ブラック・ブレット 星の後継者(完結) (ファルメール)
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第01話 イニシエーター・将城綾耶

 

「……はい、該当地域を当たっていますが、今のところそれらしきガストレアは確認できません……はい、発見次第殲滅し、目的の物を回収します……はい、次の定時連絡は一時間後に」

 

 型通りの報告を終えると、将城綾耶(まさきあやや)は相手が通話を切った事を確認して、スマートフォンを懐に仕舞った。気温も快適、湿度も快適なこの春先。仕事さえなければのんびりと花見と洒落込むか昼寝でも楽しみたい所ではあるのだが……残念ながらそうも言っていられない。

 

 非正規ではあるが彼女はイニシエーターで、そして今は彼女のプロモーターから命令が出ていた。

 

 この地域に入り込んだガストレアを殲滅し、”巻き込まれた”ケースを回収せよ、と。

 

「それに仕事でなくても、知らんぷりなんて出来ないよねぇ……」

 

 きょろきょろと、視線を動かす。ここは住宅地。こんな所でガストレアに襲われた感染者が出たら、その感染者がガストレア化して人間を襲って、襲われたその人がまたガストレア化して……と、倍々ゲームであっという間に感染爆発(パンデミック)の地獄絵図だ。呪われた子供だとかイニシエーターであるかとか以前に、良識ある一人の人間としてそんな光景が見たいとは思わない。

 

「まずは、このブロックから……」

 

 始めようかな、と呟きかけたその時だった。

 

「蓮太郎の薄情者めぇぇぇっ!!!!」

 

 家一つぐらいを隔てた向こうから、少女の甲高い怒りの叫びが聞こえてきた。

 

「!! ……あの、声は……」

 

 綾耶は聞き覚えのあるその声の主の元へと向かう。ほんの少し膝を曲げただけの跳躍で一戸建て住宅の屋根の上にまで跳躍し、次のジャンプで遥か高空にまで舞い上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「おのれ、ふぃあんせの妾をよもや振り落として行くとは……!!」

 

 ぶつぶつと怒りを口にしながら、しかし藍原延珠は依頼があった住所へとひた駆けていた。いくら急いでいたとは言え自分を自転車から落としていくパートナーには思う所もあるが、かと言ってプロモーターだけでガストレアと交戦させようなどとは夢にも思わない。お灸は据えてやらねばならんが、それもこれも仕事を果たしてからだ。

 

 ……などと考えつつ走っていると、

 

「お嬢ちゃん、ちょっと良いかな? 道を聞きたいんだけど」

 

 すれ違った男から、声を掛けられる。ちらりと彼の方を振り返って、延珠はばっと後方に飛んで間合いを開けた。彼女のこの反応を、男は不審者に声を掛けられて警戒してのものだと判断したらしい。「ちょっと待ってくれ、怪しい者じゃない」と、出来るだけ穏やかな口調で話し掛けてくるが……過剰とも思える延珠の態度は、それだけではなかった。

 

「……お主、自分がどうなっているのか、分かっていないのか?」

 

「え? 何を言って……」

 

「妾にはどうしてやる事も出来ない。勿論、この世界の誰にもだ。その……最後に何か言い残す事は無いか? 家族とか友人とか、誰か居るのだろう? 本人への告知は義務だからちゃんと守れって、蓮太郎から言われているのだ」

 

 延珠がここまで言っても、男の方は困ったような顔だ。この反応を受けて、ようやく延珠は「やはり」という顔になる。この男は自分に何が起こったのかを分かっていないのだ。

 

「……では、自分の姿をちゃんと見るがいい。だが、パニックに陥らないようゆっくりと見るのだぞ。そうすれば妾の言った事が、分かる」

 

 年にそぐわぬ厳しい表情でそう言われて、意図を掴みかねつつも男は自分の体に視線を落として……そして、表情が引き攣った。

 

 体に刻まれた巨大な傷と、夥しい量の出血。にもかかわらず痛みは無い。だから今まで気付かなかった。

 

 そこまで思考が繋がると、途切れていた記憶が蘇ってくる。確か、マンションのベランダで出て行った妻の実家に再就職先が決まった事の報告と、生活が安定した後には必ず迎えに行く旨を報告しようとして……そして、頭上から巨大な蜘蛛の影が降ってきて……後は、命からがら逃げ出して、そしてここまで来たのだ。

 

「感染源ガストレアに体液を送り込まれたのだな」

 

 延珠の声には抑えきれない諦めが滲んでいた。先程彼女が言った通り、”もうどうする事も出来ない”のだ。男、岡島純明は全てを悟って、大きく息を吐いた。恐らく、もう”人間”でいられる時間すら、そう長くは残されていないのだろう。

 

「妻と、娘に伝えておいてくれないか……今まで、ゴメンって」

 

「承った」

 

 そのやり取りが、最後だった。延珠の了承の返事が聞けた事は、岡島純明にとっては最後の幸運であったかも知れない。次の瞬間には彼の体は有り得ない速度で変形し、肉体を内側から突き破って幾本もの手足が飛び出して、頭部も新しく発生した別の物が取って代わる。既に彼の体は人間とは別の体系の生き物へと変異していた。紅い目をぎらつかせた、巨大な蜘蛛に。

 

 怪物を前に、延珠は少しも慌てずに身構える。と、その時。

 

「ガストレア、モデル・スパイダー、ステージⅠを確認!! これより交戦に入る!!」

 

 曲がり角から、ブラックスーツのような制服に身を包んだ少年と、殺人課の刑事というイメージを絵に描いたような強面の男とが飛び出してきた。

 

「蓮太郎!!」

 

 30分にも満たない短い時間ながら離れ離れになっていたパートナーを見て束の間笑顔を見せる延珠であったが、しかしその一瞬の隙を、蜘蛛のガストレアは見逃さなかった。ぶるっと体を震わせたかと思うと、口に当たる部分から網の形をした緑色の粘液が飛び出した。

 

「避けろ、延珠!!」

 

 蓮太郎が焦った声を挙げるが、僅かだけ反応が送れた延珠は逃げられない。

 

 毒か、さもなくば強酸か。襲って来るであろう衝撃に備え、延珠は体を硬直させる。しかし、痛みも熱さも一向にやってこない。それどころか、何かが皮膚に付着した感触すらもが、無い。

 

「これは……!!」

 

 見れば、蜘蛛のガストレアが吐き出した粘液は全て延珠の前方30センチほどの空間で、見えない壁に当たったように止まってしまっていた。

 

「バリアー? 延珠、お前いつからそんな事が出来るように……?」

 

 間の抜けた声を出しながらも、パートナーをカバーできる位置に移動しながら蓮太郎と呼ばれた少年が尋ねる。しかしその問いに、イニシエーターはフルフルと首を振るだけだ。

 

「違う、妾じゃないぞ」

 

「そう、僕ですよ」

 

 明後日の方向から声がして、延珠と蓮太郎と刑事、それにガストレアの三人と一体の視線が一斉にそちらに向く。そこには前髪をぱっつんと切り揃えて眼鏡を掛けた、大人しそうな印象を受けるタレ目の少女が立っていた。服装は教会のシスターが着るような修道服の上に、どこかで見たような白い外套という独特のコーディネイトをしている。彼女は右手を、延珠の方へとかざしていた。

 

「おおっ!! 綾耶か!! 久し振りなのだ」

 

 知った顔なのか、延珠が嬉しそうに声を掛ける。それを受けて綾耶の方も柔和な笑みを浮かべた。

 

「ええ、僕もまた会えて嬉しいよ。積もる話もあるけど……まずは……!!」

 

 その先を言う必要は無かった。延珠が頷くと同時に、彼女の瞳が炎の色に染まる。眼鏡を掛け直した綾耶の瞳も、同じ色に。綾耶がかざしていた手を下ろすと、延珠とガストレアの間に発生していた見えない壁は消滅して、止められていた粘液は全て道路に落ちる。同時に、延珠は駆け出していた。空間に像を残していくような速さで接敵すると、蹴りでガストレアの巨体を打ち上げる。

 

 そうして身動きの取れない空中でジタバタともがく巨大クモに蓮太郎と刑事が手にしていた銃を向けるが……二人とも、引き金は引かなかった。

 

 いつの間にかガストレアより高く跳躍していた綾耶が、今まさに振り上げた握り拳を打ち下ろそうとしていたからだ。

 

「で、え、いっ!!!!」

 

 裂帛の気合いを込めて打ち下ろされた鉄拳は、自身の軽く数倍はあろうかというガストレアを、一撃の下に粉と砕いてしまった。ばらばらになった肉片や血しぶきが降り注いで、刑事や蓮太郎は反射的に飛び退って”雨”を避けた。確認するまでもなくガストレアは絶命している。任務は、完了だ。

 

「バラニウムの武器も使わずこの威力……パワー特化のイニシエーターか」

 

 民警としての習慣から、綾耶の力を分析した蓮太郎が呟く。恐らく間違いはないだろうが……だとしたら、最初に延珠への攻撃を防いだ見えない壁は、何だ? ……という、彼の思考は股間に走った衝撃によって中断された。前屈みになって、悶絶する。思わず、刑事・多田島警部も急所を押さえて顔を青くした。

 

「全く、妾を振り落とすとは!! パートナーとして失格だぞ!!」

 

「ぐおおおおおっ……!! え、延珠、それより、その子は知り合いなのか?」

 

 痛みを堪えつつ何とか話題を切り替えようとする蓮太郎。そんな彼の意図に気付いているのかいないのか、延珠はしかしひとまずは怒りを収めてふんと鼻を鳴らすと、綾耶へと向き直った。

 

「彼女は将城綾耶。妾が外周区に居た頃からの親友だ。一年前、妾がIISOに登録してイニシエーターになった時に別れて以来だが……壮健そうで何よりなのだ」

 

「延珠ちゃんも元気そうで何より……では、そちらの方が……」

 

 そう言ってようやく立ち直った蓮太郎へと向き直る綾耶。蓮太郎もパートナーからの紹介もあってか、相好を崩す。

 

「ああ、俺は里見蓮太郎。こいつのパートナーをやっているプロモーターだ」

 

「妾とは、将来を誓い合った仲なのだ」

 

 和やかな空気は、延珠の爆弾発言一つで吹っ飛んだ。多田島警部は「良い趣味してるなブタ野郎」と手にしていたリボルバーの撃鉄を起こし、綾耶は「ほう……?」と凄絶な笑みを浮かべつつ、黒く戻っていた眼が再び紅くなった。

 

「ち、違う、誤解だ!! こいつはただの居候なんだ!!」

 

「いつも夜は凄くて妾を寝かせてくれないのだ」

 

「俺は寝相が悪いだけなんだよ!!」

 

 コントのようなやり取りを尻目に、多田島警部と綾耶は全く同じタイミングでアイコンタクトを交わし、溜息を一つ。取り出し掛けていた手錠を懐に仕舞って、変色させていた瞳を黒く戻す。

 

「そ、そう言えば綾耶だっけ? お前もイニシエーターなのか?」

 

 何とか延珠との不毛な会話を切り上げようと、蓮太郎は再び話題を切り替えてきた。延珠はまだ言いたい事があって不満そうではあったが、蓮太郎のこの質問は彼女も聞きたい事ではあったので渋々矛を収める。

 

 呪われた子供たちは超人的な運動能力と回復力を持ち、中には類を見ない固有能力をも備えた者さえ居るがあくまでも子供である。それが怯えもせずにガストレアに立ち向かえるのだ。プロモーターの姿は見えないが、特別な訓練を受けて実戦も経験しているイニシエーターであると考えるのが妥当だろう。その問いに綾耶は居住まいを正して、一礼する。

 

「改めて名乗らせていただきますね。IP序列番外位・聖室護衛隊特別隊員、将城綾耶、9歳。聖天子様の、イニシエーターです」

 

「!!」

 

 丁寧な自己紹介を受けて、蓮太郎は以前にニュースで見て色褪せていた古い記憶を蘇らせた。

 

 この東京エリアの統治者である聖天子が進めている呪われた子供たちの基本的人権を尊重する「ガストレア新法」。聖天子はこの法案、ひいては呪われた子供たちとの共存を進める第一歩として、周囲の反対を押し切って呪われた子供たちの一人を自分の護衛隊に抜擢したと聞いていたが……

 

「それが、お前なのか?」

 

 良く見れば、綾耶が修道服の上に着ている外套は彼女の体格に合わせてかなりの改造が入っているが聖天子がテレビに出る時、いつも端っこに映っている護衛隊が着ているのと同じ物だ。

 

「はい、イニシエーターと言っても聖天子様は正規のプロモーターではないですから、序列は持っていませんけど」

 

 成る程、と蓮太郎は頷く。まさか国家元首に銃を持ってガストレアと戦えと言える者が居る訳もないし、辣腕で知られる聖天子がそんな愚挙を犯す訳もなく、万に一つそれをすると言い出した所で周りの者が絶対に承伏すまい。呪われた子供を側に置くというだけでもギリギリの一線だったに違いない。

 

 そしてこれは蓮太郎の想像だが、恐らく聖天子は綾耶に戦闘力など本来イニシエーターに求められる働きなどは期待していなかったのではないだろうか。彼女に求められたのはあくまでもガストレア新法を成立させる為の、政治的役割だけであったと推測できる。……もっとも、ステージⅠとは言えガストレアを素手の一撃で粉砕してしまった綾耶の実力はそれとは無関係に強力であったのだろう。

 

「そうか、お主も頑張っているのだな、綾耶」

 

「延珠ちゃんも、ね……」

 

 綾耶はそう言って延珠に笑いかけると、今度は蓮太郎の方を向いた。

 

「蓮太郎さん、でしたよね。延珠ちゃんの事、よろしくお願いします」

 

「ああ。分かってる。こいつに道を示す事が、プロモーターとしての俺の役目だからな」

 

 差し出されたその手はまだガストレアの血が拭い切れずに残っていたが、蓮太郎はその手を握り返す事を躊躇わなかった。この反応は綾耶の眼鏡に叶うものだったらしい。彼女は満足げに頷くと、行儀良く一礼した。そうして取り敢えず場が落ち着いた事を確認すると、プロモーターは時計を見てそして多田島警部に敬礼する。延珠も相棒に倣った。最後に、綾耶も同じようにぎこちなく敬礼する。

 

「イニシエーター・藍原延珠とプロモーター・里見蓮太郎、イニシエーター・将城綾耶の協力を得てガストレアを排除しました」

 

「ご苦労、民警の諸君」

 

 一時とは言え同じ事件を担当した間柄、生まれた奇妙な連帯感から蓮太郎と警部は自然と笑みを交わし合い……

 

「蓮太郎、そう言えばタイムセールの時間は良いのか?」

 

 良い雰囲気をやはり簡単にぶっ飛ばした延珠のコメントに、蓮太郎はポケットからセールのチラシを取り出して、数秒ほどして彼の顔はガストレアを目の前にした時よりも真剣なものになった。その場から脱兎の如く駆け出す。延珠も、最後に「これが妾の連絡先なのだ」と、スマートフォンの番号が書かれたメモを綾耶に渡すと、その後を追っていく。

 

「お、おい、もう行くのか?」

 

「また仕事あったら回せよな!!」

 

「何だ、その、あれだ……さっきはその……ええい、もういい!! それよりそんなに急いで、大事な用なのか!?」

 

「モヤシが一袋6円なんだよ!!」

 

 蓮太郎の最後の言葉に、多田島警部は喉まで出かかっていた礼の言葉を呑み込んでしまった。何だか、いきなり何もかも馬鹿馬鹿しくなった気がする。ふと、この場に残った最後のイニシエーターに視線を落とすと、綾耶はスマートフォンを取り出して色々と調べていたが、やがて望んでいた情報を見付けたらしい。それが表示された画面を、背伸びして多田島警部に向けてくる。

 

「里見蓮太郎さんと、延珠ちゃんが所属しているのは、この天童民間警備会社って所ですね。刑事さんは、後でちゃんとこの事務所に今回の報酬を振り込むようにお願いします」

 

「お前は良いのか?」

 

 確かにこの仕事を最初に引き受けたのは蓮太郎・延珠ペアひいては天童民間警備会社だが、ガストレアにトドメを刺したのは綾耶だ。報酬は折半あるいは聖天子の護衛隊も兼任するイニシエーターという立場を考えれば多少多めに取っても罰は当たらないとは思うが……

 

 しかし、綾耶は首を振る。

 

「僕は正規のイニシエーターではないですから、報酬とかは受け取れないんです。その代わり聖天子様からかなりの好待遇を頂いてますから」

 

 成る程、と多田島が無精ヒゲを擦った。綾耶は民間警備会社に所属する普通のイニシエーターとは異なり、立場的には聖天子の私兵に当たるのだろう。

 

「では、お願いしますよ」

 

 そう言い残すと、綾耶の小さな体はふわりと空中に浮き上がった。「うおっ」と驚きの声を挙げる多田島だったが、これだけなら先程、彼女と延珠の戦い振りを見ていたのでまだ理解の範疇ではある。真に彼を驚かせたのは、その次だった。

 

 綾耶は空中でばいばいと手を振ると、足場も何も無いそこから更に上昇して、ジグザグの軌道を描いて空の彼方へと消えていったのである。明らかにジャンプではなく、飛行。バリアだけでなくイニシエーターはあんな事までやってのけると言うのだろうか。想像を超えるものを見せ付けられて、多田島警部は大きく息を吐くと、咥えた煙草に火を付けた。

 

「イニシエーターとプロモーター……人類最後の希望、か」

 

 

 

 

 

 

 

 天然の洞窟を改造して作られたその部屋。剥き出しの冷たい石を壁として、天井には照明が埋め込まれ、床には鏡のように磨かれた金属製の無反響タイルが敷き詰められている。中心には総欅の机が置かれていて、ゆったりとした作りの椅子には一人の女性が腰掛けていた。年齢は二十代半ばといった所に見える。腰まである純白の髪、雪のように白い肌をして、きめ細やかな作りの白い衣装を着た絶世の美女だ。彼女は今、手にした本に視線を落としている。

 

 と、静寂を破って机に置かれたスマートフォンが着信を知らせる。女性は愛読書である「永遠の王」を置くと、すぐにその電話に出た。

 

「私よ」

 

<我が王よ、申し訳ありません。目的の物を巻き込んだガストレアを見失いました。現在、小比奈と共に捜索を継続しております。もう暫くのお時間を>

 

 女性はその報告に僅かばかりの失望と、それ以上に疑問を覚えたが、声には少しもそれを出さずに話を続ける。

 

「あなたらしくないわね、影胤。あなたならばこの程度は、すぐに済むと思っていたのだけど」

 

<それについては弁解の仕様もありません。言い訳を許していただけるのなら、想定外のアクシデントが起こり当初の予定を変更せざるを得なかったものですから……その代わりと言っては何ですが、面白い者と出会う事が出来ました。いずれ王にもお引き合わせいたします。きっと、気に入っていただけるかと思います>

 

「ふむ」

 

 女性は嘆息して心中の感情を整理すると、椅子から立ち上がった。

 

「あなたや小比奈ちゃんの事は信頼してる。そのあなたが想定外のアクシデントと言うのなら、それは責任逃れでなくその通りなのだと、理解してるわ。では、引き続き”七星の遺産”の捜索に当たって。それとここからは、私も動くわ」

 

 この宣言は、電話の向こうの相手にも些か予想外だったらしい。少しだけ息を呑む音が聞こえてくる。

 

<勿体ない事です、我が王よ>

 

「良いのよ、全ては」

 

<はい、全ては。我等の、新しき世界の為に>

 

 同じ言葉を返して女性は通話を切ると、部屋を後にする。

 

 彼女の双眸は、先程もまではアメジストの如き深い紫の色であったが、今は違う。

 

 今の彼女の瞳は、紅く染まっていた。ガストレアのように、呪われた子供達のように。

 



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第02話 綾耶の家

 

「……はい、通報のあった地区を中心に探してみましたが発見出来たのは感染者のみ。感染源のガストレアは未だ発見出来ていません。聖天子様の方で、何か情報は入っていませんか?」

 

<いえ、残念ですが現時点で見るべき情報は皆無です。民警各社から撃破したという報告も……それどころか目撃情報すら、上がっていません>

 

 電話越しに聞こえるプロモーターの声からは、隠し切れない焦りが感じ取れる。それを受けて、綾耶は少しだけ頭に浮かんだ疑問を口にする事を躊躇った。ただでさえ多忙かつ心労も多いであろう自分の主に、これ以上の負担を掛けて良いのだろうか、と。しかしこれは必要な情報であるとすぐに思い直して、その先を口にする。

 

「それは……おかしくはないですか? 僕達が倒した感染者はモデル・スパイダーのステージⅠ。感染源も同じタイプでしょう。鳥とかハエのような空飛ぶ動物因子ではないんですから、とっくにどこかの民警が発見して倒しているか、そうでなくとも目撃情報の一つぐらいは……」

 

<……モデルが飛べない動物であるからと言って、空を飛べないと考えるのは早計ではありませんか? 綾耶、あなたは自分のモデルが何なのか忘れた訳ではないでしょう?>

 

「……確かに。進化の跳躍……でしたっけ」

 

 ガストレア化する際の形象崩壊の過程でオリジナルのモデルには無い能力を獲得するケース……陸の大型動物の因子を持つ綾耶が空を飛べる理由もそれに近いものがある。

 

「分かりました。では、僕は引き続き空から探してみます」

 

 地上からの捜索ならば他の民警でも可能だが、ヘリコプターをチャーター出来るような民警は限られているし、それにしたってローター音でガストレアに気付かれてしまう。ヘリよりも遥かに静粛かつ空中を自在に移動して捜索出来るのは、恐らくは東京エリア全て探しても綾耶一人であろう。

 

<お願いしますね。くれぐれも、無理はしないように。危険だと判断したなら、私が許します。一度退いて応援を求めて下さい>

 

 その言葉から二秒置いて、通話が切れる。それを確認すると、綾耶はスマートフォンをポケットに入れた。

 

 今、綾耶の眼下には東京エリアの街並みが広がっている。ここは上空600メートル。どんな高いビルもその屋上が見えている。彼女は空からのこの眺めに飽きた事が無かった。ここに居る間は、地上で起こる一切合切が取るに足りない事のように思える。空間も時間すらも、芥子粒のように感じられる。そして春も夏も秋も冬も、朝も昼も夜も、ここからの景色はそれぞれ違った美しさを提供してくれる。

 

 だが今は、優雅な気分に浸っているゆとりは無い。感染源たるガストレアが今もエリアの中を動き回っているのだ。そいつを仕留めない事には、おちおち夜も眠れない。

 

 綾耶はそれはイヤだったし、自分の主にそんな思いをさせるのはもっとイヤだった。

 

「……とは言え、何も手掛かりが無いのに闇雲に探すのもなぁ……」

 

 空中を物凄い速度で移動しつつ、腕組みしてうんうんと唸るイニシエーター。ここは……

 

「まずは、目撃情報を集めるとしますか!!」

 

 いかなる手段で監視網から逃れているかは分からないが、東京エリア中心部あるいはそれに準じる区域内をガストレアがうろついているのなら、例え感染源本体は見付からないにしてもその感染源に襲われた被害者ぐらいは出ても良い筈だ。だが今は、それすらもが報告されていないらしい。

 

 ……と、いう事は感染源ガストレアは今はエリア中心部には居ない。少なくともその可能性が高い。ならば捜索すべきは寧ろ外周区であろうという判断の下、彼女は進行方向を変えた。

 

 

 

 

 

 

 

 東京エリア外周区・第39区。10年前のガストレア大戦から未だ復興が進んでいないその地区の片隅には小さな教会がある。だが神の家の屋根はあちこち”前衛的な明かり取り”が作られていて、雨漏りしないように板で即席の修理が施されている。看板はオシャレな事に角度を付けて掛かっている。そこにはかすれて消えかけた文字で「東京エリア第39区第三小学校」と書かれていた。

 

 その入り口手前へ空中から降り立った綾耶は、足が地面に接する瞬間に全てのスピードを殺すと音も無く着地し、何事も無かったかのように数歩を進むと無造作に扉を開けた。「ただいま」とは言うが呼び鈴は鳴らさなかった。元々壊れてしまっているし、自宅に帰るのに呼び鈴を鳴らす者は居ない。

 

「ネアンデルタール人はある時期までは私達の直接の祖先だと考えられていたけど、実際は少し違っていたのよ。彼等は三万年も前に絶滅したの。彼等に代わる存在として、クロマニヨン人が現れたからなの。昔はネアンデルタール人は残らずクロマニヨン人に滅ぼされたと考えられていたけれど、その後DNAの研究が進むと……あら?」

 

 扉を開けたそこは礼拝堂になっていて、説教を聞く為の長椅子に腰掛けていた幾人かの少女達の赤い目が一斉に綾耶を向き……一拍ばかりの間を置いて、子供たちはわっと彼女に殺到してきた。

 

「あややお姉ちゃん!!」

 

「お姉ちゃん、お帰り!!」

 

「今日は泊まっていけるの?」

 

「今度はどんなガストレアをやっつけたの!?」

 

「ちょ、ちょっと……みんな落ち着いて……話は一人ずつ……」

 

 これがガストレアだったら食パンのように文字通り千切っては投げ千切っては投げしてやる所であるが、お姉ちゃんお姉ちゃんと懐いてくる子供たち相手ではそうも行かない。全く、愛らしさに勝る武器はこの世に有り得ないかも知れない。

 

 溜息と共にそんな思考を頭の片隅に浮かべつつもみくちゃにされていた綾耶であったが、救いの手は意外とすぐに差し伸べられた。

 

「こらこら、マリア。恭子も。そんな一斉に話し掛けたら綾耶が困ってしまうよ?」

 

「みんなも席に戻りなさい。まだ授業は終わってないわよ」

 

 掛けられた二色の声。綾耶が視線を上げると、子供達に混じって二人の大人が歩み寄ってきていた。一人は杖を突いて丸眼鏡を掛けた初老の男性。もう一人はたった今子供達に講義していた皺だらけのスーツに身を包んだ中年女性だった。

 

「長老、それに琉生(るい)先生も」

 

 顔を輝かせ、弾んだ声を挙げる綾耶。大人二人の登場に彼女のぐるりを囲んでいた子供達が一歩引く。それによって生じた隙間を縫うようにして、綾耶は二人の側まで歩み寄った。

 

「すいません、授業中にお邪魔してしまって……」

 

「ここは君の家だ、綾耶。いつでも帰ってきてくれて良いんだよ」

 

 長老と呼ばれた男性が、優しい笑みと共にくしゃりと綾耶の頭を撫でた。

 

 彼のここが綾耶の家だという言葉には、二重の意味がある。綾耶に限らず他の呪われた子供達にとってこの教会は学校であると同時に家であり、そしてここは綾耶の実家でもあった。

 

 聖職者であった彼女の両親は反ガストレア団体の過激派が起こしたテロによって帰らぬ人となった。この建物のあちこちに刻まれた疵も、半分ぐらいはその時のものである。それ以降は綾耶が一人でこの教会を守っていたのだが、ある時期から彼女は寂しさを埋めようとしてか他の呪われた子供たちに教会を落ち着ける場所として提供するようになっていた。彼女等の面倒を見ている長老・松崎と知り合ったのも同じ時期だ。

 

 その綾耶も半年程前に聖天子の護衛隊に選ばれてここを離れる事となり、それ以降は教会の管理を松崎老人に任せるようになっていた。勿論、時間を見付けては足を運ぶようにはしているが。

 

「あなたの活躍はいつも聞いているわ。みんな、テレビにほんの一秒でもあなたが映ると大騒ぎになるのよ。あなたはここに居る子だけじゃない……この東京エリア全ての呪われた子供たちの希望と言っても過言ではないわ。だから……自分を大事にして欲しいわね。体にはくれぐれも気を付けて……」

 

 気遣わしげな声を掛けたのは、松崎のすぐ隣に立つ琉生先生と呼ばれた女性だった。彼女も松崎と同じ、子供たちの世話を買って出てきた……言い方は悪いが“奇特な人間”の一人だった。綾耶と知り合ったのは松崎よりも一月ほど遅い。だが綾耶は今では松崎と変わらない信頼を、彼女に寄せていた。それは他の少女達も同様である。

 

 琉生はこの学校兼教会で松崎と分担して子供達の為に教鞭を取っていて、彼女が担当する科目はどれも評判が良く、特に歴史は大好評だった。日本史・世界史を問わず教科書に載っているメジャーな出来事は勿論の事、各国の偉人についての豆知識やその国の風俗習慣に至るまで、まるでその国の土の臭いが伝わってくるようだった。外周区から出た事の無い子供たちにとって、それがどれほどの刺激となり楽しみとなるかは、想像に難くない。

 

「それで、今日はただ里帰りしにきた訳じゃないんでしょう? あなたがこんな時間に帰ってくるなんて」

 

 雑談を適当に切り上げて、琉生が本題に入る。この話題の切り替えに松崎は少し戸惑ったようであったが、ややあってああそうかと得心が行った表情になった。

 

 子供たちが集まってから聖室護衛隊に身を置くようになるまでの短い期間だが、綾耶もこの学校の生徒だった(正確には休学という形を取っているだけで、今でも生徒という事になっている)。当然、授業時間についても把握している。

 

 もしただの私的な里帰りであったのなら、綾耶は授業を邪魔しないような時間を選んで帰ってくるだろう。彼女は幼いながらもそういう気遣いが出来る子である事を、松崎も琉生も知っている。そんな綾耶が授業時間中にやってくるという事は……つまり何か、授業が終わるまで待てない緊急の事態が起こっているのだ。

 

「みんな、私達は少し席を外すわ。戻るまでに各自45ページから50ページまでの内容を復習しておきなさい。ここは今度のテストに出すわよ」

 

「「「はーい!!」」」

 

 元気の良い声を背中に受け、松崎、琉生、綾耶の三人は応接室へと移動した。そうして二人の教師と向き合う形で席に着いた聖天子のイニシエーターは、事情を説明していく。

 

「……外周区にクモのガストレアが潜んでいる可能性がある、か……成る程、確かにこれは一大事だね」

 

 難しい顔で腕組みしつつ、松崎は「うむむ」と唸った。綾耶の話では既に一名、犠牲者が出ているのだ。次の犠牲者がこの学校の子供達である未来などは、想像したくもない。

 

「子供達は一旦この教会から、下水道へと移した方が良いですね。状況から言って、そのガストレアが地面を掘ったり潜ったりする可能性は低いんでしょう?」

 

「そうですね」

 

 琉生の意見に賛成だと、首肯する綾耶。最近では(流石に外周区は範囲外だが)下水道設備にも暗視機能付きの監視カメラが付けられている。もし、感染源ガストレアが地下に逃げていたのならそれらの機器に捕捉されるだろう。と、すれば探すべきはやはり空と地上だ。

 

「何か、どんな些細な事でも良いんです。手掛かりとか無いですか?」

 

「いや……」

 

「そう言えば……ササナが言っていたわね。お昼頃……飛行機でも鳥でもない大きな影が、空を飛んでたって」

 

「空を、飛んで……?」

 

 無論、見間違いの可能性もあるが……奇しくも先程聖天子と話していた内容と、この情報はシンクロする。この際、クモが空を飛ばない、などという先入観は捨ててかかるべきであろう。寧ろ”ターゲットは空を飛べる”と見て事に当たるのが正解かも知れない。

 

 うん、と綾耶は満足げに頷くと応接室の窓を開けて窓枠に足を掛けた。

 

「もう行くのかい? 泊まっていくのは無理かも知れないが、せめて夕食を一緒にするぐらいは……」

 

「僕としても久し振りにみんなと食事を楽しみたいですけど、いつガストレアが現れるかって神経をピリピリさせたままじゃ、味も団欒もあったものじゃないですからね。日暮れまで二時間はありますから、ギリギリまで探してみますよ」

 

 松崎の申し出を、綾耶は丁重に辞退する。老人もこの少女が重いものを背負う身である事は理解しているが故に、強くは止めなかった。

 

「気を付けてね。いくら強力なイニシエーターでも、あなたはまだ子供なんだから……食事と睡眠はきちんと摂るようにね」

 

「ん♪」

 

 にっこり笑った綾耶は二人の教師に手を振って、窓から飛び立つ。ものの数秒で彼女の小さな体は蒼穹に吸い込まれるようにして見えなくなった。松崎と琉生はそれぞれ少女の消えていった空へ視線を送っていたが、ややあって琉生の方が動いた。

 

「では松崎さん、私は子供たちの避難誘導を行いますから……戸締まりの確認と電気や火の始末をお願い出来ますか?」

 

「分かりました、頼みますよ琉生先生」

 

 琉生は笑顔で頷いて返すと先に応接室から出て……

 

 そしてほんの一瞬、彼女の瞳が呪われた子供たちと同じ紅い光を宿した。女教師はくたびれたスーツのポケットから携帯電話を取り出すと、登録してある番号へと掛ける。相手は1コールもしない内に通話に出た。

 

<お呼びですか? 我が王よ>

 

「影胤。例の感染源ガストレアは空中を移動する能力を持っている可能性があるわ。それを考慮に入れて、捜索範囲を広げてみて」

 

 それだけ言うと通話を切り、琉生は瞬きを一つする。その時にはもう彼女の瞳は黒一色に戻っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 その後も綾耶は捜索を続けたが、残念ながら収穫はゼロ。モデル・スパイダーはおろかガストレア1体とさえ遭遇しなかった。そうこうしている間に日が暮れてきて、これ以上は目視による捜索は困難な時間になった。索敵を続けるにしても一時中断して、明日の夜明けを待つべきだろう。

 

 蛍籠のような東京エリアの光を見下ろしながら、空中を闊歩する綾耶はそう結論し、ひとまずは聖天子から宿舎としてあてがわれたアパートへ戻ろうとしたが、その時懐のスマートフォンが着信音である天誅ガールズの主題歌を鳴らした。画面を見ると「延珠ちゃん」と表示されている。

 

<綾耶、一日振りだな。息災か?>

 

 通話に出ると、電話の向こうの親友が元気な声を掛けてきた。

 

「ええ、お陰様で。ところで、何か用? いや、延珠ちゃんなら用が無くても大歓迎だけど」

 

<実は昨日のガストレア退治で、綾耶が警察に話を通しておいてくれたお陰で金一封が入ってな。蓮太郎がそのお祝いですき焼きを作ってくれるのだ。そこで、綾耶も招待しようと思ってな>

 

「……お誘いは嬉しいけど、良いの? 二人きりの食事を邪魔しちゃ……」

 

<良いのだ!! 妾の親友だと言ったら、蓮太郎も大歓迎だと言ってくれたぞ!! 今日は自分の家だと思って寛いでくれ!!>

 

 少しばかり遠慮がちなコメントを返す綾耶だが、延珠は全く気にしていないようだった。そんな友達の声を聞いていると、今日一日、東京エリア中を文字通り飛び回っていて肩に入っていた力がふっと抜けていくようだった。

 

 くすっと、口元をほころばせる。

 

「じゃ、ご馳走になるわ。住所は……? ああ、それなら10分もあれば着くね。うん、それじゃあ……」

 

 電話を切ると、綾耶は空中で水泳のターンの様に体を捻ると、教えられた住所へ向けて一直線に進んでいった。

 

 目的地には、7分強で到着した。空には地上のような渋滞は無いので時間通りに着く。その点でも綾耶は空が好きだった。

 

 さて、辿り着いたのは綾耶の実家の教会と良い勝負になりそうなぐらい年季の入ったボロアパート。延珠に聞いた番号の部屋の前に立ち、呼び鈴を鳴らす。しかし、反応は無い。

 

「……?」

 

 首を傾げる綾耶。まさか向こうから招待しておいて、留守という事もあるまい。ならば……? 疑問符を頭に浮かべつつも二度三度とチャイムのスイッチを押すが、やはり反応は無い。

 

「……??」

 

 そっと、扉に耳を当ててみる。安アパートの粗末な素材で出来た扉に防音性など期待する方が間違っている。中の声はほぼ筒抜けで聞こえてきた。

 

「……ご飯にする? お風呂にする? それとも、わ・た・し?」

 

「!!」

 

 あっという間に顔を真っ赤にすると、綾耶は扉から飛び退く。しかし、すぐに論理的な思考を取り戻した。

 

「駄目!! 延珠ちゃん!! そういうのは僕達はまだ……!!」

 

 ぶち破る勢いでドアを開ける。幸い鍵は掛かっていなかったので、蓮太郎はこの後で修理費の心配をしなくて済みそうだった。

 

 果たして、突入したその先にあった光景は。

 

「……お、綾耶」

 

「い、いらっしゃい」

 

 テーブルを挟んで、蓮太郎と延珠が向き合っている。それは良い。

 

 問題は、延珠が一糸纏わぬ産まれたままの姿である事だった。そして、たった今ドア越しに聞こえてきた延珠のあの台詞。

 

 これらの点を繋げた線の先にある結論は……!!

 

 思考をそこまで回転させて、綾耶の目が燃えた。

 

「昨日は延珠ちゃんが心を開いているから、この人なら大丈夫だと思っていたのに……!! 見損ないましたよ……!!」

 

 少女の声は、怒りに震えている。

 

「お、おい、待て!! 綾耶、お前何か勘違いをして……!!」

 

「問答無用!! こんな趣味があったなんて……!! 不潔です!! 消毒してやる、成敗してやる、天誅!!」

 

 さっと振り上げられた手刀が異様な唸りを上げて振り下ろされ、蓮太郎と延珠は咄嗟に飛び退いて回避行動を取る。

 

 綾耶の小さな手はほんの10センチほどの長さしかないが、その斬撃は数メートルもの長さの傷をアパートの畳に刻んだ。恐るべきチョップの威力はちょうど部屋の真ん中に置かれていたテーブルをも日本刀を叩き付けたかのように真っ二つに断ち割り、グツグツと煮えていたすき焼き鍋が、その勢いに弾かれて宙を舞った。

 

「あ」

 

「ぬ」

 

「げっ……」

 

 この部屋の二人の住人にとって何ヶ月振りかのご馳走は空中を二回転ほどして、そして、お約束と言うべきか投げ出された中身が蓮太郎の頭の上に降り注いだ。

 

 一瞬の間を置いて、

 

「あぢゃああああぁぁぁぁぁぁあああっっ!!!!」

 

 絶叫、悲鳴。たまらず蓮太郎は部屋中を転げ回り、延珠は「水だ、氷だ!!」と台所に駆け込んで、綾耶は「薬、それに救急車を……!!」とスマホ片手に部屋の棚をかき回して、大騒ぎの内に、この夜は更けていった。

 



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第03話 番外位VS元134位

 

 困っている人を見たら助けよう。人から感謝されるような事にこの力を使おう。

 

 そう、最初に思ったのはいつだったろうか。綾耶はその始まりの日を、もう覚えてはいない。だが、呪われた子供たちである彼女を受け入れてくれる場所は少なく、力を役立てようという想いがあってもそれを発揮する場に恵まれないジレンマは、今よりずっと小さな頃から彼女を悩ませていた。

 

 自分の足場を固める為に、綾耶はまず紅い目を隠して人に紛れる事を覚えた。ところが問題が一つ。普通の子供として振る舞う事と、力を使う事は相反する要素である。幼いながらに悩んだ。只の人間として生きるか、呪われた子供として生きるか。

 

 結局、彼女は後者を選んだ。力を持つ事、ガストレアウィルスを体内に持つ事、呪われた子供である事を肯定する道を。彼女は子供ながらに自分達を恐れる人々を啓蒙しようとした。同じ世界に共に生きる事が出来る存在だと示そうとしたのだ。

 

 だが奪われた世代の憎しみはあまりにも根強く、深く。普通にやっていたのでは道は開かれない事も、既にこの頃の綾耶は悟っていた。だから彼女は、請われれば何でもやった。

 

 最初は外周区から始めた。喧嘩の仲裁、荷物運び、病人の世話、ドブ掃除……呪われた子供である彼女への差別意識から理不尽に過酷な作業を課される事も多くあったが、しかしそうしている間に少しずつ彼女の名前や顔は、人々の知る所となっていく。

 

 最初の転機となったのは、外周区に近い小さなレストランでゴミ掃除のアルバイトをしていた時の事だ。その店を行きつけとしていた清掃会社の社長から声を掛けられて、既に彼が綾耶の働きぶりを耳にしていた事も手伝い、簡単な面接の後その会社の清掃員として就職する事となった。

 

 幸運は幾つかあった。その社長が呪われた子供たちの境遇に理解のある人物であった事。この東京エリア自体が呪われた子供たちを養女に迎えて真っ当に育てるのなら養育給付金が優遇される制度を取っているなど(あくまでも比較的であるが)差別意識の低いエリアであった事。彼女が配属された現場の他の清掃員は60歳ぐらいの高齢の男女が多く、彼等は奪われた世代としてガストレア因子を持つ呪われた子供たちへの憎しみは当然持っていたが、働き者の綾耶を見ている間にそうした感情は(少なくとも綾耶個人に対しては)いつしか薄れ、彼女を孫のように思うようになっていった事。

 

 ある時、契約期間の満了と同時に契約更新が行われ、それに伴い綾耶は現場を配置換えされる。新しい職場はこのエリアの中心……第1区「聖居」であった。

 

 そこで、彼女にもう一つの……そして、最大の転機が訪れた。

 

「少し……お話ししませんか? 小さな清掃員さん」

 

 働き始めて一月ばかり過ぎたある日に、純白を纏ったこのエリアの統治者より声を掛けられたその時に。

 

 

 

 

 

 

 

「ん……」

 

 目覚まし時計など無くても規則正しい生活を旨とする綾耶の体内時計は分単位で正確であり、枕が変わってもいつも通りの時間に目を覚ます。だが、寝ぼけ眼に映るのがいつも自分が寝起きしている宿舎の景色とは違うのに気付いて「あれ?」と一言。そうして枕元に置いてあった眼鏡を掛けると、漸く昨夜の記憶がはっきりしてきた。

 

 すぐ脇に敷かれた布団には蓮太郎が延珠に抱き付かれて眠っていた。蓮太郎が真ん中で延珠が左、綾耶が右で三人川の字になって寝ている形だ。

 

 昨夜はすき焼きの中身を蓮太郎の頭にぶち撒けてしまって大騒ぎとなり、結局モヤシのフルコースをご馳走になった。その後でもう夜も遅いからと延珠から泊まっていくよう誘われて、快諾したのであった。

 

 日が変わるぐらいの時間まで延珠とは天誅ガールズについて熱く語り合い、蓮太郎とは自分が知らない延珠の話を、色々と聞かせてもらった。同じように蓮太郎には、彼の知らない延珠の話を。最初は間の悪さと誤解から大変な無礼を働いてしまったが……でも、来て良かった。それは、偽らざる綾耶の本音だった。

 

 延珠が自分以外の相手にあんなに笑う所が見れた。……ちょっと、妬けるが。

 

 話していく中で、蓮太郎はやっぱり信頼に足る人物だと良く分かった。……若干、ロリコンっぽいけど。

 

「幸せそうだね、二人とも……」

 

 いつもの修道服に着替えて聖室護衛隊の外套を羽織ると、綾耶は眼を細める。

 

「……どうか、この幸せがずっと続きますように」

 

 そう、祈りを捧げて。

 

 二人を起こさないように極力音を殺しつつ、布団を畳んでその上に延珠から借りたパジャマをこちらも丁寧に畳んで重ねる。そうして勝手ながら冷蔵庫を開けてあり合わせながら二人分の朝食を作り、礼の言葉を記した手紙を置くと玄関に向かい、愛用のブーツを履いて、

 

「行くのか? 綾耶」

 

 背後から掛けられた声に、ぴくりと体を震わせる。振り返ったそこには起き抜けで髪を寝癖だらけにした蓮太郎と、まだ半覚醒で目が開き切っていない延珠とが立っていた。「起こさないようにと思っていたんですが」と呟きつつ、綾耶は二人に笑いかける。

 

「昨日は楽しかったですよ。こんなに楽しい時間は、久し振りでした。ありがとう、延珠ちゃん、蓮太郎さん」

 

「ああ、俺もだ。勿論延珠もな……ほら」

 

 ぽいと蓮太郎が投げた物を、綾耶は両手で掬うようにしてキャッチする。渡されたのは少々時代遅れ気味にも思える形状の鍵だった。

 

「これは……」

 

「ウチの合い鍵だ。俺も延珠も、いつでも待ってるからよ」

 

「その通りだぞ、綾耶。今度は天誅ガールズの変身グッズを用意しておくから、二人で写真を撮るのだ!!」

 

「……うん、ありがとう。次は、二人が僕の家に来て」

 

 ばいばいと手を振って一時の別れを告げると、綾耶はふわりと浮き上がって朝の空へと消えていった。蓮太郎と延珠は彼女の姿が見えなくなるまで手を振っていたが、ややあって登校時間が迫っている事に気付いて、慌てて朝食の席に着いた。

 

 

 

 

 

 

 

 東京エリア上空を飛び回ってガストレアを捜索する綾耶であったが、昨日は一日中探しても見付からなかったのだ。同じ事を繰り返しても同じ結果に終わるだけの可能性が高い。彼女はその愚を犯すつもりはなかった。

 

 人混みも交通渋滞も無い空が好きな綾耶だが、一つだけままならぬ事がある。風だ。空を飛べる彼女はどんな場所にもほぼ時間通りに到着する事が出来るが、飛べるようになったばかりの頃はたまに予定の時間よりも遅れてしまう事があった。それは決まって予期せぬ気流に見舞われた時だった。

 

 だから綾耶は経験から大気の流れを学び、今では直感的に最適なコースを選んで縫うように飛べる境地にまで達している。

 

 ターゲットである感染源ガストレアがどのような手段で空を飛んでいるかは計り知れないが、自分と同じで風の影響は必ず受ける筈。そうした考えから昨晩、延珠が買ったという最新型のノートパソコンを使わせてもらって、今日の風向きについて調べていた。得られた情報から捜索すべき範囲を絞っていたのだが、この発想が間違っていなかった事は捜索開始から一時間強ほどの時が過ぎた所で証明された。

 

 外周区上空。眼下には白いハングライダーに見える物体が飛んでいる。目を凝らすと、うっすらとその向こう側にはクモのシルエットが浮かんで見えた。大きさから言ってもあれが目的のガストレアである事はまず間違いない。

 

 綾耶は知らなかったが、クモの中には巣をパラシュート状に編んでタンポポの綿毛のように風に乗る種が存在する。だが世界中探したってハングライダーを編んで移動するクモなど存在する訳がない。これこそが”進化の跳躍”。形象崩壊の際に発現した特殊能力なのだろう。今まで監視網に掛からなかったのも納得……だが。

 

「そんなの使ってるって事は、自由に飛べませんと宣伝してるようなものだよ!!」

 

 綾耶は風に乗るしかないガストレアとは対照的に空中を自在に動き回って真上の死角へと移動すると一瞬の浮遊状態の後、足場となり得る物など何も無い空間からいきなりの急降下。重力による加速など遥かに超えたスピードで体重と同じ重さの弾丸と化した彼女の体は狙い過たずガストレアの胴体へと直撃。

 

 その一撃で、勝負は付いた。

 

 感染者ガストレアをバラニウム武器も使わない素手の一撃で粉砕してしまった事から分かる通り綾耶はパワー特化型のイニシエーターである。しかも手の三倍の威力がある足による乾坤一擲。モデル・スパイダーの細い体躯はほんの一瞬も抵抗する事は叶わず、触れただけで木っ端微塵に砕けた。

 

 それでも綾耶の勢いは止まらず、流星の如く地上へ落ちていく。そのまま爆発したような音と共に土煙を上げ、クレーターを作りつつ着地。ビシッ、とポーズを決める。

 

『決まった……!! 太陽がいやに眩しいな……!!』

 

 ここにカメラマンが居ないのが残念だと、そんな事を思いながら束の間だけ陶酔感に浸る綾耶(ちなみに今日の天気は曇り)。しかし、大抵の場合こういう時にはオチが付くもので……

 

 ガツン!!

 

「うぎゃあっ!!」

 

 鈍い音と共に頭に衝撃が襲ってきて、綾耶の視界に火花が散った。目に映る景色がグラグラに揺れる。

 

 涙目で視線を動かすと、10メートルばかり離れた所にジュラルミンケースが転がったのが見えた。このケースこそ聖天子より回収を命ぜられた物であった。感染源ガストレアが呑み込んだか、形象崩壊の際に体内に巻き込まれたのだろうと綾耶のプロモーターは推測していたが、取っ手に付けられている手錠からして恐らくは後者だろう。

 

 映画に出てくる運び屋よろしく、これを持っていた者は手錠でケースと自分とを繋ぎ何があっても離すまいとしていたのだろう。だが不幸にしてガストレアに襲われて体液を注入され、後はお決まりのパターンで被害者から加害者へと変貌し、皮肉な事にケースはやたらな事では奪う事の出来ない場所、即ち”体内”へと取り込まれたのだ。それが綾耶の一撃で全身粉々にされた事で取り出された。

 

 で、取り出されたケースが綾耶の頭に……落ちてきたのがオチだったという訳だ。

 

「あいたたた……」

 

 ぶつかった箇所をさすりつつ、ケースへ近付いていく綾耶。呪われた子供たちの頑丈な肉体が無ければ頭蓋が粉々になっていた所だった。持ち前の再生力を以てしても、まだジンジンと痛む。

 

「とほほ……」

 

 ……まぁ、最後にケチは付いたがガストレアは問題無く討伐完了。後はこのケースを聖居へと届けるだけだ。

 

 やれやれと息を吐きつつケースを回収しようと手を伸ばして、

 

「!?」

 

 いきなり、気温が20℃も下がった。そんな錯覚を感じて、全身が鳥肌状態になった。

 

 死ぬ。殺される。

 

 最大ボリュームで頭に響いた警告音に従い、咄嗟に飛び退く。その判断は正解だった。20分の1秒前まで綾耶の首があった空間を、黒い刃が薙いでいたのだ。

 

「な、な? な!?」

 

 動揺して上擦った声を出しつつも、見事な宙返りを打って着地する綾耶。そうしていくらかの距離を置いた事で、襲撃者の全貌が見えるようになる。

 

「へえ、今のを避けるんだ」

 

 感心した声を上げたのはウェーブの掛かったショートヘアをした、黒いドレスの少女だ。両手に二本の小太刀を握っていて、今し方綾耶の首に胴体と永遠の別れを告げさせかけたのはこの凶刃二刀流だった。その紅い双眸は彼女が綾耶と同等の存在、ガストレアウィルスを体内に保菌する呪われた子供たちである事を示している。

 

「素晴らしい。素晴らしい反射能力だね。完全に不意を衝いたタイミング、しかも眼前の敵を倒して気の緩んだ所を狙った小比奈の攻撃をかわすとは」

 

 外周区の廃墟に拍手の音が鳴り、賞賛の声が響く。瓦礫の影から現れたのは、一言で形容するならば”怪人”であった。

 

 異様なまでに細い体躯をワインレッドの燕尾服に包んでシルクハットを被り、顔には三日月型の笑みを浮かべた仮面(マスケラ)を付けた異装の……恐らくは、男。

 

 しかしそんな巫山戯た出で立ちながら、この仮面男の存在は綾耶の体にマキシマムの警戒を示させている。体格・性別からイニシエーターでは有り得ないにも関わらず、だ。何かの間違いかとも思うが、すぐにそんな思考を改める。この第六感が彼女を裏切った事は今まで一度も無い。逆に言うならその内なる声を信じてきたからこそ、綾耶は今まで生き残れてこれたのだ。

 

 確信する。この二人はたった今倒したガストレアなどは比較にもならぬ恐るべき敵であると。

 

「……誰です? あなた達は? 民警ですか? もしそうなら、これは僕が聖天子様のイニシエーター……将城綾耶だと知った上での行いですか?」

 

 これは威嚇や牽制よりは確認の意味が強かった。この二人が全身に漲らせる殺気の強さたるや、手柄を横取りしようという良くある柄の悪い民警ペア如きが放てるものではない。何より、行き届いているであろう体の手入れや身を包む清潔な服など何の関係も無く漂ってくる血の匂い。どれほどの人間やガストレアを殺せばここまで匂いが染み付くのか……綾耶は思わず唾を呑んだ。

 

「勿論だとも、私達は全て承知の上で今の攻撃を仕掛けさせてもらったのだよ」

 

「……何者です?」

 

「ふむ、名乗りは君の方から上げた訳だし、私達だけ黙っているのは無礼に当たるだろうね。いいだろう、名乗らせてもらおう」

 

 男はシルクハットを取ると芝居が掛かった動作で優雅に一礼する。

 

「私は元陸上自衛隊東部方面隊第787機械化特殊部隊『新人類創造計画』IP序列元134位。蛭子影胤だ」

 

「モデル・マンティス、蛭子小比奈、10歳」

 

「私のイニシエーターにして、娘だ」

 

「!! ひゃ、134位……!!」

 

 綾耶も非公式ながらイニシエーターとして数多くの民警ペアを見てきたが、眼前の二人は今まで出会ったどんなペアよりも序列が上だ。それも、ブッちぎりで。後ろに跳ぶと、二人を同時に視界に収められる位置へと移動する。この動きを見て影胤は「ほう」と感心した声を出した。戦い慣れている。

 

「パパ、こいつ強いよ。斬っていい?」

 

「まぁ、少し待ちたまえ」

 

 落ち着き無く体を動かして今にも飛び掛かりそうな小比奈を制すると、影胤は視線を綾耶へと移す。聖天子のイニシエーターは思わず一歩間合いを開けた。

 

「さて、言わずとも分かるとは思うが、私達の目的はそのケースだ。大人しく渡してくれるのなら、君に危害は加えないと約束しよう」

 

 「どうするね?」と、尋ねてくるがその答えこそ「言わずとも分かっている」というものだった。ぐっ、と腰溜めに構えた綾耶は両手を翼のように広げる。これは一戦交えてでも渡さないという覚悟の表明だ。それを見た小比奈が唇の端をきゅっと上げて「パパ」と弾んだ声を上げる。そんな娘に、怪人は頷いてみせる。

 

「ああ、斬って良いよ」

 

 許可が下りると同時に小比奈が突進する、よりも早く綾耶の方が動いていた。蹴った地面が爆ぜる程の勢いで一直線に、双剣を構えたカマキリのイニシエーターへ肉迫する。そこから繰り出す攻撃は、横薙ぎの手刀。だが間合いが遠すぎる。綾耶の指先から小比奈の体まで軽く40センチはある。猫のように爪が伸びてくるにしてもまだ遠過ぎる。掠りもしない。その、筈なのだが。

 

「っ!!」

 

 奇しくも綾耶と同じく、背筋を駆け抜けた全く無根拠の直感に従って小比奈は二本の小太刀で防御態勢を取る。そしてその判断は、正解だった。刀を握る両手に、痺れが走る。

 

 綾耶の攻撃は決して間合いを見誤ってなどいなかったのだ。しかも驚くべき事に、その攻撃が“見えない”。

 

 確かに何かの力が刀身に掛かっているのは間違いないのだが、それが何なのかが分からない。綾耶が手刀で伸ばした指先から恐らくは数十センチ程の距離にまで不可視の力場が発生していて、それがぶつかってきている……と、いうのが最も的確な表現に思えた。その見えない武器と小比奈の刃が、噛み合っている。

 

「……妙な技を使うね」

 

「まだまだ、ここからだよ!!」

 

 鍔迫り合いの形となれば、力の強い方が有利。そしてそれこそはパワー特化型イニシエーターである綾耶の独壇場であった。腕に力を込めて振り抜き、小比奈を吹っ飛ばしてしまう。常人であれば飛ばされた先のコンクリート壁に叩き付けられる所であるが、そこは流石に元134位。空中で何回転かして壁に“着地”する。しかしそこに、再び綾耶が迫ってきていた。手刀を繰り出してくる。

 

 綾耶のチョップはやはり本来の間合いから40センチ程遠いが、ここが射程範囲だと既に知っている小比奈は今度は防御ではなく、身をかわす。するとさっきまで小比奈が立っていたコンクリート壁の、振られた綾耶の指先、その延長線上にある部分が音も無く断ち斬られていた。

 

「見えない刃物……!!」

 

 小比奈の表情が険しくなる。二本の小太刀という得物から想像出来るように彼女が得意とするのは接近戦。だからこそこの能力がどれほど恐ろしいものか分かる。攻撃が手刀の延長線上に発生する事から太刀筋を読み取る事自体は難しくないが、刃先が見えないのではどこまでが殺傷圏内でどこからが安全圏なのかが分からず、間合いの図りようがない。故に、迂闊に踏み込めない。

 

 こんな怪能力を使う相手は人間・イニシエーター・ガストレア問わず小比奈は戦った事がなかった。

 

「凄い……!!」

 

 だからこそ、楽しい。血が、滾る。血が、燃える。こんなのは久し振り、いや初めてかも知れない。

 

「凄い、凄い!! 綾耶、強い!! もっと斬り合おう、ね!?」

 

 笑う小比奈へ更に攻め立てようとする綾耶であったが、不意に耳に入るのはガチリと撃鉄を起こす音。体に染み付いた動作で、滅茶苦茶に跳躍して回避行動を取る。銃声。一秒前まで綾耶が立っていたそこを、無数の銃弾が穿った。見れば、影胤が両手に持った二丁拳銃をこちらに向けていた。

 

 二つの銃口はその先に綾耶の体が繋がっているかのように動き、第二射が繰り出される。たった今回避行動中の綾耶には、避ける術は無い。

 

「ならば!!」

 

 パントマイムのように両手をかざす。すると壁があるかのような動きを描いたそこに、本当に見えない壁が生じて全ての弾丸を止めていた。モデル・スパイダーのガストレアが吐き出す粘液から延珠を守ったものと同じ、不可視のバリアだ。

 

「そんな事も出来るのか」

 

 「ほう」と頷く影胤に、まずはこちらをとターゲットを変更した綾耶が跳び蹴りを繰り出す。しかし彼女の攻撃もまた、影胤の周囲に発生した蒼白い光の障壁によって止められてしまった。

 

「そっちもか!!」

 

「斥力フィールドだ。私はイマジナリー・ギミックと呼んでいるがね」

 

 攻撃が失敗に終わった綾耶は一旦距離を取ると、再び二人を同時に視野に収められる位置を確保する。

 

『拙いな……』

 

 内心冷や汗を掻くが、気取られないよう肉体をコントロールする。今の所は五分近い攻防を演じてはいるが、この戦いは自分の方が不利だ。

 

 一対二という数的不利、小比奈の戦闘に対するカンの冴え、影胤の得体の知れないバリア。これまでは見えない刃やシールドといった意表を衝く能力によって優位に立ち回れていたが、逆に言うなら意表を衝いても尚決めきれないという事でもある。このまま続けていれば二人を倒すよりも、能力を把握されてジリ貧になった自分がやられる公算の方が強い。

 

 ならば、逃げるのが賢明な選択と言えるだろうが……ネックとなるのがケースだ。影胤・小比奈ペアの狙いもあのケースである以上、渡してしまったら自分の負けだ。そして二人もそれを分かっている。今の三者の立ち位置はちょうど二等辺三角形の形となっていて、影胤と小比奈を結ぶ辺の中点にケースがある。取って逃げようと走り出したらそれこそ思う壺。無防備なそこに挟撃を受けて、やられてしまう。

 

 だが綾耶には、まだ二人には見せていない能力があった。

 

 さっと手をかざす。その動きに戸惑い半分、次は何が飛び出すのかという警戒がもう半分というぐらいに身構えるイニシエーターとプロモーター。しかし綾耶の次の手は、攻撃ではなかった。

 

 地面に転がっていたケースがひとりでに浮き上がって、綾耶の手に納まったのだ。まるで念動力(テレキネシス)でも使ったかのように。

 

「なっ!?」

 

「しまった!!」

 

 ここで、小比奈と影胤は共に初めて明確な動揺を見せた。

 

 ケースさえ手にしてしまえば、こんな恐ろしい使い手二人といつまでも戦う理由など綾耶には無い。彼女の意図を悟った影胤と小比奈がそうはさせじと走り出すが、綾耶の方が早かった。跳躍し、そのままどこへも着地せずに空の彼方へ飛んでいく。影胤が愛用のカスタムベレッタ“スパンキング・ソドミー”と“サイケデリック・ゴスペル”を向けるが、既に射程外だった。

 

「パパ、綾耶逃げた!! 斬りたい!! 追いたい!!」

 

「無駄だ、愚かな娘よ。走って逃げたのなら兎も角、相手は空を飛べるのだ。逃走ルートを絞れない、残念だが捕まえるのは無理だろう」

 

 やれやれと首を振って、銃を下ろす仮面の魔人。

 

「だがまぁ、全くの無駄骨だったという訳でもない。国家元首の懐刀たる直属のイニシエーター……そのモデルが分かっただけでも、良しとしようか」

 

「パパ、あいつの力の正体、分かったの?」

 

 綾耶の消えていった空を睨みながら、不機嫌そうに腰に差した鞘へ二本の小太刀を納刀しつつ小比奈が尋ねる。そんな娘の頭に手を置く影胤。

 

 飛行能力、見えない刃とシールド、ケースを手も触れずに動かした力、そして彼女自身のパワー。これらの要素から導かれる結論は。

 

「ああ、将城綾耶……彼女は恐らくモデル・エレファント。象の因子を持つ呪われた子供たち(イニシエーター)だ」

 

「……象? 象が空を飛ぶの?」

 

 頭に思い描いた象という動物のイメージからおよそかけ離れた綾耶の姿を思い出して、小比奈は首を傾げる。

 

「無論、象の因子それ自体に空を飛んだりする力は無いだろう。象の因子がもたらすのは強力なパワー。空を飛べるのはまた別の要因だ」

 

「それって?」

 

「彼女は体のどこか……恐らくは両腕に、象の鼻のように流体を吸い上げる器官が存在するのだろう」

 

 呪われた子供たちの中にはベースとなった動物因子が強く発現して、骨格自体が作り替えられる者が少ないながら存在する。影胤も見た事はないが、モデルが鳥のガストレアならば翼が生えたイニシエーターも居るらしい。綾耶も同じケースだと推測出来る。

 

 水浴びをする時、象は鼻を使って水を吸い上げ、その後で噴出して体全体に掛ける。綾耶の能力の秘密は間違いなくそれだ。

 

 空気を両腕に吸い込んでおいて、高圧力を掛けて噴出。それを推進力として空を飛び、カマイタチのような真空の刃を作り出し、壁状に展開してバリアと為す。そして掃除機の要領で空気を吸い込み、ケースを手元に引き寄せた。

 

「モデル・トードの舌、モデル・ヴァイパーの毒、モデル・バットのソナー……固有能力を備えたイニシエーターは多いが、一能力をあそこまで多岐に応用出来る領域にまで極めた者はそうはお目にかかれない……ヒヒッ、国家元首のイニシエーターは伊達ではない、という事だね。我が王が気に入られるのも、分かる気がするよ」

 

「パパ、良いの? 逃がしたままで?」

 

 鞘に仕舞った刀を微妙に出し入れし、ガチンガチンと鯉口から音を立てつつ尋ねてくる娘に、影胤は頷いてみせる。

 

「ああ、構わないさ。彼女と戦う機会なら、いずれまた必ず巡ってくる。それに……」

 

「それに?」

 

「既に手は打たれているからね。ヒヒッ」

 

 

 

 

 

 

 

「あー、死ぬかと思った……!!」

 

 追撃を警戒して高々度を維持しつつ、あの二人がそれでも追い掛けてくるのではないかという不安から何度も後方を振り返って、追っ手も攻撃も無い事を完全に確認すると、綾耶はぶはあっと肺に溜まっていた二酸化炭素を吐き出した。

 

 元序列134位の民警ペア。あんなのと戦ったのは初めてだ。

 

 戦いの最中は過剰に分泌されたアドレナリンの作用で感じなかったが、神経伝達物質が薄れた事で全身にヒリヒリと痛みが走り始める。

 

 見れば服はあちこちが破れて、体には赤い線が刻まれていた。弾丸が掠めたり、小太刀の切っ先が走った跡だ。どの傷も治りが遅い。やはりと言うべきか、あの二人の持ち武器はバラニウム製だったのだ。逃げたのは正解だった。戦いがもう少し長引いていたら銃撃をモロに受けて体に穴を開けられていたか、黒い刃にぶった斬られていたかのどちらかだったろう。正直、彼等とは二度と会いたくない。

 

 ちらりと、左手に持ったケースを見る。

 

「あんな連中まで、これを狙ってるなんて……!!」

 

 聖天子様からはこれを回収してくるよう言われただけで、中身は教えてもらえなかったが……余程、国家の機密に関わる物でも入っているのだろうか? だから、他のエリアの諜報機関とかさもなくばマフィアとかが動いて、影胤達を雇って……?

 

 そんな想像が頭に浮かんだが、しかしそれももう関係無い。

 

 後はこのまま聖居へ戻って、このケースを渡すだけ。それで自分の仕事は成功し、同時に奴等の仕事は失敗に終わる。

 

 このスピードで飛べば後ほんの10分程で到着するが、念の為に先に報告をと思って綾耶は愛用のスマートフォンを取り出すと、登録している番号から聖天子へと電話を掛ける。

 

 だが呼び出し音は鳴らず、代わりにツー、ツーという音が聞こえるだけだ。

 

「お電話中かな?」

 

 まぁ、忙しい御方だしと自分を納得させると、今度は延珠の番号をコールする。この時間なら学校も終わっている筈だし、次に遊ぶ約束でもしようと思っての事だったのだが……

 

 ツー、ツーと再び繋がらない時の音が聞こえてくる。

 

「……?」

 

 何か、微妙な不安が暗雲となって胸中に立ち込めてくるのを感じて、綾耶は登録してある限りの番号へと片っ端から掛けてみる。だがどの番号も結果は同じ、無機質な電子音が返ってくるだけだ。最後の頼みの救急車や警察はおろか、時報の番号でさえ同じ結果だった。

 

 不安が、確信に変わる。

 

「これって……!!」

 



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第04話 滅びの名を持つ者、逃亡犯・将城綾耶

 

 東京エリア第1区・聖居の中でも、最も厳重に守られた場所の一つ。国家元首である聖天子の私室。

 

 最高の調度品が揃えられたその部屋の中で、しかし何よりも輝くのは部屋の主が放つ光であった。聖天子の美しさは単に表面にだけ現れるものではなく、彼女の内面と外面の双方が織り合わさって生まれてくるもの。人が持ち得る美しさの、一つの完成形にして究極形と言って良いだろう。

 

 だが今はその美の光が、僅かながら翳っている事を彼女に近しい一部の者ならば気付いたであろう。と、ノックが三度。「どうぞ」と棒読みで聖天子は返す。

 

「失礼いたします……聖天子様、そろそろ民警各社の代表に例の件での発表を行うお時間です」

 

 一礼と共に入ってきたのはその彼女に近しい者の一人。白髭をたくわえた袴姿の老人、聖天子付補佐官を務める天童菊之丞であった。

 

「そう……でしたね」

 

 聖天子が向かう机の上にはクラシックな時計と、スマートフォンと、そして古ぼけたロザリオが置かれていた。時計の針は、予定時刻の10分前を指している。確かにそろそろ準備をしなければならないが……だが、今は後1分でも予定を先延ばしにしたい気分だった。今まで、どんなに難題を扱った会議の時でもこんな事は無かったのに。

 

「菊之丞さん……綾耶から、まだ連絡はないのですか?」

 

「はい、アレが最後に確認されたのは約5時間前、モデル・スパイダーの感染源ガストレアを討伐し、例のケースを回収した時までです。それ以降は連絡はおろか目撃情報も上がっておりません……状況から推測するにこれは、アレがケースを奪って逃走を図ったものと考えられます」

 

 聖天子付のイニシエーターである綾耶は、東京エリアの防犯・監視システムについても熟知している。そこに空中飛行をも可能とする彼女の能力が加われれば、監視網に引っ掛かる事無く逃走する事など容易であろう。

 

「ですが、あの子がどうして……」

 

 仮に菊之丞の言う通りだとしても綾耶にはケースの中身は教えていないし、教えていたとしても中身は彼女にとって豚に真珠、使いようが無ければ持っていても仕方のない物だ。動機が無い。

 

「何らかのルートで情報を得た他のエリアの暗部もしくは非合法の組織がケースの奪取を目的として、既に接触していたとも考えられます。如何に強い力を持とうとアレは所詮は子供、甘言や大金で容易く懐柔されてしまっても、何の不思議もありませぬ」

 

「そんな……!!」

 

 聖天子は「そんな事はない」と強く言い放ちたかったが、言葉の途中でそれは私情であり公人としての自分には許されないものだと自省して言葉を切った。

 

 だが……分かるのだ。

 

 あの子は、綾耶は。裏切りを働ける程に狡猾でも器用でもなければ、目先の利に転ぶ程に近視眼的でも即物的でもない。

 

 聖天子はイニシエーター、そして呪われた子供たちの事を可能性と考えている。だが、綾耶個人に対して抱く感情はまた別のものだ。

 

 綾耶は、あの子は……光だ。時代の先を見通し、平和を愛し、信義を重んじる、闇を照らす光。この暗黒に包まれた世界の中では見失ってしまいそうなほどにちっぽけだけれど、優しくて暖かな光。

 

 まだ半年程の付き合いでしかないが、それでも聖天子は確信を持って言える。綾耶は、自分を裏切ったりは決してしないと。ちらりと、机に置かれたスマートフォンに視線を落とす。こうしている一秒一秒が、いつになく長く思えた。今この瞬間にでも綾耶から着信が入るのではないかと期待させる気持ちがそう感じさせるのだろうと頭の中の冷静な自分が分析する。

 

 だが時間は、いつも通りの早さで流れていく。残酷なまでに。

 

「聖天子様、ご決断を」

 

「……そう、ですね」

 

 瞑目した聖天子は諦めたように溜息を一つ。そして映像通信の為に用いるモニターの前へと移動しようとして、机に置かれたロザリオを手に取った。これは綾耶をイニシエーターとした時に彼女から贈られた物。聖天子はそれ以来、お守りとしてどんな所へ行くにも常に懐に持っていた。

 

 いつもは掌にこのロザリオの感触を確かめると心強い気持ちになるのだが、今日は今までに感じた事の無い種類の不安が取って代わっている。

 

「聖天子様」

 

 菊之丞が再度、決断を促してくる。

 

 綾耶を信じたい。だが自分がそう思ったとしても、国家元首として出来ない事もある。聖天子はそう自分を納得させると、モニターのスイッチを入れた。

 

 

 

 

 

 

 

<ごきげんよう、みなさん>

 

 防衛省に集められていた東京エリアの民警関係者達(基本的にその会社の社長と主力ペア)は、会議室の大型モニターに映った人物の姿を見るや否や反射的に起立した。「楽にして下さい」と聖天子が言葉を掛けても、誰一人とて着席しない。末席に招待されていた天童民間警備会社社長・天童木更も同じだ。壁際には彼女の会社の唯一のプロモーターである蓮太郎の姿もあった。

 

<依頼内容は……>

 

 年若い国家元首は僅かだけ言い淀んで、そして言葉を続ける。

 

<今回、民警の皆さんに依頼する内容は二つ。一つは彼女、将城綾耶の捜索と身柄の確保。その際、彼女の生死は問いません>

 

 モニターの左下に小さな綾耶の写真が表示されて、それを見た社長やプロモーター達が目に見えて動揺する。

 

 綾耶は、聖天子が現在推し進めているガストレア新法を実現させる為の骨子と言える存在だ。聖天子と彼女が人間と呪われた子供たちの共存の縮図でありモデルケースでありテストケースである事は、時折ニュースや新聞で報道されている。それに綾耶は聖天子への忠誠篤く、また正規のイニシエーターではないにせよ非常に優秀で、これまで民警に先んじて何体ものガストレアを排除した活躍でも知られている。そんな彼女を殺しても良いから捕まえろとは一体全体どういう事だ?

 

 イニシエーターの中にも少ないながら、驚いた表情を見せる者が居た。三ヶ島ロイヤルガーダーに所属する序列1584位・伊熊将監のイニシエーターである千寿夏世などは特にその反応が顕著だった。

 

 一方でそうした単なる情報としてだけでなく、生の綾耶を知っている蓮太郎はより大きな衝撃を受けたようだった。場を弁えずに「マジかよ」と呟く。

 

<そしてもう一つは、彼女が持ち出したケースを無傷で回収して下さい>

 

 綾耶の写真に重なるように、銀色のケースが写った写真が表示される。更に続いてこのミッションの成功報酬が提示されると、社長や民警ペア達による困惑のざわめきが会議室に満ちていく。そこに表示されたゼロの数たるや、いくらイニシエーターとは言え一人の少女を捕まえるだけの任務にしては、あまりにも多すぎる。

 

「質問、よろしいでしょうか? そのケースは今も将城綾耶が持っていると見て良いのですか?」

 

<その可能性は極めて高いと言えます>

 

「彼女の潜伏先や逃走ルートについて、政府は何か情報を掴んでおられるのでしょうか?」

 

<残念ながら不明です。今から約5時間前に外周区で確認されたのが、彼女に関しての最も新しい情報です>

 

 列席した社長達からの質問も、有用な情報が皆無であるという事実を再確認しただけだった。

 

<……補足事項として、今回将城綾耶がケースを持ち出したのは彼女一人の意思ではなく、背後に組織だった者達の動きがある可能性があります。よって情報を引き出す為に、可能な限り彼女は生かして捕らえるようにして下さい。その場合は、更に報酬の加増を行います>

 

 画面の中の聖天子が続けたその言葉に、同じく画面の中で菊之丞がぴくりと眉を動かした。こんな依頼内容は事前の打ち合わせには無かった。

 

 このアドリブは聖天子が公人としての立場を崩さず、かつ綾耶を助ける事が出来る(少なくともその可能性を高める事の出来る)ギリギリの一線であった。直前に菊之丞からは「他エリアの暗部や非合法組織から接触があったのかも知れない」と言質も取っているので、彼もすぐには反論出来なかった。

 

「私からも質問、よろしいでしょうか?」

 

 次に挙手したのは木更であった。

 

<おや、あなたは>

 

「天童木更と申します」

 

<お噂はかねがね、ですがそれは依頼人のプライバシーに関わる事ですので、お答え出来ません>

 

「既に同じ疑問をここに集まった方々も抱かれているかと思いますが……将城綾耶が如何に強力なイニシエーターでも、何故たった一人の身柄の確保とケースの回収に東京エリアでもトップクラスの民警各位にしかも破格の報酬で以て依頼するのか、腑に落ちません。ならば……彼女が持っているケースには相応の価値……危険度があると邪推してしまうのは当然ではないですか?」

 

<……それは、あなた方が知る必要のない事では?>

 

「かも知れません。しかしあくまでそちらがカードを伏せたままならば、ウチはこの依頼から手を引かせてもらいます」

 

<ここで席を立つとペナルティがありますよ?>

 

 決して強い口調ではないが脅すような聖天子の言葉にも、木更は一歩も譲らぬとばかり毅然とした態度を崩さない。

 

「覚悟の上です。そのような不確かな説明で、ウチの社員を危険に晒す訳には参りませんので」

 

 数秒、耳に痛い程の沈黙が下りた。だが、それは唐突に破られる事となる。

 

「さっきから聞いていれば随分と不毛なやり取りを続けているわね……何なら、私が教えてあげようかしら? ケースの中身が何なのか」

 

 静かでありながら響き渡る、鈴のような、あるいは風鈴のような声。

 

 どこから聞こえてきたのかと場の一同が視線を彷徨わせるが、それらはやがて幾つかある扉のその一つへと集まっていく。

 

<誰です>

 

「私よ」

 

 ばん、と扉が開け放たれて中に入ってきたのは女性だった。

 

 聖天子と同じように純白を纏い、白く長い髪をたなびかせた絶世の美女。

 

「っ!!」

 

 突然の闖入者が現れた事とはまた別の驚きを見せたのは、やはり蓮太郎であった。

 

 と言っても彼も入ってきたこの女性とは初対面。少年の目を引いたのは女性がまるで王の供回りを務める従者の如く両脇に引き連れている二人であった。一人は黒いドレスを着た10歳ぐらいに見える少女。そしてもう一人は、燕尾服に身を包んだ仮面の怪人。先日の依頼で綾耶と出会う直前に遭遇し、勇み足でマンションに突入した警官達を殺害した男、蛭子影胤であった。

 

<何者です、名乗りなさい>

 

「そうね、ちょうど良く人も集まっているようだし、名乗らせてもらうわ」

 

 女性がそう言って絶妙の間を取って一同を見渡すと、彼女の右脇の影胤はシルクハットを取って背筋を正す。対照的に左脇の少女・小比奈は変わらずに自然体であった。

 

「私の名はルイン。ルイン・フェクダ。以後、お見知り置きを」

 

「一人を除いて初めてお目に掛かる。私は蛭子影胤。我が王、ルイン様に仕える者にして、君達の敵だ」

 

「蛭子小比奈、10歳」

 

 順番に挨拶する3人。その時、「お前っ」と動揺した声を上げながらも銃口を彼女達に向けた者が居た。蓮太郎だ。

 

「パパ、あいつこっちに鉄砲向けてるよ、斬って良い?」

 

「よしよし、だが今日は我等が王の御前、我慢しなさい」

 

「うー」

 

 影胤に言われると頬を膨らませて明らかに不満そうではあるが、小比奈は一度引き下がった。ルインはそんな少女の頭を撫でようと手を伸ばしたが、さっと身をかわされた。彼女は苦笑して、肩を竦める。

 

「何の用だ……!!」

 

「あなたは……」

 

「王よ、彼が話していた民警の少年です」

 

「ふうん……ん? このバラニウムの匂い……」

 

 くんくんと鼻を鳴らしたルインは少しの間視線を蓮太郎の頭から爪先にまで動かして彼を観察していたようだったが、ほんの十秒程で「ああ」と洩らした。

 

「成る程、確かに普通とは違うわね……」

 

 向けられている銃口など少しも意に介さず、一人で納得してうんうんと頷くルイン。が、それも束の間であった。「今日は別件があるから、また今度ね」と、蓮太郎へにっこり笑顔を向けると大型モニターに映る聖天子を見据える。

 

「今日は挨拶と、それに宣戦布告に来たのよ。このケース争奪レースに、私達も参加させてもらいたくて」

 

 ケース争奪レース、参加という二つのキーワード。ここから彼女達の目的を類推するのは容易かった。

 

「綾耶が持っているケースを……お前等も狙っているのかっ……!!」

 

<ケースを、奪うつもりですか?>

 

 蓮太郎と聖天子の声が重なって、だがその言葉を合図にこれまでは超然と振る舞っていたルインの機嫌が目に見えて悪くなった。

 

「奪う? それは違うわね」

 

 湛えていた笑みが消える。

 

「返してもらうのよ!! あれは……『七星の遺産』は最初から私……いいえ、私達の物なのだから!!」

 

 ルインが言い放ったその時、言葉にならない衝撃が場の一同に走った。この依頼は説明が始まった時から驚かされっぱなしであったが、今度こそはその中でも最大級の物であった。

 

「あんた……!! そのっ……目は……っ!!」

 

 辛うじて絞り出したような声で、蓮太郎はそう言うのが精一杯だった。

 

 さっきまで深い紫色をしていたルインの瞳は、今は赤く輝いていた。その光はガストレアや呪われた子供たちが目に宿すのと同じ色。

 

 イニシエーターなのか?

 

 とも思うが、だが有り得ない。イニシエーター及び呪われた子供たちは本来血液感染しかしないガストレアウィルスが、妊婦の口から入った場合に胎児にその毒性が蓄積されて生まれてくるもの。そしてガストレアが突如として地球に出現したのが10年前であるが故に、呪われた子供たちは最年長の者でも10歳。

 

 だがルインはどう見ても成人した女性だ。ならば……何故!?

 

「まぁ……私の正体についてはそこの国家元首さんかその補佐官殿にでも聞いてみると良いわ」

 

 そんな場の全員の疑問を読み取って、ルインは紅い瞳のままで先程までの穏やかな笑みを取り戻して話し始める。「教えてくれるとは、思えないけどね」と最後に付け加える。

 

「さて、諸君!! ルールを確認しようじゃないか。我々と君達、どちらが先に将城綾耶を捕らえ、七星の遺産を手に入れられるか……掛け金は、君達の命でいかがかな?」

 

「黙って聞いてりゃゴチャゴチャと……!!」

 

 どこかくぐもった声がして視線をそちらへ向けると、ズンと床が揺れる。バラニウムのバスタードソードが突き立てられた音。この場に集った者達の中で、そのような武器を持った者は一人。三ヶ島ロイヤルガーダーの伊熊将監だ。

 

「要は、手前ェらがここで死ねば良いんだろ!?」

 

 筋肉で固めた巨体が一瞬消えて、次にはルインの眼前に出現する。王と呼ばれた女性は突っ立ったまま微動だにしていない。

 

「ぶった斬れろや!!」

 

 猛獣の咆哮の如き唸りを上げながら大剣が振り下ろされて、響く金属音。将監の黒い刃は同じく黒い刃に。小比奈の双剣によって受け止められていた。

 

「っち!!」

 

 イニシエーターとの接近戦は極力避ける事が鉄則。将監もプロモーターとしてそのマニュアルに従い、後ろに跳んで間合いを離した。

 

「こんな奴に不意を衝かれるなんて、あんたらしくないね」

 

 視線と二つの刃の切っ先でぐるりを囲む民警達を警戒・牽制しながら小比奈が言った。ルインはそんな挑発的な台詞に怒るでもなく、もう一度小比奈の頭に手を伸ばす。今度はかわされずに彼女の頭をくしゃっと撫でる事に成功した。

 

「危険は無かったわよ。もしあなたが守ってくれなくても、影胤が攻撃を止めていたわ。いとも簡単に」

 

 ルインの言葉が終わらない内に、連続して響く破裂音。彼女達を包囲していた民警の社長とプロモーターが携帯していた拳銃を抜き、3人へと一斉射していた。

 

 だが全ての銃弾は闖入者達を囲むように発生した蒼白いドーム状の光によって止められてしまっていた。「こんな風にね」と、ルインは小比奈に笑いかける。彼女が軽く手を上げて合図すると影胤は無言のまま首肯し、同時にフィールドが消える。運動エネルギーを全て奪われた銃弾は、ばらばらと無力に床に落ちて転がった。

 

「バリア……だと? お前、本当に人間なのか?」

 

 綾耶が似たようなものを使ってはいたが、しかしそれはイニシエーターの固有能力としてまだ説明出来る。だが同じような力を、プロモーターが使うとは? 蓮太郎は、冷たい汗がどぼっと全身から噴き出してくるのを自覚した。

 

「人間だとも。ただし今の斥力フィールドを発生させる為に内蔵の殆どをバラニウム製の機械に詰め替えてあるだけさ」

 

「機械……だと?」

 

「改めて名乗ろう。私は元陸上自衛隊東部方面隊第787機械化特殊部隊『新人類創造計画』蛭子影胤だ」

 

「……あの大戦が生んだ、対ガストレア用特殊部隊!? 存在する訳が……!!」

 

 呆然と、民警社長の一人が呟いた。そんなもの、ガストレア戦争の混乱の中で生まれた都市伝説もどきの筈なのに。

 

「信じる信じないは君の勝手さ。ただ、君達の目の前に在るのが事実。それ以外には無い」

 

 影胤はちらりと、弾切れになった拳銃をいつの間にか下ろしていた蓮太郎へと向き直る。

 

「まぁ何かね、里見君、つまり以前に出会った時、私は全く本気を出してはいなかったのだよ。悪いね」

 

 怪人はそこで一度言葉を切ると、すぐ傍らにいるルインへ視線を移した。

 

「今ここで始めても良いが、今日は挨拶だし、ここは我が王の御前だ。血で汚す訳には行かない……では、王よ」

 

「ええ」

 

 ルインは従者のその言葉に頷いて、踵を返す。入ってきた扉から無造作に歩いて出て行こうとして、影胤と小比奈もそれに続く。あまりにも無防備なその背中へ、しかしこの場の民警の誰も既にリロードが完了した銃を向けようとはしなかった。

 

 そのまま、ばたんと会議室の扉が閉ざされて、部屋の空気が微妙にシフトした。しばらくの間は誰もが悪夢の如き出来事の連続に現実感を喪失していたようだったが、

 

「天童閣下、新人類創造計画は!! あの男が言っていた事は本当なのですか!?」

 

 社長の一人のその質問を皮切りとして、我も我もと問いが吹き出す。

 

「ではあの紅い目の女は何者ですか!?」

 

「返してもらうとはどういう事ですか!?」

 

 いくつもの問いに対して、返ってきたのは全て同じ回答であった。全て同じ人物、天童菊之丞から。

 

<答える必要は無い>

 

 たった一つを除いて。

 

「では、七星の遺産とは何なのですか!?」

 

 この質問に対して国家元首とその補佐官は視線を交わし合うと、示し合わせたように頷き合って、やがて聖天子が口を開いた。

 

<七星の遺産とは、邪悪な人間が悪用すればモノリスの結界を破壊し、東京エリアに大絶滅を引き起こす封印指定物です>

 

 ざわめきが、消えた。

 

 現在、人類の居住エリアは巨大なバラニウム製モノリスをほぼ等間隔に打ち込む事によって発生する磁場の結界によって、ガストレアの侵入を防いでいる。縦1.618キロメートル、横1キロメートルもあるモノリスは近くで見ると難攻不落の城壁を思わせるが、しかしこれはその実、エリアを囲むそのどれか一つでも何かしらの原因で崩壊した場合にはその“穴”となった箇所からガストレアが侵入してくるという薄氷の壁でもある。

 

 そうしてガストレアがエリアに雪崩を打って侵入してくるケースを“大絶滅”と呼ぶのだ。過去には中東やアフリカでの発生が記録されている。

 

 それはまるで……いやまさに地獄の具現。そのエリアに生きる人類にとって最悪のケースと言って差し支えない。

 

<民警の皆さんに依頼内容を追加させていただきます。ルイン・フェクダ並びに蛭子影胤よりも先に将城綾耶を確保し、ケースを回収して下さい。これはこの東京エリアの存亡を懸けた任務となります>

 

 

 

 

 

 

 

 第39区の教会。呪われた子供たちの学校兼宿舎として使われていて、いつもは子供たちの笑い声が絶えないそこも、綾耶がもたらした情報によって松崎老人と琉生(るい)が下水道に子供たちを避難させてる今は静かなものだ。

 

 建物の鍵は施錠されているが、この教会が実家である綾耶は当然合い鍵を持っている。

 

 そうして入った不気味な程の静けさが支配する礼拝堂の中で、綾耶はケースに腰掛けて頬杖を突き、むすっとした顔で思考を巡らせていた。懐からスマートフォンを取り出す。

 

 何時間かが経ったが、相変わらず誰にも電話が繋がる気配は無い。

 

 あの時はそれでもすぐに聖居へと移動して、聖天子様にケースをお渡ししようと思った。影胤・小比奈ペアが単独犯であろうがあるいは他エリアの暗部や非合法組織によって雇われていたとしても、どちらにしても彼等よりも先にケースを届けてしまえば全てが終わる。

 

 まだ簡単に考えていた。

 

『情報がどこから漏れていたとしても、これで僕の任務は終わる』

 

 そう、どこから情報が漏れていたとしても……

 

 聖居まで後1分ほど、高度を落としかけていた時にそんな思考に至った瞬間、綾耶は両腕のジェットを噴かして再び高度を取った。

 

 そうだ、良く考えればあの蛭子影胤は明確にケースを狙っていた。彼あるいは彼の黒幕は、どこからその情報を手に入れたのだ? 情報は、どこから漏れた?

