? 膨大な家系図を見ないと把握できないほど遠縁で、書類の上を探ったくらいではわからないはずだが。
大狼と鳳凰を近づけさせることが目的の政略お見合いを目論む理由は? 鈴音はそれによってなんのメリットがある? 例の関与している施設絡みだろうか。その施設がなんなのかは、たぶん当主は教えてはくれまい。
両財閥にとって共通の敵対勢力に対して協力関係を結ぶためか、あるいは客観的には貧困街が思い当たる。少なくとも彼の知る大狼当主に人間性はある。対抗する鳳凰当主もそうだと考えると、ひとまずは休戦し、モラル的に問題である貧困街を処理してからが紳士的だ。
彼の知る鈴音は悪女などではない。仕事上の人間関係の悪口はもとより、愚痴すら聞いたことはない。日常生活では普遍的良心以上の行動を見せていた。
ひょっとすると鈴音は、往来の善人性から両財閥の溝を修復し、貧困街を解決させたいのではないだろうか。
彼はちらと斑鳩を見やった。顔を赤くして俯いている。
だが、だとすると鈴音はこの政略お見合いを事前に察知していた事になる。当主の実の息子の村雨でさえ知りえなかった情報だ。どうやって? 第一、情報を掴んだとしてもその信憑性は? ふと当主の言葉が脳裏を駆けた。
本気で契りを交わすなどとは思っていない。
年齢差からしてあたりまえだ。案外、機密レベルは低くて本家の人間の結構な人数は知っていたのかもしれない。縁談など、ガセだと思うだろう。実際に茶番だ。だからこそ鈴音は言ったのだ、縁談を受けろと。
受けて、両財閥の関係を、お見合いをしたという以上の事実でもって早期に休戦状態にさせ、貧困街の問題を処理させる。それが彼女の本意なのでは。
どこから鳳凰との縁談の情報を入手したのかは謎だ。実際に聞かなければわからないが、彼は鈴音の真意を九分九厘で確信した。お見合いで済むという予定調和のセッティングから、斑鳩と婚約関係にまでこぎ着ける。
振られたのだ、自分は。貧困街というアンタッチャブルな国家レベルの問題と天秤にかけて。それならば悪い気はしない、ドライかもしれないが男が振られてうだうだと言っては鈴音に笑われるだけだ、彼女の覚悟を踏みにじるようなものだから。
彼はだから、まずは斑鳩を理解しようとした。貧困街の問題を盾に婚約を迫るのはモラルに欠ける。咳払いをし、口を開いた。
「ちょっと酔ったかな。きみと話す前に当主と一杯やっていたから。お茶とかあれば飲みたいけど……」 と席を立ち、冷蔵庫を漁る。
「あ、それでしたらわたくしが用意いたしますわ」 沈黙の解放から、そそくさと斑鳩。同じく席を立ってひょいと本棚から一冊の本を抜き取る。がらりと本棚が回転して、奥の室が伺えた。 「お義父さまといた部屋に簡単な炊事場がありましたので」
気まずいのか、隠し部屋へと単身向かって行った。彼もそれに続く。予備のアルコールや様ざまな茶葉、クッキーなどのお茶菓子もある。
「へえ、いろんな種類があるね」
「ええと、何がよろしいでしょうか。煎茶や玉露、紅茶もかなりの種類があるようですが」
「日本茶ならなんでも、最近ハマってるんだよ」 と村雨との会話から斑鳩の好みを思い出して言った。 「斑鳩くんは好きなお茶の種類とかあるの?」
「あ、その」 と照れ臭そうに。 「わたくしも日本茶が好きで……」
「でも日本茶って色色と種類があるでしょ」
「ええ、でも特に……」
と、彼は斑鳩がお茶を点てる姿を眺めながら会話を続けた。先ほどの気まずさから一転して、得意分野と好物である日本茶の話題に斑鳩は饒舌だった。上品な黒い茶器をお盆に載せて書斎に戻る。
急須から注がれた煎茶の新緑の香りがスッと鼻孔を抜けた。
「ところで、何かお茶請けなどは――」 と斑鳩。飲み物な話題のついでに彼に振った。
彼は湯呑に注がれた日本茶に映る自分を眺めた。液体を撫でる波紋でぼやけている、喉を焼くほど熱い煎茶を飲み干して言った。
「和菓子なら、なんでも。さいきん日本食に凝っていてね。懐石料理とか興味があるけど敷居が高くて。一人で暖簾をくぐるのはどうもね」
湯呑は空になった。もう、曖昧な自己は映っていない。
あら、奇遇ですわね。と斑鳩。意外な共通点と同じ嗜好の理解者を見つけて嬉しそうに言った。 「順列があるというのが素敵だと思いません? でもせっかくの煎茶を一口で飲んでしまうなんて、もったいないですわ。もう少し味わっていただかないと、せっかく上手に淹れたと思っていましたのに」
「あー、まあ、喉も乾いてたし、我慢できなくてね。でも美味しかったよ、上手く淹れるこつとかあるの? こういうお茶を自宅で飲めたらいいんだけど」
「これといって特別な事をしなくても大丈夫ですわ。大事なのは決まりを守ること。適切な温度と時間をかければ、誰でも美味しくいただけます」
言って斑鳩は、少し残念に思った。しばらくして当主たちが様子を見に戻るまでに、彼はそれとなくデートに誘っていた。自分でも淹れてみたいが、良い茶葉を扱っているお店はあるかとか、茶器に関してだとか。一人で懐石を食べに暖簾をくぐるのは、などは露骨だったが。
話は合った。言葉の端端に良識と紳士さが感じられたし、こどもであるこちらを気遣っているのもわかる。
だが知り合ったばかりなのと、何より義父からは単なる顔合わせのお見合いごっこでいいと言われていたのが無意識の内にブレーキをかけていた。男性と家族以外に接したことがあると言えば学校の先生くらいだ。要するに免疫がない、それに歳の差も気にならないではない。
結局、このお見合いは形だけの物になった。当主たちはそれでよかった。本音ではとっとと関係を修復してしまいたいが、組織というものは一枚岩ではない。右を向けと言えば全員が右を向くわけではないのは当然として、失脚を目論む連中もいる。財閥内部の人間を納得させる建前というのはどうしても必要なのだ。
彼はだから、気の浮かない顔をしていた。貧困街の問題解決までの時間を短縮できなかった。鈴音の懸命の頼みを実現できなかった。斑鳩にその気はないらしく、会話に隠したデートの誘いは気づかない振りで有耶無耶になった。
両当主を含めた四人は、とりあえず今日はお開きという事で義兄の村雨とホールで合流した。それでなんとなく、斑鳩は義兄の言っていた人物の事を思い出した。義兄との確執を取り除いてくれた人物。
義兄は合ってみないかと言っていた。その人物と彼と、どちらが望ましいだろうか。そこまで考えて、二人の男を弄ぶ悪女のような気がして止めた。いっそ同一人物だったら……。
「あれ、なんで親父……父と斑鳩と一緒なんですか」 と村雨。大狼当主に改めて挨拶し、彼に言った。 「それと斑鳩。紹介するよ、この人がこの前言っていた人」
当主達は軽く会話に気をやっている。彼は、まだ伝えてなかったのか、と特に何も感じなかった。一人唖然としたのは斑鳩だった。視線を宙にさまよわせて、これまでになく顔を紅潮させて、身体の向きだけ彼に、俯いて言った。
「あの、よければ今度、おいしい玉露が飲めるお茶屋さんを知っているのですけれど。ご一緒に……学徒の身なので予定が合えばですけれど」
その言葉は意識を強制的に集中させるに十分過ぎた。
会話を打ち切り。
「え」と大狼当主。
「え」と鳳凰当主。
「え」と彼。
村雨ひとりが、やっぱり会ってみてよかったろ? と斑鳩に得意顔だった。
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その夜、斑鳩は自室のベッドの中で自問の中にいた。
義兄によれば彼は忍びであるらしい。しかし、それを大狼当主には隠している節が見て取れる。自分を忍びだと彼に紹介しなかったのがその証拠だ。
当主達は、彼には忍びという存在を隠さなければならないと考えている。つまり、忍びであることを両当主に隠し通している彼が一枚上手という訳だ。
なぜ、隠す必要があるのだろうか。短絡的に考えれば、彼は悪忍なのかもしれない。だから善忍の養成機関を支援している両当主には知られたくないのだ。そのくせ、義兄には情報をもらすそそかっしさに斑鳩は苦笑した。
善忍と悪忍には、深い溝を感じている忍びがいる事は事実だ。しかし、半蔵の忍びはその限りではない。ちゃんと、悪忍でも芯の通った生き方をする人たちがいる事を知っている。
義父に彼が忍びであることを報告するべきだろうか。ぎしりと寝返りを打って考える。知られたくないから、隠している。その真意はわからないが、彼が邪な心を持たないことにある程度の信頼は置いてもいいかもしれない。
こちらとしても、彼に忍びであることを隠しているのだから、お互いさまでもある。
斑鳩は、そこまで思考してゆっくりと眠りについた。
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時を同じくして、雅緋は寝間着姿のまま布団に寝転び、珍しく漫画を読み漁っていた。娯楽としてではなく、勉学のためだ。
いかに鈴音から彼へと話が通っているとはいえ、なんの予備知識もなく婚約を迫るのは不安だ。何事にも入念な下準備と綿密な計画を企てるのが雅緋のやり方であり、それ故の忍びとしての強さを認められていた。
しかしながら今までは恋愛ごとに無縁だったことから徒手空拳も同然で、同学園の生徒から関連するような本を数冊ほど借りたのだ。
ふむん、と小さく唸る。
メガネを落として、それを拾ってもらう、というのが一般にはベターなのか? しかしメガネなどしていないし、彼ほどの手練れの忍びの妻になろうというおんなが、メガネを落としたくらいで狼狽してよいものか。落下する前にキャッチするか、落下音を頼りに自分で見つけるくらいでなければ……彼に見切りをつけられては事だ。
同じ理由で不良に絡まれているところを助けてもらうのもパス。一般人に存在を把捉される時点で忍びとして致命だ。
少年が早早に少女に告白するが、振られてしまう。なぜなら少女は恋愛よりも優先している大きな悩み事があるからだ。少年は諦めたがしかし、後に少女の悩み事を、告白とは無関係の立場から解決してしまう。そこで少女の心を占有していた悩み事はぽっかりと消え、空いた空洞に少年への気持ちが収まる。
うーん、かなり回りくどい。というかご都合すぎることこの上ない。
ツンデレ、というのもあるらしい。だがキツく当たるツンの時点で彼が煩わしいと感じれば、わたしを精神制御しておとなしくさせるだけの気がする。
古より復活した魔王に攫われる姫……。
なんだこれは、まるで駄目ではないか。役に立たん。
雅緋は漫画を枕もとにおいて仰向けになった。もっと忍び向けの少女漫画があればよかったのに。と無茶苦茶を思わないでもない。
そういえば父上と母上の場合はどうだったのだろうか。幼少期のまま固定された母親の最期が閃光のように脳裏に瞬いた。血しぶきと肉と、白い骨が露出する一瞬前の美しく、儚い姿が。
意識的に思考を変更する。
わたしと彼が結婚したら、たぶん忌夢は怒り狂うな。それとさめざめと泣くだろうか、あるいは祝福、はあまり考えられない。ひょっとすると禁術を使用し、彼に害を及ぼそうとするかもしれない。忍びの血を排出させる結界術を使って。
雅緋は半身とも呼べる親友を思い出して自問した。なんと説明すべきか、蛇女が危機にあるなどは当然のこと、父上が長く病気に伏せているなども含め、すべてを語るわけにはいかないのだから。
フムン、と唸り、ゆっくりと舟をこぎ出した。
次回 排他させる猶予
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第五話 排他する猶予
部下は一息ついてデスクを離れると、窓から眼下を眺めた。ビジネス街ともあって仕事に汗を流す人間がまばらに動いている。ビルから見下ろす姿は働きアリだ。つまりなくてはならない存在だ。時間からして昼食を取りに行っているのだろう。
彼もこの光景を見ていたのだろうかと、いまは自分が座っているデスクを振り返る。思い返せば奇妙な人物だった。入社してすぐに頭角を現し、驚異的な速さで出世していった。管理者の立場を任されるようになって大狼と所縁があったと知らされたが、身内びいきの昇進という感じはしなかった。仕事はもちろん申し分なく、人となりも好感が持てた。
突然現れて、突然消えた。嵐のようだ。しかし忍者ときたかと溜息を吐く。
まあ、上司にしては異様に親しみやすく、その点では少し変わっていたかもしれない。部下は苦笑して、目をキラキラさてカタログを広げる彼を思い出した。
それでふと部下は思った。彼と遊ぶという名目でも、身体を鍛えるという意味でも、手裏剣とかなら始めてもいいかもしれない。バーで飲んだ時、余っているらしいカタログを貰えばよかった。デスクに戻り、昼休憩を利用して記憶の片隅にあるカタログの発行元をPCで検索してみる。が、類似キーワードがヒットするのみだ。ダブルクオーテーションを用いた完全一致検索だとまったくヒットしない。
部下は記憶力に自信を持っていた。それは彼の保証するところでもある。不安の蛇が首をもたげた。念のため会社を出て、公衆電話から記憶している番号にかけてみたが案の定使われていないナンバー。休憩時間では無理だったので休日を使い、本社があるはずの住所と登記を確認しに足を運んだ。
わかったのは、彼にカタログを送った会社は存在しないという事だ。
詐欺だろうか、と部下はせっかくなので広島風お好み焼きを食べて思案にふけった。 ――う、美味い! おたふくソースは最高だ!
お好み村はぶっちゃけボッタだ、その辺の店の方が良心的価格で味も――
いや、彼に限って詐欺の過失はないだろう。価格も趣味にしては手軽な料金形態だったし、現金後払いのみでカードも絡んでいない。上場しているのに登記そのものがないので、ペーパーカンパニーという事でもなさそうだ。
しかしカタログの製本はかなり本格的だったし、重心は本物と変わらず当たってもバスケットボール程度というスペックの練習用鎖鎌を製造するのなら、それなりの資金がいる。
いたずらにしては手が込み過ぎている。会社のスキャンダルを狙うにしても彼は既に部外者だ。合同会社の元管理者という肩書に興味を示す株主はいない。外部資金は財閥から出ている。
では個人が趣味と実益を兼ねて活動しているのかと言われれば、それでは未登記の説明がつかない。
つまり、何者かがなんらかの個人的な理由で彼にカタログを送ったという事になる。
翌日、数人の同僚に頼んで休日を利用して、彼の自宅周辺の家に件のカタログに関する聞き込みを行ってもらったところ、どの家庭も受け取っていなかったそうだ。
つまるところ、彼をピンポイントに狙ったダイレクトメールということになる。関係ないが、自宅のごみ箱にあったという事から、未婚の彼には同棲相手がいることも容易に想像できて、部下は言いようのないモヤモヤを抱えた。
何の意味があるのだろうか。部下はビルから働きアリを眺めて思った。
犯人 ――仮称―― は、私的な理由で彼を忍者にさせたがっていたということになる。
だが相手が通常の神経では叶わぬ謀略だ。趣味で鎖鎌を始めるというのはわからないでもない。現実に忍者教室なるものは存在する。 ――もっぱら観光に来た外国人向けだが――
犯人は会社の弱体化を狙って彼を退職に追い込むためにカタログを送った? 短絡的に考えれば犯人は鳳凰財閥か。
だがあまりにも計画が雑すぎる。常識で考えれば、カタログを見て本格的に忍者を目指すために彼が会社を辞める確率は小数点以下だろう。
それに、そういった怪しいダイレクトメールから、彼に対する敵意を理由に会社が出所を探り、万一証拠が出れば致命的なダメージを被る。競争関係にある鳳凰財閥が画策したにしては、あまりにも稚拙だ。そういった思考の裏を突くやり方かもしれないが、そもそも彼が大狼の者だというのは比較的最近になって
つまり鳳凰以外が彼を狙った。小規模の組織だ。雇われ者の個人かもしれない。これ以上の詮索は、大狼財閥としての会社の力を行使する必要がある。が、既に部外者の彼を保全するためにリソースを消費するのは理念に反する。会社は存続の為に利益を生み出し、翻っては構成員の為に存在し、その構成要件を保存する。部外者は感知しない。
定期的にポストに投函されているという彼の言葉が真であるなら、まるで彼がカタログを見れば忍者の道を断行すると確信しているような犯人の動きは不気味だ。
カタログに特定の人間にだけ作用する強力な
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これでいいかな。と、四季は寮内自室の姿鏡で身だしなみを整えた。黒のゆったりとした半袖のカットソーにワインレッドのフレアスカートのミニ。胸元は四季にしては珍しく控え目に隠されていたが、背中がざっくりと開いていた。それに合わせた薄紫のビスチェをインナーにガーターストッキング。
髪を二三回撫で降ろす。パープルのアイシャドウと透明リップグロスは、まじまじと見つめあわないとわからない程度の薄化粧。
控え目のヒールのパンプスを履く。
シャワーも浴びたし、香水もほんのりと忘れずに。こじゃれたミニバッグを肩にかけて、洋服で散らばった部屋を後にした。
善忍の学び舎、結界によって世間から隔絶された死塾月閃女学館を後に、外界へのバスに乗る。そこから一般のバスに乗り継ぎ、ようやく市街地に出た。何人かのナンパをあしらい、待ち合わせ場所に急ぐ。途中、ショーウィンドウで髪を整えた。
緊張しているのだろうか。目的地に近づくにつれ、鼓動が早くなってくる。一応の予定としては、映画を見て食事をして、夕暮れ前には解散という事になっている。同棲相手に関する相談料として、という形だった。彼はデートとは考えていなさそうだ。どこかしら天然っぽさがあるから。
まあ、それはいいんだけど。と、半ばあきらめを交えた溜息を吐く。どうも自分は市街地にあっては縁がないのかもしれない。腕時計を確認する。約束の時間まで十五分の猶予がある。オープンカフェを裏路地からぐるりと回り、表通りを伺う怪しげな背に敵意を隠して接敵する。
不穏の気配が漏れている。からして腕は立つまい。しかし悪忍がなぜこんなところに。だが、感知したからには対処しなければならない。悪忍は許して置けない。月閃のトップである黒影の教えを覚えているうちは。
目標はまだこちらに気付いていない。近接戦術戦闘距離、というところで目標が振り返った。僅かに狼狽の気配を滲ませ、前を開けた白いパーカーに黄色いTシャツ、ホットパンツとスニーカーのいでたち。白銀の髪の、無感動に黄昏た瞳。その少女は一枚の食パンを咥えていた。なぜ、食パン。
そこからの時間の流れは、四季の主観においては非常に長く、滑らかに感じられた。双方が無意識にセオリーを実行した。
骨の軋みが骨格を通じて耳に響くようだ。斜めに受けてよかった、足を捉えようと水平に構えていたら折れていただろう。
見誤ったかもしれない。数秒前とは格が違う。自分より使うかもしれない。事実として黒炎は禍禍しい怨嗟を露出していた、それを受ければ致命は必至だ。それを単なる視線誘導の道具に使い、一瞬の隙を突く判断力。下がった視線を利用する上段からの攻撃という合理性。
凄まじい実力、ひょっとすると釣られたのかもしれない。
理解とは最も強い力である。だからこそ四季は認めた。この距離では負ける、逃げられない。目標は手練れだ、並の忍びが束になったとしても、少なくとも近接戦術戦闘距離下にあっては適わないだろう。
白銀の少女の黒炎を纏った左手が霞む。単なるジャブだったが、四季が抱える問題はその繰り出された速度と、黒炎が及ぼす推定被害と、どこで受けるかだった。
つまり敗北を受け入れる時間の先延ばし方法――
だが白銀の少女は四季にとって予想外の行動に移った。背から黒い片翼を一息で羽ばたかせると跳躍して姿を消した。遅れて四季は結界がパスを持ったものを検知し、侵入を許したことに気が付く。
逃げた? 四季はどっと疲れて壁に寄りかかりたい衝動を何とかこらえる。その理由を自答して小さく笑った。バッグの中で携帯が鳴っている、これから彼と会うからだ。服を汚したくはない。
腕時計を確認する。まだ三分ほどしかたっていない、彼が時間にルーズでないばかりか気を使う人物でよかったと、四季は思った。携帯を取り出し、着信を認める。
『たぶん先に到着したみたいだから、とりあえず外の席に居るよ』
悪忍に負けそうなところに駆けつけておいてこれなのだ。やはり彼は天然なのかもしれない。四季は嘆息にも似た小さな笑いで表の通りへと歩み出る。
その様子を、一回り高い雑居ビルの上から白銀の髪の少女、雅緋が無感動に見下ろしていた。婚約を迫るという未体験の出来事に精神を乱し、善忍の接近にぎりぎりまで気が付かなかった。それはいい、自らの油断が生んだことだ。だが彼が結界内に侵入したことにも知覚が遅れたのはどういうことだろうか。まったくと言っていいほど忍びの気配がなかった。撤退が数瞬でも遅れていれば、善忍と戦闘状態にあっては彼に攻撃されていたかもしれない。
その際の予想に雅緋は身震いした。忍び結界に気付かれることなく侵入され、背後から一撃を受けていたかもしれなかった。忍び結界は一般的なもので、それは長い忍びの歴史を彩った証拠でもある。特徴が多ければ裏を突かれて欺かれる可能性が高まるが、単純な構造は小細工が利かない。そのはずだった。しかしまったく、侵入信号を感覚した後も、一般人がなんらかの理由で迷い込んだのかと思った。
超高度精神制御術に加えて、恐ろしいほどの隠密能力。善忍と彼の動向も気になるが、まずは父にこの事を報告しなければならない。ひょっとしたら、気づかぬうちに彼に捕えられるかもという嫌な予感を振り払って。
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『ゆる……許して、くれ――』
『何がですか?』
男は情けなくも、息も絶え絶えに涎を口の端から垂らして言った。それでもよかった、体面などどうでもよかった。後のことなど知ったことではなかった。ただ今は、たった一つの事を許してほしいと思った。それに対する些細な恩赦の言葉さえあれば、何を失っても構わないと本当に考えた。命さえ。
『――許してくれ、きみに、会いに来なかったことを。嘘ついてごめん。正直忘れてた」
スクリーンの中の男とスクール水着の日焼け後が眩しい少女の悲劇的な再開とその救済の場面を、四季は心ここにあらずと眺めていた。話の展開は確かにロマンチックで、年齢差を超えた恋愛のような感情は心を打つのかもしれない。
映画のストーリーはヒロインのピンチに駆けつけるヒーローや、ボーイミーツガールのような見飽きた王道物ではない。外道に近い。
これっぽちも感情移入できなのは、だからなのかもしれない。つい今しがた、使い古された安っぽい展開を体験してきたのだから。
現実は小説よりも奇じゃなくて、似だった。と、四季はぼうっと思った。普遍的なモラルがあって、善忍で、ピンチの時に駆けつけてくれて、薬物対抗能力からして頭も良くて、正体不明のミステリアスさもあるし、それに――
――それにあの悪忍が尻尾を巻いて逃げるほどの実力が、あるのかもしれない。
白銀の少女ほどの使い手ならば、あのままわたしにケリを付けた後に彼と一対一の状況にできた。にも関わらず、どうして引いたのか。
可能性は二つだ。
一つは忍び結界からの感知が遅れた異常性に、万全を期すため。もう一つは、単純に彼我の力量を瞬時に読み取って撤退したか。
前者についてはわからない。どのみちわたしの切羽詰まった思考では、結界からの侵入の感覚を受け取れていなかった可能性があるからだ。それでもあの実力なら、侵入者と十二分に闘えるという自信があってもよさそうなものだ。いや、実力があるからこそ不測の事態に撤退したのだろうか、だとすると、わたしが接敵した時点で撤退すべきだ。ほんの少しだが、狼狽の気配はその時点で感じることはできた。
となるとやはり、彼の戦闘能力に恐れをなした? 白銀の少女の目標は彼だったのかもしれない。正面から闘いを挑むことは困難だが、不意打ちならと計画した。が、わたしとの戦闘で忍び結界を貼らざるを得ず、結界に気付いて警戒状態にある彼を仕留めることは困難と離脱した?
