永久の軌跡 (お倉坊主)
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第1話 トールズ士官学院第214回入学式

もっと先輩4人組の話が見たい、もっとカッコ可愛いトワ会長が見てみたい。というか、せっかくハーシェル姓なんだから那由多とのクロスもやっちまおう。
そんな欲望のままに書いてみた拙作。いざタグにしてみると地雷臭がする気がします。だが後悔も反省もしていない。
カッコ良さが加わった会長なんて会長じゃない! という人はブラウザバックか因果律操作。問題ない人は、ただひたすらに前へ進みましょう。


 

 ――今でも覚えている。全てが始まった、あの日の事を。

 

 あの時の私は迷うばかりで、進むべき道も、その道の先に何を求めるのかさえ、はっきりとはしていなかった。それでも前に進もうと彷徨い、足掻き続けていた。

 焦っていたのだ。自分が生まれ持った力に、受け継ぐべき力に意味を求めていた。そうでなければ、ただ大きな力に自分が押し潰されてしまいそうな気がしたから。

 そんな私には気付く余地も無かったのだ。

 これから先に、どんな困難が待ち受けているのかも。

 そして同時に、どんなに愛おしく大切に思える仲間との日々が訪れるのかも。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

『……ヮ……ㇳヮ……』

「うーん……むにゃむにゃ……」

 

 七耀歴1203年、3月31日。

 新緑に彩られた草原に敷かれた鉄路。それに従い風を切って走る青い車体の列車の一席に、春の日差しに照らされてまどろむ茶色の長い髪をリボンで結んだ少女が居た。

 まだ朝の早い時間、少女の周りの席に座る乗客はいない。放っておけば何時までも眠りこけていそうな様子の彼女は、普通ならこのまま目的地を通り過ぎて遠くに行ってしまっていた事だろう。

 

「えへへ……伯母さん、もう食べられないよぉ……」

『……はぁ。まったく、仕方ないの』

 

 ところが、少女にとっては幸いなことに、列車の中で寝過ごすという失態を防いでくれる存在がこの場にはいた。だらしない顔で寝言を口にする少女しかいない筈の空間に、呆れ果てたような誰かの声が響く。

 窓辺に預けられた少女の頭の上で、どこからか現れた小さな手が振り上げられた。

 

「起きるの!」

「ふえっ?」

 

 ぺしりと頭を叩かれたことで少女は目を覚ます。起きたばかりの寝ぼけ眼に映ったのは、自身の眼前に浮かぶ桃色の髪をツインテールにした小さな女の子――まるでおとぎ話に出てくる妖精のような姿をした存在だった。

 

「もうトワったら、長旅で疲れて眠たいのは分かるけど、それで入学式に遅れでもしたら間抜けもいい所だよ。そろそろ起きるの」

 

 妖精のお小言を少女は寝起きのぼんやりとした表情のまま聞いてはいるが、その内容が理解できているとはとても言えなかった。妖精に目を向けていたのも束の間、途中からきょろきょろと視線を周りに彷徨わせていたからだ。

 しかし、そうして自分の置かれた状況を確認する事で次第に意識が覚醒してくる。列車に乗った事を思い出し、自分が居眠りをしていたことを自覚し、最後に目の前の妖精が起こしてくれたことに考えが至る。

 そこまで理解して、ちゃんと話を聞いていたのかと疑わしげな目を向ける妖精に視線を戻した途端、少女の寝ぼけ眼は突如として見開かれた。

 

「だ、駄目だよノイ! ちゃんと隠れていなくちゃ! 誰かに見つかっちゃったら――!」

「大きな声を出さない!! 本当に見つかったらどうするの!?」

「はわわ……ご、ごめんなさい!」

 

 急に騒がしくなった列車の一角に人がいなかったのは本当に幸いだった。もしいれば、突然の騒ぎに何事かと注目を集めたのは間違いない。

 ちなみに、どう考えても妖精の方が大声を出していたのはご愛嬌である。

 

 

 

 

 

「トワは本当に昔からおっちょこちょいなんだから。島の外に出たからには私だって何時でも姿を現せるわけじゃないんだから、もうちょっとしっかりして欲しいの」

「あう……気を付けます」

 

 何とか人に聞きつけられないうちに騒ぎを収めた二人。小柄な少女は自身よりも更に小さい妖精に頭が上がらない。妖精の言葉通り、本当に昔の失敗談から何まで知られてしまっているからだ。

 少女の名前はトワ・ハーシェル、妖精はノイ・ステラディアという。帝都近郊の士官学校、トールズ士官学院の新入生とそのお目付け役のようなものである。

 実を言うと、お目付け役として張り切っているノイの舌鋒は留まる事を知らない。説教の内容は昨日の出来事にまで飛び火した。

 

「だいたい帝都の夜景を遅くまで眺めているようなトワが悪いの。早くに寝ておけば良かったのに」

「だって島だと夜にあんなに明るいことなんてなかったし……それにノイだって一緒になって眺めていたと思うのだけど」

「そ、それとこれとは話が別なの! 口答えしない!」

「ええー……」

 

 しかしまあ、自分で話を飛び火させておいて自分が火傷していれば世話は無い。慌てた様子で話を無理やりに遮るノイに理不尽さを感じつつも、お目付け役としてこれで大丈夫なのかとトワは思うのだった。

 そんなことで調子を狂わされたノイだったが、ふと耳に入って来た音で平静に戻る。二人で音の聞こえてきた方を見やる。車内アナウンスを流すスピーカーだ。

 

『本日は大陸横断鉄道をご利用いただき、誠にありがとうございます。間もなくトリスタ、トリスタ。お忘れ物がないよう、ご注意ください』

 

 どうやら、もうすぐ目的地に到着のようだ。

 ノイは気を取り直すようにコホンと咳払いすると居住まいを正した。

 

「とにかく、私はそばには居るけれど人目の多い所では姿を現わせられないからあまり頼ろうとしない事。話しかけるにしても十分に周りに注意するように。分かった?」

「うん、大丈夫だよ」

「ならオッケーなの。それじゃあね」

 

 そう一声かけて、ノイはその姿を宙に掻き消した。

 妖精のような姿をしている彼女が街中を飛び回っていたら大変な騒ぎになってしまうのは想像に難くない。それを防ぐための周りから姿を見えなくする魔法(アーツ)の一種だ。もっとも、一般的に知られている導力器(オーブメント)を介したものとは体系が異なるものだが。

 故郷ならこんな小細工をしなくてもノイだって好きにしていても問題ないのだが、それは彼女という存在に慣れ切ってしまった故郷だからこそだ。外の世界ではそうはいかない。

 そんな故郷とは色々と違う外に出てきたトワは、当然ながら不安を抱いていた。これから始まる生活で上手くやれていける自信なんて、生まれてこの方最寄りの港町に出向く程度しか故郷から足を踏み出した事のないトワには全くない。

 それでも、その顔に浮かんでいる表情は笑顔だった。不安は抱いていても、それと同じくらいにワクワクしているのも確かなのだから。

 減速しながら駅舎に入った列車が停車する。開け放たれた乗降口より、トワは足取り軽く新天地へと降り立つのだった。

 

 

 

 

 

 自分と同じく、列車を降りた緑色の制服を纏った生徒をちらほらと視界に収めながらトリスタ駅を後にする。扉を開き春の陽光が照らす外に出た途端、白桃色の花弁が目の前に広がった。

 

「うわぁ……!」

 

 それは満開に咲き誇るライノの花だった。駅前の公園に立ち並ぶそれらは、まるで新たな門出を迎える新入生を歓迎しているかのようだ。トワの口からも思わず感嘆の声が漏れる。

 トワにとって花や草木といった美しい自然は珍しいものではない。むしろ非常に身近と言える。このライノの花々以上に盛大に咲き誇る光景を見た事だってある。

 しかし、だからこそこの光景には感じ入る所があった。ただ美しい自然として咲いているのではない。見ているこちらが温かな気持ちになれるような、そんな心地よさが感じられる光景だ。

 感慨にふけるように、しばらくの間ライノの花が風に吹かれて散ってゆく様子を眺め続ける。そうこうしている内に駅から人が出てくる。出口の正面で立ち止まっていたトワは、自分が邪魔になっている事に気付いて慌てて道を譲った。

 

「ご、ごめんね。つい見惚れちゃっていて」

「いや、別に構わねえが……」

 

 振り返った先に居たのは、同じ緑色の制服を着た男子生徒だった。若干着崩しているのと、銀髪の頭に巻いたバンダナが特徴的だ。一言で表すならば、今時の男子と言うべきだろうか。

 特に気にした様子もない彼だったが、トワに対する視線は訝しげだ。やっぱり気に障ったのだろうか、とトワは身を硬くする。

 

「随分と小せえが……姉ちゃんに付いてきた妹ってところか? 制服は入学式までには返してやれよ」

「ち、違うよっ!! 入学するのは私だし、ちゃんと自分の制服だよ!」

「はは、冗談だっつうの。実際は日曜学校を飛び級でもした口だろ?」

「私はこれでも17歳だよ!!」

「…………え、マジで?」

 

 へらへらとした薄ら笑いを浮かべていたバンダナの男子の表情が固まる。必死に首を縦に振りながらも、トワは酷く憤慨していた。

 背が低いと自覚してはいるが、ここまで言われる謂れは無い。迷惑を掛けて悪いと思っていた自分が馬鹿みたいだ。

 

「そりゃ悪かったな。まさか、こんなチビッ子が同じくらいの歳とは思わなくてよ」

「べ、別に謝らなくてもいいけど……って、チビッ子は流石にやめてよう!」

 

 見た目に反して素直に謝ってきたものだから拍子抜けしかけてしまうトワだったが、個人的に聞き逃せない言葉に抗議の意思を示す。

 両腕を振って自己主張する姿が、余計に「チビッ子」と呼ばれかねない要素となっている事に、彼女は気付いていない。バンダナの男子は再び軽薄そうな笑みを浮かべた。

 

「ま、同じ新入生なら顔を合わせる機会なんざ幾らでもあんだろ。チビッ子呼びを改めるかどうかは、その時に決めさせてもらうぜ。じゃあな」

「あっ、ちょっと……行っちゃった」

 

 言うだけ言ってさっさと歩き去ってしまったバンダナの男子に、トワはしばらくポカンとしてしまう。そしてチビッ子呼びを直せなかったと肩を落とす。

 

「うう……やっぱり小さいって言われた。こんな調子で大丈夫かなぁ」

『トワが小さいのは仕方ないの。別に今更気にする事でもないでしょ?』

「それはそうなんだけど、人に会うたびに言われると思うと憂鬱になるっていうか……」

 

 トワの身長は同年代の女子より随分と低い。下手したら14かそこらより下に間違われるくらいだ。制服もSサイズのものでさえ丈が結構余っていたりする。別にコンプレックスに思っている訳ではないのだが、それでも何度も言われると気が滅入る。

 とはいえ、この低身長も自分を形作る身体的特徴の一つ。どうこうしようとも思わないし、ただ願うとするならば、周りが早くに慣れてくれる事だけだ。

 ふう、と息をついて気持ちを切り替える。何時までもネガティブでいる訳にはいかない。

 

「それにしても今の人……」

『さっきのチャラチャラした人がどうかしたの?』

「チャラチャラって……ううん、何でもない。そろそろ行こう」

 

 何だか先の遣り取りに違和感がしたトワだったが、些細なことだったので気にしない事にする。小さいと言われて調子が狂っただけだろう。

 まあ、先ほどのバンダナの男子だって悪口で小さいと言っている訳じゃなかった。それなら、きっと大丈夫だ。次に会ったらもっとたくさん話をしよう。自分の他の事も色々と知ってもらって、彼の事も色々と知るために。そうすれば友達にだってなれるだろう。

 そう前向きに考えなおせば、からかわれたのだって悪いことではない。気を取り直したトワの表情には明るい笑顔が戻り、スキップするように学院へと向かっていくのだった。

 

「あら、新入生かしら……って、随分と可愛らしい子ね。飛び級入学?」

「ち、違いますっ!」

 

 もっとも、その足取りはすぐ近くの喫茶店前で止められてしまったのだが。完全に年下の子扱いしてくるウェイトレス相手に、必死な様子で実年齢を主張するトワ。彼女の前途はどうやら多難のようだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「最後に、君たちに一つの言葉を送らせてもらおう」

 

 トールズ士官学院、講堂。そこで執り行われる入学式の壇上で、筋骨隆々の偉丈夫である老齢の男性――ヴァンダイク学院長は新入生たちにそう告げた。

 

「本学院は250年前の獅子戦役を平定した帝国中興の祖、ドライケルス大帝が晩年に設立した士官学校である。身分に囚われない人材育成を掲げ、貴族、平民に関わらず門戸を開き、兵術や砲術などの教育を行ってきた」

 

 学院長の語る学院の由来に、トワは視線を自分たちが並ぶ新入生の列の前へと向ける。そこに居るのは同じ新入生だが、緑色の制服ではなく白色の制服を着ている。自分たち平民とは違う貴族出身の生徒たちだ。

 トワもエレボニア帝国には伝統的な身分制度が存在する事は知識として知っている。そして、かつては貴族と平民の差がもっと大きかったことも。

 それを踏まえると、ドライケルス大帝は革新的な考えの持ち主だったのかもしれない。身分の違いには疎い片田舎の出身なりにそう思う。

 

「近年は軍の機甲化により、本学院の在り方も変わってきてはいるが……それでも大帝の意志は学院の理念となり、今もこの地に息づいておる」

 

 学院長は言葉を区切り、そして一際大きな声を上げた。

 

 

「『若者よ、世の礎たれ』」

 

 

「世という言葉をどう捉えるのか、何を以て礎たり得るのか。この学院での2年間、自分なりに考えてみてほしい――ワシの方からは、以上である」

 

 力強い笑みを浮かべて締めくくった学院長に拍手が送られる。周りと同じように拍手しながらも、トワは学院長の言葉を頭の内で反芻していた。

 世の礎たれ――単純に軍学校の教訓として捉えるならば、軍人として帝国の未来を支える人物になれという意味だろう。しかし、他ならぬ獅子心皇帝とも称えられるドライケルス大帝が遺した言葉である。そんな簡単なものではあるまい。

 「世」も「礎」も考えようによっては色々と意味が変わってくる。その答えを自分なりに見出すとなると……まあ、随分と大変そうなのは何となく判った。

 

「世の礎たれ……か。なかなか難しい注文だね」

「あはは、そうだねぇ。でも、その答えを見つけられたのなら、きっと一回りも二回りも成長できたってことになるんじゃないかな」

「ああ、多分そういう事なんだろう」

 

 ふと隣の男子生徒の呟きが聞こえてくる。同じような事を考えていたらしい彼に言葉を返してみれば、納得するように頷いて同意を示してくれた。

 

「ジョルジュ・ノームだ。これから2年間、よろしく頼むよ」

「私はトワ・ハーシェルっていうの。こっちこそ、よろしくね」

「ああ、もちろんだ……ところで、一つ聞きたい事があるのだけど」

「え、何かな?」

 

 軽く自己紹介をし合ってジョルジュと名乗った彼は、そう前置きをしてトワに視線を向ける。頭のてっぺんからつま先まで見渡して、疑問に満ちた顔で口を開いた。

 

「やっぱり飛び級か何かだったりするのかい? 見た感じ、日曜学校に通っていそうな年齢だけど」

「ガクッ……今日だけで何度も言っているけど、これでも17歳だよ」

 

 案の定な質問に思わず脱力してしまう。バンダナの男子と喫茶店のウェイトレスに加え、その後もシスターや用務員に歳を間違われてここまでやって来たトワの気力は限界だった。訂正の言葉も気が抜けた感じになる。

 もはや見慣れた驚きの顔をするジョルジュは、トワの脱力具合にデリケートな問題に触れてしまったのかと思ったのだろう。申し訳なさ気に頭を掻いた。

 

「すまない。余計な事を言ってしまったみたいだ」

「あ、謝らなくていいよぉ。私が小さいのは事実だし、体が大きいジョルジュ君からしたら年下に見えても仕方ないだろうし」

「うーん、そうは言われてもな」

 

 ジョルジュは特別背が高いと言う訳ではないが、恰幅が良いので横に並ぶトワが一層小柄に見える。そういった理由に加え、あまり謝られると逆にこちらが申し訳なく感じてしまう。少し疲労感を覚えただけなので、トワとしては気にしてくれなくて構わなかった。

 しかし、ジョルジュもジョルジュで律儀な性格のようだ。気にしないでと言われたからといって引き下がれないらしく、お互いに謝りあう様な奇妙な構図になってしまう。彼の紳士的な部分が裏目に出た形である。

 一応はまだ式の最中、周りの迷惑にならない様に小声で「いや、こっちが」「いやいや、こちらこそ」と言い合う二人。姿を消して無言でいるノイはというと、その様子を見て呆れ顔になっていた。

 そんな不毛な応酬も、入学式の閉幕と同時に終わりを迎える事になる。学院長が下がった壇上で、貴族風の装いをした男性がマイクを手に取った。

 

「これにてトールズ士官学院第214回入学式を終了します。新入生はこの後、入学案内書に記載された各クラスに移動するように。カリキュラムや規則に関する説明はそちらで行います」

 

 ばらばらと席を立ち始める新入生たち。自分たちも遅れずに後に続いた方が得策だろう。

 

「僕たちも移動するとしようか。トワは何組なんだい?」

「えーと、確かⅣ組だったかな」

「となるとⅢ組の僕とは別クラスか。まあ、困った事でもあったら気軽に訪ねてくれ。お詫びと言っては何だけど、相談くらいは乗らせてもらうよ」

「本当に気にしなくていいんだけどなぁ……じゃあ折を見て遊びには行かせてもらうね。困った事の有る無しに関わらず、友達として」

「はは、分かった。そこら辺が丁度いい落とし所だろう」

 

 謝罪合戦も収束を見せ、お互いに納得のいく形に収めるトワとジョルジュ。短い時間ながらそれなりに仲を深めた二人は、道中で他愛のない談話に興じつつ、それぞれのクラスに向かっていくのだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「それでは本日の予定はここまで。寮に戻っても良し、クラスメイトと話して交流を深めるも良し。ただし、寮の門限には気を付けるように。また明日からよろしくお願いしますね~」

 

 Ⅳ組の担当教官、トマス・ライサンダーはそう言ってHRを締めくくった。

 明日から始まる授業のカリキュラム、そして学院生活を送るにあたっての各種規則の説明も終了し、これで初日の行事は一通り済んだことになる。知らず知らずのうちに緊張していたのか、トワの口から無意識に溜息がこぼれた。

 これで今日は晴れて自由の身となった訳だが、いざそうなると何をしようか迷ってしまう。時刻はまだ昼を少し過ぎたくらい。何をするにしても余裕はある。

 カリキュラムの話を聞く限り明日から忙しくなりそうだし、今のうちに学院の地理を得るために探索でもしてみようか。

 トワが何となく考えを巡らせていると、隣の席から声が掛けられた。

 

「やっほ、トワ。お隣さん同士、これからよろしく頼むわね」

「え……ああ、うん。こっちこそよろしく。エミリーちゃん、でよかったっけ?」

「そうそう。覚えていてくれて嬉しいわ」

 

 気さくに話し掛けてきたのは隣の席に座る赤毛の女子だ。先ほどの自己紹介の時間に聞いた名前を確認すれば、快活そうな笑顔が返ってくる。トワの顔にも自然と笑顔が移る。

 

「えへへ、エミリーちゃんこそ私の名前、すぐに憶えてくれたみたいだね」

「そりゃあ自己紹介で『これでも17歳ですから、間違えないでくださいね!』とか必死に言っていたら印象に残るわよ。少なくとも、うちのクラスは全員が憶えたんじゃないの?」

「あう……そ、そっか」

 

 トワの頬が赤く染まる。改めて他の人の口から言い直されると恥ずかしいものがあった。

 いくら何度も間違われたとはいえ、自己紹介の場で早まった真似をしただろうかと思う。しかし、ああでもしなければ同じことが繰り返されてしまっていたに違いない。

 過ぎたことで生じてしまう内面の葛藤。そんな事はお構いなしにエミリーは話を続ける。

 

「そんな事より、何か考えていたみたいじゃない。これから予定でもあるの?」

「うん、学院の中をブラブラと回ってみようかなって」

「いいじゃない、あたしも一緒に行かせてちょうだい。グラウンドでどんな部活がやっているのかとか確かめてみたかったのよね」

「そっか。それじゃあ一緒に――」

「え~と、トワさん? 少しよろしいでしょうか~?」

 

 「行こっか」と言いかけた所に第三者の声が割って入ってくる。声の方へと振り返れば、教壇に立っていたトマス教官が近くに来ていた。

 

「トマス教官……? えっと、何かご用ですか?」

「実は伝言を頼まれていましてね。この後、学院長室の方に来てほしいとの事です」

「学院長室……ですか?」

 

 思いもしない言葉にオウム返しになってしまう。学院長室に呼び出しとなれば、考えるまでもなく呼んでいるのは学院長本人だろう。つい何かへまをしていないかと思い返すが、特に思い当たることは無い。いったい何の呼び出しなのか。

 

「別に悪い呼び出しではないと思いますよ。後は個人的にもトワさんとはお話したい事があったのですが……まあ、それはまたの機会にしましょうか」

 

 言うべきことを言い終えたのだろう。「それでは、よろしくお願いしますね~」と言い残して、瓶底眼鏡をかけた担当教官は教室から出て行ってしまった。

 残されたトワはポカンとするばかり。一部始終を眺めていたエミリーが沈黙を破った。

 

「取り敢えず、行くだけ行ってみればいいんじゃない? 教官の言葉を信じるなら、悪いようにはならないみたいだし」

「そ、そうだね。あ……でも、そうなるとエミリーちゃんと一緒に回れなくなっちゃうけど」

「いいのいいの。あたしの事は気にせずに行ってきなさいって。これから一緒に回る機会なんて幾らでもあるでしょうし」

「ごめんね、また時間を作れるようにするから。それじゃあ行ってくるね!」

 

 エミリーに背中を押されて教室を後にするトワ。談笑する新入生たちで賑やかな廊下を早足で歩きながら、1階の学院長室を目指す。

 悪い意味ではないと言われても、初日に呼び出しをされては緊張もする。自然とその不安気な視線は、ノイが居るだろう位置へとチラチラ向けられてしまうのだった。

 ちなみにこの時、居眠りしていたノイは教室から出遅れており、自分の遥か後ろから慌てて付いてきている事を彼女は知る由もない。

 



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第2話 特別オリエンテーリング(仮)

とりあえず序章にあたる部分は毎日更新していきます。


 新入生の喧騒から離れた学院の一角。教官室などが並ぶ廊下にある一つの扉の前で、トワはゴクリと息をのんだ。学院長室、扉の上のプレートにはそう記されている。

 部屋の中からは何人かの気配を感じる。どうやら筋骨隆々の学院長と一対一と言う訳ではないようだが、もし他の人も全員が教官で複数対一だったらどうしよう。頭を過った嫌な予想に冷や汗が流れる。

 姿を消したままのノイに背中を叩かれる。尻込みしていないでさっさと行けという事だろう。覚悟を決め、トワは重厚な扉をノックした。

 

「入りたまえ」

 

 入学式でも聞いた皺がれながら力強い声が返ってくる。トワは「失礼します」とおっかなびっくり入室した。

 

「お?」

「へえ、これはまた」

「トワじゃないか。君も呼ばれたのかい?」

「ジョルジュ君? そ、それに駅前で会った……」

 

 扉を開いた先に居たのは、幸いなことに教官だけではなかった。平民生徒が二人に貴族生徒が一人、そして学院長とその横に控える教官と思しき女性がトワの視界に映る。そのうち、平民生徒二人は知った顔だ。バンダナの男子とジョルジュとの思わぬ再会に唖然とする。

 他の人物も特徴的だ。興味深げな視線を向けてくる貴族生徒はショートカットの女子だが、何故か男子のスラックスを穿いているし、女性教官だって他の人とは少し毛色が違う雰囲気である。

 いったいこの場の集まりは何なのだろう。纏まりのないバラバラな面子からは予想がつかない。

 

「トワ・ハーシェル君、で間違いないかね?」

「は、はいっ」

「急に呼び出してすまなかったのう。まあ、そんな所で硬くなっていないでこちらに来なさい」

 

 学院長に促されるままに彼の執務机の前へと歩を進める。トワを含めて並んだ四人の新入生を見渡し、学院長は「うむ」と頷いた。

 

「全員が集まった様じゃな。初日からこちらの要望に応じてくれて感謝しておる」

「流石に初っ端から教官の言う事に逆らうほど無謀じゃないんでね。それより、いったい何の用なんすか?」

「あら、生意気な子ね」

「はっはっは、そうじゃな。それでは早速、本題に移らせてもらうとしよう」

 

 バンダナの男子の捻くれた言いっぷりに学院長は闊達に笑う。女性教官もわざとらしい驚きを浮かべるだけだ。

 この程度の皮肉は痛くも痒くもないのだろう。言い出した本人も失敗したという表情である。

 

「諸君を呼んだのは他でもない。実は、とあるテストに参加してもらいたくてのう」

「テスト……ですか?」

「うむ。少々先の話にはなるが、来年度にトールズ士官学院は新たな試みとして『特科クラス』というものを新設しようと考えておる。今はその実現に向けて色々と動いているところだ」

「特科クラス、か。なかなか面白そうな響きですね」

 

 そう楽しげな様子を見せるのは貴族生徒の女子。紫がかった短髪が揺れる端正な顔は学院長の話に興味津々だ。

 

「その特科クラスでは特別なカリキュラムを用意しようと考えておるのだが……これが上手く機能するかは実際に確かめてみないと何とも言えんのでな。君たちにはそのカリキュラムのテストをお願いしたい、と言う訳じゃよ」

「なるほど。その僕たちにテストしてもらいたいというカリキュラムとは一体?」

「詳しくは担当の方から話してもらうとしよう。サラ君、よろしく頼む」

「分かりました」

 

 女性教官が一歩前に出る。髪色はエミリーとは色合いの異なる赤紫であり、歳は20台の半ばに差し掛かるかどうかだろう。随分と若い。

 そして……何というか、凄くグラマラスである。貧相な体型のトワと比べるべくもない。それを強調するような服装をしているものだから余計に始末が悪い。ジョルジュは目のやり場に困っているようで、バンダナの男子は遠慮なく見ていた。

 

「武術・実技技術担当教官のサラ・バレスタインよ。特科クラスに関する事も一任させてもらっているわ。で、君たちにやって欲しいカリキュラムの内容なんだけど……」

 

 四人の視線がサラ教官へと集まる。既にここまで聞いてしまっては気にならずにはいられない。

 

「正直、口で説明するのは面倒でね。先にお試しで体験してもらう事にするわ」

「ふえ?」

「習うより慣れろって奴よ。ほら、ついてきなさい」

 

 しかし、その口から出てきた言葉は余りにも想像とは異なるものだった。

 言うだけ言ってサラ教官は学院長室から出て行ってしまう。ここで説明するものとばかり思っていた四人は、その後ろ姿をポカンと見つめる事しか出来ない。

 そもそも口で教えるのが面倒とはどういう事だろう。というか、教官としてその台詞はどうなのか。トワ自身も内心、混乱で一杯になっている。

 固まるトワたちに向けて、学院長は苦笑を浮かべながら切り出した。

 

「まあ、テストを引き受けるかどうかはともかく、まずは彼女に付き合ってくれたまえ。話はそれからでも遅くなかろう」

 

 チラリと四人は視線を交わす。それぞれ学院長に対して異論はなさそうだ。

 さっさと先に行ってしまうサラ教官の後を追って部屋を出る。この先で何が待ち受けているのか、それを楽しみにする期待と何とも言えない不安を、それぞれ抱きながら。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 先導するサラ教官についてやって来たのは、学院の裏手にある林道だった。そこに聳え立つ古めかしい建物。察するに、大昔に使っていた校舎か何かだろう。

 しかし、トワとノイにとってはそれだけで片付けられない違和感があった。ただ古い建物特有の化けて出てきそうな雰囲気だけではなく、肌に感じられる確かな感覚として。

 

「ねえ、ノイ。これって……」

『暗黒時代の遺物って所かもね。はぁ、何だか面倒な事になってきたの』

 

 後ろの方でコソコソと喋りながら、やっぱりとトワは納得する。故郷の遺跡とは異なる感覚だが、この建物からは確かに何か(・・)を感じる。謎多き大昔の文明に連なるものと考えて間違いないだろう。

 もっとも、だからと言って心配する必要はないかもしれない。鼻唄を歌いながら扉に掛かった鍵を開ける教官からして、それほど危険な場所ではない筈だ。

 開かれた扉からサラ教官に続いて入っていく。薄暗い建物の中は、先ほど入学式が行われた講堂と似通った構造になっている。そこらに瓦礫が散乱している事から、やはり普段は使われていない場所なのだろう。

 奥にはステージだったと思しき一段高い部分もある。その近くまで来て、サラ教官はようやくトワたちに向き直った。

 

「ふふ、全員ついてきたわね。意外といい子じゃない」

「んなこと言ってないで、さっさと何をするのか説明してくれないんすか? まさか肝試しなんてわけじゃないだろうし」

「それについては同感だね。お預けもそろそろご勘弁願いたい」

 

 どうやらバンダナの男子と貴族生徒の女子は揃って度胸があるらしい。教官に向かって臆面もなく文句を口にする二人に、穏健なトワとジョルジュは苦笑いを零すしかない。

 

「そうね。それじゃあ先にこれを渡しておくとするわ」

 

 文句を軽く流して、サラ教官はそれぞれに何かを差し出す。訝しげにしながらも受け取ってゆき、最後に渡されたトワは自分の手の内のそれを見て疑問符を浮かべた。

 懐中時計型の導力器。それに何かをセットするスロットが備え付けられたこれは……

 

「戦術オーブメント……?」

「ふむ? 戦術オーブメントの支給は初回の実技教練でと聞いていたが……」

「いや、ただの戦術オーブメントじゃねえな。少しばかり形状が違うようだ」

 

 カリキュラムの説明と違う事態に困惑していると、バンダナの男子の指摘にハッとする。

 確かに従来のものとは違う規格のようだ。トワも故郷では自前の戦術オーブメントを使っていたが、それよりも一回りは大きくなっている気がする。知らない間にバージョンアップでもしたのだろうか。

 三人が渡されたそれに疑問を抱いている中、ただ一人だけが違う反応を見せていた。

 

「……なるほど。その特科クラスはコイツ(・・・)の運用を目的としていると言う訳ですか」

「流石に君は気付くか。まあ、目的の一つであるのは間違いないわね」

「おいおい、こっちにも分かるように説明してくれよ」

 

 納得した様子で、しかしどことなく複雑そうな表情でサラ教官と言葉を交わすジョルジュ。そんな二人の遣り取りにバンダナの男子が口を挟んだ。

 

「――それは次世代型戦術オーブメント《ARCUS》。ラインフォルト社とエプスタイン財団が共同開発し、件の特科クラスで運用を予定されている新型導力器……の試作型(プロトタイプ)よ」

「プロトタイプ……じゃあ私たちにやってもらいたいって言うテストは、このオーブメントに関する事なんですか?」

「うーん。それだけだったら話も簡単なんだけどねぇ」

「サラ教官、随分と勿体ぶりますね。そんなに言い出しにくいことなのですか?」

 

 ステージの壇上に上がりながら朗々と語るサラ教官だが、トワの確認に対する答えは明瞭としない。

 ただ勿体ぶっているだけなのか、何か事情があるのか、それとも全く別の要因によるものなのか。いずれの理由によるものなのかは知らないが、トワの個人的な感触としては余り深刻なものではない気がした。

 

「もう、そんな急かさなくてもすぐに分かるわよ」

 

 そう、言うなれば、何かのタイミングを推し量っているような……

 妙に悪戯っぽい顔のサラ教官がステージの奥に下がっていくのを見ながら、そんな考えが頭に浮かんだ瞬間。

 

「さっき言った通り、習うより慣れる形で、ね」

 

 ガコンッという音と共に、トワたちの立っていた床が急激に傾斜した。

 

「ふええっ!?」

「なぁっ!?」

 

 落とし穴のトラップ。見れば、サラ教官はステージの壁面に備え付けられた仕掛けのボタンに手を掛けていた。やたら話を引き延ばしていたのはこのためだったのである。

 落とし穴の傾斜はかなり急だ。普通に踏ん張っても奈落の底に急転直下は避けられない。

 

(でも、このくらいなら……!)

 

 だが、素直に落ちる訳にもいかない。何とか踏ん張るためにも、自分の武具に手を伸ばそうとして――

 

 ガギゴンッ!

 

「へ?」

「あら?」

 

 何かが壊れるような音で、落とし穴は傾斜から垂直へと変化してしまった。

 

「そんなのってないよ~!!」

 

 踏ん張る足場が無くなってしまえば、もうどうしようもない。トワは為す術もなく落とし穴の底に転落していってしまうのだった。その後を慌てて追っていく姿なき妖精を伴いながら。

 一気に人気のなくなった空間の中、サラ教官は「あっちゃぁ……」と頭を掻く。ちょっと失敗してしまったとでも言うかのように。

 

「まさか仕掛けが壊れちゃうなんてね……まあ、来年までに直しておけばいいか」

「あ、アンタそれでも本当に教官かよ……!」

「あら、なかなか逞しいじゃない」

 

 独り言の返事に落とし穴を覗き込むと、バンダナの男子がサバイバルナイフを完全に垂直になった床に突き立ててぶら下がっている。咄嗟の判断で何とか転落だけは阻止したのだろう。

 普通なら、その反応力を評価する所である。だが残念なことに、状況も評価を行うべき教官も普通ではなかった。

 

「でも残念。今日のところは素直に落ちてちょうだい」

「おい、何をこっちに向けてんだ! それは洒落にならぬあああぁぁぁ……」

 

 サラ教官が抜いた導力銃から吐き出された銃弾は、寸分違うことなくサバイバルナイフを撃ち抜く。着弾の衝撃で手をナイフから弾かれたバンダナの男子は、奈落にエコーを響かせながら他の者の後を追うのだった。

 一仕事終えた愛銃の銃口をふっと吹く。そして今度こそ独り言を呟いた。

 

「来年は落とすまで武具も預かっておくことにしましょうか」

 

 この場に誰かいたら、きっとこう言った事だろう。

 落とす以外の選択肢は考えてくれないのか、と。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「わっ、よっ、はっと」

「おっと」

「あ痛っ!」

 

 落とし穴の底、途中から再び傾斜になり滑落していったその先で、トワは何とか着地を果たしていた。貴族生徒の女子も何らかの武術を修めているのか難なく着地していたが、ジョルジュは強かに尻を打ち付けていた。

 見ているこちらが痛くなりそうな派手な尻餅である。トワは慌てて駆け寄った。

 

「だ、大丈夫?」

「あたた……ああ、そこまで大事じゃないさ。あまり底が深くなかったのが幸いだね」

「感覚的に一階分といった所かな? それにしても入学早々にトラップに掛けられるとは、なかなか刺激的な士官学校みたいだね」

 

 そう言って「はっはっは」と笑う彼女はきっと大物なのだろう。いきなり落とされておいて刺激的で済ませられるとは、貴族であることを差し置いても大したものだ。

 トワが呆れ半分、感心半分でいると、落とし穴の上から気配を感じた。

 

「っと。くっそ、マジで有り得ねえぞあの教官。いきなりぶっ放してくるとか、どんな神経しているんだっつうの……」

 

 何故か遅れて落ちてきたのはバンダナの男子。無事に着地するも、どこかで痛めたのか片手をひらひらとさせながら恨み言を零す。

 

「ふむ、君も落ちてきたか。その様子を見るに、下手に抵抗しない方が正解だったようだね?」

「ああ、その通りだよ……」

「……? えーと、よく分からないけど、取り敢えず上の階に戻る手段を見つけないとね。この穴を登ることは出来なさそうだし」

 

 サラ教官の真意はともかく、いつまでもここでじっとしている訳にはいかない。まだ昼を過ぎたくらいとは言え、門限までに寮に戻れるという保証はないのだから。

 トワの言葉に他の三人も頷く。そして一先ずは自分たちが落とされた場所を見渡してみる。

 

「まあ、戻れる可能性があるとしたら、あの石扉の先かな」

「そうだね……って、あれ?」

 

 それなりに広い空間の奥にある石扉にジョルジュが目を付ける。それに追随したトワは、石扉に何かがくっついているのを発見する。近づいて見てみると、それは一枚のカードだった。

 

「メッセージカードか。差し詰め、あの教官殿からといった所かな?」

「状況的にそう考えて間違いねえだろ。まったく、手の込んだ真似をしやがって」

「ふう、いったい何が書いてあることやら」

「あはは……じゃあ、開けてみるね」

 

 口々に好き勝手言う面々に苦笑しながら、石扉からカードを剥がし、その中身を取り出す。紙面に書かれた文面をトワは「えーと」と前置いて読み始めた。

 

特別オリエンテーリング(仮)参加者諸君へ。

 トラップは楽しんでくれたかしら? いや~、あの落とし穴を知ってから使いたくてうずうずしていたから助かったわ。来年も使いたいから後で感想をお願いね。

 さて、これから君たちにはこの旧校舎のダンジョン区画を突破してもらうわ。そこの石扉から始まって、一階に戻る階段まで続いている。魔獣も出るから頑張ってちょうだい。

 詳しい説明と文句の受付は戻ってきたらしてあげるわ。何だったら、お礼のキッスもあげちゃうわよ(ハート)。無事の帰りを待っているわね。

                        サラ・バレスタイン

 

「「「「…………」」」」

 

 トワが読み終えた後、四人はしばらく無言だった。

 呆れ、脱力感、ふつふつと湧き上がる苛立ち。無言の理由はそれぞれであっても、同時にそれを理解した。やはりサラ教官はまともじゃない。

 

「……これってアレだよな? 戻ったら一発くらいはぶん殴ってもいいってことだよな?」

「ふふ、素直に殴られてくれるかは知らないがね。どうやら相当な実力者の様だったし」

「そ、それ以前に殴ったりなんかしたらダメだよ! 確かに無茶苦茶な人だけど、ちゃんとした教官なんだし……一応」

 

 流石のトワも擁護が自信なさ気になってしまう。トワにも教官としてアレはどうか、という思いはある。

 

「しかし魔獣か……念のためにも、ここは全員で行動した方が良さそうだね」

 

 色々と規格外なサラ教官に気を取られていた中で、至極現実的な提案がなされる。カードの内容を吟味していたジョルジュの言だ。

 ジョルジュの言う事は尤もだ。どれほどの魔獣が巣食っているかは知らないが、用心するに越した事はない。それに士官学校に入学したとはいえ、最初から誰もが戦う術を心得ているとは限らないのだ。もし、そういった人がいるのならフォローも必要になる。

 サラ教官の話題は一先ず止めにして、いかにこの建物――旧校舎から脱出するかを考えるべきだろう。言いたい文句はそれから考えればいい。

 

「俺は別に構わねえぜ。はは、それにしてもこんなに早くチビッ子と再会する事になるとはな」

「チビッ子は止めてって言ったでしょ! もう本当に……あ」

 

 反射的に言い返して気付く。トワはまだこの場に居る一人しか名前を知らないのだ。

 

「そういや、まだ名乗っていなかったな。Ⅴ組のクロウ・アームブラストだ。ま、よろしく頼むぜ」

「なら僕も。Ⅲ組のジョルジュ・ノームだよ。よろしく」

「えっと……私はⅣ組のトワ・ハーシェルっていうの。改めてよろしくお願いするね」

 

 トワの様子から察したバンダナの男子――クロウを皮切りに、今更ながらの自己紹介となる。

 二人の名前を聞いたクロウが駅前でも見せた軽薄そうな笑みを浮かべた。そして自然と話の流れをもう一人へと持っていく。

 

「ジョルジュにトワか。それで? お前さんは何て言うんだ?」

「……ふふ。まあ、名乗らない理由も無いか」

 

 一方、話を振られた側が浮かべるのは不敵な笑み。貴族生徒の女子は自身の名前を明かした。

 

「Ⅰ組所属、アンゼリカ・ログナー。出来れば下の名前は気にせず楽な態度で接してくれたまえ」

「ログナー……北部ノルティア州を統括するログナー侯爵家か。なるほど、それじゃあ君が……」

「えーと、確か四大名門っていう大貴族の一つなんだよね?」

 

 頭から引っ張り出した知識を確認するように聞くトワ。アンゼリカと名乗った本人が「まあね」と軽い調子で肯定する。

 エレボニア帝国は統治者である皇帝が座する帝都を中心に四つの州に分かれている。東のクロイツェン、西のラマール、南のサザーラント、そして北のノルティアだ。

 それぞれの州は内部でさらに細かい領邦に分かれており、一つ一つに貴族領主が存在するが、中心である州都は他の貴族とは一線を画する大貴族によって治められている。そして一般的に州内の領邦に対して強い影響力を持っているのだ。

 その四家の大貴族を指す言葉が四大名門。そして、その一角を成すのがアンゼリカの実家、ログナー侯爵家と言う訳である。

 

「へえ、大貴族中の大貴族じゃねえか。その割にはフランクみたいだが」

「偉ぶるのはどうも好きじゃなくてね。それに、こっちの方が君たちにとってもやり易いだろう?」

「はは、否定はしないよ」

 

 クロウの言う通りアンゼリカは大貴族中の大貴族。貴族生徒の中でも随一だろう家格と、それに反して壁を感じさせない性格に注目が集まるのは当然の事だろう。いくら身分の違いに疎いトワでも、それは変わらない筈だった。

 しかし、この時トワの意識は別の方向に向けられていた。会話の端々に見え隠れする些細な違和感へと。

 

「……ん? どうした、トワ。俺の顔に何かついているか?」

「あ、ううん。そういう訳じゃないんだけど……」

「ははーん、さては俺様のイケメンフェイスに惚れちまったな? だが、俺としてはボンキュッボンとしたナイスバディの方が――」

「クロウ、ふざけるのも程々にね」

「へーい」

 

 クロウは人当たりが良い。見たままの軽い性格だが、近寄り難い雰囲気は無いし話の振り方も上手い。所謂ムードメーカーという奴だ。それは出会って間もないジョルジュと仲が良さそうに出来ている事からして間違いないだろう。

 だが、トワはクロウの振る舞いの中から妙な感覚を拭えずにいた。駅前では気のせいと片付けた違和感が蘇り、胸の内にもやもやと広がる。

 

「ま、そろそろ奥に進むとしようぜ。特別オリエンテーションだか何だか知らねえが、こんな辛気臭い所に何時までもいてやる義理もねえしな」

 

 彼は笑っている。軽薄そうな笑みを浮かべて楽しげにしているのに、そこに何ら問題になりそうなことなんて無いのに、どうして――

 

(どうして私は、寂しそうなんて感じているんだろう……)

 

 ふと脳内に過った言葉をトワは頭を振って消し去る。口に出すべきものとは思えなかった。

 この感情に明確な根拠なんて無い。ただの直感のようなものだ。

 そんな事で四の五の言われてもクロウだって迷惑だろう。理由も無ければそれは言い掛かりにしかならないし、ましてや「寂しそうだね」と勝手に哀れまれる事なんて誰も望まないに違いない。

 

「出発するのはいいが、その前に君に一つ聞いていいかな?」

「あん? なんだよ」

「なに、簡単な事さ」

 

 だからトワはその思いを表に出そうとはしなかった。所詮は直感に過ぎない。自分の勘違いかもしれない事を、わざわざ場の空気を壊してまで言い出すべきではない。

 そう理由付けして、心の奥底に封じておこうとしていたからこそ。

 

「――君は、何が面白くてそんな風に笑っているんだい?」

 

 アンゼリカの突き刺すような言葉に、目を見開いた。

 

「…………は?」

「へらへらと楽しそうにしてはいるが、目は冷め切っている。表面上合わせるだけなら、わざわざ面白くも何ともない事で笑ったりしなくてもいいと思うがね」

「おいおい、いったい何を言って――」

「薄っぺらいのさ、君のやる事為すことは。上っ面だけ人付き合いが良さそうにしておいて、実際は周りに合わせているだけで何も感じていやしない。そうだろう?」

 

 遠慮など欠片もない、まるで抉り込んでくるような言葉。不敵な笑みを変わらず湛えながらも、その瞳には相手を見透かすような鋭利な光が宿っている。

 前触れもなく怒涛の勢いでクロウに対して毒を吐くアンゼリカに、トワとジョルジュは戸惑い口を出す暇もない。そして、言われた当人は虚を突かれたような表情から一変し、冷ややかに頬を吊り上げた。

 

「……はっ、よく知りもしねえ相手を好き勝手に。結局は何が言いたいんだ? ログナーさんよ」

「気に入らないのさ。君の嘘臭い振る舞いが、私としては何とも腹が立つものでね。生憎だが、そんな奴と同行できるほど人間が出来ていない」

「だったら勝手にするといい。俺だって、初対面の相手を勝手な偏見で悪し様に言う性悪女は御免だぜ」

「ちょ、ちょっと二人とも……!」

 

 急速に険悪になっていく二人を前に、トワは何とか間に入って取り成そうとする。事情はともあれ、魔獣がうろつくような場所でバラバラになるのは得策とは思えない。せめて喧嘩腰になるのは止めさせなければ。

 その一心で口にしようとした静止の言葉は、言い切る前にアンゼリカの間隙なき返しに遮られた。

 

「私の事を君が何と思おうとどうでもいいが、君に思う所があるのは私だけではないと思うがね。そうじゃないかい、小さなお嬢さん」

「ええっ!?」

 

 思わぬ形で話を振られて驚愕するトワ。確信した目で自分を見るアンゼリカに動揺を隠せない。

 確かにトワもクロウに対して違和感のようなものは感じていた。しかし、それについて不快感を抱いていた訳ではない。少しばかり戸惑い、ただ気掛かりなだけだったのだ。

 とはいえ、心中を言い当てられた事には変わりない。彼女と違って悪い意味ではないと抗弁する余裕もなく、しどろもどろになって口が回らない。

 そして、そんなトワを置いて事態は進んでいく。

 

「まあ、そういう訳で私は先に行かせてもらうよ。そこの気に喰わない男はともかく、君たちは道中気を付けるようにね」

「一人で行くつもりなのかい? 流石にそれは……」

「心配は無用さ。これでも腕っ節には自信があるものでね」

 

 ジョルジュの制止に拳を叩くことで返事としたアンゼリカは、そのまま石扉を開けて先に行ってしまう。悠々と進んでいくその背中に三人が掛ける言葉は無かった。

 

「…………」

「えっと……」

 

 一人欠けた空間に静寂が満ちる。

 アンゼリカが残していった爆弾の効果は抜群だったらしい。つい先ほどまで話の中心にいたクロウが今は無表情で黙りこくっている。的外れな事を言われて憤っているのか、或いは心当たりがあったのか。

 トワも口下手な訳ではないのだが、この重苦しい空気の中では切り出すのを躊躇ってしまう。隣のジョルジュに視線で助けを求めても力なく首を横に振るだけ。どうやら彼にも打開策は無いらしい。

 そしてアンゼリカの背中が完全に見えなくなって、そのしばらく後に途轍もなく大きな溜息が聞こえてきた。

 

「……で? チビッ子も俺になんか文句があるのかよ?」

「ふえっ?」

「あの女が言っていただろうが。言いたい事があるのなら聞いてやるぜ? 悪く言われるのが一回だろうが二回だろうが、あまり関係はねえしな」

 

 随分とニヒルな言い様だが、恐らくは調子を取り戻したのだろう。クロウは皮肉っぽくトワを促す。

 しかし、トワは別に文句がある訳ではない。認識の相違を正すために慌てて口を開いた。

 

「ち、違うよっ! クロウ君に文句があるとかそういう訳じゃ……あ、でも思う所が無いと言えば嘘になるというか……」

「はっきりしない奴だな。結局はどう思っているんだよ?」

「それは、その……」

 

 慌てた結果、言葉が纏まらないトワにクロウも毒気を抜かれたのだろう。皮肉っぽさが呆れに変わった顔で答えを促す。そんな彼にトワは視線を彷徨わせる。

 悪意は持っていないが、正直なところを伝えても彼が不快に思う事はあり得る。少なからずある可能性を前にトワは足踏みをしていた。

 だが、何時までも立ち止まっている訳にはいかない。正面からぶつかってこそ分かり合えることもある。意を決して、自身の思いを口にした。

 

「なんだか笑っているのに楽しくなさそうだから、どうかしたのかなって気にしていただけで……別にクロウ君の事が嫌いとか、そういう訳じゃないんだよ?」

 

気を悪くしないかと危惧していただけに、その声は後になるほどか細くなっていたが、トワは何とか正直に自分の気持ちを伝えきった。

 恐る恐るクロウの様子を見やる。気を悪くした様子はない。ただ、直前の呆れまで消え去った無感情な容貌からは、彼がどう感じているかも分からなかった。それがまた心臓に悪い。

 無言のまま数秒経つ。クロウは気怠そうに頭を掻いた。

 

「――そうかよ」

「あ……」

 

 短い返事を残し、クロウもまた背を向けて先に行ってしまう。結局、彼がトワの言葉に何を感じたのかも分からぬままに。

 その背に向けて伸ばし掛けた手も、途中で力なく下ろしてしまう。失敗してしまった。儘ならない結果にトワは気落ちした。

 

「うう、やっぱり怒らせちゃった。せっかく友達になれると思ってたのに……」

「どうかな。あの様子だと、怒っているとは限らない気がするけど」

「そうかなぁ」

「まあ、本当のところは本人にしか分からないけど、僕にはそう見えたよ」

 

 しょげた様子のトワにジョルジュがフォローを入れる。

 確かに碌な返事もせずに先に行ってしまったが、アンゼリカに対して見せた冷ややかさは感じられなかった。何を思ったかはともかく、少なくともアンゼリカよりはマシに思われているのではないか、というのがジョルジュの意見らしい。

 希望的観測ではある。それでも無いよりは良い。一先ずはそういう事にしておき、トワは何とか気を取り直す。

 

「……うん、分からない事を気にしても仕方ないよね。まずはここから出る事を考えないと」

「問題はあの二人だな。魔獣が徘徊している以上、彼らに危険が及ばないうちに合流したい所だけど」

 

 勝手に行ってしまった二人を思い浮かべ、ジョルジュは困り顔になる。ほんの少し前に彼が提案した一緒に行動しようという案は、既にアンゼリカの爆弾発言で木端微塵になってしまった。こうなってしまったからには残された二人で追いかけるしかない。

 元から魔獣という危険に対して慎重になっていたジョルジュだ。心情的な問題はさて置いて、一刻も早く合流するべきと考えているのだろう。

 

「うーん、あの二人ならそんなに心配する必要はないと思うけど」

「え?」

 

 だが、トワはそれに関しては緊迫したものを感じてはいなかった。不思議そうなジョルジュに気楽に答える。

 

「いくらサラ教官が型破りだからって、いきなり手も足も出ないような魔獣が出る所に放り込むとは思えないんだ。そんなのが学院の敷地内に居たら放置している訳ないし、きっと腕試しになる程度しか出ないと思う。あまり大きな気配も感じないし」

 

 生徒を罠に嵌めるという所業から疑ってしまうのも仕方ない面はあるが、サラ教官といえども学院の一職員だ。最低限、安全面には配慮している筈だし、学院長が止めなかったことから許可は得ているのだろう。少なくとも、命に関わるような事は無いのではないか。

 トワの説明にジョルジュも成程と頷く。最後の気配云々に関してはよく分かっていなさそうだが。

 

「それにアンゼリカさんもクロウ君も強そうだったしね。そこら辺の魔獣には遅れを取るような事は無いんじゃないかなぁ」

「そうなのかい? 僕にはそこのところはよく分からないんだけど……」

 

 トワの私見ではあるが、あの二人が少なからず戦闘慣れしているのは確かだ。それならこの場に居ない者の心配をするよりも、自分たちが先に進むことを優先するべきだろう。

 

「まあ、そうなると自分たちの心配をした方がいいのか。流石に僕たち二人だけだと魔獣の相手をするには心許ない――」

「ううん、それも心配ないよ」

「え?」

「これでも魔獣の相手は慣れているんだ。武術だってちゃんと習っているんだから」

 

 再度の間の抜けた声を漏らすジョルジュに対し、トワは自信満々にそう告げる。そして論より証拠とばかりに自分の武具を取り出した。

 黒塗りの鞘から抜いたのは、刀身に美しい刃紋が揺れる71リジュほどの片刃の剣。東方の地より伝わった、匠の手により鍛えられる芸術的な武具――打刀だ。

 扱いが難しいと言われるそれを、トワは慣れた手つきで正眼に構えてみせる。彼女が剣術を修めていることの証拠である。

 

「私たちもそろそろ行こっか。ジョルジュ君、ちゃんと後ろに付いてきてね」

 

 意気揚々と先導していくトワ。そんな自分より遥かに背丈が低い少女の勇ましい姿を、ジョルジュはポカンと見つめるばかりなのであった。

 



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第3話 石の守護者

オルバス師匠の剣術って片手剣も両手剣もOKどころか斧や棍棒でも使えるって、かなり汎用性が高いですよね。どうなってんだろあれ?


「――! ――――!」

「――――!」

 

 仄かな導力灯の明かりが照らす薄暗い旧校舎の通路に甲高い鳴き声が響く。その元は猫に翼が生えたような風貌の二匹の魔獣。『飛び猫』と呼ばれる、比較的ポピュラーな魔獣である。

 その二匹が威嚇するように鳴く先には、一人の少女が居た。

 たかが飛び猫と言えども魔獣は魔獣、一般人にとっては危険な相手には違いない。それが幼さの残る容貌をした娘ともなれば尚更だ。

 しかし、その少女――トワは微塵も怯んでいなかった。手に携えた刀剣を自然な様子で構え、喚き立てる目の前の敵を静かに見据える。その姿はさながら凪いだ海原のようだ。

 

「っ」

 

 短く息を吐く。それを契機として、トワは弾かれたように疾駆する。

 瞬く間に縮まった彼我の距離と振り上げられ閃く刃。飛び猫は反応できず、手近にいた方の一匹が袈裟懸けの斬撃の餌食になる。

 同族が屠られた怒りだろうか。もう一匹の飛び猫は酷く興奮した様子だ。飛ぶ勢いのままにトワに向けて突っ込み、強力な蹴りを見舞おうとしてくる。

 

「――――!?」

「遅いよっ」

 

 だが、そんな単純な攻撃を貰うトワではない。

 素早く、それでいて巧みな足捌きで蹴りを躱して相手の側面を取る。その手の打刀を横薙ぎに一閃、二匹目の飛び猫も易々と倒してみせた。一連の流れるような動作には数秒ばかりしか掛かっていない。

 ふう、と一息ついて納刀。息切れは見られなかった。

 

「……いや、大したものだな。まさかトワがここまで剣の腕が立つなんて」

 

 少し離れた所から感嘆の声が漏れる。戦闘を見守っていたジョルジュは純粋に感心しているようだった。驚き混じりの顔で、場が場であったら拍手でもしそうな様子である。

 そんなべた褒めの感想がトワとしては面映ゆい。これくらいは出来て当然の事だと思っているからだ。

 

「そんな事ないよ~。ただ故郷の方でしょっちゅう魔獣の相手をしていたってだけだし」

「それはそれで普通じゃないと思うけどね。まあ、おかげで助かるよ。生憎と僕は魔獣に縁があるとは言えなかったから」

 

 出発してから何度か魔獣に遭遇しているが、やはり矢面に立って相手取っているのはトワの方だ。ジョルジュも戦闘には参加しているものの、まずは慣らしが必要なので余裕を持たせている。たまに一対一の状況に持ち込んで戦ってみてもらう程度である。

 戦闘経験ならトワが圧倒的に上なのだ。そこに男も女も、大きいか小さいかも関係ない。トワには自分が引っ張っていかなければという自負があったし、ジョルジュもそれに関しては弁えているようだった。

 

「えへへ、力になれているなら嬉しいけど。でも、ジョルジュ君の武具って珍しいよね。ただのハンマーじゃないでしょ?」

 

 ジョルジュが肩に担ぐ、魔獣慣れしていないという割には特異な武具に目を向ける。見た目は無骨な鉄槌(ハンマー)そのものだが、戦闘の中でそれが機械的に可動するのをトワは目にしていた。

 視線に対してジョルジュは「ああ、これか」と答える。

 

機械槌(マシン・ハンマー)って言うものでね。導力式の可動機構を備えているんだ。士官学院に入学するにあたって自作してみたんだが、問題なく動くみたいで安心したよ」

「ええっ! じ、自分で作ったの!?」

「まあね。スクラップ処理の経験くらいならあったから、これなら扱いやすいかと思って」

「ほえ~……凄いなぁ。ジョルジュ君って手先が器用なんだね」

「はは、それこそ大したことじゃないさ。昔から機械いじりばかりしてきただけだよ」

 

 今度はトワが感心する番だった。導力機構を一から作り上げるとなると、かなりの専門的な知識が必要となるだろう。その機械槌がどれほど複雑なものかは知らないが、少なくともトワには想像もつかない領域の話だ。ジョルジュの言い分は謙遜にしか思えない。

 

「そういうものかなぁ?」

「そういうものさ」

 

 だがまあ、それはお互い様というものなのだろう。トワは剣術、ジョルジュは導力技術。それぞれ得意分野が違うと言うだけの話だ。

 そう考えれば納得も行く。腑に落ちた所で先に進むことにした。

 

「そっか。うん、それじゃあ先に進もう。前は私が行くから、後ろの方は任せたよ」

「了解だ。魔獣の警戒を怠らないようにすればいいんだろう?」

「うん、お願いねっ」

 

 役割分担を確認して旧校舎の探索を再開する。隊列は先頭にトワ、後ろに少し離れてジョルジュという形だ。

 危険を事前に察知するためにもトワが前面に立つのは自然なことだったが、彼女にとってはもう一つ理由があった。ジョルジュの意識を背後に向けさせ、小声での会話を聞かれる可能性を僅かでも減らすためだ。

 

(トワ、行って来たよ)

(ありがとう、ノイ。それで、どうだった?)

(先に行った二人も無事でいたの。というか、やっぱり心配するだけ無駄だったみたい)

 

 姿を消したまま偵察に行ってもらったノイから報告を受ける。やはりと言うべきか、アンゼリカとクロウの二人は問題なく先に進んでいたらしい。トワの見立て通り、この場を切り抜けるだけの実力は持っていたと言う訳だ。

 何はともあれ、これで僅かなりとも存在した気懸かりも解消できた。あとは自分たちも無事に脱出すればいい。人間関係に関する諸々の問題については、その後に考えても遅くないだろう。

 一安心して小さく息をつくトワ。ところが、ノイの話はそこで終わらなかった。

 

(でも、出来る限り合流しておいた方がいいかもしれないの。ちょうど道なりに進めばアンゼリカって子がいるから、まずはそっちに行ってみて)

(それは良いけど……何かあったの?)

 

 ノイの勧めに異議は無いが、どうして合流した方がいいと言うのかには疑問が残る。聞いてみれば、姿は見えずとも面倒臭げな雰囲気が伝わってきた。

 

(いちおう終点まで行ってみたんだけどね、そこに厄介な奴がいたの)

(厄介な奴? それって――)

「……? トワ、何か言ったかい?」

(やばっ)

「う、ううん! なんでもない!」

 

 声が僅かに漏れ聞こえたのだろう。不思議そうに尋ねてくるジョルジュに、トワは慌てて会話を中断して誤魔化そうとする。ノイも口を噤んでだんまりを決め込んだ。恐らくは距離も離しているだろう。

 ノイの言う厄介な奴についてもう少し詳しく聞きたかったが、今の段階で第三者に彼女の存在を勘付かれたら面倒な事になる。この場で話すのはもう諦めた方がいいだろう。

 

「そうかい? 何か聞こえた気がしたんだけど……」

「ま、魔獣の鳴き声が遠くから響いただけじゃないかなぁ? あは、あはは……」

「……確かにそうかもしれないね。はは、どうやら慣れないことに気が張っているみたいだ」

 

 若干苦しい言い訳をながらも、ジョルジュは一先ず納得してくれたようだ。トワの挙動不審に気付かなかったのは幸運と言うより他にない。

 ホッと一息ついて胸を撫で下ろす。下手に疑われるような真似をするより、このまま先を急いだ方がいいだろう。まずはアンゼリカとの合流を目指さなければ。

 そう判断し、少し足を速めて先に進もうとした矢先、二人の歩みは突如として起こった事態に止めさせられた。

 

「――――!!」

「っ!? こ、これは……」

「魔獣の鳴き声……それに、この音は……」

 

 通路を通して響き渡る人ならざる獣の声。期せずして誤魔化しのために言った事が実際に起きたのはともかくとして、トワにはそれと同時に聞こえてくる別の音が気掛かりだった。

 断続的に聞こえてくる魔獣が暴れる音。それに紛れる形で、何かの打撃音と思しきものも聞こえてくる。単なる魔獣の縄張り争いでは考えられない音に、トワはすぐさま先で起きている事態を察した。

 

「誰かが戦っているみたい! 急ごうっ!」

「わ、分かった!」

 

 大急ぎで戦闘音の源を目指して駆け出す。距離はそこまで遠くなかった。音と気配を頼りに通路を走り抜け、階段を駆け上がった先でトワとジョルジュは目を見張った。

 

「ふっ!」

 

 鋭く息を吐くような掛け声と共に拳打が昆虫型の魔獣――コインビートルに叩きつけられる。拳の衝撃をまともに受けたそれは、トワたちの横を勢いよく吹っ飛んでゆき壁に激突した。

 小型とは言え魔獣を軽々と吹っ飛ばすなんて尋常ではない。開いた口が閉まらないジョルジュの横で、トワはまず間違いなく何かしらの武術を修めた拳だと確信する。垣間見た拳を放つ動作も、確かな「型」に基づいたもののように見えた。

 そして、その拳の主――アンゼリカはというと、トワたちの姿に気付くと構えを崩さないまま気さくに話し掛けてきた。

 

「やあ、君たちも来たか。無事のようで何よりだよ」

「……いやはや、最近の女の子は凄いな」

「あはは……うん。そっちは大変そうだけど、手伝った方がいいかな?」

 

 吹き飛ばしたコインビートル以外にも、開けた空間には複数の魔獣が跋扈している。それらを一人で相手取っていたアンゼリカを目にしてぼやくジョルジュに苦笑しつつ、トワは助力を申し出る。

 

「それは無用というものさ。少しばかり時間はかかりそうだが、別に梃子摺るような相手でも……っと、そうも言っていられないかな?」

「――そうみたい。ジョルジュ君、ちょっと伏せていて」

「え?」

 

 同時にそれに気付いたトワとアンゼリカは表情を引き締める。置いてきぼりにされているジョルジュに説明するような暇もなく、トワは簡単な指示だけ出して彼の肩を借りて宙に跳び上がった。

 天井の隙間より新たに湧き出た、今まさに自分たちに飛び掛からんとしていたコインビートルたちへと。

 

「せいやぁっ!!」

 

 抜き放った刀を空中で円を描くように振り回す。幾重もの斬撃がコインビートルの黄金色の身体を切り刻み、直上にいたものは悉く倒される。

 ――戦技、裂空斬。

 祖父より授かった剣技で襲い掛からんとしていた魔獣を叩き落としたトワは、少しも揺らぐことなく綺麗に着地する。その剣に魅せられたのだろうか、アンゼリカは感心したように「ほう」と声を漏らした。

 

「お見事。その様子だと背中はお願いしてもいいのかな?」

「うん、すぐに片付けちゃおうっ!」

「そうか。ふふ……伴奏が騒がしい魔獣というのは何とも無粋だが、可愛らしいお嬢さんとの演武というのも心が躍るな」

「……? まあ、いいや。ジョルジュ君、援護をお願い!」

「はは……分かった。出来る限り頑張らせてもらうよ」

 

 上からの新手を潰しても、魔獣はまだ両手で収まらない数はいる。落ち着いて話すのは全部を倒してからだ。アンゼリカの独り言染みた言葉の意味はよく分からなかったが、それほど重要な事でもないと判断する。

 刀を構え直し、何故か苦笑するジョルジュと共にトワは魔獣の群れに斬り込んだ。

 

 

 

 

 

 剣が閃き、拳が唸る。視界いっぱいにひしめいていた魔獣も残り少なくなってきていた。トワとアンゼリカが上手く集団を分断して戦っており、その推移に危なげは無い。

 そして最後の一体、集団から外れて取りこぼしていた飛び猫を目にし、トワは鋭い声を上げた。

 

「ジョルジュ君!」

「ああ! そこだぁ!!」

 

 二人のフォローに回っていたジョルジュの機械槌が、飛び猫の頭上より寸分違わず振り落とされる。鉄槌の破壊力と導力機構による衝撃力が合わさり、それに押し潰された飛び猫は為す術もなく力尽きた。

 念のために周囲を警戒するが、もう近くに敵らしき気配はない。安堵の息を吐いてトワは刀を収めた。戦闘終了である。

 

「みんな、お疲れ様。ジョルジュ君もだいぶ慣れてきたみたいだね」

「君たち二人に任せきりだと、流石に僕も帝国男子として情けなくなってくるからね。役に立てたみたいでよかったよ」

「はは、温和そうに見えて根性があるじゃないか。あれだけの数を相手にする面倒も省けたし、おかげで助かったとも」

「ふう……それに関してはアンゼリカさんが揉め事を起こさなければ避けられたとも思うのだけど」

 

 アンゼリカにそう言うジョルジュは呆れ顔だ。口には出さずとも、それに関してはトワも同意する所である。元はと言えば、アンゼリカがクロウに言い放った言葉がバラバラになって行動する原因となったのだから。

 最初から全員で行動していれば、少なくとも今のように大量の魔獣に囲まれるような事は避けられただろう。後々に人間関係の心配を持ち越さずとも済んだ。

 しかし、当の本人に悪びれた様子は無い。クロウの事を思い出したのか、フッと鼻で笑うだけだ。

 

「自分には正直でいるように心がけていてね。気に入らない事は気に入らないとはっきり言う性質なのさ。悪いが、先の発言を取り消すようなつもりは無いよ」

「もう、アンゼリカさんもそんな我儘ばかり言っていたら駄目だよっ。それに良く知りもしない相手を、あんまり悪く言うのはどうかと思うな」

 

 そんな彼女に納得いかなくて、トワは異議を差し挟む。

 誰も彼もが仲良くなれるとは思っていないが、初対面の印象だけで決め付けるのが良いとは思えない。もう少し時間を掛けて相手の事を知ってもいいのではないか。

 トワとしては当たり前のことを言ったつもりだ。ところが、それに対するアンゼリカの反応は意外そうな顔だった。次いでその顔には面白そうなものを見つけたように笑みが浮かぶ。

 

「剣の腕といい、見かけによらず芯の強そうなお嬢さんだ。トワ・ハーシェル君――でよかったかな。ここから出たらお茶でもしようと思うんだが、一緒にどうだい?」

「ふえっ? 別にいいけど……」

 

 急に話が飛躍して少しばかり戸惑ってしまう。相手の意図が掴めないながらも、特に断る理由も無くて承諾しかけた所に声が割って入った。

 

「はいはい、地元のルーレと同じように女の子を誑し込もうとしないでくれ。本当に聞いた通りの奔放なご令嬢なんだから」

「おや、私の噂でも知っていたのかい?」

「縁があって数年ほどルーレに居てね。その時に色々と耳にしたよ。ちょくちょく家出をするとか、女の子にばかり手を出しているとか」

 

 ジョルジュが口にする内容はトワにとっては驚きだった。

 まさか貴族が、しかも名家の子女が家出をするなんて。実際に会った貴族なんて片手で数えるほどしかなく、優雅そうなイメージしかなかった身には衝撃的だ。

 アンゼリカに視線を向けても、彼女は楽しそうに笑むだけで否定はしない。つまりは事実という事だろう。どうやら一口に貴族といっても、アンゼリカのように破天荒なタイプもいるらしい。トワの中で貴族というイメージが上書きされた瞬間だった。

 しかし、いまひとつ疑問に感じる事もある。知らないままではいけないとトワは口を開く。

 

「ねえ、ジョルジュ君。アンゼリカさんが女の子に手を出しているってどういうこと?」

「は?」

「だってアンゼリカさんも女の子だよ。男の子ならともかく、女の子同士でそういう言い方をするのはどうしてなのかなって」

 

 同性同士で手を出すという表現はトワの常識からすると適切ではない。かといって二人が間違った使い方をしているようには見受けられない。ならば都会ならではの表現方法の一種なのではないか。

 ルーレと言えばノルティア州の州都、ログナー侯爵家のお膝元にして、帝国最大の重工業メーカー《ラインフォルト社》が本社を置く大都市だ。辺境中の辺境といっても差し支えの無い故郷から出てきた自分には想像もつかない事もあるだろう。

 そんな予測の下に発せられた質問である。トワとしては疑問の解消と純粋な知的好奇心を満たすくらいの意図しかない。

 

「えーと……あー、それはだね……」

 

 しかし、ジョルジュは何故か気まずそうだ。何か答えるのが憚れる事でもあるのだろうか。

 小首をかしげていると、愉快そうなアンゼリカが会話に入ってくる。

 

「答え辛いなら私が教えてあげよう。簡単に言えば、麗人たる私が可愛らしい子猫ちゃんたちと戯れる事で愛を育むのさ」

「……普通に仲良くする事と何か違うの?」

「フッ、詳しく知りたいなら体験するのが一番だ。純朴で真っ白な君もすぐに私色に染め上げて――」

「アンゼリカさん? お願いだから、この場では勘弁してくれないかな」

 

 掛けられた制止の言葉にアンゼリカはつまらなそうな顔をする。「分かったよ」と答えはしたが、あからさまに渋々と言う様子だった。そして結局、語意を確かめられなかったトワは頭に疑問符を浮かべる事しか出来ない。

 もしかしたら女の子と戯れるとは、俗に言う悪い遊びの事なのだろうか。いや、アンゼリカは普通にお茶に誘っているように感じられた。そう不良染みた真似をする訳でもないのだろう。それにしてはジョルジュが懸命に止めに入っていたが。

 そんな風に考えを巡らしても、アンゼリカの悪癖(?)の詳細は分からない。まったくもって都会の文化とは摩訶不思議である、というのがトワの感想だった。

 

「堅物君に止められてしまっては仕方がない。さっさと進んで次の機会を窺うとしよう……と、その前に。君たちに一つお願いしたい事がある」

「どうかしたの、アンゼリカさん?」

「その『さん』付けは勘弁してくれないか。どうにも背中がムズムズする。もっと親しみを込めて呼んでくれたまえ。私も呼び捨てにさせてもらうからさ」

 

 あまり反省していない彼女からの願いは、ごく簡単なものだった。性格からして分かり切った事だったが、やはり堅苦しいのは嫌いなのだろう。

 それくらいならお安い御用というものだ。元よりトワは貴族という存在との距離を測りかねて「さん」付けしていただけである。本人が外して欲しいと言うのならば是非もない。

 

「そういう事なら、僕は普通にアンゼリカと呼ばせてもらおうかな」

「じゃあ私はアンゼリカちゃ……ん?」

 

 だからジョルジュに続いて意気揚々と呼ぼうとしたのだが、実際に口に出してみて感じた違和感に首を傾げる。

 基本的にトワは同性相手には「ちゃん」付けだ。しかし、アンゼリカ相手にそれは余りにも語呂が悪かった。どうにも違和感が拭えない。

 

「ちょ、ちょっと待ってね。えーと、名前が長いから変に感じるんだから……」

「うーん……そこまで拘らなくてもいいような」

「はは、なんだったら愛を込めてアンゼリカ様とでも――」

 

 うんうんと唸りながら悩むトワ。そんな彼女の姿にジョルジュは苦笑し、アンゼリカは何やら怪しげな事を言い出す。が、その言葉は「あっ!」と何か思いついたような声に遮られてトワには聞こえなかった。

 

「そうだっ! 『アンちゃん』ならピッタリだよ!」

 

 名案とばかりにトワは手を合わせて嬉しそうな顔をする。

 これなら違和感もないし親しみもある。トワの中ではもはや決定事項になっていた。

 

「…………」

「あの……トワ? 僕も大概、貴族相手に遠慮しないタイプだと思っているけど、流石にいきなりあだ名というのは……」

 

 だが、二人の反応はいまいち芳しくなかった。アンゼリカは面食らったように目をパチクリさせ、ジョルジュは遠回しに反対するような事を言う。

 アンゼリカはともかく、ジョルジュの線引きとしてはアウトだったのだろう。どうやら自分は誤って踏み込み過ぎてしまったらしい。トワはしょんぼりと肩を落としてあだ名を撤回しようとして。

 

「――ははっ」

 

 漏れ出た笑い声に「え?」と声を上げた。

 

「ははははははははっ!! そうか、あだ名を付けるとは!」

「ア、アンゼリカ?」

「フフッ、まったく君は悉く私の予想を超えていくと言うか……『アンちゃん』、良い呼び名じゃないか。私はそれで構わないよ」

「本当っ!?」

 

 いきなり爆笑し始めたと思ったら、これまた突然の承諾である。驚くトワに、アンゼリカは含み笑いを残しながらも当然と頷き返す。

 

「もちろんだとも。遠慮なく呼んでくれたまえ」

「よ、良かったぁ。じゃあ、これからよろしくねアンちゃん!」

「ははは。私もよろしく頼むよトワ。ジョルジュ、なんだったら君もあだ名で呼んでくれて構わないよ?」

「い、いやぁ……とてもトワみたいな順応性は持っていないというか……」

「そうか、残念だな。まあ考えておいてほしいな」

 

 ジョルジュが苦笑どころか引き攣った笑みを浮かべてアンゼリカの誘いを断っていたが、トワは嬉しさに舞い上がって気にもしていなかった。断られるかと思って落ち込んでいたところに、本人が構わないと言ってきたのである。喜びもひとしおになって、多少は周りが気にならなくなっても仕方がない。

 まあ、それでも落ち着きを失うほどではない。無駄に騒ぎ立てる事も無く、いつもよりニコニコと笑っているくらいだ。

 どちらかというと、テンションが上がっているのはもう一方の方だった。

 

「よし、それでは行くとしよう! 待っていたまえトワとのバラ色の青春!!」

 

 言うや否や走り出すアンゼリカ。トワに言っている事の意味はよく分からなかったが、取り敢えず旧校舎の脱出に非常に意欲的な事は察することが出来た。

 

「あはは、アンちゃんったらすごい勢いで行っちゃって。何かいい事でもあったのかな?」

「……まあ、そういうところはトワの美点だと思うよ」

「ふえっ?」

 

 小さく笑みを浮かべて呟くように言ったジョルジュは、問い質す間もなくアンゼリカの後に続いていく。いまいち理解の追いつかない事を言われてポカンとしてしまう。

 美点と言われても、自分は何かいい事をしただろうか。新しい友達にあだ名を付けたくらいである。さして特別な事をした覚えはトワにはない。

 

「――どういう事?」

 

 アンゼリカが上機嫌な理由もジョルジュの言葉の意味もさっぱり分からない。

 首を傾げていると、ノイが聞こえよがしに吐いた溜息が耳をくすぐった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「そっかぁ、アンちゃんは泰斗流の使い手だったんだね」

「ま、師事してからだいぶ我流も混じってしまっているがね。教わった期間も師匠が旅立つまでの短い間だったから、正当な使い手とは言えないだろう」

「色々な国を旅していた人から習ったんだっけ。えへへ、アンちゃんのお師匠様なら凄く強かったんだろうね」

「あまり自分の事は話してくれなかったが、末恐ろしいほどの達人だったよ。なんでも『飛燕紅児』と呼ばれていたとか。やれやれ、今はどこで何をしているのやら」

 

 アンゼリカと合流し、探索を再開して十数分。トワとアンゼリカはお互いが扱う武術の話で大いに盛り上がっていた。話の中身が女の子らしからぬ内容であることは、この際関係ない。友達と共通の話題で盛り上がるという事実が大事、とトワは思っている。

 アンゼリカは東方武術の一派、泰斗流の教えを受けた師匠の事を思い出したせいか、どこか懐かしそうだ。きっと郷愁のようなものを感じているのだろう。

 ただ、それを見せたのは僅かな間だけ。すぐに飄々とした様子に戻ると、今度はトワに問い掛けてきた。

 

「そういうトワはお爺様に剣を教わったそうだが、一体どういう人なんだい? 私の目が確かならば、君の剣は一つの完成した流派に則ったものに見えたからね。さぞ高名な剣士と思うのだが」

「そ、そんなことないよ~。故郷で用心棒みたいな事をしているだけだし、剣術だってお祖父ちゃんの我流を家族内で伝えているみたいなものだよ」

「じゃあ無銘の剣術という事かい? その割にはしっかりとしたものに感じたが……」

「うーん……昔は友達と武者修行をしながら大陸各地を歩き回っていたって聞いたことがあるけど、詳しい事はあまり知らないんだよねぇ」

 

 考えてみれば、トワは剣を教えてくれた母方の祖父の過去をあまり知らない。物静かで理知的な老人である祖父は、あまり自分語りをしないタイプだった。定期的に誰かしらから手紙は届いていたので交流関係はそれなりにありそうなのだが。

 里帰りする機会があれば聞いてみよう。今はそう記憶の片隅にメモしておくくらいしか出来ない。

 

「何にせよ大したご老人のようだ。歳は御幾つになるんだい?」

「もう80に差し掛かるくらいだよ。でも衰えは全然感じさせなくてね、たまに一番弟子の伯父さんが帰ってくる度に手合わせしているんだ」

 

 言いながらその情景を思い出して、つい笑みが零れる。

 その時に限って「まだ負け越してやれない」と意地を張る祖父に、子供みたいに対抗意識を燃やす伯父。お互いに本気で派手にやり合って、結局は二人揃って母にやり過ぎだと叱られる。トワはその様子を父やノイと一緒に苦笑いしながら眺めていたものだ。

 故郷を出てからそう日も経っていないのに随分と懐かしく感じる。ホームシックと言う訳ではないが、やっぱり自分はあの島が好きなのだろう。

 他にも思い出はたくさんある。出来ればアンゼリカに語り聞かせたい所だが、仮にも自分たちは魔獣の出る迷宮区画の探索中である。あまり話し込むわけにもいかないし、そろそろ切り上げなければいけない頃合いのようだ。

 

「仲睦まじそうなところ申し訳ないけど、もうじき開けた所に出るみたいだよ。一応、万が一に備えておいてくれ」

 

 聞き役に徹していたジョルジュが注意を呼びかける。油断していて魔獣に隙を突かれたら洒落にならない。改めて気を引き締め、トワたちは通路の先の広間へと足を踏み入れた。

 

「……ふむ、魔獣の気配はないようだね」

「どうやらそうみたいだ。いや、助かったな。流石にそろそろ疲れてきたからね」

「あっ! アンちゃん、ジョルジュ君、あれを見て!」

 

 今まで通過してきたところよりも一回りは大きい空間。まずは周囲を警戒するが、幸いにして魔獣の姿は見当たらない。ジョルジュは安堵の息を吐いた。

 そこでトワは声を上げる。二人にも分かるように指で指し示したその先は、広間の奥にある階段を上った先の扉だった。僅かに光が漏れており、風の流れも感じられる。導き出された答えに一同の表情が明るくなった。

 

「きっとあれが出口だよ! はぁ、やっと戻ってこれたんだ」

「結構な長さだったからね……個人的には食堂で甘いものを頼んで疲れを癒したい気分だよ」

「まあ、気持ちは分からないでもない。あの扉の先で、サラ教官が面倒事と一緒に待ち受けていそうな気もするがね」

 

 アンゼリカの指摘にジョルジュは渋い顔になる。地下に落とされた経緯を魔獣の相手に集中して忘れてしまっていたのだろう。それがあったか、と肩を落とす。さしものトワも苦笑いしてしまった。

 そこでふと気付く。自分たちと一緒に落とされた、もう一人の被害者の事を。

 

「そういえばクロウ君と会わないまま来ちゃったね。先に来た様子もないし、探しに行かなくて大丈夫かなぁ……」

「ああ、あの男か。すっかり忘れていたな」

「アンゼリカ……流石にそれはどうかと思うよ」

 

 この広間に自分たち以外の者が足を踏み入れた形跡は見られない。少なくとも、昨日今日にかけての最近では。という事は、クロウはまだダンジョン区画にいる事になる。

 身の危険に関してはノイにも確認してもらったので心配していないが、このまま自分たちだけ脱出するのは気が引ける。相手の感情はともかく、引き返して合流してから一緒に抜け出すべきではないかとトワは思う。

 もっとも、それは人の良いトワの意見だ。アンゼリカに至っては、彼についてどうこうする以前に頭からすっぽりと抜け落ちていたようだ。

 

「いやはや、トワに夢中になっていたせいでうっかり忘れていてしまったよ。そういえばいたな、あの頭にくる男も……うん、放っておいていいんじゃないのかい?」

「ア、アンちゃん……」

 

 思い出しても即座に切って捨てる有様である。やはり、落とされた直後の一悶着が尾を引いているのかもしれない。

 

「別に余計な気を回してやらなくとも勝手に辿り着くだろうさ。私たちが気に掛ける必要はない」

「それはそうかもしれないけど……やっぱり同じテスト要員に選ばれたんだし、仲間として置いていっちゃうのはどうかなって」

「フッ、私としては薄っぺらな笑みで取り繕っているような奴を仲間と認めた覚えはないがね」

「やれやれ、会って間もない相手を随分と嫌うじゃないか」

「嫌っている訳じゃないさ。あの男の態度が気に入らないだけだよ」

 

 アンゼリカは一見すると変わりない様子だ。口ぶりも態度も飄々としている。

 しかし、その顔には僅かながら不快そうな色が見え隠れする。きっと言っている事も本心からくるものなのだろう。トワが気掛かりに感じた違和感が、彼女にとっては気に食わないものだったのだ。

 碌に言葉を交わさない内から険悪な雰囲気のアンゼリカとクロウの仲を物悲しくは感じるが、現時点では手の出しようもない事は分かっている。そもそも二人の間の問題なのだ。横合いから下手に割り込むような事でもない。せめて出来る事があるとすれば、決定的に仲違いしない様に見守るくらいだろう。

 それに、もしかするとトワもクロウから嫌われているかもしれないのだ。まずは人の事よりも自分の事を先に考えるべきかもしれない。

 

「じゃあ私だけで様子を見てくるから、アンちゃんたちは先に上に戻っていても――」

「それは駄目だ!」

 

 考えを改めて、まずは自分だけでクロウと接触を図ろうとしたのだが、返って来たのはアンゼリカの力強い否定だった。一緒に行きたくないなら一人で行けばいいと思ったのに、いったいどうしたというのか。

 思いがけない事態に戸惑うトワ。当人は「あの男と二人っきりにする訳には……」などとブツブツと呟いており、余計に困惑に拍車を掛ける。本当にどうしたのだろう。

 そしてアンゼリカは本当に、本当に仕方がなくと言った様子で意見を翻した。

 

「くっ、トワがそこまで言うのなら仕方がない。多少は節を曲げて付き合おうじゃないか」

「えーと……別に無理して付いてこなくてもいいんだよ?」

「無理などしてないさ。むしろ君を一人で行かれる方が私には心苦しく感じる」

 

 最後だけはきっぱりと言い切った事から、おそらくは本気なのだろう。ただの親切心で付いてきてくれるにしては妙に力が籠っていたが。意図はともかくとして、ありがたく「じゃあ、お願いするね」と頼むことにする。

 まあ、また一悶着が起きる気もするが、その時はその時だ。何とかして場を収めるようにしなければ。

 

「そうだ、ジョルジュ君は疲れているなら……って、どうしたの?」

 

 アンゼリカは付いてきてくれることになったが、疲労の溜まっているジョルジュにまで無理をさせる訳にはいかない。よければ先に戻っているようにと言おうとして、目を向けた先の彼の様子に首を傾げる。ボンヤリとした様子だったジョルジュは、その声にハッとした。

 

「いや……そこの彫像がちょうど目に入って、いい出来だなと思っていてさ」

「彫像?」

 

 ジョルジュが指差す方向、トワの背後に振り返る。そこにあった物体を目にしてトワは思わず固まった。

 

「へえ、見事なものじゃないか。骨董品として売ったらいい値がつくんじゃないかい?」

「うーん、流石にそれは分からないけど」

 

 有翼の魔獣を模した彫像。台座に据えられたそれは細部まで精巧に形作られた見事なものだった。あまりの精巧さに生々しささえ感じられてしまうほどである。二人が感心するのも無理ない事と言えた。

 だが、トワが硬直してしまったのは彫像が見事だったからではない。それがただの彫像ではなかったことと、ノイが言っていた事が頭の中で結びついたからだ。

 そうだ、確かに彼女は言っていた。終点に厄介な奴(・・・・)がいると。

 

「二人とも、それから離れてっ!」

 

 咄嗟に出した言葉。それに二人が怪訝そうな反応を返す間もなく、それは目を覚ました。

 漏れ出る喉を鳴らす音、四肢の付け根に暗い紫の光が宿り、石の体表が生物の様に動き出す。太く強靭な脚を以て彫像と思われていたそれは台座から跳び下りる。階段前に降り立ったのは、まるでトワたちの道を塞ぐかのようだった。

 

「――――!!」

 

 そして咆哮。旧校舎で徘徊していた魔獣とは比較にならないそれに、トワは表情が厳しくなるのを自覚した。

 

「な、何なんだいこれは!?」

「くっ、魔獣……いや、これは……」

「――石の守護者(ガーゴイル)、暗黒時代の魔導の産物だね。この旧校舎地下の最後の障害ってところかな」

 

 伝承に登場する石に命を吹き込まれた魔物。この建物も暗黒時代のものかと予想してはいたが、まさかそんなのが出てくるとは。地下に落としてくれた張本人の顔を思い浮かべて、トワは少し頭が痛くなった。

 どうやら、この魔物を倒さなければ上階に戻る事は叶わないらしい。ギラギラとした目つきで睨みつけてくる様子からも、先にクロウを探しに引き返すという訳にはいかないだろう。三人で力を合わせて打ち倒すしかない。

 息を整え、腰の得物を抜刀する。覚悟を決めた目は鋭くなっていた。

 

「どうやら倒さなきゃ帰れないみたい。頑張ってなんとかしよう!」

「……ふむ、基本的には魔獣と違わないようだね。それならどうとでもなるか」

「ふ、二人ともこんな化物相手によく落ち着いていられるね……」

 

 二人もそれぞれ武具を構える。胆力のありそうなアンゼリカはもとより、ジョルジュも決して臆してはいない。自分以外の落ち着き様に苦笑いを浮かべてはいるが。

 だから何も問題は無い。目の前の敵を倒して、その後でクロウも探し出して一緒に脱出する。自分はそれを為すために力を尽くすだけだ。

 ガーゴイルの肢体に力が籠る。それを見取り、トワは声を張り上げた。

 

「迎撃準備! みんな、全力で行くよっ!!」

「「おおっ!!」」

 

 鋭利な爪が振り上げられ、それに合わせて三人も動き出す。

 旧校舎の地下、トワたちにとって初めての試練の火蓋が切って落とされた。

 



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第4話 発足

序章にあたる部分はここまで。今後は、ある程度書き溜めができたら投稿していく予定です。


 ガーゴイルという異形の化物を前にして、アンゼリカとジョルジュは普通の魔獣を相手にするよりも慎重になっていた。自分たちの常識の範囲外の存在が相手なのだ。攻勢に出るのを躊躇いもする。

 それに対してトワは何の気負いもなかった。無謀な訳でも自棄になった訳でもない。目の前の存在が強敵でも倒せると知っていたからだ。勘のような曖昧な感覚ではなく、確かな経験による知識として。

 振るわれた鋭利な爪を後ろに跳躍して回避。着地と同時にバネのように身を屈め、勢いをつけてガーゴイルの懐を目掛けて走り出す。

 狂暴な光を宿した瞳が小柄なそれに狙いを定める。唸り声をあげ、その巨体を横向きに振るった。太く長大なガーゴイルの尾が凶器となってトワを薙ぎ払おうとする。

 だが、それも彼女が足を止める理由にはならない。

 

「やっ!」

 

 迫り来る尾と地面の僅かな隙間。スライディングの要領でそこに身を潜り込ませて攻撃を凌ぎ、勢いを殺すことなくガーゴイルの懐へと飛び込む。大振りな動きで隙を晒す相手に両手で握り直した打刀を叩き込んだ。

 一撃、二撃、三撃。淀みの無い連続した斬撃を胸部に刻む。

 呻くような音、それに続く怒りの咆哮。荒々しい反撃が襲い来るが、その時には既に距離を離している。隙を突いて攻撃し無理することなく離脱。基本的にはこれで問題なさそうだ。

 そう、問題は無い。ただ時間は掛かりそうだ。斬りつけた時の感覚を思い出し、つい難しい表情になる。

 

「……やっぱり硬いなぁ。あまり効いてないみたいだし」

 

 石の守護者と呼ばれるだけはある。体表は硬く、攻撃は通っているが有効打とはなっていないように見える。現にガーゴイルは胸の傷を気にした様子もなくトワの前に立ちはだかっていた。

 硬くて斬撃が通らないなら別の手段を使うまで。躊躇いもせずに突っ込んでいったトワに度肝を抜かれたのか、どこか呆けた顔をする二人の特性を鑑みて即興の作戦を立てた。

 

「アンちゃん、前に出てガーゴイルの目を引き付けて! ジョルジュ君は私と一緒にアーツで攻撃を!」

「……! なるほど、了解した!」

「わ、分かった!」

 

 トワの言葉からすぐさま意図する事を読み取ったのだろう。アンゼリカは間髪入れず動き出す。

 自らに斬撃を入れた標的に意識を集中させていたガーゴイルの横に回り込み、その横っ腹に腰の入った一撃を叩き込む。重い拳は剣よりも硬い体表の内部に響く。思わぬ方向からの衝撃にガーゴイルが呻き、トワに向けていた敵意の目がそちらに逸れた。

 機を逃さずトワは後退、ジョルジュの近くまで跳び下がる。そこでは既にジョルジュがARCUSを準備して待っていた。

 

「ジョルジュ君、タイミングを合わせていくよ!」

「ああ!」

「「ARCUS駆動!」」

 

 従来の戦術オーブメントよりも少し大きめのサイズにはまだ慣れていないが扱いに問題は無い。クオーツが嵌った導力回路をなぞり駆動を開始する。使用者とシンクロしたARCUSが魔法現象の展開プロセスを代行、トワとジョルジュのアーツはほぼ同時に発動した。

 

「アンちゃん!」

「っ!」

 

 トワの呼びかけに、ガーゴイルを引き付けていたアンゼリカが相手から距離を取った。その後を追おうとする魔物にアーツが放たれた。

 まずはトワ。宙に形成された水の飛礫がガーゴイルに向けて撃ち出される。水のアーツ、アクアブリード。高速で命中した水弾は石の体表を突き抜けて衝撃を与え、ガーゴイルは追撃の足を止めざるを得なくなる。

 次いでジョルジュも間髪を入れずに発動させる。地のアーツ、ストーンハンマーにより形成された岩の槌がガーゴイルの頭部を打ち付けた。さしもの古の魔物も、これには怯んだ様子を見せる。連続して放たれたアーツは確実にダメージを与えていた。

 硬質な体を持ち物理的な攻撃が通りにくいのなら、その防御力を無視できる魔法的な攻撃を主軸に置いていくまで。即席の簡単な作戦ではあるが上手く機能してくれたおかげでガーゴイルは体勢を崩した。そして、その隙を逃すほど前衛を務めてもらっている彼女は甘くない。

 

「ハアアァァ……セイヤァッ!!」

 

 高められた気を纏った鋭い蹴り、そこから猛烈な速度で真空波が放たれる。怯んだ状態の相手に外す訳もない。直撃した痛烈な一撃にガーゴイルは堪らず後ずさった。

 この好機を逃す手は無い。更なる追い打ちを掛けようとして、そこでトワはガーゴイルの変化に気付き走り出そうとした足を引き留める。

 度重なる攻撃により石の体表は罅割れていた。その罅が亀裂となって徐々に広がっていく。ピシピシと音を立てて、まるで蛹が羽化するかのように。トワと同じように警戒してアンゼリカも一旦距離を開けた。

 

「――――!!」

 

 ガーゴイルが咆哮を上げる。それが合図だった。

 亀裂の入った石の体表が砕け散る。灰色の残骸がバラバラと足元に降り積もらせ、より生物染みた黄土色の甲殻と青い獣肌が露わとなる。

 防御力は下がっていそうだ。これなら自分の剣も通るだろうか。

 様子を見ながら算段を立て、いざ斬り込もうとした矢先――ガーゴイルが、飛んだ。

 

「な……!」

「そっか、身軽になったから……って、うわわっ!?」

 

 突然の飛翔に驚いていられるのも束の間、暴力的なまでの強風が襲い掛かってくる。滞空するガーゴイルの翼より生み出されるそれにより、面と向かっては足を踏み出すことも儘ならない。

 石の鎧を脱ぎ捨てたガーゴイルは鈍重な動きから一転、空に居座る翼竜と化した。強風でこちらの動きに制限を掛けてくることはもとより、空中に留まっているという点が非常に厄介だ。幸いにも高度はそれほど高くは無いが、頭上を取られている事には変わりない。

 だが、だからと言って尻込みしている訳にもいかない。目の前の障害を打ち倒し地上に帰るためにも、頭を巡らせ身体を動かし続けなければ。

 

「……私とアンちゃんで左右から仕掛けよう。ジョルジュ君、援護はお願いできる?」

「くっ……な、何とかやってみる!」

「時間を掛けると面倒な事になりそうだ。速攻で行くとしよう!」

 

 強風に煽られないようにしながら左右に展開、トワとアンゼリカは挟み撃ちをするように挑みかかっていく。対するガーゴイルは爪牙と鞭のような尾をもって迎え撃つ。

 断続的に繰り出す剣と拳。返し手の暴力的な一撃を紙一重で凌ぎつつ、空に居座る翼竜へと攻撃の手を緩めない。後方からのアーツによる援護も交えて地に引き摺り落とさんと攻防を繰り広げる。

 石の鎧を引き剥がした事によりトワの剣も通じるようになった。獣肌を斬り付ければ傷が刻まれ、ガーゴイルも苦痛を感じているような素振りを見せる。

 だが、硬さと引き換えに手にした空という(フィールド)が、こちらの攻め手を勢い付けさせてくれない。跳べば届かない事もない。しかし自分たちの本分は地上でこそ発揮できるものだ。トワは機敏さと手数で攻めるタイプであるし、アンゼリカはしっかりとした踏込からの重い一撃が得手だろう。そのどちらも敵が空にいては活かせない。

 一度の跳躍で一、二撃入れるのが限度。それ以上は身体の自由が利かない空中では反撃を喰らう。援護のアーツも初歩的なものしかないため決定打になり得ない。結果として微々たるダメージしか与えられていなかった。

 

「それなら!」

 

 このままでは埒が明かない。トワの決断は早かった。

 ガーゴイルの側面から背後へ回り込もうとする。当然、それを易々と許す相手ではない。道を阻むように尾が振り払われ、トワを吹き飛ばそうとした。

 だが、トワとて闇雲に戦っていた訳ではない。尾の動きには既におおよその見切りが付いている。タイミングを見計らい、高跳びをするように跳躍して回避。追撃も警戒したが、アンゼリカがガーゴイルを殴りつけて気を引いたことで免れた。

 心中でアンゼリカに感謝する。そして彼女のおかげで取れた魔物の背に向けて思いっ切り跳び上がった。

 自身の脚力で届くのはガーゴイルの下半身が精々。それでは足りない。背の甲殻に足を掛け更なる跳躍の足場とする。二度の跳躍を経て、ようやく標的を眼下に捉える。

 魔物を空に留める原動力。力強く羽ばたく巨大な翼、その翼膜。跳躍の頂点から重力に従って落下が始まる。両手で打刀を携え、一切の躊躇もなく、トワは落下の勢いのままに斬り裂いた。

 瞬間、つんざくような叫び声が鳴り響く。翼膜を斬られてバランスを崩したガーゴイルが地に墜ちる。上手くいった。トワは内心でホッと息をつく。

 

「よくやった、後は任せたまえ!」

 

 空から引き摺り落としただけでは終わらない。待っていましたとばかりに獰猛な笑みを浮かべるアンゼリカがガーゴイルを迎え入れる。

 大きく足を踏み込み、まずは右のストレート。続いて振り抜かれる左からのブロー。まだまだ足りないと蹴撃が顎を打ち据える。鬱憤を晴らすような連撃に呻き声が上がるが、彼女は決して好機を逃そうとはしない。極めつけの掌底が叩き込まれ、その体躯が僅かに浮き上がるほどの衝撃がガーゴイルの体内を駆け巡る。

 それでも体力は尽きておらず、崩れ落ちまいと脚に力を籠めた翼竜。その前に大きな影が差しかかる。

 

「どっ――せええぇぇい!!」

 

 鉄槌がガーゴイルの胴に打ち付けられた。そう認識できたのは、まさに一瞬だった。

 爆音が響き、そしてガーゴイルの体躯が今度こそ完全に浮き上がった。数秒ばかり空を飛び、無防備に背中から地面に落ちる。距離にして3アージュばかり自由飛行した魔物は、そこでピクリとも動かなくなった。警戒をするが動き出す様子は無い。力尽きたか、気絶しただけか。

 はあ、と大きく息を吐く音が聞こえる。見れば、ジョルジュが緊張を解いた様子で座り込んでいた。その手に持つ機械槌の先端から煙が立ち上る様子は否が応にも目を惹かれる。

 

「なかなかイケてるハンマーじゃないか。それ、どういう仕組みなんだい?」

「ああ……小規模な導力爆発を起こして威力を上げているんだ。まあ、もう少し調整する必要はありそうだけど。反動で手が痺れてしまったよ」

「あはは……私は単純に、いきなり大きな音がしてビックリしたよ」

「はは、それはすまない」

 

 咎めるつもりは無いが、トワが驚かされたのも確か。いきなりの爆発音に、ついつい肩がビクッとなったのである。心臓が飛び出るかのような心地だった。

 苦笑いと共に謝罪しながらジョルジュは「よっこらしょ」と立ち上がる。手が痺れたとは言っているが、動けないほど疲弊している訳でもなさそうだ。体力はそれなりに有る方なのだろう。

 

「ともかく、ここはもう大丈夫だろう。少し休憩したらクロウを探しに……」

「あ、それなんだけど」

 

 それなら、まだ自分の身を守るくらいは出来る筈だ。

 すっかり終わったつもりでいるジョルジュにトワは無慈悲な事実を伝えた。

 

「あのガーゴイル、まだ行かせてくれるつもりじゃないみたいだよ」

「…………はあ、勘弁して欲しいな」

「やれやれ、しつこい奴は嫌われるという事を知らないのかな」

 

 再び活気をその身に宿し、トワたちの前に立ちはだかるガーゴイル。よく見ると斬り裂いた翼膜をはじめとした傷が部分的に消えている。おそらくは再生能力を持っているのだろう。倒れている内に完全とはいかずとも修復したのか。

 ちゃんとトドメをさしておけば良かったと思うものの時すでに遅し。第2ラウンドに突入する他ないようだ。

 敵は癒えた翼を羽ばたかせ空中に舞い戻った。また引き摺り落としたい所だが、同じ手が通じるかどうかは微妙な所である。そして何よりも、トドメをさすのに必要になるだろう大技を放つ隙を作れるかと言われると不安しかない。

 

(ノイの力が借りられればいいのだけど……)

 

 今も広間のどこかで――もしかしたらハラハラしながら――見守っているだろうお目付け役の事を思い浮かべる。彼女の助けを得ればガーゴイルを倒す事もさほど難しくはない。

 しかし彼女の攻撃手段は割かし派手なものが多い。手を出すとなると間違いなくアンゼリカとジョルジュには露見してしまうだろう。それは出来るだけ避けたい。

 やはり何とか自分たちだけの力で倒すしかない。そう思い直し、刀を構え。

 

 

「――ちっ、しょうがねえな」

 

 

 突如として、銃声が鳴り響いた。

 けたたましい音と共に飛び込んでくる無数の銃弾。その全てがガーゴイルの両翼に吸い込まれるように命中する。翼に風穴を穿たれ、またもや翼竜は地に墜ちる。

 思いがけず訪れた好機。けれどもトワの目は前ではなく後ろに向いていた。

 ガス欠気味のジョルジュが控える後方よりもさらに先、広間の入り口近くに見えるバンダナが巻かれた銀髪。見間違える筈が無い。

 

「クロウく――」

「オラ、ぼさっとしてんじゃねえ! さっさと片付けるぞ!」

「ふえっ!? わ、分かった!」

 

 即座に怒鳴り返されてしまって素っ頓狂な声が出る。それでも胸の内は喜びで一杯になっていた。もしかしたら嫌われているかもしれない相手、クロウ・アームブラストが二丁の導力銃を携えて助けに現れてくれたのだから。

 トワ、クロウ、アンゼリカ、ジョルジュ。バラバラになっていた四人がようやく揃って並び立つ。

 

「女の子に怒鳴りつけるとは礼儀がなっていないね。日曜学校からやり直したらどうだい?」

「あん? まともに制服のスカートすら履かない奴が言う事とは思えねえな」

「まあまあ、抑えて抑えて」

 

 同じ場には揃っても心情はバラバラのまま。特にクロウとアンゼリカは早速火花を散らしている。

 このわだかまりを解消するには長い時間が必要なのだろう。もしかしたら、ずっとこのままという可能性もある。絶対に仲良く出来る保証なんて何処にも無いのだから。

 

「もう! クロウ君もアンちゃんもすぐに喧嘩しないで、こんな時くらい協力してよ!」

 

 だが自分たちは今、同じ目的を持ってこの場に立っている。目の前に立ち塞がる敵を打ち倒し地上に生還する。その後に教官に文句を言うかどうかは個人によるだろうが。

 その目的があれば手を取り合うことだって不可能じゃない。お互いの利益を鑑みた、一時的な協力体制。いささかドライな関係だが仲違いよりはずっといい。

 気に入らなさそうな目でねめつけ合う二人。だが、頭では理解していたのだろう。結局はお互いに折れた。

 

「……仕方がない。後ろは任せるが、背中を撃たないでくれたまえよ?」

「へっ、ぬかせ。バックアップはしてやるからアレをキッチリ仕留めやがれ」

「とは言っても、倒しても起き上ってくるんじゃなぁ……どうやったら仕留めきれるのやら。トワ、何か知っているかい?」

「うーん、そうだね……」

 

 ガーゴイルの打倒という共通の目的。それを果たすためには例の再生能力をどうにかしなければならない。もっとも落ち着いて対処していたトワが何かしらの知識を有していると察したのだろう。ジョルジュが尋ねてくる。

 再生能力を攻略する方法は極めて単純だ。つまり、再生できないほどの大きな損傷を与えてしまえばいい。首を落としたりすれば、さしもの再生能力も役には立たない。

 そしてトワはそれを可能にする力を持っている。伊達に祖父から剣の教えを授かった訳ではない。

 

「みんなで隙を作ってくれれば、なんとか出来ると思うんだけど……」

 

 ただし、それはガーゴイルの目がトワから完全に外れていたらの話だ。絶え間なく攻撃して視線と動きを固定し、死角からの必殺の一撃を叩き込む。そんな連携が今の自分たちに出来るだろうか。

 正直あまり上手くいくとは思えない作戦を言い出すべきか迷う。ガーゴイルが体勢を立て直しつつあるのを目にして焦りが出始める。変化が訪れたのはその時だった。

 

「……? これって……?」

「なんだ? 身体から光が……」

 

 身体から漏れ出るように光が溢れてくる。突然の事に戸惑うが、嫌な感じはしない。ただ不思議な感覚だった。

 みんなの事が、分かる。間合い、攻撃方法、それぞれの戦術。それらが感覚的なものとして伝わってくる。まるでお互いを知り尽くしたパートナーのように。

 どのような理屈でこんな感覚を得られているのかは理解できない。だが、直感的に分かる事ならあった。

 ――これなら、いける。そんな確信だ。

 

「よく分からねえが……」

「何とかなりそう、だね」

「ああ、きっと出来るさ」

「行こう、みんなっ!」

 

 翼の風穴を修復したガーゴイルが再び立ち上がる。だが、もはや脅威は感じなかった。自分たちなら倒せる。そんなビジョンが四人の間で共有され、それに従って動き出す。

 クロウが導力銃を連射し、飛び立たんとするガーゴイルを牽制。その動きを封じる。

 その間にトワはアーツを駆動。火の補助アーツ、フォルテで火力を補強する。

 

「そら、さっさと行きやがれ!」

「言われずとも!」

 

 先んじてガーゴイルに接近するのはアンゼリカ。銃弾が飛び交う中に躊躇いも無く飛び込み、どこを進めばいいのか言葉にしなくとも理解しているように走り抜ける。ひとたび密着すれば、そこは彼女の拳の間合い。遠慮の欠片もない連撃が相手の動きを鈍らせる。

 鈍ったガーゴイルの頭部が横っ面から強かに揺さぶられた。振り抜いた機械槌を、ジョルジュは遠心力を利用して下から掬い上げる。重い鉄塊の二連撃にガーゴイルは怯んで動きを完全に止める。

 

「トワ!」

「うん、行くよっ!」

 

 そして掬い上げられた機械槌の先端に足が掛かる。先端の位置がもっとも高くなる絶妙なタイミング。何の打ち合わせも無くそれを掴んで見せたトワは思いっ切り跳躍する。高く高く、天井にまで届かんばかりに。

 

「あとは頼んだよ!」

「幕引きは任せた!」

「きっちりと決めやがれ!」

 

 身から力を抜き、心は平静に。剣を振るうのに余計なものは要らない。ただ魂と意志がそこにあればいい。

 刃を下へ。その先の打ち倒すべき敵に向けて。突撃するかのような構えを取る。

 身に纏う闘気。金色の波動に包まれ、全ての準備は整った。

 

「空を奔れ――」

 

 今の自分に出来る限りの最高の一撃。それを解き放つ。

 

「流星撃!!」

 

 ――その時、地下の広間に星が流れた。

 光が空中を疾駆し、ガーゴイルが気付いて見上げた時には全てが遅かった。瞬く間に迫った必殺の一撃が、その背に突っ込んで余りある衝撃力で地面に押し潰す。トワの全力の攻撃はガーゴイルの背骨を叩き折った。

 潰されたガーゴイルは頭を苦しげに振り上げ、そして力なく落とした。今度こそ完全に力尽きた。その体躯も跡形も残すことなく消滅する。

 着地した態勢のまま、しばらくしゃがんでいたトワ。ガーゴイルの消滅を見届けてようやく立ち上がる。得物を一度払い、腰のベルトに差した鞘に納め、

 

「…………はぁ」

 

 ふらりと後ろから倒れてしまった。

 

「ちょっ、トワ!?」

「あ、あはは……流石に疲れちゃって……」

「やれやれ、締まらねえな。あのまま決め台詞でも言ってたら完璧だったのによ」

「分かっていないな。トワはこれだから良いんじゃないか」

「てめえの趣味なんて知らねえっつうの」

 

 慌てて駆け寄ってくるジョルジュに、早々に憎まれ口を叩き合っているクロウとアンゼリカ。倒れたまま逆さまの光景を見てトワは思う。この四人で協力することが出来て良かった、と。

 いつまでも倒れていてはジョルジュに心配を掛けてしまう。身体に勢いをつけて起き上る。背中の埃を払いながら、トワは「そういえば」と切り出した。

 

「最後の身体が光ったの、いったい何だったんだろう? 不思議な感覚がしたけど……」

 

 クロウとアンゼリカのいがみ合いもピタリと止まる。少なからず、それを狙っての発言でもあったが、不思議の思っているのも確かだ。

 戦闘における意思疎通を容易にして高度な連携を可能とする。あの光が自分たちに与えた効果を挙げるとするならば、こんなところだろうか。

 言葉にすれば簡単に聞こえるが、実際はそうはいかない。スムーズな連携を可能にするには、まずお互いの癖を知っておかねばならない。そしてどのタイミングで、どこに攻撃するのかも、同士討ちを避けるには了解しておく必要がある。それらを言葉にせず暗黙のうちに理解する。どう考えても出会ってから一日も経っていない自分たちに出来る事ではない。

 それがどうして土壇場で可能になったのか。心当たりと言えば一つしかなかった。

 

「何かあるとすれば……まあ、コイツだろうな」

「新型戦術オーブメントの試作型、だったか。私たち四人で共通する点など、これくらいだろうし」

 

 懐中時計型のオーブメント。従来のものより大きめのそれを揃って取り出す。学院に来てからの何かで先ほどの連携が可能になったのだとしたら、おそらくはこれが大きな要因なのではないか。

 自然と視線はジョルジュの方へと向く。サラ教官とのやり取りで彼は、このオーブメントについて何か知っている素振りを見せていた。他の三人としては注目せざるを得ない。

 本人にとっても案の定だったのだろう。「僕も詳しくは知らないけど」と前置いて口を開いた。

 

「このオーブメント――ARCUSには『戦術リンク』っていう機能が搭載されていてね。簡単に高度な連携を可能にする革命的なものと聞いていたんだけど……まさか、これほどとはね。正直、僕も驚いているところだよ」

「気持ちは分かるなぁ。みんなの動きが手に取るように分かる感じだったもの」

「試作型ってことは、これでも未完成なんだろ? 完成したらどうなるのか……革命ってのも、あながち大袈裟じゃねえのかもな」

「今は従来のものをベースに戦術リンク機能を組み込んでいるけど、構想だと新規格のハードウェアを採用するらしい。尤も、現段階ではリンクが安定しないようでね。サラ教官が言っていたテストやこのオリエンテーションっていうのも、その改善のためのデータ収集の一環なのかもしれない」

 

 詳しく知らないと言った割にジョルジュの口からは細かい情報が次々と語られる。新型オーブメントの構想をどうして知っているのかとか疑問に思う点もあるが、一先ずは納得する。きっと彼にも事情があるのだろう。

 

「まあ、否定はしないわ。それだけでもないけどね」

 

 頭上から第三者の声が響いたのは、そんな納得の直後だった。

 

「あっ、サラ教官」

「取り敢えず一発殴っていいか?」

「まあまあ、そう逸らないの」

 

 地上に繋がる階段、その上部に数時間ぶりにサラ教官が姿を現わす。落とし穴に嵌められた怒りを忘れられない様子のクロウは、もはや形式だけの敬語さえ使うつもりは無いらしい。相手は平然と流して悠々と下に降りてきたが。

 ともかくサラ教官が来たという事は、特別オリエンテーションはこれで終わりという事だろう。トワとジョルジュとしては一安心である。

 

「全員無事に戻って来れたようね。最後のヤツ、見ていたわよ。仲間と力を合わせて強敵を打ち倒す、うーん青春ねぇ」

「適当な事を言っていないで、いい加減に話してくれませんか? 私たちに参加して欲しいというテスト、戻ったら詳しい説明をしてくれるとカードに書いたでしょう」

 

 うんうん、と頷くサラ教官に痺れを切らしたのはアンゼリカ。言われた通りダンジョン攻略に付き合ってやったのだから報酬を寄越せ。程度の違いは有れど、その気持ちは四人に共通するものだ。そろそろ事情を話して欲しい。

 

「分かったわよ……君たちにやってもらいたいテストの内容は主に二つ。一つはジョルジュが言っていたように試作型ARCUSの運用、及びデータ収集」

 

 細い指をピッと一本立てる。「そして」と区切り、二本目が立てられた。

 

「二つ目がテストの最大の目的……特別実習の実証試験よ」

「と、特別実習?」

「……それが、特科クラスの特別なカリキュラムなんですね」

「ふふ、やっぱりあなたは鋭いわね」

 

 トワの指摘は肯定をもって返された。サラ教官は面白そうに笑みをこぼす。

 ……やっぱり、という言葉に引っ掛かりを覚えるが今は追及する暇はなさそうだ。

 

「月一回行う帝国各地での現地実習――それが特科クラスのカリキュラムにおける最大の特徴よ。君たちにお願いしたいのは、その実習が実際に上手くいくのか、また通常のカリキュラムとの折り合いのつけ方を確かめるための予行演習みたいなものね」

「帝国各地での実習、ねえ……こうなってくると俺たち四人を選んだのにも何か理由があるのか?」

「当たり前じゃない。特科クラスの生徒は貴族(・・)平民に(・・・)関係なく(・・・・)集めるつもりなんだから。そこら辺の様子見も君たちのテストに含まれるわ」

 

 クロウ、アンゼリカ、ジョルジュが目を見開く。驚きを露わにする三人に置いてけぼりを喰らったトワは戸惑ってしまった。

 確かに現在のクラス分けはⅠ組・Ⅱ組が貴族生徒、Ⅲ組~Ⅴ組が平民生徒と区別されている。その枠から外れた混成クラスを作るというのは耳に新しいかもしれないが、言ってしまえばそれだけだ。露骨に驚く理由がトワの価値観からは分からなかった。

 一人で戸惑っている内にも時間は進む。驚愕の表情のままジョルジュが口を開く。

 

「……本当にするんですか? 貴族と平民を同じクラスになんて」

「なんと言うべきか……思い切った事をしますね」

 

 信じられない、端的に表せばジョルジュもアンゼリカも同じ心持ちの様だった。きっと彼らにとって身分制度とはそれほど大きなものなのだろう。

 だが、トワにはその心情が理解できない。貴族と平民で区別して当たり前というような認識を持てない。

 ――貴族も平民も、この星に生きる同じ人間であることには変わりないのに。

 

「冗談でこんな事を言ったりはしないわよ。まあ、君たちにやってもらいたい事を具体的に挙げていくと――」

 

 ハッとして気を取り直す。今は考え込んでいる場合じゃない。トワはサラ教官の言う事を聞き逃さない様に耳を傾ける。

 まず月末に実施する予定の特別実習への参加。実際に帝国各地に赴き、そこでの活動を通してレポートを提出して欲しいという。問題点などがあれば遠慮なく報告して欲しいとの事だ。ちなみに実習に行っている間の授業は公欠扱いにするが、その分の遅れは補習をお願いしたりして取り戻すしかないらしい。結果的に学業面が大変になるという事である。

 そして試作型ARCUSの導入試験、及びデータ収集。こちらも特別実習と並行して戦闘経験を積み重ね、データと所感などを纏めたレポートを提出する必要があるそうだ。従来とは細部が異なる上、完成型が出来たらそちらのテストもやらなければならないそうなので実習とは別の意味で大変になりそうだ。

 学院側でもサポートは怠らないが、やはり普通よりも負担は大きくなるらしい。その分、色々な経験を詰める事は保証するけれども。

 

「――とまあ大体こんな感じなんだけど、それを承知してもらった上で改めて聞かせてもらうわ。特科クラス、そしてARCUSの導入テスト……これに参加するかどうか、ここで決めてちょうだい」

 

 提示された選択肢。即答する者はいなかった。皆と目を合わせてみても、返ってくるのは迷い、逡巡、適当に肩をすくめるなどと自分と同じく決めかねている様子しか見えてこない。

 いや、それは今この場において関係は無いだろう。トワ自身がどうしたいのか。この選択において重要なのは他ならぬ自らの意志なのだから。

 

「あの、一応聞いておきたいんですけど……断ったらどうなるんですか?」

「特にどうもならないわよ。普通のカリキュラムに従って学院生活を送るだけ。まあARCUSは返却してもらうけどね」

 

 簡潔な返答に「なるほど」と頷く。何の変哲もない学生として過ごすか、あるいは波乱万丈な冒険に繰り出すかの二択という訳だ。

 普通よりも苦労するのは別に構わないと思う。それを苦にする性格でもないし、自分が何かの役に立てるのなら進んで協力したい。勉強も頑張ればどうとでもなる範囲だろう。

 テストの目玉である特別実習だって興味を惹かれないと言えば嘘になる。生まれも育ちも辺境の果てとも言える離島で、外の事は今まで伝聞か最寄りの港町しか知り得なかった。だから、こうして入学するまでの間に見聞きしたものでさえ初めての事ばかりで興奮しきりだったのに、更に学院の方から様々な場所に送り出してくれるというのだ。気にならない訳がない。

 そして何よりも、トワが故郷から出てきた理由、そして目的の一助になるのではないか。落ち着いて考えている内に彼女は、そう思えるようになっていた。

 ……なんだ、最初から迷う必要なんて無かったではないか。

 

「――トワ・ハーシェル、導入試験に参加します」

「へえ……」

「なるほど、一番乗りはあなただったか。案の定と言うべきかなんと言うべきか……ちなみに理由は?」

 

 迷いのないトワの申告にクロウから声が漏れる。どうしてか笑みを浮かべるサラ教官から問い掛けられるものの、それに対する答えにも淀みは無かった。

 

「見聞を広めるために故郷から出てきましたし、色々な所に行かせてくれるというのならぜひお願いしたいくらいです。それに、私が役立てる事なら出来る限りやってみたいですから」

 

 外を知りたい、誰かの役に立ちたい、どれも偽らざる気持ちだ。だから迷わない。自分の気持ちに従った心からの言葉だからこそ、そこに淀みは無いし見返す瞳は純粋な光に満ちている。

 サラ教官が納得したように深く頷いて「一人、確定ね」と呟く。彼女にとっても文句なしの理由だったのだろう。ここにトワの参加は決定事項となった。

 先を行く者が現れれば、それに続く者も現れる。トワの横に並び立つようにアンゼリカが前に進み出た。

 

「ならば私も。アンゼリカ・ログナー、謹んで参加させてもらいます」

「二人目はあなた、っと。理由は?」

「聞いている限り随分と面白そうな試みでしたからね。普通に過ごすより退屈せずに済みそうかな、と」

 

 アンゼリカは「それに」と言葉を続けると同時に、トワの肩を抱いて引き寄せる。思わず驚きの声を漏らしながら見上げると、彼女は端正な顔に笑みを浮かべた。

 

「こんな可愛い上に面白い子が一緒なら参加しない手は無い。よろしく頼むよ、トワ」

「う、うん……よろしく」

「不純な動機ねぇ……ま、いいわ」

 

 呆れ顔から切り替えたサラ教官の目が別の方へ向く。残ったのは男子勢二人。ジョルジュは悩ましげな表情を浮かべ、クロウはどこか気怠そうにしている。見た目で明白かどうかの差はあるが、どちらも考え込んでいる事には間違いなさそうだ。

 少しばかりの沈黙。それを破ったのはジョルジュの方だった。

 

「……うん、決めた。ジョルジュ・ノーム、導入試験に参加させて頂きます」

「三人目も参加ね。君の理由は?」

「はは、苦労する事を考えると遠慮した方がいいかと思ったんですけど……やっぱり、コイツの事が個人的に気になって」

「ARCUSの事が?」

 

 掌に乗せたオーブメントを眺めながら複雑な表情を浮かべるジョルジュ。楽しそうな、それでいて何か思うところがあるような、そんな正と負の感情が綯い交ぜになったような表情だ。

 それが何なのか不思議に思っている内に表情が変わる。ふと入れ替わるように浮かんだのは苦笑だった。

 

「それに、きっと僕の経歴を知った上での人選でしょうから。出来る限り役に立たせてもらいますよ」

「あー……まあ、確かに君に関しては割と露骨でしょうね。それでもいいの?」

「ええ、よろしくお願いします」

 

 どうやらトワたちには知り得ない事情があるようだが、ジョルジュも導入試験に参加する事は間違いない。一緒にやっていく中で話す気になってくれたら聞くくらいの心持でいよう、とトワはあまり気にしない事にした。

 

「さて、これで残り一人な訳だけど――君はどうするのかしら?」

 

 ジョルジュの参加も決まってしまえば皆の視線は自然と最後の一人に移る。クロウは面倒臭そうに頭を掻きながら「つってもなぁ」と零した。

 

「面白そうだとは思うし、ただ机に噛り付いているよりは断然良さそうだが……なあ?」

「……言いたい事があるなら、はっきり言ったらどうだい? 喧嘩なら言い値で買わせてもらうよ」

「そっちこそ一々難癖付けてきやがって。俺がそんなに気に食わないかよ」

「ああ。一度ぶん殴った方がマシな面になるんじゃないかとは思っているよ」

 

 クロウの流し目に反応したアンゼリカから、一時は収まったように見えた険悪な雰囲気がぶり返す。トワとジョルジュはやっぱりと肩を落とし、サラ教官は「あー、成程ね」と遅ればせながら事態を理解していた。

 アンゼリカの指摘に端を発する二人の確執。全員が導入試験に参加するにあたって、これは大きな壁となっていた。誰にしても気が合わない相手と進んでチームを組みたがりはしない。加えて戦術リンクの説明を聞く限り、戦闘における連携が重要となってくるのは間違いないだろう。仲違いしているような状態は望ましくない。

 このままではクロウは決して導入試験に参加しないだろう。だからと言って、トワに何かが出来るわけでもない。二人の問題は感情的なものだからだ。

 クロウは不真面目そうではあるものの、明るくて協調性もあるように見える。だが、それは表面上だけで実際はどこまでも冷めている。適度な距離感を保とうとしているだけで、そこに「熱」と言えるものは無い。トワにとってはそれが言い知れない違和感となり、アンゼリカにとっては腹の底から気に入らなかったのだ。

 嫌悪の感情を向けられればクロウも相応の態度を取る。二人の仲は余計に悪くなってゆき、解決の糸口は見出せない。そんな状態でクロウは導入試験に参加はしないだろう。

 

「へっ、それなら面を合わせないよう――」

「私は」

 

 ただ、それでもガーゴイルを倒した時の感覚は嘘ではなかった。

 お互いがそこに居るという確かな認識、自然と息が合う充足感、そして繋がり合っていることによる不思議な感情――言葉にすれば安心感だろうか。

 あの感覚は三人だけでは、クロウも居なければ出来ない。

 気付けばトワは二人の諍いに口を挟んでいた。

 

「私は、クロウ君も参加してくれた方が嬉しいな」

 

 しん、と静まり返る。少し哀しげな表情でありのままの気持ちを呟いたトワに言葉を返す者は誰もいなかった。クロウとアンゼリカさえも、唖然とするだけで言葉が出ない。

 急に静かになられてトワも焦る。ふと漏れ出ただけで、特に意図したものではなかったのに。

 

「ご、ごめんね。急に我儘みたいなこと言っちゃって。参加するかどうかはクロウ君自身が決める事だから、あまり気にしないで」

「それは……分かっているけどよ」

 

 参加するもしないもクロウの意思次第。それはトワも承知している。

 それでも参加してくれないのは悲しく感じられて、表情は自然と残念そうなものになっていた。

 ――少し気まずそうなクロウにかこつけて、周りが好き勝手に口を出してくるくらいには。

 

「クロウ、一ついいかな?」

「何だよ」

「君の事が気に入らないという気持ちに変わりはないが……まだ出会って間も無く、君をよく知らないのも事実。しばらくは休戦してお互いに様子見という事でどうだろう?」

「……随分と急に手の平を返すんだな。どういう風の吹き回しだ?」

「可愛い女の子の要望に関しては、出来る限り応えるように心掛けているのさ」

 

 アンゼリカに矛を収められ、肩透かしを食らった形になるクロウ。そのあんまりな理由も聞いてしまえば脱力せざるを得ない。

 

「そういえば君、入学試験の成績はあまり良くなかったそうね。そんな調子で単位をちゃんと取れていけるのかしら」

「余計なお世話だっつうの。というか今それに何の関係が――」

「あーあ、導入試験に参加してくれたら、お礼として単位を少しは融通してもいいって話があるんだけどなー。誰かさんにはとっても耳寄りな話だと思うんだけどなー」

 

 あからさまにチラチラと視線を投げかけながらエサをぶら下げてくるのはサラ教官。クロウはそのやり方に若干イラッときたのか口元が引き攣っている。

 ……トワが見る限り、エサの内容に心揺れてもいるようだが。単位を融通してもらえるという話に確かに反応していた。

 

「……まあ流れに従って言わせてもらうと、クロウが参加しないと少し勿体ない事になるとは思うね」

「も、勿体ない?」

「ARCUSの事だよ。戦術オーブメントは基本的にオーダーメイド、十数万ミラは下らない。加えてARCUSは複雑な戦術リンク機能も盛り込んだ最新鋭の実験機――おおよそ30万ミラくらいはするんじゃないかな」

「さ、30万ミラぁ!?」

 

 ジョルジュはジョルジュで何とも俗っぽい方面から口を出してくる。あまりの額にクロウは素っ頓狂な声を上げ、アンゼリカも「ヒュウ」と口笛を吹いた。反応が異なるのは二人の懐事情の違いの表れだろう。無論、トワは口をあんぐりと開けるような側である。

 

「製品化する頃にはコストも低くなっているだろうけど、現時点ではそれだけの費用が掛かっているからね。それをドブに捨てるような真似はどうかなぁ、とは思うよ」

「くっ、30万ミラもあれば競馬でもデカい勝負に……じゃねえ! それはRFやエプスタインの話で俺には関係ねえだろうが!」

「そこはほら、気持ちの問題だよ。気持ちの。それに男子が僕一人なんて気まずいじゃないか」

「明らかに最後の方が本音じゃねえかよ……」

 

 周りから色々と好き勝手に言われてクロウは頭を抱える。アンゼリカと相対していた時の澄まし顔は鳴りを潜め、そこにあるのは気持ちが揺らいでいるように見える渋面だ。

 不参加の最大の理由には矛を収められ、教官からは露骨なエサをぶら下げられ、もう一人の男子からは妙に生々しい情報で断り辛くされる。もはや参加しない理由など、誘導された形になりたくないという意地の様なものだけではないだろうか。

 何故だか自分の言葉のせいでクロウを追い詰めてしまったようで申し訳ないが、彼にも導入試験に参加して欲しいという気持ちに偽りはない。トワは最後の一押しを繰り出す。

 

「えっと、クロウ君ならきっと上手くやっていけるよ。だから一緒に頑張っていこう!」

「おい、俺は別に参加すると決めた訳じゃ……うっ」

 

 その一押しが少し先走ったものだったがためにクロウから断られそうになって、トワの気持ちは急降下。明るい笑顔がしょんぼりとしたものに早変わりしてクロウも言葉に詰まる。

 言い知れない罪悪感、突き刺さる周りからの責め立てるような視線。頭を掻き乱して、とうとうクロウは白旗を上げた。

 

「あー!! 分かったよ、俺も参加すればいいんだろうが!」

「ほ、本当っ?」

「どの口が言ってんだ、この小悪魔が!」

 

 ヤケクソという他に無い様子で自分の胸辺りまでしかない小さな頭を乱暴に撫でまわすクロウ。そんな事をされつつ小悪魔などと言われても、トワは「ふええっ!?」と困惑するしかない。自覚など無いのだから。

 アンゼリカとジョルジュも特に異論はない様子だ。内心で思うところはあるかもしれないが、クロウの参加に反対する者はいない。

 これで四人目も参加、何だかんだ全員揃ったことになる。サラ教官は満足そうに頷いた。

 

「うんうん、全員参加とは幸先がいいじゃない。あたしの目に狂いは無かったって訳ね」

「よく言うぜ。若干強制臭かったくせによ」

「クロウ、ここまで来て文句を言うのは男らしくないよ」

「分かってるっつうの。ったく……」

 

 ぶつくさと言う声が聞こえてくるが、それを華麗にスルー。サラ教官は言葉を続ける。

 

「それじゃあ、ここにARCUS導入試験班の発足を宣言する。来年に向けて色々とやってもらう事になるから、まだ見ぬ後輩たちの為に頑張ってちょうだい」

 

 彼女の宣言と共に、この場に集まった四人は正式に一つのチームとなった。身分も立場も何もかもが違う、クラスさえバラバラな本来なら関わるかどうかも分からなかった四人が。

 この選択の先に何が待っているのかは分からない。ただ悪いものではない気がする。漠然とした予感ではあるが、トワにはそう感じられた。

 胸の内に高揚を感じながらも、サラ教官の宣言にトワは元気よく返事をするのだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「これで、まずは第一歩……ふふ、スタートは上々といった所かのう」

 

 旧校舎地下の広間、地上に繋がる階段の上でヴァンダイク学院長はトワたちの様子を眺めていた。その表情はとても満足気だ。

 今はまだ粗削りな四人組。表面上は収まったが確執も抱えており、それを除いても、それぞれに抱えているものがありそうな個性的な面々だ。きっと悩むこともあれば、衝突する事もあるだろう。

 だが、それでも大丈夫と思えるような何かが彼女たちからは感じられた。身分も立場もバラバラであったとしても、共に苦難を乗り越えていってくれそうな何かを。

 あらゆる立場の生徒を集めた特科クラスの創設――前例のない新たな試みに、やはりヴァンダイク学院長にも不安はあったが、この分なら杞憂で終わってくれそうだ。

 

「彼は今しばらく、かの国の事で忙しかろう。ワシが見守っていかなければな」

 

 思い浮かべるのは提案者たる教え子。お忍びの旅から帰ってきて一皮むけたらしい彼の提案に全面的に協力する事を約束した以上、力を尽くしていかなければなるまい。少なくとも、かの国で彼が為すべきことを果たすのに集中できるようにしてやらねば。

 まずは一報を入れてつつがなく始動したことを知らせるとしよう。老躯に活力を漲らせ、ヴァンダイク学院長は旧校舎を後にしようとする。

 

(それにしても……)

 

 ふと立ち止まり、視線を階下に落とす。ぎこちなさを残しながらも言葉を交わす四人の若者たち、不思議とその中心となっている小さな少女。その姿にヴァンダイク学院長は感慨に似たものを覚える。

 

「彼女がオルバスの孫とは……ふふ、どうにも楽しみに感じてしまうものじゃな」

 

 自然と浮かぶ微笑み。そこには純粋な期待があった。

 ――どうか彼女たちが世の礎となり得んことを。

 空の女神と獅子心皇帝に祈り、ヴァンダイク学院長はその場を後にした。

 




誰かしらにツッコまれそうなので時系列に関する補足を入れときます。

the3rdにおける「《リベル=アーク》崩壊から半年あまり」という描写から《リベールの異変》が終息したのが1203年5月頃。
零の軌跡公式サイトのキーワードで《リベールの異変》は「一カ月に渡って続いた」とあるので発生したのは1203年4月頃となる。
つまりオリヴィエ・レンハイムがリベールから帰国したのはそれ以前となるので、だいたい1203年3月には既に帝国に戻っていて士官学院の事も含め色々と準備を進めていたのでは……と自分は考えています。

少しばかり無理があるのは承知していますが、これで納得いただけたら幸いです。


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第5話 生徒会

検索してみたところ「那由多の軌跡」タグが付いているのは拙作だけらしい。
細かいネタが分からない人向けに、後書きで簡単な用語解説とかした方がいいのだろうか……


「帝国における文化的な特徴として、他国と比べて様々な民間伝承が残っている事が挙げられます。精霊、魔女、千の武器を持つ魔人……多様な伝承が各地に伝わってきたのは広大な領土と古い歴史を誇るからこそでしょう。皆さんも少しは耳にしたことがあるのではないでしょうか?」

 

 Ⅳ組の担当教官でもあるトマス教官が受け持つ帝国史の授業。分かり易くて丁寧な説明が評判ではあるが、たまに脱線して興味本位の赴くままマニアックな方向に突っ走ってしまうのが難点だ。

 既にこの授業も数回目、トマス教官のやり方にトワもだいぶ慣れてきた。どうやら今回は文化史方面に足を突っ込むようである。

 

「伝承の内容も地域によって様々、皆さんの知っている話もそれぞれ異なると思われます――そうですね。トワ・ハーシェルさん、何か知っているものはありますか?」

「わ、私ですか?」

 

 急な指名に少し焦る。立ち上がりながら慌ただしく頭が巡る。

 パッと思いついたのは、お目付け役がまさにそれらしい存在だったからだろう。

 

「妖精とかの話なら聞いたことがあります。おとぎ話みたいな感じですけど」

「ふむ……なるほど、割とポピュラーなものですね。まあ妖精と一口に言っても様々なものがありまして――」

 

 トワの答えから更に膨らんでいく脱線話。まだまだ続きそうなそれを耳に収めながら、ホッと息をつく。いきなりの事だったが、どうにかやり過ごせたようである。背中にチクチクとした視線は感じるが。

 ダシに使ったようで悪いとは思うものの、適当なのがそれしか思いつかなかったので勘弁願いたい。悪気は無かったのだ。

 トマス教官が語る色々な――時折おどろおどろしい――妖精像を聞きながら、あとで「私はそんなんじゃないの!」とへそを曲げないといいなぁ、と思う。そもそもノイが妖精ではないという事実を思い出したのは授業が終わる直前だった。

 

 

 

 

 

 4月下旬、ライノの花も満開を過ぎて花弁を散らす頃。

 高等学校に相応しい難解な授業に不慣れな下宿生活。最初は戸惑うばかりだったものの、ここ最近になってようやく身に馴染んできた。もうしばらくすれば余裕も出てくるだろう。

 先月末に発足したARCUS導入試験班だが、あの特別オリエンテーション(仮)以来これといって指示は出されていない。サラ教官に尋ねたところ、今はまだ準備中なのだという。ただまあ件の特別実習というものは月末に行う予定と聞いているので、そろそろ何かしらの知らせが届くのではないかとトワは思っている。

 そんな初々しさが残る新入生にとって、初めての自由行動日が翌日に迫っていた。

 

「うう……もう限界。トマス教官ってなんであんなに話が長いのよ……」

「きっと性分なんじゃないかなぁ。それにエミリーちゃんだって堪え性が無いと思うよ。まだまだ先は長いんだから頑張っていかなきゃっ」

「トワと違って机にお行儀よく座っているのは苦手なのよ、あたしは」

 

 HRも終わって放課後になったⅣ組の教室では、エミリーが疲れ果てた様子でぐったりとしていた。ぶつくさ文句を言う彼女を一念発起させようとするものの、返ってくるのは妙に煤けた笑みだけである。エミリーの座学嫌いは致命的なようだった。

 ここ半月で泣きつかれた回数は既に片手では収まらない。実技では凄く張り切っているのに、とトワは勿体なく思う。ここまで好き嫌いがはっきりしているのも珍しいのではないだろうか。

 隣でそんな事を考えているのを知ってか知らずか、エミリーは机で萎びたままでいる。

 ……と思ったら、何か思い出したかのようにガバリと起き上った。

 

「けど、そんな憂鬱な日々も明日の為にあったと思えば報われるわ。そう、明日は自由行動日! 授業もない、ラクロス部も朝からやり放題。なんて素敵なの!」

「はは……正確には、休みという訳じゃないそうだけどね」

 

 盛り上がるエミリーに補足を加えたのは、近くで雑誌を広げていた男子生徒のハイベルだ。雑誌をたたみ中指で眼鏡をかけ直す。

 

「生徒の自主性を高めるために設けられた日――要するに1日が丸々自習日になっているとも言えるかな。教官も休日ではないと言っていただろう?」

「でも一日中部活出来るって事には変わりないでしょ? なら問題なし! ハイベルも部活やり始めたそうだし言う事ないじゃない」

「それはまあ、そうなんだが」

「もう、エミリーちゃんったら本当に部活の事になると目の色が変わるんだから」

 

 どうやらエミリーにとっては部活が出来れば休日であろうが何であろうが関係ないらしい。あまりの熱心さにハイベル共々苦笑を浮かべてしまう。好きな事に打ち込むのは良い事だとは思うのだが、その炎が燃え盛らんばかりの熱意は真似できそうになかった。

 エミリーはしばらくこの調子だろう。彼女の事は置いておくとして、視線をハイベルの手元に移して話題を変えた。

 

「そういえばハイベル君は何を読んでいたの?」

「『帝国時報』の最新刊だよ。少し気になる見出しがあったから、購買で買ってきたんだ」

 

 何となく気になったので聞いてみれば、答えと共に「読むかい?」と差し出される。折角なのでお言葉に甘え、自分でも目を通すことにした。

 読み始めて間もなく、ハイベルの言う気になる見出しはすぐに分かった。

 

「帝国南部で導力が停止する現象……? オーブメントが動かなくなっているってこと?」

「どうやらそうみたいだ。南のリベールでは同じことが全土で起こっているそうで、そちらの余波が帝国にも及んでいるのではないかという話なんだけど……原因がはっきりしないせいで不安が広がっているらしい」

 

 声を抑え「新兵器じゃないか、とかね」と続けるハイベルの表情は思わしくない。彼なりに、この状況を憂慮しているのかもしれない。

 エレボニア帝国にとってリベール王国といえば、まず11年前の《百日戦役》が思い浮かぶだろう。圧倒的な優位に立っていた筈が、警備飛行艇という新兵器によって瞬く間に状況をひっくり返された近代戦の先駆けとも言われる戦争。その国の名と新兵器という言葉が合わさると、どうしても不安に感じてしまう人もいるのかもしれない。

 だが、最近のリベールと帝国の関係は悪くない。昨年には女王アリシアⅡ世の提唱による帝国と共和国の緊張状態を緩和するための《不戦条約》が締結したのも記憶に新しい。

 それなのにリベールが戦争を臭わすような真似をするとは考えづらい。新兵器という話は流言と判断するのが妥当だろう。

 もっとも、どれだけの人がそう判断できるかは分からないが。

 

「…………」

 

 だが、トワの意識が向けられているのは政治的な方面ではなかった。紙面に未確認の情報と前置いての「ヴァレリア湖上空に現れた浮遊構造物」という記述。思い浮かぶのは故郷の遺跡群だ。

 もし、この構造物というのがアレ(・・)と同じ類なら只事ではない。無事に解決すればいいのだが……トワは自然と難しい顔になっていた。

 

「滅多なことにはならないだろうけど、どうなるか少し心配だな。何事もなく終わってくれるといいんだが」

「……うん、そうだね」

 

 方向性は違っても、二人ともこの状況が心配であるのは変わりない。雰囲気はどうしても暗くなってしまう。

 そこに割って入ってきたのは、少し暑苦しささえ感じる熱血少女の声だった。

 

「ああ、もう! あたしたちに出来る事なんてたかが知れているんだから、そんなに考え込まなくてもいいじゃない。こういう時はドーンって構えていれば良いのよ、ドーンって」

「エミリーちゃん……えへへ、それもそうだね」

「君の場合、もう少し時事にも興味を持った方がいいと思うけどね。またハインリッヒ教官に小言を言われるかもしれないよ」

「むぐっ。そ、それはそれよ! そんな事よりトワ、あなたは部活どこにするか決めたの?」

 

 露骨な話題逸らしに逃げたな、と察する。この前の政経の授業で「君は世の中というものに興味を持っていないのかね」とお説教されていたのだが、あまり反省はしていなさそうだ。

 しかしながら暗い空気を払拭しようとしてくれたのも確か。笑みをこぼしながら、あまり深く追求しないで二人は逸らされた話題に乗る事にする。

 

「実は、まだ決めていないんだ。明日辺りにどこか良い所が無いか探すつもりなんだけど……ハイベル君は吹奏楽部に入ったんだっけ?」

「ああ、ついこの間ね。音楽は昔からヴァイオリンをやっていたし、その腕を鈍らせるのも勿体なかったから」

「音楽ねぇ。あたしにはあまり縁のない領分だわ」

「私も楽器とかの経験は無いけど、歌なら少しやった事があるよ。故郷に凄く歌の上手い人がいて、その人に……ふう」

 

 突然の溜息にエミリーもハイベルも不思議そうな顔をする。が、トワは何でもないと首を振った。

 歌を教えてくれた人――正確には人ではないが――の指導を思い出して自然と零れてしまっただけだ。こちらから頼んで教えてもらったので文句は無いのだが、あの時の大変さはつい遠い目になってしまうくらいのものだった。

 トワの様子から、あまり深く触れるべきではないと判断したのだろう。ハイベルがコホンと仕切り直した。

 

「まあ、うちでは初心者も歓迎だ。よかったら見学にでも来ないかい?」

「ちょっとハイベル! そういう事ならラクロス部だって勧誘させてもらうわ。さあトワ、あたしと一緒に燃え上がりましょう!」

「も、燃え上がる……?」

 

 が、その軌道修正は失敗だったらしい。エミリーが負けん気を発揮して火がついてしまった。

 エミリーの積極的な勧誘にトワはタジタジとなる。助けを求めるようにハイベルに目を遣るも、彼は肩をすくめるばかり。勧誘の話を切り出したのは自分なだけに止めにくいのだろう。

 

「トワ、いるかい……って、何だ?」

 

 どうしたものかと困るトワを助けたのは、教室の外からやって来た大柄な友達だった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「なるほど、部活の勧誘をされていたのか。にじり寄られていたから何事かと思ったよ」

「あはは……エミリーちゃん、熱心になると凄いから。ジョルジュ君が来てくれて助かったよ」

「はは、それはどういたしまして」

 

 校舎裏の中庭を歩きながら談笑するのはトワとジョルジュ。Ⅳ組を訪ねてきた彼がトワに用事があると言うので、それを理由にエミリーの積極的に過ぎる勧誘から逃げてきたのであった。

 その場では、よく分かっていなかったジョルジュも事情を知れば笑みを零す。同時に申し訳なさそうな顔にもなっていたが。

 

「けど、それを抜きにしても急にこんな事を頼んで悪かったね。重くないかい?」

「大丈夫大丈夫。それにARCUSに関係する機材なんでしょ? だったら私だって手伝わないと」

 

 二人の手には、それなりの大きさの荷物があった。ジョルジュによるとARCUSの整備に関する機材らしく、つい先ほど届いたものをサラ教官から引き渡されたそうだ。彼の用事とは、この機材の運搬と設置の手伝いであった。

 トワの言葉にジョルジュは心底ありがたそうな表情をする。理由は単純なものだ。

 

「あの二人も見つけられれば良かったんだけどね。まったく、どこをほっつき歩いているのやら……」

 

 トワに声を掛ける前にクロウとアンゼリカも探したそうなのだが、既に学院を後にしてしまったようで見つからなかったという。二人の性格を考えると、いつまでも学院に留まっているようなタイプとは思えないので納得と言えば納得なのだが。おそらく町の方に繰り出しているのだろう。

 まあ、ぶつくさと文句を言っても仕方がない。居ない以上はこの二人で片付けなければならないのだ。

 呆れ顔のジョルジュを「まあまあ」と宥めながら中庭を通り過ぎ、目的地である建物の前まで来る。基本的に石造りである学院の建物の中で、例から外れて一階建ての小さな木造建築。学院の機械類が集まる技術棟だ。

 中に人の気配はない。どうやら普段は人気が無いらしい。

 

「えっと、鍵が掛かっていそうだけど」

「鍵なら僕が持っているよ。ほら」

 

 ジョルジュが懐から取り出した小さな鍵で錠を外す。サラ教官から預かっていたのだろうか。

 

「失礼しま~す……」

 

 誰もいないのは分かっているが、なんとなく断りを入れてから入室する。

 技術棟の中はそれなりに広々としていた。4人掛けのテーブルに作業台と思しきもの、他には機材が収められている収納の類があるくらいだ。生活感が無いとも言える。

 若干、埃っぽいのは使われる機会が少ないからか。運んできた荷物を作業台に置いた際に舞い上がった埃が鼻をくすぐり、トワはくしゃみした。

 

「あまり人気が無い所みたいだね。普段は使わない所なのかなぁ」

「一応、技術部が管理している事になっているのだけど、最近はあまり活動していないそうでね。部長にも好きに使ってくれて構わないと言われてしまったよ」

「じゃあ、その鍵も?」

「部で管理しているスペアさ。借りるつもりが貰ってしまう事になるとは思っていなかった」

 

 ジョルジュの言葉通りならば、今日から彼が技術棟の管理者という事である。入学から半月ばかりで一城の主とは豪勢な話だ。

 しかしながら本人はあまり嬉しそうではない。笑みは浮かんでいても、それは苦笑い以外の何物でもない。

 まあ、それもそうかとトワは思う。いくら広くて好きな機械いじりに適した空間を手にしたとしても、そこに自分以外に誰もいなければ寂しいものだ。本当は一部員として楽しくやっていきたかったのだろう。

 その事に関してトワが力になれる事は多くない。機械関係について特別な興味を持っている訳でもないし、いい加減な理由で入部するつもりもない。

 

「早速、機材の設置を始めたい所だけど……この様子だと掃除の方が先かな。用務員さんから道具を借りてくるか」

「そうだね。じゃあ、ジョルジュ君が行ってくれてる間に簡単な整理からやっておくねっ」

「はは、分かった。分担して手際良くやっていくとしよう」

 

 だが、こうして一人の友達として手伝いをすることは出来る。今後も時間があれば顔を出す事も出来る。たったそれだけだとしても彼のために出来る事が無いわけではない。

 まずはこの掃除を最後までやり遂げるとしよう。「よーし」とトワは腕をまくって整理に取り掛かった。

 

 

 

 

 

「それじゃあコイツを設置して……よし、こんなところか」

 

 オーブメントの整備に用いる円形の機材。比較的大きめなサイズのそれに、トワにはよく分からない調整を加えていたジョルジュは満足気に頷いた。

 

「これで完了だ。トワ、手伝ってくれてありがとう」

「ジョルジュ君こそお疲れ様。本当なら設置作業も手伝えたら良かったんだけど」

「その代り作業台以外の掃除は全部やってくれたじゃないか。十分だよ」

 

 時刻は6時過ぎ。ようやく仕事を終えたのは日も沈みかける頃だった。

 日常用品ならともかく最新の工房機器の扱いなどトワは門外漢なので、自然とそちらはジョルジュに任せる形になっていた。その間に自分は掃除の方を担当。整理整頓は得意な事もあって、片付けはさほど梃子摺らずに終わらせられた。これで技術棟も快適に利用できるだろう。

 一息ついて綺麗に磨いたテーブルに着く。やはり二人だけでやるには結構な重労働だった。もう少し人手があれば良かったのだが。

 

「やっぱり部長に言われた通り、生徒会にお願いした方が良かったかな」

「生徒会?」

 

 ジョルジュの呟きにオウム返しに尋ねると、「ああ、知らなかったか」と気付いて説明してくれた。

 

「この学院の生徒会は行事の取り仕切りとかの他に、生徒からの要望も受け付けていてね。困った事があったら生徒会に相談するのが定番なんだ。大抵はすぐに対応してくれて、学内に限らずトリスタの人も頼りにしている……って鍵を貰った時に聞いたよ」

 

 つまるところ、生徒会は相談所のような役割を担っているようだ。学内に限らず町の方からも要望を受け付けているとは随分と活動の規模が大きいらしい。

 

「まあ、こんな私的な事で頼っていいか分からなかったから遠慮しておいたんだけど」

「へえ……ねえ、ジョルジュ君。その生徒会ってどこにあるの?」

「え、学生会館の二階って聞いているけど」

 

 困っている人のために助けとなる。トワとしては気を惹かれる活動内容だ。故郷で似たような事をしていただけに親近感のようなものを感じる。行事の仕切りというのも良い経験になるだろう。

 考えるうちに俄然興味が湧いてきた。折り良く明日は自由行動日、これを逃す手は無い。

 その胸の内は分かりやすいくらいに顔に出ていたのだろう。ジョルジュは自分の話が与えた影響を察し、小さく肩をすくめた。

 

「どうやら興味を持たせてしまったみたいだね。訪ねてみるつもりかい?」

「うん。早速、明日に行ってみる」

「そうか……ふう、済し崩しに技術部に入ってくれないかと思っていたんだけどね。これは余計な事を言ってしまったかな」

「えっ」

「ああいや、冗談だよ」

 

 慌てて訂正してくるジョルジュにトワはほっと胸を撫で下ろす。真に受けて申し訳なく感じかねない所だった。昔から冗談が通じないと言われているが、どうにも直せない欠点の一つである。

 だがジョルジュはともかくとして、誘ってくれたエミリーやハイベルの厚意をふいにするのは事実。せめてもの礼儀として、ちゃんと断っておこうと心に留めておいた。

 

「詳しくは知らないけど、良い所だといいね」

「えへへ、ありがと。無事に入れたらジョルジュ君も遠慮なく相談してね。頑張ってお手伝いさせてもらうから」

「じゃあ機会があればお願いしようかな」

 

 まだ決まった訳ではないが、こだわりもなく見て回るだけより明確な当てがあった方が張り切ってくるもの。自由行動日を前に、トワは明日が急に楽しみになり始めていた。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

『それで、ここがその生徒会があるところなの?』

「うん、間違いない筈だよ」

 

 そして翌朝、迷うことなく直行した学生会館の二階、その突き当り。

 扉の上のプレートには「生徒会室」の表示。ジョルジュの言っていた場所に相違ないだろう。

 

『それにしても、わざわざ学院でも同じような事をやらなくていいのに。トワも物好きなの』

「う……いいもん、好きでやっているんだから」

『別に止めはしないけど、人のお手伝いばかりして自分を蔑ろにしちゃダメだからね。たまには友達と遊んだりする事。分かった?』

「はーい……」

 

 昨夜から耳にタコが出来るほど言われた事だが、流石に生まれた時から面倒を見てもらってきた相手の言葉を邪険に出来る筈もなく、渋い顔をしながら頷くしかない。純粋に心配してくれての事なら尚更だ。

 これでも性格的にはしっかりしているつもりなのだが、身内からすればまだまだ危なっかしいようだ。せめて、この小さな姉代わりに余計な心配を掛けないようになりたいものである。

 耳が痛い様子のトワに『じゃあ頑張ってね』と言ったきり口を噤むノイ。安全は確認したが、いつ人が通ってもおかしくない場所である。会話は最小限だった。

 

「さてと……」

 

 そして、ここからが本番だ。いざ、という時に限って少し尻込みしてしまうのも常の事。生徒会室の扉が急に重厚なものに見えてきてトワは緊張から生唾を呑み込む。

 中の気配は一人。ええいと意を決して扉をノックする。

 

『入りたまえ』

 

 返答はすぐにあった。落ち着いた男の声。少し無機質にも感じる。

 トワは腹を括って「失礼します」と扉を開けて中に足を踏み入れた。

 

「…………」

「…………えっと」

 

 応接用のテーブル、資料が整然と並ぶ棚類、窓際のトロフィーや盾は何かで賞を取った時のものだろう。

 そして、ひときわ目立つ大きなデスク。生徒会を統括する生徒会長の座席と思われる場所に、一人の男子生徒が座っていた。

 白い制服からして貴族生徒。ありがちな華美な装いはしておらず、キッチリと締められたネクタイや整った銀髪から貴族というよりは役人という印象が強い。見た目からして生真面目なタイプだ。

 だが、そんな風貌からの情報より遥かに強い印象が彼の纏う雰囲気にあった。

 冷たい。黙々と書類を読み進めるその瞳が、針金が通っているかのように背筋を伸ばすその姿が、精巧に動く機械のように無機質で冷たく感じる。冷淡という言葉がこれほど似合いそうな人もそうはいない。トワはそのあまりにも強烈なインパクトに固まってしまった。

 すると書類に向かっていた目が向けられた。淡い紫の瞳をトワは呆けたように眺める。

 

「用件は?」

「ふえっ?」

「用件は、と聞いている」

 

 唐突に飛び出した言葉は短いものだった。間の抜けた声を上げるトワに彼は繰り返す。

 

「今は他のメンバーが出払っている。依頼ならば私が受け付けるが」

 

 そこまで言われてハッと気付く。どうやら困って相談に来た生徒と間違えられているようだ。トワは慌てて訂正した。

 

「い、いえ。その、生徒会に興味があって訪ねてみたんですけど」

「……つまり生徒会への参加希望者という訳か。予想より早く来たものだ」

「えっと、何か不都合でもありましたか?」

「いや、構わん」

 

 トワの焦りが混じった返答から正確に用件を読み取った男子生徒は、そこで初めて言葉尻に感情を滲ませた。淡々としてはいるが完全に無感情という訳でもなさそうだ。

 貴族らしい洗練された所作で立ち上がった彼は、緊張から気を付けの立ち方になっているトワの近くまでやって来る。やや背は高い。トワの低身長もあって見上げる形になった。

 観察するような視線が頭のてっぺんからつま先まで一往復する。緊張はますます強くなる。

 

「1年Ⅳ組のトワ・ハーシェルだな。今年の首席入学者だという」

「は、はい……よく知っていますね」

「首席の名前くらい興味がある者ならば知っている。加えて、学院長と新任教官が妙な事を始めたという噂もある。それに関わっている生徒が記憶に残っていても不思議ではないだろう」

 

 トワは自分が首席だという事を誰かに告げた覚えはない。特に自慢しようとも思わなかったし、誰にも聞かれなかったからだ。だからこそ当然のように自分の名前と首席という情報を言い当てた彼に驚いた。それに導入試験の事も耳に入っているなんて。

 だが、それだけに留まらず言葉は続く。

 

「それに生徒の名前と顔くらい全員(・・)把握している。別に君だからという訳でもない」

 

 ああ、とトワは察した。この人、物凄く優秀である。それでいて暗に自惚れないようにと言ってくるあたり、自他ともに厳しいタイプと見た。

 

「私は生徒会長を務めているアウグストという者だ。確認しておくがハーシェル、生徒会というものは相応の責任が伴う。それを承知した上で入りたいと言うのだな?」

「はい。困っている生徒やトリスタの人たちの力になるっていう事は、その人たちとちゃんと向き合ってやらなきゃいけませんもんね」

 

 緊張は解けないが、段々とトワも落ち着いてきた。

 手短に名乗ったアウグスト会長から念を押されるように問われるも、志望動機も踏まえてしっかりと答えを返す。責任云々に関しては故郷で仕事の手伝いをしていた時から弁えているつもりだ。

 見定めるように黙って視線を向けてくる会長。おもむろに「よろしい」と頷き、デスクから3枚ほど書類を取るとトワに差し出してきた。

 

「では早速、仕事を頼むとしよう。この依頼を片付けてきてくれたまえ」

「……え?」

 

 流石に想定外だった。差し出された書類と会長の顔の間で何度も見返してしまう。書類が引っ込むことも無かったし、会長の表情筋が一筋たりとも動くことは無かった。

 普通こういうのは順序を踏まえてやっていくものなのではないだろうか。どういう風にやればいいのかとか、注意するべき事とかの説明を全部すっ飛ばしてのコレである。つい呆然となってしまっても仕方がない。

 ――いや、それとも説明していない事に意味があるのか。

 

「どうした、何か疑問点でもあるのか?」

「えっと、疑問点というか……その、いきなり私がやっても大丈夫なんでしょうか? ちゃんとした生徒会の人じゃないとダメとかそういう事は……」

「依頼人に説明すれば問題ないだろう。そこまで堅苦しいものでもない」

 

 会長の腕に付いている青地に金の装飾が施された腕章。たぶん生徒会の証のようなものだろう。それも無しに依頼を受けても良いものかと思っての質問だったが、僅かな迷いもなく即答された。

 ずいと差し出される書類。恐る恐るそれを受け取ると、会長は仁王立ちしたまま無言で佇む。顔には早く行けと書かれていた。

 これ以上、余計な質問を差し挟むことは許してくれなさそうだ。もう行くしかないだろう。心の内でコッソリと嘆息し、トワは覚悟を決めた。

 

「それじゃあ頑張ってきます」

「全て終えたらここに戻ってくるように。では健闘を祈る」

 

 淡々とした激励の言葉を背に生徒会室を後にする。なるべく静かに扉を閉じて会長の目の届かない場所まで来ると、どっと疲れて思わず溜息が零れた。なんだか大変な先輩に会ってしまったのかもしれない。

 すると黙っていたノイの声が聞こえてくる。

 

『……何なの、あの人。貴族だからって横柄なの。エクレアだって子供の頃は可愛げがあったのに』

「エクレアって……ああ、ビクター男爵の事」

『いきなり仕事だけ押し付けて放り出すなんて碌な奴じゃないの。トワ、悪い事は言わないから生徒会は止めておこう。あんな冷たいのにトワを任せてなんておけないの』

 

 どうやらノイは随分と会長の事を嫌ってしまったようだ。今は抑えてはいるが、人目を憚らなければ声を大にして不満を口にしていただろう。

 ちなみに引き合いに出していたエクレアとは、よく故郷を訪ねてくるビクター男爵家の女当主の名前である。昔からの付き合いでノイとは顔を合わせれば親しげに話している方なのだが、小さい頃は手が焼けるお転婆娘だったらしい。

 閑話休題。

 ノイは今からでも遅くないと生徒会入りを引き留めようとしてくるが、生憎とトワにその気持ちは無かった。「ううん」と首を横に振る。

 

「そんなに心配しなくても大丈夫だよ、ノイ。確かに癖がある会長さんだったけど、悪い人じゃなさそうだったし」

 

 笑みを浮かべて「それに」と続ける。

 

「仕事を任されたからには、ちゃんとやり切らないといけないしね。説明をしなかったのだって、それ相応の理由があると思うんだ」

『うーん……そうだとしても私はあまり好きになれそうにないの』

「あはは、こればっかりは星と女神の導き次第だから」

 

 優秀そうな印象にしてはぞんざいな仕事の振り方。トワの見当違いでなければ、何らかの理由によるものだと考えられるのだが……一先ず、それは置いておくことにしよう。

 人の出会いは一期一会。相性が悪かったとしても、その出会いを受け入れなければならない。ノイには諦めてもらうしかないだろう。

 

「よーし、それじゃあ精一杯やっていこうっ!」

『ふう……仕方ないの。張り切り過ぎて怪我とかしないようにね』

 

 いつものように心配事を口にするノイに「大丈夫だよ」と返しながら動き始める。

 生徒会の初仕事。トワは意気揚々と活動を開始した。

 



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第6話 初活動

今回は1日の依頼活動を描いたのですが……実際にやるとなるとメチャクチャ忙しいな、これ。人手が足りないというのも頷けます。

あと那由多の軌跡未プレイの方が思ったより多いようなので、後書きで簡単な用語解説みたいなものを始める事にしました。初っ端から原作の過度なネタバレにはならないように注意していきますが、何かご意見がありましたら感想の方にお願いします。


 依頼という形で複数の仕事を受ける際、注意しなければいけない事がいくつかある。

 まずは優先順位。緊急を要する場合は即座に動き出さなければならないし、そうでなくても依頼人の都合で時間が合わない可能性もあるため、ミスマッチしないように回る順番を調整しなければならない。誰もが常に手が空いているとは限らないのだ。

 次に並行して仕事を進める事。依頼は基本的に色々な場所を巡って依頼主の要望に応えていく形になるのが多い。複数の依頼がある場合、その巡る場所が重複する事も少なくないため、一度にその場所での用事を済ませておく方が効率的だ。後になってもう一度行く、となると無駄な時間がかかる。

 そして最後に、長時間に渡って拘束されるような仕事――特に書類整理とかは後に回す事。子守とか農作業の手伝いなど時間が決められている場合は適用されないが、単なる書類整理となると後々に回すしかない。一度やり始めたら抜け出す訳にもいかず、その間に他の仕事の機を逃しかねない。それに、この類は大概が後日に関するものだ。最終的に夕方くらいまで掛かっても問題は無いだろう。先に挙げた優先順位の考えからも必然的に後回しになる。

 その3つの経験則から会長から渡された依頼を吟味する。内容は様々。だが、なんとか経験に当てはめられそうだ。

 

「学食の新メニュー考案、商工会の回覧板捜索、サラ教官のお手伝い……本当に色々あるなぁ」

 

 食堂はきっと昼時になると混雑して依頼の話どころではなくなる筈だ。まずはここを初めに訪ね、その後に商工会の依頼があるというトリスタの街に向かうのが妥当な所だろう。

 ……サラ教官からの依頼は申し訳ないが後回しだ。文面からして仕事で手が回らなくなって困っているのだろうが、あまり緊急性はなさそうだ。他のものを片付けるまで頑張ってもらうしかない。

 

『というか、あの教官って新しく入って来た人なんだ。なんだか堂々としていたし前からいる人だと思っていたの』

「うーん……学院長から色々と任されているみたいだし、特科クラスを作るために連れてきたんだろうけど」

 

 会長の言っていた「新任教官」という言葉を思い出し、その割に色々と勝手にやっているなぁ、と苦笑を零す。落とし穴の件は既にトワの中では笑い話になっていた。

 まあサラ教官については考えても仕方がない。本人が気の向いた時に話してくれるのを待つしかないだろう。

 よし、と一息ついて頭を切り替える。回る順番を決めたのなら後は行動あるのみだ。

 

「じゃあ行こっか」

『うん!』

 

 つま先をトントンと整えて動き出す。まずは学生会館一階の食堂である。

 

 

 

 

 

「はあ、そうかい。トワちゃんが生徒会にねぇ……頑張るのもいいけど、ちゃんと休みを取るんだよ? 旦那が文句を言わない程度にはサービスもしてあげるからね」

「あはは、分かりました。ありがとう、サマンサさん」

 

 生徒会室のある二階から降りてくれば、購買と目的の食堂が入っているラウンジはすぐそこだ。カウンターにいる食堂のおばちゃんことサマンサに事情を説明すると、感心と心配が入り混じったような表情で気遣われた。

 どうもトワの事を気に掛けているらしく、こうして何かと世話を焼こうとしてくれる。その理由が自身の容姿にあると思うとトワとしては複雑だ。

 だがまあ、今それは関係ない。コホンと咳払いして話を仕切り直す。

 

「それより依頼を出してくれていたんですよね。新メニューの考案ってありましたけど、具体的には何をすればいいんですか?」

「ああ、それはね――」

「それは自分が説明しよう」

 

 カウンターの奥からぬっとコック帽をかぶった男性が現れる。調理担当のラムゼイである。

 

「おや、仕込みは終わったのかい?」

「うむ、昼時に食べ盛りの学生が押し掛けてきても大丈夫だろう。それで、依頼の件だったな」

「そうですけど……もしかしてラムゼイさんの方が出した依頼だったんですか?」

「切っ掛けはな」

 

 普段は調理場に籠っていて目にすることの少ないラムゼイ。トワはサマンサと初対面の時に、色々と根掘り葉掘り聞かれているところに仲裁に入ってきたので見知ってはいるが、あまり話さない寡黙な性格だと思っていた。そして、依頼を出すにしてもサマンサの提案によるものだろうと。

 だが、実際のところは違ったようだ。トワは彼の話に耳を傾ける。

 

「この食堂は平民生徒は勿論、貴族生徒も利用する。中には味にうるさいのもいるが、その口を黙らせる料理を提供できているつもりだ……が、いつも同じレパートリーでは飽きも来る。だから定期的に新メニューも考えなければならない」

 

 ふんふんと頷く。この食堂は割とよく利用しているし味も満足のいくものだが、それなりの苦労もあるらしい。

 ラムゼイは「そこでだ」と続ける。

 

「普段は私が一から考えているのだが、今回は生徒からの意見を取り入れてみようと思ってな。こうして生徒会に依頼させてもらった次第だ」

「あたしたちもこの道ウン十年と続けているとはいえ、無限に新しいメニューがポンポンと湧いてくるわけじゃないからねぇ。旦那がこう言っている事だし、学生さんからアイデアを貰おうと思ったのさ」

「なるほど」

 

 依頼の経緯は理解出来た。そして、それなりに重要な役目を任されることになる事も。

 自分のアイデアが学食のメニューに載るとなると、やや緊張するものがある。そういった事に関わっていける事に楽しみを覚えなくもないが、今のトワには楽しむほどの余裕が無かった。

 

「それでは早速アイデアを聞いていきたいのだが」

「はい。やっぱり新メニューとなると、目新しい感じがあった方がいいんですよね」

「そうだねぇ。あとウチは食べ盛りの年頃を相手にやっているから、ボリュームもあった方が好まれる傾向があるかね。部活帰りの若い子たちがたらふく食っていくもんさ」

 

 目新しさがあって、ボリュームもあるもの。

 幸い、トワは料理を得意にしている伯母の影響もあってそれなりのレパートリーを持っている。提示された条件に該当しそうなメニューも幾つか思い当たる。

 その中に、まさにピッタリなものがあった。

 

「それだったら『島ロコモコ』がいいかもしれません」

 

 トワの言葉に首を傾げる二人。聞き覚えのない料理だったのだろう。

 実際、故郷で昔に流行っていたというかなりローカルなものだ。いくら熟練の料理人といえども、本土の人間が知らなくても無理はない。

 

「えっと、白米の上にハンバーグと目玉焼きを乗せて野菜を添えた料理なんです。漁師の人たちに人気の料理だったそうで、学生向けにもいいかなって」

「ふむ……聞く限りは中々良さそうだな」

 

 ラムゼイの反応も悪くなさそうだ。思い切ってトワは一つの申し出をしてみた。

 

「よかったら私が実際に作りましょうか?」

「いいのかい? トワちゃんだって他にもお仕事があるだろうに」

「いえ、そこまで多くはありませんし……それに自分の故郷の郷土料理みたいなものでもあるんです。ちゃんとお二人にも食べてもらって、それから決めてもらいたいと思うんです」

 

 島ロコモコは故郷に伝わる名物の一つ。帝国本土から遠く離れた島の文化である。帝国領に属しているとは言っても、やはり本土の人には馴染みが薄い。

 だからこそ、広めるのならちゃんとした形で伝えたい。自分が受け継いだ文化を目にして、口にして、実際のものを知ってから決めてほしい。この一種の異文化交流でトワが望むことだった。

 文化、特に食文化というものはその土地に合わせて変化していくもの。だから本来の島ロコモコと異なるものに結果的になったとしても構わないが、自分が直接伝える事になる二人には少なくとも元の形を知っておいてもらいたいのだ。

 

「……分かった。それでは頼むとしよう。厨房に入ってくるといい」

「はいっ!」

 

 トワの真剣な目に気付いたのだろう。ラムゼイは深く頷くと躊躇なく自分の領域に招き入れた。

 

「食材は好き使って構わない。何か足りないものはあるか?」

「そこまで特別な食材は必要ないから大丈夫だと思いますよ。挽き肉、野菜に白米と……あっ」

 

 張り切って厨房に立ったトワだったが、食材を吟味しているところである勘違いをしていた事に気付いた。故郷と本土では文化が異なる。ならば食材にも微妙な違いがあって然るべきなのだと。

 

「すみません、ヨルド卵ってありますか?」

「ヨルド卵というと海藻を粉末にしたエサで育った鶏が産むアレかい? 残念だけど、ウチだと仕入れていないねぇ」

「それが無いと問題なのか?」

「いえ……普通の卵でも大丈夫だと思うんですけど、ちょっと違いは出ちゃうかもしれません」

 

 故郷で使っていた卵は地元の農家が生産したもの。そして孤島で鶏に与えるエサとなれば自然と海産物を粉末にしたものなる。だからトワの中では卵といえばヨルド卵という認識だったのだが、本土は内陸の方が圧倒的に多い。食堂に置いてないのも仕方のないことだった。

 普通の卵を使っても大きな問題は無いだろう。だが、微妙な風味や栄養価に違いは出てしまいかねない。ちゃんとした形のものを伝えたいと言った手前、トワとしてはこだわりを持って作りたいところだ。

 とはいえ食材が無ければどうしようもない。妥協もやむなしかと思っていたところに、何がしか考え込んでいたラムゼイが「ふむ」と呟いた。

 

「もしかしたら《ブランドン商店》になら置いてあるかもしれん」

「ほ、本当ですか?」

「うむ。あそこは規模の割に品揃えがいいからな。ヨルド卵も取り扱っているのではないだろうか」

 

 トリスタの街にある雑貨屋《ブランドン商店》。食品やその他諸々の雑貨を取り扱っている店で、学生には有り難い良心的な値段で提供してくれている事で有名だ。

 そこならヨルド卵が置いてあるかもしれない。ならばダメもとでも行く価値はあるだろう。

 

「じゃあ、ちょっと行ってきます。お昼までに戻ってくれば大丈夫ですか?」

「そうだね。正午を過ぎたら客が入ってきて余裕がないだろうけど、11時くらいまでに戻ってきてくれたら調理の時間も取れるだろうさ」

「分かりました!」

 

 タイムリミットは11時まで。それまでにヨルド卵を持って食堂に戻ってこなければならない。

 依頼の進捗状況を学生手帳に書き込んだトワは二人に一礼すると学生会館を後にし、トリスタの街に小走りで向かった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「一手間かかる事になっちゃったけど、ちょうど良かったとも言えるかな。商工会の依頼を出してたのも《ブランドン商店》だったし」

『食堂に余裕があるのは11時まで……まだ時間はあるし、先に商工会の依頼をこなしてもいいかもしれないの』

 

 トワもノイと同じことを考えていた。依頼内容の回覧板の捜索というものがどれだけ時間がかかるかにもよるだろうが、ここで機を逃せばもう一度トリスタの方に来なければいけなくなる。サラ教官も待たせている事だし、無駄な手間は省くべきだ。

 算段を立てながら学院からの坂を下り、トリスタの街に降りてきたトワ。目的の《ブランドン商店》は公園に面した様々な店が立ち並ぶ通りの一角にある。

 親の手伝いで店先の掃除に精を出していた少女に「こんにちは」と挨拶すると、不思議そうな顔をされた後に「こ、こんにちは」と戸惑い気味に返された。

 何故だろう。普通に挨拶しただけなのに。

 傍からすればトワも少女もあまり年が変わらないように見える事など露知らず、ささやかな疑問を感じながら《ブランドン商店》の戸を開けた。

 

「おう、らっしゃい。何か入り用かい?」

 

 中に入ると中年の男性が陽気な声で出迎える。店主のブランドンだ。

 学院の生徒を含めて何人か客はいるが、どうやら手は空いているようだ。早速トワは用件を告げる事にした。

 

「入り用と言えば入り用なんですけど、先に別の用件があって。生徒会に依頼された商工会の回覧板の件で伺ったんです」

「ああ、昨日に頼んだあれか。嬢ちゃんが引き受けてくれるのかい?」

「はい。まだ見習いみたいな感じですけど、精一杯やらせてもらいます」

 

 ブランドンからは少し心配するかのような様子が窺える。トワに任していいものかと考えているのだろう。

 新入生のトワは、まだトリスタの人たちと十分な関係を築けていない。だから示せるのは誠心誠意、任された仕事を最後までやり切る事だけだ。

 しっかりと見つめ返すトワに、ブランドンは頷いた。

 

「……うし、分かった。嬢ちゃんに任せるとしよう。依頼の内容を聞いてくれや」

「えっと、商工会の回覧板の捜索と聞きましたけど」

「まあ、そこまで小難しい話じゃねえさ。トリスタの商工会では回覧板を回して色々と情報共有をしているんだが、これがどこかでぱったりと途絶えちまってな。それがどこで止まっているのか探してきてほしいって訳だ」

「なるほど。誰かが次の人に回すのを忘れて、そのまま持ってるかもしれないっていう事ですね」

「そういうこった」

 

 回覧板という、それなりに大事なものを紛失したままというのは些か問題だ。かといって店を持つ身としては探す手間が惜しい。だから生徒会に頼むことにしたのだろう。

 しかし、このトリスタの商工会に属する店はそれなりに多いと思われる。闇雲に探すのは流石に無謀だろう。

 何か捜索の指針になる情報が欲しいところだ。少し考え込み、トワはブランドンに尋ねた。

 

「ブランドンさん、回覧板が回る順番って分かりますか?」

「一応、代表だから知ってはいるが……そんなので何か役に立つのか?」

「順々に辿っていく事で分かる事もありますから」

 

 少なくとも、見落としをしたりすることは無くなるだろう。些細な情報でも何か役に立つときがあるものだ。

 

「それじゃあ順番に言っていくとしよう。最初がウチで次に西口近くの《トリスタ放送》。そこから順に喫茶・宿泊《キルシェ》、ブックストア《ケインズ書房》、ガーデニングショップ《ジェーン》に質屋《ミヒュト》、最後にブティック《ル・サージュ》を回って戻ってくるっていう順番だ」

「《トリスタ放送》から通りに沿っていく感じかな……どこに回覧板が来ていないとかは分かっているんですか?」

「隣の《ル・サージュ》には来ていないそうだが、それ以外は今のところさっぱりだ。すまんな」

 

 申し訳なさ気なブランドンに「いえ」と気にしないように言う。

 それに大まかながら必要な情報は揃った。後は順番に訪ねていくだけで事足りるだろう。

 

「じゃあ一通り回って来てみますね。回覧板が見つかったらどうしましょうか?」

「そうだな、止まっていたところの次に回してくれや。こっちへの報告はその後で頼む」

「分かりました……っと、そうだ」

 

 商工会の依頼については聞き終わった。ならば、もう一つの用件も片付けておかねば。

 

「別の話になっちゃうんですけど、ヨルド卵って置いてありますか?」

「ヨルド卵? それだったら数は少ないが多少は置いてあるぞ」

 

 不思議そうな顔をしたものの、ブランドンはすぐに後ろに引っ込むと手早く所望した品を持って戻ってきた。特徴的な茶色の殻、間違いなくトワの探していたヨルド卵だ。

 もっとも、これは故郷とは別の産物には違いない。地鶏に近い性質の故郷のものとは微妙に風味も異なるだろう。

 それでも普通の卵と比べたら断然いい。お代を払うのに躊躇いは無かった。

 

「えへへ、ありがとうございます。それじゃあ行ってきますね」

「毎度あり。初仕事、頑張れよ!」

「はい!」

 

 激励に元気よく返事をして、トワは再び街に繰り出した。

 

 

 

 

 

「回覧板か? 俺のとこはちゃんと見たぜ。ドリー、その後ケインズさんにも届けたよな?」

「ええ、いつも通り持っていきましたよ」

「そうですか……教えて下さってありがとうございます」

 

 回覧板を探してトリスタの商店を訪ね始め既に二軒目、《キルシェ》も回し忘れている訳ではなさそうだった。店主のフレッドもウェイトレスのドリーも閲覧して次のところに届けたことを記憶していた。

 前の《トリスタ放送》にも問題はなかった。どうやら最初の方はいつも通りに回っていたらしい。となると、いったいどこで滞ってしまったのやら。

 まばらに学生も見える客席に視線を向けながら考えてみるも、はっきりとした答えなど浮かんでくるはずもない。やはり一軒ずつ確かめていく他ないだろう。

 

「うーん、それにしてもトワちゃんは偉いなぁ。こんなに小さいのに生徒会のお仕事を頑張っているなんて。お姉さん、感心しちゃうわ」

 

 そんなトワの内心など知る由もなく、ドリーはうんうんと頷いている。その目は完全に年少者に向けるものである。向けられる側としては苦笑いしか浮かんでこない。

 

「えっと……入学式の日にも言いましたけど、私これでも17ですよ」

「ごめんごめん。知ってはいても見た目とつり合っていないから、ついつい年下扱いみたいになっちゃって。早く慣れたいとは思っているんだけど」

「いえ、別に無理して態度を変えてもらわなくてもいいですよ」

 

 いちいち伝えらなければ年齢が分かってもらえないという煩雑さはあるが、トワは別に自分の容姿にコンプレックスを抱いている訳ではない。ドリーのような態度を取られるのもよくある事だ。とうの昔に慣れているし、嫌な気持ちになる事もない。

 ただ自分も周りの生徒と変わらない歳である事は知っておいて欲しいだけである。それを除けば妙に可愛がられようと、そういうものとして受け入れられる。

 もとより身体の成長については考えても仕方がない事なのだ。自分の容姿が与える印象が原因である事も分かっているし、相手に多くを求めるつもりは無い。

 

「まあ、なんにしてもお疲れさんだな。最初の自由行動日から生徒会の仕事なんて随分と働き者じゃねえか」

「そ、そうですか?」

「そうよ。少なくとも、この目の前の店主よりはね。フレッドさん、いい加減にアレを買い直さなきゃ不味いですよ」

「むぐっ……藪蛇だったか……」

 

 ドリーの指摘にフレッドは渋い顔になる。そういえば店に入った時に何やら話し込んでいた気がするが。

 

「買い直さなきゃって、何か壊れちゃったんですか?」

「あー……実は今朝方、導力ミキサーがお亡くなりになっちまったみたいでな。外側は問題なさそうなんだが、スイッチを入れてもうんともすんとも言わねえんだ」

「おかげさまでジュースの類が作れなくてね。ウチは基本的にコーヒーとか紅茶の方が売れ筋だけど、たまに子供も来るから放っておく訳にもいかないの。だから早く買い直そうって言っているんだけど……」

「いや、でも見た感じは問題なさそうなんだぜ? きっと中の回路の問題なんだ。ちょいと修理すればまだ使えるのに、さっさと買い直すっていうのは……」

「もったいなくて納得できない、と」

 

 情けなさそうな表情でフレッドは力なく頷いた。隣のドリーから注がれる「仕方がない人ですねぇ」とでも言いたげな視線が痛そうだ。

 とはいえフレッドの気持ちも分からないでもない。たかが導力ミキサーといえども大事な商売道具、出来るだけ長く使っていきたいと思うのも間違いではないだろう。それに買い直すにしても経費という問題がある。

 

「そう言うなら早く直してくださいよ。ルーディ君もカイ君も午後になったらきっと来ますよ?」

「ううむ……それはそうなんだが、残念ながら俺はそこまで機械に強くないと言うか……」

 

 直したいとは思っていても技術が追いついていないらしい。この様子だと遠からずフレッドは押し切られる事になりそうだ。

 ドリーはドリーで子供たちに残念な思いをさせたくないという気持ちで買い直しを勧めているのだろう。それは否定するべきものではない。だが、そのためにフレッドの気持ちを切り捨てるのは早計に思える。

 壁に掛けられた時計を見て時刻を確かめ、まだ余裕はあると判断する。サラ教官を更に待たせる事になるのは申し訳ないと思うが。

 

「――あの、よかったらその導力ミキサー、直してきましょうか?」

 

 困っている人を放っておきたくない。

 そんな単純な気持ちでトワは追加の依頼を背負い込むことにした。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「……それで、僕のところに持ち込んできたと」

「うん。ちょっと工具と場所を借りていいかな? そんなに時間は掛からないと思うから」

 

 壊れた導力ミキサーを預かったトワは一度学院に戻り、昨日に訪れた技術棟に再びやって来ていた。目的はもちろん導力ミキサーの修理。作業着らしい黄色のツナギを着たジョルジュに事情を話すと、ちょっと困ったような顔をされた。

 

「それについては別に構わないけど……トワが修理するつもりなのかい?」

「うん、そうだけど。導力灯の修理とかもやった事があるし、あまり難しくないものなら出来ると思うよ」

 

 事情があってトワは母親や伯父から色々と技術関連の事も教わっている。もっとも、それらは一般に流通している導力製品とは異なるものなので、簡単な修理とかにしか応用が利かないのだが。

 それでも導力ミキサー程度なら何とかなるだろう。壊れているのが内部の結晶回路だけなら尚更だ。

 しかし、それでもジョルジュは「そうか……」と呟くだけで表情が晴れない。何か問題がある……いや、どちらかというと何か思うところがあるような様子だ。

 

「……トワ、生徒会の依頼で色々やっているみたいだけど、これの他に仕事とかは残っているのかい?」

「そうだねぇ。修理が終わったら食堂の方に急いで行かないと約束の時間になっちゃうし、その後は修理したのを《キルシェ》に届けて、また回覧板探しを再開して……最後にサラ教官のお手伝いもあったっけ」

「ず、随分とハードスケジュールだね……」

「そうかな? 色々な人の依頼があってやりがいはあると思うけど」

 

 けろっとした顔で大量の依頼を「やりがい」の一言で片付けるトワに、ジョルジュは苦笑いを浮かべる。それに対してトワは首を傾げるだけだ。

 それはさておき、ジョルジュの方も何やら腹を決めたようだ。いまいち調子が上がらなさそうだった表情を改め、トワに一つの提案を持ちかけた。

 

「そんなに忙しいなら、この導力ミキサーの修理は僕に任せてくれないかな? 食堂の方で用事が終わる頃には仕上げておくからさ」

「え、それは助かるけど……いいの?」

 

 あくまで修理できる程度の知識しかないトワがやるより、確かな技術士としての腕前を持っているジョルジュがやった方が良いのは自明の理。加えて修理してもらっている間に食堂の依頼もこなせるのならば手間も随分と省ける。

 だが、それはジョルジュに自分の受けた依頼を肩代わりしてもらうようなものだ。報酬が払える訳でもないし、何よりトワ自身が申し訳なく感じる。

 そんなトワの問い掛けに、ジョルジュは「構わないさ」迷いなく答えた。

 

「正直、一人で機械いじりをしていても面白くないからね。それだったら何か人の役に立てることをしたいと思ったんだけど……駄目かな?」

 

 遠慮がちに聞いてくるジョルジュ。その理由を聞いてトワに否という選択肢は無かった。

 

「そんな事ないよ。むしろ、こっちからお願いするよっ!」

「はは、分かった。任せてくれ」

 

 抱えていた導力ミキサーをジョルジュに引渡し、改めてお願いする。

 これで修理に関しては心配いらないだろう。早速、食堂に行って島ロコモコの実食をしてもらって……

 と、算段を立てているとジョルジュの顔が目に入った。やけに微笑ましそうな目で見てくる彼に、トワはきょとんとしてしまう。

 

「えっと……どうかしたの?」

「いや、大したことじゃないさ」

「それでも、そんな目で見られたら気になるよ」

 

 むっとするトワに「ごめんごめん」と笑いながら謝るジョルジュ。観念して理由を口にする。

 

「すごく真剣で、それでいて楽しそうな表情をしていたからさ。本当に充実した自由行動日を過ごしているんだなって」

 

 予想外の答えに目をパチクリする。が、彼の言う事は決して間違いではなかった。

 依頼を受けて学院やトリスタの街を飛び回って、色々な人を出会って、色々な事を知って……もしかしたら入学してから一番充実していると言えるかもしれない。その事実を彼の言葉から自覚し、口元に自然と笑顔が浮かぶ。

 トワは満面の笑みで「うんっ!」と頷いた。

 

 

 

 

 

 綺麗に焼き上がったハンバーグを皿に盛られた白米の上に丁寧に乗せる。後は前もって作っておいたグレイビーソースをかけ、半熟に仕上げたヨルド卵の目玉焼きと野菜を添えれば完成である。

 

「お待たせしました。こちらが『島ロコモコ』です」

「ふむ……」

「なかなか見栄えもいいじゃないか。これは味が楽しみだねぇ」

 

 ジョルジュに修理を任せ食堂に戻ってきたトワは、早速「島ロコモコ」の調理に取り掛かっていた。

 厨房内のテーブル。そこに着くラムゼイとサマンサに、試食用に作った一皿と取り分け用の小皿二つを渡す。あくまで仕事の合間の試食なので一皿で十分だろうというラムゼイの言葉によるものだ。

 見た目の評価は悪くない。あとは味の問題。トワは緊張の面持ちで、取り分けた分をそれぞれ口に運ぶ二人の様子を見守る。

 

「……うん! 十分においしいよ、トワちゃん。これならそのまま出してもいいくらいさ」

「ほ、本当ですかっ?」

「あたしが料理に関して嘘なんて言うもんか。本当に決まっているだろうに」

 

 まず反応を見せたのはサマンサ。思わぬ高評価にお世辞ではないかと疑うが、清々しい笑顔で一蹴された。ひとまずホッと息をつく。

 

「…………」

 

 そして肝心の依頼人であるラムゼイはというと、腕を組んで黙したまま何か考え込んでいた。その表情は普段と変わらない仏頂面で、何を考えているかは察しがつかない。

 評価待ちのトワとしてはハラハラものである。呆れた様子でサマンサが口を開いた。

 

「あんた、いい加減に感想を言ってやりな。トワちゃんが不安がっているじゃないか」

「む、すまない。少し思うところがあってな」

「えっと、それでどんな感じでしたか?」

「味は文句なしに美味い。ジューシーなハンバーグとそれに絡む半熟の黄身、白米を食べる手も進む。ヨルド卵に加えて野菜もふんだんに使っているから栄養面でも優れているだろう」

 

 ラムゼイは「それと」と付け加える。

 

「ハンバーグをチキンや魚に変えてもイケると思ってな。色々とバリエーションが作れそうだ……学生向けなら丼ものにしてもいいかもしれん」

「勢いよく掻き込んでいく子もいるからねぇ。丼の方が白米も多く盛れるだろうし」

 

 とんとん拍子で新メニューの構想を立てていくのを見て、トワは思わず声を漏らした。

 流石はプロの料理人である。ここらへんが普通の料理が上手な人との違いなのかもしれない。伯母も味についてはプロに見劣りしないが、食べてもらう人に料理を即座に最適化していくような能力は持っていなかったように思う。

 関心の気持ちでやり取りを眺めていると二人がトワに向き直る。その顔はとても満足そうだ。

 

「トワちゃん、ありがとうよ。これなら満足いく新メニューが作れそうだ」

「個人的にも勉強になった。礼を言わせてもらうぞ」

「えへへ、お役に立てたなら嬉しいです。新メニュー、楽しみにしていますね」

「ああ。完成したら是非とも感想を聞かせてくれ」

 

 これにて食堂の依頼は完了である。

 去り際にお礼として色々と食材を貰ったが、無表情なラムゼイがうっすらと浮かべた笑みがトワにとって何よりの報酬だった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「フレッドさん、すごく喜んでくれていたね。やっぱりジョルジュ君に頼んで良かったよ」

『直るどころか新品同然になって返ってきたら誰でも喜ぶの。まあ、おかげでお昼をご馳走してもらえたわけだけど』

「貰ったお菓子も後でジョルジュ君に渡さないとね」

 

 時刻は1時過ぎ。トワは再びトリスタの街に引き返してきていた。

 ジョルジュに修理してもらった導力ミキサーは無事に《キルシェ》に送り届けた。結晶回路の他に細かい不具合も全部直って戻ってきた事にフレッドはいたく感動し、トワとその場に居ないジョルジュに感謝した。

 お礼として昼食をご馳走になり、ジョルジュに渡して欲しいと頼まれたお菓子の包みを預かって《キルシェ》を出たのが30分ほど前。今は回覧板探しを再開して人気の無い裏道を歩いているところである。

 

『それにしても本屋も花屋もハズレだったなんて……これなら逆から探した方が早く辿りつけたの』

「そんなの言ってもしょうがないよ。気にしない気にしない」

 

 人目がないのをいい事にブツブツと文句を零すノイの言う通り、《キルシェ》の後に訪ねたブックストア《ケインズ書房》にもガーデニングショップ《ジェーン》にも回覧板は無かった。となれば残るのは質屋《ミヒュト》のみ。逆回りで探せば一番に訪れた筈であった。

 だが今更そんな事を言っても仕方がない。それに順番に回ったからこそフレッドが困っている事に気付けたのだ。悪い事ばかりではないだろう。

 通りから外れた坂道をしばらく下っていけば、少し陰気な雰囲気が漂う店先が見えてくる。ノイに静かにしてもらい、トワは《ミヒュト》の戸を開けた。

 

「ごめんくださーい」

「あん? 客か……げっ」

 

 挨拶しながら店内に入ると、ものぐさそうな店主ミヒュトの呻くような声が出迎える。その客相手にあるまじき行為にトワは眉尻を下げた。

 

「あの……初めて来た時もそんな感じでしたけど、気付かないうちに何かご迷惑を掛けていましたか?」

 

 トワがこの質屋を訪れるのは二回目。そして初回に訪れた際も似たような反応をされたのを覚えている。まるで厄介な相手がやって来たように、酷くげんなりとした顔をされたものだ。その時はなんだかんだで誤魔化されたが、二回目ともなると偶然ではあるまい。

 しかしながら、トワにそんな反応をされる事をした覚えはない。ならば知らず知らずのうちに不利益を被らせていたのかと思ったのだが、額に手をやり「あー……」と声を漏らすミヒュトの様子を見るにそういう訳でもないらしい。

 

「……いや、別に嬢ちゃんは悪くねえ。だがまあ個人的な事情があってな。そこらへんは突っ込まんでくれ」

「は、はあ」

「そんで、今日は何の用だ? こんな辺鄙な店に来たからには用件があるんだろう」

「はい。それなんですけど――」

 

 口早に話を切り替え、こちらに用件を話すよう促してくるミヒュト。

 なんだか、また誤魔化された気もするが無理に追及する事もないだろう。トワは大人しく回覧板の件を口にする。

 

「回覧板? それが俺のところにあるって言うのか?」

「えっと……無いんですか?」

 

 が、何やら不穏な流れになってきた。

 ここに無いとなると本当にどこに行ったのか分からなくなる。そうなると非常に不味い。依頼を達成できるか怪しくなってくるくらいだ。不安で表情が蒼褪める気がした。

 

「ま、待て。確かに回ってきた回覧板に目を通したところまでは覚えている。そこから先がどうも思い出せなくてな」

「次の《ル・サージュ》には回って来ていないそうなので、たぶんミヒュトさんが持っていると思うんですけど……目を通してから、どこに置いたかは覚えていますか?」

「記憶が定かじゃないが、いつも通りだったら向こうのテーブルに――」

 

 そこまで言って、指差したカウンター奥のテーブルを見た途端にミヒュトは動きを止めた。つられて視線を移したトワも同様である。

 ――物の山。そう言うしかないほどに物が雑多に積み上げられた光景が広がっていた。他は意外と整理が行き届いているのに、そこだけが急いで体裁だけ取り繕ったかのように適当に物を置いたまま放置されている。

 固まる事たっぷり5秒ほど。苦々しい表情になったミヒュトが呟いた。

 

「そういや回覧板に目を通した後に大量の質が流れて来て、面倒でそのままにしてあったんだったな。しばらくしたら片付けようと思っていたが……」

「もしかしなくても、あの山の下ですよね」

「……だろうな」

 

 ふうと大きな溜息を零して、ミヒュトはカウンターの椅子から立ち上がる。物凄く面倒臭そうな彼の様子にトワは苦笑いを浮かべた。

 

「えっと、お手伝いしましょうか?」

「……ああ、頼む」

 

 物の山を片付け、その跡地から回覧板を発見したのはそれから1時間後の事であった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「――それで、あたしは後回しにされたと。およよ……トワにとってあたしはその程度の存在だったわけね……」

「はわわっ! その、決してサラ教官を蔑ろにしたとかそういう訳じゃなくて!」

「やーねぇもう、そのくらい分かっているわよ。アンタは本当に冗談が通じないわね」

「え……あ、はい。よく言われます」

 

 回覧板を無事に回収し、その後の処理と報告も済んで依頼を完遂したトワ。学院に戻ってきてまずはジョルジュに《キルシェ》で頂いたお菓子の包みを渡した後、本日最後の依頼であるサラ教官の手伝いに教官室に赴いていた。

 そこでまず目にしたのは机に突っ伏して真っ白になっているサラ教官。慌てて助け起こしたりコーヒーを淹れたりと介抱し、事情を聞いてみれば慣れない教官としての仕事に四苦八苦した末に燃え尽きていたとの事。やはり会長の言っていた通り彼女は新任らしい。

 次いでトワは何をしに来たのかと問うので、生徒会の依頼をこなしている事を説明した結果が先のやり取りである。後回しにしたのは事実であるため負い目があったのだが、釈明しようとした途端にけろりとした様子で冗談と言われてしまえば拍子抜けしてしまう。それとも自分が鵜呑みにしやすいだけなのか。

 少し呆けるトワを見て、サラ教官は僅かながら笑みを浮かべる。やや苦笑にも見て取れるが。

 彼女は自分にこういう表情を向ける事が多い、と最近トワは気付き始めていた。その理由に関しては、いまだによく分からない。

 

「まあ、アンタが依頼を受けてくれるって言うならありがたい事この上ないわ。普通の事務仕事を手伝ってもらうつもりだったけど、折角だから自分に関係のある仕事をやってもらいましょうか」

「私に関係のある仕事……ですか?」

「ええ。ずばり、特別実習の準備の手伝いをね」

 

 特別実習。気懸かりにしていたその単語が出てきた事で、トワは顕著に反応する。それを見てサラ教官は笑みを深めた。

 

「一口に実習と言っても、それを実施するためには色々と前準備が必要よ。宿泊場所の手配に現地の責任者との打ち合わせ、実習を行う範囲も決めなくちゃいけないし……まあ割とやらなくちゃいけない事が多いって訳」

 

 それは確かにそうだろう。実習先で具体的に何をするのかは知らないが、それを行うための環境を整えるためには綿密な準備が不可欠だ。特に学生が外部で活動するとなると、現地の責任者との打ち合わせは最重要事項とも言える。

 学院長は特科クラスに関する案件について、サラ教官に一任していると言っていた。となると、その諸々の準備もサラ教官の職務の範疇なのだろう。なかなか大変そうである事は察せられた。

 彼女の負担を少しでも和らげるためなら、トワも手伝う事はやぶさかではない。しかし、引き受けるのには懸念もある。

 

「あの……それって私がやっても大丈夫な仕事なんですか?」

「大丈夫大丈夫。宿を取るくらいどうってことないでしょ。はい、これ今度の土日にやる実習の企画書。そこに書いてある宿屋に連絡して4人分の寝床を確保すればいいから」

 

 押し付けるように若干皺の寄った紙を渡される。あまりにも適当な言い分に困り顔になりながらも、トワはひとまず企画書に目を通す。

 

「今度の土日っていう事自体が初耳なんですけど……ケルディック? えっと、ここから東に行った先の鉄道の中継地点でしたっけ?」

「そう、あの大市で有名なケルディックよ。そこの《風見亭》っていうところの女将さんがあたしの顔馴染みでね。用件とあたしの名前を出せば了解してくれるだろうから、よろしくお願いするわ」

「そ、そんなので本当に大丈夫なんですか?」

「心配性ねえ。後であたしもご挨拶がてらに連絡するから、多少はしくじっても問題ないわよ」

 

 図らずしも先立って実習先を知る事になったトワだったが、今はそれどころではない。自分のミスで4人そろって宿無し、という事態になったら流石に洒落にならない。その割に大雑把な事しか言わないサラ教官に戸惑うばかりだ。

 しかし、既に相手は任せる気満々である。お断りするのは難しいだろう。

 

「――バレスタイン教官、生徒に仕事を押し付けるのはやめていただこうか」

 

 一応フォローはしてくれるそうだから、と不安ながらに引き受けようとした矢先だった。窓側の机の方から豪胆な声が響く。

 ぬっと姿を現わしたのは短い金髪の男性。逞しい体躯に、軍服に似たあつらえの服装。軍事学担当のナイトハルト教官である。

 

「あーらナイトハルト教官、何かご用ですか?」

「先程から話が耳に入っていたが、どうも生徒に対して自身の責務を擦り付けようとしていたように窺えたのでな。教官といえども、そのような行為は職権乱用と言わざるを得ない。自粛して頂こうか」

「話を聞いていたなら、この子が生徒会の依頼で手伝いに来てくれたことも知っている筈ですが? それに実習に行く生徒自身が、その準備をするのもいい経験になるでしょう」

「だとしても押し付けがましいと言っている。何より、ものを頼むなら相応の説明をして然るべき。それすら行わないなど放任に過ぎる」

 

 サラ教官とナイトハルト教官の間に火花が散る。突如として始まった睨み合いにトワは手をこまねいてしまう。

 ナイトハルト教官は正規軍の機甲師団から出向している現役の軍人。察するに、帝国軍人らしく質実剛健を地で行く彼としてはいい加減なサラ教官の対応が我慢ならなかったのだろう。引き攣った愛想笑いを浮かべていたり、普段より二割増しくらい眉間に皺を寄せている様子からして、元から反りが合わないようにも思われるが。

 どうしたものか戸惑う内に、睨み合いを中断したナイトハルト教官の視線がトワを射抜く。体格がいい上に厳めしい表情ともなると結構、怖いものがある。

 

「ハーシェル、貴様もだ。生徒会の活動を否定する気は毛頭ないが、依頼を受けるにしても少しは分別を持つがいい。学生といえども軍人の末端に連なる身、人にいい様に使われていては大成できんぞ」

「ええと、その……」

「お言葉ですが、トールズには軍以外の道に進む卒業生も多くいます。それなのに生徒を軍人という型にはめる様な言い方はどうなんですか」

 

 トワが口籠る間にサラ教官が噛みつく。更に増えるナイトハルト教官の眉間の皺。段々と自分の手に負えない事態になってきた事をトワは感じた。

 

「……士官学院生として最低限、守るべき一線があると言っている。そもそも多様な進路も土台となる規範があってこそ。それをサラ教官は理解しているのか、いささか疑問なのだが?」

「新任なのでそこはなんとも。まあ、どこぞの軍人さんよりは柔軟な態度で生徒と接していると思っていますけど?」

 

 教官室に他の人が居ないのは、この場合は良かったのか悪かったのか。止めてくれる人がいない事を嘆くべきか、微妙に低レベルになってきた張り合いを晒さずに済んで胸を撫で下ろすべきか。

 いずれにせよ、ヒートアップを続ける二人の間に立ち入る事は難しいし、出来れば遠慮願いたい。

 

「…………失礼しました」

 

 だからトワは、こっそりと教官室を抜け出した。もはや二人が口論に夢中になっていたことが幸いした。無事に廊下に脱出し、深々と溜息をつく。そして片手にある特別実習の企画書を一瞥し、もう一つ溜息。

 経緯はどうあれ、任されたからにはやるしかないだろう。宿屋の人にどうやって説明しようかと頭を悩ませながら、手近な導力通信機に向かって歩き始めるのであった。

 

 ――ちなみに、大まかながら宿屋への説明と手配を終えて教官室に戻っても、サラ教官とナイトハルト教官はまだネチネチと言い合っていた。さしものトワも呆れ果てたのは言うまでもない。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「トワ・ハーシェルです。ただいま戻りました」

 

 学生会館2階の生徒会室。任された依頼を全て終えて戻ってきたトワは、ノックをして用件を伝える。「入れ」という素っ気無い返事はすぐに来た。

 二度目となる生徒会室は窓から夕日が差し込んでおり、入った時に少し目を細める事になった。目を慣らすように瞬かせながら辺りを見回すが、午前と変わらず他の人はいなかった。きっと、まだ忙しくしているのだろう。

 ただ、デスクで事務作業を続ける会長の姿だけは何も変わっていないようだった。淡々と手を動かし続ける機械染みた様子は、なんとも独特でしばらくは慣れられそうにない気がする。

 そんな様子なものだから話を切り出すにしても、どう切り出せばよいのか分からない。せめて目だけでもこちらに向けてくれないものだろうか、とトワは困り顔になる。

 

「それで?」

「ふえっ?」

 

 突然、会長が口を開く。トワは間の抜けた声を漏らした。

 

「依頼の結果報告に来たのなら勝手に話すがいい。仕事をしながらでも話は聞ける」

「は、はい。えーと、どのくらい詳しく報告したらいいですか?」

「なるべく詳細に、だ。だが余計と思うものは省け」

 

 具体的なようで、その実、要領を得ない指示である。つまるところ個人の裁量に任せるという事だろうか。

 何にせよ報告しろと言われたからには、ただ突っ立っている訳にはいかない。依頼の進捗を書き込んだ生徒手帳を取り出す。会長の視線がチラリと向けられた気がした。

 

「まずは食堂の依頼に向かったんですけれど――」

 

 食堂の新メニュー考案、回覧板の捜索、導力ミキサーの修理、サラ教官の手伝い。

 今日一日でこなしてきた依頼を順々に報告していく。出来るだけ細かく、しかし蛇足にならないように。サラ教官とナイトハルト教官の諍いの下りは省いておいた。依頼人の名誉を尊重するのも大切だろう。

 一通り報告し終わると、会長は今まで動かし続けていた手をようやく止めた。目を瞑り何か考え込む姿は、なかなか絵になっているように思えた。

 

「……ハーシェル。今回の依頼、こなしていく中でどう思った?」

「え」

「簡単でいい。答えろ」

 

 これまた急な指示である。戸惑いながらも、トワは言葉を紡いだ。

 

「その、やっぱり色々な依頼があるんだなって思いました。学院の中だけじゃなくて、トリスタの人たちからの依頼もありましたし。このトールズ士官学院が、トリスタがあってこそのものだと理解できた気がします」

 

 依頼で街を回っている内に気付いた事がある。それは学院生と街の人々の距離の近さであり、そして、それが当たり前の光景になっている事である。

 客商売だけの関係だけではない。雑貨店では買い物に来たおばさんと生徒が楽しそうに談笑し、喫茶店ではマスターや常連のご老人相手に授業の愚痴をこぼす。出身もバラバラな生徒たちが、このトリスタという一つの街でそれぞれの絆を紡いでいる。その光景がトワにはとても尊いものに思えた。

 

「だから、ありがとうございます」

「……? 何の礼だ?」

 

 僅かに怪訝そうな表情を見せる会長。それが妙にわざとらしく感じられて、トワはクスリと笑みを零した。

 

「だって、わざわざそれを感じさせるために用意してあったような依頼でしたもん。お礼の一つくらい言っておかないと」

 

 よくよく考えれば新入りにすぐやらせられる依頼が、生徒会メンバー総出で活動しているにも関わらず都合よく残っている筈が無い。きっと新入りがいつ来ても良いように準備してあったのだろう。

 学院の職員に限らず、トリスタの人々とも広く顔を合わせる事で生徒会の活動の意義を感じさせる。おおかた、そんな目的だろう。

 

「ふう……なるほど、君はそれなりに優秀である事は認めざるを得ないようだ。突発的な依頼への対応などの問題解決能力もさる事ながら、教官の補助を無事にこなした事からも事務処理能力も十分と言えるだろう」

「えへへ、ありがとうございます」

「ただ少しばかり人が良すぎるのが難点か。今回の依頼が適性検査も兼ねている事には気付かなかったようだしな」

「まあ、お人好しとはよく言われますけど……って、適性検査?」

「簡単にどれほど仕事が出来るか見るためのものだがな。依頼人にも事前に伝えてあった事だ」

 

 思わぬ単語が出てきた事で呆けるトワに対し、会長はしれっとした顔で事実を告げる。どうやら根回しもしてあったらしい。

 経験を積ませることを目的にしているとは思っていたが、仕事ぶりを測る事も目的に含まれているとは思っていなかった。人の考えを良い方に捉えるのはトワの美徳だが、時にはその裏にある意図を見逃してしまう事もあるのだ。

 そんな欠点を自覚してトワはちょっぴりへこむ。が、続く会長の言葉に憂鬱な気分は全部吹き飛ばされた。

 

「いずれにせよ、君は十分な能力を示した。生徒会でも即戦力として活動していけるだろう」

 

 会長がデスクの引き出しから小さなものを取り出す。

 金字の装飾が入った青い腕章。生徒会メンバーの証をトワに差し出した。

 

「生徒会を代表して歓迎しよう、トワ・ハーシェル。生徒会メンバーとしてトールズの生徒たちを支え、導いていく事。そして何より、君自身が活動の中で成長していく事を期待する」

「あ……はいっ!」

 

 微動さえしない彼の手からそろそろと受け取り、早速、同じように左腕に通す。真新しいピンで留め、改めて眺めてみると嬉しさに似た感情がこみ上げる。

 これで自分も生徒会のメンバーだ。

 ささやかな緊張感と、言い知れない高揚感。トワは自然と会長に向き直っていた。

 

「会長、これからよろしくお願いします!」

 

 そう挨拶するトワの表情は満面の笑み。それに対し相変わらずの鉄面皮で――しかし、どこか満足気な雰囲気を漂わせながら、会長は鷹揚に頷いた。

 




【島ロコモコ】
残され島の特産品の一つ。地元の野菜をふんだんに使ったもので、一昔前の流行だったという。鍛冶屋のごつい店主の得意料理。

【ヨルド卵】
フィールドでドロップする食材アイテム。おそらくヨード卵をもじったものと思われる。


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第7話 初めての特別実習(試験版)

皆さん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

ところで軌跡シリーズ10周年記念本、セプト=アーカイブを先日購入したのですが、細かいネタまで網羅した大ボリュームで大変満足のいくものでした。今後の軌跡シリーズの展開にも期待しています。
……うちのPCで「暁の軌跡」できるかなぁ。


 ガタゴトと揺れながら鉄路を走る青い車体の列車。そのボックス席の一つで、4人の学生が黙りこくって座っている。

 

「…………」

「…………」

「えっと……」

 

 雰囲気はどこかピリピリしていた。より正確に言えば、窓側に座るクロウと、その斜め前の通路側に座るアンゼリカの間の雰囲気が。お互いに頑として視線を合わせないようにそっぽを向いている。

 列車が出発してから既に10分ほど。二人はずっとこの調子だ。席を共にするトワとジョルジュとしては非常に居心地が悪い。

 

「そ、そうだ。アンちゃん、この前の自由行動日はどうだった? 街の方に出ていたそうだけど」

「ああ、非常に有意義な時間を過ごせたよ。どこぞの腐った目をした男と鉢合わせしなければね」

「そっか……そ、それはともかくケルディックに着くのが楽しみだね! クロウ君もそうじゃない?」

「まあ、面倒な授業を受けるよりは楽しめると思うぜ。いけ好かねえ誰かさんが居なければな」

「あう……」

 

 なんとか場を取り持とうとするトワの努力もむなしく、空気はますます悪くなっていく。トワはちょっと涙目気味だ。

 明らかに嫌悪し合うクロウとアンゼリカに、とうとうジョルジュが重い口を開いた。

 

「というか君たち、一旦は休戦するとか言っていなかったっけ?」

 

 旧校舎地下でのやり取りを持ち出され、クロウは憤慨したような表情で窓の外に向けていた顔を勢いよく振り向かせた。

 

「俺に言うんじゃねえよ! そもそも停戦云々だってこの女から勝手に言いだしてきた事だっていうのに、どうして自由行動日にそっちから突っかかってきたんだっつうの!」

「それは君が私の前でナンパに勤しんでいたのが悪いんだろう。幼気な子猫ちゃんが毒牙に掛かるのを放っておけるわけないじゃないか」

「んだとっ!?」

 

 自身の潔白を訴えるクロウにアンゼリカが冷たい声で口を差し挟む。静かではあるが、たっぷりと嫌悪感が乗せられた言葉にクロウがまた反応する。

 どうやら自由行動日に何かしら一悶着があったらしい。睨み合う二人の関係は間違いなく悪化してしまっていた。アンゼリカはナンパがどうとか言っているが、いったい何がどうなってこんな事になってしまったのか。

 トワとジョルジュは揃って溜息を吐く。初めての特別実習、その始まりはお世辞にも良い滑り出しとは言えなくなりそうだった。

 

 

 

 

 

 トワが忙しく動き回った末に無事、生徒会入りを果たした自由行動日から6日。サラ教官の手伝いでトワが知った通り、4人は実習地であるケルディックに向かう列車に乗り込んでいた。

 3日ほど前、実習の詳細を説明するためにサラ教官に集められた時は二人の関係がここまで悪くなっているとは思わなかった。資料を配られて一通りの説明と質疑応答をしただけだったので、あまり長く一緒にいた訳じゃなかったから気付かなかったのかもしれない。

 結局、雰囲気がおかしいと気付いたのは当日の早朝に駅で集合し、物珍しそうな様子の駅員の視線に送られて出発した辺りだった。もう少し早くに察していればどうにか出来たかもしれないが、今更そんな事を言っても仕方がないとはトワも分かっている。

 この不和を抱えた状態で実習に臨まなければならない。そもそも実習先で何をするのかも知らないのもあって、トワの内心は激しく不安であった。

 

「だいたい俺が何をしていようがお前には関係ねえだろうが! いちいち難癖付けてくるのもいい加減にしやがれ!」

 

 トワの心配を余所に、対面に座るクロウは語気を荒げる。見るからに憤慨している、という様子である。

 だが、それを向けられたアンゼリカは事も無げに「――フッ」と鼻で笑う。額に青筋を浮かべるクロウに対し、冷え冷えとした視線と共に口を開いた。

 

「確かに君がどこでナンパしていようが私には関係ないさ。そもそも、うだつの上がらなさそうな君になびくような女の子がいるとは思えないからね」

「おい、うだつが上がらないってどういう――」

 

 口を挟もうとするクロウを「ただし」とアンゼリカはピシャリと撥ね退けた。

 

「それが君の空々しい一人演技の産物なら話は別だ。軽い調子のいい加減な男。そんな人物を演じるなんていう自己満足に他人を付き合わせるようなもんじゃない」

「……っ!」

「第一、君のその怒り様だって本音かどうか怪しいものだ。何を考えてそんな事をしているのかは知らないが、喧嘩をするならまずは自分(・・)を出してくれないかな?」

 

 アンゼリカの舌鋒には容赦の欠片も無い。それをハラハラとした心地で聞きながらも、彼女が言う事にどこか納得する気持ちがトワの中にもあった。

 一月近くの学院生活で、クロウが他の級友と交流しているのも何度か見かけた。その中で彼は場を盛り上げるムードメーカー的な立ち位置にあったと思う。

 だが、逆に言えばそのような立ち位置としての振る舞いしかしていなかったようにも見えた。人間、それぞれに委員長タイプとか熱血タイプとか型にはめられる部分もあるものだが、個性というものはそう画一的なものではない。一人一人に些細な違いがあって、それがその人の良さとなっている。

 クロウの振る舞いには、その「違い」が無い。ムードメーカーがどのような時にどんな行動をするかというステレオタイプに従って行動している。だからトワやアンゼリカは違和感がしてしまうのだろう。

 それが、アンゼリカが「一人演技」と言う理由。その事が理解できてしまうからこそ、トワは下手に口を挟んでこの喧嘩を止めることが出来ずにいた。

 

「てめえ――」

 

 しかし、次の瞬間にはそうも言っていられなくなる。

 クロウの雰囲気が変わる。表情がストンと落ちてしまうような予感がして、トワは慌てて間に割って入っていた。

 

「や、やめようよ二人ともっ! ここで喧嘩してもなんにもならないでしょ!?」

「む……」

「それに、これはちゃんとした実証試験なんだよ。喧嘩なんかしていたら良い結果なんて出せだろうし、関わっている人にも迷惑が掛かっちゃうから……」

「……ちっ」

 

 前のめりになっていたクロウが座席に荒っぽく座り直す。依然として不機嫌そうにしながら、それでも矛は収めた。

 

「わーったよ。事は荒立てねえから、そんな顔をするなっつうの。お前もそれでいいな?」

「……ああ、いいだろう」

「ふう……前途多難というかなんというか」

 

 クロウもアンゼリカも感情任せになるような性格ではない。トワの訴えを聞いて理性的な部分が働いてくれたのだろう。この場は一先ず、落ち着きを見せる。

 ただ、それは目先の不利益を避けるために、お互い不満を呑み込んでいるだけに過ぎない。今は堪える理由があるだけで、それが無くなれば同じことを繰り返すだろう。この実習が終わって学院に戻れば――いや、もしかしたら戻らないうちに。

 全く以てジョルジュの言う通りである。先の見通しが立たない現状に、トワは頭を悩ませざるを得なかった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 トリスタからケルディックまでは列車で1時間ほど。クロウとアンゼリカの喧嘩が収まった後も続くどこか息苦しい雰囲気に耐え、トワはようやくといった気持ちでケルディックの駅に降り立った。

 足早に駅の中を通り抜け、出入り口の扉を開け放つ。目の前に広がった光景にトワは「うわぁ」と歓声をあげた。

 

「凄いなぁ。そこまで大きくない街なのに、こんなに人が集まっているなんて……」

「大市目当ての客だろうさ。ここには帝国内に限らず、外国からの商人も多く訪れると聞くからね」

 

 街の奥、大きな風車の下には様々な屋台の頭がのぞく。そこから聞こえてくるのは賑やかな人々の声。商人が張り上げる売り文句、客が少しでも安く買おうと店主と激しい値切り交渉を繰り広げ、観光客が楽しげに店を見て回る。様々な声が合わさって、このケルディックの大市の活気を作り出していた。

 客足は留まる事を知らないようで、トワたちが見ている間にも次々と大市に向かって行く人が見て取れる。耳にはしていたが、やはり噂は伊達ではなかったようだ。

 

「随分と賑わっているみたいだね。リベール産の導力器もあるっていう話だし、時間があったら覗いてみたいところだね」

「それより早く荷物を置きに行くとしようぜ。宿はトワが知っているんだろ?」

「あ、うん。駅からすぐ近くって聞いているよ」

 

 クロウに促される形できょろきょろと辺りを見渡してみる。宿について知っているのは自分だけなのだ。案内もいない以上、しっかりとしなければならない。

 幸いにして、目当ての建物はすぐに見つかった。周りより少し大きい建物に掛かる《風見亭》の看板。今日の宿に向けてトワは先導して歩き出した。

 

 

 

 

 

「それじゃあアンタが通信をくれたトワちゃんってことかい。声で可愛らしいと思っちゃいたが、これは想像以上だったねぇ」

「あはは……どうも」

 

 宿に辿り着いて、まずは《風見亭》の女将であるマゴットに挨拶をする。ちゃんと連絡は出来ていたようで、彼女は学生服姿の4人に特に戸惑う事も無く歓迎してくれた。実際に通信機に立った身として、トワは安堵の息を吐いた。

 マゴットもトワの声を覚えていたらしい。しげしげと自分の姿を眺める彼女に、トワは苦笑いを浮かべた。

 

「サラちゃんが教師になったって聞いた時は信じられなかったけど、実際に教え子と会ったらそうも言ってられないね。ズボラなところが目立つ子だけど、上手くやっているかい?」

「慣れない事が多くて大変そうですけど、それなりに何とかやっていますよ。それで部屋の方はちゃんと用意して頂けましたか?」

「ああ、すまないね。仮にもお客相手に長話をしちまって。さあ、こっちだよ」

 

 やっぱり教官になる前からあの調子なのか、とマゴットの話振りから察してしまう。ここに居ない人のことを話していても仕方ないので、なるべく早めに切り上げさせてもらったが。

 マゴットの案内で客室が並ぶ2階へ上がる。割と廊下の奥の方まで歩いてゆき、角部屋にあたる部屋の扉を女将が開けて中に入る。4人もそれに続いた。

 部屋の間取りは普通の個室より広いスペースにベッドが4つ。一晩の宿には十分すぎるものだ。事前に伝えていた要望の通りでもあったので、トワは満足気に頷いた。

 

「ここがアンタたちの部屋さ。一応、頼まれた通りに用意したけれど」

「十分です。一晩ですが、お世話になります」

「ちょ、ちょっと待ってくれないかな?」

 

 マゴットとの応対を買って出ていたトワの後ろから口が挟まれる。若干、戸惑ったような表情でジョルジュは部屋を一瞥した。

 

「ベッドが4つあるけど、もしかして全員この部屋なのかい?」

「うん、そうだけど」

「そうだけどって……軽々しく言うような事でもねえだろ」

「あたしもどうかとは思うんだけどねぇ。サラちゃんがどうしてもって言うから」

 

 全員が同じ部屋。つまりは男女の区切りは無いという事である。ベッドは2つずつ離して配置されてはいるが、それも申し訳程度のものでしかない。

 もちろん理由はある。トワは説明するために、渋い顔の男性陣に向き直った。

 

「これから苦楽を共にする仲、一緒の部屋で過ごすくらいは慣れておきなさいってサラ教官は言っていたよ」

「うーん……言っている事は分からないでもないけど」

「俺らはともかく、女子の方はそれでいいのかよ?」

「別にそこまでは気にしてないよ。着替えは別々にすればいいだけだし、あまり問題は無いんじゃないかな」

 

 トワのあっけらかんとした答えにクロウとジョルジュは少し呆れたような様子を見せる。どうしてそんな目で見るのかと、トワとしては内心で不思議に思うばかりであったが。

 

「えっと、アンちゃんも大丈夫かな?」

「まあ野宿の経験に比べれば男女同室など可愛いものだ。別に構わないよ」

「何で大貴族の息女が野宿を経験しているんだよ……」

 

 至極真っ当なツッコミが入った気がしたが、アンゼリカは華麗に無視した。

 

「ただし、いかがわしい真似をしてくるようならその限りではないがね。そこら辺は覚えておいてもらうよ」

「もうアンちゃんったら、2人がそんな事をするはずないって」

 

 いかがわしい真似、と聞いて何の事か分からないほどトワも子供である訳ではない。見た目が伴っているかどうかはともかく、17にもなれば性知識もそれなりにある。

 しかし、ほとんど警戒心が無いのはクロウとジョルジュを信頼しているからこそである。お人好しで基本的に疑いを掛けないのと、そもそも認識として男女の垣根が低いというのもあるかもしれない。

 だからアンゼリカの言葉も笑って軽く流していたのだが、対する男性陣は微妙な表情であった。

 

「……無条件の信頼っていうのも、なかなか心にクルものがあるね」

「ああ。これなら警戒してもらった方が楽ってもんだぜ……」

「?」

 

 男として見られてないのかもとか、無警戒による良心の呵責だとか、そんな男の子の機微にまでトワは聡くない。何故かニヤニヤとするアンゼリカの側で首を傾げるしかなかった。

 

「話は纏まったかい? それなら預かっていたものを渡しておくよ」

「あ、はい。実習の内容が入っているものですね」

 

 マゴットから封筒を渡される。表にはトールズ士官学院の紋章である有角の獅子。サラ教官が事前に言っていた、実習内容が入れられたもので間違いないだろう。

 

「それじゃ、あたしはこれで失礼するよ。何か分からない事があったら相談しておくれ」

 

 マゴットはそう言い残し、部屋から出て行った。

 残された4人の視線は自然と封筒に集まる。結局、今に至っても実習で何をするかという確かな情報を誰も持っていないのだ。まさにそれが収められているだろう物体に注目するのは当然と言える。

 両手で封筒を持ったトワが3人の顔を見回す。こうも視線を浴びると緊張するものがあった。

 

「……じゃあ、開けるよ」

「おう」

「さて、鬼が出るか蛇が出るか――」

 

 中を探ると数枚の紙が入っている事が分かる。それらを取り出し、皆の前で広げた。

 

「特別実習実証試験1日目は以下の通り――東ケルディック街道の手配魔獣に、落し物の持ち主さがし……?」

 

 読み進めていくうちに4人の頭には疑問符が浮かんでいく。実習というからには現地で何かしらの課題をこなすものと考えていたが、その内容は予想とは異なって簡単な依頼のようなものばかり。身構えていた部分があっただけに拍子抜けではあった。

 最後に「レポートを纏めて提出する事」と締められた文章を読み返してみたり、裏面をひっくり返してみても内容に間違いはない。他の紙も個々の依頼に関する説明があるだけで、実習について他の説明は無い。

 どうやら、この依頼をこなす事が実習内容のようだ。その目的がどこにあるのかは今一つ判然としないが。

 

「何をするかと思えば、態の良い小間使いみたいな仕事ばかりじゃねえか。こんなのが実習だっていうのかよ?」

「まあ厳しいものよりかは気が楽ではあるけれど……」

「どうにも目的が見えない実習内容だ。それを推測するのも実習の内という事かな?」

 

 予想より簡潔な実習内容、それに対し不明瞭な実習目的。それはトワたちに少なからず戸惑いを与えていた。

 この場にサラ教官が居れば説明を求める事も出来るのだが、彼女は今頃学院で教鞭を取っている最中だろう。実習の目的を直接問いただす事は出来そうにない。

 

「――1つ、目的として考えられるものがあるとすれば」

 

 ならば、アンゼリカの言う通り自分たちなりに考えるしかない。思い当たる節があったトワは口を開いた。

 

「帝国の色々な土地について、実際に経験する中で学ぶっていうのはあるかもしれないね」

「ええと……それが、この依頼とどう繋がっているんだい?」

「この依頼内容って結構、生徒会に来る依頼とも似ているんだ。更に言えば、遊撃士(ブレイサ―)が請け負っている依頼ともね」

「遊撃士……支える篭手を掲げる民間組織だったか」

 

 アンゼリカの呟きに「うん」と頷く。帝国では最近あまり目立たない存在だが、ちゃんと知られてはいるようだ。

 遊撃士とは大陸各地に支部を持つ民間組織だ。その理念は地域の平和と民間人の安全を守る事。時には紛争の調停にも乗り出すが、普段は支部に寄せられる依頼への対応が主な業務となっている。

 その依頼内容は様々で、トワが似ていると言ったように街道の魔獣退治やペット探しなど、今回の実習と類似する部分も見受けられる。

 

「依頼にはその土地ごとの特徴が出るもので、こなしていく中で街の特色なんかも自然と理解できるものなんだ。この前の自由行動日にやった生徒会の依頼でも、トリスタの街について色々と知れたしね」

「へえ……そう言われれば納得っちゃ納得だが、それが何の役に立つんだよ?」

「えっと、これは受け売りになるんだけど」

 

 依頼の意義は理解したが、いまいちその必要性については得心がいってない様子のクロウ。その疑問に答えるため、トワは昔に聞いた人の言葉を引用した。

 

「守るべき土地は自分の足で見て回るべし――そんな事を有名な遊撃士の人が言っていたそうなんだ。いざ何かがあった時に、その場所について知っているかどうかで全く違うからって」

 

 例えば街道一つとって見ても、地図上で見るのと実際に歩いて自分の目で見て回るのとでは印象が大きく違うだろう。道幅はどれくらいあるのか、路面の起伏は、魔獣の出没頻度、地図にない脇道がどこに繋がっているのか。経験して初めて分かる情報は数多くある。

 それらの情報がもたらす効果は馬鹿に出来るものではない。依頼遂行の効率化、地域の背景を知った上での対応などに繋げることが出来る。一部の遊撃士は新たな支部に着任したら、まずはその一帯を足で巡る事から始めると聞くくらいだ。

 

「軍人にとっても、地理の把握は作戦を立てる上では大事な要素でしょ? だから、そういう意味では士官学院生として役に立つとは思うな」

「なるほどね。単に課題をこなすだけではなく、その中での経験を吸収して糧としていく事が実習の目的という訳か」

「本当のところはサラ教官に聞いてみるしかないだろうが、個人的には的を得ていると思うよ。フフ、流石は私のトワだ」

 

 妙に褒めてくるアンゼリカに「そんなことないよ」と謙遜しつつ、改めて3人の顔を見回す。一先ずはトワの説明で納得してくれたらしく、訝しげな表情は無い。

 これなら依頼にも意欲的に取り組んでくれるだろう。少なくとも、この実習を漫然と過ごすのは避けられそうだ。

 

「じゃあ、そろそろ実習を始めようか。依頼は3つの内2つが大市関連、残り1つが手配魔獣の討伐だね。手配魔獣は暗くならない内に片付けておきたいから、これを最初に取り掛かっていいかな?」

「異論はないよ。私たちの中で、この手の仕事に慣れているのは君ぐらいだろうしね」

 

 まずは段取りを提案してみれば、特に反発もなく受け入れられる。依頼活動に関するノウハウを持っているのはトワだけなのだ。効率的に事を進めるためにも、彼女の案に反対する理由は他の面子には無かった。

 しかし、トワが場慣れしていなければスムーズに行動に移せなかっただろうこの状況。反対するような気持ちは無くとも、思うところが無い訳でもない。

 微妙な表情を浮かべるクロウに、トワは首を傾げた。

 

「クロウ君、どうかしたの?」

「なんだ、何か文句でもあるのかい?」

「違うっつうの。ただ随分と無茶振りをしてくる実習だと思っただけだ」

 

 相変わらず刺々しいアンゼリカとの間にピリッとした空気を発生させつつも、クロウは面倒臭そうに感じたところを話す。

 

「碌な説明もせずに課題だけ寄越してやれって言うんだ。俺たちはトワが居たから助かったが、来年の本番はそうもいかねえだろうしな」

「確かに……でも、そういう問題点を洗い出していくのもテスターである僕たちの役目なのかもしれないね。新しい導力器も、試作を繰り返しながら問題点を解決してちゃんとした製品にしていくものだし」

 

 ジョルジュの言う通りだとトワは思う。

 自分たちの特別実習はいわばお試し版、未来の後輩たちがより充実した実習を行うための前準備のようなものだ。初めての試みであるからには、そこに諸々の問題点があるのは仕方がない事であるし、準備段階で見つかって良かったとも言える。

 特別実習の有用性を実証しつつ、それを行う上での問題点を見つけ出して改善策を模索していく。実証試験班として為すべき事はそんなところだろう。

 

「あはは……レポートには最初くらい説明役を付けてほしいって書いておこうか」

 

 取り敢えず、実習の趣旨が欠片も分からないまま放り出されるのは問題だ。報告のレポートに改善を要求する旨を書くというトワの提案に、全員が深々と頷くのであった。

 



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第8話 抱えるもの

お待たせいたしました。色々と忙しかった1月も終わって更新再開です。
……けど3月からはもっと忙しいんだろうなぁ。モラトリアムの終わりが迫っている事を感じる日々であります。


 秋蒔きの種が実り、黄金色の麦穂が揺れる街道。その一角に位置する高台において激しい戦闘の音が鳴り響く。

 相対するのは有角のヒヒのような魔獣、一般的にゴーディオッサーと呼ばれる中型のもの。咆哮を上げながら振るわれるその剛腕を、トワは前後左右にステップして躱し続ける。身軽さを活かした立ち回りに焦りは無い。

 それに業を煮やしたかのように繰り出される大振りな一撃。大きく横薙ぎに振るわれた腕から上に跳躍する事で逃れたトワの刀が、ゴーディオッサーに生じた隙に斬り込んだ。

 左の首筋から胸にかけて奔る一閃。弱々しい声を漏らしながら崩れ落ちる魔獣。敵を完全に仕留めた事を確認したトワは刀を血払いして鞘に納めた。

 

「ふう……みんな、大丈夫?」

 

 大きく息を吐きながら周りの様子を窺う。それぞれが相手していた魔獣も既に片付いたようで、クロウをはじめとした三人も構えを解いていた。

 

「ま、なんとかな。ちょいと手間取ったが」

「はあ、はあ……け、結構な数が居たからね。無事に倒せて良かったよ」

 

 やや疲れ顔のクロウと息も絶え絶えのジョルジュという差はあるが、誰にも大きな怪我は無さそうだ。取り敢えず問題なく依頼は達成できたようなのでホッとする。

 しかし、依頼は無事に片付いたとは言っても、実習全体として見て問題が無いわけではない。自分たちの実習の目的、その内の一つとしては無視できない事実があった。

 

「とはいえ……まさかARCUSの戦術リンクが全くと言っていいほど機能しないとは。これは少々、厄介な気がするね」

 

 憮然とした様子のアンゼリカの言う通りだ。

 ARCUSの試験導入。その自分たちに課せられた役目には、決して無視できない障害が立ち塞がっている事を認識せざるを得なかった。

 

 

 

 

 

 トワなりの見解の下で特別実習をスタートさせた四人。まずは手配魔獣の討伐を目指し訪れた東ケルディック街道で待ち受けていたのは、どうしてこんなにと首を傾げたくなるほどのゴーディオッサーの群れだった。その数、六体。

 何にせよ、手配魔獣として依頼が回ってきた以上は放置しておく訳にもいかない。気が立っている群れが気付かない内に遠距離から銃撃とアーツで仕掛け、ある程度のダメージを与えた後に近接戦に持ち込んだ。

 問題が起きたのは、その後だった。

 

「私とジョルジュ君はリンクが繋がったけど、持続したのは30秒くらい。他は繋がる気配すらなしかぁ……うーん、どうしたらいいんだろう?」

 

 戦術リンクが繋がらない。単純で、しかし致命的な問題だった。

 唐突な異常で戸惑った状態で連携が取れる訳もない。戦術リンクが繋がる見込みが立たない事を察した直後、トワが下した判断は分散しての各個撃破だった。誤射などの危険性を鑑みた上での妥当な判断である。

 なんとか怪我もなく討伐には成功したものの、連携が取れなかったおかげで思っていたよりも時間が掛かった。体力も余計に消耗し、程度の差は有れど四人とも顔に疲労の色が浮かんでいる。

 実習的にも戦闘効率的にも無視できない状況。視線は自然とジョルジュの方へと向けられていた。

 

「……まあ、このARCUSはあくまで試作段階のものだからね。戦術リンク機能も万全じゃない。こう言ったら元も子もないかもしれないけど、上手くリンクが繋がらないのも仕方がない部分があるんだ」

「ふむ、つまり技術的な限界という訳かい?」

「おいおい、それじゃあ試験導入も糞もねえだろうが。戦術リンクがコイツの肝なんだろ」

 

 試作機故の限界。そう言われてしまえばどうしようもないが、だからと言って「はい、そうですか」と頷く訳にもいかない。試験導入を任されたからには、まず戦術リンクが繋がらないと話にならないのだ。

 それはジョルジュも分かっているのだろう。手元のARCUSを見つめる彼の表情は難しげだった。

 

「専門的な事はよく分からないけど、決して戦術リンクが機能しないって訳でもないんだよね? ジョルジュ君とは短い間だけど繋がったし、先月の旧校舎でも上手くいったんだし」

「そうだね……戦術リンクが繋がらない原因として考えられるのは、ARCUSのシステム自体が未完成である事。それと――」

 

 ジョルジュがぐるりと三人の顔を見回す。重々しい口調で言葉を続けた。

 

「僕たち自身が、最大の問題かもしれない」

「……どういう事だい?」

 

 思いもしない言葉に、それを聞いた面々は訝しげな表情になる。

 システムが未完成という話は分かる。だが、それ以外に自分たちにも問題があるとはどういう理屈によるものなのか。

 

「ARCUSには人によって適性の差があるという話は覚えているね?」

「ああ、サラが言ってた奴だろ」

「私たちが導入試験のメンバーに選ばれたのも、ARCUSの適性の高さが一つの理由になっているって言っていたよね」

 

 先月の特別オリエンテーリングで旧校舎から出たのち、トワたちはARCUSについてもう少し詳しい説明を受けていた。そこで話された事の一つがARCUSの適性についてである。

 なんでも、適性が高い方が戦術リンクの効果が出やすいらしい。そこら辺の細かい事情はサラ教官も完璧には把握していない様子だったが。

 

「戦術リンクにおいて適性が影響を与えるのは確かだけど、それ以上に重要なのがリンクを繋ぐ相手との相性なんだ。信頼関係と言い換えてもいいかもしれない」

 

 リンク相手との信頼関係。それはつまり、その人との関係が戦術リンクの状態に直接反映されてしまうという事だろうか。

 

「開発段階の実験では、仲が良い相手と悪い相手とではリンクが繋がる確率が段違いという結果が出ていてね。それにシステムの未熟さを加えた末の、この事態という訳だろう」

「なるほど。人間関係に左右されるシステムとは、随分と繊細な事だね」

 

 納得すると同時に皮肉っぽく笑みを浮かべるアンゼリカ。この場の誰が悪いという訳でもないが、皮肉りたくなるような気持ちも分かる気がした。

 信頼関係というものは一朝一夕でできるものではない。それは同じ時を過ごす中で培われていくものであって、今の自分たちでは少しばかりしか持ち得ないものだ。戦術リンクが繋がらないのも当然である。

 加えて彼女はクロウと仲違いの真っ只中だ。ジョルジュの話が確かならば、この二人がリンクを結べる確率は絶望的である。トワにはどうすれば辿り着けるのかも分からない和解に達しなければ。

 要するに、今の自分たちでは戦術リンクを十全に扱うのは無理難題なのだ。皮肉の一つも言いたくなるだろう。

 

「便利なもんにはそれ相応の扱い辛さもあって然るべしってか。ったく、面倒くせえシステムだな」

「僕もリンクを繋ぐハードルを下げるために調整は加えてみるけど、正直、根本的解決は難しいだろう。しばらくは今のままで頑張るしかないね」

「そうだね。実習中に少しでも結べるようになればいいんだけど……」

 

 現時点でリンクを結べる可能性があるとすれば、先ほど僅かな間ではあったが繋がったトワとジョルジュ、後はトワとアンゼリカの組合せだろうか。他は少し難しいだろう。クロウとアンゼリカは言わずもがなである。

 考えている内に「はあ」と溜息が出る。どうやら自分たちの先行きは想像以上に前途多難のようだった。

 

「まあ、それは置いておくとして、そろそろケルディックに戻ろうか。次の依頼に取り掛からなくちゃ」

「今の話を聞いただけでドッと疲れた気もするが、仕方がないか。そういえば、この手配魔獣を討伐した事はどこに報告すればいいんだい?」

「うーん……特に書かれていないから女将さんに言えばいいんじゃないかなぁ」

「んな事あとでいいだろ。ほら、さっさと行こうぜ」

 

 足早に高台から下り始めるクロウ。その後を「やれやれ」といった様子のジョルジュが続く。トワもアンゼリカと一緒にその流れに従おうとして、ふと後ろを振り返った。戦術リンクの件とは関係なく、一つ気掛かりな事があったからだ。

 既に物言わぬ骸と化したゴーディオッサーの群れ。その血肉は他の動物や魔獣の糧となり、いずれは地に還っていくのだろう。それは自然な事だ。

 ――だが、本来は森林地帯に生息する彼らがこんな場所に、しかも群れで出没したのは果たして自然な事と言えるのだろうか?

 胸中に疑問を残しながらも、トワはその場を後にした。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「お二人とも手伝ってくれて助かったのですぅ。おかげで私のハチミツも普段と同じ……いや、それ以上に売れそうなのですぅ」

「えへへ、お役に立ててよかったです」

「それでは麗しい店主殿、名残惜しいが、これで失礼させてもらうよ」

 

 手配魔獣を討伐してケルディックに戻ってきたトワたち。報告がてら《風見亭》で昼食を取った後、残りの大市における依頼は手分けして対応する事になった。

 トワとアンゼリカが向かったのは大市でも奥まったところにあるハチミツの販売店。なんでも不幸が重なって客入りの悪い場所に出店する事になってしまったらしく、呼び込みをしようにも店主一人ではどうしようもないので手伝ってほしいという依頼だった。

 なんだかアルバイトのような依頼でもあるが、商売について経験するのもケルディックの事を学ぶ上で重要だろう。不慣れながらも精一杯頑張らせてもらった。

 かくして依頼を完遂し、店主ルーチェに手を振って送られながらその場を辞するトワとアンゼリカ。お礼として貰ったハチミツの瓶の重みが心地よく感じられた。

 

「さて、依頼が終わった後は大市の入り口で待ち合わせという話だったが……男二人組はまだ来ていないようだね。暇潰しがてらショッピングとでも洒落込むかい?」

「それはちょっと二人に申し訳ないかなぁ……」

 

 賑やかな大市の雑踏を進みながら、アンゼリカの提案に苦笑いを零す。

 確かに遠目で見た限りクロウとジョルジュはまだ依頼を終えていないようだが、だからといって自分たちだけ遊びほうけるような真似は気が引ける。そういう事は全員が揃っている時にするべきだろう。

 つれないトワの返事に「それは残念」とアンゼリカは肩をすくめる。あまり残念そうに見えないあたり、最初から冗談のつもりだったのかもしれないが。奔放なようでいて筋はちゃんと通す性格なのかもしれない。

 そんな事を考えていると、急に誰かに肩を叩かれた。が、振り返ってみてもそこには肩を叩くような近さにいる人はいない。となると答えは一つである。トワは不自然にならないように歩調を緩め、そっとアンゼリカの斜め後ろに移動した。

 

(と、トワ……)

(ノイ、どうかしたの? あまり話していると怪しまれちゃうけど)

(……お腹が減ったの)

(え?)

 

 姿をアーツで隠して付いてきているお目付け役のノイ。大市の喧騒に紛れるよう小声で尋ねると、彼女の妙に弱々しい声が耳元でささやく。その予想外の内容にトワの口から呆けたような声が漏れた。

 

(朝ご飯の後から何も食べていなくてもう限界なの。お昼は目の前で食べる様子を見せつけられるし、今も屋台からいい匂いが漂って来て……)

(そ、そうは言われても)

 

 ノイの今にも気が狂いそうとでも言うかのような訴えに同情はするものの、仕方がない面もあるのは確かだ。トリスタでは人目を忍んでノイの食事も用意していたが、事情を知らない面子と四六時中行動を共にする実習中はそれも出来ない。昼食をこっそり分け与えるなどほぼ不可能だった。

 それに屋台で買い求めるにしても少なからず団体行動を乱すことになる。既に不和の種を抱えている以上、トワとしてはなるべくそれは避けたかった。

 ……更に言ってしまえば、本来は食事の必要性もないのだから何とかなると思っていたのも否定できない。もう何十年も前から食事を取るのが習慣になってしまっているため、初めから無理な相談だったようだが。

 

(お願いなのっ。少しだけでもいいから何か食べさせてほしいのっ)

 

 抑え気味ながらも切実さが滲む声でノイは訴えかけてくる。ポカポカと肩も叩いてくるあたり、よほど切羽詰っているようだ。

 トワは悩む。今ここで少しアンゼリカと離れ、ノイに軽食を買ってあげても少し怪しまれるだけで済むかもしれない。

 だが、この後、クロウとジョルジュと合流したら何かしら行動を共にすることになるだろう。そこから抜け出すのは困難だ。ノイに何かあげられるとしたら夜になってからになってしまう。きっと、それまで彼女は持たないに違いない。

 家族同然の相手からの望みを無視する訳にもいかない。トワはよし、と腹を決めた。

 

「ね、ねえアンちゃん。ちょっと先に行っててくれないかな? 私、少し用事を思い出して……」

「なに、それなら私も付き合うよ。一人で男どもを待ち惚けるのも退屈だ」

「いやいや、本当に大した用事じゃないから! それじゃあ、お願いね!」

 

 アンゼリカに口実にもなっていない苦し紛れに過ぎる台詞を残して大急ぎで大市の奥へと戻っていく。制止させる暇を与えないために、その足取りは割と本気の走りっぷりとなっていた。

 これまでも何度か誤魔化すような発言はしてきたが、今回ばかりは絶対に怪しまれそうな素振りになってしまった。不可抗力とは言え、トワは内心で溜息をつかざるを得なかった。

 

「……ふむ」

 

 そして自分の走り去る姿を目で追いながら、アンゼリカが興味深そうに薄い笑みを浮かべていたことなど、トワは知る由もないのであった。

 

 

 

 

 

「はい、どうぞ。悪いけど、これでしばらくは我慢してね」

「た、助かったの……はむっ、むぐむぐ」

 

 かなり強引ながらも、なんとかアンゼリカと別行動を取ることが出来たトワは、姿を露わにしたノイと屋台の並びの裏手にいた。ノイの食事を確保してから屋台の間の隙間を通って人気の無い場所に抜け出した次第である。

 買い与えたのは屋台で売っていた串焼き一本のみだが、身の丈30リジュほどのノイからすれば十分な量の食事である。大きさの比率からして、むしろ若干多めなくらいだ。

 黙々と口を動かすノイ。その様子をトワはぼんやりと眺めていた。その目は妖精の方に向けられていても、彼女のことを見ている訳ではなかったが。表から聞こえてくる大市の賑わいが、どこか遠くに感じられる。

 

「……ねえ、ノイ」

「うん?」

「喧嘩しちゃった時って、どうしたら仲直りできるのかな」

 

 どこか上の空なトワがぽつりと呟く。端的な言葉であっても、ノイには何を問うてきているのかすぐに察せられた。クロウとアンゼリカの事だろう。

 

「なんとかしてあげたいと思っても、何をしてあげたらいいのか全然わからないんだ。私、同じくらいの歳の友達なんて初めてだから」

 

 故郷ではトワと同じ年頃の子供はいなかった。もとより人の少ない辺境の島。知り合いは全て自分より年上か、あるいは年下しかいない。ある意味で、学院に入学して初めてトワは対等な立場の友達を得たと言える。

 だからこそ分からないのだ。いがみ合う二人の友達――片方はそう思ってないかもしれないが――が、どうすれば仲直りできるのか。そのビジョンが見えてこない。

 トワとて喧嘩したことが無いという訳ではない。幼い頃、母親とひょんなことから言い争いになって二日ばかりぎこちない雰囲気になった事はある。その時は意固地になっていたことを自覚し、父親の取り成しもあって仲直りできた。

 しかし、親子喧嘩と同年代相手の喧嘩は勝手が違うものだろう。喧嘩の理由が理由だけに、余計に解決が困難になっている節もある。トワはもうお手上げ状態だ。姉代わりに弱音を零すのも仕方のない事である。

 

「そうだなぁ……ぶっちゃけ、今のところは放っておくしかないと思うの」

「今のままだと困るから、こうして聞いているんだけどな」

 

 それに対するノイの答えは何の解決にもならなさそうな放置という案のみ。トワがむっと憮然とした表情で文句をつける。

 だが、ノイも考え無しにそう言っている訳ではない。串焼きの最後の一欠片を口に放り込むと、ふわりとトワの眼前に浮かび上がって指を突き付けた。

 

「いい? 喧嘩っていうのは要するに意地の張り合いなの。どっちかが折れるか、お互いに折り合いをつけなくちゃ解決しない。あの二人の場合、割と深刻みたいだから納得いくまでやらせておくしかないと思うの」

「で、でも殴り合いとかになったら……」

「それはそれで別に構わないんじゃないかな。思いっ切りやりあったからこそ仲直りできることもあるの。昔のナユタとシグナなんて、まさにそんな感じだったし。まあ、それで解決できる見込みがあるならの話だけどね」

 

 手が出すようなことになったらどうするのかという懸念も、ノイはあっけらかんと「それも良し」と言い切った。自分の親も実際にそうだったと言われてしまうと、トワもそういうものなのだろうかと思えてきてしまう。

 とはいえ、言葉尻に注釈をつけた様に、殴り合いが必ずしも良い結果をもたらすとは限らないのだろう。そうなると、やはり事が荒立たない内になんとかした方がいいのではないかという気持ちも湧いてくる。

 懊悩するトワ。そんな彼女を見て、ノイは呆れたような表情を浮かべた。

 

「もう、一度悩み始めると長続きするのはトワの悪い癖なの。そこまで気に病まなくてもいいのに」

「そうは言われても……やっぱり、このままじゃいけないよ」

 

 戦術リンクの件もある。トワとしてはどうにかして不和を解消したかった。

 ノイの呆れた心地に変わりはない。が、同時にその顔には苦笑染みたものが浮かんでいた。

 

「本当に誰かさんに似てお節介なんだから。血は争えないの」

「そ、そうかなぁ。お父さんほどお人好しじゃないつもりだけど」

「自覚が無い分、なおさら性質が悪いの」

「えー」

 

 自身への評価に不平がありそうなトワを置いて、ノイは「まあ、それはともかく」と話を区切った。

 

「仲直りさせるにしても、今すぐになんとかするっていうのは良くないよ。無理矢理に取り繕った結果、歪な関係になっちゃうかもしれない。時間を掛けてお互いの事を知って、ゆっくりでも確かな絆を紡いだ方がいいの」

「……うん、分かった」

 

 その言葉には確かな実感があった。それはきっと、ノイがお互いの事を知る大切さを知っているからだろう。彼女がかつては嫌っていたという人間と今は共に暮らすに至った経験から。

 よくよく考えれば自分も皆の事を詳しく知っている訳でもない。焦って仲を拗らせるよりも、今は共に過ごす中でそれぞれの事を知る事が大事なのだろう。

 

「よし、それじゃあ行こうか。アンちゃんをあまり待たせても悪いしね」

「うん」

 

 心持を新たにすれば、肩に感じていた重荷も幾分か軽くなったように感じられた。ノイが空腹に耐えかねての予定外な行動だったが、こうして彼女とゆっくり話せて良かったと思う。

 食事が終わった事だし、そろそろアンゼリカのところに戻るとする。ノイにいつも通りアーツで身を隠してもらい、屋台の間の隙間を通って大市の表に向かって行った。

 徐々に大きくなっていく大市の賑わい。狭い隙間を通り抜け、ようやく視界が開ける。

 

 

 

 

 

「やあトワ。そんなところで何をしていたんだい?」

 

 その先に待っていたのは、非常にいい感じの笑みを浮かべたアンゼリカであった。

 

「あ、アンちゃん? 大市の入り口の方で待っていたんじゃ……」

「いやなに、やはり一人で男どもを待つのは退屈でね。暇潰しがてら君の後を追ってみたんだが、見つけたと思えばコソコソと屋台の隙間に入っていくじゃないか。そんなのを見たら待ち伏せもしたくなるものだよ」

 

 見られていた。笑みを湛えたまま告げられた言葉に、トワは冷や汗を流す。

 強引に別行動を取った時点で疑われるのは百も承知だったが、それならそれでお手洗いに行っていたとかお土産を見繕っていたとか言い訳をする余地はある。しかし、屋台の裏側に出て行くところを見られていたとなると、それらの言い訳が利かなくなってしまう。わざわざ人目のつかない所に行く理由ではないからだ。

 不幸中の幸いは、アンゼリカがそのまま屋台の裏まで追ってこなかったことか。さもなければノイと話している現場をバッチリ見られてしまうところだった。

 

「それで? 私の質問には答えてもらえるのかな?」

「ええっと……これは、その……」

 

 とはいえ、言い訳が難しい事には変わりない。じっと見つめてくるアンゼリカの視線から逃れるように目が右往左往し、納得してもらえるような理由も思いつかなくてもごもごと口を動かす様は挙動不審の一言に尽きる。

 これは、もうどうしようもないかもしれない。トワは内心で観念しかける。問い詰める相手の方から「……ふっ」と聞こえてきたのは、その時であった。

 

「まあ、言いたくないのなら言わなくてもいいさ。別に無理に聞き出すような趣味もない」

「え……い、いいの?」

「その様子だと、聞かれたらトワが困る事のようだからね。友人に迷惑を掛ける心積もりは無い。それとも、なんだい。別に遠慮なく聞いてもいいのかな?」

「……ううん。聞かれたら、ちょっと困るかもしれない」

 

 遠慮がちなトワの言葉に「そうかい」と短く返すと、アンゼリカは背を翻した。

 

「そろそろ、あの二人も依頼を終わらせている頃だろう。遅れて文句を言われるのも癪だし、さっさと待ち合わせ場所に行かないとね」

「うん……あの、ごめんね。隠し事しちゃって」

「なぁに、いい女は秘密の一つや二つくらい持っているものさ」

 

 申し訳ない気持ちのトワに対して、アンゼリカは何ともない様子で歩を進める。わざわざ後を追って待ち伏せていたのが嘘に思えるくらいの潔さだ。

 ありがたい事には違いない。ノイの存在は外界では秘匿されるべきものだ。何かのはずみで知られることになり、済し崩しに広まっていってしまったらと思うと、少し怖い気持ちがある事は否定できない。

 だが、隠し事をしている後ろめたさを無視できるほどトワは図太くない。都合よく見逃してもらった安堵よりも、友達と言ってくれる相手に真実を告げられない心苦しさの方が大きかった。

 なにより、皆の事を知りたいと思っておきながら自分は隠し事をしているという事実が心に重く圧し掛かる。直前にお互いの事を知りたいとのたまっておきながら、同時に自身の事は必死に隠し立てしようとしている。あまりの矛盾に、トワは少し自己嫌悪気味だ。これでは戦術リンクが繋がらないのも当然だと思う。

 打ち明けなければならない。本当の意味で絆を紡ぎたいのであれば、ノイの事を、トワが隠している真実を。

 ただ彼女にはまだ、その一歩を踏み出すための勇気が足りていなかった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 少し遅れて後ろからついてくる小柄な少女をチラリと見遣る。難しい顔を伏し目がちにして、お世辞にも明るいとは言えない様子にアンゼリカは小さく溜息をついた。

 

(ふう……これは少々、選択を誤ったかな?)

 

 後を追ったのは興味本位だった。

 仮にも大貴族――素行はともかくとして――である自分に臆面もなく意見する胆力。華奢な体から繰り出される鍛え上げられた剣術。そして悪意を知らないような天真爛漫さ。そんなトワ・ハーシェルという少女に、アンゼリカは間違いなく惹かれていた。

 それは普段、口説き落とす婦女子相手に感じるものとは全く異なるものだ。趣味とかそういうものに関係なく、ただ一人の人間として彼女の事を知りたいと思う。

 自然にトワとお近づきになろうと接触を繰り返した。その中で気付いたのだ。彼女は他者に対して朗らかでありながら、同時に立ち入らせない一線がある事に。

 

(ちょっと揺さぶりを掛けてみるつもりだったが……あそこまで慌てられたら、こちらが悪い事をした気分になるじゃないか)

 

 今回はそれがあからさまに過ぎたので深入りしてみたのだが、どうやら相当に知られたくない事らしい。万一を考えて待ち伏せに留めておいて良かったと思う。その先にまで追っていたら不味い事になっていたかもしれない。

 確かにトワは何かを隠している。だが、アンゼリカは別段それを不快に思っている訳ではなかった。自分の感情さえも偽っているあの男と違い、彼女の気持ちは嘘ではない。ただ人に知られたくない事があるだけなのだ。

 その秘密に興味が無いといえば嘘になる。だからこそ後を追ったりもしたのだから。

 しかし、単純な興味で関係を壊す危険を冒す気にはなれない。今でさえ、あの男と一悶着を起こして問題になっている最中なのだ。アンゼリカとて、これ以上の厄介事を引き起こすのは本意ではない。

 さて、どうしたものか。そう思った所で、ふと気付いた。

 トワが抱える何らかの秘密。あの男の偽りの仮面。ジョルジュも時折思い詰めたような顔をしているし、自身も一物ある事には違いない。

 

「何やら抱えているのは皆同じ、か。やれやれ、面倒な事だ」

 

 よくもまあ、ここまで厄介な面子になったものだと思う。

 自分も含めて一癖も二癖もありそうなメンバーである事に、アンゼリカは苦笑を零すのだった。

 




今回はトワたちの使う『試作型ARCUS』について少しばかり説明を。

外観は空の軌跡SCにおける戦術オーブメントを若干大きくした感じ。基本的なシステムはそのままだが、戦術リンク機能を搭載した結果としてサイズが大きなっている。
あくまで戦術リンクのテストのためのものであるため、導力通信機能やマスタークオーツなどは実装されていない。クオーツはSC時点での規格なのでアーツもSCに準拠する。
戦術リンク機能は未完成で、閃の軌跡のARCUSよりリンクが繋がり辛い。リンクレベルに例えると、レベル2になってようやく普通にリンクが繋げるようになるくらい。

閃の軌跡の一年前にARCUSが完成している訳がないので、五秒くらい考えてパッと思いついたもの。


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第9話 トラブル発生

こうして軌跡シリーズの二次を書いていて思うことが一つ。町にいるいわゆるモブキャラにもしっかりと名前・人格が設定されていて、無理にオリキャラを捻じ込まなくて済んで非常に助かる。
つい最近、東亰ザナドゥの情報が公開されましたけど、一ファンとしてはそちらでも味のあるキャラクターがたくさん登場することを期待したいです。

あと注意書きを一つ。私の書く関西弁は凄く適当なので突っ込まないでください。


「ったく、骨の折れる依頼だったぜ。落とした奴があっちこっち動き回るもんだから振り回される羽目になっちまった」

「まあまあ、流石に財布を落としたら冷静ではいられないさ。旅行者なら尚更だよ」

「そうは言っても、付き合わされる側としては勘弁願いたいぜ……」

「あはは……二人とも、お疲れ様」

 

 多くの人で賑わうケルディックの大市。昼を過ぎて夕刻に差し掛かろうかという時になり、客の波も一先ずは落ち着いているようだ。もっとも、夕方になればセールを行う店もあるので、そうなればまた一波あるのだろうが。

 その入り口近くで集合したトワたちは、それぞれがこなしてきた依頼の結果を報告し合っていた。どうやらクロウとジョルジュは大市以外のところも歩き回ってきたらしく、少し疲れ気味な様子だった。

 トワも先ほどの出来事で精神的に疲れているところがあったが、表向きはそれを出さずに振舞っていた。アンゼリカが見逃してくれたのに、必要以上にそれを気にしていては参ってしまう。今は実習に集中する事にしていた。

 

「さて、これで依頼は全て完了というわけだね。もう宿に戻るのかい?」

「ううん。それもいいけど、もうちょっと町を回ってからにしよう。何かあるかもしれないし」

 

 何はともあれ、女将から渡された依頼は完遂した。今日はもう報告用のレポートを書くだけなのだが、トワは首を横に振る。まだ戻るには早い時間だと思ったからだ。

 それにクロウは「うへぇ」と嫌そうな顔をする。あからさまに面倒臭そうだ。

 

「観光なら勝手に行ってくれよ。こちとらクタクタなんだ。女子のショッピングに付き合うような余力はねえぞ」

「じゃあ大丈夫、観光じゃないから。これも実習の延長線上だよ」

「……実習でやるのは依頼だけじゃないのかい?」

 

 クロウの文句をあっさりと切り捨てたトワに、ジョルジュが渋い表情で問う。彼も疲労が溜まっている事には変わらないのだろう。しかし、疲れているからといって手を抜いていいわけではない。

 

「最初にこの実習、遊撃士の仕事に似ているって言ったでしょ? 仕事っていうのは、ただ依頼をこなすだけじゃないんだ。依頼されるまで待つだけじゃなくて、自分の方から問題を発見して解決できなきゃいけないの」

 

 依頼というのは困った末に誰かに頼ろうとして出されるものだ。人がそこまで思い立つには、問題の質にもよるだろうが、結構な時間が掛かるものである。解決を依頼される問題よりも、時間の経過によって妥協したり諦めたりしてしまう問題の方が多いだろう。

 だが、よく目を配っていれば依頼とならずに立ち消えていく問題も見えてくる。相談に乗って、より良い結果へと導いていける。街を見て回ろうという提案の理由はそこにある。

 回されてくる依頼を達成しているだけでは一流の遊撃士にはなれない。それと同じように、自分たちも自主的に動いていくべきではないかとトワは思うのだ。

 

「ケルディックについてもっと詳しく知れるかもしれないし、実習の評価も上がるかも――」

「あー、分かった分かった。行けばいいんだろうが、行けば」

「初めからそう言っていれば良いのさ、まったく」

 

 色々と説明している内にクロウが「もういい」と話を遮る。憎まれ口を叩くアンゼリカに言い返す気力も無いようだった。

 トワとしては本当に疲れているのなら先に休んでもらっていても良かったのだが、遮られた以上、口に出さない事にする。嫌々ながらも行く気になってくれているのだし、今更になって言うのもどうかというものだ。

 

「それで? 町を回るつってもどこに行くんだよ?」

「そうだねぇ。まずは人通りの多いところから回っていって……」

 

 ――どうすんねん、おとん。もういつもの時間からだいぶ過ぎとるで。

 ――かと言って、今から店を開ける訳にもいかんしなぁ。どないしたもんか……

 

「……ああいう声を拾っていければ上々かな」

 

 ちょうど入り口近くの屋台から、それらしい話し声が聞こえてきた。いいタイミングである。

 早速とばかりに足を進めるトワ。楽しげで、面倒臭げで、仕方なさげな面々がその後に続いた。

 

 

 

 

 

 声が聞こえてきた屋台は、なかなか立派な店構えだった。この大市で長い間やっているのだろう。手馴れた感じに商品が陳列されており、道行く人々の目を引く工夫がなされていた。

 その店先に立つのは中年の男性と、トワたちとそう変わらない歳に見える少女。親子と思しきその二人にトワは「こんにちは」と声を掛けた。

 

「おお、らっしゃい。なんか入り用かい……って、んん?」

「誰かと思えばルーチェさんとこで売り子しとった学生さんやないか。ここからも見えとったで」

「あはは、それはどうも」

 

 なんやかんやと話し合っていた特徴的な口調の親子は、トワたちの姿を認めるなり少し驚いた様子を見せた。少女の方は先ほどこなした依頼の様子も見ていたらしく、店奥からやや前のめりになって話し掛けてくる。快活そうな子、というのが第一印象である。

 

「へえ、お前ら売り子なんてやってたのかよ」

「私の主な仕事は裏手の在庫整理だったさ。売り子はトワの方。女性客ならともかく、男性客を口説く自信は無いからね」

「そもそも口説くっていう表現でいいのかな、それは」

 

 後ろではクロウがからかうような口調でいたが、アンゼリカに軽く流されていた。ジョルジュとしては引っ掛かる口ぶりだったようで、ささやかながら疑問を呈していたが。

 一連の流れを見て、店主の男性は呵々大笑する。「いやぁ、面白い子たちやな」というのは褒め言葉なのだろう。

 

「ワシはライモンっちゅうもんや。話は聞いとるで。トールズ士官学院っちゅうところから実習に来とるんやろ?」

「はい。さっきの売り子の仕事も実習の一環でして……まあ、社会勉強みたいなものですね」

「はぁ~、最近の学生さんは大変なんやなぁ」

「みんながみんなそうと言う訳じゃないけどね。この実習も私たち四人だけだし」

 

 店主ライモンは誰かしらから実習について聞き及んでいたようで、興味深そうに話を聞いてくる。それにトワが答えれば、隣の少女が感心したように声を漏らした。これが一般的と思われても困るので、注釈を入れるのも忘れない。

 和気藹々と話す最中、背中にクロウからの視線が刺さる。おおかた、聞き出すことがあるのなら早く用件を切り出せ、といったところだろうか。

 だが、その返答は一瞥して「任しておいて」と言外に告げるのみである。急に何か困っていないかと聞いても、赤の他人にそう易々と相談するものではない。まずは焦らず、会話の中で情報を引き出していくことが大事なのだ。

 

「何を他人事のように言うとるんや、ベッキー。高等学校に行く気があるのなら無関係と言う訳でもないやろ」

「そらそうやけど……ウチは別に、このまま店の手伝いしとってもええとも思ってるんよ。まだ学校に行くと決めた訳とちゃう」

 

 そんなやり取りをするうちに、親子は親子で何やら揉めていた。話を聞く限り、高等学校への進学を迷っているようだが。

 

「えっと、娘さんを学校に行かせたいんですか?」

「まあ、そんなところや。勉強の他にも見識を広めて欲しくて前々から勧めとるんやが……」

「でもおとん、ウチだって銭の数え方と客の捕まえ方くらいは分っとるつもりやで。学校に行くよりも、ここで修業した方がためになるんとちゃうんか」

 

 納得いかなそうに反駁してくる娘に、ライモンは「こんな調子なんや」と肩をすくめる。なるほど、とトワも苦笑を浮かべた。

 娘は商人の街で商人の子として生まれ育ち、そこで学べることで十分と思ってしまっている。対して父親としてはケルディック以外についても広く知る事で、商人として大成して欲しいと思っている。商売については店番の手伝いくらいしかやったことがないが、そんなところだろうとトワは察した。

 

「それとちっこい姉ちゃん、娘さんやなくてベッキーでいいで。そないな呼ばれ方したら背中がむずむずするわ」

「え……あ、うん。それじゃあ私もトワでいいけど」

 

 そんな父親の苦悩を余所に、娘ことベッキーは「よっしゃ、トワ姉ちゃんやな」と名を確かめると身を乗り出してきた。

 

「ウチのことは置いておくとして、ここは商いの話といこうやないか。しばらくしたら夕方のセールなんや。まだ早い時間やけど、今なら特別にお安くしとくで?」

「あはは……なんというか、商魂逞しいね」

「当たり前やないか。これでもケルディック商人の端くれやで。ほら、後ろのちゃらい兄さんも見てきい。今だったらワインがチーズ付きで二割引きやで」

「お、マジか。そりゃあ買わなきゃ損……」

「クロウ、学生の飲酒は御法度だよ」

 

 呆れ顔で窘めるジョルジュに、クロウは「分かってるっつうの」と未練がましい表情で返す。勧めた側も父親に「学生さんに酒を売りつけるなや」と頭を小突かれていた。へーい、と悪びれた様子を見せないベッキーの様子から見るに、最初から冗談のつもりだったのかもしれないが。

 苦笑いを浮かべつつも、陳列された商品を見回す。ワインは無理だが、折角だし何かしら買わせてもらおうかと思っての事だ。食品類を扱っているようで、生鮮食品から加工食品まで様々なものがある。

 そこで何となく違和感を覚えたのは、トワが店番といえども商売の経験を有していたからだろうか。ふと疑問に思ったことが口に出た。

 

「えっと、取り扱いは普段から加工食品の方が多いんですか? 見た限り、そんなに生鮮類は多くないですけど」

 

 商品棚に並んでいるもので、半分以上のスペースを取っているのは加工食品だ。ケルディックは穀倉地帯であり、付近に農家も点在している。ならば生鮮食品の方が主流でもおかしくは無い気がするのだが。

 トワとしては些細な疑問だったのだが、それを聞いてライモンは痛いところを突かれたような顔になる。頭の後ろを掻きながら困ったような笑みを浮かべた。

 

「結構、鋭い嬢ちゃんやなぁ……一見変わりないようにしたつもりやったんやけど」

「という事は、何かしら普段とは異なるという事かな?」

「うん、まあなぁ」

 

 こんなこと君たちに話すことじゃないかもしれないが、と前置いてライモンは事情を打ち明けた。

 

「これでもワシはケルディックの卸売ナンバー1が自慢でな、農家さんとも上手いとこやらせてもろうてん。そんで今日も昼過ぎくらいにポールさんっちゅう人のところから仕入れが来る予定やったんけど……」

「何かトラブルがあったのか、時間になっても来ないんよ。それで生鮮食品がちょいと品薄になっとるわけや」

「品薄もそうなんやけど、ポールさんとこで何かあったんやないかと心配でなぁ。様子を見に行きたいところなんやけど、夕方のセールが近いとなると店を開ける訳にもいかんし……」

「離れるに離れられない、という事ですか」

 

 ジョルジュの言葉に「そういう事や」とライモンが頷く。先ほど遠耳に聞いたライモンとベッキーのやり取りをトワは思い起こす。あの話はこの事に関するものだったのだろう。

 悩ましげな顔のライモン。そんな父親にベッキーは胸を張った。

 

「だからおとん、店はウチに任せて行ってくればいいやん。もう他のとこに負けない客寄せが出来るって分っとるやろ?」

「そうはゆうても、お前の場合は威勢よく値引くもんやから冷や冷やするんや。お母んからカミナリもらうのは、ワシはもう堪忍願いたいで」

「……確かにそれは勘忍やなぁ」

 

 どうやら娘に任せきりにするのも不安が残るようで、悩ましげな顔に渋面が上書きされていた。ベッキーも自覚があるのか、がっくりと肩を落とす。親子は手詰まりに陥っていた。

 トワは振り向き、後ろの三人に目配せする。その意図を察した面々は一様に頷いて承諾の意を表す。許可を得たトワは、ライモンとベッキーに向き直って一つの提案をした。

 

「あの、よかったら私たちが様子を見てきましょうか?」

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 ところ変わって西ケルディック街道。ライモンから取引先の農家、ポール氏の様子を見てくるよう頼まれたトワたちは、ルナリア自然公園という所の近くにあるという住居を目指して足を進めていた。

 日はとうの昔に中天を過ぎ、赤い夕陽となるまでそう時間もないだろう。宿に帰ってからまだレポートも書かなければならない。一行は自然と足早になっていた。

 

「しかしまあ、あのオッサンも人が良いこった。予定をすっぽかした相手の事を気に掛けてやるなんてよ」

「長期的な利益を重視しているんだろうね。農家さんとの信頼関係を強くすることで、卸先として重用してもらえるようにする。そんなところじゃないかな」

 

 ぼやくように呟くクロウ。それに推測混じりながら返答しつつも、トワは彼の言うことに確かにと思う部分もあった。

 商売とは信用の上に成り立つものである。契約通りに履行することが大前提であるし、もし意図的にそれに反したとなれば詐欺などと訴えられることになるだろう。この件に関しても契約が正しく履行されていないのだから、ライモンは商人として怒ってもよかった筈だ。

 だが、彼は怒るどころか心配すらしていた。悪く言えば商人としては甘い。良く言えば人情派といったところだろうか。ただ確かなのは、そんな彼だからトワは好感を持ったし、ポール氏の様子を見てくることも提案したという事だ。

 

「実際のところ、昨今の都会では見かけないタイプの商人だろうね。農家とも客とも距離が近い、大市が開かれているこの町で商売をしているからこそと言ったところか」

「都会じゃ客はともかく農家との距離は遠くなってしまうからね。より大規模な商売を目指そうとすれば、効率化の前で人情は邪魔になりかねないし……」

「ま、だからと言って効率化が悪いって訳でもねえだろ。今やRFみたいな大企業が国境超えて商売しているような時代だ。人情だけじゃやってけねえこともあるさ」

 

 ルーレという都会から出てきたアンゼリカとジョルジュは人情派の商人にあまり縁が無かったらしく、どこか感心したような様子でいた。それにクロウは待ったを掛ける。人情だけでは出来なこともあると。

 

「要は規模の問題なんだろ。こういう個人間の取引なら人情も大事だが、桁違いのミラが動くようなものじゃ効率が重視されるって具合にな」

「そうだね。大きな会社だと、勝手な判断でちょっとオマケしたりなんて出来ないだろうし……ふふっ」

 

 その意見には概ね同意のトワだったが、思わずと言った感じに笑みが漏れてしまう。やり取りの流れからして笑みの対象が自分だと分かったクロウは「……んだよ?」と疑問を投げかけた。

 何事かと問われたトワは漏れ出たものを残しながらも「ごめんごめん」と言う。笑みの理由はごく単純な事だった。

 

「クロウ君ってば、いつも勉強は面倒くさそうなのに言っている事はすごく真面目なんだもん。少し可笑しくなっちゃって」

「ああ、それは確かに。チャランポランな外見の癖に一丁前の口をきくものだ」

「はは……まあ、確かに普段のイメージとは違ったかな」

「……ったく、普段の俺はどんだけアホに見えてんだっつうの」

 

 それは日ごろの行いのせいじゃないかなぁ、とトワは思ったが、憮然とした彼の顔を見て心の内に留めておいた。これ以上言ったら拗ねかねない。

 普段のイメージはともかくとして、今の言動からクロウもただ勉強嫌いな不良学生と言う訳ではないようだ。成績は振るわなくとも、世間に対する知見は養われているように窺える。色々と遊び歩いている中で学んできたのだろうか。

 まだ見ぬクロウの一面を発見したようでトワは少し嬉しい気分になる。そんな彼女の心の内とは裏腹に、彼はますます眉間に皺を寄せていった。

 

「そんなしかめっ面にならなくてもいいじゃないか。第一、普段の君が不真面目という事は否定できないと……」

「おい」

 

 宥めようと言葉を発するジョルジュ。しかし、それは短い声で遮られた。

 

「――向こうから何か来るぞ」

 

 眉間の皺は不機嫌さからくるものではなかった。遠くを見据え、静かに目に映した事物をトワたちに告げる。三人も表情を引き締め、同じ方向に視線を移した。

 

「魔獣かい? 街道のど真ん中でやってくるのは珍しいが」

「……ううん。あれは……」

「人、みてえだな」

 

 街道の向こうからやって来る影、それは紛うことなき人間だった。距離が縮まるにつれて、その姿も鮮明に見えてくる。二十代前半くらいの若い男だ。ただ、何故か酷く慌てている。息も絶え絶えで何かから逃げているかのようだった。

 一体どうしたのだろうか。不思議に思っていると、相手もこちらに気付いたらしい。青年は最後の力を振り絞るような必死の形相で駆け寄ってきた。

 

「た、助けてくれえっ!!」

「ふええっ!? お、落ち着いてください!」

「おいおい兄ちゃん、ただ助けてくれっつわれても何の事か分からねえよ」

「お、親父が……親父が……」

 

 青年は助けを求める叫び声を上げながら、トワたちの目の前に転がり込んできた。突然の出来事に慌てつつも、全力疾走してきたらしい青年の背中を擦るトワ。対して落ち着きを払った様子でクロウは事情を聞こうとする。

 膝をついて荒い息を吐いていた青年だったが、トワが背中を擦っていたことで少しばかりは話せるようになったようだ。いまだ冷静とは言えない様相だが、途切れ途切れながら言葉を紡ごうとする。

 

「親父が、魔物に襲われているんだ!」

 

 そしてやっとの思いで紡ぎ出したものは、四人の間に緊張を走らせるには十分なものだった。

 

「いつも通りに進んでいたら突然襲われて……お、俺は親父に逃げろって言われて、ここまで必死こいて走って来て……早くしねえと親父が……」

「――分かりました。お父さんの事は任せて下さい」

 

 息も絶え絶えに細事を話す青年。そこまで聞いたところで、トワの行動を決定づけるには十分だった。

 成年の目を真っ直ぐに見据え、静かに、だが力強く告げる。強い意志を秘めたその瞳から、その判断が翻ることは無いと他の面々も察した。無論、最初から見捨てるなどという後味の悪い真似をするような考えは持っていなかったが。

 あまりの即答に目を瞬かせていた青年にジョルジュが歩み寄り、手を貸して立ち上がらせた。

 

「ケルディックまでは一人で行けそうですか? 怪我をした様子はありませんけど」

「あ、ああ……なんとか」

「それなら貴方は領邦軍に救援を求めてきて欲しい。なに、休憩してからゆっくり行っても構わないよ」

「んじゃま、行きますかね」

 

 クロウのその一言が合図となった。トワたちは全速力で青年が来た道をひた走る。

 迅速な判断と適切な行動。そして一片の迷いもなく駆けていった学生服の男女の後姿を、しばし呆然と見つめていた青年だが、はっとして急ぎケルディックへの道を行くのだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「このっ! あっちに行きやがれ!」

 

 広々とした街道で、野太い男性の大声が響いた。両手で持った鍬を振り回す。がむしゃらに振るわれるその先にいるのは、大きな角を持った昆虫型の魔獣。俗に『ブレードホーン』と呼ばれるものだ。

 面倒な事になってしまった、と男性――ポールは顔を歪める。

 得意先に農作物を卸そうと荷車を牽いて出発し、街道の中程に着いた頃にこれである。魔獣除けの導力灯がある道から外れた訳でもないのに襲われる目に会ったとなれば、恨み言を漏らしたい気分にもなるものだった。

 

「ふーっ、ふーっ、早く助けを呼んできてくれよ、ロビン……」

 

 なんとか逃がした息子が上手くやっている事を願いつつ、じりじりと距離を詰めようとする魔獣と睨み合う。

 身の安全を第一にするのなら、息子と一緒に逃げてしまえば良かった。農作物を載せた荷車を置いて走れば、なんとか逃げ切ることは出来るだろう。そも、魔獣が襲ってきた理由も食料となり得るそれにあると考えられる以上、尻尾を巻いて逃げるのが最善の判断だった筈だ。

 だが、ポールにそれは出来なかった。得意先の店主は自分を待っているだろう。その期待を裏切る訳にはいかない。何より、手塩にかけて育てた作物を魔獣に喰われるのは我慢ならない。

 だからポールは荷車を守るように魔獣たちの前に立ち塞がる。内心、早く助けが来てほしいと絶叫を上げつつも。娘が嫁に行く前に死ぬのは勘弁願いたかった。

 瞬間、ブレードホーンが一斉に動き出す。

 

「むおっ!?」

 

 ポールは農家だ。武術の心得などない。

 咄嗟に振るった鍬がブレードホーンの角とぶつかり合い、衝撃で手から弾き飛ばされてしまう。自衛の道具を失い焦る彼を前に、理性なき魔獣たちは悠長に待ちなどしない。

 万事休すか。半ば諦めかけるポール。

 

「そらよっ!!」

「はっ!」

 

 そんな彼の目に飛び込んできたのは、自身と魔獣の間に着弾した水塊と、その後を追うように疾駆してきた白い影だった。水塊――アクアブリードで動きを鈍らせた直近のブレードホーンに強烈な蹴りが叩き込まれる。勢いよく吹き飛んだそれは地に墜ち、それでも衝撃は死なずに転がって土に塗れる。

 唖然として白い制服の背中を見つめるばかりのポール。首だけ動かし後ろに目を向けたアンゼリカは優美に微笑んだ。

 

「間一髪だったようだね。怪我は無いかな、御主人?」

「あ、ああ……助かったよ」

「それは重畳。後は任せて荷車の後ろにでも隠れていてくれたまえ」

 

 どうやら待ち望んだ救援が来たらしい。ホッとしたポールはアンゼリカの指示に従おうとし、そして目に入った彼女に横合いから襲い掛かろうとする魔獣を見て肝を冷やした。

 危ない。そう叫ぶのも間に合わないと思われた。

 

「えいやっ!」

 

 が、その危惧は杞憂に終わる。襲い来る魔獣の直上から刃が突き立てられ、甲殻の間を正確に狙った一撃は相手を地面に磔にし、寸分の差を置いて死に至らしめる。亡骸から得物を引き抜き、血を払ったトワは「もう」と頬を膨らませる。

 

「先走り過ぎだよ、アンちゃん。クロウ君のアーツに巻き込まれたらどうするつもりだったの」

「フッ、あんなノロマな駆動のアーツに巻き込まれるほど落ちぶれちゃいないさ」

「んだとこんチクショウが!」

「ど、どうでもいいけど、全力で走ってきた割に元気だね、君たち……」

 

 後方からアーツを放ったクロウ、若干息を切らしたジョルジュも追いついてくる。傍から見れば緊張感のないやり取りをしながらも、いまだ残るブレードホーンへの警戒も怠っていなかった。

 戦術リンクは相変わらず繋がる様子は無い。それならそれでいい、とトワは思う。機能しないのなら、今はその事を気にせずに戦えばいいだけの事。簡単な連携なら言葉を交わすことで可能となるのだから。

 目線で火花を散らすクロウとアンゼリカに「今はダメっ!」と一言注意すれば、さしもの二人も意識を敵に集中させる。まずは安全確保が優先だ。

 

「アンちゃんとジョルジュ君は前へ! 私とクロウ君で防衛線を張りながら一気に片を付けるよっ!」

 

 応、という掛け声とともに四人は動き出す。完璧な連携には程遠い、だが、確かに共に戦うものとして。

 魔獣を駆逐し安全の確保に成功したのは、その数分後の事であった。

 

 

 

 

 

「いや、本当に助かったよ。正直なところ、これで女神のもとに召されるかもしれないと思っていたからね」

「はい。ポールさんがご無事でよかったです」

 

 大部分のブレードホーンを倒し、残り僅かも追い散らした後、ようやく安堵の息を吐いたポールにトワたちは深々と頭を下げて礼を言われていた。自己紹介から彼こそがライモンが言っていた件の農家であると知り、彼女たちもまた心の底から安心していた。様子を見に来て本当に良かった、と。

 ポールは切り傷や打撲がある程度で大きな怪我は無かったが、大事を取って彼の息子であるロビンが呼びに言った筈の応援を待つことにした。ポールに簡単な応急処置を施していたクロウは「こんなもんか」と完了を告げた。

 

「ほらオッサン、もう動いてもいいぜ。これに懲りたらもう無茶はしないこったな」

「はは、耳が痛い……と言っても、こんな事が毎度あったらやっていけないのだけどね」

「それについては同意だね。街道のど真ん中でも襲われるとなったら、人の行き来に支障が出るだろう」

 

 今回、ポールが襲われたのは街道の主要道。それなりに人の行き来がある道であり、魔獣除けの導力灯も設置されている。いつも魔獣の襲来があるとなると、街道の利用者としてはたまったものではない。

 導力灯があるからといって魔獣の出没が絶対に無い、と言う訳ではない。稀にそういうケースはある。今回がその「稀」に含まれるかどうか、それが問題だった。

 しばしすると、街道の周りを調べていたジョルジュが戻ってくる。一同の視線を浴び、彼は肩をすくめて報告した。

 

「導力灯を一通り調べてみたけど、故障しているものは見当たらなかったよ。そちらの線を原因と考えるのは難しいだろうね」

「そっか……それじゃあ魔獣側に何かあったと考えた方がいいのかな」

「魔獣側の何かつってもなぁ。何かってなんだよ?」

「それは、調べてみないと分からないけど」

 

 ジョルジュの話から導力灯の故障の線が無くなると、後は推測でしかものを語れなくなる。うーん、と首を傾げるトワだったが、これといって思い当たるものは浮かんでこない。強いて言えば、妙に魔獣が興奮しているように見えたくらいか。

 

「しかし立派なものだね。士官学院の学生さんという話だけど、こうして人の助けになれるのは大事な事だと思うよ。君たちみたいな子がいるのなら、帝国の未来も明るいかな」

「……そういう御主人も随分と胆力があるみたいだがね。襲われておいて大した落ち着き様じゃないか」

 

 褒めちぎってくるポールに苦笑で返すのはアンゼリカだ。彼女の言うことに同意見な三人もうんうんと頷く。今度はポールが苦笑する番だった。

 

「そんな大層な事じゃないよ。襲われはしたが、こうして命拾いしている。別に不作な訳でも戦争がある訳でもないし、天変地異が起こっている訳でもない。三十年くらい前の大災厄に比べれば――」

 

 ポールの言葉が続いたのはそこまでだった。

 「親父ぃ!!」と大声が遠くから響いてくる。聞こえてきた方を向けば、ロビンが大急ぎで駆け寄ってくるところだった。父親の下に辿り着くや否や、彼はペタペタと全身を触っていく。

 

「い、生きているんだよな。怪我とかしてないよな?」

「ああ、ぴんぴんしているとも。彼女たちのおかげでね」

 

 そうして無事を確認して、ロビンは「はああぁぁ……」と息を漏らしながらへたり込む。きっと緊張しっぱなしだったのだろう。

 

「……君たち、本当にありがとう。親父の命の恩人に感謝してもしきれないよ」

「いえいえ。当然の事をしたまでですし、そこまで言っていただかなくても」

「そんな事は無いよ。もし親父に何かあったら、姉ちゃんに顔向けできないことになっていた。せめて礼だけでもさせてくれ」

 

 深々と頭を下げるロビンにトワは逆に恐縮してしまうが、それでも彼は頑として譲らない。そこまで言われてしまうと蔑ろにも出来ない。微笑みを浮かべながら「じゃあ、どういたしまして」と返した。

 もとより星と女神の巡り合わせという程度に考えていたトワだったが、別にこうして礼を言われるのが嬉しくない訳ではない。頬は自然と緩み、それは他の面々も似たようなものだった。

 そんなやり取りも一段落したところで、ポールが息子に向けて問い掛けた。

 

「それはそうとロビン、領邦軍を呼びに行ったんじゃないのか? 見たところ一人のようだが」

「い、いやまあ確かに呼んできたんだけどさ。あっちの準備が整うのが待てなくて慌てて引き返してきちゃったっていうか……」

 

 恥ずかしげに白状する息子に、ポールは何をやっているんだかという目を向ける。トワとしては親子の絆が見れたようで微笑ましい気持ちになっていたが。

 そこでアンゼリカが何かに気付いたように「おや」と声を上げる。視線はロビンが来た方向に向けられていた。

 

「どうやら噂をすれば影のようだよ」

 

 同じように目を向ければ、そこにはちょうど領邦軍の姿が見える所だった。青い軍服に身を包んだクロイツェン領邦軍の小隊は、武装の小銃を手に駆けてくる。遠目に見てこちらの状況を察したのだろうか。隊長と思しき人物は部下たちに何某か告げると、一人近づいてきた。

 

「……まったく、助けを求めに来ておいて碌に説明もなく突っ走られては敵わんな。緊急事態だったとはいえ、あまり身勝手な行動はしないよう慎みたまえ」

「はは……す、すみません」

「いやはや、息子がお恥ずかしい真似を仕出かしたようで」

 

 隊長の第一声は自分たちに助けを求めた張本人に対する苦言であった。呆れ顔の彼に親子は頭を下げるばかりである。

 次いで意識が向けられることになるのは、当然ながらトワたち四人に対してであった。それで、と隊長は話を続ける。

 

「我々は魔獣に襲われた領民の救助に来たはずなのだが、事態は既に収拾されていると見える。諸君らの身分に関する事も含め、それについて説明してもらおうか」

「はい。まずは私たちの事なんですけれども――」

 

 若干、高圧的なのは常の事なのだろう。あまり気にせずに促されるままに説明をする。

 トールズ士官学院の生徒であり、ケルディックには実習で来ていること。依頼を受けて街道に出た折り、ロビンに出会い助けを求められたこと。急行した先で魔獣を倒してポールの安全を確保し、簡単に調べた結果として導力灯の故障などは無かったこと。

 一通り説明し終わる頃には隊長の表情から険も幾分か取れていた。納得したように一つ頷く。

 

「なるほど。諸君らには我々の手間を省いてもらったようだな。流石は名門トールズと言わせてもらおうか」

「そりゃどうも。で、これから事情聴取とかにでも付き合えばいいんすかね?」

「いや、それには及ばない」

 

 面倒臭そうに詰所に同行する必要はあるのか問うクロウだったが、ほぼ即答で返って来た否定の言葉に眉を顰める。何かしら事件が起きたのなら、当事者の話から調書をとるのは当然の筈だからだ。

 

「導力灯の故障ではないということは、差し詰め血気に逸った魔獣と出くわしただけだろう。周辺を巡回して安全の確認をするだけで構うまい」

「あの、本当に簡単に調べただけなので、決め付けるには早いんじゃないでしょうか? もう少しちゃんと調べた方がいいんじゃ……」

「このケルディック周辺については治安を守る我々、領邦軍が最も熟知している。心配は無用だ。諸君らは諸君らで早々に町へ戻り、実習とやらに励むといい」

 

 そう言い残すと、隊長は小隊を引き連れてその場を去った。言葉通り、周辺の巡回にだけ向かうのだろう。言いたい事だけを言って行ってしまった態の彼らに、一同は微妙な表情にならざるを得ない。

 巡回をするとは言っても、今回の原因も判然としない状況ではあまり効果があるとは思えない。それでも隊長が聞く耳を持たなかったのは何か理由があっての事なのか。

 

「いつもあんな感じなんだよ、領邦軍って」

 

 脳裏にそんな疑問が渦巻くトワの耳に届いたのは、これまた表現しづらい面持ちのロビンの声であった。

 

「大市で喧嘩の仲裁とか街道の巡回をしてはいるけど、それだけさ。こっちが何か頼んでも聞き入れちゃくれない。さっき呼んできた時も面倒くさそうな対応だったんだ。巡回っていうのも、きっと形だけ何かしたという事にするためのものだよ」

「えっと、領邦軍は治安維持のための軍隊なんですよね。魔獣被害の調査とかは仕事に含まれないんですか?」

「……まあ正直なところ、彼らがそういった事に精を出してくれたのは本当に数えられるくらいだね。町にも影響が出るようなどうしようもない時くらいさ」

 

 親子二人の話を聞く限り、領邦軍というのは領民のために積極的に動くようなものではないらしい。そういった実態にまで聞き及んだことのなかったトワとしては、どうにも首を傾げてしまう内情である。

 もう少し詳しく聞いてみたい。知識欲に似た感情が鎌首をもたげた時だった。

 

「――領邦軍はあくまで貴族の保有する私兵。ワシらの言葉に耳を傾けないのも仕方あるまいよ」

 

 話の輪の外より、聞き覚えのない声が飛び込んでくる。振り返った先にいたのは身なりの良い白髪の老人だった。見覚えもなかったので思わず首を傾げてしまう。

 だが、ポールとロビンはその限りではなかったらしい。老人の姿を認めるや否や素っ頓狂な声を上げた。

 

「も、元締め!? どうしてこんなところに!?」

「ロビン君が血相を変えて領邦軍に訴えかけているのを見掛けてな。これは何かあったに違いないと思って後を追ってきたのだよ。いや、魔獣に襲われたそうだが、無事でよかった」

 

 心からポールたちの無事を喜ぶ元締めと呼ばれる老人。その目が「それで」とトワたちの方に向けられ、口元ににっこりと笑みを浮かべた。

 

「君たちがトールズ士官学院の学生さんという訳か。ワシの名前はオットー。大市の元締めを務めておる。よければ、少し時間を貰ってもいいかの?」

 



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第10話 心の仮面

春陽の候、皆様に置かれましては益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。最近、書類の書き方とかを勉強しているお倉坊主です。
色々と立て込んでいて筆も遅くなっており、申し訳ないです(´・ω・`)

ちなみに今回、色々と小難しい事が書いてありますが、私は別に経済学をちゃんと勉強した口でもなんでもないので、他の意見がありましたら遠慮なく言って下さい。


「すいませんねぇ、夫に付き合わせちゃって。はい、お茶をどうぞ」

「あ、ありがとうございます」

 

 優しげな風貌の老夫人がトワたちの前にティーカップを並べていく。品の良いそれの中身を見て、トワはおやと思った。

 

「緑茶、でしょうか。帝国ではかなり珍しいものだと思いますけど」

「ほう、知っているのかね」

「祖父が東方の出身で、その縁でいただいたことが何度か」

 

 少し驚いた顔をするのは、テーブルを挟んで対面に座る老紳士。自分たちをこの場に招いた彼に微笑を浮かべながら返事をし、カップの中身を口に含む。独特の苦みが広がると共に、その温かさにホッと息をついた。

 そんなやり取りを聞きながら他の三人は物珍しそうに緑色の茶を眺める。その珍品について察しを付けたのはアンゼリカだった。

 

「東方の茶ですか。これも大市に出回っているものなんでしょうか?」

「常にと言う訳ではないが、定期的にクロスベルを経由して共和国の方から流れて来ておる。その時にこうしてワシも個人的に買い取っている訳だ。友人であるヴァンダイク殿の分も含めてな」

「あー、あの厳つい学院長って東方趣味だったのか。意外なような納得なような……」

「いずれにせよ、絵にはなりそうだよね。あの風格があれば」

 

 ジョルジュの言葉で緑茶を嗜むヴァンダイク学院長の姿を想像し、トワはクスリと笑みを漏らした。なるほど、確かに似合いそうだ。

 

「ま、それは置いておくとしてだ」

 

 そうして場が和んだ頃合いに、クロウが口を挟んで話を切り上げる。

 他愛のない話を置いて何を話すかと言えば他でもない。自分たちがこのケルディックを訪れた理由、そして目の前の人物に招かれたきっかけについてである。

 

「折角こうして招かれたからには色々と話を聞こうじゃねえの。この実習についてなり……さっきの領邦軍についてなり、な」

「ふふ、そう焦らなくともちゃんと話はさせてもらうつもりだとも」

 

 斜に構えたクロウに対する老紳士の返答は、大人らしい落ち着いたものだった。口髭を蓄えた顔は柔和なものであり、気分を害した様子はまるで見られない。伊達に大市のまとめ役をしている訳ではないという事だろう。

 そういう性格のクロウは口に出していたが、話を聞きたい気持ちは他の面々も同じ。四人の期待が浮かぶ表情を見回して、老紳士は「何はともあれ」と話を切り出した。

 

「まずはポール氏を魔獣から救ってくれたことに改めて礼を言わせてもらおう。ありがとう」

 

 白髪の頭が深々と下げられる。このケルディックの代表、オットー元締めの深い礼にトワはいたく恐縮してしまうのだった。

 

 

 

 

 

 西ケルディック街道にて襲い来る魔獣から農家ポールを救ってから数時間。彼らを伴って西日が赤くなった頃に町へ戻ってきたトワたちは、遅ればせながらも農作物がライモンの店に納品されるのを見届けた。ライモンやベッキーも流石に魔獣に襲われていたとは思っていなかったらしく、その無事に深く安堵していた。

 もう遅い事もあり、今夜は娘が働いている宿屋に泊るというポールたちと分かれた一行。本来ならば自分たちも風見亭に戻ってレポートなどに手を付ける所だが、今日の内にまだ訪れるべき場所があった。

 領邦軍の後を追ってあの場に現れたケルディックの代表、オットー元締め。大市に関わるものを救ってくれたことに礼をしたいという彼の自宅に招待されたのが、事ここに至った経緯である。だが、トワたちが招待された理由はそれだけではなかった。

 端的に言えば、オットー元締めこそ今回の試験実習における現地責任者だったのである。

 

「ヴァンダイク殿とは古くからの友人でな。そちらから話を貰って、この試験実習の栄えある第一号とならせてもらった訳なのだよ。目繕った依頼は丁度良かったかね?」

「はい。特に無理のある内容でもありませんでしたし……ケルディックについても、ある程度は知ることが出来たのと思います」

「大市の商人がやっぱり一番の特徴だろうけど、観光客も多い印象だったね。外国籍の人も少なくないようだ」

 

 トワとジョルジュが所感を述べれば、オットー元締めは満足そうに頷いた。顔役を務めている者にとって自分の町を知ってもらうのは嬉しい事なのだろう。彼の説明が後に続く。

 

「お前さんたちも知っての通り、このケルディックはクロイツェン州の穀倉地帯、そして鉄道網の中継地点に位置しておる。つまりは生産拠点にして、様々なヒトとモノが集まる経済的要地でもある訳だ」

「ふむ……都市部への供給を担っているのなら、当然それを仲介する卸売市場が発展しそうなもの。しかし実際は小売りも盛んに行われている。これも鉄道網の中継地点であるからこそでしょうか?」

 

 穀倉地帯とは平たく言えば都市部の食料を生産する場所だ。しかし、農家が都市部の小売商にまで直接売りに行くのは、また小売商が買い付けに行くのは非効率的な面が大きい。だからこそ卸売商がケルディックの大市に商品を集積し、そこで小売商との売買を行っていると考えるのが自然だ。

 だが、大市を見た限りでは小売りも多く行われていた上、商品も穀物だけに留まらなかった。これは穀倉地帯という特徴だけでは起こり得ない事だ。

 

「うむ。確かに導力革命以前、街道を行き交うのが馬車だった頃は卸売りが大市の主体だった。わざわざ田舎まで出てくる旅行者なぞ、あまり居なかったからな。それが帝都とクロイツェンを結ぶ鉄道が登場したことで状況が変わっていった……」

 

 まるで五十年前に想いを馳せるような表情で語るオットー元締め。そこで彼は「だが」と言葉を区切った。

 

「やはり今のケルディックがあるのは、大陸横断鉄道の影響が大きかろう」

「大陸横断鉄道……そっか、外国からの商品や旅行者ですね?」

 

 1183年に開通した帝都からクロスベルを経由し、東のカルバード共和国にまで伸びる大陸横断鉄道。西ゼムリア大陸経済の大動脈と言ってもいいその名を聞き、トワは頭にピンときた。

 その答えにオットー元締めも満足そうに頷く。そこはかとなく楽しそうにも見える。

 

「このケルディックより東に大きな町は無い――双龍橋やガレリア要塞はあるがね。モノにしろヒトにしろ、必然的にケルディックが帝国の玄関口になる訳だ。交通の便が良く、珍しい品が集まっているとなれば人が集まる。人が集まっているとなれば商機と見た商人たちが店を開く。大市が現在の性格を持つに至ったのは、そうした流れがあったからだろう」

 

 どこか小難しい話になってきてはいるが、オットー元締めの話を聞いていない者は一人もいない。トワは自然と手帳とペンを両手に持ち、クロウも割と興味深そうに耳を傾けていた。

 

「モノとヒトの流れ、か……では、それは飛行船でも起こりうることではないのでしょうか?」

 

 そこで一つ疑問を呈したのはアンゼリカ。同じ現象は飛行船でも起こり得るのか。

 それに「ああ、いや」と口を開いたのは、オットー元締めではなく彼女の隣に座る大柄な青年だった。

 

「飛行船では同じ現象は起こらないと思うな。たぶんだけど」

「へえ、理由は?」

「積載量、運用・維持コストとかで鉄道に劣るからだよ。飛行船は速度で勝っているけど、運べる量は制限されてしまう。何度も往復するより鉄道で一度に運んだ方が効率的だ。それに飛翔機関って奴はデリケートなものでね。整備にも結構なミラが掛かるものなんだよ」

 

 仮に、ケルディックに鉄道ではなく飛行船ターミナルが出来ていたとしよう。ジョルジュの言葉から考えるに、その仮定で今と同じような大市が成立するのは難しいのではないだろうか。

 穀倉地帯は大量生産が基本だ。飛行船の速度重視・軽積載の特徴と適合しない。経済活動を促すために大量の運航便を用意しようとすれば、ミラの面で運営者の首が回らなくなる可能性もある。やはりケルディックには鉄道が最も適した交通機関なのだろう。

 技術畑からの説明を受け、一先ずは納得した様子のアンゼリカ。それに代わるようにして、ふと思い出した事をトワは口にした。

 

「でも、外国のリベールでは飛行船の方が発達しているんだよね。経済活動に鉄道の方が適しているなら、どうしてそうならなかったのかな?」

「そいつは技術的なものっつうより、地理的な理由が大きいだろうな」

 

 疑問の回答者側もバトンタッチ。困り顔のジョルジュに代わってお調子者が問いに答える。

 

「リベールは起伏に富んだ国土だからな。鉄路を引くにはちょいと厳しかったんだろうよ。定期飛行船も二隻で回せるくらいの小国っていう理由もありそうだが」

 

 なるほど、とトワは頷いた。

 帝国とリベールでは国土に大きな違いがある。帝国は広大にして平野部が多い。それに比してリベールは手狭な国土に山岳や丘陵が多く存在すると聞く。確かに鉄道を敷設するには適していないだろう。もしかしたら中央にヴァレリア湖がある事も、飛行船の発達に関係があるのかもしれない。

 町にしても国にしても、主だった交通機関が発達したのは相応の理由があるという事だ。導力車が発達しているという共和国も、調べてみれば何がしかの要因を見出せるだろう。

 

「しかし君、意外と知識の引き出しが多いじゃないか。無駄に遊び歩いている賜物かな?」

「へっ、お高く留まっている貴族様と違って色々と苦労しているんだよ」

「ああもう、二人とも……すいません。こっちだけで話し込んじゃって」

「ふふ、構わんよ。そうして自分たちの知識を深めていく事が、この実習の目的でもあるだろうしね」

 

 隙あれば憎まれ口を叩き合うクロウとアンゼリカを制しながら、何時の間にか話の外に置いてしまったオットー元締めに頭を下げる。返って来たのは朗らかな笑みだったが。

 

「お前さんたちが感じたように、依頼はケルディックについて肌で感じてもらえるようなものを選んだつもりだ。ヴァンダイク殿から、そう頼まれたのでな」

「やっぱり、この実習は現地の知識を学ぶためのものなんですか?」

「ワシも詳細までは知らされておらんから確かな事は言えんが、少なくともそれが一つの意義であるとは思うよ」

 

 オットー元締めはあくまで外部の協力者。どうやら学院側の意図については明確に知り得て無いようで答えは曖昧だったが、トワたちの推察はあながち間違いでも無いようだ。

 この実習で学んだ知識をどう活かしていくのか、またはそれ以外にも目的があるのか。未だこの実習には不透明なところが多いが、今はそれを考えていても仕方がないだろう。いずれサラ教官あたりから明かされることを期待するしかない。

 今は分からないことを気にするよりも、より知識を深める事に専念するべきだろう。トワはそう判断した。

 

「それじゃあ、ちゃんと勉強して帰らないといけませんね」

「うむ。ワシとしても若い者たちがケルディックについて知ってくれるのは喜ばしい。なんでも聞いてくれたまえ」

 

 質問を歓迎するオットー元締めに対し、いの一番に「じゃあ一つ」と声を上げたのはクロウだった。

 

「さっきは鉄道の恩恵の話だったがよ、実際はデメリットもあったんじゃないのか? 物事が何の問題もなく進むとは思えねえ」

 

 これはまた、突っ込んだ内容の質問であった。内心ぎょっとするトワやジョルジュには目もくれず、彼はオットー元締めを真っ直ぐと見つめる。その表情はいつになく真剣な色を帯びているように見えた。

 直截な問いにオットー元締めは苦笑を浮かべる。しかし、何でも聞いて欲しいと言ったのは彼自身。やや間を置いてその口から答えを紡ぐ。

 

「お前さんの言う通り、全てが丸く収まった訳ではない。鉄道網の拡充により大市は活発になったが、その裏で鉄道を敷くために退去を迫られた農家もいたと聞く。ワシらの生活は彼らの犠牲の上に成り立っているとも言えるだろう」

 

 そこで言葉を区切ると、オットー元締めは表情を難しいものにした。

 

「だがケルディックの直接的な問題を挙げるとするならば、安価な外国産商品の流入となるだろう」

「……ええと、外国産の商品も大市の形成に重要じゃないんですか?」

 

 今一つ理解が追いつかない様子のジョルジュは頭に疑問符を浮かべる。先の話との違いがよく分からないのだろう。

 

「簡単に言えば競争力の問題だよ。お前さんたち、ポール氏が納品していた農作物を目にしていただろう?」

「穀物以外にも色々な野菜がありましたね。人参、玉葱、ポテト……外国でも同じように栽培されているものが」

「左様。しかし、ここケルディックは穀倉地帯。大量生産される穀物の原価は低いが、それ以外はそうもいかない。そこに近年の規制緩和によってオレド自治州などの安価な農作物が入ってきた事により……」

「原価が安い外国産の方がよく売れるようになってしまった、という事ですか」

 

 言葉を継いだアンゼリカにオットー元締めは重々しく頷く。

 主産業の穀物については競争力を保っていられるが、他の農作物は原価の安い外国産に勝てない。以前は外国産には関税が掛けられていたが、それも現在では規制緩和で低いものとなっている。国際貿易の自由化というものの一環だろう。

 帝都のマーケットを見て回ればよく分かるかもしれない。きっと外国産の商品が多く見られる筈だ。

 

「……まあ正直なところ、そちらは問題ではあるが困ってはいないのだがね」

「え?」

 

 しかし、それに続く言葉は予想外だった。虚を突かれた様子の四人にオットー元締めは薄らと笑みを浮かべる。

 

「これは農家と商人の問題だ。解決策もワシらで考えていかなければならん。幸い、原価の差額も決定的という程ではない。皇帝人参などのブランド力を前面に押し出していけば或いは……」

 

 整然と打開策を語る姿にトワたちはポカンとする。困っているかと思っていたらとんでもない。彼は既に問題を解決するための方法を考え、吟味している。

 今は元締めという立場とは言え、元は大市で活躍してきた一商人という事か。そのあくなき商魂を見せつけられた思いだった。

 

「……や、これは失礼。この場で考えるような事ではなかったな」

「あはは……いえ、商人の逞しさというものをよく知れましたし」

「全く以て、脱帽としか言えませんね」

 

 アンゼリカに至っては関心を通り越して呆れたような表情だ。それにオットー元締めは「はは……」と渇いた笑い声をあげる。

 

「逞しいと言えど、流石に魔獣を直接どうこうするような力は無いのだがね。近頃で困っている事と言えば、商売云々よりもそういった被害の方なのだよ」

「というと、さっきの街道でのような?」

 

 ジョルジュの問い掛けにオットー元締めは「うむ」と返す。その姿にはどこか疲労感が滲んでいるように見えた。近頃、という言い方からして同じような事が多発しているという事か。

 

「二週間ほど前にパルムと大口の取引があった頃からか。街道で魔獣に襲われたという話が度々耳に入るようになった。導力灯のある道を外れた訳でもないのに、だ。最初のうちは偶然かと思っていたが、こうも続くと頭が痛くなってくる」

 

 街道での魔獣被害、導力灯がある主要道から外れていない、確かに先ほどのポールが襲われた件と類似しているようだ。それが二週間のうちに度々ともなると、町の代表としては心労も積もるというものだろう。

 農家が大市に作物を卸しに来るためには、街道を使用する事は避けては通れない。その安全が保障されていないという事態は深刻だ。導力車でも持っていれば話は別だろうが、見た感じ個人経営の農場が大半の状況では高望みに過ぎる。

 

「皆に注意を呼び掛けているおかげか、幸い死者が出るには至っていない。しかし、街道を全く使わないと言う訳にもいかないし、軽微ながら被害は増えているのが現状だ。その点、ポール氏を助けてくれたお前さんたちには感謝してもしきれん」

「いえいえ、お気になさらず……でも、そこまで被害があると流石に放っておく訳にもいきませんね」

「つっても治安維持を担う領邦軍はあの調子。そりゃ頭も痛くなるわな」

 

 この場合、原因究明のために動くのは領邦軍のように思える。だが、実際には彼らは形ばかりの巡回をするばかり。それは何故なのか。

 

「街道でも言ったが、彼らはあくまで貴族の私兵。正規軍とはまた行動理念が異なる以上、仕方ない面もあろう」

「……確かに領邦軍が守っているのは国ではありません。守っているのは運営者たる貴族と、その利益です。多くの税収が期待できる大市に支障が出ているならともかく、農家が少しばかり被害を受けた程度、些事として切り捨てられてもおかしくないでしょう」

 

 「それにしても融通が利かないと思いますが」と溜息を吐くアンゼリカ。自身もその貴族、しかも筆頭たる四大名門の一家の出身であるせいか、その言葉には実感がこもっているように窺えた。

 

「まだ噂程度だが、近くに増税が行われるという話もある。領邦軍の態度が硬化しているのはそのあたりが理由かもしれん」

「増税って……もしかして大市の?」

「まだ決まった訳ではないが、売上税が大幅に吊り上げられるかもしれん。大市への影響は避けられんだろう。貴族様は何を考えているのか分からんよ」

 

 憂鬱そうに眉根を下げるオットー元締め。商人にとって、増税とはまさに死活問題なのだろう。それが魔獣被害に上乗せされるとなれば堪ったものではあるまい。

 ところが彼は表情を戻すと「だがまあ」と続けた。

 

「魔獣に関しては、いざとなれば遊撃士を頼れば良かろう。増税も商人とは切っても切り離せぬ事。自分たちでどうにかしていく事だ。お前さんたちまで深く気にすることは無い」

 

 オットー元締めに言われて初めて気付く。話を聞いている内に、何時の間にかトワたちの表情も曇ってしまっていたようだ。

 その不安にも似た気持ちを和らげるかのように、オットー元締めは柔らかな笑みを向けた。

 

「明日も今日と同じように依頼を幾つか用意してある。大人のいざこざは気にせず、自分たちの実習に注力するといい。学生としての本分を果たすためにもな」

「……はい、ありがとうございます」

 

 純粋にこちらを気遣う言葉に、トワは小さく返事をする他なかった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「ふう、もうすっかり夕暮れだね」

「割と長居していたからね。この分だと宿に戻ったらすぐに夕食かな」

 

 しばらくして元締め宅を後にしたトワたち。赤く染まった夕焼け空を見上げながら、この後の予定を話し合う。

 宿の夕食には期待したいところだが、その後に待っているレポートの事を考えていると楽しみにしてばかりもいられないのだろう。ジョルジュの笑みにはやや苦味が混じっていた。

 そんな他愛のない話も途切れると、四人はどこか暗い雰囲気になってしまう。無論、夕食後のレポートを気に病んでの事ではない。オットー元締めから聞かされた、今のケルディックが抱える問題について考えるが故のものだ。

 悩ましい気持ちが最も顔に表れていたトワが「ねえ」と口を開く。

 

「領邦軍が魔獣被害の調査をちゃんとする可能性は、やっぱりないのかな」

「……難しいだろう。私自身、実家の方でノルティアの領邦軍と付き合いはあるが、彼らの存在は貴族の為だけにあると言ってもいい。治安維持と言っても、それは民間人の保護とイコールじゃないのさ」

「治安維持をしているのはあくまで貴族様の利益を守るためってか? 自分たちの給料も元を辿れば領民の税金だろうに、良い御身分なこったな」

 

 クロウの皮肉に常の事なら皮肉で返すアンゼリカだが、今回は「まあ、そうだね」と特に言い返すこともしない。肩透かしでも喰わされた気分なのか、皮肉った方が眉を顰めた。

 

「結局のところ、領邦軍は貴族の意を受けて動く存在。州の統治者たるアルバレア公が領民の事を顧みる事が無い限り、領邦軍もまた変わり様がないのさ」

 

 普段通りの飄々とした調子で、しかし、どこか自嘲染みたものが混じった声色で言う。

 領民を顧みる事が無い限りとは言うが、現実にそうなる可能性が無いに等しい事は先ほどの話を聞いた四人は承知していた。大幅な増税を考えているような人物が、領民の事を斟酌する人柄ではないと面識がなくても察せられる。

 そもそも何故、今になっての増税なのかという疑問はあるが、それはこの場で考えるべきものではないだろう。問題は魔獣被害に関して領邦軍は頼れないという事実である。

 

「オットー元締めは、いざとなったら遊撃士に頼ると言っていたから最悪の事態にはならないとは思うけどね。ここに来てくれるとしたら帝都の協会支部になるのかな?」

「うん。たぶん、そうなると思うけど……」

 

 返事をしつつも、トワは言葉を濁した。脳裏に漠然とした不安と、自分たちはこのままでいいのかという疑念があったからだ。

 

「私たち、このまま実習だけやっていていいのかな……」

「それはまあ、確かに思うところが無いわけではないが」

「あー、やめとけやめとけ。そんな考えてもどうしようもない事」

 

 そんな思いから発した言葉は面倒臭げな声によって遮られた。

 声の主、クロウを見やる。その気怠そうな面持ちは早々にこの話を終わらせたいかのようだった。

 

「俺たちは依頼やら何やら人助け染みたことはしちゃいるが、所詮は学生なんだ。領邦軍をどうこうできるわけでもあるまいし、大人しくプロに任せときゃいいんだよ」

「うーん……僕たちに何が出来るかはともかく、実習の趣旨からは外れてしまうような気がするね」

「で、でも遊撃士の人が来るまでの間に、またポールさんみたいなことがあったら……」

「――おい、はっきり言わないと分からねえか」

 

 それでもなお懸念を口にするトワに、クロウは目に見えて機嫌を悪くさせた。

 

「これくらいの問題なんざ、どこにでも転がっているようなもんなんだよ。それを一々気に掛けていられるか。お前のお節介に人まで付き合わせるんじゃねえ」

 

 頭を殴られたような衝撃がトワを襲う。普段の軽薄な彼には無い、冷たく辛辣な言葉だった。

 ショックを受けたのは、お節介に付き合わせるな、と言われたことにではない。これくらいの問題、とクロウが簡単に言い切ったことに対してだった。彼には、この町の現状が取るに足らないものに見えるのか。そう見えるほどに、もっと酷い光景を見てきたのだろうか。

 頭の中でグルグルと思考が空回る。考えが纏まらずに口をまごつかせるトワを置いて、「ほう」と目を細めたのはアンゼリカだった。

 

「それが君の本音ってわけかい? 随分と冷たい口ぶりじゃないか」

「ただ現実が見えているだけだっつうの。それともなんだ、お前も無闇矢鱈にお節介を振り撒く口か?」

「別に。本当に無用なら手出しをするつもりはないが……」

 

 一見して落ち着いているように窺える会話。しかし、その場の空気は徐々にピリピリとしたものに変化していた。

 

「その何でも知ったような様はいただけないな。君が物事の表面だけ眺めて判断するような人間だというなら残念でならないね」

「……んだと?」

 

 アンゼリカの挑発染みた物言いに、クロウの眉間に皺が刻まれる。当の本人も、その顔に浮かんでいるのは先ほどまでの自嘲するような笑みではなく、どこか獰猛ささえ感じられる笑みだ。

 これは不味い。トワとジョルジュは目を合わせて互いにそう確信した。

 

「へらへらした粗末な仮面を被っているよりはマシな面構えだが、その冷めた性根はどうにかならないのかい? 現実がどうだとか、あまり好きな言葉ではないのでね」

「お前の好みなんざ知った事かよ。気に入らないってなら相手してやるぜ。こっちもいい加減いちゃもん付けられるのはウンザリだ」

「喧嘩を売られたら買わない訳にはいかないな。一回ぶん殴った方が君の目も覚めるかもしれな――」

「はいはい、そこまでだよ君たち」

 

 あわや殴り合いというところにジョルジュが割って入る。大きな体躯が間に押し入る事で二人の距離を無理矢理離した彼に、二対の不満の視線が突き刺さる。それに怯むでもなく、彼は窘めるような目で二人を見やる。

 

「仲が悪い事に関してどうこう言う気はないけどね、せめて往来のあるところで言い争いはやめてくれ。他人にも学院にも迷惑が掛かる」

 

 ジョルジュの言い分に、いがみ合っていた両者は気勢を削がれる。元締め宅からは少し離れていたが、それでも町中で衆目が無いわけではない。傍目からして雰囲気を悪くしていたトワたちは行き交う人々に遠巻きながら注視されてしまっていた。

 この様なところで喧嘩を始めてしまえば、まず間違いなく他人まで巻き込んだ騒ぎになる。下手したら学院にまで連絡が行って、この試験実習が御破算にさえなりかねない。とても褒められた行為とは言えないだろう。

 そう察した二人は憮然とした表情ながら動きを止める。咄嗟にトワは口を開いた。

 

「ほ、ほら。今日はもう遅いし宿に戻ろう。お腹すいちゃったし、夕食の後にはレポートも書かなきゃだし……えと、その……」

 

 重い空気を払拭しようと最初は無理に明るい声音だった。だが、それも段々と元気のないものになる。俯きがちにトワは言った。

 

「勝手なこと言って、ごめんなさい」

「…………ちっ」

 

 元を辿れば自分が実習から外れたことを言い出したのが言い争いの原因。彼女は小さく謝罪する他なかった。

 それに対して返って来た反応はクロウの僅かな舌打ちの音だけだった。渋面を浮かべたまま彼は踵を返し、宿の方へ歩き去っていく。遠くなっていくその背中に掛ける言葉をトワは持ち得なかった。

 肩を落とすトワに「……行こうか」とジョルジュが声を掛ける。小さく頷き、既に声も届かないほど距離が離れたクロウを追うように歩き始める。アンゼリカも溜息をついて、その後に続いた。

 散々な一日の終わり、そう評されても仕方がないだろう。それでも試験実習は明日もある。いくら関係が悪かったとしても、この四人でやり遂げなければならない。例えどのような結果になろうとも。

 その結果を、どれだけ四人が納得できるものにしていくのか。宿に戻る道すがら、トワは頭を回し続けていた。自分たちのこれからのために。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 夜の帳も下り、酒杯を交わして一日の労を労い合っていた客も疎らになる時間帯。すっかり出来上がった酔っ払いがたまに騒ぐのを傍目に、クロウは奥まった席でペンを握っていた。向き合うのは一枚の用紙、今日一日の実習レポートである。

 しばらく難しい顔をしていたが、途端に「……アホらし」とペンをテーブルに転がし天井を仰いだ。宿酒場の片隅でお勉強紛いの事をしているのが馬鹿馬鹿しく感じられたのだ。

 だが、より正確に言うならば、馬鹿馬鹿しくなったのは今日一日の自分に対してだろう。

 

(何をガチになっているんだか……軽く流して、上手くやり過ごせばいいだけなのによ)

 

 夕方の口論からというものの、四人はあまり口をきいていなかった。夕食は共にしたものの、その場は無言に等しく、レポートにしてもクロウはこうして一人でやっている。今しばらくはアンゼリカと同じ部屋いたくない気分だった。

 いざ冷静になると、あの時は随分と自分らしくなかったと思う。トワが何を言おうが、適当に受け流しておけば少なくともその場は有耶無耶に出来た筈だ。普段のクロウなら必ずそうしていた。

 だが、実際は柄にもなく不満をぶちまけ、元から捻くれていたアンゼリカとの関係が余計に拗れる事になった。結果的に不利益になっただけだ。

 上手く立ち回って波風立たさず学院生活を過ごす。この妙な実習に参加する羽目になってからというものの、当初の想定から大きく外れてしまっている。しかも今回は自発的に、である。クロウは内心で舌打ちした。

 

「――――」

「……ん?」

 

 耳に覚えのある声が届く。目を向けると、小さい少女が何か話をしていた。相手は、どうやら同じ宿だったらしいポールとロビンである。二人は酒が入っているようで顔が赤い。

 様子を見るに、トワの方から彼らに何かを聞いているように窺える。内容までは聞こえてこないが。

 あちらはもうレポートは終わったのだろうか、それにしても本当に小さいな。そんなどうでもいい事を考えながら眺めていると、話を終えた拍子に振り返った彼女と目が合う。本当にぼんやりと眺めていただけだったクロウは、間の抜けた顔を晒すだけで咄嗟に何か反応する事は出来なかった。

 トワも若干驚いたような顔をしたが、少しの逡巡の後に意を決したのか。真っ直ぐにこちらに向かってきた。

 

「お疲れ様、クロウ君。レポートは終わったの?」

「ん……まあ、ぼちぼちってところだ。そっちこそ片付いたのかよ」

「うん。アンちゃんとジョルジュ君は、まだ部屋でやっているけど」

「そうか」

 

 当たり障りのない、あまり意味のないやり取り。それが済んでしまえば後は気まずい空気だけが取り残される。二人の間にしばし無言が続いた。

 無造作に髪の毛を掻き乱す。息苦しさに耐えかねてクロウは口を開いた。

 

「……あのオッサンたちと、なに話していたんだ?」

「あ、うん。今日のお礼を改めて言われて、後は実習の事とか、この宿で娘さんが働いている事とか……」

 

 聞く限りは取り留めのない内容ばかり。たまたま出くわして話し込んでいただけなのか。そう思い始めた時だった。

 

「それと、最近の魔獣被害の話を聞いていたんだ」

 

 言葉を区切り、明らかにそちらが本題と分かるように言われたことに対し、クロウは一瞬だが動きが固まった事を自覚した。同時に苛立ちに似た何かが腹の底から湧き上がってくる。それを落ち着けるように、彼は大きく息をついた。

 

「まだ何かしようって言うのかよ、お前は。お人好しもそこまで来ると筋金入りだな」

「あはは……そうかもしれないね。お人好しって、よく言われるし」

「分かっているのなら自重した方がいいぜ。その内、馬鹿を見る事になっても知らねえぞ」

 

 努めて冷静に、いつも通りのお調子者の仮面を被って言葉を紡ぐ。口から出てくるそれは半分以上、本音からのものだったが。

 世の中は、そう優しく出来ていない。特に様々な火種が転がる今の時代においては。

 時代の流れ、国家の論理、価値観や倫理観の変化。そうした大きな力の前に個人の思いなど些細なものだ。ましてや無作為に人助けをするような輩など、隙を見れば潰しにかかってくるような連中の恰好の餌になるのがオチというものだろう。そんな世界で、赤の他人を助けて何になるというのか。

 自分からすれば意味のない、馬鹿みたいなことをしようとするトワが理解できない。それがクロウの中の苛立ちの正体だった。

 

「――知っているよ。損な性格だっていう事は」

「はあ?」

 

 だが、その苛立ちは彼女の返答により困惑へと変わっていく。

 損と知っているのなら、どうして尚も無闇に手を差し伸べようとするのか。理解の範疇から遠ざかっていくにつれて、クロウの中で怒りよりも混乱が先行する。

 思わず懐疑の声が出るも、それにトワは小揺るぎもしていなかった。

 

「私だって変に気を遣いすぎて失敗しちゃったことだってあるし……人を思っての行動が、結果的に取り返しのつかないことになっちゃうかもしれない可能性がある事だって、ちゃんと知っている」

 

 そう語る彼女は、どこか悲しそうに見えた。だが、「でもね」という言葉と共に、その瞳に悲しみ以上に強い光が宿る。

 

「それでも人を思う気持ちを忘れちゃいけないって思うんだ。辛い目に会ったら、また手を差し伸べようとすることに躊躇しちゃうかもしれない。けど、それで最初に手を差し伸べた時の心を無くしちゃうのは、きっと何よりも悲しい事だから」

「…………」

 

 トワの言葉にクロウは反応しない。反応できない。

 ――コイツは何だ?