 

 例えば警察に捜索依頼を出すとか、東京エリアの民警を集めて回収を命じるとかしたのなら広範囲に情報が拡散してしまっているから、どこかから洩れたとしても納得出来る。

 

 だが今回のケースは違う。聖天子様はケースの中身は教えてくれなかったが、こうも言ってくれた。

 

 

 

『ケースの中身は使う者によってはこの東京エリアを滅ぼしかねない程に危険な物です。それ故に、出来るだけこれを知る人が少ない内に、秘密裏に回収したいのです。だから綾耶、あなたにお願いします。ケースを誰よりも早く回収し、この聖居に持ち帰って下さい』

 

 

 

 聖天子様は自分をそこまで信頼してくださるのだと、綾耶は勇んでこの任務に就いたのだが……

 

 自分のプロモーターの言葉を信じるのなら、ケースの存在と任務の内容を知っていた者は限られている筈。

 

 任務を受けた自分と、その任務を授けた聖天子様。そして政府の人間の中でも、聖天子様に近しい高位の何人か。

 

『もし……僕の考えている通りだとしたら……』

 

 ちらりと、普段は琉生が子供たちに教える為に使っているホワイトボードを見る。そこには綾耶が知っている限りの政府高官の名前が、彼女の認識で偉い方から順に書き並べられていた。一番上には“きくのじょーさん”とある。

 

『この中の誰かあるいは何人かが、裏切り者……?』

 

 その裏切り者が、直接影胤達を雇ったか外へと情報をリークした?

 

 だとすればこれは尋常ならざる事態だ。聖居へとケースを持ち込んだが最後、安全な所へ運び入れるどころかみすみす悪意の者の手に危険物を渡してしまう事になる。最悪その裏切り者は、再びケースを奪取する為に聖居に影胤達を引き入れるかも……

 

『あんな奴等と聖天子様を出会わせるなんて……!!』

 

 それは綾耶にとって絶対に許す事の出来ない未来だ。

 

『聖天子様の事は僕が命に代えても護る……!!』

 

 拾ってくれて、望むべくもなかった大きなチャンスを授かった大恩あるこの身。初めて出会った日に、清掃作業で汚れた自分の手を握ってくれた聖天子のぬくもりを、綾耶は今も忘れない。その想いは紛う事無き彼女の本心だった。だが……

 

『なんて、言えたら良いんだけどね……』

 

 はぁ、と溜息を一つ。

 

 残念ながらどちらか一方だけなら兎も角としてあの二人が相手では、たとえ命懸けであっても聖天子を護る事は難しいだろうと綾耶は見ている。

 

 ならばどうする?

 

 考えて、考えて……答えは、一つだった。

 

 気が付けば綾耶は、聖居とは反対方向へと飛んでいた。

 

『これで、聖天子様はひとまず安全の筈……』

 

 影胤達の目的はあくまでケース。聖天子の命ではない。これでターゲットは自分に絞られる。

 

『でも、このままでもダメだよね……』

 

 電話も通じない。これでは昔の映画で見た、偶然から政府の機密を知ってしまって、機密を保持しようとするエージェントに命を狙われる主役みたいではないか。映画では、その次の展開は……

 

『ひょっとしたら今頃……僕はケースを持って逃げ出した逃亡犯に仕立て上げられてたりして……それで僕の首に多額の賞金が掛かっているとか……』

 

 想像して、思わず苦笑する。映画の主役に憧れた事はあるがこんな形で夢が叶うとは思ってなかった。事実は小説よりも奇なりとは、本当だ。

 

 だがもし本当にそうなら、この状況はほぼ“詰み”と言える。影胤・小比奈ペアのような恐ろしい敵が居て、味方の中にも敵が居て、挙げ句はこの東京エリア全体が敵になる。しかもケースを手に入れてものの数分で電話が不通にされるぐらいだ。敵の中には、恐るべき権力を手中にした者が居ると見て間違いない。

 

『……どうしよう?』

 

 頭の中でそう呟いた時だった。古い扉が軋むギシギシ音と共に、礼拝堂の扉が開く。

 

「!!」

 

 反射的に、綾耶は両手に空気の刃を生み出して身構える。入ってきたのは名も顔も知らぬ民警ペアか、それとも影胤と小比奈か、あるいは重武装した政府の特殊部隊か。

 

 果たして、そのいずれでもなかった。

 

「あ……」

 

 呆けたような声を上げて、少女の両手に発生していた見えない刃物は霧散する。

 

「どうして……ここに?」

 



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第05話 延珠の故郷

 

 防衛省での一件の後、蓮太郎は一旦会社へ戻る木更を見送った後、その足で延珠が通う勾田小学校へと自転車を走らせていた。ちょうど下校時間だった事もあり、下校ルートで延珠と落ち合う形になった。そのまま近くの公園に寄ると延珠にはジュースを、自分は微糖のコーヒーを買ってベンチに並んで座る。

 

 最初、延珠は少しだけ困惑していた様子であったが、やがて「はっ」とする。これは、ひょっとしてデートってやつじゃ……!!

 

「れ、蓮太郎も遂に妾の気持ちに気付いて……!!」

 

 ここまで来るのに苦節一年。一年も掛かったが、遂にこの日が……!!

 

 ……などという延珠の思考など知らない蓮太郎は、深刻な顔でパートナーをじっと見詰める。

 

「延珠」

 

「ひゃ、ひゃいっ!!」

 

 ずっと望んでいた筈なのに、いざ本番となると緊張するものだ。声が上擦っているのを延珠は自覚する。

 

「いいか、落ち着いて聞けよ」

 

「う、うむ……!!」

 

 こ、これは……!! 思っていたよりもずっと段階をすっ飛ばす事になるやも……!! 蓮太郎め、ヘタレだと思っていたが思いの外積極的だったのだな……!!

 

 だが続いてプロモーターの口から出た言葉は覚悟していたものとは別の、しかもそれよりずっと強い衝撃を延珠に与えた。

 

「綾耶が……逃亡犯に……!?」

 

「そうだ、しかも東京エリアの全民警に生死問わずで捕まえろと指令が出ている」

 

 延珠が受けるショックも考慮して暫くは伏せておこうかとも考えたが、結局蓮太郎は隠さず打ち明ける事にした。延珠は綾耶と親友同士だし、ならば知っておくべきだと思ったのだ。

 

「そ、それで妾は一体どう動けば良いのだ?」

 

「……まぁ、当面は今まで通り待機だ」

 

 この東京エリアは狭いようで広い。人員や資金力も豊富な大手民警ならば人海戦術で以てローラー作戦を展開して探し出す事も出来るだろうが、天童民間警備会社は社長とイニシエーター・プロモーターペアの3名が全社員という零細企業。ましてターゲットの綾耶は空を飛べるのだ。闇雲に探しても見付かる訳がない。

 

「今、木更さんが各方面に掛け合って情報を集めてくれてる。情報が入ったらそこから迅速に動いて、他のどの民警より早く俺達が綾耶を保護する。それしかあいつを助ける道は無い」

 

「うむ……!!」

 

 延珠は厳しい顔で頷くと、蓮太郎の隣に並んで家路に就く。商店街の近くを通ると、街頭テレビの大画面に聖天子の姿が映っていた。内容は今まで何度かテレビニュースでも報道されていた「ガストレア新法」についてだ。

 

 呪われた子供たちの基本的人権を尊重しようというこの法案が通れば、多くの呪われた子供たちが今のように下水道に住んだり飢えに苦しむ事もなくなり、延珠とて学校に通う為に正体を隠す必要もなくなる。通れば良いのに、と思うその心は蓮太郎の本心だった。

 

『いや……俺だけじゃないな』

 

 この法案が通る事を誰よりも願っていたのは、他でもない綾耶ではあるまいか。人間である聖天子と、呪われた子供たちである綾耶。二人が共に在る事こそこの法案の縮図だ。今は色々と難しい時期だが、だからこそ綾耶はこの東京エリア全ての呪われた子供たちを代表する立場としてガストレアと戦っていたのではないかと、蓮太郎はそう思う。自分が誰かの為に働く事で、自分達が共存し得る存在である事を世間に示そうとして。

 

 そんな綾耶が、いよいよ法案が通ろうかというこの時期に封印指定物入りのケースを持って逃亡するなど、今まで何ヶ月も掛けて積み上げてきた努力全てを一瞬にしてドブに捨てる愚挙だ。蓮太郎には到底信じられない。

 

『だからこそ俺達がアイツと接触して、話を聞かねぇと……』

 

「そいつを捕まえろおっ!!」

 

 突然の蛮声に、蓮太郎は思考の海から現実へと引き戻された。声のした方に彼と延珠が振り返ると、ちょうど人垣を割って少女が飛び出してくる所だった。汚れや破れの目立つ服を着ていて、同じように肌や顔も汚れている。目を引くのは、彼女の紅い目。蓮太郎も延珠もすぐに理解した。この子は外周区の孤児である呪われた子供たちだと。

 

 その女の子は二人の前まで来ると驚いたように足を止める。この反応に蓮太郎は少し戸惑った。ふと見れば、少女が食料品を一杯にした明らかに買い物カゴを手にしているのに気付く。そしてこの慌て振り。この子が万引きをしでかしたのだと彼はすぐに悟った。少し視線を上げてみると、数人の大人達が追ってくるのが見える。

 

「あ、あの……!!」

 

 女の子が何か言い掛けたのと、同じタイミングだった。延珠の瞳が、炎の色を宿す。

 

「ば……やめ……!!」

 

 こんな所で力を使ったが最後、今まで隠していた延珠の正体を衆目に晒す事になってしまう。そしたら……!! 脳裏に浮かんだ忌まわしい未来を現実にさせまいと蓮太郎が動くが、間に合わなかった。力を開放した延珠が、

 

「ぎっ!!」

 

 女の子を抱えてこの場を離脱しようとして、しかしそれよりも一瞬早く。風のように現れた一人の少女が女の子を組み伏せていた。彼女もまた、女の子と同じように紅い目をしていて呪われた子供たちだと分かる。しかも、イニシエーターだ。この少女の顔に、蓮太郎と延珠はどちらも見覚えがあった。

 

「っ!? お主は……!!」

 

「は、放せぇ!! いだあっ」

 

 万引き犯の女の子が逃れようと体をばたつかせるが、イニシエーターは関節を極めて動きを封じる手に少しの力を加える事で応じた。走った激痛に、女の子は悲鳴と共に涙を浮かべる。

 

「お主、その手を……!!」

 

「止めろ延珠!!」

 

 イニシエーターを女の子から引き剥がそうと延珠が前に出るが、蓮太郎に制された。今はさっきよりも人目が集まってしまっている。こんな所で延珠の紅い目を見られたら絶対に誤魔化せないし、それに記憶が確かならこのイニシエーターの少女は……

 

「おい、そいつを引き渡せ!!」

 

「東京エリアのゴミめ!!」

 

「警察を呼べ!!」

 

「待てよ、そいつはいつ化け物に早変わりするかも知れねぇガストレア予備軍だ。素人さんが手出しするんじゃねぇ」

 

 蓮太郎の考えを裏付けたのは場に響いた野太い声と、人混みの中でもすぐに見付けられるであろう存在感を放つ偉丈夫の姿であった。防衛省で見た伊熊将監が小さく見えるような2メートル超の恵体は余す所無く鎧のような筋肉で固められており、トレンチコートをマントのように羽織っている。

 

 あまり他の民警に詳しくない蓮太郎・延珠共にすぐに分かった。この男の顔は、テレビで何度も見ている。

 

「IP序列30位……!! 一色枢(いっしきかなめ)……!!」

 

 畏敬の念が籠もっているような声で、蓮太郎は呟いた。目の前の男は現在、このエリアに於ける唯一の序列百番以内にして最高位序列保持者。名実共に東京エリアの切り札とも呼ばれる存在であった。

 

「『鉤爪(クロウ)』……」

 

 女の子を未だ組み伏せたままのイニシエーターに視線を移すと、彼女は無感情のままで蓮太郎を一瞥しただけだったが……蓮太郎の方は思わず数歩間合いを離した。序列百番以内のペアにはその力への尊敬と畏怖から二つ名が与えられる。『鉤爪』とは、この二人の称号であった。

 

「さ、あんた等はもう帰りな。こいつの事は俺達が処理しておくからよ」

 

「……あんた……!!」

 

 枢の言い様に義憤を覚えた蓮太郎が詰め寄ろうとするが、「あ?」と睨まれて思わず後退った。相手は全世界に20万以上も存在する民警ペアの中でもトップ中のトップ。序列12万位台の自分が勝てる道理は無い。

 

「おら、散った散った」

 

「だ、だが……」

 

 未だ組み敷かれたままの女の子を追ってきた大人達はいきなり出て来たこの男が場を仕切り始めた所に難色を見せるが、そこで壮漢は溜息を一つ。

 

「俺達が信用出来ねぇってぇなら仕方無ぇ。じゃあ、こいつを自由にしよう。だが、いきなりガストレア化してお前さん方を襲い始めても、俺は責任持てないぜ?」

 

 顎をしゃくって合図すると、イニシエーターが頷いて女の子の関節を極めている力を少し緩める。それを見た大人達は「や、止めろ」「分かった、あんたに任せる」と慌てて二人を制止した後、明らかに渋々といった様子ながら引き上げていった。それを確かめた枢が手を振って合図すると、イニシエーターは女の子の手首を捻り上げて無理矢理立たせる。女の子は「あぐっ」と悲鳴を上げた。

 

「お主……っ!!」

 

「止せ!! 延珠」

 

 今にも二人へと飛び掛かりそうな延珠だったが、蓮太郎が羽交い締めにして止めた。一瞬、二人と枢の目線が合ったが互いに何も言わないまま物別れになり、女の子はそのまま連行されていった。集まり掛けていた野次馬達も三々五々に散っていき、後に残されたのは蓮太郎と延珠の二人。延珠の瞳は既に黒く戻っていた。

 

「何故、妾を止めた、蓮太郎!!」

 

 服を掴んで噛み付くような勢いで迫ってくる相棒を取り敢えずビルの隙間へと引っ張り込むと、ひとまず落ち着かせようとする。

 

「仕方無いだろう延珠、あの状況で正体がバレたらお前まで殴られるどころじゃ済まなかったぞ」

 

 実際、紙一重のタイミングだった。あそこで枢のペアたるイニシエーターが現れなかったら、延珠の正体は間違いなくこの場の全員が知る所となっていた。そうなればもう、学校に通う事も……!!

 

「妾なら助けられた!! 妾でダメでも、蓮太郎なら……!!」

 

「無理を言うな、延珠……!! どうにも出来ない事だってあるんだ」

 

 蓮太郎の声から感じる響きは、諦めと苛立ちが半々という所だった。諦めについては自分の無力感を原因として。苛立ちの原因は半分はその無力感と、もう半分は自分でも恩着せがましい事は百も承知だが、延珠に対してのものだった。俺はお前の為にやったのにどうして分かってくれないのかと。八つ当たりに近い感情だと自覚しているだけに、自己嫌悪してはまた苛立つという悪循環だ。

 

「蓮太郎は正義の味方だ!! 蓮太郎に出来ない事なんて無い!!」

 

「子供の幻想を俺に……」

 

 押し付けるなと言い掛けて、相棒の両目に溜まっている涙に気付いた。

 

「なぁ、延珠……もしかして、知り合いだったのか……?」

 

「昔、妾が外周区に居た頃、何度か見かけた事がある……一度も言葉を交わした事は無かったが、向こうも妾を覚えていた……」

 

「……延珠、先に帰ってろ」

 

 蓮太郎は、もう理屈を先に立てて考える事を止めた。自分の中の良心に身を任せる事にしたのだ。

 

 目に付いた男からかなり強引に原付を借り受けて、枢達が消えていった方向へとひた走る。

 

 外周区にまで行くと、目当ての物はすぐに見付かった。廃墟一歩手前もしくは明確に廃墟な街並みには似つかわしくない高級車が一台、ぽつんと停まっている。

 

「……はい、マスター・ベネトナーシュ…………新しい子を…………下水道ですね……」

 

 不意に聞こえてきた声に、蓮太郎は思わず物陰に身を隠した。声色から枢のイニシエーターのものだと分かる。内容は聞き取れなかったが……ちらりと瓦礫から顔を出すと、緊張した様子で立ち尽くす女の子のすぐ前に枢とイニシエーターが立っていて、イニシエーターはスマートフォン片手に何やら話し込んでいる。

 

 最悪、女の子が生きたまま射的の的にされたり強姦されるような未来さえ思い描いていただけに、少なくとも枢達が暴力を振るう気配が無い事に、少しだけ胸を撫で下ろした。

 

「マスター・ドゥベ…………マスター・ベネトナーシュに…………任せろと……」

 

 イニシエーターはスマートフォンの通話を切ると枢へと何か報告している。距離もあって会話の内容をイマイチ把握出来ない蓮太郎は、ここで出て行くのは何か後ろめたいような気がして、だが枢達の意図を把握したいという感情も手伝い、気配を殺しつつ忍び足で近付いていく。ちょうど会話が聞き取れる距離にまで近付いた所で、枢の声が聞こえてきた。

 

「第39区の下水道にいる琉生(るい)って女を訪ねな。でなきゃ松崎って爺さんでも良いが……そこへ行きゃ、面倒を見てくれるだろうさ」

 

「あ、あの……」

 

 女の子はまだ何か言おうとしていたが、枢は「ほれ、さっさと行きな。出来るだけ人目を避けてな」と、シッシッと手を振って追い払ってしまった。女の子は何度かこの民警ペアを振り返っていたが、やがて諦めたのかぱたぱたと立ち去っていった。

 

「そんで? 兄ちゃんはいつまで俺達を覗いてるつもりだ?」

 

 心臓が高鳴るのを自覚する。しかし考えてみれば相手は序列30位。追跡が見破られていたのも当然と言えば当然か。観念した蓮太郎は瓦礫の影から出る。敵意が無い事を示す為に、両手は見える位置に出していた。

 

「ああ、兄ちゃんは商店街に居た……いや、防衛省でも仮面男と何か話してたプロモーターだな」

 

 合点が行ったという表情になった枢は、記憶の糸を手繰るように擦っていた親指と中指をパチンと鳴らした。

 

「って事は……俺達があの子に何かすると思って付けてきたって所か?」

 

「あ、ああ……だが、俺の気の回しすぎだったらしいな……あんた等が良い奴で良かったよ」

 

 気さくな口調で話し掛けられて、蓮太郎は肩に入っていた力を少し抜いた。良く考えれば、商店街ではああでもしなければ女の子を助ける事は出来なかっただろう。言葉遣いは兎も角、枢の取った行動は一つの最適解と言える。。

 

「あ……さっきはその……悪かったな……あんた達に汚れ役をやらせちまって……」

 

 ばつが悪そうに、蓮太郎は頭を下げた。しかし枢は陽気に笑って応じる。

 

「気にする事ぁ無ぇよ。お前さん、イニシエーターを連れてたな。俺のコイツと違って、お前さんの相方は呪われた子供たちって事を隠してンだろ? プロモーターには時々そういう奴が居るからな……見りゃあ分かるよ」

 

「あ、あぁ……そうだよ。何て言うか……俺はあいつ……延珠の方がさっきのあの子よりも大切で……それで……あんた達が居てくれなかったら……あの子は」

 

 胸中の罪悪感から蓮太郎の言葉は要領を得ないものになっていくが……そんな彼の肩を枢がぽんと叩いた。

 

「良いんだよ。人間誰でも自分に近しい奴が大事……当たり前の事だ。他人の為に命や立場を張れるのは素晴らしい事だとは思うが、だからって自分の大切な奴をないがしろにしてまで……ってぇのは何か違くね?」

 

 商店街での行動を肯定されて、蓮太郎は少しだけ胸のつかえが取れた気がした。

 

「あぁ、ありがとう……じゃあ、俺はこれで……連れを待たせてるんでな……」

 

 ペコリと頭を下げると蓮太郎も去っていき、廃墟には枢と彼のイニシエーターだけが残される。枢は周りに人目がない事を確かめてスマートフォンを取り出すと、登録してある番号をコールする。相手はほぼ1コールの内に通話に出た。

 

<お呼びですか? 我が一の王よ>

 

「あぁ、影胤……あなたが言っていた民警と話したわ」

 

 枢の声は、一変していた。先程、蓮太郎と話していた時には地の底から響いてくるような低い声であったのが、今は高くて良く通る女の声。裏声などでは断じてない、自然な発声だった。すぐ傍で控えるイニシエーターはプロモーターの突然の声変わりにも驚いた様子を見せない。もしここに蓮太郎が居れば気付いただろう。今の枢の声は数時間前に防衛省で遭遇した、影胤・小比奈ペアを連れた女、”ルイン”と同じものだと。

 

 電話の向こう側の相手は嬉しそうに「おお」と声を上げる。

 

<それで、いかがでしたか? 三の王は彼の事がお気に召したようなのですが>

 

「……防衛省で見た時の印象もそうだけど、フェクダやあなたが気に入る程、あまり強そうにも思えないけど……使えるの? まぁ私達は来る者は拒まない主義だけどね」

 

<もし拒みましたら、その時は私が始末しますよ。彼の事は私にお任せ下さい>

 

「……遊ぶのも良いけど、本来の目的を忘れないようにね。私からはそれだけ」

 

 そう言って通話を切ると傍らのイニシエーターを振り返る。その時、枢の肌にさざ波が立って彼の瞳が紅く光り、しかしそれもすぐに消えた。

 

「じゃあ、俺達も行くか」

 

「はい、マスター・ドゥベ」

 

 イニシエーターが頷く。枢の声は既に男のそれに戻っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 だが蓮太郎が他の誰かを犠牲にしてまで護ろうとしたものはその次の日に、あまりにも簡単に奪われて、あまりにもあっさりと崩れ去ってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 第39区の廃墟を、延珠は歩いていた。

 

 一昨日も昨日も続いていて、今日も同じように繰り返して、明日も明後日も続くと思っていた日常は何の前触れも無く終わりを告げた。

 

 最初に違和感を覚えたのは、その日教室に入ってすぐだった。いつもなら皆の笑い声で満ちている筈の教室では、今日はクラスメイトが数人ぐらいずつ集まって何かひそひそと話している。このクラスがこんな雰囲気に包まれているのは、延珠にとっては初めての経験だった。

 

「皆、おはようなのだ!!」

 

 いつもならこう言うと口々に「おはよう!!」「よう、藍原」「延珠ちゃん、昨日の天誅ガールズ見た?」「藍原、昨日の宿題見せてくれよ」と、口々に声が返ってくる筈なのだが、今日は違っていた。クラスメイト全員が一斉に、一瞬だけ彼女を見て、そしてまたそれぞれ固まっていたグループごとに何か話始めるのだ。

 

 言い様の無い居心地の悪さを覚えた延珠はランドセルを机に放り出すと、一番仲が良いクラスメイトである舞のいるグループへと駆け寄った。

 

「皆どうしたのだ? 今日は何かおかしいぞ? まさか抜き打ちでテストでもやる事が決まったのか?」

 

 これは内心、そうであってくれと願っての問いであった。延珠自身、分かっていた。今、教室に充満している空気はそんなのとは明らかに異質なものであると。言葉には出来ずとも直感的に理解していた。

 

 案の定、友達は皆どこかよそよそしい視線を向けるだけだ。

 

 いよいよ不安が大きくなって延珠は思わず叫びそうになったが、その時だった。

 

「な、なぁ藍原……」

 

 躊躇いがちに、友達の男の子が尋ねてくる。その声を聞いて、延珠の中の不安な気持ちは八割方取り除かれた。後は彼が何を聞いてくるにせよ、その問いに真摯に答えるだけだ。それで、皆が何を誤解しているのか知らないが全て解決する。

 

 だが、その次に出た言葉は。

 

「お前が……呪われた子供たちだって……まさか、違うよな?」

 

 ……それからの事は良く覚えていない。

 

 気が付いたら逃げるように学校を飛び出して、アパートに戻って、その後は……

 

 そう、時計だ。時計を見た事を覚えている。後数時間で蓮太郎が帰宅してくる。いつもならばその時間が待ち遠しく、またそれまでの時間を過ごす事それ自体も楽しくて心が弾むのに、今日は何故だかたまらなく怖かった。一体どんな顔をして会えば良いのだろう? それ以前に、彼の顔をまっすぐ見る事が今の延珠には出来そうになかった。

 

 服を着替えると、滅茶苦茶に走っていた。走って、走って、走って……見覚えのある場所を歩いていた。

 

「結局……妾が行き着く先はここか……」

 

 自嘲気味に、嗤う。

 

 最初にここへ来た時も、逃げ出した末だった。

 

 給付金目当てに自分を引き取り、その後は虐待に等しい扱いを強いていた養父母を殴り倒し、何もかも放り出して捨て鉢になって、闇雲に走った先がここだった。

 

 空を見上げる。もしかしたらこの曇り空から、綾耶が下りてくるのではないかと期待してしまう自分が居る。

 

「バカな」

 

 そんな事ある筈が無いのに、と首を振る。今の綾耶はこの東京エリア全てから追われる身。都合良く自分を助けに現れてくれる事など有り得ない。

 

 この第39区での生活は、延珠にとっては恥ずべき過去だ。自分の日々の糧を得る為に、誰かの何かを奪う毎日。金、食糧、医薬品。身包みを剥ぐ事さえ珍しくなかった。そして当然、本来ならば支払うべき金銭や労働の代わりに暴力を払った代価として戻ってくるのは、報復の銃弾だった。

 

 だがその度に、綾耶はフィクションの中にしか居ないヒーローのように文字通り飛んで来て、延珠を守ってくれた。何度も、一緒に空を飛んで逃げた。延珠が受ける筈だった傷を代わりに負ってくれた事もあった。

 

 綾耶は自分がやっているドブ掃除や荷物運びの仕事を、延珠にも紹介してきた。そうして過酷な作業と引き替えに安い給金を受け取る(報酬が金ですらなく、期限切れのコンビニ弁当やおにぎりの現物支給である事も珍しくなかった)綾耶を、延珠は「バカな奴だ」と蔑んでいた。奪い取ってしまえば、10分の1にも満たない時間で10倍する物が手に入るのに。こいつは折角の「力」を、何故あんな風に使って腐らせるのだろう?

 

 一度、聞いてみた事がある。綾耶はこう言った。

 

 

 

『何でって……だって、誰かを傷付けて何かを手に入れるより、誰かの役に立って何かを手に入れた方がずっと気持ち良くない? 延珠ちゃんは、違うの?』

 

 

 

 延珠は、その答えを聞いてやっぱり綾耶はバカだと思った。

 

 

 

『お主のような奴こそ偽善者と言うのだ!! お主だって本音では、人間を憎んでいるくせに!!』

 

 

 

 そう言われて、綾耶は困ったように笑った。

 

 

 

『まぁ……そりゃね。延珠ちゃんの言う通りだと思うよ。僕も結局、自分の事しか考えてないんだろーね。誰かを憎んで誰かを傷付ける自分より、誰かを大切に思って誰かの為になれる自分でいたいって思ってるだけだよ』

 

 

 

 言い争い(大抵の場合は延珠が苛立ちをぶちまけて、綾耶が何か一言返して終わりにしてしまう)は毎日のように起こったが、延珠は綾耶の教会を離れようとはしなかった。顔を合わせれば綺麗事ばかり言ってきて、頼んでもないのに自分を助けに現れる、そんな鬱陶しい奴が住んでいる場所なのに。妾はあいつの事なんて、大嫌いな筈なのに。

 

 

 

『妾がどこで野垂れ死のうが妾の勝手であろう!! お主は何故、そこまで妾に構う!? まさか、友達だからなどと言わぬであろうな!?』

 

『友達だからだよ、延珠ちゃんが』

 

 

 

 少しも躊躇わずに、綾耶は答えた。何故そんな分かり切った問いを尋ねるのかとでも言いたげに、首を傾げて。

 

 

 

『もし延珠ちゃんが死……何かあったら、僕、泣くよ? きっと……ううん、絶対』

 

 

 

 綾耶は教えてくれた。人を信じ、大切に想うという事。今の自分がある半分は、間違いなく彼女のお陰だ。

 

 イニシエーターに志願したのは三食と寝床、それに浸食抑制剤が支給される事や実の両親が分かるかも知れないという希望もあったからこそだが、他にもう一つ誰にも、綾耶にも話していない理由がある。

 

『妾は……お主のようになりたかったのだ……自分の力を誰かの為に使って、皆に必要とされたかった』

 

 今の自分は、蓮太郎のイニシエーターである事を誇りに思っている。学校の誰にも知られてはいけないが、自分と蓮太郎でこのエリアを、皆を守っている。それは間違いなく、誇りであった筈なのに。

 

 分からない、分からない、分からない。いくら考えても。

 

 戦って、守って、戦って、守って、得られるのは憎しみと恐れだけなのか?

 

 戦って、守って、戦って、戦って、友達も作らずに、一人で居るしかないのか?

 

 戦って、戦って、戦って、戦って、行き着く先はガストレアなのか?

 

 もう一度、空を見上げる。

 

『綾耶……もう一度だけで良い……お主の声が聞きたい……!! 何か……何でも良い、信じられるものが欲しい……!!』

 

 頬が濡れる。雨が降ってきたのかと思ったが、違っていた。

 

 滲む視界を拭うと、見慣れた扉があった。自然と足が向いたのかも知れない。延珠は、昔綾耶と一緒に過ごした教会の前に立っていた。

 

 あの日、この第39区に流れ着いたその日に降り出した雨から逃れようとした時と同じように、延珠はその扉を開けた。

 

「どうして……ここに? ……延珠ちゃん……」

 

 そこにはあの日と同じように、最高の友が居た。

 



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第06話 失われた地へ

 

「はい、延珠ちゃん」

 

「あ、ありがとう……綾耶」

 

 礼拝堂の長椅子に腰掛けた延珠に、綾耶はココアを渡す。延珠が初めてこの教会を訪れた日も、ずぶ濡れになった彼女に綾耶は(少しくたびれてはいたが)乾いたタオルと、そしてココアを振る舞っている。綾耶は特に意識したつもりはなかったが、だが今回も自然とそうしていた。それは綾耶自身気付いていないが、今の延珠が初めて出会った時と重なって見えたからかも知れない。

 

 数日前、一年振りに出会った延珠は希望と自信に満ちて輝いているようだった。だが今の彼女は存在それ自体が不確かなようで、ちょっと風が吹けば倒れそうなぐらいに頼りなく見えた。

 

「で、何があったの?」

 

 延珠のすぐ隣に腰掛けた綾耶は、自分も入れていたココアをグッと飲もうとして「あちち」と顔を顰めてカップから口を離した。少し熱くし過ぎた。猫舌なのに。

 

「……で、にゃにがあったの? あちち……」

 

 にっこりと笑いつつ数秒前と同じように構えるが、舌を火傷して呂律が回っていないのでいまいち決まらない。延珠は思わず肩の力が抜けてしまって、くすりと笑った。

 

「実はな……」

 

「ふー、ふー、えっとゴメン、何だっけ?」

 

「……飲んでからで良いぞ……」

 

 湯気で眼鏡を曇らせながらココアを冷ましていた親友に延珠は呆れ顔で応じると、取り敢えず目の前の飲み物を片付ける事にした。

 

 そうして5分ほどして空になったカップを置き、綾耶は今度こそ真剣な顔で延珠に向かい合った。

 

「で、何があったの?」

 

「……良く考えたら今は、妾よりもお主の事であろう。今のお主は東京エリア中から追われる身で……」

 

「確かにそれも大切だし、僕としても信頼出来る誰かに話をしたいと思ってた所だけど……まずは延珠ちゃんからだよ」

 

 そう言ってくれる綾耶の笑顔は、やっぱり安心出来る。

 

 ここへ来て良かったと、延珠はそう思った。自分が打ち明けた事に綾耶がどんな答えを返そうと、彼女の言葉はきっと支えになる。確信出来る。

 

 だから話した。今日、学校であった事を全て。

 

 綾耶は延珠が話し終えるまで何も言わず、ただ耳を傾けていた。

 

 そして話が終わると、教会の子は「そっか……」と頷き、少しだけ黙った後、おもむろに立ち上がると近くにあった本棚へと歩いていく。

 

「えっと……あったあった」

 

 そう言って一冊の本を取り出すとふっと一息してページの上に乗っていたホコリを飛ばし、ぱたぱたと延珠の傍へと駆けてくる。

 

「綾耶……?」

 

「延珠ちゃん、一緒に童話でも読まない? 久し振りに」

 

 昔は良くこうしていた。雪の降る凍えるような夜には一つの毛布に身を寄せ合って、互いにぬくもりを分け与えながら。絵本や童話を読み聞かせる役目は日替わりだった。綾耶は自分が当番の時は、大抵延珠よりも先に寝てしまった事を覚えている。

 

「綾耶、妾は……」

 

「いいからいいから」

 

 綾耶は延珠のすぐ横に座り直すと、手にしていた本を開いた。きっとこの本は彼女のお気に入りで何度も読み返したのだろう。めくり癖が付いていて、本を開くとすぐその章に当たった。

 

「王子さまが眠りかけたので、僕は抱えて歩きだしました。まるで壊れやすい宝物を持っているようでした」

 

 朗読を始めた親友に延珠は首を傾げつつも、取り敢えずは一緒にその本を読む事にした。きっと綾耶なりに色々考えがあるのだろう。

 

「地球にこれより壊れやすい物は、無いように感じられるのでした」

 

 そこまで読むと一度言葉を切り、綾耶は延珠に目をやって「続きを」と促す。延珠は少しの間迷ったが、しかし綾耶に相談しようと決めたのは自分であったのを思い出す。

 

「そして今、こうして目の前に見えているのは人間の外側だけだ。一番大切なものは目には見えないのだ……と、思っていました……」

 

 思わず「あ……」と、洩らす。

 

「大切なものは……一番大切なものは……目には、見えない……」

 

「……昔、延珠ちゃんは言ったよね? 僕も結局は普通の人達を憎んでいるんだろうって」

 

 そう言った綾耶の瞳は、本来の色である炎の色に染まっていた。当然ながら彼女は人の中で生きる為に赤目を隠す術を習得しており、今は力を開放する必要も無いのでこれは敢えて目の色を元に戻している事になる。

 

「確かに、僕の中にも人を憎む気持ちはあったよ……半分はね」

 

「もう半分は?」

 

「気の毒に思ったよ。どうしてかは……分かるよね?」

 

 延珠は頷いた。

 

 ガストレア因子を持っているから。紅い目だから。彼等は、自分の目で見えているものしか信じられていない。

 

「うん」

 

 綾耶は柔和な笑みを浮かべ、レンズの向こう側の紅い瞳が優しい光を宿す。

 

「延珠ちゃんには居るはずだよ。延珠ちゃんの一番大切なものを、ちゃんと分かってくれてる人が」

 

「……うむ」

 

 確かに自分にはそんな人が二人居る。一人は目の前の綾耶。そしてもう一人は……考えるまでもない。

 

「だから僕よりも、その人と良く話し合ってみる事が大切だと思うよ。その人ならきっと、僕よりずっと正しく延珠ちゃんを導いてくれる……なんて、ゴメンね? 頼りにされておいてなんだけど、こんな事しか言えない上に結局はその人に丸投げみたいな感じになっちゃって……」

 

 頭を掻きながら謝る綾耶に、延珠は首を振った。

 

「いいや……そんな事はない。ここへ来て、お主と話せて良かった。妾は……蓮太郎の所に帰る。蓮太郎と、話してみるぞ」

 

「うん、それが良いね……じゃあ、次は僕からの頼み事、良いかな?」

 

「うむ」

 

 先程よりずっと力強く、延珠が頷いた。まだ完全ではないにせよ元気を取り戻した親友を見て、綾耶も「うん」と頷きを一つ。そして本題に入る。

 

「まず確認だけど……今の東京エリアで僕がどういう扱いになっているか、延珠ちゃんが知っているだけの事を教えてくれる?」

 

「妾が知っている事は多くないぞ……お主が、一歩間違えば東京エリアを破滅させる危険物を持って逃げ出したから、東京エリア中の民警に生死問わずで捕まえろと命令が出ていて、お主の首に多額の賞金が掛けられているという事ぐらいだ」

 

「成る程……」

 

 綾耶は苦笑いして眼鏡を掛け直す。通信は途絶、濡れ衣を着せられて賞金首、エリア丸ごとが敵。予想はしていたが、ここまで的中するとは。いよいよ以て状況は映画じみてきた。

 

 このまま聖居に戻って潔白を主張しても、聞き入れられず囚われの身になるか最悪殺され、黒幕の手にみすみすケースを渡してしまう。

 

 民警達に捕まっても結果は同じ。

 

 ケースを手放したとしても、東京エリアを滅ぼすかも知れない危険物を何処に流れるか誰の手に渡るかも分からないような状況に置くなど馬鹿げているし、それをやった所で自分の立場は封印指定物を持ち出した反逆者のままで変わらない。

 

 更に普通の民警よりもずっと恐ろしい影胤達までケースを狙っている。

 

「つまり……何とかして無実を証明しない限りどう足掻いても僕は殺されるか、良くて終身刑……」

 

 考えれば考えるほど今の自分は詰みまくっている。

 

 だが、まだ希望はある。細糸のように頼りなくはあるけれど、それでも可能性はゼロではない。まずは……と、綾耶が考えた時だった。

 

「心配は無用だ、綾耶!! 妾が蓮太郎と木更に事の次第を伝えて、お主が何もやっていない証拠を掴んでみせるぞ!!」

 

 どんと胸を叩いて延珠がそう言い放つ。それを見て綾耶は少し驚いたようだった。

 

「……延珠ちゃんは、僕がどうして封印指定物を持っているか聞かないの?」

 

 問いを受け、延珠は「愚問だな」と会心の笑みを見せた。

 

「お主がエリアを破滅させようなんて真似、する訳がないだろう。何かの間違いか、さもなくば誰かの陰謀だという事ぐらい妾には分かるぞ」

 

 綾耶はほんの少しだけ目を丸くして、そして「そっか、そうだね」と微笑む。

 

「じゃあ、もう一つお願いして良いかな? 蓮太郎さんか、その……木更さんだっけ? 延珠ちゃんが信頼出来る人に、伝えて欲しいんだ。政府上層部に裏切り者が居るって」

 

「裏切り者……?」

 

 信じられないという風に鸚鵡返しする延珠だが、しかしすぐに「承った」と頷いた。本当かどうかはこの際置いておくとして、少なくとも綾耶がそうした確信を持っている事は理解出来る。でなければ彼女はとうの昔に聖居に戻っているだろう。

 

 どちらにせよ事態をはっきりさせておく必要はある。裏切り者疑惑が綾耶の取り越し苦労であったのならそれで良し、万一本当であったのならそれこそ早急に対処せねば大変な事になる。それに友として、綾耶の胸のつかえを取り除いてやりたいという気持ちもある。延珠に断る理由は無かった。無かったが……聞いておかねばならない事は一つ残っている。

 

「で、綾耶……仮に木更の力で証拠を掴んで、妾と蓮太郎で黒幕を捕まえる事が出来たとして……それまでの間お主はどうするのだ?」

 

 追っ手から隠れてやりすごすか、それとも戦うか。どちらを選ぶにせよ敵は東京エリア全民警にプラスしてルインという女と影胤・小比奈ペア。いくら綾耶が強くても最後は数に押し潰されるのは目に見えている。

 

 逃げるという選択肢もあるが、それも厳しい。空を飛んで一度二度は逃げられても、逃走範囲であるこの東京エリアの面積は限られている。三度四度と続けば、潜伏先を限定されて追い詰められてしまう。

 

 ならば手は……一つしかない。

 

「延珠ちゃん、僕はモノリスの外……『未踏査領域』へ逃げるよ」

 

「なっ!?」

 

 何かの冗談かと思ったが、綾耶の表情の真剣さを見てすぐにそんな思考を掻き消した。

 

 しかし……延珠も実際に足を踏み入れた経験は無いが未踏査領域はガストレアの侵入を防ぐ結界の外側、つまりは無数のガストレアが闊歩する魔境だ。プロモーターとのペアで活動するならばいざ知らず、綾耶は一人(そもそもプロモーターの聖天子は戦闘力が皆無だし、今の綾耶は東京エリアの反逆者。同行してくれる訳がない)。危険度は極めて高い。

 

「……大丈夫、なのか?」

 

「大丈夫、とは言えないけど……でもこのままエリア内に留まっていて、もし人が大勢居る所で民警や蛭子影胤に見付かったら、何の関係も無い人を巻き添えにしてしまうよ」

 

 そこで綾耶は一度言葉を切って、「ものすごく酷い事を言うけど」と前置きして言葉を続ける。

 

「未踏査領域なら……追ってくるのは覚悟を決めた人達だけでしょ? ……勿論、だからって死んでいい訳なんて絶対にないけど」

 

 だが今はエリア存亡の危機。犠牲を払う事が避けられないのなら、せめてその犠牲が一般人でないようにする。それが今の綾耶に出来る精一杯だった。それにこれは万に一つ……いや100パーセント無いであろう可能性だが、そんな危険地帯に綾耶が潜伏したと知ったなら追撃の手が止むかも知れない。打てる手は、全て打っておく。後悔は、したくないから。

 

「……勿論、僕もろくな準備も無しに未踏査領域に長く留まる事は出来ないから……」

 

「ならば」

 

「そう、延珠ちゃん達が情報を掴んで黒幕を取り押さえるのが早いか、僕が捕まるのが早いか……スピードの戦いになるね」

 

 綾耶はそう言うと立ち上がって、椅子代わりにしていたケースを手に取った。仮にもエリア一つ滅ぼすような代物が入っているケースに尻を乗せているなど、肝が太いのかバカなのか。延珠はやれやれと肩を竦める。

 

 そうして二人は教会の外に出ると、どちらからともなく差し出した手を、しっかりと握り合った。

 

「生きて再び会おうぞ、綾耶」

 

「延珠ちゃんも、気を付けてね」

 

 友に一時の別れを告げて延珠は地を駆け、綾耶は空へと飛び去った。

 

 

 

 

 

 

 

 聖居がある第1区に隣接する区画の、オフィスビルのワンフロア。ビル1Fにある案内板によるとその階は「一色民間警備会社」が借り受けている事になっている。

 

 高い階層という事もあって見晴らしの良いそのフロアは、窓には完全防弾ガラス、壁面・天井・床には装甲板が何重にも埋め込まれていて、下手な要塞もかくやという改造が施されている。

 

 内装はと言えば窓際のだだっ広いスペースにどんと社長用の事務机が一つ、後は部屋の中程に社員用の机が一つだけ。壁には絵の一枚はおろかカレンダーすら掛けられておらずコンクリートが剥き出しになっている殺風景な部屋。

 

 東京エリアの街並みを背景に机に脚を投げ出して居眠りしているのはこの一色民間警備会社の社長にして唯一のプロモーター、IP序列第30位一色枢。名実共に東京エリアの切り札と言われる男である。社員用机には彼のイニシエーターが、「トリスタン・イズー物語」を読みながら座っている。

 

 ここが二人の、東京エリア最強ペアの城であった。

 

 と、不意に事務所の電話が鳴る。枢はぴくりと体を震わせて浅い眠りから目覚め、1コール半と言った所で、彼のイニシエーターが受話器を取った。

 

「はい……はい……ええ、分かりました。マスターには私から……ええ、はい……それでは」

 

 事務的に対応して通話を切ると、書を置いて彼女はプロモーターの傍へと立つ。

 

「マスター・ドゥベ。政府から連絡がありました。七星の遺産を持って逃亡中の将城綾耶は未踏査領域へと逃げたらしく、政府はエリア中の民警を招集しての追撃作戦を開始するとの事です。その作戦に私達も参加するようにと」

 

「ふあぁ……エックス、政府にはお前から折り返し連絡して参加すると言っておいてくれ。それと、俺のスマホ取ってくれるか?」

 

「どうぞ」

 

 エックスと呼ばれたイニシエーターは社長机の端に置かれていたスマートフォンをまだ眠そうな枢へと渡すと、自分は会社用の電話を使って政府へと依頼受諾の連絡に移る。

 

「ああ、三番目(フェクダ)? 私、一番目(ドゥベ)よ」

 

 スマートフォンで通話する枢の声は、先程までの野太い男の声から涼やかな女の声へと変わっていた。いや、変わっていたのは声だけではない。

 

 熊のような大男の顔の輪郭が歪み、着衣がさざ波を立てた肉体に巻き込まれるように再構築されていき、短く切り揃えられていた黒髪は長く伸びて色素が抜けていき、日焼けした肌が白く戻っていく。体のラインは筋肉質な鎧の如き角張ったものから丸みを帯びて流れるような女性のものへと変化する。

 

 ものの数秒程で精悍な男が座っていたそこには、純白の長髪と紅い目を持った、防衛省で民警達の前に現れたルイン・フェクダと同じ姿をした美女が取って代わっていた。着衣すら、トレンチコートから白いワンピースに変わっていた。

 

「たった今政府の方から連絡があったのだけど……将城綾耶……彼女は、未踏査領域へと逃げたそうよ。それで全民警に追撃作戦が司令されてるわ」

 

<……へえ、未踏査領域か……>

 

 電話の向こう側からは、女性と同じ声が戻ってくる。

 

<天蠍宮(スコーピオン)……八尋ちゃんを呼ぶ儀式の舞台としては、うってつけね。分かった、私達もすぐに彼女を追うわ。一番目(ドゥベ)、あなたは引き続き潜伏と情報収集よろしく>

 

「ええ……あなた達に言う事では無いとは思うけど、気を付けてね」

 

<そんな事はないわよ……ありがとう、それじゃ>

 

 通話が切れた時、社長席に座っていたのはもうルインの美貌ではなく、一色枢の雄々しい姿だった。

 

「行くぞ、エックス。準備しろ」

 

「はい、マスター・ドゥベ」

 

 

 

 

 

 

 

「そんな事はないわよ……ありがとう、それじゃ」

 

 隠れ家に戻っていたルイン・フェクダは通話を切ったスマートフォンをポケットに入れると、すぐ後ろを振り返る。そこには蛭子影胤と蛭子小比奈が、影胤は直立不動の姿勢で、小比奈は少し気だるげに立っていた。

 

「影胤、小比奈ちゃん、聞いた通りよ。私達も将城綾耶を追って、未踏査領域へ向かうわよ」

 

「承知いたしました、三の王」

 

「綾耶に会えるんだ」

 

 元134位のプロモーターとイニシエーターは、それぞれ違った歓びを滲ませた声で返事する。と、小比奈がルインの袖をくいっと引いた。

 

「ね、三番。延珠には会えるかな?」

 

「会えるかどうかは分からないけど……ドゥベの話では東京エリア中の民警が集まって作戦を展開するらしいから、少なくとも防衛省に集められていた民警は参加すると見て良いわね。可能性は高いわ」

 

「そっかぁ……綾耶……延珠」

 

 少女の口元が、三日月の形に歪んだ。

 

「会いたいな♪ 斬りたいな♪ 会いたいな♪ 斬りたいな♪」

 

「行くわよ、七星の遺産……必ず私達が取り戻すわ」

 

 両脇に影胤と小比奈を伴い、ルインは岩盤をくりぬいたようなトンネルを進んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 綾耶追撃作戦への参加依頼は、天童民間警備会社へも届いていた。1Fはゲイバーで2Fはキャバクラ、4Fは闇金という実にユニークな立地条件のこの民間警備会社の事務室では、社長席に座った木更が難しい顔でこの会社に所属する唯一のペア、蓮太郎と延珠からの報告を受けていた。

 

 ほんの一時間前の事だ。延珠がアパートへ戻ってきた時、蓮太郎は思わずその小さな体を抱き締めていた。

 

 

 

「俺が居る。確かに今は戦うしかないかも知れねぇ、何処に向かえばいいか不安に思う気持ちも分かる。でも!! お前には俺が居る!! お前を大切に想う気持ちは誰にも負けねぇっ!! 世界がお前を受け入れられるまで、俺はお前を導いていきたいと思っている!!」

 

 

 

 胸中の不安を全て打ち明けて、そうして応えてくれたパートナーの胸に抱かれながら、延珠は泣いた。

 

 自分は間違っていなかったのだ。自分の本当に大切なものを分かってくれている二人。綾耶と、蓮太郎。自分が迷った時に必ず力になってくれるのが綾耶で、何があっても自分が帰るのが蓮太郎の所なのだ。

 

 ひとしきり泣いて、その後蓮太郎がクローゼットから自分の服を全部引っ張り出してそれにくるまって寝ていたのに気付いて制裁の蹴りをお見舞いし、延珠はぱんと自分の頬を叩く。

 

 心に整理は付いた。次は、自分の番。

 

 そうして吹っ切れた延珠の口から語られた言葉がもたらす衝撃は、蓮太郎の中から彼女が帰ってきた喜びを上書きして余りあるものだった。彼はすぐに携帯電話で木更に連絡を取ると延珠を伴って会社へ行き、木更も交えてもう一度その話をさせた。

 

 政府の中に裏切り者が居る。

 

 綾耶は七星の遺産(尤も彼女はその名称を知らないが)を誰にも渡さない為に未踏査領域へと逃走。

 

 そして裏切り者が居る証拠を掴んで欲しいと、綾耶に頼まれた事。

 

「成る程……」

 

 ひとしきり聞き終えた木更は、腕組みして椅子にもたれ掛かる。

 

「信じられないのも無理はないが、だが妾には分かるのだ。綾耶はいい加減な事を言うような奴では断じてない!! 綾耶は……」

 

「違うわ、延珠ちゃん」

 

 僅かな時間の沈黙を、疑惑によるものだと判断した延珠が木更に詰め寄るが、静かにそう返された。

 

「里見君、延珠ちゃん、七星の遺産がどうやって大絶滅を引き起こすのか……分かる?」

 

 プロモーターとイニシエーターは、揃って首を振った。そんな事、知る訳が無い。木更は表情を厳しくして、続ける。

 

「七星の遺産はね、ガストレア・ステージⅤを呼び寄せる事が出来る触媒なの」

 

「蓮太郎、ステージⅤとは……?」

 

「ガストレアは単因子のステージⅠから始まって、完全体のステージⅣで成長を止める。だが、例外がある。それが10年前に世界を滅ぼした11体のガストレア、ステージⅤだ。そいつらはゾディアック(黄道十二宮)のコードネームで呼ばれている」

 

「現在までで確認されているステージⅤは11体。その内、処女宮(ヴァルゴ)は序列2位のドイツのイニシエーターが、金牛宮(タウルス)は世界最強のイニシエーターである序列1位がそれぞれ撃破、天秤宮(リブラ)は当時序列11位のイニシエーターが相打ちで倒していて、巨蟹宮(キャンサー)は欠番だから現存するゾディアックは全部で8体。七星の遺産を使えばその内の一体を召喚出来るそうよ」

 

 蓮太郎の説明を、木更が継ぐ。

 

「だけど木更さん、人為的にステージⅤを喚び出すなんて事が、可能なのか?」

 

「……少なくとも聖天子一派、と言うか……お偉いさんが隠していた情報では可能という事だったわ」

 

 思わず、蓮太郎は生唾を呑み込む。延珠の言葉に引き続き再び衝撃の事実が明かされた訳だが、しかし木更の本題はここからだった。

 

「そして数時間前、この情報がマスコミ各社にリークされかけたの」

 

「そ、それで……?」

 

「幸い、その寸前で報道管制が敷かれたから情報が漏れる事はなかったのだけど……」

 

 成る程、と蓮太郎は頷いた。延珠がもたらした綾耶からの伝言はある種の陰謀論じみていたが、そうした経緯があったのだとしたら木更がそれをすぐ信じたのも頷ける。

 

 世界を滅ぼす悪魔を召喚する触媒が、政府の管理を離れて持ち出されているという事実。そんな絶対に秘匿・報道規制されるべき情報がリークされるという事は、政府内部に混乱をもたらそうとする不穏分子が居る証拠だ。

 

 問題はその不穏分子が綾耶の言う裏切り者とイコールなのかという点だが……

 

「それをはっきりさせる為にも、私達は他の民警やあのルインという女と影胤・小比奈ペア、その他誰よりも先に、綾耶ちゃんを保護しなくてはならないわ!! 里見君、延珠ちゃん、社長として命令します!! 綾耶ちゃんとケースを他の誰からも守り、ステージⅤの召喚を止めなさい!!」

 

「必ずあいつを助けてみせます!! あなたの為にも、延珠の為にも!!」

 

「妾もだ!! 綾耶は妾を導いてくれた。今度は妾が綾耶を助ける!!」

 

 

 

 

 

 

 

 未踏査領域。かつては東京近郊で人類の生活圏だったそこも、今はジャングルもかくやという密林へと姿を変えていた。ガストレアの支配圏では動植物の分布が滅茶苦茶になるというが、ここもその例外ではないらしい。

 

 その熱帯雨林もどきの中を、ジュラルミンケースをずるずる引き摺りながら歩いていく小さな影が一つ。綾耶だ。

 

「はあ……」

 

 カロリーメイトをかじりながら、綾耶は溜息を吐く。

 

 置き手紙をして教会から持ち出した水と食糧はおよそ3日分。これは重量と荷物のかさばりによって動きを制限されない為の、ギリギリの分量だった。

 

 その3日の間で、延珠が蓮太郎・木更に自分の話を伝えて(勿論二人がその話を信じてくれるという前提だが)裏切り者を突き止めてくれるかどうかが、鍵だ。

 

 それまでは民警ペアからもルイン達からも逃げまくり、絶対に誰にもケースを渡さないようにしなければだが……

 

「問題はまだあるんだよね」

 

 それが溜息の原因だった。

 

 周囲に目を向ける。昼なお暗い森の中、木々の隙間から紅い瞳が自分を睨んでいる。ガストレアだ。ランクはステージⅠからⅣまでまちまち、方角は全方位。数は10か、20か。

 

 逃げ場は無い。戦うしかない。生きる為には。

 

「僕は殺されないよ。必ず無実を晴らして、聖天子様の所へ帰る……!!」

 

 小さな掌の中で、空気が渦を巻く。

 

 ぞるっ、と河の如く異形の者共が押し寄せ、綾耶は既に腕へと込めていた破壊の力を解き放った。

 



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第07話 未踏査領域の出会い

 

 十字に走った斬撃によって、昆虫のようなガストレアの体が4つに切れて地面に転がる。その中で比較的大きめの物の傷口の断面が蠢き、再生しようとする。しかしそれより早く次の攻撃が繰り出され、4分の1の肉体は更に細分化されて、今度はどの断片も再生を始める気配は無かった。

 

「……よし、終わり!!」

 

 綾耶はひとまずの危険が排除された事を確認すると、警戒態勢を解いた。

 

 今、彼女の周囲には無数のガストレアの死体が転がっていた。形態はステージⅠからⅣまでまちまちで、どの個体もバラバラに切り刻まれている為に正確な数はとても分からない。ただ、散乱している手足の数から少なくとも10体を上回っている事は確実だ。

 

「ふうっ」

 

 額に浮かんでいた汗を拭う。未踏査領域に入ってから、戦闘はこれで3度目だ。幸か不幸か、今まで戦ったのは全てガストレア、民警やルイン達とは出会っていない。

 

「はぁ……」

 

 もう何度目になるか分からない溜息を吐く。このロストワールドへと足を踏み入れてまだ半日程度しか経っていない筈だが、もう数日も過ぎた気がする。水と食糧は3日分用意しているが、これではそれが尽きる事を心配するよりもそれまで自分が生きていられるかを心配すべきかも知れない。

 

 どちらにせよ、いつまでもこんな森林地帯をうろうろしていてはいつ4度目の遭遇戦に突入するか知れたものではない。未踏査領域を移動するのは初めてだからあまり派手な動きは控えていたが、ここは多少のリスクは覚悟の上で空を飛んででも早急に市街地帯まで移動すべきかも知れない。

 

「よし……!!」

 

 いつ鳥や羽虫型のガストレアが現れても対応出来るよう気構えを立て直すと、綾耶は両腕に力を込めた。

 

 彼女の両掌には必要に応じて開閉自在の“孔(あな)”がある。その孔から続くトンネルは肘付近で行き止まりになるまで続いていて、腕の筋肉の操作によって理科の実験で使うスポイトのように流体を自在に吸い上げ、圧力を掛けて放出する事を可能としている。綾耶はモデル・エレファント、象の因子を持つイニシエーター。この両腕はガストレアウィルスによるミューテーションで、象の鼻に当たる変異であった。

 

 そうして両腕に空気を取り込み、超圧縮してジェット噴射のように放出する事で飛行を可能とする。

 

「1、2の……」

 

 3で充填した空気を開放し、飛び立とうとしたその時だった。

 

 ドォン!!

 

「なっ!?」

 

 これまでは静寂が支配していた夜の森に、響き渡る爆音。綾耶は最初何事かと思ったが、すぐに自分を追ってきた民警ペアの誰かが爆発物を使用したのだと悟った。しかし、これはとんでもない悪手である。

 

 森が、目覚めた。ただでさえここは無数のガストレアが闊歩する人外魔境だと言うのに、あんな大きな音を立てたが最後、夜行性のものだけではなく今までは眠っていた昼に行動する性質のガストレアまでもが動き出してしまう。

 

 すぐにさっきまでは何も感じなかった方向から、足音と動きの気配が伝わってくる。まだ姿は見えないが、遭遇するまでにそう時間があるとも思えない。

 

 戦っても良いが、今の自分は些か消耗している。ここは逃げるのが上策。

 

 瞬時にその判断を下すと、綾耶の小さな体は瞬く間にそびえ立つどの樹木よりも高く飛び上がり、闇の空へと消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

「はっ……はっ……!!」

 

 後悔という普段は非生産的と切って捨てている感情を、この日の千寿夏世は珍しく抱いていた。

 

 森の中で明滅する青い光。他の民警のライトかと思って不用意に近付いたのが間違いだった。少し考えれば青色のライトなど、誰も使っていない事は分かっていた筈なのに。

 

 光を発していたのはガストレアだった。

 

 しかも運の悪い事に遭遇したのは今までに見た事がないタイプで、対処法が見付からなかった。死ぬ、殺されると思ったその時、IISOで教えられた未踏査領域での行動の鉄則である「如何なる時も音を立てない事」を、彼女は忘れた。咄嗟に持っていた榴弾を使ってしまい、その場を切り抜けられたは良かったがその後はもっと悪い状況になった。

 

 周囲をうろついていた夜行性ガストレアも快適な眠りから叩き起こされたガストレアもこぞって音源へと寄ってきて、必死で逃げている間にプロモーターである伊熊将監ともはぐれてしまった。

 

 今は何とか身を隠せる場所を探し、頭の中にある地図を頼りに森を走っていた。確かこの先に大戦時に築かれたトーチカがある筈。どこまで原形を留めているかは分からないが、小休止ぐらいは出来るだろう。何とかそこまで、ガストレアに遭遇せずに辿り着ければ……!!

 

 という、淡い期待は簡単に掻き消された。

 

 岩陰からぬっと現れた巨大な影、こちらを見詰める紅い瞳。ガストレアだ。それもステージⅡかⅢか、異形のフォルムを持った個体だった。

 

「っ!!」

 

 手にしていたショットガンを撃つ。この距離、人間であればスプラッタムービーさながらに頭をスイカのように吹き飛ばせる威力があったが、だがそのガストレアは亀や甲虫の因子を取り込んでいるらしかった。銃弾は全身の甲殻に僅かな凹みを作っただけで弾かれてしまった。

 

 また手榴弾を、とも思ったがガストレアはずんぐりした体型からは想像出来ないぐらい素早かった。夏世の視界がガストレアに覆い尽くされる。

 

 死んだ。運にも見放された。終わった。空しい人生だった。

 

 そんな単語が頭の中によぎって、

 

「で、えええええええええええええいっ!!!!」

 

 横合いから飛んできた何かがガストレアをぶっ飛ばしていた。木々を薙ぎ倒しながら転がっていく巨体。

 

「な……」

 

 何が起こったのか、一瞬呆然として、そしてすぐに分かった。ふわりと、教会のシスター服の上に聖室護衛隊の制服である外套を羽織った少女が降り立つ。夏世がその顔を見間違える訳は無い。作戦前のブリーフィングで写真に穴が開くぐらいに見た自分達のターゲット、将城綾耶だ。突然現れた彼女が、ガストレアを蹴り飛ばしていたのだ。

 

「大丈夫?」

 

 流石にちょっと警戒しているようでじりじりとではあるが、綾耶が近付いてくる。反射的に、ショットガンの銃口を向ける夏世。綾耶はぴたりと接近を止めた。

 

「……私達にはあなたの捕縛、あるいは殺害の命令が下っています」

 

「知ってるよ」

 

「……では何故、私を助けたのですか?」

 

「何でっ、て……」

 

 綾耶は答えに窮した。飛んでいて、たまたま高度が低くなった時にガストレアに襲われている夏世の姿が見えて、後は体が勝手に動いていた。理由なんていちいち考えて動いていない。

 

「……何となく?」

 

 ジャキッ、という音を鳴らして夏世がショットガンを構え直す。気に入る答えではなかったようだ。

 

「うーん……」

 

 腕組みして唸る困り顔の綾耶。強いて言うなら自分が、最強ではないにせよ誇りに思って良い程度には強いというのも理由の一つではあるかも知れない。夏世一人なら、助けた後で敵対されても確実に勝てると思ったから? もし助けた後で殺されるかもと思ったのなら、助けなかったかも……?

 

『何か違う気がするなぁ……』

 

 そこまで考えた所で、思考は打ち切られた。

 

 耳をつんざく咆哮。綾耶が蹴り飛ばしたガストレアが、早くも復活して二人に迫ってきていた。

 

 一瞬、綾耶と夏世は視線を交わし合って、頷き合う。

 

 ここは、一時休戦。先にこのガストレアを倒す。一言も交わさず、両者の意見は素晴らしく一致した。

 

「ふっ!!」

 

 綾耶は腕を振って、空気の刃を繰り出す。この一撃はコンクリートでも容易く切断する威力があるが、しかしこのガストレアの強固な外殻には通用せずに弾かれてしまった。素早く飛びずさって突進をかわすと、夏世の近くに着地する。

 

「見ての通り、あのガストレアの外殻は強固です。私の手持ち火器で致命打を与えるのは難しいですね……」

 

「僕の空気の刃も駄目……打撃でもさっきのキックが殆ど効いてないとなると、効果は期待出来ないね」

 

 となると次に頭に浮かぶのは逃走だが、このガストレアは素早い。みすみす逃がしてくれるとも思えない。

 

 どうするか?

 

 夏世は装備をチェックする。地雷やワイヤートラップならばダメージを与えられる可能性はあるが、仕掛ける暇が無い。

 

 どうする? その答えは綾耶がもたらしてくれた。

 

「ほんのちょっぴりで良いから、あのガストレアに傷を付ける事は、出来る?」

 

「……それぐらいならば可能ですが……」

 

 傷を与える事は出来ても、命を断つ事は出来ない。だが、綾耶はそれで十分だと頷く。

 

「じゃ、お願い。後は、僕が何とかするから」

 

 綾耶の言葉が終わるのを見計らったように、ガストレアが再度突進してきた。

 

 夏世は素早くショットガンをライフルに持ち替えると、腰溜めに構えて射撃。装甲に弾かれる。

 

 第二射、装甲に凹みを作る。第三射、凹みが大きくなる。第四射、装甲が割れる。第五射、装甲の割れ目に着弾して、出血。

 

 点滴岩を穿つの例え通りの、一箇所へと連続して衝撃を与え続ける事によるダメージの蓄積。

 

 夏世は戦闘向きモデルのイニシエーターではないが、それでも呪われた子供たちに共通する能力として、超人的な筋力を有している。故に銃を使っても反動を抑えて、普通の人間よりもずっと正確な射撃を行う事が出来るのだ。流石に目標が数百メートルも先では自信も無いが、この近距離ならばそこまで困難な作業という訳ではなかった。

 

 夏世のノルマは、これで完了。

 

「綾耶さん!!」

 

「OK!!」

 

 飛び出した綾耶はもう目の前にまで迫っていたガストレアの体に取り付くと、夏世の銃撃によって作られた傷口に思い切り掌打を叩き込む。人間であれば痛みで悶絶するであろう攻撃だが、しかしガストレア相手に効果的な一手であるとは、夏世には思えなかった。

 

 だが、そこからだった。

 

 ズズズ、と、何か……ストローで残り少なくなったジュースを吸い上げている時のような音が聞こえてくる。その音はちょうど、ガストレアと綾耶の方から聞こえてくる。と、そこまで夏世が理解した瞬間、ガストレアの体が弾けた。

 

 爆発したのだ。何の前触れも無く、内部から。水風船を割ったように血飛沫が降り注いで、夏世は思わず後退して血の雨を避けた。数秒ほどして雨が止んだ所で、綾耶も彼女のすぐ傍へと着地する。

 

「殻が固いほど、中身は意外と脆いもの……昔の人は良い事言うものだよね」

 

「綾耶……さん、今のは?」

 

 ガストレアの体内に小型爆弾を埋め込んだとでも言うなら理解も出来るが、綾耶は丸腰だった。ならばどうやって?

 

「逆流させたんだよ、血を」

 

「逆流……?」

 

「ん……説明している暇は無いよ。お客さんが来た」

 

「!!」

 

 厳しい顔で周囲を見渡す綾耶。夏世も事態を察して背中合わせに構えると、闇の中に無数の光点が見えた。色は全て赤。

 

 戦闘の音を聞き付けて集まってきたガストレアだ。数は軽く20体、しかも囲まれている。逃げられない。

 

 今度こそ死んだかと、夏世は覚悟を決めた。だが、背中越しに聞こえてくる綾耶の声にはまだ余裕と自信があった。

 

「えっと……君、名前は?」

 

「……千寿、夏世です」

 

「じゃ、夏世ちゃん。援護頼むよ!!」

 

「えっ……」

 

 振り向いた夏世は、思いも寄らぬ光景を見て思わず言葉を失った。

 

 血が、先程爆発して倒されたガストレアが撒き散らしてあちこちに赤い水溜まりを作っている大量の血が、重力に逆らって綾耶の掌へと吸い上げられている。そして、

 

「で、え、いっ!!!!」

 

 体を捻転させると、戻す勢いを合わせて思い切り腕を振る綾耶。すると振ったその軌道に沿うようにして生まれた紅い刃がガストレア群めがけて飛んでいき、数体を真っ二つに切り裂いて、そのまま背後の木々をも数十本纏めて薙ぎ払い、倒してしまった。何かが爆発したのかと錯覚する、凄まじい破壊力。

 

 だがガストレアには共通して再生能力がある。バラニウム製武器でない限り、二つに斬られた程度では殆どの個体が再生する。しかし今の攻撃によって、血が撒き散らされた。その血を、綾耶の手はまたしても吸収すると恐るべき破壊の力として解き放つ。この一撃は再生しかけていたガストレアにトドメを刺す決定打となった。

 

「血の、刃……」

 

 こんな技を使うイニシエーターは初めて見るが、明晰な頭脳を持つ夏世は綾耶のこの技の正体を的確に分析していた。

 

『原理は分からないですが、綾耶さんの手には空気や水、そして血といった流体を吸い上げる力があり……それで辺りに散乱した血を吸い上げ超高圧を掛けて、腕を振る動作と組み合わせてウォーターカッターのように発射した……!!』

 

 だとするならば、先程の重装甲ガストレアを倒した技にも説明が付く。

 

 原理は単純だ。綾耶はまずガストレアに接敵すると、夏世による銃創に触れてそこからガストレアの血を吸い上げる。異音の正体はこの吸引音だ。そうして一定量の血を吸い取った後は、その血に圧力を掛けて放出、傷口から内部へと送り込んで逆流させる。無論、そんなやり方で無理矢理血を流し込んだ所でスムーズに血液が逆方向に流れる訳もない。流し込まれた血液は血管内の逆流止めの弁を突き破り、毛細血管をズタズタに食い破り、臓器はグチャグチャに掻き乱しながらガストレアの全身を駆け巡り、それでも勢いを失わずに最後は内部から全身を破裂させたのだ。

 

『怖い、ですね……』

 

 思考しつつも夏世は体に染み付いた動作でライフルを乱射して、ガストレアを一体一体、確実に倒していく。そうしている間にも、彼女は綾耶から注意を外さない。

 

 綾耶の攻撃は次第に強く、そして激しくなっていく。

 

 最初の一撃はガストレアを致死させるものではなくダメ押しの二撃目を入れる必要があったが、少し前からは一撃で倒している。今さっき放った一撃に至っては、数体を纏めて屠り去った。

 

 この破壊力の上昇も、夏世には理解出来た。

 

 今の綾耶の武器は、血。ガストレアから血を奪い、その血でガストレアを殺す。その性質上、奪っては殺し殺しては奪いという無限ループが成立し、結果武器はより多く、殺傷範囲はより広く、破壊力はより高く。戦えば戦う程に綾耶の力は高まり続けて手が付けられなくなっていく。

 

 ましてや液体である血は空気よりも遥かに比重が重い。武器として使った時の威力は、比べ物にはならない。

 

 いくら強力なイニシエーターであっても単独でこの未踏査領域を行動出来るものかとは思っていたが、こんなあつらえたかのように一対多の戦闘に特化した能力を持っていたのであればそれにも得心が行った。

 

『何という能力……これが、聖天子様のイニシエーター……!! これが、将城綾耶……!!』

 

 心中で畏敬の念が籠もっているかのようですらある呟きを溢しつつ、夏世は向かってきたガストレアを撃ち殺した。

 

「さあ、これでラスト……!! で、え、えええええいっ!!!!」

 

 跳躍した綾耶が最大量に取り込んでいた血を解き放ち、ガストレアが紅い流れに呑まれる。血の濁流が去った後には、もう異形の影すらも残ってはいなかった。鉄砲水のような水圧ならぬ血圧によって粉微塵に砕かれ、流されたのだ。

 

「さて、片づいたね」

 

 背中合わせになる形で夏世の背後に着地する綾耶。二人の周囲数十メートルだけまるで竜巻でも起こったかのように樹木が吹っ飛んでいて、鬱蒼とした森が風通しの良い広場のように変わっていた。

 

「いえ、まだ残っていますよ」

 

 夏世の言葉を合図として、二人はちょうど西部劇の早撃ち対決のように振り返った。夏世のショットガンの銃口は綾耶の腹に、圧縮空気を弾丸として装填した綾耶の手は夏世の頭に、それぞれ照準を合わせている。

 

 二人とも暫くはそのまま睨み合っていたが、やがて夏世の方から銃を下ろしていた。綾耶もそれを見て、かざしていた手を下ろす。

 

「……止めておきます。これであなたを殺せるか分かりませんし、仕留められなかったら間違いなく私の方が殺されますからね」

 

「見逃してくれるなら、ありがと。助かるよ」

 

 ハンカチを取り出すと、血塗れになった眼鏡のレンズを拭う綾耶。綺麗になった眼鏡を掛け直すのを待って、夏世が言った。

 

「礼は要りませんよ。その代わり……さっきの答えを聞かせてくれますか?」

 

 何故に綾耶は、敵である筈の自分を助けたのか。その答えをまだ聞いていない。

 

 綾耶はさっきと同じでしばらく腕組みして考えたが、出て来た答えは。

 

「やっぱり……何となくかな。僕にも良く分からないや」

 

「……」

 

 夏世は先程と同じ答えに、「はあ」と一息。そして今度はふっと微笑む。

 

「その目に映る誰かを助ける……その為に力を使う事……それがあなたにとって、当たり前の生き方と言う事ですか……」

 

 そこから、夏世は声量を絞った。

 

「……少し、羨ましいです」

 

「え? 何?」

 

「いえ、何でもないです。それより……」

 

 夏世の視線が、綾耶が持っているケースへと移る。

 

「綾耶さん、あなたが悪い人でない事は理解出来ました。そのあなたが、どうしてエリアを破滅させるような物を持って逃げているのですか?」

 

「質問は一つだけ、って事にしようよ」

 

 悪戯っぽく笑って、綾耶が返す。飄々とした対応を受けて苦笑する夏世。

 

「……言えませんか、分かりました」

 

「ごめんね?」

 

「良いんですよ。聞いたら聞いたで、厄介事に巻き込まれそうですから」

 

 夏世がそう言った時、綾耶の体がふわりと宙に浮く。つい忘れそうになったが、今の自分達は追う者と追われる者だ。いつまでも一緒には居られない。

 

「……もう、会いたくないですね」

 

 と、夏世。次に会った時、彼女は将監のイニシエーターとして綾耶を殺さねばならない。

 

「僕は会いたいな。次は友達同士で」

 

 そんな胸中の葛藤など全く読まずにそう言う綾耶に、表情を殺した夏世の口からギリッという音が聞こえて、その後で柔らかい笑みに変わった。

 

「では」

 

「それじゃね」

 

 綾耶は飛び去り、夏世はトーチカへの移動を再開した。

 

 

 

 

 

 

 

 市街地上空へと差し掛かった綾耶は逆噴射でスピードを殺すと、森が途切れて100メートルばかりの地点へと着陸した。

 

 懐から取り出したスマートフォンを見る。通話機能は未だ回復していないがそれ以外は健在だ。表示された時刻は午前4時。一番暗い時間帯と言える。

 

「ふぁ……もうこんな時間か……」

 

 周囲に民警もルイン達もガストレアも居ないので、ひとまずは状況確認と思っての行動だったが、寧ろこれが良くなかったかも知れない。今までは時間など気にしていなかったから気を張り詰めさせたままでいられたが、なまじ一息吐く余裕が出来た事と時刻を確認した事で疲労感と生活習慣による眠気がどっと襲ってきたように思える。

 

「流石に疲れた……一時間でも30分でも良いから、休みたいな」

 

 眠るとは言わないまでも、横になりたい。いくら体内に保菌するガストレアウィルスの恩恵があるとは言え綾耶は9歳の子供。体力の限界は近い。

 

 少しの間見通しの良い道路を進んで、目に付いた建物に入ろうとする。だが入り口まで後三歩という所まで歩いた時だった。

 

 ばしゃり。

 

 水音。水溜まりを踏んだかと思ったが、すぐに思い直す。ここ数日、雨など降っていない。そして見捨てられたこの市街地では水道などとっくに涸れているから、蛇口を捻ったままにして水が出っぱなしになっているという事も有り得ない(大体それなら水音ですぐに分かる筈だ)。なのに水溜まりが出来る、という事は……!!

 

 すんすん、と鼻を鳴らす。この未踏査領域に入ってから嗅ぎ慣れてしまって嗅覚がすっかり麻痺していたが、これは血の匂い。しかも新しい。5分前か3分前か、たった今、体から外に出たばかりって感じの。足下の水溜まり、ではなく血溜まりだけではない。この周囲一帯に、大量の血がブチ撒けられている。

 

「……ま、まさか……?」

 

 後退って、異様な物を踏んだ。妙に弾力があって、しかし綾耶の体重で形が崩れた感覚は無い。

 

 しゃがみ込んで拾ってみると、それは腕だと分かった。拳銃を持ったままの、前腕半ばで切断された人間の腕。

 

「……っ!!」

 

 思わずその腕を放り捨てて、上がりそうになった悲鳴をすんでの所で呑み込んだ。これをやった者がまだ近くに潜んでいるかも知れない。ここで叫んだら、下手人に自分の存在をアピールしてしまう。

 

 今までは暗さで分からなかったが目を凝らせば、一帯に無数の死体が転がっているのが見えるようになった。男もいる、女もいる。大人も、子供も。子供は、全てイニシエーターだ。大人達はプロモーター。綾耶には自分を追ってきた民警ペア達だとすぐ分かった。数は……ここに来るまで殺してきたガストレアよりも、多いかも知れない。

 

 数多の死体の中で胸に大剣を突き立てられ、壁に磔になって息絶えている大男に綾耶はテレビCMで見覚えがあった。

 

 三ヶ島ロイヤルガーダー所属、IP序列1584位・伊熊将監。民警ペア全体で見ても上位1パーセントに入る凄腕だった。それがここまで無惨な殺され方をするとは……

 

「……ご」

 

 ごめんなさい、と言い掛けて、自分にはそんな資格が無い事を思い出した。彼等の死は、自分が招いた事だ。直接手を下した訳ではないが、少なくとも一般人と民警との間に線を引いて、民警が入っている方を「死んでも良い側」と定義したのは自分なのだから。覚悟していた事が、実際に起こっただけなのだ。

 

 頭を切り換えて、戦闘モードへと移行する綾耶。

 

 身構えて、両腕に空気を集める。

 

「!!」

 

 右へ跳ぶ。瞬間、甲高い音が響いて綾耶の立っていたアスファルトがコマ切れに刻まれた。この太刀筋の主に、綾耶は覚えがあった。彼女にとっては悪夢のような存在。

 

「凄い!! 凄い!! 綾耶!! 気配は完全に消してた筈なのに、避けるなんて!!」

 

 狂気と狂喜が共存した笑い声を上げるのは、バラニウムの小太刀を二刀流で構えた黒いドレスの少女、蛭子小比奈。

 

「……僕に、不意打ちは効かないよ。たとえ物音一つ立てずに近付こうとね」

 

 感情を極力廃した声で、綾耶が応答する。ちなみにこれは単に強がりやハッタリではない。

 

 どんなに気配を断とうが足音を殺そうが、人が動けば空気は揺れる。空気を武器として扱う綾耶は、特に空気を吸い込む器官がある彼女の両腕はそれに敏感で、大気に不自然な動きがあればそれを感じ取る事が出来るのだ。

 

 そして今、彼女の腕が感じた空気の揺れは、三人分。

 

 つまり小比奈の他に、後二人。

 

「まさかたった一人で、この未踏査領域で未だ生き延びているとは……流石は国家元首のイニシエーター、と言うべきなのかな? ヒヒッ」

 

 拍手を打ちつつ背後の闇から現れたのは、燕尾服を着た仮面の魔人。小比奈のプロモーター、蛭子影胤。

 

「でもちょうど良いわ。森の中でガストレアに喰い殺されたりしてたら、ケースを探すのが面倒だったからね」

 

 降ってくる声に顔を上げると、そこには月光を背負って透き通るような髪をなびかせた白い女、ルイン・フェクダが建物の屋上から、綾耶を見下ろしていた。

 

「さあ、七星の遺産を……八尋ちゃんの宝物を、返してもらおうかしら!!」

 



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第08話 ルインの力

 

 進退窮まった、という言葉の意味を知りたいのであれば今の自分を見ろ。と、綾耶は他人事のように思考を回す。

 

 前方に小比奈、後方に影胤。これだけでも前門の虎、後門の狼というシチュエーションだが、更に悪い事に頭の上にはルイン。綾耶はこの女とは戦った事は無いが、こんな恐ろしい二人組と一緒に未踏査領域まで来ているのだ。いずれただ者ではあるまい。

 

『……どうしよう』

 

 選択肢は限られている。

 

「さて、どうするかね? 断っておくが、私達に以前のような手は二度と通用しないよ」

 

『……ですよねー』

 

 無理に飛び上がった所で、今度はこちらの手が割れているから狙い撃ちにされてしまうだろう。

 

「逃げないでよ!! 斬り合おう、綾耶!!」

 

 影胤と小比奈は前後からじりじりと間合いを詰めてくる。もう、あまり時間は残されていない。

 

『……ならば!!』

 

 こうなればと、綾耶は腹を括った。小比奈の方を向いて、陸上競技のクラウチングスタートのようにぐっと腰を落としたポーズを取る。フェイントも何も無い、明らかに彼女へと突進する構えだ。

 

「ほほう?」

 

 前後と上を固められて退路が無いから、包囲の一角を切り崩してそのまま逃走する。戦法としてはありきたりだが、思い切りは中々良いと影胤は少し感心したようだった。

 

「さあ、綾耶!! 早く、早く!!」

 

 一方で小比奈は、そうこなくっちゃと歓喜を顔に滲ませ、双剣を構えた。以前に外周区で戦った時の小競り合いで、綾耶のスピードは既に覚えている。かなり速かったが、延珠には及ばない。そこは象型(モデル・エレファント)でパワー特化の綾耶と、兎型(モデル・ラビット)でスピード特化の延珠との特性の違いだ。捉えるのは自分ならば難しくはない。勝負は、繰り出される攻撃の威力を如何にして捌くか。小比奈はそう考えて迎撃姿勢を取る。

 

 だが。

 

「行くぞ!!」

 

 気合いと共に綾耶が吼えた瞬間、彼女が立つ地面が弾ける。

 

「っ!?」

 

 そして綾耶の体が、いきなり数倍にまで大きくなった。

 

 小比奈がそう思ったのも無理は無い。元134位のイニシエーターの目をしてそう錯覚する程のスピードで、綾耶は間合いを詰めたのだ。

 

「速い!!」

 

 外周区で戦った時の倍、いやそれ以上。延珠よりも速い。

 

 そのスピードを乗せて繰り出す、パワー特化型イニシエーターの蹴り。反応が遅れた小比奈はどてっ腹にモロ喰らって、地面と水平に吹っ飛んでその先の建物に壁を破って突っ込んだ。土煙が上がり、彼女の姿が見えなくなる。

 

「小比奈っ!!」

 

 影胤が声を張り上げた。ほぼ同時に、綾耶は跳躍。腕に残存していた空気を全て開放して推力に変換する。

 

 前方の小比奈は一時無力化、後方の影胤は斜め前方へと飛び出す事で拳銃の射程から逃れる。これでこんな修羅場からは離脱……

 

「素晴らしいわね」

 

 出来る、筈だったのだが。

 

「っ!? あぐっ!!」

 

 頭の上から声が降ってきて、襲ってくる衝撃。上がっていた視界が一気に下へと流れていき再びの衝撃。数秒ほどして、蹴りを受けて地面に叩き付けられたのだと理解した。

 

 蹴りを放ったのは、まるで体重が無いかのように軽やかな動きで地面へと降り立った白い女、ルイン・フェクダ。今の彼女の目は、紅く輝き燃えている。

 

「空を飛ぶのと同じ要領で腕に溜めていた空気を一気に開放し、瞬間的かつ爆発的な推進力を生む……それによってパワー特化のイニシエーターながらスピード特化型をも凌駕する速さを発揮する……影胤から聞いていた通り……ここまで自分の能力を極めたイニシエーターは中々居ないわ……」

 

「う……あなたは……!!」

 

 激痛を堪えつつ身を起こしながら、綾耶はじっとルインを睨む。

 

 今の蹴りの威力は、人間が鍛錬や才能で到達し得る限界を遥かに超えていた。これが全身筋肉の塊のような大男であればあるいはとも思うが、ルインの体つきは寧ろ華奢だ。ならば可能性は、綾耶の知る限り一つしかない。

 

 ガストレアウィルスの保菌者。それによってもたらされる圧倒的な身体能力。

 

 だが、そんなバカなとも思う。呪われた子供たちは最年長の者でも10歳の少女、そして眼前のルインはどう見ても成人女性だ。しかし爛々と輝く彼女の目の色は、まぎれもなくガストレアの赤色。力を開放したイニシエーターと同じものだ。

 

『この人は、一体……?』

 

 その疑問を感じ取ったのだろう。ルインがふっと微笑する。

 

「……少しだけ教えてあげるわ。私……私達は確かにガストレアウィルスの保菌者ではあるけれど、あなた達、イニシエーター(呪われた子供たち)とは違うわ。似て非なる存在……とでも言うべきかしら」

 

「ふっ!!」

 

 言葉が終わるのを待たず、ルインへと飛び掛かる綾耶。空気の刃を両手に生み出し、まずは袈裟斬りの一撃を繰り出す。ルインはバックステップを踏んでかわすが、僅かに見切りを誤ったのか肩口から血が噴き出す。傷は浅手、しかしこれはフェイント。虚実の実は続いて繰り出す逆袈裟の斬撃。かわしようのないタイミング。影胤の援護防御も間に合わない。

 

 殺った!!