どうも四季はそれが一番妥当に思えた。不穏の気配が漏れていた事に関しては謎だ、そういう要素を含んだ作戦なのかもしれない。
しかしこれでもかと言わんばかりのヒーロー要素に、苦笑した。ちらと彼を盗み見ると、二人の間に置いたポップコーンを片手に目じりを拭っていた。全然忍びに見えない。まったくの一般人の様だ。
彼はボーイという年齢ではないが、四季は花も恥じらうガールだった。四季もひょいとポップコーンを口に放り込む。ボーイミーツガールも悪くない。
幕が下りると適当な飲食店に入り軽食を取ることにした。
「和食でいい?」 と彼。
「いいけど、好きなの?」
「ふつうかな」
「変なの」
「説明すると長くなる」
それなりに有名な天ぷら屋に入り、注文を待った。
「期待してたよりは面白かったな」
「うーん、そう? わたしはそれほどでもって感じだったかな」
「恋愛物はほとんど見ないから印象が強かったのかも」
「泣いてたもんね」
「年とると涙腺が緩くなるとでも言いたいのかね」
「後ろの人の話だけど? 自覚があるのかなぁ」してやったりといった表情。
「ぐぬぬ」
「ま、それはいいとしてさ」 なんとなしに毛先を弄んで四季は言った。 「その、同棲相手の人とは結局、いまどんな感じなの?」
「端的に言うと振られた結果になった。と思う」
「ふうん」
「だからそれに関して、きみのアドバイスを貰うという事はできなくなってしまった」
「それは、ふぅん、残念だったね」
言って四季はグラスを弄び、中のトマトジュースを揺らした。残念なのだろうか。心のどこかでそうなる事を期待していなかったと言えば嘘になる。だとしたら、メールをした時と同棲相手との状況が変わらなかった場合、適切なアドバイスを彼に提案することはできただろうか。
意図的に仲を切り裂く案を口にしてしまうかもしれない。可能性はゼロではない、仮定の話なのだから。
「それってさ、いつの話?」
「ここ二三日前くらい」
という事は、相談を受ける日程を取り決めた後ということになる。
「平気なんだ」
「ショックだったよ、そりゃあ」
「でも前に会った時とあんまり変わんない」
「彼女も覚悟を決めて振った訳だから、めそめそするのは彼女に失礼というものだ」 何せ鈴音を寝取ったのは街だ。と、彼は確信していた。ならばやるべきことは祝福であって、つまりは抱える問題である、貧困街の解決に奔走すべきなのだ。
「未練はない? 好きだったんでしょ」
「まあね」
「浮気?」
「してないし、されてない」
「言い切っちゃうんだ」
「まぁね」
まいったなあ、と四季は前腕を腕枕にテーブルに突っ伏した。アドバイス料の代わりに一日付き合ってくれるという建前だったが、それも崩れた。彼は既にアドバイスを必要としていなかったのだ。ただのデートだ、これでは。だったら最初から振られたと言ってほしかった。そうすれば初めからデート気分で映画も見れたし、食事も楽しめたのに。
「じゃあさ、今日はどうして付き合ってくれた訳?」
「前から約束してたし、振られたからアドバイスもいらないとドタキャンするのは失礼だろ」
「義務的に?」 そうだ、と答えられたら、ちょっと泣くかも。
四季の声色が僅かに震えていることに気が付き、彼は慎重に答えた。
「約束を守るということはそもそも義務だ。だからと言って機械的に出かけた訳じゃない、別の件できみのアドバイスが欲しいと思っているし。それにまあ……一緒に危機を乗り越えた仲だろ? ちょっとくらい、つるんでもいいと思うんだけど」
四季はおっかなびっくりに顔を上げ、視線だけを彼にやった。そこには困惑した彼の顔がそこにあった。どうして赤ん坊が泣いているのか、どうしたら泣き止むのか理解できない親のような。
「ごめん、ちょっと子どもすぎたかな」
ざっくりと髪をかき上げて上体を起こす。同棲相手にフラれた事に少しとはいえ喜んだ自己嫌悪を意識的に終わらせる。よくよく考えれば彼は元カノに後腐れがあるわけではない。その点に喜べばいい。口調を一転させ、明るく言った。
「それで、ブログの女王と名高い四季ちゃんに相談事とはなにかな」
「実はきみくらいの歳の子と縁談があって、どうすれば円滑に結婚できるかという相談内容なんだが」
四季は再びテーブルに突っ伏した。後腐れなさすぎ、と。
「おじさん節操なさすぎ」
「男らしいと言え、男らしいと。うじうじしてても仕方がない」
「ロリコン」
「相手は十八だよ、縁談だからご両親も承諾している。ていうか、どこ行くの」
突然に四季が店を出て行こうとしたので、彼は手早く支払いを済ませて不恰好にも追いかけた。足早に街を行く背に投げかける。傍から見れば若い女に未練がましく関係を迫る中年のようだ。
「その子の事、好きなの?」 不意に四季は足を止めた。
「恋愛感情は、今のところあるとは言い難い。でも好きになる努力はするし、されるようにもする」
「あのさあ、おじさん」 振り返り、腕を組む。豊満な胸がたゆんだ。 「わたしさ、ほんとにおじさんが好きなのかもって考えてた。吊り橋効果なのかもしれないし、流されてるだけなのかもしれないし……単にその、欲情、してるだけかもだし」
視線を逸らして言った四季の言葉に、彼はぽかんと口を開けた。
「よーするにさ、そういう余計な要素を取り除いた普通の状態のおじさんを、わたしが好きになっているのかどうかが今日、わかればいいなーって思ってて。だってのに縁談なんて、それ、あんまりじゃん」
四季自身、言葉の正当性などないことは承知だった。しかし言ってしまいたかった。機会があるとしたら今しかない気がした。もし縁談がうまくいったら、この言葉は永遠に発せられることなく不純物のように沈殿し、自身までもが濁っていくように思えた。
道行く人が朱に照らされた往来で立ち止まる二人を奇異の目で見やる。
「おじさんはわたしの事、どう思ってるの?」
「どうって……正直、割と友達感覚」
「ばか、嘘でもいいからモノにしたいだとか、ちょっとくらっと来ただとか言いなよ」
「意味のある嘘は言わないんだ」
「どういう意味を持つ真実を言ったの?」
それは、と言いどもる彼に嘆息し、四季はさっさと歩き出した。放っておくわけにもいかず、彼も後を追った。やがて表通りとは違った喧騒に包まれる。いかがわしい色の毒毒しいネオンが、傾きかけた陽にあっても揺らめいていた。
おい。と彼が声をかけるが、四季は迷うことなく進んで行った。やがて彼も見覚えのある場所にたどり着く。初めて会ったとき、逃げ込んだラブホの前だ。
あのな、と言いさした彼を制するように振り返って四季。 「その縁談の子にも、わたしにも恋愛感情はないんでしょ?」
「今のところは」
「でもその子には好きになる努力もされる努力もするんだ。そこがわたしとは違うんだね」
「理由がある、詳しくは言えないが」
「好きになるのに理由が必要不可欠なら、わたしはもがいてないよ。その明確な理由でもって、はっきりと好き嫌いを自分に言い聞かせられるはずでしょ」 言って彼の胸に額をそっと預けた。鼓動が伝わる。わたしとどっちが早く脈打っているだろうか。
「でも、だが急すぎるだろ。きみの言いたいことはわかったけど、まずは段階を踏んでからでいい」
「何が? わたしは思い出話をするためにここに来ただけだよ。あの時は恐かったねって。それで、急って? 段階を踏んでから、何をするつもりだったの? こんなところで」
「言質を取るのが好きらしいな」
「子どもの癇癪に見えるんだね。たまにするそういう突き放すような物言い、嫌いじゃない」
「錯覚している。吊り橋効果だ、きみも言っていたじゃないか」
「確かめたい、本当にそうなのか」
「手段を間違えている」
「時間の猶予があったらよかったのにね。縁談が破談するように祈るような女にさせないで」
四季はおそるおそる彼の腰に手をまわそうとした。これで本当に拒絶されるかもしれない、たぶんもう会えはしないだろう。何せ公には存在しない忍びなのだ。それも白銀の少女レベルの遣い手でさえ距離を取るほどの手練れだ。次の瞬間にも額から伝わる心臓の鼓動は消え失せ、わたしは空虚を抱いているかもしれない。
「わかったよ、きみの気持ちは。ありがとう」 彼は小さく溜息を吐くとあやすように軽く頭を叩いた。 「だから泣くなよ」
「泣いてない」 四季は小さく鼻をすすると目じりを拭った。開いた手を握手のように彼に向ける。
彼は仲直りの印かと思ったが、実際は違った。連れてって、と言われる。
「どこに?」
「お部屋」
「もう引っかからないぞ。おまえの部屋だよな、帰るから送れって意味だよな」
「やだ、違う。言わせないで」
「それはこっちのセリフだ、言わせるな」 彼は四季を引っ張ろうとするが、びくともしない。やはり、強い。
四季は真面目な口調で言った。忍びという過酷な生き方を示した先輩の警句を口にする。彼が初めて見る、シリアスな表情だ。
「次の瞬間にだって死んじゃってるかも、明日は約束されていない。だから後悔をするのも今日でいい。わたしは寮に住んでるし学生だから比較的安全だけど、今日は危なかった。おじさんだってそうでしょ?」
「そういうのはだけど、交通事故に合うだとかいうレベルで日ごろから意識する問題じゃないだろ。注意していれば問題ない。地球に隕石が落ちてくることを恐れるようなものだ。明日死ぬ可能性を否定はしないが、そんなことを普遍的日常間で意識していては胃が持たんだろ……ちゃんと信号は確認するんだぞ」
「ま、おじさんならそうかもね」 と、苦笑して思った。覚悟があっても死は免れないなら、にわか雨に打たれたように受け止めるのも一つの考え方だ。きっとどんな危険な任務も平常心でこなすのだろう。 「たぶんさ、まだわたしが駄駄をこねてると思ってるんだろうけど、本気だよ。ひょっとすると、もう二度とおじさんと会えなくなるんじゃないかって、本気で思ってるよ」
「……大人に憧れてるだけだ」 粘り強く、彼。
「じゃあ大人にしてよ。そうしたら憧れているかどうかわかる」
「責任が取れない。わたしは縁談に関する計画を完遂するつもりだ」
「それはどうかな、わたしに惚れちゃうかもよ」 泣き笑いで言った。
彼は深く息を吸って、長く吐き出した。 「幻滅するかも、想像とは全然違うって」 ゆっくりと四季の手を引いて歩き出す。
「ねえねえ、どんな部屋にする。こないだ逃げ込んだ時はあんまりじっくりと見れなかったけど、好きなの選んでいい?」 けろりと表情を変えて四季がはしゃぐ。
「おお、おま、おまえ。さっきまで泣いてたろ」 口をパクパクさせて、彼。
「やだなー、おじさんっておんなの子が泣いてたら無条件で言う事聞いちゃうの? 違うよね。だからラブホに入ったこととわたしが泣いてたことの因果関係なんて無いよね?」
彼はぐぬぬと悔しそうに顔をしかめたが、まあこういうノリも悪くないのかもしれないと部屋のパネルに目移りしている四季を眺めて思った。
「ねえねえこの部屋可愛くない?」
室に入ると見覚えがあった。以前逃げ込んだ場所だった。
彼はとりあえず飲料を冷蔵庫から取り出そうと思ったが、四季はつないだ手を離そうとしない。
「どうした?」
「あ、いやごめん」
慌てて手を離すと周囲を観察しながらベッドに腰掛けた。 「トマトジュースある?」
「ない。トマトジュースが好きなの?」 お茶を手渡した。
「うん、まあ」 と固い口調。
「こないだ来たところだろ」 隣に腰掛ける。
「でもあの時はそんな気なかったし……サウナとか、あるんだね」
「入る?」
「やめとく、門限もあるしそんなにのんびりできないから」
微妙な沈黙が訪れた。
どうすればいいんだっけ。と四季は早る鼓動を押さえて必死に思い返していた。服は自分から脱いだ方がいいのか、それともシャワーだろうか。その場合は下着を付け直すべきなのか。ネットで調べた気がするが、どうだったっけ。
「シャワーいってきなよ」 と彼。
うん、と唯唯諾諾に四季は腰を上げ、そこでふと見下ろして言った。 「あのさ、同棲相手の人とは、その、どうやってたの?」 言って、しまったと気が付く。配慮がないにもほどがある。 「……ごめん」
「いいよ、もう吹っ切れてるから。だから婚約に必死になってた。きみを身代りにしようとも思わない」
「そういう意味じゃなくて、あーもう。白状する、誘ったはいいけどどうすればいいのかよくわからないから元カノとか関係なく同じようにして欲しいって事」
一息で言って、四季は再びベッドに腰掛けた。すると肩に手をまわされ、優しく押し倒された。カットソーを下から捲られ、健康的な柔肌が露わになる。おもわずぎゅっと目を閉じた。いよいよだ。が、それ以降の彼の動きはなかった。
「ねえこのコルセットみたいなのってどうやって脱がすの?」
小さく笑って答える。 「いいよ、そのままで」
「汗かくよ」
「そん時はそん時。はあ、もっとこう、ロマンチックにお願いしたいところね」
「ビビってたくせに」
「ばーか」
言って彼の頭に手を回す。途中まで引き寄せて再び目を閉じる。手の感覚から、彼がゆっくりと近づいてくるのがわかる。ファーストキスのシチュエーションにしては少し間抜けだが、これくらいでいいのかもしれない。緊張のほぐれた気持ちで、四季はそう思った。ウーロン茶の味だ。唇が離れる、潤んだ瞳で彼を見上げた。媚薬を服用してしまったときよりも心地よい鼓動が胸を打つ。
事を終え、四季は使用済みのゴムを咥えて映る記念撮影の写メを眺めてご満悦。
彼はとりあえず汗を流すべく浴室へ向かうが、結局一緒に入った。背中を流してあげようと言う行為に甘えながら、ぼうっと夢想する。
それを留める理由を懸命に探し、まだ破瓜の痛みもあるだろうと性欲を納得させる。ソーププレイに興じようとする四季を小突いて一緒に室を出てバスローブに着替えた。とりあえずベッドに並んで横になる。
なんとなしに四季はテレビのリモコンを取り、アダルトな映像を流した。女優は巨乳だったが、四季より小ぶりだ。あんあんと声を出している。
「なんでAV?」
「勉強になるかなって思って、やっぱり逝くときは逝くって言った方がいい?」
「とりあえずテレビ切って」
「そうだよね、これからはパパが教えてくれるもんねー」
「ぱ、パパはやめろ。中年と同じ雰囲気がある」
「えーなんでー。パーパ、ユキチさん五人でどう?」
「やっぱわかってて言ってんじゃないか。そういう知識ってやっぱネット?」
「ま、ソーシャル・ネットワークでコミュニケーション取ってると、嫌でも目に付くっていうか」
「年齢制限とかあるんじゃないの」
「出会い系とかはあるって聞いた。わたしは興味ないからそっち系はやってないよ、十五だし」
嘘だろ……と、彼はバスローブの中で呼吸に合わせて艶めかしく動く大きな胸を見やった。去年まで中学生というなんとも犯罪ちっく言葉が脳裏をよぎる。
テレビの中では女優が口淫している。それを見ても彼は興奮しなかった。もし仮にこれが四季ならばと考え、下腹部に血が集まるのを感じて思考を投げ捨てた。斑鳩なら、ともすればよいというものでもない。誰かを当てはめる事自体が無礼だ。
「ふ、ふうん。大人びてるんだね」
「ロリコン」
「やめよう、年齢の話は」
「これってピロートーク?」
「どうかな」
四季はこれ見よがしに、ベッドに横になった時から繋いでいた互いの手を上げた。
「……そうかも」
「そっちに寄っていい?」
返事を待たず、彼の肩に頭を預ける。 「今日帰るの面倒だな」
「寮だっけ? いいじゃん、料理とか出してくれるんでしょ」
「うん。おじさん、いま食事どうしてんの。今度作りに行ってあげようか。練習しとくよ、天ぷら」
彼は迷った末に言った。 「シチューがいい。ビーフシチュー」
しばらく休憩してホテルを出た。四季の下着は汗と愛液で湿って着用したくないということなので、不透明のビニール袋に入れた。
「なんでおれがきみの下着を持たなくちゃダメなの」 表通りを歩きながら、彼。
「おんなの子の荷物を持つくらいしてくれたっていいじゃん。持って帰る?」 と四季。彼の腕に抱き付きご満悦。ブラをつけていない胸で挟み込むように。
「いらない」 極力腕を伝わる感触を無視して言った。ビスチェのタグを見るにIカップだった。十五でこれとは恐れ入る。
「すっごいスースーする。ねえ、どんな感じ? つけてないおんなの子を隣に町を歩くのって」
「気が気じゃない」
「興奮する? なんだったら路地裏で抜いたげようか」 口を開け、ぺろりと可愛らしい舌を覗かせて言った。
門限あるんだろう、と彼はむりやりバスに押しやってドアが閉まるのを待った。運転手の声で発車が告げられ、ドアが閉まってゆっくりと走りだした。
四季はちらと背後を振り返った。曲がり角で見えなくなるまでそうして、門限ギリギリで寮に帰った。
大浴場で身体を清めようと思ったが、ホテルで洗ったとはいえ性行の後で他人も浸かる湯を利用するのは気が引けた。古くから続くエリート校ならではの個室に備え付けられたシャワーで済ませる。
それから食事をとり、すぐにベッドで横になった。すっきりした思考を走らせる。
さてもしも、事に及んだ理由は吊り橋効果だったのだろうか。あるいは彼の忍びとしての能力に憧れているだけなのだろうか。彼が一般人だったとしてと想像してみる。
きっとピンチには助けにこないし、わたしより弱いのだから脅威を取り除くことはできない。逆にわたしが彼を助ける立場になってしまう。
四季は媚薬で発情する彼を脳裏に描いて小さく笑った。なんだか滑稽だ。