 ただのお人好しになら何度も会った事がある。だが、目の前の少女はその中のどれにも当てはまらない。同じ場所に立っている筈なのに、まるで別の世界を見ているような錯覚にとらわれた。

 

「まあ、一番の理由は性分を捨てきれないからなんだけどね。そういう意味ではクロウ君に文句を言われても仕方がないかなぁ。結局、手当たり次第みたいな感じになっているし」

 

 トワは恥ずかしげに頬を掻く。その無垢な姿から目を逸らすように、クロウは溜息と共に俯いた。

 

「……なるほど、よーく分かった。お前はお人好しじゃねえ。凄く馬鹿なお人好しだ」

「あ、ひどい。人の事を簡単に馬鹿とか言っちゃいけないんだよ」

「うっせ。用が済んだのなら、さっさと部屋に戻って寝てやがれ」

 

 しっしと追い払うように手を振る。だが、冗談染みた言い回しやその仕草も、既に張りぼてのようなものだった。

 自分に対して真っ直ぐに向き合ってくる少女。見つめてくる純粋な光を湛えたその双眸に、心からの思いを伝えてくるその言葉に、まるで偽りで塗り固められた自身を責め立てられているような心地だった。

 そう、学院生クロウ・アームブラストは偽物(フェイク)だ。アンゼリカに指摘された通り、周りに合わせてお調子者の皮を被っているだけ。そして、それは目的を果たすための過程における手段に過ぎない。夕方の騒動で見せた冷たい様子が本当の彼と言える。

 だが、自分を偽る事に何も感じていない訳ではない。だからアンゼリカに図星を指摘された時は半ば本気で苛立ったし、こうして真っ直ぐにぶつかってこられると自己嫌悪に似た感情が湧き起こる。

 少なくとも今は、トワに早く去ってもらいたかった。しばらくすれば、崩れかけのお調子者クロウ・アームブラストを立て直せるのだから。

 

「じゃあ、その前に一つだけ聞いていいかな」

 

 しかし、彼女はそう易々と引き下がってくれなかった。不承不承という態度を示しながらも「んだよ」と先を促す。

 

「クロウ君、今の学院生活は楽しい?」

「あん? まあ、そこそこ楽しくやってるぜ。クラスの連中とアホな話したり……」

「ううん、そう言うことじゃなくって」

 

 唐突な質問に疑念を抱きながら口にした当たり障りのない解答は、言い切る前に遮られた。真っ直ぐに自分を見つめる瞳から目を逸らす。彼女の澄んだ瞳とは対照的に、嘘で濁りきった自分のそれが映し出されしまいそうな気がしたから。

 

「今のクロウ君は、本当に心の底から楽しいって思えたことがある?」

 

 改めて突き付けられた問いに、僅かながら顔が歪む。収まっていた苛立ちが再び募る。

 コイツもあの女と同じ口か、と内心で毒づいた。遠慮も無しに人の内側に入り込んで来ようとする、妙に察しの良い厄介な奴。馬鹿なお人好しで済めば良かったのに。

 

「へっ、お前も本音を出せとかうるさく言ってくるタイプかよ。いい加減そういうのは飽き飽きしているんだがな」

「そうだろうね。だから、私はお調子者のクロウ君のままでいいと思うよ」

 

 そう思っていたからこそ、偽りの自分を肯定するような言葉に、しばらく動きを止めてしまった。

 

「夕方から色々と考えてみたんだけどね、本音だけで生きている人なんていないんじゃないかって気付いたんだ。周りと上手くやっていくために心のどこかで折り合いをつけている。きっとそれは、アンちゃんも同じだと思う」

「……だろうな。本音だけじゃ社会でやっていけねえよ」

「うん。でも、やっぱり感情まで誤魔化すことはないんじゃないかな」

 

 トワが言い出したのは、ある意味で当たり前のことだった。人は誰しもが素のままで居る訳ではない。社会という枠組みの中で生きていくには、ある程度は周りに合わせる必要がある。

 だが、それでも全てを偽りで固める必要はないとトワは言う。

 

「お調子者のクロウ君は、もしかしたら周りに合わせた結果なのかもしれない。けど、だとしても自分が楽しいと思えるようにすることは、本気でお調子者であることは出来るんじゃないかな」

 

 クロウは、ただそれを静かに聞く。心の内は波風立っていたのが嘘のように静まり返っていた。

 

「例えクロウ君が心の仮面をつけていたとしても、仮面の奥で本当に笑ってくれているのならそれでいい……少なくとも、私はそう思うよ」

 

 お調子者の皮を被り続けるなら別にそれでいい。代わりに全力でお調子者である事を楽しめ。

 なんて無茶苦茶な論理だろうか。演劇の役者でもあるまいし、そんな事を求められるとは露ほども想像していなかった。唖然とした心地でいるクロウに、トワは更に言葉を投げかけた。

 

「ねえ、クロウ君はどうして士官学院に入ったの?」

「……聞くのは一つだけじゃなかったのか?」

「いいからいいから」

「…………モラトリアムみたいなもんだ」

 

 意外と強引に聞いてくるトワに観念し、入学の理由を告げる。かなり婉曲してはいるが。

 それに彼女は我が意を得たりとばかりに頷いた。

 

「じゃあ楽しめるようにしないと余計に勿体ないよ。二年なんて、きっとあっという間だろうから」

「って言われてもなぁ……」

「アンちゃんも本当に楽しそうなクロウ君を見たら文句も言わないと思うし」

「どうだかなぁ……」

 

 あれこれと言ってくるトワに曖昧な返事をして明確な答えを避ける。

 実を言えば、クロウはこの事態に対してどうするべきなのか全く分からなくなっていた。相手のお人好し加減に対する軽い嫌味から始めり、気付けば自分の学院におけるスタンスの話になっている。とんだ急展開である。

 その内心の困惑から返事がおざなりになっていたせいか。トワの言葉をよく聞きもせずに、適当に返したのが彼の運の尽きだった。

 

「うう……なら私もクロウ君が楽しめるように全力でサポートするからっ」

「ああ、うん……まあそれなら」

「ホント!?」

「は?」

 

 パッと顔を明るくさせるトワ。何事か分からず素っ頓狂な声を上げるクロウ。

 

「よーし。それじゃあクロウ君が学院生活を楽しめるよう、私も頑張ってみるね。きっと今年中に楽しいって言わせてみせるんだからっ」

「お、おいおい。ちょっと待て」

 

 何やら勢いづくトワに出遅れるようにして、ようやくクロウは待ったの声を掛ける。それに対して不思議そうに首を傾げる彼女を見て、自分の調子が更に狂っていく感覚に囚われる。

 

「何で俺自身の事にまで、そんなに関わってこようとするんだよ。お前には関係のない事だろ? 本人に任せて放っておきゃいいじゃねえか」

「……あれ? そんなに不思議な事かなぁ」

「分からねえから聞いてんだっつうの」

 

 どうしてこんな自分に関わってこようとするのか。アンゼリカのように悪感情を向けてくるならともかく、学院を楽しめるようにとお節介を焼こうとする気持ちは想像が及ばない。彼女は既に自分の本質が冷淡なそれと気付いている筈なのに。

 だが、目の前の少女はそれを当たり前のことのように思っている。その心の内を問い質そうとすれば、気取りのない自然な笑みが返ってくる。

 

「だって言ったでしょ。損な性格だとしても、手を差し伸べる気持ちを忘れたくないって」

 

 それは例えるならば、聖書に出てくる慈愛の天使のようで。

 

「――クロウ君も、私が手を差し伸べたいと思う一人なんだよ」

 

 その口から告げられた言葉もまた、慈しみに満ちた穏やかなものであった。

 目を見開き、動きが止まっている事を知ってか知らずか、トワは「じゃあ、おやすみ」と身を翻していった。遠ざかる背に手を伸ばし掛け、やめた。呼び止めたところで、話すべき言葉なんて一言も思い浮かばなかったからである。

 伸ばし掛けの手を頭に回して髪を掻き乱しながら盛大に溜息をつく。今日一番の溜息であることは間違いなかった。

 

「……何だありゃ。訳が分からねえ」

 

 つくづくトワ・ハーシェルという少女は自分の想像が及ばない存在であるらしい。思えば、初めてトリスタ駅の前で出会った時も見た目のせいで驚かせられた。それからというものの、事あるごとに調子が狂わされて仕方がない。

 あれは精神構造からして自分とは異なるに違いない。少なくとも、それだけは確信できた。凄く馬鹿なお人好しと言ったが、そんな生易しい表現ではこと足りなさそうだ。途方もなく馬鹿なお人好し、と言った方が適切か。

 困惑を紛らわすようにそんな事を考えるも、力のない苦笑を浮かべて打ち切った。考えるのが馬鹿らしく感じられた。

 

「お疲れでしたら、どうぞ」

「あん?」

 

 ふと声が聞こえる。目を向ければ、その主はこの宿酒場のウェイトレスだった。

 丁寧な手つきでテーブルに紅茶が注がれたティーカップが置かれる。それを見て、クロウは怪訝な表情になった。

 

「……頼んだ覚えは無いんだが」

「サービスですよ。私の家族がお世話になったそうなので、そのお礼に。ほら、あそこで飲んだくれている人たち、貴方たちが助けてくれたんでしょう?」

 

 指差す先のテーブルに突っ伏したポールたちを見て、クロウは「ああ、なるほど」と納得する。そう言えば、トワが彼らと話していた内容の中に、この宿で娘が働いているというのもあったか。彼女がその当人と言う訳なのだろう。

 

「家族に代わって改めてお礼を言わせてください。ありがとうございました」

 

 深々と頭が下げられる。困惑が尾を引いていたこともあってか、それに少し戸惑ってしまう。

 その末に出てきた返答は、やはりお調子者の皮を被ったものだった。

 

「そんじゃまあ、お言葉に甘えてありがたく頂くとするかね」

「ふふ、どうぞごゆっくり。実習、明日も頑張って下さいね」

「どうも」

 

 今度は軽く頭を下げ、ウェイトレスは階段に向かって行った。その手の盆には、まだ湯気の上がるティーカップが乗せられている。他の三人にも差し入れに行くのだろう。

 

(……ありがとう、ね)

 

 昼の街道でもそうだったが、面と向かって感謝されるのは随分と久しぶりに感じられる。置かれた環境もあっただろうが、何よりも冷め切ってしまった自分の性根のせいだろう。

 だが、だからと言って礼を言われて気分を損ねるほど捻くれてはいない。嬉しいという感情も、まだ自分の中には残っている。

 クロウは考える。学院でのスタンスを変えて、何か支障は出るだろうか。

 ――恐らく、無い。ただの足掛かりで何をしようが、余程のことでない限り大きな影響はないだろう。

 

「やれやれ面倒臭え……が、仕方ねえか」

 

 ありふれた不良学生として、誰の記憶にも残らずに消える。そんな当初の予定は既に破綻してしまった。それならば、いっそのこと突き抜けてしまうのも一つの手だ。あのお人好しの言う通り、本気でお調子者になってやろうではないか。

 開き直ってしまえば深く考える必要はない。雑多な感情を洗い流すように紅茶を呷る。

 その水面に映った自分の目は、思っていたよりもマシな色だった。

 



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第11話 調査開始

こんにちわ。ただいま人生の節目にあって色々と気苦労しているお倉坊主です。
というか、ぶっちゃけると就活中です。前話のまえがきの書類の書き方云々も就活に必要だから勉強しているのです。正直なところ早くどこかに内定貰って一安心したいです。
まあ、愚痴っていても仕方がないので、ぼちぼち頑張っているのですがね。こうして合間に物書きしてストレスは発散しているのでご心配なく。誰かが応援してくれればもっと頑張れるかもしれませんね|ω・`)チラ

そんな個人的な話はともかくとして、今回からクロス要素がより前面に出てきます。世界観のすり合わせの都合上、細かい所で「那由多と違うじゃん」と思われる点もあるかもしれませんが、どうかご容赦ください。


「さて、今日も一日実習に取り組んでいく訳だが」

 

 試験実習二日目。それはアンゼリカの第一声から始まった。

 

「手順としては昨日と同じく、渡された依頼を片付けていく感じでいいのかな?」

「うん。女将さんに貰った封筒に二件入っているよ」

「昨日より少ないね。夕方に戻るのを考慮して元締めが気を遣ってくれたのかな」

「ま、そんなところだろ。ありがたく思っておくとしようぜ」

 

 ギクシャクした空気のまま終わった昨日から一夜明け、四人の様子はというと表面上は問題が無いように見えた。宿の入り口から出たところで事を荒立てることもなく、二日目の実習内容を確認していく。

 だが、それはあくまで表面上のこと。感情を表には出さずとも、どこかお互いの様子を窺うような雰囲気がある事は否めなかった。

 それでも表向きは平穏である事には違いない。誰かが昨日の話を蒸し返したりはしない限り、そこそこ上手く依頼をこなし、特に大きな問題を起こすことなく試験実習を終えることが出来るだろう。

 

「じゃあ手っ取り早く……」

「その前に、ちょっといいかな?」

 

 しかし、それは本当の意味で試験実習の成功と言えるのか。少なくともトワはそう思わなかった。

 

「昨日の魔獣被害の話だけど、ちゃんと調べた方がいいんじゃないかな……ううん、私が調べたいと思っている」

 

 言葉を区切り言い直す。どちらが良いかという話ではなく、これは自らの意志によるものだと。

 傍からすれば徒に場を乱す愚行に見えるだろう。燻っていた火の元に、わざわざ燃料を入れ直したのだから。アンゼリカは「それは……」と若干の戸惑いを見せ、クロウは黙ってトワの言葉を聞いていた。

 

「一晩考えてみたんだけど、やっぱり目の前で困っている人がいるのを放っておきたくないんだ。このまま実習を終えたら納得も出来ないし、きっと後悔もすると思う。だから出来る限りのことはやっておきたいの」

「出来る限りの事と言っても……実際、僕達に何が出来るんだい? 領邦軍を説得できるわけでもないだろうし……」

「領邦軍を動かすのは確かに無理だよ。でも問題の原因には、まだ手を出せる余地があると思う」

「問題の原因……つまり、農家に被害を出している魔獣についてか」

 

 確認するような口調のアンゼリカに頷きを以て返す。トワも考え無しにこのような事を言い出したわけではない。自分の意見を受け入れてもらうために、示せるだけの材料を用意してきた。

 

「ポールさんたちや女将さんの話だと、最近の農家を襲ってくる魔獣は普段は見かけない種類なんだって。それに昨日の一件で分かった通り、魔獣たちは普通なら避ける導力灯を無視するほど異常な状態にある」

 

 被害者本人から話を聞くことはもとより、女将にも欠かさず聞き込みは行っている。

 酒場は様々な人が集まる場所である。ケルディックで言うならば、大市の商人、近郊の農家、観光客といった具合だろう。当然、酒の席では肴に多種多様な言葉が交わされる。それらの中に最近の問題である魔獣被害の件が含まれていない方が不自然だ。

 そして女将は、それらの会話を余さず聞いている身だ。全てを覚えてはいなくとも、魔獣被害の概要については十分な情報を聞き出すことが出来た。

 

「これらの因果関係を調べて、魔獣被害の原因を特定する。原因が分かれば対策の立てようもあるし、領邦軍への説得の材料にもなる。それぐらいなら、きっと私たちにも出来る筈だよ」

「……まあ、確かに不可能とは言えないね。課題との兼ね合いも無理のない範疇だ」

 

 調査の手法としては、まずは被害を受けた農家への聞き込みが中心となるだろう。幸い、今日の依頼は郊外の農家に関連したものになっている。依頼のついでに話を聞くくらいは訳ないだろう。

 その結果として魔獣被害の原因が判明したとても、何も自分たちで全てを解決しようと言う訳ではない。あくまで目的は原因を解明すること。その原因にどのように対処するかまで考えるのは自分たちには荷が重い。何より、ケルディックの人々が自ら考えるべき事だろう。

 解決には至らなくとも、その一助となる事で被害の軽減に寄与する。その程度なら実習にも支障をきたさないとアンゼリカとジョルジュも自然に理解出来た。

 

「我儘だっていうのは分かってる。でも、私は目の前の事を見なかったことにしたくない。指示された事だけじゃなく、自分の意志で動きたいの」

 

 しかし、いくら理屈を並び立てても所詮はトワの勝手に過ぎない。勝手は理屈だけでは通らない。

 だから彼女は頭を下げる。彼女なりの誠意を示すために。

 

「だから、お願いします。私の勝手に付き合ってくれませんか」

 

 頭を下げられた側のアンゼリカとジョルジュは困ったように顔を見合わせる。理屈は分かった。トワの気持ちも理解できない訳ではない。ただ、最後の問題が素直に頷くのを阻んでいた。

 

「僕としては手伝うのも吝かではないけど……」

「私も同じようなものさ。が、そちらの男はどうなのかな?」

「…………」

 

 アンゼリカが横目で視線を投げかける。その行き先、トワが話し出してからというものの沈黙を守るクロウは、頭を下げるトワをじっと見つめていた。

 

「この試験実習の間、私たちは腐っても仲間だ。どんな行動をするにしても全員が納得していなければ意味がないだろう。遺憾ながら、君の意見も無視することは出来ない」

「要するに後はクロウ次第と言う訳なんだけど、やっぱり無闇なお節介には反対かい?」

 

 やや憮然としたアンゼリカの言う通り、どんなに不仲であろうと自分たちが仲間であることには変わりない。一人の意見が無視されることは許されるべきではない。

 トワも皆が納得できる実習にしたいと思って言いだした事なのだ。皆の中には当然クロウも含まれている。ここで彼が拒否するのならば、それはそれで仕方がないと割り切るつもりではあった。無理強いしてもいい結果になるとは思えない。

 ただ、それでも不安に思う気持ちはある訳で、下げていた頭を少し上げてクロウの様子を窺う。やや寝癖のついた髪を掻き毟っていた彼は、面倒臭そうな面持ちでようやく口を開いた。

 

「ま、いいんじゃねえの?」

「え」

 

 果たして、その口から出てきた言葉は肯定を意味するものだった。つい間の抜けた声を漏らすトワに、クロウは呆れたような顔で「あのなぁ」と言う。

 

「昨晩に馬鹿みたいなお人好し加減を晒してきたのはそっちだろうが。そんな奴相手に止めるよう説得するなんざ、それこそ馬鹿のする事だ。適当に楽しながらでいいなら付き合ってやるよ」

「そ、そんな馬鹿馬鹿言わなくても……」

「へえ、たった一晩で随分と心変わりしたものだね。今まで散々捻くれたことを言っていたくせにそれを翻すとは、トワに絆されでもしたのかい?」

 

 あんまりと言えばあんまりなクロウの言い分に肩を落とすトワを置いて、アンゼリカが挑発的な台詞を発する。それはまるで、様子が変わったクロウを試すかのようだった。

 昨日までの彼であれば、内面に土足で踏み込んでくるような挑発に乗せられて冷淡な本質を覗かせていただろう。だが今日は、今日からの彼は、それに対して戯けた反応を見せた。

 

「おいおい、俺はちょろいヒロインみたいなキャラじゃねえぞ。これはただの方針転換だ、方針転換」

「……ふうん。方針転換、ねえ」

 

 目を細めるアンゼリカはどこか猜疑心のようなものを感じているようだった。だが、それも仕方のない事だろう。誰だって急に態度を変えた相手のことを信用するはずもない。ましてや、つい昨日まで不仲の極みにあった相手では。

 そんな彼女にクロウはひょいと肩をすくめる。まるで、自分は気にしていないとアピールするように。

 

「お前といざこざ続けるのも、そろそろ面倒になってきたしな。こっちがいいって言ってんだから素直に頷いておけよ」

 

 それらしいことを口にしながら、彼は「それに」と続けた。

 

「この実習、実際のところは分からねえが、遊撃士らしいやり方が求められているんだろ? だったら、それに従って民間人の保護に精を出して評価を稼ぐとするさ。単位で楽をするためにな」

「やれやれ、ちょっと理由が不純すぎやしないかい?」

「あはは……私はクロウ君がそれでいいなら、別に構わないと思うけど」

 

 清々しいまでに身勝手な理由に、ジョルジュは呆れ顔になりトワは苦笑いを零す。ただ、それは決して不快な感情からくるものではなかった。

 何はともあれ、クロウが前向きな気持ちを示してくれたのだ。それを喜びはしても咎める事は無い。そして、それはアンゼリカにも同じことが言えた。しばし思案顔をしていた彼女は「ふう」と大きく息をつく。

 

「分かったよ。ここは君の言い分を聞き入れておくとしよう。これ以上揉めるのは私も本意じゃない……今後がどうなるかは、君次第といったところだがね」

「へいへい、肝に銘じておきますよっと」

 

 アンゼリカが向ける値踏みするような視線をクロウは軽い調子で受け流した。

 軋轢が無くなったわけではない。それでも、この場における行動の合意は取れた。これでようやく一つのチームとして動き出すことが出来る。

 

「ありがとう皆、私の我儘に付き合ってくれて」

「そういうのは全部終わってからにしておくとしようぜ。それより、まずはどうするんだ?」

「そうだね。聞き込みをするにしても闇雲と言う訳にはいかないだろうし」

「あ、うん。それはちゃんと考えてあるよ」

 

 合意が取れたのなら次は具体的な行動の指針。この実習における実質的なリーダーにして言い出しっぺのトワは意見を仰がれる。

 皆が自分の思いを認めてくれたのなら、今度はその期待に全力で応えるよう努めるのみ。そうでなければ我儘を押し通した甲斐が無い。試験実習を最高の結果にするべく彼女は道筋を仲間たちに指し示した。

 

「まずは元締めに話をしに行こう。実際に被害を受けた農家の確認と、実習の責任者から調査の許可を貰っておかないとね」

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 昨日に続いて面会した元締めとの話し合いは、比較的スムーズに進行した。

 当初はトワたちの魔獣被害調査の提案に渋い顔――とまでは言わずとも困った表情を浮かべた元締めだったが、食い下がるトワの熱意を認めての事か許可を下すのは早かった。決して無理はしないようにと念は押されたものの、それは現地責任者として当然の言葉だろう。無論、トワたちとしても限界を弁えない行為を安易にするつもりは無い。

 元締めからもたらされた情報によると、魔獣被害を受けた農家は昨日のポールを除いて四軒。いずれも重傷者は出ていないとの事だが、軽傷や施設の損壊などの被害があるようだ。

 まずは、これらの被害者の話を聞いて回り、そこから共通点などを割り出して魔獣被害の原因を分析していく。同時並行で依頼の方も片付けていかなくてはいかない以上、手際よくやっていく必要がある。トワたちは早速調査を開始した。

 

 

 

 

 

「ウチでは夜半に魔獣の雄叫びが聞こえてきましてな。何事かと思い慎重に様子を窺ったところ、数匹の影が西に向かって去っていくところでした。あれは、そう……大きなヒヒのように見えましたな」

「西に去っていった大きなヒヒ、ですか。もしかして昨日のゴーディオッサーかな?」

「やけに興奮していた覚えがあるし、その可能性は高いかもしれない。しかし獣が夜半に活動的とは、元気でも有り余っていたのかね」

 

 そうして調査を続けて既に三軒目。西街道の農家であるサイロ老人の話を伺ってトワの脳裏に浮かんだのは、昨日に手配魔獣として討伐したゴーディオッサーだった。アンゼリカの言う通り様子も少し平常ではなかったように思う。

 これはもう少し詳しく聞いた方がいいかもしれない。トワはサイロ老人に先を促した。

 

「まあ、翌朝になって確認した被害にしても、一部の柵が壊されていたり作物が荒らされていたりした程度でしたがね。家族は勿論、牛も牛舎に入れてあったので無事でしたし。壊された柵も君たちに直して貰えて助かりました」

「そりゃどういたしまして」

 

 礼を言うサイロ老人にクロウが軽く応じる。先ほどまで行っていた修繕作業の主力は彼とジョルジュだったのだ。

 この農家を訪ねたのは魔獣被害の話を聞くためでもあったが、依頼の中に壊された柵の修繕も含まれていたからという理由もあった。今は修繕完了の報告がてら、こうして詳しい話を伺っているわけである。

 サイロ老人の話振りからして、ここが受けた被害は比較的軽微なもののようだ。少し気になるところがあったトワは「あの」と前置いて問い掛ける。

 

「被害を出した魔獣ですけど、それは普段このあたりで見かける種類なんですか?」

「ふむ、そうですね……言われてみると珍しいと思います。全くという事はありませんが、数匹の集団で動いているのは初めてかもしれません」

「そうですか……先に訪ねた農家でも普段は見かけない種類という事だったし、これは共通点として考えてもいいかもね」

「それでいいと思うぜ。ポールのオッサンたちを襲ったブレードホーンも同じらしいし」

 

 風見亭の女将の言葉の裏付けを取るために、先に訪ねた農家にも同じことを聞いたのだが、その答えはいずれも普段は見かけないというものだった。少なくとも、集団で動いているのを見たのは。

 それはつまり、被害を出している魔獣が街道に生息している種類ではないということ。だが同時に、ケルディック近辺である事も間違いないだろう。一匹の状態を見掛けたという証言がある以上、街道に迷い込む範囲に生息域があるという事になる。

 襲ってきた魔獣の種類にバラつきが見られる理由は不明だが、今のところ分かる事はこれくらいだろう。分からない事は後から考えれば良い。

 

「協力に感謝します、ご老人。おかげで色々と知ることが出来ました」

「いえいえ、大したことでは。むしろ、このような事に手を貸して下さる君たちに感謝するばかりです」

 

 情報提供に対する謝辞は、同じく謝辞によって返された。サイロ老人は穏やかな笑みを浮かべる。

 

「正直なところ、こうして解決に乗り出してくれる人がいるとは思っていませんでしたからね。三十年前に比べればマシと我慢するしかないと考えていましたが、どうやら世の中まだ捨てたものではないようです」

「三十年前……そういえばポールさんも何か言いかけていたような気がするけど」

「そういや、そんな事も言ってた気がするな。その頃に不作か何かでもあったのかよ?」

 

 サイロ老人が零した言葉から、ジョルジュがポールも口にした共通のキーワードに気付く。確かに昨日、やけに胆力がある理由を問い掛けたところそのような言葉が出ていた。直後に駆け付けたロビンの騒ぎように有耶無耶になってしまったが。

 クロウは疑問を呈し、アンゼリカも記憶を探るように思案顔だ。その中でトワは一人ハッとした表情となる。そして、その肩上あたりで姿を隠す妖精も僅かに気配を乱していた。

 幸いにして、その僅かな変化には気付かれなかった。サイロ老人が「おや?」と言って注目を集めたからだ。

 

「あの時のことをご存じない……いえ、最近の若者ならそれが普通のことなのかもしれませんな。気付けば私も随分と歳を喰ってしまった。あれも既に過去の出来事となってしまったのでしょう」

「ふむ。ご老人、よろしければお聞かせ願えないでしょうか。三十年前のこと、ここまで聞いてしまえば気になって仕方がない」

「それは構いませんが、何しろ私が三十の半ばくらいの時の話です。曖昧な部分も多く、あまり詳細についてまでは話すことは出来ませんが……」

 

 疑問を感じている面々の頼みに応える姿勢を見せるサイロ老人であったが、その顔には同時に困った表情も浮かんでいた。単純な話、あまり多く語る事が無いのである。

 三十年前という、ただでさえ昔のこと。衝撃が大きかっただけに記憶に残ってはいるが、その出来事について多くを知っている訳ではない。農民の彼に語れるのは近辺で起こった事だけだ。

 

「――《流星の異変》」

 

 そこにポツリと言葉が差し挟まれる。その主、トワに視線が集まった。

 

「七耀歴1173年、突如として(そら)に巨大な構造物が出現した。構造物の破片は流星となって各地に降り注いで被害をもたらし、それに呼応するように魔獣も狂暴化。農作物の不作も重なり、敵国の新兵器だという流言の果てに帝国と共和国は開戦間近にまでなったという。赤く染まった空に人々は世界の終末を予感した」

 

 トワは教科書を読み上げるように朗々と語る。その内容はあまりにも非現実的に聞こえたが、サイロ老人はそれに対して何も口にしない。自然、三人も口を閉ざして聞く他ない。

 

「異変の終わりは始まりと同じく突然だった。構造物から光が放たれ、地を穿つと異変は収まった。構造物は遠く離れていき、戦争もとある男爵の忠言により阻止された――っていうのが異変の大筋の流れだよ」

「流星の異変……日曜学校で聞いたような覚えはあるけど。本当にそんな事があったのかい?」

「いえ、そのお嬢さんの言う通りですよ」

 

 あまりにもおとぎ話染みた内容に怪訝な雰囲気となるが、他ならぬ当事者の言葉によりそれは払拭される。

 

「ある日、突然に空の一部分が割れて巨大な構造物が現れたのです。割れた空の破片はこの近くにも降ってきましてね、白い大きな破片がウチの農地にも突き刺さっていました」

「おいおい、空が割れるってどういう状況だよ」

「具体的に言うと、構造物のカモフラージュになっていた外壁が破砕した様子が、地上からは空が割れた様に見えたんだよ。構造物自体は大昔から月と地上の間にあったんだ」

 

 言葉だけでは想像もつかない現象に突っ込むも、それにさえ立て板に水といった様子で軽々と答えが返ってくる。まともな答えなど期待していなかったクロウは「……マジか」と呆気に取られる。

 三人とも《流星の異変》という言葉に聞き覚えが無いわけではない。確かに日曜学校において、昔にそういった災害があったと教えられた記憶はある。ただ、それはそういう出来事があったと教えられただけであり、その内実までは知り得なかった。だからこそ、その超常的な現象に、それを詳細に語るトワに驚いているのである。

 対してサイロ老人はというと、純粋に彼女の知識に感心していた。満足そうに小さく頷く。

 

「よく御存じですね。他の方の様子から見るに、日曜学校でもあまり教えていないようなのに。私としても当時の記憶が蘇るかのようでしたよ」

「あはは、それはどうも」

 

 愛想の良い笑みを浮かべて照れた様に頬を掻くトワだが、それにクロウは「いや、待て待て」と言葉を挟む。どう考えてもそれはどうもの一言で片付けられることではなかった。

 

「お前が何でそんな事を知っているんだっつうの。俺は昔に大きな災害があったって聞いた事しかねえぞ」

「私も似たようなものだね。そもそも、どうして細かな情報が伝わっていないかも疑問だ」

「それは僕も同感かな。昔といっても三十年前の事だ。記録が残っていない訳でもないだろうに」

「ええと、全部を全部私に聞かれても困るんだけど……」

 

 仲間からの質問攻めにトワは笑みを苦笑に変える。細かに語ってしまえばこうなる事は目に見えていたことだが、実際にその立場になってみると気圧されるものがある。

 しかし、言い出した以上はある程度納得してもらえる答えを示すしかない。少なくとも、一方の質問に関しては。

 

「そうだな……じゃあ逆に聞くけど、皆は《ノーザンブリア異変》についてどれくらい知っている?」

「《ノーザンブリア異変》? ノーザンブリア自治州の三分の一が塩に変わったっていう、あの?」

「……正確に言えば、自治州になる前のノーザンブリア大公国で起きた異変だな。その時に大公が真っ先に逃げ出したもんで、信用を失って国が崩壊する事になったんだったか」

 

 七耀歴1178年7月1日に起きた全ての物体が塩に変わるという怪奇現象。公都ハリヤスクを含む国土の三分の一を塩の大地に変貌せしめた異変の名をトワは挙げる。それにクロウはどこか渋い表情を浮かべながら「それがどうかしたかよ」と先を促す。

 

「なら、それの原因は?」

 

 途端、三人は口を噤んだ。その問いに対する答えを持たないが故に。

 実質的に一つの国を崩壊させた異変。当然、原因の調査などは行われたはずだ。国一つを滅ぼした災害を、いくらなんでも放置しておくことは出来ない。

 しかし、現実として一般にその真実を知っている者はいない。調査の報告は一つも知らされず、教育の場においても事実は知らされるが、その内実について教えられることは無い。

 

「たぶん、この二つの異変は同じケースだと思うんだ。調査の結果、原因が何も分からなかったから誰も知らないのか。それとも、原因が判明しているのに公表されていないのか」

「……原因が判明しているのに公表されないのは、どういう理由によるものだと言うんだい?」

「明らかにすると社会に混乱を招くとか、そういう理由だろうね」

 

 眉尻が下がり、口元に弧を描く。そこには僅かながら自嘲に似たものが含まれていた。その理由を三人は察することが出来なかったが。

 

「空から星が降ってくるとか、大地が塩に変わるとか、どう考えても普通じゃないもん。そんな女神様の秘蹟のような現象の原因なら、隠されても仕方がないんじゃないかな」

「ふむ……まあ一理はあるか」

「公表されない理由はそれでいいとしてよ、じゃあ何でお前は異変について詳しく知っているんだ?」

「それは……」

 

 一先ずは納得した様子を見せるアンゼリカに対し、クロウは追及の手を緩めない。問われた側のトワは、その顔に迷いの表情を浮かべる。

 話すべきなのか、話すにしてもどこまで話すのか。僅かに逡巡する間にも相手の訝しむような色は増していく。

 

「お父さんが、学者をやっていてね。その関係で色々と教えてもらったんだ」

 

 結局、口から出てきたのはお茶を濁すようなものだった。嘘は言っていないが、真実にも触れていない。トワにはまだ本当のことを話す踏ん切りがついていなかった。肩のあたりから、少し寂しそうな視線を感じた気がした。

 クロウや他の面々にしても、そんな彼女からどこか影のようなものは感じていた。だが、それが何なのかを察する手立てもなく、言っている事も筋が通っていない訳ではない。取り敢えずは、それで納得するしかなかった。

 ただ幸いにも、そこで妙な空気になる事は無かった。トワの細かい機微など知る由もないサイロ老人が言葉を継いだ。

 

「ほう、そこまで詳しく御存じとなると、さぞ優秀な学者さんなのでしょうな。私としても改めてあの時の事を知れて勉強になりました」

「どういたしまして。お役に立てたのなら良かったです」

「でも、そうか……今の話を聞いて納得しました。ポールさんやあなたが魔獣被害を受けても、あまり動じていない理由が」

 

 ジョルジュが一つ頷き何かを理解した様子を見せる。それは災厄を乗り越えた人物たちへの理解だった。

 

「それほどに大きな災害だったのなら、受けた被害もきっと甚大なものだったのでしょう。でも、それを乗り越えたからこそ今の魔獣被害にも落ち着いていられるわけですね」

「そうですな。あの時より酷くないなら大丈夫、そういう思いがあるのも確かです。ですが、個人的にはもう少し前向きな心持でいるつもりです」

「ふむ、前向きと言うと?」

 

 ジョルジュの言葉をサイロ老人は否定しなかったが、どうやらそう単純なものでもないらしい。不思議そうな顔をするアンゼリカに老翁は穏やかに微笑んだ。

 

「あの異変の後、不作が嘘だったかのように豊作が続き、世の中もしばらく平和が続きました。だからこそ思えるのです。今は辛くとも、きっとそれが報われる時が来るのだと」

 

 辛い目に慣れているのではない。辛い現実の後に幸福ある未来が待っていると信じられるからこそ、目の前の困難に対しても落ち着いて対応できるのだ。世界の終りも斯くやという災厄を目にしてきた老人はそう言った。

 それは農民という凡庸な個人であっても、人生において確かな経験を積んできたからこそ出る言葉なのだろう。だからこそ、その言葉は四人の胸の内にも響くものがあった。

 そんなトワたちに、サイロ老人は茶目っ気のあるウィンクを送った。

 

「例え辛い事があっても、その先にある未来への希望を忘れないようにしなさい。年寄りから若者たちへのささやかなアドバイスです」

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「情報を整理しようか」

 

 場所はケルディックの風見亭に戻り、時は昼を少し過ぎた頃。依頼の達成と情報収集を遂げたトワたちは、昼食が片づけられた後のテーブルに地図を広げた。ケルディック近辺の地理情報が示されたそれに、トワがメモ帳を片手に書き込みを加えていく。

 

「魔獣被害に遭った農家はポールさんを含めて五軒。それを地図上で見ると……こうなるね」

「町を挟んで西に三軒、東に二軒か。位置はあまり関係ないのかな?」

 

 地図上に丁寧に書かれたバツ印の位置を見てジョルジュが意見を述べる。

 ケルディックは東と西に街道が伸びている。普通に見るならば、それに沿って物事を考えるのが妥当だろう。彼の意見は的外れなものではなかった。だが、それにクロウが「いや」と異議を唱える。

 

「この場合は東西とは別の視点で考えるべきだろ。こんな風にな」

 

 丁寧な筆跡の上に荒っぽいそれが加えられる。鉄道に従って引かれた直線により、地図は南北に分けられた。

 

「へえ、鉄道の線路か。それなら確かに傾向も読み取れるようになる」

「考えるべき軸は東西じゃなくて南北だ。そうすりゃ南は無しで北に五、被害は全部線路の北側に集中してるってことになる」

「うん、私もそれが良い見方だと思う。流石だね、クロウ君」

「へっ、褒めても何も出ねえぞ」

 

 一つの視点では何の変哲もないように見えても、視点を変えれば別の意味が見えてくる。集めた情報から、まず被害はケルディック北部に集中しているという事実を得る。

 勉学は不真面目だが頭の回転は早いクロウである。その発想力を素直に褒めるも、受け取る側が素直でないようだ。そっぽを向く彼にトワは苦笑を浮かべた。

 

「しっかしまあ、このあたりなら領邦軍の連中もパトロールとかしているだろうに。実は奴さんたちが既に解決していたりとかしないもんかね」

「それは無いだろうね。楽をしたい君からしたら残念だろうが」

 

 続けて面倒臭げに呟くクロウだったが、それはアンゼリカによってバッサリと切り捨てられる。やや文句を言いたげな視線が言外に理由を問うた。

 

「もし彼らが被害の原因を突き止めて排除したならば、それを誇示しているはずだ。昨日の小隊長から見るに、どうやらここの領邦軍は気位が高いみたいだからね。それに増税があるなら元締めに恩着せがましく言い聞かせているだろうし」

 

 自身が貴族だからこそ、それが従える領邦軍の気質にも見当がつく。それに加えて、出会ってからすぐにクロウの本質を看破した観察眼を以てすれば、領邦軍が問題を解決した場合の動きは容易に想像できるのだろう。

 単に自分たちの功績を誇るだけでなく、増税に先立って元締めに恩を売っておけば施行された時に文句を言われにくくなるという政治的な効果もある。それが為されていないという事は、彼らの方でも魔獣被害の原因は判明していないという事だ。

 権力者的な生々しい考え方にクロウがうへぇと嫌な顔をするが、彼女はそれをどこ吹く風と受け流して地図上に手を伸ばした。

 

「まあ、彼らもパトロールの途中に異常を発見しても放置するほど馬鹿じゃあるまい。そうなると自然、主要な街道付近に怪しいところは無いと考えられる」

「うーん。街道沿いじゃないとなると獣道とかになるのか、あるいは……」

 

 奔放な性格にしては意外と優美な筆跡で街道周辺に問題なしと記される。段々と範囲が絞られてくるうちに、一同は地図上で深い緑に塗られた部分を視界に捉えつつあった。

 口元に手を当てて考える姿勢を取っていたトワが「そういえば」と切り出した。

 

「目撃された魔獣の種類はゴーディオッサーの他に、ブレードホーンとかの昆虫型だったね。ここからも原因を探っていくことが出来ると思うんだ」

「確かに種類としては、その二つに大別できるだろうが……ヒヒに昆虫か。私にはいまいち共通点が見えてこないんだが」

「近辺の魔獣の棲息情報なんかが分かればいいんだけどね。とてもじゃないけど、そこまで詳しい情報を集めている暇は無かったし」

「だがまあ、お前がそう言うなら何かあるんだろ。勿体ぶってないでさっさと言えよ」

 

 クロウに「そんなつもりは無いんだけどなぁ」と返しながらトワは意見を開陳した。

 

「二種類の魔獣の食性だよ。そこから生息域を割り出すことは出来るんじゃないかな」

 

 魔獣は七耀石の欠片であるセピスを溜め込むという性質はあるものの、その食性については一般的な動物と大差はない。生物の分布には気候条件などはもとより、食糧となり得るものの存在も大きく影響している。トワの意見は簡単に言えば、食糧になり得るものの位置から生息域を予測しようというものである。

 地図上に再び丁寧な筆跡が加えられる。ヒヒと昆虫の食性を比較する簡易的な表だ。

 

「ヒヒは雑食で小型の爬虫類や昆虫類、木の葉に果実とかを食べる。対して昆虫は樹液や果実が主な食糧だね。ちなみに種類によっては他の生き物の死骸を食べる事もあるよ」

「へえ、そりゃまた何で」

「メスの個体が産卵するのに足りない栄養を賄うためだよ。他に食糧になるものがなければオスを共食いしたり、自分が産んだ卵を食べる場合もあるね」

 

 えぐい生態を話しておきながらトワに何ら変化はない。この程度のこと、彼女にとっては気分を害するようなものでもないのだ。

 むしろ堪えているのは聞いた側である。藪蛇を突いたクロウはうげぇと気分を害したような顔をし、ジョルジュも引き攣った笑みを浮かべていた。

 

「はは……随分と詳しいけど、それもお父さんに教えてもらったのかい?」

「うん。お父さんだけじゃなくて先生からもだけどね。博物学と考古学が混ざったようなフィールドワークばかりやっているから、それに付いていくうちに自然と」

「見た目はインドア派なのに実際はアウトドア派とは……うーん、そのギャップもまたたまらない」

 

 父親は研究者といっても現地調査に重きを置くタイプ。暇さえあれば出掛けて行って、帰ってくればあれやこれやと島の博物館で論議を交わしている人物である。そんな父親の背中に付いて回って育ってきた身なので動植物について一通りの知識を有しているのも当然であった。

 よく分からない理由で恍惚としているアンゼリカは置いておくとして、トワは話を先に進める。ここまでくれば原因の所在は既に明らかになったようなものだ。

 

「ケルディックの北部、街道付近ではなく、二種類の魔獣の食性に一致する場所。この条件に当て嵌まるのは――」

 

 示し合せた様に全員の視点が一点に注がれる。ケルディックの北に広がる、その青々とした一帯に。

 

 

「「「「ヴェスティア大森林」」」」

 

 

 四人の答えが重なる。これだけの条件があれば同じ結論に帰結するのも道理であった。

 

「より正確に言うなら、手前のルナリア自然公園ってところになるのかな。きっと魔獣はどちらもここから出てきたものだと思う」

「あのやる気のなさそうな領邦軍が、そっちまで足を延ばすとは考えづらいしな。適当なパトロールで原因が見つからないのも納得といえば納得だ」

 

 ケルディック北方で果実や樹液をもたらす樹木が存在する場所と言えば、エレボニア帝国東部でも有数の森林地帯であるヴェスティア大森林に他ならない。広範な樹木群における生態系に、ヒヒや昆虫が含まれているのは容易に想像がつく。

 

「魔獣が森林から出てきていると考えれば、被害地点にも納得だ。ポールさんが襲われたのは自然公園の近くだし、他のところも森林の外縁部からの距離はそう変わらない」

 

 ジョルジュが被害地点と森林を線で結べば、確かに図面を引くかのような真っ直ぐな四本のそれは、どれも長さに大きな違いは無いように見えた。大まかではあるが、導き出した結論を補強するものには違いない。

 地図から顔を上げ、目を見合わせる。誰ともなくトワは口を開いた。

 

「行ってみようか。実際に目にしてみれば何か分かるかもしれない」

「私は勿論賛成さ。ふふ、面白くなってきたじゃないか」

「面倒くせえが……まあ仕方ねえか。乗りかかった船って奴だ」

「僕も異論はないよ。帰りの鉄道の時間までにも、まだ余裕はある」

 

 魔獣の出所は分かったが、まだ出てくる理由までは判明していない。森の外に出て行く要因があるのか、出て行かざるを得ない事情があるのか。また、それは自然発生的なものなのか、何者かによる人為的なものなのか。そこまで分からなければ原因を突き止めたとは言えないだろう。

 全員の賛意が取れたところで席を立つ。四者四様の筆跡が刻まれた地図を片付け、女将に外出の旨を伝えて風見亭から出立する。

 行き先はルナリア自然公園。最初の試験実習の終わりが近づきつつあった。

 




【流星の異変】
那由多の軌跡で起きた事件にオリジナルの名称を付けたもの。世界観の都合上、原作から変更を加えられている部分あり。変更点を具体的に挙げると

原作
二つある月の片方が割れて(実際に割れたのは月に見せかけていた表面部分)巨大な構造物が空に現れる。

拙作
地上と月の間の空間が割れて(表面部分を月ではなくステルスにしたと考えればOK)巨大な構造物が空に現れる。

……だって月が一個なくなったら洒落にならないじゃん。


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第12話 歯車

ESを書く間にちまちま執筆してようやく投稿。お待たせいたしました。

余談ではありますが、活動報告の方で自身の経験談を元にした雑記を書き始めてみました。生存報告と文章練習を兼ねて細々とやっていくつもりなので、興味がありましたらお気に入りユーザー登録をとダイレクトマーケティング。

あと空Evo買いました。限定版のパッケージデカい(笑)


 西ケルディック街道を北上して道なりに進んだ先、ヴェスティア大森林の一部を観光資源として利用した施設、ルナリア自然公園はそこにある。アーチに掲げられた施設名を見上げながら短い坂を上ると視界が開ける。大きな鉄門の向こうに青々として森林が広がっていた。

 目的地まで来たところで「さて」と一息つく。取り敢えず来てみたはいいが、正直なところここからは無計画であった。

 

「どうする? 一見して異常はないようだが」

「うーん……まずは中に入ってみようか。魔獣はどれも興奮していたみたいだし、その痕跡が残っているかもしれない」

「痕跡っていうと、どういうものなんだい?」

「色々と考えられるよ。食糧がなくなって森の外に出てきたなら果実や樹液が見当たらなくなっている筈だし、もし新しい天敵に追い出されたのなら争った形跡が残っていると思う」

 

 もっとも、前者の食糧不足は考えづらい。もし、そうだとしたら農家への被害は施設等の無作為な破壊より作物への被害に集中していた筈だ。何より広大な森林で食糧が無くなるという事態が起こるとは思えない。

 それなので可能性としては後者の方が高いのだが、ブレードホーンならともかくゴーディオッサーという比較的大型の魔獣が追いやられる相手が存在するという仮定にも疑問が残る。こちらも納得がいくものとは言い辛いだろう。

 だが、どちらにせよ想像にすぎない。実際のところは自分の目で見て確かめるしかないという訳だ。

 

「要するに、お前の得意分野って訳だ。サバイバルならともかくフィールドワーカーみたいな真似は門外漢だからな、そっちに任せるぜ」

「あはは、分かったよ」

 

 肩を竦めて丸投げしてきたクロウであるが、それならそれでトワとしても望むところである。父親譲りの調査能力を活かせるのなら本望である。

 一先ずは自然公園に足を踏み入れるべく、鉄門近くまで進んだ時だった。

 

「おや……? 君たち、すまないが今ここは立ち入り禁止だよ」

 

 鉄門の向こう側から一人の男性が現れる。後ろに引く荷車にはスコップなどの道具類が積まれており、その服は少し土に汚れていた。彼は何者なのか、立ち入り禁止とはどういうことなのか。四人は一度顔を見合わせてから男性に向き直った。

 

「えっと、あなたは……?」

「私はジョンソン。このルナリア自然公園の管理人だよ。そういう君たちは格好からして、どこかの高等学校の生徒みたいだが」

「僕たちはトリスタのトールズ士官学院の生徒です。ケルディックには学院の実習で訪れている最中でして」

 

 ジョルジュの簡潔な説明に自然公園の管理人と名乗った男性、ジョンソンは「なるほど」と感心したように頷いた。きっと、こうして学生が実習という名目で各地を巡っているのが珍しいのだろう。

 それはともかく、取り上げるべきは彼が口にした立ち入り禁止という言葉である。自然公園という名前からして、ここが観光施設として利用されているのは間違いない。それなのに入れないという事は、何か利用者に危険が及ぶような事態にでもなっているのか。

 もしかしたら、それが魔獣被害の原因にも関連しているのかもしれない。そこまで想像したトワはジョンソンに問い掛けた。

 

「すいません、立ち入り禁止という事は何かあったんですか?」

「ああ……それが困った事に、普段は奥地にいる魔獣まで自然公園の方に出てきているらしくてね。おまけに導力灯の効果も薄くなっているようだ。施設の一部が壊されていたから、今しがた直してきたところなんだ」

 

 ジョンソンが引いてきた荷車を見遣る。よくよく見れば、道具類の底には廃材のようなものが転がっている。形状からして、元はベンチか何かだったのだろう。それが何かの争いに巻き込まれたかのようにへし折られていた。

 

「正直、この森をよく知っている私でも入り口近くでの作業が精一杯でね。それ以上、奥に進めば何が起きるか分からない。そんなところに一般客を入れる訳にはいけないだろう?」

 

 表情に申し訳なさそうな色を浮かべるジョンソン。トワたちがこの自然公園の観光に来たものと思っていたのかもしれない。せっかく来てくれたのに入れてあげられないという面目なさがあるのだろう。

 だが、幸か不幸かトワたちの目的は観光ではない。ジョンソンの言葉を聞いて彼女たちは顔を見合わせて頷き合った。

 

「魔獣の狂暴化、ねえ。こりゃ間違いなく」

「ビンゴという奴だろう。周辺への被害はその煽りと言う訳かな?」

「……君たち、何の話をしているんだい?」

「ええと、実はですね――」

 

 話に付いていけなくて不思議そうなジョンソンに、トワは今までの簡単な経緯を含めて事情を説明する。彼に協力してもらった方が、話が早そうだったからだ。

 最近の農家への魔獣被害のこと、元締めに許可を貰って調査に乗り出したこと、魔獣の種類や被害地域などからルナリア自然公園に原因があるのではないかと考えたこと。一通り今回の件について説明する。

 語り聞かせた後、彼は納得したように頷く。なるほど、と前置いて口を開いた。

 

「確かに君たちの推理は当たっているよ。この自然公園にはゴーディオッサーもブレードホーンなどの昆虫類もいる。農家に被害を出していた魔獣はここから出てきたもので間違いないだろう」

「魔獣が狂暴化しているようですけど、やっぱりその影響なんでしょうか?」

「おそらくは、だがね。外縁部を調べてみれば魔獣が外に出た痕跡も見つかると思うのだが」

「今はそれを確かめるより先にやる事があるだろ。その狂暴化ってやつがどうして起こっている原因の方が重要だ」

 

 クロウの言っている事は間違っていない。現段階で魔獣が出没しているのがここであるという事は、ほぼ確定しているのだ。そちらの確証を得るよりも先に原因――魔獣の狂暴化の理由を特定する方が優先される。

出没経路を特定するのは、その原因が解決不能であると判断した場合に必要になる事だ。つまり、これ以上魔獣が出てこないようにするための方策を立てる時である。

 

「ジョンソンさん、狂暴化の原因に何か心当たりはないんですか?」

「ううむ……実を言うと、私もこれほど魔獣たちの気が立っているのを見るのは初めてでね。前にも小競り合いくらいの事はあったのだが」

 

 ジョルジュが改めて問い掛けるが、返ってくるのは悩ましげな声。彼も初めての経験に戸惑っているようだった。

 

「しかし、これほどのものとなると……もしかしたらヌシが関わっているのかもしれない」

「ヌシ?」

「ここの川にデカい魚でもいるのかよ?」

 

 そんな彼の口から、ふと一つの単語が零れ落ちる。トワはオウム返しに疑問を呈し、クロウは適当に思いついた事を言って苦笑いを返されていた。少なくとも、釣りに関する話ではなさそうだ。

 

「ヌシっていうのは、この自然公園で一番強い奴さ。いわばボス猿だね」

 

 へえ、と一同の口から言葉が漏れる。そういった存在が居る事は知っていたが、実際に見聞きするのは初めてのことだった。

 魔獣にも生態系というものは存在する。弱い魔獣は強い魔獣の捕食対象であるし、弱いほど数が多く強いほど少ないというのも変わりない。そしてピラミッドの頂点に存在する魔獣、その中の最も強い個体が俗に言うヌシである。

 

「森について熟知している私でようやく見つけられるような普段は奥地に引っ込んでいる奴なんだが、これだけ荒れているとなると奴の縄張りに踏み込んだ魔獣でもいたのかもしれないな」

「なるほど……しかし、それほど強力となると下手な敵など簡単に追い散らしそうなものですが」

「そうなんだが、実際にはこうした状態が続いている訳だからね。確かめようにも迂闊に近寄れない状況で私も頭を悩ませているんだ」

 

 揃って頭を悩ませてしまう。原因を確かめに行きたいが、ジョンソンの言葉からして不用意に近付けば痛い目を見るのはこちらだろう。興奮したヌシなど一つの災害に等しい。

 こうなったら原因は置いておくとして、一先ずは魔獣が出てこないように対策を立てるべきだろうか。そう考え始めた時だった。

 

「まあ、そうだな……案外、ヌシ同士で派手に喧嘩でもしているのかもしれねえな」

「でもクロウ君、ヌシっていうのはちゃんと縄張りを持っているものなんだよ。それを他のヌシが犯すなんて滅多なことが……」

 

 クロウの憶測にトワが反論しようとして、途中でその言葉を途切れさせた。

 ズン、と鉄門の奥から地響きが届く。森がざわめき、鳥たちが何かから逃げるように飛び去っていく。

 言い知れない圧力、それが暗がりの中から迫ってくる。トワにアンゼリカ、クロウは勿論のこと、ジョルジュとジョンソンでさえそれを感じ取っていた。

 

「……ジョンソンさん、後ろに下がっていてください」

「あ、ああ」

 

 トワの警告に従ってジョンソンが森から距離を取る。場の空気は急速に緊迫したものへと変わっていた。

 腹の底に響くような音が近付いてくる。四人は迫り来る脅威に備え身構えた。

 

「――来るぞ!」

 

 アンゼリカの叫びと、それ(・・)が姿を現わしたのはほぼ同時であった。

 けたたましい音を立てて鉄門の横に広がる木柵を巨大な角が突き破る。切れ味などという上等なものは無い。ただ純粋な力を以てして森と街道を隔てる壁は容易く打ち砕かれた。

 木端微塵になった木柵の奥から巨大な存在が姿を晒す。天を突くように反り立つ一対の巨角、ギシギシと軋む黒光りする甲殻、黄褐色の前翅には無数の傷が刻まれ、それが幾多もの闘争を勝ち抜いてきたのだと窺わせる。人の胴ほどあるのではないかと思わせる刺々しい前肢が持ち上げられ地を震わせた。

 馬鹿馬鹿しいまでに巨大な昆虫型魔獣。それがトワたちの前に現れたものの正体だった。

 

「……まったく、そこの男が余計な事を言ったばかりに」

「おいおい、俺のせいじゃねえだろ!? アレが勝手に出てきたんだっつうの!」

「じょ、冗談言っている場合じゃないと思うんだけどね……」

 

 文句をつけるアンゼリカにクロウががなり立て、ジョルジュが冷や汗を垂らしながら正論を述べる。いつも通りと言えばそうなのだが、生憎と今は笑っていられるような状況ではなかった。酷く興奮した様子で目をギョロギョロとさせている巨大魔獣の前でふざけている余裕などない。

 顔を蒼くさせているジョンソンに視線であれは何かと問い掛ける。返って来たのは首を横に振ることによる否定の意だった。

 

「あんなのは私も見た事が無い……も、もしやヴェスティア大森林の方から……?」

「……あれもヌシという事なら説明はつくね。ヌシの縄張り争いが起きて、その影響で他の魔獣も森から追いやられていたりしたんだ」

 

 これほど巨大な魔獣が争い合えば周囲への被害も洒落にならない。農家を襲っていた魔獣たちもまた、生態系の頂点を巡る闘争の煽りを受けた被害者だったのだ。

 

「ジョンソンさんは周りの農家の人たちに避難を呼びかけてください。それとケルディックの領邦軍に応援の要請を」

 

 だが、明らかになった事態の真相もこの状況を前にしては些事に成り下がる。更なる脅威が明確な形で迫っているのだから。

 この興奮具合からして、ヌシは確実に周囲の人々に被害を与える。今までに被害を出してきた魔獣のように、いや、今まで以上の甚大な被害を。それを可能にする力を目の前の存在は持っている。

 だからトワは努めて冷静にジョンソンに必要なことを頼む。今にも街道に向けて進撃を開始しそうなヌシから目を離さないようにしながら告げると、視界の外から困惑した雰囲気が伝わってくる。

 

「そ、それは勿論だが、君たちはどうするというんだ?」

「ここで足止めをします」

 

 得物を抜刀し、キッパリと言い切ったトワにジョンソンは絶句する。規格外の魔獣を前にして、その小さな体躯と刃で立ち向かうのは如何にも無謀に見えただろう。抗弁する気配を察して、トワはその前に言葉を続けた。

 

「大丈夫です。四人がかりなら倒すはまだしも、何とか撃退はできるかもしれませんし、自分たちも無理はしないつもりです」

「まあ、元締めに無理はしないと約束している。そこらへんを破る気はありませんよ」

「俺は正直、今すぐ帰って寝たい気分なんだがな」

「こらこら、混ぜっ返さない」

 

 それぞれ武具を構えながら四人四様の言葉を口にする。げんなりした表情で文句を零したクロウのおかげで、何とも締まりのないものになってはいたが。

 

「~~~~っ! すぐに助けを呼んでくる!」

 

 だが、そんな返答でも自分たちの覚悟を伝えることは出来たようだ。

 意を決したように走り去っていくジョンソン。それを見送って、トワは正面に向き直りながら「さて」と仕切り直す。

 

「なんか大事になっちゃったね。三人ともごめんなさい」

「なに、付き合うと決めたのは私たちさ。そこで文句を垂れている男もね」

「分かってるっつうの。まあ、取り敢えず……」

 

 クロウの銃口が向けられる。ジョンソンの後を追い、街道に進もうとしたヌシへと。

 

「こっち向きやがれ、デカブツ!」

 

 銃声と共に弾丸が吐き出される。ヌシの頭部に向けて放たれたそれは寸分違わず標的に吸い込まれ……金属音のような音を響かせて、明後日の方向に弾き返された。

 ヌシの目がギョロリとトワたちに向けられる。どうやら完全に敵と認識されたようだ。ジョルジュが「ははは……」と苦笑いを零した。

 

「いやぁ、硬そうだね」

「おや、随分と余裕がありそうな態度じゃないか」

「冗談はよしてくれ。笑うしかない心境でいるだけだよ……もっとも、逃げるつもりもないけどね」

「その意気やよし。せいぜい踏ん張ってくれたまえよ」

 

 全員、心の準備は出来ているらしい。その様子を見てトワは自然と口元が緩んだ。

 それをすぐさま引き締め直し、刀の切っ先を前翅を広げて威嚇するヌシへと向ける。獣の雄叫びとは異なる声ならぬ叫びにも怯まず、トワは号令を発した。

 

「倒すことは考えなくていい。街道に進ませず、森に追い立てる事を優先して。行くよ、みんなっ!」

「「「おおっ!!」」」

 

 四人が強大な敵に立ち向かうべく走りだし、ヌシがその巨大な角を振り上げる。

 初めての試験実習、その趨勢を決める戦いの火蓋が切って落とされた。

 

 

 

 

 

 振り上げられた巨角。ヌシは立ち向かってくる四人に対してそれを上から叩き付けんとする。それぞれが攻撃の範囲から抜け出るべく散開した直後、巨角は大地へと直下する。

 足元からの激震、罅割れる大地、規格外の魔獣の一撃は自然の猛威に似ていた。思わぬ衝撃に走る足を止めさせられたジョルジュがうめくように声を上げる。

 

「これは、喰らったらタダじゃ済まないね……!」

「分かっているなら動きを止めない事だ。そら、次が来るぞ!」

 

 アンゼリカの叱咤激励に突き動かされるように、ジョルジュは立て直した足で必死に走る。その体があった場所に太い節足が突き立てられた。

 ヌシの巨体はもはや昆虫型の魔獣のものではない。いかなる過程を経てその巨躯を持つに至ったのかは想像するしかないが、普通では考えられないような長い時を生きた魔獣であるのはまず間違いない。それは黒光りする甲殻に年輪のように刻まれた古傷の数々が物語っている。

 そして気の遠くなるような年月を闘争と共に過ごしてきたヌシには、戦いを乗り越えてきた中で確かに積み上げてきた経験があったようだ。四人の中で最も動きが鈍い相手、すなわちジョルジュに狙いを定めたのか、彼に対して執拗に攻撃を続けようとする。

 

「クロウ君、お願い!」

 

 それに気付くや否や、間合いをはかっていたトワはヌシへ向けて疾駆した。走りながら発した言葉の返答は銃声。二丁拳銃より放たれた弾丸は先と変わらず弾かれるが、確かにヌシの気を引いた。

 巨躯が動きを止め、銃弾の送り主に目が向けられる。作り出された隙を利用し、トワは死角となる横合いから斬り込んだ。

 頭部と前翅の継ぎ目、鋼鉄の如き甲殻の庇護を受けない箇所。斬撃は生身のそこを傷つけ、迸った体液が地面を汚す。痛みにヌシは唸り声のような音を発し、自身を傷つけたものを薙ぎ払うように巨角を振るう。一撃の後にすぐさま離脱したトワは、そのままジョルジュから遠ざかるようにヌシを引き付けた。

 

「トワ!」

「そっちは体勢を立て直して! 場当たりで勝てる相手じゃない!」

「ちっ、無理すんじゃねえぞ!」

 

 助太刀すべく駆け出さんとするアンゼリカを言葉で押し留める。この巨躯をどうにかするには一人の力ではどうにもならない。まずは準備を整える必要があった。

 囮を買って出た形のトワに、怒鳴り返して窮地を脱したジョルジュの元へと駆け寄っていくクロウ。それに頷きながら、トワは回避と観察に専念する。

 巨大な一対の角による振り下ろしに薙ぎ払い、本来であれば滑り止めのものが鋸の刃のように連なる太い足、そして何よりその巨体による重圧。ヌシを脅威たらしめる矛は主にその三つだろう。加えて、その甲殻は銃弾を弾くほどに堅牢。まさに難攻不落だ。

 当たれば肉を削がれそうな足を、受ければ押し潰されそうな角を、慎重さと大胆さを織り交ぜて避けていく。絶え間なく動き回りながら、トワは事態を打開する方法を見出さんと思考を巡らせる。

 

「腹に潜り込む? いや、それだと潰されちゃうから……わわっ!?」

 

 甲殻の無い腹を狙うことも考えるが、それはあまりにもリスクが大きい。そうこう考えるうちにヌシも動きを変えてくる。角で樹木を挟むと、それを容易く引き千切って投げ飛ばす。慌てて地に身を飛ばしたトワの背後を樹木が埋め尽くす。

 地面を転がって即座に立ち上がる。前翅を振るわせて威嚇するヌシ。仲間は準備は出来ているものの手を出しあぐねている。どうすればこの脅威を退けられるのか、それが分からないからだ。

 どこに、どのタイミングで、どのように攻めるのか。戦術リンクが繋がっていない今、四人が暗黙のうちにその一致を図るのは不可能に近い。普通の魔獣相手には誤魔化しつつ戦えてきたが、これほどまでに強大なものには一つのミスが命取りになりかねない。

 だから下手に手を出せない。例えば、よかれと思って放った銃弾が、味方を傷つける可能性を孕む状況では。

 

(でも、このままじゃ……!)

 

 かと言って、現状維持も愚策である。ヌシがトワたちを脅威と認識しなくなれば、それは街道への侵攻が再開する事を意味する。なんとか有効打を与える事で注意を引き付けなければならない。

 改めてヌシの全体を見渡し、突破口を探し求める。雄々しい角、攻撃的な足、黒鋼の甲殻まで見て――ふと、異質なそれが目に入った。

 掻い潜って来た闘争を物語る古傷の数々。それに紛れるようにして、幾つか真新しい傷がある事に気付く。それは一部が欠けた角であり、他に比べて動きの鈍い足であり、罅割れた甲殻であった。

 その傷が何に与えられたものなのか、今はどうでもいい。付け入るべき箇所を見出したトワは、そこを最も効果的に叩く策を即座に練り上げる。

 痺れを切らしたかのように突進してくる巨体を躱し、トワは跳躍して一息に三人と合流した。

 

「っと。みんな、今から言うことを聞いて欲しいんだ」

「な、なんだい?」

 

 追い掛け回されて、荒くなっていた息を何とか整えたジョルジュが問う。律儀なそれに、トワもまた律儀に返す。

 

「攻撃の仕掛け方を、私の言う通りに従って欲しいの。方法、箇所、タイミングまで、全部だよ」

「全部……」

「ふう、そこまで言うのなら、もちろん理由もあるんだろう?」

 

 確認するように話すアンゼリカに「うん」と頷く。樹木群に突っ込んだヌシが振り返り、再びこちらに向き直るのを油断なく見据えながら、ごく単純な理由を最小限の言葉で伝える。

 

「私たちの連携は未完成。下手に合わせようとしたら、きっとどこかで破綻する。だから私が全部の指示を出す。みんなの動きを把握して、一連の流れを作り出す事であれを撃退するの」

 

 個々の連携が難しいのならば、意志を一元化してしまえばいい。どのように動くべきかを示す司令塔を設ける事で、四人がお互いを阻害する事なく攻撃を仕掛けられるよう調節するのだ。

 三人とも、理解は出来たのだろう。だからこそ雰囲気に戸惑いが混じる。クロウが憮然とした様子で口を開いた。

 

「へっ、要するに命を預けろって事だろ」

「…………」

 

 皮肉っぽいそれに黙って頷く。全く以てその通りだった。

 動きを司令塔に一任するという事は、自身の命運をその人に預けるという事と同義。判断を誤れば敵の攻撃をまともに喰らう可能性すらある。だが同時に、その判断を信用しなければ連携は成立しえない。疑念が混ざってしまえば、そこに乱れが生じるからだ。

 命を預けるのに抵抗を感じない人間はいない。だが、そうしなければこの窮地を乗り切るのは困難だろう。さもなくば自分たちの後ろにある平穏が乱される。

 ヌシが次なる攻撃を仕掛ける時が刻々と迫る中、一秒の躊躇すら惜しまれる。

 

「……まあ、俺は別にいいぜ。指示を出すならさっさとくれよ」

 

 そんな中、いの一番にクロウが答える。偽りの仮面を被り、他者を信用しているとはとても言えなかった彼が。

 思わず「え……」と口から零したトワに、クロウは冗談気味に問い掛けた。

 

「んだよ。まさか自信がねえとでも言うつもりか?」

「……そんなことないよ。きっと上手くいく……ううん、絶対に上手くいかせてみせる!」

「ふう、これは良いところを取られてしまったな。私としたことがこんなチャランポランな男に後れを取るとは……」

「こんな時にまで喧嘩を売らなくてもいい気がするんだけどね……」

 

 それに確固たる意志を示したトワを目にして、アンゼリカは自身の行動の遅さを嘆き、ジョルジュはさりげなく悪口を混ぜる彼女に苦笑いを零す。同時に、その瞳からは迷いが消え去っていた。

 未だトワたちの間に心からの信頼が築かれたわけではない。戦術リンクが繋がらない事からもそれは確かな事実であった。

 だが、この実習を通してトワは信用を勝ち得ていた。目的の見えない状況でも率先して動く行動力、出身も考えもバラバラな四人を纏めてきた統率力、そして何よりこの調査を決めた時に見せた強い意志によって。彼女であれば、きっとやり遂げるだろうと。

 

「グダグダ言ってねえで準備しろ。そろそろ奴さんも向かってくるぞ」

「分かっているさ。さあトワ、こっちはいつでも構わないよ」

「僕も足手まといにはなりたくないからね。君の指示に全力で応えるよ」

 

 だから三人はもう迷わない。今この時はトワに身を委ね、目の前の敵を打ち砕くために全力を尽くす。それが彼らの出した答えだった。

 今にも襲い掛からんとするヌシの前に臆する事もなく立ち、自身の指示を待つ三人にトワは小さく「……ありがとう」と呟いた。これ以上の言葉は必要ない。後は結果を以てその礼とするべきだろう。

 脳裏に全員の動きを思い描く。ヌシはどのように攻撃してくるか、それにどのように対応し、堅固な防御を突き崩していくのか。シミュレーションの果てに一つの結論をだし、トワは声を張り上げる。

 

「クロウ君は後衛でアーツによる支援、ジョルジュ君は側面の死角に回り込んで! アンちゃんは私と一緒に注意を引くよ!」

 

 応、と威勢の良い返事と共に四人が動き出す。ヌシもまた、その巨体に攻撃の挙動を見せる。

 再び突進を仕掛けようとする相手に妨害をするのはクロウ。ARCUSを駆動し、機械動作による魔法を紡ぎだす。放つは火のアーツ、ファイアボルト。概して昆虫型が苦手とするそれが眼前に迫れば、さしものヌシも攻勢から守勢に回り身を守る。

 その隙を突き接近するトワとアンゼリカ。しかし、仕掛けるにはまだ早い。牽制するように一撃を加え、狙いが自分たちに移ったのを確認して散開する。死角に回り込むジョルジュから目を引き離すように。

 

「っ! クロウ君、もう一回アーツの用意を! 私とタイミングを合わせて!」

 

 角の一撃を横っ飛びに躱しながら声を張り上げる。態勢を整え、中衛の距離に位置取って更に指示を出す。

 

「ジョルジュ君は怯んだ隙に側面の甲殻の罅に一撃を! アンちゃんは左後ろ脚の関節部に攻撃して支援して!」

 

 口から出てきたのは攻撃部位まで指定する具体的なもの。その内容にジョルジュとアンゼリカは目を見開く。

 アーツで出来た隙を狙うと言えども、ジョルジュの機械槌は出が遅い。死角から接近しても迎撃を喰らう前か後かは五分五分といったところ。アンゼリカへの指示にしても、ただの脚一本を狙ってどうなるのかと思われても仕方がない。

 

「――分かった! 任せてくれ!」

「左後ろ脚……なるほど、了解だ!」

 

 だが、それでも動きを止めるものはいなかった。トワの言葉を信じると決めたのだ。今になってその決定を覆すほど、彼彼女らの覚悟は軽くない。ジョルジュは意気込み、アンゼリカは指定された部位を見てその意図を理解した。

 

「そら、行くぜ。ヘマすんなよ!」

「クロウ君こそ先走らないでよ!」

「「ファイアボルト!」」

 

 背から響く煽り文句に言い返しながら駆動を完了する。アンゼリカが引き付けるヌシに向かい、二つの火球が放たれた。その身を舐める火に怯むことで生じる僅かな隙。そこに機械槌を肩に担いだジョルジュが右側面に突っ込んでいく。

 しかし、苦手とする火とはいえ所詮は下級アーツ。さして時間を置くことなくヌシは硬直を解き、視界の隅に映った最も動きの鈍い標的に目を付ける。

 迎撃せんと右脚が振り上げられる。鋸刃のようなそれに直撃すればひとたまりもないと分かっていながらも、ジョルジュは歩みを止めはしない。ヌシの奥、自分とは反対に位置するアンゼリカが必ずやってくれると信じていたから。

 

「コオオォォ……」

 

 そして、その信に彼女は見事に応えてみせた。

 

「破ぁっ!!」

 

 零勁。闘気を滾らせ全力の一撃を左後ろ脚――傷を負い、動きを鈍らせた部位へと叩き込む。

 衝撃力を余すことなく敵に伝え、立ち塞がるものを粉砕する拳を受けたヌシの反応は顕著であった。悲鳴のような声を上げ、片側の脚を上げていた状態から体勢を崩されて完全な隙を晒す。もはや、ジョルジュを阻むものは存在しなかった。

 

「どっせええええええええい!!」

 

 機械槌が唸りを上げる。導力機構が内部で指向性を持った爆発を起こし、推進力に変換されたそれは鉄塊を突き動かす原動力となる。振るう本人が扱えるギリギリの速度に加速された鉄槌は凶悪な威力を以てヌシの横っ腹に叩きつけられた。

 罅の亀裂が広がる。巨躯を横滑りさせるほどのあまりある衝撃に甲殻は耐え切れず、ついに守りを崩され無防備な生身を晒す。その弱点を、一連の流れを頭の中で描き切っていた彼女は逃がさない。

 アーツを放った直後から動きだし、既に標的は正面に捉えていた。甲殻が砕けた範囲は僅か、そして彼我の距離も刀の間合いではない。それでも問題は無かった。

 手に握る愛刀に力を籠め、一回転するように身を捻る。溜め込んだ力を解き放つように、トワは力強く前に踏み込んだ。

 

「――神風!!」

 

 振るわれた刃から闘気の斬撃が飛ぶ。戦技が生み出した遠当ての剣閃は、寸分違わずヌシの柔身を斬り裂いた。

 響く甲高い悲鳴。今までのそれとは比較にならないであろう苦痛にヌシは身を捩る。

 

「ふう……ふう……や、やったのかい?」

「ううん、倒しきれてはいない。でも、これで……っ!?」

 

 これで、森に引き返すはず。そう言おうとしたトワはヌシが見せた動きに口を閉ざさざるを得なかった。

 巨角が乱雑に振り回され、刺々しい脚が無茶苦茶に周囲を荒らす。あまりの暴れようにアンゼリカもジョルジュも後退する。

 暴走。そう表するしか出来ない行動をするヌシは興奮を越え、もはや狂っているようにさえ見えた。その黒い目に理性の色は無かった。

 

「くっ……これでは流石に手が付けられないな。まさに後先考えずという様子だね」

「厄介な奴だぜ。まだ暴れたりないって言うのかよ」

「そんな、これだけの傷を負ったら身を守ろうとするはずなのに……まさか……」

 

 トワは、このヌシがどのような経緯でルナリア自然公園の方にまで出てきてしまったのか分からないが、それは偶然に近いものだと思っていた。何かの拍子に別のヌシと遭遇し、争いの果てに街道側に弾き出されてしまっただけなのだと。こちら側に進むのが危険だと分からせれば、元いた場所に戻ろうとするだろうと。

 しかし、実際にこのヌシは尚も暴れようとしている。どうして退かないのか。進んでも傷付くだけだと分かっている筈なのに。傷付いて尚も進もうとするのは何故なのか。

 その理由に思い当たったトワは悲痛な表情を浮かべた。

 

「あなた……帰る場所がないの……?」

 

 戻ろうとしないのではなく、戻れないのではないか。偶然ではなく、止むに止まれず出てきたのではないか。

 確証はない。だが、もしそうであるならば今も暴れ続ける理由に納得がいく。この魔獣も生きようとしているのだ。生物としての本能に従い、命の灯を少しでも長らえようと。居場所を失った森を去り、その外へと活路を求めて。

 その悲哀が、彼女の判断を遅らせた。ヌシは周囲の煩わしい敵が下がったと気付くや否や、その巨躯を先ほどまでの突進とは比にならない速度で突き動かし始める。それを為し得たのは火事場の馬鹿力というものだろうか。

 

「ちっ……!」

 

 行く先は街道。その間には、後衛で援護すると共に道を塞ぐ役目を担うクロウが立っていた。

 ヌシは既に暴走状態。銃撃だろうとアーツだろうと、その動きを止める事は無いだろう。だから身を守るためには避けるしかないというのに、どうしてかクロウは躊躇うように動きを鈍らせた。

 その一瞬が仇となる。もはや彼我の距離に回避するほどの余裕はない。巨躯の突進を受け、弾き飛ばされるクロウの姿が脳裏に予期される。

 

(そんなの……!)

 

 そんな事は許されない。自分が許さない。

 例えヌシが望んで森から出てきたのではないとしても、ただ生きようとする本能に突き動かされているのだとしても、トワは認めない。自分のことを信じてくれた仲間を傷つけようとするならば、どんな手を使ってでも止めてみせる。

 そう、だからこそ彼女は呼びかける。ひた隠そうとしていた感情をかなぐり捨て、仲間を助けるただそれだけのために。いつも自分の助けとなってくれる彼女ならば、きっとそこにいると信じて。

 

「来て! ノイ!!」

 

 仲間を助ける。その一念の叫びに呼応するようにARCUSが輝いた。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「ちっ……!」

 

 クロウは突貫してくるヌシを見て舌打ちする。

 あれだけの質量を押し返すような手段は持ち合わせていない。銃やアーツ程度では止まらないだろう。まともにぶつかり合えば導力車に轢かれるような衝撃が彼の身を襲う……少なくとも、今のままでは。

 だから横っ飛びに回避しようとして、不意によぎった考えが彼の足を止める。

 

 ――自分が躱したらどうなる?

 

 ヌシはきっと街道を突き進んでいくだろう。何が目的かは知らないが、都合よくどこかで止まるとは思えない。その課程で農家には更なる被害がもたらされ、下手すればケルディックの町にまでそれは及ぶ。そう危惧した時、彼は回避することを一瞬であっても躊躇った。

 少し前のクロウなら知ったことではないと思っていただろう。だが、昨夜のささやかな語らいが、あの底抜けにお人好しな少女の言葉が彼を踏み止ませる。ここでヌシを通したことで傷付く人が現れれば、彼女はきっと悲しみ、無用な責任を感じる事だろう。そんな、らしくもない考えが頭を過るくらいには、クロウはトワに感化されていた。

 

(こうなりゃ、人目に触れようと……!)

 

 躊躇の間に回避できるほどの距離は失われている。もはや形振り構わず、本気(・・)を出して凌ぐしかない。そう考えた時だった。

 

「来て! ノイ!!」

 

 声が響く。ヌシの向こう、共に戦う仲間から。

 いったい何が。疑問を感じると同時に、クロウは彼女と繋がった。そして直感する。何の意味があるのかも知らず、ただその感覚に従い身を地面に伏せ。

 

「合点承知なの!」

「んなっ!?」

 

 彼女に応える声が耳朶を叩き、黄金の歯車が頭上で振るわれる光景が目に焼き付いた。

 歯車はヌシに激突し、勢いづいていた巨躯を弾き返す。速度に比例した反動に呻き声のような音がヌシから漏れる。衝撃が傷ついた身に堪えたのか、その動きは完全に止まっていた。

 その隙を逃さぬとばかりにクロウの背後から小さな影が飛んでいく。桃色の髪の妖精、そうとしか言いようのない姿に呆然とする。それはアンゼリカもジョルジュも同じであった。ただトワだけが、そこにそれが居るのを知っていたかのように淀みなく動く。

 

「吹っ飛ばして! 思いっ切り!」

「いきなり呼んでおいて無茶言うの!」

「お小言は後でいいから!」

 

 彼女の気安い声、少なくとも、自分たちが聞いたことが無いくらいには。まるで姉妹のような気の抜けるやりとりに反して、その動きは洗練されたものであった。

 妖精の髪を二房に分ける髪留めのような歯車。それが如何なる原理か巨大化し金色の鈍器となる。

 掬い上げるような一撃。回転する歯車はヌシの甲殻とぶつかり合い火花を散らす。顎下より打ち上げられ、巨躯が仰け反るように僅かに持ち上がる。

 続く二撃。二つの歯車が束ねられ、巨躯が持ち上がった事で僅かながらも露わになった腹に捻じ込むように叩きつけられる。岩塊ですら破壊するのではないかと思える歯車の衝撃力により、ヌシは低空ながら宙に飛ばされた。

 上下ひっくり返るように回転するヌシ。無防備に晒された腹を狙い、後ろから追撃が迫る。

 

「星よ、我に集いて魔を払う光となせ!」

 

 トワの刀が闘気を纏う。光剣と化したそれを握り、およそ修める剣技の全てを解き放つ。

 錐揉むように斬撃を繰り出しながら宙に舞い上がる。頂点に達し、尚も刃は振るわれる。全身全霊、彼女の全力を以て刻み込まれる剣技。体液が返り血となり、頬を汚そうが止まることは無い。

 連撃の末にトワは身体を矢のように引き絞る。舞い上がった妖精が魔法陣を描き出し、その行く先を指し示す。

 ――そして、彼女は流星となった。

 

「「はああああああ!!」」

 

 一筋の光が空を駆ける。魔法陣が力と速さを与え、光の鏃と化した彼女がヌシの腹へと突き刺さり、そして貫いた。

 突きの勢いのまま靴底をすり減らし、荒い息を吐きながら止まるトワ。その背後に風穴を穿たれたヌシが墜ちる。か細い末期の声を上げ、ケルディックを襲わんとしていた脅威は息絶えた。

 静かな時間だった。トワの乱れた息遣いが響くだけで、仲間たちは目の前で起きた出来事に理解が追いつかず唖然とするのみ。突如として現れた妖精も、どこかトワに気遣うような視線を向けるだけだった。

 静寂の中、息を整えたトワが背後を振り返る。横たわるヌシの骸を前に、彼女は瞑目する。

 

「……どうか、女神の下で安らかに」

 

 その姿は、どこか悲しげであるようにクロウの目には見えた。

 




【ヌシ】
第1章のボスを務めてもらった不遇のオリ魔獣。実はトワたちとの戦闘前にグルジャーノンにボコされている。モデルは伝説のアノ虫。分からない人は空の軌跡3rdをプレイしよう。

【神風】
オルバス師匠から教えてもらえる奥義の一つ。踏込と共に剣を払うことで剣圧を飛ばす中距離攻撃。割と範囲が広く、軽い敵に対しては吹き飛ばし効果もあるので使い勝手がいい。

【ギアバスター】
ノイが使えるギアクラフトの一つ。巨大な歯車で殴りつける。三連続で攻撃可能。通常攻撃が効かない相手や硬いオブジェクトに有効であり、岩の塊だろうが鉄の角だろうがぶち壊す。


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第13話 実習の終わり

任天堂の岩田 聡社長が7月11日に胆管腫瘍でお亡くなりになったと先日、発表されました。私は面接に向かう電車の中で訃報を知ったのですが、しばらくは文面が信じられず呆然としていました。正直、今も信じたくない気持ちで一杯です。
星のカービィや大乱闘スマッシュブラザーズといった私個人としても思い出深い作品を作り上げただけでなく、会社の顔として様々な広報活動をしてきた岩田社長は間違いなくゲーム業界の偉大な人物の一人でした。そんな方が55歳というまだまだこれからという年齢でお亡くなりになってしまったことが残念に思えて仕方がありません。
一人のゲームファンとして、この場を借りてご冥福をお祈りさせていただきます。そして今まで沢山の「楽しさ」を作ってくださりありがとうございました。


「――それで、現れた魔獣を退治しました。報告は以上です」

「…………」

 

 語るべきことを語り終え、口を閉ざしたトワは少し冷や汗を流していた。

 多くのおとぎ話は悪者を倒してめでたしめでたし、というのが終幕を飾るものだろう。だが、現実は物語と違う。悪者がいなくなった後も現実は続き、そして悪者に立ち向かったことが手放しに褒められるわけではない場合もあるという点で。

 ふう、と大きな溜息が室内に響いた。目の前の老人、元締めが疲れた様に吐いたそれに、並ぶ四人はやや気まずそうにするか誤魔化すような苦笑いを浮かべるしかない。遠く聞こえる大市の喧騒は何の慰めにもなりはしなかった。

 やや沈黙の後、元締めは顔を上げる。その表情は怒っている訳ではなかったが、どこか疲労感が滲み出ているように思えた。

 

「……調査を許可し、君たちを送り出したのはワシだ。町に被害を与えかねなかった魔獣を退治してくれたのも感謝しておる。それについて責めるつもりは無い」

 

 口にする言葉にも説教の色は混じっていない。ただ疲れたような口調で「ただまあ、なんだね」と続ける。

 

「もう少し身の安全を考えてくれると助かるよ。老人の心臓には堪える」

「あ、あはは……申し訳ありませんでした」

 

 返す言葉もなくトワは頭を下げる。実習先の責任者に思いがけない心労を掛けていたことを理解して、今度からはあまり無茶をしないようにしようと思う彼女なのであった。

 もっとも、姿を消しつつも傍らにいるお目付け役がそれを聞けば「怪しいものなの」と言ったことだろうが。

 

 

 

 

 

 ルナリア自然公園前で突如として現れたヌシを間一髪ながら打倒したトワたち。考えるべきこと、話さなければいけないことは多くあれども、まずはケルディックに戻ろうということで一致した。状況が落ち着いてからでも遅くは無いだろうと。

 そうして戻ったケルディックで待っていたのは血相を変えたオットー元締め。最初はその様子に困惑したが、よくよく考えてみれば当たり前のことだ。

 管理人のジョンソンが領邦軍の応援を頼みに行けば、自然と町の顔役である元締めにも話が届く。そして元締めは実習地における責任者でもある。言うなれば、実習のために学院からトワたちを預けられているのだ。その預かった学生が強大な魔獣と対峙していると聞けば気が気ではないだろう。

 加えて、戻ってきた時のトワたちの恰好は酷いものだった。大きな怪我は無かったが、服は土埃にまみれ身体には擦り傷がところどころ。トワに至ってはヌシの返り血でべったりと濡れており、一見してさぞショッキングな光景に映ったに違いない。

 一先ずは安全の確保と自分たちの無事を伝え、宿屋で取り急ぎ汚れを可能な限り落としてから再び元締め宅を訪れたのであった。そこでようやく調査の結果についての詳細な報告を行うことになり、話は冒頭に戻る。

 

「何はともあれ、君たちが無事でよかった。もし何かあればヴァンダイク殿に申し訳が立たんからな」

「ご心配をおかけして申し訳ない。仕方ない面もあったとはいえ、無茶はしないという約束を反故にすることになってしまいました」

「まさか、あんな魔獣が出てくるとは思ってもいなかったからな。まあ勘弁してくれや」

 

 まるで正反対の態度のアンゼリカとクロウの言葉に元締めは苦笑いを零す。どうやら彼も、ようやく気持ちが落ち着いて余裕が出てきたようだ。

 

「君たちがこの町を守ろうとして戦ってくれたのは話を聞いて承知しておる。責めるなどという筋の通らぬ真似をするつもりは無いよ。むしろ町を救ってくれたことに礼を言わせておくれ」

「そう言ってくれると、僕たちとしてもありがたいです。お役に立てたようで良かった」

 

 元締めが付けた調査の条件を完璧に無視していたことに多かれ少なかれ申し訳なさはあったので、彼が咎めることも無く礼を言ってくれたのに一同はホッとさせられた。今回の一件で、実習中に危険な事態に陥った際のことも考えられるようになるだろうが、この分なら実習自体の取り止めになることはなさそうだ。

 元締めの顔から険が取れたことでトワも緊張が解ける。そうして他のことにも頭が回るようになり、ふと「そういえば」と切り出した。

 

「周辺の農家の方は大丈夫でしたか? 管理人のジョンソンさんが避難させてくれたとは思いますけど……」

「ああ、それなら問題なかったとも。ジョンソン氏に連れられて一度町まで避難はしてきたが、君たちが魔獣を退治してくれたおかげですぐに帰ることが出来た。農作業にも影響はなかろう」

「それなら踏ん張った甲斐もあるってもんかね。確か領邦軍の応援も頼みに行った筈だが、そっちはどうなったんだ?」

 

 素直に喜べばいいものを相も変わらず捻くれた物言いをするクロウ。そんな彼が口にした領邦軍の件に、トワはそれを半ば忘れ去っていたことに気付く。ヌシと相対するのに必死で頭から抜け落ちていた。

 自然公園からケルディックに戻る道すがら領邦軍とは出くわさなかった。町へ入った途端に元締めが駆け寄ってきたが、その際に視界の端で物々しい雰囲気でいたような気がする、といった程度だ。彼らはいったいどうしていたのだろうか。

 問われた元締めは「うむ」と一つ頷く。別段、深刻な様子ではなさそうだ。

 

「ジョンソン氏の要請に従って領邦軍も防衛のための準備を進めていた。彼らも町に危機が迫っているとなれば動かずにはおられんからな。もっとも、君たちのおかげでお役御免になり拍子抜けしておったが」

 

 くつくつと笑みを漏らす。拍子抜けした隊長の顔でも思い出しているのだろうか。それにつられるように小さく笑いながらジョルジュが口を開いた。

 

「はは……こちらとしては早急に応援に来てくれた方が助かったんですけど」

「まあ、準正規とはいえ軍隊だ。組織であるからには出撃するにしても色々と手続きが必要になる。そこら辺が民間の使い手である遊撃士との機動力の差に繋がっているのだろう」

「遊撃士は緊急の事態になれば、一個人の判断で行動に移せるからね。民間人の保護という大原則に従うものなら、だけど」

 

 軍隊と遊撃士の機動力の差はよく引き合いに出されるが、その差はついて当然のものなのだ。

 軍隊は国を守るための組織。そのために様々な兵器が備えられており、保有する戦力は民間とは比べ物にならない。だが、強大であるから故にその制御は厳重に行われる。結果として様々な指揮系統、許諾申請が必要となり、行動が遅くなる。

 対して遊撃士は、規模は大きいと言っても民間の組織。保持する戦力は個人の範疇に留まり、戦車などを持っている訳でもない。しかし同時に行動が厳密に管理されるという訳でもなく、支部における判断、喫緊の時は個人の意思で動けるのが最大の強みだろう。

 言ってしまえば、求められる状況がそれぞれ異なるのだ。それを理解すればお互い協力できると思うのだが、軍隊と遊撃士の関係は良くない国が多いと聞く。トワとしては残念なところだ。

 

「まあ彼らも機を逸しはしたが、今は念のために自然公園周辺のパトロールに出てくれている。彼らとの関係が今後どうなるかは分からないが、少なくとも魔獣被害の心配はもうあるまい」

「そう、ですね。ヌシの片方が倒れたからには自然公園の方も落ち着くでしょうし……」

 

 閑話休題、肝心の魔獣被害の件に話が移る。当面の不安が取り除かれた元締めの穏やかな表情に対し、応じたトワは解決する見通しを口にしながらも、少し陰りを見せる。

 それを不思議に思った元締めに「どうかしたのかね?」と問われ、彼女は遠慮がちに口を開いた。

 

「いえ……私たちが倒したヌシ、どうして森の奥から出てこなくちゃいけなかったんだろうって」

 

 どれだけ傷付いてもヌシは森に帰ろうとしなかった。それはつまり、もう帰るべき場所がなかったということ。あれだけ強大な魔獣が追いやられるなど、いったい何が起こればそうなるのか。トワは町に戻ってからもずっと気懸かりにしていた。

 

「言われてみりゃそうだな。自分から縄張りを捨ててきた訳でもあるまいし、まだ何かあんのかね?」

「うーん……正直、憶測でしか語れないね。あの魔獣はヴェスティア大森林の奥から出てきた可能性が高いんだろう? そんな奥地の状況を確かめるのはちょっとやそっとじゃ出来ないと思う」

「それは分かっているんだ。ただ少し気になるだけだから……」

 

 ヌシがどのような経緯でルナリア自然公園の方まで出てきてしまったのかは分からない。少なくとも自発的な行動ではないだろう。だが、それ以上を知る余地は今のトワたちには存在しない。自然公園の管理人のジョンソンでさえ把握が不可能だったのだから当たり前だ。

 そのことはトワも理解している。だから気になりはしても、困難であろうと口にするジョルジュに素直に頷く。しかし、その表情はどこか物憂げだ。

 そんな彼女に、ふと思いついたかのようにアンゼリカが問い掛けた。

 

「もしや、例のヌシのことを気の毒にでも思っているのかい?」

「……うん、そうだね」

 

 言った本人としては冗談のようなつもりだったのだろう。素直に頷いたトワに少し目を見開いた。

 

「おいおい、お前のお人好しは魔獣にまで発揮されるのかよ。そんなことまで気にしていたら身が持たねえぞ」

 

 心の底から呆れた声を漏らすクロウ。だが、それは正しい反応とも言える。

 魔獣は人々に危害を与える存在。だから人は手に武器を持ち、それらを退けることで自らの安寧を確保する。その倒すべき敵に対してまで、どうして情けを掛けようというのか。普通の感性を持った人物であればそう言うだろう。

 トワもその理屈を理解していない訳ではない。ただ同時に、それでもと言ってしまうのが彼女の感性であった。

 

「倒さなくちゃいけない状況なら、ちゃんと倒すよ。あのヌシも、町に被害を出さないために倒さなくちゃいけなかった。だから倒したことを後悔している訳じゃないんだ」

「じゃあ何を……」

「でも、あのヌシだってこの世界に生きていた一つの命には変わらないと思うの」

 

 口を挟みかけたジョルジュはその言葉に二言を封じられる。口調にも、語る彼女の瞳にも冗談の色は無かった。

 魔獣は確かに人を襲う。その理由が何であれ、人は時に戦わざるを得ないこともあるだろう。

 だが、それは魔獣も同じことなのだ。ある時は人間の都合で自然が脅かされることがあるように、魔獣にも魔獣の都合がある。七耀石に惹かれる本能に従ってのものなのか、縄張りへの侵入者を撃退しようとしてのものなのか……ただ生きるために、がむしゃらに突き進んだ結果なのか。

 いずれにせよ人間からしたら迷惑にしか感じないだろうが、魔獣もいたずらに人間を襲っている訳ではない。彼らの摂理に従い、この世界で生きてきた結果として命を奪い、奪われる。ただ、それだけなのだ。

 窓の向こう、陽の沈み始めた外を見る。自分が命を奪った魔獣が斃れているだろう方へ思いを馳せるように。

 

「生きるために戦った。それは私たちも、あのヌシも変わらない。それが自然なことによる結果なら仕方ないけど、もし何かのせいで起きてしまった出来事なら悲しいなって……」

 

 ヌシが魔獣同士の争いに敗れて縄張りを捨ててきたというのなら、それは弱肉強食という自然の摂理に従ったものだ。仕方ないと割り切る事も出来る。

 だが、仮にヌシが誰かの人為的行為によって追いやられたというのなら、それは不幸な出来事というしかない。平穏であったはずの日々を奪われ、あまつさえ命を失うことになったのだから。もしもの話でしかないが、有り得ない話でもない。トワはそれが悲しかった。

 

「ふむ……言っていることは分からなくもないが」

「ぶっちゃけ気にし過ぎだと思うぜ。魔獣の一匹二匹のことで気に病んでいたら切りがねえ」

「く、クロウ。もう少し取り合ってあげても……」

「ううん。いいの、ジョルジュ君。自分でも変わっているとは思うから」

 

 フォローしようとするジョルジュを言葉で押し留める。トワ自身、この死生観とでも言うべきものに共感してもらえるとは思っていなかった。

 

「人と魔獣も変わらぬ、か……ある意味でそれは人同士の間でも言えるのかもしれんな」

「え?」

 

 だが、歳を重ねた老人は一概に世迷言とも思わなかったらしい。思わぬ反応にトワの口から間の抜けた声が出る。

 

「領邦軍や貴族との付き合いがあると時に思うのだよ。彼らが本当に同じ人間なのかと。増税の話然り、あまりに勝手な都合を振りかざされてしまわれるとね」

「それは……」

「ああ、別に貴族制度のことを否定している訳でもないのだよ。貴族があってこそ今の帝国があることも確かだ」

 

 愚痴を零すように貴族に思うところがある様子を見せる元締めに、本人も思うところがあって故か反応を示すアンゼリカ。元締め自身は体制批判をしたい訳ではないと言葉を加えたが。

 

「ただ今のトワ君の話を聞いていて、ワシたち商人と貴族の都合もまた違うのだろうと思ってな。話が上手くいかぬも当然だと納得したのだよ。こちらの道理で説得しようにも、向こうには向こうの道理があるのだから」

 

 商人にとって税とは商売の第一目的である利益に多大な影響を与えるもの。その影響を可能な限り少なくし、より多くの利益を上げたいと思うのが自然な考えだ。

 対して貴族にとって税とは収入源だ。領地運営において切っても切り捨てられない重要な要素であり、その寡多は領地の財政に直結する。多くの貴族は自身の地位を高め、家門の隆盛を築くことを目的としているのであって、そのためには財力が必要となる場面も多々ある。そのために税を引き上げる、という選択は彼らにとって当然のものなのかもしれない。

 商人には商人の理屈が、貴族には貴族の理屈がある。片方にそれを押し付けようとすればもう片方が反発するのは当然のことであり、結果として権力で押さえつけられてしまうことが多いから不和が生まれ不満が積み重なる。商人と貴族に限らず、どのような場合にも言えることだろう。

 生まれ、立場、考え方、その違いだけで人は衝突してしまう。お互いの都合に従い行動した結果、相手の都合が邪魔になるのだから。それは先の魔獣の話と何も変わらないのではないか、元締めはそう言った。

 

「……言っていることは分かります。でも、それでも人間同士が争うことしか出来ないとは思いたくないです」

「無論だとも。ワシたちは獣には無い理性と言葉を持つ。分かりあえる手段があるのにそれを使わないのは愚かで、それこそ悲しいことだ」

 

 理解は出来ても納得は出来ないトワ。その言葉に元締めも頷く。

 今の話は一定の事実であるが、同時に極論でもある。全てがその通りであるとしたら人の社会は成り立っていない。人は争うだけでなく、分かり合うことも出来るからこそ今の世界がある。

 

「だがよ、実際に増税があったら商人は有無も言えずに受け入れるしかねえんだろ? 文句を言おうにも貴族が耳を貸すとは思えねえ。結局、分かり合うなんて夢物語みてえなもんじゃねえか」

 

 しかし、現実問題として商人と貴族には隔たりがある。それを遠慮もなく指摘するクロウは、どこか冷たい部分が顔を覗かしていた。その瞳に浮かぶ色は諦観だろうか。

 そんな彼から元締めは顔を逸らさない。彼の言うことが事実だとしても、それでも真っ直ぐと向き合い続ける。

 

「確かに分かり合う道は険しく、遠い。時には諦めたくなる時もあろう。だが、それでは何も良くはならぬと思うのだ。言葉を交わし続けた結果が分かり合うには及ばぬ折り合いや妥協であるとしても、ワシは少しでも良い方向に持っていきたい――それが、このケルディックの元締めの役目であろうからな」

 

 微笑みをたたえ、元締めはそう言い切った。言い返された側は「参ったね、こりゃ」と諸手を挙げる。

 

「君たちはまだ若い。たとえ困難にぶつかろうとも、諦めずに立ち向かってみるといい。年寄りからのささやかなアドバイスだ」

「ご助言、感謝します。必ずや胸に留めておきましょう」

「はは、そこまで大層なものでもないのだがね。それに帰りがけに説教臭い話にしてしまった」

「そんなことないです。お話して下さって、ありがとうございました」

 

 元締めは謙遜するが、トワはそれでも感謝した。一つの町を束ねる人生の先立ちが語る諦めないことの大切さ、それがとても価値のある言葉であるように彼女には思えた。

 もう少し話していたい気持ちもあるが、鉄道の時間も迫ってきている。そろそろお暇するべきだろう。トワは再度頭を下げた。

 

「改めて、今回はありがとうございました。おかげさまでとても有意義な実習にすることが出来ました」

「いやいや、お世話になったのはこちらも同じだ。ポール氏の件に続いて強大な魔獣まで。正直、実習の監督を引き受けたていどでは釣り合いが取れんよ」

「はは……そこまで言われると面映ゆいところがありますけど」

 

 赤らんだ頬を掻くジョルジュに元締めは「当然の礼だとも」と続ける。

 

「君たちには感謝してもしきれん。今度は学業も抜きで遊びに来てくれたまえ。その時は是非ともおもてなしさせてもらおう」

 

 満面の笑顔と共に、元締めは最大限の感謝を伝えてくれた。それを見たからこそトワは思う。

 ――自分たちがやったことは間違いではなかった。

 問題が立て続けに起きて、無茶もたくさんした初めての試験実習。だがそれでも、自分たちの行いは誰かのためになることが出来た。その確信を持ってトワたちは帰途に着くのだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 夕日に照らされるケルディックを発ち、学院へと帰るべく一路トリスタへ。鉄道に乗ってからしばらくして、既に日は沈んで夜空に星が輝き始めていた。鉄路を進む揺れが、実習で疲れた身体にはどこか心地よく感じられた。

 夜ともなれば乗客もまばらであり、見渡してみても空いている席が目立つ。その中でもトワたちは更に人気の無い車両をわざわざ選んで乗っていた。理由は言わずもがな、である。

 えーと、とトワが遠慮がちに話を切り出す。他の三人からの注視にやや冷や汗が浮かんでいた。

 

「まずは実習お疲れ様。色々あったけど、ひとまずは無事に終わって良かったね」

「終わった気になるのはまだ早いかもしれないけどね。帰ったら帰ったでサラ教官への報告とかレポート提出とかもあるだろうし」

「帰るまでが遠足ならぬ実習ってか? 面倒だな、まったく」

 

 ぼやくクロウだったが、その気怠さは一瞬のこと。「まあ、んなことはどうでもいい」と続ける表情は真剣なそれだった。

 

「そろそろあの妖精のこと、話してもらうぜ。そのためにこんな人気の無いところをわざわざ選んで座っているんだからよ」

「君が落ち着くまで待ってというからその場では我慢したが、流石の私もこれ以上お預けを喰らうのは勘弁なのでね。気になって仕方がない」

 

 アンゼリカも口調はいつもの通りながら、そこに飄々とした雰囲気や余裕といったものは感じられない。特に口にすることは無くとも、目線で話を促すジョルジュもそれは同じだ。

 三人の様子はおかしいものではない。むしろ当然だろう。誰だって突然、自分の常識外の存在が目の前に現れたら困惑し、その正体を突き止めようとするだろう。それが仲間と密接な関係にあるとなれば尚更だ。

 トワは観念して大きく溜息を吐く。そして何も無い筈の虚空に声を掛けた。

 

「ノイ、もう出てきていいよ」

「……やれやれ、ばれるにしても先のことだと思っていたのに」

 

 アーツを解除し、虚空から妖精――ノイが姿を現わす。唐突に出現した身の丈30リジュほどの存在にジョルジュが「うわっ」と肩を揺らす。

 さて、どこから話したものか。ノイのぼやきを聞き流すよう努めながら、やや警戒する三人を前にトワは考える。

 

「初めまして。私はノイ・ステラディア。この子の……姉貴分兼お目付け役みたいなものなの。よろしくお願いするの、人間さんたち」

「は、はあ……こちらこそ、どうぞよろしく」

「……ふふ、こんな可愛らしい子によろしくお願いされたら応じずにはいられないね。よろしく頼むよ」

「姉貴分兼お目付け役ねぇ……まあ、よろしくお願いされとくけどよ」

 

 が、考えがまとまる前にノイは勝手に喋りだす。出だしを慎重にしようとしていたトワは、普通に自己紹介を始められて思わずガクッとなる。

 確かに自己紹介は大切だが、もっとこう、それらしい滑り出し方というのがあるのではないか。そんな風に思わないでもなかったが時すでに遅し。仕切り直すように咳払いを一つして話に加わる。

 

「ノイには私が生まれた時からお世話になっているの。だから姉貴分っていうわけ」

「なるほど。ちなみに、昨日の隠し事もその小さな姉君に関することだったのかな?」

「ああ、あれはノイがお腹が減ったっていうから――」

「んんっ! それはともかく」

 

 今度はノイの方から咳払いの音。言葉を中断させられたトワは仕方ないなぁ、と肩を竦める。どうやら初っ端から姉貴分の威厳を崩したくはないらしい。無駄な努力ではないかとも思うのだが。

 

「姿を現わすことになったからには仕方がないの。色々疑問があるだろうし、質問があれば聞いてあげる。答えられる範囲で答えてあげるの」

 

 聞きたいことがあれば答えるという受け身の姿勢を示し、ノイは自身のサイズに丁度いい窓縁に腰かける。トワもその方針に異は無かった。

 正直、自分たちは話していないことが多すぎる。それらを上手く纏めて説明できる自信は無いし、同時に全て(・・)を話すことが出来ない事情もある。ならば三人の方から気になることを聞いてもらって、それに答える方がこちらとしてもやりやすい。

 そうした事情もあっての提案なのだが、示された側は何を聞くべきか迷ってしまうだろう。何より、想像の埒外の存在が現れたことによる戸惑いは大きい。ジョルジュは未だ浮足立った様子であり、アンゼリカも表面上は落ち着いているが、内心は困惑と好奇心が入り乱れているように窺える。

 

「じゃあ聞くけどよ」

 

 しかし、ただ一人、冷静さを保ったままでいたクロウが口を開く。その鋭利な視線は、ノイという存在を見極めようとしているようだった。

 

「お前とトワの関係は分かったが、肝心のお前自身は何者なんだ? ノイさんとやらよ」

「あはは……まあ、そこは当然疑問に思うよね」

「こっちとしちゃ、いきなり妖精なんていうおとぎ話じみた奴が出てきて頭が痛いんだ。茶化すんじゃねえぞ」

「もちろん、そんなことはするつもりないの」

 

 まずは目の前の存在がどういうものか知ろうとしてか、ノイの素性を尋ねてくる。基本的で、だが重要な問いだ。自然、アンゼリカとジョルジュも耳を傾ける。

 そんな彼らに対して、トワは早速答えあぐねてしまった。

 

「ええっと、ノイは《テラ》を管理する《星の観測者(アストロラーベ)》の《神像》で……って言っても分からないよね」

「トワ、ここは《残され島》のことから話した方がいいの。あと、そこまで詳しく話していたら切りがないから」

 

 途端に三つも意味の分からない用語が出てきたことで疑問符を浮かべる面々にトワは苦笑い。ノイの助言に従って順を追って話すことにする。

 

「じゃあ、まずは私の故郷のことから話させてもらうね。残され島っていうんだけど、知っているかな?」

「僕は聞いたことないけど……」

「ふむ、そういう名前の島があると聞いたことがあるようなないような」

「……かなり昔に聞いた覚えがあるが、よく知らねえな。遺跡が落ちてくるとかどうとかいう話をされたと思うが」

 

 他の二人が芳しい反応を示さない中、幼少の頃の記憶を引っ張り出してきたのか断片的ではあるが、確かに自分の故郷のことを知っていたクロウに「わっ」とトワは喜びの声を漏らす。

 

「クロウ君、よく知っているね。凄く辺境だから本土の人なんて滅多に知らないのに」

「くっ……チャランポランにまた良いところを取られるとは」

「んだと、このスケコマシ」

「ちょ、ちょっと待った」

 

 いかにも演技臭い悔しそうな様子を見せるアンゼリカにクロウが反応したところで待ったの言葉が入る。先ほどから気持ちが落ち着かないのか、どこか疲れた様子のジョルジュである。

 彼が何を思って話を止めたのかは明白だ。クロウの断片的な情報に口を挟まずにいられないものが含まれており、それをトワが否定しなかったからだ。

 

「遺跡が落ちてくるだって? 本当にそんなことが起きるのかい?」

「本当なの。正確に言えば、そういう現象が起きていた、だけどね。今は昔ながらの呑気な島なの」

「まあ、そういうところも含めて説明するから、もう少しリラックスして聞いてくれると嬉しいな」

 

 解答者二人の答えを聞いて、ジョルジュは大きく息を吐いて座席に深く身を沈めた。もう気を張り詰めているのも馬鹿らしくなったのだろう。

 この中では常識人な友達に心労を掛けることを申し訳なく思いつつ、トワは改めて説明することにした。

 

「残され島はサザーランド州南西端の港町、サンセリーゼから1760セルジュ先、シエンシア海に浮かぶ群島の一つだよ。帝国領の最南西端にあたるね。漁業と農業が主産業の、辺鄙だけど温かで長閑な島。それが私の故郷」

「さっきクロウが言った通り、遺跡が落ちてくる異常現象で学者さんとかには有名な場所でもあったの。もっとも、三十年前までの話だけどね」

 

 三十年前。そのキーワードに察しがついたのだろう。聞き手の反応は顕著であった。

 

「もしや、農家のご老人が話していた流星の異変とやらに関係が?」

「うん。詳しい話は省くけど、あの異変で現れた構造物の名前はテラっていってね。残され島に落ちてくる遺跡はそれの一部が経年劣化して崩れたものだったんだ。だから遺跡の落下現象は厳密に言うと二十九年前を最後に起きなくなったって訳」

「なるほどな。道理で異変に詳しかった訳だ……その最後の落下現象っていうのは何だったんだよ?」

「異変の一年後、再接近したテラ自体が残され島の近海に墜ちたの。大本が墜ちてきちゃったんだから、その後に落下現象が起きなくて当然なの」

「はあ、その構造物自体が……え?」

 

 ノイのさらりとした答えを反芻したジョルジュの顎が落ちる。自分の口で繰り返してみて、その事実がどれだけ途轍もないことか理解したのだ。クロウとアンゼリカもこればかりは度肝を抜かれたような表情を浮かべる。

 サイロ老人は巨大な構造物――テラが宙に浮かんでいたと言っていた。月より近いとはいえ、遥か上空に位置するものがはっきりと目に見えたのだ。並の大きさとは思えない。

 段々と想像の及ばないスケールの話になってきたことを感じながら、ジョルジュは恐る恐る尋ねた。

 

「ち、ちなみに、それはどれくらいの大きさなんだい?」

「えっと、面積だけで言うなら《オルタヴィア》と《リズヴェルド》、《ハインメル》に《ラ・ウォルグ》を全部合わせて……だいたい小国一つか二つ分くらいかな」

 

 小国の一つか二つ分、少なくともリベール王国の国土面積と同程度の大きさの物体。あまりにスケール違いの話に聞いている側は頭が痛くなってきているようだった。

 

「そんな大きさだから落下制御するのも大変だったんだから。私としては二度とやりたくないの」

 

 そんなところに立て続けてノイの聞き捨てならないぼやきが入るものだから、彼らには心休まる暇もない。もはや驚く気力も無いといった様子でクロウが億劫そうに口を開く。

 

「んだよ、その落下制御っていうのは……結局、お前は何なんだ?」

「私はテラを管理する《星の観測者(アストロラーベ)》の神像、要するにテラの管理者の一人なの。生まれはだいたい1200年前で君たちよりずっと年上なんだから」

「まあ、七耀教会からの扱いに従って言うなら人格を持った古代遺物(アーティファクト)の一種になるね。本人は不服みたいだけど」

 

 無駄に年上アピールをする姉貴分に苦笑しつつの補足に、当の本人は「当たり前なの」と文句を零す。

 作り手と家族同然に過ごしてきた彼女のことだ。今更になって道具扱いされるのは不愉快なのだろう。まして、それが教会という自身のことを与り知っている訳でもない組織からのレッテル貼りであるのだから尚更だ。

 とはいえ、そんな事情まで目の前の三人に理解出来る筈もない。一先ずは今の話を何とか呑み込んだアンゼリカが、大きく息を吐きながら切り出した。

 

「……つまり、君はそのテラとかいう巨大な遺跡の管理者で、三十年前の異変の当事者でもあった訳だ。トワがそこら辺の事情に詳しいのも、その影響ということと」

「ま、大体そんな感じなの」

 

 アンゼリカからの確認にノイは頷く。彼女自身が何者であるかということ、そして何故トワが異変について詳しかったかについては、これで最低限知ることが出来ただろう。

 だが、同時にこれが教えることの出来る限界でもあった。ノイが「じゃあ、そういうことで」と幕引きに掛かる。

 

「今の私たちから教えられるのはそれくらいなの。質問はこれでおしまい」

「はあ? おいおい、そりゃねえだろ。どうしてそんな御大層な奴がトワのお目付け役なんかやっているのかとか、まだ話すことは山ほどあるだろうが」

「こっちにだって話せない事情っていうものがあるの。トワが言っていたでしょ。どうして異変の詳細が世間には知られていないのかって」

「確か、社会に混乱を招きかねないとか……あっ」

 

 思い出した言葉からジョルジュはノイが言う事情を理解したようだ。その考えをトワは一つ頷いて肯定する。

 

「無用な混乱を避けるために、残され島の人々はこのことを無闇に触れ回ることを禁じられているんだ。七耀教会との盟約によってね」

「七耀教会……噂に聞く、女神の秘蹟を管理するという封聖省とやらが関わっているのかな?」

 

 アンゼリカの踏み込んだ問いに「ノーコメントで」と返す。だが、それは事実上の肯定でもあった。

 封聖省とは典礼省、僧兵省と並ぶ七耀教会の一部門であり、主に古代遺物に関わる案件を扱う部署である。七耀教会では力を持ったままの古代遺物を「女神からの早過ぎた贈り物」としており、安全のための保管などといった名目で回収を進めている。その実行部隊が封聖省という訳だ。更に言うならば、内部に星杯騎士団というものを擁しているのだが、それは今語るべきことではないだろう。

 ともあれ、テラも規格外の存在とはいえ古代遺物には違いない。事態の収拾を図るために、過去に残され島へ教会関係者が訪れていた。その時に交わされた盟約により、島の人々は外部の人間に真実を伝えることを禁じられたのである。

 

「私としては従う義理なんかないと思っているんだけど、別に騒ぎにしたいと思っている訳でもないからね。一応は約束を守っているの」

 

 不承不承という様子を見せながらもノイは言う。

 教会に管理されるような謂れは無い。だが、彼女とその主たちはこの時代に生きることを決めた。ならば混乱を招かぬためにも、多少の制約は甘受しなければ。そうした事情があってのこととトワは教え聞かされていた。

 ともかく、その盟約により詳しい話をすることは禁じられている。ノイのことが露見したから最低限のことは教えたが、これ以上の説明は憚られた。

 

「うーん……気になるところではあるけれど、教会が関係しているなら仕方がないか」

「ごめんね。ちゃんと話せたらよかったんだけど」

「まあ、そういう決まりなら仕方ねえ。お前がぽろっと漏らすのをじっくり待つとするさ」

「あはは、あんまり期待しないで欲しいな」

 

 強かな姿勢を見せるクロウに苦笑する。実際、口八丁で聞き出してきそうなのが怖いところではある。ただ、それ以上にトワは申し訳なさを感じていた。盟約という、それらしい理由を隠れ蓑にしていることを。

 

「……本当に、ごめんね」

 

 その小さな呟きを、誰か聞き届けることが出来ただろうか。次の瞬間、ノイの声によってそれは有耶無耶にされた。

 

「じゃあ私の話は一段落したところで、今度はこっちから言わせてもらうの」

「え? 何かあったかな?」

 

 突然の姉貴分の宣言に、トワは何のことか分からずに愚直に問うてしまう。直後向けられた白い目線から地雷を踏んだことを察知するも、言ってしまったものは口の中には戻ってこない。

 

「あのねえ、あの元締めさんだって散々心配していたのに、私が何も言わないとでも思っているの? 戦うのは仕方がなかったにしても、あそこで無理に足止めしなくても後退しながら助けを待つことも出来たの。不完全な連携で危なっかしかったし、下手したら大怪我していたの。それでも何もなかったって言うの?」

「あ、あう……すみません」

 

 反論を許さぬ様子で説教をしてくるノイにトワは身を縮めるしかない。お小言は後でいいから、と言ったのが今になって現実となった形であった。

 その様を見て、他の面々は苦笑混じりながらも微笑ましい表情となる。この実習でトワのしっかり者な一面を垣間見ることになったが、こうして叱られてしょぼくれる姿があることも知って親しみを感じたからだろう。

 ただ、それだけでは収まらず悪戯心が湧いたのだろうか。クロウがからかうように笑った。

 

「はは、お人好しで良い子のトワも姉貴分には敵わねえか。こりゃいいこと知ったぜ」

「……何を他人事みたいに言っているの」

 

 が、小さい体から威圧感のある声を出したノイに「は?」と笑みが固まる。お説教のターゲットが移った瞬間であった。

 

「クロウこそ自分がどうなりそうだったか分かっているの? 私がいなかったらヌシに撥ね飛ばされていたの。突っ立っているままだったら攻撃に巻き込みかねなかったし、もう少し身の安全を考えるべきなの!」

「い、いやまあ分かっちゃいるが、結果的には土壇場で戦術リンクが繋がったおかげで巻き込まれずに済んだわけだし……なぁ?」

「あっ、そういえば、その時だけ繋ぐことが出来たみたいだったね」

 

 言い訳がましく戦術リンクのおかげで咄嗟に屈むことが出来た話をするクロウ。同意を求めるようにトワの方を向けば、彼女は彼女で今更になってそのことを思い出していた。それだけヌシの相手に集中していたということだが、自分たちの本来の役目の一端が果たされたにも関わらず淡白なことである。

 しかしながら、その話は言い訳になるどころか更なる火種を生み出すことにしかならなかった。

 

「ほう、昨日はあれだけ捻くれたことを言っていた男が、一瞬とはいえよく戦術リンクを結べたものだね。方針転換とか何とか言っていたが、素直に絆されたと認めた方がいいんじゃないかい?」

「うるせえっ! んなこと誰が認めるかっつうの! あれは偶々だ、偶々!」

 

 ニヤニヤと嗜虐心が滲み出る笑みを浮かべたアンゼリカに反駁するクロウ。自分がそんな安っぽい男と思われるのが嫌なのか、随分と必死な様子で偶々と強調する。その必死さが、傍から見れば余計に絆されたことに真実味を与えていると彼は分かっているのだろうか。

 いや、分かっているのだろう。分かっていて、敢えてそうしている。道化の仮面を被り、わざと滑稽に振舞っているのだろう。その冷たい本質を奥に隠して。

 

「偶々って偶然に助けられたってことじゃない! やっぱりクロウにはお説教が必要なの!」

「お断りだ! 第一、お前はトワのお目付け役なんだろうが。俺に構ってんじゃねえ!」

「どっちかというとクロウの行動の方が目に余るの。ばれたからには遠慮なく言わせてもらうんだからっ!」

 

 それでもいい。言葉尻を取られてノイと喧々諤々に言い合う彼を見て、トワはそう思う。

 冷たいクロウが本当の彼だったとしても、お調子者の彼が周りに合わせた偽りの姿であっても、彼が本当に楽しいと思えるのであれば、それでいい。その気持ちさえ本物であるならば、この光景は自分たちにとって嘘にはならない筈だから。

 

「あはは、二人とも程々にね」

「いや、一応は他の車両にお客さんが居る訳だし止めた方がいいんじゃ……?」

 

 何より、わざわざ雰囲気を悪くするより楽しい方がずっと良いに決まっている。相変わらずクロウとアンゼリカは仲が悪いし、ノイが加わったことで色々と変化もありそうだけど、それでも行きの列車よりは遥かに良い。

 お小言に怒鳴り声、笑い声や遠慮がちな制止の声を車内に響かせながら列車は走る。線路は地平の先まで続き、その行く先はまだまだ長そうだった。

 




【残され島】
主人公ナユタが暮らす島。サンセリーゼという港町から1760セルジュ先、シエンシア海に浮かぶ群島の一つ。漁業や農業といった一次産業が主だった生活の糧である模様。付近では遺跡が落下してくるという不可思議な現象が起きる。

【テラ】
那由多の軌跡における冒険の舞台。上層は四つの区画に分かれており、更にその下に中層、下層が存在する。二つの月の一つとして長きに渡って地上の遥か上空に存在していた。
拙作では大きさを小国一、二個分としているが正確には不明。原作では宇宙の彼方に旅立っていったが、改変して最終的に残され島近くに落着したことにしている。


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第14話 貴族とイカサマと仕送りと

就活の合間にダラダラと書いていたら長くなったので分割して前半部分を投稿。残りを投稿する頃には就職先を決めておきたいな……


 五月中旬。トリスタではライノが花を散らし、新緑が街を彩っていた。

 入学から一月経ち、トールズの一年生たちもようやくこの士官学院での日々に慣れてきていた。そしてそれは同時に、各種授業が本格化することを意味する。

 軍人以外にも優秀な人材を多数輩出してきたトールズの学業レベルは相当に高い。名門の名に違わない人物に育てるべく、日曜学校とは一味も二味も違う授業を課される生徒たちは四苦八苦する毎日を送っていた。

 四月の試験実習を無事に終了し、一先ずは普段の学院生活に戻ったトワたちもそれは変わりない。一応は首席入学者のトワも、軍事学のナイトハルト教官から「優秀だが思考形態が遊撃士のそれ」と微妙な表情で注意されたりしている。導力学などの理系に造詣が深いジョルジュは逆に文系を苦手としており、クロウやアンゼリカに至ってはサボタージュの常習犯として名を上げつつあるという。

 だが、それに苦労することはあっても頭を悩ませている訳ではない。士官学院である以上、軍規を重んじる教官の言葉は理解できるものであるし、ジョルジュも苦手だからと言って努力を惜しむタイプではない。サボり気味の二人も何だかんだ単位を落とさない程度には上手くやっているようだ。

 むしろトワにとって、頭を悩ませている事は別にあった。

 

「うーん……またかぁ」

「どうした、ハーシェル。いつもは依頼を喜んでこなす仕事中毒(ワーカホリック)の君が浮かない顔とは珍しい」

 

 夕方の生徒会室。他のメンバーは既に業務を終わらせて寮に戻り、未処理の依頼整理をしているトワと諸般の事務作業を進める会長だけが残るそこに、思わず出した唸り声が響く。

 普段の鉄面皮のままで皮肉を交えて問うてきた会長に苦笑いを零す。生徒会に所属して一月ばかり経ったが、こういう彼の物言いは悪気も何もない素のものだと理解していたからだ。それに否定できない事実でもある。

 

「いえ、ちょっと最近の生徒会への要望に偏りがあるみたいで」

 

 あまり深刻に見えないように、少しだけ困ったような笑みを浮かべながら答える。悩んでいること自体はぼかした。会長の身分の事を考えると、やや相談しづらい内容だったから。

 

「なるほど。そろそろ、そういう時期か」

「え?」

「大方、貴族生徒あたりからの愚にもつかない文句だろう。違うか?」

 

 違うか、と言いつつも明らかに確信を持っている様子の会長。その鋭さに脱帽する。トワが抱えていた依頼書の内容はまさにそれだった。

 自分のぼかした発言など無かったかのように言い当てた彼に「よく分かりましたね」と頬を掻く。対する慧眼の持ち主は「余計な気遣いは無用だ」とのたまう。心中さえも正確に見抜かれてトワは乾いた笑い声を出すしかなかった。

 ともあれ、気遣いは必要ないと言われてしまっては相談しない訳にはいかないだろう。気を取り直して依頼の束を広げる。

 

「貴族生徒の人……特に一年生から色々と要望が出ているんですけど、それがこちらとしては応じられないものも多くて。どうしたらいいかなって考えていたんです」

 

 例えば、部費の増額や新たな部を作りたいといった部活関連の要望。これが一番多い。

 既に今年度の予算は昨年度の生徒会で決まっているのだが、それでもあれが足りないこれが足りないと要求してくる。しかも、部長名義ではなく単なる部員である筈の一年生の名で、である。部内で決まった正当な要求かも怪しい。

 対して新たな部を作りたいという要望は、それ自体は積極性があっていいと思う。しかし、問題はその中身である。依頼書に書かれている新たな部の活動内容は些か首を傾げてしまうものであり、学院側に掛け合っても承認されるとは思い辛い。正直、もう少しマシな部活は思いつかなかったのかという感想を抱くくらいだ。

 

「流石に自分のファンクラブを作りたいっていうのは無理がありますし……」

 

 このヴィンセント・フロラルドという男子の頭はどうなっているのか。さしものトワも引き攣った笑みしか浮かばない。

 他にも学生会館三階の貴族生徒専用のサロンを拡充して欲しい等々。どう考えても予算が足りるとは思えない要望が片手では収まらないくらいに来ているのだ。これらをどうしたものか、というのが今のトワの悩みであった。

 

「そういうのを言ってくるのは大抵、領地で好き勝手やっていた頃の甘ちゃん気分が抜け切っていない輩だ。士官学院で過ごす以上、規則は尊重せねばならんというのに、毎年の如く現れる」

「やっぱり無理な頼みですよね」

「ああ、無理だ」

 

 そんな悩みの種を会長はバッサリと切り捨てる。表情は変わらずとも、その皮肉は痛烈である。

 

「しかし、放っておいたら騒ぎ始めて五月蠅くて敵わん。明日の内に対処せねばな」

「対処って……普通にお断りするだけじゃ駄目なんですか?」

 

 生徒会にくる依頼は可能な限り受諾するようにはしているが、時には依頼内容に問題があったり、一生徒の手に余ることがあるので断ることもある。そうした際は依頼人に受諾できない旨を連絡するようにしている。

 それと今回も同じなのではないかとトワは思っていたのだが、会長の口振りからは少しばかり物々しい雰囲気が伝わってくる。普通とは何か違うのだろうか、と首を傾げてしまう。

 いまいちピンと来ていない彼女を見て、会長は「ふむ」と何かしら考えているような声を漏らす。一拍おいて彼は逆に問い掛けてきた。

 

「君は離島の出身だったな。貴族と関わることは少なかったのか?」

「え? そ、そうですね。島に隠居されているご夫妻以外には、観光客の人を何度か見かけたくらいで」

「ご隠居……そうか、先代のビクター男爵は離島に別荘を拵えて移り住んだと聞いていたが、君の故郷だったか」

 

 納得したように頷く会長であったが、そんな彼にトワとしては驚かされていた。まさかご隠居と言っただけで先代ビクター男爵のことと分かるとは。どうやら彼は貴族社会の情報に随分と明るいらしい。

 トワの驚きなど知る由もなく会長は「まあ、あの方は例外だろう」と続ける。何の例外なのかはさっぱり分からないが。

 

「ハーシェル。明日の自由行動日、君にはそれらの依頼人への対応に回ってもらう」

 

 そして唐突に告げられた明日の活動予定の意味も、また分からなかった。

 

「通常の業務や依頼は他の者に任せて構わん。それらの依頼を後腐れなく片付けてくるように」

「えっ、ちょ、ちょっと待ってください。片付けてくるようにって、要するに依頼をお断りするということですよね? どうして明日一日かけてまで……」

「甘ちゃんに道理を弁えさせるのは中々苦労するということだ。何、君ならばやって出来ない事もあるまい」

 

 わざわざ断って回るのに一日使う意図が掴めず、やや狼狽しながら説明を求めるトワ。それに対する返答は実に簡潔で、それでいて抽象的なもの。会長はこういうところで明確な答えを示してくれない性質だった。

 曖昧な答えにトワが疑問符を浮かべている間に、会長は音も無く立ち上がると荷物を纏めていく。話している最中も作業の手を止めていなかった彼の本日の業務は既に終了していた。実に器用である。

 ソファでうんうんと頭を悩ませるトワの横を通り過ぎる。会長が帰寮の途につこうとしている事に彼女はようやく気付いた。

 

「明日の健闘を祈る。君に女神の加護があらんことを」

「あっ、かいちょ……!」

 

 バタンと扉が閉められ、白の制服の背中を隠す。追いかけることも出来ず、トワは遠ざかっていく革靴の足音をただ聞き届けるしかなかった。

 改めて依頼書に目を落とす。そこに記されているのは到底応えられるとは思えない無茶ばかり。会長の言葉からして、断るにも何かしらの面倒があるに違いない。

 

「……どうしよ」

『どうしようもないの』

 

 悄然とした呟きへの返答はにべもない。姉代わりの言葉にトワはがっくりと肩を落とした。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「それは君、会長殿からの愛の鞭という奴だろうさ」

「あ、愛の鞭?」

 

 日も暮れて空に星が瞬くトリスタの街。士官学院へと続く坂道を下る最中、隣に並んで歩く友達が発した素っ頓狂な言葉にトワはオウム返しになってしまった。

 

『ちょっと、あまり変なことを吹き込まないで欲しいの』

「言葉の綾さ。他意はないし、そもそもあの堅物会長に似合わない言葉だとは百も承知だとも」

 

 言った本人、アンゼリカといえば、過保護な事に文句をつけてくるノイに楽しげに笑うのみ。変な言い回しをしてくるのはたまに困るが、これもまた彼女の魅力なのだろうとトワは苦笑いを浮かべる。姿なき妖精から溜息が零れる音が聞こえた。

 兎にも角にも依頼の整理を終え、しっかりと戸締りをした上で生徒会室を辞したトワは、わざわざ学院内で時間を潰して待っていたというアンゼリカと共に帰路についていた。こんな遅くまで待っていなくてもいいのに、と言いはしたが、相手から「待っていたくて待っていただけさ」と返されては仕方がない。談話に興じつつ三人は寮への帰り道を歩いていた。

 そこで、ふと会長から任された貴族生徒からの要望の件を口にして、返って来た言葉が素っ頓狂なそれである。アンゼリカは「言い方は別にして」と続ける。

 

「まあ、語意に関してはそう的外れでもないと思うがね。会長殿は故郷で貴族と関わりがあったか聞いてきたのだろう?」

 

 問い掛けに若干戸惑いを覚えながらもトワは頷く。どうやら冗談だけで言った訳ではないらしい。

 

「つまりはトワに貴族との関わり方を学んで欲しいのだろう。私が言うのもなんだが、貴族生徒の中には横柄な輩がいるのも確かだしね。そういった連中の相手をして経験を積めということさ」

「うーん……理屈は分かるけど、そんなに大袈裟なことなのかな? ちゃんと説明すれば分かってくれるんじゃ……」

 

 アンゼリカなりの解釈による会長がこの件を一任してきた理由は分かったが、どうにも納得できずに小首を傾げてしまう。いくら貴族でもそこまで話が分からない相手とはトワには思えなかった。

 しかし、アンゼリカはやれやれと言うかのように肩を竦める。その表情は呆れと好ましさが入り混じり何とも表現し難い。

 

「君が思っているよりも傲慢な人間というのは多いものだ。特に、領地でぬくぬくと育ってきた貴族の子息子女にはね」

 

 彼女の言うところによると、貴族の子息子女の中には理屈だけでは話が通じない相手もいるようだ。それこそ、全てが自分の都合通りに動くとでも思っているかのような勝手な人もいるらしい。親が治める領地で好き勝手してきた感覚が抜けないがために、そのようなことになっているのだろうと。

 無論、全ての貴族生徒がそうと言う訳ではない。理路整然とした人物もいれば、身分に拘らず気さくな人物もいるだろう。会長や目の前のアンゼリカのように。

 ただ、自分勝手で人の話を聞かない相手も確かにいるのだと、アンゼリカは言う。基本的に人の事を悪く考えないトワに対して、そういう自分本位な輩もいるのだと教え込むように。

 

「まあ誤解が無いように言っておくと、勝手な連中も決して無能と言う訳ではないということだ。伊達に生まれが良いわけでもなし、それ相応の教養はあるだろう。それを活かすための人格が成熟していないだけでね」

『ふーん……ところで他人事みたいに言っているけど、アンゼリカ自身はどうなの? 色々勝手をしているのは変わらないの』

「心外だな。私は自分に素直に生きているだけさ」

 

 ノイの疑問にアンゼリカは何も恥じるところは無いとばかりに胸を張って答える。それのどこが他の人と違うのかは今一つ理解が及ばなかったが、彼女が周りに迷惑を掛けたという話を聞いたことがある訳でもなし、たぶん大丈夫なのだろう。人に誇れるものであるかどうかは別にして。

 そんな自分勝手というよりは自由人なアンゼリカの言に曖昧な笑みを浮かべつつも、トワは内心で考え込んでいた。アンゼリカの話を聞いて、自分が思っている以上に大変な仕事を任されたのだと分かったからだ。

 入学してからこれまで、貴族生徒と関わることはあまり多くなかった。普段から話すのは導入試験班の仲間であるアンゼリカ、そして会長をはじめとする生徒会メンバーくらい。彼ら彼女らは理知的で、貴族らしい高貴さというものは感じたが、傲慢といった言葉とは無縁である。だからトワは他の貴族生徒も皆そうなのだろうと何となく思っていた。

 だが、それは違うという。道理を説くだけでは解決しない人がいるというのなら、果たしてどうすればいいのか。考えもしていなかっただけに咄嗟に解決策は浮かんでこない。

 そうこうしている内に坂道は終わり、三叉路になっている広場まで辿り着いていた。トワが住む第二学生寮はここから左手の坂道を下った先、アンゼリカの住む第一学生寮は右手の階段を上った先である。平民生徒と貴族生徒で学生寮は分けられているため、一緒の帰り道はここまでだ。

 名残惜しいが、今日のところはお別れである。アンゼリカの方に向き直り「じゃあ」と別れの言葉を口に仕掛けて、ふと気付く。

 

「ん? どうかしたのかい?」

「どうかしたって……アンちゃんの帰り道、反対側でしょ。こっちは第二学生寮だよ」

 

 どう考えても一緒についてくる気満々なアンゼリカ。早くも坂を下りようと足を向けている彼女に疑問を呈する。返答は悩む間など存在しないほどの即答であった。

 

「ふっ、つれない事を言わないでくれたまえ。少しばかり君の部屋にお邪魔して親睦を深めようというだけさ」

『……それを「だけ」と言える厚かましさは、とても真似できないの』

「いやはや、悪いが褒められても何も出せないよ」

『褒めてないの!』

 

 うがーっ、と声を荒げるノイ。都合のいい解釈をするアンゼリカに腹を立てる彼女を、どうどうと宥めながらもトワは軽く諦めの境地にあった。

 ああ、彼女は本当に自由なのだな、と。

 素直に帰る様子もなさそうなので「あまり遅くまではダメだよ」と一応の釘をさして招き入れる事にする。即座に返って来た「勿論だとも」という言葉がどこまで信用できるかは微妙なところだが、浮かんでくるのはまったくもうという仕方なさそうな笑みだけだった。

 

 

 

 

 

 扉を開き、寮の中に入る。陽が沈んだ後とは言え、まだ寝るには早い時間ということもあってか玄関近くの共有スペースにはそれなりに人がいた。友達と話し込む人、一人で読書に勤しむ人、過ごし方はそれぞれだ。

 そんな中、談話スペースのテーブルでカードゲームに興じていた二人組がトワたちに気付く。

 

「やあトワ。生徒会のお勤めご苦労様」

「げっ、なんでお前までいやがんだよ」

「随分な言い方だね。私がここにいたら何か不都合でもあるのかな?」

 

 極々普通に声を掛けてきたジョルジュに比して、姿を認めるや否や嫌な顔をしたり不敵な笑みを浮かべたりするクロウとアンゼリカ。顔を合わせる度にこの調子なのでトワも慣れてしまった。もう少し仲良く出来ないのかな、とたまに思うくらいである。

 テーブルの上と二人の手中のカードを見遣る。テーブルに山札、手中にはそれぞれ同じ枚数のカード。その様子を見て二人が何をしていたのか大体の察しがついた。

 

「ブラックジャックかな。どんな感じなの?」

 

 無邪気に聞くトワに、ジョルジュが苦笑いを浮かべる。「どうも何も」と彼は少し情けなさそうに口にした。

 

「さっきから何回かやっているけど、僕のボロ負けさ。そこそこ良い手札は来ているんだけどね……スタンド」

「おっ、今回は少し自信ありそうじゃねえか。じゃあ俺はもうちょい引かせてもらおうかね」

 

 五枚の手札で勝負に出ることを決めたジョルジュに対して、クロウはそこから更にヒットする。下手したら21以上の数字――バーストになりかねないのに随分と強気だ。それとも手札の数字がそれだけ小さいのか。

 ギャラリーの憶測を余所にクロウは六枚目のカードを引く。そして手札に加えたそれをしばらく眺め……あろうことか、七枚目のカードに手を伸ばした。

 相手のジョルジュは勿論、観客のトワやアンゼリカさえもこれには驚きを露わにする。六枚だけでもかなり綱渡りの勝負である筈なのに、そこから更に一枚引くとは普通では考えもしない。七枚目ともなれば、勝つためには最強の役を揃えるしかないからだ。

 

「セブンカードでもやろうというのかい? 流石に無謀だろう、それは」

「俺のツキを見縊ってんじゃねえぞ。まあ、黙って見てなって」

 

 ブラックジャックに存在する役は二つ。二枚の手札で21にする『ブラックジャック』と、バーストせずに七枚の手札を揃える『セブンカード』だ。クロウがやろうとしているのは後者。役が出来れば前者のブラックジャックさえ打ち負かすが、かなりリスキーと言わざるを得ない。

 だからアンゼリカも口を挟んだのだが、プレイヤー本人は意にも介さず山札に手を伸ばす。どうすればそこまで自信が持てるのやら、とトワは不思議に思う。

 山札からカードが引かれる。それを表返し、一瞬の沈黙の後、クロウはニヤリとした。

 

「くっくっく。さあ、これで俺もスタンドだ。勝負といこうじゃねえか」

「やたらと思わせぶりだね……今更になってブラフというのも無意味な気がするけど」

「ブラフなんかじゃねえよ。この最後のカードこそが、女神からの贈り物だったのさ」

 

 疑いの目を向けるジョルジュに、彼は最後に引いたカードを見せつけるように掲げる。まるで、その一枚が最も重要な役割を秘めていると言わんばかりに。

 その様子を漫然と見ていたトワは、ちょっとした違和感に内心であれ? と首を傾げた。

 些細な感覚に気を取られている隙にもゲームは進む。二人ともスタンドしたことでテーブル上に開かれる手札。ジョルジュは五枚合計で20。そしてクロウの七枚の手札は……合計で21に収まっていた。

 

「……はあ、参ったね。完敗だよ」

「ふむ、まさか本当にやってのけるとは」

「だから言っただろうが。これが実力だよ、実力」

 

 見事にセブンカードを達成し勝利してみせたクロウは得意げに言う。負けた相手のジョルジュは勿論、疑わしげな発言をしていたアンゼリカもこればかりは言い返せない。

 

「ねえ、クロウ君」

 

 ただトワだけが、純粋に感心するでもなく不思議そうな顔をしていた。

 

「あん? なんだ、コツでも教えてほしいのかよ?」

「ううん、そうじゃなくて。気のせいだったらいいんだけど……最後のカード掲げている時、左手で何かしてなかった?」

 

 ひくり、と得意げな笑みが引き攣る。何やら雰囲気が怪しくなってきていた。

 ジョルジュに向けて最後のカードを掲げて云々言っていたあの場面。わざとらしく目立たせていたカードを持つ右手とは反対側で、人知れず手札に何かしていたようにトワには窺えた。

 チラリと見えただけなので確信はない。しかし、一応の確認の意味で問い掛けてみればこの反応である。そんな様子を見せられては、不思議は疑惑へと変わっていく。

 

「さ、さあ。何の事だか。お前の気のせいじゃねえのか?」

「ははぁ、なるほどね」

 

 すっ呆けた返答をするクロウを見て、アンゼリカがピンときたように表情を明るくさせる。一緒に過ごしていて理解した。これは個人的に面白いことを思いついた時の表情である。

 音も無く足が踏み出され、一息に距離が詰められる。瞬時にクロウの左手はむんずと掴み取られ、捻り上げられる。「いってぇ!」と抗議の声を上げるも、それに気を取られる相手はこの面々の中には存在しなかった。

 無理もない。三人の視線は、捻り上げられた時に左手の袖口から零れ落ちた数枚のカードに集中していたのだから。

 

「……クロウ君?」

 

 ジト目のトワにそっぽを向いて口笛を吹き始めるクロウ。尚、全く誤魔化せていないのは言うまでもない。

 

「はぁ……つまり、僕の負けが込んでいたのはイカサマが原因ってことでいいのかな?」

「わざとらしくカードを掲げることで視線を誘導し、その間に手札をすり替えて数を調整していた訳か。姑息な手を使うものだね、君も」

「う、うるせえ! これも立派な技術なんだよ!」

「その技術とやらもばれてしまえば薄汚い手にしか見えないがね」

 

 至極もっともなことを言い返されてクロウはぐぬぬと歯軋りする。左手は捻り上げられ、反論の糸口も見つからない。完璧に彼の負けだった。何に負けたのかは知らないが。

 そんな様子を見ながら、ジョルジュは「まあ、何か賭けていた訳でもないからいいけど」と肩を竦める。寛容だなぁ、とトワが無自覚に人のことを言えないようなことを思っていると、彼は思い出したかのように声を上げた。

 

「そういえばトワ、君宛に荷物が届いていたよ」

「え、私に?」

「ああ。ほら、あれさ」

 

 ジョルジュが指差す方向に目を向ける。寮部屋の番号が振られた郵便受け。生徒個人宛ての手紙やら荷物やらが届くそこに、一際目立つ物体が置かれていた。やたらと大きいダンボール箱で、隅に置かれていなければ通行の邪魔になるのではないかと思うほどのものだ。

 未だ何か言い合うクロウとアンゼリカを放っておき、近づいて荷物を調べてみる。サイズはトワの腹のあたりまであるくらいで、彼女の背が低いことを考慮しても随分と大きい。ほぼ正四面体のそれをちょっと持ち上げようとするが、かなりの重さで断念してしまった。

 大きさと重さを確かめたところで、上面に張り付けられた伝票に目が行く。帝国で一般的な配達業者のそれであることを認め、送り主の名前を見たトワは「あっ」と声を漏らした。

 

「この荷物、お母さんからだ」

『クレハ様からっ?』

 

 思わず声音に嬉しそうな色が混じる。寮に入ってからは沈黙を保っていたノイも、思わず声を出していた。後を追って近づいてきたジョルジュは、それを聞いて微笑ましげだ。

 

「親御さんからの仕送りか。それにしてもまあ、随分と大荷物だと思うけど」

「そうだねぇ。何が入っているのかな?」

 

 仕送りで何か送ってきてくれるにしても、この大きさと重さは普通じゃない。単純に服飾品や食料品の類だけではないだろう。家具の一つでも詰め込んであるのではないかと想像するが、開けてみなければ確認のしようがない。

 とはいえ、寮の玄関口で開封する訳にはいかない。せめて自分の部屋に運び込んでからにするべきだろう。

 

「でも、ちょっとこの重さは運ぶのに困るというか……」

 

 が、肝心の荷物が容易に動かせないほど重くては部屋に運ぶのも儘ならない。トワの寮部屋は上階にある。この重量のものを、階段を上って運ぶのは女手では少し無理をしなければならないだろう。

 申し訳ないが、誰かに手伝ってもらおうか。トワが考えていると、ジョルジュが「ああ、それなら」と言う。

 

「そこに丁度いい働き手がいるじゃないか」

 

 いい事を思いついた、とばかりに彼はにっこりと笑って視線を移す。その先、アンゼリカにようやく左腕を放してもらって擦っていたクロウは、向けられた目に疑問符を浮かべていた。

 




【ビクター男爵】
残され島を訪れた帝国貴族。多数の貴族が出資しているヴォランス博士の研究状況を視察しに来たのだが、自由すぎる博士に振り回されいる模様。そんな中、旅行がてら一緒に来た家族と擦れ違いが起こってしまい……


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第15話 思い出の欠片

東亰ザナドゥ、思っていた以上に楽しめました。最終話で悲しい気持ちになっていたところに最後の大団円。とても気持ちのいい終わり方の王道ストーリーで流石ファルコムとなりました。戦闘もスムーズでストレスのない操作性でしたしね。
設定もとても面白かったので続編が出たりしないかなぁ、と思っていたり。倫敦ザナドゥとか海外に舞台を移しても面白いかもしれませんね。私の妄想ですけど。
発売から数週間して、ハーメルンでもザナドゥ二次が徐々に出てきている模様。長編を書く余裕はありませんが、私もそのうち中編くらい書けたらいいなと思っております。


「ぜえ……ぜえ……どっこいせえっ!」

 

 ところ変わってトワの寮部屋。辿り着くや否や、クロウは息も絶え絶えに運んできたものを最後の力を振り絞るような声と共に床へ下ろす。そのまま仰向けに倒れ込んだ彼にトワは苦笑を漏らす。

 

「あはは……お疲れ様、クロウ君。運んでくれてありがとね」

「こ、扱き使ってくれやがって……何の怨みがあって俺にこんな糞重いもんを持たせるんだっつうの……」

「何って、君がイカサマしていたのが悪いんじゃないか。代償としては安いものだと思うけど」

「ズルをしたら罰を受けて当然なの。ちょっとは反省するの」

 

 クロウは息を乱しながら文句を零すも、ジョルジュとノイからの正論によりすぐさま閉口してしまう。下手に口を開くのは墓穴を掘るだけのようだった。

 ジョルジュもジョルジュで実際にイカサマに対して腹を立てていた訳でもないだろうに、それを口実にクロウを働かせるあたり強かというべきか、腹黒いというべきか。一点の曇りもない笑顔で「この荷物、運んでくれるよね?」と言った彼を思い出し、トワは少し苦笑いが引き攣るのだった。

 

「インチキ君は放っておくとして、早速荷解きをするとしようじゃないか。手伝うよ、トワ」

 

 一方、ここまで荷物を運んできた存在など歯牙にも掛けない様子のアンゼリカ。どうやらトワの故郷から送られてきたという話を聞いて興味津々のようであり、受け取った本人よりも率先して開封せんばかりの意気込みである。焦らなくても逃げないから、と宥めつつ三人で思ったより厳重な封を解いていく。クロウは流石に休憩していた。

 最後のテープを剥がし、箱を開ける。途端、中から香りが漂ってきた。その香りに三人は不思議そうな表情となり、そしてトワは懐かしさに目を細める。ノイもどこか嬉しそうな様子だ。

 磯の香り、駆ける潮風。海に囲まれた故郷を思い起こさせる香りに郷愁の念が湧く。離れてまだ一か月ほどだというのに、もう随分と懐かしく感じられた。ホームシックなどではないが、故郷を離れて初めて感じるものに不思議な気分となる。

 そんな気分に浸りつつも、荷物の中身を探っていく。どれだけの物を入れたのやら、箱一杯に隙間なく詰め込んであり取り出すにも苦労してしまいそうだ。トワはちょっと困ったような笑みを浮かべつつも、まずは一番上に置かれていた手紙に手を伸ばした。

 

「お母さんからの手紙みたい。ちょっと読んでいるから、その間に他の物を見てくれていてもいいよ」

「おっ、そういうことならちょっくら拝見……うごっ!?」

「はっはっは、この男にはしっかりと目を付けておくからゆっくり読んでいてくれたまえ」

 

 ようやく復活したクロウを交えて中身を覗く三人を傍目に、トワは椅子に座って手紙の封を切る。迷う様子もなくノイもこちらへ飛んできて、トワの肩に陣取った。

 

「ねえねえトワ、クレハ様はなんて?」

「今から読むからそんなに急かさないでよ……えっと」

 

 待ち切れない様子のノイに背を押されるように折られていた便箋を開く。トワ自身、少しばかり浮ついた心持ちで綺麗な文字で綴られた文言を追い始めた。

 

トワへ

 士官学院へ入学して一か月、もうそちらでの生活には慣れたでしょうか。あなたはしっかりしているように見えて、ところどころ抜けているので私としては心配です。これを読んでいるあなた自身は「そんなことない」と思っているのでしょうけど。

 こちらはあなたとノイがいなくなって家が広くなってしまった気分です。アーサさんとお父さんは勿論、ライラや村の皆もどこか寂しそうです。いつも元気に島を駆け回っていたあなた達だからこそ、こんな心にぽっかり穴が空いてしまったような気分になっているのでしょうね。

 そこで皆にあなたへ仕送りをする話をしたところ、ぜひ自分からも送りたいという申し出をたくさん貰いました。おかげさまで大変な大荷物となり、あわや連絡船のボートが転覆しかけるという場面もありましたが、こうしてあなたが読んでいるということは無事に届いたということなのでしょう。もしかしたら部屋に運ぶのに苦労しているかもしれませんが、それだけたくさんの人の思いが詰まっているということだと思うようにしてください。

 士官学院のカリキュラムについてはあまり心配していませんが、あなたは今まで残され島からあまり出ることなく育ってきたので、学院生活では新鮮な出来事で溢れていると思います。そして時には、辛いことや苦しいことがあるかもしれません。

 けれど、どんな時もあなたらしさを忘れないようにしてください。迷ってしまった時には立ち止まって振り返ってみてください。あなたに送った思い出の欠片にはちゃんと刻まれています。あなたがあなたらしく在ることで、どれだけの笑顔をもたらしてきたのかを。私たちの愛する娘なら、どんな辛苦も乗り越えていけると信じています。

 士官学院での生活が、どうか実り多き日々となりますよう――あなたに星と女神の導きがあらんことを。

                         クレハ・ハーシェル

 

「……もう、心配性なんだから」

 

 読み終わり、ポツリと呟く。

 最初の内はあまり気負いもなく書き綴っているのに、後半になるにつれてトワを案じる気持ちが滲み出てくるようだった。そんなに心配しなくても大丈夫なのに、とつい思ってしまう。

 だが、悪い気はしない。むしろ胸が温かくなる心地だ。母からの無償の愛が感じられて、トワは満ち足りた気分になっていた。

 

「クレハ様らしいな。トワのことを凄く思いやっているのが伝わってくるの」

「うん、そうだね……」

 

 何度か読み返しても、その温かみが変わることはない。予期せぬ便りではあったが、こうして送ってくれた母には感謝の念しかない。ちゃんと返事しないとね、と胸の内で呟くのだった。

 しかし、読み返しているとふと不思議に思う。あなたに送った思い出の欠片、これは一体何のことを指しているのだろう、と。

 

「トワ、ノイ、ちょっといいかい?」

「あっ、うん。どうかしたの、ジョルジュ君?」

 

 首を傾げているとジョルジュから声が掛けられる。手紙も読み終わったので応じると、何やら凄く興味深そうな彼と目が合った。

 

「何か面白そうなものでも入っていたの?」

「まあね。最初は日用品だったり魚の干物だったりで、それはそれで面白かったんだが……一番奥に、私たちではよく分からないものが入っていてね」

「やたらとデカい上に重いからな。荷物の重量の半分以上はこいつのせいだろうぜ」

 

 やや恨みがましく箱の奥を覗くクロウに習い、トワも同じように覗いてみる。彼らが言うよく分からないものとは何なのかと思いつつ、やや暗い中身を見て、トワは思わず「えっ」と間の抜けた声を漏らした。

 まさか。いや、でも、思い出の欠片とはこういうことなのか。

 何やら落ち着かないトワの様子を見て周りは首を傾げる。本人はそんな周囲の視線など気にする余裕もなく、忙しなくダンボール箱の解体に取り掛かる。この重さだと上から持ち上げるより、箱自体を解体してしまった方が安全に取り出せる。焦りと期待が入り混じった彼女の表情は、どことなくプレゼントを貰った子供のそれに似ていた。

 少し手間取り、ようやく解体する。そうして中から現れた物体に、三人はますます疑問を深め、トワとノイは驚き喜ぶ。窪みのある円形の台にランプのようなものが取り付けられた奇妙な置物。荷物の大部分を占めていた物体は、言うなればそのような形をしていた。

 

「ナユタの星片観測機なの! クレハ様たちったら気前がいいの!」

「わっ、わっ、貰っちゃっていいのかなぁ。確かに嬉しいけど……」

 

 素直に感嘆するノイに対し、トワは嬉しくも戸惑ってしまう。そんな彼女らに外野から「あの」と言葉が差し挟まれる。

 

「何かいいものを貰ったことは分かるんだけど、そろそろ僕たちにもそれが何なのかを教えてもらえないかなぁ……なんて」

 

 遠慮気味に言われて、トワは浮足立っていたことを自覚する。ついつい興奮してしまって事情を知らない人がいることを失念してしまっていた。

 何はともあれ、これが何なのかを説明しなければ始まらない。恥ずかしげに頬を掻きながら口を開く。

 

「えっと、これは星片観測機っていうものでね。残され島の工芸品である《星の欠片》に収められている映像を映し出す装置なんだ」

「へえ……その星の欠片っていうのはどういうものなんだよ?」

「ちょっと待ってね。たぶん一緒に入っている筈……あっ、あったあった」

 

 箱から取り出された荷物の山――やけに干物類が多い――を探り、目当ての品を発見する。丁寧な包装を広げると、淡い青の輝きを放ついくつかの水晶体が姿を現わした。

 これが星の欠片。残され島近辺で採取される工芸品であり、そして星片観測機が文字通りに観測するものである。その幻想的な輝きに、あまり芸術的なものには興味がなさそうなクロウも含めて三人は見入ってしまう。それがなんだかトワには嬉しい。

 するとアンゼリカが、ふと何かを思い出したような様子を見せる。

 

「ふむ、そういえば叔父上が似たようなものを収集していたような。私自身、これで何をするか知っている訳ではないが」

「星の欠片は好事家がよく買うものだから。アンゼリカの叔父さんも、きっとそういう人なの」

 

 「ああ、それは確かに」とアンゼリカは納得したように頷く。

実際、星の欠片を買い求める人は貴族に多いと聞く。割と高価な芸術品の一種であることに加え、限られた地域だけで採取されるという希少性が貴族の購買意欲をそそらせるのだろう。

 しかし、この星の欠片の本当の価値は高級さだとか希少性だとかで測れるようなものではない。それを知ってもらうためにも、トワは星の欠片の一つを手に取った。

 

「星の欠片には色々な風景が収められているんだ。それを読み取るための道具がこの星片観測機っていうわけなんだけど、読み取るのにも一手間かけなきゃいけないの」

「見た感じ、このランプの部分から光を当てて映像を投影するようだけど……何か細かい操作が必要なのかい?」

 

 星の欠片そのものよりも星片観測機の方に興味がありそうなジョルジュが外観からその利用方法を推測する。その指摘は大雑把ながら間違いではない。トワは星の欠片と同封されていたメモ用紙を広げる。

 

「うん。複数の光を当てて像を結ぶんだけど、上手く投影するためにはそれぞれの光が差し込む角度や光量を調整しなきゃいけないんだ。だから星の欠片は一番映像がよく見える照射角の数値なんかと合わせて売りに出されるの」

 

 メモ用紙に記されているのは、どの星の欠片がどのように光を当てれば映像を移すことが出来るのか、その詳細な数値。星の欠片を観測する上で欠かせない情報である。

 無闇に光を当てても星の欠片はぼんやりとした像を浮かべるだけであり、何が収められているか判別することは出来ない。鮮明な映像を映し出すためには的確な照射角と、それを導き出す職人技とも言える技術がなければならない。

 だからこそ星の欠片はまず星片観測士と呼ばれるプロフェッショナルに預けられ、そこで導き出された情報料込で商人が買い取り、しかる後に顧客の手に渡るという手順が踏まれている。高価になっているのは、その手間賃が掛かっているからとも言えるだろう。

 ともあれ、講釈ばかりたれていても仕方がない。トワは手に取った星の欠片を星片観測機にセットする。メモに書かれた照射角を参考しながら、台の横のダイアルを操作して光を当てていく。観測機の台上に、次第にぼんやりとした蒼白い情景が浮かび上がり始めた。

 

「おお……すげえな、こりゃ。塔、なのか?」

「《ヘリオグラード》なの! 天蓋は割れていないから三十年以上前のかな……きっと新しく見つけたものなの」

 

 やがてはっきりと像を結んだその光景に、クロウが思わず感嘆の声を漏らす。蒼い輝きの向こうに映る巨大な塔を見ての呟きに、ノイの興奮気味な声が続く。幻想的な光景を見てざわめく周囲に嬉しさを感じながらも、トワは次の星の欠片に手を伸ばす。

 花が咲き乱れる艶やかな森、氷河に覆われ時が止まったかのような平原、天を衝く遥かなる峰々、溶岩が脈動する灼熱の大地。普通に暮らしていたならば絶対にお目に掛かれないような光景が、蒼い輝きの向こうに次々と映し出される。気付けば周りの三人は、感心を通り越し半ば放心して見入っていた。それ程までに美しく、荘厳であり、そして圧倒されるものがあったのだ。

 

「凄いな……まるで、この世の光景じゃないみたいだ」

 

 それ以外に言葉が見つからないといった様子で感想を述べるジョルジュ。彼がそう感じるのも無理はない、とトワは思う。

 

「昔の人も、きっと同じように感じたんだろうね。この光景は『失われた楽園(ロスト・ヘブン)』のものだって昔は言われていたんだ。荒れ狂う海の先に存在する、かつての大陸のものだって」

「ロスト・ヘブン……古代ゼムリア文明の大崩壊と同時期に消滅したと言われる、遥か西方のレクセンドリア大陸のことか。だが、あそこは――」

 

 過去に星の欠片の光景を見た人々は夢を抱いた。この蒼き輝きの向こうの幻想は、遥か昔に失われた大陸のものなのだと。自然の暴力も斯くやという嵐に阻まれ、生きて帰ることも適わない海の先に存在するものだと。

 レクセンドリア大陸という1200年以上も前に消えたと思われた大地の記憶が、星の欠片に収められているのだと考えられていたのだ。それも自然なことだろう。この幻想的な光景と、辿り着けぬ秘境を結び付けてしまうのは当然のことに思える。

 しかし、アンゼリカは否と言わんとする。過去の秘境は、現在においてもはや秘境ではなくなったのだから。

 

「そう、三十年前に嵐は消えて、その向こうに人々は夢見続けていた大陸を見つけた。今では第二十三次国際調査隊が送られていて、そろそろ大陸地図が出来上がりそうって話だよ」

 

 道を阻んでいた嵐は突如としてその姿を消し、人々は進んだ先で夢見ていた大陸を発見した。人の手が入っていない豊かな自然に覆われ、様々な生命が息づくそこは秘境ではなく新天地となった。

 発見から三十年が経った今も学者たちの興味は尽きず、国の枠を超えた調査隊が定期的に送られている。聞いた話では、調査のための拠点が一つの街くらいの規模を持っているそうだ。ロスト・ヘブンは、もう幻想の中だけの存在ではない。

 では、星の欠片に収められた映像は何なのか?

 ロスト・ヘブンが現実のものとなった今、蒼き輝きの向こうの光景はそれとは別のものと分かってしまった。結局、星の欠片に収められた光景は何なのかは一般に判然としていない。

 

「三十年前ね……妙に符合するじゃねえか。レクセンドリア大陸の発見も、お前さんの故郷に降って来ていた遺跡の元っていうテラの落下もよ」

「そうか、流星の異変……!」

 

 そんな話の中、クロウは何かに思い至ったかのように目を細める。先月の実習でトワが口にした異変と、嵐が消えた時期の一致。彼の言葉にジョルジュもはっとする。

 やはり彼は鋭いところがある。トワは言葉を選びながら口を開いた。

 

「確かに、星の欠片がテラ由来のものであることは間違いないよ。レクセンドリア大陸の発見も無関係じゃない。詳しく話せないのが申し訳ないけど」

「教会との盟約という奴か。それだけひた隠しにされると、どれだけ大それた話なのか気になってしまうね」

「……知らない方がいいかもしれないし、知った方がいいかもしれない話なの」

 

 強い興味を示すアンゼリカに、ノイは迷うような素振りを見せつつも「でも」と続けた。

 

「もし、あなたたちが真実を知る時が来たのなら、その時はちゃんと受け止めて考えてほしい。当事者として望むことはそれくらいなの」

「う、うん……?」

 

 盟約によって秘された異変の真相。それは確かに社会に混乱をきたしかねないものであるし、このまま何も知らない方が幸運なのかもしれない。

 だが、仮に知る時が来たのであれば、その時は向き合って欲しい。あの災厄がどういう意味を持っていたのか、それに立ち向かった者たちがどんな思いを抱いていたのか。真実を知る者として、そう願わずにはいられない。

 もっとも、今の彼らに言っても仕方がない。やや戸惑いつつも頷くジョルジュの気を解すように、トワは気安い声を掛けた。

 

「じゃあ残りの星の欠片も見てみようか。あと何個あるかな?」

「ああ、それならあと一個……ん?」

「どうかしたのかよ?」

 

 星の欠片が入っていた包みを探るジョルジュが首を傾げる。中身をしげしげと見つめていた彼は、クロウの言葉に遅れて返事をした。

 

「いや……どうにも照射角が書かれたメモが見つからなくてね。これだけ付け忘れたのかな?」

 

 思いがけない返事にえっ、と声を上げてしまう。渡された包みの中身を自分で確かめてみても、確かにメモは姿形もない。星の欠片が一つ、蒼白い輝きを放ちながら転がっているだけだ。

 

「クレハ様やアーサがうっかり入れ忘れることもないだろうし……もしかしたら自分でやってみなさいってことかもしれないの。試しにやってみたらどう?」

「そういうことなのかなぁ……ちょっと自信ないんだけど」

 

 ノイの言葉に背を押され、最後の星の欠片を観測機にセットしておっかなびっくり操作を始める。先ほどまでの淀みのない作業は用意された答えがあってこそ。自分だけの力で映し出すとなると骨が折れる。

 難しい顔をして照射角を弄り始めたトワを見て、周りもどうやら予想していたよりも小難しいものだと気付いたようだ。作業の進捗を窺いながら、遠慮がちに問うてくる。

 

「いけるのかい? 何やら複雑そうだが」

「一応、本職の伯母さんに教わったから何とかなると思うけど、やっぱり時間が掛かるのは間違いないかなぁ。しばらくくつろいでいていいよ」

「そういうことなら、お言葉に甘えさせてもらおうかね。手伝えることもなさそうだしな」

 

 ぼんやりとした蒼い光を浮かべる星の欠片とにらめっこするトワの返事に対し、いの一番にクロウは応じる。どっこいせと椅子に腰かけると他の仕送りの中身を物色し始めた。手伝いようがないと見るや否や清々しいほどの割り切り振りである。

 

「しっかしまあ、見事なまでに干物だらけだな。保存が利くからっていうのは分かるが」

 

 ひょいと袋詰めにされた魚の干物を拾い上げる。それと同じものが仕送りの中には両手で収まらないくらい詰め込まれていた。彼がそう言いたくなるのも分からなくはない。

 

「干物類は残され島の定番食品だからね。漁業が盛んだし、ほとんどおやつ感覚で皆食べているよ」

「なるほど、海に囲まれた離島だからこその食文化というわけか」

「それにしたって、この量は多いと思うけどね……」

「そうだねぇ……よかったら少し持っていってもいいよ。私だけじゃ食べ切れないし」

 

 干物の山に苦笑いを浮かべるジョルジュにつられ、トワもまた困ったように微笑む。これだけの量を一人で食べるとなると月単位で時間が掛かってしまうだろう。

 大方、島の漁師の人たちが良かれと思って詰め込んだのだろうが、トワは別に大食いでも何でもない。かと言って呑気に保存しておいたら、また別の干物が送り付けられそうなので友人たちにお裾分けするのが吉である。味に関しては申し分ない筈だ。

 「それじゃあ遠慮なく」と早速開けた袋の中身からスルメを口に運ぶクロウを尻目に、慎重に星片観測機を操作していく。蒼い光が段々と輪郭を現し、そして再びぼやける、その繰り返し。その中から直感的に像がはっきりする照射角を見出していき、徐々に鮮明な映像を映し出していく。

 

「……これはもう、お邪魔しない方がいいのかな?」

「そうしてあげて。アーサみたいなベテランならともかく、この作業は凄く集中力がいるの」

 

 次第にトワは作業に没頭し、ただ星片観測機が発する光の細かな調整に集中していた。アンゼリカやノイの小声での会話など耳にも入らない。そんな彼女を気遣って他の面々は残され島産の干物の品評に興じるのであった。

 

 

 

 

 

「……あっ」

 

 始めてから三十分は経っただろうか。クロウが「酒が飲みたい」とぼやき始めた頃、黙して作業に没頭していたトワが声を上げる。

 干物を口に運ぶのを休めた面々は、なんだなんだと日が落ち暗くなってきた部屋で淡く輝く観測機の方に向き直る。そこには先程までとは比べるまでもなく鮮明になった像が今まさに結ばれようとしていた。

 バラバラだったパズルが完成するかのように、最後の微細な調整を加えることで星の欠片に収められていた映像はついに全体像を現わす。

 それを目にしたトワは少し呆けてしまった。達成感によるものでもあっただろうが、何よりも眼前に映し出された光景が思いもしないものだったから。

 

「歳のいった兵士と……今より小せえが、お前か?」

「何かを届けたところを収めた映像のようだけど……はは、二人ともいい笑顔しているね」

 

 幼いトワと年配の兵士が映った星の欠片。花咲くような幼少のトワの笑顔に釣られるように破顔する兵士の二人に、どことなく微笑ましい気分になる。

 

「そっか。クレハ様が手紙で言っていたのはこの事だったんだ」

「ふむ、幼いトワがとても愛らしいということはよく分かる映像だが」

「自分で見るのはちょっと恥ずかしいけど……うん、そういうことなんだろうね」

 

 だが、トワとノイにとっては単なる懐かしい光景ではなかった。

 ――あなたに送った思い出の欠片にはちゃんと刻まれています。あなたがあなたらしく在ることで、どれだけの笑顔をもたらしてきたのかを。

 手紙に書かれていた母の言葉と結びつき、伝えんとしていた意味がようやく分かった。胸に手を当て、温かな心地がじんわりと広がるのを感じる。

 

「これはね、私が初めて《何でも屋》の仕事をしたときの映像なんだ」

「何でも屋?」

「うん。お父さんと伯父さんが昔やっていた、島のみんなの困ったことを解決するお仕事」

 

 若かりし頃の父と伯父がやっていたものの復刻版。昔とは違って魔獣退治などは遊撃士に頼めるようにもなったけど、物心ついた時から間近でその活躍を見てきたトワがお手伝いをしたいと言い出したのがその切っ掛け。まだ十にもなっていない子供に家族が提案したのが何でも屋の復活だった。

 そして、その初仕事の様子がこの星の欠片である。

 今でも覚えている。平和を通り越して呑気な島のたった一人の衛兵、ドラッドへの弁当配達。伯母の作る弁当が大好物という彼への差し入れが初めての仕事だった。

 姪の仕事ぶりを見物していた伯父が作ったのか、あるいは単なる弁当配達とはいえちゃんと出来るのか心配して後をついてきていた母が作ったのか。どちらがこの星の欠片を作ったのかは知らないが、記念としてちゃんと保管してあったのだろう。

 

「赤ちゃんのお世話だったりとか、農作物の収穫の手伝いとか、本当に色々なことをやらせてもらったよ。たぶん、島のみんなもお父さんと伯父さんがやっていた頃が懐かしかったんだと思う」

「生徒会にしても特別実習にしても、妙に手馴れていると思ったらそういう下地があったのか。なんだか納得だな」

「しっかし物好きだな。いくら近所の手伝いとはいえ、面倒もたまにはあっただろうが」

「否定はしないの。観光客相手の時とか、小さいせいで侮られたりもしていたし」

「あはは……まあ、そうだね」

 

 姉貴分が引っ張り出してきた苦労話に苦笑いしつつも同意する。時には自分の幼さゆえに及ばない事もあったし、相手の気質ゆえに上手くいかない時もあった。

 

「でも、不思議と途中で諦めようと思ったことは一度もないんだ」

 

 しかし、トワは引き受けた仕事を放りだした事は一度たりとも無かった。どんなに困難だろうと、どれだけ邪険に扱われようとも、なんとかして解決してきた。精一杯考え、時には人の助けを借りて、そして何より彼女らしくある事によって。

 星片観測機が映し出す幼き頃のトワは、屈託のない笑顔でドラッドの役に立てたことを喜んでいる。自分も誰かの役に立ちたい。そう思ったのが、何でも屋を始めた理由だったから。

 

「どれだけ大変でも、ありがとうって言ってもらえた時に、自分が誰かの役に立てたんだと思えたら、それまでの苦労なんか全部吹っ飛んじゃうんだ。それが凄く楽しくて……生徒会に入ったのだって、元を辿ればそういうことなんだと思う」

「そりゃまた筋金入りのお人好しと言うか、底抜けの善人と言うか」

「ふふ……だがまあ、それがトワらしさというものなのだろう」

 

 何事にも一生懸命で、相手も自分も笑顔になれるよう最善を尽くす。それが何でも屋としてのトワの在り方だった。

 自分の中では当たり前になっていて、だからこそ気付くことができなかった。何でも屋だろうと、生徒会だろうとやること為すことは変わらない。自分の気持ちに素直になって前へと進めばいい。

 相手が貴族だろうと、自分の在り方を貫けばいいだけなのだ。

 

「ね、みんな。干物は美味しかった?」

「え? ああ、うん。美味しく頂いたよ。市販より深い味わいに感じたかな」

「これで酒があれば言うことなしだったんだがなぁ……」

「学生は飲酒禁止なの!」

 

 未練たらしいクロウにノイのお説教が飛ぶ。喧騒を尻目にアンゼリカが微笑む。

 

「私もとても気に入ったよ。今度は焼いたものも是非頂きたいところだね。それがどうかしたのかい?」

 

 突然の問い掛けに好意的な感想を述べつつも、その意図を聞いてくる彼女にトワは「そんな難しいことじゃないよ」と返す。単に彼らの、本土の人たちの口にも合うか聞いておきたいだけだった。

 この反応を見る限りなら大丈夫だろう。量も十分以上にある。帰りに感じていた明日への心配は既に消え去っていた。

 

「ちょっと訪ね先に持っていこうと思っただけだから」

 

 何やら楽しそうな様子さえ見せて言うトワに、三人はきょとんとするばかりなのだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 翌日、自由行動日も半ばを過ぎた昼下がり。

 所用で学院長のもとを訪ねていた会長は、目の疲れから眉間を揉みほぐしながらも学生会館の階段を上る。時間からして他のメンバーも中間報告がてら生徒会室で休憩を取っている頃だ。自分も少し休息を取ろうと思いつつも、その冷厳とした姿を崩すことなく歩みを進める。

 一階から二階に上がり、ふと上に続く階段に目が行く。学生会館の三階は貴族生徒専用のサロンだ。会長も貴族生徒ではあるが、あまり利用したことはない。

 無論、目が行ったのはそこを訪ねようと思ってのことではない。最近目を掛けている一年生に任せた仕事が上手くいったのか、少し気になったからだった。

 

(彼女ならば下手を打つことはないだろうが……)

 

 1年Ⅳ組所属、トワ・ハーシェル。

 奇特なことに最初の自由行動日から生徒会の門を叩いてきた小柄な少女のことを、会長は表には出さずとも買っていた。高い事務処理能力、明晰な頭脳、人の機微も察することができる。悪意に対して疎いところがあるようだが、それを差し引いても貴重な人材である。気が早いことながら、自分の後継として期待してしまうくらいには。

 煩わしい貴族生徒からの駄々への対処を任せたのも、将来的に生徒会を取り纏めていく者として成長することを期待しているからこそ。貴族と平民が交わるこの学び舎で避けては通れない事柄に慣れさせるためであった。

 彼女は甘い。優しくするだけでは立ち行かないこともあるのだと学ばせる必要がある。

 甘いとは言っても有能であることには変わりない。最初に任せた依頼の時のように、ある程度はこちらの意図を理解して確実に対処してくるだろうという信頼もあった。だから会長も少し気に掛かる程度で済んでいる。

 しかし、必要なこととはいえ任せたのは面倒事だ。いくら彼女でも時間は掛かるだろう。この時間までに生徒会室へは戻ってきていないと会長は踏んでいた。

 階段の上に逸れた視線を前に戻し、部室が立ち並ぶ廊下を抜けて生徒会室の前に辿り着くまでは、そう考えていたのだ。しかし、そんな彼の想像は扉を開けた瞬間に打ち砕かれる。

 

「あっ、会長。お疲れ様です」

 

 僅かな間、体が固まった。

来客用のソファに腰かけた件の少女が自然な様子で自身に挨拶し、他のメンバーも続いて「お疲れ様です」と声を掛けてくる。

 それはいい。トワが既に戻ってきていたことは予想外だったが、少し見込みが外れただけのこと。意外には思えど、驚くまでの事ではない。

 

「フッ、お邪魔させていただいています。生徒会長」

「お邪魔しております」

 

 問題は、それ以外。

 来客用のソファに座るトワの対面に陣取るのは、華美が過ぎてやや気障になっている貴族生徒の男子と、その側に立つメイドの組み合わせ。会長の記憶が確かであるならば、名前はヴィンセント・フロラルド。トワに処理を任せた傍迷惑な依頼人の一人であったはずだ。

 どのような経緯があって彼とその付き人と思しきメイドまでもが生徒会室に入り浸っているのか。さしもの会長にもすぐさまには理解が及ばない。巡り巡って友人になったとでも言うのだろうか。

 それだけなら、まだよかった。何の偶然かそうなることもあるだろう。

 

「ハーシェル……その、茶請けに出しているのなんだ?」

「実家から届いたスルメです。よかったら会長もどうぞ」

 

 だが、テーブルに並ぶ大量のスルメと生徒会室に漂う干物臭さが会長を混乱状態に陥らせていた。冷静沈着な彼も、他のメンバーがむっしゃむっしゃとスルメを口に運ぶ姿を見ては、どうしてこうなったと思わずにはいられない。

 再び眉間を揉みほぐす。今度は目の疲れではなく、意味不明の状況からくる頭痛により。

 内心の困惑など露知らず、純粋な好意から勧めてくるトワに「……いや」と返事をする。この混沌とした状況を整理しなければ、とても休息を取る気分にはなれそうになかった。

 大きく息を吐く。正確な現状把握のために、まずは心を落ち着かせる。

 

「……幾つか聞きたいことはあるが、まず任せた対処は終わったのか? 依頼主のフロラルドがどうしてここにいる?」

 

 どうして生徒会室がスルメパーティーの場と化しているかは置いておくとして、彼女に任せた事案の進捗を問う。生真面目な会長らしい優先順位の付け方だった。

 それに対し、トワは自信満々に頷く。後ろ暗い様子など欠片もない。

 

「もちろんです。依頼を出していた部活、サロンとはちゃんと話を付けてきましたよ」

「手早いな」

 

 口を衝いて出た言葉は、正直な感想だった。あれだけ図々しい要求をしてくる相手ならば、平民の分際で云々とごねるだろうと見込んでいた。それをこの時間までに片付けるとは予想を上回る手際の良さだ。

 

「はい。みんな、ちゃんと説明をしたらやる気を出してくれる人たちばかりでしたから」

 

 だが、続く彼女の言葉に会長は理解が及ばなくなる。要求を断ったというのに、どうすればやる気が出るというのか。

 疑問の答えは当然、彼女の口から語られる。

 

「今年頑張って活躍すれば、学院の評判が上がって来年度の新入生増加にもつながる。新入生が増えれば部活やサロンに割かれる予算も増える。すぐに要望には応えられませんけど、この方向で生徒会も応援するということにしてきたんですけれど……いけませんでしたか?」

 

 表情の晴れない会長の様子を気にしてか、遠慮がちに対応の是非を確認してくるトワ。どうやら彼女は対処と聞いて、ただ拒否するのではなく代替案を示してきたようだ。

 部費やサロンの諸経費の大本は学院の予算である。そして予算の多寡は生徒の学費、入学金によるところが大きい。即ち、入学者が多いほど予算が増えて、結果的に部活や諸活動に回される金額も多くなる。部活などが外部でも名が知れるほどに活躍して学院の知名度を上げたとなれば、その公算は更に確かなものとなるだろう。

 彼女はそこに目を付けて、貴族生徒に欲求を満たす手法を示してみせたのだろう。ただ与えられるのではなく、自ら勝ち取ってみせろと。自尊心の強い貴族生徒なら簡単に乗せられたのは想像に難くない。

 

「……生徒にも不満が残らないという点では良いが、生徒会で応援するというのは具体的にどうするつもりだ?」

「他の高等学校や外部団体と積極的に交流を持つことで、部活の対外試合や生徒の外部イベント参加の機会を増やしていこうと考えています。そういった紹介でなら生徒会も力を発揮できると思いますし」

 

 立て板に水というかのような返事からして、思いつきではなくちゃんと見込を立てた上での提案のようだ。話を聞く限り、会長としても実現可能性はそれなりにあると思われる。

 しかし、それでも彼の口からは溜息が零れる。

 

「面倒の処理を任せた結果、まさか更に仕事を抱え込んでくるとはな。流石に私も想像していなかった」

「あ、あはは……すみません」

 

 少しばかり嫌味を籠めた言葉に、トワは恐縮する。事後処理を任せたつもりが、何故か仕事が増えているのだから多少は文句を言いたくなるのも道理ではあった。

 

「まあ、いいじゃないですか会長。ハーシェルも頑張ってくれている訳ですし、ここで踏ん張らないと先輩の名折れって奴ですよ」

「そうそう。可愛い後輩の頼みなら、仕事が少し増えるくらいへっちゃらですよ、私は」

「……実際に動く君たちに文句が無いのであれば、まあいいだろう」

 

 縮こまるトワを擁護するように生徒会メンバーから声が飛んでくる。生徒会全体で異議が無いのであれば、会長だけが難癖をつける意味もない。物分りの良い彼は折れることにした。

 

「自分で考えたからには当然、責任も伴わなければならない。それは分かっているな?」

「はい。後日にちゃんとした企画書を提出します」

「ならいい。フォローはしよう」

 

 トワがパッと顔を明るくさせる。彼女の感情表現はいつも分かりやすい。

 支持してくれた先輩メンバーたちに礼を述べるトワと、それに大したことはないと返す面々を見て、会長はふと気付く。トワが生徒会に入って一月ばかりにも関わらず、他のメンバーから確かな信頼を得ている事に。これも彼女の人徳が為せる技だろうか。スルメをむしゃむしゃと食べ続けているため絵面は冴えないが。

 感心しつつもスルメを口に運び続けるメンバーに呆れていると、「んんっ」と気取ったような咳払いが聞こえてくる。発信源は生徒会室には珍しい客人だった。

 

「ハーシェル嬢。一区切りついたようだし、そろそろこちらの話に戻ってもよろしいだろうか?」

「あっ、うん。待たせてごめんね、ヴィンセント君」

 

 会長が戻ってくるまでは彼と話していたのだろうか。様子を見て口を挟んできたヴィンセントにトワがはにかむ。会長としては何を話していたのか甚だ疑問なのだが。

 

「ヴィンセント君とは、ちょっと依頼の話が長引いてしまいまして。立ち話もなんですから生徒会室の方に来てもらったんです」

 

 怪訝な顔から会長の疑問を察したのか、トワが経緯を説明する。納得できるようなできないような微妙な心地で「そうか」と返した。

 

「では、このヴィンセント・フロラルドのファンクラブ設立に向けての道程だが――」

 

 やはり納得できない。ヴィンセントの最初の一言で会長の微妙な心地は即座に傾く。

 荒唐無稽なことを尚も口にするこの輩を問い詰めてくれようか。氷点下の眼光を宿らせ、そう思い掛けたところ、横から「失礼」とひっそり声を掛けられた。今まで口を噤んでヴィンセントの傍に控えていたメイドが、会長の近くに寄ってきていた。

 

「申し訳ありませんが、もう少し見守ってくださいませ。悪いようにはなりませんので」

「貴方は……」

「申し遅れました。私、ヴィンセント様のご実家、フロラルド伯爵家から出向させていただいているサリファと申します」

 

 「どうぞ、お見知りおきを」と会釈するサリファ。初対面ではあるが、それだけで彼女が優秀なメイドであることが分かる所作だった。おそらくはヴィンセントの目付け役も兼ねているのだろう、と会長は推測する。

 そんな彼女が悪いことにはならないと言う。決して甘やかそうとしてのものではないだろう。会長は出かかっていた文句を一先ずは呑み込んだ。

 一方、先輩と付き人のメイドがコソコソと喋っていることなど気付きもせずにトワとヴィンセントは話を弾ませる。その内容は確かにヴィンセントの無茶な依頼に端を発するものではあったが、もはや当初とは別方向に進んでいた。

 

「フッ、考えてみれば確かに即座にファンクラブを設立するのは無理があった……このヴィンセント・フロラルドの魅力を理解する者が少ない状態で、体裁を整えるだけでは無意味だ」

「まだ五月だしね。ヴィンセント君のことをよく知らない人も多いだろうし、ファンクラブ云々はともかく色々な人と仲良くなることから始めたらいいんじゃないかなぁ?」

「まずは優雅かつ華麗な姿を示すのが先決だったか……道を示してくれたことに感謝しよう、ハーシェル嬢。クラブ成立の暁には特別会員として招き入れることを約束しようではないか」

「あはは……期待しないで待っておくね」

 

 何やら得心がいったようであるが、まず片手にスルメが握られている時点で優雅さとはかけ離れていることを彼は自覚するべきだろう。この場にそれを指摘する者は誰もいなかったが。

 それにしても、最初の無茶苦茶な要望からよくここまで話を持っていったものである。苦笑いを浮かべているトワが、どのような手法を用いたのか会長としては気になるところだ。

 

「……最初は、私も面喰わされました」

 

 再びサリファが囁きかける。抱いた疑問の答えを聞ける気がして、会長は耳を傾けた。

 

「どのくらいでヴィンセント様を諌めようか考えていたところに現れたハーシェル様は、要望をお断りする旨を伝える訳でもなく、ご持参したスルメを片手にお茶でもしようと誘われてきたのです」

「……スルメ片手に?」

 

 冷静沈着の会長が唖然とさせられる。同じ学院生とはいえ、貴族相手にそのような真似を試みる平民がどこにいようか。恐れ知らずにもほどがあるだろう。

 出だしから斜め上の話に調子を乱されるが、サリファの話は始まったばかり。重要なのはここからだった。

 

「ヴィンセント様も戸惑っておられましたが、渡されたスルメが思いがけず美味でして――」

「その話は結構だ」

「これは失礼。ともかくスルメで少し気を許されたヴィンセント様に、ハーシェル様は要望の理由をお聞きになりました。この時点でペースはハーシェル様が完全に握っておられ、後は巧妙な話に乗せられるがまま……」

 

 この通りでございます、と締めたサリファの視線の先には空回り気味の貴族生徒と極まってお人好しな平民生徒という奇妙な取り合わせが、これまた妙に気が合ったように談笑する様子だった。無茶な依頼を断りに行かせたはずが、このような結果になるなど誰が想像できようか。

 悪い結果ではない。だが、どうにも納得がいかない会長は憮然とした表情を浮かべる。何かが腑に落ちない。それが、彼がトワを素直に評価することを妨げていた。

 対してサリファは、その落ち着いた容貌に僅かながら微笑を浮かべる。

 

「ヴィンセント様がどうなさるか楽しみにしておりましたが、ああも上手く丸め込まれるのは新鮮でございました。生徒会は有能な新人をお迎えになったのですね」

 

 なにやら主人を娯楽の一種として捉えているかのような発言は気に掛かったが、そこは置いておくとする。他家の事情にまで踏み込む必要はないだろう。

 それより会長には引っ掛かる言い回しがあった。トワはヴィンセントを「上手く丸め込んだ」と彼女は言った。傍から見れば確かにそうだろう。無茶を言う依頼主の懐に気を緩ませることで潜り込み、巧みな話術で意識誘導することで反感を買うことなく問題を解決した。トワがやったのは、簡単に言えばそういうことだ。確証はないが、他の依頼に対しても同様の手口を用いたのだろう。

 だが、会長はその認識から違和感が拭えない。

 どこに違和感があるのか、どうして違和感がするのか。思考に埋没し、しばし後に「ああ」と声を漏らす。

 

「素だったか」

 

 違和感の所在を理解した途端、腑に落ちない感情も氷解する。トワの性質を考えれば、答えは瞭然であった。

 丸め込もうなどと、彼女は考えていない。あるのは相手のためになるにはどうしたらよいのか、より良い結末を迎えるにはどうしたらよいのかという純粋な善意。その行動の末に結果的にそうなっただけであって、計算してこの状況に持ち込んだわけではないのだ。

 納得すると同時に呆れてしまう。相手の心理を突く計算高さを持っているのかと思いきや、実際は究極のお人好しだ。見聞きした印象と本性が食い違っているのだから違和感があって当然である。

 ヴィンセントと談笑するトワは実に楽しそうだ。謀をしたのであれば、あそこまで屈託のない笑顔を浮かべることはできないだろう。つまりは善意からくる素の行動で気難しい貴族生徒を容易く絆し、これまた純粋に相手のことを思っての提案をすることで納得させてしまったことになる。

 それを理解し、納得し、脱力してしまう。心なしか大きな溜息が会長の口から漏れた。

 

「そうとなれば直近の機会は来月の定期テストとなるか。ならばこのヴィンセント・フロラルド、完璧な用意の下に学年一位の座に立つことで、まずは才気溢れる頭脳を知らしめてみせようではないか!」

「うん。その調子で頑張っていけば、ファンになってくれるかはともかくとしてヴィンセント君を認めてくれる人はきっといるようになると思うよ」

「ああ、助言に感謝するハーシェル嬢。行くぞ、サリファ! 手始めに今日の課題を片付けてくれる!」

「かしこまりました」

 

 気の抜けた様子の会長を見てサリファは不思議そうだったが、それを問う間も無く彼女の主が声を上げる。何やら知らないが、当面の行動目標は定まったらしい。

 学生として至極真っ当なことを述べつつ退室した彼を追って、サリファも一礼して生徒会室を後にした。客人二人がいなくなっただけで随分と静かになった気がした。

 呑気に「頑張ってねー」と手を振って見送るトワ。彼女はヴィンセントが言っていた学年一位の座の前にはだかる最大の障害が自身であることを果たして認識しているのか。いや、きっと気付いていないのだろう。来月の試験結果を幻視して会長は再三眉間に手を伸ばした。

 

「……? お疲れみたいですし、お茶を淹れますね。よかったらスルメも召し上がってください」

 

 故郷自慢の特産品ですから、と胸を張るトワに適当に相槌を打つ。いちいち指摘するのも面倒くさかった。結果はどうあれ、問題は解決したのであとは野となれ山となれと捨て置くことにする。

 会長席に座るや否や出されたスルメを指でつまみ、しげしげと眺める。お茶を淹れに行こうとするトワの背中に会長は「ハーシェル」と声を掛けた。

 

「君は人誑しの才能があるな」

「はい?」

 

 よく分かっていない彼女に「何でもない」と言ってスルメを口に運ぶ。釈然としないが、正直なところ美味かった。

 




【クレハ】
那由多の軌跡におけるキーキャラクター。テラの星の庭園で眠りについていたが、とある出来事を切っ掛けに目覚めてナユタと関わっていくことになる。ちなみに小説版ではシグナと一緒に拾われて最初から残され島にいることになっている。

【星の欠片】
内部に映像を収めた結晶体。残され島に落下してくる遺跡と共に発見され、同じく遺跡から発掘された星片観測機を使うことで映像を投影することができる。観測にはコツが必要であり、ナユタの姉、アーサなどの星片観測士がこれを生業としている。

【ロストヘブン】
荒れ狂う嵐の海域、世界の果てに存在すると言われる秘境。星の欠片が映し出す光景はここのものだと想像されている。ナユタの両親はロストヘブンは目指した末に帰らぬ人になった。

【ドラッド】
残され島の衛兵。ただし、あまり実力は期待できない。冴えないオッサンだが、後には力不足を感じてオルバスに鍛えてもらうなど気概はある。

【干物】
既出のロコモコ丼と並ぶ残され島の特産品の一つ。村長お気に入りの一品である。ちなみにもう一つの特産品は遺跡に滞留して結晶化した岩塩。


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第16話 実技教練

今回は久しぶりにがっつりと対人戦を書きました。戦闘全般に言えますが、イメージはできても文章にするのはなかなか苦労します。それだけに納得のいく表現が浮かんだら楽しいのですがね。
そういえばトワの戦闘スタイルをちゃんと書いた覚えがないな、と執筆中に気付きましたので、ここらで明確にしておきたいと思います。イメージしやすくするために参考にしたものを紹介しておきましょう。

――拙作トワの到達点はマスター・ヨーダです。



「導力停止現象終息、オリヴァルト皇子ご活躍、ねぇ……」

 

 月末近づく、ある日の放課後。

 グラウンドに続く階段に腰かけながら、今月の帝国時報を広げていたクロウが見出しの内容をぼやくように口にする。横並びに座っているトワ、アンゼリカ、ジョルジュら実習試験班の面々も、横からその記事を覗き込んでいた。

 それぞれ興味深げな様子ではあるものの、そこまで特別な感情は見せていない。だが、トワだけは心の底から胸を撫で下ろしていた。

 

「リベールの異変、無事に解決したんだね。本当によかったよ」

「南のパルム市も影響を受けていたようだし、それについては同意だが……君がそこまで気に掛けていたとはね。あくまで外国のことだろう?」

 

 目敏くその様子に気付いたアンゼリカが問うてくる。返事をしたのは姉貴分の方だった。

 

『ヴァレリア湖上空に現れたっていう構造物、あれは古代ゼムリア文明にまつわるものだと思うの。もしかしたらテラと同じ類のものかもしれないし、気になって当然なの』

 

 虚空からの声にもすっかり慣れた面々は「なるほど」と頷く。

 紙面には確かに湖上に現れた巨大構造物について記されており、望遠のせいで不鮮明ではあるが、両端に翼のようなものがついたすり鉢状の物体の写真もある。サイズは違えど、かつて大きな異変を引き起こしたテラと似たようなものが出現すればトワやノイが懸念するのも無理はない。

 異常気象が発生したり、空から瓦礫が降ってくるのに比べれば、一時的にインフラが途絶した程度で済んだのは不幸中の幸いと言えるのかもしれない。少なくとも、世界の終わりを思わせるものではないのだから。

 もっとも、それは実際に立ち会っていない他人事だからこそ思うことなのだろうが。人々の生活にオーブメントが欠かせなくなったこの時代、導力が停止したことで多くの被害を被ったのは想像に難くない。それに、もしかしたら導力停止以上の何かが起こる可能性もあったのだ。自分が知るものと比べて軽く見積もるのは適切ではないだろう。

 何にせよ、この異変を解決してくれた人たちにトワは頭が下がる思いだった。紙面にはリベールの遊撃士が中心となって解決したとあるが、いったいどのような人たちなのだろうか。

 個人的にも遊撃士とは縁がある。いつか会えたらいいな、とトワは思うのだった。

 

「それにしてもオリヴァルト皇子か……確か、この学院の理事長も務めていらっしゃるんだよね」

「らしいな。名前を見ることなんて殆どねぇが、庶子っていう話だから無理もないのかね。皇位継承権も放棄しているそうだしな」

「うーん……残され島だと、そういう話を聞く機会があまりないから私は名前くらいしか知らないんだよね。アンちゃんは会ったことあるの?」

 

 一面を飾る皇子に話が移った所で、興味本位でトワはアンゼリカに問い掛ける。奔放とはいえ四大名門の令嬢、皇族が出席するような場にも顔を出した経験はあるだろう。トワには想像がつかない世界のことも知っている筈だ。

 聞かれたアンゼリカといえば、記憶を手繰るように「そうだな……」と零した。

 

「直接の関わりはない。年始の会に遠目で見ることがあるくらいか。普段からそういったところに顔を出すことは少ない方だからね」

 

 どうやらアンゼリカもそれほど詳しいわけではないようだ。ちょっと残念な気持ちになるが、そこで彼女は「ただ」と言葉を続ける。

 

「お目見えすることが少ないだけに、流れている噂の数は多い。そういった類にあまり興味のない私の耳に届くくらいにはね」

『へえ、どんなの?』

 

 したり顔でそう言われてしまえば気になってしまう。興味津々な声色のノイに笑みを深めながらも、彼女は持ち得る情報を開陳する。

 曰く、美食家にして音楽を愛する。

 曰く、護衛のヴァンダール家の者とは親友同士でもある。

 曰く、機知に富み聡明である。

 聞いている限り、かなり優秀な人物のようだ。噂なのでどこまで本当か分からないが、事実なら皇位継承権を放棄していることが惜しまれるくらいだ。食や音楽に造詣が深いというのも文化的で好印象である。

 

「――とまあ、代表的な噂はこんなところだが、中には真偽が殊更に疑わしいのもあってね」

 

 ところが、そこまで話したところでアンゼリカは表情を半信半疑といったものにさせる。彼女自身、疑わしいと思っているのが察せられる。

 

「殿下は行動が浅慮で皇族としての自覚が薄いとか、親友と実はアレな関係なのではないかとか……恐らくは庶子であることを虐げる連中の妄言だろうがね」

「それはまた……貴族社会というのも大変なようだね」

「ああ、まだ山籠もりの方がマシといったものさ」

 

 貴族子女としてはどうかと思うが、本人は心の底からそう思っているのだろう。うんざりといった様子で溜息を吐くものだから本気であることが否が応にも伝わってくる。

 もしかしたら奔放な振る舞いをしているのも、貴族社会から遠ざかるためのものなのだろうか。トワは何となく、そう思う。あくまで勝手な想像ではあるが。

 そんな想像を働かせている横で、アンゼリカは改めて雑誌の紙面に目を通す。その面持ちは思案顔だ。

 

「……だが、殿下がこうも積極的に動かれているのは本当に珍しい。あの方にも、何か今回の件で思われることがあったのかもしれないね」

「ま、おかげさんでリベールと関係が悪化せずに済んだわけだ。皇子殿下の思惑はともかく、一先ずはめでたしめでたしってところだろ。素直に喜んでおくとしようぜ」

 

 一時はリベールの新兵器が原因なのではないかと囁かれていた今回の異変。オリヴァルト皇子が解決に貢献したという事実は、一部とはいえ被害を受けていた帝国民の感情を納得させるのに十分なものだろう。実情はどうあれ、見方によっては帝国が異変の解決に取り組みつつも、リベールの顔を立たせたようにも受け取れるのだから。これがリベール単独で解決していたら隣国への疑心は完全には払拭されなかったに違いない。

 クロウの言う通り、ここは素直に喜ぶべきなのだろう。何はともあれ、少なくとも新たな戦争の火種になるのは避けられたのだから。誰も好き好んで戦争がしたいとは思わない。

 

「そうね。波紋はあるでしょうけど、安心しなさい。それはアンタたちには関わりのない範囲のものでしかないわ」

 

 不意に、背後から声が響く。揃って校舎側に振り返り、そこに立つ女性教官の姿に「やっとか」と言わんばかりの目を向ける。ノイは姿を消したままこっそりと遠ざかっていった。

 

「おいサラ、呼び出しておいて随分と遅いじゃねえか」

「悪かったわよ。ちょっと口やかま……んんっ、説教臭い教頭に捕まっちゃってね」

「あまり変わっていませんよ、それ」

 

 ジョルジュの冷静な突っ込みにサラ教官は「まあ、いいじゃない」とまるで悪びれた様子を見せない。そういう適当な態度が教頭を怒らせる原因になっているのだろうに。言っても仕方ないので口にはしなかったが。

 ともあれ、待ち人の到着に四人は階段から腰を上げる。彼女らが放課後のグラウンドで座り込んでいたのは他でもない、サラ教官から呼び出されてのことだった。

 サラ教官からの呼び出しに、この面子。そして月末が近付いている時期からして、用件は分かり切ったようなものだ。教官の口から出てきた言葉に対して驚きは無かった。

 

「自主的な時事勉強、大変結構。けど切り替えていきなさい。ここからは楽しい楽しい試験実習のお時間よ」

 

 

 

 

 

 乗馬部やラクロス部が活動する姿を遠目に見つつ、一同は閑散とする裏門近くに移動する。わざわざ人気の無いところへ場所を移す理由は分からなかったが、一先ずはサラ教官の先導に従う。

 

「さて、第二回の試験実習地は……と早速言いたいところだけど、実はその前にやってもらわなきゃいけないことがあるのよね」

「え?」

 

 思わず間の抜けた声が出る。以前の説明の時は、実習地はケルディック、実施日は今週末の土日、はい終了。そんな具合だっただけに、今回も必要最低限の簡潔な話で終わるものかと思っていた。

 一方、サラ教官は目をパチクリさせるトワに呆れた目を向ける。出来の悪い妹に言い聞かせるように「アンタねぇ」と続けた。

 

「不測の事態の末に大型魔獣と戦って、その体液まみれになって生徒が帰って来たっていうのに、そのまま次の実習に送り出せると思っているの? こっちにも管理責任っていうのがあるのよ」

 

 言われ、誤魔化すような苦笑いが浮かぶ。確かにその通りだ。

 先月の試験実習でのヌシとの戦い。幸いにも大きな怪我は無かったが、腹を突き破って止めを刺したトワは、それを見たオットー元締めの寿命が縮まんばかりの酷い有様だった。実を言うと制服にシミになって残ってしまっていたりする。

 前回は無事だったとはいえ、一歩間違えば大惨事になっていたのだ。学院側としては「はい、そうですか」と放置するわけにはいかない、ということだ。試験実習は続けるとしても、何かしらの対策を練る必要がある。

 

「もう気付いているでしょうけど、特別実習は全てが生徒の自主的な判断によって行われることを想定している。その点、アンタたちが魔獣被害の調査に乗り出したのは実習としても意義があるものだった」

「それは光栄ですが、そういうことは最初に言っておいて欲しかったですね」

「まったくだ。放任主義にもほどがあるっつうの」

 

 普段は反目してばかりの二人による息の合った文句を、サラ教官は意に介さず聞き流す。

 

「だから行動の制限はしない。その代わり、行動に見合うだけの実力を付けてもらうわ」

 

 特別実習の趣旨として、危険な目に遭わないよう行動を制限するのは本末転倒。それならば、いざという時に対応できるだけの実力を備えさせておくことで対策とする。つまりはそういうことか。

 理には適っているのだろう。危険への備えとしてはもとより、依頼の性質上、魔獣との戦闘は起こりやすい。実力を付けることは手っ取り早い対抗手段となる。

 となれば、この場に呼び出された意味にも理解が及ぶ。トワは推測を口にした。

 

「えっと、もしかして呼び出したのは実技教練が目的だったり……?」

「よく分かっているじゃない。なら余計な説明は必要ないわね」

 

 勘のいいトワに、サラ教官はからからと笑う。いらぬ手間が省けたとばかりに。

 そんな適当さに白い眼が向けられる間もなく、彼女は「じゃあ早速」と言い。

 

 

「今のアンタたちがどれだけやれる(・・・)か。見せてもらいましょうかっ!」

 

 

 紫電の如き闘気が、その身から解き放たれた。

 武具を構える。右手に強化ブレード、左手に導力銃。彼女の髪と同じく紅紫色に染まったそれらは、見るだけで苛烈で攻撃的な戦闘スタイルを想起させる。サラ教官は一瞬のうちに完全な戦闘態勢に入っていた。

 

「……はあ、嫌な予感はしていたけど」

「時には諦めも肝心さ。腹を括りたまえよ」

「面倒くせえ……が、仕方ねえ。いつぞや言った一発殴るチャンスと思うとするか」

「……どれだけやれるかは分からない。でも、全力を尽くさせてもらいます!」

 

 見ただけで勝てないことは明白だった。技量も、経験も、何もかもが及ばない。四対一という数の有利などあってないようなもの。それを自ずと理解させられる気迫と闘気がサラ教官からは感じられた。

 だが、それでもトワたちは武具を構え相対する。避ける事など出来はしない。ならば、せめて全力を以てぶつかるのみ。何より四人のうち誰もが、ただやられるだけに甘んじるほど根性なしではなかった。

 そんな教え子たちにサラ教官は笑みを深める。期待通りだとばかりに、嬉しそうに。

 

「トールズ士官学院、戦術教官サラ・バレスタイン――参る!」

 

 それが合図だった。地を蹴り、爆発的に加速したサラ教官が迫る。標的はジョルジュ。俊足に対応しきれない彼に強化ブレードが一閃される。

 しかし、白刃は割って入った手甲にいなされた。

 火花を散らしながらブレードを捌き切ったアンゼリカは反撃の拳を振るう。拳打、蹴撃、掌底。間合いの内に踏み込んでの連撃は、身を開き、受け止められ、衝撃を吸収されることで悉く防がれる。流れるような回し蹴りが逆に襲い掛かり、咄嗟に十字に腕を組んで守りを固めるも横に身が流される。

 アンゼリカがどかされた瞬間に振るったジョルジュの鉄槌も、見越していたように後ろに身を翻すことで難なく回避。向けられる銃口。顔を引き攣らせるジョルジュを余所に、サラ教官は「あら」と右に注意を傾ける。

 二丁の導力銃から放たれた銃弾が地を穿つ。回避に移り、跳び退る相手を追うようにクロウの銃口もまた動いていく。だが、彼もまた顔を顰めさせることになる。跳び退り、宙に身を躍らせたサラ教官が引き金を引く。その弾丸、雷の如し。洒落にならない攻撃にクロウも退避を選んだ。

 三人の攻撃を軽々と凌いで見せたサラ教官に息の乱れはない。まだまだ余裕。実際その通りなのだろう。

 

「ほら、もっと気合入れてきなさい。さもないと――」

 

 直上からの剣閃をサラ教官は焦ることもなくいなす。刃と刃がぶつかり合う甲高い金属音。空中から強襲し、一気に間合いに潜り込んだトワは休むことなく斬りかかる。身軽さを活かした、手数の攻め。打ち合うこと数合、鍔競り合う。

 サラ教官の笑みは、ますます深くなる。

 

「息をつく暇も与えずに、一気に片付けちゃうわよ……!」

「そうならないように努めます……! クロウ君!」

 

 駆動は既に終わっていた。呼びかけに応じてクロウが発動したクロックアップがトワにかけられる。競り合うブレードを弾き、速度を増した連撃で挑みかかる。

 足りない膂力は身体全体を使っての遠心力を利用して、背丈の差は身軽さによる跳躍力を武器にして。小柄な体躯を最大限に活かしてトワは立ち向かう。戦闘において、短所こそが彼女の最大の長所だった。

 足元を薙ぐ一閃。跳躍し、回避しつつもサラ教官の背後に回る。

 

「アンちゃん!」

「合点承知!」

 

 前方からアンゼリカ、後方からトワ。サラ教官の顔に初めて緊張が走る。

 銃撃により迫るアンゼリカを牽制しつつ、後背より仕掛けてくるトワに応戦。剣戟を交わしつつも囲まれないように立ち回り、銃撃を潜り抜けて接近してきたアンゼリカに死角を突かせない。

 正面から攻めても無意味。早々に判断を下した二人は一息に後退する。追撃の構えを見せるサラ教官。だが、後退の意図に気付くや否や自身もその場から飛び退く。水のアーツ、ブルーインパクトが噴き上げるも、標的を逃したクロウが「チッ」と舌打ちした。

 しかし、躱されることも想定の内。飛び退いた先に回り込んでいたジョルジュが機械槌を振りかぶる。

 鉄塊が叩きつけられ、地が揺れる。土煙が上がるも、サラ教官は紙一重で回避していた。反撃によってジョルジュを正面から蹴り飛ばすが、彼女は怪訝な顔となる。硬く、手応えが薄い。

 地のアーツ、クレスト。事前に補助アーツで身を固めていたジョルジュは数歩ばかり後ずさっただけだった。

 

「おおっ!!」

 

 機械槌を振り上げ一回転させ、地面を抉るように掬い上げる。接地するのと同時に発生する導力爆発。爆裂によって生み出された土飛礫と岩塊が前面に殺到する。

 これにはサラ教官も斬り抜ける術を持たない。襲い来る飛沫の範囲から抜けるために距離を取る。

 即座にジョルジュを囲むように陣形を組み直す四人、追撃に備えて導力銃を構えたサラ教官。どちらも待ちの姿勢であったことで図らずも一拍置く形となる。ふっ、とサラ教官は笑みを浮かべた。

 

「思っていたよりもやるじゃない。随分と良い連携をしてくるけど、それもARCUS……戦術リンクの恩恵ということかしら?」

「ですね。いくら同じ実習班だからといって、一カ月くらいで無言の連携が出来るわけがないですし」

「これでも影ながら自主練とかしていたんですよ。クロウは嫌々でしたけど」

 

 ケルディックでの試験実習を経て、トワたちは辛うじてながら戦術リンクを活用できるようになっていた。言葉を介さない戦闘時の意思疎通、援護に入るタイミングの見極め、仲間全体の戦況の認識。今まさにサラ教官と渡り合う中でも戦術リンクは多大な効果を発揮していた。これがなければ瞬く間に各個撃破されていただろう。

 無論、その成果は不断の努力があってこそ。先月の実習後も最後の最後で掴んだ感覚を物にするために、空いた時間を見つけてはリンクの確立に力を注いできた。面倒がるクロウは単位が云々の話で釣り上げた。

 おかげで戦術リンクが繋がらないという実証試験としてスタートラインにも立てていない事態は解決、なんとか実戦でも通用するようになった。努力の甲斐があったというものだ。

 教官として喜ばしいことだったのだろう。うんうん、と生徒の努力に感慨深く頷くサラ教官。

 

「運用テストにも真面目に取り組んでくれているようで嬉しい限りよ。指導役のアタシの面目も立つってもんだわ」

「面目を気にするなら普段の生活態度を改めるのが先決だと思うんだがな。もう飲兵衛教官っていうイメージが付いちまってるぜ」

 

 休日のキルシェで深酒していれば、さもありなん。学院という狭い社会で情報が出回るのに時間は掛からなかった。サラ教官の私生活はだらしない、というのが学院内における共通認識と成り果てていた。

 当の本人は大人の余裕でも見せつけるかのように平然と振舞う。しかし、トワは気付いていた。その額に青筋が浮いていることに。サボりの常習犯に生活態度云々言われたら「お前が言うな」という気分にもなろう。

 

「若者らしく元気がいいわね。それ自体は大変結構だけど……」

 

 ピリピリとした雰囲気を纏いながらサラ教官は言う。心なしか闘気が増したのは気のせいか。

 

「その連携、何時までもつ(・・)のかしら?」

 

 小休止はそこまでだった。再び迫るサラ教官。その突撃を防ぐようにアンゼリカとジョルジュが矢面に立ち、トワとクロウは二人の援護と教官の隙を突くべく散開する。

 先ほどは上手く凌げたが、四人とも分かっていた。あれはサラ教官が本気で攻めかかって来ていなかったからだと。小手調べに過ぎない攻勢だったからこそ、自分たちの連携も噛み合い、対応することができた。自分たちの実力を過信するほどトワたちは未熟者ではない。

 その事実が今、目の前に現実となって立ち塞がる。重い一撃、凄まじいスピード、瞬間的な判断力。意志を持った嵐が襲い掛かってくる。迅雷を纏う相手を前に、トワたちは必死の思いで攻撃を防ぐ。守勢の維持に掛かり切りとなり、とても反撃に移る猶予など見出せない。

 そして、その守勢にもとうとう綻びが生まれる。

 

「ぐおっ!?」

「くっ……しくじったか!」

「っ! アンちゃん、下がって!」

 

 ブレードを凌いでいたアンゼリカを援護するべく、クロウと戦術リンクが結ばれた矢先、その繋がりは細い糸が切れるかのように雲散霧消する。突如として共有していた感覚を喪失し、一瞬とはいえ怯んでしまう二人。異常を察知したトワが指示を出した頃には既に遅かった。

 

「まずは一人っと」

 

 隙を晒したアンゼリカが瞬く間に薙ぎ倒される。一筋の亀裂に刃を捻じ込み、無理矢理に抉じ開けていくかのようにサラ教官は進撃する。

 孤立したジョルジュを連撃が襲う。機械槌を盾に凌ごうとするも、跳躍しての雷撃を纏った一撃に防御ごと切り崩される。巨体は吹き飛ばされ、地面を転がって動かなくなった。

 クロウが牽制の弾幕を張るも、サラ教官はまるで臆することなく彼へと接近する。射線を悉く読み切り縮まる距離、銃の間合いから剣の間合いへ。弾を撃ちきっても装填する時間は無く、クロウは回避と防御を余儀なくされる。止む無く銃身で剣を防ぎ、身を捻って躱すも、それは長く続かない。あわやという所で地に身を転がし、直後に頭付近で着弾の土煙が上がる。その意味を理解し、クロウは諦めたように大の字になる。

 

「さて、これで後はアンタだけだけど……」

 

 サラ教官が振り返り、かざしたブレードと刀がぶつかり合う。正面から打ち合うようなことはしない。常に円を描くように動き回り、ヒット&アウェイで立ち向かう。

 押し返すように刀ごと弾かれ、追撃の銃撃が襲う。辛うじて躱したトワに、サラ教官は微笑んだ。

 

「諦めたりはしないようね。いいわ、とことん相手してあげる」

「あはは……お手柔らかにお願いします」

 

 助けに入る間も無く三人が倒され、残されたのはトワ一人。最初から勝ち目など見出せず、もはや一矢報いることさえ出来ないだろうが、それでも彼女は刀の柄を握り直す。幸か不幸か、勝てない相手との戦いには慣れていた。だから純粋に自分の力を出し切るために、高みへと挑戦する。

 サラ教官は強力な前衛型だ。その細腕のどこにそんな力が秘められているのか不思議なほど剣は重く、足は俊敏、おまけに守りも堅い。そして何より冷静な判断力が適切な動きを導き出し、四方八方から切り崩そうとするトワを攻めあぐねさせる。

 そして攻めてばかりもいさせてくれない。相手からも攻撃の手は絶えず繰り出され、神経を張り詰めることを余儀なくされる。力の差は歴然、まともに受けたら間違いなく押し切られる。だから躱せるものは躱し、どうしても無理なものは上手く力を逃がして受け流す。

 

「うっ!?」

 

 だが、それはギリギリの綱渡りをするようなもの。少しのズレが致命となる。

 跳躍し、着地した瞬間を突いてブレードが振るわれる。受け流すことはできなかった。刀を押し下げられたトワの額には、ピタリとサラ教官の導力銃が突き付けられていた。

 

「……はあ、参りました」

「ふふん。どうよ、これがお姉さんの実力よ」

 

 自慢げに胸を張る。自分はただの飲兵衛ではないぞ、とでも言うように。一応、気にしていたのだろうか。

 それにしては少々、大人げないと思うが、わざわざ言って気を損ねることもない。トワは曖昧な笑みを浮かべて誤魔化した。

 

 

 

 

 

「じゃ、今回の実技教練の総評だけど」

 

 簡単な応急処置と休息の後、サラ教官がそう切り出す。四人を相手にしてピンピンしている彼女に対して、トワたちは未だぐったりしている。特に防御ごと吹き飛ばされたジョルジュは疲労困憊である。

 

「途中まではよくやっていたと思うけど、戦術リンクが切れたのかしら、あれ? 途端に動きが鈍くなったじゃない」

「あー……まあ、なんとか活用できるようになったといっても、まだまだ不完全なのは確かでな」

「リンクは繋げられるんですが、ふとした拍子に切れてしまうこともあるんです。ARCUS自体が未完成であること、僕たち自身に及ばない部分があること。原因は両方でしょう」

 

 サラ教官に一気に切り崩される原因となった戦術リンクの途絶。それはトワたちが自己鍛錬を積んでも解決できなかった問題だった。

 戦闘中、糸が切れるように突如として戦術リンクが途切れてしまう。機能している最中は高い効果をもたらすだけに、それが失われた際に生じる隙は埋めがたい。見えていたものが急に見えなくなってしまえば、どうしても怯んでしまうものだ。

 誰とのリンクでも途絶の可能性は潜む。ただ、感覚的にはクロウとアンゼリカの間で途絶する回数が多いというのが四人の共通認識だった。これもまた、使用者の人間関係に左右される戦術リンクの特性によるものなのだろう。

 

「なるほど、全体としての課題はそこを克服することね。あと途絶しても、そのままやられないようにすること。注意してればもう少しやれた筈よ」

「いつもならトワの指示でなんとかリカバリも効くのですが、サラ教官相手ではそんな暇もありませんでしたしね。ここは個々人で努力するべきところですか」

 

 四人共通の目標は戦術リンクの安定化として、個人の指標も示さなければ実技教練の意味がない。サラ教官は「そうねぇ」と少し考えてから口を開く。

 

「アンゼリカ。アンタは泰斗流の使い手だけど、アタシの知っている他の使い手と比べると動きに結構な違いがある」

「そうでしょうね。私の場合、かなり我流が入っていますし」

「なら、もう一度正道に立ち直ってみなさい。正道はその流派が今までに積み重ねてきた研鑽の結晶、動き一つとっても相応の意味があるものよ。師匠の教え、忘れた訳じゃないでしょう?」

 

 我流が入っているが故に、洗練された流派本来の動きとは異なってしまう。あまり型に固執すれば柔軟性を損なうが、今のアンゼリカに必要なのは基本に立ち返り、無駄を削ぎ落とすことだとサラ教官は言う。

 言われた当人も思い当たることがあったのだろうか。言葉を吟味し、素直に「精進します」と頷いた。

 

「ジョルジュ。割と本気で蹴ったのに反撃してきたのはいいガッツだった。もっと足腰を鍛えなさい。そうすれば仲間を守る盾になれる筈よ」

「補助アーツをかけても結構しんどかったんですけど……まあ、なるべく頑張ります」

 

 四人の中では最も戦闘経験が浅いジョルジュには防御の要となる道を示す。彼は武術には通じていなくとも、体格と膂力には恵まれている。重い機械類などを取り扱ってきたおかげか、筋力と持久力も備えており、前線を維持するディフェンサーとして適役と言えた。

 鍛えるべきは攻撃に耐え、踏ん張るための足腰。そして折れることのない精神力と正面から立ち向かう胆力か。精神面に関しては経験を積んでいく他ないが、そこは試験実習に参加していけば否応なく培われていくだろう。

 

「クロウ。後衛としては銃もアーツの腕も申し分ないわ。後は仲間と戦っていることを意識するようにしなさい。トワだけじゃ限界もあるだろうし、全体を俯瞰できる後ろからサポートできるようになるのが理想ね」

 

 クロウは個人単位の戦闘力としては、あまり指摘することはない。求めるとすれば、それはチームワークの強化。単体の戦力としてではなく、全体の状況を把握し、リーダー格であるトワのサポート役になること。

 面倒臭そうな顔をしながらも「ウッス」と返事はする。そんな彼にサラ教官はついでとばかりに聞く。

 

「ところでアンタ、実は剣も握れるんじゃないの? 近接戦の動き、銃使いにしてはやたらと良かったじゃない」

「ちっとばかりナイフの扱いを齧っているだけだよ。本職には及ばねえさ」

「ふうん……ま、いいわ」

 

 どこか探るような目を向けつつも、さっさと切り上げる。深く聞くまでのことでもないと判断したのだろう。

 そして最後の一人、トワへと向き直る。ここまで割とスムーズにそれぞれの改善点を伝えてきたサラ教官だったが、最後になって途端に難しい顔をする。いったい何を言われるのやら、とトワも若干不安になってしまう。

 

「下手に指導すると後が怖いのよねぇ……先生がなんて言うか……」

「え?」

「ああもう、何でもないわよ」

 

 何かボソッと呟いたように聞こえたが、サラ教官は有耶無耶にするように手を横に振る。何やら「どうとでもなれ」という諦観を漂わせているのは気のせいか。

 

「剣の扱いと身のこなしに関しては文句なしで学院上位の腕前よ。ただ、格上相手には動作の隙が致命的になる……なんかアンタの力が及んでいないというよりは、ピースが一つ足りないっていう印象なんだけど。何なのかしらね、これ?」

 

 自分で言いつつも首を傾げるサラ教官の発言に背筋が凍る。ピースが一つ足りない。まさにその通りだったからだ。

 トワの戦闘はヒット&アウェイを主軸とし、身軽さを活かした跳躍を多用する。相手に対する牽制と威嚇の効果も兼ね備えると同時に、その大きな動作故に隙も生じてしまうのだが、その隙を埋めるのが相棒のノイである。彼女の四季魔法とギアクラフトによるサポートがあってこそ、トワの戦闘スタイルは完成する。

 それを感覚的に察知するとは、末恐ろしい勘を持った教官だ。誤魔化しの笑みを浮かべつつ、トワは内心で冷や汗を流した。

 

「と、取り敢えず隙を埋められるようにすればいいんですよね。頑張ります!」

「うーん……ま、いいか。アタシがとやかく言わなくても、自分の特性は分かっているみたいだし」

 

 実際、いつまでもノイに頼ることを前提にしているのはよろしくない。魔獣相手ならともかく、事情を知らぬ人前では彼女は戦えないのだから。一人の剣士としての完成を目指す意味でも、サラ教官の指摘は無駄ではなかった。

 教官も教官で頭にもたげる疑問に折り合いをつけたようだ。考えても仕方がない、という面が強そうだが。

 一先ずはこれで全員にアドバイスを出し終える。後は実戦の中でトワたちがその通りにしていけるかの問題だろう。一朝一夕で実現できないものなのは確かだが、これからの試験実習で積み重ねていけば何時かは実る筈だ。

 区切りもついたところで、サラ教官は話を次へと移す。むしろここから本題とも言えた。

 

「じゃあ実技教練はここまでにしておくとして、お楽しみの時間としますか。はい、これ回していって」

 

 そう言ってトワに渡されたのは四通の封筒。学院が掲げる有角の獅子の紋章が入った格式ばったものである。

 

「今回は書面での通達ですか。前回は口頭でしたけど」

「別に口で言ってもらっても構わねえんだがな。来年はともかく、今は俺たち四人しかいないんだしよ」

「仕方ないじゃない。学院長からちゃんと記録に残る形にしておくようにって言われたんだから……あのチョビ髭教頭も五月蠅いし」

「まあまあ。これも来年の予行練習だと思えばいいじゃないですか」

 

 ブツブツと文句を零すサラ教官。書類という形にするよう言われたことよりも、ハインリッヒ教頭に小言を言われたこと自体が気に食わないようだ。それを宥めながら、トワは封筒を他の面々にも回していく。

 全員に渡ったところで、示し合せた様に同時に封を開ける。はてさて、今回の実習地はどこなのか。不安と期待が綯い交ぜになった心地で簡素な書面に目を通し――

 

「……ヘイムダル?」

 

 帝国人であれば誰もが知るその名を、呆気に取られたように呟いた。

 

「そう。大陸でも有数の大都市にして、皇帝を戴くエレボニア帝国の中枢……緋の帝都ヘイムダルが次の実習地よ」

 

 土産話、楽しみにしているから。

 そう言ってサラ教官はトワたちに期待という名の重しを背負わせた。

 




【四季魔法とギアクラフト】
四季魔法は所謂アーツ、ギアクラフトはステージ上のギミックの解除などに使用する。ギアクラフトはストーリーの進行で自然と習得していくが、四季魔法は特定の魔獣を倒すほか、クエストの達成が習得に必要。どちらも使用にタイムラグはないが、四季魔法には使用可能回数が、ギアクラフトはクラフトゲージの消費があるため乱発は出来ない。


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第17話 緋の帝都

今回から試験実習も第二回。クロス―バーも本格化してまいります。
挿絵とか描けたらよかったんですけどね……中高で美術が3を超えたことが無いからね、私……絵心皆無のため無理なんですよね……皆さんで想像力を働かせてくださるようお願いします。


 五月末日、試験実習当日。トリスタ駅から大陸横断鉄道に乗車したトワたちは、帝都ヘイムダルに向かう鉄路を進んでいた。

 先月の実習に比べ、時間はそこまで早くはない。近郊都市トリスタとヘイムダルの距離はさほど離れておらず、鉄道で三十分ほどしか掛からない。わざわざ早朝に出る必要もないのだ。

 それなので一同は無理に早起きする必要もなく、万全の準備を整えて実習地に迎えているのだが……一名ほど、やけにそわそわしている人物がいた。

 

「……トワ。なんか落ち着かない様子だけど、何かあったのかい?」

「えっ!? あ、ううん。な、なんでもないよ」

 

 先ほどから妙に窓の外を気にしている小柄な少女。それを不思議に思ったジョルジュが問い掛ける。

 手をぶんぶんと振りながらも否定するトワ。しかしながら、その素振りは余計に疑念を助長するだけである。事これに関して、彼女は嘘をつくというのがめっぽう苦手であった。集まる視線に引き攣った笑みを浮かべて冷や汗を垂らす。

 

『もう、素直に帝都の街並みが気になるって言えばいいの。変に意地張っちゃって』

 

 そこに姉貴分の声が響く。どういうことかと首を傾げる一同に、突然の発言に「ちょ、ちょっと!」と狼狽するトワ。制止の声などお構いなしにノイは言葉を続ける。

 

『トワったら殆ど島から出たことが無かったものだから、学院に来るときに泊まった帝都の街並みに圧倒されちゃったの。どうせそれがまた見られることになって気になっているに違いないの』

「ははぁ、つまりは完全にお上りさん気分ってわけだ」

「あう……」

 

 クロウの言葉にトワは俯いて完全に閉口する。全く以て図星であった。

 疑念から生温かさに変わった周囲の視線。居心地の悪さに身動ぎしてしまう。

 

「だ、だって前は夜だったし、ゆっくり見て回るような時間もなかったし……」

 

 頬を赤らめて口にした言い訳のようなものも、精々アンゼリカを身悶えさせるくらいの効果しかない。多勢に無勢、それに帝都の街並みが気になるのも事実。トワは諦めて浮かれていたことを認めた。

 実際、トワが帝都で目にすることができたのは夜景と朝方の駅前くらい。残され島から定期船に乗り、半日ほどかけて港町サンセリーゼへ。そこから更に半日を掛けて帝都に辿り着いたのだ。時刻は深夜間近であり、駅近くの宿にチェックインした後に見て回るような体力的余裕もない。その翌朝にしても、すぐさまトリスタ行きの列車に乗り込むことになったのだ。事実上、トワが帝都を本格的に訪ねるのはこれが初めてと言ってもよかった。

 だからこそ気になってしまう。西ゼムリア大陸でも最大規模の都市が如何様なものなのか。お上りさんと言われてしまえば、それまでではあるのだが。

 

「それならば私の方からヘイムダルについて一通り教えてあげるとしよう。その方が現地に着いてから色々と楽しめるだろうしね」

「それは有り難いけど……アンちゃん、どうして鼻血だしているの?」

「ふっ……君の愛らしさに少々抑えが利かなかっただけさ」

 

 どこかにぶつけた訳でもないのに、鼻血を伝わせる彼女に疑問を投げかけるも、返ってくるのは理解の及ばないもの。トワとしては「はあ」と気の抜けた声を漏らすことしか出来ない。

 ハンカチで鼻血を拭い、コホンと咳払いするアンゼリカ。男子二名からの呆れの目と苦笑いにも動じずに改めて帝都についての講釈を始める。

 

「知っての通り、《緋の帝都》ヘイムダルは西ゼムリア大陸でも最大級の規模を誇る大都市だ。街は十六の街区に分けられ、それぞれが地方都市に匹敵する。そして、その街区同士を結ぶものが街全体を走る『導力トラム』という乗り物だ」

「導力トラム?」

「路面列車とでも言えばいいのかな。帝都は街中に線路が敷かれていてね、そこを走るトラムに乗って街区を移動するんだ」

「公営だから料金も安くてな。帝都市民は専ら定期パスを買って日常的に利用しているって話だぜ」

 

 トワとノイは「『へぇ』」と揃って感心する。トワだけではなく、ノイも何だかんだ興味津々であった。

 

「見所としては目抜き通りであるヴァンクール大通り、バルフレイム宮を臨むドライケルス広場……ああ、マーテル公園も外せないね。あそこのクリスタルガーデンには一度は行ってみるべきだ」

「僕はそこまで帝都に来たことが多いわけじゃないけど、学術系の機関が集まった街区は空気からして身が引き締まるよ。それとアルト通りの落ち着いた雰囲気は結構好きだね。いい喫茶店があるんだ」

「一つの街に随分とたくさんの面があるんだね。クロウ君はオススメの場所とかあるの?」

 

 流石は帝都と言うべきだろうか。見所を挙げていくと切りがない様子だ。そして聞いている限り、街区ごとに雰囲気もかなり異なるらしい。ヘイムダルという一つの街がこれだけ多くの特色を備えているのは驚くべきことだろう。

 それぞれが挙げるものも、その人の特色が現れているようで聞いていて面白い。果たしてクロウはどのようなところを紹介してくれるのか、期待と共に問い掛ける。

 

「そりゃあヘイムダルに来たら帝都競馬場は外せねえだ――」

「まあ、そこの男の戯言は捨て置くとして」

 

 学生として不適切な発言をバッサリと切り捨て、アンゼリカは幾分か真面目な顔をして話を転換する。観光気分の歓談から、今まさに直面する試験実習の内容へと。

 

「話した通り、帝都は途轍もなく広く、そして多様な面を有している。そんな大都市で誰が現地責任者となっているのか、気になるところではあるね」

 

 確かに、とトワたちは頷く。今回の試験実習に関する最も大きな疑問はそれだった。

 前回のケルディックにおける現地責任者はオットー元締め。ケルディックの実質的な代表にしてヴァンダイク学院長とも個人的な関係があり、学院生を受け入れる人物としては最適と言えた。依頼を見繕うのにも、町を取り纏める彼にとって大きな苦労ではなかっただろう。

 しかし、今回の実習はどうだろうか。ケルディックとは比べ物にならない大都市、多様な街区によって構成されている帝都では、膨大な数の住民の要望の中から依頼を見繕うのにも一苦労だろう。いや、そもそも要望を受け付けられる人物がどれだけいることか。加えて学院の実習に協力してくれるような繋がりがある所となると、さっぱり見当がつかない。

 

「サラ教官に聞いても教えてくれなかったからなぁ。何か秘密にする理由があるのか、単に僕たちを驚かせたいだけなのか」

「サラのやることだ。どうせ後者だろうぜ」

 

 うんざりとした表情で吐き捨てるクロウ。他の面々もサラ教官に質問した時のことを思い出して、その答えに深々と溜息をついた。

 

 ――そうねえ……ま、着いたら分かるわよ。駅前で待ち合わせてもらう予定になっているから、その時まで楽しみにしておきなさい。

 

 本人からすれば茶目っ気であろうウィンクと共に言い放った言葉に、トワたちは白い目を向けたものだ。実習を行う当人からすれば、現地責任者はちゃんと把握しておきたいところだ。仮に著名な人が相手ともなれば、相応の心構えというのもあるものだし。

 とはいえ、今更この場に居ない人物の文句を言っても仕方がない。出来ることと言えば、誰が来ても動じないように覚悟を決めておくことだけだ。

 

『うーん……』

「……? どうかしたの、ノイ?」

 

 そんな彼女らを余所に何やら考え込んでいる様子――姿は見えないのだが――のノイ。それに気付いたトワが問うてみると、彼女は『ちょっとね』と零した。

 

『気のせいかもしれないけど……私、どこかでサラ教官と会ったことがある気がするの』

「え?」

「ふむ、興味深い。詳しく聞かせてもらえないだろうか」

 

 突然の告白に間の抜けた声が出てしまう。ノイとサラ教官、接点もなければ教官に至っては存在すら認識していない。そんな彼女らが会ったことがあるなど有り得るのか。トワが一瞬でも呆けるのは当然と言えた。

 知らず、周囲の注目もそちらに集まる。ノイはぽつぽつと喋りはじめた。

 

『最初はそんなことなかったんだけど、ここ一か月くらい見ていたら見覚えがあるような気がしてきたというか……流石に話したことはないだろうけど、どこかで姿を見たことがあるような感じがしてきたの。この前の実技教練から、特に』

 

 どういうことだろうか、とトワは首を傾げる。ノイがいい加減なことを言っているとは思わない。そんなことはしないと長年一緒にいて分かり切っている。

 しかし、本当なら本当で疑問も湧いてくる。ノイの行動範囲は基本的にトワと同じだ。サンセリーゼならともかく、他の街に行ったことなど無いに等しい。三十年の殆どを残され島で過ごしてきた。

 そんな彼女がサラ教官に会ったのならば、それは残され島であることが濃厚だろう。そしてそれは同時に、トワも会ったことがある可能性が非常に高くなる。

 

「でも私はサラ教官みたいな人と会ったことないよ。その、色々と特徴的だし、忘れる筈が無いと思うんだけど」

『まあ、確かに私もあんな親父臭い人と会った覚えはないの』

「結構どストレートだよな、お前」

 

 わざわざオブラートに包んだトワの気遣いを台無しにする直球発言である。割と遠慮知らずの妖精のような少女に、さしものクロウも苦笑いを浮かべた。当の本人はそれを右から左に流して『でも』と続ける。

 

『あの強化ブレードに導力銃を組み合わせた戦闘スタイル、どこかで見かけた覚えがあるんだけど……ううん、やっぱり思い出せないの』

 

 悩ましげな声を漏らしつつ考え込むも、確かな記憶は浮かんでこないらしい。どうやら実技教練で見たサラ教官の戦い方が引っ掛かっているようだが、それだけでは特定することも難しい。彼女の武具と戦術は珍しいものではあるものの、それが直接的に彼女の過去と繋がっている訳ではないのだから。そもそもの話、サラ教官の素性をトワたちは詳しく知らないのだが。

 こうして改めて考えてみると、意外と自分たちを指導する人物について知っていることは少ないものだ。特科クラスの設立のために学院長がスカウトした新任教官、ビールが大好きで親父臭い、これくらいのものである。

 

「うーん……教官になる前の仕事が分かれば予想もつきそうなものだけど。逆に残され島にはどんな人が来るんだい?」

「えっと、観光客の人と日曜学校の神父様と、後はお父さんとかの仕事関係の人くらいかなぁ。それでも、そんなに数は多くない筈だけど」

「御父上の仕事というと、確か博物学者だったかな」

「流石にアイツが学問関係者とは思えねえが。地酒目当ての観光客とかの方が可能性がありそうじゃねえか?」

 

 あんまりと言えばあんまりだが、彼女の生活習慣を考えれば否定できないのも事実。アンゼリカとジョルジュは「確かに」とクロウの意見に傾く。

 

「お酒とかはあまり有名じゃない筈なんだけどな。私としてはそっちよりも――」

 

 だが、トワは酒好きの観光客説にはしっくりきていなかった。そんなものよりも、もっと有り得そうな可能性がありそうな彼女の中にはあったから。

 ところが、それは口にする前に遮られた。響くチャイムの音。車内スピーカーから案内が流れる。

 

『間もなく終点ヘイムダル、ヘイムダル。お降りの際は、お忘れ物がないようご注意ください。本日は大陸横断鉄道をご利用いただき、誠にありがとうございました』

 

 話し込んでいる内に三十分程度などあっという間に経っていたらしい。一同は雑談を切り上げ、第二回の試験実習の舞台に降り立つ準備をするのだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「ふわぁ……」

 

 ホームに降りたトワの口から呆けた声が漏れる。眼前の光景に圧倒され、きょろきょろと落ち着かずに視線を移す。

 彼女の後から列車を降りたクロウたちは思わず苦笑する。こうなるだろうとは思っていたが、まさかここまで想像通りの反応を示すとは思っていなかった。

 

「やれやれ、これじゃマジでお上りさん丸出しじゃねえか」

「はは、無理もないと思うけどね。僕だって来るたびに感心してしまうし」

「ヘイムダル中央駅……皇帝陛下を戴く帝都の玄関口だ。立派なものだろう?」

 

 演技がかった仕草で手を広げるアンゼリカに、トワはこくこくと頷くしかない。

 まず駅舎の大きさからして並ではない。見上げるほどに高い天井に、端から端まで歩くだけで苦労しそうな広さ。その構内には何本もの路線が乗り入れ、それぞれに色とりどりの列車が停車し出発の時を待つ。そして何より、人の多さが半端ではない。これだけの人がどこから溢れ出てくるのだろうかと思うほどに、ホームには人の足が途絶えることが無い。

 入学前に立ち寄った時もあまりの広さに放心してしまったものだが、あれは夜間と早朝だったからまだ人が少なかったのだと痛感する。今はホームの広さよりも、まさに人海というべき光景に度肝を抜かれていた。

 

「大陸横断鉄道にクロイツェン、ラマール、サザーランド、ノルティアに繋がる主要線、それと貨物鉄道も集約された最大の駅だ。この人の多さも納得だと思うよ」

『はー……昔に鉄道の話は聞いたことあるけど、ここまで発達しているなんて思っていなかったの』

「帝国全土に渡る鉄道網が整備されたのは、ここ十年ばかりの話だがね。オズボーン宰相の鉄道網拡張政策の賜物という奴さ」

 

 ここまで人が多いと姿の無い状態で声を出しても怪しまれない。ざわめきに紛れてノイは感心の声を漏らした。

 ノイの言う昔となると三十年近く前の話になるが、その頃は数年前に帝都からルーレを結ぶ初の旅客鉄道ができた時期だ。それと比べると隔絶の感があるのも無理はないだろう。ここまで鉄道網を整備した政府の手腕も大したものである。

 

「それよか、さっさと駅から出るとしようぜ。息苦しいったらありゃしねえ」

「あっ、うん。人の邪魔になっちゃうしね」

 

 クロウに促されてハッとなる。ようやく放心を解いたトワは人の波に加わるように出口へ足を向けるのだった。

 

 

 

 

 

「ほえぇ……」

 

 が、ヘイムダル駅から出たところで彼女はまた放心状態に陥っていた。やっぱり、とクロウたちは苦笑したり微笑ましげにしたりと頬を緩める。

 

「ヴァンクール大通り……帝都のメインストリートだ。この駅からバルフレイム宮前のドライケルス広場まで繋がっている。通りに軒を連ねる建物の中では《プラザ・ビフロスト》あたりが一番有名だったかな」

「最近は導力車の通行が増えたって聞いていたけど……はは、予想以上だな、これは」

 

 遠くに見える巨大な宮廷の影。そこへ向かって真っ直ぐに伸びる巨大な道路には、これまた数えきれないほどの人波があるのは勿論のこと、離島暮らしだったトワには見る機会さえなかった導力車が所狭しと走っている。これには久しぶりに訪れたジョルジュも驚きを隠せない。

 一般に導力車は隣国のカルバード共和国の方が発達していると言われているが、この光景を目の当たりにすると、とてもそうとは思えない。それとも共和国ではこれよりも凄まじい光景が広がっているとでも言うのだろうか。いずれにせよ、トワには想像もつかない話だ。

 ふと目を移せば、駅前の一角に小さな列車のようなものが停車して乗客が下車する光景が視界に入る。鉄道の中で聞いた導力トラムというものだろう。よくよく目を凝らせば、通りの先でも同じ車両が線路の上を走る姿が認められる。

 街を東西に分つように走る大通り。目を上に移せば、その傍に並び立つ建築物の屋根は全てが緋に染められている。緋の帝都――その名の通りの景観に、思わず微笑が零れる。

 そわそわする気持ちをぐっと堪える。改めて帝都に降り立ち、こうして話に聞いた街の姿を見ているだけで気分が高揚してくるが、勝手な行動をする訳にはいかない。まだ実習も本格的に始まらない内から、トワは好奇心が独り歩きしないように抑え込む必要があった。

 

「凄いなぁ……あっ、アンちゃん。導力トラムの運賃はどれくらいなのかな?」

 

 とはいえトワも十代の少女。自分の気持ちを御しきれるほど成熟はしていない。停留所に並ぶ前からいそいそと財布の中身を覗く彼女は、傍目から見て明らかに浮ついていた。

 そんな彼女に「まあ、落ち着きたまえ」とアンゼリカは苦笑する。

 

「どこに行くにしても、まずは現地責任者と合流するのが先決だ。依頼も受け取らなければいけないしね」

「あう……そ、そうだった」

『まったくもう、そそっかしいんだから。これだからトワは放っておけないの』

 

 もっともらしく語るノイではあるが、彼女自身も割と声の調子が高いのはご愛嬌である。

 

「サラ教官の話だと駅前で待ち合わせてくれるって話だったけど、ここにいればいいのかな? 下手に動いたら不味いだろうし」

「さあな。こちとら相手の情報なんざ欠片も持ってないから待つしかない訳だが」

 

 ジョルジュはぐるりと周りを見渡してみるも、それらしい人はいない。そもそもクロウの言う通り、その人物の特徴の一つさえ知らないので見つけられるわけもないのだが。

 前回のケルディックでは先に宿で依頼を受け取り、その後にオットー元締めと会うことになったが、今回は先に現地責任者と落ち合うように言い含められている。となると、実習中の滞在先も宿ではなくその人物と関連のある場所なのか。そう推測はしているものの、肝心の人物に関する情報は何一つない。

 こちらから探し出すことは不可能。ならば向こうが見つけてくれるのを待つしかない。だからトワたちは常に人が行き来する駅前から動こうにも動けないのだった。

 

「……もしかして、向こうも見つけられていなかったりするのかな?」

「いや、その可能性は少ないだろう。この格好で駅前に固まっていたら嫌でも目に入る」

 

 若干不安の芽を覗かせたジョルジュであったが、それはすぐにアンゼリカに否定される。自分の着る服を引っ張ってみせる彼女に一同は納得した。

 自分たちは制服姿だ。いくら人が多いとはいえ、このような姿の集団は他にはいない。ヘイムダルにも幾つか高等学校はあるが、時間が早いこともあってかその姿は皆無。必然的に現地責任者はこの集団が待ち合わせの相手だと分かる筈だった。

 

「じゃあ……遅刻?」

「おいおい、あのズボラ教官と同類とかだったら御免だぞ」

 

 あと思いつく理由としてはそれくらいのもので、クロウが深々と溜息をつきながらぼやいた時だった。

 

 

「おう坊主、流石にアイツと同じ扱いは勘弁してくれ」

 

 

 クロウの背後から声が響く。彼は反射的に距離を取りつつ振り返る。声はあまりにも近く、それなのに微かな気配さえ感じさせなかった。驚愕と警戒を顔に浮かべ、思わず手は銃に伸びる。

 クロウ以外も同様だ。全く気配を感じさせずに接近してみせた相手に対して驚愕は隠せない。

 だが、それ以上にトワとノイは別種の驚愕も抱いていた。

 

「そう警戒するな。サラの奴の教え子がどんなもんか少し試そうと思っただけだよ。驚かす気は……まあ、あったか」

 

 そう自分で自分の発言に笑うのは白銀の髪の男だった。

 金色の瞳、髪と同色の鬚、年齢は三十代後半から四十台か。白地に金の文様が入ったコートは、かつては気品さえ感じさせたのだろうが、随分と使い込んでいるのかくたびれているように見える。白に対して浅く焼けた肌が特徴的だった。

 

「……アンタが実習の現地責任者なのか?」

「ああ。さっきの反応はよかったぞ、坊主。後ろを取られた段階で負けではあるがな」

 

 咄嗟の警戒を解きつつ問うクロウ。にやりと笑みを浮かべて腰に吊った大剣の柄を叩く男に苦い顔をする。声を掛けられる前にあんな得物を振るわれてしまえば、胴が真っ二つになっていたことは明白だったから。気付いた後の反応も糞もない。

 心臓に悪い登場をしてくれた待ち人に、アンゼリカもジョルジュも疲れたような溜息をつく。実習前から一気に疲労が溜まった心地だった。

 

「ふう、どうやら随分と人の悪い御仁に当たってしまったらしい……相当な腕前の持ち主であるのも、確かなようだが」

「全然気付かなかったからね。僕はともかく、三人とも察知できなかったなんて……」

「いや、大したもんだと思うぞ。割と近寄るのに梃子摺ったからな。特に銀髪の坊主と……ま、そこで呆けているチビッ子は当然か」

 

 性質の悪い悪戯を仕掛けてきた男はクロウを見遣り、そしてトワへと視線を移す。先ほどから一言も発せず、あんぐりと口を開けたままの彼女に手を伸ばした。

 

「いつまでボサッとしてんだ。また本の読み過ぎかなんかで寝不足にでもなったのか、ん?」

 

 わしわしと頭を撫でられてトワは「わわっ!?」と声を漏らす。クロウたちはクロウたちで、その気安さに驚きを隠せない。そしてまた、何の躊躇いも無しに響いてきた妖精の声にも。

 

『……ううん、流石にこれは仕方がないと思うの。私もかなり驚いているし』

「なんだそりゃ? 話くらい聞いていただろ?」

『それがさっぱり、なの』

 

 虚空からの声に驚く訳でもなく、まるで当然のように応対する。男はノイの言葉から何かを察したのか、遠い目をして「あー……」と表情に疲労感を浮かべた。

 一方で、ようやく再起動を果たしたトワは口をパクパクさせる。

 

「な、な、な……」

 

 驚きの残滓が思考を阻み、なかなか言葉は出てこない。

 それでも口を回し、目一杯の驚きを吐き出すように彼女は叫んだ。

 

「なんでシグナ伯父さんがここにいるの!?」

 

 放たれた大声とそれに追随する驚愕が、ヴァンクール大通りの喧騒に消えて行った。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 ヘイムダル駅より導力トラムでアルト通りへ。閑静な住宅街の一角に建つ建物にトワたちは案内されていた。

 適当にがたがたと集めてきたテーブルと椅子に「まあ、座れよ」と促され、それぞれ席に着いたトワたちは、未だ驚き冷めやらぬ様子だった。トワは予期せぬ家族の登場により。そしてクロウたちは彼女の親族であることは勿論のこと、何より男が名乗ったその名により。

 

「もう、本当に驚いたんだから。伯父さんが来るなんて全然聞いていなかったし」

「サラから何も聞いていないのな……アイツめ、悪戯心に火でも付いたか。相変わらず碌でもないことばかり考えやがる」

「姪っ子たちに出会い頭で悪戯を仕掛けた人の言い分とは思えないの。シグナも少しは自分を省みたらどう?」

「うっせ。お前こそ速攻でばれてんじゃねえか」

「あれは不可抗力なの!」

 

 他に人がいる様子もなく閑散とした屋内のため、気兼ねなく姿を現わしているノイがジト目を向ける。人の文句を言っていた男――シグナは言い訳するでもなく入学一月で存在がばれたノイを揶揄した。これでは反省など望むべくもないだろう。今も昔も変わらない調子にトワとノイは揃って溜息をついた。

 そんなほのぼのとした家族の光景を前に、クロウたちは固まったように動かない。それに気付いたトワが小首を傾げた。

 

「どうかしたの? さっきから皆ずっと黙っているけど」

「どうかしたかってな……いきなりこんな状況に放り込まれたら黙りもするわ」

 

 呑気に聞いてくるトワにクロウは苦い顔をする。端的に言えば、彼らは緊張していたのだ。柄にもなく、しかし否応もなくそうせざるを得ない存在が目の前に突如として現れたことにより。

 

「シグナ・アルハゼン――まさか帝国随一のA級遊撃士にして、武の世界でも五指に入る達人が試験実習の現地責任者とは思いにもよりませんでした」

 

 なんとか肩の力を抜くように息を吐きながら、アンゼリカは言う。自然と彼女の言葉には敬意が籠っていた。

 トワの伯父、シグナ・アルハゼンは遊撃士協会エレボニア支部に所属する遊撃士であり、最高ランクのA級、そしてその中でも随一の実力を持つ人物として名高い。三十年近くにわたるキャリアを持つ超ベテランにして、帝国の武の世界でも五指に入ると言われる武術の腕前、そして培われた経験による洞察眼と判断力は他の遊撃士より図抜けていると専らの噂である。

 最高峰の遊撃士にして武人。そのような人物を前にしてしまえば、流石のクロウとアンゼリカも身を固くせざるを得なかった。ジョルジュに関しては言うまでもない。

 

「うーん、伯父さん相手にそこまで畏まる必要もないと思うけど」

「実際はガキ大将がそのまんま大きくなったみたいな人なの」

「ベテランと言っても、いい歳したオッサンが適当に仕事しているだけだしなぁ」

 

 しかしながら本人と親類縁者は実感に欠けるせいで、いまいち締まらない。緊張をほぐすためでもなんでもなく、本当にそう思っているのだから周囲としては性質が悪いと思ってしまう。

 

「ご謙遜を。《星伐》の名はかねがね聞いています」

「《星伐》のシグナ……武術には詳しくない僕だって名前くらいは聞いたことがあるよ。遊撃士協会の中でも彼の手に掛かれば解決できない依頼はないってね」

 

 二つ名を持ち出されたシグナは白銀の髪をガシガシと掻く。「何時の間に広まったのやら」と呻くように呟いた様子からして、あまり本人は気に入っていないようである。二つ名にしても、名が広まることにしても。

 だが、残してきた実績が名に恥じないものであることも確かだ。だからこそのA級の称号であり、この知名度なのだ。それはトワもノイも知っているし、尊敬もしている。普段の態度のおかげで畏まる気にはまるでならないが。

 

「というか伯父貴がこの人ってことは、お前に剣を教えた祖父さんは《剣豪》かよ……道理で腕が立つわけだぜ」

 

 ようやく緊張は解けてきたようだが、今度は頭痛がしてきたのか頭を抱えるようにしてクロウが唸る。そうだけど、と軽く頷くトワには彼が何をそこまで思い悩んでいるのかさっぱり分からない。

 

「《剣豪》って?」

「オルバス・アルハゼンという武の世界でも知る人ぞ知る達人さ。東方剣術では八葉一刀流という流派を開いた《剣仙》ユン・カーファイと並び称される方だね。そしてシグナさんの父親でもある」

 

 アンゼリカの説明にジョルジュは「なるほど」と納得する。トワの剣の腕はある意味で当然のものだったのだ。

 いつだったか我流の剣術を家族内で伝えているだけ、と言っていたがとんでもない。かの東方剣術の集大成、八葉一刀流の開祖に並ぶ実力を有する《剣豪》が伝える剣術ともなれば、それは並の流派を軽く凌駕する。無銘であることが不思議になってくるくらいだ。

 

「あはは、並び称されるって言われているけど本人たちは普通の友達みたいだよ。ユンさんからの手紙、お祖父ちゃん宛てによく来るし」

「若い頃は一緒に武者修行の旅していたんだと。あのクソ親父、自分のことあまり話さないから詳しくは知らないけどな」

 

 が、かの東方剣術の双璧も実態はほのぼのとしたものらしい。妙な脱力感に襲われ、クロウたち三人は深々と溜息を吐く。シグナ相手に構えるのも馬鹿らしくなってくる心地だった。

 そんな彼らの内心を易々と見抜いたシグナは――狙っていた訳でもないだろうに――ここぞとばかりに口を挟む。雑談はこれにて終了だ。

 

「さあ坊主ども。お喋りも結構だが、これでも仕事でここに来ているんでな。そろそろ本題に移らせてもらうぞ」

 

 予想さえしていなかった登場に驚かされ、その素性ばかりに気を取られていたが、シグナはこの場に試験実習の現地責任者として来ているのだ。雑談ばかりに興じて実習の時間を削ぐわけにはいかない。表情を改めた彼は喰えないオッサンから歴戦の遊撃士に様変わりしていた。

 色々と気疲れしていたトワたちも、それに気付いて適度な緊張感を取り戻す。いい顔だ、と口角を上げたシグナは彼女たちの前に一通の封筒を差し出す。今回の試験実習の依頼だ。

 

「実習は二日間。その間、お前たちにはウチに来ている依頼を片付けてもらう。適当に出来そうなものを見繕ってその中に入れておいた」

「遊撃士協会への依頼ですか。勝手は変わらないとはいえ、責任重大だなぁ」

「ここに案内されたところでそうかなとは思っていたけど……やっぱり忙しいの?」

 

 トワは部屋を――遊撃士協会ヘイムダル支部を眺める。依頼が張り付けられた掲示板、受付が立つだろうカウンター、奥には支える篭手の紋章が掲げられている。

 

「ああ、てんてこ舞いだ。店閉まい前に片付けなくちゃならんことも多いからな」

 

 だが、この支部にはトワたち以外には誰の姿もない。閑古鳥が鳴いているとかそういう訳でもなく、純粋に人の気配がないのだ。まるで誰も訪れることのない空き家のように。

 どこか煤けた笑みを浮かべたシグナに「そっか」と寂しい気持ちで返す。他の三人は彼の言葉に目を見張っていた。

 

「店閉まいって……支部をたたむってことか?」

「まさか。並の都市ならいざ知らず、このヘイムダル支部は東西二カ所に窓口を構えているくらいの一大拠点でしょう。それを閉鎖するなんて……」

「本当だよ。既に西の支部は閉じた」

 

 簡潔に事実を告げられ、ジョルジュは言葉を失う。信じられない。顔にはまざまざとそう浮かんでいた。

 大陸最大規模と謳われるヘイムダルの巨大さに比例して、遊撃士協会の支部も相応の規模を有していた。ヴァンクール大通りを境に二分される街の東西二カ所に支部を置き、エレボニア帝国の遊撃士協会の中心となってきたのだ。ヘイムダルだけでも人口は莫大なものだ。舞い込んでくる依頼の数は並ではなかっただろう。

 その他国と比べても一大支部であろうここを閉じるという。信じられなくて当然だろう。トワ自身、話を聞いた時には冗談か何かと思ったくらいなのだから。だが、この支部内の冷え込んだ様子は現実に間違いなかった。

 

「色々とごたごたがあってな。来月の初めまでにはここも引き払わなくちゃならん。今はそのための後始末をしている最中って訳だ。残った依頼の片付けなり、帝都庁への引継ぎやら手続きやら、な」

 

 肩を竦めるシグナに悲壮感のようなものは感じられなかった。どうして、と問うても無駄なのだろう。彼に詳しい事情を語る気が無いのは「色々」と端折っていることから察せられた。

 

「まあ、そういう訳でお前たちには依頼関係の手伝いをして欲しいってことだ。俺の他にも一人残っている遊撃士がいるが、正直なところ猫の手も借りたい状態なんでな。たっぷり詰め込んでおいたから覚悟しておけ」

「それは構わないけど……伯父さんたちの依頼を私たちがやっていいの?」

「島じゃ簡単な依頼はお前に任せていたし今更だろ。何か言われたら俺の名前を出しておけ」

「ん、分かった」

 

 それが分かっていたから、トワは深く聞くこともなくシグナの話に合わせた。あっさりと流されたことでクロウたちの方は尋ねる機会を逸することになる。家族だからこそ分かる意思疎通に出し抜かれた形だ。

 そこでシグナは「どっこいせ」と親父臭い掛け声と共に立ち上がる。質問攻めにされる前にさっさと遁走しようとばかりに、そのまま玄関口に行ってしまう。

 

「もう行くの? せっかく姪っ子と会ったんだから、ちょっとはゆっくりすればいいのに」

「言っただろ、俺にも仕事があるって。お前もトワが無茶しないようしっかり見張っておくようにな……ああ、そうだ。終わったらまたここに戻ってこい。泊まる部屋は用意してあるからよ」

 

 口早に必要なことだけを伝えると、彼は「じゃあ頑張れよ」と肩越しに手を振って支部から出て行ってしまった。ノイは呆れたように溜息をつく。

 

「相変わらず忙しないんだから。いい歳なんだから、もう少し腰を落ち着けるべきなの」

「無理じゃないかなぁ。伯父さんだし」

 

 シグナを見送り、玄関口に目を向けたまま呑気にのたまうトワとノイ。片や姪の自分に甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる伯父に、片や勝手知ったる長年の友人に対して好き勝手に言う。昔から変わらない落ち着きのない人、という認識は完全に一致していた。

 もう四十八歳になるというのに行動力は若い頃から全く衰えていない。元気なのは結構なのだが、そのせいか身を固める気配もないままに五十路間近となってしまった。もともと、その気が無いというのもあるだろうが。

 そんな色々な意味で気心の知れた家族関係を窺わせる彼女らに、クロウたち三人は微妙な視線を向ける。聞きたいことは山ほどあったというのに、聞くべき相手は姪っ子との巧妙な話運びでさっさといなくなってしまった。片棒を担いだ相手に胡乱な目を向けるのも仕方がないだろう。

 トワは苦笑いを浮かべる。分かってはいたが、実際にこうなると気まずい。

 

「えっと……気持ちは分かるけど、いま聞いても伯父さんは答えてくれなかったと思うよ。忙しいのは本当だろうし」

「そりゃそうだがな、こっちだって事情くらいは知っておきたいんだよ。お前が話してくれるのなら、それはそれで楽なんだが」

「残念だけど、私も詳しいことまでは知らないんだ」

 

 帝都支部の閉鎖、帝国における遊撃士協会の活動縮小。その切っ掛けになった出来事については幾分か知っている。だが、実際にそうなった詳細な経緯についてはトワも知り得ていなかった。シグナからそれとなく仄めかされていただけである。

 期待が外れて肩を落とす三人には申し訳ないが、知らないことは答えられない。結局のところ遊撃士協会の現状を深く知るためには伯父の気が向くのを待つ他なかった。

 

「色々と気になることはあるだろうけど、一先ずは任された依頼を頑張ろう。帰ってきたら伯父さんも話してくれるかもしれないよ」

「ふう、それに期待するしかないか。僕たちが気にしてどうなる話でもないけど、やっぱり気になるしね」

「試験実習の現地責任者を引き受けた経緯も伺いたいところだ。サラ教官との関係もね」

 

 アンゼリカの言に、それもそうだと一同は頷く。衝撃の事実が二重三重になって聞き損ねてしまったが、少なくともサラ教官を呼び捨てにするくらいの仲ではあるらしい。もしかしたら、列車中で話したノイのおぼろげな記憶のことも分かるかもしれない。聞いてみる価値は大いにあるだろう。

 そのためにもまずは、と渡された封筒に目を移す。持つトワの手にはそれなりの厚みが感じられる。どうやら「たっぷり詰め込んだ」という言葉に偽りはないらしい。

 

「じゃあ私たちも行こっか。伯父さんに聞きたいことはたくさんあるけど……その前に依頼を任されるに恥じない仕事をしないと」

 

 尊敬する伯父に任された以上、いい加減な仕事はできない、したくない。その気持ちは高名な遊撃士という認識の違いはあれど、他の面々も同じだった。

 応、と元気のいい声と共にトワたちもまた立ち上がる。分からないことは山積み、聞きたいことも知りたいことも沢山だ。だが、まずは自分たちの本分を果たすべく、彼女たちは意気揚々と緋の帝都へと繰り出していくのだった。

 




【シグナ・アルハゼン】
主人公ナユタの兄貴分。残され島の海岸に打ち上げられていたところをオルバスに拾われた過去を持つ。拾われる以前の記憶はないが、持ち前の行動力から両親が行方不明になって沈んでいたナユタを『便利屋』に誘い、彼を元気づけることになった。
サンセリーゼの自警団に所属。夏休みにナユタと一緒に里帰りしたところ、テラを巡る異変に関わることになる。仮面の剣士・セラムと戦ったのを境に姿を眩ませてしまうが……

【オルバス・アルハゼン】
残され島はずれの遺跡に居を構えるナユタとシグナの剣の師匠。シグナにとっては養父でもある。六年前に残され島に来て以来、島の用心棒のような役割を担っている。おかげで衛兵のドラッドには歩哨くらいしか役目が回ってこない。
ダンジョンで彼の鍛錬帳を埋めていくことで稽古をつけてもらえる。奥義の習得、コンボチェインの延長、武器や防具などの装備といった恩恵がある。ちなみに片手剣系の最強武器は鍛錬帳を最後まで埋めると彼からもらえる。


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第18話 帝都追走

おっかしいなぁ……三月から頑張って就活しているのに、なんで十二月になってもまだやっているんだろう。卒論と就活のダブルパンチは死ぬ(白目)

私事は置いておくとして、帝都実習の二回目でございます。途中から『Intense Chase』(零の軌跡)を流しながら読むと雰囲気が出るかもしれません。


 午後二時、依頼に取り組み始めて午前の活動を終えた頃。トワたちは遅めの昼食をプラザ・ビフロストの喫茶コーナーでとっていた。

 トワたちがトールズ士官学院の生徒と知り、学院食堂のラムゼイとサマンサの息子であるというコックがサービスで付けてくれた珈琲を啜りながら、ようやく人心地着いた様子で四人はふう、と息を吐く。午前一杯の活動だけでも彼女らに溜まった疲れは相当なものだった。

 シグナから任された依頼の量が膨大であった、というのも勿論ある。だが、それ以上に苦労することになった要因は、このヘイムダルという街そのものにあった。

 

「はあ、ようやく脚の調子が戻ってきたよ。さっきまでは本当に棒のようだったからね」

「それは君、鍛え方が足りないのだよ……と普段なら言うところだが、今回ばかりは無理もないだろう。まさかここまで歩き回ることになるとは私も思っていなかった」

 

 大陸最大規模の都市。その名に恥じることのない巨大さを誇るヘイムダルは、依頼を受けて回るトワたちに必然的に頻繁な移動を強いることになった。

 東の街区で依頼を受けて西の街区へ、そのまた次は東へ行って、依頼者の都合でまたまた西へとんぼ返り。可能な限り同時並行で依頼を進めることにより、なるべく移動のロスを少なくするよう意識していたのにこの有様である。これで導力トラムがなかったらと思うとぞっとしない話だ。街区一つだけでも地方都市並みの大きさがあるというのに、その間を徒歩で移動するとなると気が遠くなる。

 遊撃士協会が東西に二つの支部を置いていた理由も、こうして実際に依頼をこなしてみるとよく分かる。単に規模の問題ではなく、東西で担当を分けなければ対応しきれないのだ。毎日がこの調子では流石の調査と戦闘のプロフェッショナルもばててしまう。

 

「今回の報告には一班だけじゃ無理って書いておくとしようぜ……来年は一クラス作るんだから二班に分けるくらいの人数はいるだろうしよ」

「そうだねぇ。後輩に同じ苦労を味あわせる訳にもいかないし」

「俺たちが苦労しているのは、お前が相変わらずお節介なのも原因だと思うがな」

 

 溜息交じりにぼやいたクロウは、応じたトワに半目を向ける。自分自身、心当たりもあるのでトワとしては誤魔化すように苦笑いを浮かべる他ない。それにまた彼は溜息を吐くのだった。

 なんてことはない。行く先々でトワが困っている人を見つけては、依頼以外の用事も作って余計に移動が増えただけの話である。いつも通りといえばいつも通りのことだ。

 

「終いには迷子の親探しなんて始めてよ。おかげで飯を食うのも遅くなっちまった」

「おや、その割には反対もしていなかったし親御さんを見つけてきたのは君自身じゃないか」

 

 ぶつぶつと文句を言っている割にクロウはよく働いてくれた。口は悪いなりに泣きじゃくっていた迷子の子供を励ましていたし、大慌てで子供を探していた親を探してきたのも彼だ。

 それをアンゼリカがからかうように言えば、苦い顔をしてそっぽを向く。バンダナで逆立った銀髪をガシガシと掻いた。

 

「どうせやめとけって言っても聞かないだろうが。だったら手っ取り早く片付けた方が面倒も少ないだろ」

「素直じゃないなぁ、まったく」

 

 うっせ、と悪態をついて隣のジョルジュを叩く。一月前の実習ではごねていた男が変われば変わるものである。

 

「まあ、あの親子を無事に引き合わせられてよかったじゃないか。他にも観光客の失せ物探しとか色々あったけど……こういう突発的な問題に対応していくのも試験実習の一部だろうしね」

「そりゃそうだが、だとしても数が多いっつうの」

 

 確かに、とトワは頷いた。終わったことにぐちぐちと文句を言うのはともかく、突然の問題が多いのは同意できる。

 以前のケルディックでもライモンからの依頼と魔獣被害の調査を請け負いはしたが、その場で受けたものはそれだけだった。ところが、この帝都ではそれが頻発している。既に先の迷子の親探しも含めて、シグナから任された依頼に三件ほど追加のものが加わっている。トワが目敏いのもあるが、それだけ依頼となり得る問題が転がっているということでもある。

 やはり、ヘイムダルという巨大都市ならではのことなのだろう。これだけ街が人で溢れていれば、迷子にもなるし忘れものだってするのも無理はない。遊撃士協会に寄せられる大量の依頼にも納得がいくものだ。

 その遊撃士協会が閉鎖されることになり、今後はどうなっていくのか……と気にはなるところだが、少なくとも今は誰も口にしない。いずれにせよ、シグナの口から詳しいことを聞かなければ自分たちは憶測でしか語れないのだから。無為な行為に費やす時間も体力もない。

 

「でも、駆けずり回ったおかげで午後は余裕が持てそうじゃない。もうひと踏ん張り頑張ろう」

「はいはい、お前さんが余計な仕事を抱え込まなきゃの話だがな」

「はは、いいじゃないか。前回の講評を聞く限り、そうした依頼を受けることも評価に繋がるみたいだし」

 

 珈琲に口を付けながらジョルジュが笑う。ふう、と一息ついてソーサーに戻したその中身が、砂糖もミルクもたっぷり入った珈琲と言っていいのか首を傾げてしまう代物であることは触れないでおくとする。

 彼の言う通り、前回の実習でのサラ教官からの評価は良好だった。自主的な判断による積極的な活動が評価されたからだ。今回もそれに倣って悪いことにはならないだろう。

 

「ともあれ、まずはシグナさんから渡された依頼を片付けるのが先決だ。後は何が残っていたかな?」

 

 しかし、あるかどうか分からないものにかまけて目先のことを見失う訳にもいかない。アンゼリカに促され、トワは「えっと」と依頼のメモをした手帳を改めて確認する。

 

「地下水道の魔獣退治だね。依頼主はヘイムダル港の人。港湾地区近くに入り口があって、そこの定期的な駆除の依頼が回ってきたみたい」

「定期的な駆除ねぇ。支部を閉めたらそういう訳にもいかねえだろうに……って言うのは余計なお世話ってもんか」

「しかし地下水道か……噂で聞いた限り、相当複雑なものが張り巡らされているらしい。少しばかり梃子摺るかもしれないね」

「だとしたら夕方まで掛かると見込んでおこうか。そっちに取り掛かるまでに他の用事は片付けておこう」

 

 午後の活動方針を確認し、もう少ししたら実習を再開することにする。せめて、この珈琲一杯くらいはゆっくりしていってからでも罰は当たるまい。

 そう考えている時に限って、何かが起きてしまうのは星と女神の悪戯とでも言うべきだろうか。

 甲高い音が響く。次いで何かがぶつかる音。百貨店の中からではない、外だ。

 

「……なんだ、今の音?」

「分からないけど……ちょっと騒ぎになっているみたいだね」

 

 近くの窓からヴァンクール大通りを見下ろすと、何やら人だかりができている。導力車の流れも一部で止まっているようだ。ざわめきが建物の壁を通して伝わってきて、突然の大きな音に固まっていた百貨店の空気にも伝播していく。細かいことまでは窺い知れないが、トラブルがあったのは間違いないだろう。

 四人は顔を見合わせる。戦術リンクで繋がっていなくとも、こういう時に何を考えているかくらいはもう分かるようになっていた。その考え方がかなりトワに影響されたものであることは否定できない。

 

「行くとしようか。どうやら休憩は終わりらしい」

「やれやれ、もう少しゆっくりしていたかったんだけどな」

 

 残った珈琲を一息に煽る。忙しい合間の安らぎの一時を惜しみつつも、四人は一先ず状況を確認するため足早に百貨店を後にして大通りに出て行った。

 

 

 

 

 

 プラザ・ビフロストから騒ぎの中心点はそこまで離れていなかった。近くの帝国時報本社ビルから少し先の曲がり角、そこを遠巻きに囲むように人だかりができている。パニックにはなっていないようなので、そこまで深刻な事態ではないようだが。

 何はともあれ、近寄ってみないと何も分からない。ざわめく人波の間を縫って人垣の中心点へとトワたちは進む。人の背で覆い隠されていた騒ぎの原因が、人垣が薄れるにつれて明らかになっていく。

 一台の導力車、その近くで何某か言い争う三人の男。いや、言い争っているというよりは、被害者の男が眼鏡の中年男性と青年に怒鳴りつけていると言った方が正しいか。近くには何かが砕けたような破片が散らばっており、導力車には衝突した痕のようなへこみがある。

 見たところ、所謂交通事故というものだろうか。導力車を見ること自体が珍しいトワには詳しいことはよく分からないが、この状況からして間違いではないと思う。

 

「いやねぇ、また交通事故だなんて。今月でもう何件目かしら」

「もう本当に。うちの子も事故に遭わないか冷や冷やして……」

 

 ざわめきに耳を(そばだ)てると、友達同士と思しき婦人二人組のそんな会話が聞こえてくる。どうやら帝都では頻繁に起こっていることらしい。

 物騒なことだが、これだけの通行量があれば仕方がないような気もしてくる。ひっきりなしに道を行き交っているのに加え、導力車自体がまだ乗り物として新しい部類なのだ。普及してきたのがここ最近であるために、その通行を管理する制度が整備され切っていない。そのため事故が起こりやすく社会問題になっている……とハインリッヒ教頭の授業で聞いた覚えがある。

 実際に目にすることになるとは思わなかったが、幸いにして双方ともに大きな怪我はないようだ。怒鳴り散らしている男も、それに恐縮している様子の二人組も遠目から見て身体に異常はない。

 

「おい、はっきりしろよ!? 折角こっちが譲ってやってんだろうが!」

「ああいや、その通りなんだがね。こちらとしてもそう軽々と頷けることでは……」

「ああっ!?」

「うう……ど、ドミニク君。どうしようか?」

「こちらが事故を起こしてしまったからには強くは言えませんが……どうしたものでしょうか」

 

 しかしながら、無事であるだけに被害者は酷く憤慨しているらしい。おそらくは運転していた側の二人組に食って掛かり、相手は事故を起こした負い目もあってか縮こまるばかり。どうにも当事者だけでは収まりのつかない状態になってきているようだった。

 それでも言い争いの範疇に収まっているなら、それでよかった。しばらくは騒がしくしているだろうが、いずれは憲兵隊がやって来て事態を治めてくれるだろう。

 

「このっ……口じゃ分からねえか!」

「うひぃっ!?」

 

 だが、暴力沙汰になってしまうようなら流石に放っておく訳にもいかない。

怒りに任せた男が相手の胸倉に掴みかかる。掴まれた側の眼鏡の男が悲鳴を上げ、青年がそれを慌てて制止しようとするも、頭に血が上った男に払い除けられた。

 

「……ごめん、また仕事増やしちゃうみたい」

「へいへい、いいからさっさと行くぞ」

 

 謝罪しつつも、固い意志を感じさせるトワの言葉にクロウはとやかく言わなかった。もはや諦めの境地にあるようで、それが申し訳なくもどこか嬉しい。

 四人は急いで騒ぎの中心に駆け寄ると、クロウとジョルジュでまずは掴みかかる男を引き剥がした。「な、何しやがる!?」と暴れる男をなんとか押さえつけながら、クロウは呆れたように溜息を吐く。

 

「ぶつけられて腹立つのは分かるがな、これじゃどっちが加害者か分かったもんじゃないぜ。少し落ち着けよ」

「暴力沙汰になったら単なる交通事故で済む話じゃなくなりますし、ここはどうか抑えて」

「……ちっ!」

 

 盛大に舌打ちした男は二人に拘束を振り払うが、再び掴みかかることはなかった。一先ずはホッと胸を撫で下ろし、次いで相手の方に目を移す。胸倉を掴まれていた眼鏡の男性は腰を抜かしつつも安堵の息を吐き、青年も取り敢えずは安心した様子だ。

 

「工場長、大丈夫ですか?」

「ああ、私は平気だよ……ありがとう、お嬢さんたち。おかげで助かった」

「いえ、お怪我が無いようでなによりです」

「もっとも、あなた方を擁護するために割って入った訳でもありませんが。私たちも立ち会いますので、どうか話し合いで決着をつけるようにしてください」

 

 青年に手を借りて立ち上がる工場長と呼ばれる眼鏡の男性。あくまで暴力沙汰になるのを止めるためとアンゼリカが念を押せば「そうなのかね」と弱々しく眉根を下げる。やや小太りな体型もあってか妙に愛嬌があるオジサンだ。

 手を挙げることはないものの、未だ憤懣冷めやらぬ様子の男が再び前に立つと、彼はまた体を縮こまらせる。事故を起こしてしまったショックもあるのだろうが、どうやら元から気は小さい方と窺える。

 男は苛立たしげな声で「それで?」と口火を切った。

 

「いきなりしゃしゃり出てきたお前らはどこのどいつなんだよ? 大人の事情に頭を突っ込んできやがって」

「見た感じ、あまりにも大人げない様子だったがね。私たちはトールズ士官学院の生徒だ。帝都には実習に来ている最中でね、そんな時にこの騒ぎが目に付いたという訳だ」

「ほう、トールズの」

 

 眼鏡の男性が興味深そうな声を上げる。どうやら学院の名を知っているようだ。

 

「ドライケルス帝が建立したかの学院には私も少々縁があるのだよ。いや、それにしても君たちのような若者を実習に送り出しているとは知らなかった。伝統ある学院も新しい試みを……」

「工場長、工場長」

 

 お喋り好きの気質でもあるのか、饒舌に語り始めた彼の肩を横の青年が叩く。何かね、と言わんばかりに不思議そうな目を向け、視線で指し示された方に向き直って顔を蒼くさせる。被害者側の男はあからさまに眉間に皺を寄せていた。

 眼鏡の男性は「あー……」と目線を宙に彷徨わさせる。悪い人ではないようだが、どうにもおっちょこちょいな印象をトワは抱いた。

 

「……まあ、そこの餓鬼どもが誰だろうが関係ねえ。こっちの条件を呑むか呑まねえか、さっさと答えやがれ」

「ううむ……そ、それはそうなのだが……」

「あの、口を挟むようですが、条件って何の話ですか?」

 

 交通事故ならば、帝都憲兵隊の到着を待ってそこから話を付ければいい筈だ。なのに条件云々という話が出てくることが理解できず、つい口を出したジョルジュに男は煩わしげな目を向ける。

 事故を起こされて気が立っているのかもしれないが、横槍を入れた形のトワたちにやけに疎ましそうな感情を露わにしてくる男だ。そこまで悪感情を向けられる謂れはないと思うトワとしては内心で首を傾げてしまう。

 少しばかり腑に落ちないものを持て余していると、眼鏡の男性の傍にいた青年がスッと踏み出してくる。方向性は真逆であっても共に感情的な二人に比べ、彼は幾分か落ち着いている容貌だ。

 

「第三者の意見も欲しい。折角だから私の方から詳しい経緯を説明させてもらうよ。工場長、構いませんよね?」

「うむ……事故を起こしてしまったことには変わらん。頼む、ドミニク君」

 

 やり取りからして、工場長と呼ぶ男性の付き人のようなものらしき青年――ドミニクは「分かりました」と一つ頷くと、トワたちに向き直る。

 

「そちらの方が気を急いているようだから、悪いけど手短にさせてもらうよ……事故が起きたのはついさっき、私たちの導力車が停まっている、そう、あそこの曲がり角だ。ヴァンクール大通りから曲がろうとした時、不意にそこの男性が飛び出してきて……」

 

 彼はちらと苛立たしげに爪先で地面を叩く男を見る。気取られない内に視線をトワたちに戻し、少しだけ肩を竦めた。

 

「ブレーキは踏んだのだけど、急なことで間に合わなかった。不幸中の幸い、彼にも怪我はなかったようだが、代わりに持ち物が駄目になってしまったんだ」

「なるほど、あそこに散らばっている破片は被害者の持ち物というわけですか。ちなみに何の物品と?」

「蒐集している壺、だそうだ。私や工場長はあまり詳しくないのだが、かなり値が張るものらしい」

 

 なんとなく事故の概要は掴めた。歩行人の飛び出しと運転手の不注意のどちらが原因かは分からないが、扱いとしては物損事故で間違いないだろう。当の被害者がピンピンしていて大声を張り上げていたのだから、怪我の心配がないのは確かだ。

 アンゼリカが「ふむ」と考え込む様子を見せると、路肩に止まった導力車と壺の破片が散らばる現場に足を向ける。ジョルジュも何かが気になったのか、彼女の後に続く。彼女たちなりに考えがあるのだろう、止めることはしなかった。

 それより、このドミニクという人からもっと話を聞きたい。事故の概要は分かったが、どうしてこうも一方的に罵られているのかが知りたかった。

 

「お話だけだと、どちらに責任があるかは分かりませんね。憲兵隊の到着を待って判断を仰いだ方がいいと思いますけど……その条件というのが、何か問題になっているんですか?」

「ああ。実はね……」

 

 責任の所在はともかく、ここまでなら普通の交通事故だろう。後は憲兵隊に任せてしまえばいい話であり、トワたちの出る幕ではない。だが、先の話に出てきた不可解な言葉がどうしても気になってしまう。

 困ったように眉根を寄せるドミニク。そこで痺れを切らしたのか、男が会話に横槍を入れてきた。

 

「だからさっきから言っているだろうが。十万ミラでチャラにしてやるから、さっさと払えってよ!」

 

 その言葉に、トワは目を瞬かせる。十万ミラでチャラにする、それはつまり、ミラでこの事故を無かったことにしてやるということか。

 あまりにも不可解だ。それで男に何の利益があるのか……いや、十万ミラという利益はあるが、壺の損害分だとしても単純に憲兵隊を介して弁償を請求すればいいだけではないのか。今ここで事故を無かったことにするのに何の意味があるのか理解しかねる。

 そんなトワの当惑を余所に、男は眼鏡の男性へと再び詰め寄り始める。ドミニクの説明が終わるまで辛抱は続かなかったらしい。

 

「いいか、俺は列車に乗って遠方に取引に行く予定があるんだ。憲兵の取り調べに捕まって時間をドブに捨てるような余裕はないんだよ! アンタも商売している身なら分かるだろうが!」

「それは尤もだ、うむ、尤もだとも。しかしだね、私としては栄えある帝国民が事故を隠蔽するのも如何なものかと……」

「おい、もう一度言ってやる」

 

 ずい、と男が距離を詰める。怒り心頭の顔面を突き付けられた眼鏡の男性はもう真っ青だ。

 

「憲兵にしょっ引かれて困るのはアンタも同じだ。事故を起こしたとなりゃ、罰金はもちろん免停にされるのは目に見えている。それを壺の弁償も含めて十万ぽっちで済ませてやろうって言ってんだ。出すもん出してさっさと終わりにさせろや!」

 

 あまりの剣幕に眼鏡の男性は気圧されて、もう今にも頷いてしまいそうだ。ドミニクという青年も手を出しあぐね、どうすればいいのか困り果てている。このままでは男の要求が通るのも時間の問題だろう。

 男のよく回る口のおかげで、期せずして彼の言う条件とそれがもたらす利益は把握できた。予定に追われている男にとっては迅速な解決を、眼鏡の男性にとっては免許の停止や罰金の回避を。十万という纏まった――しかし決して払えない額ではないミラで事を収めようというのだ。

 一見、理屈は通っている。導力車をぶつけられて高額な壺を壊されたが、仕方なくミラで解決してやろうとしている。そんな風にも受け取れるだろう。激しい剣幕も、理性ではミラでの解決を望んでいても抑えきれない怒りが現れてのものだと納得も出来る。

 

「あの、ちょっといいですか?」

 

 だが、自分の知識との食い違いが、トワに疑念を抱かせた。

 男が睨み、大きく口を開く。怒鳴りが事を有耶無耶にしてしまう前にトワは口早に切り出した。

 

「確か、現行の制度では事故を起こしてもすぐに免許停止なんてことにはならなかったと思いますよ。もしかしたら罰金はあるかもしれませんが……危険運転の結果ではないのなら、壺の弁償だけで済む筈です」

「ほ、本当かね?」

 

 萎縮していた眼鏡の男性が藁にもすがるといった目を向けてくる。トワは自信を持って頷いた。

 導力車はここ数年で随分と普及したが、それに反して法整備が追いついていないのが現状だ。そして同時に、制度そのものが導力車を運転する人々に周知されていないのも大きな問題となっている。

 導力車の運転資格を得るのは簡単だ。役所で簡単なルールを教える講義を受けて、そこで免許証を発行してもらえばいい。ほんの半日あれば事足りる、あってないようなステップなのだ。導力車を走らせるうえでの最低限の知識しか教えないがために、事故を起こした時にどうすればいいのか、罰則がどうなるのかも完全に理解している人は少ない。

 だからこそ政府は早急に交通法を整備し、それを民衆に広めなければならない――というのは、先週の現代社会の授業において展開したハインリッヒ教頭の持論だ。

 数日前に受けた説明が頭に残っているからこそ、男が尤もそうに唱える条件はどうにも怪しく見えてくる。その疑念が伝わったのだろう。男は頭に血を上らせて反駁の言葉を吐く。

 

「それがどうしたってんだ!? どっちにせよ、コイツが俺の壺を壊しやがったのは違いねえんだよ! ミラを払わねえことには腹の虫が……!」

「ああ、その壺のことだがね、君」

 

 涼しげな声が割って入る。ハンカチ越しに割れた破片を検分していたアンゼリカが冷ややかな笑みを浮かべた。

 

「誰から買ったかは知らないが、騙されたんじゃないかい? どう見ても粗悪品だよ。中世の頃の水瓶か何かだろう、古いだけでミラがつくほどの価値は無い」

「お前、美術品鑑定とかできたのかよ?」

「嗜み程度の知識さ。こういうのが好きな女の子とお近づきになるための、ね。さっぱり相手にされない君には理解できない領域だろうが」

 

 言った側は意外そうなクロウに余裕の返答をするが、言われた側は余裕など欠片もなかった。先ほどまでの脅しつけるような怒りでもない。苦虫を噛み潰したような顔からは焦燥感に似たものが滲み始めていた。

 眼鏡の男性とドミニクという青年も、話を聞いて何かがおかしいと気付き始めていた。それでも尚、何か申そうとする男の口を塞いだのは続くジョルジュの問い掛けだった。

 

「僕からも一つ――あなたはどうして怪我をしていないんですか?」

「な、何を言って……!」

「おかしいんです。この導力車のバンパーの凹み、これは壺みたいな割れ物がぶつかっただけでは付かない。もっと大きい質量を持ったもの……あなた自身がぶつからない限り、この凹みが付くのはあり得ないんです。なのに、どうしてあなたは怪我をしていないんですか?」

 

 現場付近に導力車が他に衝突したような形跡はない。ぶつかった可能性があるのは、割れた壺とそれを持っていた男本人しか存在しえない。にも拘らず男には掠り傷一つなく、まるで何事もなかったかのようだ。仮に男が武術の達人で、衝撃を完全に逃がして完璧な受け身を取ったとしても、打撲や擦り傷の一つさえないのは不自然極まりない。

 誤ったルールを盾にした条件、偽りの価値の壺、不自然なほどに無傷な体。どれか一つだったのなら偶然や誤解と考えることも出来ただろう。だが、三つまでも重なってしまえば疑念を抱かざるを得ない。トワたち、そして眼鏡の男性と青年にも同じ疑いを抱かせる。

 つまり、この事故は本当に事故だったのだろうか、と。

 あれだけ怒鳴り散らしていた男は声の一つさえ漏らさない。ただ顔を歪めていた感情が怒りから憎しみに似たものに取って代わり、憎悪さえ感じられる視線がトワたちに向けられる。ただの事故の被害者というには些か強すぎる負の感情だった。

 

「ま、お前が何を考えているのかなんて知ったこっちゃないんだがよ、ここは大人しく社会のルールに従った方がいいんじゃねえの?」

 

 男の肩に手を置いたクロウが通りの向こうに目を遣る。未だざわめく人垣の向こうから、紺色の軍服に身を包んだ軍人たちが近付いてきていた。帝都の治安維持を担当する帝都憲兵隊だ。問答をしている内に、憲兵隊がこの騒ぎを聞きつけてきたのだろう。

 その姿を認めて、トワはホッと胸を撫で下ろす。何やら妙な事故だったが、後は憲兵隊に引き渡せば公正に処理してくれるだろう。自分たちの役割はここまでだ。

 そう思ったからこそ気を緩めてしまった。いくら怪しい男とはいえ、憲兵隊を前にして何か仕出かすほど大それた人物ではないだろうという油断があった。その一種の慢心が判断を遅らせ、男の行動を見逃すことになる。

 

「……チッ!」

 

 男がクロウの手を跳ね除ける。いきなりの行動に彼も反応できず、弾かれた手首を押さえて「お、おい……」と言い掛けたところで言葉を失った。

 男の手にはナイフが握られていた。眼鏡の男性の首を絞めて拘束し、その頸動脈に鈍く光る刃をあてがった男の目は血走り、どう見ても平静ではない。呆然とするトワたちを前に男は吠えた。

 

「近づくんじゃねえっ!! さもねえと、このオッサンの首を掻っ切るぞ!」

「ひっ……!」

「こ、工場長!?」

 

 その言葉を聞き、状況を理解した途端、周囲の群集は悲鳴に包まれる。遠ざかろうとする一般市民、その流れに押されて近づこうにも近付けない憲兵隊。事故の喧騒はあっという間に阿鼻叫喚の狂騒に移り変わる。

 トワたちもまた事態を理解し、しかし下手に動けずにいた。どうして男がこのような凶行に走り、あそこまで焦燥感を露わにしているのか。まるで理解できずとも、迂闊な行動は人質に取られた眼鏡の男性の安否に直結していることだけは明白だったから。

 

「…………その人を放してください。今ならまだ間に合います」

「黙れ、餓鬼ども! このオッサンの命が惜しいなら離れろ!!」

 

 慎重に選んだ言葉もにべのない返答に押し潰される。打つ手が見えない現状に唇を噛んだ。

 もはや蒼を通り越して顔を白くさせている眼鏡の男性からの懇願の視線、そしてドミニクという青年からも下手なことはしないでくれという想いが言葉にせずとも伝わってくる。アンゼリカが呟いた「仕方ない、か」という言葉がトワたちの胸中を示していた。

 一歩、二歩、三歩。一息に下がることはなく、少しずつ凶器を有する男から離れていく。鳴り響く悲鳴に囲まれながらも、その中心は酷く静かで緊張に満ちていた。

 そして十アージュは離れただろうか。男は次の行動に移る。

 

「……ッ!!」

「おおっ!?」

 

 人質に取っていた眼鏡の男性を突き飛ばす。振り返ることもなく男は憲兵が来る逆方向に走りだした。このまま逃走するつもりなのだ。

 憲兵は狂乱する人並みに阻まれ事態の把握さえ出来ていない。考える時間は一瞬、トワは覚悟を決める。

 

「ジョルジュ君はそこの人と憲兵への説明をお願い! クロウ君、アンちゃん、行くよっ!」

「勿論だとも!」

「くっそ、なんだってんだ……!」

 

 解放されへたり込む眼鏡の男性と憲兵への対応をジョルジュに任せ、三人は男の後を追って走り出す。背中に届いた「気を付けて!」という友人の声に軽く手を挙げることで応え、全速力で石畳の道を駆けていく。

 混乱する人垣も男が近付いてくるのに気付くや否やさざ波のように割れる。群衆の中にぽっかりと空いた空間を男が走り抜け、その後をトワたちが追っていく。狂騒は間もなく遠ざかり、次第に遠くの騒ぎを訝しむ雑踏に代わる。男は道行く人々の肩を押しのけながら逃走し、突然のことに戸惑うその人々の間を縫うようにトワたちも必死に足を動かす。

 男の背はそう遠くはなかった。もとより離れていたのは十アージュ程度。逃げ出した時に稼いだ距離を合わせても、追いつけなくなるほど致命的なものではない。ジョルジュはともかく、一年生の中でも屈指の運動神経を持つ三人なら尚更であった。

 背後を一瞥し、男もそれに気付いたのか。それまでヴァンクール大通りを駆けていた足を方向転換させ、建物の間に滑り込んでいく。

 

「おい、路地に入ったぞ!」

「言われずとも分かっているさ!」

 

 二人並べば一杯になる道幅。全力で走るとなれば一人が限界になるその路地に、クロウを先頭にトワたちも駆け込む。男の背はまだ見えている。

 しかし、そこで彼女たちはすぐさま男の狙いを思い知らされることになる。

 大通りを真っ直ぐに駆けていた先程までと異なり、男は複雑に入り乱れた路地をジグザグに曲がりながら逃走を続ける。右に曲がったところを追えば左に曲がろうとする背が、その後をまた追えば十字路が現れ、視線を左右に動かして発見した姿に追い縋る。次第に男との距離は遠ざかり始めていた。

 

「地の利は向こうにあるか……このままではジリ貧だね」

 

 まるで逃走も予め考慮していたかのような走りよう。やはり、あれは普通の事故ではなかったのだと理解する。だからと言って、男に追いつけるようになるかといえば違うのだが。

 相手は帝都の道を熟知していると考えた方がいい。このまま追い続けたとしても、アンゼリカの言う通りに距離は離され続けて撒かれてしまうだろう。男が何の意図を持ってあの騒ぎを起こしたのか理解することもなく。

 それは避けなければならない。トワは周囲に視線を巡らせ、路地の端に置かれた雑多な荷物の山に目を付ける。

 

「クロウ君とアンちゃんはこのまま追って! ノイ、ホールドお願い!」

「了解なの!」

「はっ!? お、お前ら何を――!」

 

 頭上を飛び越えられたクロウの戸惑いの声を背に、トワは段々になった荷物の山を駆け上がる。跳躍、そして実体を現わしたノイの手に捕まった。

 小さな手から放たれる薄緑に光る糸。先端に歯車が付いたそれが路地向こうの屋根先の突端に絡まり、支点を得たトワとノイの身体は宙に踊る。空中を一回転して屋根の上に着地したトワは、一面の緋の大地を見渡し男の逃走方向を確認して再び走りだす。

 眼下に男の背を捉えた彼女は傍に浮かんで並走する相棒に指示を飛ばした。

 

「ノイはクロウ君とアンちゃんの傍に。私を目印にして二人を誘導して!」

 

 上を取ったことで視界の確保と経路の確認はできた。だが、トワ一人だけでは意味が薄い。情報を共有し、下の二人も追って来られるようにしなければスタンドプレイにしかならないのだ。宙を自由に動けるノイが連絡役としてどうしても必要だった。

 それを短い言葉だけでも通じ合う。正しく意図を理解して頷いたノイは路地の方に降りていく。ならば、後は自分が男を捕捉するのに注力するのみ。ふっと息を吐き、トワは男の後を追って緋の屋根から緋の屋根へと跳んでいく。

 屋根は全てが同じ高さではない。建物の高低によってはそそり立つ壁面が道なき道を阻む。

 しかし、その壁さえもトワにとっては自身が闊歩する道に過ぎない。

 

「やっ!」

 

 跳躍し、壁に取りつく。そのまま彼女はスルスルと難なく屋根に上り詰める。石材の凹凸、窓縁、少しでも手足が引っ掛かるその全てが彼女の足場となる。

 幼い頃からトワは様々な場所を走り回って来た。木々が張り巡り花々が生い茂る森林、油断すれば足を取られかねない極寒の氷土、突風が吹き荒れ崖に叩き落そうとしてくる高峰、溶岩が噴き出し身を焦がしかねない原初の大地。そんな環境が仕事場であり、庭であり、そして自身を育んだ揺り籠だった。

 それに比べたら多少の高低差がある屋根の上を走り回ることなどアスレチックで遊ぶようなものだ。ノイの助けを借りなくても十分に動くことができる。屋根から屋根へと飛び移りながらも、路地を逃げ続ける男の背を逃さずに捉え続ける。

 たまの道幅の広い通りさえもシルフェンウィングのアーツを駆動すれば問題ない。強化された脚力で思いっ切り跳んで、足場にした街灯を軋ませながらまた次の屋根へと移る。風のように空を走り抜ける少女の姿を見て生まれる喧騒は目を背ける他ないが。

 そうして男の追跡を続け、そろそろ油断して足を緩めるのではないかと思い始めた頃。トワは男が向かう先の路地が開けた場所へと目を移し、その光景に焦りを覚えた。

 

(歓楽街……! いけない、人ごみに紛れられたら……)

 

 男を追ってきたトワは何時の間にか娯楽に興じる人々が集まる街区へと足を踏み入れようとしていた。いや、男が最初からここを目指していたのか。ヴァンクール大通りと同程度の、しかし規則的な流れが存在しない雑多な人混みに冷や汗を流す。

 あの人ごみに紛れられたら厄介だ。地上から追うのが困難なのは言うに及ばず、屋根の上からも男の姿を群集の中から見誤らずに追い続けるのは難しい。念には念を入れた周到な逃走経路だと実感せざるを得ない。

 

「…………」

 

 どうすればいいのか、いや、どうするべきかは分かっていた。

 普通の手段で追うのが無理ならば、普通ではない手段を使えばいい。今この場で、自分だけが使える力ならば男を捉え続けることが出来る。

 ただ、使うべきと思う理性があるのと同時にトワの心中には畏れという本能があった。自身の身に余る力に対する恐怖が心を竦ませ、行動に移ることを阻んでくる。

 逡巡の時間はない。男が完全に人ごみに紛れ、その姿を見失ってしまえば捕えることは叶わない。トワは本能とせめぎ合う理性を押し切らせた。

 

(少しだけなら……!)