 

 綾耶は確信し、そして事実、ルインは防御も回避もせずに見えない刃物をまともに受けた。

 

 異変は、そこからだった。

 

 完全に入った筈の斬撃。だが烈風のメスが触れたルインの肩は、血の一滴どころかアザすらも出来てはいなかった。

 

「なっ……!?」

 

 そんなバカな、という表情になる綾耶。自分の空気の刃は、生身の人間ぐらいなら容易く真っ二つにする威力がある。その証拠に一撃目は、浅くはあったが確かに斬れたのに。

 

「やれやれ……人の話は最後まで聞くもの……よっ!!」

 

「がっ!!」

 

 凄まじいボディブローを受けて、綾耶は咄嗟にガードしたものの威力までは殺し切れず吹っ飛ばされた。コンクリート壁に背中からぶつかって、激しく咳き込む。

 

「げほっ、げほっ……イニシエーターと……違う……?」

 

「そう、違う所は幾つかあるけど……まずはあなたの疑問を一つ解消してあげるわ」

 

 壁に背を預け、まだ動けない綾耶を傲然と見下ろしながら、ルインは続ける。

 

「あなたは今、こう考えてるわね? 自分の空気の刃が、何故二発目は通用しなかったのだろう? 最初は斬れたのに、と」

 

「……」

 

 綾耶の沈黙は、そのまま肯定だった。

 

「イニシエーターとは違うと今し方言ったばかりだけど……敢えて私達をイニシエーターと同じように分類するとしたら、私達はさしずめ……モデル・ブランクといったところかしら」

 

「無型(モデル・ブランク)……?」

 

「そう、私達の中にあるガストレアウィルスはあなた達のように何らかの動物因子という“方向性”を持ったものではなく……感染源を持つ前の、まっさらでプレーンなウィルス。だから兎の脚力や蜘蛛の糸、あるいは猫の爪といった特殊能力ではなく、ガストレアウィルスが持つ本来の特性に特化しているの」

 

「本来の、特性……?」

 

 綾耶が先程のように話途中で襲い掛からない理由は二つだ。一つにはダメージの回復を待つ為。もう一つは、話の中にあるいはルインを攻略するヒントがあるかもと期待しての事だ。一言一句も聞き逃すまいと、頭をフル回転させる。

 

 そんな綾耶に気付いているのかいないのか、ルインの話は更に続いていく。

 

「そう……私達が持つ力は進化。全てのガストレアウィルスが共通して持つ最も始原的な力よ」

 

 「進化……?」とまたしても鸚鵡返しする綾耶に、ルインは頷いてみせる。

 

「進化とは天敵や環境という負荷に適応し、克服する事……ここまで言えば分かるかしら?」

 

「……!! ま、まさか……!?」

 

 言葉の意味する所を察して、綾耶の顔が蒼くなった。

 

「私達の体は一度受けたダメージを学習し、それに耐えられるように適応するの。だから最初の攻撃は通ったけど、二撃目は既に耐性を獲得してしまっていたから通用しなかったのよ」

 

 我知らずごくりと唾を呑む綾耶。今の言葉が事実だとすれば、この女はどんなガストレアよりも恐ろしい敵だ。相手の能力に応じて自己進化する……今まで色んなガストレアと戦ったが、こんな能力を持った奴は居なかった。影胤や小比奈と同じぐらいかそれ以上の脅威だと、警戒値を最大にまで引き上げる。

 

「さて、説明はここまで……押し売りのようだけど、対価はこのケースを頂こうかしら」

 

 ひょいと、ルインは持っていたジュラルミンケースを持ち上げる。そのケースに、綾耶は見覚えがあった。

 

「なっ!?」

 

 まさか、と右手を見る綾耶。ケースと自分を繋いでいた手錠の鎖は中程で引き千切られていた。

 

「いつの間に……!!」

 

 奪われたとするなら先程蹴りを喰らった時か、たった今ぶっ飛ばされた時か。どちらか分からないが、全く気付かなかった。これだけでもルインの恐ろしさ底知れ無さを綾耶に刻み付けるには十分だったが、しかし彼女が呆けていたのはほんの一瞬。

 

「くっ、返せ!!」

 

 ケースを取り戻そうと突進するが、蒼白い光壁に遮られた。影胤の斥力フィールド『イマジナリー・ギミック』だ。

 

「これ以上、我が王への狼藉は見過ごせないね」

 

「邪魔を……するなぁっ!!」

 

 無理矢理フィールドを突破しようと、掌を障壁に押し付ける綾耶。だが彼女の怪力を受けても、紙切れ一枚の厚さもないフィールドはびくとも揺らぐ気配が無い。

 

「では、私は準備に取り掛かるわ。ここは任せるわね、影胤」

 

「お任せ下さい、我が王よ」

 

 最強の盾たる部下の戦い振りを見てルインは安心したのか、ケースを持ったまますぐ後ろの建物へと入っていった。見ればボロボロに朽ち果ててはいるが、その建物は教会だと分かった。

 

「くそっ……待てぇっ……!!」

 

 何とか追おうとする綾耶だったが、彼女とルインの間は相変わらず影胤のバリアが隔てている。そうこうしている間にルインは教会の中へと消えていき、外には綾耶と影胤だけが残る形になった。

 

「では、私もそろそろ本気を出していこうか」

 

 全身で味わう戦いの愉悦に身を震わせつつ、仮面の魔人はパチンと指を鳴らした。すると彼の周囲にドーム状に展開されていた斥力フィールドが膨れ上がり、綾耶を押し潰さんと迫ってくる。

 

「マキシマム・ペイン!!」

 

「そんなもの!!」

 

 先程、小比奈への突進の時に用いたのと同じ要領で、綾耶は腕に充填していた空気を開放する。ただし今度は足をぐっと踏ん張って、両手を影胤へと向けた状態で。超圧力を掛けられていた空気は一気に噴出された事で衝撃波となって、襲ってくる斥力フィールドの力場と激突した。

 

 斥力と衝撃波。二つのエネルギーはぶつかり合って、どちらも譲らずにその発生源である影胤と綾耶のちょうど中間の位置でくすぶっている。激突の余波で、周囲の建物のガラスが次々割れて、壁にもあちこち穴が開いた。

 

「ほう……やるやる!! 空気を集めて吐き出す。たった一つの、それだけの能力ながら、ここまでバリエーションがあるとは!!」

 

「それは……どうもっ……!!」

 

 軽口を叩きつつも、綾耶の表情は真剣そのものだ。仮面で分からないが、恐らくは影胤も同じだろう。

 

 この状況ではちょっとでも押された方が一気にやられてしまう。どちらもそれが分かっているからこそ少しも力を抜かずに拮抗状態を維持し、相手が崩れるのを待つ。これは水に顔を付けての我慢比べだ。苦しくなって、先に顔を上げた方の負け。

 

 どちらも苦痛で力を緩めるほどヤワではない。ならば両者の勝敗を分けるのは、能力の持続時間。

 

 綾耶の衝撃波は腕に吸い込んだ空気に圧力を掛けて吐き出すという原理から、空気の残量という限界がどうしても存在する。

 

 対して影胤の斥力フィールドを作り出すのは、彼の体に内蔵されたバラニウム製機械。無論、エネルギー等の関係から連続して張り続けられる時間には限界があるのだろうが、綾耶が溜めた空気を使い果たすよりはずっと長そうだった。

 

 時間が経つと、やはり綾耶の方が押され始めた。両腕の空気の残量が少なくなって圧力が落ち、衝撃波の威力が弱まっている。

 

「ぐっ……!!」

 

「さぁどうした? そのエネルギー・ウェイブ、後どれだけ出し続けられるかね? 10秒? 5秒? ヒヒッ」

 

 出せなくなった時がお前の死ぬ時だと、影胤が笑う。だが、そこまで長い時間は必要無さそうだった。

 

「2秒で十分だよ、パパ!!」

 

 土煙を切り裂いて、ダメージから復帰した小比奈が飛び出してきた。跳躍して、綾耶の頭上から襲い掛かってくる。

 

 迎撃、イヤ駄目だ。ここで小比奈へ力を向けたら、ただでさえ押されがちな影胤との力関係は完全に破綻し、斥力フィールドに押し潰されてしまう。だがこのままでも小比奈に斬られる。万事休す。

 

『もう駄目……っ!!』

 

 そう思った刹那、綾耶の頭上で金属音が響く。

 

「斬れなかった?」

 

「蹴れなかった!!」

 

 綾耶のすぐ傍に、赤髪をツインテールに束ねたイニシエーターが降り立った。

 

「延珠ちゃん!?」

 

「延珠ぅ♪ 来たんだ」

 

 それぞれ違った歓喜の声を上げる二人のイニシエーター、綾耶と小比奈。

 

 ほぼ同時に立て続けに三発、銃声が響く。影胤は反射的に斥力フィールドを解除して後ろへ跳ぶと、銃撃をかわした。

 

「何とか、間に合ったみたいだな」

 

 息を切らせて、ブラックスーツのような制服に身を包んだ少年民警、里見蓮太郎がそこに立っていた。

 

「二人とも……どうしてここに……」

 

 予想もしない援軍の登場に、綾耶は喜びと驚きが半々といった様子だ。

 

「先程会った夏世という女から話を聞いたのだ。お主がこっちの方に飛んでいったとな」

 

 それで街の方へ足を向けたら、先行していた民警14組と伊熊将監を合わせた計29名とルイン・影胤・小比奈の3名との戦いが始まり、急行。到着した時には静かになっていたが、そしたら再び戦闘音が聞こえてきて、駆け付けたら綾耶が戦っていたのだ。

 

「ケースは……」

 

 蓮太郎は言い掛けて、綾耶の右手に掛けられた手錠の鎖が途中で千切れているのを見て、全てを悟った。

 

 だが、奪われた綾耶を責める気持ちは微塵も湧いてこない。

 

 見れば少女の服は聖室護衛隊の外套もトレードマークの修道服もあちこち裂けてボロボロになっていて、呪われた子供たちの回復力を以てしてもまだ治りきっていない傷もちらほら見える。この未踏査領域に入ってから一日足らずの間に彼女がどれほど傷付いてきたのかは、想像に難くない。

 

 数多のガストレアが闊歩するこの地で、たった一人でここまで。

 

 くしゃっと、蓮太郎は綾耶の頭を撫でた。

 

「……よく頑張ったな、ここからは」

 

「うむ、ここからは」

 

「「俺(妾)達に任せろ(任せておけ)!!」」

 

 声を揃え、鏡に映したように左右対称の構えを取る蓮太郎と延珠。同じように、影胤と小比奈も身構えた。

 

「里見君、物語はいよいよ最終局面、その相手が君だとは願ってもない。派手に行こうではないか」

 

「延珠、会いたかった。斬り合おうよ、早く、早く!!」

 

 殺気を漲らせる元134位ペアをじっと睨み、延珠はパートナーへと視線を送った。

 

「蓮太郎……」

 

「言う必要は無いぜ、延珠」

 

 にっと笑って、蓮太郎が返す。

 

「お前の……いや、俺達の友達がこれだけ頑張ってんだ。俺だって、応えなきゃなんねぇだろ!!」

 

 かちり。

 

 蓮太郎の腕から、乾いた音が鳴った。

 

 それを合図に彼の着衣の右手と右足部分が弾け飛び、続いて露わになった肌がひび割れて、破けていく。剥がれ落ちたのは生身のものではなく、精巧な人工皮膚だ。

 

 その下から現れたのは、バラニウムの黒い輝きを宿した腕と脚。同時に彼の左目に、強い光が灯った。義眼に内蔵された高性能コンピューターが、稼働する。

 

「蓮太郎……!!」

 

 延珠は感極まった表情を見せる。

 

 蓮太郎のこの力は、もう使わないと言っていたものだ。二度と使いたくないと。彼女はそれを知りながら、それでも頼むつもりだった。友達を助ける為に。結果、蓮太郎に失望される事も覚悟の上で。だがその一方で、勝手だとは思うが蓮太郎を信じている自分も居た。きっと蓮太郎なら、自分と想いを同じにしてくれると。

 

 果たしてパートナーは、その信頼に応えてくれた。

 

「名乗るぜ影胤……元陸上自衛隊東部方面隊第787機械化特殊部隊『新人類創造計画』里見蓮太郎!! これより貴様を排除する!!」

 

「……成る程、道理で君に惹かれた訳だ。この私と同じ存在であったとは!!」

 

 影胤は笑う。壊れた機械のように笑い続ける。これが笑わずにいられようか。まさか同じ機械化兵士と戦う機会に恵まれるとは。

 

「よろしい里見君、見せてみろ。君の全てを!! 潰れろ、マキシマム・ペイン!!」

 

 綾耶の時と同じで斥力フィールドが巨大化し、蓮太郎を圧殺せんとする。だが蓮太郎は少しも慌てず、腰を深々と落として拳を繰り出す構えを取る。瞬間、破裂音が鳴ってバラニウム義手からカートリッジが排出された。その爆発力によって、彼の拳は人の域を超越した速力を得る。

 

「カートリッジ解放、天童式戦闘術一の型三番・轆轤鹿伏鬼(ろくろかぶと)!!」

 

 エネルギー壁へと叩き込まれる、加速を乗せた金属の拳。今までどんな攻撃をも弾いてきた斥力フィールドが揺らぎ、針を刺された風船のように割れて、燐光が霧散する。

 

「マキシマム・ペインを破ったのか……!!」

 

 ステージⅣガストレアの攻撃すら受けきる鉄壁の防御が崩された。だが、それだけではない。仮面の口の部分から、血が滴る。今の一撃の威力が、フィールドを突き破って届いていたのだ。

 

「痛い……」

 

 機械化兵士となってから久しく忘れていた感覚を、影胤は今思い出した。

 

「痛い……私は痛い!! 私は生きている!! 素晴らしき哉人生!! ハレルゥゥヤァァァ!!!!」

 

 笑いながら、両手に持ったカスタムベレッタを乱射する影胤。まるで、祝砲のように。蓮太郎は素早く横に跳躍して銃撃を避けつつ、XD拳銃で応射する。

 

「パパをいじめるなぁぁぁっ!!」

 

 引き絞られ、そして解き放たれた矢弓のように小比奈が飛び出して、蓮太郎に斬り掛かろうとする。だが、割って入った延珠が脚で斬撃を止めた。彼女のブーツは靴裏にバラニウムが仕込まれているのだ。

 

「お主こそ、妾の相棒に向けたその刃、引っ込めてもらおうか!!」

 

 そのまま小比奈を蹴り飛ばす延珠。だが小比奈も然る者、恐ろしいほど容易く宙返りを打って体勢を整えると刃を十字に交差させた独特の構えを取って、延珠に向かい合う。

 

 機械化兵士VS機械化兵士、イニシエーターVSイニシエーター。完全に五分の状況が二つ出来上がる。そして今、自由に動ける者が、一人。

 

「綾耶!!」

 

「こいつらは俺達が引き受ける!! お前は教会の中へ!! ステージⅤの召喚を止めろ!!」

 

「行くのだ綾耶!! 世界を守れ!!」

 

 蓮太郎と延珠に促され、綾耶は教会へと走る。影胤と小比奈は止めようとしたが、眼前の敵に阻まれた。

 

 綾耶は勢いに任せて蹴りでドアを叩く。長い間放置されてガタが来ていた木製の扉は、イニシエーターの超人的なパワーには一瞬も耐えられずに、藁のようにぶっ飛んだ。

 

 そのまま、教会内部へと突入する綾耶。入ってすぐの礼拝堂で、最奥に設置された祭壇の前にルインが立っていた。まるで神に供物を捧げる巫女のように。

 

「ルインさん!!」

 

「……強い仲間が居るようね。影胤と小比奈ちゃんが抜かれるなんて」

 

 くるりと振り返ったルインは、ステンドグラスから差し込んでいる月光が白い長髪を彩って、女神のようにすら見えた。ただし人を救う側ではなく、人を滅ぼす側の。

 

「……今すぐケースの中身を僕に渡して下さい」

 

「断るわ。それにあなたでは私に強制する事も不可能でしょ?」

 

 最後通告は、にべもなく撥ね付けられた。微かに抱いていた期待が消滅した綾耶だったが、戦う前に聞いておく事はまだあった。

 

「あなたは……あなた達はどうしてこんな事を?」

 

 ステージⅤ・ゾディアックガストレアが召喚されれば、モノリスが破壊されて大絶滅が起きて、想像も出来ない程の人が死ぬ。

 

 例えルインや影胤のバックに非合法組織や他エリアの暗部が居て、途方もない金銭や地位を約束してくれていたとしても、その惨劇は対価として釣り合うものなのか? 彼女達の中にほんの一欠片でも良心が残っているのなら、それがうずく事は無いのか?

 

 あるいは報酬などどうでも良く、ただ死と破壊を生み出す事だけが望みなのか?

 

 問いを受けた、ルインの答えは。

 

「平和な世界の為よ」

 

「なっ……」

 

 ふざけているのかと思ったが、しかしルインの表情はどこまでも真剣だ。その瞳も。綾耶には分かる。これは嘘ではない。

 

「それはどういう……」

 

「問答は終わりよ。私が八尋ちゃんを呼ぶのを止めたいのなら、私を倒すしか無いわね」

 

「!!」

 

 ルインはゆったりとリラックスした構えだが、しかし彼女が発する気配があからさまに戦闘態勢にシフトしたのを感じ取って、綾耶は全身を緊張させる。

 

 イニシエーターとは違うが、ガストレアウィルスを保菌した紅い目を持つ者。影胤ほどの使い手が王と呼び、傅く存在。その武力はどれほどか。

 

 様々なシチュエーションを想定し、綾耶が頭を巡らせていたその時、ルインの体がいきなり巨大化した。

 

「速い!!」

 

 綾耶が小比奈へと見せた突進と同じか、それ以上の速さ。兎型(モデル・ラビット)や猫型(モデル・キャット)のようなスピード特化型イニシエーターをも凌駕するスピード。10の距離は一瞬で0に縮められ、体が大きくなったように見えた。

 

 だが、これは綾耶にとっては予想の範疇だった。ルインの能力の可能性として、スピード特化型イニシエーターの速さを持つ事も想定の一つだった。腕を交差させ、ガードする。その上に、ぶつけられる拳。

 

「なっ!?」

 

 その威力は、象型(モデル・エレファント)や犀型(モデル・ライノセラス)といったパワー特化型をも凌ぐ。防御の上から綾耶の体を持ち上げて、彼女を扉のあった穴から教会の外へ弾き出す。

 

「くっ!!」

 

 綾耶は両腕のジェット噴射で急制動を掛け、空中で態勢を立て直して着地した。

 

「綾耶!!」

 

「大丈夫か!?」

 

 すぐさま綾耶へ駆け寄る蓮太郎と延珠。影胤と小比奈は隙を見せた二人へと仕掛ける事はせずに、教会からずんずんと出て来たルインの両脇を固める。

 

「延珠ちゃん、蓮太郎さん、気を付けて……!! あのルインって人は、パワー特化イニシエーター以上の力と、スピード特化イニシエーター以上の速さを併せ持ってます……!!

 

 一瞬もルインから視線を切らずに、綾耶が言う。それを聞いた蓮太郎と延珠は最初に「なっ!?」と驚き、次に「そんなのアリかよ」「何だそのデタラメは」と、それぞれ息を呑んだ。だがそんな彼等の反応を見たルインは、呆れたように首を振った。

 

「分かってないわね」

 

「えっ……?」

 

「私達の力はパワーでもスピードでもないわ。言ったでしょ? 私達の力は進化。綾耶ちゃん、あなたはそれをただ単に受けたダメージを学習して二度目からはそれに対する耐性を得るだけだと思っているみたいだけど……それは違うわ」

 

「なっ……!?」

 

 綾耶は絶句する。パワー特化の力とスピード特化の速さ、そして同じ攻撃が二度目からは効かなくなる防御力。これだけでも十分にデタラメだが、更にその先があると言うのか?

 

「もう一度言うわ、進化とは天敵や環境という負荷に適応し、克服する事……つまり私達は、力が強い相手にはそれ以上の力を、素早い相手にはそれ以上に速く、常に目前の敵を上回るスペックをその都度獲得し、弱点となる能力を何度でも発現させる事が出来るのよ。さっきのパワーとスピードは綾耶ちゃん、あなたが見せてくれたものを基準として、新しく私に備わったものなのよ」

 

「バカな……!!」

 

 そう呟いたのは、蓮太郎か延珠か、それとも綾耶か。

 

 今し方ルインの力をデタラメと言ったが、それは表現を間違えていた。彼女の力はインチキだ。

 

「さて、あなた達の力はどれほどかしら? 私はすぐにそれを超えるけどね」

 



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第09話 エデンの林檎

 

 東京エリア第一区作戦本部、日本国家安全保障会議(JNSC)。この場には議長である聖天子、その補佐役として副議長の天童菊之丞を初めとして官房長官や防衛大臣などエリアのトップが揃い踏みしていたが、今の彼等は皆その肩書きにそぐわない不安そうな表情で、隣の者の顔色をちらちらと窺っていた。例外は聖天子と菊之丞の二名のみ。

 

 不安の原因ははっきりしている。

 

 七星の遺産。大絶滅を起こしてエリアを破滅させる封印指定物。それを狙うルイン達。彼女達を発見したエリアトップクラスの民警29名が総攻撃を仕掛けたが、傷一つ負わせる事すら叶わずに返り討ちにされた。その光景の一部始終が、無人偵察機(UAV)からのリアルタイム映像で中継されていた。

 

 しかも間の悪い事に七星の遺産入りケースを持った綾耶がルイン達と遭遇し、ケースはルインに奪われてしまい、更にそこに里見蓮太郎・藍原延珠ペアが乱入してきて、蓮太郎は機械化兵士としての力を開放して蛭子親子とのバトルに突入。事態は混沌の只中にある。

 

「里見さんのペアに援軍は出せないのですか?」

 

「は……一番近いペアでも到着に一時間以上は掛かります」

 

 聖天子の質問に、防衛大臣が絶望的な回答を返した。

 

「一色枢・エックスのペアは何をしているのだ!!」

 

「それが……彼等が投下されたのは市街地からはかなり離れたエリアで……到着までどれほど急いでも……90分は……」

 

 結果論だが、人海戦術でルイン達をあぶり出そうとする策が完全に裏目に出てしまった。最強の戦力が、その実力を発揮出来ない事態に陥ってしまっている。

 

「聖天子様、ご決断を……」

 

 菊之丞が、聖天子の顔を伺う。

 

 この思わせぶりな言葉が意味する所は、空爆である。七星の遺産はこちらの手に取り戻す事がベストではあるが、それが叶わぬのなら、奪われるくらいならばミサイルを撃ち込んで破壊する。これは民警達には伏せられていたが当初の予定通りであり、ケースの所在及びそれを持っている者の現在位置が判明し、かつ奪還が不可能と判断された時点で、プランBへと切り替えられる手筈となっていた。

 

「それは……」

 

 年若い国家元首は、僅かに言葉を濁す。

 

 彼女の中には、まだ自分のイニシエーターを信じたい気持ちが強く残っていた。こんな事になったのには何か深い理由がきっとある筈なのだと。だが……事態はそんな躊躇いを許してはくれない。ケースを綾耶が持ったままであればまだ良かったが、ルインに奪われた。もう一刻の猶予も無い。ルインはこうしている間にも、ゾディアックを召喚する準備を終えるかも知れない。そうなったら、全てが終わる。

 

「聖天子様!!」

 

 少しだけ語気を強くした菊之丞に促され、聖天子は頷いた。

 

「では……」

 

 その時だった。にわかに会議室の外側に待機していたSP達が騒ぎ始め、数秒ほどして扉が破られる勢いで開け放たれると目を回した黒服達が倒れ込んできて、床に横たわる彼等を跨ぎ、学生服姿の少女が悠然と入室してくる。誰あろう、天童木更である。会議に列席する全員の視線が彼女に集まったが、中でも聖天子と菊之丞の反応は顕著だった。特に、菊之丞は表情を険しくして眉間の皺を深くする。

 

「天童社長、これは何事ですか?」

 

 木更は聖天子に一礼すると、持っていたケースから一枚の紙を取り出し、バンと机に叩き付けた。

 

 紙面には円を描くようにして、直筆での署名と判が押されている。日本史の教科書を開けば、似たような写真を見付ける事が出来るだろう。傘連判。百姓一揆の際に、主要人物達が結束を誓うと同時に、首謀者を隠す為に円形に名前を連ねた血判状である。

 

「ご機嫌麗しゅう、轡田防衛大臣」

 

 連判状に名を連ねているその一人に、木更は凄絶な笑みと共に詰め寄る。

 

「こ、これは何の真似だ!?」

 

「あなたの部下の一人が持っていた物です。ルイン・フェクダや蛭子影胤の裏側で暗躍していた彼女達の後援者……七星の遺産を盗み出すよう依頼し、情報を提供したのもあなたです」

 

「そ、そんなバカな!!」

 

「どうして先日の依頼の場に、タイミング良くルイン達が現れたのか。そして公開されたデータを見ましたが、どうして将城綾耶がケースを取り戻した直後、狙ったように蛭子ペアが襲撃する事ができたのか。偶然は二度も続きません。これは、彼女達に情報を提供する者が居たからこそ可能だった事です。そしてこの連判状……これ以上の説明が必要ですか?」

 

「そ、そんな……」

 

「……連れて行け」

 

「そ、そんな天童閣下!! 私は、私はぁぁっ!!」

 

 菊之丞の合図で動いた二名の護衛官が轡田防衛大臣の脇を固めて会議室から引きずり出し、彼等が出て行ったドアが閉じた所で聖天子は木更へと視線を移した。

 

「よろしいですか、天童社長?」

 

「はい、聖天子様」

 

 若社長は恭しく、国家元首に向き直る。

 

「あなたの言葉を信じるとして、では……綾耶は……」

 

「将城綾耶……彼女は東京エリアの反逆者ではありません。それどころか彼女はいち早く内通者の存在に気付いて、ケースを悪意ある何者にも渡すまいと動いていたのです」

 

 当初、聖天子がケースの回収任務を民警各社に依頼する形ではなく直轄のイニシエーターである綾耶一人に与えたのは、七星の遺産の存在を出来るだけ公にしないよう秘密裏に処理する為だった。それ故、ケースの存在や任務について知る者は極一部に限られていた。なのに、これ以上は無いというタイミングでケースを奪おうと襲ってきた影胤達。それが綾耶に内通者の存在を教える結果となったのだ。

 

「そう、ですか……」

 

 真実が分かった所で、状況が変わった訳ではないが……それでも聖天子は、少しだけ晴れやかな表情になった。

 

 迷いは晴れた。やはり、綾耶は自分の思っていた通りの子だった。彼女を信じたのは間違っていなかったのだ。

 

 聖天子は頷くと、菊之丞へ向き直った。

 

「菊之丞さん、もう暫く様子を見ます」

 

「しかし、それでは……」

 

「信じましょう。綾耶を、里見さんを、延珠さんを」

 

 まだ二十歳にもならない少女は、決然とした声で言い放つ。天童の長は、僅かながらその風格に押されて言葉を詰まらせた。

 

「そして天童社長、里見・藍原ペアの上司たるあなたには、この会議に出席していただく事になりますが、よろしいですか?」

 

「はい、こちらこそよろしくお願い致します」

 

 促され、木更は末席へと腰を下ろす。聖天子の格別の振る舞いを当然の権利とばかりの堂々とした孫娘の振る舞いに、菊之丞はじろりと厳しい視線を送るが、木更は一瞬だけ鋭い目で睨み返すと後は柳に風とばかりに涼しい顔だった。

 

「私は、信じています。蓮太郎君は……彼は必ず、勝ちます」

 

 

 

 

 

 

 

「……相手に合わせて、相手よりも強く進化するだと……!? 何だそのムチャクチャは……!!」

 

 ルインの能力を聞いた延珠が毒突く。元より蛭子親子を従えている時点で容易い相手だなどとは思っていなかったが、しかしこんなのは予想の埒外だった。頭に思い描いていた最悪の敵のレベルを、遥かに超えている。

 

「降伏する?」

 

 嫣然とした笑みを浮かべながら、ルインが尋ねる。これは挑発や罠の類ではない。自分を絶対の強者と確信しているが故の余裕だ。もし蓮太郎達が本当に降伏すれば、彼女は躊躇いなくそれを受け入れるだろう。

 

 無論、そんな事は蓮太郎も延珠も綾耶も夢にも思わない。

 

 それに、確かにルインの力は反則と言うに相応しい破格の能力だが、絶対無敵という訳でもない。付け入る隙はある。

 

「二度目からは攻撃が効かなくなり、時間が経つとパワーアップすると言うなら、手は一つだな」

 

 と、蓮太郎。綾耶も頷く。

 

「短期決戦で、最強の一撃を決める……ですね」

 

「確かに、私の攻略法としては正しいけど……私だって自分の能力については把握してるわ。そう簡単に、させると思う?」

 

 これはルインのコメントである。相手がガストレアならばさておき、彼女は頭を使う人間だ。自分の弱点についてもとっくの昔に把握済みという訳だ。

 

「それに、私達が居るのだ。そう簡単に我が王をやらせると思うかね?」

 

 影胤と小比奈が立ちはだかる。

 

「試してみるさ」

 

 蓮太郎のその言葉を合図として、延珠が前傾且つ腰を落とした姿勢を取る。

 

「行くぞ!!」

 

 そこから、神速の突進。たった一蹴りで最高速に達するその加速力こそ脚力特化型たるモデル・ラビットの真骨頂。小比奈が迎え撃つべく双剣を振るうが、延珠はあっさり避けるとそのまま彼女を素通りして、その先にいるルインと影胤へと向かう。

 

「パパ!! 三番!!」

 

「おっと、お前の相手はこっちだ!!」

 

 予想外の動きには驚いたもののすぐさま延珠に追い縋ろうとする小比奈だったが、蓮太郎に止められた。繰り出された超バラニウムの文字通り鉄拳と、バラニウムの刃がぶつかり合い、甲高い音を立てる。

 

「王よ、お下がりを!!」

 

 延珠のスピードは予想以上に速く、斥力フィールドの展開が間に合わない。ルインを庇うように前に出た影胤が、二丁拳銃を向ける。だが延珠は二つの銃口を前にして僅かも怯えず、それどころか更に加速して、影胤の指が引き金を引くよりも早く肉迫すると、地を這うような低い姿勢から思い切りルインの体を蹴り上げる。

 

 ルインはこの蹴りは完璧にガードしたが、しかし威力までは殺せず空中に舞い上げられた。

 

「ルイン様!!」

 

「よそ見している暇は無いぞ、お主の相手は妾だ!!」

 

「ぬうっ!!」

 

 繰り出される延珠の蹴りを、影胤は今度はフィールドの発生範囲を絞る事で即座に展開、手持ち盾のように使って受け止める。

 

 先程のプロモーター同士とイニシエーター同士の戦いから一転、今度は互いのイニシエーターがどれだけ早く司令塔たるプロモーターを仕留めるか、逆にそれまでの間プロモーターが持ち堪えられるかどうかの短期決戦の形となった。

 

 必然、イニシエーターもプロモーターもその全神経・全感覚は眼前の相手へと集中し、影胤も小比奈もルインを守る事は出来なくなる。この瞬間こそ、蓮太郎達の狙いだった。

 

「へえ、良い作戦ね」

 

 ルインが感心した声を上げた。未だ宙を舞っている彼女の眼前には、既に得意の飛翔能力を以て綾耶が接近していた。

 

 先程の延珠の蹴りはダメージを期待してのものではなく、ルインを身動き取れない空中へと打ち上げる為のものだった。そこを綾耶が仕留める寸法だ。

 

「で・え・いっ!!」

 

 乾坤一擲。一撃の破壊力こそはパワー特化型、モデル・エレファントである綾耶の真骨頂。ましてや空中での動きの自由度は彼女とルインとでは比べ物にならない。

 

 今度こそ絶対に回避不能。回復の余地も適応の暇も与えず有無を言わさず戦闘不能にするこの一撃。鉄槌のような綾耶の拳がルインへと振り下ろされて、そして空を切った。

 

「なっ、そんな……!!」

 

 そんなバカな。避けようなど無かった筈だ。空中でルインに出来る事といえば、精々が体を捻る程度の回避行動ぐらいが関の山。羽か翼でもない限り今の一撃を避ける事など……!!

 

 そう思ってルインへと視線を送って、綾耶の表情は凍り付いた。

 

 今のルインには、羽があったのだ。

 

 彼女の背中、肩甲骨の辺りからトンボのような半透明の羽が一対生えていて、それが残像を生み出して四枚羽根に見える程の速さで羽ばたき、揚力を生み出して滞空している。あんなもの、今の今までどこにも無かった筈なのに。

 

「進化……!!」

 

 綾耶はぞっとした表情で、呆然と呟く。

 

 ルインは言った。自分の力は進化だと。背中に生えてきた羽は、身動き取れない空中という環境に適応し、身動きが取れるように進化したという事か。ほんの数秒間で。

 

「何でもありですか、あなた……」

 

 敵の恐ろしさを再確認して、イニシエーターの額に冷や汗が噴き出た。この相手は思っていたよりもずっとタチが悪い。

 

 ルインの攻略法として、最強の一撃を叩き込む以外にコンクリート漬けにして固める、水に沈めて溺れさせるなど、倒すよりも無力化する事に重点を置いた案を思い浮かべていたが、今の攻防の結果を鑑みるに白紙に戻さざるを得なくなった。仮にコンクリートで固めた所でコンクリートを壊せるぐらい力強くなって脱出してくるだろうし、水中に沈めてもエラが発生して何時間でもピンピンしているだろう。あるいは麻酔薬やガスで体を痺れさせようとしても、すぐに体を薬に慣らしてしまうに違いない。

 

 やはり、手は一つ。

 

 綾耶はぐっと拳を握る。この一撃で倒しきれなかったら次は無い。クリーンヒットさせる為には余程慎重にチャンスを見極めねば……!!

 

「来ないの? では、私から行くわよ?」

 

 迂闊に攻撃出来ない綾耶とは違って、ルインは自由に攻撃出来る。背中の羽の角度を微妙に変えると空中を滑るように進んでくる。綾耶も反射的に両腕から圧縮空気を噴射して、身をかわす。

 

 期せずして空中戦が始まった。逃げる綾耶を、ルインが追い掛ける形だ。二人は猛スピードで飛び回りながら、ものの数秒で市街地上空から海上へと移動した。

 

 綾耶は背後をちらりとも見ずに、しかし空気の流れを感じ取る事でルインの位置を完璧に把握し、何とか彼女を振り切ろうと何度も宙返りを打ったり体をスピンさせたりするが、無駄な努力に終わった。

 

「くそっ……!!」

 

 ルインの実力は未だ未知数。追い付かれて捕まったら何をしてくるか分からない。幸い、彼女は銃のような飛び道具は持っていない。ここは距離を保って時間を稼ぎつつ、その間に何とか彼女に切り込む作戦を……

 

 ……と、考えていた綾耶は、自分の考えがどれほど甘かったかをすぐ思い知らされる事になった。

 

「!?」

 

 何かが飛んでくる。それを感じて、回避運動を取る。すると、後ろから来た何かが綾耶の顔のすぐ横を通り過ぎていって海面に落下、水柱を立てた。

 

「っ、なっ……!?」

 

 思わず振り返ると、すぐ後ろのルインの口がぱかっと開いて、そこから何かが飛び出してきた。思い切り体を捻って避ける。三発飛んできた内の二発は完全にかわしたが、一発だけは避け切れずに服に掠った。

 

「熱っ!!」

 

 腕に灼熱感が走って、綾耶は小さな悲鳴を上げる。たった今ルインの口から出た何かが掠ったその部分からは焦げ臭い匂いがして、服が溶け出していた。

 

 ルインが口から吐き出したのは、彼女の唾液だ。だがただのツバではない。強酸性を持っている。綾耶の服が溶けた理由がそれだ。ファーブル昆虫記が好きだった蓮太郎が見れば、まるでハエのようだという印象を抱くだろう。ハエは、獲物を唾液で溶かしてから食べる。その特性がより強化されてルインに備わっていた。

 

「あんなのまで……!!」

 

 ランダムな回避軌道を取る綾耶。ルインが連射してきた強酸唾液は全て彼女の体ギリギリの所を通り過ぎていって着水、無数の水柱が上がる。舞い散る水飛沫を肌で感じた綾耶は、顔を引き攣らせた。今の攻撃は何とかかわしたが、いつまでも避け続けられるとは思えない。

 

 やはり、逃げてばかりではいつかやられる。何とか攻勢に転じたい所だが……しかし下手な攻撃はルインに耐性を与え、防御力を高めさせるだけに終わる。どうするか? ジレンマを抱えつつ、あまり陸から離れすぎるのを嫌った彼女は、体をターンさせる。

 

 問題はまだある。

 

 ルインが空を飛ぶスピードが段々速くなってきているように思えるのは気のせいではあるまい。これも進化の能力の一つなのだろう。今のままでもジリ貧だが、時間を掛ければ掛けるほどにこちらは優位を潰され、どんどん不利になる。

 

『何とかしなければ……!!』

 

 そんな焦りを感じつつ逃げ続けている綾耶だったが、一方でルインは彼女に感心していた。

 

 自分の進化スピードから考えれば、とっくの昔に綾耶には追い付いている筈だ。単純な飛行速度では、互角か既に上回っている。なのに実際には、中々距離を詰められない。これは背中の翼が発生させる推進力で無理矢理飛んでいる自分と、気流の流れを読み取って最適なコースを進んでいる綾耶との差だと、ルインは理解した。

 

『……素晴らしい』

 

 無限に進化を続け、あらゆる能力を限界無く身に付けられる自分の力にも、死角はある事をルインは理解している。その一つが、進化で獲得出来るのはあくまで能力、スペックだけだという点だ。綾耶の飛び方のような“技術”は身に付けられない。

 

 ルインは綾耶の事を高く評価していたつもりだったが、それがまだ過小であったと認識を改めた。

 

「良いわね、合格……あなたにも、未来を得る資格が有る」

 

 そう呟いた瞬間、ルインは遂に綾耶へと追い付いた。綾耶の技術を彼女の進化が超えたのだ。斜め上方へと回り込むと、回し蹴りを繰り出す。

 

「ぐっ!!」

 

 辛うじて綾耶はガードを間に合わせたが、ルインの脚力は空中で腰が入っていない事などお構いなしに彼女を吹っ飛ばし、落下した海面を水切りのように何度も跳ねさせながら、岸にまで運んでしまった。

 

 コンクリートの岸壁にぶつかる衝撃を覚悟してぐっと体を硬直させる綾耶だったが、体に走ったのは固いものにぶつかる衝撃ではなくずっと柔らかいものに抱き留められる感覚だった。

 

「大丈夫か、綾耶!!」

 

「延珠ちゃん!!」

 

 視線を上げると、親友の顔がそこにあった。すぐ傍には蓮太郎の姿も見える。二人とも、戦いながら市街地から海岸まで移動してきていたのだ。戦いの激しさを物語るようにどちらも服はあちこち破けていて、血が滲んでいる。蓮太郎のバラニウム義肢にも、細かい傷がそこかしこに見えた。

 

 やや二人から離れた位置には、影胤と小比奈がいた。こちらも無傷ではなく、怪人プロモーターのトレードマークである燕尾服はボロボロになっていて、シルクハットは行方不明になっていた。小比奈も、高級な一点物であろうドレスは見る影もなくなっており、二刀小太刀の一方は折れて、切っ先がほど近い地面に突き刺さっていた。その二人のすぐ傍に、ルインがゆるりと降りてくる。完全に着地すると羽はみるみる退化していって小さくなり、やがて背中に沈むように消えてしまった。

 

 3対3。戦いが第2ラウンドに突入するかと見て、気合いを入れ直す蓮太郎と延珠と綾耶。影胤と小比奈も迎撃の構えを取るが、

 

「待った」

 

 緊張感の全くない声が、張り詰めた空気を霧散させた。ルインだ。

 

「私達のどちらかが死ぬ前に、聞いておきたいのよ。里見蓮太郎、藍原延珠、そして将城綾耶……」

 

 たおやかな手が、すっと差し出される。

 

「私達と共に、生きるつもりはない?」

 

「何を……!?」

 

「影胤と小比奈ちゃんは、この申し出を受けてくれたわよ?」

 

 両脇を固める二人を交互に見て、ルインが微笑する。

 

「無論、タダでとは言わないわ。ベタな台詞ではあるけど……金、地位、名誉、美女、自由……あなたが望むものを全て与えると約束するわ」

 

 蓮太郎の返事は、向けられた銃口だった。

 

「……一応聞いておくが、蛭子影胤……お前はその女に、何をもらった?」

 

「私が我が王より頂いた物は単純さ。『敵』と『戦い』……闘争の絶えない世界……我が王達はそれを与えてくれると約束して下さったのだよ!!」

 

 魔人の口から出たその言葉に、蓮太郎の顔が一気に蒼くなった。まさか七星の遺産を彼等が奪ったのは、その為に?

 

「矛盾してませんか?」

 

 と、綾耶。

 

「さっき、ルインさんは自分達の目的は平和な世界の為だと言いましたね? あれは嘘だったんですか?」

 

 王と呼ばれる白い女性は、穏やかに首を振る。

 

「嘘ではないわ。私達が思い描く未来は、永遠の平和と永遠の闘争が続く世界。これは人間そのものを変える為の実験であり計画なのよ。人が、より高次の種へと進化する為の……」

 

「……どういう事です?」

 

「人間という生き物を構成する要素が肉体と精神の二つだとすれば……肉体面での進化は既に起こりつつあるわね」

 

 小比奈、延珠、綾耶。三人の呪われた子供たちへと順番に視線を動かしながら、ルインが語る。体内に保菌するガストレアウィルスによる超人的な身体能力と再生能力、人間がかかるあらゆる病や障害にかからないという免疫力。影胤は彼女達を「ホモ・サピエンスを超えた次世代の人類の形」だと言っていたが、同じような考えを持つ者は(特にガストレアを地球を浄化する為の神の遣いだと考える宗教団体の関係者を中心として)少なくない。

 

「でも、イニシエーターも心は普通の人間でしかないわね? 簡単に傷付いて、道に迷い、懊悩する。それは……あなた達にも覚えがあるのではないかしら?」

 

 その問いに、延珠も綾耶も反論する言葉を持たなかった。学校で、自分が呪われた子供たちだとバレた時。教会が、反ガストレア団体過激派のテロに遭った時。その時の心の痛みは、未だ彼女達の中に残っている。

 

「そして今私達がこうしているように、人種や宗教、国家や組織の違いで簡単に敵になる……それでは……とても進化した種とは言えないわ。まぁ……無理はないけど。今までの人間の歴史を振り返ってみれば、人間が一つに団結する機会は一度としてなかったからね」

 

 ルインの言葉は一つの真理ではあった。これまで、人類の敵は常に同じ人類だった。それは敵が、時代や時流によって変移する相対的な敵でしかなかったからだ。

 

「でも今……その機会が遂に訪れたのよ。ガストレアという……時間には左右されない絶対的な敵の出現によってね」

 

「じゃあ、あなたがステージⅤを喚び出そうとしているのは……!!」

 

 恐ろしい結論に至って、綾耶も蓮太郎が平常に見えるぐらいに顔色を悪くした。「理解が早い」とルインは頷く。

 

「ガストレアとの戦いを、永遠に続ける為に。私はガストレアが……正確にはガストレアとの戦いが、人類を新しい時代に導くと信じているの。今はまだまだ、不完全だけど……」

 

 そう言うと、ルインは小比奈の頭を撫でた。モデル・マンティスのイニシエーターはムスッとした表情を見せたが、手を振り払おうとはしなかった。

 

「呪われた子供たちも今は女の子だけだけど……いつかは、男の子も生まれてくるわよ、きっと。現在はちょうど人類が進化の階梯を上る為の、過渡期だと言えるわね。同じように精神面でも、ガストレアが存在し続け、奴等と戦い続ける事で、いつかは同族同士で殺し合うという概念すら消える日が来る……そうして、肉体・精神共に進化した新しい種こそ……この地球の……星の後継者に相応しい!!」

 

「……その為に、東京エリアに大絶滅を起こして何万という人達を殺すんですか?」

 

 綾耶の厳しい問いにも、ルインは涼しい顔を崩さない。

 

「種にとって最大の敵とは、絶滅よ。それにどのみち、数万人だろうが数十万人だろうが、今の世界ではそれぐらいすぐに死んでいくわよ」

 

「そんな……!!」

 

「さて、蓮太郎君にはフラれてしまったけど……あなた達二人はどうかしら? 延珠ちゃんと、綾耶ちゃん」

 

「バカな、僕達がそんな事……!!」

 

 答える価値も無い愚問だと、綾耶が撥ね付ける。だが、これぐらいはルインも予想の範疇であったらしい。気分を害した様子は無い。

 

「蓮太郎君にも言ったけど……タダでとは言わないわ」

 

「金か? 物か? 妾達がそんなので動くとでも思っているのか?」

 

「では、時間ではどうかしら?」

 

 これは延珠にも綾耶にも予想外だった。思わず声を揃えて「時間?」と鸚鵡返しする。

 

「未来と言い換えても良いわね」

 

 頷くルイン。

 

「イニシエーター……呪われた子供たちの寿命とも言えるガストレアウィルス浸食率。あなた達は抑制剤によって辛うじてその上昇を抑えて延命している形だけど……負傷の治癒や能力の使用によっても、浸食率は上昇する。だからあなた達はガストレアと命懸けで戦いながら、寿命を削らなくてはならない……私達と一緒に来るなら、その不安を取り除いてあげられるのだけど? 小比奈ちゃんのようにね」

 

「嘘だ!! そんな事どうやって……!!」

 

 これは蓮太郎の叫びである。ウィルスの浸食を完全に停止させるなんて、現在の技術では不可能な筈だ。東京エリア、いや日本最高の頭脳である室戸菫ですら無理なのに。だが彼の声は、ルインには届いていないようだった。

 

「私達は見付けたのよ、ガストレアウィルスへの完全な抑制因子……いいえ適合因子ね、その存在を。そして開発した。それを他者に与える遺伝子治療(ジーン・セラピー)の技術をね」

 

「……そんな話を、信じると思うのか?」

 

 延珠が吐き捨てる。いくら自分や綾耶が子供だからと言って、こんな甘言で騙せるとこの女は本当に思っているのだろうか?

 

 だが彼女のこの反応も、まだまだルインは想定内のようだ。穏やかな表情を崩さない。

 

「まぁ……信じられないのは無理無いわね。私達も……って言うか番外(アルコル)が適合因子を見付けたのだって、偶然の産物だったし」

 

 どこか自嘲するように、ルインが苦笑する。

 

「でも……ガストレアウィルスの適合因子が存在する事、それ自体は信じられるでしょ? だって……」

 

 彼女の両眼が、紅く輝いた。

 

「それを持った者が……今、目の前に立っているのだから!!」

 



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第10話 決着

 

「ガストレアウィルスの適合因子……だと? そんなもの……」

 

「ある訳が無い、というのは少し短絡思考だと思うけど?」

 

 蓮太郎の台詞を先取りして、ルインが言う。

 

「別にそこまでおかしな話じゃないでしょ? 私達が今、当たり前のように吸ったり吐いたりしている酸素だって、昔は生き物にとって猛毒だった。けどある時、酸素を取り込み、効率の良いエネルギーとする事が出来る生物が生まれた。彼等は他の生物を圧倒して繁殖し、世界を席巻した。それが私達の、遠いご先祖様ね。突然変異(ミューテーション)……これは進化という事象そのものとも言えるわ。そういう意味では、人間は一人残らず変異体(ミュータント)とも言えるわね。もし突然変異が起きなかったら、私達は今でも木の上で仲間のシラミ取りでもしているでしょうよ」

 

「それは……僕も、学校で勉強しましたけど……」

 

「うん」

 

 綾耶の言葉に機嫌の良い笑みを見せて、ルインが頷く。

 

「同じように、ガストレアウィルスに感染してもガストレア化せず、ウィルスの力を自分の物とできる人間がいても不思議じゃないでしょ? 寧ろ自然じゃない? 何しろ大戦前には人類は80億も居たのよ? 仮に適合因子の持ち主が1000万人に一人の割合だとしても、ざっと800人居た計算になるわね。まぁ、居たとしてもその時点では普通の人間だから、ウィルスを注入される前にガストレアに喰い殺されたり、戦時中・戦後の混乱の中で人間に殺されたりして、発見されずに死んでいった者が殆どでしょうね」

 

「その生き残りの一人が、お主だと……!?」

 

 固い声で尋ねる延珠に、ルインはもう一度「うん」と頷いて話を続ける。

 

「……まだ信じられないようだけど、他の人なら兎も角、あなたがそれを言うの? 延珠ちゃん」

 

「? どういう……」

 

「あなた達、呪われた子供たちは不完全とは言え生まれながらガストレアウィルスへの抑制因子を持っている。それは人間の中に、ガストレアウィルスへ適応する要素が潜在的に存在する事の何よりの証じゃない? まだ眠っているその因子が、強く発現したのが私達だと考えれば……そこまで突拍子もない話とも思わないけど」

 

「む……」

 

 思わず、反論する言葉に詰まって口ごもる延珠。

 

 上手く言いくるめられたような気はするが、有り得るかもとは思ってしまった。

 

「じゃあ……そっちのは……」

 

「私はこいつ等の一人から、“てきごーいんし”を移植されたの」

 

 と、小比奈。

 

「……番外(アルコル)の……あぁ、私達の仲間の一人だけど、そいつが私達の体から抽出された適合因子を移植してからそれなりに経つけど、検査では小比奈ちゃんの浸食率は0.1パーセントの上昇も無いわ」

 

 本当だという確証は何一つ無いが、しかし嘘だとしても縋ってみたくなる魔力がその言葉にはあった。何故なら、

 

「分かる? ガストレア化に怯える事無く、生まれ持った力を湯水のように使う……私達と来るなら、それが出来る」

 

 後者は兎も角として、前者は恐らく全ての呪われた子供たちが望んで止まないものだ。どれだけ欲しても手に入らない筈のもの。生きられない筈だった時間。それが手に入るのなら……!! 十中八九嘘だとは思う。だが万に一つでも、本当であったのなら……!?

 

 思わず鳴った唾を飲み込む音は、誰のものであったのか。

 

「私も、同じ意見だね。君が本当に延珠ちゃんの事を思うのであれば、我が王の……私達の元へ来るべきだ、里見くん」

 

 ここで、影胤が口を挟んできた。

 

「我が王が与えて下さる未来は寿命という意味の未来だけではない。断言しても構わない、今のままでは我々や呪われた子供たちには暗い未来しかないよ? 良いように使い潰され、用済みになれば殺される。最初は登録制度、次には収容所に送り込まれ、最後は一人残らず地上から駆逐されるだろう」

 

「ふざけんじゃねぇ!! 俺達機械化兵士と延珠や綾耶を一緒にするんじゃねぇっ!!」

 

 湧き上がった激情に、蓮太郎が吼えた。

 

「こいつらは人間だ!! ただの十やそこらのガキなんだ!! こいつらの未来は、明るくなきゃ駄目なんだよ!!」

 

「ならば思い出したまえ!! 君の相棒が呪われた子供たちだと露見した時、周りの者の反応はどうだった?」

 

「っ!!」

 

 思わず、言葉に詰まる。影胤は畳み掛けるように続ける。

 

「祝福されたか? 鳴り止まぬ歓声に心を洗われたか? 歓喜の内に胸に抱き留められたか?」

 

 どれ一つとて無かった。排斥の視線と罵声を浴びせられ、ただ突き放された。

 

「前にも言ったろう? 君がいくら奴等に奉仕した所で、奴等は君を何度でも裏切る……!! だから君達は私達と共に……」

 

「あっははははははは!!!!」

 

 影胤の言葉を遮ったのは、綾耶の笑い声だった。右手をさっと挙手して、胸を張り上げて爆笑している。

 

「何がおかしいのかね?」

 

「おかしいですよ、裏切る裏切らないなんて、今時そんな事でガタガタ言ってるなんて」

 

「……何だと?」

 

 怪人の声から、あらゆる感情が消えた。思わず両手に持ったカスタムベレッタの銃口が上がりかけるが、脇から伸びてきたルインの手がそれを止めた。

 

「まぁ、聞いてみようじゃないの。綾耶ちゃん、あなたの言葉の意味、説明してもらおうかしら?」

 

 白い女性は視線で続きを促す。それを見て、綾耶は漸く笑い止んだ。

 

「その手の問答に対する結論は、半世紀以上も前に出ているんですよ。まぁ……学校に通ってた時に先生に見せてもらった昔の特撮番組の受け売りですけどね」

 

「へぇ? 是非聞きたいわね」

 

 ルインが、少し興味深そうな表情を見せた。それを受けた綾耶は咳払いして、

 

「……『優しさを失わないでくれ。弱い者をいたわり、互いを助け合い、どこの国の人達とも、友達になろうとする気持ちを失わないでくれ。たとえその気持ちが、何百回裏切られようと』」

 

「「「「…………??」」」」

 

 少しだけ気恥ずかしそうに語られたその言葉に、この場の4人までは一斉に沈黙した。互いにパートナーと顔を見合わせる。ルインだけは、呆れたような困ったような表情で頭を掻く。そして、ぼそりと呟いた。

 

「七番(ベネトナーシュ)の仕業か……そういやあいつ、昔からヒーローとか好きだったわね。私も色々見せられたわ」

 

 その言葉は、すぐ傍の影胤や小比奈も含めて、誰にも届かなかった。

 

「どれだけ仲間や守るべき人達に裏切られても、自分が裏切らなければそれで良い。大切な事は、それだと僕は思ってますけど?」

 

「それで、自分達を憎む者の為に、戦い続けるのかね? それは、愚かであり無駄だ」

 

 影胤はそう断じるが、綾耶は首を横に振った。

 

「そうは思わないな、僕は僕達の未来に希望を持ってる。きっと、未来は明るいと信じてるよ」

 

「……所詮は、子供か」

 

 溜息と共にそう溢す。甘い幻想にしがみついて、類い希なる力を使い潰すのか。仮面の向こうの顔は、きっと失望に彩られているだろう。

 

「根拠無く言ってる訳じゃないよ」

 

「ほう?」

 

 試すように、影胤は相槌を打った。あるいは少しだけ、次の答えに期待していたのかも知れない。

 

「まぁ、これも僕の先生から教えてもらった事だけど」

 

 と、前置きする綾耶。

 

「昔の世界では、今の世界では犯罪とされている事が国家単位で公然とまかり通っていた時代があったでしょ。奴隷制度とか、麻薬売買とか……それは今の世界では野蛮な行為で、疑う余地の無い犯罪だとされてる。だから……今のこの時代を、ガストレア因子を持った子供たちを差別していた恥ずかしい時代だったと振り返る日が、未来にはいつか来ると思うんだ」

 

「性善説かね?」

 

 影胤は甘い睦言を聞いたように笑うが、皮肉は綾耶には通じていなかった。元気よく頷く。

 

「人は少しずつでも良い方向に進んでいくって、琉生(るい)先生は教えてくれました。例えそれが自分の中の“恥”を、自分にも他人にも見えない所へ隠すだけだとしても、それでも、ちょっとずつ。だから、ルインさん……あなたみたいな事をしなくても、きっと人間はより良い存在になる事が出来るよ」

 

「……そう、かも知れないわね」

 

 ルインは認めた。これは意外な反応だったらしい、影胤や蓮太郎が彼女を見る。

 

「でも、それでは遅すぎるのよ。その前に人間はこの星を喰い潰すか、内輪もめして自滅するわ」

 

「うん、そうだね」

 

 今度は、綾耶がルインの言葉を認めた。

 

「だからそうならいように。そうなる前に世界と人間が変わるように。毎日生まれてくる呪われた子供たちも含む一人でも多くの人が幸せになって、そして僕も幸せになる為に。その為に僕は、僕の力を使うんだ!!」

 

 聖天子のイニシエーターは微塵の迷いすらも振り切って澄んだ強い瞳で、世界を滅ぼす者達を見据える。

 

 蓮太郎は、ぐっと両の拳に力を入れた。生身の手と、超バラニウムの手。その二つに、今まで感じた事が無い力が宿っているのを感じる。

 

 たった今語られた綾耶の心。どこまでも真っ直ぐで、強く、優しく、曇り無き想い。たった9歳の少女が何を想い、どんな生き方をすればこのような結論に辿り着くのだろう。その生き方を貫く事はどれほどに困難で、どれほどの意思とどれほどの情熱とどれほどの力を必要とするのだろう。

 

 蓮太郎には分からない。だが、一つだけ分かった事があった。いや、思い出せたと言うべきか。

 

 延珠も同じだった。思い出せた。そして本当の意味で理解出来た。

 

 馬鹿馬鹿しい程に簡単なのに、いつの間にか忘れかけていた事が。

 

「蛭子影胤……さっきの申し出だが、改めて断らせてもらうぜ」

 

「……理由を、聞かせてくれるかね?」

 

 ぐっと、蓮太郎は義手を伸ばして拳を影胤に向ける。

 

「俺達はお前が忘れてしまったものの為に戦っているからだ」

 

「私が忘れてしまったもの……それは、何だと言うのだ?」

 

 蓮太郎はその問いを受け、傍らのパートナーへと視線を落とす。無言のまま延珠とアイコンタクト、互いに笑みを見せて頷き合う。

 

「俺達のこの力は、何かを殺す為じゃねぇ。全てを守る為の力だって事だ!!」

 

 民警として、無辜の市民を守り、正義を遂げる。大切な事だとは分かるが、今の今までそれがどういう事なのか分かってなかった。それを、蓮太郎と延珠は言葉ではなく心で理解した。

 

「……そう、か」

 

 くだらないと一蹴されるとばかり思っていただけに、影胤のこの反応に蓮太郎は少し戸惑ったようだった。

 

「私が間違っていた。里見蓮太郎、君と私は同じ存在だと思っていた。だが、違っていた」

 

 魔人が纏う殺気が濃くなった。再び両陣営が激突する時が近いのを感じ取って、蓮太郎、延珠、綾耶、小比奈がそれぞれ独自の構えを取って戦闘に備える。

 

 蓮太郎は気付いていなかったが、この時初めて影胤は彼をフルネームで呼んだ。その、意味する所は。

 

「これより先は機械化兵士同士の戦いでもなければ、プロモーター同士の戦いでもない。ここからは、世界を滅ぼす者と世界を守る者との戦いだ」

 

 眼前に立つ少年を、対等の敵として認めたという事だった。

 

「私も同じね……綾耶ちゃん」

 

「はい?」

 

 警戒は解かないまま、ルインの呼び掛けに綾耶が返す。

 

「ベネ……いえ、その琉生って先生は良い生徒を持ったようね。私は、あなたの選択が賢いとは思わないけど……でも同時に、勇気ある選択だと思う。私は自分の選んだ道が間違いだとは思ってないけど、あなたの優しさもまた本物だと思う。尊重するわ。故に」

 

 ざあっ、と長く白い髪が風になびき。真紅の両眼がかつてない程に輝く。

 

「ここより先は……『七星の“三(フェクダ)”』……このルイン・フェクダが。本気でお相手するわ」

 

 女王の顔から常に浮かべていた微笑が消えて、厳しい表情になった。言葉通り、これよりは全力を以て戦う事の証。

 

「それでは」

 

 穏やかな声だった。銃声でもなければ、指で弾いたコインが落ちる音でもない。合図と言うにはあまりにも静かなそのゴング。

 

 それを耳にして、両陣営の先駆けとして延珠と小比奈がどちらもコンマ1秒も後れを取らずに駆け出した。蹴りと小太刀、互いに得手の違いこそあれインファイトを得意とする二人のイニシエーターはものの一秒で対手へと肉迫、バラニウムの武器がぶつかり合い、甲高い音が響く。

 

 動いていたのは二人だけではない。蓮太郎と影胤は互いに逆方向へと円を描くように動き、互いのパートナーへと援護射撃。連射した銃声は長い一発のそれに聞こえて、XD拳銃と二丁のカスタムベレッタの弾倉は、ものの数秒で空になる。

 

 リロードはしなかった。もう、延珠と小比奈の距離はゼロで、目まぐるしく立ち位置を入れ替えながら戦っている。これではパートナーを援護しようにも、逆に誤射で傷付けてしまう。

 

 銃を放り捨て、円の軌道から一転、眼前の機械化兵士へと突進する。どのみち、蓮太郎には銃口の角度から弾丸の軌道を見切る義眼があり、影胤には工事用クレーンの鉄球ですら止める斥力フィールドがある。二人とも、相手を拳銃で仕留めるのは難しい。

 

 こうなれば勝敗を分かつ要素は極めて単純だ。機械化兵士としての力と、磨いた技と、鍛え抜いた肉体。それら全てを総合した強さが蓮太郎と影胤、いずれが勝っているか。

 

「これで終わりだ、我が奥義をお見せしよう!!」

 

 斥力フィールドの蒼い燐光が、影胤の右掌へと集中していく。通常のバリアではない、拡大させたフィールドで相手を押し潰す『マキシマム・ペイン』でもない。

 

「エンドレス・スクリーム!!」

 

 収束した斥力エネルギーが一点より解き放たれ、光の槍となって突き出される。

 

「天童式戦闘術・一の型十五番!!」

 

 自分の体など紙のように貫くだろう恐るべき破壊力を前に、蓮太郎は迎撃の構え。義手が稼働し、カートリッジを排出。瞬間、彼の右腕は爆発的な加速を得てまさしく砲弾と化す。

 

「雲嶺毘湖鯉鮒(うねびこりゅう)!!」

 

 互いの最強の矛がぶつかり合い、天地がつんざくような衝撃が走った。

 

 最後に残った二人の内、先に動いたのは綾耶。

 

 両腕に最大量にまで溜めた空気に最高の圧力を掛けて、噴射。竜巻かと錯覚する風が吹き荒れる。その風圧を受けて木々は根本から引っこ抜かれ、地面は抉れ、人の営みが消えて脆くなっていた建物が崩れていく。

 

「ふん!!」

 

 自分めがけて飛んできた木片を手を払って砕いてしまうと、ルインは周囲を見渡した。綾耶の姿は舞い上がった砂埃に隠されて、見えなくなっている。

 

「ここまでは……予想通り」

 

 ルインの力である進化は、負荷に適応する能力。どんな攻撃でも通用するのは最初の一撃だけで、二撃目以降は肉体がその威力に対応し、耐えられるだけの防御力を獲得して無力化する。

 

 つまり、彼女を倒せるかどうかは一撃を決められるかどうか、決められたとしてそれで仕留められるかどうかと同義となる。

 

 よって綾耶は如何にして最高の一撃をクリーンヒットさせるか、ルインは如何にしてそれを防ぐかが勝敗の肝。

 

 この暴風と飛来物は、ルインの注意を逸らす為の作戦だ。飛んでくるゴミや瓦礫に気を取られた一瞬を狙って、スピード特化型並みの速さにパワー特化型の力を乗せて叩き込んでくる。

 

「その一撃が……いつ来るか? どこから来るか?」

 

 そして、どのようにして防ぐか。頭脳をフル回転させ、あらゆる攻撃パターンを想定して身構えるルイン。彼女はもう、飛んでくる物体を避けたり防ごうとはしなかった。回避行動を取れば避けているそこを狙われるし、止めたり払ったりする為に手足を使えば、一瞬だけ攻撃を防ぎきれない箇所が発生する。それを見逃す綾耶ではあるまい。

 

 煉瓦、石、木片。

 

 あらゆる方向からあらゆる物が飛んできて、ルインの体のあらゆる箇所にぶつかる。だがここでも彼女の進化能力が発動し、二発目の衝突からはびくともしなくなった。

 

 だがそれでも、飛来する物体の陰は死角になる。

 

『恐らく……綾耶ちゃんはその死角から仕掛けてくる……!!』

 

 そうと分かれば、備える事は出来る。いくら9歳児の綾耶が小柄であろうと、その体を隠せるぐらいの大きさの物体となると限られてくる。飛んでくる中で小さな物は意識から除外し、ある程度の大きさを持った物にだけ注意する。

 

 ボロボロの看板、すり切れたポスター、大きめのコンクリート塊……

 

「……そこか!!」

 

 直感で、たった今正面から飛んでくるコンクリートへと意識を集中する。瞬間、そのコンクリートが微塵に砕けて、砂のような破片をくぐって綾耶が姿を現した。たった今障害物を砕いたのは、左手のパンチ。そして次こそが本命。超至近距離での、利き腕での渾身の一撃。

 

「……!!」

 

 これは、生半な事では受けられない。今にも繰り出されるであろう綾耶の右拳には、自分の力に絶対の自信を持つルインをしてそう判断させるに十分な威力が内包されているのが感じられる。

 

 両腕を十字に組み、完全防御態勢。

 

「っ!!」

 

 綾耶の表情が引き攣った。不意を衝いて無防備な所に最高の一撃を決める筈だったのが、ルインはそれを読んでガードを固めていた。

 

 南無三。こうなれば防御の上からでも打ち破って砕くのみ。クロスガードブロックに、最大加速からの鉄拳が叩き込まれ……

 

 べきっ、べきっ、ぐちゃっ!!

 

 気持ちの悪い音がルインの両腕から鳴って、しかも殺し切れなかった衝撃が腕を伝って胴体にまで達し、胸骨にまでひびを入れる。

 

「ガッ……ごぼっ……!!」

 

 ルインの表情が歪み、血の塊を吐き出す。綾耶の渾身の一撃は、ガードの上からでも常人であれば致命傷はおろか悪くすれば即死させるほどの威力を叩き出していた。

 

 だが、そこが彼女の力の限界点だった。ルインは、常人ではない。呪われた子供たちと同じ、ガストレアウィルスの保菌者。破壊的なダメージを受けたとしてもウィルスによってもたらされる再生能力がすぐに治癒する。そして彼女の固有能力である進化は既に綾耶の攻撃の威力を学習し、肉体に耐性を付与している。

 

 今の一撃が綾耶の最強の一撃であった事は間違いない。つまり、もう綾耶にはルインを倒す術は無い。

 

 勝利が、確定した。ルインの指の爪が20センチも伸びて硬質化、スパイクのような凶器に変わる。

 

「終わらせるわよ……」

 

「僕が、ね」

 

「!?」

 

 ルインと目が合った綾耶は、笑っていた。諦めや絶望から来る自嘲の笑いなどではない。寧ろその逆、テストで前日に予習していた問題がそのまま出た時のような不敵な笑み。考えていた事がそのまま嵌った時の……!! まるで、立てていた作戦が寸分の狂いもなく上手く行ったような……!!

 

 何か、ヤバイ。そう悟ったルインは身をかわそうとするが、遅かった。

 

 雲の中から飛び出してくる飛行機のように、綾耶の長い黒髪を“幕”としていた死角の向こう側から何かが飛び出してくる。瞬間、衝撃と共にルインの胸に、熱さが走った。

 

「がはあっ!?」

 

 ルインの口から、先程に数倍する量の鮮血が吐き出される。視線を落とすと、胸に中程から折れたバラニウムブラックの刀身が突き刺さっているのが見えた。

 

「小比奈ちゃんの、刀……!!」

 

 してやられた。最初から、綾耶の全力パンチはフェイクだったのだ。竜巻のような風は瓦礫やゴミを巻き上げて目眩ましとする為ではなく、寧ろそれ自体が目眩ましだった。

 

『折れた刀の切っ先を風に乗せ……自分の体を死角とする軌道でコントロールし……正確に私の胸めがけて打ち込んできた!?』

 

 少しでも風の操作を誤れば、自分の背中に刃が突き刺さるかも知れない曲芸じみた技を、綾耶はやってのけたのだ。バラニウムの刃は、ルインの心臓を貫いていた。彼女の再生能力は呪われた子供たちと同じようにガストレアウィルスに由来するもの。故にバラニウムの武器ならば、攻撃が通れば通常の武器よりも有効打と成り得るのだ。

 

 だが、まだ終わっていない。

 

 ルインの手が綾耶の右腕を掴む。

 

「逃がさない……!!」

 

 まだ、一撃を放つ力は残っている。

 

 このような状況下に於いても進化の能力は健在だ。綾耶の拳も圧縮空気のカッターもバラニウムの刃も、もうルインには通じない。何か他に武器でも持っているなら話は別だが綾耶は丸腰、最後の一手が足りない。ルインを、倒しきれない。

 

 だが次の瞬間、綾耶は自由になる左手を動かし、五指を揃えて空手でいう貫手を自分の腕の付け根に叩き込んだ。

 

「ぐっ……!!」

 

 指先が肉に食い込んで、食い縛った歯の隙間から声が漏れる。

 

 ズズズ……と、自傷行為で生まれた傷口に当てた手から異音が鳴る。ちょうど、少なくなったジュースをストローで吸い上げるような。

 

「っ、なっ……!?」

 

 武器は、あった。とっておきのものが。

 

 まるで居合いの剣のように、”紅い刃”が綾耶の傷から引き抜かれる。

 

 傷口から腕へと自分の血を吸い上げ、圧力を掛けて一点より放出する事で完成する血の刃。比重の差から圧縮空気のカッターなどとは比較にならぬ破壊力を持つ。

 

 振るわれたその斬撃は、ほんの刹那だけルインに先んじ……彼女の右腕を、斬り飛ばした。

 

 これが、決め手になった。綾耶の腕を掴んでいたルインの手から力が抜けて、二人の距離が離れる。ルインはその場にがっくりとくずおれて、綾耶は1メートルばかりの間合いを開けると、武道の残心の如く油断無く身構える。

 

「……影胤が、聖天子の事を無能な国家元首だと言っていたけど……その評価は間違っていたわね……少なくとも人を見る目はあるわ……」

 

 腕を失い、胸に刃が突き刺さったままのルインはへたりこんだまま、吐血で口元を真っ赤にしながら、それでも笑いながら言った。

 

「自分の血を吸い取って武器に変えるかしら、フツー……私とあなたの間にあった覆しがたい筈の力の差を、命を削って埋めに来るなんて……聖天子は、良いイニシエーターを選んだわね」

 

「こうでもしないと、僕じゃあなたには勝てないですから……」

 

 綾耶の顔色は、悪い。それも当然、この未踏査領域に足を踏み入れてからこっち、単身でガストレアの群れとの戦いを四度も経て、そのままこの戦いに突入。今日はもう一日中戦っているのだ。保菌するガストレアウィルスの恩恵があるとは言え肉体・精神ともコンディションは最悪に近い。加えてたった今、武器として使う為に大量の血を体から抜いたのである。立ち姿は微妙にぐらついて、目も焦点が少し怪しい。

 

「見事ね、将城綾耶……あなたの勝ちよ」

 

 吹っ切れたような微笑と共に、ルインが告げる。その時、二人からやや離れた所から爆音が響いた。反射的に視線を向けると、ちょうど蓮太郎が繰り出したオーバーヘッドキック『隠禅・哭汀(いんぜん・こくてい)』、しかも超バラニウム義足に仕込まれたカートリッジを全弾開放して究極の爆速を得た一撃が影胤の障壁を突き破り、彼を海へと吹っ飛ばして巨大な水柱を立たせて沈めたのが見えた。

 

「そんな……パパァ……パパァ……いやよ、パパァ……」

 

 同じものを見た小比奈は手にしていた小太刀を取り落とし、がっくりと膝を付いて戦意喪失。この時点で、ルイン達の陣営は全員が戦闘不能となったのに対し、蓮太郎達3人は全員が健在。勝敗は決した。

 

「確かに、勝負は私達の負けのようだけど……」

 

「?」

 

 含みを持たせた言い方に、綾耶は首を傾げる。

 

 だが数秒の間を置いて、言葉の意味が分かった。

 

「!?」

 

 びくりと、怖気が走ってあらぬ方向に視線を向ける。視界の端に見える蓮太郎や延珠はまだ勝利の余韻に浸っているようで、気付いていない。それも無理のない所ではある。空気を自在に操る綾耶であるからこそ、大気に含まれていた微かな、だがおぞましいほどの違和感に気付く事が出来たのだ。

 

「これは……!?」

 

「少しばかり、遅かったわね。天蠍宮(スコーピオン)……八尋ちゃんが、来るわ」

 



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第11話 未来の創り手

 

 ルイン、及び蛭子影胤ペアの撃破を確認してJNSC会議室が沸き立ったのは、ほんの一瞬の出来事だった。

 

 これには作為は存在せず全くの偶然であろうが、その報とほぼ同時に、東京湾に規格外のガストレア出現の連絡が入った。その異形、その巨体、誤認する事など有り得ない。完全体たるステージⅣを超越した究極体。ステージⅤ・ゾディアックガストレアの一角たる天蠍宮(スコーピオン)。十年前、世界を滅ぼした十一の悪魔の一柱。

 

 ガストレアを退けるモノリスの磁場すらものともしない超越した存在。滅びの具現。

 

 すぐさま空海の動ける部隊に緊急出動(スクランブル)が掛かり、ありったけの火器や化学兵器で以て必死の防戦が展開されるが、巨大ガストレアは人類の叡智の粋を集めたあらゆる兵器の威力を受けても虫に刺された程度の痛痒しか感じていないようだった。

 

「死にたくない……私は死にたくない、死にたくないんだぁっ!!」

 

 “死”が一歩、また一歩と近付いてくる絶望的な中継を見せ付けられて、恐怖が臨界点に達した一人の大臣が会議室から飛び出すと、後はもうイモヅル式だった。

 

「私もイヤだ!!」

 

「わ、私も……!!」

 

「私もだっ!!」

 

「待て、貴様らっ!! ……連れ戻してきます!!」

 

 皆が我先にと逃げ出し、その次には追うと見せ掛けて自らも逃げる者が出た。

 

 彼等を冷ややかな横目で見送りながら、菊之丞は静かに聖天子へと歩み寄った。

 

「聖天子様、移動の準備を……」

 

 ここでの移動とはシェルターへの避難を意味しない。もっと長距離へのものだ。ステージⅤ召喚という最悪の事態が成ってしまった場合の備えとして用意されていた最後の手段、政府高官を大阪エリアへと移送する為の、護衛の戦闘機を付けた特別便。国家元首の専用飛行機への搭乗を促すものだった。

 

 だが、聖天子はゆっくりと頭を振る。

 

「その必要はありません」

 

「聖天子様!!」

 

 菊之丞の語気が強くなった。統治するエリアを見捨て、守るべき民をも見捨て、自分だけ助かる事など出来ないと言うのだろうか。その気持ちは高潔であり、美しいものだと思う。だが、時として一人の命は百の臣よりも、万の民よりも重い事とてある。たとえ自分もこの東京エリアの民も皆死んでも、聖天子だけは生き延びねばならないのだ。それが、統治者としての義務でもある。

 

 だが、聖天子が腰を浮かさないのはそうした使命感からだけではなかった。

 

「まだ、希望はあります」

 

「天の梯子は……」

 

 ガストレア大戦末期に開発され、ステージⅤ撃滅を目的として作られた超電磁砲。一度の試運転もされていないので実際の威力については計り知れないが、カタログスペックについては菊之丞も承知している。確かにあれが想定されている通りの威力を発揮出来れば、ゾディアックと言えど撃破できる可能性はある。実際に今、その可能性に懸けて木更をなし崩し的に作戦責任者として、彼女の指示を受けた蓮太郎・延珠ペアが現地へと向かっている。

 

『だが……間に合うまい』

 

 彼等が天の梯子へ辿り着き、そしてレールガンの発射準備が整うまでに、スコーピオンは東京エリアに到達してしまい、大絶滅は起きる。

 

 加えて、ガストレアは音にとても敏感だ。下手なビルより巨大なモジュールが稼働する際の轟音たるやどれほどのものか。それはまるで暗闇の中のライト、絶好の標的だ。誘蛾灯のように、ガストレアを呼び寄せてしまう。そうなれば蓮太郎も延珠も殺されて、天の梯子も破壊されて全てが終わる。

 

 事態は既に詰んでいる。

 

「もう……このエリアを守れる者は、居りませぬ」

 

「いいえ」

 

 きっぱりと、聖天子は言い放った。同時に、机に置かれていた彼女のスマートフォンが着信音を鳴らす。画面に表示されたのは知らない番号だったが……だが、誰からの電話か、彼女には分かっていた。このタイミングで掛けてくる者など、一人しか居ない。

 

 このエリアを守れる者の一人。残された希望の欠片の一つ。

 

「綾耶ですね」

 

<はい、聖天子様。やっと連絡が取れました>

 

 

 

 

 

 

 

<綾耶ですね>

 

「はい、聖天子様。やっと連絡が取れました」

 

 綾耶が手にしているのはルインから奪い取ったスマートフォンだ。彼女自身の物は未だ通信妨害が掛けられていて使用不能なので、使わせてもらう事にした。

 

<今、どこに居ますか?>

 

「東京湾です。目の前に、スコーピオンが見えてます」

 

 仕留めた海棲ガストレアの死体を足場にしながら、綾耶は海上の山とも形容すべき巨体を見上げる。

 

 四百メートル近い全体には様々な種の特徴がそこかしこに現れていて混沌としている。それはまるで悪性の腫瘍か疱瘡にかかったように凸凹で、一目見ただけで生理的嫌悪をもよおす。その中で一際目立つのは全身を突き破って伸びている8本の逆棘の生えた異形の物体だ。天蠍宮(スコーピオン)のコードネームは、これに由来するものだった。

 

 最早地上のどんな生物にも共通点を見出す事が出来ない。ガストレアという種の頂点の一つ、人類に滅亡をもたらす悪夢。悪魔、怪物、魔物。こうしたワードがこれほどぴったり当て嵌まる存在など他にはあるまい。

 

「……!」

 

 綾耶は微妙な違和感に気付いて、左手を見た。彼女のその手は、震えていた。これは生物としての根源的な恐怖だ。およそあらゆる生き物は死を恐れ、死から遠ざかろうとするよう、生まれながら創られている。怖い。素直にそう思う。

 

 だがそれでも、ここで背を見せて逃げる訳には行かない。そうするぐらいなら、そもそもここへ来はしなかった。為すべき事を為しに来たのだ。イニシエーターとして、戦う為に。

 

「聖天子様、ご命令を」

 

 電話の向こうにいる自分の主が僅かに息を呑んだ気配がした。

 

<……綾耶、詳細は省きますが現在スコーピオンを倒す為の兵器が発射態勢を整えつつあります。あなたは準備が整うまで、スコーピオンの足止めをお願いします>

 

 一拍だけ置いて、凛とした声が返ってくる。

 

「了解しました」

 

<それと、もう一つ>

 

「はい」

 

<……あなたのロザリオは、ちゃんと預かっています>

 

「……はい!!」

 

 その言葉の意味する所を悟って、綾耶は会心の笑みを見せて通話を切った。預かっているという言葉。つまり、取りに戻ってこいという事だ。必ず、生き延びて。

 

 命に替えてこのエリアを守れと、そう言われると思っていたが……それより何より、ずっとずっと励みになる言葉だった。

 

 至難ではあるが……だが今まで、綾耶は一度たりとて聖天子に背いた事はない。それが彼女の誇りだ。だから、今回も背かない。死ぬ訳には行かない。

 

 それに生き残る目は、僅かながらある。

 

 相手は世界を滅ぼしたガストレア。純粋な戦力では綾耶とは天地の隔たりがある。五分の条件で戦ったのでは、彼女には万に一つの勝ち目どころか生き残る可能性すら絶無であろう。だが、地の利は綾耶にあった。森林地帯で夏世と共にガストレア群と戦った際、最終的には血の濁流でステージⅣ数体を纏めて葬り去った時のように、周囲に大量の液体があれば、彼女は本来の実力を大きく上回る戦闘力を発揮出来る。そしてここは海、周囲には武器となる水が無尽蔵に存在する。絶望には、まだ早い。

 

 ただそれでも、このガストレアを倒す事は絶対に不可能だろう。時間稼ぎもどれほど出来るか。

 

 それまでに、聖天子様が言っていた兵器の準備が整ってスコーピオンが倒せるかどうか。それが、勝負の鍵だった。

 

「頼むよ、延珠ちゃん、蓮太郎さん……僕を無駄死にさせないでね」

 

 

 

 

 

 

 

 蓮太郎、延珠、綾耶と影胤、小比奈、ルインの2組6人が激戦を繰り広げた海岸も、今は十分前の喧噪から打って変わって静かなものだった。

 

「パパァ……パパァ……」

 

 がっくりと膝を落としてぶつぶつ呟いている小比奈と、胸にバラニウム刀の切っ先を突き立てられてうずくまったまま、血溜まりの中でぴくりとも動かないルインの二人が居るだけだ。

 

「随分、手酷くやられたものね。あなた達程の者が」

 

 不意に、そこに声が掛かる。小比奈は「ふぇ?」と声のした方に顔を向けて、ルインは血塗れになった顔をゆっくりと上げる。

 

 立っていたのは、くたびれたスーツを着込んだ中年女性。外周区の教会で松崎老人と共に呪われた子供たちの為の学校を開いている琉生(るい)という女だった。

 

「七番……」

 

 小比奈がそう呟いた時、琉生の体に異変があった。着衣も含む彼女の全身がまるで石を投げ入れられた湖面のように波打って、形を変えていく。肩ぐらいだった白髪交じりの髪は雪のように真っ白く、腰にまで伸びて、肌からは年相応のシミやシワが消えてハリのある瑞々しいものへと時を遡ったように変化する。着衣すら、シワが寄ってくたびれたスーツから白い衣へと変わった。

 

 数秒して変化が終わった時、立っていたのは琉生ではなく、ルインと瓜二つの美女だった。着衣に付いた血の汚れや落とされた右腕を除けばそこに姿見が置いてあるかと錯覚するだろう。一卵性の双子であってもこれほど似ているかどうか。

 

 これは“ルイン”達が持つ力の一つだった。ガストレアウィルスは感染者の体内浸食率が50パーセントを超えると形象崩壊というプロセスを経て、人の姿を保てなくなり感染源と同じモデルのガストレア化する。だがウィルスへの適合因子を持つ“ルイン”達はこの形象崩壊をコントロールする事が出来た。そして彼女達の中にあるウィルスは感染源を持たないモデル・ブランク。通常、形象崩壊は感染源と同一のモデルにしか変化出来ないが、“ルイン”達の中にあるガストレアウィルスは動物因子という方向性を持たないが故に、何にでも変われる。彼女達は姿形は勿論の事、身長・体重はおろか声や指紋、目の虹彩に至るまで自在に変身する事が可能だった。

 

「動かないでね」

 

 もう一人のルインは傷付いた方のルインへと近付くと、突き刺さっていた小太刀の先端を引き抜く。

 

「ごほっ……」

 

 ルイン・フェクダは再び盛大に吐血したが、しかし同時にガストレアウィルスの再生能力を阻害するバラニウムが体から取り去られた事で胸の傷も穏やかなスピードながら治癒を始める。

 

「来てくれたのね、助かったわ」

 

「はい、これ」

 

 無傷の方のルインは落ちていた右腕を拾うと、傷付いている方のルインへと渡す。片腕のルインが腕と胴体の傷口の断面をくっつけて十秒ばかりが経過すると、切断された傷はビデオの逆再生のようにじわじわと接合した。右手の指を一本一本動かしてみる。感覚通りに動くのを確かめると、ルイン・フェクダは「うん」と頷く。

 

「七番(ベネトナーシュ)……あなたの教え子と話をして、戦ったわ」

 

「綾耶と?」

 

 もう一人のルイン、ルイン・ベネトナーシュは予想半分意外半分という顔を見せた。

 

「あなたに、色々と教えられたと言っていたわ。良い先生が出来てるみたいね?」

 

 ルイン・フェクダはそう言いながら変身能力を発動させ、戦う前の汚れのない衣装を纏った姿へと移行する。彼女はそうする間にもぐっぱぐっぱと拳の開閉を繰り返して、くっついた右腕の感覚を確かめていた。

 

「私の教えなどちょっぴりだけよ。強さも優しさも、綾耶は出会った時から持っていたわ」

 

「ふぅん……?」

 

「で、どうするの? これから……」

 

「スコーピオンが来た時点で、私達の計画は完了……当初の予定通り、後はこのエリアの人達に任せるわ」

 

 と、三番(フェクダ)。七番(ベネトナーシュ)も頷く。

 

 ルイン達の目的はエリアの征服でもなければ住民の虐殺でもない。彼女達の目的は人類の進化を促す事。その為にガストレアという”脅威”を存在させ続けようとしている。

 

 フェクダの言葉通り今回の作戦はスコーピオンの召喚が成った時点で、その後の結果がどうあれ成功している。

 

 もし東京エリアが滅ぶのならば、ステージⅤの脅威を再び世に知らしめて、十年前の大戦の恐怖を世界中に思い出させる事が出来る。

 

 もし大絶滅を免れようとするのなら、人間だとか呪われた子供たちだとか、そうした垣根を超えて皆が一丸となって戦わねば不可能だろう。それはこのエリアの人がより良い存在になったという証明だ。

 

 どちらに転んでもルイン達にとっては目論見通りだった。

 

「じゃあ、私は影胤を回収してくるわ。海に落ちたのよね? フェクダ、あなたは……」

 

「私は一番(ドゥベ)に連絡を取るわ。それでどう動くかは、あいつ次第だけど……」

 

 フェクダは右腕を使う事を避け、慣れない左手で懐をまさぐってスマートフォンが無い事に気付いた。綾耶に奪われたのだ。

 

「ごめんベネトナーシュ、スマホ貸してくれる?」

 

 

 

 

 

 

 

「くっ、弾切れ……!!」

 

 毒突きながら、千寿夏世は撃ち尽くしたフルオートショットガンを棍棒のように使って、飛び掛かってきたガストレアを吹っ飛ばした。

 

 市街地でルイン一味と民警達との戦いが始まって、加勢に駆け付けた蓮太郎と延珠を見送り、自身は押し寄せるガストレア群の足止めに残った彼女だったが限界は近い。トラップとして使える地雷や手榴弾はとうの昔に底を尽き、残った武器は拳銃とサバイバルナイフ一本。

 

 襲ってきたガストレア達も大分数を減らしてはいるが、夏世のモデルはドルフィン。知能指数と記憶力に長けている事が長所であり本来戦闘には向いておらず、呪われた子供たちに共通する再生力も平均値と比較して高いとは言えない。彼女の服はあちこちがガストレアの爪や牙で引き裂かれていて、露わになった肌に刻まれた傷はまだ治りきっていないものが多い。

 

 ガストレアは未だ十体以上も残っている。バラニウム製の武器を持っているとは言え、拳銃やナイフでは心許ないと言わざるを得ない。

 

 蓮太郎には別れ際、劣勢になったら逃げると言った。その通りにしたいのは山々だが……

 

「……」

 

 彼方を見やる。軋むような金属音と共に、天の梯子が動き出している。あれが使われるような事態という事は……恐らくステージⅤが現れたのだ。ここで自分が逃げたらガストレア達は音に群がってあのレールガンにまで到達し、破壊してしまうだろう。そうなったら何もかもが終わる。蓮太郎も延珠も、東京エリアも。

 

「……っ!!」

 

 一瞬、薪を囲んで語り合った民警の少年の顔が浮かんで、夏世の中から逃げるという選択肢が消失する。

 

 自分のプロモーターがこれを見たらどう思うだろう。他人の為に命を張るなど愚かだと笑うだろうか。それすらせずにただ失望を露わにするだろうか。確かに、合理的な思考だとは夏世も思わない。だがそれでも。それでも、彼女をここに踏み留まらせるものがあった。

 

 今度は蓮太郎達と会う前に森の中で出会った綾耶の顔が浮かんだ。

 

『すいませんね、綾耶さん……あなたに助けてもらった命ですけど……ここで捨てる事になるかも知れません』

 

 考えつつも、訓練によって体に染み付けた動作で一番近いガストレアの頭部へ拳銃の照準を合わせて、引き金を引く。一発、二発、三発目の銃声が鳴り響く筈だったその時、

 

 がちん。

 

 乾いた金属音。撃った後の薬莢が排莢口とスライドに挟まれて詰まってしまっていた。

 

『ジャムった……!? こんな時に……!!』

 

 整備はきちんとしていたのに、よりにもよって今。運にも見放されたか。

 

 二発の銃弾を浴びたガストレアは、痛みの報いを夏世に受けさせるべく彼女など容易く一呑みに出来るだろう大口を開き、飛び掛かってくる。ナイフへの持ち替えは間に合わない。スライド操作をして薬莢を排出している時間も無い。

 

「くぅっ……!!」

 

 襲ってくる痛みを覚悟して、体を硬直させる。だが訓練によって目を閉じる事はしなかった。

 

 そして襲ってきたガストレアの体に十字の傷が走って、四つに斬れた。夏世は数時間前にも、同じ経験をしていた。

 

「綾耶さん……?」

 

「違う、間違えないで」

 

 四分の一になったガストレアの体が地面に落ちて、その向こう側にいた者の姿がはっきり分かるようになる。そこに居たのは二人。一人は夏世のプロモーターである伊熊将監をスケールアップしたような筋骨隆々の男、序列30位のプロモーター・一色枢。もう一人は彼のイニシエーター・エックスだった。

 

「よう、まだ生きてるな」

 

 戦いの只中だと言うのに、気さくな様子で枢が声を掛ける。

 

「鉤爪(クロウ)……」

 

 呆然と、夏世はこのペアに与えられた異名を呟いた。

 

「オウよ。俺達も随分と遠い所に下ろされたモンで、連絡を受けて急いできた訳だが……どーにも、面倒臭ぇ事になってるみたいだな?」

 

 枢が、未だ響き続けている轟音の発生源へと目をやる。天の梯子は、発射可能な状態になるまでには今しばらくの時間が必要に思えた。

 

「良くは分かんねぇが……兎に角あのレールガンが発射されるまで時間を稼げば良いんだな? ンで、その為にはこのガストレア共を全滅させねばならない……って事で良いか?」

 

 確認してくる枢に、夏世は頷く。

 

「OKだ、エックス……やれ」

 

「了解、マスター」

 

 エックスはプロモーターの指示に頷いて返すと、イヤホンを耳に付けてスマートフォンの音楽再生機能をオンにする。そこから流れる曲は「AMBIENCE」というバンドの「RISING」だ。彼女はこの曲が一番のお気に入りだった。

 

 ぐっ、と両手で握り拳を作る。

 

 すると彼女の指の付け根の関節部分から皮膚を突き破って、黒い金属製の鉤爪が伸びてきた。数は左右共に各3本、長さは20センチ強。その漆黒の輝きは、紛れもなくバラニウムのそれだった。

 

「バラニウムの、爪……」

 

 夏世はすぐに理解した。あの爪こそが「鉤爪(クロウ)」の異名の由来。

 

 エックスは一瞬だけまるでカエルのように思い切り地面に伏せると、押さえ付けられていたバネが跳ね上がるような勢いで跳躍して、ガストレアに襲い掛かった。勢いのまま、両手の爪を振るう。ガストレアの中には甲虫や亀のような装甲を持った個体もいたが、彼女の爪はプリンを掬うスプーンのように一切の抵抗無くその体を切り裂いてしまう。

 

 あっという間に、周囲にはバラバラになったガストレアの肉片が撒き散らされ、樹木の葉が噴き出す血で真っ赤に染まる。

 

「えっと、一色枢さん……エックスさんは、一体……」

 

 どうやっているのかは分からないが、エックスの体の中にはバラニウムの爪が埋め込まれている。だが有り得ない事だ。イニシエーターが如何に高い再生力を持つとは言え、それはあくまで体内のガストレアウィルスがもたらすもの。故にガストレアの再生を阻害するバラニウムの前には、普通の子供と同じ脆弱さを晒す。あんなものを体の中に埋め込んでいるなんて、ナイフを呑み込んでいるようなものだ。

 

 どうやって?