そこでわたしが一つ手で抜いてあげるという形になる。彼の頼み方によっては口でしてあげてもいいかもしれない。いや、できるだけ知的かつ冷静にその発情は薬物の影響だと諭さなければ善忍ではない。
それでも彼は、わたしの事が忘れられなくて連絡を取ってくるのだ。この前のお詫びがしたいからと映画とショッピングに付き合ってくれて、それが下心と手淫させてしまったことに対する謝罪が混濁していることに罪悪感を覚えてしまっている。
彼は忍びだけど、媚薬に対する抵抗能力がわたしより低い事から腕は未熟だ。ひょっとしたら最近になって忍びを目指したのかもしれない。半蔵学園の卒業生なのだから、トップである半蔵がOBである彼に声をかけたのかもしれない。最初は忍び学科の用務員とかに迎え入れるつもりだったが……そこから忍びに憧れるようになった。だとしたら色色と教えてあげてもいい。
それで秘密の訓練を定期的に続けるようになって、やがて子弟関係以上の親密さを求めるようになる。
ううむ、なんだかヘタな恋愛ものになってきてしまったと四季は唸った。ま、とにかく立場が逆になったとしてもデートくらいはしていただろう、吊り橋効果ではないと暫定的に決める。
次はええと、生存競争からくる本能的に優秀な遺伝子を求めているにすぎないという問題も同上で解決して、単に欲情しているだけなのかどうか。不意に情事を思い出して、顔を赤くした。
もしも性行が朝からならと考えてみる。遅めの昼食を取りに外に出る。水族館とか行って、買い物にも付き合ってもらって帰る、戦利品でファッションショーをしてもいい。昼からならディナーだ、うんとセクシーなドレスを着て夜景の綺麗なホテルがいい。夜からなら、朝までくだらない会話をしよう。
そこまで考えて、どれも後戯に近いことに気付いた。買い物に付き合ってもらって帰る、の帰るとは彼の自宅を無意識していた。つまりは性欲が満たされた後も彼と居たいという訳で、ううむ。
わからん。と匙を投げる、そも理由で恋愛ができるものかと言ったのは自分ではないか。つまりこの理由なき思考の混沌こそが……そう、なのかも。
次回 無償の婚前交渉による無償の排撃依頼
私服に違和感あったらすまなんだ。
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第六話 無償の婚前交渉と無償の排撃依頼
それと前話で原作知って云云で予想外に意見貰えてサンクス。参考になりました。ちょっと感想板でのアンケっぽくなっちゃっていろいろ申し訳ない
大狼と鳳凰の者との縁談が、建前ではなく現実味を帯びてきたことを知るものは少ない。当人と当主、それと縁談の話を支持した本家の人間だ。
縁談の種を撒いたのは大狼当主であった。が、両財閥の関係修復のためと持ち掛けたものの、現当主に反感や方針の疑念、嫉妬を覚える反当主派が計画に否定的で難航していた。
実のところ、道元が資金を動かした点はそこにある。反当主派の人間を抱き込み、あるいは金で買って縁談を支持させた。例え本人同士の意思を無視してでも事実上の婚姻まで突き動かす計画はあった。
姦計を実行したのはそのためだ。契りを結ばせた後に彼が淫欲に堕落した映像をネタに、両当主を強請る。
彼は大狼に属しているので大狼当主は勿論のこと、義理とはいえ娘を立てた鳳凰当主も内部に示しがつかない。鳳凰当主も関係修復を望んでいるが、ネタの暴露によって鳳凰内部は完全に大狼を敵視することは想像に容易く、溝は深まるからだ。
彼は媚薬を飲まされた後に違法性のある売春によって下劣で淫靡な酒池肉林を味わい、その様を忍びが撮影するはずだった。善忍の介入があったものの、未成年との淫行は好条件だった。はずがなぜか媚薬は効果を示さず、姦計は失敗に終わる。
道元の計画は半分は成功している。理由は定かではないが、縁談は順調な経過を見せているらしい。あとはネタだが、そこが問題だ。なぜかタイミングよく会社を辞めているので経費の使い込み等を捏造するのは難しい。リアルタイムでならでっち上げは比較的容易だ、ちょっとした勘違いで数字というのは変化させられ、数の持つ無機質性はどのようにでも猜疑心を増長させる。
しかし過去の資料の改ざんともなると、そうはいかない。改ざんした痕跡を消した痕跡まで気を配らねばならず、手を入れた箇所が別の件にまで絡んでいる場合は、そちらも弄らなければならない。
かといって彼を傀儡化して復社させるにしては休職中の期間が短すぎる。さすがに不自然すぎるだろう。
ネタは手に入れがたく、しかし状況は流動している。両財閥の関係修復は、抱える善忍の養成機関である月閃と半蔵の結びつきまで強化される。
そうなると道元がパトロンとなっている悪忍の養成機関、蛇女は苦しい立場に位置することを余儀なくされる。
ふうむ、と道元は唸った。
しかも何故だか蛇女学園長が彼を気にかけている節があるらしい事も頭を悩ませる。学園長が最も信頼していると思われる、娘の雅緋が彼に接触しようと試みているらしい。だが道元が彼に干渉している、ということは知られても構わない。彼はまったくの一般人で、大狼の者と発覚したのは比較的最近だからだ。彼が学園長に傀儡化されても道元に関する情報は彼から出てこない。知らない事は喋れない、これは普遍的な傀儡化対策だ。
それに加えて学園長が病魔に侵されているうちは学内の政争には道元に利があり、両財閥の縁談に関しての情報封鎖は徹底している。
つまり学園長は彼が大狼の者であることはともかく、少なくとも鳳凰と縁談を持ちかけたという事実は知らないはずだ。なのになぜ学園長は彼を気にするのか。
彼が学園長にとって何らかの利益を持つのなら、持ち前の精神制御術で傀儡化させてしまえばいいではないかと、道元は幾度目かの再考を巡らせた。
学園長の精神制御術には目を見張るものがある。相手が並の忍びなら碌な精神抵抗もさせず意のままに操ってしまうほどだ。現役最強と言われた所以はそこにあった。病に伏せているといえ、一般人相手に何を様子見で徹しているのか。
彼のところへ赴くことはできなくても、部下に拉致させればいい。なぜそれを実行しない。
学園長が彼を傀儡化しない可能性を検討してみるが、忍びでもない人間に様子見をする理由がどうしても見つからない。最善手を選択しないのはなぜなのだ。
そこまで考えて、眉をひそめた。
いや厳密には一般人ではないか、薬物に対する先天性の対抗能力を持っている。ならば薬物に並ぶもう一つの土台、忍術に対する抵抗能力も持っている、のか?
学園長は彼を傀儡化しないのではなく、できない根本原因があるとすれば、そうとしか考えられない。
完成に近い精神制御能力者が人間社会に発生する確率は、もちろんゼロではない。知的生命はおそらく、誰しもが精神対抗能力を持っている。興味に対する無意識下の忍耐力とでも表現できた。軽い所で言えば、例えば禁酒禁煙。車がいなくても歩道信号を守る。こどもが夜中に一人でトイレに行く。娯楽からの誘惑を断ち切り、勉学や仕事に励むことがそうだとされている。精神制御術はそういった忍耐力を減衰させ、興味に対してまやかしの増長を補助する。
つまり完成された精神耐性を持つ者は存在しない、というのが通説だった。仮にいるとすればその者は、いったい何に興味を持つというのか。食事も睡眠も言ってしまえば娯楽だ。空腹を満たすという誘惑すらシステマチックに抵抗してしまえば餓死する。だから完成は、存在しない。
故に彼が精神制御能力者であっても、学園長ほどの忍びであるならば抵抗能力を無視するほど強力な忍術で、生まれついての忍耐力をそぎ落としてから傀儡化することは難しくなさそうである。完成は存在しないのだから、理論上は力量差があれば傀儡化は可能なはず。
と、思考を片寄らせるのは安直に過ぎる。彼が完成に近い精神制御能力者である可能性もある、ということを念頭に置いておくことが肝要。学園長の罠かもしれない。
しかしその仮定を満足する場合は非常にまずい。道元が持つサブプランで強請りのネタを作る手段は一気に減る。かといって手をこまねいていては両財閥の関係が修復される。
まず、彼が本当に忍術に対する対抗能力を有しているかどうか。といきたいところだが、体術などと違い、精神制御術は教育手段がマニュアル化されておらず、才能に大きく依存する分野である。故に精神制御に長けた忍びは絶対数が少なく、傀儡化によって支配下に置いた部下はいない。また半端な術者に対抗できたからといって道元の術に抗えるとは限らない。確実性を求めるのならば道元自らが彼に相対して傀儡化を試みるべきだが、表に出るのは得策ではない。これは最後の手段。
いや、と見方を変えてみる。
何も
この場合、蛇女の学園長に非を認めさせるわけにはいかないが、幸いにも彼が大狼本家の連中から疎まれているのは事実だ。大狼本家の差し金で彼が殺され、その責任を蛇女に擦り付けてきた、という偽証は十分に考えられる。そうしておいて、両財閥には第三者が蛇女の忍びを傀儡化し、犯行に及ばせたという逃げ道を塞ぐために、犯人となる蛇女の人物には、彼を殺すに値する動機がなければいけない。
この段階で決断を下せるのは道元の持つ才能でもあった。ネタはおそらく掴めないと見切り、投資した資金を惜しむ事無く彼を殺す手はずを整えた。やるなら徹底してやる。
忌夢という学生のプロファイルをデスクの引き出しから取り出した。詳細は掴めていないが、彼女は雅緋を助けるために己の身を顧みず、結界内の忍びの血を流出させる禁術を行使した、という事は確認できている。それほどの仲であるなら、例えば雅緋が彼にかどわかされているという暗示を掛けてもいい。命を賭して親友を守った、という過去の事情があればそれでいい。親友を盗られたという嫉妬が動機と取れる。客観的に状況を捏造できればそれでいい。
その上で、忌夢の禁術結界を彼が物ともしなければ、まぎれもない一般人だ。忍びの血を漏出させる術が作用しないのであれば、忍びではないという理屈。
彼が死ねば半蔵、月閃、蛇女の三つの学び舎を抗争状態にし、疲弊させる。生き残れば、つまり完全に一般人だと判明すれば道元自ら彼に傀儡化を試み、失敗すれば殺す。
道元は小さく笑った。流失させてしまった資金に対する戒めの嘲笑である。そして新たな謀略に思案した。彼についての対処は付いたのだから。
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やはりらしくないことはするものではない。雅緋は大きなドレスバッグを片手にすっかり日の落ちた住宅街を一人歩いていた。婚約の迫り方など思い浮かばず、同期のマンガ好きにそれとなく恋愛ものを借りて参考にしてみたが、どこの世界に食パンを咥えた女子とぶつかることから始まる恋慕があるのだろうか。
ぶつかって転倒した際に落とした食パンにつけ込んでデートに誘う? だが不注意なのはお互い様のような気がする。曲がり角を飛び出すという事からして、むしろこちらが悪いのでは。
ううむ、と顎に手をやり唸る。こんなことになるのなら、もっとそういった娯楽から知識を得ておけばよかった。しかし今は己のやり方でいくが甲だと、彼の自宅に到着した。こぎれいな二階建ての一軒家だ。
鈴音から借りた合鍵で玄関から堂堂と侵入する、人の気配はない。他人の家が持つ特有の匂いがした。
罠や、特定の人間が侵入すると術者に知らせる結界が貼ってあるわけでもない。もっとも、あたかも結界が存在していないかのような隠密性の結界が貼ってある可能性は存在する。彼ならやりかねないかもしれないと雅緋は考えたが、詮無きことだ。侵入者に危害を加える攻性結界でなければそれでいい。
電気を付けずに一階を見て回る。リビングにはなぜか半壊したテレビがある。台所は意外ときれいに片づけられている、冷蔵庫を開けてみると大したものは入っていない。水回りも手が入っている、鈴音は基本的に学園寮にいるので彼は綺麗好きということだ。雅緋は少し安堵した。
次いで二階。これといって見るものもない。とても忍びの家庭とは思えない、まったく一般人の家だ。寝室のドアを握り、一呼吸置いて開けた。
豪勢にもキングサイズのベッドがあった。なんとなく腰掛けてみる。鈴音と彼はここで寝たのだろうと当たり前の事を考えてみる。ひょっとしたら自分もそうなるのだ、その場面を想像して固唾をのんだ。
親密な男女の関係なのだから、当然のことかもしれない。ましてや婚約ともあれば、彼は今日にでも初夜を望む権利がある。夫婦なのだから、雅緋は断る理由はない。
彼に何のメリットも与えずにこちらの要求をのませるというのは虫が良すぎる話。とはいえ忍びらしく、最善と最悪の状況を考える。
最上は鈴音の秘密について彼が何も知らない振りをしてくれることだ。なんの取引にも応じず、何の事だ、ととぼけてくれるのがありがたい。暗黙の了解で秘密は守られる。彼はわたしと次期学園長の座を得て、父上は学内政争の地盤を固められる。
この場合の利点は間違いなく、万一にわたしが何者かに傀儡化された場合に情報が漏れにくいところにある。彼との密約を最小限の情報量に抑えられるので、例えば、彼と何か重要な取引をしたか、という問いには否定で答えることができる。傀儡化対策された答弁は重要だ。
このあたりは、彼が心得のある精神制御術者であるならば察してくれそうなものだ。
次いで取引。わたしを差し出す以上の要求を迫られるかもしれない。彼は金に執着を見せていないので、何を必要とされるかわからない。やはり、おんなだろうか。
最悪なのは傀儡化されることだ。父上を欺くほどに、彼は極めて深い精神制御の知識を身に着けている。転じてその知識を行使する可能性も高い。しかしそれは詮無きこと。父上の上を行く忍びならば、誰にも対抗できない。一応は精神対抗の備えはしてあるものの、どうせ無意味だ。
雅緋はその際の彼を想像した。男を知らない生娘ゆえに古臭いアーキタイプな男性像を。
無理やりに口を奪われる。股を開かれる。
やがて他のおんなも要求される。忌夢などは、ひょっとしたら少しでもわたしの慰めになればと自ら進んで贄になるかもしれない。そうして二人して彼にかしずき、懸命に奉仕するのだろうか。
そこまで考えて雅緋はかぶりを振った。考え過ぎだ。少女漫画の影響だと憤慨した。少女というわりには過激すぎる。
気持ちを切り替えて一階に戻り、あり合わせで親子丼の下ごしらえを済ますと風呂を沸かしてシャワーを浴びる。
全裸のままドレスバッグから用意していた下着と衣装に着替え、後は玄関で正座して待った。
しばらくして郵便受けを開く音がして玄関のドアの鍵穴が回された。あれ、鍵掛けてなかったっけ? と、彼が新たに届いたカタログ片手に帰宅する。ドアを開けると同時に、うぇあっ、と同時に奇妙な声を上げた。そこには純白のウエディングドレスに身を包み、三つ指を立てた白銀の髪の少女がこうべを垂れていたのだ。
「おかえりなさいませ」 ドレスは袖のないアメリカンスリーブなので、すべすべとした背中を惜しげもなく晒して言った。タイトな前面からは、美しい曲面を描く横乳が露出している。 「お待ちしておりました」
彼は土間を跨がず、いったんドアを閉めた。強く目頭を揉んで、名も無い即席の神に祈った。満員電車で急な腹痛に襲われた時よりも強い信仰心を捧げる。もしも先の少女が幻覚であれば、布教活動に勤しんでもいいとさえ願って再びドアを開く。
彼は神の不在を確認した。人間の不幸を楽しむ悪魔はいるようだが。
とりあえず中に入り、先ほどと一分も変わらない姿勢の少女になんと声をかければいいか戸惑った。少女には、声をかけない限りは不動の意思の強さがある。
「あー、その。ただいま?」
彼はなんとか言葉をひりだした。少女が顔を上げたので一先ずは良しとした。
「食事と風呂、どっちにする」
「どうしてきみはウエディングドレスなんだ? というか誰? あと口調が凄い変わったね」
とりあえずリビングのソファに腰掛けて彼は問いかけた。疲れた一日だった。軽い相談と息抜きのはずが四季と関係に及んだだけでなく、帰宅してみれば更なる難問が悠然とそびえ立っていた。どうしても投げやりで配慮のない口調になってしまう。
「まあ迎える時は礼儀が必要だと思っている。婚約については鈴音から話は通っているはずだ、これからは雅緋と呼んでくれ。ええと、あなた? でいいのか」
「うんちょっと待って」 と彼は顎に手をやり、疲弊した脳に鞭うって思考させた。
ひょっとして自分はものすごい勘違いをしていたのではないか。鈴音の言っていた縁談とは鳳凰の者とではなく、雅緋と名乗る少女となのだろうか。だとしたら非常にまずい。
「鈴音から縁談を受けろという話は聞いている、相手はきみ個人を指すんだな」
「そうだが?」
「二人ではなくて」
「当たり前だ」 と不快な表情。 「答えは?」
まいったなと彼は顔を手で覆いながら言った。
「鈴音の事だから、この荒唐無稽の縁談は何かしらの意味を持つものだろうということは推測できる。わたしは鈴音の要求を無条件で飲むつもりだ」
彼の物言いに、雅緋はやや慎重になった。言質を取りたがっているのかもしれない。彼と道元は繋がってはいないが、蛇女と敵対関係にないとは言い切れない。反面、鈴音の条件を飲むという言葉から、半分は任務を遂行したと安堵する。
「あなたの抱えている鈴音に関する秘密を握ったままにしておいてほしい。その秘密が明るみに出るとわたしの父上は立場上まずいことになる。無論、露見は鈴音にとっても好ましいものではない」
「秘密ってなんの事だ?」 と彼。本心から言った。