 

 屋根に立ち止まり、歓楽街を臨んだトワは目を閉じる。内側へと埋没し、奥底に眠るもう一つの自分(・・)を引き起こす。

 見開いた彼女の瞳が、その生命の鼓動を知覚した。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「ぜえ……ぜえ……くっそ、あの餓鬼ども……」

 

 帝都において再開発から取り残された旧市街、オスト地区。庶民や労働者の住居が立ち並ぶ街区の路地裏まで辿り着いた男は、息を切らしながら悪態をついた。

 いつも通りにやれば上手くいく筈だった。地下水路で拾った古臭い壺を手に、自身に細工を仕掛けてから導力車にわざとぶつかって事故を起こす。後は人を撥ねてしまって動揺する運転手を強気に脅せば、それなりに纏まったミラが手に入るという手軽な資金稼ぎの手段だ。もとより交通事故の発生率は多く、それに紛れて故意の事故を起こしても怪しまれない。制度が浸透していないというのも有利に働いた。

 だから今回もがなり立てて自分の言い分を押し通せば問題なくミラが手に入る筈だった。だというのに、急に押し掛けてきた学生のせいで全てが御破算だ。タネも殆どが割れてしまい、もう同じ手は使えないだろう。忌々しいことこの上ない。

 だが、と男は気を取り直す。念には念を入れて追って来ていた餓鬼は完全に撒いた。憲兵に取り調べを受けたら致命的だったが、こうして逃げ果せることはできたのだ。仲間(・・)の情報を吐かされる目に遭うよりは、資金稼ぎの手が一つ消えたくらいで済んでよかったと考えるべきだろう。

 

(そもそも、あの手は潮時だったんだ……憲兵の目を盗むのも最近は厳しくなってきたところだし……)

 

 下手を打った自分を正当化するように言葉を並び立てながら、男は息を整える。そうすれば苛立ちも幾分かは紛れたし、失敗に対する言い訳もついたから。

 上がっていた息と荒れた気持ちは落ち着いた。それでもやはり怒りは燻るもので、小さく舌打ちをする。

 

「だが、あの餓鬼どもはタダじゃおかねえ。今度会ったら――」

「呼びましたか?」

 

 頭上から響いた声に「え」と声にさえならない息を漏らす。

 

「ぐがああっ!?」

 

 直後、男は上半身を襲った凄まじい衝撃に蛙が潰されたような悲鳴を上げた。地面に叩き伏せられ、脳を揺らされてくらくらとする視界の中で何が起きたのかと困惑する。なんとか体を起こそうとしたところで、自分の身体の自由が奪われているのにようやく気付く。

 唯一、自由の利く首を捻る。男の背には幼さの残る少女が決然とした表情でいた。

 

「さっきの餓鬼……!? どうやってここが、くそっ、放しやがれっ!」

「暴れても無駄です。無理に動くと関節が外れますよ」

 

 身体の小さい、軽い少女の筈なのに、男の身体はピクリとも動かず完全に固められていた。強引に腕を振るおうとすれば鈍い痛みが走り、その言葉が事実だと思い知らされる。トワに関節を極められた男に逃れる術はもうなかった。

 

「っと、これは一歩遅かったかな? お手柄じゃないか、トワ」

「っていうかエグイ関節技きめてやがんな……それも祖父さんから教わったのかよ?」

「あはは……まあ、無手の技の一環で」

 

 遅れてクロウとアンゼリカも追いついてくる。男を組み伏せるトワの姿を見て引き攣った表情を浮かべるクロウに、手を緩めないまま愛想笑いを浮かべた。祖父の教えはとことん実践的なのである。

 身体を抑え込まれ僅かに身動ぎする事しか出来ない男にアンゼリカが歩み寄る。そのズボンのポケットから伸びる鎖の留め具を見咎め、彼女は中身を引っ張り出す。出てきたのは手のひら大の懐中時計のようなもの、戦術オーブメントだった。

 そのまま中身を確認し、アンゼリカは納得したように「なるほどね」と呟いた。

 

「地のクォーツが二つ、ご丁寧にアースガードが使えるきっかりの構成か。完璧にそれ目的専用みたいだね」

 

 男がギリギリと歯を鳴らす。図星だった。導力車に撥ねられて無傷だった理由はなんてことはない。予めアーツを駆動し、完全防御で身を包んでいたから無事だったのだ。

 これでタネも全て割れた。身体は完全に拘束され、振り解いても囲まれていては逃げられない。完全な詰みだった。

 

「何が目的かは知りませんけど、傷害未遂は明らかな犯罪です。大人しく捕まって下さい」

「そういうこった。観念してお縄につくんだな」

 

 潮時とは本来、物事を区切るのに適当な好機を言う。しかし、この男にとっての今までの行為を終わらせる意味での潮時となったようだ。

 もう逃げられない。それを理解し、男はがっくりと項垂れた。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 マキアス・レーグニッツは不機嫌な表情で自宅の玄関から外に出た。住み慣れたオスト地区の街並みを見渡し、聞こえてくる人々のざわめきという騒音から路地裏あたりが原因と当たりを付ける。少し歩いて遠目にそこが見える位置につけば、思った通りに人が集まっていた。帝都憲兵隊がうろつく路地裏辺りを窺う見知った人々の様子は完璧に野次馬のそれである。彼は思わず溜息をついた。

 高等学校の入試に備えての受験勉強真っ盛りの中、休憩として珈琲を淹れていたところで外からの雑音が耳に入り、何が原因かと思えばこの野次馬騒ぎである。こんな帝都の中でも外れの外れで何の騒ぎだとか、いくら物珍しくても野次馬根性丸出し過ぎるだろうとか色々と言いたいことはあるが、簡単に言ってしまえば彼は折角の休憩時間を騒音に台無しにされてイラッと来ているだけである。

 が、このまま原因も分からずにすごすごと自宅に退散するのも気に障る。自分は野次馬ではなく、自宅近辺の騒動を確認するだけなのだと意味のない自己弁護をしながらマキアスもなんだかんだ近付いて行ってしまうのだった。

 

「まったく、誰がこんな騒ぎを……」

「あっ、ガリ勉!」

「マキアスじゃねーか。お前もこれを聞きつけてきた口かよ?」

 

 ブツブツと文句を零しながら歩を進めると、急に不躾な声を投げかけられる。見知った顔を認め、マキアスは面倒な奴らに捕まったと眉を顰めた。パティリーとカルゴ、オスト地区に住む不良未満のチンピラ風の二人組だ。遺憾ながらそこそこ親交のある相手である。

 自分も野次馬扱いされたような言い方はむっときたが、ここは堪えて「……まあね」と努めて冷静に対応する。下手に言い返しても面倒になるだけだと経験から知っていた。

 

「何があったんだ? まさか屋根から降りられなくなった子猫を助けるのに、憲兵隊が出張ってきた訳でもないだろう」

 

 こんな些事に時間を掛けるのも馬鹿らしい。彼女らにさっさと聞いてしまおうと思い尋ねてみる。引き合いに出した子猫が云々という話は、つい半月ほど前にマキアスが救出役として駆り出された一件だ。

 

「そんなんじゃねーよ。捕り物だよ、捕り物! 俺とパティリーさんは現場を見ていたんだからな!」

「捕り物? 窃盗犯でもここまで逃げてきたのか?」

 

 返事は思いの外、素直なものだった。いつもなら「うるせー誰が教えてやるか」と憎まれ口でも叩く所なので、少しばかり拍子抜けしてしまう。

 捕り物ということは別の街区で起きた事件の犯人をここまで追ってきたということだろう。この明らかに実りが薄そうな場所で窃盗か何かが起きるとも思えない。あれだけ憲兵が集まっているのも、これだけの野次馬が集まっているのも、あの路地裏が逃走劇の終点ならば納得がいく。

 そこまでは理解できた。だが、それだけで彼女たちの話は終わらなかった。

 

「なんかよく分からねーけど、あまり見かけない怪しい男がいたから様子を見ていたらよ、屋根の上からちっこい学生服の女が飛び降りてきてそいつをズドンって押し倒したんだ! しかも暴れようとする男をガッチリと抑え込んでいたんだぜ。かっけえよな!」

「それから同じ学生服の仲間も集まってきて、その男は完全に観念した様子でさ、後から来た憲兵隊にあっさりと捕まったんだ! マジでかっこよかったなぁ……あっ、も、勿論パティリーさんの方がかっこいいけどな!」

「……はあ?」

 

 やたらと目をキラキラとさせて興奮気味に語る彼女たちに、つい猜疑の目を向けてしまう。

 怪しい男が学生服の集団に捕まった。学生が事件の現場に居合わせたのだろう、これはいい。憲兵隊が遅れてやって来たのは初動の遅れか何かがあったとも考えられる、これもいいとしよう。

 が、目の前の二人組は小さな少女が屋根から飛び降りて犯人を確保したという。

 ……いやいや。

 

「君たちが何を読もうが勝手だが、それは流石に劇画本の読み過ぎだろう。もう少しは学術的なものをだな……」

「はあ!? マキアスてめえ、私たちがパチこいてるって言うつもりかよ!」

「現場を見て無い癖に分かったようなこと言ってんじゃねえぞ、このガリ勉!」

「いや、しかしだな」

 

 改めて憲兵が集まる裏路地を見遣る。確かにそこには学生服の男女が四人おり、パティリーたちが言う小さい少女と思しき存在も遠目に確認できた。しかし、あれだけ小柄な少女が屋根から飛び降りてきて、あまつさえ大の男を拘束できるかと思うと……

 

「……無理だろう、それは」

 

 やはり、この二人の見間違いか何かだろう。そう結論して自宅に踵を返す。騒音の原因も確認できたので、後はもう家に戻って珈琲を楽しみながら休憩時間を過ごすつもりだった。多少の五月蠅さは我慢するしかない。

 だというのに、マキアスの足は無理矢理に止められる。彼の首根っこをパティリーが、服の裾をカルゴががっちりと掴んでいた。

 

「信じられねえなら何度でも話してやる。おいカルゴ、コイツをギャムジーまで連行だ!」

「了解っす、パティリーさん!」

「お、おい待て君たち! 僕はこれから家で珈琲を……!」

 

 自分たちがいたく感激した光景を嘘と思われたのが余程我慢ならないのか、二人はマキアスをずるずると引き摺って馴染みの居酒屋へと連行せんとする。これは話を信じるまで延々と付き合わされる流れだ。自宅のテーブルに珈琲を置いてきたままのマキアスとしては何としても回避しなければならない。美味い珈琲は冷めても美味いが、それでも飲むのは淹れたてに限る。

 必死の抵抗を試みるも、二対一では分が悪い。徐々に自宅から遠ざけられるマキアスは、ふと視界に入った学生服の集団を見てある事に思い当たった。

 

(そういえば、あの学生服はトールズの……)

 

 見覚えのある制服だった。それも当然だろう。今まさに彼が受験しようと勉学に励んでいる伝統ある士官学院の、パンフレットで何度も目にしたことがある制服だったのだから。

 それに一瞬だけとはいえ気を取られ、マキアスは「あっ」と足を滑らした。引き摺られんと踏ん張っていた支えが無くなり、パティリーとカルゴがしめたと笑みを浮かべる。彼女たちは遠慮なくマキアスを地面に引き摺り始めた。

 「待て、服が汚れるだろう!」と抗議の声を上げても聞き入れられる筈が無い。彼は為す術もなく居酒屋の扉に引き摺り込まれていくのだった。

 




【ギアホールド】
ノイのギアクラフトの一つ。空中のホールドマーカーに掴まることが出来るようになり、主に移動やボスの弱点を突くために使用する。拙作では都合よく解釈した結果、即席ワイヤーアクションの手段と化した。


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第19話 暗所の遭遇

皆さま、あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
ハーメルンに投稿を始めて今年で早三年、時間が経つの早いものですね。新たな一年が皆さまにとって充実したものになれば、と思います。私の抱負といたしましては、まず就職先を早急に決めて仕事にありつくことでしょうか。

堅苦しいご挨拶はここまでにしておくとして、何はともあれ今年も拙作をお楽しみいただければ幸いです。今回は前話にも顔を出していたオリキャラが前面に出ております。


「いやぁ、しかし本当に助かった! 何度礼を言っても言い足りんよ!」

「ど、どうも……」

 

 午後四時頃、だいぶ傾いてきた陽が窓から差し込むプラザ・ビフロストに陽気な声が響く。

 満面の笑みを浮かべた眼鏡の男性が握手した手を激しく上下する。それにちょっとだけ肩の痛みを感じながらも、やけに感激した様子にトワは愛想笑いを浮かべた。助けを求めるように男性の隣にいる青年に視線を送るが、返ってくるのは苦笑い。暗に諦めてくれと伝えられたようなものだ。

 男性の異様なテンションはもう仕方がないとして、このままでは肩が外れてしまいそうだ。そんな彼女の内心が伝わったのか、仲間からの救援が入る。

 

「なあオッサン、そろそろ放してやってくれよ。ウチのチビッ子の腕がもげちまう」

「……や、これは失礼。淑女に対してする真似ではなかったね」

「あはは……まあ、お気持ちは分かりますから」

 

 はた、とクロウの言葉に気付いてようやく握手を解く眼鏡の男性。気持ちは全く落ち着いていないようだったが。

 しかし、それも無理もない話だろう。事故を起こしてしまったと思ったら、それが実は故意の衝突による詐欺紛いの犯罪であり、しかも人質に取られて命の危険さえ感じたのだ。そこから助け出して、逃走劇の末に犯人さえ確保したトワたちに感謝感激してもまるで不思議ではない。

 それが分かっているのでトワも不思議には思わない。ただ、その興奮しように苦笑いが浮かぶのは致し方ないことだろう。もともとテンションが高い人なのかもしれない。

 

「何にせよ、ご両人ともに無事で何よりです。確か工場長さんと……ドミニクさんでよろしかったでしょうか?」

「おお、そういえば名乗っていなかったね」

 

 アンゼリカが現場での会話で聞いた呼び名を確かめれば、工場長と呼ばれていた眼鏡の男性はうっかりしていたとばかりに声を上げる。仕切るように咳払いをし、彼は改めてトワたちに向き直った。

 

「私はボリス・ダムマイアー。紡績町パルムを治めるしがない子爵だよ」

 

 

 

 

 

 アーツを利用した導力車相手の当たり屋。事故の仲裁に入ったはずが犯罪者との逃走劇という思わぬ事態に発展したものの、無事に犯人を確保したトワたちはジョルジュが連れてきた憲兵隊に無事に引き渡すことが出来た。しばらく事情聴取で時間を取られたものの、彼らに代わり帝都の治安に貢献したのは明白な事実。聴取はさほど厳格なものでもなく、加えて後日に学院宛てに謝礼を送ってくれるそうだ。

 そんな一幕の後、是非とも礼をさせてほしいと声を掛けてきたのが眼鏡の男性、改めボリス・ダムマイアー子爵である。共に憲兵隊の聴取を受けていた彼と秘書のドミニクに誘われ、トワたちはプラザ・ビフロストの喫茶スペースに舞い戻って来ていた。

 一先ずはお互いに自己紹介をし、席に腰を落ち着ける。ボリス子爵が注文したケーキを口に運びながら、四人は自分たちが結果的に助けることになった人物の素性に少なからず驚いていた。

 

「まさか子爵閣下だったなんて……帝都にはどうして? 領主が領地を離れることは普通あまりないと思いますけど」

「まあ、それはそうなんだがね……答える前に一ついいかね?」

 

 ジョルジュの尤もな疑問に対して、ボリス子爵は注文を付ける。何のことかと首を傾げる面々に彼はにっこりと笑みを浮かべた。

 

「その子爵閣下という堅苦しいのはやめてくれたまえ。ボリス子爵でも工場長とでも呼んでくれた方が私としても気が楽だ」

「なるほど、それは同感です。私も妙に畏まられるのはこそばゆい」

「はは、ログナーの令嬢は話が分かるようで嬉しいよ」

 

 感性が近しいのか知らないが、早速順応するアンゼリカに対してトワは少し戸惑ってしまう。アンゼリカの時は同じ学生ということで気兼ねなくあだ名呼びが出来たが、ボリス子爵は正真正銘の領主貴族である。そう軽々しく呼んでいいのかと躊躇もする。

 窺うようにボリス子爵の隣に座るドミニクに視線を送ると、彼は肩を竦めて苦笑する。

 

「工場長は少々貴族らしからぬ人だからね。フランクに接してくれないと拗ねるかもしれないから、了解してくれた方が私としても助かる」

「別に拗ねはせんよ。少しへそを曲げるくらいだとも」

「ふふ……じゃあボリスさんで」

 

 おどけるボリス子爵に自然と笑みが浮かぶ。どうやら本当にフランクな人のようだ。これなら堅苦しくする方が逆に失礼だろう。注文通り気軽に呼びかければ「ああ、構わないとも」と彼も満足そうに笑った。

 

「さて、私が帝都に来た理由だが……簡潔に言えば、商談だね」

 

 その言葉を聞いてまた疑問が浮かぶ。領主貴族が商談とは妙な話だ。領地を持たない貴族――所謂法衣貴族は端的には商人と変わりないとも聞くが、領主には領地の運営がある筈だ。それが責務でもあり収益の手段でもある。少なくとも、領主自らが遠方に商談に赴く理由はない。

 だというのに秘書を伴ってボリス子爵はこうして帝都にやって来ている。いったいどのような理屈なのか。不思議そうなトワたちにボリス子爵は言葉を続ける。

 

「これは私のもう一つの肩書に関係があるのだが、君たち、パルムの主産業は何か知っているかね?」

「そりゃ紡績業だろうよ。街の呼び名にある通り」

 

 紡績町パルム、主産業が何かであるかは日の目を見るよりも明らかだ。何を今更、とばかりにクロウは言う。

 

「その通り。街の名物は良質な布類であり、それらの材料を生み出す導力式の紡績工場だ。中でも随一の規模を誇る工場が、ウチの家が運営しているところでね。私はそこの工場長も兼任しているのだよ」

「工場長……オーナーということですか?」

「いやぁ、そんな偉そうな立場でもないさ。現場監督と商材管理と営業をごった煮にしたようなものだ」

「領主なのに、そこまで一工場と深く関わっているのですか?」

 

 貴族が工場の経営をしているというのは理解できる。だが、生産の現場にそこまで近い立場にあるのは意外という他に無かった。本来ならば、その立場は被雇用者の中から選ばれたものが立つ位置だろうに。到底、出資する家門の当主自らがする仕事とも思えない。

 さしものアンゼリカも不思議がり、首を傾げる。貴族としては型外れな彼女でもそうなのだから、他の三人も同様である。ボリス子爵は「まあ、そう思うだろうね」と朗らかに笑う。

 

「もともと私はダムマイアー家の中でも傍流でね。家が運営する工場長として気楽にやっていたんだが、十年ほど前に色々あって……まあ、そこはいいだろう」

 

 色々、と言ったあたりで彼の表情が少し曇ったように見えたが、すぐさま気を取り直したように明るい表情に戻る。

 

「すったもんだの末に領主になんて担がれてしまったのだ。だからほら、ドミニク君も私のことを工場長と呼んでいるだろう? 現場勤めの方が長いから、地元ではそちらの方が定着してしまっているのだよ」

「だからといって工場長、年から年中屋敷に戻らずに各地を商談で飛び回る免罪符にはなりませんよ」

「ここ数カ月は援助物資を募るという目的もあっただろう。それにだな、領地運営は私がやるより家令に任せた方が上手くいくではないか。以前に手を付けようとした時には、君も皆と揃って私を怒鳴りつけてきただろうに」

「税金をいきなり取っ払うような真似をしようとしたら怒るに決まっているでしょう!」

 

 それは確かに家臣たちが怒っても仕方がない。目の前のやりとりにトワたちは苦笑を浮かべる。どうやらボリス子爵は貴族よりも労働者に気質が近いようだった。

 つい声を荒げてしまったドミニクがはっとしたように居住まいを正してトワたちに向き直る。生真面目な人なのだろう。平静を欠いたことを恥じてか少し頬が赤い。

 

「んんっ、とにかく工場長はこのような人だからね。領地にいるよりも工場で生産した糸や布を営業しに各地を商談して回っていることが多いんだ。今回、帝都に来たのもその一環だね」

「《ル・サージュ》はお得意様だからねぇ、今回もいい取引が出来たよ。君たちも知っているだろう? トリスタにも出店しているし、何よりトールズの制服を販売しているところだ」

 

 四人は首を縦に振る。トールズの生徒ならば一度はお世話になっている服飾店だ。ということは、もしかしたら自分たちが着ている制服もパルムの糸から作られたのかもしれない訳だ。そう考えると何だか不思議な縁があったものだと思う。

 

「なるほどな。しっかしまあ、そんな変わり種の領主様を助けることになるとは妙な偶然もあったもんだ」

「それは私も同感だ。まさかトールズの生徒に助けてもらえるとはね。君たちを実習に送り出してくれた学院に感謝するばかりだよ。今度、ハインリッヒの奴に礼でも言っておくかな」

「ハインリッヒって……もしかしてハインリッヒ教頭のことですか?」

 

 聞き覚えのある名前だ。ボリス子爵は「そう、そのハインリッヒだ」と肯定する。

 

「奴とは腐れ縁のようなものでね。まあ、お互いに若い頃から顔を合わせる機会が多くて、割と連絡もマメにしている仲なのだよ。ところで一度聞いてみたかったのだが、実際どうなのだね? 奴の授業は。友人として少々気になるところでね」

「どう、と言われましても……内容は分かりやすいですけど」

「最近の時事とかにも絡めて教えてくれますし、質問にもちゃんと答えてくれる先生ですよ」

「貴族生徒贔屓なのが欠点だがね」

「俺はサボってるから口煩いこと以外は知らん」

 

 意外な人物との繋がりに少々驚きつつも、それぞれ教頭の授業振りを語る。ジョルジュは当たり障りなく、トワは素直に長所を口にする。アンゼリカとクロウは更に正直に悪いと思う点を言ってしまっていたが。クロウに至ってはサボりを公言する有様である。

 そんな彼女らにボリス子爵は大口を開けて笑う。

 

「知識はあるが、頭が固いからなぁ。奴と社交界でたまに同席しても『君は礼儀がなっていない』だとか『仮にも領主ならば』とか口煩いのだよ。大方、学院でもその調子なのだろう」

「ま、まあ……ご想像の通りかと」

 

 ジョルジュが苦笑いで応じれば、ボリス子爵は「そこがまた面白いところでもあるのだがね」と悪戯っぽくまた笑う。きっと真面目で規則に五月蠅いハインリッヒ教頭に何を言われても、平民気質で奔放な彼は誤魔化したりからかったりして過ごしてきたのだろう。凸凹コンビとでも言えばいいのか。実際に話しているところを見た事がなくても、その様子が目に浮かぶようだった。

 悪い人ではないけれど、ちょっと厳しい先生。トワはそんなイメージをハインリッヒ教頭に抱いていたが、こうして彼の友達に会って話を聞いてみると少し印象も変わってくる。厳しいのは確かなのだろうが、それだけではない人間味もあるのだろうと思えるようになっていた。そうでなければ、ボリス子爵が長年の友人を続けている訳もないだろうから。

 学院に戻ったらサラ教官にも話してみよう。意外なところで意外な人物の一面を知ったトワは、件の人物を毛嫌いする彼女にも伝えようと心の内に書き留める。多少なりとも関係改善に繋がるかもしれないし。

 

「工場長、お楽しみのところすみませんが、そろそろ」

「おっと、そうだった。次の商談が待っているのだったな、うむ」

 

 懐中時計を窺っていたドミニクからの言葉に、ボリス子爵はうっかりしていたとばかりに頭を叩く。歓談に夢中になって仕事のことを忘れてしまっていたのだろうか、ちょっと焦り気味になる。

 

「時間に余裕があるからと高を括ってしまっていた。申し訳ないが、これにて失礼させてもらうよ」

 

 残っていたケーキの一欠片を口に放ると珈琲で流し込む。これは確かにハインリッヒ教頭が見咎めても仕方ない所作である。いそいそと席を立つ準備をするボリス子爵を見つつ、なんだか納得してしまう。

 急なお開きではあるが、トワたちとしてもそろそろ席を立とうとしていたので問題ない。まだ地下水路の魔獣退治の依頼が残っているのだ。陽が沈むまでには今日の依頼を片付けておきたかったので、むしろ都合が良かった。

 

「それじゃあお気を付けて。商談、上手くいくといいですね」

「ケーキ、ご馳走様でした」

「ハインリッヒ教頭にもよろしく言っておきますよ」

「また当たり屋に絡まれないよう気を付けるこったな」

「はっはっは、そればかりは女神の気分次第なので確約できんね」

「笑い事じゃないでしょうに……」

 

 鷹揚に笑うボリス子爵の隣でドミニクが頭を抱える。彼も苦労しそうな性質である。

 最後に眼鏡を手拭で拭いて掛け直したボリス子爵は、トワに向けて手を差し出す。別れの挨拶ということだろう。トワもまた手を差し出し、握手する。工場働きもあってか力強くはあったが、先のような興奮による粗雑さはなく、むしろ優しさがあった。

 

「私たちも明日までは帝都にいる予定なのでね、また会うこともあるかもしれん。その時はどうかよろしく頼むよ」

「はい。ボリスさんもどうかお元気で」

「うむ、改めて今日は本当にありがとう。君たちの実習が上手くいくことを女神に祈っておるよ」

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 とん、と軽い音が鳴った。薄暗がりの中に栗色と鋼の光が舞う。

 降り立った先は碧の塊、その天辺。蠢く触覚が自身に取りついた異物を感知し、振り落とそうと巨体を震わせる。スライム状の物質で構成された体が激しく揺れ動き、周囲に展開して相対していた者たちも迂闊に近付けなくなる。

 しかし、その行動は無為な抵抗でしかない。碧の魔獣は少女に取りつかれたその時、既に逃れ得ぬ結末に囚われていたのだから。

 

「さようなら」

 

 スライム状の不安定な巨体に手足を減り込ませ、半ば強引に体を固定したトワは小さく呟いた。

 逆手に握った刀を振り上げる。宙に引かれた一筋の閃光が碧の塊に突き込まれ、その中に浮かぶ核までをも貫いた。暴れていた巨体の魔獣は寒気が走ったかのようにぶるりと震える。それが最期だった。動きが止まり、力が失われる。魔獣の巨体を成していたスライム状の物質が形を失っていく。

 トワは魔獣から離れると、跳び上がった時と同じように軽い音を立てて着地する。刀身に張り付いた碧の命の残滓を振り払い、納刀。振り返ると、そこにはもう魔獣の姿はない。あるのは、かつて魔獣を成していた碧の半固形と割れた核。そして忘れ形見のように残されたセピスだけだ。

 

「…………」

 

トワの瞳に悲しみはない。ただ、その光景を焼き付けるようにじっと見つめ、そして少しの黙祷をする。

 

「……ビッグドローメ、だったか。取り巻きも片付けたことだし、これで依頼完了だな」

「うん。これでまた、しばらくは大丈夫だと思う」

 

 ややあって横から声が掛けられる。残敵の姿が無いことを確認したクロウに頷いた。後ろに控えていたアンゼリカとジョルジュも、構えを解きつつ「お疲れ」と労いの言葉を掛けてくる。

 トワは仲間に少なからず事情を知られてから、魔獣を殺した後にこう(・・)するようになっていた。特別な心変わりがあった訳ではない。故郷でそうしていたように、この地でも同じくするようになっただけだ。そうするだけ気兼ねが無くなったとも言えた。

 三人は特に何も聞きはしない。ただ、なんとなくトワが自分たちとは異なる価値観を有しているのは先月の実習から察していた。彼女にとって、魔獣とは単なる害悪ではないのだと。

 とはいえ、後に引き摺るようなこともないし時間をさして取る訳でもない。その意味で特に問題はなかったので、不思議には思いつつ誰も指摘はしていなかった。

 

「最後は任せちゃってごめん。もう少し持てば、君に負担を掛けることもなかったのだけど」

「いいってば。ほら、持ちつ持たれつって言うじゃない」

「そうだとも。私としてもトワの華麗な雄姿を眺めることが出来てむしろ役得だったしね」

「偉そうに言うことじゃないの……」

 

 今回もジョルジュが申し訳なさ気に声を掛ければ、なんてことはないように何時もの調子ではにかむ。便乗するように惚けたことをのたまうアンゼリカには、人目を気にせず宙に浮かぶノイの呆れた視線が送られた。

 

「つっても毎度毎度リンクが切れていたら面倒なことは確かだろうよ。どうにかなんないもんかね」

 

 そんな彼女らに、倒した魔獣の残滓からひょいひょいとセピスを拾い集めていたクロウがぼやく。今まさに四人の頭を悩ませる問題に、彼は憂鬱そうに溜息をついた。

 ボリス子爵とドミニクに別れを告げてから数時間。ヘイムダル港から地下水路に入ったトワたちは無事に手配魔獣の討伐には成功したものの、その最中に再び自分たちの課題が表面化していた。意に反して突如として途切れる戦術リンク。サラ教官の実技教練でも起こったそれが、ビッグドローメとの戦闘中にもアンゼリカとジョルジュの間で発生してしまった。おかげで標的に対しての集中的な攻撃は難しくなり、二人には取り巻きの掃討に回ってもらうことになっていた。先のジョルジュの謝罪の理由はそれだ。

 結ぶことはできる。だが、不安定で何時切れるかも分からない状態では、戦術リンクはとても安心して使えるものではない。少なくとも、今のままでは次世代の戦術オーブメントに組み込むのは難しいだろう。実際にテストしているトワたちとしても、なんとかしなければ戦闘中に不安を抱えたままとなってしまう。それは望ましくなかった。

 

「システム自体の方もなんとか出来ないかと努力はしているのだけどね……これ以上は基幹を弄らなくちゃいけなくなるから、流石にそこまでは手を出せないんだよね。RFからのアップデートを待たないことには、なんとも」

「私たちのレポートは向こうにも送られているんだったか。そっちには詳しくないが、実際どれくらいで改善できるものなんだい?」

「原因を特定して改善策を考え付けば後は早いけど、そこに辿り着くまでがね。一カ月で出来るかどうか……そのうち、向こうの方に出張る機会もあるかもしれない。直接のデータ取りとかで」

 

 ちょくちょくARCUSに手を加えているジョルジュだが、ハードウェア方面から改善を試みるのは現状において限界に近いらしい。開発元であるRFに動きがなければどうにもならないだろう。

 となると、手を付けられるのは扱う自分たち自身。リンクの強度を左右する人間関係となるのだが――

 

「でも、それ以外ってなるとどうしたらいいのかな?」

「……さあ?」

 

 前の実習ではクロウの態度だったり、そんな彼とアンゼリカの不仲だったりと明確な不安要素があった。それがある程度は改善されたからこそ、あの巨大昆虫との戦いでも土壇場で戦術リンクを結ぶことが出来たのだろう。

 しかし、今は違う。クロウはなんだかんだ文句は言うものの、拒絶することはないし彼自身も今この時を楽しもうとしているように見える。アンゼリカとは相変わらず仲が良いとは言い難いが、それでも決定的という程のものではない。トワからすれば、もうお互いに意地を張っているだけにも見えている。それ以外に特に問題らしい問題も見当たらず、簡潔に言えば、四人の関係は出会って二か月ばかりの内にある程度の纏まりを見せていたのである。だからこそ、いざ戦術リンクの現状を改善しようと方策を考えても首を捻ってしまう。自分たちの間に明確な問題がなければ改善も何もないからだ。

 そもそも、人間関係をすぐにどうこうするなど現実的ではない。不仲であればともかく、普通に仲間として付き合えているのならば尚更だ。仲を深めようにもそれは意識してすぐに出来るものではなく、時間を掛けて徐々に積み重ねていくものなのだから。

 

「……ま、ここで考えていても仕方ねえだろ。さっさと引き返すとしようぜ」

 

 セピスの回収を終えたクロウが促す。この場で首を捻り続けても妙案が出る訳でもなく、一同はその意見に否はない。踵を返し、薄暗い地下水路を抜けるために歩みを進め始める。

 中世に作られたと言われる帝都地下水路は広い。街のそこかしこに出入り口が存在し、そのどれがどこに繋がっているか完全に把握している人はいないという。しかし、この歴史の遺構もこの巨大都市における生活インフラの一部を未だ担っている。都市の下水はこの地下水路に集約され、アノール川へと放流されているのだろう。石造りの壁面から覗く水道管からはちょろちょろと水が流れ、水路という大きな一つの流れに乗って港側の出口へと向かって行く。中世に形作られた生活基盤が未だ健在である印だ。

 トワは学者の娘だ。こういった場所には知的好奇心を刺激させられる。一応は魔獣の警戒も兼ね周囲の様子を見渡し、水路沿いに進みながら積み重ねられた歴史の気配を探る。知らず知らずの内に目は輝き、肩に乗ったノイはそんな妹分に誰の面影を見てか苦笑した。

 ふと、古ぼけた壺が目に入る。地下水路に入ってから打ち捨てられたように幾つか転がっているものだ。改めてそれを観察し、なんとなしに「そういえば」と話を振る。

 

「私はちゃんと見た訳じゃないけど、ボリスさんに突っかかっていた人が持っていた壺の破片、ちょうどこんな感じじゃなかった? ほら、アンちゃんが値打ちがないって言っていたやつ」

「ん……? ああ、確かに同じような感じだったね。脅しつけるために、わざわざここまで拾いに来ていたのかな」

 

 ご苦労なことだね、とアンゼリカは呆れたように言う。彼女からすれば、あの程度の低俗な犯罪者は目の前に転がっている壺よりも無価値なのだろう。

 

「ここに入る時には港の責任者さんから鍵を預かっていたけど、そんな簡単に地下水路に入れるものなの?」

「さあな。港だったり人目に触れることが多い出入り口なら管理されているんだろうが……あのゴロツキみたいな輩が侵入できるようなら、他に放置されている出入り口とかもあるんだろ。それこそ、どっかの路地裏とかによ」

「行政も全体を把握しきれていないって話だしね。十分に有り得る話だよ」

 

 全容を知るものが居ない程に広大な地下水路。それ故に管理の穴も多く、先に捕えた様な犯罪者が利用するケースもあるということだろう。ノイは辺りを見渡しながら「ふうん」と声を漏らす。

 

「じゃあ納得なの。今でもそうなら、昔はもっと人の出入りがあったんだろうね」

「……ああ、そういうこと」

 

 彼女の言葉に面々は疑問符を浮かべるが、その視線が捉えていたものに遅ればせながら気付いたトワは、その意味する所を理解する。水路沿いから少し離れ、年季の入った石壁の下に埋もれる擦り切れた布の塊のようなものに近づいていく。やや戸惑う三人の視線をさて置いて、しゃがみこんでその塊に手を伸ばす。

 拾い上げたそれは、白骨化し、風化した人間の頭蓋骨だった。

 

「これだけ入り組んだ迷路みたいな場所だもの。悪いことに利用もされただろうし……住む場所もない貧しい人たちが風雨を凌ぐために身を寄せ合っていたことも、きっとあったんだろうね」

 

 今の帝都に、明確に貧民区と呼ばれるような場所は存在しない。オスト地区は他の街区に比べれば不便かもしれないが、それでも十分にインフラは整備されているし生活に困ることはない。

 しかし、昔はそうでなかったはずだ。戦争、圧政、疫病、飢饉、経済恐慌。歴史を紐解けば貧民が生まれ得る事象は掃いて捨てるほどにある。そうして居場所を失い、寄る辺もない人々が集まる場所となれば――人目のない路地裏か、そこから偶然にも入り込んだ地下水路にでもなるのだろう。

 白骨死体はもはや全身を保っていない。周囲の骨片の数からして、一人のものではないだろう。魔獣に荒らされたか、あるいはそれだけ長い時間が過ぎ去ったのか。今を生きるトワにそれを知る術はない。出来るのは細やかな祈りを捧げ、霊魂が星と女神のもとで安らかにあることを願うだけだ。

 

「……そうか。もしかしたら、そこの壺も彼らが使っていたものなのかもしれないね。雨水を溜めたり、僅かな食糧を蓄えるために」

「もしそうなら、あのゴロツキは相当な罰当たりだな。トワに伸されたのも当然だろうよ」

 

 アンゼリカとクロウもこの時ばかりは神妙な顔をする。

 地上では今まさに大陸最大の都市として栄華を誇る緋の帝都。だが、この地下に眠る、誰にも顧みられず、埋葬すらされなかったかつての人々も、また帝都の歴史の一部なのだろう。繁栄と衰退を繰り返す歴史の奔流の中で忘れ去られた遺骨を前に、今を生きる自分たちの幸運を思わせられる。

 トワに習うようにクロウらも黙祷する。しばしの間、地下水路を水のせせらぎのみが満たす。

 

「――トワ、そろそろ」

 

 目を開いたジョルジュが促す。あまり長居するような場所でもない。時間も時間だったので、そろそろ歩みを進めようと声を掛けた。しかし、トワは動かない。クロウが怪訝な表情を浮かべた。

 

「おいおい、まさか死霊と会話なんか出来たりしねえよな?」

「流石にそこまでは出来ないの」

 

 冗談にもならないそれをノイは間断なく否定する。そこでようやく静まり返っていたトワが「ああ、うん」と反応を示す。

 

「そういう訳じゃなくて、ちょっとこの壁の向こうから風の流れを感じていたんだ」

「なに、本当かい?」

「うん。もしかしたら……ちょっとごめんなさい」

 

 謝罪の言葉と共にトワは白骨死体をひょいと何でもないように持ち上げる。あまりに躊躇も忌避もなく平然とそんな真似をするものだからクロウとアンゼリカは表情には出さずとも驚き、ジョルジュに至ってはあからさまにぎょっとしてしまう。

 背後の反応など知る由もなくトワは白骨を脇に避けると、古びた石壁を探り始める。そしてやはり、この壁の向こうから風の流れがあることを確信した。風があるということは外に通じる空間があるということ。何時になく瞳を爛々と輝かせる彼女は姉貴分に声を掛ける。

 

「ノイ、ちょっと上の方をお願い」

「はいはい。こういう所は本当に誰かさんにそっくりなんだから」

 

 探究心に火のついたトワを止める術はないとノイは知っていた。やれやれ、と一息ついて頼みに従い石壁の上方を調べていく。同じくトワも石壁に取りつき、下方から石材の一つ一つを事細かに探っていく。

 急な出来事に置いてけぼりの他三名は、顔を見合わせて首を傾げる他ない。ただ察するのは、何かしら彼女の気を引くものがあったということだけだ。

 そうこうしている内にトワは目当てのものを発見する。積み重なる石材の内、一つだけ隙間が大きく、角がやや磨り減っているもの。思い描いていた通りの形状にピタリと当て嵌まり、思わず笑みを深くする。そのまま件の石材に掌を当て、思いっ切り押し込んだ。

 ごん、と鈍い音が水路に響く。トワが押し込んだ石材がトリガーとなり、石壁の一部が後ろにずれ、そして埃を立てながら横滑りして姿を隠していく。四アージュ四方ばかりの石壁が無くなったその先には、風の流れの経路たる地下道が開けていた。

 

「いやはや、これはまた古典的というべきかお約束とでもいうべきか」

「はは……まあ、中世らしい雰囲気といえばそうだね」

 

 隠し扉。遺跡の仕掛けとしての王道が突如として目の前に現れたものだから、予期していなかった面々は苦笑とも呆れともつかいない表情となる。対して発見した当人といえば、未だ瞳を輝かせつつもどこか遠慮の視線を仲間たちにチラと向ける。まるではしゃぐのを我慢している子供のそれに、クロウは盛大に吹き出した。

 

「くくっ……ま、帰りの寄り道に冒険しても問題はねえだろ。どっかの誰かにしょげられても困るしな」

 

 遠慮が居座っていた顔がパッと華やぐ。分かりやす過ぎる変化に笑い声が響いた。

 

 

 

 

 

「んー……水路とは随分と離れたみたいだね。連絡用の地下道? それにしては無駄に複雑な作りになっているし、一つの目的のために作られたというよりは……」

「トワー? 考えごともいいけど、ちゃんと前を見て歩くの」

 

 きょろきょろするトワにお小言が掛かる。しかしながら、すっかり地下道に興味津々になっている彼女から出てくるのは「んー」という聞いているか聞いていないかすら分からない生返事。まったく、とばかりにノイは肩を竦めた。そんな二人のやり取りを眺めていたアンゼリカは忍び笑いを漏らす。

 

「ふふ、あそこまで夢中なトワも珍しいじゃないか。姉君としては悩みの種なのかな?」

「もう半ば諦めているの。完全に遺伝だし」

 

 ジョルジュが「遺伝?」と首を傾げる。ノイは首肯した。

 

「あの子の父親は学者でもあるけど、それ以前に昔から相当な研究馬鹿なの。未知への興味関心が並々ならないっていうか……そんな父親に小さい頃からテラを連れまわされていたんだから、似ちゃうのも仕方ないの」

 

 残され島に降る遺跡、ロスト・ヘブン、星の欠片。それらの未知や謎に対してトワの父親は並々ならぬ関心と好奇心を持った少年だった。学者になったのもそれが高じてのこと。テラが残され島に落着してからは日がな一日中潜り込んでいるのも珍しくなかった。父親がそんな感じだったものだから、その背中を見て育ったトワに研究者気質が遺伝するのも、ある意味で当然のことだったのだ。

 呆れ口調で話すノイ。だが、その目は決して冷めたものではない。普通の少女なら薄ら寒さを覚えそうな地下道を、ちょこまかと元気よく調べ回るトワを見る彼女の瞳は暖かい。宿る感情は慈しみとも懐かしさとも受け取れた。

 クロウたちは二人のことを詳細まで知っている訳ではない。前回の実習で事情は説明されたが、それは表面的なことに留まる。小さな少女と妖精がいかにして今の関係を築くに至ったのかは知らないし、まして彼女の家族がどのような人々なのかなど知る由もない。

 だが、例え表面上のことしか知らなくてもトワとノイが強い絆で結ばれていることは、その目を見ればよく分かった。それこそ、少しばかり羨ましさを感じてしまうくらいには。

 

「親子揃ってあの様子か。そりゃ苦労してんな、お前も」

「まったくなの。いつも付き合うことになる私をもっと労うべきなの」

「その割には、あまり不機嫌に見えないけど」

 

 ジョルジュが指摘すればむっ、と顔を顰めてそっぽを向く。しかし否定はしないのだから、どうにも可笑しくて三人はまた笑い声を漏らした。

 

「……? どうかしたの?」

「なんでもないの」

「ええ? でも、いきなり笑ったりして……」

「なんでもないって言っているの!」

 

 しゃがみこんで地面を調べていた件の少女が疑問の目を向ける。意固地に言い張るノイに首を傾げるトワ。不思議そうな顔をする彼女にクロウたちは忍び笑いしつつ、ようやくこちらに意識を割いた小さな学者様に成果を聞くことにする。

 

「で、そっちはどうなんだ? 何か面白い物でも見つけたかよ?」

「そうだねぇ。面白いものといえばこの地下道自体だけど、何か特別な発見がある訳じゃないよ。クロウ君にとってはあんまり興味を惹かれないかも」

 

 トワにとって興味を惹かれるのは珍しい品とかではなく、この中世の遺構がどうして築かれ、そして今に至ることになったのか、その歴史だ。金銭的価値より学術的価値に魅力を感じて夢中になっているのであって、クロウにはあまり向いていない分野に思えた。実際、その通りなのか彼は期待外れな表情になる。

 即物的な彼に笑みを漏らしながら「ああ、でも」と続ける。彼にとって面白いものは無かったが、気になるものなら見つかっていた。

 

「ちょっと気になるものならあるよ。ほら、ここの地面」

「んだよ……足跡か、これ?」

「魔獣のものとかもあるけど、これだけ人間のものなんだ。それに、かなり新しいものだと思う」

 

 今まさにトワがしゃがみこんでいる地面をクロウが覗く。長い年月が経って埃っぽいそこには、徘徊する魔獣の足跡に混じって人間の靴のそれが残されていた。鮮明さから窺うに、そこまで前のものではない。昨日今日……もしくは数十分前のものだろう。

 

「こんな辺鄙な場所に用事がある奴が、あの当たり屋以外にいるというのかい? 物好きだね、まったく」

「その理論に当て嵌めると、僕たちも物好きということになりそうだけど……まあ、確かに気になるね。ここに用事があるなんて普通だと考えられないし」

 

 平素から地下道に用事がある人物など、少なくとも普通ではないだろう。先の事件に出くわしたこともあって必然的に描かれる人物像は悪いものになる。

 トワは口に人差し指を含んで立てる。風は足跡がやって来た方向から流れ、その先には誘い込まれるような薄暗がりが広がっている。出口を目指すのなら足跡と反対側に行けばいい。だが、このまま見て見ぬ振りをしていくのも気懸かりが残る。

 四人は顔を見合わせる。奇しくも浮かべているものは同じだった。

 

「行こっか。もしかしたら迷い込んじゃった人の可能性もあるし」

「こんな薄ら寒い観光スポットに来るのが、お前以外にいるのかねぇ」

 

 ここまでくれば最後に一仕事してもさして変わりはない。トワたちは足跡に爪先を並べる。

 クロウの皮肉には愛想笑いで返しておいた。まさしくそれは正論だったから。

 

 

 

 

 

(三つ先の角を曲がった所に金髪の若い男が一人。何か調べているみたいなの)

 

 果たして、足跡は本当につい先刻のものだったようだ。

 姿を消して暗がりの先を偵察してきたノイが耳元で囁く。片手を挙げて感謝の意を示し、そのままハンドサインで三人にも伝達する。仮にも士官学院の生徒。これくらいは既に習得していた。

 足音を忍ばせながら先へと進む。角が一つ、二つ、三つ。壁を背にして懐から手鏡を取り出す。角から覗かせたそれには、確かにノイの言う通りの人物が写っていた。金髪に白いコート、背を向けているため顔は分からない。何かの痕跡を探すように、少し前のトワと同じように地面を検分している。

 真新しい足跡を辿って来てみれば、これだ。人の立ち入らない薄暗い地下道、一人で何かを探す金髪の青年。この二つのワードだけで怪しさがたっぷりだ。

 悪意があるかどうかは分からない。しかし、一人でこんなところにいるのだ。警戒だけは怠れない。武具には手を掛けていなかったが、最悪の場合は戦闘行為も辞さない心構えではあった。

 

(学者さん……という訳じゃないよね。地面しか見ていないし)

 

 地下道自体を調べに来たのならもっと全体に目を向ける筈。可能性を一つ削除し、一先ずは手鏡を懐に戻す。後に続く三人に向けるサインは待機。

 しばらくは様子を見るつもりだった。青年の行動を窺って悪意がない一般人のようなら接触して事情を聞くなりする。もし公共良俗に反する目的の行為ならば……まあ、その時はその時だ。

 

「ここらも外れかねぇ……そう簡単に見つかる筈もないか」

 

 唐突に響いた声に肩が揺れた。仲間のものではない。金髪の青年がぼやくように漏らした独り言だった。気配を殺し、息を潜める。青年の独白が続く。

 

「先生も無茶を言ってくれるよ。長いこと探している奴さんを残り少しばかりの間に見つけろだなんて。まあ、それでもやんなきゃいけないのが後輩の辛いところなんだが」

 

 青年はぶちぶちと愚痴を零すようであり、大仰な溜息まで聞こえてくる。先生、奴さん、あと少しの間。聞き取れる言葉だけでは何を目的しているか判然としない。

 もう少し情報が欲しい。じっと耳を欹てる。

 

「――なあ、アンタもそう思わないか」

 

 瞬間、耳朶を叩いたそれに背筋を凍らせた。

 

「いるんだろ、そこに。こんなところで独り言して寂しい奴なんて思われたくないから、返事してもらえたらありがたいんだが」

 

 金髪の青年は確信的だった。彼が今どのようにしているかは見えていない。だが、見えていなくても感じることはできる。彼は今、振り返ってトワたちのいる角を注視している。

 どうして分かったのか。影は見えていない。音も勘付かれるほど大きなものは立てていない。だとすれば、自ずと可能性は限られてくる。

 

(手鏡の反射、かな。視界の端に映ったのかも)

 

 あるいは気配を察知されたか。これは青年が武術に通じていた場合になるが。

 どちらにせよ只者が出来ることではない。僅かな視界の違和感に気付いたのなら、それはそれで相当な観察眼の持ち主だ。少なくとも、先の当たり屋の様なゴロツキレベルの相手ではない。警戒の度合いが跳ね上がる。

 青年の声は気軽だ。しかし慎重な色が滲む。身構えているのは向こうも同じらしい。

 素直に姿を現わすか、この場から離脱するか、このまま沈黙を守るか。選択に迷うトワの肩が叩かれる。見れば、クロウがこちらを見てニヤッと笑う。任せておけ、口の動きでそう言った彼は青年に言葉を返した。

 

「そりゃ悪かったな。尤も、この辛気臭いところに男一人でぶらついている時点でお互い寂しい奴だと思うがな」

「おっと、それは言わぬが花というものだろ。俺だって叶うものなら美女と一緒にディナーと洒落込みたいさ。現実に目を向けても周りにはガサツな女しかいないけど」

「気が合うな。俺の周りにもお子様とレズビアンしかいないんだ」

 

 アンゼリカがクロウをどついた。音も気配の乱れも生じさせない弱いものだったが。

 クロウは男一人と言った。それに対し、金髪の青年が疑念を抱いた様子は窺えない。おそらくだが、こちらの数までは把握しきれていないのだろう。気配を感じ取れる武術家の線はなし。

 

「探し物でもしていたみたいだが、先生とやらから頼まれごとでもしたのかよ?」

「一応、上司みたいなものだから断る訳にもいかなくてな。おかげさまで日が沈むような時間まで地下潜りさ。そっちは?」

「仕事みたいなもんだ。お子様の我儘で残業中だけどな」

 

 今度は足を踏まれていた。これくらいの軽口は気にしないのに、とトワは内心で思う。それを伝える術が今のところないのは仕方ないだろう。

 クロウがなるべく自然に会話しているが、未だ青年がクロかシロか判別が付かない。地下道にいることやトワたちの存在に気付いてみせた観察眼は怪しい。しかし、話を聞いている限りでは悪意のようなものは感じ取れない。結論付けるための材料が足りなかった。

 迷う内にも時は進む。切り出してきたのは青年の側からだった。

 

「こんな場所で会ったのも何かの縁だ。もう少し話さないか。人と顔を合わせられない程シャイな訳でもないだろう?」

 

 どうするのか、とクロウを見る。彼もまたトワを見ていた。行け、そう雄弁に目は語る。

 それを認識すると同時に、トワはクロウの意図するところを理解する。そして同時に戸惑った。短絡的すぎないかと、もう少し考える余地があるのではないかと。

 ジョルジュはよく分かっていないようだったが、アンゼリカは察しがついているようだ。切れ長の目が獲物を狙う猛獣のように細められる。やる気だ。クロウも「ああ、勿論だ」と応じてしまう。動き始めてしまった事態の流れは止められない。

 ええい、とトワは逡巡を断ち切る。もしもの時は頭を下げようと。壁から背を離し、曲がり角の先へと姿を現わした。

 

「は――」

「えっ?」

 

 金髪の青年が呆気に取られたように動きを止める。男と話していると思っていたら、出てきたのは幼さの残る少女。間の抜けた声を漏らし、動揺するのも無理はない。

 しかし、呆気に取られたのはトワも同じだった。青年の姿を視界に収めると同時に目を走らせ、顔を認識し、全身に意識を移した末に、胸元の一点に気を取られた彼女は一瞬だけ自失する。

 ただ不幸があったとすれば、それは普段は仲が悪い二人がこういう時に限って息が合うことだった。

 

「らぁっ!!」

「ふっ!」

 

 クロウが角から飛び出し突貫する。青年は「んなっ!?」と驚愕を露わにしつつも、組み付いてきた彼を上手く受け流し地面に転がす。だが、流石に二段構えで懐に潜り込んできたアンゼリカにまでは対応が追いつかなかった。足を刈られ引き倒される青年。途端に乱闘の現場と化した地下道にくぐもった声が響く。拘束せんと鞭のように腕がしなり、抵抗を試みる手が懐に伸びる。

 

「ちょっ! アンちゃん、ストップストップ!」

 

 大慌てのトワの声。あまりに切迫したそれにアンゼリカの腕が止まり、青年も懐に手を伸ばしたまま硬直する。事態に頭の理解が追いつかない様子のジョルジュは困惑の渦中だ。起き上ってきたクロウが眉を顰めた。

 

「おい、いったい……」

「早とちりだったんだよ。ほら、その人の胸元」

 

 クロウとアンゼリカの視線が動く。その先にあるものを見て、二人も理解が追いついたのだろう。ああ、と納得の声を漏らすと同時に少し気まずそうな表情を浮かべる。

 そんな彼らの様子から青年も事態の全容を察したのだろう。顔に浮かべるのは苦笑い。地面に引き倒されたまま、彼は言葉を選ぶように口をまごつかせる。

 

「あー……どうやらお互いに不幸な誤解があったようだが」

 

 視線が移る。青年を引き倒した時のまま、アンゼリカの手は彼の胸倉を掴みあげて固まっている。

 

「お兄さんとしては、ダンスのお誘いはもうちょっと優しいのが良かったかなぁ、なんて」

 

 そのすぐ隣、彼が着込む白いコートには証が備えられていた。即ち、支える篭手の紋章が。

 どうにも気まずい空気が蔓延する地下道に、青年の乾いた笑い声だけが空しく響くのだった。

 




【ボリス・ダムマイアー】
拙作のオリキャラ。紡績町パルムの領主子爵にして工場長。イメージは眼鏡タヌキ。

【ドミニク】
同じくオリキャラ。ボリス子爵の秘書。軌跡シリーズの秘書は扱いが悪いのが伝統だったりする。


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第20話 想い定まらず

大学決まったのも三月になってからだったし、就活もまだまだこれからでしょ(震え声)


「ははははっ! それで勘違いされてその様か。相変わらずツキがないな、お前は」

 

 暖色の照明をその白銀の髪で照らしながら、シグナは腹を抱えんばかりに笑う。本人は愉快そうであるが、言われた相手としては堪ったものではない。テーブルを挟んで向かいに座る白コートの青年はげんなりとした表情を浮かべる。

 

「勘弁してくださいよ、先生。そんなこと言われたら本当に運が無い奴みたいじゃないですか」

「事実には違いないだろうが。第一、遊撃士になった経緯自体ツキがなかった結果みたいなものだろうに」

「だぁっ! それは言わなくていいでしょ!」

 

 しかし、抗議の言葉は藪を突いて蛇を出しただけだったらしい。ニヤニヤとするシグナが言えば、青年は声を荒げて続きを遮る。彼のあまり触れられたくないらしい部分を的確に突いてくるあたり、シグナの付き合いの長さと同時に意地の悪さが窺える。

 大笑いしたり声を荒げたりすれば、多少は離れていても話は聞こえてくる。部屋の奥に備え付けられた簡易キッチンからトワがひょっこりと顔を出す。

 

「ちょっと伯父さん? あまりトヴァルさん困らせたりしないでよ」

「これくらい弟子との普通のコミュニケーションだよ、普通の。後輩いびりにもなりはしないさ」

 

 まるで悪びれない伯父に彼女は「まったくもう」と溜息をつく。例え当人たちにとっては普通であったとしても、親類がこうして人に迷惑を掛けているのを見るのは少しばかり恥ずかしいものがあるのだ。

 

「ごめんなさい、伯父がいつも苦労を掛けているみたいで。地下道のことだけでも申し訳ないのに……」

「はは……気にしなくていいさ。俺も先生には世話になっている身だし、今日の件はこっちの不注意でもあったからな」

「まあ、お前もまだまだ精進が足りないってことだ」

「先生が教えてくれなかったのも原因の一端なんですがね……」

 

 偉そうに言ったシグナは青年の文句を右から左に流し、何事も無かったかのように背中越しにトワに声を掛ける。

 

「それよか晩飯はまだか? 最近は仕事詰めでまともな食事にありつけていなくてな」

「不摂生しているとまたお母さんや伯母さんに注意されちゃうよ。あと食器とかどこに仕舞ってあるの? フライパンとかもごちゃごちゃに置いてあったし、もう少し整理整頓しておいてよ」

「まともに料理する奴が移籍してからは適当にしか使っていなかったからな……仕方ない」

 

 億劫そうにシグナは席を立ち、簡易キッチンのトワの下に向かう。あれでもない、これでもないと乱雑に放置された食器を奥から引っ張り出すや、またもトワからお小言が飛ぶ。のらりくらりと躱す様子からして、改善の見込みはないようだが。

 そんな二人のやり取りを見て、青年の口元には自然と笑みが浮かぶ。彼にとって恩義ある人物であり、武術の世界では指折りの達人も姪っ子の前ではただのだらしないオッサンらしい。そのどこの家庭にでもありそうな様子が、とても尊いもののように感じられた。

 視線を隣に移す。そこには青年と同じく笑みを浮かべる三人の男女が座る。

 

「……いいもんだな、こういうのも」

 

 何となしに口にする。口々に反応が返ってくる。

 

「まるでトワが私の伴侶になったかのようなシチュエーション……実にいい」

「いやぁ、どんな料理なんだろう。楽しみですね」

「くく……これでもかと辛口に品評してやるとしようじゃねえか」

 

 青年の笑みは固まる。

 おかしい、自分はとてもいい事を言ったつもりだったのに。

 純粋な食欲と細やかな邪念を隣に感じつつ、青年は夕食までの今しばしの時間を口を噤んで過ごした。

 

 

 

 

 

 今日の依頼を全て終わらせたトワたちは、シグナの言いつけ通り遊撃士協会帝都支部に戻ってきていた。地下道で不幸な出会い方をした白コートの青年、もとい、遊撃士トヴァル・ランドナーを加えて。聞けば、彼も帝都支部をたたむ前の諸々の仕事を片付けるために走り回っているのだとか。地下道で鉢合わせたのはその最中だったのだ。

 トワが平謝りしたりトヴァルが逆に申し訳なくなったりとしながら支部に戻ると、迎えるのはシグナの夕飯を催促する声。出来れば食料品の類も撤退前に消費したいとのことだったので、仕方なくトワが雑然とした台所に立った次第である。

 買い出しに行く時間もないので有りあわせの食材を使っての料理となったが、ちょうどオムライスを作れるくらいのものはあった。六人分というそれなりの大人数の食材を消費し、食料品の蓄えを注文通りに寂しくしたところで夕食と相成る。全員がこの一日を忙しく過ごしたせいか、食の進みは早い。気付けば会話もそこそこに皿は既に空けられていた。

 

「ご馳走さん。美味かったよ、このオムライス。店でも出せるんじゃないか?」

「お粗末様です。けど、そんなことないですよ。ちょっと美味しく作れるくらいで」

「いやぁ、そう表現するのは随分と謙遜が入ると僕は思うけどね」

 

 頬を薄く染めながら両手をパタパタと振るトワに、健啖な友人がそんなことはないと口を挟む。実際、彼女のオムライスは並の家庭料理よりも遥かに美味だった。アンゼリカが恍惚の余韻に浸り、ケチを付けようとしていたクロウが口を噤むくらいには。

 

「アーサ直伝の黄金オムライス、なかなか美味く作るようになったじゃねえか。火加減を間違えて魚を消し炭にしていた奴が見違えたもんだ」

「何歳の頃の話をしているの。もうアーサ伯母さんから太鼓判だって貰えるようになったんだから」

 

 苦い記憶を穿り返され、つい口をへの字に曲げる。料理を始めたばかりの十にもならない頃の失敗を今でも覚えているあたり、なんとも意地が悪い。いらない口を叩いて姪の機嫌を損ねたシグナは「悪かったよ」と肩を竦めた。

 そんなやり取りを微笑ましげに見ていたトヴァルが、ふと思い出したように尋ねた。

 

「アーサさんというと……シエンシア支部のアーサさんですか?」

「ああ。お前、面識あったか?」

「導力通信越しで話したことなら何度か」

 

 遊撃士同士で急に話し出されては、トワはともかくとして他の面子はついてこられない。アーサという人物にしろ、シエンシア支部という名にしろ、クロウたちにとっては全くの未知である。

 

「おいおい、こっちにも分かるように説明してくれよ」

「おっと、悪い悪い。シエンシア支部っていうのは残され島にある、帝国南西に広がるシエンシア海の群島をカバーする遊撃士協会の支部でな。アーサさんはそこの受付をやっている人なんだ」

 

 エレボニア帝国の南西に広がる海の先には、数多の群島が浮かぶシエンシア海という海域がある。トワとシグナの出身地である残され島もこの群島の一つである。その群島地帯を活動範囲とする遊撃士協会の支部、それが残され島に存在する遊撃士協会シエンシア支部であり、その受付を務めるのがアーサという女性なのだ。

 シグナは普段は帝国本土で活動しているものの、時にはシエンシア海に戻ってそちらの依頼対応にあたっている。その関係で支部に連絡した際、アーサと言葉を交わしたことによってトヴァルも彼女を知り得ていたのだった。

 その受付の女性をトワは伯母と呼ぶ。ということはつまり、と訳知り顔の二人を除く面々はハーシェル家の家系図を思い浮かべる。

 

「確かシグナさんはトワの御母上の兄上とのことだから、そのアーサさんは御父上の血縁なのかな?」

「うん。アーサ伯母さんはお父さんのお姉ちゃんだよ」

 

 アンゼリカの推測に首肯する。アーサ・ハーシェルはトワの父方の伯母である。

 トワに父方の祖父母はいない。父が十二ばかりの頃にロストヘブンを探し求めて海の彼方に赴き、そして行方知れずとなったからだ。そんな状況の中で、まだ幼いといえる時分に両親を失った父を女手一つで育て上げたのが伯母のアーサであった。祖母が生業としていた星片観測士を引き継ぎ、自身も若年であるのに父をサンセリーゼの学院にまで通わせて独り立ちするまで見守り続けたのは立派という他に無い。

 無論、姪のトワも随分と世話になっている。星片観測機の扱いを教えてくれたのはアーサであるし、料理の腕にしても昔から父の弁当などを手掛けていた彼女から手解きを受けたことが大きい。

 

「伯父さんが遊撃士で伯母さんは支部の受付か。はは、なんだか随分と家庭的な支部みたいだね」

「うーん、家庭的というか職場が家庭そのものというか……」

「ぶっちゃけるとナユタの家――コイツの実家をそのまま支部にしちまったからなぁ。もともと便利屋の仕事場に使わせてもらっていたのを転用して、アーサには副業がてら受付を頼むことになった訳だ」

「いいのかよ、んな適当に支部を作って……」

「いいんだよ。どうせレマン本部の目はあまり届かない海の向こうだからな」

 

 あまりにもいい加減な言い分にクロウさえも呆れ顔になる。このグレーゾーンを我が物顔で進む中年男性が帝国随一の遊撃士だと呼ばれているのだから、現実とは分からないものである。実際、そのグレーゾーンの産物である実家兼支部で生まれ育ってきたトワとしては苦笑いを浮かべるしかないのだが。

 

「まあ、先生の実績もあってお目溢し貰っているんだろう。ここを閉めたら俺もそっちに移籍しようかなぁ」

「馬鹿野郎、そうしたら俺の引退がますます遅れるだろうが。お前はレグラムで馬車馬の如く働かせるって決まっているんだよ」

「リベールの剣聖と張り合う現役バリバリがどの口で引退とか言っているんですか」

 

 軽口を叩き合う遊撃士二人組。トヴァルがシグナのことを「先生」と呼ぶ辺り、単なる上司部下というだけではなく師弟的な関係にあるのだろう――その割にはフランクだが。いったいどのような経緯で今に至ったのか気になるところではある。

 しかし、トワたちにとって重きを置く事柄はそちらではない。ちょうど会話の端に出てきた事もあって、ジョルジュが「あの」と言葉を差し挟む。

 

「ここを――帝都支部を閉めるって、やっぱり本当なんですか?」

 

 確認するような、しかし信じ難さも含んだ問い。トヴァルは目をパチクリさせて師に顔を向ける。

 

「言ってなかったんですか?」

「言ったさ。詳しいことは説明してないが」

 

 悪びれた様子もないシグナに苦労性の気がある弟子は肩を落とす。それは言っていないのと同じようなものだろう、と哀愁漂う姿は無言のうちに語っていた。

 トワたちにしてみれば、依頼を受け取った際に事実だけ知らされて詳しい事情は知る術もないというお預け状態だったのだ。一大支部の閉鎖という聞き捨てならない事態にどうして陥ったのかは是が非でも聞いておきたかった。

 その想いを、自身を見つめる四対の視線からありありと感じたのだろう。トヴァルは困ったように一度頭を掻くと、言葉を選びながら口を開いた。

 

「あー……まず支部を閉めるっていうのは本当だ。俺たちとしても不本意なんだが、止むに止まれぬ事情があってだな。来月頭までに引き払うことになったんだ」

 

 そこまで言って、彼は視線を迷わせる。これ以上のことを伝えてもいいのだろうか、という逡巡が窺える。同時に、伝えるのを迷うほどの理由があることも。

 

「今さら隠し立てしても仕方ないだろ。帝国政府から活動の縮小を申し渡されたんだよ」

「……政府から、ですか?」

 

 対してあっさりと口を割ったシグナ。帝国政府という公的権力の登場にアンゼリカが眉を顰める。

 

「直接の原因は昨年に起こった帝国支部の襲撃事件だ。あれで目を付けられてな。臣民が危険に脅かされる可能性が云々とか理由を並び立てられたら、こちらとしては頷く他なかった訳だ」

「ちょ、ちょっと待ってください。襲撃事件って……!」

 

 突然に飛び出した不穏な単語に驚愕と動揺が発生する。ジョルジュは明らかに取り乱した様子であり、クロウとアンゼリカも目を見開く。ただトワだけが、驚く訳でもなく少し表情を暗いものにしていた。

 

「昨年にウチで騒ぎがあったのは知っているだろ? それだよ」

「確かに支部で火災事故が起こったという記事は目にしましたが……」

「……まあ、流石に帝都のど真ん中で猟兵団が爆破テロを仕掛けたって知られたら大混乱だからな。政府から箝口令が敷かれて、マスコミにはダミー情報が撒かれたんだ」

「猟兵団、ねえ。動機は日頃の怨みか何かだったのかよ?」

 

 遊撃士と猟兵団――ミラによって雇われる凄腕の傭兵――の関係は犬猿の仲そのものだ。民間人の安全を第一とする理念と、ミラを対価に如何なる戦闘行為も辞さない流儀が交わる筈もなく、一度同じ場に居合わせれば衝突することも少なくないと言われている。故に猟兵団の中には遊撃士を目の敵にしているものがいても不思議ではないだろう。

 その仕事敵を排除してやろう。そう考えたからこそ、遊撃士協会の帝国支部は襲撃を受けることになったのではないか。普通に考えれば、襲撃の動機はそのようなものになるだろう。

 だが、順当な推測にシグナは「いや」と首を横に振る。泰然とした様子は崩れていなくとも、その金色の瞳には何時になく鋭い光が宿る。

 

「あれは連中(・・)が仕掛けた陽動だ。ご丁寧に俺がレマンに離れている時を狙って来たもんだから、まんまとカシウスが釣られてな……だがまあ、重要なのは目的じゃない」

 

 重要じゃないと言われても、連中とか知らぬ訳でもない某遊撃士の名とか色々気にはなる。そんな気懸かりも、次に飛び出してきた言葉に吹き飛ばされるのだが。

 

「結局、支部を閉鎖に追い込まれたのは状況を利用し尽くされたからだ。オズボーン宰相直々に支部に乗り込んできて襲撃の事実を盾に取られたら、もう感心する他ない」

「鉄血宰相直々に……抑え込む気満々だったという訳ですか」

「……遊撃士は政府にとって必ずしも益になる存在じゃないからね。リベールとかだと友好な関係を築いているけど、帝国だと貴族からも疎まれることもあるし……」

「俺も居合わせていたが、まあ凄いもんだったよ。襲撃からなんとか立ち直ってピリピリしているところに堂々と踏み込んできてな。そんな中で平気な面して活動縮小を申し付けてくるんだ。ありゃ絶対に心臓に毛が生えているな」

 

 民間人の安全を第一にする。それはつまり、時と場合によっては政府の都合などお構いなしに行動するということだ。政府はもとより帝国の特権的階級である貴族としては目障りに映ることも少なくないだろう。

 だからこそ、襲撃事件によって生じた活動縮小の大義名分を使わない理由はなかった。駄目押しのように政府代表のオズボーン宰相直々という念入り振り。シグナが怒りを通り越して感心するというのも無理はなかった。トヴァルも冗談めかしてはいるが、こちらはそこまで達観していないのか思い返す表情は苦々しい。

 

「おかげさまで各地の支部は続々閉鎖、帝都支部も秒読み状態って訳だ。残ったのはレグラムのように領主の理解があるところか、残され島みたいな辺鄙なところだけ。遊撃士も殆どは転属か転職だ」

「それで天下の《星伐》とお弟子は後片付けの残業か。遊撃士っていうのも世知辛いもんだな」

 

 皮肉られても浮かぶのは苦笑だけだった。説明した通りのにっちもさっちもいかない現状では、足掻こうにも動きようがないのだから。

 

「だがまあ、俺たちもやられっぱなしでいるつもりはないさ。機を見て必ず立て直すつもりだ。転属していった奴らとも約束したしな」

「勤続三十年近くでリストラっていうのも締まりが悪い。俺も引退するのは支部が持ち直してからにするさ」

「だから先生はまだまだ現役でしょうが。レマンからも昇格の話がきてるって聞いてますよ?」

「どこぞの不良親父が准将閣下になったから俺にお鉢が回ってきているんだよ。S級なんてアリオスの小僧みたいな若い連中にくれてやれって何度も言っているんだが」

 

 しかし、そのような苦境にあっても目の前の二人に悲壮な様子は見られない。現状を認め、それでも諦める気は欠片もないのだ。だから笑っていられる。その胸中に宿っているのは諦観ではなく希望なのだから。

 トワは少し安心した。襲撃事件と支部閉鎖の話を伯母から伝え聞き、帝国の遊撃士がこれからどうなるのかと、忙しさからあまり顔を見せない伯父はどうしているのかと心配していた。それが杞憂と分かったのだ。何時もの様子で愚痴を吐く伯父を見て微笑が浮かぶ。

 クロウたちも現状を知り、納得する。端的に言えば、帝国の遊撃士はやられはしたが、やられっぱなしでいるつもりは毛頭ないということだ。

 

「じゃあ、まずは目の前のことからって訳だね」

「ああ、帝都の支部を閉める前にやることは片付けないといかん。立つ鳥跡を濁さず、ってな」

 

 姪にシグナは東方の諺で応じる。糞親父呼ばわりする割に養父からの教えは確かに根付いている伯父であった。

 

「そのためにはトヴァルはもとより、お前たちにも存分に働いてもらいたい訳だが……くく、まさか出会い頭に引き倒されるとは俺も思わなんだ」

「だから勘弁してくださいってばぁ!」

 

 そこで終わらせておけば綺麗に締まるものを、後輩いびりのネタを蒸し返すものだから締まりが悪い。トワは仕方のない伯父に溜息をつき、他の面々も苦笑いを浮かべるしかない。

 

「はは……そういえばトヴァルさんはどうして地下道にいたんですか? 何か調べていたみたいですけど」

 

 心根が優しいジョルジュからのフォローに弄られていた当人は感激の目を向ける。一も二もなく飛びついた。

 

「そう、それなんだよ。地下水路を縄張りにしている魔獣の親玉を片付けてこいなんて言われて痕跡を探していたんだ。けどまあ、そんなすぐに見つかる奴でもなくてな……」

「そう愚痴るな。軍が地下水路の魔獣に取り合うと思うか?」

「そりゃ、その通りですけど」

「支部を閉める前に片付けなきゃ放置する羽目になりかねない、そういう訳か」

 

 トヴァルが地下にいたのはそこに巣食う魔獣――その中でも群れを統率するリーダー格を探してのこと。あの複雑な地下道で易々と発見できるはずもないが、探さなければいけない理由も納得がいく。

 遊撃士が撤退した後に好き好んで地下の魔獣を相手にしようとするものがいるとは思えない。大都市の地下に少なからず脅威は放置され、いつ事故の原因になるとも知れない。後顧の憂いは晴らして支部を閉めたいのだろう。

 

「ちなみに、貴方が私たちをやけに警戒していたのにも理由が?」

「うぐっ」

 

 そこで話が終わればいいものの、重ねられた意地悪な問いにトヴァルは呻く。アンゼリカに窘める視線を送るが、肩を竦めるに留まる。反省はあまり期待できなさそうだ。

 

「いや、確かに俺もピリピリし過ぎた所はあったしな……あれは正直、近ごろ好き勝手している犯罪グループの類かと勘違いしていたんだ」

 

 犯罪グループ、穏やかではない単語だ。夕食後で緩んでいた気持ちに、やや緊張が走る。

 

「オズボーン宰相の政策に対してデモをやっていた連中がエスカレートしたみたいでな……施設への放火やら革新派の政治家への脅迫やら、最近の帝都ではよく耳にする話だ。面倒な奴らだよ」

「鉄血宰相絡みの犯罪者……テロリストか?」

 

 幾分か表情を険しくしたクロウが問う。いや、と首を横に振ったのはシグナであった。

 

「奴らはそこまで本気(・・)の連中じゃない。社会でドロップアウトした鬱憤を何かにぶつけたいだけだ。でなければ、目的も無しに騒ぎばかりを起こしたりはしないだろうさ」

 

 聞けば、その犯罪グループが起こしたのは無視こそできないが、政治的に何かしら影響があるとは思えない局所的な事件ばかり。題目こそ鉄血宰相批判を掲げているものの、テロリストと呼称するにはやっていることが小さいのだという。

 ならば目的は政治的なものではなく、騒ぎを起こすことそのもの。自分たちの失敗を社会のせいにして八つ当たりしている。シグナの分析は的を射ているように思えた。

 テロリストという懸念が消えてトワはホッと息をつく――危険が無い訳ではないが。

 

「たぶんだが、お前たちも目にしたと思うぞ。報告で偽装事故やって慰謝料をふんだくろうとしていた男を拘束したと言っていただろ」

「え、あの人が?」

「どこからミラを調達していたのか知らなかったが、報告を聞いてピンときた。今まで上手く逃げ隠れしてきたのも終わりだな。お前らが捕まえた奴から居場所を吐き出させて、近いうちに片が付くだろうさ」

「はあ、そうなんですか? なんだか実感が湧きませんけど……」

 

 自分たちが捕えた男が、その犯罪者グループの一員と言われてもピンとこない。それが発端となって件のグループの壊滅にまで繋がると言われれば尚更だ。

 

「自分たちの与り知らぬところで物事っていうのは巡っているもんだよ。先生の読みはだいたい当たるから、たぶんその通りなんだろう」

「そういうもんかね……ならミスったな。憲兵にもう少し褒賞をたかっておくんだった」

「邪だなぁ、君は」

 

 だが、実際はトヴァルの言う通りなのかもしれない。物事と物事は知らない所で繋がっていて、自分たちが関与したことが巡り巡って一つの結果に結びつくこともある。自分たちが知らない時に、知らないどこかで。世界の全てを見通せる人などいないのだから。

 本気とも冗談ともつかないことを嘯くクロウにジョルジュが呆れ、他の面々も苦笑する。シグナは快活に笑っているが。トワの目に映り、認識できる現実など目の前の光景だけだ。

 シグナのような達人になら、理に至るような傑物なら、より広い世界を見ているのだろうか。思うが、やめる。身の丈に合わないことを考えても仕方がなかった。

 

「別にいいじゃない。知らずのうち役に立ったなら、それはそれで」

「俺はお前ほどボランティア精神に満ちていないんでね」

 

 無理に遠くを見通そうとして、足元が疎かになっては本末転倒。今のトワには冗談を言い合ったり皮肉を叩く日常しか見えない。なら、まずはそこから取り組んでいくしかない。至らない身で背伸びをしても失敗するだけなのは、よく知っていたから。

 

「ま、魔獣やら犯罪やら帝都も色々と騒がしいが気にすることはない。目の前の実習に取り組んで、そこでぶつかった壁に向き合っていけばいい。自分の手の届く範囲で、な」

 

 そこに内心を透かして見たような言葉を投げかけられるのだから堪らない。ばっちりとこちらに目を向けて。

 トワは「はぁい」と気の抜けた返事をする。伯父にはまだまだ敵わないようだった。

 

 

 

 

 

「――でね、エミリーちゃんが朝練のせいか居眠りしちゃって。頑張って起こそうとしたんだけど、全然起きてくれなくて。結局、教頭先生にばれて大目玉。ちょっとかわいそうだったかな」

「いやぁ、そりゃ自業自得ってものだろ。甘やかしも程々にな」

 

 そうかなぁ、と無自覚を晒しながらトワは手を動かす。再びキッチンに立った彼女はスポンジを洗剤で泡立たせ、洗い物に勤しんでいた。話し相手たるシグナは一人テーブルに居座り、ワインボトルとグラス、つまみのレバ刺しを広げて晩酌を決め込んでいる。

 今ここにいるのは二人だけだった。クロウたちは報告のレポートを、トヴァルは書類仕事を片付けに上階に引っ込んでいる。ノイには先ほど遅れて夕飯を馳走したが、またどこかに姿を隠している。一応はトヴァルを警戒しているのだろう。

 一足早くレポートを片付けたトワを捕まえ、酒のつまみを所望した伯父に仕方なく応じたのが今の状況。洗い物がてら学院での近況を話すトワの言葉は弾む。手紙で母には何度か知らせているが、直に話すのはこれが初めてだった。酔っ払いより余程口が回る姪っ子に伯父が微笑ましげにしていることなど、背を向けているトワは知らなかった。

 クラスメイト、生徒会、教官たち、試験実習。一通り話し終わる頃には洗い物も同じく終わる。ぽたぽたと手から滴る水を拭き取り、足は飽きずにグラスへ赤い液体を注ぐ伯父の下に向かう。半分ほど開けられたボトルをひょいと取り上げる。酒精を帯びてほんのりと頬を紅くしたシグナが縦皺を刻んだ。

 

「明日もお仕事でしょ。あまり深酒しちゃダメだよ」

「……そういう所はクレハに似なくてよかったんだがな」

「それは残念だったね」

 

 一片の躊躇もなくコルクで栓を閉め、ボトルをさっさと片付ける。シグナは残り一杯をチビチビ大事に飲み始めた。

 洗い物で捲っていた袖を戻し、何となしにシグナの向かいに座る。学院での大方のことは話してしまった後ではあるが。今回の実習についても深く聞きたいことは特にない。サラ教官との関係は気になるが――正直、察しはついている。なんだか聞くのが野暮な気さえしていた。

 静かな時間が流れる。夜の帝都に滑り込んでくる列車の音が、遠くから響く。

 

「なあ、トワ」

「うん?」

 

 ふと切り出され、呼び掛けてきた伯父へと顔を向ける。

 

「当たり屋を追っていた時、アレ(・・)使っただろ」

 

 そして唐突に飛び出した言葉に、表情が強張るのを自覚した。

 何故、どうして、頭の中で混乱が渦巻く。無理矢理に抑え込んだ畏れが蘇り、冷たい汗が背を伝う。震える手を押さえるように両の手を重ね、トワは寒気に耐えるように俯いた。

 シグナは小さく笑みを浮かべる。「怒っている訳じゃないさ」と声音を和らげて彼は言う。

 

「ただ、どういう風の吹き回しかと思ってな」

「……よく、分かったね」

「報告の時、妙な感じがしたからな。後は勘だ」

 

 強張っていた顔に苦笑が浮かぶ。随分と便利な勘もあったものである。

 気持ちを落ち着かせるように息を吐き、吸って、吐く。伯父は何も言わずに待ってくれた。

 

「……使わなくちゃ、逃げ切られていた。歓楽街の人混みに紛れて、普通に目で追っていたら見失っちゃうって思って」

「そうか」

「でも、捕まえなくちゃ何も分からずに終わっちゃうから。何の解決にもならないから、それで……」

「そうか」

「でも……」

 

 言葉が詰まる。二人以外に誰もいない空間に、息遣いだけが空気を揺らす。でも、とトワの口から音が漏れる。小さく、呟くように。

 

「やっぱり、怖いよ。意味も、意志もないまま持つ大きいだけの力なんて」

 

 それが、トワの心情そのものだった。断片的で、クロウやアンゼリカ、ジョルジュが聞いても何のことか分からないだろうが、シグナにはそれで十分だった。彼女がまだ、迷いの最中にいることを知るには。

 トワはゆっくりと立ち上がる。足は寝室のある上階ではなく、外への扉へと向かった。

 

「風、浴びてくるね」

「身体を冷やさない程度にしとけよ」

 

 気遣いに「うん」と縦に頷く。扉のノブを捻り、外に出ようとする小さな背中へシグナは声を掛ける。

 

「すまんな」

 

 その謝罪は、果たして何に対するものだったのか。

 しかし、トワは分かっていた。分かっていたからこそ立ち止まり、開けた扉から吹き入る風に髪を揺らしながら、今度は横に首を振った。

 

「ううん。向き合わなくちゃ、いけないことだから」

 

 扉が閉まる。しばらく姪が出て行ったそこを眺めていたシグナだったが、不意に大きく溜息をつくとぐったりと背凭れに寄り掛かった。無造作に頭を掻きあげた指先から銀糸が零れ、天井を仰ぐ彼の頬へ流れる。

 一文字に引き結んだ口元に笑みはない。あるのは、どうにも避けられない事物への苦々しさと、それを押し付けなければならない罪悪感だけだ。

 

「文句があるなら言ってもいいんだぞ、お前も」

『……そういうところ、歳とって性格悪くなったと思うの』

 

 徐に言葉を誰もいない空間に投げかける。返って来たのは苦言。アーツを解いたノイが姿を現わす。その表情は分かりやすいほどに機嫌を損ねていて、思った通りのそれにシグナは苦笑する。

 どこぞに姿を隠していると思われていたノイは、ずっとこの場で話を聞いていたのだ。それにトワは気付かなくとも、シグナは気付いていた。気付いていてノイが聞けば顔を顰めるだろう話題を、わざわざ目の前で話していたのだ。文句を叩かれても仕方がない。

 だが、意見が食い違う話題であったとしても、何時までも避けては通れないのも事実。目を逸らしているだけでは、決して良くならないのだけは確かなのだから。

 

「ねえ、シグナ……ううん」

 

 重い口を開いたノイは、そこで言葉を区切る。真剣な目がシグナをじっと見据える。

 

「敢えて呼ばせてもらうの、セラム様(・・・・)。あの子に――トワに継がせる必要なんて、本当にあるの?」

「お姉ちゃんがすっかり板についたもんだな」

「茶化さないでほしいの」

 

 ピシャリと言い返され、シグナは肩を竦める。酔っ払いが真面目を通すことは難しい。

 

「どちらにせよ苦労するんだ。なら継がせた方がいい、と俺は思う」

「でも、あの子が普通に生きるのに大きすぎる力なんて……!」

 

 必要ない、そう続けたかったノイの言葉は途中で遮られた。シグナは無言のうちに首を横に振り、彼女の言葉を否定する。瞳に酔いの微睡みはなく、ただ静かな光を湛えた双眸がノイに向けられる。

 

「分かってはいるんだろ。生まれたその時から、アイツに人並みの人生を歩ませてやることなんて出来ないって」

 

 その一言でノイは口を噤んだ。認め難くも認めざるを得ない事実。自然、表情は曇る。だが、それは言ったシグナも同じであった。

 普通の少女だったなら、普通に生きるだけでよかった。しかし、トワは普通ではない。その身に流れる血が、遥か過去の遺物が、何も知らない無垢な少女でいることを許さない。今はそうでなくても、いずれ、必ず。

 だから教え得る限りのことを伝えてきた。父からは学問を、祖父からは剣を、そして母と伯父からは力の使い方を。身内の贔屓目抜きでも聡明なトワは、それら全てを余すことなく吸収した。

 そして聡明だからこそ恐れているのだ。もはや意味を失った、その人の身に余る力を。

 

「だがまあ……最後は全て、アイツ自身が決めることなんだがな」

 

 今は見守ることしか出来ない。彼女が答えを出す、その時まで。

 シグナは口の中の苦みを押し流すように、グラスに残ったワインを一息に呷った。

 

 

 

 

 

「…………」

 

 外に出たトワは夜の帳が下りたヘイムダルの空を見上げていた。雲は一つすらなく、星々は思い思いに輝き暗闇を彩っている。しかし、その煌めきは故郷の夜空と比べると幾分か精彩に欠ける。帝都に灯る人々の光が、天上の輝きを塗り潰してしまっているからだ。

 大崩壊から1200年余り、人々は失われた文明を積み重なる歴史の中で再び築いてきた。過去の遺物から導力というエネルギーを新たに得てからは、その流れは一層早まってきている。オーブメントという文明の利器を生み出し、そして同時に、人間同士の争いを激化させながら。長年に渡り対立する帝国と共和国、十年前の百日戦役、そして帝国内の革新派と貴族派の不和。この時代、争いの火種は彼方此方に転がっている。

 争いの中で人々は力を求める。そして力を持つ者を放っておかないだろう。それを遠ざけることは出来るだろうが、何時までも出来るとは限らないし、何よりその行為は世界から目を背けることに他ならない。

 だが、例え向き合ったとしても、意志なき力はこの星に仇為すだけではないだろうか。

 

(伯父さん、心配させちゃったかな……でも、私は……)

 

 トワは恐れている。その身の力が能うことを知っているが故に、意味も意志も無く振るうことを。

 人は常に正しい選択をすることが出来る訳ではない。しかし、それでも信じられる道を彼女は欲していた。

 

(私は……この世界で、何がしたいんだろう?)

 

 自問の答えは未だ見つからず、ただ時だけが過ぎ、世界は徐々に混迷へと向かっていく。

 緩やかに吹いた夜風が、トワの頬を冷たく撫でていった。

 

 

 

 

 

―――――――――――

 

 

 

 

 

 小さな少女が夜空を見上げている頃、同じ空の下では複数の人間が闇に包まれたヘイムダル港に集っていた。数は十数人程度、そこまで大きい集団ではない。その顔には、一様に厳しい表情が張り付けられていた。

 そんな彼らこそが、巷で騒ぎを起こしている犯罪グループであった。

 

「……おい、どうするんだよ?」

「はっ、知るか」

 

 リーダー格の中年の男が吐き捨てる。問い掛けた側のやや年若い男は眉根に皺を寄せた。

 

「知るか、じゃないだろう。資金稼ぎが捕まったんだ。隠れ場が割れたら明日にでも憲兵が差し向けられるぞ」

「そうだぜ。さっさと逃げる算段をつけなくちゃならねえだろ」

「くそっ、そもそもあの馬鹿がドジを踏まなけりゃ……!」

 

 彼らは今、追い詰められていた。偽装事故を起こして慰謝料を巻き上げる役割を担っていた男が捕縛されたからだ。遠からず隠れ場にしている地下水路の一角の情報は吐かされ、一網打尽にするための手を打たれる確信があった。捕まった男が無関係を装い、口を割らない可能性は万に一つも考えていない。そこまで楽観視するほど馬鹿ではないし、仲間内の信頼も無かった。

 矢継ぎ早に声が上がる。殆どは早く逃走しようというもの、後は捕まった仲間への悪態。耳に入れたリーダーは皮肉っぽく頬を吊り上げる。

 

「逃げる? どこから逃げるっていうんだ。駅も街道口も既に鉄道憲兵隊の手が回っているだろうさ」

 

 彼からすれば、今から逃げればどうにかなるという考えは見込みが甘すぎると言わざるを得なかった。尋問とはそう生易しいものではない。訓練も何も受けていない資金稼ぎ役の男では隠れ場所どころかメンバーの顔まで全て吐かされた後だろう、と見立てた方がいい。

 帝都憲兵隊だけならいざ知らず、鉄道憲兵隊は精鋭だ。自分たちみたいなちんけな犯罪者に網を張るくらいどうということはないだろう。考え得る逃げ道は既に潰されている筈だ。

 リーダーからの無情な言葉にメンバーの顔には影が落ちる。物悲しい雰囲気の閑散とした港も相俟って、集団は悲壮な空気に包まれる。対して言った当人といえば、あっけらかんとも言える妙に軽薄な表情を浮かべていた。

 

(俺も焼きが回ったかねぇ……いや、単なる潮時か)

 

 元々、彼は政府に務める役人だった。特別に有能な訳でもなく、むしろ同僚より劣る部分が多い。しかし、彼には他の誰よりも長じる部分があった。職場を牛耳っていた貴族に取り入る狡猾さである。

 今より昔は――十年以上前は帝国政府内も貴族勢力が強かった。彼が務めていた職場も例外ではなく、貴族の強い影響力が及んでいた。そこに付け入ったのだ。貴族に気にいられるよう立ち振る舞うことで彼はそれなりの立場を築いていた。これでそこそこ良い生活が出来る、そう思っていた。

 しかし、その思惑はオズボーン宰相の就任と革新派の台頭で泡と消えた。政府内から貴族勢力は廃され、そこから甘い蜜を吸っていた彼も無能者の烙印を押されて放逐された。職を失った後は酒場に入り浸る飲んだくれとなり、憂さ晴らしに参加した反政府デモにのめり込み、次第に過激な運動に変貌していって……後はもう、流れに身を任せていたようなものだ。

 目の前で勝手に落胆しているメンバーたちも、そう身の上は変わらない。社会の変化によって職を失った者、そもそも社会に馴染めなかった者。時代の流れに自分を合わせられなかった人生の落伍者だ。

 

(まあ、俺たちみたいなろくでなしには妥当な結末かね)

 

 自分たちの行いがただの八つ当たりだとは自覚している。大義名分に政府批判を掲げてはいるが、それらしいものを謳い文句にしているだけで実質は社会への不満をぶちまけているだけに過ぎない。やっていることも放火や脅迫としょうもないものばかり。騒ぎや混乱を起こすだけで満足できるのだから。

 今まで捕まらなかったのは、そんな些末な事件に相手が本腰を入れてこなかったからに過ぎない。やるからには憲兵や遊撃士の目を逃れるために手を尽くしてきたのも確かだが、本気になったプロを欺けると思うほど自惚れてはいない。いや、メンバーの中には本気で思っていた奴もいるかもしれないが。

 しかし、確実な情報源を手中にした憲兵が目下の害虫を放置しておくとも考え辛い。遠からず自分たちはお縄につくことになり、どこぞの豚箱にでも放り込まれるのだろう。

 明確な未来像を思い描き、彼は嘆息する。この結末を仕方ないと割り切ることは出来る。それでも胸の内に去来する空しさに似た感情を追い出すことは出来なかった。

 

「せめて最後に一発、派手にやらかせたら文句ないんだが」

 

 憲兵連中の度肝を抜けたら思い残すこともないだろうに、と叶いもしない願望を零す。手持ちにあるのはナイフに導力銃と人数分もない――しかも捕まったせいで一個減った――戦術オーブメントだけだ。最新装備の鉄道憲兵隊が出てきたらあっという間に制圧されてしまうだろう。

 もう色々と諦めて残った食料と酒で最後の晩餐にでも洒落込もうか。そんなやけなことを考えていると、不意にメンバーの声が閑散とした港に響いた。

 

「だ、誰だお前は……っ!」

 

 顔を上げる。もう来たのか、と思ったが、目に入った光景にその予想は否定される。

 居たのは一人だった。コンテナの影から姿を現わしたのだろう人物は、フード付きのマントに身を包んですっぽりと顔まで覆い隠し、人相すら窺い知れない――背丈からして、おそらくは男だろうと想像しか出来ない怪しい風体をしていた。

 得体の知れない人物の出没にメンバーの間に緊張が走る。それぞれ武器に手を掛け、臨戦態勢に入ろうとしたところでリーダーは「まあ、待て」と制止した。

 

「何を呑気な……!」

「どうせ明日とも知れない身だ。どんな怪しい奴だろうと気にする必要はないさ。で、アンタは何か用でもあってきたのかい?」

『…………』

「だんまりか」

 

 メンバーの抗議を流しつつ、フード男に近づいていく。話しかけても返事はない。だが、何故か苛立ちはしなかった。人生に諦めがついて一種の悟りの境地にでも至っているのかもしれない。

 

「ここは人生の落ちこぼれの溜まり場だ。用が無いなら帰んな。それとも最後のどんちゃん騒ぎに参加したいって言うのなら歓迎するが」

 

 尚もフード男から返答はこない。何かおかしい。内心で首を傾げた所で、背後からの悲鳴が耳朶を叩いた。

 

「ひいっ!?」

「ま、魔獣だ! 魔獣だぞ!」

 

 慌てて振り返る。そこには港の岸壁からずるずると這い上がってくる、水に濡れてぬらぬらと光る鱗に身を包み、身震いするくらい鋭利な牙が並ぶ顎を備えた魔獣。グレートワッシャーと呼ばれる大型の水棲魔獣だ。冗談でも街中に出てきていい類のものではない。

 突然の魔獣の出現に腰を引かせながらも導力銃を構えるメンバーたちに悪い出来事は続けざまに襲い来る。岸壁の下から鳴る水音、鱗が地面を擦る擦過音は鳴り止まない。一匹でも洒落にならない手合いが二匹、三匹とその数を増やしていく。

 続々と姿を現わす魔獣。それは確かに恐ろしい。だが、本当に恐ろしいのはそれらの魔獣がまるで襲ってくる気配が見えないことだ。何かに操られているかのように、意志を感じさせない目がただこちらを見つめてくる。それがどうしようもなく不気味だった。

 リーダーの背に冷や汗が流れる。先ほどまでの悟ったような気分は吹き飛んで、頭の中には混乱が渦巻いている。ただ混乱の中にあっても一つの確信があった。再びフード男に視線を向け直し、そこに変わらず立っている姿を見て確信はより確固なものとなる。

 この男だ。この男が、何かをしているのだと。

 

「アンタ……」

『…………』

 

 相も変わらず言葉はない。だが、反応はあった。

 フードの仄暗い闇の中で、男は確かに笑みを描いていた。

 




【黄金オムライス】
高級料理の一つ。黄金色に輝く卵で包んだとろとろのチキンライス。食べると特殊効果でミラの入手率がアップする。

【アーサ・ハーシェル】
ナユタの姉。両親が亡くなったナユタにとっては唯一の肉親である。母が生業にしていた星片観測士を継いで弟を養い、果てにはサンセリーゼの高等学校に行かせたりと、こんな姉が居たら絶対に頭が上がらないと思える人。しかも料理上手で気立てもいい。
物語の途中で倒れてしまい、とある病に罹患していたことが判明するが……

【レバ刺し】
一品料理の一つ。鉄分たっぷりのレバーのお刺身。しょうがと一緒に。


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第21話 仲間の定義

今度の求人も駄目だったら、大人しく既卒枠に乗り換えます(悟り)


「おはようございま……って、あれ?」

「んあ? もう朝飯できてんのか?」

 

 明朝、試験実習二日目。

 上階の寝室――ちなみに部屋割りは男女別々である――から下りてきたジョルジュは目をパチクリさせ、クロウは寝惚けた声で眼前の光景に首を傾げる。昨夜に夕食を取ったテーブルには既にトースト、ベーコン、スクランブルエッグなどといった簡単な朝食が並び、アンゼリカとトヴァルはもう食卓に着いていた。それだけならともかく、トワとシグナに至っては支度を終えて今日の業務確認や書類の仕分けを始めてさえいる。

 現在時刻、午前六時。男子二人組としては普通に早起きしたつもりである。それでさえ何故か出遅れたみたいな雰囲気になっているのは、別段、彼らのせいという訳ではない。

 

「トワとシグナさんの朝が早過ぎるのさ。三十分前には既にこの通りだったよ」

「一時間前でさえ朝食はもう終わっていたしな……先生は毎度のことだけど、トワも同じとは思っていなかったぜ」

「漁村の朝は早いですから。これでも本職ではないだけ遅い方なんですよ」

「三時起きとかザラにあるからな。四時起きなんて可愛いもんだ」

 

 残され島の主産業は漁業。夜明け前から海に出る生活の流れは必然的に島全体に影響を及ぼし、島の人々の起床時間はかなり早くなっている。陽が上る前から活動するのは二人にとっては当たり前でさえあった。

 理屈は理解できる。しかし、今しがた起きた男子組としては感心を通り越して呆れる他ない。寝た時間はさほど違いないだろうに、そんな睡眠時間でよくピンピンしていられるものだ。

 そんな内心などいざ知らず、トワは業務確認をいったん中断して昨日と同じように簡易キッチンに向かう。

 

「待ってて、すぐに二人の分も作っちゃうから。あ、でもクロウ君は先に顔洗って来てね。寝癖付いているよ」

「お前は俺の母ちゃんかっつうの」

 

 文句を叩きつつもクロウはすごすごと洗面所に引っ込んでいく。寝起きの頭でそれ以上は口が回らなかったのか、将又そこまで悪い気分ではなかったのか。

 シグナは書類からチラリと目を上げ、ボサボサの銀髪が洗面所に消えていくのを見る。

 

「……駄目な男に捕まらなきゃいいんだが」

 

 小さく呟かれた独り言にトワが「え?」と反応するが、彼は何事も無かったかのように書類へ目を戻しているのだから彼女は首を傾げるしかない。可愛い姪っ子の先行きを思う伯父の男親的な悩みを察するには、まだまだ時間が必要なようだった。

 

 

 

 

 

 男子二人も朝食を含めて支度を終え、食器を片付けたテーブルを囲んで本日の依頼確認と相成る。先ほど仕分けた依頼書の束が入った封筒が、トワの面前に放り投げられた。手に取り、感じた厚みに苦笑いを零す。

 

「今日も盛り沢山だね。本職でも一日でこなす量じゃないでしょ、これ」

「まさか体のいい小間使いとして丸投げしているんじゃねえだろうな……」

 

 クロウが疑惑の目を向けるのも仕方がない。それほどまでにトワたちに任せられた依頼量は多かった。

 遊撃士の依頼量は場所によりまちまちだが、一般的に言えば月の依頼量が五十件で普通、七十件までいけば多忙、あまつさえ百件を超えれば激務というところだ。激務の一日平均が約三件に対して、渡された封筒の中には六件は入っているのではないだろうか。臨時の手伝いとはいえ、これは流石に堪えるものがある。

 だからこそクロウの言い分も尤もではあるのだが、それに対して本職の青年は歯牙にも掛けずに鼻で笑う。

 

「甘い、甘いぜ……これを見ろぉ!」

 

 ばっとトワたちの面前に掲げられる手帳。遊撃士の活動を記すそれは、もはや白いところを探すのが難しかった。

 

「先月の依頼数が九十八件、今月になってヴェンツェルがクロスベルに移籍しちまったせいで百の大台を超えて現在百十二件! それに比べれば一日六件なんて可愛いもんだろ、ははははっ!」

「やかましい」

 

 手首のスナップが利いたファイルが乾いた音を立てて顔面に炸裂する。テーブルに撃沈した金髪頭の後頭部を、四人の憐憫の視線が貫いた。

 

「えっと……なんかすみません」

「ご苦労、察し致します」

「優しさが胸に刺さるぜ……」

 

 よろよろと起き上ったトヴァルの目元は、よく見ればクマが浮いている。手帳通りの激務が続いている証しだろう。昨夜も遅くまで書類仕事をしていたようだし、かなり疲労が溜まっているに違いない。

 激務の理由は、やはり支部の閉鎖に伴う人員移動による人手不足、その皺寄せか。段々と遊撃士が姿を消していく中で彼の負担も倍増していって訳だ。妙なテンションになるのも無理はない。

 

「伯父さん、ちゃんと労務管理しているの?」

「まだ他に残っている支部もあるんだ。帝都は俺とトヴァルしか回せる手が無かったんだよ」

 

 伯父に若干の非難を混ぜての視線を向けても、返ってくるのはげんなりとした表情と不平不満が窺える答えばかり。どうやら帝国遊撃士協会は相当にギリギリで運転しているらしい。

 

「まあ、安心しろ。昨日で別件には片が付いた。後は俺が引き受けるから追加の依頼は無い……たぶん」

「そこは断言してくださいよ」

 

 言って、二人は笑う。それが煤けたものであることは目を瞑るべきだろう。

 これ以上この話題を続けるのは精神衛生的によろしくなさそうなので、トワは話を逸らすことにする。

 

「ところで、その別件っていうのは何なの?」

「そうだな……閉鎖に伴う諸々の手続きとでも言うべきか」

 

 手続き、役所への届け出などといった類のものだろうか。しかし、それくらいで――面倒なのは確かなのだろうが――弟子に負担がいくほどシグナは柔ではないことをトワはよく知っている。だから更に聞こうとして、不意に「おっと」と声を上げた相手に質問を妨げられた。

 

「どうやら噂をすれば、という奴らしい」

 

 瞬間、戸を叩く低い音が支部の中に響いた。玄関口のドアノッカーだ。

 したり顔のシグナを除き、面々は思わず顔を見合わせる。今の時刻は七時過ぎ。依頼人にしても来るには早過ぎる時間帯だ。シグナの意味深な発言もあり、どう考えても普通の来客ではないだろう。

 トワは伯父の顔を見て、顎で玄関を指し示す彼に嘆息した。自分が応待しろとのことだ。釈然としないものを抱えながらも、客人を待たせる訳にもいかず立ち上がり玄関へ。

 

「はーい、どちら様ですか?」

 

 そして戸を開け、そこに立っていた人物を見て固まった。

 居たのは二人。スーツ姿に眼鏡をかけた男性と、灰色の軍服を纏った若い女性。男性は眼鏡の奥の目を驚きからか見開いており、若い女性も同性からしてみても綺麗な顔に怪訝な色を浮かべている。素性は分からずとも、トワはその様子から察した。

 

「すみません、私、ここでお手伝いさせて頂いている者でして。依頼の御用でしたら、どうぞ中へ」

「……ああいや、気を遣わせてしまったようだ。こんな可愛らしいお嬢さんが出迎えてくれるとは思っていなくてね」

「いえいえ、こちらこそ驚かせて申し訳ないです」

 

 遊撃士協会からいきなり学生が出てくれば、てっきり遊撃士が応対すると思っている訪問者からしてみれば虚を突かれるのも無理はない。軽く頭を下げて謝意を示すと、眼鏡の男性も同じく頭を下げた。小皺の窺える顔に浮かべた柔和な笑みから、その人柄が垣間見える。悪い人ではなさそうだ。

 一方、軍人らしい女性は一歩下がった所に控えて動かない。険は取れたものの、その表情は口を堅く一文字に結んだ無表情。軍人らしいといえば軍人らしいが、美人なのに勿体ないとも思ってしまう。男性の付き人、あるいは護衛だろうか。

 応対しつつ想像を巡らせていると、背後から出てきた人物がトワの頭に手を乗せる。悪戯っぽい笑みを浮かべたシグナがそこにいた。

 

「どうも、知事閣下。ウチの姪っ子の出迎えは如何でしたかね?」

「はは……そういえば昨日、言っていましたな。礼儀正しい良い子じゃないですか」

「それはどうも」

 

 一応は敬語ながらも、それは明らかに形ばかり。トワは呆れの目を向けようとし……そして彼らの会話を呑み込み理解した途端、「え……」と数瞬の自失に陥った。

 

「大尉も朝早くからお勤めご苦労さん。オッサンのお守まで仕事になるとは、お互い楽じゃねえな」

「任務ですので」

 

 シグナは後ろの女性軍人にまで声をかけ、そしてにべもない返答に「嫌われたもんだねぇ」と肩を竦める。大尉と呼ばれた女性は女性で警戒の色を浮かべており、何やら厄介そうな関係を窺わせる。

 そんな一方ばかりが剣呑な雰囲気を漂わせるやり取りをしている内に、呆然としていたトワが気を取り直す。伯父の飄々とした態度を咎める余裕もなく、焦りを隠せぬ様子で問い掛ける。

 

「ちょっ、伯父さん、知事閣下って……!」

「ん? このオッサンのことなら言葉の通りだが」

「はは、そういえば自己紹介を忘れていたね」

 

 シグナにオッサン呼ばわりされた男性は、それを気に掛けた素振りも無く丁寧に一礼する。

 

「帝都ヘイムダル知事、カール・レーグニッツだ。君の伯父さんにはいつもお世話になっているよ」

 

 

 

 

 

 支部へ客人を招き入れ、シグナと男性がテーブルを挟み向かい合う。周囲に漂う緊張に反して、一人だけリラックスした様子のシグナが「それで?」と口火を切る。

 

「早朝からどんな御用件で? 昨日からの行政サービスで早速、問題でも起きたとか?」

「その件に関しては心配いりませんよ。皆、慣れない業務に苦労しているのは確かですが、それでもよくやってくれている。そちらの手を煩わせることにはならないでしょう」

「どうですかね、ウチの資料の山を見て白目剥いていましたが」

 

 はっはっは、とこの場の年長者二人は笑い合う。それがまた含んだものが感じられるものだから、見ている側としては笑っていられない。

 少し離れて様子を窺っていたトワは、こっそりと同じく様子を窺うトヴァルに小声で問う。

 

「あの、昨日からの行政サービスって?」

「帝都庁の生活相談サービスって奴のことだな。ウチが撤退するから、その代替サービスとして始まったものだ。先生が言っていた別件っていうのは、それの開設準備の手伝いだったんだよ」

 

 曰く、その生活相談サービスとやらは撤退する遊撃士協会に代わって市民の要望に応えていくためのものらしい。日々、膨大な依頼を処理していた遊撃士協会が無くなれば、その影響は帝都の市民生活に如実に表れることになるだろう。切迫した問題ではないかもしれないが、細やかな要望にも応えてくれた遊撃士がいなくなることは市民にとって確実に痛手である。

 市民生活への悪影響は帝都庁にとっても他人事ではない。となれば、今まで遊撃士が担ってきたことを代行する存在が必要となる。そして導き出された答えが庁舎で相談の窓口を開設すること、という訳だ。

 

「ぶっちゃけ、そっちの都合で潰しておいて勝手だろとは思うけどな」

 

 しかし、ノウハウを持たない職員がすぐに新しいサービスを始められる訳もない。そこで高位遊撃士たるシグナに助力が求められたのだが、トヴァルは良い感情を抱いてはいないようだ。気持ちは分からないこともない。

 

「そう言うな。七面倒な仕事を肩代わりしてくれるっていうのなら助かるのは変わりないだろ」

「うわっ、聞こえていました?」

 

 肩越しに見遣ってくる金の瞳が笑う。地獄耳もいいところだ。

 

「他の貴族領じゃ放置する所を頑張ろうとしてくれてんだ。知事閣下はそこのところマシな類さ」

「完璧な遊撃士の代替、といかないのが現実ではありますがね。細かすぎる雑務には対応しきれませんし、逆に手配魔獣など手に余るものもある。何もないよりマシという程度ですよ」

「だが、それでも実現させた。なら俺も手伝った甲斐があるもんです」

 

 問題点を抱えつつも地に足を付けて前進することをシグナは評価する。だから彼は助力を求められた際、それを受諾したのだろう。目の前の男性、帝都知事、カール・レーグニッツからの求めを。

 レーグニッツ知事は初の平民出身の帝都知事だ。入職して以来、着実に功績を積み上げていき遂には貴族を押し退けて都政の頂点に立った傑物である。鉄血宰相の盟友とも言われる革新派の有力人物であるが、高潔な人柄ゆえに目の敵にされているとは耳にしない。遊撃士にとっては、素直に歓迎は出来ないが話は分かる相手といったところか。

 とはいえ、帝都知事という大層な肩書を持つ人物も傍目からでは人当たりのいいおじさんにしか見えない。取り巻く環境を大まかながら理解しつつも、トワとしては悪い印象は持てなかった。

 

「なら、こちらとしても助かります。改めてお礼を言わせてもらいますよ」

「律儀なもんですな。わざわざそのために?」

「はは……実を言うと、今朝は私の方がついででしてね」

「ほう」

 

 興味深そうに相槌を打ち、視線は後ろに控える女性軍人へ。彼女は先ほどから厳しい表情のままである。

 

「クレア大尉が遊撃士に用とは珍しい。依頼か?」

「いいえ。今朝は……」

「じゃあプライベートか。おじさんとデートしたいなら、もうちょっと経験積んでからな。垢抜けた方が好みなんだ」

「っ、聞いていません!」

 

 そんな鉄面皮も冗談一つで崩される。予想外の言葉に頬をカッと赤らめ、動揺から声を少し荒げる彼女。可愛い人だな、とトワは呑気に思う。同時に、女性をからかう駄目な大人は後で少し叱ろう、とも。

 トワの場違いな感想など露知らず、友人たちは驚き呆れた表情で囁く。

 

「お前の伯父さん、やっぱりとんでもねえな……」

氷の乙女(アイス・メイデン)を初心な小娘扱いか。悔しいが、真似できそうにないね」

「そこは真似しなくていいんじゃないかな」

 

 女性軍人の素性は既に聞いているので、彼らが驚く理由も分かる。

 クレア・リーヴェルト大尉。鉄血宰相肝煎りの精鋭部隊、鉄道憲兵隊の若き指揮官。しかも宰相子飼いの鉄血の子供たち(アイアン・ブリード)なるものの一員らしく、導力演算機並みと称される頭脳と冷静な判断力から氷の乙女(アイス・メイデン)という異名を持っているのだとか。

 しかし、いきなりそんなことを聞かされてもピンとこないというのが正直なところ。トワは友人たちの驚きを理解は出来ても共感は出来なかった。今の心境を語るとすれば、身内が御迷惑をお掛けして、という申し訳なさが大半である。

 件のクレア大尉は小声でそんなやり取りが交わされているとも知らず、場を仕切り直すように咳払いを一つ。

 

「……今朝お伺いさせて頂いたのは謝礼と通達のためです。断じて私用ではありません」

「そりゃ残念。で、謝礼とは?」

 

 全く残念そうに思えない声で先を促され、クレア大尉は事務的な口調で答える。

 

「昨日の偽装事故による恐喝犯の逮捕へのご協力、それに伴う犯罪グループ撲滅の目処が立ったことへの謝礼です。これは遊撃士協会(あなた方)というより、そちらのトールズ士官学院の方々へのものですね」

 

 唐突に話の矛先が向いてきて、トワは「えっ」と戸惑う。これは大人たちの間の話し合いであり、自分たちは部外者と思っていたのだ。他の三人も目をパチクリさせるなど、いずれも想定外なことには違いない。

 

「近々、本格的に洗い出そうとしていたところに有用な情報源を手中に出来て手間が省けました。おかげさまで直ぐにでも動き出すことが出来そうです。改めて、お礼を言わせてください」

「い、いえ。たまたま出くわして首を突っ込んじゃっただけですから、そんなわざわざ……」

 

 偶然から事件解決に貢献したとはいえ、一学生に対して指揮官クラスの士官がお礼を言いに来るなど、それこそ想像の埒外だ。わたわたと手を振りながら謙遜の言葉を並び立てるトワに、クレア大尉はそこで初めて表情を緩めた。

 

「犯人の嘘を看破し、人質を取られた状況にも冷静に対処し、逃走する相手を確保した。本職の軍人でもなかなか出来ることではありません。誇ってもいいんですよ」

「オスト地区で捕えたんだろう。私もあそこに住んでいてね、帰ってから息子に聞いたよ。ところで屋根から飛び降りて捕まえたというのは本当なのかね?」

「え……ええ、まあ」

 

 知事からの質問にぎこちなく頷くと、彼は「それは大したものだ」と素直に感心する。一方ではトヴァルが「お前が?」とクロウに問い、そして「いや、コイツが」と返されて呆気に取られたような視線を向けてくるのが感じられる。

 偶然に関わった出来事でここまで持ち上げられるとは思っていなかった。面映ゆい気分に、頬が熱くなってきた。

 

「ともあれ、貴方たちの功績は帝都の治安に大きく貢献するものだったのです。学院への謝礼は鉄道憲兵隊の方からも心付けておきましょう」

「えっと……正直、あまり実感が無いですけど、ありがとうございます?」

 

 クレア大尉からの言葉は有り難い。だが、昨夜にも話した通り知らぬところで起きたことに実感は得難い。だから何と言っていいか分からなくて、結局、口から出たのは自分でも意味の分からないお礼だった。そして、それは他の面々も同じこと。「そりゃどうも」だったり「これはご丁寧に」だとか「恐縮です」等々。クレア大尉はぎこちない彼女らに笑みを漏らした。

 

「ふふ、お礼を言いに来たのは私の方なのですが……さて」

 

 そう区切った所で、クレア大尉の表情は再び凛としたものに切り替わる。

 

「謝礼は済ませた所で、もう一つの用件に移りましょうか」

「通達、だったか。立ち退きの催促とか?」

「実を言うと、先の犯罪グループに関してのお話です」

 

 シグナのブラック気味の冗談は華麗にスルー。二度も三度も付き合ってやる義理はない、といったところか。

 

「本日、鉄道憲兵隊による犯罪グループの捕縛作戦を行います。遊撃士の方々はこれに関わらないよう通達に参りました」

 

 冷厳と告げる言葉に感情は見出せない。トワたちは――おそらくはレーグニッツ知事も――いわば部外者であり下手に口を出せない。ただ当事者の様子を窺えば、トヴァルは僅かながら眉を顰め、シグナは特に表情を変えることもなく泰然としていた。

 

「そんなことをわざわざ伝えに来たのか? こんな時間に」

「ご自分の胸に聞いてみれば、その理由もお分かりかと思いますが」

 

 惚けた様にシグナが言えば、クレア大尉は冷たく返す。

 その言葉が意図するところは分からないが、想像することは出来る。端的に言えば邪魔をするなと伝えに来たのならば、つまり普段は邪魔が入っているということである。そしてトワがよく知る伯父の性格を考えれば、次に彼の口から発せられる台詞にも察しがついた。

 

「通達なんぞしなくても俺たちの行動指針は変わらんさ。民間人の安全と地域の平和を守る――それが遊撃士だ。余所にどうこう言われてぶれるものでもない」

「俺も先生と同意見だ。アンタたちにはアンタたちの都合があるんだろうが、いざとなったら遠慮なしに動かせてもらう」

「……分かっていたことですが、大概、頑固に過ぎますね。やはり宰相閣下が下した貴方たちへの対処は正しかったようです」

 

 軍と遊撃士の対立。話には聞いていたが、こうして目の前でピリピリとした空気を醸し出されると嫌でも実感せざるを得ない。その渦中にありながら、シグナは不敵な笑みを浮かべる。

 

「まあ、今回の件はそう心配しなくてもいいだろう。そちらが上手くやって表沙汰にならなければな」

 

 遊撃士は民間人の安全が脅かされる事態となれば有無を言わさず行動する。翻せば、民間人に危機が及ばない限りは動かないということ。シグナの言葉は首尾よくことが運べば自分たちは手を出さないと仄めかしていた。

 現実問題、件の犯罪グループによって少なからず民間人に被害は出ている。それでも一先ずは軍に任せると暗に示したのは彼なりの譲歩なのだろう。

 

「それは挑発ですか?」

「いいや、信用さ」

 

 しかし、クレア大尉は相当にシグナを嫌っているのか、険しい面持ちを崩さない。いったい何が起こればそこまで不信感を抱かれるのだろうか、と自分の伯父ながらトワは内心で嘆息する。

 

「美人がカリカリするもんじゃないぜ。それともなんだ、鉄血のオッサンに鼠狩りの雑務でも任されて腹立ててでもいるのか?」

「宰相閣下は関係ありません! これは閣下がご不在の内に不安要素を除外すべく――」

「ほう、あのオッサンは不在なのか。差し詰め、仕込みが上手くいかなかったリベールあたりにアポなし訪問しに行っているってところか。後でカシウスに教えとくとしよう」

「……っ!」

 

 大尉が自身の失言を悟り、苦渋の表情を浮かべる。トワは今度こそ本当に嘆息した。

 シグナは口が上手い。三十年という膨大な遊撃士のキャリアの中で積み上げてきた経験の中で、幾度となくこなした交渉を通じて成長し、今ではもう生半可な口論では敵う相手がいない程だ。感情を刺激する部分を的確に把握し、不意に突くことで情報を得る。予想される可能性をあたかも真実かのように話し、鎌をかけて反応から事実関係を窺うのもお手の物である。

 交渉人としては優秀なことは間違いないが、やられた側としては決していい気はしない。トワは、伯父が大尉に嫌われている理由が何となく分かった気がした。生真面目そうな、まして若い彼女を手玉に取ることなど苦にもならなかったのだろう。

 

「まあ、最後のは冗談だ。何時出航したのか知らないが、昨夜中ならもうじき着く頃合いだろう。くく、たまにはあの中年親父も度肝を抜かれるがいいさ」

 

 シグナは笑うが、周りは笑っていられるような気分ではない。クレア大尉は物々しい雰囲気を二割増しで漂わせ、それを傍で感じているレーグニッツ知事は冷や汗混じり。トワたちは巻き込まれないよう部屋の隅で身を寄せ合い、トヴァルでさえも口元を引き攣らせていた。

 

「……用件は済みました。知事閣下、参りましょう」

「ん、ああ。それでは朝早くに失礼したね。トールズの諸君も、またいずれ。頑張って実習に励んでくれ」

 

 明らかに不機嫌な表情を張りつけたままクレア大尉は辞去し、知事もそれに倣う。去り際に声を掛けられて会釈するも、帝都知事に早々会う機会がるかどうかは疑問である。

 しかし、今はそのような些末なことを考えている暇はない。客人が辞去した先を眺めながら「最近の若者は余裕がないなぁ」などと嘯いている伯父の肩に手を置く。

 彼が振り返った先で、トワは色のない笑みを浮かべていた。

 

「伯父さん、業務前にちょっとお話しようか」

 

 

 

 

 

 カツカツと軍靴が石畳を叩く音を聞きながら、レーグニッツ知事はその後を追う。何時になくペースが速いそれに少し苦労しながらも合わせ、ようやく余裕が出てきたところで声をかけた。

 

「珍しいな。君がそこまで感情的になるというのも」

 

 軍靴のテンポが緩まる。無言のうちに数歩ばかり。少し離れた所に停めてあった公用車に辿り着き、音が止む。

 

「……申し訳ありません。見苦しいところをお見せしました」

「いや、君もまだまだ若いんだ。なんだか逆に安心したよ」

「…………恐縮です」

 

 たっぷり言葉に悩んでから返事をし、クレア大尉は助手席のドアを開ける。知事がそこから公用車に乗り込むと、自身もまた運転席に乗り込む。キーを回すと駆動機関が起動する振動が僅かに体を揺らした。

 今朝は知事が無理を言って付いてきただけなので乗り込んでいるのは二人だけだ。片や鉄血宰相の腹心、片や鉄血宰相の盟友。同じ人物に近しい両者は親しい間柄と言う訳ではないが、知り合い以上の存在ではある。知事は普段より幾分かリラックスして話す。

 

「しかしまあ、彼をああも露骨に警戒しなくてもいいだろうに。確かに少々……うん、少しばかり難があるのは確かだが、悪い人物ではないのも分かってはいるのだろう?」

 

 滑るように公用車は走り始める。向かう先は帝都庁舎。アルト通りを抜けヴァンクール大通りに通じるようにハンドルを切りながら、クレア大尉は幾分か落ち着いた様子で口を開いた。

 

「おっしゃる通り、彼は――シグナさんは、悪人ではありません。遊撃士である以上、立場の違いから意見が食い違うのは致し方の無いことですし、手玉に取られるのも私の未熟ゆえのこと。驕りを持たせないでくれていると考えれば感謝してもいいとすら思っています」

 

 ですが、とクレア大尉はハンドルを強く握る。

 

「情報局でさえ分からない……いえ、調べられない彼のことを、皇帝陛下により干渉を禁じられた彼の素性を知ることが出来ないからには、私は彼を信用できないのです」

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 今日も今日とて帝都を歩き回り、くたくたになって伏し目がちになりながら歩を進める。ふと、自身の影が小さくなっているのに気付く。見上げれば、陽はもうじき頂点に昇ろうとしていた。

 

「もう正午かよ……道理で腹が減る訳だ」

「厳密には十一時半を少し過ぎたところだがね。本職はこれを毎日しているのかと思うと頭が下がるよ」

 

 早朝から一騒ぎあったものの、その後トワたちは無事に二日目の試験実習へと街に繰り出していた。シグナから託された依頼を片付けながら街中を巡ること四時間近く、いい加減に足の疲労からも空腹具合からも限界が近くなってきた彼女らはドライケルス広場に差し掛かっていた。

 残った依頼はあと二件ほど。先に片付けようと思えば出来ないこともないが、それでは昼時を逸するのは確実だろう。トワは振り返り、足を引きずるように歩く仲間たちに提案する。

 

「ちょっと早めだけど、先にお昼にしよっか。食べ損ねても嫌だしね」

「そりゃ大賛成だ。願ってもねえ」

「僕もペコペコだよ……どこで食べようか?」

 

 いざ昼食となるも、何を食べるかを考えると悩ましい。昨日と同じようにプラザ・ビフロストに行くのは味気ない。かと言って高級感溢れるような所に入るには懐が心許なく、良心的な値段の店を探すにしても手間が掛かる。

 どうしたものか、と首を捻る面々。そこでアンゼリカが視界に入ったそれに目を付ける。

 

「そうだな。たまにはお行儀悪く、というのもいいかもしれないね」

 

 

 

 

 

 数分後、四人の両手は買い込んだもので塞がれていた。

 

「……おいジョルジュ、流石に買いすぎじゃねえか?」

「そんなことないさ。むしろ君の方こそ思ったより小食なんだなぁ、と僕は思うよ」

 

 特に量の多いジョルジュの手持ち――あらびきソーセージ、ターキーレッグ、アップルジュース等々――に目を向けながらクロウが疑問を零せば、当の本人はずれたことを平然と口にする。何時もは突っ込まれる側である筈の逆立てられた銀髪頭が「いやいや……」と横に振られた。

 

『…………』

「……ノイ、気持ちは分かるけど、そんな恨めし気な視線を送らないでよ。こんな人通りが多いところで食べさせてあげられる訳ないじゃない」

『分かっていても恨めしいの……!』

「妖精姿というのも楽じゃないのだね」

 

 一方、サンドイッチなどの軽食を購入したトワは背中に刺さる姉貴分の怨嗟が籠った視線に困り顔になっていた。自分だけ食べられないことが腹に据えかねるのは分かるが、引っ切り無しに人が行き交うような場所で彼女に姿を現わせさせる訳にもいかないのだ。この場は我慢してもらう他ない。

 本日の昼食はアンゼリカの提案による屋台での買い食いである。バルフレイム宮を一目見ようと来る観光客狙いなのだろう。ドライケルス広場にはそれなりの数の屋台が出店しており、ただの週末にしてはラインナップが豊富であった。

 さて、購入した後はどこで食べようとなる訳で、四人で座れる適当な場所はないかと辺りを巡る。周囲の喧騒に混じってノイがブツブツと零す文句を聞き流し、ふと目に入った姿にトワは「あれ?」と声を上げた。

 

「ね、あれトヴァルさんじゃない?」

「……うん、確かに。なんだか草臥れているけど」

 

 視線の先では、金髪に白コートを纏った見覚えのある人物がいた。ベンチに座りホットドッグを齧る彼の目は、何やら虚空を見つめていたが。

 場所も空いているようだし丁度いい。ぼうっとしている彼の元へトワたちは足を向ける。

 

「お疲れ様です、トヴァルさん。隣、いいですか?」

「ん……? ああ、お前たちか。そっちも昼飯だろ? 座れ座れ」

 

 一拍遅れてその姿を認めたトヴァルは席を詰めて促す。その好意に甘えて順々に着席。トワ、アンゼリカ、ジョルジュと座っていき、最後に座ったクロウは端の肘掛とジョルジュに圧迫されて「ぐえっ」と呻いた。

 早速、トワはサンドイッチに手をつける。空っぽの胃に栄養分を放り込みながら、偶然の同席者に声を掛ける。

 

「そのホットドッグ、トヴァルさんも屋台で?」

「ああ、手っ取り早く飯を食べるのには丁度いいからな。忙しい身には重宝しているんだ」

 

 言って、大口を開けて食べかけのそれに噛り付く。パンの切れ込みに挟まれたソーセージを噛み切る音が、その出来立て具合と美味しさを伝えてくる。トヴァルは一時の安息を堪能するかのように穏やかな表情を浮かべ……不意に顔を顰め、首筋に手をやった。

 

「なんだ……視線か?」

 

 後ろを振り返るが、もちろんそこには誰もいない。一瞬前には物欲しげな目をしたノイがいたであろうと想像がつくトワとしては冷や汗ものであるが。

 不思議そうに首を傾げる彼の気を引くべく、トワは焦り気味に「そ、そういえば」と切り出した。

 

「随分とお疲れみたいでしたけど、やっぱり伯父さんに沢山仕事を任されちゃっているんですよね? 辛いなら私の方からもっと伯父さんが頑張るよう言っておきますけど……」

「えっ……い、いや、心配には及ばないさ。疲れるのは確かだが、それだけ信頼されているって訳でもあるしな。そもそも先生も抱えている依頼は多いし」

 

 その口から飛び出した申し出に相手もギョッとする。思い浮かべたのは今朝の光景。トヴァルは思わず小さく呟く。

 

「一日に二度も三度も説教されるのは先生だってキツイはずだしな……」

「え?」

「ああ、うん。取り敢えず俺は大丈夫だ。体力と頑丈さにはそれなりに自信があるしな」

「ならいいですけど……体調を崩さないよう気を付けてくださいね」

 

 あの(・・)シグナ・アルハゼンが幼い見た目の少女にこってり絞られる姿を誰が想像できただろうか。身内のトワからすればだらしないところのある伯父も、世間の評判はベテランの凄腕遊撃士。教え子であるトヴァルも師は何時も余裕綽々と思っていただけに、げっそりとした顔で出勤していく様には色々と衝撃を受けていた。それはトワ以外の三人も同様だったのだろう。トワの肩越しから送られる視線は同情の色が宿る。

 ただ一人、伯父を別段特別視していないトワだけが首を傾げることになる。遠慮されているのに親切の押し売りをするほど図々しくない彼女は、純粋な気遣いの言葉だけを口にする。トヴァルはありがたく思いつつも苦笑した。

 

「疲れているのはそっちも同じだろう。どっちかというと、精神的なものみたいだが」

 

 言われ、四人は目を瞬かせる。彼の指摘は的確だった。

 

「分かるものですか?」

「これでも、それなりに名うての遊撃士なんでな」

 

 得意げに胸を張るトヴァル。考えてみれば、疲労困憊になりながらも大量の依頼を回せているのだ。師のネームバリューに隠れているだけであって、少なくとも並大抵の人物でないことは明白な事実だった。

 トワたちは食事の手を止め、目を見合わせる。彼女たちは今、自分たちだけでは解決の目処が立たない問題にぶつかっていた。ここは一つ第三者に相談してみるのもいいかもしれない。特に守秘義務なり何なりがある訳でもないし、相談する分には構わないだろう。

 どんと来いとばかりに聞く姿勢のトヴァルに向き直る。トワは「実は」と切り出した。

 

「私たち、実習の予行演習だけじゃなくて新しい戦術オーブメントのテストもやっているんですけど……そのテストがさっきの魔獣退治でも上手くいかなくて」

 

 午前に済ませた依頼の中には、また別の地下道に巣食う魔獣の退治を願うものもあった。そして臨んだ戦闘において、戦術リンクの途絶もまた再び起きてしまったのだ。

 試作型ARCUS、戦術リンク、その有効性と不安定さ。導入テストの概要をざっくりと解説され、頭の中で咀嚼したトヴァルは難しい表情を浮かべる。

 

「そいつは随分な難物を任されたもんだな。使用者の人間関係が反映される機能か……」

「これでも先月よりはマシになった方なんですけどね。ARCUS本体は僕じゃ弄りようがないし、これ以上は僕自身がどうにかしなくちゃいけないんですけど……この分だと安定稼働は難しそうです」

「俺も戦術オーブメントについては少し齧ってはいるが、そういう最新技術の塊は流石にお手上げだ。技術面だと役に立てそうにないなぁ」

 

 トヴァルはアーツの扱いに優れており、それを駆動する戦術オーブメントの改造にも手を出しているとのことだったが、こればかりは手が出せないようだ。もとより期待薄ではあったが、やはり戦術リンクのシステム自体に手を加えるのは無理と考えた方がいいだろう。

 

「結局、自分たちで何とかするしかない訳かね。後は相談してもどうにもならねえことだし」

「まあ、人様に答えを聞くようなものでもないだろうしね」

 

 となると後は人間関係の問題だが、これこそ相談してどうにかなるものでもない。

 先月のように仲違いした状況を解決したいのなら、まだ相談の余地はあっただろう。しかし、今求められているのは更なる関係の深化。より絆を深めることで戦術リンクの強度を高めること。それは出会って間もない――言ってしまえば他人であるトヴァルに話を聞いてもらってもどうにもならないのだ。

 必要なのは時間。しかし、その間は進展もなく不安要素を抱えたままというのは実に歯痒い。儘ならない現実を前に四人は揃って渋面となる。

 

「……なあ、一つ聞きたいんだが」

 

 そんな彼女らに対して、思案顔を浮かべていたトヴァルはふと疑問を口にする。

 

「その戦術リンクっていうのは、本当に相手と仲が良くなくちゃならないのか?」

「…………え」

 

 不意の疑問だった。トワたちが半ば当たり前のことのように考えていた必要条件に、詳しいことを知らない彼は――知らないからこそ、その疑義を差し挟んできた。

 

「説明した通り、不仲な状態だった先月はまともにリンクを繋ぐことも出来なかったんです。それがある程度は改善したことを考えれば、私たちの仲は密接に関係していると思いますが……」

「それは分かっているさ。でもまあ、なんだ……抽象的な話で説明しづらいんだが、一緒に戦う仲間って言うのはただ単に仲がよけりゃいいもんじゃないと思うんだよ、俺としては」

 

 アンゼリカの整然とした言葉に対し、トヴァルのそれは纏まっていなくて判然としない。だが、徒に口にしたものではない事だけは分かる。そこには確かに経験に裏打ちされた実感のようなものが垣間見られた。

 共に戦う仲間に必要なもの。それが戦術リンクに関係するかどうかは分からないが、トヴァルが口にしたそれにトワたちは興味を惹かれる。先を促す四対の視線に彼の苦笑が浮かぶ。

 

「こういうのを口で説明するのは中々難しいんだが……そうだな、一つ昔話でもするか」

「昔話?」

「ああ。俺が遊撃士でもない、ただの若造だった頃の話さ」

 

 トヴァルが手に持ったホットドッグの最後の一欠片を口に放り込む。咀嚼し、嚥下する。人心地着いた彼はポツリポツリと喋り始めた。

 

「俺は早々に身内がいなくなった口でな。たまたま面倒を見てくれるようになった人から仕事を貰って……まあ、運び屋みたいなことをして日銭を稼いでいたんだ」

 

 大通りも歩き慣れたもんさ、と彼は言う。それなりに重い身の上である筈なのに、その語り口は懐かしむ色はあるものの悲哀は感じられない。

 運び屋、というところで少し言い淀んだのは真っ当な仕事ばかりではなかったせいだろうか。伯父から裏社会におけるブローカーなどの存在について聞かされていたトワはなんとなくそう思った。

 

「あの日もそうだった。小さな包み一つを運びに列車に乗って――そこで彼女(・・)と出会ったんだ」

 

 へえ、とクロウが頬を吊り上げる。面白いものを見つけた表情だった。

 

「その口振りからすると、いい女だったのか?」

「いいや、酷い女だったよ。後ろから腕を捻り上げられてメチャクチャ痛かった」

「それはそれは……出会い頭に引き倒してきた女とどっちが酷いですか?」

 

 悪戯っぽい笑みのアンゼリカからの質問に「捻り上げられた方だな」とトヴァルは迷いなく答える。「そのすぐ後に階段の上から蹴り飛ばされた」と続けられてアンゼリカは降参のとばかりに諸手を挙げた。いったい何を競っているのだろうか。

 

「ぶっちゃけると俺が運んでいたのはヤバい代物だったらしい。どこぞの貴族が猟兵団を差し向けてきて……それから俺を守るためにやって来たのが彼女だった」

 

 守るために来たにしては暴力的じゃないだろうかと話を聞いていて思うが、それは話している当人も思っていたことらしい。自分で言ったことに自分が苦笑いしていた。

 割と波乱万丈になってきた昔話はまだまだ続く。

 

「それから遊撃士に事情聴取されたり猟兵に襲撃されたりと色々あって、最後は彼女と安全な場所まで逃げることになった。帝都の地下水路を走って、猟兵に追われながら」

「絶体絶命じゃないですか。逃げ切れたんですか?」

「お相手は相当に俺が運んでいた荷物にご執心だったらしくてな、後詰めだけじゃなく待ち伏せまで用意していやがった。水路の出口あたりで正面からやり合う羽目になったよ」

 

 肩を竦めてそう言うが、実際に起きたことと考えると飄々と流せるような事態ではない。自分たちはたった二人、それに対して猟兵団の数は決して少なくなかったはずだ。話振りからして片手で収まるものではあるまい。ジョルジュが言う通り、まさに絶体絶命のピンチだった。

 

「猟兵のアーツから俺を庇った彼女は重傷を負っていた。だが、それでも必死こいて得意のアーツを駆動させて、我武者羅に戦って……気付いたら、生きて呼吸していた。彼女も一緒にな」

 

 トヴァルはそこで一息つく。過去に思いを馳せるように、記憶を手繰るように空を見上げる。

 

「戦っていた時のことは余り覚えていないんだ。でも確かなのは、俺と彼女が仲間として一緒に戦ったってことだ」

「……守ってはくれても、出会ったばかりの素性の知れない怪しい女を仲間と呼べるのかよ?」

 

 話を聞く限り、トヴァルが言う「彼女」と出会ってから片手の日数にも満たない間の出来事なのだろう。精々が二日か三日、それだけの僅かな時間で伝え聞くだけでも怪しさが服を聞いて歩いているような相手を仲間と呼べたのだろうか。

 トヴァルが喉を鳴らして笑う。その表情は妙に晴れ晴れとしていた。

 

「確かに俺はその時、彼女のことをほんの少ししか知らなかった。名前、簡単な素性、馬鹿みたいに強いこと……後は話す中で感じた人柄くらい。お互いに知らないことの方が圧倒的に多かったし、まして絆なんていう大層なものなんて影も形もなかったさ」

 

 なら、どうして仲間と思うことが出来たのか。

 その疑問がトワの口をついて出る前に、彼の口から「――ただ」と言葉が紡がれる。

 

「それでも俺は彼女を信じることが出来た。理屈がどうこうっていうものじゃない。ただ、前を行く彼女のことを俺は頼りにしていたし、彼女も俺のアーツを当てにしてくれた。だからその時の俺たちは間違いなく仲間だったんだ」

「信じるだけで……信じることが、仲間として大事なことだとトヴァルさんは思うんですか?」

「こういう仕事をしていると、いつも一緒の仲間と言う訳にもいかないからな。気心が知れる間柄より単純に信頼できるかどうかが大切だと思う」

 

 取り敢えず背中を預けることは出来るからな、と彼は笑う。

 お互いを知ることよりも、絆を深めることよりも、まずは信じ合うこと。それは一見、矛盾しているように感じるかもしれない。よく知りもしない相手を信じることが出来るのかと。

 しかし、トヴァルが言う通りに理屈で説明できない感覚も分からないことはなかった。直感的に信じ合い、頼り、頼られるか。共に戦うとはつまりそういうことだ。いくら積み重ねたものがあったとしても、その根底が揺らいでいては容易に崩れてしまう。

 今の自分たちはどうだろう、とトワは省みる。戦術リンクという枠組みに囚われて、かえって何か大切なことを見落としているのではないだろうか。

 考え込みながらサンドイッチを口に運ぶ。挟まれた具の瑞々しさが今は妙に味気ない。

 

「まあ、これがその戦術リンクにも当て嵌まるかは分からないけどな。一緒に戦う仲間にしたって仲が良いに越した事には変わりないし」

「そう言われると逆に困るんですけど……というかトヴァルさん、割と危ない橋渡ってきたんですね」

 

 そんなトワを見てか、あまり深く考えるなとばかりに拍子抜けさせられることを付け加えるトヴァル。困り顔で頬を掻きつつ、ジョルジュは聞き終えた昔話を振り返り感想を漏らす。

 

「百日戦役で色々あって碌な仕事が無い時期に社会に放り出されたからなぁ。他に食い扶持稼ぐ手段も無くてやっている内に済し崩しに、って感じだったよ。あの時に先生に世話になったおかげで今がある訳だから、人生どうなるか分からないもんだ」

 

 そして返って来た言葉に思索に耽っていたトワは「えっ」と驚く。そこから伯父に話が繋がるとは思ってもいなかった。

 

「ふむ、先ほど話していた事情聴取してきた遊撃士がシグナさんだったと?」

「いや、それはまた別人だ。先生は別のところで動いていて……後始末の時に俺の世話をしてくれたんだ。そのままアーツの腕とかを買って遊撃士に誘ってもらって、それから諸々あって今に至るって感じさ」

「ははぁ、どういう繋がりで《星伐》の弟子になったのかと思ったらそんなことがねぇ……」

 

 クロウがどこか感心した様子で呟くのも無理はない。ひょんなことから猟兵団絡みの事件に巻き込まれて、危ない橋を渡って死にかけながらも生き残って、そこから更に偶然知り合った一級品の遊撃士に弟子入りである。一歩間違えていたら女神行きの可能性が高かったに違いない。だが、今トヴァルはここにいて立派に遊撃士として活躍している。星と女神の巡り合わせを感じようというものだ。

 人生どうなるか分からない。まさにその通りなのだろう。今ここでトワたちと話していられるのも何か縁あってのことに思えてくる。

 

「人使いが荒いのは慣れるのに大変だったけど、そのおかげで一端の遊撃士にもなれたんだ。先生には感謝しているよ」

「えへへ……素直じゃないから口にはしないですけど、伯父さんもトヴァルさんみたいな後輩が出来て喜んでいると思いますよ」

 

 トワの純真な台詞は世間慣れして擦れたお兄さんには刺激が強すぎたらしい。そのまま受け止めきれずに思わずといった様子でそっぽを向く。ならいいんだがな、とトヴァルは照れ臭そうに頬を掻いた。

 

「ま、そんなこんなで恩人の頼みを断り切れずに支部閉鎖の後始末をしている訳なんだが。その後は帝国各地を転々させる気みたいだし、参ったもんだよ」

「それに加えて今朝の鉄道憲兵隊ですか。苦労していますね」

 

 アンゼリカの一言に眉根が下がり、乾いた笑みが漏れる。考えないようにしていたんだがなぁ、とトヴァルはぼやいた。

 

「それに関してはどうしようもない。先生の言っていた通り、向こうがヘマしない限りは静観だな」

「実際、今までに市民への被害が出ているのにか?」

「よそ様に比べれば好き勝手出来る方だが、遊撃士にもしがらみがあるからな」

 

 軍との関係、国家権力への不干渉原則、民間人の安全と平和のために縦横無尽の活躍を見せる遊撃士もそうした事物により行動を制限されることはままあるようだ。彼らの主義は理想的ではあるが、その実は規則規範を持つ大規模団体なのだ。当然、何事も勝手にとはいかない。

 もっとも、今朝の件に限れば規則云々というよりは最近の帝国における立場的な問題にも思える。やはり活動を縮小するよう抑え込まれている状況では、あまり強気に動くことも出来ないのだろう。

 或いはシグナが居なければ、あそこで粘ることさえ出来なかったのかもしれない。将又、自分たちが実習に訪れる前に完全撤退に追い込まれていたか。ドライケルス広場の向こう、真紅のバルフレイム宮の威容を眺め、トワは思う。帝都における遊撃士の実情を聞き、帝国政府――その中でも革新派と呼ばれる勢力の強大さは否が応にも感じていた。

 

「不満が無いと言ったら嘘になる。が、俺たちは別に名誉や何やらのために活動している訳でもないんだ。今回は憲兵隊が件の犯罪者連中を上手く拘束してくれたのなら、それで良しとするさ」

「まずは何より、民間人の安全ということですか」

 

 そういうこった、とトヴァルが頷く。そこに悲観はない。

 確かに革新派は強大で遊撃士は苦しい現状かもしれない。しかし、だからと言って無闇に反発するつもりもないのだろう。自分たちの意義を見失わず、ただ前を見据えて進み続けること。それが帝国遊撃士協会を立て直す道だと信じているのだ。

 昨夜もやられっぱなしでいるつもりは無いと話は聞いた。それでもやはり、実際にこうしてめげずに真っ直ぐに立つ姿を見ると安心する。そしてそれが伯父の薫陶を受けた人物であることが、トワには何となく嬉しかった。

 

「上手くいくといいですね、色々と」

「だなぁ。何もかもすぐにとはいかないだろうが」

 

 憲兵隊の作戦然り、支部閉鎖の後始末然り、その後の活動にしても帝国遊撃士協会の立て直しにしても、どうか上手くいって欲しいと願いたい。

 きっとシグナもトヴァルも、他の帝国の遊撃士たちもこれから立て直しのために奔走する日々が始まるのだろう。その想いが実るよう、未だ学生の身であるトワには細やかな応援と祈ることしか出来なくても、それでも祈り、願いたい。

 どうか彼らが再びこの国の人々を支える篭手になれますように、と。

 

「――うっし、休憩終わり! そろそろ仕事に戻るとするか」

 

 自身に活を入れるように気合一声、トヴァルは立ち上がる。その姿を追って目線を上げたトワは、降り注ぐ陽光に目を細める。陽は既に中天に昇り切っていた。

 

「なんだかトヴァルさんにばかり話させちゃいましたね。せっかくの休憩中にすみません」

「いや、こっちもいい気分転換になったよ。昔を振り返る機会とか、そうある訳でもないし。むしろ悪かったな、碌なアドバイスが出来なくて」

「とんでもないです。僕は個人的にトヴァルさんの改造技術はすごく面白かったですし」

 

 それに、と四人は目を見合わせる。

 仲間と信じ合い、頼り合う、それが共に戦うということ。彼の話を聞いて何か具体的に掴めたと言う訳ではないが、自分たちの中に見直すべきところがあることに気付くことは出来たと思う。

 

「これ以上は私たち自身が努力するところだと思いますので。トヴァルさんがお気に病む事でもないですよ」

「便利なもの作るには相応に苦労が必要ってことだな。甘んじて受けるとするさ」

「お話を聞かせてくれただけで十分です。上手くいったらお礼に伺いますね」

 

 今はその切っ掛けだけでいい。シグナやトヴァルは先行きの見えない状況の中で頑張っているのだ。自分たちも掴んだ切っ掛けから成功を導き出す努力くらいしなければ不甲斐ない。少し失敗したくらいで凹んでばかりいられないのだ。

 先ほどまでの疲れ切った表情はもうどこにもない。あるのは可能性を探り、ほんの僅かな希望であったとしても絶対にものにしてみせるというやる気だけだ。トヴァルはふっと顔を緩める。

 

「頼もしいもんだ。その調子なら午後の実習も心配なさそうだな」

「そういうアンタは大丈夫なのか? さっき見た時はだいぶ草臥れていたようだが」

 

 心配り三割、からかい七割のクロウの言葉。失礼を咎めるトワの半目に彼はどこ吹く風である。

 

「はは……まあ、心配には及ばないさ。走り回るような仕事は終わらせて、後はまた地下道にも潜ることになりそうだからな」

「地下道というと昨夜話していた?」

「魔獣の親玉、でしたか」

 

 急に探せと言われても見つからないとぼやいていた悩みの種だ。それをまた探しに行くというのに、彼の様子は随分と気楽に見える。魔獣の親玉と聞くと、四人の頭には先月の森のヌシが思い浮かぶ。あれと同等のものを相手にするとなると相応の準備が必要だと思うのだが。

 

「それこそ本当に大丈夫なんですか? なんなら私たちも手伝いに行きますけど……」

「勘違いしているみたいだから言っておくが、見つけたからってすぐに退治する訳じゃないぞ。まずは偵察だけで済まして、それから本格的に掛かるつもりだ。先生やアイツならともかく、俺はそんな武闘派じゃないからな。準備は入念に、って訳だ」

 

 なるほど、とその返答に納得する。どうやら本当に要らぬ心配だったようだ。

 ところが、言った本人は苦笑い気味だ。

 

「ま、それだけに時間が掛かるんだけどな。見つけられなきゃどうにもならないし。もう魔獣の方からこっちに来てくれないかと思うくらいだよ」

「あ、あはは……気持ちは分かりますけど、流石にそんなことは……」

 

 無いだろう、そう言いたかった。言おうとした瞬間、ごぼりと何かが泡立つ様な音がトワの耳に届いた。

 例えるのならば、水中で息が漏れた時の様な音。ほんの微かな、常人であれば絶対に気付かないような音ではあったが、それは確かにトワの耳朶を叩いた。音の源にトワは目を向ける。トヴァルを見上げていた視線を下へ。あるのは石畳の地面、その下にあるのは――

 

「……水道?」

「トワ、どうかしたのかい?」

 

 急に様子を変えたトワにアンゼリカは不思議な目を向ける。他の面々も様子は同じ。

 どう説明したものか、と内心で考えも纏まらない内に、次なる変化は人の目にも明らかに訪れる。

 

「……おい、何か妙だぞ」

 

 ヴァルフレイム宮を囲う水面、真紅の宮殿を映し出すそこに水泡が立ち上る。最初は一カ所、次第に数は増え続け、終いには両手を使わなければ数えられなくなる。広場側の岸と距離は遠くない。いや、むしろ近づいてきているようにも見える。

 周囲の人々も異常に気付く。宮殿へ続く道に控える近衛兵が目を顰め、水泡の数が多くなるにつれて往来の人々も訝しむ。広場のざわめきは賑わいから困惑と疑念に性格を変える。

 そうして十分に注目を集めた元凶は、満を持してとでも言うかのようにゆっくりと水面から姿を現わす。

 濡れて光る鱗、一飲みにせんとばかりの大口、そこに並ぶ人の肉など容易く噛み千切れるだろう牙の峰。

 グレートワッシャー、白昼堂々と姿を現わしたのはそう呼ばれる魔獣たちだった。

 

「…………わざわざ冗談に付き合ってくれなくてよかったんだがな」

 

 魔獣が雄叫びを上げ、人々の悲鳴が空気を裂く。

 帝都が揺れる。

 



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第22話 獣の行進

時間は沢山あったけれどDARK SOULSⅢにハマっていて結局いつも通りの更新速度になりました。他にはない緊張感と妄想を滾らせる設定は流石フロムソフトウェアと言ったところ。変態的だ(褒め言葉)

あと、もしかしたらいるかもしれない大学四年生の読者諸兄へ。就職先はなるべく大学生の内に決めておこう。卒業すると暇過ぎて自分が凄いクズになった気分になるからな!


 ――どうして、どうして、どうして。

 エリオット・クレイグは震える足で必死に立ち上がろうとしながらも、頭の中で同じフレーズを繰り返す。腰が抜けた状態では下半身に力が入らず、せめてもの抵抗として地面を這いずって後ずさる。

 目の前には大顎を備えた魔獣。色のない瞳で得物を見定め、濡れた体躯で行く道を湿らせつつ、ゆっくりと迫り来る。時折開くその真っ暗な口腔が、エリオットには女神の元への片道切符をちらつかせているように見えて仕方ない。

 

「あっ……」

 

 とん、と背中に壁がぶつかる。前しか見ていなかったのが祟った。彼に逃げ道はもう残されていなかった。

 魔獣は彼が逃げられないのを分かっているのか、まるで焦らすかのように鈍い足取りで距離を詰めてくる。それがまた恐怖を煽る。エリオットの目尻に涙が浮かび、胸中には再び同じ言葉が木霊する。

 ――どうして、こんなことに……

 気分転換で外に出ただけの筈だった。帝国正規軍の中将である父親に音楽院への進路を反対され、これからどうしようかと途方に暮れていた時に外の空気を吸おうと思っただけだった。誰が思うだろうか。アルト通りを流れる水路の中から突如として魔獣が這いずり出てくるなんて。

 エリオットだけが逃げ遅れてしまった。ぼんやりとしていた時に混乱に巻き込まれ、腰を抜かして碌に動けなくなってしまった。助けてくれる人はいない。周りの人たちはエリオットに気付く間もなく我先に逃げ出した。気付いたとしてもにじり寄る魔獣が目の前にいては助け起こす間もあるまい。

 そして厳しくも力強く頼れる父は、既に部隊に戻りここにはいない。

 途端にエリオットは自分が情けなくなった。音楽院への道を閉ざされ半ば恨んでさえいた父に、身が危うくなれば都合よく頼ろうとしている自分が情けなかった。こんな男では父に認めてもらえなくて当然ではないか。

 どうしようもなく情けなくて、目尻から零れ落ちる涙が止まらないのが余計に自分の弱さを思い知らせて来るようで……だが、それでも心までは折れていなかった。

 

「僕だって……僕だって……!」

 

 自分は父の望むような逞しい男ではないかもしれない。父の反対を押し切ることが出来るほど強い意志を持った男でもないかもしれない。

 それでも、それでも父に恥ずかしいと思われるような男ではありたくない。こんなところで自分の情けなさに涙するだけで、何の足掻きもせずに魔獣に屈するような弱虫ではありたくない。

 エリオットは壁に手をつく。背を支え、震える足で立ち上がる。瞳の色を怯えからなけなしの勇気に変えて魔獣を睨みつける。その変化を悟ったのか、魔獣がゆっくりとした歩みを止めた。お互いにその場から動くことなく、ただ目だけは絶対に外さないで睨み合う。

 距離は近い。飛び掛かられたらあっという間に噛み付かれてしまう。背を向けて逃げ出せば相手はこれ幸いと自分を喰らい尽くすだろう。魔獣に疎いエリオットにもそれくらいは分かっていた。生き残るためには、辛抱を切らした相手の攻撃を躱した隙に逃げるしかないことも。

 冷や汗が頬を伝う、手汗が滲む、呼吸が浅くなる。

 魔獣が喉を鳴らす音が妙に鮮明に聞こえてくる。濡れた体躯から水滴が滴った。

 自分の心臓が早鐘を鳴らす音が五月蠅いくらいに響く。鱗に覆われた腕に力が籠った。

 ――今だ。

 半ば勘で一瞬のうちに判断を下す。魔獣がエリオットに飛び掛かった。彼は地を蹴って横っ飛びに躱そうとする。

 瞬間、彼に影が掛かった。

 

「え――?」

 

 思わずエリオットは動きを止めて見上げてしまっていた。栗色をなびかせた小さな影が目端に映る。くぐもった悲鳴のような呻きが聞こえ、正面に目を戻して映った光景に瞠目する。

 そこには脳天を貫かれ絶命した魔獣と、それを為した刀剣を握る緑色の制服を纏った背中。頭上から急襲し一撃で仕留めてみせたのだろう。魔獣に覆いかぶさるように屈んでいた背中が立ち上がり、刀剣を血に濡らしながら引き抜く。エリオットよりも小さく、しかし父と同じくらい大きく見える背中に彼は開いた口が塞がらない。刀身を振り払われた血が石畳を濡らす。片刃の剣を鞘に納めた背中が振り返った。

 小さな少女だった。幼さの残る面立ちをした、状況のせいかやや険しい表情をしながらも、それでも本来は温和な人柄なのだろうと窺い知れる雰囲気を纏っている。彼女はエリオットに目を向け、ポカンとしたままの彼に言葉を投げかける。

 

「間に合ってよかった。君、怪我はない?」

「え……あっ」

 

 事ここに至って、エリオットはようやく自分が助かったことに気付く。

 未だ自分に血が通っていることを感じ、強張っていた身体から力が抜けて――へなへなと腰から崩れ落ちた。

 

「わわっ!? だ、大丈夫?」

「あ、あはは……すみません、安心したら力が抜けちゃって……」

 

 生きている、その実感があるからこその脱力だった。せっかく鞭打って立ち上がったというのに、再び腰が抜けてしまったというのは少し不甲斐なく思うが、何よりもまだ息があることが有り難かった。

 助けてくれた少女も、エリオットが単に気が抜けただけと分かると安堵して「よかった」と零す。地面に腰を付ける彼に視線を合わせるように、彼女もまた屈みこんだ。

 

「君、家は近く? 遠いようなら他に安全な場所を探すけど」

 

 その言葉ではっとする。魔獣は水路から何の前触れもなく帝都のど真ん中に現れたのだ。つまり他の場所にも魔獣が現れている可能性は十二分にあり、そして危険もまだ無くなった訳ではないということである。

 気遣わしげにこちらを見る少女に、エリオットは首を横に振った。

 

「だ、大丈夫です。家は同じアルト通りですし、歩いてすぐの所ですから」

「そう? ならいいけど……立ち上がるのはすぐには難しそうだね」

「はは……そうみたいです」

 

 少女からしてみればエリオットの状態を確認しただけなのだろうが、見た目自分より幼げな彼女に助けられた身としては気恥ずかしい思いがある。エリオットは少女から目を逸らし、ふと、その先から小走りに近づいてくる集団を視界に捉えた。

 

「おい、そっちは……問題ねえみたいだな。ったく、いきなりすっ飛んで行きやがって」

「ごめんごめん。向こうも、もう大丈夫?」

「ここら一帯は片付いたようだね。そろそろ次の街区に向かった方が良さそうだが……」

「えっと、彼は?」

 

 双銃を携えた青年が、堅固な手甲を腕に纏った女性が、無骨な鉄塊を担いだ大柄な青年がやって来る。少女の仲間なのだろう。話し合う彼女らの雰囲気と、その身に纏う同じ意匠の制服からエリオットはそう判断した。

 どこかの学生なのだろうか。そうこう考えている内に大柄な青年の目が自身に向けられる。どう答えたものかと口をまごつかせていると少女からの助け舟が入った。

 

「魔獣に襲われていたの。怪我はないけど、腰が抜けちゃったみたいで」

「そうか。ならよかったけど……放っておく訳にもいかないだろうね」

「うん。家は近いそうだから、動けるようになるまで待っていようと思っていたんだけど」

 

 一見、温和そうな二人がエリオットの扱いを話し合う。やはり危険はまだ収まっていないのだろう。少なくとも彼が安全な場所まで逃げ切れる保証が得られるまでは、この場に留まるつもりのようだった。

 それはありがたいことだと思う。だが同時に、エリオットの胸中には複雑な感情が去来していた。自分などのために彼女たちを引き留めることになってしまう心苦しさ、結局は誰かに守られてばかりいる自分の情けなさ。自分は大丈夫、そう言いたい。けれど、その言葉はきっと力を持たないだろう。未だ彼の足は震え、立ち上がれそうにない。

 自分からはどうすることも出来ないエリオットは口籠る。そんな彼の耳に別の声が響いた。

 

「そんな悠長なこと言っている場合かよ。さっさと根を絶たなけりゃジリ貧になるぞ?」

「ふむ……確かにこの状況でタイムロスは厳しいね。魔獣の規模が分からない以上、迅速に事を運ばなければ被害が拡大する可能性も否定できないだろう」

「でも、この子を放っておく訳にもいかないじゃない」

 

 銀髪の青年と女性の言葉にエリオットは肩を小さくする。自分がやはり彼女らの枷になってしまっていると分かってしまったからだ。自分の身を案じてくれる少女に申し訳なさが募る。

 

「そう甘やかす必要もねえだろ。坊主、お前幾つなんだ?」

「えっ……?」

 

 そして不意に頭の上から降ってきた声に、呆けたような音が口から漏れた。

 

「歳だよ。それくらい言えるだろうが」

「えっと、十五歳ですけど……」

「あまり俺らと変わりないじゃねえか。もうちっとシャキッとしな」

 

 言って、青年はエリオットの腕を取って引っ張り上げる。うわっ、と驚きつつも無理矢理に立ち上げさせられ、へっぴり腰ながらも両足で地に立ったエリオットに今度は女性が近寄る。

 

「腰が曲がっていては戦うも逃げるも出来ないよ。そらっ」

「アイタッ!」

 

 肩を掴まれ平手が腰を打つ。強引ながらもエリオットはそうして真っ直ぐ立った。

 いきなりの手荒い仕打ちに目を白黒させるエリオット。もう、と少女が二人に対して目を吊り上げさせた。

 

「駄目だよ、二人とも。あんまり乱暴したら」

「時と場合にもよるだろうさ。野郎にはこれくらい厳しくしても問題ないと思うけどね」

「そもそも、お前が優しすぎるんだっつうの。おら坊主、これでもう大丈夫だろ?」

 

 青年の言葉にエリオットは気付く。足はもう震えていなかった。立ち上がらせ方は無理矢理だったし、叩かれた腰は地味にヒリヒリするけれど、それでも真っ直ぐに自分の両足で立てていた。

 もう、守られてばかりいる必要もない。

 

「は、はいっ。僕は大丈夫ですから先に行ってください!」

 

 言いたかった、口から紡ごうとしても心詰まりから言い出せなかった言葉をようやく音にする。

 

「うーん……本当に大丈夫?」

「……いや、そこまで心配しなくてもいいと思うよ。ここら辺の魔獣は全て鎮圧できたみたいだし、しばらく危険はないだろう。それに家は近いんだろう?」

「そうですね、ここから数分歩いたくらいで」

「なら尚更だ。君の優しさは美徳だと思うけど、たまには男を立たせてほしいとも思うかな」

 

 それでも少女は不安そうだったが、大柄な青年はエリオットの背を押してくれた。彼の心中も察してくれていたのだろう。少女に向けてちょっと苦笑を浮かべながらも言ったことは、自身の不甲斐なさに堪えていたエリオットの気持ちを汲み取ってくれたものだった。

 仲間たちからの言葉に少女も――まだ少し心配そうな様子ではあったが――とうとう折れる。改めてエリオットに向き直ると、幼げな容貌に反して強い責任感と意志が感じられる小金の瞳が見つめてくる。

 

「じゃあ私たちは行くけど、本当に気を付けて家まで帰ってね。あと安全が確認できるまでは隠れていること。魔獣も刺激しなければ屋内までは入ってこない筈だから」

「分かりました。え、えっと……何が何だかよく分かっていないですけど、頑張って下さい」

「うん、ありがとう」

 

 せめて何か言わなければと思って口にした言葉は何の変哲もない応援だったが、それでも十分だったのだろうか。道すがらの小花のように自然で、しかし人の気持ちを朗らかにさせる笑顔を少女は浮かべる。それにエリオットがぼうっとしている内に面持ちは真剣さを帯びたものに移り変わり、仲間たちに次なる号令を下す。

 

「移動を再開しよう。目的地はヘイムダル港。襲われている市民の救助を優先しつつ、迅速に行動するよ!」

 

 応、と掛け声が響く。駆け出していった彼女たちの背中をエリオットはじっと見つめていた。本当はすぐにでも家まで戻った方がいいのだろうが、彼にはどうしてもその大きな背から目を離せなかった。

 青年はそこまで歳は変わらないと言っていた。自分もなれるのだろうか。あのような大きな背中を持つように。

 胸の内に燻りに似た何かが灯る。それは一体何なのか、エリオットが理解する前に大声が背後から響いてきた。

 

「エリオット!!」

「あっ……ね、姉さん?」

 

 エリオットと同じ、父譲りの赤毛を揺らしながら女性が駆け寄ってくる。それが姉のフィオナ・クレイグであると理解した途端、彼女は胸に掻き抱くように抱き着いてきた。

 

「うわっ、ちょ、ちょっと、どうしたのさ?」

「ああ、エリオット……怪我はない? ご近所さんから貴方が魔獣に襲われているのを見たと聞いて、血が凍りつく思いだったのよ」

 

 驚きつつも聞いた理由に、今度は心配させてしまった申し訳なさが募る。ただでさえ父とのいざこざで気を遣わせていたというのに、重ねてこんなことが起きてしまえば血相を変えるのも無理はない。姉の心境を理解し、苦労を掛けてばかりいる自分を自覚してしまう。

 何時もなら申し訳なさに耐えられなくて、目を落としてしまって、「ごめん」と消え入りそうな声で謝っていたかもしれない。しかし今、エリオットの胸の内には何時もならぬ燻りがあった。

 目を落とすのでもなく、意味のない謝罪でもなく、彼は姉を落ち着かせるように背中を擦った。

 

「大丈夫だよ、姉さん。怪我はしていないし……魔獣には襲われたけど、あの人たちが助けてくれたから」

 

 そう言ってエリオットは指差す。走って行った彼女たちは既に遠目にしか見えないが、フィオナにも指し示された先の四人の背中は分かったようだ。まあ、と驚いたように彼女は口に手を当てた。

 

「そうだったの。出来れば私もお礼を言いたかったけれど……あの制服はトールズのものだったかしら」

「トールズ?」

「トリスタにある士官学院よ。帝都でも何度か見たことがあるから間違いないと思うけれど」

 

 士官学院、そう聞いてエリオットはある程度の納得を得る。魔獣を一撃で仕留めた武勇に、いや、それ以上に自分とは比べるべくもない大きな背中に。

 もう一度、彼女たちが走って行った先を見る。どこかの路地に曲がっていったのだろう。あの大きな背中はもう見えない。しかし、胸の内に宿った燻りはまだ消えていなかった。

 自分もなれるのだろうか。父にも恥じない、大きな背中の持ち主に。

 

「……さあ、姉さん。ここから離れよう。家の中にいれば安全だからさ」

「あら、エリオットも知らない間に成長していたのね。昔はお姉ちゃんの背中にくっついてばかりだったのに、こんなに頼れるようになっているなんて……グスッ」

「ああもう、いいから早く帰るよ」

 

 思うことも、考えることもある。だが、まずは言われた通りに身の安全を確保しなければ。

 エリオットはフィオナの手を引いて歩き出す。妙なことに感動して涙ぐみ始めた姉に頬を染めながら、彼は家路を急ぐのだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 石畳の道を走る、走る、走る。帝都の街に流る水路を辿り、その源流たるアノール河へ。

 

「ふう……ふう……後どれくらいだい?」

「五分もしないさ。もう少し踏ん張るといい!」

 

 息を荒げるジョルジュにアンゼリカの叱咤激励が飛ぶ。走っては魔獣と戦い、また走ってというこの状況は彼の体力的に厳しいものがあるだろうが、それでもよくついてきてくれている。先月の実習と比して、学院のカリキュラムで体が出来上がって来た証拠だろう。

 喧騒に包まれた帝都では導力トラムも役に立たない。だからこそ広大な大都市を徒歩で駆ける羽目になっているのだが、やろうと思えば出来るものだ。或いはこの状況から体が疲れを感じなくなっているだけなのか。

 

「くっそ、また面倒な実習になって……本当に港に行けば何か分かるんだろうな?」

「分からないけど、可能性があるところから当たるしかないでしょ!」

「ああ、ご尤もだよ!」

 

 しかし、大した疲れは感じていなくても、何の原因も分からない混乱した状況にもどかしさは募る。

 突如として魔獣が出現したのはドライケルス広場に留まらなかった。居合わせていたトヴァル、そしてバルフレイム宮を守る近衛兵と手分けして水際から姿を現わしたそれらを掃討しても収まらない街の恐慌に只ならぬ事態であることは否が応にも理解させられた。

 とはいえ帝都は大陸最大を謳う都市。どこから手を付ければいいかなど見当もつかない。判断に迷うトワたちに、この街で支える篭手の一員として飛び回って来た青年の指示が飛んだ。

 ――グレートワッシャーは水棲魔獣だ。出てきた理由は分からんが、根元は分かっている。地下水路に向かうぞ!

 アーツが得意という言葉に恥じない高速駆動で魔獣を一頻り吹き飛ばしたトヴァルはそう言った。地下水路は帝都のほぼ地下全域に広がっており、入り口も複数に分散している。どこから魔獣が出てきていて、どこに原因があるか分からない以上、手分けした方がいい。トワたちは昨日にも入ったヘイムダル港の入口へ、トヴァルはまた別の入り口に向かうことになった。

 それは最善の判断だった。どう考えてもそれ以外に良い選択はなく、そして選択できる唯一の行動だった。

 魔獣は何故現れたのか、帝都のどれほどまで出没しているのか、どうすれば止めることが出来るのか。今は何も分からない。分からないが進むしかない。水路を辿り、市民へ襲い掛かる魔獣を撃退しつつトワたちは直走る。胸の内に焦燥を抱えながらも。

 

『港に多数の魔獣! 軍人たちが市民を守りながら戦っているの!』

 

 響く警告。上空から先を窺ってきたノイからの知らせに四人は面持ちを険しくし、より一層に地を蹴る足の力を強める。もっと速く、しかし足並みを崩さぬように。

 路地を抜け、視界が開ける。水面に浮かぶ貨物船、積み重なるコンテナ群。帝都の海運を担うヘイムダル港の光景は、今この時に限ってはそれらの特徴が霞むほどの混乱に彩られていた。

 

「これは……少し不味いんじゃ」

「大昔の遺構とはいえ、帝都の地下にこれだけの魔獣が巣食っていたとは驚きの事実だね」

 

 ジョルジュが冷や汗を流し、アンゼリカは半ば呆れ気味の声を出す。

 片手に収まらない数の魔獣と相対するのは紺の軍服、帝都憲兵隊の一団。その背後には港湾労働者らと思しき民間人が逃げ場も無く、動けずにそこに居た。民間人はありありと不安を浮かべ、軍人たちの表情は芳しくない。撤退も出来なければ突破も出来ない。彼らはジリ貧に追い込まれていた。

 元来、帝都憲兵隊は街の治安を担う部隊。暴徒の鎮圧や警護などには熟していても、魔獣の相手はあまり想定していないのだろう。理性なき獣たちの獰猛さに押され気味になっていた。

 故に目の前に集中せざるを得ず、他に注意を向ける余裕はない。水面よりずるりと這い出た新手に彼らは気付いていなかった。

 

「ちっ、さっさと行くぞ!」

 

 言われるまでもない。トワたちは駆け出し、瞬く間に距離を詰めていく。

 標的は死角を突こうとする新手。一番槍のアンゼリカが音に気付き振り向かんとした魔獣の横っ腹に拳を叩き込む。言葉なき苦悶の呻き。怯んだ魔獣にジョルジュの一撃が追い撃つ。顔面を鉄塊が襲い、顎をひしゃげさせながら宙を舞う。折れた歯を振り撒きながら新手は再び水中に送り返された。

 

「な、何!?」

「魔獣は引き受けます。市民の避難を!」

「君たちは……いや、しかし……!」

 

 突如として割って入ってきたトワたちに帝都憲兵も泡を食う。指揮を執っていた憲兵が速断を躊躇ったのは四人が学生だったからか、軍人としての矜持があったからか。

 しかし、相手は悠長に待ってくれない。場の変化に魔獣も動く。顔を指揮官に向けていたトワへ大顎が迫る。民間人から響く悲鳴。眼前に迫る赤黒い口蓋へ彼女は構えを取った。

 

「――散蓮華っ!」

 

 魔獣の動きに合わせるように振るわれた刃が、軌道を逸らした。大口が空を切ると共に襲う返しの一手、無数の剣閃が獣皮を刻む。空振り、血を流し、隙を晒した魔獣に見舞う止めの一撃。両の眼窩を貫き、頭蓋の中さえ破壊された魔獣は(くずお)れた。

 

「大丈夫ですから、ここは任せて!」

「む……後退用意! 港湾入口まで市民を誘導せよ!」

 

 軍人は命令に忠実な生き物だ。刀身を引き抜かれた眼窩から噴き出る血に気圧されながらも、上官の命令に遅れることはない。殊更に動揺する市民を纏めつつ、退路が開かれたトワたちが来た方向に後退していく。

 まだ相当数が残る魔獣と対峙しつつ、クロウが「はっ」と鼻で笑ったような音が耳に届く。見遣れば、彼は不敵な笑みを浮かべてトワを見ていた。

 

「プロの軍人も頼りねえな。こんなちっこい奴に気圧されるなんてよ」

「専門性の違いもあると思うけど。私、憲兵の仕事なんて出来ないと思うし」

「どうだか……なっ!」

 

 魔獣の相手はお手の物だが、治安維持などは門外漢もいいところだ。だというのに、クロウはまるで信じているように見えない。言葉を加えたくも、その話は銃声によって幕を閉じてしまったが。

 間合いを詰めんとした一体は牽制の銃弾により歩みを止める。唸り声をあげる魔獣らに改めて向き直る。

 

「さて、ARCUSの調子はまだいまいちだが……これくらい軽く捻ろうか」

 

 その言葉を皮切りに女子二人は地を蹴った。穿つ拳打、舞う剣閃、切り拓かれた裂け目を鉄槌が破砕し、間断なき銃声が後を追う。港は一時の争乱に包まれた。

 

 

 

 

 

「助力に感謝する。おかげで市民の安全を確保できた」

「いえ、当然のことですから」

 

 数分後、ヘイムダル港から魔獣を一掃したトワたちの前には軍帽を外した頭を下げる姿があった。

 律儀にも礼を述べる指揮官――二十代半ばくらいだろうか――にトワは言う。目の前で危険に晒されている人々がいたら放っておけないのが彼女の性質である。わざわざ頭を下げてもらうほどの働きをしたつもりは無かった。

 他の三人も概ね同意見だ。尤も、魔獣を倒しながら走ってきた経緯から感覚が麻痺している節もあるが。

 

「ならば、お言葉に甘えさせてもらおう。時間を浪費できる状況でもない」

「それはご尤もですね。市民はこれからどのように?」

「本人らは帰りたいだろうが、しばらくはここに留まってもらう。安全確保が出来ない内に放り出すことは論外。護送するにしても人員が足りない。待機してもらうのが彼らにとっても一番だろう」

 

 一般人ならここで「そういう訳にも」とごねりそうなものだが、指揮官は軍人らしい感覚の軍人だったようだ。即座に割り切り、次の行動へ思考を移す。アンゼリカの問いに対する答えも明瞭だった。

 

「送り届ける暇がないっていうのは分かるが、何もここに留まる必要もないだろうよ。魔獣(奴さん)は水辺から来ているんだ。別の場所に移動した方がいいんじゃねえか?」

 

 だが、続くクロウからの意見には眉間の皺を深めた。それなりに筋の通った話にも関わらず。

 確かに市民全員をそれぞれ送り届けるのは不可能だろう。港湾の作業員、貨物船の船員、或いは観光客など。この広大な帝都で帰る場所が同じ訳も無し、憲兵隊の人員も限られている中で戦力分散の愚は犯せない。とはいえ、それは市民を送り返そうとした場合の話。より安全な場所に纏まって避難する分には問題ない筈だ。少なくとも、いつ魔獣が再び這い上がってくるかも分からない港湾に留まるのは得策ではないだろう。

 それを理解していない訳でもないだろうに、指揮官の表情は険しい。己を押し殺しているかのように。

 

「我々は軍務によりヘイムダル港に来ていたのだ。私だけの判断で移動する訳にはいかん」

「軍務って……港でいったい何を?」

「軍機である」

 

 ぴしゃり、とにべもない返答。これには流石のジョルジュも鼻白む。事ここに至って軍機とは。

 

「事実としてここが危険なことに違いはありません。市民の安全を優先させることは出来ませんか?」

「独断専行は軍の規律を乱す。君たちも士官の卵、理解できないとは思わないが」

 

 話は平行線の様相を呈し始めた。指揮官が軍人らしい軍人であるが故に。

 確かに軍において独断専行は褒められたことではない。軍という強力な武装集団は規律を以て縛り、組織として運用することで初めて真価を発揮する。その統率を乱すことは軍人として選択し難いことに違いない。

 しかし、現状に当て嵌めて考えると悪手にしかトワたちの目には映らない。魔獣の危険性を度外視するだけでなく、その理由までひた隠して明かさないとは。自力で魔獣を撃退できる自信があるならともかく、先ほどの苦戦を見ているとその保証もない。意固地になっているようにしか思えなかった。

 そう言っても彼らは決して節を曲げないだろう。未だ切迫した状況で説得に時間を掛ける猶予もない。どうすればいいか。トワは自然と難しい顔になる。

 

「いかんなぁ、君。頭が固すぎては大成できないと私は思うよ」

 

 不意に声が掛かる。見れば、そこには眼鏡をかけた小太りの中年男性。何故か釣りのロッドを片手に持った、妙に見覚えのある人物であった。

 

「子爵のオッサンじゃねえか。こんなところで何してんだよ?」

 

 先日の当たり屋事件、その被害者であるボリス子爵が、そこにいた。オッサン呼ばわりをまるで気にした様子もなく、子供の様に屈託なくニッカリと笑う。「見てわからんかね?」と言う割には話したそうで堪らないと表情は伝えていた。

 

「釣りだよ。私はこれが好きなものでね。君たちはやらんのか?」

「はあ、私は故郷で海釣りとかしていましたけど……」

「海釣り! いいじゃないか、川釣りとはまた違った趣がありそうだ。また後でじっくりと――」

 

 んんっ、と咳払いがボリス子爵の言葉を塞いだ。指揮官が怫然として彼を見る。

 

「貴族の方とお見受けしますが、今の時点では貴方も私たちが保護する一市民に過ぎません。色々と要望があっても受け付けられませんので、しばらくは大人しくして頂きたい」

 

 急に横から口を出してきた挙句、何故か釣りの話をし始めたボリス子爵に指揮官が不機嫌になるのは仕方ない面もあるだろう。しかし、それにしても彼の口調は妙に刺々しかった。

 察するところは、ある。彼ら帝都憲兵隊は平民出身者が大部分を占める部隊らしい。加えて、そもそも帝都自体が革新派の影響が強く、貴族に対する平民の対抗意識も同じく強いと聞く。横柄に割って入ってきた貴族に対して口調が強くなるのも当然と言えば当然なのかもしれない。

 ボリス子爵は「ふむ」と蓄えた顎髭を撫でる。不快、という感情は見受けられない。常ならば陽気な笑顔が浮かぶそこには、思慮深い落ち着きのある表情があった。

 

「別に我儘を言いに来たのではないよ。ただ少し、君が頑固過ぎると思ったのでね」

「私は軍規に従っているに過ぎません。それに何か問題があるとでも?」

 

 指揮官は頑なに自身の態度を変えようとはしない。それが彼の軍人としての矜持だから。

 そんな彼にボリス子爵は生温かい目を向ける。不器用な、しかし生真面目な若者に教えるように。

 

「軍ならそれも通るだろう。だがね、今、君が目の前にしているのは学生であり、貴族であり、そして多くの一般市民なのだよ」

 

 軍には軍のルールがある。しかし、それは軍でのルールでしかない。自分たちだけの規律を振り回しても生まれるのは無理解による困惑、そして反感だけだ。

 

「ここを動けないのは良かろう。君たちにも為すべきことがあるのだろう。ただ、そのために軍規を振りかざして余計な軋轢を生まなければいけない程、軍人というのは頑迷でなければいけないのかね?」

「……私も、ボリスさんと同じ意見です。言ってくれれば協力も出来るかもしれません。どうしても、その軍務についてお話していただくことは出来ませんか?」

「む……し、しかし、私の独断では……」

 

 指揮官は言葉に詰まる。頭では理解しているのだろう。軍機と頑なに口を閉ざすよりは、事情を説明した方がこの場は上手く収まると。だが、ここでその選択が出来ないことが彼の軍人たる所以であり、そして未だ到らぬ若さの証なのかもしれない。

 道理に従うか、あくまで軍規に忠実であるか。返答は煮え切らない彼とは別の口から伝えられた。

 

「彼らの任務はこの地下水路に潜む犯罪者集団、その護送です。尤も、今の時点では不要になりましたが」

 

 涼しげな声が港に響く。トワたちははっとなる。その声が、つい今朝に聞いたばかりのものだったから。

 港の奥、件の地下水路に続く扉が存在するコンテナ群の向こうから灰色の軍服を纏った集団が近付いてくる。鉄道網を活用した優れた機動力を武器に迅速に展開し、各地の治安に介入する、鉄血宰相肝煎りのエリート集団。鉄道憲兵隊の部隊がそこに居た。

 その先頭に立ち、声を掛けてきた凛とした雰囲気の碧髪の女性。クレア・リーヴェルト大尉の姿を認めた途端、指揮官は慌てた様子で敬礼を取った。

 

「こ、これは大尉殿! 連中の身柄は――」

「作戦は中止です。これより我々は市内の魔獣殲滅に移ります」

 

 遮られ告げられた言葉に指揮官は「は……」と一瞬、呆気に取られる。そんな彼に構うことなくクレア大尉は重ねて告げた。

 

「地下水路の突破は魔獣の活性化により困難です。優先順位を鑑みても、まずは市内の安全を確保することが先決と判断しました。帝都憲兵隊はこちらの市民の方々を安全な場所まで護送、及び警護に当たって下さい」

「……はっ、了解しました!」

 

 粛々と告げられた指示に指揮官もようやく気を取り直した。びしりと敬礼をすると踵を返し、帝都憲兵隊の部下たちに伝えられた新たな指令を伝達する。その迅速さは先ほどまでの悩みようが嘘のようであった。

 クレア大尉が改めてトワたちに向き直る。冷静沈着な、しかし状況ゆえの緊張感を漂わせた双眸が四人へ、そしてボリス子爵へと移っていく。

 

「軍の者がお手数をお掛けしました。申し訳ありません」

「いや、こちらこそ無理を言っているのは承知していたからね。そこはお相子としておこう。それよりかは事情を説明してくれると嬉しいのだが」

「……そうですね。概要なら、お話しさせて頂きます」

 

 謝辞を述べる彼女にボリス子爵はパタパタと手を振る。事の善し悪しよりも情報を求める彼に、クレア大尉も条件付きながら応じた。

 

「我々、鉄道憲兵隊は地下水路に手配中の犯罪集団が潜んでいるとの情報を入手し、その捕縛のために動いていたのですが……突入の数分後、魔獣の群れによる襲撃。それに連動するように市街でも魔獣が発生しているとの連絡を受けました。事の重大性を鑑み、作戦を中止。これより帝都内の魔獣掃討に移ります」

 

 これでよろしいでしょうか、と整然と話し終えたクレア大尉は窺うような目を向ける。まるで無駄のない簡潔かつ要所を掴んだ報告に、ボリス子爵も目をパチクリさせて「はあ」と気の抜けた声を漏らした。

 概要だけとはいえ、トワたちには得難い情報であった。何よりも注目するべきは、今朝方に話していた犯罪集団の巣窟がこの地下水路に存在するということだろう。そして鉄道憲兵隊の突入とほぼ時を同じくして、この魔獣騒動が発生したということも。

 クレア大尉や隊員たちが纏う灰の軍服に目を向ける。地下水路という場にいたことによる汚れもあったが、返り血の赤黒い痕、明らかな外傷を負っている隊員も目に付いた。最新装備で身を固めた彼女たちが多少なりとも手を焼かされたのだろう。話の魔獣の群れというのがそれほどまでに大規模だったということか。

 そんな魔獣の群れが狙ったように憲兵隊を狙うのは、どう考えても不自然ではないだろうか。

 

「あの……突入後に魔獣が発生したということですけど、その犯罪集団と何か関わりがあったりとかは?」

「確かに彼らにとって都合が良すぎる展開です。しかし、それを証明する手段も時間もない。そして優先するべきは帝都の治安を回復すること。事の関連性を追求する暇はないでしょう」

 

 その懸念はクレア大尉にもあったようだ。あったが、それに構う猶予は彼女には残されていなかった。

 疑問に答えるのもそこそこに彼女は会話を打ち切る。冷静であるが故に、状況の悪さを理解していたのだろう。

 

「それでは私はこれで。そちらは避難誘導に従って頂き……貴方たちの方は無用でしょうが」

 

 そう言って見るのはトワたち四人。トワが憲兵隊の様子を見て察したのと同じように、彼女も察していたのだろう。四人が魔獣を倒しながらここまで来たことに。

 

「一応、忠告しておきます。地下水路内は我々でも突破は容易ではない数の魔獣が道を塞いでいます。犯罪集団については別の手を回しているので、くれぐれも逸って無理をしないように」

「忠告ねえ。俺たちが遊撃士みたいな真似をしているからか?」

「良心からのつもりですが……そうですね、強いて言えば、()と似た目をしているからでしょうか」

 

 反発心からか余計な口を利くクロウに対して返って来た言葉は妙に意味深なもの。そして、その言葉は彼に対してではなく、隣に立つ小さな少女に向けられていた。即ち、急に呆れ半分の様な目を向けられて「えっ」と戸惑うトワに。

 クレア大尉はそんな彼女に僅かながら微笑む。

 

「彼の無茶無謀には苦労させられていますからね。もう少し配慮して下されば、こちらとしてもやりようがあるのですが」

 

 そんな少し愚痴っぽいことを言い残し、クレア大尉は指揮に戻った。率いる部隊に命令を下す。隊員からの「イエスマム!」という声と共に軍靴は遠ざかっていった。

 彼女が魔獣掃討を指揮する以上、これ以上の被害拡大は心配しなくてもいいだろう。《氷の乙女》の異名は伊達ではない。帝都という彼女たちにとってのホームグラウンドであれば尚更だ。

 

「正直、話半分程度しか理解しておらんが……いや、噂の女性士官殿は凄いものだね。あれだけ優秀そうな子を他にも抱え込んでいるとは、宰相殿が羨ましい限りだよ」

「そういう貴方は貴族でしょう。あまり面白くないのでは?」

「私はあまり貴族派と馬が合わなくてねぇ。それを言うなら君のお父上の方が当て嵌まるだろう」

「仰る通りで」

 

 鉄道憲兵隊が去った方向を見ながら惚けたことを言っていたボリス子爵は、アンゼリカからの指摘に飄々と返していた。確かに彼の性格的に他の貴族と上手くやっていくのは難しい気がする。ハインリッヒ教頭のように腐れ縁になれば、また別なのかもしれないが。

 

「さて、これからどうしたものかね。この状況では釣りの続きも出来ないようだし」

「はは……魚じゃなくて魔獣が釣れるんじゃないですかね」

「それはそれで新鮮な体験になりそうだ。君たち、これも何かの縁と思って付き合ってはくれまいか?」

 

 そう大口を開けて笑うボリス子爵にトワは苦笑いを返すしかない。内容然り、そして彼の後ろに立つ青年然り。

 

「こう~じょ~ちょ~……」

「ひょっ!?」

 

 幽鬼の如き声にビクリと肩を震わせるボリス子爵。おそるおそる振り向いた先の人物に引き攣った笑みを浮かべた。

 

「や、やあ、ドミニク君。こんなところまでどうしたんだい」

「さて、心当たりがあるのでは?」

「いやいや、私はただ休憩時間に出歩いていただけだからね。君がそんな怖い顔をする心当たりなんて、とてもとても……」

「そうですね。予定の列車の時間まで休憩にしたところ、ホテルから勝手に抜け出して、こんな状況下で呑気に釣り糸を垂らしていた挙句に、秘書に街中を走り回らせて、果てには先日お世話になった方々にふざけたことを抜かしているだけですものね」

 

 ぐうの音も出ないとはこのことか。嫌味っぽく長々と自身の行動について聞かされたボリス子爵は、目が笑っていない青筋を浮かべんばかりの秘書に対して体を小さくした。

 ちらり、と助けを求めるような視線が送られてきたが、これには流石に応えられない。ドミニクに内緒で釣りに出向いてきた様子の彼の自業自得である。四人は苦笑いを浮かべることで返事とした。

 

「いや、まあ……最後に関しては冗談のつもりだったのだよ?」

「では、勝手に釣りに出かけた理由は?」

「それは君、せっかく手に入れたレイクロードの最新ロッドの使い心地を試したいと思うのは、釣り人にとって当然のことだろう」

 

 それでも全く悪びれることもなく勝手な都合を言い切れるのだから、ある意味で大物と言うべきかどうなのか。判断に迷うところであるが、少なくとも只者ではないことだけは確かだろう。

 ドミニクもこれには怒る気も失せたらしい。大きな溜息を吐くと申し訳なさそうにトワたちを見た。

 

「すまなかったね、君たち。また工場長が世話になってしまって」

「それは構わねえけどよ、そのオッサンの手綱はしっかり握っておいた方がいいと思うぜ」

 

 やや意地の悪い笑みを浮かべたクロウに、ドミニクは「肝に銘じておくよ」と同じく笑う。仮にも貴族相手にあんまりな扱いではあるが、これも人徳なのかもしれない。観念したのかボリス子爵は降参とでも言うかのように諸手を挙げた。

 

「こうなっては仕方ない。私は大人しく避難するとしよう。トワ君、だったかな。機会があれば釣り話にでも付き合ってくれたまえ」

「あまり詳しい訳ではないですけど……私でよければ、楽しみにしています」

「うむ。まあ、何にせよこの状況だ。私が言うのもなんだが、君たちも気を付けてな」

「自覚があるなら自粛してくれませんかね……」

「はっはっは、それは無理な相談というものだ。貴族とは多かれ少なかれ勝手な人間だからね」

 

 そう陽気に笑ってボリス子爵は後ろ手を振りながら去っていった。ドミニクも一礼を残し、それに従う。まだ帝都憲兵隊は港湾入口あたりで駐留している。彼らに護送してもらえば大丈夫だろう。

 

「相変わらずクセの強いオッサンたちだったな。漫才コンビとしてやっていけるんじゃねえの?」

「さてね。貴族では変わり種であることは確かだが」

「君がそれを言うかなぁ」

 

 これは手厳しい、とアンゼリカ。ボリス子爵が変人の類であることは間違いないが。

 しかし、今はそれについて深く語る時ではないだろう。四人は改めて地下水路への道を見る。

 

「で、どうしようか? クレア大尉はああ言っていたけど」

 

 もともとトワたちがヘイムダル港まで来たのは、魔獣の発生源と思しき地下水路に何かしらの手掛かりがあるのではないかと考えたからだ。そして、それは図らずもクレア大尉の話から知ることが出来た。犯罪集団捕縛のための突入と、それに連動するかのような魔獣の活性化。確たる証拠はないが、それでも偶然と断じるにはタイミングが良すぎる。

 クレア大尉は逸って無茶なことをしないようにと言っていた。シグナについて不信感を抱いていたり愚痴ったりしていたが、彼女なりにトワたちを心配して言ってくれたのだろう。普通ならその配慮に従うべきとも思う。

 だが、己の身の可愛さがために、目の前の不審を見逃してしまっていいのだろうか。

 

「……進んでみよう。絶対とは言えないけれど、この魔獣騒動に関わる何かがあるかもしれない」

「いいのかよ? 良い子のお前がそんなこと言って」

「そこはほら、クレア大尉だって水路に入るなとは言っていなかったし」

 

 トワにとって答えは否だった。彼女にしては珍しい詭弁にクロウもニヤリとする。

 

「いいぜ。このまま放っておくのも寝覚めが悪いしな」

「せっかくの帝都実習、ここらで決めて綺麗に終わらせるとしようじゃないか」

「うーん……たまにはリスクを取る必要もある、かな。安全に気を遣う必要はあるけれど」

『まったくもう。これじゃあシグナと同類と言われても仕方ないの』

 

 結局のところ、クレア大尉の忠告を素直に聞くような殊勝な人間はこの場に居なかったという訳だ。先ほどボリス子爵を変人扱いしていた四人であるが、他人から見れば彼女たちも似たり寄ったりの変わり者の集まりである。

 お目付け役からの苦言については、努めて耳に入れないようにした。

 

「じゃあ行こう。迅速に、けど慎重にね」

 

 その言葉を合図に四人は駆けていく。未だ魔獣が蔓延る帝都の一角で、彼女たちは薄暗闇に呑み込まれていった。

 




【散蓮華】
オルバス師匠に最後に教えて貰える奥義。敵の攻撃をガードしつつ複数回ダメージを与えるカウンター技。最後に教えてもらえるだけあって、かなり便利な技であるが、特定のボスにはカウンター返しされた覚えがあるので注意。


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第23話 Tie a Link of ARCUS!

細々と書いていたら切り上げ時を見失ってしまいました。2万字を越えたのは割と久しぶりではあるまいか。そんな訳で今回は帝都実習のラストまで突っ走りますぞ。
あと私事ですが、仕事決まりました。やったぜ。


 薄暗く、滴る水滴の音が時折木霊する地下水路。再びそこに赴いたトワたちは、まずクレア大尉の忠告を正確に理解することになった。彼女が話していたのは誇張でも何でもなく、その事実ありのままであったのだと。

 

「……どう思う? あれ」

「どうもこうも……切り抜けるのは無理じゃないかな」

 

 ジョルジュからの問い掛けに「あと、どう考えても不自然だね」と付け加える。壁際より覗く先、地下水路の奥へと通じる道を封じる大量の魔獣の群れに視線を戻し、彼は「だよね」と力なく笑った。

 所狭しと、とぐろを巻くグレートワッシャーの大群。クレア大尉率いる鉄道憲兵隊をして突破は困難を伴うと判断した物量を前に、もはや呆れを通り越して笑いの一つさえ漏れようというものだ。馬鹿馬鹿しいまでの群れの数も然ることながら、そのあまりにも不自然な光景にも。

 

「あんまり笑っていられる状況じゃないと思うけど……おかしい状況なのは確かなの」

 

 トワの頭の上からひょっこりと姿を現わす姉貴分。魔獣の群れを見つめる彼女の目は険しい。

 

「おかしいと言うと、具体的には?」

「そもそも、あんな何もない所に集団でいることが変なの。子供とか卵とかがある巣ならともかく、通路のど真ん中に居座る理由なんて魔獣には無い筈。群れで行動しているにしても数だって多すぎるの」

「全く動く様子もないし……何かで操られているのかもしれない」

 

 一応の後方警戒をしていたアンゼリカの疑問に対する答えは淀みない。博物学者であるトワの父に付いて回ってきた経験は勿論のこと、元を辿れば彼女はテラの管理者の一柱。そこに住まう生命の生態についてそれなりの造詣は備えている。

 そんな彼女らに教え導かれてきたトワも当然の如く知識は学んでいる。それに照らし合わせて拭えない違和感に、彼女は魔獣が人為的な影響を受けているのではないかと推測する。

 一先ずは観察を切り上げ、気付かれないよう距離を取ったところで銀髪が傾げられた。

 

「操られているつっても、そう簡単に魔獣を手懐けられるものかよ?」

「そうだね、簡単ではないだろうけど……手段が無い訳じゃないよ。調教とか知っているでしょ」

 

 トワの口から飛び出た単語にクロウとアンゼリカは「「おおう……」」とやけに大仰な反応を示す。ノイ並びにジョルジュから白い目を向けられる二人に内心で首を傾げつつ、気にせずに言葉を続ける。

 

「魔獣も生き物には違いないから。飴と鞭の要領で教え込めば言うことは聞くようになるよ。後は幼少から一緒にいれば自然と懐くし、例外的には直接の意思疎通なんかもあるね」

 

 尤も、最後に挙げた意思疎通は本当に例外中の例外だが。どうやって、どのようにと聞かれても答え辛い内容でしかない。だから疑念を含んだ三人の視線を流し「ただ」と繋いだ。

 

「短期的、かつ難易度から考えると催眠の一種である可能性が一番かも。それにしても、この数は異常としか言えないけど」

「催眠ねぇ。魔獣の目の前で振り子でも揺らしてやるのかよ」

「出来ないことはないかもしれないけど、それだとこの数は無理だね。視覚より聴覚を刺激するものかな」

 

 返って来た答えにクロウは「出来んのかよ……」とげんなり半分。しかし、聴覚系の催眠ではないかと考えたトワも、自身の考えに自信が持てる訳ではなかった。

 聴覚を介して催眠は出来るかもしれない。だが、眠らせたり程度ならともかく、こんな細かい行動を指示できるとはとても思えない。水路を辿っての街中への侵入、分散しての襲撃、大量の群れによる水路の封鎖。魔獣が取っている行動は多岐であり、とても催眠程度で――しかも所縁のない犯罪集団が可能なこととは到底思えなかった。

 あまりにも不可解。だから余計に放っておけないと思ってしまう。このまま放置してしまえば、後々になって大きな問題と化すのではないかという懸念から。

 

「それより、ここからどうしようか? 僕らじゃ先に進むのは難しそうだし」

 

 とはいえ、その懸念も解消する手段がなければ放置するしか選択肢が無くなってしまう。大量の魔獣を相手にたった四人で正面から突破するのは不可能と考えた方がいい。精鋭部隊でさえ梃子摺ると判断した物量に挑もうと思えるほど彼女たちは無謀ではなかった。

 しかしながら地下水路は基本的に一本道。奥に進むためには魔獣が塞ぐところを通らなければいけない。それが無理となれば引き返すしかないと思われた。

 

「第一、いくら広いからってこんなに魔獣がいるもんかね。街に出てきているのも合わせたら、どんな大群になるのやら」

「うーん……もしかしたら地下水路だけじゃなくてアノール河の魔獣も引き込んだのかもしれないの。この水路自体、最終的に繋がっているのはそこだろうし」

「それはそれで河の魔獣をどうやって連れてきたのかという話になるがね」

 

 あまりの物量に魔獣の出所に対する疑問も湧き出るが、それは考えるだけ無駄な気もした。アンゼリカの呆れ声の通り、そもそもの魔獣を操る方法が分からなければ知りようもないのだから。

 

「で、結局どうするんだ? 引き返すか、何か手を打つか」

 

 何にせよ、ここで話し込んでいても仕方がない。退くか否か、判断を仰ぐ視線がトワへ送られる。自然、彼女は難しい顔になった。

 常識的に考えれば退くべきだろう。戦力的に太刀打ちできないのであれば無用な被害を出さないようにするのが常道、撤退を選ぶのが理に適っている。

 しかし、トワは判断に迷う。何か手がかりを見つけなければ、という使命感に縛られて――ではない。突破が困難な正面以外から進む方法が思いついていたからこそ、先に進む危険と皆の安全を天秤にかけていたからだ。

 

「……ノイ、ちょっと手を貸して」

「ん、分かったの」

 

 しかして彼女は決断する。姉貴分に助力を頼み、目を向けた先は奥への道ではなく石壁。壁に手をつき何某かを探るトワの姿に、三人は昨日の様子を重ね視た。

 

「もしや、そこにも隠し扉があったりするのかい?」

「ううん、そういう訳じゃないのだけど」

「はあ? じゃあ、なんでそんなところを……」

「あまり気乗りする方法じゃないけど、そうも言っていられないから。ノイ、ここでお願い」

 

 昨日に発見した抜け道がまたあるのではないか、という三人の予想を裏切ってトワは首を横に振る。怪訝な視線をものともせずに彼女は目星を付けた壁面を指差してノイに指示を出す。頭の上から飛び立った妖精は戸惑うことなく頷いた。

 瞬間、現出する金色の歯車。ギョッとするクロウたちに構うことなくそれは振るわれる。

 

「ええいっ!」

 

 激しく回転する歯車と石壁が激突する。響く爆音。年月を経て脆くなった壁は一撃のもとに崩れ去り、パラパラと零れ落ちる残骸と土煙だけが残される。決して薄くないその壁があった先には、魔獣が塞ぐ場所とはまた別の通路が続いていた。

 

「……これはこれは、また思い切りのいいことを」

「さっきの魔獣の群れが音に反応しないとも限らない。さあ、行こう」

「こういうのは爆薬とかでやるもんだと思うんだがなぁ」

 

 呆気に取られた面々の表情は既に見慣れたものだ。緊張を維持したまま先へと歩み出したトワの後に、クロウのぼやき声が続いた。

 

 

 

 

 

 壁面に掛けられた薄明りだけが照らす、人一人いない静謐な空間。鉄製の足場の下を流れる水の音だけが響くそこに、壁の向こうから僅かな音が漏れ聞こえる。

 途端、静謐は破られた。暴力的な威力を以て石壁を叩き壊した金色の歯車が水面を割り雫を撒き散らす。割れた壁面より水が流れだし、その向こうにいた一人が「うへぇ」と嫌そうな声を上げた。

 

「またかよ。もうブーツの中で乾いているところなんてねえぞ」

「仕方ないだろう。地下水路なんだから」

 

 浅いながらも流れる水に足を取られないよう注意しつつ、足場へとよじ登る。靴を脱いで引っ繰り返せば溜まった水がばしゃりと足元で弾けた。

 魔獣を掻い潜るために壁面を割り砕いて進むこと数回。たまにぶち抜いた先が水路に直面していることもあって、四人の足元はすっかり濡れそぼっていた。基本的に水量自体は少ないので、高くてもトワの膝下までしかないのが幸いか。少なくとも風邪をひく心配はなさそうだった。

 さて、と周囲を確認する。魔獣の姿は見えない。上手いところ出し抜けてはいるようだ。

 

「随分と奥まで来られたが……この次はどうするか当てはあるのかな?」

 

 しかしながら、奥まで来ただけでは意味がない。問題はこの地下水路に潜むという犯罪集団と魔獣の関係性であり、その手がかりを掴むことこそが目的。壁をぶち抜いて進むのは手段であり目的ではないのだ。

 無論、トワとノイも徒に進んできた訳ではない。確かな標を持って、それに従い進んできた。ただ、それが万人に理解出来るものではないことが難しい点だ。

 目を閉じ、意識を集中する。標を感じる。自分たち、魔獣の荒々しさ、その更に向こう。静かな、しかし淀んだもの。開かれたトワの目は薄暗闇に閉ざされた水路の奥へと向けられていた。

 

「もう、そんなに遠くないよ。このまま進んでいけばいいと思う」

「……今更とやかくは言わないがよ、お前の感覚器はどうなってやがんだ」

「私も気配は探れるが、君のように具体的には分からないしね」

 

 言われ、やっぱり聞かれるかと苦笑いが浮かぶ。緊急時と割り切ってはいるものの、それでも素直に答えるのは躊躇われた。だから返す言葉は曖昧で誤魔化すようなものになる。

 

「生まれつきの特技みたいなもの、かな。自慢できるようなものでもないよ」

 

 そう口にするトワはどこか自嘲しているようで、普段から明るい彼女には似つかわしくない影のようなものが窺えた。故に三人は踏み込むのを躊躇い、その間に話は転換される。

 

「それより気を引き締めた方がいいの。この先の手掛かり、例の犯罪集団の関係者には違いないんだから」

「えっ……ああ、そうだね」

 

 警戒を促して先導するノイ。それに並んで目線で礼を伝えれば、照れ隠しのようにぷいっと目を逸らされた。トワの表情から影が薄まり、ほんの少し笑みが浮かんだ。

 しかし、目の前に広がる暗闇に視線を戻した時には彼女もまた気持ちを引き締めていた。話を逸らす目的もあったが、ノイの言ったことは真理であったからだ。

 地下水路に蔓延る魔獣の気配、その中から見出した人間のそれを追い掛けてここまで進んできた。鉄道憲兵隊も撤退した今、こんな場所に居座っているのは件の犯罪集団以外に有り得ない。だが、疑問もある。人間の気配は一つしか感じ取れないのだ。

他の者は何処へ? 一人残っているのは何者なのか?

不審な点は多々ある。しかし、いずれにせよ辿り着かねば何も分からない。何が待ち構えていようと対処できるよう警戒しつつ暗闇の先へと足を進める。無駄な口を叩こうとする雰囲気は既になかった。各々、何時でも武器を構えられるよう備えつつ通路に足音を響かせる。ノイはアーツを発動させ姿を眩ませた。

 トワの感覚が知らせてくる。目標は近い。一歩、より一歩と進むにつれて気配は強くなり確かに感じ取れるようになる。言葉にせずとも伝わる緊張にジョルジュが息を呑む。

 やがて、その先に一つの人影を捉えた。

 

「……誰か、いるね」

 

 やや上擦った声でジョルジュが言う。通路の奥、ぼんやりとした導力灯の明かりの下に一つの影。片膝を立てて寛ぐように座り込んで、魔獣が闊歩するこの地下水路では異様な様子の人物がそこにいた。

 四人は目を見合わせる。隠れる場はなく、待ち伏せの気配もない。それは同時に、自分たちも身を潜める手段がないということ。意を決した彼女たちは正面から人影に近づいた。

 

「ん……?」

 

 人影が気付き、立ち上がる。振り返った顔は少し頬のこけた男のものだった。

 元はしっかりとした服装だったのだろう。しかし、今や薄汚れ、草臥れた装いをした無精髭の男は、トワたちを見て怪訝な表情を浮かべた。

 

「てっきり鉄道憲兵隊かと思えば……誰だ、お前たち?」

「しがない学生さ。ちなみに、名乗らせたからにはそちらも名乗ってくれるのかい?」

「妙に図々しい学生が来たもんだなぁ」

 

 やさぐれたような笑みを浮かべつつ「ま、いいさ」と男は言う。犯罪者、というには妙に吹っ切れた雰囲気にトワは内心で首を傾げた。

 

「俺はここらのろくでなし集団を纏めている……いや、纏めていた者って言った方がいいか。まあ、その中でも頭一つ抜けてろくでなしの男よ」

「纏めていた? それって……」

「他の奴らなら尻尾巻いて逃げだしたぞ。この騒ぎに乗じてな」

 

 表情が険しくなるのを自覚した。目の前にいる男以外に気配が無かったのはとうの昔に逃げ出していたから。考えてみれば、その行動も理解が出来る。仲間が捕まった以上は憲兵隊の手が伸びるのは必至。都合よく騒ぎが起きれば、その隙に姿を眩まそうとするのは当然だ。

 逃走した者たちはどこへ行ったのか。地下水路を辿り数多ある出入り口のどこかから帝都を脱出しようとしているのだろうが、この騒ぎが起こってからまだ時間はそこまで経っていない。手遅れの状況ではないだろうが――そこまで考え、ふと疑問に思う。

 仲間が逃げたのならば、この男は何故ここに留まっていたのか?

 改めて男を見る。焦りも無く、ゆったりとそこに佇む様は異様でさえあった。どうしてそこまで落ち着いていられるのか。警戒を強め、積み重なった疑念を解き明かすべく口を開く。

 

「単刀直入に聞かせてもらいます。今、帝都で出没している魔獣を(けしか)けたのは貴方たちですか?」

「そうだ……とも言えるし、そうでないとも言える。一つの要因であることは間違いないが」

「何だそりゃ? はっきりしねえな」

 

 奇妙な答えに怪訝な目を向ける。男は苦笑染みたものを顔に浮かべた。

 

「俺たちゃ合図を出しただけさ。憲兵どもが入り込んで来たら魔獣が暴れ出すよう、あの薄気味の悪い野郎に頼まれてな。どれくらい仕込んでいたのか知らねえが、お前さんらの様子を見る限り随分とあの野郎は熱心みたいだったようで」

 

 男の言うことはつまり、彼らは実行犯ではあるが原因ではないということ。魔獣を操り、帝都を混乱に陥れた主犯は他にいることを示唆していた。トワは表情には出さずとも苦虫を噛み潰す思いだ。

 程度の低い犯罪集団がどうして魔獣を嗾けられたのかと疑問には思っていた。その答えが、これだ。予想していたものの中でも最悪の部類である。

 

「……その貴方たちに頼んだ人物というのは?」

「さあな。顔も見てねえし、分かるのはそう老けてない男ってくらいかね」

 

 無駄を承知で尋ねるも、返答もまた想像の通りであった。おそらく、この騒動が収まったとしても魔獣を操った主犯を捕えることは出来ないだろう。

 

「そんな奇怪な男の頼みをよく聞いたものだ。先程から随分と素直に質問に答えてくれるし、貴方は随分と人に従順なタイプのようだね」

 

 アンゼリカが皮肉を吐く。それにも男は軽く鼻で笑うだけだった。

 

「正直、どうでもいいんだよ。あの野郎が何者だろうが、今までつるんでいた奴らがどうなろうが……自分がこの先、生きようが死のうがな」

「どうでもいいって……じゃあ、どうしてこんな騒ぎを起こしたんですか!?」

「どうしてだって? はっ、決まっているだろ。ただの気晴らしだ」

 

 ジョルジュは絶句した。薄暗闇の中に浮かぶ男の瞳には何も残っていなかった。何もかも諦めきった諦観と、その末の穏やかな狂気が入り混じった淀んだ色しか残されていなかった。

 トワは男の違和感の理由を理解した。彼は既に手放してしまったのだ。何かを為そうという信念も、前に進もうとする意志さえも。

 

「鉄血宰相がしゃしゃり出てから俺の人生はケチがつきっぱなしでなぁ。済し崩しにろくでなし集団のリーダー張っていたが、それも今日でお終いだ」

 

 空っぽな彼の中に残されていたのは、やり場のない苛立ちと積み重なった世への恨み辛み。自暴自棄になった人間に、もはや行動を抑制する枷は存在しない。それが悪魔からの誘いだったとしても。

 パチン、と男が指を鳴らした。それがトリガーだったのだろう。気配が蠢く。水面の下から、壁から覗く水道の中から、男の奥に広がる暗闇の中から。魔獣がずるずると這いずり出てきて男の周囲に取り巻く。その目に、やはり意志の光はない。

 数は三。トワたちは得物を抜き、そして男もゆっくりと腰から導力銃を取り出した。

 

「呑気に暮らしてやがる連中に泡を食わせて、憲兵どもを精々苦しませてから煮るなり焼くなりされるつもりだったが……くくっ、最後に学生の餓鬼どもが相手っていうのも悪くはねえか」

「降伏の意思は、ないみたいですね」

「やめとけ。こういう手合いはもう人の話を聞く気なんて欠片もねえよ」

 

 クロウの言う通りなのだろう。男はトワたちを見ていても、その瞳にもうトワたちは映っていなかった。彼にはもう何も見えていない。彼にとって、彼以外の人間はどれも変わりのない破壊対象でしかないのだ。

 人生を捨てた相手に言葉など通じる筈もない。あとはどれだけ暴れまわって憂さを晴らせるかしか考えていないのだから。故にその手の導力銃は一片の躊躇いも無く四人へ向けられる。

 

「せいぜい楽しませてくれよ。あっさり死なれたらつまらないからなぁっ!」

「っ!」

 

 銃声が鳴った。戦いの狼煙となったそれを合図に魔獣らが牙を剥く。

 銃口から弾道を見切り、身を屈めて逃れる。身を低く駆けだしたトワは突進してくる魔獣を前に抜刀した。擦れ違いざまの跳躍、喰らいつかんとした大口を飛び越えて振るった刃が魔獣の目を浅く切り裂く。怯み、動きを止めた一体の止めをクロウ。他二体の応戦にアンゼリカとジョルジュが。戦術リンクが知らせる動きを理解し、そして直感に従いトワは着地したその場から再び飛び跳ねる。

 直後、地が爆ぜた。立て続けに鳴り響く銃声が水路に木霊し、間断なく跳ぶトワを銃弾が追い掛ける。着地を襲った二発を躱し、刀で弾く。

 

「よく動くっ!」

「文句なら下手糞の自分に言いな!」

 

 男の声にクロウが続く。怯んだ魔獣にしこたま銃弾を叩き込んで仕留めた彼は続けざまに駆動したアーツで水塊を男に投げつける。咄嗟に後退し、足元で弾けたそれの水飛沫で濡れた男は、不敵な笑みを浮かべると踵を返して水路の奥へと走り出した。

 

「って、おい! トンズラするのかよ!?」

「誘っているんだろう、さっ!」

 

 アンゼリカが噛み付きを躱した隙に脇腹を殴り飛ばす。ジョルジュが機械槌で攻撃を防いでいる魔獣を、フォローに入ったトワが背後からエアストライクで吹き飛ばす。

 魔獣は下の水路に叩き落された。仕留めきる必要はない。背を向けても追いつかれないダメージで十分だ。

 

「追わない訳にもいかないでしょ。ジョルジュ君、大丈夫!?」

「な、なんとか。おかげさまでね」

「なら急ぐとしよう。撒かれると面倒だ!」

 

 男は先の角を曲がっていった。確かに誘い込んで何か仕掛けようとしている可能性は否めない。だが、それでもここまで来たのだ。あの男を放っておけば何を仕出かすか分かったものではない。今ここで止めなければ。

 魔獣が再び這い上がってこない間に走り出す。気配を探る。男はまだ遠ざかってはいない。まだ追いつける。

 角を曲がる。先を走る男の背を認める。それを追って足を踏み出し、そして気付いた感覚に叫んだ。

 

「新手二体! 来るよっ!」

 

 水の中から二つの影が跳ねる。赤黒く光る口蓋が、振りかぶられた凶爪が襲う。

 事前の察知により反応は早かった。クロウの早撃ちが牙の並ぶ奥の喉へと突き刺さり墜落させる。トワがカウンターの一太刀を狙い、しかし、その行動は不意に遮られる。

 

「うっ……!」

 

 突然の酔いの様な感覚に動きが鈍る。戦術リンクの断絶、散々悩まされている問題がここでも表面化した。

 迫る鋭利な爪。カウンターを決める猶予は逸した。やや無理な態勢から魔獣の横を抜けるように回避を選ぶ。瞬間、肩に走った熱い感覚を歯を食いしばって堪える。

 爪を振り抜いた魔獣に鉄の塊と拳が降り注いだ。普段より幾らか乱暴なそれで相手を沈黙させ、アンゼリカは「ええい」と苛立たしげに眉を顰める。

 

「こんな時にまで面倒をかけるとは。無事かい?」

「掠っただけだよ」

 

 返して、また走り始める。立ち止まっている暇はない。

 男は入り組んだ地下水路を縦横に駆けていく。あの様子から逃げることが目的とは思えない。自分を見失わせ、こちらを不意打つ魂胆と考えた方が適当だろう。

 だが、それは通じない。トワの感覚は男の昏く淀んだ気配を正確に探知する。足止めのように度々襲い来る魔獣さえも、出てくることさえ分かれば少数なら切り抜ける術は幾らでもある。奇襲を潰し、或いは掻い潜り、四人は男を追い水路を疾駆する。

 やがて捉えた背中に、トワは檄を飛ばす。

 

「クロウ君、アンちゃん!」

「おう!」

「合点承知!」

 

 震脚、そして薙ぎ払うような蹴りが放たれる。闘気を纏った一閃は衝撃波を生み、男の行く先に衝突してその動きを怯ませた。鈍った相手など彼にとっては的に等しい。クロウが撃った一発の銃弾は正確に男の膝下を撃ち抜いた。

 呻き声を上げて男は転がるように崩れ落ちる。痛みに顔を顰めつつ、追いついたトワたちに困惑気味の目を向けた。

 

「おいおい、どうなってんだ……お前たち、やっぱり普通の学生じゃないだろ」

 

 姿を眩ます自信があったのだろう。しかし、思惑に反して奇妙なほどに正確に追跡されて男は疑念に溢れていた。

 

「それにお答えする必要があると思いますか?」

「無いだろうなぁ、そりゃ」

 

 にべのない返答をトワは口にする。彼に対して教えるようなことでもない。まして、未だ仲間たちにさえ正直に伝えられていないというのに、赤の他人に対してなど言う筈もなかった。

 男が視線を巡らせる。手に持っていた導力銃は倒れた時に取り落とし、今や地に落ちたそこに至る道にはアンゼリカが立ち塞がる。彼は大きな溜息をついて諸手を挙げた。

 

「降参、降参だ。煮るなり焼くなり好きにするといいさ」

 

 観念した、とばかりに投降の意思を示す。そのあっけなさにジョルジュは目を瞬かせた。

 

「……随分とあっさり諦めるんですね」

「反撃の目もないのに反抗するのも無駄だろう? そういう徒労はしない性質なんだ」

「だったら最初からこんな騒ぎ起こさないで欲しかったんだがな。おら、観念したのならさっさと魔獣を止める方法を吐きやがれ」

 

 尤もな文句を吐きつつクロウがせっつく。鉄道憲兵隊が掃討に入ったのだから被害は抑えられているだろうが、それでも帝都市内に未だ魔獣が出没する可能性は高い。元から断てば、その懸念も晴れるというものだ。

 

「止める方法? そんなもの教えられてないな」

 

 だが、返って来た答えは期待に沿うものではなかった。

 

「言ってしまえば、俺たちは魔獣が繋がれた手綱を渡されただけみたいなもんだ。止め方とか、どうやって操っているのかなんて欠片ほども聞いていやしない」

「……ああ、忘れていたよ。貴方にはもう他人なんてどうでもいいのだったね」

 

 仕返してやったという悪意もなく、さりとて後悔の様子もなく、ただ淡々と男は言った。帝都の人々がどうなろうと彼には微塵の興味もない。助かろうが、犠牲が出ようが、本当にどうでもいいのだ。だから、その言葉に嘘は見えなかった。

 どうしてこの人はこんな風になってしまったのだろう。思うところはあるが、今それを考える余裕はない。まずはこれからどうするかを考えなければ。トワは一つ息を吐くと指示を出す。

 

「一先ず、ここから出よう。クロウ君はその人を連れて行って。アンちゃん、ジョルジュ君は一緒に周りの警戒をお願い」

「おう。逃げたって言う他の連中はどうする?」

「残念だけど、私たちじゃどうしようもないよ。憲兵隊に報告して――」

 

 不意に、トワは言葉を途切れさせた。突然の沈黙に首を傾げるクロウ、その背後に広がる暗闇の奥へと視線は向かっていた。彼女の感覚の網に何かが引っ掛かった。

 

「警戒、お願い。何か来る」

「何? まだ隠し玉でもあったのか」

「いいや、俺が預かった魔獣はもう打ち止めだが」

「じゃ、じゃあ何が来るって言うんですか?」

 

 大きい気配だ。しかし、妙でもある。大きな一つに付随して小さな……消えかけの気配も幾つか感じる。一つ、二つと小さな気配が消えていくのを感じて、迫り来るそれにトワは眉根を寄せる。この速さ、怪我人一人を連れてでは逃げられないだろう。

 トワの様子から尋常なものではないと理解したのだろう。アンゼリカは男に問い詰めるも、彼は相変わらず飄々と返すだけだった。しかし、事ここに至って嘘をつく理由も見当たらない。正体不明の相手にジョルジュが不安を見え隠れさせる。

 気配は刻々と迫り来る。やがてトワ以外にも、その存在を知覚しうるものが辺りを流れ始める。

 

「この臭い……血だな。それも随分とたっぷりな」

 

 鉄臭さがあたりを充満し始めていた。男が足から流す血など可愛く感じられる、溢れるほどの血が流れる臭いが。

 トワは小さな気配が一つ、また一つと消えていくのを感じていた。か細い蝋燭の火が消えいるように、それらはふっと呆気なく存在を消滅させていく。その意味する所を理解するからこそ、彼女の表情は険しくなる。最大限の警戒をし、気配が潜む暗闇を睨む。

 びちゃり、と音がした。その身に水を滴らせた、先ほどまでの魔獣――グレートワッシャーら水棲魔獣の足音。だが、その大きさとそこから感じられる重さは比類なきものだ。

 重々しい音が水路に響きながら近づいてくる。そして暗闇に一対の瞳の光が浮かび上がった。

 

「あっ……」

 

 それは誰の声だったのだろう。ジョルジュか、或いは目の前の光景を見た男のものか。

 気配の主は巨大であった。グレートワッシャーよりも一回りも二回りも大きな巨体、その身を覆う獣皮は黒く変色し、爛々と光る黄色い眼は発見した得物をしかと見つめていた。

 だが、その何よりも目を引くものがあった。巨体にそぐった巨大な顎、備えられた一本一本が刃物とも思える牙の峰々、そしてそこに半身を呑み込まれ、その身を幾本もの牙で貫かれた血濡れの男の姿が、何よりもトワたちの目を引き付けて放さなかった。

 

「だ……だずけ……」

 

 残った僅かな力を振り絞り、ぶらさがった手をこちらに伸ばした彼の言葉は最後まで続かなかった。顎が少し開き、閉じられる。ただそれだけの動作で彼は全身を呑み込まれ、後は肉を咀嚼する音が響くのみ。気付けば、トワが感じていた幾つかの小さな気配は全て消えていた。

 ぎょろりとした黄色い目が得物を見定める。顎の端から何かがぽたぽたと滴る音がした。それは巨躯を濡らす水滴でもなければ、獲物を前にした魔獣の涎でもない。その腹に収めた骸たちが流した血であった。

 

「……やれやれ、逃げた連中を探す手間が省けたな」

「笑えない冗談だね、それは」

 

 瞬間、魔獣が咆哮する。残響が地下水路を揺らす。

 開く大顎。血に濡れた牙がトワたちをもその一露にせんと突進した。

 

「散開!!」

 

 トワが叫ぶ。各々が地を蹴り、足場下の水路に落ちることも構わずに血を振り撒く魔鰐(まがく)から逃れんと左右に散らばる。幸い、距離はあった。大顎が迫り来るのを見てから逃れられる程度の猶予はあった。

 ――移動に支障のない、四人に限っての話だが。

 

「ああああああっ!!」

 

 耳をつんざくような悲鳴。濡れて張り付く髪を振り払いながら見るや、悲鳴の主が目に映る。苦しげに呻き声を漏らす男がいた。膝下から先を失った、鮮血が溢れる右脚を抱えながら。

 自分の命などもうどうでもいい、そう言っておきながらも、やはり生物の本能には抗いがたかったのだろうか。咄嗟にトワたちと同じく死から逃れようと動きだし、しかし脚の負傷からその動きは少なからず鈍っていた。魔鰐の牙は男の足を噛み千切っていた。

 溢れる鮮血は水路を赤く染めていく。刻々と悪くなる状況。滴る水滴に混じって冷や汗が流れる。そんな彼女たちを魔鰐は待とうとはしない。

 

「な、なんか嫌な予感が……!」

 

 脚一本で満足する訳もなく、魔鰐は再びトワたちへ向き直る。その口が開かれ、大きく息を吸い込むように仰け反る。

 そして、その口蓋から瀑布が解き放たれた。

 躱す余地のない、水路の幅一杯を埋め尽くさんばかりの水の奔流。たちの悪い追撃に四人は為す術を持たない。

 

「やらせないのっ!」

 

 対処できるとすれば、それは桃色の妖精。虚空から現出した彼女がその小さな両手を迫りくる奔流に翳す。

 現れる黄金の歯車、回転するそれを中心に蒼く透き通る光壁が展開される。奔流が衝突する。押し寄せる水も質量をものともせずに光壁は後ろのトワたちを守り抜く。

 阻まれ、両断された水流の余波に煽られながらも水路から足場に這い上がる。片足を失った男も無理矢理に引き摺り上げた。もう呻き声はしない。痛みに気絶したか。余計に暴れ無い分、今はその方が都合がいいと判断してトワはずぶ濡れの上着を脱ぎ払った。

 

「ギアシールドもそう持たない。急いでトワ!」

「分かってる! ここじゃ狭すぎる。広い場所まで逃げるよ! クロウ君はこの人お願い!」

「ああクソっ、中途半端に生き足掻きやがってからに!」

 

 噛み千切られた脚に上着を巻きつけ、圧迫するよう強く縛り付ける。生きている以上は見捨てる訳にはいかない。少しでも生き永らえるよう最低限の処置をしてクロウが肩に担ぎあげる。四人は脱兎の如く駆けだした。

 見逃さないとばかりに追撃の構えを見せる魔鰐。その出鼻を挫くように光弾がその鼻面に叩きつけられる。ノイが放った四季魔法の一撃に苛立ちが混じった咆哮が響いた。

 今いる水路はほぼ一直線。錆びついた足場下の水は深く、落ちれば著しく行動が制限される。更にあの巨躯で突進されては、その水に落ちるしかないというのだから戦うには余りにも不利な状況に過ぎる。どうにかして十全に動ける場所を見つけなければまともに立ち向かうことさえ出来はしない。背後から迫る魔鰐の気配をひしひしと感じながらトワたちは懸命に直走る。

 魔獣の強靭な脚力は人間の比ではない。ただ逃げるだけでは追いつかれる。

 故に足止めは必須。ノイが後退しつつも次々と四季魔法を放ち魔鰐の進行を阻害する。周辺の水から生み出した氷柱を投射し、足元の水を凍らせて妨害の手を打っていく。

 しかし、足止めは足止め。多少ならず動きを鈍らせることにはなっていても、決して分厚い獣皮を貫き有効打を与えられている訳ではない。足元の氷を力任せに砕き、再び放たれた瀑布に咄嗟のギアシールドは罅入る。

 

「こ、このままどうにか逃げ切れたりはしないのかな!?」

「風の流れからして出口は反対側だが、やってみるかい?」

 

 ジョルジュが慌てたように「やめとくよっ!」と叫び返す。あの大顎の脇を擦り抜けて無事でいられるとは到底思えなかった。

 

「グダグダ言っている暇があったら気を引き締めておけ! 道が開けるぞ!」

 

 幅の狭い水路が終わり、目の前に広い空間が待ち受ける。どうなっているかは分からない。だが、背後から追撃が迫る状況では躊躇ってもいられない。数段の段差を駆け上がり、トワたちはその空間に駆け込んだ。

 視界が開ける。足元に張った浅い水面を波立たせながら進んだ先で周囲を見回す。幾つもの水道管が繋がり、僅かな水滴が滴り落ちる広いながらも何もない静かな空間。彼女たちが辿り着いたのはそんな場所だった。

 

「昔の貯水池みたいな場所かな。もう使われていないみたいだけど……」

「ものの見事に行き止まりだね。戦いやすいことには構わないが、これでは逃げも隠れも出来やしない」

 

 スペースは十分にあり、天上も広い。足元の水は浅く行動を阻害されることもないだろう。先程までの水路に比べたら格段に良い状況ではある。その代償としてか、退路になるような道は全く見当たらなかったが。三方は壁に囲われ、繋がる道は今来た魔鰐迫り来る水路のみ。必然的に魔鰐を迎え撃たざるを得ない状況に追い込まれてしまっていた。

 魔鰐はまだ追いついてはいない。ノイがどうにか足止めしてくれているのだろう。しかし、彼女とて万能ではない。一人で巨大な魔獣を撃退することなどできないし、攻撃を凌ぐにしてもそう何時までもは耐えられない。時間を置かずして、魔鰐はここに辿り着くだろう。

 覚悟を決める必要があった。ここから、この実習から無事に帰るためには、生半可な心では切り抜けられない。この場の誰もがそう感じていた。

 

「……で、勝算はあるのかよ?」

「勝てない、とは言わないよ。どんなに大きくても基本的には水路の魔獣と同種のはずだから。今の私たちで倒せないくらい強大な魔獣ではないと思う」

 

 徐な問いに対する答えは、決して楽観によるものではなかった。あの魔鰐は長い年月を重ね強靭に成長した個体であると思われるが、元をただせば水路の魔獣と同じ存在。それに対処できる自分たちに勝機がないとは思わない。

 しかし、そこでトワは「ただ」と言葉を区切る。

 

「あれだけ大きいと一撃が致命的になりかねない。少しの隙が命取りになるよ」

 

 あの大顎はまさに脅威という他ない。人間の体など、あれの前では柔らかい肉でしかないのだ。今はクロウが担ぎ上げる男の脚を容易く噛み千切ったように。

 トワは少し血が滲んだ肩に手をやる。もし、あの時と同じように戦術リンクが途切れてしまったら。今度ばかりは軽傷では済まされない。失われるのは片腕か、この命そのものになるだろう。

 

「戦術リンクはリスクが高すぎるか。ここに至って不完全なのが仇になるとは」

「途絶した時の危険が大きすぎるのは分かるけど……僕たちの地力だけであんな魔獣を倒せるのかい?」

「さあな。あんなデカブツはそうお相手したことはないが、全員無傷はちょいと難しいかもしれねえ」

 

 倒せないとは言わない。だが、相応に厳しい戦いになるのも、また間違いないだろう。クロウの推測はおそらく正しい。自分たちの実力からしてそれくらいの見込みが妥当というものだ。

 戦術リンクによる優位を築けないことに表情は曇る。加えて、血の滴る惨状を見せつけてきた魔鰐に威圧もされていた。気丈に振舞ってはいるが、それでも皆の士気が下がっているのをトワは肌で感じていた。

 

「――ねえ皆、トヴァルさんが言っていたこと、覚えている?」

 

 だから敢えて明るい声を出す。彼女からの問い掛けに面々は不思議そうな顔を浮かべた。

 

「というと……彼の波乱に満ちた昔話のことかい?」

「ああ、あの物騒なシスターとの珍道中みたいな感じの奴か」

「珍道中って、いや、まあ間違ってもいない気がするけど。それがどうかしたのかい?」

「言っていたでしょ。例え身の上も何も知らない相手だとしても、信じ合って戦うことが出来るのが仲間なんだって」

 

 単に仲が良いかどうかではない。お互いを信頼し、背中を預けて戦うことが出来るかどうか。それが仲間にとって重要なことなのだと彼は言っていた。修羅場を潜り抜けてきた遊撃士の言葉には確かな実感があった。

 自分たちはそれを聞いてどう思ったか。何か感じる所があったのではないか。少なくとも、トワは今まで気づきながらも言及することを避けてきた事実から目を逸らせられなくなっていた。

 

「この際だから正直に言うけど――」

 

 そう前置いて、彼女はまずジョルジュに目を向ける。

 

「ジョルジュ君は戦闘経験が浅くて、どこまで任せられるか不安になる時もあるし」

「う……ご、ごめん」

 

 肩を小さくする彼にちょっぴり心を痛めながらも、次はアンゼリカへ。

 

「アンちゃんは奔放過ぎて勝手にどこか行っちゃうんじゃないかと思う時もあるし」

「はっはっは、それは確かに否定できないね」

 

 開き直ったように笑う彼女に苦笑し、そしてクロウへ。

 

「クロウ君は……なんかこう、全体的に胡散臭いよね」

「なあ、俺だけ悪口じゃねえかそれ?」

 

 怫然とした表情を浮かべる彼の文句を流し、最後にトワは「でも」と続けた。

 

「やっぱり皆から一番信じてもらえていないのは、隠し事ばかりしている私だと思う」

 

 言って、三人は返す言葉を持たず少し気まずそうに目を逸らした。それが答えだろう。

 未熟さ、身勝手さ、怪しさ、不可解さ。四人が四人とも至らないところがあって、その誰もが他を信じ切れずにいる。だから戦術リンクも途切れてしまう。表面上の仲だけを取り繕ったとしても、本質的なところで信頼し合えていないのだから。

 自分たちは本当の意味で背中を預けられる仲間になれていなかった。それが、戦術リンクが失敗する理由。

 

「……じゃあ、どうするよ。やっぱ戦術リンクなしで踏ん張るか?」

「ううん。私は今だからこそ戦術リンクを使うべきだと思う」

「え……で、でも君の話振りだと……」

 

 ジョルジュが戸惑うのも無理はない。信頼しきれない理由を懇切丁寧に挙げた末に言うのも変な話だろう。

 では、クロウの言う通りに戦術リンクに頼らず戦うのが正しいのだろうか。出来ないことから、出来ない理由から目を逸らしてしまうのが本当に正しいのだろうか。トワはその選択が正しいと思いたくない。リスクがあるのも分かっている。それでも今ここで目を逸らしてしまっては、きっと自分たちはずっとこのままだと思うから。

 

「確かに私たちは本当に信じ合うことは出来ていなかったかもしれない。でも、そんな私たちでも上手くやれた時はあったはずだよ。旧校舎の時も、ルナリア自然公園の時も、最後には力を合わせられていたじゃない」

 

 ガーゴイルとの戦いでは四人の連携があったからこそ仕留められた。自然公園でのヌシとの戦いではクロウとのリンクが繋がったからこそ、あそこでヌシを無事に止めることが出来た。四苦八苦はしていても失敗ばかりだったと言う訳ではない。

 なら、その時はどうしてリンクを繋げることが出来たのか。

 決まっている。強大な敵を前にして、皆を信じ合って力を合わせることが出来たからだ。

 

「あの時と同じように力を合わせられれば、皆で心を一つにすることが出来れば、きっと戦術リンクも上手くいく。私はそう信じている」

「……はは、あの時は火事場の馬鹿力みたいなものだったと思うけど……確かに、そう言う心持ちが肝要なのかもしれないね」

 

 ジョルジュが噛み締めるように応じる。それに間を置かずして、水路の向こうから轟音が響いた。

 

「トワっ! もうすぐアイツがここに来るの!」

 

 足止めに徹していたノイが貯水池に飛び込んでくる。かなり粘ってくれたのだろう。彼女には常ならぬ疲労の色があった。ありがとう、と労いの声をかける。時間は十分に稼いでくれた。

 

「心を一つに、か。まあ、そうだね。こんな時だ。少しばかり頼りないのも胡散臭いのも纏めて呑み込むとしようじゃないか。勿論、君の謎めいて神秘的なところもね」

 

 咆哮が響く、重厚な足音が刻々と迫り来る。それでも彼女たちの顔から影は消えていた。

 

「結局はぶっつけ本番の一発勝負かよ。俺が言うのもなんだが、相当の博打だぞ、こりゃ」

「あれ、こういうのは嫌い?」

「いんや。行き当たりばったりの俺達らしくていいんじゃねえの」

 

 ニヤリ、という笑みに三人もつられた。追いついてきたばかりのノイは状況が呑み込めなくて「な、何を呑気に笑っているの!?」と慌てた様子。そうこうしている内に刻限は切れていた。

 鋭利な爪が水を割る。派手に水飛沫を散らして現れた魔鰐は追い求めていた得物をようやく前にし、その大顎を開いて威嚇の咆哮を貯水池に響かせた。もう待ち切れないとばかりに今にも襲い掛かってきそうな勢いに常人ならば気圧されてしまうに違いない。

 しかし、準備万端なのはこちらも同じ。武器を構え直し、ふと気付いたようにクロウが言った。

 

「そういやコイツはどうするよ。担いだままじゃ戦えねえぞ」

「さあ? そこらの水道管にでも突っ込んでおけば巻き込まれずに済むかもね」

「あ、あの……その人、一応重傷者だからね?」

 

 ぽいっと放り捨てるように水道管に男を放り込んだクロウにジョルジュが苦笑いを浮かべる。雑な扱いはともかくとして、対処としては間違っていないだろう。彼の体力が持つかどうかは分からないが、魔鰐の攻撃に巻き込まれないようにするにはこれが最善である。

 さあ、これで本当に準備万端だ。

 魔鰐と対峙した各々は武具を構え、その身はARCUSが放つ光に包まれた。術リンクが四人を結びつける。何時もと同じように、されど常より強く、何があっても切れないように。

 

「ここが大一番――皆、何としても切り抜けるよ!」

「「「応!」」」

 

 力強い号令に打てば響くように応じる声。唸る魔鰐が大口を開けて突っ込んできたことにより戦いの火蓋は切って落とされた。

 四人が左右に散った後を牙がガチンと空を噛み切る。先制の一手を躱し、反撃の担い手は四人の切り込み役。身勝手で、しかし率先して前を行き敵に立ち向かう女傑は勇ましく拳を振りかぶる。

 

「さあ、存分に相手をしてあげようじゃないか!」

 

 後背を殴りつけられた魔鰐が唸る。苛立ったように振るうこれまた巨大な尾をスウェーで凌ぎ、更なる連打。振り向きざまの噛みつきをバク転で回避したアンゼリカが開いた道に栗色をなびかせた影が突入し、己の間合いに相手を捕えた。

 黒く変色した獣皮に刻み付けられる刀傷。その巨躯ゆえに切り傷一つ程度では怯まない魔鰐の爪による一閃を、トワは身軽に跳ぶことで空ふらせる。影を追って攻撃を繰り返すも、捉える前に視界から姿を消し、更には再び拳がその身を打つ。更なる傷を負わされた魔鰐は、その小さな標的に怒りを覚えたのか激しく暴れ回り始めた。

 これは躱しきれない。後退を選ぶトワとアンゼリカに支援のアーツが届く。胡散臭くも、的確に戦況を読む青年によるクロックアップ改の一手は二人の動きを速め迅速な退避を助けた。そして高速化は迅速な次の一手へと繋がる。

 

「ジョルジュ君、お願い!」

「分かった!」

 

 トヴァルには劣るものの、それでも並より格段に早い駆動を済ませたトワがクレストのアーツを発動させる。身の守りを固めたジョルジュが暴れまわる魔鰐に突貫し、その尾による一撃をものともせず頭部に狙いを定める。

 

「うおおおおおおっ!!」

 

 振り向きざま、その一瞬を狙い澄ましたフルスイング。鉄槌の一撃をもろに喰らえば如何に巨大な魔獣でも脳が揺れ、動きを怯ませる。アンゼリカが「よくやった!」と再三の攻撃を仕掛け、トワとクロウが放った銃弾もそれに続く。隙を晒した敵に時間をやる理由など無し。四方八方から浴びせかけられる攻撃に魔鰐の身体にも傷が増していく。

 されど相手も無駄に年月を重ねてはいない。無理矢理に体を回転させて攻撃の手を散らし、続いて後ろ足でその巨体を持ち上げる。全体重を乗せて地に叩きつけた上半身が波濤を呼び起こし、四人の足元に振動として襲い来る。隙を見せた敵を待つ理由はない、その理屈は魔獣も同じだ。足元を揺らされ、動きを止めたトワにその黄色く濁った眼がぎょろりと向けられる。

 回避は間に合わない。開かれた大口を前に彼女は理解する。ならばどうするか。せめてもの反撃の一手を狙うのか。

 否、信じるのだ。戦っているのは自分一人ではない。自分だけでこの場を切り抜けようなど烏滸がましい。共に戦うものが信じ合えなくて何が仲間か。だからトワは刀ではなくARCUSに手を伸ばす。防ぐためでも、闇雲な反撃のためでもなく、次へと繋がる一手を打つために。

 眼前に迫る大顎。だが、それはトワの華奢な体に喰らいつくことなく押し留められる。

 

「ぐ、ぬううううっ……! へ、平気かい!」

「おかげさまで!」

「はっ、やりゃあ出来るじゃねえか!」

 

 今にも閉ざされんとするその大顎を食い止めるのはジョルジュが握る鉄槌。未だ残るクレストの効力で振動に耐えた彼が顎の間に自らの得物を突っ込むことで致命の一撃を防ぐ。強靭な顎に挟まれた機械槌がミシミシと軋んで火花を散らすが、仲間を信じた彼女たちは僅かな猶予を最大限に活かす。

 トワのエアストライクが、クロウのソウルブラーが、必ず防いでくれると信じて待ったまさにこの瞬間を狙って放たれる。大口を開くそこをアーツが襲い、たまらず鉄塊を放して後ずさった。

 

「私のトワに手を出そうとは、いい度胸をしているじゃないかぁっ!」

 

 そこに突き刺さる追撃。アンゼリカ渾身の零勁を叩き込まれた魔鰐はその巨躯で水面に尾を引き、壁に衝突する。

 だが、まだ墜ちない。地下水路に潜んでいた怪物はまだ昏く濁った黄色い眼をトワたちに向ける。再び大口を開け、仰け反るような動作を取った魔鰐を見て冷や汗を流す。

 

「……おっと、これはしくじったかな」

「言ってる場合じゃないと思うけど!?」

 

 水路一杯に広がる水の奔流。それを予期するも距離が離れてしまった今、範囲外に逃れるのは難しい。

 

「もう、四人とも急に息が合うようになって……私だけ忘れてもらったら困るの!」

 

 なら、どうするか。防ぐのだ。もう一人の仲間、小さな妖精がその身を晒す。

 放たれる奔流、時を同じくして展開される光盾。阻まれた激流は分たれ、トワたちの背後の壁にぶつかって波濤となる。跳ね返ってきた波を頭から被ってずぶ濡れになるのも構わず、この戦いに終止符を打つべく、秘密を宿しながら誰よりも仲間を想い懸命な少女は高らかに声を上げる。

 

「動きを止める! クロウ君、トドメはお願いするよ!」

「アイアイ、マム!」

「ノイ、ドライブ!」

「合点承知なの!」

 

 ノイの両手を掴む。その桃色の髪を留める歯車が二輪の車輪の如く回転し、水面を割って疾駆する。瞬く間に距離を詰め、跳躍。ギアドライブの勢いのままに回転する剣閃が魔鰐の背に突き立てられ、斬り裂かれる。血飛沫を上げながらその姿を追おうとする脚は四季魔法で凍りつかされ、その場に縫い留められた。

 剛力によってそれを砕かんとするのを阻むのは殴打の追撃。頭に、腹に、脳を揺らし内臓に響く重い攻撃を受けた魔鰐は決定的な隙を晒す。今だ、四人の通じ合った意識がチャンスを掴む。

 

「さあ、行くぜっ!」

 

 二丁の導力銃より縦横に放たれる銃弾――とっておきの特殊弾が魔鰐を取り囲み、獲物を前にした鴉の如くねめつける。

 トワたちが距離を取る。クロウが指を鳴らす。それが狡猾な狩人を嗾ける合図となる。

 

「クロス――レイブン!!」

 

 魔鰐に特殊弾が殺到し、次々と炸裂する爆炎によって包み込まれた。

貯水池に響き渡った轟音が鳴り止み、炸裂の残滓である黒煙が晴れる。その跡には巨体がその身を横たえ、身動ぎひとつすることなく沈黙するのみ。

 緊張の数秒。身構えたままその姿を見据え、やがて大きな溜息が漏れた。

 

「はああぁ~」

 

 ばしゃん、とジョルジュが水面に崩れるように腰を落とした。服は全員が既にずぶ濡れ、気にしても仕方がない状態である。他の三人も構えを解き、膝着き、胡坐をかいて、へたり込んだ。

 

「あー、しんどい。もうこれ以上の面倒事は御免だぞ」

「ふう……君が最期のとっておきを早く使ってくれれば、少しは楽できたと思うのだがね」

「あれは使い時が難しいんだよ。ミヒュトのオッサンから仕入れているから弾代だって馬鹿にならねえし。サラに経費で落とせるか掛け合ってみるかぁ」

「うーん、私物に近いなら難しい気がするけど」

「ぜえ……はあ……や、やっぱり君たち、なんだかんだ元気じゃないか……」

 

 それぞれ息を乱しながらも、文句を叩き合ったり、苦笑いを浮かべたり。やること為すことは違っても、共に危機を乗り越えた仲間たちの表情は一様に穏やかなものであった。

 彼女たちのそんな様子にノイは「まったくもう」とため息交じりに零す。表情は微笑ましげであったが。

 

「なんだか知らない間に気の置けない感じになっちゃって。戦術リンクもちゃんと出来るようになったみたいだし、私だけ除け者にされたみたいなの」

「そんなつもりは無いのだけど」

「まあ、そう拗ねるなよ。足止めしたり盾張ったりしてくれたことは感謝しているんだぜ」

「ふんだ。それくらい仲間だから当然なの」

 

 拗ねた体を装って、それでいて素直なことを言うのだから彼女自身戯れているだけなのだろう。第一、顔が笑っている時点であまり隠す気がないのが丸分かりだ。姉貴分の形ばかりの抗議にトワはクスクスと笑ってしまう。

 

「さて、と。こんなところに長居は無用だ。さっさと撤収するとしよう」

「僕としてはもうちょっと休憩していたいんだけどね……」

 

 息を整えたアンゼリカが立ち上がる。疲労困憊の様子であったジョルジュもなんだかんだ大丈夫そうだ。

 

「このオッサンも無事みたいだな。地上まで持つかは分からねえが」

「まだ息はあるみたいだけど……このままじゃ失血死は避けられないね」

「となると、帰り道は大急ぎか」

 

 水道管に放り込んで避難させておいた男も新たな外傷はないようだ。しかし、噛み千切られた右脚の血は止まっていない。縛り上げたトワの上着は既に赤黒く染まり、元の色の部分を探すことさえ難しい有様である。手当てが出来る場所まで彼の体力が持ちこたえられるか怪しいところだが、生きている限りは見捨てる訳にもいかない。可能な限り急がなければ。

 クロウが再び男を担ぎ上げ、少しふらつく。彼に限らず皆に疲労が蓄積していた。魔獣を倒しながら帝都を駆け回り、地下水路で男との追走劇の後に魔鰐との死闘。ジョルジュはもとより、他の面々も表面上を取り繕うので精一杯というところだ。

 かといって文句ばかり言っていても仕方がない。せめて地下水路を出るまでは他の誰かに助けを求めることも出来ないのだから。どうにか男をちゃんと担いだクロウが気乗りしない様子で口を開く。

 

「そんじゃ行くか。他の魔獣どもが大人しくなってりゃいいが――」

 

 トワもその言葉に同意しようとして、不意に口を固まらせる。

 激しく燃え上がる気配が、彼女の感覚を急激に染め上げた。

 

「駄目っ!!」

「は――」

 

 トワがクロウを突き飛ばすのと、彼女の姿が彼とアンゼリカ、ジョルジュ、ノイらの視界から掻き消えるのは殆ど間を置かないことだった。突然の爆音、黒く大きな影、悲鳴のような咆哮と共に。

 呆けた彼らの目に映ったのは、壁に叩きつけられてずるずると崩れ落ちる仲間の姿と、傷に塗れ血に濡れた獣の背中。事態を数瞬遅れで理解した彼らは「トワっ!」と彼女の名を叫ぶ。だが、それは彼女の耳には届いていなかった。

 

(左腕に罅と……肋骨が二、三本かな。まさか、あれでまだ動くなんて……)

 

 ぐらぐらと揺れる頭で辛うじて状況を理解せんとする。そして目の前に迫り来る魔鰐に驚嘆していた。

 確かに沈黙していた。トワの感じる気配も消えていた。なのに魔鰐は再び息を吹き返し、不意を突かれたことで仲間を庇ったトワはもろに突進を喰らう羽目になった。自分の何倍にもなる質量に撥ね飛ばされ、朦朧とする意識の中でなんとか立ち上がろうとする彼女はふと気付く。

 自らの血を大粒の雨のようにぼたぼたと流す魔鰐の瞳。昏く淀んでいたそれは今、最後の灯の如く燃え盛っていた。

 

(貴方も……でも、私だって……!)