 

「エックスは、ある研究所で育った実験体でな。モデルはウルヴァリン、クズリの因子を持つ呪われた子供たちだ」

 

「クズリ……」

 

 小型ながら凶暴な肉食獣。成る程、そんな非常に戦闘向きの動物因子を持つのなら、たった今ガストレア相手に見せている八面六臂の戦い振りも頷ける。だが体内にバラニウムを埋め込んでいて平気なのはどういう訳か?

 

「その研究所ではバラニウムに耐性を持ったガストレアの研究をしていてな。その成果をフィードバックしたイニシエーターが、エックスだって訳」

 

「バラニウムに耐性を持ったガストレアとイニシエーター……」

 

 信じられないと、夏世が呟く。そしてこんな事をべらべら喋って良いのかと今更ながらに思うが、すぐに悟った。序列30位の枢・エックスのペアは千番台の自分を比して遥か雲上人。話しても誰も信じないだろうし、よしんば信じたとしても彼等は東京エリア最高の序列保持者でありエリア防衛の要。機嫌を損ねて他エリアに移られたりしたら東京エリアにとって大きな損失である。迂闊な真似は出来ないと踏んでいるのだ。

 

「ンで、俺の仲間からのタレコミでその研究所のデータを知って、実験をブッ潰して助けたのがエックスって訳」

 

 エックスという名前は本名ではない。多く居た実験体達の中で、生きていたのは彼女一人。彼女はちょうど十番目の被験体だった。十番目、№Ⅹ。故に、エックス。彼女は獲得したバラニウムへの耐性を証明する為に、全身の骨格に超バラニウムが接合されていた。両手の爪も、本来はウィルスによる突然変異で骨の爪が生えてくるだけだったのが、超バラニウムによってコーティングされ、現在の鉤爪へと形を変えられていた。

 

『まぁ、そのたった一人の生き残りも、もう少し私達の襲撃が遅かったら薬漬けと条件付けで、抗バラニウムガストレア同様、五翔会による世界支配の尖兵にされてた所だった訳だけど……五枚羽根として潜入している二番(メラク)の情報様々ね……』

 

 一色枢ことルイン・ドゥベが心中で呟く。その後、ルイン達はエックスを保護下に置くつもりであったが当人の希望もあって彼女に訓練を施し、プロモーターとして表の顔を持つドゥベのイニシエーターとして働いてもらっているという訳だ。

 

 と、スマートフォンが鳴った。

 

「もしもし? 七番(ベネトナーシュ)? あぁ、お前か? 三番(フェクダ)?」

 

 近くには夏世が居る事もあって、枢は最後だけは小声で話した。

 

<一番(ドゥベ)、状況は把握してる? スコーピオンの召喚は成功したわ>

 

「あぁ、そうか。じゃあ……」

 

<ええ、作戦は成功よ……私はちょっと負傷してしまったから七番(ベネトナーシュ)と一緒に、影胤と小比奈ちゃんを拾って離脱するつもりだけど……あなたはどうする?>

 

「俺は……」

 

 目だけを動かして、すぐ傍らの夏世を見る枢。

 

「俺は、イニシエーターを一人保護したからよ。ここら一帯のガストレアを排除して帰るよ」

 

 電話の向こう側にいるルイン・フェクダが少しの間だけ沈黙する。人間達にあまり力を貸すのは自分達の目的に反するが……だが、彼女達にとって呪われた子供たちは未来そのもの。敵とならない限りはその保護もまた重要な役目と言える。だからベネトナーシュは教師をしている訳だし。しばらくして「分かったわ」の一言があって、通話が切れた。

 

 一色枢に扮するルイン・ドゥベはエックスが斬り残し、自分に向かってきたガストレアの頭を掴むと、そのまま力任せに引き千切って捨ててしまった。その超人的な所行に、夏世はあんぐりと口を空ける。一方の手でガストレアの胴体を固定していたのならば兎も角、頭だけ掴んで引き千切るなど、どれほどの筋力と瞬発力があればこんな真似が出来るのか。イニシエーターであろうと同じ真似が出来る者がどれほど居るか。

 

「あー、お前さん、千寿夏世……だったっけ?」

 

「あ……はい」

 

「折角ここまで頑張ったんだ。どうせなら、最後まで生き残ろうや」

 

 言いつつ、枢は今度はガストレアの頭を握力で握り潰す。夏世はその言葉を受けて強く頷くと、排莢した拳銃を構え直した。

 

「枢さん、エックスさん、援護します!!」

 

 

 

 

 

 

 

 東京湾では、スコーピオンの進行速度に変化があった。

 

 綾耶は最初から、スコーピオンを倒そうとは考えていなかった。如何に水場の地の利があろうと、元々の戦力が違いすぎるのだ。残念ながら自分がこのステージⅤをやっつける事は絶対に不可能。逆に倒そうと欲を出せば墓穴を掘る結果になるだろう。故に時間を稼ぐ、これ一つに専心していた。

 

「うっ……ぐっ……」

 

 綾耶が呻く。

 

 彼女は両腕に海水を吸い上げて圧力を掛けて放出、暴徒鎮圧の際に用いられる放水砲のようにして撃ち出し、スコーピオンへとぶつけていた。並みのステージⅣであれば粉々にしてしまう程の水圧が掛けられたまさに鉄砲水と言える攻撃だが、それを以てしてもミサイルですら僅かなダメージにしかならないスコーピオンの強靱な外殻には傷一つ付けられない。

 

 だが、ダメージにはならなくとも水流がぶつかってきたエネルギーは確実にガストレアの巨体に作用していた。少しだけ、異形の巨人の歩みが遅くなる。

 

 単身で、ステージⅤガストレアを足止めする。いくら自分の能力が最大に発揮出来る環境に在るとは言え、それが出来る時点で綾耶が極めて強力なイニシエーターである事を疑う余地はない。

 

 しかし、それでも進行速度を遅らせる事が精一杯。スコーピオンは依然として真っ直ぐに、東京エリアへと動いている。しかも、このステージⅤは未だ綾耶の事を気にも留めていないようだった。ただちょっと、向かい風が吹いている程度の認識しかない。

 

 ぎりっ、と、噛み締めた歯が軋る。

 

「聖天子様のイニシエーターを……嘗めるなぁぁぁぁっ!!!!」

 

 咆哮。綾耶の両腕から放出される水圧が更に強力となり、小規模な濁流の激突は遂に、一歩だけだがスコーピオンを後ずらせる事に成功した。

 

 この様子を見ていたJNSC会議室や、スコーピオン周囲に展開していた護衛艦隊の艦橋で「おおっ」と声が上がった。

 

 確かにこれは一つの成果ではあったが……しかし、逆に良くなかった。たった一歩分ながら目的地から遠ざけられたスコーピオンはこの時初めて、眼前の小さな少女を“敵”とは認めぬまでも“障害”としては認識したらしい。全身から生えている触手が、一斉に綾耶へと向かってくる。

 

「くっ!!」

 

 跳躍して逃れる綾耶。彼女が足場としていた水棲ガストレアの死体は、一瞬でズタズタに引き裂かれた。しかしスコーピオンの攻撃はそれで終わりではなく、触手は獲物を絡め取る網のように退路を塞ぐ軌道で伸びてきた。しかしスコーピオンにとっても、綾耶が自在に空中を飛び回る能力を持っている事は予想外であったらしい。着地点を捕らえようと蠢いていた触手は、空中移動によって回避された。

 

 だが、奇策が通用するのは一度。

 

 今度は空を飛んでも逃げられないよう、あらゆる角度を封鎖する形で網どころか壁と錯覚する程の質量が綾耶に迫る。

 

「まずっ……!!」

 

 空中では水を武器として使えないし、空圧カッター程度の威力ではスコーピオンには通用しない。逃げ場も、かわす隙間も無い。

 

 一瞬、脳裏をよぎる「死」の一文字。

 

 しかし次の瞬間、スコーピオンの頭部付近で爆発が起こり、触手の動きが少しの間だけ止まる。綾耶はこの隙を逃さず、一時安全圏へと離脱した。

 

「一体……」

 

 何が起こったのかはすぐに分かった。

 

 展開していた護衛艦隊が、ありったけの火力をスコーピオンに叩き込んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 東京湾に展開している第二護衛艦隊の司令である白根一佐は、呪われた子供たちの差別主義者として有名だった。

 

 それも当然だ。彼は奪われた世代であり、十年前のガストレア大戦では妻子を失っている。国土を蹂躙し、家族を殺したガストレアを、その因子を持った呪われた子供たちを憎む事は人間としてとても自然な感情だと言える。

 

 民警システムについては、ガストレアとガストレア予備軍を潰し合わせる体の良いゴミ処理システムだと考えていた。ガストレアも呪われた子供たちも、最後にはどちらも消えて無くなれば良いと、心からそう思っていた。

 

 だが、だとするのならば今、自分の中に生まれているこの感情は何なのか。

 

 彼は当惑していた。

 

 たった一人で、自分の何十倍も何百倍も巨大な怪物へと立ち向かう綾耶の姿を見て、自分は何を想っているのか。

 

『この俺が、感動しているだと? あの赤目のガキに?』

 

 違うと、叫びたかった。そんな事は有り得ないと。

 

 彼はある一つの命令を下したくなった。だが、一度思い留まる。何故自分がそんな事を命令せねばならぬのかと。

 

 自問して、そして唐突に理解した。

 

 仇である以前に、あの将城綾耶は、聖天子様のイニシエーターは、今まさに東京エリアに生きる全ての者の命を守る為に戦っている。

 

 自分の中にある感動は、人間とか呪われた子供たちとか、そんなちっぽけな線引きを遥か越えた所にあるもの。同じ戦場に立って、命を預け合う者同士が抱く親近感や連帯感に近いもの。何かを守る為に命を懸けているその姿への、人間の原始的な感動であると分かった。

 

 そこまで理解して、

 

「バカが」

 

 そう、自嘲するように呟いた。

 

 彼は、今の今まで大切な事を忘れていた。

 

 自分は自衛官だ。その役目が何なのか。それはこの国と、国民を守る為ではなかったのか。たとえ呪われた子供たちであろうと、たった9歳の将城綾耶が同じ想いで、同じ目的の為にその命を賭している。その姿が、憎しみに曇っていた目を開かせてくれた。

 

「ありがとうな」

 

 ひとりごちる。聖天子様が呪われた子供たちを飼うと言い出した時には、年若い国家元首の酔狂だと鼻で笑ったものだが……それはきっと正しい判断だったのだと、今はそう思った。

 

「護衛艦隊全艦に通達!!」

 

 白根一佐が、命令を下す。

 

「火力をスコーピオンの頭部に集中し、将城綾耶を援護せよ!!」

 

 

 

 

 

 

 

「……これは……」

 

 天の梯子の内部、レールガンモジュールのコントロールルームの中で、延珠ははっと振り返った。

 

 聞こえる。

 

 何十万もの人々の鼓動。未来を創る為に、命を懸けているその血の迸る音が。

 

 生きようと、そう願う声が。

 

 東京エリア全体が叫んでいるようだ。

 

「蓮太郎!!」

 

 興奮気味に、発射の為のスティックを握るパートナーを振り返る。先程までは磁場の影響で遠隔操作を受け付けず、手動で狙いを付けて発射せねばならないそのプレッシャーに、蓮太郎は見ていて哀れになるほどに追い詰められていた。

 

 元々このレールガンには発射する“弾”が装填されておらず、蓮太郎の義手を即席の弾丸としてやっと一発が撃てるようになっただけだった。外したら、終わり。

 

 生き残ったスコーピオンはモノリスを破壊して、東京エリアに大絶滅を引き起こす。それ以前に弾丸が東京エリアに逸れでもすれば亜光速にまで加速された弾体だ。都市部にどれほどの被害が出るか。付け加えていくらターゲットが巨体とは言え、50キロメートルも離れている上に、使うの一度の試射もされずに十年もメンテナンス一つされず放置されていたオンボロの兵器。

 

 狙って当てろという方が無茶な注文だ。彼の動揺を、怯えを、誰が責められようか。

 

 だけど、今は落ち着いていた。自分でも不思議なほどに。

 

 延珠と同じものを、今の蓮太郎は感じていた。

 

 今、未踏査領域で戦っているイニシエーターやプロモーターを、スコーピオンを足止めしている綾耶や自衛官達を、東京エリアを、距離も五感も超えて感じている。

 

 ぐっ、とトリガーを握る手に力が入った。延珠の小さな手が、そこに重ねられる。

 

「延珠」

 

「蓮太郎」

 

 プロモーターとイニシエーターは頷き合って、そしてトリガーを引いた。必ず当たる。自信を超えた確信が二人の中には在った。

 

 瞬間、極彩色の光を帯びて超バラニウムの弾丸が飛び……ほぼ同時に夜が明けて、陽の光がエリアを包み込んだ。

 

 掴み取った未来を、祝福するかのように。

 



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第12話 神を超えた者達

 

 聖居の一角に存在する式典用のホールは、中央に伸びた大理石の階段に紅いカーペットが敷かれていて、左右には殆ど名前も知らないがいずれ各界の名士なのだろう着飾った連中がずらりと並んでいる。

 

 そんな空間に自分が居る事の場違い感に、礼服姿の蓮太郎は居心地悪そうに体を動かした。

 

 将城綾耶追撃・七星の遺産奪還作戦から数日が経過していた。

 

 残念ながら「七星の遺産」それ自体は何者か(恐らくはルイン達の仲間)によって持ち去られてしまっていたが、アレを使って喚び出す事が出来るステージⅤはスコーピオンのみであり、そのスコーピオンが撃破されているのだ。最善とは言えないが、次善の結果であるとは考えて良いだろう。

 

 そして今日は、スコーピオン撃破の功労者であり東京エリアの救世主となった蓮太郎の叙勲式であった。

 

 ゾディアックの撃破はこれで4体目だ。

 

 『金牛宮』(タウラス)は現在序列1位、世界最強のイニシエーターが撃破。

 

 『処女宮』(ヴァルゴ)は現在序列2位のドイツのイニシエーターが撃破。

 

 『天秤宮』(リブラ)は当時序列11位のアメリカのイニシエーターが相打ちで撃破。

 

 そして今回『天蠍宮』(スコーピオン)を蓮太郎が倒した。如何に天の梯子という強力な兵器を用いたとは言え、これは奇跡と言って差し支えない成果だ。東京エリアでトップクラスの人間達が集められるのも頷ける。

 

「里見さん、よく来られましたね」

 

 静かだが良く通る声が響いて、出席者達のざわめきがぴたりと止む。階段の上では、これまで玉座に腰掛けていた聖天子が立ち上がっていた。

 

 若き国家元首は微笑と共にゆっくりと階段を下りてきて、やがて蓮太郎と同じ高さに立った。

 

「お元気そうで何よりです」

 

「は、はい。おかげさまで」

 

 ここに来るまでに木更から何度も対応をシミュレーションさせられていたが、初めて実物の聖天子を前にするとやはり声が上擦ってしまっているのを、蓮太郎は自覚した。

 

「あの日、あなたのような有為の人材があの場にいてくれた事を、私は誇りに思います。里見蓮太郎、あなたはこれからも此処、東京エリアの為に尽力して下さいますね?」

 

 問いを受け、蓮太郎は古い時代の騎士のように膝を折り、忠誠を示す姿勢を取った。

 

「はい、この命に替えましても」

 

 聖天子は頷くと、さっと手を振って一同を見渡す。絶妙な間の取り方であった。

 

「里見さん。私とIISOは協議の結果、ゾディアックの一角たるスコーピオン並びに元序列134位の蛭子影胤・蛭子小比奈ペアの撃破を特一級戦果と認定し、里見・藍原ペアの序列1000位への昇格を決定しました」

 

 ホールが、どっと歓声に包まれる。

 

「里見蓮太郎、あなたはこの決定を受けますか?」

 

「はい、喜んで」

 

 聖天子が序列1000番を示すライセンスを差し出して、まだ義手が修復出来ていない蓮太郎が左手だけでおっかなびっくりそれを受け取ると、それを合図としてホールが万雷の拍手に包まれた。

 

 本来ならばこれで叙勲式は終わりの予定だったが……聖天子が咳払いを一つすると何か言い出そうとする雰囲気を察してか徐々に拍手が小さくなっていき、やがて完全に治まったのを見計らうと、彼女は再び口を開いた。

 

「そしてもう一人……本日この場を借りて、皆様方に紹介したい英雄がいます」

 

 そう言った聖天子がたった今降りてきた階段を振り返ると、その陰から綾耶が出て来た。最初からそこに控えていたのだろう。

 

 この晴れの席に呪われた子供たちが居るという事態に、場の明るさがいきなり三割は減ったように蓮太郎には思えた。

 

 式の出席者の中には序列30位の一色枢(流石に正装している)の姿も見えるが、東京エリア最高序列保持者である彼をして、パートナーであるエックスの同席は認められていない。これは奪われた世代が持つガストレアウィルス保菌者への潜在的な差別意識もあるだろうし、こうした場に子供を出席させられないという建前上の理由もあるだろう。

 

 特に、聖天子の補佐官であり東京エリア№2、実質的には最高権力者である天童菊之丞は呪われた子供たちの差別主義者として有名だ。いくら綾耶が聖天子直轄のイニシエーターという特殊な立場に在るとは言え、当初から彼女をこの場に同席させると聖天子が言い出していたのなら、菊之丞はあらゆる理由を挙げて、あらゆる手段を用いてそれを阻止しようとしたに違いない。

 

 逆に言うなら聖天子はそこまで承知の上で、だからこそ綾耶以外の他の誰にも秘密にして、彼女をこの席に参列させたのだ。この特例措置一つを鑑みても綾耶がどれほど聖天子の信頼を勝ち得ているか、推して知るべしであった。

 

「綾耶、あなたは今回、自ら反逆者の汚名を着てまでこのエリアを守ろうと尽力しました。あなたをイニシエーターと出来た事を、私は誇りに思っています」

 

 聖天子は傍らの秘書に目で合図すると、持たせていた勲章を手に取った。そうしてしゃがみ込んで綾耶と同じ目の高さになると、彼女の胸に勲章を付けてやる。

 

「これからも私と、東京エリアの為に力を貸してくれますか?」

 

「ぼ……私の命はイニシエーターにして下さった時から、聖天子様にお預けしております。如何様にも、お使い下さい」

 

 蓮太郎ほどではないにせよ固い声でそう答えると、彼と同じく膝を付いて主へと忠を示す綾耶。聖天子は頷くと、一同を見渡す。

 

 ここまでは蓮太郎の時と同じ流れだったが……そこからが違っていた。

 

 広いホールに、気まずいほどの沈黙が降りる。蓮太郎の時のような拍手も、喝采も起きない。

 

「……っ」

 

 蓮太郎は心中で「おいおい」とぼやいた。いくら呪われた子供である綾耶が気に食わないとは言え、ここは仮にも公の場だ。そうした感情を抜きにして拍手の一つでもするのが大人というものではあるまいか。

 

 ……とも、思うが実際にはこれは難しい所だ。ここで不用意に拍手を贈って綾耶を祝福でもしようものならそれはすぐに天童菊之丞の知る所となるだろう。この場の誰もが、彼に睨まれる事を恐れている。しかしこのまま何もしなければ、今度は聖天子の面子を潰した形になってしまう。

 

 偶然かさもなくば聖天子がそこまで計算していたのかは分からないが今やこの叙勲式は、盛大な踏み絵大会と化してしまっていた。鹿を見て、それを馬と答えるか鹿と答えるか。拍手するかしないか、支持するのは聖天子か天童菊之丞か。問われてしまっている。しかもこれは難問だ。拍手してもしなくても、自分にとって命取りになりかねない。

 

 政治家になるべく育てられた過去を持つ蓮太郎はそういった事情を全て読み取って、それでも自分一人ぐらいは拍手を送りたかったが孤掌は鳴らず。義手を喪失してしまっている今の彼には無理な相談だった。

 

 だが、その時だった。

 

 ぱちぱちと、乾いた音が鳴る。一点に集まった場の視線の先にいたのは、正装の上からでも容易に分かる鍛え抜かれた肉体を持った大男。枢であった。成る程民警である彼ならば、綾耶を祝福する事にも抵抗は少ないだろう。だが、枢に続く者は居ない。誰もが自分の隣の者と不安げに顔を見合わせるだけだ。

 

 と、不意にもう一つの拍手があらぬ方向から鳴る。そこに立っていたのは海上自衛隊第二護衛艦隊司令・白根一佐であった。彼はあの日スコーピオンと戦った自衛隊の代表としてこの場に招かれていた。しかしいくら艦隊司令官とは言え所詮は佐官、菊之丞の瞬き一つですげ替えられる首でしかない。彼はそれを全て承知の上で、それでも自分の頭で考えて両手を打ち鳴らしていた。

 

 そしてこれは切っ掛けにはなった。一人だけならば兎も角として、二人までもが拍手を始めたのだ。ここで間髪入れずに拍手すればもう誰が始めたのか分からず、聖天子に背くことなく尚かつ菊之丞からの追求を有耶無耶に出来る。赤信号も皆で渡れば怖くない。いくら天童を天童たらしめるあの老人とて、この場に集まったエリアトップクラスの人間全員を制裁する事は出来ない。そういった打算が働いて、一同は一斉に手を叩いた。

 

 こうして中々に生々しい内心が透けて見えるようで微妙な雰囲気の中、小雨のようではあったが一応の拍手がホールに響く。その中で聖天子は僅かな時間目を伏せて、そして自分のイニシエーターへと向き直った。

 

「綾耶、残念ながらあなたは正規のイニシエーターではないので序列の向上などはありませんが、今回の功績を鑑みて私から特別報酬を与える事は出来ます。試しに言ってみて下さい、あなたの望みは何ですか? 流石に何でもとは言いませんが、可能な限りそれを叶えられるよう尽力します」

 

「特別報酬……」

 

 綾耶は鸚鵡返しして、ほんの僅かだけの思考の後、頷いた。望むもの。それは、決まっている。

 

「僕……いえ、私の願い事は……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 同じ頃、叙勲式が行われているホールからやや離れた通路を、菊之丞は護衛も付けず一人歩いていた。如何に此処が聖居の中とは言え彼ほどの地位にある者が護衛の一人も付けずに不用心なと言われそうなものだが、老いたりとは言え彼は天童流を修めた身。下手なSP十人よりも彼一人の方が余程強力なセキュリティだと言えた。

 

 ふと、背後に人の気配を感じて振り返る。

 

「ぬっ……」

 

 老人の巌のような顔に、僅かな動揺が走った。

 

 柱の陰から姿を見せたのは誰あろう彼自身、天童菊之丞その人だったからだ。背丈、顔つき、背筋の伸び具合、床に落ちた影の形に至るまで寸分違わない。いきなりこの場に鏡が置かれたのかはたまたこれが噂に聞く生霊(ドッペルゲンガー)というものなのか。まさか生き別れの双子の弟が居たとでも言うのだろうか。

 

 無論、事実はそれらのどれとも違う。菊之丞はそれを知っていた。

 

「立場や権威って便利ね。どんなにセキュリティが厳重な場所でも、顔パスでOKなんだもの」

 

 そう、もう一人の菊之丞が話した。良く通る女の声で。

 

「猿芝居はその辺りで良かろう……ここへは社会見学に来た訳ではあるまい? 七星の亡霊ども……!!」

 

 男声の菊之丞のその言葉を合図に、女の声を発した菊之丞の全身がさざ波たって、身長は少しばかり縮んで肩幅も小さく変わる。顔に刻まれたシワが消えてたくわえていた髭も皮膚の中へと埋没してしまう。身に付けていた白袴は白いワンピースドレスとその上から羽織った白衣へと変化した。

 

 もう一人の菊之丞が変身したその姿は先日影胤・小比奈ペアを従えていた女、ルイン・フェクダと瓜二つの女性だった。姿形は勿論、科学者のような白衣を除けば着ている衣装も同じだ。

 

「一応聞いておくが……貴様は何番目だ?」

 

「七星の“番外(アルコル)”……私はルイン・アルコル。元デビルウィルス研究室長、と言った方があなた達には分かり易いかしら?」

 

「貴様が……!!」

 

 ルインがニヤリと笑い、彼女の全身が再び波打って、今度は影胤と同じ姿になった。

 

「今回、影胤を使った一連の騒ぎ……あなたの思い通りにならなくて残念だったわね?」

 

「何の事だ」

 

「別に隠す事はないでしょう? 今更、特に私達には」

 

 影胤に扮するルイン・アルコルはまるでオリジナルのように「ヒヒッ」と笑う。

 

「そもそもの目的はあなたの主が推し進めているガストレア新法……呪われた子供たちの基本的人権を尊重しようという内容の法案ね。あなたは何としてもそれの成立を阻止したかった。だから影胤と接触して、七星の遺産の奪取を依頼した。そしてその後、意図的にその情報をマスコミへとリークする……それが本来の筋書きね。エリアを滅ぼすようなテロに呪われた子供たちである小比奈ちゃんが関わっている事が分かれば、法案の成立を望む者など誰一人として居なくなるからね」

 

 だが、誤算があった。その一つがルイン達の存在だった。影胤が彼女達と組んでいる事など、菊之丞には全くの想定外だった。もしあらかじめ知っていたとしたら、彼はそもそもこんな計画を実行しなかっただろう。影胤だけならいざ知らず、ルイン達は劇薬として扱うには危険に過ぎる存在だった。

 

「私達にとっても七星の遺産は何としても手に入れたい物だったから、影胤からその情報を聞けた時は渡りに船だったわ。だから私達からは三番(フェクダ)が七星の遺産を横取りしようと動いていた」

 

 しかし封印指定物が保管されていたのがモノリスの結界の外側、未踏査領域だった事が原因でトラブルが発生した。何の事はない、菊之丞が七星の遺産を取りに行かせた部下の一人がケースを回収した帰り道にガストレアに襲われて体液を注入され、辛うじてモノリスの内側へと辿り着いたがそこでガストレア化してしまったのだ。影胤達が追い、外周区で綾耶が倒したモデル・スパイダーはその部下の成れの果てだ。

 

「そしてもう一つ……最大の誤算があの子……綾耶ちゃんね」

 

「……」

 

 ぎりっと、歯軋りする音が廊下に響いた。

 

「聖天子は独自にケースを回収する為に、綾耶ちゃんを動かしていた。それを知ったあなたは影胤に綾耶ちゃんからケースを奪うよう指示を出したけど、それが良くなかった。聖天子が直轄のイニシエーターへと下した命令の内容を知る者は限られているから、身内の中に裏切り者が居る事を悟った綾耶ちゃんはケースを回収した後、聖居に戻らず未踏査領域へと逃亡した。それを知ったあなたはこれ幸いと、今度は小比奈ちゃんの役を綾耶ちゃんへと変更して、マスコミにリークする計画に切り替えた。『身に余る厚遇を受けておきながら、その恩を仇で返した恥知らずの赤目』……って感じのシナリオでね」

 

 しかしその情報のリークもまた、聖天子が敷いた報道管制によって封じられた。菊之丞は最後の手段として影胤によるステージⅤの召喚をも容認した。十年の時を経て、世界にガストレア大戦の恐怖を思い出させる為に。ルイン達としてもステージⅤの召喚それ自体は自分達の目的と合致していたので、それに乗る事にしたのだ。

 

「でも、それすらもが失敗に終わった。まぁ、ガストレアの脅威を再び思い出させるという点については成功したと言えるかも知れないけど、ガストレア新法を潰すという目的の方は……寧ろ逆効果に終わったわね。たった一人でスコーピオンに立ち向かった綾耶ちゃんは、今やこのエリアを救った英雄の一人……今回の一件で、少ないながらも奪われた世代で彼女を認める人も、現れ始めているわ」

 

 叙勲式で百の批判も菊之丞の怒りも恐れずに綾耶を祝福した白根一佐などは、その典型と言えるだろう。

 

 燕尾服を着た道化師の姿が、再び白衣を着た美女に変わる。

 

「そんなに赤目が……呪われた子供たちが、憎い?」

 

 自分の双眸を紅く輝かせ、ルイン・アルコルが尋ねる。

 

「無論だ」

 

 あらゆる感情を押し殺した無表情で、菊之丞が返した。

 

「十年前のあの日、人という種がこの世界から駆逐されようとした。あの虫けらどもの血を引くガキどもが何食わぬ顔をして街を歩いているこの今を、どうして許せると言うのだ? 奴等もお前達も同じ、この世全てを滅ぼす悪魔だ。それに人権を与えるだと? 巫山戯るな!! あの戦争は、十年前に終わってなどいない。今この時も続いているのだ。我々かお前達赤目か、どちらかが滅び、どちらかが未来を掴み取るまでな」

 

「あなた達にそれを言う資格は無いわよ、人間」

 

 はん、と、ルインの一人は鼻を鳴らす。

 

「私達は最後まで反対していた筈よ? まだ『アルディ』は、次の段階に移るには早過ぎる。迂闊な実験などするべきじゃない。失敗は絶対に許されないから、とね。その忠告を無視してパンドラの箱を開いたのは、あなた達だという事を忘れたの? その結果が、今の世界じゃないの」

 

「……貴様は、それほどまでに我々が憎いか? ステージⅤを召喚し、大絶滅を起こそうとしたのは我々への復讐のつもりか? 自分達の研究は、人々を幸福に導く為だったのにと」

 

「いいえ」

 

 ルイン・アルコルは微笑を返した。

 

「今では私達全員、心の底からあなた達に感謝しているわ。今のこの世界は、地球を受け継ぐ新たな種……『星の後継者』が生まれる為の土壌としてはこの上無い環境だからね……あなた達人間の暴走が無ければ、この世界は生まれなかったのだから。私達のやり方では、何百年経とうが今の世界にはならなかったでしょうね」

 

「き、貴様……」

 

「まぁ、それでも……私達の紅い目を人間が恐れるのは自然な感情ね」

 

 くっくっと、アルコル、北斗七星の脇に存在する添え星のコードネームを持つルインの一人は喉を鳴らした。

 

「いつの時代もそうね。人間は自分達と違うもの、自分達が理解出来ないものを恐れて、憎む」

 

 彼方は此方と違う。あなたと私は違う。それはあらゆる争いの根底にあるものだ。

 

「でも、喜んでよ。もうすぐその必要も無くなるわ。少なくとも……呪われた子供たちを恐れ、憎む必要はもう無くなる……その意味が消滅すると言った方が正しいかしら……? 人間、あなたは未来を掴み取ると言ったけど……未来なら与えてあげるわ」

 

「……どういう意味だ?」

 

 ルイン・アルコルは再び喉を鳴らした。とても素敵な事が起こっていて、それを知っているのが自分だけだという愉悦を彼女は楽しんでいる。

 

「神様の仕事はあまりにも時間が掛かり過ぎる……とだけ言っておこうかしら」

 

 急激に眼前のルインの気配が薄くなるのを感じて、菊之丞は懐中の銃へと手を伸ばす。しかしその銃口を紅い目をした女性に向けるよりも、その女性が彼の前から消える方が早かった。ここで言う消えるとは立ち去ったという意味ではない。文字通り菊之丞の目の前で、ルインの姿が掻き消えたのだ。これはルイン達が持つ進化の能力によって獲得した力の一つなのだろう。皮膚の色素を変化させ、カメレオンのように景色に溶け込んだのだ。

 

 菊之丞は咄嗟に壁を背にして油断無く上下左右に目を配ったが、襲撃の気配は無い。

 

「未来……だと?」

 

 危険が去った事を悟った天童の長は大きく息を吐いて、呟く。ルイン・アルコルは確かにそう言った。だが言っていない事もあった。滅びと、死を司る七星を為す星々のコードネームを持った女達が導く未来の先に在るのは楽園なのか、それとも地獄なのか。ルイン・アルコル(番外)……八人目の七星は、語らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 叙勲式から数日の後、蓮太郎と木更、延珠の天童民間警備会社の全員、そこに綾耶を加えた4名は東京エリア39区を歩いていた。

 

 延珠の正体が呪われた子供たちであると露見した事で、通っていた勾田小学校からは退学せざるを得なくなった。となると転校先を探さねばだが、人の口に戸は立てられないとは良く言ったもので、蓮太郎は近隣の小学校を当たってみたが、どこも適当な理由を付けて入学を断られた。中には「親には自分の子供を赤目と同じ学校に通わせたいか、決める権利があるべきです」とまで言われた所もあった。

 

 外周区の学校に通わせるという案は木更が発案者だが、これを聞いた時に蓮太郎は最初は難色を示した。仮にも保護者である彼としては、延珠には出来るだけレベルの高い学校へ通って欲しいというのは偽らざる本音だった。

 

 しかし同時に無視出来ないものは、その学校が延珠にとって居心地の良い場所であるかどうかだ。一度蓮太郎は延珠に尋ねた事がある。学校は楽しいかと。相棒はすぐに答えた。最高だと。

 

 その時、自分に向けられた笑顔を見た時には保護者冥利に尽きる思いがしたものだったが……本当は、あの時も延珠は無理をしていたのではないかと今の蓮太郎には思えた。学校に通う為には、当然呪われた子供たちである事を隠さねばならない。それは友達に常に嘘を吐き続けているという事で、延珠の中には常にその負い目があったのではないかと。外周区の、呪われた子供たちの為の学校ならば少なくとも正体を隠す必要は無くなる。

 

 そう考えていた所に綾耶が訪ねてきて、事情を話すと彼女はすぐに自分の実家の教会を校舎兼寄宿舎として使っている東京エリア第39区第三小学校を紹介してきた。これまでは一連の事件の発端とも言えるモデル・スパイダーのガストレアがエリアに潜伏しているという情報から教師と生徒は下水道に避難していたが、ちょうど今日からは学校が再開される予定であった。

 

 紹介してきた綾耶が延珠の親友である事と、結局は何を置いても延珠の居心地が一番という結論に至って、蓮太郎は延珠の転校先をそこに決めたのだった。

 

「……って訳で菫先生からの検査結果によると、浸食率は延珠が28.5パーセント、綾耶が30.1パーセント。二人とも前回の検査時から少し上がってしまったから、能力の濫用は避けるようにとの事だ」

 

「うむ、肝に銘じよう」

 

「ステージⅤと戦ったんです。浸食率以前に命があっただけで儲けものですよ」

 

 兎と象のイニシエーターは、それぞれのコメントを蓮太郎に返しつつ談笑しながら学校への道を歩いていく。

 

「……それでさっきの話の続きですけど、正規のイニシエーターではない僕は聖天子様にお願いして、特別報酬を頂いたんです」

 

「あぁ、俺も聞いていたけど……結局、何を貰ったんだ?」

 

 蓮太郎のその問いに、綾耶はにっこりと笑って「その質問を待ってました!!」という顔になる。

 

「ふふふ……もうすぐ分かりますよ」

 

 そう言っている間に、教会が見えてきた。

 

「ほらっ」

 

 綾耶が指差して、その先を見た3人の中で延珠が真っ先に「おおっ」と息を呑んだ。

 

 屋根に開いていた穴は明らかに素人仕事ではない補修が施されていて、あちこち割れていた窓ガラスは、全て真新しい物へと変えられていた。明らかに最近、専門的な業者による修理が行われている。

 

 驚いているのは延珠だけではなかった。教会の正門では十数名の子供たちと、二人の大人が立ち尽くしていた。

 

「や、みんな」

 

 慣れた様子で手を振る綾耶に気付くと、子供たちはわっと群がってきた。

 

「お姉ちゃん、見て!! 学校が綺麗になってるよ!!」

 

「それに、こっちには新しい服も届けられてるのよ!!」

 

「聞いてよ、あややお姉ちゃん!! 今度の学校はシャワーが使えるんだよ!! 食堂にはテレビもあるの!!」

 

 綾耶が聖天子に望んだ報酬が何だったのか、もう問うまでもなかった。蓮太郎は木更と顔を見合わせて、笑い合った。

 

 と、教会の前に立っていた二人の大人が蓮太郎達に気付いて近付いてくる。松崎老人と、琉生だ。

 

「ご無沙汰しています、里見さん。その節はどうも」

 

「ど、どうも。こちらこそ……」

 

 この老人には先日、延珠共々世話になっていたので蓮太郎はぺこりと頭を下げる。

 

「で……今日は何の御用……って、聞くのも野暮かしらね。そちらの、延珠ちゃんの転校手続きかしら?」

 

 進み出てきた琉生が、蓮太郎のすぐ後ろに立つ延珠を見て言った。この女性の察しの良さに、説明の手間を省かれた蓮太郎は差し出された申し訳程度の入学書類に必要事項を記入していく。

 

「それにしても今日は色んな事がある日だね。教会がリフォームされていた事もあるが、転校生が一日に3人も来るなんて」

 

「3人?」

 

 松崎老人のその言葉に、木更が反応した。綾耶は元々ここの生徒で、通うとすれば復学する形となるので転校とは違う。

 

 つまり、後二人転校生が居るという事になるが……

 

「よぉ、兄ちゃん。こんな所で会うたぁ奇遇だな」

 

 聞き覚えのある野太い声に振り返ると、そこには今まで幾度か会った偉丈夫が、腰ぐらいの背丈の女の子と手を繋いで立っていた。序列30位「鉤爪(クロウ)」一色枢とエックスのペアだ。

 

「一色枢……なんであんたがここに……」

 

「いやぁ、俺もエックスをそろそろ学校に通わせてやろうと思ったんだが……俺達のペアは顔が知れすぎているから受け入れ先が中々見付からなくて……で、ここにって訳さ。書類は既に受理されているぜ」

 

「……よろしく」

 

 モデル・ウルヴァリンのイニシエーターは無表情で無愛想ながら礼儀正しく頭を下げる。彼女が3人の転校生の一人。

 

「じゃあ、後一人は……」

 

「またお会いできましたね、里見さん、延珠さん、そして……綾耶さん」

 

 またしても別の方向から、聞き覚えのある声がする。蓮太郎と延珠、それに綾耶がそろって見たそこに居たのは、あの日未踏査領域で出会ったイニシエーター。モデル・ドルフィン、千寿夏世だった。プロモーターである伊熊将監は先日の作戦の中で、ルイン達によって殺されている。通常、相方を失ったイニシエーターは身柄をIISO預かりとされるのだが……これもまた、綾耶が聖天子にねだった報酬の一つなのだろう。

 

「夏世、お主もこの学校へ?」

 

「はい、延珠さんにエックスさん、綾耶さん。これからよろしくお願いします」

 

 子供たちが親交を深めているのを横目で見ながら、琉生と枢、ルイン・ベネトナーシュとルイン・ドゥベは視線を交わす。交錯したその一瞬だけ、二人の両眼が紅く光り、そして誰も気付かないまま元の色へと戻った。

 

 瓦礫に腰掛ける綾耶は新しい学友と自分を慕う子供たちを見詰めながら、眼鏡を掛け直す。

 

 全てが終わった訳ではない。

 

 残り7体のステージⅤ、ルイン達、依然強く残る呪われた子供たちへの差別意識。

 

 問題はあまりにも多く、世界は今尚深い闇の中に在る。

 

 でも、それでも。いや、だからこそ。明日をきっと、今日より良い日にする為に。自分はこれからも戦い続けるのだろう。

 

「大丈夫、僕は一人じゃない」

 

 聖天子様がいる。

 

 延珠ちゃんがいる。

 

 蓮太郎さんも、木更さんも、夏世ちゃんも、エックスちゃんも、学校のみんなも。

 

 松崎さんも、琉生先生も、枢さんも。

 

 だから、きっと大丈夫だ。輝かしい未来を、綾耶は信じる事ができた。

 



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幕間 元11位のイニシエーター

 

 秘密基地。

 

 子供っぽい響きではあるが、一言でこの場所を表現しようとするのならその言葉が最も適切であろうと思えた。

 

 岩をくり抜いたトンネルの天井には等間隔にライトが埋め込まれていて適度な光量を確保しており、自動ドアが開いたその先の空間はとてつもなく広大だった。壁面には無数のモニターが設置されていて、そこにはレントゲン映像や脈拍と体温の変化をリアルタイムで表示した画像が表示されている。

 

 部屋の中央には手術台のようなベッドと、それを囲むように一流の大学病院にも引けを取らないであろう医療器具が所狭しと並んでいた。

 

 モニターに映るのは全てがたった今ベッドに横たわっている患者、蛭子影胤の身体データであった。その証拠にX線画像が表示されているモニターには普通人であれば骨格が映っている筈なのだが、腹部に直線と滑らかな曲線で構成された明らかに人工物であると分かる物体が見えた。

 

 白衣の美女、ルイン・アルコルはタブレット端末片手にぶつぶつ呟きながら部屋の中を行ったり来たりしてモニターのデータを色々とチェックしていたが、ややあって「うん」と頷きを一つ。そうして患者を覗き込んだ。

 

「基幹部分に破損は無いわね」

 

「おお、それでは……」

 

「ええ、斥力フィールド発生装置の修復は十分に可能よ」

 

 指を動かしてタブレット上の画像を次々切り替えつつ、アルコルは苦笑いの表情を見せた。

 

「それにしてもあなたを執刀したグリューネワルトもそうだけど、四賢人はみんな凄いわねぇ……あなた以外にも何人か機械化兵士の体を診た事はあるけど、彼等に使われているどの技術も、私では一から作る事は不可能な代物だからね」

 

 元々影胤は内臓に重大な障害を負っていて、『新人類創造計画』の機械化手術を受けるか死を待つかの二択しかなかった。彼の内臓を詰め替えたバラニウム製斥力フィールド発生装置は機械化兵士の武装であると同時に、人工臓器・生命維持装置としての役割も兼ねている。人間の内臓は、例えば肝臓一つ取ってもその機能を機械で代替しようとするのなら2010年代の技術では高層ビル並みのスペースが必要だとされていた。いくら時代が進んで技術も進歩したとは言え、それでも他の臓器も含めて全て同程度のサイズの人工物に置き換え、更にそこに兵器としての機能まで持たせるなど、同じ科学者であるアルコルをしてグリューネワルトの技術力は異常としか言い様が無い。

 

「いや、ホント凄いわ。こればかりは悔しいけど脱帽よ。単純に機械工学や人体の構造だけじゃなく、ありとあらゆる分野で第一人者級かそれ以上に精通していなければこうは行かないでしょうね」

 

「アルコル様でも及ばぬと?」

 

「ええ。私に出来るのは精々がメンテと修復まで。新しい機械化兵士を作る事は出来ないし、既存の機械化兵士の機能を拡張する事も不可能。勿論完全に破壊されてしまったら直せない。流石としか言えないわ。まぁ……専門分野についてだけは、四賢人の誰にも負けない自信はあるけどね」

 

 言いつつ、アルコルはトレイに置かれていた消毒済みの外科用器具を手に取った。

 

「じゃ、話はこれぐらいにして手術を始めましょうか」

 

「……復帰までどれほど掛かるでしょうか?」

 

「まぁ、生身の部分も相当ダメージを受けてるし、二週間は安静が必要ね。終わったら小比奈ちゃんとゆっくり過ごしてあげなさいな。今は泣き疲れて寝ているようだけど、さっきまで三番(フェクダ)がなだめるのに相当苦労していたそうよ? あなた達の関係は私達から見ても歪だとは思うけど……それでもあの子はあなたを慕っているの。裏切らないであげてね」

 

「は……」

 

 影胤が頷いたのを見たアルコルは頷き返すと、患者の腕に注射を打つ。少し間を置いて麻酔が効いてきたのを確かめると、彼女はメスを走らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 秘密基地の一角。そこは天然物と人工物が絶妙なバランスで組み合わされたアルコルの研究室とは違い、多分に自然が残されていた。小さいながらも水の流れがあり、樹木も茂っている。今はちょうど天井に開いた穴から陽光が注ぐ時間帯で、その光が照らす数メートル四方のエリアには、小さいながらも立派な造りの墓標が建てられていた。そこに葬られている者達は、大切に想われていたのだろう。数は、四つ。

 

 四つの墓の中で三つまでには花束が供えられていて、最後の一つにはルイン・フェクダがすぐ前に立っている。彼女はその手にジュラルミンケースを持っていた。先日の騒動でそれを持った綾耶が逃亡劇を演じ、最終的にはルイン・ベネトナーシュの手によって回収された「七星の遺産」だ。

 

「双葉ちゃん、六花ちゃん、七海ちゃん……八尋ちゃんがそっちに逝ったわ……暖かく迎えてあげてね」

 

 一つずつ墓標へ名前を呼び掛けると、フェクダは最も新しい墓標の前にしゃがみ込む。

 

「八尋ちゃん……あなたの宝物は取り戻したから……どうか、安らかに眠ってね」

 

 ケースを開くフェクダ。そこに入っていたのは、壊れた三輪車だった。車輪はネジが何本か外れてガタガタになっていて、塗装はあちこち禿げて錆も浮かんでいる。サドルも汚れていて、東京エリアの管理下に入るまではあまり良い保存環境には置かれていなかったのだろう。赤を基調とした色合いは、どちらかと言えば女の子が好みそうだった。

 

 ルイン・フェクダは注意深くケースから三輪車を取り出すと墓の前に供え、捧げた。そうして瞑目し、祈る。

 

 数分もそうしていただろうか。静寂は、不意の電子音によって破られた。

 

 相手にこちらの都合など分かる筈もないが、それでも清澄な祈りの時間を邪魔されたフェクダはむすっとした顔になると、スマートフォンを取り出す。通話相手を示す画面には「β」の一文字が表示されていた。

 

「もしもし、二番目(メラク)? ええ私、三番目(フェクダ)よ。何かあったの? 定期連絡には、まだ早い筈だけど」

 

 ルイン達はそれぞれが違った役割を持っている。

 

 一番目(ドゥベ)は民警として活動し、表の世界での発言力と立場を確立させる事。

 

 三番目(フェクダ)は影胤のようなアウトローを指揮しての非合法活動。

 

 七番目(ベネトナーシュ)は教師として呪われた子供たちを教え導く事。

 

 番外(アルコル)は科学者としての研究活動。

 

 そしてたった今フェクダに電話を掛けてきているのは北斗七星を構成するおおぐま座ベータ星「メラク」のコードネームを持つ二番目、ルイン・メラクだった。彼女の役目は五翔会という秘密結社に潜入し、その情報をリークする事。ルイン達は全員の共通能力としてガストレアウィルスの形象崩壊をコントロールし、声までそっくりにどんな姿にも化ける力を持っている。スパイ活動にはうってつけだった。

 

 メラクが化けているのは五翔会の中でも最高幹部である五枚羽の一人。正確には彼女は本物の五枚羽を殺してそのまま成り代わっている。そうして五翔会の機密情報は、そのままルイン達に筒抜けとなっているのだ。

 

 メラクは、情報は定期的に連絡するという方式を取っている。これはあまり頻繁に情報を流出させて五翔会に内通者の存在を感付かれない為と、彼女自身の安全の為でもあった。もし約束の日時に連絡が無かった場合は、メラクの身に何かがあったのだと判断できるという訳だ。

 

 しかし今回はその逆、いつもより早くコンタクトがあった。つまり……

 

「……何か、急な動きがあったのね?」

 

 

 

 

 

 

 

 数分後、二番目(メラク)との通話を終えたルイン・フェクダは秘密基地の通路を歩いていた。小脇にはいくつかのファイルを抱えている。

 

 数十メートルほどのトンネルを抜けると不意に開けた場に出て、そこは地底湖になっていた。対岸へは簡素な造りの橋が架けられていて、フェクダはその上をずんずんと進んでいく。

 

 視線を上げると空間に数個の球形物(ビット)が浮遊していて、それらは大きく円を描く軌道で周回しつつ正面に搭載されたカメラアイを常に彼女へと向けながら、付かず離れずの距離を保って動いていた。フェクダがその中の一つに向かって手を振るとビットは全て空間に静止し、数秒後に一斉に動き出すと対岸の岩壁に開いた穴へと消えていった。

 

 橋を渡りきったフェクダはビットが入っていった穴の前に立つ。橋の上からでは暗さで見えなかったが、近くに立つと直径2メートルほどの円形をしたその穴にはぴったりと鉄格子が嵌っていた。格子の隙間は拳大の大きさをしたビットがぎりぎり通り抜けられるぐらいしかなく、とても成人女性のフェクダでは通れない。

 

 このままでは。

 

「私よ。ここを開けてくれるかしら?」

 

 鉄格子の向こう側へと声を掛けるが返事は無かった。代わりに頑強な金属製の格子は誰も触れてもいないのにまるでゴムのように軋み一つ立てずにたわんで曲がり、ちょうどフェクダ一人が通れるぐらいのスペースが開く。

 

 まるで魔法のように出来た入り口を驚いた様子も無くフェクダが通ると、再び鉄格子がひとりでに動いて元通りの形へと戻った。格子の一本にフェクダが触れてみると、やはりと言うべきか当然と言うべきか、手に伝わってくるのは金属の硬さだ。初見の者では今し方この鉄棒がぐにゃりと曲がった事など、幻覚か夢の中の出来事のようにさえ思えるかも知れない。

 

 無論、フェクダはどうしてこのような現象が起こるのかを知っているので驚いた様子も無く部屋の中に進んでいく。

 

 そこはこぢんまりとしたスペースになっていて、大小二つのテーブルや椅子、本棚やベッドなどの家具が置かれていた。

 

 大きなテーブルの上にはハムエッグにサラダ、トーストといった洋風の朝食が並べられており、この部屋の主はちょうど食事中のようだった。

 

 部屋にはカツン、カツンと気持ちの良い金属音が規則正しく響いている。

 

 その音を奏でているのは小さなテーブルの上のバランスボールだった。衝突球やニュートンのゆりかごとも呼ばれている。ビー玉ぐらいの大きさの複数個の鉄球で構成されていて、一番端っこの鉄球を持ち上げて並んでいる他の鉄球へとぶつけると、運動エネルギーが何個かの鉄球を伝わって反対側の鉄球が動き、動いたその鉄球が戻ってきて他の鉄球にぶつかると、再びエネルギーの伝達が為されて端の鉄球が持ち上げられ……と、変則的な振り子のような動きと音を出すインテリアだった。

 

 それだけなら別に驚く事もない。世界中、どこにでもあるインテリアでしかない。

 

 異様なのは、そのバランスボールには5個の鉄球を吊す糸も、その糸が付けられている台座も存在しないという事だった。ただ鉄球だけが先程のビットと同じように宙空に浮かんで、時計の針のように規則正しいリズムを刻んでいる。

 

 だが、それだけ見て驚くのは早かった。

 

 この部屋の住人は食事中であるのだが、その食べ方が異常だった。

 

 彼女はナイフもフォークも使っているのだが、右手も左手も使っていなかった。両手は、読んでいる新聞紙を持って塞がっている。

 

 誰か他の者に食べさせてもらっているのではない。部屋には今入ってきたフェクダを除けば、一人しか居ない。

 

 誰の手にも握られていないナイフがマジックのように空間に浮かびながら動いてハムエッグを切り分け、一口大になった所を同じように空中浮遊するフォークが突き刺して、新聞を読んでいる少女の口へと運んでいく。同じようにバターナイフもひとりでに動いて皿の上のバターを掬い上げると、トーストの上に塗っていく。少女は、バターを塗ったトーストだけは手を動かして取ると、ばくりと囓った。

 

 まるで何かの特撮番組のような光景だが、この超常を見てもルインは眉一つ動かさない。

 

「どうしたの、フェクダ? 私に何か用? 見ての通り私は今食事中なのだけど」

 

 少女は、広げている新聞紙から目を放さずに言った。

 

「行儀が悪いわよ?」

 

 ルイン・フェクダは窘めるような口調で言うと、少し顔を上げる。先程のビットは、今は少女の頭上でふわふわと浮きながら相変わらず全機がそのカメラを彼女へと向けていた。

 

「ん……まぁ、座ってよ」

 

 反省した様子も無いが、少女はそれでも新聞紙を畳むとテーブルの隅に置いて、軽く手を振る。すると彼女が座っている反対側に置かれていた趣味の良いデザインのスチール椅子が床を滑るように音も無く動いて、フェクダが座れるスペースが空く。三番目のルインがその椅子に座ろうとすると、彼女の背後に目に見えない熟練の執事が控えているかのように絶妙のタイミングで椅子が押される動きをしてぴったりの位置で止まり、快適に座れるようになった。

 

 それまでは宙を勝手に動いて料理を切り分け少女に食べさせていたナイフとフォークも、交差する形で皿の上に下りた。

 

「横着者ねぇ、相変わらず……」

 

 ルイン・フェクダは呆れたように苦笑して、少女を見る。広げられて体を隠していた新聞紙が置かれた事で、全体像が見えるようになっていた。

 

 年の頃は十歳ぐらい。濃い青色をした長い髪をボリュームのあるポニーテールに纏めていて、白と黒のツートンカラーをしたお嬢様風のドレスは、大きな宝石をあしらったブローチから受ける印象も手伝って、どこか大人びた風な彼女を年相応の少女に見せるのに一役買っていた。そして紅く輝く彼女の両目はガストレアウィルスの保菌者、呪われた子供たちである事を示している。

 

「まぁ、良いじゃないの。それでフェクダ、私に何か用なの?」

 

「……仕事を頼みたいのよ、あなたに」

 

「仕事ねぇ……要人暗殺? それともガストレア退治?」

 

「どちらでもないわ。あなたに頼みたいのは、護衛よ」

 

 フェクダは持っていた書類の一つをテーブルに置いた。一番上のページは、白い髪をした美少女の写真が載っていた。その書類を手に取った少女の眉が、ぴくりと動く。この写真の女は……

 

「東京エリア国家元首、聖天子。二番目(メラク)が掴んだ情報によると、大阪エリア代表である斉武宗玄が彼女を殺す為に暗殺者を雇ったらしいわ」

 

「……つまり、その暗殺者から聖天子を守れと?」

 

 少女の問いに、ルイン・フェクダは頷く。

 

「……あなた達は、ちょっと前には影胤達と一緒に大絶滅を起こして東京エリアを壊滅させようしたって聞いたけど? それが今度はエリアの国家元首を守ろうとするの? 随分と忙しいわね」

 

 皮肉っぽく少女が言うが、フェクダは気にした気配も見せなかった。

 

「立ち位置や関係なんて流動的なものよ。ガストレア大戦前は、一昔前までは戦争していた国同士が今は同盟国だなんて例は珍しくも何ともなかったわ」

 

 ぬけぬけと、そう言い放つ。

 

「知っているでしょうけど、東京エリアは八尋ちゃん……ゾディアックガストレア・スコーピオンの襲来に遭いながら大絶滅を免れたわ。それはあのエリアの人達がほんの少しでもより良い存在になったという証明。加えて、聖天子は進めているガストレア新法から分かるように呪われた子供たちとの共生派……彼女を殺す事で得られるメリットよりも、彼女が生きている事で得られるメリットの方が大きいと判断したのよ。もっと簡単に言えば利用価値があるから、今死んでもらっては困るのよ。ちなみにこれは、私達8人全員一致での結論よ」

 

「勝手な話ね?」

 

「自覚してるわ。それに……」

 

 フェクダは指で軽く自分のこめかみを叩く。

 

「あなたの”ここ”にチップを埋め込んだ誰かさんほどではないと思うけど?」

 

 不意に少女の目が座って、あからさまに不機嫌な顔になった。

 

「私の前で奴の話をしないで」

 

 頭上で浮いていたビットが、フェクダを囲むように集まってくる。

 

「そうだったわね。以後気を付ける事にするわ。ごめんなさい」

 

「……ん」

 

 ぺこりと頭を下げられて、少女の方も元々本気で怒ってはいなかったのだろう。あっさりと謝罪を受諾すると、フェクダの斜め前方左右と背後、それに頭上を固めて三角錐(テトラ)の陣形を描くように浮遊していたビットは再び彼女の頭上へと戻った。

 

「何にせよ気が進まないわね。大体してそーいうのはドゥベの役目じゃないの?」

 

 少女の意見も尤もではある。確かに要人の警護は警察かさもなくば民警の仕事であり、ならば東京エリアを拠点としていて一色枢・エックスの民警ペアとしての表の顔を持つルイン・ドゥベの方が適任だろう。IP序列も30位の超高位であり申し分無い。

 

 フェクダは「確かに」と頷くとテーブルに置かれていたティーポットを手に取った。カップに注いだ紅茶を口に運ぶが、一口含んだ所で顔を顰めた。

 

「冷めてるわね」

 

 少女は何も言わずに手を伸ばして、たおやかな指先がフェクダの手にしたカップに触れる。途端に室温でしかなかった琥珀色の液体から湯気が立ち上り始めた。

 

 ある程度まで温まったのを見計らって、少女はカップから指を離した。

 

「ありがとう」

 

「いつでもどうぞ」

 

 少女が顎をしゃくる動きをするとソーサーの上に乗っていたスプーンが浮き上がって、フェクダの手の中に収まった。

 

「上の方は熱いけど下の方はぬるいから、よく混ぜて飲んでね」

 

「いつ見ても便利ね、あなた」

 

 砂糖とミルクを入れた紅茶をスプーンでかき混ぜつつ、フェクダが笑う。もう一度口にやると、ちょうど飲み頃の温度だった。

 

「それで、気が進まないと言ったけど……これを読んだら気が変わると思うわ」

 

 フェクダはカップを置くと、紙を挟む部分が金属製のバインダーをそっと掲げる。少女が手を伸ばすとそのバインダーはフェクダの手を離れて空中を滑り、少女の手へと移る。

 

 最初は気怠そうにページを捲っていた少女だったが、目を通すページが3枚目に達した時だった。表情が、真剣なものに変わる。

 

 これまで、気持ちの良い金属音を奏でていた糸無しバランスボールの鉄球が、作用していた不可視の力の消失によってバラバラと落下し、そのままテーブル上を転がって床に落ちた。

 

「これは……!!」

 

 少女に合わせるように真剣な顔になったルイン・フェクダも頷く。今、少女が見ているページには派遣される暗殺者の顔写真が挟まれていた。プラチナブロンドの髪をした、少女と同じぐらいの年齢だろうどこかおっとりとした印象を受ける女の子が写っている。何故か服装はピンク色のパジャマだ。

 

「そう、聖天子暗殺に送られるのはIP序列98位……四賢人の一人であるエイン・ランドが創り出した……あなたと同じハイブリッドの一人。モデル・オウル『黒い風(サイレントキラー)』ティナ・スプラウト。確かに本来ならドゥベとエックスちゃんが就くべき任務だけど、その点を考慮してあなたに頼む事にしたのよ。勿論、断っても構わない。その時は、予定通りあの二人が行う事になるけど……」

 

 少女が、立ち上がる。フェクダはにやりと不敵な笑みを見せた。

 

 この任務を受けるか否か。返事は、聞くまでもなかった。

 

 床に落ちて転がっていた鉄球が再び浮き上がって、ビットと共に太陽を巡る惑星のように、少女の周囲を回る。

 

「やり方は全てあなたに任せるわ。ティナ・スプラウトから、聖天子を守りなさい」

 

 少女が、絶対の自信に満ちた笑みと共に頷く。

 

「頼んだわよ。IP序列元11位、モデル・エレクトリックイール『星を統べる雷帝(マスターオブライトニング)』ソニア・ライアン」

 



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第13話 転校生、ソニア・ライアン

 

「はあっ……はあっ……」

 

「ほらほら、逃げろ逃げろ。お前等はこれぐらいしか生きてる意味が無いんだから、精々俺達を楽しませろよ」

 

 東京エリア外周区の廃墟に銃声の乾いた音と少女の悲鳴とが、断続的に響き渡る。

 

 悲鳴を上げている少女はその紅い目から呪われた子供たちであると分かる。一方で銃声を発しているのは付かず離れずの距離を保ちながら少女を追い掛けている二人の男が持つ拳銃だった。二人はそれぞれ城ヶ崎大胡と芦名辰巳といって、どちらも聖室護衛隊の一員だった。

 

 呪われた子供たちで射的をする。これは彼等にとっては、とびきりのストレス解消法だった。

 

 人間狩り。それは銃を持った者であれば誰しも一度は思い浮かべる誘惑であろう。だが犯罪者にはなりたくないし、と言って戦場に出て自分が撃たれるリスクを冒すのもイヤだ。呪われた子供たちの存在は、あつらえたようにそれら全ての条件をクリアしていた。税金を払っていなければ戸籍も持っていないので殺しても罪にならないし、潜在的には強い力を持っているのかも知れないが、それを振るう事が出来るのはイニシエーターになれるほんの一握り。後は所詮はガキでしかなく、銃口を向ければすぐに怯え上がって抵抗を止める。

 

 彼等には罪悪感など無かった。人間が持っている倫理観というものは意外に強い。だから軍隊では今までの自分・既存の価値観を一度徹底的に壊し、上官の命令には絶対服従、敵と認めた者には反射的に引き金を引けるように訓練していく。大抵の人間は自分のやっているのが悪い事だと自覚していると、最後の一線を踏み越える事は中々出来ないからだ。だが、彼等は違う。寧ろちょっとしたボランティアをしているような感覚ですらあった。東京エリアのゴミどもを片付けてエリアの清掃・美化に貢献しているのだと。その過程で少しばかり楽しませてもらうのは、当然の余録であるという理屈だ。

 

 普段は護衛隊の隊長である保脇卓人三尉もこの射的に参加するのだが、彼は今日は所用があって来られなかった。

 

 いつもは適当な呪われた子供たちを捕まえると逃げられないようワイヤーで縛り付けて交互に撃っていくのだが、今回は少しばかり趣向を変えてみる事にしていた。動かない的を撃つのには些か飽きが来ていた所だったので、逃げ回る獲物をどちらが早く仕留めるかを競う方式だ。

 

「ははっ、そらそら。止まったら当たっちまうぞ」

 

 これは良い訓練になる。辰巳は、戻ったら保脇にもこの新しい楽しみを教えてやろうと思っていた。聖天子様をお守りする護衛官たる者、腕が鈍らないように常に射撃の訓練は積んでおかなければならない。その際、的は動かなかったり規則正しい動きしかしない標的ではなく、逃げ回る獲物の方が適している。これは趣味と実益を兼ねた、素晴らしいゲームだ。

 

 辰巳も大胡も、胸がすっとしていくようだった。最近は、あのいけすかない将城綾耶のお陰でストレスが溜まりっぱなしだった。赤目が、ガストレア予備軍の化け物が、どうやって取り入ったのかは知らないが聖天子様に気に入られて聖室護衛隊特別隊員、つまりは俺達と同格だと? 冗談も休み休み言えというものだ。挙げ句の果てにはエリアを救った英雄にまで祭り上げられやがって。赤目は外周区でゴミを喰って、ビクビクと生きているのが分相応というものなのに。

 

 鬱憤は、晴らさなくてはならない。

 

 パン!!

 

「あぐっ!!」

 

 右ふくらはぎを撃たれて、少女が転倒する。辰巳と大胡はこれまでは怯え逃げ惑う様を見て楽しむ為に敢えて外して足下の地面を撃っていたのだが、たまには当ててやらなくては面白味がない。弾が当たって悲鳴を上げる呪われた子供たちは押すと音が鳴るぬいぐるみのようで、実際に彼等にとっては出来の良い玩具程度の認識しかなかった。

 

 少女は絶望しきった表情で目を飛び出しそうなほどに見開いて二人を見た後、這いずって少しでも遠くへ逃げようとする。たった今彼女の足を穿ったのはバラニウム弾ではないが、いくら傷が治っても痛みは感じるし血も流れる。一部のイニシエーターならば痛覚と意識を切り離して体を動かす術も習得しているが、普通の子供より少しばかり運動神経が良く怪我が治りやすいだけのこの少女にそんなものは望むべくもない。

 

「う、うう……」

 

 逃げなきゃ。死にたくない。遠くへ、少しでも遠くへ。

 

 頭の片隅でもう逃げられない、死ぬ、遠くへなど行けないと理解していながらも、少女は逃げる事を止めなかった。

 

 その時だった。不意に目の前に、綺麗な靴を履いた足が見えた。

 

「……?」

 

 恐る恐る視線を上げると、そこに立っていたのは女の子だった。10歳ぐらいの、お嬢様風ドレスを着た蒼い髪をポニーテールに束ねた少女。ルイン・フェクダにソニアと呼ばれたイニシエーターだ。

 

 無論、人間狩りの標的とされたこの少女には初対面の相手だが……少なくとも自分を追いかけ回している二人よりかはずっと信じられる相手に思えた。

 

 だから、口にした。

 

「おねがい、たすけて」

 

「うん、分かった。助けるわ」

 

 一刹那の思考も介さず、脊髄反射的な速さでソニアが答えた。前に出て少女を自分の後ろに隠すと、近付いてくる二人の男に向き合う。

 

「何だ、お前は……」

 

 訝しむように辰巳が言う。着ている服は清潔だし外周区の住人とも思えないが……そんな風に考えていると、蒼い髪の少女の両眼が紅くなった。呪われた子供たち。そうと分かれば遠慮する事はない。獲物が一匹から二匹になっただけだ。彼は醜悪な笑みを浮かべる。

 

「ちょうどいい、お前も俺達の遊びに付き合え。30分、死なずにいられたら逃がしてやるよ」

 

「イヤだといった場合は?」

 

 全くの自然体でそう語るソニアに、辰巳は違和感を覚えた。例えるなら演劇で、相方の役者が全く違う台本の台詞を喋っているようなちぐはぐさだ。

 

「……そりゃ、この場で撃つだけだ」

 

 銃口を向ける。だがそこまでされてもソニアは全くの自然体で、眉一つ動かさないし汗も掻かない。大胡と顔を見合わせる。違和感は、少しの不安へと形を変え始めていた。

 

「じゃあ、私も言うわ。このまま何もせずに帰るなら、私はあなた達に何もしない。でも、帰らないなら……それはあなた達にとってはとても悲しい選択だと言えるわね」

 

 哀れむように言われて、聖室護衛官の二人は揃って頭に血を上らせた。こんな態度は許せない。エリアのゴミが、自分達に怯えないどころか命乞いもせず、あまつさえ対等以上の口を利くなんて。もうこれはゲームではない。楽しみなどは度外視して、身の程というものを思い知らせてやる必要がある。

 

 二つの銃口がソニアの膝と胸にそれぞれ照準を合わせて……

 

「あ……逃げ……!!」

 

 撃たれる!! 少女は叫ぼうとして……

 

 ソニアは軽くウインクする。

 

 すると辰巳と大胡の手に握られた拳銃がいきなり目には見えない力で引っ張られて、二人の手から離れた。

 

 奪われた拳銃は宙に浮いたままくるりと反転すると、その銃口が二人の額に照準して空中で止まった。

 

「なっ……!?」

 

 そんなバカな。辰巳も大胡も絶句する。呪われた子供たちが保菌するガストレアウィルスの恩恵によって超人的な身体能力を発揮するのは二人とも知っている。だが今、自分達の目の前で起こっているのは一体何なのか。まるで念動力のように触れもせず自分達の手から銃を奪い取り、更にはその銃を空中で動かして操るなど。超能力を使う呪われた子供たちなんて、聞いた事もない。

 

「そんなバカな。って顔してるわね?」

 

 にこりともせず、ソニアは言った。

 

「この力はそこまで不思議なものでも特別なものでもないわよ。モデル・ラビットのイニシエーターが脚力に秀でるように、モデル・スパイダーのイニシエーターが糸を使うように。イニシエーターが持つ固有能力に過ぎないわ。私はモデル・エレクトリックイール、デンキウナギの因子を持つ呪われた子供たち(イニシエーター)」

 

 何かをつまむようにしたソニアの親指と人差し指の間に、スタンガンのような火花が散ってバチッという音が鳴った。

 

「そして……ただ発電を行うだけじゃなくて電磁石のように磁場を作り出し、金属を自由にコントロールする事が出来るのよ」

 

 たった今、二人の手から銃を奪ったのはその力だ。

 

 こいつは、ヤバイ。聖室護衛隊の二人は同時に同じ結論に達して、一目散に背中を見せて逃げ出した。

 

 今日はハンティングに来た筈だったが、追い立てる筈の獲物から逃げ出すのが屈辱だという思考はもう彼等の中から消滅していた。今日は鹿狩りの筈だったのだ。熊とやり合う事などは予定に入っていない。

 

 50メートルほど先に、乗ってきた車が見えた。

 

 辰巳の顔に引き攣った笑みが浮かぶ。

 

 兎に角、この場は逃げるのだ。その後で呪われた子供たちに殺され掛けたという事実を聖居に戻って伝えて、赤目のガキどもが如何に危険な存在であるかを世間に知らしめ、駆除してやる。ついでにあの将城綾耶も追い出してやる。

 

 ソニアは走って二人を追い掛ける事はしなかった。代わりに、万歳するように手を上げる。するとその動きに連動するようにして車が空中に持ち上がった。車は50メートルの高さに達するまで空を飛んで、その後で重力に従い自由落下。屋根から地面に落ちて、ペシャンコになった。

 

「なっ……そんな……」

 

「あ……あ……」

 

 逃げる為の足が無くなった。絶望的な事態に二人は顔を凍り付かせて、そして恐る恐る振り返る。振り返ったそこには、絶望そのものが立っていた。ソニアが一歩、また一歩と近付いて来ている。両肩の高さに浮遊した拳銃二丁を引き連れて。

 

 5メートルの距離にまで近付くと、ソニアは歩みを止めた。彼女の下僕と化した拳銃は磁力の見えない手によってスライドが動き、発射態勢が整う。

 

「よ、よせ!! 止めろ!! 撃つな、撃たないでくれ!!」

 

 大胡が口から泡を飛ばしながら命乞いをするが、

 

「そう言う呪われた子供たちに、あなた達は何て答えるの? 今まで、一度でも命乞いする呪われた子供たちを助けてあげた事があるの?」

 

 氷よりも冷たい返答が返ってきた。

 

「畜生、くらえっ!!」

 

 辰巳が喚きながら、懐に隠していたナイフを突き出す。そのブラッククロームの刃は、バラニウム製だ。しかしソニアの体を真っ直ぐ一突きにする筈のナイフは彼の手に握られたままUターンするような軌道を描いて、辰巳は自分で自分の腕を突き刺す形になってしまった。

 

「きゃああああああああっ!!」

 

 ソプラノ歌手のような高い声が廃墟に木霊する。ソニアは呆れた顔になった。

 

「……だから、言ったでしょ? 金属を自由にコントロール出来るって。バラニウムだって例外じゃないわ」

 

「く、来るな!! 来るなぁ!! だ、誰か……誰か助け……!!」

 

「誰も来ないわよ。大体、他の人に見られたくないから、誰も来ないような場所をあなた達は選んだんじゃないの?」

 

 冷ややかにそう言うと、ソニアは拳銃を掴んでいる磁力へと指令を出した。彼女の見えない手である磁場は全く完全にその指示通りに動き、引き金を引いて、この一角に二発の銃声が響いた。

 

 10メートルほど離れた所で見ていた少女が、思わず体を竦ませる。

 

「あ……あ……あ……」

 

 辰巳は、焦点の定まらない目で口をぱくぱくさせている。大胡は、白目を剥いて意識を失ってしまっていた。口からは石鹸でも食べたように泡を噴いている。

 

 発射された二発の弾丸はどちらも二人の男の額に触れる0.5センチメートル手前で、回転しながら空中に静止していた。ソニアが磁力で止めたのだ。

 

「気の小さい人達ね」

 

 自分達は散々やってきたくせに、立場が逆になった途端にこれとは。はぁ、と溜息を一つ。目線を下げると、二人ともズボンの前と後ろを汚していた。

 

 興味を失ったソニアは手を一振りする。すると彼女の思念と繋がっていた磁力エネルギーは消滅して、銃も弾丸も地面に落ちた。

 

 そうして助けた少女の元へと歩み寄ろうとして……ソニアは一度振り返ると再びマグネティックパワーを使って、拳銃二丁をバラバラに解体した。二人の男は殆ど廃人状態。まず大丈夫だろうが、油断した所を後ろから撃たれてはたまらない。

 

 今度こそ全ての危険が排除された事を確かめると、うずくまったままの少女の傍でしゃがみ込む。

 

「大丈夫?」

 

「う、うん……あ、ありがと……」

 

 見れば傷は治りかけているが、弾が貫通せずに体内に残ってしまっている。ソニアはそっと傷口へと手をかざした。

 

「少しだけ、我慢してね」

 

 そう言って一瞬だけソニアの瞳が紅くなる。

 

「あっ……!!」

 

 短く、少女が悲鳴を上げる。ソニアの手には血が付いた弾丸が置かれていた。磁力で引っ張って傷口から摘出したのだ。ソニアは弾丸を捨ててしまうと、少女に肩を貸して立ち上がらせてやる。

 

「あなた、名前は?」

 

「……沙希(さき)……」

 

「沙希ちゃんね。私はソニア。ところで……突然だけど沙希ちゃん、あなた高い所は平気?」

 

「え?」

 

「だから、高い所よ。高所恐怖症じゃない?」

 

「う、うん……それは大丈夫だけど……」

 

 何故彼女はこんな事を聞くのだ?