「悪かった、忘れてくれ。わたしの思い違いだ」
物足りなさを感じるほどにあっけなく承諾してくれたと雅緋は一息ついた。結局、彼は鈴音の秘密は関知しないというスタンスをとっているわけだ。傀儡化対策が考慮された精神制御術者らしい回答に満足する。
鈴音と同棲状態にある程度には親密だったので、わざわざ窮地に立たせるような人間でなければ当たり前と言えば当たり前だ。むしろ、彼にとっては雅緋こそが秘密を探りに来た刺客であるという可能性を考慮している物言いかもしれない。
もしも雅緋が彼にとって敵性と仮定した場合、彼が『鈴音が妖魔討伐部隊の生き残りだという事か?』などと口にすれば愚かしいと言わざるを得ない。
彼のとぼけた表情は迫真で、本当に秘密など知らないような雰囲気がある。父親の精神制御を欺き、昼間のまったく忍びの気配を感じさせなかったことも相まって、その欺瞞能力は凄まじい。
ふうむと腕を組み、感心して雅緋。 「こうして目の当たりにすると納得はできる」
「なにが?」
「あなたの実力だ。話にしか聞いていなかったので不安ではあった。夫となる人物が頼りないのは困るから」
「すごい気になるところがあるけどまず解決しておきたい事がある。きみはいいのか? 話を聞くにお父さんの都合で会ったこともないような人物と結ばれるのは」
「覚悟はしている。わたしが気に入らないか? 女らしさが足りないというのは自覚しているが」
「魅力的だと思う……そうでなくて、わたしが気に入らないのはきみのお父さんのやり方だ。客観的に、娘を道具に使っているように見える。もちろん婚姻は鈴音の願いという事もあって結ぶが、不愉快なのはその点だ」
それは、と雅緋は口どもる。
これは論理的な問題ではなく、信頼という感情的な問題なのだ。鈴音が、彼はわたしの為に秘密を握ったままにしてくれるはずだと確信していれば問題はない。
だが彼女は過去をひた隠しにしてきたという負い目がある。その点で彼に後ろめたく、よって対等性は欠如している。そのような関係の上にシビアな問題の背を預けることはできない。精神的な安寧が欲しいのだ、身内となった以上は不利には働かないだろうという。
「第一、きみのお父さんはどうした。娘一人を寄越すなんてどうかしている」
「父上は闘病生活を余儀なくされている」
「なるほど、それは悪かったな。だが一度は会って話すべきだと思う」
「父上はしかし、知っているかもしれないが悪忍だ。わたしもまた」 さすがに彼のような善忍と合わせるのはまずい気がする。いや、隠匿された忍びだから問題ないのだろうかと自問する。どのみち答えは父上しだいか。
「そんなことは現状を見ればわかる」 と口を酸っぱくして彼は言った。 「いや、人の事を言えたものではないな。きみのお父さんも、避けることのできない選択をしたのだと願いたい」
年頃の女性の気持ちを踏みにじっている。そして鈴音のガラス細工のような脆い願いを無条件で聞き入れている彼もまた、雅緋の父親を責めることはできない。現代において時代に逆行するような婚姻を結ぶなど、たとえそれが善行を目的としても手段は同様に悪人なのは目を背けることのできない事実だ。
「父上は自己保身のためにわたしを差し出したのではない。それだけは断言できる、誓う」
彼は視線を上げて雅緋を見た。瞳の奥からは何も伺えない。
沈黙に彼の腹の虫が鳴った。
恰好がつかず、頭を掻いて彼。 「とりあえず食事にしない? ちょっと今日は個人的に驚きの連続でまいってるんだ……まあそれは今も続いてるんだけど」
「うむ、わかった」 と言って雅緋は台所に向かった。白いウェディングドレスにピンクのエプロンという斬新なスタイルでコンロに火をつける。
「本当に料理作っていてくれたんだ」
「まあな。なぜだか将来において、料理バトルが開催される気がしたので練習はかなりしていた。味は期待していい」
「ずいぶん具体的な予測だね」
彼はテレビのリモコンを視線で探し、すぐに本機の残骸が目に入ったのでやめた。
「着替えてから料理しなよ、汚れる」
「気を付けるさ」
しばらくして親子丼が運ばれてきた。胃をくすぐる芳醇な香りが漂ってくる。いただきますと箸をとる。
「なんか肉がすごい柔らかいんだけど、わざわざ買ってきたの? 高かったでしょ」
「いや、冷蔵庫にあったものだが」
「よくあんな安い鶏肉でここまで上手に作れるもんだ。わたしが作るとどうもぱさぱさになるんだよね。胸肉って難しくない?」
「下ごしらえをきちんとすれば安くても美味しくなる。ところで先ほどから気になっていたのだが、これは?」
雅緋はテーブルに置いていたカタログを見やった。表紙には、ステップアップ、初めての忍具投擲! と書いてある。彼ほどの忍びが何故と疑問に思わないでもない。
ああこれ、と彼は食後のお茶を飲みつつペラペラと捲った。 「趣味みたいなもん、かな」 軽い眩暈を覚える。しかしカタログからは目を離せない。せめて話題だけでも切り替えようと不自然に切り返す。
カタログをめくるたびに、何者かが紙面に転写した不可視の暗示が、眼球から視神経を通して後頭葉に働きかけ、無意識へとフィードバックした。
いや思い出したと彼は内心で強く思った。少し前に忍者の存在について疑いの目を向けていたが、思い出した。故意に作られた記憶でないと主張するように、不自然なほど思い出したと反復する。
なんだ、忍びは存在したんじゃないかという安堵を得る。しかし表立った組織ではないので、どのみち部下の呆れ果てたリアクションは当然だ。少し恥ずかしくもある。
これからも鍛錬を続けよう。もちろん投擲道具も購入する。
「悪いけど、少し疲れた。もう寝るよ。洗い物は、明日するから置いといて」 と、彼。脳を圧迫されるような感覚がある。情報そのものが質量を持っているかのようだ。
「う、うむ」 雅緋は少しどぎまぎして言った。 「まあ大丈夫だ、一般的な性知識はある。食器はわたしが洗っておくから、先に行ってくれ」
最近のおんなの子はどーなってんだ。彼は奇妙なものでも見るかのように雅緋を眺めた。
「きみ、勘違いしてるみたいだけど……まあ、客間があるからそこで寝なさい」
「ま、予想はしていた。あなたがわたしを抱かないということは」 ころりと表情を戻す。
「ならなんでそれらしい事を言ったんだ……」
「反応が知りたかった。鈴音先生は性交渉には応じないだろうと言っていたから、その高潔性を確認したかった」
彼は口を開きかけて、やめた。客間を案内すると寝間着に着替えてベッドに潜り込む。が、ややあってドアが開かれた。おぼろげな瞳で見やると、パジャマに着替えた雅緋が立っていた。
「なに? お手洗いの場所?」
「いや、性行為はしないが、一緒に寝たという事実がいると思って」 ベッドに近づき、ややためらってから恐る恐る身体を滑り込ませる。部屋とは別の匂いがした。独特の、おんなの匂いというのはわかる。混ざり合っているのは男の性なのだろうか。
彼はもう何も言う気になれずに好きにさせた。斑鳩との縁談をどうするかだけでも大変だというのに。
月明かりがさしこむ部屋で、雅緋がぽつりと言った。
「聞かないのか鈴音先生について」
「聞いて欲しくなさそうだった、わたしは彼女を信頼している。きみと結婚する必要性はないと思うが。とりあえず、きみが彼女の生徒だということで十分だ」
「申し訳ないとは思っている」
「それについてはこっちの方が申し訳ない。くたびれたおじさんが相手だと気が滅入るだろ」
「正直、先生からあなたの人となりを聞いていたから、それほど嫌ではなかった。むしろ幸運だ。もしも相手が下衆な人物だったら、その……」
「言わなくていいよ。ま、そういう信頼があったのなら嬉しいと言えば嬉しい」
「鈴音先生の事は、もう?」
「わたしは振られた、事情はどうあれね。いつまでもぐずっていられない」 彼は話を切り替えるように口調を明るく変えて言った。 「学生なんでしょ、何年生?」
「三年生だ、歳は二十一だが」 禁術が絡む事柄なので言おうかどうか迷って。 「事故にあってな、三年ほど入院生活を送っていたんだ」
「大変だね。懐かしいな、高校生か。わたしもそういう時期があったよ」 しみじみと彼。 「わたしの立場でこんなことを言うのもなんだけど、モテるでしょ?」
うぐっ、と露骨に痛いところを突かれたように呻いた。 「……女性からよく好意を寄せられる。白状するとややコンプレックスでもあるな」
「ほーん、でも男子学生からも声かけられたりするんじゃないの。気になってる子とかいる?」
まったく奇妙な質問をしたものだと彼は小さく苦笑した。一応は結婚するというのに、妻になる女性に意中の相手がいるかと聞くなんて。たぶんあまりにも結婚に対して現実性を感じていないからだろう。
「いない。女子高だから。これは幸いかな?」 雅緋も無意識に答えてしまったことから、初対面の男性と同衾しているにも関わらずリラックスしていることに気付く。 「だがまあ大切な人はいる」
「それは、すまない」
「いや違う、勘違いするな。そいつは女性だよ、事故の時に命を賭して助けてくれた。彼女はその弊害による傷を一年で治癒させたが、その後も二年間、わたしの看病に尽くしてくれた」
「いい子じゃないか、そういった友情は得難い」
「友情、だといいのだが。やや度を過ぎているような節があるのがな。どうもわたしに男らしさを求めている節がある、どう思う?」
「うーん、難しいね。じゃあ彼女からしてみれば、わたしはきみを寝取ってしまったようなものになるのか。わたしたちが謝るべきは互いにではなく、もっとも無関係な彼女なのかもしれない」
「そうかもな……きっとそうだな……わたしはもうあなたに謝罪の言葉を口にしない」
「わたしもそうするよ。わたしたちは誰もが一定の利己に従っている。彼女の、きみに対する無償の情感を無視して」
彼は見知らぬ少女に詫びた。それでどうこうなる問題ではない。やはり自分は悪人になってしまったと再考する。いたいけな少女の淡い思いを、身勝手な都合で踏みにじってしまった。
翌日、彼は雅緋をバス停まで送ることにした。燃費と頑丈さだけを基準に選んだ車に乗り込み、キーを回してエンジンをかける。
夏の終わりも近づいてきたとはいえ、まだ暑い。半分ほど開けた車窓から強い風に髪を弄ばれる。雅緋が外を眺めたまま言った。
「あなたが鈴音先生の願いを無条件で聞き入れたことを前提に、わたしもまた頼みたいことがある」
「うん?」
「いま、わたしの通う学び舎は非常に危ういバランスの上になりたっている。端的に言うとパトロンと実質的な組織の長とで経営方針上の対立が生まれている。問題なのは、前者が私利私欲のために学び舎を利用しようとしている事だ」
「企業ではよくあることだ。でも学校でそうも意見が食い違うのは珍しいんじゃないのか。出資の形式は? 寄付金なら大した額じゃないだろ。オーソドックスな学校法人なら評議会員を抱き込んで孤立させろ……いや、そうされている状況なのか。なら多少の不利益を被っても解散するべきだな」
「パトロンが設立した学校法人の出資金額はそれほどでもない。だが他に出資している複数の個人、団体がそのパトロンの息のかかった者だ。これら反学園長派の合計出資金額が悩みの種なんだ。しかも、おそらく複数存在するだろうという推察でしかなく、関係を特定できていない」
「そこまでいくと文科省の管轄の範囲を超えているな。ま、外部資金を断つしかない」
「それが、そうもいかない。反学園長派の継続的な出資契約と収益事業収入によって安定した資金運用に目途が立った。この時点ではまだパトロンと複数の出資者が裏で繋がっているとはわからなかったんだ」
「学生の教育環境の改善と向上の名目の下、大規模かつ長期的な施設の増改築が行われた? パトロンがそこまで用意周到なら、きわめて自然な流れになるように裏工作が行われていたんだろうな。だが迂闊だと言わざるを得ない、高校で収益事業ってかなり怪しいんだけど、会計上に不審な点は?」
雅緋は言おうとしていた増改築計画案が先回りされた事に驚いて彼を見やった。いや、客観的視点を持てば簡単に推察できるのかもしれない。フロントガラスに映る彼と目が合った。視線で続きを促される。
「……ある、と思いたい。学校施設の改築はともかく新設などについては父上も反対した。だが資金面は数字の上では問題がなかった。仮に外部資金が想定限度額まで減少しても増改築計画を凍結すれば、やや苦しい経営状態にあるがやってはいける算段でもあった。ただ、反学園長派が特定できない以上、すべての外部資金を理由なく断つことはできない。第三者からすればその行動は理解しがたい」
「だろうな、外から見ればわざわざ順調な設備投資の機会を、経営難におちいってまで蹴る理由は見当たらない。部外者には奇異に映るだろう。パトロンは、学園長が意にそぐわなければ一派を操り、客観的に不自然でない動きで定期的に供給されるはずの外部資金量を絞ることができる。こちらは複数の出資者なので絞られる額が想定できず、増改築案全面凍結における資金運用の具体的な絵を描けないのが泣き所だな。着工途中の施設の保全にも金はかかる。かといってこちらから外部資金を断って計画的に全面凍結案を練ろうにも、理由なき設備投資計画の破棄という看板を背負うことになる。どのみち先見の明がないと判断され、パトロンが私利私欲に走っているという証拠がない限り、失脚の原因になりかねない。最悪の場合、施工会社も息がかかっている可能性もある」
「そうだ、それで頼みがある。今から言うことは父上も知らない、身内になる事であなたに期待しているようだったが、決して口にしないだろう」 雅緋は運転する彼の横顔を見つめて言った。 「前述の問題を解決してほしい。わたし個人の願いだ。あなたの……妻からの」
向けられた瞳を一瞥して答える。 「それはまた、骨が折れそうだな。パトロンと水面下で繋がっている一派を合法的に排し、あるいは空いた外部資金の穴を埋めなければならない。そいつの名前は」
「道元……合法的に?」 口に出すのも嫌そうに名を告げた後、意外そうな顔。
「なんか変な事言ったか?」
とぼけた口調の彼に、雅緋は小さくほほ笑む。心なしかこれまでの強張った口調がほぐれている。
「いや、別に。あなたはやはり、善忍らしい」
「悪人だよ。おれたちは、もう」
しばらくすると、郊外に位置した人気の少ないバス停に着いた。雅緋が降車して、言いにくそうに口を開く。
「もしも、その、あなたが道元を排撃できたら……わたしは本当に」
「そのときは婚約を解消しよう」 彼は雅緋の言葉を遮って言った。 「鈴音がわたしに縁談を受けろと言った本質的な原因が学び舎と学園長の地位の維持と道元の排除にあるなら、問題はない。わたしたちはあまりにも独善的すぎる。きみに思いを寄せている……」
「……忌夢という名だ」
「その子の話を聞いて、よくわかった。わたしたちは無関係の人を攻撃しているに等しい、踏み潰しながら行軍している。被害は最小限に抑えるべきだ」
雅緋はまだ何か言いたそうだったが、口を閉じた。儚い笑みで、そうだな、と同意する。簡素な別れを告げて、走りゆく車を眺めた。
うーむ参った。と、ハンドルを適当に握って彼は呻いた。
道元という輩を是が非でも排除しなければならない。それまでに、当面は雅緋くんと斑鳩くんのどちらかが、わたしと一緒に居る時にもう一方とばったりと出会わなければ助かるのだが、まあそんな可能性は無限小だろう。ないない。大丈夫大丈夫。というか考慮しても仕方がない話。
溜息を吐き、アクセルを弱弱しく踏み込む。
次回 タイトルだけ考えてません
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第七話 おれ忍者辞めて会社やるわ
R18版は次話と同時投稿、今週予定です。いろいろと書き足してたので遅れます。
予約投稿してると思ってたら2015年にセットしてました。投稿遅れてすまなんだ。
道元は蛇女に潜伏させている手の者に、これまでに目にし、無意識下に蓄積された暗示パターンにのみ反応する暗示を、校内で不特定多数が利用する場所へと転写させた。それが蓄積された暗示内容を実行する鍵になる。行動内容は殺害だった。対象は鍵に書き込まれている。
忌夢が女子トイレの鏡を見た時に、それは発動した。視神経からするりと侵入する、生ぬるい液体のようなものを錯覚する。メガネを外し、強く目頭を揉んだ。
暗示は忍びの忠誠心と目標に対する敵意を増幅させた。どす黒い憎悪が煮えたぎる。なんとしても彼を殺害しなければならないという強烈な使命感が心中で渦巻く。
本来であれば、学園長が事前に仕掛けた対精神制御術によって抑制されるはずの衝動はしかし、暗示に書き込まれた任務ブリーフィングを読み取った時点で更なる表層化を見せた。
彼の人物像や、近況による理解を深めるための内容だ。それによれば、雅緋は彼の自宅に泊まったらしい。それが忌夢の本能を任務から私情による殺害へと駆り立て、対精神制御術を決壊させた。
忌夢は正規の手続きを踏んだ後、寮を出た。
それに雅緋が気づいたのはしばらく経ってからだ。
休日はもっぱら三年間のブランクを埋めるために体術などの自習をしている。忌夢はそれに何も言わずに付き合ってくれていた。ところが今日はいつまで待っても姿を現さない。寮を探してみたが見つからず、もしやと外出届け管理ファイルを覗いてみると忌夢の名があった。いつもならわたしにべったりの忌夢が、黙って姿を消すことがあり得るのか?