 

 刀を支えに、痛む四肢に鞭打って立ち上がる。生きるために、仲間たちと共に帰るために。

 魔鰐の向こうからクロウたちが駆けてくるのが目に入る。だが、それは赤く塗り潰された。どうやら頭にも傷を負ってしまっていたらしい。どろりとたれ落ちてきた血がトワの視界を阻む。そして赤く染まった視界の中で、魔鰐が今度こそ喰らいつかんとする気配を感じ取った。

 碌に目が見えず、体も自由が利かない。それでも懸命にトワは脚に力を籠め――脳裏で感じ取ったそれ(・・)に、力を抜いた。

 

「よお、間に合ったか」

 

 地を揺らす爆音が響いた。振動する空気をその肌に感じつつ、目の前の光景を見ずともトワは理解できていた。

 目を拭い、ぼやけながらも視界を取り戻す。眼前で揺れる白と金糸のコートに彼女は(ああ、やっぱり)と心中で呟いた。口を半開きにして唖然とする仲間たちの姿も、突然の衝撃に吹き飛ばされて困惑する魔鰐も、そして不敵な笑みをたたえ大剣を振り抜いた男の顔も、思い描いた通りにそこにあった。

 困惑から回復した魔鰐が吠える。新たに現れた標的に狙いを定め、再び大顎を開いて喰らいつかんとする。緋色の大剣を担いだ彼は呆れたように溜息を吐いた。

 それは彼我の差を理解しない相手への哀れみか。しかし、それは容赦へは繋がらない。

 剣を両手に握る。爆発的に解き放たれた闘気が、その刀身を灼熱に染め上げる。

 

「破ぁっ!!」

 

 横薙ぎの一閃。ただそれだけで事は決した。

 魔鰐はその大剣が振るわれた次の瞬間には動きを止めていた。刀身に燻る残火が消え去るのと同じくして、その巨躯はずるりとズレ落ちる。身体を上下に分たれた怪物は、今度こそ絶命していた。

 苦も無く障害を片付けた彼は血の一つさえついていない剣を腰の鞘に納める。そしてニッと笑うと姪っ子の頭に手を乗せた。

 

「お疲れさん。よく頑張ったみたいじゃないか」

「……伯父さん、タイミング狙い過ぎ」

 

 一言だけシグナに文句をつけると、トワは急激に迫る暗闇に意識を委ねるのであった。

 




【魔鰐】
今回のボスを張ってもらったオリ魔獣。デカいワニである。ちなみにトヴァルが探していた地下水路の親玉とは勿論コイツのこと。以前からグレートワッシャーの親分的な構想はあったものの、最近やったダークソウル3のとあるモンスターの影響は否めない。気になる人は『冷たい谷のイルシール ワニ』で検索してみよう。

【ギアドライブ】
ノイのギアクラフトの一つ。歯車を車輪とすることで高速移動や壁を駆け上がることが出来るようになる。突進することでそのままダメージを与えられたりと便利なのだが、如何せん使用時の見た目のせいかネタ扱いされることが多い。

【今回の四季魔法】
今回ノイが使っていたのは光弾を飛ばす『プラムシュート』、氷の槍を投射する『アイシクルスピア』、氷山を隆起させて相手を氷漬けにする『フロストウェイブ』など。四季魔法は基本的にどこでも使えるが、拙作では導力魔法より直接的に自然に影響を与えるイメージで描写している。


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第24話 希望の芽

仕事にも慣れてきた今日この頃。やっぱり規則正しい生活が一番だと実感する次第でございます。おかげで更新も少し早くできました。一か月から三週間ちょっとというほんの少しだけですが。今後もこの調子でいければなぁ、と思います。


「ん……」

 

 トワが目を覚ました時、目に入ってきたのは赤であった。

 無論、地下水路で目にした惨憺たる血染めの赤ではない。自分が寝かせられていたベッド脇の窓から差し込む、帝都を照らす夕日の赤であった。緋を基調とする帝都に陽の色が混ざることにより、その光景にはどこか神秘的なものが感じられた。

 ぼんやりとしばらく眺めていると、ふと頭が少し重いことに気付く。手を伸ばした先にはごわごわとした布の感触。どうやら包帯が巻かれているらしいと気付いた彼女は、時そこに至って「ああ、そうか」とようやく自分がどうして寝かされていたのかを理解した。

 魔鰐との死闘、それを一太刀のもとに両断してみせた伯父の背中。思い出せば傷の痛みが実感を伴ってくる。頭のじくじくとした痛み、肋骨から響く鈍痛、罅の入った左腕はそんなに気にならないが、あまり動かさない方がいいだろう。身体の調子を確認しながらベッドから足を下ろし、部屋の中をきょろきょろと見渡した。

 どこにいるのかはすぐに分かった。遊撃士協会帝都支部の二階、昨日にも泊まったトワとアンゼリカの部屋である。ここまで連れ帰られて手当てされたのだろう、と理解するが、それはそれとして皆はどこにいったのだろうか。誰もいないことに首を傾げたところで、扉が独りでに開いた。

 

『あっ、ようやく起きたの』

「ノイ?」

 

 アーツを解いて姿を現わした姉代わりは、ものの見事に「私、怒っています」とでも言うかのような表情である。それでいてホッとしたような安堵の色も確かに浮かべているので、無茶した自覚がある身としては曖昧な笑みを浮かべることしか出来ない。

 けれど無茶をしたのが仲間の為となれば、ノイもあまり責めるようなことを言う気にはなれない。仕方ないとばかりに溜息をつき、無言の苦言に留めて表情を緩めた。

 

「身体の調子はどう? 処置はちゃんとした筈だけど」

「平気だよ。ちょっと痛むけど、これくらいはね」

「ならよろしい」

 

 身体を張った代償が多少の痛みで済むのなら儲けものである。時間が経てば治るものなのだから。

 その答えに頷くノイを端目に、トワは下の階に意識を向けた。

「伯父さんや皆は下の階? 何人かいるみたいだけど」

 感じた気配から推測して問うと、どうしたのだろうか。ノイは端正な顔立ちに微妙な表情を浮かべる。困ったような、面倒臭そうな、そんな表情である。下の階に続く扉をチラリと一瞥した彼女は、やや憂鬱に聞こえる声で言った。

 

「まあ……行ってみれば分かると思うの」

 

 

 

 

 

 部屋から出て階段を下りようとしたもうその時には空気の悪さが伝わって来ていた。ピリピリとした空気に生唾を呑みつつ、痛む身体に障らないようゆっくりと階段を下りていく。

 そして目にした集まった面々を見て納得と共に首を傾げた。仲間たちとシグナにトヴァル、それに加えて帝都支部の敷居をまたいだ三人の人物に対して。

 

「レーグニッツ知事とクレア大尉に……サラ教官?」

 

 全員の視線がトワに集まり、その圧力にやや気圧されてしまう。そんな彼女の姿を認めていの一番に反応を示したのは仲間たちであった。

 

「ようやくお目覚めかよ。ったく、いらない心配を掛けやがって」

「ほう、これが男のツンデレというものかい。いらないと言われるのがよく分かる気持ち悪さだね」

「お、お前なぁ……!」

「まあまあ、とにかくトワが無事でよかったよ」

「あはは……うん、皆も平気そうでよかった」

 

 素直じゃないクロウをアンゼリカがおちょくって、ジョルジュがそれを宥める。そんないつも通りの光景も地下水路で苦難を乗り越えた今では違って見える。少なくとも、それぞれの間にある距離は確実に近付いているとトワには思えた。

 

「まったく、結構な騒ぎに巻き込まれた癖に元気な子たちね」

「サラ教官」

 

 呆れた声で、しかし微笑を浮かべてそう言われた。近づいてきたサラ教官の雰囲気は常と変らない。

 その姿を見て頭の中にもたげた疑問をトワはそのまま口にした。

 

「教官はどうしてここに――」

 

 ところが言葉は途中で遮られる。他ならぬサラ教官に両頬を抓りあげられたからだ。

 

「アンタたちがまぁた騒ぎに巻き込まれた挙句に怪我したっていうからすっ飛んできたんでしょうが。反省しなさい、反省を」

「ふひはへん、ほふぇんふぁふぁい」

「おいおい、うちの姪っ子をあまりいじめないでくれよ」

 

 トワの頬をぐにぐにと弄り回した末に放し、サラ教官は面白がるようなシグナの言葉に「ふん」と鼻息を一つ。これまた面白そうにニヤニヤとした笑みを浮かべる彼に怫然とした目を向ける。

 

「これくらい教育的指導の範疇なので。無茶する子には厳しくしないと直らないでしょうが」

「ほう、聞いたかトヴァル。あのやんちゃなサラが一端のことを言うようになったもんじゃないか」

「ちょっ、そこ俺に振りますか!?」

 

 キラーパスに焦るトヴァル。明らかにわざとであるシグナと頬を引き攣らせたサラ教官に挟まれた彼の心境たるや如何に。少なくとも、トワたち四人は傍目からああいう立場にはなりたくないな、と思う。胃が荒れそうだ。

 そんな反応に窮した彼を救ったのは、意外なことに今朝方に火花を散らしていた相手であった。

 

「サラさんの昔のことは詳しくないですけれど、士官学院でも上手くやられているみたいですね。シグナさんも鼻が高いのではないでしょうか」

 

 剣呑なサラ教官の視線がクレア大尉に向く。トヴァルは隅でホッと胸を撫で下ろしていた。

 

「そういう大尉殿は相変わらずお忙しいみたいね。こんなところに来る暇なんてあったのかしら?」

「暇の有る無しではなく、必要なことですから。貴女と同じように」

 

 トワが姿を現わしたことで薄れていたピリピリとした空気が、再び重く垂れこみ始めていた。トワが来る前からこの調子だったのだろう。げんなりとした四人――クロウらと何故か渦中のシグナも含む――の表情からそう察する。ノイが面倒くさそうな雰囲気を醸し出していたのもこのせいか。

 鉄道憲兵隊と士官学院の教師。険悪な空気になるには些か理解し難いお互いの立場だが、シグナやトヴァルとのやり取りを見るにやはりトワの想像通りだったのかもしれない。そうとなればサラ教官の不機嫌な態度も納得出来るものだ。

 しかしながら、そんな推測を働かせても居心地の悪さは治まるものではない。さりとて打つ手もなく困っていると、温和な笑みがやんわりと間に入った。

 

「まあ、それくらいにしておくといい。蟠りがあるのは分かるが、それを彼女らの前で持ち出す必要もないだろう」

 

 片やあからさまな不機嫌を顔に張り付け、片や涼しい表情でいた両者もトワたちの方を見てそう言われては矛を収めざるを得ない。ようやく普通に話せそうな雰囲気にしてくれたレーグニッツ知事は一息ついた。

 

「また会えたね、トワ君。思ったよりも早い再会だったが」

「あはは……そうですね」

 

 今朝の別れ際には帝都知事と早々会う機会など有るのだろうかと思っていたが、世の中どうなるか分からないものだ。こうして実際に一日も経たずして顔を合わせているのだから。

 多忙である筈の彼とクレア大尉がどうして再びここに足を運んだのか。理由はなんとなく想像がつく。

 

「知事閣下と大尉は魔獣騒ぎの件でここに?」

「ああ。遊撃士の諸君には世話になってしまったからね。礼くらいはちゃんとしておかないと」

「都政のトップがほいほいと出歩くのもどうかと思いますがね。後始末もあるでしょうに」

「混乱は収まり、市民へのアナウンスも出した。私の残りの仕事は部下がまとめ終えたもう少し後ですよ」

 

 軽々と言ってのけているが、そう出来るのは知事の有能さがあってのことなのだろう。シグナは「ま、それなら構いませんが」と平然と受け止めた。

 

「じゃあ若い者が落ち着いたところで話を戻しますか」

 

 言って、居住まいを正すシグナとレーグニッツ知事。トワはこっそりとクロウたちに近寄った。

 

「どんな話?」

「被害状況とか、そんなところ。まだ話し始めだったからさ」

 

 ジョルジュの答えに「なるほど」と理解する。おそらく話し始めた傍からサラ教官あたりとかが刺々しいことを言うものだから、空気が悪くなってあまり進んでいなかったのだろう。遅ればせたトワとしては二度手間を取らせずに済んで助かったが。

 騒動の顛末がどうなったのかは純粋に知りたいところだ。四人も黙って耳を傾けた。

 

「では、一から話しましょう。まず魔獣の出没範囲ですが、これについては帝都東部に集中しており西部の被害は軽微でした。遊撃士協会でも同様の認識で?」

「ええ、まあ。自分が西側の水路まで行きましたが、そっちは静かなもんでしたよ」

「つまりアンタはウチの教え子たちに当たりを引かせたって訳ね」

「勘弁しろって」

 

 サラ教官の文句にトヴァルが肩を竦める。彼女としても本気ではなかっただろうが。

 

「ともあれ、そういう訳で人的な被害は最低限に抑えられたと聞いています。そうだな、大尉?」

「ええ。魔獣の掃討が完了した時点で市民には逃走時の転倒などによる軽症者のみ。掃討に当たった部隊にも重傷者は出ていません。市街に魔獣が放たれた事態に比して軽い被害で済んだと言えるでしょう」

 

 トワはホッと胸を撫で下ろした。改めて考えてみても、帝都のど真ん中に魔獣が大量に出没するなど前代未聞の事態である。そんな中で市民に大した被害が出ていないのはまさに不幸中の幸いだ。彼女が安堵の息を漏らすのも当然と言えた。

 ところが、それを見咎めるような視線がクレア大尉から向けられた。

 

「ですが、それは市民と軍に限った話。実際には重傷者、死傷者も出ています。例の犯罪集団に……言わずともお分かりですね」

「それはまあ、申し開きのしようもないと言いますか」

「す、すみませんでした……」

 

 撫で下ろした胸に続いて肩が落ちる。クレア大尉の言わんとするところは文字通り身を以て知っていた。

 そもそも大尉には地下水路に入ることをやめるように言われていたのだ。それを無視して入り込み、結果として大怪我をして帰って来たのだから彼女が若干の怒気を滲ませるのも明白なことであった。忠告を蔑ろにした身としては言い訳の一言さえ思いつかない。

 身を小さくするトワたち。そんな彼女たちに望み望まれぬとも代わって反論の口を開いたのが年長者たちであった。

 

「ちょっと聞き捨てならないな。彼女が怪我をしたのは自己責任かもしれないが、地下水路に入ったのはアンタたちが手を引いたからだ。説教できるような身でもないと思うが?」

 

 差し挟まれた口にクレア大尉がピクリと眉根を動かす。立て続けにサラ教官も割り込んだ。

 

「そうね。聞いた感じ、この子らがいなかったら犯罪集団とやらも一人残らず死んでいたかもしれないんでしょ? この事件の手掛かりを掴んできた功績を無視するのはいかがなものかしら」

「例のリーダー格を重傷とはいえ捕えたのは確かに彼女らの功でしょう。ですが、それとこれとは別の話です。勇気と蛮勇を履き違えてはいけません」

 

 再び立ち込めてきた険悪なムードになるべく目を向けないようにしながらトワはクロウたちに囁く。サラ教官の言葉の中に気になるものがあったからだ。

 

「あの男の人、助かったの?」

「危なかったが、まあな。あれから病院に搬送されて一命を取り留めたって話だ」

「シグナさんが駆け付けた時点でもう無理かと思ったんだが、彼が胸に手を当てて力を籠めたら息を吹き返してね。東方の気功術に似ているように思えたが……」

 

 魔鰐に右脚を喰らわれた犯罪集団のリーダー、どうやら辛くも生き延びることが出来たらしい。トワが身代わりになったとはいえ、クロウに背負われていた彼も激しく突き飛ばされたのだ。ギリギリだった容体が悪化して間に合わなくなっていても不思議ではないと思っていた。

 尤も、アンゼリカの言からどうして生き延びられたのは明白だ。良いところを掻っ攫っていった伯父の対処のおかげのようだった。その方法にも察しがついたので、トワは敢えてアンゼリカの推測にとかく言わなかった。本当のところを話せば芋づる式に自身の秘密まで辿り着いてしまうがために。

 そんな感じかもね、と合わせる自分の言葉が白々しかった。そしてまた、三人もそんなトワのことを理解して突っ込んでこないのも分かっていた。そんなところまで全てひっくるめて彼女のことを信じる。それがこの魔獣騒動の末に彼女らが出した答えであった。

 

 閑話休題。

 トヴァルとサラ教官が言うことも強ち間違いではない。もし鉄道憲兵隊が地下水路から撤退した後、トワたちが立ち入らなかったら。きっとあの男は他の者たちと同じく魔鰐の餌食となり、魔獣を操っていた人物が他にいることなど知る由もなかっただろう。

 そう考えると、あの魔鰐は口封じのために嗾けられたと考えるのが自然だ。図らずもトワたちのおかげで事件の真相を闇に葬られずに済んだと言える。

 クレア大尉もそれは理解している。理解しているが、それとは別に四人の無謀さを戒めたいようだった。そして、それは反駁を口にする二人には怠慢に映ったのだろう。

 

「蛮勇ですって? 元をただせばアンタたちが頼りないからこの子らが無茶する羽目になったんでしょうが。役に立たないばかりか偉そうに説教とか、冗談もいい加減にしてほしいわね」

「市民への被害だってそうだ。憲兵隊が指揮を執るまでの間、軍が後手に回っていたことを知らないとは言わせないぞ」

 

 トヴァルの言葉に、魔獣に襲われていた赤毛の少年の顔が思い浮かぶ。もしもトワたちがあそこに駆け付けなかったとしたら、彼は高い確率で怪我を負っていたか、運が悪ければ死んでいたかもしれない。港でも帝都憲兵隊は慣れない魔獣に苦戦しており、およそ事態の掌握が出来ているようには見えなかった。そして仮に、港へと駆ける中で倒した魔獣を放置していたら。今ここで話をしている猶予など無かったかもしれない。

 だからサラ教官とトヴァルの口調は厳しいものとなる。遊撃士協会が政府に押さえつけられているのも相俟ってのことだろう。ヒートアップしてきた二人に庇われている筈のトワたちの方がどうしたものかと戸惑ってしまう。

 無論、クレア大尉も言われっぱなしでいる訳にはいかない。冷静沈着なその容貌に感情の色を覗かせ、口論の相手に反撃を加えんとする。

 

「あー、はいはい。そこらへんでやめときな。喧嘩吹っ掛けてもどうにもならんだろうに」

 

 静観していたシグナが鬱陶しそうに手を振る。クレア大尉に向けられていたサラ教官の険しい視線がそのまま彼に向けられた。

 

「先生、またそんな適当なことを……!」

「じゃあ何だ。帝都の遊撃士が健在なら、とでも言うつもりか? 力になれなかったのを悔やむのは結構だが、八つ当たりやたらればの話をするのはやめとけ。誰のためにもならん」

 

 言い募る筈だった言葉は、不意を突いた畳み掛けによって行き場をなくした。シグナに言われたことが図星だったのかもしれない。サラ教官もトヴァルも途端に勢いを失った。

 

「大尉、今回の件で私たち政府側に落ち度があったのは確かだ。そこは受け入れるべきだと思うよ」

「……はい、失礼いたしました」

 

 クレア大尉もレーグニッツ知事に諭されて落ち着きを取り戻したようだ。双方ともばつの悪そうな表情を浮かべる中、滞っていた話の流れが再び戻ってくる。

 

「ま、ともかくだ。目下の問題はその魔獣を操っていたとかいう奴のことだが、そちらはどんな感じで?」

「捜索はしていますが、発見するのは難しいでしょう。騒動が発生した時点で既に潜伏していたようです」

「足取りはなし、と。手口が分かっているだけマシと考えるべきかね。聴覚系の催眠だったか」

 

 トワたちに確認の視線が向けられる。彼女は自信を持って頷き返す。

 

「うん、間違いないと思う。あれだけの数の魔獣、普通の手段じゃ操れない。少なくとも複数の対象に効果のある手段を用いたのは確かだよ」

 

 数、範囲、どのような要素を取っても普通の催眠術ではできないことだ。それでもなお説明がつくような手段を考えるとすれば、聴覚に作用するタイプのものが現実的となる。地下水路の様子から推測したトワたちの答えに、シグナもさほど異議はなかった。

 

「確かに、そんなところが妥当だろう。それでも異常ではあるが」

「催眠術師の知り合いがいる訳じゃないが、あの数はメチャクチャだよなぁ……何かタネがあるんですかね?」

「さあな。そこはもう想像するしかないだろうさ」

 

 トヴァルの疑問にシグナは肩を竦める。情報が少なすぎて、これ以上は推測にすらなりそうになかった。

 いま確かなのは、魔獣を操る能力を持ったものがいること、広範囲かつ大量の魔獣に影響を及ぼすこと、この二つ。聴覚系の催眠術ではないかと思われるが、それは状況証拠からの推測にすぎない。その実態は現段階では不明瞭だ。

 情報がない状態で考え込んでも真実は見えてこない。面倒くさそうな溜息がシグナの口から漏れた。

 

「ま、今のところは要警戒としか言えないな。こちらでも気に掛けておくが、軍も勿論やってくれるんだろう?」

「言われるまでもありません」

 

 暗に手を足りなくさせたのはそちらなのだから責任を持て、という意味もあるのだろう。軽い口調ではあったが、それに受け答えたクレア大尉の表情は鉄面皮であった。

 下手に放っておくとまた空気が悪くなりそうだ。余計な棘のある言葉が出てこない内にトワは明るい声を出す。

 

「と、取り敢えず今回はこれで一件落着ってことですよね。思ったよりも小さい影響で済んだみたいですし」

「実習としてはアンタが大怪我してくれたおかげで一大事なんだけどね」

「まあまあ、サラ教官。トワも反省しているみたいですし、それくらいで」

 

 空気は悪くならなかったが、代わりに自分に棘が刺さった格好である。うっ、と言葉を詰まらせるトワにアンゼリカのフォローが入る。サラ教官は相変わらず眉根を吊り上げていたが、続けて文句を言ってくることはなかった。堪忍してくれたのか、怒っても仕方ないと諦められたのか。どちらにせよ彼女には心配を掛けてしまって申し訳ない限りである。

 

「はは……だが、実際のところ君たちのおかげで随分と助かった。今日中には後処理もなんとかなりそうだし、明日に支障がなさそうでよかったよ」

 

 そんなやり取りに笑みを零すレーグニッツ知事。彼の言葉にジョルジュが首を傾げる。

 

「明日というと……何かあるんですか?」

「ああ。実は、リベールに滞在なさっていたオリヴァルト殿下が明日にお帰りになる予定でね」

 

 思わずギョッとする。いきなり皇族の名前が出たこともさることながら、それが今まさにエレボニアを取り巻く話題の渦中にある人物のものだったのだから。

 オリヴァルト・ライゼ・アルノール。導力停止現象が発生したリベールに助力を申し出、自らその解決に尽力したという皇子。思い返せば、実技教練の時にも話題にしていた時事である。異変が解決した後もしばらく留まっていたようだが、その人が帰国するというのなら確かに大変なことだ。

 

「こちらとしても急な話でね。まだ市民への告知も済んでいないところへの騒動で冷や汗をかいたが、この分なら問題なく殿下をお迎えすることが出来そうだ」

「あの落ち着きのない皇子がねぇ。どうせ普通にはお帰りにならないんでしょう?」

「ご明察。あの《アルセイユ》で凱旋するとのことです」

 

 シグナがヒュウ、と口笛吹いて感嘆する。ジョルジュががぜん興味を惹かれた様に身を乗り出した。

 

「アルセイユって、あの高速巡洋艦アルセイユですか!?」

「ああ。リベールの厚意で帝都まで送って下さるそうだ」

 

 肯定の返答を受けて大柄な友人はどこか恍惚とした様子。「そうかぁ」とか「いいなぁ」とか、いつになく興奮気味に窺える彼にトワは首を傾げる。アルセイユという名は彼女も聞いたことがあったが、いま一つピンときていなかった。

 

「えっと、確かリベールの新しい飛行船だっけ?」

「ただの飛行船じゃないよ! 新型エンジンによる最高速度は時速3600セルジュ、情報処理システム《カペル》搭載、最新鋭の導力技術を惜しみなく注ぎ込んだツァイス中央工房(ZCF)の最高傑作なんだ!」

「お、おう……詳しいな」

 

 目を輝かせて捲し立てるジョルジュにクロウさえも一歩退く。興奮気味どころではない。大興奮である。

 技術先進国リベールの最新鋭飛行船。なるほど、導力技術に詳しいジョルジュからすれば是が非でも一目見たいものなのだろう。普段は落ち着きのある彼との差に驚きはしたが、自分の好きなものとなれば惹かれずにはいられないということか。

 その新たなリベールの象徴とでも言うべき船に乗りオリヴァルト皇子は凱旋する。異変で僅かなりとも芽生えてしまった帝国民の疑心を払拭する狙いもあるのだろうか。素人考えでは確かなことは分からないが、少なくとも政治的なパフォーマンスの意味もあると思われる。そんな大事の前に起きてしまった騒動が小規模で収められたのは不幸中の幸いだったのだ。

 無論、政治的なものを除いても皇帝の膝元で魔獣騒ぎにより大きな被害が出たとなれば外聞が悪い。レーグニッツ知事が一安心というのも納得するところである。

 

「明日の凱旋では市民も今日のことを忘れて楽しめるだろう。君たちも時間があれば一目見ていくといい」

 

 レーグニッツ知事が立ち上がる。そろそろお暇するようだ。

 

「庁舎でもう事後処理の報告も上がってきているだろう。それを確認したら明日の準備。はは、今夜は徹夜になりそうかな」

「お疲れ様なことで。ウチはもう仕事上がりさせてもらいますがね」

「役人は矢面には立てませんから。後の面倒事を引き受けるのが役目というものでしょう」

 

 彼らなりのじゃれ合いとでも言うべきか。嫌味や悪感情といったものは感じられないやりとりであった。

 

「では、失礼する。トワ君はお大事に。今後の君たちの実習に女神の加護があるよう願っているよ」

「失礼いたします」

 

 会釈と敬礼を残し、レーグニッツ知事とクレア大尉は夕暮れのヘイムダルへと出て行った。

 客人のいなくなった帝都支部。険悪な雰囲気はある程度払拭されてはいたものの、それでも堅さはあったのだろう。二人がこの場を後にしたことにより自然にふうと一息ついてしまう。相手がどれだけフランクでも緊張するものは緊張するのだ。

 一方、空気を悪くしていた主な人物といえば、清々したとばかりにフンと鼻息を鳴らしていた。ここまで機嫌が悪いサラ教官というのも初めて見る。

 

「えらく刺々しかったじゃねえか。正規軍に何か恨みでもあんのかよ?」

「うっさいわね。前職を辞める羽目になった原因の腹心となればアタシだってムカつきもするわよ」

「じゃあ、サラ教官の前の仕事ってやっぱり……」

 

 彼女の発言に得心する。ノイの見覚え、シグナとの繋がり、試験実習の特徴などから想像していた答えは当たっていた。答えあわせとばかりに、知りながらも敢えて黙っていた男は口を開く。

 

「想像の通り、サラは元遊撃士だ。ちなみに言えば俺の弟子だな」

「えーえー、先生には色々とお世話になりました。依頼を山ほど譲って下さいましたもんねぇ」

「実力に見合った仕事量だと思っていたんだが。師匠の気持ちを汲み取ってくれないものかね、最年少A級遊撃士《紫電》のバレスタイン」

「自分が楽できるようにしようっていう魂胆が丸見えだったんですけど……!」

 

 これだけのやり取りで師弟間の関係性が分かるというもの。どうやら伯父は色々な人に迷惑を掛けないと気が済まない性質らしい。一概に悪いことばかりしてきた訳ではないと分かっているが、姪としてはなんとも頭の痛くなる事実である。

 身内に頭を悩ませるトワはさておき、他の三人は明かされた事実に別のことで驚いていた。シグナが呼んだサラ教官の名、それは少なからぬ衝撃を伴うものであった。

 

「《紫電》のバレスタイン……まさかとは思っていましたが、帝国でも指折りの実力者が我らの教官だったとは」

「最年少のA級遊撃士かぁ。サラ教官って意外と凄い人だったんですね」

「意外ってなによ、意外って」

 

 ジョルジュの感心に自然と混じっていた単語にサラ教官はブーイング。普段の生活態度を鑑みれば致し方なし、とは思うが、それは言わぬが華というものだろう。なんだかんだ生徒からの評価が上がって機嫌が直ったところに再び油を注ぐ必要もない。

 

「はは、でも安心したな。生徒とも上手くやれているみたいじゃないか。あのサラが教官やるって聞いた時はどうなることかと思ったが」

 

 と、そこでいらない口を利く男が約一名。わざとではないと思う。それだけに性質が悪い。サラ教官が額に青筋を立てたのも仕方の無いことであった。

 

「そういうアンタは相変わらず扱き使われているみたいじゃない。アーツ使いのトヴァルさん?」

「しかしまあ、華のない呼び名だよなぁ。そろそろお前にも頑張ってもらわないとカシウスとの弟子勝負に負けちまうじゃないか。最近の《銀閃》とかの活躍ぶりは知っているだろ? 俺のヴィンテージワインのためと思ってさ」

「ちょっ、なに勝手に人を勝負事の対象にしているんですか!? っていうか俺じゃなくてもサラがいるでしょう!」

「サラは条件が不公平ってことでノーカン扱いだ。踏ん張れよ、俺のヴィンテージ」

 

 あまりにも勝手な師匠の物言いにトヴァルはがっくりと肩を落とす。何故だろう、会って間もないというのに彼はこの立ち位置が自然に感じてしまう。頼りになるのも確かなのだが。

 取り敢えず後で謝っておこう。再三の謝罪を心に決めたところで、トワはふとあることを思い立った。

 帝都の行きの列車の中、ノイが話していたサラ教官への見覚え。彼女が元遊撃士だと判明した今なら残され島に来たことがあったとしても不思議ではないが、それでもトワ自身にその覚えがないのが腑に落ちないところ。その答えも聞けるのではないか。

 

「あの、遊撃士だったのならサラ教官って残され島にも来たことがあるんですか?」

 

 思い立った次の瞬間には口を衝いて出ていた。肩落とすトヴァルを見て胸を空かせていたサラ教官は問いを聞き、なにやら微妙な表情になる。拍子抜けしたような、ちょっと残念そうなそれである。

 不味いことでも聞いてしまったのか。内心で焦るトワに返ってきたのは呆れたような溜息だった。

 

「アンタ、やっぱり気付いてなかったのね。人が目を掛けてあげていたのに、妙に反応が薄いと思ったら……」

「えっ」

 

 急にそんなことを言われても皆目見当がつかない。どれだけ記憶を遡ってもサラ教官のような人に会った覚えはなく、思考は空回りを続けて戸惑うばかり。目を掛けていたという割には実習関係の仕事を丸投げされたくらいしか心当たりが無いのも、多少は影響していることは無きにしも非ず。

 

「もう五年も前だ。気付かなくても仕方ないだろうに。あの時のお前、随分と荒んでいたしな」

「荒んでいて悪かったですね。アタシだって若かったんですよーだ」

「その言い方だと今が若くないように……おっと」

 

 ぎろり、と鋭い視線にトヴァルは口を噤む。運がないのは仕方ないが、デリカシーが足りないのは彼の責任である。

 片やトワは五年前と言われても未だにピンとこない。彼女が十一、サラ教官が十九の時となる。全く記憶がないほど幼い時分ではない。だというのに欠片も思い出せないのはどうしたことだろう。

 どうしても思い出せずに頭を抱える。そんな彼女に助け舟を出したのは伯父であった。

 

「昔に、俺が連れてきた覇気のない若い姉ちゃんに島を案内してやってくれって頼んだことあったろ。それだ、それ」

「うーん……五年前で、伯父さんが連れてきた人で……ええっ!?」

 

 差し出された糸口からようやく思い至り、同時に驚きの声が自然と飛び出す。

 確かに、いた。シグナが新人研修だと言って連れてきた、サラ教官と同じ髪色の女性が。だが、その記憶の中の姿と、目の前の彼女がまるで繋がらなかった。

 

「で、でも、あの時の女の人は全然元気がなかったし、口数も少ないし、大人しかったし……」

「どこの誰だよ、それは。サラといえば傍若無人で大酒飲みのだらしのない女だろ」

「表現はさて置き、確かに今の教官とは似ても似つかないね」

 

 一様に信じられないという顔をする教え子たちに本人は引き攣った笑み。抗議しないのは自覚があったからか。

 

「んー……まあ、アタシも昔は色々とあったのよ」

「色々、ですか」

「そ、色々。いい女には秘密が付き物なのよ」

 

 それ以上サラ教官は話す気が無いようだった。元遊撃士であったこと以外に、彼女の過去に何かあるのだろうか。気になるが、本人に話すつもりがないのなら仕方がない。シグナやトヴァルに聞くのも違うだろう。そのうち口を割ることを気長に待つのがいいのかもしれない。

 一先ずノイの見覚えの理由は分かった。収穫としてはそれで十分である。

 それにしても、と思う。名も知らない伯父の客人の手を取って――幼さゆえの元気もあって――島の中を引っ張り回し案内した相手が自分の教官になるとは、縁とはどう繋がるか分からないものだ。ぼんやりと覚えている、あの借りてきた猫のような人が、今では豪放磊落で型破りながらも自分たちを教え導いてくれている。

 これも星と女神の導きなのだろう。時を経て再び巡り合わせた縁を思うと、何か数奇なものを感じる。

 

「でも、どうして今まで教えてくれなかったんですか? 言ってくれれば思い出したかもしれないのに」

 

 だが、そうなると不思議なのは何故サラ教官から言い出さなかったのか。思い返せば確かにトワを見る目に懐古や既視の兆しを窺わせたことはあったかもしれないが、直接的なことは何も言わなかった。文句をつけるくらいなら自分から言い出せばよかったのに。

 問えば、サラ教官は頬を掻いてそっぽを向いた。

 

「それは……そういうのをアタシから言うの、なんか違うじゃない。話を振られたのならともかく」

「はあ……?」

「ま、大人の見栄って奴だ。あまり突っ込んでやらないでくれ」

 

 いま一つ要領を得ない解答に首を傾げていると、ちょっと面白げな顔をしたトヴァルからそんな声が。事情に通じているだろうシグナは勿論、クロウとアンゼリカも何かを察したのかもしれない。ニヤニヤと生温かい笑みを浮かべていた。

 

「ああもう、この話は終わり! 人のこと見て笑ってんじゃないってのよ!」

 

 耐えかねたサラ教官は強制的に終了宣言。よく分かっていないトワとジョルジュは首を傾げるばかりである。ここで理由を聞いたら怒られそうなので尋ねはしなかったが。

 さて、とここで一息。あらかた聞きたいこと喋りたいことが出尽くし、少しの間が生まれる。そこを上手く読んだ伯父の声が挟まれた。

 

「ところでサラ、今日はこの後どうするつもりだ?」

「んんっ、そうですね……この子のこともありますし、大事を取って今日は帝都で夜を明かしてから明日の朝に帰るつもりです。授業だって普通にありますし」

 

 怫然とした表情から咳払いを一つ。教官の顔に戻った彼女は、師からの問いにトワの顔を見ながらそう答えた。

 えっ、と虚を突かれたような声。ジョルジュが明らかに落胆の色を浮かべていた。

 

「アルセイユは見ていかないんですか……?」

「メインは皇子殿下の帰国でしょうが。そもそもの予定では今頃は学院に帰っている予定だったのよ。そこをトワの体調を鑑みて明日に延ばすって言うのに、のんびりしていたら文句を付けられるのはアタシなのよ」

「ふむ、残念ではあるが仕方ないところだね」

 

 そんなぁ、とガックリ肩を落とす。これだけ残念がる彼も珍しい。本当に噂のアルセイユ号を見たくてたまらなかったのだろう。流石に気の毒に思ってしまう。

 

「結果的には地下水路の親玉を倒すのにも貢献してくれたんだ。少しはご褒美をあげてもいいんじゃないか?」

「遊撃士のままだったらそれでよかったでしょうけど、新米でも教官なの。締めるところは締めなきゃいけないのよ」

 

 トヴァルが援護射撃に入るが、結果は芳しくない模様だ。サラ教官はにべもない。

 これは諦めるしかないだろうか。そう判断しかけたところで別の声が。

 

「なあ、そこは明日の朝になってからでも決めればいいだろう。もう飯に行くとしようぜ」

 

 まったく話から逸れたことを言いだしたシグナに視線が集まる。確かに夕飯時ではあるが、なんとも脈絡がない。

 

「なんだ、今日は外食にでも連れ出してくれるのかよ?」

「まあな。ウチの自慢の料理人がその有様じゃ包丁も握らせられないし」

 

 頭部裂傷、肋骨骨折、左腕に罅。そんな怪我人に料理を任せる訳にもいかないだろう。

 とはいえ、他の面々は碌に料理をしない人々ばかりである。クロウは野外料理やジャンクフードはそれなりだが家庭料理にはとんと疎く、アンゼリカもあまり手馴れていない。ジョルジュは食べる専門である。シグナとトヴァルは昨日までのキッチンの荒れようを見れば言うに及ばず、サラ教官は静かに目を逸らした時点で候補から除外された。

 そうなれば選択肢は外食一択。シグナの口振りが期待を持たせるものだったこともあり、トヴァルが現金にも表情を明るくさせる。

 

「おっ、じゃあ今日は先生の奢りですか」

「ここ最近は仕事押し付けまくっていたし、ま、いいだろう。サラ、お前には再就職祝いがまだだったな。ついでにミラは持ってやるから飲み比べでもするか」

「さっすが先生、太っ腹ぁ! よっ、帝国一!」

 

 締めるところは締めるとはなんだったのか。タダ酒が飲めると分かった途端に、テンション駄々上がりで師匠を持ち上げるサラ教官に生徒としては白けた目を向けざるを得ない。

 

「まったくもう、伯父さんったら……?」

 

 そんな事態に陥らせたシグナに苦言しようとし、トワは見た。伯父が悪戯っぽくニヤリと笑みを向けてきたところを。

 手放しで喜ぶサラ教官は気付かない。気付けないようにこっそりと、これまた上手くタイミングを読んで投げかけられたそれは妙に意味深であった。まるで楽しみにしていろと言うかのように。

 トワは知っている。あれは何か企んでいる時のそれである。しかし、今回はそんな悪いもののようには思えなかった。

 

「なに考えてんだ? お前の伯父貴はよ」

「さあ……嫌な感じはしないけど」

「アンタたち何してんの? ぼそぼそ喋っていないで、さっさと飲みに行くわよ!」

 

 学生は飲酒できないことを教官はちゃんと分かっているのだろうか。色々と言いたいことはあるが、今回は心配を掛けてしまったことも事実。余計なことは言わずにいい気分のままでいてもらおう。飲酒はなしにしても帝都の店は気になるところである。実習の労いと思い、今は自分たちも楽しむべきだ。

 意気揚々なサラ教官たちに続き、トワたちもまた日が沈みゆく帝都に繰り出すのであった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 昼も盛りの帝都、その飛行船発着場周辺では人々が群衆を成していた。ざわめきながら何かを待ちわびる彼らの容貌から、昨日は街中に魔獣が現れた事実など窺いようもない。もとより大した被害も無く済み、ましてや、これから行われるイベントの前にはそんな些事(・・)など霞んでしまっていた。

 今か、今か。刻々と期待を膨らましていく群集。周辺を警備する軍も気がそぞろになり始める。

 

 あっ、と最初に気付いたのは誰だったのだろう。遠く彼方の空よりそれはやって来た。

 

 空を駆け、白雲を引き、白き翼がその姿を現わす。

 瞬間、空気が爆発した。人々は歓声をあげ、帝都の空を飛ぶ白き翼――アルセイユへと向けて手を振る。あまりの盛り上がりように警備の軍人たちが慌てて度が過ぎないよう動き始める。そんな眼下の熱狂に応えるように、アルセイユは帝都上空を周遊する。リベールの新たな象徴である美しささえ感じる姿に、帝都の人々は一様に空を見上げ、思わず見惚れてしまう。

 存分に雄姿を見せつけたアルセイユが発着場に着陸する。そしてタラップに姿を現わした人物に、群衆の盛り上がりは最高潮に達した。

 オリヴァルト・ライゼ・アルノール。リベールの異変を無事解決し、この白き翼で帝都に凱旋するという最高級のパフォーマンスの主役は、歓声に応えて群衆へ大きく手を振った。

 

「……凄いものですね。流石は大陸最大の都市といったところでしょうか」

 

 オリヴァルト皇子が後ろを振り返る。アルセイユの艦長にして王室親衛隊中隊長、ユリア・シュバルツ大尉が湧きあがる歓声を前に驚きの表情を浮かべていた。

 リベールの王都グランセルも華やかさでは決して見劣りしていない。だが、規模と人の多さという観点からすれば、この帝都ヘイムダルに勝る都市はそうそうないだろう。ユリアが所狭しと詰めかけたこの大観衆に圧倒されるのも無理はない話だ。

 

「ユリア大尉が驚いてくれるくらいのインパクトがあったのなら、帰還後の初手としては成功と見てもいいかな。いやぁ、これくらいとんとん拍子でいければ楽なんだがね」

「あまり調子に乗るなよ。これはまだ本当に最初の一歩でしかない。躓かなかったくらいで自惚れている暇などないのだからな」

 

 オリヴァルトは間髪を容れずに放たれた忠告を「分かっているって」と軽い調子で流す。分かっているのか、分かっていないのか。どちらかと問えば前者であるとは理解しているが、それでも忠告した当人、主の側に控えるミュラー・ヴァンダール少佐は自然と眉間に手を伸ばしてしまう。

 昔からの付き合いでオリヴァルトの気質はこれでもかというほど承知しているし、半ば諦めてもいる。だが、これから彼が挑もうとしていることを考えるとこんな調子で大丈夫かと思ってしまう。臣下として、親友として、ミュラーの心労は尽きそうになかった。

 

「これから殿下がなさろうとしていることは自分も承知しております。どうかお気を付けて」

「ありがとう、大尉。しかしまあ、気を付け過ぎても意味がないと僕は思うのだよ」

「……と、言いますと?」

 

 ユリアも同じく心配になったのだろう。身を案じる言葉にオリヴァルトは感謝しつつも、それに反することを口にする。

 

「僕が()の手を取らなかったのは、僕が僕らしいやり方でこの国をよくしたいと思ったからだ。気を付け過ぎて自由に動けなくなってしまったら僕らしくなくなってしまうだろう?」

 

 臆面もなく言い放ったその言葉にユリアは目を瞬かせ、ミュラーは頭痛が悪化したのか眉間の皺を更に深めていた。

 一言で表してしまえば詭弁。自由が過ぎて身を危うくしないよう忠告しているというのに、自由でないと意味がないとのたまうとは。一見、それらしいことを言っていても分かる人には分かる。結局は奔放に好き勝手やる方が性に合っているというだけのことである。

 とはいえ、確かに好き勝手していなければオリヴァルトらしくない気もする。分別を弁えた大人しい彼など、想像しただけでミュラーは怖気が走る。だからではないが、今回も彼は先に折れてしまうのだった。

 

「まったく……引き際くらいは心得てもらうぞ」

「大丈夫大丈夫、その時はミュラーが首根っこ引っ掴んでいってくれるだろう?」

 

 否定できないだけに性質が悪い返しである。押し黙るミュラーに、ユリアが小さく笑みを零した。

 

「どうやら私の心配など無用だったようですね。お力添えが必要な際は遠慮なくご連絡ください。私のみならず、クローディア様や女王陛下も、殿下の頼みとあれば助力は惜しまないと仰っていました」

「最高の激励だ。その時は是非とも甘えさせてもらうよ」

「ではな、大尉。またいずれ会おう」

「ええ、またいずれ」

 

 ミュラーとユリアは敬礼を交わし合う。互いに主に仕える者同士、言葉少なではあっても通じ合うものがあるのだろう。無言の信頼とでも言うべきものが感じられた。オリヴァルトが後で少しからかおうと思うくらいには。

 ユリアと別れ、タラップを渡る。彼女はこの後、すぐにはリベールには戻らずに帝国政府から大なり小なりの歓待を受けるだろう。皇族を送り届けた客人を手ぶらで帰しては大国の面子が立たない。

 残念ながらオリヴァルトらと会うことはできないと思われる。理由は簡単だ。帰国した彼にはやるべきことが山を成して待ち構えているのだから。タラップを渡りきれば、そこには早速相対する人物が。

 

「お帰りなさいませ、殿下。ご無事で何よりです」

「やあ知事、わざわざ出迎えてくれてありがとう」

 

 恭しく礼をしてオリヴァルトを出迎えたのはレーグニッツ知事。平民ながらも帝都庁のトップに上り詰めた彼のことは勿論よく知っている。巷では鉄血宰相の盟友と呼ばれ、革新派の重要人物であることも。

 

「いえ、むしろ最低限の準備しかできずに申し訳ありません」

「そこは私も急に帰りを告げた訳だし、あなたが気に病むことはない。それより昨日は街中で魔獣が出没したんだろう? そちらへの対処の方が大変だったんじゃないか」

「……よく御存じでしたね」

 

 少し驚いた様子のレーグニッツ知事にオリヴァルトは悪戯っぽく微笑んだ。

 

「これでも友人は多い方なんだ。色々な話が耳に入ってくるよ」

 

 なるほど、と納得したようにレーグニッツ知事は頷く。真面目な風体、穏やかな表情に変わりはない。しかし、どこか自分に対して構える雰囲気を纏ったことをオリヴァルトは感じた。晴れて、単なる勝手気ままな皇子とは思ってもらえなくなったようだ。

 レーグニッツ知事がエスコートするように先の道を促す。歩きながら話そうということらしい。プラットフォーム下の観衆に手を振りながら、オリヴァルトとそれに従うミュラーが続く。

 

「被害も最小限で、アフターフォローも万全だそうじゃないか。この盛り上がり振りを見ればよく分かるよ」

「もったいないお言葉です。しかし、それは私だけの力ではありません。実際に魔獣を退け市民を守ってくれた者たちこそが、その称賛を真に受け取るべきでしょう」

「ふむ、となると宰相肝煎りの鉄道憲兵隊あたりかな?」

「彼女らの活躍は勿論ですが……まあ、その話は後ほどにしましょう」

 

 含みのある言い振りに疑問を覚える。てっきり同じ革新派である憲兵隊との連携が取れてこその成果だと思っていたのだが、そう単純な話でもないのだろうか。

 先を進む背広姿の背中を不思議に思いつつも歩みを進める。発着場内の建物に入り、観衆の視線がいったん途絶えた。壁一枚分遠くなった歓声が響く中、知事が振り返った。

 

「宰相閣下といえば、あの方も先日にリベールへ訪問なさっていましたね。殿下もお会いになられたのですか?」

 

 来たか、と待ち構えていた問いに心が自然と引き締まる。()と関係を持つ人物ならば、必ずや聞いてくるだろうと思っていたそれは、随分と自然な口調で切り出された。

 

「まあね。急に来たものだから私も驚かされたよ」

「はは、殿下のご活躍を聞いてからずっと機会を窺われていたのでしょう。随分とお話ししたい様子でしたし」

「確かに、お茶ついでに色々と話させてもらったよ。いやはや、宰相が私と仲良くしたいと思っていたとは意外だったな。皇位継承権も放棄した放蕩皇子と親しくなっても仕方ないだろうに」

「ご冗談を。殿下ほどの行動力を持った方もなかなかいらっしゃらないでしょう……それで、宰相閣下にはどのように?」

 

 その問いに対する答えはもう決まっている。リベールを発った時、すれ違ったあの男に向け、バラの花を手向けた時に。

 オリヴァルトの口元に笑みが浮かぶ。思いの外、言葉は滑らかに躍り出た。

 

「見解の相違があってね。私と彼は友達より喧嘩相手の方が合っているようだ」

 

 レーグニッツ知事の顔に、今度こそ明確な驚きの表情が浮かんだ。あの鉄血宰相の誘いを断った。彼の方も、少なからずオリヴァルトのことを知っていたからだろう。意外、という感情が肌から感じられた。

 

「……殿下は旧態依然の貴族勢力がお嫌いと思っていましたが」

「もちろん腐敗した貴族勢力は嫌いだ。いや、憎んでいるとさえ言っていい。宰相閣下にも同じことを話したがね」

 

 だが、と言葉を繋げる。

 思い浮かべるのはあの男、ギリアス・オズボーンと話した時に幻視したあの光景。彼が起こした熱狂がやがては狂乱となり、回り始めた歯車を止めることは能わず全てが破壊しつくされる未来。彼も分かっていると言っていた。分かった上でそれを尚も押し進めようとしている。

 

「私は宰相のやり方を認めない。人々に狂乱など必要ない。人は、国は、そんなものに頼らなくても誇り高く生きていける。私は、私なりのやり方でこの国を変えてみせる。それが答えだよ」

 

 美しくない。そんな未来は全く以て美しくない。

 だからオリヴァルトはオズボーン宰相を否定する。臆することなく立ち向かうと腹を決めた。リベールを巡る旅の中で得た、彼を支える確固たる信念がその心の内にあるからこそ。

 レーグニッツ知事は見定めるようにオリヴァルトの瞳を見つめる。そして側に立つミュラーへと視線を移し、深く息を吐いた。どちらの目にも全く揺るぎがない。本気で言っているのだと彼も認めざるを得なかった。

 

「茨の道では済まないことです。それでも、と仰るのですね?」

「ああ。もう決めたことだからね」

「……分かりました。もう何も言いません。どうぞ、御身の心に従ってお進みください」

 

 彼は革新派の中でも高い立場にあるが穏健な部類だ。きっと身を案じてくれているのだろう。それが分かるからこそ少し申し訳ない気分にもなる。

 

「すまないね。そういう訳だからこの前に頼んだ件、無理に引き受けてくれなくても構わないよ」

「…………」

 

 誘いの手を払ったからには、こちらの誘いの手もまた振り払われてしまわれても仕方ないと思う。名ばかりの皇族である自分の手が及ぶ数少ない場所、かつての学び舎で行わんとする新たな試みへの協力を要請していたが、それもまた白紙かなと半ばオリヴァルトは諦めていた。

 返事はすぐにはこなかった。思案顔を浮かべたレーグニッツ知事は、再び踵を返すと歩き始める。黙って後に続き、外に出る。姿を現わした皇子に観衆の声も再び高まった。

 

「……私はこの国を変えるためには、宰相閣下のような強大な力が必要と考えています。それを今、撤回するつもりはありません」

 

 観衆を見渡し、レーグニッツ知事は言う。その目が、ある一点で留まった。

 

「ですが、殿下の仰るような希望が芽生える可能性があるというならば……私は、その行く先を見てみたい。彼女たちのような人々を救おうとする意思を持つ若者がいるのならば、彼女たちが何を成すのか見届けたい。今回の件で、そう思うようになりました」

 

 その視線を追い、オリヴァルトもまた気付く。観衆に紛れるある集団に。

 見覚えのある三人の遊撃士――うち二人は自分が旅先の友人と一夜を共にした時と似た有様である――と、その側に制服姿の学生が四人。

 一癖ありそうな銀髪の青年、優美な雰囲気を纏った麗人、懐の深そうな大柄の青年。そして、どこかあの太陽のような少女を思い起こさせる、だが、また異なった温かさを持った小さな少女が、そこにいた。

 ふと思い起こす。知事は言っていた。称賛を受けるべきは、この街と人々を守った者たちだと。

 

「この私でよろしければ、トールズ士官学院理事の任、謹んでお受けいたしましょう」

「――ああ。ありがとう、知事」

 

 新たな希望は既に産声を上げている。

 万感の思いを込め、オリヴァルトは彼女たちに一際大きく手を振った。

 



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第25話 学びのすゝめ

最近、炎天下が続いておりますが皆さまいかがお過ごしでしょうか。私は仕事に励みつつも、家に帰れば趣味にどっぷり浸かる毎日を過ごしております。
その割には相変わらず更新が遅い? イースⅧが面白いから仕方ないじゃないですか。アクションが軽快だし、ストーリーも面白いし、何よりダーナちゃんが可愛い。最高だね。

さて、前置きはここまでとして本編です。今回は六月の士官学院、つまりは皆さまの記憶にもよく残っているだろうあのイベントです。文中にも簡単なものを作っておいたので、よければ答えを考えてみてくださいな。


「さあ、ハーシェルさん。今日こそは逃がしませんよ。大人しく堪忍なさい」

「あ、あはは……」

 

 トワは自身に向けられた言葉に苦笑いを浮かべた。目の前にはにっこりと笑みを浮かべる保険医のベアトリクス教官。しかし目は笑っておらず、いつも生徒を温かく迎え入れてくれる温和な雰囲気に代わり漂うのは威圧感。優しい人を怒らせると怖い。正にその通りであった。

 

 六月となり外ではしとしと雨が降る朝のトールズ士官学院。その保健室でなぜトワが静かな怒りに晒されているかというと、話は先月の試験実習にさかのぼる。

 帝都に張り巡らされた地下水路における魔鰐との死闘。互いに信じ合い、本当の意味で仲間となった四人の戦術リンクにより打倒はしたものの、最後の最後で不意を突かれてトワは軽くない負傷をしてしまっていた。頭部裂傷、肋骨骨折、左腕に罅。特に頭の傷は包帯が目立つこともあって、エミリーをはじめとしたクラスメイトたちにも大いに心配された。

 怪我をした直後にもアーツによる手当などはしたが、そもそも回復アーツというものは作用した途端に傷が塞がるというものではない。傷の消毒、止血、それ以上の悪化を防ぐための応急処置の側面が強く、軽い切り傷程度ならともかく骨折などの重傷を即座に治癒することが出来る訳ではないのだ。そのため今回のような場合は、しかるべき処置をした後に自然治癒を待つことになる。

 当然、ちゃんと傷が治りつつあるか医者に経過を診てもらった方がよい。素人判断で傷が悪化しては元も子もないのだから。ベアトリクス教官が怒っている理由もそこにあった。

 

「まったく、いくら忙しいからといって自分の身体を蔑ろにしてはいけませんよ。その気になれば保健室に寄るくらいの時間は作れたでしょうに」

「ええっと、生徒会のことに集中するあまり、うっかり忘れてしまっていたというか……」

「生徒会長にもあなたを保健室に行かせるようにお願いしたはずですが?」

 

 うっ、と言葉が詰まる。仕事を切り上げて診察を受けるよう促す会長の言葉を右から左に流し、なんだかんだ有耶無耶にして依頼の処理に没頭していたのは否定できない事実である。返す言葉もなかった。

 トワも理由も無しに診察から逃げ回っていた訳ではない。無論、消毒液の臭いが苦手とか愚にもつかない我儘のようなものではなく、もっと深刻で切実な問題に起因するものである。しかし、それは同時に非常に個人的な理由であり、そして口外することが憚られるものでもあった。

 だから、ただ「ごめんなさい」という謝罪と頭を下げることしかトワにはできない。ぺこぺこと頭を下げる彼女にベアトリクス教官は何か言い掛けたが、やめた。代わりにトワの頭に巻かれた包帯に手を伸ばす。

 

「まあ、いいでしょう。今度からは気を付けるのですよ。せっかくの美人さんに傷が残っては――」

 

 包帯を解き、患部を診る。トワが少し身構える。

 はた、とベアトリクス教官の声が止まった。直前まで仕方ない子と言わんばかりの苦笑を浮かべていた表情は、唖然とした、想定外の事態に対して反応が追いついていないそれに変わっていた。

 傷が、なかった。

 先月の試験実習で負った、重症と判断されるくらいに深かった頭の傷が、きれいさっぱり消え去っていた。確かに実習から半月は経っている。もう治りかけていてもおかしくはないだろう。だが、どう考えても傷痕一つ残さずに消えてなくなっているのは異常としか言えなかった。

 それが分かっているからこそトワは焦ったように口を挟む。ベアトリクス教官が気を取り直さない内に、自身の秘密に立ち入られない内に。

 

「あの、私、傷の治りは早い方で……教官にも確認いただけたと思いますし、これで失礼しますね!」

「え……? え、ええ」

 

 思わず、といった様子で返事をしてしまった教官の言葉を聞き終えない内にトワは保健室から逃げ出すように飛び出ていった。背中に刺さる視線を感じながら、それでも振り返らずに脱兎の如く駆ける。

 正面入り口の掲示板まで来たところで、彼女はようやく立ち止まった。一息ついて、それから不安気に今しがた逃げ出してきた保健室の方を見遣る。

 

「……やっぱり怪しまれちゃったよね。はあ、これからどんな顔で会えばいいんだろ」

『それはもう、素知らぬ顔で押し通すしかないの。堂々としていれば大丈夫だって』

「簡単に言わないでよぉ……」

 

 若干他人事なノイの言葉に頭を抱えたくなる。保健の授業では否応なしに会うことになるのに、しかも思っていた以上に怒ったベアトリクス教官が怖かったこともあってトワは今から憂鬱な気持ちだった。

 そんな彼女の様子を見てか、ノイが溜息を吐く気配がした。

 

『やっぱり治りが早いのも良いことばかりじゃないね。あれくらいの傷、ほんの五日で(・・・)完治していたのに』

 

 包帯を巻いていた頭に手を伸ばす。周囲に不審に思われないためとはいえ、一週間以上は余計に巻いていたのだ。ようやく頭が軽くなってすっきりした心地である。

 ふっ、と口元に笑みが浮かぶ。小さなそれは淡い色を宿していた。

 

「仕方ないよ。そういう体質なんだし」

『……ま、それもそうなの。今はそんなことに頭を悩ます時期でもないものね』

 

 ノイから少し何か言いたそうな雰囲気がしたが、僅かな逡巡の末にそれは胸の内に秘めたらしい。代わりに口から出てきたのは、トワを一息に学生生活という現実へと引き戻す効力を持ち合わせていた。

 近くの掲示板へと目を移す。そこに貼られた一枚のプリントに、見覚えのある格式ばった文字で今月の生徒会からの通知が記されていた。

 

 

 

生徒会より

 六月となり一年生は本学院での生活に順応し、二年生はより一層の精進を重ねていることと思う。今月第三週に予定されている定期テストにおいては各々、常日頃の勉学の成果を存分に示すことを期待する。一年生は三カ月間の成長と今後の課題の確認を、二年生は将来を見据え己の道を見極める機会とするべし。

 尚、学院より通達されている通り、考査一週間前より原則部活動等の課外活動は休止とする。学生の本分たる勉学に励み、最良の結果を出せるよう努力されたし。

 諸君の健闘を祈る。

                    生徒会長 アウグスト・ルグィン

 

 

 

「初めての定期テスト、だね。大丈夫だよ、忘れてないから」

『正直、トワに限ってあまり心配はしていないけど……クロウとか大丈夫なの?』

「……なんか不安になってきた、凄く」

 

 試験実習にばかりかまけていると忘れがちだが、トワたちも一介の士官学院生。当然、定期的に学力を測る試験がその時々に待ち受けている。赤点を取ってしまえば進級に響く重要な試験である。

 仮にも入試トップのトワに隙はない。普段の授業から予習復習を欠かさない秀才である。

 が、よく授業をサボると聞くバンダナの彼とかはどうだろう。考えただけで憂鬱になってくる。

 自然と大きな溜息を吐いてしまう。定期テスト一週間前の月曜、トワの胸中は窓から覗く雨雲と同じ曇り模様からスタートした。

 

 

 

 

 

「うう……なんでテストなんてあるのよぉ……ラクロスできないとか死にそう……」

 

 そして、どうやら心配な友人は思い浮かべた彼に限らなかったらしい。机に突っ伏し、怨嗟の如き呻き声を上げる隣席のクラスメイトにトワは苦笑いを浮かべざるを得なかった。

 

「エミリーちゃん、そうは言ってもテストはなくならないんだから勉強しなきゃ。赤点になったら部活どころじゃなくなっちゃうよ」

「分かっているわよ。分かっているけど憂鬱なのには変わりないのよ……」

「憂鬱になっている暇があるなら勉強するほうが建設的だと思うけどね、僕は」

 

 Ⅳ組のクラスメイトですっかりいつものメンバーになったトワ、エミリー、ハイベルの三人。呆れ顔のハイベルの言にエミリーは「ハイベルのいけず……」と突っ伏したままくぐもった文句を零す。零したのは文句だけで、それ以上の反論は捻りだせなかったようだが。

 SHRも終わり放課後となったこの時間、いつもならグラウンドに向けて飛び出していくエミリーの前には定期テスト一週間前という現実が立ちはだかっていた。つまるところ、部活が休止期間に入ったことでラクロス命な彼女は致命的なダメージを受けている訳だ。一日通して降り続いている雨もそれに追い打ちを掛けているように思えた。

 部活ができないなら勉強するしかない。吹奏楽部のハイベルが現にそうであるように、普通ならそうして目の前のことに取り組もうとするべきなのだろうが、どうやら彼女の場合は落ち込んだ状態から立ち直ることがまず必要らしかった。

 

「ほら、テストが終わったらまたラクロスもできるんだから。その時を気持ちよく迎えるためには今から努力して、テストでいい結果を残せるようにしないと」

 

 トワの励ましにエミリーがのろのろと顔を上げる。黒板が視界に入った。一日目――導力学、帝国史、美術・音楽……SHRでトマス教官が説明した定期テストの日程を目が追っていく。

 不意に、ぽてりと顔は再び突っ伏された。

 

「無理よぉ……アタシはトワみたいに頭の出来がよくないの……」

「さ、流石に諦めがよすぎるんじゃないか?」

 

 普段の熱血ぶりはどこに消えたのか。悄然と呟くエミリーにさしものハイベルも戸惑い気味である。

 

「だって入試でもう精一杯だったのに、定期テストなんてどうなっちゃうのよ。どこから手を付ければいいかすらさっぱり分からないし」

「んー……まあ、確かに初めてのことだからね。勝手が分からないのはみんな同じだと思うよ」

 

 情けない声音を受けて辺りを見回す。教室内にはテスト一週間前ということで、教科書やノートを見直したりして対策をしている人が多い。しかし、それが一様に順調という訳ではなさそうだ。大半は難しい顔をして文字とにらめっこしているのが現状だった。

 そんなクラスの風景を眺めていると、ふと近くの席の人物が目に入る。髪を逆立てた、強面気味のクラスメイトが他の面々と同じく教科書とノートを前に眉間に縦皺を刻んでいた。ただでさえ怖がられそうな顔が三割増しでおっかなくなっている。

 首を伸ばして覗き込む。どうやら導力学の問題に取り組んでいるらしい。視線に気付いた彼が更に皺を増やしてトワを睨みつけた。

 

「……ハーシェル、何じろじろ見てやがんだ」

「あ、ううん。大したことじゃないんだけど――」

 

 そう前置いて、トワはひょいと彼――ロギンスの懐の内に潜り込む。突然のことに反応が追いつかない当人を余所にペンとノートの余白を拝借する。

 

「この問題は単に導力圧の公式を当て嵌めるんじゃなくて、その前に全体の抵抗値を求めないといけないんだ。簡単に見せかけた引っ掛け問題だからマカロフ教官も出してきそうだよね……ロギンス君?」

 

 さらさらと余白に数式を書き連ね、すんなり答えまで導き出したトワは、解説が終わったところで相手からの反応が無いことに気付く。ロギンスは顔を俯かせ、その表情は窺い知れない。

 途端、彼はペンを取り上げられて空になった手を振り上げると、自分の机へと叩き付けた。

 

「余計なお世話だ! 軽々しく近づいてくんじゃねえ!」

「ふえっ!?」

 

 それだけ言って、彼は教科書などをかき集めてカバンに詰め込み、肩を怒らせて教室から出て行ってしまった。ピシャン、と勢いよく閉じられた少し立てつけの悪い扉が悲鳴を上げる。突然のことにクラスは静まり返り、トワも目をパチクリさせることしかできなかった。

 

「……私、なにかロギンス君に悪いことしちゃったかな?」

「いや、あれはトワが悪いというよりも……」

「あっちが勝手に根に持っているんでしょ。この前の授業でのこと」

 

 のっそり顔を上げたエミリーに首を傾げる。この前の授業といわれてもどの授業か分からない。いま一つピンと来ていない様子のトワに、エミリーは少しニヤニヤ笑いを浮かべて続けた。

 

「サラ教官の実技での模擬戦よ。トワってば、ロギンスのことコテンパンにしていたじゃない」

 

 模擬戦と言われて思い出す。先週、確かにそんなこともあったなと。

 サラ教官受け持ちの武術・実践技術の授業における一幕。個々の実力を測るためと一対一の模擬戦を言い渡された際、トワの相手はロギンスであった。彼は一年生の中でも腕が立つという評判で、対戦相手のバランスを考えてのサラ教官の采配だったのだろう。

 模擬戦とはいえ勝負となれば本気で相手をするのが礼儀というもの。なので全力を出して挑んだのだが……どうにも拍子抜けというか、あっけない結果になってしまった。ロギンスはトワのトリッキーな動きに対応できずあっという間に有効打を受けてしまったのである。

 

「あれは、私が怪我をしていたから気を遣ってくれていたせいだと思うのだけど」

「なに言っているんだか。あんなのトワを舐めて油断していたに決まっているでしょ。少し腕が立つからって調子に乗って、勝手に鼻っ柱を折られただけなんだから、トワが気にすることなんて無いの」

 

 そうかなぁ、と素直に頷けないトワ。競技者であるエミリーはそこのところの意識が厳しいようだが、剣士であってもお人好しなトワはあまり他者を批判しないタイプである。怒鳴られたことに対して不快よりも心配が勝っていることも相俟って、気懸かりな様子は晴れないでいた。

 

「……ま、この前の模擬戦を抜きにしても、彼がこのところ不機嫌なのは確かだね」

 

 するとハイベルが意味深なことを口にする。何か知っていそうな雰囲気にトワは首を傾げた。

 

「どういうこと?」

「僕も噂で聞いただけだけど……彼、フェンシング部の方でもこっ酷く打ち負かされたらしくてね。それも貴族生徒の女子に」

 

 肩を竦めながら告げられた言葉にトワは目を瞬かせ、エミリーが「あれま」と驚きと納得の色を浮かべる。確かにそれが事実ならば、ロギンスがあそこまで邪険に扱ってきた理由も理解できるというものだ。

 

「そりゃ荒れるわね。ロギンスってプライド高そうだし」

「だろう? それに重ねて先週の模擬戦だ。テスト期間でフラストレーションも溜まっているだろうし、しばらくは不用意に話し掛けない方がいいかもしれないね」

「とどのつまり本人の問題だし、口出しできないもんね」

 

 なにかしら迷惑を掛けていたか、困っていることがあるならば力にもなれるが、ロギンスが抱えている問題は自分自身でしか解決できない類のものである。外野から余計なお節介を焼いても反発されるだけだろう。トワにできることは再挑戦をされた時に受けて立つことくらいだ。

 それにしても、と思う。油断してトワにあっけなくやられてしまったとはいえ、ロギンスが腕の立つ剣士であることは間違いない。そんな彼をこっ酷く打ち負かした女子生徒とはいったいどのような人物なのか。他人事ながら気になるところではあった。

 アンゼリカなら知っているだろうか。後で聞いてみようと思い、ふとエミリーの表情が硬くなっていることに気付く。

 

「エミリーちゃん、どうかしたの?」

「ん……いや、貴族生徒って聞いたらちょっと嫌なこと思い出しちゃってさ」

 

 常ならぬ渋い顔でそういうものだから余計に気になってしまう。

 ハイベルが「ふむ」と一息おいて口を開いた。

 

「察するに、君も部活関連で何かあった口かな?」

 

 ぐっ、とエミリーが息をつまらせる。どうやら図星らしい。

 

「……ラクロス部の貴族生徒と上手くいってないのよ。同じ一年の子と」

「エミリーちゃんが? 珍しいね」

 

 誰が相手でも大抵は熱血と根性で押し通すエミリーである。暑苦しく感じる時もあるが、真っ直ぐで清廉な彼女のことを嫌う人をトワは知らない。なんだかんだ仲良くなる魅力がエミリーにはあった。

 だからこそ珍しいと感じてしまう。本人が上手くいっていないというからには、相当に拗れてしまっているのだろう。実際、エミリーの表情は何時にない苦々しいものだった。

 

「だって、人が一生懸命にやっている横で涼しい顔してスタンドプレーまでするのよ。ラクロスはチーム皆で力を合わせなきゃいけないっていうのに、一人だけ勝手する奴なんか幾ら上手かろうが認める訳にはいかないのよ!」

 

 次第に熱が入ってきたエミリーを「まあまあ」とハイベルと二人がかりで諌める。試験前ということで勉強している人も多い教室内である。あまり大声ばかり出していては迷惑になってしまう。エミリーもそこまで頭が回らない訳ではない。一つ大きな溜息を吐くと荷物を持って立ち上がった。

 

「……帰って寮で頭でも冷やしておくわ。勉強もしなくちゃいけないし。また夕飯の時にね」

「あ、うん。またあとでね」

 

 教室を出て行く赤髪の背中を見送る。その姿が見えなくなり、トワはハイベルと目を見合わせた。

 

「なんだか皆、色々と大変みたいだね。ハイベル君はどうなの?」

「僕はそんな大層な問題は抱えていないよ。精々、部員が少なくて演奏のレパートリーが限られてしまうことくらいかな」

「そっか。なら、いいんだけど……」

 

 ロギンスにしてもエミリーにしても、どちらも部活や学内での人間関係に苦労していることは共通しているように思える。入学してからそろそろ三か月。学院生活に順応したからこそ、次第に生徒間での問題も起き始める時期ということなのだろうか。人当たりがよくて何でもそつなくこなすハイベルは特に困っていないようだが、これからの生徒会活動にも影響してくるかもしれなかった。

 そんな考えが顔に出ていたのだろうか。ハイベルが苦笑のような小さな笑みを漏らした。

 

「まったく、色々と大変そうとか君が言うセリフかな」

「え?」

 

 唐突な発言に心当たりがないトワは戸惑ってしまう。ハイベルは今度こそはっきりと苦笑いした。

 

「生徒会の用事で学内を飛び回ったり、実習とやらで怪我して帰ってくるようなトワの方がよほど大変そうだということさ。あまり無茶はしないで、困ったときは人に頼ったりするようにしてくれよ?」

 

 一瞬きょとんとなり、そして理解する。なるほど、傍から見れば大変そうで忙しくしているのは自分の方だったらしい。今更ながら第三者からの認識を知ったトワはなんだか新鮮な気分であった。

 しかし、その大変さを苦にも思わなければ改める気もないのだから手の施しようもない。一応は「気を付けるよ」と返したものの、ハイベルにもそのことはお見通しだったのだろう。呆れたような溜息に、トワはいつもの愛想笑いを浮かべるのであった。

 

 

 

 

 

「ふむ、そのフェンシング部の女傑はフリーデル君だろうね」

 

 そんな一幕からしばらく後、アンゼリカに聞いてみた結果の答えは思いの外明瞭であった。

 

「とある伯爵家の令嬢なんだが、なかなかどうして剣の腕が立つ。私の見立てではトワといい勝負じゃないかな」

「そんな子が……アンちゃんとは仲が良いの?」

 

 少なくとも腕前を知っているくらいの関係はあるのだ。貴族クラスにおけるアンゼリカの交友はあまり知らないが、そのフリーデルという女子生徒が友人の一人に含まれているのだろうと思っての問い掛けだった。

 ふっ、とアンゼリカが小さく笑う。なんだか妙な予感がした。

 

「いいところに行かないかと誘ったところを、逆に組手に誘われてしまった。今ではたまにお相手を務めさせてもらう仲さ」

 

 どうやら彼女たちの交友関係はあまり普通のものではないようだ。それともアンゼリカにとっては、そういった関係もよくあるものなのだろうか。いずれにせよ、返ってきた答えにトワは「そ、そうなんだ」と戸惑いがちに納得するしかなかった。

 ただ、アンゼリカのことはさて置いて、そのフリーデルという人がかなり我が強いことは間違いないだろう。一緒にいる中でアンゼリカの我の強さは知っている。そんな彼女の誘いを蹴って組手に持ち込んだという辺り、フリーデルも負けず劣らず強烈な個性を持っているのだろうと容易に推測できた。

 

「その点、ラクロス部のテレジア君は初心で可愛かったな。返事はつれなかったが」

「アン、ちょっと変態くさいよ」

「失礼な。品のある彼女が戸惑いに揺れる姿を思い出して酔っていただけなのに」

 

 微妙な面持ちのジョルジュからのツッコミが入るが、彼女はそれに対する返答さえも一般的に言えば変態染みていると分かっているのだろうか。女性同士だからまだしも、仮に男性が言っていたとすればセクハラ事案である。

 そんな周囲の視線をものともせずにアンゼリカは「まあ、そうだね」と言葉を続ける。

 

「そのトワのクラスメイトと反りが合わないのは、貴族生徒であることも含めて互いが全く異なるタイプだからだろう。しばらくは放っておいて様子を見るのが賢明だと思うよ」

「んー、やっぱりそうだよねぇ」

 

 アンゼリカからの話を聞く限り、フリーデルもテレジアもなかなか個性が強そうだ。また同じくして、ロギンスもエミリーも確固とした個を持っている。それがぶつかり合った結果が今の彼ら彼女らの不仲なのかもしれない。ロギンスに関しては彼が勝手に鬱屈を溜めているようにも思えるが。

 何にせよ、それぞれ当人にしか解決しえない問題だ。ハイベルと話した時と同じ結論に至り、やはり今回ばかりは余計なお節介は無用のようだと再認識する。

 ならばトワが一人で頭を悩ましていても仕方がない。ふう、と溜息をついて思案の対象を目の前のことに移す。

 

「……ところでアンちゃん、それにクロウ君も」

「あん? 何だよ」

「もしやデートのお誘いかな? それならそこの男は放っておいて今すぐ……」

 

 何やら自分に都合のいいよう話を解釈し始めたアンゼリカを「そうじゃなくて」と制止する。それなりに真面目なことを言おうとしたトワは自然とジト目になって続きを口にした。

 

「――二人とも、テスト勉強しなくていいの?」

 

 その台詞に、呑気に茶を飲んでいたサボり常習犯たちは何のことやらと目を瞬かせる。目の前で教科書とノートを広げていた真面目組は大きく溜息をついた。

 

 時刻は日暮れ間近、場所は学院内の技術部でのことである。最近、トワたちはジョルジュが管理するこの部室を四人の溜まり場としていた。

 明確なきっかけがあった訳ではない。空いている時間はたいてい技術部にいるジョルジュのところへトワが顔を出すようになり、そこへアンゼリカも足を運ぶようになって、暇を持て余したクロウもふらっと顔を出すようになった結果として、技術部は試験実習班の根城と化したのである。

 強いてその理由を語るとすれば、やはり先月の実習で仲間としての絆を確かなものとしたことが大きいだろう。一日の内に顔を合わせないことが不自然に思うくらいには、彼女たちは近しい関係になれていた。

 

 放課後に集まって、授業の課題や次の実習について話し合ったり、はたまた他愛のないお喋りを楽しむ。ジョルジュが溜め込んだ菓子やお茶を供にして、そんな時間を過ごすのが常のこと。

 しかし、今週ばかりはそうのんびりしている時期ではないとトワは思うのだ。

 

「定期テストはもう来週だよ。ただでさえ普段から勉強していないのに、そんな調子で大丈夫なの?」

「今さら何言ってやがんだ。なあ、ゼリカ」

「ふっ、これに関しては君とも意見が合うようだね」

「クロウもアンも仲良くなってくれたのは結構だけど、そんなところで意気投合しないで欲しかったな」

 

 言外に勉強しても無駄と開き直った様子の二人に、ジョルジュと揃って呆れかえる。あと一週間、されど一週間あるというのに今から諦めきっていてどうするというのか。ついこの間までいがみ合っていたクロウとアンゼリカの一致団結ぶりにジョルジュが苦言を零すのも無理はなかった。

 

「そういうジョルジュもようやく私のことをあだ名で呼んでくれるようになったじゃないか。それとも、もっと近しい関係になることをお望みかな?」

「ええっ……?」

 

 それに対して都合のいい部分だけ切り取った挙句、あまり色恋事に免疫がなさそうなジョルジュ相手にそんなことを言うものだからアンゼリカも意地が悪い。

 

「もうアンちゃん、そうやって有耶無耶にしようとしないの。今はテストの話でしょ」

「はは、すまないすまない。でも実際、あだ名で呼んでくれるようになって嬉しいのは本当だよ」

 

 笑いながら言うアンゼリカ。前半の謝罪はちっとも悪く思っていなさそうだが、その後の言葉は本当なのだろう。

 溜まり場に集まるようになる他に変化がもう一つ。トワだけでなくクロウとジョルジュもアンゼリカをあだ名で呼ぶようになっていた。入学式の日に行われた特別オリエンテーション、あの場でのアンゼリカの言葉が三カ月近く越しに実現した形であった。

 アンちゃん、アン、ゼリカ、仲間がそれぞれ彼女を呼ぶ名はお互いの距離が縮まったことを如実に表していた。一人だけ他とは異なる呼び方をするのも、クロウの捻くれぶりをよく表しているとも言えるのかもしれない。

 確かにそれ自体はいいことだ。トワとしても喜ばしいことである。ただ、やはり今は目前に迫ったことを直視するべきだと二人にも分かってもらいたい。

 

「ぶっちゃけ、やる気もねえのに勉強したって仕方ねえだろ。テストなんざぁ、なるようにしかならねえさ」

 

 だが、対する相手の不真面目さ加減も筋金入りのようである。菓子を片手にティーカップを呷るクロウの『やる気ありませんオーラ』は、同じく纏うアンゼリカとの相乗効果によって可視化せんばかりに堅固だ。並大抵の説得では崩せそうにない。

 ならば、とトワはむっと眉間を寄せる。並大抵で無理ならこちらも心を鬼とするしかない。

 

「クロウ君、そんなこと言っていていいの?」

「は?」

 

 一体なんのことだと首を傾げるクロウ。全く心当たりがなさそうな彼にトワは無情な宣告を下す。

 

「ちゃんとテスト勉強しないなら、今度から課題もノートも見せてあげないから」

 

 瞬間、クロウの頬が盛大に引き攣る。不意の一撃は見事にクリティカルヒットした。

 放課後に集まる中で当然、授業の復習や課題をこなす時もある。そんな時に決まってノートの写しや課題を参考にとせがんでくるのが彼である。

 友達に色々と甘いトワは何時もなんだかんだ見せてしまうのだが、テストさえも真剣に取り組まないというのであれば断固とした態度を取る必要がある。珍しく眉を吊り上げたトワは本気であった。

 

「くっ……! お、お前そんな手を取るとか卑怯だろうが!」

「本来、ノートや課題を写していること自体が卑怯だと思うけどね」

 

 当たり前の事実を突いたジョルジュの一言に抗議の声さえも沈黙する。ぐぬぬ、と唸り声を上げる内心ではテスト勉強への拒否感と今後もノートなどを写せる旨みがせめぎ合っているのだろうか。葛藤の表情を浮かべるクロウに、そんなに悩むくらいなら普段から勉強すればいいのにと思わずにはいられない。

 

「一本取られたね、クロウ。ここは大人しく従ったらどうなんだい?」

「ぐぐぐ……他人事だと思いやがって……!」

「むざむざ弱みを晒している君が悪いのさ」

 

 涼しげに余裕綽々の笑みを浮かべるアンゼリカ。自分は攻め崩されない自信があるのだろう。

 しかし、容赦のなくなったトワは彼女の弱点さえもはっきりと分かっていた。

 

「……アンちゃんも勉強する気はないんだね」

「悪いが、わざわざそんなことに時間を費やす主義じゃなくてね。それなら街へ繰り出す方がよほど有意義というものさ」

 

 まるで悪気も無くのたまうアンゼリカ。トワは「ふうん」と前置いてからその一撃を解き放った。

 

「じゃあアンゼリカさん(・・・・・・・)、これからのお付き合いの仕方は少し考えさせてもらいますね」

 

 ピシリ、とアンゼリカの身体が硬直する。彼女が恐る恐るトワの方へ向き直れば、今まさに恐るべき一言を言い放った当人は異様に冷たい眼差しをしていた。

 

「と、トワ……? それは何の冗談かな?」

「冗談? 何のことですか、アンゼリカさん。私、あまり悪ふざけする人は嫌い(・・)なんですけど」

「ぐっはああああ!!?」

 

 致命の一撃は深く、深く彼女の身体を貫いた。喀血せんばかりの声を上げ、アンゼリカはテーブルに倒れ込む。

 理由はよく分からないが、出会った当初から自分はアンゼリカに気に入られているとトワは自覚している。そして彼女は気に入った相手とは特に親密でいたいという傾向が強いとも一緒に過ごす中で分かっていた。

 ならば、アンゼリカの守りを崩すにはわざと冷たく接すればいい。心を鬼にしたトワの情けの欠片もない一手に男性陣は知らず身を寄せ合った。

 

「いちいち五月蠅いですね。もう少し静かに出来ないんですか」

「ぐふぅっ! お、おや……? なんだか気持ちよくなってきたような……」

「トワ、アンが変な扉を開きそうだからその辺にしてあげよう」

「ああ。これ以上、変人になっちまったら救いようがねえ」

 

 見かねた男性陣からストップが入る。トワも好きで言葉責めなどやっているわけではないので素直に従った。はあはあ、と若干あやしい吐息を漏らすアンゼリカが落ち着いたところを見計らって、大きく嘆息して改めて二人の方を見る。

 

「ねえ、クロウ君にアンちゃんも。私だって好きでいじわる言っている訳じゃないんだよ。テストくらいちゃんと受けないと二人が困ることになるから言っているの」

 

 真剣な顔のトワに茶々を入れる余地はなさそうだと二人も察する。大人しく耳を傾けた。

 

「授業はサボりがちだからただでさえ評価が芳しくないのに、テストまで悪かったら教官たちだって放っておいてくれないと思う。もしかしたら試験実習にも行かせてもらえなくなっちゃうかもしれない。そんなの、二人だって嫌でしょ?」

「それは……まあ、な」

 

 居心地悪そうにクロウが頭を掻く。最悪の想定は確かに彼にとっても望ましくないものだった。

 試験実習はあくまで来年度の新設クラスのための予備試験。カリキュラムに組み込まれている訳でもなければ、必ずやらなくてはならない義務でもない。新設クラスを円滑にスタートさせるための手段であり、そして数多の中の一つでしかないのだ。

 それに参加する生徒が素行不良に加えてテストで散々な結果を残したらどうだろうか。学院側としても、そんな生徒を学外に実習へ活かせる暇があるのなら補習の一つでもやらせようとするだろう。教育者として成績が低迷しているものを放っておく訳にもいかないのだから。

 

 クロウとアンゼリカは目を見合わせる。

 どうする?

 仕方ないだろう。

 無言のうちに視線でやり取りを交わし、二人はとうとう降伏した。

 

「わーったよ。一週間くらいは大人しくお勉強に付き合えばいいんだろ」

「トワがそこまで言うのなら仕方がない。なに、君と共に過ごせる時間が増えると考えればそう悪くもないさ」

 

 渋々と、飄々と了承の意を示した問題児たちにトワはパッと顔を華やがせる。屈託のない純真な笑顔につられて笑ってしまう。

 これだから彼女には敵わない。いつも好き勝手している二人が、なんだかんだトワの言葉に逆らえ切れない理由がそこにあった。あれこれ言葉を弄しても最終的にはどうにも絆されてしまうのだ。

 よーし、とトワは張り切ったように声を上げる。やる気満々の姿は見ていて微笑ましい。

 

「じゃあ早速テスト対策を始めなきゃ!」

 

 しかし、次の瞬間にクロウとアンゼリカは頬を引き攣らせることになる。

 カバンから取り出されるやテーブルにずどんと置かれる紙の山。手作りの冊子らしきものが何束も積み重なった重量がティーカップに波を立たせる。どうしてカバンの底が抜けなかったのか不思議なくらいの質量を前に、ついさっきまで穏やかな気持ちでいた胸中には急速に悪寒が迫りつつあった。

 

「……トワ、これは?」

「私が復習ついでに作った問題集。もしかしたら役に立つかもって思ったんだ」

 

 固まって動かない二人に代わりジョルジュが問う。トワの答えは明瞭で屈託のない笑顔もそのままだったが、今度はつられて笑えなかった。返ってきた言葉にジョルジュでさえも「はは……」と乾いた笑みを浮かべるしかない。

 

「まずはこれを一通り解いてもらって、そこから分からないところを洗い出していこう。大丈夫、クロウ君だって一週間みっちりやれば平均点以上も楽勝なんだから!」

 

 一通り、この山を一通りと言ったか。

 ペラペラとめくってみればこの三カ月ばかりで学んだことが所狭しと並び、その束が全教科分あるのだ。その一通りとやらはどれくらいの時間を掛けてやる想定なのだろうか。クロウなどは疑問に思いつつも恐ろしさから口に出せなかった。

 されど時はすでに遅し。勉強に付き合うという言葉は今更になって口の中に戻ってくることはない。彼にとって地獄に等しい一週間が始まりの鐘を鳴らした瞬間であった。

 

 

 

 

 

―――――

 

 

 

 

 

 結論から言えば、トワたちは無事にテスト期間を乗り越えた。コンスタントに勉強を重ねてきたトワとジョルジュは勿論のこと、一週間前になってようやく重い腰を上げたクロウとアンゼリカも、テスト本番を終えて息苦しい日々から解放されたのである。

 特にクロウにとっては、あの月曜から毎日が熾烈な戦いの連続であったといえよう。普段から机と向き合っている時間が少ない彼にとって一日中教科書やノートなどに噛り付いているのはただでさえ苦痛を感じたし、そのテスト勉強を見てくれるトワがえげつない速度で――本人は普通のつもりだったが――進めていくものだからついていくのにさえ血反吐を吐く思いだった。

 だが、辛うじてテストを乗り越えられたのは偏にその指導があったからこそ。クロウだけではきっと勉強していたとしても、あの問題の数々を解くことはできなかったに違いない。

 何よりも彼自身がしみじみとそう感じる設問を少し振り返ってみよう。

 

・導力学

 以下の①~⑤の選択肢は導力について説明したものである。この中から導力の説明として誤っているものを1つ選べ。

①導力は時間経過で回復し再利用が可能である。

②導力はC・エプスタイン博士が一から新開発したエネルギーである。

③導力器の発明による導力革命は約五十年前のことである。

④導力は導力器を介して様々な効力を発揮し、飛翔機関など多様な形で利用されている。

⑤導力と密接な関係にある七耀石は重要資源として取り扱われている。

 

・帝国史

 帝国各地の夏至祭は六月に行われることが一般的であるが、帝都ヘイムダルにおいては七月下旬に行われることが通例となっている。その理由を二行程度で簡単に説明せよ。

 

・政経

 近年、エレボニア帝国とカルバード共和国は緊張状態が続いていたが、昨年末にリベール王国の仲立ちにより締結された条約によりこれが大幅に緩和された。この条約名を答えよ。

 

 ――と、このように意地が悪かったり薀蓄に近かったり最近の時事であったりと、一筋縄ではいかない問題も多々あったのである。半ばスパルタでありながらも、授業内容を的確に押さえたトワ監修のテスト勉強がなければ、きっとクロウはテスト後の自由行動日を死んだ魚のような目をして過ごさなければいけなかっただろう。

 幸いにしてそのようなことにはならず、開放感に身を任せて遊びまわって自由行動日を満喫したその翌日。殆どの生徒たちにとって胃が痛い朝を迎える。一部の優等生を除き、登校する彼ら彼女らの表情は硬い。

 理由はもはや語らなくとも明らかだろう。テストの結果発表である。

 

「…………」

 

 そして掲示板に張り出された順位表。個人成績とクラス成績を記したその前に、トワたち四人もまた群がる生徒に混じって目を凝らす。

 そこから読み取った事実を前にクロウは一人仏頂面を浮かべていた。

 

「と、とりあえず良かったね、クロウ君。無事に赤点は取らずに済んだじゃない」

「それどころか平均点以上だ。僕は頑張ったと思うよ、うん」

 

 横合いからトワとジョルジュが称賛の声を掛けてくる。確かにそれは良かった。一週間、煉獄の如き責め苦を味わった甲斐があったというものだ。そのことを否定する気はクロウにもない。

 

「私も君にしては随分と健闘したと思うがね。何が不満なんだい?」

 

 ただ、隣からの気障ったらしい声がどうしても癇に障る。口元が引き攣るのを自覚した。

 

「……ああ、確かに大健闘だったさ。おかげさんで赤点も免れたしな」

 

 言葉はそこで止まらず「だがな」と続く。これだけは言わねば気が済まなかった。

 順位表に視線を戻す。そこに記された四人の成績、それぞれは以下のようであった。

 

 

 

1.トワ・ハーシェル     Ⅰ-Ⅳ 991pts.

9.アンゼリカ・ログナー   Ⅰ-Ⅰ 908pts.

16.ジョルジュ・ノーム   Ⅰ-Ⅲ 896pts.

58.クロウ・アームブラスト Ⅰ-Ⅴ 672pts.

 

 

 

「どうして碌に勉強していなかったはずのゼリカが十位以内に入っていやがるんだ……?」

 

 それは、自分と同類だろうと思っていたならば抱いて当然の疑問。いくら目を擦ろうとも変わることのない結果に釈然とした感情は募り、そして返ってくる答えが予想できるからこそ、同時にはらわたが煮えたぎるようにふつふつと怒りも湧いてくる。

 問われたアンゼリカは「なんだ、そんなことか」と軽い調子。いつも通りの不敵な笑みで、クロウの主観で言えば嘲笑を浮かべ、言い放った言葉はやはり想像の通りだった。

 

「何時から私が、勉強が苦手と錯覚していたんだい?」

「ゼエエエエリィィカアアアアッ!!」

 

 叫び、じゃれ合い、苦笑しつつも止めはしないトワたち。

 どこかで桃髪の妖精が呆れたように溜息をついた気がした。

 



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第26話 黒鋼の街

出張先からしばらくぶりの投稿。慣れればホテル暮らしも存外悪いものでもありませんが、据え置きゲームができないことが難点。早く家に帰ってペルソナ5やりたい……


 六月末。定期テストも終わり、しばらく降り続いていた雨も上がった気持ちのいい晴れ空の下、士官学院のグラウンドには五人の人影があった。少し前まで戦闘の音が響いていたそこは、既に剣戟は収まり荒い息と戦いの余韻だけが残る。

 月末となれば試験実習も間近に迫る。無事に定期テストで赤点を逃れたクロウも滞りなく引き続き参加する運びとなり、今日は二度目の実技教練へと臨んでいた。

 

「……驚いたわね。一カ月かそこらで随分とやるようになったじゃない」

 

 構えていた得物の強化ブレードと導力銃を下ろす。息を荒げて倒れ伏す四人の教え子に向けて、サラ教官が口にしたのは純粋な称賛だった。それは世辞でなければ誇張でもない。手合わせの結果として、彼女が肌で感じたものをそのまま言葉にしただけだ。

 

「げほっ……よく言うぜ。全員のしておいてくれてよ」

「そこはあれよ、アタシだって簡単にやられちゃ面目が保てないでしょうが」

「むぅ、まだまだ精進が足りないということか」

 

 咳き込みながら文句をつけるクロウと唸り声を漏らすアンゼリカ。その表情は悔しげで、それなりに自信があったからこそ余計に口惜しい思いなのだろう。

 だが、余裕そうな態度を見せてはいるものの、サラ教官をして冷や汗をかかせられる場面が何度かあった。それこそ一歩間違えていたらグラウンドに倒れ伏していたのは自分の方だったかもしれない。そう思わせられるほど四人は肉薄してみせ、彼女も本気を出さざるを得なかった。

 

(ARCUS、それに戦術リンク……なるほど、大したものね)

 

 サラ教官は改めて新たな戦術オーブメントの有用性を実感していた。

 先月の実技教練ではまだまだ余裕を持っていなせていたというのに、たった一カ月でこれだ。個々の実力に大きな変化が無くとも、それらが噛み合わさり、相乗することにより集団の戦力は何倍にもなる。

 これが戦場に出回ればどうなるか。そう考え、途中で打ち切る。今はまだ、それを考える時ではないだろうと。

 

「リンクは切れなかったんだけどなぁ。まだまだ改善の余地がありそうだね」

「当面は、より安定したリンクを確立するのが目標かな。現段階ではリンクの強さにむらがあるみたいだ」

 

 息を整えたトワとジョルジュは早速、課題の洗い出しに掛かっている。出来たこと、出来なかったこと、双方を比較検討し今後の目標を定めていくことが実技教練の趣旨である。悔しがっていたクロウとアンゼリカも話の輪に加わる。

 

「むら、か。確かにリンクの感覚が一定ではないように思える時はあるね」

「それなら分かるぜ。なんというか、こう、途端に手応えが軽くなっちまうような感じだろ?」

「言葉にするのは難しいけど、そんな感じだね」

 

 先月の実習を通じて戦術リンクの断絶はなくなった。ただし、それで戦術リンクの全てを引き出せるようになったわけではない。むしろ、ようやく存分に活用するためのスタートラインに立てたと言った方がいいだろう。

 現にトワたちはリンク強度の安定性に難を感じていた。お互いの一挙一動が分かるような強い結びつきを感じる時もあれば、なんとなくこうするだろうという漠然としたイメージしか感じられない時もある。強い結びつきが保たれていれば良いのだが、途端にそれが弱まってしまうと連携の幅も比例して狭まってしまう。

 そして、それは相手にとって攻勢が緩まった付け入る隙となってしまうのだ。

 

「あたしから見ても、そんな感じの緩急は感じたわね。おかげさまで楽に斬り込めたけど」

 

 差し挟まれた一言に四人は「むぅ」と唸る。他ならぬ対戦者が言うのであれば、これは明確にして重大な課題として認識しなくてはならない。現状のちぐはぐな連携では実用性があるとは言い難くなってしまうのだから。

 リンク強度の安定性向上。

 次の課題をそう定めたのはいい。しかし、問題はそこからどうするべきかであった。

 

「ジョルジュ、君の方でそこらへんは調整できるのかい?」

「微調整くらいなら。でも、これは少し手を加えたくらいで解決するような類でもないと思う。もっと根本的な対応が必要だね」

 

 問題は戦術リンクシステムの奥深くに根差している。いくらジョルジュが学生離れした技術力を持っているとはいえ、ただ一人で最新鋭の戦術オーブメントの基幹部分に手を加えるのは厳しいようだった。

 

「これまで面倒くせえレポートなりデータなりを懇切丁寧に送ってやっていたんだ。そろそろ開発メーカー(ラインフォルト)にクレームの一つでも入れてやろうぜ」

 

 そうなると自然、頼るべきは開発元のラインフォルト(RF)となる。正確にはARCUSはRFとエプスタイン財団の共同開発となっているが、話に聞く限り戦術リンク機能自体はRFが主導して開発しているようだ。言い方は乱暴ではあるものの。クロウの提案はそれほど悪いものではなかった。

 もとよりトワたちは試作型ARCUSのテスター。テスト対象自体に不良個所があるのならば、それを是正するよう要求しても罰は当たらないだろう。リンク断絶が起こらないようにするところまでは自力で何とかなっても、これ以上は本職の技術者たちの領分であるように思えた。

 戦術リンクに関しては、自分たちの力だけではそろそろ限界。そう結論付けたトワたちはサラ教官へと目を向ける。

 

「というわけなので、先方への連絡お願いします」

「実習まで時間もあまりないだろ。何時もみたいに怠けていないでさっさと頼むぜ」

「……アンタたち、色々と遠慮が無くなってきたわね」

 

 引き攣った笑みを浮かべるサラ教官は内心で後悔した。もっと徹底的に叩きのめしておけばよかったと。実際には先月の実習後にシグナに奢ってもらった際、しこたま飲んだ挙句に翌日は二日酔いで終始蒼い顔をしていたという醜態を晒した結果だったりする。要するに自業自得である。

 それはさておき、問題は戦術リンク、ひいてはARCUSのこと。別段、戦術リンクに進展の余地が見られなくても実習の意義はある。試験実習の主目的は来年の特別実習の予行演習なのであり、戦術リンクの運用自体はそれに並行して行っているだけ。だからRFへの連絡やARCUSの改善を急がなくても別にいいと言い訳しようと思えば出来るのだ。

 だが、幸いにしてというべきか、今回はだらしない大人の言い訳をせずに済む手があった。

 

「まあ、そう焦る必要もないわよ。どうやら向こうも同じことを考えていたみたいだし」

「向こう、ですか?」

 

 要領を得ないサラ教官の言葉にジョルジュが首を傾げる。それに何と答える訳でもなく、彼女は脇に置いていた封筒を手に取って差し出してくる。

 有角の獅子の紋章が目を引く四つの封筒。先月と同じ、試験実習の詳細が記された書類が入っているのだろう。受け取ったそれとサラ教官の顔を見比べれば、さっさと開けてみなさいとばかりに視線で促される。焦る必要もない、向こうも同じ、彼女が口にした言葉と話の流れから「もしや」と思う。

 果たして、その推測は封筒から出てきた書面により肯定された。

 

「黒銀の鋼都、ルーレ――なるほど、そういう訳ですか」

 

 アンゼリカが納得したとばかりに呟く。その様子に、トワは「あれ?」と内心で少し不思議に思う。

 顔には相変わらず不敵な笑みが浮かんでいたが、そこには確かに苦みのようなものが存在していた。アンゼリカだけではない。ジョルジュも口では何も言わずとも、ルーレという名に感情が入り混じった複雑な表情をしている。その理由は窺い知れないが、二人ともルーレに対して何か思うところがあるのは確かなようだった。

 

「実習期間は今週の土曜、日曜の二日間。今回はちょっと変則的になるかもしれないけど、ま、程々に頑張ってきなさい」

 

 サラ教官の激励を耳にしつつ、トワは思う。

 今回もまた、色々と厄介事が起こる実習になりそうだ。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「んで? ゼリカとジョルジュは何をそんな微妙な顔してやがんだ?」

 

 そう言って、クロウは『六』のカードを手札から放った。アンゼリカがピクリと眉を動かす。それは彼に言い当てられたことはあるだろうが、出されたカードに関係があるかどうかは分からない。

 

「分かるかい?」

「そりゃあ、いつも顔合わせる度に皮肉吐いてくる奴の口数が少なくなりゃ分かるさ。ジョルジュに至っては明らかに溜息が増えたしな」

「否定はしないが、君に言われると微妙にイラッと来るね」

「アン、こんな時に限って調子戻さなくてもいいじゃないか……でもまあ、僕も気付かない間に気を遣わせちゃっていたみたいだね」

 

 窘めつつも、ジョルジュは自嘲するように笑う。アンゼリカにしても常に比べてキレが悪いように感じられた。クロウの言う通り、やはり二人は何がしかの事情を抱えているようだった。

 そして、そんなことを聞いてトワが黙っていられないのも、また当然のことだった。

 

「ルーレは二人の地元なんだよね。気になることがあるなら相談して欲しいな」

『って言っているけど、この場で断ってもしつこく聞いてくると思うから早めに吐いた方が楽なの』

 

 気遣いのつもりで聞いているというのに、ノイがそんな口を挟んでくるものだからトワは「もう!」と頬を赤らめる。しかしながら、姿なき姉代わりに抗議の視線はむけていても口では何も言わないあたり、自分でも少なからず自覚があることは周囲の目にも明らかであった。

 そんな漫才染みたやりとりに気持ちが多少は解れたのだろうか。アンゼリカは小さく喉を鳴らして笑い、ジョルジュも苦笑を浮かべる。それは影のないごく普通の笑いであった。

 

「ふふ……そうだな。まだ鉄路は長い。実習地のおさらいがてら、お言葉に甘えて少し話を聞いてもらおうか」

 

 言って、アンゼリカは『ボルト』のカードを出す。クロウはあからさまに渋い顔をした。

 

 実技教練から数日、試験実習当日にトワたちは早朝のトリスタを出発して鉄路を走る列車に身を揺られていた。帝都ヘイムダルでクロイツェン本線からノルティア本線に乗り換え、北部ノルティア州に走り出して小一時間。州都にして今回の実習地であるルーレまで未だ時間がある中、暇つぶしにクロウが布教しているという《ブレード》なるカードゲームに興じているときのことであった。

 ルーレ――黒銀の鋼都と呼ばれるノルティア州の中心地であり、巨大企業ラインフォルトが本拠を置く帝国随一の工業都市。街を治めるのはアンゼリカの実家であるログナー侯爵家。街自体が一つの建造物のような重厚で機能的な都市だという。トワもそこまでは知っていた。反対に言えば、それくらいしか知らなかった。

 こういう時に地元の人間がいるというのはありがたい。アンゼリカは引き続きクロウとのブレード勝負に興じながら口を開く。

 

「ルーレは知っての通り、私の生家であるログナー侯爵家が治める街である訳だが……四大名門などというご大層な家に生まれてしまうと、色々と面倒なことも勝手に降りかかって来てね。柄にもなく憂鬱になっていたみたいだ」

「へえ、列車を降りた途端に人の行列がお出迎えでもしてくれるのか?」

「ご期待に沿えなくて悪いが、それはないだろうね」

 

 茶化すクロウにアンゼリカはニヤリと笑う。どうやら調子が戻ってきたらしい。

 

「領主はログナー侯爵家とはいえ、ルーレにおいてその権力は絶対的なものとは言えない。ルーレは大陸規模の巨大企業、RFのお膝元でもあるのだからね」

 

 ルーレは他の四大貴族が治める各州都とは少し事情が異なる部分がある。帝国という枠組みを超え、国際的に強い影響力を持つ大企業、ラインフォルト社の存在だ。

 他の州都では四大名門が完全な統治体制を築いている。当然のことだ。公爵、侯爵に及ぶ権威を持つものなど存在せず、格下の爵位である貴族たちはその権威を前に首を垂れるしかないのだから。帝都では圧倒的な存在感を示す革新派も、流石に貴族派の牙城においては姿が霞んでしまう。

 その中で、唯一RFという例外を内包しているのがルーレだ。

 RFは強大だ。元は一つの武器工房だったものが、帝国の軍事国家という側面、そして導力革命という技術革新と相俟って拡大に拡大を重ね、今や帝国最大の重工業メーカーにして大陸企業の総資産額第二位の巨大企業である。その影響力は帝国のみならず大陸各国にまで及ぶ。

 そんな化物じみた規模を誇る企業が本社を置く都市が、どうして影響を受けずにいられるだろうか。街の各地には工場をはじめとした各種関連施設が林立し、住まう人々もRFに関連した仕事をしているものが多くいるという。ルーレの根幹にまで深く食い込んだRFの存在は、四大名門であるログナー侯爵家をして無視することはできないのだとアンゼリカは言う。

 

『じゃあアンゼリカの家にとっては目の上のタンコブみたいなものなの?』

「いや、実を言うとそう悪い関係でもない」

 

 ではログナー家としては目障りに思っているのかと問えば、どうやらそういう訳でもないらしい。

 

「RFが本拠を置いているからこそ、ルーレの重要性が増して結果的に他家に対する発言力に繋がっている側面もある。それに、RFの経営にはログナー家も筆頭株主として一枚噛んでいる。仲良子よし、とはいかないが上手く付き合っているとは思うよ」

 

 なるほど、と話を聞いていた面々は納得する。確かに対立して険悪な関係になるよりか、お互いに美味しい思いができる協力体制を築いた方が建設的だ。いわゆるビジネスパートナーのようなものなのかもしれない。

 ルーレの権力構造を大まかながら理解したところで、アンゼリカは「話を戻そうか」と区切る。RFのことに話が逸れたが、元は彼女が言う面倒事について聞いていたのだ。

 

「まあ、私の方はRFとかそっちにはまるで関係がない。単純に家のしがらみが色々と面倒臭いのさ」

「しがらみって……アンちゃん、そんな不自由には見えないけれど」

「むしろ、お前が不自由だったら世の中の人間は殆どが雁字搦めってことになるっつうの」

 

 四大名門どころか貴族という枠組みからさえもはみ出した立ち振る舞いで有名なアンゼリカである。それがなにの冗談を言うかとばかりのクロウを彼女は笑い飛ばす。

 

「それは君、私が反抗期真っ盛りだからこそそう見えるだけだよ。仮に父上の言いなりだとしたら、私は見る影もない貞淑な女子生徒に成り果てているだろうさ」

「いや、ちょっと想像がつかないかな」

 

 なんとも言えない様子のジョルジュにトワやクロウも首を縦に振って同調する。きっとノイも同じようにうんうんと頷いていることだろう。貞淑なアンゼリカなど、それほどまでに想像の埒外にある存在であった。思いの外、否定的な反応が返ってきたせいか「私を何だと思っているんだ」と本人はやや不満げである。

 何と言われても、トワの中でアンゼリカは自由奔放な人柄と認識されている。貞淑さとは縁もなさそうだ。が、貴族子女という立場を鑑みれば本来はそうあって然るべきなのだろう。そうならなかった理由をアンゼリカ自身は反抗期と語るが、それはきっと成長期に起きる親への反発心とは異なったものなのだと思う。父であるログナー侯爵と何か相容れないことがあったのか、それとも。

 色々と想像は巡るものの、アンゼリカからはこれ以上の話はしてくれない様子だった。言葉が途切れるタイミングよくつかみ、話題の対象を自身からもう一方に挿げ替えてくる。

 

「そういうジョルジュはどうなんだい? 私見では、工科大に関係があると踏んでいるんだが」

 

 急に話を振られたジョルジュは少し息を詰まらせる。工科大が何のことか分からないトワとノイは頭に疑問符を浮かべた。

 

「……ご明察。まあ、地元の君なら少し考えれば分かることか」

「ルーレで導力技術に強いとなれば、必然的にRFか工科大関係になるからね。可能性としてはそちらの方が高いと思っただけさ」

「えっと、話の腰を折っちゃって悪いけど、工科大って何なのかな?」

 

 はた、とアンゼリカとジョルジュはその問いに動きを止める。他の面々が話についてこられていないことに気が付いたのだろう。いわゆる地元トークをしてしまっていた訳だ。アンゼリカは咳払いを一つ。居住まいを正すとトワたちの方へ向き直る。

 

「これは失礼。ジョルジュ、説明を」

「あ、僕がやるのか」

 

 改まっておいて人に丸投げという変化球にジョルジュがワンテンポ遅れて応じる。アンゼリカは先ほどRFの説明をしてくれたので丁度いいといえばいいのかもしれないが。

 

「じゃあ簡単に。工科大――ルーレ工科大学は導力技術の研究開発をしている専門教育機関でね。全く新しい導力製品を作ったり、他にもまだ製品化の段階にない新技術のテストなんかをしているんだ」

『なんだか凄そうだね。技術者にとってはこれ以上ない環境に聞こえるの』

「はは、まあ実際、凄いところだよ。教授もその世界じゃ名の知れた人が多いし、卒業生だって主にRFの技術者として第一線を張っているしね」

 

 そう話すジョルジュはどこか楽しげだ。まるで我がことを誇るように。

 新技術の研究開発。つまりはRFが世に送り出す新製品なども、元を辿れば工科大で作り出された技術が基礎となっているのだろう。世の中を便利にしていく礎に携われる。それは想像するだけでやりがいのあることで、きっと技術者冥利に尽きることなのだと思う。

 だから彼が何を誇っているのかは分かる。分からないのは、どうして彼が誇るかだ。

 

「名前は聞いちゃいたが大したもんだな。で、そんなところにお前がどう関係してるっていうんだ?」

 

 ジョルジュは十七の学生だ。今年にトールズ士官学院に入学した、である。ルーレ工科大学の生徒ではないし、年齢から考えて生徒であったという可能性も低いだろう。日曜学校を卒業して僅か一年ばかり在籍していたというのは、あまり現実的には思えない。

 うーん、と当の本人は何か悩むようにうなる。ややあって「少し長くなるけど」と彼は切り出した。

 

「別に、工科大に席を置いていたわけじゃないんだ。ただ昔から導力技術に興味があって、最先端の研究を見てみたいと機会があれば工科大に足を運んでいた。公開講義を受講したり、自作の導力器を持ち込んでみたりね」

 

 懐かしむ色を浮かべながら語るジョルジュは、そこで声音に喜びが混じる。

 

「そんなある時だった。とある博士が、自分の弟子にならないかと誘ってくれたんだ」

「お弟子さんにって……その工科大で教授をしているような人に?」

『凄いの! ほとんど飛び級みたいなものなの!』

 

 最先端研究を行う学府に所属する博士ともなれば、かなり優秀な人に違いない。そんな人に弟子にならないかと誘われたのだ。今のジョルジュの導力技術への造詣の深さへの納得もさることながら、その当時から人の目に留まる才覚を有していたという事実に感嘆を隠せない。

 

「もちろん二つ返事で同意したよ。それからは毎日のように研究室に入り浸るようになって、博士に色々なことを教えてもらったりコネで講義も受けさせてもらった。かなり厳しかったけど、弟子にしてくれたのは本当に感謝しているんだ」

「君の技術者としての腕はそこで磨かれたというわけか。しかし、そうなると分からないな」

 

 ジョルジュの技術力の由来は分かった。だが、分かったからこそ疑問が生じてしまう。どうして彼はそのまま工科大に正式に進学せず、わざわざトールズ士官学院にやって来たのだろう。技術者として成長していくのなら、その博士のもとにいた方が遥かに合理的なのに。

 言葉にせずとも共有された疑問を、ジョルジュも当然のことながら理解している。少し逡巡し、彼は言葉を選ぶようにゆっくりと口を開く。

 

「僕は……ちょっと、その博士についていく自信がなくなっちゃったんだ。士官学院に来たのも、もとを辿ればそれが理由かな」

 

 まるで情けないことを告白するかのように、ジョルジュはトーンの落ちた声を自嘲的な笑みと一緒に漏らした。今まで見たことのない彼の様子にトワも戸惑ってしまう。これは果たして、踏み込んでもいい領域の話なのか。

 

「その博士と喧嘩別れでもしたのかよ?」

「喧嘩、ね。そういう感じではないかな。ただ僕が勝手に離れていっただけで……失望されてはいると思うけど」

 

 間合いを推し量るようなクロウの問いかけ。拒絶はされなかったが、どこか立ち入りづらい空気も感じる。きっと聞けばジョルジュは答えてくれるのだろう。答えてはくれるが、それは同時に彼の心を削る行為になるのかもしれない。

 まだ実習が始まる前というのに、そんなことをするのはあまり気が進まない。これ以上の詮索は躊躇われた。

 

「博士とまた顔を会わせると思うと気が滅入ってさ。それだけだから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」

「……そっか」

 

 だから、そこから先はあえて聞かなかった。機会があれば、いずれ彼の口から語られることがあるだろう。

 

「ったく、揃いも揃って面倒ごとばかり抱えた面子だぜ。毎度こういう話題には事欠かないよな」

「君が言うことかい? 最初に面倒ごとの火種になったのはどこの誰だったのやら」

「あれは突っかかってきたお前も悪いだろうが、よっと」

 

 クロウが茶化すように文句を垂れれば、それに乗っかるようにアンゼリカも応じる。そう、まだ実習は始まってさえいないのだ。だというのに今から憂鬱な気分に浸っていては、実習のさなかでへばってしまう。気がかりや心配事があったとしても、今は前向きに実習を有意義なものにできるよう心掛けるべきだろう。

 垂れこめていた暗い雰囲気を振り払うかのような彼の言葉に、トワとジョルジュも幾分か表情を明るくさせる。もしかしたら単に文句を叩いただけかもしれないが、皮肉っぽいユーモアがあるとないとでは大きく違う。意図してかしないかはともあれ、暗がりを晴らしたクロウは中断していたブレード勝負を再開させる。

 出したのは『一』のカード。アンゼリカの『ボルト』によって伏せられていた『六』のカードが復活し、ゲームは再びクロウの優勢となる。手札はクロウが一枚、アンゼリカが二枚。布教者たるクロウがこのまま勝利を収めるのだろうかと思う場面。

 

「否定はしないさ。だがまあ、あれから紆余曲折を経て諸々の問題もあったが、こうして共に行動するようになったんだ」

 

 不利な状況であってもアンゼリカは余裕を崩さない。この期に及んでブラフの意味はあまりないだろう。クロウが嫌な予感に身を震わし、アンゼリカの手札の一枚が晒される。

 

「今回もまた、実り多き実習としたいものだね」

 

 表となったのは『ミラー』のカード。お互いのカードが反転し、優位と不利は瞬く間に逆転する。クロウが声にならぬ悲鳴をあげ、トワとジョルジュは思わず吹き出してしまう。車窓の向こうには、幾本もの塔がそそり立つ黒鋼の街が迫りつつあった。

 

 

 

 

 

「わっ、けっこう広い駅だね」

 

 そして降り立ったルーレ駅。ホームを見渡したトワが喜色を含んだ声をあげる。

 

「先月に比べたら随分と控えめな反応じゃねえか。もっとお上りさん丸出しかと思っていたぜ」

「クロウ、カードに負けたからってトワに当たらないでよ」

 

 皮肉たっぷりの台詞を吐いたクロウをジョルジュがたしなめる。いくらこっ酷い負け方をしたからといって、これはあまりにも大人げなかった。「うっせ」と吐き捨てて、つんと拗ねる彼の姿はまるっきり子供である。

 かくいうトワは男子二人のやり取りなど意に介せず、ルーレ駅の様子をつぶさに観察する。ヘイムダルの圧倒的な大きさを目にしたことで慣れはしたものの、まだまだ彼女の中ではもの珍しさが先行する。

 

「やれやれ、懐の狭い男だ。トワ、なにか面白いものでもあったかい?」

「あっ、うん。あの列車は何なのかな」

『随分と飾りっ気のない列車なの』

 

 指さした先の列車は、ノイが評したとおりに飾り気のない無骨なものだった。客を乗せるような車両は連結されておらず、どうやら貨物列車の一つようだ。しかし、同じ貨物系でも他とは分けられて佇んでいるそれはトワの気を引き、何よりもその周囲の様子が気になった。

 

「あれはノルド行きの貨物列車だね。国境のゼンダー門に物資を送るものなんだが……」

 

 ノルド。確か帝国北東に位置するカルバード共和国との緩衝地帯の一つだったと思う。かねてより帝国と親交がある民族が住まう地であり、その関係はドライケルス帝の時代より続いているのだとか。

 つらつらと本の知識を思い出すが、それとは別に目の前の状況に小首を傾げてしまう。簡単な説明をした側のアンゼリカもまた同じであった。

 

「ふむ、やけに慌ただしい。あれだけの戦車を運ぶことなど滅多にないのだが」

「かといってノルドで何かあったわけでもなさそうだよ。そこまで深刻な感じは見られないし」

 

 貨物車両に積載された戦車。その数は機甲部隊を構成できるだけはある。しかし、それらは最新型のアハツェン(18)ではなく旧式のものが目立つ。ゼンダー門への増強にしてはちぐはぐな印象を受ける。そもそも、ノルドはクロスベルと違って共和国との摩擦は少ないと聞く。貨物列車の周りを動く軍人たちの様子も、忙しそうではあるが切迫したものは感じられない。なんとも奇妙な光景にトワたちは不思議がる。

 

『んー……戦車には三のエンブレムが施されているの。所属を示すマークなんだよね、あれ』

「つうことは第三機甲師団の戦車か? 《隻眼》のゼクスの駐屯地は南部国境だったと思うんだが」

「私に聞かれてもね。現実に目の前にその戦車があるのだから、何かしら理由があってノルドに向かうところなのだろうとしか言えないな」

 

 ノイが遠目に確認した戦車の所属は第三機甲師団。ゼクス・ヴァンダール中将率いる柔軟な作戦行動を得意とする師団である。そんなトワでも名前くらいは知っている用兵家がノルドに何の用なのか。アンゼリカはさっぱりわからんと匙を投げる。

 様子からして救援などの類ではない。仮にそうだとしても、本来ならば南方に駐留する部隊から持ってくる必要もないだろう。だとすれば考えられる可能性は限られてくる。

 

「配置換え、かな。ほとんど部隊ごと移動しているみたいだし」

 

 あれだけの数の戦車。増援などの目的でないとすれば、そこに駐留するために行くためと考えた方が自然だと思う。わざわざ南方の第三機甲師団がノルドに出向くのも、配置が換わったとすれば一応の説明はつく。

 

「確かにそれが一番しっくりくるけど……こんな時期に配置換えなんてするものなのかな?」

「だよねぇ」

 

 しかし、それはそれで疑問は浮かんでくる。

 どうしてこの時期に、どうして精強な第三機甲師団が波風立つ様子もないノルドへ。

 いくらでも問うべきことは思い浮かんではくるものの、あいにくとそれに答えられる人物はこの場には存在しない。彼女たちは遠目に戦車をちらと見て、憶測を広げていただけのただの野次馬。わざわざ貨物列車の周りを動き回る軍人たちに聞きに行って迷惑をかける気もなく、また軍人たちも彼女たちのことなど気にも留めていないだろう。

 だからトワたちは「まあ、いいか」と話を切り上げ、そろそろ本題に向き合うとする。

 

「あまり話し込んでも仕方ねえ。そろそろ行くとしようぜ」

 

 ホームをまばらに流れる人の波に乗って駅の外へ。件の貨物列車はすぐに見えなくなった。機会があれば、いずれことの事情を知る機会もあるだろうとトワは頭の片隅に仕舞った。

 

「実習の責任者の人、また駅前で待ち合わせることになっているんだよね。今度はどんな人だと思う?」

「オットー元締め、シグナさんときて、ルーレでそれに相当するような人というと……」

 

 ジョルジュがちらりとアンゼリカに視線を送る。初めに思い浮かべるとしたら領主関係だ。

 

「正直、父上がこういうことに関わっているとは思えないね。実習先の領主として報告くらいはいっているかもしれないが、まず間違いなく好きにしろと気にも留めていないだろう」

 

 ところが、その娘からはにべもなく否定される。あまり仲が良くない親子のようだが、それでも家族として過ごしてきたからには性格くらい承知している。彼女は疑う余地もないとばっさりと切り捨て、その断言ぶりにトワたちもまた納得するほかない。

 では、他に有り得るとしたら何者になるのだろうか。

 考えられる候補を思い浮かべていると、外の光が目に入った。歩きながら話しているうちに駅の出口はあっという間に近づき、いよいよ実習地であるルーレの街に足を踏み入れる。

 

「わっ……!」

 

 瞬間、考えていたことなどトワの頭から全部吹き飛んでいった。

 目の前に広がる光景に心奪われ、クロウにおちょくられたお上りさんぶりを恥も外聞もなく晒してしまう。それもこの特異な街並みを見てしまえば無理もないことだろう。

 

『街の上に、また街が……一つの建物みたいなつくりなの』

「噂には聞いちゃいたが、こりゃまた名前負けしない街並みだな」

 

 雑貨店や酒場、住宅が立ち並ぶ駅前の街並み。トワがまず驚かされたのは、その一段上にも街が築かれていることだ。いわゆる下町のような雰囲気がする下層とは打って変わり、上層にはビジネス街のような趣が垣間見える。それらをつなぐのは街の中央に存在する導力式のエスカレーター。そして、その先に存在する建造物は否が応にも目を引いた。

 まるで天に手を伸ばさんがごとく高くそびえ立つビル。ルーレの街並みの中でも一際高く、領主たるログナー家さえも霞んでしまうかのような威容に、車中で聞いたアンゼリカの話に改めて納得する。刻まれた社章が日に照らされ、その栄達を誇るかのように輝く。

 ラインフォルトグループ本社ビルを前に、トワは呆けた顔で見上げる他ないのであった。

 

「はは、驚いたみたいだね。僕も小さい頃に初めて来たときは目を輝かせたものだよ」

「黒銀の鋼都――上下二階層からなる、工業都市としてのあらゆる機能を余すことなく備えた鋼の街。お気に召していただけたかな?」

 

 二階層の街やRFの巨大な本社ビル以外にも目を引かれる点は多々ある。街の外周に立ち並ぶ機械的な尖塔や大規模な工場設備、帝国最大の重工業メーカーの本拠地たらしめる要素がルーレの各地に点在している。

 先月に訪れたヘイムダルは《緋の帝都》の名のとおり、緋色に染まった街並みと皇帝の座する都としての華やかさがあった。ルーレもまた同じだ。《黒銀の鋼都》の名のとおり、まるで洗練された機械のような機能美と工業都市特有の力強さに似た何かを感じる。人々が称するその名が、街の本質を評したものであることを自身の目で見ることで実感を伴う。

 

「うんっ! こんな街があるなんて思って……も……?」

 

 思ってもいなかった。そう言おうとして、言葉は不意に頭の上にかかった影に途絶えさせられる。何事かと空を見上げた先、そこに存在していた度肝を抜かれる光景を目にすることで。

 それは、巨大な飛行船だった。

 通常、定期便として運用されている旅客飛行船の大きさなど比ではない。もはや船の範疇に収まるのか疑問さえ感じられるサイズは、まるで空に横倒しになったビルが浮かんでいるかのように錯覚してしまうほどだ。飛行船が空に浮かぶ理屈からして、飛翔機関の出力が足りるのであれば大きさは関係ないということは理解できるが、いざ目にすると非常識な光景に思えてしまう。

 トワは開いた口がふさがらず、ノイやクロウも呆気にとられているのが雰囲気から伝わってくる。そして驚いているのは地元であるアンゼリカとジョルジュも同じであり、街の人々の誰もが空を見上げずにはいられなかった。

 やがて巨大飛行船は降下して街の陰へと姿を消していく。空港に着陸したのだろう。その様子を唖然としたまま眺めていた四人は、弩級の船が見えなくなったところでやっとの思いで口を開く。

 

「……おいおい、この街はびっくり箱か何かかよ」

「噂には聞いていたが、まさかあれほどとはね……」

「アンちゃん、あれが何か知っているの?」

 

 素直な驚きを見せるのはアンゼリカにしては珍しい。そんな彼女が漏らした思わせぶりな一言に、つい反射的に問いかけてしまう。

 

「《ルシタニア号》。ラインフォルト社がこのたび世に送り出す、世界最大級の豪華飛行客船ですわ」

 

 果たして、その問いに対する答えはまったく見当違いの方向から聞こえてきた。

 先ほどまで誰もいなかったはずの空間。そこに湧いて出たかのように突如として姿を現していたのは、メイド服に身を包んだ若い女性。ジョルジュから「い、いつの間に……」と驚かれても、悪戯っぽくふわりとほほ笑むのみ。どこか確信犯的な印象を受ける。

 

「なるほど……今回、面倒を見てくれるのはそちらというわけですか」

「はい。ルーレにおける皆様の実習を実り多きものになるように、と承っております。お久しぶりでございますね、アンゼリカ様」

「ふう、私もさすがに貴女からの出迎えを受けるとは思っていませんでしたよ」

 

 そして、この癖がありそうな淡い紫髪の女性と、この街の領主の令嬢は顔見知りであったらしい。他の面々からの疑問の視線にアンゼリカは苦笑を浮かべ、促すように女性へと目を向ける。女性は「うふふ、これは失礼いたしました」と悪びれた様子もなく名を名乗った。

 

「お初にお目にかかります。ラインフォルト家のメイド、シャロン・クルーガーと申します」

 

 ラインフォルトのメイド。トワたちがその肩書を飲み込まないうちに、彼女は道の先へと促す。そして色々とありすぎて容量オーバー寸前の頭に、ご丁寧にとどめの一撃を振り下ろす。

 

「早速ではありますが、ラインフォルトの本社ビルにご案内させていただきますわ。イリーナ会長が皆様をお待ちですから」

 



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第27話 偏屈極まりて

| |д・) ソォーッ…

| |д・)つスッ…【最新話】



「ルシタニアの試験飛行はつつがなく終了、と。なら、あとは内装を完成させるだけね。工事を急がせなさい。初飛行は十一月末と既に決定しているのだから。遅れは許されないわよ」

 

 かちゃん、とデスクに備え付けられた導力通信機の受話器が置かれる音。今の今まで矢継ぎ早にそれで各所に指示を飛ばしていた金髪の女性は、ようやく一段落とばかりに息を吐くと、すぐさま目の前の来訪者に目を向ける。遮光眼鏡の奥から注がれる、刺すような視線にトワは思わず身じろぎした。

 

「お待たせしたわ。お互い挨拶に時間をかける理由もないでしょうし、手早く済ませましょう」

「は、はいっ!」

 

 弾かれたように返事したトワにアンゼリカが苦笑を浮べた。緊張気味の友人を置いて一歩前に出る。

 

「相変わらずお忙しいみたいですね、イリーナ会長。もう少しゆっくりするようにしても罰は当たらないんじゃないですか?」

「そうかもしれないわね。あなたが女性らしい振る舞いに改めたのなら考えるわ」

「はは、これは手厳しい」

 

 実家と付き合いがあることもさることながら、アンゼリカ個人としても知らない仲ではないからこその気軽さ。対するこの部屋の主はそっけないドライな対応。やはり相変わらずだ、とアンゼリカは笑う。彼女自身も人のことは言えないのでお互い様かもしれないが。

 返事一つで顔見知りへの義理は果たしたとばかりに、女性はアンゼリカのご挨拶を流して粛々とことを進める。眼鏡の奥に覗く吊り目の視線が再びトワたちに向けられた。

 

「改めて、ラインフォルトグループ会長のイリーナ・ラインフォルトよ。よろしくお願いするわね、トールズ士官学院の方々」

 

 

 

 

 

 駅前広場で突如として姿を現した女性――ラインフォルト家のメイド、シャロン・クルーガーに案内されて訪問したRF本社ビルの会長執務室。そこらのビルなど比較にならない高さに位置するその眺望を背負い、自分たちに向けて声掛けてきたイリーナ会長にトワは身体を硬くせざるを得なかった。

 率直にいえば、イリーナ会長のおっかない雰囲気に気圧されていた。生徒会長より三割増し怜悧な目、一分の隙も見当たらなさそうな無駄のない立ち居振る舞い、そして無用となれば即座に切って捨てられかねないと思わせられるまでのプレッシャーを肌でひしひしと感じ、第一印象から凄まじい人だと思う。大企業の会長とは、これほどまでの圧力を持った人物でなければ務まらないのだろうかと。

 

 ガチガチに緊張しながらも自己紹介を済ませ、いったい何を言われるかとトワたちは内心で身構える。実習の内容について何某か申し渡されるか、それとも面倒を起こさないように釘を刺されるか。どちらにせよ、厳格そうな第一印象から厳しいお言葉が出てきそうな予感があった。

 果たして、イリーナ会長の口から出てきたものは全くの別物であった。

 

「では、最低限の説明だけしておきましょう。実習中、基本的に私の方から接触はしないわ。連絡や課題の受け渡しは、そちらの宿泊先のホテルにシャロンを寄越すから。詳しいことや課題内容についても彼女に聞いてちょうだい――何か質問は?」

「え……あっ、いえ、大丈夫です」

 

 矢継ぎ早に告げられた説明に、つかの間呆気にとられつつも理解の意を示す。イリーナ会長は「よろしい」と一つ頷くと革張りの椅子から立ち上がり、ヒールの音を鳴らして扉へと向かう。

 

「外回りに行ってくるわ。シャロン、あとはよろしく頼んだわよ」

「はい、いってらっしゃいませ」

 

 ばたん、と扉が閉まる音。あっという間に姿を消してしまった今回の現地責任者に思わずポカンとしていると、アンゼリカがやれやれとばかりに首を横に振った。

 

「本当に、相変わらずお忙しい方だ。むしろ磨きがかかっているように思えるのは気のせいかな?」

「それだけ会長が事業拡大に精力的ということですわ。それに今はルシタニア号の件に注力していらっしゃる只中。開発部門との意思疎通や関係各所との会合でお忙しくなるのは致し方のないことかと」

「ああ、あの馬鹿でかい船の……それにしたってまあ、突風みたいだったが」

 

 出会い頭に電話口で何かしら指示を飛ばしていたところ、ようやく挨拶を交わしたと思った矢先に数分もせずの外出である。突風のよう、というクロウの例えも頷かざるを得ないものだろう。メイドであるシャロンも、そこのところは否定しなかった。

 

 巨大豪華客船、ルシタニア号。この会長室までの道中でシャロンから概要は聞いている。現在、RFで開発中の最大級の船体を誇る飛行船。内装も豪華なあつらえとなっており船内パーティーの催しも可能など、富豪層向けの運用を予定しているらしい。

 完成も間近で就航すれば大きな収益が見込まれているのだとか。確かに貴族の人たちなどは、最大級という謳い文句や船内パーティーといったものを好みそうだ。トワたちにとっては、あまり縁のない話なのでそれ以上はピンと来なかったが。

 

 その豪華客船開発が大詰めに入っているということもあって、トップたるイリーナ会長が忙しくしているのも仕方のないことなのだろう。それこそ、ゆっくりと挨拶をしている暇もないほどに。

 だが、アンゼリカの口ぶりからしてイリーナ会長の多忙ぶりは今に始まったことではないようだ。少しためらいがちながらも、トワはシャロンに問いかけた。

 

「えっと、イリーナ会長はいつもあんな感じでお忙しくしてらっしゃるんですか?」

「そうですわね。程度の差こそあれ、一所に留まって落ち着いてらっしゃるというのはほとんど無いかと。急な用件でご自宅にお戻りになられるのが遅くなるのも茶飯事ですし、一般的にいって激務と評して差し支えないかと存じます」

 

 うわぁ、とトワたちは半ば引いてしまう。あの調子を恒常的に、しかも残業も日常茶飯事となればとても健全な労働環境とは言えないだろう。この場合、経営者自身が自発的にそのような働き方をしているので余計に始末に負えない。シャロンも多少なりとも思うところはあるのか、ちょっと困ったような笑みを浮かべている。

 

「やれやれ、そんな有様だとアリサ君も相変わらず不満たらたらなのでは……っと、そこらについてはお互い様ですか」

 

 アンゼリカが呆れた様子で口を挟もうとし、やめる。何を言おうとしたのかトワには分からない。だが、少しばかり立ち入りすぎた話題ではあったのだろうと推測はできた。それを聞いたシャロンの困ったような笑みに、わずかながら影が混じっていたから。

 アリサ、というのはイリーナ会長の親類縁者なのだろうか。アンゼリカとも知り合いらしいことから、まだ年若い人なのだろうかとも考えるが……それを詳しく聞こうとするのは、せっかく切り上げた、その立ち入ったような話を蒸し返しかねない。疑問を飲み込んでトワは話題を切り替えた。

 

「それよりも課題――依頼の方は、シャロンさんが渡してくれることになっているんですよね。もう用意はできているんですか?」

「はい、こちらの方に」

 

 差し出される封筒。当たり前のように渡されて準備がいいなぁ、と感想を抱きつつ受け取ったそれを開封する。いつものように入っている数枚の依頼書を取り出して、ひとまずはざっと確認するべく皆の前で広げる。

 

「……試作型導力銃の実戦テストに恒例の手配魔獣か。この実戦テストっていうのは俺にお鉢が回ってきそうだな」

「普段から銃を使っているのは君だけだしね。テストというなら報告もちゃんとしなければならないわけだし、使い慣れている君が最も適役なのは分かり切ったことだろう」

 

 RF直営らしい武具店からの依頼を目にしてぼやくクロウ。彼に負担が偏るのを申し訳なく思う気持ちもあるが、アンゼリカの言う通り適役が彼しかいないのも事実。そこは我慢してもらうしかなかった。実戦テストとなれば従来のものとの使い心地の違いも必ず問われるはず。そんな細部のことまで答えられる人材は四人の中では他にいないのだから。

 本人もそこは理解しているのだろう。仕方ねえ、と渋々納得した様子を見せる。異議がなさそうなのを確認してからジョルジュが次のものへと目を向ける。

 

「テスターはクロウでいいとして、この手配魔獣との兼ね合いはどうしようか? 効率を考えるなら一緒に片付けるのが一番だけど……」

 

 ジョルジュがどうしようかと問うのはクロウを気遣ってのことだ。手配魔獣は得てして強力なものが多い。そんな相手に対して使い慣れない銃で立ち向かうのはやや不安が残るところである。安全と確実を期するのなら実戦テストを終えてから手配魔獣に挑むのが正しいが、そんな懸念を笑い飛ばすようにクロウは鼻を鳴らす。

 

「あんま見縊るなっての。少し勝手が違うくらいで外しやしねえよ」

「クロウ君が平気ならそれでいいけど、一応は気を付けてね。怪我したらいろいろと大変なんだから」

「へっ、経験者は語るってか」

 

 先月に大怪我をしてサラ教官にこっ酷く叱られたトワだからこそ言葉にも力がこもる。冗談めかしたクロウもそこは承知しているはずだ。あまり無茶なことはしないだろう。

 

「まあ、その二つについてはそんなところでいいだろう。問題はこれだ」

 

 アンゼリカが残ったもう一枚の依頼書を取り上げる。それを見て自然と四人は難しい顔になる。そこに記された内容が困難を極めるものだったから、ではない。むしろその逆ともいえるかもしれない。トワは困り顔で傍に控えるシャロンへと疑問を呈す。

 

「あの、シャロンさん。このすごく端的な依頼は……」

 

 それは、他の依頼書に比べてあまりにも短い文章しか記されていなかった。「工科大学に来るように」と、ただそれだけの内容にトワたちが困惑するのも無理はない。自分たちが何をすればいいのか、そもそも誰がこれを依頼してきたのか。そのすべてが不明という今までにないそれに首を傾げる他なかった。

 いや、ただ一人ジョルジュだけが首を傾げるというよりも頭を抱えるという様相を呈していたが、どうすればいいのか分からないという点を取れば他の三人とさして変わりはないだろう。誰が、という点については多分に心当たりがあるのは否めないが。

 そんな四人の心情を分かっているのか分かっていないのか。変わらず穏やかで、そして底の見えない微笑を浮かべるシャロンは「ああ、その依頼ですわね」と何事もないかのように応じる。

 

「実はとても気難しい方からのご依頼でして。提出していただいた依頼書にもそれだけしか記入していただけなかったのです。申し訳ありませんが、ご用件は直接うかがう他にないかと存じます」

「いや、気難しいにもほどがあるだろ……」

 

 げんなりとするクロウ。いまだ顔も名も知れぬ依頼人に対して苦手意識を覚えてしまう。詳細を書くことが面倒だったのか何か別の事情によるものか判別はつかないものの、少なくとも一筋縄でいく人物ではないことは確実だ。会いに行くとしても身構えてしまうものがあった。

 

「どうしようか。一応、これを最初に行った方がいいのかな?」

 

 かといって依頼として来ている以上は行かないという選択肢はない。いや、正確には依頼の遂行はトワたちの判断に任されているのだが、そこはお人好し具合に定評のある誰かさんのことである。依頼の無視などするはずもなかった。例えそうでなくても、この気難しい依頼人とやらを無視したら後が怖いので結局は行くことになっていただろうが。

 さておき、行くなら行くとして最初にしようかと提案するのは内容が知れないからである。何をするにせよ、まずはそれを知らなければ順序の立てようもない。それに気難しい人が相手となれば、早めに行った方が面倒も少ないのではないかという打算もある。

 クロウ、アンゼリカもそれに異議はない。これで決まりかと思ったところで、残りの一人が首を横に振った。

 

「いや、今すぐはやめた方がいいと思うよ。他の予定があるところに来られたら更に機嫌を悪くするだろうから」

「おや、もしや文面だけでも厄介そうなこの御仁と知り合いなのかい?」

「まあ、たぶんね。僕としては『来い』って書かれていないだけマシに思えるくらいには知っている人だよ」

 

 苦笑いとともにそんなことを言われて三人の頬が引き攣る。どれだけ気難しい、いや、偏屈なのかと慄いてしまう。

 

「僕が知っているスケジュールのままなら……うん、十六時くらいなら予定もないだろう。それくらいに行けば多少はまともな歓迎をしてくれる……と思う」

「……ちなみに、そのまともな歓迎っていうのはどれくらいのもの指すんだ?」

「部屋に入った瞬間に怒鳴り散らして叩き出したりはしない程度、かな」

「オーケー、あまり期待はしないでおくわ」

 

 もう今からうんざりした様子のクロウにいつもなら励ましの言葉をかけるところだが、今回ばかりはトワも「あはは……」と引き攣った笑い声を出すしか思いつかなかった。アンゼリカも諦観した様子でやれやれと肩をすくめるばかり。依頼書を見ただけでここまで憂鬱になったのは初めてではないだろうか。

 

「と、取りあえず、そういうことなら他の依頼から片付けていっちゃおうか。あっ、その前に荷物の片付けもしなきゃいけないか」

 

 ひとまず憂鬱さは置いておくとして、それ以外のことから手を付けようとしたところで気付く。よくよく考えれば荷物の片付けどころか宿泊先すら知っていなかったのだと。前回までは先に宿泊先を知っていたり、あるいは連れてかれた先がそれだったりという感じだったが、今回はどうなのだろうか。

 思い当たったその疑問を口にする前に、立て板に水のごとく答えが返ってくる。

 

「それでしたら私が運んでおきますので。後ほど宿泊先で用向きをお伝えしてくだされば大丈夫なようにしておきますわ」

「それはありがたいですけど、結構な量がありますよ」

「うふふ、ご心配なく。この程度のこと、私にとってはお安い御用ですので」

 

 気遣い無用と言われてしまえばこちらとしては何とも言えなくなってしまう。ありがたいことは確かなので、お任せできるというのならば是非ともお願いしたいことだ。ここは素直に厚意を受け取っておくべきところだろう。

 

「シャロンさん、ちなみにその宿泊先というのは……」

「ホテルに二部屋確保しております。まかり間違ってもログナー邸ではないのでご安心を」

 

 その返事にアンゼリカはどこかホッとしたような表情を浮かべた。やはり実家には顔を出しづらいのだろうか。傍から見て感情の動きが明らかに分かるというのは彼女らしからぬことだ。詳しくは話さないものの、それだけ本人にとって根の深い問題なのかもしれない。

 

「ご配慮に感謝しますよ。礼と言っては何ですが、課題には全力をもって取り組ませてもらいます」

「ええ、どうか頑張ってきてくださいませ。皆様もお気をつけて」

 

 たおやかな声に送り出され、トワたちは執務室を後にして鋼の街へと繰り出していく。

 ジョルジュの語る偏屈な依頼人に言い知れぬ不安を感じながらも、まずは他の依頼を達成するべく先を急ぐ。まるで不安から逃れるように、しかして不安のもとへと確実に繋がっている道を。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 ルーレの北方には山岳地帯が広がっている。雪に包まれた温泉地ユミル、そして雄大な大地が広がるというノルド高原との狭間に存在する山々。その中には帝国の屋台骨とも称されるザクセン鉄鉱山が含まれ、大量の鉄鋼を製錬、消費するルーレとは専用の貨物線を通じて頻繁に往来がある。

 過去には馬車や人力で鉄鉱を運んでいたのだから、当然ながら歩道も整備されておりザクセン山道という比較的整った道が通っている。その山道を下って再びルーレに戻ってきたトワたち。そのまま依頼を受けたRFの直営販売店に向かい報告を済ませた彼女たちは、起伏の激しい道を歩いてきたがために疲れてはいたものの、依頼を完遂した満足感があった。

 その中でもクロウはホクホク顔だ。上機嫌に鼻歌でも歌いだしそうな彼の手の中では真新しい導力銃がくるくると回っていた。

 

「RFもなかなか太っ腹じゃねえか。依頼自体も楽勝、報酬は上々、こんな依頼ばかりだったのなら万々歳なんだがな」

「現金だね、まったく。そんなにそれが気に入ったのかい?」

 

 半ば呆れたようなアンゼリカに「まあな」と素直な返答。よほどご機嫌らしい。

 

「癖は強いが威力は折り紙付き、精度も癖に慣れりゃ悪くねえ。いい銃だぜ、こいつは」

「その癖が強すぎるから、そのまま量産化はできないらしいけどね。クロウ君は使う気満々だけど、大丈夫なの?」

「そこは腕の見せ所ってやつよ。まあ、下手は打たねえから安心しな」

「大言壮語でないことを祈るよ」

 

 RF直営店から引き受けた試作導力銃のテスト。手配魔獣の討伐がてらそれを使ってみたクロウは随分とお気に召していた。一般のユーザーには敬遠される癖の強さが逆に嚙み合ったらしい。

 販売するにはもう少しマイルドな操作性にしないといけないそうなので、報酬としてもらったこれは実質的に一品物のクロウ専用。男子とは得てして専用という響きに弱いものである。分かりやすい機嫌のよさにトワは心配を口にしつつも微笑みを隠せなかった。

 

「一応、試作品だから扱いには気を付けてくれ。調子が悪かったらメンテナンスくらいは引き受けるからさ。メーカー保証は利かないだろうし」

「へいへい、気を付けますよ……それよりストレスで死にそうな顔になってんぞ、お前」

 

 見れば、確かにとクロウの言葉に納得する。ジョルジュの顔にはありありと胃痛にでも苛まれていそうな色が浮かんでいた。それほどまでにこの後の予定が憂鬱なのだろうかと今度は真剣に心配してしまう。

 

「はは……大丈夫だよ。実際に顔を合わせたらなんて怒鳴りつけられるかと考えているだけで……」

 

 それは割と大丈夫じゃない気がする。ジョルジュ以外の面々はそろって同じことを思った。

 手配魔獣、試作導力銃のテストが終わり、当初の予定通りルーレ工科大学に向かっているトワたち。ジョルジュの恩師ともいえる依頼人がどれほどの偏屈具合なのかもはや怖いもの見たさの領域になってきたが、友人がこうも参ってしまっているとさすがに考えものだ。

 本当に顔を合わせ辛いなら無理をする必要もない。顔を知らなくても依頼を聞くことくらい訳はないのだから。

 

『無理はしない方がいいの。先にホテルで休んでいる?』

「……いや、遠慮しておくよ」

「そう? 別に必ずジョルジュ君が行かなくても……」

「行かなかったら、逆に怒鳴り込んできそうな予感がするからね」

 

 そんなことを言われてしまったら黙り込むしかない。ジョルジュの浮かべた苦笑には哀愁が滲んでいた。

 

「そういうことなら仕方がない。精々、腹を括っていくとしようか」

 

 どうあっても師弟の胃の痛む再会が避けられないのであれば、もうさっさと用事を済ませてしまうよう急ぐ方が賢い。喉元過ぎれば、という言葉もある。手早くことを進められればジョルジュの胃へのダメージも少なくできるだろう。

 

 足早にルーレ工科大学に向かう。RF本社ビルの前を過ぎて、遠目に見えてきたキャンパスはなかなかに立派なものだった。直前に威容を放つ巨大ビルを目にしているのでインパクトは劣るが、それでも他の街ではそうそうお目に掛かれないくらいの規模がある。技術力がものをいう街における基礎研究の大御所だ。立派なのも頷けよう。

 勝手知ったるジョルジュが先導し構内に入ると、まずはエントランスホールへ。学生らしい人たちが談笑したり技術的な議論を戦わせているのを傍目にしながら奥の受付に向かうと、こちらに気付いた女性職員が「あら」と驚きを含んだ声を漏らす。

 

「ジョルジュ君じゃない。四か月ぶりくらい?」

「どうもお久しぶりです。今日は博士に用事があって来たんですけど……」

「ええ、聞いていますよ。士官学院の実習なんですってね。君が来るって聞いたときは驚いたけど」

「はは……まあ、博士の研究も絡んでいる件なので」

 

 随分と仲がよさそうな二人。大学に頻繁に出入りしていただけあって、話す機会も多かったのだろう。勝手知った間柄という印象を抱いた。

 

「学長ならご自分の研究室にいらっしゃるわ。今なら会いに行っても問題ないだろうけど……その、初めて会う人はあまり気を悪くしないでくださいね。少々、いえ、かなり気難しい方だから」

「そこまで言われると逆に興味が湧いてくるね」

 

 職員にまでこうも評されていると、どれだけのものやらと呆れと好奇心が半々になってくる。もっとも、それは対面が避けられないがための開き直りに近いものだが。どちらにせよ碌な対面になりそうにないのは分かり切っているのだ。ならば開き直った方が気持ち的に楽ではある。

 入構証を発行してもらい、ジョルジュの案内でキャンパス内へと進んでいく。途中ですれ違う彼の知り合いと幾許か言葉を交わしながら件の博士の研究室へ。博士に用事が、というと誰もが「そうか……」と若干の憐憫を向けてくるあたり、博士へのイメージが確固なものであることがこれでもかと伝わってくる。

 そして、ついに目的地へたどり着く。部屋の主を示すプレートを一目見て、トワたちは薄々と勘付いてはいたが、それでもやはり驚きは隠せなかった。

 

「ジョルジュ君の先生、やっぱり凄い人だったんだね。なんとなくそうかなって思っていたけど」

「凄い人か。それだけならよかったんだけどね……言っても仕方がないか」

 

 諦めをつけるかのような嘆息を一つ。意を決した面持ちで、ジョルジュは研究室のドアをノックした。

 

「…………」

「…………」

 

 無音。

 

 返事のないドアを前にトワたちは目を見合わせる。受付の人にも確認したのだから居ないはずはないのだが、現に音沙汰がないからには不在と考えるのが適当だ。出直した方がいいのか。トワがそう考え始めていると、ジョルジュが小さくため息をついた音が聞こえた。

 あっ、という間もない。断りを入れずにドアを押し開ける。鍵は掛かっていなかった。彼の大きな背中越しに雑然とした研究室の中身が目に映り、そして、その背中に隠れるデスクの位置から人の気配を感じた。

 

「呼び出したからには反応の一つくらいしてください。みんな勝手を知っているわけじゃないんですから」

「貴様がいるのだから構うまい。文句はそれだけか?」

「文句って……ああ、もういいですよ」

 

 しわがれた、しかし芯の通った強い声。ジョルジュの抗議をまるで意に介した様子もなく流し、一応は聞く形でありながらも実際はこれ以上の口答えを許してくれなさそうな態度。不遜、とでもいえばいいのだろうか。気難しいだとか、偏屈だとか散々聞かされてきたことがようやく実感を伴う。

 文句など掃いて捨てるほどにある。それを飲み込むようにして諦め気味の声を発したジョルジュは見ていて分かるほどに肩を落とす。彼の心労は最初からフルスロットルである。

 その煤けた背中から顔をのぞかせて、ようやくトワは彼の師と対面する。顔には皺が刻まれ、白髪に包まれた頭から相応の高齢であることが分かる。だが、その居住まい、片眼鏡(モノクル)の奥から覗く眼光からは衰えなど微塵も感じさせない。

 

「まあ、一応は名乗っておこう。G・シュミット、そこの()馬鹿弟子を教えていたものだ」

 

 導力器の生みの親、C・エプスタイン博士の三高弟の一人はそう宣った。

 導力式鉄道の発明をはじめとして、エレボニア帝国に導力技術による革新をもたらした著名な技術者、それがG・シュミット博士だ。つまりジョルジュは帝国において最高の技術者に教えを請うていたことになる。なるほど、彼の若さに似合わない高い技術力も頷けるというものだ。

 

「は、初めまして。私は――」

「貴様らの名など聞いていない。依頼を確実に遂行すること、私が求めているのはそれだけだ」

 

 そして同時に理解する。彼がどうしてあそこまでストレスに苛まれていたのかも。確かにこれは筋金入りの偏屈だ、とトワたちは閉口した。

 

「それで博士、依頼内容は? 渡されたものには何も書かれていませんでしたけど」

「一から十まで聞かないと分からんか。下らん理由で投げ出したとはいえ、そんなことまで教え損ねてはいなかったはずだが」

「……ARCUSの戦術リンク、その調整のための実験ですか」

 

 うむ、と一つ頷くシュミット博士。苦々しい面持ちの元弟子など眼中にない。

 

「提出されたレポートはこちらでも読んだ。ある程度は使いこなせるようになったようだが、まだまだ不安定な点が否めないそうだな」

 

 確認の言葉に首肯する。概ね、その認識で間違いなかった。

 試験開始初期と比べればだいぶマシになったとはいえ、安定して運用できる段階とはとても言えない。だからこそ開発元であるRFを訪ねることで何か進展が得られるのではないかと思っていたのだが。

 ふと思う。トワたちのレポートをシュミット博士も読んでいたということは、ARCUSの開発に一枚かんでいるのだろう。それに先ほどのジョルジュの言葉。もしや、と問いかける。

 

「もしかして、シュミット博士がARCUSの調整に力を貸してくれるんですか?」

「ものを知らん娘だ。ジョルジュ、教えていないのか」

「教える機会もなかったので」

 

 肩をすくめるジョルジュ。不機嫌そうに鼻息をついたシュミット博士は分かり切ったことを言うかのような口調で言葉を続けた。

 

「もとよりARCUSの根幹たる戦術リンクシステムは私の作品。作品が未完成である以上は改善に取り組むのは当然のことだ」

 

 驚きと納得、どちらの比重が大きかったかと問われれば後者と答えるだろう。仲間同士の知覚を直感的に理解できるようにし、連携の質を飛躍的に高める戦術リンクシステム。戦場の革命さえ起こしかねない画期的な機能を開発したのが、この帝国随一の導力技術者であるならば自然と受け入れられる。

 だが、本人にとっては他者からの理解などどうでもいいのだろう。淡々と語るその口調からは、己の作成物を完成させることしか頭にない筋金入りの技術者としての面が強く感じられた。

 

「納得したのなら早々に実験の準備に取り掛かるがいい。こちらで機材を準備している間に相手(・・)を見つけてくるのだ」

「相手って……なんの相手だよ?」

 

 当然の疑問さえシュミット博士は煩わしい面持ちを浮かべる。そんなことまで説明しなければならないのか、と言外に伝えてくる険しい目線に嫌な汗が流れそうな気分だった。

 

「まずは今の戦術リンクがどのような状況なのか調べなければ何も始まるまい。戦闘時の状況を精査するためにも適当な相手を探して来いと言っている。そこらの凡人では話にならんぞ。戦闘が成立するだけの腕前は必要だからな」

 

 必要最低限のことを言うだけ言って、シュミット博士は「さあ、さっさと行け」とトワたちを追い出しにかかる。あまりの剣幕にろくに抗うこともできず、流されるように研究室から放り出されてぴしゃりと目の前でドアは閉ざされた。

 若干、呆けたままの三人と深々とため息をつくジョルジュ。自然、言葉を発したのはあの強烈さに慣れてしまっているものだった。

 

「取りあえず、外に出ようか」

 

 ここにいつまでもいては何をぼんやりしていると怒鳴られかねない。そんな懸念を表明するジョルジュの言葉に三人ともが一も二もなく頷くのであった。

 




 はい、お久しぶりです。忙しさにかまけて半年ばかり放置していましたが、また書きたいなぁ、と意欲が少しばかり湧いて来たのでキーボードを叩いてみた次第です。久しぶりすぎて文や口調が変ではないか不安だったりします。
 今度も忘れたころになって投稿される不定期更新になると思いますが、皆様の暇つぶしの一助にでもなれば幸いです。


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第28話 技の業

地獄の出張、怒涛の24連勤から無事に帰還。
しばらくは働きたくないでござる(´・ω・)


「実験相手を探して来いといってもよ、正直、割かし無茶な注文だと思うぜ」

 

 研究室から追い出され、兎にも角にも工科大学の外まで出てきたトワたち。さて、これからどうしようかとなったとき、明らかに面倒くさそうな顔をしたクロウがこぼした文句に彼女らは一様に頷いた。シュミット博士はまるで事も無げに言っていたが、彼が求める条件は現実的に厳しいものであったからだ。

 れっきとした戦闘が成立するだけの実力を持った相手を探してくること。なるほど、確かに実験を精度の高いものにするためには必要な条件だろう。

 だが、それを満たす人物を街中から探して来いとなると無茶ぶりもいいところだ。そもそも戦闘ができる人がそこらに転がっているわけもない。

 

「こんな時にこそ遊撃士を頼れたらいいんだけど……」

『まあ、ないものねだりをしても仕方がないの』

 

 護衛や魔獣退治を生業とする遊撃士ならその要望にも応えられるのだが、活動規模の縮小を余儀なくされている彼らは、このルーレでも漏れなく撤退済みである。その選択肢を採ることはできない。

 もっとも、仮にまだ支部があったとして依頼料が経費で落ちるのかは甚だ疑問だが。

 

「あまり時間をかけすぎると博士がしびれを切らしかねないよ。どうにかしないといけないけど……」

 

 もたもたしている余裕はない。博士がいう機材の準備がどれだけかかるものかは知らないが、あの博士の剣幕を目の当たりにした直後から楽観的でいられるほどトワたちは図太くもなかった。

 頭を寄せ合って考え込むが、五人が寄ろうとも良い知恵は浮かんでこない。早くもげんなりしてきたクロウが不満たらたらな様相で「っていうかよ」と疑問を投げかける。

 

「俺たち四人いるんだから二対二でやればいいんじゃねえのか? どっかから適当な相手を見つけてくるよりも、よっぽど手っ取り早いだろうが」

 

 ある意味で最も妥当な提案だった。戦術リンクの実験をやりたいのであれば、その相手が必ずしも他人である必要はない。二人一組に分かれて模擬戦の要領で戦えばいいだけだ。こうして頭を悩ませる必要もない魅力的な案に思える。

 

「……いや、残念だけど博士はそれじゃ納得しないだろうな」

『どういうことなの?』

「ほら、レポートでリンク先を切り替えるときに上手くいかないとか、逆に二人以上の複数人でリンクしているような感覚があったっていうことも書いただろう。そういう報告をしてしまった以上は、博士は必ず僕たち四人が一緒に戦う形での実験じゃなきゃ首を縦に振らないよ」

「マジかよ……」

 

 がっくりと肩を落とすクロウ。我ながら名案だとでも思い始めていたのだろうか。相手探しという面倒も回避できる妙案が却下され振出しに戻ってしまったことに落胆を隠せないようだった。

 現実問題、彼以上の案が出てこないからには手詰まりの感が否めない。どう考えても実験相手に応じてくれる戦闘技能を持った人物――しかも四人を相手にするなら複数人であることが望ましい――など、博士の切れやすそうな堪忍袋の緒がもっている間に見つけられる気がしなかった。

 

「うーん……街中にいる戦える人なんて、遊撃士以外には軍人しか思い浮かばないけど……」

 

 まさか軍人が実験相手なんて引き受けてくれないよねぇ、と続く言葉をトワは飲み込んだ。言っても仕方がないことだと思ったからだ。彼女の中ではそれくらいに望み薄な候補であったし、それは常識的に考えても当たり前の判断ではあった。

 しかしながら、その発想は今まで発言せず、だが最も悩まし気な顔で考え込んでいた彼女の口を開かせるには十分だった。

 

「……仕方ない」

「アン?」

「非常に、非常に不本意な選択ではあるが……当てがないわけではない」

 

 もう駄目かと思っていたところに出てきた希望の芽。アンゼリカに期待の視線が集まる。

 

「当てがあるなら最初から言ってくれよ。云々唸っていたのが馬鹿みたいじゃねえか」

「不本意だ、と言っているだろう。できれば頼りたくない口だ……まあ、私だけが我儘を言っているわけにもいけないのも確か。腹を決めるとしようじゃないか」

 

 言って、先導して歩き始めるアンゼリカ。その背を小走りに追いかけてひょっこりと顔を覗き込んだトワは彼女に問うてみた。

 

「ねえ、アンちゃん。当てと言ってもどこに行くの?」

「決まっているさ――我が生家、ログナー侯爵邸だよ」

 

 

 

 

 

 ノルティア州を治める四大名門の一角、ログナー侯爵家の屋敷はルーレの東側を空港と二分する形で存在する。アンゼリカの案内でその目前までやって来たトワたちは、橋を挟んで見えるその威容に驚き呆れる。さすが大貴族、外から窺うだけでも小さな町一つがすっぽり入りそうな大きさには恐れ入るほかない。

 少なくとも、残され島に住む人たちは全員が収まってしまいそうだ。あんな屋敷で暮らすなんてどんな気分なんだろう、と取り留めのない考えを巡らせているとアンゼリカが「さて」と切り出した。

 

「威勢よくやって来たはいいが、正直なところ上手くいくかどうかは賭けに近い。まあ、何とかなるよう女神に祈ってくれ」

「運任せなのかよ!?」

 

 ここまで連れてきてからのカミングアウトにクロウが吠える。起死回生の一手かと思いきや、その実態は博打である。トワとジョルジュもガクッと調子を崩されてしまう。

 

「まずは我が頑迷なる父上が在宅か否か、これが最も重要だ。あの頑固親父がこのじゃじゃ馬娘に領邦軍の兵を貸してくれるとは思えないからね。こっそり事を進めるには居ない方が助かる」

 

 自分でじゃじゃ馬娘とか言っていたら世話がないと思う。それにしても、とトワは思い浮かんだ言葉を口にした。

 

「アンちゃんの家に行くって言うからもしかしてと思っていたけど、領邦軍の人を実験相手にお願いするつもりなんだね、やっぱり」

「ああ。他に当てがない以上は正規の訓練を受けた兵士に頼るしかない。それに我が家の方針でノルティア領邦軍は実戦志向の精強だ。相手にとって不足はないだろう」

「なるほど、確かに条件としてこれ以上は望めないくらいだと思うけど……それだけに簡単にはいきそうにないね」

 

 ジョルジュの懸念に発案者たるアンゼリカも頷く。その顔はいつもよりも神妙に見えた。

 準正規軍とはいえ領邦軍も軍隊には違いない。それを兵士数人とはいえ動かそうとなると、とてもではないが普通の手段では無理だろう。依頼ではあっても実験の件はあくまで私用。そんなことで規律第一の組織たる軍隊は微動だにするまい。

 しかし、軍隊ではあっても領邦軍であれば要求を通す目はまだある。彼らは正規軍に劣らない兵力を持つが、その実態は大貴族の私兵であるからだ。

 

『でも意外なの。アンゼリカ、こういうの嫌いだと思っていたの』

「言っただろう、我儘ばかりもいけないと。それにせっかくの家名だ。こんな時くらい有効活用させてもらうさ」

 

 幸いにして、ノルティア領邦軍を統括するログナー侯爵家の令嬢がここにいる。彼女からの要求となれば兵士数人を借りることくらいはできるかもしれない。

 アンゼリカは奔放な性格だ。普段は自身を四大名門の一人として見られることを嫌い、そしてその権威を頼りに物事を通そうとすることを厭う。だからこういった家名に任せた手段は取りたくないのではないかと思っていたが、仲間のことを思って彼女は節を曲げてくれたのだった。

 申し訳思うのではなく、感謝するべきなのだろう。ありがとね、と言うと「お安い御用さ」と笑みを返された。

 

「じゃあ行ってみるとしよう。まずは門番に通してもらわないとね」

 

 邸宅に向かって気負いもなく大股で歩いていくアンゼリカ。実家に帰るだけなので気負いがないのも当然なのだが、こんな大邸宅に入ったことなど一度たりともないトワなどはおっかなびっくりその背中を追いかける。

 門に近づくにつれ、その前に立つ人の様子も仔細にうかがえるようになる。立ちっ放しはやはり暇だったのだろうか。二人組の門番はなにやら話し込んでいて、こちらに気付くのが一拍遅れた。

 

「む、なんだお前たち。ここはノルティア州を治めるログナー侯爵家の――って姫様ぁっ!?」

 

 来訪者の姿を認めた途端、門番のあげた素っ頓狂な声にクロウが吹き出した。トワは眉をちょっと吊り上げて見咎める。確かに姫様なんて柄ではないかもしれないけど、笑うようなことでもないだろう。

 

「おかしい。姫様はいつも門の方から我々をしばき倒してお忍びで出かけていくはずなのに……」

「実家帰りなんて殊勝な真似をするはずないのに……」

「お望み通り、しばき倒してあげようか?」

 

 コキリと拳を鳴らして迫れば、彼らは「「お帰りなさいませ、姫様!」」と最敬礼。何故だろう。トワは直前の自分の行いが馬鹿らしくなった。

 

「冗談はさておき姫様、どうして屋敷へ? 実習で戻ってきていらっしゃるとは聞いていましたが、こちらを訪ねてくるとは思っていなかったものでして」

「なぁに、ただの野暮用さ。想像のとおり、わざわざ父上に挨拶に来たわけではないから勘違いしないように」

「はあ、それはまあ思っていた通りと言えばそうですが」

 

 当主ではないとはいえ、仕える相手に対してやけにフレンドリーな門番たちである。察するに、アンゼリカが頻繁に勝手な外出をするおかげで彼らは否応なしに苦労しているのだろう。対応が砕けたものになるのも自然なことなのかもしれない。

 

「ところで、その父上は在宅かい?」

「いえ、ゲルハルト様は会食に出席しに外出中です」

 

 よし、とガッツポーズのアンゼリカ。父親の不在をここまで喜ぶ娘もそういないのではないだろうか。いや、今回に限っては理由が理由なのでトワとしても居なくてありがたいことには変わりないのだが。

 何にせよ、まずは第一の関門を突破したことで希望が見えてきた。まだまだ不透明ではあるものの、可能性は高まったといえよう。心なしか表情が明るくなったアンゼリカがこちらに向き直る。

 

「じゃあ君たちはここで待っていてくれ。中には私一人で行ってくるとしよう」

「それは……大丈夫なのかい?」

 

 ジョルジュが少し心配そうな目を向ければ、彼女は「大げさだな」と肩をすくめた。

 

「こっそりやるのに四人でぞろぞろ行くわけにもいかないだろう。我が家は無駄に広いし、勝手が分かる私がさっさと話をつけてくる方が余計な手間はかからないさ」

 

 改めて門の向こうの邸宅の威容をうかがう。確かに、これは勝手を知らないトワたちには荷が重そうだ。

 どこに何があるのか分からない三人を案内して連れ歩くよりも、さっさと一人で行った方が目的を果たすことを考えるのであれば効率的だ。当主のログナー侯爵にばれないようにするためにも人目につかないようにする必要もある。彼女の意見を否定する要素はなかった。

 三人が納得して頷くのを見るや、アンゼリカは「じゃあ、ちょっと行ってくるよ」と少し開いた門の隙間にするりと滑り込んでいった。見るからに重厚な鉄門を苦も無く抜けていくあたり、かなり手馴れていることがうかがえる。無断外出の常習犯は伊達ではないようだ。

 

「……君たち、姫様のご学友か?」

 

 任せたはいいものの、時間を持て余す形になってしまったトワたちに門番が声をかけきた。少なくともあだ名で呼ぶくらいには親しい仲だ。迷うことなく――約一名は渋々といった様子で――頷くと、彼らは何か感慨深そうに「そうか」としみじみと呟いた。

 

「あの姫様が学院に行ってどうなることかと思っていたが、君たちのような普通の友人を作れているようで安心したよ」

「まったくだ。侯爵閣下という枷がなくなってハーレムでも形成しかねないと思っていたからな……」

 

 クロウとジョルジュが肩をすくめた。否定しかねる想像だったためである。実際、トリスタにもアンゼリカをお姉さまと敬愛する集団がいるとかいないとか。もっとも、そういう方面に疎いトワは同性から慕われているとしか思っていないので、遠慮のない人たちだなぁ、と門番たちにある意味感心していた。

 

「しかしまあ何だ、あんたたちとしてはいいのか? その姫様が平民とつるんでいてよ」

 

 なんとなく疑問に思ったのだろう。おもむろにクロウが口にした言葉に、トワとジョルジュも思い当たる節があった。

 例えば、前々回の実習で会ったクロイツェン領邦軍の軍人たち。彼らは概して平民に対し高圧的な態度をとっていた。税の問題を差し引いても、普段からああいった感じなのだろう。州は違えど同じ領邦軍。大なり小なり似たような性質があるのだとすれば、侯爵令嬢に馴れ馴れしく接する平民というのはあまり歓迎できないのではないだろうか。

 だが、質問を投げかけられた門番たちはというと、きょとんと眼を瞬かせていた。

 

「確かに、そういった厳格な意見の奴らもいるが……」

「個人的には姫様にそういうことを求めるのは今更っていう感じだよなぁ」

「そ、そこまで思われるほど奔放なんですか」

「奔放も奔放、鎖にでも繋いでおかないと姫様を大人しくさせることなんてできないよ」

 

 曰く、先ほどの発言のとおり無断外出は日常茶飯事。その折に労働者向けの酒場に出向いてどんちゃん騒ぎをするやら、女性を矢鱈に口説いては後日詰めかけてきた彼女たちの対応に苦慮する羽目になったりだとか。過去の出来事を振り返る彼らは自然と哀愁に似た雰囲気を纏っていた。

 

「一番度肝を抜かれたのはやはり例の鉄鉱山の件だな」

「ああ、家出したと思ったら鉱山でバイトしていたっていう」

「あ、アンちゃん……」

 

 侯爵令嬢が家出するだけでも大騒ぎだろうに、挙句の果てに鉱山でバイトしていたというのだから脱帽するほかない。友人の自由気儘なところは十分に承知していたつもりだったが、明かされる過去の所業にトワたちは戦慄を隠せなかった。

 ここまで聞いてしまえば嫌でも納得できる。確かに平民との友達付き合いなど今更なことだろう。

 

「その、父親のログナー侯爵とはあまり仲が良くなさそうですけど、やっぱりそういうところが……?」

「ああ……閣下と姫様の親子喧嘩もいつものことだ。どちらも頑固だから切りがないんだよ」

「よく勘当されていないな、あいつ……あんたらにとっても悩みの種だろうに」

 

 話を聞く限り、アンゼリカの勝手にはほとほと苦労させられている様子。臣下にも不満を持っている人たちがいるのではないかと想像できる。

 ところが、門番たちは思いのほか「それが、そうでもないんだな」と首を横に振った。

 

「そりゃあログナーの令嬢にあるまじき所業って腹を立てる奴らもいる。けど、それと同じくらい姫様のことが好きな輩もいるのさ。俺らみたいにな」

 

 身勝手で貴族という枠にはまらないのは事実。だが、それを補ってあまりある魅力を彼女は有しているのだと門番は笑う。

 貴族としての壁を感じさせない気さくさ、それでいて集団を引っ張っていく統率力、何よりも彼女についていきたいと思わせるカリスマ性。どうやら虜にしていたのは女性ばかりでもなかったらしい。この門番たちも自由奔放な様に振り回されつつも、そんなアンゼリカの姿に魅せられてしまったものたちの一人であった。

 

「人徳、とでも言えばいいのか。自然とついていきたいと思わせられる。不思議な方だよ」

 

 互いに「もの好きには違いないがな」と笑いあう門番たちの笑顔が、自然とトワにも移っていた。アンゼリカのことを好ましく思ってくれている人がいることが嬉しく、そして安心したからこそ浮かんだ笑顔であった。

 ルーレが実習先に決まった時からアンゼリカは浮かない顔をしていた。領邦軍の兵を借りる案を出した時も不本意だと漏らしていた。実家に近づきたがらない彼女の様子から、もしかしたらログナー侯爵家にアンゼリカの味方がいないのではないかとトワは憂慮していたのだ。

 だが、それは幸いにして杞憂だった。少なくとも、ここにいる彼らは間違いなくアンゼリカの味方である。やけに遠慮がないのは否めないけれど。

 

「腫れもの扱いかと思ったら、そうでもねえみたいだな」

「だね。アンらしいといえばそうだけど」

 

 本人の前では口にせずとも同じことを考えていた友人たちはホッと一息。そんな様子から察したのだろう。門番の彼らは「心配無用さ」と言ってくる。

 

「姫様のことが好きな奴らなんてこの街には沢山いるとも。ただまあ、あだ名で呼んでくれるような友達っていうのは君たちが初めてかもしれないな」

「うむ、姫様も学院で得難い経験を積んでおられるようで何よりだ。暴れ馬もかくやと言わんばかりの方だが、これからもよろしく頼むぞ」

 

 そんな彼らの言葉に、トワたちは苦笑いで返した。そして門の向こうを指さす。

 四人ばかりの兵を引き連れたアンゼリカがいい笑顔で拳を鳴らしているのを見て、門番たちは頬を引き攣らせるのであった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 宙返りしたトワの鼻先を風が薙ぐ。必中を期した模擬剣の一閃を空ぶった兵士の目が大きく見開かれる。それは己の剣を躱されたことに対してであり、そして妖精のように軽々と宙に舞った少女の背後から飛び出してきた鉄拳に対してであった。

 顔面狙いのそれを必死に顔を逸らして回避。掠めた拳が薄皮を切る。不意の一撃を躱してみせた兵士にアンゼリカはにやりと笑う。つられて冷や汗交じりに頬が吊り上がった兵士は兎にも角にも体勢を立て直すべく後ろに下がろうとし、そして唐突な足元への衝撃と続く浮遊感に襲われて「おおっ!?」と驚きの声をあげた。

 アンゼリカは拳を振り抜いたまま次の動きに移る猶予はなかった。彼の足元を襲ったのは、宙返りしてアンゼリカの背後に回ったはずのトワの足払いであった。剣を跳んで回避した彼女は、間髪を入れずにアンゼリカの股下を潜り抜けて体勢を崩した兵士に追撃を加えたのだ。

 凄まじい敏捷性、それだけではない。回避と同時にアンゼリカと入れ替わったのも、その不意打ちを陽動に仕掛けてきた足払いも前兆を全く気取らせなかった。理想的な連携攻撃に兵士は感服する他ない。

 だから今度こそ迫りくる鉄拳を「お見事」と受け入れた。

 

「ぷべらっ!!」

 

 身体を浮かされた無防備な状態から顔面に拳が振り落とされる。鈍い音をたてて床に叩き付けられた兵士は間の抜けた悲鳴とともにダウンする。小刻みに痙攣するばかりで起き上がる様子はない。

 勝利を確認しハイタッチするトワとアンゼリカ。そんな彼女らの耳に周りからの声が響く。

 

「ああっ、副隊長がやられた!」

「姫様のパンチをもろに食らうとか絶対に痛い奴だ!」

「でもちょっと羨ましい!!」

 

 既に床に倒れ伏していた他の兵士たち。先ほどの門番同様、やけに賑やかしい彼らにトワはちょっと親しみを覚える。最後の一言には同意しかねたが。

 

「ったく、こんな連中なのに練度は一端っていうのがなぁ……」

「おかげで、いいテストにはなったと思うけどね」

 

 ぼやくクロウに苦笑で応じるジョルジュ。実際にその通りなのだからクロウはため息をつくしかなかった。

 アンゼリカが連れてきた領邦軍の四人編成一班。アンゼリカと特に親しい間柄らしい彼らは、彼女に声を掛けられて二つ返事でテスト相手を引き受け嬉々としてルーレ工科大にまで来てくれていた。

 シュミット博士が保有する実験室の一つ、主に実際の稼働テストを行う広い空間でトワたちと模擬戦を繰り広げた彼らは相応の手練れであり、戦術リンクがなければ勝利は危うかったかもしれない。

 それを率いるトワとアンゼリカを相手に攻防を繰り広げた兵士、もといノルティア領邦軍副隊長はようやく痙攣を治めると大の字に転がったまま「ううむ」と呻き声を漏らした。

 

「いやはや参りました。しばらく見ない間に姫様もお強くなられた」

「刺激には事欠かない学院生活だからね。腕も上がるってものさ」

「それは何より。しかし、私としては腕っ節ばかり強くなって嫁の貰い手がなくならぬか憂慮するところも――」

 

 何気ない動作で大の字になっている副隊長の股間に蹴りが入れられる。「嗚呼ああぁぁっ!!」とゴロゴロ床を転げまわる哀れな姿に男性陣は自然と内股になっていた。

 

「まったく、私寄りの兵士はどうしてこうも変わり種の輩しかいないのかね」

「鏡でも見たらいいんじゃねえの?」

 

 スッと蹴りの予備動作に入るアンゼリカ、股間をかばいながらじりじりと距離をとるクロウ。どうどう、とトワがアンゼリカを抑えることでその場は事なきを得る。流石に実習に支障をきたしそうな真似は遠慮願いたかった。

 模擬戦の緊張した空気がすっかり弛緩した実験室。そこに不機嫌そうな声が割って入る。

 

「騒がしいな。人の実験室であまりふざけないで欲しいのだが」

 

 強化ガラスを挟んだ隣室で戦闘データを観測していたシュミット博士は、評判通りの気難しさを発揮してじろりとトワたちを睨む。そんな師の様子に肩をすくめたジョルジュが話を逸らすように声をかける。

 

「それはそうと博士、肝心のデータはちゃんと取れましたか?」

「ふん……現状、望める限りでは上等なものだろう。今のところテストはこれで十分だ」

 

 どうやら博士のお眼鏡にかなうデータを観測することはできたらしい。取りあえずはホッと一息である。これでダメだしされてもう一戦となったら体力的に厳しいものがあった。

 

「と、いうことらしいから君たちは戻っても大丈夫だよ。市街パトロールの名目で押し通すのも限界があるしね」

「隊長は閣下第一の厳格な方ですからな。ばれないうちにこっそり帰隊すると致しましょう」

 

 テストが終了なら領邦軍の彼らを引き留める理由もない。嬉々としてついてきたとはいえ、それなりのお題目を付けて上を誤魔化すことも忘れていなかった様子の彼ら。話を聞くに、隊長はそこまで寛容な人物ではないのだろう。ばれないうちに帰還するのが最善であるようだった。

 そうとなれば訓練を受けた軍人、動きは早い。もとより最低限の準備できたので少ない荷物を手早く纏めると、四人そろってアンゼリカに敬礼の姿勢をとる。

 

「それでは姫様、実習の成功を空の女神に祈っておりますぞ」

「ああ。面倒をかけて悪かったね」

「どうもありがとうございました」

 

 最後に「お気になさらず」と笑った副隊長は颯爽と――とはいかず、急所のダメージにより足を小鹿のように震わせながら帰っていった。大丈夫かなぁ、と呟くトワ。「まあ、やわな鍛え方はしていないさ」とアンゼリカ。それが下手人の言葉でなければ素直に頷けたのだが、トワは苦笑いを浮かべて誤魔化すしかなかった。

 さて、と一息つく。テストが上手くいったのはいいとして、これからどうするのか。シュミット博士の様子を窺うと、視線に気づいた彼が口を開く。

 

「まずはご苦労だったと言っておこう。あとはこちらでデータを解析、ARCUS本体に調整を施して後日に再びテストを行う。今日のところはもう結構だ」

「後日って……俺たち明日までしかルーレにはいないぜ?」

 

 技術者ではないトワたちにはどれくらいのものか具体的には分からないが、戦術リンクの調整とは生半可なものではないということくらい想像がつく。間に合うのだろうかという疑問は持って然るべきものだった。

 

「舐められたものだ。もとより不安定性の原因には察しがついている。ならば一晩で片はつく」

 

 しかし、相手は帝国一の叡智と称される偉人。それは愚問にすぎるようだった。

 

「戦術リンクは使用者が発する波長――思考、感情により絶えず変化するそれを増幅し同調させることで機能する。意識の表層を互いに感じ取れるようになることで、限定的な思考の共有、それによる高度な連携が可能になるわけだ」

「お、おう……?」

 

 突然の講釈に戸惑いがちながら頷くトワたち。一部、今一つよく分かっていなさそうな面子もいたが、シュミット博士は「細かい論理はいいだろう」と流した。

 

「問題はその波長の流動性。不安、不信、拒絶、そうした感情を相手に抱いてしまえばリンクはたちまち断絶する。貴様らの運用初期がその状態だな」

 

 表層の意識を共有するということは、相手に抱く感情もダイレクトに影響することを意味する。波長を同調させるためには使用者同士がお互いを受容しなければならず、信頼関係が築けていない状態では同調も不可能ということだ。使用者の人間関係が重要となるのはこの点が大きい。

 となると、現状のリンク強度の不安定さはどうなるのか。わざわざ聞かずともシュミット博士は話を先に続ける。

 

「リンクのムラ(・・)もその延長線上として説明できる。些細な感情の揺らめきにまでARCUSが過敏に反応してしまっているのだろう。結果として戦術リンクは強度が変動してしまい、安定した効力を発揮できない。つまりは、そういうことだ」

 

 あれだけトワたちが頭を悩ましてきたリンクの不安定性の原因を短い間に看破したという事実に、トワは驚きと納得を得る。どれだけ気難しいやら偏屈だとか言われていようと、その頭脳は間違いなく帝国随一のものであるのだと。

 

「開発当初からの懸念事項ではあったが、実戦で運用するにはまだ強度の固定化が必要だったようだ。ならば、変動の幅を抑える調整を加えれば実用に耐えられるものには近付くことだろう……分かったか?」

 

 トワたちは首を縦に振る。分かっていようと分かっていまいと、ここは頷いておかなければ不興を買いそうな予感があった。あの途轍もなく端的な依頼書を送りつけてくる御仁だ。個人的にはこれでも懇切丁寧に説明してやった態だろうに、この期に及んで分からないと言ったら怒髪天を衝くのではないだろうか。

 その直感が功を奏したのか、シュミット博士は「ふん」と鼻を一つ鳴らすと興味が失せたかのようにトワたちに背を向ける。トワたちは音を立てずに安堵の息を吐いた。

 

「分かったのなら帰るがいい。明日の朝までに調整の準備は整えておく。ジョルジュ、貴様は残りだ。私の元を離れたとはいえ、腕を鈍らせてはいないだろう」

「断るっていう選択肢はないんですよね、どうせ」

「下らんことを聞く暇があるなら、さっさと解析に移れ」

 

 ただ一人、この場に残っての助手を命じられたジョルジュは疲れの滲む溜息を吐く。トワたちに顔を向けた彼は申し訳なさそうに眉尻を下げる。

 

「というわけだから、先にホテルに戻っていていいよ。時間がかかるだろうし……戻らないようなら晩御飯も僕抜きでいいからさ」

「それは……そんなに大変なの?」

 

 激務の雰囲気を漂わせるジョルジュにトワは心配げな目を向ける。自分では役に立てないことだと分かってはいても、彼だけに負担をかけてしまうのは心苦しいことだ。どこかしゅんとした様子のトワに苦笑して、ジョルジュは気負わせまいと思ってかやわらかい口調で言う。

 

「まあ、いつものことだよ。なるべく早く戻れるようには頑張ってくる」

 

 そうして、解析のための別室に大股で歩いていくシュミット博士の後を追っていった。置いて行かれた形のトワたちは、その場でしばし佇んでしまう。もうやれることはない。ホテルに戻ってレポートに手を付けるくらいしかないのだが、それでも仲間を一人置いていくのは躊躇われるものがあったからだ。

 ジョルジュとシュミット博士が普通の師弟であったのならば、こんな気持ちになることもなかっただろう。だが、彼らは既に師弟の関係を解消している。加えて博士はあのような性格の上に、ジョルジュは再開する前から何度も憂鬱そうにしていた。本当に大丈夫だろうかとトワたちが思ってしまうのも無理はなかった。

 

『心配なのは分かるけれど、ここにいても仕方ないの。まずは戻ろう?』

「……仕方ねえ。気は進まねえが、手っ取り早くレポートでも片付けておくか」

 

 人目を忍んで口をつぐんでいたノイの言葉にトワたちは、二の足を踏んでいた状態からようやくホテルへの帰路につくことにした。後ろ髪を引かれる思いをしながらルーレ工科大を後にした彼女たちは、まずはレポートを形にして大柄な友人に少しでも楽をさせてやろうと決めるのだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「……遅いね」

 

 そうしてジョルジュを待ち続けること数時間。日は沈み、月が昇って中点を過ぎ下り始めても彼はいまだホテルに戻ってこないでいた。日付が変わっても戻らないのはさすがに遅すぎる。レポートはとうの昔に終わり気を紛らわせる手段もないトワは真剣に仲間の心配をし始めていた。

 

「もしかして何か事件に巻き込まれているんじゃ……」

「トワ、心配だからってそれは突飛なの」

「何かあったとしても酔っ払いに絡まれているのが精々だろう。それにしたって遅いのは確かだがね」

 

 トワほど深刻に考えていないとはいえ、クロウやアンゼリカも気にしていることには変わりない。遅くなるとは言われていたが、まさか深夜になっても戻らないとは思っていなかったのだ。

 試験実習も三回目。その中で反発しあったり気まずい雰囲気になったりすることはあったものの、基本的にはいつも四人(と密かに一人)で一緒に行動してきたのだ。ジョルジュだけでもいなくなるだけで拭えない違和感を抱いてしまう。

 

「せっかくのディナーもおかげで食が進まなかったしよ。さっさと帰ってこないかね、ったく」

「それは君、ミラがないとか言って安いのを頼んだのも原因じゃないかい?」

 

 ホテルのレストランで夕食をとったのだが、そこは格式の高い場所ゆえにお値段もそれなりに張るものだ。遊び回っているせいで常に金欠気味なクロウには最安値のメニューをちまちま食べるしかなかったのだ。たまの贅沢と割り切ったトワとしては、サラ教官に食事代を経費で落とせないか掛け合ってみる所存である。

 それはともかく、ジョルジュがいないことで今一つ調子が上がらないのは事実である。遅くなる彼を思ってレストランからテイクアウトしてきた料理は冷めても大丈夫なメニューにしてきたが、それでも早く食べるに越したことはない。何よりも食が太い彼はそろそろ空腹が限界を超えているのではないかと別の意味でも心配だ。

 

 あれこれ話しつつ仲間の帰りを待つ。そうして二時を過ぎた頃だろうか。遠慮がちな、小さな音でトワたちの部屋の扉がノックされた。

 飛びつくように扉へ駆け寄るトワ。鍵をかけないで待っていた扉を開けると、そこには疲れ切った様子のジョルジュが少し驚いたような顔をして佇んでいた。

 

「……まだ寝ていなかったのかい? みんな?」

「当たり前でしょ。私もアンちゃんもクロウ君も、そんな薄情じゃないよ」

「私もなの!」

 

 トワの肩から顔をのぞかせてノイが続く。やれやれと肩をすくめるアンゼリカ、ようやく帰ってきやがったと呆れ顔のクロウ。それらを見渡したジョルジュは小さく笑みを浮かべる。

 

「そっか……そうだね」

「分かったなら、そんなところに突っ立っていないで早く入るといい。夕飯……という時間ではないが、食事は用意してある。どうせ何も食べていないんだろう?」

「はは、ご名答」

 

 乾いた笑い声を漏らしたジョルジュは早速とばかりに用意された料理に目を付ける。テーブルの上に置かれていたそれを見て、彼は「おっ」と喜色を帯びた声をあげた。

 

「レストランの上等な奴じゃないか。これは嬉しいな……支払いは誰にすればいいのかな?」

「安心するといい。君の勤労に免じて今回は私の奢りだ。遠慮なく召し上がれ」

「俺には一ミラたりとも出そうとしてくれなかったくせに。待遇の改善を要求する」

「クロウ君は特別なことしていないでしょ。文句言わないの」

 

 強いて言えば、試作導力銃のテストがそれに当たったかもしれないが、その件に関しては既に導力銃の贈呈という形で彼は個人的な報酬を得ている。さらに食事代を要求するのは図々しいというものだろう。せめて後日に経費で落ちることを願っていてほしい。

 軽口を叩きあう友人たちに笑みを浮かべながら夜食に手を付けるジョルジュ。普段もなかなかだが、今はそれ以上のペースで口に運んでいく。実際、かなりの空腹だったのだろう。シュミット博士の助手とはそこまで追い込まれなければならない役どころなのか。技術系の研究開発になど携わったことのないトワには、そこのところよくわからない。

 わからないが、ジョルジュにはそれが堪えていることは、なんとなく察していた。

 

「ねえ、ジョルジュ君」

「うん?」

「シュミット博士のお弟子さんをやめたのって、こういう風に毎日大変だったから?」

 

 ジョルジュの口に運ぶペースが、少し落ちる。

 どこか考え込んでいる面持ちで、しかしなんだかんだ食べるのをやめずに沈黙が続く。

 結局は完食したところで、彼はゆっくりと考えていたことを口にした。

 

「……大変なのは確かだけど、それを嫌と思ったことはなかったかな。僕が博士の元を離れたのは、もっと感情的な理由からだよ」

 

 浮かべるのは自嘲的な笑み。今まで語ることのなかった事情を、彼はぽつぽつと喋り始める。

 

「博士は昔から自分の興味本位に従って動く人でね。そうした結果として導力鉄道とかを生み出して技術の発展に貢献してきたわけだけど、弟子入りした当初は振り回されて大変だったよ」

「見た感じ、振り回されているのは今も変わらない気がするの」

 

 ノイの突っ込みにジョルジュは肩をすくめる。否定しないあたり、自覚もあるのだろう。もっとも、誰であったとしてもシュミット博士に振り回されずにいるのは相当に困難だと思わざるを得ないが。

 だが、振り回されているとは言っていても、ジョルジュから悪感情のようなものは感じられない。むしろ、どこか楽しげな様子にさえ見受けられた。

 

「大変だったのは確かだけど、それ以上に充実していた。画期的な発想、それを実現する卓越した技術。博士と一緒に研究する中で僕は多くのことを学ぶことができた。そのことについては本当に感謝しているんだ」

 

 ジョルジュが一息つく。「でも」と声を漏らした彼の表情は、一転して曇り始めていた。

 

「師事していくうちに、僕は博士とズレ(・・)を感じていくようになったんだ」

「なんだそりゃ? 研究方針の違いとかそういうのか?」

「はは……そう大層じゃないけど、大雑把に言えばそうなるのかな」

 

 クロウとしては、辛気臭くなってきた雰囲気を少しばかり茶化そうとしたのかもしれない。ところが、ジョルジュが返したのは苦く乾いた笑みだけだった。根深いものであると察するしかなく、クロウも思わず仏頂面になってしまう。

 

「博士は本当に最高峰の開発者だ。でも、その興味は作り出すことにしか向いていない。自分が作ったものがどうなろうと、どう使われようとどうでもいいんだ」

 

 その言葉に、トワは今一つピンとこなかった。

 開発したものに愛着を持たないということだろうか。ただそれだけならば、そういう人もいるのだろうとあまり気にはならないことだ。創作物に対する執着心の大小は個人差という言葉だけで片付いてしまう。

 だから、たぶん違うのだろう。もしそうならば、ジョルジュがこんなにも苦悩を露にするはずがないのだから。

 

「日常導力用品でも導力兵器でも関係ない。人の生活を豊かにするか、人を殺めることになるかもどうでもいい。博士は自分が興味を持ったそれを完璧に作り上げることにしか意識を割いていないんだ」

「……なるほど。君が感じていたズレとはそういうことか」

 

 自分が作り上げたものがどのように使われるのか、使われたことによりどのような結果をもたらすことになるのか。シュミット博士はそれを全く意に介さず、ジョルジュは無視することができなかった。

 言葉にすれば、ただそれだけのこと。だが、当人からすればそれだけで片付けられるものではなかった。

 

「何年か経った頃から感じてはいた。それが決定的になったのは……やっぱり、博士が列車砲の開発に関わったときかな」

「列車砲って……クロスベル自治州の、あの?」

「戦術性も糞もねえ、属国を支配するためだけの大量破壊兵器、か」

 

 エレボニア帝国がカルバード共和国と領有権を主張しあう係争地の一つ、国際的な貿易都市クロスベル自治州。それに面する東部国境の要衝、ガレリア要塞に配備されている戦略兵器――共和国を牽制し自治州に隷従を強いる暴力の権化こそが列車砲である。

 カタログスペックでは百二十分でクロスベル市を壊滅させることが可能と言われるそれは、もはや実際に使用されることを想定したものではない。要塞に設置されたその二門の砲口が存在することに意味があり、それだけでクロスベルの人々は震え上がるような思いを味わってきたことだろう。自分たちをたった数時間で燃やし尽くせるような兵器が突き付けられているなど、悪夢以外の何物でもない。

 

 オズボーン宰相からラインフォルトに発注されたというそれを開発した人々は、自分たちが作り上げたものにいったい何を思ったのか。その答えの一つが、ジョルジュが語るそれだ。

 シュミット博士は何も感じてなどいなかったのだ。自身の作品が人々を恐怖で縛り付けようとどうでもいい。彼の興味は列車砲を作り上げたその時点で尽きており、その行く末には欠片も意識を割いていないのだから。

 

「正直、博士のことが怖くなったよ。その時は僕もまだ十四歳で、一流の技術者はそういうものなのかもしれないとも思っていた……けど、やっぱり年を経るごとに博士の研究姿勢についていけなくなっていく自分がいたんだ」

 

 自分の為したことが、何をもたらすのか。

 シュミット博士と違い、ジョルジュはそれを無視することができなかった。できなかったからこそ彼は苦悩し、そしてその末に一つの決断を下した。

 

「だからジョルジュ君は博士の元を離れて、士官学院に?」

「ああ」

 

 そして、それこそがトワたちと出会うことになった道に繋がる決断であった。

 

「博士のやり方が正しいのか、僕には分からない。だから確かめたかったんだ。軍において技術はどう使われていくものなのか。自分たちが作り上げたものがどのような結果をもたらすのか。僕が本当の意味で技術者になるにはそれが必要だと思ったんだ」

 

 最先端の技術が使われるとすれば、真っ先に挙がるのはやはり軍だ。極論、効率的に人を殺すために日進月歩で兵器の技術レベルは向上し続けている。

 過去に学べば、導力通信の開発によって百日戦役におけるリベールへの電撃侵攻が可能となったという事例もあれば、逆に飛空艇の開発により帝国は手痛い反撃を食らったという事例もある。

 軍は最先端の技術が集積される場であるとともに、技術が持つ負の側面を最も目の当たりにできる場でもあるのだ。列車砲のように元来から人を傷つけることを目的にしたものもあれば、導力通信のように本来は人々の生活を豊かにするものが殺し合いの道具に使われることも儘ある。技術は使いようによって如何様にもその姿を変えるのである。

 だからジョルジュは士官学院という道を選んだのだ。工科大学に進学し、シュミット博士のもとでさらなる技術の研鑽に励むよりも、作り出した技術の行く先を知ろうと志した。

 

「大したもんじゃねえか。思ってもなかなか行動に移せるもんじゃねえぜ、そういうの」

「同感だ。思考停止に陥るよりはよほど立派なことだよ」

 

 ジョルジュのその選択は尊重されてしかるべきものだ。先刻のシュミット博士とのやり取りからして、彼からはあまり好意的に受け止められていないようだが、トワたちからすれば感心に値するものだった。

 褒め言葉にジョルジュは照れ臭そうに頬をかく。

 だが、その表情は決して明るいものではなかった。

 

「そんなことはないさ……それに、最近になって迷い始めてもいるんだ」

「……どういうことなの?」

「確かめたいとか言葉を並べ立てているだけで、自分が本当は逃げているだけじゃないかってことさ」

 

 それは自嘲であった。トワたちがいくら感心していようとも、彼自身は自らの選択に自信が持てなくなっていた。

 そんなことはない、と言うことができたのならどれほど良かっただろうか。だが、これはジョルジュ自身の懊悩であり、彼以外に正確に理解できることは難しいもの。軽率に彼の言葉を否定することはトワにはできなかった。

 ジョルジュが懐から戦術オーブメント――試作型ARCUSを取り出す。このルーレに来る前からも、彼はなんとか戦術リンクを安定させられないかと調整に苦心してきた。この試験班の中で、誰が最もARCUSの運用テストに貢献しているかと問えば、それは彼に違いない。

 その彼が、自らの技術を費やしてきた存在を見る目は複雑なものであった。

 

「僕が試験班に参加することを決めたのは、自分も末端ながら関わってきたARCUSがどう結実するか自分の目で確かめたかったからだ。戦いの道具にしかならないのか、それとも別の答えがあるのか。自分の手でその答えを探せるのなら願ってもいなかった」

 

 「けど」と彼は言い淀む。自分の中の受け入れがたいものを直視するかのような苦々しさが、そこにはあった。

 

「けど……最近は違った。僕は博士と同じになっていたんだ。どうやったら戦術リンクを完成させることができるのか、そればかりに夢中になっていた。ARCUSがどう使われるのかなんて考えてもいなくて、実習先がルーレだと聞いたときに気付いて愕然としたよ」

 

 乾いた笑みが彼の口から洩れる。疑いようもない、明確な嘲笑であった。

 

「格好悪いだろう? さっきまで博士と作業していた時だって、心の底では充足を感じていた。技術者の業からは逃げられないんだと痛感したよ」

「それは……」

 

 トワは何も言えなかった。なんと声をかけたらいいのか分からなかった。それはクロウもアンゼリカもノイも同じで、ただジョルジュの言葉に耳を傾けるしかなかった。

 

「結局、僕は博士と同じ穴の狢なのかもしれない。もしそうだとしたら、士官学院に進学したのはただ目を背けるだけだったんじゃないかって……」

 

 その言葉に、トワの胸中に不安がよぎった。このままジョルジュがいなくなってしまうんじゃないかという、そんな不安が。

 それが顔にも出てしまっていたのかもしれない。ジョルジュは誤魔化すようにお道化た声を口にした。

 

「――なんてね。ごめん、長々と変なことを言ってしまった」

「そりゃ構わねえが……まあ、なんだ。たまに愚痴を吐くくらいなら付き合うぜ」

「はは、クロウとアンがもう少し真面目に勉学に励んでくれたら僕の苦労も減るんだけどね」

「おっと、そいつは耳が痛いね」

 

 傍から見れば、いつもの調子のいい掛け合いに見えただろう。

 だが、ジョルジュの話を聞いてしまってからでは、それは彼が無理をしているようにしかトワの目には映らなかった。今、彼が話してくれたことは紛れもなく本心であり、ルーレに来てからずっと思わしくない様子であることの原因だと理解せずにはいられなかったから。

 

「でも、本当に無理はしないでね、ジョルジュ君。私たちでよかったら、いつでも相談に乗るから」

「……トワにそう言われたら断れないな。うん、ありがとう」

 

 ただ、今はそうやって声をかけるのが精いっぱいで、彼女の心中から不安を拭うことはできなかった。

 

「さて、と。もう夜も遅いの。明日も早いんだし、さっさと寝た方がいいと思うのだけど」

「ふぁ……そういや、もう深夜もいい時間だったな」

「そうだね……あふ」

 

 思い出したように欠伸を漏らすクロウ。これほど遅くまで起きているのはトワも滅多にないことだ。自然、欠伸が移ってしまう。

 それが丁度いい区切りだった。もう今日はここまでにしておこうと解散することにし、女子たちは男子部屋から退室する。静まり返ったホテルの廊下を、音を立てないよう忍び足で割り当てられた部屋に戻る。

 その道すがら、トワはぽつりと口にした。

 

「……知らなかったね。ジョルジュ君があんな風に悩んでいたなんて」

「そうだな……自分で言うのもなんだが、私とクロウで好き勝手やっている分、彼が自分を前に出してくることはあまりなかったからね。こうして口にしてくれた分、幸いであったと思うよ」

「ジョルジュ、結構ため込んじゃうタイプに見えるの。どうにかしてあげたいけど……」

 

 ノイの言葉が後に続かないように、トワもまた何をするべきか思いつかなかった。それがたまらなくもどかしい。

 部屋に戻った後も、胸の内の詰まりは消えてくれない。小魚の骨が喉に突っかかったような感覚を残しながら、ルーレの実習は一日目の終わりを告げるのであった。

 



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第29話 誰が為に 何が為に

閃の軌跡Ⅲの情報が続々と公開されてテンションアガットな今日この頃。成長したⅦ組メンバーの姿に感慨さえ覚えます。やっぱりリィンの傍に彼らがいるだけで安心感が違いますね。序盤は胃痛が避けられなさそうな環境だけに尚更……

拙作がⅢに追いつくのは遥か先のことでしょうけど、プレイする前から色々と妄想がはかどります。尚、何時もはかどりすぎて設定を詰めまくるものだから展開が遅くなってしまう模様。学院祭が終わったらテンポ早くなる予定なのでご容赦ください。


 ノルティア州は帝国の北部に位置する地方であり、その州都であるルーレはその中でも北部国境を形成するアイゼンガルド連峰に近しい。そのためリベールなどに比べて寒冷な帝国の中でも一層冷え込みやすい。

 とはいえ、その寒さが我が身を蝕むのは冬期の話。夏期に向かう六月現在においては、最近増してきた蒸し暑さが軽減されてありがたい。寒暖にも適応するオールシーズン仕様の学院制服とはいえ、暑いものは暑いのだ。

 

 そうした気候から涼しげな風が吹く朝方のルーレ。やや寝不足気味な目を時折こすりつつ、トワたちは街区中央の導力式自動階段――エスカレーターと呼ばれているらしい――で街の下層に向かっていた。

 

『まったく、朝ご飯を食べるミラも覚束ないなんて……クロウ、もう少し計画性ってものを持った方がいいと思うの』

「うっせ。だいたい、あんな糞高いレストランで食おうと考える方がおかしいんだよ。サラもサラだ。朝飯くらい込みにしてくれていいだろうに、こんなところでケチりやがってよ……」

「まあまあ、クロウ君。私たちはあくまで予行演習だからあんまり予算が出ないんだし」

 

 今日の依頼を受け取る前からこうして街に繰り出しているのは他でもない。クロウの素寒貧な財布事情のため、彼でも出せる範囲の料金設定の店で朝食をとるためである。ホテル内のレストランでは、一般的なエンパイアブレックファストでさえも残金を消し飛ばしかねないものだったのだ。

 ノイからの至極もっともな説教にぐちぐちと文句を垂れるクロウ。素泊まりで朝食がサービスに含まれないことに関しては、予算の都合というしかない。来年度からの本格的なカリキュラムならばいざ知らず、現段階では無駄に使えるほど金回りが良くないことをサラ教官の手伝いでトワは知っていた。一学生にそこまで知られるほど手伝わせてもいいのか、とも思ってはいるが。

 

「今回に関しては個人的な挨拶も兼ねてだから、まあ勘弁してあげるとしよう。機会を見て訪ねようとは思っていたからね」

「居酒屋の《ドヴァンス》だよね。僕も何度か行ったことがあるけど、いい店だよ」

 

 そんな財布事情からアンゼリカが案内してくれている店が下層の外れにあるという居酒屋。工場や鉱山の労働者向けの店で、夜の営業がメインではあるが、朝も出勤する人向けに朝食を提供しているらしい。馴染みのアンゼリカだけではなくジョルジュもこう言うあたり、評判はいいのだろう。

 

『で、アンゼリカはそんなお店とどうして馴染みなの?』

「鉱山でバイトしていた頃に毎晩のように通っていたからね。顔も覚えられるさ」

 

 相変わらず名門貴族の令嬢としては落第の理由に、トワは呆れを通り越してアンちゃんらしいなぁ、と笑うしかなかった。他の面々も、もはや突っ込む気力さえ湧いてこない様子。昨日に門番の人が言っていた通り、彼女を止めるためには鎖にでも繋いでおかなければ無理なのだろう。

 談笑するうちに下層に到着し、エスカレーターを降りる。早朝のまだ人がまばらな街並み。「さて」とジョルジュが街の西側を指さした。

 

「ドヴァンスはあっちだ。早速行くとしよう……あまりのんびりしていると、博士にどやされそうだからね」

 

 疲れが色濃く残るクマの浮いた眼で彼は笑った。深夜までこき使われていたのだから、疲労が蓄積されているのは当然のことだ。実習中は残念ながらそうはいかないが、出来得る限り彼にはしっかりと休息を取ってもらいたいところだ。

 だが、彼の心の中のしこりは何時になれば、どうすれば取り除くことができるのだろうか。

 昨晩から続くもどかしさが、トワの胸の内で小さく疼いていた。

 

 

 

 

 

 カランカラン、と古ぼけたベルの音が鳴る。トワたちが入店してきた音に気付いた店主が「おっ」と洗い物から顔をあげた。

 

「へい、らっしゃい……って、姫さんじゃねえか! はは、しばらくぶりだな!」

「どうも、ご主人。息災のようで何よりだよ」

 

 覚えのある顔を認めた途端に喜色に染まった声をあげる店主。やはりというべきか、そこに貴族と平民の身分差など欠片も存在していなかった。ニコニコ顔でカウンターの奥から出てくる彼は歓迎ムード満点である。

 

「朝っぱらからどうしたよ。帝都の方の学校に入ったって聞いていたが、とうとう脱走でもしてきたのか?」

「まさか。窮屈な実家とは違って刺激に溢れているから存分に楽しませてもらっているよ」

「そいつは何よりだ。姫さんが友達連れてくるなんて今までなかったしな」

 

 そう言って「がはは」と大口を開けて笑う店主。朝から随分と元気である。久しぶりにアンゼリカの顔を見れて嬉しいのもあるかもしれないが、きっと普段からこんな調子なのだろう。労働者向けの居酒屋を経営しているだけあって、鉱山員にも負けないくらい活力に溢れていそうだ。

 そんな彼とひとまずの挨拶を交わしたアンゼリカはぐるりと店内を見回す。そして目に入った光景に対して呆れたように肩をすくめた。

 

「それにしても昨晩は派手に宴でもやったのかい? 随分な散らかりようじゃないか」

 

 同じく周囲の様子を窺ったトワは確かに、と内心で頷いた。積み重なった大皿、乱立する飲み干されたエールのジョッキ。店内のあちらこちらにどんちゃん騒ぎの痕跡が残されている。少なくとも、ちょっとやそっとでは片付きそうにないくらいには。

 知らない仲ではないとはいえ、仮にも客にこんな店内の有様を見られるのはバツが悪いものがあったのかもしれない。店主は恥ずかし気に頬をかいて曖昧な笑みを浮かべた。

 

「すまんなぁ。片付けたいのは山々だったんだが、昨日は俺も一緒に騒いでしまってな……娘も疲れ切って寝入っているし」

「普段からそんなに盛り上がるものなんですか?」

「いんや、昨日は格別だったな。いつもなら鉱員たちも二日酔いで仕事なんてしたくねえから、ほどほどで済ませるんだが……」

 

 店主が視線を店の奥に向ける。その先を追うと、店の奥のテーブルで何かがもぞもぞと動いているのに気が付いた。皿とジョッキの山に埋もれたその物体が「うぅ……」と苦しそうな呻き声を絞りだす。恐る恐るその正体を覗き込んだトワたちは、テーブルに突っ伏す姿を見てポカンとする羽目になる。

 

「その御仁が気前よく奢りだって言うもんだからよ。そりゃあ大いに飲ませてもらって……おい、どうした?」

「いや……なんというべきか、奇妙な巡り合わせだと思ってね」

「確かに、奇縁という他にない感じはするね」

「ったく、このオッサンはこんなところで何をやってんだか」

 

 アンゼリカとジョルジュは苦笑いを浮かべ、クロウに至ってはあきれ顔だ。

 そんな反応をさせる目の前の人物を、トワはなるべく親切に揺り起こす。

 

「ボリスさん、こんなところで寝ていると、またドミニクさんに怒られますよ」

「うん? ……おお、トールズの諸君。この酔っ払いの夢に何の用かね?」

 

 寝ぼけ眼で惚けたことを口にする紡績町パルムの領主、ボリス子爵にトワは「本物ですよ」と笑いかけるのだった。

 

 

 

 

 

「いやぁ、また会えて嬉しい限りだ。帝都では君たちに色々と世話になったからな……うっぷ」

 

 大口を開けてご機嫌に笑っていたボリス子爵の顔が青褪める。黙って水を差しだしつつも、トワは無理に大きな声を出さなくてもいいのにと内心で苦笑い。他の面々もおおむね似たような気持であることは言うまでもない。彼女たちの奇妙な知り合いはものの見事に二日酔いであった。

 申し訳程度に片付けられたテーブルを囲むトワたちが朝食を食べる前で、コップに注がれた水で気分を落ち着かせようとするボリス子爵。店主がせっせと宴会の残骸を片付ける音をバックグラウンドに、彼女たちは先月ぶりの再会をなんだかんだ喜びあっていた。

 

「こちらこそ。ボリスさんは、帝都ではあれから大丈夫でしたか?」

「うむ、まあ憲兵隊に避難所へ誘導されてからは大人しくしていたとも。ドミニク君も口うるさいからな。おかげで騒ぎが収まったらすぐに列車に詰め込まれてしまったよ」

 

 残念そうに「できればオリヴァルト皇子の凱旋を見たかったものだが……」とこぼす中年男性。垂れ下がった犬耳を幻視してしまいそうなしょんぼり具合である。いい歳なのにこういう愛嬌があるところが、彼が色々としでかしても秘書に見捨てられないでいる秘訣なのかもしれない。

 

「はは……取りあえず、ご無事ならよかったです」

「まさか、こんなところで会うとは思っていなかったけどな。いったい何がどうなって酒場で潰れていたんだよ?」

 

 クロウの言うとおりである。トワたちの中の誰一人、ボリス子爵に再会することなど欠片も想像していなかったのだ。それも悪くいってしまえば場末の酒場で、こんなお手本のような二日酔いになった状態で、である。

 ボリス子爵が帝都に来ていた理由から、このルーレに来ている理由はなんとなく察しが付く。だが、この酒場にいる理由は皆目見当がつかなかった。仮にも領主貴族が鉱山労働者たちとどんちゃん騒ぎを始める切っ掛けなど、トワにとっては全くの未知の領域だ。

 水のおかげでだいぶ気分もマシになってきたのだろうか。ボリス子爵は幾分かよくなった顔色で口を開く。

 

「どうしてと言われると……うむ、ここは最初から話すとしよう。想像の通りだろうが、私はこのルーレにも商談のために訪ねたのだ」

 

 そうだろうな、と一様に頷く。帝都で会った時もそうだった。この領主子爵は領地運営ではなく営業回りが仕事なのである。となれば、今回も同様の理由で来ている可能性が最も高い。わざわざ帝国の南端にある領地から北部に出向いてきていることからも、ただ遊びに来ただけとは考えにくい。

 ただ、それはそれで疑問を覚える点はあるのだが。

 

「えっと、ルーレでも取引されている方は結構いるんですか? あまり服飾関連のイメージはないところですけれど」

「まあ、確かにな。着飾っている奴より、作業着やら白衣姿の方が目につく印象はあるぜ」

 

 ルーレは工業の街。決して服飾品を扱う店舗がないというわけではないだろうが、それでも帝都などに比べれば格段に少ないだろう。着飾って歩いている人の姿もあまり見かけない。

 代わりに目にするのは、様々導力製品を取り扱うRFの系列店や工房、そして、店舗に並ぶ製品を開発生産する技術者や作業員である。身だしなみの範疇の話ならばともかくとして、あまりお洒落などには縁のない環境や、そこに身を置いている人々だ。人によりけりかもしれないが、普段はあまり服飾品に目を向けることが少ないイメージがある。

 そのような特色を持つ街に、果たして子爵自身が営業をしに来るほどの利があるのだろうか。そんなトワたちの疑問にボリス子爵はにっこりと笑みを浮かべた。

 

「いい質問だ。では、逆に私からも聞かせてもらおう。トワ君、私が営業して回っている商材は何だと思うかね?」

「えっ」

 

 唐突な質問返しに声が上擦る。この返しは想定していなかった。

 トワはうんうんと頭を悩ませる。ボリス子爵はダムマイアー家が運営する紡績工場の関連商品を営業しているはず。となれば、やはりそこで生産される綿糸や絹糸、あるいはそれらを織って作られた布生地などと思われる。

 

「糸……生地……あっ、そっか」

 

 そこまで考えて思い至る。手をポンと叩いたトワに、同じように考えていたジョルジュが不思議そうな目を向けた。

 

「何かわかったのかい?」

「うん。ボリスさんに聞かなくても、売り込むものはクロウ君が先に言っていたじゃない。それが取引相手に繋がっているんだ」

「俺が? そんなこと言った覚えは……あっ」

「なるほどね。そういうことか」

 

 トワの言葉にクロウたちも得心が行く。自分たちは知らなかったのではない。先入観から見落としていたのだ。

 ボリス子爵はそんな彼女らを見て「はっはっは」と機嫌がよさそうに笑う。それが答えであった。

 

「作業着や白衣、他にもそうした作業環境における衣類用品を取り扱う方々が、ルーレにおけるボリスさんの取引相手なんですね?」

「その通り! いや、ほんの取っ掛かり程度の質問だったのだが、それだけで答えにたどり着いてしまうとはね。やはりトワ君は察しがいい」

「それはもう、私のトワですから」

「いや、なんでお前が自慢げなんだよ……」

 

 気恥ずかしさから頬をかくトワの横で胸を張るアンゼリカ。それへの突っ込みはクロウに任せておいて、ボリス子爵はさらに事細かな内情を口にする。

 

「服飾関連というと礼服やドレスといった華やかなものをイメージしがちだが、パルムで作られるもの何も柔らかな絹糸だけではない。鉱山のような怪我をしやすい現場でも、ちょっとやそっとでは破けない丈夫な服を織る糸。実験中に失敗しても薬品から身を守れる耐食性に優れた服を織る糸。満たすべき需要は探せばいくらでもあるのだよ」

 

 勉強になる話だ。物事に対するイメージは普段の生活で目に入るものから形作られるものであるが、実際には他にもいろいろなところで、時に想像もつかないようなものと繋がっていることもあるのだ。意識しなければきっと気付かないことだろう。

 普通に暮らす分には必要のない知識なのかもしれない。だが、それが役に立つ時もまたあるのだとトワは思う。イメージの中だけの知識は一つの点でしかない。けれど、点と点の繋がりを知ればそれは線となり、繋がりが増していけばいずれ面となる。知識と知識を織り合わせていけば、それはきっと智慧となって自らの糧になるだろう。

 やはりボリス子爵との話は面白い。彼と語らう中で、自分の内に新しい世界が拓けていくような感覚がトワは好きだった。

 

「なるほど。それで鉱員さんたちと宴会をしていたのに繋がるわけですか」

「鉱山関係の業者に誘われて参加したら興が乗ってしまってね。ついつい奢るなんて言ってしまったら引くに引けないだろう?」

 

 納得したように頷くジョルジュに対してウィンクを決める中年子爵。このノリと勢いで生きている感じも、困った人だとは思ってもなんだかんだ嫌いになれない。若干頬が引き攣った苦笑いしか返せないけれど。

 

「でも、そう考えると本当に奇遇だったんですね。こうして居酒屋に居合わせたこともそうですけど、たまたま私たちの実習先と被るなんて」

 

 トワの感慨が含まれた言葉に、クロウたちも頷いて同意する。

 実際、この広い帝国で行き先が同じになるなど早々あることではない。片や士官学院の実習、片や領地の特産物の営業。目的から何まで全く異なる二つの軌跡が交わったのは奇縁という他にないように思えた。

 が、それに対してボリス子爵はなぜだか目を逸らす。やましいことでもあるかのような様子にトワは首を傾げた。

 

「あー……白状するとだね、私の方が狙って君たちの実習先に被せたのだよ」

「おや、そうなのですか?」

 

 それは思ってもいない自白だった。なにやら開き直ったかのように子爵は笑う。

 

「先月の件からハインリッヒに連絡を取ってな。奴にぐちぐちと説教をかまされつつも、君たちの次の行き先を聞いておいたのだ。私の方は行き先に自由がきくから問題ないしね」

「そりゃまた、ご苦労なこって……だがよ、なんでわざわざそんなことしたんだよ?」

「歳を食うとどうにも若者に魅かれてしまうのだよ。特に君たちのような、将来有望な活力溢れる子たちにね。純粋に君たちと話すのが楽しいというのもある」

 

 なんとも自分の欲求に正直な理由だった。昔からの腐れ縁だというハインリッヒ教頭からは半ば強引に聞き出したのだろうし、営業先の自由が利くとは言え多少は計画を捻じ曲げてもいるのかもしれない。そうして勝手を貫くあたり、彼も貴族らしい部分はあるようだ。

 しかし、そこまで買ってもらえているのが嬉しいのも事実だった。多分に面映ゆさが先行するものの、一領主にまた会いたいと思ってもらえるくらいに好意を持ってもらえるのは光栄なことには違いない。

 

「まあ、年寄りの数少ない楽しみだと思ってくれたまえ。私の知識が実習の一助となるかもしれないし、君たちとしても損はないだろう?」

「そりゃお勉強の役には立つかもしれねえが……」

「おっと、そうだ。せっかく年寄りの道楽に付き合ってくれたのだ。この場の代金は私が持つとしよう」

「やっぱり領主様のお話はためになるなぁ! 今後とも是非お付き合いしていきたいなぁ!」

「クロウ、君ってやつは……」

 

 渋い顔から一転、鮮やかな手のひら返しを披露するクロウにジョルジュがこめかみを抑える。帝都ではお礼の意味合いがあったが、今回はそうではない。流石にそこまでしてもらうのは悪いのでトワは慌てて口をはさむ。

 

「そんな、お話したくらいでそこまでしていただくわけにも……」

「そう遠慮しなくても構わんよ。言っては何だが、大して懐が痛むわけでもない」

 

 そうは言われましても、とトワは続けようとする。ところが、その先は「まあまあ」と割って入ってきたアンゼリカに遮られた。

 

「ここは素直に厚意を受け取っておくべきだと思うよ。それに、こうやって懐の深さを見せるのも貴族の習慣だしね」

「ログナー嬢の言うとおりだ。ここはどうか、私に見栄を張らせておくれよ」

「アンちゃん、ボリスさん……分かりました。ここはご馳走になります」

 

 ぺこりと頭を下げてお礼を言う。ここのところの礼儀はしっかりとしなければ。ほかの面々も、言わずともそこのところは分かっているのだろう。各々ボリス子爵に礼を伝えていく。クロウが九十度の最敬礼をしたのには、さしもの子爵も笑みが引き攣っていたが。いったいどれだけお金に苦心しているのだろうか。

 ともあれ、こうして再びトワたちと話すことができてボリス子爵は大層満足したようだ。闊達に笑う姿は上機嫌そのものである。

 

「何にせよ、帰る前に会えてよかった。予定では午前の便で帰ることになっているからね。ごねたらドミニク君にどやされるところだった」

「あはは……そういえば、そのドミニクさんはご一緒じゃないんですか?」

「彼なら個人的に用があるとかで昨晩に別れたきりだね。一応、駅で待ち合わせる予定になっているのだが……あっ」

 

 懐から取り出した懐中時計に目を移したボリス子爵は、そこで不穏な呟きとともに動きが固まった。言われずとも何か不味いことが起きたことが伝わってくる分かり易さである。冷や汗をダラダラと流し始めた彼にジョルジュが遠慮がちに問いかける。

 

「あの、どうかしましたか?」

「……待ち合わせの時間から一時間も過ぎとった」

 

 ヤバイ、という感情を顔面に張り付けたボリス子爵の言葉。もはや手の施しようもあるまい。トワたちは助けを求めるような視線から静かに目を逸らすことしかできなかった。

 待ち合わせに遅れたとしても、十分や二十分くらいなら待ち続けることはできるだろう。だが、流石にそれ以上はしびれを切らして相手を探し始めるに違いない。もしかしたら何かあったのではないかと心配するだろうし、心当たりのある人物などに聞きこんだりもするだろう。

 ボリス子爵は昨日、この酒場で取引相手や鉱員たちと大いに飲み明かした。その事実が耳に届くのは時間の問題であることは疑いようがない。遅刻の原因が単に酔いつぶれていただけと知れば、心配は反転し怒りへと変貌する。

 結論を言えば、ボリス子爵が秘書にどやされる未来は確定事項なのである。

 

「工場長ぉっ!!」

「うっひぃ!?」

 

 だから、こうして酒場のドアを乱暴に開け放って件のドミニク氏が怒鳴り込んできたのも予定調和なのだろう。店主が思わず飛び上がり、店の奥からは誰かが転げ落ちるような音がしたのにも構わず、ドミニクは子爵に一直線に駆け寄って胸倉を掴み上げた。

 

「あなたという人は! 私が散々遅れないように釘を刺したにもかかわらず! 酔いつぶれた挙句に呑気に会話に花咲かせているとはどういう了見しているんですかぁ! ええっ!?」

 

 ガチギレである。全面的にボリス子爵が悪いので擁護のしようもない。胸倉を掴まれたまま前後に揺すられるボリス子爵の顔色が急速に悪くなっていく。あっ、とトワが気付いた時には半ば手遅れであった。

 

「ちょ、ドミニク君! 私が悪かったからタンマ――うぷっ」

「く、クロウ君! そこのお皿! お皿取って!」

「俺かよ!? 畜生が!」

 

 瞬間、ボリス子爵の中で堤防が決壊する。おぼろしゃぁ、と二日酔いの結果が解き放たれた。

 尊い犠牲を払い、店に多大な迷惑をかけるという最悪の事態だけは免れたことを明言しておく。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「朝から酷い目に遭ったぜ……臭いついてねえだろうな」

「だ、大丈夫だと思うよ。その、ちょっと掛っただけだし」

 

 早朝の居酒屋におけるなんやかんやの騒動の後、気を取り直して工科大学に向かうトワたち。約一名の被災者をトワが励ましつつ、昨日と同じく受付で入構許可を貰ってからシュミット博士の研究室へ。

 早朝から色々と想定外の事態に見舞われはしたが、早めに行動していたおかげで時間はまだ八時過ぎ。一般的な始業時間が八時半であることを考えれば、遅いと文句を付けられるような時間ではないだろう。いや、シュミット博士相手でなければ逆に早すぎると苦言を呈されてしまうかもしれないが。

 まあ、あの短気な博士なら早い分には嫌な顔はしないと思われる。そう当たりを付けて朝一に訪れた研究室。ジョルジュがノックをすれば、中から「入れ」と短い返事が聞こえてくる。

 

「ふん、可もなく不可もなくといったところか。遅れなかったことだけは評価しよう」

「それは、どうも」

 

 師がいつも通りと言えばいつも通りな調子で口を利くものだから、教え子の反応も素っ気ないものになる。そんなことなど気にした様子もなく、シュミット博士はずいと手を差し出してきた。

 

「えっと……?」

「何を呆けている。さっさとARCUSを渡すがいい。私が昨日なんと言ったか忘れたわけではあるまい」

「博士、普通は口で説明しますよ」

 

 戸惑うトワに対して当たり前のことのようにのたまうシュミット博士。ジョルジュが呆れ混じりの苦言を呈したところで、その意図を理解する。

 ジョルジュを深夜残業に駆り出して完成した、昨日の模擬戦のデータを反映した調整プログラム。それを早速ARCUSに適用させようというわけだろう。一言加えてくれればいいものを、それすら無駄とばかりに省いてくるあたり筋金入りの自分本位である。例えそれを伝えたところで、彼が自省することなど望むべくもないだろうが。

 考えていたところで話は進まない。素直に渡そうと腰のホルダーからARCUSを取り出す。しかし、そこでふと思い至った懸念を口にした。

 

「ところで、調整にはどれくらいかかりそうですか?」

「半日程度だ。そこから更に調整結果の詳細確認。少なくとも、今日一日は付き合ってもらうぞ」

 

 その答えにトワたちは自然と難しい顔になってしまう。

 今日一日かかるのはまだいい。帰りは遅くなってしまうだろうが、それは仕方のないことだ。いざとなれば帰りの鉄道で寝る時間はあるし、最悪の場合は延泊すればいいだろう。

 だが、調整自体に掛かるという半日の時間。手隙になってしまうその間はどうするかが問題になってしまう。戦術オーブメントを預ける以上は街の外に出るのは避けたいし、かといって街中でやることもあまり思いつかない。幸か不幸か、シュミット博士の用件が激務であることを考慮して今日の課題はこれ一つしか申し渡されていなかった。シャロンの気遣いが裏目に出た形である。

 

「不都合があるのか知らないが、こちらも予定を変更する気はない。分かったらグズグズするな」

 

 とはいえ、そんな事情を話したところでシュミット博士が取り合ってくれることはないだろう。空いてしまう時間に関しては後から考える他にない。仕方なくトワたちはARCUSを博士に預けていく。

 

「結構。ならば、どこかで適当に時間をつぶしているがいい。ジョルジュ、早速始めるぞ」

「……はい」

 

 ただ、当たり前のように浮かない顔のジョルジュを助手に駆り出そうとするところまでは、素直に従うわけにはいかなかった。

 

「ちょっと待ってジョルジュ君。そういえば、昨日の分のレポート終わっていなかったじゃない」

 

 唐突なトワの言葉にジョルジュが「え」と間の抜けた顔をする。まるで思い当たるものがない様子。当然だろう。昨日のレポートは寝る間を惜しんでちゃんと完成させたのだから。少しでも楽になるようにと雛型を作るのにトワも手を貸していたのだから、そのことを知らないはずがない。

 だというのに、このはっきりとした言いよう。これはどういうことかとジョルジュが戸惑う間に、トワはクロウとアンゼリカに素早くアイコンタクトを送る。一瞬にしてその意図を理解した二人は続けざまに口を開いた。

 

「そうだぜ、ジョルジュ。いつも俺に人のノートを写してばかりいるなって文句付けてんだ。あとで見せてくれって言われても貸してやらねえからな」

「そういうことだ。それにシャロンさんから頼まれた件もあるだろう? 勝手に抜け駆けしてもらっては困るな」

 

 無論、他に依頼がない以上はシャロンから頼まれていることなども無いし、クロウがジョルジュにノートを貸すような事態になることも今後一切ないだろう。だというのに、それをさも当然の事実のように嘯く彼らにジョルジュは尚更目を白黒させる。

 そんな彼の手を、トワが有無を言わせずに握り取った。

 

「そういうわけでシュミット博士。申し訳ないですけど、ジョルジュ君はお貸しできません」

「……ふん、勝手にするがいい。調整が終わるのは昼過ぎが目途だ」

「分かりました。では、よろしくお願いいたします」

 

 シュミット博士は深く追求してこなかった。察していたかどうかは分からない。ただ、どちらにせよ引き留めるほどの興味は持たれなかったのだろう。最低限のことを伝えると、彼は背を翻して研究室の奥へと向かう。

 その背中に頭を下げ、トワたちも足早に研究室から立ち去るのだった。トワに半ば無理やり引っ張られる形のジョルジュは構内から出るまで戸惑ったままだった。

 

 

 

 

 

「……ごめん、気を遣わせてしまったね」

「ジョルジュ君、こういう時って謝るのは正しくないと思うんだ」

「はは……じゃあ、ありがとう、かな?」

 

 トワにやんわりとたしなめられたジョルジュが苦笑とともに礼を告げる。よろしい、と満足げに頷くトワ。二人は工科大学前の広場のベンチに腰掛けて期せずして訪れた空き時間をゆっくりと過ごしていた。

 目の前の広場では、クロウとアンゼリカ、そして大学生である二人の青年が地面を走り回る小さな導力車のようなもので遊んでいる。彼らはハーヴェスとグレゴ。ジョルジュの知り合いであり、暇を持て余していたトワたちに自分らの開発物を試してもらいたいと声をかけてきたことで今に至っている。導力ラジコンというものらしく、無線接続のコントローラーを操作することで自由自在に動かせるのだとか。

 思いの外はまったクロウとアンゼリカはレースなどをして先ほどから盛り上がっている。一応、研究中のものだからあまり乱暴に扱わない方がいいのでは――と当初は思っていたが、当の開発者二人が一緒になってはしゃいでいるので問題ないのだろう。たぶん。

 

 それはともかくとして、問題はジョルジュの方である。あのまま放っておくことができずに強引に連れ出してきたのはいいものの、正直、そこからどうするかは全く考えていなかった。

 まあ、せっかく纏まった時間が取れたのだ。ここで言いたいことを言ってしまうのもいいかもしれない。そうと決めてしまえばトワは思い切りがいい。普段はクロウなどに向けられるお説教モードに入った。

 

「ジョルジュ君も色々と悩んでいるのは分かるけど、嫌なときや迷ったときはちゃんと断ったりしないとダメだよ。頼りになるのは良いところだけど、流されて押し付けられるのはジョルジュ君の為にならないんだから」

「うっ……耳が痛いなぁ。自覚があるだけに尚更……」

 

 クロウやアンゼリカなら馬耳東風と受け流すところだが、二人と違ってジョルジュは真面目である。トワのお小言に割と本気で凹んでいた。

 嫌と言い切れないのは彼の性分でもあるのだろう。頼まれると断れない性質なのだ。それゆえに様々な人に頼られるのは良い点なのだが、自分自身のことを顧みられないのが欠点だった。

 だからシュミット博士に助手を命じられてもジョルジュは自分で断ることができなかった。悩みを抱えているにもかかわらず、流されて余計に苦しい思いをすることになってしまう。それは彼の懊悩の助けにはならず、むしろ助長することになってしまうことだ。

 

「僕もマカロフ教官みたいにきっぱり出来たらいいんだろうけど、やっぱり難しいなぁ」

「マカロフ教官がどうかしたの?」

「教官も昔は博士のもとで学んでいたんだよ。聞いたところによると、ついていけないって弟子を辞めたそうだけど」

 

 意外な事実に少し驚く。いつも猫背気味で無精ひげを生やしている導力学のマカロフ教官。昼行燈な雰囲気に反して、その実、優れた技術力や豊富な知識を有しているのは知っていたが、まさかシュミット博士の弟子とは思っていなかった。

 

「一応、僕のことも知っていてね。以前に『よくあの博士に付き合ってられるもんだ』なんて言われちゃったよ」

「うーん、そればっかりは教官が正しいと思うなぁ」

 

 マカロフ教官も兄弟子として弟弟子に思うところでもあったのだろうか。袂を分かった元師匠に対する苦言を呈しつつも、ジョルジュのことを気には掛けているのかもしれない。

 しかし、そうなるとジョルジュの悩みはやはり相当に根深いのだと理解せざるを得ない。マカロフ教官という前例がいるというのに、自分とシュミット博士は違うのだと割り切れないのは自分の目指す先が見えないから。博士と同じ道から外れ自分の足で道を拓いていこうにも、標も何もない真っ暗闇の中では不安ばかりが大きくなり自分が正しいのか分からなくなってしまう。

 その心細さが、トワには痛いほどに分かった。自分の作り上げたものが人を不幸にする感覚や技術者の性は分からない。けれど、一筋の光も見えない中で歩き続ける辛さだけは身に染みている。

 それは、トワ自身が抱えるものに通じるものだったから。

 

「分かってはいるんだけどね……本当、どうしたもんかな」

 

 きっとジョルジュはこのままだと博士の影から逃れることはできないだろう。例え縁を切ってどこか遠くに去ったとしても、技術者としてある限りその影はどこまでも付きまとう。彼が確固とした一人の技術者としての道を見出さない限り。

 そう分かっていても、トワは掛けるべき言葉が見つからなかった。彼女自身もまた迷いのさなかにいるというのに、どうして他者に対して答えを与えることができるだろう。

 二人して俯き、考え込んでしまう。その時、視界の中に導力ラジコンが滑り込んできた。

 

「ようジョルジュ……って、どうしたんだよ。そんな辛気臭い顔して」

「グレゴさん」

 

 場違いな明るい声。導力ラジコン開発者の片割れが、トワたちが座るベンチの方にやってきていた。遊び回っていた方からこちらに来たら、その雰囲気の落差に驚きもするだろう。我ながら陰鬱になっていた自覚があった。

 

「いえ……ちょっと悩み事があって。それより向こうはいいんですか?」

「お前のダチのクロウが面白いゲームを教えてくれてな。ラジコンの試験は一旦中断だ」

「ゲームって……ああ」

 

 何をしているのかと思って目を向けてみれば、いつの間にやら地面にカードを広げているクロウたち。ルーレに来る列車の中でもやっていたクロウが布教中のカードゲーム《ブレード》である。ラジコンは実験という名目があったものの、これでは完全に遊んでいるだけである。今更とやかく言う気はないけれど。

 ただ、せめてテーブルがあるところでやるべきじゃないかなぁ、とは思う。初心者のハーヴェスをカモにしているのか、悲痛な叫びとクロウの悪役染みた高笑いを聞いていると、グレゴが導力ラジコンのコントローラーを差し出してきた。

 

「というわけで、ジョルジュたちもそれを試してみてくれよ。無線の範囲とか操作のレスポンスとか、まだ色々と試行錯誤しているところだからさ」

 

 半ば押し付けるようにコントローラーを渡される。おっかなびっくり触ってみれば、なるほど、確かに操作に対して動作が少し鈍い気もする。この小さいボディに無線通信を搭載して、更に正確な動作が可能なだけでも凄いことであるのは間違いないのだが。

 そんな縦横無尽に地面を走り回るラジコンを見て、ジョルジュがぽつりと疑問をこぼした。

 

「グレゴさんは……その、自分が作ったものがどうなるか考えたことがありますか?」

「うん?」

 

 要領を得ない様子のグレゴ。そんな彼に、ジョルジュは躊躇いがちに言葉を続ける。

 

「この導力ラジコンは凄く面白いものだと思いますし、いい発明なのは確かです……けど、ひとたび軍事利用しようと思えば幾らでも使えてしまう。単純に爆弾を積むだけでも脅威ですし、無線操作を発展させたら戦車の無人操作もできるかもしれない……そんなことを考えたことはありますか?」

 

 人の発明品にケチをつけるようなことを言うのは本意ではないのだろう。申し訳なさそうでありながら、しかし、どうしても聞いておきたいことが伝わってくる面持ちにジョルジュはなっていた。

 うーん、と頭をかくグレゴ。さして気を悪くした様子もなく、彼は軽い調子で口を開いた。

 

「ぶっちゃけ、あんまり考えたことないな。そういう使い方もジョルジュに言われるまで思いつかなかったし……あ、でも無人戦車っていうのは何かロマンを感じたりもするなぁ」

 

 なんとも気の抜けた返答にトワとジョルジュは揃って「「えぇ……」」と思わず白い目を向けてしまう。こちらとしては真面目な話のつもりだっただけに尚更である。流石に気まずいものを感じたのか、グレゴは咳払いをして仕切りなおす。

 

「ま、まあ真面目な話をするとさ。仮に俺たちの作ったものがそういう風になったとしても、世に出た後の使い道は俺たちの手から離れちまっているんだ。どうにもならない後先のことを考えるより自分の好きなものを作りたいとは思うよ」

「そう、ですか。やっぱり、そういうものなんでしょうか」

 

 それは、ある意味で真理なのだろう。例え開発者が全く意図していなかったとしても、まるで別の発想から人を傷つける手段として用いられる可能性をゼロにすることはできない。だから、あれこれ考えるよりも自分が好きなものを好きなように作る。その選択は間違っていないだろうし、きっと否定することもできない。

 だが、同時にそれはシュミット博士のやり方を認めることでもある。ジョルジュとて博士のことを否定したいわけではない。けれど、博士と同じ道を行くことに抵抗を感じる身としては、グレゴの答えは意に沿うものではなかった。

 やはり、考えるだけ無駄なことだったのだろうか。意気消沈しかけるジョルジュ。

 

「それにさ、やっぱどう使われるかより、どう使ってほしいかっていうのが大事じゃないか」

 

 そんな彼の様子に気付かぬまま、何気なく放たれたグレゴの言葉にジョルジュは顔をあげた。

 

「どう使ってほしいか……?」

「あれ、なんか変なこと言ったか? このラジコン開発だって戦争に使われるかもー、とか考えていたらモチベーション上がらないだろ。どうやったら楽しく遊んでもらえるか考えなきゃ、やる気もアイデアも湧いてこないって」

「それは……その通りですね、はい」

 

 言われてみれば当たり前のことだ。むしろ、どうして言われるまで思い至らなかったのかと聞かれても仕方がないレベルである。だが、実際のところトワとジョルジュの頭からはすっぽりと抜け落ちていたことであり、二人ともなんとなく頷くくらいしか反応できなかった。

 

「あー、要するにアレだ。もっと自分の気持ちに素直になった方がいいと思うぜ。小難しいことばっか考えていると禿げちまうぞ」

 

 あまり真面目な話は得意ではなかったのだろう。照れ隠しのように冗談めかすと、グレゴはさっさと踵を返してクロウたちの方に戻っていった。最後に「ラジコンの感想よろしくなー」と言い残していくのは忘れなかったが。

 しばらくその背中をぼんやりと眺めつつ、頭に残る言葉を咀嚼していく。どう使われるかより、どう使ってほしいか。確かにそれもまた、真理であることに変わりはない。どう使うかという当初の目的がなければ、そもそも開発することもないのだから。目的に対する効果を最大化するためにも、機能もそれに沿って最適化されていくのだろうし。

 思えば、トワたちは極論で考えすぎていたのかもしれない。シュミット博士という先鋭化した例を前にして、自分たちもまた極端な前提の中に囚われてしまっていたのではないか。本当は、もっと単純なことだったのではないか。

 なら、ジョルジュが答えを探すべき問いかけも見えてくる。

 

「ね、ジョルジュ君」

「え……な、なんだい?」

「ジョルジュ君はさ、どうして導力技術を学ぼうと思ったの?」

 

 ジョルジュの瞳が揺れる。彼が技術者の道を志し、そして道を歩む中で霞んでしまったのだろう、その原点。最初に抱いた純粋な気持ちこそが、きっと彼の道を照らしてくれる。そんな確信がトワにはあった。

 

「急いで答えを出さなくてもいい。じっくりと考えて、納得いくまで探し続けて、その先にあった答えが、きっとジョルジュ君にとって一番大切なものだから」

「トワ……」

「ほら、せっかくだからクロウ君たちみたいにラジコンで競争してみよう。遊んですっきりした後の方が考えもまとまるかもしれないし」

 

 先ほどまで悶々と考え込んでいたのだ。そこから更に考えようとしてもあまりよろしくない。時には気分転換も必要なのである。ちょうどいい道具も手元にあることだし、ちょっとくらい羽目を外しても罰は当たるまい。いつもはブレーキをかける側だが、トワもこの手の遊びは好きなタイプだった。

 ベンチから立ち上がり、コントローラーを手にまずは慣らし運転。思い通りに動かすには意外とコツがいりそうだ。むむ、と割と真剣にラジコンの操作に集中するトワ。そんな彼女を見て、ジョルジュは薄っすらと微笑んだ。

 

「敵わないなぁ、ほんと」

「え、何か言った?」

 

 トワには何と言ったかは聞こえなかった。ジョルジュもわざわざ言い直したりはしない。ゆっくりと立ち上がると、彼もまたラジコンのコントローラーに手をかける。

 

「いや……ただ、競争なら僕も手を抜かないからね」

 

 数分後、華麗なドリフトを決めるジョルジュのラジコンに唖然とするトワの姿があったとか。

 



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第30話 己の足で

仕事(とスプラトゥーン2)が忙しくて投稿が遅くなってしまいました。閃Ⅲも勿論プレイしていますので今後も更新が安定しない予感。気長にお待ちいただけたら幸いです。


「別の用件とやらは終わらせてきたのだろうな? ここから先はテストに専念してもらうぞ」

 

 ARCUSの調整が終わると言われていた目安、正午過ぎを狙って戻ったシュミット博士の研究室。期せずして得た息抜きの時間によってリフレッシュしたトワたちとは対照的に、昨日から変わりない気難しい博士の顔が出迎える。

 彼が研究以外に何か気を向けるものはあるのだろうか? ふとそんなことを思ったが、聞いたとしても絶対にまともな返答は期待できないに違いない。藪をつついて蛇を出したくないので疑問は胸の内に仕舞っておく。

 代わりと言っては何だが、別の質問を投げかける。聞いても怒られず、且つ、必要な質問を。

 

「それはもちろん大丈夫ですけど……えっと、テストというのは昨日のような模擬戦を?」

「そうなると色々と手間がかかるので、すぐというわけにはいかないのですが」

 

 昨日と同じく領邦軍に模擬戦の相手を頼むのであれば、あまりいい顔をすることはできない。昨日の時点で無理を通してお願いしたのだ。続けて今日も、というのであれば絶対に不可能とまでは言わないが相当に難しいと言わざるを得ない。

 かといってシュミット博士が譲歩するとも考えられないので、アンゼリカはかなりマイルドな表現でそのことを伝える。無理とは言っていないのが肝である。そんな彼女にしては珍しい配慮を博士は徒労に帰させる。

 

「その必要はない。昨日の模擬戦は詳細なデータを観測する必要があっただけのこと。今日のところはまず所感が得られればいい。魔獣程度で十分だろう」

 

 四人そろってこっそりと息を吐く。気遣いの意味がなかったことへの肩透かし半分、余計な苦労がなくなったことへの安堵半分。自分本位な博士に振り回されていることを嫌でも自覚してしまう。

 けれど、と気を取り直す。振り回されてはいても結果的には楽になったのだ。魔獣を相手にするのならば街道に行くだけで事は済む。再びログナー邸に赴いてこっそりと領邦軍に協力を仰ぐより遥かに気が軽い。そう前向きに考え直すことで、トワは疲労感を誤魔化すと博士に向き直った。

 

「分かりました。何か指定とかはありますか?」

「貴様たちの好きにして構わん。だが、いい加減な報告は認めんぞ。あとの予定も押している。手早く済ませてくるように」

 

 その二律背反の要求こそが最も難しいのではないか。そんな思いをぐっと飲みこんで頷き返す。言っても何も変わらないのは目に見えていたからである。

 

「では、早速――」

 

 だから手早く行動に移ろうとして、そこでトワたちは動きを止めざるを得なくなる。

 突如、街から音が響き渡った。耳に響く、大音量のそれ。街中に聞こえるように流されるサイレンの音がシュミット博士の研究室にまで轟いてきていた。

 何か危急の事態が起きているのか。表情を険しくしたトワが地元であるアンゼリカとジョルジュを見る。

 

「街道門に備え付けられた緊急用の警笛だ。滅多なことでは鳴らないはずだが……」

「ぼ、僕もメンテナンスの確認時にしか聞いたことがないよ。いったい何があったんだろう?」

 

 何の音かは分かったが、どうして鳴っているかは二人にも見当がつかないようだった。嫌な予感が胸の中で膨らむのを感じる。実習の後半になって厄介ごとが起きるのは最早ジンクスになってきている感じさえあった。

 自分たちはどう行動するべきか。緊急事態を知らせるサイレンを耳にしながら考えていると、そこに舌打ちの音が混じる。その源を辿れば、あからさまに不機嫌な表情をしたシュミット博士の顔があった。

 

「耳障りな……貴様ら、さっさとあれを止めてこい」

「えっ」

「こう騒がしくては研究に差し障ると言っている。テストのついでにあの喧しい警笛もどうにかしてくるがいい」

「んな無茶苦茶な……」

 

 緊急用のものが鳴っているということは何かしら街に危険が迫っているのだろう。そんな状況下においても、自身の研究を第一に置くシュミット博士の変わらない姿勢には清々しささえ覚える。それに巻き込まれる側としては堪ったものではないが。

 

「止める云々はともかく、ここで手をこまねいていても仕方がない。まずは様子を見に行くとしようじゃないか」

 

 どうするか決めかねるトワに、どこか落ち着かない様子のアンゼリカが進言する。首を縦に振れば今にも飛び出していきそうな彼女の意見をトワは落ち着いて吟味した。

 確かに、ここにいても状況は良くならないだろう。何が起きているかわからないし、何より加速度的に不機嫌になっていくシュミット博士と同じ空間にいるのは精神衛生的によろしくない。まずは状況を確認しに出向くことについては賛成できる。

 だが、状況が確認できたところで何ができるかは分からない。自分たちはあくまで学生、不用意な行動は褒められたものではない。その意味で普段より前のめりに感じるアンゼリカの様子には少し不安が残った。

 

「……うん、とりあえず様子は見に行こう。でも勝手なことはしちゃダメだよ。領邦軍にも面子とかがあるだろうし」

「帝都の件でそれは今更って感じもするがなぁ」

「あれは他にできる人がいなかったから仕方ないの」

 

 クロウの茶々に屁理屈染みた言い訳を返す。帝都に放たれた魔獣の退治まではともかく、地下水路への突入はクレア大尉に苦言を呈された通り独断専行の気は否めない。けれど、そこまで回す他の手がなかったことも事実である。

 今回の件に関しては、まだ自分たちの手まで必要な事態かは分からない。精強のノルティア領邦軍なら助力など必要ない可能性の方が高いだろう。

 だが、どうしてだろうか。トワは否応もなく事態の渦中に飲み込まれる予感がしてならなかった。

 

「博士は念のためここで待っていてください。僕たちが戻って来た時にいないと困りますし」

「ふん、もとより出歩くつもりはない。さっさと片付けてこい」

 

 ジョルジュの一応は師の身を案じての言葉に当人は素っ気ない。それに肩を竦め、トワたちは研究室を辞して街へ急ぐ。サイレンの音が彼女たちを追い立てるように響き渡っていた。

 

 

 

 

 

 ルーレの街中に飛び出してまず感じたのは、市民の動揺からくるざわめきだった。常ならぬことに不安は蔓延しているが、パニックにまでは陥っていない。どうやら市内に直接的な害が生じる問題が起こっているわけではなさそうだ。

 となると、怪しいのはサイレンの出処である街道門。帝都へ繋がる黒竜関方面か、それともザクセン鉄鉱山に繋がる山道方面か。どちらに向かうか考えていると耳元で囁かれる。

 

『上から見た感じ、山道方面が騒がしそうなの。たぶんそっちだと思う』

 

 気を利かせたノイが上空から見た様子から当たりを付けてくれた。ありがと、と小さく礼を言ってトワは皆を先導するように走り出す。エスカレーターをすっ飛ばすように駆け下りて騒動の根源たる山道へ。街道門から急いで遠ざかっていく市民の流れに逆らい、たどり着いたそこでトワたちは目を見開いた。

 街道門を守るように立ち塞がる領邦軍の背中。その先で相争う魔獣の群れに、トワたちは警報の原因を理解する。

 

「おいおい、最近の魔獣は発情期かなんかなのか? ゆく先々でこんなことばっかじゃねえか……」

「さてね。そこら辺の実態は置いておくとして――君、状況はどうなんだい!」

 

 前回、前々回の実習に続いて、またもや魔獣騒動に巻き込まれることになって辟易とした様子を隠さないクロウ。アンゼリカも内心では同じ心持ちのようだ。苦い表情を浮かべるや、すぐさま後詰めの兵に状況を確認せんとする。

 

「こ、これは姫様! こちらは魔獣が押し寄せて危険ですので……」

「見れば分かる! どこからこんな大群が来たのかと聞いているんだ!」

 

 突如として現れた令嬢の姿に慌てる兵士にピシャリと言い返す。反射的に背筋を伸ばした彼は従順であった。

 

「はっ! 守衛の報告によりますと、鉄鉱山方面から何の前触れもなく現れたとのこと。現在、即応部隊が防衛中。装甲車含む増援部隊が到着次第、殲滅に移ることとなっております!」

 

 兵士の報告にトワたちは自然と眉をしかめる。何の前触れもなく突如として現れる大量の魔獣。先月の帝都における魔獣騒動と符合するものを感じてしまうのは当然だった。あの時の首謀者は結局、手掛かりさえつかめていない。もしや今回も――という考えが頭をよぎる。

 しかし、現在の街道門の状況を改めて見るに、被害の拡大という点についてはあまり心配する必要はないように思えた。領邦軍は防戦を心掛けて戦線の維持に努めており、大火力の増援が来るまでの時間稼ぎに徹する堅実な戦いを見せている。さすがは精強なノルティア領邦軍というべきか、数で攻めかかる魔獣相手にも崩れる様子はない。

 

「アンちゃん、ここは領邦軍の人たちに任せよう。下手に手を出すわけにもいかないし」

 

 安定した戦況にトワたちが首を突っ込んでも、かえって戦列を混乱させてしまうだろう。装甲車が到着したときに魔獣のど真ん中にいては機銃を向けるのも遅らせてしまう。客観的に考えて、ここでトワたちが動く必要はなかった。

 アンゼリカも「むう」と肩透かしを食らったように唸りながら前のめりな姿勢を解く。令嬢自ら防衛にあたるつもりだったのか、理由に納得はしても少し不満げな表情であった。

 

「些か口惜しいが、仕方ないね。お手並み拝見させてもらうよ」

「はっ、お任せください」

 

 やけにやる気に満ち溢れているアンゼリカだが、考え無しに突っ込むような愚行はしない。渋々といった様子で肩を竦め、この場を託する兵より敬礼を受ける。

 幸いにして、今回は小規模な騒動で収まりそうだ。まだ事態は動いているさなかとはいえ、解決の見通しは立っていることからトワは胸をなでおろす。緊張で体に張っていた力も抜けていった。

 そんな風に気を抜いてしまったのがいけなかったのか。耳を叩いた異音にトワは空を見上げた。

 

「何か来る! 気を付けて、皆!」

「何かって――って、おいおい!?」

「で、デカい!」

 

 それは、巨大な翼であった。

 山峰の陰より姿を現した猛禽の特徴を有する鳥型魔獣。言うなれば、魔鷲とでも呼ぶべきそれは双翼を羽ばたき悠然と空を舞う。はるか上空を舞う相手を押しとどめる手段をトワたちは持ち合わせていない。自分たちに影を落としながら、ルーレ市内に悠々と侵入した魔鷲を彼女たちは見送るしかなかった。

 あの方向からして、おそらく行き先はルーレ空港。トワたちや領邦軍の顔に焦燥が浮かぶ。

 

「馬鹿な……あのような魔獣が山道にいるはずがない!」

「そんなことを言っている場合か! あちらの迎撃に避ける戦力はないのか!?」

 

 アンゼリカの詰問に兵士は苦渋の面持ちとなる。街道門の戦局は安定しているとはいえ、戦力に余裕があるとは言えなかった。魔獣の大群の侵攻を防ぐにはこちらも数をそろえなければならず、討ち漏らしや負傷者が出た場合に備えて後詰めから戦力を割くのも不安が残る。

 言葉にせずとも、無言のうちにアンゼリカはそれを理解した。そして彼女と行動する者たちも、同じく理解するとともに勇猛な令嬢である友人の考えを察する。こうとなってしまっては止める理由はなかった。

 

「くっそ! 疫病神でも憑いているのかよ!?」

「アン、先に行っているよ!」

 

 だから口にされなくても先に行動に移る。毎度の騒動に文句を叩きつつも全速力で走りだす男子たち。その背中をやや驚いたように見つめるアンゼリカに、トワは手を差し伸べる。

 

「行こう、アンちゃん!」

「――恩に着る!」

 

 余計な言葉はいらない。それだけの絆を彼女たちは既に培っていた。

 街道門より取って返し、ルーレ空港に急行するアンゼリカたちの背中に「ご武運を!」という兵士の声が響いた。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「な、なんだって言うのよ、一体……!」

 

 その光景を前にして、アリサ・ラインフォルトは思わず悪態をついていた。

 ルーレ空港は阿鼻叫喚の様相を呈していた。突如として市内に響いた警報、そして空港に襲い掛かってきた巨大な鳥型魔獣。停泊していた飛行船に降り立ち、翼を広げて威嚇の声をあげる魔鷲に群衆はあっという間に混乱に陥った。

 

 気分転換に、と特に目的もなく歩いていたところに居合わせたアリサは歯噛みする。せめて弓を持っていれば注意を引くことくらいはできたのに、と。しかし、今の彼女は丸腰。他の人たちと一緒に一刻も早くこの場から離れることが先決であった。

 だから空港の出口に向けて駆けだそうとした。だが、その足取りは数歩いったところで止まってしまう。

 

「うっ……ぐすっ……」

 

 転んだまま、涙を浮かべて動けなくなっている男児を見つけてしまったから。

 

「――ああ、もうっ!!」

 

 踵を返す。魔鷲に近づくことになってしまうのにも構わず、まっすぐに男児の元へ。駆け寄ってきたアリサに男児は驚いたような表情を浮かべる。

 

「お、お姉ちゃん……?」

「大丈夫!? 怪我はしていない!?」

「ぐすっ……走っていたら転んじゃって、ママともはぐれて……」

 

 逃げ惑う群衆に巻き込まれて転倒してしまったのだろう。母親も流れに逆らえずに子どもを取り残していくことになってしまったようだ。見れば、かなり派手に膝を擦りむいてしまっている。幼い子にこれは痛かろう。不安と痛みで動けなくなってしまうのも仕方がなかった。

 かといって、ここでグズグズしているわけにもいかない。男児を少しでも安心させようとアリサは無理やり笑顔を浮かべて励まそうとする。

 

「大丈夫よ。私がママのところにちゃんと連れて行ってあげるから。ほら、お姉ちゃんの背中につかまって」

「うん……あっ」

 

 涙をぬぐった男児は、そこで動きを止めてしまった。目が行く先はアリサの肩の向こう。振り向いてその行方を追ったアリサは、彼と同じくしてその身を固めてしまう。

 魔鷲がこちらを見ていた。周囲を威嚇するのを打ちとめ、逃げ遅れた矮小な存在を真っ赤な双眸で睨み据えていた。

 

(やばっ……!)

 

 魔鷲の胸が膨らむ。嘴の隙間から漏れ出る火炎。生命の危機を直感したアリサは、しかし保身のために動かなかった。

 彼女が咄嗟に取った行動は、男児をかき抱いて少しでも襲い来る炎から守ろうとすること。それは意識してのものではなく反射的なものだった。魔鷲の口腔より炎が放たれる。背中を焼く熱が迫るのを知覚し、アリサは固く目を閉ざす。

 だが、それよりも前に覚えのある声が耳に届いた。

 

「よく頑張った、アリサ君。後は任せたまえ」

 

 え、と戸惑いの声が口からこぼれる。それが音となって自身の耳に届く前に、凄まじい突風がそれをかき消した。激しく吹きすさぶ風が止む。熱はもう感じなかった。おそるおそる目を開き、アリサは目の前に立つ背中に驚きを露にした。

 白い制服、紫紺の髪。麗美な印象を与え人を虜にするその人は、拳を振り抜く形で魔鷲と相対していた。

 

「あ、アンゼリカさん!?」

「久しぶりだね。その様子だと元気そうだ。間に合ってよかったよ」

 

 拳を解いてひらひらとさせながら肩越しにアンゼリカが笑いかける。そこでアリサは気付く。今まさに迫っていたはずの火炎を彼女がどうやって防いだのか。単純な話だ。この型破りな知人は拳圧をもって炎を吹き飛ばしてみせたのである。

 

(あ、相変わらず滅茶苦茶な……)

 

 名門中の名門の貴族子女であるはずなのに、なぜか格闘術に精通していたり家出騒動を繰り返したりするアンゼリカ。そんな彼女と家の関係でそれなりに付き合いのあるアリサは、その変わらなさに驚き呆れてしまう。そのおかげで助かったことも間違いないのだが。

 とはいえ、状況はいまだ危険なことに変わりはない。ひとまず立ち上がろうとし、目をあげた先で映った光景に悲鳴を上げる。

 

「アンゼリカさん、危ない!」

 

 火炎が効かなかったことを認めた魔鷲が次の手を打った。その巨大な翼を無造作に振るい、飛行船に積まれていたコンテナが散り散りに飛散した。迫りくる鉄塊を炎と同じように拳一つでどうにかできるとは思えない。

 だが、アンゼリカは動かなかった。冷や汗の一つさえ浮かべず、変わらず笑みをたたえている。それがなぜなのか分からず焦りを募らせるアリサの視界に、大柄な青年の背中が割って入ってきた。

 

「どっせええええいっ!!」

 

 裂帛の気合と共に振るわれた青年の鉄槌とコンテナが衝突する。耳を貫くような轟音を立ててコンテナが吹き飛び、空港の一角に土煙をあげて突っ込んでいった。再び窮地をしのいだ安心感に浸る余裕もなく、アリサは男児と同じくしてやけに機械的な鉄槌を担ぐ大きな背中を眺めることしかできない。

 

「ちょっとアン、少しは避ける動きを見せてくれないかい? こっちは冷や冷やもんだよ……」

「なぁに、君が間に合うと分かっていたからね。なら避ける必要もないだろう?」

「信頼は嬉しいけどねぇ」

 

 飄々と宣うアンゼリカ、苦みが混じった笑みを浮かべる青年。そのやり取りにアリサは少なからず驚いた。アンゼリカはもともと貴族という壁を感じさせない気さくな人柄ではあるが、これは違うと感じる。もっと親密な、背中を預けあう者たちの間柄だ。

 アンゼリカは帝都近郊の士官学院に進学したと聞いている。そこで友誼を結んだ相手なのだろうが――アリサはそのことに、羨望に似た感情を抱いていた。

 

「そこの子は知り合いかい? 早く逃がした方がいい。今ならトワとクロウが引き付けてくれているからね」

 

 言われ、アリサは聞こえてきた銃声にはっと魔鷲の方を見上げた。襲い来る銃弾を鬱陶しそうに払う魔鷲の足元から、小さな影が駆け上がり刃を振るう。身の危険を感じた魔鷲が暴れまわれば、飛行船の上を縦横無尽に跳び回って撹乱する。魔鷲の意識は完全にアリサたちから逸らされていた。

 おそらく、あそこで戦っているのもアンゼリカの仲間なのだろう。あれほど頼れる仲間がアンゼリカにはできたのかと再度の驚きを覚える。そしてやはり、そのことがたまらなく羨ましかった。

 

「と、いうわけだ。アリサ君、こちらは任せてくれたまえ。君にはその子を母親のところに送り届けるという大切な仕事があるのだからね」

「~~っ! ああもう、分からないことだらけだけど分かりました! 今度ちゃんと説明してくださいよ!」

 

 今も腕の中で震える男児のことを持ち出されては敵わない。色々と聞きたいことはあったが、それを胸の内にしまい込んで、男児を背負って走り出す。普通ならあの場に残ったアンゼリカの心配をするところだろう。しかし、仲間とともにいる彼女なら大丈夫だろうという漠然とした予感があった。

 

 そう、仲間だ。アンゼリカはルーレを飛び出していった先で信頼する仲間を得ていた。

 それに比べて自分はどうだろう。仕事に目を向けない母に鬱憤を募らせ、結局は母に味方する姉貴分に不満を抱き、かといって文句を垂れるばかりで何もできないでいる自分がいる。

 アンゼリカはルーレにいた頃と変わっているように見えた。彼女も以前は家への不満を募らせていたが、無軌道な反抗に終始しているように思えた。だが、きっと今は違うのだろう。今の彼女の眼には、以前にはない明確な意思の光があった。

 仲間を得た、変われたアンゼリカがどうしようもなく羨ましかった。

 

「私も――」

「お姉ちゃん?」

「……ううん、なんでもない。さ、早くお母さんを探しましょう」

 

 自分も変われるだろうか。ここから飛び出して、母の手の内から外に行く勇気を持てば。

 胸に湧いた願望を今はしまい込む。まずはこの子を無事に親許へ連れて行かなければ。家族がバラバラになる辛さは身をもって知っている。だからこそアリサは懸命に駆けていった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 放たれた火炎をトワは的を絞らせない小刻みな動きでしのいでいた。飛行船上のコンテナ群を跳んで回り、船首の鉄柵に辿り着くや赤熱し溶解するそれを尻目に切り返す。ちょこまかと目障りな外敵に業を煮やしたか。艦橋に陣取っていた魔鷲が再び飛翔する。

 思わず苦虫を噛み潰したような表情になる。あのまま動かないでいてくれたら楽なものを、空に場を移されては反撃の糸口は細くなってしまう。自分では《神風》で斬撃を飛ばすくらいしかできない。ここが街中でなければ、ノイに四季魔法で応戦してもらうところなのだが。

 頭上より降り注ぐ火炎にトワは思考を中断する。飛ばれてしまった以上、飛行船の上に留まる意味はない。彼女は鉄柵が燃え溶けた船首から飛び降り、援護射撃をしていたクロウと合流する。

 

「ね、あれ届きそう?」

「無理だな。ありゃライフルとか機関銃の射程だぜ。おまけに図体のわりに機敏ときてやがる」

 

 ぼやくように問いに答えるクロウ。うんざりとした目で空舞う魔鷲をにらみつけるが、相手はそう都合よく降りてきてくれそうになかった。

 さて、どうしたものか。

 油断なく魔鷲を、見据えながら頭を回転させるトワ。攻撃が届かないなら、まずはなんとかして空から引きずり落とすしかない。その手段をどうするかというと、やはりノイに頼らざるを得なくなってしまうが――

 考えを巡らせるうちにアンゼリカとジョルジュが駆け寄ってくる。逃げ遅れた市民の救助は問題なく済んだのだろうか。

 

「こちらは万事つつがなく、だ。さあ、あとは偉そうに空に陣取る奴を何とかしようじゃないか」

 

 目線でトワの聞きたいことを察したアンゼリカは歌うように答える。状況に反して軽い言葉に、クロウが「つってもなぁ」と応じる。

 

「射程範囲外じゃどうしようもねえ。どうにか叩き落す手がいるぜ」

「あの高度に届く攻撃というと……」

 

 三人の目線がトワに、さらに言うなれば、彼女の傍にいるだろうノイに向けられる。

 導力魔法では上空からの火炎で駆動を阻害されかねず、確実性に欠ける。対してノイならば、空も飛べれば透明化の四季魔法で魔鷲にも察知されていない。不意の一撃を叩き込むにはうってつけの人材だ。

 トワは周囲に視線を巡らせる。先ほどアンゼリカとジョルジュが避難させたのが最後の市民のようだ。他に人気は感じられない。多少、摩訶不思議なことが起こっても問題ないだろう。

 

「ノイ、お願いできる?」

『任せるの!』

「そうこなくてはね。では――っと!」

 

 上空からの熱気にトワたちは散開する。甲高く鳴きながら炎の雨を降らす魔鷲を注視しながら、ばらばらに駆ける仲間たちにトワは声を張り上げる。

 

「ノイの一撃の後が最大のチャンスだよ! 戦術リンクで一気に畳みかけて!」

 

 応、という三人からの返答を聞き届け、まずは炎を避けるのに集中する。ノイの気配は既に隣にはない。空に舞い上がった妖精は炎を避けて大回りに魔鷲へと近づいて行っているのだろう。

 言った通り、ノイが魔鷲を叩き落した後がチャンスだ。だが、同時に仕留める機会はその一回限りしか望めないということでもある。ひとたびノイに気付かれてしまえば、再び魔鷲を地に下すのは困難になる。この機を逃せば被害の拡大は免れない。

 だからこそ万全を期する。万が一にもノイに気付かれぬよう、無駄と知りつつも剣閃を放ち魔鷲の注意を引く。即座に反撃に打って出られるよう、仲間の状況に気を配ることを怠らない。

 

 そして、そのときは訪れる。魔鷲の頭上を取ったノイが姿を現し、掲げた手の先に金色の歯車が現出する。

 

「これでも――食らうの!」

 

 振り落とされた質量の暴力が魔鷲の頭蓋を襲う。強かに脳を揺さぶられて意識を混濁させた魔鷲は、身動ぎさえできずに墜落する。巨体が地に堕ち地響きが足元を揺さぶる。身を屈めてそれを凌ぎ、訪れた最大のチャンスにトワは号令を下す。

 

「みんな、今だよ!」

 

 待ち望んでいた好機。トワたちの動きに淀みはなかった。墜落した魔鷲に集中攻撃を仕掛け、戦術リンクの連携をもってして反撃を許さずに撃滅する。今までの試験実習を経て絆を深めた自分たちにならできるという自信があった。

 ――そう、本来ならば、出来るはずだったのだ。

 

「ぐっ……!?」

「な……んだ、こりゃ!?」

 

 戦術リンクを結んだ瞬間、それは起こった。

 普段ならば仲間との繋がりを通じて意識が拡張されるような感覚が、今回は違った。まるで無理やり型に押し込められたような感覚。繋がりは感じるが、有無を言わさず強引に繋ぎ止められたような窮屈さと不快感。十全さとは程遠いそれに、トワたちの足は小石に躓いたかのように勢いを削がれる。

 その隙は最低限のものに留められた。だが、それでも千載一遇の好機を前にして相手にわずかでも時間を与えてしまったのは致命的な失態であった。

 

「駄目! みんな離れるの!」

 

 手傷を与えることはできた。手傷を与えることしかできなかった。決定的な一撃を見舞う前に魔鷲は体勢を立て直し、双翼を振り回して鬱陶しい外敵を振り払う。再び上空に舞い上がられてしまい、四人は一様に歯噛みした。

 考え得る限り最悪の展開だ。まさか、こんな形で戦術リンクの調整が仇になるなんて。

 

「……何なんだい、今のは? シュミット博士の言う調整とは改悪のことだったのかい?」

「いや、まさか……そうか、そういうことか!」

「おい、一人で納得してねえで――うおっ!?」

 

 怒気の混じったアンゼリカの問いに、ジョルジュは戸惑いの後にハッとして声をあげる。何かに気付いたのか。それを聞き出す前に状況は更に悪化した。

 不意を突かれ、手傷を負った魔鷲が怒りに嘶く。四方八方に炎をまき散らし、空港を火の海にせんとばかりに猛り狂う。吹き荒れる熱波を前にしてトワたちは近寄ることさえままならない。

 

『こんなんじゃ近寄れないの! このままじゃ……!』

 

 再度の接敵を試みるノイも、その暴れように音を上げる。ここで打倒することはもはや不可能だ。

 空港に回っていく火の手。市街とは隔てられた空間であることが幸いして燃え広がる可能性は低そうだが、不味い状況であることに変わりはない。飛行船の導力機関が熱暴走して爆発なんてしたら洒落にならないことになる。

 どうにかしなければ。されど成す術がない。

 ひときわ大きく膨らむ胸郭、漏れ出す火炎に空は陽炎に歪む。万事休すか。そう冷や汗を流した時だった。

 

撃てぇっ(Feuer)!!」

 

 腹の底に響く重音が空を震わせた。閃く火線。装甲車の機銃から放たれた銃弾の嵐が魔鷲に襲い掛かった。

 自らを脅かす危険に対する魔鷲の動きは迅速なものだった。怒りに駆られて暴れていたのを忘れたかのように、破壊の手を止めるや身を翻して銃弾に空を切らせる。不利を悟ったのだろう。そのまま上空に羽ばたいてルーレから離脱していった。

 

「あの方向……やっぱりザクセン鉄鉱山から?」

「だろうね。それはともかく――」

 

 魔鷲が飛び去った先を推察し、表情を曇らせるトワ。言葉は軽くとも、それに厳しい面持ちで応じたアンゼリカは、装甲車から駆け寄ってくる人物に向き直る。街道門で防衛にあたっていた兵士の一人だった。

 

「姫様、ご無事ですか!?」

「見ての通り、五体満足だとも。手こずりはしていたけどね。来てくれて助かったよ」

 

 大急ぎで駆けつけてきたのか荒い息で安否を確かめてくる兵士は、そこでようやく胸をなでおろした。侯爵令嬢に大型魔獣を相手取らせていたのだ。これが普通の反応である。へっちゃらな顔をしている本人がおかしいだけだ。

 辛うじてとはいえ、魔鷲は無事に追い払えた。しかし、それに安堵している暇はない。表情を引き締めたアンゼリカが兵士に指示を飛ばす。

 

「何はともあれ、まずは空港の消火だ。そちらは頼めるかい?」

「それは勿論ですが……姫様は?」

 

 魔鷲が去ったとはいえ、今なお燃え続ける炎を消し止めるのは当然の急務。そのことに疑問を挟む余地はないが、兵士は首を傾げた。アンゼリカの言いようが、自分には別にやるべきことがあるように聞こえたからだ。

 

「私はこのままザクセン鉄鉱山に向かう。親方たちの無事を確かめないといけないからね」

 

 その言葉に兵士は瞠目し、反してトワたちは肩を竦めるに留まった。なんとなく、そんな気がしていたからだ。

 

「ま、そうなるわな。大挙して押し寄せてきた魔獣の出処だ。何事もないわけがねえ」

「鉱山でも魔獣対策はしているだろうけど、あの大群だとどこまで効果があるか……早急な救援が必要なことは間違いないよ」

「私たちだけで、あの大型も含めた魔獣を鎮圧できるとは思わないけど、それでも偵察と鉱員の安全確保はできると思う。だよね、アンちゃん?」

 

 我が意を得たり、とアンゼリカは満足げに頷く。トワたちの言葉は彼女の考えている通りだったようだ。

 魔獣がやってきたと思しきザクセン鉄鉱山――より正確に言うならば、その奥のアイゼンガルド連峰だろうが――には、いまだ多くの鉱山作業員がいるはずだ。ルーレにまで雪崩れ込んできた魔獣が、彼らを見過ごしてきていると考えるのは楽観にすぎる。鉱山内は危険に晒されたままに違いない。

 かつてアンゼリカは家出の挙句に鉱山でバイトしていたという。当然、鉱員とも親しい関係を築いていたのだろう。そんな彼女が、彼らの危機を見過ごすはずがない――トワたちの推察はこれ以上ないほどに的を射ていた。

 

「昨晩はボリス子爵としこたま飲んでいたらしいからね。どうせ酒が残っていて立て籠もるくらいしかできていないだろう。悪いけど、もう少し付き合ってもらえるかい?」

 

 その問いに対して否やはなかった。お安い御用である。

 揃って首を突っ込む気満々な様子にポカンとする兵士。そんな彼にアンゼリカは不敵な笑みを向ける。

 

「と、いうわけだ。悪いが止めてもだからね」

「いえ、それは……小官としては、そのようなつもりはないのですが……」

 

 兵士の眼が右往左往する。立場上、止めなくてはならないことに思い悩んでいる――にしては、やけに緊張気味だ。言っては悪いが、アンゼリカがこのような勝手をいうのは初めてではないだろうに。

 まるで、何かと板挟みになっているような。

 トワがそう思い浮かべたとき、兵士はちらと後ろに視線をやって言葉を紡いだ。

 

「その……侯爵閣下がなんと仰るか……」

「なに?」

 

 彼女の眉が吊り上る。トワたちの耳朶を怒声が叩いたのは、その直後であった。

 

「アンゼリカァッ!!」

 

 つんざく怒号にトワは思わず肩を跳ねさせた。クロウとジョルジュも突然のことに目を白黒とさせる。ただ、その名を呼ばれたアンゼリカだけが、渋面を浮かべて近づいてくる男性に険しい視線を向けていた。

 その姿は(いわお)を連想させた。恵まれた体格、緩みなど一切残さないとばかりに鍛え上げられた肉体、そして短い黒髪を後ろに撫で付け髭を蓄えた厳格さを体現したかのような顔。ログナー侯爵家当主にしてアンゼリカの父親、ゲルハルト・ログナーその人は厳然とした空気を纏って目の前に立ち塞がった。

 

「これは父上。そんな大声を上げてどうかしましたか?」

「戯けたことを。目が離れたのをいいことに、好き勝手しておる放蕩娘に釘を刺しに来たまで」

 

 隠そうともしない皮肉の色に対して、ログナー候は至って平静に返した。しかし、それは言葉の上だけのこと。実際は青筋を浮かべて鬼の角でも生えてくるのではないかと思わせる形相に、アンゼリカの後ろに控えるトワたちは戦々恐々である。

 一方で、アンゼリカも父の言葉に眉をひそめた。放蕩娘であることを否定する気は更々ないが、今回の件に関して咎められる謂われはなかったからだ。

 

「おかしなことを言うのですね。魔獣に襲われた領民を救うことが悪だとでも?」

 

 より一層増していく険悪さ。だが、こればかりはトワも彼女の気持ちを理解できた。

 普段の行いはどうあれ、今回は逃げ遅れた市民のために体を張って魔獣に立ち向かったのだ。あの場で最も早く動けるのは自分たちだった。領邦軍の増援を待っていたら重傷者も出ていたかもしれない。アンゼリカは取り得る限り最善の選択をした。そう信じているし、それはトワも同意するところだ。

 それさえも否定するというのなら、アンゼリカにとってログナー候は到底許容できない相手になるだろう。今でさえ親子仲は劣悪の一言。これ以上は修復のしようもない関係になってしまうのではないかという予感があった。

 

「……ふん、それについては百歩譲って認めよう」

 

 ところが、ログナー候の反応は予想を裏切るものだった。

 怪訝そうに眉をひそめるアンゼリカ。違うというのならば、何のためにこの場に姿を現したというのか。

 その答えは「だが」と彼が続けた先に紡がれた。

 

「領邦軍の兵を勝手に動かしたばかりか、私用に用いたのを悪ではないとは言わせんぞ」

「げっ、ばれてやがる」

 

 思わず、といった感じで声を漏らしたクロウの横腹をジョルジュが小突いた。アンゼリカは渋面を浮かべるが、立て板に水とばかりに口をついていた皮肉は飛び出してこない。その件に関してはこちらの分が悪かった。

 トワは周囲に目を走らせる。既に領邦軍は消火に回っている。その中で、ログナー候の後ろに控える一群に見覚えのある顔を見つけた。

 侯爵と同じくらい厳めしい隊長と思しき人の隣に立つ、つい先日テストに付き合ってもらった副隊長。修正でも受けたのか。頬を腫らした彼はトワの視線に気づくと、ぎこちない口の動きだけで伝えてきた。

 

 めんご。

 

 どうやら心配する必要はないらしい。ふい、と目を逸らしてアンゼリカとログナー候のやり取りに目を戻す。

 

「へえ、よくご存じですね。そのような些事に気を止める暇があるとは思っていませんでした」

「ハイデルが告げ口してきおったぞ。貴様が兵を連れて行くのをRFビルから見たとな」

「チッ、あの窓際役員が」

「弟が姑息な男であることは否定せんが、それで貴様の行いが帳消しにはならんぞ」

 

 否定しないんだ、とアンゼリカ以外の三人は胸の内で呟く。ログナー候の弟――つまりアンゼリカの叔父に対する両者の評価は揃ってストップ安のようだ。険悪な仲なのに、そんなところだけ息が合うのが何とも言えない。

 背中に呆れ混じりの視線が刺さっていることなど素知らぬように、アンゼリカは一つ息を吐くと開き直った。

 

「いいでしょう。その件については素直に非を認めます。ですが、今は一刻を争う事態。このようなところで言い争っている場合ではないのでは?」

 

 正論と言えば正論だった。徐々に鎮火に向かっているとはいえ、いまだ火災の憂き目にあっている空港。そして、あの魔鷲もいまだ健在であり、鉱山が危険にさらされている可能性が高いとあってはのんびりしている暇はあるまい。手遅れになる前にすぐ動き始めるべきだろう。

 だというのに、ログナー候はそこから頑として動こうとしない。眉間に深い皺を刻み、娘を睨みつける双眸に宿る眼光は些かも揺るがない。

 

「ああ、そうだろう……だが、それに貴様が動く必要はない」

「なんですって?」

「勝手すぎるのだ、貴様は。そのような輩にどうして領民の安全を任せられよう」

 

 それは、領邦という巨大な共同体を統括するものとしての答えだった。領邦軍のみならず、ノルティア州の治安と秩序を預かるログナー侯爵家当主として、アンゼリカが動くことを認めることはできない。彼の判断は、つまるところそういうことだった。

 

「ザクセン鉄鉱山には領邦軍の部隊を編成次第、魔獣の掃討に向かわせる。先ほどの大型魔獣のことを踏まえれば、慎重を期するに越したことはあるまい」

「何を悠長なことを! 鉱山労働者を見捨てるというのですか!?」

 

 アンゼリカの反駁は「くどい!」という一喝で切って捨てられた。

 

「貴様が動いたところでどうなる。徒に魔獣を刺激し、再び街への侵入を招く可能性もあるのだぞ!」

「くっ……」

 

 旗色はアンゼリカの劣勢になりつつあった。無理もない。普通に考えれば、道理はログナー候の方にあった。自分たちはしょせん学生で、組織に属さない部外者。秩序と規範の中で動こうとするログナー候にとっては目障りな存在でしかない。

 周囲の領邦軍の一部からは気がかりそうな目が向けられる。しかし、彼らが何かを口にすることはない。口にすることはできない。その心中がいかようなものであっても、軍人である以上は上官、ひいては統率者たるログナー候の意に反するわけにはいかないのだから。

 

「お待ちください、侯爵閣下」

 

 ゆえに助けの手は、隣に立つ仲間こそが差し伸ばさなければ。

 後ろのジョルジュが「ちょ、ちょっと……」と慌てるのに目もくれず、トワは真っ直ぐにログナー候と向き合った。

 

「そなたは――」

「お初にお目にかかります。トールズ士官学院一年Ⅳ組、トワ・ハーシェルと申します」

「……《星伐》の姪御か。平民ながら学年の首席と聞き及んでいる。大したものだ」

 

 感情の薄い称賛にこちらも淡々と「恐縮です」と応じる。ログナー候の表情は変わらず険しいものであり、しかも誰かの姪御と呟いた時には苦み走った様子でもあった。あまり良い印象ではなかろう。

 

「放蕩娘の級友が何用だ。下らんことには取り合わんぞ」

 

 冗長な文句はこの際必要ないし、求められてもいないだろう。単刀直入にトワは申し立てた。

 

「恐れながら、領邦軍を編成したうえで鉄鉱山に赴いても大型魔獣の討伐は困難でしょう」

 

 アンゼリカたちと聞いていた領邦軍がぎょっと目を見開き、ログナー候はかっと頭に血をのぼらせた。予想していた通りにログナー候は大口を開けて怒鳴り声をあげる。

 

「何を分かった風な口を! 士官学院の候補生風情が、軍の何たるを――!!」

「軍のことは知らずとも、魔獣のことは知っています!」

 

 その烈火のごとき怒りをものともせず、トワは自身の言葉を叩き付ける。思わぬ反論にログナー候は虚を突かれて口を開いたまま固まった。

 

「例の大型魔獣は高い知能と学習能力を持っていると思われます。侯爵閣下は装甲車と重機関銃をもっての討伐をお考えでしょうが、相手も自身の天敵は承知しているはず。起伏が激しい山岳、あるいは鉱山内に入り込んでこちらの動きを制限してくるでしょう」

 

 あの魔鷲は一度受けた奇襲に対して即座に対応したのみならず、装甲車の機銃の危険性を察するや否や翼を翻していった。魔獣の中でも相当に賢い部類であることは疑いようがない。

 そんな相手が危険性の高い長射程、高火力兵器をむざむざと迎え入れるだろうか。装甲車では走破できない山岳部、重装備が適さない入り組んだ場に身を潜めると考えるのが妥当だ。魔鷲自身の飛行能力も制限されるが、あの手の狡猾な魔獣は身の安全を取るとトワは推察していた。

 固まっている間に言い切られてしまったログナー侯は苦虫を噛み潰したような面持ちだ。ところが、否定の言葉は飛び出してこなかった。考えていたことを言い当てられ、そしてトワの主張に少なからず納得してしまった部分があったからである。

 

「くっ……では、どうするというのだ! 大言壮語を吐いておいて策はないとは言うまいな!?」

「少数精鋭をもって大型魔獣を撃破。その後に鉱山内の掃討に移るのが上策と考えます」

 

 その返答にログナー候は今度こそ動きを止めた。トワは意に介さず言葉を続ける。

 

「少数の機動力で鉱山内の魔獣を突破して鉱員の安全を確保、大型魔獣を討伐すれば後は領邦軍の数をもって鉄鉱山を制圧できるでしょう。小回りの利かない大部隊をぶつけるより確実性は高いと考えますが、いかがですか?」

 

 ログナー候は衝撃を受けていた。かつて、これほどまで真っ向から自分に意見してくる平民がいただろうか。こんなにも強い意志を秘めた瞳を持った、いまだ学生の時分の少女がいただろうか。否である。斯様な少女は見たことがない。

 衝撃は怒りの炎を消し飛ばし、鎮火した脳裏はトワの言葉を冷静に受け止めるだけの余裕を取り戻していた。理論上では確かにその通りだろう。徒に兵が損失を被るのは望むところではない。

 だが、問題は誰がその少数精鋭の役目を負うかであった。

 

「……その先鋒、そなたらと蒙昧たる我が娘が担うというのか?」

 

 はい、とトワは迷うことなく頷いた。

 

「若輩ながら、それなりに修羅場は潜っている身。役目を果たすのに十分な実力は有していると自負しています」

 

 それに、と隣に視線を移す。呆然とことの推移を眺めていたアンゼリカと目が合った。

 

「アンちゃん――娘さんは、確かに自由奔放で貴族らしからぬ人ではありますけど、自らに恥じぬよう在ろうとする誇り高さと友と民を大切にする気持ちは本物です。決して侯爵閣下のご期待に反することはないかと」

「トワ……」

 

 それはトワの偽らざる本心だった。

 ARCUS導入試験班として共に過ごしてきた三か月。まだまだ短い付き合いではあるけれど、試験実習という濃密な時間を過ごす中でアンゼリカへの理解は深めてきたつもりだ。奔放さも、頑固さも、誇りも、友愛も、良いところも悪いところもひっくるめてこそのアンゼリカである。

 そんな彼女だからこそ、仲間としてその想いを支えたい。領民であり友でもある人々を救いたいという願いを無下にさせたくない。それは、彼女が彼女らしくあるために必要なことだから。

 そんな思いを秘めてログナー候を真っ直ぐに見据えるトワの横顔を、アンゼリカは呆気にとられた様子で見つめていた。その顔がやや赤く染まっていることにトワは気付かない。

 

(な、なんつう殺し文句……)

(はは……流石というかなんというか)

(ああもう、これだからあの子は……!)

 

 ついでに言うと、後ろの方で頬を引き攣らせていたり、呆れを通り越して感心していたり、はたまた頭を抱えている面々がいることにも気づいていない。これが天然なのだから始末に負えなかった。

 

「…………」

「っ、父上!」

 

 しばし瞑目していたログナー候が唐突に踵を返して背を向けた。娘の声に彼は振り返らない。ただ、背を向けたまま重々しく口を開いた。

 

「そこまで言うのならば、やってみせるがいい。制圧のための兵はこちらでまとめ次第向かわせよう」

「それは――」

「勘違いするでないぞ、アンゼリカ。貴様の行いを認めたわけでは断じてない」

 

 アンゼリカが何かを発する前にログナー候は釘をさすように言った。その言葉は相変わらず厳しいものであり、彼の中で根本的なことは何も変わっていないのだろう。

 けれど、気のせいだろうか。その声色に剣呑さはないような気がした。

 

「だが……やるというのならば、ログナーの名に恥じぬようにすることだ」

「……はっ、言われるまでもない。どうぞごゆるりとお待ちください。必ずや吉報を持ち帰りましょう」

「ふん、精々犬死にならないよう気を付けることだな――消火班以外は撤収! 掃討部隊の編成を急げ!」

 

 どうしてこの親子はこうも喧嘩腰でしか話せないのか。トワは内心でため息をつく。

 ログナー候の指示に「イエス、サー!」とすぐさま行動に移っていく領邦軍。そして彼自身もまた、振り返りもせずにさっさと空港から去っていく。アンゼリカもそんな父の背中に何も言いはしなかった。

 親子関係は前途多難のようだが、今はこれでいいのだろう。これから時間はいくらでもある。焦らず、少しずつ歩み寄っていけたらいいとトワは思う。いつまで掛かるかは分からないけれど。

 

 ともかく、これで一段落だ。ログナー候にああ言った以上、すぐさま鉄鉱山に向けて動き始めなければ。

 そう思って後ろに振り返ったところ、なにやら白い眼をしたクロウと目が合った。不思議に思ったトワは小首を傾げる。

 

「クロウ君、どうかしたの?」

「いや……お前のクソ度胸と誑しっぷりに呆れているだけだっての」

 

 彼がそんな風に言って大仰にため息をつくものだから、トワとしては「な、なにそれ」と抗議の声をあげざるを得ない。頑張ってログナー候を説得したというのに、そんな言い方はあんまりではないか。

 

「いやぁ、こればかりは」

『クロウの言う通り、なの』

 

 しかし、何たることか。ジョルジュとノイは逡巡することもなくあっさりクロウに追従する。

 

「むう……ねえ、アンちゃんからも何か言って――」

 

 甚だ遺憾である。アンゼリカに同意を求めようとして、そしてトワは「わぷっ」と言葉を詰まらせた。唐突にアンゼリカが抱き着いてきたことで、その胸の内に顔を埋められてしまったからである。

 突然のことに慌てるトワ。他の面々は苦笑を浮かべるばかりで止めようともしない。アンゼリカの喜色満面の笑みを見ては、止めようという気も起きなかった。

 

「まったく――私のトワは本当に最高だ! ますます惚れ込んでしまったじゃないか、このこの!」

「ふええっ!? あ、アンちゃんどうしちゃったの!?」

 

 戸惑うばかりのトワだが、こればかりは彼女の自業自得だった。無自覚と鈍感は実に罪作りである。

 そんな彼女らの過剰なスキンシップは、呆れ果てたノイが止めに入るまで続くのであった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「改めて礼を言うよ、トワ。私だけではあの頑固親父は説得できなかった」

 

 ザクセン鉄鉱山への道すがら。散発的に襲い来る魔獣を撃退しながら山道を進むさなか、アンゼリカは改まって感謝を告げる。それに対するトワの反応は、予想していた通りに謙虚なものだった。

 

「もう、そのことは十分に伝わっているから大丈夫だよ。それに友達が困っていたら助けるのは当然でしょ?」

「やれやれ、敵わないな」

 

 末恐ろしいものだ、とアンゼリカは思う。あれだけのことを友達のための一言で済ませられるトワの感性を。

 ただの一平民が、四大名門の一角である侯爵家当主に真っ向から意見した挙句、その主張を通したばかりか僅かながらも心変わりを起こさせた。トワがやったこととは、つまるところそういうことだ。とても十七ばかりの少女がなせることではない。

 クロウがクソ度胸と評したのも頷くしかない。ひっそりと納得していると、そんな評価を下した当人が混ぜっ返してきた。

 

「っていうか、お前が普段から素行を良くしておけば揉めずに済んだ気もするんだがな。おかげで嫌な汗をかく羽目になったぜ」

「まあまあ、丸く収まったんだからいいじゃないか……トワには肝を冷やされたけどね」

 

 男子二人が余計なことを言うものだから、トワは怪訝そうな面持ちのまま考え込んでしまう。自分の行いを顧みているのだろうが、そのズレた感性では気付くかどうか怪しいところだ。

 アンゼリカは特に返すべき言葉を持たなかった。否定しかねる事実であることは自覚するところだったから。

 

「でも、実際アンゼリカはどうしてお父さんに反抗しているの? 頭は固そうだけど、悪い人には見えなかったの」

 

 街を離れたことで姿を現しているノイが問うてくる。それは皆が多かれ少なかれ、以前から疑問に思っていたことなのだろう。集まる視線に、アンゼリカは苦笑を浮かべた。

 いつか聞かれるだろうとは思っていた。けれど、今このときでよかった彼女は思う。自分の中で探していた答えが、時ここに至ってようやく明瞭にすることができたのだから。

 

「そうだな――一言でいえば、認めたくなかったからかな」

 

 反抗の原点を思い返す。「少し長くなるが」とアンゼリカは切り出した。

 

「『真の帝国貴族なればこそ、まずは己の足で立つべし』……幼いころ、私は父上にそう言い聞かされて育った。質実剛健を旨とする帝国貴族にしたって硬派だが、そのころは素直に父上を尊敬していたものだ。叔父上が軟弱だったものだから尚更ね」

 

 なにもアンゼリカとて、最初から父親に対して反抗していたわけではない。矢面に立って領邦軍の練達に努め、自らの背中で規範を示す姿を尊敬していたことも確かであった。

 分かり易い悪い例――家名を笠に着て偉そうにふんぞり返るだけの叔父のハイデルを目にすることもあって、父の言葉こそが正しい貴族の在り方なのだと思っていた。自分もそうなれるよう己を高めていくべきなのだと。

 

「だが……侯爵家当主として時を過ごす内に、父上は変わっていってしまった。革新派の台頭があったからだろう。権力闘争に身をやつし、確かなことは窺わせなかったが、後ろ暗いことにも手を出すようになった」

「それは……」

 

 叔父の私腹を肥やすような真似を黙認するようになった。資金があるに越したことはないから。カイエン公などと怪しげな会談をすることが目に見えて増した。鉄血宰相に対抗するためにはそうする他なかったから。

 

「分かっているさ。四大の一つとしてはそれが正しい行いなのだろう……そう理解はしていても、私は納得できなかった。そんな父上が正しい貴族の在り方なのだと認めたくなかったんだ」

 

 我ながら青い理由だとは思う。常識的に考えれば、当主である父の意に沿って生きるのが当たり前なのだろう。

 それでも、アンゼリカは認めることができなかった。幼いころの教えを忘れることができなかった。己の足で立てる貴族であろうとする彼女に、道義に反する行いをする父に従うことなど、ましてや道具のように婚姻を宛がわれることなど真っ平ごめんであった。

 

「それからさ。鉱山でバイトして食い扶持を稼いだり、偶然巡り合った師に泰斗の教えを授かったり……まあ、思いつく限りのことをして父上に歯向かったよ」

「なるほどな、そう繋がるのか。はは、お父さんへの盛大な反抗期ってわけだ」

「ま、反抗にかまけるあまり自分を見失っていた節もあるがね」

「……どういうことなの?」

 

 不思議そうに首を傾げるノイに自然と笑みが浮かぶ。それは愛らしさからくるものであり、そして自嘲の笑みでもあった。

 

「簡単なことさ。父上に反抗しようとするあまり、自分が望む在り方にまで意識がいっていなかった。そこらへんを自覚したのはトールズに入ってからだね」

 

 ルーレではどうしても侯爵家の娘という肩書がついて回った。だから誰しもの前でも奔放にあり、おおよそ貴族らしからぬ立ち振る舞いをしてきた。それはアンゼリカなりの独りでの立脚の仕方でもあったが、やはり父への反抗心が先走っていたことは否めなかった。

 トールズに入学し、ログナーというしがらみから離れて初めてそのことに気付いた。父に反抗していただけで、自分は本当に恥じることなく己の足で立てているのだろうか。アンゼリカの胸に去来したのは、そんな疑念であった。

 

「自分が目暗になっていたと思うと、ね。ルーレに戻るのも若干ナイーブになるものさ」

「でもアンちゃん、街の人に好かれているじゃない。領邦軍の人だって、酒場の人だって、アンちゃんのことを認めてくれている人はたくさんいたよ」

「ああ。どうやら、私は自分が思っているよりも捨てたもんじゃなかったらしい」

 

 意外に思ったものだ。テスト相手を頼みに行った領邦軍には二つ返事で引き受けてもらえた。街行く人々は誰もが笑顔を向けてくれた。こんな好き勝手な放蕩娘に。

 

「だったら、こんな私を慕ってくれる民の危機に立上らないでどうするというんだ。それが私なりのノブレス・オブリージュというやつさ」

「やけにやる気だとは思っていたが、そういうことか。納得がいったぜ」

「青臭い話につき合わせて悪かったね。君には少々、耳障りな内容だったかな?」

「いんや、嫌いじゃねえぜ。そういう大真面目に馬鹿をやる奴っていうのはよ」

 

 おや、と意外に思う。リアリストな彼の理解を得るのは難しいと考えていただけに。そもそも入学当初の馬の合わなさから、彼のとは全く正反対な価値観だとアンゼリカは認識していた。

 それがどうだろう。今では曲がりなりにも仲間として認め合えている。ほんの三か月ほど前には考えられなかったことだ。

 クロウもトワに絆されてから随分と丸くなったものだ――と内心でひとりごちて、そして苦笑した。それは、そのまま自分にも当てはまることだったから。

 

「よーし、じゃあ尚更頑張っていかないとね。皆、気を引き締めていくよ!」

 

 先頭に立って仲間を鼓舞するトワは気付いているだろうか。

 彼女が「アンちゃん」と屈託なく呼んでくれるそれだけで、アンゼリカがどれだけ救われたかを。侯爵家の娘でも何者でもなく、ただのアンゼリカとして見てくれたからこそ、自分こそがログナーの名に縛られていたのだと気付けたことを。

 きっと気付いていないだろう。それでいいと思う。わざわざ伝えて変に気負って欲しくないし、それではトワの魅力が台無しになってしまう。彼女が思い、感じた、ありのままでいるその姿に、アンゼリカは魅せられたのだから。

 

「ああ――勿論だ!」

 

 そんないい女に、ああも口説かれて堕ちない輩がいるものか。否、いたとすればそいつは不能に違いない。

 トワの背を追い、その隣に並ぶ。

 アンゼリカはかつての父の言葉を信じている。己に恥じなく在ろうとしている。

 今それに、この掛け替えのない友の隣に立つに相応しくありたいという願いが加わった。純朴で一生懸命な、誰よりも仲間のことを大切に思う小さな少女に誇れる自分であろうと心に決めた。

 この騒動を無事に収めることで、自分の新たなる第一歩としよう。

 ついでにいけ好かない父親の鼻を明かすためにも、アンゼリカは山道を駆ける足に力を籠めるのだった。

 



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第31話 心の繋がり

 何ということだ……何ということだ……(←閃Ⅲをクリアしての感想)
 まさか先輩組の過去話を書くのがここまで苦難に満ちたものになろうとは……女神(ファルコム)よ、私が何をしたというのですか。私はただ、先輩たちにも確かに築いた絆があったことを書きたいだけなのに……
 ……いいや、心折れてなるものか。どんなに胸が痛くても、いずれ崩れ去る日々だと分かっていても、私は筆を折らずに書き続けて見せる。閃Ⅳで先輩たちが笑顔でいる未来を信じて……!