 

 ……という、沙希の疑問はすぐに解消される。

 

「それは良かった」

 

 頷いたソニアの瞳に再び炎が灯って、そして彼女の足が重力の軛から解き放たれて空中に浮き上がり始めた。当然、肩を貸されている沙希も一緒に宙に浮く。

 

「え!? え!? 何!? 浮いてる!?」

 

「落ち着いて。これも私の力よ。電気を使って、イオノクラフトの原理で飛んでるの」

 

 そう言っている間にも少しずつソニアは高度を上げていき、ものの十秒でビルの屋上を見下ろせるぐらいの高さに到達した。

 

「あは……ははっ」

 

 沙希は最初は驚いていたが、しかしこうして空を飛んでいるのが夢でも幻覚でもなくそして危険も無いという事が分かると次第次第に落ち着きを取り戻し、次にはこの状況を楽しもうという気持ちになってきた。ヘリも飛行機も使わずに空を飛ぶなんて、普通の人間では一生どころか何回生きても出来ない人が殆どだろう。自分は今、物凄く貴重な体験をしているのだ。

 

 流れていく眼下の景色を眺めながら、沙希が尋ねる。

 

「何処へ行くの?」

 

 ソニアが答える。

 

「安全な所へ」

 

 

 

 

 

 

 

 東京エリア第39区。綾耶の実家でもある教会では今日も第39区第三小学校の授業が行われていた。

 

「……それで、気圧が下がると雨が降り出す訳ね。それで雷が生まれるのは水滴と氷の結晶がぶつかり合って、正と負の電荷を持った粒子が発生する為で……」

 

 礼拝堂を教室代わりに使い、祭壇の前で教鞭を取るのは琉生であった。子供たちは興味津々、目を輝かせて授業に聞き入っている。転校してきたばかりの3名、特に延珠はこの授業内容に驚いていた。前に通っていた勾田小学校での授業と比べても少しも見劣りしない。蓮太郎は非正規の学校では授業のレベルが低い事を気にしていたようだが、どうやら杞憂であったようだ。

 

 綾耶も、今は聖天子の身の回りが落ち着いているので復学している。松崎老人は最後尾の席でそんな子供たちを授業参観に来た祖父のようにニコニコ笑いながら見守っていた。

 

「そして、地上では空気の流れが活発になって……ん」

 

 琉生は何かに気付いたように時計を見ると、マーカーを置いた。パンと手を叩く。

 

「みんな、実は今日は転校生が来ることになっているの」

 

「え? ホントですか?」

 

「わぁ、また友達が増えるんですか?」

 

「どんな子なんですか?」

 

「とても気だてが良くて、友達思いの良い子よ。きっとすぐに仲良くなれるわ」

 

 子供たちの質問攻めに琉生はくすっと笑いながら答えると、礼拝堂を横切って出入り口へと向かっていく。

 

「そろそろ着く予定の時間よ。みんなでお迎えしましょう」

 

「「「はーい!!」」」

 

 起立した子供たちを引き連れた琉生が扉を開いたそこには、外周区らしく廃墟が見えるだけで人影はなかった。まだ来ていないのだろうか? そう思って周囲を見渡していると、ぽつんと地面に影が落ちている事に気付いた。

 

 影が出来るという事は……

 

 誰からともなくその結論に達して顔を上げると……思いも寄らぬものが目に入った。

 

 二人の少女、ソニアと沙希が空からふわふわと下りてきていたのだ。

 

「わあぁ……」

 

 ざわざわと、子供たちが声を上げる。

 

「べ……琉生……さん、お久し振り」

 

 着陸してすぐに沙希をすぐ横に立たせると、ソニアが頭を下げる。沙希の足の怪我は、ここへ来るまでにもうすっかり治っていた。

 

「元気そうね、ソニア……その子は……?」

 

「私の友達よ。彼女も一緒にこの学校に迎えて欲しいのだけど……良いかな?」

 

「勿論!!」

 

 沙希に助けを求められた時のソニアにも負けないぐらいの早さで、琉生は即答する。これは彼女にとっても予想外の事だったが、ここは呪われた子供たちの為の学校だ。受け入れない理由など無い。事後承諾になってしまったが松崎に視線を送ると、彼も柔和な笑みを浮かべて頷きを返した。

 

「……ちょっと、意外ね」

 

「何が? ソニア」

 

「第一印象って大事だからね。驚かせようと思って空飛んできたのに、みんなあまり驚いてないみたいで……」

 

 琉生は「ああ成る程」と頷きながら苦笑する。

 

「空を飛べるのはあなただけじゃないって事よ」

 

 「ね」と、綾耶へと視線を送る。この学校の子供たちは全員が綾耶の妹分で、時折彼女と一緒に空を飛んでいる。空中散歩は子供たちに大人気で、予約は二週間先まで一杯だ。そういう事情があるから、空を飛べるソニアにもさほど驚かなかったのだ。

 

「初めまして、将城綾耶です。よろしく……」

 

 琉生を通して視線が合った事もあって、綾耶が前に進み出ると手を差し出す。

 

「ソニア・ライアン、10歳よ。好きなものは静かな所で、嫌いなのは都会とかの電波が沢山飛んでる所ね。琉生……先生とは昔、外周区で怪我している所を助けてもらって、それからの知り合いなの。今回、紹介を受けてここでお世話になる事になったわ。どうか、よろしく」

 

 その手を握り返すソニア。と、ぴくりと綾耶が体を震わせた。ソニアは、困ったように笑って頭を下げる。

 

「ごめんなさいね。私、静電気とか溜まりやすい体質で……今度、防止グッズとか買おうかしら」

 

「ううん、気にしないで。僕も……」

 

 ほんの少しの間、綾耶が眼を赤くする。すると握手している二人の掌がぴったりとくっついてしまった。

 

「あら?」

 

「この通り、掌が何かとくっつきやすい体質だからね」

 

 からからと笑いながら冗談めかして言う綾耶を見てソニアは少しだけ目を丸くすると、微笑を見せた。これは綾耶なりの気遣いだ。変わった体質なのはソニアだけではないという事だ。少しだけ腕に力を入れると、くっついた手はすぐに離れた。元々そこまで強い接着力ではなかったのだ。ちなみにこれは真空接着という現象で、綾耶はソニアとの手と手の間に存在する空気を吸い取って真空に近い状態を作り出し、掌同士を吸着させたのだ。

 

「妾は藍原延珠だ。分からない事があったら何でも妾に聞くがよい!!」

 

「千寿夏世です。私も転校してきたばかりで分からない事ばかりですが……仲良く一緒にやっていきましょう」

 

「マリアです。友達が増えて私も嬉しいです。仲良くして下さい」

 

 順番に握手を交わし、自己紹介していく子供たち。その中の一人に当たった所で、僅かに間が生じる。モデル・ウルヴァリンの30位イニシエーターの所で。

 

「……エックス」

 

「あぁ、エックスちゃんは少し恥ずかしがり屋なの。人と話すのもあまり慣れてなくてね。悪い子じゃないから、そこは分かってあげてね」

 

 もっともらしい事を言う琉生だが、エックスが他の子供たちと反応が違った理由は別にある。何を隠そう、この二人は顔見知りなのだ。エックスのプロモーターである一色枢は一番目の”ルイン”であるルイン・ドゥベ。ソニアが今回東京エリアにやって来たのは三番目であるルイン・フェクダの依頼によるもの。そこまで親しい間柄でもないが、ルイン達を介して二人には接点があるのだ。ソニアがこの第39区第三小学校にやって来たのも偶然ではなく、琉生こと七番目のルイン・ベネトナーシュが教師を務めているからだった。この東京エリアでの拠点として、彼女はここを選んだのだ。

 

 上手く取りなしてもらった事もあって、エックスと握手するソニア。そうして自己紹介は続いていく。

 

「ササナだよ。趣味は、絵を描く事!! ソニアちゃんの趣味は何?」

 

 握手しながら質問されたソニアは「ふむ」と顎に手をやると、ぽんと手を叩く。

 

「そうね……答える前に聞きたいんだけど、この中で自分のモデルを知っている人は居る?」

 

 そう聞かれて、子供たちの多くは「もでる?」と首を傾げるだけだ。無理もない。自分が保菌するガストレアウィルスのモデルを知る機会など、イニシエーターとならない限りはまず無い。例外としては身を守ろうとして力を使って、偶然によって知るぐらいか。幸いにしてそういう経験をした子供は、この中には居なかった。

 

 よって自分のモデルを知っているのは、

 

「妾のモデルはラビット、兎だぞ」

 

「私はモデル・ドルフィン。イルカの因子を持っています」

 

「僕はモデル・エレファント。象だね」

 

「…………クズリ」

 

 延珠、夏世、綾耶、エックスの4名のみであった。

 

「うん……じゃあ、延珠ちゃん。お近づきの印に、私からプレゼントを贈らせてもらうわ」

 

 そう言うとソニアはドレスの袖口から、一本の針金を取り出した。タネも仕掛けもない事をアピールするマジシャンのように両手で持ったそれを全員に見えるように高く掲げると、信じられないほど滑らかに両手を動かし、針金に形を与えていく。ほんの一分も経たない内に一次元、只の線でしかなかった針金は編み上げられて三次元の立体へと変化して、大きな耳と丸い尻尾を持った小動物、兎を模した細工になった。

 

「おおっ!!」

 

「凄い!!」

 

「かわいー!!」

 

 一斉に、歓声が上がる。それを受けつつ、ソニアは「はい」と手を差し出して針金の兎を延珠に渡した。

 

「あ、ありがとうなのだ。大切にさせてもらうぞ。帰ったら蓮太郎にも見せるのだ」

 

「ソニアちゃん!! 私にも作って!! 鳥さんが良い!!」

 

「私はワンちゃん!!」

 

「猫さん作れる?」

 

「カンガルーは?」

 

 どっと子供たちに押し寄せられて、ソニアはもみくちゃにされてしまう。

 

「ま、待って!! 順番に一人ずつ!! 大丈夫よ、針金は沢山あるから!! ちゃんと人数分出来るわ。押さないで!!」

 

 何とか子供たちを落ち着かせると、針金細工の製作へと取り掛かっていくソニア。そんな微笑ましい光景を列から離れて見ていた綾耶は、隣に立っていた夏世のセーターの袖をくいっと引いた。

 

「? 綾耶さん、どうしました?」

 

「ね、夏世ちゃん……気のせいかな……何か僕の目には……あの針金がひとりでに動いて兎の形になったように見えたんだけど……」

 

 眼をぱちくりさせながら眼鏡を掛け直しつつ、綾耶が言う。そう言われた夏世は首を傾げると、今度は針金のペンギンを作っているソニアの手元へ目を凝らす。

 

「んんっ……?」

 

 だが距離がある事と、少しも止まらず動くソニアの手が絶妙に死角を作り出して、はっきりとは分からない。

 

「……残念ですが、分かりません。気のせいでは?」

 

「いや、妾の目にも何か……微妙に針金の動きがおかしかったように思えたぞ?」

 

 逆隣に立っていた延珠も、訝しむような表情を見せている。

 

「エックスさんは?」

 

「…………」

 

 30位のイニシエーターは何も言わず、首を横に振って答えた。

 

「……気のせいだったのかな?」

 

「……そうかも知れぬな」

 

 鏡合わせのように腕組みして、首を捻る綾耶と延珠。あまりにも早くソニアの手が動くので、針金自体が動いているように錯覚しただけかも……それに、仮に見間違いでなかったとしても害がある訳ではないし、まぁいいかという結論に落ち着いた。

 

「…………」

 

 エックスはそんな綾耶と延珠を横目で見ながら、無表情の内側では感心という感情を抱いていた。

 

 針金が動いているように見えたのは、二人の見間違いではない。あの針金細工は、ソニアにとっては只の趣味ではなくトレーニングを兼ねているのだ。エックスも昔、コアラを作ってもらった事があった。しかも捕まっている木付きで。

 

 手を複雑に動かしつつ、その手に引っ掛かったり絡まったりしないように磁力で針金を操作しながら動物の形に編み上げていく。ソニアは何でもないようにやっているが、その実相当の集中力を必要とする職人芸だった。手の動きはフェイク、歌唱に於ける口パクに過ぎず、実際には磁力で動く針金が動物の形へと変化しているのだ。

 

 細工を作っていると見えるように手を動かしながら体内で発電し、作り出した磁力を針金が掌に乗るサイズの動物を形作るよう精密オペレートするソニアも凄いが、それが半信半疑のレベルとは言え見えていた綾耶と延珠も中々のものだとエックスは評価する。

 

 自分のようにソニアがデンキウナギのイニシエーターで、電気から作った磁力で金属を操れるという予備知識が無い限りは、針金がひとりでに動くなど想像の枠外の出来事。しかもソニアはデタラメではなく、本当に針金を編んでいるとカムフラージュするように手を動かしているのだ。目が良いだけでは分からない。ほんの僅かな違和感を察知できる注意力に長けているのだ。特に綾耶は聖室護衛隊の特別隊員として聖天子のボディガードも仕事の一つらしいが、彼女には向いているなとエックスは思った。

 

 夏世は、元序列千番台のイニシエーターとは言え彼女のポジションは後衛。前衛で、ガストレアとの戦いで鍛えられた綾耶や延珠の目でも捉えきれなかったものが見えなくとも仕方はあるまい。

 

 そんな思考に浸っていたエックスを、電子音が現実に引き戻した。スマートフォンが鳴らす着信音だ。子供たちや琉生、松崎の視線が一斉に綾耶へと集まる。

 

「綾耶、あなたも仕事だから急な呼び出しは仕方がないけど、せめてマナーモードにはしておきなさい」

 

「すいません、琉生先生」

 

 頭を下げつつ、少し離れた所で電話に出る綾耶。掛けてきたのは彼女のプロモーターだ。

 

「はい、聖天子様。御用でしょうか」

 

<授業中にすいませんね、綾耶。あなたに、お使いを頼みたいのです>

 

「お使い……ですか?」

 

<ええ、天童民間警備会社まで>

 

 話を聞かれないよう子供たちの輪から距離を置いていた綾耶は、針金細工を作りながら向けられているソニアの視線に気付かなかった。

 



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第14話 聖天子の依頼

 

「もう駄目、ビフテキ食べたい……」

 

 天童民間警備会社の社長席で、木更が机に突っ伏している。今日の彼女は頬が少しこけていて血色も良くない。どうにも栄養が足りていないように見える。

 

「……俺だって食いてぇよ」

 

 そんな木更のすぐ前に立つ蓮太郎も、げっそりしているのは気のせいではあるまい。

 

「……なぁ、木更さん」

 

「……何? 蓮太郎君」

 

「何でステージⅤ撃破で聖天子様から特別報酬が入ったのに、俺達はこんなに飢えてるんだ? お陰で俺は休みの日には遊園地のバイトで天誅バイオレットの着ぐるみ着て、蒸し地獄の中子供たちにサンドバックにされてるんだぞ?」

 

「……天蠍宮(スコーピオン)撃破からこっちガストレアの動きが沈静化して、あれ以来ウチは依頼を一件も解決できてないからよ。お陰で今月も収入はゼロ……分かってるの? 甲斐性無しのさ・と・みくん」

 

「それだけじゃないだろ? 知ってるぜ。あんた前に聖居に呼び出しを受けた時、見栄張ってイタ電でリムジン呼んで、結局乗らなかったろ。最近になってそれがバレて、悪質なイタズラって事もあって罰金をたんまりふんだくられたって」

 

 痛い所を突かれ、木更が「うぐっ」と言葉に詰まる。

 

「何よ!!」

 

「何だよ!!」

 

 椅子を蹴って木更が立ち上がり、蓮太郎も一戦交える事も辞さずと身構えるが……数秒して、二人とも自分の椅子に崩れ落ちた。

 

「……止しましょう。無駄な体力を使う余裕は、今の私達には無いわ」

 

「……だな」

 

 このままではモヤシ生活すら危うくなる。何とかせねばと気ばかり焦るが、具体案は浮かばず。二人が揃って「はぁぁぁぁ~」と長い溜息を吐いたその時、ノックの音が聞こえた。ただしドアではなく、窓から。反射的にそちらを向くと、事務所の窓に小さな右手がぺたりと貼り付いていた。

 

「「……な?」」

 

 ここは3階だ。ガラス清掃が行われるなんて予定も聞いてないし……そんな風に二人が考えていると、今度は左手が窓枠の下から伸びてきて、右手より上の位置に貼り付いた。そうして体全体が這い上がってくる。軽いホラー映画のような光景だが……事務所の窓ガラスに引っ付いていたのは修道服の上に白い外套を羽織った眼鏡の少女。聖室護衛隊特別隊員にして聖天子のイニシエーター・将城綾耶だ。

 

「綾耶!!」

 

「綾耶ちゃん」

 

 ガラス窓に貼り付いている綾耶は右手を放すと横に振って、開けてくれとジェスチャーで示す。蓮太郎も木更も知らない相手ではないので、ドアから入ってこないのには少し驚いたものの窓を開けると彼女を迎え入れてやった。ちなみに、綾耶が窓に貼り付いていたのはソニアとの挨拶の時にも使った真空接着によるものだ。彼女の両腕は象が鼻で水を吸い上げるように、流体を吸い込む機能がある。その力で掌とガラスの隙間にある空気を吸い込んで真空を作り、強い吸着力を生み出したのだ。窓にくっついたのは、ここまで空を飛んで来たからだった。

 

「どうも、お久し振りです。蓮太郎さんに、天童社長も」

 

 ぺこりと、礼儀正しくお辞儀する綾耶。釣られて蓮太郎と木更も会釈する。

 

「こんにちは、綾耶ちゃん」

 

「元気そうだな綾耶。延珠もいつもお前の話をしてるぜ。新しい学校は、毎日楽しいって。お前もたまにはウチに遊びに来いよ。延珠も喜ぶ」

 

「はい、今度のお休みには是非……でも今日は、お仕事で来たんです」

 

 仕事!! その二文字を受けて、社長とプロモーターの目の色が変わった。しかもこの話を持ってきたのは聖天子のイニシエーターである綾耶。つまり、この仕事は聖居絡みという事だ。きな臭さはあるし、危険度も大きいと想像できるが……報酬もそれなりのものが期待できる。今の二人にはあまりに魅力的だった。

 

「今回、天童民間警備会社・里見蓮太郎さんにお願いしたいのは、聖天子様の護衛任務です」

 

 

 

 

 

 

 

 取り敢えず話を聞いてみる事にする。そう返事すると、綾耶の行動は早かった。蓮太郎の襟首をひょいと引っ掴むと入ってきた窓から飛び出して、東京エリアの空を舞った。

 

「うおおおっ!?」

 

 蓮太郎は以前、延珠に肩車されて崖から飛び降りた事がある。その時は広がる景色に人間のちっぽけさを思い知らされたものだが、綾耶のこれは跳躍の上を行く飛行。足下では東京エリアの街並みが流れていって、世界の広さが分かる。齢十六にして、色々と悟りの境地に至った気がした。

 

 聖居へは10分弱で到着した。地面ギリギリで逆噴射を掛けた綾耶は蓮太郎と共に正面玄関へと着陸する。人目もあったが、殆どの者はもう彼女が空を飛ぶ姿には慣れっこなのだろう。一瞬だけ足を止めて視線を向けるものの、あんぐりと口を開けて棒立ちになっている数名を除いては別段気にした風でもなく歩き始める。ある意味彼女の存在は聖居の初心者を見分ける試金石になっているのかも知れない。

 

 綾耶が慣れた様子で守衛に蓮太郎の名前と来意を告げる(綾耶自身は聖天子のイニシエーターなのでフリーパス)と、守衛側で何度か連絡を取り合った後、前後をサンドイッチされて記者会見室へと通された。一番奥のひな壇には聖天子が登壇していて、ちょうど記者会見のリハーサル中のようだった。

 

「すいません、蓮太郎さん。聖天子様はインタビューの練習中のようですから……少しだけ待ってもらえますか?」

 

 蓮太郎は適当に頷いて、5分ばかり待つ。そうしてリハーサルが一段落した所で、壇上の聖天子は二人に気付いた。居住まいを正してにっこりと笑う。

 

「聖天子様、蓮太郎さんをお連れしました」

 

「ご苦労様です、綾耶」

 

 聖天子は白い手袋をした手でそっと自分のイニシエーターの頭を撫でてやると、蓮太郎に向き合った。

 

「綾耶から大体の話は聞いてる。何でも護衛任務って事らしいが……」

 

「里見さん、実は大阪エリア代表の斉武大統領が非公式に明後日、この東京エリアを訪れます」

 

「なにっ?」

 

 斉武宗玄。子供である綾耶も名前ぐらいは知っている。現在の日本は札幌、東京、仙台、大阪、博多の5つのエリアに分割統治されているが、その内の一つである大阪エリアの国家元首だ。だが蓮太郎の様子は相手がただ大物である事に驚いているだけでなく、斉武宗玄という個人を知っているからこその反応に見える。

 

「けど、ここ数年東京エリアと大阪エリアはロクなコンタクトを取ってこなかった筈だぜ? 何で今更……」

 

「用件は分かりませんが……今である理由は、菊之丞さんの不在が大きいかと」

 

 そう言えば数日前のニュースで、菊之丞は中国やロシアを訪問すると報道されていたのを蓮太郎は思い出した。あの老人と斉武宗玄は昔からの政敵同士だ。鬼の居ぬ間にという言葉があるが、留守を狙ってやって来るという訳か。

 

「つまり、斉武宗玄が東京エリアに滞在している期間中、俺があのジジイの代わりにあんたの護衛をしろって事か?」

 

「はい、リムジンでの移動中は私の隣に、会談中は私の後ろに控えて私を警護して欲しいのです」

 

 聖天子の言い分は分かった。だが蓮太郎は少し腑に落ちないという表情になる。

 

「あんたには綾耶が居るだろ? わざわざ俺を雇わなくても、こいつ一人で下手な一個小隊より頼りになるぜ?」

 

 すぐ後ろに立っていたイニシエーターを振り返って蓮太郎が言う。綾耶は少しだけ照れくさそうに頭を掻いた。

 

「真面目な場です。子供は連れて行けません」

 

 成る程、と蓮太郎は頷く。叙勲式の場で紹介するぐらいだ。聖天子とて綾耶を信じていない訳ではないだろうが、やはり制約は色々とあるのだ。直轄のイニシエーターとは言え同時にガストレアウィルスの保菌者であり子供でもある。それに聖天子付補佐官の菊之丞は超が付く呪われた子供たちの差別主義者。四六時中一緒に居て守るという訳には行かないらしい。

 

「それに綾耶以外にも護衛が居るだろ? 聖室護衛隊……だったか?」

 

「ええ、ちょうど紹介しようと思っていた所です。入ってきて下さい」

 

 聖天子が手を振って合図すると数名の男達が軍靴を踏み鳴らしながら記者会見室に入ってきて、一糸乱れずに整列した。彼等が着ている揃いの外套は、綾耶が羽織っている物と同じ特徴を持っている。彼女のは体格に合わせて改造が入っているので、寧ろこちらがオリジナルなのだろう。綾耶は聖天子のイニシエーターという立場上所属している特別隊員で、この男達が正規の隊員という訳だ。

 

「里見さん、こちらが隊長の保脇さんです」

 

 聖天子の紹介に合わせ、眼鏡を掛けた長身の美男子が進み出てきた。

 

「ご紹介に与りました保脇卓人です。階級は三尉、護衛隊の隊長を務めさせてもらっています。お噂はかねがね。もしもの時はよろしくお願いしますよ、里見君」

 

 笑顔を作って手を差し出してくるが、口は笑っていても目が笑っていない。あまり歓迎されていないと悟った蓮太郎は警戒心を強くする。

 

 両者無言のままで不穏な空気を感じ取った聖天子が何事か言おうとするが、その前に綾耶が動いていた。宙ぶらりんだった蓮太郎の手をぐいっと引くと、待っている保脇の手まで動かして強引に握手させてしまった。

 

「蓮太郎さん、握手もしないのは失礼ですよ?」

 

 窘めるような口調ながらいつも通りの笑顔で微笑む綾耶に、蓮太郎も些か毒気を抜かれた。取り敢えずは保脇三尉と握手を交わす。だがこの時、保脇は蓮太郎の手に指を回しただけで、決して掌を合わせようとはしなかった。やはり、快くは思われていないらしい。

 

「では、依頼を受けていただける場合は必要書類に記入の上、こちらに連絡して下さい」

 

 聖天子がそう言って目線で合図を送ると、控えていた秘書の女性が進み出てきた。鋭角的な眼鏡を掛けたその秘書は綾耶の傍を通る時に一瞬だけじろりと彼女を見て、そして蓮太郎の前に来ると一通りの説明の後に契約書を手渡した。

 

「私は次の予定が押していますので。綾耶、蓮太郎さんを送っていってください」

 

「はい、聖天子様」

 

 

 

 

 

 

 

 帰り道、聖居の中を綾耶に先導されて歩きながら、蓮太郎はこの建物の建築様式がどうにも自分に合わない事を実感していた。審美眼の無さに泣けてくる。と、綾耶が話し掛けてきた。

 

「実は、聖天子様が急に蓮太郎さんに今回の話を持ち掛けたのには別の理由があるんです」

 

「別の理由?」

 

「元々、菊之丞さんは留守の間の事は保脇さん以下聖室護衛隊に一任されてたんです。ところが今朝、聖室護衛隊の隊員二人……城ヶ崎大胡さんと芦名辰巳さんが外周区で重態で発見されて、護衛の為の人員が足りなくなったんです。それで信頼出来る民警として、蓮太郎さんに白羽の矢が立ったんです」

 

「重態、っていうのは? まさか呪われた子供たちにやられたとか?」

 

 深刻な表情になる蓮太郎。もしそうだとしたら、これは「奪われた世代」が抱く憎しみをより強いものとする呼び水となってしまう。ましてや聖室護衛隊を害したとあっては、世論が呪われた子供たちの排斥へと大きく動きかねない。

 

「いえ、それが良く分からないんです」

 

「分からない?」

 

「ええ、二人ともかすり傷一つ負ってはいなかったんですが、代わりに髪が真っ白になった上に全部抜けてしまっていたらしくて……よっぽど怖い思いをしたみたいです。会話も成立しないので何があったのか皆目見当が付かなくて……」

 

「ふぅん……?」

 

 話しながら、綾耶は「あ」という言葉と共にはっとした表情になると、人差し指を唇に当てた。

 

「れ、蓮太郎さん。これオフレコでお願いしますね。守秘義務があるので……」

 

 それを聞いた蓮太郎はにやりと意地の悪い笑みを浮かべる。しっかりした奴だと思っていたが、やはりこういう所はまだ子供だ。ステージⅣの大群を蹴散らしたりゾディアックを足止めしたりして今まで遠い世界の住人のように思えていた綾耶が、急に身近に思えてきた。

 

「ふふふ、どうするかな……聖天子様に言い付けてしまうか……」

 

「あわわ、そればかりは許してください。何でもしますから……」

 

 ちょっとからかい過ぎたか。蓮太郎は苦笑するとわたわた慌てる綾耶の頭に手を置いてわしゃわしゃと撫でてやる。

 

「それじゃあ今度、メシでも奢ってくれ」

 

 その言葉に、綾耶の顔はぱぁっと明るくなった。

 

「はい、それなら是非。延珠ちゃんも一緒に」

 

 こうして二人は笑いながら聖居を出る……とは、問屋が卸さなかった。柱の影から聖室護衛隊の面々がぬっと姿を現して、彼等は手にしていた銃を突き付けると蓮太郎を手近な男子トイレに連れ込んでしまう。綾耶もなし崩し的に一緒にトイレに入った。

 

「喚くな」

 

 そう言ったのは、腕を後ろ手に組んで尊大な態度でやって来た保脇三尉であった。

 

 どう考えてもこれは親睦を深めようという空気ではない。綾耶はそれを敏感に感じ取って……

 

「あー……保脇さん? 僕は教会出身だからってそういう趣味の人を否定したりはしませんけど、いくらなんでも最初がこんな所なんて……ちょっと、ばっちくないですか?」

 

「「「…………」」」

 

 物凄く気まずい沈黙が下りて、綾耶はいたたまれなくなった。場を和ませようとした会心のジョークだったのだが……思い切り滑ってしまった。和ませるどころか氷点下に凍て付かせ、ついでにより殺伐とさせてしまった感すらある。

 

 保脇は鋭い目で綾耶を睨んだが、もう彼女を無視する事に決めたらしい。蓮太郎に向き直る。

 

「里見蓮太郎、この依頼を断れ。聖天子様の後ろに立つのは僕の役目だ」

 

「何だと?」

 

「目障りなんだよ。何がゾディアックを倒した英雄だ。あの日、たまたまレールガンモジュールの傍に居たのが貴様だったというだけではないか。もしあの場に僕が居れば、僕がゾディアックを倒していた」

 

 一度言葉を切ると、一瞬だけ忌々しげな目を綾耶へと向ける。

 

「コレから聞いたかも知れないが、天童閣下は留守を僕に任されたんだ。本来なら、聖天子様の隣は僕のものだったんだ」

 

 この依頼は聖天子の一存であり、保脇は勿論菊之丞も関わってはいない。あのジジイが帰ってきてこれを聞いたらどんな顔をするかなと蓮太郎は思って、そして考えない事にした。

 

「あんたはいつもすぐ傍で守ってるだろ」

 

「バカめが、それと車中や会合での護衛を一緒にするな。そんな大役はお前みたいな奴には分不相応だと言ってるんだ」

 

「ちょ、ちょっと待って下さい。蓮太郎さんも、保脇さんも!!」

 

 一触即発の空気を感じ取って、綾耶が二人の間に割って入った。

 

「護衛隊、民警、イニシエーターと立場は違っても、僕達は聖天子様をお守りする仲間でしょ? 仲間同士で喧嘩してどうするんですか!?」

 

 仲裁しようとした彼女だったが、これは業火にガソリンを注ぐ結果に終わった。保脇の頭に血が上って、顔が赤くなる。

 

「仲間!? 仲間だと!? 貴様みたいな赤目の化け物が僕達と同格だと!? 巫山戯るな!! 僕は貴様がその制服を着ている事も、この聖居に出入りする事も我慢ならないんだ!! ちょうど良い機会だ将城綾耶、貴様は今日限り、聖天子様のイニシエーターを辞めろ。そうしたら命だけは助けてやるよ」

 

 保脇が腰のホルスターから拳銃を抜いた。それを合図として、周りを固めていた護衛官達も一斉に銃をドロウする。蓮太郎と綾耶は顔を引き攣らせた。本気か? いくら人目が無いとは言え、聖居内で銃を抜くなど……

 

「あんた、そんなに俺や綾耶が聖天子様の護衛に付くのが気に喰わないのかよ」

 

 一瞬でも隙を見付けたらすぐさまXD拳銃を抜けるように身構えつつの蓮太郎の問いに、保脇は「それだけじゃない」と前置きすると、舌なめずりした。

 

「聖天子様はお美しく成長され、今年で16歳になられた。そろそろ、東京エリアにも次代を担う国家元首としての世継ぎが必要とは思わんか?」

 

 欲望丸出しの発言を受け、蓮太郎はもう保脇への嫌悪を隠そうともせず、綾耶も流石にドン引きしていた。いくら9歳児とは言え色々治安が悪い外周区の出身。その手の知識も自然と身に付いていた。

 

「せ……聖天子様が結婚する人は、聖天子様が選ばれます。保脇さんが聖天子様と結婚したいなら、真面目に仕事してコツコツと評価を積み上げてくべきだと思います。こんな所でこんな事したって、何にもなりませんよ。い……今なら誰も傷付けてないし何も壊してないから、大丈夫ですよ。この事は僕も蓮太郎さんも秘密にしますから……ね、蓮太郎さん!! だからこんな事は……」

 

 戸惑いながらもフォローを入れていく綾耶だったが、しかしまたしても逆効果に終わった。

 

「黙れ赤目!! 貴様に物を教えてもらおうとは思っていない!!」

 

「化け物風情が人間の言葉を喋るな!!」

 

「引っ込んでいろ、成り上がり者め!!」

 

 保脇や護衛隊の面々に限った話ではないが、奪われた世代がガストレア、ひいてはその因子を持つ者へ抱く憎悪・差別意識は根深い。彼等にとっては意見の正否などどうでも良く、呪われた子供たちである綾耶の言葉はそれだけで無条件の否定の対象なのだ。

 

「さて、里見蓮太郎。返事を聞こうか?」

 

「あんたの指図は受けねぇよ」

 

 保脇はその返事を受け、機嫌を悪くするどころかむしろ良くしたようだった。口の端をきゅっと釣り上げると、顎をしゃくって部下に合図する。

 

「腕と脚の骨を粉砕しろ。里見と赤目、両方だ!!」

 

 向けられている拳銃の引き金に掛かった指に力が入るのを感じ取って、蓮太郎は反射的にXD拳銃に手を伸ばす。抜き放った銃口が保脇の額に照準され、それを見た護衛隊員が動揺して動きを止める。瞬間、両眼を紅く染めて力を開放した綾耶が動いていた。パワー特化型イニシエーターの力で小便器の給水管を掴むと、ポスターを剥がすように壁からむしり取ってしまった。そのまま小便器を棍棒のように構える。

 

「そこまでです!! 全員、銃をしまって下さい!! さもないとコイツでブン殴りますよ!!」

 

 あんな物で殴られたら……!! 二重の意味で恐れをなして蓮太郎も保脇も護衛隊員達も、思わず息を呑んで銃を下ろした。おろおろとしている部下達を見て、我に返った保脇が「狼狽えるな馬鹿者ども!!」と一喝すると、憎しみに燃えた目で蓮太郎と綾耶を見た。

 

「殺してやる、殺してやるぞ!! お前ら二人ともな!!」

 

 捨て台詞と共に隊長が立ち去っていくと、他の護衛隊員もその後に続いて退出していく。残されたのは蓮太郎と、特別隊員の綾耶のみ。綾耶は小便器をぽいとトイレの床に投げ捨てると、手を洗ってから蓮太郎へと振り返って頭を下げた。

 

「すいません、蓮太郎さん……嫌な思いをさせてしまって……保脇さんも菊之丞さんが居ない事で気が立っているんだと思います。無理だとは思いますけど、どうか気を悪くしないでください」

 

「お前が謝る事じゃねぇだろ」

 

 ぶっきらぼうにそう言った後で、蓮太郎は同情的な表情になった。

 

「お前も苦労してんだな。色々と……」

 

 綾耶の事は(勿論本人の努力もあるだろうが)聖天子直轄のイニシエーターに抜擢されるという幸運に恵まれた子だと思っていたが、色々と苦労も多いらしい。無論、呪われた子供たちだという時点で周囲からの蔑視は当然あるだろうがと想像していたが、現実はもっと過酷なようだった。なまじ聖天子から厚遇されている分、風当たりも強いのだろう。

 

「まぁ……仕方無いですよ。大切な人を奪われたら、誰だって何かを憎まずにはいられないでしょうから」

 

 眼鏡を掛け直してどこか諦めたようにそう言う綾耶の頭に、蓮太郎は手を乗せた。

 

「蓮太郎さん?」

 

「綾耶、聖天子様に伝えてくれ。今回の依頼、受けるってな」

 

「ありがとうございます、蓮太郎さん。それじゃあ、アパートまでお送りしますね」

 

 入り口まで移動すると、綾耶は蓮太郎をおんぶして再び空を飛ぶ。

 

 飛び立っていくその姿を、聖居すぐ傍の噴水に腰掛けて、ぶかぶかのパジャマを着たプラチナブロンドの髪をした少女が見上げていた。その少女は寝ぼけ眼で、半開きの口を動かして呟く。

 

「空を飛べる人……見るのは二人目です……」

 

 

 

 

 

 

 

 その日の夜、東京エリア郊外。そこは貨物コンテナが整然と積み上げられている場所だった。レンタルボックスというもので、値段は月8000円からとなっている。

 

 ここは不審者が入ってこられないよう一応のセキュリティとしてICカード式の無人ゲートが設置されていたが、しかし今回の闖入者は空からやって来た。空気の抜けかけた風船のようにふわふわと下りてきて、音も無く着地する。ソニアだ。

 

 デンキウナギの因子を持つイニシエーターである彼女は体内で高圧電流を発電し、多岐に応用する事が出来る。たった今、空から下りてきたのもこの力だ。電子を操ってイオノクラフトの原理でイオン風を作り出し、空を飛んだのだ。

 

 大地に降り立ったソニアは立ち並ぶコンテナを見渡すと、そっと手をかざした。かざしたその手を、一つずつコンテナへと向けていく。

 

 これは医者が行う触診に近い行為だった。医師が患者の体に触れて、指先に走る違和感から腫瘍を探すように。ソニアは今度は電気から作った磁力線を掌から放射して、コンテナの中身を走査していた。幸いにして探している品は金属だ。金属ならばその大きさや数は勿論、形に至るまでソニアは視覚に頼らず把握する事が出来る。

 

 一つ、また一つと手を動かしていく。どのコンテナにもいくらかの金属は入っているが、探している物とは違う。

 

「……ここも、ハズレかしら?」

 

 ぼやくようにひとりごちたその時、かざしていた手の動きがぴたりと止まる。

 

「ん!!」

 

 膨大な数の金属が収められているのを感じ取り、向けられた掌の先にあったコンテナへと近付いていくソニア。そのコンテナは差し込み式の鍵と番号入力によって開く形式になっている。無論、ソニアは合い鍵を持っていないしセキュリティナンバーも知らない。だが問題は何も無い。彼女はマスターキーを持っていた。金属製の扉である限り、どんな場所のどんな扉にも使える万能錠を。

 

 磁力でコンテナのドアを掴むと、軽く手を振る。それだけで頑丈な鋼鉄製のドアは、藁で出来ているかのように引き千切られた。ソニアはもいだドアを脇へと捨てると、中へ入っていく。内部は暗かったが、何も問題は無い。彼女がちらりと視線を動かすと、天井に据え付けられたライトが点灯した。電気を操るソニアは、電線や監視カメラの類がどこにあってどう走っているかが本能的に分かるのだ。今回はコンテナ内部の電線に、体内発電したエネルギーを流したのだ。

 

 明るくなった室内は、武器庫の様相を呈していた。

 

 拳銃、小銃、狙撃ライフル、ロケットランチャーにグレネードランチャー、対物ライフルにガトリングガンまで弾薬も合わせて床、壁、天井と余す所無く並べられている。

 

「ふん、ランドらしいわね。何が必要か分からないから、集められる物を集められるだけ揃えたって感じね」

 

 間違ってはいないが、無駄が多い。実際に仕事で使われるのは、この中のほんの一握りだろう。これだけの物を持ち込めば足が付くリスクも高まるだろうに。

 

「まぁ、足が付いても捕まるのはイニシエーターだけ。自分にはリスクが無いから出来るんだろうけど」

 

 吐き捨てつつ武器庫の中を検分していたが、やがて一丁のライフルに目を止める。手をかざすと10キログラム以上もある対戦車ライフルが浮き上がって、ソニアの20センチ手前の空間で静止した。彼女は空中でライフルをくるくる回しつつ、特徴を観察していく。

 

「バレット社製対戦車ライフル……」

 

 ティナの愛銃だ。間違いない。やはりこのコンテナの中身は、ティナの仕事をサポートする為にエイン・ランドのクズ野郎が送り付けてきた物だ。奴の、いつものやり口だ。ソニアはふんと鼻を鳴らすと磁力パワーを止めた。瞬間、対戦車ライフルは支える力の喪失によって床に落ちる。

 

 ソニアはコンテナの外に出ると、両手をかざして再びマグネティックパワーを発動させる。この武器が入っていたコンテナは三段に積まれた一番下だ。まず彼女が軽く右手を動かすと上の二段が空中に浮上した。次に左手を動かしてダルマ落としのように一番下の段を抜くと、それによって空いた空間にたった今持ち上げた上の二段をそっと下ろす。後は、未だ空中に浮いたままの武器庫コンテナの処分だが……

 

 軽く腕を引いて、ぐっと突き出す。その動作だけで数トンもあるコンテナは遠投で使われるソフトボールのように吹っ飛んで、やがて見えなくなった。

 

「これであのコンテナは東京湾にドボン……この会社の人には、後で損害額を補償しなくちゃ」

 

 ひとりごちるソニアは腕組みしつつ、思考を次の段階へ進める。

 

 これで、ティナの武器はいきなり殆どが無くなった。定石なら次はここで待機して、彼女がやって来るのを待つべきだろうが……しかし既に必要な分の銃はあの中から持ち出されている可能性もある。それにこのレンタルボックスの他にも、同じように武器が持ち込まれた場所があるかも知れない。ここで間抜け面して張り込んでいる間に聖天子が暗殺されたというニュースを聞くなど、笑い話にもなりはしない。

 

「まぁ、ターゲットは分かってるんだし、聖天子のすぐ近くで待ち伏せするのが確実かしらね」

 

 うんと頷いて考えを纏めると、ソニアは月に向かって飛び去った。

 



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第15話 守る者、殺す者、守る者

 

 聖居を出てかれこれ二時間。リムジンは目的の超高層建築ホテルに着いた。ここの最上階が本日の、聖天子と斉武大統領との会談場所だった。蓮太郎が一足先に下車して周囲に異常と危険が無い事を確認するとほぼ同時に、車のすぐ近くに綾耶が羽のような動きで下りてきた。リムジンの中には蓮太郎と延珠が詰めているので、彼女は空からリムジンを守る事が仕事だった。

 

「蓮太郎、お仕事頑張ってくるのだ」

 

 リムジンでは延珠が手を振ってパートナーを送り出している。

 

「聖天子様、僕は延珠ちゃんと車の中で待機してますので……何かありましたらいつでもお呼び下さい」

 

 綾耶も自分のプロモーターを送り出すが、延珠とは随分違う。イニシエーターとプロモーターの関係は人それぞれで千差万別だが、二人並べると良く分かる。蓮太郎と延珠は対等のパートナーだが、聖天子と綾耶は主従だ。

 

 互いのプロモーターがホテルに入っていったのを見届けると、綾耶はリムジンに乗り込んで延珠と対面の席に座る。

 

「綾耶、どうせ会談など長引くに決まっておる。トランプでもするか?」

 

「まぁ、仕事に差し支えない程度にね」

 

 延珠からトランプを受け取ると、綾耶は慣れた手付きでシャッフルしていく。昔を思い出す。外周区で暮らしていた頃には二人でよくこうして遊んでいた。延珠はポーカーフェイスが苦手なので、ババ抜きもポーカーもいつも綾耶の勝ちで終わっていた。そして今回も、結果は同じだった。

 

 十連敗した所で、延珠がカードを放り出した。

 

「うぬぬ……少しは手加減するのだ、綾耶!!」

 

「勝負の世界は厳しいんだよ、延珠ちゃん。次は本でも読む? 面白いよ」

 

 勝ち誇りつつ綾耶はトランプを片付けると、持ち込んでいた文庫本を渡す。愛読書である「ガウェイン卿と緑の騎士」だ。

 

 延珠は興味半分といった様子で読み始めるが、ページを十回も捲らぬ内に瞼が重くなって、うつらうつらし始めた。そんな親友に綾耶は苦笑しながら、羽織っていた聖室護衛隊の外套を毛布代わりに掛けてやる。

 

 綾耶も任務を忘れた訳ではないが、しかしイニシエーターとして実戦で磨いて鍛えたカンは危険を告げてはおらず、両腕が感じる空気の流れも、今の所は異常無し。不測の事態が起こった時にはすぐにエンジンをフルスロットルに持って行けるよう心構えだけしつつ、背もたれに体を預けて目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 延珠の予想は的中した。聖天子と蓮太郎がリムジンに戻ってきたのは二時間後であった。

 

 ホテルの中では何事も無かったようで、やきもきしていた綾耶はほっと胸を撫で下ろした。リムジンから降りて、二人を出迎える。

 

「お疲れ様です、聖天子様。蓮太郎さん」

 

 一礼すると、綾耶は両腕に空気を集め始める。空を飛ぶ準備だ。帰り道でも、彼女は空からリムジンを警護するようにと保脇から命令を受けている。聖天子直轄のイニシエーターである綾耶だが同時に聖室護衛隊の一員でもある。よって聖天子からの命令に矛盾しない限りは護衛隊長である保脇の命令に従う義務があるのだ。しかし、仮にも護衛の一人であると言うのに綾耶は護衛計画について事前説明を一切受けておらず「空からリムジンを守れ」と言われたきりだ。

 

 後で知った事だが、蓮太郎も同じように何も知らされずに聖居に行くといきなりリムジンに乗せられたらしい。

 

 これは保脇達が意図的に蓮太郎や綾耶をのけ者にした結果なのだろうが……いくら何でも護衛対象の最も近くにいるボディガードが護衛計画を知らないのは問題があるとか無いとか、そういうレベルを超えているのではないか? さしもの綾耶も胸中で不安を呟いた。

 

『もしこれが原因で聖天子様の身に何かあったら……どうするんですか……? 保脇さん』

 

 ……とも思うが、まぁ要するに何が起ころうが自分が聖天子様を守る。その覚悟で任務を遂行すれば良いと思い直して飛び立とうとした時、聖天子から声が掛かった。

 

「綾耶、帰りは一緒に車で帰ってもらえませんか?」

 

「は……」

 

 予定とは違うので綾耶は少し戸惑ったように蓮太郎を伺う。民警の少年は黙ったままで一度首を縦に振った。ホテルの中で何があったのかは計り知れないが、しかし良く見ると聖天子の表情は少し暗い。斉武大統領との会談が不調に終わったという結論に辿り着くのに、大した推理力は必要ではなかった。

 

「聖天子様が、望まれるのでしたら」

 

 そう言った綾耶が聖天子のすぐ隣に座ってドアを閉めると、リムジンが走り出した。

 

 暫く走った所でスマートフォンを見ると時間は午後7時を過ぎていた。ちらりと綾耶が視線を送ると、彼女の主が窓から見える景色に目をやりながら溜息を一つ吐いたのが分かった。

 

「そんなに落ち込むなよ」

 

 蓮太郎が声を掛ける。それを受けて聖天子が彼に視線を移す。

 

「別に落ち込んでなど……」

 

 少し意地っぽくそう言って一度言葉を切ると、首を振った。

 

「そうですね……少し、落ち込んでいますね。誠意を持って話せばどんな人でも分かってくれると信じていましたから、そう思う所もあるかも知れません」

 

「……やっぱり、斉武大統領との話し合いは上手く行かなかったんですね」

 

 心配そうに上目遣いで言うイニシエーターの頭を、聖天子は優しく撫でてやった。

 

「あなたが心配する必要はありませんよ、綾耶。何も、ね」

 

「その命令は聞けません。聖天子様がそんな顔されていては心配するななんて無理な相談です」

 

 即答する綾耶。聖天子は少しだけ目を丸くする。くすっと笑って、もう一度頭を撫でた。本当に、真っ直ぐな子だ。少しだけ、どんよりしていた車内の空気が和らいだ。

 

「良いイニシエーターじゃねぇか。もっと色々話してやれよ」

 

 延珠を膝枕しながら、からかうような口調で蓮太郎が促す。頷いた聖天子が「そうですね」と返して、会談の顛末を話し始めた。

 

 綾耶が感じた通り、今日の会談は不調も不調、大不調の絶不調に終わったらしい。調和を重んじる理想主義者である聖天子と、野心家で現実主義の斉武大統領は水と油以上の相性の悪さ、例え無重力空間でも混ざり合わないぐらい相容れない存在であるという事を、共通の認識として持てた事が唯一の成果という事らしい。

 

「まぁ、斉武宗玄は菊之丞でも手を焼くような奴だ。言いなりならなかっただけでも、あんたは良くやったよ」

 

「蓮太郎さんこそ、あの斉武大統領を向こうに一歩も引きませんでした。私の周りには家庭教師から菊之丞さんに至るまで敬語で接してくる人ばかりでしたから、新鮮に映ります。あなたのようにはっきり物を言う人は今まで私の周りには……一人しか居ませんでしたから」

 

 聖天子は傍らにちょこんと腰掛けている彼女のイニシエーターを見て、笑いかける。

 

 尤も、綾耶とて敬語で接するという点では聖天子の周りにいる他の者と同じだ。でも、彼女は嘘を吐かない。その点で、好かれようなどとは露とも思わず、本音でぶつかってくる蓮太郎とは共通点があった。(無論それだけではあるまいが)綾耶を重用したり、今回の護衛でも序列30位の枢ではなく1000位の蓮太郎を指名してきたのにはこういう事情があったという訳だ。

 

「どうぞ、聖天子様。蓮太郎さんも」

 

 綾耶が冷蔵庫から取り出した桃ジュースを勧めてくる。聖天子と蓮太郎はそれぞれグラスを受け取って一口飲むと、話を続けていく。その大部分はまだ子供の綾耶には良く分からないないようだったが……分かる部分もあった。

 

「里見さん、私は平和を体現しなければなりません。言葉ではなく、行動によって。私は、これ以上世界に悲しみの種が撒かれる事に耐えられない」

 

「だから、綾耶を拾ったのか?」

 

「それは……偽善だと、思いますか?」

 

 少し厳しい言葉で追求する蓮太郎に、応じる聖天子の言葉はどこか自嘲気味だった。確かに綾耶をイニシエーターとして取り立てたのはガストレア新法を成立させる為の政治的意図もあったろうが、彼女の境遇に同情していた一面もあったかも知れない。だがそれも、何の解決にもなってはいない。彼女一人救った所で、過酷な暮らしを強いられている呪われた子供たち全てが救われる訳ではない。

 

 偽善、自己満足。そう言われても仕方無い側面もあるだろう。それは聖天子も自覚していた。

 

 だがここには、少しの思考も介さずにそれに否と答える者が居た。

 

「そんな事ないですよ!!」

 

 元気の良い声の主は、綾耶だ。

 

「聖天子様に拾われて、少なくとも呪われた子供たちが一人幸せになれました。間違いなく、それは善い事だと僕は思います!!」

 

 幸せになったその一人の呪われた子供たちが浮かべる笑顔は、綾耶の言葉が虚飾や世辞の類ではなく紛れもない彼女の本心であると、聖天子と蓮太郎へ何より雄弁に教えていた。

 

 全ての呪われた子供たちを救う事は出来ていない。それは事実だ。

 

 同時に、綾耶を救えた事も事実だ。

 

「聖天子様は僕に、沢山のものを与えて下さいました。でも、何かが違えば僕も他の呪われた子供たちと同じ境遇だったかも知れません。外周区で貧困に喘ぎながら、寒さに震えて明日の命を願う生活を続けていたかも……僕は、僕の運命をただ運が良かったってだけで終わらせたくないんです。呪われた子供たちも、普通の子供も関係無く、一人でも幸せになれるような世界にする為に、僕の力を役立てたいんです」

 

 綾耶はそこで一度言葉を切って「だから」と前置きすると、座り直して彼女の主へとしっかり向き合う。

 

「聖天子様の理想を実現する為に、僕にもお手伝いさせて下さい!!」

 

 それを聞いた二人は少しの間ぽかんとしていたが、やがて国家元首は微笑みながら目を潤ませて、プロモーターはにやっと笑って背もたれに体を預ける。

 

「綾耶、お前は……子供じゃないけど、子供だな」

 

 早熟な面もあるが、所詮は十歳にもならない子供だ。世界の不条理も、現実の無慈悲さも、人間が同じ人間にどれほど残酷になれるのかも、何も分かってない。

 

 でも、だからこそ輝いている。蓮太郎や、恐らくは聖天子もいつの間にか失ってしまったもの。希望や理想、夢やときめきを持っている。そんな綾耶は二人には眩しくて、どこか羨ましかった。

 

 すっと差し出された聖天子の手が、綾耶の頬に優しく触れた。

 

「では……頼みますよ綾耶。私は暗殺や謀殺に見舞われる危険の多い身の上です。私を、守って下さいね」

 

「はい、僕の力の限りお守りします!! 菊之丞さんや保脇さんだって!! 勿論、蓮太郎さんも協力してくれますよね?」

 

「えっ、俺?」

 

 だしぬけにそう言われて素っ頓狂な声を上げる蓮太郎。延珠は親友で、そのプロモーターで相棒の蓮太郎は無条件で味方。綾耶の中ではこんな認識なのだろう。勝手に決められた蓮太郎だが、しかし彼が裏切ったり敵になる事など夢にも思わないどころかこの目で見ても信じないという風に信頼の眼差しを向けられるのは、不快ではない。

 

 こりゃ、腹を括るか。天童民間警備会社のプロモーターは「負けたよ」と肩を竦めた。

 

「分かった。どこまで力になれるか分からねぇが、俺も協力させてもらうさ」

 

「わぁ、ありがとうございます!!」

 

 顔を輝かせた綾耶が蓮太郎に飛び付こうとするが、今まで彼の膝の上で寝息を立てていた延珠がぱっと目を覚まして飛び起きた。綾耶は持ち前の反射神経で避けたが蓮太郎はそうも行かず、跳ね上がった延珠の頭が顎にクリーンヒットして少し涙目になった。

 

「あ、延珠ちゃんおはよ……」

 

「今、妾の蓮太郎レーダーに何かが反応した……」

 

「蓮太郎レーダー?」

 

「うむ、蓮太郎に悪い虫が付きそうになると反応するのだ。綾耶、蓮太郎は駄目だぞ」

 

「はっ?」

 

「蓮太郎はおっぱい星人だから、木更よりおっぱいが小さいと女と認識されないのだ。だから無理、諦めるのだ」

 

 もう一組のプロモーターとイニシエーターが蓮太郎へ向ける視線が、氷点下の冷たさを宿した。

 

「里見さん、不潔です」

 

「やはり天誅を……んっ!?」

 

 綾耶の掌に穴が開いて、空気が出入りしてシューシューと音を立てる。彼女としては圧縮空気のカッターで蓮太郎を去勢してしまおうと思っての行動だったが……不意に、びくりと体を震わせて窓から見える東京エリアの夜景に視線を送る。

 

「綾耶、どうしたんだ?」

 

 様子がおかしい事を見て取った蓮太郎が声を掛けて、そして傍らの延珠も同じ風である事に気付いた。食い入るように前を見ている。

 

「二人とも、一体……?」

 

「蓮太郎、何だろう。イヤな予感がする」

 

「危険が迫ってます。蓮太郎さん、念の為に手はドアノブに掛けておいて下さい」

 

 いつでもドアを開けて脱出出来る準備をしろ。そう言われた蓮太郎は緊張した面持ちになって言われた通りに動き、聖天子の手が綾耶の肩に触れた。

 

 蓮太郎は延珠の視線に合わせて、窓から見える景色を注意深く観察する。見る限り、異常はどこにも発見出来ない。だが延珠と綾耶は二人とも、運動能力・感覚器官など全てに於いて人間の限界を超越した能力を持つイニシエーター。特に綾耶には、両手の空気を吸い込む器官で大気の流れを感じ取り、レーダーのように周囲の状況を把握する力がある。

 

 どちらか一方なら兎も角、二人共が異常を訴えているのだ。それを単なる気の迷いで片付けられるほど、蓮太郎は楽天的ではない。何か起こった時にはすぐさまこの車から飛び出せるように気構えすると、瞬きもせずに延珠と同じ方向を凝視する。

 

 チカッ!!

 

 ビルの屋上で、一瞬だけ何かが光った。

 

 マズルフラッシュ!!

 

「伏せろっ!!」

 

 瞬間、蓮太郎は延珠の頭を押さえ付ける。綾耶も聖天子に覆い被さり、守ろうとする。一秒としない間にガラスが木っ端微塵になった。襲ってくる衝撃。驚いた運転手が急ブレーキを掛けて、急激なGによって体が揺さぶられる。車体はそのまま道路を横滑りしながら、標識にぶつかってやっと止まった。

 

 どうにかこうにかではあるが車が止まった事を認識すると、真っ先に綾耶が動いた。持ち前のパワーでドアをぶち破ると、聖天子を抱えて車から脱出する。二秒遅れて運転手を抱えた延珠が飛び出て、最後によろけながら蓮太郎が出て来た。

 

「ビルの陰に隠れろ!! 狙撃されてるぞ!!」

 

 そう叫んだ時、再びビルの屋上が光った。一秒強の時間を置き、爆発。第二弾がエンジンタンクを撃ち抜いたのだ。

 

「聖天子様、下がって!!」

 

 襲ってきた爆風と飛来した金属破片を、綾耶が前方に展開した空気の壁で止めた。

 

「逃げて下さい、早く!!」

 

「す、すみません綾耶……今ので腰が抜けて……」

 

「……っ!!」

 

 どうする!?

 

 一瞬だけ思考を挟んで、綾耶は次の行動に移った。

 

 フィギュアスケーターのように体をスピンさせると同時に、両腕から空気を一気に排出する。

 

 あっという間にこの一帯の空間が、小規模な暴風圏と化した。

 

「成る程、これなら……!!」

 

 蓮太郎の顔に固い笑みが浮かぶ。

 

 夜間でしかも目測だが、狙撃地点であるビルからここまでは軽く1キロメートルはある。この距離で当ててくるだけでも狙撃手が恐るべき技量の持ち主である事を疑う余地は無い。だが、どれほどの凄腕でもこれほどの横風の中で小さな点でしかない目標に当てる事は無理だろう。

 

 あるいは自然の風ならば、強さや風向きを読み取って弾丸を風に”乗せて”バナナシュートのように命中させてくる事さえ可能かも知れない。だが今、自分達の周囲に吹き荒れているのは綾耶が発生させた人工の風、その吹き方は自然では有り得ない。しかも自然の風と干渉し合って、複雑怪奇な大気の流れを作り出している。どんな腕の良いスナイパーと精巧なライフルの組み合わせでもこの風の防壁を突破し、命中弾を当ててくる事は不可能。嵐の海をイカダで渡り切る事が不可能なように。

 

 ……その、筈だったのだが。

 

 この時点で蓮太郎も綾耶もこのスナイパーの脅威を見誤っていた。

 

 チカッ!!

 

 再びマズルフラッシュ。だが、蓮太郎も延珠も動かない。綾耶が起こした横風が守ってくれている。ここは避けようと下手に動く方が危険だ。

 

 しかし、綾耶の顔が引き攣った。

 

「そんな!?」

 

 両腕が感じる空気の揺れが、飛来する銃弾の軌道を克明に伝えてくる。

 

 信じられない事だが、銃弾は吹き荒れる風の中を蛇行しながら正確にこっちへ向かってきている。

 

『風の流れが、読まれてる……!!』

 

 どんな手段でそれが可能となるのかは分からないが、間違いない。相手は、自分達の周囲の風の動きを知覚している。でなければ、一発の試射も無しに銃弾の軌道をここまでコントロール出来る訳がない。

 

 結局、その銃弾は綾耶とそのすぐ後ろの聖天子から1メートルばかり左の道路を抉って、アスファルトを撒き散らしただけに終わった。

 

 運が良かった、とは言い難い。今のは試射になった。これで狙撃手は風の影響を完全に把握したから、次弾の精度は比べ物にならないぐらい正確なものになっている筈だ。しかも銃弾の威力は、リムジンの防弾ガラスを容易く貫いてくる。大砲よりもほんの1ランクだけ下の対物ライフルクラス。綾耶の風のシールドでもこれは防げない。

 

『ならば……!!』

 

 この状況、打てる手は多くはない。まずはシールドの展開範囲を絞って厚い空気の層を作り出す。そして自分の身を盾にする。二重の防御。これなら少なくとも銃弾の軌道を逸らして聖天子を守る事は出来るだろう。

 

 チカッ!!

 

 四度、ビルの屋上が光った。

 

 来る!!

 

 覚悟を決めた表情を見せて、身構える綾耶。彼女にとっての幸運は、ここにはもう一人イニシエーターが居た事だった。

 

「ハアアアアッ!!」

 

 雄叫びと共に延珠が跳躍して、飛び蹴りを繰り出す。タイミング・位置とも完璧。靴底に仕込まれたバラニウムで弾丸を弾ける。延珠も綾耶も、そう確信していた。

 

 しかし次の瞬間、思いも寄らぬ事が起きた。

 

「っ、なぁっ!?」

 

 延珠が上擦った声を上げる。

 

「そんな!?」

 

 綾耶も同じだった。有り得ない事が起こったのだ。

 

 真っ直ぐ進むしかない筈の銃弾が、延珠の手前でいきなりUターンして前方のビルの壁面に突き刺さった。

 

「い……一体!? 綾耶、お主が?」

 

 驚きつつも着地した延珠が親友を見るが、綾耶も呆けた顔で首を横に振るだけだ。圧縮空気を放出して風を操る彼女だが、その制御とパワーにも限界がある。飛来する銃弾を逸らすなら兎も角、ぐるりと180度近くも軌道を歪める事など出来はしない。あるいは至近距離なら何とかなるかもだが、今回は綾耶と銃弾の間に数十メートルの距離があって明確に射程距離外だった。

 

「ご無事ですか、聖天子様!!」

 

「建物の陰にお連れしろ!!」

 

 今になって、やっと護衛隊の面々がリムジンの前後を固めていた車から出て来て、聖天子のぐるりに人垣を作って後退していく。綾耶はその輪には加わらず、後詰めを固める形でじりじりと引いていく。

 

 蓮太郎と延珠も綾耶の両脇を固める形で、周囲を警戒する。三人はどんな小さな変化も決して見落とすまいと、五感をピークにまで引き上げていた。

 

 異常は、あった。

 

 ブゥゥゥン……と、虫の羽音のような音が聞こえてくる。蓮太郎と延珠が周囲をきょろきょろ見渡すが、異常は発見出来ない。

 

「あっちに何か、丸い物が動いてるみたいです。大きさはソフトボールぐらい……あ、僕の索敵範囲から出ました」

 

 二人は綾耶が指差す先を見るが、目を凝らしても夜闇に紛れてそんな物は見えない。綾耶自身も目では見えていない。彼女の両腕が空気の流れを知覚して異常を捉えたのだ。

 

「……どうやら、もう次は来ないようだな」

 

 大気を凍り付かせていた殺気が急激に失せていく事を感じ取って、延珠がそう呟いた。

 

「ああ、もう逃げたみたいだ」

 

 ひとまずの危険は去った訳だが、蓮太郎は胸を撫で下ろす気分にはなれなかった。

 

 1キロ以上もある距離を、夜間・強風の中で2発まで命中させ、更に次の狙撃では綾耶の作り出した暴風すら物ともせず至近弾を当ててきた。蓮太郎は狙撃に詳しい訳ではないが、それでもこれが常軌を逸した技量である事は理解出来る。しかもただ腕が良いだけでなく、4発撃って狙撃成功の目が少ないと見るや即時撤退に移る引き際の見極め。

 

 恐るべき手練れだ。

 

 懸念はもう一つ。最後の4発目が描いた有り得ない軌道。どんな悪条件が揃っていても自然にああはならない。

 

「一体……何が起こっている?」

 

 

 

 

 

 

 

「すみませんマスター、失敗です。護衛に手練れの民警が居ました。シェンフィールドを回収後、速やかに撤退します」

 

「民警の姿は見たか」

 

「はい。しかし距離が遠すぎて顔立ちまでは見えませんでした」

 

 高層ビルの屋上で、ティナ・スプラウトは手にしていたバレットライフルをケースに収納しながら無線で報告を行っていた。

 

 聖天子の護衛は聖室護衛隊と直属のイニシエーターである将城綾耶だけという話だったが、情報が誤っていたのか直前になって護衛が追加されたのか、どちらにせよ明らかにイニシエーターとプロモーターのペアが護衛に付いていた。特にイニシエーターの方は、最後の狙撃でもし銃弾が逸れなければ間違いなく蹴りで弾いていただろう。音速以上で飛来する小さな点でしかない弾丸を正確に迎撃するなど、いくら体内に保菌するガストレアウィルスの恩恵によって超人的な運動能力を発揮する呪われた子供たちと言えど、同じ芸当が出来る者は多くはない。

 

 将城綾耶も、風を操る特殊能力は狙撃手である自分にとって天敵だった。もし、シェンフィールドが無ければ横風をかいくぐって狙撃する事は不可能だったろう。

 

 どちらも、恐るべき手練れ。楽観出来る相手ではない。

 

『それに……』

 

 最後の一射、あれはまるで弾丸に何か……風以外の不可視の力が働いて軌道が逸れたように見えた。

 

 ティナは狙撃術を学んだ時、1963年のケネディ暗殺で銃弾が魔法のように曲がって飛んだと聞いた事がある。そんな事が、現実に起こり得るとは思わなかったが……しかし、この目で見たのだ。

 

 全く、この任務はマスターが用意してくれていた武器が隠し場所であるコンテナごと消えていた事と言い、今の弾丸と言い、予想外の事ばかり起こる。

 

 まぁ、弾丸に関しては……それが出来る人間をティナは一人知っていたが、すぐに有り得ないと首を振って胸中の迷いを振り払った。

 

「……あの人は……お姉さんはもう居ないんです。あの時、死んでしまったんですから……」

 

 そう、ひとりごちる。

 

「一体……何が起こってるの?」

 

 遠目に微かに見える炎を睨むティナは、すぐ後ろの空中に拳大のビットが浮遊し、搭載されたカメラを自分に向けている事に気付かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「……見付けたわよ、ティナ」

 

 ティナ・スプラウトが居た場所からほぼ対角線上に位置するビルの屋上。ソニア・ライアンは直線距離にしておよそ2キロ離れた地点から脳内に送信されてくるあらゆるデータを整理し、満足げな笑みを浮かべた。

 

 最後の銃弾を曲げたのは、彼女の仕業だ。磁力を操る異能を以てすれば、あの程度の事は造作も無い。

 

 聖天子の動きを追っていけば必ずティナとも接触出来ると考えていたが、間違ってはいなかった。ソニアは思念の蔓を巻き取る。彼女の意志に繋がった磁力によって浮遊していたビットが、彼女の傍へと帰還してきた。

 

 全てのビットが戻ってきた事を確かめると、ソニアはその内の一つをお手玉するように掌で弄ぶ。

 

 思考駆動型インターフェイス『シェンフィールド』。四賢人の一人である米国のエイン・ランドの手によって推進されていた機械化兵士計画「NEXT」の産物で、脳内に埋め込まれたニューロンチップによって操られる偵察用端末だ。各種センサーを搭載しており、対象地点から標的の位置情報・温度・湿度・座標・角度・風速など様々な情報を無線通信で操縦者の脳に送信する。ただし、ソニアが使っているのはそのプロトタイプである。

 

 まず、本来のシェンフィールドには移動手段としてプラズマジェットが内蔵されているがソニアの物にはそれが無い。と、言うよりも推進装置の類が一切積まれていない。だがソニアにはそんな物は必要無い。彼女は体内発電で作り出した磁力によってシェンフィールドを操る。その特性上、本来エンジンや推進剤を搭載するスペースにより多くの観測機器を搭載する事が可能となっており静粛性も比べ物にならない。当然だ、そもそも動く部分が無いのだから。

 

 また、シェンフィールドを操作するのはあくまで機械化兵士とは無関係のソニア自身の能力だ。よって脳内のチップにも偵察機に動作指令を出す機能は存在せず、送信されてくる情報を受信するだけの単純な機能に留められている。この為、ニューロンチップの発熱は最小限に抑えられ、最大の欠点であったチップの発熱による脳への過負荷という問題もクリア、本来シェンフィールドの同時使用は3機が限界の所、ソニアは10機以上を同時に操る事を可能としている。

 

 尤も、これほどの性能を発揮出来るのはあくまで使うのがソニアである事が大前提となっている。彼女以外ではこのシェンフィールドは推進機関を持たないので、只の高性能なカメラでしかない。デンキウナギの因子を持ち、更に自らの能力を発電という基礎だけではなく、そこから派生・発展させて磁力を操れる域にまで極めているソニアだからこそ、ここまでの機能を引き出せるのだ。

 

 元々、彼女はあくまで試験体。機械化兵士としての機能が呪われた子供たちにも転用可能かという可能性を見極める為の叩き台でしかなく、実戦への投入は想定外だった。故にこのような実用性に欠ける装備が搭載されたのだ。きっと、自分と同じような境遇の呪われた子供たちが数多く居たのだろうとソニアは思っている。生き残っているのは、彼女一人だ。彼女はたまたま、自身の能力との組み合わせによって実戦的な力を発揮出来るから、利用価値有りとして生き延びる事を許された。

 

 よって機械化兵士としてソニア・ライアンはプロフェッサー・ランドが後に創造したどの機械化兵士をも凌ぐ能力を発揮したが、機械化兵士の技術それ自体は彼女に搭載されたのをより洗練して過剰機能を廃止、汎用性を高めた物が後継の呪われた子供たちに組み込まれる事となった。ティナ・スプラウトもその一人で、ティナは実戦を想定して創造された呪われた子供たちの機械化兵士「ハイブリット」の最初の一人だった。

 

 ランドに言わせればソニアが試験機で、ティナは実験機という位置付けだったらしい。

 

 嫌な事を思い出して、ソニアはぎりっと歯を鳴らした。

 

「待っていて、ティナ……もう……あなたに、殺しはさせない。お姉ちゃんが、必ずあなたを……あなた達を自由にしてみせるから」

 



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第16話 蓮太郎に花束を

 

「ふぁあ……」

 

 一夜明け将城教会。第39区第三小学校の寄宿舎として使われている区画の一室で、パジャマ姿のソニアは大きなあくびをしながら二段ベッドの下の段から這い出した。

 

「……昨日は遅かったですけど……どこへ行かれてたんですか?」

 

 夏世が、上の段から顔を出してソニアを伺っている。この寄宿舎は基本的に二人部屋で、彼女がソニアのルームメイトだった。

 

「ん……月が綺麗だったんでね。真夜中のお散歩よ」

 

 櫛で髪を整えながら、鏡越しに夏世を見てソニアが答える。はぐらかしているのか本当にそうなのか今一つ判断に困る答えを受け、夏世は「はぁ……」と生返事を返す。昨日は雨だったのだが……どちらにせよこれ以上は答えてくれそうにない。諦めた彼女は一息吐くと、自分も身支度を調えるべくベッドから降りてクローゼットを開く。

 

 ソニアが髪をポニーテールに束ね、夏世がお気に入りのワンピースに着替えた時だった。

 

「ん?」

 

 最初に気付いたのはソニアだった。何かに気付いたように窓を見やる。

 

 夏世は最初、窓の向こうに何かあるのかと視線を向けて、ややあって昨日の雨天が嘘だったように澄んだ蒼天に、何か小さな点がポツンと浮いているのが見えた。

 

「……?」

 

 ヘリや飛行機にしてはシルエットが違う。何だろうと考えているとだんだんとその点は大きくなっていった。こちらへと、近付いてきているのだ。そして目測だがおよそ200メートルぐらいの距離にまで接近した所で、夏世にもやっとその“点”の正体が分かった。

 

「あれは……!!」

 

 慌てて、窓を全開にする。

 

 数秒後、開け放たれた窓から綾耶が部屋に飛び込んできた。

 

「あ、綾耶さん!?」

 

「……おはよ」

 

 二人とも綾耶が空を飛べる事は知っているが、しかしいきなりの来訪だったので特に夏世は驚いたようだった。

 

「おはよ、夏世ちゃんにソニアさん。いきなりで悪いけど、夏世ちゃん少し僕に付き合ってくれない?」

 

「……構いませんが……何かあったんですか?」

 

「うん、ちょっとこれからミーティングがあるんで、夏世ちゃんにも参加してもらって意見を聞きたいんだよ」

 

「……分かりました。ソニアさん、私は今日は学校をお休みすると松崎さんや琉生先生に伝えておいてくれますか?」

 

「いいわよ。いってらっしゃい」

 

 僅かな会話だったが、綾耶の表情から真剣な話である事を悟って夏世も真面目な顔になった。差し出された綾耶の手を取る。綾耶は「それじゃ」と砕けた感じの敬礼をソニアへ送ると、二人は窓から空へと飛び立っていった。

 

 綾耶が入ってきてから夏世を連れて出て行くまで一分と経っていない。鉄砲玉かさもなきゃ風のようだった。

 

 低血圧なのかまだ目が半開きのソニアはしばらくぼんやりと二人が飛んでいった空を見ていたが、少し経った所で手を軽く払う。金具に彼女の磁力が作用して、開いていた窓が閉まった。

 

 

 

 

 

 

 

「凄いですね。いつもこんな景色を見てるなんて。羨ましいです」

 

 綾耶に掴まっている夏世は、眼下に見える東京エリアの街並みと頭上の、いつもよりもずっと近い空を交互に見ながらそう呟いた。三ヶ島ロイヤルガーダーに所属していた頃、任務でヘリに乗った事は何度かあるが、その時窓から見た景色とは全然違う。特に空は、まるで吸い込まれるように大きくて、包まれるようだ。綾耶との空中散歩の予約が二週間先まで一杯になるのも分かる気がした。この臨場感と爽快感はどんな乗り物とも比べられない。

 

 快適な空の旅は、5分ほどで終わりになった。

 

 夏世はてっきり聖居に行くのかと思っていたが、綾耶が向かっていたのは勾田高校だった。確かここは蓮太郎が通っている学校だ。しかし今日は土曜日で休みの筈だが……と、夏世が考えている内に綾耶は真空接着の能力で三階の窓にくっつくと、ノックを一つ。すると窓が開いて、蓮太郎が出て来た。すぐ後ろから延珠も顔を覗かせている。

 

「ああ、お前等か。入れよ」

 

「おはようなのだ、綾耶。夏世も」

 

 窓から入室する二人。靴はちゃんと脱いでいる。

 

 そして、二人とも顔を引き攣らせた。蓮太郎と延珠はその理由を察して、目を逸らす。

 

 部屋の中に居たのは四人。一人は蓮太郎。一人は延珠。もう一人は鉄扇を片手に持った和風の美人。この学校の生徒会長で巨大兵器企業「司馬重工」の社長令嬢である司馬未織だ。

 

 そして最後の一人は天童民間警備会社の社長である天童木更なのだが……ここが学校の中だと言うのにこの重装備たるやどうだ。ざっと見るだけでもイタリアはフランキ社製の12ゲージオートローダーのスパス・ライアット・ショットガンにレーザーサイト付き45口径の自動拳銃AMTハードボーラー7インチモデル、イスラエル製のウージー9ミリサブマシンガン……全身には手榴弾・催涙弾・閃光手榴弾をこれでもかと巻き付けている。戦争でも始めるつもりなのだろうか。

 

「れ、蓮太郎さん……これは一体?」

 

 木更と蓮太郎を交互に見ながら、ドン引きした綾耶が尋ねる。

 

「あー……そういや綾耶と夏世は知らなかったな。木更さんと未織は死ぬほど仲が悪いんだ。一緒の空間に居ると凄まじい化学反応を起こすんだよ」

 

 蓮太郎はもう、色々と諦めているようだった。イニシエーター二人は顔を見合わせ、気持ち木更から距離を取ると、未織の私室へと足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 

 

「この人を、知っていますか?」

 

 ドレス姿で、薔薇の花束を抱えた少女にそう尋ねられて、勾田高校の男子生徒は差し出された写真を見て「ああ」と頷いた。

 

「里見の奴だな。10分ほど前に学校に行くのを見たぜ」

 

「ありがとうございます」

 

 夢現のティナ・スプラウトはぺこりと頭を下げて礼を述べると、勾田高校への道を歩きだした。彼女の後ろ姿を見送ったその男子生徒は、不思議そうに首を傾げた。月並みな表現だがあんな人形みたいに可愛らしい女の子が花束を持って訪ねてくるなんて、里見蓮太郎はそんなにモテる奴だったろうか? 俺など彼女居ない歴イコール年齢なのに……「爆発しやがれ」と胸中で呟いた。

 

 ティナはありったけのカフェインの錠剤をガリガリと噛み砕いて飲み込む。

 

 頭の中のモヤが晴れてぼやけた視界が少しクリアになった。覚醒度合いはやっと50パーセントといった所だ。夜行性動物の因子を持つイニシエーターである彼女は本来ならば行動を起こすには夜を待ちたい所だったが、今回は少し事情が違っていた。

 

 プロモーターであるエイン・ランドから入ってきた情報によると、昨日彼女の邪魔をしたのは天童民間警備会社に所属するペアでプロモーターは里見蓮太郎、イニシエーターは藍原延珠というらしい。

 

 聖天子と斉武宗玄が次の会談を行うまでにはまだ少し間があるので、それまでに邪魔者を始末しろとの命令が下った。

 

 主からの命令に否と言う選択肢は彼女には無いが、しかし問題がある。一体どんなトラブルがあったかは分からないが、レンタルボックスに用意されていた銃器類が、一夜にしてコンテナごと何処かへと消えてしまっていた。あの後、管理者に問い合わせてみたが何があったのかはさっぱり分からなかった(中にあったのはセルフディフェンスの領分を大きく超えた重火器で東京エリアの法律に引っ掛かる物も多々あったので、深くは追求出来なかった)。

 

 今のティナが持つ武器はシェンフィールドを除けば、事前に持ち出していたブローニングM2重機関銃にショットガンと拳銃、後は手榴弾が2つとナイフが数本という所だ。取れる戦術は限られている。

 

 不十分な装備でのイニシエーターとの交戦は不確定要素が多く、避けるべき。そこでティナは司令塔である里見蓮太郎を殺し、精神的支柱を除く事で間接的に藍原延珠を無力化する作戦に出た。

 

 武器が十分なら天童民間警備会社を襲撃する所だが、銃も弾薬も不足している今、敵陣での戦いはクレバーとは言えない。

 

 幸い、聖居内部の情報をリークしてくれている協力者から里見蓮太郎の顔写真(当然隠し撮り)と、彼が勾田高校に通う高校生だという情報を得ていたので、近隣を回って聞き込みを行ってみる事にした。成果は、思ったより早く出た。同じ学校の生徒なら確率も高いだろうと思って話し掛けてみたが……大正解だった。学校ならばイニシエーターを連れている可能性も低い。ベストの実力を発揮出来ない昼間というデメリットを加味した上でも、やる価値はある。

 

 ティナが抱える花束から、ガチリと金属音が鳴った。

 

 

 

 

 

 

 

 生徒会室の扉から続く未織の私室は、まるで別世界のようだった。

 

 壁一面には、綾耶には何に使うのかさっぱり分からないが据え付けられた様々な計器がぴかぴかと光っており、中央の大きな円卓の上には数十のホロディスプレイが浮遊して政治経済のニュースからアニメ番組に至るまで様々な情報を表示している。

 

 未織が着席すると、蓮太郎に促されて明らかに不承不承という様子ではあったが木更も着席、イニシエーター3人もそれぞれ着席する。延珠は当然ながら蓮太郎の隣の席だ。

 

「じゃあ、始めるで。まず先日の狙撃事件で使用された銃やけど……」

 

 未織が手を振るとホロディスプレイが消えて、実物の何十倍にも拡大された銃弾の3D映像が取って代わる。

 

「狙撃に使われたのは50口径のブローニング重機関銃用の弾で、前科(マエ)は無し」

 

 そう言って未織がもう一度手を振ると、今度は先日の狙撃事件の舞台となったビル街のホログラムが表示された。立体映像の中心には、蓮太郎や延珠も乗っていたリムジンもしっかり表示されている。

 

 3D映像の中で、リムジンからかなり離れた地点にあるビルの屋上が、チカチカと光っている。

 

「里見ちゃん、確認するけど狙撃手は本当にこのリムジンから撃ってきたん? しかも、走っているリムジンを狙って?」

 

「ああ、その通りだ」

 

「ビルの屋上からは空薬莢も回収されとる。だから狙撃地点がここやというのはまず間違いないんやけど……」

 

 未織が言葉を濁しながら鉄扇を動かすと、ビルの屋上からリムジンへと矢印が引かれて「992.01m」と表示が浮かぶ。

 

「見ての通り、ビルからリムジンまでは990メートル以上も離れとる。しかも二連発で当ててくる……おまけに夜で雨の中……これは正直、人間業やないで」

 

「そんなに難しいのか?」

 

「横風とかコリオリ力とか狙撃に絡む要素は色々あるけど……単純な話、狙撃地点でライフルの銃口が1ミリズレただけでも、間違いなく1キロ先の標的には命中しないわ。動かない的に当てるならいざ知らず、走るリムジンに当ててくるなんて……これが昼間で無風の状態であったとしても十分に神業と言って良い腕前よ」

 

 木更が説明を補足する。未織とは犬猿の仲の彼女だが、しかし今は国家元首護衛任務のミーティング中。公私を区別するぐらいの理性はまだ残っていた。

 

「それで、夏世ちゃんに来てもらったんだけど……夏世ちゃんには同じ事は出来る?」

 

 綾耶の質問を受けて成る程と、夏世は頷く。たった今、未織は狙撃手の技量を人間業ではないと評した。ならば超人的な能力を持つイニシエーターなら? 意見を聞いて参考としたい所だが、延珠は銃など使わない近接格闘タイプで、綾耶はそれにプラスしてイニシエーターの固有能力を複合させて戦うタイプ。どちらも銃には詳しくない。知っているイニシエーターで、銃の扱いに精通した者は? そういう考えから、自分がアドバイザーとして呼ばれたのだろう。

 

「結論から言えば、無理です。狙撃の訓練は私も一通り受けましたが、有効射程は精々500メートルといった所です。800メートル以上となれば、それはもうイニシエーターとか人間とか関係無く、その狙撃手の能力が常軌を逸しているという事でしょう」

 

 ここで夏世が言う「能力が常軌を逸している」との評価は、ただ銃の腕前が常人離れしているという意味に留まらない。

 

「天童社長や司馬さんには釈迦に説法かも知れませんが、狙撃は単純に射撃にだけ秀でていれば良いというものではなく、銃を持ったまま同じ姿勢を保持する為の筋力、ターゲットを待つ忍耐力・精神力、スナイピングポイントを確保して風向きや温度・湿度を把握する知識……人間の全能力が必要とされるのです。ですから……仮に狙撃手が人間であったとしても、少なくとも私よりは強い相手だと想定しておいた方が良いと思います」

 

「成る程……」

 

 神妙な表情になって、蓮太郎が頷く。1キロ近い距離を当ててくる時点で只者ではないとは理解していたつもりだったが、夏世の説明を聞いていると狙撃手の恐ろしさが良く分かってきた。

 

「それと、どうやってるのかは分かりませんが、相手には風を読む力があります」

 

 今度は綾耶が発言した。

 

「あの時、僕や聖天子様の周り100メートルぐらいにだけ、僕が起こした横風が吹き荒れていました。なのに相手は、初弾でその風を完全に読み切ってもう少しで命中するぐらい近くにまで当ててきました」

 

 風向きを把握するのは狙撃の常識だが、しかし本来、風とは数キロ単位の範囲内で計測されるもの。100メートル程度の狭域にだけ吹く風を読み切るなど、通常の方法では絶対に不可能だ。つまり何か……尋常ではない方法で風速を観測している事になるが……それが何なのか分からない。一体全体、どんなトリックが使われているのか?

 

「まだあるぞ。最後の狙撃、妾の蹴りは確実に弾丸を弾く筈だった。なのに実際には弾丸は妾のすぐ手前でいきなりUターンして、ビルの壁面に突き刺さったのだ」

 

「延珠ちゃんが言うビルはここやね」

 

 未織がバーチャルコンソールを操作するとリムジンからほど近い位置に建っているビルの、中程より少し高いぐらいの壁面に輝点が出現した。これが、延珠の言うUターンした弾丸が着弾したポイントだ。

 

「銃弾の壁面への入射角度からして、もしこれが地上から発射されたとすると、これは地中から撃ったとしか考えられへん」

 

 勿論、実際にはそんな狙撃ポイントなど存在しないし、した所でビルを撃つ意味も無い。だから銃弾が曲がったという延珠の言葉にも一定の信憑性はあるのだが……しかし横に逸れるなら兎も角、Uターンするというのは……?

 

「どんな些細な事でも良いわ、他に何か情報は無いの?」

 

 木更に尋ねられて、未織は再びコンソールを操作して十数個のホロディスプレイを呼び出すと、一つ一つに表示されている膨大な情報を読み取っていく。彼女の瞳がめまぐるしく動いて、やがて一つのディスプレイに止まった。

 

「これやね」

 

 他のディスプレイを消してその一つを拡大させる。

 

「ちょうどあの狙撃事件が起こったのと同じ時間、同じ場所で、ほんの数分ほどの間やけどラジオや携帯電話、カーナビなどの電子機器が軒並み動作不良に陥って、通信障害が確認されとるわ」

 

「もしかしたら、これが原因では……」

 

 と、夏世が発言する。

 

「弾丸が曲がったのと、機械の調子が悪くなったのとで何か関係があるのか?」

 

 延珠に尋ねられて頷き返すと、モデル・ドルフィンのイニシエーターは未織へと向き直る。

 

「前に、電磁波の力で銃弾を逸らす兵器が開発されていると聞いた事があります。それと同じような物が使われたのでは……」

 

「そんなのがあるのか?」

 

 蓮太郎に尋ねられて、未織は難しい顔になった。

 

「確かに、そうした兵器はもう何年も前から各国でアイディアが上がっとって、司馬重工でも研究が進んどるけどまだ実用化には至っとらんのよ」

 

「どうしてだ?」

 

「まずサイズの問題やね。銃弾の軌道を逸らすほど強力な電磁波を発生させようとすれば、どんなに小型化してもトラックぐらいのスペースが必要になって、とても個人が携行出来る物やないの。それに持続時間も連続使用は精々10分が限界で、実用には耐えられへん。ウチの会社の優秀なスタッフでも今の所はそれが限界やから、現時点ではどこの国でも完成品が出来ているとは思えんわ」

 

 護衛計画では、一応ながらリムジンがホテルから聖居へと移動する際のルートチェックも行われている。狙撃銃ぐらいならバイオリンケースやゴルフバッグに入れて持ち込まれたりする事も考えられるが、いくら何でもトラックほどの大きさの機械が運び込まれるような目立つ作業を見落とす事など有り得ない。

 

 故に、そうした電磁波兵器が使われたのではという夏世の推理は的外れだった。

 

 ……かに、思われたが。

 

「その電磁波を、イニシエーターが作り出したとしたら?」

 

 夏世の続いての発言に、蓮太郎、木更、未織は口を揃えて「あっ……」と呟く。

 

「それは……有り得るわね。理論上はイニシエーターの能力に限界は無いわ。現代の技術では不可能な事も、強力なイニシエーターならやってのけるかも知れない」

 

「デンキウナギやエイみたいな発電能力を持った動物がモデルのイニシエーターなら、電磁石みたいに電気から磁力を作り出す事も不可能ではないかも知れへんな」

 

「そいつが磁力を使って銃弾を操ったって事か……? なら、確かに通信障害が起こったのも納得だけどよ……」

 

 顎に手を当てた蓮太郎が推理を纏める。それならあの「魔法の弾丸」に説明が付き、一応の辻褄も合うが……しかしだとすると、分からない事がまた出てきた。

 

「だが蓮太郎、そんなイニシエーターが居たとして、そいつは聖天子を狙う銃弾を曲げたのだろう? ……と、言う事は妾達の味方なのではないか? なのに何故、そいつは妾達や聖天子の前に姿を現さない?」

 

 疑問は、延珠が代弁してくれた。綾耶が夏世へと視線を送るが、明晰な頭脳を持つ彼女にもこれは分からないらしい。申し訳なさそうな顔になって、首を横に振る。

 

 恐るべき技量と風を読む力を持ったスナイパーと、銃弾を曲げる力を持った敵か味方か不明な「X」の存在。

 

 分からない事が多く1分ばかり沈黙が下りた所で、焦れた蓮太郎が頭を掻きながら立ち上がった。

 

「あー、話が行き詰まってきたな。飲み物でも買ってくるわ。何が良い?」

 

「私はコーヒーをお願い。ブラックでね」「ウチは紅茶やね」「妾はコーラを頼むぞ」「私はイチゴミルクをお願いします」「僕はフルーツオレを」

 

「了解了解っと……」

 

 口々に来た注文をスマートフォンでメモすると、蓮太郎は未織の私室を出て、次に生徒会室の扉を開けて廊下に出る。

 

 この時、彼にとっての幸運は一番近い自販機が生徒会室を出て右に歩いた方向にある事だった。そういう位置関係だから、当然ジュースを買いに出た蓮太郎は廊下を右に曲がる。

 

 もし左に曲がっていたとしたら、彼は無防備な背中を襲撃者に見せていてひとたまりもなく殺されていただろう。

 

 廊下を、一人の少女が歩いてきていた。プラチナブロンドの髪をして、ドレスを着た可憐な女の子だ。両手で、薔薇の花束を抱えている。

 

 生徒の誰かの妹だろうか? しかしどう見ても外国人だし……

 

「どうした? 道に迷ったのか?」

 

 そうは思いつつも蓮太郎は親切心から不幸面に笑みを浮かべてそう話し掛けてみたのだが……数秒で、笑顔が凍り付いた。

 

 女の子は花束の帯を解いて、包み紙を剥がした。薔薇の花が床に落ちて、中に隠されていたウィンチェスターM1887・ショットガンが姿を現した。

 

 女の子は銃口を上げつつ、チャンバーに弾丸を送り込みながら前進してくる。落ちた薔薇が、彼女の靴に踏み潰された。

 

「っ!!」

 

 咄嗟に、蓮太郎は床を蹴って生徒会室に飛び込んだ。同時に、ショットガンの轟音が廊下に木霊して散弾がほんの半秒前まで彼の居た空間を薙いでいた。

 

 床に転がった蓮太郎は、XD拳銃を抜きながら立ち上がる。

 

「な、何!? 今の銃声は!?」

 

「何事だ!!」

 

「里見ちゃん、どうしたん!?」

 

「無事ですか、里見さん!!」

 

「大丈夫ですか!?」

 

 未織の部屋から5人が口々に叫びながら出てくるのと、開けっ放しになっている生徒会室の扉からショットガンを構えた少女が姿を見せるのは殆ど同時だった。少女の瞳は、先程までは欧米人の特徴でもある青色であったが、今は赤く染まっている。イニシエーターだと、一瞬で延珠や綾耶が把握する。

 

 5人が顔を出した事で標的が増えて、一瞬だけ少女が照準を迷う動きを見せた。その隙を衝いて蓮太郎がXD拳銃を向けて射撃する……よりも早く、動いていた者が居た。

 

「天童社長、これをお借りします」

 

 夏世だ。木更が持っていたウージーを手に取ると、片手でそれを持ってフルオートで撃ちまくる。無数の銃弾が扉や壁を抉って、少女が身を隠した。

 

「里見さん、早くこっちに!!」

 

 銃声に負けじと叫んだ夏世の声に蓮太郎ははっとした顔になって、未織の部屋に飛び込んだ。夏世は襲撃者が姿を見せない事もお構いなしに連射して、少女の動きを牽制する。弾切れになった所で、彼女も訓練された動きで身を隠した。同時に、反撃で飛んできた散弾が部屋の壁に弾痕を刻んだ。

 

「一体何なの、里見君!? 学校でいきなり撃たれるなんて、君はそんなに恨みを買ってたの!?」

 

 本気かさもなくば笑えない冗談なのか。怒鳴りながら、木更は愛刀である殺人刀・雪影を手にする。未織を倒す為に様々な武器を持ってきたが、天童流抜刀術の皆伝である彼女がいざという時に最も頼りとする武器はやはり刀だった。

 

「俺が知るかよ!!」

 

 怒鳴り返しながら、蓮太郎は生徒会室と未織の部屋とを繋ぐ出入り口からちらりと顔を半分だけ出して、すぐに引っ込めた。一瞬後に、またしても散弾が飛んできて生徒会室に穴を増やした。

 

「……イニシエーターが居るのは、計算違いでしたね……しかも複数……」

 

 襲撃者の少女、ティナ・スプラウトはそう呟きながらショットガンに次弾を装填していた。

 

 先程の反撃でサブマシンガンを連射してきた少女、彼女は間違いなくイニシエーターだ。その証拠に、片手で撃ったにも関わらず着弾が恐ろしく纏まっている。

 

 実はイニシエーターの特性が最も発揮される銃器は、拳銃でもなければ狙撃銃でもない。それはサブマシンガンやアサルトライフルのような連射式の銃だ。こうした銃は反動が大きいので人間では大の男であっても両手持ちでなくてはフルオート射撃では狙いが定まらない。通常、そこは撃ちまくる事でカバーするのだが、しかし超人の身体能力を持つイニシエーターは反動を完全に受け止める事が出来るので、片手で撃っても正確な射撃が可能なのだ。

 

 中々、手強い。それにちらりと見ただけだが、あの部屋には他に少女が二人居た。しかも一人は将城綾耶だ。と言う事はもう一人の方もまず間違いなくイニシエーターと見て良いだろう。恐らくは里見蓮太郎のパートナーである藍原延珠。

 

 元々、今回は里見蓮太郎一人を殺すつもりだったのだ。イニシエーター3人を相手する事は想定していない。しかも手持ちの火器も少ない。

 

「ここは、一気に勝負を掛けますか」

 

 ティナはドレスのポケットから取り出した手榴弾の、ピンを抜いた。

 

「里見さん、セオリー通りなら敵は次には手榴弾を投げ込んできますよ。その後で、突入してきます」

 

 木更から借りたスパスの動作を確認しながら、夏世が言う。

 

「そりゃ……拙いんじゃねぇか?」

 

 こんな狭い空間で手榴弾が弾けたら……!! 数秒後に訪れるであろう恐ろしい未来を想像して、蓮太郎の全身からドボッと冷たい汗が噴き出す。

 

 木更と未織も同じだった。夏世が、机を持ち上げて即席のバリケードを作る。

 

 だが、綾耶の意見は違っていた。

 

「いえ……これは逆にチャンスですよ。みんな」

 

 彼女がそう言ったとほぼ同時に、ゴトンと重い金属音を立てて、手榴弾が投げ込まれてきた。咄嗟に、蓮太郎が木更と未織に覆い被さる。

 

 ドン!!

 

 難聴になりそうな爆音が響いて、爆煙がもうもうと立ち込める。それを見たティナは生徒会室へと突入するが、しかしここでも彼女の予想を超えた事が起こった。

 

「ハアアアアアッ!!」

 

「でぇぇぇえいっ!!」

 

 爆煙を切り裂いて、全く無傷の延珠と綾耶が飛び出してきたのだ。

 

 実は手榴弾は、爆発力自体はさほど大きくはない。殺傷能力を発揮するのは、爆発して飛び散る無数の破片だ。逆に言うなら破片さえ飛び散らなければ殺傷力は無い。綾耶は手榴弾の周りに空気のシールドを作り出し、破片の飛散を防いだのだ。彼女なら手榴弾の周りの空気を吸引して真空状態を作り出し不発にする事も出来たのだが、それをやっては襲撃者は警戒して出て来ないだろうという判断から、採用しなかったオプションだった。

 

「しまった……!!」

 

 まんまと誘き出された。そう思考しつつティナは延珠の蹴りをショットガンの銃身で受け止めたが、続く綾耶の空気の刃が散弾銃を三つに切り裂いた。

 

「クッ……!!」

 

 後方に飛んだティナは手榴弾を空中に投げる。

 

 一瞬、それを見た延珠と綾耶の動きが止まり、その間隙を縫ってティナは拳銃をドロウした。その銃口が向くのは延珠でも綾耶でもなく……

 

「!! 延珠ちゃん、僕の後ろに!!」

 

「分かった!!」

 

 象と兎の因子を持つ二人の少女は同時に狙いを悟って、延珠は咄嗟に綾耶の後ろに跳び退り、綾耶は両手を前方にかざす。

 

 パン!!

 

 乾いた音と共にティナの拳銃から薬莢が排出されて……次の瞬間、弾丸が命中した手榴弾が弾けた。

 

 再びの爆音。生徒会室に、無数の破片が飛び散る。だが、誰も傷付ける事は出来なかった。蓮太郎、木更、未織、夏世は未織の部屋に隠れていて、綾耶と延珠は、綾耶が空気のバリアを作り出して飛来する破片を止めていた。

 

 部屋を覆う爆煙が晴れるのを待たず廊下へと飛び出した綾耶と延珠だったが、金髪の襲撃者の姿は右にも左にも見えなかった。窓が一つ割れていて、その下を見てみたがやはり影も形もなかった。逃げられた。

 

「どうしよう、綾耶。追うか?」

 

「……いや、今の引き際からして、逃走ルートに何か罠が仕掛けられている可能性もあるから……迂闊に追うのは危ないかも」

 

 結果的には綾耶のこの判断は間違いだった。もしこの時点で彼女と延珠の二人で追い掛けていれば、ティナ・スプラウトを倒すもしくは捕獲出来た可能性は非常に高い。

 

 とは言え、ティナの武器が殆ど失われているような事情など彼女には知りようが無く、また1対6という数的不利の中で攻撃が失敗したと見るやすぐに撤退する引き際の良さも、なまじの使い手に出来る事ではない。実際に、ティナは並みのイニシエーターではない。綾耶が警戒するのも、無理からぬ所ではあった。

 

「だが、良いのか?」

 

 このタイミングで仕掛けてくるという事は、彼女が聖天子を狙った暗殺者であると見て間違いはあるまい。ここは多少の危険を覚悟してでも追撃すべきではないか?