雅緋はかぶりを振る。ありえない、嫌な予感がする。
父親から対精神制御術が破られたという報があったのは、その確信と同時だった。
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やはり泥をかぶるのは男の方だろうな、と彼は上品に煎茶に口を付ける斑鳩を見やって思った。しかしまさか、誰がいきなり、ほぼ同時のタイミングで縁談を持ってこられるなどと誰が予測できようか。
なるべく彼女を傷つけないように、関係をこれ以上発展させずに自然消滅する方向へ持っていくべきなのか。たぶん、そうだろう。
主観的には、斑鳩のような若い女性と ――しかも美人で清楚!―― と、こうしてデートまがいの事をするだけでも嬉しい。ましてや結婚ともなれば誰もが羨む。彼女にはそう思わせるほどの魅力的だ。それは間違いない。
しかし歳の差から可哀想だと思うのも事実だ。ひょっとすると干支が一緒かもしれないと考えれば肝が冷える。
要するに、彼自身が斑鳩を心から求めている訳ではなく、わーい棚ボタ的に可愛い子とお茶できてラッキー、程度に思っていることが枷になっている。貞操観念、モラルの問題だった。数日前までは、鈴音の願いという事で枷は引きずりながら断行できた。雅緋との婚約が真であるという事実が発覚しなければ、おそらくこのデートも心血を注いで斑鳩に好かれるように努力したはずだ。
なんとも自分勝手で排他的な良心だ。いや、悪意の飽和なのかもしれない。自己嫌悪に陥る。
今なお斑鳩に貧困街目的に近づいたという隠す理由といえば、彼女に敵意を向けられたくないという汚れた心の自己保身以外の何ものでもない。
本当に悪人になってしまった。彼は内心で辟易とした溜息を吐く。
彼はだから、心の内を斑鳩に白状してしまおうと決断した。隠していた貧困街の問題は、鈴音の願いが消えた今なお秘しておく必要はない。それで斑鳩に幻滅されれば済む話だ。年の近い男性と良い縁があればいい。それが普通だ。被害は最小限に抑える。貧困街の処理は遅れるが、当主たちが計画していた本来の予定はお見合いレベルから始まる関係修復にある。元に戻るだけ。
そんな心境の彼だから当然に会話は弾まず、社交界の時の方が盛り上がったくらいだ。
焼きたての団子も喉を通らない。
暗い雰囲気に耐え兼ねてか、お茶の味もそこそこに彼が店を出ようと言った。どこに行くのかと思えばタクシーを拾い、貧困街を一望できる丘の小さな公園を運転手に伝える。
車中は先ほどの店の雰囲気を引きずっており、淀んでいる。
斑鳩が信号待ちの時間に街頭の巨大な屋外ビジョンを指し、沈殿する空気に飲まれないよう気丈に話しかけた。映画のプロモーションらしく、少年と少女が見晴らしのよい公園で問答している。
「ご存知ですか? あの映画」
「うん? いや、知らないな。有名なの?」
「恋愛物のマンガが原作になった映画らしいのですけど、評判が良いと聞きました」
「ああ、そうなんだ」
気のない返事で彼は会話を打ち切ってしまい、気落ちする。こどもに気を使われる始末。情けない。じゃあ今度見に行く? くらい言えないものか。
信号が変わり、タクシーは走りだす。
屋外ビジョンに映っていた ――少女は恋愛よりも優先している大きな悩み事がある故に少年の恋慕を本心から受け入れられなかったが、後に少年は少女の悩み事を、告白とは無関係の立場から解決してしまう。そこで少女の心を占有していた悩み事はぽっかりと消え、空いた空洞に少年への気持ちが収まる―― というご都合に過ぎるような王道のボーイミーツガールな映画のPVを後にした。
やがてタクシーは目的の場所に到着し、二人は降車した。
公園の端に行くとぽっかりと空いた穴のような貧困街が眼下に広がっている。斑鳩は無意識的に目を逸らした。彼は廃ビルやあばら家群を見下ろして口を開く。
「急に店を出ようなんて言ってすまない。でもどうしても白状しなければならないことがあった」
斑鳩は彼の熱のない口調に慎重になった。
「わたしはきみに恋愛感情を覚えたから婚姻を迫ったのではないんだ。きみの背後にある鳳凰の力が目当てだった……もちろん好きになり、好かれるような努力はするつもりだった」
斑鳩の表情が凍りつく。義兄から聞き、社交界で覚えた彼の人となりが水泡のように消え失せる。
社交界で何度かそういう輩に声を掛けられたこともあった。いかにもな口ぶりと軽薄なお世辞で塗り固められた表層的好意。そういった人物が義父と親しげに話すだけでも嫌だった。
それにもまして前述の彼の告白は、彼の事を自慢げに話してくれた義兄までをも裏切られた気分にさせる。心中で零度の炎のような怒りが燃えたつ。自分の事はいい、だが義兄と義父に偽りを働いたことは許せない。
しかし次の瞬間にはその業火も吹き飛んだ。
「他に貧困街の問題の処理を加速させる手段を持ち合わせていなかったからだ。本当に申し訳ないと思っている。だがわたしはどうしても鳳凰とお見合い以上の関係を持ちたかった」
「へ?」
と斑鳩。呆気に取られた表情。心でとぐろを巻く強い嫌悪感が手品のように消えた。その隙間を何で埋めればいいのかわからない。
「きみが呆気に取られるのもわかる。なにせ、きみ自身に興味があるふりをして、実のところ本命は貧困街だったわけだから。きみの心を弄んでしまった。ただ、個人的な理由でどうしても貧困街は早期に解決させなければならないと思っていた」
言葉を失くした斑鳩に、彼は残酷なことだと理解しながら言葉を続ける。
「すべて、わたしの私的な理由と目的の為だ。いずれは言わなければならないと思っていた。それをきみから誘ってくれた初めての食事に告げるのがどれほど酷かも考えての行動だ――」
――だから。と自らの身勝手さを露出させる。平手打ちくらいなら、いくらでも受ける覚悟だった。乙女の純真さに唾を吐いてその程度済むなら安いものだ。殴られたって仕方ない。
「わかりましたわ、たとえ今は恋愛感情はなくとも、あなたがわたくしに対して好意を抱かせる努力をするというのなら、わたくしはそれを超えるほどの努力をあなたに対して約束します」
「――だからこの話はなかった事にされても文句は言えな」 言いさして彼は斑鳩に目をやり、貧困街に視線を戻し、再び真摯な表情を向ける彼女を見やった。 「ねえわたしの話、ちゃんと聞いてた? 権力目当てにきみに近づいた最低の男なんだけど、もっかい言おうか? いちから」
わたくし、と斑鳩は彼の言葉を無視して、風にたなびく髪に手をやりながら貧困街を直視して言った。 「実のところ、社交界や学校ではけっこう声をかけられます」
「まあ、その予想は簡単につく」
恥ずかしそうに、はにかんで斑鳩。
「でも、どうにもよくわかりませんでした、その、恋愛感情で誰かとお付き合いするだとか。まだ早いような、もっと相手の事を深く知ってからの方が、と……それに、わたくしにはやるべき事がありました」
「そうだね言われてみればきみはまだ未成年だから早いかもねもうちょっと相手をよく知ってから決めた方がいいと思うよ」 彼は一息で言って。 「それに恋愛にうつつを抜かして、そのやるべき事柄とやらを疎かにするのもよくない。絶対」
斑鳩はほがらかに笑った。
「やはり、そう思われますか?」
「……正直なところ度合いによるとも思うけど」
「その事柄を解決できるのならば、この身を賭す覚悟もありました」
「なおさらだ、そっちに専念した方がいいかもしれない」
斑鳩はその言葉で彼の手を両手で掴み、視線を合わせ、言った。身の内にある信念を言語化する。
「では微力ながら、貧困街の問題に関して尽力させていただきます」
「は?」
今度は逆に呆気に取られる彼の手を引き、斑鳩は歩き出した。足を取られながら、彼もついていく。
「いやちょっとどこいくの?」
「せっかくのデートなんですもの、先のお店には戻りにくいですし、別のところで間食を取りましょう。あなたの真意と本質はよくわかりましたし、次はわたくしの事を知っていただかないと」
「わたしはきみを私的に利用していた」
「それがあなたのウソ偽りない本心?」
「そうだ」
彼は手を振りほどいて立ち止まると、冷ややかに言った。斑鳩は気にした風でもなく振り返る。
「なら、いちいちお付き合いする相手が、ひょっとしたら遺産目当てなのではないかだとか、お義父さまを失脚させようとしているのではないかと勘繰る必要がなくなりましたわ。裏を返せば、わたくしに赤裸裸の本心を告白していただいたと考えても問題ないでしょう?」
「それと、きみの身体が目当てでもあった」
彼は最後の札を切った。が、まあ殿方ですものね、と恥じらいながら流されると為す術がなかった。加えて。
「それに下衆びた肉欲を満たすためなら、貧困街の話は伏せたままの方が都合がよろしいのではなくて?」
と一本取ったような表情で言われると降参するしかなかった。
「どうして顔を両手で覆われるのですか?」
日が落ちる前に解散する予定だったが、斑鳩の提案で鳳凰の夕食に招かれる事になった。寮はいいのかと問うと、割と融通が利くらしく外泊許可が下りた。外泊場所が彼女の実家だからかもしれない。
お抱えの運転手が迎えに来るそうなので、落ちあわせる場所まで数分ほど歩いた。まったく他愛のない会話の途中で、斑鳩は殺されたと思った。
瞬間的な激動だった。失われたのは斑鳩の存在ではなく、彼だった。吐き気を催すほどの悪意に満ちた結界が彼を隔絶した。忌夢による禁術結界、血塊反転によって。
なんの予兆もなく展開された禁術結界は範囲内の忍びの血を錯動させる。忍びの血そのものに、結界内の空間すべてが、巡るべき血管であると錯覚させる一種の幻術。意識を持たぬモノにまで作用する死への惑わし。封じられなければならない禁忌の術。
彼の指先に針で刺したような、ぷくりとした血の球が浮き出る。その血は ――ゼナを回し飲みした時に体内に入った鈴音の、忍びの血は―― 流れ落ちる前に霧散する。体内に忍びの血を有しなくなった彼は禁術結界から認識されず、結界もまた普遍的機能がエラーなく働き、忍びの血というパスを持たない一般人の意識感覚を偏向させ、内部から事実上の解放をオートマチックに実行する。
四季と雅緋が先日、彼が結界に侵入したという信号を即座に感覚できなかったのもそのためだ。結界が反応する忍びの血の絶対量があまりにも少ない。しかしパスは持っているので侵入は許さなければならなかった。
そんな事情を知らない結界外にいた忌夢はだから ――内部に居ては術者も血の排出の作用を少なからず受けるので―― 愕然と膝を震わせた。ありえるはずがない。
血塊反転は忍びの血に幻術を掛けるのであって、忍びの精神ではない。したがって精神制御能力者どうこうの問題ではない。血は結界内の空間をめぐるべき血管と誤認し、錯動するはずだ。血を排出させる、という明確な効力を持つが故に、その際に体内器官を破壊することは許されないが、それでも失血死は免れない。すなわち
禁術を、疎まれてきた異能を。うわ鳥肌がすごい、と袖をまくる彼を見やって、忌夢は失意から意識を手放した。その刹那に、雅緋の気配を感じ取った。
雅緋、なぜここに。ああそうか、今日は雅緋の自習の日だ。手伝う約束だったのに。なぜ、こんな場所に自分がいるのか。鳥肌を立てる禁術、情けない。笑えない。泣きたい。
斑鳩が全身の悪寒に気づいたときには結界は消滅しており、おそらく気を失った術者に肩を貸す白銀の髪の少女が立っていた。
ほんの数秒の内に、めまぐるしく事態は変転している。理解が追い付かない。
きょとんしているのは彼だ。目の前に神経質そうなメガネを掛けた少女が現れた。ぞわぞわして鳥肌が立ったかと思えば、瞠目して意識を手放しかけるメガネ少女に雅緋が肩を貸していた。
雅緋……雅緋くん!? ちらと横目で斑鳩を見やる。天からの罰だろうか。あんまりな気がする。
件のメガネ少女 ――忌夢―― によって展開された禁術・血塊反転が術者の意識喪失により解かれた後に、雅緋が慎重に口を開く。 「すまない、敵意はなかった」 ちらと斑鳩を盗み見る。
禁術を見られたからには消さなければならない。だが、それを彼が見逃すだろうか。いや、そもそも見逃してもらえるのかという疑問すらある。結界は殺害目的に展開されたのだと、素人でもわかる。彼からしてみれば、命を狙った相手をみすみす手放すようなものだ。
しかも、と雅緋はじっとりと嫌な汗をかいた。血塊反転が展開された気配に、間に合わなかったかと肝が冷えたが、別の意味で臓腑が凍える。彼は忌夢の禁術をものともしなかった。化け物か。
「いや、よくわからんが別にいいけど」
「お知合いですか」 と、斑鳩。最悪の状況を想定し、おそらく悪忍と決め打って臨戦態勢に移る。彼に明らかな殺傷能力を見せる結界を展開しておいて、ただで返すつもりはなかった。 「何者です?」 視線は雅緋にやったまま彼に問いかける。
「知り合いっていうか、うーん。謝ってるし、黙って帰ってもらってもいいんじゃないかな」
その二人のやり取りを見て、雅緋は何とも言えない気持ちになる。おもちゃを目の前で取り上げられたような、おやつを誰かに食べられたような。その横取りされた物に強く固執していれば奪還する気にもなるが、それほどでもないので、どうしてよいものかわからず歯がゆい。
ただ、彼をかばうように立ちふさがる黒髪の少女は気に入らないということは確かだった。奇妙な違和感も覚える。憮然と言い放った。
「わたしはそこにいる男の婚約者だ、いまのところは」 彼に視線を戻す。 「で、そのおんなは?」
「へ」
と斑鳩。彼に振り返る。
「か、解消の予定だ、その婚約は」 と彼。自身に言い聞かせるように言った。 「えーと、彼女は雅緋くん、で、こっちは斑鳩くん……メガネの子は知らない」
「婚約者というのは……」
「話せば長いが、まとめると当人を差し置いて決められた緊急性のある政略結婚のようなものだった。しかしそれが気に入らないので、わたしが政略上の問題を根本から解決することで結婚を解消する約束を取り付けている。だから今のところはといったところ」
はあ、と納得のいかない斑鳩。不貞な気がする。が、それは義父が認める彼の商才目当てなのかもと考えると少し誇らしくもある。恋愛感情のない婚姻を嫌っている一貫性は見て取れるし、それを容認している自分から、雅緋とやらに対する優越感を覚えないでもない。
「少少腑に落ちない点もありますが、わたくしの婚約者であることには変わりありませんよね?」
「待て、婚約者だと?」
と雅緋。
「話せば長いが、まとめると当人を差し置いて決められた形式儀礼的なお見合いそのものが目的の政略結婚のようなものだった。わたしがそれを私的に利用していると白状したものの、斑鳩くんは気にしていないという予想外の答えが出たので、だから婚約者だ」
「なぜ、わたしとの婚約は解消しようと持ち掛けて、そのおんなとは縁を結ぶ」
「誤解するな。わたしは斑鳩くんに鳳凰の権力目当てで近づいたと告白し、その身勝手さからきみと同じように婚約解消を持ちかけた」
「わたくし、この方の理念に共感し、好意を覚えましたの」 臨戦態勢を解き、これ見よがしに彼の腕を抱いて斑鳩。密やかにほほ笑んで。 「きっかけは何であれ、彼の心の最奥の吐露を聞いた上での判断です。あなたはそうでないようですけれど……考えてみれば、自らの心中を告白するというのは深い関係になければ不可能ともとれます。そういった彼の信頼を感じたのも理由ですわ」
ぐぬぬ、と雅緋は下唇を噛んだ。斑鳩と条件が同じで、こちらが彼の婚約解消の提案を飲んだ事がどうにも敗北感を覚えさせる。一泊置き、それならばと冷ややかに笑って言った。肩で忌夢がうわ言のように唸っている。うーん、鳥肌禁術、むにゃむにゃ、ひどい、忘れたい。
「ま、まあ、いいだろう。仮に多重婚になったとしても、英雄色を好むと言うしな」
「そちらの婚約は解消されるのでは?」 不快そうに、斑鳩。
「予定だ。彼が政略結婚以外の手段で問題を解決できなければ、そうなる。なに、わたしは寛容だからな。そちらは気に食わないようだが……」
「不潔です。その問題とは?」
「内内に処理すべき問題なので、部外者には教えることができない」
「それは彼の能力では問題解決に難があると考えているのかしら」
「可能性の話だ。むしろ、彼が予想される結末からはじくような短絡的な思考の持ち主ならば、わたしの方から婚約など願い下げだ」 そういえば、と思い出したように明後日の方向を見て語る。 「そちらは先ほど多重婚が不潔と言ったが、わたしは既に彼と同衾した中にある」
斑鳩は彼を見上げた。頷かれたので力なく口をぱくぱくさせる。そんな斑鳩に勝ち誇ったように雅緋が続ける。 「お嬢さまに耐えられない穢れなら、彼を諦めてはどうだ」
「同衾っていうか、一緒のベッドで就寝しただけ……」 言いさし、これはしたりと彼は続けた。 「……だけどもちろん許される事ではないと思っている、だから斑鳩くんがわたしを軽蔑しても仕方がないと思う」
「え、ああ。寝ただけ?」
斑鳩は疑いの視線を雅緋に向ける。雅緋は小さく舌打ちして言葉通りの意味だと認めた。論戦術において、本当の事を言わないというのは手だが、嘘は攻めの起点にされるからだ。
「なら、問題ありませんわ」 それでも彼のつま先を踏みつけた。
「しかもその夜はわたしの手作りの料理を食べた! 美味かったろう? 親子丼」
「まあ、うん……なんで話をややこしくさせる?」
「あらそうですか。ちなみに彼は今晩、わたくしの実家で夕食を共にしますのであしからず。もちろんわたし手ずから腕を振るいます。お義父さまも同席して」
口元に手をやり、上品に笑った。
雅緋も、つられるように笑った。笑って、不自然なほどのタイミングで笑いを切り上げて、彼をねめつける。
「忘れるなよ、もしおまえの力で問題が解決できなければ結婚してくれる約束だからな」
「その問題がどの程度の難度かは知るところではありませんけれど、彼は若くして大狼財閥の中で類まれなる才覚を現当主に評価されるほどの人物ですわ。いまの内に良い人を探しておいた方がよろしいのでは?」
それを聞いて、雅緋は当初の斑鳩に対する違和感の正体に気付いた。ひょっとしたらこいつは、彼が不明瞭なベールに包まれた、計り知れない力を隠す忍びと知らないのではないか? 知っていれば、彼をかばうように立ちふさがる意味などない。斑鳩が彼より優れた忍びならば別だが。
忌夢の禁術結界は、彼に作用しなかったという不条理な現実に打ちのめされたが故に消失したが、斑鳩は禍禍しく強大な力ゆえに術者が持たなかったと考えているのではないか?
そう考えると、斑鳩の持っていない秘密を彼と共有している事実に内心でほくそ笑む。大狼系列の会社に勤めていたことは調べがついていたものの、一族の者とは知らなかったが。
思わず笑みが零れる。それに不可解な表情を見せる斑鳩にとどめを刺すように言った。
「わたしが悪忍だということは勘付いているだろう? どうして彼が限定的とはいえ、婚約の話に乗ったかを考えないのか? 彼は悪忍だ」
「善忍だとか、悪忍だとか、関係ありませんわ。悪忍と類される人物にも大義を持ち、確固たる信念を持って生きている事を、わたくしは知っています」
やはり斑鳩は善忍だったかと雅緋は客観的に思考した。同年代で自分と相対してこれほどまで啖呵を切り、忌夢の禁術を目の当たりにしても物怖じしない忍び学科の悪忍生徒ならば、知らないはずがない。半蔵か、月閃か。しかし、やはり彼の真の実力までは知らないらしい。
「その能天気さが羨ましいよ」
「なんですって!?」
いや悪い、忘れてくれ。雅緋は切なく笑って、忌夢を担いでその場を去った。斑鳩は幸運だ、彼に殺されるという心配をしなくてもいいのだから。と、本心からそう思った。
残された彼と斑鳩はしばらく立ち尽くしてから、待ち合わせの場所へと再び歩み始めた。遠くに黒塗りの車が見える。待たせてしまったかもしれない。
「悪忍ですのね」
と斑鳩。呟くように。
「否定するつもりはない、蔑んでくれても構わない」
「いいえ。あなたは高潔な目的ためにやむを得ない手段を取っているにすぎないと思います」 一泊置き、ことさら口を重くして言った。 「当初、わたくしと鳳凰を欺こうとした事は問いません。けれど、その高潔さだけは真のままであってください」
「貧困街の問題を処理したいという個人的な目的?」
「それと、わたくしに好かれるように努力するという事、です」
こどものように笑って乗車する斑鳩に、彼は困ったような固い表情で頷いた。
その後、彼は斑鳩が腕を振るった日本食に鳳凰当主たちと舌鼓を打ち、意味深に当主に晩酌に付き合わないかと言われて書斎へ招かれた。
「きみは忍びだそうだな」 バーボンをストレートで一口やって、当主が鋭い視線で彼に言った。 「きょう、斑鳩から聞いたよ。なぜ隠した……いや、隠し通せてこれた?」
「あなた方だって、斑鳩くんが忍びであることをわたしに内密にしていた。わたしにも秘密があると言ったはずです。それに、大狼当主があなたに黙っていた可能性もある」
「大狼当主がわたしに、きみが忍びであることを伝えなかったのは、大狼当主とてきみが忍びであると認知できなかったからだ。言え、きみは、何者だ」
「わたしは、わたしです。ずいぶんとうちの当主を信頼しているのですね」
「でなければ、お見合いとはいえ義娘を出さん。相手がきみ以外の人物なら不服を表明するつもりでもいた。わたしはきみを、大狼当主が伏せていた切り札だと考えていた。急速過ぎる、きみが大狼の者だと発覚してからお見合いの話の流れが」
「なら、婚約を先送りにするのも手だと思います。わが国の法律上は未成年者が婚約する場合、両親の承諾が必要ですから」
「きみは……わからんな。破談させたいのか」
「もしも関係者から正当な異議があるのならば、破談されても仕方がないと思っています」
わからん。と鳳凰当主はソファに背を預け、天井を見上げて言った。 「きみは、大狼当主がわが一族を内部から崩壊させるために送り込まれた刺客か」
「だったらいっそ、わたしも楽なのですがね。大狼当主に対する信頼はどこへ行ったんです?」
「信頼している。だから、わたしがその可能性を勘案するのだ。他の者には勘繰らせたくない。きみが忍びであることを本当に大狼当主は知らんのか」
空になった鳳凰当主のグラスに注いで言った。
「第三者から告げられている可能性を除けば、そうです。わたしの口からは言っていません」
鳳凰当主は短く猜疑を思索に走らせた。
彼の独断で忍びであることを伏せたと仮定する。当主を裏切って。そうする理由はあるのか?