 はい、茶番に付き合わせて申し訳ありません。
 色々と衝撃的な事実が明らかになりましたが、拙作はこれからも変わらずに続けていこうと思います。ジョルジュ君も変わらずに活躍してもらいます。前回までに書いてしまった原作との差異については、カバーストーリーと若干のズレということでご了承ください。
 今後とも「永久の軌跡」をよろしくお願いします……頼むから先輩たちにも救いを与えてくれファルコムぅ……


「破ぁっ!!」

 

 裂帛の気合。突き出された鉄拳が魔獣に突き刺さった。

 くの字に折れて吹き飛んだ魔獣は、そのまま停車していた貨物列車に叩き付けられる。ずるずると崩れ落ちたそれはピクリとも動かず、周囲を見渡しても自分たち以外に気配は感じられない。

 残敵なし。それを確認して一様に「ふう」と息をつく。気を張り詰める状況が続いていただけに、ようやく肩の力を抜けたことで気持ちが幾分か楽になる心地だった。

 

「安全は確保しました。出てきて大丈夫ですよ」

 

 貨物列車の機関車に声をかける。すると、そこから恐る恐る出てくるヘルメットを被った鉱員の男性たち。一先ず危険が去ったことを認めると、やれやれ助かったと安堵して胸をなでおろす。

 

「助かったぜ、アンゼリカ。君たちもありがとな」

「当然の務めを果たしたまでさ。ま、一つ言わせてもらうとするなら、酒は程々にするといい」

「はは、違いねぇ」

 

 顔見知りらしい鉱員の一人とニヤリと笑いあうアンゼリカ。それだけでトワは、ここに駆けつけてよかったと思う。ログナー候を説き伏せた甲斐があったというものだ。

 だが、状況は未だ悪いままだ。まだ安心するには早い。

 鉱員たちのことは声をかけて回るアンゼリカに任せ、トワは周囲に気を巡らせる。気配を探る感覚の網目には、億劫になるほどの数の魔獣がひしめいていた。

 

 

 

 

 

 山道を経てザクセン鉄鉱山に到達したトワたち。さあ早速と意気込んだはいいものの、事態はそう簡単にいかないものだった。

 鉱山内には大量の魔獣が入り込んでいた。いったいどこから湧いて出てきたのか。否応なくそう思わせる物量を前に、まずはどうやって鉱山に入るか考えさせられる羽目になった。トワたちの目的はあくまで鉱員の救助と魔鷲の撃破。正面から突っ込んで体力を浪費するわけにはいかない。

 そこで彼女たちは、トワが鉱員たちの気配を探ることでピンポイントに制圧していく作戦をとった。

 

 帝都における地下水路でも発揮したトワの常人離れした気配探知。彼女の隠し事の一端を窺わせるそれは、さすがに個人を見分けることは不可能だが、目星をつけた気配を追いかけるほか、人間と魔獣の区別をつけるくらい訳はない。

 魔獣のひしめく鉱山内から鉱員たちの気配を探り出し、地理のあるアンゼリカが先導することで最短距離による突破、制圧し安全を確保する。即席の作戦ではあったが、なんとか上手くいったようだ。

 手始めは貨物列車に立て籠もった鉱員たち。線路から直接侵入し列車に取り付いていた魔獣を一掃。警戒を続けるが、別の魔獣が寄り付いてくる気配は感じられない。一先ずの安全は確保できたとみていいだろう。

 

「しかしまあ、よくこれだけの魔獣が入り込んだもんだ。崩落で巣に繋がった――って訳じゃなさそうだな」

 

 一息付けたところでクロウが眉をしかめる。それはトワも頷くところだった。

 鉱山における魔獣被害とは実をいうと珍しいものでもない。もとより魔獣が蔓延る市外にあるのだ。いくら導力灯などの魔獣避け設置しても効力は完全ではないし、それを除いても鉱山特有の魔獣被害の原因がある。

 それがクロウの言う崩落による魔獣の出現。人知れず洞穴に住処を築いていたり、あるいは地中を住処にする魔獣たち。坑道が崩落することで偶然その住処に繋がってしまい、縄張りを侵されたことで凶暴化した魔獣に鉱員が襲われたというのは典型的な鉱山事故の一つだ。

 しかし、今回はどうやら違うようだ。興奮した多数の魔獣という共通点こそあるものの、崩落によるものと考えるには明らかにおかしい点があった。

 

「まあな。崩落音なんざ聞こえなかったし、なにより大半が鳥型だ。こんなことは初めてだぜ」

 

 貨物列車に立て籠もっていた鉱員の中でも年配の一人が肩を竦めた。やはり、とトワはその言葉に納得する。

 

「やっぱりそうですよね。あの鷲みたいな大型魔獣にしてもそうですけど、崩落によって出る魔獣じゃないですし」

「デカいミミズみたいな奴は出たことがあるがなぁ。その時はアンゼリカがぶっ飛ばしたんだったか」

「ああ、そんなこともあったね。あの時はあの時で大変だったが……」

 

 今回はその比じゃないね、とアンゼリカはため息を吐く。

 実際に魔獣被害を経験した側からしてもおかしいと感じる状況。今回の件が自然には起こり得ないものであると確信を強めるには十分な理由であった。

 街道門での懸念が再び頭を過る。他の面々もそれは同じだろう。先月の帝都における魔獣騒動、その主犯。未だ手掛かりが掴めていない魔獣を操った張本人がまたもや現れたのではないかと。

 

「まあ、その話は置いておこうぜ。あれこれ言っても憶測にしかならねえだろ」

「確かに。現状をどうにかする方が優先ではあるね」

 

 しかし、証拠も何もない状況では動きようもない。口惜しい気持ちもあるが、今のところは気に留めておくくらいしかできそうになかった。

 それよりも本来の目的を遂行することに専念するべきだろう。鉱員の安全を確保し、魔鷲を撃破すること。鉱山に蔓延る魔獣を撃滅するためにも、懸念を頭の隅に追いやって状況の確認に移る。

 

「他の皆は奥の方に取り残されたままなのだったか。どこらへんか当たりはつくかい?」

 

 先ほどアンゼリカが声をかけて回っていた時に、残念ながらここに全員の鉱員が揃っていないことは判明していた。聞いたところ、坑道から避難の途中で行く手を遮られて閉じ込められたのだろうとのこと。

 救助しに行くとしても具体的な指標があれば助かる。鉱員は「そうだなぁ」と首を捻って考えを巡らせた。

 

「マニュアルだと、万が一のときは計器室か一番奥の制御室に逃げ込むことになっているんだ。あそこなら出入口にロックが掛かるからな。皆そこにいるならいいんだが……」

「ふむ……トワ、どうだい?」

 

 アンゼリカに問われ、トワは瞼を閉じて感覚を外側に拡張させていった。行動を徘徊する無数の魔獣、その中から人の気配を探っていく。数秒ばかりの沈黙の後、目を開いた彼女は難しい表情を浮かべた。

 

「人の気配が集まった箇所が二つ。たぶん、その計器室と制御室だね。でも、魔獣の気配に紛れて分からない人のもあるかもしれない。見落とさないよう注意して進んでいくしかないと思う」

 

 それと、と言葉を続ける。

 

「奥の方……制御室の手前かな。大きな魔獣の気配を感じる。空港に出た大型魔獣で間違いないはずだよ」

「そうか……制御室の手前ってことは、鉱員を助けるにしてもあの魔獣と戦うのは避けられないってことか」

「へっ、手間が省けていいじゃねえか。山狩りをするより遥かに楽だぜ」

 

 威勢のいいクロウに三人は苦笑を浮かべる。だが、言っていることは間違っていなかった。

 どの道、魔鷲も倒さなければザクセン鉄鉱山の安全を完全なものとすることはできない。起伏の激しい山中に潜まれるよりも、空間の制限された鉱山内にいてくれた方が楽というのは道理にかなっている。

 無論、比較的という話であって実際は一筋縄ではいかないだろうが――それでも、気負いすぎるよりはいいだろう。

 

「いいダチができたじゃねえか、アンゼリカ。その調子で男も作ってくれればオッサンたちとしても安心なんだがな」

 

 ガハハ、と豪快に笑う鉱員たち。アンゼリカはやれやれと肩を竦めながらも嫌な表情はしていなかった。

 

「余計なお世話だよ、まったく。しばらくしたら領邦軍が駆けつけてくるはずだ。それまでこのまま待機していてくれたまえ。下手に山道に出るよりは安全なはずさ」

「おう……情けねえが、俺たちじゃ身を守るので手一杯だ。親方たちのこと、よろしく頼んだぜ」

「ああ、ドンと任せておきたまえ」

 

 胸を叩いて応じるアンゼリカ。その頼もしさに鉱員たちが影ながら抱いていた不安も和らいだように見えた。

 いくら豪気な鉱員たちでも、この状況では不安を抱いて当然だ。突如として襲い掛かってきた魔獣の大群、分断されて無事とも知れぬ仲間たち、鉱山に閉じ込められ助けが来るかどうかも分からない。普通だったらパニックに陥っていても不思議ではないだろう。

 

 そんな彼らを捨て置くなんてアンゼリカにはできなかった。駆けつけて、阻む魔獣を吹っ飛ばして、彼らの瞳に希望の光を灯した。単純で短絡で、青臭い動機からの行動ではあっても、そのことは揺るがしようのない事実だ。

 それだけでトワはここにきてよかったと思う。ログナー候を説得した意味があったと思える。アンゼリカの貫く意志にはそうするだけの価値があったと胸を張って言える。

 

「まだまだ先は長いみたい。迅速に、確実に行こう」

「勿論だ。クロウ、ジョルジュも遅れないでくれたまえよ?」

「誰にもの言ってやがる。ゼリカこそ勝手に突っ込むんじゃねえぞ」

「はは……この調子なら心配はいらなそうだね」

『まったくなの』

 

 その意思を貫き通すために今は前に進む。

 いまだ助けを待つ多くの鉱員を救うべく、トワたちは鉱山の奥へと足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 周囲を飛び交う魔獣たち。それらに囲まれないように注意しつつも、トワは矢面に立って殿を務めていた。

 鋭い嘴を鏃に突っ込んできた相手を、身を翻しては斬り落とす。背後に抜かんとする相手は剣閃とアーツを飛ばして牽制する。対処が追い付かない分は、後背よりクロウの援護射撃が行く手を阻んだ。

 呆れた物量に応戦しつつも、じりじりと後ろに下がっていく。倒し切る必要はない。これは時間稼ぎなのだから。目的を達するまでに魔獣を後ろに通さなければそれでいい。ただ、それを為すために眼前の群れを押し留める。

 戦闘音を聞きつられることで魔獣は数を増やすばかり。些か状況が厳しくなってきた。わずかに眉根を寄せるトワ。そんな彼女の耳に背後から待ち望んだ合図が届く。

 

「こっちは大丈夫だ! 退いてくれ!」

 

 間髪を容れずにトワは動き出す。地面に向けて放った《神風》が土を巻き上げ魔獣たちの視界を塞ぐ。それを牽制とし、全速力で後方に駆け出した。援護に徹していたクロウもそれに倣う。

 眼前には先行するクロウ。その奥、守り抜いていた通路の先には避難場所の一つとして指定されている計器室。開いた扉よりアンゼリカと顔色の悪い鉱員を背負ったジョルジュが、緊張をはらんだ面持ちで待っているのが目に入った。

 土煙を抜けた魔獣が迫ってくるのを背中に感じる。先に計器室に辿り着いたクロウが撤退を支援するべく弾幕を張る。通路を風のように駆け抜けたトワはスライディングで計器室に滑り込んだ。

 

 瞬間、息つく間もなく閉じられる扉。機械式のそれがガシャンと通路と計器室を分断し、流れるようにロックまで掛けられる。不意に行く手を塞がれた魔獣たちが激突する鈍い音が外から響く。苛立ったような鳴き声と扉を叩く音が聞こえてくるが、重厚な鋼鉄製のそれを破られるような気配はなかった。

 ふう、と滑り込んでそのまま床に座り込んでいたトワが息をつく。綱渡りな状況だったが、上手くいってよかった。

 そんな安堵の息を漏らす彼女の周りで、わっと喝采の声が巻き起こる。固唾を飲んで見守っていた鉱員たちがこぞってトワに集ってきた。

 

「やるじゃねえか嬢ちゃん! アンゼリカが最高のダチって自慢するわけだぜ!」

「仲間を助けてくれてあんがとよ。ったく、ちっこいくせに痺れさせてくれるねぇ」

「あ、あはは……どうも」

 

 ばしばしと肩を叩いて礼を言ってくる彼らに、ぎこちない笑みを浮かべるトワ。クロウたちに助けを求める視線を送るも、返答は肩を竦めるだけに留められた。薄情な仲間である。

 興奮しきりの彼らにどうしようかと困っていると、ふと気づく。ジョルジュが背負っていた顔色の悪い鉱員が少し足を引きずるようにしながら近づいてきた。

 

「ご無事で何よりです。捻った足は大丈夫ですか?」

「ああ。おかげさまで何とか、ね。本当になんてお礼を言ったらいいか……」

 

 そこで彼はへたり込むように腰を落としてしまう。緊張していた体から不意に力が抜けてしまったのか。それは足腰だけの話ではなかったようで、目尻には涙が浮かんでいた。

 

「うう……本当に、もう駄目かと思ってたから……助けてぐれて、ありがどう……」

 

 ぼろぼろと涙を零す彼は坑道内で一人逃げ遅れていた。途中で足を挫いてしまい碌に動けなくなってしまったのだ。咄嗟に近くにあった資材コンテナの中に身を隠したまではいいものの、いつ魔獣に見つかるか生きた心地がしなかったという。

 その彼の存在に気付いたのは、計器室に逃げ込んだ鉱員から「一緒にいた奴が見当たらない」という話を聞いたからだ。

 

 もう手遅れじゃないか。そんな意見は一切合財無視してトワたちは念入りに捜索した。トワが気配を探ることで当てをつけ、あとは虱潰し。幸いにして、さして時間を置かずに彼を発見することはできた。

 問題はそれからだ。可能な限り魔獣を刺激しないように行動していたが、計器室まで戻るのにどうしても戦闘は避けられない状況になっていた。トワが殿として奮闘していたのはそういう経緯があってのことである。

 

 何はともあれ、無事に救出できて何よりだ。他の鉱員たちに「ほれ、泣くな泣くな」

「あっちの嬢ちゃんの方が男前だぞ」と背を叩かれて奥に連れて行かれる彼を見送りながら、改めて安堵の息をつく。

 クロウたちもこれで一安心と気を抜いていたが、一分も経たずして再び気を引き締める。親方をはじめとした安否の分からない鉱員のことはもとより、ルーレ空港で起きた現象からの懸念が鎌首をもたげていた。

 

「しかしまあ、ここまで何とかなってきたが、この戦術リンクの窮屈さはどうにかなんねえのか。こんなんだったら前の方がマシだったぜ」

「むらが無くなったのは確かだけどね。繋がるというより括り付けられている感覚というか……」

 

 魔鷲を仕留め損なった原因。シュミット博士によるARCUSの調整の結果、トワたちは言い知れぬ違和感に苛まれていた。それこそ、以前まで出来ていたはずの意思疎通に若干の支障が出るくらいに。

 課題となっていたリンク強度のむらは確かに改善されている。だが、その代償とでもいうかのように今度は繋がりが固定化されてしまったようだった。

 以前までは、不安定さはあっても仲間との繋がりが強くなっていく実感があった。調子がいい時は相手の動きが手に取るように分かり、一分の隙もない完璧な連携を決められることもあるほどだ。だからトワたちはそれが戦術リンクのあるべき姿だと思っていた。

 

 それが実際はどうだ。改善すべき点は改善されたものの、肝心の戦術リンクのメリットが大幅に制限されてしまっている。これでは本末転倒であるし、強力な魔獣との戦いを控えてこの戦力低下は手痛い。

 クロウとアンゼリカが苦い顔をするのも無理はない。トワも難しい表情になっている。ただ一人、空港で何某かに気付いていたらしいジョルジュが思案気に手元の試作型ARCUS目を落としていた。

 

「……たぶん、これが戦術リンクの本来の仕様なんだろう。軍における連携力の向上という意味では最適解だからね」

「最適解って……前より連携の幅が狭まっているのに?」

 

 いまひとつ納得のできないトワ。そんな彼女にジョルジュは「だからだよ」と返した。

 

「兵器にはまず信頼性と安定性が求められる。その点、調整前のものは落第ものだ。時には強力な連携を可能にしたけど、使いこなせなければ基本的なリンクさえ構築できないんだからね」

 

 トワたちは二か月かけてようやく実戦で通用するレベルの戦術リンクを結べるようになった。それは確かに苦労に見合った効果をもたらしたが、そんな不安定なものが軍隊に望まれるだろうか。不採用に違いない。

 ならばリンクによる効果は低減させても、より安定して誰とでも効果を発揮できるものの方が遥かに実戦的だ。そういう意味でシュミット博士の調整は間違っていない。

 

「ちっ、じゃあ何だ。この息苦しい奴でやっていくしかねえってのかよ?」

「……いや」

 

 だが、それで納得できるかというと話は違う。それはジョルジュも他の三人と同様だった。

 

「皆、ARCUSを貸してくれないかな。ここで調整をやり直してみるよ」

「やり直すって……どんな風に?」

 

 計器室に備え付けられた小型の工房設備に足を向けるジョルジュに、トワは当然の疑問を投げかける。シュミット博士が導き出した最適解がこれだというのならば、他にどのような形が有り得るというのか。

 博士が調整する前の状態に戻すという選択肢もあるといえばあるが、あまり意味があるとは言えない手段だ。もとより現状での限界が見えていたからこその今回の調整。元に戻してしまっては何の解決にもならない。それに博士が怒髪天を衝くのが目に見えている。

 その難しい問いに、ジョルジュは簡潔に答えた。

 

「リンク強度の上限を取り払う。その上で最低限の機能を担保する形だね」

 

 あっさりとした答えに瞠目する。それは言葉にするのは簡単でも、実現するのは非常に困難に思われたから。

 

「できるのかい? それが理想であるのは確かだが……」

「博士の手伝いをしているときに糸口を掴めてはいるんだ。後はそれを形にできれば……いや、形にしてみせる」

 

 腕を組んで難しい顔のアンゼリカ。それに対してジョルジュは何時になく真剣な表情で応じる。

 ジョルジュもただ漫然と博士の助手として使われていたわけではなかった。どのようにすれば戦術リンクをより完成に近づけられるのか、仲間の力をより引き出すにはどうしたらいいのか。博士に口出しこそしなかったものの、その脳裏には彼なりの完成図が描かれていた。

 

「行き当たりばったりの紆余曲折の末だけど、僕たちの戦術リンクの形は絶対に間違いじゃなかった。難しいからってそれを諦めるなんて、端くれでも技術者の名折れだ」

 

 そこまで真面目な顔だった彼は、そこで「それに」と口元を緩めた。

 

「これくらいできなきゃ、博士の弟子なんて名乗れないだろうしね。名前負けしないよう精一杯やらせてもらうよ」

「へっ、言うじゃねえか。それならお手並み拝見といこうかね」

「もう、クロウ君ってば偉そうに……でも、そうだね。お願い、ジョルジュ君」

「あの偏屈博士の鼻を明かせるなら是非もない。よろしく頼むよ」

 

 三人から渡されたARCUSを手に、ジョルジュは再び表情を引き締める。

 彼の言葉に嘘はなかった。一人の技術者としてのプライドがあった。シュミット博士の三番弟子という自負があった。それらに懸けて納得できないもので妥協することなど容認できない。その気持ちは本当だ。

 

「ああ――任せてくれ!」

 

 だが、それは表向きの理由でしかなかった。

 本当はもっと単純な理由。彼は作り上げたかっただけだ。自分が望む戦術リンクを。

 軍事利用を前提とした、機械的に人と人を括り付ける鎖のようなものではない。四人がぶつかり合って、共に壁を乗り越えて、そして結実した絆の証。鮮烈で、しかして心地よい温かさと微睡を覚えるそれこそが、この試験実習班が作り上げてきた戦術リンクだ。

 ジョルジュもまだ、あの微睡に浸っていたかった。

 だから全力を尽くす。何が正しいかではない。他の誰でもない、自身が望んだものを作り上げるために。

 

 

 

 

 

――たとえそれが、いずれ黄昏に消えゆく夢幻だとしても。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 ザクセン鉄鉱山の深部。中央には長きにわたる採掘で形作られた底の見えない大穴。そして岩盤の天井に空いた穴より陽の光が注ぐその空間で、ルーレ空港を襲撃した魔鷲は羽を休めていた。

 自身より遥かに矮小な生命。だからといって侮っていたわけではないが、不意を打たれてそれなりの負傷をした魔鷲はしばしの時間を休息に当てていた。それももうじき終わりとしようというところ、次なる行動に頭を巡らせる。

 本来ならば、アイゼンガルド連峰の奥地に住まう存在。このような人の集落にまで下ってくることは皆無と言って等しい。だからこのように鉱山に居座ることも、あの巨大な街を襲うのも意味のないことだ。

 

 だが、昨夜より頭に響く妖しき調べが魔鷲に囁き掛ける。

 ――更なる破壊を、更なる血を、更なる恐怖を。

 山の峰々を駆け抜ける風に乗って魔鷲に届いたその調べは、抗いがたい衝動となって人の地への襲撃へと駆り立てた。同じくして調べに狂う魔獣たちと共に山を下り、鉱山を制するやルーレにまでその手を伸ばした。

 普通の魔獣ならばそこで領邦軍に討たれていただろうが、幸か不幸か魔鷲は狂わされながらも理性を残すくらいの知能を有していた。装甲車を見るや鉱山にまで退き、その脅威が届かぬ場でまずは傷を癒すことを選べるくらいは。

 

 それでも、尚も脳裏に響く調べに抗いきることはできなかった。血と狂乱を求む音色に魔鷲は身を起こす。その紅耀の瞳に狂気を湛えさせて。

 先の巨大な集落が無理ならば、見劣りはしても他の集落を潰すまで。

 狂気的な衝動に突き動かされながらも、そのような合理的判断を下した魔鷲は翼を広げ再び空に飛び立たんとする。

 

 瞬間、響く衝撃音。

 魔鷲の目の前に叩きのめされた魔獣が転がり込んできた。

 

「おいおい、つれないじゃねえか。こうして足を運んでやったのにお出かけしようなんてよ」

「まあ、そう言ってやらないでおきたまえ。魔獣にデリカシーを理解させようなど無理な話さ」

 

 坑道に繋がる暗闇。そこから四人の人影が現れる。

 

「クロウ君、アンちゃん。リラックスしているのはいいけど、油断はしないでよね」

「トワの言う通りだよ。戦術リンクだって、まだ不具合があるか分からないから気を付けてもらわないと」

 

 それは魔鷲にも見覚えのある姿だった。生身で自身に少なからず痛手を与えた人。

 妖しき調べのそれとは関係なく、魔鷲の瞳に敵意が宿り嘴から炎が漏れ出る。矮小な存在によってその身に負わされたのは肉体的な傷だけではない。生物としてのプライドもまた傷つけられていた。

 故に、その存在を無視することはできない。飛び立とうとしていたことなど頭から消し去り、全力をもって眼前の存在を叩き潰さんとする。

 

「それこそ心配ご無用というものだ。博士の弟子として名前負けはしていないのだろう?」

「いや……まあ、それはそうなんだけど」

「ま、自信持てよ。お前がいい仕事したってのは俺たちが証明してやるさ」

 

 それはトワたちとしても望むところ。その巨体の奥、制御室に閉じ込められたままの鉱員たちを救うため、このノルティア州を魔鷲の脅威から守るために戦うのは避けては通れない。

 軽口を叩く仲間たちに注意しつつも、トワの口元には笑みが浮かぶ。表面上は軽くても、そこにあるのは確かな信頼。トワ自身も含め、誰もジョルジュの腕前を疑ってなんかいない。

 だから、あとは為すべきことを為すだけだ。

 

「今度は私も全力でサポートするの! 皆、気張っていくの!」

 

 ノイもここぞとばかりに張り切った様子。ルーレでは下手に手出しできなかっただけに歯痒かったのだろう。いつになくやる気満々の姉貴分に内心微笑ましく思う。彼女もまた、試験実習班の仲間としての自負があるのだと。

 士気は十二分。用意は万全。仲間たちの目がトワに集まる。

 刀の切っ先を魔鷲へと向ける。出自も性格も何もかもバラバラな仲間たち。そんな試験実習班の“要”たる彼女は号令を下す。

 

「戦術リンクON――逃がしたらどこで被害が出るかわからない。ここで確実に仕留めるよ!」

「「「応!!」」」

 

 四人の間に繋がりができる。ジョルジュによる渾身の調整により完成された戦術リンク。心の温かさを感じる。想いの強さが伝わってくる。強まる絆と共に力がどこまでも高まっていく。

 空港の時とは違う。純粋な勝利への確信を抱き、トワたちは得物を魔鷲へと向ける。

 言葉を解さない魔鷲にもそれは気迫として伝わった。怒りの声をあげ、嘴より炎が噴き出ることで戦端は開かれた。

 

 迫る火炎。トワとアンゼリカが左右に散開し、ジョルジュはそのまま正面へ。眼前に広がる熱に彼は表情を険しくするが、足を止めはしない。頼りになる小さな妖精が傍にいることを知っているから。

 

「ジョルジュ、今なの!」

「任されたぁ!」

 

 ジョルジュの肩に乗るノイ。その手をかざした先に金色の歯車が回転し、蒼い障壁が展開される。炎に舐められるも堅牢なる守りはその程度で崩れはしない。

 魔鷲を正面にとらえたジョルジュは炎の中で機械槌を大きく振りかぶるように構える。後部が展開、増設されたジェットユニットが露出し蒼炎を噴出する。蒼き炎は留まることを知らず勢いを強め、凄まじい推進力となってジョルジュを打ち出した。

 赤き火炎の中を蒼の障壁と後引く蒼炎が突貫する。炎を突き抜けた先に迫る魔鷲の顔面。心なしか驚きの感情が見えるそこに、ジョルジュは莫大な運動エネルギーを得た機械槌を強引に叩き付けた。

 重い音が魔鷲の頭を強かに揺さぶる。重打に魔鷲は巨体を後退らせ、倒れはしなかったものの眩む頭に動きを止めた。機械槌を地面に突き立て火花を散らしながら制動したジョルジュは、それを認めて後続に叫ぶ。

 

「頼んだよ、二人とも!」

「開幕一発ご苦労! さあ、私たちも続くとしようか!」

「うん! アンちゃん、合わせて!」

 

 左右よりトワとアンゼリカが強襲する。刻まれる斬撃、叩き込まれる拳打。脳を揺らされていた魔鷲がようやく体の自由を取り戻すも、その連撃から逃れるのは容易いことではない。

 考え無しの攻撃ではない。トワの一撃に魔鷲が反撃しようとすれば、反対のアンゼリカにそれを崩される。逆も同様。巨体を挟んでお互いの様子が見えるはずもないのに、その息の合いようは崩れるどころかますます洗練されていく。

 これぞ戦術リンクの真髄。五感に頼らずともリンクする相手と直感的な連携を可能にする戦場の革新。それを十全に発揮するトワたちに魔鷲は傷を増やしていく。

 

「――っ、アンちゃん!」

 

 思い通りにならない状況に業を煮やしたか。魔鷲の瞳に猛々しい色が宿ったのを見て取ったトワは離脱を選択する。瞬間、魔鷲は甲高い鳴き声を上げて暴れ始めた。後方に跳んだトワが着地したクレーンさえも薙ぎ倒し、彼女はさらに後ろに下がらざるを得なくなる。

 その暴虐の範囲にいながらも、アンゼリカは焦ることはない。トワの呼び声からその意は伝わっている。それに応えて切り替えたリンク相手。隣に並び立ったジョルジュに彼女は不敵な笑みを浮かべる。

 

「そら、右は任せるよ。上手く凌いでくれたまえよ?」

「そう言われたらっ、やるしかないじゃないか!」

 

 一人で防ぎきれないなら、二人で。襲い来る猛撃をアンゼリカとジョルジュは互いにカバーしあいながら耐え凌ぐ。

 トワとクロウも、それを座して見ている性質ではない。司令塔たるトワが確実に魔鷲の動きを止める一手を指す。

 

「クロウ君、動きを鈍らせてから火種! ノイはガス! 二人の守りは私がやる!」

「アイマム!」

「一気にやってやるの!」

 

 トワとクロウがアーツを駆動し、ノイもまた四季魔法を発動させる。

 クロウが発動したクロックダウンが魔鷲の動きを一時であれど留め、同時に動作を鈍らせる。それに間を置かずしてトワがアースウォールでアンゼリカとジョルジュに守りを施す。そしてノイが行使した四季魔法が、魔鷲の足元より練り集められた鉱山ガスを噴き出させた。

 

「おら、そこの二人! ちゃんと耳を塞いどけよ!」

「ええ!? ちょ、本気――」

 

 クロウが一切の躊躇なく導力銃のトリガーを引くのを見てジョルジュは慌てて耳を塞ぐ。アンゼリカはガスが噴き出た時点でちゃっかり対ショック姿勢まで取っていた。

 動きが鈍った魔鷲の嘴に寸分違わず命中する銃弾。硬質のそれと衝突したことで生じた火花がガスに着火する。

 

 次の瞬間、鉱山に凄まじい爆音が響き渡る。

 爆裂する空気。巻き上がる炎。局地的なガス爆発が魔鷲を襲った。

 堪らずに悲鳴を上げる魔鷲。アースウォールの効果で難を逃れたアンゼリカとジョルジュは、「ガス臭い」やら「耳が痛い」やら文句を叩きつつもトワたちと合流して態勢を整える。無事のようで何よりだ。

 

 さて、と魔鷲を見やる。爆発に巻き込まれたことで焼け焦げた羽は黒ずみ、蓄積されたダメージは相当なものだろう。それでもいまだ倒れずにいるのは呆れた生命力という他ないが、そろそろ限界も近いはず。トワとしては忍びない気持ちもあるものの、街の安全のためにこのまま倒しきるしかない。

 せめて無用の苦しみを与えないよう、一息に。そう考えたところで魔鷲が大きく翼を羽ばたかせた。

 

「くっそ、あの傷でまだ飛べるってのか!?」

「逃がすわけにはいかないの! 私が追いかけて――」

 

 ノイの言葉を手で止める。何事か、という姉貴分の視線にトワは魔鷲に対して険しい目を向けることで答えとした。

 魔鷲は空に舞い上がりはしたものの、鉱山より逃げる気配はなかった。いや、逃げられないのだろう。クロウが見立てていた通り、魔鷲に逃げ切るだけの体力は残されておらず、ここから飛び立っても時間を置かずして墜落するしかない。

 ならば、せめて最後の足掻きを。自身の敵を叩き潰すべく魔鷲は最後の一撃に全てを振り絞る。

 

「ふむ、一気に私たちを踏み潰そうという腹か。シンプルだが強力だね」

「落ち着いて分析している場合じゃないの! あの質量に重力もあるし、ギアシールドで防げるか……!」

 

 上空からの大質量と重力を加味した渾身の一撃。落下スピードから避けることは難しい。アーツも駆動が間に合わない。ノイのギアシールドもあれだけの質量攻撃を前には押し潰されかねない。

 では、どうするか。トワが答えを出すより先に、ジョルジュが一歩前に踏み出した。

 

「ジョルジュ君?」

「たまには僕にもカッコつけさせて欲しいな。ここぞっていう時に頼りきりなのもどうかと思うしね」

 

 普段ならぬ彼の強い意志を秘めた瞳に、トワは何も問わずに頷いた。ここでとやかく言うのは無粋。クロウとアンゼリカもニヤリと笑みを浮かべ、ジョルジュの肩を叩くだけで全てを任せた。

 全幅の信頼を受けて、これに応えられなければ男が廃る。決意を固めたジョルジュが機械槌を地面に突き立てる。

 

「導力機関開放、出力最大――!」

 

 機械槌の表面装甲が展開し、エンジン部たる導力機関が露出する。臨界点にまで達した出力が甲高い駆動音と導力の光を迸らせる。

 以前の実技教練でサラ教官は言った。ジョルジュは仲間を守る盾になれると。

 その答えがこれだ。自身の技術の粋を集めた成果をもって、ジョルジュは盾を成す。

 

「展開――《ガーディアン・オブ・メカナイズド》!!」

 

 迫る魔鷲の巨躯。それがまさにトワたちのもとに落着せんとしたその時、機械槌を中心に広がった防御フィールドが彼女たちを包み込む。勢いのままに衝突する魔鷲。決死の矛と渾身の盾が拮抗した。

 魔鷲の鋭利な鉤爪とフィールドが接触する点からスパークがまき散る。機械槌を起点としたものだからか。直にその影響を受けるジョルジュが苦悶の声を漏らす。彼の手の中で機械槌の一部が火花を散らした。

 

 だが放さない。背中に守るべきものがあるから。まだ失いたくないと思う居場所があるから。

 だからジョルジュは屈しない。生涯の中で最も強い感情をもって、襲い来る苦悶を跳ね返す。

 

「負けて、たまるかぁ!!」

 

 限界を超えて駆動した導力機関が一際強く輝く。膨張した防御フィールドが、ついに魔鷲を押し返した。

 競り勝った。それを認めた仲間の中で、クロウがいの一番に動き出す。

 

「っしゃあ! よくやったジョルジュ!」

 

 会心の声と共に放つは仲間を信じて溜め込んだ一撃。充填されたエネルギーが双銃より開放され魔鷲の腹に突き刺さる。衝撃にくの字に身を折った相手をみすみす逃がす道理はない。トワとノイが宙に跳びあがった。

 

「いくよ、ノイ!」

「合点承知なの!」

 

 ノイのギアバスターが魔鷲を強かに打ち付け上空に押し返す。そしてもう片方の金色の歯車が、それを足場としたトワを魔鷲めがけて打ち出した。

 ギアバスター自体の速度、そして自身の脚力を合わせてトワは凄まじい速さで接敵する。そして過ぎ去り際の一閃。魔鷲の機動力を担う双翼、その片翼が大きく切り裂かれた。痛みに悲鳴を上げる魔鷲は、もはや自由に動けない。

 

「さてジョルジュ、最後に一仕事頼むよ」

「これくらいならお安い御用さ。アン、派手に決めてきてくれ」

「ふっ、君にばかりいいカッコはさせられないからね。期待に応えて見せようじゃないか」

 

 体力は削ぎ落した。片翼も奪った。ならば、あとはとどめの一撃をくらわせるのみ。

 若干焦げ臭い煙をあげる機械槌を振りかぶるジョルジュ。その前に準備万端とばかりに待ち受けるアンゼリカ。軽口の後、背面より蒼炎を吐いた機械槌がかち上げるように振るわれる。瞬間、それに足を乗せたアンゼリカが空へと舞いあがった。

 

「へまするんじゃねえぞ、ゼリカぁ!」

「行って、アンちゃん!」

 

 背中からクロウの激励が、先に重力に任せて落ちるトワの応援がアンゼリカの耳に届く。

 言われるまでもない。応える以外の道があるはずがない。ここまでお膳立てされておいて、結果を残さないなどどうしてできようか。ノルティアの領主たるログナーの息女として、何よりも試験実習班の一員であるアンゼリカ・ログナー個人として、この大一番を逃すなど言語道断。

 眼下に魔鷲を捉え、アンゼリカは己の中の気を総動員する。師と出会い、今日この日までに積み上げてきた功夫。研鑽の全てをもって結実するは闘気の具象。黒き龍を象ったそれを右足に纏い、この戦いに幕を引く一撃を放つ。

 

「食らいたまえ――《ドラグナー・ハザード》!!」

 

 全力全開、必殺の蹴撃が空に龍の尾を引き魔鷲に突き刺さった。

 声なき悲鳴を上げて叩き落される魔鷲。あまりの衝撃に陥没し罅割れる地面。それは紛うことなき致命の一撃であり、魔鷲の命数を断つに余りあるものであった。

 だが、相手もさるもの。最後の足掻きとばかりに巨躯を動かし、罅割れた大地を叩く。それは離れた位置にいるトワたちはもとより、魔鷲の上に立っていたアンゼリカにも大した脅威になるものではなかった。

 ――ただ、直接的な攻撃という面に限っては。

 

「おい、こいつは……!」

「ま、不味いの!」

 

 地面に亀裂が走る。魔鷲が力尽きたその場を中心とし、地響きを立てて足場が崩れ始める。

 長きにわたる採掘で穿たれた、底の見えぬ深淵の暗闇へと。

 

「ちぃっ!」

 

 舌打ちを一つ。文句を叩いている猶予はなかった。魔鷲の亡骸から飛び降りたアンゼリカは、崩れ落ち始める地面を底の見えぬ大穴から遠ざかるべくひた走る。魔鷲が力なく暗闇に堕ちていくのを尻目に、彼女は全力で足を動かした。

 しかし、崩落は無情にも周囲を飲み込んでいく。足場の崩壊がアンゼリカに追いつき、走るべき場を失った彼女は宙に投げ出される。

 

「アン、掴まって!!」

 

 そんな絶体絶命の状況でも、仲間たちは彼女を見捨てたりなんてしない。

 崩落する中を前に進んでアンゼリカのもとに駆け付けたジョルジュが彼女の手を掴み取る。ノイがジョルジュにギアホールドを括りつけて、二人が暗闇へと落ちぬよう引っ張り上げる。小さな姉貴分が重さに負けぬようトワが抱え、それを更にクロウが支えた。

 宙にぶら下がる二人を引き上げるべく力を籠める。徐々に、ほんの少しずつであるが、アンゼリカとジョルジュが地表に近づいていく。

 

「くっそ、帰ったらダイエットしやがれよジョルジュぅ!!」

「文句言っている暇があったらちゃんと引っ張ってよクロウ君!」

「いや、ほんと申し訳ない……」

 

 アンゼリカに最も近かったのがジョルジュだったからこういう形になってしまったが、引き上げるには些か苦しい形になってしまったのは否めない。主に体重の面で。頭上で響く言い合いにジョルジュは面目なくなってしまう。

 

「やれやれ。しかし、これで――」

「何とかなりそうな……の?」

 

 そうして気を抜いてしまったのがいけなかったのか。

 収まったかに見えた地面の亀裂が、トワとクロウの足元にまで伸びるのに気付くのが一拍遅れた。

 

「えっ――」

「おお!?」

 

 トワの身体を浮遊感が襲う。同じくして足場を失ったクロウが咄嗟に断崖に片手をかけ、もう片手でトワの手を掴み取る。トワもまた、ノイを離さぬように片腕で懸命に抱え込んだ。

 だが、それはクロウが一手に四人の重さを担うということ。片腕を襲う引き千切られんばかりの重力にクロウは脂汗を浮かべた。

 

「う、腕が千切れそうなのー!」

「それはこっちのセリフだ、この妖精もどきがああああ!!」

「言っている場合か! 何とかしなければ、このまま全員仲良く女神逝きになってしまうぞ!」

 

 一転、再び絶体絶命の状況。アンゼリカに怒鳴られなくても、悲鳴を上げる腕が長く持たないことがクロウには分かっていた。現状のままでは数分と経たずに奈落の底に真っ逆さまだ。

 

 クロウの冷徹な部分が囁く。その手を放してしまえ。そうすれば自分は助かる、と。

 胸に抱く宿願の為に、今ここで死ぬわけにはいかない。ならば切り捨ててしまえばいい。偽りの学生生活で得たものなど捨てて、自身の命を拾うのが最も合理的な選択だと理解はしていた。

 

「こん……ちくしょうがぁ!!」

「クロウ君……」

 

 だが、出来なかった。繋がったトワの小さな手を、感じるぬくもりを手放すことが出来なかった。

 認めるしかない。クロウは絆されてしまっていた。温厚そうに見えて割としたたかなジョルジュを、認めてはいるが一々腹立たしいことを言ってくるアンゼリカを、口煩いくらいお節介で世話好きなノイを――こんな偽りの自分でもいいと言ってくれた、類を見ないほどお人好しな馬鹿(トワ)を、彼は捨てることが出来なくなってしまっていた。

 

 持てる力を総動員して片腕で体を引っ張り上げようとする。まさに火事場の馬鹿力。身体のリミッターを外して全力以上の力を引き出したクロウは、僅かではあってもその身を地面の上へと近付けていく。

 それでも、現実は殊更に彼らに対して非情であった。

 

「あっ」

 

 間の抜けた声が響く。それは五人のうちの誰かのものか、あるいは全員のものだったのかもしれない。

 クロウの限界よりも先に訪れた、彼が掴まっていた断崖の限界。支えが崩れ落ちたことで彼らは再び浮遊感に包まれる。

 こうなってしまえば他に手立てはない。後であの魔女にどやされることになっても知ったことか。文字通りの最終手段を取らんと、クロウは脳裏に巨いなる蒼き騎士を描く。

 

「こ――」

 

 

 

 

 

「っ、駄目ぇ!!」

 

 

 

 

 

 その時、トワの声と共に《力》が周囲に広がった。

 波動の如きそれに繋げていた手を弾き飛ばされ、あまりの衝撃にクロウは思わず目を閉じる。自身の周りを駆け抜けていく《力》。クロウが知るどれとも違う、圧倒的なエネルギーを内包した、しかしどこか温かさを感じるそれ。

 一陣の風のように吹いた《力》は、クロウの身体に痛みなどはもたらさなかった。害はなかったようだが、未知の体験に彼は困惑せざるを得ない。それこそ、つい今しがた自分がどのような状況に置かれていたのか失念するくらい。

 だからクロウが目を開き、目に映るその光景を認めたとき、彼は呆然とせざるを得なかった。

 

「…………は?」

 

 クロウは浮いていた。奈落の底に落ちていくはずだったその身体は中空に浮き、落下の兆しは見られない。物理法則を無視した現象に、状況を確かめることはできても頭の理解が追い付かない。

 ただ、彼を包み込む金色に輝く《力》が、それを為していることだけは確かであった。

 

「これは……」

「な、なにが……?」

 

 見れば、アンゼリカとジョルジュも同じように《力》に包まれて浮かんでいた。その当惑を隠せない表情を馬鹿にすることはできない。なにせ、クロウ自身も混乱している真っ最中なのだから。

 《力》はそのままクロウたちを地表にまで浮かび上がらせると、そこで役目を終えたとばかりに消え失せた。残された三人は助かったことを喜ぶこともなく、地に腰を着けたまま只々呆気にとられた顔を晒すほかない。

 まるで現実味のない現象だった。まだ夢か幻覚と言われた方が納得いく。しかし、魔鷲に道連れにされかけた自分たちがこうして生きている以上、夢幻として片付けることはできなかった。

 

「トワ……!」

 

 そんな彼らを現実に引き戻したのは、妹分を呼ぶノイの叫びだった。反射的にその声のもとに視線を向けた三人は、そこで更なる驚愕に襲われることになる。

 白銀(・・)の髪が流れる背を向けた少女が、そこにいた。祈るように手を組んだその身に金色の燐光を纏い、目に見えて感じられる神聖なる気を放つ姿は、著名な宗教画の一つのようにクロウたちの目に映った。

 その神気が収まったかと思うと、同時に白銀の髪も時間が巻き戻るかのように栗色に変わっていく。三人がよく知る姿に戻った彼女は、祈るように組んでいた手を解いて地面につけると詰まっていた息を吐いた。

 

「っ、はあっ、はあっ……」

「あんな急に大きな力を使うなんて……! 無茶にも程があるの!!」

「大丈夫……私は、大丈夫だから」

 

 肩で息をするトワに大声をあげるノイには、ありありと心配の色が浮かんでいた。それに力なく答えるトワの横顔には珠のような汗が流れる。姉貴分の言う通り、相当の無茶をしたのだろう。

 

「……トワ?」

 

 そんな彼女にクロウは声をかける。無意識のうちに慎重な色を帯びていたそれに、トワは肩を揺らす。

 今なにが起きたのか。先ほどの姿は何だったのか。そして、その《力》は何なのか。

 問うべきことは幾つもあり、クロウ自身、混乱から立ち直っていないこともあって何から聞くべきか分からない。

 だが、その迷いはトワが振り返ったことにより空白に帰した。

 

「わ、私……」

 

 ああ、そういえば見たことなかったな、とクロウは奇妙な納得を感じていた。

 誰よりも優しくて、心に芯の通った強さを持つ少女。

 そんな彼女が恐怖(・・)する姿など、クロウたちの中の誰もが想像さえしていなかったのだ。

 

「おーい、あんた等! すげえ音がしたけど大丈夫かぁ!?」

 

 何を聞くべきか、どうするべきなのか。考える前にその機会は逸してしまった。唐突に響いた他人の声にノイは慌てて姿を隠す。声を辿れば、件の制御室と思われるところから年長の鉱員が顔を覗かせていた。

 そこでようやく気付く。自分たちはこの鉱山で為すべきことを為し遂げたのだと。

 まるで実感の湧かないその事実を飲み込めないまま事態は動いていく。鉱員全員の無事を確認したのも束の間、ノルティア領邦軍の部隊が到着し鉱山に巣食った魔獣を殲滅していく。そうこうする間に四人も慌ただしさに追われ――

 

 結局、トワに何かを聞くことも、言うこともできぬまま状況に流されていくのだった。

 



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第32話 解けたもの 残されたもの

今回でルーレ試験実習は終了となります。クロウ、アンゼリカ、ジョルジュの三人が原作に向けての下地が出来上がり、残すところはトワ一人。あと三つの試験実習は彼女に焦点を当てたものにしていく予定です。贅沢な使い方ですね。
Ⅲで過去のことや進学理由が明らかになって、より魅力的なキャラクターになった原作トワ。そんな彼女に負けないよう拙作のトワもカッコ可愛く書けていけたらと思います。


「流石ですな、姫様。鉱員の安全確保に大型魔獣の討伐……おかげさまで特段の被害もなく魔獣を殲滅することが出来ました。部隊を代表してお礼を申し上げます」

「ん……ああ。なに、礼は不要さ。侯爵家として当然のことをしたまでだからね」

 

 ひしめいていた魔獣が一掃され、ひとまずの安息を得たザクセン鉄鉱山。いまだ戦闘の痕は克明に刻まれており、平穏を取り戻すにはしばしの時間を要するだろうが、それは翻せば時間が解決してくれることだ。追々、日常は取り戻せる。

 鉱員の中には怪我人もいるが、幸いにして死傷者はいない。無事なもの、負傷したものに関わらず、既に全員が領邦軍によりルーレへ護送されている。負傷者を病院に搬送するのはもとより、魔獣に閉じ込められたことで彼らは強いストレスを感じていた。家族の元といった安心できる場所に送り届けるのは道理と言えた。

 

 そして今、襲撃の後処理の為に多くの軍人が入り乱れる鉄鉱山。魔獣の死骸を片付ける他、損壊した設備のチェックなど、やるべきことは多岐にわたる。しばらくは慌ただしい状況が続きそうだ。

 魔鷲をなんとか討伐したトワたちは、その邪魔にならないよう脇に避けて休息を取っていた。魔獣の群れを突破しての鉱員の救出、魔鷲との激闘、そして最後の絶体絶命の状況から九死に一生を得た彼女たちは、流石に肉体的にも精神的にも限界だった。

 そこへ訪れた領邦軍の部隊長。律儀に敬礼を取る彼に対し、アンゼリカはどこか気がそぞろな対応だった。それを疲れによるものと判断したのか、部隊長は気遣いの眼を向ける。

 

「一息つきましたら、街へ戻って休息をお取りください。ご学友共々送らせていただきます」

 

 実際は疲労ばかりが原因ではないのだが、せっかくの心配りを無下にすることもない。あえて否定はせずにアンゼリカは一つ肩を竦めるに留めた。

 

「手間をかけるね。頃合いを見て声を掛けさせてもらうよ」

「ここから山道を下る気力は流石にねえからな。願ったり叶ったりだぜ」

 

 もう懲り懲りと言わんばかりのクロウ。気持ちは分からないでもないが、物事はそう都合よく進まないのが世の常。横からジョルジュが「はは……」と乾いた笑いと共に現実を突きつける。

 

「帰ったら博士に報告に行かなきゃならないけどね。機嫌を損ねていないといいけど……はぁ」

 

 溜息につられて揃って肩を落とす。そもそも警報を鬱陶しがったシュミット博士に追い立てられて首を突っ込むことになった今回の一件。さっさと片付けてこいと言われていたのが、結局は夕刻になってしまっている。博士が苛ついている姿は想像に難くなかった。

 さりとて、今回の試験実習の主眼を見て見ぬ振りをするわけにもいかない。戦術リンク自体はジョルジュの手により満足のいく仕上がりとなったのだ。それを博士がどう評価するかは分からないが、悪いようにならないことを今は祈るばかりだ。

 仔細は知らずとも、そんな気苦労を感じ取られたか。部隊長は苦笑いを零した。

 

「あー……力になれることがあれば遠慮なくお申し付けください。助力は惜しみませんぞ」

「おや、そういうことなら父上から事務的に回されてくる見合い話をどうにかしてくれないかい? 無駄と分かっているだろうに懲りずに来るものだから断るのも面倒……冗談だよ。他に何か困ったことがあったら相談させてもらうさ」

 

 視線を右往左往させる彼にアンゼリカは悪戯っぽい笑み。今度は部隊長が肩を落とす番だった。

 

「まったく姫様もお人が悪い……では、私は部隊の指揮に戻らせていただきます。姫様、それにご学友の皆様、改めて本日はご協力いただきありがとうございました」

「殆ど勝手に首を突っ込んだようなものですけど、そう言っていただけると嬉しいです」

「そちらもお勤めご苦労。もう危険はないだろうが、注意して任務にあたってくれたまえ」

 

 アンゼリカはそこで「ああ、それと」と付け加える。

 

「あまり彼女たち(・・・・)と揉めないように。騒ぎを起こしてくれるのは魔獣だけで十分だ」

 

 その目が向けられる先は、灰色の軍服を纏った正規軍兵士。そして、それらを率いる涼しげな雰囲気の女性士官を。彼女もトワたちに用があるのだろうか。こちらに気を向けていたらしい彼女は視線に対して目礼を返した。

 鉄道憲兵隊。四大名門のお膝下であるルーレにおいては、厄介な部外者と言われても仕方のない鉄血宰相の肝煎り部隊がこの場に駆けつけてきていた。何の思惑があってかは分からないが、彼女たちも領邦軍と並行して今回の被害の調査をしている。

 無論、貴族勢力に属する側としては面白くない。部隊長は隠すことなく渋面を浮かべた。

 

「……善処いたします」

「ま、気持ちは分かるがね。この場は辛抱してくれたまえ」

「はっ、失礼いたします」

 

 気を取り直すように再度の敬礼を取り、部隊長は踵を返して部隊の方へと戻っていく。入れ替わるようにこちらに近づいてくる女性士官を、すれ違いざまに睨み付けることも忘れなかったが。

 それに大して堪えた様子もなく涼しい顔の女性士官。感心すればいいのか、呆れたらいいのか。どうにも反応に困るトワたちに、彼女は心なしか表情を緩めて声をかける。

 

「お疲れのところを立て続けにすみません。少々、お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」

「こちらも色々と窺っておきたかったところです。喜んでお付き合いしますよ――クレア大尉」

 

 不敵な笑みをたたえて迎え入れたアンゼリカに、鉄道憲兵隊の指揮官、クレア・リーヴェルト大尉は少し困ったように眉尻を下げるのだった。

 

 

 

 

 

 領邦軍の後を追うようにザクセン鉄鉱山に赴いてきた鉄道憲兵隊だが、当然ながら領邦軍は当初、彼女たちが立ち入ることを認めようとはしなかった。話を聞くに、空港の方でも相当に揉めたらしい。鉄道沿線地域の捜査権が認められている鉄道憲兵隊だが、関係の無い余所者がしゃしゃり出てくることに反発が生じるのは自明の理である。

 権利を主張する鉄道憲兵隊、道理から拒む領邦軍。埒のあかない押し問答に終止符を打ったのは、額に井形模様を浮かべたアンゼリカの鶴の一声だった。

 

「いつまで下らないことに時間を割いている! 鉱員の護送、被害の調査、操業再開への復旧! 調査したいというのなら勝手にやらせておいて、まずは自分たちの職務を果たしたまえ!」

 

 やっとのことで騒動を収められたと思ったら、その矢先に起こった人間同士の派閥争い。うんざりした気分でさっさと仕事しろと怒鳴りつけ、ようやく事後処理が始まったのだから頭が痛い話だ。アンゼリカが珍しく重い溜息をついてしまったのも無理はない。

 そんな経緯で領邦軍とは別個に調査をしている鉄道憲兵隊。士官学院とはいえ一学生にその状況を教える義理はないのだが、トワたちは当事者であるのに加えて結果的に領邦軍を説得してくれた借りがある。だからか、クレア大尉はトワたちの質問に概ね隠すことなく答えてくれた。

 

「帝国各地で魔獣の狂暴化……こんなことが他でも?」

「ええ。規模はまちまちですが、ここ最近で前触れの無い魔獣による襲撃が散発しています。それも帝国全土において場所を限らずに」

 

 クレア大尉たちがここに現れた理由。それは彼女たちが追っている案件にあった。

 先月の帝都で起きた魔獣騒動、そして今回のルーレにおける大型魔獣の襲撃。形や規模は違っても、いずれも魔獣が原因不明の狂暴化をしたことで人や街を襲う事例が帝国各地で起きているのだという。その事実にトワたちは驚きを禁じ得ない。

 

「帝都の一件だけならまだしも、これだけ類似した事件が続いているのです。鉄道憲兵隊と情報局は一連のものを同一犯によるものと考えています」

 

 思い浮かぶのは、帝都において反政府活動を行っていた者たちを唆したという男。音波を用いた何かしらの手段で広範囲の魔獣を操ることができると推測されるその人物が、帝都のみならずルーレや他の地域でも暗躍していたというのか。時折感じていた嫌な予感に符合するクレア大尉の言葉に、四人の表情は自然と厳しいものになる。

 

「それでルーレでも同じようなことが起きたから急行ってわけか。外様の方までご苦労なことで」

「それが任務ですから……風当たりが強いことは否定できませんが。ですから、先ほどは結果的なものとはいえアンゼリカさんには助けられました。お礼を言わせてください」

「分かっているのなら、そちらの親玉にもう少し穏便になってほしいものですが」

 

 アンゼリカの溜息混じりの返事に、クレア大尉は苦笑のような曖昧な笑みを浮かべる。それくらいしか出来なかったのだろう。角が立つようなことを言わず、この場は誤魔化して波風立てずに済ませようという考えが察せられた。

 鉄血宰相と鉄血の子供たち。その関係性が如何なるものであるかは知る由もないが、ただ盲目に従っているというわけでもないようだ。少なくともクレア大尉からは、立場からくる責任感とは別に彼女自身が持つ良心が感じられた。世間では《氷の乙女》と呼ばれている彼女だが、決して冷たい人ではないのだろうとトワは思う。

 アンゼリカもそこは同感だったのかもしれない。小さく息をついて構えたような態度を解いた。

 

「詮無いことを言ってしまいましたね。これ以上はやめましょう」

「いえ、そう言われても仕方のない面があることも事実ですので……」

「ええっと……そ、そういえば僕たちに何か聞きたいことがあったんじゃないですか? わざわざ話し終わるまで待っていたようですし」

 

 切り上げようと言いつつも、どこか引きずりそうな雰囲気を察したのか。ジョルジュが本題の方に話を引き戻そうと試みる。意図が丸わかりのわざとらしいものであっても、その心遣いがありがたいことには違いない。クレア大尉も素直に彼の善意に乗った。

 

「ええ。先ほども言った通り、我々は一連の騒動を同一犯によるものとみているのですが――その端を発したのが、トワさんたちが関わった二か月前のケルディックの一件からと考えています」

「ケルディックっていうと、あの馬鹿でかい昆虫か」

 

 クロウが辟易とした表情を浮かべる。轢き飛ばされかけたのはいい思い出とは言えなかった。

 

「あれもおそらくは同じ手口によるもの。トワさんたちはケルディック、ヘイムダル、そしてルーレの三か所で事件に遭遇したことになります。偶然にも複数の現場に居合わせた皆さんに、それぞれで何か符合する点がなかったか聞いておきたかったのです」

 

 なるほど、とトワたちは納得する。幸か不幸か試験実習の行く先々で騒動に見舞われ、それに首を突っ込んでは解決に貢献してきた四人。事件が同一犯によるものならば、それぞれ起きたことは違っても共通する点はあるかもしれない。クレア大尉が話を聞きたいと思うに十分な理由だろう。

 ところが、四人はそこで言葉に詰まってしまう。協力したいのは山々だ。しかし、肝心の共通点がとんと思い浮かんでこなかった。三回の試験実習で起きた出来事なるべく詳細に思い出しても、これといったものは見つからない。

 

「ふむ……どれも前触れらしい前触れがなかったことが共通しているといえばそうだが……」

「帝国の各地で起きてるってことは街の外から来やがった奴が犯人なんだろうが、どこも観光なり商売なりで人の出入りが激しかったしな。そこから特定するのは難しいか」

「三か所全部で会った人もいないしね……ボリス子爵は帝都に続いて今回も会ったけど」

 

 ジョルジュがふと思いついたように呟いた言葉にクレア大尉が反応する。彼女の視線にジョルジュは若干たじろいだ。

 

「そのボリス子爵という方は?」

「えっと、パルムの領主をされている人で……普段は各地を商談で回っているそうです」

「大尉も一度会っていたと思いますよ。ヘイムダル港にいた眼鏡に髭の丸っこい男性なのですが」

 

 アンゼリカの説明にクレア大尉も思い出したようだ。「ああ、あの……」と独り言ちると、口元に手を当てて思案気な様子になる。彼女の中でボリス子爵に疑いが向いているのかもしれない。

 各地を商談で回っている、という点は確かに容疑者の候補として挙げられても仕方のない要素かもしれない。とはいえ、実際に何度か言葉を交わした人間からすればあまり疑う気になれなかった。

 

「つってもあのオッサン、昨晩は酒場で宴会を開いた挙句に今朝がたまで潰れていたからな。あんまり気にする必要はないんじゃねえの?」

「今回会ったのも、友達のハインリッヒ教頭に実習先を聞き出して合わせてきたみたいだからね。僕たち、彼になんだか気に入られているみたいだから」

 

 庇うつもりで言ったわけではないが、彼がこのような大それたことをする人物にも猶予があったようにも見えなかったのが正直なところだ。クレア大尉にもそれは伝わったのだろう。一つ頷くと、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開く。

 

「そうですね……完全なシロと決めつけるわけにはいきませんが、そこは先入観を持たずに調べるとしましょう。最初から疑ってかかっては真実を見誤りかねません」

 

 妥当な結論だろう。どちらにせよ捜査は彼女たちの領分、四人もそれに異議はなかった。

 そうしてボリス子爵の話が一段落したところで、クレア大尉が「ところで」と視線を移した。

 

「トワさん、先ほどから口数が少ないようですが……顔色も悪いですね。大丈夫ですか?」

「えっ……それは、その……」

 

 心配そうな目が向けられる先のトワは、クレア大尉の言う通りに青を通り越して白い顔をしていた。普段は血色もよく、試験実習班のまとめ役であるだけに言葉少なになるだけで違和感が際立つ。付き合いの短いクレア大尉にさえ分かるのだから、クロウたちも当然のごとく気付いていた。

 ――あの《力》を見せてから、トワが何かに怯えていることに。

 

「やはりお疲れだったみたいですね。すみません、時間を取らせてしまって」

「そ、そんなことはないですけど……」

「……ま、あまり鉱山に居座っていても仕方ない。そろそろお暇した方がいいかもしれないね」

「そうだね。博士も待っていることだし……はぁ」

 

 そのような事情を知る由もないクレア大尉は頭を下げるが、トワとしては恐縮する限りだ。とはいえ変調をきたしている彼女の返答は言葉に反して弱々しいものであり、それが一層クレア大尉に自分が無理をさせてしまったのではないかと無用の罪悪感を抱かせかねないくらいである。

 そこで気を利かせるのがアンゼリカ。なるべく自然にルーレへ戻ることを促すそれにジョルジュも同調する。彼の場合、演技にしては溜息に実感が籠りすぎているきらいがあったが。

 クレア大尉もそれに異を唱えるようなことはしない。むしろ、すぐにゆっくり休める場所に送ってやってほしいという気遣いの念が表情から透けて見えるようである。トワの憔悴ぶりは彼女を軍人からただの人の好い年上の女性にするくらい酷かった。

 

「そんじゃあ、俺たちはこれで失礼させてもらうぜ。あんま力になれなくて悪かったな」

「いえ、そんなことは。鉱員の救出と大型魔獣の討伐を為し遂げたのです。皆さんの功績は余りあるものでしょう。帝国を守る一人の軍人として感謝を――ちゃんと休んでくださいね」

 

 最後にトワに向けて付け加えたのは、とある型破りな遊撃士の姪っ子であることが頭を過ったからだろうか。無理、無茶、無謀を平気で押しのけていくシグナに幾度となく頭の痛い思いをさせられたクレア大尉としては、本質的には似ているように思えるトワに念押ししたくなったのかもしれない。

 尤も、今のトワに常日頃の元気は見る影もない。念を押されるまでもなく下手な行動など取りをする気はなかったし、する気力もなかった。はい、と小さく頷くことで返事として、トワたちはクレア大尉と別れてルーレに戻るべく鉱山の入り口に向かう。領邦軍の誰かに声を掛ければ送っていってもらえるはずだ。

 

「そういえば送ってもらえるってことだけど、つまりは装甲車に乗せてくれるってことだよね。あまり乗り心地は良くなさそうだなぁ」

「正規軍のよりは大分マシという話だがね。あちらは劣悪の一言らしい」

「兵員輸送の席なんてそんなもんだろ。領邦軍が無駄金使ってるって言われても仕方……っと」

 

 普段通りに取り留めのない話をしながら歩を進めていく。それはいっそ不気味なくらいに静けさを保っているトワを気遣ってのものだったが、対応としては毒にも薬にもならないものだった。口を開かないトワに三人が内心で焦燥を感じていると、曲がり角で不意に一人の男性と鉢合わせた。

 

「おっと、悪い悪い。邪魔しちまったか?」

「いえ、お気になさらず。ただの雑談でしたので」

 

 ぶつかりはしなかったが、軽い謝意を示してくる男性。赤毛の彼に、どこかクロウに似た軽い感じを覚える。歳は二十台前半くらい。正装で通じそうな整った装いをしていることから、軍人というよりは役人のような印象だった。

 彼は順々にトワたちの顔を見ていくと、「なるほどなぁ」と興味深そうに呟く。

 

「噂の学生たちがどんなもんかと思ったが、なかなか粒ぞろいな感じじゃねえの」

「えっ?」

「そんじゃ、お疲れさーん」

 

 意味深な言葉だけを残して、彼は後ろ手を振りながらトワたちの脇をすり抜けていってしまった。捉えどころのない男性をトワたちはポカンと見送るしかない。結局、何かよくわからない人だった。

 

「何だったんだろう?」

「……さあな。ま、さっさと帰るとしようぜ」

 

 首を傾げても何が分かるわけでもない。疑問を残しつつも、四人は帰路を辿っていくのだった。

 そうしてトワたちが去ったあと、赤毛の男性は目当ての相手を見つけるとそちらへ足を進めていく。顔にどこか軽薄さを感じられる笑みを浮かべて、彼女に声を掛けた。

 

「ようクレア、お勤めご苦労さん」

「レクターさん……ええ、お疲れ様です」

 

 クレア大尉は若干驚いたような様子を見せた後、柔らかい笑みを浮かべる。直接顔を会わせるのは久しぶりになる同僚の登場だった。

 レクター・アランドール。情報局所属の特務大尉であり、帝国政府の三等書記官の肩書も持つ。そしてクレア大尉と同じく《鉄血の子供たち》として《かかし男(スケアクロウ)》の異名で呼ばれる人物であった。見てくれだけでは調子の軽い兄ちゃんという風体なのだが。

 

「二か月ぶりくらいでしょうか。リベールからクロスベルへの閣下の訪問、流石の手際でしたね」

「あー、あれな。面倒ったらありゃしなかったぜ。マスコミを誤魔化すのにどれだけ苦労したか……」

 

 大袈裟な所作で苦労の程を語るレクターであるが、彼の能力を知るクレア大尉としては何を言っているのやらという気持ちである。これまでに数々の非公式な交渉の全てを成功に導いてきた手腕を持っているのだ。マスコミの目を晦ますくらい訳もないだろう。

 

「それはそうと、こんなところまで出向いてくるとは珍しいですね。何か進捗でも?」

 

 世間話はさておいて、用件を尋ねるクレア大尉。それにレクターはどこか渋い表情を浮かべた。

 

「あー、進捗といえば進捗だな……ちょいと頑張ってもらっているところには伝え辛いんだが」

「……?」

「この魔獣騒動に関する調査は今回をもって終了――要するに手を引けってことだ」

 

 その言葉にクレア大尉は目をむいた。当然だろう。今まさに追っている事件の捜査に対して、突然の打ち切りを宣告されたのだから。納得のいかない気持ちが口から飛び出しかける。

 

「そんなこと――!」

「ギリアスのオッサン曰く、これは“盤面の外”の出来事らしくてな。手を出す必要はないとさ」

 

 それを見越していたレクターが機先を制す。ギリアス・オズボーン、その名を出されてはクレア大尉も口をつぐむしかない。そして、その理由も理解できないわけではなかった。

 “盤面の外”という言葉の意味を完全に理解できているわけではないが、ある程度は意を汲み取ることが出来る。要はこの一件、今自分たちが専心するべきことには直接のかかわりはないということだろう。更に言うなれば、昨今で蠢動の機微を見せる貴族派の手によるものではないということ。

 

 それ自体はクレア大尉自身も察してはいた。あまりに貴族側に対して利益も何も見いだせない状況だったからだ。帝都で起きた一件はまだしも、今回のルーレに関しては貴族側も被害しか被っていない。彼らの手による計画的なものとは思えなかった。

 であれば、積極的に手出しをする理由はない。鉄道憲兵隊や情報局といった限られたリソースを重要度の低い案件に割り振るよりは、貴族派の動きを探るのに注力した方が合理的であることは否定できない事実だった。

 

「閣下が……しかし、それでは……」

「言いたいことは分からんでもないけどな。ま、貴族連中も馬鹿じゃない。こっちから手を出してやらなくても、向こうは向こうで勝手に降りかかってくる火の粉は払うだろうさ」

「……了解しました」

 

 しかし、それらとは関係のない無辜の民の安全はどうなるのか。クレア大尉の胸の内には憂慮の念があったが、レクターの口ぶりからそれが既に決定事項であることは分かっていた。彼の気休め程度のフォローもあって、気は進まないでも承服する。軍人として上からの命令は絶対だった。

 それでも浮かない気持ちであることは傍目から見ても明らかであった。レクターは参ったように頭を掻くと、遠慮がちに口を開いた。

 

「これは俺の勘なんだが……そんな気にする必要はないと思うぜ? あの皇子の仕込んだ士官学院の奴らもなかなかやるみたいだからな。大事にはならねえだろ」

「トワさんたちですか? 確かに学生としては目覚ましい活躍ですが……」

「そうそう。アルハゼンの姪っ子が頭張ってんだ。まあ、なんとかしてくれるだろうよ」

「そんな人任せなことを……いえ、レクターさんの勘ならあながち否定もできませんか」

 

 子供に負債を押し付けるような口ぶりに反駁しかけるが、そこでクレア大尉は思い出す。レクターは不思議とこの手の予想を外したことがないのだ。かといって納得できるかと言ったら違うのだが。

 

「ですが、大丈夫でしょうか? トワさんも今回は相当に無理をしていた様子でしたし……」

「確かになんか凹んだ感じには見えたけどな。ありゃ疲れがどうこうっていうより――」

 

 レクターはトワたちが去っていた方に目を向ける。憔悴した様子の、周囲の気遣いにさえ気を回す余裕のない小さな少女の姿が思い出される。ほんの少しの邂逅だったが、それでも感じ取れるところはあった。

 

「重苦しいもの背負わされて苦労してるって感じだな。精々潰れないように祈ってやるとしようぜ」

 

 それもまた勘ではあったが、確信めいたそれにクレア大尉は否定の言葉を見つけられなかった。ただならない事情があると言われてしまえば納得してしまうくらい、トワの様子は沈痛だったから。

 レクターと同じく、トワたちの行く末を見つめる。彼女たちにできることはそれだけだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「ようやく戻ったか。どこぞで野垂れ死んだかと思っていたのだがな」

 

 夕日も地平線に沈みつつあるルーレ。紆余曲折を経てようやく工科大学に戻ってきたトワたちを出迎えたのは、予想していた通りにしかめっ面をしたシュミット博士の毒舌だった。やっぱり、と肩を落としはしたが、気落ちしたりはしない。この博士はこういう人だと諦めはついていた。

 

「遅くなったのはすみません。色々と立て込んでしまって……あの、ところで」

 

 一応の謝罪をするジョルジュが視線を動かす。この場にいるとは思っていなかった人物へと。

 

「イリーナ会長とシャロンさんはどうしてこちらへ?」

「あら、何か不都合でもあったかしら」

「うふふ、会長がいらっしゃると場が緊張してしまうからでしょうか?」

 

 滅相もないと慌てて首を横に振るジョルジュ。多忙の為に昨日の顔合わせから姿を見せていなかったイリーナ会長は、不意を突くようにシュミット博士と共にいたかと思えばわざとらしく意地の悪いことを言ってくる。それに便乗してくるシャロンも性質が悪かった。

 実際のところ、ルシタニア号の件で過密スケジュールとなっていると聞いていたイリーナ会長がこの場に現れるとは思っていなかった。実習の終了報告もシャロンを代理にするのかと想像していたくらいだ。その人が突然この場に居合わせたのだから理由の一つも聞きたくなる。

 

「まあ、冗談はさておくとして。単に同席させてもらった方が手間が省けるからよ。RFとしてもARCUSの要たる戦術リンクの開発進捗は気になるところ。それにもう遅い時間だし、この場で試験実習の報告も済ませるのがあなたたちにとっても楽でしょう」

 

 そんな疑問は相変わらず簡潔で要点を抑えたイリーナ会長の説明で解消される。開発元のRFの都合と、そろそろ帰りの列車の時間が気になるトワたちの事情を考えれば、確かにこの場に同席するのが最適解である。なるほど、と揃って納得する。

 納得を得られたところでイリーナ会長は「ところで」と話を切り替えた。

 

「話に聞く限り、随分と危ない道を渡ってきたそうね……そう構えずとも説教なんてしないから安心なさい。あなたたちの選択が如何に困難を伴うものであれ、結果を出したのなら文句はないわ」

「結果がすべて、か。イリーナさんらしいですね」

 

 ザクセン鉄鉱山での一件に言及した途端、身を硬くしたトワたちにイリーナ会長は肩を竦める。その言葉にアンゼリカは安堵の息をつきながらも得心した。実にこの女傑らしい考え方だ。同時に、もし失敗に終わっていたらと思うと背筋が凍り付く思いである。

 

「鉄鉱山はRFの生産力の礎。その平穏を取り戻してくれたことについては、私の方からも感謝させてもらうわ。無茶をしたことについては学院に口添えしておきましょう」

「皆さん、お疲れ様でした。トワさんは特に疲労が溜まっていそうですが、よろしければ気分が落ち着くハーブティーでも淹れましょうか?」

「あ……いえ、帰りの列車で休ませてもらうので。イリーナ会長もお気遣いありがとうございます」

 

 目聡く変調を見抜いてきたシャロンの気遣いをトワは丁重に断る。言葉少なであるのは続いているが、ルーレに戻る道中を経て彼女も傍目には平静を取り戻していた。こうして応対している様子を見る分には疲れ気味なだけのように思える。

 しかし、あの尋常ではない様子を見たクロウたち三人としては、とても常日頃の彼女に戻ったとは到底考えられなかった。手の出しようもない巨大な不発弾が埋まっているような、そんな感覚だ。

 そのような複雑な心中を抱える面々だったが、シュミット博士がそれを顧みるような性格をしているはずがない。鉱山での一件もまるで気にした様子もなく本来の要件について切り出した。

 

「前置きはもういいだろう。戦術リンクの調整結果、実際に使用した所感を聞かせてもらおうか」

 

 ジョルジュが三人に目を向ける。クロウとアンゼリカが無言の頷きを返し、トワも遠慮がちながらそれに続く。仲間に背を押され、威圧感を醸し出す師の前に立ったジョルジュは臆することなく自分たちの成果を示す。

 

「話をするよりも、まず見てもらった方が早いでしょう。確認願います」

「ふん……?」

 

 眉をひそめつつも、ひとまずは差し出されたARCUSを受け取るシュミット博士。工具であっという間に分解すると戦術リンクのシステム部分を検分し始める。ジョルジュはそれを緊張の面持ちで待っていた。トワたちも思わず息をのむ。

 調整を施したのはシュミット博士自身だ。自らが手掛けたものがどのように変更されているか調べることなど容易い。一通り状態を確認した博士は声を荒げるでもなく、至って平静とした様子でジョルジュに対して鋭い視線を投げかけた。

 

「安定性を損なってでも効力と拡張性を突き詰めたか。一応、理由を聞いておこう」

「はい。運用するだけなら博士の調整が最適でしたけど、より効率的な部隊行動を考えると――」

「違う」

 

 短い否定の言葉で話を断ち切られたジョルジュが虚を突かれたように固まる。シュミット博士の刺し貫くような眼光が、彼に誤魔化しは許さないと物語っていた。

 

「そんなどうでもいい理屈は聞いていない。貴様自身が、どうしてこうしたかを聞いているのだ」

 

 理屈ではなく、理由。他ならぬジョルジュの意思をシュミット博士は聞いてきていた。

 鋭利な視線にジョルジュが俯く。だが、後に退いたりはしなかった。顔を上げ、その眼に強い意志を籠めてシュミット博士を見つめ返す。

 

「僕は……僕たちは、初めはまともに戦術リンクを結べないくらいバラバラでした。喧嘩して、信じ合えなくて、受け入れることが出来なくて……それでも、ぶつかり合うことで自分たちなりの戦術リンクの形を築き上げてきたつもりです」

 

 試験実習班が結成した当初は本当に目も当てられないような状況だったと思う。ただでさえ碌に機能しない戦術リンク、いがみ合うクロウとアンゼリカ。皆が皆、胸の内に何かを抱えていて信じ合うことが出来なかった。今から考えると空中分解しなかったのが不思議なくらいだ。

 だが、そうはならなかった。四人でぶつかり合って、数えるのも億劫なくらい躓きながら、それでも一緒に足並みを揃えて進んできた。お互いを認め合えるようになった。

 

「それを無かったことにはしたくなかった。機械的で冷たいものなんかじゃない。僕たちが築き上げてきた、僕たちなりの戦術リンクを形にしたかった――そんな自分勝手な理由です」

「…………」

 

 合理的ではないかもしれない。最適解ではないかもしれない。それでもジョルジュは自分たちが導き出した最高の答えを選んだ。それは身勝手なものかもしれないが、彼は自分が間違っているとは思わなかった。こうして師に睨み据えられようと、後悔など欠片もしていないのだから。

 シュミット博士はしばしジョルジュと睨み合いを続け、彼が目を逸らさないと分かると瞑目した。そこに弟子の勝手に対する怒気は感じられない。

 

「……我を出せるようになったと考えれば、士官学院とやらも少しは意味のある選択だったか」

「え?」

「グエンの娘、戦術リンクの基本システムはこれで完成とする。文句はあるまいな」

 

 独り言のように呟かれたシュミット博士の言葉を理解する間もなく、彼はイリーナ会長に向けて告げる。そして彼女もまた、トワたちが反応する間もなく答えを返した。

 

「ええ、問題ありません。机上の理論よりもテスターたちが出した答えの方が取り入れられるべきものでしょう。後は試験運用を通じて機能の拡張に取り組んでいこうかと」

「ふん、そちらに私は関わらんぞ。既に別件が入っているのでな」

 

 トワたちを他所に何やらとんとん拍子で話が進んでいく。ジョルジュが「ちょ、ちょっと待ってください」と焦って口を挟んだ。

 

「お二人とも何を言っているんですか!? それは僕が勝手に調整した――」

「テスターたちが最適だ、と考えた調整でしょう? それなら私から異存を挟むつもりは毛頭ないわ。もとより戦術リンクには適性があるもの。多少の不安定さがあっても、それ以上の効果が得られるのならばお釣りがくるというものよ」

「いや、まあ分からない理屈ではないけどよ……」

 

 イリーナ会長の言葉にジョルジュは口をパクパクさせるばかり。自分たちの勝手を押し通してシュミット博士の調整から正反対ともいえる方向に突っ走ったのだ。当然、罵詈雑言を浴びせられる覚悟をもってこの場にやって来たというのに、気付いたらあれよあれよという間にこの仕様で正式採用されようとしている。訳が分からないよ、というのが彼の心中であった。

 現場の判断の尊重、そして適性のことを考えれば人間関係による若干の不安定さは今更というイリーナ会長の考えは理解できなくもない。しかし、トワたちからしてみればあまりにも急展開過ぎて気持ちが追い付いていなかった。

 

「そう難しく考えることもないかと。皆様が築き上げてきた戦術リンクがお二人にも認められた、それだけのことでしょう。もっと素直に喜んでもいいのでは?」

「簡単に言ってくれますね、シャロンさん」

 

 クスクスと笑うシャロンにアンゼリカが仏頂面を向ける。とてもではないが、そんな素直に受け止められそうにない。このしかめっ面と鉄面皮を前にしてどうして認められたと安直に受け止められようか。むしろ何か裏があるのではないかと勘繰ってしまうところだ。

 ジョルジュに至っては尚更である。戸惑いに染まった目をシュミット博士に向ける。

 

「本当にいいんですか? 僕なんかより博士が仕上げた方が……」

「くどい。完成と言ったら完成だ。私がこれ以上手を加えるつもりはない」

 

 ピシャリと言い返されジョルジュは二の句に詰まる。博士はますます眉間に皺を寄せた。

 

「貴様は以前からそうだ。課題を与えれば人並み以上にこなすが、自分の意志で何かを成そうとしたことがない。小手先ばかりの技術はあっても自らの考えを持とうとしなかった」

 

 言葉が機関銃のように襲い掛かってくるが、ジョルジュは何も言い返さなかった。言い返せなかったのだろう。それは彼自身が一番よく分かっていることだったから。

 

「それが私の元を離れてようやく自分の手で仕上げてきたと思ったら、あまつさえ私が仕上げた方がだと? ふざけるな。基盤こそ私の手が加わっているが、ここまで戦術リンクを作り上げてきたのは貴様らだ。自分が作ったものを自分で認めないでどうする」

 

 シュミット博士は工具の中からテストハンマーを手に取る。デスクに置かれたARCUSを前に、ジョルジュを睨み据えた。

 

「それすらも出来ないようなら構わん――今ここで粉々にするだけだ」

 

 作り手に認められない作品など破壊した方がマシだ。言外にそう告げるシュミット博士の目に冗談の色は一欠片もない。凄まじい剣幕にトワたちは差し挟む言葉を持たず、イリーナ会長にシャロンも静観の姿勢を保っていた。

 ただ一人口を開ける者がいるとすれば、それは師に対する弟子に他ならないだろう。

 

「……いえ、それには及びません」

 

 シュミット博士にここまで言われて分からないほど、ジョルジュは愚鈍ではなかった。自分が一人前の技術者となるのに必要だったのは作品の意味を考えることではない。たとえそれがどのように使われるものであったとしても、自らの意志で作り上げ、そして一個の作品として認めること。列車砲だろうがそれは変わらない。後悔はしたとしても、作り上げたことを否定してはならないのだ。

 

「これは僕たちが作り上げてきた戦術リンクです。博士の手を煩わせなくてもより一層の洗練を重ねていって……そして繋いでいきます。完成したARCUSを運用する、僕たちの後輩の手に」

「……ふん、初めからそう言えばいいのだ」

 

 ハンマーを手放したシュミット博士はしかめっ面で、けれども少し棘の取れた声音で言った。

 

「分かったのなら士官学院でも研鑽を怠らないようにすることだな。後で研究草案を幾つか持っていけ。形にしてレポートを送り付ければ評価してやらんこともない。いいな、三番弟子(・・・・)

「あ……」

 

 それは、もうその口から出ることはないと思っていた呼び名。ボロクソに罵られながらも技術を積み上げていった日々の中で、数少ない博士から認めてもらっていると理解できる証。見限られただろうと思っていた。だからこそ、不意打ちのように呼ばれてジョルジュは一瞬呆けて固まった。

 徐々にその言葉を咀嚼して、またそう呼んでくれることの意味を理解して、彼の口元には自然と笑みが浮かんでいた。

 

「――はい、またよろしくお願いします」

 

 シュミット博士は鼻を一つ鳴らすのみ。彼らの間にはそれだけで十分だった。

 どうにか丸く収まった師弟関係に見守っていた三人も胸をなでおろす。最後まで冷や汗ものなやり取りをするだから気が気ではなかったが、こうして蟠りが解けたのなら結果オーライである。

 ジョルジュとシュミット博士然り、アンゼリカとログナー候然り。戦術リンクの件や魔獣騒動を差し引いても気苦労に耐えない二日間だったが、いずれも一応の解決を見せた。その紛れもない成果を胸に、ルーレにおける試験実習は終わりを告げるのだった。

 

 ――四人の要が見せた、正体の知れない《力》と《恐怖》が影を引いたまま。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「なかなか面白い子たちだったわね。シャロン、あなたはどう見る?」

「会長に同感いたします。トワ様、クロウ様にジョルジュ様。アンゼリカ様も幾分と成長なさっていたようですし、きっとお互いに良い影響を与え合っているのでしょう」

 

 工科大学からRF本社の会長執務室に戻る道すがら。ルーレを一望できるエレベーターの中で、イリーナ会長とシャロンは先ほど見送った四人のことを思い返していた。

 トールズ士官学院の新たな試み、その雛型である生まれも育ちも何もかもが違う四人の学生たち。いったいどれほどのものかとシャロンを通じて活動の様子を見ていたが、いろいろな意味で想像以上だったと言えるだろう。自らの目でこの国の現状を捉え、そして自らの意志で動いていく。なるほど、非常に効果的な試みであるのは確かなようだ。

 どうやら彼女たちの間にはまだしこりが残されているようにも見受けられたが、それはイリーナ会長に関わりのあることではないだろう。重要なのは、その試みに一定の効果があると認めたうえでどうするか。シャロンが見計らったように問いかける。

 

「では会長、オリヴァルト殿下からのご要望については?」

「受けましょう。スケジュールもそちらの方向で調整してちょうだい」

「はい、かしこまりました」

 

 即決だった。迷うことなど何もない。彼女は自身に利があると判断できれば、躊躇いなくそれを選択できる決断力を持っていた。トールズ士官学院理事の任、それもまたRFにとって利益足り得るものであれば、引き受けることに否はない。

 しばし、会話が途切れる。そこでイリーナ会長が「そういえば」と切り出した。

 

あの子(アリサ)が最近、高等学校のことを調べて回っていたわね」

「さて、わたくしには何のことか……」

 

 白々しい様子のメイドにイリーナ会長は呆れの目を向ける。大方、母親に隠してことを進めようとしている娘の意図を汲んでの言動であろうが、まるで隠す気がないことが明白だ。

 まあいい、と流して言葉を続ける。

 

「丁度いいわ。トールズのパンフレットもさりげなく混ぜておきなさい」

「それだけでよろしいのですか? 何でしたら、それとなくお嬢様を誘導して――」

「選択肢を与えるだけよ。そこまで強制する気はないわ」

 

 遅めの反抗期なのか分からないが、ここのところ反発が強い一人娘。彼女が母親の手の内から逃れたがっているのは知っていた。そのために密かに高等学校への進学を企てており、金銭面について遠方に隠居している祖父に相談していることも。本人は細心の注意を払っているつもりだろうが詰めが甘い。母親にはすべてが筒抜けになっていた。

 止めるつもりはない。しかし、それならそれで本人の糧になる選択をしてほしいところだ。逃れた先で無為に時間を過ごしてもらっては見逃す意味がない。

 

「ただ、もしそこを選んだのだとしたら……あの子に進ませるのも悪くないかもしれないわね。厳しく険しい、されど必ず糧となるような、そんな道を」

 

 その点、トールズの特科クラスとやらは間違いないだろう。雛型でさえ今回のような有様なのだ。間違いなくエレボニアという国の現実にもまれ、様々な壁に直面していくことになる。果たしてその時、どのような選択をして自らの糧にしていくのか。

 

「うふふ……では、そのように」

 

 知らず、イリーナ会長の口元に僅かな笑みが浮かぶ。シャロンは恭しく礼をすることでそんな雇い主の命を承るのだった。

 真実を知った娘が絶叫するまで、あと一年と幾許か。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 ノルティア本線を走る導力列車。日は既に沈み、空には星が瞬いている。最終便でどうにか、という時間帯だ。帝都を経由してトリスタに戻る頃には深夜になってしまっているだろう。諸々の事情で遅くなってしまったとはいえ、なかなかに厳しい帰り道である。これで明日は普通に授業日だというのだから辛いことこの上ない。

 かといって、列車の中で延々と明日のことを憂いているのもどうかというもの。時間が時間だけに人気のない車両のボックス席に座ったトワたちは、今回の実習のことを振り返りつつもジョルジュが帰り際に貰って来たものについて聞いていた。

 

「へえ、導力車の二輪化……いや、自転車の導力化と言った方がいいのかな? なかなか面白そうな研究テーマじゃないか」

「口で言うほど簡単にはできないだろうけどね。導力車とは構造から全部変わってくるし、自転車にしても人力から導力に変わることで操縦方法からバランスのとり方まで色々と考えなくちゃならない。やりがいのある課題になりそうだよ」

 

 トールズに在学中にも研鑽を積むようにとシュミット博士に申し付けられたジョルジュ。博士の研究室に積み上げられた雑多な研究草案の中から彼が選び取ったのは、導力駆動の二輪車をどのように実現するかというものだった。

 理由は、と問われるとジョルジュは少し悩んでこう答えた。面白そうだから、と。きっと良いものを作り上げるにはそうした気持ちが大切なのだろう。彼がこの実習を通じて学んだことだった。

 

「どんなものになるか知らねえが、まあ力仕事くらいだったら手伝ってやるよ。技術部に入り浸ってればどの道居合わせることになるだろうしな」

「まずはおおよそのモデリングをして設計図を引くところからだから、手伝ってもらうのはしばらく先になりそうだけどね。その時が来たらお願いさせてもらおうかな」

「ふふ、楽しくなりそうじゃないか。進捗は随時聞かせてくれたまえよ?」

 

 ここ最近は完全に試験実習班のたむろする場所と化していた技術部だが、ようやく本来の使用用途としても活躍できる機が巡ってきたようだ。しばらくは退屈せずに済みそうな案件に今から賑やかしくなる。入り浸る時間もますます増えそうであった。

 

 しかし、これは話を逸らすための方便でしかなかった。そんなものが長い列車旅の中でいつまでも続くわけもなく、次第に交わされる口数は少なくなっていく。先ほどから曖昧な相槌しか打ってこない、変調したままのトワのように。

 聞かなければならないことがあった。されど安易に触れてはならないという確信があった。これはきっと、トワが抱えるものの核心にまつわる話だと三人は言葉にせずとも察していた。だから鉄鉱山から今に至るまで下手に口にするようなことはしなかったし、せめてトワの調子が戻るまで待とうとした。

 かといって、これ以上の誤魔化しは不可能だ。踏み込まねばならない。どのような結果になろうとも、自分たちが今ここから先に進むためにはそうする他にないのだから。

 自分でもあの場をどうにかできたという無意識な負い目があったのかもしれない。いつの間にか重くなっていた空気の中、汚れ役を引き受けたのはクロウだった。

 

「あー……なあ、トワ」

 

 小さい肩がびくりと揺れる。言い知れない罪悪感に苛まれながら彼は言葉を続ける。

 

「鉄鉱山でのことなんだが――」

「あのっ!」

 

 それを言い切る前に、クロウの言葉は突然立ち上がったトワに遮られた。俯いているせいで表情はよく見えない。けれど、握りしめた小さな両手が震えているように見えたのは、決して気のせいではなかったのだろう。

 

「わ、私あまり体調がよくないみたいだからお手洗いに行ってくるね。心配しなくていいから……」

 

 下手糞な言い訳を口早に告げるや、トワは半ば走り去るように車両から出て行ってしまった。当然、それをみすみすと見送るようなクロウではない。「お、おい!」と慌ててその後を追おうとして、彼は数歩も進まぬうちに道を阻まれることになる。

 姿を現したノイが、妹分の後を追わせないように宙に浮いていた。

 

「……ちょいと過保護なんじゃねえか? 放っておいて元通りになるものでもねえだろ」

「分かっているの……でも、お願い。もう少しだけ、あの子に時間をあげてほしいの」

 

 苛立ちを滲ませたクロウに対してノイの言葉は弱々しい。しかし、そこをどくような気配は微塵もなかった。舌打ちをしたクロウが荒々しく席に戻る。

 

「教会との盟約が云々、という話とは違うようだね。関わってはいるが、それが本筋ではない」

「…………」

「その……答えにくいんだったら無理に聞き出しはしないけど」

 

 アンゼリカの言葉にノイは答えに窮した。否定はしない。けれど、その先のことはトワ本人が伝えなければいけないことだ。姉貴分が余計なお世話で口にしただけでは何も解決せず、むしろ余計に事態が悪化することにも繋がりかねない。

 沈痛な表情のノイをジョルジュが気遣う。悩んだ末、彼女は絞り出すようにそれだけ口にした。

 

「あの子は何も悪くないの……普通の女の子でいさせてあげられなかったのも、あんな臆病にさせてしまったのも……全部、私たちのせいなの」

 

 

 

 

 

 仲間たちから逃げ出したトワは車両を二つ通り過ぎたところでようやく足を緩めていた。途中、数の少ない乗客から見咎められもしたが、それを気にするような余裕もなかった。フラフラと力のない足取りで人のいない席まで来ると、そこに崩れ落ちるように腰を下ろした。

 自分の両手を見下ろすと、みっともなく震えていた。鉄鉱山からルーレに戻るまでに何とか取り繕えたと思っていたのに、ほんの少し話を聞かれそうになっただけでこれだ。情けなさ過ぎて笑えてきそうだった。いっそのこと笑えれば楽だったかもしれない。実際には頬が歪むばかりでちっとも笑えそうもなければ、嘲笑うこともできそうになかった。

 膝を抱えるようにして座り込む。逃げているだけでは駄目だと分かってはいた。けれど、頭で理解していても心が無理だった。向き合おうとほんの少しの勇気を湧き起こそうとする度に、記憶の彼方から響いてくる言葉が足を竦ませる。

 

 

 

 ――近寄るな、この化け物っ!!

 

 

 

 膝を抱える腕に力が籠る。そうしないと、体の震えが抑えられそうになかったから。

 

「駄目だな、私……」

 

 島から旅立って多くのものを見た。初めて友達と対等の仲間を得た。変われたと思っていた。

 本当は、全然駄目だった。何も変われていない自分に涙が出てきそうになるけれど、それだけは我慢する。仲間にこれ以上、余計な心配をさせるわけにはいかなかった。そうは思っていても彼らのところに戻る勇気は湧いてこず、トワは身動きが取れなくなってしまう。

 結局、恐怖で雁字搦めになったトワは帝都に着くまで彼らのところへ戻ることはなかった。

 



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第33話 始動! オペレーション・トワ・リターンズ

今まで一番ふざけた題名になりましたが、内容自体は真面目(?)です。


 七月。湿気た空気が憂鬱だった梅雨も明け、今度は夏の暑さが訪れる頃。トールズ士官学院では制服が夏服に切り替わっており、それが幾分か汗ばむ不快感を軽減していた。制服自体はオールシーズン対応なので必ずしも夏服にする必要はないのだが、そこはやはり気分の問題なのだろう。生徒全体で見れば夏服にしている方が大半だ。

 そんな中、トワは比較的珍しく上着を着用したままでいる方だった。時には溶岩が海のように広がるテラの千変万化な環境に慣れてしまった影響か、これくらいの暑さで装いを変えようという気持ちに彼女はならなかった。周囲が暑さに汗を流す中、一人だけ涼しい顔である。

 夏の陽気をものともせず、普段通りに、いや、普段以上に生徒会活動に励むトワ。他のメンバーはよくやるものだと感心し、自分も負けじとやる気を出すところ。よい循環であるように見えた。その最初の内、表面上のことだけに目を向けている間は。

 

「ハーシェル……ハーシェル!」

「ふえっ……会長、どうかしましたか?」

 

 放課後、そろそろ夕暮れが近づいてきた生徒会室に会長の声が響く。一拍反応が遅れたトワに、彼は深々とため息を吐いた。

 

「どうしたか、ではない。いい加減に休みでも取ったらどうだ。正確に仕事をこなしながらぼんやりするなどという離れ業を見せられても、こちらとしては反応に困る」

 

 書類の仕分けを行っているトワはいつも通りに手際が良い。だが、会長の呼びかけに遅れて反応したことから心ここにあらずであるのは明らかであった。すみません、と肩を小さくして悄然とする様も違和感を募らせる。ちょっとした失敗くらいなら、いつもは人好きのする笑みを浮かべて頬を掻くぐらいだというのに。

 ここ半月ばかり、トワはずっとこんな調子だった。生徒会の仕事に打ち込んでくれるのは構わない。しかし、それが熱心さからくるものではなく何かから目を背けるためにやっているように会長には思えた。当初は様子を見ていたものの、ここまでくると口を出さざるを得ない。

 

「でも、やらなきゃいけないことはまだありますし……」

「どの口が言う。他のメンバーが、君が仕事を根こそぎ片付けてしまうと嘆いていたぞ」

 

 小声の反論は一瞬で閉口させられた。早朝から始業までの時間も仕事に割り当て、放課後になってからは夜遅くまで生徒会室の明かりが消えないこともままある。優秀な処理能力が悪い方向に暴走していた。生徒会の中では、そのうち倒れるのではないかと今では心配の声が多数である。

 

「誰もそこまで根を詰めるように頼んでなどいない。君が過労で倒れたら私までベアトリクス教官に睨まれるのだぞ。少しは自分を顧みたらどうだ」

「それは、そうですけど……」

「……今日はもう帰るといい。反論は聞かん。これは会長命令だ」

 

 会長には何があったか分からないが、トワがかなり重症であるのは間違いないとは理解していた。そして、この手合いには強権を発動でもしないと言うことを聞かないということも。トワはその命令に対して何か言おうとしたが、口をまごつかせるだけで言葉にならなかった。

 本格的に重体だな、と会長は内心で独りごちた。トワがここまで精神的に参ることを彼は想定していなかった。たとえ横柄な貴族生徒相手でも根っからの善人気質で毒気を抜いてしまうのだ。余程のことが無ければ調子を崩すことはないだろうと過信していたことは否めない。その余程のことが起きてしまったのだろう。おそらく、先月の試験実習において。

 目をかけている後輩を助けてやれないことに会長は歯がゆい思いを噛み締める。これは自身の手が及ばない領域の問題であることも、彼は理解していた。だからせめて、体を壊さないように押し留めて一言かけてやるのが彼のできる範囲のことであった。

 

「目を背け、耳を閉ざし、逃げ続けるだけでは何もよくならん。向き合う勇気が無いというのならば、一人で抱え込まずに誰かに頼れ……私に言われずとも、分かってはいるだろうがな」

 

 

 

 

 

 追い出されるように生徒会室を後にしたトワは、学生寮への帰り道をとぼとぼと歩いていた。日が出ているうちに帰路につくのは久しぶりのことだ。ここ最近はずっと夜遅くまで帰らないでいた。そうすれば、仲間とも友達とも目を合わせることは少なくなるから。

 クロウ、アンゼリカ、そしてジョルジュともあの試験実習以来、まともに口をきいていない。向こうからアプローチを掛けてきたことは多々ある。その度にトワは異様に鋭い感覚で察知するや無駄に速い逃げ足で身を隠してしまう。生徒会への依頼を殆ど抱え込むことで自身を多忙に追いやり、それを言い訳に他者との関わりを絶ってしまっていた。

 

『その……トワ? 今回ばかりは会長の言う通りなの。少しは休んだ方が……』

「うん、分かってる……分かってはいるんだ」

 

 ノイに言われずとも、会長の判断が正しいことは理解していた。逃げているばかりでは何も解決しないことも、誰かに頼って悩みを打ち明けた方がいいことも。

 だが、誰に頼ればいいというのだろうか。相談するとなれば、きっと自分の本当のことを話さなければならなくなる。そのことがトワはたまらなく恐ろしい。クロウたちにもクラスメイトにも、会長やサラ教官にでもそんなことはできそうになかった。

 傍にいる姉貴分は、そんなトワの心中を理解していながらも手をこまねいていた。一緒にいて深く理解しているからこそ、彼女がどうしようもない立ち往生に陥ってしまっていることも分かってしまう。妹分のかつてない沈みように、ノイは自分だけでは助けてやれないことを認めざるを得なかった。

 

 いつにも増して言葉少なな帰り道。すれ違った二人組の生徒の話し声もよく聞こえてくる。どうやら来週の自由行動日のことで盛り上がっているようだった。そういえば、と思い出す。今月の自由行動日は帝都のとある行事に合わせられていた。

 

(夏至祭だっけ……帝都では一か月遅れなんだよね)

 

 精霊信仰の名残である帝国各地で開催される夏至祭。先月に訪れたルーレでも、その後に無事開催されたと聞いている。帝都ヘイムダルでは二百五十年前の獅子戦役の終結が七月であったことから、各地より一月ずれて開催されるのが伝統なのだとか。相変わらず脱線が酷いトマス教官の授業で最近に聞いたことなのでよく覚えていた。

 帝都全体で様々な催しが開かれ、皇族のパレードもあって非常に盛り上がるという。親切なことに自由行動日が重なっているので、トールズでも遊びに出向く予定の生徒が多数いるそうだが――トワはとてもそんな気分になれそうになかった。

 いつも通り生徒会活動に、と考えたところで思い至る。今日の会長の様子からして、「こんな日にまで仕事しに来るのではない」とつまみ出されそうだ。トワがオーバーワークなのは周囲の目からも明らかなので強くは言えない。明瞭に想像できる情景に彼女はため息をついた。

 

「お祭りかぁ……そういえば今年は《星降り祭》にも行けないんだよね」

『それはまあ、どうしようもないことなの。残念なのは分かるけど』

 

 残され島で八月に行われる島をあげてのお祭り。行く先を導いてくれる星々、恵みを与えてくれる海原、そして先祖の霊に感謝の念を捧げ、安寧と豊穣を願うという趣旨のものだ。実際のところ、お祈りが終わるや否や夜通しのどんちゃん騒ぎになるのが常なのだが。

 毎年、欠かさずに参加していたそれに今年は行けないと今更ながらに実感して郷愁の念が募る。歌い手に担ぎ出された挙句、とある人物のもとで煉獄の如き猛特訓をする羽目になり大変だったこともあるが、それも大切な思い出だ。精神的に参って、トワはホームシック気味になっていた。

 

 島に帰れば、何も怖がらずに済む。あそこはありのままの自分を受け入れてくれる故郷だから。

 だが、それはただの逃避だ。きっと誰も怒らないし、責めもしないと思う。それでも他ならないトワ自身が何もかも投げ捨てて逃げ帰ることを選べなかった。変わりたいと願って島を出てトールズに入学したのだ。ここで逃げてしまったら、きっと変われなくなってしまう。

 そうは思っていても、これからどうすればいいのか何も分からない。肩をますます小さくしたまま力なく足取りを進め、気付いた時には第二学生寮にまで帰ってきていた。日々のルーチンで配達箱を確認し、そのまま自室に引っ込んで勉強でもしようと考える。

 ふと、そこで自分の配達箱に何かが入っていることに気付いた。

 

「手紙……?」

 

 誰からだろう。不思議に思いながらひっくり返して裏面を確認する。そこに書かれていた送り主の名を認め、トワはわずかに目を見開いた。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「……来たわね」

「ああ。いったい何の用だ? こっちも暇じゃないんだがな」

 

 場所を移して校舎裏。夕暮れとなり薄暗くなりつつあるそこで、一組の男女が向かい合っていた。男子はクロウ、女子はエミリー。どうやらエミリーの方から呼び出した形のようで、クロウはクラスも違う相手からの突然の話に訝しげである。

 シチュエーションだけを見れば、甘酸っぱい青春の一幕……と思えなくもないのだが、エミリーから漂う雰囲気がそれを否定していた。まるで親の仇を見るかのような険しい視線。気を抜けば今にも殴りかかってきそうな様相に、クロウは素直に出向いたことを後悔し始めていた。

 

「何の用かですって? 少しは自分の胸に聞いてみなさいよ」

「……いや、まあ何となく察しはついているけどよ」

「ふん、なら話は早いわね」

 

 心当たりはある。顔見知り程度の間柄である自分と彼女に関係することを考えれば、何が原因でこんな憎悪せんばかりの目を向けられるのかは明らかであった。

 が、エミリーの口から飛び出したそれはクロウの想像の若干斜め上をいっていた。

 

「さあ白状しなさい……あんたがトワをいじめたんでしょ!?」

「違うわ!! 何がどうなったらそういう結論に至るんだっての!」

 

 ズビシィッ、と犯人を告発するかのように指さしてくる相手に吠える。その関係で問い詰められるのだろうとは思っていた。しかし、いじめが云々という話は想定の埒外である。謂れのない罪にクロウは断固として無罪を主張する所存である。

 

「この前の試験実習から帰ってきてから、あのトワがまともに口もきいてくれないのよ!? 生徒会で馬鹿みたいな量の仕事抱え込んで、放課後になったら逃げるように教室からも出ていっちゃう! あんたが実習中にあの子を傷つけるような真似したとしか考えられないじゃない!」

「なんで俺限定なんだっつの! ゼリカにジョルジュもいるだろうが!?」

「あのトワ大好きっ子なアンゼリカさんがそんな真似をするわけ無いし、ジョルジュだっていじめをするような性格じゃないでしょ! 残るのはあんたしかいないじゃない!」

「偏見! それ凄い偏見!!」

 

 クラスメイトの様子がおかしいのを心配して原因を探ろうとしたのは分かる。時期的に考えて試験実習中に何かあったと判断するのも理解できる。そこから何がどうなっていじめにまで発想が飛躍するのか。しかも犯人の絞り方が完全に独断と偏見である。客観的な証拠が一欠片もない。

 ところが、頭に血がのぼっているエミリーにはそんなこと関係ない。大切なクラスメイトを傷つけた不倶戴天の敵としてロックオンした相手に言い逃れなど許すはずもない。認めないというならば、実力行使あるのみである。

 

「むっきー! そっちがそのつもりなら私にも考えが――」

「はい、エミリー。どうどう」

 

 幸いにして荒事にはならなかった。事態を見守っていたハイベルがエミリーを後ろから抱えて抑え込む。まるでこうなることを予見していたかのような手際の良さである。

 

「悪いね、クロウ。エミリーも悪気があるわけじゃないんだ」

「そりゃ分かっているけどよ……こうなる前に止めてくれたっていいだろうが」

「はは、まあ念のためというやつさ」

 

 じたばたと暴れるエミリーを他所にハイベルは涼しい顔でそんなことをのたまってくる。そんなに信用がないだろうか、と流石にクロウも自分を省みてしまう。日頃の行いというやつなのか。それならアンゼリカも大して変わらない気もするのだが。

 とはいっても、ハイベルも本気でいじめが云々と考えていたわけではないのだろう。クロウの反応からも彼が原因ではないと理解できたのか、興奮冷めやらぬエミリーを宥めに掛かる。

 

「いい加減に頭を冷やさないか、エミリー。彼らがそんなことする意味がないって言ったろう」

「むぐぐ……じゃあトワはなんだって私たちのこと避けているのよ。何も分からないまま納得できるわけがないじゃない」

 

 それは、とハイベルも返答に窮する。エミリーが本気でトワのことを心配しているのと同じように、彼もまた得難い友人が抱える問題をどうにかしたいと思っていた。だからその目は、きっと何かを知っているであろうクロウの方へと向けられる。

 クロウとしても無下にはしたくない。だが、困っているのは彼も同様だった。あれから話をしようにもトワはその優れた能力をフル活用してクロウたちの手を逃れ続けており、半月経った今でも依然として捕まえられていない。普段は頼もしく感じるのがこうも厄介になるとは思わなかった。

 

 そして肝心のトワの様子がおかしくなってしまった原因も、彼の口から軽々しく言えることではない。詳しい事情は分からないが、トワはきっとあの《力》のことを知られたくなかったのだろう。それがどうして周囲を遠ざけることになるのかは判然としないものの、本人の知らぬところで話を広めてしまえばそれこそ彼女は自分たちの前から姿を消しかねない予感があった。

 

「本当のところは俺たちにも分からねえ……だが、近いうちに何とかするつもりだ。それまでは見守ってやっておいてくれねえか? あいつも、そのうち元に戻るかもしれないしよ」

 

 だから今は気休め程度のことしか言えなかった。そのうち元に戻るかも、と言いつつも自分でそれはないだろうと思う。そんな余裕があれば半月のうちに彼女の方から動いていたはずだから。それが無いということは、きっと自分ではどうしようもなくなってしまっているのだろう。

 クロウをじっと見据えるエミリーは、彼のそんな内心を薄々感じていたのかもしれない。だが、結局は諦めたようにため息をつくと脱力した。

 

「分かったわよ……悔しいけど、トワを助けられるのはあんたたちだけってのは理解しているの。だから約束して。あの子をまた笑顔にしてあげるって」

「僕からも頼む。彼女に暗い顔なんて似合わないからね」

「……おう」

 

 

 

 

 

 尋問紛いのエミリーからの問い詰めより解放されたクロウは技術部へと足を向けた。先のやり取りを思い出してため息が零れる。あんなに思ってくれる奴らがいるのに何してんだあの馬鹿は、と。

 校舎裏から技術部はほど近い。時間もかけずに辿り着いたクロウが扉を開けて中に入ると、そこには既にいつもの面子がそろっていた。正確には、一人と妖精もどき一体が欠けているが。姿を現したクロウにアンゼリカが咎めるように睨みつける。

 

「遅いじゃないか、クロウ。至急集合するようにと言ったはずだが?」

「あいつのクラスメイトに絡まれていたんだよ。ったく、危うく冤罪を吹っ掛けられるところだったぜ」

「ああ、エミリーにハイベルか。同じクラスだったら心配になって当然だよね……」

 

 クロウの弁明にジョルジュが納得したように頷く。アンゼリカも「それなら仕方あるまい」と矛を収めた。今はそんなことを追及して無用な言い争いを繰り広げるよりも、早急にこの試験実習班の一大事への対策を練ることが重要であった。

 

「今月は帝都の夏至祭もあって試験実習が遅めに設定されているが、このままでは本格的に不味いことになる。情けない話だが、トワが不調のままでは私たちは半分の力も出し切れまい」

「せっかく戦術リンクが完成しても、このままじゃ悪い頃に逆戻りだ。実習までになんとかしないと」

 

 試験実習の活動にしても戦闘にしてもトワは試験実習班の要だ。このままでもある程度の成果は出せるだろうが、司令塔を欠いたままでは全力など出し切れるはずもない。戦術リンクにしても、その効力を十分に発揮することはできないだろう。

 どうにかして現状を打破する必要がある。先ほどエミリーとハイベルにああ言ってきた手前、クロウも手を抜く気はない。それに、せっついてくるのは何もクラスメイトだけでもなかった。

 

「サラも様子がおかしいことには当然勘付いてやがる。この前、俺に睨みきかしてきやがった」

 

 思い出して苦い表情が浮かぶ。実技の授業の後に「何とかしなさい。いいわね?」と

末恐ろしい笑顔で告げられたのは忘れたくても忘れられなかった。

 

「トワのこと可愛がっているみたいだしね。師匠の姪っ子という理由ばかりじゃない気がするけど」

「まあ、その教官殿も私たちに任せようとしてくれているんだ。期待に応えないわけにはいくまい」

 

 トワのことを知る様々な人が彼女のことを心配していた。その誰もが、彼女を助けられるのは他ならぬ彼女の仲間たちだと信じてくれていた。その想いを裏切るわけにはいかない。

 

「時が惜しい。そろそろ始めるとしよう」

 

 手を組んで瞑目したアンゼリカが告げる。異議はない。クロウとジョルジュも首肯する。東方では三人寄れば文殊の知恵という諺があると聞く。自分たちの頭を振り絞れば、きっとトワと再び笑い合える日常を取り戻すことが出来るはずだ。

 そのために今こそ始動しよう。くわっ、とアンゼリカが目を見開いた。

 

「各員、全力を尽くしてくれ――これよりオペレーション・トワ・リターンズ立案会議を開始する!」

「いや、そのネーミングは失敗するだろ」

 

 直後、クロウの顔面に鉄拳が食い込んだ。

 

 

 

 

 

「大前提として、トワが私たちを避けている原因があの《力》に関係していることは間違いない」

 

 真面目腐った顔で――実際、大真面目なのだが――話を進めるアンゼリカ。鼻を抑えながら「殴ることねえだろ……」と文句を垂れるクロウは黙殺された。そんな彼に気の毒そうな目を向けつつも、余計な被害を食らいたくないジョルジュは涙を呑んでアンゼリカの話に乗っかる。

 

「だろうね。一体どういうものなのか気になるところだけど……」

「けどよ、それが知られたくなかったんだからトワは隠していたんだろうが。聞いたところで教えてくれないどころか、猛スピードで逃げ出しかねないんじゃねえか?」

 

 ザクセン鉄鉱山で試験実習班を墜落死の危機から救ったトワの謎の《力》。凄まじい未知のエネルギーが吹き荒れたと思ったら、クロウたちは宙に浮いて助かっていた。白銀に染まった髪をなびかせ、神気を纏ったトワの後姿は彼らの目に焼き付いて離れていない。いかなる原理によるものであるか、そして彼女が何故そのような《力》を有しているのか、知りたいと思ってしまうのは仕方のないことだろう。

 だが、クロウの言う通りトワがそれを口にするとは今の段階では思えない。実習から帰る列車での一幕を思い返す。クロウがその件に触れようとした途端、彼女は拒絶反応を起こしたように酷く怖がった様子で逃げてしまった。あの二の舞を踏むのは避けたいところだ。

 

 同感だ、とばかりにアンゼリカが頷く。彼女もそれは当然ながら想定していた。

 

「おそらくトワには《力》のことを知られてしまうことで何か問題があったのだろう。それがどのようにあの怖がりように繋がるかは分からないが……それについて今は無視するべきだと思う」

 

 男子二人が疑問符を頭に浮かべる。原因が分かっているというのに、それを無視するとは如何なる理由によるものなのか。当然の疑問にアンゼリカは言葉を続ける。

 

「私たちの第一の目的はトワに心を開いてもらうことだ。彼女が頑なに口を閉ざす話題を出すのはむしろ厳禁と言っていい。まずは以前と変わらないトワに戻ってもらうことが肝要、あの《力》については二の次。違うかい?」

「それは……そうだね。アンの言う通りだと思うよ」

 

 目的を違えてはならない。自分たちが為すべきことはトワの秘密を暴くことではなく、閉ざされてしまった彼女の心を再び開くことだ。試験実習も戦術リンクも、まずはそこを解決しなければ立ち行かない。反面、《力》のことについては後回しにしても問題はなかった。

 アンゼリカの本質的な問いかけに対し、ジョルジュはもとよりクロウも異存はない。であるならば、この場で話し合うべきはどのようにしてトワの心を開くかに尽きた。

 

「地雷は避けていくにしても、難儀するのには変わりねえ。何か策はあるのかよ?」

 

 開くべき扉は固く閉ざされている。いかなる手法をもってそれを為すか、まずはそこからだ。

 

「具体案は定まっていない……が、大筋は立っている。トワをどこかに遊びに連れ出せばいい」

「そんなことでいいのかい?」

「そんなことだからこそ、だ。トワが私たちから遠ざかるのはあの《力》を見たからだ。逆説的に考えれば、《力》を見ても私たちが変わらない態度を示せばトワも安心するんじゃないだろうか」

「……なるほど、一理はあるか」

 

 思えば、あの一件から自分たちもトワに対して戸惑いに似た感情を抱いていたことは否めない。それが彼女を余計に刺激してしまっていたというのは考えられないことではなかった。

 ならばその逆、以前と変わりない姿勢をこちらから示すことで気持ちを解きほぐす一助とする。そのためにトワを遊びに連れ出すというのは悪い案ではない。具体的にどうするかにしても、ちょうどお誂え向きのイベントが目前に迫っていた。

 

「今度の自由行動日、帝都の夏至祭が狙い目か。そこを逃したらチャンスは限られちまう」

「その通り。万難を排し、確実を期さなければならない」

 

 軍学校らしさはないが、それでも士官学生の身。普段は遊びに出回るような猶予はない。唯一、公然と自由に振る舞える自由行動日を逃してしまえばチャンスはないに等しい。そのまま試験実習に一直線だ。なんとかそれまでには事態を解決したい。

 そのためには夏至祭を最大限に活用しなければ。開かれている催しは様々であるし、店舗においても夏至祭のセールなどで賑わっていることだろう。その中からトワが楽しめるものを選別し、どうにか以前と同じ笑顔を見せられるようになってもらわねばならない。

 難易度は極まり、絶対の保証もない。それでも諦めることは許されないのだ。少しでも可能性を高めるために、どのように夏至祭を回るかを考える。

 

「私としては《ル・サージュ》でショッピングと洒落込みたいのだが……」

「ちょっと待とうか」

 

 が、真面目な空気の中に邪念が入り混じる。ジョルジュが片手をあげて待ったをかけた。

 

「何かいけないかい? あの天使の如きトワを存分に着飾れる絶好の機会なんだ。楽しめること間違いなしだろう」

「それアンが楽しんでいるだけだよね。思いっきり私欲にまみれているよね」

 

 夏至祭に出向く趣旨はトワを楽しませて心を開いてもらうことである。まかり間違ってもこの機を利用して我欲を充たすためではない。奇天烈な作戦名はともかく、ここまで真面目に話し合ってきただけにジョルジュは頭が痛い思いだ。

 対するアンゼリカは不満げな表情。彼女は己の正当性を確信していた。

 

「先に言っただろう。変わらない態度でトワと接することが肝要だと」

「それってそういう意味だったのかい!?」

「お前の趣味を前面に押し出してどうすんだよ! トワが別の理由で逃げ出すっつうの!」

 

 男子からの猛反発にアンゼリカは眉をしかめる。彼女なりに真面目な意見――それが真っ当かどうかはともかく――だっただけに、ここまで全否定されると頭にくる。

 

「ほう、では君たちに何かいい案があるというのだね?」

「当たり前だろうが。少なくとも、お前の案より百倍マシなのは間違いねえ」

 

 自信満々に応じるクロウ。その様子に特に腹案を持っていなかったジョルジュは期待の目を向ける。彼は盛り上げ上手な男だ。こういったお祭りを楽しむ術は熟知しているだろう。

 

「ここは帝都競馬場で夏至賞観戦にだな――」

「はい、アウト」

 

 果たして、その期待はいとも容易く裏切られた。

 

「学生の賭け事はご法度だし、馬券も買えないじゃないか。クロウ、君もそれくらいは分かっていると思っていたのに……」

「知っとるわ! それでも夏至祭で盛り上がるものといったら、競馬の夏至賞は外せねえだろうが。しかも見る分にはミラもかからねえ。財布に優しいのもポイント高いだろ」

「こんな時にまでケチ臭い男だな……そもそもトワが競馬に興味を示すか分からないだろう」

 

 見下げ果てたとばかりに白けた目をクロウに向けるアンゼリカ。あれだけ自信をもって口にしたのが競馬だったのはもとより、それを選んだ理由の一つが情けないにも程がある。こんな時にまで財布の心配をしなくてはならないほど彼は困窮しているのだろうか。

 アンゼリカもクロウも趣味が表れすぎている。これではトワが楽しんでくれるか不透明であり、とてもではないが安心して実行に移すことなどできない。かといって、代替案があるかと聞かれたらジョルジュも怪しいところなのだが。

 

「じゃあ、ジョルジュはどうなんだ。なんかいい考えでもあるのかよ?」

「僕かい? そうだなぁ……夏至祭限定メニューのパフェが気になっているんだけど……」

「君の腹の考えは聞いていない! そちらこそ私欲に染まっているではないか!」

 

 この有り様だ。結局のところ三人ともどんぐりの背比べ。具体的な方策を練る段階に入った途端、このぐだぐだ具合。無駄に大きな声で怒鳴り合っていたことにより肩で息をする始末である。

 無為な言い争いに一段落着いたところで、クロウが「っていうかよ」と根本的なことを切り出した。

 

「行く先はともかく、肝心のトワはどうやって連れ出すんだ? この半月ばかり、捕まえようとしても悉く逃げられているのによ」

 

 いくら議論を交わし合っても、連れ出すべき相手が捕まえられなければ話にならない。逃げに徹したトワを補足するのは至難の業であり、生徒会の案件でトリスタ中を駆けまわっているので居場所も定まらない。夜半に部屋へ訪問するという手もあるが、あまり気が進まないし狸寝入りを決め込まれる可能性もある。

 

「それについては一応、考えがある。おそらくは大丈夫なはずだ」

 

 その難題に、アンゼリカは思いのほかしっかりとした答えを返した。若干の不安を覚えながらも二人は聞き手に回る。

 

「まず放課後、トワが生徒会に直行する前に私がⅣ組の前に陣取っておくことで彼女を捕まえる」

「まあ、確かにそれが確実だろうけど……君の授業とかは?」

「無論、サボる」

「無論って……いや、今回は目を瞑っておくよ」

 

 当たり前のようにサボタージュを宣言するアンゼリカに小言が出かけるジョルジュだったが、このときばかりはそれを飲み込む。トワを確実に捕捉するためには、彼女が絶対にいる場所で張り込む必要があるのだ。緊急事態であるがゆえに、ある程度の無法は見逃すほかない。

 ともあれ、第一段階として教室前でトワを捕まえるまではそれでいいだろう。最大の問題はその後。心を閉ざしている彼女をどうやって夏至祭に誘うかである。

 

「そこまできたら小細工を弄することはない。誠心誠意、トワに頼み込むまでだ」

「正面突破ねえ。行けると思うか?」

 

 アンゼリカの出した答えは正面からまっすぐにぶつかっていくこと。その一本気通った心意気は好ましいところなのだが、果たしてそれで上手くいくかクロウは懸念を示す。

 

「心を閉ざしているとはいえ、根が人の好い子であるのには変わりない。私が恥も外聞も投げ捨てて、土下座してでも頼み込めばトワも頷いてくれるはずだ」

「それ、ある意味で脅迫染みているような……」

 

 教室の前で土下座するアンゼリカに、トワがあわあわと狼狽えた末になし崩しに頷いてしまう姿が目に浮かぶ。上手くいくとは思う。ただ、トワのお人好しさに付け込んだ真似であるだけに少しばかり心が痛んだ。真っ直ぐぶつかっていくこと自体は間違いないはずなのだが。

 だが、それ以外に妙案があるわけでもない。時間が限られている以上、すぐにでも行動に移りたいのも確か。少しでも可能性が高い手があるのなら、それに乗らない選択肢はなかった。

 

「……いいぜ、乗った。明日にでも実行するのか?」

「ああ。ことは拙速を尊ぶ。一気に我らが将を射止めるとしよう」

「僕たちもなるべく早く駆けつける。頼んだよ、アン」

 

 作戦の第一段階をアンゼリカの手に託し、三人は必勝を空の女神に祈る。できる、できないを論じる段階はとうに過ぎた。やるのだ。あの屈託のない笑顔を取り戻すために。

 

「ところでトワとブティックに行く案はやはり駄目だろうか?」

「まだ言うかっ!」

 

 ちなみに、夏至祭でどこに行くかについては最後まで纏まらなかった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 かくして翌日の放課後間近。授業もSHRも放り出してⅣ組の前に張り込んでいたアンゼリカは勝負の時が近づいてきているのを察していた。トマス教官のどこか間の抜けた声が号令を促し、「起立、礼」という声と共に席を立つ音が聞こえ始める。

 アンゼリカは神経を張り詰めた。まずはここでトワを捕まえられなければ話にならない。各方面から話を聞くに、最近のトワは放課後になるや否や教室から出て行ってしまうと聞く。ならば、いの一番に扉を開く人物こそが狙うべきターゲット。その人物が出てくる瞬間を逃すまいと全感覚を総動員して待ち構える。

 やや立てつけの悪い扉が軋む音、ドアノブが回される。その瞬間を、万全の準備を整えていたアンゼリカは余さず捉えていた。今だ、とⅣ組から出てくるその人の前に立ちはだからんとする。

 

 

 

 だがその時、彼女の直感(トワセンサー)が脳裏で閃いた。

 

 

 

 違う、騙されるな。理屈も論理も飛躍して頭に走った電流に従ったアンゼリカは、急激な方向転換で廊下に摩擦音を響かせながら、扉から出てくる人物――その脇から抜け出そうとしていたトワの前に立ち塞がった。

 危なかった。普通にびっくりしているトワの行く手を塞ぎながら、アンゼリカは内心で冷や汗を流す。おそらくは教室にいる段階で待ち伏せの気配に気付いていたのだろう。勘に従っていなかったら見逃すところだった。

 

「おや~? アンゼリカさん、こんなところでどうかしましたか?」

「いえ、トマス教官。少々、彼女に用事があったもので。お騒がせして申し訳ない」

「あはは、構いませんよ。それでは次の授業で」

 

 トワが影にしていた人物、トマス教官は軽く笑って流すとのんびり去っていく。アンゼリカが自分のクラスのことをすっぽかしているのは明白であるのに、それについては触れもしなかった。

 もしかしたら、こちらの意図を察して見逃してくれたのかもしれない。心のうちで瓶底眼鏡の教官殿に感謝しつつ、アンゼリカはようやく捕まえた愛しの子猫に向き合った。

 

「さて、トワ。やっと顔を会わせて話ができるね」

「あ、アンちゃん……どうかしたの?」

 

 ぐへへ、と手をわきわきさせつつトワに迫る。視線を彷徨わせてどうにかこの場から逃げられないか考えているようだが、そうさせるつもりは毛頭ない。Ⅳ組の方から冷たい視線がアンゼリカに向けられているような気もしたが、かといって手を出してくる様子もなかった。どうやら一先ずは任せてもらえるみたいだ。

 余計な言葉を弄してもトワを刺激するだけだ。作戦通り、アンゼリカは単刀直入に切り出した。

 

「端的に言わせてもらおう――私たちと夏至祭に行かないかい?」

「夏至祭に……?」

「そうとも。せっかく自由行動日と重なっているんだ。試験実習前に英気を養うとしようじゃないか」

 

 想定外の誘いだったのか、ぱちくりと目を瞬かせるトワ。そんな彼女にアンゼリカは柔らかい声音で言葉を続ける。努めて普段通りに、トワに怯えることなんて無いと伝えるために。

 トワはどこか困ったような様子になっている。分かっていた、簡単に首を縦に振ってくれないことなど。それでも、この機を逃してしまったら後はないに等しいのだ。例え地面に頭をこすりつけてでも、アンゼリカはトワに承諾してもらう腹積もりであった。

 拒否に対する心構えはできていた。問題は、それが思いがけない言葉を伴っていたことだった。

 

 

 

「あの……ごめんね。実は他の人と約束しちゃっているんだ」

 

 

 

 その時、アンゼリカの身体に雷鳴が迸った。

 他の人と約束――トワの口から紡がれたその言葉は、アンゼリカに白目を剥かせて劇画調の絵面のまま硬直せしめた。脳がその意味を理解することを拒絶した。彼女からそんな言葉が出てくることなど欠片も想定していなかった。ショックのあまりアンゼリカはフリーズを起こす。

 

 何やら傍目にもヤバいことになっているアンゼリカに気がかりな目を向けつつも、トワは「じゃ、じゃあそういうことだから」と退散していってしまう。いそいそと足早に去っていく無二の友人の後姿を、アンゼリカは固まったまま見過ごすほかにない。

 

「おい、首尾は……ゼリカ? おーい」

「な、なにがあったんだい?」

 

 遅ればせて駆けつけてきたクロウとジョルジュも彼女の異変に気付く。目の前で手を振っても反応を返さない。二人も何やら途轍もないことが起こってしまったことを察した。

 他の人――他の人とは? 試験実習班の誰かでもない、クラスメイトも違う、教官でもないだろう。ならば誰が……硬直したまま思考を巡らせるアンゼリカ。困惑したその明晰な頭脳は、およそ彼女にとって許容できぬ答えを叩きだす。

 

「ふっ、ふふ……」

「あ、アン?」

「まったく、どこの誰か知らないがやってくれる……」

 

 ようやく硬直が解けたと思ったら、何やら怪しい笑みを漏らし始めたアンゼリカにジョルジュは戸惑うばかりだ。クロウに至っては内心でドン引きしていた。

 そんな二人の様子など、アンゼリカは歯牙にもかけない。今の彼女に見えているものは一つだけだった。その瞳に憎悪が宿る。許してなるものか、と怒りが心に満ちる。自身の大切なものに手を出した報いを必ずや受けさせてみせると胸に誓う。

 

「傷心のトワを誑かした男め、女神のもとに逝けると思うなよ……!!」

 

 憤怒に目を血走らせるアンゼリカ。男子二人の「ええ……」という戸惑いが廊下に木霊した。

 




ちなみに劇画調に固まったアンゼリカは、ベルサイユのばらみたいなイメージで大丈夫です。

【星降り祭】
残され島で夏に開かれるお祭り。先祖の墓にお供えをしたりすることなどから、おそらく盆祭りのようなものと思われる。那由多の軌跡のエンディングはこの祭りに皆で行くイラストでラストを飾っている。



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第34話 待ち人

閃Ⅲのプレイ開始当初は、アートブックでトワの叔母夫婦とか出ていて「やべーどうしよ」とか思っていたんですけど、それ以上のショックによって全てを吹き飛ばされたのはいい思い出(?)です。


 七月の自由行動日。待ちに待ったその日に、やはり多くの生徒は帝都の夏至祭に行くことを選んでいた。地方出身者はせっかく行ける距離で噂の夏至祭がやるのだからと興味もあって。帝都や近郊出身者も例年のこの行事を楽しみにして。理由や連れ合いは異なれど、そんな面々で当日のトリスタ駅より出発した列車は混雑していた。

 その御多分に漏れず、トワも列車に揺られて帝都に向かっていた。近くには誰もいない。彼女は一人であった。混雑している中で席を取るのを遠慮してか、乗降口近くの窓際で流れる風景を眺めつつぼんやりしていた。気のせいか、どこか物憂げな表情にうかがえる。

 そんなトワを人知れず見つめる三つの影。追跡対象を視界に収めつつも、可能な限り距離を取った席に彼らは陣取っていた。その中でも町娘のような恰好をした金髪の女性が、一際食い入るようにその姿を血走った目でねめつけていた。

 

「連れはいない……ちっ、やはりトリスタの人間ではなかったか」

「ゼリカ、殺気漏れてんぞ」

「おっと、いけない」

 

 言うまでもなく、トワを尾行するためにやってきたクロウ、アンゼリカ、ジョルジュである。

 トワを夏至祭に誘うのに失敗したことでオペレーション・トワ・リターンズは始まらずして頓挫した。だが、そこで挫けるような彼らではない。トワが言った「他の人」とはいったい誰なのか。それを突き止めるためにこっそり後をつけてきたのであった。

 

 特にアンゼリカの熱の入りようは凄まじく、自分のみならず男子二人にまで全身に変装を施す徹底ぶりである。ちなみに服やウィッグは質屋《ミヒュト》で仕入れた。物凄く面倒くさそうな顔をしながらクロウとジョルジュに向けられる店主からの同情の視線に二人は耐えかねて目を逸らしたものだ。

 若干くすんだ色の金髪のウィッグを被った農村の青年風なクロウに指摘され、町娘風のアンゼリカは居住まいを正す。知り合いによくよく見られればばれるだろうが、ぱっと見では別人に思える。そんな風に三人の変装は仕上がっていた。

 

「それより設定は分かっているだろうね。私はアリス、君たちはクリストフにベーア。農村から夏至祭見物に来た兄妹とその父親だ。いざという時はそう言い繕うように」

「……なあ、ここまでやる必要あるのか?」

「念には念をよ、兄さん(・・・)

「やめろ。それはマジでやめろ」

 

 途端、普段の雰囲気からガラッと印象を変えたアンゼリカがそう呼ぶものだから、クロウは思わず真顔で拒否していた。猫の被りようは置いておくとしても、彼女に兄呼ばわりされるのは冗談抜きで鳥肌ものである。本気の拒絶にアンゼリカは「じゃあクリストフね」と譲歩した。

 

ベーア()か……名前といい恰好といい、僕だけチョイスに悪意を感じるような……」

「何か言ったかい?」

「いや、何でもないさ。はは……」

 

 茶髪に同色の付け髭、そして丸眼鏡を装備したジョルジュが小声でつぶやくが、深くは口にしなかった。どことなく、どこかの黒幕系弁護士に似ているのは気のせいだろう。

 

「それにしてもアンは何というか、凄いね。印象が違いすぎるというか」

「まあ、多少なりとも社交界に顔を出すこともあるからね。そういう時は猫を被らなければいけない相手もいるというだけさ。柄ではないんだが」

 

 貴族社会の付き合いにはあまり興味がないアンゼリカだが、仮にも四大名門の令嬢である以上は必要最低限やらなければならないこともある。そういう時に立場上、本来の好き勝手な態度で接するわけにもいかない相手には貞淑な女性の皮を被っていくこともあったわけだ。彼女の意外な演技力はどうやら必要に駆られてのものだったらしい。

 だが、変装技術の方はどうなのか――というところで、クロウは考えを打ち切った。聞いてもろくでもない答えが返ってくることだろう。具体的には家出した際の追っ手から逃れるためとか。

 

「それはともかく、目的を確認しておくとしよう」

 

 表情を引き締めたアンゼリカが話を本題に移す。その真剣さに二人も思わず姿勢を正す。

 

「今作戦の主目的はトワを誑かした屑の特定、その抹殺にある」

「待て待て待て」

 

  真顔で殺人予告をかます彼女に慌ててストップをかける。一見、冷静であるようでいて全く見当違いだったらしい。アンゼリカは絶賛大暴走中であった。

 

「散々それはあり得ねえって言っただろうが。あのトワがそんな安い女に見えるか?」

「くっ……では誰との約束だというんだ! 士官学院の誰でもなかった。トリスタの人間でもなければ、よからぬ男の毒牙に掛かったのではないかと心配になって当然だろう!」

「気持ちは分からないでもないけど、抹殺は流石に……」

 

 あの衝撃の放課後から、トワが一緒に夏至祭へ行く人物については当然調べ回った。しかし、クラスメイトも生徒会も教官も誰も知らないという。学院関係者ではなくトリスタの街に住む人かとも思ったが、こうしてトワが一人で帝都に向かっている以上はそうではないのだろう。

 不透明な事態にアンゼリカの懸念が強まるのも理解できなくはない。それでもクロウやジョルジュとしては、いくら精神的に不安定だからといってトワが男に靡くとは思えないのだが、根拠に欠ける説得では彼女は納得せず殺る気満々でこの場に臨んでいた。

 このままアンゼリカを放っておけば明日の帝国時報の一面を飾りかねない。ログナー家息女、帝都の夏至祭を血で汚す。動機は痴情のもつれ。目も当てられない惨劇だ。

 

「とりあえず落ち着けって……始末するかどうかはともかく、トワが誰と会うか確認する必要があるのは確かだ。それからは後で考えてもいいだろ? もしかしたら男じゃないかもしれないしよ」

「……いいだろう。ともあれ、まずはトワの追跡に専念するとしよう」

 

 クロウとしてもそんな仲間の醜聞を目にするのは御免こうむりたい。なんとか宥めすかして対象の抹殺は検討事項とする。阻止に至らないのは仕方がない。相手が男性でないことを祈るのみだ。

 どちらにせよ、トワの約束相手が何者なのかは把握しておくに越したことはない。現状の心を閉ざした彼女と夏至祭に行く人物だ。素性はどうあれ、トワの心を開くきっかけを握っている可能性は高い。アンゼリカが凶行に走らないよう抑えつつ、件の人物とコンタクトを取りたいところだ。

 そのためにも、なんとかトワの尾行を成功させなければ。そう気を取り直したところで、車内のスピーカーよりアナウンスの音声が響く。

 

『まもなくヘイムダル、ヘイムダル。お忘れ物のないようご注意ください』

「……行くとしよう。ミッションスタートだ」

「ああ。慎重に、そして確実にね」

「さーて、鬼が出るか蛇が出るか……」

 

 ヘイムダル駅に着くや、祭りの熱気に誘われるようにして乗客は波となって街中へと繰り出していく。その中に混じって歩いていくトワを追い、クロウたちもまた帝都の雑踏に混じる。

 くれぐれもトワに気取られないよう、三人は慎重に慎重を重ねて尾行を開始した。

 

 

 

 

 

「ライカ地区か。ここが待ち合わせ場所なのかな?」

「そうみてえだな。動く様子がねえ」

 

 トワの後をつけること数十分。導力トラムの中でカモフラージュに買った帝国時報を読んだり、町娘になり切ったアンゼリカと鳥肌を立たせながら兄妹を演じつつ、どうやら気付かれることなく目的地までたどり着くことが出来たらしい。学術機関やヴァンダール流の道場が立ち並ぶ街区に降り立ったトワは、そこにある帝国博物館の前で約束相手を待っているようだった。

 クロウたちは路地からこっそりその様子を確かめつつ、トワの待ち人がやってくるのを待ち受ける。その様子を薄い青髪の少年が訝しげに眺めながら通り過ぎて行ったりもしたが、そんな些事に気を止めていられるほど彼らに余裕はない。ようやく件の人物のご登場とあって、そこには妙な緊張感が漂っていた。

 

「しっ……どうやらお出ましのようだ」

 

 そして待ち構えること数分。トワの表情がにわかに明るくなったことで、三人は約束相手の到来を悟る。彼女が手を振る先にいる人物を確かめるべく、路地からゆっくりと顔を覗かせた。

 そこにいたのは、碧髪が印象的な大人の男性だった。歳の頃は三十代半ばから四十台といったところか。そこはかとなく童顔に感じる面立ち、フレームレスの眼鏡、きちんとしているが少しくたびれた出で立ち。研究に没頭しがちな学者然とした男性は、手を振るトワに片手をあげて応じながら現れた。

 

「……大人の人だったんだ。夏至祭に行くって言うから、若い方かと思っていたけど」

「学術院の方から歩いてきたな。見た目通り学者か?」

 

 正直、意外の一言であった。アンゼリカの妄言を真に受けていたわけではないが、それでも夏至祭に行くとなれば歳の近い相手だと思っていた。ところがどっこい、この場に現れたのはきちんとした一人の大人。どう見てもトワを誑かすとかそういった類の印象は受けない。

 クロウの言う通り、男性がやって来た方向は帝國学術院――エレボニアでも最高峰と謳われる学府があるところだ。身なりからしても学術関係者ではないかと推測するが、確たる証拠はない。仮にそうだとしても、そんな人物が何故トワと知り合いで夏至祭に行く約束をしたのか謎である。

 

「関係が見えてこないな。アン、ここはもう少し……アン?」

 

 悪い人には見えない。だが、分からない点は多々ある。もうしばし尾行を続けるべきだろう。

 殺気だっている友人にそう伝えようとして、反応がないことに疑問を覚える。目を向けた先でジョルジュは顔をひきつらせた。

 

「ぬぐぐ……! トワとあそこまで仲睦まじくするとは不埒な男め……!!」

「嫉妬全開かよ。まあ、仲がよさそうなのは確かだが」

 

 ハンカチを噛み締め、およそ淑女が浮かべるべきではない表情で歯軋りするアンゼリカ。妬み恨みの感情色濃い彼女にクロウは呆れつつも、仲睦まじいという点については同意した。

 気付かれないように距離を取っているため会話の内容は聞こえてこないが、言葉を交わすトワと男性の様子は傍から見てかなり親密に映った。クロウたちと同様、いや、もしかしたらそれ以上かもしれない。最近はトワが意気消沈していたこともあって、彼女の笑顔を目にするのは随分と久しぶりのことのように思える。きっと心を許している相手なのだろう。

 そんな相手がいたことに対する安堵、自分たちに頼ってもらえない悔しさ。それらが入り混じった複雑な感情を抱きながらも、彼らはトワの真意を見極めるべく行動を続ける。

 

「そろそろ動くみたいだ。トラムに乗らないでくれると助かるけど……」

「そればっかりは女神に祈るしかねえ。くれぐれもバレないように行くぞ」

「勿論だとも。あの男の正体を知るまでは死んでも死にきれない」

 

 夏至祭の帝都を歩き始めるトワと男性。そんな二人を追い、クロウたちもまた尾行を再開した。

 

 

 

 

 

 幸いにして、トワと男性は導力トラムに乗ることはなかった。特段の目的があるわけではないのだろうか。気ままに歩きながら、時折気になった店や催しに顔を覗かせているように窺える。尾行する分には楽だが、考えが読めずもどかしい気分だ。

 のんびりと帝都観光する二人を追ってどれくらい経っただろうか。昼時に差し掛かり飲食店が混雑し始めるころ、彼女たちは住宅や店舗が立ち並ぶヴェスタ通りに辿り着いていた。

 そこで追跡対象が見せた動きに、クロウたちは首を傾げることになる。

 

「雑貨店に入っていったね。そろそろ昼食をとると思っていたけど」

「飯を食うようなところじゃねえな……土産物を見繕うにしても別の店がありそうなもんだし」

 

 通りに面した雑貨店の中に消えていったトワと男性。観光で訪れるにしては妙なチョイスだ。何か気になるものが目に入ったのか、それとも。

 

「あいにく店内までは踏み込めない。大人しく出てくるのを待つとしようか」

 

 いくら変装しているからといって、狭い空間に一緒にいたらバレる可能性は高い。導力トラムでは人が多かったからなんとか演技で誤魔化せたが、あれは見たところ個人の雑貨店だ。とてもではないが紛れ込めるほどの人入りはないだろう。

 一つの雑貨店にそれほど時間をかけるとも思えないし、昼時も近い。間を置かずに出てくるだろうと三人は出入りが確認できる場所で待ちの構えを取ることにした。

 

 

 

「……遅い」

 

 が、事は想像通りには運ばなかった。トワたちが雑貨店に入ってから既に小一時間が経過している。それでも尚、二人は一向に姿を現す様子を見せていなかった。

 アンゼリカが苛立たし気につま先で地面を鳴らす。もう昼時は過ぎ去ろうとしている。クロウたちも、ジョルジュが近くのパン屋から見繕ってきたもので腹ごしらえを済ませていた。だというのに雑貨店の中に消えたままトワたちが何をしているのか、彼女は気になって仕方がなかった。

 

「はっ……ま、まさか店内でいかがわしい行為に――」

「はいはい、失礼な妄想を働かせないようにね」

 

 気になるあまり突飛な方向に想像を巡らせるアンゼリカをジョルジュが窘める。いくら素性がよく分からない男性でも、見た限りの立ち居振る舞いはきちんとした大人のもので、トワに対して邪まな態度を見せてもいなかった。妄想力逞しいアンゼリカの邪推は的外れだろう。

 クロウとしてもジョルジュと同意見だ。呆れの溜息を一つ吐き、再び雑貨店へと目を向ける。

 

ハーシェル(・・・・・)雑貨店、ねぇ」

 

 最初はただの雑貨店とあまり気に留めていなかったが、こうも長居しているとなると何らかの関係を疑いたくなってくる。彼女の姓と同じ店名、そこに何かヒントがあるのだろうか。

 

「そういえば、あの人……」

「あん? どうした、ジョルジュ」

「気のせいかもしれないけどさ。トワとあの男の人、顔の輪郭とかちょっと似ている気がしてね」

 

 ジョルジュの言葉に二人の容貌を並べて思い浮かべる。女性と男性、年齢差、それらによる差異は勿論ある。だが、指摘された通りに細かい部分や全体の雰囲気を考えると――なるほど、確かに似通っている部分があることも否定できない。

 思えば、あの親密そうなやり取りの様子もただの友人にしては近すぎる関係に見えた。それが友人ではなく、もっと近しい間柄であったとするならば今の状況にも納得いく。

 

「あいつ、この前の帝都実習でそれらしいこと話していたか?」

「いや……まあ、あの時はあの時でシグナさんがいたけど」

 

 以前の帝都実習でのことを思い返すが、それに類する話を聞いた覚えはない。とはいえ、現状では最もあり得る可能性だろう。仮にそうだとすると自分たちは凄く野暮なことになるのだが。

 

「何をごちゃごちゃ話している! トワたちが出てきたぞ!」

 

 そのことを深く考える前に、アンゼリカの急かす声が響く。ようやく雑貨店から姿を現したトワと男性が、店員と思しき人物と挨拶を交わしてから再び帝都を歩き始める。

 思い浮かんだ可能性を口にする前にアンゼリカはずんずんと先に進んでいってしまう。ここまで来たら最後まで付き合うしかない。男子二人で肩を竦め、彼らもトワたちの後を追うのだった。

 

 

 

 

 

 トワたちを追いかけるうちに帝都の東側へと移動し、次第に人波が遠のいていくのを感じる。トワたちがやって来たのはマーテル公園、その外れの方であった。中央のクリスタルガーデンでは皇族も出席する帝都庁主催の園遊会が開かれているため、付近は立ち入りが制限されているのだ。

 立ち入り制限がされているところに近づいていくのはマスコミか熱心な皇族ファンくらいのもの。現在のマーテル公園はクリスタルガーデン付近以外、至って静かなものだった。かすかに聞こえてくる華やかな催しの音色を耳にしながら、トワと男性はベンチに座ってゆっくりしている。

 

「どうにか声が聞こえないものか……君たち、読唇術の心得はないのかい?」

「無茶言うなっつの」

 

 その様子を観察する、茂みに身を隠したクロウたち。最初から尾行している時点で言っても仕方がないのだが、こうなっては完璧に不審者の振る舞いであった。アンゼリカは全く意に介していないのに対し、クロウとジョルジュは内心微妙な気分である。

 人気がなければこれまで以上に接近は困難になる。風に乗って話し声が聞こえてこないかと耳を澄ますアンゼリカであったが、届いてくるのはクリスタルガーデンから響いてくる音楽の調べのみ。トワと男性がどのような話をしているのかは依然として不明だ。

 尾行を続けていても一向に関係性が見えてこない――男子二人は薄っすら察しているが――現状にアンゼリカは歯噛みする。もどかしさは彼女の危ういブレーキを破壊しかけていた。

 

「くっ、こうなればあの男を拘束して口を開かせるしか……!」

「そういう物騒なのは勘弁してくれないかな。頼むから」

「問題ない。人がいないこの場所なら騒ぎにせずに済ませてみせよう」

「問題しかねえよ、このアホンダラ」

 

 根本的なところで男性に敵愾心を抱いているものだから、いちいち出てくる言葉が暴力的でいけない。問題視しているところも憲兵のお世話になるか否かという点しか考えていやしない。クロウとジョルジュとしては頭を抱える思いである。

 

「そもそも口を開かせて何を聞くっていうの?」

「それは無論、トワに何のつもりで近付いてきた――」

 

 はた、とアンゼリカは口を止める。自分は今、誰の問いに答えたのだろうかと。

 クロウはやられたとばかりに天を仰ぎ、ジョルジュも眉間を抑えている。アンゼリカがゆっくりと振り返ったそこには、すっかり見慣れた小さな妖精の姿があった。

 

「どちら様でしょうか? 私は農村から観光に来たアリスというもので」

「私と普通に話している時点でバレバレなの」

「おっしゃる通りで」

 

 無駄な演技をするアンゼリカをばっさりと切り捨て、ノイは深々とため息を吐いた。ぐうの音も出ない正論である。三人は降参とばかりに諸手を挙げる。

 

「ちなみに、どれくらいからバレていたんだ?」

「ずっと同じ気配がついてきているのはライカ地区から分かっていたけど、クロウたちだって当たりがついたのはヴェスタ通りあたりからなの」

「割と最初の方から気付かれていたんじゃないか……」

 

 本人たちとしては変装まで施してきた尾行が、とっくの昔に露呈していたことも地味に凹まされる。トワの異様な気配探知能力は承知していたが、こんな平時にまで機能するとは思っていなかった。どうやら彼女は想像より用心深いらしい。

 そうしてノイの前に降伏したクロウたちに、聞き慣れた声が背中から投げかけられる。

 

「や、やっぱりクロウ君たちだった……どうしたの? そんな恰好して」

「トワの友達か。はは、少なくとも怪しい人じゃなくて良かったじゃないか」

 

 再び視線を元に戻せば、ベンチに座っていたはずのトワと男性もこちらに近づいてきていた。きっとマーテル公園に来たこと自体、クロウたちを誘い込む罠だったのだろう。二人に気を取られている隙に、いつも通り姿を消したノイが後ろに回り込んで確保。こればかりは小さな姉貴分のことを失念していたクロウたちの失態であった。

 トワは想像通りの追跡者だったことに肩を落としており、その隣で男性は呑気に笑っていた。どうやら怒っていたりはしないようだ。呆れてはいるかもしれないが。

 尾行が失敗した以上、もはや取り繕うことに意味はない。開き直ったアンゼリカはウィッグをかなぐり捨ててトワに向き直る。

 

「こうなれば直接問い質すまで! トワ、その男は君の何なんだ!?」

 

 男性を指さし、血反吐を吐かんばかりの形相で問い詰める。彼女は色々と必死であった。

 問われた相手といえば、男性と並んでぱちくりと目を瞬かせる。その表情は、むしろどうしてそんなことを聞いてくるのかという疑問が浮かんでいた。

 

「何って……お父さんだけど」

「えっ」

 

 瞬間、アンゼリカの時が止まった。

 お父さん、つまりパパでありファーザーである。支離滅裂な思考が脳内を駆け巡り、数秒の時間を要してようやくその意味を咀嚼していく。口を半開きにしたまま唖然と男性を見つめると、彼は彼で何某かに納得したように頷いている。

 

「なるほど、そういうことだったのか。ちょっと誤解されちゃっていたみたいだね」

 

 じゃあ改めまして、と言葉を区切った彼が浮かべた笑みは、トワのそれとよく似ていた。

 

「初めまして。トワの父、ナユタ・ハーシェルです。君たちのことは娘の手紙でよく聞いているよ」

 

 そんなにこやかな挨拶に対し、アンゼリカは言葉にならない悲鳴を上げるのであった。

 

 

 

 

 

「大っ変申し訳ありませんでしたぁっ!!」

 

 腰を九十度に曲げた見事な最敬礼で謝罪をかますアンゼリカ。それが向けられる先、男性改めナユタは娘と並んで困ったように頬を掻く。あまりにもそっくりな所作であるものだから、眺めるクロウとジョルジュは二人が親子であることに強い納得を覚えていた。

 ちなみに変装は既に解いている。露呈した以上、違和感の酷い恰好をする理由もない。

 

「別に謝らなくていいんだけど……まあ、適当に飲み物買ってきたから一息つこうか」

「あ、すみません。わざわざ」

「そんじゃ、ありがたく」

 

 娘の友人への心づけばかりに、近くの屋台で飲み物を奢ってくれたナユタに口々に礼を言う。二人は簡単なものだったが、アンゼリカは無駄に仰々しかった。

 

「無粋を働いた我々にも親切にしてくれるとは……流石はトワの御父上だ」

 

 くっ、と涙をこらえる様子は些か大袈裟だと言わざるを得ないが、クロウたちが無粋を働いたという点は否定できまい。形だけ見れば、親子水入らず帝都の夏至祭を観光して回っていたというのに、そこに友人とはいえ他人が割って入ってしまったのだ。アンゼリカに至ってはナユタを不審者として散々に扱き下ろしていた始末。盛大にやらかしてしまったのは確かであった。

 それを大して気にした様子もなく、気さくに声を掛けてくれるナユタはトワと負けず劣らず懐が深い。アンゼリカが感激するのも分からなくはない――かもしれない。

 

「無粋ついでにお義父さんと呼ばせていただいてよろしいでしょうか?」

「どさくさに紛れて何を言っているんだい、君は」

 

 しかし、いくら尾行していた件を許してもらったからといって、これは図々しすぎるだろう。反省しているのかどうかよく分からないアンゼリカの頭にジョルジュの突っ込みが刺さった。

 

「もう、アンちゃんったら……」

「はは、面白い子たちじゃない。元気がいいのは良いことだよ」

「アンゼリカは元気がどうとかいう問題じゃないと思うの」

 

 そんな奇天烈な発言を軽く流せるあたり、この親子も大概図太かった。トワはこれまでの付き合いでアンゼリカの突飛さには慣れているとしても、元気がいいで済ますナユタは色々な意味で大物だ。ノイが呆れた様子で口を挟むのも無理はなかろう。

 想定外な形であったが、結果的にはトワの約束相手を突き止めることが出来たクロウたち。その人物の正体が父親だったのは安心ではあった。盛大に勘違いしていたアンゼリカは別格にしても、気落ちしていたトワが誰と会うのか不安だったのは三人とも同じ。胸のうちに溜まっている靄の一部が晴れた気分である。

 とはいえ、父親だったらそれはそれで気になることが出てくるというもの。トワの出身地が出身地であるだけに、それは尚更であった。

 

「しっかしまあ、親父さんとは思わなかったぜ。てっきり親戚かなんかだと思っていたが……娘と夏至祭観光の為に、はるばる離島から出向いてきたのか?」

 

 トワの故郷、残され島はエレボニア南西岸より更に先の離れ小島だ。帝都に辿り着くだけでも丸一日以上はかかる。とても気軽に出向ける距離ではない。娘と観光しにわざわざ、というのも考えられなくはないが、それなら父親だけというのも変な話に思えた。

 そんな疑問のとおり、ナユタも夏至祭観光だけを目当てに帝都にまで足を向けたわけではない。むしろ夏至祭はついでであり、本来の目的は別にあった。

 

「毎年、夏至祭近くに帝國学術院で開かれる学会があってね。僕自身が出席するのと、ヴォランス博士――僕の先生なんだけど。その人の代理として顔を出しているんだ」

「博士もいい加減歳だから、あまり遠出できないの。だから代わりにナユタがってわけ」

 

 その説明に納得すると同時に思い出す。そういえば、トワがそんなことを言っていたなと。

 

「博物学者なんでしたっけ。フィールドワークが主だそうですけど」

「正確には、博物学を専攻に考古学と天文学も齧っているんだ。お父さん、そのあたり混ぜこぜにしてやっているから分類としては怪しいんだよね」

「好きなことをやって来ただけだからなぁ。一応、博士号の論文の時はちゃんと書いたけど」

 

 しれっと言っているが、博士号というのはそんな簡単に取れるものではない。少なくとも趣味の範疇で可能なことではないはずだ。本人の口ぶりは簡単であっても、実際は並々ならぬ熱意と努力の積み重ねがあったのだろう。それを苦にした様子がないのは偏にナユタの気質ゆえか。

 この子にしてこの親ありとでも言うべきか。何となくトワが大らかに育った理由が透けて見える心地である。要するに二人は似たもの親子ということだ。

 

「そういうわけで帝都に来る用事があるけど、今年は娘も近くに在学しているからね。久しぶりに顔を見るのも兼ねて夏至祭に誘わせてもらったんだ」

「手紙見たときはびっくりしたけどね。いきなり来たんだもん」

 

 半目のトワに「ごめんごめん」と両手を合わせるナユタ。そうこう言いながらトワもこうして父親の誘いに応じていることから、きっと満更ではなかったのだろう。仲がよさそうで何よりである。

 

「な、なんか本格的にお邪魔しちゃった気分になってきたんだけど……」

「言うなっての……そういや、昼時に寄っていた雑貨屋は何だったんだ?」

「ああ、あの随分と長いこといたところか」

 

 こうも良好な親子仲を見せつけられると、いたたまれない気分が再発してくるジョルジュ。それが分からないクロウではなかったが、彼はこの際図々しさを押し通すことにした。当人たちが気にしていないのだから、この場で解消できる疑問は片付けてしまおうということである。

 そんなクロウにアンゼリカも同調する。流石にトワの《力》のことにまでは踏み込めないが、尾行する中で気になったことを聞くくらいは大丈夫だろう。親子の姓と同じ店名を掲げる雑貨店はその最たるものであった。

 案の定、嫌な顔をすることもなく答えは簡単に返ってきた。

 

「マーサの店のことかな? あそこは僕の従妹夫婦がやっているところでね。トワはまだ顔を会わせたことがなかったから、挨拶ついでに昼食も厄介になっていたんだ」

「実習の時は忙しくて余裕がなかったから、ようやく挨拶出来てよかったよ。はとこのカイ君はなんだか余所余所しかったけど……」

「照れ隠しじゃないの? あれくらいの歳の子はだいたいあんな感じなの」

 

 やはりというべきか、あの雑貨店は親戚が経営しているところだったらしい。ナユタの従妹ということは、トワから見れば従叔母。そしてその夫とはとこに顔を見せてきたとのこと。トワは学院に来るまで残され島から殆ど出ることがなかったというから、これが初対面だったようだ。はとこの反応は芳しくなかったようだが、ノイの口ぶりからしてそれも微笑ましい程度のものに窺える。

 それから色々と聞いてはみるものの、答えは平々凡々なごく当たり前の親子の団欒の一幕のみ。尾行していた自分たちが馬鹿だったんじゃないかと思わされる。拍子抜けもいいところな結末に、クロウたちは脱力して肩を落としていってしまう。

 

「はは……ごめんよ。娘のことで余計な心配をかけてしまったみたいで」

「いえ、ナユタさんが謝ることでもないですけど」

 

 変装を施したりと気合が入っていたのはナユタも察していたのか。自身の手紙が招いた想定外の事態に苦笑いを浮かべて謝意を示す。もとはといえばアンゼリカの盛大な勘違いが大事になった原因なので、それは彼のせいとは言えないのだが。

 要はただのすれ違いだ。十分に言葉を交わしていなかったからこそ、こうして珍妙な事態に陥ってしまっただけで、最初から誰と会うのか知っていればこうはならなかっただろう。

 

「それにしたってクロウ君たちもわざわざ変装して尾行してくることなんてなかったのに」

「そりゃあ、最近お前の様子がおかしいから――」

 

 だから問題の根は、結局はトワが学院の皆のことを避けるようになってしまったことに帰するのだろう。クロウの一言で彼女も思い至ったのか、表情を強張らせると口を噤んでしまう。それにつられるようにしてクロウたちも気まずい雰囲気にならざるを得なかった。

 事情を知らないナユタからしてみれば、いきなりどうしたのかと思うところだろう。ところが、彼は少し考える様子を見せると不意に思わぬ提案を口にした。

 

「そうだ。せっかくだし、四人で夏至祭を回ってきたらどうだい?」

「えっ」

 

 突然のことに、逆にトワやクロウたちの方がどういうことかと戸惑ってしまう。そんな四人の様子などお構いなしにナユタは言葉を続けた。

 

「察するに、もとはトワを夏至祭に誘うつもりだったんだろう? 僕はもういいから、クロウ君たちの方でトワと楽しんできてくれないかな。マーサたちと夕飯の約束もしているから夕方までになるけど」

「その通りっちゃその通りだし、ありがたいのも確かなんだが……」

 

 元を辿ればトワを夏至祭に誘おうとしてことには間違いない。彼女を元気づけようと空回りながらも色々と考えてきたのも確かだ。それが想定外の事態でおじゃんになったと思っていたところに、その想定外の根本たる父親から後押しが入る。ありがたくはあっても、どちらかといえば困惑の方が勝ってしまっていた。

 

「トワもちゃんと友達と楽しんでくるといい。僕もサンセリーゼの学院に通っていた身だからね、学生時代の思い出の大切なものだよ」

「そ、それはそうかもしれないけど……」

 

 困惑しているのはトワも同じだった。そんな娘に対してナユタは教え諭すように言葉を重ねる。言っていることはもっともだが、いきなりのことに気持ちが追い付かない。

 それに彼も四人の間に蟠りのようなものがあることは彼も漂う雰囲気から察しているはずだ。それを承知の上で言っているのだとしたら、尚更その意図がつかめない。四人がその申し出に対して反応が覚束ないのも無理はない話だった。

 

「ちょっとナユタ! どういうつもりなの!?」

 

 それとは別に声を荒げるのがノイだ。咎めるような色を含む彼女に、ナユタは肩を竦めた。

 

「友達同士で仲良くしてほしいという親心だよ。あまり大人がしゃしゃり出ても仕方ないだろ?」

「だ、だからって……」

「ちなみに、ノイは僕と一緒だからね。たまには妹分から目を離してやりなよ」

 

 有無を言わせないナユタに対してノイは口をまごつかせるも、結局は諦めたようにがっくりと項垂れる。反論しても無駄だと悟ったらしい。意外と頑固なところも親子の共通項か。クロウたちからしてみれば、ノイの苦労が偲ばれるところであった。

 お付きの姉貴分を丸め込んだナユタは四人の方に向き直る。その瞳に宿る深い思慮の光と慈しみを湛えた笑みの前に、トワたちは語るべき言葉が見つからなかった。

 

「シグナからも少し聞いているけど、試験実習だっけ? 今月末にはまた忙しくなるそうじゃないか。この機会にしっかりと楽しんで、また学院のことを頑張れるようにしたらいい……ああ、そうだ。少しくらいはお小遣いを出してあげなきゃね」

 

 そう言われ、とどめとばかりにミラまで押し付けられてしまっては断ることなどできはしない。ぎこちない空気を残しながらも、トワたち四人は連れだって帝都の街並みに繰り出していくのだった。

 

 

 

 

 

「……本当にどういうつもりなの? ナユタ」

 

 トワたちの背を見送りながらノイが問いかけてくる。そこに疑念の他に、若干の怒気が混じっているのは仕方のないことかもしれない。他ならない相棒からの頼みを不意にした形になるからだ。これくらいは甘んじて受けるべきだろう。

 

「私たちじゃどうしようもないからナユタにお願いしたっていうのに、これじゃあ意味がないの」

「それについてはまあ、申し訳ない。悪かったよ」

 

 ナユタは何も帝都に来る用事があったからトワを夏至祭に誘ったわけではない。そのこと自体は嘘ではないが、本当の理由は無二の相棒からの頼みにあった。

 精神的に沈んでしまったトワをどうすることもできなかったノイは、手に負えない事態を前にして秘密裏に残され島へ連絡を取っていたのだ。近くにいすぎるノイや学院の友人で解決できないなら、他の身内に頼るしかない。そこでちょうど帝都に出向く用事があった父親であるナユタが、夏至祭に誘うことで娘の気分転換と相談に乗れたらと思って手紙を送ったのである。

 事情を知らないなどとんでもない。彼は一から十までトワたちに何が起きたかを把握していた。それでも四人だけで夏至祭に送り出したのは、ある種の確信が彼の中にあったからだ。

 

「でもさ、ノイ。僕たちがいくら言葉を重ねたって、結局はあの子が足を踏み出さなきゃ何も変わらないんだ。それは君も……あの子自身も分かっていると思う」

 

 トワは小さい頃から聡い子だった。今回の件にしたって、ナユタがわざわざ手紙を送ってきた本当の理由を薄々感じていたのだろう。午前中、一緒に夏至祭を回っている中で表情に申し訳なさと遠慮が混じるのをナユタは見て取っていた。

 だから、きっと理解はしているのだろう。自分がどれだけ人に心配をかけているかも、その場で足踏みをしているだけでは何も変わらないことも、トワは分かっている。

 

「それは、そうかもしれないけど……」

「そんな心配しなくても大丈夫だよ。クロウ君にアンゼリカさん、ジョルジュ君も皆いい子たちだし、トワの為に色々と考えてくれていたみたいだ。悪いようにはならないよ」

 

 必要なのは、切っ掛けとほんの少しの勇気。

 その点、トワの友達たちが追いかけてきてくれたのはありがたいことだった。どうやら四人は三か月という短い期間で随分と濃密な日々を過ごしてきたらしい。彼らに任せておけば、切っ掛けは自然と訪れる。ナユタはごく当然のようにそれを確信していた。

 そして肝心のトワ自身についても、父親である彼はあまり心配していなかった。

 

「トワだって大丈夫さ。本人は何も変われていないだなんて思っているかもしれないけど、そんなことはない。島から出て、学院で色々なことを経験して……あの子も変わってきている」

 

 自覚はないかもしれない。一緒にいるノイも近すぎて気付いていないかもしれない。だが、しばらく目にしていなかったナユタは娘の成長を確かに感じ取っていた。故郷から殆ど出たことのなかった子が外の世界を目にしていって、自分が知らないうちにもどんどん大きくなっている。それが少し寂しくて、とても嬉しかった。

 

「……そうかな?」

「そうさ」

 

 だから自信をもって答える。トワは必ず立ち直れると、ナユタは欠片も疑っていなかった。

 

「僕たちはあの子に背負わせてばかりだ。仕方のないことでもあるけれど……それがあの子の重荷になってしまっていることは間違いないし、一緒に背負えない自分が恨めしい」

 

 硬くなり、皺の増えた自分の手のひらを見やる。それは若かりし頃より力強くはなれたかもしれない。だが、娘よりも先に朽ち果てることを運命づけられた手であった。いつまでも子の手を引いて先を導いてやることはできないし、その両手に抱えるものを代わってやることもできない。

 一つの命として抗うことのできない未来。怒り嘆いても変わりようはなく、いつしかその時は必ずや訪れる。だからナユタがトワのためにできることは既に定まっていた。

 

「だから、せめて信じて見守ってあげよう。トワが、トワ自身の道を見つけられることを」

 

 かつて自分たちが選び取った未来への道。迷い、苦しんだ末に手にした答えの先を歩んできて、降りかかる苦難もあった。それでもこの道を選んだことに後悔はない。

 トワにもきっと、そんな道が見つけられる。ナユタは愛娘のことを誰よりも信じていた。

 




本文中の説明だけでは分かりにくいかもしれないので、こちらにハーシェル家の家系図を挿絵として張っておきます。これくらいの辻褄合わせで済めば楽だったものを……おのれジョルジュぅ!

【挿絵表示】


【ナユタ・ハーシェル】
言わずもながら、那由多の軌跡の主人公。残され島出身で港町サンセリーゼの学院に通っている。学院の夏休みにシグナと共に故郷に里帰りするのだが、そこで起きた遺跡の落下、そしてノイとの出会いを皮切りに彼の壮大な冒険が始まることになる。

【ヴォランス博士】
遺跡の研究に並々ならぬ熱意を注ぐ初老の学者。遺跡が落下する現象が起きる残され島に強い興味を抱き、帝国からはるばるやって来た。また、博物学を専門としており残され島に博物館をオープンする。テラで手に入れたコレクションアイテムをナユタが寄贈していくことで展示も充実していくことになる。


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第35話 言い忘れ

 あけましておめでとうございます。ハーメルンに投稿を始めて今年で五年、時が経つのは早いものですね。自分もいつの間にやら学生から社会人となり、なんとか半人前くらいにはなれそうかなという今日この頃です。
 今年はいよいよ軌跡シリーズの大きな区切りとなる閃Ⅳが発売されるということで、今から情報の公開が待ち遠しいです。内心、楽しみにする気持ち半分、何が起きるのやらという恐怖半分といったところですが。三作品を通して溜めに溜め込んだフラストレーションが発散される大団円であることを切に望みます。
 おそらくは例年通りの九月発売でしょうから、それまでに《永久の軌跡》も一区切りつけられたらいいなと皮算用していたり。今の投稿ペースならなんとかなるかもしれませんが、また何かの拍子に別のことに気を取られたりするかもしれないので予定は未定です。
 相変わらずいい加減な私ではありますが、引き続きまったりと投稿していくのでお付き合いいただけたら嬉しいです。今年もどうぞよろしくお願いいたします。


 昼過ぎのヴァンクール大通り。夏至祭の盛り上がりは未だ留まることを知らず、午前に比べてもさらに活気に満ち溢れているように感じられる。日が沈むまでの時間は十分すぎるほど。祭りの盛りはまだまだこれからといったところだろう。

 そんな中、ナユタにより半ば強引に送り出されたトワたち。人通りの多いところまで出てきたのはいいものの、ここからどうするかは全くの未定である。流れる人波の邪魔にならないように脇によけつつ、さてどうしようかと顔を見合わせる。

 

「ええと……トワ、どこか行きたいところとかはないかい?」

「あっ、ううん。私はお父さんに会いに来ただけのつもりだったから、そういうのは……」

 

 距離感を計るようなジョルジュの問いかけ。返事は味気のないものだった。

 手紙は突然のことだったというし、元々トワ自身は夏至祭に行くつもりもなかったのだろう。開かれる催しなどについて何もリサーチしていないのは、予測して然るべきだったかもしれない。あっという間に撃沈したジョルジュは「そ、そっか」と苦い笑み。

 

「そうだ。せっかくの夏至祭なのだし、故郷のご家族に贈り物でも見繕うじゃないか」

「……ごめんね。それは午前にお父さんと買っちゃったんだ」

 

 思い切って踏み込むアンゼリカ。しかし、踏み込んだ先が悪かった。申し訳なさそうに肩を小さくするトワにつられて、提案した当人も「む、無念……」と肩を落とす。

 

「「「「…………」」」」

 

 物凄く気まずい空気が四人を包み込む。賑わう雑踏の中で、そこだけが葬式のようだった。

 心の準備も出来ずに、いきなり送り出されたのが不味かった。当初の作戦通り、アンゼリカが脅迫染みたやり方であってもトワを夏至祭に誘えていたらまた違っただろう。相手が落ち込んでいるのは承知の上。それならそれで、クロウたちもそのつもりで事に臨めたからだ。ところが、実際は急転直下の状況に流されるがままで心構えも糞もない。中途半端な気遣いは意味をなさず、むしろ状況を悪化させていた。

 トワも無暗に差し伸ばされる手を振り払いたいわけではないようだが、彼女自身がどうしたらいいのか分からないのかもしれない。心のうちでどうにかしたいという想いと何かに対する恐れがせめぎ合い、結局は恐怖に天秤が傾き尻込みしてしまう。きっとそんな感じだろう。

 互いに及び腰で、沈黙ばかりが降り積もる。鬱々とした空気に気が滅入りそうだった。

 

「――だぁっ! まどろっこしい!!」

 

 故に、その空気を打破するのに必要なのは一種の開き直りと強引さである。

 重苦しさに耐えかねたとばかりに大声を上げたクロウが、トワの手をむんずと掴み取った。

 

「く、クロウ君?」

「いつまでもうじうじしていたら日が暮れちまうだろうが。いいから、お前は黙ってついてきな」

 

 突然のことに目を白黒させるトワをそのまま引っ張っていくクロウ。彼女は為されるがまま腕を引かれ、相手の大股に合わせて立ち止まっていた足が小走りに動き出す。

 

「ちょっとクロウ、あまり無理矢理――」

 

 無遠慮に過ぎたものだからジョルジュは思わず静止の口を挟みかける。道を阻むように出された手が、それを止めた。いつもだったら真っ先にこういうことに文句をつけるだろうアンゼリカは、有無を言わさずにトワを連れて行くクロウを咎めるでもなく静かに見つめる。

 

「今のトワにはあれくらい無神経な方がいいのかもしれない。ここは一つ、彼に任せてみるとしよう」

「……大丈夫なのかい?」

「それは女神のみぞ知る、さ」

 

 手を出しあぐねていては何も解決しないのも事実。力づくであっても事態を動かそうとするクロウにまずは委ねてみよう。一抹の不安はあったが、そこは天に祈るしかない。

 手を引いて引かれて、ヴァンクール大通りをずんずんと進んでいく二人。その後を追ってアンゼリカとジョルジュもようやく動き出すのであった。

 

 

 

 

 

 導力トラムに乗って移動すること十数分。先導するクロウに任せるがまま連れられてきたのは西街区の一角、夏至祭で賑わう帝都の中でも一際熱気に満ち溢れる場所だった。微かに漂う芝生の匂い、一陣の風となって駆け抜ける影、湧き上がる歓声に建物が揺れる。

 

「あの、クロウ君」

 

 そんな中、座席の一つに収まったトワがおずおずと声をかける。周囲に混じって囃し声を上げていたクロウが「あん?」と振り向いた。

 

「学生は競馬をやっちゃいけなかったと思うんだけど……」

「馬券を買わない分にはセーフなんだよ! 細かいことは置いといて楽しんでおけっての」

 

 どこに連れて行くのかと思えば、クロウが選んだのは帝都競馬場。先日の作戦会議で大バッシングを食らったところである。言い分としては間違ってはいないのだが、あれだけ叩かれて尚ここを行き先にするあたりそんなに夏至賞のレースが見たかったのか。

 

「アン、本当に大丈夫なのかい?」

「……すまない、私の見込み違いだったようだ」

「そこ! 今更になってグダグダ言ってんじゃねえ!」

 

 ジョルジュによる再度の確認に沈痛の面持ちを浮かべるアンゼリカ。今になって文句を垂れられる筋合いはないとクロウは叫ぶが、二人がそんなやり取りをしてしまうのも無理はないだろう。

 まあ、クロウの選択にも理解できる部分がないわけではない。想定外の展開により作戦も糞もない状況。この期に及んで都合よく名案など浮かんでくるはずもなく、それだったら当初からトワを連れてくるつもりでいた場所に案内した方がまだ上手くいく可能性はある。尤も、博打に近い選択であることには違いないが。

 他に良い案があるわけでもない。腹を括ろう。歓楽街のカジノよりか、競馬はまだ紳士的で健全な部類だろう。単に馬が好きな子供が観客にいることもあるし。そうして無理矢理に自分を納得させるアンゼリカとジョルジュ。人、それをやけくそと言う。

 

「さぁて、いよいよ本レースだが……見るだけっていうのもつまらねえ。何か賭けようぜ」

 

 先ほどまで行われていたのは所謂前座。夏至賞の本レースはこれからだった。出走順にコースに出てくる馬たちを眺めつつ、クロウはニヤリと笑みを浮かべて提案する。完全にお楽しみモードであった。

 

「賭け事は流石にちょっと……」

「そんな堅苦しいこと考えるようなもんじゃねえよ。どっちが飯を奢るとか、そんなもんだ」

「そう? なら、いいけど」

 

 馬券が買えないのは仕方ないとして、ただ観戦するだけというのも味気ない。ちょっとしたスパイスとして、仲間内でゲームをするくらいは構わないだろう。賭けという言葉に難しい顔をしていたトワにとっても、それくらいは許容範囲だったようだ。承諾を得たクロウは生き生きと仔細を詰める。

 

「トワなんかは勝手が分からねえだろうからな。ここは単純に一着予想にするとしようぜ」

「ふむ、いいだろう。何を賭ける?」

 

 競馬は上位三着の順番を予想するのがオーソドックスだが、まるっきり初心者のトワにそこまで求めるのは酷だろう。簡単な一着予想で勝負を決めるのに四人とも異議はない。ならば、問題は何を賭けるか。ゲームである以上は大層なものではなく、後腐れが無いものがいい。

 先ほどクロウが言った通りに何かを奢るとかでもいいのだが、それでは面白みに欠ける気もする。そこでジョルジュがいいことを思いついたとばかりに手を打った。

 

「じゃあこうしよう。一番予想を外した人は、この夏至祭中に他の三人の言うことを一つずつ聞かなければいけない。それでいいかい?」

 

 何気に最下位のリスクが高いような気もするが、それくらいの方が適度に緊張感もあっていいかもしれない。特に深く考えるわけでもなく、その提案に頷く三人。

 ルールが決まったなら後は予想を立てるだけだ。既に出走する馬は全て騎手と共に姿を現していた。競馬場に響く実況の声がそれぞれを紹介していく。

 

 若年ながら力強い走りを見せる期待のホープ、一番グレートウォリアー。

 安定した堅実な走りを売りにする二番ジャンダルム。

 ここぞというところで凄まじい伸びを見せる三番ゴールドアクター。

 今季一番の成績、絶好調四番コバルトタイクーン。

 そしてかつての王者、五番ライノブルームである。

 

 各々、この日のために仕上げてきたのだろう。どの馬も状態は悪くないように見える。着順を予想するのはなかなか悩ましいところだ。しかし、今回は一着だけを当てればいいだけのこと。クロウにとって答えなどもはや決まりきったことだった。

 

「くく、悪いがコバルトタイクーンは外せねえ。今季はあの馬の独壇場だからな」

「うーん、無難な見立てだね」

「つまらない男だな、まったく。こういう時は大穴を狙うものじゃないかい」

 

 なんとでも言うがいい。勝負の世界は非情、勝ったものが正義なのである。最も勝率が高い馬を選んで何が悪いというのか。無論、同じく考えている人々も多いことからオッズは低い。だが、これはあくまでゲーム。少なくとも上位を外さなければ負けることはない。ならば、面白みは無くても確実な手を取ることにクロウは躊躇いが無かった。

 

「僕は二番のジャンダルムにしようかな。トワとアンはどうする?」

 

 一方、ジョルジュは堅実さが売りのジャンダルムに。彼らしい選択と言えよう。

 早々に予想を立てた男子に対して、女子は決めあぐねる。といっても、アンゼリカは先にトワに選ばせようという姿勢らしく、悩むでもなく待ちの構え。顎に手を当てて考え込んでいるのは競馬の経験が一切ないトワであった。

 コースに並ぶ競走馬を眺める彼女の目には、判断が付きかねているだけでなく物珍しげな好奇の色もあった。しげしげと馬を凝視する彼女にアンゼリカは笑みを零す。

 

「ああいう競走馬を見るのは初めてかい? 馬術部のランベルト君が世話しているのもなかなかだが、こうした場に出てくるのは立派なものだろう」

「そうだねぇ。テラにも馬はいるけど、野生だからこういうのは新鮮かな」

 

 野生馬と競走馬ではそれは色々と違うだろう。少なくとも、野生馬は人を大人しく背中に乗せてくれることはしない……この少女なら容易く手懐けそうな予感がするあたり末恐ろしいが。

 ともあれ、競争するために育て上げられてきた馬というのはトワの目には珍しく映ったようだ。それだけにどういった馬がいいのか分からないのか、視線をあちらこちらに動かすもなかなか決めることができない。見かねたクロウはため息をつきつつアドバイスを送る。

 

「まあ、こういうのは悩んだら勘でいいんだよ。結局は娯楽だしな」

「どの口が言うかな……」

 

 迷わずに勝ち馬を選んだ男が言っても些か説得力に欠ける気もするが、一つの真理ではあるだろう。所詮は遊び、悩み過ぎても楽しめなくなってしまう。納得したらしいトワはしばし瞼を閉じると、開いた眼で一頭の馬を見据えた。

 

「じゃあ……五番のライノブルームで」

「では、私はゴールドアクターとしよう」

 

 全員の予想が出揃う。瞬間、クロウは勝利の確信を得る。

 

(残念だったな、トワ。ライノブルームはいまや老境に差し掛かった馬なんだよ)

 

 確かにかつてはあらゆるレースで名を馳せた王者。だが、それは既に過去の栄光になろうとしている。年を重ねて老齢に入りかけているライノブルームに往年の勢いはない。夏至賞に出場する権利を得たのは流石だが、この面子の前では勝ち目は薄いだろう。それがクロウの、そして大部分の観客たちの見立てであった。

 そのことをわざわざ教えてやる気はない。何度でも言うが、勝負の世界は非情。勝ったものが正義である。簡単なものとはいえ、賭けをしている以上は負けてやるつもりは毛頭ない。相手の失策を指摘してやる義理など欠片もないのだ。

 

(ライノブルームが下位になるのは間違いねえ。この勝負、貰った……!)

 

 内心でほくそ笑むクロウ。友人でも勝負では手加減しないといえば聞こえはいいが、実際は見下げ果てたダメ男である。トワを元気付けるという本来の目的はどこに消えたのだろうか。

 そんな友人のダメ男加減など露知らず、トワは目の前で今まさに始まらんとするレースに集中していた。競馬に興味を持ってもらえるのかという懸念が杞憂であったのは良いのだが、提案した当人の腹の内を鑑みるに結果オーライといっていいのか悩ましいところだ。

 

 次々と出走ゲートに入っていく騎手を乗せた馬たち。いよいよ始まる夏至賞の本レースに観客席も緊張感から静寂が満ちる。スタートを告げる空砲を持った手が高々と上げられる。その引き金に掛かる指に力が籠ったところで緊張は最大限に高まり――

 パンッ、という乾いた音と共に、一気に弾け飛んだ。

 

『さあ、いよいよ始まりました夏至賞本レース。先頭を切ったのはグレートウォリアー、その後ろに一番人気、コバルトタイクーンがついてジャンダルム、ゴールドアクター、ライノブルームと続きます』

 

 爆発したみたいに鳴り響く歓声に負けないように、スピーカーから大音量の実況が流れる。自分にとって悪くない滑り出し。ライノブルームは一歩出遅れた。クロウはますます確信を強める。

 順位はそのままにコーナーへ。そこでレースに動きが生じた。

 

『コバルトタイクーンが仕掛けます。コーナーからグレートウォリアーを抜いて先頭へ。後ろからゴールドアクターも追ってきました。ジャンダルムもピッタリついてくる』

 

 優勝筆頭候補、コバルトタイクーンが先頭に躍り出る。ゴールドアクターがその後を負けじと追いかけ、ジャンダルムは自身のペースを崩さずに走り続ける。経験差が出たか、グレートウォリアーは次々と追い抜かされて下位に落ちてしまう。そしてライノブルームは未だ後塵を拝している。

 順当な流れだ。大方の競馬誌で予想されていた通りの展開。コバルトタイクーンが勝負を制し、あとは若手のグレートウォリアーがどこまで食い下がるかどうか。ライノブルームについては、まず有り得ない大穴としか思われていなかった。

 このままコバルトタイクーンが一着で終わるだろう。多くの観客が、そしてクロウが見込んでいた。やはり好調のコバルトタイクーンの優勝は揺るがないと。

 

「が……」

 

 だが、勝負は水物。

 

 

 

「頑張って! ライノブルーム!!」

 

 

 

 いつ何時、流れがどちらに傾くかなど分からないのだ。

 

『レースも終盤、コバルトタイクーンが最終コーナーに……こ、これはどういうことでしょう! ライノブルームが、ライノブルームがここで猛烈に追い上げてきました!』

 

 実況が思わず動揺する。観客席にどよめきが生まれる。見向きもされていなかった存在が、もはや過去の栄光ばかりと思われていたかつての王者が、ここにきて怒涛のスパートをかける。

 グレートウォリアーを抜く、ジャンダルムを抜く、ゴールドアクターさえも抜いて、今を煌くコバルトタイクーンに並ぶ。変わった流れを止められるものなどもはや存在しない。往年の走りを取り戻したライノブルームが、その勢いのままにコースを駆け抜ける。

 

『抜いたぁ! ライノブルームが、コバルトタイクーンを置き去りにしていく! その威風に怯んだか、走りを乱すコバルトタイクーン! 後続に成す術なく追い抜かれていってしまう!』

 

 観客席を入り乱れる悲鳴、怒号、歓喜。どよめきから分化した感情が空気を揺らす。

 そして、その感情はレースの終結をもって最高潮を迎えた。

 

『ゴォール!! なんということでしょう! 夏至賞を制したのはライノブルーム! かつての王者が、その手に再び栄光を取り戻しました! 着順は5-3-1、5-3-1! いったい誰がこの結末を予想できたでしょうか!』

 

 わぁっ、とトワが歓喜の声を上げる。凄まじい逆転劇。あまりの大番狂わせに帝都競馬場は爆発のような絶叫に包まれ、建物そのものが揺れているのではないかと思うくらいの盛り上がり具合。彼女もその興奮に呑まれ、勢い余ってライノブルームのファンらしいお爺さんと手を取り合って喜びあってしまっていた。

 先ほどまでのしおらしさが嘘のようなそんな姿を目にして、アンゼリカとジョルジュはほっと息をつく。いったいどうなることかと思ったが、想像していたよりも遥かに楽しんでもらえたようだ。掴みは上々、まずは一安心である。

 

「ん、んな馬鹿な……」

 

 だというのに、この場に連れてきた当人はトワに目を向けるでもなく愕然として固まっている。無理もあるまい。それは多くの観客も同じであったのだから。

 結局、コバルトタイクーンはあのまま順位を落として五着でレースを終えてしまったのである。まさかの大穴に加え、優勝候補筆頭の転落という合わせ技によって観客席の半分は阿鼻叫喚の様相を呈している。ライノブルームの大逆転は歓喜と悲嘆の両方を生み出していた。

 必勝を期していたクロウもまた、悲嘆にくれる側の一員であった。あれだけ自信満々だった威勢は影もない。一転して敗者へと瞬く間に成り代わってしまった彼は事態を受け止めきれずに呆然としていた。その肩を二人の友人が叩く。アンゼリカもジョルジュもいい笑みを浮かべていた。

 

「ではクロウ、最下位は君ということで」

「一人につき一つのお願い、後でよろしく頼むよ」

「……畜生ぉ!!」

 

 勝負は勝ったものが正義。敗者はその言葉に唯々諾々と従う他にないのである。クロウにできることは、ただ膝を叩いて負け犬の遠吠えを吐くのみであった。

 

 

 

 

 

「この嬢ちゃんに似合いそうなものを片っ端から持ってくればいいんだな? そういうことなら任せておきな。ばっちり見立ててやるさ」

「心強いお言葉だ。ミラには糸目をつけずにやってくれたまえ」

「あの、アンちゃん……?」

 

 歓喜と悲嘆の爆心地と化した帝都競馬場を後にしたトワたちが次にやって来たのは、ヴァンクール大通りに軒を連ねる《ル・サージュ》の本店であった。トールズの生徒ならば一度はお世話になっている店のオーナー、ハワードはアンゼリカの要望を聞き届けるや意気揚々と裏手に入っていく。ここぞとばかりに大貴族らしい発言をする友人に、トワは恐る恐る声を掛ける。

 

「トワは何も気にしなくていいさ。好きなものを着て綺麗に着飾ってくれれば、私は満足だからね。ふふ……」

「は、はぁ」

 

 初っ端からクロウが競馬などを選んだものだから、他の面子も既に自重を放り捨てて好き勝手することにした。ここでの目的は、アンゼリカたってのお望みであるトワとのショッピング……もとい、ベタ惚れしている友人を心の赴くままに着飾ることである。

 やけに艶っぽい笑みを浮かべるアンゼリカに戸惑いつつも、こっそり懐の方を気にするトワ。お金足りるかな、とか考えているのかもしれない。実に庶民的な感性だ。

 そんな女性二人を眺めながらも、男性陣は口を挟まない。店内の端で傍観を決め込んでいた。

 

「いやぁ、アンは楽しそうだね」

「長くなりそうだな……女の買い物ってのは得てしてそういうもんらしいが」

 

 こと、女性のファッションについてクロウとジョルジュに意見する余地はない。精々が感想を述べるくらい。それ以外は置物に身をやつす腹積もりである。長い戦いになりそうだ、と二人は内心でため息をつく。これも女性の買い物に付き合わされる男の宿命だろう。

 

「さあ、持ってきたぞ。この夏の新作も大盤振る舞いだ。試着もどんどんしていってくれ」

 

 そうこうする内にハワードオーナーが服を山と抱えて戻ってくる。スタッフまで駆り出して持ってきたその量にアンゼリカが目を輝かせ、トワの頬が引き攣る。自分は男装趣味のくせに可愛い子大好きな大貴族及び無駄にノリのいいオーナープロデュースによるファッションショーの始まりだ。

 夏も盛りに向かいつつあるこの季節、涼しげなもので纏めようと選別が進められていく。なお、着る当人はたまに意見を聞かれるのみで後は勝手にアンゼリカとオーナーが決めていってしまう。トワにこの勢いについていくことを求めるのは酷であった。

 

 あれよあれよという間にコーディネートが決まって、服を押し付けられたトワはそのまま試着室に放り込まれる。試着室の中にまでついてこようとするアンゼリカは流石に拒否していたが。膝をつく彼女を慰めるものはいない。当たり前である。

 待つこと数分。試着室のカーテンの隙間からトワが顔を覗かせる。

 

「その、どうかな?」

 

 ちょっと恥ずかしそうにしながらお披露目するトワ。夏らしい空色のワンピース。くどくならないよう絶妙に彩られたレースが可愛らしさを引き立て、足元の編み上げサンダルもマッチしている。思わず男子が「おお……」と感嘆を漏らすほど。ちなみにアンゼリカは力強いガッツポーズである。

 

「いや、随分と映えるもんだ。馬子にも衣装ってやつかね」

「素直に褒めてあげればいいのに……でも本当によく似合っているよ。アンとハワードさんのセンスの賜物かな」

「嬢ちゃんの素材がいいのもあるけどな。これだからこの仕事はやめられないねぇ」

「ああ……いい、いいよトワ。君の可憐さが留まることを知らないようだ……」

 

 一名ばかり自分の世界にトリップしてしまっているが、全員から好評を貰って頬を照れの色で染めながらはにかむトワ。普段は制服姿しか見ないことも相俟って、彼女のめかしこんだ恰好は新鮮であり目を惹きつけて離さなかった。

 周囲としては文句なしの仕上がり。ところが、本人はどこか落ち着かなさそうにそわそわしている。何か気になるところがあるのだろうか。首を傾げる面々に、彼女は照れ臭そうにしながら内心を告げる。

 

「その、こんな綺麗な服を着たことあんまりないから。なんだか落ち着かないなぁって……」

「んだよ、そうなのか? てっきり故郷でも着せ替え人形にされているのかと思ったが」

 

 意外な話であった。トワの見目は十二分に整っている部類であり――身体の起伏はともかく――色目の対象にはなりづらいが、女性から猫可愛がりされるように思える。流石にアンゼリカのような際物はいないにしても、残され島でもよく着飾らされているのだろうと勝手に想像していた。

 

「伯母さんによく勧められてはいたけど、森に氷原に高山に溶岩地帯みたいなところを出歩いていたらすぐ汚れちゃうから。だいたい動きやすい服しか着ていなかったんだよね」

 

 ああ、とクロウたちは凄く納得した。その目が若干遠くなってしまうのは仕方あるまい。聞き及ぶ限り、とても常人が立ち入るべきではないような極限環境まであるらしいテラだ。そんなところに平気で出入りしているトワが、お洒落よりも実用性重視になるのは必然だろう。

 理解できなくはない事情だが、それはそれで勿体ないと感じてしまうのは都市で育った人間だからだろうか。せっかく見目麗しく生まれたのだ。存分にお洒落を堪能してくれた方が見る側としては目の保養になる。勝手な意見ではあるが、それがこの場の総意であった。

 

「というわけで買い物は続行だ。どんどん行くとしよう」

「な、なにがというわけでなの?」

「細かいことは気にしなくていいさ。オーナー、次のコーディネートだ!」

「おっしゃ、任せておきな!」

 

 テンションが高まるばかりの二人に押されるばかりのトワ。クロウとジョルジュは再び蚊帳の外である。もはやトワも抵抗することを諦めたのか、為されるがままに渡される服を身に着けていく。それがどれも文句のつけようがないくらい似合っているのだから始末に負えない。

 そうして何パターンか試した時、ハワードオーナーは天啓がひらめいたように目を見開いた。

 

「嬢ちゃん……ちょっと髪を下ろしてみちゃくれないか?」

「はあ、別に構いませんけど」

 

 突然どうしたのだろうか。大人しく推移を見守っていた男子二人は首を傾げる。言われたトワ自身も不思議そうだったが、取りあえずは言葉通りにリボンを解いて髪を下ろした。

 

「おっ」

「これは……」

「えっと、何か変?」

 

 途端、目に見えて反応する面々にトワは不安そうな表情を浮かべる。変だなんてとんでもない。「いんや」と首を横に振ったクロウが正直な感想を口にした。

 

「髪型一つで印象がだいぶ変わるもんだと思ってな。そっちの方が多少は大人っぽいぜ」

 

 髪を下ろしたトワは、普段の後ろで結んだ姿と打って変わってどこか大人らしい雰囲気を醸し出していた。いつもは幼さが残る印象が先走ることもあってか、そのギャップはなかなか強烈であった。緩くウェーブした長い髪が落ち着いた感じに見える。

 本人としては髪型について気にしたこともなかったのか、思わぬ評価に「そ、そうかなぁ」と頬を掻く。きっと服装と同じく、動きやすければいいやと考えていたのだろう。どうやら彼女はそういったことに関してはとんと疎いようだった。

 そんなトワ自身さえも知らなかった一面を見抜いたハワードオーナーは、有名店を経営しているだけあって流石の慧眼である。素人目線でも素直に感服するところだ。

 

「素晴らしい……よもやトワにこんな隠された大人っぽさがあったとは……! こうしてはいられない。オーナー、追加の服を頼む!」

「あったり前よぉ! こうなれば徹底的に付き合わせてもらうぜ!」

 

 実際に目の前にいるのは、恍惚とした様子で目を輝かせるアンゼリカに悪ノリするいい歳したオッサンなので、あまり敬意を払う気にはなれないのだが。髪を下ろしたトワに似合うものを見繕いに再び裏に引っ込んでいく彼の背中を諦観の目で見送る。どうやら、ここでの買い物にはまだまだ時間がかかりそうだった。

 

「あのね、アンちゃん。気持ちは嬉しいけど、お金を出してもらうのは流石に……」

「やだやだ! 私がトワに買ってあげるんだいっ!!」

 

 なお、会計の際に生じたいざこざについては説明するのも面倒くさいので割愛する。

 

 

 

 

 

「さて、じゃあ次は僕の番か」

「夏至祭限定のパフェだったか? なんでもいいけどよ、少しはお前も荷物持ってくれねえか」

「それじゃあ賭けをした意味がないじゃないか。クロウだけで頑張ってくれ」

 

 たっぷり時間をかけてショッピングを終えたトワたち。ハワードオーナーに手を振って見送られ、《ル・サージュ》をあとにした彼女たちの中でクロウだけが大荷物を抱えていた。大したことではない。クロウ自身が言い出した賭けの勝者の権利が行使されただけである。

 ちなみに《ル・サージュ》での会計はトワとアンゼリカが折半する形で決着がついた。あまりにアンゼリカが駄々をこねるものだから、トワの方から譲歩した結果である。最初は試着したもの全部を買おうとしていたところ、二つの組み合わせにまで絞っただけ彼女は頑張ったと言えるだろう。

 

 ともあれ、クロウとアンゼリカの案内で夏至祭を回って次はジョルジュの番である。クロウの頼みをすげなくあしらった彼は帝国時報を広げる。尾行していた時のカモフラージュとして買ったものだが、夏至祭特集で有名店の紹介などあったので丁度良かった。

 

「パフェは勿論だけど、それ以外も捨てがたいんだよなぁ。こうして見ていると余計に」

 

 流石は帝都ヘイムダルというべきか、スイーツ系の紹介だけでも両手の指では足りないくらいだ。件のパフェを出している喫茶店はもとより、この時期にだけやっている出店などもある。甘党のジョルジュが悩むのも致し方あるまい。

 

「気持ちは分かるが、我々には身体が一つしかないからね。多くは回れないよ」

「マーサさんが夕飯をご馳走してくれるって張り切っていたから、私もあまりたくさんは気が引けるかな」

 

 この人の出だ。全てを回り切るには無理があり、自分たちの腹の都合もある。欲張ってあれもこれも、というわけにはいかないだろう。ジョルジュは尚更に「うーむ」と考え込む。

 ショッピングが長引いたこともあって時刻は既に四時を回っている。時間と腹が許すのは精々二つくらいだろうか。いつになく真剣に悩むジョルジュ。彼の中で甘味はそれほどまでに重要なウェイトを占めているらしい。

 

「よし、パフェとドライケルス広場のクレープ屋台にしよう……でも、やっぱりジェラートも捨てがたいような……」

「はいはい、決まったらさっさと行くぞ」

 

 放っておいたらいつまでも誌面とにらめっこしていそうだ。クロウが尻に軽い蹴りを入れることでようやく移動を開始する。目指す先はクレープ屋台のあるドライケルス広場である。

 ヴァンクール大通りから導力トラムに乗り込んで広場方面、皇城バルフレイム宮が威容を示すもとへ。まっすぐの一本道なのでさして時間をかけずに目的地に到着する。エレボニア帝国中興の祖にしてトールズ士官学院の創設者、ドライケルス大帝の立像がシンボルとなっている広場は普段から帝都市民の憩いの場となっていることから、多くの屋台が立ち並び盛り上がっていた。

 ジョルジュお目当てのクレープ屋台もその一つ。人波を躱しながら目的の店舗を探して回り、そこまで労せずして見つけたところでトワたちはふと立ち止まった。

 

「……混んでるね」

「ああ、大行列だ」

 

 件の屋台に並ぶ長蛇の列。待ち時間は十分やそこらでは済まないだろう。雑誌で紹介までされているのだ。この人気ぶりは予想するべきだったかもしれない。

 並ぶのはいいとしても、ここで時間を取られてしまってはもう一軒回るのは少々厳しくなってしまうだろう。この調子だと、パフェの方も混雑していておかしくない。あまり時間をかけすぎてはナユタと合流するのに遅れてしまう可能性があった。

 

「仕方がない。ここは手分けしよう」

 

 肩を竦めてそう言いだすのはジョルジュ。妥当な提案ではあるだろう。四人で並んで時間を浪費するよりは、二手に分かれて行動した方がよい。

 

「手分けするっつってもどうすんだよ? パフェの方は喫茶店なんだろ。テイクアウトもできるんなら話は別だが」

「はは、何を言っているんだい、クロウ」

 

 問題は、パフェの方が喫茶店であるという点。クレープは屋台販売なので四人分購入してから合流ということもできるが、店内飲食が前提ではそれもできない。クレープ側に回った方はパフェを食べ損ねる形になってしまうだろう。

 ところが、ジョルジュはそんなクロウの指摘を笑って受け止める。その笑みを向けられた相手は嫌な予感に身構えた。

 

「君が並んでクレープを買う。その間に僕たち三人でパフェを食べてくる。その後に合流……ほら、何も問題ないだろう?」

「問題しかないわ! お前は俺に何か恨みでもあるのかよ!?」

「恨みだなんてとんでもない。ただ、君に使える権利を最大限に有効活用しているだけさ」

 

 穏やかなようでいてなかなかえげつない手を打ってくるジョルジュである。賭けの勝利で得た権利をこの場で使ってくるとは。自分に抵抗の余地がないことを理解したクロウは地団太を踏んで恨み言を吐き捨てることしかできない。

 

「こ、この人でなし! 鬼! 悪魔! おデブ!」

「はっはっは、何とでも言うといい。僕はストロベリー味で頼むよ」

「ふむ……では私はチョコレートでお願いするとしよう」

「ちょ、ちょっと二人とも。えっと……」

 

 甘味の亡者と化したジョルジュにクロウの罵倒は届かない。右から左に流した挙句にしっかりと要望を伝えてさっさと行ってしまう。少し考える様子を見せた後、それに続くアンゼリカ。トワは情け容赦ない二人の背中とクロウの間でおろおろと視線を彷徨わせ、結局は二人の方を小走りに追いかけて行った。

 一人取り残されたクロウはがっくりと肩を落とす。両手を塞ぐ荷物によって地に手をつくことさえも許されない姿の哀れさたるや、もはや言葉にしかねるほどである。それでもしっかりとクレープ屋台の列に並んでいるあたり、彼も律儀というか義理堅い。

 

「くっそ、ジョルジュの奴ぅ……あいつのに激辛ソースを仕込んで……ん?」

 

 かといって取り残された恨みもあり、報復の策を練ることも忘れない。そんなことをぶつぶつ呟いていたところ、小走りに駆け寄ってくる小さな姿に気付く。

 

「……どうしたんだよ、トワ。あいつらと一緒に行ったんじゃなかったのか?」

「ううん。二人にはクロウ君と一緒にいるって伝えてきたんだ」

 

 迷いつつもジョルジュとアンゼリカについていったと思っていたトワが戻ってきていた。どうやらついていったのではなく、クロウと一緒にいる旨を伝えにいっていただけらしい彼女が傍らに並ぶ。

 どうしてわざわざ損な方を選んだのやら。クロウの疑念が入り混じった視線に気づいたのか、はにかんだ彼女は何てことのないように言った。

 

「せっかくのお祭りなんだもん。クロウ君だけ仲間外れにしたらいけないから、ね?」

 

 純粋な善意。ただそれだけを理由に戻ってきてくれたトワに、クロウは不覚にも目頭が熱くなる。甘味の暗黒面に堕ちた友人からの仕打ちもあって彼の心にダイレクトアタックであった。

 トワを元気付けるためにこうして遊んで回っているはずなのに、逆に慰められてしまっているあたり世話はない。が、トワがいつも通りに気を遣って花の咲くような笑顔を出してくれるようにはなっているのだ。経緯はどうあれ効果は出ているのだろう。

 

 他愛のないお喋りをしながらクレープ屋台の列を進んでいく二人。ようやく順番が回ってきたところで所望されていたものと好きなものを購入し、その場を後にしたトワの手には四つのクレープ。しめて三十分ほどは並んでいただろうが、話し相手がいて良かったとクロウは心底思った。

 

「まあ、なんとか目当てのもんは手に入れられたわけだが……どこに行けばいいんだ?」

 

 クレープを買えたのはいいが、そういえばここからどこで合流するかを聞いていなかった。ジョルジュが食べたいパフェが喫茶店のものだとは知っているが、それがどの街区にあるかまでは不明。これでは動くに動けなかった。

 ところが、トワは落ち着いた様子で「ううん」と首を横に振る。

 

「心配ないよ。アンちゃんとジョルジュ君も――ほら来た」

 

 トワが目を向けた先を追う。パフェを食べに行ったはずのジョルジュとアンゼリカの姿がそこにあった。その手にはなぜか四人分のジェラートが。

 

「やあ、そっちも丁度買えたところみたいだね」

「ジェラートの方も結構な盛況だったよ。味は適当に選んできたけど構わないかい?」

「おい、待てコラ。普通に話し進めようとしてんじゃねえ」

 

 勝者の権利を盾に、自分を置き去りにしていったと思っていた相手がここにいる。そして手には人数分のジェラートが。そこまで見て、なにも察せぬほどクロウは鈍感ではない。だからこそ口元は引き攣り、目の前の二人――特にジョルジュに鋭い視線が飛ぶ。それに対して、ジョルジュはいつも通りの穏やかな笑みを湛えて受け答えた。

 

「パフェは口惜しいけど、無理そうなのは仕方ないからね。ここは同じ広場で屋台をやっているジェラートで手を打ったというわけさ」

「へえ……俺に小芝居を打った理由は?」

 

 拳を震わせるクロウに、ジョルジュは尚も満面の笑みを向けた。

 

「そりゃ君、権利はどんな形であれ使わなきゃ勿体ないだろ」

「ジョルジュううぅぅー!!」

 

 とどのつまり、クロウはからかわれていただけ。本当に置き去りしていくよりはマシかもしれないが、これはこれで性質が悪い。被害者が怒りの雄たけびをあげるのも無理はなかった。ちなみに本来はクロウ一人で並ばせるつもりだったので、トワの善意は嘘ではないから安心してほしい。

 仕返しとばかりにジョルジュに蹴りを入れて小突くクロウ。やれやれと肩を竦めるアンゼリカに苦笑い浮かべて男子のじゃれ合いを眺めるトワ。騒がしくて、大人げなくて、けれど掛け替えのない日常の一幕であった。

 

 

 

 

 

――――――――――――

 

 

 

 

 

「あー、結構疲れたなぁ」

「年甲斐もなく遊びふけってしまったからね。祭りの熱に浮かされたかな」

 

 夕刻、赤い夕陽に照らされるクリスタルガーデンの情緒的な風景を眺めながら、近くの東屋に腰を落ち着けたトワたちは遊び疲れていた。午後を目一杯使って夏至祭を満喫していたのだ。いくら体力があっても疲労は溜まる。

 クリスタルガーデンの園遊会は既にお開きとなったようで、典雅な催しは既にバルフレイム宮あたりに場を移しているのだろう。マーテル公園は人気もなく静かなものだった。

 もうじき約束の時間だろうと戻ってきたはいいが、ナユタはまだノイと一緒にどこかを出歩いているらしい。彼の帰りを待ちつつ、ひとまずの休憩としたトワたち。必然的に、その話題に上るのは夏至祭で回った諸々についてであった。

 

「それにしても夏至賞でのクロウの負けっぷりは凄かったね。あれだけ自信満々だったのに」

「あんな番狂わせが起きるなんて誰が想像するかっての! ったく、あそこで負けなけりゃ荷物持ちもしなくて済んだってのに……」

「まあ、勝負は時の運というやつさ。トワはどうしてあの馬にしたんだい?」

 

 ジョルジュに蒸し返されて「だぁっ!」と吠えるクロウ。それを軽く流しながらアンゼリカがトワに問いかける。あの中からライノブルームを選んだ理由、そこにあまり深いものはなかった。

 

「何となく、あの子が一番頑張ってくれそうな感じがしたから。本当に感覚的なものだけど」

 

 トワの気配を感じ取る力。そこから得た感覚的なものを頼りにした選択だったようだ。その答えに、クロウが目を怪しく光らせた。

 

「つまり、その感覚に頼れば一着は確実……トワ、俺と一緒に三連単を――!」

「はいはい、下らないことに巻き込もうとしないの」

「あはは……そんなに当てになるものじゃないと思うけど。でも、レースはまた見てみたいかな。ライノブルームがまた頑張ってくれたら嬉しいし」

 

 クロウの杜撰な目論見は切って捨てられるが、トワは思いのほか競馬が気に入ったようだ。というよりも、単純にレースとしてライノブルームのファンになったという方が正しいか。健全な楽しみ方で何よりである。

 

「しかし、《ル・サージュ》でのひと時はまさに至福だった……トワ、買ったものは是非とも着てくれたまえよ。それが私の幸福なのだからね」

「士官学院だとあんまり私服を着る機会がないけどね。今度の里帰りのときかなぁ」

「クレープもジェラートも評判通りの美味しさだったよね……クロウ、そんなに根に持たなくてもいいじゃないか。あれくらいの冗談、普段の課題の手伝いとかでの手間と相殺だろう?」

「お前の冗談は性質が悪いんだよ! やっていいことと悪いことくらいあんだろ!?」

 

 競馬以外でも、この夏至祭は十分以上に楽しめた。一部怒鳴り声をあげていたりもするが、結局はそれも笑い声になる。トワを元気付けるという当初の目的に関係なく、四人で遊んで回って思う存分満喫できたことの確かな証だろう。

 先月の実習から、ようやく日常が帰ってきた心地だった。鉄鉱山の一件から、トワの表情は笑顔が失い皆を避けるようになってしまった。言葉にすればただそれだけだが、クロウたちが味わった喪失感はその比ではない。いつも明るくあった彼女の存在が自分たちの中でどれだけ大きくなっていたのか思い知らされる。今はただ、四人で笑い合える当たり前の日々が戻ってきてくれたことが嬉しかった。

 

「あ――」

 

 何の変哲もない日常、当たり前の光景。それを取り戻して、クロウはようやく気が付いた。

 自分たちが特別でも何でもない、けれど大事なことをトワに言い忘れていたことに。

 

「クロウ君?」

「あー……いやな、今更感が半端ないんだが……」

 

 言い淀むクロウにトワはどうしたのだろうかと首を傾げる。今なら大丈夫だろうか。少しの逡巡の後にクロウは覚悟を決め、彼女の内側に一歩足を踏み入れる。

 

「鉄鉱山の時のことだけどよ」

 

 トワがひゅっ、と短く息をのむ。

 湧きあがった恐怖が彼女を包む前に、クロウは構わずに言い切った。

 

 

 

「ありがとうな」

 

 

 

「……え?」

 

 その言葉に、トワは理解が追い付いていないようだった。恐怖も忘れ、ポカンとした様子でクロウを眺める。言った方の彼は、照れを隠すように目を逸らして頭を掻いた。

 

「あの時、お前が助けてくれなきゃ俺たち全員女神のもとに旅立っていてもおかしくなかった。それは確かだから、な」

「……そうだね。随分と遅くなってしまったが、私からも礼を言わせてほしい。ありがとう、トワ。なりふり構わずに、私たちを助けてくれて」

「そういえば僕たち、命の恩人に礼の一つも言っていなかったのか……トワ、ありがとう。月並みな言葉しか出てこないけど、それでも言わせてくれ」

 

 トワが《力》を使わなければ、きっとクロウたちは死んでしまっていただろう。尋常ならざる手段を取ればその限りではなかったかもしれないが、四人で笑い合う日常はきっと永遠に戻ってくることはなかったに違いない。

 あの時は得体の知れない現象に気圧され、それを引き起こした彼女にただ困惑するしかなかった。隠していたかっただろうものをさらけ出し、後先を考えずに仲間を助けてくれた彼女に大切なことを伝えるのを忘れてしまっていた。

 

 だいぶ遅くなってしまったけれど、それでも伝えよう。クロウも、アンゼリカも、ジョルジュも遅まきながらの感謝の念を口にする。それは紛れもない彼らの本心であった。

 トワはただ、その感謝を呆然と聞き入れる。そんな彼女にクロウは嘘偽りのない言葉を送る。

 

「お前が何を抱えてんのかは分からねえけど、隠し事の一つや二つくらい俺たちは気にしないっての。だからまあ、なんだ……お前もそんな気にすることないんじゃねえか?」

 

 こういう臭いセリフはクロウの苦手とするところである。たどたどしく言い切ったものの、どうにも照れが残っていて格好がつかないのはご愛嬌といったところか。アンゼリカとジョルジュがやれやれと肩を竦めるのも仕方がないだろう。

 そんな言葉を受けて、トワは返す言葉もなく――ただ、その瞳からはらはらと涙を零した。

 

「ちょ、おまっ!? なんでそこで泣くんだよ!?」

「だだだだ大丈夫かいトワ!? この無神経男のせいで傷ついたのなら今すぐにでも――!」

「お、落ち着いてアン! そこでクロウを殴ってもどうにもならないから!」

 

 突然のことに三人はすったもんだの大騒ぎ。とめどなく涙を流すトワに戸惑うばかりのクロウ、錯乱して拳を振り上げるアンゼリカ、それを必死に押しとどめるジョルジュ。しんみりした空気から一転して混乱の渦中である。

 そんな彼らを正気に戻したのは、涙を流すトワの「ち、違うの」という途切れがちな声だった。

 

「私……み、皆に拒まれるんじゃないかって、怖かった……ちゃんと向き合わないといけないって分かっているのに、怖くて、勇気が出せなくて……だから……」

 

 しゃくりあげながら言葉を紡ぐトワ。それだけ聞ければ十分だった。普通じゃない自分は拒絶されてしまうんじゃないかと恐怖に苛まれ、向き合う勇気も持てずに逃げ出してしまった。

 それだけ分かれば――彼女の方から拒絶したかったのではないと分かれば、それでよかった。

 クロウはトワの頭に手を乗せると乱暴に撫でまわす。どうしたことかと泣き腫らした顔でトワが見上げた先で、クロウはニヤッと不敵な笑みを浮かべた。

 

「苦労かけさせやがって。俺たちがお前を拒むわけないだろうが……そうだろ、親友?」

「うん……うん……」

「分かったんなら、泣いていないで笑っておきな。女の涙は別の時に取っておけよ」

「……うん!」

 

 ぐしぐしと涙をぬぐったトワは再び顔を上げる。泣いた直後で顔はぐちゃぐちゃだけれど、憑き物が落ちたようなその笑顔は綺麗で、そして晴れやかだった。

 

 

 

 

 

 トワの心が解きほぐされたことで、四人の本来の活気が戻ってきた。ますます賑わうそんな東屋の様子をナユタはこっそりと窺っていた。予想していた通りの結末に、彼は傍らに浮かぶ相棒に少し自慢げな目を向ける。

 

「ほら、言った通りだろう? あの子たちに任せておけば大丈夫だって」

「むむむむ……嬉しいはずなのに、なんだか釈然としないの」

 

 大人が余計な口出しをしなくても、あの四人ならばきっと自分たちで答えを見つけ出せる。そう信じて送り出したナユタが正しかったわけだが、ノイはどこか不満げな様子で唸り声をあげる。

 喜ばしい結果であるのは確かだ。トワが再びクロウたちに心を開いてくれたのはノイも嬉しい。しかし、それはそれとして姉貴分を自負する身には複雑な感情を持て余さざるを得なかった。

 

「トワのことは私が一番見てきたのに……納得いかないの!」

 

 お目付け役としてトールズにまでついてきてトワの成長を見守ってきた。だというのに、離れていたはずのナユタの方が彼女のことをよく分かっているようで妙に悔しい。保護者の一人としての些細な意地であったが、それはナユタの続く一言に撃沈される。

 

「それは……僕も父親だからね」

 

 この上ない説得力のある言葉であった。認めざるを得ない敗北にノイは肩を落とす。

 そんな相棒に笑みを一つ零し、ナユタはトワたちのいる東屋へ足を向ける。そろそろ従妹夫妻が夕食を用意してくれいてる頃だろう。こちらに気付いて手を振ってくるトワ。掛け替えのない仲間を手にした娘の屈託のない笑顔に、彼は温かい気持ちを胸に感じながら手を振り返すのだった。

 

 

 

 

 

―――――――――――

 

 

 

 

 

「いやぁ、食べ盛りの子たちがこんなに集まると腕の振るい甲斐があるわね」

「ごめんなさい、マーサさん。いきなり押しかけちゃって……」

「いいのいいの。トワちゃんのお友達なら何人だって構わないわ。ほら、遠慮しないでたくさん食べていってちょうだいね」

 

 場所を移して昼頃に訪れたハーシェル雑貨店に戻ってきたトワたち。二階の食卓で夕食をいただきながら、九人もの人が集まれば必然と狭くなる空間に遅ればせながら申し訳なさが募る。対して、夕飯を用意してくれたナユタの従妹、マーサは全く気にした様子がない。むしろドンとこいと言わんばかりである。

 マーテル公園でナユタと合流した後、トワは残っていたお願いごとの権利を行使した。ぜひ、一緒に夕飯を食べていってほしいと。クロウだけではなく三人へのお願いだが、そんなことは権利など使わなくても首を縦に振るに決まっていた。

 雑貨店に辿り着いて事情を説明すれば、難色を示すどころか歓迎一色。むしろ引きずり込まんばかりのマーサの勢いに押され、こうして揃って夕食の席についている次第である。

 

「ありがたい限りです。あ、おかわりお願いしてもいいですか?」

「いや、お前そこは遠慮しろっての」

「はは、気兼ねしなくてもいいさ。食卓が賑やかなことに越したことはないしね」

 

 マーサの夫であるフレッドも突然の客人に対して嫌な顔一つない。懐が広いのはハーシェル家共通の特徴なのだろうか。クロウたちとしては肩ひじ張らずに済んで助かるばかりだ。

 温かな家庭料理に舌鼓を打ちながら、その話題に上るのはトワの学生生活や試験実習での出来事について。そしてハーシェル家の事情についても当然ながら聞き及ぶことになる。

 

「ほう、ではナユタさんとマーサさんは若い頃はあまり互いのことを知っていなかったのですね」

「そうね。お父さんに亡くなった兄がいて、いとこ姉弟が離島に住んでいるっていうのは知っていたけど……初めて会ったのは二十になるかならないかくらいだったかしら?」

「僕がヴォランス博士に連れられて初めて帝都に来た時だね。確か十八くらいだったかな」

 

 ナユタの両親は過去にロスト・ヘブンを探し求める探検に出た末、彼と姉のアーサを残して亡くなってしまっている。帝都に住んでいた親戚とは、その時に連絡が絶えてしまったのだ。導力通信もない時代、距離的な問題もあってそれは仕方のないことであった。ナユタ自身、両親が亡くなった直後は打ちひしがれていたし、アーサは星片観測士の仕事を継いで自立するのに必死だったというのもある。

 その後紆余曲折を経て、帝国でも著名なヴォランス博士に弟子入りしたナユタ。学問の師に随行する形で帝都を訪れた彼は、そこで立ち寄った博物館において思いがけず親戚との邂逅を果たすことになる。当時、帝国博物館に勤めており後に館長になった人物こそが他ならない叔父だったのである。

 従妹のマーサともその時に出会い、数年の時を経て再び親戚づきあいが始まった。帝都と残され島では行き来も楽ではないので手紙でのやり取りが主であったが、それでもこの二十数年は絶えず互いの近況を伝えあってきたし、時には雑貨店にお邪魔することもあった。

 

「それにしてもまあ、色々と驚かせてくれる従兄よ。大人しそうなくせして剣の腕が立つわ、写真が送られてきたと思ったら当然のように妖精が写っているわ、気が付いたら絶世の美女も過言じゃない別嬪な嫁さんを貰っているわ……常識が崩壊したのは片手の数じゃ足りないわ」

「そ、そこまで言わなくてもいいじゃないか」

 

 散々な言われようにナユタは眉尻を下げる。クロウたちとしては思い当たる節が多々あるので擁護する気にはなれなかったが。三人の視線が向けられるトワは、自覚がないのか首を傾げるばかりである。そんなところまで似なくてよかっただろうに。

 

「別嬪の嫁さん、ね。トワの母ちゃんはそこまで美人なのか?」

「それはもう。一度ご挨拶に来てくれたことがあったけど、正直なところ男としては羨ましい限り……おっと、マーサ。これは男性としての一般的な意見であってだね……」

 

 妻からの冷ややかな視線に冷や汗を浮かべるフレッド。流石に正直すぎる感想だったらしい。

 

「まあ、クレハ様が美人なのは事実なの。会える機会もあるだろうし楽しみにしておくの」

 

 夫妻のささやかな諍いを尻目にそう口にするノイであったが、ごく当たり前のように宙に浮く彼女の姿に夫妻は何とも言えない表情。夫の見逃しかねる言動を追及する気も失せて、マーサは深々とため息を吐いた。

 

「嘘とは思っていなかったけど、実際にこうして目にするとつくづく親戚の家は常識が通用しないところなんだと痛感するわ」

「普通そうですよね。僕たちも最初は似たような気持ちでしたし」

 

 多少なりとも事情は知っているとはいえ、それでも感性は一般人のそれである。世界の神秘に触れる機会などあるはずもない現代の帝都民である彼女らにとって、ノイの存在は事前に聞いていたとしても衝撃的だ。同じ経験をしたクロウたちが揃って頷くのもやむ無しだろう。

 そんな好き放題な言われように、ナユタとトワの親子は苦笑いを浮かべて頬を掻くしかない。現実離れした環境に身を置いてきたのは否定しかねる事実なので、そこに関しては反論のしようもなかった。座して嵐が過ぎ去るのを待つのみである。

 ふと、そこでトワがチラチラと向けられる視線に気付く。食卓についてから碌に口を開いていないはとこのカイからのそれに、彼女は優しく微笑んだ。

 

「カイ君、どうかしたの? さっきから何か気になっているみたいだけど」

「うえっ!? そ、そんなことはない……ですけど」

 

 問いかけられるや、目に見えるほどに狼狽えて視線を逸らすカイ。語尾が無駄に仰々しくなってしまっていることからも、この親戚の少女に対して距離感を掴みかねているのは確かであった。その内実は、多分に年上の女性への照れが占めているだろうが。

 そこのところの男の子の機微にはいまひとつ鈍いトワである。単に緊張しているだけだと判断した彼女は、カイの近くに寄って頭をなでる。慌てて逃れようとしても、剣に限らず体術も巧妙な彼女の手から逃れることなどできはせずに為されるがままスキンシップの餌食になる。

 

「もう、そんなに硬くならなくていいのに。お姉ちゃん、って呼んでくれていいんだよ?」

「う、ぐ……わ、分かったよ。トワ……姉ちゃん」

 

 顔を真っ赤に染めて俯くカイに、男性陣は同情の念を抱かざるを得ない。親戚といっても可愛らしい少女に半ば抱き着かれるようにして撫でられるのは、年頃の少年にはなかなか刺激が強いだろう。トワの方は単純に弟を可愛がっているつもりなのも性質が悪い。

 

「むぐぐ……トワにあんなに可愛がってもらえるとは、なんと羨ましい……!」

「お前、子供を妬んでどうすんだよ……」

 

 一方、アンゼリカは平常運転。残念ながらトワが彼女を弟妹のように可愛がることはないだろう。当たり前のことである。

 

「まったく。トワちゃん、うちのカイをそんなに甘やかさないでちょうだいよ。勉強はそこそこだけど、やんちゃ盛りで親としては手を焼いているんだから」

「うるさいなぁ……そうだ、ナユタさん。シグナのおっちゃんは今度いつ来るとか聞いている?」

「うん? そうだね、シグナならしばらくは帝国各地を回って諸々の後処理をするって言っていたから……帝都にまた来るのは先のことになるかな。具体的なことまでは分からないけど」

 

 母親からのお小言は聞き飽きているのか、頓着もせずにカイはナユタにこの場には居ない親戚の一人について聞く。その声色は期待を感じさせるものだったが、ナユタからの返答はそれに応えられるものではなかった。「そっかぁ」とカイは残念がる。

 シグナは帝都の遊撃士協会に駐在していることが多かったようだし、その時にこの雑貨店にも顔を出す機会があっただろうから知り合っていることに不思議はない。ところが、カイの様子からして彼は特にシグナのことを慕っている様子。その理由にも何となく察しがつく。

 

「なるほど、カイ君の憧れは遊撃士ですか」

「ああ。昔からそうではあったけど、シグナさんが顔を出すようになってからは殊更でね。近所の友達とはもっぱら遊撃士ごっこばかりだよ」

 

 もとより子供たちにとって遊撃士とはヒーローのようなもの。民間人の保護を第一とする支える籠手の担い手たちは、幼い目には格好よく映るのだ。実際はそう簡単な話でもないのだが、子供にそこまで理解を求めるのは酷な話だし、別に憧れるのは悪いことではない。

 最高位のA級遊撃士の中でも特に高い実力を持つシグナが身近にいたとなれば、カイが遊撃士に入れ込むのも無理はないことだろう。普段はだらしのないオッサンらしさが目立つが、それでも類まれな腕前を誇るのは確か。むしろオッサンらしさが親しみやすさになって、余計に憧れを強くする要因になったのかもしれない。

 支部の撤退を余儀なくされるなど、昨今の遊撃士の難しい立場を理解しているからだろうか。フレッドは息子のそんな様子に何とも言えない表情だったが、特に何か言及することはなかった。将来のことはカイ次第といったところだろう。

 

「いつになるかは分からないけど、折を見て一緒に訪ねさせてもらうよ。その時にはクレハも姉さんも……師匠も来てくれるかな。家族全員で顔を会わせられたらいいね」

「親戚一同大集合というわけね。いいわ、その時は楽しみにしておいて。腕によりをかけて料理を振る舞ってあげるから」

「はは、姉さんとかは我慢できずに手伝いに行きそうだけど」

 

 和やかな家族の会話。それを見ていてクロウたちは温かい気持ちになる。

 

「ったく、羨ましいね。こんな家族が身近にいてよ」

「何を言っているのかしら? 貴方たちだって何時でも訪ねてくれていいのよ」

 

 独り言のように呟いたそれに対する返答に、クロウは思わず「は?」と間の抜けた声を漏らす。彼のみならず、マーサの目を向けられたアンゼリカとジョルジュも虚を突かれたような表情にならざるを得なかった。そんな三人に夫婦は温かい笑みを浮かべる。

 

「トワちゃんのお友達なら、もう私たちにとっても身内みたいなものよ。困ったことがあったら遠慮せずに来てちょうだい」

「そうだね。力になれるかは分からないけど、何時でも歓迎させてもらうよ。それこそ、ご飯を食べに来るだけでも構わないし」

「ま、まあ、トワ姉ちゃんのついででよかったら相手してやるよ」

 

 投げかけられる優しさに満ちた言葉。クロウたちは目を見合わせて、それから諦めたように肩を竦める。まったくもって、この血筋の人々のお人好しさには敵いそうもない。結局は彼らも、トワと一緒にまた遊びに来ることを約束するのだった。

 

 

 

 

 

 夕日もとうの昔に沈み、街灯が街並みを照らす夜の帝都。トリスタの街に戻るために帝都中央駅にまで来たトワたちを見送り、ナユタも同行していた。

 

「じゃあ、お父さんはマーサさんのところで泊ってから帰るんだよね」

「うん、流石に列車で夜を過ごすのは厳しいからね。船なら慣れたものなんだけど」

「船ならいいのかよ……」

 

 ナユタのさりげない一言にクロウがげんなりとするが、離島育ちにそこのところを言うのはもはや今更というものだろう。船上で一夜を過ごすくらい、ナユタは学生時代から数えるのも億劫なくらい経験しているのだから。

 トワたちも泊っていけばいいとマーサに誘われはしたのだが、そこはあくまで学生の身。届けも出さずに無断での外泊は校則違反になってしまうので丁重にお断りさせてもらった次第だ。トリスタと帝都は目と鼻の先。わざわざ泊るほどの距離ではなかったというのもある。

 

「お父さん、ノイから話を聞いて手紙くれたんだよね? ごめんなさい、心配させちゃって」

 

 父親に気を遣わせて、学会も忙しかっただろうに時間を作ってくれたことにトワは改めて謝意を示す。そんな我が子に父は苦笑を零した。

 

「そんなに遠慮しなくてもいいさ。僕も久しぶりにトワの顔を見られてよかった。それに、ノイの早とちりでもあったみたいだし。僕がいなくても大丈夫そうだったじゃないか」

『失礼しちゃうの。私だってトワを思ってのことだったのに』

「あはは……うん、分かっているよ。ありがとう、ノイ」

 

 子供が親に対してそんな気兼ねなんてするものじゃない。ナユタの言葉は至極もっともで、トワに反論の余地など欠片もなかった。ついでとばかりに揶揄われて不機嫌そうな声を響かせるノイをフォローするのが精々である。

 父に久しぶりに会えて嬉しかったのはトワも同じだ。だから目的や結果はどうあれ、来てくれたナユタや心配してくれたノイには感謝する他ない。そして、沈んでいた自分を追いかけてきてくれた仲間たちにも。それはナユタも同じ気持ちであった。

 

「君たちもありがとう。娘のことを大切に思ってくれること、一人の父親として感謝するよ」

「なに、トワのためならこれくらいお安い御用というものです」

「普段は僕たちの方が世話になっているようなものだしね」

「ま、これで貸し借りなしにできたのなら言うことはねえな」

 

 あくまで気負いなく、一人の友人としてトワを認めてくれるクロウたちにナユタは心の底から安堵を覚える。きっと彼らだからこそ、トワは向き合うことが出来たのだろう。きっと彼らとなら、トワは前を向いて進んでいくことが出来るだろう。不思議とそう信じることが出来た。

 

「トワ、道を見つけることはできそうかい?」

 

 娘と視線を合わせた父はその胸の内を問いかける。その小さな肩に背負わせてしまったものを代わることはできない。代われないならば、せめて見届けることが父親として彼のできることだ。

 いまだ暗中模索を続けるトワは、父の問いかけに明確な答えを持たない。けれど、今日この日にあったことを通して、掛け替えのない仲間たちと向き合えたことで、一つだけ言えることがあった。

 

「まだ分かんないや。《力》を使うのは怖いし、その意味も見つけられていないけど……でも、立ち止まったりはしないよ。クロウ君にアンちゃん、ジョルジュ君と一緒なら、きっといつか答えを出すことが出来るって思うから」

 

 不安はある。背負うものは重く、その行く先も分からない。

 だが、トワは支えを得た。この親友たちと一緒なら、いつしか歩んでいくべき道も見つけられる――彼女はそう信じることが出来た。他ならない親友たちが手を差し伸べてくれたからこそ。

 それを聞けただけでナユタは満足だった。「そっか」と柔らかい笑みを浮かべる。

 

「クロウ君、アンゼリカさん、ジョルジュ君も。どうかこれからも娘をよろしく頼むよ。頭はいいけど、どこかそそっかしくて抜けているところがある子だから、よく見ておいてやってくれ」

『ナユタ、私もいるの!』

「分かっているって。勿論、ノイも僕たちの分も頼んだよ」

 

 相棒からの訴えに慣れた様子で応じつつ、娘の少しむっとした表情は受け流す。ちなみに、言ったことの殆どが彼にブーメランとなって返ってくるのは言葉にするまでもない。

 だが、娘たちを思う気持ちに嘘偽りはない。学院での忙しい日々に戻っていく彼女たちに、ナユタはささやかな祈りと激励を送る。

 

「君たちに星と女神の導きが在らんことを……また会える時を楽しみにしているよ」

 

 



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第36話 翡翠の公都

今回から第四回の試験実習。色々な人と出会って縁を繋いでいくと共に、トワの秘密を徐々に明らかにしていく予定です。テンポよく進めるよう頑張ります。


「はい、全員集まっているわね? 今月の実技教練を始めるわよー」

 

 赴任してしばらく経つというのに、一向に士官学校の教官らしい威厳というものが身につかないサラ教官のどこか呑気な声がグラウンドに響く。「はーい」と返事をするトワをはじめとして、この場の全員が揃って軍人の卵とはとても思えないので、そこのところはお互い様だろう。

 ともあれ、実習地発表を前に恒例と化した実技教練である。各々、好き勝手な返事をする教え子たちに頷いたサラ教官はトワに笑みを向けた。

 

「あんたも、もう大丈夫みたいね。あんまり周りに心配かけるんじゃないわよ」

「あはは……その節はすみませんでした」

 

 つい先日まで周囲の人々を遠ざけていたトワ。夏至祭におけるクロウたちの尽力もあって立ち直った彼女は、心配をかけた人たちに対して頭を下げるばかりであった。師匠の姪という縁もあって可愛がってくるサラ教官も勿論その一人である。

 といっても、誰も彼も怒ってなどいない。いつものトワに戻ってくれたことに胸をなでおろし、他愛のない世間話で笑い合える日常に安堵するものばかりである。トワ自身の人徳、そして人に恵まれたこと双方があってこその顛末だろう。

 おかげで憂いもなく試験実習にも臨めるというもの。その準備段階、実技教練に対しても四人はやる気満々だ。肩をぐるぐる回すクロウが「んで?」と問いかけた。

 

「今回もサラが相手になってくれんのか? さっさと始めるとしようぜ」

「やられっぱなしも癪ですからね。そろそろ一矢報わせてもらいますよ」

「血の気が多いわねぇ……ご期待に沿えなくて悪いけど、今回はちょっと勝手が違うのよ」

 

 過去二回の教練でサラ教官に敗北を喫してきたこともあり、クロウとアンゼリカはリベンジに燃えていた。ところが、肝心の相手の言葉からしてその機会は今回ではないらしい。

 どういうことかと首を傾げるトワたち。サラ教官は何とも言えない微妙な表情で説明する。

 

「学院で新しい教材を仕入れたというか、むしろ押し付けられたというか……まあ、諸々の経緯で使うことになった新機材のテストをしてほしいのよ。こいつの、ね」

 

 と言いながら指を鳴らすサラ教官。途端、宙より得体の知れない物体が姿を現した。

 赤銅色のボディに丸みを帯びたシルエット。頭部と胴体に二つの腕部がくっついた珍妙な木偶の坊、言うなればそんなものが浮いていた。機械的なステルス状態になっていたのか。突然に出現した得体の知れないものにトワたちは目を瞬かせるばかりだ。

 

「…………」

 

 ただ一人、ジョルジュだけが静かに目を細めるも気付いたものはいない。彼のほんの僅かな異変は周りに気取られることなくあっという間に埋没した。

 

「えっと……何なんですか? これ」

「戦術殻っていうらしいわ。色々と設定を変えられて訓練に活用できる高性能な案山子みたいなものだそうよ。動く原理とかは聞かないで頂戴。私も知らないから」

 

 トワが問うも、サラ教官から返ってくる答えは投げやり気味なものばかり。ほとんど伝聞形なことから、彼女自身もこの戦術殻というものについて詳しく知らないのは本当だろう。

 ふよふよと浮いているだけで動く気配のない戦術殻。自律行動はしない、指示によってのみ動くものなのだろうか。ひとまず危険はなさそうだと認めたクロウとアンゼリカなどは、近くに寄ってその奇妙な案山子もどきをまじまじと観察する。

 

「またけったいなものが出てきたものだね。金属、というよりは陶器に近い質感だが」

「どこのどいつがこんなもんを作ったんだか。ジョルジュ、なんか知らねえのか?」

 

 こういう技術的なものはジョルジュの領分である。当然ながら疑問は彼の方に飛び、少し考える様子を見せた後に普段と変わらない調子でその口が開かれた。

 

「こういったものが開発されたという話は聞いたことがないね。少なくとも、RFやヴェルヌ社、ZCFにエプスタイン財団みたいな一般的なところが出処ではないと思う」

 

 ただ、と彼は言葉を続ける。

 

「大陸各地には独自の技術を持っている工房も少なくない。政府や猟兵団からの仕事を請け負うところもあると聞くしね。たぶん、そういうところで作られたものなんだろう」

 

 一般市場に出回っている導力製品はジョルジュが挙げたような大手のものが大半を占めるが、何も導力技術はそれらだけのものではない。むしろ、日の目を見ないところで他に類を見ない進歩を遂げている場合もあるのだという。この奇怪な案山子も、そうした類の技術の産物なのかもしれない。

 そんなジョルジュの推察にトワたちは納得する。そして、それは決して的外れなものではなかったようだ。サラ教官が先と変わらない微妙な表情で頷く。

 

「ま、だいたいそんな感じでしょうね。そんなものがどういうわけか、どこぞの誰かさんの手を通してうちに押し付けられたのよ」

「なるほど。サラ教官が浮かない様子ということは、察するに帝国政府でしょうか?」

「ノーコメント、とだけ言わせてもらうわ」

 

 黙秘を主張しつつも、それは遠回しな肯定であった。そういうことならサラ教官が微妙な表情なのも頷ける。因縁浅からぬ帝国政府から一方的に送られてきた正体不明の物品ともなれば、あまり喜ばしい気分にはなれないだろう。

 とはいっても、学院側が受け取ってしまった以上は突っ返すわけにもいかない。倉庫の肥やしにして無駄にスペースを取るのも癪であるし、精々有効活用させてもらう腹積もりといったところか。釈然としない気持ちを振り切ったサラ教官は、コホンと咳払いをして仕切りなおす。

 

「ともかく、戦闘訓練に使えそうなのは確かよ。実際に生徒の相手役としてどうなのか、そこらへんを実技教練がてら試してほしいってわけ」

 

 ひとまず状況は理解した。そういうことならトワたちに否やはない。サラ教官へのリベンジがまたの機会というのは残念だが、自分たちは試験実習班。ARCUSや実習のみならず、こうしたテストを請け負うのも役割の一つだろう。

 

「分かりました。一応、壊さないようにした方がいいんですか?」

「別に思いっきりやってくれていいわよ。むしろぶっ壊してくれた方がすっきりするわ」

「私怨丸出しじゃねえか……それなら遠慮なくやらせてもらうがよ」

 

 武具を構えるトワたち。新品の備品に対するトワの気遣いを一蹴したのには苦笑いしか浮かばないが、全力でやっていいというのならばそれはそれで望むところ。ルーレ実習で結実した戦術リンクの力、思う存分発揮させてもらうとしよう。

 士気旺盛な四人にサラ教官は不敵に微笑む。その力、見せてみろとばかりに。

 

「機械相手だからって足元をすくわれないよう気をつけることね。それでは――始め!」

 

 指示を下された戦術殻が動き出す。不規則な軌道を描いて突撃してくるそれを迎え撃つトワたち。三回目の実技教練、その火蓋が切られた。

 

 

 

 

 

「……あの、サラ教官」

「……何よ」

「動かなくなっちゃったんですけど……」

「見れば分かるわよ」

 

 が、その決着は思いのほかあっさりとついてしまった。具体的には、一分あるかないかで。

 トワの足元にはプスプスと黒煙を上らせて転がる戦術殻の残骸。銃弾で穿たれ、鉄拳に凹まされ、鉄槌で潰され、一刀のもとに両断された有り様は見るも無残。修復不能、スクラップである。

 

「んだよ、思ったより手応えのねえ相手だったな」

「同感だ。もう少し手古摺るかと思っていたのだが」

「僕たちの連携に対応しきれなかったようだったね。思考アルゴリズムが単純なのかな」

 

 あっさりとした結末にそれぞれ拍子抜けしているが、サラ教官からしてみれば想定外なのは四人の成長度合いの方であった。戦術殻は設定を最高レベルにしていた。事前に試したサラ教官が、これなら少しばかり手を焼くだろうと判断した戦闘能力をそれは有していたのだ。

 それがどうだ。実際には秒殺もいいところ。完璧と評していい澱みのない連携。戦術リンクを完成させたトワたちは、サラ教官の想定を大きく超える成長を遂げていた。

 うっすらと冷や汗が滲む。今の彼女たちに、果たして自分は勝てるだろうかと。修正した情報をもとに脳裏で剣戟を交わし――導き出した答えは「困難」であった。

 

(来月あたり、覚悟しておかないといけないかもしれないわね……)

 

 背中のすぐ後ろにまで迫ってきている教え子たちに溜息を零す。めきめきと実力を伸ばしているのは教官として喜ばしい。しかしながら、一個人としてはまだまだ追いつかれるまいと思うプライドがあるのも確か。サラ教官の内心は割かし複雑であった。

 

「すぐ終わっちゃいましたけど、実技教練は終わりでいいんですか?」

「あー……まあ、仕方ないわね。どうだったかしら、実際にやってみて」

 

 そんな内心など露知らず、四人は不完全燃焼な気分を持て余しながらも構えを解く。本来の想定より随分とあっさりとしたテストになってしまったが、一応は目的を果たすために聞いておかなければならない。戦術殻の所感を問われたトワたちは短い戦闘から得た印象を口にする。

 

「訓練用に使うのに問題はないと思います。けど、一定以上の実力を有していると効果が薄いかな、と」

「そこのところは数で補うしかないかもな。それか何か条件付けたうえでの模擬戦にするか」

「ふむ、複数を運用するなら戦術殻同士の連携を崩す訓練とかも面白いかもね」

「設定にどこまで自由が利くかにもよるけど、確かにいい案かもしれない。僕もちょっと手を加えられないかな」

 

 個としての運用では目安を計る程度。だが、複数を用いれば疑似的な集団戦の相手として活用することもできるだろう。個々に役割付けたうえで連携を取らせられればなおよい。意外とポンポン出てくる意見を書き留めながらサラ教官は感心する。腕っ節のみならず、こうした洞察力や発想力も実習を通して伸ばしているらしい。

 ともあれ、所感としてはこれで十分だ。パン、と手を叩いて視線を集める。これにて実技教練兼戦術殻の運用テストは終了。ならばお待ちかねの時間である。

 

「それじゃあ実習地の発表に移るわよ。はい、回していって」

 

 いつもの校章入りの封筒が配布される。トワたちも既に慣れたもの。特に騒ぎ立てることもなく、いそいそと中身を取り出して今回の行き先を確認する。

 

「バリアハート、ですか。ルーレに引き続いて四大名門が治める州都というわけですね」

「クロイツェン州というと、アルバレア公爵家だっけ。四大名門でも家格が上って聞くけど」

 

 四回目の実習地として選ばれたのは、東部クロイツェン州の州都バリアハート。四大名門の一角、アルバレア公爵家が治める翡翠の公都と謳われる一大都市である。そうした基本情報を確認するトワとジョルジュに、アンゼリカはどこか皮肉めいた笑みを浮かべた。

 

「まあね。四大の中でもアルバレアとカイエンは一段上に位置する……その点、同じ州都といってもルーレと似たように考えない方がいい。あそこは真実、貴族のための街と言って過言ではないからね」

「なるほど。これまた一筋縄じゃいきそうにない実習地じゃねえの」

「ふふ……そこのところは到着してからのお楽しみということにしておこうか」

 

 アンゼリカの言から察するに、また難儀する実習になりそうだ。ルーレはログナー侯爵家の所領と言ってもRFを中心とした技術都市としての側面が強かったのに対し、バリアハートは純粋に貴族勢力が本拠を置く街。そう簡単に事が運びそうにないのは容易に想像できた。

 だが、いかなる困難が待ち受けていようと立ち止まっているわけにはいかない。貴族の牙城だろうが何だろうが、いつも通りに正面から立ち向かっていくのみである。

 

「日程はいつも通りに今週末から二日。面倒ごとに首を突っ込まないよう……とは言わないけど、ちゃんと元気な姿で帰ってくること。いいわね」

「あはは、分かりました」

 

 実習のたびに騒動に関わってくるトワたちに、サラ教官はもはや諦観の念を抱いている模様。どこか呆れたような、けれど教え導くものとしての温かみを帯びた言葉に、トワも笑って返す。

 

「あの、ところでサラ教官」

 

 と、そこで終わればよかったのだが、生憎とそうはいかず。「どうかしたの?」と首を傾げるサラ教官に対して、トワは足元に転がる戦術殻の残骸に改めて視線を移した。

 

「これ壊れちゃいましたけど……始末書とか大丈夫ですか?」

「あ」

 

 翌日、生徒会への依頼にサラ教官の手伝いが加わっているのを認めて、ちょっぴり溜息を洩らしながらも引き受けるトワの姿があったとか。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 週末、早朝の時間帯にトリスタ駅に集合したトワたち。四回目ともなるとトリスタの人々も分かったもの。出発前の準備ができるようにと早い時間から店を開けてくれる親切心には感謝する他ない。頑張ってと応援してくれた駅員に見送られ、四人は一路バリアハートへと出発した。

 初回の実習で訪れたケルディックを経由し、クロスベル自治州ひいてはカルバート共和国へと続く大陸横断鉄道と分岐して帝国南東方面へ鉄路を進む。秋の収穫を期待させる青々と葉が揺れる穀倉地帯の風景を楽しみつつ、列車は滞りなく目的とへと向かう。

 そうして到着したバリアハート。駅に降り立ったトワは、座りっぱなしで固まった体をほぐすように「うーん」と背伸びをする。

 

「鉄道に長い時間乗っていると、気付かないうちに体が凝っているよね。皆と話したり遊んだりしていると気にならないものだけど」

「そりゃ同感だが、それにしてもお前ゲーム全般に弱すぎだろ。全戦全敗だったじゃねえか」

「た、楽しかったんだからいいじゃない。ゲームなんだから」

 

 乗車中にやっていたブレードの対戦結果を蒸し返すクロウに物申すトワ。負けが込んだのは確かだが、楽しめたのも事実だからそれでいいのだ。実際にはえげつない手を思いついても、遠慮が勝ってジリ貧になるのが敗北の原因だったりする。心優しい性根ゆえの些細な欠点であった。

 と、そんな車中での一幕を経てたどり着いたバリアハート。四大名門の治める州都は伊達ではなく、街の規模も大きい。ぐるりと駅舎を見渡したジョルジュがその印象を口にする。

 

「綺麗な駅だね。ルーレは無骨な感じだけど、ここは壮麗な感じというか」

 

 ルーレの駅は貨物線なども多く乗り入れており、装飾のない鉄臭さがあった。対してバリアハートは所々に装飾が施されており、なんだか駅だけでも上品な雰囲気を醸し出している。鉄臭さに馴染んだジョルジュなどは少し落ち着かない様子だった。

 

「言っただろう。ここは正真正銘、貴族の街だってね。建物一つから街全体に至るまで、そのすべてが貴族の為に作られているようなものだ」

 

 どことなく呆れた目を周囲に向けるアンゼリカが言う。トワたちも実際に目で見ることで、その言葉の意味を朧気ながら理解してきていた。

 都市の玄関口には、やはりその都市の色というものが如実に表れるものなのだろう。ルーレならばRFを中心とした工業都市とログナー侯爵の質実剛健さが窺えた。そしてここでは、麗美さと表裏をなすように気位の高さとでも言い表すものが見て取れる。

 良くも悪くも貴族らしい雰囲気。平民の三人のみならず、アンゼリカもあまり肌に合わなそうなところだ。

 

「一応忠告しておくが、この街では貴族の横暴が罷り通る。下手な口をきいて牢にぶち込まれないよう気を付けてくれたまえよ」

「へいへい、了解しましたよっと」

 

 わざわざ目を向けての注意にクロウは肩を竦める。流石に彼もそれくらいは弁えているつもりだ。もっとも、そのように弁えなければいけないことが当たり前になっているバリアハート――依然として貴族の力が強い地域が多いのも、エレボニアを取り巻く現実の一面なのだろう。

 ルーレではRFの存在もあって貴族の強権を殊更に感じることはなかったが、今回はそうもいかないかもしれない。漠然とした予感と不安に難しい顔をしていると、頭の上あたりから声が響いてくる。

 

『気にしてばかりいても仕方ないの。まずは感じてみてから考えてみたら?』

 

 人目を憚って息を潜めていたノイの言葉に、それもそうかと気を取り直す。玄関口でいつまでも立ち往生していても仕方がない。実際にこの街の姿を見て感じて、そこからどうするかは後に考えればいい。まずは動き出すのが肝要だろう。

 それなりに人の多いホームを移動し、改札を出て駅の出口へと向かう。観光客や商人と思しき人たちの姿を流し見ながら、ふとトワはいつもながらの疑問を口にした。

 

「今回は誰が現地責任者なんだろうね。サラ教官、また教えてくれなかったけど」

「もう教える気なんて欠片もねえだろ。完全に楽しんでやがるぜ、ありゃ」

「うーん、否定できないね」

 

 例のごとく、トワたちは今回も実習地における責任者が何者なのか知らされていなかった。シグナの一件から味を占めてしまったのだろうか。サラ教官は傍目に見て口を割る気など更々なさそうであった。もはや実習のお約束となってしまった感がある。

 

「バリアハートの代表者といえばやはりアルバレア公だが……あの御仁は父上とはまた違う理由で実習などには目もくれないだろう。となると誰になるのやら」

 

 統治者たるアルバレア公は、アンゼリカの知る人柄から判断するに、実習に対して興味を示す類ではないようだ。では誰が責任者となるのか。バリアハートでは既に遊撃士協会の支部も撤退しているのでその線は薄いだろう。おおよその予測をつけようにも、情報が少ないために候補を絞れない。

 揃って首を傾げながらも駅の外に出る。優美な街並みに感心しながらも足を進めようとして――はた、とトワたちはその歩みを止めた。

 

 広々とした駅前の通り。そこに一台のリムジンが停まっていた。RFの最高級モデルであるそれは威風堂々と存在感を示しており、道行く人々の視線を否応にも寄せ付ける。

 だが、それ以上に人目を集めるのは、リムジンの傍に佇む一人の男性であった。嫌味を感じさせない深緑の装束、揺蕩う金髪は輝きを放つようで、麗美な面立ちに周囲の女性たちが示し合わせたように熱っぽい吐息を零す。

 そんな圧倒的存在感を放つ人物が、トワたちの姿を認めて微笑を浮かべた。

 

「やあ、時間通りの到着のようだね。つつがなく実習を始められそうで何より」

 

 唖然とするトワたちにお構いなく、男性は迎え入れるかのように腕を広げる。その所作がまた洗練されていて、相手が並々ならぬ人物であることを思い知らされた。

 

「翡翠の公都、バリアハートへようこそ。歓迎させてもらうよ。トールズ士官学院、試験実習班の諸君」

 

 内心でひっそりとため息をつく。どうやら今回もサラ教官の思惑にまんまと嵌ってしまったようだ。こんな出迎えを想定するなど無理な話ではあるのだが。

 伯父に背後を取られるわ、巨大飛行船が飛んでくるわ、いつもながら実習の始まりは刺激的である。それらに勝るとも劣らない貴公子による出迎えをもって、バリアハートにおける試験実習は幕を開けるのであった。

 

 

 

 

 

「では、改めて自己紹介をしておくとしよう」

 

 リムジンの車内。宿泊先のホテルまで送ってくれるという豪奢なそれの席で、トワたちを出迎えてくれた金髪の男性がそう口を開いた。

 

「ルーファス・アルバレア。アルバレア公爵の長子にして、今回の実習における現地責任者を務めさせてもらうものだ。見知りおき願おう……といっても、アンゼリカ君とは既に面識があるがね」

「ええ。正直、意外でした。公爵家が直接関わってくることはないだろうと思っていたところに、まさかルーファスさんがやってくるとは」

 

 今回の現地責任者、ルーファスは本人の言う通りアルバレア公爵家の長男である紛うことなき貴公子だ。既に父の名代として活動しており、社交界でもその名を馳せているのだとか。公爵本人ではないにしても、たかが士官学院の実習活動――しかも試験的なものに出張ってくるには大物にすぎる人物であった。

 前回のイリーナ会長も格で言えば決して劣るわけではないが、それでもあちらは明確な関りがあった。戦術リンク、そしてARCUSの開発元であるRFの会長が、その試験を行う実習を監督する立場にあったとしてもおかしくはない。だが、ルーファスには――アルバレア公爵家にはその関りがない。アンゼリカが意外と口にするのはそうした理由があってのことだ。

 相手もそれは分かっているのだろう。小さく笑みを浮かべて肩を竦めた。

 

「この件に関しては、公爵家というよりも私個人が引き受けたようなものでね。君たちの学院の理事長から打診を受けて責任者としての役目を仰せつかった次第だ」

「理事長って……オリヴァルト皇子のことですか?」

「殿下とは最近、社交界で顔を会わせる機会が多くてね。その時に話をいただいたのだよ」

 

 その口から出た人物の名に四人は驚きを覚える。リベールよりアルセイユ号で凱旋したその日に目にした、皇位継承権を持たない庶子の皇子。以前までは人前にあまり姿を見せなかったという彼が積極的に社交界で活動しているというのもそうだが、トワなどからすればそんな雲の上での出来事から自分たちの実習に繋がるとは思ってもいなかった。

 

「君たちからすれば実感はないかもしれないが、この試験実習……そしてその先の特科クラスも殿下の発案によるものだ。殿下自身、その実現に向けて注力していらっしゃるし、私にも随分と熱心にその話をしてくださったよ」

「そ、そうだったんですか。じゃあルーファスさんが責任者を引き受けたのも……」

 

 歴史ある士官学院でも前例を見ない試みであるだけに理事長も無関係ではないと思ってはいたが、まさか発案者その人であったとは。ルーファスの口から明かされた事実に少なからぬ衝撃を受けつつも、それらを踏まえて腑に落ちた気分にもなる。きっと彼もこの試みに興味を抱いたからこそ、個人的に責任者の役目を引き受けたのだろうと。

 ところが、目の前の貴公子はなかなか食えない人物であるらしい。悪戯っぽく微笑むと、トワたちの意表を突く言葉を放ってきた。

 

「まあ、殿下の試みに興味を持ったのも確かではあるが、今回に関しては君たち四人に会ってみたかったというのが本音かな」

「俺たちに……?」

「アンちゃんはともかく、私たちはそんな大層なものじゃないですけど……」

 

 自分たちに会って、いったいどうするというのか。アンゼリカは四大名門の息女ではあるが、それ以外の三人は紛れもない平民。ルーファスがわざわざ顔を会わせようと思えるほどの魅力があるとは考えられなかった。

 

「謙遜することはない。君たちの活躍は私の耳にもしかと届いている」

 

 そんなトワの言葉にルーファスは首を横に振る。身分のそれとは関係なしに、四人それぞれに注目するに値する点があるのだと彼は言う。

 

「アンゼリカ君は侯爵家の出身でありながら、型に縛られない振る舞いで立場に関わらず信望を得ている。同じ四大の身としては羨ましい限りだ」

「単に放蕩娘と評した方が適切かと思いますが、そう言っていただけると幸いです」

 

 傍から見ればアンゼリカの自虐の通りなのだろうが、同じ四大の子息という立場からすればまた違ったように捉えられるのか。ルーファスの言葉に皮肉めいたものは感じられない。

 

「ジョルジュ君はあのシュミット博士の弟子であり、君たちがテストする戦術リンクの開発にも大きく寄与していると聞く。学生の身でそれほどの技術力を有しているものはそうはいないだろう」

「過分な評価と思いますけど……ありがとうございます」

 

 目が移った先のジョルジュにも純粋な称賛が。大貴族らしい大貴族にこうも持ち上げられると逆に恐縮してしまうものがある。褒められ慣れていない部分もあってか、ジョルジュは萎縮するばかりだ。

 

「クロウ君も卓越した戦闘技術を有しており、学院内においても上級生に勝る銃の腕を誇っているのだとか。叶うならば、是非とも領邦軍に招きたいところだ」

「はあ、そりゃどうも」

 

 流石にリップサービスだろうと思っているのか、クロウは気のない返事。銃の腕前と同じくして生活態度もルーファスの耳に入っていることだろうから、そう思うのは当然のことだろう。論理的に考えて判断しても、一見して本気なように窺えるのが怖いところだが。

 三者三様の評価を口にしたルーファス。「そして」とその目が最後にトワへ向けられ、自身の奥底を覗き込んでくるような碧眼に彼女は息をのんだ。

 

「学年首席、かの《剣豪》より教えを授かった剣の腕前、生徒会の一員として学院のみならず周辺住民からの評価も上々……およそ非の付け所がない優秀さだ。それが一見、幼げの残る少女だというのだから恐れ入るよ。トワ・ハーシェル君」

「……いえ、まだまだ未熟な身です。剣も、そして心も」

 

 謙虚なことだ、と相貌を緩めるルーファス。トワとしては本心からの言葉だったのだが、そうとは受け止められなかったのか。あるいは、それを見越したうえで言っているのか。どうにも腹の内が読めない人。トワの中でルーファスはそんな位置付けになりつつあった。

 

「ともあれ、個々人でも魅力的な若者たちが各地における実習で目を見張る活躍をしているというのだ。青田買いとは言わずとも顔を繋ぐ好機ともなれば、私がここにいるのはなんら不思議なことではないと思わないか?」

 

 どこまで本気なのか分からないが、トワたちのことを評価しているのは嘘ではないのだろう。わざわざ現地責任者の役目を請け負ったのだから、それは間違いないと思う。よく分からないからと言って構えるのも失礼な話だ。ここは素直に納得しておくことにした。

 それにしても、と思う。自分たちを評価してくれているのは分かったが、その口から出てきた情報はいったいどこから仕入れてきたのやら。クロウも同感だったのか、若干呆れたような目をルーファスに向けていた。

 

「何というかまあ、よくご存じで」

「情報は時に何にも勝る武器になる。剣ではなく言葉で戦う場では特に、ね」

 

 これも熾烈な貴族社会を生きる上での嗜みということだろうか。なるほど、貴族派きっての貴公子とは伊達ではないらしい。その意味深な微笑みからは、ちょっとやそっとでは裏をかくことも出来なさそうな智謀の影が窺えた。

 しかし、試験実習の話がルーファスの耳に入っていたというのも実感が湧かないものだ。結果的にとはいえ、各地における魔獣被害の解決に貢献してきた実績。それも本人たちからしてみれば、その場で出来ることを精一杯やって来たに過ぎない。思いもよらない縁が巡ってきて戸惑いを覚えているのがトワたちの正直な心情である。

 それもまた好ましく映るのか、ルーファスは笑みを絶やさない。さて、と一言区切ると、彼はおもむろに一通の封筒を取り出す。トワたちも見慣れた士官学院のものである。

 

「お喋りは切り上げて、そろそろ実習の話に移るとしようか。こちらが今回の課題になる」

 

 差し出されたそれを受け取る。見た目の厚さより重い。というより、何か依頼書以外のものが入っている感覚だ。何だろうかと内心首を傾げるも、まずはルーファスの言葉に耳を傾ける。

 

「領邦軍、貴族、職人……バリアハートを理解し得る依頼を私なりに見繕った。一筋縄ではいかないものもあるかもしれないが、これまでの経験もある君たちなら問題ないだろう」

「これまた持ち上げるようなことを。そのご期待に沿えるよう、精一杯努めるとしましょう」

「ふふ、君たちの手並みを楽しみにさせてもらうよ。っと、着いたようだね」

 

 芝居がかった調子のアンゼリカにルーファスが返したところで、リムジンは速度を緩めて建物の前に停まる。先月に泊まったルーレのホテルと遜色ない高級感を放つ今回の宿泊先に、庶民的なトワはやはり気後れを覚えてしまう。個人的には宿酒場とかで構わないのに。責任者が責任者なので、最低限の見栄が必要なこともあって無理なのだろうが。

 リムジンから荷物を下ろしたところでルーファスとは一先ずお別れだ。窓から顔を覗かせる車中の彼に、トワは礼儀正しく頭を下げる。

 

「送っていただいてありがとうございました。実習、頑張らせてもらいます」

 

 トワに続いて三人も口々に感謝を述べる。「どもっす」と普段通りの軽い調子を崩さないクロウに頬の一筋も揺るがないルーファスはやはり大物だと思う。

 

「何か困ったことがあれば貴族街の城館を訪ねるといい。門番には話を通しておこう」

 

 最後まで親切なことを口にして、ルーファスは「では、健闘を祈るよ」と残しリムジンで走り去っていった。出会いもそうであれば、別れも正統派の貴公子らしく優雅である。

 リムジンが視界から消えていくなり、大きな息を吐くのはジョルジュ。まだ依頼に取り掛かってもいないというのに、彼は既に気疲れした顔をしていた。

 

「緊張したなぁ。まさかアルバレアの跡取りが来るなんて」

「何を今更。四大の血筋というのなら、私と毎日顔を会わせているだろうに」

「いや、アンと一緒にするのはちょっと……」

 

 ジョルジュが苦笑いを浮かべてそう言うのも致し方なし。立場としてはそう変わらずとも、アンゼリカとルーファスではあまりにもタイプが違いすぎた。良し悪しをつけるような話でもないけれど。

 

「とりあえず荷物を部屋に置いてくるとしようぜ。話はそれからでも遅くねえだろ」

 

 それもそうかとクロウの言に賛成の意を示すトワたち。まずはチェックインするために豪奢なホテルのロビーへと足を向けるのであった。

 領主たるアルバレアの名はやはりこの街では効果抜群なのか。やたらと畏まって応対してくるオーナーに恐縮し、一般の客室でも最高級の名に恥じない内装に頬を引き攣らせる羽目になる。準備を整えてロビーに集まるだけでもこれなのだから、つくづく自分は格式高いものに馴染みがないのだなと実感するトワであった。

 閑話休題、まずは依頼の確認である。封筒を開けて中身を出してみれば、数枚の依頼書と共に古びた鍵が一つ出てきた。どうやら渡されたときに感じた重みの正体はこれらしい。

 

「何の鍵だ、これ?」

「それは内容を検めれば分かることだろうさ。トワ、いつも通り頼むよ」

「うん。じゃあ確認していくね」

 

 アンゼリカに促され、依頼書に目を通していく。貴族から珍味であるという果実の採集、服飾を手掛けている職人からは何故か魔獣の毛皮の調達を、そして領邦軍より地下水路の手配魔獣の討伐をそれぞれ願うものがあった。

 大方、ルーファスが挙げていた通りの依頼人たち。前者二つは直接話を聞かないことには要領を掴めないが、最後の一つに関しては簡潔だ。同封した鍵でバリアハートの地下水路に入り、そこを根城にしている魔獣を倒してくるようにという旨がやたらと上から目線で書かれていた。

 

「この街にも地下水路があるんだ……こんなおざなりに鍵を渡されていいのかな」

「どうせろくに管理なんてしちゃいないんだろ。お高くとまっている連中が薄汚いところなんかに好きこのんで出向くわけがねえ。ちょうどいい厄介払いとして面倒ごとを押し付けてきたんだろうさ」

 

 地下水路の鍵とは分かったが、本来なら厳密に管理するように思えるものを人伝にポンと渡されるのもなんだか不安になる。そう口にするジョルジュにクロウは皮肉たっぷりに答えるが、それは否定するには現実味がありすぎた。

 ケルディックで目にしたクロイツェン領邦軍の性質は、歯に衣着せず言ってしまえば傲岸不遜。アルバレア公の私兵として領民に対し見下した態度を取っており、地下水路の魔獣退治などに骨を折るようにはとても思えない。この若干錆び付いた鍵からも、管理の不行き届きは明らかだろう。

 思うところはある。が、ここで難しい顔をしていても仕方ないだろう。まずは実習活動を開始するべく、トワは頭の中で組み立てた行動の指針を三人に提示する。

 

「他の依頼は街道に出ることになりそうだし、まずは地下水路から片付けよう。魔獣を退治したら領邦軍に報告して、その後に残りを並行して進めていく。それでいいかな?」

 

 少しの吟味を経て首肯するクロウたち。異論は出なかった。

 では早速、と行動を開始する。向かう先は依頼書に書かれた地下水路の入り口。ホテルを後にして目的地に歩を進めるさなか、群衆の声に紛れたノイが『それにしても』と不意に零した。

 

『地下水路だなんて、帝都でトヴァルと会った時を思い出すの。あんなことがまた起きなければいいけど』

「あはは……流石にあんな不幸な偶然はそうそう起きないと思うけど」

 

 冗談めかしてそんなことを口にする姉貴分にトワは苦笑い。ほんの二か月前の実習の思い出話に懐かしい気分になりながらも、バリアハートにおける実習活動を開始するのだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「はぁー、すっごい綺麗な街ねえ。なんだか立派な身なりの人たちが一杯だし……」

「帝国でも一、二を争う大貴族のお膝元だからね。それより、あまりきょろきょろしないでよ。観光じゃなくて仕事で来ているんだから」

「はは、まあいいじゃないか。あまり肩ひじ張っても疲れちまうからな」

 

 一方そのころ、バリアハート駅にとある三人組が降り立っていたのだが――それはまだ、お互いに与り知らぬこと。

 二つの軌跡が、知らず知らずのうちに交錯しようとしていた。

 



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第37話 邂逅

軌跡シリーズの主人公は性格の方向性は違えど、基本的にはお人好しなことには変わりないので気が合いそうですよね。リィンとロイドも出会い方が悪かっただけで普通に話したら馬が合いそう。Ⅳではそんな二人の掛け合いにも期待したいところです。


 壮麗な街並みが広がるバリアハートの地下。地上のそれとは異なり、美しさなどとは縁のない排水路が張り巡らされた公都の見えない影の部分。間隔を置いて壁面に掛かった僅かな明かりのみの薄暗いそこで、手配魔獣を打ち倒したトワは亡骸を前に静かな祈りを捧ぐ。

 

「……なあ。どうしてお前は魔獣にまでそんなに心を尽くすんだ?」

 

 祈りを終えたトワにクロウが問う。魔獣をただの害獣ではなく、一個の命として扱う理由。前々から疑問に思っていたそれは、彼女との距離が近づいたからこそ聞けることだった。

 その答えは難しいものではないけれど、自身の真実へと繋がるもの。以前までなら言葉を濁してしまっていただろう。だが、今のトワなら躊躇うことなく口にすることが出来た。

 

「テラには当然、魔獣も住み着いているんだ。小さい頃からお父さんについてその生きる姿を見てきたのもそうだけど……やっぱり一番の理由は、生命(いのち)を感じるからだと思う」

 

 魔獣にも魔獣の生態系があって、自然の一部として彼らも生きている。それを幼いころから深く理解しているからこそ、という理由はクロウたちにも理解できる。けれど、その後に続く言葉には首を傾げるしかなかった。

 思った通りの反応にトワは淡い笑みを浮かべる。水音だけが響く閑静な地下水路であることもあってか、普段見えない彼女の内面が僅かながら顔を出したように三人の目に映った。

 

「感じは違うけど同じなんだ。息づく鼓動も、蝋燭の火みたいに消えて死ぬのも。だからかな。魔獣だからって、その死を蔑ろにするのは違うと思うの」

 

 人や動物、魔獣で感じ取れるものは区別できる。そうした表面的な差異はあれど、生命としての本質は変わらない。温かく輝きをもって今を生き、そして冷たく翳りやがて消えていく。

 それをトワは直感的に受け止めることが出来る。受け止めることが出来てしまう。特殊な感受性は彼女の認識に多大な影響をもたらし、結果として独特の死生観を形成するに至った。人の生活の為に魔獣に手をかけることは厭わずとも、その死を悼む理由はそこにあった。

 抽象的な話ではあるが、三人とも朧気ながらその意味するところを理解することはできた。それに伴って、アンゼリカはトワの特殊性の一つの起因に気付く。

 

「生命を感じる、か。では、君が気配を探るのに長けているのも……」

「うん、その応用みたいなものかな。アンちゃんからすればインチキみたいかもしれないけど」

 

 武術の達人でも困難なほどの広域における気配を感じ取れるトワ。それは気配ではなく、生命そのものを感じるからこそできる芸当だ。アンゼリカのように修練を積んでのものではないだけに、トワは自嘲的に笑んで頬を掻く。

 

「そんなことはない。トワのその力には何度も助けられている。今更になってインチキだなんて言ったら、女神から罰が当たろうというものさ」

「帝都の地下水路しかり、ザクセン鉄鉱山しかりだね。鉱山ではトワがいたからこそ助かった命もあったはずだ。誇りこそすれ、恥じる理由なんて無いと思うよ」

「そっか……うん、ありがとう」

 

 自身の力を厭い畏れる部分があるトワにとって、その言葉は何よりの救いだった。仲間からの温かい声を噛み締めるようにしながら感謝を口にする。やっぱり、皆と再び向き合うことが出来て良かったと改めて思いながら。

 その内心を察するが故か、ノイもどこかホッと安堵したような表情。彼女は咳払い一つしてそんな表情を真面目なものに切り替えると、場を仕切るように口を開いた。

 

「さっ、用事が済んだのならこんなところとはさっさとおさらばするの。いつまでも話し込んでいたら臭いがついちゃうの」

「長居する理由がないってのは道理だわな。そろそろ戻ってやる気のない領邦軍のところに報告しに行くとするかね」

 

 帰還を促すノイにクロウも同意する。その言葉が嫌味交じりになってしまうのは仕方のないことだろう。領邦軍の怠慢は否定できない事実である。

 クロイツェン領邦軍の性質についての問題は置いておくとして、まずはノイの言う通りに地下水路から出るとしよう。鍵を開けてきた駅前通り近くの入り口へと来た道を戻り始める。帝都のそれと異なり、バリアハートの方はそれほど広大ではないので迷う心配はない。

 

 感覚的には貴族街から中央広場まで戻ってきたあたりだろうか。そこでトワが不意に足を止めた。突然のことに不思議そうな顔で振り返ってくる仲間に、彼女は浮かない様子を見せる。

 

「……はあ、また面倒ごとの気配でも感じ取ったか?」

「うん……人が三人かな。鍵が開いているのを見て入り込んじゃったのかも」

 

 もはや慣れた様子で溜息つきつつ異常の如何を問うクロウ。それに少し申し訳なさそうにしながらトワが告げた内容は、とても無視できることではなかった。

 こんなところに自分たち以外の人が入り込んでくるのもそうだが、それが戦う術を持たない一般人だった場合は最悪だ。子供たちが遊んでいる最中に偶然鍵の開いた入り口を見つけて、という可能性もあり得る。早急に発見し、保護するのが望まれる事態だった。

 

「横着せずに鍵を閉めてくるべきだったか。まさか、あんな人目につかないところにわざわざ近寄ってくる輩がいるとは」

「言っても仕方ないよ。トワ、その三人の居場所は分かりそうかい?」

 

 トワは目を閉じてより集中し感覚の網を張り巡らせていく。地下水路を進んでくる人の気配を放つ三つの生命。直感的に感じ取るそれと進んできた地下水路の経路を照らし合わせ、漠然ながらも位置関係を描き出す。

 

「バラバラに動いているみたい。一人は入り口までの道筋を真っ直ぐ辿ればぶつかるけど、残りの二人は左右の脇道にそれぞれ別れてる」

 

 面倒な、とクロウがあからさまに顔を顰める。一塊に動いてくれていればいいものを、三人ともが別々ともなれば手間が増えてしまう。その手間が増えた分の時間の間に魔獣に襲われなどしたら目も当てられない。クロウに限らず、全員が表情を険しくするのも無理はなかった。

 こうなれば順々ではなく同時並行で保護にあたるしかない。幸い、地下水路の魔獣自体はトワたちにとって大した脅威ではない。戦力的な不安はないならば、分散して保護にあたった方が効率的だ。保護することを最優先にすると、それが一番だった。

 三手に別れるなら人選も大切になってくる。数秒の思案を経て、トワは指示を下す。

 

「右の脇道にはクロウ君とアンちゃんで。中央の道筋より視界が悪いから、万が一に備えて二人組でお願い。ジョルジュ君はそのまま入口の方に向かって。念のためノイもそっちの方に」

「それはいいけど……左はトワ一人で大丈夫なの?」

 

 心配そうな目を向けてくるノイを安心させるように微笑む。トワ自身、伊達や酔狂で単独行動を取ろうというわけではない。そこには自分の特性を考慮した理由がある。

 

「私なら暗闇でも近づいてくる魔獣が分かるし、悪環境には慣れているから。人の位置も分かるから手間取らずに保護できると思う」

「ふむ、理屈で考えれば確かにそうなるか。暗がりで二人きりになるならトワの方がよかったのだが……」

「野郎で悪うございました。へっ」

 

 五人しかいない以上、一人はどうしても単独で動かなければいけない。安全性と確実性が最も高い組み合わせがこれだったのだ。

 アンゼリカとクロウが冗談めかしてくれたおかげで、予期せぬ事態に対する緊張も幾許かほぐれる。わざとらしく拗ねていたクロウが「ま、とにかくだ」と不敵な笑みを浮かべた。

 

「酔っ払いかガキンチョか知らねえが、手っ取り早く保護して戻るとしようぜ。そろそろ腹も減ってきたことだしな」

 

 地上では今頃太陽が中天にかかる頃だろう。しばらくすれば腹の虫も鳴り始める時間帯である。手早くことを片付けたいというのは同感だ。その言葉を皮切りに、トワたちは手分けして入り込んでしまった三人の捜索を開始するのだった。

 

 

 

 

 

 先ほど歩いてきた道よりも明かりの心もとない脇道を進むトワ。視界の悪さに反して、彼女の足取りに迷いはない。感じる人の気配が明確な標となり、順調にその距離を縮めていく。

 別の道を行く他の二組も問題なく保護対象に近づいていくのをトワは知覚していた。ほっと人知れず息を吐く。想定外の事態ではあるけれど、どうにか危なげなく解決することが出来そうだ。間接的にといっても、自分たちのせいで怪我人が出てしまってはあまりに後味が悪い。

 

 とはいえ、まだまだ安心するには早い。気持ちを引き締めるようにトワはその手の刀を握りなおす。得物は鞘から抜いたままだ。彼女は自分の能力を信用していたが、過信はしていなかった。油断は禁物。万が一への備えとして戦闘態勢は解かないでいた。

 もうじき保護するべき人物の姿も見えてくるだろうか。すぐ近くにまで迫ってきた気配の出処を探し、周囲に目を配らせる。そうして注意深く進んだ先で彼女はようやくたどり着く。

 明かりは随分と昔に壊れてしまったのか。薄暗い地下水路の中でも、ぽっかりと暗闇に呑まれてしまったようなその空間。トワが追いかけてきた気配の持ち主はそこにいた。影に包まれて姿を窺うことはできないが、薄っすらと見える背中の輪郭はちゃんと自分の足で立っている。

 今度こそ安心したトワは影のもとに足を向ける。自身も暗闇の領域に足を踏み入れたところで、意図せず何かを蹴った感覚が爪先から伝わる。小石でもあったのだろう。水音に混じって硬いものが転がる音。それに気づいた影がこちらに振り返り――

 

 

 

 次の瞬間、トワの眼前に石突のようなものが急速に突き出された。

 

 

 

「っ!?」

 

 辛うじて首を動かしたトワの頬先を轟と風がなでる。流れるような横薙ぎを身を反らして躱し、そのまま後ろに一回転。なんとか体勢を立て直したところで追撃を受け流す。

 なぜ、どうして。頭の中で疑問と混乱が吹き荒れるも、迫りくる連撃が口を開くことを許さない。長物を扱う影の攻め手は緩まず、視界の通らない中でトワは微かな残影と風切る音を頼りに耐え凌ぐ。が、それで相手が止まる様子もない。

 

 埒が明かない。無理にでも止めさせる。

 受けから攻めへ。唐竹に振るわれた一撃を弾き、トワは猛然と飛び掛かるように斬りつける。受け止められるもそれは予測の上。身を翻しては苛烈に攻め立て、止め処ない動きで襲い来る斬撃に相手が怯む気配を見せる。

 攻防が移り変わり優勢はトワの手にある。だが、なんとか動きを封じようにも彼女はなかなか攻めきれずにいた。

 

(この棒術使い……堅い!)

 

 長物だが刃の類が窺えないことから、棒術の使い手であることは既に把握している。攻め手はまだまだ猶予をもって対応できたが、守りに入った相手を崩すのは難儀だ。揺さぶりをかけようと壁蹴りで背後を取ろうと、その長い得物を自在に操って展開される堅固な護り。並の腕前でないのは明らかであった。

 棒術使いも守りに徹するばかりではない。トワの一閃を防いだ流れで足払いを振るってくる。回避の頭越えの跳躍と共に放った攻撃も察知、防御。着地際のトワを逆撃が襲う。

 素早い身のこなしと剣捌きで反撃を打ち払いながらも、トワは内心で感嘆した。何者かは分からないが、ここまで守りが巧い使い手はなかなか見ない。祖父の教えを受けた中でも守りに関しては随一の父を想起させた。

 

 陥る膠着状態。一転攻勢を狙ってか、身を捩り力を籠める気配。大上段からの戦技。予期したトワは技の出を潰すカウンターの構え。全てが瞬時の間に成され、トワと棒術使いの戦技が正面からぶつかり合った。

 トワは暗闇故に技の出に合わし切れなかった。棒術使いも正確な打点を把握しきれていなかったのだろう。不完全に衝突した戦技は両者を等しく押し飛ばし、図らずも暗闇の領域から抜け出すことになる。

 仕切り直しか。反対側に押し出された棒術使いと互いに油断なく見据え――はた、とようやく姿を認識した二人は動きを止めた。

 

「「……女の子?」」

 

 異口同音、鏡合わせのように首を傾げ合う。

 茶色の髪をまとめたツインテール。鳶色の瞳。動きやすさを重視しながら女の子らしさもある服装。棒術使いがそんな姿をしているなど欠片も思っていなかったトワは唖然とし、相手もまた制服姿の小さな少女が相手とは思っていなかったのか。口を半開きにしてこちらを見つめている。

 あまりに想像の埒外であったために思考を停止する二人。彼女らが固まっている間にも、バタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。

 

「エステル! 今の戦闘音は……って、あれ?」

「あー、こいつはまた既視感のある状況というか……」

 

 棒術使いの仲間らしい黒髪の青年が緊迫した面持ちで駆けつけてくるも、目の前の状況に疑問が満ちる。続いて姿を現したクロウは頭痛がするかのように頭を押さえた。その後からジョルジュにアンゼリカ、見覚えのある金髪の男性も現れてトワは察することになる。

 どうやら、不幸な偶然というものは割と起こり得るものらしい。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「「ほんっとうにごめん!」なさい!」

 

 ところ変わって職人通り、宿酒場《アルエット》。その一席には向かい合って頭を下げあう二人の女子の姿が。意図せずして勃発してしまった地下水路での一戦。原因はまさに不幸な出来事と言う他にない偶然の積み重ねによるものだった。

 

「つまりトヴァルさんたちは僕たちとは別口で地下水路の魔獣を退治するよう依頼を受けていて、そこで誰かが中に入った痕跡を見て手分けして捜索していたわけですか」

「ああ。前からあそこの魔獣退治は遊撃士の仕事だったからな。撤退前にうっかり鍵をかけ忘れたのかと思って冷や冷やしたから、そうじゃなかったのは本当に良かったんだが……」

 

 ジョルジュの確認に頷くのは帝都実習以来の再会となる遊撃士トヴァル。彼らは彼らで魔獣退治に赴いたところ、鍵が開いていて複数人が入り込んだ形跡があるものだから一大事。トワたちと同じく、一般人が不用意に侵入してしまったことを念頭に捜索していたのだ。

 トヴァルはジョルジュと、黒髪の青年はクロウとアンゼリカと遭遇したのだが、そちらはすぐにお互いの誤解に気付きほどなく胸をなでおろす展開になっていた。トヴァルがトワたちと顔見知りであったことも状況の理解への助けとなった。

 では、トワと棒術使いの少女はどうして戦う羽目になってしまったのか。火蓋を切った側の少女は恥ずかし気に「たはは……」と頬を掻いて弁明を述べる。

 

「音がして振り返ったら、真っ暗闇に鋭い刃物みたいなのが光っていたもんだから。魔獣かと思って咄嗟に手が出ちゃったのよね。打ち合って人間とは分かったけど、動きについていくのが精一杯で全然余裕がなかったし……」

 

 トワが念のために出したままにしていた刀。その刀身が暗闇の中で放った僅かな反射光が、少女を自衛のための攻撃に駆り立てた切っ掛けであった。視界の利かない中で身の危険を感じればそうしてしまうのも無理はないだろう。

 

「うう……すみません。私がちゃんと鞘に納めておけば……」

 

 万が一の備えであったとはいえ、誤解の原因を作り出してしまったトワは自省するばかり。沈痛の面持ちとなる彼女に相手の少女が慌てたように口を挟む。

 

「そ、そんなことないって。あたしが落ち着いて対応していれば済んだ話でもあるわけだし」

「まあ、そうだね。どちらに非があるかと言えば、エステルのそそっかしさかな」

 

 隣の黒髪の青年からの一言に「うぐっ……」と痛手を受けた様子の少女。事実であるだけに反論も出来ない。そんな彼女を今度はトワが庇いたてる。

 

「いえ、遠くからでも声を掛けていれば問題なかったんですから、やっぱり私の方が悪いんです。本当にごめんなさい」

「い、いやいや! 先に手を出しちゃったあたしが悪いに決まっているじゃない! こっちこそ本当にごめん!」

 

 お互いに負い目があるものだから、どちらが悪いとも決めきれない。人の好い性格や責任感もこの場では悪い方向に影響する。終わりの見えない謝罪合戦が果てしなく続くかと思われた。

 

「えへへ……」

「あはは……」

 

 しかし、幸いにしてそうはならなかった。頭を下げあった先でチラリと相手を窺えば、ばったりぶつかり合う金色と鳶色の瞳たち。似た者同士のシンパシーと奇妙な可笑しさを感じて、二人の口元に笑みが浮かぶ。

 もうどちらが悪いとか話す気分でもなくなっていた。形ばかりの決着ではあるけれど、せめての妥協案を少女の方から口にする。

 

「じゃあ、お互いさまってことで……いいかな?」

「勿論。トールズ士官学院試験実習班、トワ・ハーシェルです。どうぞよろしくお願いします」

「リベール出身の正遊撃士、エステル・ブライトよ。こっちこそよろしく」

 

 差し伸ばした手で握手を交わす。喧嘩したり険悪な関係であったわけではないが、ややこしい出会い方をしてしまったせいでぎくしゃくしてしまっていたのが解消されたのはいいことだ。打ち解けた様子の二人に周りもホッと一息である。

 

「さて、と。まずは飯にするとしようぜ。腹が減ってはなんとやら、ってな」

 

 この場の年長者であるトヴァルの音頭にそういえばと気付く。勘違いが重なっての一悶着があったおかげで遅くなってしまい、トワに限らず全員がすっかり空腹になっていた。午後からも依頼をこなさなければならないのにこれはいけない。

 お互いに気になることはあるけれど、取りあえずは腹ごしらえである。リベールと帝国の料理の違いなどについてエステルと雑談しながらも、いつもより賑やかなランチタイムとするのだった。

 

 

 

 

 

「へえ~、士官学院の実習で……トワも滅茶苦茶強かったし、帝国の学生って凄いのね」

 

 腹も満たしてマスター自慢というエスプレッソをいただく食後の時間。改めての自己紹介だったり、お互いの事情について大まかながら話し合ったトワたち四人と二人組の遊撃士。一段落したところで、エステルの口から漏れたのは感心の声であった。

 

「うーん、あまり私たちを普通と考えられても困るけど……」

「確かに。各地への実習なんてやっているのは僕たちくらいだろうし、トワに至っては学生離れした実力もいいところだしね」

 

 一方、感心される側としてはちょっと困った笑み。褒められて嬉しい気持ちはあるが、これが一般的な帝国の学生と誤解されるのも忍びない。

 トワのことなどその最たるものだろう。質実剛健を旨とするだけに武術を修めた生徒が貴族を中心に多いのは確かであるものの、それを鎧袖一触ボコボコにするのが彼女である。ジョルジュが表情にやや呆れの色を見せるのも仕方なかった。

 それに自分たちなんてあまり大したことはないと思う。エステルたちに比べればまだまだ未熟ものだろうというのがトワたちの正直なところであった。

 

「つっても、俺たちはとどのつまり一介の学生だ。同じくらいの歳で正遊撃士として認められているあんたたちの方が大したもんだと思うがな。例の異変にも関わっていたんだろ?」

 

 エステル・ブライトにヨシュア・ブライト。両者ともに正遊撃士――駆け出しの準遊撃士を経て一人前と認められた立場にある。遊撃士になれるのは十六歳から。トワと同じ十七歳である彼女たちは、最年少でその資格を得た後に一年足らずで一人前と認められるに至ったのだ。トヴァル曰く、ギルド期待のホープというのも頷ける話である。

 加えて、リベールと言えば数か月前に発生した導力停止現象の件もまだ耳に新しい。帝国でも少なからず混乱が起きた大規模な異変、その解決の中心的な存在となったのは遊撃士たちであったと聞く。

 この若き支える籠手の担い手たちも、その一角として混乱の終息に寄与したのだろう。不思議とそんな確信がトワたちにはあった。

 

 片や未だ学生の身、片や就労して既に一端に認められた身。どちらが立派かなど論ずるまでもないだろうが、当の本人たちはあくまで謙虚であった。

 

「そんなことはないよ。あの異変にしたって、僕たちだけじゃ到底解決することなんてできなかった。王国軍にラッセル博士やZCFの人たち、それに帝国や共和国の人たちも……本当に色々な人の助けがあったからこそなんとかすることができたんだ」

「そうそう。それに遊撃士としても修行中もいいところだし。父さんやシグナさんに比べたら、まだまだひよっこみたいなもんよ」

 

 実感の籠った言葉であった。きっと話に聞くだけではわからない相当な苦難があったのだろう。第三者であるトワたちにその詳細は知る由もないけれど、これだけは理解できる。彼女たちは未曽有の国難に対し、多くの仲間と共に屈することなく立ち向かったのだと。

 それだけで十分敬意を表するに値するのだが、エステルなどは遊撃士として未だ道半ばと考えている様子。驕ることなく向上心旺盛なのは見習いたいところだが、例として挙げる人物が人物だけに先輩の立場であるトヴァルは引きつった笑み。

 

「はは……そう簡単にカシウスさんや先生の領域にまで行かれたら、俺の立つ瀬がないんだけどな」

「目指すはかの《剣聖》か。身近に傑物がいると、やはり目標も高くなるのかな」

「え? あっ、も、勿論トヴァルさんにもまだまだ及んでいないわよ! 経験もそうだし、アーツの腕前に至っては別格だし! 父さんの方はあくまで理想っていうか……」

 

 慌てて言い繕うエステルであるが、どうしても取って付けた感が否めないのは避けられないところ。なけなしのフォローが仇となってか、乾いた笑い声が哀愁を誘うトヴァルであった。

 もっとも、彼自身が後輩に対して先立ちとしての気概を示せればいいだけの話でもあるのだが。この場に破茶滅茶なシスターか銀髪の中年親父がいたら彼の尻を蹴りあげていたことだろう。小さく纏まろうとしているんじゃねえ、とか何とか言いながら。

 幸か不幸かこの場にはそのどちらもおらず、それとなく空気を読んだトワが話題を変えた。

 

「それはそうとエステルちゃんたち、伯父さんに会ってたんだね……何か変なこと言われなかった?」

「ああ、うん。セントアークで出迎えてくれたんだ。別に変なことは……うちの不良親父のことで恨み言を漏らされたくらいね。遊撃士辞めたせいでしわ寄せがきているとか」

 

 軽い気持ちで聞いた途端に湧いて出た不安だったが、どうやら案の定であったらしい。いくら先立ちといえど伯父の不躾な発言にトワは頭を抱える。

 

「……ごめんなさい。今度会ったらよく言っておくから」

「べ、別にそんな気にしなくていいわよ。父さんが不良中年なのは確かだし」

「父さんが王国軍に復帰したのは情勢的に仕方ない面もあったけど、ギルド本部にとってはかなり痛手だったようだしね。S級相当のシグナさんに負担がかかるのも避けられないんだろう。愚痴くらいは大目に見てあげていいんじゃないかな」

 

 当の本人たちは寛容にも気にしていないようだが、身内としてはそうもいかないのが辛いところ。この件に限るならまだいいとしても、それ以前から伯父が好き勝手なことを口にしてきたのをトワは耳にしているのだ。

 

「事あるごとに文句を零すだけならまだしも、お子さんにまでそんなことを言ってしまうと流石に申し訳なさすぎるというか……」

 

 エステルたちの父親、カシウス・ブライトとシグナの付き合いは十年来のものになる。当時、諸事情で王国軍を退役した後に遊撃士に転向したカシウスと、その時既に高位遊撃士の一角であったシグナが偶然仕事を共にする機会があったのが切っ掛けだと聞く。

 ほぼ同年代であり、王国軍でも智将と名高かった《剣聖》カシウスが瞬く間に高位遊撃士の仲間入りを果たしたことも、二人が距離を縮めることに繋がった。時折、仕事で遠出する機会を見繕っては顔を会わせ、揃って酒好きなものだから随分と意気投合したようだ。小さい頃に伯父が「面白い奴が入ってきた」と上機嫌で話していた姿をトワはよく覚えている。

 

 それだけならよかったものを、彼らは所謂悪友というものだった。実力を見込んだ本部からの依頼を押し付け合う。弟子を賭け事の対象にする。不良中年と真っ先に自分に返ってくるような言葉で愚痴を吐く。父と揃って苦い笑みを浮かべたのは数知れない。

 身内の恥をさらすようだが、そんな経緯があるがために姪としては頭を下げずにはいられないのだ。そんなトワにエステルは物凄く親近感のある目を向ける。

 

「でも、父さんも似たようなものよ。シグナさんに仕事を押し付けてやったから家にいられるぞー、とか得意げに言っていたし。面倒くさい立場(S級)を擦り付けられたとか文句も言っていたし。自分の父親ながら大人気ないわよね」

「あ、それ凄い分かるかも。尊敬できる人なのは確かなんだけど、どこかだらしないというかいい加減なところがあるから素直な目で見れないというか」

「あるある。色々な人から父さんの凄い話を聞くこともあるけど、いまだにピンとこないのよねぇ」

 

 どうやら実情はブライト家も似たようなものだったらしい。お互いに父と伯父の印象を語ればそれがピタリと一致するものだから、親近感もますます強まるというものである。

 一方、先ほどまで目標として語られていた人物たちがこっ酷く扱き下ろされる様に周囲としては乾いた笑みを浮かべるばかりである。いったい高位遊撃士とはなんだったのか。娘と姪からの散々な言われように同情の念さえ湧いてくる。トヴァルに至っては頬を引き攣らせていた。

 そんな周りを気にした素振りもなく話し込むトワとエステルは、傍目から見ても馬が合う様子。出会ってから数時間。同い年だから、と敬語を取り払ったのもほんの少し前だというのに、もう何年も前からの旧友のように窺えた。

 

「随分と仲がいいこった。お宅の姉貴はいつもこんな感じなのか?」

「エステルは大概誰とでも仲良くなるけど、これだけ気が合うのは珍しいかな。身内のことに限らず、どこかしら共感する部分があったのかもしれないね」

 

 盛り上がる二人を他所に、声を落としたクロウがヨシュアに聞けばそのような答えが返ってくる。なるほどねぇ、と呟きながら視線を二人の方へ。話は移り変わり、お互いに生徒会や遊撃士の仕事について話し合っているようで、なんとも性格の透けて見える会話であった。

 

「明朗快活、朗らかで」

「基本的に人を疑うことを知らず」

「呆れるほど底抜けのお人好し」

「はは……なるほど、気が合うのも当然ということか」

 

 トワとエステルの性格を言い合わせてみれば、これまたピタリと意見が一致する。クロウとアンゼリカはニヤリと口角を上げ、ジョルジュとヨシュアもつられて笑みを浮かべた。

 きっと根っこの部分で似た者同士なのだろう。表面的なところや与える印象に多少の違いこそあれ、その心持ちや感性といった深いところでは通じ合うところがあるのは想像に難くない。頭抜けたお人好し具合などその最たるものだろう。

 

 悪いことではない。しかしながら、ほんの少し前まで愚痴を言い合っていた伯父と父のように、自分たちもまた意気投合していることには気付いているのだろうか。それがどうにも可笑しくて温かい目を向けてしまう。

 当然、それに気付かない二人ではない。ぬるま湯のような視線に対して戸惑いの声をあげる。

 

「ちょ、ちょっと。何よ、その生温かーい目は」

「とんでもない。うちのトワと仲良くしてくれて嬉しい限りと話していただけだよ」

「そうそう。気が合うようで何よりってな」

 

 怫然とした表情で問うてくるエステルを煙に巻くアンゼリカとクロウ。あながち嘘を言っているわけでもないので性質が悪い。口が達者なこの二人に対してエステルでは相手が悪かった。

 

「うーん、それにしては何か含みがあるような……あ、ヨシュア君はごめんね。ついエステルちゃんとばかり話しこんじゃって」

「いや、全然。僕もクロウたちと話せて楽しかったからね」

「はは、そう言ってくれると光栄かな」

 

 トワはトワでそこはかとなく察するところはあったようだが、深く気にするほどのことではなかったらしい。むしろ放っておく形になってしまったヨシュアに対して気遣いの念を見せる。彼は彼で、今までにないタイプの人たちと関わることが出来たので全く構わなかったのだが。

 お互いのことに始まり、身内のだらしなさ加減や取り留めのないお喋りなど。食後のちょっとした歓談のつもりが随分と盛り上がってしまった。ほぼ同年代と言うこともあるが、これも偏にトワとエステルの気が合ってのことだろう。

 

 そんな意図せぬ盛り上がりも、残念ながらいつまでも続けているわけにはいかない。学生にしても遊撃士にしても、それぞれにやるべきことがある以上は楽しい時間を切り上げなければならないのだ。

 

「あー、コホン。お楽しみのところ悪いが、そろそろいい時間なんでな。仕事の話に切り替えていくとしようぜ」

 

 そこのところの区切りを入れる役目が年長者であるトヴァルに回ってくるのは仕方のないことだろう。若者同士の話に割って入れる隙間が無くて寂しかったわけではない。大人としての立場を全うしただけである。そういうことにしておいてほしい。

 彼の言葉に盛り上がっていた面々も「それもそうか」と居住まいを正す。ここのところの切り替えはトワたちにしてもエステルたちにしてもしっかりしている。

 普段ならば午後の段取りを話すところだが、今回に関してはお互いに詰めておかなければいけないことがある。先刻、バッティングしてしまった地下水路の魔獣退治についてだ。

 

「こっちとしちゃ結局、仕事が先取られる形になっちまったからな。かといって今後も領邦軍が定期的な駆除をしてくれるとも思えんし……」

「そこのところの対応を話し合う必要がある、ということですね」

 

 今回に関しては、領邦軍から依頼を受けたトワたちが先立って魔獣を退治していたためトヴァルたち遊撃士は無駄足になってしまった。それはいい。問題は、これ以降の地下水路に湧く魔獣への対応をどうするかということである。

 試験実習で訪れた四人は当然ながら常にバリアハートにいるわけではない。継続的な視点からして、領邦軍は今後の魔獣対策についてどのように考えているのか。それが分からなければまた同じ轍を踏みかねない。遊撃士も人手が足りない以上、それは避けたい事態だった。

 

「領邦軍の駐屯地があるのは貴族街の方だったか。遊撃士の僕たちだけじゃ相手をしてもらえるか怪しいところだけど」

「その辺は俺たちも報告がてらについていけば大丈夫だろ。いざとなりゃ、現地責任者の貴公子様の名前を出せば向こうも嫌とは言えないだろうさ」

「確かに、公爵家の名前はこの街では絶対的だからね。大船に乗ったつもりでいけばいいさ」

 

 遊撃士協会の支部が帝都以外でも軒並み撤退を強いられていることから、貴族も大勢としては遊撃士を邪険に扱っているのは間違いない。彼らだけで領邦軍を訪ねたとしても、いいところ話半分に聞かれるか、悪くて門前払いにされることだろう。

 だが、今回は幸いにして強力なバックを持ったトワたちがいる。領邦軍自ら依頼を出したからには話を聞かないわけにもいかず、相手の背後に自分たちの仕える主君の跡取りがいるとなれば蔑ろにするなど以ての外。嫌でも話し合いの場には持っていけるはずだ。

 

「助かる。面倒をかけて悪いな」

「いえ、これくらいは。トヴァルさんには僕たちも帝都でお世話になりましたし」

 

 どの道、領邦軍のところには依頼完了の報告をしに行かなければいけないのだ。そのついでに口利きをするくらいどうってことではない。以前の実習ではお世話にもなった身。困ったときには助け合いをするのが道理というものだろう。

 

「じゃあトワ、もう少し一緒によろしくね」

「うん、こっちこそよろしく。そうだ、よかったらエステルちゃんたちも晩御飯一緒に食べる?」

「あっ、いいわねそれ。今日の仕事終わったら連絡取りましょ」

 

 ということで、もうしばし同行することになったトワたちと遊撃士たち。意気投合した二人は気の早いことに夕食の段取りをしている。仲がよろしいようで大変結構である。

 何はともあれ、そうと決まれば行動あるのみだ。勘定を済ませて宿酒場を後にした彼女たちは、職人通りから一路貴族街へ。目指す先は領邦軍の駐屯地である。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 その数十分後、友誼を結んだトワとエステルは何の因果か再び武具を構えていた。その面持ちは緊張に染まり、ほんの少し前の和やかな雰囲気の名残など欠片もない。

 地下水路の時と異なり、二人は向き合うのではなく並び立っていた。そして切っ先を向ける先には大剣を携えて悠然と佇む一人の剣士が。剣を下ろした棒立ちのように見えて、その実まったく隙のない姿にトワとエステルは冷や汗を流す。

 

「……ふむ、力量を見抜く眼力は備わっているか。惑わずに己の戦い方を崩さぬのもよい。カシウス卿とシグナ卿の教えは確かなようだ」

 

 その剣士はまさに超越的だった。

 立ち姿だけでも分かる。自分たちではまるで比肩することが出来ない武威、幾年もの研鑽と鍛錬が生み出す圧倒的な闘気。一挙手一投足に空気が震え、剣気が向けられる先の二人に押しつぶされるような気当たりが襲い来る。

 彼は感心したように一つ頷くとその手の大剣を持ち上げた。

 

「ならば、こちらから仕掛けさせてもらうとしよう……アルゼイド流筆頭伝承者、ヴィクター・S・アルゼイド、参る!」

 

 領邦軍の駐屯地、その練兵場に名を響かせ彼は地を蹴り剣を振り上げる。帝国の武の世界にその名を響かせる《光の剣匠》、理の領域の使い手がトワたちに牙を剥いた。

 

 ――どうしてこうなった!?