 

 延珠の意見も尤もではある。だが、彼女は忘れている事が二つあった。自分達に有利に働くファクターを。

 

「……顔は見たよ」

 

 と、綾耶。親友を振り返って、自信の笑みを浮かべる。襲撃者の顔を見た。これは確かに護衛側にとって圧倒的なアドバンテージとなる。そしてもう一つの有利な点は。

 

「それに延珠ちゃん、忘れてない? 僕のプロモーターは、誰だったっけ?」

 

 綾耶の笑みが、悪戯っ子っぽいものに変わった。

 



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第17話 二人のアンダー100

 

「9位……10位……違う……」

 

 聖居の一室。PCモニターと睨めっこしながら、難しい顔の綾耶が唸る。

 

 謎のイニシエーターによる勾田高校での襲撃事件からすぐ、綾耶は蓮太郎と延珠を連れて聖居へ戻ると聖天子に事情を話して、IISO(国際イニシエーター監督機構)へのアクセスを許可してもらった。当然、目的は襲撃者の身元の照会だ。今の時代、強力なイニシエーターを数多く保有する事はそのままその国の戦力の強化に繋がるので、暗殺や引き抜き防止の為にこうした情報は序列の向上と共に秘匿されるのだが、そこは国家元首が持つ最高ランクのアクセス権限。思うままあらゆる情報を引き出す事が可能だった。

 

「分かってはいたが、地道な作業だな……」

 

 蓮太郎がぼやく。世界には二十数万人ものイニシエーターが居る。名前が分かっていれば一発なのだが、残念ながら彼等が持っている情報は襲ってきたイニシエーターの顔だけ。となれば、IISOに登録されたデータベースの顔写真を一人一人首実検していくしかなかった。今にして思えばいくら突然の事だったとは言え、スマートフォンで顔写真の一つでも撮っていなかった事が悔やまれる。そうすればたとえIISOへの照会で正体が分からなくても、その写真を元に東京エリア中に指名手配して動きを封じる事は出来たのに。

 

「序列11位……こやつも違うな……」

 

 スクロールさせた画面に表示されたのは、綾耶も延珠も見た事もない少女だった。

 

「あのイニシエーターは金髪で、白人だった。まずは検索対象から東洋系を外してみたらどうだ?」

 

 蓮太郎の提案に従い、綾耶がキーボードを叩く。すると画面上で序列が降順で表示されていたサムネイルが3分の2ぐらいの数になった。カーソルを操作して、上位序列の者から詳細情報を閲覧していく。1キロ近い距離を当ててくる狙撃手。そんな化け物じみたイニシエーターが低位序列者である訳がない。上から探した方がずっと早いだろう。

 

「序列21位『冥王(プルートー)』リタ・ソールズベリー……この子も違う……」

 

 中々、お目当てのイニシエーターには当たらない。延珠は思わずあくびを洩らしてしまう。

 

 蓮太郎に頼んで持ってきてもらったカフェオレを一口飲むと、マウスをクリックする綾耶。瞬間、眼鏡の奥の瞳がくわっと見開かれた。

 

「見付けた!!」

 

 その声を受け、蓮太郎と延珠も画面に食い入るように身を乗り出す。

 

 モニターに表示されていた少女は確かにほんの二時間前、蓮太郎にショットガンをぶっ放してきたイニシエーターだった。

 

「IP序列98位……『黒い風(サイレントキラー)』ティナ・スプラウト……モデル・オウル……フクロウの因子を持つ呪われた子供たち(イニシエーター)……米国で推進されていた機械化兵士計画『NEXT』による強化兵士」

 

「98位!!」

 

 延珠が頓狂な声を上げる。この反応も当然と言えた。先日戦った蛭子影胤・小比奈ペアの序列は元134位。それよりも高い。綾耶を挟んで逆隣の蓮太郎も驚いた表情だが、しかし彼が驚愕しているのは単に超高位序列保持者というだけでなく、ティナの情報に容易ならざる一節があったからだった。

 

「機械化兵士計画……『NEXT』……?」

 

 握り締めた蓮太郎の右手が、みしりと鳴った。

 

 

 

 

 

 

 

 更に一時間後、勾田公立大学付属病院の地下室。霊安室を改造・増築した研究室。延珠も綾耶も何度かここを訪れた事はあるが、サタニストか何かの教会を思わせる悪魔のレリーフが刻まれたこの扉の前に立つと、我知らずごくりと喉が鳴る。蓮太郎が扉を開けて中に入ると、そこはこれぞ研究室というレイアウトだった。

 

 薄暗く、あちこちに標本や良く分からない薬品の入ったビンが置かれていて、薬品の匂いがつんとする。コンビニ弁当の空き箱や空になったペットボトルがあちこちに散乱していて、この部屋の主がここで生活している事が分かる。

 

「菫、遊びに来たぞ!!」

 

 延珠が手を振ると、薄暗い研究室の中で影がぬっと動いて、伸び放題の長い髪をした白衣の女性が姿を現した。

 

「蓮太郎くんに、延珠ちゃんに、綾耶ちゃんもか。今日は千客万来だね」

 

 この女性の名は室戸菫。勾田公立大学付属病院の法医学教室室長兼ガストレア研究者で、世界的な名医でもある。延珠と綾耶の体内浸食率の検査を行っているのも彼女だ。

 

「蓮太郎くん、聞いたよ。今は護衛とか面白い事をやっているそうだね。今日、私を訪ねてきたのはその関係かな?」

 

「ああ、その通りだ」

 

 蓮太郎は菫の対面の席に腰を下ろすと、一呼吸置いて切り出す。

 

「単刀直入に聞くぜ先生、『NEXT』って知ってるか?」

 

 ぴくりと菫の眉が動いて、だらしなく椅子に腰掛けていた彼女は座り直すと、表情を引き締める。

 

「……蓮太郎くん、どこでその名前を知った?」

 

「聖天子様を狙っているイニシエーターが、その『NEXT』の強化兵士なんです」

 

 進み出た綾耶がプリントアウトした資料を差し出す。当然、データベースで調べたティナ・スプラウトに関するものだ。そこにはプロモーターの名前も記載されていてそれを見た瞬間、菫の手に力が入ってぐしゃりと紙束を握り潰してしまった。

 

「せ、先生!?」

 

「ああ、すまない。少し、腹に据えかねる事があったものでね」

 

 資料をぱさりと机に放り出すと、菫は大きく深呼吸して三人と向き合う。

 

「質問に答えよう。『NEXT』とは私の『新人類創造計画』とは異なる系統の機械化兵士製造計画の事だ」

 

「先生の他にも、機械化兵士を作れる科学者が居るのか?」

 

「そうだ。全部で四人。日本では私の『新人類創造計画』、アメリカでは『NEXT』のエイン・ランド教授、オーストラリアでは『オベリスク』のアーサー・ザナック教授。そしてそれらを統括するドイツのアルブレヒト・グリューネワルト教授。この四人がそれぞれタイプは違うが、機械化兵士を創造するノウハウを持っている人間だ。以前に君が戦った蛭子影胤も、グリューネワルト翁の手による機械化兵士だよ」

 

 蓮太郎は自分と同じような存在が影胤だけとは思っていなかったが、しかし日本だけでなく世界中で機械化兵士の計画が進んでいたとは。己の見識の狭さを思い知らされた気がした。

 

「だが今回の問題の本質はそこではない」

 

「……機械化兵士の手術を受けているのが普通の人間じゃなくて、イニシエーターという事ですね」

 

「その通りだ。イニシエーターはただでさえ機械化兵士に匹敵する戦力を持つと言うのに、今回の相手はそこに更に機械化兵士としての能力がプラスされている。恐ろしい相手だぞ」

 

 機嫌が悪そうな菫はそう言うと、机の引き出しを開けて棒状の物体を取り出した。手術で使われるメスだ。ただし色が黒く、バラニウム製だと分かる。

 

「……知っての通り、呪われた子供たちには体内のガストレアウィルスに起因する再生能力がある。だから普通に外科手術を行おうとしても切ったそこから再生が始まってしまって、最悪の場合体内にメスが残るような事態だって起こり得る。だから呪われた子供たちを手術したり注射する時には、こういったバラニウム製の器具を使うんだが……当然、そんな事をすれば再生能力は大きく落ち込む。そうなれば、呪われた子供たちも普通の女の子でしかない。そして普通の女の子に機械化兵士の施術を行えば……どうなるかは、分かるだろう?」

 

 蓮太郎は厳しい顔で頷く。機械化兵士の手術は、大人であっても成功率が恐ろしく低い。まして肉体的に未成熟な子供ならば成功の確率はより低くなる。十年前の自分は良く生き延びたものだと、背中を冷や汗が伝うのを自覚した。

 

「……実はね、同じ事を私も考えた事はあったんだ。呪われた子供たちに機械化兵士の力を持たせたら最強ではないか? とね。だがしなかった。何故だと思う?」

 

「何故だ、菫?」

 

「機械化兵士の製造ノウハウを持った私達4人……『四賢人』の間には、誓いがあったからだ。生命への畏敬の念を忘れないようにしよう。科学者である前に医者であろう、とね。だから機械化兵士の手術は、手術を受けなければ死ぬといった重態の人間に対して、更に本人の同意を得た上で行う事を絶対のルールとしたんだ」

 

 蓮太郎もそうだった。彼は木更の両親を殺した野良ガストレアから木更を庇って右手と右脚、左目まで喰われて瀕死の状態で菫のラボへと運び込まれ、一つの選択を迫られた。命以外の全てを差し出して生き延びるか、さもなくば死か。

 

 理不尽な選択であったかも知れない。選ばざるを得ない道であったかも知れない。重傷で正常な判断力など働いていなかったかも知れない。

 

 それでも、蓮太郎は選んだ。他の誰でもない、自分の意思で。だからそれからの人生は辛くはあったけど、彼は菫を恨んだ事は無かった。

 

 では、あのイニシエーター……ティナ・スプラウトは?

 

 そこまで考えて、はっと目を見開く。「気付いたようだね」と菫が頷いた。

 

「突然だが延珠ちゃんと綾耶ちゃん、君達は病気に掛かった事があるかい? あるいはそんな呪われた子供たちを見た事は?」

 

 二人のイニシエーターは、揃って首を横に振る。それも当然、呪われた子供たちはあらゆる病や障害と無縁の存在だ。体内のガストレアウィルスが、宿主の危険を敏感に感じ取って異物を無害化しようと働くからだ。なのに、ティナは機械化兵士の手術を受けている。つまり……

 

「ティナ・スプラウトのプロモーター、エイン・ランドは誓いを破り、健康体の呪われた子供たちを実験体として使っているという事だ」

 

「……惨い話だな」

 

 延珠が吐き捨てる。今自分の中にある胸糞の悪さを何十倍にも煮詰めたようなドス黒い気分を、菫は感じているのだろうと彼女は思った。不機嫌の理由はこれだったのだ。

 

「……話を戻そうか。蓮太郎くん、君達がここへ来たのは『NEXT』の機械化兵士についての情報を私から得ようという事で良いな?」

 

「あ、ああ……」

 

 話の内容に圧倒されかけていた蓮太郎は、ここへきて本題を思い出して何とか頷く。

 

「私の聞いた情報では、そのイニシエーターは超遠距離から走る車に銃弾を当ててきたという事だが、間違いないな」

 

「ああ、間違いない」

 

「だとするなら手品のタネは、恐らくこれだな」

 

 菫が片手でノートパソコンのキーを叩くと、モニターに球形の機械が表示された。大きさは拳大、様々な角度から撮影されていて、底部にはプラズマエンジンの噴出口が見える。前面に設置されているのは、カメラのような観測機器だろうか。

 

「先生、これは?」

 

「シェンフィールド。エイン・ランドが研究していた機械化兵士の装備で、BMI(ブレイン・マシン・インターフェイス)……つまり頭で考える事によって、駆動する機械だ。脳内に埋め込まれたニューロンチップによる無線誘導で、自在に操作される」

 

「そのシェンフィールドで、どんな事が出来るんですか?」

 

「これは偵察機だ。だから端末は様々な観測機器を積んでいて、位置座標・温度・湿度・風速といった様々な情報を計測し、そのデータを使用者の脳へと送信する」

 

 そうか、と綾耶は納得行ったという表情になる。先日の狙撃で、どうやって凄まじい横風を初弾で見切って至近弾を当ててきたのかが不思議だったが、これで謎が解けた。恐らくはあの時、自分達の近くにこのシェンフィールドが浮遊していたのだ。そして綾耶の起こした横風の向きや風速を計測し、ティナ・スプラウトへ送信。ティナは風の影響を正確に把握して、銃弾を横風に”乗せて”撃ってきたのだ。思い返せば狙撃が終わった後で何かが空中に浮いているのを感じたが、あれはこのシェンフィールドだったに違いない。

 

 確かに脅威的な能力だが、1キロ先の動いている目標に当ててくるのはフクロウの因子を持ち、(恐らくは)優れた視力や夜目が利くという特性を差し引いたとしても純粋に狙撃手たるティナの技量だろう。こちらも同じかそれ以上に凄い能力だと言える。

 

 遠方に居ながら目標地点の情報をリアルタイムで把握する偵察機と、曲芸じみた狙撃能力。この二つは相性が良すぎる。これが序列98位の実力だと言うのだろうか。

 

「……三人とも。聖天子様の護衛任務を続けるなら心していく事だ」

 

 菫が座り直して、蓮太郎達をじっと見てそう言った。

 

「序列百番以内の連中は例外無く悪魔に魂を売り渡した掛け値無しの化け物だ。トップクラスのイニシエーターは単騎で世界の軍事バランスを左右するほどに強いというのは、誇張でも何でもない。事実百番越えの中には過去に一人、『SR議定書』といってその力を一国の軍事力をも遥かに超える脅威としてIISOに認定され、国際的にその扱いを取り決められるような者さえ存在したんだ」

 

「SR議定書……?」

 

「“SR”というのはそのイニシエーターのイニシャルで……ん……まぁ、これは良いな。そのイニシエーターはもう死んでしまったからね」

 

 菫は話を戻す。

 

「……兎に角、それほど強いのが序列百番以内のイニシエーターという事だ。戦えば、無事では済まないだろう。それでも、行くのかい?」

 

 試すようなその問いに、3人の答えは決まっていた。

 

「僕は聖天子様のイニシエーターですから。聖天子様をお守りする事が、僕の仕事です」

 

「俺は民警として、正義を為すよ。綾耶から教えてもらったんだ。先生にもらったこの手は、何かを殺す為じゃなくて、全てを護る為に在るって事を。それを今度は、先生に証明するよ」

 

「妾はどんな敵が相手でも、蓮太郎と共に行くぞ!! 地獄の果てであろうとな!!」

 

 答えは三者三様。しかし誰一人とて、説得して止まるような覚悟でない事を悟ったのだろう。菫は嘆息すると、ずるりとだらしなく座り直した。

 

「では、一つだけ私に約束してくれ。もしティナ・スプラウトが『ゾーン』であったのなら、絶対に戦うな。綾耶ちゃんは聖天子様を、延珠ちゃんは蓮太郎くんを連れて逃げろ。出来るだけ遠くまで、全速力で」

 

「『ゾーン』とは?」

 

「簡単に言えば、イニシエーターの限界を超えたイニシエーターの事だ。確かにイニシエーターは超人的な能力を持つが、パワーであれスピードであれスタミナであれ、それらの能力は鍛えていくといつかは壁に突き当たる。それが、そのイニシエーターの能力の限界点なんだ。二人には、覚えがないかな?」

 

 延珠と綾耶は互いに顔を見合わせる。二人とも心当たりがあった。延珠はスピードが、綾耶はパワーがある時期を境として急に伸びなくなってきているように思えていた。特に綾耶はこうした感覚を早い時期から自覚していて、空気の刃やシールドといった技術はこの成長限界を補う為の彼女なりの工夫だった。

 

「だが、矛盾してないか? 聞いた事があるぞ。イニシエーターの能力には理論上の限界は無いって……」

 

「そうだね、延珠ちゃん。そこで『ゾーン』なんだ。自転車に乗れなかったり竹馬が出来なかった子供がコツを掴んだ途端、思うがままに乗りこなすように。修錬や克己の果てに、限界を超えた力を獲得するイニシエーターが稀に居て、それを『ゾーン』の開眼者や到達者と呼ぶんだ」

 

「先生、その……『ゾーン』に至ったイニシエーターは強いんですか?」

 

「強い。非到達者では到達者には絶対に勝てない。それほどまでに圧倒的な差が生じるとされている。イニシエーターは出会った瞬間、首の後ろがビリビリするらしいから、もしそんな感覚を覚えたら逃げるんだ。みんな、任務から手を引けとは言わないが、それだけは約束してくれ」

 

 

 

 

 

 

 

 聖天子と斉武大統領との第二回会談は、料亭で行われる事となった。時刻は午後8時から深夜までの予定となっている。車中で聖天子の隣に座る蓮太郎は、どこかぴりぴりしているように延珠には思えた。理由は彼女にも分かる。敵の正体が分からないのも不安だが、分かったらもっと不安になった。今は夜。夜行性であるモデル・オウル、ティナ・スプラウトの特性が最大限に発揮される時間帯だ。

 

 この闇の中、化け物じみた……いや、明確に化け物と言って良い腕前を持った狙撃手がどこからかこちらを狙っているのだ。いつ、死角から発射された銃弾が自分も含めて周りの誰かを貫くのではないかと思うと、神経質になるのも致し方ない。と、言うよりも神経質になるぐらいでちょうど良いのかも知れない。

 

 幸いと言うべきか、料亭に着くまでは狙撃は無かった。車が停車して、まずは蓮太郎が先に降りると安全を確認して、車内に手を差し出す。

 

「さ、行くぜ。お姫様」

 

「私はお姫様ではなく……!!」

 

 聖天子はそこまで言い掛けて、少しだけ顔を赤くして俯くと蓮太郎の手を取って下車した。最後に延珠が車から降りて、続くように空から綾耶が降りてくる。

 

 3人は言葉には出さないがそれぞれ互いの死角をカバーするような立ち位置で周囲を警戒する。とそこに、肩をいからせて保脇がやって来た。

 

「里見蓮太郎!! 貴様、聖天子様をこんな粗末な車に乗せるとはどういう事だ!!」

 

 たった今聖天子が降りてきたのは専用のリムジンではなく、護衛用のバンだった。これは聖室護衛隊にも知らされなかった事で、聖居を出発する際に蓮太郎の独断で決まった事だった。

 

「車を変えた。リムジンでは危険だと思ったからな」

 

「何故私に報告しなかった!! 民警風情が……」

 

 保脇の手が腰の拳銃へと動いて、蓮太郎も牽制の為にXD拳銃へと手を伸ばす。延珠の瞳が紅く明滅して、バラニウムの靴底が地面を踏み締める。仲間内で一触即発。

 

 だが、その時だった。

 

「……来た!!」

 

 綾耶がはっと顔を上げて、叫んだ。

 

「「!!」」

 

 蓮太郎と延珠はもう保脇をそっちのけで身構えて、聖天子と保脇だけが置いてけぼりを食らった形で戸惑ったように動きを止めてしまった。

 

 十秒ほどが過ぎた所で、虫の羽音のような音が聞こえてきた。シェンフィールドに搭載されたプラズマエンジンの駆動音だ。綾耶は音が聞こえる距離にシェンフィールドが近付くよりも早く、空気の振動からこの偵察機の接近を感知出来たのだ。

 

「聖天子様、車の中に!!」

 

 叫びながら、綾耶は自分の主の腰を掴むとバンに飛び乗った。同じように蓮太郎と延珠も飛び込む勢いで車内に戻る。

 

「出せ!!」

 

 蓮太郎が怒鳴る。

 

「貴様、聖天子様に何を……!!」

 

「!! 危ない、頭下げて!!」

 

 咎める保脇の言葉を遮って、綾耶は叫ぶと聖天子の頭をぐっと下げさせる。

 

 瞬間、バンのフロントガラスに穴が空いて、それを中心として蜘蛛の巣のようにヒビが入った。弾痕だ。狙撃されている。もし綾耶が聖天子を伏せさせていなかったら、今頃彼女の脳漿が後部座席を汚していただろう。

 

 呆気に取られている保脇を尻目に、事態を悟った運転手がアクセルを踏み込んでバンを急発進させる。多少は攪乱になるかと思って車を交換してみたが、やはり1キロもの距離を当ててくる凄腕相手には通用しなかった。かくなる上は一刻も早く安全圏にまで離脱しなければならない。

 

「ちょっと、蓮太郎さん窓を開けてもらえますか? 手筈通り、僕が屋根に乗りますから」

 

「分かった、頼むぞ」

 

 パワーウィンドウが開くと、綾耶は蓮太郎と延珠の体を器用に乗り越えて、窓から体を出す。

 

「綾耶!!」

 

 彼女がちょうどハコ乗りするような体勢になった所で、聖天子の声が掛かった。

 

「は……!!」

 

「気を付けてくださいね」

 

「はい!!」

 

 主の声に頷いて返すと、綾耶はバンの屋根によじ登って油断無く周囲を見渡す。

 

「!!」

 

「光った!!」

 

 屋根の上の綾耶と車中で後方を警戒していた延珠が、ビル屋上のマズルフラッシュに気付くのはほぼ同時だった。

 

「綾耶!!」

 

 蓮太郎が声を上げる。瞬間、綾耶は既に両腕に充填していた圧縮空気を前方の空間に向けて一気に吐き出した。

 

 これは先日の狙撃で綾耶が起こした風の防壁が突破された事と、ティナの装備であるシェンフィールドの機能が分かったからこその策であった。横風を起こしても、シェンフィールドの風速測定機能で読まれてしまい、ティナは風の影響を計算に入れて撃ってくる。

 

 だが、どんなに優れた狙撃手も発射した後から弾丸をコントロールする事は出来ない。発射のタイミングと攻撃を仕掛けてくる方向が分かっていれば、弾着までの僅かな時間で弾が通過するコースに即席の暴風を起こす事は綾耶ならば可能だった。

 

 この作戦は当たった。風に煽られた弾丸は逸れに逸れて、全く見当外れの位置である道路へと命中した。

 

「やった!!」

 

「安心するのは早いぞ」

 

 弾んだ声を上げる延珠を、蓮太郎が窘める。そう、これはほんの小手調べに過ぎない。

 

「今のでティナは俺達の手を把握したからな。今度は、綾耶の風すら計算に入れて撃ってくるぞ」

 

 シェンフィールドの風速測定機能は、人間の感覚などといった曖昧なものよりもずっと正確に空気の流れを把握して、弾丸が受ける影響をデジタルに計算する。瞬間的に発生させた風のパターンを予測しての射撃すら、98位にまで上り詰めたイニシエーターの技量であればやってのけるかも知れない。

 

 再び、ビルの屋上がチカッと光った。

 

「ふっ!!」

 

 先程と同じく、綾耶が風のバリアを作り出す。しかし今度の銃弾は風の中を進んできて、バンの屋根の一部を削り取っていった。

 

「……!!」

 

 拙い。綾耶がぎりっと歯を鳴らす。

 

 流石にイニシエーターが瞬間的に発生させる風に対してはまだパターンの把握が十分ではなく狙いも完全ではなかったようだが、それでもさっきよりずっと正確になっていた。そして今ので更に多くのデータを与えてしまった訳だから、次はもっと正確に弾着を修正してくる。恐らく、今度は命中させてくる。

 

 次の狙撃まで、何秒ある? 10秒? 5秒? それまでに安全圏にまで逃げられるか? 無理だ。ならばどうする? 体を盾にした所で、あの威力の銃弾では自分の肉体を貫いてその先にいる聖天子様の命を奪うだろう。

 

 どうする!?

 

 だが。今回はまだツキがあった。

 

「そこのビルの駐車場に入れ、早く!!」

 

 車内で、蓮太郎が怒鳴るのが聞こえた。運転手が思いきりハンドルを切ると手近なビルの駐車場にバンが滑り込んで、綾耶は振り落とされないように掌をぴったりと屋根にくっつけ、真空接着で体を固定した。建物に入る瞬間、髪が一房天井に触れるのを感じ取って、慌てて頭を引っ込めた。

 

 車が止まるのを待たず、綾耶は真空接着を解除すると転がりながら車から降りた。停車と同時に、蓮太郎と延珠も出てくる。

 

 警戒しながら、地下駐車場の入り口まで移動する3人。壁に背中をぴったりと貼り付けた蓮太郎は、次の瞬間にマズルフラッシュが見えたらすぐさま退避出来るよう集中力を切らさず、柱の陰から半分だけ顔を出して様子を伺う。

 

 狙撃は無い。

 

 気付けば、シェンフィールドの駆動音も聞こえなくなっていた。空気を凍り付かせて肌をひりつかせていた殺気も薄らぎつつある。どうやらティナは狙撃の失敗を受けて、撤退に入ったようだ。

 

 このままではみすみすティナの逃走を許してしまう。だが狙撃地点のビルまで軽く1キロ。普通に追って捕まえられる距離ではない。ましてや相手はイニシエーター。逃げ足も人間の比ではあるまい。

 

「蓮太郎、妾と綾耶で狙撃手を追う!!」

 

「延珠……」

 

 蓮太郎は逡巡を見せた。

 

 確かにモデル・ラビット、スピード特化型イニシエーターの延珠と、空を飛べる綾耶なら追い付く事も不可能ではあるまい。しかし、追跡対象であるティナの序列は98位。スペックのデータも見たが、恐るべき高数値だった。二人掛かりでも、無事に済むとは限らない。だがここでみすみすティナを逃がしてしまうのも……!!

 

 難しい判断だが、しかしこうしている間にもティナは凄いスピードで逃げているだろう。時間が無い。

 

「分かった、ただし二つ約束しろ。少しでも危ないと思ったり何か違和感を感じ取ったりしたらすぐに撤退する事。そして……」

 

「もし首の後ろがビリビリした時も同じように逃げる事、だな。分かっている」

 

「僕達が戻るまで、聖天子様の事をお願いします」

 

「気を付けろ、二人とも。必ず無事で戻ってこい」

 

 二人のイニシエーターの瞳が紅く燃える。延珠は跳躍するとビルの壁面を駆け、あるいは屋上から屋上へと飛び移って移動。綾耶は巻き起こした風に乗って、ビルの屋上よりも更に高く上昇してから水平飛行に移る。

 

「綾耶……」

 

 その姿を見送っていた聖天子の、祈るように合わせた手にきゅっと力が入った。

 

 

 

 

 

 

 

 蓮太郎は乗り気ではなかったが、しかし二人による追撃それ自体はあらかじめシミュレートしていた作戦の一つではあった。

 

 綾耶が上空から、延珠は地上もしくはビルの屋上を移動して、二方面からティナを追い立てる。ティナが反撃してきたとしても、狙撃銃の銃口は一つ。同時に二人は狙えない。仮にどちらかがやられても、その間に接近したもう一人がティナを捕らえる。

 

 勿論、二人とも無傷なのが最善だが……相手は序列百番以内の超高位序列保持者。何のリスクもダメージも負わずに勝とうと言うのがそもそも虫の良すぎる話なのだ。

 

 空を移動する綾耶は、視線を落とす。ティナが撃ってきたビルまで後500メートル。まだ狙撃の気配は無いが、しかしここからは回避も防御もより難しくなってくる。その為一度、延珠の様子を把握しておこうと思っての行動だったが……これは、偶然ながら良い結果となった。

 

 延珠が、屋上で立ち止まっているのを発見出来たのだ。

 

「!? ええっ!!」

 

 綾耶は顔を引き攣らせ、両腕の空気ジェットを緊急噴射。軌道を無理矢理変えてビルの屋上、延珠のすぐ傍へと着地する。

 

「え、延珠ちゃん!! 何やってるの!? 止まったら撃たれるよ!! 動かないと……!!」

 

 泡喰った顔で、綾耶が喚いた。追撃を行う時に最も心掛けるよう蓮太郎から言われていたのが、常に動き続ける事だった。ティナ・スプラウトは狙撃兵。動いているのなら、狙撃用スコープの狭い視界では延珠の素早い動きは捉え切れずに生存の可能性は大きく上がる。

 

 だからこそ動き回る事……なのだが、何故延珠は足を止めたのだ?

 

「あ、綾耶……動かないのだ……妾の足が……!!」

 

「なっ!?」

 

 顔を青ざめさせた延珠が足を上げようと力を込めるが、彼女の両足は、ほんの1センチもビルの屋上から浮かなかった。綾耶は両手で延珠の右脚を掴んで持ち上げようと思い切り力を入れたが、結果は同じ。ゾウの因子を持つ彼女の怪力を以てしてもピクリとさえ動かない。力を入れてみた感覚から分かったが、これは何らかの原因で延珠の足が急に麻痺したとか、あるいは靴底に超強力な接着剤がひっついていたりとかする類のものではない。もし後者だったら、綾耶のパワーは延珠の足をくっついた屋上のコンクリートごと持ち上げていたろう。

 

 何か……見えない力で足が空間のその位置に固定されている。と、言うのが最も近い表現に思えた。

 

『どうしよう!?』

 

 いつまでもこうしているのは、狙って下さいとティナに言っているようなものだ。こうしている間にも次の弾丸が飛んでくるかも知れない。

 

「綾耶、妾を置いて逃げろ!! このままでは二人ともやられるぞ!!」

 

「それは……!!」

 

 そんな事出来ない。そう言いかけて、綾耶は周囲の警戒に移った。ここで動けない延珠を守って戦うにせよ一人で離脱するにせよ、まずは状況を確認せねばならない。両腕に意識を集中して、最大範囲で周囲の状況を把握出来るようにする。

 

 シェンフィールド、銃弾共に接近の気配は無し。ティナらしきイニシエーターの動きは、まだ遠過ぎて分からない。

 

 前後左右に、異常は無し。後は……

 

「!!」

 

 残る一方向に、異常があった。

 

「延珠ちゃん、上から何か来る!!」

 

「何っ!!」

 

 まさかの方向からの接近に、顔を上げるイニシエーター二人。

 

 見れば闇の空から、何かが近付いてきていた。

 

「あれは……!!」

 

 ふわりと降りてきたのは、一人の少女だった。こんな真似が出来るのだから、彼女は間違いなくイニシエーターだ。

 

 少女は、静かにビル屋上に降り立った。

 

「……あなたは……!!」

 

「そんな、何故お主が……!!」

 

 綾耶と延珠は、揃って動揺した声を上げる。二人とも、表情は驚愕の一色に塗り潰されていた。

 

 空から現れたイニシエーターはお嬢様風のドレスを着ていて、蒼い髪をボリュームのあるポニーテールに束ねた白人の少女だった。彼女を、綾耶も延珠も知っていた。

 

「ソニア……さん」

 

「どうして、こんな所に……!?」

 

 最近、第39区第三小学校にやって来た転校生のソニア・ライアン。二人の前に現れたイニシエーターは、紛れもなく彼女だった。

 

 嫣然と立つソニアは、静かに口を開いた。

 

「延珠ちゃんに、綾耶ちゃん。こういう形で会うのは初めてだから……改めて、自己紹介させてもらうわね」

 

 紅い両眼が、優しく二人を見据える。

 

「IP序列元11位、モデル・エレクトリックイール『星を統べる雷帝(マスターオブライトニング)』Sonia Ryan(ソニア・ライアン)。一言で言って、あなた達の敵よ」

 



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第18話 イニシエーター、ソニア・ライアン

 

「敵……だと? お主が!?」

 

「ソニアさん、冗談は……!!」

 

 綾耶と延珠は目の前に現れた新手のイニシエーターを見て、愕然とした顔でそう言うのが精一杯だった。

 

「冗談じゃないわよ。流石にこんな事、冗談では言えないわ」

 

 と、ソニア。敵と名乗ったにも関わらずその佇まいはゆったりとリラックスしていて、戦いの緊張などまるで見られない。

 

「まぁ……信じる信じないはどちらでも良いわ。それより二人とも、ここから先へ進むのは止めなさい」

 

「お主は……!!」

 

 動けない延珠は、自由になる口を動かしてじっとソニアを睨む。ティナを追い掛けている自分達の前に現れてこの先へと行くなと言う。つまり、彼女はティナと共犯という事なのか? 表情からその疑問を読み取ったソニアが頷く。

 

「ティナの事は、全て私がやるわ。あなた達はこれ以上の手出しは無用に願うわ」

 

「……一つ、答えてもらえませんか?」

 

「ん?」

 

「先日の狙撃事件で、銃弾を曲げたのはあなたですか?」

 

 綾耶の問いに、ソニアは答えなかった。代わりにそっと右手を差し出す。

 

「うわわっ!?」

 

「え、延珠ちゃん?」

 

 すると延珠の体が、ふわりと空中に浮き上がって2メートルぐらいの高さで止まった。驚いた綾耶が延珠を風船のように掴んで下ろそうとするが、今し方足が屋上の床に固定されてしまった時のようにびくともしない。これはつまり、延珠の動きを止めていたのソニアの仕業だったという証明だ。

 

「手出しは無用、と言ったわよ」

 

 ソニアが軽く手を払う動作をする。すると今度は、

 

「う、うわああああああっ!!」

 

 何も触れてもいないのに空中の延珠の体がトラックにでもぶつかったかのように吹き飛ばされて、夜の闇に消えていく。

 

「延珠ちゃん……!! くっ!!」

 

 綾耶は一瞬遅れて跳躍すると、飛翔して延珠を追い掛ける。延珠の力はあくまでも脚力。足場の無い空中では発揮出来ない。いくらイニシエーターの身体能力と再生能力と言えど、ビルの高さで頭から落ちればただでは済まない。死にはしないまでも後遺症が残る可能性も十分にある。

 

 ソニアはそれを知っていて延珠をぶっ飛ばしたのだ。そして延珠が危機に陥れば、綾耶が助けに動く事も計算に入れていたに違いない。一人を無力化する事で、もう一人も追撃出来なくする。近代戦の教科書のような戦法だ。明らかに訓練され、戦い慣れている。

 

 綾耶は飛びながら、そんな事を考えていた。ちらりと背後を振り返ると、屋上に立つソニアが手を振るのが見えた。

 

 延珠には、すぐに追い付いた。手足をばたつかせながらビルの谷間を落ちていく彼女は自分に向かって飛んでくる綾耶の姿を認めると、手を伸ばす。綾耶も同じように手を伸ばして、親友の手をしっかりと掴んだ。同時に空いている方の手から素早く空気を噴射して空中で体勢を整える。

 

「大丈夫? 延珠ちゃん……」

 

「すまぬ、綾耶。不覚であった……!!」

 

「いや……」

 

 綾耶は首を振る。

 

 状況から判断してソニアが銃弾を曲げた「X」だと思ってまず間違いはない。味方だとは思っていなかったが、彼女はティナ・スプラウトの事を知っていた。敵もしくはそれに限りなく近い存在だと考えるのが適切かも知れない。そして手も触れずに銃弾を曲げ、延珠の動きを止め、空中に浮かせて吹き飛ばしたあの力。ソニアはエレクトリックイール、つまりデンキウナギのイニシエーターだと名乗っていたから、未織が推測していたように発電能力の応用で作り出した電磁場なのだろうが……

 

「……作戦を、立て直す必要があるね」

 

 早急に、そして大幅に。

 

 

 

 

 

 

 

<ソニア・ライアンやて!? 本当に、そのイニシエーターはそう名乗ったんやな!!>

 

 対策を検討する為に綾耶が未織に連絡を入れ、そしてソニアの名前を伝えた途端、電話越しの彼女は明らかに動揺した声を上げていた。その後「すぐ折り返しウチから掛け直すから」と言って通話が切られて数分後、綾耶は1コールしない内に通話スイッチを入れた。

 

<緊急で対策会議を開くで。里見ちゃんや延珠ちゃん、木更にも連絡を入れてくれるか? 室戸先生にもアドバイザーとして参加してもらえるよう交渉するんや>

 

 一時間後、司馬重工本社ビルの地下会議室には未織、蓮太郎、木更、延珠、そして綾耶が集められ、菫も映像通信で会議に参加する運びとなった。

 

「……話は聞いたわ。延珠ちゃんと綾耶ちゃん、確認するけどあなた達が会ったそのイニシエーターは本当にソニア・ライアンだったのね?」

 

 話を最初に切り出したのは木更だった。しかし今の彼女は、蓮太郎や延珠が見た事もないほどに真剣な顔をしていた。

 

「うむ、あれは間違いなくソニアだったぞ」

 

「延珠ちゃんに同じです」

 

 二人の回答を受けて、未織は手元のコンソールを操作する。すると、大型モニターの一つにイニシエーターのバストアップ写真が表示される。思わず息を呑むイニシエーター二人。写っていたのは確かに彼女達が知っているソニア・ライアンその人だった。

 

「……この子で間違いないな?」

 

「……うむ」

 

「間違いありません」

 

<……だとするなら、これは最悪の事態と言っていいだろうな>

 

 机に置かれたノートPCの画面の中で、菫が渋面を見せる。

 

 木更、未織、菫は事情を知っている一方で、蓮太郎、延珠、綾耶は訳が分からない。この温度差から居心地の悪さを感じて、蓮太郎が手を上げた。

 

「なぁ……質問良いか? そもそもそのソニア・ライアンってのは何者なんだ?」

 

 問いを受け、事情を知っているメンバーは一様に呆れ顔になった。特に木更などは「民警やってるならそれぐらい知ってなさいよ」とでも言いたげである。菫も<はぁ>と溜息を一つ。

 

「まぁ、ええやないか。情報の整理も兼ねて、一から説明しよやないか」

 

 未織はそう言って再びコンソールを叩く。するとホロディスプレイの画面一杯に表示されていた写真が8分の1ぐらいの大きさになって、空いたスペースに詳細な情報が表示されていく。

 

 

 

【名前:ソニア・ライアン、国籍:米国、年齢:9歳(当時)、プロモーター:エイン・ランド、モデル:エレクトリックイール(デンキウナギ)、序列:11位(当時)、機械化兵士計画『NEXT』による最初期の強化兵士……】

 

 

 

 次々に現れていくデータは、蓮太郎の顔から血の気を引かせるのに十分なものがあった。

 

 序列11位だと? あの魔人・蛭子影胤と小比奈ペアでさえ序列は134位だった。それより100位以上も高い。単純に考えて、世界にソニアよりも強いペアはたった10組しか居ない計算になる。

 

 だがその時、横合いから掛けられた菫の言葉が、そんな考えさえまだ甘かった事を彼に突き付ける。

 

<蓮太郎くん、もし君が当時11位という序列からソニア・ライアンが世界で11番目に強いイニシエーターと思っているのなら……残念ながらそれは間違いだ>

 

「え……」

 

<彼女のプロモーターだったエイン・ランドは科学者であり、戦闘力は皆無だ。それは昔一緒に仕事をしていた私が保証する。恐らく奴は安全な場所から無線か何かで指令を出しているだけに過ぎないのだろう>

 

「それはつまり……」

 

 青ざめた顔で発言した木更を見て、画面の中で菫が頷く。

 

<当時11位という序列は、イニシエーターである彼女一人の力によって保持されていたという事だ>

 

IP序列はイニシエーターとプロモーターが挙げた功績に加えて、両者の戦闘力の総合値で算出される。11位という超々高位序列がイニシエーター単独の実力によって叩き出されるなど、ありえるのだろうか。

 

「しかし、おかしくはないか?」

 

 これは延珠の発言である。

 

「妾達は前にティナ・スプラウトの情報を調べる為にIISOのデータベースを見たが、11位のイニシエーターはソニアとは似ても似つかぬ女だったぞ?」

 

「……それは、当然やね。書いてあるやろ? ソニア・ライアンの序列は“当時”11位やと」

 

「当時……って」

 

「突然やけど里見ちゃん、撃破済みのステージⅤガストレアとそれを倒したイニシエーターの序列……全部言えるか? 里見ちゃんが倒した天蠍宮(スコーピオン)以外で」

 

 急に話題を振られた蓮太郎だが、これは民警としては常識中の常識。すぐに答える。

 

「あ、ああ。1位のイニシエーターが倒した金牛宮(タウラス)、ドイツの2位が倒した処女宮(ヴァルゴ)、アメリカの当時11位が相打ちで倒した天秤宮(リブラ)……って」

 

 はっとした表情になった蓮太郎。その顔からは、先程よりも更に血の気が引いてコピー用紙のようになっている。言いたい事を彼が察したのを読み取って、未織が頷いた。キーボードを叩くとソニアのデータに重なるようにして、ムカデの体に爬虫類の頭を付けたような異形のガストレアの画像が表示される。これは蓮太郎も民警資格を取得する際の講習で見た事があった写真だ。ゾディアックガストレアの1体、疫病王・リブラ。

 

「そう、ソニア・ライアンこそがリブラを倒したイニシエーターなんよ。彼女とリブラが戦ったネヴァダ砂漠では、周囲数キロに渡って砂がガラス化するほど膨大な熱量の放出が確認されとる。戦闘終了後に完全装備の調査班が調べた所、バラバラになったリブラの残骸は確認されたが、ソニア・ライアンは遺体は見付からずプロモーターの元へ戻ったという報告も無かった。この事からIISOはソニアはリブラと相打ちになったと発表してMIAに認定、登録から外したんや」

 

「MIAというのは?」

 

「Missing In Action……作戦行動中行方不明……実質的な戦死ね」

 

 綾耶の質問には、木更が答えた。

 

「ステージⅤを倒したイニシエーター……」

 

 恐るべき事実を突き付けられて、今日の蓮太郎の顔色の悪さは底を突き破って更に悪くなっていく。ここまで来ると哀れに思える程だ。ゾディアックを倒したという結果だけ見れば彼とてソニアと同等の存在だが……そこに至るまでの過程が大きく異なる。天の梯子という戦略兵器クラスの切り札を使ってやっと倒した自分に対し、表示されている情報を見る限りソニアは丸腰か、持っていたとしても携行可能なぐらいの装備しかなく、それでステージⅤを倒したのだ。単純な戦闘力では、天と地以上の開きがある。

 

「……更に言うなら、当時11位というこの序列にはリブラ撃破の功績は加味されとらん。軍の階級とは違うからな。死んでも二階級特進とかは無いんや。もしその戦果も合わせて序列を再計算するとしたら……間違いなく一桁台に入るやろな」

 

 これだけでも十分すぎるほどに絶望的な事実を突き付けられたが、しかし現実はこの程度で許してはくれなかった。

 

<そして……備考欄に書かれているな? 彼女は『NEXT』の強化兵士。ティナ・スプラウトと同じでイニシエーターとしての能力以外に、機械化兵士としての力も併せ持っているという事だ>

 

「……具体的に、ソニア・ライアンはどんな事が出来るんだ?」

 

 疲れた顔で、蓮太郎が尋ねる。ソニアがブッ飛んで強いイニシエーターである事はもう十分に分かった。それよりも今は彼女の能力を知り、出来る事と出来ない事をしっかり把握して対策を立てる事が肝要だ。

 

「……確認されている限り、彼女の主な能力はデンキウナギの因子による発電能力と、それを応用して作り出した磁場による金属のコントロールや。ただし、そのどちらも規模がハンパやない」

 

 再び未織がコンソールを操作すると、炭化して黒コゲになったガストレアの死体が見渡す限りの大地一面に転がっている写真が空間に現れた。数は、目測ながら軽く三百あるいは五百か。階梯はステージⅠからⅣまでまちまちだ。この写真が意味する所は……聞くまでもない。

 

「これは2年前、まだイニシエーターになったばかりのソニアが初任務でたった一人で、ほんの一時間足らずの間に掃討したガストレア群や。しかも、全くの無傷でな。この派手過ぎるデビューで彼女はいきなり序列1000番台に認定され、世界中にその名を轟かせたんや」

 

 説明しつつ、鉄扇を振る未織。すると今度は巨大な橋が中程から切り離されて、引き千切られた部分が空中に浮かんでいる写真と、潜水艦が水面から数十メートルも離れた空間に浮遊している写真、野球場が丸ごと空に浮き上がってドーナツのようなシルエットを地面に落としている写真の3枚が表示された。

 

 蓮太郎も延珠も綾耶もこれは何かの合成写真かSFXかそれともCGかと思ったが、未織と木更と菫は違っていた。

 

「ま、まさか……」

 

 脳内の想像を否定して欲しくて綾耶は縋るような目を向けるが、未織は首を横に振って応じた。

 

「残念やけどこれは特撮でも何でもない、実際に起こった記録や。さっきも言った通りソニア・ライアンは発電能力を応用して電磁石のように磁力を作り出し、金属を自在に操れる。そしてそのパワーは尋常やない。金門橋は引き千切る、排水量9000トンもある原子力潜水艦は釣り上げる、挙げ句はシティ・フィールド……ニューヨークメッツのホームグラウンドやけど、そのスタジアムを持ち上げる……やりたい放題やな。まだまだあるで」

 

<……地磁気という言葉があるように、我々が生きているこの地球はそれ自体が一個の巨大な磁石だ。彼女は地磁気からパワーを引き出して、電磁誘導によって発電機のように自分の電力に変換、通常時を遥かに超える膨大な電力を操ったという記録がある。事実上、ソニア・ライアンは地球に居る限り無限のエネルギーを行使出来ると言っても過言ではない>

 

「更に、彼女は適正な条件さえ整えれば自分が作り出す磁界を星の磁場とシンクロさせて、地球のどこにでも狙った所に大規模な地殻変動を引き起こす事さえ出来るらしいわ。地震を発生させたり、火山を噴火させた記録さえあるのよ。それが二つ名である『星を統べる雷帝(マスターオブライトニング)』の由来ね」

 

 未織、菫、木更の順番に語られたソニアの能力は、もう悪夢を通り越して笑えてきた。まるで子供が考えたスーパーヒーローのようだ。

 

<更に……>

 

「……まだあるのか?」

 

 モニターの中の菫が何やら言い掛けたのを見て、蓮太郎は疲れた表情だ。もう、何が来ても驚かない自信がある。

 

<彼女の力で特筆されるべきは攻撃力やその効果範囲ではない>

 

「……って言うと……」

 

<彼女は磁力で金属を自在に操る……それは、バラニウムだって例外ではない>

 

「なっ……!!」

 

 何が来ても驚かないと思っていたが、予想はあっさりと覆された。

 

 呪われた子供たちは体内に保菌するガストレアウィルスによって高い再生能力を持つ。よって呪われた子供たちを殺傷するには脳か心臓を一撃で破壊する以外には、再生能力を無効化するバラニウムの武器を以て行うのが現実的な手段と言える。

 

 そこへ行くとソニアは弱点であるバラニウムを無力化してしまう、どころの騒ぎではない。どれだけ大量のバラニウムを持って行っても、彼女に武器を提供しているだけの結果に終わってしまうのだ。延珠の動きを止めて空中に吹き飛ばした時も、ブーツの靴底に仕込まれたバラニウムに磁力を作用させたのだろう。

 

「地球規模で能力を行使し、バラニウムを操るイニシエーターなど世界に彼女一人。しかもその力である電磁力は金属の存在が切っても切れない文明社会の中では無尽蔵の武器を操れる無敵の能力に等しく、更に現在の世界ではいとも容易くモノリスを分解して、エリアに大絶滅を引き起こす事が出来る戦略兵器にも等しい……戦闘で戦術的に彼女に勝てるイニシエーターは居ても、戦争で戦略的に彼女に勝つ事は世界中のどんな軍隊にも不可能。故に彼女は一国の軍事力をも遥かに超える脅威であるとIISOに認定され、SR議定書が制定されたのよ」

 

「SR議定書……」

 

「そう、SR……つまり、Sonia Ryan議定書。彼女の取り扱いについて、国際的に定めたものよ」

 

「……妾達はそんな奴と戦うのか……?」

 

 ゾッとした表情で、延珠が溢した。話を聞く限り、ソニアは生まれる世界を間違えている気さえする。ボクシングに例えるならこっちがフライ級なのに、あっちはヘビー級だ。

 

「戦う必要は無いよ」

 

 と、綾耶が断言する。

 

「どういう意味だ?」

 

「ソニアさんが、僕達の敵じゃないって事ですよ。蓮太郎さん。少なくとも、僕達を殺したり聖天子様を暗殺したりするのが目的じゃないのは分かりますよ」

 

「根拠はあるのか?」

 

「ええ。僕達を殺したいなら一時間前に出会った時にそうしている筈だし、学校とかでいくらでもチャンスはあった……それに聖天子様を殺したいなら、わざわざ銃なんか使わなくても、金属を操る力でリムジンをひっくり返してしまった方がよっぽど確実で手っ取り早いし、証拠も残らず事故として片付けられる。第一、最初の狙撃事件で弾丸を曲げた理由が説明出来ないし……」

 

「……確かにそうだが。じゃあ、奴の狙いは何だ?」

 

 聖天子を守りたいだけなら蓮太郎達の前に堂々と名乗り出て、協力を申し出れば良い。

 

 逆に聖天子を殺したいなら、今し方綾耶の言った通り狙撃などよりずっと確実な方法がある。

 

「分からないわね……」

 

 腕組みした木更が、首を捻って唸る。

 

「だから、ソニアさんとちゃんと話し合ってみたいんですけど……」

 

「せやけど、最悪の事態は常に想定しておくべきやろ。少なくともソニア・ライアンがこの一件に関わる気があるのは明白や。そしてウチ等の味方やない……という事は、敵になる可能性があるという事や」

 

<私としては、この一件からはすぐに手を引けと言いたいな。相手は実力的には序列一桁にも並ぶであろう怪物イニシエーター。延珠ちゃんと綾耶ちゃんが二人掛かりでも勝ち目は……恐らくは一割を切るだろう>

 

 菫の意見も尤もではある。蓮太郎、延珠、綾耶の三人はそれぞれ司馬重工製のシミュレーターを使った訓練を行った事がある。その時に出た数値は、仮に通常時の蓮太郎の戦力を100パーセントとした場合、義眼使用時の蓮太郎が2200パーセント、義手と義足を使用した場合はざっと3倍の6600パーセント。延珠が8600パーセントで、綾耶は8450パーセント。綾耶は周囲に水が大量にある環境下では4倍近い33000パーセントにまで跳ね上がる。

 

 その33000パーセントの綾耶ですらゾディアック・ガストレアが相手では少しもダメージを与えられず足止めが精一杯。そんなゾディアックを倒したソニア。このようにして比較すると、彼女の強さがどれだけ常軌を逸し、常識を超えているかが分かる。50000か100000か。否、最早数字など何の意味も持たない領域にまで到達しているのだろう。

 

<……止めろ、と言っても聞きはしないのだろうね>

 

 返ってくる答えが分かり切っているから、菫は敢えて問う事はしなかった。がりがりと頭を掻いて、椅子に座り直す。

 

<分かった。何とか、君達が殺されないように考えようじゃないか。ただし、あくまで話し合う事を第一として、戦う事はそれが上手く行かなかった時のプランBとする事は約束してくれ>

 

「分かった」「承知した」「分かりました」

 

 三者の声が揃って返ってきたのを受け、菫はひとまず納得したようだ。溜息を吐いて、リラックスした風にもう一度座り直した。

 

「けどソニア・ライアンと戦う場合、やるのは延珠ちゃんと綾耶ちゃんの二人やで」

 

「何で……!!」

 

「里見くん、君は自分の手足が何で出来ているか忘れたの?」

 

 未織の意見を受けての蓮太郎の抗議は、木更に封殺された。

 

 蓮太郎の右手・右脚は超バラニウムの合金製。金属を操るソニアが相手では戦う戦わないの前に、対峙した瞬間バラバラにされてしまうのがオチだ。仮にその特性が無かったとしても、ソニアはイニシエーターであると同時に機械化兵士でもある。機械化兵士の力が素体にプラスする値が菫の「新人類創造計画」とエイン・ランドの「NEXT」が同じだと仮定した場合、後に残るのは人間とイニシエーターとの埋めがたい差だ。

 

 戦闘になった場合、生き残る可能性はイニシエーターである延珠と綾耶の方が遥かに高い。

 

「ソニアの強さは良く分かったが……だが、奴はゾーンではない。ならば妾達でも、倒せない敵ではないと思うが……」

 

 延珠の言葉に、PC画面に映る菫が<何っ?>と椅子から身を乗り出していた。

 

<それは、確かなのか?>

 

「ええ……確かに、今まで何度もソニアさんとは話したりしましたけど、首の後ろがビリビリする事は一度もありませんでした」

 

 綾耶からもそう言われて、菫が首を捻る。

 

 ゾディアックの一角たるリブラを落とし、惑星をも意のままに動かし、序列一桁に並ぶ力を持つであろう最強のイニシエーターの一人。それがゾーンでないなど有り得るのだろうか?

 

 疑問はあるが、しかしゾーンについては菫も分からない事が多いし、重要なのはソニアがゾーンか否かではない。

 

「ゾーンであろうとなかろうと、ソニア・ライアンがずば抜けて強力なイニシエーターである事は間違いないわ。その彼女と戦う事になった場合、どうするのかを皆で考えるのよ」

 

「……それについては、ウチも木更と同意見やね」

 

 未織が鉄扇で掌を叩いて、気持ちの良い音を立てる。

 

「SR議定書では対ソニア・ライアン用の武器も設計され、警察やSPに一定数を配備する事が義務付けられとる。当然、司馬重工にもあるで。ウチからはそれを提供する。その上で全員で作戦を立てよやないか」

 

 

 

 

 

 

 

『少し、良いですか? そのストーブに、当たらせてもらっても……』

 

 始まりは雪の降る夜だった。ゴミ捨て場で、ソニアはまだまだ使えるのに捨てられてしまった電気ストーブを自分の電気で動かして暖を取っていた。そこにふらりとやって来たのは、彼女と同じようにボロボロの服を着た少女だった。

 

『ん……』

 

 ソニアは無愛想に頷くと、ストーブの真っ正面から少し脇へと動いて女の子が座る場所を空けてやった。少女はぺこりと頭を下げて、彼女のすぐ脇へと座り込むとかじかんだ手をストーブにかざす。

 

『……食べる?』

 

『あ、はい……ありがとうございます』

 

 半分ぐらいの大きさになった板チョコを、ソニアは少女へと差し出した。少女は最初は戸惑っていたようであったが、その時彼女のお腹がぐるると鳴ったのをソニアが耳ざとく聞き付けてくすくす笑うのを見ると、顔を赤くしながらチョコレートを囓った。ソニアは少女がチョコを食べ終えて人心地付くのを待って、それから切り出した。

 

『……私は、ソニアよ。あなたは……?』

 

『ティナ……ティナ・スプラウトです』

 

『そう……一緒に来る? ティナ』

 

『はい』

 

 それから、二人はいつも一緒だった。

 

 ティナはソニアの事を「お姉さん」と慕って、ソニアもティナの事を実の妹のように可愛がった。二人とも、自分が相手に救われているのを知っていた。

 

 ソニアは父の顔も母の顔も知らない。生まれ持った紅い目と異能の力を疎まれ、捨てられたのだ。

 

 物心付いた時から、その力を使って他者から欲しいものを奪い取るだけの悪鬼の生活を続けていた。

 

 ティナとの出会いは、そんなソニアにとって大いなる転換点だった。彼女はティナと出会えて、人間になれた。ぬくもりを与えられて、与える事を知った。想い、想われる事を知った。

 

 だが、呪われた子供たちである彼女達の生活は貧しく、厳しい。元々一人だけでもギリギリの生活だったのだ。二人となれば、より苦しくなるのは自明の理だった。

 

 金が要る。だが、誰かを傷付けて奪おうという選択肢は、もうその時のソニアからは失せていた。

 

 ちょうどその少し前から、外周区の廃墟に呪われた子供たちの死体が打ち捨てられているのを彼女は知っていた。珍しい事ではないが、しかしそれらの死体は一様に切り刻まれていて身体の一部が欠損していたりするのも少なくなかった。拷問やサディスティックな嗜好からそうしたものとは全く違う。筋肉の流れに沿って切られていて、明らかに専門知識を持った者が外科手術で付けた傷だった。

 

『ある科学者が呪われた子供たちを使って何かの実験をしている。より強力なイニシエーターを、人工的に創り出す為に』

 

 情報屋からそこまでの情報を得ると、ソニアはまず死体を捨てに来たガラの悪そうな連中をとっ捕まえて締め上げ、その後はイモヅル式に次々とバックにいた者達を炙り出してはぶちのめし、最終的には黒幕である四賢人の一人、エイン・ランドにまで行き着いた。

 

 殺そうと思えばいつでも殺せる相手に向かって、ソニアは言った。

 

『教授、取引をしましょう。あなたの実験に、強力な呪われた子供たちを提供する。その代わりに、人生が買えるぐらいのお金が欲しい』

 

 1000番台のイニシエーター複数名を含む腕利きの護衛を全滅させて現れた一人の少女。脅迫半分のその申し出を受けてエインは差し出された小さな手を握り返し、取引は成った。

 

 かくして機械化兵士となったソニアはエイン・ランドのイニシエーターとして活躍し、序列の階段を駆け上がっていく。

 

 報酬としてエインから受け取った金の八割は、ティナへと渡した。これで彼女は暖かい布団で寝て、飢えに苦しむ事は無くなるだろう。

 

 そう、思っていた。

 

 半年後、ソニアはどれほど自分が世間知らずでお花畑な脳味噌をしていたのかを思い知る事となった。

 

 エインから、自分の後継だと紹介されたイニシエーター……彼女の名前は、ティナ・スプラウト。

 

 何の事はない。ティナと彼女との関係など、エインはとうの昔にお見通しであったのだ。その上でティナをイニシエーターとする事で、ソニアは逆らえないよう首輪を付けられた状態となってしまった。

 

 その後は漫然と、ただ機械的に与えられた任務をこなすだけの日々が続く。ティナを危険な目に遭わせない為に危ない橋を渡った筈なのに、どうしてこうなってしまったのか。エインはイニシエーターとなったのはティナが志願しての事だと聞かせてくれたが、「何故こんなバカな事を」とティナを責める気持ちすら、ソニアにはもう湧いてこなかった。

 

 エインはその後も最強の機械化兵士を創造する研究を続けて、彼女やティナの妹世代に当たるイニシエーターの機械化兵士”ハイブリット”が増産されていく。一方でその何倍何十倍もの数の少女達が、実験室に消えていく。

 

 だが、それを目の当たりにしつつもソニアは何の感慨も湧かなくなっていた。

 

 そんな時間は、彼女が9歳になるまで続いた。

 

 ルイン・ミザールと名乗る女と出会うまで。

 

 彼女達“ルイン”は自分達の理想を実現する為に強いイニシエーターを求めていて、ソニアを仲間に加えに来たのだった。

 

『……良いわよ。あなた達が真に私達、呪われた子供たちの未来を創ると言うのなら、私の力をあなた達に貸すわ。でも、それが偽りであった時は、私があなた達を殺すわ』

 

 ルイン達とソニアの間で、契約は為された。

 

 彼女達からガストレアウィルス適合因子を移植され、浸食率の枷からも解き放たれたソニアはゾディアックの一角たるリブラと戦い、相打ちになったと見せ掛けて自らの死を偽装し、エインの元から離れ、ルイン達の元へと身を寄せて来るべき時を待つ。

 

 彼女の目的は、ティナを初めとする機械化兵士のイニシエーターを自由の身とする事。

 

 その、最初の機会が訪れた。この東京エリアで。

 

 イオノクラフトの原理によりふわふわ宙に浮きながら、東京エリアの夜景を眼下に臨むソニアは懐からピンボケした写真を取り出す。そこに写っているのは、今よりも幾分幼いティナと自分だ。あの頃は幸せだった。今と違って寒さに眠れぬ夜を過ごしたり、飢えに苦しんだりもしていたが、それでも幸せだったと言い切れる。

 

 もう、あの頃には戻れない。戻るには、あまりにも多くが変わり過ぎてしまった。あまりにも多くのものを捨ててきてしまった。

 

 それでも、あの子には。

 

 血は繋がっていないけど、心が繋がった妹には日の当たる世界で生きて欲しい。

 

「だから……待っていてね。ティナ……お姉ちゃんが、必ずあなたを……あなた達を自由の身にしてみせるから……」

 

 

 

 

 

 

 

 数日後、聖天子と斉武宗玄との三回目の会談の日時が決まった。

 

 聖天子を守る者、蓮太郎、延珠、綾耶。

 

 聖天子を殺す者、ティナ。

 

 ティナを守る者、ソニア。

 

 各人各様の想いを胸に、決着の時は迫る。

 



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第19話 兎&象VS電気鰻

 

 東京エリア第39区、都市中心部。

 

 煌々とした月の下、蓮太郎、延珠、そして綾耶の3名はその廃墟を用心深く進んでいた。ここは聖天子と斉武大統領との第三回会談における聖天子の護送ルートの中で、絶好の狙撃ポジションと言えるポイントだった。

 

 聖居内に情報漏洩者が居る事は、聖室護衛隊も流石に気付いている。よって内部調査班によってリストアップされた容疑者には全員、偽の護衛計画書が流されていた(ちなみに蓮太郎の名前はリストのトップに、綾耶はその次に挙がっていたらしい)。この場所は、狙撃兵を誘い出す為に用意した“穴”。ティナがあくまで聖天子を暗殺しようとするのなら、その方法が狙撃であるのなら、狙うのはここしかない。

 

 無論、ティナが二度の失敗を受けて狙撃を諦めるという可能性もあるし、あまりにもあからさまなスナイピングポイントである事を逆に警戒して、罠を看破して来ないかも知れない。

 

 どちらの可能性もあるが、しかし蓮太郎はティナが来る確率は高いと見ていた。彼の予想が正しければ、狙撃事件のバックに居るのは斉武宗玄だ。そして斉武がこの東京エリアを訪れてから聖天子を狙っての狙撃が始まった事から考えるに、奴の目論見は聖天子が“悲劇”に見舞われた際に、“偶然”東京エリアに滞在していた自分が人道的見地から臨時のエリア代表として暫定的に東京エリアを統治し、後はそのまま正式に自分の支配下に置く……とか、大方そんな所だろう。

 

 つまり、タイムリミットは斉武がこのエリアに滞在していられる明日まで。彼とてエリアのトップである以上、いつまでも大阪エリアを空けてはいられない。斉武がこの東京エリアを離れるまで聖天子を守りきれば蓮太郎達の勝ち、それまでに聖天子を殺せればティナの勝ちだ。

 

「……やれやれ、来てしまったのね。ティナの事は、私がケリを付けると言ったのに……」

 

 どこからともなく、静かな声が響く。ソニアだ。3人は足を止めて円陣を組み、上方も含めた自分達の周囲を瞬きもせずに見渡す。果たしてソニアは空中からふわりと降りてきて、音も無く地面に降り立った。

 

「お前が……ソニア・ライアンか」

 

「あなたには初めまして、ね。里見蓮太郎さん……で、良いのよね?」

 

 ぺこりと、礼儀正しく蓮太郎に頭を下げるソニア。場合によっては一戦交える事もやむなしという覚悟で来ていた蓮太郎は、いささか毒気を抜かれたのを自覚した。だがすぐに気を取り直して緊張感を取り戻す。

 

「では……プロモーターとしてのあなたにお願いするわ。延珠ちゃんと綾耶ちゃんを連れて帰って、この一件からは手を引いてほしいの。無論、このエリアの統治者である聖天子の身の安全は私が保証する。その代わりあなた達も、ティナにはノータッチでお願いしたいのよ」

 

 彼女の言葉を聞いて、蓮太郎は「ああそうか」という顔になった。

 

 何故ソニアが最初の狙撃の時は銃弾を曲げるなど聖天子を助けるような行動を取っておきながら、二度目では延珠と綾耶の前に立ちはだかったのか。これまでは彼女の行動にまるで一貫性が無いように思えていたのだが、今の言葉で点と点が繋がった。……と、言うよりも、もっと早くに思い至っていて然るべきだった。

 

 ソニアは聖天子を守ろうとしていた訳でもなければ、聖天子を殺そうとしていた訳でもない。結果的には聖天子を守る行動を取りはしたが、それは彼女にとってあくまでも手段でしかなかった。ソニアの目的は、最初からティナ・スプラウトだったのだ。

 

 ティナに殺しをさせずに、尚かつ狙撃犯として捕まる事を防ぐ事。それがソニアの目的だったのなら、これまでの行動にも説明が付く。彼女とティナの間には、何かしらの個人的な関係があったのだ。

 

「……ティナ・スプラウトは、あなたにとってどんな存在なのですか?」

 

 同じ結論に至ったのだろう。綾耶が尋ねる。ソニアは少し困ったように苦笑した。

 

「……あなた達に答える義務は無い……とは、言えないわね。無理を言っているのは私の方だし」

 

 今までは紅く染まっていた瞳が、瞬き一つで本来の青色に戻る。顔には、優しい微笑が浮かんでいた。

 

「私の……大切な妹よ。本当なら、あの子に暗い道を歩かせたくはなかったのだけど……私の力が及ばないばかりにこんな事になってしまって……だから、大分遅れてしまったけど……せめて今からでも、あの子には真っ当な生き方をして欲しいのよ……」

 

「お主は……」

 

「だから、無理を言っているのは百も承知だけど……ここは私に任せて欲しいの。ティナの事は、私が必ず何とかするわ。どうにか……お願い出来ないかしら?」

 

 客観的に見て、虫の良すぎる話ではある。ティナ・スプラウトが既に二度、聖天子を狙撃しようとした事は動かせない事実。そんなテロリストを無罪放免しろなどまるで横車を押すような話だ。……と、言って簡単に「駄目だ」と返すのも考えものだ。その場合ソニアは高確率(ほぼ100パーセント)で、実力行使で以て障害となる蓮太郎達を排除し、ティナを守ろうとするだろう。プロモーター無しの単独で序列11位の超々高序列をマークし、実際の実力は一桁台にも相当するであろうイニシエーターが相手では、無論対策は講じて来たがそれでも勝ち目は薄い。

 

 更に言うのなら、ソニアがただティナを助けたいだけなら既に彼女は問答無用で蓮太郎達に襲い掛かって来ているだろう。こうして話し合いを行っている事が、最初の狙撃で銃弾を曲げて聖天子を守った事実と合わさって、彼女が約束を守ってティナに聖天子暗殺から手を引かせるという根拠に成り得る。極端な話、ソニアは(蓮太郎達がそれを信じるかどうかは別問題として)要求が受け入れられない場合は自分の磁力パワーでモノリスを解体して大絶滅を引き起こすぞと脅す事も出来るのだ。それをしないという事は、彼女が本質的に悪人ではないと見る事が出来る。

 

 ……が、百歩譲ってソニアを全面的に信じるとしても、ティナが信頼出来るかどうかは別問題である。

 

 どうするか?

 

 数秒間の間、蓮太郎は思考を巡らして……出た答えは。

 

「……分かった。俺達もお前ほどの奴とやり合いたくはないからな……」

 

「蓮太郎!!」「蓮太郎さん!!」

 

 ソニアの交渉に応じるという事は、狙撃犯を逃がすという護衛としての任務を放棄するような行為だ。延珠と綾耶が互いに咎めるような声を上げるが、蓮太郎は「俺に任せろ」と二人を制した。

 

「じゃあ……」

 

「ただしティナ・スプラウトをすぐに、確実に国外に退去させる事が条件だ」

 

 蓮太郎から出された条件は妥当、どころか最大級の譲歩と言える。これは自分の意思一つでいつでもエリアに大絶滅を引き起こせるソニアとの交渉を穏便に済ませ、かつ聖天子暗殺を失敗に終わらせられるギリギリのボーダーラインだった。斉武宗玄は、明日大阪エリアに帰国する予定だ。よってティナを今夜中に外国行きの飛行機に乗せてしまえば、聖天子を暗殺する事は物理的に不可能となる。仮にとんぼ返りで戻ってきても彼女の任務は既に失敗しているから、聖天子を狙う理由が消滅する。

 

 確実とは言えないが……高確率で、危険の排除には繋がる。ソニアもそれは説明されるまでもなく理解したようだ。成る程と頷く。

 

「まぁ……それぐらいの条件は出されて当然よね」

 

 そう言って、彼女は危険が無い事をアピールするようにゆっくりと手を動かして服の中に入れると、これまたゆっくりとスマートフォンを取り出した。画面をよく見ると通話状態で、スピーカーモードで周りの声も拾うようになっている。そして通話相手は「Tina」と表示されていた。

 

 ……つまり、今の会話は全てティナ・スプラウトにも聞こえていたという事だ。

 

「聞いていたわね、ティナ? 今すぐ聖天子暗殺を中止して、外国行きの飛行機に乗りなさい」

 

 スマートフォンから、返事は無かった。数秒して、通話状態が切られて不通音が聞こえてくる。

 

「ティナ……?」

 

「これは……!!」

 

 次に起こる事態を想像して、綾耶が身構える。そして予想に違わず、前方のビルの屋上がチカリと光った。

 

 マズルフラッシュ!!

 

 瞬時に、三人は飛び退く。動かないのは、ソニア一人。彼女は動く必要が無い。飛来した銃弾は、10メートルの距離で彼女が作り出す磁力によって空間に固定されていた。その後で磁力パワーを解除すると、ぽろりと真下に落ちて地面に転がった。

 

「エインめ……!! ティナに相当強い条件付けを行ったわね……!!」

 

 舌打ちしながらスマートフォンを握り潰して、毒突くソニア。自惚れではなく、自分とティナとの間にある絆は強いものだと確信している。にもかかわらずティナが返事の変わりに弾丸を送り付けてくるという事は……!! 恐らくエイン・ランドはイニシエーターの裏切りを防ぐ為、強力なマインドコントロールを施しているのだろう。

 

『……私のせいね……』

 

 最初期型ハイブリットのソニアには、そんな処置は行われていなかったか行われていたとしても極軽度か不完全なものだったのだろう。だからこそ彼女は死を偽装してエインの元から離れるという選択に踏み切れた訳だ。ティナ達妹世代のハイブリットにはソニアに使用された技術から得られたデータをフィードバックし、より洗練された様々な改造が肉体・精神の両方に施されているに違いない。

 

『……次会ったら、地獄を見せてから殺してやる……!!』

 

 他にも心中で思い付く限りの悪口雑言を吐きながら、しかし感情とは裏腹に思考はクールに。ソニアは頭脳を回転させる。

 

 拙い事になった。今の狙撃で、ティナは交渉に応じるつもりはないと宣言したに等しい。当然、蓮太郎・延珠・綾耶の3名は全員が臨戦態勢に入っている。これは当然の反応ではある。彼女達は聖天子を守る者。先程の交渉だって、下手しなくても彼等の立場すら危うくなるような越権行為の筈だ。そこまで譲歩したのに向こうからの返事がイエスでもノーでもなく殺意満々の弾丸では、これはもう交渉の余地無しと見られても仕方無かった。

 

『やむを得ない……!!』

 

 この時点で、蓮太郎達とソニアはどちらも話し合いのプランAからプランBへと移行した。

 

 蓮太郎達は、ティナとソニアの両名を捕縛または殺害する事。

 

 ソニアは、蓮太郎達3名を無力化した上でティナを確保して、東京エリアを離脱する事。

 

 戦闘が、開始される。

 

 ソニアの両眼が紅く染まり、全身にバチバチと紫電が走る。そうして彼女が手を上げた瞬間、蓮太郎の右手と右脚は見えない力によってぐいっと引っ張られて体は宙に浮き上がり、接合部から引き千切られそうになる。金属である彼の義肢に、マグネティックフォースが作用しているのだ。

 

「ぐっあっ……!!」

 

 呻き声を上げる蓮太郎。後数秒で、超バラニウムの手足はバラバラに解体されてしまうだろう。

 

 だが、その前に。

 

「ハアアアアアッ!!」

 

「でえええええいっ!!」

 

 延珠と綾耶が飛び込んで、蹴りと拳を繰り出す。

 

「ふっ!!」

 

 後ろに跳んで攻撃を回避したソニアだったが、これによって集中が乱れたせいだろう。蓮太郎の手足に働いていた磁力が消失する。彼はそのまま地面に落ちて、荒い息を吐いた。

 

「なら、あなた達から……!!」

 

 ターゲットを延珠と綾耶に変更したソニアが、二人へと手をかざす。しかし、彼女の磁力は二人の体に働かない。

 

「!? これは……!!」

 

 初めて、ソニアの表情に驚きが走る。

 

「ハッ!!」

 

「ぐうっ……!!」

 

 続く延珠の蹴りはガードしたが、威力は殺しきれずに後方へと弾かれる。ソニアは空中で態勢を立て直すとそのまま滞空しつつ、警戒を強くした。

 

「……そうか、延珠ちゃん……あなたのそのブーツは……」

 

「その通り!! 未織の所が突貫工事で仕上げてくれた、プラスチック製の靴底だ!!」

 

 会心の笑みを浮かべた延珠が言い放つ。

 

 ソニアの扱いについて国際的に定めたSR議定書では、彼女に対抗する為の専用武器作成も項目に入っている。

 

 具体的には、金属を一切使わないオールプラスチック・オールセラミック製の銃や刃物、地雷等だ。他にも彼女を逮捕したケースを想定して、世界の各エリアには最低一箇所は周囲5キロに数グラムの金属も持ち込まない特別製のプラスチック牢獄を設置する事が義務付けられている。ちなみにこれらを作り維持する為の費用は、全て各エリア住民の血税によって賄われている。

 

 このように生きているだけで世界中に凄まじいまでの大迷惑を掛けまくっているソニアであるが、良い所もある。金属探知機を潜り抜けるプラスチック製の銃器は、十年以上も前からそれを発見する事が要人警護の為の大きな課題となっていたのだが、SR議定書によってプラスチックの銃の配備が各国に義務付けられた事によって、それを発見する為のノウハウは大幅に進歩した。

 

 そしてもう一つ。今、延珠が履いているブーツは靴底が超高密度プラスチックに差し替えられている。普段は対ガストレアを想定したバラニウムが仕込まれているのだが、ソニアにバラニウムを近付ける事は彼女に武器を与える事と同義である為、交換してきたのだ。この短期間でそんな事が出来た事が、ソニアが世界にもたらした良い影響の一つだった。つまり、プラスチックを用いた実用的なデザインとテクノロジーが劇的な進歩を遂げたのだ。

 

 それに、綾耶も含めて二人とも磁力が反応しなかったという事は何度も金属探知機を使って、財布の中の小銭は勿論、着衣のボタンからファスナー、ブラのホックに至るまで全身から一切合切の金属を取り除いてきたのだろう。

 

「流石に、学んでるわね」

 

 感心して頷くソニア。一方で延珠と綾耶は厳しい表情を崩さない。確かにこれで直接ソニアに操られる危険は無くなったが、しかしこれはやっと彼女と勝負が出来る土俵に立ったというだけでしかない。依然ソニアの発電能力や磁力操作の力は健在である。

 

 今度は二人へと指先を向けて、そこにスタンガンのような火花が散った。ただし、その出力はスタンガンの比ではない。空気という絶縁体を経ても尚衰えない膨大な電圧電流が、二人へと向かう。呪われた子供たちと言えど肉体の基本構造は人間と同じ。強力な電気を受けては一時的にその運動機能は麻痺してしまう。そして実戦の場では、その一時的な麻痺は相手に生殺与奪を握られる事、イコール死だ。

 

 そして雷の速度は、速い。スピード特化型の延珠であっても避けられない。無論、綾耶も。

 

 だが、攻撃を受けない方法はあある。

 

「ふっ!!」

 

 綾耶が手を振ると二人へと向かってきていた稲光は、直前でいきなりカーブの軌道を描いて二人を逸れて進んでいった。

 

「!? 何……? これは……?」

 

 驚いた顔のソニアはもう一度、指先から電光を放つ。しかし結果は同じだった。綾耶が手を振ると、二人を襲う筈だった稲妻が逸れて、あらぬ方向へ飛んでいく。

 

「……そうか、これは真空放電現象ね」

 

「ご名答」

 

 にやっと、綾耶が笑って返す。

 

 電気は、より電気抵抗の少ない物体を選んで流れていく。雷のアースもその原理だし、落雷に打たれてもちょうどその時体の一部に金属片が刺さっていて、電気が全身を焼く前にその金属から放電されて奇跡的に助かった人間の話もある。同じように絶縁体である空気は、その濃度が希薄な方が電気抵抗が少ない。綾耶は両腕の吸引能力で空気を吸い込んで真空の道を作り出し、電撃をそちらへと誘導したのだ。

 

 これで、ソニアの放電攻撃は封じられた。

 

「……やるわね」

 

 先程よりも更に感心したという顔のソニアだが、焦りや動揺はそこには無い。

 

「降伏してもらえません?」

 

「それは駄目♪」

 

 綾耶からの勧告は、あっさり却下された。

 

「それに、金属を身に付けずに電撃を防いだぐらいで、私を攻略したと思うのは甘いわよ」

 

 その程度で勝てるなら、そもそもSR議定書など作られていないだろう。生徒や後輩を指導するような優しい口調でソニアは言うと、後方へと飛んでビルの中へと消えていく。延珠と綾耶もそれぞれ跳躍・飛翔してそのビルの中に飛び込んだ。

 

「気を付けろよ、二人とも……!!」

 

 二人の姿を見送った蓮太郎は自分の義足の力を開放して、跳んだ。自分の受け持ち相手である、ティナを倒す為に。

 

 

 

 

 

 

 

 電気が通っておらず、暗い室内。背中合わせに身構えて周囲を警戒する延珠と綾耶。ソニアの姿は見えない。

 

 定石通りなら、この次は暗闇に紛れて不意打ちと来るだろうが……しかし、

 

「大丈夫、延珠ちゃん。僕に不意打ちは効かないから」

 

 空気の揺れ動きを感じ取れる綾耶は、レーダーのように360度全周囲の状況を視覚に頼らず把握する。闇の中であっても不自由は無い。

 

「来た!!」

 

 早速、空気が揺れた。だが人間一人が動くレベルの大きさではない。それよりもずっと小さなものが、空中を浮いて進んでくる。

 

 数は、6。形状は球形が4、オートマチックの拳銃形が2。

 

 拳銃が空中を浮いて進んでくる事には、今更驚かない。ソニアが磁力で操っているのだ。球形の物体は、ティナが使うのと同じシェンフィールドだろう。

 

「延珠ちゃん、そこの角から銃とビットが近付いてくる!!」

 

「む!!」

 

 綾耶が指差した曲がり角を、延珠は注意深く睨み付ける。

 

「後、5秒で来るよ。4……3……2……来る!!」

 

 綾耶がそう言った瞬間、角を曲がってシェンフィールドと拳銃が姿を見せた。ここまでは予想通り。

 

「「!?」」

 

 予想を超えていたのは、そこからだった。シェンフィールドの内の2つはスコープのように拳銃のすぐ上にぴったりとくっついて動いていて、そのカメラアイがピントを調節して、二人を睨む。咄嗟に延珠と綾耶は物陰へと跳躍して身を隠す。次の瞬間、磁力の見えない手が引き金を引いて、弾丸が正確に二人の居た所を襲って床に穴を穿った。

 

「むうっ……まさか、あんな手があるとは……!!」

 

 柱の陰から様子を伺いつつ、延珠がひとりごちる。

 

 ソニアがエイン・ランドの手による機械化兵士である事から、シェンフィールドを使う事は予想の範疇。だからそれを使って、遠隔地の様子を探索しつつ攻撃してくる事もまた予想の範疇。

 

 だがソニアは、シェンフィールドを文字通り自分の目として使っている。拳銃を両手で保持して構えた時に、ちょうど射手の視線がある位置にカメラが来ている。これではソニアは、どれだけ離れた所に居ても実際にその場で銃を構えているのと変わらない。しかも、他の2機のシェンフィールドを本来の用途である偵察機として使って、微妙な位置の誤差を補正までしているのだ。遠隔操作ながら、銃撃の精度は恐ろしい水準に達しているだろう。

 

 ティナやソニアがシェンフィールドを操る原理はBMI。だから同じ原理で例えばライフルを固定砲台のように仕掛けておいてシェンフィールドによって状況を偵察、敵が射線に入った瞬間に撃ってくる……事までは事前のシミュレーションで想定していた。だが、本来は固定砲台として使うしかない筈の銃を動かし、しかも射線と視線を同期させる事までやってのけるとは……!! 固定砲台ならぬ移動砲台といった所か。

 

 機械化兵士としての能力とイニシエーターのとしての能力、その二つがティナと同じかそれ以上に噛み合っていて、本来のポテンシャルを超えて高められている。予想はしていたが、やはり恐るべき相手だ。

 

「……これが元11位のイニシエーターか……だが!!」

 

 延珠がそう呟いて、綾耶と頷き合う。

 

 そうして角を曲がってシェンフィールド付き拳銃が現れた瞬間、

 

「ハっ!!」

 

「シッ!!」

 

 延珠は小さなコンクリート片を蹴飛ばし、綾耶は腕に吸い込んだ圧縮空気をつぶてとして発射、二つの弾丸は狙いあまたずシェンフィールドのカメラに命中。そのまま内部機器を破壊して、偵察機の機能を失わせる。球形をしているシェンフィールドは衝撃に強く、外殻はバラニウム製。よってカメラアイを一撃せねば有効打とはならない。空中をくるくる回転しながら動く小さな的に当てるのは流石にこの二人をしても至難ではあるが、しかし拳銃のスコープ代わりに使っていたシェンフィールドは、その用途目的から常にカメラは銃口と同じ方向を向いていなければならない。

 

 ならば近距離であればそのカメラを撃ち抜くのは、延珠と綾耶なら難しくはあるが不可能ではなかった。

 

 続けて、偵察機として動いていた2機にも同じ攻撃を仕掛けるが、こちらはカメラを一方向に向けている理由が無いので外殻に弾かれてしまった。

 

 同時に、“目”を失って狙いを付けられなくなった二挺の拳銃は先程の精密射撃から一転、乱射してくる。だがその攻撃は、綾耶が空気のシールドで止めていた。弾切れになった拳銃は二、三回空撃ちすると、ソニアが磁力を切ったのだろう。重力に従い、床に落ちた。

 

 二機のシェンフィールドは壊れた窓から外へと飛び去っていくのが見えた。

 

 綾耶はシールドを消すと、床に落ちた弾丸をつまみ上げる。延珠はいつ次の攻撃が来ても良いように、周囲に気を配っている。

 

「これは……」

 

 摘んだ弾丸を見て、綾耶は目を丸くする。てっきり呪われた子供たちを殺傷する為のバラニウム弾頭が使われているとばかり思っていたが、弾頭は注射器のようになっている。これは、麻酔弾だ。目標に着弾するとその衝撃・圧力で、内部の薬品が注入される仕組みの非殺傷武器だ。

 

 つまりこれは、ソニアには自分達を殺す意思が無いという事だ。

 

 ……などと考えていると、今度は建物の外の空気が揺れたのを感じた。

 

「延珠ちゃん、走って!! 狙撃だ!!」

 

「っ!!」

 

 反射的な早さで延珠は駆け出して、同じように綾耶も走る。次の瞬間、ひび割れていた窓が吹き飛んで弾丸が撃ち込まれてくる。狙いは、やはり正確だ。

 

「ふっ!!」

 

 綾耶はティナの狙撃の際にそうしたように、腕の中に充填していた圧縮空気を一気に開放、暴風を起こして弾丸の軌道を狂わせようとする。だが、

 

「なっ!?」

 

 またしても思いも寄らぬ事が起こった。銃弾は、荒れ狂う風の中を少しもブレずに直進してきたのだ。

 

 これは、ティナの物とは明らかに違う。

 

 二度目の狙撃の時、ティナは綾耶が起こす風の影響を予測して、バナナシュートのように風に銃弾を乗せて曲線で撃ち込んできた。神業という言葉すら陳腐に思える絶技であるが、しかしこれは逆に綾耶が風を起こさなければ弾丸は全然別の場所に着弾するという事でもある。

 

 対してソニアが撃ち込んできた銃弾の軌道は、直線。綾耶が暴風を生み出そうが生み出すまいが、関係無く狙った場所に命中する。

 

「ど、どうなっているのだ!?」

 

 走りながら、延珠が叫んだ。銃撃は、依然自分達の後ろをぴったりとトレースして襲ってくる。

 

 二人は知らない事だが、これもソニアの力の一つだった。電気を操る能力で銃弾の表面の空気をイオン化させ、横風の影響をゼロに近付けているのだ。計算上、この処置が施された弾丸を使用すれば並の銃を持った並の射手でも、800メートルでの弾着を左右10センチにまで集められるとされていた。

 

「兎に角、延珠ちゃん!! このままじゃ的だよ!! ここはひとまず、弾丸が届かない所へ!!」

 

「うむ!!」

 

 綾耶の言葉に延珠は頷くと廊下を突っ走って弾丸が飛来するのとは反対側へと移動し、窓から飛び出す。綾耶も続いた。高さは10階ほどだが、この高さならイニシエーターの脚力ならば問題無く着地出来る。

 

 だがそうして地面へと落下している僅か数秒の間に綾耶は思考を巡らせ、覚えていた僅かな違和感について考察する。

 

 何か、違う。

 

 攻撃が緩すぎる気がする。元11位のイニシエーターと来れば、もっと自分達の想像を絶するような戦法を仕掛けてくるのではと思っていたのに。

 

『……そうじゃない?』

 

 はっ、と頭の中でバラバラだったパズルのピースが嵌っていって絵が完成するのが分かる。

 

 自分達を殺そうとするなら、もっとやりようはいくらでもあった筈だ。なのに、使っていたのは麻酔弾。明らかに、殺すのではなく生け捕りを目的にしている。つまり今のこの狙撃も自分達を殺すのが目的ではない……だとしたら次は!!