ある。
斑鳩から聞いた、彼が貧困街に強い関心を寄せているという事実を裏付ける形で、ある。
鳳凰が裏の顔を継がせるために養子を迎え入れた事に対応して、大狼も養子を迎えた ――名を叢――。これには大狼当主も渋い顔をしたが、叢が貧困街出身の少女という事で、偽善的であると理解しながらも最終的には承諾した。
叢は月閃の責任者である黒影の保護下にあったとはいえ、もしも彼が忍びである事を大狼当主に告白していれば、貧困街で苦労したであろう叢を経済的に恵まれた世界に連れくることは叶わなかった。彼が大狼の裏の顔を継げば済む話だからだ。
もしも今、彼が忍びである事を明かせば大狼一族内部でどのような動きがあるかを、鳳凰当主は容易に想像できた。
血統主義の思想の下、貧困街から引き抜いた叢を排斥する運動は間違いなく加速する。過去に村雨が斑鳩を妬んでいたように。
だから、彼は大狼当主を裏切ってでも己が忍びであることを秘してきた。という可能性を考慮できる。
「きみは私的な理由で貧困街を処理したいそうだな。今でもそうなのか」
「以前ほど強くは思っていませんけれど、そういったモラルは今でもあります。そのために斑鳩くんに、鳳凰に近づきました」
「正直な男だ」 鼻で笑って言った。 「だが、世を生きる上で正直であることがどれほど難しい事か、わからん訳でもあるまい」
「もっと言えば、わたしには同棲相手がいました。その人物に貧困街の問題を解決しろと別れ話を切り出された、と思って鳳凰に近づいた。そりゃあわたしも貧困街を何とかしたいとは普遍的なモラルから思ってはいましたけど、元同棲相手に言われなければ、いや実際はわたしの勘違いだったのですが、斑鳩を騙すように近づくことはなかった」
「同棲相手がいた事は知っている。そして今はいないということも。しかし、その人物に言われたから試みた、という話を信用するかは別だ、いや言われていないのか? きみの勘違いだっただけで」 それはともかくと、鳳凰当主は声色を尖らせて続けた。 「斑鳩は養子だ。血は繋がっていない。だが愛娘のようにわたしは接しているし、思っている。その娘の親に、恋愛感情抜きで私的に近づいたと言って、ただで済むと思っているのか」
「関係、ない。最初に斑鳩くんとわたしを利用しようとしたのはそちらだ、わたしはそれに便乗しただけだ。不満があるなら合法的に解消させればいい。婚約に同意しなければそれで終わる」
「だがそうすると貧困街の処理は遅延する。お見合いをした、という形に留まるから財閥間の関係修復はその度合いで収まる。きみは貧困街を盾にわたしを脅している。とも取れる」
「その遅延されたタイムスケジュールが本来の予定のはずだ。わたしの意思でそれを早めようと画策しただけなので、婚約を解消したとしてもそちらが負う責任はない」
「わたしが一方的に婚姻を認めないのであれば、大狼側に面目が立たない。つまり、きみが己の計画の為に愛娘と契ろうとしたが故に、婚約を破棄したと説明しなければならない。その場合、きみは大狼当主の怒りを買うぞ。顔を潰したわけだからな」
「かまいません」
鳳凰当主は深いため息の後に言った。「きみは娘と婚約したいのかね、したくないのかね」
わかりません。という言葉を飲み込んで彼。 「真摯な思いには真摯な行動で返したいだけです」
「もういい、わかった。婚約は解消する。大狼にはおまえの不義理な心情ゆえと報告する。大狼側の本家の人間にはおまえを恨んでいる連中もいる、本来ならば、自分こそがお見合いをするはずだったとな。事故には気を付ける事だ。退室。客室にはメイドに案内させる。二度とそのツラを見せるな」
「ご忠告、痛み入ります」
彼が席を立ち、ドアノブに手を掛けると、当主がその背に言葉を投げかける。
「悪かったな、試させてもらった。一杯やろう」
「はい?」
と彼が振り返ると、当主が彼のグラスにスコッチを注いでいる。
「気を悪くしたか? そういう男ではないと大狼当主から聞いていたし、わたしはそう感じていたが」
「わたしの話を聞いていましたか? わたしは、私的な理由で鳳凰に近づいた」 デジャヴ。
「仮に娘が好きだと言っても、それは私的な理由だ。本質的に邪か、そうでないかの問題だ」 たっぷりとカイゼル髭を撫でて言った。 「前述のきみの答弁に嘘はないと判断する、大狼に責任を問われるリスクを負っての発言だからな。これからもそうであれば嬉しい。大狼当主からは、意味のある嘘を吐くくらいならきっぱりと言わない、とは聞いていたが……まあ掛けてくれ」
はあ、と彼はソファに腰を預ける。
「だから、娘に恋愛感情を持つ努力をする、と言った事も嘘ではないと判断する」
「なんというか、似てますよ、斑鳩くんと」
親子だからな、わーはっはっは。と笑って蒸留酒を一口やる姿を見て、彼はもう逃げ道などどこにもないのだと悟った。あるとすれば、目の前のグラスの液体だ。
さっと一口胃に流し込む。焼けるようだ。鼻からスパイシーな香りが抜ける。さすがにいい酒だった。
「ところで雅緋という少女とも解消を前提とした婚約の約束をしているらしいな」
「はい」
「いや、はいじゃないだろ。理由を聞いていいか? 解消の目途は?」
と鳳凰当主。しかし、元現役最強の娘と縁を結ぼうとするのだから、蛇女学園長になんらかの思惑があるのはわかる。組織として介入すべきかと考えたが、それは両財閥の関係修復後の方がやりやすいことは明らかだ。
「言いたくありません。先方の問題に関わることです、しかし婚約の解消についての努力は惜しみません。算段もついています」
「だんだんと大狼当主の気持ちがわかってきた。きみは本当にそういう男なのだな。そんな様子では本家連中もいい顔をせんはずだ……意味のある嘘は言わない、というおまえを信用する。大狼当主が信用している事柄を、わたしが信用しないわけにはいかんしな」
こうなったもの、みんな道元のせいだと彼は自棄になる。地球温暖化もきっと道元が深く関わっているに違いない。年を取るたびに白髪が増えるのもそうだ。
ひょっとしたら今日、雅緋くんと斑鳩くんがばったりと出くわしたのもそうかもしれない。全部道元が悪い。
八つ当たりに近い思考で彼は、絶対に道元は許さんと決意を固めて酒を呷った。
道元。複数の出資者に裏から金を回すその潤沢な資金源の出所は暗いのだろう。正攻法で探っても特定できないというのは簡単に予想がつく。逆説的に、非合法なビジネスによって築いた富とも。国中の闇を攫ってごた混ぜにした貧困街。すべてはそこが原点だったのかもしれない。
十中八九、道元の金は汚い。適当に民事訴訟をけしかけて反応を見てもいい、それだけで肯定判断材料にもなる。
仮に資金源が明るい所から出ているなら正面から食い破るだけだ。商戦で負ける気はまったくない。復社し、大狼当主を頼って子会社の指揮を執り、道元の資金源となっているその市場のことごとくを掌握してやる。今となっては鳳凰とのコネクションも利用できる。
雅緋との婚姻を解消する絶対的な自信を持って、くそう、と彼は鳳凰当主に勧められるがままに酒をやる。
昨夜適当なレストランで一人さみしく食事した時、ビーフシチューに嫌いなブロッコリーが入っていたのも道元が関与しているに違いない。なんてやつだ。処理してやる、貧困街が抱える問題と共に。道元の財源を枯渇させてやる。社会経済的に終わらせる。
彼は会った事もない道元にありもしない恨み辛みを心中で滾らせ、再びグラスを干した。
少し飲み過ぎたか、と彼は客室のベッドに横になった。ややあって扉がノックされる。寝ている振りでもして居留守を使ったが無駄だった。
「雅緋くんが言ってたこと気にしてるの?」
「そういうわけでは……」 戸惑った声で寝間着の浴衣に身を包んだ斑鳩。 「いえ、そうかもしれません。お義父さまとは何を話されたのですか」 彼が潜り込んでいるベッドに腰掛ける。
「きみをよろしく頼むと言われた。それと、今後のこと。あと、わたしが分家ということもあって婿養子の形を取るだとか、跡取りは村雨くんがいるけど。わたしの勤め先がどっちに属するかという問題だな」
「勤め先?」
「仕事辞めてたんだけど、復職することにした」
「忍びはどうされるのですか」
「二足の草鞋を履く気はない」
斑鳩は義父に勿論、雅緋の事も話した。名前が正しければ、その少女は過去に現役最強と謳われた忍びの娘らしい。現在では鳴りを潜めているらしいが ――病が原因だが、表には出ていない情報なので当主は知らない――。
それほどの名家と政略結婚を迫られたのは、商才だけが理由ではない。 ――蛇女の運営状態は客観的には良好にあるので―― おそらく忍びとしての力も認められての事だろう。彼には
「お義父さまには止められなかったのですか」
「重婚を回避するために全力を尽くしたい……斑鳩くんも、もう自室で寝なよ」 彼はベッドの端で柔らかく形を変える、肉置きのよい尻を見ないように言った。
「ということは、雅緋さんが抱える内内の問題とは会社の力を持ってして解決する類の事柄なのですね。もちろん、そのつもりですわ。そういった事は結婚してから、というのは常識ですもの」
「はっきり言ってあまり詮索しないでやってほしい。いまのはわたしが迂闊だったけど。彼女も、そのご両親も、他に手がなかった。誰かを傷つけながら前進するしかないと理解している」
そうだろうか。と斑鳩はもう前日になってしまった出来事を脳裏に浮かべてみた。あの雅緋という少女は、本当に仕方がなく彼を求めていたのだろうか。
なんとなく、お気に入りが他人のものになるのが気に入らず、癇癪を起しているこどもに見えなくもない。いや、あの口論では自分もそうか。
「少し無遠慮でしたわ。おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
言うが早いか眠りに落ちた彼の寝顔をしばらく見やって、そっと頭を撫でてみる。まだ、彼を愛しているとは言えないのが正直な気持ちだ。好きではあるけれど。だからかもしれない。らしくもなく、雅緋と彼の仲を競うように言い合ったのは。将来的な愛を取られたくない。言い方を選ばなければ、先に手をつけたのはこちらの方だと主張したかった。
という斑鳩の思考と似た弁論で、雅緋は布団の枕に顔を埋めてジタバタしていた。
け、結婚してもらう約束だからな。などと、まるでわたしが彼に求婚しているようではないか。いや、事実だが、わたしという個人の感情で、というか。まあ政略結婚したいというのも個人的感情でもあって……。
彼を身内にして蛇女内部に招き入れ、学園長派として動いた方が道元一派の排除はやりやすい。それをあえて困難な道を選んで進んでいる。
そんなにわたしと結婚するのが嫌か。
もそりと手元の手鏡を覗きこむ。ずいぶんと使っていないので曇ってしまっていた。いや違うか。忌夢、鈴音先生、父上など、他の人間を傷つけたくはないだけだ。たぶん。
みてくれは悪くない、と思う。わからない、普通のおんなの子ならば手鏡を曇らせはしないか。
斑鳩という少女は、彼に固執しているように見えた。少なくともわたしよりは。政略結婚がきっかけとはいえ、おそらく周囲の人間を傷つけないから、彼は斑鳩に、わたしにしたように、両断するような決別を告げないのだ。
向こうはたぶん、家族ぐるみで食事をするという事から、祝福されながら婚約するのだ。それに対して、わたしの方はどうだ。彼が一人で道元一派を除外させない限り、忌夢は悲しみ、鈴音先生は傷心し、父上は病に蝕まれる身体に不甲斐なさを悲哀する。
ずるい。と雅緋は思った。誰にかはわからない。それでも、斑鳩と対極的な婚約結果にあっては、彼も腰引ける。わたしもそうだ、だからわたしと斑鳩はフェアな土台で戦っていない。最初から向こうの方が有利な状況だ。
そこまで考えて、自己嫌悪に陥る。恋愛に勝負事を持ち込むなど非礼だ。だから男勝りだと言われる。女子から告白される。忌夢はそこが魅力的だと言うが、わたしに男らしさを求められても困る。
うだつが上がらず、仰向けになってなんとなしに両手で乳房を包み込む。形のよい柔らかな果実がたぷんと形を変える。
たぶん、大きい方だ。斑鳩とどっちが大きいのだろうか。そういえば、偶然出くわした金髪の少女とはどちらが……そもそも女の子らしさでは金髪の少女にボロ負けだ。
いや、選ばれたいのか? ばかばかしいと両手を胸から離し、背伸びする。忍びらしい客観的視点を呼び起こす。
たぶん彼に惹かれている、というよりは、興味があるだけだ。もうちょっと内面を覗いてみれば少し気になる異性くらいか。それと、先に婚約の話があったはずなのに斑鳩の方が話が進んでいるのも気に入らない。加えて彼の実力を知らなそうだというのも、腹立たしさすらある。
鳳凰の裏の顔を継ぐために迎えられた養子らしい、という調べはついているが、それでも雅緋から見れば斑鳩の忍びとしての実力が彼に相応しいとは思えない。そも彼が比類なき忍びなので必然的にそうなってしまうが、それでも実力ならばわたしの方が彼に近い。
ふむむん、と雅緋は ――自分では気づかずに可愛らしく―― 唸った。
金髪の少女よりも、わたしのほうが戦術戦闘能力は上だ。あの時は油断もあったが、その機を金髪の少女はモノにできず、わたしは克服して詰めまで取った。数秒で不利な状況から形勢を引っくり返した。これは客観的な事実だ。
生物学的にはつまり、わたしこそが真に相応しいのでは? 優秀な子孫を残すという遺伝子学的にも。強い種と種が交配し、己の遺伝子を残すというDNAレベルに刻まれた、生命が選択し続けてきた生存戦略。それを人間のしがらみ程度で無為にしてしまっていいのだろうか。――現実にそうなっていないのは、個としての強弱を意識させない社会が作られているからだ。でなければ世紀末――
ふと、目の前で妖魔に食われた母上が脳裏に明滅した。寒い冬の日だった。雪景色とは切り離されたような赤い何かが湯気を出して撒き散らされる。
雅緋は飛び起きた。呼吸が荒い、身体にはじっとりと気持ちの悪い汗。どうやらウトウトしてしまっていたようだ。顔でも洗おうと洗面所へと足を向ける。
だいたい、忍びの本来の宿命は妖魔を根絶やしにする事にある。これは善忍悪忍の共通の理念のはずだ。つまり――
彼がどれほど優れた存在かを理解しているのは、わたしと父上と鈴音先生くらいのものだろうに。斑鳩が彼の腕を双丘で包む姿が瞬間的に想起される。
――つまり、強い忍びが必要なのだ。だというのに斑鳩や、あるいは他のおんなに彼の遺伝子を預けておくことが、不愉快だ! 感情抜きの、生物学的な怒りだ。とうてい許せるものではない。
そのように今までの疑獄と不断の思考を両断して洗面所の顔を見やる。忌夢が見れば惚れ直しそうな凛凛しい顔がそこにはあった。
わたしこそが、鈴音先生が彼を諦めた現状では、最も、適している。斑鳩との対比ともいえる周囲の環境の違いが歯がゆい。だから、あの時、斑鳩に敵愾心を抱いたのだ。宣戦布告のように、彼と同衾したなどと口にするのも恥ずかしいセリフを吐いたのだ。
彼と性行すべきはわたしだ。
そこまで考えて、自嘲気味に笑って表情を崩した。まあ、彼がわたしのことを、種を預けるに値するメスかどうかを決める訳だから、先の結論には大した意味はない。
布団に戻り、しかし冷静になってみるととんでもない場所へと思考を着地させたものだと赤面する。一人部屋でも恥ずかしくなって、頭から布団を被る。
性行とは、セックスするという事だ。などと当たり前の事柄が浮かんでは消える。保険の授業で学んだ、現実味のない乾いたイラストではない。雅緋の空想の中では、彼がいて、自分がいた。
自分が下になっていた。そこからシーンが飛ばされ、お腹が大きくなっている。やがて子ができた。彼と笑って子を撫でる。いつの間にか母親になっていた。
彼が任務に出かける。季節は冬だった。雪が降っている。ふと、不穏な気配を察知する。子を逃がすため、育児を理由に長らく離れていた忍びの感覚を呼び戻す。
妖魔が青い口を大きく開いた。ちらと背後を見やる。そこには自分がいた。こどもの頃の雅緋だ。その子が走りながらこちらを振り返ってしまった。つまり今、妖魔に食われんとするのは、母上であり、自分であり、母親になった自分だった。
身体が上下に引き裂かれた、のは妖魔だった。青い臓腑を撒き散らして破断されている。人間のそれとは対極にある色の血しぶきを浴びることなく、いつのまにか彼が自分の傍らに佇んでいた。振り返る、そこには腰を抜かした子がいた。あの時、母の最期を見てしまった自分ではない。
雅緋は、涙を流しながら静かな寝息を立てていた。見る者がいれば不思議な事に、微笑みを浮かべて、泣いていた。
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しばらく経って、両財閥が共同出資して会社を立ち上げたという報は彗星のごとく社会を駆け抜けた。それは世間に対する事実上の休戦、あるいは和解の道を探り始めたという表明に他ならないからである。
ガワは新しいが、中身は彼の前職と同じ構成員がほとんどだ、両財閥からアドバイザーが派遣されてもいる。形態も合同会社を取る。
それと引き換えに、鳳凰を考慮して彼は婿養子となる。予定だ。何事もバランスが大事だった。
収支はマイナスか。と道元は自室で呟いた。結局、彼の排除は成功しなかった。遠方から観測していた配下によれば、忌夢の禁術結界は作用しなかったらしい。忌夢本人から詳細を聞きだしたかったが、厳重な護衛がつけられた。
道元は複数持っている名前から一つを選び、飼っている会社を通じて彼にアポイントメントを取った。建前はビジネスだが、本音は彼の傀儡化か殺害が目的だ。
本来であれば表に出たくはない、しかし間接的に暗示を掛ける時間的猶予がない。両財閥が抱える圧力団体が国会に働きかけ始めた。やがては立法府を通し、貧困街を対象とした強制力を、国交省は認められるだろう。原則一般入札の公共インフラ事業は特別法を根拠に両財閥へと例外委託され、厚労省と連携して本格的な貧困街の処理に乗り出す。
彼が管理者に収まっている新会社は、それに特化していた。貧困街を処理する為だけの存在と評してもよかった。両財閥が抱える子会社が、国より委託事業を受けた様様な知識とノウハウをかき集めて出来ている。財閥の持つ立法行政府への太いパイプを使えば政府高官との橋渡しなど朝飯前で、合同会社の持つ強みである迅速な意思決定が彼の手腕により遺憾なく発揮される。
人権団体を焚き付ける暇もない。
両当主は全権を彼に委任していた。目的は明瞭で、彼が貧困街を処理したという功績を持ってして反当主派を黙らせる。関係修復の道を本格的に歩み始め、長く深い確執を埋めようとしている。
道元はそこまで思考し、計画を実行した。彼を傀儡化させて、徐徐に組織を乗っ取る。それも、両財閥に気が付かれない程度に絞る。露見すれば会社は解体されてしまうだろうからだ。
タクシーに乗り込み、彼の待つビルへと向かう。
だが、これはこれで良かったのかもしれない。
後者のチャンスを得たと考えれば、まあ悪くない。
道元は会社の応接室の前まで案内された。ドア一枚挟んだ向こうに彼がいるはずだ。忍びの気配を探ってみるが、周囲には感じられない。まず、傀儡化を試み、こちらの精神制御術が彼の先天性の抵抗能力を上回らなければ殺す。
だがしかし、道元は直感した。言いようのない不安に襲われる。ドアノブに手をやる案内係を、ちょっと待ってくれと止めた。怪訝な顔を向ける案内係などは眼中にない。
なにか、なにかを見落としているのではないか。ひょっとしたら、とんでもない根本的な勘違いをしているのではないかと溺れるように猜疑する。底のない疑獄へと落下し続ける感覚。
彼は、一般人だ。なんの問題もない。だがこのドアを開けてしまえば、それで合切を奪われると死神が囁いているようだ。
道元は脂汗を額に浮かばせてドアを睨みつける。陥っている気がする、根拠はないがしかし、致命的で取り返しのつかない、本当の勘違いに。人為的運命によって。
次回 本当の勘違い
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第八話 本当の勘違い
道元は恐怖を乗り切ろうとした。ばかばかしい、何を恐れる事がある。しかし無意識的に右手は右太ももへ、左手は腹へとあてがわれていた。
それに気づき、内心で舌打ちした。振り切るように案内係を無視して応接室のドアノブへと自ら手を伸ばす。ここで、踵を返して帰るなど冗談ではない。築き上げた組織、地下人脈。蛇女は手放してもいいが、必要なものは守らなければならない。そのためにも彼は邪魔だ。守るために、前進する。障害物はここで取り除く。
意を決して自らドアを開け、入室する。室内には彼がいた。
彼の瞳が道元を捉える。
ビジネスライクな笑みを浮かべて挨拶する彼を見て道元は絶叫した。腹の底から叫び声を挙げた。その程度で、畏怖と忍び寄る死を退けようと懸命に抗うように。つまり、無駄な抵抗だと理解していても本能的な反射行動だった。
全身から脂汗と冷汗が噴き出てスーツまでをも台無しにした。眼球は充血し、心臓は飛び跳ね、膝はそんなザマをせせら笑うように震える。
――勘違いしていた――
道元の意識はその事柄のみに占有された。同時に、何もかもが奪われたのだと無意識する奇妙な虚脱感を覚える。終わりだ、何もかも。
瞬きの瞬間に、道元は案内係によって応接室の前に再び立ち尽くしている。案内係がドアノブに手を伸ばすのを、ちょっと待ってくれと止めた。