 

 声にならない悲鳴を今は飲み込む。それを叫んだところで意味はない。

 立ちはだかる強大すぎる壁に対してせめて食らいつくべく、トワとエステルは最高峰の武人に全身全霊をもってぶつかっていった。

 



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第38話 力の意義

モンハンやってたら投稿が遅れてしまいましたぜ……時間泥棒なゲームは自分で区切りをつけないといけないから自制心が試されますな。


 トワとエステルが《光の剣匠》という埒外の達人と手合わせする羽目になる少し前。彼女たちは予定通り、今後の地下水路の魔獣対策について話し合うために領邦軍の駐屯地を訪れていた。

 応対するのは立哨の兵士。まずは依頼完了の胸を告げ、そして本題である遊撃士たちの要件について説明する。それに対する相手の反応は案の定渋い顔。遊撃士風情に時間を割いていられるか。言葉にせずとも十分に雰囲気は伝わってきた。

 

「生憎だが、隊長はお忙しくされている。貴様らが面通り願えるほど暇ではない」

 

 口から出てきた言葉にしても大差はなかった。王国軍と良好な関係を築いているというリベールでは、これほど邪険にされたことはなかったのだろう。エステルがムカッときたように顔を顰める。

 こんなこともあろうかと同行してきたのがトワたちである。その中でも口が達者な二人がずいと前に出た。

 

「あれま、それは残念。せっかく今後の街の安全に繋がると思ってきたんですけどねぇ」

「お忙しいとあれば仕方がない。実習の報告がてら、ルーファスさんにお伝えしておくとしよう。ああ、うちのノルティア領邦軍とそちらについての意見も交換しておきたいね」

 

 わざとらしさが透けて見える口調でそんなことを嘯くクロウとアンゼリカ。こんな時ばかり息が合う二人の掛け合いに、兵士は「ま、待て!」と狼狽の色を見せる。

 

「る、ルーファス様にお伝えするだと!? それにノルティア領邦軍とは……」

「これは申し遅れた。アンゼリカ・ログナー、侯爵家の不肖の一人娘さ。以後、見知りおきを」

 

 ただの風変わりな学生かと思っていたら、その正体が四大名門の一角の息女だと誰が思うだろうか。あまりにも想定外な人物の登場に哀れ平々凡々な一兵士は口をパクパクさせるばかり。そんな彼に情け容赦することなく、アンゼリカはさらに畳みかける。

 

「ルーレは市内にRFの設備が多数あるからね。魔獣の侵入にも特に気を遣っているんだ。勿論、アルバレア公爵家のお膝元であるバリアハートが杜撰な対策をしているとも思わないが……ねえ?」

 

 そこまで言われて意図が通じないほど兵士は愚鈍ではない。口を開け閉めしていた様子から一転、頬が引き攣るほどに歯を食いしばり忌々しげな目をクロウとアンゼリカに――彼女の方には控えめだったが――向ける。

 遊撃士を通さないべきか、通すべきか。その損得を勘定にかけ、揺れる天秤に葛藤しているのだろう。だが実のところ、重石は一方に偏っている。彼は選ばざるを得ない選択肢を取るほかになかった。

 

「~~っ! 隊長は練兵場にいらっしゃる。用があるのならば、さっさと済ませてくるがいい!」

 

 甚だ不本意といった感情が滲み出ているものの、脇に避けて道を開ける兵士。その横を「どーもどーも」とか「お勤めご苦労様」だとか声を掛けて敷地内に入っていく二人。わざわざ神経を逆撫ですることもないだろうに。頬をひくつかせる兵士に申し訳程度の一礼をし、トワたちもまたその後に続く。

 

「えげつなぁ……でも、アンゼリカって本当に偉い貴族様だったのね。名乗っただけで効果抜群だったじゃない」

「あまり好きな手段ではないがね。ああいう手合いに効くのは確かさ」

 

 門からしばらく歩いたところでエステルが苦笑い気味に感心する。その言葉には意外という気持ちが籠っていた。トワたちとアンゼリカのやり取りを見ていれば、そう思うのもさもありなん。対して本人は肩を竦めるに留めた。

 アンゼリカはアンゼリカなりに貴族としての誇りを持っている。家名を笠に着て権力を振りかざすのは彼女の嫌うところだ。だが、それが有効な相手がいることも事実。必要ならばログナーの名を使うことに否やはない。ルーレの実習を経て、自分の貴族としての在り方を見つめなおした彼女が得た柔軟性といえるだろう。

 

 その心中までも知る由はないエステルは「そっか」と相槌を打つ。どこか現実味がない面持ちだった。気持ちはヨシュアも同じだったのか、少し戸惑いが混じった様子で口を開く。

 

「知識で知ってはいたけど、これほど貴族の影響力が強いなんてね。正直、軽く見積もっていたところがあるのは否定できないな」

「リベールから来たお前さんたちにとっちゃ、身分制度なんてカビの生えたものに思えるのも無理はないだろうがな。実際は馬鹿にならねえものだぜ。貴族がその気になりゃ、一平民なんてどうとでもなる存在だ」

「地方行政も殆どが貴族の管轄だしね……リベールはだいぶ昔に貴族制は廃止されたんだっけ?」

 

 どうやら二人は改めてエレボニア帝国における貴族の力の大きさを実感している様子。馴染みがないのも仕方のないことだろう。リベールではとうの昔に身分制度は廃止されているのだから。それを思い出したようにトワが問えば、ヨシュアが頷きを返した。

 

「中世から近世にかけてそうなったみたいだね。各地方都市の市長も、市民による選挙で選ばれることになっているよ」

「元貴族の家系の名士なんてのもいるけど、特別な地位にいるわけでもないしね。本当に特権的な人たちといったら、それこそ王室の人くらいなものよ」

 

 なるほど、とその説明に理解を示す。近世になる頃には既に身分制度が撤廃されていたとなれば、やはりリベールの人々にとって貴族の権威は想像しにくいもののようだ。王政が敷かれているといっても、選挙制度が整っているため地方行政からして市民が参画していることも一つの要因なのかもしれない。

 それに比して帝国が旧態依然の制度であるのは否定できない事実だろう。近年では鉄血宰相を中心とした革新派が台頭しているといっても、それは帝都や一部の行政区画においてのみ。バリアハートをはじめとした各州では依然として貴族が歴然とした力を有している。

 その良し悪しはここで語るべきことではないが、他国の人からの感触を知ることでトワたちとしても自国の現状を再認識した心地だ。特にアンゼリカは自身の立場故か思うところがあるようだった。

 

「貴族も権力だけが与えられているわけじゃない。それに伴う責任も当然ながら果たさなければならないはずなんだが……昨今では横柄さばかりが目立つのも否定できないね」

「アン……」

 

 貴族の義務(ノブレス・オブリージュ)と謳われるように、貴族には貴族だからこそ為さなければならないことがあるものだった。しかし、それは今や形骸化して久しい。残された権力を当然のものと捉えて横暴を働く貴族がいることも事実。アンゼリカの憂慮にエステルたちも難しい現状を朧気ながら理解したのだろう。揃って難しい顔になってしまう。

 

「まあ、そう悲観的に考えることもないだろ。貴族の中にも領民に慕われる立派な方はいる。サザーラント州のハイアームズ候なんかは、非公式ながら遊撃士協会の活動継続を黙認してくださっているしな」

 

 陰鬱な空気を払拭するかのように明るい声を出すトヴァル。その口から語られた内容に、ジョルジュが「えっ」と若干の驚きを露わにする。

 

「そうなんですか? 協会支部は殆どが閉鎖されたんじゃ……」

「表向きは支部を閉鎖したことに変わりないが、仮の拠点としてアパルトメントの一室を使わせてもらっているんだ。ハイアームズ候は遊撃士の活動に理解があるし、ある程度の便宜も図ってくれて大分助かっているよ」

 

 帝都だけでなく地方も、特に四大名門が治める州都では遊撃士が悉く排除されてしまったと思っていたが、実のところそうとは限らなかったらしい。陰ながら遊撃士に対して理解を示してくれる貴族がいることも知り、トワたちとしても胸が温かくなる思いだ。

 なにも貴族に悪いところしかないわけではない。現状、問題が多いのは確かであるけれど、アンゼリカのように自分なりの誇りを持っているものもいればハイアームズ候のようなものもいる。それも間違いではないし、忘れていいことではないだろう。

 

「ハイアームズ候は四大名門の中でも穏健派だからね。そこのところは柔軟性があるのだろう。やれやれ、我が頑固親父にも少しは見習ってほしいものだ」

「あはは……確かにアンちゃんのお父さん、頭が固そうではあるけれど」

「でも、そうした人に僕たち遊撃士の意義を分かってもらえるようにしていくのも、これからの帝国における活動で大事になってくるのかもしれない。一朝一夕で実現できることではないだろうけど、まずは理解あるところで地道にやっていくのが第一かな」

 

 帝国における遊撃士の立場は苦しいものだ。だが、そのまま状況に甘んじるのを良しとするほど彼らも柔ではない。理解ある人もいるのならば、その輪を広げていける可能性も皆無ではないはず。そのためにも草の根的に動いていくのが肝要だとヨシュアは言う。

 トヴァルも同意見のようだった。うむ、と頷いて言葉を引き継ぐ。

 

「政府のせいでと腐らずに動き続けることが大事ってことだ。幸い、ここから少し南に行った方にも支部は残っている。当面はそこで……っと、話し込んでいるうちに着いたみたいだな」

 

 今後の彼らの具体的な方針について触れかけたところで、耳に届いてきた訓練の音に話を中断させる。どうやらお目当ての隊長がいるらしき練兵場が近付いてきたようだ。

 剣術か或いは銃剣術の訓練でもしているのだろうか。剣と剣が打ち合う残響が絶え間なく木霊する。領邦軍の性質が如何様なものであれ、その練度自体は決して正規軍に劣るものではない。響く激しい剣戟の音に常からの積み重ねが感じられた。

 駐屯地内でも特に広いスペース。装甲車の格納も兼ねているらしいそこに足を踏み入れれば、訓練に汗を流す兵士たちの姿が見えてくる。剣術――正確には軍刀術の指南を受けているようだ。指南役と思しき蒼い髪の男性が静かながらもよく響く声で指示を出す。

 

「型に沿って剣を振るうのではない。型の理合を常に意識するがよい」

 

 「はっ!」と打てば響くような声。装いを見る限り軍人ではないようだが、随分と敬意を集めているらしい。兵士たちの返答に淀みは全くといっていいほど無かった。

 そんな男性の姿を認めて、アンゼリカとトヴァルが「おや」と反応を見せる。

 

「知り合い?」

「ああ。以前に少しね」

「噂をすれば、という奴だな。用件ついでにご挨拶申し上げるか」

 

 トワが首を傾げながら問いかければ、そのように二人は笑みを浮かべる。どうやら悪い出会いではないようだ。目当ての隊長も男性のすぐそばに控えている。訓練の邪魔にならないよう配慮しつつ、彼らの方へと近付いていく。

 練兵場にさして視界を遮るものはない。すぐに部外者の姿に気付いた蒼髪の男性は、怪訝な表情を浮かべる隊長を他所に見知った顔を認めて頬を緩めた。

 

「これはトヴァル殿。斯様なところで顔を会わせるとは、奇遇なこともあるものだ」

「はは、仰る通りで。お久し振りです、子爵閣下」

「して、そちらの者たちは……」

 

 トヴァルと挨拶を交わし、子爵閣下と呼ばれた彼は後ろのトワたちへと目を向ける。まずは面識があるアンゼリカが一歩前に出た。

 

「ご無沙汰しております、アルゼイド子爵。覚えておいででしょうか?」

「無論だとも。久しいな、アンゼリカ嬢。風の噂では泰斗の業を修めたと聞き及んでいるが……」

「ええ。あなたに指南いただいた剣をはじめ色々と手を出してきましたが、結局はこの拳一つに落ち着きまして。せっかく教えを受けたのに申し訳ない」

「何。己に馴染む武術を見つけられたのなら、むしろ喜ばしく思うところ。そなたはそなたなりの武の道を歩んでいくとよかろう」

 

 アンゼリカが言葉を交わす様子を見ながら、トワたちは少しばかり驚きを覚えていた。彼女がこうも純粋な敬意を示すというのも珍しい。話を聞くに、過去に師事した間柄の様子。以前に話してくれた泰斗流の師匠と出会う前のことだろうか。

 

「ふむ……察するに、アンゼリカ嬢の学友にトヴァル殿の同僚といったところか」

 

 そうこう考えているうちに男性はトワたちへ声を掛けてくる。その威風堂々とした佇まいに、自然と畏まって居住まいを正す。

 

「初めまして。トールズ士官学院一年、トワ・ハーシェルと申します」

「リベール出身の遊撃士、エステル・ブライトです。どうぞよろしく」

 

 各々丁重に――クロウはやはり軽いものの――名乗り、簡単ながらも自己紹介とする。それを聞き届けた男性が、トワとエステルの名を耳にしたところで僅かに驚きの色を見せたのは気のせいだろうか。少し目を見開いたように窺えた。

 そんな感情の揺らぎが見えたのも一瞬のこと。見間違いかと思うほどに泰然とした様相に立ち戻った男性が、今度は彼の方から名乗りを上げる。

 

「クロイツェン州が南方レグラムの領主、ヴィクター・S・アルゼイドという。よろしく頼む、士官学院の諸君。そして若き遊撃士よ」

 

 その名には聞き覚えがあった。どこでだったか、と思い返す間にヨシュアがはっと息をのむ。

 

「あなたが……名高き《光の剣匠》にお会いできて光栄です」

「《光の剣匠》?」

 

 ピンとこない様子のエステル。トワも右に同じくだ。そんな彼女らにヨシュアは言葉を続けた。

 

「ヴァンダール流と双璧を成す二大流派の一つ、アルゼイド流の宗家現当主である方だよ。帝国の武の世界でも五指に入る達人中の達人だ」

「正規軍、領邦軍の双方で武術指南役も務めていらっしゃる。その縁で私も一度、剣の扱いをご教授いただいた」

 

 アンゼリカの捕捉もあってなるほどと頷く。そして、やはり彼女はお転婆であるとも。どうせ無断で領邦軍の訓練に紛れ込んでいたのだろう。そんな型破りな侯爵息女でも指南をするあたり、アルゼイド子爵も大物である。

 帝国中でも著名な武門の頂に立つ人物。おそらくは理に通じる領域の使い手だろう。その身が放つただならぬ雰囲気にも納得がいく。

 だが、そんな人がどうしてトヴァルとも知り合いなのか。その疑問はすぐに氷解した。

 

「さっき言いかけたが、子爵閣下が治めるレグラムにも遊撃士協会の支部が残っているんだ。しばらくお世話になる身なんでな。失礼のないように」

「ちょ、ちょっとトヴァルさん! そういうことは早く言ってちょうだいって……!」

「ふふ、そう畏まることもなかろう。私自身、遊撃士の理念に共感するところがあってのこと。領民の助けにもなってもらっている以上、過度の礼節は無用というものだ」

 

 焦るエステルを至って平静に落ち着かせるアルゼイド子爵。揶揄われたと気付いたのだろう。トヴァルに恨みがましい目を向けるが、返ってきたのは道化るようなウィンクであった。仕方のない人だ。

 それはそれとして、話せば話すほどに大きく感じられる方である。子爵位の領主貴族であること、《光の剣匠》の異名を有する剣の達人であることのみではない。人としての大きさ、懐の深さをトワはアルゼイド子爵から感じ取った。

 そして、時を同じくして聞き覚えの理由にも思い当たる。遊撃士に縁があるとなれば、そこから自身へと繋がる道筋は単純明快。そっか、とトワは手を打った。

 

「もしかしてシグナ伯父さんの言っていたヴィクターさんですか? 随分と昔からお友達だという」

「お前、それは気安すぎるだろ……」

 

 伯父が口にする友人の話、その中でも古い付き合いの人物に思い当って問いかける。躊躇いもなくファーストネームで呼ぶトワに、さしものクロウも表情を曇らせた。

 

「構うまい。そなたが言う通り、シグナ卿とは二十年来の仲。得難き剣友の縁者となれば、私としても近しく感じるもの。そなたとの出会いを嬉しく思うぞ、トワよ」

 

 ところが、返ってきたのは柔らかい笑み。推測は当たっていたようだ。顔の広い伯父の友人の一人、若かりし頃より剣の腕を比べ切磋琢磨してきた『ヴィクターさん』とはアルゼイド子爵その人であった。

 共に帝国有数の剣の使い手として称される身だが、その付き合いは大成する以前よりのものと聞く。片や天才的剣の腕前と評される遊撃士、片や二大流派の一つアルゼイド流の後継者。性格も立場も全く異なるが、一度剣を交わせば打ち解けるのはすぐだったという。今でも機会があれば手合わせをするのだとか。

 そんな思わぬ繋がりに既知のトヴァル以外は驚くばかり。また、この場における人物との縁はそれだけではなかった。

 

「エステル、ヨシュア。そなたらとの父君、カシウス卿とも以前に顔を会わせたことがある。王国軍に復帰したと聞き及んでいるが、変わらず壮健であられるか?」

「父さんとも? 元気といえば元気だけど、どうしてまた」

 

 まさか自分たちの身内も知り合いだったとは思わず、エステルとヨシュアは目を瞬かせる。驚く姉弟にアルゼイド子爵は訳を明かした。

 

「先の猟兵による帝国ギルドの襲撃。その折に指揮を執ったカシウス卿に、一支部を領に有するものとして私も力添えさせてもらった。尤も、彼の手腕を以てすれば不要であったかもしれないが」

「いやいや、そんなことはありません。子爵閣下のご協力があったからこそカシウスさんも早期に解決してリベールに戻ることが出来たんですから」

「なるほど……父さんがあそこで何とか間に合ったのもそういうことがあったからか。知らないところで助けてもらっていたみたいです。ありがとうございました」

 

 遊撃士協会が活動を制限される切っ掛けになった襲撃事件。レマン本部に出向き留守にしていたシグナに代わりカシウスが指揮を執ったとは聞いていたが、それだけでなく強力な協力者もいたようだ。

 トワたちには事情はよく分からないが、恩義を感じることがあってか頭を下げるヨシュア。それにアルゼイド子爵は「気にすることはない」と応じる。領民が脅かされる事態であった以上、協力するのは領主として当然のことだと。まったくもって出来た人である。

 

「《星伐》の姪御に《剣聖》の子ら――その双方に見えようとは。ふふ、この出会いを女神に感謝せねばな」

 

 アルゼイド子爵は知らない仲ではない人物たちの縁者と出会えて機嫌がいい様子。笑みを漏らす彼にトワもなんだか嬉しくなる。こういう時は顔の広い伯父に感謝したい。

 ところで、ここは領邦軍駐屯地の練兵場。用件があって出向いたところで思わぬ出会いに恵まれたが、本来の目当ての人物はほったらかしにされている。いい加減にしびれを切らしたのか、横で黙っていた隊長が大きく咳払いをした。

 

「うおっほん! どうやら子爵殿の知り合いであるようだが……この場に何用だ、遊撃士。訓練の邪魔をしに来たのならば即刻退去するがいい」

「おっと、こいつは失礼」

 

 ついつい話し込んでしまったが、肝心の地下水路の魔獣の件を忘れてしまってはいけない。遅ればせながらも自分たちの用件を伝えると、目に見えて厄介そうな表情を浮かべる隊長。

 これはまた公爵家の威光を借りるしかないか。そう思ったところで、今回は横合いから助けの手が入った。

 

「地下の魔獣か……街に出てくる可能性は低かろうとも、民には不安に思うものもいよう。隊長殿、ここは確と協議したうえで対応策を練るのがよいと思うが」

「は……し、しかし……いえ、承知しました」

 

 アルゼイド子爵はあくまで指南役、軍属ではない。だが、《光の剣匠》の名は決して無視できるほど安くないのも、また確かだ。彼の言葉に隊長は反駁を口に仕掛けたが、結局はそれを音に出すことなく承服する。指南役からの不興か煩わしいだけの手間、どちらを取るべきかなど分かり切ったことだったのだろう。

 

「そんじゃ、ちょっと話を詰めてくるよ。子爵閣下のお邪魔にならないよう待っていてくれ」

 

 兵士が鍛錬に励む練兵場では話し合いに適さない。トヴァルと隊長は別室で仔細を詰めることにして一先ずこの場を後にした。あまりぞろぞろと付いていっても仕方がないので、トワたちは勿論エステルとヨシュアもその背を見送った。

 

「うーん、なんだか子爵さんに助けてもらう形になっちゃったわね。色々とありがとう」

「なに、私の言葉一つで民の安寧に繋がるのならば安いものだ」

 

 言葉添えしてもらったことに感謝するも、つくづくアルゼイド子爵は驕りとは無縁のようである。実際、大したことをしたつもりもないのだろう。

 トヴァルが戻ってくるまで待機となったことで、なんとなしに兵士たちが訓練する様を見学することになる。ただの型稽古といえど大勢の兵士が一様に剣を振るう風景は壮観の一言。同時に、正規軍、領邦軍を問わず多くのものに指南を授ける《光の剣匠》の偉大さも肌で感じるというものだ。

 

「これだけ多くの軍人がアルゼイド流の教えを受けているのか……流石は帝国を代表する二大流派だな」

「この武技が数多に認められている所産となれば光栄なことだ。尤も、私が軍で指南をしているのはアルゼイド流そのものではなく、それを取り入れた百式軍刀術であるが」

「百式軍刀術?」

 

 感心するジョルジュに応じたアルゼイド子爵から出た言葉。覚えのないそれに首を傾げる面々に答えたのはアンゼリカであった。

 

「アルゼイド流とヴァンダール流、その双方より合わせて百の型を取り入れて作られた軍式剣術さ。私が以前に教えていただいたのもこれになる」

「なるほど。軍事色を強めたより実践的な剣術というわけか」

 

 多くの優秀な剣士を輩出してきた二大流派であるが、それを修めたからといって優秀な兵士になるかといえばそうとは限らない。剣術はあくまで個の力。それに修めるには膨大な研鑽が、極めるとなれば才覚も必要となる。多くが凡庸である兵士にそれをそのまま当て嵌めるのは適さない。

 その結果、生み出されたのが百式軍刀術。二大流派よりそれぞれ五十、合わせて百の型を組み合わせて作り上げられた軍の剣術。それは剣の道を究めるものではないのかもしれない。だが、多くの兵が戦う術を学ぶものとしては優れているのだろう。

 話が一段落したところでさて、と区切りを入れる。随分と話し込んでしまったが、アルゼイド子爵は見ての通り指南の最中。これ以上相手をしてもらっては悪い。

 

「あまりお邪魔になったら悪いし、私たちは脇の方に避けておこうか」

「そうね。百式軍刀術っていうのも見ていて勉強になりそうだし、ここは大人しく見学するとしますか」

「ふむ、それもよかろうが……そなたらに少し頼めるだろうか」

 

 アルゼイド子爵からの突然の申し出を不思議に思う。彼ほどの人物が、自分たちに何を頼むというのだろうかと。

 無論、断つもりはない。先ほどは口添えしてもらった身、並大抵のことであれば二つ返事で引き受ける腹積もりであった。

 

「何でもいいわよ。父さんがお世話になった分も含めて、どんと任せて!」

 

 だからエステルが安請け合いしても止める者はいなかった。相手が無茶なことを言ってくるような人物ではないだろうと高を括っていた部分もある。それが思いもよらぬ事態を招くとも知らずに。

 

「ありがたい。では――」

 

 止め、とアルゼイド子爵は静かに声を響かせた。指南役の言葉に従いつつも何事かと目を向けてくる兵士たち。数多の視線を前に、彼が口にしたのは予想だけにしないものだった。

 

「これより私とこちらのトワ・ハーシェル嬢、並びにエステル・ブライト嬢との手合わせを執り行う。双方ともに名高き武人の業を継ぐものである。確とその目で捉え、己の糧とするがよい」

 

 途端、ざわめきが練兵場のいたるところで起きる。当然だろう。兵士たちからしてみれば、奇妙な客人がきていると思ったら唐突に指南役が手合わせの相手をしてもらうと言い出したのだ。あの《光の剣匠》が、である。驚き戸惑うのも無理はない。

 それはトワたちにしても同じ。アルゼイド子爵の突拍子もない宣言に「ええっ!?」と泡を食ってしまう。

 

「ヴィ、ヴィクターさん! 何で急にそんなことを……!?」

「剣の道とは平坦なものではない。時には異なる武の形を学ぶのも兵にとって良き刺激となろう。東方の流れを汲む変幻自在の剣、螺旋の力を繰る堅き棒術。どちらも参考とするに申し分ない」

「言っていることは分からないでもないけど……」

 

 その理由には納得するところもある。だが、どうして自分たちなのか。トワもエステルもまだまだ未熟な身、兵士たちにならともかくアルゼイド子爵には到底及ぶべくもない。それは彼も当然のことながら分かっているはずなのに。

 実際、兵士たちへの刺激とは建前のようなものだったのだろう。本当の理由は別にあった。続いて彼の口から紡がれた言葉に、相手に見定められた二人は盛大に頬を引き攣らせることになる。

 

「何より、我が友からもし見えた際はよろしく頼むと言われている。そなたらの練達を願い、ここは一つ峻厳なる壁とならせてもらおうか」

 

 誰に影響されたか、若干の悪い笑みを浮かべるアルゼイド子爵。トワは先ほど湧いた感謝の念を取りやめた。余計なことを、という内心の恨み言と帳消しである。

 仲間たちに目をやっても彼らは首を横に振るばかり。諦めろ、と。味方からも見捨てられ、こうしてトワとエステルは《光の剣匠》と手合わせすることに相成ってしまったのである。

 

 

 

 

 

 形の上では二対一。だが、この場においては有利をもたらすどころか叩き潰されるまでの時間を引き延ばすものでしかない。一瞬でも気を抜けば終わりになる剛剣にトワとエステルは必死に食らいつく。

 アルゼイド子爵が剣を振るうたびに空が震え、地が揺れる。ただ、剣を振る。基本中の基本でも極めつくせばこうも、いや、剣術の根幹であるからこそ。速さも、重さも、鋭さも何もかもが桁違い。彼の振るう一太刀そのものが絶技であり、積み上げられた研鑽の証明であった。

 トワが縦横無尽に斬りかかるも悉くいなされる。エステルが襲い来る大剣を防ぐも大きく弾かれる。お互いに何とかカバーしあって保たれる危うい均衡。涼しい顔のアルゼイド子爵に対して、二人は珠のような汗を流し息を荒げる。

 

「……流石だね。あのアルゼイド子爵を相手にあれだけ粘るとは」

 

 それでもまだ、圧倒的な格上を相手に膝をついていないのは確かであった。

 大方の兵士はすぐに決着がつくものと思っていたのだろう。しかし、劣勢のままとはいえ既に五分以上は打ち合っている。当初は猜疑心が透けて見えたが、今ではギリギリのところで渡り合う二人に感嘆の声も聞こえてきていた。

 アルゼイド子爵はもちろん全力ではない。そうであれば文字通り一瞬で吹き飛ばされている。かといって武に関わることで手を抜く人でもないだろう。二人の力量を見極めつつも、辛うじて対応できると見越したレベルで手心を加えずにやっているはず。彼女らの前に立ちはだかる、巨大にして強大な壁として。

 そんな彼を前にして未だ屈せずにいるのは、ひとえに彼女らの実力があってのことだ。

 

「エステルの奴も大したもんだ。あんな馬鹿でかい剣を片手で振り回すのを相手によく耐えているぜ」

「これまでも格上ばかりとの戦いだったからね。実力は及ばなくても、自分と仲間を守る戦い方を彼女は心得ている。一気に畳みかけられると厳しいけど、そこはトワがいるから何とかなっている感じかな」

 

 概ね、ヨシュアの評する通りだろう。実力差が大きくともある程度は耐えられるエステルが守りに回り、素早く変則的な身のこなしのトワが牽制・撹乱することでこの均衡は保たれている。

 どちらか一方でも欠けば、瞬く間に崩れ去るだろう綱渡りの状況。トワがいなければ、エステルは間断なく振るわれる剛剣にいずれ叩き潰される。エステルがいなければ、トワはいずれ動きを読まれて吹き飛ばされる。二人ともそれを理解しているからこそ役割に徹し、大健闘といっていい打ち合いを繰り広げていた。

 しかし、遥か高みとの神経をすり減らす戦いに何時までも万全の力を発揮できるはずもない。肉体的にも精神的にも疲労は彼女らを蝕み、やがて致命的なズレをもたらす。

 

 その瞬間、トワは直感的に駄目だと悟った。

 回り込むように跳んだ自分に狙いを澄まして振りかぶられる剣。エステルが間に入る隙はない。彼女が立ち位置を誤ったか、自分が集中力を欠いて先を読まれたか。きっとその両方だったのだろう。

 刀を盾に受け止めはした。受け止めたそれごとアルゼイド子爵は大剣を振り抜く。ジョルジュが思わずといった様子で「うわっ」と漏らす。トワの小さい体は観衆の頭を超えて素っ飛ばされた。

 これに焦るのがエステル。攻撃が集中されては長くもたないことは明白であった。

 だからといって諦めるのか。否である。元より諦めの悪さと根性は一級品、最後の足掻きとばかりに猛攻を仕掛けてくるアルゼイド子爵に食らいつく。

 

「はぁっ、はぁっ……ああ、もう! レーヴェより強いとか理不尽もいいところじゃない!」

「賛辞として受け取っておこう」

 

 最後に愚痴めいたことを吐き捨てて、そこが彼女の限界だった。

 度重なる攻撃に態勢が崩れたところへ容赦なく振るわれる横一閃。吹っ飛ばされた勢いのままゴロゴロと転がり、ヨシュアたちの足元あたりでようやく止まったエステルは「きゅう……」と目を回して戦闘不能となった。

 

「見事。支える籠手の矜持、何よりもそなた自身の魂の在り方、確と見せてもらった……ヨシュア、次はそなたも共に相手をさせてもらいたいものだ」

「は、はは……それはまたの機会ということに」

 

 この義姉弟が組めばより大きな力を引き出せると見抜いたのか。アルゼイド子爵は称賛と共にそんなことを言ってくる。ヨシュアは冷や汗と苦笑いを浮かべるばかりであった。

 エステルは体力が底をついて起き上がる気配もない。脱落した彼女を前に、アルゼイド子爵は「さて」と大剣を背に回す。背後からの強襲を防ぎ、一息に薙ぎ払う。それに辛うじて巻き込まれないうちに飛び退ったトワは、荒い息を吐きながらも刀を構えなおした。

 素っ飛ばされた先で何とか受け身を取り、全速力で取って返したものの状況は手遅れであった。余力も既にほとんどない。一対一ではあと三合もできれば上等だろう。

 相手は依然として剣を納めていない。ならば、最後まで足掻き尽くすのみだ。

 故に間合いに踏み込もうとしたそのとき、思いもしないところでアルゼイド子爵は口を開いた。

 

「それがそなたの全てではなかろう。このまま終わらせてよいのか」

「はっ……はっ……な、なにを……?」

「遠慮は無用。その身に宿す《力》、全身全霊をもってぶつけてくるがいい」

 

 予期せぬ言葉に体が固まった。彼は知っている(・・・・・)。それを理解するには十分なもので、クロウたちの顔にも驚きが浮かぶ。

 どうして、という困惑は口にせずとも解消した。彼は伯父との旧友。どこまで知っているかは分からないが、ある程度までは承知していてもおかしくはない。

 情報の出処は理解しつつも、トワはアルゼイド子爵の言葉に応じることが出来ない。畏れ、迷い、湧き起こる複雑な感情が彼女を惑わせる。それを見て取った彼は静かに、しかし断固として告げた。

 

「己に枷を課する故があるというのならばそれもよし。だが、ただ畏れるがために躊躇うならば――その迷いを振り切るまで、我が剣をもって相手しよう」

 

 向けられる切っ先、鋭い眼光。冗談の気配は欠片もない。

 きっと彼はその言葉の通り、トワが《力》を使うまで剣を止めることはないだろう。例え彼女がどれだけ傷つこうとも、恐怖に足を囚われ続けている限り。

 

 トワは息を整えながら考える。《力》に対する恐怖は勿論ある。クロウたちのおかげで幾分か和らぎはしたが、心に刻まれた深い傷はそうそう癒えるものでもない。依然として躊躇いを覚える理由としてそれがあるのは確かだ。

 しかし、決して理由は恐怖だけではない。畏れ惑いながらも自分なりに考えて、その答えを求めてトワは残され島を旅立ち士官学院の門を叩いた。

 今まで漠然としたままにしてきたそれを肉付ける。畏れを乗り越えた先に求めるものを、トワは自身の胸の内にはっきりと見出した。

 

「……ヴィクターさんの言う通り、いつかこの恐怖は乗り越えなきゃいけないんだと思います。私自身が前に進むためにも、それは避けては通れない」

 

 アルゼイド子爵は黙して聞き届ける。でも、とトワは続けた。

 

「それ以上に、私はこの《力》の意義を見つけ出さないといけないと思うんです。これは、あまりにも簡単に命を奪ってしまうから」

 

 ヨシュアなどは何を話しているのか分からないだろうし、断片的に目にしたクロウたちにしても全てを理解することはできないだろう。トワがその身に宿す《力》が能うることを知らないのだから。

 トワの言葉に比喩はない。その気になれば只人の命などこの身は簡単に奪い去ってしまう。それは剣術という暴力の形とは異なり、あまりに不条理でおぞましいものだ。そんな過ちをこの《力》は起こし得る。

 

「自分に偽りなく貫ける芯を見つけて、はじめて私はこの《力》を振るうことが出来る。この身に流れる血を受け継ぐ者としてそう在りたいから……だから今、あなたの言葉に応じることはできません」

 

 トワはまだ確固としたものを持っていない。人の好さからくる純真さはあるが、エステルやヨシュアのように遊撃士として人々を支えようとする強い意志は持ち得ていなかった。

 それは正しさを保証するものではない。人である以上は時に過ちを犯し、後悔することもあるかもしれない。人は万能足り得ないのだから。

 それでもトワは自身の芯となるものを、《力》の意義が欲しかった。信じるものがあれば、たとえ間違いを犯したとしてもまた前に進むことが出来ると思うから。

 真正面から断ったトワの瞳を、アルゼイド子爵は切っ先を向けたままじっと見つめる。やがて、それが揺らがないことを知ったのだろう。彼は剣を下ろした。

 

「どうやら余計な世話だったようだ。シグナ卿が気を揉んでいたようなので口を出させてもらったが……ふふ、存外、我が友も身内には甘いらしい」

「あはは……どうでしょう。でも、ありがとうございます。おかげで胸の内が晴れた気分です」

 

 同じくして構えを解いたトワは頭を下げる。アルゼイド子爵は無用な真似をしたと思っているようだがとんでもない。彼女にとっては自分を見つめなおす良い機会になった。その切っ掛けが切っ掛けなので、原因に対しては素直に感謝しづらいのだが。

 

「己が信ずるものを見出すのは簡単なようで難しい。それは分かっていよう」

「はい。でも、きっと見つけられると思います。諦めずに前に進み続ければ、いつか」

「ならばよい。多くをその目で見るがいい。数多の声に耳を傾けよ。歩む中で考え続けるのだ。その果てに心から信じられるものこそが、そなたの魂の在り方となる」

 

 ――いつかそれを見つけたとき、また剣を交えるとしよう。

 

 アルゼイド子爵はそう楽しそうに笑みを浮かべる。最後の台詞にはちょっぴり苦笑いを浮かべてしまったが、彼の言霊はしっかりとトワの胸に刻まれた。

 予期せぬ《光の剣匠》との手合わせは、こうして確かな糧となって終わりを告げるのであった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「……遅いな、父上」

「ええ、そのようで」

 

 バリアハート駅の前に構える高級ストア・クリスティーズ。その前で蒼く長い髪をポニーテールにした少女と老執事が人を待っていた。

 待ち人の遅れに少女――ラウラ・S・アルゼイドはひっそりとため息をつく。ここ最近、各地を武術指南で回っていた父が戻ってくるというので、この公都で合流し観光でもしながらゆっくり領地レグラムに帰ろうという予定であった。領地を空けがちな父と久しぶりに過ごせる時間というのもあって、ラウラは楽しみにしていたのだ。

 それが予定の時間になっても父は一向に姿を見せない。約束を違えるような人ではないのだが。彼女の心境はどうしたのだろうかという疑問七割、遅れていることに対するちょっとした不満三割といったところである。

 

「指南に熱でも入っているのだろうか。クラウス、やはり店で待たずとも直接父上のもとに行った方がよかったのではないか?」

「お言葉ですがお嬢様、武術指南もお館様の大事な務め。お嬢様が邪魔になるようなことをなさらずとも、身内をその場に招き入れるのは兵への示しとして憚られましょう」

 

 お付きの執事にしてアルゼイド流師範代、クラウスのもっともな意見に「むう」と唸る。納得もできるし反論する気もない。それでも胸に蟠るものはあるのだ。

 一方、クラウスはといえばそんな彼女の様子に内心で冷や汗を一つ。今口にしたことは嘘ではない。だが、その場で考えた口八丁でもあった。理由は他にあり、それを頼んできた主が早々に来てくれることを彼は切に願う。

 その祈りが空の女神に通じたのだろうか。さして時間を置かずして見覚えのある姿が二人の視界に映る。ラウラはにわかに顔を明るくさせた。

 

「父上! 武術指南の務め、お疲れ様です」

「ああ。ラウラこそ、わざわざ公都まで出迎えてくれて感謝している……遅れてすまなかったな」

 

 娘の頭を一撫でし遅参したことを詫びるアルゼイド子爵。先ほどまで抱いていた不満など父の姿を見たら雲散霧消していたが、どうして遅れたか気にならないといえば嘘になる。それに、心なしか声色に高揚の気配をラウラは感じ取っていた。

 

「それは構いませんが、何か善きことでもあったのですか?」

「出会いに恵まれてな。シグナ卿の姪御、それにカシウス卿の娘御と手合わせしてきた」

 

 父の答えにラウラは「なんと」と驚きを露わにする。《星伐》に《剣聖》、その両人の名は武を志す者にとって大きな意味を持つ。特にシグナは時たまレグラムに顔を出すこともあって、彼女としても敬意の念を抱く人物だ。少しばかり困ったところのある方でもあるが。

 そんな二人の血縁と偶然にも巡り合うとは。まさに女神の導きというものだろう。その場に居合わせられなかったことを口惜しく思うほどである。

 

「共に先が楽しみな逸材であった。ふふ、そなたも負けてはいられぬな」

「むむ、叶うことならば私も手合わせしてみたかったものですが……」

「カシウス卿の娘御ならば、いずれレグラムの遊撃士協会支部を訪れよう。シグナ卿の姪御の方は……そなたが選ぶ進路によっては出会える機会もあるかもしれんな」

 

 含みのある言葉にどういうことかと首を傾げる。父は言葉を続けた。

 

「彼女は大帝所縁の士官学院、トールズの生徒。そなたも第一の進路として考えていただろう」

 

 ラウラの口から二度目の「なんと」がついて出た。なんたる巡り合わせか。まさか自分が志望している学院に、尊敬する剣士の縁者も在籍しているとは。しかも父から認められるほどの腕前だというではないか。

 

「なんという僥倖か。父上、決めました。私は絶対にトールズに参ります!」

 

 これはもう女神の思し召しと確信する他になかった。まだ見ぬ強者と剣を交えるためにも、必ずやトールズ士官学院に合格しなければ。知らず、ラウラは鼻息を荒くする。

 そうして心躍る先行きに思いを馳せる娘の姿に、アルゼイド子爵は少しばかり複雑な気持ち。父親としては帝都のアストライア女学院が第一候補であったのだ。いや、無論のこと本人の意思が大事ではあるのだが。

 それはそれとして、だ。アルゼイド子爵は傍に控える執事に「して」と声を潜めて問いかける。

 

「どうであった。ラウラは何か目に留めるものはあったか?」

「は、それが……服飾品や装飾品に目を向けていたのは僅かな間。それとなく興味を引こうにも気のない返事。果てには武具店や武術書の類ばかり見て回る始末……己の不甲斐なさが悔やまれます」

 

 口惜し気に語るクラウスにアルゼイド子爵は「そうか……」と一種の諦観を覚える。剣にかまける娘も年頃の少女。煌びやかな場に連れて行けばそうしたものにも興味を示すかと思ったのだが、どうやら見込みが甘かったらしい。

 家柄もそうだが、やはり男手で育ててきたがために女性らしい趣味や装いに目を向けさせるのは難しい。いつも泰然とある彼でも、こればかりはほとほと困り果てていた。

 

「いっそのこと想い人でもできれば……いや、ラウラにはまだ早い」

 

 娘に女性としての成長を願う気持ちはある。かといって目に入れても痛くない我が子が他の男に靡くというのも、自身の目が黒いうちは度し難い。二律背反に先ほどの娘と同じように「むう」唸り声が漏れる。

 《光の剣匠》ヴィクター・S・アルゼイド。割と悩み多きシングルファーザーであった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 日も沈んで星明りが空に瞬くバリアハートの夜。トワたちは中央広場のレストラン《ソルシエラ》に席を取っていた。高級店が立ち並ぶ公都でも良心的な値段設定と聞いてのセレクトである。

 夕食を共にしようと約束していたエステルたちも本日の業務を終えて合流していた。そんな一同の中でも、トワとエステルは疲労困憊という様子。体を引きずるようにして屋外のバルコニー席にたどり着くや、揃ってテーブルに崩れ落ちた。

 

「きょ、今日はえらい目にあったわ……もう限界……」

「流石に私もくたくただよ……」

 

 地下水路で偶発的な戦闘になってしまったのもそうだが、何よりもアルゼイド子爵に目をつけられたのが運の尽きであった。容赦ない剣戟に必死で食らいついた二人は、終わる頃には体力を絞りつくされていた。

 かといって実習活動や仕事がなくなるわけではない。疲れ果てた体に鞭を打って、なんとか全てをやりきった結果がこの魂が抜けたように突っ伏す彼女らの姿であった。

 

「ま、災難だったな。恨むなら中年親父どもの交友関係を恨むこった」

「得難い経験だったとは思うけどね。あれほどの達人と手合せ願えるなんて、そうそうあることじゃない」

「ヨシュアは実際にやってないからそんなこと言えるのよ……ためになったことは否定しないけど」

 

 他人事のように言う相方に対して半目を向けてしまうエステルであったが、口にしていることはあながち間違っていないので歯切れが悪かった。

 強者と打ち合うのは自身に足りないもの、そして強者が強者足る所以を肌で感じ取れる絶好の機でもある。そこで得たものを練磨し己のものできたならば、必ずや更なる成長に繋がっていく。実際、アルゼイド子爵と戦って得たものは千金に勝るだろう。

 しかしながらこちらにも心の準備というものがあるわけで、まるで予兆もなく手合せする羽目になったものだから素直に喜べないのが正直なところであった。

 

「ちなみにレグラムにはアルゼイド流の門下生も多くいるからな。今度はヨシュアも交えて試合を申し込まれるかもしれないぞ」

 

 笑いながらそんなことを言ってくれる先輩遊撃士に二人は苦い笑み。それを今、前向きに受け止めるのは無理があろう。ご愁傷様である。

 

「あはは……エステルちゃんたちの方も大変そうだねぇ」

「本当よ、もう。あーあ、ルーアンのときみたいにトワたちと学生生活ができたらいいのに」

「言っておくけどエステル、トールズは王立学園にも勝る帝国随一のエリート校だよ。そんなところの授業に君が付いていけるとはとても思えないけど」

「ええっ、クロウだって入学できたのに!?」

 

 愕然とするエステル。その反応に当の本人は頬を引きつらせた。

 

「おい、どういう意味だそりゃ」

「どうもこうも、そのままの意味だろうさ」

「まあ、君の生活態度とかを鑑みたら妥当な反応だと思うけど」

 

 残念ながらクロウに味方はいなかった。仲間たちからの無慈悲な意見に彼はがっくりと肩を落とす。地頭は悪くないのだから、少しくらい真面目になれば評価も改まるというのに。勿体ないな、とトワは思いつつも彼がその気になることはないのだろうと半ば確信していた。

 

「…………」

 

 そんな風に皆で取り留めのない話で談笑しながらも、トワは自身に向けられるヨシュアからの視線に気が付いていた。気配に敏感な彼女だから気付けたような、ほんの些細な疑念を帯びたそれ。理由は分かっている。アルゼイド子爵とのやり取りについてだろう。

 だが、彼は疑念を向けつつも踏み込んでくることはなかった。感覚的にであっても、トワが無暗に話したがらないことだと分かるところがあったのかもしれない。

 その気遣いに感謝したい。エステルとヨシュアと仲良くなれたのは本当に嬉しい。だからこそ、自分のことが知られてしまうのがまだ怖かった。そして、それこそ自分が乗り越えなければいけないものであることも、彼女はまた理解していた。

 初夏の涼しい夜風を感じながらも意識を内側に向ける。アルゼイド子爵のおかげで心の内は随分と整理できたと思う。それは小さな一歩かもしれない。だが、紛れもない前進だ。その一歩一歩を積み重ねていけば、きっと。今のトワはそう考えることが出来た。

 

「あれ……?」

 

 そうして会話から意識を外していたからだろうか。トワはガラス越しに見えた新たな来客が覚えのある姿であることに気が付いた。丸眼鏡に全体的にふっくらとしたシルエット。実習先で目にするのも、もはやお馴染みと化したあの人であった。

 

「ね、あの人」

「ん……ああ、誰かと思えばボリスさんじゃないか。また営業回りかな」

「どうせ教頭に俺たちの行き先を聞いてきたんだろうさ。勿体ぶらずに呼んでやるとしようぜ」

 

 紡績市パルムの領主、ボリス子爵。トワたちのことを気に入って毎度のごとく実習先に現れる彼に、彼女たちもすっかり慣れてしまっていた。クロウの場合、奢ってくれるからという実益も込みかもしれないが。

 手を振って見せると彼はすぐに気が付いた。案内しようとしていた店員に二言三言告げ、やあやあと相変わらず朗らかな笑みで近付いてくる。

 

「いやはや、先月ぶりだね。どうやら今回は他の方もご同席のようだが――」

 

 陽気な調子で声を掛けてきたボリス子爵であったが、そこで不意に言葉が途切れる。彼はトワたちの同席者――もっと言えば、エステルとヨシュアの姿を認めて固まった。

 いったいどうしたのか。らしからぬ変調にトワが疑問を抱いていると、その原因の一端と思しきエステルが「あっ」と声をあげた。

 

「誰かと思えば、パルムの工場長さんじゃない。こんなところでどうしたのよ」

「どうもお久し振りです……というほど、間は空いていませんね」

 

 どうやら彼女たちもボリス子爵の知り合いだったらしい。帝国に来て程ない二人が、仮にも領主子爵とどうやって面識を得ることになったのか不思議なところではあるが。遊撃士として依頼を受ける機会でもあったのだろうか。

 

「トワたち、工場長さんの知り合いだったのね。なんだか意外な取り合わせだけど」

「うん。実習先でたまたま知り合って、そこからお付き合いが続いている感じかな。そういうエステルちゃんたちは?」

「あー……まあ、ちょっとパルムの方に用事があってね。そのときにお世話になったというか」

 

 向こうも気持ちとしては同じだったようで、その質問に答えるついでに問い返す。ところが、それに対する返答はどこか不明瞭なものだった。明るくはきはきとしたエステルには似合わない様子に首を傾げてしまう。

 そこに至って、固まっていたボリス子爵はようやく平静を取り戻す。といっても、彼は彼で普段らしからぬ気まずそうな雰囲気を漂わせていた。

 

「うむ、まあ、そのようなものでな……お姉さんには挨拶できたかね?」

「……ええ、おかげさまで。侯爵に取り次いで下さり、ありがとうございました」

「礼など言わんでくれ。私は当然のことをしたまでだ。あの程度、罪滅ぼしにもならんよ」

 

 悔恨、悲哀、罪悪感。ボリス子爵からはそんな感情が透けて見えた。それがどのような理由からくるかは分からないものの、向けられる先だけは明らかだ。縮こまって見えるボリス子爵に対して、ヨシュアはしんみりとしたものを感じさせながらも柔らかい笑みを浮かべていた。

 

「その……お姉さんって?」

 

 聞いていいのかという迷いもあったのだろう。遠慮がちにジョルジュが尋ねると、ヨシュアは少し言葉を考える様子を見せてから口を開いた。

 

「僕が養子だっていうのは話したけど、実は、生まれはエレボニア帝国なんだ。パルム近くの村に姉さんと、その恋人の兄さんみたいな人と一緒に暮らしていて……でもある日、そんな日常は崩れ去ってしまった」

「…………」

「その後、色々あってね。結局は父さんに出会って、ブライト家に転がり込むことになって……この間になってようやく、ちゃんと姉さんの墓参りが出来たんだ」

 

 ヨシュアの口から語られる彼の出自。彼が帝国出身だというのも驚きではあるが、トワが何よりも感じ取ったのは言葉を濁す気配だった。

 きっと、それは自分たちに話すには憚られるものなのだろう。沈痛の面持ちを浮かべるボリス子爵がそれを物語っているようだった。

 

「色々、ね。お前も難儀な人生送っているみたいだな。立ち居振る舞いといい、妙に隙が無い感じがするし」

「それは……」

 

 自分も語れないこと、知られたくないことがあるからトワはよく分かった。きっと隠しているそれもヨシュアという人間を形作る一部なのだろう。だからといって、万人がそれを受け入れてくれるとは限らない。その怖さが足を踏み留ませることもあるだろう。他ならぬトワ自身がそうなのだから。

 ヨシュアも、もしかしたらトワからそうしたところを感じ取っていたのかもしれない。だから先ほどは踏み込まないでくれたのならば、自分もそうするべきだろう。トワはクロウの言葉を遮るように「でも」と声をあげた。

 

「ちゃんとお参りに来てくれて、お姉さん安心したんじゃないかな。エステルちゃんみたいな家族が出来て、立派な遊撃士になって……ヨシュア君が前を向いて進んでいることに、お姉さんも女神様のもとで喜んでいるって、私は思うよ」

「トワ……そうだね、そうだといいな」

「そうに決まっているじゃない。カリンさんに……レーヴェだって、きっと喜んでいるわよ。だからほら、シャキッと胸を張る!」

 

 エステルにバシッと背を叩かれて苦い笑みを浮かべるヨシュア。そこに影のようなものは見当たらなかった。

 隣でクロウが肩を竦める。甘ちゃんめ、と言われている気がした。それでもいいと思う。ほんの少しずつでもいい。一歩一歩前に進んでいって、いつしか自身の心の壁を乗り越えられたなら。

 

「ふむ、ところでエステル君。君もお姉さんにご挨拶してきたようだが……それはもう一人の姉としてかな? それとも恋人としてかい?」

「え゛」

 

 そうして丸く収まったところに放り込まれる爆弾。アンゼリカからの問いにエステルは笑みを固まらせた。麗人の視線から逃れるように右往左往する目。口ほどにものを言う、とはよく言ったものである。

 

「ああ、なるほど。アンがちっともエステルを口説かないから珍しいこともあるんだな、と思っていたんだけど」

「見縊らないでくれたまえ。女の子が既に幸せだというのなら、それを崩す理由はないからね。可愛い子は笑顔でいるのが一番さ……略奪愛というのも、燃えるものはあるが」

 

 ジョルジュが呆れた目を向ける。それっぽいことを言っていたのに最後で台無しだ。

 ともあれ、そういうことならトワとしても納得だ。エステルとヨシュアの間には家族以上の感情のようなものを感じてはいたのだ。恋人同士でもあるというならば、それにも頷けるというものである。

 

「うわぁ……ねえねえ、エステルちゃん。告白はどっちからしたの? やっぱりヨシュア君から? それともエステルちゃんの方から?」

「うえっ!? えーと、それはその、非常に複雑な経緯があって……」

 

 トワも年頃の女の子。恋バナにはもちろん興味津々である。ところが、聞かれた側のエステルは頬を染めてしどろもどろになるばかり。小声で「睡眠薬の味とか言いたくないし……」とかブツブツ呟いている。いったい何があったのだろうか。

 向こうは向こうで「隅に置けねえなぁ」とか「どこまでやったんだ、ん?」などとクロウがヨシュアに肩を組んで絡んでいる。やられている側は乾いた笑いを零すのみであった。黙秘を貫くつもりらしい。

 しんみりした雰囲気から一転、なんだか姦しくなったバルコニー席。置いてけぼりを食らってしまったボリス子爵は、同じようについていけていないトヴァルに話を振った。

 

「うーむ、これはオッサンの立ち入る隙はないようだね。遊撃士君、哀れな男同士で酒に溺れるとしようじゃないか」

「いや、俺はまだ二十六ですから! 年齢的にはまだあっちの方ですから!」

 

 自分までオッサン扱いされそうな流れにトヴァルは必死に抗議する。彼はまだ若いのだ。肉体的に精神的にも。お嫁さんだってほしい。まだ影も形もないけれど。

 そんな彼に冗談だとばかりに「はっはっは」と闊達に笑うボリス子爵。その瞳に映るのは、少し騒がしいくらい恋愛話なり何なりで盛り上がる若者たちの姿。どこにでもあるような青春の一幕を、彼は眩しそうに、どこか安堵のような気持ちを帯びた目で見つめていた。

 

「すみません、工場長。遅れてしまい……あっ!」

「おお、ドミニク君。実は、またトワ君たちと会うことが出来てな。これから注文を……おおっ!?」

「あんたルーレでのどんちゃん騒ぎを経費で落として絞られたのにまだ懲りてないのか! 今度ばかりは許さんぞコラァ!!」

「じ、自費! 今回は自費だからぁ!」

 

 が、遅れてきた荒ぶる秘書に首根っこ掴まれている姿を見るに、それも気のせいだったのだろうかと思ってしまう。ボリス子爵は相変わらずボリス子爵だった。

 壮麗な街に似つかぬ喧しさと笑い声。翡翠の公都における一日目の夜はそのように更けていくのであった。

 



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第39話 奈落の病

このシーンあたりまで書こうと決めて始めるものの、思いがけず文字数が増えていって平均文字数を引き上げていくいつものパターン。今回は二万字ほどとなっております。


 バリアハート試験実習、二日目。

 ホテルのロビーに集合したトワたちは、ルーファスからの使いより本日の課題を受け取った。使いの執事、アルノーが一礼して帰っていくのを見送り、早速封を開けて内容を確かめる。

 

「数はそこまで多くないね。手配魔獣の退治に……薬草探し? どうやら大聖堂からの依頼のようだが……」

「教会からなら、そこまで無理難題を押し付けてくるようなこともねえだろ。昨日みたいな面倒くせえ貴族様とかならともかくな」

 

 昨日の貴族の依頼主を思い出してか、クロウが眉をひそめる。

 特に何の脈絡もなく珍味を食したいと思い立って頼んだという依頼主。わがまま放題なその彼に振り回されてしまったことも、トワが疲労困憊に至った理由の一つであった。

 その点、教会からの依頼というなら安心だろう。身勝手な人物に聖職者が務まるはずもない。少なくとも、昨日よりは気苦労せずに済みそうだ。

 

「でも、ちょっと普通じゃなさそうだね。取り急ぎって書いてあるし」

 

 それはいいのだが、だからといって一筋縄ではいかない雰囲気だ。切迫した様相を感じさせる依頼文にトワは難事の気配を感じ取る。

 

「訪ねてみないことには詳しく分からないな。魔獣よりこちらを優先しようか」

「ああ、それがいいだろう。魔獣はいざとなれば領邦軍に押し付けられるしね」

 

 もとより周辺地域の治安に関しては領邦軍の領分。トワたちが手配魔獣の方に手が回らなくても、本来なすべき者たちにお鉢が回るだけである。

 たまには真面目に仕事すればいいさ、と揶揄するかのようなアンゼリカ。

 どうやら彼女のクロイツェンの兵に対する評価は辛辣らしい。昨日の地下水路の件に関する対応を目にすれば、それも仕方ないが。

 

「両方とも無事に達成できれば、それに越したことはないけれど。じゃあみんな、そんな感じで今日も頑張っていこう」

 

 応、とトワに答える三人。

 幾度となく繰り返したその流れは彼女たちにとって珍しくもなんともなくなっていたが、今回はそれを感心したように眺める人たちがいた。

 

「いや、手際がいいものだ。ハインリッヒの奴も優秀な生徒を持てて鼻が高かろう」

 

 うんうん、と頷くボリス子爵。

 褒められるのは嬉しいが、この内の二人は件の腐れ縁が目の敵にする不良生徒である。何とも言えぬ気持ちにトワは曖昧な笑みを浮かべた。

 昨晩はありがたいことに夕食をご馳走してくれたボリス子爵。ちなみにポケットマネーである。会計の際は隣の秘書ドミニクが目を光らせ、領収書を切ることを許さなかった。金銭面の信頼はないらしい。

 そんな彼も一応は貴族である。同じホテルに宿泊していたこの愉快な主従は、どうやら今朝でチェックアウトするようだった。

 

「子爵のオッサンはもうパルムに帰るのか?」

「職人通りのお得意様も一通り回ったからね。急ぎの用はないから、少しゆっくりして昼前までには列車に乗ろうかと思っておるよ」

「流石に、郊外に釣りに出る時間はありませんよ」

 

 じろりと向けられる秘書からの視線に、ボリス子爵は薄っすらと汗を浮かべ「はっはっは」と誤魔化すような笑い声。図星だったらしい。

 

「……駅前の河川でも駄目かね?」

 

 それでも懲りないあたり、彼は筋金入りの釣りバカだ。

 眉間を抑えて溜息を吐くドミニクに同情の視線が集まる。この自由人の手綱を握るのは並大抵の苦労ではないだろう。真面目な彼には心労が溜まっているのではなかろうか。

 

「ドミニク君とて、夜景撮影に繰り出したりするではないか。私ばかりが締め付けられるのは納得できんぞ」

「あなたが余計なことをやらかすから注意しているんですがね……」

「あはは……それはそうと、ドミニクさんは写真を趣味にされているんですか?」

 

 拗ねた子供のように口先をとがらせる困った大人は置いておくとして、夜景撮影とは気になる話だ。話を振られたドミニクは照れ臭そうに頬を掻いた。

 

「ああ、まあ、ね。最近始めたばかりだから、あまり上手ではないけれど」

「いい趣味をしてらっしゃる。なに、楽しんでいれば腕前は後からついてきましょう」

 

 なるほど、どうやら彼は彼なりに楽しみというものを持っていたらしい。

 写真といえば、トールズでも生徒会のご近所である写真部のフィデリオがよくトリスタの風景を撮っているのを見かける。トワはあまり経験したことはないが、きっと打ち込めば楽しいものなのだろう。

 気分転換になる趣味があるのはいいことだ。トワも落ち着いてゆっくりしたいときは釣り糸を垂らしたりしている。ボリス子爵ほど熱心ではないけれど。

 

「趣味は人の心を豊かにする。しからば、私が釣りに行くのもなんら悪いことではなくてだね……」

「はいはい。分かりましたから、せめて列車の時間には遅れないでくださいよ」

 

 もっとも、それも度を過ぎれば他人の迷惑になってしまう。

 だがまあ、節度ある範囲であれば問題はないだろう。諦めたように肩を竦めるドミニクにボリス子爵は表情を明るくする。分かり易い人だ。それが親しみやすさにも通じているのだが。

 折り合いもついたところで、そろそろ出発するとしよう。

 ホテルを後にしたトワたちは、一路大聖堂へと向かうのだった。

 

 

 

 

 

「……あれ?」

 

 大聖堂までの道すがら。途中までは同道することになったボリス子爵と共に歩いていたところで、トワはふと遠くから聞こえる騒ぎに気付いた。

 目を向けた先は貴族街へと続く道。遠目に人が集っている様子が見えた。いったいどうしたのだろうかと首を傾げていると、他の面々も続いてそれに気付く。

 

「朝から様子が変だね……何かあったのかな」

「さて、何か事故でもあったのか、どこぞの貴族が不祥事でもやらかしたのか。厄介ごとの類でなければいいんだが」

 

 ちょっとした騒ぎくらいなら、どこの街でも起こり得るものかもしれない。

 だが、ここは貴族中心の街バリアハート。しかも、その中でも貴族街での出来事ときた。妙な胸騒ぎを覚えてしまうのも仕方ないだろう。

 

「どうすんだ? 聖堂の方も急ぎの用らしかったが」

 

 正直、判断に迷う。あまり闇雲に首を突っ込んで、どれも中途半端になってしまったら本末転倒。かといって目の前で問題が起きているのを捨て置くのも忍びない。

 クロウの言う通り、教会からの依頼の件も懸念される。件の薬草探しというのがどのようなものになるかは分からないが、一筋縄ではいかない予感があった。

 ひとしきり考えたトワは面を上げる。まずは動かなければ話にならない、と。

 

「様子だけ見に行ってみよう。問題なさそうならそれでいいし、もし収まりがつかなそうな事態だったら……その時はその時で考えようか」

「つまり、いつも通りってこったな。どうにも面倒ごとの匂いがするぜ」

「はは……ボリスさんたちはどうしますか?」

 

 否定しかねるクロウの愚痴に乾いた笑みを浮かべつつも、ジョルジュがボリス子爵たちの方を向く。彼らも騒ぎの様子が気にかかるようだった。

 

「私たちもついていくとしよう。まあ、何か役に立つこともあるやもしれん」

 

 ドミニクは少し不安げな様子であったが、ボリス子爵の言葉に対して反対はしなかった。余計なことに首を突っ込まないかという心配、かといって否定する理由も持ち合わせていなかったといったところか。

 意見が纏まったところで足を貴族街の方面に向ける。

 騒ぎの中心はさほど遠くなかった。通りに面して並ぶ邸宅の一つの前。そこで屋敷の主と思しき貴族の男性が、使用人を口汚く罵っているのが目に入ってきた。

 

「この度し難い愚か者めが!! 遅れるだけならまだしも、悪魔が出ただと!? 私を馬鹿にするのも大概にするがいい!」

「め、滅相もございません! 旦那様を馬鹿にするなんてそんな……」

「黙れ! その耳障りな口を誰が開けといった!」

 

 恰幅の好い貴族の男性は相当頭に血がのぼっているらしく、周囲のざわめきなど意に介することもなく怒鳴り散らしている。それに使用人は顔を真っ青にし、跪いて許しを請うばかりだ。

 何があったかは分からない。だが、あの使用人が貴族の逆鱗に触れたことにより、この朝の喧騒になったのは間違いないようだ。

 状況の理解につながるものはないだろうかと、トワは人だかりのざわめきに耳を傾ける。しかし、そこから聞こえてきたのは期待したようなものではなかった。

 

 使えない平民を掴んでしまうとは、運がないことだ。

 早々に領邦軍へ引き渡してしまえばいいものを。

 まったく平民にものを任せると碌なことにならない。

 

 響いてくる声のどれもが貴族の正しさを疑っていなかった。騒ぎにつられてきただけで仔細など知るはずもないのに、悪いのは平民の方だと決めつけ、それを当然のように語っている。その口の持ち主もまた貴族であったから。

 空恐ろしいものを感じた。どうして彼らは迷いもなく一方を悪と決めつけられるのか。どうして一人の人生を台無しにするようなことを平然と言えるのか。トワには理解できない。

 

「……いつか言っただろう? 君が思うよりも、傲慢な人間はいるものだ」

 

 アンゼリカの表情は苦々しく、周囲へと向ける視線は険しい。

 生まれ持った特権に疑問もなく浸り、何も考えることなく堕落してしまった人々。彼女が嫌悪する光景がそこにはあった。

 貴族の街とは、こういうことか。

 さも当然のように行われる平民への糾弾。そこに論理はない。あるのは絶対的な権力を背景とした「自分たちこそが正しく、優れている」という価値観だ。

 彼らはもう、それに疑問を抱くことはないのだろうか。その価値観が既に歪んでしまったものであることにも気づかずに。

 トワの心に暗澹としたものが広がる。これが多くの貴族の現実だというのなら、あまりに悲しく寂しいことだ。善き貴族も知るからこそ、彼女は尚更にそう思う。

 

「どうしようか。放っておくわけにもいかないけど……」

「多勢に無勢だな。下手に手を出して怪我をするのはこっちだぜ」

 

 あの使用人は、このままでは碌に事情も聴かれないまま領邦軍に連行されてしまうだろう。それを見過ごすわけにはいかない。

 だが、どうすればいいのか。助けるには状況が悪すぎた。

 仲裁に入ったとしても、トワたちもまた平民だ。怒れる貴族が言葉に耳を貸すとは思えない。アンゼリカなら違うかもしれないが、彼女は他州の侯爵家で、その令嬢でしかない。内輪のことと跳ね除けられたら立ち入るのは難しいだろう。

 何か、別の切り口から踏み込めないか。悩むトワたちに助け舟を出したのは、状況を見守っていた丸眼鏡の子爵であった。

 

「まったく、ゴルティ伯は酷い癇癪だね。相変わらず余裕が無いというか」

「お知り合いの方なんですか?」

「商用で付き合いが少しね。金遣いが荒くて、あまり良い関係ではないが」

 

 呆れた口調の彼に驚きの目を向けると、そう言って肩を竦めた。

 どうやら金払いがいいからといって良い客とは限らないらしい。おおらかで寛容なボリス子爵が良い関係ではないと評するのだから相当ではないだろうか。

 怒り狂うゴルティ伯爵というその貴族を前に、彼は一つ提案する。

 

「ここは私が間に入るとしよう。顔を知っている相手の方がまだ話になる」

 

 ありがたい申し出ではある。だが、それだけにトワたちは神妙な顔になってしまう。嫌な役目を押し付けるようなものだからだ。

 

「……よろしいのですか? まかり間違っても仲はよろしくないのでしょう」

「なぁに、力になれるかもなどといって言ってついてきた身だ。これくらいは協力させてくれたまえよ」

 

 このまま手をこまねいていても事態は悪い方向に進むばかりだ。その打開につながる可能性があるならば、ここは厚意に甘えるべきだろう。

 「お願いします」と感謝の念と共に頭を下げる。それを受けて頷いたボリス子爵は、ふらっとごく自然に群衆の中から一歩踏み出すと、その人好きのする笑みで怒れるゴルティ伯爵の前に割って入った。

 

「やあやあ、ごきげんようゴルティ伯。朝からお元気なことですな」

「何を……貴様、パルムのダムマイアー子爵!? 何故ここに……!」

「商談で来たところにたまたま通りかかりましてなぁ。往来で臣下を扱き下ろしていましたら、それはもう悪目立ちしてしまいますぞ」

 

 第三者の登場に、ゴルティ伯爵にもようやく周りを見るだけの冷静さが戻ったのか。ざわめきに囲まれていることに気付き、赤黒くなっていた顔に羞恥の色がさす。これでは社交界の笑いものになるとでも思ったのかもしれない。

 その羞恥に対する八つ当たり染みた矛先が向かうのは目の前の男であった。

 

「よくも私の前に顔を出せたものだな……! 染織物の買い付けを阻んで私に恥をかかせたこと、忘れたとは言わせんぞ!」

「あれは職人が親族の婚礼の為に用意したものだと、あの時に何度もご説明申し上げたでしょうに。ミラと権力で万事が済むとは思い召されるな」

 

 確かに、良い関係ではないとは言っていた。

 が、これは思っていた以上に険悪だ。爵位の差をものともしない喧嘩腰のやり取りに、トワはびっくりするやらハラハラするや忙しい。

 丸眼鏡の奥でいつもの温厚な目を嘘のように鋭くし、全く物怖じせずに淡々と述べるボリス子爵。視線をへたり込む使用人に向けて「そして」と言葉を繋ぐ。

 

「怒りに任せて臣下を糾弾するのも感心しませんな。仔細は存じませんが、何やら損害を被った様子。それでは取り戻せる益も返ってきませんぞ?」

 

 忠告のようでいて、その実煽り立てる言葉。相手は怒りに身を震わせる。

 それはわざとなのだろう。「お前には関係ない」と突っぱねられる前に、相手を自分の立つ舞台にまで下ろすための話術。まんまとその術中にはまったゴルティ伯爵は、もうボリス子爵を無視することはできなかった。

 なるほど、これは自分たちにはできない芸当だ。元から嫌われている人相手になら躊躇う理由もなし、苛立たせるくらい造作もないことである。

 

「くっ、この平民かぶれの貴族の面汚しめ……!」

 

 勿論、頭に血が上った相手は罵詈雑言を吐いてこよう。

 それに合わせてはいけない。あくまで冷静に、会話のペースを握って情報を引き出すこと。それがこの場において、使用人を助けるために必要なことだ。

 

たまたま(・・・・)主家が絶えた後を継いだだけの傍流めが! 貴様が同じ貴族の地位にあるなど鼻持ちならんわ!」

 

 だからボリス子爵は吐かれる暴言を柳に風と受け流す。

 だが、この場にいるもの全てが彼のようにできるとは限らなかった。

 

 

「――今、何と言った」

 

 

 ぞっとするような声に、トワは身を震わせた。

 ゴルティ伯爵が「は……」と言葉を失う。その目が行く先は、ずっとボリス子爵の傍に控えていたドミニク。今まさに、底冷えするような言葉を口にした張本人だった。

 すとんと表情が抜け落ちてしまったような顔。しかしながら、相対するものには分かるだろう。その奥に、御しがたいほどの激情が渦巻いていることを。

 

「な、なんだ貴様。秘書風情がこの私に……」

「たまたまだと? あれを、あんな真似を……偶然という言葉で片付けるというのかぁっ!!」

「ひいっ!?」

 

 爆発した怒気にゴルティ伯爵が怯む。

 あまりにも突然な変容。まさかドミニクがここまで怒りを露にするなんて。想像もしていなかった光景に、トワたちも咄嗟にはどうするべきか分からず立ち竦んでしまう。

 

「ドミニク君!!」

 

 動けたのはボリス子爵だけだった。声を荒げる自分に負けないくらいの大声に呼ばれ、彼もびくりと動きを止めた。

 

「それ以上はいかん……私たちに咎める資格はないのだ」

「……っ!」

 

 言い聞かせる言葉にドミニクは顔を歪めた。

 理解はできても、納得はできない。振り上げた拳を下ろす先が見つからないような、やり場のない感情が彼の中に透けて見えた。

 ひとまず難を逃れたゴルティ伯爵であったが、意図せず逆鱗に触れてしまったことにより萎縮してしまっている。周囲の群衆にも困惑が広まっており、どう収拾をつけたものか悩ましいところだ。

 その答えは、トワが悩んでいるうちに期せずしてやって来た。

 

「朝から騒々しい……これはいったい何の騒ぎだ!」

 

 新たな声にどよめきが生まれる。まるで悪戯を見咎められたように。

 声の主は、金髪が目を引く少年だった。まだトワたちと同じくらいか少し下に見える彼に、どこか見覚えのようなものを感じる。ごく最近に、よく似た人を見たような。

 隣でアンゼリカが「おや」と眉を上げる。その声には予期せぬ幸運を喜ぶような響きがあった。

 

「真打登場、かな。女神も粋な計らいをしてくださる」

 

 どういうことかと首を傾げつつも、視線を元に戻す。そこには少年の登場に顔を青くし、冷や汗を垂れ流すゴルティ伯爵の姿があった。

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 ユーシス・アルバレアは、ありていに言って最悪の気分だった。

 それは来る高等学校の受験に対して少なからずストレスを感じているのもあるだろうし、この前の社交界における表面ばかりのおべっかを使ってくる連中に辟易していたのもあるだろう。

 だが、それもこれも今目の前にいる男が起こしてくれた騒ぎに比べれば些細なことだ。話を聞く前に群衆を追い散らす必要があった時点で論外である。

 しきりに汗をぬぐうゴルティ伯爵から聞き出したことの経緯を整理し、ユーシスは確認を取るように「それで」と切り出した。

 

「貴方がオーロックス砦に使いに出した使用人が、予定通りに戻ってこないばかりか預かりものを紛失したことで腹を立てていたと?」

「そ、そうですとも! 悪いのは全てこの平民なのです!」

 

 馬の世話をしてやろうと外に出たところで聞きつけた騒ぎ。朝から何事かと駆けつけてみれば、火元たるゴルティ伯爵の言い分はそのようなものであった。

 それだけなら、まだよかった。そもそもゴルティ伯爵とて我を忘れるほどに怒り狂いもしなかっただろう。

 問題は、その使用人が口にした紛失の原因であった。

 

「事もあろうに『悪魔が出た』などと! 馬鹿馬鹿しい! 横領でもしようと考えたのだろうが、そんな浅知恵で騙そうなど私を虚仮にしているのか!?」

「ち、違うのです。旦那様、私は本当に……!」

 

 夜の峡谷道で悪魔に出くわし、命からがら逃げてきた。

 普通に考えれば、そんな言い分はまともに聞き入れられるはずがない。ゴルティ伯爵が馬鹿にされていると思うのも仕方ないだろう。

 だが、ユーシスの目から見て嘘をついているようにも見えなかった。そんな嘘を口にするメリットがないこともそうだが、それ以上に目に残る恐怖の色が本物だったからだ。まるで正真正銘の化け物に遭遇してしまったように。

 この使用人――ブルーノとは個人的に知らない仲でもない。為人からしても横領などするようには思えず、彼が本当に何か(・・)と出くわしたのだろうとユーシスは判断した。

 

「少しは落ち着くがいい――確かに俄かには信じがたいが、その者が横領したというのも邪推が過ぎる。まずは何が起きたかを確かめてからでも話は遅くないだろう」

「ユーシス様、何を悠長な! そんなことをしている間に、この愚か者が盗んだものを隠しでもしたらどうするのです!?」

 

 逼迫した様子のゴルティ伯爵に眉をひそめる。

 彼はいったい何をそんなに焦っているのか。まるで、ブルーノに罪を着せることでこの一件を早く終わりにしたいような……

 

「ふぅむ……ところでゴルティ伯、どうしてわざわざ夜半に砦へ使いを出したのですかな?」

 

 ユーシスが疑念を覚えていると、横合いからどこか気の抜けた、しかし油断ならない狡猾さを感じる狸のような男が割って入ってくる。

 パルムの領主子爵、ボリス・ダムマイアー。詳しくは知らないが、貴族社会では煙たがられていると聞く男だ。

 どうやらユーシスがやってくる前にゴルティ伯爵と一悶着起こしていた様子。ブルーノを庇ってくれていたようなので、この場においては信用してもいいと思う。

 

「紛失されてそれほどお怒りになるものならば、危険も少ない日中に済ませておけばよかったでしょうに。それとも、何か不都合でもあったとか?」

 

 そんな彼からの質疑にゴルティ伯爵は表情を苦々しくする。痛いところを突かれたことがよく分かる反応だった。

 

「き、貴様にそんなことを教える義理はない! 第一、街道を通っていれば魔獣に襲われることもないはず。それを悪魔だなんだと言うのは、この平民こそ道を外れてやましいことをしていた証ではないのか!?」

「そ、それは……」

 

 その拒絶は自ら後ろ暗いことがあると明かしているようなものだった。

 だが、同時にブルーノもゴルティ伯爵の言い掛かりに言葉を澱ませた。それは峡谷道を真っ直ぐに帰ってきたわけではないと認めるものだ。

 

「これでお分かりでしょう! こやつを早々に罰することで全て解決するのです。こんな馬鹿げた騒ぎ、さっさと終わらせようではないですか!」

 

 誰が騒ぎにしたのか。よく言えたものだ。

 内心で毒づきながらもユーシスは手詰まりを感じていた。相手は確実に何かを隠しているが、ブルーノの行動も不可解な点があるために庇いきれない。この件については分からないことが多すぎた。

 ゴルティ伯爵の裏を探るか、ブルーノから事情を聴くか。事態を解明するにはそれが必要だが、まずはこの場を乗り切らねばならない。

 

「ご高説、大変結構。だが、それで本当によろしいのかな?」

 

 どうしたものか考えていたところで、思わぬ声が耳に入る。

 覚えのあるそれに、まさかと思いながらも振り返る。果たして、その目を向けた先にいたのは想像通りの人物であった。

 

「な、なんだ貴様は。いきなり口を出してきおって……」

「ログナー嬢? どうしてここに」

 

 文句をつけようとしていたゴルティ伯爵が「はっ!?」と素っ頓狂な声をあげる。無理もあるまい。まさかこんなところに侯爵家の息女が現れるとは自身も思っていなかった。

 

「やあ、久しぶりだねユーシス君。私の方は学院の用事でちょっとバリアハートに来ていたんだが……まあ、今はいいだろう」

 

 相も変わらず令嬢という言葉が似つかぬ様子の彼女は、確かに高等学校の制服を着ているうえに学友と思しき者たちと連れ立っていた。嘘ではないだろう。

 その制服に見覚えがあることや、学院の用事でどうして公都にまで足を延ばしているのかとか、気になる点は多々あれ肩を竦めて流された。言葉を区切った彼女がゴルティ伯爵を見据え、その眼力に相手は一歩後ずさる。

 その距離を詰めるように、アンゼリカの学友の内から一人が前に進み出る。平民らしい、栗色の髪の小さな少女だった。

 

「伯爵閣下の事態を早急に収めようとするお気持ちは分かります。ですが、そう焦ってご自身が損をすることもないのではありませんか?」

 

 慇懃ながらも堂々とした態度。伯爵位の貴族を相手に欠片も動じることなく意見する彼女に面食らう。言われた側も、あまりに自然な態度に呑まれてしまっていた。

 

「ここで使用人の方を捕らえたとしても、閣下の失くしたものは返ってこないでしょう。事態を詳らかにし、失せ物も返ってくるならそれに越したことはないかと」

「な……そ、それは……」

「閣下自身、使用人が罪を犯したとなれば醜聞となります。無用の誹りを避け、損害を避けられる可能性があるならば、考えを改めていただく理由にはならないでしょうか?」

 

 言葉に詰まるゴルティ伯爵。彼はそれに否と答えることが出来なかったのだ。

 上手い言い回しだと感心する。明らかに事態の解決がメリットにつながることを示せば、それを否定することは難しくなる。解決することで不都合なことがあると声を大にするようなものだからだ。

 

「まあ、その悪魔というのが何かは分かりませんが、強大な魔獣である可能性もあるわけですし」

「もしそんなのがうろついているとしたら、アルバレアの坊ちゃんとしてもお困りではないですかね?」

 

 ダメ押しをするように恰幅が好い青年、そして銀髪の青年が続く。

 坊ちゃん、という呼び方には苛立つものがあったが、その意図は相違なく理解できた。示し合わせたようにユーシスは期待された通りの口を開く。

 

「そうだな。民に危険が及ぶ可能性があるならば、その存在の有無を確認しないわけにもいかないだろう」

 

 『悪魔』が何であるかはともかく、少なくとも良い存在ではないだろう。峡谷道にも人通りはある。治安に影響する可能性が否定できない以上、調査したうえで事実を確認し、場合によっては排除が必要だ。

 尤も、使用人の証言だけで領邦軍を動かすことは叶わないだろうが、それをわざわざ教えてやる理由もない。どちらにせよ領邦軍に頼るつもりなどないのだから。

 必要なのは、彼女たちが動くための大義名分。

 統治者たる公爵家の人間の言葉だ。最低限の後ろ盾くらいにはなる。善意の協力者(・・・・・・)が動く理由としては十分だろう。

 

「と、いうわけだ。どちらにせよ調査には出向くから、ついでに失せ物探しをするくらい手間ではないよ。ああ、ご心配なく。これでも全員、士官学院生なのでね。自分の身を守るくらい訳はない」

 

 現れるや否や、たちまち理論武装して主張を打ち崩してきた相手にゴルティ伯爵は口をパクパクさせるばかりだ。鮮やかな手口に反論する暇もなかった。

 

「ぐっ……だ、だが、あんな妄言を真に受ける必要など……」

「ふーむ。残念ですがゴルティ伯、それは通らないと思いますぞ」

 

 それでも承服しがたいものがあったのだろう。絞り出すように反論しようとするゴルティ伯爵だったが、それは横合いからボリス子爵に遮られた。

 

「確かに悪魔の存在は不確定なものですが、あなたが言う使用人の罪も状況からの推測に過ぎない。どちらも可能性の段階である以上、一方のみを否定するのは筋が通らんでしょう」

 

 使用人の証言や行動には懐疑的になる部分もあるが、横領というのも言い掛かりに等しい。確固たる証拠はどちらにもなく、だからこそどちらも否定することはできない。

 逃げ道も塞がれたゴルティ伯爵はぐうの音も出せない。彼にはもう、首を縦に振る以外の選択肢は残されていなかった。

 

「ええい、そこまで言うなら勝手にするがいい! 期待などしてやらんからな!」

 

 最後に捨て台詞を残し、ゴルティ伯爵は肩を怒らせながら邸宅に戻っていった。

 やれやれ、と一同揃って息を吐く。まずは上手く凌ぐことが出来たといったところだろう。ブルーノの拘束を免れただけでも上出来だ。

 

「何とかなってよかった。上手くいくか心配だったもの」

「よく言うぜ。即興であんな口八丁を思いついた挙句に、公爵家の名前まで利用しておいてよ」

 

 ほっと安堵する少女に対し、銀髪の青年が呆れた目を向ける。

 ユーシスとしても彼の意見に大いに頷くところだ。まさか自分に大義名分を口にさせるところまで少女の案とは思っていなかった。見目に反して胆力がある上に弁論もたつらしい。末恐ろしいことである。

 

「あの……皆さん、ありがとうございます。ユーシス様も私なぞのためにわざわざ……」

 

 ひとまず窮地を逃れたブルーノが深々と頭を下げる。先ほどまでは蒼白く絶望に染まっていた顔も、幾分か色を取り戻したように見える。

 それはいい。いいのだが、彼にも苦言を呈さなければならない部分はあった。

 

「あなたが難癖をつけられなければ、もう少し楽になったとも思うがね。どうしてわざわざ街道から外れなどしたんだい?」

 

 ゴルティ伯爵の言い掛かりなど、本来ならユーシスが出てきた時点で否定できたはずだった。それが拗れてしまったのはブルーノに不審な点が有ったからだ。

 今になって彼がやましいことをしていたとは思っていない。だが、無実であることを明らかにするためには聞いておかなければならないことだ。

 視線が集まる。ブルーノは何かに悩んでいるようだった。

 やがて決心したように、彼は重々しく口を開く。

 

「助けていただいておいて厚かましいのは承知の上です。ですが、それでもどうかお力添えいただきたい」

 

 滲み出る切実さがあった。どうしても諦められない思いがあった。

 ユーシスは理解する。これは、厄介な問題が複雑に絡み合ったものなのだと。

 

「お願い致します。どうか、どうか妻の命を救うのに力をお貸しください……っ!」

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 偶然の助けもあって、何とか罪の擦り付けを防ぐことできたトワたち。彼女らは使用人――改めてブルーノと名乗った彼によりバリアハート大聖堂へ案内されていた。

 奇しくも依頼が出されていたのと同じ場所。そして、そこを訪れる理由もまた依頼と無関係ではなかった。

 

「なるほど、そのようなことが……しかし感心せんな。あれほど無理はしないよう言い含めたというのに」

「申し訳ありません大司教様。ですが、妻の容態を思うといても立ってもいられず……」

 

 大聖堂の一室。ここの責任者、アモン大司教はブルーノから事情を聞いて彼の浅慮を咎めるが、それ以上は何も言わなかった。気持ちは十分すぎるほどに分かったからだ。

 もともと治療などに使われている部屋なのだろう。奥にはいくつかのベッドが並んでおり、その一つに女性が横になっていた。

 血色は失せ、息も浅い。一目で重篤と分かる彼女こそがブルーノの妻だった。

 

「その、奥さんはいつから?」

 

 意識はなく、病状は思わしくないように窺える。気遣わしげなジョルジュの問いかけに、ブルーノは病に苦しむ妻を痛ましく見つめながらも答えた。

 

「つい三日ほど前です。妻が――カーテが突然倒れ、医者に駆け込んだはいいものの、そこでは匙を投げられてしまいました。もはや女神に縋る思いで教会を頼り……」

 

 今に至る、というわけか。

 納得がいく気持ちだった。七耀教会は確かに昔から医療――特に内科や薬学について優れた知見を有していることで知られているが、近代医学の発展に伴い昨今では医師に診察してもらう方が一般的だ。

 なのに何故、カーテはこうして教会のベッドで横になっているのか。答えは単純だ。彼女はもう医師の力だけではどうにもならない状態なのである。

 トワにはそれがよく分かった。カーテの容態を見て、彼女の感覚が告げていたのだ。これはただの病気ではないと。

 

「どこの医者だ、それは。患者を見捨てるなど……」

「ユーシス殿、どうか責められるな。この病は市井の……いや、例えどれほどの名医であっても手の施しようがないだろう」

 

 金髪の少年、もとい、ルーファスの弟であるユーシスが不機嫌そうに眉をひそめる。アモン大司教はそんな彼に如何ともしがたい事実を告げた。

 どういうことか。この場の殆どの人間からの疑問に大司教は言葉を続ける。

 

「《奈落病》と呼ばれる、徐々に衰弱して死に至るという恐ろしい病だ。三十年以上前に流行した奇病なのだが、現在においても医学的な見地から病根は定かではない」

 

 病根不明。それだけで奈落病の恐ろしさを皆が理解するには十分だった。

 細菌に感染したのが原因ならば、それを取り除けばいい。内臓に変調をきたしたなら、それを整えればいい。ざっくり言って治療とはそういうものだ。

 だが、原因が分からない病などどうすればいいのか。どうしてそうなるかもわからず、ただ痩せ衰えていくばかり。医師が早々に匙を投げるのも無理はないだろう。

 

「なんという……治療方法はないのですか?」

「幸いにして特効薬は発見されている。とある薬草を用いたものなのだが……」

「ユピナ草、ですね。高地に生息し、夏季に花を咲かせる」

 

 トワが難しい表情で応じる。答えが返ってくるとは思っていなかったのだろう。アモン大司教は皺の刻まれた顔に僅かながら驚きを浮かべた。

 

「博識なことだ。そう、未だ原理は解明されていないが、そのユピナ草を用いた薬で奈落病は治すことができると知られている」

「んだよ、ビビらせやがって。治し方があるなら問題はないじゃねえか」

 

 クロウは拍子抜けしたように言うが、大司教もブルーノも、そしてトワも表情が晴れることはなかった。三人の反応に他の面々は疑問と不安を覚える。

 確かに治療方法はある。ただ、それが可能かどうかは別の話なのだ。

 

「ユピナ草は過去にほぼ絶滅状態に陥ったんだ。奈落病を恐れた権力者や、それに付け入って法外な取引を狙った人たちによる乱獲で」

 

 人の業が感じられる話だった。トワの口にも自然と悲しみが滲む。

 病を恐れたがためならまだ分かる。占有は感心しないが、死を逃れる術を手元に置いておきたい気持ちは理解できた。

 だが、その恐れを食いものにしようとした人々には怒りとも憐みともつかない感情を抱かざるを得なかった。挙句の果てにユピナ草を根絶やしにし、一時は実質的な不治の病としたのだから救いようがない。

 

「今は少しずつだけど生息が再確認されて、七耀教会で管理されているはずだけど……」

 

 そうした過ちから、奇跡的に自生が再確認されたユピナ草は教会によって管理されるに至った。必要な人のもとに、必要な分だけ。やがて奈落病の発症件数もごく僅かとなり、今や忘れられかけた過去の出来事となりつつある。

 しかし、病自体が撲滅されたわけではない。現にこうしてカーテは苦しんでいるのだから。

 その苦しみから救う術も教会に残されているはずだ。だが、忘れられかけていたという事実が状況を悪い方向に捻じ曲げてしまっていた。

 

「アルテリア法国には既に連絡した。だが、如何せん病状が進行してしまっている……おそらくは今日明日が峠。ユピナ草はそれまでに間に合うまい」

「妻はきっと私に気を遣って辛いのを隠していたのです。お互いに旦那様に仕える身、忙しいのは百も承知ですから……」

 

 それが、まさかこんなことになるとはこんなことになるとは。ブルーノは後悔してもしきれないとばかりに首を横に振った。

 奈落病の知識が人々から薄れてしまっていたのも、ここまでになるまで手が施せなかった一因だろう。罹患した本人にしても、最初に診察した医師にしても、もう少し早い段階で気付けていたら深刻な事態にはならなかったかもしれないのに。

 

「くっ……何か手立てはないのか?」

「一つだけ。大聖堂の記録によると、オーロックス峡谷にも過去にユピナ草が生息していたことがあるそうなのだ。とうの昔に姿を消してしまったようだが、今ならばあるいは……」

 

 アモン大司教が口にした僅かな希望。

 それを耳にして、頭の中で諸々の事情が一つに繋がった。

 

「じゃあ、ブルーノさんが峡谷道から外れていたのは……」

「はい。どうにかユピナ草を見つけられないかと……大司教様には危険だからやめておくよう、口を酸っぱくして言われてはいたのですが」

「なるほどな。俺たちに出された依頼も、それを探し出すための人手が欲しかったからか」

 

 ブルーノが砦からの帰り道を逸れたのは、妻を救うための薬草を探すため。そこで悪魔と思しき何かと遭遇してしまい、ゴルティ伯爵の荷物を紛失したことで今朝の騒動に繋がったわけだ。

 大聖堂からの依頼もこれに関することで間違いないだろう。

 魔獣が跋扈する峡谷における薬草の捜索。少しでも人手が欲しい状況で、トワたちのことを聞きつけたなら渡りに船といった心地に違いない。

 実際、その通りだったのか。アモン大司教は重々しく頷いた。

 

「発見できる可能性は限りなく低いだろう。だが、救えるかもしれない命を見過ごすわけにもいかん。どうか頼めないだろうか?」

「勿論です。ですが……」

 

 断るつもりなど毛頭ない。だが、どう考えても手が足りなかった。

 ユピナ草を探し出すだけならまだしも、トワたちはゴルティ伯爵の荷物を見つけてブルーノの潔白も証明しなければならない。彼が言う悪魔が何であるかも突き止める必要があるだろう。

 分散して当たるにしても、不測の事態を考えるとそれは躊躇われた。仮に悪魔が大型の魔獣であったとしたら、少人数であたるのは危険すぎる。

 誰か、他に助けになってくれる人はいないだろうか。

 そんなトワの悩みに応えるように、病室の扉が勢いよく――ではなく、そっと開かれた。

 

「話は聞かせてもらったわ!」

 

 文面上では大声に見えるかもしれないが、実際はかなり声を落として彼女は現れた。扉の隙間からひょっこり覗くツインテール。昨夜ぶりの再会にトワたちは目を見張る。

 

「エステル君? どうしてここに」

「まあ、こっちにも事情があってね。取りあえず外で話そう。ここだと、あまり患者によろしくないから」

 

 続いて現れたヨシュアがそう言った。

 確かに、これ以上病室に押しかけては患者の体に障る。カーテを看るアモン大司教に頭を下げ、ひとまずは場所を移すことにするのだった。

 

 

 

 

 

「そっか、エステルちゃんたちの方にも薬草探しの依頼が」

「うん。それがこんなことになっているとは思いもしなかったけど……」

 

 所移って大聖堂の広間。トワとエステルは互いに難しい表情を浮かべた。

 大聖堂が依頼を出したのはトワたちだけではなかった。遊撃士であるエステルたちの元にも協力を求める声が届いていたようで、この再会は必然だったのかもしれない。

 尤も、想定していた状況と現状は大きく異なっている。その事情についても彼女らは大まかながら把握していた。

 

「ボリス子爵から聞いたよ。朝から随分と大変だったみたいだね」

「まあな。俺たちは最後のダメ出しをしたくらいだが」

「そんなことはあるまい。私やアルバレア公のご子息だけでは、あの場を凌ぐのは難しかっただろう」

 

 病室に全員で押しかけるわけにもいかないから、と外で待機していたボリス子爵とドミニク。大聖堂を訪れた遊撃士たちは彼から何が起きたかを聞いていた。

 情報のすり合わせが省けるのはありがたいことだ。早速とばかりに年長者のトヴァルが行動の指針を練りにかかる。

 

「事態は一刻を争うみたいだからな。ここは共同戦線ってことでいくとしよう」

「それは、もちろん。どういう分担でいくかが重要でしょうけど」

「薬草の捜索、失せ物探し、正体不明の悪魔の捜査か。受け持つなら失せ物と悪魔の方は一緒にした方がよさそうだが……」

 

 ブルーノは悪魔から逃げるときに荷物を紛失したという。ならば、その痕跡がある近くに失せ物もあると考えていいだろう。それらをセットで考えるのは妥当な判断だ。

 肝心なのは、トワたちとエステルたち、どちらがどちらを担うか。

 考え込むトヴァルにトワは進言することにした。

 

「それなら、ユピナ草の方は私たちに任せてください」

「そりゃ構わないが……またどうして?」

 

 理由は単純明快だ。どちらが適任であるかという話に尽きる。

 

「私ならユピナ草を実際に見たこともありますし、場所にもあたりをつけて探せると思います。それに、魔獣や失せ物の捜索は遊撃士の領分でしょうし」

 

 実物を目にしたことがあるかどうか。薬草を探し出すうえで、それは大きな違いとなる。生息環境などについての知識も持ち合わせているトワがそちらに回った方がいいことは明らかだろう。

 加えて、魔獣に関することや紛失物の捜索は遊撃士の十八番。彼女たちに任せて間違いはないはずだ。

 それぞれの持つ知識、技能を考慮して、これが最適な割り振りだとトワは考える。しばらく吟味するも、その意見に反対する言葉は出なかった。

 

「にしてもまあ、奈落病やら薬草についてもよく知っているもんだ。かなり稀少なんだろ? そのユピナ草ってのは」

「うん。ユピナ草は故郷で見たことがあるから」

「え? トワの故郷って離れ島じゃなかったっけ」

 

 確か高地に生息すると言っていたはずなのに、と首を傾げるエステル。海のど真ん中の島で見たことがあるというのも変な話ではなかろうか。

 矛盾を突かれて少し焦るトワ。運がいいことに、言い訳を弄する必要はなかった。離れたところで何某か相談していたユーシスとブルーノが近付いてくる。

 

「ログナー嬢、そちらの話はついたのか?」

「ああ、まあね。ユーシス君の方はどうだい?」

「ブルーノ殿には家で大人しくしていてもらうことにした。ゴルティ伯爵が余計なことを仕出かさない保証もない。その間に、こちらで彼の怪しいところを探るつもりだ」

 

 ゴルティ伯爵は何か裏がある様子だった。警戒するに越したことはないと思われる。危篤の妻を前に大人しくしていろと言うのは酷かもしれないが、それが彼のためだ。

 ユーシスも出来得る限りのことはする心積もりの様子。頼もしいことである。

 

「士官学院に遊撃士の方々、どうかよろしくお願いします。大した情報も提供できずに申し訳ありませんが……」

「気にしないで。大雑把な位置と失くした物の形が分かれば十分よ」

「殆ど何も分からないことも、たまにはあるからね。それに比べたらマシかな」

 

 既にブルーノから悪魔らしきものに遭遇した場所や、失せ物の形状については聞き出している。場所については朧気にしか分からないが、探すべき物についてははっきりした。どうやら茶色のトランクケースらしい。

 経験を積んだ遊撃士にとって、それだけの情報があるなら十分だ。

 自信満々に胸を叩くエステルに少しは元気づけられたのだろうか。ブルーノも多少は表情が明るくなったように見えた。

 

「うむ、どうやらもう私が手を出す余地はなさそうだ。最後まで付き合えないのは忍びないが、そろそろお暇するとしよう」

 

 そう言って帰り支度を整えたボリス子爵は、少し申し訳なさそうに眉尻を下げた。

 

「あまり役に立てなくてすまなかったね。もう少し上手くやれればよかったのだが」

「……私が頭に血をのぼらせたのが悪かったのです。工場長が謝る必要はないでしょう」

 

 ゴルティ伯爵の言葉に激昂して以降、口を噤んで押し黙っていたドミニク。ようやく開かれた彼の口からの言葉に、ボリス子爵は淡い笑みを浮かべた。

 

「なに、君の気持ちを推し量れんかった私の落ち度でもある。嫌な思いをさせてしまって悪かったね」

 

 仕える相手からの謝意にドミニクは「いえ……」と短く答えるのみだった。その表情は酷く複雑なもので、彼が何を思っているのかを読み解くのは難しかった。

 きっと、この二人にもいろいろな事情があるのだろう。トワたちやエステルたちがそうであるように、これまでの人生で積み重ねてきたものがあり、その中にはおいそれと口にはできないこともあるのかもしれない。

 彼らが何を抱えているかは分からない。

 ただ、何時かその助けになることが出来たらいいなとトワは思う。

 

「では皆様方、いずれまたの機会に」

「はい。どうか気をつけてお帰りになってくださいね」

「またね、工場長さん」

 

 手を振って大聖堂を後にするボリス子爵たちを見送る。おそらく、また近いうちに会うこともあるだろう。こうも付き合いが続くとそんな予感があった。

 ひとたび場が動き始めれば他もそれに倣う。ボリス子爵に続いてエステルが「よっし!」と気合を入れる。

 

「それじゃ、こっちは先に出発するわ。早いところブルーノさんの無実を証明しないと」

「気を付けてね。何が待っているか分からないから」

 

 どちらが危険かと問えば、それはエステルたちの方だ。

 大型の魔獣ならまだいい。ただ、事がそう単純に済まない可能性もある。注意して過ぎたることはないだろう。

 

「ま、危なそうだったら大人しく引き返すさ。そうならないことを祈るけどな」

「そちらも険しいところに立ち入ることになりそうだ。お互いに女神の加護を」

 

 エステルたちもそれは承知の上だ。

 とはいえ、危険な魔獣に出くわしたとしても、今回は無理に討伐することはない。ブルーノが遭遇した何かを特定できればいいのだから。

 それを弁え、引き際を誤らなければ問題はない。経験豊富な遊撃士に今更言うことでもないだろう。

 ヨシュアの言葉を皮切りに峡谷道へと向かう頼もしいその背中を見送る。彼女たちを心配する必要はなさそうだった。

 

「こちらもそろそろ行かせてもらおう……すまないが、よろしく頼む」

「これも何かの縁だろう。気にすることはないさ。それより、ブルーノさんたちの方を気にかけておいてくれたまえ。ついでにあの伯爵の裏もね」

「……ああ。アルバレアの名に懸けて、最善を尽くそう」

 

 ブルーノを連れて流れに続こうとしたユーシス。彼の顔には不甲斐ない思いが滲んでいた。領民の窮地に自分だけではどうにもならないことを悔やんでいるのかもしれない。

 それは好ましい生真面目さだった。きっとアンゼリカと同じように、彼も彼なりの貴族としての誇りを持っているのだろう。

 ブルーノが糾弾されている場に迷いなく割って入り、今もこうして力を尽くそうとしている。交わした言葉は少なくとも、彼なりの矜持があることを理解するには十分だった。

 

「学友の方々も、改めてよろしく頼む」

「私からも……どうか、どうか妻のことをお願いします」

 

 最後に深く頭を下げたブルーノを伴って、ユーシスもまた大聖堂を後にした。

 さぁて、とクロウが肩を回す。残った自分たちもそろそろ動き出す頃合いだろうと。

 

「手古摺りそうだが、人の命が懸かっているとなりゃ本気でいかねえとな。トワ、先導は任せたぜ……おい?」

 

 返事がないことを不思議に思い振り返るクロウ。そこでトワは、後ろ髪を引かれるようにカーテが伏せる病室に目を向けていた。

 既に他の三人は足を動かし始めていたが、彼女だけがそこに立ち止まったままだった。クロウたちには見えない何かが、彼女を押し留めていた。

 

「トワ、どうかしたのかい?」

「……うん、ちょっとね」

 

 本当に、これでいいのだろうか。

 トワは悩んでいた。皆が皆、この事態を何とかするために全力を尽くそうとしている。それなのに自分は、このまま行ってもいいのだろうか。

 

『その、トワ。無理をすることはないの。ユピナ草を見つけられれば、それでいいんだから』

 

 息を潜めていたノイが見かねたように声をかけてくる。

 よくよく自分の気持ちに気付いてくれる姉貴分の心遣いはありがたい。しかし、それはトワの懊悩を解消するには至らなかった。

 天秤が揺れる。畏れか、心か。傾いては揺れ戻って思いは定まらず、そうこうしているうちにも足は三人を追ってゆっくりと動き出す。

 迷いを抱えながらも大聖堂の外へ。そこでトワたちはふと立ち止まった。

 先に出て行ったユーシスとブルーノ。大聖堂から少し離れた彼らのもとに、二人の幼い子供たちが駆け寄ってきていた。

 

「アネット、ラビィ。何故ここに……」

「ユーシス様……その、お父さんが朝になっても帰ってこないので、お母さんのところならもしかしたらって……」

 

 二人は、どうやらブルーノの子だったらしい。しっかりした雰囲気の女の子と、まだ日曜学校にも行ってなさそうな男の子。姉弟はしっかりと手を繋いでおり、それが少しでも不安を紛らわすためであることは傍目にも明らかだった。

 

「ごめんなさい。ちゃんとお留守番してるって約束したのに……」

「……いや、悪いのはお父さんの方だ。帰れなくてごめんな」

「ねえねえ、おとーさん。おかーさんはいつ元気になるの?」

 

 舌の足らないラビィの声にブルーノは表情を凍らせた。

 横のユーシスも沈痛の面持ちであり、トワたちでさえも胸を鷲掴みにされる思いだ。父親である彼の気持ちは察するに余りある。

 

「カーテは……お母さんは、まだ具合が悪いんだ。でも、今は大司教様が看てくださっている。ユーシス様のお知り合いも手伝ってくれているから、すぐに良くなるさ」

「ほんとー!?」

「ああ、だからお家で女神様にお祈りしような。お母さんが早く治りますようにって」

 

 だが、ブルーノは努めて明るい声でそう答えた。

 それは父親としての強がりだった。妻の容態は重く、自身も謂れのない罪を着せられそうになって心身は摩耗している。それでも子供を不安にさせないために、彼は精一杯の意地を張っていた。

 ラビィはそんな父の言葉に素直に頷いていたが、アネットは薄々と何かを感じていたのかもしれない。その表情は決して明るいものではなかった。

 ただ、察しのいい娘は父親の気持ちにも思い当たるところがあったのだろう。いたずらに事情を聞こうとはせず、家路を促す父についていく。

 それを見送ったユーシスは、決然とした表情で貴族街へと足を向ける。行く先はアルバレアの城館だろうか。その足取りには並々ならぬ思いが籠っていた。

 

「……お子さんがいるとは聞いていなかったね。危険を承知で薬草を探し出そうとした気持ちも分かるな」

「ああ。これは、ますます責任重大だね」

 

 意図せずして目にすることになった一幕。肩にかかる重さは増したように思えるが、それを苦に思うものはいなかった。むしろ意思を固める契機となったと言える。

 そして、それはトワにも言えることだった。

 揺らいでいた天秤が傾ぐ。彼女は瞳から迷いを消し去った。

 

「――ごめん、すぐに戻るから!」

『あっ、トワ!?』

 

 踵を返す。引き留める声も聞かず、トワは大聖堂に駆け足で舞い戻った。

 他には目もくれず真っ直ぐに病室へ。さして時間は経っていない。先ほどと同じく、そこには横になるカーテとそれを看病するアモン大司教がいるのみ。シスターなどは席を外していた。

 都合がいい。大司教である彼だけならば、あまり問題にはならないだろう。

 

「どうかしたのか? 聞きたいことがあるならば……」

「アモン大司教」

 

 戻ってきたことを不思議に思う彼の言葉を遮る。

 ともすれば失礼に受け取られかねなかったが、大司教は何も言えなかった。彼女の瞳の中に強い意志の光を見たから。

 

「これから目にすることは、どうか他言無用に願います」

 

 伏せるカーテに近寄る。トワは感じていた。血色が失せた彼女の体から、生命の源が零れ落ちていくのが。罅割れた器から水が滴るように。

 自分に何ができるかは分かっていた。分かっていながら目を背けようとしてしまった。姿のない恐怖に怯え、自分可愛さに力を尽くそうとしなかった。

 怖いのは変わらない。気を抜けば足が竦みそうになる。

 でも、今ここでやらなければ自分は絶対に後悔する。例えこの一件がどのような結末を迎えようとも、それだけは確かだから。

 

 ――あの家族の笑顔を取り戻すために、この《力》を振るおう。

 

「おい、急にどうしたって……」

 

 突然のことに出遅れたクロウたちが病室に辿り着く。

 瞬間、そこに生命の息吹が渦巻いた。

 ザクセン鉄鉱山の時と同じく、栗色の髪を白銀に染めたトワのもとに力が集う。それは大地からであり、空からであり、あまねくものから少しずつ貰ったもの。彼女の中で合わさり、増幅された力は一つの大きな輝きとなる。

 黄金色のそれは、生命の輝きであった。

 あまりの光景に誰もが言葉を失っていた。クロウも、アンゼリカも、ジョルジュも、アモン大司教も。目の前で行われる御業に、ただ目を奪われていた。

 黄金の燐光を纏った手がカーテにかざされる。光が蒼白い顔をした彼女に溶け込んでいく。ゆっくりと、壊れかけの器に水を注ぐように。

 やがて全てが溶け込むと、カーテの容態は目に見えて変わっていた。苦しさに歪んでいた顔は幾分か和らぎ、呼吸も随分と深く安定している。

 ふう、と一息つくトワ。白銀の髪は再び栗色に戻り、その身から放たれていた神威が霧消する。クロウたちは幻でも見ていた心地だったが、今起きたそれは紛れもなく現実であった。

 

「これでもう二、三日は大丈夫だと思います。対処療法で、根治にユピナ草が必要なのは変わりありませんが……」

 

 アモン大司教に向き直ったトワはそう伝えるが、相手はそれどころではない様子だった。彼は震える声で言葉を紡ぐ。

 

「君は……いや、貴女様は……!?」

 

 困惑から疑念、そして確信に染まる瞳。大司教は反射的にその場で跪こうとする。

 トワは彼の肩を抑えてそれを止めた。まだ道を見定めていない自分にそんな価値があるとは思わなかったし、そもそも大仰な態度を取られるのは苦手だった。

 

「ここにいるのはただの士官学院生、トワ・ハーシェルでしかありません。それは、お分かりいただけないでしょうか?」

「……申し訳ありません。私としたことが取り乱しました」

 

 思わず苦笑する。ただの学生相手に畏まりすぎではないか。

 典礼省の、それも信心深そうな人だから仕方ないのかもしれない。そうやってトワはひとまずこのことに関しては折り合いをつけた。

 そろそろ行かなければ。こうしている間にもエステルたち、そしてユーシスも頑張ってくれている。自分たちばかりが出遅れるわけにもいかない。

 

「改めて、看病をよろしくお願いします。さ、行こう皆」

「あ、ああ……」

 

 事態を飲み込み切れていない様子の三人を引き連れ、今度こそオーロックス峡谷へ。その背中にアモン大司教は最上の敬意と共に祈りを捧ぐ。

 

「どうか貴女方に女神の――そして星の導きがあらんことを。無事の帰りをお待ちしております。尊き星の子よ」

 




《奈落病》
身体が徐々に衰弱し、やがて死に至る原因不明の病。『世界の果て』に近いほど発症しやすいと言われている。
アーサも以前から罹患しており、物語の途中で限界が訪れて倒れてしまう。

《ユピナ草》
奈落病の特効薬の原材料となる薬草。主に高地で見かけられる。
生育条件が非常に厳しいためか、栽培は不可能な模様。入手は野生のものに頼らざるを得ないが、奈落病への恐慌もあって乱獲され絶滅状態に陥った。
姉を救う術を求めるナユタは、地上に現存しない動植物も残る《テラ》ならばと思い至り、霊峰の大地を奔走した末にユピナ草を発見する。それは枯れた状態のものだったが……


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第40話 星の力

ちょうど切りのいい話数にこの話を持ってこれて少しばかり満足感。いえ、全く計算とかしていなかったんですけどね。

余談ですが、去るエイプリルフールに何となく拙作のトワが《鉄血の子供たち》になったらどうなるのか考えてみたのです。
もうね、子供たちになる切っ掛けからして鬱ストーリー全開ですよ。こんなの実際に書いていたら自分の精神がやられるってくらい。
そういうことでこのネタは没。


「奈落病は病気というよりも、一種の霊障に近いんだ」

 

 峡谷道を外れ、道なき道を進んでユピナ草を探すトワたち。先頭に立つ栗色の少女がひょいっと崖を登りながら言った。

 

「生命力、気功、霊力(マナ)……捉え方は様々だけど、命あるものにはその根幹をなす力があって、死に近づくにつれてそれは弱まっていく」

 

 軽々と崖を登り切って「殆どの人は無意識だけど」とトワ。

 無論、それを扱う術を身に着けた人々もいる。卓越した武人が内なる力を発露し、身体能力を格段に高めるように。霊力に通じた者たちが、それを用いて様々な術を為すように。

 一見すると、どれも違うものに見えるかもしれない。

 だが、いずれも根幹は共通している。その力は生命に根差すものだ。

 

「そんな誰しもに宿る力が、身体に霊的な傷を負うことで漏れ出してしまうことがあるの」

 

 乱れた地脈に中てられたか、極度の肉体的疲労が霊的側面にも影響を及ぼしたか。要因はいくつか考えられるが、カーテの場合は後者だろう。

 罅割れた器は、自然には直らない。

 霊的な傷も同じだ。放っておいても良くなることはなく、力が漏れ出ていくことは止まらない。生命の根幹が失われていくことで肉体的にも衰弱していく。

 

「やがて生命活動を維持できなくなって死んでしまう……それが奈落病の正体だよ」

「なる、ほど、なっ! そりゃ、医学的には分からねえわけだ」

 

 続いて崖を登り切ったクロウが納得を示す。オカルトじみた話だが、先ほどの出来事を見た後では信じるほかになかった。

 大聖堂を出てから聞きたいことは山ほどあった。あそこで何をしたのか、カーテの容態が改善したのは何故なのか、アモン大司教はどうして敬う姿勢を見せたのか……トワは、いったい何者なのか。

 それでもルーレでの一件が脳裏に過り、彼らは躊躇っていた。仲間の心を傷つけてまで聞きたいとは思わなかったから。

 だが、口火を切ったのはトワの方であった。自発的に《力》を使ったこともあって、彼女の中で一つの踏ん切りがついたのだ。もう、隠すこともないだろうと。

 奈落病の話は、その前置き。

 トワのことを真に理解するためには、まず知る必要があった。この世界のあまねくものに存在する力、生命の根幹たる概念を。

 

「よっと! 泰斗の教えにも似たような観念はあるね。やはり、龍脈や地脈といったものにも通じる話なのかな?」

 

 泰斗の業として内気功(ドラゴンブースト)を修めているアンゼリカはその概念に対する理解が早かった。当然ながら、それに連なるものにも考えが及ぶ。

 地脈、霊脈、龍脈。ところにより様々に呼ばれる、大地に流れる力の流れ。あるいは七耀脈とも称されるそれは、七耀石の鉱脈とも密接にかかわることから一般にも漠然ながら認識されている。

 乱れた地脈が肉体に悪影響を及ぼすならば、もとよりそれらには相互に関係があるものなのだろう。

 そう思ってのアンゼリカの問いだったが、それは正しくもあり、間違いでもあった。

 

「関係があるというか、本質的には同じものだね。どちらも一つの生命から生じて、その根幹をなすことには変わりないから」

 

 クロウとアンゼリカは首を傾げた。同じとはどういうことかと。

 片や、あくまで一つの生命体に宿る力。片や、大地に流れる途方もないほどに巨大な力。その二つが同種のものにはとても思えなかった。

 だが、トワは何てことはない様子で言葉を続ける。ごく当たり前のことを口にするように。彼女はその足元を――自分たちが立つ大地を指して言った。

 

「この地上で最も巨大な生命――星そのもの(・・・・・)に宿る力と考えたら、そんなに変なことではないでしょ?」

「……なるほど、そういう解釈か」

 

 納得しつつもアンゼリカは気が遠くなる心地であった。あまりにも巨視的というか、一人の人間には考えもつかないスケールだ。

 この星を一個の生命に見立て、地脈に流れる力をその根幹をなすものと捉える。確かに本質的には変わらない。宿るのが肉体か星か、そしてその総量に圧倒的な差があることを除けば。

 

「ぜえ……ぜえ……な、なんだか及びもつかない話だけど……本質的に同じってことは、どんな生命に宿る力も元をただせば同じということかい?」

「まあ、そうなの。色々と違うように見えるけど、どれも同じものから変質したものと考えていいの」

 

 息を切らせながら崖を登り切ったジョルジュ。そんな彼に、もしもの救命役として最後尾につけていたノイが応じる。

 流れる力が七耀の属性に染まれば、七耀脈となり七耀石を生み出す。それから人が引き出して利用するものが導力だ。

 あるいは人が肉体に宿る力を引き出そうとすれば、丹田に集うそれを気功と称する。はたまた魔性の術理を用いるものは、己の内から、または地脈から引き出した術の対価を霊力と呼ぶ。

 形は違っても、どれも同じなのだ。

 生命に流れる霊的な血潮とでも言うべきもの。幾重にも枝分かれするその源流、最も純粋な力の呼び名をトワは口にする。

 

「生命の魂から、星の核から生まれるもの――それが、《星の力》」

 

 クロウたちは大聖堂で見た光景を思い返す。

 トワのもとに集った、あの黄金色の輝き。あれが純然たる生命力そのもの、星の力だというならば腑に落ちる。

 命の輝きというのは、あれほどまでに美しいものだったのかと。

 

「はぁ……こりゃまた、とんでもない話というか……現実感がついてこねえな」

「あはは……だよねぇ」

「仕方ないの。普通に生きていて生命の理なんて気にすることもないだろうし」

 

 星の力の概念を把握はしたが、それをかみ砕いて理解できたかというと頭が追い付いてきていないのが正直なところであった。

 もとより一から十まで理解するのは土台無理な話だ。星の力の深奥まで立ち入ろうとするならば、この世界の森羅万象にまで知識を深めなければならない。普通の人間の、ほんの十数年の人生では入り口に立つのがやっとだろう。

 真に理解するためには、膨大な年月をその探求に費やすか……それこそ、生まれついて星の力そのものを知覚する存在でなければ不可能だ。

 

「今は、そういうものがあると分かってもらえれば十分だよ。口では説明できないことも多いし」

 

 人の体には星の力が宿っており、それが失われかけていることでカーテは死に瀕している。必要最低限、そのことが理解できればいい。

 この場で講釈を垂れ始めたら、太陽と月がいくら廻り季節が過ぎ去っても終わることはないだろう。全員が崖を登り切ったのを確認し、トワは話を区切るように足を再び進め始めた。

 

 

 

 

 

 オーロックス峡谷は、エレボニア帝国とカルバード共和国の境界を為す山岳地帯の一部にあたる。一応は共和国方面に繋がる道もあるが、互いを不倶戴天の敵と見做す今となっては足が途絶えて久しい。

 当然ながら、その道は侵攻ルートとしても考えられる。オーロックス砦は元々、古来よりそちらからの防衛あるいは侵攻の拠点として建設されたのだろう。

 しかし、それは中世以前の話。戦争の大規模化、昨今の機甲化を経た現代戦において、峡谷の狭く険しい道は進軍に甚だ不適切だ。

 わざわざ戦いにくい場所で戦う指揮官はいない。必然的にオーロックス峡谷の戦略的価値は低くなり、砦も防衛拠点というよりクロイツェン領邦軍の軍事的本拠地としての性格が強い。今では共和国方面への門扉が残っているかも怪しいところである。

 

 閑話休題。

 峡谷道は、そんな砦とバリアハートを結ぶ道だ。砦の奥、本格的な山岳地に比べれば控えめであるが、一度道を外れれば峻厳たる赤茶けた崖肌が出迎える。場所によっては標高もそれなりに望めるだろう。

 ユピナ草を探し求めるトワたちは、既にかなり高い地点にまで登り詰めていた。切り立った崖から見渡せば、壮麗なバリアハートの街並みが遠くに見える。

 尤も、そんな風景を眺める余裕があるのはトワだけだ。一歩間違えば谷底に真っ逆さまな悪路を平然と突き進む彼女に、他の三人はついていくので精一杯だった。

 

「っとぉ!? あっぶね……命が幾つあっても足りねえぞ、こりゃ」

 

 風化して脆くなっていたのか、地面の一部が崩れて足を取られかけたクロウが冷や汗を流す。初夏の暑さもどこへ行ったのやら。容赦なく吹く強い風が寒気を感じさせた。

 獣道ならまだマシなもの。急勾配の崖をよじ登り、今にも崩れそうな細道を渡り、身の危険を感じる道程にクロウたちは神経を磨り減らす。

 それらをアスレチックの如く軽々と乗り越えていくトワは、控えめに言って心臓に毛が生えているように思えた。意外と野生児なトワからしてみれば、例え天を衝く高さだろうと強風吹き荒ぶ不安定な道だろうとへっちゃらなのだが。

 

「そんなに心配する必要ないの。落ちたら私が引っ張りあげるから……ジョルジュもたぶん大丈夫なの、うん」

「そこはかとなく不安を煽られるんだけど……」

 

 万が一滑落しても、ノイがギアホールドで引っ掛けて助け上げてくれる。その点、安全性に問題はない。

 とはいえ、人間怖いものは怖い。微妙に言葉を濁されたジョルジュは尚更であった。他に対策もないので、このまま進んでもらう他にないのだが。

 

「それにしてもまあ、随分と登って来たね。こんなところまで来ないとユピナ草は見つからないのかい?」

 

 安定した場所で一息ついたところで、アンゼリカが周囲に視線を巡らせる。

 近辺に、もうこれ以上標高が得られそうな場所はなかった。その眺望は壮観ではあるが、薬草一つを探すのにここまで労力を要することはあるのだろうかと疑問に思うのも仕方ないだろう。

 だが、何も考え無しに足を進めてきたわけではない。トワは静かに頷いた。

 

「もともと、生育条件としてはかなりギリギリだからね。途中にも見つからなかったし……このあたりでも見つからなかったら、国境付近まで足を延ばすしかないかも」

 

 高地の気候や潤沢な地脈、ユピナ草が根付くには様々な条件が整っていなければならない。特効薬の材料であるのに安定した供給ができない要因だ。

 オーロックス峡谷道は、その条件に照らし合わせるに辛うじてと言ったところ。見つけられる可能性は楽観的に考えても五分五分であった。

 砦の奥、本格的な山岳地なら期待もできるが、そこは共和国との国境地帯。そう易々と立ち入れる場所ではないはずだ。なるべくこの場でユピナ草を発見したい。

 僅かな希望を求め、目を皿のようにしながら近辺を探索する。真面目に探しつつも、クロウが「っていうかよ」と口を開く。

 

「お前の力で根本的にはどうにかならねえのか? 大司教には対処療法とか何とか言っていたが……」

「根治は難しいね。私がやったのはその場しのぎ――延命処置って言った方が伝わりやすいかな」

 

 首を傾げる三人。トワがその星の力とやらで何かをしたのは分かったが、具体的にどういった事象が起きているのかはさっぱりだった。

 

「カーテさんは今、奈落病で傷ついた身体の器から星の力が漏れ出ている状態。私にできるのは、そこに力を注ぎ足すことだけだから」

 

 水が漏れ出るグラスに注ぎ足しても、底をつくまでの時間が延びるだけ。延命処置とは、つまるところそういう意味だ。

 正常な状態に戻すためには、やはりユピナ草による特効薬を使う他にない。器が自然な形に修復されれば星の力も直に元に戻る。兎にも角にも、カーテの命を救うためにユピナ草は必要不可欠なのだ。

 そこまで理解したところでクロウたちは、はたと気付く。

 トワが出来ることは、器に対して新たに星の力を注ぐことだという。奈落病に対しては先延ばししかできないと本人は言うが……それが意味するところは、途轍もない事実ではないのか。

 

「いや、まさか……トワ、君は――」

「あったのっ!!」

 

 理屈では分かっても、俄かには信じがたいそれ。その真偽を問おうとした瞬間、上空から周辺を見渡していたノイの大声が遮った。

 

「あそこの岩陰! きっとユピナ草なの!」

 

 疑念も何もかもが、一先ずは後回しになった。

 ノイが指差す方向に急ぎ足で向かう。僅かに緑で色付いた岩場の陰を覗き込むと、確かにそこには少ないながら草花が揺れていた。

 薄っすらと蒼い花弁。どこか儚げな雰囲気を醸し出すそれをじっくりと検分するトワ。間違いのないよう慎重を重ねたうえで、彼女は確信をもって頷いた。

 

「うん、確かにユピナ草だよ。多くはないけど、カーテさんの薬を作るには十分だと思う」

 

 その言葉に、本来は喜ぶべきところなのだろう。

 いや、見つかったのは間違いなく良いことだ。それはクロウたちにとっても違いない。しかしながら、ユピナ草の発見を正直に喜べない理由が、見つけたそれそのものにあった。

 

「その……大丈夫なのかい? 見た感じ、状態は良くないみたいだけど」

「ぶっちゃけ枯れかけだな、こりゃ。薬の材料になるかは怪しいところだが……」

 

 蒼い花弁は端から黒ずみ、全体的にしなびかけていた。咲きはしたものの、環境的な要因からすぐに枯れてしまったのだろう。

 これでは薬効は期待できそうになかった。せっかく見つけたというのに、それが肝心の薬には使えない状態だとは。落胆の色が広がるのも無理なからぬことだ。

 だが、トワはそうではなかった。大した問題ではないとでも言うかのように、その声には揺らぎなどまるで存在しなかった。

 

「大丈夫だよ。これだけあれば、あとはどうにかなるから」

「どうにかって、お前……」

 

 こんな枯れかけの代物をどうするというのか。

 答えは、それを口にする前に示された。

 トワが再び白銀に染まり神威を発する。言葉を失う三人を余所に、彼女は枯れかけのユピナ草を前に祈るように目を閉じ手を組んだ。

 

「お願い……」

 

 大地が脈動する。少女の祈りに呼応して地脈が鼓動を打ち、流れる生命の源が――星の力が彼女のすぐ傍に、ユピナ草に集まっていく。

 大地が光り輝いていた。集中した星の力は黄金色の輝きとなって可視化し、その燐光がユピナ草を包み込んだ。

 トワは瞼を上げ、言霊を紡ぐ。朽ちかけた生命に再び光を灯すために。

 

「もう一度、咲いて――!」

 

 途端、一際強く輝いた光にクロウたちは反射的に目を閉じる。

 いったい何がどうなったのか。すぐに収まった光の下に視線を戻し――その先で目にしたものに、彼らは今度こそ茫然自失となった。

 

「……マジかよ」

 

 非現実的な光景に、そう口にするのがやっとだった。

 瑞々しい蒼い花弁が、峡谷の風に揺れていた。つい先ほどの黒ずみ、しなびかけていた姿などどこにもない。そこにあるのは、儚くも美しく咲き誇るユピナ草であった。

 奇蹟。他に表しようのない超常の事象を前に、クロウたちは呆然と立ち尽くすことしかできない。

 そんな彼らの方に、安堵の息をついたトワが振り返る。

 思えば、力を解き放った彼女と面と向かうのは初めてだった。なびく白銀の髪は一本一本が輝いているようで、金色から紅耀石(カーネリア)を思わせる真紅に変色した虹彩はどんな宝石にも勝る美しさを覚える。

 普段の幼げな可憐さは鳴りを潜め、代わって幻想的な雰囲気をトワは纏っていた。三人の様子を見て少し困った笑みを浮かべる様子は、あまり普段と変わりのないものだけれども。

 

「これで大丈夫だけど……まあ、そうなるよね」

「は、はは……正直、魂消たとしか言えないよ」

「もしやと思ってはいたが、こうも見せつけられると理解せざるを得ないね、まったく」

 

 もはや、トワの力がどういったものなのか疑う余地はなかった。

 カーテの命を長らえさせたこと。枯れかけだったユピナ草を蘇らせたこと。そのどちらにも星の力が大きく関わっている。

 ならば、それを為したトワが持つ力も自明の理となる。

 

「勿体ぶるような形になっちゃったけど、そろそろちゃんと言っておこうか」

「トワ……」

 

 姉代わりの気遣いの目にトワは頷いて応じる。大丈夫、そう言うように。

 一呼吸おいて、彼女ははっきりと、自分の口からそれを明かした。

 

「星の力を感じ、操る力。それが私たちの――女神よりレクセンドリアの地に遣わされた古代人、《ミトスの民》の権能だよ」

 

 

 

 

 

 近くの岩場に腰を下ろしたトワが「少し長くなるけど」と前置く。ここに至って最後まで聞かない選択肢などない。クロウたちも適当な場所に腰を落ち着けて聞く姿勢に入った。

 

「皆もう分かっているだろうけど、私は純粋な人間じゃないんだ」

「……それは異能持ちとか、そういうのとは違う意味なんだな?」

 

 語り始めから反応に困る出だしだったが、クロウはなんとかそれを受け止めて聞き返した。確認の態を取りながらも、半ば確信の上で。

 人間の中には、時に異能と呼ばれる特異な能力を有した者が現れる。その効力、起因は様々であるが、いずれにしても変わらないのは彼らも人間であるのには変わらないということだ。

 だが、トワは違う。彼女の力はあまりに強大すぎた。異能という範疇に収まらない埒外のそれは、とても人の身には御せないものだ。

 人間が有するはずのない力であるなら、答えは一つ。彼女は人間の枠から外れた存在であるということになる。

 

「うん、私は人間とミトスの民の混血だから。それにお母さんの方の血が強く出たみたいで、殆ど純血と変わりないし」

 

 ミトスの民、それこそが彼女の身に流れる血の名であり起源。

 いったい如何なるものなのか。トワは言葉を続ける。

 

「さっきも言ったけど、ミトスの民は空の女神がレクセンドリア大陸に遣わしたとされる古代人なんだ。ゼムリア大陸における《七の至宝(セプト・テリオン)》と《聖獣》に類似する存在だね」

「《七の至宝》……古代ゼムリア文明繁栄の礎とされる代物か」

 

 女神が古代ゼムリアの人々に与えたとされる、超常の力を有した七つの古代遺物。そして、その行く末を見守る七の聖獣がこの大陸には存在する――と、伝説では言われている。

 世間では眉唾な話であるが、こうして伝説の中から飛び出してきたような存在を前にしてはそれも信憑性を帯びるというもの。同じ女神から遣わされたものとなれば尚更であった。

 

「ミトスの民は星の力を操り知恵を与えることで、レクセンドリアの人々を豊かにするのが役目だったの。実際、大昔のレクセンドリアには古代ゼムリアにも負けないくらいの文明が栄えていたんだ」

「あの大陸にそんな文明が……でも、栄えていたってことは……」

「……レクセンドリアの文明も、ゼムリアのように滅びてしまったの。大崩壊と同じ……ううん、見方によれば、もっと救いのない形で」

 

 かつてレクセンドリアの地に栄えた古代文明。ミトスの民が力と知恵を与え、人々は女神からの遣いを崇め、そして共に生きていた。

 だが、今のレクセンドリア大陸にその面影は見られない。あるのはどこまでも広がる雄大な自然と、時折見つかる朽ち果てた文明の残滓のみ。ゼムリアでは稀に発見される古代遺物から、古代の文明の凄まじさを感じ取れる部分もあるが、レクセンドリアにはただ未開の地が広がるのみだと聞く。

 古代レクセンドリア文明がゼムリアの大崩壊と同じように滅びてしまったのは確かなのだろう。だが、それを語るノイの哀しそうな表情が、単純に比較できない只ならぬことがあったのを示していた。

 レクセンドリア大陸は三十年前まで立ち入ることのできない不可侵の地と化していた。そのことに滅びの原因が関係しているのかもしれないが、今はそこまで語ることではないのだろう。トワが話を進める。

 

「滅びの中でミトスの民も殆どが死んでしまったけど、二人だけ生き残りの兄妹がいた。その兄妹は滅びを予期して作られた箱舟で宇宙(そら)に逃れ、そして千年にわたる長い眠りについたの。人々が過ちから立ち直ることを願って」

「……その箱舟ってのが《テラ》で、兄妹がお前の母ちゃんと伯父貴なんだな」

 

 返されるのは首肯。クロウは深く息を吐いた。

 気の遠くなる話だ。遥か西方の大陸、その神話の主たる女神の遣い。そんな存在が市井に混じって生活しているなど、どこの誰が想像できようか。

 思い返してみれば、シグナも不可思議な力を使っていた。帝都の地下水路、そこで魔鰐に片足を食いちぎられて失血死しかけていた騒動の主犯を生き延びさせた業。あの時は気功術の類かと思ったが、あれも星の力を用いたものだったのだろう。

 女神の力の一端を有する古代の民。その血を受け継いだ末裔が目の前の少女ということか。途轍もない話である。

 

「三十年前の《流星の異変》を経て、お母さんと伯父さんは地上で生きていくことを選んだの。あ、二人を養子として引き取っただけで、お祖父ちゃんは普通の人間だよ」

「女神の遣いを養子にすること自体、大したものだと思うけどね。流石は《剣豪》というか……それを考えたらナユタさんの方が凄まじくなるが」

「女神の遣いを嫁にした男、か。はは……器が大きいどころの話じゃないね」

 

 思わず乾いた笑みが漏れる。あの温和な男性が並の人物ではないことは薄々分かっていたが、軽く想像の斜め上をいかれて参ってしまう。

 だが、これで色々と合点が付いた。トワが有する不可思議な力の正体、彼女たちが《流星の異変》について詳しい理由、大司教が示した敬服の姿勢。そのどれもが、ミトスの民と繋がっている。

 

「七耀教会あたりは、お前らのことを把握しているみたいだな」

「うん。でも、そこのところ結構複雑なんだよね」

 

 複雑とは、どういうことか。首を傾げる面々に答えたのは、肩を竦めたノイであった。

 

「さっきの大司教さんみたいに、典礼省の人は女神の遣い――要するに《天使》として崇め奉ってくるの。ただ、問題は封聖省とか教会上層部の枢機卿とか」

「自分で言うのもなんだけど、信仰対象になり得るのが実在していると教派の分裂とかに繋がりかねないらしくて……それが無くても、私たちの存在は教会にとって劇薬だから。世間には厳重に秘匿されていて、教会内部でも知っているのは大司教クラス以上だと思う」

 

 言われて納得した。それは秘匿も必死になるだろう。

 教典に綴られる空の女神を信仰する七耀教会。そこに神の如き力を持った存在が現れればどうなるか。より明確な信仰対象に魅かれ、教会内で分派する可能性は否定できない。

 空の女神の教えはゼムリア大陸に広く浸透している。それこそ、切っても切り離せないほどに。そんな一大宗教が分派など起こせば間違いなく大騒動。最悪、宗教戦争なんて碌でもないことになりかねないだろう。

 《流星の異変》の仔細が一般に伏せられているのはそうした理由があってのこと。なるほど、劇薬とは言い得て妙だった。

 

「つまりマイフェアリーエンジェルはリアルエンジェルだったということか……! ああ女神よ、この出会いに感謝します!」

「今の話を聞いてその感想が出てくるあたり、アンは本当にぶれないね」

「あはは……私としては、変に畏まられても困るだけなんだけど」

 

 とはいっても、それはあくまで教会にとっての話。試験実習班にとっては《天使》だとか宗教上の問題など知ったことではない。

 仲間の一人が、たまたま普通の人間じゃなかっただけ(・・)。常識外れな一面など散々目にしてきたのだ。今更になってとやかく言うつもりもなければ、そんな浅い付き合いをしてきた覚えもない。

 トワは、それが何よりもありがたかった。彼らなら受け入れてくれる。そう信じられたからこそ、こうして自分のことを明かせたのだから。

 

「それに……事情を知らない人からしたら、天使でも悪魔でも変わりないよ」

 

 だが、彼女は知っていた。誰もが自分を受け入れてくれるわけではないことを。

 トワらしからぬ影を帯びた声。何か並々ならない事情があるのを察するには十分な兆しだった。

 

「……どういう意味だい?」

「普通の人からしたら、どっちも大きな力を持った存在には違いないっていうこと。自分たちの理解が及ばない、恐怖の対象としてね」

 

 淡い笑みを浮かべる彼女に、何と言えばいいのか分からなかった。その語り口には、あまりにも実感が籠っていたから。

 

「十年くらい前まではね、私は自分の持つ力が当たり前のものだと思っていたんだ。力の扱い方はお母さんと伯父さんが教えてくれた。島の皆もそれが自然なように受け入れてくれていた。だから、これが当然なことなんだって」

 

 教え導いてくれる先立ちがいた。ありのままの自分を受け入れてくれる故郷があった。ミトスの民として生まれたトワにとって、それが幸運だったのは間違いない。

 しかし、幼い少女にその幸運を理解しろというのは酷な話だった。生まれた時からあるものを、どうして特別と思えよう。

 彼女の周りの人々は、それを把握しつつも改めようとはしなかった。偏にまだ小さい子供だったからだ。歳を重ねれば、いずれ分かるようになるだろうと。

 そうして先延ばしにしたのが仇になった。

 悔恨の表情を浮かべるノイ。トワは「でも、違った」と話を続ける。

 

「秘匿はされているけど、少ないながら交易があったり、隠しようもない巨大な遺跡があったりで色々と噂は流れるみたいでね。残され島にも稀に観光客とかが来るんだ」

 

 あと、と言葉を区切った彼女はどこか哀しそうな顔になる。

 

「《テラ》からの盗掘を狙った人とか、ね。実際のところ、分かり易い金銀財宝なんてものは無いんだけど」

「それはまた不届きな連中というか……そんな輩がどうしたというんだい?」

 

 情報が完全に遮断できないのは仕方がない。残され島の人々にも生活というものがあるし、何より小国並みの大きさを誇る遺跡が落着した現場である。とても存在そのものを隠し通せるものではなかった。

 だから《テラ》という巨大な隠れ蓑に真実は紛れ込ませる。外部の人間の前では神秘の片鱗を見せず、島の人々も口を噤む。そうすれば巨大遺跡を遠目に見るだけで観光客は帰っていく。それが教会との盟約に定められたこと。

 だが、決して万全とは言えなかった。強欲な人間は、時に想像を超えた蛮行を容易く選ぶのだから。

 

「夜闇に紛れて飛行船で侵入したみたいなんだけど、よりにもよって凶暴な魔獣が生息するところに入り込んじゃってね。あっという間に墜落して逃げられなくなっていた」

 

 《テラ》は様々な原生生物が生きる土地。当然ながら魔獣も含まれており、中には現代では考えられない強靭な種もある。

 そんな場所に不用意に立ち入った盗掘人を待ち構えていたのは、情け容赦のない原始の洗礼。弱肉強食の理の前に命を潰えかけた。

 

「たまたまお父さんも伯父さんもいなくて、お母さんも出かけていたから最初に気付いたのは私。助けなきゃって、深く考えもせずに飛び出したの」

「…………」

 

 お人好しなトワらしい行動だ。小さい頃からそれは変わらなかったのだろう。

 しかし、話が進むにつれて重苦しくなるノイの表情が物語っていた。これは決して、善き結末を迎えた出来事ではないのだと。

 

「何とか間に合って、当たり前のように力で魔獣を追い払って……へたり込んだ人に手を差し伸べたら、何て言われたと思う?」

 

 クロウたちは、何も答えられなかった。

 分からなかったからではない。想像がついてしまったからこそ、その答えを口にはしたくなかった。彼女の淡い笑みの理由を察してしまった。

 トワはそんな三人の胸中を知るからこそ、自ら答えを口にする。

 

「その人は私の手を振り払って、怯えた目で言ったんだ」

 

 

――近寄るな、この化け物っ!!

 

 

 助け出した相手から投げかけられたのは、同じ人間に向ける言葉ではなかった。それを思い返して頬を緩める様は唯々痛々しい。

 

「馬鹿だよね。少し考えれば、そうなることくらい分かりそうなのに」

「お前……」

 

 自嘲の笑みを浮かべる彼女に、何と声を掛けるのが正しかったのだろうか。

 心無い盗掘人に対して憤る?

 化け物なんかじゃないと否定する?

 きっと、どれも違う。何が正しくて、何が間違っているという単純な話ではないのだ。

 たった七、八歳の頃。剣を振るうには身体が出来上がっていなかっただろうし、魔獣を追い払うにはミトスの民の力に頼る他になかった。

 対して、そんな小さな女の子が飛行船を打ち落とすような魔獣を不可思議な力で追い散らすのを見れば何と思うか。

 理解を超えた力、人に非ざる威圧を放つ存在を前にして、脆弱な人間は拒絶することしかできない。天使でも悪魔でもなく、理解の及ばない人外――化け物、或いは怪物と。

 その矛先を向けた相手を、どれだけ傷つけるか知る由もなく。

 

「その時になってようやく分かったんだ。自分が人間じゃないって」

 

 自身がどんな存在なのかは知っていた。知っていただけで理解していなかった。恵まれた環境に溺れ、当たり前のことと錯覚していた。

 ある意味で正しい反応に晒されて、トワは幼いながらに悟ったのだ。自分は万人に受け入れられる存在ではないのだと。その胸に刻まれた心的外傷(トラウマ)と共に。

 

「……そうか。だから鉄鉱山の時にあんなに……」

「そんなろくでなしと一緒にされたのは心外だが……仕方ないことか」

 

 特別な力を持っているとはいえ、ほんの小さな子供にとってどれだけの痛みを伴うことだっただろうか。血は出ないけれど、どんな傷よりも鋭い痛みが彼女を襲ったに違いない。また拒絶されるのではないか。そんな恐れを抱いてしまうほどに。

 

「ちっ……結局、盗掘人ってのはどうなったんだ?」

「後から駆け付けた私とクレハ様で保護した後、教会の人たちに連れていかれたの。命までは取られていないと思うけど、暗示で記憶を封じられたうえで投獄されたんじゃないかな」

 

 無法者には相応の罰が下ったようだが、ノイの口ぶりにはまるで興味が感じられない。彼女たちにはどうでもいいことだったのだ。

 いつか分からせなければいけないことだった。人非ざる存在であること。生まれ持った力の強大さ。そんな自分たちを人は時に畏れ、拒むこと。ゆっくりと、時間をかけて受け入れてもらおうと思っていた。

 だが、現実は非情だ。考え得る限り最悪の形でトワは思い知ってしまった。幼い無垢な心を引き裂くことで。

 悠長に構えていたせいで大切な子を傷つけてしまった。ノイは、彼女やナユタをはじめとした人々は、そう悔いているのだろう。

 

「当たり前だと思っていたことが違うと分かったら、急に怖くなってきちゃってね。それまで自然とこの姿だったのも、意識して抑え込むようになった」

 

 普段の栗色の少女と、今の白銀に真紅の姿。どちらが自然かと問えば、それは後者であった。

 普段の姿は元ある力を身体の奥底に押し込んでいる状態。ミトスの民としての本質を抑え込んだ仮初めのものだ。

 自分自身に封を施し、可能な限り常人に近付ける。無駄で無為な真似と誹られても仕方がない行為だが、そうでもしなければ心の平静を保てなかった。

 

「上辺だけ取り繕っていつも通りの生活に戻っても……力を使うのは怖かったし、考えれば考えるほどどん底に嵌っていった。ミトスの民として正しい在り方ってなんだろうって。もう、使命も役目もなくなってしまったのに」

 

 生まれ持ったものの大きさに気付いてしまったトワは、それを規範の中に落とし込もうとした。そうすれば力を律することが出来ると思ったから。

 だが、かつてあった規範や標は無意味なものに成り果てていた。人々を豊かにするという役目はレクセンドリアの滅亡と共に立ち消え、もう一つの使命も他ならぬ生みの親たちの尽力により為し遂げられている。ミトスの民は、その務めを既に全うしていたのだ。

 役目を終えた天使の一族。その末裔に生まれた自分は、いったいこの力で何をなすべきなのだろう?

 トワには分からなかった。分からなくて怖かった。宙に浮いてしまった大きな力に、いつか押し潰されてしまうのではないかという漠然とした恐怖が付き纏う。

 もし自分が、この力で取り返しのつかない過ちを犯してしまったら。根拠はない。けれど、否定も出来ない未来の可能性に怯える日々。標も何もなく霧の中に放り込まれた幼子は、進むも退くも出来ずに立ち往生に陥った。

 他者からの拒絶の恐怖、自らの力に対する畏れ。見えない鎖で雁字搦めになった彼女は、そのままだったらきっと故郷に閉じこもる一生を過ごしていただろう。

 

「でもそんなある日、お母さんが言ったんだ」

 

 そうならずに済んだのは、思い悩む娘に送られた母の言葉があったからこそ。僅かであっても鎖の縛りを緩めたのは、子の幸福を願う親の真摯な想いだった。

 

 

――ミトスの民としてどうあるべきかなんて、どうでもいい。

 

――あなた自身がどうありたいか。何を願い、何を成したいのか。

 

――考えて、考えて……見つけた答えの為に、《力》を使いなさい。

 

――その答えがきっと、トワ、あなたを何よりも強くしてくれるから。

 

 

「やっぱり難しいなぁ。ずっとずっと考えているのに、まだ答えが見つからないんだ」

「……へっ、確かにな。とんでもねえ難問だ」

「ああ……だが、それも母君の優しさ故だろう」

 

 与えられたのは安易な逃げ道ではなく、遠く険しい自身の真理を問う道。

 娘の懊悩を解きほどくだけなら他にやりようもあっただろう。それでも敢えて苦難を伴う道を示したのは、トワの本当の幸せを願ってのこと。クロウたちは顔を合わせたことはなくても、言葉と娘の表情だけでそのことに疑いようはなかった。

 母の言葉を受けて、トワは足を踏み出した。

 叡智の殿堂を構える博士より多くの知識を授かった。祖父より教え継がれた剣の研鑽を積み重ねた。島の人々の助けになり、その声に耳を傾け――やがて彼女は、故郷から旅立つことを決意する。

 

「残され島だけじゃない。外の世界の良いところも悪いところも学んで、その上で答えを出したい。そう思ったから、私はトールズにやって来たんだ」

 

 知識だけでは理解したことにならない。経験から弁えていたトワが外の世界に飛び出すことを選んだのは必然であった。

 この世界は自分が知らないことで溢れている。エレボニアの中に限っても、その軍事力という暴力の本質や、革新派と貴族派の確執は肌で触れなければ分からないことだ。

 だからこそ選び取った士官学院への道。不安はあった。だが、それ以上に自らの答えを見出したいという強い思いがあったからこそ、彼女は今ここにいる。

 

「まあ、知っての通りなかなか上手くいってないんだけどね」

 

 言って、恥ずかし気に頬を掻くトワ。

 確かに、お世辞にも順風満帆とは言えないだろう。この前はトラウマを刺激された影響で皆を避けてしまい、色々と迷惑や心配をかけた。それは事実だ。

 

「そうかもしれないけど、それだけじゃないだろう? こうして僕たちに話してくれただけでも、トワが確かに前に進んでいる証だと思うよ」

「そうなの! トワはもっと自信を持った方がいいの!」

 

 でも、ただ足踏みをしているだけではない。ゆっくりと、少しずつではあるけれど、彼女も一歩一歩進んでいる。それも間違いのない事実なのだ。

 

「そうかな……自分だと、臆病で尻込みしてばかりに思っちゃうのだけど」

「さてな。そこらへんは自分の感じ方次第だろうが……ま、そのままでもいいんじゃねえか」

 

 そうは言われても素直に胸を張れないトワに、クロウが思ったままの言葉を投げかける。

 どういうことだろう。不思議そうに見上げる真紅の瞳に、彼は白銀の頭をぐりぐりと撫でまわす。色彩や雰囲気は変わっても、その感触はいつもと変わりない。

 ミトスの民だろうが天使だろうが、クロウにとってここにいるのはトワ・ハーシェルという一人の女の子だった。

 

「ただでさえ強くて頭がいいって枕詞がついてんだ。小さくて臆病な天使様って方が可愛げがあるってもんだろ」

 

 更に完璧超人にでもなられたら敵わない。言外に告げられたそれを良く受け取るべきか、悪く受け取るべきか。もう少し素直に言ってくれればいいものを。

 ただ、それとは関係なしにトワは少し引っ掛かるところがあって表情をムッとさせる。

 

「クロウ君、私のことをなんだか子供扱いしているような……」

「仕方ないんじゃないの? 実際、人間と比べて成長速度は遅いわけだし」

 

 横合いからの姉貴分の言葉に「そうだけど」と言葉を濁す。事実としてそうではあっても、この釈然としない気持ちは消えないのである。

 片や、周りはノイの発言に気をひかれていた。単純に小さいだけだと思っていたトワの身体に、他の要因があったとなれば気にならないはずがない。

 

「そうなのかい? 見た感じ、人間と変わりないように思えるが」

「ミトスの民は、肉体はあっても本質としては霊的生命体に近いからね。怪我の治りだって早いし、寿命も人間より長くなっているの。その分、成長するのは遅いってわけ」

「そ、そうだよ。まだ成長期じゃないってだけで、私だってまだ大きくなるんだからねっ」

 

 一応は低身長を気にしているのか、そこはかとなく語気を強めて主張するトワ。微笑ましいものだが、そこは素直じゃない目の前の男。ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて問いかける。

 

「へえ。じゃあ俺たちと同じくらいになるのは何歳くらいなんだ?」

 

 揶揄い半分でもあるが、単純に興味もある。そんな意図のもとに口から出た質問に、トワは「むぐっ」と言葉を詰まらせた。

 何とも言い難い複雑な表情を形作った彼女は唸り声を出すばかりでなかなか答えを口にしない。そんなに答えにくいことだったのだろうか。そう思い始めたあたりで、律儀な彼女は躊躇いがちながらもちゃんと口にした。

 

「…………ひゃ、百歳くらい」

 

 目を逸らし、小声で呟かれたのは想定外の数字であった。思わずクロウの口からも「ええ……」と漏れる。

 

「お話にならないじゃねえか。俺たちが死ぬまでずっとチビッ子のままかよ」

「クロウ、何を言っている! 愛らしいトワが徐々に美しくなっていく過程を一生楽しむことが出来るということではないか! これほど素晴らしいことはないだろう!」

「それはちょっと変態の誹りを免れないよ、アン」

「ああもう! この話はおしまい! 終了!」

 

 好き勝手言う仲間たちに、さしものトワもちょっと怒った様子で話を無理矢理ぶった切る。ノイはやれやれと肩を竦めるばかりであった。

 

「もう、真面目な話のはずだったのに……」

「いいじゃねえか。湿っぽいまま終わるより俺たちらしいだろ」

 

 なんだか締まらない形になってしまったが、これがトワの胸の内に秘めてきた全てだった。それが最終的に笑い話になっているあたり、複雑な気分になったりはするものの、クロウの言い分に頷けるところもある。

 色々と事情があったり、話せないこともあるかもしれない。それでも仲間として認め合ってやってきたのが試験実習班だ。

 たとえ、どんなに重く苦しい過去だろうが、身に余る大きすぎる力だろうが、全てを受け入れたうえで笑い飛ばす。確かに、その方が自分たちらしいだろう。

 

「――よっし! じゃあ、このユピナ草をカーテさんのところに持って帰ろう。アモン大司教に早速調薬してもらわないと」

 

 立ち上がったトワが行動の再開を告げる。ずっと言えないできたことをようやく明かせたおかげか、その声はいつもより軽やかに聞こえた。

 手早く、必要な分だけユピナ草を採集した彼女たちはバリアハートに戻る支度を整える。苦労して登ってきた崖肌を今度は降らなければならないのかと思ってげんなりしているジョルジュを尻目に、アンゼリカが「そういえば」と口にする。

 

「エステル君たちの方は首尾よくいっているだろうか。あちらもあちらで、大変なことには違いないが」

「そうだね……まだ戻ってきていなかったら、ユピナ草を預けてから探しに行ってみようか。何か手伝えるかもしれないし」

 

 三人とも腕の立つ遊撃士だ。滅多なことにはなっていないと思うが、手古摺ってはいるかもしれない。

 人手はいくらあっても困らないだろう。自分たちの為すべきことを為したら、そちらの方の助力に回るべきだ。

 そう算段を立てたときだった。トワたちの耳に、その音が響いたのは。

 

――…………ォォオオ……!

 

 峡谷に木霊して響いてきたそれは、不吉さを孕んだ咆哮の残響。

 思わず動きを止めてしまう。そんな薄気味の悪さを感じるものだった。そう、普通の魔獣が出すようなものではない、この世在らざるものによるような。

 

「……ったく、今回は荒事なく終われると思っていたんだがな」

 

 クロウが遠くに目をやりながらぼやく。その視線の先、咆哮が響いてきた方向では、峡谷の一角で崖が崩れたような土煙が上がっていた。

 まず自然に起こったことではない。間違いなく何らかの戦闘痕。

 そして今、このオーロックス峡谷でそんなことが起きるとしたら……ほんの昨日に知り合った、けれど大切な友達のことが思い浮かぶのは当然のことだった。

 

「行こう、皆!」

 

 何か尋常ではないことが起こっている。そう判断した以上、彼女たちに余計な言葉は必要ない。トワの号令に応の一声。彼女たちは全速力で崖を駆け下りていくのだった。

 




《星の力》
あらゆる命に宿る生命エネルギー。ギアクラフトや四季魔法、テラにおける環境調節なども全てこの力が源となっている。

《ミトスの民》
かつて神と呼ばれた星の力を操る力を有した人々。人間に力と知恵を与え、古代文明の繁栄に大きく寄与した。古代文明の崩壊と時を同じくして大半が死に絶えたが、二人の兄妹だけがテラで宇宙に逃れて生き残った。
本質としては霊的生命体に近いため、人間では考えられない性質がある。長寿、死亡時には肉体は残らずに星の力に還る、霊的に大きなダメージを受けた際は石化して仮死状態になる、何らかの原因で人格が分裂して二人の存在に別れる等々。
テラやそれを管理するノイを作り上げたりと、割と何でもありな感じの正に神の如き人々である。


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第41話 恐れを超えて

これにてバリアハート編もクライマックス。次回にエピローグを挟み、一年生編の山場となる次の章へと向かう予定です。
と、その前に閑話を入れようと思っています。そろそろ本編では入りきらない他の先輩たちとの話を書かせてもらおうかと。形としては短編集みたいなものになりますね。
Ⅳ組のクラスメイトをはじめ、個性的な将来の先輩たちとの触れ合いを楽しんでいただけたら幸いです。


 駆ける、駆ける、駆ける。足を止めることなく、一心不乱に峡谷の入り組んだ地形を駆け抜ける。得難き友人の助太刀となるべく。

 風になびく髪は栗色。既にトワはいつも通りの姿に戻っていた。高地から降りるのに少しばかり飛んだ(・・・)が、それだけだ。道標を感じ取るだけならば、普段のままでも不足はない。

 

「おい、後どれくらいだ!?」

「もう少し! でも、これは……」

 

 エステルたちの気配は間近に迫ってきていた。もう幾許もしないうちに彼女たちが戦う場に足を踏み入れることになるだろう。

 だが、感じるのはそれだけではない。この近辺に立ち入ってから自身の感覚が訴えかけてくる。地脈の乱れによる空間一帯の変容。そして何より、三人の気配とぶつかり合う禍々しい脈動を。

 

「上位三属性が働いているなんて、いったい何が起こっているの……!?」

 

 並走するように空を飛ぶノイが表情を険しくする。どう考えても尋常な事態ではなかった。

 通常、この地上において作用する七耀の力は四つに限られる。地、水、火、風。自然の中に当たり前に存在するそれら四属性以外は、アーツなどの意図的な手段を用いることなく発生することはないはずだ。

 しかし、現実としてこの空間にはそれ以外のものを感じる。時、空、幻。上位三属性と呼ばれる本来なら現れるはずのないもの。

 古代文明に関わる遺跡や、地脈の影響を受ける霊地なら分かる。そうした土地は上位三属性が表出しやすい特徴を有しているからだ。

 だが、ここは何の変哲もない峡谷道。古代の遺跡もなければ特別な霊地でもない。だというのに、感覚は間違いなくあるはずのない存在を知覚している。

 それを感じ取っているのはトワとノイばかりではない。他の三人もまた、先ほどから言い知れない空気を肌で感じていた。トワほど明確でないにせよ、それが何か嫌な気配を漂わせていることが分かるくらいには。

 

「面倒事には慣れたつもりだったが、今回は毛色が違いそうだね」

「毛色で済む話なのかな、これは……!」

 

 ひしひしと伝わる嫌な予感。それでも彼女たちは足を止めはしない。むしろ一刻も早く駆けつけんと地を強く踏みしめる。

 何が待ち受けていようと知ったことか。友人が危機に見舞われているというのなら、その元凶を断ち切るのみ。

 今までもそうやって、自分たちが為すべきと思ったことを為してきたのだ。尻込みする理由などどこにあるだろう。

 

「……いた!」

 

 崖肌の間を駆け抜けた先、そこに辿ってきた気配の持ち主を認めてトワは声をあげる。険しい表情で棒を構えるエステル。その得物が向けられる先で、異形の巨大な影が腕のようなものを振り上げる。

 

「ノイ!」

「任せるの!」

 

 仔細を確認する前に指示を飛ばす。二の句を言葉にせずとも意を汲んだ小さな妖精が、さながら弾丸のように加速する。

 突っ込んでいった勢いのまま巨大化した歯車による剛撃を叩き込む。まさにエステルに振り下ろされんとしていた鋭利な爪を備えた異形の腕は、横合いからの衝撃に大きく弾かれた。

 これにギョッとするのがエステル。唐突に現れた小さな妖精が巨大な歯車をぶん回してくれば泡を食いもするだろう。

 

「え、ちょ、何この小さい子!? 妖精!?」

「エステルちゃん、大丈夫!?」

「あっ、トワ! なんか妖精っぽいのがすっ飛んできたんだけど、帝国にはこういうペットでもいるの!?」

「誰がペットなの!!」

 

 混乱のあまり頓珍漢なことを言い出すエステルに憤慨する他称ペット(ノイ)。緊迫した状況にもかかわらず、ついつい苦笑いが浮かんでしまう。

 無論、そんな気を抜いている暇はない。いまだ健在の異形を油断なく見据えるヨシュアが鋭い声で注意を促した。

 

「エステル、その子のことは後回しだ! 今はこっちをどうにかしないと!」

「トワたちも手を貸してくれ! どうにも手を焼いているんでな!」

 

 もとよりそのつもりで駆けつけたのだ。トヴァルの言葉に応じて武具を構えるトワたち。そこに至り、彼女たちはようやく異形の全貌を目に映す。

 青黒い表皮、凶悪な爪を備えた手足、頭部より伸びる双角。二足歩行の態を取るそれは、とても自然界に存在する生物とは思えなかった。低い唸りを漏らし、淀んだ黄色の眼で獲物を見定める異形に思い浮かぶ呼び名は一つしかない。

 

「おいおい、まさかモノホンの悪魔だっていうのか……!?」

 

 ブルーノの証言が頭に過る。悪魔に出くわし、命からがら逃げだしたと。

 彼のことを信じてはいたが、言葉そのままに受け取ったわけではない。悪魔らしき何かに遭遇したのだろうと誰もが思っていた。

 だが、実際はどうだ。今まさに自分たちの眼前の存在に対して、他につけるべき呼称があるだろうか。真実、ブルーノが遭遇した存在は悪魔と呼ぶしかない異形であった。

 

「変な空気を感じると思ったら、荷物を回収した途端にいきなり現れたのよ! とんでもなくタフだから気を付けて!」

「持久戦に持ち込まれたら埒が明かない。ここは一気に……」

 

 幸い、ブルーノが落としたという目的の荷物は回収済みのようだが、こんな化け物を放っておくわけにはいかない。どうしてこんなところに出現したのかは分からないものの、このままにしておけば何時か被害が出るのは目に見えている。

 トワたちが駆けつける間にも戦っている中で、悪魔の尋常ではない耐久力を感じたのだろう。増えた戦力も考慮し、ヨシュアは速攻で片を付けたいようだった。

 それを最後まで口にすることはできなかった。ノイのギアバスターに弾き飛ばされてから、こちらを警戒していた悪魔がついに動きを見せる。

 

――オオオオォォ!!

 

 ヨシュアの言葉を塗りつぶすほどの咆哮。おどろおどろしい響きを孕んだそれは耳をつんざき、空気を震わせる。

 途端、空間が歪む。何もないところから滲み出るように現れたそれは、悪魔とはまた異なる造形の異形。雄叫びに応じて現出した新手はトワたちと隔てるようにエステルたちを囲む。

 

「こいつの眷属ってところか。また面倒な……!」

 

 新手は悪魔より小さく、力もそれほど強くはないように見える。だが、如何せん数が多い。片手に収まらない数の眷属に囲まれた遊撃士たちとは完全に分断されてしまった。

 呼び寄せた悪魔自身が標的に定めるのはトワたち。先ほどの一撃が警戒を強めさせたのか、まずはこちらを優先するべきと思わせたのかもしれない。

 これまでの魔獣とは根本的に異なる存在。言い知れない圧力にトワたちにも緊張が走り、得物を握る手が強まる。

 

「こっちはすぐに片づけてやるわ! それまで何とか持ちこたえて!」

「うん、エステルちゃんたちも気を付けて!」

 

 それでもやることは変わらない。目の前の強大な敵を打倒し、掛け替えのない日常を取り戻す。

 互いに声を掛け、それぞれの戦いへ。エステルたちが眷属の群れに突っ込むのと同じくして、トワたちもまた悪魔へと仕掛ける。

 一番手として切り込むのはトワ。跳躍して一気に間合いに入り込んでの斬撃。邪魔な羽虫を払うように剛腕が振るわれれば、周囲の崖を足場に回り込む。

 与えるダメージは小さい。それで構わない。縦横に駆け巡り、敵の目を引き付けるのが彼女の役目。

 陽動に目がくらんだ悪魔の懐にアンゼリカが潜り込む。その横っ腹に叩き込まれる零勁。対人に用いれば必殺の威力を誇るそれに、悪魔も巨躯をよろめかせる。

 

「何……!?」

 

 だが、それだけだった。すぐさま体勢を立て直した悪魔が怒りの雄叫びと共に凶爪を振り上げる。

 喰らえば人間など簡単に千切れ飛びそうな一撃は、地面を抉るに留まった。あわやというところでアンゼリカを救ったのはノイのギアホールド。光る緑の帯で絡め捕ったアンゼリカを後ろに引き戻し、それをクロウのアーツが援護する。

 放たれた水のアーツは確かに直撃した。しかし、悪魔には大したダメージにはなっていないようだった。それどころか、時間と共に傷が塞がっていくではないか。トワの斬撃も、アンゼリカの零勁も、まるで無かったかのように傷が消えていく。

 

「ちっ、また面倒な手合いだな!」

「文句を言っている場合か! 来るぞ!」

 

 今度は悪魔の方がアーツを放ってくる。強力な冷気がクロウとアンゼリカに襲い掛かるが、それは間一髪のところで障壁に阻まれた。機械槌を地面に突き立て、二人を守ったジョルジュを悪魔が睨み据える。

 

「そう好き勝手には、させないの!」

 

 今にも彼の方へ突進していきそうな悪魔をノイが制する。放つは夏の四季魔法。金色の光条が青黒い表皮を貫き、悪魔は苦悶の声を漏らしてよろめく。

 それ目にしたトワの頭に一つの仮説が浮かぶ。尋常ではない耐久を誇る悪魔を打ち倒すための、一つの光明が。

 実証している暇はない。一発勝負だ。彼女は勝利のために声を張り上げる。

 

「ノイ! 大きいの何秒でいける!?」

「……三十秒で仕上げるの! それ以上は無理だからね!」

「十分!」

 

 トワの考えを察したノイから頼もしい答え。精神を集中させる態勢に入った彼女に、他の三人もその意図を察する。

 

「一発大きいのを入れるってことか。乗った!」

「うっかり俺たちまで巻き込んでくれるなよ!」

 

 先の一撃で痛手を受けた悪魔はノイを一段上の警戒対象としていたのだろう。加えて大技の気配を見せれば、否が応でも意識はそちらへと向けられる。禍々しい雄叫びをあげて悪魔は彼女へと飛び掛かった。

 間に入って阻むのはジョルジュ。振り下ろされる凶爪を正面に展開した障壁で防ぎ、返し手の爆撃を乗せた一撃で押し返す。

 悪魔は尚も止まらない。破壊衝動に突き動かされるかの如く攻勢を続ける。度重なる連撃にジョルジュも表情に苦悶が浮かんだ。

 それを座して見るトワではない。悪魔がジョルジュに、その奥のノイに気を取られている隙に背後へと回り込む。一息で急加速した彼女が剣を振るう。狙うは足の腱。異形とはいえ人型、悪魔の身体はその両足によって支えられている。その一方の支えを断たれ、悪魔は体勢を崩した。

 悪魔の異常な再生力にかかれば、この程度の傷はすぐに修復されてしまうだろう。だが、隙を作るならこれで十分。拳を振り絞ったアンゼリカが再び懐に飛び込んだ。

 

「倒し切れないなら、こうさせてもらうまでさ!」

 

 相手の内側に力を浸透させて粉砕するのが零勁。それに耐えられるというのなら、使い方を変えさせてもらおう。

 アンゼリカの放った拳は悪魔に当たるや否や、その巨体を大きく吹き飛ばす。困惑するように唸り声を漏らす悪魔。ダメージはさして入っていないようだが、彼我の距離は大きく引き離された。

 突き放すことを狙うならば、力を浸透させる必要はない。全ての力を相手の外側にぶつければ済む話。零勁の力の伝え方を逆転させた拳は、単純に強力な衝撃となって悪魔の巨体を吹き飛ばしたのだ。

 突き放し、距離を取った先でも抜かりはない。クロウが駆動したアーツが発動し、悪魔に重苦しく圧し掛かる。弱体化を食らった悪魔はその動きを鈍らせた。

 お膳立ては整った。それと同じくして、ノイの準備も整う。

 

「――いけるの! 皆どいて!」

 

 その小さな両の手の間に輝くのは春の色。美しく咲き誇る花々が示す生命の力。開かれた射線の先、この世在らざる異形に向けて解き放つ。

 

「咲き誇れ、春の大輪――《ゴスペルフラワー》!!」

 

 具現するは巨大な桃花。純粋なエネルギーで構成された大魔法が悪魔にめがけて迫る。

 動きを鈍らせた悪魔に避けることは敵わない。ならばと相手も冷気をぶつけるが、そんなもので防げるほど生易しいものであるものか。冷気は春の輝きに飲み込まれ、抵抗をものともせずノイの渾身の一撃は悪魔を直撃した。

 巻き起こる爆発。余波である桃色の燐光が散る中で、トワたちは立ち上る煙の中を油断なく見据える。

 やがて煙が晴れ、そこに倒れ伏す悪魔を見て彼女たちは肩の力を抜く。どうやら一発勝負の賭けには勝てたようだった。

 

「やっぱり四属性以外……上位三属性や四季魔法には弱かったみたいだね。当たっていてよかった」

「まったくだ。正面から相手していたら埒が明かねえ」

 

 優れた耐久力と再生力を併せ持つ悪魔にも弱点はあった。それが特定の魔法に対する極端な耐性の低さ。上手く突くことが出来て一先ず胸をなでおろす。

 

「お待たせ! 加勢するわ……って、あれ?」

 

 エステルたちの方も眷属を片付け終わったのかこちらへ駆けつけてくる。ところが、倒れ伏す悪魔の姿を見て首を傾げるエステル。集まる視線を前に、彼女は気まずそうに苦笑いを浮かべた。

 

「えっと……もしかして、もう終わっちゃっていたり?」

「生憎ながら、ね。気持ちだけ受け取っておくよ」

 

 肩を竦めるアンゼリカに、気が抜けたように息を吐く。心なしかツインテールも垂れ下がっているように見えた。

 雑魚を蹴散らし、気合を入れて加勢に入ろうとしたらこれだ。空回った気分になっても仕方がないだろう。その気持ちがありがたいことには変わりないのだが。

 何にせよ、片付いたのならそれに越したことはない。不用意に近づかず、遠目に崩れ落ちた悪魔の様子を窺うヨシュア。念には念を、と警戒を解かないでいる彼は視線をそらさずに問いかける。

 

「仕留めたのかい?」

「……ううん。辛うじてだけど、まだ生きている」

 

禍々しい生命の気配が僅かながら残っていた。ノイの最大火力の四季魔法を受けても仕留め切れていないとは、もはや呆れるほどの耐久力である。

 しかし、これだけ弱っていると指一つ動かすのさえままならないはずだ。普通なら、放っておけばそのまま息絶えるような状態。既に無力化したと言っても間違いではなかった。

 

「お前さんら、悪いが気を引き締め直しな」

「トヴァルさん……?」

 

 それでもトヴァルは険しい表情のまま構えを崩さない。彼は知っていたのだ。悪魔という存在が、どれだけ厄介であるのかを。

 

――…………ォ

 

 悪魔の中で生命が揺らめく。消えかけの種火のようなそれが熾火に変わり、加速度的に強まり燃え上がっていく。

 有り得ないことだ。あれだけ弱っていた生物が即座に息を吹き返すなどできるはずがない。だが、現実として悪魔はその腕を地面に突き立てた。

 

「この手の奴は、嫌になるほどしつこいのが相場なんだよ……!」

 

――オオオオォォ!!

 

 トヴァルが忌々しく見つめるその先で、悪魔は巨躯を持ち上げて咆哮する。瘴気を放つ魔性の存在は文字通りに復活したのだ。

 

「くっ、出鱈目な……」

「あんなのどうするっていうのよ……トヴァルさん、何か手はないの!?」

 

 もはや生物としての枠組みに入らない事象を前に浮足立つ。尋常ではない耐久力だとか、そういう問題ではない。存在そのものが不死性を帯びているとしか思えなかった。

 流石にこんな常識外の相手に対する対処は心得ていない。何かしら知っていそうなトヴァルに指示を仰ぐが、彼も難しい顔を浮かべるばかりだ。

 

「知り合いの話じゃ、教会の法術使いなら滅することもできるそうだが……ないものねだりにしかならないな」

 

 七耀教会の使い手が操るという聖なる術。それが悪魔に有効と分かっていても、肝心の扱える人間がいないのであれば話にならない。

 手立てが見つからない以上は迂闊に手を出せず、そうこうする内に完全に体勢を立て直した悪魔は今にも襲い掛からんばかり。

 また打ち倒したとしても、その度に復活されてはこちらが消耗する一方だ。このまま戦い続けるのは得策とは言えなかった。

 

「撤退しますか?」

「そうしたいところだが、奴さんが許してくれそうにないな」

 

 勝ち目がないからには一時退却するべきだろうが、そう易々と見逃してくれるとも思えない。少なくとも、もう一度は倒さなければ無事には戻れないだろう。

 それに退いたところで状況がよくなるとも限らない。教会の使い手など、そう都合よく見つかるはずもないのだから。

 押すにも引くにも苦しい状況。手を詰まらせた遊撃士たちの表情は険しい。

 そんな彼女たちを前に、トワは迷っていた。

 いや、答え自体は出ていた。自分の行動で状況が打破できるのならば、それが最も望ましい結末を迎える手段なのは明らか。出し惜しむべきではないだろう。

 それでも彼女は躊躇ってしまう。そうすることが一番だと分かっていても、心にこびりついた記憶が足を竦ませる。

 惑う小さな肩に手が置かれる。振り向いたその先で、クロウが真剣な顔でこちらを見つめていた。

 

「……やれるんだな?」

 

 何が、とは聞かなくても分かり切っていた。

 少し迷い、頷く。すると彼はふっと表情を緩め、いつもの笑みを浮かべる。

 

「だったら思いっきりぶちかましてやりな。他の誰が何と言おうと、お前はちっこくて、強くて、そんで少し臆病な、俺たちの最高の仲間のトワ・ハーシェルだって証明してやるからよ」

「まあ、トワのことを悪く言う輩がいたら叩きのめすのみだがね。撤回するまでタコ殴りにしてやるとも」

「そこはもうちょっと穏便にした方がいいと思うけど……気持ちは僕も同じさ。大丈夫、君はもう一人じゃないんだから」

 

 三者三様であれど、それはいずれもトワを励まし、迷うその背中を押す言葉。「皆……」と零しつつ思わず目尻に涙が浮かぶ。

 世の誰もが自分のことを受け入れてくれるわけではないと思う。超常の力を宿すこの身は、人にとって時に脅威に映るだろうから。

 それでも良かったのだ。全ての人に受け入れてもらおうなど烏滸がましい。けれど、例え数えるほどの人々であったとしても、こうして自分を掛け替えのない仲間だと胸を張ってくれる友がいる。

 十分だ。たった少しでも、ほんの僅かでも、ありのままの自分でいていいと言ってくれる人がいるのなら――その想いを胸に、彼女は前に足を踏み出すことが出来る。

 涙をぬぐう。窺うようにノイに目を向ければ、姉貴分は穏やかに頷いた。

 

「トワの好きにするの。盟約も何も考えなくていい。トワの思うようにすることを……ナユタも、クレハ様も、シグナも、きっとそう願っているの」

 

 もちろん、私も。

 そう言ってくれるだけで、どれほど心強いことか。

 

「ノイ、皆……ありがとう」

 

 迷いは晴れた。恐れはあれど、それよりも強い想いと友の支えを受けてトワは前へと足を踏み出す。

 唸る悪魔に対し、矢面に立った彼女の背中に遊撃士たちは疑問の目を向ける。いったい何をするつもりなのかと。

 

「トワ……?」

「エステルちゃん。ヨシュア君にトヴァルさんも下がっていて」

 

 あの悪魔は一人でどうにかなる相手ではない。異様な耐久力に再生力、加えて打ち倒しても蘇ってくる不死性。普通の人間がどうやっても倒すことはできないだろう。

 そう、普通の人間ならば。

 

「すぐに終わらせるから」

 

 トワの短い言葉。瞬間、彼女を中心として轟と金色の奔流が渦巻いた。

 突然の事態にヨシュアなどが「これは……!?」と驚愕する中、クロウたちは揺れる白銀の髪を黙って見つめる。余計な言葉は要らない。口にしなくても、彼らの信じる気持ちは伝わっているのだから。

 ミトスの民の力を解き放ち、真紅に染まった瞳で悪魔を見据えるトワ。あまねく自然より集った星の力がその手の剣に宿り、光を成していく。

 悪魔には分かったのだろう。それが己に害なすものだと。目の前に立つ存在が、己とは相反するものであると。星の光を宿す白銀の少女を真っ先に排除するべき存在と認め、異形は雄叫びを上げて突貫する。

 

――オオオオォォ!!

 

「……あなたがどうして現れたのかは知らないし、望んだわけじゃないのかもしれない」

 

 悪魔が何故顕現し、破壊を振りまくのか。全能ならぬトワにそれを知る術はない。

 だが、人に、この星に仇なすというのなら。大切な友を傷つけようというのなら、この力をもって止めてみせよう。

 

「還してあげる。あなたが元あるべき場所に――!」

 

 構えるは神風。遠当ての剣閃を放つ戦技は今、星の力のもとに昇華されその形を変える。剣に宿った光が刃を成し、金色に輝く光剣と化した得物をトワは横一閃に振り抜いた。

 

――《神風ノ太刀》

 

 一陣の風が吹き抜ける。瞬間、今まさに飛び掛からんとしていた悪魔は勢いを失った。

 悪魔自身が不思議そうに視線を落とす。その胸元には、胴を両断する剣閃の痕。頑健なる異形の肉体が切り裂かれたその奥で、同じく斬痕を刻まれた崖肌が音を立てて崩れ落ちた。

 斬撃が飛んだわけではない。トワが剣を振るったその時、解き放たれた星の力が長大な光刃となり悪魔を切り裂き、その先の崖さえも切り崩したのだ。

 刻まれた傷は癒えない。不死の如き生命力を誇ったはずの悪魔は、力なく呻くとそのまま光となって消えていった。

 ふと、アンゼリカが気付く。周囲の空気は既に平常に戻っていた。

 

「上位三属性が……なるほど。拠って立つ異空間が失われれば、この次元から消滅するのは道理というわけか」

 

 トワが振るった力は悪魔を切り裂き、そして同時に歪んだ地脈の流れを正した。異次元の存在である悪魔は上位三属性が色濃いからこそ顕在化している。それが失われた以上、その不死性も効力を発揮するわけがなかった。

 ふう、と息を吐いたトワは剣を鞘に納める。可視化するほどに集中していた星の力も、それと共に雲散霧消していった。

 やや正面の見通しが良くなった峡谷道。彼女はそちらから背後へと真紅の瞳を向ける。

 

「…………」

 

 そこにあったのはやはり、自分を唖然と見つめる遊撃士たちの目。特にエステルなどは言葉もないようで、ポカンと口を開けたままだった。

 目の前の出来事を処理しきれていないのだろう。呆然としたままの彼女たちの瞳から感情の色を窺い知るのは難しい。

 幼き頃のトラウマが脳裏に蘇る。その瞳が恐怖と拒絶に染まることが、トワには何よりも恐ろしかった。友の支えを受けて足を前に踏み出しても、それは変わりない。

 

「えっと……その」

「…………す」

 

 彼女たちに何と声を掛けたらいいか分からなくて、ただそこで立ち竦んでいるうちにエステルの口が動く。「す?」と意味をなさない音に首を傾げようとして、途端、がばっと抱き着いてきた彼女に虚を突かれた。

 

「すっごいじゃないトワ!! あんな奴を一発でやっつけちゃうなんて!」

「え、エステルちゃん……?」

「というか、どうしたのよこの髪。とんでもなく綺麗な銀色だし、目の色も変わって雰囲気が違くなっているし。神々しい? って感じじゃない」

 

 べたべた触ってくるエステルに為されるがままのトワ。思ってもいなかった反応に、彼女はどうしたらいいのかさっぱりだった。

 トワがもみくちゃにされている姿に、今度はクロウたちが目をパチクリとさせ、遊撃士たちの方はといえばヨシュアが仕方なさげに肩を竦めていた。トヴァルはトヴァルで、何やら頭痛がするかのように眉間を揉んでいる。

 恐れていたような事態ではなかったが、これはこれで想定の範囲外。恐怖と拒絶どころか、興奮と好奇の一色であるエステルに困惑するばかりだ。

 

「その……エステルちゃんは、怖くないの?」

「うん?」

 

 だから問いかけてしまう。聞く必要などなかったとしても、トワは聞かずにはいられなかった。

 

「得体の知れない力を持った、人間離れしたこんな……」

 

 こんな、化け物みたいな。

 そこまでは口にすることはできなくても、言いたいことは伝わったのだろう。怯えて俯くトワに、エステルは困ったように頬を掻く。

 

「……あたしはさ、トワみたいに頭がよくないし、トワがどうしてそんな苦しそうな顔をしているのかちゃんとは分かっていないかもしれない」

 

 でも、と彼女は言葉を続ける。事情は分からずとも、彼女がどういう存在なのか知らなくても、それでも伝えられることはある。

 

「あたしたちを守ってくれたでしょ。本当は使いたくなかったのかもしれない。見せたくなかったのかもしれない。それでも勇気を出して、皆を守ってくれたんだよね」

 

 トワが怯える様子は、彼女が力に対して忌避感のようなものを抱いているのを察するのは十分だった。こうして露にすることに、どれだけの勇気が必要だったのかも。

 確かに彼女の力は途轍もないものかもしれない。周囲の地形ごと悪魔を切り裂いたのもさることながら、地脈に干渉しその歪みを解いたのも、もはや人の枠から外れた所業だろう。

 だが、その力を彼女は守るために使った。畏れを飲み込んで、恐れを乗り越えて。彼女がそうすることが出来た理由を、エステルは短い交流の仲であっても確かに知っていた。

 エステルの両手が、トワの小さな手を包み込む。温かなそれに俯いていた顔を上げたトワの目に入ったのは、太陽のような少女の笑顔だった。

 

「あたしは、トワがそんな強くて優しい子だって知っているから……だから、怖くないよ」

「…………っ」

 

 拭い去ったはずの涙がまた込み上げてくる。それは安堵からくるものだった。せっかく出会えた気の合う友人を失うことになってしまうかもしれない。そう思っていたからこそ、エステルの言葉は何よりも深くトワの胸に響いた。

 

「君はその力に溺れずに、自分を律そうとしているんだろう? なら僕からは尊敬はすれど、恐れる理由なんてものは無いよ」

「俺は先生が訳の分からん力を使っているのを見たことがあるから、納得の気持ちが強いんだが……そうだな。先生のことを抜きにしても、むしろ心強いってもんさ」

 

 ヨシュアもトヴァルも偽らざる心を伝える。トワを拒絶するものなど、誰もいなかった。それは例外かもしれない。今回は運が良かっただけかもしれない。けれど、紛れもない事実だ。

 潤んだ瞳から涙が零れ落ちる。最近の自分は本当に泣き虫だ。そうは思っても、止めようと思って止められるものではない。

 

「エステルちゃん、皆も……ありがとう」

「何言ってるのよ。お礼を言うのはこっちだっての――助けてくれてありがとうね、トワ」

「えへへ……うん!」

 

 微笑むエステルにつられるようにして、トワもまた笑みを浮かべる。その様子に、クロウたちもまた肩の荷が下りたような心地だ。

 自分の道はまだ見つけられていない。けれど、トワは抱える恐怖を乗り越えて前へと進む一歩を踏み出した。

 そんな確かな成長と共に、峡谷道の戦いは終わり告げるのであった。

 




《悪魔》
青黒い表皮とかでお気付きの方もいるかも。皆さんご存知、アークデーモンのこと。個人的には軌跡シリーズで悪魔といったらコイツというイメージ。

《コロナレーザー》
夏の四季魔法。横一直線に金色の光線を放つ。

《ゴスペルフラワー》
管理者から教えてもらえる強力な四季魔法の一つ。ゆっくりと進む桃色の花を発生させ、当たった相手に大ダメージを与える。一度に一発しか撃てず、再度使用できるようになるまで時間がかかる。


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第42話 またいつか

今年も繁忙期になりまして出張の日々。宿泊先のビジネスホテルからの更新です。閃Ⅳが発売される頃には家にいられるといいな……


「はい、これで間違いないですよね」

 

 悪魔との熾烈な戦いを乗り越え、バリアハートに戻ってきたトワたち。遊撃士たちと手分けして事の後始末にあたることにした試験実習班は、騒動の起点となった貴族街へと足を向けていた。

 少しばかり傷のついたトランクケースを胸の前に持ち上げる。それを何とも形容しがたい表情で見つめるのはゴルティ伯爵。安心したような、苦々しいような、相反する感情がない交ぜになっているようだ。

 ユピナ草を発見し、件の失せ物を回収したことで目的は達した。後はカーテを治療しブルーノの無実を証明するのみ。前者にはエステルたちが向かい、後者にはトワたちが対応することになった。

 事情を伝えて同行を願ったブルーノは緊迫の面持ちで隣に佇んでいる。ユピナ草を見つけたことを知るや彼は涙ぐんだものだが、諸手を挙げて喜ぶにはまだ早い。子供たちは先に教会へ行かせたものの、彼はこの気難しい主人の疑念を晴らさなければ万事解決とはいかないのだ。

 

「ぐ、ぬぅ……た、確かに間違いはないが……」

 

 といっても、こうして失せ物の現物がここにある以上は嫌疑のかけようもない。ブルーノの横領は濡れ衣と考えるほかにないだろう。

 あの悪魔の実在に関しては、実際に戦ったトワたちの証言しかないので信じてもらえるかは疑わしい。異界の存在故に消え失せてしまったので物的証拠はないのだ。そこは仕方がない。

 だが、もとよりゴルティ伯爵がブルーノにかけていた疑いは横領が主だったもの。悪魔云々に関しては副次的なものであり、信じようと信じまいと大きな問題はないはずだ。

 

「なんだ、煮え切らねえな。まだ気に入らねえことでもあるのかよ」

「少々、傷がついていることくらいは見逃してほしいものだがね」

 

 その考えは間違いではないはず。はずなのだが、ゴルティ伯爵は気難しい表情を改めない。どういうことだろうとトワは内心で首を傾げる。

 正直なところ、謝罪は期待していない。典型的と言っていい傲慢な貴族らしい態度をとっていた彼のことだ。ブルーノの冤罪が確かになったところで、自身の非を悔い改めるような殊勝さを持ち合わせていないのは想像がつく。

 求めるべきは、彼がブルーノの潔白を認めることのみ。それについて首を縦に振ってくれれば、怪しいところはあっても深く立ち入るつもりはなかった。

 ゴルティ伯爵からしても、それで済ますに越したことはないはずだ。だというのに、この渋りよう。何か自分たちの与り知らない理由があることが察せられた。

 

「……えっと、中身の方も確認しましょうか?」

 

 何かあるとすれば、このトランクの中身か。

 一応は聞く態を取りながらも、トワの手は既にトランクを開けにかかっている。割れ物だったら大変ですし、とかなんとかのたまいながら。ごり押しである。

 途端に「ま、待て!」と焦りを見せるゴルティ伯爵。これは当たりかと思いつつも手は止めない。クロウとジョルジュがさりげなく間に入って「まあまあ」と足止めしている間に、トランクの中は露わになった。

 赤いクッションに包まれて入っていたのは、一本の掛軸。東方の様式であるそれをハンカチ越しに取り出して少し開いてみると、黒の濃淡のみで描かれた東方画が姿を覗かせた。

 見事なものだ。確か、水墨画と呼ばれるものだったと思う。共和国ならまだしも、帝国では滅多にお目にかかれない代物である。この場では叶わないものの、一室に飾れば存分にその趣を感じ取れることだろう。それこそ、社交界の自慢話の種になるくらいには。

 

「いい品ですね。ブルーノさん、これは?」

「いえ。私も受け取りに出向いただけで、詳しいことまでは……」

 

 トランクの中に丁寧に仕舞いつつ確認するも、ブルーノは首を横に振った。使いに出されただけであって、この水墨画の由来どころか何が入っているかまで知らなかったらしい。

 確かにこれは素晴らしい芸術品だ。出すところに出せば相応の価値がつくことだろう。東方画に対してそこまで造詣が深くないトワでもそれは分かる。

 問題は、そんなものがどうしてここにあるのかということ。水墨画であることから東方と縁が深い共和国由来であることは間違いない。それがクロスベルを経由して、というのならまだ分かる。だが、実際に受け渡されたのはオーロックス砦。そんなところから、どうしてこのような品が現れのだろうか。

 

「やれやれ、困ったものだね。正規の交易ルートだったら、こんなところに湧いて出るはずがないんだが」

「正規のって……ああ、そういう」

 

 意味深に肩を竦め、大仰に溜息をついてみせたアンゼリカ。その言わんとするところを理解し、ジョルジュも納得した。トワとクロウも右に同じくである。

 揃って白い目をゴルティ伯爵に向ける。彼は「うっ」と息を詰まらせると足を一歩引いた。もはや自分から黒といっているようなものだ。

 

「くっ……ええい、何をごちゃごちゃといっている! 下らん憶測を口にしている暇があったら、さっさと渡さんか!」

 

 しかしながら、ここにきてまで面の皮の厚さは流石と言ったところか。ゴルティ伯爵は白を切る腹積もりのようだった。

 実際のところ、トワたちは彼の疑惑を証明する術を持たない。状況は限りなく疑わしいが、明確な証拠は何も持っていないのだ。この掛軸一つで渡り合おうとしても、もみ消されるのがオチだろう。

 自分たちだけでは仕様のないことだ。ここは苦渋を飲み込み、ブルーノの無罪だけでも取るのが妥当な線である。

 

「ふん……憶測と決めつけるには些か早計だと思うが?」

 

 そうやって気持ちに折り合いをつけ、トランクを引き渡そうとした時だった。割って入ってくる別の声。覚えのあるそれに振り向いた先で、ゴルティ伯爵が顔を真っ青に染めた。

 

「ゆ、ユーシス様……」

「まったく……ログナー嬢、そちらの方はつつがなく成し遂げられたのか?」

「勿論だとも。奥方のこともバッチリさ」

 

 アルバレア家の次男、ユーシスは顔面蒼白なゴルティ伯爵を一瞥する。そこには苛立ちを通り越して呆れの色がうかがえた。

 が、それよりもまずは事の成否が気にかかったのだろう。彼の問いに対する返答としてアンゼリカは自信満々に親指を立てる。荷物の件に関しては見ての通り。奈落病についても、エステルたちがユピナ草を届けた後はアモン大司教に任せれば安心だ。

 何よりの結果にユーシスも「そうか」と安堵の息をつく。言葉数は多くなくとも、彼の体から緊張が抜けたことは見ていて明らかだった。どれだけ気を煩わせていたか分かろうというものである。

 

「何を、何を仰っているのですか、ユーシス様! 証拠もなしに、私が罪を犯したとでも……!」

 

 そこに空気の読めない喚き声。動揺を露わにしつつ尚もしらを切ろうとするゴルティ伯爵は、心のどこかで自分が決定的な失敗をしているはずがないとでも思っていたのだろう。そうでなければ、こうも強気ではいられまい。

 ユーシスが彼の真正面に向き直る。トワたちから見てその背中は、これは自分の役目だと言わんばかりだった。

鋭い視線にゴルティ伯爵は言葉を詰まらせる。爵位の差ではない。貴族としての差で歳の離れた大人を黙らせたユーシスは、その口から決定的な言葉を放った。

 

「あなたがミラを握らせた砦の兵は既に把握している。少し絞ったらすぐに吐いたそうだ」

「は……」

 

 頭が理解を拒んだようだった。言葉にもならない息を零したゴルティ伯爵にお構いなく、ユーシスは掴み取った事実を明らかにする。

 

「砦を介した共和国の密輸業者との売買……趣味が高じるにも限度を知るべきだったな」

 

 陸に上がった魚の如く口をパクパクさせる様子から、ユーシスが語るものが真実であることは明らか。そして、それはトワたちの推測を裏付けるものでもあった。

 この水墨画がクロスベルを介さずに来たのならば、共和国から直接持ち込まれたことに他ならない。つまり、人の往来が絶えたはずの砦の向こう側から。

 確かにクロスベルを介せば共和国の美術品の類も手に入るが、それは高価で、数も限られている。帝国に至り自身の手元に入るまで関税はもとより、幾つもの仲介業者を経て値が吊り上っていることは想像に難くない。そもそも共和国内でも貴重な品であれば、帝国に流れ着くのはそれこそ稀なことだろう。

 それでも東方の美術品を手に入れたいならどうするのか。単純な話である。非合法な手段に手を染めてしまえばいい。

 おそらくは、共和国内にもそうした手合いを狙い目にした商売を行っている者たちがいるのだろう。美術品の類はミラが付きやすい。法律や倫理を度外視すればいい飯の種だ。

 

「師匠から、向こうの東方人街には巨大な犯罪シンジケートが存在すると聞いたことがある。そうした手合いの資金稼ぎの一環かもしれないね」

「なるほどねぇ……こうして実際に食いついている奴がいるんだから、稼ぎの手段としては悪くないのかもな」

 

 クロスベルを介するより安価で、しかも貴重な品が手に入る。好事家にとってこれほど魅力的な誘い文句もないだろう。

 砦の兵士を買収し、国境付近で密輸品の取引を代行。その後、人の目に触れないよう夜半に使いを送り回収する手筈だったのかもしれない。

 ところが、実際には使いとして送ったブルーノがユピナ草を探して道を外れた結果、悪魔に遭遇して密輸品の水墨画を紛失。怒り心頭となっていたところ、アルバレア家が出張ってくる大ごとになってしまい、ブルーノに冤罪を擦り付けることで密輸品の存在を隠蔽しようとしたといったところか。

 

「なんというか、その……場当たり的というか、その場凌ぎというか」

「はっきり言ってやれよ。やり口がお粗末で杜撰だってな」

 

 言葉を選んでいたトワに構わず、ずばりと言い切ってしまうクロウ。悪しざまに言われても、自らの所業が白日の下に晒されてしまったゴルティ伯爵はぐうの音も出せない。

 密輸を企てたまでは良かったものの、その後のアクシデントへの対応は明らかなミスだった。怒りに任せて往来の中で怒鳴り散らしていたのが、こうして事態を詳らかにしてしまう契機となったのだから。

 

「公爵家より追って沙汰は伝える。しばらくは大人しく謹慎しているがいい」

「か、かしこまりました……」

 

 ユーシスからの通告にゴルティ伯爵は力なく項垂れるしかなかった。とぼとぼと屋敷に引き返していく後ろ姿は、自業自得とはいえ哀れなものである。

 一仕事を終えたユーシスは深く息を吐く。それは嘆息であったのか、安堵のものであったのか。彼のことをよく知らないトワには、その心中を推し量ることはできない。

 

「お疲れ様。それと、ありがとうね。おかげで助かったよ」

 

 だが、彼の働きが事態を良い方向に動かしたのは確かだ。労いと感謝の声をかけると、少し驚いたような目を向けられた。照れ隠しのようにすぐ逸らされてしまったけど。

 

「別に……俺はただ、アルバレアの人間として為すべきことを為したまでだ。それに、ただ一人で調べ上げられたわけでもない。あなたたちの働きに比べれば微々たるものだろう」

「まったく、感謝の言葉は素直に受け取るべきだと思うがね。事の大小よりも、自分の為せることを為したことが肝要じゃないかい?」

「そうだね。僕たちには砦のことなんて調べようもなかったわけだし」

 

 アンゼリカとジョルジュの言う通りだ。ユーシス自身、自分は大したことをしていないと思っているのかもしれないが、それは謙遜でしかない。

 ブルーノにかけられた冤罪に、カーテが患った奈落病。それらの難事に対してそれぞれができることを成し遂げたからこそ、こうして万事解決することができたのだ。そのことを誇りこそすれ、卑下する理由などないだろう。

 

「ま、坊ちゃんもよくやったってことでいいじゃねえか。胸を張っていいと思うぜ」

「……ふん。なら、その坊ちゃんというのは改めてほしいものだがな」

 

 まあ、彼の性格的にクロウとは違う意味で素直に喜ぶタイプではないのかもしれない。半目を向けられた我らの軽薄でいい加減な男といえば、やれやれと肩を竦めながら「そのうちな」と返すのだった。

 

「おーい、みんなー!」

 

 と、そんなところに元気な声が聞こえてくる。エステルたちが大きく手を振りながら近づいてくるところだった。一緒に大聖堂に向かったアネットとラビィも一緒だ。

 エステルたちは勿論、子供たちの表情も明るい。彼女たちの方がどうなったかなど聞くまでもないことだったが、いの一番に父親の胸に飛び込んできたラビィの声によりそれは伝えられた。

 

「おとーさん! 大司教様がね、おかーさんもう少ししたら元気になるって! おねえさんたちが持ってきてくれたお花で作ったお薬、すっごいよくきいたんだ!」

 

 アモン大司教は期待の通りに特効薬の調薬をしてくれたようだ。エステルの方に目を向ければ、自信たっぷりにサムズアップ。こちらも同じく返すことで上手くいったことを伝えると、互いに自然と笑みを浮かんだ。

 

「そうか……よかった、本当に……ぐ、うぅ……」

「お父さん……そうだね。本当に、よかった……ぐすっ」

「おとーさん? おねーちゃんもどこか痛いの?」

 

 妻が危篤を脱し、快癒の目途が立ったことでついに耐えられなくなったのだろう。ブルーノは男泣きし、アネットもつられて涙を浮かべる。無邪気に喜んでいたラビィだけは、どうして二人が泣いているのかまだ分からないようだったが。

 重なる理不尽に押しつぶされ、散り散りに吹き飛ばされかけていたごく普通の家族。世界を見ればよくある悲劇の一つかもしれないし、多くの人にとっては目にも留まらない些事でしかないだろう。

 それでも、こうして彼らを助けることができて良かったと思う。自分たちには手の届く範囲のことしかできないけれど、確かに悲しみの芽を摘み取ることができたのだから。

 

「……皆さん、本当に、本当にありがとうございます。私だけでなく妻も救っていただいて、なんとお礼を申し上げたらいいのか……」

 

 涙を拭ったブルーノが深く頭を下げる。その声には、もはや言葉にならないほどの感謝の念がこもっていた。

 トワたちへの恩を考えれば、この畏まった態度も理解できるものだ。とはいっても、それを向けられる側としてはこそばゆい気持ちが先立つわけで。どうにも照れくさく感じてしまうものがあった。

 

「そ、そんな改まらなくてもいいってば。ハッピーエンド万歳でいいじゃない」

「はは……まあ、水を差すようで悪いけれど、今後のことを考えればあまり手放しで喜んでもいられないしね」

 

 その気持ちはエステルも同じだったようだが、横から差し挟まれたヨシュアの言葉に疑問の目を向ける。

 

「今回の件の後も引き続いて伯爵に仕えるのは無理があるだろう? ブルーノさんたちの心情的にも、伯爵の側からしても」

「そういえば、それがあったか……失礼ですが、お仕事はどうするおつもりで?」

 

 すっかり頭から抜けてしまっていたが、もとをただせばゴルティ伯爵の使用人として務めていたからこそ今回の件が起こったといっても過言ではない。ヨシュアの言う通り、夫婦ともども今後も今まで通りというわけにはいかないだろう。

 トヴァルが当の本人に確認すると、ブルーノは薄く笑みを浮かべた。それはこれからの苦労を予期するかのようだったが、決して暗いものではない。

 

「ほとぼりが冷めたら、伯爵閣下へ正式に辞職を申し出ようと思います。職を探す間、子供たちに苦労を掛けるかもしれませんが……」

 

 妥当な結論だろう。誰だって自分を陥れようとしたような人の下で働きたいとは思わない。職を失うことは手痛いが、これからのことを考えるとブルーノには頑張ってもらうほかになかった。

 できれば何か力になりたいところだが、トワたちにそんな伝手はない。せめて応援するのが精いっぱいだった。

 

「そのことだが、少しいいだろうか」

「ユーシス様?」

 

 そこにユーシスが声をかける。不思議そうな目を向けられる中、彼は静かに切り出した。

 

「公爵家のものに聞いたのだが、ここのところ使用人の手が足りないようでな。経験のある人材を募集しているとのことだ。あなたと奥方がよければ、俺の方から紹介したいと思っている」

 

 え、とブルーノが固まる。無理もない。トワたちでさえも驚いているのだから。

 四大名門の一角に仕える使用人ともなれば、そう簡単になれるものではないだろう。高い能力が求められるのは間違いないし、信頼できる人物か審査も行われるかもしれない。

 だが、当主の子息の紹介ともなれば話は別だ。余程のことが無い限り採用されるのは決定事項である。無論、紹介してくれたユーシスの面子を守るために職務に励む必要はあるが、ゴルティ伯爵のもとにいるのとモチベーションは段違いだろう。

 

「ユーシス様のお屋敷で、お父さんとお母さんを働かせてもらえるんですか!?」

「ああ。忙しいのには変わりないが、今の待遇からの改善は約束する……どうだろうか?」

「そんな……そんな、身に余る光栄です。どうかよろしくお願いします……!」

 

 ブルーノが再び目に涙を浮かべ、子供たちはわぁっと喜びの声を上げる。最後の懸念が消えたそこには、もう何の憂いもなかった。

 これにて本当にハッピーエンド万歳、といったところか。最後にいい仕事をしてくれたユーシスは喜び合う家族の姿に穏やかな笑みを浮かべている。そんな彼を見つめる周囲の温かい視線に気付くや、咳払いをして誤魔化した。素直じゃない。

 

「んんっ……まあ、こうして解決に手を貸してくれたあなた方には感謝している。労いにと言ってはなんだが、食事でも馳走するとしよう」

「お、いいねぇ。昼飯も食い損ねて腹が減ってたんだ」

 

 時刻は既に昼時を過ぎ去り、もうじき日も傾こうかという時間帯。崖肌をよじ登りユピナ草を手に入れ、悪魔を討ち果たしてきた中で休憩する余裕など欠片もなかった。クロウが空腹を訴えるのも無理なからぬことだ。

 

「何言っているの、クロウ君。これからまた街道に出るのに」

「は?」

 

 ところが残念。ユーシスの誘いはありがたいが、試験実習班としてはお受けできない話なのだ。まだまだやることは残っているがために。

 

「ほら、今朝にもらった依頼。手配魔獣のやつが一つ残っていたでしょ。帰りの列車までに急いで片付けないと」

「え、いや……それは領邦軍に押し付けるって……」

「無理そうなら、ね。今から急いでいけば間に合う。何も問題はないだろう?」

 

 確かに悪魔の件を引き受けたときはそう言っていた。時間的に間に合うか分からなかったからだ。そして現在の時刻は夕刻前。走って行って片付け、走って帰ってくれば列車の時間にも間に合うだろう。

 領邦軍に任せてもいいが、せっかく自分たちの手でできるのならその方が収まりがいいというものだ。依頼を一つだけやり損うというのも後味が悪い。

 そんな女子二人の正気を疑うかのような目で見るクロウ。その言葉が撤回されないと知るや、味方を求めて視線はジョルジュへ。向けられた先の彼は、力のない笑みを浮かべて首を横に振った。諦めろ、と。

 

「あ、あはは……まあ、ここまできたらあたしたちも付き合うわよ」

「万が一、列車を逃したら大変だからね。人手があれば早く終わるだろう」

 

 エステルとヨシュアもこの通り。せっかくの労いの場に自分たちだけ招かれるのも後ろ髪が引かれるのだろう。後ろで「お兄さん結構疲れているんだがな……」とぼやいているのは聞き入れてもらえなかった。

 

「……だぁっ!! 分かったよ、やればいいんだろ! おら、さっさと行くぞ!」

「えへへ……うん!」

 

 八方を塞がれて逃げ道はなし。やけくそ気味に承諾したクロウが街道向けて駆け出し、その後をトワが追う。

 

「そういうわけだ。ユーシス君、またの機会に頼むよ。アディオス!」

「いつになるか分からないけどね。はぁ……」

 

 アンゼリカが挨拶もそこそこに、そしてジョルジュがご馳走への未練をにじませながら続く。遊撃士たちも遅れないように走り出した。

 ユーシスはというと、そんな彼女たちに呆気にとられるばかり。「あ、ああ……」と返事にならない返事をする合間に背中はどんどん遠ざかっていく。

 

「あの、お姉さんたち!」

 

 そんな背中に声が投げかけられる。振り向いたトワの目に映ったのは、大きく手を振るアネットにラビィ。その顔に浮かぶ笑顔には一点の曇りもなかった。

 

「本当に、本当にありがとうございました! 皆さんのこと、きっと忘れませんから!」

「ありがとー! さようならー!」

 

 子供たちの元気な声、ブルーノがもう一度深く頭を下げ、ユーシスも軽く会釈する。それぞれの感謝の意に対し、トワたちも返事として大きく手を振った。

 さあ、もうひと頑張りだ。

 晴れやかな気持ちを胸に抱き、トワたちは街道に向けて走り出すのだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「なるほど、得難い経験をしてきたようだな」

 

 バリアハート、貴族街。その中でも最大の規模を誇るアルバレア公爵家の城館の一室において、ルーファスはそう頷いた。

 執務机にかける彼の前には、同じ金髪を有する少年が背筋を伸ばして立つ。今回、バリアハートにおいて起きた小さな、しかし見逃されざる事件。その顛末を弟であるユーシスから聞き届けたところであった。

 

「はい……と言いましても、大半は遊撃士、そしてログナー嬢をはじめとした士官学院の方々のおかげです。伯爵の行いを明らかにできたのも兄上の力添えがあったからこそ……自分の力不足を痛感するばかりです」

 

 そんな弟はというと、無事に事件が解決されたというのに浮かない顔だ。どうやら自身の力で為せたことの少なさを気にしているらしい。

 実際、その通りだろう。悪魔とやらにしても、ユピナ草という希少な薬草にしても、協力者たちの力が無ければ無理だったのは明らか。ゴルティ伯爵の嫌疑が明らかになったのも、ユーシスから助力を求められたルーファスが砦の司令部に捜査の指示を出したからだ。当主子息とはいえ次男……そして妾腹の子の声では、ここまで上手く事が運ぶことはなかっただろう。

 ふっ、とルーファスの口端に笑みがこぼれる。それは好ましさからくるものだった。

 

「青いな、弟よ。自らの力で事を為すのが全てではあるまい。私しかり、トールズや遊撃士の協力者たちしかり、多くの助力を得てことを為せたのをまずは喜ぶべきではないか?」

「それは……その通りですが」

「それに、そなたが無力だったということもあるまい。アルノーを説得したのは間違いなくそなたの功績だろう」

 

 ブルーノに紹介した公爵家の使用人の話。あれは確かに元からあったものだが、そう簡単に通ったものでもない。城館の管理を取り纏めているアルノーに頼み込んでもぎ取ってきたのだ。

 見方によっては、我儘とも取られるかもしれない。ルーファスに頭を下げて助力を求めてきたのもそうだ。仮に父である公爵に話を持って行っていたとしたら、まず間違いなく下らないことで手を煩わせるなと一蹴されていただろう。

 だが、自らの力不足を認めながら尚も奔走する弟の姿がルーファスは嫌いではなかった。理不尽に飲み込まれつつある民を見捨てず、自身の信じるものに正しくあろうとする姿が。そんな彼に兄として手を貸してやらないほど狭量ではない。

 

「生真面目すぎるのも考え物だな。各々が為すべきことを為し、それが結実したことを誇るべきだろう――もっとも、私などが言わなくともログナー嬢あたりが既に口にしていようが」

「……ご、ご明察の通りです」

 

 恥ずかしげに肩を小さくするユーシスに笑みを漏らす。普段は涼しげにいるが、こういうところは可愛げのある弟であった。

 さて、と話を切り替える。あまり弄り過ぎても臍を曲げられてしまう。

 

「それにしても伯爵には困ったものだな。趣味は常識の範疇で楽しんでもらいたいものだったが」

 

 美術品の密輸、それも帝国の敵として真っ先に挙げられる共和国との、である。本人は甘い誘惑に魔が差した程度の気持ちだったのだろうが、あまり軽く見られる事態ではない。

 今回は向こうの犯罪組織の小遣い稼ぎのようだったが、或いはこれが諜報組織による間諜の一環だったら。甘い誘惑に乗せられて外敵を招き入れたとなれば洒落では済まないだろう。

 買収された砦の兵士についてもしかり。ここのところ、クロイツェン領邦軍におけるモラルの低下は目に見えるものとなってきている。貴族派と革新派の対立の影響か。平民に対して攻撃的な態度をとるものが多い。加えて、今回のように規律の緩みも見受けられた。

 ――無論、領邦軍についてはルーファスも手を回してはいるが。

 

「その伯爵についてですが……兄上、本当にあれで終わりなのですか?」

 

 ユーシスからの質問に薄く笑みを浮かべる。何が、とは聞かなくても分かっていた。先ほど伝えたゴルティ伯爵の処遇についてだろう。

 

「ああ、父上の裁可だ。不満か?」

「…………」

「……ふっ、意地の悪いことを聞いたな」

 

 一連の事情を報告されたアルバレア公爵より彼に下された処罰は、一か月の謹慎と形ばかりの罰金。ただそれだけだった。

 密輸にそれを隠蔽するための罪の捏造。ゴルティ伯爵がやったことに比すれば、それは軽すぎる罰という他にないだろう。あくまで形式的なものであって、アルバレア公に本気で罰する気がないのは明らかだった。

 危うく一家の未来が閉ざされるところだったと知るユーシスは勿論納得していない。だが、父である公爵の決定に対して声高に異を唱えるのは賢くない選択だ。

 それゆえの無言の返答。分かり切っていたことをわざわざ聞いたルーファスは肩を竦めた。

 

「この頃は難しい時期だ。下手に事を大きくすれば、革新派に付け入られる隙をさらすことになる。そういった判断があってのことだろう」

 

 貴族派と革新派の睨み合いはいたるところで行われている。そんな時に一伯爵が厳罰を受けたと明らかになればどうなるだろうか。革新派はこれ幸いとばかりにこぞって叩きにかかってくるに違いない。

 大局に影響は及ばさなくとも、煩わしい面倒を避けるに越したことはない。アルバレア公の判断は昨今の情勢を考慮してのものだろうとルーファスは告げる。

 だが、納得できるかと言われたら難しいところだ。年若いユーシスには尚更である。彼は依然として難しい顔のままだった。

 

「納得しろとは言わない。ただ、今はそれを受け止め飲み干すといい。そなたの今後の成長の糧とするためにな」

「……はい、兄上」

 

 時には受け入れがたい出来事も起き得るのが人生である。重要なのは、そこから何を得るかということ。思うようにはならなくても、これからを見越して学び取れるものはあるはずだ。

 敬愛する兄の言葉で、ユーシスはようやくその表情を緩めた。

 

「ログナー嬢をはじめ、今回は多くの方に世話になりました。彼女たちに恥じぬよう――あ」

 

 これからも精進を、と続けようとしたところで、ユーシスは彼らしからぬ間の抜けた声を漏らす。どうしたことかと不思議そうな目を向ける兄に、彼は気まずそうに目を伏せた。

 

「いえ、その……慌ただしかったので、名を聞いていなかったことに気づきまして」

「ふむ」

 

 奈落病の件が一刻を争う事態だったのに加え、別れ際も相手が急いでいたので気付けばろくに挨拶もしないままだった。唯一分かるのは、以前から面識のあるアンゼリカのみ。世話になった相手の名前も分からないというのは些か格好がつかないものである。

 それを聞いたルーファスは少し考える。言っていないが、彼はそのトールズの生徒たちの実習の責任者である。名前だって当然知っているし、個人的な興味から大まかな素性も把握している。ユーシスにそれを教えるのは簡単なことだった。

 

「まあ、聞き損ねたものは仕方あるまい。それはまたの機会を待つとすればいいだろう」

 

 だが、ルーファスはあえて教えなかった。

 それは悪意あってのものではなかったが、同時に利己的なものであった。といっても、そう大した理由でもない。

 

「そなたも来年はトールズの生徒となることを志す身……先輩にかつての礼を伝えに行くという趣向も悪いものではあるまい?」

「……そうですね。悪くありません」

 

 単純な話だ――その方が面白そうだからである。

 あの小さな少女が率いる四人についても、自身がトールズに少なからず関わる身であることも、今は秘しておいた方が後々面白くなる。そんな悪戯心に似た理由でルーファスは惚けたのであった。

 対するユーシスはといえば、兄からの言葉にそれなりの意義を見出していた。彼にとってトールズへの進学とは、公爵家の子息としての義務のようなものだった。そこに自ら志す理由ができるというのなら……言葉の通り、悪くはない。

 ユーシスの面持ちが心持ち和らぐ。兄も意図しないうちに気持ちを新たにした彼は、改めて頭を下げた。

 

「重ね重ね、今回はありがとうございました。何もお返しできないのが歯痒いところですが……」

「気にすることはない。ただ、そうだな。返礼といっては何だが、我が弟が有角の獅子の学び舎で大きく成長することを、今から期待させてもらうとしよう」

「……ええ、承知しました」

 

 では失礼します、とユーシスは執務室を後にした。その背を見送り、足音が遠ざかっていくのを耳にしながらルーファスは歪んだ笑みを浮かべた。

 

「昨今の情勢――貴族派のため、か。ふふ、我ながら下らないことを口にしたものだ」

 

 思い返すのは、先ほど話したゴルティ伯爵の処遇について。ユーシスには情勢を考えてのことと言ったものの、実際のアルバレア公の心中はそんな大したものではないだろう。差し詰め、罪を罪とも思っていないに違いない。あの男(・・・)はそういう人間だ。

 これが平民相手なら容赦なく糾弾するだろうに、貴族だからという理由で正当な罰さえも与えられない。それがルーファスには下らなく思えて仕方がなかった。

 一息ついて思考を改める。下劣なことにばかり考えを割いていても仕方がないだろう。彼は執務机の引き出しから一通の手紙を取り出した。

 

「それに引き換え……こちらは、実に面白い」

 

 その手紙の差出人は、オリヴァルト・ライゼ・アルノール。今回の実習責任者を引き受けてくれたことに対する礼であり、そしてトールズ士官学院の理事就任を願うものだった。

 鉄血宰相の手を拒み、彼とは違う道を進むことを選んだ放蕩皇子。そんな彼の一手たる特科クラス、その雛型。どれほどのものかと思っていたが、なかなかどうして楽しませてくれる活躍ぶりだった。弟からの話からもそれは明らかである。

 この先、帝国が迎える激動の時代。荒れ狂う時代の奔流の中で、あの皇子とその思いを託された若人たちがどのような物語を紡ぐのか――期待していないといえば嘘になってしまう。

 無論、その先立ちたる四人の行く末にも。

 

「ダムマイアー……帝国貴族にとっての触れざるべき者(アンタッチャブル)か。ふふ、開演前の余興としては十二分といえよう」

 

 手紙の返信を書き上げるべく筆を手に取る。承諾の旨を書き綴りつつも、ルーファスの顔には自然と笑みが浮かんでいた。

 彼女たちを取り巻く帝国の闇に端を発する因縁――果たしてどのような結末を迎えるか、精々楽しみにさせてもらおう。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 壮麗な街並みが夕日に照らされるバリアハート。一日の終わりが近付く中で、人々は家路につくか或いは夜の街に繰り出そうとしている。

 トワたちは差し込む斜陽が眩い駅前にいた。そこには試験実習班の面々だけでなく、エステルたち遊撃士の姿も。最後の手配魔獣の依頼を手伝ってくれた彼女たちは、学院へと戻る四人を見送りにきてくれていた。

 

「色々ありがとうね、エステルちゃん。ヨシュア君にトヴァルさんも。おかげで助かったよ」

「いいってば、そんなの。水臭いわね。あたしたちだって、トワがいなくちゃあの悪魔を倒せたか分からないんだからお互い様よ」

 

 地下水路で偶然にも出会った彼女たち。どうしてか《光の剣匠》と剣を交えることになったり、ブルーノの一件で力を貸してもらったり、短い間にも随分と濃い時間を過ごしたように思える。

 それゆえの感謝の言葉だったのだが、気持ちはエステルも同じだったようだ。笑う彼女につられて微笑む。改めて、この気の合う友人と出会えてよかったと思う。

 

「それにしてもまあ、色々とあったが……本当に貰ってよかったのか、それ? 俺にはよく分からないが、かなり高価なものなんだろう」

 

 そういってトヴァルが目を向けるのはトワの手元にあるトランク。ゴルティ伯爵が共和国より手に入れた密輸品の水墨画であった。

 ユーシスたちと別れたときには急いでいたこともあって、うっかりそのまま持ってきてしまったこの品。先ほど、実習完了の報告の際に顔を合わせたルーファスに処分を頼もうと思ったのだが、事情を聞いた彼の口から話されたのは意外なものだった。

 

 ――それなら君たちに差し上げよう。今回の報酬というわけではないが、公爵家で預かっても腐らせてしまうだけだろうしね。遠慮なく貰っていってくれたまえ。

 

 差し上げようなどといわれても、こんな高価なものを渡されても困ってしまう。当然、断ろうとしたのだが、列車の時間が差し迫っていたこともあって報告自体も手短にならざるを得なかった。結局、断り切れずに持ち帰ることになってしまったのだった。

 

「まあ、こうなってしまっては捨てるわけにもいきませんし……引き取り手にも困る代物ですけど」

「うーん……皆いらないなら、残され島の博物館にでも寄贈しようかな。今度帰るときにでも持って帰ればいいし」

 

 といっても、こんな美術品を一学生が所有しているままにしているのも落ち着かないものだ。そもそも、四人ともこういった類の品に特別な興味を持っているわけではない。寮部屋に飾っても浮いてしまうだけだろう。

 いっそのこと、故郷の博物館に寄贈してしまおう。そんなトワの提案に否やはなかった。例え密輸品であったとしても、人目に触れる場に置かれるならば美術品としての価値を少しでも活かすことが出来るに違いないだろうから。

 一応の処分のつけ方を決めたところで、エステルがため息をつく。トランクを見つめるその目はどこか呆れを含んでいた。

 

「ご褒美をくれるのは嬉しいけど、こういう変にお高いのをもらっても困っちゃうわよね。私たちみたいに転々としている身だと使いようも無いし」

 

 確かに、リベールからやってきて帝国各地で活動している彼女たちのような身だと、こういうのを贈られても扱いに悩むだけだろう。どうせなら美味しい食べ物を奢ってくれた方が嬉しいとでも言いたげなエステルであった。

 

「はは……これについては厄介払いみたいな面もあるだろうけどね。あの悪魔を倒した証拠でもあったら、そういう役得にも預かれたかもしれないけど」

「べ、別に文句があるわけじゃないのよ? ただ、そういったお礼の方がいいなっていう話なだけで……あっ、そうだ」

 

 苦笑い気味なヨシュアに慌てて言い繕うエステル。ふと、彼女は何かを思い出したかのように声をあげるとトワの方に向き直った。

 

「悪魔といえば、あの時のことは黙っておいた方がいいのよね?」

 

 あの時のこととは、ノイの、そして他ならぬトワの事情についてだろう。

 エステルたちに星の力やミトスの民について詳しいことは話していない。ただ、トワが常人にはない不思議な力を持っているということを理解しているだけだ。

 本当は話しておいた方がいいのかもしれない。けれど、教会の盟約もあってこのことは早々簡単に触れ回れることではない。それを朧気ながら察してくれたのだろう。彼女たちは深くは聞いてこなかったし、こうして気を遣ってくれている。

 

「うん……本当にありがとうね。ちゃんと話せたらよかったんだけど……」

「気にしないでってば。誰にでも秘密の一つや二つくらいあるもんでしょ」

「ま、そうだな。どうしても気になったら先生にそれとなく聞くから、トワが気負う必要なんてないと思うぜ」

 

 ありがたいことだ。トワは彼女たちに感謝の気持ちしかなかった。

 本人たちにとっては大したことではないのかもしれないが、トワにとっては自分を受け入れてくれたのが本当に嬉しかったのだ。だから彼女は思う。今度は自分が力になりたいと。

 

「エステルちゃんたちが何か困ったら遠慮なく頼ってね。私が出来ることなら、なんだって力になるから」

 

 トワの申し出にエステルとヨシュアが目を見合わせる。何か心当たることがあったのか、彼女は早速「じゃあ、いいかな?」と切り出した。

 

「トワたちは、これからも実習で色々なところに行くのよね?」

「ああ。テストをどの程度で切り上げるかは分からないが、まだしばらくは続くだろうね」

 

 ケルディックにはじまりヘイムダル、ルーレ、そして今回のバリアハート。特科クラスの予行テストとしてトワたちは帝国各地に赴いてきた。今後もしばらくは変わりないだろう。

 それがどうしたのだろうか。不思議に思うトワたちにエステルは事情を明かす。

 

「実はさ、あたしたち遊撃士として活動しながら帝国で人を探しているの。レンっていう菫色の髪をした十二、三歳くらいの子なんだけど」

「なかなか足取りがつかめなくてね。君たちが実習に行った先でもし見かけるようなことがあったら、僕たちに伝えてもらえないかと思って」

 

 この広い帝国で、どこにいるかも分からない一人の女の子を探す。それは確かに大変なことだろう。そして、各地を訪れるトワたちに助力を求めるのも理解できる事情だった。

 

「そりゃ構わねえが……家出娘か何かなのか?」

「うーん……家出娘というより、迷子の子猫って感じかしらね」

 

 しかし、そんな女の子が話を聞く限り一人で帝国を彷徨っているというのも変な話だ。当然の疑問を口にしたクロウに対する返答は、なんだか要領を得ないもの。答えたエステルの口元には哀愁と慈しみが混じり合ったような笑みが浮かんでいた。

 きっと並々ならない事情があるのだろう。事の仔細は分からなくとも、それだけは察することが出来た。

 それに、なんだって力になると言ったのだ。ここで断るなんて選択肢があるはずがない。トワは胸に手を当てて承諾する。

 

「任せてよ。なんだったらエステルちゃんたちのところまで送り届けてあげるから」

「あはは、あの子のことだからさらっと逃げていっちゃいそうだけど」

「どんな子なんだい、そのレンって子は……」

 

 一筋縄ではいかない頼みごとのようだが、エステルたちの力に少しでもなれるのなら是非もない。出来得る限りのことはやって見せよう。

 連絡はシグナを介してすることにして、探し人の特徴を聞いているうちに元より少なかった時間はあっという間に過ぎる。気が付けば予定の列車が発車するまであと僅かとなっていた。残念ながらそろそろお別れである。

 

「それじゃあな。彼女と何しようが勝手だが、しっかりとひに――うごっ!?」

「このロクデナシ男が最後まですまないね。二人とも元気に頑張ってくれたまえ」

「はは……分かった。そちらもどうか元気で」

『トヴァルもまたね。シグナによろしくなの』

「あ、ああ。それにしてもまあ、姿が見えないのに声だけするのも変な感じだな」

「僕たちはもう慣れちゃいましたけどね。ごく自然に」

 

 それぞれ別れの挨拶を交わし、試験実習班は駅の方へ。遊撃士たちはこれから徒歩でレグラムへと向かうという。

 トワも仲間たちに続いて踵を返しかけたところで、肩越しに「トワ!」と自分を呼ぶ声。振り向くと、エステルが片手を肩のあたりに掲げて笑っていた。

 

「お互いこれから大変なこともあるかもだけど……頑張って乗り越えて、また会おうね!」

「――うん! またね!」

 

 さようなら、ではない。険しい道を行くさなかで、再び軌跡が重なり合うこともあるだろう。その時を想い、二人は再会を約束する。

 応じるようにトワも手を掲げる。小気味の好いハイタッチの快音がバリアハートの駅前に響き、実習の終わりと確かに紡がれた縁を知らせるのであった。

 



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幕間 青春の肖像Ⅰ

ここのところお気に入りや評価が増えて嬉しい……嬉しい……感想も貰えたらもっと嬉しい(欲張り)

冗談はともかく、お気に入り登録に評価ありがとうございます。最近は出張と残業と休日出勤のトリプルコンボで更新が滞っていましたが、ようやく一段落したのでいつものペースに戻ると思います。それでも早くはありませんがね。

今回は以前に予定していた通り、他の先輩たちに焦点を当てた幕間になります。一人あるいは一組あたり4000字程度のつもりが、何故か全て5000字オーバーに。お楽しみいただけたら幸いです。


【熱血! 激突! ガチンコ勝負!!】

 

「「あ」」

「?」

 

 士官学院の図書館でそんな声が響いたのは、勉強が苦手なエミリーにトワが分からないところを教えてあげているときのことだった。思わず、といった様子で声をあげたクラスメイトの視線の行く先をトワも追いかける。

 そこにいたのは、肩先くらいの金髪をポニーテールにした貴族生徒の女子。トワ自身、彼女とあまり関りはないが、知っている人ではあった。テレジア・カロライン。男爵家の出身で、アンゼリカの知り合い。

 そしてエミリーと同じラクロス部の所属であり、彼女とそりが合わないと聞く人物であった。

 テレジアがたまたま図書館に訪れたところに、先客としていたトワとエミリーに遭遇してしまった形か。話に聞いていた通り、良好な関係ではないらしい。お互いに眉をひそめ、視線は睨みつけるかのような険しさを纏っていた。

 

「……稀有なこともあるものね。あなたみたいな人が図書館にいるなんて」

 

 別に、わざわざ絡む必要もないだろうに。そこのところ無視をすることが出来ないくらいには意識しあっているのかもしれない。テレジアが投げかけてきた挑発混じりの言葉に、エミリーは明らかに気分を害した様子を見せた。

 

「なによ。あたしがここにいちゃいけないっていうの?」

「別に。ただ――」

 

 ちら、とテレジアの目がトワたちの机の上に向けられる。広げられた教科書や参考書の類から何をしていたのかを察したのだろう。エミリーに向き直された視線には呆れが含まれていた。

 

「お友達に頼らなくちゃままならないのはどうかと思うわね。その暑苦しさを他のところに割り振ってみたらどうなの」

 

 神経を逆撫でする物言いにエミリーもカチンとくる。喧嘩を売ってくるなら受けて立ってやろうとばかりに、椅子から立ち上がった彼女はテレジアの正面に立った。

 ラクロス部に入部して顔を合わせてからというものの、二人の関係性はこのような感じであった。熱血タイプのエミリーに対し、クールで理屈家なテレジアは色々な面でそりが合わない。水と油の如き彼女たちは根本的に相性が悪かった。

 しかし、ラクロスは団体競技。チーム内で不和を抱えたままでは他の仲間にも迷惑をかけてしまう……それが分からない二人でもなかった。

 

「言ってくれるじゃない……いい機会ね。そろそろ決着をつけるとしない?」

「へえ、どうやって?」

 

 ここらで白黒はっきりするとしよう。エミリーの提案にテレジアも乗る気配を見せる。周囲は険悪から一触即発な雰囲気へと変わっていた。

 これに焦るのがトワ。流石に目の前で喧嘩が始まっては堪らない。慌てて二人の間に入ると宥めすかすように声を掛ける。

 

「け、喧嘩は駄目だよエミリーちゃん! テレジアちゃんも落ち着いて!」

「そんな心配する必要ないわよ。暴力沙汰にはしないから」

 

 あわや殴り合いでも始めるのではと思っていたトワに対し、エミリーは意外と冷静な声で応じた。さりとて、どのようにして決着をつけるというのか。その答えは、因縁の相手に挑むように突き付けられた指と共に告げられた。

 

「これはラクロス部の問題……なら、ラクロスで事を決するのが筋。どちらが優れたプレイヤーかを競って勝負よ!」

 

 気迫十分に告げられた勝負内容。いまいちピンときていないトワが首を傾げている間にも、テレジアが「なるほど」と呟いた。

 

「パワー、コントロール、スピード……ラクロスにかかる能力を競って勝負を決するということね。いいわ。けど、審判はどうするのかしら?」

 

 ラクロスには様々な身体能力が絡む。相手を妨害し、そして妨害を跳ね除けるパワー。正確なパスを実現するコントロール。そしてゴールへ向けて駆け抜けるスピード。それらを総合的に競って白黒つけようというのだ。

 内容自体に異論はない。だが、その正当性を保証する第三者が必要だ。不正する気など双方ともにさらさらないが、勝負を勝負として成立させるためには公正な審判が欲しかった。

 

「いるじゃない。ここにちょうどいい子が」

「ふえっ?」

 

 簡潔に、あっさりと言ってのけて友人の肩に手を置くエミリー。唐突に巻き込まれる形になったトワは状況を飲み込めないまま流されていく。

 

「この子の評判は知っているでしょ? これ以上ない適役だと思うけど」

「……アンゼリカさんと仲がいいし、生徒会長の信任も厚いそうね。分かったわ。お友達だからと贔屓する性格でもなさそうだし」

 

 貴族生徒と平民生徒で競う以上、そのどちらかに属する他生徒を審判に据えると公平性に疑問が出てくるのは致し方ない。その点、トワは理想的であった。貴族生徒側とも親交と信用があり、お人好しで純朴な性格で知れ渡っていることから不正にも縁遠いと思えたからだ。

 今から他の審判を見つけてくるのも骨が折れる。そんな事情もあってとんとん拍子に――本人の意思が介在する間もなく――ことは進む。

 

「十分後、グラウンド集合よ。その澄ました面をむしり取ってやるわ」

「そちらこそ、尻尾を巻いて逃げないことね」

 

 そうして火花を散らした二人は図書館を後にする。道具なり着替えなりの準備をしに行ったのだろう。残されたのは、ぽかんとしている間に審判にされてしまったトワ一人。

 

「……え? 行かないといけないのかな、これ」

『まあ、潔く諦めた方がいいの』

 

 唖然と呟いた独り言に、姉貴分からの無慈悲な返答。トワはひっそり溜息をつくと、いそいそ勉強道具の後片付けをしてグラウンドへ向かうのだった。

 

 

 

 

 

「だああああぁぁりゃああああぁぁ!!」

 

 トワの眼前を雄叫びと共にエミリーが駆け抜けていく。それにコンマ数秒遅れる形でテレジアも。言わなくても本人たちは分かっているだろうが、審判の本分としてトワは結果を口にする。

 

「百アージュ競争はエミリーちゃんの勝ち。これで二対二だね」

 

 因縁に決着をつけるために始めた勝負も既に四種目を数えていた。速さを競っての百アージュ競争はエミリーが制したことで戦績は互角に。勝負は振出しに戻ることになる。

 勝敗のつけ方としては、どちらかが先に二勝先制したら勝利ということになっている。一戦目でテレジアが白星をつけ早くも決着かと思われたが、そこからエミリーが逆襲して同点に。それをまた繰り返しての現状だった。

 一進一退の激闘を繰り広げる二人。全力疾走の後で息を荒げながらも、互いの闘志に陰りは見られない。勝利を逃したテレジアは忌々し気な目でエミリーを見た。

 

「くっ、往生際の悪い……」

「はあ……はあ……詰めが甘いのよ。あんまり舐めてくれちゃ困るわね!」

 

 正直、見ている限り地力や才能はテレジアに軍配が上がるとトワは思う。持って生まれたものもあるだろうが、それに胡坐をかかずに努力も積み重ねてきたのだろう。そんな背景に裏付けされた実力と自信が彼女の姿からは窺えた。

 しかし、だからといってエミリーも負けてはいない。総合力では劣っていても、ここぞというところでの爆発力が彼女の持ち味。何より勝利を諦めない根性がこの結果をもたらしていた。

 

「さあ、次に行くわよ。百セルジュ持久走、途中で倒れないよう気をつけることね!」

「好き勝手に……! いいわ、結果で黙らせてあげる!」

 

 ヒートアップする勝負につられて舌戦も激しくなる。当初は平静さを保っていたテレジアも、次第に言葉が荒くなり始めていた。

 どうにも物々しい雰囲気に眉尻を下げながらも、トワは粛々と審判としての職務を遂行する。二人がスタート位置に着いたことを確認し、倉庫から借りてきたホイッスルを吹く。短い音の合図で次なる勝負の幕が開ける。

 

「いい加減にっ、負けをっ、認めなさい!」

「そっちこそっ、何時までもっ、孤高気取ってんじゃないわよ!」

 

 それにしても、と思う。

 エミリーは、どうして勝負という形で決着をつけようとしたのだろうか。こうして声高にぶつかり合って、勝敗がついても禍根が残りそうだと分からない彼女ではないはずだ。

 

「私は! 負けるわけにはいかないのよ! 男爵家の誇りにかけて!」

「それが気取っているって言ってんでしょうがぁ!!」

 

 息を切らせながらも言葉で殴り合う二人をトワは黙って見つめる。

 エミリーの意図するところは分からない。だが、いずれにせよ自分が口出しすることではないと思う。これは彼女とテレジアの問題だ。本当にどうしようもなくならない限り、余計な真似は無用だろう。

 だから、せめて見届けよう。それが一人の友人としてトワにできることだから。

 二人の怒声が響くグラウンドに影が伸びていく。陽は既に地平線に向けて傾き始めていた。

 

 

 

 

 

「ゲホッ、ゴホッ……や、やるじゃない……」

「ぜえ……ぜえ……そちらこそ……ゲホッ!」

「えーと……二人とも、もう限界ってことでいいのかな」

 

 結局、彼女たちの一進一退のまま決着がつくことはなかった。先に体力が底をついた二人は揃って地面に転がっている。あんなに怒鳴り声を出しながら走っていたらさもありなん。当然の帰結であった。

 こうなっては仕方がない。審判としては引き分けと判断する他になかった。また後日に決着を、というのなら話は別だが、それでも同じ展開になりそうなのは気のせいか。

 

「はあ……はあ……でも、これで……勝負は、あたしの勝ちね」

 

 しかし、エミリーは確信をもって勝利を宣言した。いったいどういうことか。突然のことに胡乱気な目を向けるテレジアは勿論のこと、トワも不思議に思う。

 

「言ったでしょ。その澄ました面をむしり取ってやるって」

 

 対してエミリーの答えは単純明快であった。まるで分かり切ったことを語るように。

 確かに彼女は図書館でそのように言っていた。火花を散らし合っていたさなかの、ただの煽り文句かと捉えていたそれ。

 

「ゲホッ……こうして、ぶっ倒れるまで戦って、感情をむき出しにさせたんだから……あたしの勝ちで、何の問題もないのよ」

 

 だが、当のエミリーにとっては違った。言葉通り、テレジアのむき出しの感情を暴き出すことが彼女の目的だったのだ。

 ならば、勝負の結末は二の次。その過程で為されたことこそが彼女の勝利条件になり得る。息を荒げ、怒声を上げながら走っていた彼女たちの姿を見れば――なるほど、エミリーの勝利というのも納得はできる。

 そのようなことを宣う隣に転がる赤毛の少女に、テレジアは呆然とする。まるで考えもしていなかったことに理解が追い付いていなかった。

 

「……あなた、そんなことの為にこれを?」

「はは……もうちょっと賢い手が思いつけばよかったんだけど……知っての通り、生憎とそんなに頭がよくないからさ」

 

 別に敵視していたわけでないのなら、こうして体力の限界に挑むような勝負に持ち込まなくてもよかっただろうに。テレジアの本音を引き出したいのなら言葉を尽くすという手段もあったはずだ。

 それはエミリーも自覚するところだったのだろう。自嘲気味な苦笑いを浮かべる。頭の足りない自分には、こうして真っ向からぶつかるくらいしかできないのだと。

 

「でも、ちゃんとあんたの腹の内は聞けたんだから……あながち間違ったやり方じゃなかったと思うわね」

 

 少なからず不器用なやり口ではあったが、エミリーは勝負の中で確かにテレジアの思いの丈を聞いていた。

 男爵家の誇りにかけて――彼女はきっと、カロラインの名に恥じないよう努力を積み重ねてきたのだろう。それは確かに実り彼女の力となったが、それゆえの自負が周囲との壁を作ってしまっていたのかもしれない。

 そんな壁を無理矢理ぶち壊したエミリーは言う。あまり口達者ではないからたどたどしくはあるけれど、ようやく想いを知ることのできた部活仲間に言葉を送る。

 

「あたしは貴族の誇りとかよく分かんないけどさ……そんな肩肘張らなくてもいいんじゃない? こんな風に思いっきりぶつかり合った方が、きっと楽しいわよ」

 

 テレジアにとって大切なものがあるのは分かる。けれど、それを理由に周囲との距離が出来てしまうのは勿体ないことだ。学生として、様々な立場の人たちと共に過ごすこのひと時を、そんな風に過ごしてしまうのは良くないだろう。

 

「ラクロスはチームプレーが命! あんま難しいことごちゃごちゃ考えなくても、皆で一緒に頑張ってりゃ何とかなるっての」

「……まったく、誰も彼もがあなたの暑苦しさについていけると思わないでほしいのだけど」

 

 呆れたようなテレジアの口ぶり。言葉とは裏腹に、彼女の顔には確かに笑みが浮かんでいた。

 

「けど、そうね……私も少しくらいは、あなたのお気楽さを見習った方がいいのかもしれないわね」

 

 テレジアは認めた。今回ばかりは自分の負けだと。けれど、不思議と清々しい気分のようだった。それは貴族でも何でもなく、一人の人間として全てをぶつけ合った結果だったからかもしれない。

 倒れていたところから身を起こす。トワの目から見ても、彼女の表情からは随分と険が取れたように窺えた。

 

「そこまで言うのなら、当然のこと先頭で引っ張ってくれるんでしょうね、エミリー?」

「ふっふーん、任せなさい、テレジア。来年にはきっとスーパーチームを作り上げてみせるわ」

「……不安ね。あなたに任せきりにしたら脳筋チームになりそう」

 

 ポツリと漏らした言葉に「な、なんですってー!」とエミリー。そんな騒がしさを背にして、トワはこっそりグラウンドを後にすることにした。

 

『放っておいていいの?』

「いいのいいの。もう大丈夫そうだし……楽しそうなところに邪魔しちゃ悪いしね」

 

 騒がしいのは先ほどまでと変わらない。だが、そこには先までにはない明るさがあった。トワがわざわざ口を挟むような必要性はもうありはしない。

 すっかり茜色に染まった学院を歩いていくトワの足取りは軽やかだ。夕日に照らされるグラウンドから笑い声が響いてきた気がした。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

【想いを乗せて】

 

「頼む、力を貸してくれ!」

 

 突然に下げられた頭にトワは目をパチクリさせる。急なことに彼女はどう反応するべきか分からなかった。

 放課後の士官学院。いつも通りに生徒会の業務に励んでいたトワのもとに訪れたのは、クラスメイトで吹奏楽部に所属しているハイベルだった。何の用だろうと思った途端にこの有り様である。理解が追い付かないのも仕方があるまい。

 

「えっと……ハイベル君、取りあえず落ち着いて。何のことか分からないと力の貸しようも無いし」

「あ、ああ……すまない。我ながら平静じゃなかった」

 

 兎にも角にも、用件が分からなければ話が進まない。一息つくように促すと、ハイベルも我に返ったようだ。気持ちを落ち着かせるように深く息を吐く。

 それにしても、普段は穏やかな彼がここまで慌てているのも珍しい。部活に精を出しているはずの時間に訪ねてきたことも気になる。何かしら予期せぬ事態が起きてしまったことが推測された。

 事実、トワの推測は的外れではなかったようだ。平常心に立ち戻ったハイベルから語られた用件は、彼が焦るのも分かるものだった。

 

「実は今度、トリスタの礼拝堂で子供たち向けに吹奏楽部で演奏会を開くんだが……部員の一人が今朝になって風邪で出られなくなってしまったんだ」

「それは残念だね。演奏に支障はないの?」

「抜けた分は何とかやりくりするから問題はないよ……演奏の方はね」

 

 何やら意味深な言い方だ。首を傾げるトワに、ハイベルは焦っていた原因を口にする。

 

「今回の演奏会は併せて歌も披露する予定だったんだ。その肝心の歌とピアノ伴奏の担当が風邪になってしまってね。伴奏はどうにかなっても、歌の方は残りの部員では補いきれない」

 

 なるほど、と納得する。それは彼らにとって由々しき事態だった。

 演奏自体は最悪ピアノが抜けてしまってもどうにかできる。楽器ごとのパートの構成を変えることで、同じようにはいかなくても曲目を成立させることは可能だ。

 ところが、歌もあるとなればそうはいかない。元よりハイベルたちは吹奏楽部。声楽の方は本分ではないが、部員の中にその手の技術を持ち合わせていた人がいたからこそ、今回の演奏会に盛り込むことにしたのだと思われる。肝心のその人が風邪でダウンしてしまったとなれば手をこまねいてしまうのも無理はなかった。

 歌を無しにして演奏だけに絞るのは簡単だ。だが、楽しみにしてくれている子供たちの期待を裏切ってしまうのは避けたい。そんな難題に頭を抱えることになったハイベルの脳裏に浮かんだのは、以前にクラスメイトが口にしていた言葉だった。

 

「前に歌をやっていたと言っていただろう? 僕たちが付け焼刃でやるより、技術を持っている人にやってもらう方が良い演奏会になるはずだ。どうか頼めないか?」

「手伝うことについては構わないけれど……」

 

 事情は分かった。そういうことなら、トワも手伝うのは吝かではない。

 しかしながら、躊躇う気持ちもある。少しばかり齧っているとはいえ、自分の歌の腕前がそんな大したものとは思っていないからだ。

 

「本当に私でいいの? プロの人みたいに上手いわけでもないし、ピアノの伴奏だってちゃんとできるか分からないし」

 

 歌い方については一通り習っているとはいえ、特別に上手いかといえばそういうわけではない。精々がアマチュア程度だろう。ピアノ伴奏も兼任するとなれば、そちらは多少触ったことしかないトワには自信がなかった。

 そんな彼女にハイベルは「勿論だ」と頷く。そこに迷いは見られなかった。

 

「そもそも、僕たちだってプロのような演奏ができるわけじゃないしね。それでも良い演奏会にしようと頑張っている……伴奏はトワの負担が軽くなるよう工夫もしてみよう。どうだい?」

「……分かった。皆で頑張って、子供たちに喜んでもらえる演奏会にしよう!」

 

 そこまで言ってくれる相手に首を横に振るトワではない。快諾した彼女にハイベルは感極まったように「ありがとう!」と小さな手を握る。普段は落ち着いている彼でも、好きなことにはとことん打ち込むのだなとトワは新鮮な気持ちだった。

 

「そうとなれば早速練習だ! 徹夜で仕上げるから覚悟しれくれ!」

「えっ」

 

 が、握られた手がそのまま引かれて呆気にとられる。有無を言わせずに吹奏楽部の方へと向かうハイベルに、若干つんのめりそうになりながら連れていかれる。

 いったいどういうことなのか。急転直下な事態にトワは慌てて確認する。

 

「て、徹夜って……そんな無理しなくても」

「悠長なことを言っている暇はない。演奏会は明日なんだ!」

「ええっ!?」

 

 明かされる衝撃の事実。聞かなかったトワも悪いが、言わなかったハイベルもハイベルである。それだけ焦っていたのかもしれないけれど。

 安請け合いしたかもと後悔しても時すでに遅し。為されるがままにトワは吹奏楽部に連れ込まれ、ピアノ伴奏を中心に叩き込まれることになる。

 その日、吹奏楽部の明かりと音色が夜遅くまで絶えることがなかったのは言うまでもあるまい。

 

 

 

 

 

 翌日、演奏会の会場であるトリスタ礼拝堂の演壇にトワたちは立っていた。準備は既に整い、観客も入り始めている。

 開演も間近。彼女たちの表情にもやる気が漲り、しかし同時に隠し切れない眠気の色もあった。夜を徹しての練習だっただけに仕方があるまい。

 そんな無理を押しての練習をしても、完璧に詰めることができたわけではない。ピアノの椅子の高さを調整していたトワに、ハイベルが申し訳なさそうに眉尻を下げた。

 

「すまないね。ピアノの方にばかり力を入れて、肝心の歌はぶっつけ本番みたいになっちゃって」

「あはは……気にしないで。おかげで伴奏も自信がついたし、曲自体はよく知っているものだから」

 

 経験の浅かったピアノについては何とか形にすることが出来た。ただ、その代わりに歌の方についてはほぼ手付かず。本番のみの一発勝負となっていた。

 幸いにして、演奏する曲はトワもよく知っている。往年の名曲『星の在り処』。本土から離れた残され島でも流行ったことがあるようで、何度か歌ったこともあり歌詞も覚えている。これなら何とかすることもできるだろう。

 

「やれることはやったんだもの。後は全力を尽くすだけだよ」

「……ああ、その通りだ。最高の演奏会にしてみせようじゃないか」

 

 トワの言葉にハイベルも気合を入れ直したのか、本番を前に威勢のいい啖呵を切って見せる。その意気だ。他の部員たちにもその空気は伝播し、自然と全員がいい表情となる。

 やがて準備も完全に整い、観客もそれなりの数に。定刻を迎え、司会を引き受けてくれたシスター・オルネラが開演を告げる。

 

「それではお聴きください。吹奏楽部の皆さんによる『星の在り処』です」

 

 パラパラとした拍手がやみ、礼拝堂に静かな空気が満ちる。ふう、と息を一つ。トワはゆっくりと鍵盤に指を走らせた。

 どこか物悲しいメロディの前奏。曲の世界に染められていく中で、トワは歌声を紡ぐ。

 それは、愛する人との別離の歌。どこかへと消えてしまった人を想い、再び出会うその日を願うもの。

 後追うようにハイベルのヴァイオリンが奏でられ、他の部員のフルートなどの管楽も続く。静謐な空間に響く音色に、いつしか観客たちはただ聴き入っていた。それだけ吹奏楽部の演奏が素晴らしいものだったのもある。けれど、同じくらいトワの歌声にも彼らは感じ入っていた。

 トワ自身が言った通り、彼女の歌の技術自体はそれなりだ。人並よりは上手いだろうが、帝都の歌劇場で活躍するようなプロには及ばない。

 だが、その歌声には技術だけでは語れない想いが乗せられていた。別離の悲しみ、ありし日々の喜び、再び出会う日を願って足を踏み出す希望。ありありと伝わる感情に心動かされ、言葉もなく聴き惚れる。

 愛する人を探して、星空へと舞い上がる。

 澄んだ歌声と豊かな音色が最後の旋律を奏で、迎える曲の終わり。一礼したトワたちに大きな拍手が降り注いだ。

 

 

 

 

 

「本当にありがとう、トワ。おかげで期待していた以上の演奏ができたよ」

 

 演奏が終わった礼拝堂。今は子供たち向けに音楽教室をやっている傍らで、ハイベルが改めてトワにお礼を告げていた。

 実際、トワは彼の想像以上に演奏会を良いものにしてくれた。期待していなかったわけではない。ただ、彼女はそれ以上のもので観客を魅せてくれた。共に演奏していたハイベルも、許されるのなら聞き惚れていたことだろう。

 そんな絶賛の言葉を浴びる彼女自身はといえば、照れ臭そうにはにかむばかり。褒められるのは嬉しいが、どうにもこそばゆかった。

 

「役に立てたのならよかった。ハイベル君のヴァイオリンも綺麗だったよ」

「はは、それはどうも……それにしても真に迫る歌い口というか、心揺り動かされるものがあった。どういう風に教わったんだい?」

 

 そう問われて、トワは「んー」と少し言葉を濁らせる。

 教えてくれた彼女(・・)のことを言わなければ大丈夫だろう。教会との盟約から線引きを行い、自身が受けた教えを口にした。

 

「私に歌を教えてくれた人はね、声の出し方とかそういう技術も鍛えてはくれたけど、それより心を籠めて歌えることを大事にしていたんだ」

 

 思い返すのは最初に歌の教えを請うた時のこと。深淵の大陸の管理者、《歌巫女》と呼ばれる彼女はまだ幼い頃のトワに念を押すように言ったものだ。

 

「『歌は想いを表すためのもの。上手いだけじゃなく、心を伝えられるようになりなさい』……エリスは、エリスレットはそんな風に教えてくれたよ」

「想いを表す……それなりに音楽に身を置いてきたつもりだけど、あまり考えたことはなかったな」

 

 エリスレットの言葉を噛み締めるハイベル。技だけでなく、そこに心があるか。それは彼にとっても考えさせられるものがある教えだった。

 歌に限らず、音楽とは芸術であると同時に表現方法でもある。如何に美しく旋律を奏でるか追及する側面の他に、如何にして自身の中にある想いを音に乗せて伝えるかも真理の一つであることには間違いないだろう。

 自分はどうだろう? 胸の内に問うたハイベルは答えが見つからなかった。ヴァイオリンの腕前を磨くことに腐心してきたが、それで何を伝えるか彼は明確なものを持たなかった。

 

「それでもいいんじゃないかな? 今は分からなくても、いつかハイベル君にとっての音楽が見つかれば」

 

 だが、それは恥じることではない。トワもハイベルもまだまだ未熟者だ。有する力は粗削りで、確固たる意志を持たず、だからこそ成長していくことが出来る。

 自分たちは学生だ。完全ではなく、完成しているはずもない。それは、これからの学びを通して辿り着くものなのだから。

 

「僕の音楽、か。見つけられると思うかい?」

「勿論。ハイベル君ならきっと大丈夫だよ」

「はは、じゃあ期待を裏切らないよう頑張らないとね……おや」

 

 何の疑いもなく言い切るトワに、ハイベルは苦笑しつつも嬉しく思う。

 そんな二人のもとに近づいてくる人影。演奏会に来ていた観客の子供たちだ。音楽教室の輪から外れたところにいたトワとハイベルに、彼らは目を輝かせて話しかけてくる。

 

「ねえねえ、お兄さんのヴァイオリンも教えてくれませんかっ?」

「わ、私もお姉さんみたいに歌ってみたい!」

 

 口々にせがんでくる子供たち。二人は目を見合わせると笑みを浮かべた。

 自分たちの音楽がどういうものかはまだ分からない。けれど、音楽の楽しさを伝えることには不足ないはずだ。

 子供たちに手を引かれ、トワとハイベルもまた音楽教室の賑わいに混ざっていくのだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

【折れない剣】

 

「はい、皆さんおはようございます。それでは今日も程々に頑張って……おや~?」

 

 朝の1年Ⅳ組。SHRで教壇に立つ担任のトマス教官はいつも通りに間の抜けた声で挨拶をして、ふと視界からの違和感に首を傾げる。

 

「ロギンス君がいませんねぇ。誰かご存じないですか?」

 

 着席する生徒たちの中で一つだけポツンと空いた席。そこに座るはずの強面で少々荒っぽい性格のロギンスは、始業の時間になったにも関わらず姿を現していなかった。

 体調不良なら誰かしらにその旨を告げているはずだ。ところが、トマス教官の質問に答えるものは誰もいない。つまるところ、ロギンスは無断欠席であった。

 困りましたねぇ、と肩を竦めるトマス教官。どうにも気の抜けた風体であるためか、あまり困っているようには見えないが。

 

「昨日の今日で問題行動とは参りましたね。下手したら僕が教頭に怒られちゃうじゃないですか」

「……何かあったんですか?」

 

 無断欠席以外にも問題があるかのような口ぶりだ。トワが疑問を率直に口にすると、トマス教官は少し失敗したとでも言うように眉尻を落とした。

 

「あー……あまり吹聴することじゃないんですけどね。ロギンス君、昨日にちょっと暴力沙汰を起こしかけちゃったようで」

 

 ざわり、と俄かに教室が波立つ。トマス教官がすぐに「未遂ですから、そんな騒ぎ立てることじゃないですよ~」とフォローするが、気にするなという方が無理な話だ。当の本人が姿を見せていないのだから尚更である。

 しかしながら、それ以上は話すつもりはない様子。ロギンスを見かけたら職員室に来るよう伝えてほしいと告げて、それでSHRは終わりとなる。トマス教官はすたこらさっさと立ち去ってしまった。

 学院側としては色々と苦慮する部分があるのだろう。今回は未遂だったとはいえ、本当に生徒が傷害事件でも起こしたら厳しい対応を取らざるを得ない。トワたち生徒側としても穏便に済ませようとする意向は理解できる。だからこそ気になるものはあっても、必要以上に騒ぎ立てることはしなかった。

 

(どうしちゃったんだろう、ロギンス君)

 

 改めて空席に目をやったトワはクラスメイトのことが心配になる。模擬戦で一蹴した経緯があったせいか、自分にはつっけんどんな態度だった彼。普通なら必要以上に関わり合いになりたくないと思うようなところだろうが、底抜けのお人好しとしては逆に気に掛けてしまう手合いだった。

 といっても、現状として彼がどうしているかもわからない以上は手の出しようがない。放課後になったらそれとなく聞き込んでみようかと考えるのが精々である。

 

「トワ、ちょっといい?」

 

 不意に声がかかった。目を向けると、そこには何やら微妙な表情をしたエミリーが。

 

「どうかしたの?」

「いや……なんかよく分からないけど、あんたにお客さんみたいよ」

 

 エミリーが指差す方向に視線を移す。その先で彼女の表情の理由を知ると共に、頭の上に疑問符が浮かぶ。

 白の制服に背中まで伸びる金糸の髪。貴族生徒きっての女傑が教室の前でにこやかに小さく手を振っていた。

 

 

 

 

 

「珍しいね。フリーデルちゃんがわざわざ訪ねてくるなんて」

「まあ、そうね。というより初めてかしら」

 

 場所を廊下に移した二人。トワの言葉は抱いて当然ともいえる感想であった。

 彼女――フリーデルとは知らない仲ではない。アンゼリカという共通の友人がいることもさることながら、お互いに剣の腕が立つことも似通っている。そうした縁もあって何度か手合わせをしたこともあった。

 しかし、よく顔を合わせる仲かというと首を傾げるところだ。たまたま会った時に言葉なり剣なりを交わす関係。二人の交友はそんな付かず離れずのものである。

 だからこうしてⅣ組にまでわざわざ足を運んだことを不思議に思う。それはフリーデル自身も認めるところらしく、可笑しそうに含み笑いを漏らした。

 

「ちょっとトワに手伝ってほしいの。ロギンス君、知っているでしょう?」

 

 思わぬ名前が出てきたことで目を瞬かせる。先ほどまで考えていた彼のことが何か、と疑問に感じると同時に思い当る。フリーデルとロギンスには少なからず関りがあったことに。

 

「もしかして、フリーデルちゃんも昨日のことを聞いたの?」

「ええ。貴族生徒と何か揉めたそうよ。その当人は、どうやら姿を見せていないようね」

「うん……ロギンス君、何かあったのかな」

 

 二人は同じフェンシング部。その繋がりで気に掛けて、こうしてⅣ組にまでやって来たのだろうか。ロギンスの方からはあまり良い感情を向けられていないようだが、フリーデルの方としてはその限りではないのかもしれない。

 内容が内容だけに言葉をぼかして昨日の出来事について話す。教室内に目をやったフリーデルにトワは俯きがちに頷いた。

 

「何かあったというより、遠因は私たちでしょうね」

 

 いきなりそんなことを言われて、トワは「えっ」と慌てる。知らず知らずのうちに傷つけるようなことでもしてしまっていたのだろうか。

 

「私たち、揃って彼を負かしたでしょう。私見だけど、どうもそのことが原因で色々と拗らせているようね」

「確かにそんなこともあったけど……それくらいで?」

 

 ところが、フリーデルの口から出てきたのは思いのほか単純な事実であった。それはそれとして認めながらも、トワはピンと来なくて首を傾げる。

 剣に限らず、武術を学んでいれば敗北を喫することなど何度でもあるだろう。それを糧にするならともかく、いつまでも引き摺っているのは建設的ではない。少なくとも、トワはそこのところの切り替えは早い方だと自覚している。

 それが、どうもロギンスは違うらしい。実際の彼の心中を窺い知ることはできないが、フリーデルの見立てだとそのようなものとされていた。今一つ共感は持てないが、他に心当たりもないので的外れではないのかもしれない。

 

「まあ、ロギンス君が思ったより糞雑魚ヘタレメンタルだったのはこの際仕方がないわ」

「く、糞雑魚って……」

 

唐突な罵倒に思わず苦笑い。否定はしなかったが。

それはともかく、とフリーデルは言葉を続ける。

 

「せっかく手応えのある相手がこのまま腐ってしまうのは勿体ないわ。どうにか立ち直らせようと思うのだけど、あなたもいてくれたら都合がいいのよね。どうかしら?」

 

 二人に負けたとはいえ、ロギンスも学院生の中では腕が立つ方だ。その剣をこのままにしておくには惜しい。フリーデルが彼のことを立ち直らせようとする理由はそんな我欲混じりなものであった。

 理由はともあれ、トワもロギンスがこのままでいることは望んでいない。自分が役に立つことがあるのなら、手伝うことに否はなかった。

 

「うん。私にできることだったら任せて」

「ふふ、ありがとう――少々、荒療治になるから」

「……?」

 

 迷うことなく引き受けてくれたトワにフリーデルは笑みを浮かべる。彼女がポツリと呟いた言葉の意味を理解するのは、肝心の立ち直らせる方策を聞いた時。既に引き返すことも出来ず、諦めて進むしかない頃であった。

 

 

 

 

 

「ちっ……いったい何だってんだ」

 

 夕刻、ロギンスは傍目から明らかなくらい苛立ちながらも歩を進めていた。目指す先はギムナジウムの練武場。無断欠席はすれども部活には顔を出しに、というわけではない。そもそもフェンシング部にはかれこれ二ヶ月ばかりは出ていなかった。

 では何故かというと、それはいつの間にか寮の自室に滑り込まされていた一通の書置きにあった。

 

――放課後、練武場で待っているわ。来るか来ないかはご自由に。

 

 末尾に忘れたくても忘れられない女の名が記されたそれは、もはや書置きというより果たし状の一種であった。目にしたロギンスが盛大に顔を顰めたのは言うまでもあるまい。

 無視することも選択肢の一つだっただろう。だが、彼は結局こうして指定された場所へと向かっている。わざわざこちらの自由に任せているところが煽られているようで気に食わなかったのもあるが、何よりの理由は差出人にあった。

 ロギンスはフリーデルに負けた。言い訳のしようもなく、完膚なきまでに。

 それを思い返すたびに、胸中に如何ともしがたい靄のようなものが広がる。何をするでもなく苛立ち、元から大して長くもない気はさらに短くなった。昨日の暴力沙汰になりかけた諍いも、常ならば無視できる貴族生徒の下らない囀りに血が上ったせいであった。

 つまるところ、彼はプライドを粉微塵にされたことによる感情を持て余しているのだ。地元では年上相手にも負け知らずだっただけに、同年代相手に敗北を喫するという挫折に折り合いがつけられずにいる。

 そんなところに苛立ちの原因からの誘い。粉々にされたとはいえ、なけなしのプライドがそれを無視することを許さなかった。

 部活に励む生徒たちが行き交うギムナジウム。眉間に皺の寄った強面に自然と道が開けられていく中、練武場に辿り着くのはすぐだった。人払いでもされているのか、フェンシング部が活動している様子はない。

 あの女が何を企んでいるのか。懸念はあれども、今更になって引き返すという手はない。ロギンスは乱暴に練武場の扉を開けた。

 

「あ、来た」

「言ったでしょう。素っ気ない方が釣られてくるって」

 

 そこにいたのはフリーデルだけではなかった。栗色の髪に小柄な身体のクラスメイトが、姿を見せたロギンスに間の抜けた表情を晒していた。

 思わず眉間に刻まれた皺の数が増える。彼女――トワもまた、ロギンスのプライドを滅多打ちにしてくれた一人であった。俊敏かつ変幻自在な剣技の前に、手も足も出ずに敗れ去った記憶は拭い難い屈辱だ。

 

「言われた通りに来てやったが……ハーシェル、何でお前までいやがる」

「私がお誘いしたからよ。その方が面白いでしょうから」

 

 低く問い詰めるような声への返答は、向けられた先とは違う方から返ってきた。フリーデルはいつも通りの穏やかながら胡散臭さを孕んだ笑みを浮かべている。

 

「ご足労ありがとう。それじゃあ始めましょうか」

「おい、急に呼びつけておいて何を――」

 

 瞬間、ロギンスに向けられたのは言葉ではなく剣の切っ先だった。

 虚を突かれて声を失う。手にしているのはフェンシング部で扱っている模擬剣だが、身体に突き刺さる戦意は本物だ。

 フリーデルは相変わらず穏やかに笑んでいる。笑みのままに向けられる剣にどこか薄ら寒さを感じた。

 

「最近、部活だと刺激がなくてね。試しにこの三人で乱取りをしてみようと思うの」

 

 ついにこの女も気が狂ったのだろうか。乱取り――すなわち、三人入り乱れての打ち合いである。鍛錬を目的とするならまず取らない形式。ロギンスには彼女が何を考えているのかさっぱり分からなかった。

 どういうことだと隣のトワに視線で問いかける。その先の相手は、まるで仕方ないとばかりに諦め調子に苦笑していた。

 

「本当ならどうかと思うのだけど……手伝うって言っちゃったからね。私も付き合うよ」

 

 そう言って彼女までも模擬剣を構えるものだから堪ったものではない。個性派揃いの学院でも随一の良識持ちであるはずの才媛がどうしたことか。あまりの暴挙にロギンスは眩暈を覚えそうだった。

 

「お、お前ら何だってんだ。こんなことしたって何も……」

「つべこべ言わずに剣を取りなさい」

 

 言い募ろうとした途端にピシャリと弾き返される。有無を言わせぬ口ぶりにロギンスは今度こそ閉口した。

 

「語ることがあるのなら剣で語りなさい。それに、あなたにとってはリベンジのチャンスでもあるのよ? 一対一よりは目があるでしょうしね」

 

 ぶちり、と頭の中で何かが切れた音がした。

 暗にロギンス一人では足元にも及ばないという言いよう。そこまで挑発されて理性的でいられるほど彼は我慢強くない。

 この際、フリーデルが何を考えていようが知ったものか。堪忍袋の緒が切れたロギンスは壁に掛けられた模擬剣を荒々しく掴み取る。お望み通り、その澄ました面に一発くれてやると睨み据えた。

 

「ああ、そうかよ……痛い目見ても知らねえぞ」

「それは楽しみね。出来るのなら、だけど」

「うう……何でこんな喧嘩腰に……」

 

 剣を向け合う三人。泰然に、苛烈に、憂鬱に。面持ちは異なれど構える姿に油断や遠慮はない。それは胃が痛そうな声を漏らすトワも同じであった。

 合図は要さない。睨み合いの状態からしびれを切らしたロギンスが一歩踏み込めば、それを狼煙にフリーデルとトワも剣を振るう。ルール無用の乱闘の始まりだ。

 

 

 

 

 

 フリーデルは一対一でなければロギンスにも勝ちの目があると言いはしたが、彼が二人に一歩劣る以上はそう都合よくはいかない。この模擬戦の形式が必ずしも有利に働くとは限らないのだから。

 要するに、これなら自分にも付け入る隙があるという考えは浅はかということだ。

 

「がっ!?」

 

 剣戟の坩堝より吹き飛ばされた身体が練武場を転がる。立ち上がろうとして、訴えかけてくる鈍い痛みに呻き声が漏れた。這いつくばったままにロギンスは顔を歪める。

 何が付け入る隙だ。裏を返せばそれは相手も同じ。及ばない自分が真っ先に叩き潰されるのは目に見えていたことではないか。

 ものの数分の間にロギンスは如何に甘い考えをしていたか思い知っていた。二人が争っている隙をハイエナのように狙っても、それを見逃してくれる道理などあるはずがない。下手に機を窺っていたせいで、彼は抵抗も空しくこうして以前と同じように倒れている。

 模擬剣の打ち合う音。トワとフリーデルの剣閃の応酬が続く。縦横無尽に駆ける裂空の刃を洗練された妙技が迎え撃つ。

 二人の間には笑みがあった。伯仲する勝負、剣の腕を競い合う高揚、ただ互いを高め合うことに傾注する彼女らはそれぞれだけしか見ていない。

 ――まるで、ロギンスのことなどいないかのように。

 

(ふざけんな!!)

 

 拳を突き立てる。痛みを噛み殺して身体を起こす。

 認めよう。自分は彼女たちより弱い。そんな弱さを受け入れられなくて周りに当たり散らすような軟弱野郎だ。

 だが、それでも彼女たちの眼中にも映らないのは認められなかった。及ばないのは分かっている。一朝一夕で縮まる差でもあるまい。だからといって取るに足らない、歯牙にもかけられない存在でいることは何よりもロギンス自身が許せなかった。

 取り落としていた剣を再び手に取る。痛む身体に鞭を入れて立ち上がる。

 どうすればいい? 彼女たちの目を奪うにはどうすればいい?