 

 ぞっとした感覚が走って体中の産毛が逆立つのが分かった。

 

「!! 延珠ちゃん!! 避けて!!」

 

「何だ、綾耶!?」

 

 だが遅かった。延珠は未だ空中で、身動きが取れない。綾耶が空を駆けて追い付こうとするが、間に合わなかった。

 

 延珠が着地しようとするその瞬間、地割れのような音と共にアスファルトが割れて、その裂け目から幾匹もの大蛇が飛び出してきた。

 

「なっ!?」

 

 否、大蛇ではない。下水管のパイプだ。

 

「うああっ!!」

 

 ソニアの磁力によって操られたそれが大蛇のように動いて、延珠の体を締め上げた。その力は強く、呪われた子供たちの力でもびくともしない。

 

「しまった……!!」

 

 綾耶は歯噛みする。自分達は攻撃を避けていたと今の今まで思っていたが、実際は全く違う。ソニアの掌の上で躍らされていたに過ぎなかったのだ。銃撃によって獲物を追い立てて特定のポイントにまで誘導し、仕掛けておいたトラップによって捕らえる。オーソドックスと言うよりもクラッシックと言った方が適切に思えるほど教科書通りの狩りの手法だが、まんまとそれにやられた。

 

 恐るべきはシェンフィールドによる偵察と磁力による銃器の遠隔操作があったとは言え、それを単独で行ってしまうソニアの手腕か。

 

「延珠ちゃん、今助ける!!」

 

 着地すると手に空気のカッターを発生させ、鉄パイプを切断しようとする綾耶であったが、ぴたりとその動きを止める。その視線の先には、鷹や狼、虎が居た。ただし、生物ではない。獣たちの体は、針金で編まれていた。綾耶はソニアが転校してきた初日に、学校の子供たちへと作って配っていた針金細工を思い出した。それがまるで怪談に出てくる美術館の剥製や学校の人体模型・骨標本のように、ソニアの磁力によって操られて動き、襲ってくる。

 

「くっ!!」

 

 綾耶が手を振って繰り出した不可視の刃が、針金の獣を切って捨てる。生物なら、それがガストレアであろうとまずこれで殺せている。だが綾耶が相手にしているのは針金であり、命の無い金属、無機物。操り手であるソニアが磁力を解除しない限り、細切れになっても動きを止める事はない。

 

「なっ!? ああっ!!」

 

 切断された針金は一瞬、空中で静止すると綾耶へと向かってきて、彼女の体をがんじがらめに締め付けてしまった。

 

 何とか針金を切って脱出しようとするが、無理だ。両腕ともがっちりと締められていて、空気が吸えない。

 

「あ、綾耶……!!」

 

 不安げな声を上げる延珠。流石の綾耶も、力無く首を横に振るだけだ。

 

 30秒ほどもそうしていただろうか。今の二人に近付いても危険は無いと判断したらしく、ビルの陰からソニアが姿を現した。

 

「ソ、ソニアさん……」

 

「お主……!!」

 

「二人とも、良い腕をしてはいるけどまだまだ私の前に立つには遠いわね」

 

 先程と同じく、ソニアは訓練や実習で生徒や後輩の成績を採点する教師や先輩のような口調だった。

 

「心配しなくて良いわよ? 殺すつもりはないから。あなた達は人質……こうなった以上私はティナを無理にでも確保して、このエリアを脱出する。その時、あなた達を無事に返す代わりに蓮太郎さんには手を引いてもらうわ」

 

「なっ……!!」

 

 顔を引き攣らせる延珠と、やはりかと難しい表情になる綾耶。今までの攻撃がどこか手緩かったのはこれが理由だった。ソニアは最初から、自分達を殺す気など少しも無かったのだ。寧ろその逆で、傷付けないように注意深くいたわってすらいた(人質は無傷であるからこそ価値がある)。逆に自分達は二人掛かりでしかも最悪の場合ソニアを殺す事すら視野に入れていた。ここまで意識の差がありながら、尚かつソニアは直接対峙する事すら無く、自分達二人を全く無傷で制圧してしまったのだ。相手を殺さずに無力化する事は、殺す事よりずっと難しいと言うのに。

 

 序列1000位のイニシエーターである延珠と、それと同等近い実力者である綾耶の二人を同時に相手にして、尚もその差が分からぬ程に隔たる絶対的な実力。

 

 これが、元11位。これが、ソニア・ライアン。

 

「さて、あなた達にはこれから私と一緒に来て……?」

 

 そう言い掛けたソニアは、違和感に気付いた。

 

 綾耶の顔だ。笑っている。諦めて自嘲の笑いではない。明らかに、未だ残っている何かを信じている笑み。既にがんじがらめに縛り上げられて、パートナーである延珠も戦闘不能状態。これ以上、打つ手は何も無い。万策は、尽きた筈なのに。

 

 この時点でソニアは、一つだけ見誤っていた。

 

 それは将城綾耶の属性。延珠のような策を弄さない「武闘家」だと思っていた。だが違う。実際には、綾耶の属性は「兵士」。目的達成の為にはあらゆる手段を肯定する。武器を使えばトラップも仕掛ける。

 

『……何かある!!』

 

 反射的に、ソニアが背後を振り返る。その時だった。大きな瓦礫の向こう側から、小さな影が飛び出してきた。

 

 長袖のワンピースにスパッツを履いた少女。元千番台のイニシエーター、モデル・ドルフィンの千寿夏世だ。

 

「!!」

 

 今、ソニアの表情に初めて焦りが表出して、冷や汗が吹き出す。

 

 繰り返すが綾耶の真の属性は「兵士」。目的達成の為にはあらゆる手段を肯定する。武器の使用、トラップの敷設、そして……『伏兵』を仕掛ける事も。

 

 ソニアはいつの間にか、戦っているのは延珠と綾耶の二人だけだと思っていたが、それは勝手な思い込みだった。否、それこそが綾耶の策だった。延珠も、そして自分自身すらも捨て駒とした、序列11位を倒す為の捨て身の策。彼女は最初から、自分と延珠だけではソニアを倒せない事など織り込み済みだったのだ。

 

 夏世が手にしているのは、SR議定書で作られたプラスチック拳銃。銃口はぴったりソニアを向いている。彼女の腕で、この距離なら絶対に外さない。

 

 このタイミングでは避けられない。そして防ぐ術も、もうソニアには無い。プラスチックの弾丸には磁力は作用しない。電撃で弾丸を溶かすにもそんな熱量を発生させる時間が無い。鉄骨や下水管を操って銃弾をガードする、もしくは夏世にぶつけるにしても、間に合わない。夏世自身も、当然ながら金属は身に付けていない。

 

 綾耶の策は、彼女自身すら信じられないぐらいきれいに決まった。

 

 拳銃が、火を噴く。

 

「勝った!!」

 



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第20話 日の当たる世界で

 

「力を貸して欲しいんだ、夏世ちゃん。今度の相手には、多分僕と延珠ちゃんだけじゃ勝てないから」

 

 綾耶からの申し出に諾の回答を返すのに、夏世は一秒の間も必要とはしなかった。

 

 ルイン・フェクダと蛭子影胤が起こしたテロ事件の際、彼女は未踏査領域で綾耶に命を救われている。事件終結後に礼を言いに行くと、綾耶は言ってくれた。「気にしなくて良いよ。もし夏世ちゃんがまたピンチだったら、何度でも助けるから」と。そうは言われたが、だが夏世はその恩を忘れていない。

 

 それに恩を抜きにしても、夏世は個人的に綾耶を友人だと思っている。その友人の頼みなのだ。断る理由は無かった。

 

 だがまさか相手があのソニア・ライアンだったとは……!!

 

 少しだけ後悔した。もし最初に聞いていたのなら、あるいは引き受けなかったかも知れない。ソニアはそれほど恐ろしいイニシエーターなのだ。

 

 だからこその、作戦だった。

 

 綾耶と延珠でギリギリまで戦い、ソニアの意識を二人だけに集中させる。夏世が動くのは、二人がやられるか捕まるかして、戦闘不能になった時。どんなに強力なイニシエーターとは言え人間だ。油断すれば、その力を発揮する事は出来なくなる。ソニアが二人を倒して勝利を確信して、警戒を解いた瞬間。その時こそが勝機。

 

 そこを狙って、夏世が仕掛ける。ただしバラニウム弾は使えないから、狙いはソニアを殺す事ではなく無力化する事。よって使用するのは麻酔弾。これを頭部に一撃して、即座に意識を奪う。チャンスは一瞬、そして一撃。外したら後も次も無い一発勝負。

 

 元千番台のイニシエーターはそのプレッシャーを物ともせず、完璧なタイミングで攻撃を仕掛けていた。

 

 プラスチック銃の銃口は、しっかりソニアの頭部に向いている。夏世の腕なら百発撃って百発当てれる至近距離。引き金を、絞る。銃と同じくプラスチック製で透明な弾丸が、発射される。

 

 作戦は、完璧だった。

 

 唯一つ、綾耶や夏世は考察していなかった事があった。

 

 麻酔弾は真っ直ぐにソニアへと飛んでいって……そして、外れた。ソニアからは3メートルも離れた位置のコンクリート壁に当たって、小さなヒビを入れた。

 

「なっ……」

 

「外れ……!!」

 

「そんな……!!」

 

 そんなバカな、と。夏世は思わず両手で把持した銃に目をやる。

 

 絶対に外さない筈だった。それどころか、引き金を引いた瞬間に「当たった」と分かった。それぐらい、全てが完璧だった。

 

 なのに何故!? 銃身が曲がっていたのか?

 

 夏世がその疑問を浮かべるのと、ソニアが磁力で動かした下水管が彼女の体を延珠と同じにがんじがらめにしてしまうのはほぼ同時だった。

 

「あうっ……!!」

 

「……こんな作戦を仕掛けてきたって事は、もう次の手は無いわよね? 流石に……」

 

 ソニアはそう言うが、先程ので懲りたのか今度は警戒を解かずに身構えながら周囲を警戒する。

 

「お主……今のは何をしたのだ?」

 

 下水管に縛り上げられたまま、延珠が尋ねる。

 

「何を……って?」

 

「とぼけるな!! 今の夏世の撃った弾がお主の傍まで飛んだ瞬間、いきなり曲がって外れたではないか!!」

 

「そうだね、僕にもそう見えた……それまで真っ直ぐ飛んでいて命中する筈だった弾が突然ありえないほど急なカーブを描いて、ソニアさんから外れたんだ」

 

 これが普通の銃弾なら、金属を操るソニアならば出来て不思議はない。だが今、夏世が撃った弾丸はプラスチック製。磁力で操作する事は出来ない筈なのに。

 

「……確かに、私は金属以外の物を直接操る事は出来ないけど……間接的になら操る事は出来るのよ」

 

「なあっ……!?」

 

「電磁力で私の周りにある磁気フィールドを歪めて、非鉄金属やプラスチック・セラミック製であっても、弾丸を逸らすぐらいは難しくないのよ」

 

 唯一つ、綾耶や夏世が考察していなかったのは。SR議定書でソニアへの対策が練られているのならば、ソニア自身とてその対策に対応する為の策を講じているであろうという可能性。いや、ある程度はそれも想定してはいたが、自由自在にとは行かずともプラスチックを操る事にまでは思い至らなかった。

 

「……良い作戦だったわね。流石の私も一瞬、ひやりとしたわ。でも私は24時間365日、寝ている時も常に全身にこの磁気フィールドを纏っているからね。弾丸の類で私を殺す事は出来ないわ」

 

 パチン、とソニアが指を鳴らす。瞬間、延珠、綾耶、夏世の首筋にビリビリと、電気が流れるような感覚が走った。

 

「っ、なっ……!?」

 

「首の後ろが……!!」

 

「これは……まさか……!?」

 

 三人はそれぞれ、こうした感覚に心当たりがあった。ゾーン。成長限界点の壁を突き破り、イニシエーターの限界を超えたイニシエーター。対峙した瞬間に首の後ろにビリビリとした感覚がすると菫が言っていた。超高位序列者にはゾーン到達者・開眼者が多いと言うから、元11位のソニアがそうであったとしても不思議はないが……ならば何故、今まで感じなかったのだ?

 

 その疑問には、ソニアが答えてくれた。もう一度、ぱちんと指を鳴らす。すると三人の首筋からビリビリの感覚が消えた。

 

「ちなみにこの磁気フィールド、内と外を隔ててゾーンの気配を遮断する事も出来るの。単純なバリアとしてだけじゃなく、実力を隠して相手に近付く時にも重宝するのよ」

 

「……ルインさんもそうだったけど、ソニアさんも大概何でもありですね……」

 

 引き攣った笑みを浮かべつつ、綾耶が言う。今度の笑みは自嘲と諦めの笑みだった。薄氷のような勝機を掴む為の策は全て上手く行っていたのに、最終的には全て力業でねじ伏せられた。まさか、ここまで力の差があったとは。もう、笑うしかない。

 

 救いがあるとすれば、ソニアの目的は聖天子暗殺を止める事だという点か。自分達の勝敗に関わらず、聖天子が無事に会談を終える可能性は高い。ソニアはあくまでティナ・スプラウトへの危険を排除する事が目的であった訳だし。

 

「……さて、じゃああなた達には私と一緒に蓮太郎さんの所に……」

 

 行ってもらおうとソニアが言い掛けた瞬間だった。

 

 爆音。4人の目が一斉にその音がした廃ビルへと集中する。空気が震えコンクリートがブチ割れる音が幾度も響いて、室内で舞い上がった煙が八階の割れた窓から噴き出るのを皮切りに下の階の窓からも順番に次々に、最後に一階の入り口からも煙が出て来て、四人の視界が利かなくなる。

 

「ふん」

 

 ソニアは再び指を鳴らす。すると不自然なまでの早さで煙が晴れて、視界がクリアになった。煙の粒子・コロイドはイオンによって吸着される。これも発電能力の応用の一つであった。

 

 蓮太郎は、ティナと交戦していた。そしてあれだけの衝撃。恐らくは勝負を決する一撃となった筈だ。果たして、入り口から出てくるのは蓮太郎かティナか……!!

 

 ソニアも含めた4人は固唾を呑んで見守り……数分の間を置いて姿を見せたのはティナに肩を貸して歩くボロボロの蓮太郎だった。

 

 勝者は、蓮太郎。そしてティナもあちこち怪我はしているだろうが命に別状は無さそうだ。

 

「終わったようね、蓮太郎さん……」

 

 ゆっくりと、ソニアが近付いていく。じっとティナを見て、抵抗する様子が無い事からある程度今の状況を彼女は察した。今のティナは生きるという意思そのものが希薄になっているように見える。

 

 これも、エインが施した条件付け・刷り込みによるものだろう。機械化兵士である自分達の体は最新にして極秘テクノロジーの塊だ。故に生きて他国の手に渡る事を防ぐ為に任務に失敗した時は自害せよと、強迫観念のように植え付けているに違いない。

 

 それにどのみち、ティナは国家元首の暗殺未遂をやらかしたイニシエーター。どう考えても彼女の未来が明るいものになるとは思えない。

 

 ソニアが考える選択肢は、二つ。このまま力尽くで蓮太郎からティナを奪って、逃げるか。もう一つの道は聖天子やこの東京エリア上層部と交渉して、ティナに寛大な処遇を約束させる事だ。

 

 どちらを選ぶべきか。ソニアは黙考する。だが、答えはすぐに出た。自分の願いは、妹が日の当たる世界で生きていく事。ティナが正常な状態であれば前者を選んでどこか別のエリアで人生をやり直す事も考えたが、今のティナではちょっと目を放したら自殺でもしかねない。ならば後者を選び、然るべき環境に於いて洗脳解除の処置を受けさせる事だが……

 

「ね、綾耶ちゃん……ティナに聖天子暗殺を命じたのはプロモーターのエイン・ランドでティナは正しい教育も受けられず、命令を拒否するという選択肢も与えられなかった。だから何とか処分を軽く……ってのは出来ると思う?」

 

「それは……正直、難しいと思いますよ。理由はどうあれ、ティナさんが実行犯であるという事は事実ですから……僕も何とか口添えはさせてもらいますけど」

 

 縛られたまま申し訳なさそうに、レンズの向こう側の目を逸らしながら綾耶が言う。

 

「そうよねぇ」

 

 綾耶の意見も当然と言えば当然だし、いくら国家元首直轄のイニシエーターとは言え、子供である彼女に実質的な権力など殆ど無い。ソニアは嘆息して肩を竦める。ならば、取引するしかない。幸い、彼女の手札にはジョーカーがあった。

 

「では綾耶ちゃん、あなたから聖天子様に取り次いでくれないかしら? この私……元IP序列11位『星を統べる雷帝(マスターオブライトニング)』ソニア・ライアンが、今後聖天子様からの命令によって動くイニシエーターとして、東京エリアの為に尽力する。その代わりに、ティナの処遇について勿論聖天子様や東京エリアには絶対に弓引かないという条件付きで、私に任せてくれと」

 

 ソニアはその気になれば、地球上のあらゆるエリアのモノリスを解体するもしくはそのエリアを狙って大地震や火山噴火など地殻変動を起こしてエリアを滅ぼす事が出来る戦略兵器と同等、いやそれすら凌駕する力を持つ。例えば核ミサイルなら発射されても撃墜出来る可能性が残っているし、第一そんな事をすれば撃った国には報復攻撃が行われる事が分かり切っているからどこの国もそんな暴挙にはまず踏み切らない。だがソニアの磁力は防ぐ術が無く、しかも彼女はこの星のどこにいても同じようにそれを行える。砂漠だろうが密林だろうが、北極点だろうが問題無く。

 

 迎撃はおろか発射を探知する事すら出来ないばかりか発射スイッチがどこにあるかも分からない核兵器。それは世界を終わらせる悪夢だ。そんなソニアを手に入れれば、彼女が所属するエリアは次の日から世界征服に乗り出す事だって可能となる。どのエリアの権力者も、どんな条件を出されたとしても欲しがるだろう。例えば、国家元首の命を狙った暗殺者に超法規的な措置を行って欲しいとか。

 

「!!」

 

「……お姉さん……!!」

 

 今までは何の光も宿していなかったティナの瞳が、初めて揺れた。

 

「どうして、私の為にそこまで……」

 

「妹を助けるのは、姉の役目でしょ?」

 

 ティナの問いに、ソニアはそんな質問を行う事すらナンセンスだと言いたげだった。

 

「私は……私はいつだって、お姉さんに助けてもらってました。だから、せめて戦う事でお姉さんの助けになろうと思ったのに……お姉さんが居なくなってしまってからは戦う事が全てになって、それすら負けてなくなってしまって……こんな筈じゃなかったのに……もう、どうすれば良いのか……そんな私の為に……」

 

「良いのよ。私の方こそ、ティナからは何もかもを貰っているから……」

 

 あなたは、私を人間にしてくれた。その言葉を、ソニアは呑み込む。

 

「それにね、ティナ。これだけは覚えていて。あなたが元気で生きてくれている事が、今も昔も私の一番の幸せなんだって」

 

「お姉さん……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……!!」

 

 がっくりと膝を付いたティナが、肩を揺らして嗚咽を漏らす。

 

 全身傷だらけで力を使い果たした蓮太郎は手頃な瓦礫に腰を下ろすと、まだ下水管でがんじがらめにされた延珠とアイコンタクトをかわす。次に針金で縛られたままの綾耶と、下水管に縛られた夏世とも。三人の呪われた子供たちは、それぞれ笑みを彼に返した。

 

 もう、大丈夫だろう。少なくともティナがこれ以上聖天子を殺そうとしたり、自ら命を断とうとする事はあるまい。

 

 ひとまずは任務完了。何とかだが、誰も死なずに済んだ。後は、ティナの今後についてだが……

 

「ソニア、ティナの処遇についてだが、絶対に悪くならないよう俺が掛け合う!!」

 

「僕も、力の限り便宜を図りますよ」

 

「ありがとう、二人とも……特に蓮太郎さん……ティナを助けてくれて、本当にありがとう」

 

 蓮太郎と綾耶それぞれの言葉にソニアは頷くと、深々と頭を下げた。

 

「あー、水を差すようですまぬのだが、そろそろ妾達を自由にしてはくれぬか?」

 

 未だがんじがらめにされている延珠が、少しだけ気まずそうに言ってくる。

 

「ああ、ごめんなさいね。でも、その前に……」

 

 ソニアは意味ありげに言葉を切ると、周囲を見渡す。

 

「隠れている人達、出て来たらどう?」

 

 この言葉が合図であった訳でもあるまいが、ビルや瓦礫の陰から制帽に綾耶が羽織っているのと同じ白マントの団体がぞろぞろ姿を見せる。聖室護衛隊の面々だ。その中には当然と言うべきか隊長である保脇三尉の姿もあった。

 

「や、保脇さん……どうしてここに……?」

 

 と、綾耶。だが立場的には味方の筈の彼等が現れたのに、彼女の表情は険しい。遅ればせながら加勢に来てくれた……にしては、明らかに雰囲気が違う。外周区で暮らしていた頃、延珠を守る為に何度も危険に首を突っ込んだ経験もあってその辺の空気には彼女は敏感だった。

 

「何、上官として部下の“仇討ち”と、民警の不始末の“尻ぬぐい”に来てやったのさ」

 

「「!!」」

 

 蓮太郎や綾耶の顔が引き攣る。自分達はまだ生きているし、ティナが戦意を喪失しているにも関わらず“仇討ち”や“尻ぬぐい”というキーワード。これはつまり……!!

 

「お前達は聖天子様の命を狙うテロリストと戦い、名誉の戦死を遂げた。そして我々がそのテロリストを倒し、聖天子様をお守りしたという訳さ」

 

 死人に口なし。保脇達はこの場で蓮太郎も綾耶も延珠も夏世もティナもソニアも。全員を殺して、全ての真実を闇に葬り手柄だけは自分の物とする腹づもりだ。漁夫の利とはまさにこの事か。

 

「くっ……」

 

 せめて延珠達三人の戒めを解こうとソニアが手を動かすが、「動くな!!」と保脇達に制された。

 

「妙な動きは無駄な事だぞ」

 

 当然と言うべきか、彼等が持っているのはSR議定書によって製造されたオールプラスチック拳銃。彼等自身も金属探知機を使って認識票やら勲章やら体から金属の類は全て取り除いてきているらしい。ソニアの磁力パワーで操る事は出来ない。

 

「さあ……まずは一番厄介な貴様からだ」

 

 保脇と、他数名の部下が持つ拳銃がソニアへ照準される。

 

「……さっきのを見てたのなら分かると思うけど、私は常に磁気フィールドで身を守っているわ。銃で私を殺す事は出来ないわよ?」

 

 ならば接近戦だが、それこそゾーンに到達したイニシエーターであり桁外れの運動能力・再生能力持ちのソニアが相手では、バラニウムの武器を持ち込んでいない保脇達には万に一つの勝ち目も無い。近距離でも遠距離でも、彼等にソニアを殺す術は無い。

 

「ああ、そうだろうとも」

 

 だが保脇は酷薄な笑みを浮かべたままだ。

 

「ならば、これでどうだ?」

 

 彼の拳銃の銃口がソニアから、うずくまったままのティナへと動いた。

 

「!!」

 

「貴様自慢の磁気フィールドとやらも、流石に自分の周り以外には使えまい? さぁ、大事な妹を殺されたくなければ……!!」

 

 勝利を確信し、下卑た笑みを浮かべる。しかしこの時点で保脇は一つ失念していた。勝利を確信してしかし隠し球によって状況を逆転されるのはほんの十分ほど前に、綾耶達が通った道そのままだという事に。

 

 標的をティナに変更して、彼女を人質としてソニアに磁気フィールドの防御を解除させる。その上で改めてソニアを蜂の巣に。保脇が下したのは極めて合理的で、正しい判断だった。

 

 だが、同時に。

 

「……あなた、何してるの?」

 

 一切合切、あらゆる感情を廃した抑揚の無い合成音のような声で、ソニアが言う。

 

「ひっ……!!」

 

 思わず綾耶が、上擦った声を出した。

 

 同時に、この一帯の廃ビルを住処としていた何百羽という野鳥たちが一斉に眠りから目覚め、目の利かない夜だと言うのに飛び立ってこの場を離れていく。野生の動物である彼等は敏感に感じ取っていたのだ。たった一人の人間を起点として発せられた濃密な「死」そのものの気配を。そして動物の本能から、可能な限り“それ”から遠ざかろうと動いたのだ。

 

 綾耶や鳥たちよりも僅かだけ遅れて、蓮太郎や延珠、夏世、ティナですら全身を総毛立たせる。

 

 未だ気付いていないのは、保脇達だけだ。

 

 多くの実戦を経る中で最も磨かれていくのは、技術や精神力もそうだが「恐怖する」という感覚。危険を感じ取り、それから遠ざかるもしくは対策を立てる事が、生き延びる為に最も必要とされる技能だ。この反応の違いは、そのまま蓮太郎達と保脇達の練度の違いだった。

 

「……ねぇ、何をしているの?」

 

 ばちっ、とソニアの体を火花が走る。

 

 保脇の判断は確かに極めて合理的で、正しかった。だがそれは同時に、最もやってはいけない選択だった。

 

「!! ソニア、やめ……!!」

 

 一秒後に何が起こるかを察した延珠が制止しようとするが、遅かった。

 

 ソニアの手には、いつの間にか腕が握られていた。

 

 肩口の辺りから引き千切られたような、人間の腕が。

 

「「「えっ……?」」」

 

 呆けた声が、重なる。

 

 保脇とソニアの、目が合った。

 

「……何を驚いてるの? あぁ、この腕? 驚く事ないでしょ? あなたが良く知ってる腕でしょ、これは……ティナに銃を向けた悪い腕」

 

 淡々とそう言って、ソニアはプラスチック拳銃を握ったままの腕をゴミのように投げ捨て、踏ん付けた。

 

 保脇は恐る恐る自分の右手の在る筈の場所へと視線を動かして……そしてそこに在る筈の物が無かった事に気付いて、全てを悟った。

 

「ぎ、ぎゃあああああああっ!! う、腕が!! 僕の腕がああああああああっっ!!!!」

 

 女のような甲高い悲鳴が上がる。

 

「な、何だ今のは!? 妾の目にも全く見えなかったぞ!!」

 

「ぼ、僕も……!! 一瞬も目を放さなかったし、瞬きもしなかったのに……!!」

 

「わ、私もです……」

 

 三人のイニシエーターの目をしても、ソニアは突っ立ったままにしか見えなかった。延珠が蓮太郎に視線を送るが、彼女のプロモーターも同じように首を横に振るだけだった。単位時間当たりの頭脳の思考回数を何千倍にも増幅し、一秒が一分にも十分にも思えるような時間のゆっくり流れる世界を垣間見る事の出来る彼の義眼ですら、ソニアが何かしたり動いたりする姿は全く見えなかった。

 

 その少しも動かなかったソニアの手に、保脇の腕がいきなり握られていた。近付いて、腕を取って、引き千切るという過程がすっぽり抜けてしまっている。まるで動画のフィルムを何コマか飛ばしたように。時間を止めて、その止まった時の中をソニアだけが動いたように。

 

 傷口から血も出ていなければ、今の今まで保脇は痛みさえ感じてはいなかった。それほどまでに短い時間、一瞬すら長すぎるほどの刹那の出来事であったに違いない。

 

『ソニアさんには放電や電磁力による金属操作、バリアだけじゃない……まだ何か、隠された能力がある……!?』

 

 戦う中で自分達を殺さないように気遣っていただけではなく、切り札すら隠し持っていた。ソニアの底知れぬ実力に、改めて綾耶は戦慄する。

 

 保脇の負傷によって聖室護衛隊に動揺が走ったその瞬間、ソニアはすかさず磁力を操り、延珠達を縛っていた下水管や針金を外した。

 

「あなた達!!」

 

「うむ!!」「了解!!」「分かりました」

 

 自由の身になった三人のイニシエーターはそれぞれ蹴りでプラスチック銃を蹴り飛ばし、空気の刃で銃身を切断し、人体の反射に付け込むような格闘術で瞬く間に制圧した。

 

「お、お前等……こんな事をしてただで済むと思ってるのか!! この事は上に報告してお前等全員、処分して……」

 

 傷口を押さえながら保脇がヒステリックに喚き散らす、その時だった。

 

「そこまでです!!」

 

 凛とした声が響き渡り、場の全員の動きが止まる。

 

「聖天子様……!!」

 

 この場に居る筈のない、若き国家元首の姿を認めた誰かが呟いた。

 

「どうしてここに……」

 

「保脇さん達が独断専行に及んだと聞いて、斉武大統領との会談を中座して参りました」

 

「バ、バカな!! たかが民警や赤目の為に、大阪エリア国家元首との会談を……!?」

 

「私にとって里見さんや綾耶はただの民警やイニシエーターではありません。そしてこの状況は……」

 

 納得の行く説明を求められて、保脇ははっとした表情になって自分がやるべき事を思い出した。

 

「そ、そうです!! 聖天子様!! 里見蓮太郎や将城綾耶はあなた様のお命を狙ってきたテロリストと通じていたのです!! それを私達に見破られると、口封じの為に襲い掛かってきて……!! どうかお助け下さい!!」

 

「なっ……何を!!」

 

 一歩遅れて蓮太郎が抗議の声を上げかけるが、それよりも聖天子が「お黙りなさい!!」と一喝して保脇を黙らせる方が早かった。

 

「私の目は節穴ではありません。保脇さん、あなたが里見さんや綾耶を謀殺しようとした事は先刻承知しています。多少の行き過ぎは大目に見ていましたが、これ以上の狼藉は断じて看過出来ません!! あなた達への処分は追って下します。それまでは謹慎していて下さい!!」

 

 有無を言わせぬ口調でそう言い放つと、聖天子は今度はソニアとティナへと向き直り、宣言する。

 

「ソニア・ライアン、ティナ・スプラウト両名の身柄は、東京エリア国家元首の名の下に、私が預かります!! これ以降、何人たりとも一切の手出しは無用とします!!」

 

 

 

 

 

 

 

 一週間後、聖居一角の衣装室では。

 

「うん、二人とも似合ってるよ」

 

 自分と同じ、小柄な体格に合わせて改造の入った聖室護衛隊の制服を着た二人のイニシエーターを見てにっこり笑う正装姿の綾耶。

 

 二人のイニシエーター。ソニア・ライアンとティナ・スプラウト。

 

 あの事件の後、聖居にて軟禁されたティナには連日連夜の事情聴取が行われたが見るべき情報は皆無だった。ティナはイニシエーターとして、プロモーターの命令に従っただけだ。エイン・ランドに聖天子の暗殺を依頼した黒幕については、分からずじまいに終わった。あるいはエインとて、本当の依頼主については知らないのかも知れない。

 

 斉武宗玄は会談をすっぽかされて、怒り心頭で大阪エリアに帰っていった。

 

 そしてティナ自身の処分だが……これはティナが全ての容疑を認めて刑に服する姿勢を見せている事や、彼女の境遇には情状酌量の余地が多分にあると認められた事、そして最も大きいのはティナの減刑の交換条件としてソニアが東京エリアの為に働くよう申し出た事。これら全ての要素を総合して判断した結果、ソニアとティナは二人とも保護観察処分という名目で綾耶と同じく特別隊員として、聖室護衛隊に組み込まれる事となった。ただしティナだけは、綾耶もしくは聖天子の許可無しの武器の携帯と、護衛の際に一定の距離より聖天子へ近付く事を禁じられている。

 

「とうとう、僕にも後輩が……しかも一度に二人も」

 

 綾耶は感無量という表情だ。ソニアとティナはそんな先輩を見て、顔を見合わせた。

 

「ふふふ……色々あったけど、これからよろしく頼むわ。綾耶先輩」

 

「……いくら武器を取り上げたからと言って、自分の命を狙ってきた者をボディガードにするなんて……」

 

 結果的には自分の望み通りになってご機嫌なソニアとは対照的に、ティナは信じられないという顔だ。昔のマンガやアニメではあるまいし。

 

「これは、聖天子様が与えて下さったチャンスだよ、ティナさん。これから全てをやり直そうよ。ソニアさんや、僕と一緒に。そしてこれは僕の個人的な望みだけど……これからはその力を殺す為じゃなく、守る為に使って欲しいな……暗い道ではなく、明るい世界をみんなで生きようよ。延珠ちゃんや、他の呪われた子供たちや、勿論蓮太郎さんや聖天子様とも一緒に」

 

 そう言って差し出された綾耶の手を握ろうとティナは自分も手を出して、しかし触れ合う直前で戸惑ったように引っ込めてしまう。

 

 今更だが、良いのだろうか。自分のような血に塗れた生を過ごしてきた者が、やり直す事など本当に出来るのだろうか。

 

 しかしそんなティナの不安や迷いなどどこ吹く風で、綾耶は引っ込めたティナの手を追い掛けて掴んでしまうと強引に握手する。ティナは思わず手を放そうとするが、綾耶は抜け目なく能力を発動、真空接着で掌と掌を固定していた。

 

「あ、あの……綾耶さん……」

 

「大丈夫、僕も協力するから」

 

「あ、いえ……その……」

 

 更に何事か言い掛けたティナを遮って、ソニアの手が二人の握手の上に重ねられた。

 

「あなたの負けよ、ティナ。折角貰った機会なんだから。無駄にしちゃダメよ」

 

 優しい笑みでそう言う義姉に、先程までは困惑していたティナもやっと笑顔を見せた。

 

「はい……これから宜しくお願いします。綾耶先輩」

 

「こちらこそ」

 

 満面の笑みと共にそう言うと綾耶は能力を解除し、ティナと手を放して大仰に両腕を広げる。

 

「元98位と11位が一緒なら、どんな敵がやって来ようが聖天子様の身の安全は守られたも同然!! さぁ、行こう二人とも!! 聖天子様に入隊の挨拶をする時間だよ!!」

 



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登場人物紹介

 

◆将城綾耶(まさきあやや)

 

年齢:9歳

性別:女性

身長:128cm

体重: 29kg

スリーサイズ:子ども体型

血液型:A

モデル:エレファント(象)

 

・容姿

前髪をぱっつんに切り揃えた長い黒髪で、眼鏡を掛けたタレ目の少女。

 

・服装

修道服の上に、改造が施された聖室護衛隊の外套。

 

・所属

聖室護衛隊特別隊員

 

・序列

無し(正規のイニシエーターではないため)

 

・能力

大型陸上動物の因子によってもたらされるパワーと、流体を操る力。

綾耶の両腕はガストレアウィルスによる変異で象の鼻のように水や空気といった流動する物体を吸い込める構造となっており、吸い込んだ空気に圧力を掛けて噴射し、カマイタチのような空気のカッターを発生させる、ジェット噴射で空を飛ぶ、壁状に噴射してバリアを作る、空気の吸引で掃除機のように物体を引き寄せるなどといった使い方がある。吸い込んだ空気を一気に放出すれば、瞬間的かつ直線的な軌道限定ながらスピード特化型イニシエーターをも凌駕するスピードを発揮出来る。

また周囲に大量の水がある環境下では、その水を吸い込んで圧力を掛けて放出、洪水のように相手を押し流す戦法によって戦闘能力を通常時の4倍近くにまで上昇させる。

 

・備考

本作の主人公。

外周区の教会出身で、呪われた子供たちとしては珍しく、両親から愛情を注がれて育った。

しかしその両親も反ガストレア団体が起こしたテロによって死亡し、それ以降綾耶は一人で生きていく事になる。

だがその為に誰かを傷付けたり何かを奪ったりという選択肢は存在せず、外周区の人々から頼まれた事はどんな事でも引き受ける事から初めて、次には清掃会社に就職する。その後配置換えが行われて聖居での清掃作業を担当していた時、聖天子に声を掛けられて直轄のイニシエーターとして抜擢される。

それ以降はガストレア退治や聖天子の護衛など正規のイニシエーターにも引けを取らない働きぶりで、奪われた世代の中にも少しずつだが彼女を認める者も現れ始めていく。

そして聖天子のイニシエーターとなって半年後の2031年4月、物語は始まる。

延珠とは外周区の教会で一緒に暮らしていた親友同士。延珠が無茶をする度に止めに入ったり一緒に逃げたりしていた為、延珠のウィルス浸食率は原作よりもかなり低めに抑えられている。

 

 

 

 

 

◆エックス

 

年齢:10歳

性別:女性

身長:127cm

体重: 65kg

スリーサイズ:子ども体型

血液型:AB

モデル:ウルヴァリン(クズリ)

 

・容姿

短めの黒髪に、獣のように鋭い目をした褐色の肌の少女。

 

・服装

タンクトップにカーゴパンツ

 

・所属

一色民間警備会社

 

・序列

30位

 

・二つ名

鉤爪(クロウ)

 

・能力

獰猛且つ凶暴な肉食動物の因子による非常にバランスが良く高い身体能力と、両手から出てくる三本の超バラニウム製の鉤爪。発達した五感。バラニウムによる再生阻害の無効化。

 

・備考

東京エリア最高位序列保持者である一色枢のイニシエーター。

五翔会によって研究されていた抗バラニウムガストレアの研究をフィードバックされた抗バラニウムイニシエーター実験体の、唯一人の生き残り。五枚羽として潜入しているルイン・メラクによってもたらされた情報を元に他のルイン達が研究所を襲撃し、救出された。その後、民警として表の顔を持つルイン・ドゥベのイニシエーターとして働く事になる。

研究所で行われた非人道的な実験によって過去の記憶は殆ど失われており、それ以前の事は名前も含めて本人にも分からない。エックスという名前はルイン・ドゥベによって名付けられたもの。これは彼女が十番目の実験体であった事に因む(№Ⅹだから、エックス)。

綾耶と同じくガストレアウィルスによって肉体が変異しているタイプのイニシエーターであり、両腕の筋肉の操作によってスパイク状の骨が指の付け根の間から各3本ずつ飛び出してくる。その時、彼女の皮膚も傷付いているが、呪われた子供たちが持つ再生能力によって修復される。

抗バラニウム能力の試験の為、彼女の全身の骨格には超バラニウムが接合されており、体重が異様に重いのはこれが原因。この処置によって本来は骨の爪であった彼女の鉤爪は超バラニウムでコーティングされている。

この特性の為、磁力を使うソニアには金属骨格を操られてしまい手も足も出ないので苦手としている。

 

 

 

 

 

◆ソニア・ライアン

年齢:10歳

性別:女性

身長:141cm

体重: 34kg

スリーサイズ:子ども体型

血液型:B

モデル:エレクトリックイール(デンキウナギ)

 

・容姿

ボリュームのある青髪のポニーテール。青色の瞳をした白人の少女。

 

・服装

白と黒のツートンカラーを基調としたお嬢様風のドレスに、胸元には大きな宝石をあしらったブローチ。

 

・所属

無し(ルイン達とは協力関係)

 

・序列

元11位

 

・二つ名

星を統べる雷帝(マスターオブライトニング)

 

・能力

デンキウナギ因子による発電能力と、それを応用した電磁力。

発電能力はガストレアを容易く黒コゲにしてしまい、周囲数キロの砂をガラス化させてしまう程の電熱を発生させる事が出来る。磁力は主に金属に作用させてコントロールする事が可能で、拳銃を奪い取るぐらいは朝飯前、車を宙に浮かせたり弾丸を曲げたり、その気になれば金門橋を引き千切って空中を移動させる、原子力潜水艦を海中から引き上げる、スタジアムを丸ごと空中へと持ち上げるほどのパワーを生み出す事が出来る。

また、地球はそれ自体が一個の巨大な磁石である為、地磁気からエネルギーを引き出して電磁誘導により発電機のように磁力を電力に変換し、単独で作り出せる限界を超えた電力を発生させたり、適正な条件さえ整えれば作り出した磁界を地球の磁場とシンクロさせ、世界中のどこからでも世界中のどこへでも大規模な地殻変動を発生させたり、特定のエリアのモノリスをバラバラに分解して大絶滅を引き起こす事すら出来る。

 

・装備

シェンフィールド。基本的にはティナが使うのと同じ物。ただしソニアのシェンフィールドは推進機構がオミットされており、プラズマエンジンやその推進剤を積む為のスペースにセンサー類が余分に搭載されている為、ティナの物よりも情報収集能力に優れる。ソニアは自身の電磁力によってこの偵察機を遠隔操作する。この為、ソニアの脳内に埋め込まれたマイクロチップにはシェンフィールドに動作指令を出す機能が存在せず、収集した情報を受信する機能しかない。よってチップの発熱も抑えられており、10機以上を同時に操作する事が出来る。

 

・備考

元は四賢人の一人であるエイン・ランドのイニシエーター。イニシエーターとなる以前は他の呪われた子供たちと同じように貧しい暮らしを送っており、生きる為にあらゆる犯罪行為に手を染めていた。だがある時ティナと出会った事を切っ掛けにそうした生活からは脱却し、ティナの生活費を稼ぐ為にエイン・ランドの実験体に志願し、ハイブリットとなる。

単身で数百体のガストレアを全くの無傷で討伐するなど鮮烈なデビューを経ていきなり千番台へと登録され、その後も序列の階梯を駆け上がり、イニシエーター単独の力で序列11位にまで上り詰める。だがその前後にティナがエインの機械化兵士となってしまう。庇護対象であった彼女が自分と同じ世界に踏み込んでしまった事にショックを受け、それ以降暫くは機械的に任務を果たすだけの生活を続けていく。その頃、ルインの一人であるルイン・ミザールと出会い、彼女達の理想と目的に賛同。ゾディアックガストレアの一体である天秤宮(リブラ)と交戦して相打ちになったと見せ掛けてエインの元から離れ、ルイン達の元へと身を寄せる。彼女の新しい目的はティナを含むハイブリット達を、エインの手から解放する事。その後しばらくはルイン達の元でガストレア退治や要人暗殺を行っていたが、ルイン・フェクダからの依頼によってティナが聖天子暗殺を目的として東京エリアを訪れるのを知り、動く。

 

 

※SR議定書

Sonia Ryan議定書の略称。ソニアの力を一国の軍事力をも遥かに超える脅威だと認定したIISOが、彼女の取り扱いについて国際的に定めたもの。具体的にはソニアが操れないプラスチック・セラミック製の武器を各国が一定数配備する事や、ソニアを拘束した際に彼女を閉じ込めておけるオールプラスチックの牢獄を、1エリアに最低1箇所は設置する事などが取り決められており、他にソニアと対峙した際の対応マニュアルも存在する。

 

 

 

 

 

◆ルイン

年齢:不明

性別:不明(ベースは女性)

身長:自由自在(ベースは181cm)

体重:自由自在(ベースは69kg)

スリーサイズ:自由自在(ベースはB88/W58/H89)

血液型:自由自在

モデル:ブランク(無し)

 

・容姿

自由自在(ベースは白い長髪に、アメジストのような紫の瞳をした20代ぐらいの美女)

 

・服装

自由自在(ベースはきめ細やかな造りの、白い衣)

 

・能力

無型(モデル・ブランク)のガストレアウィルスによる進化。つまり環境や天敵という負荷に対応して、それを克服する為の耐性を肉体に付与する能力。この特性を持つルインに対してはいかなる攻撃であっても二発目からは通用しなくなり、戦闘中であってもパワーで勝る相手にはそれを上回るパワーを発揮し、スピードで上回る相手にはその上を行くスピードを出せるようになる。同じように身動き出来ない空中では飛べるように背中に羽が生えて、相手が攻撃の届かない遠距離に居れば届かせる為に遠距離を攻撃する手段を獲得する。ただしこれらの耐性や上乗せされた能力は、長時間維持する事は不可能。トレーニングを怠っていると人間の筋肉が脂肪に変わるように、負荷を受け続けていないと耐性は消滅する。これは退化もまた進化という事象の一側面である為。

また、ルイン達が保菌するガストレアウィルスは感染源という”方向性”を持たないが故に、形象崩壊を応用してどんな姿にでも変身出来る。

 

・備考

同じ顔、同じ声、同じ姿の”ルイン”が全部で8名居て、それぞれが北斗七星を構成する星のコードネームと個別の役割を持っている。役割によっては表の顔を持つ者も居る。

 

”七星の一”ルイン・ドゥベ

民警として表の世界での発言力や立場を確立させる事が任務。一色民間警備会社社長・一色枢(いっしきかなめ)という表の顔を持ち、エックスのプロモーターでもある。

 

”七星の二”ルイン・メラク

五翔会の五枚羽を暗殺し、変身能力によってそのまま五枚羽に成り代わり、機密情報をリークしている。斉武宗玄が聖天子暗殺を依頼したという情報も、メラクからフェクダへともたらされた。

 

”七星の三”ルイン・フェクダ

蛭子影胤・小比奈ペアを従え、『七星の遺産』を強奪して東京エリアに大絶滅を引き起こそうとしたテロリスト。影胤達のようなアウトローを指揮しての非合法活動が任務。ソニアに聖天子の警護を依頼したのも彼女。

 

”七星の六”ルイン・ミザール

ソニアに接触し、仲間に引き込んだルイン。

 

”七星の七”ルイン・ベネトナーシュ

教師として呪われた子供たちを教導する事が任務。琉生(るい)という表の顔を持ち、東京エリア第39区第三小学校で教鞭を執っている。綾耶とも面識がある。

 

”七星の番外”ルイン・アルコル

科学者としての研究活動が任務。機械化兵士の装備を強化したり一から作り出す事は出来ないが、修復する事は出来るレベルの技術を持つ。元デビルウィルスの研究室室長。

 

 

※ガストレアウィルス適合因子

ルイン達が持つ、その名の通りガストレアウィルスに適合する遺伝的な素質。呪われた子供たちが持つ抑制因子とは異なり完全に浸食率の上昇を抑え、ウィルスとの共存を可能とする。これを持つ者には形象崩壊・ガストレア化が起こらない(正確には形象崩壊を自分の意思でコントロールする事が可能となり、訓練次第では人間とガストレアの姿を自由に行き来する事も出来るようになる。ルイン達の変身能力もそれを応用したもの)。よって身体能力の向上や高い再生能力といったウィルスの恩恵をノーリスクで享受出来る。この適合因子はルイン・アルコルが開発した技術によって他者に移植する事も可能で、作中では小比奈、エックス、ソニア達が移植手術を受けている。

 

※星の後継者

ルイン達が考えている、現行の人類に代わって地球を支配する新たな種を指す。具体的にはガストレアウィルスによって肉体・精神共にホモ・サピエンスよりも進化した人間であり、この『星の後継者』を誕生させる事こそがルイン達の最終目的である。ルイン達は、呪われた子供たちは人間と星の後継者との過渡期に当たる存在であると見ている。

 



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幕間 ルイン、再動

 

<……と、いうのが結論よ。私はティナや綾耶ちゃんと一緒に、暫くは聖天子の護衛役をする事になったわ>

 

 スマートフォンから聞こえてくるソニアの報告に、ルイン・フェクダは「そう」と頷いた。元々、彼女を東京エリアに送り込んだのは聖天子を暗殺から守る為だった。その任務自体は見事成功した上に、ティナ共々聖室護衛隊の特別隊員として取り立てられるとは。これは嬉しい誤算というヤツだ。ソニアは自分達にとっては客分であって完全に命令に従う訳ではないが、それでもこれで自分達“ルイン”は彼女を通して聖居にも影響力を持つ事が可能になった。事態は想定していた形とは大分違った所に着地したが、まず上々と言って良いだろう。

 

<それで、私はこれからどう動けば良いのかしら?>

 

「……しばらくは、あなた自身の判断で行動してくれて構わないわ。あなたが聖天子を守る事は、私達の目的とも合致しているからね」

 

 そう言って通話を切り、スマートフォンを机の上に置く。三番目のルインの視線は、そのまま机の角に置かれた一枚の写真立てへと動いた。その中に入っているすっかり褪色してしまった写真には、まるで学校で撮られたクラス集合写真のように十一人の小さな子供たちとその真ん中に一人の女性が、みんな笑顔で写っていた。女性は白い髪に白衣を着ていて、風貌はルイン達に瓜二つであった。より正確には彼女達の一人である、ルイン・アルコルに。

 

「……もう少しだからね。双葉(ふたば)ちゃん、六花(りっか)ちゃん、七海(ななみ)ちゃん、八尋(やひろ)ちゃん……もうすぐ、あなた達の犠牲が報われる世界になるわ……」

 

 4人の名前を挙げ、彼女は言葉を切る。一拍置いて、

 

「そして……一姫(かずき)ちゃん、来三(くるみ)ちゃん、五澄(いずみ)ちゃん、九音(くおん)ちゃん、乙十葉(おとは)ちゃん、土萌(ともえ)ちゃん、王里栄(おりえ)ちゃん……この戦いが永遠に続けられるようになったら……あなた達にも、必ず安らかな眠りを与えると約束するわ……だから今は……地獄の中で、生き続けていて」

 

 ひとりごちるフェクダ。その時だった。スマートフォンが着信音と共に振動する。画面に表示された通話相手の名前には「Δ(デルタ)」とあった。

 

「四番(メグレズ)? 三番(フェクダ)だけど、何かあったの?」

 

 八人のルインの一人、四番目のルイン・メグレズ。その役目は未踏査領域の調査と、ステージⅤ及び一部の強力なステージⅣガストレアの監視。

 

<ええ、緊急事態よ。フェクダ……東京エリア近辺の未踏査領域に生息するガストレア群に、動きがあったわ>

 

 電話の向こう側から返ってきた同じ声は、少しだけ早口だった。

 

<私が確認出来ただけで数百……ティコによれば二千体以上のガストレアが一斉に東京エリアへ向けて動き出している。これは明らかに組織だった動きよ>

 

「ティコちゃんのソナーによる調査なら確かね」

 

 民警と同じように、ルイン達にもそれぞれ相棒となるイニシエーターが居る。民警として表の顔を持つルイン・ドゥベは戦闘力に秀でたモデル・ウルヴァリンのエックスがパートナー。偵察・監視が任務であるルイン・メグレズのパートナーの名前はティコ・シンプソン。モデル・オルカ、シャチの因子を持つ呪われた子供たちであり、固有能力はモデル動物と同じ超音波を用いたエコーロケーション。極めて高い索敵能力を持つ。

 

 そんなイニシエーターの調べなのだから間違いはないのだろうが……一つ、腑に落ちない事があった。

 

「組織だった動きと言ったわね、メグレズ……」

 

 そう、そこだ。ガストレアが群れで行動する事は極めて珍しいケースである。時折エリア内に侵入してくるガストレアについてもそれがほぼ単体、多くても数体程度なので足並みがバラバラな民警でも対応が出来ているのだ。そのガストレアが群れで、しかも二千体もの大所帯で行動するとなれば、これは容易ならざる事態である。

 

「……群れという事は率いている親玉が居る筈。そいつについて、調べはついているの?」

 

<勿論>

 

 フェクダの疑問も当然。そして同じ顔、同じ姿、同じ声のルイン達は思考パターンも似通っているらしい。メグレズも同じ結論に辿り着いていた。

 

<群れを率いているのは私達の監視対象の一つであるステージⅣ、アルデバラン>

 

「……それって……!!」

 

 僅かに、フェクダが息を呑んだ。

 

<そう、金牛宮(タウラス)……双葉ちゃんの右腕だったステージⅣよ。ステージⅣのガストレア>

 

 アルデバランの階梯について、メグレズが強調する。その意味する所は一つだ。

 

 東京エリアへ向かっていると言うが、しかし全てのエリアはモノリスの結界によって守られている。それを突破出来るのはステージⅤ・ゾディアックガストレアのみ。故にステージⅣであるアルデバランは、モノリスに近付く事は出来ない筈なのだが……

 

<だからと言って、無視は出来ないでしょう? 二千体ものガストレアの大動員……双葉ちゃんが1位に殺されてから今まで、こんな動きは一度として無かったのよ?>

 

「確かに。では今一度、私が東京エリアに行く事にするわ。ちょうど私のイニシエーター……小町も、訓練が完了する頃合いだしね」

 

<了解。では、そちらは任せるわね>

 

 

 

 

 

 

 

 分厚い金属製のドアを開くとそこは体育館のように広がった空間になっていて、断続的な金属音が響き渡っている。

 

 発生源となっているのは部屋のほぼど真ん中でめまぐるしく動き回っている小さな二つの影。

 

「あはっ、あはははっ!! 強い!! 強い!! 小町強いね!!」

 

「やるじゃん、小比奈!!」

 

 一方はバラニウム製の双剣を振るう黒いドレスの少女。元134位のイニシエーター、モデル・マンティスの蛭子小比奈。

 

 もう一方は、道場着を纏って長い黒髪を細長いポニーテールにした少女。こちらは無手であり、紅く輝く両眼から小比奈と同じく呪われた子供たちであると分かる。彼女の名前は魚沼小町。ルイン・フェクダのイニシエーターだった。

 

 二人のイニシエーターはどちらも年にそぐわぬ殺気を全身から放ち、全力で眼前の相手を殺す為に攻撃を繰り出しつつ、しかしじゃれ合うように笑いながら神速の攻防を続けていく。

 

「シッ!!」

 

「ふっ!!」

 

 小比奈が繰り出した小太刀と、小町が振った手刀がぶつかり合った。本来ならばいくらガストレアウィルスによる強化があろうと金属製の刃物と生身の手では勝敗は明らかであるが、しかしこの場合に限っては例外だった。バラニウムの黒刃と手刀は、どちらも互いを傷付ける事は出来ずに弾かれた。

 

「楽しいね!! 小町!!」

 

「そだね。もっともっと楽しもうよ、小比奈!!」

 

 狂笑を上げながら、その言葉を合図に二人の少女は対手へ向けて突進。小町は今度はハイキックを繰り出し、小比奈は小太刀でこれを受ける。当然、そんな事をすれば刃とぶつかった足の方が悲惨な状況になる。……筈なのだが、しかし先程の手刀の時と同じく足刀と小太刀はぶつかり合って金属音を立て、弾かれる。

 

 ぱらりと、道場着の袴が裂けて小町の脛が見えるようになる。露わになった足には、具足のような物は何も装着されていなかった。つまり小町は完全に生身の足を思い切り小比奈の小太刀にぶつけて傷を負わなかった事になる。

 

 そして少しばかり離れた所で、少女二人の戦いを見守る者が二人。

 

 一人は白い長髪に白い衣を纏った、ルインの一人。

 

 もう一人は金髪に雪のような白い肌を持ったロシア系白人の少女。

 

「や、五番目(アリオト)」

 

 そこに、ルインがもう一人現れた。ルイン・フェクダだ。

 

「ああ、三番目(フェクダ)。調子は良さそうね?」

 

「マスター・フェクダ。ご無沙汰しております」

 

 五番目のルイン、ルイン・アリオトの傍らに控えていた少女がぺこりと頭を下げる。

 

「うん、アーニャも元気そうで何よりだわ」

 

 フェクダはそう言うと、アーニャと呼んだその子の頭をくしゃくしゃと撫でてやる。アーニャは拒んだり避けたりする素振りも見せず、くすぐったそうに体を動かした。そうして挨拶を終えた所で、ルイン・フェクダは五番目(アリオト)と呼んだルインに向き直る。

 

 八人のルインの一人、“七星の五”ルイン・アリオト。任務はイニシエーターの訓練である。

 

「フェクダ、今日の用事は……って、聞くまでもないわね」

 

「ええ、小町の様子を見に来たのよ。そろそろ訓練が完了する頃だから……どう? 仕上がり具合は……」

 

「見ての通りよ」

 

 アリオトがくいっと顎をしゃくって、部屋の中心で猛戦している少女達へと視線を移す。小比奈と小町の戦いは、完全に五分の様相を呈していた。モデル・マンティス、蟷螂の因子を持つ呪われた子供たちである小比奈は、モデル動物が持つ獲物を捕らえる際の瞬発力を人間サイズに当て嵌めたかのような圧倒的なスピードと、生まれながらの狩猟本能によってもたらされる独特の剣術の組み合わせによって接近戦では無敵という圧倒的自負を持ち、しかしそれを過信とは言わせない確かな実力を備えている。元とは言えIP序列134位に恥じぬ使い手である。

 

 一方、そんな小比奈と一切の武器防具を用いず無手で渡り合う小町。この事実一つだけでも、彼女が強力なイニシエーターである事を疑う余地は無い。

 

「今日の模擬戦はいわば最終調整。今の小町ちゃんはIP序列で言えば、100番台は確実なレベルに達しているわ。フェクダ、あなたのパートナーも問題無く務められる筈よ」

 

「そりゃ凄いわね。ご苦労様、アリオト」

 

「ま……私はこれが仕事だからね」

 

 二人のルインがそんなやり取りを続けていると、すぐ傍らのアーニャがくいっとアリオトの袖を引っ張った。

 

「あの、マスター・アリオト」

 

「どうしたの?」

 

「いえ……どうもあの二人……雰囲気が違うみたいで……」

 

「「え」」

 

 話し込んでいたルイン二人が視線を動かす。小比奈と小町の戦いは未だ続いていたが、しかし肌にぴりぴりと伝わってくる空気が段々と張り詰めた物に変化しつつあった。

 

「強い!! 強い!! 斬り合おう!! もっともっと斬り合おう!! ねぇ、小町!!」

 

「そだね。それに刃の使い手が二人居るのもいい加減紛らわしいし……あなたの刀と私の手足……どっちの切れ味が鋭いか、そろそろはっきりさせようか!!」

 

 あくまでも模擬戦の筈だったが、しかし些かヒートアップし過ぎているようだ。

 

「ちょっと、小町……!!」

 

「待って」

 

 二人を制止する為にフェクダが動こうとするが、アリオトに制された。

 

「心配は、要らないわ」

 

 アリオトがそう言った瞬間、小比奈と小町の二人はそれぞれ立っていた床を陥没させるような力で踏み込み、最初の一歩で弾丸さながらの速度にまで加速。眼前の相手を明確な敵と見なし、仕留める為に刃を振るう。再び響く金属音。

 

 しかし、今回は先程までと違い小比奈の小太刀と小町の手刀との間に、もう一つ挟まれていたものがあった。

 

「あ……」

 

「アーニャさん……」

 

「二人とも、そこまで」

 

 二人の間にはついさっきまでルイン・アリオトの傍にいたアーニャが割って入っていて、両側から繰り出された小太刀と手刀を、左右の腕を盾にして止めていた。今のアーニャの両腕は、刃・手刀と触れている部分が真鍮のような色と質感に変化している。無論、変わったのは外見だけではない。変化した今の彼女の肉体は、鋼鉄と同等かそれ以上の強度・密度を備えていた。

 

 ルイン・アリオトのイニシエーター、アーニャ。本名アナスタシア・ラスプーチン。モデル・スネイル、巻貝の因子を持つ呪われた子供たちである。

 

 巻貝の中にはウロコフネタマガイといって、海底の噴出口から出る熱水に含まれる硫黄と鉄を取り込み、体内の微生物によって硫化鉄に変化させて鎧のように身に纏い、外敵から身を守る能力を備えた種が存在する。ガストレアウィルスによって強化されたこの特性を受け継ぐアーニャは自分の体を生体金属へと変化させる能力を持ち、これによって彼女の肉体は硬さと柔軟性を兼ね備えた、人の手では作り出す事の出来ない素晴らしい装甲服へと変わるのだ。小比奈の小太刀をまともに受けて傷一つ付かない事実からも、その防御力の高さが窺い知れる。

 

「これ以上やるなら、私があなた達の相手をするけど?」

 

「……ん」

 

「ごめん、アーニャ。ちょっと熱が入りすぎたわ」

 

 小比奈は明らかに不承不承といった様子であったが双刃を鞘に収めて、小町も手刀を下ろした。それを見たアーニャも能力を解除して両腕を金属から生身へと戻して、続いて彼女の目からも赤色が消え失せた。

 

 そして場に、ぱんぱんと手を打つ音が響く。ルイン・アリオトだ。

 

「はい、試験はこれで終わり。小町ちゃん、最終試験は文句無く合格よ。小比奈ちゃんもご苦労だったわね」

 

「ふう……今までご指導ありがとうございました、マスター・アリオト」

 

「お疲れ様、小町。これからは私のイニシエーターとして、よろしく頼むわ」

 

「はい、マスター・フェクダ。非才なこの身ではありますが、力を尽くさせていただきます」

 

 フェクダの差し出した手を、小町が遠慮がちに握り返した。

 

「小比奈ちゃんも、ありがとうね。小町の調整に付き合ってもらえて……」

 

「別に……小町と戦えたし、パパからも手伝えって言われたから」

 

 ぶっきらぼうにそう言って、ぷいとあらぬ方向を向いてしまう小比奈。するとフェクダが入ってきたのとは反対側の扉が開いて、入室してきたのはワインレッドの燕尾服にマスケラを付けた怪人。IP序列元134位のプロモーター、魔人・蛭子影胤。

 

「パパ!!」

 

 小比奈の声色が先程までフェクダや小町を相手にしていた時からはあからさまに変わって、影胤に走り寄っていく。そんな娘の頭にぽんぽんと手を置くと、影胤はフェクダへと向き直った。

 

「お呼びでしょうか、我が三の王」

 

 シルクハットを取り、恭しく一礼する影胤。そんな部下にフェクダは手を振って「楽にして良いわ」と合図する。

 

「影胤、体の調子はどう?」

 

「ええ、アルコル様のメンテナンスと十分な休養を頂けたお陰でもうすっかり完調ですよ。いつでも戦えます」

 

「結構」

 

 フェクダは頷くと、小町の肩にそっと手を乗せた。

 

「影胤、小比奈ちゃん、そして小町……アルコルの研究……“CLAMP”の完成も間近だというこの時期に、ちょっと困った事態が起こったのよ」

 

 ぱちんと指を鳴らす。すると空間に数枚のホロディスプレイが出現した。そこにはステージⅣガストレア“アルデバラン”に関するデータや、無数のガストレアが統率された一軍のように一方向へ向けて動いている写真。東京エリア周辺の地図にガストレア群が赤い点として表示され、位置を示している画像などが表示されていた。ルイン・アリオトはふうんといった表情で、一方影胤は「ほう」と胸中の歓びを隠そうともしない声を出した。イニシエーター達はアルデバランの事を知らないので、怪訝な顔である。

 

「四番目(メグレズ)から連絡があったの。かつて双葉ちゃんの右腕だったステージⅣ、アルデバランが二千体のガストレアを率いて、東京エリアへと向かっているとね。この動きは、明らかに異常。だから、私が調査に行く事にしたわ。小町、影胤、小比奈ちゃんは私に同行して」

 

「初任務、謹んでお受けいたします。マスター・フェクダ」

 

「お望みとあらば、我が三の王」

 

「パパが行くなら。それに、延珠や綾耶にもまた会えそうだし。会いたいな♪ 斬りたいな♪」

 

 三人の仲間にそれぞれ視線を移した後、ルイン・フェクダは不敵な笑みを見せる。

 

「では、行くわよ三人とも。全ては、我等の新しき世界の為に」

 



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第21話 終わりの始まり

 

 蒸し暑い夜だった。気温も湿度も高くて、どんな事が起こっても不思議ではないような、そんな夜。

 

 東京エリア外周第40区、第32号モノリス付近に設営された自衛隊駐屯地に、銃声が鳴り響いていた。

 

「う、おぉぉああああっ!!」

 

 駐屯部隊所属の佐藤良房三曹は涙目になりながら訓練で叩き込まれた動作で銃を構え、眼前の怪物達に乱射していた。人の胸ほどもある巨大な昆虫。ステージⅠ、モデル・アント、蟻のガストレアである。ウィルスによる異常進化によって自然界では有り得ない巨体を獲得したその虫は、良房の同僚や先輩を貪っていた。

 

 雨霰の如く撃ち込まれる弾丸には、全てバラニウムの黒い弾頭が使われている。この金属が持つ再生阻害の効果は確かにガストレアに作用していた。ガストレアウィルスによって強化された昆虫特有の甲殻をしかし突き破って、有効打を与えていく。前にいた数体は、既に倒れて動かなくなった。

 

 弾が切れたが、頭が動揺して混乱していても何度も反復したその時間と訓練は良房を裏切らず、流れるような動作でマガジンを交換する。

 

 勝てる。

 

 そう思って視野が広がって、はっと気付いた。

 

 左も右も、振り向けば後ろまで、どこから現れたのか蟻のガストレアがひしめいていた。

 

 ガストレア化しても、集団で行動する蟻の性質は残っているらしい。最後の獲物のぐるりを囲んだ怪物蟻は、最後の獲物を仕留めるべく徐々に包囲の輪を狭めてくる。

 

 仲間の姿を求めて視線を動かす良房だったが、もうこの区画に人間は彼一人のようだった。人影は勿論、悲鳴も銃声も聞こえない。

 

 死ぬ。終わる。ありとあらゆる絶望的な単語が、良房の脳内を流れていく。

 

 こうなった時のシミュレーションは、何度も繰り返してきた。彼の妻子は、ガストレアに襲われてガストレアになった。同じ末路を辿るのは国防を担う身としてそれだけは出来ないし、してはいけない選択だった。

 

 手榴弾のピンを抜く。良房は最後に妻子の顔を思い浮かべて……

 

 そして彼の手に握られていた手榴弾が見えない手に持ち上げられていきなり空中に浮き上がって、遥か上空でパンと乾いた音を立てた。

 

「……な?」

 

 有り得ない事象に良房が呆けた声を上げて、ほぼ同時に真正面の彼に最も近いガストレアが飛び掛かってくる。

 

 万事休す。良房は目を固く瞑って、全身の筋肉を緊張させた。だが、いつになっても覚悟していた痛みは襲ってこない。

 

「……?」

 

 恐る恐る目を開くと、モデル・アントのガストレアは頭から尻尾まで巨大な刃物を叩き付けられたかのように真っ二つになって、地面に転がっていた。

 

 何が起きた?

 

 その答えは、すぐに分かった。

 

「良かった。生きててくれて」

 

 小さな、鈴のような声が聞こえてくる。反射的に良房が声のした方向、頭上へと視線を向けると。

 

 月を背に、小さな影が舞い降りてきていた。

 

 一枚の羽のように地面に降り立ち、良房を守るようにガストレア群に立ちはだかるのは、修道服の上から聖室護衛隊の外套を羽織った眼鏡の少女。彼女は、ちらりと自衛官を振り返った。ガストレアと同じ紅い光を宿した瞳が、良房に向けられる。

 

「遅れてしまったけど……あなただけでも助けられて、本当に良かったです」

 

「『翼のない天使(リップタイド)』……!!」

 

 畏敬の念が籠もっているような声で、良房は思わず呟いた。『翼のない天使』とはルイン・フェクダによるテロ事件から東京エリアを守り、先だっては暗殺者から聖天子を守り抜いた功績から与えられた二つ名だ。聖室護衛隊特別隊員・聖天子直轄のイニシエーター、将城綾耶。

 

 そんな綾耶の登場も、ガストレア共にとってはエサが一匹から二匹に増えただけの変化しかないようだった。ぞるっと、群れが一個の生物のように殺到する。

 

「あ、危な……っ!!」

 

 綾耶が妻子を殺したガストレアと同じ因子を持つ存在である事も忘れて、反射的に良房は叫んだ。

 

「大丈夫」

 

 綾耶はにっこりと笑って、そして振り向きざま横薙ぎに手を振る。その動作だけで彼女が振った腕の軌跡に存在していた数体の巨大蟻が切り裂かれて、残骸が地面に落ちた。

 

 空気の刃。モデル・エレファント、象の因子を持つ呪われた子供たちである綾耶の、象の鼻のように流体を吸い込む力を持った両腕へと大気を吸引し、超高圧を掛けて噴射する事によって生じる見えない刃物。昆虫型ガストレアの堅牢な外骨格をも紙切れのように裂いてしまう。

 

 五体、十体、十五体。

 

 まるで一時間構成の時代劇番組の45分ぐらいから始まる殺陣のシーンのように、当たるを幸いガストレアを屠り去っていく綾耶の動きは、さながら舞。美しささえ感じられる、流麗なる闘技。

 

 あっという間に百体は居たモデル・アントは、半分ほどにまで数を減らしていた。

 

 これほどまでの圧倒的戦力差を見せ付けられても、ガストレアは撤退の気配を見せなかった。しかしひとまずは良房を狙う事を諦めたようで、残り50体全てが綾耶一人に全方位から襲い掛かる。

 

「まずいーーっ!!」

 

 良房が叫ぶ。綾耶は確かに恐るべき攻撃力を持つが、しかしいくら彼女が操る見えない刃の威力を持ってしても、それはたった二本の線の攻撃。四方から面で襲い掛かるガストレア達には対処出来ない。

 

 と、思われたが。

 

「大丈夫ですよ」

 

 不安など欠片ほどにも感じさせない安心しきった声で、綾耶が答える。

 

 瞬間、襲ってくる轟音と衝撃。雷が落ちた。

 

 電光に打たれたモデル・アント共は、その殆どが一瞬で黒コゲになって動きを止めていた。当然、即死である。

 

「な、何が……!!」

 

 有り得ない。雨の日なら奇跡的に雷が落ちる事もあるだろうが、今日の天気は雨どころか雲一つ無い晴れ。空には月が美しく輝いていると言うのに。

 

「余計な事をしたかしら?」

 

 再び、頭上から声が聞こえる。そこには一人の少女が座るような姿勢で地上から5メートルほどの空中に静止していた。蒼い髪をボリュームのあるポニーテールに纏めていて、紅い目からイニシエーターであると分かる、彼女もまた綾耶と同じで聖室護衛隊の外套を纏っていた。元序列11位『星を統べる雷帝(マスターオブライトニング)』ソニア・ライアン。一属一種の電撃生物・デンキウナギの因子を持つ呪われた子供たちであり、その気になれば地球すらも意のままに操る最強のイニシエーター。

 

「いや、助かりました。ありがとう」

 

「ん」

 

 笑って返す綾耶に、ソニアもくすりと微笑して応じる。

 

「さて、自衛官さん。ここは危険です。ひとまず僕達と一緒に……」

 

 綾耶はそう言いながら、尻餅付いた良房に近付く。しかしこの時、良房はちょうど綾耶の背後で折り重なったガストレアの死体の山が動くのを見ていた。もぞっと、仲間の死体を押し退けるようにして一体のモデル・アントが姿を現す。たまたま仲間の死体が盾になって、ソニアが発生させた雷の直撃を免れていたのだろう。

 

 良房に近付く綾耶の歩き方は全くの無防備で、空中に座っているソニアもまだ気付いていないようだ。生き残ったモデル・アントは無傷ではないようだが、しかしそれでも尚、殺戮の本能のまま綾耶へと襲い掛かる。

 

「後ろだ!! 逃げ……」

 

「大丈夫ですって」

 

 少し呆れたように苦笑して、綾耶はこれで3回目になるその台詞を繰り返した。

 

 そしてモデル・アントの最後の生き残りは、頭をザクロのように爆ぜさせた。胴体が頼りなく動いて、数秒後に崩れ落ちた。

 

「ご苦労様、ティナ」

 

<……はい。綾耶さんやお姉さんなら何の危険も無かったと思いますが、一応>

 

 最後のガストレアを仕留めたのは、元序列98位『黒い風(サイレントキラー)』ティナ・スプラウトによる超遠距離射撃。梟の因子を持つ呪われた子供たちであり、今は綾耶やソニアと同じく聖室護衛隊特別隊員の一人。夜間の狙撃こそ彼女の独壇場。この程度の芸当は造作もない。

 

 これで、今度こそこの第40区駐屯地に攻め込んできたガストレアの殲滅は完了した。周囲の空気の流れを知覚する綾耶の両腕も、微弱電流によるソニアのレーダーも、ティナのシェンフィールドも、周囲に敵影を捉えてはいない。綾耶はふうと大きく息を吐いた。

 

「……それにしても、急にこんな数のガストレアが侵入してくるなんて……」

 

 百を数えるガストレアの死体を見渡しながら、信じられないという表情で眼鏡を掛け直す。ここがモノリスとモノリスの隙間ならばまだ話も分かるが、実際にはここはモノリスの直近地帯。体内にガストレアウィルスを保菌しているだけの綾耶ですら、微妙な頭痛や吐き気を感じる。ましてや通常のガストレアならば侵入出来ても数時間で衰弱死する筈なのに。

 

「ソニアさんが気付かなかったら、危なかったかもですね」

 

「私も最初は信じられなかったけどね。モノリスの近くにガストレアの生体磁場が100も出現したんだから」

 

 ガストレアも含め、あらゆる生物は生きている限り体のどこかの筋肉を動かしており、そこには微弱な電流が発生して周囲には磁場が生まれる。自らも電気を操るソニアは磁気にも敏感であり、センサーのようにこれを捉える事が出来るのだ。更に彼女は訓練により、生体磁場の微妙な違いから個体の識別までも可能とする境地にまで達している。

 

 ほんの一時間前、この力で異常を察知したソニアはすぐさまそれを綾耶に伝え、その情報はそのまま聖天子にも伝わった。東京エリア国家元首は万一の事態に備えて自衛隊の応援部隊に出撃命令を出すと同時に、綾耶、ソニア、ティナの3名を先行させたのだ。綾耶はすぐさま二人を自分の体に掴まらせて、エリアの空を駆けた。結果から言えば聖天子のこの判断に意味は、あった。

 

「き、君達……」

 

 何とか立ち上がった良房へと、綾耶と地上に降り立ったソニア、それに追い付いてきたティナの視線が集まる。

 

「……ありがとう。来てくれて」

 

 礼の言葉を受け、3名のイニシエーターはそれぞれ頷いたり微笑んだりして返した。

 

 聖天子の判断に意味はあった。一人、助けられた。

 

「でも……本当にこのガストレア達はどうしてここに入ってきたんでしょう?」

 

 綾耶と同じ疑問は、ティナも抱いていた。仮に綾耶達が来なくて駐屯部隊を全滅させられたとしても、その後どうするつもりだったのだろう。これほどモノリスに接近していては、安全圏に逃げるよりも磁場の影響で死ぬ方がずっと早いだろうに。

 

「……その答えが、分かるかも知れないわよ」

 

 ソニアはそっと手を上げると磁力を使って、死んだ自衛隊員の手に握られていたデジタルカメラを引き寄せた。画面に付着した血を袖で拭うと、電源スイッチを入れる。綾耶とティナは肩越しにカメラを覗き込む形になった。そこには……!!

 

 

 

 

 

 

 

「では、侵入してきたガストレアは全滅させたのですね?」

 

<はい、全てステージⅠのモデル・アントでした>

 

 聖居地下シェルター内の司令室では閣僚と天童菊之丞、そして聖天子が勢揃いしていた。正面の大型モニターには、綾耶の顔が大映しになっている。これは40区の駐屯地に残されていた機材を使っての映像通信だ。あの後綾耶は、すぐさま事態の報告を行っていた。

 

 自衛隊を出動させる手間が省けた事と、たとえ呪われた子供たちの手によるものであろうとガストレア群を掃討して感染爆発(パンデミック)を回避できた事には、司令室に集まった全員が安堵の顔を見せる。

 

<ですがボク、あ、いや私達が倒したステージⅠの他に、大型のガストレアが来ていたみたいです。私達が来た時には既に立ち去っていたみたいですが……>

 

 ざわっと閣僚達にどよめきが走って、聖天子がそれを制した。

 

「綾耶、どのようなガストレアかは分かりますか?」

 

<殺された自衛官の人がカメラで撮影していた画像があります。それをこれから送信します>

 

 そう言って綾耶の姿がモニターの枠外へと移動する。

 

<……えっと、これどうするんだっけ?>

 

<ああ、違うわよ。この画像を選んで……ああもう、ティナ頼むわ>

 

<分かりました、これはこうして……>

 

 まるでホームビデオの撮影でもしているかのようなやり取りが画面外から聞こえてきて、しばらくすると画像が切り替わって不鮮明でフラッシュも焚かれていないが、しかしそれでも一目見てステージⅣクラスであると分かる巨大なガストレアが、モノリスに取り付いている画像が表示された。

 

 すぐに菊之丞の指示を受けた分析班によって画像の鮮明化が進められ、巨大ガストレアの全体像がはっきり分かるようになる。

 

 先程のざわめきの比ではない動揺した声が上がって、聖天子の瞳も大きく見開かれる。

 

「バラニウム侵食能力を持つガストレア……ステージⅣ・アルデバラン……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 一夜明け、第39区の将城教会。呪われた子供たちの為の学校として使用されているこの建物の礼拝堂では、蓮太郎と木更が緊張した面持ちでホワイトボードの前に立っていた。

 

「ほら、里見先生頑張って」

 

 茶化すようにくすくす笑うのは松崎老人と共に子供たちを教えている女性教師・琉生だ。彼女と松崎の頼みで、蓮太郎と木更は土日だけ子供たちの教師役を引き受ける事になったのだ。

 

「えー、今日からお前達の先生をやる事になった里見蓮太郎だ。趣味は昆虫観察、植物採取、微生物とかも好きだ。……一応、格闘技とかも出来る。何か、質問あるか?」

 

「「「はいはいはーい!!」」」

 

 途端にクラス全員が挙手して、蓮太郎は質問攻めに遭う。

 

「先生は延珠ちゃんと結婚を前提に同棲しているって本当ですか?」

 

「本当だぞ♪」

 

「延珠、話がややこしくなるから黙ってろ!! そんな訳ねぇだろ、こいつは只の居候だよ!!」

 

 続いて木更が自己紹介から質問タイムへと移行するが、全く同じ流れになった。

 

「木更先生は、おっぱいでかすぎて足下見えないって本当ですか?」

 

「え、ええっ!?」

 

「木更先生は里見先生と付き合ってるんですか? 結婚するんですか?」

 

 この質問を受けた木更の顔がかあっと赤くなって、思わず教壇をばんと叩きつつ、

 

「付き合ってません!! 結婚もしません!!」

 

 この宣言を受けて、言質を取った延珠は「っし!!」とガッツポーズ。隣に座る夏世は「私にもワンチャンスが……」などと呟いている。

 

「木更先生、先生が着ている制服って美和女学院のものですか?」

 

「ええそうよ。良く知ってるわね」

 

「じゃあ、聖天子様って知ってますか?」

 

「そうね。聖天子様もミワ女に在籍なさっているわ。と言っても、政務が忙しくてまだ一度も登校された事が無いのよ」

 

 子供たちから感嘆の声が上がる。

 

「あややお姉ちゃんは聖天子様のイニシエーターなんですよね!!」

 

「延珠ちゃんは、聖天子様って知ってる?」

 

「聖天子様とは、あんな奴だぞ」

 

 延珠が立ち上がって指差す先へと、「何をバカな」という顔の蓮太郎が視線を動かす。

 

 開け放たれた礼拝堂の入り口からウェディングドレスのような白い礼装に身を包んだ絶世の美女が、花嫁のように入ってきていた。新郎の姿は無いが、その傍らには小柄な体格に合うように改造が施された聖室護衛隊の外套を羽織った3人の少女、綾耶・ソニア・ティナを連れている。彼女達の姿を認めて、少女達はわっという歓声と共に一斉に立ち上がった。

 

「「「あややお姉ちゃん!! お帰りなさい!!」」」

 

「みんなも元気そうで何よりだよ。でも、残念だけど今日はゆっくりとはしてられないんだ」

 

 子供たちの相手をしながら、綾耶は主を見る。

 

「ごきげんよう、皆さん。勉強は楽しいですか?」

 

 聖天子は優しい笑みと共に、子供たちへと手を振って応じた。

 

 国家元首のすぐ後ろに控えていたソニアは、気付かれないように礼拝堂の中の二人へと視線を動かす。

 

 一人は琉生こと、“七星の七”ルイン・ベネトナーシュ。もう一人は“七星の一”ルイン・ドゥベのイニシエーター、モデル・ウルヴァリンのエックス。“ルイン”の関係者であるこの二人ならば、色々と知っているだろうと見ての事だった。それを肯定するように、琉生は不自然でない程度に頷いてみせる。

 

 そんなやり取りが交わされている事には、流石にこの場の誰も気付かなかった。そうして聖天子が、蓮太郎と木更に向き直る。

 

「里見さん、天童社長。国家の存亡に関わる緊急事態です。あなた達にお願いがあります」

 

 

 

 

 

 

 

「くそっ!!」

 

 リムジンのふかふかの座席に身を沈める天童和光は、苛立ちと共にスコッチをぐいっと煽った。彼はこうして過ごすのが好きだった。彼に言わせればこれは国土交通省副大臣という責任ある仕事に伴う当然の余録の一つだった。そして彼は彼の基準で必要と思う分だけ(実際には相当な頻度で)この余録を享受していた。

 

 32号モノリスにバラニウム侵食能力を持つアルデバランが取り付いたという情報は、モノリス工事の発注を行った一派の長である彼にも独自のルートで届けられていた。

 

 きりきりと、胃が痛む。彼自身ですら忘れていた古傷が痛み出した。

 

 アルデバランは32号モノリスに取り付き、バラニウム侵食液を注入しているとの事だったが、何故に32号モノリスが狙われたのか? 単純に何十分の一かの確率による偶然なのか? アルデバランは何か、他のステージⅣには無い特殊な能力を備えているのか? 何らかの地理的な条件によるものなのか?