先ほどの光景はなんだったのか。道元はじっとりとした額の脂汗をハンカチで拭う。怪訝な顔を向ける案内係など眼中にない。
幻術? だが周囲に忍びの気配はなかった。白昼夢とでも言うべきか。嫌な予感がする。帰るべきか数瞬悩んだ。が、今度は案内係にドアを開けてもらう事にして彼と邂逅した。彼は数秒前に道元が覚えた幻しと同じように、ビジネスライクな笑みで迎えていた。
応接室にはなんの変哲もない黒いソファがテーブルを挟んで並べられている。それとどこにでもあるような観葉植物。
道元は精神制御術を実行して傀儡化を試みる。が、上手くいかない。やはり完成に近い精神制御術者らしい。諦めて殺すことにする。スーツの袖から、背より伸ばした触手を亜音速で突き出した。狙いは彼の首。
「すでに気付いた。一手、というか十手くらい先に王手を宣告するほど、戦略面でわたしはすでに勝っていたみたいだけど」
触手は空を貫いていた。道元は声のした方へ視線を向ける。彼がソファに座ってくつろいでいた。
自然と口から疑念が零れる。
「おまえは、いったい……」
「忍びだよ。今、完全に理解した。わたしはわたしの記憶を操作してたんだな。そうして一般人を装い、おまえに近づくように画策したんだ。それに、気付いた。おまえの腕ではわたしを傀儡化することはできないようだな」
一泊置き、常人なら精神的嫌悪感から吐き気を催す触手を眺めて彼は続ける。触手の先端は人間の指によく似ている。
「わたしが大狼当主に、わたしを分家の身だと信じ込ませ、将来的に鳳凰本家の人間とお見合いの話を持ち掛けるように傀儡化した。両財閥の関係が修復されれば、貧困街の抱える問題の処理に目途が立つ。だがそうなると困るのはおまえだ、貧困ビジネスで得た資金を元手に蛇女のパトロンをやっているおまえは、困る」
「きさま」 忌忌しげに彼をねめつけて、道元。震える声で言った。 「きさまは、あの時の……あの時の……」
「複数の個人と組織で継続的な資金援助をする一派を飼っているらしいが、その戸籍は貧困街の人間のものだろうというのは予測がつく。出資とはいえ契約だし、社会的に反故にするため破産なり行方不明なり、死亡で片が付けやすいから。そして貧困街に両財閥が直接介入すれば、貧困ビジネスから生まれるシノギは減る。故にお見合いの話が出れば、貧困街を維持しつつ両財閥の弱味を握るためにわたしを狙うだろうとは考えていた。鳳凰が出すのは本家の人間だし、護衛も付いているだろうから、疎まれている分家という立場のわたしを標的にするだろう事は想像に容易い。そうだよ、
道元は悟られぬように深呼吸し、静かに彼を見据えて言った。
「それはどうかな? 二度あることは三度あると言うしな。それに、わたしを傀儡化しても無駄だ。一派の学園に対する資金援助は、たしかに複数の個人と組織からなる。しかし、わたしが直接命令を下しているわけではない。部下に代行させ、それぞれに教えられた特定の現象が社会に生じたのをトリガーに、その現象の強度を参照して資金を絞るよう、更なる下位に属した精神制御術者に命令してある。一派に教えられた特定の現象、トリガーはだから、わたしは知らない。知っている部下は始末した」
「例えば、地震が起きるだとか、四日連続で雨が降るとか、美味い酒を見つけたとかをトリガーに、資金援助額は絞られるわけか。なるほど、そこそこ精神制御術に通じているだけあって傀儡化対策はしてある。カオス系を把握しないかぎり、トリガーを知ることはできない。最終的な資金援助額はおまえがパトロンとしての立場で操作するのか」
「蛇女はわたしのもの、ということだ」
「貧困街はどうする、稼ぎがなければパトロンはできまい」
「やはりそれも、わたしのものだ。両財閥の力はたしかに凄まじいが」
「蛇女を使うのか」
「両財閥がバックについている月閃と半蔵を消耗させる。数の上では不利だが、資金源を守るためだ、戦争になっても構わんさ。手段は何でもいい、学炎祭なり何なり」
「決闘祭だな。学校同士を戦わせ、負ければ廃校になるという恐ろしく古風なカグラ養成手段だ。まあ、むしろその方がおまえにとって都合がいいか、なにせ妖魔なのだから。わたしを殺そうとしたくらいだ、どうせ犯人は蛇女の人間に仕立て上げるつもりだったんだろうな」
彼はどこからともなくウィスキーとグラスを取り出して勝手に一杯やっている。
なぜ、これほどまでにこの男は余裕なのだろうか。道元は訝しんだが、その質問をすること自体が不利だと認めているようなものなので飲み込んだ。それに、後手でも幻術を起動して逃亡できる確信がある。
というのは彼も知るところであるはずだ、なのになぜ。
「それは、既にわたしの絶・秘伝忍法が起動しているからだ」 道元の心を読んだかのように彼が抑揚のない口調で告げる。 「おまえが蛇女の生徒に使っていた手と似ている。
なんとなく、村雨を思い出す。村雨はやけに感嘆していたようだが、大したことは言っていない気がする。
「嘘だな」 吐き捨てるように言った。脳裏に臓腑を凍てついた手で鷲掴みにされるような光景がフラッシュバックする。猪と、陽炎の女神摩利支天を背後にする忍びが。 「だとしたらなぜわたしは生きている」
「これはシミュレーションに過ぎない。わたしが傀儡化したおまえの思考の中での現象だよ、覚えてないのか? おまえ、わたしを見て泣き叫んでたよ。もう人間に見せる幻術をシミュレートする必要もないだろう」
気付けば道元の姿は妖魔のそれになっていた。虎のような体躯の、頭は蛆虫のような、不自然に昆虫と人間の口がついている。顔の皮を振るわせ、妖魔が言った。
「わたしを殺しても一派との関係性は探れない。だが見逃すというのなら、わたしは蛇女からは手を引く、一派はカオス系に基づいて段階的に資金援助を断つだろうが、わたしのパトロンとしての立場からの資金援助は契約通りに代行者に続けさせよう」
その言葉に、彼は小さく笑った。グラスを片手にしたその密やかな冷笑に、妖魔はたじろぐ。本能的な危機を感じた。
「ばかを言え。悪は殺すものではない。コントロールするものだ」
彼の姿が一瞬で道元の姿に変わり、再び戻る。
「おまえの記憶は読んだ。おまえに成り代わって貧困街中心部へ干渉しつつ、非合法組織を内部から弱体化させる。おまえはわたしに殺されたが、社会的に死ぬのはずっと先さ。どんな死に様がいい? 個人的には豆腐の角に頭をぶつけるという死因がインパクトがあっていいと思う。後世に語り継がれるぞ。ザク豆腐とかいうアニメロボットの頭を模したやつがあるらしいんだけど、どう? たぶんあれ丸いから角はないけど、だから面白そうじゃない?」
「下等な人間風情が」
「その下等な人間が生殖機能を持つばかりに、
「殺してやる」
「殺したかった。だろ、言葉は正確に使えよ。試してみるか?」
彼が通販で買った練習用の棒手裏剣を取り出した。
妖魔は背の触手群を亜音速で突き出すと同時に、彼に対して幻術を実行した。しかし当たってもバスケットボール程度の痛み、という触れ文句の棒手裏剣は幻影の妖魔を無視して実体へと極超音速で飛来する。与えられた過剰なほどの運動エネルギーが妖魔を半壊させた。それでようやく妖魔もこれがシミュレーションなのだと理解した、せざるを得なかった。青い体液を撒き散らした自身の肉体はまったく痛みを生じさせなかったので。
その事実を受け入れると、妖魔はとても悲しくなった。せっかく生きてきたのに、人間が抱える闇の部分を助長させ、コントロールして欲を満たしてきたというのに。もう少しで三つの忍びの教育機関を著しく消耗させ、忍び学科生徒を自ら手を下すことなく大量に殺せるかもしれなかったのに。
彼が憎い。煮えたぎるような臓腑があった、あるはずだった。しかしそれすらも彼から言わせればシミュレートした結果なのだ。怒りすらも、殺意すらも偽りなのだ。それが途方もなく虚しい事を実感させる、いや仮感させる。
「運が良かっただけだ」 妖魔は唸るように言った。捨て台詞すらも、彼からすれば仮なのだ。 「わたしがたまたま、おまえを一般人だと勘違いしただけだ」
「笑わせるな。おまえはわたしに合う前に、応接室のドアの前で本能的に危機を感じ取ったはずだ。記憶を読めばわかる。だがそれを信じなかった。万全を期すための撤退を決意しなかった。後退して再び状況を探ればよかったんだ。なのにおまえは愚直にわたしの視界に映りに来た、守るべきものがあったからだ。地位、人脈。だがわたしがおまえなら決してそうしなかった、少しでも不安や猜疑があればステータスごときは捨てて身を守る。明日には無一文でも構わない。くだらん俗欲くらい制御しろ。その点で精神制御術者としてわたしが一枚上手だ。おまえが未熟だったから死んだ。断じて運の問題ではない、わたしがおまえより優秀な精神制御術者だったから、おまえは負けた。運命だ、道元。おまえの劣った精神制御を呪うがいい、わたしが仕組んだ作為の運命で死ね」
もしも道元が地位と金に固執しなければ、道元は生きていたというのはおそらく事実だった。仮に貧困ビジネスではなく正攻法で資金を集めていたとしても、両財閥が支援する彼に市場を喰われる。狙い撃ちするかのような荒しに尻尾を向けて逃げ出して細細と人間を喰っていれば、彼は道元を捉える事はできなかったはずだ。
妖魔の精神で処理されるシミュレーションの彼が、グラスに残った酒を一口でやると、冷ややかに笑って口を開く。
「そろそろ、その醜悪なツラも見飽きたな」
「待て」
「待ってもしょうがない、仮想なんだ。おまえの死にゆく肉体の中で生じさせた精神制御術なんだよ。わたしがおまえを視認した瞬間に、おまえに転写された暗示によってわたしはわたしの正体に気付く。絶・秘伝忍法の発現性質を利用した理論上の最速起動だ。目視で、死は忍び寄っていた。じゃあな。おまえが長い時間をかけて築き上げてきた組織と資金は丸ごとわたしが管理し、いずれ霧散させてやるから。あとおまえの記憶にある仲間の妖魔も」
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その後、貧困街中心部の非合法組織は緩やかな足の引っ張り合いを見せ、やがては泥沼状態に陥り、機能は完全に麻痺した。それによって外周部は安定の兆しを見せる。
両財閥による干渉は外周部の公共インフラは格段に向上させた。あとは住人しだいだ。中心部の複雑に入り組んだ建築物については、抜け忍の反応を見てからだ。
彼はというと、一先ず自分が大狼の者でないことを当主に告白した。妖魔を殺すためという忍びの本質を盾に謝罪した。怒られたら、逃げるつもりだったが。
「かくかくしかじかで、まあわたしは大狼とは縁もゆかりもない」
ふうむ、と書斎で大狼当主。デスクの上で指を組み、思案した後に言った。 「ま、
「さあ、どうでしょうね」
「まさか身近に手練れの忍びがいたとはな。それで、おまえの戯言にわたしはいつまで付き合えばいいのだ」
「もう終わりです」
「ならもう二度と、わたしを傀儡化させ、おまえを分家の身だと信じ込ませたなどと言う、たわごとを抜かすな」
「嘘ではない、あなたはわたしの精神制御術の影響下にあった」
「おまえは大義名分でわたしを傀儡化したと言ったな。仮にそうであるなら、わたしは許す。なにせ忍び本来の目的は妖魔討伐にあるからだ。しかし、それ以外の私的な目的のために精神制御を行うことは、忍びの倫理に反する。それでは道元と名乗った妖魔と同じだ、違うか?」
「そのとおりだと思います」
「なら、わたしや他の者に、実はおまえは分家の身ではなかった、と信じ込ませる精神制御術は行わないわけだ」
彼は大狼当主の目論見を理解した。分家の身としてごり押す気だ。
「おまえは妖魔ではないよな」 いい笑顔で、大狼当主。にこにこ。 「だからわたしに、私的な理由で精神制御はしない。この事は鳳凰にも伝えてはおくが。いいな、おまえは分家、大狼の者。わかったら、退室」
有無を言わさぬ物言いに、彼は従った。大狼当主は精神制御が解かれた今、彼が大狼の者でもなんでもないという事を認識したはずだ。その上で、建前では認めず、彼を身内に置こうとしているのだ。流石、といったところ。
後始末をひと段落させた彼は鈴音と、四季と、雅緋と忌夢、斑鳩と村雨を集めて夕食を囲むことにした。場所は、高級ホテルの最上階のレストラン。貸し切った。
ついに、来るべき時が来てしまったのだ。彼が、実は忍びであり、善忍悪忍のどちらかに属せばパワーバランスが崩れるという理由で身を隠し、先天性の精神制御術者で、しかも大狼の者ではない事を告白する時が。
彼を上座に、全員がテーブルにつく。どうせ他人の目などないのだから普段着でいいと言っておいた。が、誰もがドレスコードに抵触しないような服装だった。ラフな姿は彼だけで、完全に浮いている。
いや村雨くんは、どうだろうな。彼は、どのような服装でもシャツのボタンを留めない村雨のファッションに誰かが突っ込んでくれることを期待したが無駄だった。もう諦めて自分の感性が時代に遅れているのだと決めつける。試しにシャツのボタンを外してみると、鈴音に怒られた。もう思考を放り投げる。あれは村雨と葛城だけに許された服装なのだと。
食事の内容はフランス料理のフルコースで、前菜が運ばれてくるまでに簡単に自己紹介は済ませる。
彼が沈痛な面持ちで口を開く。
「実は、みんなには隠していたことがある。ひょっとしたら裏切られたという気持ちになるかもしれないが、聞いてくれ。謝罪する、本当に申し訳ないと思っている」
給仕には一旦、外してもらった。ガラリとしたフロアには彼を含めて七人だけだ。しかし外の夜景の煌びやかさとは対照的な物悲しさはない。人工的な明かりの粒が幾千と夜に浮かんだところで、自然の産んだ美しいおんなの造形には敵わない。
「鈴音。隠していてすまない、実はわたしは……おれは
え、ええ。ああそう。と戸惑った表情の鈴音。あれ? と彼は心中で小首を傾げるが、まず嫌な事は一気に終わらせてしまおうと四季を見やる。
「四季くん。隠していてすまない、実はわたしは、手前味噌だが自分の持つ力が特定の組織に属することで、他の組織間とのバランスが崩れるのを恐れて
え、えーと、うん。と戸惑った表情の四季。なんか、あれだなあと、彼。とりあえず雅緋を見やる。
「雅緋くん。隠していてすまない、実はわたしは、しかも
う、うむ。と戸惑った表情の雅緋。しかも
「斑鳩くん、隠していてすまない、実はわたしは、ええと、前述の通りの
「それはお義父さまから聞きましたけど……ブロッコリー以下の事は初耳ですわ」
そうじゃないだろ! と彼は額の汗を拭い、グラスの水を一息で干して思った。そうじゃなくて、もっと適切なリアクションがあるだろ、と。しかし、こちらからそれを強要するのはいかにも恥ずかしい。けど、このもやもやとした気持ちは何だろう。むなしい。
「ちょっと待って。あのさ、みんなはさ、さっきのわたしの告白を聞いて驚かないってことは、ひょっとして既知の事柄なの?」
おんな達は互いに視線を交わし、ええ、まあ、と返す。それで、隠していた事とは? と、彼の告白を待った。
彼は、なんだか何もかもが嫌になった。おかしい、わたしほどの忍びが存在を隠していながら、なぜ彼女たちは知っているのか。茫然とする彼だったが、ようやく事態を飲み込んだ村雨が顔を青くして、歯をカチカチと震わせながら驚愕の表情で叫んだ。
「嘘、でしょ……まさか先輩が、昔からの忍びで、善忍悪忍のどちらかに属せばパワーバランスが崩れるという理由で存在を隠匿し、しかも先天性の精神制御術者で、さらに大狼の者じゃなかったんですかあーぁあッ!」
「そういうわざとらしい慰めが一番傷つくんだよ!」
いかなる身のこなしか、彼は瞬時に席を立って村雨を殴り飛ばして叫んだ。
「騙していたという罪悪感があって、それでも勇気を出して言ったのに、みんな知ってるとかどういうことだよ! もういい! この記憶も消す! わたしの欺瞞が見破られるなんて屈辱だ。何が特定の組織に属せば、だ。恥ずかしすぎる」
とめろ、と口走った鈴音の声を皮切りに、忌夢と昏倒する村雨を除く全員が彼に掴みかかった。
「離せーいやだー生き恥すぎる」
羽交い絞めにしつつ、彼を対象にとって対精神制御術を行いながら鈴音。 「だいたい、記憶を消すって言ったって先天性の精神制御術者なんだから、術にはかからないんじゃないの」
「だから記憶操作に関する術は受け付けるように、先天性の対精神制御能力を超える術を使って忍耐力を削ってから、記憶操作した」
「ちょっと待て。なら、鈴音先生の正体に関しては知らない?」 ナプキンで彼に目隠しをして雅緋。 「本当に父上の精神制御術の影響下にあった、ということになる」
その言葉に、鈴音は固まる。
「まあ、記憶操作だけは受け付けるようにしておかないと、道元を目視した時に自分の正体の記憶を呼び戻せない。ていうか鈴音って忍びだったの!?」 と彼。
「お義兄さまを除いて、全員そうですわ」
「てことは四季くんや雅緋くんもそうなの? 斑鳩くんは察せたけど……嘘だろぜんぜん気が付かなかった、信じられない。わたしっていったい……」 がっくりと力なくうなだれる。 「ひどい、みんな、黙ってたなんて。ショックだ……ぶつぶつぶつ」
その後、少し休憩を取ってから折角なので夕食を取ることにした。
「目隠しのナプキン、取らないのですか?」
と斑鳩。視界を奪われたまま、何事もなく食事を取る彼に言った。
「うん、ちょっと」
「たぶん、泣いた跡を見られたくないのよ」
と鈴音。
「泣いて、ない」
スンと鼻をすすって彼。
はあ、と曖昧に相槌を打って、代弁した鈴音をちらと見やる。心なしか得意げな表情でワイングラスを傾けていた。少し、もやっとする。
なんだかんだで場は和んだ。会話の内容は雅緋が尋ねた事をきっかけに、彼が討伐した妖魔の話題で持ち切りだった。
「道元ですって!?」 と、話の途中で斑鳩が軽く声を荒げた。何を隠そう、道元が引き起こした蛇女と半蔵のいざこざの当事者の一人だったからである。 「生きていたなんて」
「あれは幻術に長けた妖魔だったから、戦闘態勢にあるうちは、並の攻撃速度で間に合わない。だから、一般人相手と油断させた状態で絶・秘伝忍法を理論上の最高速度で起動させる必要があった。てか道元を知ってたの?」
「ええ、まあ」
「ということは、抜け忍となった蛇女の生徒も知っているのか」 と雅緋。
「行方は存じませんけれど、彼女たちは道元に利用されていただけで」
「たち、ということは複数人いるんだ」
と四季。雅緋たち悪忍を冷ややかな視線で見やる。
「えっ、いやそれは……」
つい情報を零してしまったことに口をまごつかせる。
「なんだ? なにか言いたそうだが」
雅緋が四季の挑戦的な眼を見て言った。
「べつにぃ」 ステーキを器用に切り分ける。 「まさか悪忍と同席するなんて、と思ってさ」
「古典的な善忍だな。なら帰ればいい。誰も止めはしない、彼がわたしたちを呼んだのは、隠してきた――と、彼が勘違いしていた事柄を告げるためだ。目的は達したのだから問題はない。わたしは、居る」
「おじさんはさ、どう思ってるの、悪忍のこと」
皿に視線を落として、物憂げに。
「別に、なにも。理念上、善忍と対立している組織としか。だからきみが個人的な理由で悪忍を憎んでいても、言う事はない」
「悪徳政治家や闇企業の非合法な依頼を受けている事に嫌悪しても?」
「社会悪に対しては徹底抗戦するより、集めてコントロールした方が効率的だ。悪忍はそういった依頼を通して、社会悪をコントロールしている。わたしは道元に成り代わり、貧困街中心部を根城とする非合法、反社会的組織を飼い慣らし、縄張り争いをタネに新芽を摘み取らせながら疲弊させている。それを組織化すれば悪忍と呼ばれる集団になる。きみがわたしを憎んでも、わたしはきみを憎まないし、軽蔑もしない」
「わたしの事じゃないけど、両親を悪忍に殺された善忍もいる」
「その憎しみを理由に悪忍を憎悪することは法的に許されているが、憎しみだけを理由に殺す事は罪だ。善忍とか一般人とか関係なく、殺人者になっても構わないという復讐心を消せとは言わない。誰にだって理由はある。大切なのは自分の意思だと思う」
「わかってる。忍びになっておいて、殺される事に文句を言うのはお門違いだって。一般人には理解されない観念が忍びにあるって事くらい」 少し涙ぐんだ苦笑で続けた。 「まいるなあ、おじさんと話してると、どうしても自分がこどもだってこと、意識しちゃう」
「十五だろ、それでいいんじゃないの。いま決断する必要はないと思うし、悩めば?」
「……うん」
照れ笑いで恥じらう四季と彼のほわわんとした雰囲気を、斑鳩が咳払いでかき消した。 「ところで、四季さんとはどういう関係ですか」
「友達……」 答えて、四季がスマホを胸ポケットからちらつかせていることに気付く。やっぱり写メなんて撮らせるんじゃなかった。 「……以上、恋人未満」
「うん? 妻未満じゃなくて?」 意味深に肉汁したたる和牛を一口。女性が肉を食す様は、艶めかしさすらあった。
「そこの所をはっきりさせておく必要があるな」 雅緋がフォークを置き、口元をナプキンで拭って言った。 「悪いが村雨とやら、席を外してくれないか。デリケートな話があるんだ」
村雨は野菜を刺したフォークを口に持っていく姿勢のまま固まり、口を開けたまま彼を見やった。雅緋の気配があまりにも剣呑なのだ。連動して四季や斑鳩、忌夢も空気に緊張を走らせる。
彼は、行くな。と目隠しを取って目で訴えた。あとさっき殴ってごめん。