 

「うおああああぁぁっ!!」

 

 決まっている。剣を相手には、剣でしか語れない。

 何度打ち倒されようと構うものか。どれだけ敗北に身をやつそうとも知ったことか。愚直な自分はこれしか手段を知らないのだから。

 毀れようと、曲がろうとも、決して折れない剣を示し続けるまでだ。

 雄叫びを上げて剣舞の中へと突っ込んでいく。荒々しくも確かな意思を持った剣で、己を示さんと咆哮する。

 

「――そうよ、そうこないとねっ!!」

 

 金糸の麗剣が猛々しい笑みを浮かべる。ちょっと困ったような色を浮かべながらも、頬を緩めるのは小さな少女も同じ。

二人の目が向けられる。手荒い歓迎がロギンスを迎え入れた。

 

 

 

 

 

「まったく……稽古をするのは結構ですが、もう少し考えてやりなさい。こうも擦り傷だらけになられてきては私の方が堪ったものではありません」

 

 ベアトリクス教官からそんな苦言を呈された三人は、反省を述べつつも保健室から退室する。一人は苦笑い気味に、一人は仏頂面で、一人は本当に反省しているのか怪しい艶めいた笑みを湛えながら。トワとしては教官の諦めたようなため息が申し訳なかった。

 乱取りを終え、暴挙に等しい模擬戦で多少なりとも傷をこさえた彼女たちは保険医のベアトリクス教官の世話になっていた。最も消毒液でその身を沁みさせたのがロギンスであることは言うまでもあるまい。

 さて、と廊下に出たところで一区切り。フリーデルが実に満足げな笑顔で口を開く。

 

「久々に楽しめたわ。機会があればまたやりたいところね」

「あ、あはは……私はしばらくいいかなぁ」

 

 吐いた言葉は飲み込めなかったのでフリーデルの注文通りに手伝ったわけだが、まさかこんなことになるとは想像していなかった。結果的に良かったにしても、正直なところ今後はご遠慮願いたいところである。

 

「同感だ。突拍子もないことに付き合わせやがって」

「あら? その割にはロギンス君、良い表情をするようになったと思うのだけど」

「…………ちっ」

 

 忌々し気に舌打ちするロギンス。そんな彼に、トワは頬を緩めるだけで何も言わなかった。彼女の目から見ても、つい先ほどまでの彼から随分と険が取れたように窺えたから。

 それは本人としても認めざるを得ないところだったのだろう。大きくため息を吐いたロギンスは諸手を上げて降参する。

 

「……分かったっての。どうもお手数かけました! けっ!」

 

 観念した彼にトワとフリーデルはますます笑みを深める。温かいものを含むそれを向けられる相手は悔し気に肩を震わせた。

 

「くっそ、いい気になりやがって。そのうち吠え面かかせてやるから覚えとけよ……」

「ふふ、それは楽しみね。私はいつでも歓迎よ」

「うーん、また荒れそうなことを……二人とも程々にね」

 

 フリーデルは自然と煽るようなことを口にするものだから、トワとしては冷や冷やものである。加減は弁えていると思うのだが、どうにも心臓に悪い。

 そんな風に部外者面していたのがいけなかったのだろうか。ロギンスの目が不機嫌そうな色でトワを睨みつける。

 

「何言ってやがんだ、ハーシェル。お前にだって借りは返してやるからな」

「ええ? 借りって、そんな大げさな……」

「うるせえ。手始めに今度のバレスタインの授業で覚悟しておくこった」

「面白そうね。そうだ、教官に頼んだらこちらのクラスと合同授業になったりしないかしら?」

 

 それは勘弁、とトワもロギンスも真顔になる。何が楽しいのか、フリーデルはころころと笑っていた。

 それぞれが歩む剣の道。技も違えば、そこに籠める意思も異なる。だが、こうして道を交える学院での日々は間違いなく三人の糧となるものであった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

【ヴィンセント・フロラルドの遥かなる挑戦】

 

「フハハハハ! よくぞ来た、ハーシェル嬢! まずは臆せずにこの場に来たことを褒めてつかわそう」

「はあ、どうも」

 

 とある日の放課後、グラウンドを訪れたトワを迎えたのは芝居がかった調子でそんなことを宣うヴィンセントであった。何とも言えない気持ちに返事が気の抜けたものになる。

 わざわざグラウンドの中央に陣取っている彼。部活動の予定がない日を選ぶあたり、一応は周囲への配慮の念はあるのかもしれない。或いは演出の都合を考えてだけのことか。本人の様子からはいまいち判別がつかず、隣で黙して佇むメイドのサリファからは尚更である。

 まあ、それはどうでもいいことだろう。理解の及ばないことをまずは脇に置いて、トワはいつも通りに気障な同級生に向き合った。

 

「フフ……長き渡った我らの戦いもこれで終幕かと思うと名残惜しいな」

「長きって、ここ二ヶ月くらいの話だと思うのだけど」

「だが、容赦はせんぞハーシェル嬢! 今日この日をもって、そなたはこのヴィンセント・フロラルドに敗北を喫するのだ!」

 

 駄目だ、まるで話を聞いていやしない。ヴィンセントは舞台俳優のごとく大仰な身振りでトワの突っ込みを華麗にスルーした。

 こうなった彼が止まらないのはよく知っている。ちょっぴり嘆息しつつも、まずは彼が望む勝負の決着をつけようと脇に抱えた鞄の中身を探る。

 

「空の女神も照覧あれ――いざ、オープン!!」

 

 同時にヴィンセントも懐より何某かを取り出す。どう考えても大袈裟すぎる前口上を経て、二人は互いに取り出したものを示し合った。

 

 

 

政治経済・小テスト

Ⅳ組 トワ・ハーシェル     100点

Ⅰ組 ヴィンセント・フロラルド 95点

 

 

 

「ぐはぁっ!?」

 

 不可視の衝撃を受けたヴィンセントがたたらを踏み膝を折る。あまりにオーバーなアクションに当初は慌てたものだが、今では慣れたものである。トワはいまいち反応に困りながらも落ち着いたものであった。

 

「馬鹿な……! あのハインリッヒ教頭が今回は難しいと公言していたにも関わらず……満点だと!? 必勝を期したはずが、これは想定外すぎる……!」

「うん、まあ確かにいつもよりは難しかったけど、ちゃんと授業聞いていれば分かる内容だったし」

 

 事も無げに言ってはいるが、他の生徒は大半が渋面を浮かべていたのが事実である。この場合、ヴィンセントは相手が悪かったという他にないだろう。

 さて、どうしてこんな寸劇が行われることになったかというと、その始まりは五月にまで遡る。ファンクラブを作りたいと無茶苦茶言っていたヴィンセントを絆して、まずは定期テストを制することで華麗なる姿を見せつけようとその場は丸く収まった。

 ところが、知っての通り定期テストで首位に名を飾ったのはトワ。ヴィンセントは、それはもう滅茶苦茶悔しがった。ちなみに彼は三位。二位はフリーデルである。

 それ以来、彼はこうして事あるごとにトワへ勝負を仕掛けてきていた。こうした小テストだったり、水練での記録だったりと至って健全な内容なのでトワとしても無下にはしたくないのだが、あまりに頻繁にやってこられると少し困ってしまう。

 どうやら今回はかなり自信があった様子。それだけにショックも大きかったらしい。いつもなら、ものの数秒で立ち直るところを未だに地に手をついていた。

 

「流石でございますね、ハーシェル様。そしてヴィンセント様、此度も清々しい負けっぷりでございます」

「サリファっ! そなたはどちらの味方なのだ!」

「勿論、この身はヴィンセント様の味方。今のは単なる事実確認でございます」

 

 サリファの飄々とした返答にヴィンセントはぐぬぬと臍を噛む。どうも、このメイドは主人をおちょくる悪癖があった。忠誠心があるのは確かなのだが。

 ともあれ、今回のところはこれで仕舞いだろうか。それなりに忙しい身であるトワはそろそろお暇しようと鞄を抱え直した。

 

「じゃあヴィンセント君、今日はこれで――」

「待たれよ!」

 

 と思ったのだが、そうは問屋が卸さない様子。振り返った先でヴィンセントは決然とトワを見据えていた。

 

「淑女相手にこの手は取りたくなかったが……大見得を切った以上、このまま終わってはフロラルドの名が廃る!」

 

 いつもより演出過多とは思っていたが、どうやら彼なりに気合を入れていたらしい。普段からも演技がかっているせいで分かりにくい。

 そんな事情もあって引っ込みがつかなくなった様子のヴィンセント。くわっ、と目を見開くや準備のいいサリファがケースから取り出していたものをその手に取った。

 

「ハーシェル嬢、そなたに決闘を申し込む!!」

 

 向けられるは一振りの槍。その穂先を見て、トワは目をパチクリとさせた。

 

「えっと……悪いけど、そういうのは」

「ハーシェル様」

 

 トワがヴィンセントを無下に扱わなかったのは、彼が挑んでくる内容が学業の範疇だったから。それが決闘などという格式ばった方向に逸れるというのなら、彼女としてはあまり気乗りしなかった。

 だから断りを入れようとしたところで、サリファが声を挟んでくる。すっと滑るように隣まで来た彼女が小声で囁き掛けた。

 

「気が進まないのは承知でお願い申し上げます。どうかヴィンセント様にお付き合い下さいませんか?」

「うーん……でも、なんだか後に尾を引きそうといいますか……」

「良くも悪くも単純な方なので後腐れはしないかと。万が一の場合はわたくしめの方でフォロー致しますので……何卒、お願い致します」

 

 依然として乗り気になれないのは変わらない。しかし、こうも頼まれては断れないのがお人好しと称される所以であった。トワは肩を竦めると、抱えていた鞄を置いて腰の得物へと手を伸ばす。

 

「これっきりだからね? 結果はどうあれ、文句はつけないでよ」

「無論だ。ヴィンセント・フロラルドの名に懸けて、この場で決着をつけると誓おう」

 

 ナルシストで芝居がかった彼の言葉はどこまで本気か分からない。或いは、その全てが本気なのか。心を読めでもしない限り、それを判別するのは難しい。

 ならば、ここで見極めるつもりでやろう。仕方なくという態であれども、受けて立った以上は本気でやるまで。彼の槍から何か感じ取れるものもあるはずだ。

 

「じゃあ――私も、遠慮は無しでいくよ」

 

 刀を抜き放つ。トワはその温厚な瞳を戦意に染めた。

 

 

 

 

 

「くっ……さ、流石だ……」

 

 数分後、ヴィンセントはグラウンドに大の字で倒れていた。息を荒げながらも称賛を口にする姿から、勝敗は語るまでもないだろう。

 ふう、とトワが少し乱れた息を整えて納刀する。二枚目半を通り越して三枚目な普段の言動からは想像しづらいが、ヴィンセントの槍の腕前は中々のものである。簡単に勝ちを拾わせてはくれなかった。

 

「口惜しい……っ! 未熟なこの身では学年の頂点には手が届かぬか……」

 

 倒れたまま拳を打ち付けて悔しがるヴィンセント。自身を打ち倒した相手に恨み言を漏らすでもなく、ただその身の力不足を嘆く。そこに嘘はなかった。

 彼の槍は真っ直ぐだ。歪むことなく、ただひたすらに頂にあろうと突き進む。刃を交わす中でそう感じ取ったからこそ、トワは不思議に思った。どうしてそこまで、と。

 気付けば、その疑問は自然と口に出ていた。

 

「ねえ、ヴィンセント君は何でそんなに頑張るの?」

「む? 私がヴィンセント・フロラルドであるからに決まっていよう」

 

 返答は要領を得なかった。首を傾げるトワの様子からそれが伝わったのだろう。ヴィンセントは「ふむ」と少し考えてから言葉を続けた。

 

「私はフロラルド伯爵家の嫡男、将来は領主となる身だ。であるからには、民にも臣下にも恥じぬ貴族であらねばならん。強く、賢く、優雅たらんとするのは当然だろう」

 

 その答えに、ついポカンと口を開けてしまった。

 意外だった。ナルシストで気障な彼が、そんな真面目なこと考えていたなんて。失礼な話ではあるが、もっと自分本位な理由だと思っていたから。

 しかし、なるほど。そう考えれば納得もいく。勉学にしても武術にしても優れたものであらんとする向上心。優雅さに関しては……少々、空回っているのは否定できないが、気持ち自体は立派なものだろう。

 そっか、とトワが呟く。続く言葉は意識せずに出てきた。

 

「凄いんだね、ヴィンセント君は」

「なに?」

 

 それは嫌味でもなんでもなく、トワの偽らざる本心だった。

 自分には人の上に立とうという気概なんてなかったから、人の為に優れるべく在ろうなんて考えたこともなかったから、本気でそうであろうとするヴィンセントを凄いと思う。自分のことで手一杯なトワとは大違いだ。

 助け起こすように手を差し伸ばす。突然の称賛に意図を計りかねている様子の彼に、誠意と敬意を込めて声掛ける。

 

「そんな悔しがる必要なんてないよ。だって、ヴィンセント君には私にない良いところが沢山あるんだから」

「……フッ、そなたにそう言ってもらえるのなら、私も捨てたものではないらしい」

 

 どこか清々しい笑みを浮かべてヴィンセントはその手を取った。そこに隔意はない。トワの手を借りて立ち上がった彼は、いつも通りの気障っぽさを取り戻していた。

 

「此度は敗北を認めよう。だが、諦めはしないぞ。次なる勝負の時を心して待っているがいい、ハーシェル嬢――我が友にして至高のライバルよ!」

「あはは……うん、お手柔らかにね」

 

 どうやら今後も勝負は挑んでくるつもりらしい。この調子では、学院にいる間ずっと続くことになるのではないだろうか。

 だがまあ、そんな関係も悪くはないだろう。この一風変わった、けれど自分にはない気高い理想を抱く友人と競い合うのを楽しみに思う気持ちが胸の内に湧いていた。

 

「来年入学予定の妹君のフェリス様に、首席など容易いと見え張ってしまったものですから。ヴィンセント様も兄の面目を潰さないよう必死なのです。どうかお付き合いくださいませ」

「サリファぁっ!? それは言わない約束だろう!!」

 

 どうも締まらないのも彼の魅力の一つだろうか。目の前の主従漫才にトワは思わず吹き出してしまうのだった。

 



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第43話 鋼鉄の馬

閃Ⅳの情報が色々と出てきて楽しみな今日この頃。クロスベルのみならずリベールからも様々な人たちが出てくるようで、今から想像が広がります。軌跡シリーズの区切りにふさわしいオールスターですね。

今回は少し短めの日常回。原作でもまた先輩たちのこんな姿が見られたらいいな……


「会長、全員集まりました」

「ご苦労。では諸君、会議を始めるとしよう」

 

 八月。本格化する夏の暑さにばてる人もいるのではないかと思われるが、そこは仮にも鍛えている士官学院の生徒たち。部活動なども概ね活発であり、それは生徒会も変わりない。この自由行動日においても平常運転である。

 ちなみに貴族生徒は領地運営の勉強という名目で夏休みを取っていたりするのだが、生徒会のものは会長を含めて全員が学院に残っていた。無論、家に戻っても窮屈という理由でアンゼリカも残留である。

 閑話休題。

 今日は珍しく全員が顔を合わせていた。普段は個別に依頼の解決や業務処理に当たっているので、一堂に会するという機会は実を言うとあまりない。その例に外れ、職員室横の会議室を借りて集まった意味。それは来る学院の一大イベントに向けてのものであった。

 

「学院祭まであと二ヶ月――来月になれば各クラスにおける準備も本格的になるだろう。言うまでもないことだが、学生主導のこの祭典において生徒会の責任は重大だ。心して臨むように」

 

 十月に開催されるトールズ士官学院の学院祭。生徒たちを中心に様々な出し物で賑わうお祭りである。トリスタの人々のみならず、生徒の親類や観光客、学院に関わる来賓なども訪れるのだとか。

 生徒が中心ということで、基本的に教官たちは運営に口を出さない。企画、予算、工程管理、その他諸々含めて生徒の手で行うことになる。自由行動日といい、自主的な精神を大事にするトールズらしい学院祭と言えるだろう。

 そんなお祭りで中心的な役割を果たすのが生徒会だ。普段から生徒たちの代表として様々な業務に当たっているが、学院祭においては運営母体として動くことになる。会長の言葉通り、その責任は非常に大きい。

 各クラスにおける出し物の募集及び管理、安全面や衛生面における規定とその実行等々。学院祭という一大イベントを円滑に進めるためには、やらなければいけないことは両手の数では収まらない。それこそ、他の生徒たちに先んじて動き始めなければいけないくらいには。

 そうした趣旨のもとに開かれた今回の会議。厳格な会長の語りだしに、初の学院祭であるトワたち一年生は身が固くなってしまう。

 ところが、そこで会長は僅かに頬を緩めた。何時にないことにトワたちが驚くなか、彼は「だがまあ」と幾分か気安くなった声で続ける。

 

「せっかくの祭りだ。その中心である一年生が楽しめなければ意味もあるまい。雑事は先輩に押し付け、自身のクラスの方でも積極的に動いていくように」

「さ、流石会長……一年生には飴を与えながらも同輩には鞭をくれていく……」

「これも先輩の務めなのよね、ふふ……」

 

 学院祭でメインになるのは各クラスで出し物をやる一年生たち。対して二年生たちは有志で行うもの以外は基本的に裏方だ。どちらが生徒会の業務に集中できるかといえば、当然ながら後者になる。

 それはそれとして二年生たちにも学院祭を謳歌したい気持ちはあるが、かといって後輩たちに負担を強いては先輩の名が廃る。結局は会長の思惑通りに涙を呑むほかにないのだ。

 哀愁に耽る先輩方に一年生としては苦笑いしか浮かばない。そんな光景を生み出した当人はと言えば、鼻で一つ笑っただけで構いもしない。

 

「前置きは終わりにして、そろそろ本題に入るとしよう。ハーシェル、議事進行は任せた」

「あっ、はい。それでは全体の日程の確認から――」

 

 会長の鶴の一声で空気が引き締まる。生徒会に所属しているだけあって、皆生真面目だ。トワも気を取り直すと、備え付けのホワイトボードの前に立って議事を進める。

 大筋については前年度までのものから流用できるとはいえ、二年生たちの経験からくる反省点を反映したり、一年生から新しい意見を取り入れたりと細かい部分は詳細まで詰めていかなくてはならない。より良い学院祭にしたいと思うなら当然のことであった。

 あれこれと話を進めるうちに時間はあっという間に過ぎていく。時に意見をぶつけ合いながらも集約し、現段階における方針が固まってそれぞれの役割分担に移る頃には昼に差し掛かっていた。

 午前一杯を使ったおかげで話はかなりまとまったと思う。後は会長が割り振った役職の中で動いていくことになるのだが……自身に告げられた役目に、トワは目をパチクリさせた。

 

「えっと……会長」

「何だ?」

 

 言葉にしないうちに疑問を伝えようとするも、それに対する返答はにべもない。意図的なものに違いなかった。彼女はちょっぴり溜息を零すと素直に口にした。

 

「スケジュール管理って、かなり大変だと思うんですけど……」

 

 他の一年生たちは比較的負担の少ない役職を割り振られている。クラスの出し物にも無理のない範囲で参加していくことが出来るだろう。

 しかしながら、トワに任された仕事はそんな生易しいものではない。文字通り、学院祭全体のスケジュール管理――各クラスにおける進捗の確認、当日におけるステージ演目の時間の割り振り、その他諸々含めて全体を把握、必要に応じて是正していくものである。率直に言って激務だ。

 雑事は先輩に任せて、とは何だったのか。言葉に反して重い役目を任され、トワが問い質したくなっても仕方がない。対して、会長は何でもないことかのように軽く言葉を返した。

 

「適性を鑑みての割り振りだ。なに、君ならばやってできないこともあるまい――どれほどの手並みか楽しみにさせてもらうとしよう」

「あ、あはは……はぁ」

 

 人を食ったような笑みを浮かべる会長に、トワは乾いた笑いとため息をしか出なかった。他の面々も苦笑い。止めないあたり薄情である。

 試されるようなことを言われてしまっては仕方がない。精々、後から文句をつけられないように努めるとしよう。

 期待してくれるのは嬉しいが、その表れ方がいささかひねくれているのは困ったものである。トワの初めての学院祭はとんでもなく忙しいものになりそうだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 学院祭に向けての会議も終了し、午後はそれぞれの業務に戻った生徒会。最近は依頼関係の処理における中心的な役割を会長から任されている――丸投げされている、とも言う――トワは、忙しなく動き回って何とか夕方までには一区切りをつけていた。

 午前に決まった学院祭の様々な準備については追々進めていくことになる。前もってできることは色々とあるだろうが、本格的に動くことになるのは来月くらいから。今から気を張りすぎていても仕方がない。

 何事もメリハリが大事だ。そういうわけで本日の業務を終えたトワ。その足がいつもの溜まり場である技術部に向かうのはごく自然なことであった。

 

「へえ、そりゃ災難なことで。優秀すぎるってのも困りもんだな」

「あはは……任されたからには、ちゃんとやり遂げなきゃだけどね」

 

 顔を出してみれば、そこには既にクロウ、アンゼリカ、ジョルジュの姿が。茶菓子を片手にダラダラしていたり奥の作業台で何某かを書き込んでいたりと、各々好き勝手に過ごしている面々。試験実習班のいつもの光景だ。

 会議での顛末を話してみれば、クロウはどこからか引っ張り出してきたクッキーを貪りながら感想を述べる。自分には関係ないからと思いっきり他人事だった。

 

「トワがそんなんだから会長にいいように使われるの。要領よくこなしちゃうから、向こうもどんどんハードルを上げてくるし」

 

 頭の上に陣取るノイからはお小言が降ってくる。トワには返す言葉もない。

 確かに姉貴分の言うことにも一理あったが、だからといって断れないのがトワの性分であった。期待されたら頑張ってしまう。期待以上の成果を出してくれるから更に一段上を求めてしまう。トワと会長はなんだかんだ噛み合う間柄だった。

 

「会長殿は好きな子を虐めてしまうタイプかな? ふふ、そういう嗜好は私も嫌いではないが」

「アンみたいにいかがわしい考えではないと思うけどね……クロウ、あんまり勝手に食べないでよ。誰が補充していると思っているのさ」

 

 相変わらずなアンゼリカに呆れつつも、技術部の菓子類を貪り尽くしそうな勢いのクロウに苦言を呈するジョルジュ。作業台から肩越しに注意された当人はといえば、口に手を運ぶのを止めることなく「おー」と気のない返事。ジョルジュの備蓄が底を尽きるのは時間の問題かもしれない。

 折を見て自分も何か差し入れておこう。控えめながら同じくクッキーを頂くトワは心の内にそう書き留めておくのだった。

 

「そういえば、皆のクラスでは学院祭で何をするかもう決めているの?」

 

 学院祭関係でふと気になったトワは三人に聞いてみた。生徒会として各クラスの状況がどうなっているのか知りたいというのもあったが、ほぼ純粋な興味あってのことである。

 

「そうさな……まだ話は固まっちゃいないが、あれこれやりたいってのは色々あるぜ。多いのはゲームで何か企画をやろうっていうのだな」

「うちの方では劇の案が主流だね。どうもⅠ組は昔からその手の出し物をやることが多いらしい」

「Ⅲ組は大掛かりなものをやりたいって意見をよく聞くかな……機材は自分たちで用意するみたいだけど、どれくらいまで許されるものなんだろう?」

 

 どうやら具体案は出ていなくても、今から話題には頻繁に上っているようだ。学院における盛大なお祭りだけあって、やはり皆楽しみにしているのだろう。

 とはいえ、開催に関する告知もまだまだこれからという状況で、どんなことがどれくらいの規模で出来るのか一年生が正確に把握することは難しい。首を傾げたジョルジュに、トワは会議で聞いた話を思い返して答えた。

 

「基本的には各クラスの裁量に任せることになっているよ。時間とミラが許す限り、だけど。あと生徒会の方で安全面のチェックとかもあるね」

「なるほど。そこらへんはしっかりしていて当然か」

 

 一応は学院側から一定額の予算は出るが、クラスで私費を出し合って派手にしていくのが当たり前になっているようだ。ミラの扱いに関しても自主性の範疇ということだろう。無論、安全と規範が守られているのが前提である。

 

「しかしまあ、そうなると貴族クラスは豪勢なことになりそうだな。私費で賄っていいなら、家のミラを持ち出してくる奴らもいるだろうしよ」

「確かに。ただ、ミラが掛かっているからと言って面白いわけでもあるまい。結局は創意工夫が大事になると思うね」

 

 アンゼリカの言う通りだ。ミラがあれば取れる選択肢は増えるだろうが、重要なのはそこから何を選び、何を作り出すか。来客を楽しませるアイデアとクオリティを出すために各クラスは頭を使うことになるだろう。

 これからどんな出し物をそれぞれのクラスで作り上げていくのか楽しみである。勿論、トワもⅣ組の企画に関わっていくつもりだ。忙しいからといって蔑ろにする気は毛頭なかった。

 

「ああ、それと個人でもちゃんと届け出れば好きなことをやっていいんだって。お小遣い稼ぎに例年、屋台を出している生徒も結構いるそうだよ」

「なんだか思っていたより本格的なお祭りなの。どんな屋台が出るのかな……」

「儲け話の機会でもあるってことか。へへ、賭けの一つでも主催できそうだな」

「やれやれ、羽目を外しすぎると後が怖いと思うがね」

 

 にこり、と無機質に微笑んで見つめてくるトワにクロウは「冗談だっての」と冷や汗を流した。賭博行為はご法度である。

 お祭りも節度あってこそ楽しめるものだ。普段より開放的といっても、守るべきところは守ってもらわなければいけない。そこのところはご理解いただきたいものである。

 学院祭はまだ二ヶ月は先のことではあるが、クロウとアンゼリカもなんだかんだ心待ちにしているイベントだ。トワが仕入れてきた話からあれこれ盛り上がってしまう。

 ふと、そこで気付いた。先ほどからジョルジュが言葉少なであることに。話を聞いていないわけではないようで、時折相槌を打ったりをしてくるが、普段に比べたら口を出してくる頻度が低いように思われた。

 何やら作業台に広げた紙面を真剣な表情で見つめている。思えば、トワが技術部に顔を出してから彼はずっとペンを動かしていた。

 

「ねえ、ジョルジュ君。さっきから何をやっているの?」

 

 手が止まっている今なら聞いても邪魔にはならないだろう。そう思って声を掛けてみると、ジョルジュはどこか上の空な様子で「うん?」と反応を返した。

 

「いや、すまない。ちょっと考えごとをね……これは設計図だよ。ほら、ルーレでシュミット博士から研究草案を貰ってきたのを覚えているかな」

「確か、自転車の導力化というテーマだったか。どんな具合なんだい?」

 

 拗れていた師弟関係が落ち着いたおかげか、シュミット博士から課題として与えられた研究草案の一つ。自転車の導力化、或いは導力自動車の二輪化。先月のトワの件が落ち着いてからはコツコツと設計を進めていたようだが、どうなったのだろうか。

 設計段階においては手伝いようもないので、ジョルジュから声がかかるまで待っていたのだが、面白そうな内容なので気になってはいたのだ。集まる視線にジョルジュは笑みを浮かべる。

 

「設計図はおおよそ引き終わったよ。何回も引き直した納得の出来栄えさ」

 

 それなら早く言ってくれればいいのに。待ち望んでいた言葉に作業台の周りにどやどやと寄って集る。事細かに書き記された設計図。そこに描かれた完成予想図を見て、トワたちは思わず「おお」と感嘆の声をあげた。

 

「なんだか思っていたよりごつくてカッコいい感じなの。自転車よりだいぶ大きいし」

「導力自動車に遜色ない出力を持たせようとすると、これくらいのスケールはないとね。まあ、僕の趣味が入っているのも否定はしないけど」

「いいじゃねえか。嫌いじゃねえぜ、こういうの」

 

 設計上では、全長は240リジュ、全高も140リジュはある。自転車に比べたら――実際、自転車を見かけたことは多くないが――かなり大型だ。導力エンジンを積むからには、車体は大きなって然るべきだろう。

 そんな厳つさをクロウは気に入ったらしい。ジョルジュも自分の趣味嗜好が入っていることを否定しないあたり、男の子はやはりこういう無骨でメカニカルなものに心惹かれるものがあるのだろう。

 尤も、男女に関わらず気に入ったのはトワも同じだ。故郷のテラでは歯車の機構を用いたミトスの民の遺物の扱いを学んでいたこともある。機械関係のデザインについては、むしろ好みの類であった。

 

「それじゃあ、これからは試作の段階に入っていくんだね」

「あー、うん……可能なら、そうしたいところなんだけど」

 

 設計が出来たのなら、後は実際に作り上げていくのみ。そうとばかり思っていたのだが、ジョルジュは何故かそこで言葉を濁らせた。どうしたのだろうかと首を傾げるトワに、彼は乾いた笑みを浮かべながら言った。

 

「組み立てようにも、何もないところから部品が出てくるわけじゃないからね。それを用立てるにも元手がないことには始まらないし……要するに開発費の問題さ」

 

 何とも切実で現実的な問題であった。つられるようにトワも乾いた笑みを漏らす。

 たとえジョルジュが設計したものを形にできる優れた技術を持っていても、ネジの一つもない状態からは何も作り出せはしない。まずは資材を調達するところから手をつけなければならなかった。

 しかし、車体を成型する鋼材にしても、それこそネジ一本にもミラが掛かる。導力自動車に比べれば小さいとはいえ、これだけの大きさの乗り物を作る費用は馬鹿にはならないだろう。それに、開発する中で試行錯誤を繰り返すことは間違いない。それほどのミラをジョルジュ個人で賄うのは到底不可能であった。

 

「世知辛いというかなんというか……当てはあるのか?」

「工科大学から研究費が下りるかは微妙なところだしなぁ。可能性があるとしたら、RFに売り込んで開発費を提供してもらうくらいか……」

「うーん、物作りも楽じゃないの」

 

 シュミット博士の研究室にいたのなら、学長の直弟子ということもあって研究費の申請をするのは簡単だった。ところが、今のジョルジュはトールズの生徒。博士の弟子であることには違いないとはいえ、部外者の個人的な研究に大学がミラを出してくれるかは難しいところだ。

 その点、RFに売り込むという案はまだ芽がある。RFにとって利益になると見込んでもらえれば、商用化のための諸々の面倒はついてくるだろうが、開発費を提供してもらえる可能性もあるだろう。

 とはいえ、言葉にするなら簡単だが、実際にまだ形にもなっていないものを売り込むというのは非常に難しい。それだけのプレゼン能力がジョルジュにあるかは怪しいところだった。

 さて、どうしたものか。具現化するための、ある意味で最大の障害に考え込んでしまう。

 

「――つまり、スポンサーがいれば問題ないわけだね」

 

 そんなところに、しげしげと設計図を見つめていたアンゼリカが口火を切った。ミラを用立ててくれる後援者さえいれば完成させることはできるのだろう、と。

 

「それは、まあ、そうだけど……言ってしまえば趣味の研究にミラを出してくれる人がいると思うかい?」

「いるじゃないか。君の目の前に」

 

 立てられた親指がアンゼリカ自身の胸を指し示す。あまりにも簡単に言うものだから、ジョルジュのみならずトワやクロウも目を瞬かせてしまった。

 要するに、彼女はこの開発費を自分の懐から全額出そうというのか。決して少なくない額になるだろうミラを、ジョルジュの言葉を借りれば「趣味の研究」に。

 友人だからといってそう易々と出来ることではないし、するべきことでもないと思う。だからこそ、それを聞いたトワたちの反応は諸手を上げた歓迎ではなかった。

 

「おいおい、本気か? いくら貴族だからってポンと出すようなものでもねえぞ」

「本気も本気さ。それに、伊達や酔狂でもなければ、ただの親切心というわけでもない」

「そうなの?」

 

 友人だから、というただの親切心で行おうとしていることなら止めるつもりだった。仲がいいからといって何をしてもいいわけではない。大金といえるミラが絡むとなれば尚更だ。親しき仲にも礼儀やけじめは必要である。

 ところが、アンゼリカは違うという。瞳を爛々と輝かせた彼女は楽しげに設計図を見つめる。

 

「話を聞いた段階から面白いとは思っていたが、これを見て確信したよ。きっと素晴らしいものが出来上がる。それが日の目を見ないなんて勿体ないにも程があるだろう」

「そこまで買ってくれるのは嬉しいね。だからといってアンの懐から出す必要はないと思うけど」

「では、言い方を変えよう。一台お買い上げだ」

 

 申し訳なさそうにしていたジョルジュが目を見開く。端的な言葉の中にはこれ以上ない明確な理由と説得力があった。

 アンゼリカの申し出は親切心でもなければ、将来性を見込んでの援助でもない。単純な物欲が理由の大半であったのだ。

 

「デザインも、乗り心地も、全てを私色に染め上げた一品を仕上げてくれたまえ。高いミラを出すんだ。それくらいサービスしてくれるだろう?」

「うーん、ある意味貴族趣味というか……それはそうとアンちゃん、お父さんと仲が悪いのにそんなミラ持っているの?」

「ふっ、私がどうして鉱山バイトに励んでいたと思う。こういう時に好き勝手使うためさ」

「全然貴族らしくなかったの……」

 

 アンゼリカの珍しい貴族的側面が、かと思えばそうでもなかった。ミラの出処が全く貴族的ではない。危険も伴う肉体労働で賃金はよかっただろうから、それなりの蓄えがあるのは確かなのだろうが。

 トワたちがそれを聞いて呆れている間にも、ジョルジュは思案顔で腕を組んで考え込んでいる。本当にアンゼリカの話を受けていいのか。それを天秤にかけているのだろう。

 メリットが勝る提案であるのは明らかだ。すぐに開発に取り掛かれるのはもとより、後々の商用化を考えての制限が掛かることもない。強いて言えばアンゼリカの好みに左右されるという点があるが、彼女の性格からして限界まで性能を突き詰める方向だろう。それはジョルジュとしても望むところだ。

 結局、その手を取るか否かはジョルジュが納得できるか次第なのだ。余計な考えを打ち止めた彼は、確認を取るように問いかける。

 

「元が取れる研究になるか分からないよ。払い損になるかもしれない」

「私としてはとびっきりの一台が出来上がれば十分さ。そこから先はお任せするよ」

「大量のテストとか調整とかに付き合ってもらうことになるし」

「むしろ歓迎だね。役得というものだろう」

「返品返金は受け付けないよ」

「上等」

 

 にやり、と二人は笑みを浮かべ合う。問答はそれで十分だった。

 

「心配なら書面でもしたためようか?」

「はは……いや、それには及ばないさ」

 

 冗談めかすアンゼリカに苦笑しつつもジョルジュは手を差し伸ばす。それは彼が答えを決めた証。伸ばされた手はもう一方の手に取られ、二人は固い握手を交わす。

 

「契約成立だ。よろしく頼むよ」

「こちらこそ。要望があれば遠慮なく言ってくれ」

 

 丸く収まったようで何よりだ。傍らで見守っていたトワとクロウもつられるように笑みが浮かぶ。

 さて、そうと決まれば話は早い。ミラの目途がついたからには、後は実際に動いていくまでだ。早速とばかりに作業台に向き直るジョルジュに同調し、トワたちもまた手を動かし始める。

 

「まずは資材の発注からだよね。私の方でそっちは纏めておこうか?」

「ああ、頼むよ。必要なものはリストアップしておく。クロウ、ちょっとそこを片付けてスペース空けておいてくれ。加工とか組み立てに場所を取るからね」

「了解。ゼリカ、こっちに手を貸せよ」

「ふむ、私には好みのデザインを今から考えるという仕事があるのだが……冗談だよ。そう睨まないでくれたまえ」

 

 それぞれ出来ることから手を付け始める。その様子を見守るノイには、四人がとてもいい表情をしているように思えた。

 地を駆ける鋼鉄の馬を夢見て。その日より技術部は一層の賑わいを見せるようになるのだった。

 



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第44話 糸紡ぐ町

今回から第五回の試験実習。行き先はサブタイトルからお分かりの通りでしょう。

二次創作ではよくある話ですが、プロットを練った段階では閃Ⅲがまだ出ていなかったもので原作との齟齬が生じています。紡績市とか呼ばれていたから産業革命期のイギリスみたいなイメージだったのです……

そういうわけで原作と異なる部分がありますが、拙作におけるオリジナル要素としてご了承ください。


 夏の陽が照りつける士官学院のグラウンド。そこに甲高い剣の打ち合う音が響く。降り注ぐ陽光でその刀身を煌かせながら、両者は激しい応酬を繰り広げる。

 四回目を数えることになった実技教練。相手を務めるサラ教官にもはや遠慮など欠片もない。それは、教え子たちの成長と実力を認めるからこそ。二つ名に謳われし紫電の一撃を見舞うべく強化ブレードが振るわれる。

 まともに受ける義理はない。身軽に跳んで避けるトワ。しかし、最年少でA級遊撃士となった女傑はそれをみすみす見逃すほど生易しくはない。二段構えの導力銃が宙に浮く小柄な身体に狙いをつける。

 それはトワも――トワたちも承知の上。身動きのできない状態ながら彼女に焦りはない。何故ならば、自分の背中には信頼する仲間がいるのだから。

 サラ教官が舌打つ。飛来する別方向からの銃弾により引き金を引くことは許されず、その一瞬の間にトワは体勢を立て直し再び斬りかかる。

 空を裂く疾風の如く、縦横に跳駆する束の間に目と目で通じ合う。

 

 ――埒が明かねえ。どうすんだ?

 

 ――攻め手を変えるよ。合わせて、クロウ君!

 

 にやり、と不敵な笑み。返事はそれだけで十分だった。

 トワの動きが変わる。重きを速さから巧さへ。俊敏な動きの中にフェイントと威嚇を織り交ぜ、その間隙を突くように不意の一撃がサラ教官を狙う。

 入学当初から彼女の戦闘スタイルに大きな変化はない。それだけに練達の成果が顕著に現れる。以前なら押え込めたはずの剣捌きを見極めるのにサラ教官は難儀した。

 力で押し通そうにも邪魔が入る。クロウの銃とアーツによる的確な支援がトワを助け、サラ教官の動きを縛る。そちらを先に潰すことも考えたが、旋風のような剣舞がいつ牙を剥くかも分からない状況ではそれも難しい。

 

「まったく、嫌らしいわ、ねっ!」

 

 厄介な連携を前にサラ教官が選んだのは後退。紫電を伴った銃弾が地を砕くのに合わせ、一息に距離を離す。トワもまた回避と同時に後ろへ下がりクロウと肩を並べた。

 仕切り直しとなった状況。それぞれとめどなく汗を流しながら、その目に宿る戦意に陰りはない。

 

「……褒めてあげるわ。まさか二人相手にここまで手古摺らされるなんてね」

 

 本心からの賞賛だった。教え子たちの成長はサラ教官の想定を大きく超えていたのだ。

 今回の実技教練は四人同時ではない。二人組に分かれてそれぞれ相手していた。それは、四人相手では対抗できないと判断したからこそ。認めるのは悔しいが、逆に言えば二人ならまだ負けはないと思っていた。

 ところが、実際はどうだ。優位は築けず戦況は拮抗している。正直なところ、トワとクロウの緻密な連携に打ち勝つヴィジョンを抱けていない。

 

「はっ、そいつはまだ早いぜ。地面に這いつくばってから言ってもらわきゃな」

「クロウ君ってば、またそういうことを……でも、私も気持ちは同じです。これが限界だなんて、これっぽっちも思っていませんから」

 

 それはトワたちとしても同じこと。最初の実技教練から自分たちは腕を上げたのは間違いない。それでも未だにサラ教官には土をつけられていなかった。

 だが、苦汁を舐めるのも今日までだ。今の自分たちになら出来るはず。教え導いてくれる先立ちにして、この大きな壁を越えることが。並び立つ仲間と一緒なら不可能ではないと確信していた。

 教え子たちの強気な言葉にサラ教官は笑みを浮かべる。あのてんでバラバラだった子たちが、よくもここまで。教官として彼女たちの成長を喜ばずにはいられない。

 

「威勢がいいこと――でも、そう簡単にいくとは思ないことね!」

 

 だからといって簡単に負けてやるのとは話が違う。教官として、武術の先立ちとしての威信にかけて、サラ教官は奥の手を切る。

 

「はああああぁぁ!!」

 

 裂帛の気合と共に紫電の闘気が吹き荒れる。内なる気功を引き出すことで身体能力を引き上げる戦技の一種、名を『雷神功』。正真正銘の全力全開だ。

 肌を刺す闘気の奔流にトワとクロウもそれを理解する。先ほどまでの攻防で五分五分の展開。そこに強化された身体能力が加われば、趨勢を変えられることになりかねない。長時間維持できるものではないだろうが、一度連携を崩されれば僅かな時間で事足りるだろう。

 

「……何とか抑えてみせる。だからクロウ君、頼んだよ」

「おう。思いっきりやってやれ」

 

 だが、それがどうした。相手が奥の手を切ったというのなら、こちらもまた手札を切るまで。瞑目したトワは、自らの内に流れる力を呼び覚ます。

 

「――はあっ!!」

 

 トワの身体より金色の闘気が迸る。覚えのない技にサラ教官は目を見張った。アンゼリカがそういった類のものを使えるのは知っていたが、まさかトワまでもとは。

 厳密にいうと、少し違う。彼女の身体から立ち上る闘気とは似て非なるもの。彼女の内に宿る生命力、星の力そのものだ。

 星の力を操るミトスの民にとって、自前のものを活性化させるくらいお手の物である。姿も栗色の髪のまま。サラ教官にそれを理解するのは難しいだろう。教会との盟約のギリギリまで攻めた戦技だった。

 

「ほんと、大したものね。少し見ていないだけで一足飛びに強くなっていくんだもの」

「皆のおかげです。クロウ君、アンちゃんにジョルジュ君……それに、サラ教官も。皆と一緒に歩んで、導いてくれたからこそ私は強くなれた」

「嬉しいこと言ってくれるじゃない。なら、その強さ……全力でぶつけてきなさい!」

 

 同じくして地を蹴り剣が振るわれる。星の煌きが、稲妻の閃きがぶつかり合って火花を散らす。先ほどよりも数段上の速さ。残像さえ残さんばかりの領域で繰り広げられる二人の応酬は、既に常人の目には留まらないものになっていた。

 無論、クロウの援護の手が止まることはない。彼もまた相応の実力者、加えてトワとの戦術リンクがある。グラウンドを所狭しに行われる高速の戦闘を後方より支える。

 互いに奥の手を切り、尚も拮抗する戦況。激しさを増す戦いは終わりなど知らないように思われた。

 だが、それは危うい均衡だ。拮抗しているからこそ、そのバランスは僅かな変化で容易に崩れ去る。

 

「つあっ!?」

 

 ほんの少し、動きが乱れた。ただそれだけでサラ教官の一撃の威力を受け流し損ねたトワの剣が大きく弾かれる。速度が増した中での一瞬の出来事。クロウの導力銃は間に合わない。

 もらった。必中を期したサラ教官の剣閃がトワに向かう。まともに受ければ、トワの意識は瞬く間に刈り取られることになるだろう。

 崩れた構え、得物を引き戻して防ぐことは敵わない――ならば、別の手段を取るまでのこと。

 

 次の瞬間、トワは剣を手放した(・・・・・・)

 

 瞠目するサラ教官。必殺の一撃を見舞わんとするその腕を、トワの両手が絡め捕る。祖父から授かった教えは剣だけにあらず。剣を捨て、懐の内に潜り込んだ彼女が繰り出すは無手の技。相手の力の流れを変え、それを自身のものへと移し替える。

 小柄な身体が、体躯に勝る相手を投げ飛ばした。視界が回り、地面に叩き付けられたサラ教官の手から強化ブレードが零れ落ちる。それでも受け身を取っていたのは流石と言えよう。

 

「このっ……!?」

 

 悪態を吐きつつ立ち上がったサラ教官の目に映ったのは、無手のまま眼前に迫るトワの姿。得物も拾わず、息つく間もなく零れ落ちた強化ブレードを蹴飛ばして遠くに追いやった彼女は果敢に攻めかかる。

 サラ教官もまた徒手空拳でそれに応じる。互いに互いで視界を埋め尽くすような超近接戦。この距離では導力銃は役に立たない。拳と蹴りが打ち合う音が響き、相手を絡め捕らんと応酬が交わされる。

 しかし、サラ教官は状況が自分に傾いていることを理解していた。これだけの近距離における肉弾戦ではクロウも迂闊に手を出せない。それに、こと徒手空拳においてトワには絶対的なディスアドバンテージがある。

 

(判断を誤ったわね。勝ちを焦るから……!)

 

 確かに見事な技の冴えだ。上手く嵌れば相手を抑え込むこともできるだろう。

 だが、こうして拳を交わす状況になってしまえば、トワの圧倒的に不利な面が表出してしまう。つまり、常人よりも体躯に劣るという面が。

 短い手足ではリーチに劣り、身長の差は相手に上から抑え込まれることになる。剣を振るう時のように機敏な動きで幾らかカバーしているが、それでもこの絶対的な差は埋めようがない。

 決定的な瞬間に至るのに時間はかからなかった。跳び上がったトワの蹴りを、サラ教官が首を反らして躱す。これでトワが年相応の体躯だったら話は違っただろうが、それはもしもの可能性にすぎない。

 防ぎようのない、無防備なトワに向けてサラ教官が今度こそ意識を刈り取る一撃を繰り出す。迫る拳にトワは表情を変える。

 ――そこに浮かんでいたのは、誰かに似た不敵な笑みだった。

 

「よう、お疲れさん」

「うん。後はお願いね」

 

 必倒の拳は空を切った。トワが空中で動いた……わけではない。後ろから襟首を引っ掴まれた彼女は、軽々と明後日の方向に投げ飛ばされたのだ。

 大振りの拳を外されたサラ教官の視界に代わって映るのは、もはや目と鼻の距離にまで迫ったクロウ。その手はこれまでの鬱憤を晴らさんとばかりに拳を握っている。

 サラ教官は理解した。どうしてトワがわざわざ不利な肉弾戦で挑みかかって来たのか。視界を奪い、集中力を奪い、注意を奪うことで彼女は為し遂げたのだ。クロウがここまで、確実に一撃を叩き込める状況にまでたどり着くことを。

 それを理解したところで、彼女にはもはや甘んじて受ける以外の選択肢は残されていなかった。

 

「おらぁ!!」

 

 思いっきり振り抜かれた拳が、サラ教官の鳩尾に突き刺さった。

 遠慮なんて欠片もありはしない。まともに喰らったサラ教官は息を詰まらせ、勢いのままに吹っ飛ばされる。今度は受け身も取れず、どちゃりと地面に墜落した。

 投げ飛ばされた先で這いつくばっていたトワも、思いっきりぶん殴ったクロウも荒い息を吐く。気力も体力も限界だった。鳩尾にいいものを貰ったサラ教官は吐き気を催したかのようにえずいており、しばらくは落ち着きそうになかった。

 十秒ばかりだろうか。ようやくえずきを収めたサラ教官は「あー……」と呻き声を漏らしながら仰向けに寝転がる。それからまた間をおいて、彼女は口を開いた。

 

「ぬああああ!! 悔しいいいい!! もう負けちゃうなんてぇっ!!」

 

 ゴロゴロと転げまわりながら悶絶する姿は、女性としても教職者としても醜態と評されるものかもしれない。しかしながら、武術の先立ちの気持ちとしては無理なからぬことだろう。

 

「へ、へへ……ざまあみろってんだ。言っただろ、一発ぶん殴ってやるって」

「疲れた……あはは、でもこれで一歩前進かな」

 

 一方、息も絶え絶えな二人。余裕など全くない辛勝……だが、勝利には違いない。

 入学初日に旧校舎で落とし穴に嵌められてからというものの、事あるごとに一矢報いようとしてきたクロウ。積もりに積もった鬱憤がようやく晴れたとばかりに清々しい表情であった。

 そのことに関してトワは特に気にしていなかったが、これまで敗北を喫してきて悔しい思いをしてきたのは事実。三度目の正直、やっと掴んだ勝利に彼女も自然と笑みが零れた。

 

「やれやれ、何時の話を根に持っているんだか。まあ、何はともあれお疲れさまだ」

「凄かったよ、二人とも。最後のあたりなんて目で追うのがやっとだったし」

「……ちょっとあんたたち、こっちは放置なの?」

 

 激闘を見守っていたアンゼリカとジョルジュが二人を労いながら介抱する。その様を見てサラ教官から物申す声が。ダメージ貰っているのはこちらだというのに。

 文句をつけられた方といえば、目を瞬いた後に互いに見合わせる。どうやら意見は同じらしい。「いや、だって」「ねえ」と戻した視線には呆れが含まれていた。

 

「教官、なんだかんだ体力は残っていそうですし」

「転げまわる元気があるなら問題ないかと」

 

 なかなかに辛辣である。その推測は間違いではないのだろうが、教官に対するものとしてはぞんざいな扱いであった。思わずトワの笑みに苦いものが混じるくらいには。

 そんな扱いを受けた側は腹が立つもの。易々と受け流せるほどサラ教官は大人ではなかった。むくりと起き上った彼女は得物を回収するや再び戦闘態勢に。その額には気のせいか井形模様が浮かんでいるようだった。

 

「ほんっとに可愛くない子たちね……! ほら、さっさと構えなさい。前の二人と同じようにはいかないわよ!」

 

 やっぱりまだ元気じゃないか。そう肩を竦めながらもアンゼリカとジョルジュは得物を構える。今度は彼女たちの番だ。

 

「アンちゃん、ジョルジュ君、頑張ってね」

「こっちは何とか土をつけたんだ。情けねえ負け方するんじゃねえぞ」

「言ってくれるじゃないか。いいだろう、そこでじっくり見ているんだね」

「はは……まあ、精一杯やってくるよ」

 

 交代で後ろに下がるトワとクロウの声援に応える二人。いつも通りのやり取り。申し分のないコンディションだ。

 トワの「始め!」という合図で両者は弾かれたように動きだし、ぶつかり合う。実技教練、その第二ラウンドが始まった。

 

 

 

 

 

「…………げほっ」

 

 十数分後、そこには力尽きたサラ教官が倒れ伏していた。今度は転げまわって悔しがる元気もないのか、精も根も尽き果てたように突っ伏している。

 アンゼリカとジョルジュも倒れていないだけで同じような有り様だ。アンゼリカは膝に手をついて荒い息を吐いており、ジョルジュに至っては機械槌を支えにしていなければ今にも崩れ落ちそうな様子だった。

 それも仕方がないだろう。先に戦ったトワとクロウに比しても、かなり長丁場になっていた。サラ教官の猛攻を手堅く凌ぎながらも、勝負を決めるための突破口を二人はなかなか開けなかった。結果としては、サラ教官がスタミナ切れしたところにアンゼリカのゼロインパクトが叩き込まれた形だ。

 

「はっ、はっ……か、辛うじてもいいところだが、なんとかつり合いは取れたかな」

「……ど……どうにか……ね……」

 

 トワとクロウが競り勝ったと評するなら、アンゼリカとジョルジュは粘り勝ちといったところか。どちらにせよ、教官に勝利するという大きな目標を果たせたのだ。めでたいことであった。

 

「……あー、もう……何なのかしらね、これ」

「えっと……大丈夫ですか?」

「なに凹んでいるんだよ。教え子の成長を喜んでくれたっていいだろうが」

 

 黒星をつけられたサラ教官はごろりとうつ伏せから仰向けになると、額に手を当てて呻くような声を出す。普段の彼女らしくなく、どこか気落ちしているように見えた。

 本当ならクロウの言う通り、教え子が強くなったことを素直に喜ぶべきなのだろう。それが教官としての正しい態度だ。

 

「そりゃ分かっているわよ……でもまあ、今まで追いかける立場だったのが、いつの間にか追い越されていく立場になって……どうも変な気分よ」

 

 しかし、彼女は新任教官で、これまで前へ前へと突っ走ってきたタイプだった。シグナをはじめとした遊撃士の先輩の背中を追いかけ追い抜き、そうして手にしたのが『最年少A級遊撃士』という称号だ。

それから紆余曲折あって教官職に就き、生徒を教え導くやりがいと喜びも実感はしていたが……いざ追い越される立場になると、言葉にしがたい感情に苛まれる。悔しさだけではない、寂寥感に似た何かがあった。

 妙にセンチメンタルなサラ教官。そんな彼女の様子に教え子たちはというと――

 

「……ぶふっ!」

 

 耐えかねて、思いっきり吹き出した。

 

「ちょ、ちょっとクロウ君、真面目な話なんだから笑っちゃ……ふふっ」

「お前も笑ってんじゃねえか! くっくく……だ、駄目だ。ツボにはまった」

「ふふ……ま、まさかサラ教官の口からそんな言葉が聞けようとは……」

「ま……待ってくれ……今こんなに笑わされたら……ゲホッゲホッ!」

 

 好き放題な笑いようであった。サラ教官が思わず唖然となってしまうくらいに。

 なんだ、これは。自分が素直に心情を吐露したというのに、どうしてそれがこんな笑いのタネになっているのか。

 呆けた状態から、急にむかっ腹が立ってくる。底をついた体力のことも忘れ、サラ教官は憤然として立ち上がった。

 

「し、失礼ね! そんな笑うことでもないでしょ!?」

「いやいや、サラ教官にそんな繊細さがあったとは思いもよらず……」

「繊細っつうか、あれだな。婆臭い」

 

 「ばっ!?」と愕然とするサラ教官。彼女はまだ二十四歳である。四捨五入したって三十路には届かない。婆扱いされるなど心外を通り越して思慮の外であった。

 クロウとアンゼリカでは言葉がぶっきらぼうでいけない。これでは単なる暴言にしかならないだろう。フォローを入れるべく、若干の含み笑いを残しつつもトワは口を挟んだ。

 

「ふふ……すみません。なんだか気が早いことを言うものですから」

「なによ、あんたも年寄り染みているとかいうの?」

 

 トワにまで笑われたのは流石にショックだったのか、どこか拗ねた調子でサラ教官は半目を向けてくる。勿論、そんなつもりはないトワは頭を振った。

 

「まだまだ追いついたわけでもないし、サラ教官だって立ち止まっているわけではないでしょう。落ち込むには早すぎますよ」

 

 そう言われて、サラ教官は閉口した。

 勝ちを拾ったと言えども、それは二対一での話。一対一ではサラ教官に軍配が上がるのはまず間違いない。トワたちからしてみれば、追いついたと評するには首を傾げてしまうところだ。

 いずれは本当の意味で追いつくこともできるかもしれないが、それはまだ先のことだろう。なにせ、成長しているのは自分たちだけではない。サラ教官もまた、これからも成長していくに違いないのだから。

 だというのに、初めて教え子に土をつけられたからといって弱音みたいなことを口にするのはナーバスに過ぎる。クロウから婆臭いと言われても仕方なかった。

 言われてみれば自覚するところもあって、返す言葉が思い当たらずに黙ってしまう。それをいいことに、教え子たちは好き放題に口を開く。

 

「流石に早合点というか、せっかちだよね。僕なんか一人じゃ防ぐだけで手いっぱいだってのに」

「まったくだぜ。そういうのはタイマンで負け越してから言ってほしいもんだ」

「まあまあ、サラ教官にも感傷的になる時もあるということだろう。ここは一つ、笑って流してあげようじゃないか」

 

 勝手気ままな言いように、普段なら怒鳴り声の一つでも出していたかもしれない。だが、今のサラ教官の口から出たのは大きなため息だけだった。認めるしかあるまい。自分の身から出た錆であった。

 

「はあ……あたしも教官としてはまだまだってことかしらね」

「それはまあ、新任なんですし。最初からヴァンダイク学院長やベアトリクス教官みたいだったら逆に驚きです」

 

 そりゃそうだ、とサラ教官は大いに納得する。学院の大御所二人と同列だなんていうほど彼女は思い上がっていない。その比較対象からすれば、自分はまだまだひよっこだというのも胸に落ちる思いであった。

 来年度に発足する特科クラスでは担任を務めることになっている。こうしてトワたちの実技教練や試験実習の監督をしている以上に、教官としての務めや責任は大きなものになっていくだろう。

 なら、立ち止まってなどいられない。凹んでいる暇があったら少しでも前に進むための努力をするべきだ。

 気持ちを改めるように頬を叩く。ひとまず放っておいたらいつまでも人をネタにしてくれそうな、可愛げのない教え子たちに向けて声を張り上げた。

 

「ほら、いつまでもくっちゃべってんじゃないわよ! 話が進まないでしょうが」

「分かったっての。それで? 今回はどこに行くんだ」

 

 実技教練が終われば、その後はお約束の実習地発表だ。悪びれもせず、ころりと話を変えられたことに二度目のため息を零しつつも、サラ教官はいつもの封筒を取り出した。

 

「まったく……今度は少し遠出になるわよ。しっかり準備していきなさい」

 

 各々、渡された封筒を開けて確認していく。そこに記された実習先を見て、トワたちは一様に「おや」と思った。

 特段、変わった行き先だったわけではない。今までに訪れた帝都や各州の州都に比べれば、むしろ平凡に感じる部類だ。

 

「これまで行く先々で驚かされてきたが……今回ばかりは、その心配もなさそうだね」

「あはは、確かに」

 

 それでも四人が顕著な反応を示したのは、彼女たちが築いてきた縁がそこに繋がっていたからだ。

 ――紡績町パルム

 次なる実習先を認めてトワたちの脳裏に浮かんだのは、丸眼鏡をかけた男の丸い顔だった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 紡績町パルムとは、その名の通り紡績や染色といった繊維業が盛んな町だ。その品質は高く評価されており、織物といったらパルム産というくらいには浸透している。

 昔ながらの産業に支えられた町ではあるが、近年では技術進歩による変化もあるようだ。旧来の水車で動力を得る紡績機も用いられてはいるものの、今では導力駆動の紡績工場が主な生産力を担っているのだとか。織物自体も一般的な綿織物や絹織物の他に、様々な合成繊維も産出していると聞く。

 帝国においても最南端に位置することから、隣国のリベールと人の行き来も盛んにある。規模としては一地方都市の例に漏れないが、その内実はなかなか特徴的なものであった。

 

「――とまあ、概略としてはこんなところだろうが……あれだね。我がことながら、訪れたこともないのによくこれだけ知っているものだ」

「子爵のオッサンが事あるごとに講釈していくからな。嫌でも覚えるってもんだ」

 

 そして、そんなパルムとトワたちはとある縁があった。

 パルムの領主、ボリス・ダムマイアー子爵。領地持ちでありながら各地を商用で回る変わり者な貴族。帝都で危ないところを助けたのを切っ掛けに、彼とは実習先で度々顔を合わせる仲である。

 偶然の出会いがどう繋がるか分からないものだ。彼の商用について話を聞いていたおかげで、誰も訪れたことはないのにパルムのことはそこそこ知っている。移動の列車内、いつも通りに概要を確認していた四人は改めてそう感じていた。

 

「いつもなら現地責任者が誰か首を傾げるところだけど、こうなると分かりやすいよね」

「ボリス子爵のことだからね……放っておいても首を突っ込んできそうだし」

『まあ、知らない相手よりはずっといいの』

 

 トワたちのことが気に入ったからと、腐れ縁のハインリッヒ教頭から実習先を聞いては会いに来る人だ。領地が実習先ともなれば、関わってこようとするのは目に見えている。当然ながらパルムにおける現地責任者は彼だろう。

 下手に驚かされるよりはいい。こちらとしても知り合いが相手ならやりやすいし、幾分か気楽に実習に臨めるというものだ。

 ただ、あの妙に元気な子爵のことである。自分たちよりも張り切っている姿が目に浮かぶようで、どうにも苦い笑みが浮かんでしまう。熱心に取り組んでくれるのはいいことなのだけれども。

 

「何にせよ、悪いことにはならないだろう。真面目な話はこれくらいにしておいて、早めの昼食としないかい?」

 

 アンゼリカの提案に時間を確認する。午前十一時。確かに少し早いが、後のことを考えたらそろそろ食事は済ませておいた方がいいだろう。

 先ほど述べた通り、パルムは帝国の最南端に近い。帝都近郊のトリスタからだと相応の時間が掛かる。朝の早い時間に出発したが、それでも到着は昼過ぎを予定していた。

スムーズに実習を開始するためにも、昼食は列車内で取ろうとは事前に決めていたことである。こういう話はジョルジュがいの一番に言い出しそうなものだが、それより先にアンゼリカが口にしたのは彼女らしい理由があった。

 

「ふふ……トワの愛妻弁当が食べられるとあって、昨日から楽しみにしていたんだ。おかげで寝不足気味だよ」

「もうアンちゃんってば、お弁当くらいで大袈裟なんだから」

「いや、たぶんそいつマジで言ってるぞ……」

 

 クロウなどは当初、トリスタで適当なものを買ってこようとしていたのだが、トワの方から全員分の弁当を用意してくると申し出たのだ。一人も四人も大差ないからと。

 彼女の料理の腕前が折り紙付きなのは既知の事実だ。クロウとジョルジュも素直に厚意に甘えることにし、アンゼリカに至っては小躍りせんばかりだった。相変わらずトワのことが絡むと無駄にテンションが高くなるご令嬢である。

 そんな友人の言葉を冗談半分に流しながらトワは用意してあったバスケットを開ける。食べやすさを考えて、作ってきたのはサンドイッチだ。シンプルな料理ながらも具材に工夫を凝らした一品は彩り豊かに仕上がっている。

 見目もよければ自然と涎が出ようというもの。いただきます、と我先にと手が伸ばされた。

 

「おお、生ハムかい、これ? 気合入っているなぁ」

「あはは、たくさん作ってきたから遠慮せずに食べてね」

『トワ、トワ! 私にも頂戴なの!』

 

 姿を消したまま訴えかけてくるノイに肩を竦める。他にも乗客はいるが、ジョルジュの身体を隠れ蓑にすれば大丈夫だろう。通路側から目に映りづらいところに差し出してやると、姿を現したノイが嬉々とした様子で受け取って小さな口でかぶりついた。

 談笑を交えながら食の手は進む。サンドイッチは好評でアンゼリカに至っては至福の表情を浮かべていた。空が白み始める頃合いから準備した甲斐があったというものだ。

 弾む会話、美味しい弁当、車窓を流れる景色。この場面だけを切り取れば、楽しいピクニックの一幕にでも見えるだろう。

 

「……あれ?」

 

 そんな賑わいの中で、トワは移り変わる景色の中で異彩を放つものに気付く。サザーラント州に入ってしばらく、そろそろ州都のセントアークに近付いてくる頃。遠目に見えてきたそれは、なだらかな丘陵にそびえ立つ巨大な建物だった。

 

「大きいなぁ。ドレックノール要塞っていうんだっけ?」

「ああ。帝国南部における正規軍の一大拠点だね。あれが目と鼻の先にありながら上手くやっているハイアームズ候は大したお方だよ」

 

 帝国正規軍の拠点、ドレックノール要塞。一個機甲師団を軽々と擁することが可能な大規模軍事基地である。流石に東部国境のガレリア要塞には及ばないが、それでも帝国内で有数の規模であることは間違いない。

 そんなものが州都の近郊にあれば貴族派としてはやり辛そうなものだが、サザーラント州を治めるハイアームズ候は四大名門の中でも穏健派と聞く。立場は示しつつも、軋轢が起こらないよう上手く調整しているのだろう。

 

「そういや少し前に配置換えがあったそうだな。詰めていた第三機甲師団がノルドのゼンダー門に異動したらしいぜ」

 

 不意にクロウがそんなことを呟いた。どこから情報を仕入れてくるのか知らないが、彼の言うことはおおよそ正しいものだ。きっと事実なのだろう。

 思い出されるのは先々月のルーレにおける実習でのこと。到着した駅でトワたちは貨物列車に積み込まれる第三機甲師団の戦車を目撃していた。もしや、とは思っていたが、本当に異動だったとは。遅ればせながら知った事実に驚きを覚える。

 

「共和国との緩衝地帯と言っても、ノルドはそんな緊張しているわけじゃないんだろう? どうしてわざわざ」

「うーん……軍事的理由じゃないのなら、政治的な理由も考えられるけど」

「要するに左遷ってことか。《隻眼》が鉄血宰相の不興でも買ったのかね」

 

 以前にも疑問に思ったものだが、第三機甲師団を異動させた理由がよく分からない。きっと自分たちには与り知れない動きがあったのだろう。帝国は政治においても軍が大きな力を持っている。軍閥の衝突は十分に考えられるものだった。

 とはいえ、それらは全て憶測にすぎない。ナイトハルト教官などなら事情を知っているかもしれないが、軍部の情報をおいそれと口外することもないだろう。トワたちに事の真相を確かめるのは難しかった。

 気になりはするものの、言ってしまえば自分たちには関係のない出来事だ。下手に詮索して藪をつつくこともない。ここは心に留め置くことにしよう。

 

「要塞が見えてきたってことは、そろそろセントアークなの。乗り換える前に食べ終わらなくちゃ」

「あ、ノイお前! 俺が狙ってた最後のカツサンド!」

 

 それより今は目の前の実習に集中しなくては。そのために腹を満たして英気を養うのは大事なことである。

 早い者勝ちとばかりにバスケットからカツサンドをかすめ取るノイ。出遅れた敗者に対して、小さな健啖家は歯牙にもかけずに口を進めるのみだ。仕方ないなぁ、と苦笑したトワは自分のものを半分にしてクロウに差し出すのだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「やあやあ諸君! よく来たね!」

 

 セントアークより支線に乗り換えて列車に揺られることしばらく。目的地の紡績町パルムに降り立ったトワたちは、半ば予想していた光景に「ああ、やっぱり」と愛想笑いのようなものを浮かべていた。

 駅から出たところに両手を広げて待ち構えていたのは、パルムの領主その人であるボリス子爵。傍に控える秘書のドミニクは仕方ない人だと肩を竦めていた。

 

「お久し振りです、ボリスさん。今回はよろしくお願いします」

「うんうん。私としても君たちを迎え入れられて嬉しい限りだ。どうか実り多き実習にしていってくれたまえ」

 

 ご機嫌な様子のボリス子爵はトワたちの来訪を心から喜んでいるようだった。よほど気に入ってくれているのだろう。それだけに期待には応えたいと思う。

 

「ドミニクさんもご無沙汰しています。短い期間ですが、お世話になりますよ」

「ああ……といっても、今までの実習地に比べたら面白みのないところだと思うけどね。君たちならさして苦労もしないんじゃないかな」

「どうかね。見た感じ、ここもここで独特な雰囲気のようだが」

 

 辺りをぐるりと見まわしたクロウがそんなことを零す。後を追って目を配らせたトワは内心で確かに、と頷いた。

 駅の周辺は昔ながらの町並みが広がっている。流石は織物の名産地と言ったところか。露店には色とりどりの布地が並び、広場の一角には美麗に染められた大きな織物が風に靡いていた。河川の流れを利用した水車も近頃では物珍しい。

 一方で、少し離れたところに目を移すと趣が変わってくる。駅の周辺に比べて近代的な大きい建物が遠目に窺えた。話に聞く工場か何かかもしれない。

 列車から見えた景色にも、郊外に大規模な耕作地が広がっているのが見て取れた。規模は確かに帝都などに比べたら劣るだろう。だが、この町でも学び取れることは多くありそうだった。

 

「個人的には向こうの工場みたいなのが気になるなぁ……んんっ、何はともあれ、依頼も含めて精一杯頑張らせてもらいます」

「はっはっは、そうかね。それは楽しみだ」

 

 試験実習で訪れている以上、この町においても多くを学び来年のカリキュラムに活かせるようにしていかなければ。その心構えはどこにおいても変わりない。

 意気込みを見せるトワたちにボリス子爵は朗らかに笑う。彼としても、それでこそ現地責任者を買って出た甲斐があるというものだろう。領主として、パルムのことをよく知ってもらいたいという気持ちは人一倍だろうから。

 さて、とひとしきり笑った子爵は言葉を区切る。挨拶はこれくらいにして動くとしよう。

 

「長いこと列車に揺られて腹も減ったろう。宿に荷物を置いたらまずは食事にでも――」

「あ、すみません。お昼はお弁当で済ましてしまって……」

 

 動こうとしたのだが、出鼻をくじかれた。

 ボリス子爵は「そうかね……」としょんぼりした様子。こちらに非はないのだが、ちょっとばかり申し訳ない気持ちになって苦笑いが浮かぶ。ドミニクは呆れ顔で首を横に振るばかりだ。

 なんだか締まらない形になってしまったが、こうしてパルムにおける試験実習は幕を開けるのだった。

 

 

 

 

 

「――ほう、これはこれは」

 

 そんなトワたちの姿を遠目に見つめる人影があった。

 緩くウェーブした長めの青い髪、白を基調とした仰々しい服装。一見して貴族のよう――だが、どこか胡散臭い怪しさを漂わせた男。彼は意図せぬ遭遇に足を止めていた。

 小さな少女が率いる四人の学生たち。その姿を認めた男の口元が歪んだ弧を描く。

 

「野暮用で立ち寄ったところで噂の学生諸君に出会えるとは……くく、これも女神の巡り合わせというものかな?」

 

 男がパルムを訪れたのは偶然だった。ただ、近くに少し用事があった。それだけだ。

 だが、そこで興味深いものを見つけてしまった以上、彼がちょっかいを出さない理由もない。傍迷惑極まりないものの、彼はそういう男だった。

 さて、どのような趣向を用意したものか。

 頭の中でろくでもないことを考えながら男は悠々と足を進め始める。まるで初めからそこにいなかったかのように、白いその姿は雑踏の中に掻き消えた。

 



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第45話 拝啓、美の探究者より

部長「お倉坊主君、九月から年末まで出張お願いな!」

自分「分かりました(やめろ……やめてくれええええ!!)」


 そんな感じで長期の出張業務となりましたお倉坊主です。まさか閃Ⅳの発売を目前としてこんな仕打ちを受けようとは思わなんだ。おのれ部長!
 まあ、土日は帰ってこれる距離なので閃Ⅳが全くプレイできないというわけではないのですが、平日は生殺しにされること間違いなしです。先が気になりすぎて暴走する妄想力は拙作の執筆で発散させたいと思います。


「さあさあ、適当に寛いでくれたまえ。散らかっていて悪いがね」

 

 まずは腰を落ち着けようということで、荷物を宿に預けたトワたちはボリス子爵の案内でとある一室を訪れていた。やや散らかったデスクや応接間のようなスペース。一見するに、彼の執務室だろう。

 それだけなら特筆するべきこともないのだが、トワたちとしてはどうしても気になることがあった。室内にではなく、案内された建物自体に。

 

「それは大丈夫ですけれど……あの、どうして工場(こちら)の方で?」

「てっきりオッサンの屋敷に連れていかれるもんだとな。道を間違えているのかと思ったぜ」

 

 ボリス子爵はパルムの領主。これまでの経験則からして、最初に案内されるのは彼の領主邸だと思っていた。

 ところが、その先入観は否定されることになった。トワたちが連れてこられたのは、駅からも遠目に見えた工場のような大きな建物――ボリス子爵が工場長を務める導力式紡績工場だったのだ。

 不満、というわけではない。しかしながら、意表を突かれたこともあって、どうしてこの場所でという疑問が湧いて出てきていた。それに対して、ボリス子爵はどこか気まずそうに頬を掻いた。

 

「あー……実を言うとだね、私は屋敷を持ち合わせておらんのだよ。この工場長としての執務室が、同時に領主としての部屋でもあるわけだ」

 

 これまた意外な答えだった。領主であるのに自分の邸宅を持っていないとは、全くの慮外で想像していなかったのである。

 屋敷がないのならこの工場こそが彼の本拠であるということ。トワたちがここに案内されたのも理解はできる。とはいえ、どうして屋敷がないのかという疑問が新しく湧いてしまうが。

 

「……貴族にありがちなごたごたの結果だよ。今となっては過ぎた話だけどね。どうぞ」

「これはどうも。しかし、それならそれで新しく建てようとは考えなかったので?」

「はっはっは、私にはこの工場で十分だとも。貧乏性ともいうが」

 

 お茶を淹れてくれたドミニクが口にした言葉は、どこか誤魔化すような色合いがあった。ティーカップを受け取った際に、彼の目に陰りのようなものが見えたのはトワの気のせいだろうか。

 彼らも昔に色々とあったのかもしれない。気になるところはあったものの、ドミニクの言葉を額面通りに受け取っておくことにした。不用意に立ち入ることでもないだろうと。アンゼリカの茶化しに快活に笑うボリス子爵からして、それは間違いではなかったと思う。

 

「でも、この工場はかなり手が掛かっていますよね。建物自体に年季は入っているけれど、中の設備は最新鋭に近いものばかりだ」

「ほう、よく見ているね」

 

 意図してかしないでか、ジョルジュの声で話題が変わる。執務室に案内されるまでの間、工場の様子を一際熱心に見つめていた彼の感想。それにボリス子爵は感心した。

 

「この工場はそれなりに歴史があってだね……せっかくだ、簡単に講義するとしよう」

 

 ボリス子爵は興が乗ったのか、いつもの講釈の構えに入った。これは話が長くなる流れだろう。仕方がないのでトワたちも聞きの姿勢になる。実習を本格的に始める前に知識を仕入れておくのも悪くはない。

 

「トワ君、導力革命によって技術は飛躍的な進歩を遂げたわけだが、その恩恵を初期から受けたのはどのような産業だと思うかね?」

「そうですね……最初に開発された導力式時計や駆動車、そこから発達した導力式の機械関係を用いる産業だと思いますけど」

 

 C・エプスタイン博士による導力器の発明に端を発する導力革命が勃興したのが七耀歴1150年。その後、エプスタイン博士の高弟であるA・ラッセル博士やG・シュミット博士らが故国で導力器の普及に努めていくことになった。

 ラッセル博士がツァイスの時計師組合と技術提携を結び工房を立ち上げたのが1157年。次いで1158年にはシュミット博士がラインフォルト工房と共に導力駆動車を開発している。そうした段階を経て導力技術は徐々に発展していったのだ。

 そんな初期の導力機器は既存のものを導力駆動にしたものが殆どである。導力式の時計や導力灯。まずは導力器の利便性を広めていくことが先決であっただけに、分かりやすい形で便利になることを示す必要があったのだろう。

 導力あってのものである飛行船の登場は1168年となっており、そうした画期的な発明は少しばかり後の時代に譲ることになる。尤も、本当の最初期は世間の反応も冷たかっただけに十分な資金が用意できなかったというのも一つの要因かもしれない。現在のリベールが技術立国でいられるのは先代国王エドガーⅢ世による早くからの援助があってこそと思われる。

 ともあれ、そんな時代背景から恩恵を受けられた産業は導力式の機械を用いるものだろうとトワは考えた。大まかではあるが、ボリス子爵はそれに満足したように頷く。

 

「左様。今まで人力や水車に頼っていたものが導力に置き換わることで、生産性は格段に向上する。その分かりやすい例が、この町の主産業である紡績関係だ」

「恒常的な安定したエネルギー、それに伴う自動化。考え付くだけでも恩恵は計り知れませんね」

 

 旧来の紡績方法とは、駅近くで見た水車を用いたものが主流だったのだろう。それが導力化することによってパルムという町が大きな転機を迎えたのは想像に難くなかった。

 

「早くからその傾向にあったリベールが近いだけに、先代が耳聡く聞きつけたようでね。シュミット博士らラインフォルトの技師を招聘して……まあ、色々と難儀したらしいが、導力式の紡績機を開発することに成功したのだよ」

「あの偏屈な博士のことです。開発そのものより、招聘するのに難儀したのでは?」

「はは……向こうも懐具合に困っていた時期みたいでね。最終的には資金援助を条件に受諾してもらったと聞いているよ」

 

 アンゼリカの揶揄にドミニクはそう苦笑いで応じた。あのシュミット博士のことだ。資金援助の条件と技師仲間の説得で渋々応じたのが目に浮かぶ。そうでもしなければ自分の研究から一時でも手を離すまい。

 一筋縄ではいかなかったものの、そうして一早くから導力技術を取り入れたパルムの紡績業。その苦労と対価に見合うだけの効果を導力式紡績機は発揮した。

 

「その甲斐あってパルムの生産力は飛躍的に向上した。次第に製織や染色の工程も導力化してゆき紡績町の名に恥じぬ町として発展することができたのだよ」

 

 その発展の起点が、この紡績工場ということか。動力器が世に出ておよそ五十年。歴史の中で見れば短い期間ではあるが、その中で社会には多くの変化が起きた。急激な変遷の初期に建設され、また技術の進化に伴い姿を変えてきたことを考えれば、確かに歴史ある工場といって過言ではないだろう。

 

「ほー……その割には、駅の周りには古い建物が多かったな。あの辺りも工場にした方が合理的なんじゃねえのか?」

「まあ、そのあたりは住み分けというものだよ。導力化による生産力は確かに魅力だが、昔ながらの職人の手による商品にはまた別の価値がある。過去には意見の衝突もあったのだが……その話は別の機会にするとしよう」

 

 そういって言葉を区切るボリス子爵。気付けば、それなりの時間が経ってしまっていた。ティーカップも底を見せたことだし、そろそろ実習を始めた方がいいだろう。

 

「今日はもう昼も過ぎているからね。依頼は簡単なものだけ用意させてもらったよ」

 

 ドミニクの手から渡された封筒の中身を確かめる。入っていたのは一件の依頼のみ。彼の言葉通り、あまり難しい内容のものではなかった。

 

「郊外の養蚕家への届け物……これだけでいいんですか?」

「この時間から根を詰めてもらうのも酷な話だ。今日のところはその依頼をこなしながら、この町の様子を一通り見て回ってみたまえ」

 

 そういってボリス子爵は「勿論、明日からは頑張ってもらうがね」と茶目っ気のある笑みを浮かべた。

 なるほど、そういうことならお言葉に甘えることにしよう。ひとまずは頼まれた依頼を遂行し、その後は何か問題が起きていないかを見回りながらパルムの町を散策。これまでの苦労を考えれば気楽なものだ。

 

「それでは改めて、実習を開始させていただきます」

「うむ、どうか頑張ってくれたまえ」

 

 鷹揚に頷くボリス子爵に見送られ、トワたちは紡績工場を後にする。第一の目的地は、件の届け物が保管されているという駅の窓口。日が暮れる前には片付けてしまおうと、四人は手早く行動を開始するのだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「ぐおお……こ、腰が……」

「確かに難しくはなかったけど、単純な労力が……」

「あはは……二人ともお疲れ様」

 

 実習を開始して幾許か。もうしばらくしたら西の空に赤みが差してくる頃、トワたちは依頼を終えてパルムの町へと戻る道を歩いていた。

 郊外の養蚕家への届け物。その品は、列車の遅れで配送業者の集荷から漏れてしまった蚕の飼料であった。それなりに纏まった量なので重さも相応だ。運搬役の男子二人は腰に手を当てて苦悶の表情である。

 

「大袈裟だな。届け先で十分に休んだだろうに」

「うっせ。蚕がうにょうにょしているのを眺めていて気が休まるかよ」

 

 休憩がてらに養蚕場の見学などもさせてもらったのだが、どうやらクロウはお気に召さなかったらしい。蚕を眺めて癒されるというのも変わった趣味なので、彼の反応が普通ではあるのかもしれないけれど。

 気が休まったかは置いておくとして、見学自体はいい勉強になった。養蚕は人類史から見ても古くから行われてきたものだ。その様子を間近で見ることが出来たのは得難い経験に違いない。

 

「養蚕家の他にも色々とあるみたいだけど……普通の農家とかは少なそうなの」

 

 浮かび上がって周辺をきょろきょろと見まわしていたノイがそんなことを呟く。その言葉にトワは確かに、と頷いた。道中で郊外に広がる光景を眺めてきたが、それは他の町とは異なるものであったように思う。

 

「綿をはじめとした農園や、羊を飼育している牧場。どれも布類の原料になるものだね。工場だけじゃなくて、町全体が紡績業に関わっているみたい」

「うーん、食料品の供給とかはどうなっているんだろう?」

「輸送手段が発達したこの時世だからこそかもしれないね。鉄道を使えば他の町から仕入れるのも手間がかからない。いざとなれば温暖なリベールからの輸入に頼ることも出来そうだ」

 

 郊外に散らばる農作や畜産に関しても、紡績に用いる繊維の元となるものを中心に行われているようだ。紡績町の名の通り、町そのものが紡績業を中核に据えて成り立っていると思われる。

 では、食料品をはじめとした生活必需品はどのように賄っているのか。鉄道を介しての仕入れに頼っている――むしろ鉄道という安定した輸送手段が発達したからこそ、紡績業への特化が出来たのではないかというのがアンゼリカの意見だった。

 以前は食料品などに関しても自給自足していたのかもしれない。だが、その必要性が薄れたことで繊維類の生産に注力していったというのは十分に考えられるだろう。

 

「よっぽどオッサンの家がテコ入れしたんだろうな。そうでもなけりゃ、ここまで一つの産業に町が纏まっているなんてあり得ないぜ」

「そうだね。きっと色々な過程があってのことなんだろうけど」

 

 このような町が形成されるに至った経緯は気になるところだ。切っ掛けが導力革命の勃興、そして導力式紡績工場の建設にあるのは間違いないが、それ以降にも紆余曲折を経てのことだと考えられる。

 今日の実習が終了したら、ボリス子爵に改めて聞いてみるとしよう。ランチを共にできなかったのも相俟って、ディナーには何やら気合を入れているようだったし。

 

 気になったことをあれこれ話しているうちに、トワたちはパルムへと戻ってきていた。町に入る前にノイがいつも通りに姿を隠し、ひとまず依頼を完了した彼女たちは道端で足を止めて小休止とする。

 さて、これからどうしようか。

 クロウなどは腰の痛みを訴えていたが、これまで様々な難事を切り抜けてきたのだ。当然ながらこれくらいで音を上げるほど柔ではない。ボリス子爵のもとに報告に行くにはまだ早いだろう。

 予定していた通り、パルムの様子を見て回ってみるのが一番か。駅で荷物を受け取ってからすぐに郊外に出向いたので、まだまだ町の全容は掴み切れていない。早いところ土地勘を得るのに越したことはなかった。

 

「駅の方まで戻ってみようか。あの辺りが一番人の多そうな感じだったし」

「了解だ。ぐるりと回ってみるとしよう」

 

 昔ながらの職人が多く、露店も立ち並んでいる駅周辺。観光客や仕入れの商人なども行き交うそこが手始めとして最適だろう。人が多ければ多いほど、それだけ問題も起きやすいものだから。

 小休止を切り上げ、ぶらりと近くを見て回りながらも駅の方面へと向かう。ボリス子爵の気遣いのおかげで必須の依頼も手早く片付いたので、実質的には観光とさほど変わらない気楽なものであった。

 ところが、そんな気分は駅に近付いた辺りで薄れることになる。遠目に行く先の様子を認めたクロウが首を傾げた。

 

「……何だ? あの人だかり」

 

 何やら人が集まっていて、少々騒がしくなっている。露店で限定特価のセールが開始された――そういう明るい騒がしさではない。不安や動揺、そんな感情が見え隠れするものだった。

 眺めていても仕方がない。異常を発見してしまったからには状況を確認しなければ。

 観光気分とは早々に別れを告げ、気を引き締めて騒ぎの中心地へと進む。人だかりの間を縫って前に出ると、馴染みのある顔が目に入った。

 

「ボリスさん、何かあったんですか?」

「おお、トワ君たち! ちょうどいいところに戻ってきた」

 

 周りの人たちと話しながら難しい表情を浮かべていたボリス子爵。彼はトワたちの姿を見るなり、一筋の光明でも見出したかのように顔を明るくする。

 

「ちょうどいい、というと?」

「君たちに……おそらく、君たちにしか頼めないことがあってね。何はともあれ、まずはここを見てくれたまえ」

 

 そう言って指差すのは、駅の正面近くにある建物の二階。ベランダがある、一見して普通の家屋にしか見えないが、これが一体どうしたというのか。

 ふと、トワはそこで違和感を覚える。何かが足りないような、そんな感覚の出処を探って記憶をさかのぼる。パルムに着いた時、そして以来の荷物を受け取った時。その際に目にした光景と照らし合わせていく。

 

「……そういえばここ、染織物が飾ってあったような」

「ああ、確かに」

 

 トワの呟きにアンゼリカが手を打つ。思い返せば確かにそうだった。

 駅から出てきた人を迎え入れるかのように飾られていた大きな染織物。同じ類は露店でも目にすることが出来るが、それは町を代表するように一際美しく目に映るものだった。

 その染織物が、まるで抜け落ちてしまったかのように忽然と姿を消している。この騒ぎも、きっとそれが原因なのだろう。

 

「風にでも飛ばされちまったのか?」

「それならまだよかったのだがね……染織物があったところに、こんなものが残されていたのだよ」

「……カード、ですか?」

 

 ボリス子爵が差し出したのは、表面に『B』と刻印された一枚のカード。訝しみながら受け取ったそれを裏返すと、そこには短いメッセージが記されていた。

 

『若き有角の獅子たちよ、春を寿ぐ色彩は既に我が手中にあり。

解放せんとするならば、闇に葬られし真実の痕跡を辿るがいい。

第一の鍵は市内に。機械仕掛けの象徴、その心臓を暴け。

                        ――怪盗B』

 

「「「「…………」」」」

 

 なんだ、これ。

 メッセージを読んだ彼女たちの心中は概ね似たようなものであった。これまで色々と騒ぎには巻き込まれたり首を突っ込んだりしてきたが、こんな手合いは初めてだ。

 頭が痛い思いをしながらも、取りあえず書かれている内容を咀嚼する。回りくどい言い回しではあるが、これが意味するところは明確だ。

 

「えっと……犯行声明、ということでいいんですよね」

「うむ、まあ、そういうことなのだろう。まさかこんなことが起きるとは思いもしていなかったが……」

「怪盗B、か。近頃は耳にしなかったが、こうして目にすることになるとはね」

 

 何か知っている口ぶりのアンゼリカ。トワの視線から疑問を感じてか、彼女は言葉を続ける。

 

「美の解放と称して、帝国を中心に窃盗行為を働いている賊のことだよ。これがまた鮮やかな手際らしくてね……以前には戦車を丸ごと盗んでいったそうだ」

「せ、戦車を……?」

 

 盗みというにはあまりにスケールの大きい話に唖然としてしまう。どうやったらそんなものを盗み出せるのか……いや、そもそもどうして戦車などを盗んだのか。

 どうも色々と理解の及ばない手合いのようだ。ひとまず考えるのは後にして、再び手元のカードに目を落とす。

 

「で、これがその怪盗Bからの挑戦状ってところか。話に聞く通りのけったいな野郎だぜ」

「『若き有角の獅子たち』……これは僕たちのことを指していると思っていいのかな」

「おそらく、そうだろう。それに『春を寿ぐ色彩』、これは盗まれた染織物のことで間違いなかろう。あれは春の染め物で優勝したものだったからね」

 

 理由は分からないが、相手は自分たちをご指名のようだ。傍迷惑極まりないとはいえ、無視するわけにもいかないだろう。盗まれた染織物もパルムにとっては価値ある一品だったようで、それは周囲の不安げな群衆からも察せられた。

 トワは仲間たちの目を見まわす。言葉にせずとも、答えは返ってきた。迷うことなく頷いた三人とも、気持ちはトワと同じだった。放っておくことはできない。それに、こんなふざけたことをやらかす怪盗とやらを座視するつもりもなかった。

 

「状況は分かりました。怪盗Bが何を企んでいるかは分かりませんけれど、盗まれたものを取り返すためにも、この挑戦を受けてみます」

「うむ、ありがとう……何が待っているか分からん。くれぐれも気を付けて事に当たってくれたまえよ」

 

 挑戦状に記された『闇に葬られた真実の痕跡を辿るがいい』という文句。意味するところは判然としないが、まず一筋縄ではいかないと思われる。ボリス子爵の懸念も尤もと言えた。

 だが、トワたちも無駄に荒事に身を投じてきたわけではない。よほどの事態でもない限り切り抜ける自信を持ち、そう思えるだけの実力は身に着けてきた。

 だから笑顔で頷いてみせる。それを見て緊張気味だったボリス子爵の気も和らいだようだ。彼もまた、いつもよりぎこちないながらも頬を緩めるのだった。

 

「さて、と。今のところはこの謎かけだけが手がかりなわけだが……目撃者などはいないのですか?」

 

 早速、事に当たろうということで、まずは犯行時の状況を確かめることにする。広場の目の前で野出来事だ。当然、人通りもあったはず。誰かの目についていてもおかしくない。

 そう思ったのだが、聞かれたボリス子爵は難しい顔だ。

 

「私も同じことを考えていたのだが……ああ、ちょうど戻って来たね」

「――工場長!」

 

 言葉を区切ってボリス子爵が目を向けた先を追うと、秘書のドミニクが小走りに駆け寄ってくるところだった。彼は少し乱れた息を整えると、不本意そうな表情を浮かべながら首を横に振った。

 

「やはり駄目です。一通り聞いて回ってみましたが、盗まれたところを目撃した人はいないようです」

 

 聞き込みをしてきた様子のドミニクからの報告に驚きを覚える。まさか、本当にこんな真昼間の人通りの中で目を盗み切ったというのか。

 いったいどうやって、と思ったところでドミニクの言葉が続く。彼も気になったのか、それなりに詳しく話を聞いてきたようだ。

 

「旅芸人に気を取られていたとか、大きな音が鳴ったのが聞こえたとか……どれが怪盗Bの仕込みかは分かりませんが、どうやってか意識を逸らしている間に盗んでいったようです」

「ミスディレクションってやつか。随分とまあ、大胆な真似をするもんだ」

 

 呆れ半分、感心半分な様子でクロウがため息をつく。戦車すらも盗んだというその腕前に偽りはないらしい。

 この様子では現場をいくら探し回ったところで手掛かりになるようなものは出てこないだろう。そこいらの盗人とはわけが違う。

 となると、残されたのはメッセージに記された謎かけのみ。仕方がない。こうなったからには相手の思惑に乗ってやるのみだ。

 

「『機械仕掛けの象徴、その心臓を暴け』か……町中のどこかではあるようだけど」

「無暗に動いても時間を浪費するだけだね。しっかり考えて、当たりをつけていくことにしよう」

 

 幸い、頭を使うのは得意な方だ。古典的な謎かけを前に、その言葉が意味するところに考えを巡らせていく。

 初日から奇妙なことになってきたパルムの実習。何はともあれ、これも依頼の領分には違いない。まずは一つ目の答えと思しき場所を目指して、トワたちは足を進めるのだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「パルムといえば紡績業。その機械仕掛けの象徴といえば――これだよね」

「導力式の紡績機、か。確かに筋は通っているね」

 

 一応の聞き込みは続けてみるというボリス子爵とドミニクと別れ、トワたちがたどり着いたのは町の中で最も大きな建物。導力革命の黎明期から操業を続ける紡績工場だった。

 怪盗Bからの挑戦に書かれていた一つ目の鍵。機械仕掛けの象徴と称されるそれは、この唸り声をあげて稼働する紡績機のことで間違いないだろう。パルムの特徴から鑑みて、トワ以外も異論はない答えだ。

 

「うーむ……しかし、本当にこんなところに手掛かりがあるのか?」

「おそらくは。導力器の心臓といったら、その駆動部分に他なりませんから」

 

 半信半疑といった様子で首を傾げているのは、工場を案内してくれた現場監督のおじさんである。工場長であるボリス子爵とは長い付き合いらしく、事情を話したら快く協力してくれた。

 そんな彼に案内してもらったのは、この紡績機の心臓部――導力を供給する駆動部分だ。本体ケーシングの一部を取り外し、導力の光で薄ぼんやりと明るい空間に頭を突っ込んでいるジョルジュがくぐもった声で応じる。『その心臓を暴け』、導力器の心臓といったらここしかないだろうと。

 下手をして壊してしまったら一大事になる代物だ。導力器に強いジョルジュに任せ、他の三人は手を出さないでいた。それゆえ暇を持て余した様子で工場をうろうろしていたクロウは、ふとした拍子に口を開く。

 

「最初にチラッと見たときも思ったが、建物が古いわりに設備は新しいのな。工程も殆ど自動化されているしよ」

 

 それはトワたちも思っていたことだ。案内される道中で工場の様子も見させてもらったが、この最新鋭の紡績機は相応の性能を有しているらしい。

 原料である繊維が伸ばされ、糸として寄られていく。その過程の大半がライン上で自動化されており、人の手が入る機会はそれほど多くないようだ。田舎の出であるトワにとっては新鮮極まる光景である。

 

「今でこそこんな感じだが、最初の頃は大変だったよ。導力で動くようになったといっても、作業には人手が必要だ。皆で横並びになって、せっせと糸を寄って……今は今で導力器の知識が必要で大変だけどな」

 

 あっはっは、と闊達に笑う現場監督。そこには昔を懐かしむ色があった。

 操業当初の紡績機はまだまだ人力に頼る部分も多く、それだけに多くの作業員が従事していたようだ。この人もそのうちの一人ということか。それが今や生産現場の責任者とは、まさに叩き上げである。

 

「随分とお若い頃から働いていたんですね。そんなに人手が必要とされていたんですか?」

「うん? ボリスからそういう話は聞いていないのか?」

 

 見た感じ、年齢は六十に差し掛かるかどうかといったところ。この工場が導力革命の初期に操業を始めたことを考えれば、少なくとも十代のはじめから就労していたことになる。

 年少から働いていることは必ずしもあり得ないことではない。地域の特性や、それこそ個々の家庭環境によっては子供の時分からミラを稼ぐ必要もある。そういった意味では珍しい話ではないと思う。

 だからそれは純粋な興味本位からくる質問だったのだが、対する相手の反応は妙なものだった。どうしてそこでボリス子爵の名前が出てくるのか。トワたちは揃って首を傾げる。

 

「あー……まあ、いいか。隠す話でもない」

 

 彼女たちの様子から察した現場責任者の彼は、そう前置いて口を開いた。

 

「この工場はな、操業を始めてからしばらくして労働問題が起きたんだ」

「労働問題……ですか?」

「導力化して上がった生産力に子爵家が欲をかいたのさ。大人だけじゃなく俺みたいな子供だった奴も駆り出されて、朝から晩まで働き通しだったよ」

 

 思わず表情が曇る。今は見えないが、きっとジョルジュも同じだったろう。それは技術の進歩がもたらした業であった。

 導力化によって大量生産という武器を得たダムマイアー子爵家は躍進の時を迎えたのだろう。その好機を逃すまいと更なる生産量の向上を目指そうとしたのは分かる。

 だが、そのための手段が平民の酷使という形になってしまったのは悪手であり、悪い意味で貴族的なものであった。アンゼリカも苦虫を噛み潰したような顔になろうというものだ。

 

「工場だけじゃない。郊外の綿農園とかも酷い状況でな……こりゃもう女神様に召されちまうかも、と思っていたところで立ち上がってくれたのがボリスだった」

「は? どうしてそこでボリスのオッサンが出てくるんだよ」

 

 クロウの疑問は当然だった。確かにボリス子爵は変わり者ではあるが、それでもダムマイアー子爵家の人間であることに違いはない。立場からして労働者側に味方するのはおかしく思えた。

 そんな疑問に彼はくつくつと喉を鳴らす。当然のことだとは分かっていても、実情を知っている身としてはどうにも可笑しく感じてしまったからだ。

 

「あいつは妾腹の子なんだ。貴族としての教育は受けちゃいたが、専ら俺たちみたいな平民の子供と泥だらけになって遊ぶのが常でな。実家の横暴を見かねたあいつは、十の半ばくらいの身で反旗を翻した」

 

 それは初耳だった。本人から元は傍流だと聞き及んではいたものの、母親が妾とまでは思わずにいたトワたちは驚きを覚えずにはいられない。

 一般的に妾腹の子というのは扱いが悪くなりがちだ。正妻に子がいるなら次の当主の座は余程のことがない限りそちらに与えられる上、血統主義的な貴族からは半分は平民の血と見下されることもあるという。

 そうした身の上に生まれたボリス子爵は平民に近しい生活を送っていたようだ。思えば、目の前の彼も先ほどから親し気に呼び捨てている。あの平民気質な性格は生まれと生活環境が培ったものだったということか。

 

「工場労働者は勿論、農園の奴らや燻っていた職人連中まで纏め上げて、子爵家に労働環境の改善を訴えた。最終的には七耀教会を味方につけて、工場の運営権をもぎ取る形で決着がついたってわけだ」

「なるほど、工場長の名はその頃からのものということですか」

 

 秘書であるドミニクがそうであるように、パルムの人々は領主であるボリス子爵を『工場長』と呼ぶことが多い。それも納得のいく話だ。劣悪な労働環境を打破せんと、人々の先頭に立って実家と戦った末に得た肩書。ボリス子爵に助けられた人からすれば『英雄』の代名詞に等しい。

 それにしても、と思わず頬を緩めてしまう。若かりし頃のボリス子爵の話は間違いなく立派なものであったが、それだけに可笑しく感じるものがあった。

 

「ふふ……失礼ですけど、ちょっと今からは想像できませんね」

「違いねえ。あの釣りバカなオッサンにそんな熱いところがあったなんて知らなかったぜ」

 

 どこか惚けたところがあるボリス子爵。彼が義憤を胸に平民の為に戦ったと聞いても、今の丸々とした狸っぽい姿からは繋げ辛い。失礼ながら、ついつい笑ってしまうくらいには。

 もしかしたら、本人も自覚しているだけに恥ずかしくて言い出さなかったのかもしれない。そんな推測を口にしてみると、彼の旧友からは「後で精々からかってやってくれ」といい笑顔で言われた。付き合いが長いだけに遠慮がない。

 

「話の切りがいいところで、こっちもようやく見つかったよ。稼働中の導力器のカバーの裏になんて、どうやって仕込んだのやら……」

 

 こちらに耳は傾けつつも、怪盗Bが残した手掛かりを探していたジョルジュがのっそりと顔を上げる。少しばかり油汚れのついた彼の手には一枚のカードが。最初に見つけたものと同じメッセージが記されたものである。

 

『若き有角の獅子たちよ、汝らが捜し求むるは未だ遠し。

第二の鍵は郊外に。過ぎ去りし栄華の焼け跡を探れ』

 

「――以上が次のヒントみたいだね」

「次は郊外か。市内だけで終わらせてくれないとは、噂の怪盗殿は思っていた以上にアグレッシブなようだ」

 

 呆れた様子で肩を竦めるアンゼリカの言うことも尤もだ。しかしながら、盗まれたものを取り返すためにはメッセージの謎を解き明かすほかにないのも確か。今しばらくはこの挑戦に付き合うしかない。

 さて、と頭を切り替える。次のヒントは『過ぎ去りし栄華の焼け跡』。過ぎ去りし栄華、というのが何を指すかは分からないが、焼け跡というのは比較的単純だ。余程ひねくれた表現ではない限り、言葉通りに何かが燃えた痕跡のことを意味していると思われる。

 

「焼け跡ねえ……このあたりで昔にデカい火事とかなかったか?」

「郊外で火事か。そりゃ、たまに火の不始末で農家が火事を起こしたりとかは聞くが……いや、もしかしたら……」

 

 地元の人間なら何か心当たりはないかと問い掛けられた彼は、不意に言葉を濁らせると難しい顔つきになった。不思議そうに目を向けるトワたちに、彼はどこか言葉を選ぶように続きを口にする。

 

「……その『過ぎ去りし栄華』っていうのに思い当たるものはある。パルムの人間はあんまり近付きたがらない場所なんだが」

「何か危険でもあるんですか?」

「そういうわけじゃない。ただ、気持ちの問題でな……場所を教えよう。行ってみるといい」

 

 どこか煮え切らない様子の彼に疑問を覚えつつも、トワは手帳を開いてその心当たりの場所を聞いた通りに書き記す。そして、かつてそこに在ったというものの名も。

 パルムの人たちにとって、この行く先はどういう意味を持っているのだろうか。その真意を測りかねながらも、四人は郊外へと足を向けた。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「……ここか」

「なんて言うか……寂しい場所だね」

 

 パルムから歩いて十数分ほど。さして離れていない位置にそれはあった。

 元は大きな建物があったのだろう。敷地を区切る石垣は広い範囲にわたって築かれている。四大名門の屋敷と比べれば流石に見劣りするが、それでもかなり立派なものであったことは想像に難くない。

 だが、今やその石垣は大半が崩れ、黒く焼け焦げていた。敷地内も所々に雑草が生えた地面を晒しており、炭化しながらもわずかに残った土台や骨組みだけが、かつてそこにあった栄華を示している。

 ダムマイアー子爵家の屋敷、その焼け跡はそんな無残な有り様を晒していた。

 

「随分と酷い火事だったようだね。ものの見事に全焼だ」

「普通ならこうなる前に消し止めるはずだけどね。まして領主の屋敷だったっていうのに……」

 

 領主の屋敷には単に財産だけが収められていたわけではあるまい。領民や税の管理のための行政文書などもあったはず。私的にも公的にも重大であるだけに、大火事になるほど杜撰な管理状況だったとは思えない。

 けれど、目の前に広がるのは黒焦げた焼け跡のみ。何があったのかは分からない。ただ事実として、かつてのダムマイアー子爵家の屋敷は炎の中に消え去っていた。

 

「考えていても仕方がないね。取りあえず、怪盗Bの手掛かりを探してみよう」

 

 いったい、この地で過去に何があったのか。

 気にならないといえば嘘になる。とはいえ、今は気にしてもどうしようもないことでもあった。まずは本来の目的を果たそうと促せば、三人も頷いて周囲の捜索を始めようとする。

 

「――君たち、こんなところでどうしたんだい?」

 

 不意に、そんな彼女たちの背中に声がかけられた。振り返ると、そこには見知った青年の姿が。ボリス子爵の秘書、ドミニクが若干驚いた様子で佇んでいた。

 

「ここはあまり人が寄り付かないから、君たちが来るなんて思いもしなかったよ」

「まあ、こんな時でもなければ来なかったでしょうね。実は――」

 

 意外であったと口にする彼に、いったん別れてからの経緯を説明する。二枚目のカードを発見したこと、そこに記されていた『過ぎ去りし栄華の燃え跡』というヒント、そして現場責任者のおじさんの心当たりに従ってここに来たこと。

 一通りの説明を聞いたドミニクは顔を顰めた。振り回してくれる怪盗Bに対する不快感は当然あっただろう。しかし、その苦々しさは傍迷惑な真似からくるものばかりではなさそうだった。

 

「少し目を離している間にそんなことが起きていたなんてね……それにしても、怪盗Bというのは随分と趣味が悪いらしい」

「……?」

 

 トワはその言葉に何か引っかかりを覚えた。具体的には言えないが、何か違和感があるような――そんな感覚を掴み切れないうちに、ドミニクは言葉を続ける。趣味が悪いと評した、その意味を。

 

「見て分かると思うが、この屋敷を燃やし尽くした火事は普通ではなかったんだ」

「その……普通ではない、というと?」

「当時、この屋敷に住んでいたダムマイアー子爵家の人間はその火事で亡くなった――これだけ規模の屋敷にもかかわらず、使用人の一人さえも残らずにね」

 

 険しい面持ちのままドミニクの口から語られた事実に、トワたちは顔が強張る。その意味するところに察しがついてしまったのだ。

 屋敷に出入り口が一つしかなかったというわけでもあるまい。いざとなれば窓からでも逃げられる。それなのに誰一人として燃える屋敷から逃げることが出来なかったというのは異常に過ぎた。

 考えられる可能性があるとすれば――火事が起きる前に、屋敷の中で既に何か(・・)があったということになるだろう。

 

「十年ほど前の、人が寝静まった夜半のことさ。火事の知らせは来ず、真っ黒な空を照らす炎でようやく気付いた頃には手遅れだった。時の領主諸共、屋敷は火の中に消えたんだ」

 

 十年前。《百日戦役》の直後といったところだろうか。突発的な開戦、予想さえしていなかったリベールの反撃、そして開戦と同じく息つく間もなく結ばれた停戦協定。帝国内も混乱していた時期だ。平時ならば取り沙汰されただろう凄惨な火事も、世間の荒波に揉み消されてしまったのかもしれない。

 

「そうしてダムマイアー子爵家は工場長が継ぐことになった。君たちも聞いた労働問題の件以来、あの人は屋敷の敷居を跨ぐことがなかったからね……勘当同然の妾腹の子が運に恵まれただけとか、好き勝手に言われる所以だよ」

「……事情を知らないとしても、気持ちのいい話ではないですね」

 

 アンゼリカが露骨に嫌悪感を示す。表に出さずとも、気持ちはトワも同じだ。

 以前に傍流ながら当主を継いだ理由を、ボリス子爵は「色々あって」と言っていた。確かに簡単には説明できない、複雑怪奇な出来事の末の帰結だ。

 降ってわいた当主の座に、彼はきっと並々ならぬ苦労をしたに違いない。領地運営にはまるで関わっていなかったので勝手は分からず、ノウハウを持った人間は既に女神のもとに旅立っている。加えて工場長の職務も両立しなければならない。今の状態にまでよく立て直せたものだと感心するくらいだ。

 それに同情するならともかく、訳も知らずに嘲笑うのは不快としか言いようがない。そんな心無い人がいるという事実が残念でならなかった。

 

「知ってかどうかは分からないが、こんな曰く付きの場所を指定してくるんだ。趣味が悪いとしか言えないだろう?」

「そりゃ同感だ。手っ取り早く次の手掛かりを探しておさらばするとしようぜ」

 

 パルムの人があまり寄り付かないという理由も分かる気がする。単に不幸な出来事で亡くなってしまったのならまだしも、明確な根拠はなくとも謀殺の気配を感じる火事だ。足が遠のいてしまうのも仕方がないだろう。

 ボリス子爵が屋敷を立て直さないのも、こんな出来事があったからなのかもしれない。怪盗Bの痕跡を探しながらもトワは漠然とそう思った。

 ふと、そこで疑問がよぎる。気になった彼女は一緒に探してくれているドミニクの方に顔を向けた。

 

「そういえば、ドミニクさんの方はどうしてここに?」

「ああ……そうだね、少し感傷に浸りに来たといったところかな」

 

 要領を得ない返事だ。彼自身が言っていた通り、用事もなければ立ち寄らない場所であるだけに、何か理由でもあるのかと思ったのだが。

 

「この屋敷には僕も縁があってね。墓は別にあるのだけど……たまにふらりと足が向いてしまうんだ」

 

 そう口にするドミニクは淡い笑みを浮かべていた。まるで、戻ることのない過去に思いを馳せるように。

 失言を自覚したトワは申し訳なさから眉尻が下がる。具体的に何があったと聞いたわけではないが、何となく察しはついてしまう。火事で諸共に亡くなった使用人の内に、ドミニクの家族もいたのかもしれない。

 

「その、すみません。立ち入ったことを聞いてしまって……」

「気にしないでくれ、昔の話さ。工場長にもよくしてもらって、今は仕事も任せてもらえているし……あまり好き勝手するのは自重してほしいところだけど」

 

 肩を竦めたドミニクに乾いた笑みが漏れる。同時に納得もしていた。ボリス子爵と秘書ドミニク、二人の関係は主従としては近しいものに感じていたが、それも彼らの過去に起因するようだ。

 基本的に自由人なボリス子爵に振り回されている感はあるものの、感謝の念と憎めなさがあるのも確かなのだろう。苦言しながら、そこには薄っすらと笑みが浮かんでいた。

 

「今更になって変わるものでもないでしょうし、諦めた方が建設的だと思いますけどね。それよりほら、見つけたよ」

 

 負けず劣らずに自由人なアンゼリカが、無責任なことを口にしながらも片手を掲げる。そこには先ほどと同じ怪盗Bのカードが。どうやら崩れ残った石垣に張り付いていたらしい。

 どれどれ、と内容を検める。あまり難解なものは勘弁願いたいが。

 

『既に扉は開かれた。春を寿ぐ色彩は南の街道に。

封じられし真実、その入り口を見上げよ』

 

「……どうやら次で最後のようだけど」

「これまた意味が分からんというか、解かせる気があるのか?」

 

 南の街道というのはそのままの意味だろう。段々と市内から遠くなっているが、それは別に構わない。

 問題は『封じられし真実』というもの。これに関してはさっぱりだった。この近辺については土地勘がないだけに推察するのが難しい。実際に赴けば分かるものならいいのだが、あまり楽観的に考えない方がいいだろう。

 何か取っ掛かりになる情報がなければ虱潰しになる。日が暮れる前に片付けるためにも、それは避けたいところだ。

 急がば回れ。自分たちで目途が立てられない以上は、町の人に聞き込んで当たりをつけてからの方が手っ取り早いはず。少なくとも、何かしら鍵になる情報は手に入れられると思われた。

 

「ドミニクさん、何か心当たりとかは――」

「いや」

 

 だから手始めにドミニクに話を聞こうとして――切り捨てるような否定に、言葉を詰まらせた。

 小さいながら柔らかい笑みがあった表情が、すとんと抜け落ちてしまったように冷え固まっている。突如とした彼の豹変に動揺し、トワたちは動きを鈍らせてしまう。

 

「悪いけど、私には思い当たるところはないな……まだ仕事があるから、そろそろ失礼するよ。難しいかもしれないが、頑張ってくれ」

「あ……いえ、お疲れ様です」

 

 言うなり背を向けるドミニクを引き留めることはできなかった。気圧されたのもそうだが、有無を言わせない雰囲気を纏う彼に何を聞いたところで無駄に終わったことだろう。

 このカードの内容が何を思わせたかは分からない。声は平坦で、凍り付いたような無表情から内心を推し量ることは難しかった。

 

「――まったく、本当に趣味が悪い」

 

 だが、最後に漏れ聞こえた呟きには色濃い感情があった。忌々し気に、憎しみすら感じさせる、そんな黒く淀んだ感情が。

 足早に去っていくドミニク。彼がどんな顔をしているのか、トワたちからは分からなかった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「……おい、いくら何でも変じゃねえか」

 

 端が赤く染まり始めた空の下でクロウが訝しさを露に口にした。それを否定する言葉をトワは持たない。彼女自身、言い知れない違和感を抱いていたのだから。

 一旦、情報収集に戻ってきたパルムの市内。怪盗Bの残した手掛かりに何か心当たりがないかと聞いて回っているのだが、今のところ目ぼしい成果は上がっていない。

 いや、成果は上がっていなくとも、分かったことはあった。この『隠された真実』とやらが余程の厄ネタであることくらいは。

 

「本当に知らなそうな子供ともかく、大人たちは聞いても苦い顔をして素知らぬふり。あれでは何か知っていると喧伝しているようなものだと思うがね」

「それでも口を噤む理由があるんだと思う。ドミニクさんも様子がおかしかったし……」

 

 話を聞いたパルムの人々の反応は一様であった。顔を重苦しく曇らせ、申し訳なさそうに首を横に振るのみ。とある老婆は酷く哀しそうな様子で礼拝堂へと歩いて行った。何を祈るのか、トワたちにそれを窺い知る術はない。

 

「しかし参ったな。これじゃ手詰まりだ。どうにか情報が欲しいけど、無理矢理聞き出すわけにもいかないからなぁ」

『もう街道に出て探した方が早いんじゃないの? 聞いた人が皆あんな様子だと、あんまり期待できないの』

 

 この様子だとパルムの人から情報が得られる見込みは薄い。揃いも揃って口を閉ざしているのだ。のっぴきならない事情があるのは間違いないだろう。

 こんなものを最後の謎かけにしてくれた怪盗Bには恨み言を口にしたい気分だ。全くもって面倒くさい真似をしてくれる。何が狙いかは知らないが、明らかに不穏だと分かるものを指定してくれなくてもいいだろうに。

 ノイの意見にも一理あって、仕方なく街道方面に足を向けようとする。夜が更けないうちに見つかればいいな。諦め調子でそんなことを考えていた彼女たちに声が掛かった。

 

「ねえ、ちょっといいかしら?」

 

 可愛らしい声だった。難しい顔をしていたトワたちの雰囲気にそぐわぬそれに、何だろうと振り返る。

 目に入ったのは菫色の髪。白を基調とし、フリルがあしらわれた服に身を包んだその少女は、見た目からは十二、三歳程度のように思える。しかし、その金色の瞳には幼さに見合わない深い知性が宿っているようにも感じられた。

 

「えっと、私たちのことかな」

「そうよ、小さいお姉さん。なんだか困っているようだから気になったの」

 

 なんだか得体の知れない少女から返ってきた言葉に苦笑いが浮かぶ。小さい子に小さいお姉さんと呼ばれるのは妙な気分だった。

 

「お気遣いありがとう、菫色のお嬢さん。でも、すまないね。手伝ってもらいたいのは山々だが、付き合わせるには面倒が過ぎる案件でね――」

 

 屈んで目線を合わせたアンゼリカが少女に語り掛ける。もう遅い時間だ。やんわりと帰らせようとしたのだろう。年少の子に対する当然の判断。口説き口調なのはアンゼリカだから仕方がない。

 しかし、彼女の思惑は当の少女の手で覆される。

 

「知っているわ。意地悪な怪盗さんからの最後の謎かけが解けなくて困っているんでしょう?」

「……!」

 

 生憎と少女は普通の子供ではないようだった。トワたちの頭を悩ます難題をピタリと言い当てられては理解せざるを得ない。

 聞き込んだ人にトワたちの用件を尋ねてきたのだろうかと思いもした。だが、それは違うとすぐに分かってしまう。確かに聞き込みする際に多少の事情は説明したが、わざわざこれが「最後の謎かけ」とまでは口にしていない。

 知り得るはずのないことを、いとも当然のように知っている少女。見る目が少し険しいものに変わってしまうのは避けられなかった。

 

「……なるほど、どうやらただの嬢ちゃんじゃないみてえだな。それで? 断ったら悪戯でも仕掛けてくるのかよ」

「うふふ、別に取って食うようなことはしないわ。ただ、物のついでと思っての気紛れ。信じるかどうかはお兄さんたちの自由よ」

 

 そんな視線をものともせずに少女はクスクスと笑う。幼い女の子というには蠱惑的すぎるそれは、もうませているとか可愛らしい次元に収まるものではないように思える。

 

「『隠された真実』――レンもそこに用事があるの。その気があるのなら、一緒についてきてもいいわ」

 

 菫色の髪を揺らし、少女――レンと名乗った彼女は、トワたちの脇を通り抜けて街道へと足を進めていってしまう。四人は目を見合わせるが、答えなど最初から一つしか用意されていないようなものだ。揃って溜息を吐くと、先導する小さい背中を追っていく。

 この行く先に何が待っているのやら。後をついてくるトワたちの姿に、仔猫は頬に怪しく弧を描いていた。

 



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第46話 迷子

閃Ⅳが休日にしか進められないからクリアが遠い。(現在Ⅰ部ラクウェル)

巷では既にエンディングを迎えた方々も多くいそうですが、感想欄でのネタバレは勘弁してください。思わせぶりなことを言って私を焦れさせるくらいはセーフです。



 陽が傾き、街道に五つの影を伸ばしていく。並んで歩くそれらの中で、先頭を行くのは中でも一回り小さいものだ――まあ、小さい影はもう一つあるのだが。

 レンと名乗った怪しげな少女に導かれて街道を進むことしばらく。南の隣国リベールにはまだまだ遠いものの、パルムからそれなりに歩いたところだ。一見、小柄な女の子であるレンは息を乱している様子もない。揺れる菫色の後ろ髪を眺めながら、やっぱり普通の子じゃないんだな、とトワは思った。

 道中での会話は疎らだ。お互いに様子を見るように一つ、二つくらいの言葉を交わしたくらい。「お姉さんたち、運がないわね。ブルブランに目をつけられちゃって」とは目の前の少女の弁である。怪しさが増して余計に口を開きづらくなったのは否めない。

 ただ、いつまでも黙っていてはいけないだろう。大切な友達から頼まれたこともある。意を決し、トワはその背中に声を掛けた。

 

「ねえ、レンちゃん。エステルちゃんとヨシュア君とは喧嘩でもしているのかな?」

 

 ピタリ、とレンの足が止まる。顔だけ振り返った彼女は警戒する猫のようだった。

 

「……小さいお姉さん、エステルたちと知り合いなのかしら?」

「じゃあ、レンちゃんもエステルちゃんたちとの知り合いなんだね」

 

 そう微笑み返すと嫌な顔をしてそっぽを向かれてしまった。どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。歳相応な面もあるようで何よりだ。背中からの「大人気ねぇ」という声は聞かなかったことにしよう。

 彼女がエステルたちから探してほしいと頼まれた件の少女であると察するのは難しいことではなかった。菫色の髪、レンという名前。それらの条件の一致に加えて、この只者ではない雰囲気だ。むしろ彼女がその探し人ではないと思う方が難しい。

 

「ブルブランに絡まれているからって声を掛けるんじゃなかったわ。運が悪いのはレンも同じだったみたい」

「フッ、私としては君のような可憐な子と出会いに女神へ感謝せずにはいられないよ。今だったらそのブルブラン――察するに、怪盗Bのことかな。彼に感謝してもいいね」

「いやぁ、僕はそこまで簡単に手のひら返せないけどね」

 

 今の反応で分かったことがある。少なくとも、レンはつい正直に口を開いてしまうくらいにはエステルたちを意識しているということだ。歳に似合わない知性を有している様子の彼女なら誤魔化すこともできたはず。そうしなかったのは、そういうことだろう。

 ため息交じりにぼやいたレンは、アンゼリカとジョルジュの漫才染みたやり取りに薄い笑みを浮かべた。再び歩みを進めながらも彼女は口を開く。

 

「そっちのお姉さんはブルブランとも仲良くできそうね。それとも、あの旅の音楽家さんとの方が相性がいいかしら?」

「オーケー、取りあえずその二人が変人だってことは理解したぜ」

 

 こいつ(アンゼリカ)と気が合うとそれはイコールである。迷うことなく断定したクロウにレンは考えの読めない笑みを浮かべるばかりだ。

 ともあれ、少しは毒気を抜かれてくれたようだ。不機嫌さを腹の内に収めてくれた彼女は流し目でトワを見る。

 

「それで? エステルたちに私を捕まえるのを手伝ってほしいとでも言われたの?」

「うーん……探してほしいとは頼まれたけど、捕まえる気はないかな」

「ふぅん?」

 

 興味をひかれたようにレンの顔がこちらを向く。本当に猫みたいだ。

 バリアハートの別れ際には、見つけたらエステルたちの元へ送り届けるつもりではあった。素性はどうあれ、まだ幼い子供であることには違いない。当てもなく彷徨うより、ちゃんとした人に保護してもらった方がよいという一般的な見解があった。

 しかし、実際に会ってその考えは変わった。そもそも自分たちに捕まえられるか怪しい。外見上は可憐な少女であっても、そう思わされる底の知れなさがレンにはあった。

 きっと姿を晦まそうと思えば、あっさりと目の前から消えてしまうのだろう。彼女がここにいるのは単純な興味と気紛れに他ならない。今となってエステルとヨシュアの苦労が偲ばれる。

 

「レンちゃんが素直に捕まってくれなさそうっていうのもあるし……たぶん、私たちがするべきことじゃないと思うから」

 

 何より、自分たちが手を出すのは違うような気がした。レンに出会って、仔猫のように気紛れでつかみ所のない彼女を知って――その瞳の奥に感じるところがあったからこそ、トワはそう思うのだ。

 

「人の手で決められるんじゃない。たくさん迷って、その先の答えをレンちゃん自身が見つけることが大事なんだと思う。私からどうこうするつもりはないよ」

「――――」

 

 一目見てその癖の強さを理解すると共に、その奥底に不安と迷いが感じ取れた。それこそ、帰り道が分からなくなってしまった仔猫のような。

 それは直感にすぎない。当てずっぽうな推測を口にするのは相手を不快にするだけだろうし、実際にレンはまた機嫌を損ねて眉をしかめている。

 それでも言わずにはいられなかった。トワ自身にも思うところがあったからこそ、目の前の少女に嫌われても言っておきたかったのだ。

 

「分かったような口を利くのね。レンの何を知っているの?」

「知らないよ。レンちゃんにどんな過去があって、どうして今があるのか何も知らない。でも、あなたが何かに迷っていることは分かると思う」

 

 ――だって、私と同じ目をしていたから。

 人ならざる力から拒絶され、恐怖と迷いを抱いてしまった自分。進むべき道を見失い、生まれ持った力の重さに押し潰されそうになっていた自身の過去と、この少女をトワは重ねていた。

 真っ直ぐに見つめるトワの真摯な目にレンは視線を逸らした。それは、彼女自身に心当たるものがあったからだろうか。

 

「元居た場所に帰るでもなく、受け入れてくれる人たちに身を寄せることもしないで、一人でいるのは心に残されたしこりがあるから。けど、どうしたらいいか分からない――違う?」

「……さあ、どうかしら」

 

 否定はなかった。当たらずとも遠からずということだろう。

 彼女が何に迷っているかまでは分からないし、それを詮索しようとまでは思わない。ただ、その迷いを晴らす一助になれば。そう願い、トワはレンに経験からの助言を送る。

 

「迷ったままでもいいんだ。それでも勇気を出して進んでいった先に答えはあるんだと思う。きっとレンちゃんのことを助けてくれる人がそこにいるはずだよ」

 

 残され島を飛び出した自分が、掛け替えのない仲間たちと出会えたように。レンにもそんな出会いがあることをトワは願い、信じていた。

 レンがチラリと視線を戻して目を覗いてくる。そこから何を感じ取ったのか。彼女は深々と呆れた溜息を吐いた。

 

「エステルと仲良くなれた理由がよく分かったわ。底抜けのお人好し同士、気が合ったんでしょうね」

「全くもってその通り。下手に関わっちまったのが運の尽きだぜ」

「あら、お兄さんとはなんだか話が合いそうね」

 

 クロウが神妙に頷いているのはどういうことなのか。なんだか釈然としないものを感じるが、お人好しなのは自覚するところなので否定できないのが辛いところである。

 妙なシンパシーを感じていた様子のレンが「でも、そうね」と言葉を区切る。手前勝手なことを言ってしまったと思うが、意外と彼女の表情は穏やかだった。

 

「お姉さんの話、参考程度には覚えておくわ。そんな都合のいい出会いがあるかは分からないけれど」

「あはは……そうしてくれたら嬉しいかな」

 

 話半分でも聞いてくれたのであれば上出来だろう。レンがこれからどんな未来を選ぶのか。それは彼女自身の選択と、彼女と関わる人たちが紡ぐもの。自分の言葉が少しでも善き未来への後押しになれたのなら満足だった。

 

「あ、でもレンちゃん。ご飯はちゃんと食べられている? 食事のバランスが悪いと身体に悪いし、ミラだってかかるし……」

「むむ、それは確かに問題だ。どうだいレン君、しばらくは私のもとで養われてみるというのは」

「何か急に俗物的な話に……取りあえずアン、未成年略取は犯罪だからね」

 

 とはいえ、それはそれとして年端もいかない少女の一人旅には心配になる点もあるわけで。話がひと段落すると今度はそちらの懸念が頭をもたげてきた。

 おそらく身を護るという点においては問題ないのだろうが、いくらレンが尋常ならざる子供であっても人間である以上は避けられない事物がある。食事、睡眠などはその最たるものだろう。まだまだこれから成長する年頃。不安定な生活環境に身を置いていては健康状態も心配になるというものだ。

 そういう意味ではアンゼリカの提案は善意からのものだと思うのだが……その怪しげに動く手つきがいけない。ジョルジュが窘めるのも当然であった。

 

「本当に誰かさんに似てお節介というか……気にしなくても、レンは自分のことくらいちゃんとできるわ。それよりほら、お目当ての場所に到着よ」

 

 呆れの色が濃い半目で促された先に視線を向ける。そこには街道から外れる形で脇道が伸びており、しかし、奇妙なことにそれは積み重ねられたコンテナで塞がれていた。不自然な光景にトワたちは首を傾げる。

 

「なんじゃこりゃ。資材置き場か何かか?」

「というより、通れないようにわざわざ置いてあるように見えるがね。レン君、本当にここが……レン君?」

 

 アンゼリカの声に応えるでもなく、自然な足取りでコンテナの山に近付いていくレン。通り抜けられるような隙間も見当たらないというのに、いったい何をするつもりなのか。

 疑問の目を意に介することもなく彼女はトワたちに振り返る。そういえば、と何と無しに言葉が紡がれた。

 

「一つ、訂正するのを忘れていたわ。レンは別に独りじゃないの」

「え?」

「だって、レンには本当のパパとママがいるんだもの」

 

 その意味するところをトワは理解できなかった。彼女に連れ合いがいる様子はなかったし、現に周りに自分たち以外の人の存在は感じない。それに、本当の(・・・)パパとママとは……

 

「――来て、パテル・マテル(パパとママ)

 

 混乱しているうちにレンは手を掲げ、歌うように呼び声を上げる。不意に耳へ届く風を割く音。半ば反射的にトワは空を見上げ――

 

 赤紫色の巨人が、空から降ってきた。

 

「ふええええ!?」

「んなっ……! おいおい、何だよこのデカブツは!?」

 

 轟音と共に降り立った巨人は、途轍もなく大きな機械人形であった。全高は十五アージュを越えているだろう。両腕には巨大なクローが備え付けられ、横にせり出す形の両肩には見るからに高出力なブースターと砲門らしきものが。ジョルジュでなくても分かる。これは明らかに現代の技術レベルから逸脱した存在だ。

 着地の際にあっさりとコンテナを踏み潰し、スクラップに早変わりさせた機械人形が頭部のセンサーを緑色に点滅させながら電子音を発する。それが何を意味するのかは分からないが、まるで意志をもって話しているようにトワには見えた。

 突然に現れた埒外の存在を前に呆然となっているトワたち。それを他所に機械人形は右腕のクローを掌のように広げると、そこにレンが軽々と飛び乗った。

 

「レンの案内はここまで。後は進めばわかるはずよ……思っていたのと違ったけど、お話しできて楽しかったわ。また機会があれば会いましょう、トワ。それにお兄さんたちも」

 

 じゃあね、の一言を合図にバーニアが点火する。各所に設けられたその推力が巨体を持ち上げ、ある程度の高度を得ると推進方向を変更。出力を上げた機械人形――レンが呼ぶに、パテル・マテルはあっという間に空の彼方に飛んで行ってしまった。気紛れな仔猫と共に。

 ポカンとしたまま消えていった先の空を見つめるトワたち。現実離れした光景を目の当たりにして自失していた彼女たちの中で、ようやく絞り出すように言葉を発したのはアンゼリカであった。

 

「ふう……まさか、あんな手強そうな親御さんがいるとはね。あの仔猫ちゃんをものにするのは骨が折れそうだ」

「アンちゃん、あんな人形を見て出てくる感想がそれなの?」

「冗談さ、半分くらい」

 

 半分は本気なのか。変わらずマイペースな彼女に肩が落ちる……が、力は抜けたので良しとしよう。

 

『現代にもあんなものを作れる技術があったんだ。神像とはまた違った感じだったけど』

「どんなジェネレータ積めばあんな高出力を実現できるんだろう……でも、本調子ではなさそうだったね。片脚の動きが悪そうだった」

「お前、んなことよく見てたな……」

 

 レン自身だけでも十分に不可思議であったのに、あんな機械人形まで有しているとなると本格的に彼女が何者か気になってくる。今度、エステルたちに会ったら教えてもらえるだろうか。

 だがまあ、それは今ここで気にしても仕方のないことだ。レンがパテル・マテルと共に飛び去ってしまった以上、彼女について追及することはできない。

 それよりも本来の目的を果たすとしよう。レンは、後は進めばわかると言っていた。パテル・マテルがコンテナを踏み潰してできた道。その先に怪盗Bが書き残していった『封じられし真実』が待ち受けているということだろう。

 

「取りあえず進んでみよう。一応、警戒はしてね」

「だな。まあ、ここまで来たら何があっても驚かねえけどよ」

 

 まったくだ。唐突に巨人が空から降ってくるなど誰が思うだろう。久しぶりに心臓が飛び出るかと思うくらいびっくりさせられた。

 気を取り直し、スクラップに成り果てたコンテナの残骸を踏み越えて奥へ。どうやら街道から山道に続いているようだが――その足取りは思いのほか、すぐに止まることになる。

 

「これはまた、しっかりした門だね」

「何のための門だろう? 妙に物々しい感じがするけど」

 

 坂道を登り切ったところで、トワたちの目に入って来たのは大きな鉄製の門。山道への入り口をしっかりと塞ぐそれは、街道の外れにしては場違いに感じられるほど厳重な誂えであった。

 

「この先、山崩れにより危険。立ち入りを禁ずる――それにしては大袈裟のような」

 

 何重にも鎖が巻き付けられ、重厚な錠前で閉ざされた門に備え付けられた素気のない看板。内容を読み上げたトワはそう独り言ちた。

 山崩れで廃道となり閉鎖されたというのはあり得ない話ではないと思う。自然災害とはいつ何時起こるか分からないものだ。大雨に見舞われて地盤が緩んだことによる結果とでも聞かされれば納得も出来るだろう。

 しかし、それは人伝に聞く限りのこと。ここに辿り着くまでに見聞きしたことが、記された事由が本当のことなのか疑問を抱かせる。

 陰謀めいた火事に消えた領主一家、口を噤む人々、道を閉ざしていたコンテナの山、そして廃道一つに対しては厳重に過ぎる封印――それらがどこに帰結するのかは分からない。ただ確かなことは、この先にある『真実』がよほど後ろ暗いということだろう。

 

「……あっ! 見てみるの、門の上!」

 

 途端、ノイが声をあげる。彼女が指差す先を見上げて、四人も同様に「あっ」と口から漏れ出た。

 鉄門の天辺、そこに夕日に照らされならがはためく美麗な色彩があった。間違いない、怪盗Bに盗まれた染織物だ。

 

「『封じられし真実、その入り口を見上げよ』……なるほど、確かに言葉通りだ」

「レンがいなけりゃさっぱりだったけどな。それにしてもまあ、ろくでもない謎かけだぜ」

 

 これだけひた隠しにされているのだ。少なくとも、パルムの人々にとってはそっとしておきたい場所なのだろう。それをわざわざ指定してくるあたり、怪盗Bの性格の悪さが窺い知れようというものだ。

 ともあれ、ここにいない相手に文句を言っても仕方がない。ノイに染織物を回収してもらい、目的を果たしたトワたちはパルムへと引き返すことにする。

 去り際、振り返って門の奥へと目を向ける。静かな雰囲気だ。まるで、時間から取り残されてしまったような。

 その先にあるものへの疑問を今は胸にしまい込む。急かされないうちにトワは仲間たちの背中を追うのだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「いやいや、本当に助かったよ。初日は楽にしようといった手前、苦労させてしまったのは申し訳ないが……」

「そんな、気にしないでください。ボリスさんが悪いわけじゃないんですし」

 

 特筆することもなく無事にパルムへと戻ってきたトワたち。元の場所に戻された染織物を見上げながら、ボリス子爵は彼女たちに礼と謝意を伝える。

 といっても、この件の元凶は怪盗Bだ。ボリス子爵には何の非もない。何を考えてか自分たちに狙いを定めてきた犯人には文句が尽きないが、それをこの気のいい領主に向けるのは筋違いも甚だしいというものである。

 

「うむ……では、その労に報いるのが私の務めなのだろうな。トワ君たち、夕食は楽しみにしておきたまえよ。出来得る限りのご馳走を用意しておくのでな」

 

 気を取り直したボリス子爵はにっかりと笑みを浮かべる。元から張り切ってはいたようだが、おかげで余計に火が付いたようだ。

 それを聞いたせいか、横から「ぐう」と腹の音が。発生源のジョルジュは照れ臭そうに頬を掻いた。

 

「はは、思いのほか動き回ることになっちゃったからね。おかげでペコペコだよ」

「それには同感だ。ま、空腹は最高のスパイスともいう。後は楽しみに待たせてもらおうじゃないか」

 

 もうじき日も沈む。流石に今日はこれ以上活動するつもりはなかった。

 ボリス子爵が歓待してくれるのは顧客との接待にも使うパルム一番の高級店だという。それなりに身だしなみを整えるのが礼儀だろう。宿で汗を流してから向かうとしようか。

 これからの予定を相談していると、そこに「では」と控えめに声が差し挟まれる。何故か少し距離を置いて控えていたドミニクだ。

 

「一件落着したことですし、私は少し席を外させてもらいますよ。遅れた仕事を終わらせなければ」

「ああ、そういえば急なことで引き留めてしまったのだったな……別に急ぎでもないだろう? 明日でもいいのではないかね」

「まあそうですが、収まりも悪いですからね」

 

 どうやらドミニクにはまだ仕事が残っていたらしい。察するに、怪盗Bが事を起こしたせいでそちらに掛かり切りになってしまったのだろう。

 ボリス子爵は当然ながら彼も会食の席に同席するものとばかり思っていたのか。引き留めようとはするものの、ドミニクには肩を竦めて返された。こんな時間からでも終わらせようとするあたり、生真面目もいいところである。

 

「これなら引き留めない方がよかったかもしれんな。結局はトワ君たちに任せきりになってしまったことだし」

「確かに。二人で聞きまわっても何も成果がありませんでしたからね」

 

 そう言って乾いた笑い声をあげる二人。これで染織物が戻ってきていなかったら冗談では済まないが、トワたちの頑張りがあったからこそ笑い話にできるものであった。

 

「……? あの、お二人ともずっと聞き込みしていたんですか?」

 

 しかし、その笑い話には妙に引っ掛かるものがあった。何か根本的な食い違いがあるような。

 怪盗Bの手掛かりを追う中で覚えた些細な違和感がぶり返す。そしてボリス子爵の答えにより、それはより決定的なものへと変わる。

 

「君たちと別れてから、駄目で元々でも一応な。聞いての通り、二人して徒労に終わってしまったわけだが」

 

 大袈裟にがっくりと肩を落とすボリス子爵に曖昧に笑みが浮かぶ――その裏で、仲間たちにひっそりと目線を送る。無言のうちのアイコンタクト。どうやら四人とも考えるところは同じようだった。

 どうにか確かめなければ。そのためには少々、手荒い手段に訴えるのも止むを得ない。

 

「それでは、私はこれで。私の分まで楽しんできてくれ」

「……おっと、待った」

 

 立ち去ろうとしたドミニクの背中をクロウが引き留める。おもむろに掛けられた声に振り返ろうとした彼に――

 

「忘れもんだぜ、ってなぁ!」

 

 半ば殴りかかるようにクロウが飛び掛かった。

 しかし、その手は空を切る。予期していたかのようにひらりと身をかわしたドミニク――いや、ドミニクの姿をした男は、重力を無視するかのように軽々と跳躍し染織物がなびくベランダへと飛び移る。

 どう考えても素人の動きではなかった。トワたちの険しい視線、そして突然の事態に目を白黒させるボリス子爵を前に、その男はくつくつと忍び笑いを漏らす。

 

「はーはっはっは! いやはや、もしやとは思ったが……この私の変装を見破ろうとは」

 

 やがて哄笑へと変わったそれを響かせながら、男はどこからともなく取り出した白いマントをひらめかせる。隠される姿、その一瞬の間に男は隠れ蓑を捨て去っていた。

 

「この怪盗B、感服するばかりだ。後学までに何故気付いたか教えてもらっていいかね?」

「……簡単なことです。私たちは途中でドミニクさんに会っているのに、ずっとボリス子爵と二人でいたなんてどう考えてもおかしいに決まっている」

 

 風に揺れる青い髪、貴族のようでいてどこか芝居がかった風味のある白い装束、そして顔を隠す羽飾りの仮面――パルムを騒がしてくれた怪盗Bは、高笑いと共にその姿をさらけ出した。

 目の前のドミニクが偽物だと気付けたのは偶然の産物だったのだろう。仕事で出かけたドミニクと入れ替わる形でボリス子爵と一緒にいた怪盗Bは、本物のドミニクが領主邸跡を訪れるとは考えていなかったと思われる。もしあそこで彼に出会わなければ、トワたちも気付かずに見過ごしてしまっていたに違いない。

 

「ふむ、下準備を疎かにしたことで粗が出たか。思い付きの余興では流石にクオリティも下がってしまったようだ」

「その思い付きで、こちらは十分に堪能させてもらったがね。いったい何が目的だい?」

 

 アンゼリカが剣呑な視線を差し向けるが、怪盗Bは余裕の態度を崩さない。くくっ、と一つ笑みを零すと何てことのないように語る。

 

「言葉の通り、ただの余興だとも。我が好敵手の企み、その先駆けたちがどれほどのものかと試させてもらったが――なかなか期待できそうだ。かの遊撃士たちと同じくらいにはね」

 

 迂遠な語り口は真意を捉えづらいものの、どうやら本気で深い意図はなかったらしい。愉快犯的な動機というのも、それはそれで頭に来るが。

 「我が好敵手」、それがトワたちに興味を持った切っ掛けか。怪盗Bの言葉に嘘が無いのなら、自分たちに関わりのある人物のようだが、いったい誰のことなのだろう。それに「かの遊撃士」というのも思わせぶりであった。

 

「しかし、諸君の舞台が幕を開けるのはおそらく暫し先のこと。つまみ食いは程々にしておこう。後の楽しみを減らしては損である故」

「ぶ、舞台? いったい何を……」

 

 語りかける態ではあっても、怪盗Bにこちらへ理解させるつもりなどないのだろう。さながら独壇場で好き勝手に言葉を弄し、人を煙に巻く詐欺師だ。

 これまたどこから取り出したのか、ステッキを掲げると怪盗Bの身体は光る渦に包まれる。渦が収まったそこに彼の姿はなく、感じた気配に振り向くと全く別方向の屋根に佇んでいた。

 転移術の類か。窃盗犯というには超人的すぎる技術に眩暈を覚える。

 

「此度はこれでお暇させてもらおう。またの挑戦を心待ちにしておきたまえ」

 

 そういって怪盗Bは「ふはははは!」と高笑いをあげて屋根の向こうへと消えてゆく。当然、あんなふざけた輩を放っておく筋合いなどない。クロウとアンゼリカは後を追うべく足を踏み出しかける。

 

「ま、待って二人とも!」

「っとぉ!? おいおい、見逃せってのか!」

「違うよ! 怪盗Bの気配が反対に離れて行ってるの!」

「ちっ、それはまた猪口才な!」

 

 しかし、慌てて引き留めたトワの言葉によりその足は真逆へと向かうことになる。屋根の向こうに見えなくなった途端、再び転移術を使ったのか。そのまま追っていたら見当違いの方を探すことになっていた。

 人を欺くのは怪盗の得意技と言わんばかり。だが、相手の想定に人外の感覚の持ち主はいなかった。捉えていた星の力の気配が急に消えて別方向に現れれば嫌でも分かる。

 急転直下の事態に呆然としたままのボリス子爵を置いて、トワたちは怪盗Bの気配を追う。こちらの目を欺いて悠々と退散するつもりだったのだろう。追いつけない距離ではない。

 トワの先導により全速力で後を追う。やがて街道も間近になったところで、屋根から屋根へと跳ぶ怪盗Bの背中を視界にとらえる。彼は追跡者の姿に「ほう」と純粋に驚きを口にした。

 

「まさか我が幻影に惑わされずに追いかけてくるとは……ふふ、ますます興味深い」

 

 街道に降り立つ怪盗B。もう少しでその背中に追いつこうというところで、意味ありげに右手が挙げられる。

 

「しかし、終幕を告げた後に蛇足が続くのは私の趣味ではない。諸君の相手はこれで満足してもらおう」

 

 パチン、と指を鳴らす音。トワたちの行く手を塞ぐように転移の渦が巻き起こる。

 そこから現れたのは道化のような意匠をした異形の人形。細い腕から放たれた何かを咄嗟に飛び退いて躱すと、直前の足元に筋状の痕が刻まれる。

 おそらくは鋼糸のようなもの。殺傷力は十分、明らかに戦闘用に作られたものだろう。

 

「ったく、最近の人形は物騒なものがトレンドなのかよ!」

「知らないけど、放置しておくわけにもいかない。町に入られたら厄介だ!」

 

 レンのパテル・マテルといい、常識外れな人形を立て続けに目にする羽目になってクロウが愚痴る。言いたくなる気持ちも分かるが、まずは目の前の人形を破壊することが先決。ここは街道口、まかり間違ってパルムの中に入り込まれたら大混乱になる。

 だから今度こそ去ろうとする怪盗Bを止める術をトワたちは持たない。

 

「堪能させてくれた返礼に改めて名乗ろう。結社《身喰らう蛇》が執行者№Ⅹ《怪盗紳士》ブルブラン。再び見えるその時まで――さらばだ、有角の獅子たちよ!」

 

 高笑いをあげながら転移の渦に消える怪盗B――《怪盗紳士》ブルブラン。謎の人形兵器を相手取りながらも、響くその笑い声は妙に耳に残るものであった。

 余談になるが、なんとか機能を停止させた人形兵器はご丁寧に自爆してくれた。最後の最後での嫌がらせに、ブルブランへの評価が地に堕ちたのは言うまでもない。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「……やっぱり、あなたも来たのね。トワたちとはもう遊び終わったの?」

「ああ、随分と楽しませてもらった。彼女らがどのように花開き、そして散ってゆくのか……今から胸が躍ろうというものだ」

 

 トワたちがブルブランを取り逃した後、星が瞬く空の下でそんな会話が交わされる。山道を抜けた先、周辺一帯を一望できる崖先でのことだ。

 悪趣味なことを恍惚と語るブルブランにレンは肩を竦める。壊れゆく美とかいう彼の感性は理解しがたいが、これまでの付き合いで相手するだけ無駄とも知っていた。

 まあ実際のところ、それはどうでもいいことだ。トワたちに手を貸しこそしたものの、レンの気にするところは別にあった。

 

「余興を満喫できたようで何よりね。それで、やっぱり私を連れ戻しに来たのかしら?」

 

 結社《身喰らう蛇》の執行者、偉大なる盟主より一切の自由を認められた使い手たち。それが自分たちの肩書だ。

 レンは先のリベールの異変の後、結社のもとに戻っていない。執行者の権利に則るのならば、それに関して文句をつけられる筋合いはないが、何らかの形で引き戻そうとする動きがあるかもしれないとは想定していた。

 真っ先に思いつくのは使徒第六柱、《十三工房》の統括者であるF・ノバルティス博士の手によるものだ。彼はゴルディアス級(パテル・マテル)の開発者――正しくは師が開発していたのを途中で横取りした――だけに、レンにご執心だ。結社から離れないように手を打ってくることは十分に考えられた。

 

「そんなことを頼まれたような気もするが……さて、忘れてしまったな。無粋なことはあまり記憶に留めておけないものでね」

 

 てっきりブルブランはそのために現れたのだと思っていたが、わざとらしく惚ける彼に目を瞬かせる。いったいこの男は何を考えているのだろう。

 

「私がここを訪れた目的は君と同じだろう、仔猫(キティ)。これでも親愛なる同僚の死を悼む気持ちくらいは持ち合わせている」

「……そう、それは何よりだわ」

 

 ブルブランの言葉に嘘は感じられなかった。訝しげに背後の彼を見ていたレンは視線を前へと戻す。

 そこには石碑があった。成形されたものではない、元あった石に文字を彫った簡素なもの。その石碑の前には、半ばで折れた一振りの魔剣が墓標のように突き立てられている。

 ここに眠っているのは、かつてこの地に住んでいた人々。そしてリベールの異変において命を落とした、執行者№Ⅱとして《剣帝》と呼ばれていた男だ。

 

「彼女とⅩⅠⅠⅠ……いや、もうヨシュアと呼ぶべきか。あの二人には感謝せねばな。彼も生まれ故郷で眠れるなら魂も安らごう」

 

 金色の刀身を有する魔剣は彼が生前に振るっていた得物。遺体は空中都市《リベル・アーク》の崩落と共に湖の底に沈んでしまったのだろうが、その分身だけでもこの地に帰れたことで魂が安息を得たと願いたい。

 語るまでもないだろうが、レンがここを訪れたのは墓参りの為だ。自分を暗い闇の底から拾い上げ、色々と気に掛けてくれた人の冥福を祈るために。今は顔を合わせたくない相手が近くから離れるのを待っていたことで、少し遅くなってしまったけれど。

 黙祷を捧げる間、静かな時間が流れる。流石のブルブランもこんな時に無駄口を叩かないだけの分別はあったらしい。聞こえてくるのは虫のさざめきくらいのものだった。

 

「……ねえブルブラン、レーヴェが今のレンを見たら何て言うかしら?」

 

 多少は気心の知れた相手が前にいたことで、ふと聞いてみたくなった。

 レンは迷っている。トワに言われた通り、前に進むでもなく、元ある場所に帰るでもなく、ふらふらと迷い猫のように彷徨っている。

 そんな自分を彼が見たらどう思うだろう。自分ではない誰かに聞いてみたかった。

 

「ふむ、私は彼ではないから確かなことは言えないが……何を選ぶにせよ、彼から強要はするまい。君自身が選んだ道を歩むことを望むはずだ」

 

 そこで言葉を区切ったブルブランは「ただ、まあ」と哀愁の混じった笑みを浮かべた。

 

「修羅に身を落としながらも、あれで甘いところがあった彼のことだ。仔猫の行く先を見守っているのではないのかな――たとえ、女神のもとからであろうとも」

 

 その答えは概ねレンと同意見ではあったけれども、最後に付け加えられたのは思いがけないものだった。目をパチクリとさせたレンは、やがてクスリと笑みを漏らす。

 

「ブルブランにしては素敵ね。もしかして、誰かさんが化けているのかしら?」

「おお……これは手厳しい。よもや善意から偽物と疑われようとは」

「ふふ、冗談よ」

 

 相談相手には心許なかったが、普段は悪趣味で変態でも時には良いことも口にするようだ。機嫌を上向きにしたレンは石碑の前から足を動かす。崖の先へと向かって。

 色々と考えることはあるけれど、まずはこの心に残るしこりの元へと向かおうと思う。行った先で何があるかは分からない。ただ、何かは変わるはずだ。そう信じて、前に進もうと心に決める。

 

「行くのかね?」

「ええ。久しぶりにお話しできて楽しかったわ、ブルブラン。今度はゆっくりとお茶でもしましょう」

 

 その言葉を別れに、レンは崖の下へ飛び降りる。ブルブランの視界から彼女が消えたのを皮切りに、静謐な空間を破って轟音が響いた。

 崖下からゆっくりと姿を現すパテル・マテル。夜空にブースターの火を煌かせる巨大な人形。その手に乗ったレンがブルブランに向けて裾をつまんで一礼すると、その巨体は速度を上げて彼方へと消えていった。

 前へ、前へと軌跡を描き、東の空へと。

 

「……察するに、クロスベルか。かの魔都は彼女由縁の地。それにローゼンベルクの翁ならパテル・マテルの修繕もお手の物だろう」

 

 独り言ちたのは特に意味があってのことではない。考えを整理するだけなら心中だけで事足りる。

 ただ、墓標を前にして感傷に浸るものがあったのは否めない。

 

「果たして仔猫の行く先にあるのは女神の微笑みか、はたまた心砕かれし悲嘆か――私個人としてはどちらでも構わないが」

 

 でもなければ、あんなことを口にしたりはしない。詩的な言い回しは好むところだが、流石にあれは臭すぎる――自分で自分が可笑しくなり忍び笑いが漏れる。

 しかし、吐いた唾は元には戻らない。ささやかな心遣いからの方便と言えばそれまでだが、本人の墓前で口にしてしまった手前、放っておくのも気が引ける。

 

「せめて結末を迎えるまでは見届けるとしよう。代理としては心許ないだろうが、まあそれでご容赦願うよ」

 

 それを最後にブルブランもまた渦の中に消える。

 星が瞬く空の下で、金色の魔剣は静かに照らされていた。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 すっかり夜も更け、明かりが疎らになったパルムの夜景。人通りもないそこに宿酒場からふらりと人影が現れる。近くのベンチに腰掛けたトワは、ふうと一息つくと星空を見上げた。

 ブルブランにすっかり振り回されてしまった試験実習班だったが、人形兵器を破壊したことでひとまず騒ぎは収束することになった。彼が去り際に口にした結社《身喰らう蛇》とは何なのか。気になることは多々あるものの、それは一先ず置いておくことになる。

 まんまと騙されていたボリス子爵が、仕事から帰ってきた本物のドミニクを怪しんだりという一幕を挟みつつ、約束通りに夕食をご馳走になって来たのが先刻のこと。満腹になったお腹をさすりながら宿に戻り、明日の段取りを決めて今日はもう休むことになっていた。

 そんな夜半、トワは一人で星空を見上げていた。少し風に当たってくると伝え、同室のアンゼリカにノイも傍には居ない。何も聞くことなく見送ってくれたのは、何かを察してくれたからだろうか。

 

「……?」

 

 そうして瞬く星々をぼんやり眺めていると、自分が出てきた時と同じように宿酒場の戸が開く音が耳に入る。

 誰だろう? 空から視線を下げると、見慣れた銀髪とバンダナが目に入った。

 

「よう、邪魔するぜ」

「クロウ君……どうしたの? こんな遅くに」

 

 よっこらせと隣に腰掛けたクロウに問いかける。まだベッドに入るには早いかもしれないが、かといってわざわざ外に出る用事もないだろうに。それに対する返事は呆れたような目であった。

 

「どうしたもこうしたも、お前がフラフラと出ていくもんだから様子を見に来たんだろうが。帝都だったら一発で補導されてんぞ」

「そっか……ふふ、私のことお人好しとかいうけれど、クロウ君もなんだかんだ面倒見がいいよね」

「さてな。ただの気紛れかもしれないぜ」

 

 素っ気ないように振る舞っているが、トワは知っている。彼がトリスタの子供たちとよく遊んでやったりしていることを。わざわざゲームを教えて一緒に遊んだりしておいて、惚けるには少し無理があるだろうに。

 それを口にするでもなく笑みを漏らすだけに留め、目を夜空の向こうへと戻す。自然とクロウも追いかけるその先には、夜闇の中に夏の星々が輝いている。

 何か考えごとをするとき、トワはこうして星空を見上げることが多い。天体観測が趣味の父親に影響されたこともあってか、小さい頃から夜空を仰ぐことが習慣づいていた。だからだろうか。星の輝きを眺めていると、落ち着いて自分の考えに浸ることができるのだ。

 

「それで? 今度は何を抱え込んでやがるんだよ」

 

 しかし、一人で考え込んでも堂々巡りになっては仕方がない。長年にわたって答えの見いだせていない問題なら尚更だ。

 どうせまた小難しいことを考えているんだろうが。そう言わんばかりのクロウの口ぶりに苦笑いが浮かぶ。ぶっきらぼうなようで人のことをよく見ていて、抱え込みがちな自分に踏み込んできてくれることが嬉しかった。

 そうだねぇ、と言葉を整理する。既に色々と明かした相手だ。相談するにも躊躇いはもうありはしない。

 

「レンちゃん、今頃どうしているかなっていうのと……私もちゃんと自分の答えを見つけないとなって」

 

 短い出会いではあったが、感じ入るものもあってトワはあの菫色の少女のことを気に掛けていた。パテル・マテルという巨大な人形といい、自分が心配する必要がないくらいの力を彼女は有しているのだろう。だが、それとは別に危なっかしさのようなものを感じるのも確かであった。

 

「あのマセガキなら、どこに行っても上手くやっていきそうだがな。ま、お前と負けず劣らずのお人好しが追っかけてんだ。そのうち首輪でも付けられるだろうよ」

「あはは……うん、そうだね。エステルちゃんたちなら大丈夫そうかな」

「人のことばかりに気を回すなよ。どうせ《力》のことで悩んでいたんだろうが」

 

 端的な答えでよくよく察してくれるものだと思う。ピタリと言い当てられてトワは「正解」と返す。

 レンのことは既に自分たちの手を離れたようなものだ。後は彼女と深い繋がりを持つ人たち、そしてこれから出会う人たちに委ねるべきことだろう。

 だから今向き合うべきは自分のこと。この身に宿る《力》の意義、未だに答えを見いだせていない難題だ。

 

「バリアハートの実習から色々と考えているんだけど、どうするのが正しいのか分からないんだ。レンちゃんに偉そうなこと言っておいて、格好がつかないけどね」

 

 先月のバリアハート実習において、トワは過去のトラウマを振り切ってミトスの民の力を用いることで皆を守ってみせた。恐れを払拭できたわけではないが、過去に向き合って折り合いをつけることはできたと思う。

 しかし、それは必要に駆られてのことだった。あの場ではそれ以外に選択肢がなかったからこそ踏み切ったのであって、何か明確な意思を持てたわけではない。

 星の力を自在に操るミトスの民。使命を果たした先に残されたその大きな力を何のために使うのか。恐れに向き合っても、まだ迷いからは抜け出せていなかった。

 

「……参考までに聞くけどよ、ミトスの民ってのは何をどこまで出来るんだ? どうも漠然としていてイメージしづらい」

 

 身体を蝕む奈落病を緩和したり、枯れかけのユピナ草を復活させたり、悪魔を祓ってみせたりと、確かに奇蹟のような光景をクロウも隣で目にしてきた。それは間違いなく女神の遣いに相応しい途轍もない力なのだろう。

 ただ、大きすぎるがために漠然としか掴み取れていないのも確かであった。だから「力を正しく使わなければ」というトワの考えを理解しきれない。そこまで深刻なことだろうか、と思ってしまうのだ。

 興味半分もあっての質問にトワは「うーん」と辺りを見回す。やがて彼女は空の一点に目を止めた。

 

「言葉で説明するより、見てもらった方が早いかな」

「は?」

 

 音もなく栗色から白銀に変わる髪。クロウが言葉を差し挟む間もなく、トワは空にかざした手を何かをどかすように横に流した。

 何をするのかと訝しんでいたクロウだったが、その変化にはすぐに気が付いた。星空に薄くかかっていた雲。それが彼女の手の動きに合わせてすっと消えていったのだ。

 一瞬の間に雲一つなくなった星空を見上げて乾いた笑みが漏れる。なるほど、これはとんでもない。

 

「こんな風に自然現象を操るくらいはお手の物だよ。時空間への干渉もある程度できるし、単純な身体能力も上がっているね」

 

 規模に限界はあるけど、と結ぶトワ。それでも規格外なことに違いはない。

 この世界の生きるあまねくものに存在する星の力。大地や風、流れる水や燃える炎にもそれは宿る。こうして空にかかった雲をどかすくらいはお安い御用だ。

 《七の至宝》に準じる存在は伊達ではない。根源的なエネルギーを操る権能は想像さえできない超常的現象を起こし得る。

 だからこそ、トワは考えてしまうのだ。自分はどうあるのが正しいのかと。

 

「皆で色々なところに実習に行って、帝国を取り巻く現状や問題を知って……だから余計に迷っちゃうんだ。どうするのが正しいんだろうって」

「……さあな。そりゃ俺にも分からねえよ」

 

 だよね、と笑みをこぼす。それは淡い色を帯びていた。

 革新派と貴族派の確執をはじめ、エレボニア帝国には多くの問題が取り巻いている。実習という形でそれを目にしてきたトワたちは、その実際を少なからず理解することが出来たと思う。

 別に世界を平和にしたいとか、そんな大それた願いを持っているわけではない。目の前の困っている人を放っておけないお人好しであるが、自分は国家というものを担えるような器ではないだろう。

 それでも、この激動の時代という大きなうねりは自分という存在を見逃してくれないという予感があった。何かの拍子に、ミトスの民の力が知られることになったとしたら。きっとトワを利用しようとする手が伸びてくると想像するのは簡単だ。

 

「流れに囚われて人を傷つけてしまうことになるのは嫌だけど……自分が正しいと思えることを選ぶのも難しいね」

 

 なまじ頭が回るだけに思い至ってしまう。選ぶことで何を得て、何を失うのか。自分が力を振るうことで何をもたらすのか。

 自意識過剰の考えすぎなのかもしれない。だが、トワが背負うミトスの民という宿命は嫌でも想像させてくる。自分の過ちが取り返しのつかないことを引き起こしてしまうのではないかと。

 真紅の瞳を伏せるトワ。そんな彼女の姿にクロウは困ったように頭を掻く。生憎と彼に名案と言えるような考えはない。

 

「まあ、なんだ。無責任なのは承知の上で言うんだが」

 

 ただ言えることがあるとすれば、今のトワを見て思ったことを素直に口にすることだけだろう。

 

「何が正しい正しくないより、お前が何をしたいか考えた方がいいんじゃねえか」

「私が、何をしたいか……?」

「別に聖人君子でもねえんだ。やりたいことの一つや二つくらいあるだろ」

 

 そう聞かれてトワは「うーん」と考え込む。そこでパッと思いつかないあたり、我欲が薄いというかなんというか。向けられる呆れ眼に気付かずに彼女は首をひねる。

 

「ええっと……来週発売の小説が早く読みたいとか……?」

「いや、そういう即物的なものじゃなくてだな……なんかこう、ねえのかよ」

「そ、そうは言われても……」

 

 的の外れた答えに気が抜けた感じになってしまう。普段は利発なのに、こういう時に限って天然ボケになってしまうのは何故なのか。

 流石に自分でも違うと分かっていたトワは、生温い視線を前に頑張って考えを巡らせる。クロウにとっては簡単なのかもしれないが、改まって何がしたいかと聞かれても難しい。

 あれでもない、これでもない、たっぷり十数秒は考えて――

 ようやく見つけたそれは、どうということはない素朴な願いだった。

 

「その、この前の夏至祭みたいに皆で遊びに行ったりとか……これからも楽しい思い出を沢山作っていきたいなぁ」

「――――」

 

 塞ぎ込んでいた自分の手を引っ張って、見えないものに怖がり続けることなんてないと教えてくれた。帝都の夏至祭で仲間と笑い合った時間は、トワにとって決して消えることのない思い出だ。

 まだまだ長い学生生活でも、トールズを卒業してからであっても、色褪せることのない大切な日々を心に綴っていきたい。それが思いつく限りの、トワのやりたいことだった。

 それを聞いたクロウは、虚を突かれたようにポカンとしていた。素朴で、青臭い願いだったせいだろうか。なんだか気恥ずかしくなったトワは少し染まった頬を掻く。

 

「あ、あはは……なんてね。流石に臭すぎたかな」

「……いや、お前はそれでいいんだろうさ」

 

 けれど、彼は皮肉の一つも言うことなく笑みを浮かべる。

 気のせいだろうか。そんな彼が自分を見る目が、どこか眩しそうに感じたのは。

 おもむろに伸びてきた掌が頭を乱暴に撫でる。急なことに「わぷっ」と目線が下がったトワの頭上でクロウは言葉を続けた。

 

「お前みたいな真面目ちゃんは、もう少し自分勝手でもいいんだよ。自分の(もの)を自分の為に使って悪いことなんてないだろ」

「……ふふ、それを言ったらクロウ君はもう少し真面目になった方がいいと思うけど」

「はっ、言うようになったじゃねえか」

 

 捻くれた誰かさんと一緒に過ごしてきたのだ。返しの言葉の一つくらい思いつくようになるというものである。

 けど、クロウの言う通り、自分は難しく考えすぎているのかもしれない。目に映る色々なものに囚われているだけで、本当はもっと単純で簡単なことなのではないか――今は、そんな風に思えた。

 

「ね、クロウ君」

「あん?」

「ありがとう。私、頑張るから」

「どういたしまして。ま、程々にな」

 

 どんな答えになるかは分からない。いつ見つけられるかもわからない。でも、自分が心から信じられるその道を探し続けよう。

 そして答えを得ることが出来たら、たくさんの感謝を伝えよう。お世話になった人、見守ってくれた家族に相棒、アンゼリカにジョルジュ、この意外と面倒見のいい大切な友達に。

 雲の晴れた星空を仰ぐ。心なしか、その星明りは先ほどよりも澄んで見えた。

 




誰かさんのメンタルに的確にダメージを与えていくスタイル。
尚、書いている当人もダメージを受ける模様。


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第47話 疑惑

閃Ⅳは第3部の月霊窟クリアまで進みました。色々と言いたいことはありますが、何はともあれジョルジュ→ゲオルグの絡繰りが判明したのが個人的に大きいです。これで何を言わせても白々しくせずに済むぞ!

それにしてもトワは何でプレイアブルから外れちゃったかなぁ。先輩四人組でパーティーを組むことが叶わないのは残念至極。DLCに僅かな望みを掛けたいと思います。


「やれやれ、昨日は散々だった……ちゃんと休めたかね?」

「疲れは取れているから大丈夫です。今日もよろしくお願いします」

 

 朝日が差し込む紡績工場の執務室。その部屋の主が深々と吐いた溜息に内心で同意しながらも、トワは朗らかに応じた。

 一夜明けて二日目を迎えたパルムにおける試験実習。昨日の怪盗Bことブルブランによる騒動で余計な苦労をすることになった一同だったが、体力的には問題なかった。

 昨晩には美味しいものをご馳走になったりと、ボリス子爵には以前からよくしてもらっている。たとえ疲れが残っていようと頼まれたことはきちんとやり遂げる所存だ。

 よろしい、と頷くボリス子爵。彼の手から昨日と同じく封筒が渡される。

 

「市内から郊外まで取り揃えてある。手配魔獣の依頼もあるから、そちらに行く際は気をつけるように」

「お気遣いどうも。そんじゃ、行きますかね」

「ああ。それではボリス子爵、また後程」

 

 本日の依頼を受け取ってトワたちは執務室を後にする。ボリス子爵はひらひらと手を振って彼女たちの背中を見送った。

 工場から出たところで四人は改めて封筒の中身を確認した。段々と昇ってくる夏の日差しに照らされながら、これからの行動の段取りを決めていく。

 

「数はそれなりだけど、あまり手間はかからなくて済みそうだね。上手くいけば昼過ぎには片付きそうかな」

「まずは市内の依頼を、その後に郊外に出て最後に手配魔獣といった感じか。はは、ケルディック以外は大都市ばかりだったから、割と気が楽だね」

 

 思えば、トワたちが試験実習で赴いたのは帝都や州都といった帝国でも有数の大都市ばかりだった。街の規模が大きくなれば活動範囲も広くなりがちだ。特に帝都では移動だけで一苦労だったのは色濃く覚えている。

 それに比べれば、パルムくらいの地方都市なら気負うことなくやれるというのも頷ける話だ。他の三人もジョルジュと気持ちは同じ。昨日のブルブランの件もあって、これくらいの課題なら軽く感じる程度だった。

 尤も、一番の要因は彼女たちがこの試験実習にすっかり慣れてしまったことだろう。最初は心得のあるトワが先導する形だったが、今では自然と意見が纏まるようになっていた。

 

「帰りの列車は夕方くらいだったか。十分に余裕はありそうだね」

「ま、順当に終わればだけどな」

『流石にそう何度も……って言い切れないのが困るの』

 

 最後の方になって騒動に巻き込まれたり、首を突っ込んだりするのも常態化して久しい。もはや実習では必ずトラブルに見舞われるというジンクスが出来上がりかねないくらいだ。

 何の因果か、毎度のようにそんな事態に陥るものだからノイの声にも力がなくなってしまう。そもそも昨日の怪盗騒ぎに関わった時点で今更かもしれないが。

 

「あはは……まあ、最後まで気を抜かないで頑張ろう。それじゃあ――っと」

 

 平穏無事に終わるにせよ、また一騒動起こるにせよ、トワたちがやることには変わりない。自分たちの目で事実を捉え、自らの意志で前へと進んでいく。実習の根幹が揺らぐことはないだろう。

 要するに、その時はその時だ。起こってもいないことを憂慮しても仕方がない。

 そうして話を締めたところで本日の活動を開始しようとし――足を踏み出そうとしたトワは、道の脇に避けることになった。

 唸るような導力エンジンの駆動音。一般の導力車にはない腹の底に響くような重低音が近付いてくる。クロウたちも同じように脇に避けたところを、その二つの音源が過ぎ去っていった。

 次第に遠ざかっていく車体は見覚えのあるものだ。何せ、自分たちも乗ったことがあるものなのだから。

 

「領邦軍の装甲車だね。ここだとサザーラント領邦軍のものか」

「ああ。州都のセントアークに駐留している部隊だろう。パルムはそう離れていないから、パトロールの範囲にも入っているのかもしれないね」

『ふーん、兵隊さんもご苦労様なの』

 

 帝国内ではオーソドックスなRF製の装甲車。ルーレ実習において、ザクセン鉄鉱山から戻る際に送ってもらった時は意外とクッションが効いていたのを覚えている。正規軍では、また違うのかもしれないが。

 ノルティア領邦軍とは異なる紋章を掲げた二台を、アンゼリカは哨戒中ではないかと推察した。セントアークとパルムは決して近いとは言えないが、装甲車の足なら大した距離でもない。真実味のあるそれにノイがしみじみと呟いた。

 

「お仕事ついでに手配魔獣も片付けてくれないもんかね」

「クロウ君、他力本願は駄目だからね」

 

 トワに窘められてクロウは「へいへい」と肩を竦めて応じる。生真面目と不真面目な二人。昨晩の話ではないが、これはこれで釣り合いが取れているのかもしれない。

 思わぬものを見送ったところで、改めてトワたちは二日目の実習活動を開始したのだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「…………」

 

 試験実習班が市内で依頼への対応を始めたその頃、リベール国境に面するタイタス門に続くパルム間道の中ほどで二台の装甲車が停車していた。トワたちも目にしたサザーラント領邦軍のそれらは、人目を忍ぶように目立たない場所を選んで停められている。

 その傍らに立ち、パルムの方角を向いて難しい顔をしているのは領邦軍の軍服に身を包んだ男。将官用のそれを砕けた形で着込んだ隙間からは、浅黒い筋肉質な肉体が窺える。一目見て只者ではないと分かる風格があった。

 

「市内の様子を見る限り、外から分かる異常は無いようです。准将、いかがなさいますか?」

 

 男に声が掛かる。准将、と彼を呼んだのは他ならない自身の副官だ。その後ろには装甲車に搭乗していた数人の部下たちも控えている。

 単なるパトロールというには物々しい雰囲気。人数こそ大したものではないが、将官クラスの人間がいる時点でただ事ではないのは自明の理だろう。実際、彼らがここに来た理由は哨戒活動などではなかった。

 男は改めてパルムへと目を向けると、その胸の内で考えをまとめた。部下たちへ向き直ると指示を飛ばす。

 

「探りを入れなければならないな。俺が行こう。お前たちはここで待機し、指示を待ってくれ。無用の混乱は招きたくない」

「それは同意しますが、准将が直接出向くのも相当なのでは?」

 

 少数とはいえ領邦軍の部隊が出向くのも悪目立ちしてしまうが、将官が単独で行動するというのも似たようなものだろう。その筋では有名なだけに、相手に警戒を抱かせかねない。そうなれば探りを入れるどころではなくなってしまう。

 副官の指摘に彼は肩を竦める。それは勿論承知していることであり、だからこそ自ら直接的に探ろうというつもりではなかった。

 

「使える手の当てならある。又聞きの又聞きだがな」

 

 その言葉に副官は心配そうな面持ちになってしまう。どんな当てかは知らないが、そんな関係があってないようなものを信用できるのだろうかと。

 

「だが、試してみる価値はあるだろう。これも風と女神の巡り合わせならば」

 

 対する男は笑みを浮かべる。確かに自分とは無関係に等しい当てではあるが、不思議と信用できるという確信があった。それは、この地に居合わせた偶然を必然のように思えるからだろうか。

 何にせよ、事態が不透明である以上は慎重に動かなければならない。接触の方法も少し考えなければならないだろう。付け加えるならば、彼女たちを自らの手で確かめる方法も。

 不覚にも楽しみな気配が漏れ出てしまったのだろうか。副官の呆れたような溜息を背に受けながら、男はパルムへの道を徒歩で引き返していくのだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 太陽が頂点を過ぎて少しの時間帯。パルムから東に延びるアグリア旧道からトワたちは市内に戻ってきた。当初の予定通り、手配魔獣を討伐して帰還したところである。

 これでボリス子爵から渡された依頼は全て完了したことになる。帰りの列車までどうするべきか。考えられる選択肢は幾つかあるが、それよりも優先するべきことが四人の内にはあった。

 

「とりあえず飯にしようぜ。忙しなかったもんだから腹が減って仕方がねえ」

「ちょっと飛ばしすぎちゃったからねぇ」

 

 にへら、と笑うトワを「誰のせいだ」とクロウが小突く。アンゼリカもやれやれと首を振り、ジョルジュは疲れの滲んだ顔で苦笑いするばかりだった。

 実習に慣れたといっても、依頼への対応力や処理速度が全員横並びなわけではない。元より手馴れていたトワがこれまでの実習や生徒会活動で磨きをかけた結果、その処理能力はちょっとおかしいことになっている。それが昼くらいまでに終わらせようと張り切ってしまえば、残る三人が振り回され気味になってしまうのも当然であった。

 

『まあ、早く済んでゆっくりできるとでも思えばいいの』

 

 とはいえ、ノイの言う通り早く片付けられたのは悪いことではない。後に用事が詰まっていない分、気持ちにも余裕ができるというもの。この調子なら食後の珈琲を味わう時間だって取れるだろう。

 そうとなれば早速とばかりに昼食をとる場所を考える。尤も、大都市に比べれば取れる選択肢は多くない。懐具合も考えて、宿泊している宿酒場で何か注文するのが適当となるのに時間はかからなかった。

 何を食べようかと思い思いに口にしながらも、宿への道を辿っていく。そんな彼女たちに、不意に声がかけられた。

 

「すまない、君たちがトールズ士官学院の生徒で間違いないか?」

 

 目を向けると、そこには動きやすい道着に身を包んだ青年がいた。装いから分かる通り、何か武術を修めているようだ。大柄で、その体躯は傍目に見ても鍛えられていた。

 

「そうですけど……ええっと、僕たちに何か用ですか?」

「ああ、突然に名乗りもせずに失礼した。自分はこの近くのヴァンダール流の練武場に身を置くウォルトンという」

 

 ヴァンダール流、その名乗りにトワたちは納得した。帝国の二大流派の一つであり、皇帝家の守護役も務める一派が主とするものは大剣術。ウォルトンの恵まれた体躯も頷けるというものだ。

 それはそれとして、ヴァンダール流の人間が自分たちに何の用だろうか。武術の道に身を置く相手に声を掛けられる心当たりなど――まあ、無いこともないが。ウォルトンの口から出た答えはおおよそ予想通りのものだった。

 

「工場長殿よりなかなか腕の立つ士官学院生が訪れると聞いて楽しみにしていたのだ。どうだろう、よければ一試合頼まれてはくれないだろうか」

 

 案の定なそれに愛想笑いが浮かぶ。武術家ならそうくるよな、と。

 ボリス子爵がどれだけ話したか知らないが、あのお喋りな人のことだ。洗いざらい口にしていてもおかしくはない。名門士官学院の生徒、その中でも指折りの実力者。《剣豪》の孫娘だったり、泰斗流を修めていたりと箔もある。ウォルトンのようなものからすれば食指が動いてしまうのも当然だろう。

 試合の申し出自体は歓迎するべきところだ。トワたちとしてもヴァンダール流の使い手から学べることは多くあるだろう。

 ただ、今はどうにもタイミングが悪かった。手は空いてはいるのだが、同時に腹も空いているのだ。

 

「悪いが、後でいいか? こちとら昼飯がまだなんでな」

「む、ならば致し方……ああ、いや。それなら尚のこと先に立ち会ってもらった方がいいかもしれん」

 

 言い淀んで自らの言を撤回したウォルトンに首を傾げる。気のせいかもしれないが、トワからは彼の目が泳いでいるように見えた。

 

「腹を満たした後に激しく動くのもよくないだろう。試合の礼にこちらで食事も用意する。それで手を打ってはくれないか」

 

 妙に食い下がってくることに違和感こそ覚えるものの、示された案自体はトワたちにとって悪いものではない。昼食が少し遅くなるくらいで、謝礼としてご馳走になれるのならむしろ得が大きいと言える。懐が厳しめなクロウにとっては特に。

 どうしようか、と四人は目を見合わせる。そこに特に反対の色は見受けられなかった。無理に断る理由もなし。トワたちは誘いに乗ることにした。

 

「分かりました。こちらこそよろしくお願いします」

「ヴァンダールの使い手と手合わせするのは初めてだ。どうかお手柔らかに願うよ」

「はは……ありがたい。それでは練武場に案内しよう」

 

 ウォルトンの先導に従ってヴァンダール流の練武場へ。しかし、どうも妙な感じだ。単純に自分たちに興味をもって試合の誘いを掛けに来たにしてはぎこちない様子が垣間見える。

 かといって悪意を感じるわけでもない。何が待っているにせよ、行けば分かることだ。それを確かめた後に考えても遅くはないだろう。そう割り切って歩くうちに、目的地にたどり着くのにさほど時間はかからなかった。

 

「お待たせしました。お望み通り、お連れしましたよ――《黒旋風》殿」

 

 そうしてあまり深く考えずにのこのこと付いていった先で、トワたちは立ち入った矢先に察することになる――美味い話には裏があるのだと。

 

「ああ、感謝する。面倒をかけてすまないな」

「なんの。領邦軍きっての使い手と後からでも手合わせできるというのなら、我々にとっては十分な報酬です」

「あの……もしかして試合の相手って、ウォルトンさんたちじゃなく……?」

 

 練武場に入ったところで待ち構えていたのはヴァンダール流の門下だけではなかった。むしろ、この場の主役は門下生ではなく、中央に威風堂々と立つ軍服の男。浅黒い肌の手に槍を携える姿は目にするだけで並の人物ではないと理解させられる。

 半ば確信に近い予感だったが、それでも恐る恐ると問い掛ける。対する答えとして、相対する男は軽く頭を下げた。

 

「騙すような真似をしたことは詫びよう、トールズの。だが、どうしても確かめたいことがあってな」

「……ヴァンダールとの手合わせと思ったら、待っているのが《黒旋風》とは悪い冗談もいいところだ。あなたのような方に直接出向いてもらう人間ではないのですが」

 

 冷や汗まじりのアンゼリカは目の前の人物のことを知っているようだった。《黒旋風》と異名で呼ばれた男は口元に笑みを浮かべる。

 

「こちらにも事情がある――今はただ、何も問わずにこの槍に応えてもらいたい。聞きたいことはその後に幾らでも受け付けよう」

「洒落になってねえぞ、おい……達人クラス相手とか勘弁してくれよ」

「まったく同感だ。避けるわけにもいかなさそうだけど」

 

 思えば、ウォルトンは一試合頼まれてほしいと言っただけで嘘は口にしていない。話が違うと突っぱねることはできる。ただ、怪しい部分に気付きながらも付いてきてしまった時点で、それは少々格好がつかないだろう。

 それに想定外の強者が相手だからといって、尻尾を巻いて背を向けるのは自分たちの性質にそぐわない。口では泣き言を吐きながらも、クロウは導力銃に手をかけジョルジュも機械槌を肩に担ぐ。アンゼリカも拳を握って構えを取った。

 驚きはすれども、及び腰になっている仲間など一人もいない。それはトワとて同じこと。嘆息一つで気持ちを切り替え、自らも得物を抜刀する。

 

「どんな事情か見当もつきませんけれど……受けた以上は精一杯やらせてもらいます。私たち、試験実習班の全力で!」

 

 トワは彼の素性を知らないが、それでもサラ教官に匹敵する、或いはそれ以上の使い手であることは分かる。ならば、最初から遠慮は無用。自身の星の力を活性化させたトワは金色の闘気を身にまとった。

 噂には聞けども、幼げな少女が発する気迫にヴァンダールの門下たちはどよめきを隠せない。そんな中、男だけは泰然とした態度を崩さず笑みを深めた。

 

「意気やよし。ならば、俺も本気でいくとしよう。サザーラント領邦軍准将、《黒旋風》ウォレス・バルディアス――参る!!」

 

 両の腕に掲げられた十字槍が旋風を巻き起こす。トワのそれに応えるように、男――ウォレス准将から鮮烈な闘気が解き放たれた。

 嵐を目前としたような感覚に異名が伊達ではないと理解する。それでも臆することはない。疑問も全て今は差し置いて、自分たちの全霊を出し切るのみ。

 立ち合い役として立ったウォルトンが「始め!」と手を振り下ろす。空を刺し貫く風の豪槍が牙を剥いた。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 どれだけ剣を振り、どれだけ繰り出される刺突の雨を凌いだことだろう。数えるのも億劫になるくらい応酬を交わし、乱れる息を何とか整えて相対する武人から目を離さない。

 時間にすれば大したことはないかもしれないが、その瞬間一つが濃密になれば感覚は引き延ばされ一分を一時間にも錯覚する。トワたちの体力は確実に蝕まれていた。

 一方、ウォレス准将も迂闊に手を出さずにカウンターを狙う腹積もりのようだ。刃を交わす中で四人の連携を崩すのは容易ではないと判断したのか。構えられた槍の間合いは結界となり、一歩誤れば瞬く間にその餌食となるのは目に見えている。

 陥る拮抗状態。しかし、余裕があるのはウォレス准将だ。このまま状況が続けば綻びを見せることになるのはトワたちの方であり、そうなれば勝負は一瞬だろう。

 勝機を見出すのなら今この時。槍の結界を打ち破り《黒旋風》に届くために、トワたちは拮抗を捨て攻勢をかける。

 

「っ!」

 

 短く息を吐き先行するのはトワ。間合いに踏み込むや否や迫る一突きを跳んで躱し、追って正面から拳を振るうアンゼリカと挟み撃ちを仕掛ける。

 だが、達人級ともなればその得物は身体の一部に等しい。長大な十字槍を自在に操るウォレス准将は二人の猛撃を悉く凌いで見せる。十字の刃がアンゼリカに近付くことを許さず、連動する柄とその先の石突がトワの剣を弾いた。

 隙間を縫うように放たれるクロウの銃弾さえも見切るウォレス准将は猛々しく笑んでみせる。

どうした、これまでか。それに答えるのも、また笑みだ。これで終わりと思ったら大間違いである。

 防御を許さないジョルジュの鉄槌が振り下ろされ、ウォレス准将は一旦の後退を余儀なくされる。瞬間、トワとクロウはアーツを駆動する。威力は必要ない。下級の火と水のそれを高速駆動した二人は准将の足元に解き放った。

 当たるはずのない軌道のアーツは攻撃を目的としたものではない。全くの同時に放たれた火球と水塊はぶつかり合い、急激に熱せられた水が水蒸気へと変わる。途端に視界を覆い隠した白い靄にウォレス准将は眉をひそめた。

 

(目くらましのつもりか。だが、これでは……っ!?)

 

 視界は奪えても、自分たちも碌に捉えられまい。その判断が誤りだと気付くのはすぐだった。

 狙いすましたように飛来する銃弾、四方八方より襲い来る斬撃に拳撃。不意に蒼い炎を吐く鉄塊が押し潰さんと迫り、気を抜くことを許さない。自身も立ち止まっているわけではないのに、的確に狙ってくることにウォレス准将は驚きを覚える。

 彼は知る由もないことだが、トワの知覚は視界を潰したくらいでは問題にならない。戦術リンクの恩恵によりそれは四人に共有され、霧中にあっても彼我の位置関係を把握し一撃離脱の連携を可能とする。

 しかし、ウォレス准将も伊達に達人と称されるわけではない。研ぎ澄まされた感覚は迫る気配を鋭敏に察知し、その全てを受け逸らし、払いのける。

 そして、わざわざ不利な状況に留め置かれることを良しとするわけもなかった。

 

「どんな絡繰りかは知らんが――オオォッ!」

 

 掲げた十字槍が螺旋を描く。《黒旋風》の異名の由来とも思える乱気流が巻き起こり、周囲を覆い隠す水蒸気を諸共かき消した。

 明瞭となる視界。試験実習班の面々もまた、旋風の勢いに負けて距離を離されている。全方位から仕掛けていたことが仇となり、その陣形は乱れてしまっていた。

 今度はこちらの番。立て直すことを許さず、各個撃破に持ち込まんとウォレス准将は槍を構え――

 

 ただ一人、栗色の髪の少女が目に映っていないことに気付いた。

 

(――上か!)

 

 人体における最たる死角。頭頂の先を見上げたウォレス准将は闘気を込めた剣を向けるトワを視認する。巻き起こる旋風さえも利用して頭上を取った彼女は、この試合に幕を引く一撃を放つ。

 気付かれるのにかかったのは一拍のみ。なら、その一拍にねじ込むまで。

 

 宙を流星が駆け、旋風を纏った槍が迎え撃つ。

 

 一瞬の交錯。訪れたのは静寂だった。槍を突き出したまま、刀を振り抜いたままの態勢で止まる二人。試合を見守るヴァンダール門下の誰かがゴクリと喉を鳴らす。

 果たして、先に相好を崩したのはウォレス准将だった。

 

「なるほど――見事だ」

 

 ウォレス准将の軍装には一閃の切れ目が残されていた。それは紛うことなく彼に手を届かせた証。最後の迎撃が掠め、頬先を伝う僅かな血を拭ってトワは安堵する。旋風の鉄壁、何とか切り抜けられたようだ。そんな彼女を、試験実習班を彼は称賛する。

 

「想像以上の腕前、それに期待していた通りの真っ直ぐな剣筋だ。付き合ってくれて感謝する、試験実習班。これで安心して君たちに頼むことが出来そうだ」

「あはは……何が何だかですけど、ご期待に沿えたようでよかったです」

 

 まったくとんでもない目に遭ったが、どうやら相手の満足いく結果にすることはできたらしい。バリアハートでのアルゼイド子爵の件といい、もう少し心構えというものをさせてもらいたいところだが。

 差し出されるウォレス准将の手。脱力気味に頬を緩めながらも、トワは浅黒く力強いそれと握手を交わす。固唾を飲んで見ていたヴァンダール門下生の喝采により、突然の試合は終わりを迎えるのだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「では、改めて名乗っておくとしよう」

 

 練武場の一室。食事や休憩に用いられるそこを借りたトワたちとウォレス准将は、遅めになった昼食をいただきながら改めて面を突き合わせていた。

 

「ウォレス・バルディアス。このサザーラントにおける領邦軍の指揮を任されているものだ。先ほどの非礼は重ね重ね詫びさせてもらう」

「いえいえ。驚きはしましたけど、私たちにとっても得難い経験になりましたし」

「こうしてタダ飯にもありつけたしな。まあ、必要経費だと思っておくぜ」

 

 嘘は言わないまでも騙すような形で四人をこの場に誘ったウォルトンは、頭を下げてから約束通りにこうして食事を用意してくれた。彼の言う通り、食前に試合に臨んでよかったと心底思う。下手をすれば胃に入れたものを戻す羽目になっていたに違いない。

 そんな激しい試合の相手にして元凶であるウォレス准将だが、トワたちとしては彼に対して含むところはなかった。どんな形であれ、達人級の使い手を相手に勝ちを拾えたのだ。万金に勝る糧を積ませてもらった礼は言えども、怒るつもりなど持ち合わせていない。

 寛容な返答に「感謝する」と短く言うウォレス准将。気兼ねする気持ちが晴れてか、彼は気安い感じの笑みを浮かべた。

 

「しかし、まさか一本取られてしまうとは。手を抜いたつもりはなかったが、どうやら俺もまだまだ精進が足りなかったらしい」

「ご冗談を。試合だったからこその結果でしょう」

「だとしても結果は結果です、アンゼリカ嬢。あなた方が見事にこの《黒旋風》を破ってみせたという」

 

 確かにトワたちはウォレス准将に勝利した。とはいえ、それは試合という形式だったからこそ。実戦であれば一太刀入れただけで終わりはしない。最後まで戦えばどちらが最後に立つかは明らかだ。

 しかし、彼は首を横に振る。その勝利を誇ってほしいと言わんばかりに。

 ならば、自分たちも勝利を受け入れよう。四人がかりであっても帝国有数の武人に打ち勝てたというのは、間違いなく試験実習班の大きな成果と言えるだろうから。

 

「――それじゃあ、そろそろ聞いてもいいですか? どうして僕たちを試合に誘い込んだのか」

「どうも俺たちを見極めたかったようだが」

 

 改まっての挨拶がてらの話も済んだところで、ジョルジュが本題を切り出す。何を目的としてウォレス准将はトワたちの前に現れたのか。試合に対する遺恨はないが、それとは別に疑問は胸の内にあった。

 先立って彼は聞きたいことは後で受け付けると口にした。その言葉通り、疑問に対する答えを隠し立てすることはなかった。

 

「ああ。正直、厄介な状況になっていてな。個人的な縁(・・・・・)で聞き及んでいた諸君の力を借りたいと思っての次第だ。無骨者故、信用できるか試すのは手荒になってしまったが」

 

 領邦軍の准将が自分たちの力を借りたいほどの状況とは如何なるものなのか。今ここの環境を考えても、それが言葉通りに厄介であることは明白であった。

 

「わざわざ人払いしてもらったのも、それが理由か?」

「後ろ暗いところはないが、なるべく騒ぎにはしたくない。だから、こうして内密に話せる場を用意したというわけだ」

 

 通された部屋にはトワたちとウォレス准将以外の姿はなかった。ウォルトン含め、ヴァンダールの門下生たちは稽古の最中である。練武場にトワたちを誘うこと、そして秘密裏に話すことが出来る場を用意すること。その二つがウォレス准将がヴァンダール門下に頼んだ要望だった。

 かの《黒旋風》と手合わせ願えるならば、とウォルトンたちも深くは聞かずに了承したそうだ。達人との手合わせという魅力もあっただろうが、武に通じる故に感じ取るものもあったのかもしれない。彼らは律儀にこの部屋に近付いてくる様子もなかった。

 そんな迂遠な手口を用いてトワたちの前に現れたウォレス准将。彼がわざわざそうするまでの理由が今抱える任務にはあった。

 

「聞くまでもないかもしれないが、昨今、帝国各地で魔獣による襲撃事件が多発しているのは知っているだろう」

「それは、まあ。何回か関わっているわけですし」

 

 ケルディック、ヘイムダル、ルーレ。実習の行く先で度々巻き込まれたり頭を突っ込んだりすることになった魔獣騒動。ザクセン鉄鉱山で出会った折、クレア大尉から類似する事件が頻発していることは聞き及んでいる。

 

「甚大な被害こそ出ていないものの、人為的なものと考えられるだけに各地の領邦軍でも無視できない状況になっていてな。各州の情報を統合して捜査が行われている」

「それは……結構な大ごとですね。でも、どうしてパルムに?」

 

 基本的に領邦軍は各州で独立した存在だ。正確に言えば、それぞれ四大名門の傘下に置かれていると表すべきか。

 州を跨って捜査をすることなど早々あることではない。ジョルジュが驚きを口にするのも無理はなかった。そして、その件がどうしてこの場に置いて出るのかという疑問も。

 ウォレス准将は表情を僅かに難しいものに変え、静かに切り出した。

 

「捜査の中で、襲撃を受けた街に必ず訪れている人物がいることが判明した。ボリス・ダムマイアー子爵――他ならないパルムの領主だ」

 

 え、とトワたちの口から間の抜けた音が漏れる。それは、あまりにも予想外な名前だったから。

 

「明確な証拠こそないが、状況的に疑いは持たざるを得ない。俺は事の真偽を確かめるようハイアームズ候より仰せつかっている」

「……冗談、ではなさそうですね」

 

 俄かには信じがたいが、ウォレス准将の口ぶりに偽るものは無かった。確かな捜査の末に容疑者として挙がったのがボリス子爵であることは間違いなく真実なのだろう。

 同時に理解する。どうして内密に話ができる状況を用意する必要があったのか。疑惑の人物の膝元で堂々とこんなことを話すわけにもいくまい。迂遠なやり口は慎重を期するからこそだったのだ。

 

「でも、ボリスさんがそんな……どうして私たちに伝えたんですか?」

 

 あの大らかでおっちょこちょいなところのある子爵が、魔獣事件の容疑者と言われてもピンとこないのが正直な気持ちだ。それに理解が及ばない部分もある。腕が立つとはいえ、たかが一学生の自分たちにウォレス准将はどうして接触してきたのだろう。

 

「言っておいてなんだが、ボリス子爵が犯人とは思えないのは同感だ。ハイアームズ候も懇意にしているだけに疑いたくはないようだが……」

「実際に被害が出ている以上、周りの連中はそれを許さないってことか」

 

 ウォレス准将は重々しく頷いてクロウの言を肯定する。これがサザーラント州単独のことなら違ったかもしれないが、事態は帝国全土に及んでいる。いくら親密な間柄だろうと目を瞑ることは許されない。

 

「それでもハイアームズ候は可能な限り穏便な解決をお望みだ。対話で解決できればいいが、最悪の場合を考えると俺が正面から行くのも躊躇われる。そこで君たちだ」

 

 その言葉で思い至る。そういう魂胆か、と。

 仮にボリス子爵が魔獣事件の犯人だった場合、ウォレス准将が唐突に現れれば当然ながら警戒される。具体的な手段は明らかになっていないが、魔獣を呼び出して抵抗してくる可能性も十分に考えられるだろう。町への被害も考えると、それは避けたい展開だ。

 ならば、警戒されない人物を送り込めばいい。試験実習で訪れているトワたちが現地責任者であるボリス子爵と接触するのは何ら不自然なことではない。まず探りを入れるにはこれ以上の手はないように思えた。

 

「それとなく尋ねて白か黒かを見極める。そういうことですか」

「ああ。疑いだけで済むのならそれでよし。もし真なら……その時はその時だ」

「なるべく考えたくはないですね、それは」

 

 おそらく領邦軍の部隊も郊外で待機しているのだろう。しかし、それはごく少数に留まっていると推測された。穏当に事を済ませるのに大部隊を率いてきては本末転倒だ。

 それでも万が一を考えて、一騎当千の実力を持つウォレス准将自らが出張って来たというところなのかもしれない。彼ほどの武人ならば、魔獣がいくら出てこようと蹴散らすのは訳ないということは先の試合で十分に理解している。

 尤も、そんな事態にならないことが最善だ。その如何はトワたちの働きに掛かっているといっても過言ではない。

 

「当然ながら危険が伴うことになる。無理強いはしない。受けるかどうかは君たちの判断に任せよう」

 

 現時点でボリス子爵に掛かっているのはあくまで容疑。その真偽を確かめるのは容易なことではないだろう。下手に刺激すれば魔獣による逆撃を食らう、という可能性もある。

 それでもトワたちの答えは決まっていた。四人は目を見合わせて頷きあう。そこに迷いは一欠片もない。

 

「その依頼、お受けさせてもらいます。私たち自身の目で真実を見極めるためにも」

「あのオッサンにはなんだかんだ世話になっているからな。ここで無関係を装うわけにはいかねえよ」

 

 試験実習班としても既にボリス子爵とは浅からない縁だ。そんな彼に容疑が掛けられていると知って、黙って見過ごすわけにはいかない。

 無実なら自分たちの知る限りを話して弁護しよう。真実なら何としてでもその真意を問い質してみせよう。彼の前に立ち、それを見極める機会が与えられるのならば、トワたちに話を受けない理由はなかった。

 答えを受けてウォレス准将は口角を上げる。それは期待通りの答えだったからか。

 

「ありがたい。俺はこの練武場で待機している。何かあったらすぐに連絡を寄越してくれ――君たちに風と女神の導きがあらんことを」

 

 馴染みのない祈りを口にするウォレス准将に見送られ、トワたちは練武場を後にする。目指すはボリス子爵の待つ紡績工場。

 試験実習の端緒より関わることになり、因縁めいたように鉢合わせることになってきた魔獣事件。その真実を見極めるために、彼女たちは先を急ぐのだった。

 



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第48話 魔の音色

閃の軌跡Ⅳ、クリアしました。ありがとうファルコム! 楽しかった!
ネタバレを含めた感想は活動報告に上げておきましたので、よろしければそちらをご覧ください。

それはともかく、拙作としては大変なことになってしまいました。
設定が食い違うならともかく、まさか設定が噛み合いすぎてぶっ飛んだことになってしまうとは思ってもいなかったと言いますか……決して悪いことではないのですが、バランスを取るのに難儀することになりそうです。


「さて、勇んできたはいいが、具体的にはどう攻めようか」

 

 ウォレス准将からの依頼を受け、ボリス子爵への疑惑の真偽を見極めんと紡績工場近くまでやってきたトワたち。しかし、その足は道中の路地で止めることになる。

 このまま無策で突っ込んでいって馬鹿正直に「貴方が犯人か」と聞いても、相手を戸惑わせるかしらを切られるだけだ。それでは意味がない。どうにかボリス子爵に判断材料になるだけの情報を口にするよう仕向ける必要があった。

 一口に情報といっても色々ある。どのような情報を引き出そうとするか次第でやり方は変わってくるだろう。まずはそこを考えなければ。

 

「動機、手段、アリバイ。この内のどれかが分かればいいんだけど」

「まあ、順当なところだな」

 

 犯罪捜査には詳しいわけではないが、鍵となる要素くらいは承知している。容疑を固める、或いは嫌疑を晴らすにはそれらを明らかにするのが手っ取り早い。

 とはいえ、そのどれでもいいわけではない。今回の場合を鑑みると、白日の下にさらすのが難しいように思えるものもある。

 

「アリバイに関しては証明するのは不可能に近いんじゃないかな。どうやら魔獣を操るのに相当自由が利くみたいだ。時間差とかも考えだしたら切りがない」

 

 如何なる手段を以てしてか、犯人は巧妙に魔獣を操ることを可能としている。帝都で目にしたのがいい例だろう。限定的であるが、犯罪グループという他人に手綱を渡すという離れ業さえ実現していた。

 考えられる可能性が多ければ多いほど、ボリス子爵のアリバイを立証するのは難しくなる。そもそも魔獣が操られてから襲撃が起こるまでの時間間隔が分からない。この線で考えても思考の迷路に嵌るだけに思われた。

 アリバイの線は無し。ならば、他はどうだろうか。

 

「そもそも何の目的があって魔獣に襲わせているのか判然としないね。いっそのこと愉快犯だったら納得なのだが」

「そりゃ同感だが……あのオッサンが本当にそうなら、大した面の皮の厚さだぜ。ちょっとやそっとじゃ剥がせそうにねえな」

 

 帝国各地で散発している事件は何を狙ってのものなのか不可解だ。どうやら領邦軍の方でもそれは同じらしく、ウォレス准将からそれに類する情報を得ることは叶わなかった。

 何か自分たちには及びもつかない目的があるのか、はたまた事件を起こすそれ自体が目的なのか。面白半分という享楽的な動機の方がまだ筋が通るような状況である。その場合、非常に性質が悪いのは言うまでもないが。

 どちらにせよ、ボリス子爵が胸の内にそんなものを抱えているとは俄かには想像しがたかった。他人の本心など傍目から理解することなどできないといえばそれまでだが、今まで目にしてきたひょうきんな彼が嘘とも思えない。

 帝都から始まり、実習の度に顔を合わせてきたが、その中で気のいいオジサンを崩すことはなかった。もし本当に犯人だったなら、役者として生きていくことを勧めたいくらいだ。そんな相手の魂胆を暴き出すのは困難に違いないだろう。

 

「やっぱり、魔獣を操っている手段から探るのがいいと思う」

 

 そうなると糸口は限られてくる。残されたのは現段階においても比較的情報がある犯行手段、実際に魔獣を操っている絡繰りから解き明かすものだ。

 犯人は魔獣を一種の催眠状態にする手段を有していると思われる。帝都における一件でも推測されたが、広範囲にわたる多数の魔獣を従えるとなると音波を用いたものと考えるのが妥当だろう。ルーレでは人が立ち入るのが難しい山岳方面から魔獣が出没したのもあって、その推測は信憑性が高まっていた。

 しかし、単なる催眠術であれだけの魔獣を操れるわけもない。魔鰐や魔鷲、トワたちを襲った強大な魔獣ともなれば、本来なら通用すらしないはずだ。

 それなら、どうして。疑問を解消し得る答えを求めて、トワは推測を重ねる。

 

「多分だけど、犯人は古代遺物(アーティファクト)を使っているんじゃないかな」

「ふむ……私たちの身近で言うと、ノイがそうだったね」

『個人的には不本意だけど、そうなの』

 

 目には見えずとも、きっと眉をしかめていることだろう。そんなノイの言葉の通り、彼女は便宜上人格を持った古代遺物の一種として扱われている。

 古代ゼムリア文明の産物である多種多様な品々。現代の技術では考えられない現象さえ起こし得るそれらは本来、七耀教会によって管理されるものだが、教会もその全てを把握しきれているわけではない。

 未だ古代の遺跡に眠るもの、そして古くから血族の中で受け継がれてきたもの。そうした類を個人が発見或いは継承することもあり得るだろう。

 

「普通なら無理なことを可能にしているなら、そのための特別な手段が必ずあるはず。ボリスさんがそうしたものを持っているか確かめられたら……」

「犯人かどうか見極める鍵になる、か。確かに有力な手掛かりにはなりそうだ」

 

 当然ながら、そう簡単にボロを出したりはしないだろう。はたまた無関係かもしれないだけに、その判別は難しい。

 しかし、トワたちは取っ掛かりを既に手にしていた。昨日の怪盗紳士ブルブランが起こした騒動。その折に耳にした情報がよい口実になる。

 

「元は勘当同然だったとか陰謀染みた火事やら、あのオッサンも色々とありそうだ。そこから古代遺物に心当たりがないか探っていければ上々ってところか」

 

 本当はそのことについて深く尋ねるつもりはなかった。焼け落ちた屋敷で見せたドミニクの様子や、あの封鎖された廃道について口を噤む町の人々。過去に何か忌まわしい出来事があったと察することくらいはできる。

 だとしても、こうなってしまった以上は話は別だ。そこにボリス子爵の疑惑を解き明かす手掛かりがあるのなら、隠された過去を暴くのを躊躇うべきではないだろう。

 それに、もしかしたら何らかの形で今回の一件と繋がっているのではないか。漠然としたものではあったが、トワにはそんな予感があった。

 

「作戦会議はこんなところか。後は相手の出方次第だね」

『あんまり時間に余裕もないの。すぐに片が付けばいいんだけど……なんだか天気も崩れそうだし』

 

 そびえる紡績工場を仰ぎ見る。その向こうの空には、午前とは一転して薄暗い曇天が広がりつつあった。

 

「さっさと終わらせてさっさと帰るとしようぜ。まあ、降ってきたら我らが天使様に雨雲を払ってもらうとしようかね」

「当てにしてもらって悪いけど、そういう利己的な使い方はしないからね」

「出来はするのか……」

 

 自然は自然の流れに任せるのが一番だ。いくらそれを操る力があるといって、好き勝手にしていたら調和を乱すことになる。残念ながらクロウの目論見はお断りだ。

 そんなやり取りを交わしながら路地を出て、いざ紡績工場へ。これがパルムにおける試験実習の大詰めになるだろう。気を引き締めたトワたちは疑惑の人物の元へと朝来た道を辿るのであった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「おや、早いものだ。もう依頼は片付いたのかね?」

 

 紡績工場の一角、ボリス子爵の執務室を訪ねたトワたちを出迎えたのは部屋の主の意外そうな声だった。他に人影はない。どうやら彼一人のようだ。

 

「はい。思ったよりもスムーズに終わって……ドミニクさんはお出かけですか?」

「少し外回りに行くと言っておったよ。私としてはそこまで熱心に働かなくてもいいと思うのだが」

 

 やれやれとでも言いたげに肩を竦めるボリス子爵。雇い主としてはどうなのだろうかと思うが、そこが彼らしいところでもあるのだろう。

 こんな所作を見ていると、尚更に彼が魔獣事件を起こしている犯人などには考えられなくなってくるが……今はその気持ちに蓋をして、目的を果たすために話を進める。

 

「そうでしたか。帰るまでにご挨拶出来たらいいんですけど」

「まあ、彼もしばらくしたら帰ってくるだろう。時間もあることだ。報告がてら、ゆっくりしていきたまえ」

「そんじゃ、お言葉に甘えさせてもらいますかね」

 

 秘書であるドミニクが不在なのは意外ではあったが、この場合は都合がいい展開とも捉えられる。余計なことを気にせずにボリス子爵から話を聞くことが出来るのだから。

 常に行動を共にしていたドミニクにも事情を聞いてみたいところではあるが、それは後に回しても問題はないだろう。まずは疑惑の中心にいる人物を見定めてからでも遅くはない。

 勧められるままに応接間のソファに腰を下ろし、いそいそとお茶の準備をしてきたボリス子爵が対面に座る。子爵家当主にしては随分と用意に手慣れているが、そこはもう今更だろう。伝え聞いた彼の境遇を考えれば持ち合わせて当然の技術とも言えた。

 

 ともあれ、まずは依頼の報告から入ることにする。目的は別にあれども、それを気取られるわけにはいかない。

 元から頼まれていたものはつつがなく終了し、ヴァンダール流の練武場で試合に誘われたことも報告しておく。あれも一応は依頼の範疇だ。流石にウォレス准将と手合わせする羽目になったとは言わないけれど。

 

「ほう、ヴァンダールのところに。彼らには町の見回りや周辺に魔獣が現れたときに力を貸してもらっていてね。いい勉強になっただろう?」

「ええ、まあ……」

 

 素直に話すわけにもいかないので歯切れが悪くなるのは致し方ない。ある意味において、とても勉強になったのは確かではある。嘘をついていることにはならない……と思う。

 

「仕事が早くて助かるよ、本当に。おかげで溜まっていた案件も片付いた。近頃は遊撃士もとんと姿を見なくなったから、こういう細かなところに手が追い付いていなくてね」

 

 感謝を告げながらも、どこか疲れたような笑みを浮かべるボリス子爵。一見してちゃらんぽらんな彼であるが、領主として色々と考えたりそれなりに苦労はしているようだ。

 その助けとなれたのは嬉しい――だが、今の自分たちの務めはそんな彼を見極めることにある。私情は排し、可能な限り客観的な目で。そうしなければ真実を知ることは叶わない。

 報告も一通り終わった。時期と見たトワは一つの問いかけをボリス子爵に投げかける。

 

「そういえばボリスさん、町で気になる話を聞いたんですけれど」

「ふむ?」

「ボリスさんが昔、労働者の為に子爵家に抗議運動を起こしたって。後学のために、よければ話を聞かせてもらえませんか?」

 

 いきなり本題から入っても相手を構えさせるだけだ。手始めに聞くのは彼の過去、工場の古株から教えてもらった若かりし頃の武勇伝である。

 ボリス子爵は目をパチクリと瞬かせる。まるで予期していなかったのだろう。何度か反芻してようやく意味を理解したのか、今度は深々とため息をついた。

 

「……誰に聞いたのかね?」

「ここの現場監督さんから、少し」

 

 余計なことを、とため息をもう一つ。そこに悪感情があるわけではない。けれども、どこか居た堪れない様子でボリス子爵は身動ぎする。

 

「あー……あれは何と言うか、若気の至りというか……そう自慢できる話でもないのだが……」

「まあまあ、実習としてもパルムの歴史を知るのは有意義なことでありますし」

「オッサンの昔話くらい減るもんでもないだろ? 適当な時間つぶしとでも思ってよ」

 

 渋るボリス子爵をアンゼリカとクロウがそれっぽいことを口にして説得する。話の取っ掛かりを作るため――の筈なのだが、どうも嗜虐心が透けて見えるのは気のせいだろうか。

 うーむ、と唸っていたボリス子爵だが、逃がしてくれる様子のない二人を見て観念したようだ。再三のため息をつくと苦笑を浮かべた。

 

「仕方あるまい。あまり面白い話でもないが、いいかね?」

「はは……ええ、よろしくお願いします」

 

 同じく苦笑い気味のジョルジュが促す。うむ、と一息ついたボリス子爵は話を切り出した。

 

「この紡績工場が操業を開始してから五年ほど経った頃のことだ。初期は手探りだったところもノウハウを身に着け、生産量も安定して増加していっていた――そのまま堅実に経営していればよかったのだが」

 

 導力革命の初期に操業を始めたこの導力式の紡績工場。今でこそ生活に密着した導力だが、その当時はまだまだ馴染みのない新技術だった。その仕組みに慣れるまで現場では苦労することも多かったのだろう。

 それも年数が経てば経験が蓄積されてくる。徐々に生産体制も整い、安定した操業が見込めるようになってきた。

 ここにきて、ようやくダムマイアー子爵家の投資は実りを迎えたのだ。より早く、より均一に。職人の手によるものとは異なり、導力式紡績機は一度軌道に乗れば段違いの生産効率を可能にする。例え初期の導力器であっても、手作業とは雲泥の差があった。

 安くて上質な製品があれば売れないわけがない。複雑な刺繍や染色こそ難しかったが、一般生活レベルの衣類に用いるなら十分なものを安定して供給できるようになったパルム。目ざとい商人から我先にと飛びつき、子爵家は投資に見合う成果を得ることが出来た。

 ただ惜しむらくは、そこで足元を省みずに欲をかいてしまったことだろう。

 

「おおよそは既に聞いたかもしれんが、時の当主……私の父は更なる生産拡大を強引に進め始めた。未成年者などの不当な雇用に、農家には原料の生産の強制。中央からの法の目も行き届いていない時代、領民にそれを拒む術はなかったのだよ」

 

 今でこそ帝国政府の力が強まり法整備も進んだことで、労働関連のモラルは概ね保たれている。しかし、当時は導力革命から間もない頃。地方においては領主が法といっても過言ではない時代だった。

 全てはより多く生産し、より多くのミラを稼ぐために。子供を安い賃金で働かせられる労働力として扱い、拡大し続ける生産に追いつくよう農家に原料の生産を義務付けた。

 子爵家は確かに富んだのだろう。だが、それは民を犠牲とした繁栄だ。間違っても領主として褒められる行いではない。

 

「問題はそこだけに留まらん。その行いは伝統的な染織物を作ってきた職人の尊厳さえも貶めた」

「職人の……安価な商品の席捲、ううん、そもそも原料の供給を断たれてしまって……?」

 

 トワの推測にボリス子爵は重苦しく頷く。それは無言の肯定だった。

 安くて質の良い商品が流通すれば、それに劣るものが淘汰されるのは経済における必然。職人技でしか作れない精緻なものであれば話は別だが、今まで担ってきたものの多くを奪われたのは想像に難くない。

 その職人技さえも、振るう場を失ってしまえば意味をなくす。領主が原料の占有を進めるにつれ、職人たちの仕事は目減りしていく。抗う術も持たず、彼らは鬱憤を抱えて燻るしかなかった。

 

「領民の間近で育った私には、どうしてもそれが正しいことだとは思えなかった……ああ、私の生まれについては聞いたかね?」

「まあな。とんだやんちゃ坊主だったとか」

「はっはっは、そんなところだ」

 

 子爵家の妾腹の子。そんな身の上に生まれたボリス子爵は、貴族としての勉強もそこそこに町の子供たちと泥だらけになって遊ぶ少年だったそうだ。

 そんな彼が近しい人たちの窮状に何もせずにいられるわけもなかった。決心した彼はついに子爵家に反旗を翻す。

 

「領主だからといって民の生命を脅かしていいわけがない。労働者に農家、職人も説得して大規模なストライキ活動に私は乗り出した。彼らの権利を勝ち取るために」

 

 若かりし頃の想いが蘇ったのか、語り口に熱がこもるボリス子爵。そこには確かに民を想い、彼らを守ろうとした貴族としての矜持があった。思わずトワたちの方も聞き入ってしまう。

 

「――といっても、そう簡単に相手が折れないのは分かっていたからね。最初から七耀教会に根回しして、暫くしたら仲裁してくれるよう取り計らっておいたのだよ」

 

 が、次の瞬間にはいつもの惚けた様子で「はっはっは」と笑っていた。直前までの熱の入りようが嘘のような切り替わりに、聞き入っていた側としては肩透かしを食らった気分だ。

 それもボリス子爵らしいといえばその通りだろう。どうやら彼は若い頃からこんな調子だったらしい。惚けているようで強かなところもあり、相手取るには面倒だが味方としては頼もしい人である。

 

「子爵家もセントアークの大司教まで出張ってきては矛を収めざるを得なくなった。喧々諤々の交渉の末、工場の経営権を委任することで決着がついたのだよ……その権利が私に転がり込んでくるとは思わなかったが」

「いや、むしろ妥当だと思いますけど……」

 

 ジョルジュの真っ当な突っ込みに三人も頷いて追随する。事の経緯を考えれば、その結末は必然と言ってもいい。

 紡績工場は子爵家の資産。横暴な経営だったとはいえ、それを領民に「はい、どうぞ」と差し出すわけにもいくまい。家を裏切りはしたものの、血縁があるボリス子爵に委ねた方がまだ面目が立つ。

 一方、領民としてもその決定に異議を持つ者はいなかったはずだ。何せ自分たちの窮状を打破した立役者である。勝ち取った権利を任せるに足る信頼が生まれていたのは何ら不自然なことでもないだろう。

 

「とまあ、そんな経緯で工場長の座に収まり仕事に忙殺される日々を送る羽目になったわけだ。もう少し自由を謳歌していたかったものだが」

 

 実習先で見た限り、今現在においても相当に自由な振る舞いをしているように見えるのは気のせいだろうか。わざとらしい大きなため息にトワは曖昧な笑みを浮かべることしかできない。

 

「なるほど。ちなみに、それ以降の子爵家はどんな様子で?」

「私が家の敷居を跨げなくなったのは当然として、表向きは大人しいものだったよ。適正な業務に見合ったものに落ち着いたとはいえ、工場の利益はちゃんと懐に入っていたわけだからね」

 

 経営権は手放したとはいえ、工場の資産そのものは子爵家のものであることに変わりはない。正当な雇用と報酬が保証されるならば、ボリス子爵や領民側にも事を荒立てる意思はなかった。ただ、目論んでいた利益までは望めなくなったというだけで。

 そうなったのは自業自得とはいえ、家を裏切ったボリス子爵に隔意が出来るのは避けられなかった。以来、彼は本家の敷居を跨ぐことは叶わず、やり取りも仕事上の事務的なものに終始したという。

 

「分からねえもんだな。そんなあんたが、今では子爵家の当主だなんてよ」

 

 そこにクロウが攻める。ボリス子爵の表情に苦いものが浮かんだ。

 本来ならば彼にわたるはずのなかった当主の座。家から遠ざけられた彼は、微妙な距離感を保ちつつも工場長としての職務を全うするだけだった筈だ。

 だが、そうはならなかった。子爵家の人間は彼を除いて不審な火事に消えることになり、空席となった当主をやむなく引き継いで今の彼がある。過去の出来事を知るものであれば、まさかそうなるとは思いもしていなかっただろう。

 

「その……子爵家の方々は火事でお亡くなりになったと聞きましたが」

「ボリスさんの方でも、その原因とかはご存じではないんですか?」

 

 ここからが正念場だ。慎重に言葉を選んで口にする。

 彼が子爵の地位を継ぐことになった原因、領主邸の焼失。古代遺物に繋がる鍵があるとしたら、その暗いヴェールに覆い隠された中だろう。どうにか聞き出せればいいのだが。

 内容が内容だけに、ボリス子爵の面持ちは優れない。殆ど絶縁状態だったとはいえ、自分以外の一家郎党が一夜にして全滅したのだ。情がある人間なら堪えて当然の惨事である。

 

 ――ただ、何だろう。トワの目にはそれだけではないように見えた。悲哀の中に、深い悔恨が同居しているような。

 

「私は何も……いや、もう十年も経ったのだ。少しは吐きだしてもよいのかもな……」

 

 自分に言い聞かせるようにボリス子爵は言葉を零す。ずっと胸の内に閉じ込めてきたもの、その箍が歳月を経て緩んだのかもしれない。或いはトワたちに対して気を許していたこともあったのだろう。彼は大きく息をつくとぽつりぽつりと語りだした。

 

「……私の口から仔細を語ることは適わないが、ダムマイアー家の人間がああなった(・・・・・)のは彼らが許されざる行いをしたからだ。貴族として、人としてあるまじきことを……その遠因となった身が、糾弾する資格などありはしないが」

「……その遠因というのは?」

 

 仔細を語ることは適わない、その言葉通りにボリス子爵は絶対に口を割らないだろうという強い意志を感じた。ダムマイアー家が何を犯したのか、教えることが出来ないというのなら仕方ない。それについて踏み込むのは避けるとしよう。

 ただ、それに関わること。ボリス子爵が自身を遠因と語る何かを聞くことは許されるだろう。トワたちが知りたいのはもとより、彼としても誰かに聞いてほしいのだろうから。

 

「先ほど利益はちゃんと懐に入っていると言ったが……それは、あくまで金銭面でのこと。私が造反を成功させて以来、貴族社会においてダムマイアー家は失墜したと言っていい」

 

 妾腹の子が民衆を束ね、父たる領主から権利を勝ち取った。平民の視点からすれば、勧善懲悪の武勇伝にも聞こえるだろう。

 だが、貴族社会においては違った。それまではかつてない隆盛を謳歌していたというのに、驕り高ぶった末に身内から裏切られ、紡績業における実権を奪われた愚かな領主。隆盛の旨味に与ろうとすり寄ってきていた者たちも瞬く間に離れ、称賛と羨望は冷笑と侮蔑に変わったという。

 

「導力革命の進展によって、帝国内における主流が重工業に移ったことも大きかった。一時の繁栄を味わっただけに、その凋落は尚更に堪えたことだろう」

「それで、貴族社会で力を取り戻すために……」

「うむ……きっと、そうなのであろうな……」

 

 若かりし頃のボリス子爵は自分が正しいと思う行いをした。それは倫理的に見ても間違っていなくて、多くの人が肯定こそすれ否定はしないだろう。

 それでも、その行いが巡ってダムマイアー家が道を誤ることに繋がったのならば。誰も責めなかったとしても、他ならないボリス子爵自身が罪の意識を抱いてしまうのは無理もないことなのかもしれない。

 

「私が別の道を選んでいれば、もしやしたら()も……今になっては栓のないことだがね」

 

 消沈した様子の彼にトワたちはただ耳を傾けることしかできない。これは彼が胸に抱えるもの。事情を半分しか知らない自分たちの言葉で和らぐものではなく、彼自身が気持ちの整理をつけることでしか解決できないのだから。

 そうだとしても、話を聞くことで少しはその手助けができたのだろうか。力のない笑みを浮かべるボリス子爵の顔つきは、先よりも穏やかに見えた。

 

「……ありがとう、トワ君たち。おかげで少し気持ちが楽になったよ」

「いえ……こちらこそ、お話してくれてありがとうございました」

 

 十年以上にわたって抱いてきた罪の意識。重く苦しいそれを吐き出すことで、心に圧し掛かるものを軽くできたのなら良かったと思う。

 この様子なら、直接的に聞いても大丈夫だろう。改めて自分たちにとっての本題を切り出した。

 

「お話ついでに伺いたいのですが、屋敷跡には何か残っていたんですか? 領地運営に必要なものや、少なからない財産があったと思いますけれど」

「ふむ? 残念ながらほぼ完全に燃えてしまってね。役に立つようなものは何も……ああ、あれがあったか」

 

 少し待っていたまえ、とボリス子爵は席を外す。執務室の奥に引っ込んだ彼は、そう時間を置かずして戻ってくる。その手には煤けた鉄製の箱のようなものがあった。

 

「金庫、でしょうか。あまり大きくはありませんが」

「焼け跡にただ一つ残っていたものだ。導力式で、開け方も分からんから仕舞ったままになっていてね……」

 

 屋敷が燃え尽きるような火事の中でも運よく形が残ったのか。落ちない煤に黒ずんではいるものの、その金庫は機能を損なっているようには見えない。おそらくは中身も無事だろう。

 とはいえ、かつて使っていた人間は既にこの世にはいない。キーコードを打ち込む形式のようだが、その正しい答えを知る由もなければ開けることは望めなかった。

 開かない金庫など無用の長物。かといって肉親の遺品を処分するのも躊躇われたのだろう。金庫に目を落とすボリス子爵の瞳には複雑な色が宿っていた。

 

「……どうやら初期型のものみたいだね。これなら開けられるかもしれない」

「お、マジかよ」

「最初期のものは構造が単純だから何とかなると思う。少しコツがいるけどね」

 

 頼もしいジョルジュの言葉に期待の目が集まる。それはボリス子爵も同じ。考えるような素振りを見せた後、彼はジョルジュに頼みを告げる。

 

「私からもお願いしよう。これも女神の巡り合わせかもしれん。過去に折り合いをつけるためにも……頼めるだろうか?」

「ええ、任されました」

 

 手持ちの工具を取り出したジョルジュは早速開錠に取り掛かる。これで上手くいけば子爵家の遺産が明らかになる。そうなれば、一先ずボリス子爵への嫌疑は解いてもいいと思う。

 話を聞いている中で改めて思ったが、彼が魔獣事件を起こすような人間にはどうしても考えられない。嘘を言っている様子もなく、抱えていた罪悪感も本物だ。

 後でウォレス准将とも直に話してもらえるか掛け合ってみよう。きっと悪いようにはならないはずだ。

 

「気が早いかもしれんが……その中身は、七耀教会に処分を任せようと思っている。トワ君たちにもそこまで付き合ってもらえたら嬉しい」

 

 ふと、ボリス子爵がそんなことを口にした。その意図が掴めなくてトワは首を傾げた。

 

「それは構いませんけれど、いいんですか? たった一つの遺品なんじゃ」

「……昔に一度、私はその中身を見たことがある。縁を切られる前のことだ。祖先がオスギリアス盆地で手に入れた家宝だと、父が自慢げに話していたのを覚えているよ」

 

 過去に思いを馳せる彼は遠くを見ている。その目に怯えのような色が見えたのは、きっと気のせいではなかったのだろう。

 

「私にはおぞましいものにしか見えなかった。それを手に嬉々とする父が理解できなくて……思えば、屋敷から遠ざかったのはそれが理由であったのかもしれん」

 

 冗談でも何でもない、深い実感のこもった言葉だった。彼にそこまで言わせるものとは何なのか。自然、トワたちの金庫を見る目は険しいものになる。

 やがて、カチリと錠が開いた音が静まっていた室内に響く。ジョルジュが場所を譲り、ボリス子爵の手によって金庫の扉がゆっくりと開かれた。

 

「ああ、そうだった。こんなケースに入っていて……」

 

 まず目に入るのは、細長い形の重厚なケース。黒塗りの上に細緻な装飾が施されたそれは、高級感と同時にどこか怪しげな雰囲気を漂わせている。

 記憶と重ね合わせるように呟きながらケースに手をかけるボリス子爵。少し躊躇うように動きを止め、そして決心して数十年ぶりにその中身を自らの前に晒す。

 

 

「――――は?」

 

 

 そこには、何もなかった。

 詰められた紫色のクッションには、確かに何かが収められていた跡がある。けれど、その肝心の何かは姿かたちも存在しなかったのだ。

 想定外の事態に困惑する。その中でも最も動揺しているのはボリス子爵だった。消えた過去の遺物に彼は焦燥の色を隠せない。

 

「馬鹿な……い、いったいどこに消えたというのだ……?」

「……ジョルジュ君、他に誰かが開けた可能性は?」

「いや、僕より前に無理矢理開けたような形跡はなかった。火事よりも前に持ち出されたか、それとも……」

 

 この金庫はずっとボリス子爵の執務室に置かれていた。無理に開けた様子もないとなれば、中身が消えたのは火事よりも以前と考えるのが自然だろう。形跡を残さず、正規の手段で開けたというのなら、キーコードを知る人間にしかそれは成し得ないのだから。

 

 ――それとも、形跡すら残さないで開ける手段でもあったのだろうか?

 

「……おい、何か聞こえねえか?」

 

 事態は動く。まるで金庫を開けたのを皮切りとするように。

 クロウの言葉に耳を澄ませる。確かに、何か妙な音が響いてくるのが聞こえた。気になって窓を開け放てば、それはより明瞭となる。

 それは魔性の音色であった。おどろおどろしく、背筋が泡立つような。この世のものとは思えない妖しき調べが空の向こうより響いてくる。

 何かが起きている。何か、善くないことが。

 消えた遺物も気になるが、まずはこの事態を確かめなければ。そう考えて動き始めようとした時だった。

 

「――そうか、そういうことか!!」

「あっ、ボリスさん!?」

 

 途端に何か思い至ったかのように叫ぶや否や、ボリス子爵は走り出してしまう。制止する間もなく、彼は常ならない必死の形相で執務室を飛び出してしまっていった。

 

「ええい、とにかく追うとしよう! 嫌な予感がする!」

「わ、分かった!」

 

 後を追ってトワたちもまた外へと駆け出す。言いようのない胸騒ぎを感じながら。

 依然として魔の音色は響き渡る。先にも増して、その空には暗雲が立ち込めていた。

 





……でも二次創作界隈には超強化されたリィン君とか結構いるわけですし、

マクバーンと神々の闘争を繰り広げるトワがいても問題ないですよね。


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第49話 降魔

改めて考えるとヤベー奴しかいない試験実習班とかいう連中。

ミトスの民
テロリスト兼蒼の起動者
地精
変態

これは紛れもなく帝国の多様性を示すⅦ組の前身ですね(白目)


 ボリス子爵を追って工場の外に飛び出したトワたち。暗雲立ち込める空に奇怪な音色は響き続けている。普通の音の響き方ではない。少なくとも町の近くではないと思われるが、どちらから聞こえてくるのかも分からない不自然なそれに警戒が募る。

 そこへ町の郊外から走ってくる人影が目に入った。農家の人だろうか。表情は怯え、まるで何かから逃げてきたかのよう。いち早く反応したボリス子爵が彼らのもとに駆け寄る。

 

「君たち、いったい何があったのかね!?」

「こ、工場長! それが、妙な音が聞こえてきたと思ったら急に魔獣が暴れ初めまして……!」

 

 覚えのある現象だ。催眠にかけられたように暴れ狂う魔獣、鳴り響く不穏な音色。かねてからの推測に確信を得るには十分な状況だった。

 

「愚かな……! 何を思ってこんな真似を……」

「……心当たりがあるなら聞きたいところだが、悠長にしている暇はなさそうだ。下がってな!」

 

 街道門の先を睨み据えたクロウが鋭い声をあげる。獣、鳥、虫、雑多な姿かたちの蠢く黒い影たち。パルムの町に魔獣の群れが迫りつつあった。

 逃げ込んできた人々を背に回し、トワたちは得物を構える。町の中にまで入られたら厄介だ。ここで食い止めるべく、押し寄せる魔獣を迎え撃つ。

 

「さっさと片付けんぞ! 足を止めたら一気に斬り込め!」

「うん、任せて!」

 

 狙うは速攻。先手を取ったクロウが広範囲にばら撒くように二丁拳銃を乱射する。張られた弾幕に否応なく足を鈍らせる魔獣。動きを止めた時点で彼らの命運は決した。

 空を切り裂く刃の閃き。一息に距離を詰めて群れの中にトワが飛び込んだ。瞬く間に急所を斬られた数体が倒れ、脅威に感づいた他が意識を向ける頃には逃れ得ぬ一刀が宙を舞う。高速の三次元機動による強襲で魔獣は一挙に混乱状態に陥った。

 浮足立つそこに追撃が襲う。拳と機械槌を振りかぶったアンゼリカとジョルジュが正面から仕掛ける。例え群れようとも、所詮は操られただけの統率のない集団。足並みを崩せば駆逐するのは難しくはない。

 

「――む、もう終わりか。あまり手応えはなかったね」

 

 もはや四人にとって街道の魔獣程度は敵ではなかった。試験実習班の結成よりおよそ五か月。戦術リンクを完成させ、ついには二人でサラ教官を打倒するまでに成長した彼女たちは事もなく群れを一蹴する。

 

「アン、あまりそういうこと言っていると……ほら来た」

「手配魔獣級もいるみたい。皆、気を抜かないでいくよ!」

 

 しかし、この状況における脅威は単体の戦闘力にあらず。数という単純明快な要因にこそ帰結する。

 後続の群れに対して引き続き迎撃の態勢を取るトワたち。間断なく迫りくる数が勝るか、磨き上げてきた質が勝るか。背中にあるパルムの町を守るため、臆することなく彼女たちは戦い抜かんとする。

 

「――いや、それには及ばない」

 

 その緊張は、後ろから聞こえた力強い声により解かれた。

 疾駆する影。振るわれるは旋風を纏いし十字槍。黒き風の一突きは大型魔獣を容易く撃破し、その余波で周囲の雑兵までも吹き飛ばす。

 たった一撃で魔獣の集団を壊滅させた浅黒い肌のその人に安堵の息が漏れる。流石に達人級の背中は安心感が違った。

 

「ヒュウ、さっすが」

「准将閣下、来てくださったんですね!」

「遅れてすまなかった。だが、これで町の守りは盤石にできるだろう」

 

 颯爽と駆けつけたウォレス准将。その背を追うようにサザーラント領邦軍の部隊が現れる。装甲車が一台に随伴の歩兵部隊。魔獣を相手取るには十分な陣容だ。

 

「第二小隊、アグリア旧道方面の防衛線を構築! 決して町に近付けるな!」

「「「了解(イエス・コマンダー)!」」」

 

 展開していく部隊。魔獣がどれだけ押し寄せてくるか分からないが、少なくともこれで町への被害は抑えられるだろう。

 しかし、ウォレス准将の言葉を聞くに部隊は他にも展開しているようだ。つまるところ、魔獣が別の場所にも現れているということ。その推測は程なく肯定された。

 

「パルム間道方面は第一小隊が、サザーラント街道方面はヴァンダールの者たちが当たってくれている。ひとまずはこれで難を凌げるだろう」

「ヴァンダールの方々も……それは心強い」

「ああ、手勢が少なかっただけに助かった」

 

 危急の事態に対応してくれているのはウォレス准将の部下だけではない。この町に暮らすヴァンダールの人々もまた得物を手に取り、その守護の剣を振るっているのだという。この状況においては何よりの助けだった。

 それにしても、まさかパルムに通じる三方向全てから魔獣が襲撃してきているとは。規模は違えども、これまでに経験してきた魔獣事件。その中にはなかった「苛烈さ」とでも言うべきものを感じる。

 今までの事件とは何かが違う。それは間違いないだろう。

 

「おお、ウォレス君。君が来ているとは……何故、と問うのは状況を見るに無粋なのだろうね」

 

 一旦の安全が確保されたのを見てか、ボリス子爵が近付いてくる。同じ州に属しているためか顔見知りであった様子のウォレス准将に対し、彼は申し訳ない様子で眉尻を下げた。

 どうやらボリス子爵も薄々と事情を察したようだ。早すぎる領邦軍の到着、准将と見知った様子のトワたち、そんな彼女らが自分に対して問いを投げかけてきたこと。加えて現状を鑑みれば、おのずと答えは見えてくる。

 

「ええ――どうやら子爵閣下への嫌疑は正しく、そして間違っていたようです。詳しい話は後に。まずはこの調べの根元を断たねば」

 

 睨むように空を見上げるウォレス准将。魔獣を狂わせる元凶と思しき音色は未だに止まる気配はない。これが続く限り、魔獣の襲撃もまた終わることはないと考えるべきだろう。

 酷い話だ。魔獣たちもまた、望んで操られているわけではないというのに。命を使い捨ての道具のように扱う様に、トワが滅多にない嫌悪感を抱くのも無理はなかった。

 一刻も早くこの妖しき調べを止めなければならない。しかし、事はそう簡単に運びそうにないのも確かだ。

 

「でも、この音がどこから響いているのか……これも件の古代遺物の力なのかな?」

「おそらくはそうだろう。私自身、あの()にどのような力が秘められているのか詳しくはないが……」

「ちっ、そりゃまた厄介な」

 

 狙った場所に効力を及ぼす能力でもあるのだろうか。音色はパルム全域に鳴り響き、それに魔獣が惹かれてきているかのようだった。

 根元がどこか分からないこの状況。止めるにしても、まずはそれが判明しなければ動くこともできない。無暗に当たっても時間を浪費するだけだろう。

 

「……ボリスさん、何か心当たりがあるんですよね?」

「…………」

 

 手掛かりが必要だ。これまでの事件を起こしてきた彼の元に続く手掛かりが。

 それを知るものがいるとすれば、今まで共に過ごしてきた人物に他ならない。

沈痛の面持ちで俯くボリス子爵。嘘だと思いたいのだろう。けれど、これは紛れもない現実で。彼の知り得る何かが確信をもってその人を指し示している。

 状況から見て彼が犯人なのは間違いないだろう。しかし、トワたちのその認識はあくまで状況証拠からくるもの。ボリス子爵の知るそれは、きっと彼の凶行を裏付ける何かだ。

 

「易々と話せることではないのかもしれません。けれど、どうか教えてください。このパルムを守るために――彼を止めるために」

 

 真っ直ぐに見つめるトワに、ボリス子爵はやがて俯いていた顔を上げる。目の前の現実を受け入れ、その先への道を見出すために。

 

「……これもまた、私の背負うべき咎か」

 

 静かに呟き、彼は覚悟を決める。これまで胸に秘してきた全てが明らかとなることを。

 

「彼はおそらくパルム間道の先にいるはずだ。君たちも見たという廃道の先……このパルムを取り巻く因果が結実した地に」

「!? 子爵閣下、そこは!」

 

 ウォレス准将が動揺の滲む声をあげる。らしからないそれは、彼もまた真実を知る身であり、その重大性を示唆するものであった。

 本来ならボリス子爵が口にすることは許されないのだろう。だが、それでも彼は咎めるような声に対して首を横に振る。もはや事は起こってしまった。躊躇っている暇などありはしない。

 

「彼女らは既に多くを知っている。事ここに至った以上、もはや隠し立てする意味はないだろう。ウォレス君を単騎で行かせるわけにもいかん」

 

 気付かぬ間に持ち出されていた古代遺物、ボリス子爵が言う《笛》。この空に響く音色の源泉がどこまでの力を持っているか分からない。いくらウォレス准将とは言え、部下を防衛に回した状態で単騎突撃するのは避けた方がいいだろう。

 その点、トワたちなら実力面において不足はない。模擬戦であっても自身に一太刀を浴びせたのだ。ウォレス准将もそこは信頼を置けると考える。

 だが、事は厳重に秘匿された帝国の闇に関わる。事実を知るのはごく一部の人間に限られ、徹底した情報封鎖により今まで隠し通されてきた。徒に知ろうとするなら重罪になりかねないほどのものだ。

 

「それを罪というのなら、私は甘んじて罰を受けよう……十年もの間を共に過ごしながら、彼の内に巣食っていたものに気付けなかった愚か者に相応しい報いだ」

「……承知しました。そこまで覚悟の上ならば」

 

 その上でボリス子爵が彼女たちに託したいと願うならば、ウォレス准将に否という答えはない。想いを汲み、為すべきことを為すまでだ。

 ありがとう、とボリス子爵は礼を告げる。意志は決した、後は動くのみ。トワたちもまた、これまでにない大事に対して臆することはない。例えどんな因果の果てに起こったことであったとしても、目の前で起ころうとしている悲しみを見過ごす理由はないのだから。

 

「これは彼にとっての復讐なのだろう。私か、この国か、それとも世界か。何に対してなのかは分からんが……」

 

 悲し気に瞼を閉じるボリス子爵。開いたそこに決意を宿らせる。彼もまた、領主としてこの事態を看過するわけにはいかないのだから。

 

「それでも、この所業は間違っている。だから頼みたい。どうか彼を――ドミニク君を止めてやってくれ」

「――任せてください。トールズ士官学院試験実習班、必ずパルムを守り通し、ドミニクさんを止めてみせますから」

 

 その言葉を合図として、トワたちはウォレス准将と共に街道へと向けて走り出す。帝国各地で災禍を振りまいてきた魔獣事件に終止符を打つために、このパルムの地を縛る因果の鎖を断ち切るために。

 その背中を見送ったボリス子爵もまた動き出す。領邦軍にヴァンダールの人々が防衛してくれているとはいえ油断はできない。民衆が混乱に陥らないように避難を指示し、不安を和らげる必要もある。

 己の不明が引き起こした事態を若者に託しておいて座して待つわけにはいかない。このパルムを治める領主として、彼もまた戦いの地へと赴くのだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 五つの影がパルム間道をひた走る。閉ざされた廃道の入り口を目指し、立ち塞がる魔獣を突っ切って最短距離を行く。

 魔獣の全てを相手している猶予はない。取りこぼしたものはパルムに向かうかもしれないが、それは防衛している方で対処してくれるはず。彼らが持ちこたえてくれている間に、自分たちは一刻も早く笛の音を止めなければ。

 

「降ってきたね……どうも荒れそうだ」

 

 いつしか大粒の雨が地面を叩き始めていた。空を覆う黒雲からは雨音に混じって雷鳴まで聞こえてくる。そんな中においても、変わらず耳に響く笛の調べは不気味の一言だ。

 容赦なく降りつけてくる雨水に身体を濡らしながらも進む。そんな中、先頭に立って魔獣の群れに風穴を空けてきたウォレス准将が呟いた。

 

「しかし、こうしてかつての学び舎の後輩と肩を並べることになるとは。これもまた風と女神の導きということか」

「というと、准将閣下もトールズの?」

 

 笑みを湛えたその言葉に若干の驚きを覚える。まさかウォレス准将と自分たちにそんな繋がりがあるとは思っていなかっただけに。

 

「ああ、十年ほど前の卒業生になる。同じ有角の獅子紋の元に君たちのような若者が育っているのは喜ばしい限りだ」

「そいつはどうも。ってことは、俺たちのことも教官経由で聞いたってわけか」

 

 どうしてウォレス准将がトワたちに接触してきたのか疑問に感じる部分もあったが、それならば納得することが出来る。母校の伝手から試験実習班について聞き及ぶ機会があって興味を持ったのだろう。

 話したのは教官の誰か、或いは学院関係者か。十年前の卒業生とはいえ、何らかのコネクションは持っていて不思議ではない。准将という立場ある人なら尚更に。

 だが、どうしてかウォレス准将は含み笑いを漏らす。意図が分からずにトワは首を傾げた。

 

「実を言うと教えてくれたのは現役生の知り合いでな。学年としては君たちより一つ上になる」

「おや、そうなのですか?」

「彼に曰く、『生粋の人誑し率いる問題児集団』だったか。言い方はともかく、あながち間違っていないのはこの目で見て理解した」

「あ、あはは……」

 

 酷い言われようだが、身に覚えがあるだけに言い返せないのが辛いところ。こんな事態に首を突っ込んでいる時点で問題児と評されても仕方がない。

 それにしても、その当たりが強い物の言いよう。トワとしては耳馴染みがあるというか、割と身近に知っているような。一つ上の先輩となると、関りのある人物はそれなりに限られてくるが――

 

「ともあれ、余談はここまでにしておくとしよう。目指すはすぐそこだ」

 

 表情を引き締めたウォレス准将により、その考えは一先ず打ち切ることになる。昨日にも訪れた廃道の入り口、それが間近に迫ってきていた。

 街道から外れ、パテル・マテルに潰されたコンテナの残骸が転がる坂道を駆けあがる。狭い道筋から開けた場所に。薄暗闇に続く廃道と、その入り口の鉄柵が目に入る。

 何重にも鎖が巻かれ、厳重に封印されていたそれは、見るも無残に破壊されていた。

 

「……オッサンの見立てに間違いはなかったみたいだな。派手なやりようだぜ」

「彼の抱えるものの根の深さが窺い知れるね。そんな因縁の地で何をしようとしているかは分からないが……」

 

 呼び出した魔獣に破壊させたのだろうか。もはや門として用をなさいないほどの有様に、ドミニクの内に宿る激情を感じ取る。

 いったい何が彼を突き動かしているのか。この先に進めば、それも分かるのだろうか。

 

「この先は本来であれば禁足の地。見聞きしたことは他言無用……覚悟はできているな?」

「はい、勿論」

「いいだろう。何が待ち受けているか分からん。十分に警戒して――」

 

 トワたちの揺るがない意思を認めたウォレス准将は廃道を見据える。待ち受けるは帝国の秘された闇。その先に踏み込まんとし――

 

 

 ――――。

 

 

 その時、世界が赤く染まった。

 

「っ、これは……!?」

「上位三属性……幽世の気配か!」

 

 周囲の空気は一変していた。降りしきる雨も、轟く雷鳴も同じはずなのに、そこに先までにない悍ましさが宿る。肌が粟立つこの感覚は、間違いなく上位三属性が強く働いている証だ。

 思い返されるのはバリアハートにおける実習。峡谷道に現れた悪魔の存在が脳裏をよぎる。

 まさか、あの時も――その推測を肯定するかのように、トワの感覚が邪悪な存在を捉えた。

 

「顕れるよ! 皆気を付けて!」

 

 空間を歪ませて顕現するのは二体の悪魔。

 片や、巨大な棺のようなものを有するもの。片や、女性の半身に異形が融合したもの。姿かたちは異なれど、その身から放たれる凄まじい霊圧は共通している。

 先月に遭遇した青黒いものとは段違いだ。明らかに格上の存在、七耀教会の教典にも記される七十二柱の悪魔に連なるものだろうか。

 

「ここを守る門番か。易々とは通してくれそうにないね」

「面倒なものを置きやがって。こいつは少しばかり手間がかかるぞ……!」

 

 まさか件の笛というものがここまでのものを呼び寄せる代物とは思っていなかった。魔獣を操るのみならず、悪魔まで使役するとは。古代遺物の中でも間違いなく強力なものの一つだろう。

 先に進むためには何とかしてこの場を切り抜けなければ。難敵を前に苦戦を予感しつつも、得物を構えて撃破せんとする。

 

「――いや」

 

 そこに、トワたちの前へウォレス准将が一歩踏み出した。十字槍を携え悪魔たちに相対した彼は、油断のない眼を前に向けたまま彼女たちに指示を下す。

 

「ここは俺が引き受けよう。君たちは笛を止めるために先へ進むがいい」

「准将閣下……しかし」

「これが最善の手です、アンゼリカ嬢。全員で足を止められるより、少しでも多くが元凶の元に辿り着いた方がいい」

 

 道理にかなった策だ。確かに、この事態を早急に解決することを目指している以上、ここで歩みを鈍らせるのは避けるに越したことはない。トワたちは否定の材料を持たなかった。

 ただ、現世に在らざる強大な存在を前にしては不安も募る。いくらウォレス准将でも単独で相手をさせるわけには。そう躊躇ってしまう圧力があった。

 

「案ずることはない。彼我の力量を見誤るほど蛮勇ではないつもりだ」

 

 その不安を見透かしたように、ウォレス准将が肩越しに笑う。将という人を率いるものが自然と有する威風がそこにはあった。

 それに、と言葉を繋ぐ。打って変わって猛々しい笑みに頬を吊り上げ、悪魔たちへとその槍を向ける。

 

「幽世の化生……相手にとって不足はない。この《黒旋風》の槍をもって、若き獅子たちの道を切り開かせてもらおう!」

 

 悪魔の重圧にも勝る鮮烈な闘気。紛うことなくウォレス准将の本気の気迫に空気が震え、相対する二体さえも気圧されたように見えた。

 その闘気を身に感じながらも、瞼を閉じて躊躇いを断ち切る。こんなにも勇壮な先立ちが自分たちを送り出してくれるというのだ。どうして逡巡していられよう。

 想いに応える道はただ一つ。進むのだ、先へ。そして終わらせてみせよう、この地の因果が引き起こした異変を。

 

「分かりました――どうか星と女神の加護を!」

「そちらも風と女神の加護を――さあ、行けっ!!」

 

 ウォレス准将の十字槍が暴風を伴い悪魔を薙ぎ払う。先制の一手に怯んだ隙に、トワたちは一気に駆け抜けた。

 背中から響く怒りの雄叫びに破壊の轟音。振り返る暇はない。必要もない。今はただ信じて、前へ。

 足を踏み入れるは禁足の地。受け取った想い胸に、四人は赤い世界の奥へと走るのであった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「アツイ……アツイヨ……」

「ドウシテ……ドウシテワタシタチガ……」

 

 刃に倒れた怨霊が断末魔を残して消えていく。それは怨嗟の声。己の身に降りかかった不幸を嘆き、世界を呪う悪性の言霊だ。

 立ちはだかった敵性霊体を撃破したトワたちだったが、その表情は硬い。未だに油断ならない状況というのもある。ただ、何よりの理由は目の前で消えていった悪霊の怨念であることに違いはなかった。

 

「……あんまりなの」

「先月の奴みたいにしつこくねえのはいいが……こりゃ、気が滅入るぜ」

 

 ノイだけではなくクロウも渋い表情で唸る。流石の彼も堪えるものがあるようだった。

 単なる悪霊というわけではない。悲劇に見舞われ、世を呪って死んでいった人々。その真に迫る想念が確かにあった。でなければ、こんなにも耳に残る怨嗟を放てはしない。

 どうしてそんな存在が顕れるのか。哀しげに悪霊の消えていった先を見つめていたトワは、不確かであれ心当たりを口にする。

 

「……もしかしたら、この地の記憶を写し取ったものなのかもしれない。亡くなった人たちの想念を糧にして顕れたんだと思う」

「それはまた趣味が悪いが……だとすると、これは」

「いったい、ここで何が起こったっていうんだい……?」

 

 理屈は分かる。しかし、あの怨念は生半可なものではなかった。どれだけの惨い目に遭えば、あれだけの負の感情を遺すことになるのだろうか。

 

「行こう。その答えは、たぶんこの先にあるはずだよ」

 

 促すトワに続き、怨霊の顕れた広場より足を進める。廃道もかなり奥まで来た。もうじき終点に辿り着いてもおかしくはない。そこにこの事態を引き起こした彼と、この地の真実も待ち受けているはずだ。

 広場を抜けるところになって、チラリと視界の端に人工物が写った。街道によくある立て看板。木製のそれは随分と古びており、長くにわたって放置されていることが窺い知れる。

 文字も擦り切れてしまっているが、何とか読めないこともない。近くに寄ったアンゼリカが記された名を口の中で転がせた。

 

「ハーメル村……聞いたことはあるかい?」

「いや……地元の人なら知っているのかもしれないけれど」

「もう無くなってしまった村なんだろうけど……あんな封鎖までしてあって、どう考えても普通じゃないの」

 

 道を塞ぐ鉄門、口を噤むパルムの人々。ボリス子爵やウォレス准将の言葉からして、市井の人間には徹底的に伏せられた存在であることは明らかだ。

 この山奥にあるという村に何が起き、どうして消えることになったのか。疑問は増えるばかりで、やはり答えは先へと進まなければ得られないのだろう。

 

「…………」

「……クロウ君?」

「――なんでもねえさ。さっさと拝みに行くとしようぜ、この暗闇に封じられた真実とやらをよ」

 

 先んじて奥へと向かうクロウ。彼がどこか神妙な顔をしているように見えたのはトワの気のせいだろうか。些細な引っ掛かりを覚えつつも、彼に倣って看板の指し示す先へ。

 進むにつれて道は狭まり、視界が悪くなってくる。一帯が赤く染まり、濃密な幽世の気配が満ちる異常事態。何が現れるか分からない中を警戒しながら進んでいく。

 

 ――やがて、鬱蒼とした森林の中に建物の影が見えてきた。おそらくは件のハーメルという村だろう。足を速め、その全貌を目にしたトワたちは……広がる光景に息を呑んだ。

 小さな、長閑な村だったのだろう。家屋の数はそう多くない。

 だが、今やそのどれもが無残に破壊されていた。石垣は崩れ、家屋は焼け落ち、かつてあったはずの生活の気配は悉く失われてしまっている。

 

「……酷いな」

「大規模な火事……いや、これは……」

 

 廃村の惨状に言葉が上手く出てこない。たとえ小さなものであったとしても、人々の温もりがあったはずの場所が跡形もなく壊し尽くされた様は心が痛む。

 何があってこんなことになってしまったのだろう。炎に焼けた跡など見てアンゼリカは山火事などの可能性を思い浮かべるが、それはすぐに否定された。それにしては被害の跡が村の周辺に限定されている。

 それに、見当たった痕跡は火事によるものばかりではなかった。

 

「弾痕、爆破したような跡に……」

「……血痕、か」

 

 所々に穿たれた銃撃の痕、それに火事によるものとは思えない破壊のされ方をしたものもある。何よりも、生繁る雑草に隠れるようにしてあった黒ずんだ地面が、この廃村を襲った凶事を物語っていた。

 武装した集団による襲撃。それによる惨殺――考えたくはないが、目に見える痕跡が指し示す事実はそれに尽きるのだろう。

 

「あの亡霊の様子も無理はないの。こんな目に遭って死んでしまったのなら……」

「しかし、こんな山間の村を襲う理由がどこにあるというんだい? 戦火に巻き込まれたならともかく、この近辺が戦場となった記録はないはずだ」

「さてな……だがまあ、答えを知っていそうな奴は近くにいるんじゃねえか」

 

 目を向けられたトワは頷いて答える。その気配は既に捉えていた。

 

「うん――もう、すぐ先にいるよ」

 

 廃村の奥、高台のようになっている先に人が一人でいるのを感じる。自分たちの他に、この赤く染まった異界にいる人間などもはや分かり切っていた。

 事ここに至って覚悟を問うことなどしない。それぞれの目を見て、万全の状態であることを確かめれば十分だ。

 トワたちは向かう。魔笛が奏でられるその元へ。

 

 高台に上がった先は、鬱蒼とした森とは打って変わって周囲一帯の眺望が開けていた。普段ならば青空の下に広がる豊かな緑に心癒されるのだろうが、今は赤く染まった空と降りしきる雨によりそれも黒く淀んで見える。

 崖先には石碑のようなものが。その前に、彼はいた。手に携えた禍々しい気配を漂わせる笛を奏でながら。

 ふと、旋律が止む。笛を口元から離した彼から出たのは、不自然なくらい落ち着いた声だった。

 

「何となく、君たちが来ると思っていたよ。《黒旋風》ではなく、不思議なことに幾度となく関わることになった君たちが」

 

 彼――秘書ドミニクはそう言って振り返った。声と同じく、その表情は落ち着きを払っている。とてもこんな事態を招いた張本人とは思えないほどに。

 一旦笛の音が止んでも赤い空が元に戻る様子はない。おそらくは使用者の意思か、あの笛自体を破壊することでしか解除できないのだろう。

 

「その奇妙な妖精に覚えはないが……まあいい。どうせ君たちとも、ここでお別れなのだからね」

「勝手なことを言うんじゃないの!」

「……ドミニクさん、止まるつもりはないんですね?」

 

 聞きたいことは色々とある。それでも、まずは彼の意思を確認した。たとえ無意味に等しい可能性であったとしても。

 案の定、彼から返ってきたのは何を今更と言わんばかりの声だった。

 

「当たり前だろう? 私はこれでようやく果たすことが出来るんだ。ずっと胸の内で燻ってきた、この願いを果たすことが……」

 

 うっそりとドミニクが笑う。その様に背筋を冷たいものが撫でた。

 何だ、これは。本当に彼はドミニクなのだろうか。あの礼儀正しく几帳面だった男が、心奪われたように恍惚とする姿に酷い違和感を覚える。

 まるで、本来の彼に何かが上塗りされてしまったような。何とも言えない感覚に囚われていると、隣でクロウが皮肉気に鼻で笑った。

 

「随分と御大層な願いみたいだな。闇雲に魔獣をけしかけるのに何の意味があるのか知らねえが」

「もはや聞くまでもないかもしれないが、それには十年前の領主邸の焼失と、この地で起きた出来事が関係しているのかな」

 

 険しい眼で問い詰められても尚、落ち着きを払っているドミニク。薄い笑みが張り付けられた顔のまま、彼は身構えるトワたちの方へと歩み寄る。そのまま横を通り過ぎると、少し立ち止まってこちらに目だけを向けた。

 

「数奇な巡り合わせだ。話しても構わないが――この場では、君たちにとってもやり辛いだろう?」

「…………」

 

 沈黙は肯定だった。ドミニクを止めるためには力をもって制する他にないだろう。しかし、哀れな魂が眠るこの地で血を流すことは可能な限り避けたい。

 死者の静謐を破り、悪魔と亡霊が蔓延る異界とした口が言うことか。そんな憤りを覚えないと言えば嘘になるが、今はそれを胸にしまい込む。

 

「ついてくるといい。道すがら話してあげよう、この地にまつわる忌々しい昔話をね」

 

 ハーメルはどうして廃村となったのか、ダムマイアー子爵家はどうしてあのような末路を辿ったのか、ドミニクはどうしてこんな真似を仕出かしたのか――その真実を知らなければ、この異変を本当の意味で解決することはできないだろう。

 先を行くドミニクを追う。深い闇のヴェールを取り去る時だ。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「事の発端は百日戦役だ。君たちはあの侵略戦争がどうして起きたか知っているかい?」

「……確か、不幸な誤解から起こってしまった、と」

 

 投げかけられた問いに対するジョルジュの答えは間違っていない。軍事史上では近代戦の先触れとして知られる百日戦役の発端は、教科書上では確かにそう語れている。

 不幸な誤解――では、どんな誤解が起きれば戦争にまで行き着いてしまうというのだろう。それに対する答えをトワたちは知らない。帝国にリベールの殆どの人々がそうであるはずだ。誰も語ることもなければ、どこにも記されていないのだから。

 軍用飛行艇の登場などを前面に押し出している反面、この戦争の政治的意味は取り沙汰されることはない。突発的に起こり、そしてごく短期間で終結した。その事実が端的に語られるのみだ。

 

「そうだろうとも。何せ、これは帝国にとって最大の汚点と言っても過言ではないのだから」

 

 それがもし、語られないのではなく語ることが出来ないのならば。情報を封鎖し、人々が口を噤むような真実があるのなら――この地で見てきた事実の点と点が結びついて描く像に、トワは嫌な予感を抱く。

 

「今でこそ帝国正規軍は七割を革新派――鉄血宰相が掌握しているが、十年前はそれほどでもなくてね。正規軍の中でも貴族派が存在したんだ」

「革新派の台頭以前……それは私も聞いたことがあるが、当時から既に平民将校が数を増して影響力を強めていたはずでは?」

 

 時流によって頭角を現してきた平民将校たち、現役時のヴァンダイク元帥の部下がその筆頭だ。当時は正規軍に属していたオズボーン宰相、そして今は第四機甲師団を率いる《紅毛》のクレイグ中将。宰相が正規軍において強い支持基盤を持つ理由でもある。

 その流れに押される立場にあり、現在においてはほぼ淘汰されてしまった正規軍内における貴族派たち。そんな彼らと百日戦役を結び付けるものがあるとすれば――

 

「軍事的成功による復権……そのための百日戦役ですか?」

「正解だ。追い詰められた貴族派の将校は権益を守るために外征に活路を見出そうとした。その標的となったのがリベールというわけだね」

「で、でもおかしいの。それがどうしてハーメルに繋がるっていうの?」

 

 ドミニクはそこで含み笑いを漏らした。まるで面白い冗談でも聞いたかのように。

 

「もう言わなくても分かっているだろうに。あの村を焼いたのが誰なのか、なんて」

 

 トワたちは黙りこくる。意味するところは理解していた。だが、それが真実であるとは信じたくなかった。まさかそんなことをする人間はいまいと、人がそこまで愚かで罪深い真似をするとは思いたくなかったのだ。

 でも、これまでに見てきたもの、聞いたものが示す答えは一つであって。

 クロウが深く息を吐く。そうして彼は残酷な真実を口にした。

 

「戦争を起こすには相応の理由が必要……自作自演の襲撃事件を仕立て上げ、その生贄に選ばれのがハーメルってわけか」

「…………っ」

 

 いったい誰が思い至るというのだろうか、自らの権益の為だけに自国の民間人を虐殺するなど。人道的観点から論外であるのはもとより、露見したときのリスクを考えれば悪手に過ぎる。倫理と論理のどちらからも外れた行為だ。

 だが、ハーメルの惨状はそれが紛れもない事実だと告げている。本来ならあり得るはずのない愚行が本当に行われたのだと。

 

「……言葉にならないね。あまりの愚かさに怒りを通り越して憐れみを覚えるよ」

「徹底した情報封鎖も納得だ。こんなことが知れ渡ったら国家そのものの危機になってしまう」

 

 国家とは人間が社会を築くうえでの共同体だ。国体は様々であるが、いずれにしても人は統治という庇護が得られるからこそ国民として属していると一面的には言えるだろう。

 その統治が、自国民を躊躇いなく殺めるような残虐極まるものだというのなら。例え一部の者による暴走だったとしても、事実が広まれば国家への不信感は際限なく高まっていくに違いない。混乱が巻き起これば国の崩壊という可能性も否定はできなかった。

 だからこそ、このハーメルが闇に葬られたのは当然の帰結。エレボニアが揺るぎない大国であるために、流された無辜の民の血は無かったことにされたのだ。

 

「まったく同感だよ。早期の停戦にもこれが絡んでいるのだろう。帝国は軍を撤退させる代わりに、リベールはハーメルに関して口を噤む。大方、そんなところじゃないかな」

 

 飛行艇を用いた電撃作戦で巻き返したリベールだったが、依然として厳しい立場だったのは想像に難くない。あくまで国内の敵を各個撃破できただけであり、帝国軍の主力は本国にまだ残っていたのだから。

 そんな中、持ちかけられる停戦交渉。自国の平和と、他国の非道。天秤にかけられたそれらがどちらに傾くかは、国の指導者として考えれば自明だったろう。個人としての想いはともあれ、政治は時に非情な判断を迫られるのだから。

 

「国内では首謀者を秘密裏の軍事裁判にかけて極刑……一方、その関係者も多くが闇に消えることになった。他ならない同じ貴族派の手によってね」

「潔白の証明のための粛清、ですか」

「そうとも。そして、その中の一つがダムマイアー子爵家だった」

 

 貴族派将校の暴走は四大名門ら貴族派の中核にとっても青天の霹靂だったに違いない。その事実を知った時、彼らは顔面蒼白になったことだろう。行われた非道もそうだが、何より同じ貴族派である自分たちに矛先が向くことを危惧して。

 だからこそ身の潔白を証明する必要があった。これは一部の暴走であり、貴族派の総意ではないのだと。ハーメルに関与した者の一切を処断することでその証としたのだ。

 

「貴族社会で落ち目のところを、百日戦役を利用して返り咲こうって腹積もりだったわけか」

「工場長から聞いたようだね。ああ、どんな青写真を描いていたかは知らないが、リベールの技術を足掛かりに復権を企てていたのだろう。そのために貴族派将校に与し、開戦の切っ掛けとなる贄を差し出した」

 

 落ちぶれた現状から脱却するため陰謀に関与したダムマイアー子爵家。狂気の計画に加担するほどまでに、彼らは追い詰められていたというのだろうか。領民が虐殺されるのを良しとするほどまでに、彼らにとって権益は重大なものだったのだろうか。

 トワには理解できない。そしてもう、それを確かめる機会もない。当の本人たちは炎の中に消えてしまったのだから。彼らが生贄としたハーメルの人々と同じように。

 

 ドミニクの後に続いて隘路を抜け、先ほどの広場まで戻ってきたトワたち。ここら辺でいいだろう。無言のうちにそう立ち止まったドミニクはゆっくりと振り返る。

 

「後は君たちも知っての通りだ。子爵邸は焼かれ、体のいい後釜として工場長が子爵に据えられた。そして政府の巧妙な工作でハーメルの記憶は闇に葬られたというわけだ」

 

 勘当同然だったボリス子爵はある意味で都合のいい存在だったのだろう。事件に関与しておらず、妾腹の子とはいえ血も繋がっており領民の信頼も厚い。同じ領内だけにハーメルの記憶も色濃いパルムという土地を治めるのに彼以上は存在しなかった。

 ボリス子爵の悔恨に満ちた姿を思い返す。全てを承知したうえで、その立場を継がざるを得なかったのだろう。帝国の安寧を保つためには、流された民の血と肉親の愚行を隠すほかになかった。そうして彼は今日まで罪の意識を抱えてきたのだ。

 

「……お話は分かりました。けど、どうしてこんなことを? 魔獣を操って、人々を襲うことがどうやってあなたの願いに繋がるんですか」

「傍から見れば、雇い主の家宝を盗って粋がっているようにしか映らねえがな」

 

 ハーメルを滅ぼした陰謀については、大まかながら理解できた。しかし、それだけでは見えてこないものがある。その葬り去られた過去が、どうしてドミニクの凶行に繋がるというのだろうか。

 実際、その笛がどうしてドミニクの手にあるのかも疑問だ。仕舞われていた金庫の錠前が破壊されたような形跡はなく、どうやってか開錠したのは間違いない。ただ、手段については全く思い至るものは無かった。

 笛を手にした後の行動も不可解だ。帝国各地で起こしてきた魔獣事件、そしてバリアハートで遭遇した悪魔についても。それらが彼の手によるものならば、いったい何が狙いだったというのだろうか。その願いが何なのか、トワたちには理解できない。

 

「盗んだ……? 違うな。返ってきたのだよ、本来受け継ぐべき者の手の内にね」

 

 対するドミニクは平然と告げる。これは正当な継承なのだと、この古代遺物の真の所有者は自分であるのだと。

 どす黒い陰の気配が彼を包み込む。紛うことなく、その手にある笛を起点として。

 

あの炎(・・・)を見た日から、ずっと不思議だった――どうして人は、平然と暮らしていられる?  その命は呆気なく摘み取られてしまうのに。祖父と父(・・・・)がハーメルにそうしたように、四大名門が祖父たちにそうしたように」

 

 言葉に熱がこもる。それは狂気の熱だ。燻っていた火種が歪んだ形で燃え上がった、負の想念に満ちた黒い炎。

 

「祖父に父……そうか、あなたもダムマイアー子爵家の」

「ああ、運よく生き残った実孫というわけさ。いい顔をしない家のものなど知らぬと伯父の元へ顔を出していれば――ある日唐突に、私の家は消えてしまった」

 

 ボリス子爵とは違い、正妻から生まれた実子。それが儲けた子がドミニク・ダムマイアーという男だった。

 命を失わずに済んだという点では、彼は運がよかった。家から放逐された妾腹の伯父であるが、少年のドミニクにとっては陰気な屋敷の人間と違って明るく愉快な親戚だ。そんな彼の元に足繁く通っていたからこそ、あの日も難を逃れることが出来たのだろう。

 しかし、それはドミニクの人生をどうしようもなく歪めることになった。生まれを隠すことになったのはいい、子爵位を伯父が継いだのもいいだろう。それらは受け入れられても、何時までも胸の内の残る燻りがあった。

 

 どうしてこの欺瞞に満ちた世界で、人々は暮らしていられるのだろう?

 ただそれだけが、ドミニクの内から離れることがなかった。

 

「消えない疑問が晴れる機会が訪れたのも、また唐突だった。リベールの異変……あの混乱の中で、私はもしやしたらと笛の金庫に手をかけた」

「そうか、導力停止現象! 導力が失われた状態なら、あの錠は機能しない……!」

「ご名答。家宝を手にした私は当然のようにその力を試し、意のままに操れる魔獣を目にして思い至ったのだよ」

 

 ドミニクは頬を歪める。導き出した答えは、その笑みと同じようにどうしようもなく歪んでいた。

 

「人は、世界の欺瞞を知らない。なら教えればいいのだ。自分たちの命が如何に軽く、呆気なく消えるものか! そうして初めて、人は真実を知ることが出来る!!」

 

 その手の笛が妖しい光を宿し、独りでに調べを奏で始める。ドミニクの歪んだ意識に呼応するように、その歪みを増長させるように。

 笛の音色に惹かれるように一つ目の悪魔の群れが顕れる。話はこれまでか。トワたちもまた得物を構え、戦闘態勢に入った。

 

「各地でのことは力を使い慣らすための準備――まずは君たちを斃し、そしてパルムを消すとしよう。この悪魔さえも御する《降魔の笛》の力を以て!」

「ちっ、いい感じに狂ってやがるな……!」

「なんて瘴気……あんなのを持っていたら気が狂って当然なの!」

 

 そうなってしまう背景があったのは間違いない。しかし、ドミニクがこれほどまでに至ってしまったのは彼が手にした力――降魔の笛によるものだろう。そう思わざるを得ない負の波動がその古代遺物からは放たれていた。

 過去からの因果が彼を狂気に駆り立てた。ボリス子爵が悔いていたように、その罪は一人だけのものではないのかもしれない。

 だが、だからといってこんな真似が許されるはずもない。その凶行を食い止めるべく、トワたちは猛る悪魔たちへと刃を向ける。

 

「迎撃準備! 悪魔の手を町にまで伸ばさせるわけにはいかない――ここで止めるよ!」

「「「応!」」」

 

 この世ならざる叫びをあげながら向かい来る悪魔。その口より吐きかけられた溶解液を咄嗟に躱して距離を詰める。返し手の一閃とアンゼリカの拳が叩き込まれ、その存在を悲鳴と共に雲散霧消させた。

 まずは一体。しかし、数が多い。ウォレス准将が相手取ってくれた門番より下位と思われるものの、単純な物量がトワたちを阻む。

 ドミニクを拘束しなければ異変を終息させることは適わない。彼の前にひしめく悪魔の軍勢を倒さなければ、その道筋は掴めないだろう。

 いちいち相手取っていては埒が明かない。人目も気にする必要がない以上、一気に片付けるのが上策だ。

 

「上手く合わせて、ノイ!」

「合点なの!」

 

 群れる悪魔の中へと身を躍らせる。集中する攻撃。それらを卓越した身のこなしで捌き、クロウたちの援護が危うい一撃を逸らした。

 やがて密集していく悪魔たち。あまり高度な思考形態を持っていない種らしい。好都合なことに、狙い通りに動いてくれたのを認めたノイはその手に溜めた力を解き放つ。

 

「それっ!」

 

 放たれるは碧い竜巻*1。可愛らしい声とは裏腹に荒々しい夏の旋風が悪魔を襲う。トワにつられ密集していた悪魔は、多くが巻き込まれ身を裂く風の刃に苦悶の声を漏らす。

 

「まだまだ行くの! ソーンアラウンド*2!」

「ナイスだ! 一気に畳みかけさせてもらう!」

 

 続いて行使された四季魔法が生み出すは茨の縛め。竜巻を喰らって怯んだ悪魔らを逃さぬと、緑の結界が形成され標的を拘束した。

 一纏めにしてしまえば後は容易い。アンゼリカの疾風の蹴りが、クロウの雨霰と撃った銃弾が縛められた悪魔を襲う。どうにか逃れようともがく様子を見せようとも、この状況に持ち込まれた時点で勝負はついている。

 振り上げられる鉄槌。爆音を伴うジョルジュの一撃が叩き込まれた。

 怒涛の連撃に流石の悪魔も耐えきれない。立ち込める爆煙の中に力尽き、この位相から姿を消す。一頻りの手勢を失ったドミニクが「ほう」と声をあげた。

 

「流石と言わせてもらおうか。これまで修羅場を潜ってきただけはある」

「……余裕ですね。まだまだこれからとでも?」

 

 焦りを見せないドミニクにジョルジュが眉を寄せる。降魔の笛がどれだけの力か上限が見えない以上、これで終わりになるとは思っていなかったが、どうやら想像の通りだったようだ。

 出来れば早急にあの笛を破壊したいところだ。とはいえ、それは相手も警戒するところ。トワたちが踏み込む前に再び一つ目の悪魔が道を阻むように出現する。やはり一筋縄ではいかないらしい。

 

「くく……ただ、このままでは時間を浪費するばかりだね。折角だから呼んであげようじゃないか、七十二柱の悪魔に連なる存在を!」

 

 忍び笑いと共に笛を口に宛がうドミニク。その言葉にトワたちの表情に険しさが増す。ウォレス准将が相手取る二体の大悪魔、それと同格の存在をまだ使役できるというのか。

 

「この忌々しい血塗られた地も、悪魔を呼ぶには絶好の触媒となる。さあ、刮目するといい――!」

「単に因縁の土地だからって理由じゃなかったか……よくよく道具の扱い方を知ってやがるぜ」

「気を付けて! この気配、さっきまでの比じゃ――」

 

 邪まな調べが響き、応えるように強大な力が迫るのを感じ取る。止めるのは間に合わない。最大限の警戒を促すため、緊張感に満ちた声を張り上げる。

 

 ――――!

 

 刹那、決定的な何かが起きたことを、その場にいた誰もが知覚した。

 

「う、あ……?」

 

 降魔の笛を奏でていたドミニクが呻き声を漏らした。動悸でも感じたように胸を抑える。しかし、その笛の音が止むことはない。むしろ激しさを増し、禍々しい力の波動を更に強めていく。

 もはや狂気的なまでの調べを響かせる降魔の笛。比例するようにドミニクの様子も変容してする。戸惑った様子を見せていた彼は、次第に湧きあがる何かを抑えきれなくなったかの如く叫び声を上げ始めた。

 

「ぐ、が、ああああああっ!!」

「な、何が……!?」

「不味い……! 離れるんだ!」

 

 只ならぬ気配に距離を取る。溢れ出る何かが臨界を迎えたのはすぐだった。

 ドミニクが笛から溢れる闇に呑まれる。闇は彼という形を取り込み、崩し、そして変容させていく。まるで粘土細工でも作るかのように、容易く人の形は失われ、全く別の何かへと変わっていく様子は見るも悍ましい。

 変わり果てていくその先は、形も質量も異なる異形の姿。見上げる巨躯の中にドミニクの面影など欠片も存在しない。当然だろう。それはもう人という存在ではなく、まさしく悪魔に成り果てた存在なのだから。

 

悪魔化(デモナイズド)……」

「その身に悪魔を降ろす……文字通り降魔の力というわけか……!」

 

 これが降魔の笛の真の力。トワたちは戦慄を隠せなかった。

 魔獣を操り悪魔を呼び寄せるのも、この力の副産物――いや、力に魅入られた代償としてその身を悪魔に奪われる、と言うのが正しいか。狂気に堕ちたが最後、こうして人の形を失い、身も心も魔性へと変質させられてしまうのだ。

 なんて悍ましい力だろう。トワたちに限らず、よほど外れた感性の持ち主でもなければ忌避感を覚えるのが当然だ。

 ――しかし、堕ちるところまで堕ちてしまえば話は別であった。

 

『コレハ……クク、ハハハハッ! 素晴ラシイ! 力ガ満チ溢レテクルヨウダ!!』

 

 悪魔に変じた当のドミニクは哄笑を上げる。望外の宝でも手に入れたかのように、そこには人のみを失ったことへの悲嘆など塵一つない。

 彼はもう、ドミニクであってドミニクではなかった。力に魅入られ、心を歪め、身体さえも変わり果ててしまった彼は既に人間のドミニク・ダムマイアーから外れた存在だ。このままではいずれ魂さえも飲み込まれ、現世に受肉した真の悪魔と化してしまうことだろう。

 

「くそっ、完全に正気を失ってやがる……!」

「放っておいたら大変なことになるの! 早く止めないと――」

『誰ガ、誰ヲ止メルトイウンダイ……?』

 

 瞬間、ドミニクの異形の手より雷光が迸った。咄嗟にギアシールドで四人を守るノイ。洒落にならない威力に歯を食いしばりながらも耐え凌ぐ。

 辛うじて防ぎ切ったが、その一撃で歯車の盾は限界を迎える。少なく見積もっても最上級アーツに等しい。悪魔の名に遜色ない破壊力だ。

 

『ハハハハッ! 足掻ケ足掻ケ!』

「くっ……!? 皆、近くに!」

 

 そんな雷撃が間断なく襲い来る。ジョルジュが機械槌を突き立てて障壁を展開するが、それも長くは持たない。受け止めきれたのは二発まで。立て続けに降り注ぐ閃光が機械仕掛けの盾を貫いた。

 

「ぐあっ!?」

「ちっ、反則的すぎんだろ……!」

 

 間近に飛来した雷の余波がトワたちを吹き飛ばす。何とか受け身を取り、致命的な負傷には至っていない。しかし、このままではなぶり殺しにされるのが目に見えていた。

 活性化した場の霊気を力としているのだろう。そうでもなければ、これだけ強力なアーツを連発することなどできはしない。そして、その活性化の起点となっているのは魔物と化したドミニク自身――正しくは、その身に取り込んだ降魔の笛と思われる。

 

『コレガ降魔ノ笛ノ力! コレコソガ、世界ニ真実ヲ知ラシメル力! ハハ、存分ニ味ワウガイイ!』

 

 無尽蔵に溢れ出る力にドミニクはますます高揚していく。その昂りに呼応するようにして、眷属の魔物が次々と召喚される。先ほどの一つ目のだけではない。バリアハートで戦った青黒いものに、それ以外にも異形の群れが眼前に広がっていく。

 

「これは……少々、分が悪いね」

「強がるなよ。かなりヤバい、の間違いだろ」

 

 クロウにアンゼリカも、口ではまだ軽口を叩きつつも表情は厳しい。ただでさえ強大な相手だというのに、加えて物量まで備えてきているときた。悪い夢のようである。

 試験実習班にとって、かつてない窮地。一時撤退してウォレス准将と合流を図りたいところだが、それを許してくれるとも思えない。ドミニクはこの場でトワたちを消すつもりだ。

 気の昂りと優位からドミニクの口は饒舌だ。異形と化し、不自然に響く声で何かを悟ったように語る。

 

『ソウダ……圧倒的ナ力ノ前ニハ、全テガ無意味! 只人ハ等シク無価値(・・・)デ、大キナ流レニ抗ウ術モナク容易ク消エル! コノ《ハーメル》ノヨウニ!』

 

 ただ、その一言がトワの琴線に酷く響いた。

 

「無価値……?」

『ソウダトモ、力ヲ持タナイ弱者ニ何ガデキル!? 世界ハ何時ダッテ力アルモノガ作リアゲテキタ。人ハソノ元デ、簡単ニ潰エル生ヲ享受シテイルニ過ギナイ!』

 

 彼は人を無価値だという。権力を求める者に蹂躙され、国の思惑により存在を消されたハーメルの人々。貴族派の保身のため炎に消えたダムマイアー家には、何も事情を知らない人もいたかもしれない。

 どれもが呆気なく命を失うことになった。無残に、無慈悲に。国に権力者、どのような形にせよ強大な力を持った相手を前に、人は無力だ。

 そんな死に様を見てきたからこそ、ドミニクは断じるのだ。力なき弱者は価値なき故に、その生を散らせたのだと。

 

『人ノ命ニ価値ナド無キコトヲ、コノ巨イナル力ヲ以テ――』

 

 それは深い闇を目の当たりにし、力に溺れてしまったからこその帰結。力こそが世を支配する原理と信じ、それこそが至上の価値と信じるもの。それ以外を容易く失われる無価値なものと切り捨てる極論だ。

 

 

「――違うよ」

 

 

 そんな暴論を認めるわけにはいかない、認めてなんてやるものか。

 圧倒的な存在に対して真っ向から立ち向かう。自らを否定した小さな存在に、ドミニクは訝し気な様子を見せた。

 

『何……?』

「人は、無価値なんかじゃない。小さくて、弱く儚い命にだって、そこに生きる意味がある」

 

 胸に焔が燈る。心が叫んでいる。そんなのは間違っていると。

 どうしてこんなにも認めたくないのだろう。力に溺れた末の極論だから、というだけではない。この魂の奥底から湧き出る気持ちは、もっと別のものだ。

 

 自問し、そして気付く。

 

 何も難しく考えることなんてない。答えは、いつだってこの胸の内にあったのだと。

 

「私は知っている。人は、誰もが掛け替えのない存在なんだって。だから――!」

 

 金色の燐光がトワを包み込む。それは彼女の本当の姿を露にする予兆。仲間たちは、彼女がその力を畏れるのを知るが故に声を出さずにはいられない。

 

「トワ……!」

「お前、そこまでして……あ」

 

 そんな彼らにトワは微笑みかける。大丈夫、そう伝えるために。

 当たり前のものとしてではなく、必要に駆られてでもなく。恐れを越え、畏れに打ち克って。揺るぎない意志の元に、今こそこの力を揮おう。

 

「だからこそ、この力を以て――あなたを止めてみせる!」

 

 溢れ出る金色の波動が、周囲に満ちる魔の気配を押し退ける。

 響く星の鼓動。解き放たれた力が光となり、周囲を白に染め上げた。

 

*1
夏の四季魔法の一つ、サイクロン。追尾性のある竜巻を放つ。複数の敵にも有効。

*2
夏の四季魔法の一つ。周囲に茨の結界を発生させ、範囲内の敵を同時に攻撃する。



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第50話 永久

那由多の軌跡よりナユタ・ハーシェルの台詞を一部抜粋。

「地上には、懸命に生きてきた人々の『歴史』があるんだ」
「短い寿命を確かに生きて、様々なことを受け継いで……」
「それは、各地に残された様々な遺跡や文献が証明している」
「――僕たちにとって、あの世界は絶対に『仮初』なんかじゃない」

那由多の中で一番好きなこのシーン。ナユタらしさと主人公としての格好良さがあっていいですよ、本当に。


話数にして50話+1閑話、連載期間にして4年余り、ようやくトワの覚醒を書くことが出来ました。BGMに那由多の軌跡より『大切な友の為に』を用意してご覧ください。


『……何ダ、ソレハ』

 

 降りしきる雨音に混じり、ドミニクの呆然とした声が響く。白く染まった視界の晴れた先、そこに見た星の輝きを目の当たりにして。

 全てを飲み込むような黒い世界において、風雨に靡く白銀はそれらを跳ね除けて煌きを放つ。血のように赤く染まった世界において、尚も紅く輝く瞳はその身が宿す神性の証。

 生命を司る星の力を操りしミトスの民。己の真の姿を露にしたトワに、クロウたちはその背中が一際に大きくなったように感じられた。

 

「――ありがとう、皆」

「は……? な、なんだいきなり」

「皆がいてくれたから、皆と一緒に歩んでこれたから、私はここ(・・)に辿り着けた。だから、ありがとう」

「トワ……もしかして」

 

 その言葉にノイは察する。自分が見守ってきた彼女は答えを得たのだと。

 剣に力を籠める。星の輝きを宿した刀は光刃を成し、その切っ先を犇めく魔の軍勢へと向ける。

 

「正しさの為でなく、過ちを犯さない為でもなく――」

 

 トワは、ずっと勘違いしていたのかもしれない。

 大きすぎる力を持って生まれ、その恐ろしさを知って彼女は理由を求めた。自らの力の理由を、その大きさに振り回されないよう律するための理由を欲してきた。そうすれば過ちを犯さないようにできると思ったから。

 けど、それは間違っていたのだろう。故郷を飛び出して、ぶつかり合い信頼し合える友を得て、少なからずこの世界のことを知ってトワはそう思う。

 世の中には色々な人たちがいて、色々な考えや誇りを持っている。誰もが自分の正しさを持っていて、そのどれもが正義にも悪にもなるのだろう。そして、それらは時と共に移ろい一つに定まることは決してない。

 そんな世界で、一つの理由で正しくあれるだろうか。

 

「ただ、この魂と意志に懸けて――!」

 

 答えを求めるのは外ではなく、自らの内にあったのだ。

 たとえどんなに大きな力だとしても、それを揮うのは己自身。どんな理由づけをしたところで、結局はそこに帰るのだろう。このミトスの力にしても、この剣にしても。

 人に価値なんてない――ドミニクの言葉に、トワは胸から湧きあがる想いがあった。違う、私は知っている、そう魂が叫んでいた。

 それは、他ならないトワの意志。他の誰でもない彼女の内側から溢れ出るものこそが、彼女が本当の意味で揮うべきもの。

 クロウの言う通りだった。自分が何を為したいか――答えはそこにあったのだから。

 

 答えは得た。恐れを越え、畏れに打ち克った今、憚るものなど既にありはしない。

 だから高らかに名乗ろう。この力と共に受け継いだ自らの真名を――!

 

 

 

「ミトスの民が末裔――トワ・ハーシェル・ウル・オルディーン、参る!!」

 

 

 

 地を蹴り、宙を駆ける。人の身を超え、星の力と一体になった閃光が悪魔の軍勢の一角へと突貫した。並み居る敵を撫で斬りながらも、その身を捉えることを許さない。人智を超えた高速転移による連撃に悪魔は足並みを崩す。

 刹那の間に軍勢を切り抜けたトワ。その左手に灯るは星の煌き。誰もが持つ命の輝き。収束した金色の極光を悪魔らの後背へと解き放つ。

 光に染まる空間、純粋なエネルギーが轟音を響かせる。追撃の光波に飲み込まれた悪魔はその悉くが消滅した。

 

――オオオオォォ!!

 

 悪魔が吠える。それは滅された同族に仲間意識があったのか、それとも間違いなく自分たちと相反する存在を認めてか。あるものは膂力をもって叩き潰さんとし、あるものは魔法をもって押し潰さんとする。

 向かい来る攻撃の波にトワが憶することはない。取るべき手は先の先。光の刃に一層の力を籠め、彼女は鋭く踏み込み宙へと一閃を放つ。

 成されるは神風の刃。瞬間的に練り上げられた光の大太刀が、数をもって攻めかからんとした悪魔を迎え撃つ。軍勢を薙ぎ払う一撃にその動きは止められた。剛腕を振るおうとしたものは胴を断たれ、後方より魔法を放たんとしていたものはその一つ目から両断される。

 

 慮外の一手で数を削り取られた悪魔。気勢を挫かれたそれらを相手にトワは手を休めない。ここで一気に片付ける。

 跳躍し、その身体を引き絞る。総身に星の輝きを宿らせ、刃を向ける先は魔の渦中。弾かれたように宙を疾駆する姿はまさに流星。赤黒く染まった異界に金色の軌跡を描き、隕石の如き威力が地を穿った。

 余りある衝撃は大地をまくり上げ、悪魔に容赦なく襲い掛かる。流星そのものに巻き込まれたものは一様にその身を散らし、免れたものも余波に吹き飛ばされ意識が星を飛ばす。

 

 それでも幽世の存在は恐れることを知らないのか。次々と軍勢を屠られながらも、残りの悪魔は尚もトワへと襲い来る。渦中に飛び込んだ彼女は、自ら包囲されたも同然の形。四方八方より逆襲の手が迫る。

 応えるは居合の構え。瞑目するトワの脳裏に描き出されるは、自らの間合いに踏み込む悪魔の存在。尋常ならざる知覚がその全てを捉えた時、開眼と共に後にして先の戦技が繰り出される。

 

「はあっ!」

 

 それは、剣閃が描き出す天球図。抜刀、閃く刃が今まさに襲わんとしていた悪魔を切り伏せ、周囲に剣の残光を焼き付ける。その残光をなぞるかのように一帯を包み込む星の煌き。剣の間合いにあらずとも、星の力の奔流に飲み込まれて悪魔はその軍勢を絶やした。

 

「…………凄い」

「はは……マジかよ」

 

 目の前を埋め尽くさんばかりだった敵を瞬く間に殲滅したトワに、後ろの仲間は呆然と呟く他にない。その凄まじさは知っていたものの、全力全開を目にするのはこれが初めて。先月の比ではない暴れっぷりに感心を通り越して呆れてしまいそうだ。

 そして、それは何も知らない者にとっては尚のこと。夢にさえ思っていなかった、あまりにも常識外れの光景。目の当たりにしたところで理解が追い付かなくても仕方がない。

 

『――貴様アアァァ!!』

 

 思考が追い付いたドミニクが抱いたのは、怒り。圧倒的な優位にあったはずの自らを脅かす存在に憤った。

 排除せねば、この星の如き輝きを。その一念で彼は再び雷光を放つ。ノイのギアシールドも、ジョルジュの障壁も打ち破る威力。加えて幾度となく繰り出すことを可能とする膨大な霊力。たとえ幾度防ごうとも、その上から捻じ伏せてしまえばいい。

 

 そんな暴力的な光を前に、トワはただ掌を突き出した。

 

 雷が殺到する。しかし、それがトワの小さな身体を吹き飛ばすことはない。

 その掌が、雷光の全てを受け止めていた――いや、違う。雷はトワの掌に触れるや形を崩し、単なるエネルギーへと変換されて吸収されたのだ。

 

 ドミニクは今度こそ言葉を失った。この身を悪魔に変じた今、自身を止められる者などいるわけがないと思うだけの力に満ち溢れていた。現に、生半可な相手では彼を倒すことは不可能だろう。

 しかし、その思い上がりは呆気なく消え去った。自らの一撃を防ぐでもなく、躱すでもなく、まさか受け止められるとは。

 

「どんな魔法だろうと、自然に拠るものであれば星の力の一部――私が操るものだよ」

 

 地水火風。自然のそれらは一様に星の力を宿し、ミトスの民は権能を通して森羅万象を意のままに操作し得る。

 魔法であってもそれは同じ。魔力であろうと導力であろうと、星の力の概念と一体化したこの世界において、それらはミトスの民の権能の範疇。上位三属性であればともかく、四属性によるものであれば殆ど無効化できる。

 

「理屈は分かるが……いやはや、出鱈目だね」

「ふふーん、自然に関わることでミトスの民に敵うわけないの!」

「何でお前が自慢げなんだよ……」

 

 後ろの姉貴分のはしゃぎようにちょっと苦笑い。あまり緊張感を崩さないでほしいのだが……まあ、これまで心配をかけてきただけに仕方ない部分もあるかもしれない。

 ともあれ、悪魔となったドミニクの巨躯を前に油断はしない。力に溺れ、その精神性どころか身体までも悪魔に侵された彼がここにきて止まるはずもないのだから。

 

『……フザケルナアァッ!!』

「っ!」

 

 予想に違わず、ドミニクは怒りの声と共に再三の雷撃を放った。同じように受け止めるトワ。しかし、それは先のように途切れずに絶えず彼女を襲う。

 受け止められるならば、受け止めきれないだけの力を叩き付けてやればいい。そんな暴論をドミニクは振りかざす。いや、もうそんな考えを持っていられる状態ではないのかもしれない。ただ純粋な怒りが、トワを消し去らんと絶大な力を振り絞る。

 先にも増して威力が強まる。迫る圧力にトワは得物を手放し、両の手をかざして憤怒の雷光を受け止めた。

 

『貴様モ、貴様モソウナノカ! 力デ全テヲ捻ジ伏セ、全テヲ思イ通リニ運ボウトスル! ソウヤッテ世界ヲ自分ノ思イ描イタモノヘト変エテイク!』

 

 ドミニクが叫ぶ。それは怒りか、嘆きか。数多の感情が煮詰められ、原形を失った激情が罵声となってトワに叩き付けられる。

 しかし、それは紛れもなく彼の心の内より生まれ出でたものに違いはないのだろう。理不尽と欺瞞に捻じ曲げられた人生への、それが罷り通る世界への嘆き。それを為した力ある者たちへの憤怒。悪魔によって歪曲されたものではなく、ドミニクの本心が投げつけられる。

 

『何ガ違ウ!? 英雄ト謳ワレヨウト同ジコト……所詮ハ力デ世界ヲ変エルノデハナイカ! ソコニ弱者ノ介在スル余地ナド無イ!』

 

 尚も雷は圧力を増す。受け止めきれない余波が制服の袖を焼き飛ばした。

 世界は力ある者たちが作り上げている。英雄と称えられるもの、化け物と畏れられるもの。只人には成し得ない事を成す力を持った者たちが、世界を先へと進めていく。

 そこに弱者がいる意味がどこにある? あるはずがない。力なき者たちは、ただ価値もなく流されるままに生きているに過ぎない。ドミニクはそう断じる。

 

『ノウノウト生キル弱者ニ己ノ無力ト無価値ヲ知ラシメル! ソウシテ初メテ世界ハ本当ノ意味デ変ワルノダ!!』

 

 力と欺瞞に翻弄された男は、自身が力を手にしてそう悟った。力ある者こそが価値を有し、只人は無価値に生きて死んでいく。その真実を知らしめてこそ、人は世界を覆う欺瞞に気付くことが出来るのだと。

 暴力的で、しかし多くは否定に窮してしまう言葉。自分が、人が、世界に何の価値があるのか。それを真っ向から答えられるものは多くないだろう。

 クロウも、アンゼリカも、ジョルジュも明確な答えは見つからない。間違っているとは分かっていても、それを否定するのは言葉ではなく力になってしまう。ドミニクの言う力ある者のように。

 

 

「――違う!!」

 

 

 それでもトワは言葉にする。あなたは間違っている。堂々と、真っ直ぐに。その胸に信じるものがあるからこそ、そう言い切って見せる。

 

「人は、無価値なんかじゃない! 英雄は、一人で世界を変えられるようなものなんかじゃない! この世界は、人の紡ぐ歴史が作り上げてきたものなんだから!」

 

 人は無力なのかもしれない。世界の行く先を決めるのは英雄と称されるような者なのかもしれない。確かにそれは否定しきれない事実だ。

 だが、それは人に価値がないなんてことにはならない。どんなに大きな力を持った、どんな偉業を成す英雄と呼ばれる者であろうとも、それだけで世界を変えるなんて不可能だ。だって、世界を作るのは英雄ではなく人の歴史なのだから。

 

 トワは知っている。

 ケルディックが、商人の手で長い年月をかけて大市を発展させてきたことを。

 ヘイムダルが、過去にも現在にも正負の両面を有していることを。

 ルーレが、技術者が信念を持って新たなものを生み出してきた地であることを。

 バリアハートが、貴族制の歪みとその本来の在り方を内包していることを。

 パルムが、誇れる産業の裏には深い哀しみを隠していることを。

 

 それは、決して英雄が作り出してきたものではない。その地に生きる人々が、その時を重ね、そして次へと繋いできたもの。紡いできた歴史こそが世界を形作ってきた。

 両手に全力を注ぎこむ。襲い来る絶大な圧力を押し返す。憤怒が込められた雷光に、自らの信念を以て諍ってみせる。

 

「間違いながらも、懸命に生きて積み重ねてきた人の想いは、掛け替えのない大切なものなんだ! 今を生きる人々が、世界を未来へと繋いでいくんだから――あなただって!!」

『グッ……!?』

 

 人は弱くて、愚かだ。それ故に、時に大きな間違いを犯すこともある。ハーメルを襲った悲劇のように。それは悲しくも認めなくてはならない。

 

 けれど、人は決してそれだけではない。

 どんなに大きな力を前にしようと、手を取り合って立ち向かう人がいる。

 どんなに高い壁が立ちはだかろうと、諦めずに乗り越えようとする人がいる。

 どんなに過酷な運命であろうと、最後まで諍おうとする人がいる。

 そんな人たちを、きっと英雄と呼ぶのだとトワは思う。そこに力の強弱は関係ない。抱いた想いに嘘をつかず、それを貫ける心こそが英雄の証。

 

 間違う人がいて、それを正す人がいて、見出した道を歩んで人は少しずつ歴史を紡いできた。世界を少しずつ前へと進めてきた。只人も、悪人も、英雄も、誰もが世界を作り上げてきた想いの一つなのだ。

 そして、それは目の前の彼も変わりはない。その心に闇を抱えつつも、十年余りの時をボリス子爵と過ごしてきた秘書ドミニクの日々。放蕩気味な伯父に振り回されながらも、確かに笑顔があった何の変哲もない日常。そこに何の意味も価値も無かったとは思わない――彼だって、間違いなく世界を形作る人々の一部なのだから。

 

『戯言ヲ……! ソンナモノニ何ノ意味ガアル!? 想イナド、力ノ前ニハ簡単ニ絶エルダケダ!』

「だったら私が守ってみせる! 想いが、未来を照らすと信じるからこそ!」

 

 トワは信じている。人が歴史を紡ぎ、想いを明日へと繋いでいく度に、世界は少しずつ良くなっていくのだと。ほんの少しであってもいい。誰かの優しさと良心が誰かに伝わって、また誰かへと伝わっていく。そうして人は未来を作ってきたのだと。

 父が、母が、伯父が、ノイが。

 皆が未来へと繋いだのは、そんな素晴らしい世界なのだと――トワは信じている。

 

「世界に響き合う那由多の想いを、永久に繋ぐ為に――!」

 

 

 その心が想うが儘に。

 その身が世の礎たらんが為に。

 彼女は今、魂の咆哮を上げる。

 

 

 

 

「この明日への鼓動を――止めさせやしないんだからっ!!」

 

 

 

 

 光が逆流する。その魂の煌きを、その意志の輝きを表すかのように。トワの手より放たれた星の波動が雷光を飲み込んだ。

 瀑布の如き光の奔流に押し流される悪魔の巨躯。だが、まだだ。まだその歪みを挫くには至らない。自らの言葉の通り、力で全てを打ち壊さんとドミニクは叫ぶ。

 

『オノレエエエエアアァァ!!』

 

 漆黒の瘴気を撒き散らし、怒りの雄叫びが再び悪魔たちを呼び寄せる。雷の嵐が吹き荒れ、何もかもを塵に返さんとばかりに破壊を振りまく。

 それでも恐れることはない。信じる想いがこの胸にある限り、トワはもう揺るがない。彼女が揮うその魂と意志は、陰ることなく燦然と煌きを放つ。

 

「クロウ君、アンちゃん、ジョルジュ君!」

「――おうよ!」

「――承知した!」

「――ああ!」

 

 煌く星は夜闇の中に光をもたらす。それは希望の光。先の見えない暗闇においても共に在り、支えとなりて前へと進む勇気を与えるもの。

 仲間たちはその呼びかけに迷うことなく応えてみせる。光の刃を手にした彼女の隣に並び立つ。どんな敵であろうと怯まない。自分たちには眩いばかりに輝く()がいるのだから。

 

「私だって! サポートは任せるの!」

「勿論! 頼んだよ、ノイ!」

 

 小さな姉貴分も負けじと声をあげる。見守ってきたものとして喜びと誇らしさを覚えながら、その助けとなるべく全力を尽くさんとする。

 

「これで終わりにしよう――そして掴み取るんだ、私たちの明日を!!」

「「「「応!!」」」」

 

 戦術リンクの光が四人を包む。培ってきた絆の証が心を結び付け、想いを共にした彼女たちは荒れ狂う暴虐の化身へと立ち向かう。

 明日を、未来を手にする為に。強き覚悟と信念を以て、この異変に終止符を打ってみせる。

 

 押し寄せる悪魔の群れ。それらを巻き込みながらも降り注ぐ雷の嵐。その奥、もはや力を振りまくだけの存在と化したドミニクへと向けてトワたちは駆ける。

 雷鳴響く黒い空より降る雨水たち。頬を叩き、地を濡らす天の水瓶から来たりしものにトワが手をかざす。籠められた星の力が数多の雫を凝縮させ、無数の氷槍を成さしめた*1

 投射される氷の槍衾。殺到する鋭利な刃に、前方の敵はその動きを止めざるを得なくなる。複数発を喰らって動かなくなるもの、手足を地面に縫い留められるもの。自然の猛威が悪魔の動きを鈍らせた。

 

 勢いのままにトワたちは突撃する。動きの鈍った悪魔から切り伏せ、撃ち貫き、殴り飛ばし、叩き潰していく。後から湧き出てこようが関係ない。入り乱れる敵の最中を互いが互いを支え合って突き進む。

 トワの一撃が敵陣に風穴を開き、仲間たちがそこに道を切り開く。襲い来る雷にはノイとジョルジュが守りを固め、あるいは矢面に立ったトワが跳ね返した。

 立ち止まらない。こんなところで止まってなんかいられない。ただひたすらに、前へ。彼女たちは駆け抜ける、この暗闇の向こうの明日へと。

 

 怒涛の攻勢が悪魔の壁を突き破る。その先に在るは異界の根源。魔に憑かれ、狂乱するドミニクは憤怒と憎悪を吐き出してトワたちを滅さんと力を振るう。

 

『必要ナイ……! 未来ナド、明日ナド! 全テコノ暗闇ニ沈ンデシマエバイイ!!』

 

 暗黒と雷が混ざり合い、禍々しい闇の塊が莫大なエネルギーを有して形成される。歪んだ怨嗟と呪詛が込められたそれは、全てを飲み込まんとトワたちへ迫る。

 

「生憎だが、それを決めるのはあなたではない!」

「僕たちの未来は、僕たちの手で決めるものだ!」

「終わるものかよ……俺たちの物語は、これからも続いていくんだからな!」

 

 迫る暗闇にそれぞれが全力を叩き込む。アンゼリカの功夫が込められた黒龍の一撃が、ジョルジュの技術の粋を集めた鉄壁の護りが、クロウの正真正銘本気の一発が、漆黒の津波を塞き止めた。

 拮抗すれど、それは押し返すには至らない。時間は稼げても、いずれは競り負けてしまうことだろう。今の三人の限界がそこにある。

 だが、構わない。時間稼ぎで十分だ。後は自分たちの《要》が最高の一手を決めてくれる。彼らは何の疑いもなく信じられた。彼女が彼らを信じてくれたように。

 

「暗闇を払って照らし出してみせる! 私たちの、あなたの明日を!」

「いっけええええ!!」

 

 その手に集った星の力が原初の光を紡ぎ出す。トワがかき集め、ノイが支え、空前絶後の大魔法がここに形を成す。

 顕現するは灼熱の恒星。天にて輝く燃ゆる星の複製が地に現れ、その眩い光は異界の空間を照らして大地を震撼させる。

 仲間たちの想いに応え、今ここに夏の陽光を解き放つ。

 

 

「「ソル――イレイズ*2!!」」

 

 

 天を覆う黒雲を、地に這う瘴気を、この空間に蔓延る魔の気配の全てを照らす白金の太陽。世界を揺るがす理外の陽光が漆黒の闇とぶつかり合い――その光の前に、闇は呆気なく掻き消えた。

 

『ア――――』

 

 視界が、身体が、世界が光に染められていく。その間際、ドミニクはただ声を漏らす。

 太陽が地上に輝く。赤く歪んだ異界を打ち砕き、周囲を支配する閃光と轟音。その波動を天にまで響かせて、ハーメルの、パルムの空に星の光が瞬いた。

 

*1
冬の四季魔法の一つ、クリスタルランス。ノイが使う本来のものは三発のみ。

*2
最も強力な夏の四季魔法。小型の太陽を作り出して画面全体の敵を攻撃する。



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第51話 終幕 そして――

皆さん、明けましておめでとうございます。
先日に大きな見せ場を迎えた拙作。多くの方から評価・感想をいただいたことを、この場を借りてお礼申し上げます。
今回でパルム実習も終了し、先輩たちの一年生編も残すところ僅かとなってきました。まずは節目となる学院祭まで頑張って参りたいと思います。

それはそうと、ファルコムメールマガジンで配信中の年賀壁紙はご覧になったでしょうか。旧Ⅶ組も、新Ⅶ組も、先輩たちも……皆揃っています。
こういう時にちゃんと先輩たちも入れてくれるファルコムほんと好き。


「くっ……」

「ど、どうなったんだ……?」

 

 トワとノイが生み出した恒星の一撃により閃光と轟音に包まれたハーメル近辺。規格外の大魔法により目を晦ませていたアンゼリカにジョルジュ、そしてクロウは、ようやく周囲に平静が戻ってきたのを感じ取って薄っすらと目を開ける。

 あまりに強い光を受けたせいか明瞭としない視界。何度か瞬きを繰り返し、どうにか状況を把握しようとする。そうして目に入ってきた光景に、彼らは一様に顎を落とした。

 

 赤く染まった異界も、雷雨が降りしきる黒雲も、ドミニクが変じた暴虐なる悪魔も全てが消え去っていた。彼に呼び出された無数の眷属も例外ではない。直前までの死闘が嘘であったかのように辺りは静まり返っていた。

 そこに残されたのは、地面を抉り取ったかのような太陽の爆心地。最上級アーツを放ったとしてもこうはなるまい。球形にぽっかりと空いたクレーターに、ミトスの民の凄まじさというのを改めて思い知らされた心地だ。

 

「はは……おっかねえ。怒らせたら命が幾つあっても足りねえな」

「――そう思うんだったら、怒らせないように気を付けてよね」

 

 背中からの声に振り返る。そこにはノイと、仰向けになって倒れているトワの姿が。

 随分と疲弊している様子だ。クロウの軽口に突っ込んできたあたり大事はないようだが、吐く息は荒く身体は脱力しきっている。その身に纏っていた濃密な星の力も雲散霧消し、今はただ雨に濡れた白銀の髪が艶めいていた。

 

「えっと、大丈夫なのかい?」

「ミトスの民として全力を出すなんて十年ぶり近いの。慣らし運転もしなかったものだから、身体の方がビックリしちゃった感じなの」

「あはは……そういうことだから、少しゆっくりすれば大丈夫だよ」

 

 今まで碌に動かしてこなかったエンジンを最大稼働させたようなものだ。その場は何とか凌げても、後になって無茶が祟るのが道理というもの。全力全開の代償として、トワはしばしの休息を必要としていた。

 とはいえ、これは一時的なこと。答えを見つけた彼女が力を使うのを躊躇う理由はもうない。これからは自分の意志の元にそれを扱い、使いこなしていく。程なくして身体もそれに適応することだろう。元はそのように出来ているのだから。

 七耀教会との盟約もある。そう好き勝手には振る舞えないが……友達の為に少しばかり力を貸したりするくらいは問題ないだろう、たぶん。

 

「そうとなれば私の膝を貸してあげよう。さあトワ、ゆっくりするといい」

「あ、うん。ありがとうね、アンちゃん」

 

 今回の殊勲者を地面に寝かせるわけにはいかないと、アンゼリカが無駄に素早い動きでトワを膝枕させる。雨に濡れた髪を梳く手も悪いものではない。

 

「うぇへへ……ああ、地上に舞い降りた天使がここに……」

「アン、程々にしておきなよ」

「ったく、欲望に忠実というか何というか……」

 

 悪くはないのだが、どうも手つきが怪しいというか、頬を赤く染めて恍惚とする様が変態的というか、浮かべる笑みが色々とアウトというか。一言で表せばアンゼリカはアンゼリカであった。トワも苦笑いが浮かぼうというものである。

 それはともかく、と一つ咳払い。修羅場を超えたのはいいとして、まずは確かめなければいけないことがあった。

 

「それよりドミニクさん、大丈夫そう? 生きているのは分かるんだけど……」

 

 倒れたままのトワからは彼の様子が窺えない。その星の力を感じられることから死んでないとは判断できるが、それ以上は分からなかった。

 彼女に代わってクロウとジョルジュがクレーターの底を覗き込む。その中央には人間の姿に戻ったドミニクが倒れ伏していた。ピクリとも動く様子が見えないが、トワがそう言うのなら生きてはいるのだろう。

 

「あんな姿になってよく無事で済んだというか……一先ずは大丈夫そうだよ」

「よかった。上手く憑いた悪魔だけを消せたみたい」

「器用なことで。ま、放っておくわけにもいかねえし拾ってやるとするか」

 

 クロウが抉り取られた地面の底に飛び降りる。傾斜を滑るように向かう中、足元で何かが砕ける音が耳に響く。石などが溶解してガラス化したものだろうか。

 倒れたドミニクの元に辿り着き、一応の生存確認を行う。脈もあり、体を起こしてやると「う……」と短く呻く声がした。随分と衰弱しているようだが、命に別状はない程度のものだ。しばらく病院に放り込めば快癒するだろう。

 

(こんな奴でも救おうとするとか、本当に甘いというか……)

 

 悪魔だけ滅したというが、それは相当に神経を張り詰める針に糸を通すかのような離れ業だったのだろう。人と魔を切り離し、魔を葬る太陽の業火から人を守る。あの一瞬の間にどれだけの力を要したのかクロウには分からない。だが、彼女の疲弊ぶりから並大抵のことではないのは確かであった。

 別にドミニクごと燃やし尽くしても、誰も責めやしなかっただろうに。ボリス子爵だって哀しみこそすれ、恨みはしないに決まっている。それでもドミニクを救う形で異変を終わらせたのは、間違いなくトワの意志によるものだ。

 甘く、優しすぎる。そんな綺麗なものじゃないと知っているはずなのに、それでも世界と人を信じると言い切った彼女。クロウから言わせてもらえばとんでもない大馬鹿である。

 

(だがまあ、それに魅せられちまった奴が言えたことじゃねえか)

 

 そんな彼女の魂に魅入ってしまった。その意志の輝きに見惚れてしまった。口で何と言おうとも、それは否定しようのないクロウの真実。アンゼリカも、ジョルジュも、きっと同じことだろう。

 結局のところ、自分たちはトワに骨の髄まで誑し込まれてしまった連中なのである。今更になってへそ曲がりなことを口にはするまい。

 ――その時が来るまでは、星明りを見上げていても構わないだろう。

 

 クレーターの上にまで戻るため、ドミニクを担ぎ上げようとする。その拍子に何かが彼の懐から転がり落ちた。自然と目で追った先に在るものを認め、クロウは動きを止める。

 古めかしい装飾が施された笛。魔獣を操り、魔物を呼び出し、ついにはドミニクの身に魔を降ろさせた元凶。降魔の笛が目の前に転がっていた。

 ドミニクを生かしたことで、結果的に笛も残ることになったのか。周囲に溢れださんばかりだった瘴気は感じられない。凄まじい星の力の奔流に飲み込まれたことで、宿していた力の大半を失った。そう考えるのが妥当に思えるくらいに存在感を減じている。

 

 しばし考え……クロウは笛を拾い上げると、自分の懐に忍ばせた。

 あれだけの異変を起こしてみせた古代遺物だ。七耀教会に引き渡すか、跡形も残さずに破壊してしまうのが妥当な選択肢である。こっそりとくすねるなど論外と断じられても仕方がない。

 だが、生憎とクロウはお行儀のいい模範生でもなければ、真っ当な人生を歩んできたわけでもない。内に秘めた宿願のために使えるものなら何でも使う。たとえ、それが呪われた遺物であろうとも。

 今は古ぼけた笛にしか見えないが、あの魔女にでも見せれば何かしら役立てる方法でも講じてくれることだろう。借りを作るのはあまり気が進まないものの、これの危険性は身を以て体験している。その手に詳しい相手に任せるのが最善だ。

 

「クロウ、こっちまで運んでこれそうかい?」

「――おう、何とかな」

 

 上から聞こえるジョルジュの声。先までの冷たい思考をおくびにも出さず、クロウは平然とその呼びかけに答えた。改めてドミニクを担ぎ上げ、地の底から仲間の元へと戻っていく。

 この日々は偽りだ。それは分かっている。士官学院生クロウ・アームブラストという仮初の自分を演じる日々。いずれは捨て去らなければならないもの。

 それでも、その時までは彼女たちと共に歩もうと思う。碌でもない人生におけるせめてものモラトリアムを、何時か言われた通り全力で楽しむために。

 

「どっこいせっと。そんじゃあどうする。さっさとパルムに戻るか?」

「異界化が解けてウォレス准将の方の悪魔も消えただろうし、そちらとも合流しないとね」

 

 赤く染まっていた世界はすっかり元通りになり、ついでに雷雨を降らせていた雲も吹っ飛んだ。笛の効力が消えたことで魔獣も自ずと退いていくはず。悪魔と相対していたウォレス准将もきっと無事でいることだろう。それより前に倒してしまっているかもしれないが。

 

「本当は早く戻った方がいいんだろうけど……その前にハーメルに立ち寄りたいんだ」

 

 膝枕から起き上がったトワがそう提案する。背中から「ああっ……」と漏れる名残惜しむ声を聞き流し、彼女は辺りに視線を巡らせた。

 ふと、目が留まる。そこにあったのは、ひっそりと咲く山百合の白い花弁。その幾つかを摘み取り、仲間たちにも渡していく。

 

「せめて祈っていこう。この地に生きていた人々に、魂の安らぎがあるように」

「……そうだね、それがいいと思うの」

 

 

 

 

 

 ハーメルの跡地へと戻り、石碑が置かれた高台へ。意識を取り戻す様子のないドミニクは近くに寝かせ、トワたちは理不尽にも命を落とすことになった人々が眠るそこへと改めて訪れる。

 高く広がる空。いつしかそれは青から茜色に変わっていた。黒雲に隠れていた本物の太陽は、既に地平線の先へと姿の半分を落としている。すっかり夕暮れ時になったことを認めて、ジョルジュが嘆息した。

 

「結局、また予定通りに終わらなかったね。慣れたと言えば慣れたけどさ」

「今回はとびっきりだったからなぁ。後始末も面倒なことになりそうだし……世の中、厄介ごとが満載で参っちまうぜ」

 

 パルムを襲った魔獣の群れ、異界化による悪魔の出没、禁足地であるハーメルへの立ち入り、犯人であるドミニクの打倒。一つとっても後も大変になるのは目に見えているというのに、それがより取り見取りだ。今から憂鬱にもなろう。

 特にハーメルの件に関しては、政治的にも厄介な事情が絡んでくる。あれだけウォレス准将が念を押してきたのだ。緘口令を命じられるのはまず間違いない。

 自分たちの立ち入りを押し通し、身内が犯人でもあったボリス子爵がどうなるかも気掛かりだ。悪いことにはならなければいいのだが……今から気にしていても仕方がない。いざとなれば口先で何とか切り抜ける他ないだろう。

 

「これからも色々と大変だろうし、ハーメルの悲しみが消えるわけでもないけれど……少なくとも、この地の平穏を取り戻せたのは確かだよ」

 

 過去を変えることはできない。ハーメルの悲劇も、その波紋が起こしたダムマイアー家の謀殺も。因果を解く術はなく、これからも争いや悲しみが呼び起こされることになるのかもしれない。

 それでも、起きようとしていた悲しみの一つを防ぎ、因果が招いた歪みを正せたのは確かだと思うから。胸を張って生きていこう。また誰かが間違えようとしたならば、それを諭し全力で止めればいい。そうして世界が少しでも良くなることを願いながら。

 

「私たちが出来ることなんて、ほんの小さなことなのかもしれない。けれど、どんな些細なことであっても善くしようとしていくこと。それを積み重ね、繋いでいくことに意味があるんじゃないかな」

「そうしてこの人たちが安らかに眠れる世界を築いていく。それが私たちの責務というわけか」

「うーん……そう言われてしまうと、身に重い話に聞こえてくるというか」

 

 世界とかどうとか、壮大な規模で話されてしまうとジョルジュとしては弱音が零れてしまう。そこでクロウが呆れた様子で口を挟んだ。

 

「別に仰々しい言い方なんざ必要ねえだろ。前向きに生きていこうって、それで済む話だ」

「ざっくり過ぎる気がするけど……まあ、間違ってはいないの」

 

 結局、大事なのは心の持ちようだ。特別でもない人並の良心を持ち、誰かを想い、それを明日へと繋いでいく。当たり前の毎日を明るくできるようにしていくこと。ただ、それだけでいい。

 言うほど簡単なことではないかもしれない。それでも諦めることはないと思う。一人では無理でも、隣にいる人々と支え合って、また前へと進んでいく。人間とは、そういう生き物なのだろうから。

 

 それぞれ石碑へと花を供えていく。傍に突き立てられた折れた剣も、ここに生きた誰かの墓標なのだろうか。くすんでしまった金色の刀身には無数の傷跡が。それだけで苛烈な境遇に身を置いてきたことは察せられた。

 この剣の持ち主がどんな風に生き、どんな最期を迎えたのか。それは分からない。けれど、その眠りが安らかであってほしいと思う。

 それを成せるかどうかは、今を生きる人たち次第だ。亡くなった人々が女神のもとで憂うことの無いよう生きていく。世界が平穏であるよう努めていく。命ある人々がそう在れるようトワは願い、信じたいと思う。

 

「どうか女神のもとで安らかに――そして見守っていてください。人が明日へと歩んでいく姿を」

 

 魂の安息を祈り、未来への希望を願う。

 明日への歩みがこの人たちへの何よりの報いとなる。そう信じ、進み続けていこう。茜色の中に星明りが輝く空の下、トワは墓標を前に誓うのであった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「セレスタン」

 

 とうに日も落ち、夜闇が街を包む時間帯。旧都セントアークの中枢、ハイアームズ侯爵邸の廊下で一人の執事に若い声が掛けられた。

 眼鏡をかけた執事が振り返る。そこには親譲りの橙色の髪を持った少年が。いや、年齢的に見ればそろそろ少年から脱しようとしているのかもしれないが、幼いころから見てきた執事としてはまだまだ子供には違いなかった。

 少年の名はパトリック・T・ハイアームズ。執事はセレスタンという。この屋敷の主、ハイアームズ候の三男坊とそのお守り役である。

 

「これは坊ちゃま、どうかなさいましたか?」

「どうも屋敷が慌ただしい気がしたんだ。何かあったのか?」

 

 もう今日は休もうかと考えていたパトリック。自室に戻ろうとしたところで、彼は妙に屋敷がざわついていることに気付いた。夜半ともなれば、パーティーでもない限り静かなのが常であるというのに。

 こういう時に尋ねる相手は決まっている。セレスタンなら大凡のことは知っていると無条件の信頼があった。

 実際、その信頼は間違っていない。セレスタンは今屋敷で何が起きているかについては正確に把握していた。

 

「急の客人が見えていまして。ウォレス・バルディアス准将閣下にパルムのボリス・ダムマイアー子爵閣下、それにトールズ士官学院の方々が侯爵閣下と面会されているところです」

「ウォレス准将が? それにパルムの領主がこちらに来るのも珍しいというか……いや、それよりその面子の中にどうして学生が混じっているんだ?」

 

 事情を聞いたパトリックは混乱した。こんな夜分遅くに客人が来ることもそうだが、その面子が面子だ。ウォレス准将は領邦軍を取り仕切る関係でよく見るものの、ボリス子爵は社交界にさえ滅多に顔を出さない。名前を聞いたのも久しく思うほどだ。

 何よりも不可解なのは、そこに学生が加わっているということ。トールズ士官学院といえば帝国でも指折りの名門ではある。しかし、責任ある人物たちの面会の場に参加する理由はまるで想像できなかった。

 摩訶不思議な状況に疑問が募る。てっきりその答えも用意されているものかとパトリックは思っていたが、残念ながらセレスタンはその期待には応えられなかった。

 

「申し訳ありませんが、私も用件については聞き及んでおりません。内密な話のようですね」

「そうか……まあ、誰とも知らない学生も混じっているんだ。そう重要なことでもないだろう」

 

 気にはなるものの、仔細が知れないとなると興味を薄くするパトリック。そこには無意識の内に侮りが入っていた。名も知れない学生が立ち入ることなどたかが知れていると。

 セレスタンはそんな彼に憂慮を覚える。自分やそれに類するもの以外を些事と見做す、典型的な悪い意味での貴族的思考。自分も甘やかして育ててきてしまったと自覚があるだけに、その欠点をなかなか分からせることが出来ないでいるのが実情であった。

 もっと広い視点で物事を捉えられるようになってほしい。そう願ってはいるが、別に急いてはいなかった。来年にはパトリックも高等学校へ進学する。新しい環境に身を置けば、自ずと考えを見直す機会も訪れるだろうとセレスタンは期待していた。

 尤も、その進学予定先がトールズなのだから、もう少し気を割いてもいいのではないかと思わずにはいられないが。

 

「僕はもう休む。何か分かったら明日にまた教えてくれ」

「ええ。おやすみなさいませ、坊ちゃま」

 

 そんなお守り役の内心など露知らず、パトリックは気を晴らすと今度こそ自室へと戻っていく。その後ろ姿が見えなくなったところで、セレスタンはひっそりと息をついた。

 

(……しかし、侯爵閣下が私にも事情をお伝えにならないとは)

 

 パトリックの興味はどうあれ、面会の理由自体はセレスタンも気になるところだった。何より、ハイアームズ候の執務室で余人を交えずに行われているという機密性の点において。

 セレスタンはハイアームズ候が最大限の信を置く臣下だ。これは彼の自惚れではなく、自他ともに認める事実である。侯爵の秘書的な業務もこなす彼は主人と多くの情報を共有している。

 そんなセレスタンにも何が起きたのかは知らされていない。これは間違いなく異常な事態であった。自分でも知ることが許されない、そんな異常が起きたのだ。

 

(気にはなりますが……そこは主人の想いを汲んでこその執事というものですね)

 

 自分は執事。主人の意向に沿い、それを支えるのが本懐というもの。ハイアームズ候が伝えることが出来ないというのなら、セレスタンからあれこれ聞こうというのは間違っている。

 内容は分からないものの、あまり明るい話でもないだろう。夜遅い時間も相俟って疲れも出るはず。何かリラックスできるものを用意しておこう。

 ハーブティーあたりが適当だろうか。そんな考えをまとめながら、セレスタンもまたその場を離れて厨房へと足を運んでゆくのだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「――ことの経緯は分かった。まずはありがとう、トールズの諸君。君たちのおかげで未然に大きな被害は食い止められた。州を代表するものとして礼を言わせてほしい」

 

 そうトワたちに感謝の意を伝えるのはこの屋敷の主、フェルナン・ハイアームズ侯爵。アンゼリカの父と同じく、四大名門の一人として名を連ねる大貴族だ。

 普通の感性の持ち主ならガチガチに緊張するところだろうが、トワたちは良くも悪くも普通ではない。礼儀は弁えながらも、さして固くなることもなく応対していた。

 

「感謝の言葉、ありがたく受け取らせていただきます。ですが、称賛を受けるべきは私たちに限らないのではないかと」

 

 パルムを襲った魔獣の群れ。あのままドミニクを止めなかったら、そこに悪魔の軍勢までもが加わっていたことだろう。それを阻止したのは確かに試験実習班の功績かもしれない。

 だが、そこに至るまでは到底彼女たちだけの力だけでは成し得なかった。門番の悪魔を引き受けてくれたウォレス准将、襲い来る魔獣から町を守った領邦軍にヴァンダール流の人々、住民の混乱をボリス子爵が抑えてくれなかったら更に大変なことになっていたかもしれない。

 誰かだけの力ではない。そこにいた皆が各々の意志で動き、繋がりあった想いがこの結末をもたらしたのだ。そう思うからこそトワはハイアームズ候の目を真摯に見つめ返す。

 

「ボリスさん、ヴァンダールの方々、准将閣下たち領邦軍――その派兵を決められた侯爵閣下も。皆で掴み取った未来を誇り、喜びを分かち合うべきではないでしょうか」

「……若者というのは、時に思わぬ形で驚かせてくれる。これも教官殿の薫陶あってのことかな?」

 

 笑みを湛えたハイアームズ候の目が部屋の一角へと向かう。聞かれた側の人物はと言えば、何とも答え辛い問いかけに苦笑いを浮かべるばかり。

 

「い、いやー、どうでしょうか。あはは……」

「どう考えてもサラの影響じゃねえだろ。その口からこんな人間のできた台詞聞いたことないぜ」

「確かに。仮にそんなことを言われても、この前のように抱腹絶倒する自信しかないがね」

 

 ピキリ、と引き攣っていた笑みが固まる。火急の知らせにセントアークまですっ飛んできたサラ教官。教え子たちからの心無い言葉に堪忍袋の緒が切れるのは早かった。

 

「あんた達……! 毎度毎度大変なことに首を突っ込んでおいて、少しはその減らず口を直したらどうなの!?」

 

 実習の度に胃を痛めつけられる思いの教官から雷が落ちる。元凶である二人がどこ吹く風でいる隣で、巻き添えのトワとジョルジュは肩を竦めた。

 場に相応しくない騒がしさだが、緊張を緩めるにはちょうど良かったのかもしれない。ハイアームズ候に限らず、ウォレス准将やボリス子爵からの生温かい視線にサラ教官が気付くまで今しばしの時間を要した。

 

 

 

 

 

 身柄を確保したドミニクと共にハーメルを後にしたトワたち。道中でウォレス准将とも合流し――流石と言うべきか、大した怪我もしていなかった――一同はパルムへと帰還した。

 領邦軍とヴァンダール流の尽力により町や住民は無事であり、それぞれに何名かの軽傷者を出す程度で被害は抑えられていた。常軌を逸した事態だったことを考えれば、これだけで済んだのは僥倖という他にない。

 

 異変は終息した。しかし、その事後処理は簡単には終わりそうになかった。

 ドミニクは未だに目を覚まさない。悪魔化の影響で著しく体力を消耗した状態にあるのだろう。そのまま拘束するわけにもいかず、まずは設備の整った病院に収容する必要があった。

 犯人の最も身近にいたボリス子爵にも改めて事情聴取が求められることになる。全ての犯行はドミニクの手により行われたのはウォレス准将も承知のことだが、かけられていた嫌疑を晴らすためにも正式な聴取は不可欠だ。

 そしてトワたちもまた、帝国の禁忌に触れた身としてその裁可を受ける必要があった。喫緊の事態だったとはいえ、こればかりは仕方がない。想定していた通りに彼女たちはセントアークへ戻るウォレス准将に同行することになる。

 

 そうした経緯の末に持たれることになったハイアームズ候との面会の場。ドミニクは既に病院へと送られた。学院側の責任者としてサラ教官も急遽として出張り、この夜分の侯爵邸に異色の面子が揃うことになったのである。

 

「でも、思いもしませんでしたよ。サラ教官がハーメルのことを知っていたなんて」

 

 さて、と仕切り直したところでジョルジュが驚きの念を口にする。当初は自分たちも期せずして知ってしまった機密の関わることにサラ教官を呼んでいいものかと思っていたが、そこは問題なかった。彼女は既に帝国の闇を知り得る身だったのだから。

 先ほどまで騒がしくしていたのと打って変わり神妙な様子のサラ教官。彼女がその事情に通じていたのは前職の関係であった。

 

「ギルドには独自の情報網があってね。百日戦役に関わることも、大まかには把握しているのよ……流石にハーメルのことを知り得ているのは一部の高位遊撃士に限られるけど」

 

 民間人の保護を第一とする遊撃士。戦争勃発ともなればその役目の為に果たすべきことは多くあり、不自然な戦争の発端を探ることもあったのだろう。停戦調停には遊撃士も仲だったと聞くことから、隠された真実を承知していたとしても不思議ではない。

 貴族派将校が引き起こした愚行は、特に遊撃士にとって許されざることだ。だが、国家間で交渉が成立してしまった以上は詳らかにすることは適わなかったのだろう。彼らもまた、公の組織として規則に縛られる身なのだから。

 

「改めてだが、ハーメルについては緘口を約束してもらうことになる。流布した場合、厳罰に処されることは避けられないだろう」

「……欺瞞だと罵ってくれて構わない。その権利が君たちにはある」

「いえ……侯爵閣下のそのお気持ちだけで十分です。私たちは大丈夫ですから」

 

 沈痛の面持ちを浮かべるハイアームズ候。四大名門でも穏健派と聞くのは間違いではないようだ。自分たちの感じた悲しみと憤りを慮ってくれる人に悪いことなど言えようか。

 それに、トワたちもハーメルのことを明かせない理由は承知している。納得している、というのは難しいが、理解はしているつもりだ。政治的なことに対してとやかく言うつもりはない。

 彼女の答えにハイアームズ候は「そうか……」と零す。彼としても思うところはあるようだが、感傷に浸ってばかりもいられない立場だ。気を取り直すと次のことへと目を向ける。

 

「ボリス子爵」

「はい」

 

 常の陽気さなど欠片も残っていないボリス子爵。十年を共に過ごしてきたドミニクが仕出かしてしまったこと、その抱えるものに気付けなかったこと。彼が気落ちするのも無理はなかった。

 元からあった嫌疑に加え、ボリス子爵にはトワたちのハーメルへの立ち入りを押し通した点がある。判断が難しいところだが、本人は既に罰を受け入れる気でいる様子。ハイアームズ候からの呼びかけに返答が震えることはなかった。

 

「トワ君たちが聞いたドミニク氏の証言からも、あなたが襲撃事件に関与していないことは間違いないだろう。これに関しては、この場で無罪放免を約束する」

 

 言葉を区切るハイアームズ候。そして、と肝心の続きが語られる。

 

「ハーメルの件は、危機的状況であったことを鑑みて事後承諾という形で処理したいと思う。少しばかり手古摺るかもしれないが、私の名においてあなたに不利益を被らせはしない」

「…………は」

 

 気の抜けた声が零れ落ちる。要するに罪には問わないということ。これ以上ない寛大な処置だ。言うほど簡単なことでもないだろうに、ハイアームズ候の判断にトワたちも驚きと尊敬の念を覚える。

 しかし、ボリス子爵は違った。そこにあったのは喜びと感謝ではなく、疑念と納得のゆかない気持ち。呆然としていた彼はようやくといった様子で口を開く。

 

「どうして……私は、侯爵閣下の手を煩わせるような、そんな……」

「あまり自分を卑下しないでほしい。私はあなたを欠かすには惜しい人だと思っている。社交界では肩身が狭いかもしれないが、領民を想うあなたは紛れもなく――」

「違うのです……!」

 

 言葉を遮り、ボリス子爵は絞り出すような声で否定する。悲痛に満ちた様子で、彼は自身への肯定を拒絶した。

 

「彼の凶行を見過ごしてしまった、心に刻まれた傷に気付いてやれなかった! 時が癒してくれたと高を括り、隣にいながら何一つできず……そんな男にどうして罪がないというのです!?」

「あたしは話を聞いただけですけど、その秘書さんは古代遺物の影響でああなってしまったのでしょう? 子爵閣下がそんなに気に病むことでは……」

 

 見かねた様子のサラ教官が口を挟む。客観的に見て、彼に非はないように思えたから。

 事実として、一連の出来事の発端は降魔の笛にあるのだろう。悪魔の撃破と共に破壊されたと思われる(・・・・)呪われた遺物。その力に憑かれ、ドミニクが結果的にあのような真似をしてしまったのは間違いではない。

 だが、そうではないのだ。ボリス子爵を苛むのはそんな端的な事実ではない。過去の自分の行いが巡ってドミニクを歪めることになってしまった。そう思うからこそ、彼は自分が許せない。

 

「その根を作ってしまったのは私なのだ。罪も償わず、のうのうと生きるなど……」

 

 切っ掛けは重要ではない。その火種となったもの、ダムマイアー家が炎に消えたあの日の記憶。それを引き起こしたのは前当主の暴走であり、原因である貴族社会での凋落はボリス子爵の行いに起因するものだ。

 罰を受け入れる気でいる、と先ほどは評した。俯く彼の姿を見て、それは誤っていたと気付く。彼は、罰を受けたかったのだ。

 

「――では子爵、聞かせてもらうが」

 

 そんなボリス子爵へ静かに問いかける。ハイアームズ候は温厚な面持ちを厳しさで染め、目の前の彼をひたと見据えた。

 

「あなたが罰を受けたとして、その罪を贖うことが出来ると本当に思っているのか?」

「…………っ!」

 

 鋭く、痛みを伴う言葉だった。その正しさを理解できるだけに、何よりも深く胸に突き刺さる。

 望む通り、罰を受けたとしよう。しかし、それは法と規則が定めたもの。形式的なものに終始し、彼の心を救うことにはならないと思われた。

 

「……同じく領地を預かる身として言わせてもらえば、それは『逃げ』にしかならないでしょう。今回の件で不安の残る民もいるはず。子爵閣下にはそれに向き合う責務があるはずです」

 

 ウォレス准将の道理を説く整然とした言葉が続く。それもまた、確かな事実だ。

 被害こそ小さなもので済んだとはいえ、襲撃を受けた領民の心中には少なからない波紋が残されたことだろう。ハーメルを記憶に残すものならば尚更のこと。加えて領主までも罪に問われようものならば、パルムという町は決定的な打撃を受けることになる。

 

 ボリス子爵も、二人が言うことは正しいと理解している。それでも飲み込むことが出来ない罪悪感があった。己を苛むものに折り合いをつけられない。彼の心はそこまで強くなかった。

 惑うその足を、再び前へと進める助けになれたなら。そう思い、トワは口を開く。

 

「ボリスさん、確かにドミニクさんは間違いを犯してしまいました。それは認めなくてはならないことですし、遡ればあなたにも一因があったのかもしれません」

 

 魔獣を用いた襲撃による帝国各地での騒乱罪。ドミニクの犯した罪は決して軽いものではなく、極刑はなくとも長期の懲役が科されることになる。その人生において大きな傷跡となることは目に見えていた。

 彼らにまつわる過去を知ったトワにも、ボリス子爵を苦しめる罪悪感の一端は理解できる。けれど、そこで彼に安易な道には逃げてほしくなかった。

 

「でも、彼は生きています。その先にまだ道が続いているのなら、間違いを正していくことはできるはずです」

 

 罪を犯したからといって人生が途絶えるわけではない。命がある限り、歩むべき道もまた続いていく。その行く先を決めるのは、これからのドミニク次第だ。

 彼だけでは無理かもしれない。でも、独りで歩んでいく必要もない。支えてくれる人と共に歩むことが出来るなら、犯した過ちに向き合って未来へと進んでいくことも適うだろう。

 

「もう一度、ドミニクさんと向き合ってあげてください。また一緒にいてあげてください。彼と共に生きて、明日へとまた歩み直していく……それが出来るのは、ボリスさんだけなんですから」

「――――」

 

 ボリス子爵は言葉が出なかった。言い知れない感情のさざ波が押し寄せる。奥底から溢れ出てくる気持ちに、眼鏡を外した彼は目頭を押さえた。

 思い返されるのはドミニクと共に在った日々。望まずしてなった子爵として忙殺されながらも、何とか時間を作って世話を焼いた。商談で各地へと連れ回し、辛い過去を忘れさせてやりたかった。成長した彼を秘書として、勝手をしてはどやされながらも笑い合った。

 その日々を無為なものへと帰すか、これからの礎とするか。決めるのは他の誰でもないボリス子爵自身だ。

 

「……君は優しいな、トワ君。穏やかで、慈しみのある……それでいて厳しい子だ」

 

 心のどこかでは分かっていたのかもしれない。分かりつつも、怖くて直視しようとしなかった。ドミニクに巣食うものに気付けず、それを見過ごしてしまった事実に怖気づいてしまっていた。

 だが、トワに目を逸らしていたものを突き付けられてしまった以上は無視することはできない。それは優しさと厳しさが同居する行い。どんな言葉よりボリス子爵の胸を強く穿つ、されど彼にとって必要なものだった。

 目尻を拭ったボリス子爵はハイアームズ候へと向き直る。涙声を少し残しながらも、その面立ちから先までの影は幾分か取り払われていた。

 

「侯爵閣下、この身は人に頼らねば領地運営もままならぬろくでなしの身ですが……そんな私でも、まだ出来ることがあったようです。事後処理の件、よろしくお願い致します」

「――ああ、勿論だ。これからもよろしく頼む、ボリス子爵」

 

 これにて一件落着か。結果的には丸く収まり、トワたちも安堵の念から胸を撫で下ろす。全てが解決できたわけではない。けれど、これで希望を持って先へと進んでいくことはできるだろう。

 面倒事が片付いたと思ったら気も抜ける。クロウが何時にも増して疲れの滲む声を漏らした。

 

「ようやく今回の実習も完了か。さっさとベッドに飛び込みたい気分だぜ」

「……いや、実を言うと問題がまだ一つ残っている」

「へ?」

 

 不意を衝くウォレス准将の言葉。思わぬ発言に揃って間抜け面を晒してしまう。

 しかし、実際のところこれ以上何を話し合う必要があるというのか。確かに細々とした後始末はあるだろうが、それは自分たちの手の及ばないところのこと。この場で話題に出しても仕方ないとはお互いに分かっているはずだ。

 疑問が浮かぶばかりで答えに思い至らないトワたち。そんな彼女たちに告げられたのは、考えもしない――というより、すっかり見落としていた問題だった。

 

「あの異界を崩壊させた最後の一撃。黒雲を打ち払い、天を照らす光に俺も震えを覚えるほどだったが……タイタス門でも観測したそうでな。何だったのか問い合わせが来ている」

「えっ」

「リベール側でもそれは同じだ。対外的にも正規軍にも妙な誤解を与えないよう、正しく事情を説明したいのだが、結局あれは何だったんだ?」

「ええっ!?」

 

 悪魔の渾身の一撃を打ち破り、それを打倒したトワが生み出した疑似太陽(ソル・イレイズ)。ミトスの民の全力を込めた大魔法は、どうやら傍から見て些か派手すぎたらしい。

 自分の行いが知らぬところで派閥問題や外交問題を引き起こしかけていて焦るトワ。冷静に考えてみれば当たり前だ。雷雨を降らせていた雲が跡形もなく吹き飛び、地より空が照らされるなど立派な天変地異。騒ぎにならない方がおかしいだろう。

 かといって正直に説明するわけにもいかない。私が疑似的に太陽を作りました。そんなことを口にしてしまえば、芋づる式に全て明らかにしなければならなくなる。それは流石に不味い。

 

「ええっとですね、あれは何というか、説明しづらいのですけれど……ね、ねえクロウ君!」

「お、おう!? まあ、あれだな、言葉にするのが難しいというか……なあゼリカ!」

「ああ、まあ、そうだね。あれを具体的に何と言うべきか……どうだいジョルジュ?」

 

 上手い言い訳が見つからず、冷や汗を垂らしながら仲間内でたらい回し。あれ、あれ、と不明確な言葉で場を濁しながらリレーを繋ぎ、アンカーのジョルジュへバトンが渡される。彼からの恨みがましい視線に三人は目を逸らした。

 

「あー、そのー、ドミニクさんが変じた悪魔の最後の悪あがきといいますか……僕たちも必死だったのであまり覚えていないんですけど……」

「ふむ……私も目にしたが、あれを間近によく無事だったものだね」

「というか、揃ってボロボロなのは何時ものことだとして……トワ、あんたどうなったらそんな風になるのよ?」

 

 苦しい言い訳を何とか捻り出したと思ったら、今度はサラ教官からの訝しむ目が突き刺さる。標的はトワの姿。悪魔の雷光を真っ向から受け止め、それを無効化した彼女であったが、余波で制服の肘から先は黒焦げて焼け飛んでしまっていた。

 焼け焦げていることから炎に巻かれた、というのならまだ理解できる。だが、その下の剥き出しになった腕に火傷の痕はない。明らかに不自然な有様であった。

 雷を受け止めたら焦げてしまいました? どう考えても面倒なことになる未来しか見えない。逃げ道を模索するトワの目があちらこちらに泳いだ。

 

「これは、そのぅ……少しばかり無茶が祟ったと言いますか……」

 

 言い淀む様子にますます疑念を募らせるように見えるサラ教官。にへら、と誤魔化しの愛想笑いを浮かべる。にこり、と向こうも纏う雰囲気はそのままに笑みを浮かべた。怖い。

 もう駄目かもしれない、と諦めが首をもたげる。いっそのこと洗いざらい話してしまえば楽になれるだろうか。教会も巻き込むことになってしまうけど。

 

「まあ落ち着くといい、バレスタイン教官。彼女たちは想像を絶する戦いを制してきたのだ。今から根掘り葉掘り問い詰めるのは酷というものだろう」

 

 そんな追い詰められたトワに助け舟を出したのはハイアームズ候。彼の温和な笑みを前にして、サラ教官も深追いするわけにはいかなくなる。遊撃士の活動を黙認してもらっている手前、あまり強く出られない立場であった。

 

「古代遺物の関わる異変だ。どの道、事の仔細は七耀教会にも伝えなければならない。リベールに正規軍への説明も、教会に仲立ちしてもらえば荒立つこともないだろう」

「ふむ……承知しました。では、そのように」

 

 若干の気になる様子を見せつつも、ウォレス准将もその言葉に頷く。彼は武人にして臣下だ。内心はともあれ、その槍を捧げる主君に従った形だろう。

 

「人の教育に私が口出しするのも変な話だが……彼女たちに悪意があるわけではないのは確かだ。ここは一つ、大人として見守ってあげるのはどうだろうか?」

「ああ、もう分かりました! まったく、こんなところばかり先生にそっくりなんだから……」

 

 そう言われてしまってはサラ教官も嫌とは言えない。やけくそ気味ながら了承する。ぶつくさと文句を垂れる彼女には、なんだか哀愁が漂っていた。

 察するに、遊撃士時代も似たようなことがあったのだろう。あの破天荒な伯父のことだ。滅茶苦茶なことをやらかしては、問い詰めてくる弟子をのらりくらりと躱す姿が容易に思い浮かぶ。

 同じ扱いをされるのは不本意だが、こればかりは否定のしようもない。申し訳なさもあって、トワは素直に頭を下げた。

 

「その、すみません。色々と込み入った事情があって……」

「あー、はいはい。もういいわよ、あたしの方も色々と諦めがついてきたから」

「それが正解だぜ。こいつのことでいちいち気にしていたら切りがねえ」

「……こっちは、あんたたち全員のことを言っているんだけど」

 

 手厳しい限りである。教官からのお言葉に四人は揃って苦い笑みを浮かべた。

 ともあれ、ハイアームズ候のフォローもあって助かった。立場のある人だけに、単なる親切心とも限らないが……それでも悪い人ではないと信じられる。顔繋ぎに少しばかりの恩を売られたくらいに考えておけばいいだろう。

 

 これにて本当に一件落着。夜分遅くのため、今夜はセントアークで一泊。翌朝にトリスタへ帰り、それでようやく今回の試験実習は終了だ。

 何時にも増して濃密な時間を過ごしたパルムにおける実習。その中に重く、苦しいものがあった。それ以上に多くの糧と実りがあった。一つの壁を乗り越えた、確かな手応えがトワたちの内にある。

 その成果は、内に限らず外にも影響をもたらした。間違いなくその一人であるボリス子爵は、改まった様子で咳払いすると自身の役割を全うするべくトワたちへ声掛ける。

 

「おほん、では実習の現地責任者として場を締めさせていただこう。まずはパルムの領主として、異変の解決に尽力してくれた諸君に改めて感謝を」

 

 そして、とボリス子爵は万感の思いを込めて言葉を続ける。

 

「個人として、ドミニク君の、私たちの過ちを止めてくれたことに、最大限の礼を言わせてもらいたい……ありがとう、トワ君たち。君たちと巡り会えたのは私にとって最大の幸運だ」

「――こちらこそ。ボリスさんたちに出会えたこと、その未来を築く手助けとなれたこと。星と女神の巡り合わせに感謝し、力となれて誇りに思います」

 

 偶然の出会いが縁を作った。繋がった縁が引き寄せ合い、こうして明日へとまた一歩を踏み出す結果へと導いた。それを人は運命か、はたまた因果とでも呼ぶのかもしれない。

 けれど、結局のところはそこに至るまでに人が為すことが肝要なのだとトワは思う。繋がった想いが力となり、力が未来を切り開く助けとなる。

 

「困ったことがあれば訪ねてくれたまえ。今度は私が助けとなれるよう全力を尽くすとしよう――おっと、まずは新しい制服を用意しなくてはね」

 

 そうして人はまた繋いだ縁と共に未来へと進んでいく。きっと、人間とはそういうものなのだ。

 唐突に飛び出したご尤もな提案に、その場の誰もが笑い声をあげるのだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「…………これは」

「なんていうか……とんでもないわね」

「やれやれ、霊脈の乱れに何事かと思えば……誰か知らんが随分と派手にやったものだのう」

 

 夜半、試験実習班とドミニクが死闘を繰り広げたハーメルにほど近い場所に、一見して不可思議な人影が姿を見せていた。

 三つ編みの髪に眼鏡をかけた少女、それより小さな紅目の少女、それに人語を話す黒猫。この地にいるだけでも普通ではないというのに、最後の黒猫に至ってはどう考えたものか。常識では測れない彼女たちは、当然ながら尋常な素性ではない。

 かつてエレボニアの地に存在した《焔の至宝(アーク・ルージュ)》を受け継いでいた者たちの末裔、それが彼女たち《魔女の眷属(ヘクセン・ブリード)》。その長に養い子、加えて使い魔というのがこの面子であった。

 

「微かに残る幽世の気配に……それを塗りつぶすようなこれは……」

「霊力じゃない……? でも、本質的には変わらない感じがするわね」

 

 太陽が穿ったクレーターを前に難しい顔をする三つ編みの少女――エマ・ミルスティン。幽世の気配はいい。それは既知のものだから。だが、それ以上に濃厚に漂う謎の力の気配が彼女の困惑を誘っていた。

 エマの使い魔、セリーヌも戸惑いを覚えていた。こんなものは感じたことがない。とはいえ、まるで馴染みのないものにも思えない。そんな奇妙な感覚だ。

 

「ふむ、霊力と存在を同じくしながらも霊力に在らず……差し詰め、コインの表と裏か」

「お婆ちゃん、何か分かったの?」

 

 思わせぶりなことを口にする紅目の少女――ローゼリア・ミルスティンにエマは問いを投げかける。幼げな姿でも八百年の時を生きる魔女の長、自分では分からないことに気付いたのだろうと。

 

「妾たちが扱う霊力が表の面とするならば、これは謂わば裏の面。裏側にしたところで同じコインなのだから、妾たちにも霊脈からその動きが感じ取れた。そんなところじゃろ」

「……? えっと……」

「全然分からないわよ、ロゼ。もっとマシな説明はできないの?」

 

 問いに対して答えはあったが、それはまるで理解を超えたものだった。困惑を深めるエマにセリーヌも同感だったらしく、無遠慮に文句を叩いていた。

 表と裏と言われても、そもそも霊力にそんなものがあるのだろうか。東方に陰陽という概念があるとは聞くが、それはあくまで性質の問題。その存在自体が霊力というものであるのには違いないはずだ。

 得心してもらえなかったロゼは「文句の多い使い魔じゃのう……」と愚痴をこぼす。捨て置くわけにもいかず、仕方なさそうに再び口を開いた。

 

「要は、妾たちとは世界の解釈が違う(・・・・・・・・)のじゃろう。世界が一つである以上、その存在は同一ではあるが、妾たちとは根本的に捉え方を異にしておる」

 

 尚も難解なその説明。どうにかそれを咀嚼し、少なからず理解が及んだところで――エマは驚愕に身を凍らせた。

 今まで自分がただその存在だと思ってきた霊力に違う捉え方がある。このゼムリアという世界を別の何かとして見る存在がいる。魔女として世界の裏側を知るだけに、その事実の異常性が理解できてしまった。

 

「そんなこと……いったい、どんな存在が出来るっていうの……?」

「さてのう。長いこと生きておるが、とんと心当たりがないわい」

「なによ、年寄りのくせに役に立たないわね」

「婆にも分からないことはあるんじゃ! 何でもかんでも聞くでない!」

 

 歳を食っている割には反応が子供っぽいロゼ。緊張を感じていたエマとしては、そんな祖母になんだか気を抜かれてしまう。

 

「んんっ……じゃがまあ、この気配には覚えがある。エマ、お主も《流星の異変》のことは聞いていよう」

 

 仕切り直したロゼの言葉に頷き返す。それならエマの記憶にも色濃く記されている。

 三十年前に起きたという未曽有にして不可思議な異変。いったい何がそれを引き起こしたのか、それに何の意味があったのか。魔女たちは与り知らないが、何が起きたかだけは克明に伝えられている。

 

「ええ。空に突如として現れた巨大な遺跡、それが地へと光を放ち、海へと堕ちていった――そう聞いているわ」

「あの時のことははっきり思い出せる。妾たちも、それが何か途轍もないものとは分かっていても所在は空の向こう。手立てがないうえに、それが突然ピカッと光ってな。ハラハラもんじゃったぞ」

 

 冗談めかして話してはいるが、当時の魔女の里が騒然となったことはエマも聞いている。あの遺跡が害あるものなのか否か、それを確かめようにも不可能な状況。霊脈の繋がらない空の彼方に転移など出来るはずもない。

 すわ大崩壊の再来か、と戦々恐々している内に遺跡が動きを見せた。その結晶状の基部から遠く海の向こうへと光を放ち、収まると共に遺跡も海へと堕ちていったという。不思議なことに、津波の知らせなどは全くなかった。

 打つ手もなく祈るばかりだったのは教会も同じだったらしく、彼らは遺跡が堕ちた先へとすっ飛んでいった。そこで何を目にしたのかは知らない。少なくとも危険はない、出向いたロゼにそれだけを告げ、彼らは口を噤んだという。

 

「あの光と同じものをこの気配には感じる。それが何なのかは、妾にも分からぬが」

 

 結局、あの異変は何だったのか。その本当のところは分からない。あの遺跡のもとに向かえば何かしら知れるのかもしれないが、教会との間には例の遺跡にはお互いに触れないという暗黙の了解がある。それを破ることもないだろう。

 だが、真実は知れなくとも、それがもたらしたと考えられるものは残されている。そこから思うところはロゼにもあった。

 

「今から思えば、あれは祝福だったのかもしれん。霊脈は乱れ、世俗はあわや戦争間近。奈落病という恐ろしい病も蔓延しておった――それが異変を契機に少しずつ好転し、そして世界に新たな地平を開いたのじゃからな」

「……レクセンドリア大陸。世界の果て、嵐の向こうに見つかった原始の大地か」

 

 どんなに手を尽くしても乱れ行くばかりだった霊脈が安定した。極限にまで高まっていた大国間の緊張が緩和した。人の霊気を蝕む恐ろしい病を癒す薬草が奇蹟的に再発見された。

 そして、人は地平線の先に新たな大地を見つけた。人を拒絶する世界の果ての嵐。それが晴れた先に待っていたのは、原始の生命が息づく未踏の大陸だった。

 流星の異変を切っ掛けとして、世の中が緩やかに良い方向へと進み始めたのは間違いない。そのどこまでに異変が関わっているかは分からないが、少なくともあの時のことが『悪しきもの』ではなかったとロゼは思っている。

 

「事の善悪を見誤るでないぞ、エマ。計り知れぬ巨いなるものであろうとも、如何に脅威と思えようとも、そこにある意思が悪とは限らぬ。巡回魔女として外に出るならば、心しておくがよい」

「……はい」

 

 長としての、育ての親としての言葉にエマは素直に頷いた。姿を消した姉の後を追うために、エマは来年には巡回魔女として里を出る。ここに来たのも、その予行演習のようなものだ。旅立ちに向け、祖母の教えを胸に刻みこむ。

 エマは改めて目の前の光景を見た。抉られた大地。想像を絶する高熱によってか、その表面にはガラス化したものが星の明かりで煌いている。エマには、人間には作り出せない光景。

 覚えるのは恐怖だ。絶大な、得体の知れない力の持ち主に対する恐怖。それは人として当たり前の感覚であって、否定されるものではないかもしれない。

 だが、もしその力の持ち主を前にすることがあれば、エマは見定めなければならない。その存在が善か、悪か。己の内の恐怖に打ち克って。

 

「ねえ、お婆ちゃん。この光景を作ったのは、どんな存在だと思う?」

「そうじゃのう」

 

 訪れるかもしれないその時を思い、エマは祖母に問いかける。この外の世界で、自分はいったい何と出会うことになるのだろうかと。

 それに対するロゼの答えは朗々としたものであった。

 

「悪魔か、化け物か、怪物か。或いは……」

 

 ――『神』と呼ばれる存在かもしれんな。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 帝国本土より遥か海の先。水平線の向こうへと一夜を通して進んでいった先に、シエンシア多島海は存在する。その名の通り、有人無人併せて数多の島が浮かぶこの海域に、朽ちた遺跡が積み重なるようにしてできた島がある。

 それこそがトワの故郷《残され島》。ほんの数十人ばかりの小さな村がある、それだけを見れば何の変哲もない長閑な島。

 

 遠く水平線の向こう、同じ星空の下、大陸がある海の先を見つめる女性の姿があった。

 丈の長い白い装束。同じく雪のように白い肌が覗く肩には薄いショールが掛かる。何より、海風に揺蕩う長い白銀の髪と、宝石のように輝く紅い瞳が印象的だった。

 その目にはいったい何を映しているのだろうか。じっと海の先を見つめ続ける女性の表情には、一言では言い表せない複雑な色が浮かんでいる。その心中を余人が知ることは難しいだろう。

 適うとするならば、それは共に苦難を乗り越えて心を交わした人々。まさに今、その一人が彼女の姿を見つけたところだった。

 

「こんなところにいたんだ。探したよ」

 

 碧髪の男性――ナユタは、そう言って彼女の傍による。いつの間にかふらりと姿が見えなくなっていたから、気になっていたこともあって後を追ってきたのだ。

 家から少し離れた崖際。元より島は夜になれば静かなものであって、ただそこには潮騒だけが響く。並び立った彼に向け、女性は少しバツの悪い様子を見せた。

 

「ごめんなさい。気を遣わせてしまったみたいで」

「別に謝ることじゃないけど……夕暮れくらいから、何か気になっているみたいだったから。姉さんもそれとなく気付いていたみたいだし」

 

 そこまで態度に出しているつもりはなかったのだが、やはり長年の付き合いというのは馬鹿にならないらしい。ちょっとした変化も如実に感じ取られていたようだ。それが嬉しくもくすぐったくて、彼女は「そう」と小さく笑みを浮かべた。

 二人で揃って水平線を見つめる。ナユタは自分の方から何か聞こうとはしなかった。ただ傍に寄り添って、彼女が独りでいないようそこにいる。勿論、明かしたい胸の内があるのなら耳を傾けるつもりだ。

 そんな彼の優しさを感じながら、少し間を置いて彼女はぽつりと呟いた。

 

「――あの子を感じたの。以前にも薄っすらとはあったけど、それより遥かに強く」

 

 瞼を閉じて思い返す。遠くの地より世界を通して響いてきた星の鼓動。違えるはずもない。それは疑いようもなく我が子の内より発せられたものだった。

 

「揺るぎなく強く、けれど温かく優しい命の輝き。きっと兄さんも同じように感じたと思う」

「……そうか。思ったよりも、早かったかな」

 

 ナユタもそれを聞いて理解する。あの子は、トワは遂に至ったのだと。恐怖と畏れを乗り越えた先、自らの意志でその力を揮う境地へと。

 親の見ない間に子は成長していくもの。帝都で久しぶりに会った時に実感したものだが、まさかここまでとは彼も想像していなかった。それもやはり、共にある仲間たちの存在があってこそのことなのだろう。

 

 二人の内には、無論のこと喜びがある。不幸な巡り合わせから心に傷を負ってしまうことになったトワ。自分の持つ力の大きさに押し潰されそうになっていた過去を思えば、その成長には感無量の心地となるというもの。

 だが、ただ喜ぶだけでは済ませられない事情があった。乗り越えたその先に待つものがある。受け継ぐべき過去と力がそこにある。来るべきその時に、あの子へ託そう。自分たちはそう決めたのだから。

 果たしてその選択が正しいものなのか、二人もまだ判断をしかねていた。故にこそ、先を見つめる顔には憂いが混じる。

 

「私たちが遺すものは、あの子を幸せにできるの? それとも、更なる苦難を呼び込む種となるだけ? 考えてばかりいても仕方ないとは分かっているけれど……」

 

 それでも考えずにはいられない。親が子を想うが故に、その幸せを願うが為に。内実はどうあれ、彼女の憂慮は母親として当然のものだった。

 気持ちはナユタにも痛いほどに分かる。彼だってその親なのだから。

 

「……未来がどうなるかは分からない。でも、あの子だってそれは承知の上の筈だ」

「あ――」

 

 隣の彼女の手を握る。夜風で冷えていた手がじんわりと温かくなった。

 受け継いだその先に待っているものが幸せとは限らないかもしれない。降りかかる苦難に挫けてしまうこともあるかもしれない。それは否定しかねる未来の予想図だ。

 だが、それでも我が子が前へと歩んでいく決意をしたのなら――ナユタは、その想いを後押ししてあげたいと思う。

 

「トワの幸せは、他でもないあの子が掴むものだ。僕たちがするべきは、その行く先を見守って、支えてあげることなんじゃないかな」

「そう……そうね」

 

 子はいずれ親の手を離れていくもの。言葉では分かっていても、その実は理解できていなかったのかもしれない。或いは、こんなにも早く訪れるとは思っていなかったのもあるだろう。

 いつまでも涙を流して怖がるばかりだった子供ではない。もうトワは自分の意志で歩み、未来へと進み始めている。その道をどうして親が阻むことが出来ようか。

 父の言葉に母も頷く。子のために、為すべき事を成そうと。

 

「その時は直に訪れる――心を決めましょう、ナユタ。あの子の、トワの想いに応えるために」

「……うん。そうだね、クレハ」

 

 手を繋ぐ二人は空を見上げる。

 夜天に星は巡り、時を刻みゆく。来るべきその時は、もうすぐそこにまで迫ってきていた。

 



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幕間 青春の肖像Ⅱ

【走れマッハ号、黄昏の果てに】

 

「頼むトワ君! 君の力を貸してくれ!」

 

 目の前で下げられた頭にトワは困惑した。普段は自分の目線よりも遥かに高い位置にあるそれが、彼女から見下ろすほどになるくらい深々と腰を折られる。そんな理由などまるで心当たりがなかったから。

 時は放課後、場所はⅣ組の教室前。一日の授業を終了した学院の廊下には当然、人の往来がある。大きな貴族生徒の男子が小さな平民生徒の女子に頭を下げる光景は、色々な意味で悪目立ちして仕方がない。

 

「ええっと……と、取りあえず頭を上げて、ランベルト君。なんだか周りの視線が痛いから……」

「む……すまない。もう少し場所を選ぶべきだったな……」

 

 申し訳なさそうに肩を落とす彼はランベルト。馬術部に所属する貴族生徒の男子だ。ガタイのいい彼が頭を上げると、自然とトワは見上げる形になる。見慣れた感覚に戻ってトワはホッと息をついた。

 しかし、どうしたことだろうか。普段のランベルトは元気が有り余っているくらいの快活さが印象深いというのに、今の彼はどうも気落ちしているように見える。いつもなら「はっはっは!」と笑い飛ばすところだろうに。

 何やら問題を抱えている様子。自分を頼ってきてくれたのなら応えない理由もない。周囲からの視線も落ち着いたところで、トワは改めて話を切り出した。

 

「それで、どうかしたの?」

「ああ……実は、マッハ号のことでな」

 

 マッハ号とは、ランベルトが世話をしている彼の愛馬だ。乗馬を嗜んでいる生徒は貴族クラスを中心に数多くいるが、それでもランベルトとマッハ号の走りを上回るのはそうはいないという評判である。トワも目にしたことがあるが、まさに人馬一体。心の通じ合った相棒に見えた。

 

「最近、元気がないように見えるのだ。走りは変わりないし、怪我をした様子もないのだが……」

 

 そんな相棒が変調をきたしたとなれば、ランベルトの威勢にも陰りが出るというもの。トワは彼の普段ならない妙なしおらしさに納得した。

 とはいえ、単純な理由による変調でもないらしい。世話をしている当人が言うのだから、外面的な問題は確かに見受けられないのだろう。違うだろうな、とは思いつつも心当たる可能性について尋ねてみる。

 

「何か病気にかかっている様子とかは?」

「いや……実家で世話になっている獣医に相談しても、思い当たるものは無いそうだ。正直、八方塞がりとしか言えない」

 

 彼なりに手は尽くしたようだが、芳しい結果は得られなかったらしい。己の不甲斐なさを嘆いているのか。ランベルトの表情には沈痛の色が浮かぶ。

 では、どうしてトワに頼ってきたのか。その理由は共通の友人から耳に挟んだ話にあった。

 

「他の皆にも相談していたところ、アンゼリカ君からトワ君が生き物に詳しいと聞いてな。何でもいい、心当たりがあったら教えてくれないだろうか」

 

 切羽詰まった様子のランベルトが再び頭を下げる。それを慌てて押し留めながらも、トワは内心で思案気味になってしまった。

 アンゼリカの評価は間違ってはいない。父をはじめとした周囲の環境による博物学への造詣、星の力を感じ取ることによる生命への理解。それらが組み合わさることで、トワは他とは違った生命観を有している。何か他の手段を講じるならば、その他とは異なる点に頼るのは悪い選択肢ではないだろう。

 かといって、トワ自身はランベルトの役に立てるかというとあまり自信がない。ちゃんとした獣医に相談しての現状なのだ。自分がどれだけ力になれるか首を傾げてしまうところがある。

 

「怪我でもないし、病気でもないのなら……たぶん精神的な問題になるのかな」

 

 それでも困っている人を見過ごす理由にはならない。ほんの思い付きで不確かなものであるけれど、頭に浮かんだものを口にする。

 人が精神病にかかるのと同じく、動物にもそうした症例が見られることはある。置かれた環境によるストレスが変調の原因となることは考えられないことではない。

 

「精神面か……馬術部でも世話には気を遣っているから、その線はあまり考えていなかったな」

「だよね。でも、実際に見てみないと分からないから。後でお邪魔していい?」

「無論だとも。こちらこそ、是非ともお願いする」

 

 ここで話し込んでばかりいても仕方ない。まずはマッハ号の様子を見て、それから考えを詰めても遅くはないだろう。後ほど馬術部を訪ねることを約束し、ランベルトは再三に頭を下げるのであった。

 

 先に馬術部へ向かって他の部員にも事情を説明してくるというランベルト。その背を見送るトワは、生徒会へ顔を出したりと準備を整えてから訪ねることになる。

 不意にすぐ傍から声が掛かる。人気がなくなるのを見計らっていたノイのものだった。

 

『大丈夫なの? 馬のカウンセリングなんて』

「分からないけど……やれることは精一杯やってあげたいから」

 

 確かに自信はない。それでも出来る限り力になってあげたい気持ちがトワにはあった。

 そして、その理由は何も彼女のお人好しさばかりからくるものでもなかった。

 

「私だって、ノイの様子がおかしかったら心配になるだろうし。ランベルト君の気持ちも分かる気がするんだ」

『……何だろう。気持ちは嬉しいけど、あまり素直に喜べないの』

 

 相棒という形は同じとは言え、馬と同列に語られるのは不満だったのだろうか。複雑な感情が滲むノイに、ついつい笑みを零してしまうのだった。

 

 

 

 

 

 かくして会長に馬術部へ向かう旨を告げた後、トワはグラウンドに設けられた厩舎へと足を運んでいた。馬たちがそれぞれ入る馬房の一つに、黒毛の一際大きな体が収められている。それこそがランベルトの愛馬、マッハ号であった。

 ひとまずは彼の様子を一通り確かめてみる。余計なお世話かもしれないが、これも念のためだ。頭の上でぶるるんと鼻を鳴らすのを耳にしながら、何かしら異常がないか探していく。

 その結果は、案の定といえば案の定だった。

 

「やっぱり怪我や体調不良はなさそうだね。身体を動かすのにも問題はないそうだし」

「うむ……体温もいつも通りの平熱。至って健康体の筈なのだが」

 

 ランベルトの話と同じく外傷の形跡は見られず、病にかかった様子も窺えない。それは星の力の流れからも感じ取れた。その流れに淀みはなく、少なくとも健康に問題がないのは確かである。

 だというのに、マッハ号に元気がないのはトワにも感じ取れた。以前目にした時は身体の大きさに見合った覇気を感じたものだが、今はどこか萎んでしまったように見える。まるで何かを思い煩っているかのようだ。

 これはランベルトが心配になるのも無理はない。幸いにして食欲に問題はないようだが、このままの状態にしておくのも懸念が残る。どうにか原因を確かめたいところだった。

 

「もうしばらく見ていてあげよう。この後は外に出すんだよね」

「他の馬と一緒に運動をさせにな。どうだろう、トワ君も乗ってみないか?」

 

 焦っても仕方がない。今日のところはマッハ号に付き合う腹積もりだった。

 と、そこに思いがけない提案が。夏至祭で競馬観戦をした影響か、トワも乗馬には興味があった。乗せてくれるというのなら喜んで、である。

 

「うん。迷惑でないなら、だけど」

「手間を取らせているのはこちらの方だ。今度の学院祭では乗馬体験会を開く予定でもある。遠慮を感じるなら、その練習がてらとでも思うといい」

「あはは……じゃあ、お言葉に甘えて」

 

 そう言ってくれるなら、こちらとしても気兼ねせずに済む。馬たちをグラウンドに出す準備をする馬術部に混じり、トワも体験を兼ねて手伝うことにする。

 

 グラウンドに散って歩き回ったり軽く走る馬術部の馬たち。ランベルトが駆るマッハ号も、その動きにおかしな点は見られない。やはり体自体に異常はないのだろう。

 それはそれとして、ランベルトに様子を見てもらいながらも乗馬を体験するトワ。世話をされている内の一頭の背に跨り、急に高くなった視界に新鮮な気持ちを覚える。

 普通ならここで細やかな指導を要するところなのだが――結果として、彼女の乗馬体験はランベルトが拍子抜けする展開となっていた。

 

「ううむ、流石はトワ君というか……鐙に足も届いていないというのに、大したバランス感覚だ」

 

 全力疾走とはいかずとも、ちゃんと馬を走らせてグラウンドを一周させてくる姿にランベルトの唸り声が漏れる。これは彼にも想定外であった。

 背丈の問題もあって、本当は軽く歩かせるくらいのつもりだったのだ。それがひょいっと一跳びに鞍に跨るや、さして時間もかからずに手綱の扱いも修得。しまいには元気に「はいやー!」と駆け出して行ってしまう始末である。

 いつもは抑え役に回っていることが多いだけに、トワの意外とアグレッシブな面はあまり知られていない。不安定さを鍛え上げた足腰と体幹で補い、物の見事に戻ってきた彼女に向けられる視線は呆れと感心が入り混じっていた。

 

「どうどう……えへへ、ありがとうねランベルト君。馬で走るのがこんなに気持ちいいなんて知らなかったよ」

「まあ、楽しんでくれているようで何よりだ。それにしても、セントアーヌもよく素直に従ってくれている。割と気難しい部類なのだが」

 

 トワが跨る白毛の牝馬。名をセントアーヌという彼女は、大人しくはあっても簡単には言うことを聞いてくれないのだとか。血統書付きであることも相俟って、馬術部では「高嶺の花の如き淑女」というのがもっぱらの評判という。

 種はあると言えばある。星の力を感じ取る副次効果で、トワは動物の表層的な感情も理解することが可能だ。それによる限定的ながらも確かな意思疎通が、セントアーヌを駆るのにも功を奏した形であった。

 

 だからこれも、そのおかげだったのだろう。ふと、彼女は熱っぽい視線を感じた。

 感じる視線を辿れば、そこはランベルト……ではなく、彼が跨るマッハ号からであった。加えて言うならば、その視線が向けられる先もトワではなく、彼女が跨るセントアーヌへと向けられている。

 マッハ号の目には先ほどまでの元気のなさが嘘のような熱があった。けれど、それと同じくして躊躇いのようなものも見受けられる。明後日の方向を向いているセントアーヌに対し、彼はじっと見つめながらも距離を保っていた。

 ふむ、と考える。これはもしかすると、そういうことかもしれない。

 

「ランベルト君、ちょっと降りてみてくれないかな」

「……? ああ」

 

 頼んだのと同じく、トワもセントアーヌから一旦降りる。手綱を引いてマッハ号の方に顔を向かせてあげれば、相手の黒馬はたじろぐような仕草を見せた。

 それを見てランベルトも何となく気が付いたようだ。マッハ号を見て、セントアーヌを見て、「うむうむ」と頷いた彼は心配事の晴れた顔で相棒の背を叩いた。

 

「何を怯むマッハ号! 男は度胸だ。うじうじしていても何も始まらん。さあ、彼女にお前の思いの丈を伝えるのだ!」

 

 叱咤激励を受け、マッハ号も覚悟を決めたのか。応えるように「ぶるる!」と鼻を鳴らすと、セントアーヌへと近付いていく。その瞳に宿る熱は並々ならぬものだ。溢れんばかりの想いが逸ってか、足運びも半ば駆け寄るようなものへとなっていく。

 そんなマッハ号を前にして微動だにしないセントアーヌ。このまま大人しくしているのだろうか――と思ったところで、彼女はおもむろに背を向ける。

 

 直後、見事な後ろ蹴りがマッハ号を襲った。

 

 見守っていたトワとランベルトも唖然となる。駆け寄った勢いも相俟って、物の見事に迎撃を受けてしまったマッハ号は倒れ込む。彼を見下す形で一瞥して、ただそれだけでセントアーヌは興味を失った。トワを引っ張るように先を促す彼女は、もう馬房に戻る気しか感じられない。

 男マッハ号、恋煩いの果てに完膚なきまでに玉砕を遂げた瞬間であった。

 

 

 

 

 

「……くよくよするな、マッハ号! 生きていれば、こんな苦みを味わうことだってある」

 

 夕日に照らされるグラウンド。その一角でランベルトが意気消沈するマッハ号に声を掛ける。傍でトワが見守る中、彼は相棒の元気を取り戻すべく言葉の限りを尽くしていた。

 セントアーヌに対して想いを募らせていたマッハ号。だが、彼は思いのほか奥手な口だったらしい。アタックするにも尻込みしてしまい、恋煩いしていた様が元気のない姿の真相であった。

 勇気を出してぶつかっていったはいいが、結果はこの有り様である。不幸中の幸い、派手に蹴られた割に怪我はないらしい。ただ、それを差し引いて尚有り余るほどに精神的なダメージが大きいことは言わずもがなだ。

 

「清楚な淑女に告白するとなれば、俺だって躊躇してしまうだろう。だが、お前は勇気を振り絞ってぶつかっていった。それを悔いるべきでも、恥じるべきでもない」

 

 そうなんだ、と内心で独り言ちる。ランベルトは女性に告白するときでも悩まず正面からぶつかっていくものと思っていた。そういう意味で彼とマッハ号は似た者同士というか、やはり相性がいいのかもしれない。

 

「それでも尚、気が晴れぬというのなら……走るぞ! 思いっきり走って、走ること以外何も考えないで、全てを振り切って走るのだ!!」

 

 その想いが通じたのだろう。マッハ号の目に光が戻る。活力を取り戻した相棒の背に颯爽と跨ったランベルトは、トワへ顔を向けると改まった様子で礼を告げる。

 

「世話をかけたなトワ君! 君のおかげで助かった。ありがとう!!」

「どういたしまして。あんまり遅くならないようにね」

「はっはっは、承知した! では、行くぞマッハ号! ハイヤァー!!」

 

 嘶きを上げて駆けだすマッハ号。グラウンドを駆け抜け、そのまま裏門から街道へ。夕日の中をどこまで走りに行くのだろう。せめてもの忠告を守ってくれることを祈るばかりである。

 さて、と一息つく。見送ったところでトワもお役御免である。寮へと帰る道筋を辿りながら、ふと思いついた彼女は傍らにいる相棒へと声を掛けた。

 

「ねえノイ、何か悩み事とかある?」

『……何なの、藪から棒に』

「たまにはちゃんと聞いた方がいいかと思って」

 

 自分たちは言葉が通じるのだ。時にはこうして直接口にすることも価値あることに違いない。

 傍にいるからといって、全てが通じ合っているとも限らないのだ。お互いの関係に甘えず、言葉にすることで初めて分かることもあるかもしれない。ランベルトとマッハ号を見ていてそう思ったからこそ、トワは改めてこの小さな姉貴分に尋ねたのだ。

 

『うーん……まあ、トワが悪い男に捕まりそうというか、むしろ癖の強い男ばかり引っ掛けてきそうなのは悩みの種なの』

「ちょ、ちょっと! どういうことそれ!?」

 

 ただまあ、こうも失礼なことを言われてしまっては腹に据えかねるものもあるもので。脈絡もなく人を男運のない奴みたいに扱ってくる相棒に、珍しく憤慨するトワの姿が見られたのは余談である。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

【残すもの、伝えていくもの】

 

 平民生徒が寝食する第二学生寮。その一階の厨房で紅茶を淹れたトワは、零さないよう気を付けながらも自室のある二階へと上がる。トレイを片手に扉を開けた彼女は、そこで待っていた二人の同級生に声を掛けた。

 

「お待たせ。二人の口に合うか分からないけど、どうぞ」

「ふふ、とんでもないわ。いただきます」

「というより、急にお邪魔しちゃった身だからそんなに気を遣わなくても構わないよ?」

「いいのいいの。お客さんはちゃんともてなしてあげないとね」

 

 そう言って戸棚から茶請けを探し始めるトワ。あまり大したものは見つからず、結局は「スルメでいいかな?」と言い出す彼女にもてなされる側の二人――エーデルはたおやかな笑みを浮かべ、フィデリオは何とも言えない表情になるのだった。

 

 その日、トワの寮室に急な客人が訪れることになったのは、彼女について二人があることを聞きつけたからだ。エーデルとフィデリオは、トワが個人的に所有している星片観測機を一目見たくて頼んできたのである。

 星の欠片の内に収められた光景を映し出す星片観測機。欠片の主要な――今となっては唯一の――産出地である残され島出身のトワにとっては非常に身近なものであるが、世間一般にとってはそうではない。星の欠片も、それを映し出す星片観測機も、両方を所有している人というのはほんの限られたものだった。

 まず絶対量が少なく、加えて流通量も多くない。三十年以上前は残され島周辺に飛来する遺跡群から見つかることのあった星の欠片。遺跡が落ちてこなくなった今では、それ以前に発見されたものが流通している殆どだ。稀少な品であるだけに手放す人も少なく、新たに手に入れるのはかなり難しい。

 星の欠片自体でそれなのだから、星片観測機は尚更だ。そもそも現代の技術では再現不可能な一品。使い方は知られていても、それがどのような原理で収められた光景を映し出しているのかは判然としていない。替えの利かないそれは、個人で持つものというより博物館などに所蔵されている類である。

 そうした理由から星片観測機は非常に貴重な品だ。出すところに出せば、途轍もない額のミラがつけられてもおかしくない。貴族であったとしても、並大抵の家では手を出すこともままならないだろう。その点、所有しているアンゼリカの叔父は流石四大名門であった。

 

 余程の大貴族か大金持ちの好事家くらいしか持っていない希少品。それを同級生の平民生徒である少女が部屋に置いていると知った時の驚きは、その価値を知る人間からすれば途轍もない。少なくとも、その足で頼み込みに来るくらいは。

 エーデルもフィデリオも、星片観測機の稀少さと価値を知る身。そして以前からそれぞれの理由で興味を持っていた身であった。

 

「へえ……! 話には聞いていたけど、こんな風に映るのか。噂に違わない凄い景色だし」

「本当に見たこともない植物ばかり。いったいどんなものなのかしら……」

 

 フィデリオは稀少な記録媒体として、そして収められた様々な風景に興味を持ってのこと。風景撮影が趣味の彼は、星の欠片が映し出す荘厳な景色の数々を聞き及んでから機会があれば一目見てみたいと思っていたのだという。

 一方、エーデルの興味は映し出されたそれに見えるもの、現代においては未知の草花にあった。実家が農園運営や自然保護活動を手掛けていることから、彼女は植物関連に強い関心を持っている。誰も知らない未知の草花が見られると聞いては、おっとりとしている彼女も押しかけ気味になろうというものだ。

 星片観測機が像を結んだ景色を興味津々に、喜色を浮かべて眺める二人にトワも自然と笑顔になる。故郷の――自身のルーツに関わる品が、こうして誰かの楽しみとなれるのは喜ばしいことだった。

 

「それにしても随分と沢山の星の欠片を持っているんだね。伯母さんが本職の人だそうだけど、オークションにでも出せば一財産になりそうだよ」

「あはは……昔ほど出回らないけど、新しいのが見つかっていないわけじゃないから。色々と複雑な事情があって、あまり外に出せないんだ」

 

 テラという大元が落着したのだ。発見される数としてはむしろ増加している。

 とはいえ、一応は古代遺物の一種。それで露骨に商売しようとなると教会がいい顔をしない。結果として、時々少ない数を市場に出すだけに留まっている。伯母のアーサが遊撃士協会支部の受付を兼務していられるのは、そうした理由で本業が暇になったからだ。

 

「そう……詳しいことは分からないけれど、こんな素敵なものが人目に触れないなんて残念ね」

 

 素敵なもの、そう、素敵なものなのだろう。

 その幻想的な光景に魅入られた人たちが、かつてはロストヘブンを求めて旅立ったように、星の欠片は人々にここではないどこかを想起させる不思議な魅力を持っている。単に稀少なだけでなく、虜になるほどの価値が認められるからこそ高額で取引されているのだ。

 だが、その映し出される光景の意味を知っているのはどれだけいることだろう。きっと数えるほどでしかない。当たり前のことではあるけれど、それを知る身であるトワは思うのだ。この淡い光に籠められた想いを知ってほしいと。

 

「ねえ、例えばの話なんだけど……この光景がもう二度と見られないものだとしたら、どう思う?」

 

 だから二人に伝えようと思う。ほんの少しであっても、その意味を知ってもらうために。言葉を選んで切り出したトワに、問い掛けられた側は意表を突かれた顔になる。

 もう二度と見られない、この目に映すことの叶わない光景だとしたら。光の中に像を結ぶ幻想を眺めつつ、エーデルは表情を曇らせながら口を開いた。

 

「それは……とても悲しいことよ。この花々も、雄大な自然も無くなってしまったらということでしょう? 心豊かになるものが失われるのは耐えがたい損失だと思うわ」

「……そうだね。こんなに美しい景色がもう見られないなんてことは、あまり考えたくないな。でも、どうして?」

 

 唐突な質問に当然ながら疑問は湧く。それにトワはどこか淡い色を含んだ微笑みを浮かべて答えた。

 

「特別な意味があるわけじゃないけど、そうなってしまう可能性があることも事実だから。環境の中で淘汰されてしまうことや、人の手でその種を絶やしてしまうこともね」

 

 美しく目に映る自然の中にも熾烈な生存競争が繰り広げられている。その中において、及ばずに消えることになってしまう存在もいることだろう。それは仕方のないことだ。

 だが、自然の摂理によるものではなく、人の過ちにより失われてしまう可能性があるのも確かだ。奈落病の蔓延に際してのユピナ草がいい例だろう。我欲に走り絶滅に追いやるか、はたまた限られた土地に生きるものを戦火で燃やし尽くすか。歴史を振り返れば、そうして失われたものは決して少なくはない。

 

 星の欠片が映す生命の息吹が感じられる光景。トワは知っている。二人にはもしもの話と言ったけれど、この豊かな自然はもう存在しないものなのだと。

 テラで写し取ったものはその限りでないし、未踏の地が多く残るレクセンドリア大陸には似たような光景があるかもしれない。それでも、この星の欠片が作られたときにあったはずの場所は、ここに生きていた数多の生命は、もうこの世界のどこにもいないのだ。

 そうなってしまったのは人が過ちを犯したからだ。取り返しのつかない、とても大きな過ちを。

愚かしく哀しい過去。それが繰り返されないよう、今は二人にこの光景が遺された意味を伝えたいと思う。繋いだ想いが、また誰かに繋がっていくことを信じて。

 

「今そこに自然が、何かの切っ掛けで失われることになるかもしれない。だから忘れないで欲しいんだ。当たり前にある草花の一つにも価値があって、無くなってから気付いても遅いんだって」

「当たり前の価値に気付き、それを守ろうとしていくこと――ふふ、ハーシェル博士も論文で似たことを仰っていたわね」

 

 思わぬ返答にきょとんとなる。はて、彼女に父親について話したことがあっただろうか。

 

「エーデルちゃん、お父さんのこと知っているの?」

「その道では有名な方だもの。私の家が自然保護事業に力を入れているのも、博士の論文に感銘を受けたからだそうよ」

 

 そっか、と答えつつも頬には隠し切れない笑みが浮かぶ。父が似たようなことを論じているのは当然だ。自分に目の前にあるものの大切さを教えてくれたのは、他ならないその人なのだから。そんな父の想いが確かに伝わっていることを知って、嬉しくならない子がいるだろうか。

 

「私も拝見したことがあるけれど……改めてその意味を理解できたと思う。手の届くところにあるからこそ、その尊さを知って守っていかないといけないのね」

 

 ありふれた花々であったとしても、失われてしまえば二度と目にすることは適わない。この星の欠片に収められた光景のように。そう意識するのは難しいかもしれないが、だからこそ人々に伝えていかなければならないのだとトワは思う。

 過ちの末に絶えてしまった存在がどれだけ尊いものだったのか。淡い光の中に浮かぶ景色たちは、それを伝えていくために作られた。同じことが繰り返されないよう、その想いが多くの人に知られることを願ってやまない。それは、きっと父も同じ気持ちだろう。

 

「失われないよう伝えていくこと、か……大切なことだとはわかるけれど、簡単なことでもないね」

「あまり難しく考えなくてもいいよ。ただ、自分が美しいと思ったものを表すだけでいいんだ」

 

 納得を示しつつも難しい顔のフィデリオ。想いを後世に伝えるために作られた星の欠片のように、自分も他者に想いを繋いでいけるだろうか。そう考えると手に余るように思えるかもしれない。

 けれど、もっと単純でいいのだ。遥か過去の遺物のような大層なものでなくていい。ありふれたものの大切さを伝えていくのは、ありふれた手法でも何ら問題ない。

 そして、トワは彼がお誂え向きの特技を持っていることを知っている。

 

「言葉でも、絵でもいい。その美しさを誰かに伝えて、それを大切に思えるようになれたなら。勿論、写真であってもね」

「……そうか、そうだね」

 

 自分がレンズに収めた光景が、後の世へと守り伝えていく端緒となれたなら。それはきっと素敵なことだ。カメラが写すものにそんな意味を持たせられることに気付き、フィデリオは言いようのない不思議な気持ちを覚える。

 

「どんな形でもまずは伝えるところから、か。世界にはこんなに綺麗なものがあるって知らない人がいるのも勿体ない話だし」

「ええ。そしてまた他の誰かへと伝えていく――未来へ繋げていくというのは、そういうことなのかもしれないわね」

 

 エーデルもフィデリオも、先ほどまでとは星の欠片を見つめる目が変わったように思える。それは些細な変化かもしれない。けれど、伝えたかった想いは確かに二人の胸の内に溶け込んだことだろう。

 きっと彼女たちならば、その想いをまた次の誰かへと伝えていってくれる。そうしてほんの小さな揺らぎが波紋となって、世の人々に広がっていくことを願いたい。

 日が暮れていくにつれて、淡く蒼い光は幻想的な雰囲気を増していく。エーデルとフィデリオは熱心に見つめる。物珍しさとは別に、その過去からの色褪せぬ記憶を目に焼き付けるかのように。そんな二人が満足するまで、トワは喜んで星片観測機に光を灯らせるのだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

【その一握の善意が腐った者を生み出した】

 

「あっ、ああああ!?」

 

 学院のどこからかそんな叫び声が聞こえてきたのは、トワがいつも通り生徒会の仕事で各所を回っていた時だった。方角からして学生会館の方だろうか。目を向けると、上空にぶちまけられた紙束が散り散りに飛んでいく光景が視界に映る。

 ちょうど強めの風が吹いた瞬間のこと。何かの拍子に室内から攫われてしまったのかもしれない。原因を推測しながらも、ひらりひらりと舞い落ちてくるその一枚を手に取った。

 

『何の紙なの、それ?』

「んー、小説の原稿みたい。きっと文芸部の人のものだろうね」

 

 原稿用紙に書き綴られた文脈から小説の一部であるのは間違いない。そして、その持ち主が文芸部の生徒であることも。部室が学生会館の二階にあることも、状況からして推測が正しいものであろうことを補強していた。

 流し読んでみたところ、なかなか味のある文章だ。表現力にも富んでいて読み手を楽しませてくれる。流石にプロには及ばないかもしれないが、読書家のトワの目からしても十分な読み応えを感じられた。

 とはいえ、この原稿用紙一枚では続きどころか物語の把握も覚束ない。先ほどの強風で原稿は随分とバラバラに飛ばされてしまったようだ。学院の外にまで飛び散ってはいないと思うが、落とし主はさぞ苦労することになるだろう。

 よし、と頷く。仕事も一段落着いてきていたところ。もうひと働きしても問題はない。

 

「せっかくだし、出来るだけ集めてあげよう。どんな内容なのかも気になるし」

『後者の方が本音に聞こえるの』

「いいじゃない、堅いこと言わなくても」

 

 人助けの片手間に少しばかり拝見するだけだ。それくらいは構わないだろう。誰の迷惑にもならないのだし。

 いつも通りに偶発的な出来事から仕事を増やすトワ。今回はそこに自身の興味本位も織り交ぜて、ひとまずは目で追えた範囲の原稿用紙の行方を辿るのだった。

 

 

 

 

 

 件の探し物が飛んでいった先は様々だった。学院内の道端に落ちたもの、木に引っかかったもの、通りがかった生徒に拾われていたもの。時には屋上にまで飛ばされているものを回収して歩き、気付けば学院内を殆ど回っていた。

 おかげで原稿用紙の大半は集まったように思える。池に落ちていなかったのは幸いと言うほかない。回収したそれを順番に並べ、綴られた物語も読める形になってきていた。

 

 内容自体はオーソドックスな騎士物語だ。時を同じくして騎士となった二人が反目し、切磋琢磨し、そして友情を築いていくというもの。ありふれているかもしれないが、それだけに筆者の表現力が光る。特に主役二人のやり取りには熱がこもっているのが読み取れた。

 集めた範囲では、そろそろ物語も佳境に入ろうかというところ。読書としては是非とも続きが読みたい。残りを探し求めてトワは学院の裏手へと進んでいく。

 

「校門でガイラーさんがトリスタには飛んでいくのは見ていなかったから……」

『残りがあるとすれば、旧校舎の方ってことなの』

 

 ちょうど清掃をしていた用務員の証言から、学院外にまで飛散した可能性は低いと見込まれる。本校舎周りは一通り集め尽くした。必然、取りこぼしがあるとすれば人気のない旧校舎近辺となる。

 入学初日に突飛なオリエンテーリングを体験することになった古びた建物。あまり立ち寄らない場所であるが、近くまで来るとやはり奇妙な気配が感じ取れる。休眠状態のようなので、徒に刺激することはないだろうとトワは放置していた。

 そんなところに物語の続きを探し求めてきてみれば、案の定、目当てのものを発見する。ところどころ剥げている旧校舎の屋根。そこに数枚の紙が落ちているのが見て取れた。

 

『また飛ばされたら困るの。取ってこようか?』

 

 中に入る鍵は持っていないし、外壁を登るのも手間がかかる。また風が吹いて飛ばされないうちに、ノイが直接回収してこようかと提案するのは無難な選択だ。

 

「いいよ、これくらい。人の目も無いし……えいやっ」

 

 ところが、トワは相棒の提案を断る。わざわざ彼女の手を煩わせることもない。

 何の気負いもなく髪を白銀に染めたトワが星の力を操る。彼女の意に従って気流が変わり、穏やかながらも確かな風が屋根の原稿用紙を攫った。運ばれる先は風の呼び手のもと。意図した通りに自然を動かした彼女は悠々と自分のもとに飛んできたそれを手に取った。

 ノイが複雑な色が浮かぶ目を向ける。その大半が呆れで占められているのは言うまでもない。

 

『なんか、こう……その力はもっと高尚なものだったと思うのだけど』

「自重するべき時はあるけど、そう構えるものでもないよ。便利なものは便利なんだし」

 

 ミトスの民としての力に気負うところがなくなったのは嬉しい。嬉しいが、それを単なる便利ツールとして扱うのはどうなのだろうか。その力の被造物たるノイは微妙な心境にならざるを得ない。

 所詮は自分の先に在るもの。力が己の意志により振るうものである以上、良識に反さない限りはどう使っても構わないだろうとトワは開き直っていた。その考えに至るまでにバンダナのお調子者をはじめとした仲間たちの影響があったのは間違いないだろう。

 きっと彼女の母親などはその変化を喜ぶに違いない。ありありと想像できるだけに、ノイはそれ以上何も言わなかった。聞えよがしな溜息は出てしまったけれど。

 

『まったく……それより、誰か近付いてきているの』

 

 それはトワも星の力を介して感じ取っていた。分かっているよ、と力を身体の奥に引っ込めて栗色の髪に戻る。お手軽な扱いになったものだ。

 それにしても、旧校舎に人が来るなど珍しい。近付いてくる早さからして小走りで来ているようだし、何やら急いでいる様子。自分のことを棚に上げながらトワは首を傾げた。

 やがてその人の姿が見えてくる。長い黒髪に眼鏡をかけた女子生徒。見知った顔の彼女はトワを見つけるや、必死の形相で駆け寄ってきた。

 

「と、トワさん! ようやく見つけ、ゲホッ、ゴホッ」

「えっと、なんだか分からないけどまずは落ち着こう、ドロテちゃん」

 

 何をそんなに慌ててきたのか、息を乱す彼女は同じ一年の平民生徒であるドロテ。文芸部に所属している大人しめの女子だ。

 ふと、そこで思い至る。文芸部、そう、文芸部だ。集めることに専念してしまっていたが、この原稿用紙の持ち主も飛散したものを回収しようとしたはず。それを鑑みれば、目の前の彼女の様子も心当たるものがあった。

 

「もしかして、これってドロテちゃんが書いたものなの?」

「はあ……はあ……そ、そうなんです! 空気を入れ替えようとしたところ、強い風で一気に……」

 

 推測は当たっていたらしい。原稿用紙を見せてみると、ドロテは顕著な反応を示した。きっと最初に聞こえてきた叫び声も彼女のものだったのだろう。

 

「慌てて探しに出たはいいものの、行く先々で聞くのは既にトワさんが拾っていったという声ばかり……ようやく追いつけました」

「うーん、ごめんね。なんだか悪いことしちゃったみたい」

「ああ、いえ。私だけだったらこんなに早く集められなかったでしょうし。むしろ感謝するところです」

 

 確かにドロテだけでは木の上に引っかかっているのはまだしも、旧校舎の屋根に乗っているのは手をこまねていたに違いない。そういう意味ではトワが率先して探していたのは結果的に良かったと言える。興味本位が勝ってのことだったが、そう言ってもらえると気が楽だった。

 落とし主も現れたことで、集めた原稿用紙を返却する。これにて一件落着――だと思うのだが、ドロテは何やら落ち着かない様子だった。

 

「あの、ところでですね……も、もしかして中身を読んだりは……」

「? うん、読ませてもらったよ」

 

 何気なく口にしたトワの答えに、ドロテはぎょっと身体を強張らせる。いったいどうしたのだろう。トワが不思議そうな目を向ける前で、彼女は恥ずかし気に肩を縮こまらせていく。

 

「これは、その、ほんの出来心で書いてしまったもので……今日は一人だったものですから、ちょっと思い切ってもいいだろうと……決して人に見せるつもりではなかったのですが……」

 

 ごにょごにょと言い訳染みたことを俯きながら漏らすドロテ。尻すぼみに小さくなっていく声には、まるで悪戯を見咎められた子供のような弱々しさがあった。

 どうやら彼女は自分の作品に自信がないようだ。慌てて探そうとしたのもそれゆえのこと。人目に触れないうちに回収したかったのかもしれない。それが結局はトワが集めて回ってしまい、意図せずして読まれることになってしまったということだろう。

 トワはドロテがどうして自信を持てないか分からない。きっとそこには彼女なりの理由があるのだと思う。それ自体には、自分からあれこれ言う筋合いはないのかもしれない。

 

「せっかく読ませてもらったから感想を言わせてもらうけど――隠すには、ちょっと勿体ないと思うな」

「え……」

 

 けれど、何の巡り合わせか唯一の読者になれたのだ。その感想を伝えることくらいは許されるだろう。

 

「二人の主人公の対立と葛藤、それが友情に変わっていく様。凄く緻密な感情表現ではっきりと想像できるようだったし……何より、ドロテちゃんが書きたいものを書いているのが伝わってきた」

 

 人の心に訴えかけられるような文章を書くにはどうしたらよいか。それにはきっと積み重ねられた技術こそがものをいう部分もあることだろう。

 しかし、良い文章を生むのはそれだけではない。筆者が何を書きたいのか、描きたい情景は何なのか。その意欲が文字の世界を彩る言葉を湧き立たせ、より綿密な作品へと昇華させていく。

 トワが読んだそれには熱があった。言葉の限りを尽くして物語の世界を伝えようとする熱意が。だから、それを日の目を見ない場所に留め置くのは勿体ないと思う。

 

「もっと素直になってもいいんじゃないかな。ドロテちゃんが本当に書きたいものを書けたなら、それを認めてくれる人はきっといるはずだよ」

「私が書きたいもの……でも、そんな……」

 

 思いもしない言葉にドロテは惑う様子を見せる。本当にいいのだろうか。思うがままに筆を執りたい気持ちと躊躇う気持ちがせめぎ合っているようだった。

 

「皆が皆、そうじゃないかもしれない。でも、私はまたドロテちゃんの物語を読んでみたいな」

「トワさん……分かりました! 私、もっと自由に書いてみます。私の書きたいものを、私の全力で!」

 

 そこにトワの後押しが決定打となり、彼女の足を前へと進ませた。

 創作とは自由だ。自分の好きなものを好きなように作る。自分の言葉が、彼女がより良い作品を書ける契機となれたら嬉しく思う。

 

「男子と男子の友情を、いえ、友情に留まらない耽美なるものを! このトールズにも布教してみせます! トワさん、次作が出来たら是非ご覧になってくださいね!」

「う、うん……?」

 

 ただ、何やら変なスイッチでも押してしまったのだろうか。先とは打って変わってテンションが天井上がりのドロテに戸惑いを覚える。そこまで大層なことを言った覚えはないのだが。

 

「ああ、今まで頭の中に留めていたものを形にすると思うと……ぶぷっ! こ、こうしてはいられません! 早速執筆に入りますので、これで失礼します!」

 

 謎のテンションのままにドロテは駆け足で去っていく。去り際に鼻血を流していたのは気のせい……ではないのだろう。興奮すると血が上りやすい性質なのかもしれない。トワはひとまずそう理屈付けて片付けることにした。

 なんだか最後は呆気に取られてしまったが、結果的には丸く収まって何よりだ。ドロテがこれからどんな物語を紡いでいくのか。一人の読者としてそれを楽しみに待つとしよう。

 寄り道の用事も片付いたことで、生徒会の業務に戻らなければ。ドロテの後を追う形で旧校舎から離れようとして――不意にとあることを思い出した。

 

「そういえば、最後の原稿用紙読めなかったね。どんな展開が続いていたんだろう?」

『さあ……まあ、また新しいのを見せてくれるみたいだし、その時にでも聞けばいいの』

 

 ノイの言葉に確かに、と頷く。だからトワは深く気にしなかった。少なくとも、今この時は。

 ドロテが持ち寄ってきた新作を読んで、彼女が盛大な苦笑いを浮かべるのはそう遠くない未来の話である。

 



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第52話 理事会

トワたちの一年生編もいよいよ大詰めに入ってきました。学院祭前の最後の実習地がどこになるかは……おそらく多くの人は予想がついていることでしょう。
ご期待に沿えるよう頑張っていきます。


 九月。汗ばむ夏の暑さが遠ざかり、残暑も直に去ろうかという頃。

 来月に控えた学院祭に向け、トールズでは各クラスにおける準備が本格化していた。演劇にゲーム関連の催し、飲食の提供など。それぞれ決定した出し物へ皆の意識が向いている。二年生は有志で武術大会なるものを開催するらしく、裏方として一年生をサポートしながらも楽しんでやっているようだ。

 勿論、それはトワが所属するⅣ組においても例外ではない。クラスにおける目下の話題は出し物の準備について。授業の合間の僅かな休み時間も、皆で顔を突き合わせて少しでも準備を進めるほど気合が入っていた。

 

「ぶふっ! や、ヤバいわロギンス。それ凄い似合ってる……!」

「た、確かにね。君の強面といい感じに中和されて……くくっ」

「思いっきり笑ってんじゃねえか!? 仕方なく着てやったらいい気になりやがって!」

 

 その過程において、何故にロギンスが熊の着ぐるみを纏う羽目になっているのか。気の抜けた顔の熊がデザインされたフードを被った彼に、トワは思わず口を押えるのだった。

 

 Ⅳ組で決まった学院祭の出し物は喫茶店。ただ、普通の喫茶店ではない。店員全員が着ぐるみを纏って接客するという着ぐるみ喫茶だ。いったい何がどうなったらそんな結論に至るのだろう。

 経緯はともあれ、決定した以上はその方針でクラスは動き出している。そうして見繕った着ぐるみの第一弾が熊ロギンスである。非常にシュールではあるが、彼にピッタリというのはトワも頷くところだ。ウケ狙いという意味で。

 

「くっそ、何で俺がこんな目に……」

「仕方ないだろう。厨房に立てないんだったら、必然的に接客に回ることになるんだから」

 

 ハイベルが告げる無情な現実にロギンスは閉口する。いつもだったら不機嫌な面持ちに人が離れていくところだが、今の恰好では微笑ましさすら感じられそうだった。

 そんな大きな熊さんを尻目に、トワはクラスメイトにあれこれと指示を飛ばすエミリーのもとへ。一頻りロギンスを笑った後は至極真面目に出し物の中心として取り仕切っている彼女。トワは手が空いた隙間を狙って声を掛けた。

 

「エミリーちゃん、私はどうしたらいいかな?」

「ええっと、そうね……向こうでメニューの案を取りまとめているから、そこに合流して。トワは料理のレパートリーも多いし、そこらへん期待しているわよ」

「ふふ、分かった。楽しみにしていてね」

 

 料理関係なら自分の得意分野だ。トワは指定された厨房班が集まる場所へと合流した。

 しかし、普段の彼女を知るならば疑問に思うところだろう。常ならばまとめ役の立ち位置にいることが多いのに、今回に限っては指示を受ける側に回っている。エミリーが向いていないというわけではないが、少しばかり不自然な光景だ。

 

 それというのも、トワたち試験実習班が先月に関わったハーメルの一件が関係している。ハイアームズ候の執り成しで禁足地への立ち入りは不問となったが、重要参考人として聴取を受ける立場には違いない。呼び出されては硬い空気の中で調書を取られることがここしばらく何度かあった。

 最近になって一段落したものの、忙しくしていた間に学院祭の話し合いは着々と進んでしまっていた。トワは生徒会として運営に携わっていることもあって、気付けばクラスの出し物に関しては出遅れてしまっていた。

 Ⅳ組に所属している以上、その成功の為に精一杯やろうという気持ちに嘘はない。しかし、流れに乗り遅れてしまったことでクラスメイトと熱意に差を感じるのも、また確かなのであった。

 

 

 

 

 

「うーん、やっぱりアンちゃんとかもそんな感じなんだ」

「まあね。役を貰ったからには微力を尽くさせてもらうが、いまいち流れに乗り切れないのが正直なところだよ」

 

 昼休み。いつも通りに技術部に集まった四人で各々のクラスの話をするも、トワが感じているものは仲間たちにも共通しているようだった。

 肩を竦めるアンゼリカのⅠ組は演劇を行うそうだが、自分の関わらないうちに決まったことが多くあるというのはモチベーションに響く。そうなったのはこちらの都合なので文句はない。とはいえ、周りと身の入り方が異なってくるのは仕方なかった。

 

「僕も似たようなものかな。色々と手助けできる部分はあるけど、自分から動けるものは少ないというか……」

 

 作業スペースでフレームの溶接をしていたジョルジュが顔を出す。時間の合間を縫っては技術部に集まり、着々と準備を進めた導力バイク製作は実機を作る最中だ。尤も、こうして四人が集まっていられるのもクラスの出し物の中核にいないからと言える。

 ジョルジュもその技術力を当てに頼られることはある。だが、それはクラスの皆が決めたものを形にする段階の話。アイデアを募る段階で席を外す羽目になっていたのは手痛い。

 

「折角の祭りだってのに、これじゃ面白みがねえ。俺たちで何かできないもんかね」

 

 乗り気になり切れないのはクロウも同じ。年に一度の学院祭、それも主役となれる一年生でこれは不味いだろう。自分たちで独自に動き出そうという提案はトワも賛成するところだ。

 

「何かと言っても、そう簡単に出来ることでもないの。ちゃんと考えないと」

「分かってるよ。だからこうして聞いているんだろうが」

 

 言うは易く行うは難し。ノイの言葉にクロウは渋い面になる。お節介で言葉数の多い彼女だが、言っていること自体は間違っていない。

 生半可な考えや準備でやろうとしても、自分たちの首を余計に絞める結果にしかならないだろう。生徒会所属のトワとしては、物によっては認可が必要な場合もあるだけにキチンと決めたうえでやりたいところだ。

 では、実際のところ何が出来るのだろうか。導力バイクの作業の手を止め、テーブルに着いた四人はあれこれと案を考え始める。

 

「少なくとも屋台などは選択肢から外れるだろう。それぞれ当日はやることがある。店番を務めるのは難しいに違いない」

「というより、常設する形のものは現実的じゃないかもね。僕たち全員が違うクラスで集まれる時間は限られている。ステージでの出し物なら大丈夫かもしれないけど……」

「ステージね……四人で寸劇をやるのも無理があるし、どうしたもんか」

 

 なんだかんだ揃って頭が回る面々だ。自分たちの置かれる状況を鑑みて、ある程度の方向性を考えるのにさして時間はかからない。問題はそこから具体的なプランを組めるかにあった。ステージ系といっても千差万別だが、四人で出来るものというと限られてくる。

 

「何をするかにもよるけど、あまり時間は取れないかも。ステージのタイムスケジュールはもう組まれちゃっているし」

 

 時間的な問題も無視できない。既に出遅れているからには他の出し物でステージが埋まっているのは当然のこと。Ⅰ組の演劇をはじめとして、講堂を使用するものは漏れなく生徒会へ申請済みだ。運営の工程管理を請け負っているトワは詳細を把握しているだけに、あまり余裕はないことを告げざるを得なかった。

 学院祭をやりがいのあるものにするためにも、試験実習班として何かやりたいのは確か。だが、考えてみると意外に障害は多いものだ。どうしたものかと彼女たちは首を捻る。

 

「難しいものだ。やるからには皆の注目を掻っ攫いたいところだが」

「そこまで出来るかは分からないけど……っと、誰か来たみたい。ノイ」

 

 そう簡単に妙案が浮かぶわけもなく議論は座礁する。そんな彼女たちのもとに近付いてくる気配があった。勘付いたトワに声掛けられ、ノイは「はいはい」といつも通りにアーツで姿を隠す。さほど時間を置かずして、ノックもなく無遠慮に技術部の扉が開かれた。

 

「あら、全員揃っているじゃない。探す手間が省けて良かったわ」

 

 姿を現したのはサラ教官。どうやらトワたちを探しに来たようだ。特に呼び出されるような心当たりはなかったが、四人はその口ぶりに自然と嫌な予感を抱いてしまう。

 ここしばらく七面倒な聴取を受けてきた身。ひとまずは落ち着いたものの、似たようなシチュエーションで呼び出しがあっただけに身構えてしまうものがある。これ以上時間を取られては敵わないとばかりにクロウが顔を顰めるのも無理はなかった。

 

「何の用だよ。面倒事はもう済んだはずだろうが」

「そっちじゃないわよ。ちょっとばかり顔を貸してほしいだけ」

「顔を貸すって……どこにですか?」

 

 想像していた案件とは違っていたようで何より。とはいえ、それはそれで疑問が浮かぶ。端的に告げられた用件にジョルジュが首を傾げる。

 

「もうじき学院の理事の方々が到着するの。あんた達も校門でお出迎えしてちょうだい」

 

 サラ教官の言葉に四人は揃って目を瞬かせる。内容は分かっても、その意味が理解できない。

 確かに今日は学院で理事会が開かれる予定とは聞いていた。SHRでトマス教官も口にしていたし、掲示板での事前の告知も目にしている。しかし、大多数の生徒にとってはあまり関係がないだけに関心は向けられていない。精々がお会いしたときに失礼がないよう心掛けるくらいだ。

 それがどうして自分たちが出迎えに呼び出されるのか。考えようにも理事との関りなど皆無。想像のしようがなく、トワは戸惑いを表する他になかった。

 

「それは構いませんけど……どうして私たちが?」

「まあ、ついてくれば分かるわよ。時間も無いし、ちゃっちゃと校門まで来なさい」

 

 相変わらず碌に疑問に答えもせず、サラ教官は言うだけ言って先に行ってしまう。きっと今回も面白がっているだけに違いない。こちらも色々と隠し事があるだけに、文句ばかり口にできないのが辛いところ。こればかりはお相子と諦めるしかないだろう。

 事情は判然としないが、出迎えとして指名されてしまったからには無視するわけにもいかない。示し合わせたようにため息を一つ零し、試験実習班の面々はサラ教官の後を追うのだった。

 

 

 

 

 

 何だかよく分からないまま校門で待つこと十数分。あっ、とトワはそれと思しき客人の到来に声をあげた。

 トリスタからの坂を上がってくる導力リムジン。流石は名門校の理事を務める人物。きっと相応に地位のある人なのだろう。自分に深く関わりのない他人事と思っているだけに、トワはそんな呑気な感想を抱いていた。

 だが、それもリムジンから件の人物が降りてくるまでのこと。見覚えのあるその顔に、トワはポカンと間抜け面を晒してしまう。

 

「やあ、トワ君。それに試験実習班の諸君。暫くぶりだね」

「知事閣下……お、お久し振りです」

 

 カール・レーグニッツ帝都知事。五月の試験実習で面識を得た革新派の重鎮は和やかに再開の挨拶をした。慌てて挨拶を返しながらも、内心では混乱の渦中である。

 この場に彼が現れたということは、そういうことなのだろうが……はて、出会った時にそんなことを口にしていただろうか。

 

「あの……実習の時には学院の理事とは仰っていなかったと思いますが」

「ああ、受諾したのはその後のことだからね。驚かせてしまったかな?」

「……ええ、それはもう」

 

 アンゼリカが流し目を向けた先にはしたり顔のサラ教官が。なるほど、こういう目論見か。まんまと教え子たちが引っ掛かってくれてご満悦の様子。そんな彼女だったが、ふと視線を知事から別の方へ向けると打って変わって仏頂面を浮かべた。

 

「で、何であんたまでここにいるのよ?」

「何故、と聞かれましても。見ての通り知事閣下の護衛として随行しているのですが」

 

 あからさまな不満が込められた声に返されるのは平坦な冷たい答え。鉄道憲兵隊、クレア・リーヴェルト大尉はあくまで事務的な態度だった。

 遊撃士協会との関係で仲良くできないのは分かる。だからといって、顔を合わせる度にこうも険悪な雰囲気になられては堪ったものではない。もう少し何とかならないものだろうか。

 また嫌味の応酬でも始まるかもしれない。トワはどうにか仲裁できないものかと考えるが――予想に反して、今回はクレア大尉の方が声を和らげた。

 

「ただ、私的な用件もあってご一緒させてもらったのは確かです。魔獣事件についてトワさんたちにお礼を申し上げようと思いまして」

 

 その言葉に驚きと納得を得る。多忙であるのは間違いないはずなのに、そのためにわざわざ出向いてくるなんて。しかし、彼女の生真面目で律儀な性格から面と向かって伝えなければ気が済まなかったのも理解できた。

 

「結局、こちらではルーレ以降あまり手を回せませんでしたから。試験実習班の皆さん、遅ればせになりますが解決への尽力、ありがとうございました――トワさんも元気になられたようで何よりです」

「あはは……その件はご心配をおかけしまして」

 

 思えば、クレア大尉にはザクセン鉄鉱山で情けない姿を見せてしまって以来だ。どうやら気掛かりにしてもらっていたようで、ありがたくも申し訳ない気分である。

 ところがどっこい、話はそれだけで終わらないらしい。クレア大尉は「ですが」と言葉を続ける。

 

「相変わらず無茶をしているのは感心しませんね。聞けば、解決に際して機密(・・)に関わったとか。穏便に済んだからよいものの、本来であれば一学生が関与することではありません」

「お、仰る通りです……」

「まあ、その辺りは言い訳できないわな」

 

 どうやらクレア大尉も事情は把握しているらしい。ウォレス准将にも言われたことだが、帝国の暗部にまで首を突っ込んだ試験実習班――特にトワは彼女の中で特級の問題児扱いの様子。お説教に対して返す言葉もない。他人事のように言うクロウが恨めしかった。

 いったい誰が彼女を《氷の乙女》などと呼んだのか。これでは単なる世話焼きな年上のお姉さんである。くどくどと説教を続ける様子に軍人らしさは窺えない。

 やれ少しは自身を省みろだとか、やれそんなところばかり伯父に似るなだとか。放っておけば無限に湧き出てきそうな説教に終止符を打ったのは、傍らで微笑ましそうにしていたレーグニッツ知事であった。

 

「大尉、それくらいにしてあげるといい。こうして元気な姿が見られたんだ。経緯はともあれ、それ以上のことはないだろう」

「……承知しました。お騒がせして申し訳ありません」

 

 向けられる生温かい視線が気恥ずかしかったのか、やや頬を染めるクレア大尉。そんな彼女に尚更笑みを深めながらも、レーグニッツ知事はひとまず区切りをつける。

 

「今回の理事会では、これまでの君たちの活動も話題に上ることだろう。実り多き時間となるよう私も力を尽くさせてもらうよ」

 

 言って、彼はクレア大尉を伴って校舎内へと向かった。詳細は分からないが、理事会の議題は自分たちも無関係ではないらしい。既に今学年も半ば、そろそろ来年を見据えて学院も本格的に準備を始めるということなのだろうか。

 

「前々から予行演習にしちゃ豪勢な面子だと思っていたが……なるほどな、そういう趣向だったのなら納得だぜ」

「あら、気付いちゃった?」

「嫌でも気付きますよ、これは」

 

 以前から不思議に思っていたものだ。伝統ある学院とはいえ、その試験的な実習にどうして地位ある人々が多く関わってくるのだろうかと。レーグニッツ知事は間接的であったが、その他は現地責任者として直に関与してきた。

 その答えが今、目の前で示されたのだろう。試験実習にその後の理事就任、それらは決して無関係なものではない。

 であれば、後から続いてくる残りの理事の顔も想像がつく。二台目のリムジンが到着する。思い描いていた人物と降りてきた人物は、やはりというべきか一致していた。

 

「お久し振りです、イリーナ会長」

「ええ。出迎えご苦労様」

 

 RF会長、イリーナ・ラインフォルト。ここに姿を現したということは、彼女も学院の理事を引き受けた一人ということ。意味のない隠し事をする人とも思えず、やはり試験実習の後にその席に収まったのだろう。

 相変わらずやり手の経営者としての風格を漂わせている彼女。返した挨拶は素っ気ないものだが、続いた言葉は見るべきところを見ているからこそ出るものだった。

 

「戦術リンクシステムのデータ蓄積は順調のようね。おかげさまで二ヶ月以内には正式版ARCUSの生産に漕ぎつけそうよ」

「それは朗報ですね。私たちも汗水たらしてレポートを拵えてきた甲斐があるというものです」

「エプスタイン財団の方も目途がついたということですか……なんだか感慨深いな」

 

 ルーレの実習においてひとまずの完成を見た戦術リンクシステム。その後も運用データを継続してRFに送ってきたが、とうとうそれが形として実を結ぶ時が近付いているようだ。

 RFとエプスタイン財団の共同開発による新型戦術オーブメントARCUS。その生産の目途がついたということは、ハード面も完成が近いということだろう。トワたちが持つ従来のものに戦術リンクシステムを組み込んだプロトタイプ。それも間もなくお役御免になるわけだ。

 初期はその不安定さに苦労させられたが、今ではそれも自分たちが積み重ねてきた確かな糧と思える。試験実習班の大きな目的の一つでもあるだけに四人は、特にジョルジュは感じ入るところがあった。

 

「とはいえ、ロールアウトには正式版の運用データも必要になる。まだまだ貴方たちには頑張ってもらうわよ」

「はい、こちらこそお世話になります。シャロンさんも……シャロンさん?」

 

 イリーナ会長が学院理事に就任したということは、今後はより密接に関係してくるのだろう。RFとのやり取りも多くなっていくに違いない。流石に会長本人と連絡を取るようなことはないと思うが、より縁深くなるのは確かだ。

 だからこそ改めてイリーナ会長と良い関係であることを願い、その付き人である瀟洒なメイドとも言葉を交わそうとしたのだが……そこで先立って礼儀正しく挨拶してきそうな彼女の声を聞いていないことに気付く。

 

「「…………」」

 

 件のメイド、シャロンはサラ教官と相対していた。いつも通りにたおやかな笑みを浮かべているシャロン。無表情ながら目に険しい色が見えるサラ教官。ただならない空気にトワは何事かと困惑してしまう。

 

「どうも。一応確認したいのだけど……はじめまして、でいいのかしら?」

「ええ、お初にお目にかかります。ラインフォルト家のメイド、シャロン・クルーガーと申します。どうぞお見知りおきくださいませ、サラ・バレスタイン様(・・・・・・・・・・)

「あーら、これはどうもご丁寧に。流石にラインフォルトともなると優秀なメイドを雇っているみたいね。なんだか見覚えがあるのが気になるけれど」

「まあ、それは不思議ですわね。これも女神の思し召しということでしょうか」

 

 二人で「あはは」「うふふ」と意味深な笑みを向け合う様子は奇妙極まりない。どこか剣呑な雰囲気を感じることもあって、トワたちはとても間には入りたくなかった。

 イリーナ会長がため息を漏らす。呆れの色を滲ませながらも彼女は使用人に声を掛けた。

 

「そろそろ行くわよ、シャロン。戯れも程々にしておきなさい」

「これは失礼いたしました。ではサラ様、それにトワ様たちも。また後ほど」

 

 優美に一礼してイリーナ会長の後に続くシャロン。その後ろ姿を見つめるサラ教官の目は変わらずに険しいもの。校舎内に入っていくところまで見送ったところで、生徒としては彼女に声掛けざるを得なかった。

 

「サラ、別にあんたの人間関係にとやかく言う気はないけどよ……仮にも客に対して喧嘩ばかり売るのはどうかと思うぜ」

「クレア大尉とは仕方ない部分もあるとは思いますけれど……」

「シャロンさんにまで因縁つけることはないでしょう。狂犬じゃあるまいし」

 

 クレア大尉にシャロンと立て続けに喧嘩腰なサラ教官。立場の違いなり過去に何かあったりしたのかもしれないが、それはそれとして出迎える側の態度としては問題がある。普段奔放なのは構わないが、流石にそれはどうかと思った。

 教え子たちに苦言を呈されて当人は苦い顔。色々と思うところはあるようだが、やがては諦めたようにがっくりと肩を落とす。

 

「分かったわよ……まったく、何であの時の奴がこんなところに……」

 

 ぶつぶつと文句を垂れてはいるが、外聞に関わることなので仕方ないだろう。トールズの教官という立場にあるからには守るべき一線がある。いがみ合うにしても場所を選ぶべきだ。

 そうこうしている内に次なる来客が近付いてきていた。三台目ともなると新鮮味も薄れるリムジン。ただ、降り立った人物は先の二人とは全く異なる雰囲気を纏っている。

 

「久しいね、諸君。壮健そうで何より」

「お久し振りです。ルーファスさんもまたこうして会えたことを嬉しく思います」

 

 アルバレア公爵家の長子、ルーファス・アルバレア。以前の実習でも目にした貴公子然とした立ち居振る舞いは変わらず隙が無い。帝国の伝統を受け継ぐ由緒正しき貴族。まさにその鏡とでも言うべき姿は若さに見合わない完成されたものだ。

 何となく彼も来るだろうとは予想がついていた。だからこそこちらも礼儀正しく出迎えられたのだが、それが相手には少し残念だったらしい。

 

「どうやら当たりを付けられてしまった後のようだね。もう少し早くに来るべきだったかな?」

「お戯れを。初手からルーファスさんが来られては、こちらの心臓が持ちませんよ」

「ふふ、私見では君たちはそんな柔ではないと思うが……先月の実習でも随分と活躍したと聞く」

 

 思わずぎくりと身動ぎしてしまう。四大名門に連なる身、事件の概要くらいは知り得ていても不思議ではないが……どうしてか彼には、表面に留まらないことまで見透かされているような気がしてならなかった。

 トワに向けられる理知的な碧眼。そこには自身の深奥まで覗き込まんとされるような圧があった。考えすぎかもしれないが、時折ルーファスが漂わせる気配はあまり心臓によろしくない。

 ふっ、と笑みを浮かべる。圧が消えるのも、また突然だった。微笑した彼は執事を伴って校舎へと足を向ける。

 

「まあ、いいだろう。君たちのような優秀な生徒が在学する学院の理事となれたことを嬉しく思うよ。まだ見ぬ後輩たちのため、私も微力を振るわせてもらうとしよう」

 

 トワたちの横を過ぎていくルーファス。そこで彼は不意に立ち止まると、肩越しに「ああ、そういえば」と声掛けてくる。

 

「ブルーノ氏だが、今は屋敷でよく働いてくれている。一応、伝えさせてもらうよ」

 

 そう言い残すと、今度こそ校舎の中へと消えていく。短く端的なものであったが、それはトワたちにとって何よりの知らせだった。

 

「ユーシス君がいるし大丈夫とは思っていたけど……あの家族も元気にやっているみたいだね。なんだか安心したな」

「ったく、あの貴公子様も憎い真似してくれるぜ」

 

 バリアハート実習において、無実の罪で囚われかけていたところをエステルたちにユーシスと協力して助けた使用人の一家。ユーシスの執り成しでアルバレア邸に雇用されたとは知っていたが、無事にやっているようで改めてよかったと思う。

 こちらが喜びそうなポイントをよくよく理解しているというか、なんとも卒のない人である。学生の身ではあるものの、そうした会話術や駆け引きといった点においてルーファスは遠く先にいるように思えた。

 

「さて、と。理事のお三方はいらっしゃったし、後は理事長だけね」

 

 残すところはあと一人。その名を聞かずとも、トワたちはそれが誰か知っている。トールズ士官学院の理事長は古くからの習わしによって選ばれてきたのだから。

 面識はない。以前に一度、遠目に姿を見たことがあるくらいだ。立場のある人である上に、最近は多忙な毎日を過ごしている様子。風聞や雑誌を通してであっても、随分と精力的に動いているのは窺い知れた。

 そんな人が試験実習班と浅はかならない関係があることは承知している。他ならない彼の働きかけによって、自分たちは今ここにいるのだと。

 

「帝都知事にRF会長、公爵家の嫡子……よくもまあ、これだけの面子を集められたものだよ。特科クラスにかけるあの方の本気具合が窺える」

「俺たちも知らぬ間に一役買っていたみたいだけどな。不親切なこった」

「変に意識されたら駄目だから教えなかったんでしょうが。おかげで三人とも引き受けてくれたし結果オーライよ、結果オーライ」

 

 貴族に平民、帝国を取り巻く様々な隔たりを取り払って生まれる特科クラス。その方針を決めるのもまた、様々な立場の人物によらなければならないということなのだろう。集まった理事の顔ぶれを見て自然とそう思い至る。

 それぞれの立場を代表するにふさわしい人々だ。理事となってもらうのも並大抵の苦労では済まなかっただろう。クロウはいいように使われたようで不満のようだが、少しでもその助けとなったのならトワは嬉しく思うところだ。

 

 やがて最後の来客を乗せた車が姿を見せた。その出自を象徴する緋色に染められたリムジン。軽快な走りで校門に辿り着いたところで、トワたちはとうとう対面を果たすことになる。

 このエレボニア帝国を統べる人物と同じ艶やかな金髪。若々しい面立ちは理知的な色を湛えながらも、どこか軽妙さを感じさせるところがある。緋色の装束を身に纏ったその人は、護衛の黒髪の軍人を伴ってトワたちの前に降り立った。

 

「やあ諸君、わざわざ出迎えてくれてありがとう。サラ君とは勧誘して以来だったかな?」

「ええ、お久し振りです。おかげさまで退屈しない毎日を過ごさせてもらっていますよ」

 

 手のかかる生徒もいることですし、とサラ教官。どうしてそこでトワを見るのだろう。普段から色々と問題があるのはクロウやアンゼリカの方だろうに。

 本人は知る由もないが、口にしたところで誰の同意も得られなかっただろうから逆に良かったかもしれない。不平を飲み込んだところで快活な笑い声が響く。

 

「はっはっは、なら僕も頼んだ甲斐があったというものだね。快く送り出してくれたシグナさんにも感謝しないと」

「先生は多分、面白半分だったと思いますけどね」

「……まあ、あの御仁なら否定しかねるな」

 

 なんだか頭が痛くなる話が聞こえた気もするが、それも「さて」と彼がこちらに向き直ったことで後回しになる。四人を見据え、嬉しそうに――そして誇らしそうに彼は口を開く。

 

「君たちにもようやく会うことが出来た。実習での活躍を耳にしながら、この時を心待ちにしていたよ」

「きょ、恐縮です」

「まー、そう硬くなることはない。楽にしたまえ」

 

 最も一般的な感性の持ち主であるジョルジュは緊張気味な様子。そこに軽い調子の声を投げかけながらも、彼は歌うように名乗りを上げた。

 

「トールズ士官学院のお飾りの理事長にして、花鳥風月を愛する放蕩皇子――オリヴァルト・ライゼ・アルノールだ。よろしく頼むよ、試験実習班の諸君」

 

 特科クラスの発起人にして、トワたち試験実習班が生まれる契機を作ったその人。皇帝ユーゲント三世の長子は、噂に違わないユーモラスな自己紹介を披露した。

 呆気にとられるトワたちを差し置いて、ひらりと身を翻すオリヴァルト皇子。挨拶を返す間もなく彼は足を進めていってしまう。

 

「ゆっくり話したいところだが、今は理事たちを待たせているのでね。後でまた会おう」

 

 黒髪の人を伴い、理事たちの後を追って校舎に消えていく。去り際に「アディオス!」と言い残していった破天荒な皇子に、四人は揃いも揃ってポカンとするばかりなのだった。

 



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第53話 未来の可能性

少しばかりバタバタしていて久しぶりの投稿になってしまいました。残念ながらGWも仕事なのでペースは上がらないと思いますが、気長にお付き合いいただけたら嬉しいです。


「儂もトールズの学院長となって長いが……これほどの人物が一堂に会したのは初めてだ。すこしばかり緊張してしまいますな」

 

 本校舎一階、会議室。そこに集った面々の前でヴァンダイク学院長が口火を切った。

 一同はそれを当たり前のように冗談として受け取った。錚々たる顔ぶれが集まっているのは確かだが、学院長も帝国正規軍名誉元帥その人である。今更これくらいのことで緊張するなど冗談以外の何物でもないだろう。

 といっても、理事会が始まる前に些か空気が硬くなっていたのは事実。それぞれの立場を考えたら自然なことではある。それを少しでも緩和する意味で、学院長の一言は効果覿面と言えた。

 

「はは、学院長のありがたいお言葉を頂いたところで、そろそろ始めるとしようか」

 

 トールズの理事長にして、この場を作り出した張本人であるオリヴァルト皇子が朗らかに告げる。新たな試みの基盤を築くべく招請し、そして集ってくれた三人の理事に向けてまずは一礼した。

 

「始めに、改めて私の願いに応えてくれたことに感謝を。それぞれ忙しい立場にも関わらず、こうして一堂に会せたことを嬉しく思う」

「過度な礼は無用と言うものですわ、殿下。あなたの試みに利があると考えた。だからこそ、こうして理事の任をお引き受けしたのですから。私にしても、おそらくお二方にしても」

「そうですな。そもそも大帝所縁の学院理事に招かれるのは個人としても名誉なこと。我々の方こそ、殿下にお声掛けしていただいたことを感謝しています」

 

 我ながら無茶な人選だとは思っていた。それが三人とも承諾してくれるとは、オリヴァルトにとっても望外の結果だったと言えよう。再三にわたって感謝を示したくもなる。

 対する理事たちの反応はそれぞれだ。イリーナ会長はあくまでビジネスライクに、レーグニッツ知事は穏やかに礼を返す。色は違えど卒のない対応。だが、言葉の裏にはそれ以上の思惑があることも間違いないだろう。

 

「私たちはあなたの思い描く未来が面白いと思った。ただ、それだけのことです。なればこそ、その対価は将来に自然と払われることになりましょう」

「――ああ、その通りだ」

 

 腹の内を完全に読むことは出来ない。その思惑を御しようなど不可能だ。

 だが、彼らの持つ《力》は間違いなく自らの試みにとって強い影響を与えることだろう。貴族、平民、そして軍需工業。帝国社会を構築する各要素の実力者たちは、必ずや若者たちに学びと考える機会をもたらすに違いない。それぞれが手綱を握れないほどに強力だからこそ、偏りなく、より鮮烈に。

 各々の理事に思惑があるように、オリヴァルトにも彼らをこの場に集めた目的がある。その第一段階は既に達せられた。後はこの強烈な個性の持ち主たちを理事長として纏めるのが自身の役目である。

 

「では、若者たちの未来のために新たな理事会の一歩を踏み出すとしよう」

 

 容易くことが運ぶことはないだろうが、望むところだ。この状況は自らが作り出したもの。乗り越えられなければいい笑いものになってしまう。

 ――それに、これくらいのことで音を上げていては彼に手を届かせるなど夢のまた夢なのだから。

 

 

 

 

 

「次の議題となりますが……学院への導力端末の導入及びカリキュラムへの追加ですな。資料の通り、前理事会から検討が進んでおり予算にも目途がついております」

 

 この新たな理事会が発足した主眼は周知の事実であるが、それはそれとして学院運営にはその他の要素も数多くある。ヴァンダイク学院長の進行のもと、粛々と議題が提示されては決議されていっていた。

 続いて上がってきたのは学院への新たな設備の導入に関するものだ。現在、クロスベル自治州で実験的に先行運用されている導力ネットワーク。通信のみならず様々なデータを情報端末経由でやり取りできる新技術である。

 将来的には各国でも普及していくと思われる導力端末。その扱いを先立って学び、習熟することで社会においてその技能を活かすことを目的とした導入案だ。学院長の言葉通り、前々から話は進んでおり、後は決裁を待つのみとなっていた。

 

「我が社でも試験的に運用していますが、導力ネットワーク技術は各分野で幅広く取り入れられていくことでしょう。扱い方を学ぶ機会を設けるのは意義あることかと」

 

 エレボニアにおける技術関係のトップとも言える人物がこう言うのだ。先を見据えて学生たちに触れさせるのは正しい判断で間違いない。

 では、最新鋭の技術に関して誰が教えるのか。普通ならばそこで躓いてしまうだろうが、名門学院の名は飾りではない。以前は帝国科学院に勤めていた導力学のマカロフ教官なら問題なく指導できるだろうと目されており、本人も既にカリキュラムの構築を行っているところだ。

 

「コストが不安視されていたようですが、IBCから融資を受けられるというのなら反対する理由はありませんな」

「私も頑張った甲斐があるというものだ。ディーター総裁も個人的に面白い方だったし、いい結果になって何よりだよ」

 

 前理事会では導入の意義を認めならも、そのコストに足踏みしていた。将来的には見込みがあるとはいえ、現時点ではまだまだコストが割高なのは事実。教育の為に纏まった量を購入するとなれば気安く払える額ではない。

 しかし、そこはオリヴァルトの面目躍如といったところ。精力的に動いていたことで導入資金にも当てを付けていた。IBC――クロスベル国際銀行から融資を受けられることになったのは、偏に彼の働きがあったからだ。

 学院としてもメリットがあり、導入への障害も大半が解消されている。これで首を横に振る方が難しい。場の意見は一致していた。

 

「では、採決を。導力ネットワーク端末のカリキュラム導入を正式に決定するということでよろしいでしょうか」

 

 異議なし。ヴァンダイク学院長の裁可を問う声に、理事たちは異口同音に答えた。

 ここまで随分とスムーズに議題が進行してきた。理事会に割かれている時間から考えて早すぎるほどだ。その理由は、やはりこの場に集った面々の意思決定の迅速さに起因しているのだろう。一つの事物に余計なリソースを割かず、しかし適切な判断を敢然と下す。口で言うほど容易くないそれを、当然のように行える能力を彼らは持っている。

 だが、その迅速さは理事たちの間に明確な利害関係がなかったからこそでもある。学院の設備拡充について対立する理由などない。ただし、事が個々人の思惑が関わるものになると話は変わってくる。

 

「さて……最後の議題です。来年度より発足する特科クラス、その特別実習の運用について仔細を決めたいと思います」

 

 例えば、まさに理事たちがこの場に集うことになった理由に関するものであるとか。

 三人の目に油断ならない光が宿る。オリヴァルトは場の空気が変わったことを如実に感じ取った。

 

「現段階の試験実習では、殿下や学院長らの判断によるもの。来年度の特別実習では、より効果的な学び(・・・・・・・・)のために理事の判断に委ねる――そのお話に変わりはありませんか、殿下?」

「その通りだ。実習地の選定についてはあなた方の判断に任せたいと思う」

 

 ルーファスからの確認に頷きを返す。理事への就任にあたっての要望を反故にする気はなかった。

 特科クラスの目玉はやはり特別実習にある。その実習地の選定は大きな影響を与えることだろう。理事たちの思惑は分からないが、帝国の未来を担う若者たちを自身に利するよう導こうとするなら――実習地にもその狙いが反映されてくると思われる。

 

「最初から帝都や州都のような大都市は難しいでしょう。まずはケルディックのような町から始めるのが適当かと」

「私もそれに異議はない。問題はそれ以降のことだが……」

「……順回り、というのはフェアではないでしょうね」

 

 何事も第一印象というのは大切だ。後から認識が変わることもあるが、一度定まったものを覆すには相応の出来事がなければいけない。それが悪印象なら尚更だ。

 革新派と貴族派の対立。個人の意思はともかく、レーグニッツ知事とルーファスはそれぞれの派閥を代理する立場と言って差し支えない。もし、相手が自分たちに不利益になるよう働きかけたら――絶対の否定はできない以上、互いに先手は譲るわけにはいかなくなる。

 イリーナ会長は外野に立っているようにも思えるが、彼女は彼女なりの思惑があるはず。派閥間の睨み合いに埋没させず、むしろ間隙を縫って自らの考えを通す構えかもしれない。

 理事たちはいずれも理知的な人物だ。がなり立てるような真似はしない。表面的には穏やかな、しかし水面下では腹の内を探り合いが続く。この分だと決着には時間が掛かることだろう。

 

「一つ、提案させてもらっていいだろうか」

 

 こうなることは予測できていた。いずれは妥協点を見つけて折り合いをつけるだろう、とも。

 しかし、それを座して待ち続ける必要などない。三人の間で競合が発生する状況こそ、まさに理事長たるオリヴァルトが介入する好機。自身が望む流れへと運ぶため、彼はここで手札を切る。

 

「なにも一度の実習で一つの場所にしか行けないということもないだろう。こちらの資料に目を通してほしい」

 

 それを合図にヴァンダイク学院長から配布される資料。理事たちは疑問を感じつつも、それに目を通してオリヴァルトの狙いを察した。

 

「試験実習班のレポート……帝都での経験をもとに、二班での運用が適当としていますね」

「しかし、他の実習地では現状の人員でも十分。人手も多すぎては小回りが利かなくなってしまう」

 

 今までに赴いた実習地の中でも随一の大都市だった帝都ヘイムダル。街区を巡るだけでも一苦労だった経験から、トワたちは複数班に分かれて行動した方がよいと結論付けていた。

 ただし、それはヘイムダルに限った話。それ以外の実習地では今の人数でも十分だった。むしろ下手に増やしてしまえば、実習活動に支障が出ることが考えられた。州都くらいの規模ならまだしも、ケルディックやパルムのような町では確実に影響が出るだろう。

 おおよそ四人から六人。実習における行動単位はその程度が適切だろう――これまでの試験実習での体感から、彼女たちはそうレポートで報告している。つまるところ、試験実習班より人員が増える特科クラスを実習に送り出すに際して、何かしらの方策を考える必要があった。

 

「簡単な話だ。二つの実習地に班を分散し、それぞれに学んだことを総括し共有する……そうした運用体制にすることで、あなた方としても折り合いをつけやすくなるのではないかな?」

 

 オリヴァルトとしてもいずれかに偏った価値観が醸成されるのは避けたい。それぞれの班が異なる実習地で異なることを学び、感じたことや思ったことを特科クラス全体の糧とする。そうして帝国の実情を理解し、自分たちがどうするか考えることが望ましかった。

 実習地が二つ選べるようになれば、理事たちも意見調整が幾分か容易になる。結果として、それはオリヴァルトの目論見通りになるということなのだが。一を聞いて十を理解した彼らは苦笑交じりの表情とならざるを得なかった。

 

「殿下もお人が悪い。初めからそのつもりなら、そう仰ってくださればよいものを」

「私に真正面から話を通す自信などないからね。これくらいの小細工は許してくれたまえよ」

 

 やれやれ、とでも言いたげに肩が竦められる。反対の声はなかった。

 その後も細かな調整や懸念事項について議論が続いたが、これといった問題は発生せず――此度の理事会は、概ねオリヴァルトにとって成功裏と言えるうちに終了した。

 飄々としながらも確固とした理念を持ち、それを体現するために有力者相手にも物怖じせずに纏め上げる。それは皇帝家の祖、調停者アルノールの逸話を思い起こさせるもので。かつての教え子の成長ぶりにヴァンダイク学院長は人知れず笑みを浮かべているのであった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「二度も呼び出す形になって悪いわね。殿下ならこの中でお待ちよ」

 

 放課後、改めてサラ教官から呼び出されたトワたちは教官室隣の会議室の前に集まっていた。三人の理事たちは既にトリスタを後にしている。軽く挨拶を交わしたが、どうやら今回の理事会はつつがなく終了したらしい。立場の異なる面々は終始和やかな様子に見えた。

 一方、理事長たるオリヴァルトはまだ学院内に残っていた。最初に出迎えた時の言葉通り、トワたち試験実習班と話す時間を持つためだ。忙しい身だろうに、自分たちに時間を割いてもらうと思うと恐縮する思いである。

 

「うーん……さっきは突然のことだったけど、いざ皇族の方と会うとなると緊張するな」

「どうだかな。あの様子からして、どうも軽いタイプに見えたが」

 

 僅かな時間の初対面の様相を思い返し、クロウが人となりに当たりを付ける。まあ、確かに厳格とは程遠そうな人ではあった。こちらもそこまで硬くなる必要はないかもしれない。

 

「あんまり待たせたら悪いし、そろそろ行こうか」

 

 兎にも角にも、こうして扉の前で逡巡していては時間の無駄にしかならない。先頭に立ったトワが促すと、三人も頷きを返す。いざご対面と行こう。

 丁重にノックすると間を置かずして帰ってくる「入ってくれたまえ」という声。失礼いたします、と前置いて扉を開ける。

 

 途端、軽やかなリュートの音色がトワたちを迎え入れた。

 

 改めての挨拶だとか、お時間を割いて下さりありがとうございますだとか、頭に思い浮かべていた口上が突然のことに立ち消えてしまう。面食らって緊張とは別の理由で固まる四人の前には、確かに紅いリムジンから降り立ってきたのと同一人物がリュートを携えている。隣に眉間を抑える軍人を添えて。白く輝く歯をのぞかせた彼は、満面の笑みと共に彼女たちを歓迎した。

 

「足を運んでくれてありがとう、諸君。改めて名乗らせてもらおう――そう、皇族というのはただの肩書。漂泊の詩人にして愛の伝道者、オリヴァルト・ライゼ・アルノールとは僕のことさ!」

 

 自前で効果音を入れながら意味の分からない名乗りを上げるオリヴァルト。そんな彼を目にしてトワは理解する。この人、これが素なんだと。

 沈黙の間が数秒ばかり。背中の仲間たちに目配せして意思疎通した彼女は、返答として頭を下げた。

 

「ごめんなさい、部屋を間違えたみたいです。失礼いたしました」

「え」

 

 ばたん、と巻き戻すかのように閉じられる扉。無情にも取り残されたオリヴァルトは呆然とそれを見つめる。

 

「……ちょ、ちょっと順応するのが早すぎやしないかい!? おーい、待ってくださーい!」

 

 間を置いて響いてきた慌てた声に、してやった形のトワたちは含み笑いを零す。この面々、つくづく肝が据わっているというか怖いもの知らずである。どこか世間ずれした離島出身の少女が原因だろうと思い当たるだけに、サラ教官は頭が痛くなる思いであった。

 

 

 

 

 

「いやぁ、ものの見事にカウンター喰らうとはね。流石はシグナさんの姪御さんだ」

「うーん……伯父さんが関係あるかは分かりませんけど、殿下はそういう方がお好みかと思いまして」

「思ってもやらないわよ、普通……」

 

 仕切り直してようやく対座したトワたちとオリヴァルト。先の寸劇からサラ教官より白眼視が向けられるも、殿下が楽しそうに笑っているから問題ないのではと思うあたり改善の兆しは皆無である。尚、他の三人の言い分は「ノリと勢いでやった」とのこと。完全に毒されていた。

 何はともあれ、時間には限りがあるのも事実。ちょっとした――人によってはひっくり返りそうな――無礼の話は脇に置いて、そろそろ本題に入ることにする。

 

「色々と慌ただしくて遅まきになってしまったが……君たちが試験実習班の話を引き受けてくれたこと、改めて礼を言わせてもらいたい」

「勿体ないお言葉。しかし、私たちもそこにメリットや興味を抱いてのことです。わざわざお礼を頂くほどのことでは……そこの男は成績の目こぼし狙いでしたし」

 

 確かに試験実習班の活動で有益なデータが得られたのは事実だ。トワたちからの報告が来年度の特別実習に反映されるに足るものだったことは自負するところでもある。

 しかし、試験実習班への参加を決めたのはそんなに高尚な理由があってのことではない。トワは実習先で見聞を広める目的で、クロウは半ば仕方なくの成績目当て、アンゼリカは気になる女の子の追っかけで、ジョルジュはARCUSのことを気に掛けて。それぞれ個人的な理由が大部分を占めている。スチャラカでも皇族から直々に礼を言われるのは気が引けた。

 

「確かに最初はそうだったかもしれないだろう。だが、君たちは実習の中でまさに特科クラスの意義を体現してくれた。それについては胸を張り、誇ってくれていい」

 

 そう言ってくれるのはオリヴァルトの懐刀、ミュラー・ヴァンダール少佐。主とは正反対に厳格そうな彼の面立ちには、確かにトワたちを称賛する笑みが浮かんでいた。

 

「実習で遭遇した数々の問題もそうだが、何よりも先月のパルムでの――ハーメルの一件について、僕は心から君たちに感謝したい」

「あ……」

 

 ハーメルに関する一連の出来事は正式には報告していない。元より国家機密に類すること。実習中に何があったのか知り得ているのは、学院内ではヴァンダイク学院長にサラ教官くらいだろう。

 だが、その更に上の人物。特科クラスの発起人であり、皇族としてハーメルのことも知っていただろうオリヴァルトなら仔細を伝え聞いていても不思議ではない。だから彼の口からその名が出てきたことは納得できた。

 

「このエレボニアという巨大な国には、様々な思惑と因縁が渦巻いている。時としてそれは闇を生み出し、語られることの無い悲劇を引き起こしてきた」

 

 オリヴァルトの憂いの言葉には心当たるものがあった。ハーメルを襲った悲劇は勿論のこと、今までの実習の中でその片鱗は目にしてきたのだから。貴族の横暴により路頭に迷いかけていた家族、急激な革新によって居場所を失った人々。事の是非はともあれ、この国の影には人知れぬ悲しみと失われる命があるのは確かだ。

 

「今回、君たちはその大きな闇と相対し――見事に乗り越えてくれた。残酷な現実を前にしても希望を失わず、自分たちの意思で憎悪の連鎖を断ち切ってくれたのだと僕は確信している」

 

 特科クラスの意義。それはエレボニアという国の現実を知り、その上で自らがどうするべきか考えること。

 オリヴァルトはトワのミトスの民としての苦悩までは把握していない。それでも彼女たちがかつてない危機的状況に立ち向かい、帝国に巣食う暗闇の一つを確かな意思をもって打破してみせたのだと察することは出来た。

 それは光明だ。狂乱など必要ない。人は、そんなものがなくても誇り高く生きていくことが出来る。信ずる理想を、特科クラスに託す想いを、トワたちは見事に体現してくれてみせた。その喜びを是非とも感謝の言葉として伝えたくてオリヴァルトはこの時間を作ったのだ。

 

「だから、ありがとう。皇族として、理事長として、エレボニアに生きる一人の人間として感謝したい」

「……過分なお言葉、ありがたく思います。けれど殿下、お礼を申し上げたいのは私たちも同じです」

 

 思わぬ言葉に目を瞬かせるオリヴァルトにトワは言葉を続ける。彼には彼なりの目的なり望みがあって、特科クラスの構想を立てたのかもしれない。しかし、その実現の一助となった自分たち、試験実習班の一員で在れたからこそ得られたものがあったと思うから。

 

「四人でぶつかり合って、何度も難しい事態に直面して、それでも一歩ずつ皆で進んでいって……私たちは掛け替えのないものを手にすることが出来ました」

 

 もし試験実習班に参加せず、普通の一学生として過ごしていたら。きっとトワは未だにミトスの民として答えを見いだせず、誰かに打ち明けることさえ出来ずにいただろう。様々な場所、そこに生きる人々を知り、そして仲間たちと共に歩んできたからこそ得た答えなのだから。

 それはクロウにアンゼリカ、ジョルジュも同じこと。苦難が伴う道であったことは確かだ。だが、それ以上に得るものがあったのは四人の誰しもが否定はしない。

 

「ま、おかげさんで退屈しない毎日なのは確かだな」

「また捻くれたことを。己を省みる機会に恵まれたのは同じだろうに」

「でも、試験実習班に参加して本当に良かったよ。最初は成り行きみたいだったけど、今は心からそう思える」

 

 抱えていた影や迷い、苦悩。仲間たちと困難に立ち向かう中でいつしかそれは昇華され、今の自分たちを形作る糧となった。武力という意味に限らず、自分たちは強くなることが出来た。

 

「そうして成長することが出来たのは、間違いなく試験実習班という《足場》があったから。だから、ありがとうございます」

 

 しばし反応を忘れるオリヴァルト。その真摯な感謝の言葉を噛み締めるにつれ、彼の口元は笑みを描いていく。それはサラ教官も、ミュラー少佐も同じことだった。

 まったく嬉しいことを言ってくれる。大変な目に遭ってきたし、必要とはいえ負担をかけてきてしまったと思っていた。だが、それ以上に得るものがあったのだと言ってくれるのなら、この試みを始めたものとしてこれ以上に喜ばしいことはない。

 

「そう言ってもらえるなら、この試みは間違いではなかったと自信が持てるよ。本番は来年度――未来の後輩たち、その可能性を育む《足場》を整えるためにも、これからもよろしく頼む」

「はいっ! こちらこそよろしくお願い致します」

 

 特科クラス実現の道はまだ半ば。峠は越えたと言えど、やるべきことは未だに数多くある。自分たちの成長の土台となったそれを、より洗練させて後輩たちへと受け継がせるために。オリヴァルトとトワは固い握手を交わし、その心を新たにするのだった。

 



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第54話 帰郷

「全員集まっているわね。そんじゃ、ちゃっちゃと始めるわよ」

 

 オリヴァルトと言葉を交わし、共にこれからも特科クラスの設立に向けて尽力していくことを確かめた理事会より数日ばかり。試験実習班は毎月恒例にグラウンドで集合していた。実技教練の時間である。

 元は実習先で危険な事態に陥った時に備えてのものだったこの教練。今ではトワたちの成長の度合いを測るものに趣旨が変わってきている。有効な手段であるのは確かなので、おそらくは来年度以降も継続的に行われることだろう。

 

「つってもサラ、もうネタ切れじゃねえのか?」

「流石にタイマンでは教官が持たないでしょうしね」

 

 そんな実技教練だが、先月に二対一の形式では既にサラ教官を下す結果を残している。今まで越えられなかった壁に土を付けられたのは、四人にとって一つの目標を達したことを意味していた。

 現状に満足して歩みを止めるつもりは毛頭ない。とはいえ、これまでの実技教練は戦術殻の件を除けばサラ教官が相手を務めるのが通例だった。それを乗り越えた今、次は何をもって教練とするのか疑問を覚える。

 今度はタイマンで、というのも捻りが無いし、何より流石のサラ教官も四連戦は厳しい。それに風の噂で聞いた話もある。クロウはニヤッと意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「聞いたぜ、この前の授業でトワに一本取られたんだってな。若いもんに追い抜かれた気分はどうよ」

「言ってくれるじゃない。あんただけ特別授業をしてやってもいいのよ……!」

「い、一本って言っても負け越しだったから。まだまだ追い抜けてなんていないよ」

「ふう……わざわざ煽るようなことを言うんだから」

 

 青筋を浮かべるサラ教官にトワが慌てて捕捉を入れる。本人はこんな認識であるが、実際それは過ぎた謙遜に当たるだろう。ハーメルの一件から精神的な成長を果たしたトワの剣は、更なる磨きがかかり次の位階へと踏み入りつつある。いわゆる達人クラス。サラ教官から取った一本は、その手前まで来ていることの証だ。

 といっても、それは当人の問題。外野のクロウが煽っていい理由にはならない。ジョルジュが呆れた様子で溜息を吐くこともむべなるかな。

 

「コホン……それはともかく、今日の教練は一味違うわよ。ちょうどおいでになったみたいだし」

 

 少しばかりカチンときたようだが、サラ教官も一から十まで相手をするほど大人気ないわけもなし。咳払い一つで軌道修正した彼女は意味深な言葉を合図に校舎方面に目を向ける。つられて同じ方へ視線を移すと、こちらへ向かってくる二人の人影を認めた。

 

「集まっているようじゃな、試験実習班の諸君。結構、結構」

「ふふ、こんにちは」

「学院長にベアトリクス教官……」

 

 グラウンドに姿を現したのはトールズにおけるツートップ。老体ながら鍛え上げられた筋骨隆々のヴァンダイク学院長、そして優し気ながら芯の強さを感じさせる保険医ベアトリクス教官である。ちなみに本来№2に当たるはずのハインリッヒ教頭が彼女に頭が上がらないことは、校内における公然の秘密だったりする。

 そんな両者のご登場に嫌な予感を覚える。サラ教官がどこか意地の悪い笑みを浮かべているのがそれに拍車をかけ、背中に冷や汗が流れた。

 

「お二人がご一緒にいらっしゃったのが偶然――なんてわけはないでしょうね」

「うむ、サラ君から手伝い(・・・)を頼まれてな。こうして足を運んだ次第じゃ」

 

アンゼリカの確認に予想通りと言えばその通りの答えが返ってくる。声の調子が普段より弾んでいるように聞こえるのは気のせいだろうか。勘弁願いたかった。

 

「あんたたちもそろそろ私じゃ物足りなくなってきたようだしね。今回はお二人に教練相手としてお越しいただいたわけよ」

「お話を聞くに、試験実習班の皆さんも随分と腕を上げたようですね。私も久々に腕が鳴るというものです」

 

 言って、にこやかな顔のまま導力ライフルを手に構えるベアトリクス教官。同じくしてヴァンダイク学院長も長大な斬馬刀を肩に担ぎ出す。なんとも恐ろしい光景だ。トワたちもそのまま突っ立っているわけにもいかず、応じるように武具を構える。

 

「その、学院長はともかくベアトリクス教官まで凄い気配を感じるんだけど……」

「かつては正規軍で《死人返し》と呼ばれた方だ。気を抜いたら、あっという間に保健室送りにされると思っておきたまえ」

 

 老骨と侮ることなかれ。機甲化以前の正規軍でその剛腕を振るったヴァンダイク学院長は言うに及ばず、ベアトリクス教官も前線を駆け巡り相手を物理的に黙らせたうえで治療したという逸話を持つ元大佐である。トールズにおいて最強の一角と見做して間違いない。

 ようやく壁を乗り越えたと思ったら、また降って湧いたように高い壁が立ちはだかってくる。サラ教官も大概スパルタだが、こうしてノリノリで引き受けているお二方も相当だ。裏返せば期待を寄せられているということかもしれないが、実際に教練を受ける立場からしたら頬を引き攣らせるほかにない。

 

「――分かりました。それなら、全力で挑ませてもらいます!」

「ったく、やるしかねえか……!」

 

 だがまあ、それも言ってしまえばいつものことだ。全身全霊を尽くし、眼前に立ち塞がるものを仲間と共に乗り越える。何が相手だろうとやることに変わりはない。

 

「その意気やよし――来るがよい、試験実習班の諸君!!」

 

 気合を入れ直し、怯むことなく相対したトワたちにヴァンダイク学院長は深い笑みを浮かべる。重厚な斬馬刀が軽々と振るわれ、後ろからはライフルが虎視眈々と狙いを付ける。かつて戦地に武勇を轟かせた古強者たちに成長の証を刻むべく、節目の実技教練の戦端がここに開かれた。

 

 

 

 

 

「ぬえああああっ!!」

 

 腹に響くような雄叫びと共に斬馬刀が振り下ろされる。障壁を展開して防いだジョルジュは、その重さに苦悶の表情が浮かぶ。数多の修羅場を潜り抜けて成長した彼だが、老練の剛剣はそれさえも叩き潰さん勢いだ。

 すかさずクロウの援護射撃がヴァンダイク学院長の追撃を阻む。続けざまにトワが斬り込み、間合いの内に入られるのを嫌った相手が横薙ぎに得物を振るう。互いに距離を取る形となり一端の仕切り直しとなった。

 常ならば懐に潜り込もうと試みたところだった。しかし、今は果敢な判断が命取りになり得る状況だ。ヴァンダイク学院長を前衛に、そのサポートとして後衛を務めるベアトリクス教官。隙あらば的確な狙撃が襲い掛かる上、こうして息を継がせてしまえば回復アーツがヴァンダイク学院長を削り切れなくする。

 単純なだけに厄介な布陣だ。先に後衛を潰そうとしてもヴァンダイク学院長の斬馬刀が易々とは通さない。その堅固な前衛を突破しようとしても狙撃が思うように攻めることを許さない。今はどうにか持ちこたえているが、先にこちらが崩されれば一気に勝負を付けられてしまうだろう。

 

「ふふ、なかなかどうして……血が滾ってきた!」

「学院長、あまり年甲斐もなくはしゃぎすぎないようお願いしますよ」

 

 あちらはまだまだ元気が有り余っている様子。トワたちが思っていた以上に実力をつけていることを感じ取ってか、ヴァンダイク学院長は風に聞く現役時の豪傑ぶりが顔を覗かせている。窘めてはいるものの、ベアトリクス教官が放つ研ぎ澄まされた気配も一線を退いた身とは思えなかった。

 

「揃って元気な爺さん婆さんだ。嫌になるぜ」

「同感だが、降参するわけにいくまい。サラ教官に得意な顔をされるのは業腹だろう」

「そりゃご尤も」

 

 そんな状況でもクロウとアンゼリカはいい度胸をしている。視界の端で頬を引き攣らせるサラ教官を見てみぬ振りしつつ、トワは改めて状況を見定める。

 まずベアトリクス教官をどうにかしなければ勝利は叶わない。堅牢な護りを誇るヴァンダイク学院長を如何にして突破するかが肝だ。長大な間合いの斬馬刀は易々と後ろに通すことを許さず、回り込もうにも接近を阻むライフルの狙撃も厄介極まりない。倒せずとも学院長の態勢を崩し、一気呵成にベアトリクス教官に仕掛けて趨勢を決めるのが妥当だろう。

 では、どうやって学院長の守りを崩すか。目算はついている。針に糸を通すような真似かもしれないが、やってできないことはないと思う。仲間たちはいつも通りに自分を信じてくれている。なら、自分もいつも通りに信じるだけのこと。やれると思う理由などそれだけで十分だ。

 

「アンちゃん、私と合わせて! クロウ君とジョルジュ君は援護をお願い!」

「承知!」

 

 戦術リンクがトワのイメージを三人に共有する。面白い、乗った。打てば響くように応じたアンゼリカと共に駆け出し、クロウとジョルジュがアーツを駆動する。仕掛けてきた彼女たちにヴァンダイク学院長らも迎撃の構えを取った。

 

「そう易々とは……む」

「それはこっちの台詞ですよ!」

 

 妨害の手を打とうとしてくるベアトリクス教官はクロウとジョルジュが抑える。拳銃の射程はライフルに劣り、現役時代の経験からアーツへも卒なく対処されてしまう。それでも一時は支援の手を止めさせることに意味がある。

 

 トワがヴァンダイク学院長に迫る。得物は大振りながらも、その剣捌きは決して容易く掻い潜れるものではない。斬馬刀を躱しても頑強な肉体そのもので距離を突き放してくるのも怖いところ。だが、そこに突破口を開かなければ勝利は望めない。

 間合いに踏み込む。間髪置かずして轟風を伴って襲い来る横薙ぎ。跳んで躱し斬りかかるも、相手も然るもの。屈んで外され、肩からの体当たりが斬馬刀の間合いへと押し戻す。流れるように振り下ろされた大上段を受け流すが、その威力は手を痺れさせた。

 学院最強の名は伊達ではない。いくらトワが強くなったとはいえ、まだその領域に至るのは先のこと。渡り合うことは出来ても押され気味になるのは避けられない。

 

「儂の斬馬刀をこうも捌くか。これだから若者は……!」

 

 しかし、トワは踏みとどまって見せる。押し切られてなどやるものか。圧倒的な膂力から繰り出される剛剣を見切り、躱し、受け流す。

 学院最強がどうした。今までにもっと強い相手と戦ったことだってある。重さは同等であっても、アルゼイド子爵の方が速く鋭かった。ドミニクが変じた悪魔の雷の方が圧倒的な暴力を誇っていた。剣で上回られようとも、意思は決して挫かれない。

 勝利を諦めない。ひたむきに剣筋を追い続け、今この時に吸収し自身の動きを最適化させていく。

 故にこそ、待ち続けた好機を掴んだのは必然だった。

 

「っ、そこぉっ!!」

 

 振り下ろしからの切り上げ、連撃を弾いた瞬間にそれは訪れた。弾かれた得物にヴァンダイク学院長の態勢が僅かに乱れる。ほんの少しの、斬り込む猶予さえあるか分からない程度の揺らぎ。そこに見出した勝機にトワは迷うことなく踏み込む。

 剣を振るうのは間に合わない。突き出すは掌底。最小最短の動作で繰り出されたそれは確かにヴァンダイク学院長を捉えるも、頑健な肉体を崩すには到底至らないと思われる。

 

「ぐ、ぬっ……!?」

 

 だが、それは打ち倒すことを狙ったものではなく小細工の一手。トワの内に流れる星の力を束ね、掌底と共にヴァンダイク学院長の身へと叩き込む。鍛え上げられた肉体といえど、突如として浸透してきた異物を無視することなどできない。避けられない反応として彼は麻痺したかのように動きを硬直させる。

 動きが止まるのはほんの一時ばかり。十分だ。堅牢な護りを抜き去るのに多くのものは要しない。機を見計らい、練り上げた功夫による必倒の一撃が牙を剥く。

 

「アンちゃん!」

「ああ、お見舞いさせていただく!!」

 

 アンゼリカの零勁が、駄目押しにトワの当身がヴァンダイク学院長を直撃した。狙い澄まされた双撃に筋骨隆々を体現した肉体も踏みとどまることは適わない。麻痺が斬馬刀を地に突き立てるのを遅らせ、巨躯が砂埃を上げてグラウンドを押し流される。

 

「よっしゃ! 出番だ、ジョルジュ!」

「任せてくれ!」

 

 道は開けた。瞠目するベアトリクス教官とサラ教官を置き去りに、四人は一糸乱れることなく次を狙う。この時を待ち構えていたジョルジュの機械槌が火を噴き、最短の突破口をベアトリクス教官目掛けて突貫する。咄嗟の迎撃は障壁で防がれ、迫る質量に珍しく彼女は苦い顔を浮かべた。

 

 均衡は破られた。引き寄せたこの流れを逃すわけにはいかない。奮戦するトワたち、対するヴァンダイク学院長らも更に闘気を滾せる。

 激化の一途をたどる若者と古強者の一戦。もはや実技教練の範疇に収まり切らなくなってきた激闘。教官として、武人として、サラ教官は確とその様を見つめるのだった。

 

 

 

 

 

「はっはっは、見事じゃ! やはり若さには敵わんものよ」

「散々暴れといてよく言うぜ……」

「はあ……はあ……し、暫く立てないかも……」

 

 結果を述べれば、トワたちは辛うじて勝利を手にしていた。

 とはいえ、辛勝も辛勝。陣形を打ち崩しベアトリクス教官に膝をつかせたところまでは良かったが、そこからヴァンダイク学院長の粘りが凄まじかった。老体に似つかわしくない体力は四人に持久戦を余儀なくし、消耗する中でアンゼリカとジョルジュが脱落。最後は気力だけで剣を握っていた泥沼の戦いの結果である。

 だというのに件の相手はすくりと立ち上がるや闊達に笑っている始末。こちらは立つこともままならないというのに。これでは勝った気になるのも難しいではないか。

 

 一方、サラ教官やヴァンダイク学院長らは内心で感嘆していた。本当なら勝ちを譲る気などなかった。サラ教官を上回った今、もう一段上の壁としてヴァンダイク学院長とベアトリクス教官は立ち塞がったのだから。いくら成長著しいとはいえ、年内は相手を務められる想定だった。

 それを試験実習班は一度の手合わせで乗り越えていった。手は抜いていない。むしろ叩き潰す心算で臨んだ。それで尚こちらの予想を覆してきたのなら認める他にないだろう。トールズにおいて、この四人はもはや並ぶもののない存在だ。今後の伸びしろを考慮したら楽しみでもあり末恐ろしくもある。

 尤も、表立って口にするつもりはない。表面上だけでも余裕ぶって見せた方が彼女たちの奮起に繋がるだろう。先立ちとしての細やかな意地だ。

 

「しかし、負けっ放しというのも性に合わん。サラ君、折を見て鍛錬に付き合わんか?」

「お、お手柔らかにお願いします……あは、あはは」

 

 ヴァンダイク学院長はそれはそれとして負けたままというのは我慢ならない様子。老境に入りながらもその上昇志向は見習うべきところだ。苛烈を極めるのが想像に容易い鍛錬に参加することになったサラ教官には合掌である。

 ナイトハルト教官あたりを道ずれに巻き込もう。頬が引き攣る心中でろくでもない決心を固めるサラ教官。このご老人を相手にマンツーマンは彼女でも厳しかった。

 

「ふう、お元気なのは結構ですが、あまり無理をなさらないでくださいよ。さあ皆さん、手当てをしますのでお並びに」

 

 元気が有り余っているヴァンダイク学院長に苦言を零したところで、ベアトリクス教官は保険医の本分に取り掛かる。揃ってぐったりしている試験実習班に応急処置の回復アーツが施される。消耗した体力まで取り戻すのは難しい。しかしながら、どうにか立って話せる程度には効果があった。

 いつもに増してボロボロの四人。まったくひどい目に遭った。今日のところはもう帰ってベッドに飛び込みたいくらいだが、生憎と自分たちにとっての本題はこれからだというのは承知している。今月の実習地の発表。過去最難関の教練を突破したからには、勿体ぶらずにさっさと教えてほしいところだ。

 疲れから口を開くのも億劫ながら、その無言の訴えは幸いにも聞き届けられた。学院長との鍛錬の話を切り上げたかったサラ教官が飛びついたとも言う。コホン、わざとらしく前置いて本題へと切り替える。

 

「それじゃあ今月の試験実習だけど……っと、その前に言っておくことがあったわね」

「はあ、何でしょう……?」

「嫌そうな顔するんじゃないわよ、そんな難しいことじゃないから。来月は学院祭があるから実習は行わないって話」

 

 すわ、また面倒事か。経験則から身構えるトワたちにサラ教官は肩を竦める。その口から伝えられたのは、確かに当然と言えば当然の単純な事実であった。

 学院祭はトールズをあげての一大イベント。そんな中で試験実習を行うのは学院側としてもトワたちとしても難しい。間を空けるのが妥当な判断だ。

 

「年に一度の学院祭ですからね。精一杯に取り組み、楽しまないと勿体ないですよ」

「よって、此度の試験実習は一つの区切りとなる。言うまでもないかもしれんが、この節目を善き結果で終えられるよう奮起してもらいたい」

 

 付け加えられる捕捉になるほどと頷く。そういうことなら実技教練の異様な難易度にも納得できないこともない。節目を迎えるにあたっての試練だったというわけだ。流石にスパルタに過ぎるのではと思わずにはいられないが。

 ただ、区切りの実習とはいえ特別に構える必要はないと思う。いつも通りに真剣に取り組んで、いつも通りに皆で無事に帰ってくればそれでいい。そうして自分たちは歩んで成長してきたのだから。節目だからと気負う必要はないだろう。

 

「じゃあ改めて実習地を発表するわよ。回した、回した」

 

 有角の獅子紋が入った封筒が回される。さあ、今回はどこに赴くことになるのだろう。示し合わせたように封を開き、中身を改める。

 

「お……?」

「ほう、これは」

「まさか、こんな機会が訪れるなんてね」

 

 目にした反応はそれぞれだった。覚えのあるその名にまず目を疑い、事実を認めるや沸き立つ興味に笑みが浮かび、偶然にしては出来すぎな巡り合わせに苦笑を浮かべる。

 

「――――」

 

 そして、誰よりも顕著であったのは他ならないトワ自身だった。

 いずれその時が訪れるとは思っていた。けれど、これは不意打ちだ。まさかこんな前触れもなく来るとは思っていなかっただけに、彼女は呆けたように視線を釘付けたままになってしまう。

 

「期間は特例の四日間。流石に長いけど、せっかくの先生の誘い(・・・・・)だし遠方の実習地の練習台にさせてもらったわ」

 

 サラ教官の声も今は遠くから響いてくるようだ。でも、そうか。そういう経緯なら理解が及ぶ。同時に、自分の予感が的外れではないことも。

 

「帝国最西南端、シエンシア多島海の《残され島》――里帰りがてら案内頼んだわよ、トワ」

「――はい、任せてください」

 

 サラ教官の声に応じる。普段の笑みを浮かべて、胸の内に渦巻く気持ちに蓋をして。

 いつも通りにやればいい。先ほどの内心をトワは撤回した。

 この実習はきっと、自分にとって特別なものになる。試験実習そのものにしても、自身にとっても様々な意味で節目となることを予感して。トワは突如の帰郷を神妙な心地で受け止めるのであった。

 



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第55話 海原を越えて

残され島への到着は次回になりますが、今回より覚えのある人物の姿が。那由多未プレイの方もいらっしゃるので、原作における簡単な紹介を脚注でしていこうと思います。


 試験実習当日、十分に準備を整えたトワたちは駅員に見送られてトリスタより旅立った。既に日も昇り切った時間帯のこと。それなりに席が埋まっている列車に乗り、一同はまず帝都へと向かう。

 

「言っちゃなんだが、早朝に出なくてよかったのか?」

「海の向こう、帝国の端か。随分と遠いみたいだけど……」

 

 これまでの実習では朝日がようやく顔を覗かせたくらいの時間に出発することが多かった。実習地での活動時間を確保するためには当然のことだったが、今回は比較的のんびりしている。近場だった帝都の時と似たような具合だ。

 これから帝国の南西端に赴くというのにいいのだろうか。余裕をもって出発できたのは歓迎するところ。とはいえ、行き先が行き先なだけに気になるものもあった。

 他でもない故郷が実習地となるにあたり、必然的に道先案内を担うトワが移動工程も組んでいる。疑問に対して彼女は簡潔に答えた。

 

「いくら早く出ても、どうせ船上で一夜を明かすことになるから。それなら少しくらいゆっくり出発した方がいいでしょ?」

 

 なんでもないように言ってのけるトワ。その答えに疑問は解けた。解けたが、それはそれとして閉口してしまうものがある。改めて自分たちの行き先の遠さを実感した心地であった。

 沿岸部出身ならともかく、内陸出身の多くの人にとって船とは縁遠いものである。それを抜きにしても船上で夜を明かすことなどそうはあるまい。今までにない旅路に期待半分、不安半分。少なくとも、色々と新鮮な経験をする実習になるのは間違いなさそうだった。

 

『まだまだ先は長いの。取りあえず、予定の確認くらいはしておいたら?』

「併せて残され島の概要も聞いておきたいかな。断片的に耳にはしているが、ここで改めて知っておいた方がいいだろう」

 

 ノイの提案とアンゼリカの要望にそれもそうかと頷く。思えば、残され島がどのような土地か詳しく話したことはなかったかもしれない。予習と暇潰しがてらには丁度いいだろう。

 

「そうだね――まずここからの道のりだけど、帝都でラマール本線に乗り換えてオルディス向かうよ」

 

 荷物の中から取り出した帝国地図を広げる。中央の帝都より西部の州都である《紺碧の海都》オルディスへ。それだけでも相応の長旅になるが、今回は更に長大な旅路だ。海を臨む都市を指した指が細い路線を辿り、南へ国土の端へまで進んでいく。

 

「そこからまた支線に乗り換えて、この終点の港町サンセリーゼがひとまずの目的地だね」

「海上交易の経由港だったか? 昔から物流が多くて、学問も盛んだとか聞いたことがあるぜ」

 

 概ねクロウの言う通りだ。サンセリーゼの歴史は交易の歴史と言い換えてもいい。南のリベールからオルディスへ、はたまた北のジュライから南へと。鉄道網が発達する以前は、大規模な物流手段と言えば船舶が主だったもの。土地柄故に様々な物と人が交差してきた港町は学問も発達している。かつて父、ナユタが在籍していた学院があることからもそれは分かるだろう。

 尤も、経由港としての発展は良いことばかりでもなかったようだ。様々な人や文化が流入する中で軋轢というのはどうしても生まれるようで、その対処としてサンセリーゼは独自の自警団を擁している。こちらにはシグナが若かりし頃に所属していた。色々としがらみもあったようで、結局は遊撃士に転向することになったのだが……

 とはいえ、それらはここで詳しく話すことでもない。さわりを口にする程度に留め、続く行き先へと指を向ける。青々とした海原へ。

 

「残され島への連絡船はこの港から出ているの。サンセリーゼに到着するのが夕方くらい。それから船に乗って一晩すれば、早朝には残され島に着く予定だよ」

 

 丸一日を移動に使う日程。サラ教官が今回は特例の四日間と言ったが、帰りも考えれば実際の活動は二日間。これまでの実習と極端に変わることはないだろう。

 トワが指差す地図の端、遠く海の先の群島を見て三人は思わずうなり声を漏らしてしまう。学生の身でこれほどまでの長旅を経験するのは自分たちくらいのものではなかろうか。船の中でゆっくり休めることを祈るばかりだ。

 

「それで、肝心の残され島だけど……具体的にはどんなところなのかな?」

『どうと聞かれても色々あるけれど、まず間違いなく本土とは毛色が違うの』

「そうだね。文化に風土、食生活とかも……その辺りのことも含めて、歴史から話そうか」

 

 道中のことばかり気にしていても仕方がない。実習地である残され島自体についても知っておくべきだろう。様々な面で一般的な帝国の町とは異なる故郷についてどう説明したものか。一考したトワは、残され島が辿ってきた過去を振り返ることにした。

 

「残され島はシエンシア多島海の中央部に位置している有人島だけど、実は最初からそこにあったわけじゃないんだ」

「……? どういうことかな?」

「テラから降ってきた遺跡群。それが歳月を経て積み重なり、一つの大地となったもの。それが残され島なんだよ」

 

 シエンシア多島海には古来より人が居住していたとされるが、その当時――少なくとも《大崩壊》直後には残され島は存在していなかった。遥か空の彼方にあるテラ、そこから降り注ぐ遺跡が重力の影響で集中する海上に数十年から数百年ほどかけて形成されたと考えられている。そこに遺跡から発掘される物品を求めて他の島々から人が移ってきたのが残され島の始まりだ。

 ちなみに、島を形成した遺跡群には土壌も含まれていたのだろう。それらを移住した人々が整備し、農耕による自給自足が可能となったと思われる。島周辺の独特な生態系もそれに由縁するものと推測された。

 

「そんな風に出来た残され島だけど、帝国領となったのはそんなに昔じゃないんだ。航行技術が発達して安定した行き来が出来るようになった中世から近世にかけて。戸籍とかの法整備に合わせて帝国の版図に加わったそうだよ」

『それ以前から交易はあっても、距離がありすぎて直接的な支配は及んでいなかったみたいなの。これは多島海全体に言えることだけど』

 

 同じ航海であっても、大陸伝いに進むのと海原の向こうへ漕ぎ出していくのではまるで異なる。残され島が長らく帝国の領地とならなかったのは海という隔絶する壁があったからだ。他にも小規模な集落であることも理由の一つだっただろう。

 

「そうして帝国の一部になったわけなんだけど、歴史的な経緯からあまり実感はなくてね。正直、帰属意識とかはあってないようなものかな」

「あー……まあ、お前を見ているとそんな気がするな。色々と図太いし」

 

 遠く海の向こうの残され島の住人は総じて帝国の因習に染まっていない。貴族と平民という身分の差にも疎く、質実剛健とされる国民性にも縁のない牧歌的な住人が多い。領土に組み込まれたといっても、時折徴税人がひいこら海の向こうからやってくる程度なのだから然もありなん。これまでのトワの立ち振る舞いを見てもそれは明らかだろう。

 特異な成り立ちや歴史的背景による風土の違いは分かった。では、現在の様子はどうなのか。思いついた疑問をジョルジュが尋ねる。

 

「そういえば、州の区分としては一応ラマール州になるのかな?」

「えっとね……昔はそうだったんだけど、今はアルノール家の所領になっているんだ」

 

 その答えに驚きを覚える。州に属するでもなく、政府の直轄領でもなく、まさか皇帝家が召し抱える領地だとは。ザクセン鉄鉱山のように帝国にとって重要な資源というわけでもないのに、如何なる経緯でそうなったのか。トワは幾分か声を潜めて続きを口にした。

 

「教会との盟約でテラについて秘匿する必要があったの。他からの干渉を避けるためには皇帝家の管轄にするのが手っ取り早いから、そうなったんだって」

 

 不可思議な異変の元凶にして、過去の文明の遺物と思われるテラ。海に落着したそれを己の利益の為に利用しようと考えるものがいないとも断言できない。それを防ぐため皇帝と教会との間で取り決められたのが、残され島を皇帝家の所領とすることだった。たとえ大貴族であろうとも、おいそれと皇帝家の財産に手を出すことは不可能。理由が分かれば非常に合理的な判断であった。

 余談として、アルノール家の管轄となったことで昔より税が軽くなったのだとか。秘密を守るために諸々の制約があったりもするが、田舎であることを除けば概ね暮らしやすい土地である。

 

「ふむ……聞く限り、やはり残され島にはテラが密接に関わっているようだね」

『島の興りからしてそうだから。切っても切り離せないのは間違いないの』

 

 話の中で頻繁に上がるテラの名前。島を形作る遺跡の源であり、そして島が立ち位置を変えることになった理由でもある。トワやノイのルーツにも関わるそれが頻出するのは当然のことなのだろう。

 

「そこのところも聞きたいところだが……ちっとばかり場所が悪いか」

「実際に目にしないと分からないこともあるだろうし。テラについては、残され島に到着してから改めて説明するよ」

「うーん、楽しみなような不安なような……」

 

 詳しいことを知りたいが、ここから先は教会により秘匿されている領分に入ってくる。人気の多い列車の中で話すのは躊躇われた。人目を気にする必要のない現地に到着してからにした方が無難だろう。

 断片的な情報や口ぶりからして単なる遺跡でないことは明らか。ようやくその全容を知る機会が訪れようとしていることに対し、ジョルジュなどは期待半分不安半分の心地で列車に揺られていくのだった。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 鉄路を走り続けること半日以上。夕日が水平線に沈んでいく様を車窓越しに眺めながら、トワたちはようやく港町サンセリーゼに到着した。

 ヘイムダルからオルディスへの道程も長かったが、そこからサンセリーゼへも相応の時間を列車で揺られることになった。おかげで体が凝って仕方がない。これまでにない列車の旅を終えて、一同は揃って呻き声を漏らしながら伸びをしている。

 しかしながら、旅路はまだ終わりを迎えたわけではない。ひとしきり凝りを解したトワが先導する形で前に立つ。

 

「それじゃあ港の方に行こうか。知り合いの船長さんが待ってくれているはずだから」

 

 鉄路の果てに続くのは船の旅。説明で聞いた通り、残され島にはここから連絡船に乗って一晩越すことでようやく到着となる。疲れはあるものの、道半ばであまり立ち止まっているわけにもいかない。息抜きもそこそこに駅から港へ向けて移動を開始した。

 

「船旅かぁ……トワはトリスタに来るときも同じ道で来たんだよね」

「うん、同じ船長さんに送ってもらって」

『残され島への連絡船なんて一隻しかないから当然なの』

 

 思えば、この旅路はトワの入学時の道筋を遡っている形になる。こうして実際に体感してみると、クロウたちとしてはよくこんな遠くからやって来たものだと思わずにはいられない。船旅という未知の経験を前にすれば尚更であった。

 とはいえ、この先で待っているのは身内といって差し支えないらしい。オルディス方面やリベール方面への交易船ならともかく、シエンシア多島海へ向かう船など僅かなもの。その中で更に残れ島へ寄港するのはただ一つしかないのだという。島と大陸を繋ぐ唯一の窓口ともなれば、顔見知りであって当然だ。

 顔が利くとなれば、少なくとも船内で肩身の狭い思いをせずには済むだろう。他の乗客と雑多に詰め込まれるということはないはずだ。そもそも他の乗客がいるかも怪しいようだし。

 

「しかしまあ、経由港だけあって賑やかなこった。目当ての連絡船はどれなんだ?」

 

 港が近付いてくるにつれて潮騒と海猫の鳴き声が大きくなってくる。大規模な港には所狭しと船が並び、港湾作業員や船員が積み荷を担いで縦横に行き交う。町全体の規模はそれほどではないが、この賑わいはオルディスにも劣らないだろう。

 ぐるりと辺りを見渡す。噂に聞く自警団が騒ぎに目を光らせている様が視界の端に映るも、自分たちが乗り込むべき船は皆目見当がつかなかった。両手で収まらない数の船舶が停泊しているのだから当然だ。

 乗客も少ないようだし、そこまで大きい船ではないだろうが――そんな予想を立てていると、トワがおもむろに指をさした。

 

「あの船だよ。まあ、ちょっぴり古いけど」

『……ちょっぴり、というのは語弊があると思うの』

 

 指差した先を見て、三人は目を瞬かせる羽目になった。その様子に無理もないとノイは思う。

 導力革命より五十年。昨今の船舶と言えば殆どが導力式だ。スクリュー式にしろパドル式にしろ、導力の駆動によって水上を進むのに変わりはない。それ以前の時代のものは、まずお目に掛かれない骨董品だ。

 

「――いやはや、このご時世に帆船に乗ることになるとは」

 

 その骨董品が実際に目の前にあり、今からそれに乗るとなれば一時声を失いもする。ひしめく船の中に、ぽつんと時代に取り残されたように帆船が鎮座していた。

 見たところ、古い船なのは確かなものの整備はきちんとされているようだ。いくら年代物と言っても今すぐに海に沈んでしまうようなことはないだろう。そもそも残され島との連絡船だというのだから、航行自体に問題があるはずもないのだが。

 

「なんというか、こう……レトロだね」

「絶滅危惧種もいいところだぞ。大丈夫なのか?」

 

 といっても、突然にこんなものを目にしてしまっては不安にもなるもので。それぞれ苦い笑みや渋い表情が浮かぶのも無理なからぬことだろう。

 

「おいおい、大丈夫に決まっているだろ。伊達に何十年も海を渡っているわけじゃないんだぜ?」

 

 そんな彼らに声が掛けられる。どこか荒っぽさがあるそれに振り返った先には、一人の男性が佇んでいた。

 見るからに船乗りといった体の男性。筋肉質な日に焼けた肌は浅黒く、白い船長帽を被った下には細い眼と赤い鼻が覗く。煙草を吹かすパイプがトレードマークの彼は、まさに海の男とでも言うべきイメージそのものだった。

 その姿を認めたトワが表情を明るくさせる。彼こそ待ち合わせていた知り合いその人だったから。

 

「クラック船長*1! どうも、お久し振りです」

「おうトワちゃん、ちょうど半年ぶりくらいか? ちっとは大きく……なってないな」

「余計なお世話です!!」

 

 久方ぶりの再会の直後に酷い言い草である。これには温厚なトワをして声を荒げざるを得ない。当の相手――クラック船長は笑うばかりなので怒鳴り損なのだが。

 出会って早々に漫才を見せつけられて目を瞬かせるクロウたち。そんな彼らに目を向けたクラック船長は改めて自己紹介をした。

 

「お前たちがトワちゃんの同級生か。俺はクラック、残され島への連絡船の船長を務めているもんだ。オンボロ船の旅で悪いが、よろしく頼むぜ!」

 

 がっはっは、と大口を開けて笑う相手に何とも言えない表情を浮かべることしかできない。嫌味で言われているわけではないのだろうが、つい先ほどまで好き勝手に口にしていた身としては居心地が悪いものだ。

 といっても、古ぼけた船であることは否定しようのない事実なわけで。身内としても思うところが全くないわけでもなく、ノイから聞えよがしなため息が聞こえてきた。

 

『そんなことを言うくらいなら新しくしたらいいのに。まあ、出来ないから三十年以上このままなんだろうけど』

「うるせえ! パップス船長*2から受け継いだ船を今更捨てられるかっての」

 

虚空から響いてくる声にもそうやって普通に返しているあたり、クラック船長も残され島の秘密を知っている身なのだろう。付き合いの長さを感じられるやり取りであった。

 

「取りあえず乗った乗った。後の積み荷はお前たちだけだからな。すぐに出航しちまうぞ」

 

 再会の挨拶も程々に乗船を促される。はーい、と軽い調子で渡し板を上がって乗り込むトワ。もはや引き返す余地も躊躇う猶予も無し。三人もその後を追って乗船する。

 クラック船長の言葉通り、準備は既に整っていたようだ。間もなく帆が張られ、錨が上げられる。試験実習班を乗せた連絡船は滑るようにサンセリーゼより出航し、夕日に照らされる海へと漕ぎ出していった。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

「正直どうなることかと思ったけど、案外と乗り心地は悪くないね」

「まあな。寝床がハンモックとは恐れ入ったが」

「そこはほら、あんまり客人が乗ることを想定していない船だし」

 

 出航して数時間ばかり。太陽が水平線の向こうに沈み、夜の帳が降りた甲板の上。簡単な夕食で腹を満たし、人心地付いたトワたちは波の音を背景に雑談に興じていた。

 ここから先は船の行く先に任せるがままだ。まだ寝床――トワ以外はハンモックなど初体験だが――につくには早く、こうして雲間からの星明りに照らされる海を眺めつつ時間を潰していた。出航当初はバタバタしていた甲板も今は静かなもの。数人の船員が船の進路を守っている程度である。

 そういうわけで今は完全な自由時間なのだが、わざわざ全員で顔を揃えているのには理由がある。試験実習以外において、今後のことで話し合う必要性があったからだ。

 

「それより、結局どうするんだい? 案も纏まらないまま実習に来てしまったわけだが」

 

 来月に待ち受けている学院祭。クラスでの出し物に出遅れたこともあって以前に有志で何かできないかと話が持ち上がり、それ以来暇を見つけては検討してきたことである。

 しかしながら、アンゼリカの言葉通り依然として妙案は出てきていなかった。あるのはステージ系で何かできたらいいな、という漠然としたもの。それ以外は浮かんでは消えてと具体性が伴わないまま現在に至ってしまっている。

 運営側的にもスケジュール的にもうあまり猶予はない――というより、既に手遅れ気味になっているのも否めない。かといって今更断念する気にもならず、こうして顔を突き合わせて議論している次第である。

 

「奇をてらおうとするからいけないの。変に考えないでシンプルにしたら?」

「シンプルねぇ。言うのは簡単でもそれが難しいんだが……」

 

 これまでの紆余曲折ぶりを見てきたノイからの意見にクロウが首を捻る。言わんとすることは理解できるが、単純であるだけにクオリティを上げるのは難しいのだ。凝り性な彼は中途半端なものを披露するのは許せない。今から実現可能なものとなると悩ましかった。

 ちなみに、ノイは既に姿を現している状態である。この連絡船の船員は残され島の事情を全員が知っているので、彼女が身を隠している必要はない。皇族ぐるみの隠蔽が敷かれている島への連絡船だ。船員も事情に通じていて当然だった。

 

「それだと前に一度挙がったけど、やっぱり演奏とかがいいんじゃないかな」

 

 この人数で学院祭を盛り上げられる出し物。難しく考えずに選ぶのであれば、やはりステージ演奏が最も適当ではないかとトワは思う。

 以前にも似たような意見はあった。では、どうしてその時に決定しなかったのかというと、それには相応の理由もあった。

 

「つっても、突貫で半端なものにするわけにもいかねえぞ。準備するものだって馬鹿にならねえ」

「大前提として楽器は用意しなくちゃいけないし、演出を考えたら他にも諸々……簡単なことではないね」

「とはいえ、動き出さなければどうにもならないのも事実だが」

 

 演奏そのものについても、その準備に必要なものにしても、満足のいく出来に仕上げるためには越えなければいけないハードルが幾つも思い浮かぶ。それ故に尻込みする部分があるのは確かだった。

 要は踏ん切りがついていないのだ。本当にやり切ることが出来るのか。その見通しが立たないだけに決断が鈍る。言い換えれば、何が何でもやりたいという意欲が足りていなかった。

 議論は暗礁に乗り上げる。うーん、と揃って首を捻っても事態は好転せず、ただ刻々と時間だけが過ぎていく。

 

「おーい、トワちゃん! ちっと船長呼んできてくれないか!」

 

 不意に、頭上より声が響いた。マストの上の見張り台、そこで夜の番をしていた船員からのものだ。

 

「どうかしましたかー?」

「どうも時化がきそうだ! お友達と一緒に船室に戻った方がいいぞー!」

 

 その返事を聞いて咄嗟に海へと目を向ける。一見して落ち着いている様子の水平線。だが、確かに針路の先の空に怪しい雲が広がりつつあるのが見えた。

 トワは小走りにクラック船長を呼びに船内へ。クロウたちが置いてけぼりにされている内に甲板は段々と騒がしくなり、同時に風が強くなり波も高くなる。何が何やらといった状況だが、少なくともよくない事態であることは理解できた。

 動くに動けずにいると、トワがクラック船長を伴って戻ってくる。彼は海の様子を一目見るや顔を顰めた。

 

「こりゃ不味いな。一荒れ来るぞ」

「えっと……大丈夫なんですか?」

「別に沈みやしないさ。このあたりの海域じゃたまにあることだ。ただ、安眠は諦めてもらうぞ」

 

 現在の船の位置は大陸とシエンシア多島海の中程。この海域では、時折海の模様が不安定になることで知られている。昔の世界の果ての嵐と比べれば生易しいものだが、それでも風雨を凌ぐのに苦労することには変わりない。

 あまり荒れ模様が酷いと船の進みが遅れる可能性がある。それを抜きにしても、ここまでの長旅で疲れがたまっているクロウたちに満足な休息を与えられないのは酷というものだ。

 

「振り落とされないよう気を付けろよ。俺はカナヅチだから助けにいけねえ」

「あんた何で船乗りやってんだ」

 

 泳げない船長というのはいかがなものか。ごく真っ当なクロウの突っ込みに苦笑を零しながらも、トワは一つ提案をした。

 

「クラック船長、皆が休めないのも気の毒だし、私がやりますよ」

「うん? いやトワちゃん、それは……」

「大丈夫。もう平気ですから」

 

 自分の知り合いは優しい人ばかりだ。言わんとすることを理解し、表情を曇らせたクラック船長を見てトワはそう思う。置かれた境遇、過去の経験、それを知り得ているからこそ心配してくれる彼には感謝している。

 でも、だからこそ示したいのだ。もう心配しなくてもいいのだと、仲間たちのおかげで自分はこんなにも強くなれたのだと。

 言葉少なに白銀と紅い瞳の姿へ。それで十分にトワの意思は伝わった。クラック船長は幼いころから知る少女の目を見て、その姉貴分を見て、そして彼女の仲間たちへと目を移して納得したように頷く。

 

「……そうかい。そんじゃ、お手並み拝見させてもらうぜ」

「ふふ、任されました」

 

 船首に立ち、黒雲が立ち込め始めている空へと手をかざす。淡い金色の光がその身を包む。仲間たちにクラック船長、慌ただしく動いていた船員たちも何事かに気付いて見守る中、意識をあまねく存在する力の流れへと沈めていく。

 流れの中に澱みがあった。まるで継ぎ目の隙間で仕方なく生まれてしまったような滞り。悪天の原因であるそれに干渉していく。滞りに流れを作る、乱れた場を整える。絡まった紐を少しずつ解いていくように。

 

「晴れて……!」

 

 やがて澱みが消え去る。意識を現実に戻した先で、トワは歓声を聞いた。

 変化は顕著だった。嵐の気配を漂わせていた黒雲は文字通りに雲散霧消し、荒れる波も落ち着きを取り戻す。黒雲が晴れた先に姿を現した満天の星空に、見上げる人々は感嘆の声をあげていた。

 なんだか空気も変わったように思える。嵐の前兆から快晴の夜に変わったのだから当然かもしれない。けれど、それだけでもないような不思議な感覚だ。

 

「――越えたみたいなの。トワ、お疲れ様」

「え……うん。ねえ、それって」

 

 唐突にノイがそんなことを口にした。越えた、とは何なのか。思い当たる節がなく尋ねようとしたところで、その疑問は重なった更なる歓声に覆い隠された。

 星空に軌跡がはしる。一つだけでなく、幾条も。流星群だ。

 尋ねようとしていたことも忘れ、思わず周りと同じくして天空の壮観に見惚れてしまう。晴れ渡る夜空に光の帯が次々と現れては消えていく。その美しい光景に誰もが言葉を忘れ、ただ空を見上げていた。

 

「はは……流石に演出過多じゃねえのか?」

「こんなことまでは出来ないってば。本当に偶然だよ」

「では、日ごろの行いの賜物といったところかな」

 

 ミトスの民の力を以てしても、意図して流星群を引き起こすなんて不可能だ。今日この時に、この光景を目にできたこと。それは純粋な巡り合わせに他ならない。

 その幸運を今は喜ぶことにしよう。夜空を彩る流星の群れは、船の行く先の水平線へと消えていく。それはまるでトワたちを誘う道標のようだった。

 

*1
パップス船長率いる連絡船の見習い船員。あまり仕事の出来が良くなかったが、後輩ができてからは船員としての自覚が出てきたようである。実はカナヅチ。

*2
残され島への連絡船の船長を務める髭面の男性。見習いのクラックにしばしば頭を悩ませている模様。



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第56話 遺跡と神話の島

「……ロウ君、クロウ君ってば」

「んあ……?」

 

 耳朶を震わせる呼び声、身体の揺らぎからクロウは眠りから目を覚ました。

 はっきりしない意識のまま五感が状況を捉える。見慣れない天井、潮の香り、波に合わせて自分の横になっているハンモックが揺れる。

 ああ、そうだ。ここは残され島へ向かう連絡船の船室。流星群の眺めを堪能した後、翌日に備えて床に就いたのだと思い出す。

 

「あ、目が覚めた? もう朝だよ」

「……分かったから離れろ。近いっての」

 

 そこまで微睡みに近い頭で理解したところで、眼前の少女に対して文句を零す。少し体を起こせば額がくっつきそうな距離から紅い瞳が覗いていれば当然だ。揺り起こすにしても、そこまで近づく必要はないだろうに。誰か彼女に適切な男女の距離感を教えてほしかった。

 

「ふぁ……ほら、君もさっさと起きたまえ」

「うえっ……? うわああ!?」

 

 とはいえ、それ以上の余計なことは口にするまい。欠伸交じりのアンゼリカに蹴り起こされたジョルジュを見て固く誓う。自分もあんな起こされ方をするのは勘弁だ。

 しかし、この眠気はどうしたことか。クロウは別段朝に弱いわけではない。いくら眠り慣れない環境とは言え、ここまで寝覚めが悪いのは想定の外。アンゼリカが欠伸を漏らしているのも珍しかった。

 

「どっこらせ……朝って……今何時だよ?」

「だいたい四時前なの」

「いや、それまだ夜じゃね……?」

 

 どうにかこうにか起き上がり尋ねてみると、応えたのはトワの肩に座っているノイ。素っ気なく告げられた現在時刻に重い瞼を閉じたくなる。どうりで眠いわけだ。既にしっかり起きているトワがおかしいだけである。

 昨晩の一件から元の姿のままでいるトワ。流れる白銀の髪には寝癖一つなく、きちんと身だしなみが整えられている。こんな朝かどうかも怪しい時間帯によくもまあ、とクロウからすれば思わずにいられない。

 

「もう少しで残され島に到着だよ。降りられるように準備しておいてね」

 

 そんな彼女からお達しが。到着予定は早朝と聞いていたが、それにしたって早いだろう。どうやら自分たちと彼女の間では言葉の捉え方に齟齬があったようだ。

 しかし、もうすぐ目的地となれば是非もない。用件を告げると男子の船室を後にするトワたち。その後ろ姿を見送り、クロウたちも寝ぼけ眼を擦りながら下船の準備に取り掛かるのだった。

 

 

 

 

 

 甲板に上がった一行を出迎えたのは濃い霧だった。海の先はまるで見通せず、目的地に到着したと言われても島の輪郭さえつかめない。

 搭載されていた小型のボートが水面に降ろされる。島へはこれに乗り換えて上陸するらしい。海底の沈んでいる遺跡の影響で、大型船ではこれ以上進むと座礁してしまうのだとか。四人にクラック船長、定員ギリギリのスペースで身を寄せ合い霧の中を進んでいく。

 

「本当に遺跡が沈んでいる……これが全部テラから?」

「そうなの。経年劣化で落着したほんの一部だけど」

 

 先の見通しは利かないものの、透き通る海の中はよく見える。エメラルドグリーンの海に沈む多くは風化し藻や海藻が繁殖しているが、確かに建造物の形を残しているものが殆ど。空より降ってきた遺物は、今では魚などの水棲生物の住処となっているようだった。

 一つの島を形成するような遺跡の量も以ってしても、ほんの一部とは。全くとんでもない話に理解する気持ちすら湧いてこない。この遺跡群の大元であるテラとはどんな代物なのかと今から空恐ろしい思いである。

 気が遠くなったりリゾート地も斯くやといった感の海に目を奪われていると、距離が近付いてきたことで霧の中に島の影が現れる。そこからは早いもので、入り江の小さな漁港があっという間に目の前にあった。

 桟橋にボートを横付けして上陸する。昨夕ぶりの陸になんだか安心感を覚える。船旅も思いの外悪いものではなかったが、やはり足元はしっかりしていた方がいい。

 

「そんじゃあ到着だ。長旅ご苦労さんだったな」

「クラック船長もお疲れ様です。送ってくれてありがとうございました」

「なぁに、トワちゃんのおかげで道中楽できたからな。帰りもお任せあれってもんよ」

 

 クラック船長はそう言ってトワたちを送り出すとボートで連絡船に折り返していった。他の積み荷を全て降ろすためには何往復か必要なのだ。いつものトワなら言われずとも手伝うところだが、今回は実習で来ている身。仕事は本職にお任せして桟橋を島の中央に向かって進んでいく。

 

「おっ、トワじゃないか。父ちゃん、姉ちゃん、トワが帰ってきたぞ!」

「本当? わあ、お友達も一緒じゃない」

「何だ、思ったよりも早いじゃねえか。入れ違いになると踏んでたんだが」

 

 と、大して歩みの進まぬうちに別の声が聞こえてくる。桟橋に泊まっていた一隻の漁船。そこで早朝から漁の準備をしていた親子からであった。

 

「コリーさんにベルさん、それにアレクさん*1、ただいま帰りました」

「ああ、お帰り。ノイさんも久しぶりだね」

「半年程度だけどね。そっちは変わりないの?」

「全然よ。今日もコリーとお父さんに頑張りに行ってもらうとこ」

 

 見た目からして三十台半ばになるかならないか。姉弟らしい二人とトワとノイは帰郷の挨拶を交わす。そのやり取りから島の住人同士で近しい関係を築いていることが窺える。これだけ小さな島の集落なら当たり前なのかもしれない。

 それにしても「ノイさん」というのも聞いていて妙な気分になる。彼女が島に腰を下ろすことになった理由の異変が起きたのが三十年ほど前。その頃に幼い子供の身であればそういう呼び方にもなるのかもしれないが……普段トワとの姉妹同然の姿を知るだけに、あまり年齢差のようなものは感じないのが正直なところである。

 

「で、そっちが噂の実習仲間か。なかなかの面構えじゃねえか」

「ど、どうも……」

 

 アレクと呼ばれた初老の男性が三人へ興味深げな視線を向ける。ガタイのいい相手にジロジロと見られるのは圧力を感じるものだ。ジョルジュは少し気圧され気味になってしまうが、それに対してアレクは頬を緩めた。

 

「そう構えんな。トワのダチっていうなら歓迎しないわけにはいかねえ。後で獲った魚を持っていくから楽しみにしてな」

「えっ、いいんですか?」

「いいのいいの。これくらいお安い御用よ」

「はは、良い魚獲れるように頑張ってこなくちゃね」

 

 どうやら厳ついのは外見だけのようで、闊達に笑うと親切にもお裾分けを約束してくれる。ベルとコリーも異論があるどころか乗り気しかない。トワの存在あってこそのことではあるが、それでも彼らの人の好さが窺えた。

 

 漁へ出発するアレクたちと別れて桟橋の先へ。そこへまた別の人物が現れる。桟橋から上がる階段の近く、帽子をかぶったナユタとそう変わらないくらいの男性が佇んでいた。

 こちらの姿を認めるや「よう」と片手を挙げてくる相手。それに対してトワとノイは呆れ混じりの笑みを浮かべる。

 

「ルーバスさん*2、もしかして待ち構えていたんですか?」

「へへ、ここなら必ず通るからな。折角の美味しいネタを見逃すわけないだろ」

 

 斜に構えた感じの男性――ルーバスはニヤリと頬を上げる。なんだか妙な手合いが出てきた。等とクロウたちが思っていると、彼はしげしげと観察するような目を三人に向ける。

 

「話に聞いちゃいたが、本当にてんでバラバラな面子だな。不良、メカオタク、男装貴族令嬢。なんともまあ、キャラの濃い」

「……あながち間違ってねえのが性質悪いな。そんな話まで出回っているのかよ?」

「こんな辺鄙な島だ。トワから手紙が来たら、その日の間に内容が知れ渡るぜ」

 

 ジトっとした視線が集中してトワは慌てて首を横に振る。クロウたちのことを手紙に書いたのは事実だが、そんな悪口を書いた覚えは毛頭ない。捉え方によっては、そう思われるかもしれない事実を書きはしたかもしれないけれど……

 残され島で三人の話がどんな形で広まっているかは知らないが、少なくとも現時点で悪いのが誰かは分かり切っている。この噂好きで捻くれ者な男に抗議の意を示すも、ルーバスはひょいと肩を竦めるに留めた。

 

「まあ、こんな退屈な島だが精々楽しんでいってくれ。面白い話を残してくれたら尚良し」

「それはどうも。こちらとしては、既に十分刺激的ですがね」

 

 そいつは何より、とニヒルな笑みを浮かべてルーバスはさっさと退散していった。なかなかいい性格をしている男のようである。トワとノイが仕方ないとばかりにため息をついているあたり、いつもあのような調子なのかもしれない。

 

 桟橋から階段を上り、トワの先導に従って霧の中を歩んでいく。それからも数歩進んでは村人から声を掛けられた。長閑な島でいまいち必要性が疑われている衛兵、ドラッド*3。生意気小僧がそのまま大きくなったような農家、ブーティ*4。他にも会う人全てがトワの帰りを喜び、クロウたちの来訪を歓迎してくれた。

 その人たちと言葉を交わす中で、確かに大陸の人々とは異なる雰囲気を三人は感じていた。それぞれが独特な人物ではあるものの、揃って根が善人とでも言えばいいのだろうか。到着して早々ではあるが、トワが底抜けのお人好しに育った理由が垣間見えた心地である。

 

「こんな朝っぱらからよく出歩いているもんだ。いつもこんな具合なのか?」

「まあね。でも、今日はトワの帰りを待っていた節があるかもなの」

「やっぱりそうかな。皆元気そうでよかったけど」

 

 こんなにも道行く先で声を掛けられるのは総じて朝が早いのもそうだが、久しぶりのトワの帰郷を心待ちにしていた証拠でもあるようだ。嬉しそうに頬をほころばせるトワに心温まる。

 石造りの建物が並ぶ島の中心部からやや離れて丘を登っていく。相変わらず霧が濃いが、この先がトワの実家なのだろうか。道中の田畑や霧の合間に見える海を眺めつつ歩を進める。

 不意に「あっ」とトワが足を止める。自然と三人も倣いつつ首を傾げた。

 

「トワ、どうかしたかい……っと、どうやら人のようだね」

「本当だ。今度はどんな――」

 

 霧の中に人影を認める。個性的な人ばかりなので、次はどんな手合いが来るのかと興味半分、やや構える気持ち半分。

 

 だが、そんな気持ちは現れた姿を目にした途端に全て吹き飛んだ。

 

 長い白銀の髪が潮風に揺れていた。白を基調とした装いに肩にかけられたショール、そこから覗く肌には一点のシミさえも見つからない。身体を構成する全てが完成されていた。

 今までに美人と呼べる女性には幾度となく出会っている。だが、今目の前にいる人物は美しさという次元で語れる存在ではなかった。

 

「め、女神だ……」

 

 アンゼリカが呆然と呟く。女神――そう、女神だ。全てが黄金律で構成されたような存在を前に、それ以上に適切な言葉は見当たらなかった。

 あまりの存在感に圧倒されるクロウたち。ただ呆然と見惚れている他にない。そんな彼らを更なる衝撃が襲う。

 

「ただいま、お母さん」

「ええ、お帰りなさい」

 

 驚きも度を越えると声さえ出せなくなるらしい。三人にできたのはあんぐりと口を開けることのみ。動作不良に陥っている面々を他所に、トワは母のもとへと駆け寄っていく。彼女を迎え入れたのは柔らかな抱擁だった。わぷっ、と胸元へと顔を埋める。

 

「こうするのも久しぶり。少し逞しくなったかしら?」

「学院に入ってから色々あって鍛えられたの。私も頻繁に出番があるくらいには」

「ふふ、そうみたいね。ノイもお疲れ様」

「もう……皆の前だと流石に恥ずかしいんだけど」

 

 こうして抱かれるのは嫌いなわけではないが、友達の前だと気恥ずかしさが勝る。頬を赤くする娘の抗議に「そういうものかしら」と母親は微笑ましそうにしながら腕を解いた。

 並んだ親子の姿はよく似ている。一本一本が光り輝いているような白銀の髪、紅耀石の煌きのごとき真紅の瞳。なるほど、常人ではない容姿は親譲りと言われると頷ける。しかしながら、その人間離れした美貌に母親という言葉を結び付けるのは難しい。

 それで、と吸い込まれそうな瞳が硬直したままの三人に向けられる。彼らは今になって思い出していた。トワの身に宿る特別な力、その起源がどこにあるのかを。

 

「貴方たちも遠いところからようこそ。トワの母、クレハ・ハーシェルです。娘がいつもお世話になっているみたいでありがとう。どうかゆっくりしていって」

 

 星の力を操るミトスの民。その純血たる彼女が人間離れしているのは当然と言えば当然のこと。十人中十人が見惚れるような笑顔に、三人はようやく頷き返すのが精一杯であった。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 島の外れにある小高い丘、崖際に海を臨むそこにトワの実家はある。素朴な木造の二階建ての家。増築が行われたことにより過去より幾分か大きくなっているが、基本的な構造に変わりはない。

 庭先の犬小屋に羊の囲い、それに便利屋への依頼が届いていた郵便受けもそのまま。変化したことと言えば、軒先に下がった遊撃士協会の紋章と依頼の宛先だろうか。

 

 クレハに出迎えられて帰宅を果たしたトワにノイ。慣れ親しんだ生家で彼女は親子ともども台所に並んでいた。実習について話すことは多々あれど、まずは朝食にしなければ始まらない。寮暮らしで成長した腕前を披露しようと張り切っている。

 一方、お邪魔している形のクロウたちはやっと現実感を取り戻してきていた。強すぎる刺激も徐々に慣れていくもの。どうにか台所で仲睦まじく料理をしている二人が親子であると受け入れる。まだ姉妹と言われた方が納得できるが。

 

「……何というか、トワの顔立ちがナユタさんの方に似ていて良かったよ。色々な意味で」

「違いねえ。少なくともゼリカが毎日暴走しちまうところだった」

「うーん……流石に大袈裟だと思うけど」

 

 疲れた顔で率直な感想を述べる男二人。その対面でナユタが苦笑いを浮かべていた。無論、クロウとジョルジュは冗談抜きでトワが父親似であったことに安堵している。今でも顔立ちの整った美人ではあるが、これが女神の如き母親のそれであった日にはどうなることか。きっと学院では目立ちまくり、アンゼリカは興奮冷めやらぬ毎日を送っていたことだろう。

 かくいうナユタも初めて出会った時は見惚れてしまった口である。彼らの言わんとすることが分からないでもない。従妹のマーサの家に連れて行ったときに散々騒がれたのを思い出し、どこか遠い目になっていた。

 

「こんなに賑やかな朝食は初めてじゃないかしら。ふふ、腕によりをかけないといけないわね」

「アーサさん、そんなに力を入れられたら私たちの立つ瀬がないじゃないですか」

「そうだよ、伯母さん。簡単に作ったものでも敵う気がしないのに」

「そうは言われてもねえ。トワがこんなにお友達を連れてきてくれたとなると、自然と気合が入っちゃうというか」

 

 そんな男性陣のやり取りを他所に、台所では穏やかな時間が流れている。トワとクレハに並んで朝食を手掛けているのはアーサ・ハーシェル。ナユタの姉であり、トワの伯母に当たる人物である。義妹と姪に困った顔をされるくらいには料理上手ということで島では有名だ。

 ナユタの姉ということは、少なくとも五十歳に近いはずなのだが……こちらもこちらで豊かな金髪が流れる顔立ちは若々しさが保たれている。驚くべきことなのかもしれないが、クレハに比べたらまだ常識の範疇と思ってしまうのはクロウたちの感覚が狂ってきた所作だろうか。

 

 いずれも見た目と年齢が釣り合っていないことを除けば、実に心温まる光景である。島の住人といい、帝都で出会った親戚家族といい、つくづくトワは周りに恵まれているようだ。

 羨ましい気持ちを感じながらも、しばらくこの和やかな空気を共有させてもらおう――と、普通ならそのようなところで落ち着く場面。しかし残念かな、この場の面子は良くも悪くも普通ではない。誰かしら一人は突飛な行動に出る。

 その御多分に漏れず、がたりと立ち上がる音。クロウたちが目を向ければ、今まで沈黙を保っていたアンゼリカが肩を震わせていた。

 

「アンゼリカ、どうかしたの?」

「……もう辛抱堪らん!」

 

 不思議そうにするノイを放ってトワたちのいる台所へ疾駆するアンゼリカ。その表情はだらしなく弛んでいた。

 

「クレハさぁん! どうかその玉体をお触りさせてください!!」

 

 女の子好きで名を馳せるアンゼリカ。そんな彼女がこれまでに目にしたことがないほどの美女を前にして大人しくしていられるだろうか。いや、ない。

 友達の母親だろうと人妻だろうと知ったことか。理性を上回った煩悩の赴くままに彼女は突進する。呆気にとられた周囲には止める猶予もない。

 あら、とクレハが振り返る。眼前に迫る色情魔のいかがわしい手つき。あわや魔の手に落ちるか――そう思われた瞬間、彼女は突っ込んできたアンゼリカをそのまま抱き留めた。

 

「もうアンちゃんってば、包丁使っているんだから危ないじゃない」

「意外と甘えん坊さんなのかしら? ふふ、良い子だから座って待っていてちょうだい」

「…………」

 

 邪まな気持ち満点で迫ってきた相手を一撫でするや、刃物を使っているときは危ないからとテーブルへリリース。何事もなく朝食の調理へと戻る。

 抱き留められた途端に呆けた顔になっているアンゼリカがフラフラと帰ってきた。周囲の何とも言えない視線を集めながら着席。ふっ、と淡い笑みが漏れた。

 

「負けてしまったよ……ああ、完膚なきまでにね」

「君はいったい何と戦っているんだい?」

 

 心底呆れ果てたジョルジュの言葉が全てだった。まったく仕方のないと溜息を吐くクロウとジョルジュの傍らで、ナユタが含み笑いを漏らす。ひとまず、彼女はこの寛大なご家族に感謝するべきであることは明らかだった。

 

 

 

 

 

「さて、それじゃあ今回の実習についてだけど」

 

 ハーシェル家の普段よりちょっと気合の入った朝食――アンゼリカ曰く、実家のシェフと遜色ない――を頂いて腹を満たし、準備万端となった試験実習班。テーブルの上を片付けたところでナユタが残され島における実習内容について切り出した。

 

「基本的には島の皆から寄せられた依頼に対応してもらうことになる。まあ、昔からトワがやってきた手伝いと同じだね」

「つまり、いつも通りってことなの」

「身も蓋もねえな……ところで今回の現地責任者は誰になんだ?」

 

 こうして説明を買って出てくれているナユタがそうなのかとも思うが、彼はあくまで博物学者である。実態はともかく、実習を監督するのに適当な立場かというと首を傾げる部分がある。

 その疑問は的外れではなかったらしい。ああ、とナユタが説明を付け加える。

 

「一応はシグナがそうだけど、報告とか相談は僕や姉さんでも構わないよ。肝心の当人がまだ帰ってきていないことだしね」

「シグナ君も今日明日中には帰るって言っていたし、そのうちふらりと現れるでしょう。はい、コーヒー」

 

 アーサが淹れてきてくれた食後のコーヒーで会話に一区切り。それぞれ礼を言って手を付ける。その香り高さからこちらの腕前も相当であることが窺えた。

 ともあれ、現地責任者のことについてはあまり細かく気にする必要はないようだ。言うなればハーシェル家の全員がそれに当たる。このような普通の民家に遊撃士協会の紋章がぶら下がっている有り様だ。依頼対応や事務処理などについては自然と身についている。

 

「トワがいるなら滅多なことでは問題にならないだろうけど。少なくとも、兄さんに出番があるかは怪しいところね」

 

 それはトワも同じこと。故郷という勝手知った庭ともなれば、実習を進めるのに何も問題はないだろう。今回の現地責任者は名目上のものに過ぎないようだった。

 

「でも、テラに行くときは気を付けて。トワは大丈夫でも、三人は不慣れな場所でしょうから。ラ・ウォルグではこの前に噴火もあったし」

「分かった。ちゃんと注意して案内するよ」

「ふ、噴火……?」

 

 クレハの口から何やら不穏な単語が聞こえたのは気のせいだろうか。平然と頷き返すトワを見るに、大して問題があるようには窺えないが……噂の巨大遺跡に赴く際には十分な準備が必要なようだ。主に心の準備が。

 

「説明はこれくらいにして、そろそろ依頼を渡しておこうか。これが今日の分だよ」

 

 漠然と嫌な予感がするクロウたちに構わず話は進む。父の手から渡されたいつもの校章が入った封筒。封を外して中身を確認し、出てきた三枚の依頼書に目を通した。

 一つ目は祖父オルバスからのもの。トワの学院や実習における話は当然ながら彼にも届いている。島の外での修練の成果を確かめよう、後で海岸に来なさい。依頼書には端的にそう綴られている。腕試しの類とみて間違いなかった。

 二つ目は宿酒場《月見亭》から。宿酒場といっても、客人の足が疎らとなって久しい今では別の施設としての役割が強いのだが――今は置いておこう。どうやら困りごとがある様子。詳しくは直接説明するとのことだ。

 そして三つ目、他ならない目の前の父からの依頼。テラでの調査に人手が欲しいとのこと。これは分かりやすい。つまりいつも通りということだ。

 

「お父さんの方は何か急ぎの用はある?」

「いや、先に師匠とライラの用件を片付けてくれてからでいいよ。僕は先に行って作業を進めておくから」

 

 それだけ聞ければ予定は組み立てられる。まずは祖父のもとへ。そこから月見亭の用件を聞いて、そちらが済んでからナユタのもとへと向かえばいいだろう。

 

「お弁当を作ったから持っていってね。お昼に皆で食べてちょうだい」

「これはご親切に。どうもありがとうございます」

「こんなに沢山……手際がいいですね」

 

 アーサからは人数分の弁当が渡される。朝食と一緒に用意していたそれは動き回ることを見越してか、なかなかのボリュームがありそうだった。ノイ用に小さいものまで用意しているあたり手が込んでいる。

 実習開始の用意は整った。懇切丁寧に昼食まで拵えてもらって不足などあるはずもない。しっかりと持ち運びの荷物の中に弁当を仕舞い、試験実習班はそろそろ動き始めることにする。

 

「じゃあ行ってきます。夕方くらいには戻ってくるね」

「行ってらっしゃい。夕飯は腕によりをかけて作るから楽しみにしていて」

「頑張ってお腹を空かせて来るの!」

 

 アーサの料理が楽しみになのは分かるが、腹を空かす方が目的に据えられるのはどうなのだろうか。ノイの奇妙な気合の入り方に苦笑いを浮かべながらもトワたちは出発するのだった。

 

 

 

 

 

「おや……霧もだいぶ薄くなったようだね」

「本当だ。視界の心配はしなくてもよさそうかな」

 

 ハーシェル家より出た先で、一同は到着時よりも見通しが利くようになっていることに気付く。島全体を厚く包んでいた霧は段々と晴れてきているようで、もうじき水平線まで見えるようになるように思われた。

 天候も回復傾向にあるようで何より。まずは先ほど固めた活動工程を改めて確認する。

 

「お祖父ちゃんは島の反対側の海岸に住んでいるんだ。まずはそっちに向かおう」

 

 《剣豪》オルバス・アルハゼン。八葉一刀流の開祖、《剣仙》ユン・カーファイと並んで東方剣術の達人として挙げられる人物である。ナユタにシグナ、トワの剣の師である彼との対面に、クロウたちとしては楽しみでもあり緊張の種でもあった。

 

「はてさて、どんなおっかねえ爺さんが出てくるのやら」

「どんな想像しているのかはともかく、そんな無暗に厳しい人じゃないの。多少は扱かれるかもしれないけれど」

 

 険しい顔をした厳格なご老人。一見して華奢なトワを腕の立つ剣士へと育て上げた人物だ。彼女が剣に対して生真面目なことを知るのもあり、おっかないイメージが先走る。

 ノイの口ぶりからしてそうとも限らないようだが、後に続いた言葉が不安を上塗りする。どの道、顔を合わさずには済ませられないのだ。件の老剣士がどのような用事なのかは分からないが、せめて常識的な範疇に収まる話であることを祈るばかりである。

 

「そう心配しなくてもいいと思うけど……取りあえず、お祖父ちゃんの用事が終わったら月見亭っていう宿酒場に行って、それからテラに向かう形だね」

 

 月見亭での依頼がどのようなものかで動きは変わるが、概ねそのような想定で間違いはないだろう。テラでは先に行くというナユタが待っている。そちらに合流し、彼の研究の手伝いに取り掛かるのが今日一日の大まかな流れだった。

 三人にも異論はない。いつものことではあるが、特に今回はトワの故郷である。地元のことは全面的に任せておいて間違いない。

 しかし、異議はなくとも気になるところはあった。

 

「それはそうと、その肝心のテラというのはどこにあるんだい?」

 

 先ほどから普通に会話に上がっているテラの名前。聞いている側としては、行き来にあまり手間はかからないような印象を受ける。残され島からそう離れていない場所にあるはずだ。

 だと思うのだが、ここに来るまでの間にそれらしいものは目にしていない。話に聞く通りの巨大な遺跡なら嫌でも目に付くはず。霧中で視界が悪かったとはいえ、全く気付かなかったというのもおかしな話に思えた。

 そんなことを尋ねられ、対するトワはポカンとしていた。彼女にとっては当たり前のこと過ぎて、逆に反応が遅れてしまったような。数拍おいて三人の疑問を理解した彼女は恥ずかし気に頬を掻いた。

 

「あはは……そっか、皆は気付かなくても仕方ないよね」

「この霧だからね。でも、そろそろ見えてくる頃じゃないの?」

 

 ノイの言葉に頷き、トワは「こっちだよ」とクロウたちを手招く。丘の先、海を見渡せる大木のもとへと。成長の過程で取り込んだのだろう。幹に埋まった門のような遺物に目を奪われながらも彼女についていく。

 

「ここからならよく見えるよ。ほら、あの海の向こう」

「ああ、確かに海岸の向こうにデカい塔が……」

 

 指差された方を見る。島の海岸より沖へ向かった先に、斜めに傾いだ大きな塔が認められた。あれが噂のそれの一部なのか。

 そう思った矢先、目の前の光景に違和感を覚えた。

 

「…………は?」

 

 絶句する。クロウもアンゼリカもジョルジュも、一様に自分の目に映ったものに愕然とし、言葉を失った。トワが指差す先、あの斜塔よりも更に向こうにあるものを認めて。

 

 濃霧のベールが晴れた先にあったのは水平線ではなかった。途方もないほどに莫大な質量の物体が光景を埋め尽くす。全体像が分からない。あまりの遠大さにスケール感が失われる。

 落着によって生み出された瀑布がそのままに凍り付いていた。氷のオブジェに身を包んだそれは半ばが海に没し、幾何学模様が刻まれた外壁が淡く碧い光を放っている。首が痛くなるほどに見上げた先では、半球状の外郭が上部全体を覆われているようだった。

 

 かつてテラは小国ほどの大きさを誇ると聞かされた。それを忘れていたわけではない。ただ、正しく理解はしていなかった。それも仕方ないだろう。いったい誰がこのような代物を想像できるというのだろうか。

 

「まあ、そういう反応が普通なの」

「ふふ……それじゃあ改めまして」

 

 超弩級の遺跡を背にトワが大きく手を広げる。故郷への来訪を歓迎するように。

 満面の笑みをと共に、彼女は節目となる実習の始まりを告げる。

 

「ようこそ、遺跡と神話の島《残され島》へ! 実りある実習にできるよう頑張っていこう!」

 

*1
残され島で漁を営む男性とその子供たち。幼児のコリーから見るに、ノイは「大きい虫さん」らしい。

*2
長閑な残され島の日常が退屈に感じることがあるようで、何かしら刺激的なことがないかと島の事情に詳しい少年。母親のジャニスおばさんは途轍もない怪力である。

*3
残され島の衛兵。ただし、あまり実力は期待できない。冴えないオッサンだが、後には力不足を感じてオルバスに鍛えてもらうなど気概はある。

*4
農家スクルプの息子。悪戯好きの困った子供だが、異変が起きて以降は仕事の手伝いをするようになったりと、少しは大人になったようだ。



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第57話 家族

今回どこかで見たような人物たちが登場しますが、特に深い意味はありません。将来的に法剣のような蛇腹剣を振るっているかもしれないけど。


 残され島での実習を開始したトワたち。一行はまず祖父オルバスのもとへ向かうべく、島の反対側の海岸へと歩いていた。

 島は自然のままに残っている部分が多い。中心部ならともかく、そこから離れると足場も悪くなってくる。住人なら慣れたものだが、来訪者なら注意した方がいい。なるべくよそ見しないで歩くべきなのだが……クロウたちの目は、無意識の内に強烈な存在感を放つ物体へと向けられていた。

 

「なんつうか、こう……マジかよって感想しか出てこねえな」

「現実感が湧いてこないよね……」

 

 島の西側の景色を埋め尽くすテラの威容。馬鹿馬鹿しいほどの大きさを誇るそれを目にして、三人はしばし顎を落としたまま固まっていたものだ。再起動を果たした今でも、正直なところ現実の光景か疑っている部分がある。

 

「だが、紛れもなく現実だ……島一つ形作るのがごく一部とは、よく言ったものだよ」

 

 どれだけ現実離れした光景であろうと、波濤がそのまま凍り付いた氷壁に打ち付ける波は本物に違いない。幻や騙し絵の類ではないことは明らかだ。

 それに、むしろ納得する部分があることも事実。残され島を形成した遺跡がテラのごく一部という話も、あれだけのスケールを誇る実物を前にしては頷く他にない。途轍もないことには変わりないし、知らぬ人が聞けば与太話にしか思われないだろうけれど。

 

「今からそんな調子だと先が思いやられるの。まだテラの中に踏み入ってもいないのに」

「……そういや、あの中に行くのか。もう十分に驚かされているんだがな」

 

 クロウがげんなりとした表情を浮かべる。時代が逆行したような帆船に始まり、まさに女神のごとしクレハの美貌、そして超弩級遺跡との遭遇と、既に腹一杯になった気分だ。それがまだ序の口のようなことを仄めかされれば、気が遠くなる心地にもなろう。

 いったいテラの中では何が待ち受けているのか――いや、そもそもどうやって中に入るのだろうか。船で近付くことは出来るだろうが、周囲は氷壁に覆われていて侵入できる隙間があるか分からない。もしやトワの力で空から行くのか、或いは別の方法があるのか……

 気になるところではあるものの、それは後回しになる。第一の依頼人が待ち受ける海岸が近付きつつあった。

 

「皆、そろそろお祖父ちゃんの家だよ」

 

 トワの言葉に無意識の内に気が引き締まる。風に聞く《剣豪》その人との対面だ。否応なしに緊張してしまうものがある。

 反してトワの足取りは軽いものだ。剣の師匠として尊敬は勿論ある。けれど、それ以上に厳しくも真摯に接してくれる祖父であるからこそ再会が楽しみだった。

 足元が砂浜に変わる。所々に遺跡の残骸らしきものが突き立つ海辺。潮騒が響く波打ち際、遥か先の水平線を見つめ、その人は立っていた。

 

 「滄海洋々、寄せる波は無限なりや」

 

 朗々とした声。それは独り言のようでいて、確かにトワたちのことを捉えていた。

 

「しかして、移ろわぬものはなし。万物は流れ変わりゆく――」

 

 遥かなる海を、流れゆく刻を見つめていた眼が振り返る。刻まれた皺と真っ白に染まった髪は老境の証。それでも東方風の衣服に身を包んだ立ち姿には芯が通り、古傷による隻眼なれども瞳の奥に宿る力に一切の陰りはない。

 靭く、しなやかに聳える古木――《剣豪》オルバス・アルハゼンは言うなればそのような人だった。

 

「久しいな、トワ」

「えへへ……ただいま、お祖父ちゃん」

 

 破顔するトワに「ああ、おかえり」と厳めしい表情も幾分か穏やかなものになる。どこの誰であっても、祖父というのは孫に対して甘い部分が出るものなのだろうか。

 

「見ないうちに、いい目をするようになった。外では波乱尽くしと聞いていたが、その分実りも多かったようだな」

「半分くらいは自分から首を突っ込んでいたけどね」

「ちょ、ちょっと! ノイは余計なこと言わないの!」

 

 お目付け役としては胃が痛い展開も多々あった試験実習である。苦言の一つや二つくらい出てきても仕方がない。それは承知の上であっても祖父の手前だ。あまり無茶無謀を公にされて怒られては困るトワは慌てて遮った。

 二人のやり取りにオルバスは肩を竦める。その顔には苦笑のようなものが浮かんでいた。

 

「血は争えないということか……まあ、それはいい」

 

 含みのある言葉を漏らしつつ、隻眼がクロウたち三人の方へ向けられる。改めて相対すると、その身から感じられる気迫に驚かされる。既に齢八十を超えているという話だが、まるで衰えの気配が見られない。ヴァンダイク学院長といい、自分たちの周囲のご老人は元気が有り余っているようだ。

 

「君たちがトワの学友か。私はオルバス。孫が世話になっている」

「いえ、そこら辺についてはお互い様みたいなものなので」

「それより名高き《剣豪》にお会いできて光栄です」

「所詮は隠居して久しい老骨だ。畏まることはない」

 

 それだけの風格を纏っていて老骨というのは無理があるような。

 内心で頬を引き攣らせながらも、それぞれ自己紹介していく。おおよそのことはトワからの手紙を通じて知っていたのだろう。伝聞の情報とすり合わせたらしいオルバスは一つ頷き、その目をアンゼリカへと向けた。

 

「お嬢さんは確か泰斗流の使い手だったか。それが巡り巡ってトワと友誼を結ぶことになるとは、不思議な縁もあるものだ」

「といいますと、泰斗流と何か縁が?」

 

 不意の発言だった。思いもしない言葉にアンゼリカは反射的に問いかける。トワも心当たりがないようで、興味深げな目を祖父に向けていた。

 

「泰斗のリュウガ殿とはかつて共に研鑽を積んだ仲。彼は亡くなって久しいと聞くが……君に教えを授けた娘は、どうやら壮健なようだな」

 

 果たして何十年前の話なのだろうか。遠く古い記憶を辿るように目を細めるオルバスの声には、どこか懐かしむ色合いがあった。剣と拳。振るうものは違えど、同じ東方の地で紡がれた友誼があったのかもしれない。

 片や、クロウなどは一つの納得を覚えていた。剣を得物としているのに、時にはそれを差し置いて殴る蹴るに関節技まで何でもござれのトワ。徒手格闘までこなす彼女がどんな教えを受けてきたのか不思議なものだったが、その源流に泰斗の流れが交わっているのなら頷けるものがある。

 

「師匠の御父上と……つまり私とトワは運命で結ばれているも同然……!?」

「それは流石に飛躍しすぎだろ……」

 

 ただ、この色ボケ貴族のすっ呆け具合は流石にどうかと思う。精々が遠縁の親戚のようなもの。まるで一大事のように目を見開くアンゼリカは誇大妄想が過ぎた。

 

「――では、実習の話だが」

 

 オルバスが話を区切る。アンゼリカの突飛な発言などなかったかのようだ。人生経験が長いだけに、こういう時の流し方もよく心得ているらしい。

 冗談はともあれ依頼の件である。文面的には腕試しを意図したもののように受け取れたが、実際に何をやるかまでは知らされていない。面々はやや緊張の面持ちで続く言葉に耳を傾ける。

 

「こうして足を運んでもらったのだ。全員の面倒を見てやりたいところだが……トワよ」

「っ、はい」

「その姿――迷いは晴れたのだな?」

 

 嘘偽りの通じない見透かす目が射抜いてくる。それにトワは真紅の瞳を逸らさずに頷いて見せた。

 もう恐れることも、迷う必要もない。恐怖の先に自らを受け入れてくれる友を知ったから。自分が本当の意味で振るうべきものを掴み取れたから。ミトスの民の力を厭う理由はもはや存在しなかった。

 見つめ返してくる真っ直ぐな目にオルバスは「そうか」とわずかに口角を上げる。しかし、それも一瞬のこと。厳格な師としての顔で彼は告げた。

 

「ならばその剣、試させてもらおう」

 

 オルバスが距離を取る。腰に佩いた刀が抜き放たれ、鋭い眼光が対面にトワを促した。一対一、実戦形式での手合わせだ。

 クロウたちに「行ってくるね」と一言告げ、トワは師の待ち構える勝負の場へと上がる。一礼し、自らも得物の刀を抜いて構えた。

 

「お願いします」

「来なさい」

 

 八相に構えるトワをオルバスは無形で待ち受ける。先手は弟子の側に。しかし、彼女もおいそれと仕掛けることはせず、じりじりと間合いを図る。

 肌が焼けつくような空気だった。高く昇り始めた陽光を遮るものは無く、夏の日差しは浜辺を満遍なく照らす。だが、これは自然に拠るものではない。張り詰めた緊張感が、両者より放たれる鋭い剣気が、クロウたちに無言を強いるほどに場を支配しているのだ。

 

 誰かが息を呑む。滴った汗が砂に落ちる。皮切りは分からぬほどに些細だった。

 足元の砂を弾き飛ばし、トワが宙を跳んで刃を閃かせる。疾風怒濤、身軽さを活かしたトワお得意の強襲。猛烈な勢いで迫るそれをオルバスは柳に風と受け止めた。最低限の動作、最小限の力。動に対する静。縦横無尽に動くトワに、自然体のままに彼は剣を捌いていく。

 まるで通じる気配のない攻勢。それでもトワに焦りはない。確かに自分は前よりも強くなったかもしれない。だが、それよりも師である祖父が遥か高みにいるのは分かり切ったことなのだから。今はただ、高き頂にどこまで届くか手を伸ばすだけだ。

 

 刃をぶつけ合うこと幾度か。攻撃を弾いたオルバスの剣が僅かに後ろへ引く。瞬間、爆発的に生じた危機感がトワの背筋を粟立たせた。

 脳裏に蘇る過去の鍛錬の光景。ほぼノーモーションから繰り出される神速の突き。何度となく首筋に突き付けられ、辛うじて防ぐのが精一杯だったそれが来ることを直感する。

 刹那のうちに迫られる対応。取れる手段は多くない。躱すか、防ぐか――否。

 

 臆すな、退くな。ただ只管に、前へ。

 

 胴に目掛けて突き込まれる一閃。その刃にトワは踏み込む。咄嗟に見切った剣筋、疾駆するオルバスの剣の峰を踏み下して強引に剣先を逸らさせた。

 

「ぬっ」

 

 微かに驚きの声を漏れ聞こえる。だが、それを斟酌している猶予はない。一時を凌いだ安堵よりも、反撃の糸口へと思考を回し身体をひた走らせる。

 振り払われるよりも先に剣を足場にそのまま跳躍。空中で身を翻してオルバスの背後を取ったトワが斬撃を見舞う。剣で防ぐには間に合わないタイミング。それでも師を捉えるには至らない。背中に目でも付いているかのようにオルバスは僅かに身を反らして空からの攻撃を躱す。

 着地し、更に攻めかかるトワ。向き直り、真っ向から受け止めるオルバス。甲高い音を立てて剣と剣がぶつかり合い、鍔迫り合いの火花が散る。その向こうで祖父が静かな笑みを浮かべていた。

 

「殻を破ったようだな」

「色々なことがあったから……色々な人に出会えたから。それだけ強くなれたんだと思う」

 

 困難を乗り越えてきただけではない。人々との出会いの中で己を見つめ直し、トワ・ハーシェル・ウル・オルディーンとして確かな芯を得たからこそ今がある。迷いの先に見出した答えは彼女の剣にも如実に表れていた。

 

「縁に恵まれたが故、か。お前らしい……喝っ!」

「っ!」

 

 鍔迫り合いが解かれたところに肩からの当身が。体勢を崩されたところに立て続けて掌底が迫る。咄嗟に後ろへ跳んで衝撃を殺すトワ。派手に吹っ飛ばされるが、ダメージは大したことはない。くるりと一回転して危なげなく着地する。

 だが、距離が離れたその先に見た師の剣気に表情が強張った。

 

「されど、力の扱いは一朝一夕にはなるまい。この場で試してやるとしよう」

 

 腰だめの構え、荒れ狂う乱気流がその手の剣に集う。踏み込みと共に一閃、トワは転がるように慌ててその場から逃れた。

 放たれるは神風。トワのそれとは比較にならない真空の刃が飛来する。砂地を裂き、遺跡の残骸を断ち砕き、海を分かつ。舞い散る砂塵と海飛沫。一帯は突如として嵐の渦中と化す。

 一撃では収まらない。続く真空波が反射的に身を伏せたトワの頭上を薙ぎ払っていく。目を上げた先、嵐の中心で師は尚も追撃の構えを取り、そして強い眼で彼女に促していた。

 

 遠慮はいらない、自身の全てをぶつけてくるがいい。

 

 剣に力を籠める。金色の光を刃に纏わせ、身を起こした勢いのままに地を踏みしめてトワは戦技を放つ。オルバスが剣を振るったのもほぼ同時。光の大太刀と神風の刃、研ぎ澄まされた力が衝突し拡散する。余りある衝撃波は爆発でも起きたかの如く砂煙を巻き起こした。

 

「あーあ、張り切っちゃって」

「……おかしいな。さっきまで普通の鍛錬だったのに……」

 

 呆れ顔のノイの隣でジョルジュは白目を剥きそうだ。剣の稽古を見ていたと思ったら、途端に怪獣大決戦が始まれば無理もあるまい。クロウとアンゼリカも気持ちは同じである。濛々と砂煙が立ち込める様を見つめる顔は頬が引き攣っていた。

 

 外野の心情など鑑みることもなく激しさを増した応酬は続く。砂塵の中より数多の光弾がオルバス目掛けて飛来する。必要最低限を打ち払った彼は、それが牽制だと見切っている。頭上からの急襲も難なく対応し、返しの一手がトワの毛先を掠めた。

 ならば、とトワは自身を加速させる。星の力を解放した彼女の身体能力は常人の比ではない。先ほどまでよりも格段に速さを増し、残像すら発生させる勢いで縦横に斬りかかる。

 だが、それすらもオルバスにとっては危なげなく捌ける範疇だ。いかなる角度から襲い来ようと確実に防ぎ切る。無駄のない足運び、極限にまで高められた剣の冴え、あらゆる感覚を駆使して実現する未来が見えているかのような読み。老躯に刻まれた経験と鍛錬が不可侵の結界を成し、超常の力さえも悉く跳ね返す。

 末恐ろしいほどの先読みはついに先の先を制す。振り抜くよりも先に剣を捉えられたトワは動きを抑え込まれ、その高速機動を止めざるを得なくなる。弾かれて僅かに体勢が崩れた瞬間、宙に軌跡を描くオルバスの剣。トワは遮二無二に自身を覆う障壁を展開した。

 避けるより防ぐことを選んだのは正しかった。一拍を置いて吹き荒れる斬撃の嵐。星の力の守りは嵐をトワへと通さなかったが、それは決して絶対の守護ではない。斬撃が収まるや否や繰り出されるオルバスの居合一閃。障壁は砕け散り、吹っ飛ばされたトワは砂浜を転がる。

 

「力に身を任せては読まれ易くなる。自らの動きの中に力を取り込むのだ」

「はいっ!」

 

 ミトスの民の力は強大だ。並大抵の相手なら容易く薙ぎ払えるほどに。だが、それは格下に対しての話。自身を上回るもの、それこそ達人クラスの相手になると単なる力押しでは通じなくなる。

 ただ力に頼るだけでは頭打ちになる。力を己のうちに取り込み、使いこなす。それがトワ・ハーシェルという剣士が成長するために必要なことだ。

 転がる勢いのままに跳ね起きたトワは果敢に立ち向かう。受けた教えを咀嚼し、試行を繰り返しては絶えず自身に修正をかけていく。オルバスはそんな弟子の剣に揺らぐことなく応え続けた。

 

「帰って早々に騒がしいと思ったら、派手にやってんなぁ」

 

 激しさを増す鍛錬を茫洋と眺めていたクロウたち、その背中から聞こえた声に彼らは肩を震わせた。振り返った先、岩に埋もれた形の遺跡の入り口からしばらくぶりに見る顔が覗いていた。

 

「お帰りなの、シグナ」

「おう、お前もな。実習班の連中も久しぶりだ」

「お、お久し振りです……そういえば、今日明日の内に帰ってくるって聞いたような」

 

 帝都実習以来の対面となる遊撃士にしてトワの伯父、シグナが相変わらず飄々とした調子で再会の挨拶をしてくる。朝食時にアーサが彼も近いうちに帰郷すると話していたことを思い出しながらも、三人も慌てて挨拶を返した。

 それにしても心臓に悪い登場の仕方をしてくる人である。帝都での時でもそうだったが、人を驚かせたがる悪癖でもあるのだろうか。

 

「聞いていたより早いお帰りですが……うん? というか船も無しにどうやってお帰りに?」

「それもそうだが、どうして遺跡から出てくるんだよ。実は先に帰ってきていたのか?」

 

 残され島への経路はクロウたちも乗ってきた連絡船のみ。それが今朝に到着して未だ停泊中であるのに、シグナが今しがた帰ってきたというのは理屈が通らなかった。その道理を無視したところで、どうして遺跡の中からひょっこり現れたのか疑問が募る。

 

「この遺跡は俺と師匠の家でもあるんだが――ま、帰り方については裏技みたいなもんだ」

 

 ひょいと肩を竦めるシグナ。そうやって疑問を躱した彼は熾烈な鍛錬風景へと目を向けた。

 

「お前たちはあれに混ざらなくていいのか? 待ち惚けも暇だろう」

「まあ最初はトワをって感じだったけど、クロウたちの相手もしてくれると思うの」

 

 ジョルジュが顔を青く染め、クロウは目に見えて嫌そうな表情を浮かべる。砂塵舞い散り爆音響く師弟のぶつかり合い。そんなところに誰が進んで立ち入りたいと思うだろうか。無理とは言わずともできる限り遠慮願いたい。

 厳しい鍛錬も苦とはしないアンゼリカではあるが、今ばかりは男子二人に同調する。実習はまだまだこれから――というより、始まって間もない。目に見えて苦労が先に待ち受けているというのに、初っ端から体力を消耗しようとするほど彼女も考え無しではなかった。

 

「お気遣いはありがたいのですが、実習も先が長いので――」

「そう遠慮するな。少し揉んでやるくらい済ませるからよ」

 

 しかし、大変余計なお世話なことに目の前の中年オヤジは勝手に話を進めてしまう。緋色の大剣を抜き放つや「ふんっ!」と唐竹に振り下ろす。先ほどのオルバスの神風にも劣らぬ紅蓮の一撃が砂浜を断ち割り、斬り結んでいた二人を分かって視線をこちらに向けさせた。

 

「シグナか」

「伯父さん、お帰りなさい。でも普通に声掛けてくれてもよかったんじゃないの?」

「はは、悪い悪い。それよりお仲間を待ち惚けさせるのも酷だろう」

 

 随分なご挨拶に対して姪っ子から白い眼が向けられるが、それをものともせずに話を続ける。

 

「この老骨に全員を相手にするのは厳しいのだがな」

 

 仏頂面のままにそんなことを宣うオルバス。白い眼が今度はそちらに向けられる。

 老骨などどの口が言っているのやら。ご老人というのはあれだけの大立回りをしておいて息一つ切らさずにいるような輩を指す言葉ではない。

 

「じゃあ俺も加わろう。二対四、丁度いいじゃないか」

「え」

「ふむ……私は構わん」

 

 構う、凄く構う。何やらあっさりととんでもないことを言い出されてトワは慌てふためいた。《剣豪》に《星伐》、明確に格上の二人を相手にする? どう考えても肩慣らし気分で臨める試合ではない。

 仲間に目を配れば、三人そろって猛烈な勢いで首を横に振っている。絶対に断れ。そんな強い想いが滲み出ていた。

 

「えっと、流石に伯父さんは遠慮してほしいなぁ、なんて」

「つれないことを言うなよ。師匠一人じゃ俺が退屈になるだろうが」

 

 駄目だ、このオッサン。こちらの都合なんて考えていやしない。色々と言葉を弄してはいるが、結局は自分も混ざりたいだけだ。

 止めない祖父も祖父だ。差し詰め、絶望的な状況でどこまで抵抗できるか見極めようとでもしているのだろう。スパルタすぎて涙が出てきそうな思いである。

 これはもう思い留まってもらえるような雰囲気ではない。クロウたちには悪いが、諦めてどうにか頑張ってもらうしかないか――と考えていたところで、砂浜に降りてきた人影に気付いた。

 

「あら兄さん、お帰りなさい」

 

 柔らかい、しかし、底冷えするような声だった。

 びくりと身動ぎしたシグナがぎこちない所作で振り返る。他ならない彼の実妹が笑みを湛えてそこに立っていた。

 

「よ、ようクレハ。こんなところまでどうしたんだ?」

「兄さんが珍しく早めに帰ってきたようだから、トワたちの様子を見るついでに迎えに来たの」

 

 誰もが見惚れるような微笑であることは朝食時と変わりない。なのに、どうしたことだろう。温かだった先ほどとは異なり、今は身も心も凍り付きそうなほどに寒気がする。クロウたちは訳も分からずに硬直し、トワやノイ、オルバスは冷や汗を垂れ流した。

 

「――それで、何をしようとしていたの?」

 

 問い掛けの形を取っているが、彼女は間違いなく状況を把握していた。オルバスと並び剣を抜いた兄、顔色の悪い仲間を背に困り顔の娘。これだけで凡そのことは分かる。どうせまたシグナが無茶を言ったのだろうと。

 圧力のある笑顔の妹を前にシグナは目を泳がせる。こうなってしまうと彼は弱い立場だ。娘ができてからというものの、母親として色々と強くなったクレハには頭が上がらない。

 

「ま、まあ何だ。どれくらい成長したもんか確かめようとだな。はは……」

「そう、わざわざ二人がかりで」

「……おや、雲行きが」

 

 笑って誤魔化そうとするシグナ。更に笑みを深めるクレハ。アンゼリカがふと空を見上げると、快晴だった空に黒い雲が立ち込めゴロゴロと雷鳴を響かせていた。

 

「お義父さん?」

「いや、うむ……興が乗りすぎた。済まん」

 

 威厳のある姿はどこに行ったのやら。娘の一睨みでオルバスは縮こまった。《剣豪》の名もこんな時はまるで役に立たない。

 完全に場を制したクレハがトワたちの方へと目を向ける。そこに兄へ向けていた圧迫感はなかったが、頭上の雷雲を思えばトワ以外の三人が緊迫の面持ちになるのも無理はない。彼女は申し訳なさそうに眉根を下げた。

 

「兄が迷惑をかけてごめんなさいね。トワ、ここはいいからライラのところに行ってあげて」

「うん……程々にね」

「それは兄さん次第よ」

「ご尤も、なの」

 

 せめてもの情けに手加減するように言ってみるが、その返答は至極当たり前のすげないものだった。反論の余地もなく、ノイは神妙に頷くのだった。

 ここでの用件は済んだ。巻き込まれないうちに村の方へと戻るとしよう。トワがそう促せば、全員がすたこらさっさと遁走を開始する。何も言わずとも理解していたのだ。いち早くここを離れることが最善の選択なのだと。

 去り際、助けを求める伯父と目が合う。だが、こうなってしまってはどうしようもない。ただ手を合わせて謝意と無事の祈念とし、彼女も仲間たちの後を駆け足で追う。

 

「なあ、勘弁してくれよ。これでもトワたちのことも考えてだな――」

「人のことを考えるなら、あれこれ無茶を言うのをやめなさい!!」

 

 背より怒声が響き、轟音が空気を引き裂く。雷が落ちたのだ、色々な意味で。

 母は強し。振り返りもせずに足を動かすクロウたちの胸にはその言葉が克明に刻まれるのだった。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

「うわ……あの砂浜の辺りだけ空が黒い」

「おっかねえ。美人を怒らせると怖いってのは本当だな」

 

 建物が集まる島の中心部まで戻ってきた試験実習班。ここまで来たところでようやく振り返り、青々とした空にぽっかりと浮かぶ黒雲に顔が引き攣る。あの下では女神の怒りに触れたシグナがこっ酷くやられているのだろう。

 明らかな異常事態ではあるが、島の人々にとってはよくあることらしい。気付いて立ち止まりはするものの、何が起こっているか分かるや「またか」と苦笑い。それだけで済ませて日常に戻っていく。稲光が迸ろうと知らぬ顔である。

 

「あの調子だとお説教も長引きそうだね」

「自業自得なの。まったくシグナも懲りないんだから」

 

 やれやれと言わんばかりに首を振るノイ。確かにシグナ自身の招いた事態であるが、なんとも薄情なことである。彼の家庭内におけるヒエラルキーが推し量れた。

 怒りの雷に見舞われることになったシグナはさておき、次なる依頼主のもとへとトワたちは向かう。宿酒場からの頼みという話だが、いったいどんな依頼になるのやら。

 

「そういや、こんな田舎で宿酒場なんてやっていけてんのか?」

 

 道中の長閑な光景を眺めていたら気になったのか、クロウがそんなことを尋ねてくる。帝国本土から遠く離れた残され島。ただでさえ隔絶されているうえに、諸々の秘密が隠されていることから人の往来は少ない。宿酒場として経営が成り立っているのかという懸念は尤もだ。

 

「島の皆で集まったりもするから経営にはそんなに困っていないけど……宿としては昔に比べて寂しくなっちゃったみたいだね」

 

 稀少な星の欠片の産地として商人が訪れたり、遺跡が降ってくるという噂に惹かれた観光客も以前はそれなりにいた。島唯一の宿屋としてそれらの客人を迎え入れ、相応に繁盛もしていたと聞いている。

 ただ、それは《流星の異変》よりも前のこと。テラが落着し、秘蹟が暴かれることを望まない教会の意向によって残され島は世間から隠されるようになった。ごく稀に風聞を耳にした物好きが訪れることもあるが、客人の数が明確に減ったのは間違いない。

 日々の食事や時折集まっての酒宴など、今では島における食事処といった性格が強い。宿屋としては閑古鳥が鳴いて久しいのが事実であった。

 

「でも別の意味で賑やかになったから、むしろ今の方が忙しいかも」

「ほう、謎かけかな?」

「あはは、そういうものじゃないけれど」

 

 別にトワは言葉の綾か何かで口にしたわけではない。その通りの意味で賑やかになっているからこそ、昔よりも多忙ではないかと思うのだ。

 それが何を指すかを説明する必要はあるまい。話をしている間に目的地には到着していた。《月見亭》、年季の入った看板が傍に立つ建物が件の宿酒場だ。勝手知った様子で扉を開けて中へと入っていくトワにクロウたちも続く。

 

「おはようございまーす」

「へえ、なかなか良い雰囲気……」

 

 目に入ってくるキッチンにカウンター、奥に並ぶ客席。これといった特徴らしいものは無いが、落ち着いた調度の素朴で温かな雰囲気だった。

 しげしげと観察しながらも奥へと進もうとする。その時、不意に幼い声があがった。

 

「あっ、トワねーちゃんだ!」

「本当だ! お帰り、おねーちゃん!」

 

 最初の声を皮切りに奥の部屋から子供たちが飛び出してくる。トワは瞬く間に元気盛りな子たちに取り囲まれ、終いには飛びついてきた一人を受け止めてぐるりと一回転、勢いを殺して床に降ろす。賑やかな出迎えに彼女は自然と顔がほころんでいた。

 

「ただいま。みんな元気そうだね」

「なあなあ、ねーちゃん。学校ってどんな感じだった? 楽しい?」

「この前に砂浜で綺麗な形の星の欠片を見つけたんだ! 後で見せてあげる!」

「クレハさんと同じ色の髪! やっぱりおねーちゃんそっちの方が綺麗よ!」

「ああもう、元気なのは分かったから」

 

 片手で収まらない数の子供にもみくちゃにされるトワ。四方八方から押し寄せる声に苦笑いを浮かべながらも、どうにかこうにか対応している。これだけ殺到されては彼女にとっても骨が折れる様子だった。

 片や大人気の一方、クロウたちは突然のことに置いてけぼり。目を瞬かせて子供たちの濁流にあっぷあっぷしている友人を眺める他にない。

 この宿酒場で暮らしているのだろうか。とんでもない子沢山の大家族――にしては、顔立ちや髪色がばらついている。島の子供たちが集まるところなのか、それとも別の理由があってのことなのか。

 

「あー、すんません。騒がしくしちゃって。トワ姉の友達っすよね?」

 

 内心で首を傾げていると、横合いから声が掛けられる。十三か十四歳くらいの黒髪の少年が申し訳なさげに頬を掻いていた。見た目からして東方系らしき彼は、子供たちの中でも年長的な存在と察せられた。

 

「子供は元気なのが一番さ。それより、ここは宿酒場じゃなかったのかい?」

「まあ、そうなんすけどね。身寄りのない子供を引き取ったりもしているんすよ。客がいなくて部屋も余っているからって」

「つまり孤児院というわけか……なるほど、これは忙しいや」

 

 今の方が忙しいかもと言っていた意味を理解する。下手な客の相手よりも子供たちの面倒を見る方がよほど大変だろう。今まさにてんてこ舞いになっているトワを見れば、それがよく分かる。

 

「帰ってきた途端に騒々しいわねぇ。ほらほらチビッ子たち、いい加減にねーちゃんを離してやんなさい」

 

 遅ればせる形で宿酒場の主人らしき女性が姿を現した。年齢としてはナユタと同年代くらい。ショートカットにした赤毛が印象的な彼女は、久方ぶりの姉貴分との再会に湧く子供たちに対して手を叩く。

 しかしながら、子供というのは聞き分けがいいとは限らない。よほどトワに懐いているのだろう。総じて「えー」と不平不満の声を漏らす彼ら彼女らはそう簡単に納得しそうになかった。

 

「皆、これから洗濯物を干したりする予定だったでしょ。サボりはいけないんだからね」

「うっ……」

「そ、それはそうだけど」

 

 そこに奥からひょっこりと顔を覗かせた黒髪の少女が窘める。少年と同じく東方系らしい彼女は子供たちのまとめ役なのかもしれない。幼い瞳に迷いが浮かぶ。

 

「今日の用事が終わったら、いっぱいお話してあげるから。シオリちゃんと一緒にお手伝い頑張って」

 

 トワの説得も重なって子供たちはようやく包囲網を解いた。名残惜しそうにしながらも文句は零さないあたり、根は良い子ばかりであることが分かる。シオリと呼ばれた少女に続いて家事の手伝いへと向かっていった。

 ふう、とトワが息を一つ。それを見て黒髪の少年がニヤリと笑みを浮かべた。

 

「安請け合いしちまったな。後が大変だぜ、トワ姉」

「むっ……仕方ないじゃない。コー君は手伝いに行かなくていいの?」

「朝飯の当番だったから今は空き時間だよ。強いて言えば、この場でもてなすのが仕事」

 

 そのやり取りから気の置けない関係であることが分かる。しっかり者の姉と可愛げのない弟といったところか。比較的歳が近い分、他の子たちよりも気安さのようなものがあるのかもしれない。口元をへの字に曲げるトワはなかなか珍しかった。

 

「じゃれ合っていないで向こうの席にでも座りなさい。友達を突っ立たせるもんじゃないわよ」

 

 もてなすというのならしっかりもてなせ。赤毛の女性からのお言葉に二人揃って「はーい」と粛々と従う。肝っ玉母さんといった印象の彼女には逆らわない方がいいのだろうな、とクロウたちにも何となく想像がついた。

 そんな彼女から「ああ、そうそう」と声が掛かる。友人たちを適当な席に案内していたトワが振り返ると、ニカッと溌溂な笑みが向けられていた。

 

「お帰り、トワ。元気そうで安心したわ」

「――うん。ただいま、ライラさん」

 

 

 

 

 

 宿酒場《月見亭》、またの名を《バートン孤児院》。どこぞの中年オヤジが仕事先で考え無しに拾ってきた子供を引き取ったのがその始まりだ。ナユタの幼馴染にして女将のライラ・バートンは昔から面倒見のいい性格である。引き取ったのは宿として暇を持て余していたのもあったが、何より身寄りのない子を放っておけなかったのが一番だろう。

 子供のたちの『家』となることはもとより、将来的な自立の助けとなるべく手を尽くしている。残され島は辺鄙な離島であるが、幸いにして人材には事欠いていない。身を守る武術は老剣士が手ほどきし、進む道を拓く学問は変わり者な博士が教鞭をとった。子供の未来のために労苦を惜しまない島の人々の善意でそれは成り立っている。

 そうして幾人かの子供たちを迎え、巣立ちを見送ること二十数年。今日もライラは手のかかる子たちの成長を見守っている。無論、それにはトワも含まれていた。

 

「しっかしまあ、濃い面子ね。名門校だっていうから生真面目な坊ちゃん嬢ちゃんばかりかと思っていたけど」

「いやはや、そう言われると面映ゆいものがありますね」

「アン、たぶん褒められてないよ」

 

 生まれた瞬間から世話を焼いてきたその子が連れてきた友人に、ライラは半ば呆れ眼を向けていた。二、三の言葉を交わしただけで分かる癖の強さ。都会の学校で上手くやれているのかと気を揉んでいたところに現れたのがこれである。手紙で知っていたとはいえ、実物を目にすると何とも言えない気持ちになる。

 こう言ってしまうとトールズが変人の巣窟のように聞こえてしまうが、試験実習班はその中でも際物の集まりである。生徒全員が一癖も二癖もある人物というわけではない。

 

「そこはほら、トワだから仕方ないの」

「あー……トワ姉だからなぁ」

「類は友を呼ぶということね」

「凄い失礼なことを言われている気がするんだけど……」

 

 物言いたげな目を向けるトワであるが、自分もその際物の一人であることは自覚しなければならないだろう。小さな見た目に反して優れた剣の腕前、呆れ返るほどのお人好し具合、極めつけに超常の力を振るうミトスの民である。むしろ彼女が頭一つ飛び抜けているのではないか。

 単なる偶然か、それとも集まるべくして集まったのか。個性が豊かすぎる試験実習班の面々。一見ちぐはぐのようで、どこか息があっている。そんな彼女らを見てライラはふっと頬を緩めた。

 

「ま、楽しくやれているのなら何よりよ。いい友達なんでしょ?」

「――うん。みんな大切な友達だよ」

「ったく、こっ恥ずかしいこと言いやがって」

 

 そうやって面と言われるとこそばゆいものがある。表裏なく自分の気持ちを素直に口にできるトワにはたまに困らせられるが――悪い気はしない。

 

「いいなぁ。素敵な学院生活を送れているんだね、トワ姉さん」

「みししっ」

 

 談笑の中に新たな声が混じる。先ほど子供たちをまとめていたシオリという少女だ。洗濯物は一段落着いたから顔でも出したのだろうか。周りに他の子供がいないことを認めると、トワに『コー君』と呼ばれていた少年が問い掛けた。

 

「チビたちは?」

「今は部屋の掃除をしてもらっているとこ。コウちゃんは皿洗いやったの?」

「今はいいだろ。トワ姉たちが行ったらやる」

「みし~」

 

 どうやら少年――コウは仕事を後回しにしてこの場に同席していたらしい。そんなことだろうと思っていたのか、シオリは「もう、コウちゃんってば」と文句を零しながらも苦笑い一つで済ませている。大らかなことだ。

 これが二人の間だけで済むのならよかったのだが、コウにとって不幸だったのは里帰りしてきた姉貴分がいたことだろう。聞き咎めたトワはムッと眉を吊り上げた。

 

「いいですか、コー君。そうやって後回しにしているとサボり癖がついちゃうんだからね」

「はいはい、以後気を付けます」

「『はい』は一回でいいの!」

「みし、みししっ」

「『まったく、やれやれね』とのことなの」

「いつものことじゃない。あれこれ言う気にもならないわ」

 

 賑やかしくも微笑ましい光景。いつもならクロウがお姉さんぶるトワを弄ったりアンゼリカが悶えたりするところだが、この時は別の方へ意識が向いていた。先ほどから珍妙な鳴き声をあげている生き物。シオリが抱きかかえてきたそれにジョルジュも含め、三人は目を奪われていた。

 

「あの、その猫っぽい生き物は……?」

 

 大きさは小型犬くらい。白と灰色の毛並み、丸っぽい頭には妙に気の抜ける感じの顔がくっついている。みしみしと鳴くそれをジョルジュは猫っぽいと評したが、明らかに猫とは異なる生物だ。

 その珍獣はどこかで見たような覚えがある造形をしていた。既に心当たりはついている。ただ、その心当たりと目の前の光景が現実に反しているだけに、三人は奇怪なものを見る目とならざるを得なかった。

 

「この子? 『みっしぃ』のみしーっていうんだけど」

「みししっ」

 

 そんな彼らの心中など露知らず、トワは「可愛いでしょ?」と小首をかしげる。対するクロウは鈍い頭痛を感じて眉間を抑えた。

 

「なんでマスコットのリアルバージョンがこんな島にいるんだよ……」

 

 エレボニア帝国の東部に位置するクロスベル自治州、そこで人気のマスコットキャラが『みっしぃ』だ。クロスベルは帝国でも人気の観光地、ツアー旅行の広告などでその姿を目にすることはしばしばある。

 その同名のマスコットと珍獣は瓜二つだった。ウザ可愛い感じが特に。架空のキャラクターだと思っていた存在を目の当たりにして生じる得も言われぬ感情。頭が痛くなるのも仕方がない。

 

「なんでって言われてもね。いつの間にか島に居ついていたのが、いつの間にか繁殖していて……」

「気が付いたら島のみんなのペット的なポジションに収まっていたんだよな、こいつら」

 

 とはいえ、島の人々にとって本土を挟んで遠く東の自治州のことなど与り知らぬこと。どこか謎めいたところのある生物だが、人に害をなすでもなし、大人しいうえに賢いこともあってなし崩し的に可愛がっているようだった。

 

「島の固有種というわけでもないし、クロスベルでも知っている人がモデルにしたんじゃないかな」

「あなたたちも知らぬ間に有名になったものなの……『あたしの知ったことじゃないわよ』って? そりゃそうなの」

 

 ノイとみしみし鳴きながらやり取りしている様を見て、クロウたちはみっしぃについて深く考えることをやめた。下手に関わり合いになると頭がどうにかなりそうだ。これはそういうものだと受け入れるのが精神衛生上一番である。

 そうやって目を背けようとしたというのに、今日の空の女神は意地が悪いらしい。シオリが次いで口にした言葉は彼らを逃がさないものだった。

 

「実は、トワ姉さんたちにお願いしたいのはみっしぃたちについてなの」

「そういえば、みしーるがいないね」

「……そのみっしぃとやらは他にもいるのかい?」

 

 話の中で薄々察してはいたが、みっしぃは一匹だけではないようだ。依頼主であるライラが「まあね」と頷く。

 

「そこのみしーと、みしーるっていうもう一匹がいるんだけどね。そっちの方がここ数日ばかり姿を見せていないのよ」

 

 普段は二匹で残され島をうろついているというみしーとみしーる。その片割れがこのところ見かけない日々が続いていた。ニ、三日ほどならふらっとどこかにいなくなるのも珍しくはないのだが、それが一週間近くともなると心配な気持ちも湧いてくる。

 行方が分からないみしーるの捜索、それがトワたちへの依頼だ。クロウたちには生憎だが、この珍妙な生き物と今しばらく付き合う必要があるようだった。

 

「島の方は俺が一通り探したけど見つからなかったから、たぶんテラの方にいるんだと思う。トワ姉たちはそっちを頼む。こっちももう一回洗い直してみるからよ」

「分かった。ねえみしー、みしーるがどこに行ったか知らない?」

「みし、みししっし」

「うーん、そっか。私も無事でいるとは思うけどね」

 

 ごく自然にみしーと言葉を交わすトワに何とも言えない視線を注いでしまう。賢い生き物とは相応に意思疎通ができるとは知っているが、その絵面はシュール極まりないものだ。

 

「……あれ、何て言っているのかな?」

「『知らない。生き汚い奴だし、無事ではいるんじゃない』だって」

「さっきから思っていたが、見た目の割にキツイ性格してんな……」

 

 ノイの通訳を聞いて頬が引き攣る。マスコット的な見た目に反して中身はなかなか刺々しいようだった。

 色々と精神的に疲れる内容であるが、依頼自体は承った。テラのどこかにいるであろうもう一匹のみっしぃを探し出すこと。手伝いを頼みたいというナユタもそちらにいるということだし、依頼に対応していく流れとしては悪くない。

 

「それじゃあライラさん、行ってきますね。あっ、コー君はちゃんと皿洗いを終わらせてから行くんだよ」

「分かってるっての。トワ姉もうっかりこけたりするなよ」

「もう二人とも……クロウさんたちも気を付けてくださいね。トワ姉さんとノイさんがいれば平気だと思いますけど」

「怪我しないでちゃんと帰ってきなさいよ。今晩はウチを貸し切りにしてあげるってアーサさんと約束してあるんだから」

 

 少しばかり不安を煽られたり、夕食を期待させられる言葉に見送られ、先導するトワに続いて三人も《月見亭》をひとまず後にする。

向かう先はテラ。トワやノイのルーツが秘められた巨大遺跡、謎に包まれたそこへいよいよ立ち入る時が来ていた。

 



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第58話 星の観測者

FE風花雪月を四周したり、新大陸でハンターやっていたりしたら三か月たっていました。まだ監獄都市の冒険にも繰り出さなくてはいけないので、今後も亀更新になると思います。


 いざテラへ向かう段になり、トワは自宅へと戻る道を再び辿っていた。いったいどのようにしてあの遺跡の中に入るのだろうか。首をかしげながらも、身を任せるほかにないクロウたちは黙ってついていく。絶対に常識的な方法ではないのだろうな、とこの時点で想像はついていた。

 自宅も通り過ぎ、彼女が足を止めたのは先刻にテラの威容を目の当たりにすることになった崖先、そこにそびえる大樹の前だった。あまり時間は経っていないが、改めてこの光景を見ても圧倒されてしまう。

 

「うーん、とてもじゃないけど慣れそうにないね」

「よくもまあ、こんなデカブツが落っこちてきて無事だったもんだ。この辺の島全部沈んでもおかしく無かったろうに」

 

 あんな桁違いの大質量だ。落下の余波でシエンシア諸島一帯が沈没するのはもとより、ゼムリア大陸西岸が大津波に呑み込まれていても不思議ではない。現実にはその一切が無事となれば、クロウの感想は尤もだった。

 

「あの時は本当に必死だったんだから。話せば長くなるけど……上手くいったのが不思議なくらいなの」

 

 しみじみと呟くノイは思い出すだけで疲れると言わんばかりの様子。詳しい状況は分からないが、相当に切羽詰まっていたことは眼前の光景を見れば理解できる。テラの周囲を覆うように凍り付いて固まった波濤、これがそのまま打ち付けていたら残され島はひとたまりもなかったに違いない。

 それが今こうして立っていられるのは、文字通りの神業によるものなのだろう。トワと同じ白銀の髪を持った二人が脳裏に浮かぶ――説教のたびに雷を落とすための力ではないのだ、多分。

 

「気にはなるが、それは置いておこう。結局、どうやってテラに入るんだい?」

 

 仕切り直して今の状況へと意識を向ける。ここからテラはよく見えるが、数歩進めば崖である上に、間に海も隔たっている。異様なスケールから勘違いしやすいだけで、その距離は決して近くはない。よしんば近付けたとしても、分厚い氷の壁があっては入り口があるかも定かではなかった。

 下からが難しいとなると、やはりトワの力で空を一つ飛びでもするのだろうか。自然とそんな考えが浮かぶあたり、三人もなかなか毒されてきている。

 

「テラに行くにはこの『門』を使うんだ」

「『門』って……その木に埋まっているやつか?」

「うん。今開けるから待っていて」

 

 ところが、その想像は外れていたらしい。トワの視線の先にあるものを認め、クロウたちは揃って頭に疑問符を浮かべた。

 先ほどもチラリと目にした大樹に取り込まれた遺物。呼び名に違わずアーチ状の門のような形状をしているが、その奥に見えるのは木肌ばかり。歯車のような装飾がついていたり他のものに比べて原形を保っているものの、それだけだ。クロウたちには島に散見される遺物の一つにしか見えなかった。

 言って聞かすより見せる方が早いとばかりにトワは行動に移る。おもむろに門へ手のひらを向けると、そこに淡い光を灯す。

 

「ミトスの名において命ず、庭園への道を開け」

 

 紡がれる言霊、それを合図に遥か昔の遺物は息を吹き返す。唸り声をあげて回り始める歯車。いったい何が起きるのか、そう思った矢先に門が強く発光し反射的に目を逸らした。

 強い発光は一瞬のこと。視線を戻すと、門は完全に起動を果たしていた。アーチの奥に見えるのは木肌ではなく薄いカーテンのように揺蕩う光。規則正しく回る歯車とそれを認め、トワは満足げに頷いた。

 

「お待たせ。それじゃ行こうか」

「別に危なくはないから安心してついてくるの」

 

 軽い調子で先を促すトワとノイ。普段の歩調のままで門に向かい、光の波に触れると同時にその姿は呑み込まれるように消え去った。残されたのは変わらず光を放つ門に、目まぐるしい事態に気持ちが追い付かないクロウたち。穏やかな潮風に交じってため息がこぼれた。

 

「僕たちはあと何度驚かされればいいんだろうね」

「さあな。俺はもう諦めたぜ」

「私はなんだか楽しくなってきた。トワと共にいざ行かん!」

 

 やけにテンションを高くしたアンゼリカが門へと駆け込み、同じく光に包まれて姿を消す。現実逃避というよりかは開き直りなのだろう。彼女の場合はトワが関わることなら何にでも喜んで突っ込んでいけるのだから。常識を二の次にできる精神性がこの時ばかりは羨ましい。

 生憎と男性陣はそう易々と常識を投げ捨てられる性質ではない。いったい誰がこんな家のそばに転がっている遺物が生きていると思うのだ。しかも門は門でも『転移門』という代物などと。

 言いたいことは数あれど、ここで足踏みしていても仕方がない。あまり待たせて文句を言われるのも御免だ。再度の大きなため息を吐き、クロウとジョルジュも門の光へと足を踏み出していくのだった。

 

 

 

 

 

 光に呑み込まれ、一瞬の浮遊感が身を包む。ただそれだけの後、踏み出した一歩は見知らぬ土地へとついていた。

 いったいどこに飛ばされたのか、そんなことを考えるよりも先に眼前の光景に目を奪われた。静謐な石造りの庭園、そこを彩る豊かな緑に澄んだ水辺。どこか現実離れした美しさに声も出せぬまま見入ってしまう。

 

「《星の庭園》へようこそなの」

「綺麗なところだから見惚れるのも分かるけど、ちょっと門から離れてね」

 

 先に門を通過していったトワとノイがすぐ傍で待っていた。その言葉に「お、おう」と覚束ない返事をしながらも従う。クロウとジョルジュが門から離れると、トワは手を一つ振るう。それだけで門の光は消え失せ、単なるアーチ状の構造物へと変わった。

 

「開けっ放しにしておくと、やんちゃな子が入ってきたりするから。勝手に来たらいけないって教えているんだけど」

「はは……こんな場所があったら、子供たちにとっては絶好の遊び場だろうね」

「気持ちは分からないでもないけど、迷子になられたら困るの」

 

 こんな目を奪われるほどに美しい場所だ。好奇心旺盛な子供たちからしたら冒険したくて仕方がなくなるかもしれない。容易く想像できるだけにジョルジュは小さく笑みを浮かべ、実際に苦労したのであろうノイは渋い顔で首を横に振った。

 

「……ゼリカ? 何してんだ、そんなとこでボケっとして」

 

 ふと視線を巡らせると、ノリノリで突撃していったアンゼリカが少し離れたところにいた。四本の石柱が立つ傍で彼女は口を半開きにして呆然と何かを見上げている。先ほどからの落差もそうだが、こんな様子になるのも珍しい。

 気になって視線の先を追うクロウとジョルジュ。そうして彼らも思わず顎を落とす。

 天を衝く巨大な塔。いったいどれだけの高さがあるのか、いくら見上げようとも天頂は見えもしない。既存の建築技術では絶対に実現不可能な巨塔は、圧倒的な存在感をもってそびえていた。

 

 テラ自体もそうだが、あまりにもスケールが違いすぎて常識が音を立てて崩れていく気分だ。しかし、幾分か気分が落ち着いてくると気が付くものがある。

 どこかで目にしたことがあるような既視感。勿論、こんな現実離れどころか幻想的でさえある光景を実際に見たことがあるわけではない。思い起こされるのは五月半ばくらいのこと、トワのもとに実家から仕送りが届いた時に見たものだ。

 

「あの塔……確か、星の欠片に映っていた?」

「覚えていたんだ。そう、あれが《ヘリオグラード》だよ」

 

 星片観測機の実演がてらに見せてもらった幾つかの星の欠片。そのうちの一つに映っていたものに巨大な塔があった。あの蒼白い景色と今目の前にある光景は確かに符合する。

 あの時も見入ってしまったものだが、実物となるとやはりインパクトが違う。しばしの間、天を貫く巨塔からは目を離せなかった。

 

「心の準備はしていたつもりだったんだけどな……最初から度肝を抜かれた気分だよ」

「まったくだ。で、ここからどこに行くんだ?」

「みしーるを探すにしても、まずは手掛かりがいるよね。だから調べに行くんだ」

 

 初っ端からの途轍もない光景をひとしきり堪能したところで次の指針を尋ねる。対するトワの答えは筋の通ったものだった。

 行方不明のみっしぃを探すにしても、この広大なテラ――クロウたちには全容さえ掴み切れていない――を虱潰しにいくのは非効率極まりない。何かしらの手掛かりを掴んで捜索範囲を特定しなければ到底見つけることは出来ないだろう。

 理屈自体は納得のいくもの。ただ、その手掛かりをどうやって手に入れるというのだろうか。その答えがある行く先をトワは指差す。

 

「ヘリオグラードの根元、そこにテラの管理システムがあるんだ。みしーるの行方もきっとわかるはずだよ」

 

 

 

 

 

 星の庭園からヘリオグラード向けて伸びる林道を歩くこと数分。近付くにつれて巨大さを増していく塔の威容を見上げながらも、トワたちはその根元に設けられた施設に足を踏み入れる。しばらくの暗がりの後に空間が開がった。

 そこにあったのは叡智の結晶。精緻なプラネタリウムという言葉さえも安っぽく感じてしまうほどに現実と遜色のない星の海が瞬く空間。その中央に鎮座するのは巨大な幾つもの歯車の集合体。金色の燐光を放ちながらも稼働するそこには四色の光の流れが絶えず巡り、中央には天球に光の帯を纏う紋章が輝いている。

 何も言われずとも、それが途轍もない代物なのだと理解した。テラやヘリオグラードのように、その威容に圧倒されたのではない。神々しささえも感じる未知の遺物。それが放つ力の波動に息を呑み、ミトスの民に由来する超常的なものを肌で感じ取っていたのだ。

 

「これがテラの管理システム……」

「そう、《星の観測者(アストロラーベ)》。私の本体なの」

「こいつはまた……って、本体?」

 

 絶え間なく巡る歯車と力の流れに目を奪われていると、ノイから気になる言葉が。横合いからトワがその疑問に答えた。

 

「ノイを紹介するときに言ったの、覚えているかな。アストロラーベの神像っていうの。ノイの本来の役目はこれの管理人格としてテラ全体を守ることなんだ」

 

 神像とは、テラの要所を守る防衛機構にして管理するための高度な知性と人格を兼ね備えた存在。または管理者とも呼ばれる彼女たちは、テラを構成する欠かすことのできない者たちだ。

 このテラと神像を作り上げたのはミトスの民だが、今日この日まで十全に機能を保っているのは間違いなく彼ら彼女らの功績である。シグナとクレハが眠りについてより、およそ千年余りもの間、テラに生きる生命を守り続けてきたのだから。

 

 そんな大層な存在の一角であるノイであるが、今更になってそんなことを言われてもクロウたちとしては“口煩い小さな姉貴分”といった印象で固定化されている。伝承に聞く《七の至宝》に迫る古代遺物の管理者と知っても、この半年ばかりで定着したものが簡単に覆るわけもない。

 であるからして、大仰に驚くわけもなく三人の反応は淡白なもの。「ふーん」と軽く受け止めていた。自慢げに胸を張ろうとしていたノイとしては肩透かしを食らった気分だ。

 

「……ちょっと、もう少し何かないの?」

「何かって言われても……なあ?」

「ノイはノイだからね。君が何者だろうと、私たちの態度が変わるわけもないだろう」

 

 いい感じの言葉で丸め込もうとしているが、実際のところ驚き通しで一々反応するのに面倒臭くなってきているだけだ。残され島における現実離れした体験は彼らの感覚を麻痺させ始めていた。

 この機に自分の凄さをアピールしたかったのか知らないが、目論見が外れたノイは釈然としない様子。アンゼリカの言葉にも反論しづらく、不満げな顔で「むう」と唸り声を漏らすのみだった。

 

 そんなじゃれ合いをしていた彼女たちの間に入ってきたのは、どこからともなく響いてきた重々しい声だった。

 

『――戻ったか。ノイ、それにトワよ』

 

 突然のそれにジョルジュなどは身を硬くするが、耳にした瞬間に誰のものか理解していたトワとノイはむしろ表情を明るくする。

 トワたちの眼前に蒼白い光が広がった。一瞬の輝きだったそれが晴れた先にいたのは、彫りの深い顔立ちの男性の姿。長い金髪に白い装束、やや厳めしい表情はきっと素なのだろう。

 外見的には人間と変わりないが、きっと違うとクロウたちは確信していた。その身に纏う雰囲気が、あまりにも常人離れしたものだったが為に。

 

「ただいま、星座球。わざわざ迎えに来てくれたの?」

「代理とはいえアストロラーベを預かっている身、訪ねるものがいればすぐに分かる。息災のようで何よりだ」

「相変わらずお堅いの。まあ、それがあなたらしいんだけど」

 

 低い声を響かせる男と言葉を交わすトワとノイに遠慮はない。それ以外の三人としては妙な緊張感を抱かせる風格があるだけに、その鋭い双眸が向けられるにあたって身を硬くしかけた。

 

「そしてよくぞ参った、人の子らよ。ここに余人が足を踏み入れるのは久方ぶりのこと……もてなしの用意はないが、歓迎させてもらおう」

「ど、どうも……」

 

 向こうに威圧する気がないのは分かっているのだが、その冷厳な雰囲気にどうにも返答はぎこちなくなる。

 彼はいったい何者なのか。緊張気味な仲間たちにトワが紹介する。

 

「彼は星座球。アストロラーベと対を成すテラの核、《星座球》を司る神像だよ」

 

 神像、そう聞いてクロウたちは目を瞬いた。直近の話を聞いて抱いていたイメージが間を置かずして覆されたのだから。

 てっきり神像、もとい管理者というのは全てノイのような姿かたちを取っているものと思っていた。それに反して星座球は外見こそ成人男性と変わりない。身に纏う空気は常人ではないものの、ミトスの民の一人と言われた方が納得いくものだ。

 

「へえ……神像って一口に言っても色々あるものなんだな」

「ちょっと、その目はどういう意味なの?」

「……この身はかつて在った人の姿を映したもの。特殊なのは私の方だ」

 

 可愛らしい妖精と威厳を放つ偉丈夫。テラの根幹として対を成すにしては随分と落差がある。いや、対照的という意味ではその通りなのだが。

 そこに揶揄いの色を感じ取って眉を寄せるノイ。本人の言葉通り、星座球が特殊なだけで他の神像は非人間的な容姿が多い。とはいえ、その中でもノイが一際に小柄であるのは事実。それを口にしないでおく分別がトワにはあった。

 

 いくらか言葉を交わしたところで、星座球が踵を返す。おや、とトワは首を傾げた。

 

「もう戻るの?」

「顔を見に来たに過ぎない。実習、とやらだったか。必要があれば声を掛けるといい。手は貸そう」

 

 必要最低限、ただそれだけを告げて星座球は現れた時と同じように転移して姿を消した。どうやら本当に顔を出しに来ただけの様子。当人が言葉少なであることもあって、余計にあっさりと去ってしまったように感じる。

 

「どうも愛想のない御仁だね。いつもあの調子なのかい?」

「うーん……愛想が無いというか、下手に責任感が強いせいというか……」

「昔に色々あったみたいだから。今は一歩引いたところにいることが多いんだ」

 

 根は悪い人物ではないようだ。それとは別に、本人の心情から距離を置きがちなところがあるらしい。そんな同胞にノイは呆れ気味のようであるが、半ば諦めてもいるのだろう。あれはそういう性分だと。

 

 さて、と話を仕切り直す。

 アストロラーベの威容に圧倒されたり、星座球の登場に緊張したりもしたが、ここに来た目的はみしーる捜索の手掛かりを得ること。そろそろ手を付けるとしよう。

 絶えず駆動するアストロラーベ。その前に設置された祭壇のようなものに歩み寄る。付近の四本の柱には精緻な構造の歯車――ノイ曰く、《マスターギア》というらしい――嵌り、そこを通して色とりどりの光が周囲を巡っている。クロウたちには理解の及ばないものばかりだ。

 

「それで、結局のところどうやって探すのかな?」

「まずはどこの区域にいるか確かめないと。ログでみっしぃの反応を探してみるの」

 

 ここは神像であるノイの本領発揮である。祭壇の前で彼女の小さな手が宙にかざされる。

 変化は顕著だった。虚空に投影される幾つもの情報の奔流。現れては消えていくそれらの中から辛うじて読み取れるのは、この地に住まう多種多様な生物についてのものらしいということ。

 目まぐるしく流れていく情報量に頭が痛くなりそうだ。自分の目で状況を把握することを諦めたクロウは、眉間を抑えながら隣の少女に問うた。

 

「……どうなってんだ、こりゃ」

「テラ全土の管理履歴からみっしぃに合致するものを探しているんだ。そんなに時間はかからないと思うけど」

「そうか、このテラ全ての……え?」

 

 全土とは、その通りテラの全てを指す。小国にも匹敵する面積を誇る超弩級遺跡の全てだ。動物に植物、目に見えない微生物から魔獣に至るまで、この地に息づく数多の生命の悉くをアストロラーベは管理している。その中からただ一種、一匹だけのみっしぃを探し求める。

 広大な砂漠から砂粒一つを見つけ出すような真似だ。現代の導力演算機ではまず不可能だとジョルジュは胸中で断じる。そもそも、全生物の莫大な情報を収めるのにどれだけの記憶媒体が必要になるのか想像もつかない。

 ミトスの民の叡智の結晶はそれを容易く実現する。生物に留まらず環境までも管理し、それを意のままに操ることさえ可能とする古代遺物。迷子探しなどお安い御用でしかない。

 

「――見つけたの! 場所は《オルタピア》、数日前から居付いているみたいなの」

 

 はじき出される回答。映し出された映像には確かに月見亭にいたみしーと同じ、惚けた顔の猫っぽい姿があった。

 

「よかった、怪我はしていないみたい」

「それは何より。そのオルタピアというのはどこなんだい?」

 

 映像の中のみしーるという名の珍獣は緑豊かな土地で平然としているようだった。飼い主たちの気持ちなど知らずに呑気なものである。

 それはさておき、肝心の居場所について尋ねる。トワの目配せに頷いたノイが再び祭壇に手をかざすと、映像が移り変わって地上を見下ろす形のものになる。テラの上面視だ。

 

「いま私たちがいるのが中央の《星の庭園》。その四方に陸地があって、中でも豊かな植物で覆われているところが《オルタピア》だよ」

 

 遥か上空からの視点でも際立つ天を衝かんばかりの巨塔、それを擁する庭園を囲う形で存在する四つの陸地がテラの全容だった。いずれも異なる特徴を有していることが遠目にも地形から窺い知れるが、詳しくは赴けばわかることだろう。

 おおよその位置関係も把握したところで、迷子のみっしぃを捕まえに行くとしよう。また庭園から転移門を使うのだろうか。そんな三人の予想を裏切り、トワはおもむろに明後日の方向へ手をかざした。

 

「じゃあ早速行こうか。えいっ」

 

 その手の先に広がる金色の波紋。アストロラーベに刻まれたものと同じ紋章が輝くや、何もなかったはずの虚空に門が開かれる。

 あまりに軽い調子で出現してくれた光の門は、間違いなく件のオルタピアへと繋がっているのだろう。もはや驚くことはなくとも、感じざるを得ない軽い頭痛にジョルジュが眉間を揉んだ。

 

「ええっと……ミトスの民っていうのは、そんな簡単に転移術が使えるのかい?」

「あはは、テラは人工的な地脈が整備されているから。外だと流石に地脈の結節点とかにしか転移できないかな」

「自由に《精霊の道》が使えるってことじゃねえか、インチキ臭え……」

 

 星の力を司るミトスの民にとって、地脈の流れの中に道を作り出すことなど造作もないこと。自身らの手で創造したテラの中を自在に行き来できるくらい当然だった。

 何やらクロウがぼそぼそと言っていたが、ノイが「どうかしたの?」と聞いたところで彼は無言のままに首を横に振った。その表情にはどこか諦観が浮かんでいる。

 色々と自分が常識破りなのは理解しているが、トワとしては慣れてもらう他にやりようがない。どの道、この実習の中で細かいことは気にならなくなるだろうし、お構いなく進んでしまっても問題ないだろう。

 三人が聞いたら気を遠くしそうな結論のもと、トワはノイを伴って光の波紋の中に飛び込んでいく。クロウたちはそれに付き合う他に選択肢を持たない。それぞれ苦笑なり疲れた表情を浮かべながらも、後を追って深緑の大地へとその身を飛ばすのだった。

 



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第59話 密林の地で

積みゲーが片付いたので、ぼちぼち更新を再開していこうと思います。


 テラを巡る地脈の回廊。星に本来備わる地脈を模して造られたそれは、星の庭園を中心に四方の陸地に星の力を循環させる機能を担う。その地に存在する生きとし生けるもの全てを掌握し、時には環境すらも変え得るアストロラーベと直結したそれは巨大にして精緻。さながら蜘蛛の巣のように隙なく規則的に張り巡らされている。

 星の力に干渉するミトスの民にとって、その流れに乗り長距離を転移するくらい訳はない。本来の地脈であればこそ抜けられるポイントは限られるが、テラの地であればほぼ自由自在に行き来することが出来る。各所に転移装置こそ設けてあるものの、こちらの方がお手軽なのは間違いない。

 ちなみに、地脈を介さずに自身を霊体化させて瞬間移動するという荒業もある。これはもっぱら視界範囲の短距離転移に限られるものだ。長距離を転移しようとすると、身体を構成する星の力が分散してしまって元に戻れなくなるかもしれないから。物のついでにトワからこれを聞いた時のクロウたちは肝が冷えたものだ。便利な力も決して万能ではないということである。

 

 独特な浮遊感が終わり、霊的な道を抜ける。トワたちの身は既に星の庭園からオルタピアの地に移っていた。いったいどのような場所にやってきたのかと視線を巡らせるクロウたち。祭壇のような場所であり、何らかの構造物の中のようだった。

 とはいえ、壁が所々崩れて鬱蒼とした緑が侵入してきている。天井は存在せず青々とした空が広がっており、人の営みとは無縁の場所なのだろうと想像がついた。

 

「ここはオルタピアの管理塔だよ。みしーるを探す前に、ちょっと挨拶にね」

 

 曰く、テラに存在する四つの陸地にはそれぞれ管理を統合する塔が存在するのだという。各所の管理者もそこにいることが多いのだとか。

 はてさて、妖精から厳めしい男に続いて今度は何が現れるのやら。ここまでだけに色々とありすぎて、もはや何が来ても驚くまい。クロウたちが鷹揚に構えていると、祭壇の前にパッと光が瞬いてどこからともなく目当ての存在が現れた。

 

「久方ぶりの来客と思えば――かっかっか! 久しぶりじゃな、トワにノイよ」

 

 一見して子供のような姿だった。闊達に笑う顔は若々しく、身体的にも大きくはない。ただ頭から生える一対の角と後ろにゆらゆらと揺れる尻尾、それに胡坐をかいた格好で中空に浮かぶ様が人ならざる存在であることを告げている。

 

「ただいま、ギオ。元気にしていた?」

「前は数十年単位で顔を合わせないこともあったの。半年くらい大したことないでしょ」

「確かに。だがまあ、これも人の営みに混じった故か。時の流れも遅く感じるのじゃ」

 

 その若々しさに反して老成した言葉を使う彼こそが、オルタピアの管理者《仙翁》ギオ。半人半獣とでもいうべき様相に対し、クロウたちはこういう手合いもいるのか、と何と無しに思う。

 ノイと長命からくる人の感覚では理解しかねる会話を繰り広げていたギオ。その目が後ろの初対面である三人に向けられる。人好きのする笑みで彼は歓迎の気持ちを言葉にした。

 

「そこな人間の子らもよく来た。都会っ子にここいらは新鮮じゃろう?」

「はは……それはもう」

 

 離島としての残され島だけならともかく、この古代の神秘が色濃く残るテラは新鮮という言葉だけではとても表現できない。存在自体が新鮮な相手からの問いにジョルジュが苦笑いを浮かべた。

 

「しかし、数十年とは気が遠くなる。こうして話していると実感しづらいが、ノイもあなたも古代より生きる存在なのだね」

「うむ。とはいっても、ワシは過去に一度消滅しているのじゃがな」

「消滅って……あんたは今もここにいるじゃねえか」

 

 思いもしない発言に理解が追い付かなくなる。ギオは現実に実体をもって自分たちの前にいる。それが一度は消滅したと言われても腑に落ちない。

 当事者以外にとってその反応は当然だ。ギオは「まあ、そう思うじゃろうな」と一つ頷いて言葉を続ける。

 

「ワシも含め、四人の管理者は三十年前に本体の神像を破壊されて星の力に還ったのよ。今ある身はクレハ様とシグナがサルベージして再構築してくれたものじゃ」

 

 三十年前の《流星の異変》、彼ら管理者も無論のこと渦中に身を置いていた。そして、立場と使命から対立して刃を交えることも。結果として彼らが一度は実体を喪失し、精神を星の力に還したのは事実だ。

 今の管理者たちは異変の後にミトスの民の力によって再構築したもの。テラの星の力の流れに溶け落ちていた精神を回収して修復したのだ。以前の記憶も変わらずに保持しており、再び言葉を交わせるようになったことをナユタも喜んだものである。

 ちなみに神像を本体としていた以前とは異なり、現在はテラに依拠する精神体が管理者としての身体や神像を動かすという態を取っている。万が一、再び神像を破壊されようともその存在自体が脅かされることはない。

 そんなことを軽々しい調子で話されたクロウたちとしては気の抜けた声で相槌を返すくらいしかできない。サラっと途轍もないことばかりに直面してはそうもなる。

 

「とまあ、ワシのことはこれくらいでいいじゃろう。何か用があったのではないか?」

「あっ、うん。みっしぃがオルタピアから帰ってこないみたいで探しに来たの。ギオは何か知らない?」

「あのよう分からん生き物か。ここいらの近くにおればよいが……」

 

 千年を生きる存在にさえよく分からないと言われるみっしぃとはいったい何なのだろう。まったく奇妙という他にないが、自分たちでは与り知れないことである。猫っぽい謎の生き物、知っているのはそれだけでいい。

 余計なことを考えている間にもギオの手は進む。祭壇の前でアストロラーベと同じように浮かび上がったコンソールを操作していた彼は、しばらくしてこちらに向き直った。

 

「うむ、どうやら巨樹の群生地帯にそれらしい姿があるようじゃぞ。そちらから当たってみたらよかろう」

 

 目当ての珍獣の居場所はこれでかなり絞り込めた。この鬱蒼とした密林を当てもなく探し回るよりは余程楽になったに違いない。思ったよりもスムーズに事を運べそうで一同はホッと息をつく。

 挨拶ついでに手掛かりも手に入ったところで、そろそろ捜索を開始するとしよう。ギオの示した場所へと再び転移門を開く。もはや何も言わずに光の渦へと吸い込まれていく仲間たち。ギオにお礼と一旦の別れを告げてトワもその後を追う。

 

「ありがとうね、ギオ。また後でね」

「気を付けていくんじゃぞ――気張りすぎんようにな」

 

 それを見送る老成した瞳には、どこか気掛かりそうな色が浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 オルタピア、またの名を密林の大陸とも呼ばれるここは溢れかえらんばかりの自然に覆われている。草花に樹木の種類は数えるのも億劫なほどの数に上り、そこに住まう獣や鳥、虫なども多様性に富んでいる。園芸部のエーデルなら諸手を上げて喜びそうな環境だ。

 秋に差し掛かるこの季節、深い緑から色鮮やかな紅や黄に変わりつつある樹木の天蓋。ここ以外では絶対にお目に掛かれないだろう光景に、クロウたちは感動を噛み締めて……

 

「……おい、あそこにぶら下がっているのは何なんだ?」

「何って、ミノムシだけど」

 

 ――ばかりもいられないのが実情であった。

 

「冗談じゃねえ。いったいどこに一アージュ近いミノムシがいるってんだ」

「そこにいるじゃない。一応、分類としては魔獣になるから気を付けるの。近寄ると勢いをつけてぶつかってくるから」

 

 ふと視線を巡らせた先で目にした物体に文句をつけるが、トワとノイからの返答はにべもない。樹木の枝から糸を伸ばしてぶら下がる規格外の虫。刺々しい木片で形作られた蓑はまともにぶつかられたら冗談では済まないだろう。そんな女子供が目にすれば悲鳴を上げそうな魔獣も、先導する二人にとっては見慣れた光景であるらしい。

 

「だいたいここら辺の樹が馬鹿でかすぎるだろ。二百アージュは下らねえぞ」

「もう止めよう、クロウ。ここで常識を語っても意味はないよ」

 

そもそも今まさに歩いているところからしておかしい。どうして自分たちは地面ではなく馬鹿げた大きさの樹木の枝を渡り歩いているのか。ギオが巨大な樹木の群生地帯とは口にしていたが、それにしても限度というものがある。ルーレのRF本社ビルにも勝る樹高が林立しているとは夢にも思っていなかった。

 そんな肝が冷えるような高さの枝葉の上をトワはすいすいと進んでいく。足を滑らせてもノイが助けてくれるだろうし、何なら彼女は自力で飛ぶこともできる。こんな場所でも足取りが軽快なのも理解できるが、ついていく方は大変だ。

 枝から枝へと跳び移っていくトワをどうにか追いかける。それも件のみしーるを探しながら、である。加えて、突如として野生の中に放り込まれた彼らを緊張に晒すのはそれだけではなかった。

 

「しかし、やはり余所者だから警戒されているのか……襲ってはこないのかい?」

 

 刺さるようなものを感じて首筋をさするアンゼリカ。みしーるを探すのとは別に、その目は油断なく周囲を警戒している。森の至るところから漏れ出る獣の気配が一行の周囲を取り巻いていた。

 よくよく周囲を見渡してみれば、そこかしこから自分たちに視線を向ける影が。鬱蒼とした木陰から、或いは巨木の幹の洞から。如何にも獰猛そうな獣が、凶悪な外見の昆虫が、果ては異形の魔獣さえもがこの地に足を踏み入れた面々を見つめている。

 

「刺激したりしなければ大丈夫だよ。ちょっとピリピリしているだけだから」

「下手に縄張りに踏み込んだらその限りじゃないけど。無駄な争いごとが嫌ならしっかりついてくるの」

 

 どうやら広大な森林の中にも目に見えない線引きが為されているらしい。うっかり領域を犯せば鋭い爪や牙が襲い来るというわけだ。おっかない忠告に尚更トワを追う足を速めた。

 

「でも、こんなところでみっしぃの子は平気なのかな。襲われたらひとたまりもなさそうだけど……」

「賢いから上手く隠れられているだろうけど、どうして帰ってこないのかが分からないんだよね」

「魔獣の餌にでもなってなきゃ何でもいいさ。無駄足は勘弁だからな」

 

 とても大自然を生き延びる能力など期待できなさそうな見た目のみっしぃ。ジョルジュはその安否を心配するが、気の抜けた顔の割に頭は回るとのこと。そう簡単に外敵にやられたりはしないとトワは知っていた。だからこそ、こうして姿を消す事態になっているのが不可思議なのだが。

 樹上を渡り歩きながら捜索は続く。襲われるのを避けるためにも、獣たちの縄張りから外れたところに身を隠しているだろうと推測している。ちょうど今の自分たちと同じように。きっとどこかに手掛かりを残しているはずだ。

 幸いにして、結果はそう時を置かずして目に見える形で現れた。ごつごつとした樹皮の上にそれを認めたトワは、屈んでよくよく観察する。

 

「……うん、やっぱりみしーるの足跡だ。新しいものだから近くにいるはず」

 

 猫の足程度の大きさの妙にコミカルな肉球模様。森の獣にしては可愛らしすぎるそれは、間違いなく探し求める珍獣のものに違いなかった。

 

「それは重畳。で、肝心の子猫ちゃん……いや、猫ではないか。その子はどこにいるかな?」

「そうだね、この辺りでとなると……」

 

 きょろきょろと周囲を見渡したトワは頭にピンとくる場所を見つけると、すぐさまそちらへと足を向けた。樹皮の凹凸を足掛かりにするすると巨木を登っていく。男子二人はアンゼリカの手で強制的に後ろを向かされた。せめて一声は掛けてほしい。

 そんな仲間の心中は露知らず、あっさり目当ての高さまで登り詰めたトワはぽっかりと空いた洞を覗き込んだ。その中に案の定潜んでいた相手を見つけ、彼女は安心感から頬を緩めた。

 

「もう、こんなところに隠れて。皆心配していたんだよ?」

「みししっ!」

 

 こちらの言っていることが分かっているのかいないのか。ようやく発見したみしーるは怪我一つない姿で元気な鳴き声を上げる。肩の力が抜ける気分だが、無事なようで何よりだ。

 しかし、こんなところでいったい何をしていたのだろう。

 疑問に思いながらもみしーるを回収しようとしたところで、トワはその奥に何かいることに気付く。みしーるの影から姿を見せたそれに納得を覚え、一緒に木の洞から出してあげて仲間たちのもとへと降りていく。

 首尾よく捜索対象を肩に乗せて戻ってきたのはいいとして、オマケに抱えてきたのは何なのか。クロウたちの視線が集まるそこには、一羽の若鳥が警戒した様子で彼女の腕の中にいた。

 

「なるほど、帰ってこなかったのはそういう理由だったのか」

「みしっ」

「はいはい、あなたはよくやったの」

 

 外敵に襲われたのか、若鳥は翼を怪我して飛び立てないようだった。辛うじて逃れはしたものの、他の獣の餌食になるのは時間の問題。そんな状況に偶然にも遭遇したみしーるが拾い上げ、ここ数日にわたって看病していたのが事の真相だったようだ。自慢げに胸を張るみしーるをノイがぞんざいに褒めた。

 数多の生物が生きる場所には命の循環がある。動物が草を食み、その肉を別の獣が食らい、死した屍が還った土より新たな命が芽生える。それはこのテラも変わりない。自然の掟に従って生命が巡りゆくことに是非はなく、そうあることが当たり前のことなのだ。

 でも、とトワは思う。未だ羽ばたけず、自らの腕の中にいる若鳥に意識を集中する。

 

「あなたも無事で良かったね――気を付けていってらっしゃい」

 

 トワの身体を通して星の力が若鳥を包む。たちどころに傷ついた翼は癒えて、急に痛みがなくなったのを不思議がるように若鳥は自身の翼の様子をしきりに確かめた。

 きっとこの若鳥は親の元を巣立って間もないのだろう。そこを外敵に襲われ、あわや早々に命を落としかけた。運が悪かったという言葉で片付けることは出来る。テラどころか、このオルタピアの森の中でさえそのような光景は幾らでも存在するに違いない。ありふれた悲劇は命の循環の一幕でしかないのだ。

 ただ、些細な偶然が失われゆく命を未来に繋いだのなら。それはきっと喜ぶべきことだ。いずれ潰えるものだとしても、ほんの一時の自己満足に過ぎなくとも、命を救うことに間違いはないと思う。

 若鳥が細く鳴く。礼を告げるようなそれを合図に、彼はトワの手から飛び立っていった。見上げた先であっという間に高く舞い上がり、その姿は森の向こうへと消えた。

 

「達者でいるといいが……また襲われる可能性もあるのだろう?」

「それが生きるっていうことだから。命を奪い、奪われるのも。こうして助け、助けられることも」

 

 この豊かな自然の中では残酷な命の奪い合いが繰り広げられている。けれど、それだけではない。こうして偶然から拾い上げることも、或いは共生関係を築くことによって助け合う命も存在する。他者と他者が複雑に絡み合い、一括りにできない万華鏡の様相を呈して生きている。

 人の社会の中では実感できない剥き出しの命のやり取り。文明から原初の自然へと放り出されたことでそれを強く意識する。魔獣も生きている。トワのそんな認識はミトスの民の力のみならず、こうした環境からも培われたのだとクロウたちは理解できた気がした。

 

「みししっ」

「ええと、なんて言っているんだい?」

「『まったく、世話の焼ける奴だったぜ』だって」

「お前も十分に世話の焼ける奴だよ」

 

 呆れた口調でクロウはみしーるの首根っこをつまみ上げる。まずは飼い主に心配をかけたこの珍獣を連れ帰るとしよう。生命の息吹が渦巻くこの地での実習はまだまだこれからだった。

 



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