『いやでも雅緋さん、めっちゃ怖いんですけど』 同じようにアイコンタクトで返す。 『殴ったことは水に流すんで、退室していいですか』
『さんってなんだよ、たぶんきみと同い年だぞ』
『殺気がやばいんですけど、斑鳩もなんかピリピリしてるし。鈴音って人はさっきからフリーズしちゃってるし、異様ですよ』
『へえ、きみはそんな危険な雰囲気だと理解していながら、わたしを置いていくんだ』
『じゃあ一緒に席を外しましょうよ』
『相手ができないことを盾に、自己を正当化するなよ』
『それ、若干ブーメランですよ』
『こわい、助けて』
『うわ本音なさけねえ、そんな先輩知りたくなかった』
『なんとでも、見ろ。一生のお願い』
聞こえなかったのか? という眉をひそめた雅緋の言葉で、村雨は自分の皿を持って室を出た。文字通り彼を見捨てた。
ドアの閉まる音が、断頭台の処断音に似ていた。
言いようのない沈黙の後、咳払いで雅緋が口を開く。
「まず、彼がわたしの婚約者であることに異存はないと思うが」
「ありまくりです!」 斑鳩が声を荒げる。 「委細はともかく、彼が処理しなければならない問題を解決できたのかどうかを知る権利が、わたくしにはあります」
彼は雅緋に視線を送って、話してもよいかと問いかける。頷かれたので、蛇女の抱えていた問題のすべてを語った。
「まあ、道元を倒したし、わたしが成り代わってパトロンは続けている。現状では増改築計画に支障はない。区切りのいいところで様子見の為に切り上げる必要はあるが大した問題ではない。なのに、どうして雅緋くんは、その」 伺うように忌夢を見やる、猛犬が威嚇するように睨んでいた。 「婚約するだなんて」
「約束だからな、道元、一派、を排除できなければ婚約するという」 優雅にワインを一口やる。
「一派は、無理だ。複数の出資者に精神制御をかけて出資金を絞る術者がわからない。術者を選んだ道元の部下は始末されたからだ」
「つまり、そういう事だ。契約は履行すべきだと思うが?」
「でも雅緋」
忌夢が抗議の声をあげるがしかし、雅緋がそっと頬を撫でてあやす様に言った。
「心配するな、忌夢。両手に花がわたしの好みだ」
「雅緋くん、なに言ってんの?」
「あなたと忌夢を嫁にする」
「おかしいおかしい」
ちらと忌夢を見やる。案の定、視線を落として肩をわな付かせている。雅緋、と声を震わせる。ほら見た事かという彼の心境を裏切るように忌夢が言った
「……男らしい、かっこいい、素敵」
「ねえ忌夢くん、突っ込みどころがあるよね。あとわたしは男性なので、嫁という表現はおかしいよね」
「いい。考えてみれば、複数の嫁をはべらせるなんて甲斐性が無いと無理だし。ボクのほかに愛人がいても、それはそれでいい。これからよろしく」
恍惚の表情で雅緋を見つめる忌夢に、彼は強く目頭を揉んだ。頭痛もする。眩暈も。
「ま、わたしとしてはそういう訳だ。あとは勝手にやってくれ」
「勝手って、まだ話は終わっていませんわ!」
「わたしは完結している。おまえたちのような半人前の忍びだけに、彼の種子が預けられるようなことさえなければいいんだ。斑鳩、おまえには言ったはずだ、多重婚になっても構わないとな。つまり、わたし以外の女性だけを選ぶ、という選択を彼がしない限り、わたしは問題ない」
顔を真っ赤にして斑鳩。 「しゅ、種子……不潔ですわ!」
「その小奇麗な貞操観念ごときで、彼の忍びとしての優秀な遺伝子を、おまえたちだけに預けるということが我慢ならない」 高圧的に脚と腕を組む。 「よもや忍び本来の宿命を忘れたとは言うまい。妖魔に対抗する為にも、現状ではわたしが彼の子を孕むというのがベターだ」
「子を、なんだと思っているのですか。生命を軽んじてます」
「いいや、違う。この場の誰よりも生命の尊さを理解している。妖魔は強力だ。残酷で、人間のみならず地球に住まうすべての種の天敵でもあることは事実だ。それを理解したうえで、妖魔という種の迫る脅威に、人間という種を滅ぼされたくないという本能から、強いオスと交配したいと願うのは生命の持つ生存本能そのものだ。くだらない個人的な建前と感情で生命の本質を軽んじているのは、おまえの方だ」
ビシリ、と擬音が付きそうな雰囲気で雅緋に指差されて宣告されると、斑鳩は次の言葉が見つからなかった。現在の社会構造に隠された生存本能からくる生殖行為はまったくもって正論で、原始的かつシンプル故に反論の糸口がない。
勝った。と雅緋は勝利の美酒を手酌しようとすると、忌夢が注いでくれた。味は、たぶん美味しいと思う。ほぼ一人勝ちだ。
「雅緋くん、結構な勢いで飲んでるけど大丈夫なの?」
「問題ない」 わははと竹を割ったように笑った。 「では行くか」 忌夢の手を取って席を立ち、千鳥足で彼の手も取る。
「行くって、どこに。あと絶対酔ってるよね」
「さあ? 酒を飲んだのは初めてだから、よくわからん。とにかく部屋だ、取ってあるんだろう? よもやここで性行する訳にもいくまい。善は急げだ」 また、大笑。
「み、雅緋。ぼく、まだ心の準備が」 顔を赤くして、自分の身体を抱きしめて忌夢が呟く。
「なあに、赤信号、みんなで渡ればなんとやらだ」
このままでは大事故になる。盛大な玉突き事故だ。というところで鈴音がようやく再起動した。立ち上がり、雅緋の肩を掴んで氷の声色で言った。
「あなたの論法が正しければ、彼の相手はわたしで事足りる。妖魔討伐部隊に編入されていたという経験上、少なくとも客観的な忍びの評価ではあなたよりも上なのだから」 言い捨てて、打って変わって柔和な笑みで彼に視線をやって続ける。 「久しぶりね、元気にしてた? ずいぶんと、手を付けているようだけど」 テーブルにつく、四季と斑鳩を見やる。
「誤解だ、とは言えないな。どんな理由であれ、婚約の話を受けたのは事実だから。というか、きみまで何言ってんの? あとなんか笑顔がこわい」
「ま、あなたに縁談を受けるように勧めたわたしが言えた事ではないわ。それじゃあ部屋、行きましょう」
鈴音にとっての彼に対する、鈴音が善忍であったことを告白するのを待っていたのではないか、という負い目がなくなった今、彼女を縛るものは何もなかった。むしろ、反動からより深い情感となっている。世の男が見れば、たちどころに固唾をのむほどの妖艶なほほ笑みを浮かべている。
「きみまで、いったいどうした。変だぞ」
「よりを戻しましょう、と言ったの」
このままではまずい。危機感を強く覚えたのは雅緋だった。自論を逆手に取られて彼を独占される。 「だが母体は多いに越したことはない」
「あなた、三年生でしょ。入院中の単位を取らなければならないし、いま性行して妊娠すれば、卒業試験に挑むことができない。それに、本当に彼の種子が目当てだと言うのなら、精子だけ渡す、という事でも不満はないわけよね? セックスにこだわる理由はない。それに彼は、もともとわたしの」
鈴音は雅緋の頭を撫でながら、物覚えの悪い生徒に諭すように言った。言いつつ、性行などの単語を口にしたせいか、身体がうずいた。シたい。はたまた嫉妬か。四季や斑鳩と彼は寝たのだろうか? そう考えると、食事は後回しでもよかった。彼との再会を熱い夜で祝福したい。鼓動が早まる。部屋まで持つだろうか、お手洗いの個室でもいいから一旦、発散したい。
「ていうかさあ」 雅緋の沈黙を援護するように、頬杖をついて四季が言った。 「おじさんは同棲相手の人とは完全に吹っ切れたって言ってたから、よりを戻すなんてことはできないんじゃないの?」
たしかに、と雅緋が跡を継ぐ。 「わたしも、聞いた。未練はないそうですよ、鈴音先生。復縁する縁そのものをバッサリやったんじゃないですか。実に超高度精神制御術者らしいドライさで」
ほんとに? と鈴音は視線で問いかける。彼が頷いた。がっくしとメガネがずれる。たしかに、彼はそういう男だ。それは自分が一番よく理解している。だから、雅緋との縁談を勧めたのだ。
「じゃあもうわたしは、赤の他人?」
「他人というほど冷たい関係じゃないけど、あらためて第三者に指摘されると目的のために無意識下できみに対する好意を制御した気もする。わたしに便宜上の表現するところの主体は存在しない。客体的にそうする必要があると認められれば、自身の精神をそのように制御すると思う」
「わたしがあなたと寝たいと言ったら?」
彼が一泊置いて口を開きかけたのを見て、やっぱり答えなくていいと制し、溜息を吐いて着席する。
再び、沈黙。雅緋にじゃれつく忌夢だけ幸せそう。
「それでおじさんはどうするの? 正体が戻った今、ひょっとしたらわたしたちも知らない本命のおんなの人とか思い出してない?」
「いや、いないな。正直いって、個人的には蛇女の問題には片が付いたと思っているから、雅緋くんの言い分は詭弁に感じる。だからやっぱり斑鳩くんとの縁談を進める。正当性があるし。それが一段落したらまた姿を消すと思う」
斑鳩は彼の言動の途中までは、ほっとした表所を見せていたが、最後でぎょっとする。
「なぜですか」
「道元のような人間社会に潜り込んだ妖魔を処理するのに、両財閥がバックについた今の会社の肩書を持ったままだと柔軟に対応できないから。管理者の座を空ける場合は後釜を用意しなくちゃいけないし、必要に応じて、その時時に使えそうな権力者を傀儡化させて身分を作り上げた方が都合がいい。だから婚約生活は長くは続かない。たぶんわたしは表向きは病死なり事故なりで消えて、きみは未亡人になる。この場合、両当主にも文句は言わせない」
斑鳩はその乾いた思考に抗議の声をあげる事はできなかった。斑鳩は忍びで、彼もまたそうだからである。忍びの至上の使命が妖魔討伐にある以上、自己の利を犠牲にすることに疑念や倫理はいらないからである。
第一、社交界の時に当主達が彼に、斑鳩は一生姿を見せなくなってしまう事もあるだろう、と釘を刺していた事に関してなんら疑問を抱かなかった。彼の言動の否定は、忍びの否定だ。言葉と情感を飲み込むしかない。
「という事をすると斑鳩くんの経歴にも傷が付くだろうから、もう一つの方法を取るという手もある」
「経歴に傷を付けないということは、斑鳩ちんと結婚せずに貧困街を処理する方法があるの?」 と四季。
「なくはない。中心部で用心棒として雇われていた多くの抜け忍を見てて思ったんだけど、善忍悪忍の忍び養成機関があるんだから抜け忍が運営する忍び養成機関があってもいいかなあって。追われてきた身というのもあって隠密や潜伏を命懸けで体得しただけの実力はあるし、そういった技術を培って諜報を専門として収益事業をおこす案がある。妖魔などの情報を調査して対妖魔の忍び本部組織に売ってもいい。本拠地を中心部にすれば、インフラは一般人の生活水準に合わせる必要もないので単純に再生するより維持費も節約できる」
「だが、抜け忍は善忍悪忍の両方から追われる立場にあるぞ」 と、雅緋。
「だから、中心部の入り組んだ地形は便利だと思う」
「違う、あなた自身が追われかねないという事だ。いくらあなたでも……」
「表の企業じゃないんだ。トップはわからない構造にするさ。前述の案なら、鳳凰と大狼はお見合いをした、という事実だけでも貧困街の問題を処理するのに対して時間はかからない」
「つまり、貧困街の為に必ずしも斑鳩ちんと婚約する必要はないわけだ」
「そういう選択肢もある」
「あなた自身は」 と斑鳩。 「どう思っているのですか」
「こんなにモテるとは思わなかった、うれしい。けど逃げたい。だけどたぶん、今までの会話からして、誰よりも正当性のある決定権を持っているのはきみじゃないかな」
「ずいぶんと情けない言葉を口にされるのですね」 呆れたように、斑鳩。
「本心だ」
「誰かに決められない?」 と四季。
「決めても、姿を消すことに変わりはない。悲しませるだけだ」
雅緋が間に入る。
「だがそれは今の会社の管理者の座に収まっている場合だろう? トップが誰かわからない抜け忍の忍び養成機関を運営すれば、事実上は姿を消している事になるんじゃないのか。あなたは、誰が好きなんだ? 誰に対してなら、好かれたいと思う?」
「わたしが嘘を言わないという事を念頭に置いて欲しいが、全員を好きになるかもしれないし、全員に好かれたいと思う。ハーレムは男の夢だよ。だけど理性がある。だからそんな願望は切って捨てる。逆にきみはわたしが好きなのか? そこがまったくの疑問なんだ、わたしが同年代に見えるのか?」
ちらと斑鳩を見やってから、疲れたように答える。
「……言われると、苦しいな。白状すると、わたしはあなたを愛してはいない。これから好きになるかも、という期待しかない。それが、わたしの本心だ。そんな子供じみた言い分で誰かの恋慕を阻害している」
それを聞いて斑鳩は固く口を結んだ。
「わたしはおじさんのこと好きだよ」 とあっけらかんに四季。 「ただ、それだけ。まあ雅緋ちんの気持ちもわかる。好きかどうかわからないって時に、誰かとの縁談の話が出ると焦るって気持ちは」
切なく微笑を浮かべて雅緋。 「そう言ってもらえると助かるよ。それで、おまえはどうやってその気持ちを整理したんだ」
よせ、と彼が心中で念じた。四季と視線だけが合う、その血のように赤い瞳が笑っていた。口元のほくろが可愛い。
「えっちしたら好きだってわかったよ」
凍結した空気を無視して続ける。
「だから責任を取れとは言はない。取れないっておじさんが言ったのを承知でわたしが望んだことだし、婚約に関する計画を完遂するとも聞いた上でシた。単純におじさんの忍びの実力に憧れてたのか、生存本能なのか、じぶんの性欲なのか。なにに惹かれているかわからないけど、後戯したいと思ったから、たぶん好きなんじゃないかなって思っただけだけど」
後戯? と、雅緋は鈴音に疑問の視線を向ける。ピロートークのようなもの、と返されるが、ピロートーク? と疑念は解消されない。
「まーいいんじゃないの。好き、という感情の定義なんて人それぞれなわけだから、客観的な基準があったとして、それを満たさなければ一緒に居ちゃだめってことにはならない」 挑発的な上目づかいで続ける。 「大事なのは自分でしょ、おじさん。逃げてみる? わたしを連れてもいいよ」
「それやると誘拐」
「駆け落ちと言って、甘美な響き。とにかくわたしは雅緋ちんみたく生存本能的な確信はないけど、複数人と関係は持っていいと思うな。わたし自身、時間がないことを理由に抜け駆けしたっていう負い目もあるし」
「正気ですか」 斑鳩は理解できないという表情で言った。
「忍びには一般人に理解できない観念から行動しているっていうのは事実だし、ありきたりな貞操観念に囚われなくてもいいと思う。一人占めする気にはならない。忍びとしては雅緋ちんの意見を肯定しなければならないから。ただ断っておくと、もちろん恋愛感情があっての事だから、わたしはそれを理由におじさん以外の人と関係は持たないよ。安心した?」
「わたしの、モラルはどうなる。複数の女性と公然に関係を持つなんて、不義理だ」
「ハーレムだよ? ていうかわたしとヤったじゃん」
「責任は取れないと伝えた。わたしはそういう男だ、幻滅してくれてもいい。わたしが個人的な欲望によって選択をすることはない、あの時はきみの意思を酌んだ。手前味噌だが精神制御術者なんだ」
「なら、理による選択をするというわけだ」 雅緋が口を挟む。 「わたしの言い分にも正当性がある。生存本能から関係を持ちたいと思う事は。人間という種のオスとしての義務は、あなたが掲げる倫理的モラルより劣っているのか?」
「それは……きみたちのご両親になんて言えばいいかわかんないし」
「そのまま伝えればいいと思うが?」
「抱きたかったので関係を持ちました。しかも複数人と? わたしに娘がいたとして、そんな事を言ってくる男がいたらたぶん、精神を弄ってホモにする」
「ふうん、抱きたいんだ?」 と四季。
「わたしだって男だ、みんな抱きたい。だが理性がある。嘘は、言わない。都合のよい事ばかり言っていては、精神制御術者であるわたしの主張の受信相手はすべて、精神制御されているのではないかという猜疑心に悩まされる。それを軽減するための枷だ」
「頑固な男だ」 雅緋は諦め半分に笑って言った。 「少し父上に似ている。わたしはともかく、この場にいる女性に誘われれば誰でも飛びつくような気がするがな」
沈黙が降りた。
彼の理の牙城を突き崩すことなど誰もできないという空気が満ちる。だがそこに惹かれるものがあるのは事実だ。徹底した自己管理。
斑鳩は、どうしてよいのかわからない。最終的な決定権があるのは間違いなさそうだったが、それだけに口は重くなる。彼を自分のものにするのは簡単だがしかし、それでよいのかという疑問が生じる。少なくとも、四季や鈴音は、じぶんと雅緋以上には彼に好意を持っているに違いない。それを、プライドと排他的な独占欲で一蹴してしまってよいのだろうか。
が、そこに楔を打ち込んだのは鈴音だった。そっと物を置くような静かな口調で朗朗と。
「忍びの本質は妖魔討伐にある。その点に関して異論はないはず。また、忍びの才能から言ってあなたの遺伝子を残すことも、人間の種としては正しい行動なのも。だというのに、後者は翻って妖魔に対する種としての対抗手段であるにも関わらず、実行しないのは矛盾している。理性によって拒否しているみたいだけど、仮に斑鳩と婚約したとしても、後に行方をくらます理由が妖魔対策であるのに、性行という潜在的な妖魔対策を拒絶するのは、なぜ? 妖魔討伐よりも自己のモラルという理性を優先していることは明らかじゃないの? 忍びでありながら、その本質を蔑ろにしている」
あ。と、誰もが彼の理論の隙に気付く。どうなのだ、と彼に視線をやる。彼は答えられない。客観的に鈴音の言い分は正論だった。忍びであるなら、複数の女性と関係を持つことが妖魔対策であるのなら利己を捨てて行動すべきだ。
正直なところ、雅緋が重婚でも構わないと言ったのは生存本能という理屈を通すための建前だった。おいおい好きかどうかはわかるだろうという。が、斑鳩の一存で決まるくらいならと鈴音の理論を支援した。第一、雅緋からすれば忌夢と彼の両方と関係を結ぶのだから、彼にもその権利があってもよさそうなものだ。忌夢は、雅緋がいればそれでいいらしい。
四季は大らかに事態を眺めている。どうあっても構わないといった感じ。
鈴音はというと、元同棲相手という見積もっていたアドバンテージが消えた事から、正面から対抗しても勝ち目は薄そうと算段した。というより、独占を諦める。もとより一度は生徒に託した彼だ。それがほんの少しでも帰ってくると考えれば悪くない。
斑鳩は深く溜息を吐いた。誰の言い分にも根拠があり、考慮する価値がある。すべてを飲む案は、彼が中心部で抜け忍を集めて忍びの養成機関を設立する事だ。誰もが譲歩する中、ひとり我を通す訳にもいかず、諦観の念で口を開いた。
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「あ、終わったんですか?」 と呼びに行った彼と共に、空になった皿を片手に村雨。 「で、何がどうなったんですか」
「わたしは斑鳩くんと結婚した後に、一段落したら表向きは自然死で退く。たぶん村雨くんが後を継ぐ。その後は水面下で推し進める事になっている抜け忍の組織を運営する。という予定」
「なんか斑鳩、機嫌悪くないですか?」
「うん。ま、斑鳩くんがわたしに愛想をつかしたらそもそも村雨くんの義理の兄にならないし、先の事はわからんね」
「いや、機嫌悪いの何とかしてくださいよ。たぶん八つ当たりされる」
「さっきわたしを見捨てたよね」
「二人死ぬより、一人が死んだ方が合理的だと思いませんか?」
「その言葉、そっくりそのまま返すよ」
しばらくして宴もたけなわも過ぎる。そろそろお開きというところ。
学生は寮に帰るかと思ったら、ホテルに泊まっていくらしい。チェックインしていないが、融通の利くオーナーだったので空いている部屋を個別にとった。
酔いつぶれた雅緋を肩を貸してやりながら、忌夢があてがわれた部屋に消える。斑鳩は規則正しい生活習慣のせいか眠そうに目をこすりながら、村雨はへべれけになってボトルを一本持って室を出た。
残ったのは四季と鈴音だったが、四季が肩をすくめると鈴音に耳元で囁いて、じゃあね、と部屋へ向かう。
「よかったの?」 と鈴音。最後にレストランを後にして彼と並んで廊下を歩いた。
「客観的に整合性があり、理路整然と合目的的な事柄に私情は挟まず決定する。精神制御によってそういう思考になっている。確かめようがないから、たぶんだけど」
「若い子を抱けてうれしい?」
「言いたくないなあ」
「それ、答えているようなものよ。わたしは、あなたに抱かれればうれしい」 とろけるような口調で言った。
「ひっかかったな、わたしから見ればみんな若い……言ってて悲しくなった。ま、自信を無くしかけてるおれにはありがたい言葉だ。ねえ、鈴音って本当に忍びなの?」
「調べてみればいいじゃない、からだの隅隅まで」
彼は部屋のドアノブを捻って。溜息を吐いた。
「勘違いしていたよ、優れた忍びだという自負があったんだけどな、気付かないなんて抜けてた」
「あなた、少し天然なところがあるもの」
「嘘だ、ありえない。認めないぞ、主体客体化の体現者とまで言われたことがあるんだ……ねえなんで部屋に四季くんがいるの? さっききみの耳元で何を囁いた? あとなんで部屋の鍵閉めさせようとしないの? こんな深夜に来客なんてあるわけないよね?」
おれ会社辞めて忍者やるわ 完
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