 

 答えは否。その理由を、和光は知っていた。それは、四十にもならぬ若さで国交省の副大臣にまで上り詰めた彼の政治家生命を一瞬でぶっ飛ばす爆弾だった。当然、彼はその危険性を十分に知っていたから、あらゆる証拠は闇に葬った筈だった。

 

 だから、仮に何かがあっても真実が露見する事は無い。

 

 和光は自分が悪人であると自覚していたし、政治家である以上「悪」は切り離せないものだとある意味開き直っている。それでも、大絶滅が起こってこのエリアの何百万という住民が死ぬかガストレア化するという事実を突き付けられては、そしてその原因を作ったのが自分である事を自覚していては平常心ではいられない。人間は他人が相手ならばいくらでも騙せるし、真実を隠す事も出来る。だが、どんなに優れた謀略家も策士も、自分だけは騙せないし隠し事も出来ないのだ。

 

 グラスにスコッチのおかわりを注ぐと和光はそれを半分ほど煽って、そして頭脳を回転させる。

 

『落ち着け、証拠は全て消した。確かに32号モノリス工事を発注したのは私達の一派だが、辿り着く者が居たとしてもそこまでだ。そうだ、それにガストレアが進化して、バラニウム磁場を無力化するような能力を獲得した可能性だってあるじゃないか。寧ろその可能性を先に考える人間が殆どの筈だ。それに私ほどの立場の人間を、確かな証拠も無しに逮捕する事など出来る訳がない。大丈夫、大丈夫だ』

 

 心中で自分に言い聞かせて、精神の平衡を取り戻そうとする。

 

 実際、彼の思考は的を射ている。

 

 立場や権力を持たない一般人であれば、別件逮捕や適当な罪状で引っ張る事も出来るだろうが、彼は国土交通省の副大臣で天童の一族。軽々に逮捕してそれが誤認であったのなら、それこそ大問題となる。そうしたリスクを考慮すれば、警察であろうと証拠を掴まなければ動けない。

 

 それは、確かにそうなのだが……しかし和光は、一つの事を失念していた。

 

 確実な証拠を掴まねばならない、つまり手段を選ぶ必要があるのは、警察のような公的機関の者に限った話なのだ。

 

 和光はちらっと外を見る。

 

 流れていく景色は見覚えのないものだった。確か今日はこれから、第1区の料亭で上役との会食に出席する予定なのに。

 

「おい、どこを走っているんだ?」

 

 和光は対面の席に座っている秘書の椎名かずみを見て、そして表情を凍り付かせた。

 

 かずみが、変わっていく。

 

 顔の、いや全身の骨格が歪んで変形し、髪は伸びて色素が抜け、着衣すらも皺一つ無いスーツからゆったりとした白い衣へと変化する。

 

 数秒して、それまでかずみが座っていたそこに白い女が現れた。

 

 白い女は、妖艶な笑みを見せる。

 

 和光はここで漸く、事態を認識した。彼は当然、この女の顔を知っている。

 

 ルイン・フェクダ。蛭子影胤・小比奈ペアを従えて『七星の遺産』を強奪し、東京エリアに大絶滅を引き起こそうとした第一級指名手配のテロリスト。

 

 反射的にドアへと手を伸ばしてリムジンから脱出しようとする和光だったが、フェクダの方が早かった。鳩尾に前蹴りを入れられて、和光は一瞬呼吸が止まる。

 

「運転手、助けてくれ!! 車を止めろ!!」

 

 車内の限られた空間の中で和光は必死にフェクダから距離を取りつつ、前座席へと体を乗り出した。

 

「あまり揺らさないでいただきたいですな。右ハンドルの車を動かすのは久し振りなので、まだ感覚が掴めていないのですよ」

 

 運転席に座っていたのはワインレッドの燕尾服を着た、仮面の男だった。IP序列元134位、新人類創造計画の生き残りである機械化兵士・蛭子影胤。

 

 さあっと、和光は自分の体から血の気が引いていくのが分かった。

 

 次の瞬間、スーツの襟首をぐいっと引かれて、和光は反対側のシートへと叩き付けられた。同時に、フェクダの蹴りが顔面を襲った。二度、三度、そして五度目の蹴りが喉に入った所で、和光は意識を手放した。これは彼にとっては幸運であった。

 

 だがこの数時間後、彼は意識を取り戻したのを悔やむ事になる。

 



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第22話 世界を変える劇薬

 

 聖居、東京エリア国家元首たる聖天子の私室。ここに立ち入れる者は限られている。今は部屋の主である聖天子と、執務机に向かう彼女のすぐ後ろに3人の呪われた子供たちが控えていた。直轄のイニシエーターである綾耶と、聖室護衛隊の特別隊員であるソニアとティナ。彼女達は今回、聖天子から立ち入りを許されていた。

 

 呪われた子供たちを私室にまで入れるのに天童菊之丞は流石に難色を示したが、そこは聖天子が「今回の国難を乗り切る為にどうしても必要な事なのです」の一点張りで通したらしい。

 

 聖天子が向かう机の上には一台のノートパソコンが置かれていて、画面上には室戸菫が映っている。これはリアルタイムでの映像通信で、最高度のセキュリティが施されていて盗聴等の心配はまず無い。こんなものを使いその上綾耶達以外の人払いまでするとは余程聞かれては拙い話でもするのであろうかと、綾耶は何か心臓の辺りがむず痒くなるような違和感を覚えていた。ドラマとかで良く見る、喫茶店に呼び出されて男の方が「少し話が長くなるかも」とケーキを注文するのを見ている別れ話を切り出される女性はこんな気分なのだろうかと、取り留めもない思考が頭をよぎった。

 

<……これが、ソニアちゃんのウィルス体内侵食率です>

 

 苦り切った顔の菫がそう言うと映像が切り替わって、履歴書のようにバストアップになったソニアの写真と身長体重血液型などの各データがびっしりと記載された画面が大映しになる。

 

「っ……!!」

 

「そんな……!!」

 

 背伸びして後ろから画面を覗き込んでいた綾耶は顔から一気に血の気を引かせて、ティナは顔を青くして口元に手を当てた。

 

 

 

 ソニア・ライアン、ガストレアウィルスによる体内侵食率46.8%。

 

 形象崩壊予測値まで残り、3.2%。

 

 担当医コメント:超々危険域。今後、戦闘行為は絶対に避けるべき。万一戦闘を行わせる場合にはガストレア化を防止する為の『介錯要員』となるプロモーターまたはイニシエーターの随行を絶対の条件として行う事。

 

 

 

 数日前に、このイニシエーター3名は菫の元へ行って侵食率の検査を受けている。その時に告げられた体内侵食率は綾耶が30.4%でティナが26.6%だった。ソニアだけはその場では侵食率の告知が行われなかった。その時菫は「私もゾーンに到達したイニシエーターを診るのは初めてだから色々と詳しく調べたいんだ」と言っていた。それも嘘ではなかったのであろうが……だがあの時気付くべきだった。もっと別の理由があったのだと。

 

 迂闊にこの事実をソニアに伝えて自暴自棄でも起こされた日には、何が起こるか分からない。下手をすればアルデバランのバラニウム侵食液による32号モノリスの磁場発生能力喪失を待たずして、東京エリアが滅ぶかも……想像したくもないが、そうなったらとても菫には責任を取れない。

 

 だが伝えない訳にも行かない。ソニアがこの数値を知らずに能力を濫用していたら、ある日突然東京エリアのど真ん中にゾーンに到達したイニシエーターが変じたガストレアが出現するという事態だって起こり得る。だからこそこの場で、聖天子・綾耶・ティナを交えての告知という流れになったのだろう。

 

「そう、ですか……」

 

<コメント欄にも書いてありますが、もうソニアちゃんはいつガストレア化しても不思議ではない状態です。これ以上、彼女を戦わせる事は絶対に避けるべきです>

 

 死刑宣告を突き付けられているようなものだが、ソニア当人は至って落ち着いたものだった。あるいは、彼女自身この告知を未だ現実味のある出来事として受け止められていないのか。

 

「……仮に、護衛を付けるなどして負傷する危険を可能な限り減らしたとして……ソニアさんは後何度の戦闘に耐えられますか?」

 

「聖天子様!!」

 

 主のこの物言いには、流石に綾耶も咎めるように大きな声を出した。まるでソニアを只の備品、消費される銃弾としてしか見ていないようで……

 

 だがこれは国家元首としての責務を全うする上で、聖天子が確認しておかねばならない事でもあった。

 

 仮にソニアのウィルス侵食率が50%を超過して彼女を殺処分する事態になったとしてもそれは究極的には1人の死、エリア全体の人口比で見れば何百万分の一でしかない。だが今はモノリスが倒壊してその”穴”からアルデバランに率いられた2000体のガストレアが雪崩れ込んできて東京エリアの住民全てが死ぬ、もしくはガストレア化するかどうかという瀬戸際だ。

 

 IP序列元11位にして天秤宮(リブラ)を倒したイニシエーターであるソニアはその未来を変える事の出来る最大のファクターであり最強の切り札だ。使わないという選択肢は有り得ない。ならばその超絶の力を彼女が後何度振るう事が出来るのか、聖天子は把握しておかねばならなかった。

 

 この問いは菫にとっても難しいものだったらしい。四賢人の一人は即答を控えて、数分も黙考した後にやっと口を開いた。

 

「後……三度ですね。それ以上は私も保証できません」

 

「そう……ですか」

 

 瞑目した聖天子が顔を伏せて、悲痛な表情になったティナの目には涙が滲む。

 

「お姉さん……お姉さんがそんな事になってるなんて……私……」

 

 ソニアの侵食率が高くなっているのは、自分のせいだとティナは思っていた。外周区で寒さに震えていた時から、ソニアにはずっと助けてもらっていた。ソニアは自分の為に機械化兵士にまでなって、そうまでして真っ当な生き方をさせようとしてくれていたのに、自分はその気持ちを裏切ってイニシエーターの暗殺者に身をやつしてしまって……いたたまれない気分になってきた。どこで、ボタンを掛け違えてしまったのか。どこで、道を誤ってしまったのだろうかと。

 

 そんなティナの頭にソニアは手を乗せると、わしゃわしゃと乱暴に撫でた。

 

「良いのよ。私が自分で決めて選んだ事だから」

 

 力強く、ソニアは笑ってみせる。そのまま手をティナの後頭部に回すとぐいっと掻き寄せて、ちょうど自分の胸にティナの顔をうずめさせた。そこが、限界だった。ここが聖天子の私室である事も忘れて、ティナは声を上げて泣いた。ソニアは何も言わずティナの背中に手を回して、悪夢を見た妹を安心させるようにゆっくりと撫でてやっていた。ティナが落ち着くまで、ずっと。

 

「室戸先生、何とかならないんですか?」

 

 綾耶とて非正規ながらイニシエーターとして、侵食率が限界を迎えた呪われた子供たちを見送った経験はある。その都度己の無力さに歯噛みした。だから無駄だとは承知していたが……それでも、聞かずにはいられなかった。何か方法は無いのかと。だが画面の中の神医は、首を横に振るだけだった。

 

 これは分かっていた事だったが……しかし綾耶には、まだ食い下がる材料があった。

 

「室戸先生……ガストレアウィルスの適合因子って、あると思いますか?」

 

 聖天子と菫が眉をぴくりと動かして、ソニアの表情が僅かに変わる。

 

「僕は『七星の遺産』争奪戦の時、ルインさんから聞いたんです。ルインさんはガストレアウィルスの適合因子を持っていて、それは他の呪われた子供たちにも移植できるって……それがあれば、侵食率の上昇に怯える事は無いって……」

 

 綾耶の言葉を受け、菫は腕組みして難しい顔になる。

 

<それは……存在しないと決めつける事は出来ないね。神様が存在する事を証明できる客観的証拠があまりにも乏しいから、意見を保留しているのと一緒だ>

 

「でも……」

 

<そう、“でも”だな。あのルイン・フェクダはどう見ても二十代前半の成人女性。呪われた子供たちは最年長の者でも10歳だから、少なくとも彼女は呪われた子供たちとは別の過程を辿ってあの力を手に入れた事だけは確実だ。だからもしかしたら本当にウィルス適合因子なんて物が存在するのかも知れない>

 

 そう言うと、菫は座り直す。ぎしっと、腰掛けていた椅子の背もたれが軋んだ。

 

<……と言うか、確かにガストレアが人類の敵である事は事実だが、呪われた子供たちの超人的な身体能力や再生能力には注目が集まっていて、君達が持つ抑制因子を応用して、完全な抑制剤を製造してウィルスをコントロール出来ないかという研究は、今も世界のあらゆる国で進んでいるんだ。それこそ、最初の呪われた子供たちが生まれたその時から>

 

「……そう、なんですか?」

 

「その通りです、綾耶。確かに奪われた世代が持つガストレアへの憎しみは計り知れないものがありますが……同時にあなた達が持つ能力は、それを差し引いても余りあるほどに魅力的なのです。しかし今の所、呪われた子供たちは自然にしか生まれてきません。人為的に手を加える事が出来るのは、精々が人工授精を行った胎児に任意のモデルのガストレアウィルスを注入して、生まれてくる子どもが持つ特殊能力をある程度決めるぐらいまでです」

 

 綾耶の疑問には、聖天子が答えた。パソコンモニターの中で、菫も頷く。それが現在の技術の限界点でもある。そうして生まれた子供が戦えるようになるにはどんなに早くとも6、7年の時を待たねばならないし、その子には一から訓練を施さなくてはならない。しかも侵食率の枷があるから、そこまで時間と手間を掛けて調達した戦力はいつガストレア化するか分からない諸刃の剣でもある。

 

<だが、もし、もしもだ。ガストレアウィルスの侵食を完全に抑える事が出来るなら? 適合因子の移植にせよ完全な抑制剤なりワクチンの開発にせよ、ウィルスをコントロールし、対象となる人間の体内で共存させる方法が見付かったのなら……>

 

「……どうなるんです?」

 

 綾耶は、思わず唾を呑んだ。

 

<……まず、第一線でガストレアと戦う民警ペアの死亡率が大幅に下がるだろうな。ウィルスを注入されても、ガストレア化しないで済むのだから。同じ理由でガストレアに襲われてガストレア化してしまう感染者の数も、劇的に減るだろう。だがそれ以上に大きな変化を見せるのが……>

 

「各国の軍隊ですね。室戸医師」

 

 聖天子の言葉に、菫が頷く。

 

「……と、言うと?」

 

「簡単な事です、綾耶。あなた達が持つ身体能力や再生能力は、体内に保菌するガストレアウィルスがもたらすもの。幼い女の子であるあなた達ですら、人の領域を遥かに超えた力を発揮できるのです。もし、訓練を受けた屈強な成人男性に同じ処置が行えたのなら? ……これは机上の空論でしかありませんが、仮に人間の子供と大人の比率で身体能力が変化するのだとしたら……その時は戦争に火薬や飛行機が投入された時以上の兵器革命……いえ、『兵士革命』が起きるでしょう」

 

<呪われた子供たちの平均レベルまでの身体能力・再生能力しか身に付かなかったとしてもその時点で十分驚異的だし、この場合イニシエーターとの最大の相違点は生まれてくる、育つ、訓練するといったプロセスを踏まねばならないイニシエーターに対して、既に訓練された成人に処置を行うだけで済むという点だ。超人を迅速に、しかも安定して“生産”できる>

 

 話を聞いている内に綾耶は知らずに頬に伝っていた汗を拭った。彼女自身はルインが持っている適合因子とそれを移植する技術が手に入ればソニアも含め大勢の人が助かるぐらいにしか考えていなかったが、話を聞いていると段々事のヤバさが分かってきた。(フェクダの話が本当だという前提の上だが)ルインが持つ技術がもたらす影響は思いの外大きいらしい。

 

 だが考えてみればそれも当然かも知れない。ただでさえ、トップクラスのイニシエーターは単身で世界の軍事バランスを左右するほどに強力とされている。もし、一国の軍人全てが”同じ”になれば? いくら兵器が進歩しても、歩兵が果たす役割は依然として大きい。超人軍隊を持った国は他国よりも圧倒的に優位に立てる。

 

<それだけではない。完全にコントロール出来るのなら、ガストレアウィルスの再生能力は医療面で無限大の応用を可能にする。そうなればどれだけの命が救えて、どれだけ莫大な利益を生む事になるのか……私にはちょっと想像も付かないね>

 

 肩を竦めて、菫が嗤った。

 

「……勿論、何度も言っているようにこれらは今の所全てが机上の空論。現時点ではどの国も完全な抑制剤の開発も出来ていなければ、適合因子も発見していません」

 

「でも、もし……」

 

 それが見付かったのなら? そして他者にそれを移植する技術が確立されたのなら?

 

 綾耶の言いたい事を察して、菫が回答する。

 

<その時は、人類の歴史そのものが根底から覆されるだろうね>

 

 

 

 

 

 

 

「うう……」

 

 天童和光が意識を取り戻して初めて感じたのは、酷い頭痛だった。息をする毎に、がんがんとした感覚が頭に響く。

 

 ぼんやりしていた視界がようやくクリアになってきて、周りを見渡してみる。案の定と言うべきか、周囲の物には何一つとして見覚えは無かった。それほど広くもない部屋で、観葉植物や写真といったインテリアは何処にもない。床も壁も天井も一様に真っ白いタイルが敷き詰められていて、窓は一つもない。白い色が光を反射して、天井の照明以上に部屋の中を明るく見せていた。

 

 手足が自分の思い通りに動かないのに気付いて顔を下げると、両手と両足と胴体を縛られて椅子に固定されているのが分かった。

 

 服を見てみると、スーツが乱れてネクタイも緩んではいるがまだあった。強盗にでも遭ったのかと思ったが、財布はきちんといつも入れているポケットに在るのが感覚で分かったし、気を失う前にはもっと恐ろしい思いをしたような気がする。

 

 ……と、そこまで頭が回転した所で、急速に記憶が蘇ってきた。

 

 リムジンの中で秘書がいきなり別人に変身したのだ。いやあれは、“何者か”が椎名かずみに化けていたというのが適切だろう。化けていたのは以前に資料で見たルイン・フェクダという女だった。あの女に顔を何度も蹴られて、そして気を失ったのだ。

 

「く、くそっ」

 

 手足の戒めを何とか解こうと躍起になったが、びくともしなかった。

 

 5分ほどもそうして彼は漸く諦めると、考え方を変えた。

 

 意識を失っていたのだから、その間に自分を殺そうとするのならいくらでも出来た筈だ。それをせずにこうして拘束するに留めているという事は、少なくともまだ何か自分に用があるという事だ。例えば何か聞きたい事があるとか。ならば必ずコンタクトを取ってくる。その時の交渉や提示する条件次第では、解放してくれるかも知れない。

 

 ……などと、未来に希望を持ってはいたがこうして自分を取り巻く環境を見ると、そんな淡い希望願望など簡単にすっ飛んでしまいそうだ。

 

 意識を失う前には想像もしなかったこの事態を受けて、和光は一気に十年も老け込んだようだった。

 

 すると部屋にたった一つしかないドアが開いて和光はそちらを見て、顔つきがまた五年分は老けたようだった。

 

 入ってきたのはルイン・フェクダとイニシエーターとおぼしき一人の少女。そしてもう一人、白衣を着たルインだった。イニシエーターは兎も角として自分にとって悪夢が具現化したような存在がしかも二人して現れたのだ。和光の髪は白くなり始めていた。

 

「お、お前達は何者だ? 何故私をさらった? かずみはどうした?」

 

 それでも精一杯自分を奮い立たせて、和光はそう問い質した。

 

 白衣を着ていない方の、ルイン・フェクダがその質問に答えた。

 

「国土交通省副大臣、天童和光殿。私達は“ルイン”。あなたに来てもらったのは、聞きたい事があったからよ。残念ながら私達ではアポを取るのは無理だろうし。秘書の椎名かずみ女史は、今頃は高級ホテルの保養施設でのんびり過ごしているわ。私があなたになって、一週間の特別休暇を与えておいたから」

 

 ルイン・フェクダはそう言って腕を、顔を横切るように動かした。すると彼女の美貌は、いきなり和光の顔に変化した。

 

「なっ……!!」

 

 和光は息を呑む。リムジンの中で、かずみに化けていたのと同じ変身能力だ。この力があれば和光に化けてかずみに休暇を与え、空いた穴に自分が成り代わるような事など容易であったろう。今にして思えば、ここ数日間のかずみはどこか様子がおかしかった気がする。あれはいくら姿形が同じでも、中身が別人であったが故なのだろう。

 

 ルイン・フェクダはもう一度腕を自分の顔を横切るように動かすと、顔を和光のものから普段通りの美女へと戻した。

 

「そ、そうだ。聞きたい事があったと言ったな?」

 

 どもりながらも、しかしそれを思い出した和光は少しだけ安心した。

 

 聞きたい事があったという事は、少なくともそれを聞くまでは自分に死んで貰っては困るという事だ。ならばそこを衝いて、条件を出せば上手くすれば……

 

「まぁ、それはもう終わったけどね」

 

 白衣を着た方のルインが、そんな淡い、もしくは虫の良い希望を粉々に粉砕した。

 

「お、お前は……」

 

「私はルイン・アルコル。聞きたい事は既に全て、聞かせてもらったわ」

 

「そ、そんな……嘘だ!! 私にそんな覚えは……」

 

 命綱が断ち切られた事を認めたくなくて、和光が喚いた。だが二人のルインは少しも取り乱さない。

 

「あなたの意思や同意なんて必要無いのよ。それに関わらず口を割らせる事ぐらい、私達には容易いの」

 

「じ、自白剤か?」

 

 そう言われて、ルイン・アルコルは少し困った顔になった。

 

「勿論、それを使う手もあるけど……でも自白剤って薬にもよるけど、あくまで意識を朦朧とさせて黙秘を困難にさせるって以上の効果は期待できないのよね。それよりももっと確実な手段があるのよ」

 

 アルコルはそう言って、すぐ後ろにいたイニシエーターの肩に手を置いた。

 

「この子の名前はステラ・グリームシャイン。私のイニシエーターでモデル・マッシュルーム、キノコの因子を持つ呪われた子供たち。この子は虫の体内に寄生する冬虫夏草のように自分の肉体の一部を他人に寄生させて、その宿主を操る事が出来るの。この力で、あなたから確実な自白を取ったのよ」

 

「バ、バカな。そんな事が……」

 

 尚も否定しようとする和光だが、すかさずルイン・フェクダが懐からスマートフォンを取り出して、記録されていた動画を再生した。

 

<……そうだ、私の指示でバラニウムに混ぜ物をして、モノリスの総工費を安く抑えた。浮いた金は懐に入れて、上役への接待費に充てた>

 

 そこに映っていたのは目は虚ろで口調も棒読み気味だったが、確かに和光本人だった。和光の顔が、青を通り越してコピー用紙のように白くなる。もしこの動画がネットワークに流されでもしたら、その時点で彼の政治家生命は絶たれる……どころか、実刑判決を受けて刑務所行きは免れない。

 

「不純物が混じったモノリスは他の物よりも磁場発生能力が落ちる。当然ね、バラニウムの量が少ないのだから。ならばゾディアックでなくとも、強力な一部のステージⅣであれば、弱体化した磁場を押し切ってモノリスに取り付く事も、不可能ではないかも知れない。アルデバランのような、強力なガストレアなら」

 

「り、理論上はあの純度でも大丈夫だったんだ。現にこの十年間、32号モノリスは破られなかった!! だ、大体お前達はゾディアックを呼び出して大絶滅を起こそうとしていたテロリストだろう!! そんなお前達には関係無い事だろうが!! む、むしろ願ったり叶ったりじゃないのか?」

 

 唾を飛ばしながら和光は喚き散らすが、もうルイン達は彼の言葉など聞いていなかった。

 

「私の用は、もう済んだわ。後はアルコル、あなたの好きにして良いわよ」

 

 動画の再生を止め、スマートフォンを懐に入れたフェクダは和光から興味を無くしたようだった。そのまま退室していく。

 

 残ったアルコルは、にっこりと和光に笑いかける。本当に穏やかな笑みだったが、しかし和光は背中に氷柱を入れられた気分になった。

 

「突然だけど天童和光、あなたは神様を信じてる? ん?」

 

 すっと差し出されたアルコルの指が、汗でびっしょりと濡れている和光の頬を撫でた。

 

「か、神だと?」

 

「そう。神をも恐れぬ行為って言葉があるけど……まぁ、今のあなたが何かを恐れているのは間違いないようね」

 

 北斗七星の脇に輝く星のコードネームを持つ女科学者はくすくす笑いながら、しかし目だけはじっと和光から逸らさずに睨み続けている。

 

「でも、神を恐れる必要は無いわ。あなたが恐れるべきは神ではなく、この私よ。私達ルインと、呪われた子供たちをこそ、あなた達人間は恐れるべきなのよ」

 

 だがそう言ったアルコルの目は、優しく変わった。すぐ後ろで突っ立っているステラは、無言でプロモーターの白衣を掴んでいる。

 

「……尤も、それも仕方の無い事ではあるわね。人間はいつの時代でも自分とは違う存在、自分達に理解出来ないものを恐れるものだからね」

 

 アルコルの言葉に籠もっている感情は怒りでも悲しみでもなく、諦めだった。それはもうどうにもならないと、彼女の中で結論が出てしまっている事なのだ。

 

「だけど、もうその必要は無くなるわ。少なくとも私達を恐れる必要は、無くなる。その理由が、消滅する」

 

 あからさまに、アルコルが発する気配が変わった。天童流神槍術の免許皆伝者である和光はそれを敏感に察知して、がたがた震え始めた。

 

「これからは、ね」

 

「わ、わ、私をどうするつもりだ」

 

 上擦った声を必死に絞り出して、尋ねる。ルイン・アルコルは唇の両端を釣り上げて、口を三日月形にして笑いながら答えた。

 

「Let's just say God works too slowly(神様の仕事はあまりにも時間が掛かり過ぎる)……」

 

 和光は知らなかったがそれは里見蓮太郎の叙勲式の日に、天童菊之丞にアルコルが語ったのと同じ言葉だった。

 

「か、神の仕事……だと?」

 

 アルコルは懐からカードサイズのリモコンを取り出すと、ボタンの一つを押す。すると機械特有のウィィィンという音と一緒に天井の一部が動いて、通気口のような穴が顔を見せた。そしてその穴の周囲の景色がゆらゆらと蜃気楼のように揺らいでいた。”何か”がこの部屋へと送り込まれているのだ。

 

 毒ガス? いや、それにしてはこのルイン・アルコルという女もイニシエーターも未だこの部屋に留まったままだし、ガスマスクのような物を取り出したり装着する気配も無い。いくらガストレアウィルスを保菌する者が毒物や薬品に対して強い抵抗力を持つとは言え、毒ガスの中で何の装備も無しに平気でいられるとは思えない。では何だ?

 

 走馬燈を見る勢いで頭をフル回転させるが、そもそも走馬燈とは死に瀕した時、今まで生きてきた記憶の中から何とかそれを回避する為の手段を探そうとするが故の現象だ。経験した事の無い事象には対応できない。

 

 アルコルもステラも、少しも慌てた素振りは見せなかった。と、アルコルが身を乗り出して顔を和光の鼻先にまで近付けて、言った。

 

「ねぇ、天童副大臣、一つクイズを出すわ」

 

「ク、クイズだと……?」

 

「ええ、当たったら50点獲得よ」

 

 冗談めかして、アルコルは笑う。

 

「昔、ローマ帝国は何世紀にも渡ってキリスト教徒を迫害してきたわ。信者をライオンの餌にして、それを見物するという行事がスポーツ感覚で行われていたぐらいに。ところがある時、一夜にしてローマの人々の殆ど全てがキリスト教徒になった。どうしてか、分かる?」

 

「そ、それは……」

 

 50点獲得というのはジョークだとしても、正解してこの女の心証を良くすれば、何かしら事態が好転するかも知れない。そんな一縷の希望に和光はしがみついて、大学時代に受けた講義の内容を必死に記憶から掘り起こした。

 

「……ロ、ローマ皇帝が、キリスト教徒になったから……だ」

 

「うん、正解ね」

 

 機嫌良く笑うアルコル。和光の精神力は、ここまでが限界だった。肉体的にも精神的にも追い詰められた彼は、遂に意識を手放してしまった。

 

「同じようにあなた達人間も……」

 

「マスター・アルコル。もう聞こえてないみたいです」

 

 ステラに指摘されて、アルコルはやっと和光が気絶している事に気付いた。ふう、と溜息を一つ。「ここからが良い所なのに」と、残念そうな顔になった。

 

「喜んでよ、天童副大臣。あなたは鎹(かすがい)になれる。人間と、星の後継者とを繋ぐ鎹(CLAMP)に。次に目が醒めた時、私はあなたにこう言うでしょうね」

 

 アルコルはステラを伴って部屋を退室しようとして、椅子に縛られたままの彼を振り返った。

 

「未来へようこそ、ブラザー……ってね」

 



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第23話 祝福された子供

 

 夢を見た。

 

 綾耶にとっては、いつも見る夢。

 

 一人の女の子が、膝を抱えて泣いている。今よりも幾分幼い、まだ眼鏡を掛けていなかった5歳ぐらいの自分だ。5歳の綾耶が居るのは、将城教会の礼拝堂だった。反ガストレア団体の過激派が起こしたテロによって一度破壊される前の。

 

『みんなと、遊ばないのかい?』

 

 柔和な笑みを浮かべた、白髪交じりの髪をした長身の神父がしゃがんで視線を合わせると、綾耶に尋ねる。小さい綾耶は首を横に振った。

 

『僕は、危ないから』

 

 そう言って、軽く手を振る。それだけで頑丈な長椅子の背もたれが粉々に吹っ飛んでしまった。

 

『僕がみんなと一緒に遊んでたら、この力がみんなを怪我させちゃうから。僕は、人間じゃないから』

 

 幼い綾耶は顔を膝に埋める。そんな少女の頭を、神父はそっと撫でた。

 

『それは違う、綾耶。お前は……』

 

 ここまでの会話の流れを、綾耶は知っていた。

 

 そして、この先にどうなるかも。

 

 この夢の、その先は無い。いつも、ここで終わるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

「ん……」

 

 布団の中でもぞもぞと体を動かした綾耶は、手を伸ばしてベッドサイドに置いてあった眼鏡を掛ける。そうして視界がクリアになると、部屋に備え付けの冷蔵庫からマックスコーヒーを一缶取り出してものの数秒で空にした。

 

 気付けを済ませて意識を完全に覚醒させると、彼女は身支度を調える。普段は聖居のほど近くに用意された宿舎で一人暮らしをしているが、現在は非常時である事もあって聖居の一室で寝起きしていた。聖室護衛隊の外套を羽織って部屋を出ると厨房に入る。十数分ほどして出てきた彼女は、ティーセットを手にしていた。

 

 これは毎日の日課だ。早起きして、聖天子にお茶を入れる事。イニシエーターになってから今日に至るまで、ルイン・フェクダのテロ事件で逃亡していた時を除けば欠かさず続けている習慣だった。最初はお茶の出来も酷いもので聖天子も一口含んで顔が引き攣っていたものだったが、最近では「あなたのお茶を飲まないと一日が始まりません」とまで言ってくれている。キッチンスタッフも最初は呪われた子供たちが入ってくる事に眉をひそめたものだったが、今では数は少なくまた影ながらではあるが彼女を可愛がる者も現れ始めていた。

 

 さて、聖天子の部屋へと行く途中で、ソニアとティナに出会った。

 

「ああ、おはよう綾耶」

 

「ふぁ……おはようございます、綾耶さん。ふわぁ……」

 

 ソニアと手を繋いでいるティナは目が半開きで、いかにも眠そうだ。無理もない。彼女のモデルはフクロウ、夜行性の動物だ。その因子を色濃く受け継ぐティナはとんでもない夜型人間で、昼は大量のカフェイン錠剤を服用していないと起きていられない程である。夜行性動物がモデルという点ではソニアも同じだが、彼女は生活習慣を昼型に矯正している。ティナはソニアの侵食率を知らされた途端、夜は睡眠薬を使用して昼型への体質改善を急ピッチにて行う事を決意していた。

 

 ソニアの侵食率は46.8%。予測生存可能日数はおよそ260日。だがそれは安静にしていればの話である。東京エリアを大絶滅から救う為には、最強のイニシエーターである彼女の力は必要不可欠。否が応でも、戦わねばならないだろう。戦闘によって能力を行使すれば、負傷して傷を再生すれば、ガストレアウィルスの侵食は加速度的に進む。仮にアルデバラン率いるガストレア群との戦いに勝利したとしても、その後彼女は一月生きられるか、二月永らえるか。

 

 だからティナは義姉と、少しでも長く同じ時間を過ごす為に昼型になる事を決めたのだ。

 

「綾耶、これから聖天子様の所へ?」

 

「うん、今は大変な時だけど……でもだからこそ、ちょっとでもリラックスしてもらおうと思って……」

 

 そうして三人は聖天子の部屋に入る。若き国家元首は難しい顔で、机を埋め尽くす書類と向き合っていた。

 

「おはようございます聖天子様、お茶が入りました」

 

「おはようございます、綾耶。ソニアさんに、ティナさんも」

 

 入出してきた子供たちの姿を認めると、聖天子は顔を上げて微笑みを向ける。だが、その笑みに僅かながら翳りがある事を綾耶は見逃さなかった。主は、相当疲れている。肉体的にも、精神的にも。

 

「聖天子様……もしかして、寝てないんですか?」

 

 お茶をティーカップに注ぎながら綾耶が気遣わしげに尋ねる。聖天子の笑顔が、少し困った風に変わった。

 

「ええ……今は、眠っている時間すら惜しいぐらいですから」

 

 不眠不休で働いているのは聖天子だけではない。現在聖居職員の殆どが、非常事態の発生を受けて36時間のシフト制で動いていた。

 

 綾耶は、さっきまで惰眠を貪っていた自分が急に申し訳なくなって、目を伏せる。そんな自分のイニシエーターの頭を聖天子は撫でてやった。ほっそりとした指がきめ細やかな髪に入り込んで、さらりと流れていく。

 

「良いのですよ。あなたにはあなたの戦場があるのですから……」

 

 綾耶の入れたお茶を一口飲んで、聖天子は続ける。

 

「私はガストレアと戦う事は出来ません。それはあなたの仕事です。同じように綾耶、あなたには政治の事は分からないでしょう。それは私の仕事です。皆が、自分が出来る事を精一杯やっている。それで良いのですよ。逆にあなたが私に合わせて無理をして、それでガストレアとの戦いで本調子が出せなかったら、そちらの方が大問題です」

 

 事務的な言葉だったが、口調からは思いやりが感じられる。綾耶は薄く笑って、一礼して下がる。とそこで、代わりにソニアが進み出た。

 

「では聖天子様……せめてこれぐらいはさせてください」

 

 そっと聖天子の後ろに回って、肩に手を近付ける。何をするつもりなのだろうかと、綾耶とティナが顔を見合わせた。すると、ソニアの瞳が紅くなった。能力を使う徴候だ。だが赤色変化はほんの数秒間だけで、すぐに元の青色へと戻った。何があったのか分からない二人のイニシエーターは狐につままれたような表情である。

 

 聖天子は、変化に気付いていた。

 

「これは……肩が軽くなりましたね」

 

「お姉さん、これは……」

 

「私の磁力で血行を促進させて、肩コリをほぐしたのよ。そういう医療器具がずっと昔から薬局やコンビニで売られているでしょ?」

 

「はぁ……」

 

「便利な人ですね」

 

 脱帽、とばかりに綾耶が肩を竦める。この前は電磁波を使って冷めてしまったコーヒーを電子レンジのように温めた事もあった。強力なイニシエーターは訓練次第でこんな芸当も可能になるとは……まさに一家に一台ならぬ一家に一人である。

 

 綾耶は暫く考えて、そうして意を決して切り出した。

 

「……ねぇ、ソニアさん。後で少し、お時間を頂けますか?」

 

 

 

 

 

 

 

「……で、何かと思ったら、トレーニングに付き合えって事なのね」

 

 別にあんなに改まって言う事なかったのにと、聖居の中庭でジャージに着替えたソニアはからからと笑う。同じように、ティナと綾耶もジャージに着替えていた。

 

「僕はソニアさんのように、日常生活で力を使って聖天子様をお助けする事は出来ませんから……だから5日後の戦いで少しでも犠牲を減らせるように、ちょっぴりでも強くなっておきたいんです」

 

「……その気持ちは立派だけど綾耶、あなたは既にイニシエーターの成長限界点に達しているわ。ゾーンに到達しない限り、これ以上の成長は無理よ」

 

 まだ訓練を始めてもいないと言うのにいきなりこれ以上強くなれないと突き付けられて、綾耶の表情が曇った。

 

「空気カッターやバリアは成長限界を補う為の工夫でしょうけど、それにも限界があるわ。経験を積むにしても、この短期間じゃ無理。やはり最後は地力を高めなくては……」

 

「じゃあ、ゾーンになる方法を……」

 

「それが分かってたら、今頃そのマニュアルが各民警に出回ってるわよ。勿論、私も知らない」

 

 あっさりと、ソニアは否定した。

 

 以前に菫から聞いた話によると、ゾーンとは鉄棒の逆上がりや自転車に似ているらしい。それまでは何度やっても逆上がりが出来なかったのに、ある時突然出来るようになる。自転車に乗れなかったのに、コツを掴んだ途端思いのまま乗り回せるようになる。その感覚を説明しろと言われても、難しいものがある。仮に言語化・体系化できたとしてもそれは所詮は畳水練、実際の役には立たないだろう。結局の所は、当人が克己と修錬を経てその境地に達するしかないのだ。

 

「まぁ、ゾーンになる方法を教えるのは無理だけど、強くなる手助けは出来るわ」

 

 ソニアは瞳を紅くすると、手を上げる。

 

 すると周囲の地面から、黒い靄が立ち上った。

 

「「!?」」

 

 綾耶とティナは何事かと身構える。良く見てみると黒い靄は、微細な粉末だった。

 

「これは……」

 

 綾耶は手を伸ばすと、黒い粉に触れてみる。ざらっとした感覚が掌に走った。

 

「これは、砂鉄……」

 

 ソニアは中庭の土中に含まれる砂鉄に磁力を作用させて操っているのだ。砂鉄の粒子は彼女の掌へと棒状に集まっていく。ソニアは完全に集結した砂鉄に圧力を掛けて長さ30センチメートルほどの鉄棒へと形を成させた。

 

「では、綾耶。あなたの空気のカッターでこのスティックを切ってみて」

 

「……分かりました」

 

 自分が作り出す圧縮空気の刃は鋼鉄をも容易に切断する。今更あんな棒ぐらいで訓練になるのだろうかと綾耶は最初は訝しむような顔を見せたが、だがソニアにも何か考えがあるのだろうとすぐ思い直した。そうして瞳を赤熱させると、腕に集めた空気に最大の圧を掛ける。

 

「シュッ!!」

 

 軽く吸った息を吐き出すと同時に、手刀を振る。繰り出された不可視の刃は鉄棒を真っ二つに切断……しなかった。どころか、僅かな傷さえも付けられてはいなかった。

 

「なっ……!!」

 

「これは……」

 

 綾耶とティナが、揃って驚愕を見せる。ただの鉄の棒に、空気のカッターが通用しないとは。

 

「綾耶、これ持ってみて」

 

 ソニアが、木の棒のように持ったスティックを渡してくる。何となく意図を察した綾耶は、紅い目のままで油断無く両手で鉄棒を受け取った。すると、

 

「うおっ!?」

 

 思わず、頓狂な声を上げてしまう。水平の高さに上げていた手が、いきなり膝の位置にまで下がった。モデル・エレファント、象の因子を持ったパワー特化型の綾耶ですら持ち上げるのに手こずるこの重さ。タクトほどの長さしかないのに、一体この棒の重量は何キロあると言うのだろうか。

 

「……持ってみる?」

 

「い、いえ。遠慮しておきます」

 

 ティナが、両手をぱたぱたと振って拒否する。綾耶ほどの力が無い彼女では持った途端に重さを支え切れずに、最悪地面と棒に挟まれて指が引き千切れてしまうかも知れない。

 

「そう簡単には切れないわよ。この鉄の棒には私が磁力で圧力を掛けて、同じ体積の劣化ウランをも遥かに凌ぐ質量を持たせてある。当然、そこまでの超密度なら硬さもそれ相応にパワーアップ。鋼鉄がバターに思えるほど固い、夢のような超金属よ」

 

「お姉さん、そんな事も出来たんですか……」

 

 呆れたように、ティナが言う。ソニアの能力である電磁力の応用性の広さは知っていたつもりだったが、まだまだ認識が甘かった。それこそ何でも出来ると思って良いぐらいに、彼女は自分の力を研究し、訓練し、研ぎ澄まし、極めている。超重量の鉄棒を軽々持っているのもイニシエーターの身体能力だけではなく、磁力を併用して持ち上げているのだろう。

 

「で、綾耶。今のあなたじゃ、いくらやってもこの棒は切れないわ」

 

「……でしょうね」

 

「勿論、あなたがゾーンに至ればそれこそこの棒だってバターみたいに切れると思うわ。綾耶、今まで見ていた感想だけど、あなたの才能は素晴らしい。ゾーンに到達した時、あなたは無敵になる。私でも勝てない」

 

「そう、なんですか?」

 

「私は嘘は言わないわよ」

 

 ソニアほど強大なイニシエーターから最大級の評価を受けた綾耶であったが、しかし表情は複雑である。いくら才能があっても、実力に結び付かなければ意味が無い。ゾーンに至れば問題無いとは言うが、残り一週間足らずの間で開眼出来るとは思えない。

 

「勿論、こんな短期間でいきなりゾーンになるのは無理だろうから……」

 

 ソニアも、同じ事を考えていた。

 

「さっきも言ったけど、あなたは延珠ちゃんと同じで成長限界点に達している。つまり肉体的(フィジカル)な面では既に極まっているという事ね。……と、なれば後は、精神面(メンタル)を鍛えるしか無いでしょう」

 

「成る程……」

 

 確かにそれは道理だと、綾耶も頷く。しかし精神などそれこそ一朝一夕で鍛えられるものでもないだろう。課題が明確になったのは良かったが、そしたらまたしても新しい問題が浮上した形になってしまった。

 

「精神修行……では今から、お寺にでも行くんですか?」

 

 ティナが言う。そんな義妹にソニアは苦笑いを見せた。

 

「……まぁ、時間があればそれでも良いのだけど。決戦は5日後だからね……今回は、手っ取り早い方法を取るわ」

 

 ソニアは綾耶に近付くと、すっと手を上げる。象のイニシエーターは思わず後退るが「大丈夫よ、危険は無いわ」と、電気鰻のイニシエーターが優しく声を掛ける。

 

「日本で言う禅ってヤツは私も少し勉強したけど、正直良く分からなかったのよね。だから……私流で行くわ。綾耶、あなたの中で燃える消せない炎……心からの怒り、あるいは心からの愛……それを私が、引き出す」

 

 指先が、綾耶の額に触れた。

 

「ソニアさん、これは……」

 

「……記憶や思考といった脳内での活動も、究極的には単なる電気信号。今からあなたの頭脳に微弱電流を送って、古い記憶を蘇らせる」

 

「ちょ、それは……!!」

 

「じゃあ、行くわよ」

 

 抗議の声を上げかけた綾耶の意識は瞬間、洪水のように襲ってきた光に呑まれた。

 

 

 

 

 

 

 

『僕がみんなと一緒に遊んでたら、この力がみんなを怪我させちゃうから。僕は、人間じゃないから』

 

『それは違う、綾耶。お前は……』

 

 綾耶の前に広がったのは、いつも見る夢の景色だった。普段は、ここで夢が終わるのだが……今回は、違っていた。

 

『お前は人間だよ、綾耶。お前こそが人間なんだ』

 

 5歳の綾耶の頭を撫でる神父は、優しくそう言う。

 

『そんな……だって、僕は……』

 

 友達と握手をすれば、その手を握り潰してしまうような力。子犬を撫でれば、首をへし折ってしまうような力。そんな力を持った自分が、化け物でなくて何なのか。幼い綾耶は抗議の声を上げかけるが、神父はそれを遮って続ける。

 

『お前はそんな風に自分の力を恐れ、誰かを傷付けまいとする優しさを持っている。そんな風に人を気遣えるお前は、まぎれもなく人間だよ。疑いなくね』

 

『それでも……僕は、危ないよ。僕が誰かと関わったら、僕はその人を傷付けてしまうから』

 

 幼い綾耶が顔を上げる。その双眸からボロボロと涙が零れて、床に落ちた。神父はしゃがみ込んで涙を拭ってやると、穏やかな笑みと共に綾耶の頬を撫でてやった。

 

『危ないのは私達だって同じだ。人間は誰だって、同じ危険を持っている』

 

 神父は、綾耶が5歳ぐらいの子供だからといって決して適当な言葉で誤魔化したり、下に見たりはしていなかった。目線を合わせ、噛み含めるような口調で、ゆっくりと説明していく。

 

『例えば……そう、車だな。ハンドルを握る者によっては、車だって立派な凶器になる。それどころかペンの一本もあれば、目の前の相手を刺し殺す事だって出来るだろう?』

 

 それは5歳児にも分かるような、子供の屁理屈のような論理の飛躍だった。

 

『でも、車を運転するには免許が必要でしょ?』

 

 小さな綾耶も、半ば呆れたように指摘する。神父は『確かに』と頷いた。

 

『だが、生きる事に免許は必要無い』

 

 綾耶は、ぐっと押し黙った。

 

『お前は生まれてきてくれて、そしてこうして生きている。それは神様が生きていて良いと、許してくれたからだよ。少なくとも私やお母さんは、お前が居なくなったら悲しい。きっと、泣いてしまうよ?』

 

『でも、僕は……僕の力は……!!』

 

『まぁ、私の話を最後まで聞きなさい』

 

 神父はそう言って、もう一度綾耶の頭を優しく撫でた。

 

『綾耶、物には何だって正しい使い道があるのだよ。バットで人を殴るのが正しい使い方かな? 違うだろう? バットはボールを打つもの。車は人や物を運ぶ為のものだし、ペンは文字を書く為のものだ。同じようにお前の力にだって、正しい使い道がきっとある』

 

 その言葉を受けて小さな綾耶は、ごしごしと服の袖で涙を拭った。泣き腫らした目には、先程までは無かった光が宿っていた。

 

『ホントに……? ホントに、そう思うの?』

 

『勿論だとも』

 

 神父は、即答した。

 

『世間ではお前のような者を「呪われた子供たち」と呼ぶが……私はそうは思わない。お前の力は呪いではなく、祝福なのだ。私も協力する。勿論、お母さんもね。その力の正しい使い方を、一緒に考えようじゃないか。大丈夫だ、綾耶……お前は一人じゃない』

 

 神父は綾耶の肩に手を回してぐっと自分の方に引き寄せ、抱き締める。綾耶は抵抗の素振りも見せずに、されるがままにしていた。

 

『綾耶、ここは君の家で……私達は家族なのだから』

 

 幼い綾耶は、それまではぶらんと垂れ下がってしまっていた腕を動かして、神父を抱き返した。

 

『うん……ありがとう……お父さん』

 

 

 

 

 

 

 

 再び視界が光に包まれて、それが治まった後で綾耶の眼前に広がっている景色は、見慣れた聖居の中庭だった。

 

「綾耶さん、大丈夫ですか?」

 

 上目遣いで、心配した様子のティナが自分を覗き込んでいる。視線を上げると、空の景色は殆ど変わっていなかった。それなりに長い間夢の中に居たような気がしていたが、実際には極々短い時間、長くても数分程度の出来事だったらしい。

 

 頬に違和感を覚えて手を当てる。そこには、滂沱として涙が伝っていた。気付かない内に、泣いていた。

 

 眼鏡を外して、涙を拭う。記憶の中で幼い自分がそうしていたように。

 

「……どう? 何か収穫はあった?」

 

 眼鏡を掛け直したタイミングを見計らって、ソニアが声を掛けてくる。

 

「……うん、思い出せたよ」

 

 そう、思い出せた。

 

 昔からずっと思っていた。困っている人を見たら助けよう。人から感謝されるような事にこの力を使おう。

 

 そう思い続けて、その道を貫いて、今まで生きてきた。

 

 けど、どうしてそんな風に思うようになったのか。その切っ掛けは何だったのか。その始まりの日を、綾耶は忘れてしまっていた。

 

『ああ……そうか……』

 

 それを、思い出せた。

 

 自分の始まりはあの日の教会。

 

 幼き日の彼女は、ずっと怯えていた。自分の力が誰かを傷付けてしまう事を。同時に、運命を呪ってもいた。どうして自分には、こんな力があるのだろうと。こんな不条理、こんな理不尽。どうして自分が、自分だけが。どうして自分は人間ではない、化け物なのだろうと。何で自分をこんな風に産んだんだと、母を憎んだ事さえあった。

 

 でも、違っていた。

 

 父が、教えてくれた。

 

 自分は、祝福されて生まれてきたのだと。呪わしい、悪魔の力と思ってきたこの力は、天恵なのだと。

 

 今まで忘れてしまっていたのは、きっとテロによって両親を失ったショックに起因するものだろう。人間の脳はあまりにも受け入れがたい現実に直面した時、無意識に記憶を都合良く書き換えて自我の崩壊を防ごうとする事があると、何かの本で読んだ事があった。

 

 同時に、綾耶はある事に納得が行っていた。

 

 何故に自分は両親を失ってひとりぼっちになった後、他の呪われた子供たちのように暴力で日々の糧を得る事を良しとしなかったのか。どうして延珠がそれをしようとする度に、止めに入ったのか。

 

 父の教えは、両親からの愛は、記憶からは消えてしまっていても魂が覚えていた。

 

 自分の、自分達の力は誰かを傷付ける為のものでは断じてないと。それは正しい使い方では絶対にないと。だから綾耶は決して誰かを傷付けたり壊したりする事をしなかったし、友達がそれをしようとするのを見ていられなかったのだ。

 

 胸に、手を当てる。

 

 両親は、もう居ない。でも、ずっと一緒に居てくれていた。

 

「そして……これからも……生きていく。ずっと、ずっと一緒に」

 

 今から教会へ行って子供たちに、この話をしよう。綾耶は、そう思った。勿論松崎さんや、琉生先生にも。蓮太郎さんにも、木更さんにも、延珠ちゃんにも、夏世ちゃんにも、エックスさんにも。室戸先生にも、聖天子様にも。

 

 彼女達の中の一人でもこの話を聞いて、持てる力を正しく使う事を考えてくれたのなら、きっと自分はとても嬉しいだろうと、綾耶は思った。そして彼女達がもう少し大きくなったら、また自分達よりも少し小さな子供たちへと、同じ話を伝えていってほしい。

 

 命は一人に一つ、喪ってしまったらそれっきり。でも命が消えてしまった後も、残せるものはある。自分の中に、今も父と母が生き続けているように。

 

 命の中に在った想いを受け継いで、それをまた誰かに伝えて。そうして受け継がれていく限り、人は死なない。その想いが沢山の人に伝わっていく事こそが本当の命なのだと、綾耶は思う。

 

「ソニアさん……」

 

「うん?」

 

「ありがとう。忘れ物を、見付けてくれて」

 

「……うん。どういたしまして」

 

 綾耶の顔を正面から見返して、ソニアは柔らかな微笑を返した。ほんの数分前とは、目が違う。良い目になった。何かを決意して、何かを乗り越えた目。

 

 確信する。

 

 もう、大丈夫だ。

 

 ぽいと、鉄棒を放る。数百キロもある鉄棒がくるくる周りながら綾耶へと飛んでいって……

 

「でえいっ!!」

 

 見えない斬撃は、超密度の金属棒を真っ二つに断ち割った。しかも先程斬れなかった時はソニアが手に持っていて固定していたのに、今は空中を舞っていた状態だった。硬さは同じでも、切断の難度はずっと上だった。

 

「お見事」

 

「凄いです、綾耶さん」

 

 ソニアとティナはそれぞれ感嘆の声を上げる。

 

 二つになった鉄棒はくるくると宙を舞って……その一つが、綾耶の爪先に落ちた。

 

「「「…………」」」

 

 刹那の静寂。そして、

 

「うぎゃああああああああああっ~~~っ!!!!」

 

 綾耶の悲鳴が、聖居を揺るがした。

 



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第24話 世界を滅ぼす、エリアの守護者

 

 天童和光は目を覚ました。

 

 がばっと体を起こす。気を失った時は椅子に縛り付けられていた体は、今はこの独房のような部屋に備え付けのベッドに寝かされていた。

 

 慌てて、体のあちこちを触って異常が無いかを確かめる。しばらくそうしていて、ほっと胸を撫で下ろした。

 

 頭痛は酷く、体中汗でベトベトしていて不快だが、しかしこれはストレスと疲れによるものだ。最悪、身体のどこかが欠損していたり機能が失われていたりする事態すら思い描いていただけに、今の状況は予想よりもずっと良いものだと言えた。

 

 だが……だとするなら、疑問がある。

 

『ルイン・アルコル……あの女は、私に何をしたのだ?』

 

 頭を掻き毟る。彼は、思考を纏めようとした。

 

 まず、“ルイン”は複数居る。少なくとも二人。

 

 そして自分が見た二人の“ルイン”、ルイン・フェクダとルイン・アルコルの目的はそれぞれ別だった。

 

 ルイン・フェクダは32号モノリスの秘密を暴く為、建造に携わった一派の長である自分を拉致した。これは理解出来る。そしてキノコの因子を持つイニシエーターの能力によって自白させられたという話も……少なくとも彼自身が証言している動画を見せ付けられたのだ。実際にそんな事が出来るのかは兎も角として、ルイン・フェクダにとって自分は既に用済みになっていたと見て間違いはあるまい。

 

 ならば自分が今生きているのは、もう一人のルイン・アルコルがまだ何か用があるからと見て良いだろう。だが、それは一体何だ!? 分からない。

 

 あの女は自分をどうするつもりだという問いに、「神の仕事はあまりにも時間が掛かりすぎる」と返した。その意味する所は、一体……?

 

「くそっ、くそっ!!」

 

 考えても答えは出ずに、壁を蹴り付けて苛立ちをぶつける。

 

 信じられなかった。体内時計や空腹感からして、リムジンで誘拐されてからまだ十二時間とは経っていないように思える。それなのに、あまりにも多くの事が変わってしまっていた。秘書のかずみに化けていたルイン・フェクダが正体を現すまで、こんな事態は想像だにしていなかった。

 

 32号モノリスの秘密が発覚する事は確かに不安の種ではあったが、しかしそれは歯に挟まった食べかすのようなもので、証拠の隠滅も完璧だったし直ちに彼の命を奪うようなものではなかった。本当なら今頃は会食を終えて、清潔でふかふかのベッドで快適な眠りを満喫していた筈なのに。

 

 あの女達のせいだ。七星の遺産強奪事件の時もそうだったが、あいつ等が姿を現してから何もかもがおかしくなった。

 

 あいつらさえ居なければ、誰も32号モノリスの真実に辿り着く事などなかった、秘密は永遠に闇の中だったのに。

 

 今はその事実を知られるどころか、自白まで取られてしまった。

 

 仮に生きてここから出られるとしても、それは自分がルイン達にとって利用価値ができたから逃がされるというケースだろう。その場合彼女達は、あの自白動画を使って自分を脅し続けるに違いない。彼女達にとって、自分が必要でなくなる迄。少しでも意に沿わぬような動きを見せれば、爆弾はいつでも炸裂する。これはアキレス腱どころか、心臓を鷲掴みにされているようなものだ。たとえ自分が国土交通省の大臣になっても、あるいは祖父の跡を継いで国家元首の補佐官になったとしても、永遠にルイン達の掌の上で躍らされ続けるのだ。

 

 今の和光には、3つの選択肢があった。

 

 

 

 答え① 逃げられずに、ここで殺される。

 

 答え② 解放されて、ルイン達に脅され、利用され続ける。

 

 答え③ 解放された後、自白動画が公開されて社会的に葬り去られる。

 

 

 

 どれにもマルを付けたいとは思えない。殺されるのは言わずもがな、ルイン達に躍らされ続ける日々は地獄、ルイン達によって葬られるのも地獄。

 

『私にはもう、地獄から逃れる術は無いのか……?』

 

 だがこの状況に於いても、彼はまだ希望を捨ててはいなかった。

 

 自分は天童の血族。ありったけの金と手間を掛ければ、あの自白動画ですらあるいは闇に葬れるかも知れない。どれほどの労力になるかは分からないが、命あっての物種だ。それに祖父や兄弟達も、事が事だけに身内の恥と切り捨てるよりも、天童の名に傷が付く事の方を恐れて事実の隠蔽に尽力してくれるかも知れない。

 

 全くの希望的観測であるが、しかしそう思考する事がなんとか彼の正気を保たせていた。

 

 その時だった。カツン、カツンと足音が聞こえる。誰かが近付いてくる。

 

 十中八九、あのルイン・アルコルだろう。恐怖は感じるが、しかしこれはチャンスだ。

 

 ドアのすぐ脇へと身を潜める和光。

 

 十数秒ほど経って勢い良くドアが開いて、予想に違わずルイン・アルコルが入室してきた。

 

「未来へようこそ、ブラザー。気分はいかがかしら? 少しは進歩的に……あら?」

 

 視界に和光の姿が見当たらないので、アルコルは戸惑って動きを止める。その隙を衝いて、和光はアルコルの背後へ回ると腕を首に回して思い切り力を込める。

 

「……体調は良好のようね」

 

 大の男に首を締め上げられて足が浮いていると言うのに、アルコルは少しも苦しそうな様子を見せない。この反応には今度は和光の方が少し戸惑ったが、だがこの状況は明らかに自分の方が有利だ。これは千載一遇のチャンスなのだ。それを活かす事を最優先に考えるべきだと思い直す。

 

「私を解放しろ!! 今すぐに!! さもなければ首を……!!」

 

 へし折るぞと言い掛けて、和光は鼻で息を吸い込む。

 

 その時だった。

 

「がっ、ああああっ!?」

 

 思わず悲鳴を上げて飛び退った。当然、アルコルに仕掛けていたチョークスリーパーは解いてしまった。

 

 和光は反射的に両手で鼻を押さえる。まるで、粘膜に大量の練りカラシを塗り付けられたような熱さと痛みが彼を襲っていた。

 

「ああ、ごめんなさいね。今日は少しばかり香水がキツすぎたかしら?」

 

 くすくすと喉を鳴らしながらアルコルが言うが、しかし今和光が感じているのはそんなものでは説明が付かない激臭だ。こんな匂いは嗅いだ事が無い。いや、匂い自体は嗅いだ事のある女の体臭と香水が混ざった独特かつ特有の匂いだが、その強さが尋常ではないという表現が適切だろう。

 

 犬は人間よりもずっと鼻が利くと言うが、その犬が香水を嗅いだりしたらこんな感じなのだろうかと、和光は取り乱した頭の片隅で思った。

 

「副大臣殿、先に断っておくけど、さっきみたいな事をしても無駄よ?」

 

 笑顔のままで、アルコルが宣告する。

 

「なっ……?」

 

「ガストレアウィルスの保菌者となった今、どこの誰があなたを受け入れてくれると言うのかしら?」

 

 和光は、今の言葉が信じられなかった。

 

 ガストレアウィルスの保菌者。この女は今、自分が祖父が毛虫や蛇蝎のように嫌っている赤目のガキ共と同じ存在になったと、そう言ったのだ。

 

「……自分の目で見た方が良いわね」

 

 アルコルは白衣のポケットから化粧用コンパクトを取り出すと、和光に投げ渡す。受け取った和光は震える手で蓋を開いて、鏡を顔の前に持ってくると目をぎゅっと閉じて、そして恐る恐る開いた。

 

「あ、ああ……!!」

 

 今まで生きていた時間の全てが否定されたようだった。天童和光という存在そのものが、音を立てて崩れ壊れていくのがハッキリと分かった。

 

 鏡に映る和光の両眼は、紅く染まっていた。ガストレアや呪われた子供たちと、同じ色に。

 

「お、お前は私を赤目にしたのか!?」

 

「そうよ? 他に何をしたと思ったの? あなたの体にガストレアウィルスを取り込ませたのよ」

 

 笑いながら、アルコルは何でもない事のように言い放った。

 

 この時、和光は取り乱していた事もあって僅かな違和感に気付かなかった。ガストレアウィルスは血液感染しかしない。だから人為的にガストレアウィルスを感染させる場合には注射を用いる方法が一般的で、注入したとか投与したとかいう表現を用いるのが普通だ。なのに何故、”取り込ませた”などという持って回った言い回しをするのかを、注意し損なった。

 

 まぁ、それも無理はない。彼が今感じている絶望に比べれば、そんなものは取るに足らぬ些事でしかないのだから。

 

「私達“ルイン”が持っているガストレアウィルス適合因子……これを他人の体に移植する遺伝子治療技術の確立と、生まれながらにガストレアウィルスを保菌する呪われた子供たちへと手術を施して侵食率の上昇を停止させる技術の開発には成功したのだけど……普通の人間に適合因子を移植した後に、ウィルスに感染させてイニシエーターと同等以上の能力を持たせる実験は中々上手く行かなかったのよ」

 

 影胤が適合因子の移植やガストレアウィルスを注入されていないのも、これが理由だった。機械化兵士であり元序列134位のプロモーターである彼はルイン達にとっても貴重な戦力であり、おいそれと実験体にして使い捨てるような真似は出来なかったのだ。

 

「ちなみに、あなたに感染させたのはモデル・ドッグ。犬の感染源から採取したガストレアウィルス。それによってもたらされる変異は……今、あなたが体感している通りね」

 

 この異常な臭いは、それが原因だったという訳だ。臭いが強かったのではなく、それを感じる和光の嗅覚が人間の域を超越して敏感になっていたのだ。

 

 和光は、絶望のどん底の更に底にまで突き落とされるとはこの事だと理解した。

 

 ここから逃げても、もうどこにも自分の居場所は無い。天童の家にも帰れない。赤目になった事を知れば、お爺様は自分を殺すかさもなくば一生、陽の下には出さないだろう。仮にどこかへ身を隠して赤目に理解のある者に匿ってもらうにしても、もう人間の嗅覚レベルに合わせた食事を楽しむ事も出来ない。

 

 約束されていた筈の栄光と未来は、ほんの一日足らずの間で全て奪われた。

 

 こいつの、この女のせいで。

 

 落ちる所まで落ちてもう絶望する事すら出来なくなって、代わりにふつふつと怒りが込み上げてきた。何で自分がこんな目に。こんなのは他の人間に訪れるべき不運であって、天童である自分には無縁のものであった筈なのだ。その自分にこんな仕打ちなど、許される筈がない。許されていい訳がない。

 

 この女は、その償いをしなければならない。

 

「こ、殺してやる……!! 殺してやるぅぅっ!!」

 

 鋭くなった犬歯を剥き出しにして、唾を飛ばして喚きながら和光はアルコルへと飛び掛かる。

 

 だが、アルコルは華奢な体つきからは信じられないほど素早く動いて、逆に和光の喉を掴むと片手で吊し上げてしまった。

 

「がっ……はっ……!!」

 

「さっき、私の体に触れて力を込めたのが間違いだったわね」

 

 ルイン達の中にあるガストレアウィルスは、感染源を持たないモデル・ブランク。その特性は犬の嗅覚や猫の爪、シャチの反響定位といった何らかの生物の能力という“方向性”を持たないが故に、あらゆる生物とガストレアウィルスが共通して持つ最も始原的な能力に特化している。

 

 それが、“進化”。環境や天敵といった“負荷”に対応して、それを克服する能力。力が強い者が相手ならそれ以上に力強くなり、素早い相手にはその上を行くスピードを身に付ける。ルイン・アルコルの肉体には先程和光に首締めを食らった時には既に、今の彼のパワーを上回る力が付与されていたのだ。

 

 和光は何とか逃れようと足をばたつかせてアルコルの体を蹴り上げ、両手でバンバンと彼女の腕を叩くが、無駄な努力に終わった。

 

 と、アルコルは無造作に空いている方の腕を動かすと、そっと和光の鼻先に指を添えた。

 

「な、何を……」

 

「副大臣殿、クイズをしましょう。当たったら50点獲得よ」

 

「なっ……あっ……」

 

 喘ぎ、息も絶え絶えの和光はくぐもった返事を返すのがやっとだった。アルコルは涼しい顔で、続ける。

 

「私達“ルイン”が持つ力は進化。常に戦う相手よりも力強く、素早く、高い持久力を身に付けるのともう一つ、その相手の弱点になる能力を何度でも発現させる事が出来るの。……つまり、目が良い相手には目眩ましになる発光能力や、トウガラシのような目つぶしの能力が、耳が良い相手には大音響を発生させるような能力が後天的に身に付くの。では、ここで問題……鼻が利く相手には、果たしてどんな能力が発現するのかしらね?」

 

「……っ!! や、やめ……」

 

 恐ろしい結末を悟った和光はぶるぶる震えながら拒絶の意思を示すが、遅かった。

 

 アルコルの指先から、液体が汗のように滲み出る。その液体が和光の鼻に入って……

 

 瞬間、和光の両手足から力が抜けてだらりと垂れ下がった。両眼はぐるりと白目を剥いて、ズボンは前後共に汚れる。

 

「あら?」

 

 不思議そうな顔のアルコルが手を放して、どさりと床に転がった和光の目を開かせて眼球の動きを観察する。

 

「これは……」

 

 何事か言い掛けたその時、アルコルの白衣に仕舞ってあったスマートフォンが鳴った。

 

「もしもし、ステラ? 何かあったの?」

 

<マスター・アルコル。たった今、天童和光が死んだようですが、何かあったのですか?>

 

 ルイン・アルコルのイニシエーターであるステラ・グリームシャイン。彼女はモデル・マッシュルーム、キノコの因子を持つイニシエーターでありその能力は自分の肉体の一部を冬虫夏草のように他者の脳に寄生させ、宿主を自由に操る事。この特性を持つステラは、距離が離れていようと宿主の状態が本能的に分かるのだ。

 

「……ああ、そうなの」

 

 何の感慨も無いという風にアルコルは頷くと、指先にまだ残っている液をすんすんと嗅いでみる。

 

「臭っ!!」

 

 途端に、顔を歪めて鼻から指を離すと部屋に備え付けのティッシュペーパーで液体を拭い取った。

 

 予想はしていたが、こんな悪臭を犬因子の鋭敏な嗅覚で嗅いだのだ。死因は、ショック死だ。

 

「やれやれ、折角色々検査をしたかったのに……まぁ、死体でもそれなりにデータは取れるし……CLAMPの完成まで後一歩……」

 

<マスター・アルコル?>

 

 ぶつぶつ呟くアルコルに、まだ通話が繋がっているスマートフォンからステラが話し掛けてくる。

 

「ああ、ごめんなさいねステラ…………話は変わるけど、あなたは東京エリアに行った事はある?」

 

<……いいえ>

 

「東京エリアは、比較的だけど呪われた子供たちへの差別意識の低い、寛容な国、平和な国だと言われているわ。実際は違うけどね」

 

 そう、それは間違いだ。

 

 この世界に、寛容な国など無い。平和な国も無い。東京エリアだけではなく、他の何処にもそんな国は無い。

 

 それは人という種の宿業だ。権力者と違う人種に生まれたというだけで、罪も無い女子供がそっくり殺される。そんな事例は人類史の中で枚挙に暇がない。

 

「でも、それももうすぐ終わるわ。最初に東京エリアの人々が……そして時を置かずに世界中全ての人間が私達の仲間になる。私達とあなた達の呪いは、そのまま彼等の呪いとなる……!!」

 

<そうなれば、私も嬉しいです>

 

「うん……そうなれば副大臣殿……あなたの魂にも、少しは慰めになるでしょう?」

 

 そう言ってアルコルは通話を切って、和光の死体を担ぐと独房から出て行った。

 

 

 

 

 

 

 

「我堂さん、お茶が入りました」

 

 モノリス崩壊が5日後に迫ったその日の朝、聖居で中ぐらいの広さの会議室に客人が通されていた。

 

 禿頭に、正装の上からでも鍛え上げられた筋骨隆々の肉体がハッキリと分かる精悍な男。東京エリアで二番目の高位序列保持者である275位のプロモーター、我堂長正だ。テレビのCMで何度も見たこの男に、綾耶は聖天子にそうするように自分が煎れた紅茶を差し出す。我堂は黙礼してお茶を受け取ると、一口飲んだ。

 

「そちらのイニシエーターさんも……えっと……」

 

「壬生朝霞です、将城綾耶殿。ありがたく頂戴いたします」

 

 長正の背後に影のように控えていた侍のような衣装を纏ったその少女、イニシエーター・壬生朝霞はこちらも一礼するとお茶を受け取った。

 

 そうして一呼吸置いた所で、長正は自分達の対面に座る人物へと視線を送る。

 

 東京エリア国家元首・聖天子へと。

 

 この会議室には、真ん中に長机が置かれていて下座側に長正が座り、上座側には聖天子が座っている。そして長正のすぐ後ろには朝霞が立っていて、聖天子は右後ろに補佐官である天童菊之丞が、左後ろには綾耶、ソニア、ティナの3名のイニシエーターが付き従っている。

 

「聖天子様、今回の呼び出しはやはりモノリスの白化現象の件でしょうか?」

 

 混乱を避ける為、未だ一般には公開されていない情報だがそれを長正が知っている事には、この場の誰も驚かない。序列275位ともなれば、独自の情報網を持っていても少しも不思議ではない。寧ろ、自然とさえ言える。そうした情報収集能力の高さも、長正が優秀な民警である証明だ。

 

 聖天子としても、そこまで分かっている相手に今更隠す意味も無いと考えたのだろう。静かに頷く。

 

「はい。ですが他にも呼んでいる方が居るので……その方が来られてから、話を始めさせていただきます」

 

 言っている間に、ノックも無しに勢い良くドアが開け放たれた。

 

「うっす。呼ばれたみたいなんで、来させてもらいましたぜ」

 

 砕けた口調で現れたのは、正装の我堂とは対照的にくたくたのトレンチコートをラフに羽織った壮漢、一色枢(いっしきかなめ)。IP序列は30位。長正を大きく引き離して東京エリア最高序列保持者である。傍らにはやはりと言うべきか、イニシエーターであるモデル・ウルヴァリンのエックスを引き連れている。

 

「良く来て下さいました、一色さん。どうぞ、席に着いて下さい」

 

 枢は聖天子に勧められるままに我堂のすぐ隣の席へと着席した。彼とエックスにも、綾耶がお茶を振る舞う。外見から受ける豪放な印象に違わず、彼は一息でカップを空にしてしまった。

 

 兎も角これで、招集を掛けていた二人が揃った。聖天子はそれを確かめると、絶妙な間を置いて話を始める。

 

「……お二人とも、ご存じだとは思いますが、現在32号モノリスにステージⅣガストレア・アルデバランが取り付いてバラニウム侵食液を注入しています。32号モノリスは磁場発生能力を失いつつあり、早ければ明日には白化現象が遠方から肉眼でも確認できるようになるでしょう。そして計算では5日後に、32号モノリスは倒壊します」

 

「あー……そりゃマズいですねぇ……」

 

 腕組みして、国家元首相手にも少しも物怖じせずに枢が言う。

 

 モノリスが倒壊したエリアの辿る未来は一つ。その“穴”からガストレアが侵入してきての大絶滅だ。今の所、その運命から逃れられたエリアは存在しない。

 

「そのような事情であれば代替モノリスの建造は既に始まっている筈。それは間に合わぬのですか?」

 

 我堂が、こちらは礼を忘れないかしこまった口調で質問する。この問いには菊之丞が答えた。

 

「代替モノリスの用意は昼夜兼行で進めているが、建造と運搬には、どれだけ急いでも後8日は掛かる」

 

 モノリスが倒壊するまでは5日。つまり大絶滅を免れる為には3日間、倒壊したモノリスの“穴”から侵入してくるガストレアを一匹残らず迎撃せねばならない。

 

「中々、難しいですぜ?」

 

 と、枢。言い様は気に入らないが内容自体は真っ当である事を認め、菊之丞も頷く。彼の視線は聖天子の後ろで控えている3名のイニシエーターへと送られた。

 

「その為に、我々の方でも集められるだけの戦力に声を掛けている」

 

 聖天子が蓮太郎に声を掛けたのもその為だし、菫がソニアが侵食率の関係から後3回しか戦えないという事実を伝えたのも同じ理由だった。

 

「……そして一色さん、あなたにはこの東京エリアで最高位の序列保持者として、アジュバントの軍団長を務めていただきたいのです」

 

 政府は、緊急事態に於いては民警を自衛隊組織に組み込んで運用する事が出来る。アジュバントは、部隊を構成する民警の分隊システムを指す。民警マニュアルでは軍団長は基本的にそのアジュバントの中で最も序列が高いペアのプロモーターが務める事となっているので、枢にその役目が回ってくるのは自然な成り行きであった。

 

「謹んでお受けいたします、聖天子様」

 

 ぺこりと、枢が頭を下げる。了承の返事を受け、聖天子は今度は我堂へと向き直った。

 

「我堂さんには一色さんに次ぐ高位序列保持者として、アジュバントの副団長をお任せしたいと思っています」

 

「承知いたしました」

 

 長正も一礼して、諒解の意を伝える。

 

 聖天子はほっとした表情になって、菊之丞も心なしかその強面が緩んだようだった。

 

 二位以下を大きく引き離す超々高位序列保持者である枢と、知勇兼備の英傑として名高い長正。この二人がトップに立てば、所詮は寄せ集めの烏合の衆でしかないアジュバントにもある程度の統率力が期待できるようになる。これならばあるいは滅びの運命すら覆せるのではと、希望を持つ事が出来た。

 

 枢が椅子を蹴って、勢い良く立ち上がる。

 

「まぁ、ご照覧あれって所ですかね。この東京エリアは俺達にとっても大切な場所ですから。必ず守り通してみせますよ」

 

 力強い言葉を受け、聖天子は笑みと共に頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 一時間後、一色民間警備会社のオフィス。

 

 聖居から事務所に戻った枢は、いつも通り机に脚を投げ出してスマートフォンで電話を掛けていた。

 

 通話相手は「Ζ(ゼータ)」と表示されている。

 

「ええ、そう。私がアジュバントの軍団長を任される事になったわ……それで、私自身もアジュバントを結成せねばならないから……あなた達にも来て欲しいのよ」

 

 枢の声は、今は野太い男の声ではなく良く通る女の声だった。机の上であぐらを掻いているエックスは、この“声変わり”はいつもの事なので驚いた様子もない。

 

 変わったのは声だけではない。枢の全身が石を投げ入れられた泉のように揺らいで、精悍な男の姿から白い髪の美女へと変化する。これはリムジンの中で天童和光の秘書である椎名かずみに化けていたルイン・フェクダが正体を現した時と、同じ現象だ。

 

 ルイン達が持つガストレアウィルス適合因子は、慣れと訓練によって形象崩壊を自在にコントロールしてガストレアと人間の姿を自由に行き来する事をも可能とする。

 

 形象崩壊は通常、感染源となった動物のガストレアにしか変われない。つまり、モデル・ラットのウィルスを持つ者はネズミのガストレアにしかならないし、モデル・スパイダーの因子を持つ者は蜘蛛のガストレアにしか変異しない。だがルイン達が保菌するガストレアウィルスはモデルを持たない。故に、どんな姿にも変わる事が出来る。

 

 “七星の一”ルイン・ドゥベの役目は、民警として表の世界での地位と発言力を確立させる事。一色枢とは、その為の仮の姿である。否、この場合は化身と言うべきか。

 

「六番(ミザール)……既に、四番(メグレズ)とティコちゃんには話を通しているわ。そこにあなた達にも加わってもらって、一色民間警備会社からは3組6人を少数精鋭のアジュバントとして、この……第三次関東会戦に参戦するわ」

 

<分かったわ。私達も明日には、合流させてもらうから>

 

 電話の向こう側からはドゥベと同じ、ルインの声が返ってくる。“七星の六”ルイン・ミザールのものだ。

 

<ところで、ドゥベ……あなたは聞いたかしら? アルコルの話……>

 

「ええ……!! “CLAMP”はもう完成間近らしいわね……!!」

 

 ルイン・ドゥベの声には隠し切れない歓喜が滲んでいた。

 

「そうなれば……呪われた子供たちへの迫害は終わる……!! 今はガストレアウィルスを持っているとか赤い目だとか、そんなくだらない事で争っている場合ではないのに……多くの人達はそんな単純な事にも気付かない……このままではいつか……そう遠くない未来に、人間と呪われた子供たちとの間で戦争が起こるわね……」

 

<そんな戦争は私達が絶対に起こさせないわ。アルコルも十年前からずっと、その為に研究を続けてきたんだから……>

 

「そうね……みんなで、共に明日を迎える為に」

 

 椅子から立ち上がったルイン・ドゥベは窓へと歩み寄る。そこからは東京エリアの街並みが一望できた。

 

「新しい時代の為に、私達はこの東京エリアを絶対に守る。全ては此処で終わり……そして全てが此処から始まるのよ……!!」

 



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第25話 滅びの風が吹く前に

 

「よう、兄ちゃん。遅かったな」

 

 32号モノリスより10キロの地点に設置された民警軍団の前線司令部。

 

 民警軍団の団長を務める一色枢の使いと名乗る男に案内された蓮太郎は、並んでいる中でも一際大きな幕舎へと入る。そこにはイニシエーターとプロモーターがずらりと列席しており、しかもその面々は皆、テレビのCMで何度かは見た顔だ。民警事情に明るくない蓮太郎は全員を知っている訳ではないが、しかし顔と名前が一致している者は、全員が序列三桁以上の凄腕揃い。名前を知らぬ者も、身に纏う空気が違う。恐らくは同レベルの強者と見て間違いないだろう。

 

 幕舎の一番奥に腰掛けて砕けた笑顔で気さくに挨拶する枢は、手を振って空いている席を勧める。蓮太郎と延珠はその席に、二人に続いて入ってきたサンバイザーを付けた長身の青年と、彼に付き従うとんがり帽子を被ったイニシエーターは、そのすぐ右隣の席に着いた。

 

 見ると、枢の右隣には彼のイニシエーターであるエックスが、左隣には綾耶、ティナ、ソニアの聖天子付のイニシエーター達が並んでいた。綾耶が小さく手を振るのを見ると、延珠も同じように手を振って返した。

 

「序列300位、里見蓮太郎・藍原延珠ペア、序列970位、薙沢彰麿・布施翠ペア。これで全員が揃いました」

 

 手にしたタブレットで列席者を確認していたティナが只今入室してきた二組の覧にチェックを入れると、枢へと渡す。30位のプロモーターはそれを見て「ん」と満足そうに一声頷いた。そして手をぱんと叩く。その拍手一つで、場の雰囲気が引き締まったようだった。

 

「皆、良く集まってくれた。お前等に集まってもらったのは他でもねぇ。4日後の戦いについての、作戦会議だ」

 

「その前に一つ、聞いて良いか?」

 

 挙手した蓮太郎に、場の全員の視線が集中する。

 

 副団長である我堂長正は団長の話の途中だぞと咎めるような視線を送ったが、枢に制された。

 

「まぁ、良いさ。ンで兄ちゃん、何だ?」

 

「ここに集められたメンバーは、全員が全員アジュバントの分隊長……って訳でもないよな? 現に、俺のアジュバントからも彰麿兄が呼ばれたし。見た限り、ここに居るのは全員が序列1000位以上のペアみたいだが……これから話すのはそれを集めないと、出来ない作戦なのか?」

 

「おォ、良い質問だな。……おっしゃ、順を追って話すつもりだったが、ここにどういう基準でメンバーを集めたのかは今兄ちゃんが説明してくれた通りだし、結論から話させてもらうぜ」

 

 そう言って、枢は一度座り直してやや前屈みな姿勢になった。

 

「まず、最初に言っておく事だが……この戦い、敵の親玉であるアルデバランをぶっ殺す事、それ自体は難しくない……と、言うよりも物凄く簡単だ」

 

 言葉に合わせてずい、と一人のイニシエーターが進み出る。ソニアだ。

 

「私一人が、敵陣に突っ込めばそれで済むわ」

 

「ソニアさん……!!」「お姉さん……!!」

 

 ソニアの体内侵食率を知る綾耶とティナが悲壮な声を出すが、しかし他ならぬソニア自身が目で二人を制する。

 

「軍団長、彼女は……」

 

「知らないヤツも居るだろうから、俺から紹介させてもらうぜ。元序列11位”星を統べる雷帝”(マスターオブライトニング)、アメリカの機械化兵士計画『NEXT』によって生み出された強化兵士でありモデル・エレクトリックイール、デンキウナギのイニシエーター、ソニア・ライアン。天秤宮(リブラ)を落としたイニシエーターと言った方が分かり易いか?」

 

 幕舎の中がざわめく。ソニアの名前は、民警達にとっては国境を越えて絶対なのだ。「11位って……」「死んだ筈じゃ……」などと声が上がっては消えていく。雰囲気が一通り落ち着くのを待って、枢は話を再開した。

 

「この嬢ちゃんだけじゃねぇ。此処には、ゾディアックと戦ったイニシエーターがもう一人と、ゾディアックを倒した英雄も居る」

 

 団長の視線の先に居るのは、それぞれ綾耶と蓮太郎だった。

 

 綾耶は何事か言いたそうにもじもじしていて、蓮太郎はと言えば隣の延珠は無い胸を精一杯に張って誇らしげだが、複雑な気分だった。

 

 綾耶にしてみればスコーピオンとの戦いは自分の能力を最大限に発揮できる海という環境下で、それでも少しのダメージも与えられずに足止めが精一杯、それどころか護衛艦隊の援護が無ければ確実に死んでいた。蓮太郎にしても、スコーピオンの撃破は天の梯子という超兵器を使ってやっと成し遂げた事だ。しかも結果的には殆どまぐれ当たりと言って良かった。

 

 二人とも、これは団員の恐怖感を払拭して士気を高めようという枢の話術なのだと理解してはいたが、しかし純粋に一個人の能力・技量だけでゾディアックを倒してみせたソニアと同列に語られるのは相応しくないとも思えて、少し居心地が悪かった。

 

「ステージⅤ・ゾディアックを倒したイニシエーターとプロモーターが一人ずつ、渡り合ったイニシエーターが一人。アルデバランがどんなに強力だろうと所詮はステージⅣ。ぶち殺すには十分過ぎるぐらいの戦力が揃っている」

 

 そんな二人の心中を知ってか知らずか、枢は話を続けていく。集まった民警達の中から「おおっ」と歓声が上がるが、しかし続く言葉はその想いに冷や水をぶっかけるようなものだった。

 

「……が、それだけでは俺達は負ける。何故だと思うね?」

 

 教師のような枢の口調を受けて、一人の女性が挙手した。

 

「はい、フィーアちゃん」

 

 日に焼けた肌をした気の強そうなこの女性を、蓮太郎はニュースで見た事があった。名前は確か……フィーア・クワトロ。序列444位のプロモーターである。彼女は今回、6名3組の少数精鋭チームとして、枢のアジュバントに参加していた。

 

「ソニアちゃんがアルデバランを倒している間に、ガストレア軍団が東京エリアに到達してしまうから」

 

「その通りだ」

 

 長正の他、蓮太郎や彰麿も成る程と頷く。自分達の目的はあくまでも東京エリアを守り抜く事。どれだけガストレアを殺しても、その時東京エリアが壊滅していたら戦いは負けだ。アルデバランを倒す事はあくまで勝利への1ステップであり、勝利条件と敗北条件は別にある。

 

 モノリスの崩壊から代替モノリス完成までの三日間持ち堪えられるか、ガストレアを全滅させるまたは追い返せば人間の勝利、それまでにガストレアの侵入を許せば人間の敗北だ。現在、自衛隊・民警含めてエリアの主戦力は殆どが32号モノリス周辺に集中している。他の地区は今や空き家も同然。一度ガストレアが人を襲って増殖を始めれば、止める術は無い。

 

「それに、アルデバランとてバカではない。護衛役を務める強力なガストレアも少なくとも数体……多ければ数十体は居ると見るべきでしょう」

 

 今、発言したのはどこにでも居そうな雰囲気の中肉中背の男性だった。年齢は恐らく30代半ば、スーツを着ていればサラリーマンだと名乗っても少しも違和感が無さそうで、地味な印象を受けるが屈強な面々がぞろりと居並ぶこの場では逆に浮いてしまっている。名前は六車陽斗(むぐるまあきと)、外見の印象からは全く想像できないが序列は666位と凄腕。フィーアと同じく、枢のアジュバントに参加している精鋭であった。

 

「まぁ、それでもソニアの嬢ちゃんなら護衛どもを皆殺しにした上でアルデバランを倒す事も全く問題は無いだろうが……余計に時間が掛かる。だからこその、このメンバーよ」

 

 枢はそう言って立ち上がると、身振りして自分の背後に掛けてあった32号モノリス周辺の地図へと全員の視線を集める。

 

「まず、このメンバーを除いた他の民警軍団は『回帰の炎』の周辺に防衛線を張って、時間を稼ぐ。同時に、ソニアの嬢ちゃんを先頭に序列1000番以上のペアがアルデバランめがけて真っ直ぐ突入して、ザコの露払いと護衛ガストレアを排除して、嬢ちゃんに可能な限り最短時間でアルデバランを撃破してもらう。これが「プランA」だ」

 

「質問、良いか?」

 

 挙手したのは、蓮太郎の隣に座る彰麿だった。

 

「作戦内容は明快で、単純だがその分確実性もあると思うが……この作戦では防衛線が破られるのが早いか、突入部隊がアルデバランを仕留めるのが早いか、スピードの戦いになる。その為には、アルデバランの位置を掴む事が重要になる。その為の手段はあるのか?」

 

「それは、問題無いわ」

 

 質問に答えたのは、フィーアだった。すぐ傍に立つオレンジの髪をポニーテールにして、黄色いTシャツと赤いハーフパンツといったラフな格好から快活そうな印象を受ける少女の髪を撫でる。

 

「ティコ……あぁ、私のイニシエーターだけど、この子はモデル・オルカ。シャチの因子を持つ呪われた子供たち。この子のエコーロケーションで、アルデバランの位置は割り出せるわ」

 

 シャチの反響定位(エコーロケーション)、つまり潜水艦のアクティブソナーのように超音波を放ち、跳ね返ってきた音によって前方の様子を探る能力であるが、恐るべきはその精度。数キロも先の対象物との正確な距離は勿論の事、姿形や材質、内容物まで見分け、ほんの数ミリしか離れていない2本の糸の識別すらも可能とする。ましてガストレアウィルスで強化されたイニシエーターであれば、それ以上の射程距離と超精度を持っているだろう。

 

 成る程、と納得した表情で彰麿は引き下がった。これならば確実にアルデバランを捕捉し、精鋭部隊を最速かつ最短距離で突入させられる。

 

「軍団長、私からも質問があるが、よろしいかな?」

 

 次に挙手したのは、副団長である長正だった。枢は変わらない気安さで、発言を許可する。

 

「我々民警軍団の役割は自衛隊の後詰め。回帰の炎まで部隊を下げた場合、自衛隊からの支援要請に応えられない事態が想像出来るが……」

 

「ああ、分かってる。だからさっきのがプランAなんだよ」

 

 Aがあるとはつまり、少なくともセカンドプランであるBがあるという事である。

 

「このメンツの前だから話すが、俺は自衛隊から救援要請は来ないと思っている」

 

 ずばりと核心を突く枢の物言いに、蓮太郎は「ブッ込みやがった」と冷や汗を一つ。彼と同じような考えを、此処に集められた者達は大なり小なり持っていたのだろう。感心した顔になる者、腕組みしてうんうんと唸る者、厳しい顔になる者、色々居る。

 

 いずれにせよこの場の誰もがある程度は承知していてそれでもタブーとしていて決して越えなかった一線を、枢は遠慮も躊躇も無く踏み越えてしまった。

 

「俺達民警は警察や自衛隊にとっては嫌われ者。今回も例外ではなく、自衛隊のお歴々は自分達だけで決着を付けたがってる。俺も、別命あるまで後方にて陣を構えて待機しろと言われただけだしな」

 

 恐らくだが、枢の言葉は正しい。少なくとも自衛隊だけで決着は付くだろう。結果如何に関わらず、民警軍団に支援要請は来ない。

 

 戦闘に於けるガストレアと人間との最大の相違点は、プレイしているゲームの違いだ。人間のゲームはチェスだが、ガストレアのゲームは将棋だ。こちらの駒(兵力)は倒されたらそれまでだが、あちらは倒したこちらの駒を、自分達の戦力として組み入れて運用してくる。

 

 その性質上、ガストレアとの集団戦で出る結果は基本的に大勝か大敗のいずれか。辛勝や惜敗は考えにくい。

 

 自衛隊が勝利すれば、当然ながら支援要請は来ない。出す必要それ自体が無いからだ。そしてあまり考えたくないが……自衛隊が敗北する場合、敗色濃厚と見て支援要請を出そうとした時にはもう遅い。ガストレアはネズミ算の倍々ゲームで増え続けて自衛隊の戦線は崩壊し、蹂躙されるだろう。

 

「取り敢えず、俺達は自衛隊と回帰の炎の中間の地点に陣を敷いて、此処をひとまずの防衛ラインとする。万に一つだろうが……自衛隊から支援要請が来た場合……そして、何らかの理由でソニアの嬢ちゃんが戦えなくなった場合にはそれに対応して陣を前進又は後退させ、対処する事になるな。これがプランBだ」

 

 特に後者は「そうならない事を祈ってるぜ」という言葉で締め括りとして、その後二、三の質問に答えた後、この場は散会となった。

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。モノリス崩壊まで3日を切ったその日の午後、東京エリア第39区第三小学校の子供たちは第40区を訪れていた。蓮太郎に言わせればこれは社会科見学であった。その中には綾耶・ティナ・ソニアの3名、聖室護衛隊特別隊員の面々の姿も見える。引率として蓮太郎と木更、それに琉生も来ていた。

 

 駅から降りて十数分も歩くと、目的地に到着した。

 

 ドームほども広さのある金属の土台の上、数体の女神像のようなモニュメントに囲まれて、その碑はあった。「回帰の炎」と大きく刻まれている。

 

「先生、これ……」

 

「これは回帰の炎。第二次関東会戦で人類がガストレアに勝利した記念と、それまでの戦争で亡くなった人達の魂を慰める慰霊碑として、二千挺の銃を融かして造られたものなんだよ」

 

 声を揃えて「へー」と漏らす子供たち。この反応を受けて気を良くした蓮太郎は話を続けていく。

 

「じゃあ、お前等『幻庵祭』って知ってるか?」

 

「知ってる。あの空がぴかぴか輝く、綺麗なヤツだよね!!」

 

 手乗りサイズの小さな灯籠付き気球を作って、夜になると一斉に夜空に打ち上げる。ガストレア戦争で亡くなった英霊に感謝を捧げるという意味で、第二次関東会戦の後から行われるようになった祭りだ。

 

「僕も好きですよ。毎年、特等席で見てるんです」

 

 これは綾耶のコメントだ。空を飛ぶ事の出来る彼女は、あの幻想的な光景を誰よりも近くで眺められる。

 

「妾も、一度見た事があるぞ」

 

 と、延珠。将城教会にまだ二人で暮らしていた時の事だ。

 

「綾耶と手を繋いで空を飛んで、気球の中を進んだのだ。まるで蛍の群れの中を散歩しているようで、あれを蓮太郎にも見せてやりたかったぞ!!」

 

「今年の幻庵祭まで……後5日だな」

 

 蓮太郎はそう言った後で、子供たち全員が伏し目がちになっているのに気付いた。

 

「蓮太郎先生、私達……死ぬのかな?」

 

「今年の幻庵祭……見れないのかな?」

 

 ふんと蓮太郎は鼻を鳴らして、二人の子供たちの前にしゃがみ込んで目線を合わせると、ぽんと肩に手を置く。

 

「アホ。俺が何で此処に連れてきたのか、分かんねぇのか?」

 

「え?」

 

「回帰の炎は、人間がガストレアに勝利した証だ。たとえモノリスが壊れても、自衛隊が守ってくれるさ。それに俺も、民警として最前線で戦う事になってる。お前等は安心してて良いんだよ」

 

「勿論妾も、蓮太郎と一緒に戦うのだ」

 

「里見君と延珠ちゃんだけじゃないわ」

 

 これまではやや離れた立ち位置にいた木更が、前に出た。

 

「私も、里見君のアジュバントに参加するわ」

 

「え? でも木更さん、パートナーのイニシエーターは……」

 

「それは、私が務めます」

 

 蓮太郎の疑問に答えたのは、モデル・ドルフィンのイニシエーター、千寿夏世であった。彼女は『七星の遺産』強奪事件の際にパートナーである伊熊将監の死亡に伴い身柄をIISO預かりとされる所、綾耶が聖天子に求めた特別報酬によって第39区第三小学校へと籍を置く事を許されていた。

 

「既にIISOに登録は済ませてあるわ。序列は19820位ね」

 

「木更さん……!!」

 

 咎めるような声を上げる蓮太郎であったが、しかしここは子供たちの前である。無闇に仲違いして不安を煽る事はしてはならないと、ぐっと堪えた。

 

「里見先生の言う通りね。あなた達は、何も心配する必要は無いわよ」

 

 にこにこ笑いながら、ソニアが進み出る。

 

「民警軍団の団長さんが言っていたけど、私や綾耶ちゃんは、恐ろしいステージⅤ・ゾディアックガストレアと戦った事があるわ。特に、私はそのステージⅤの天秤宮(リブラ)を倒した地球で一番強いイニシエーターなのよ? それに比べたら、今回攻めてきているステージⅣのアルデバランなんて所詮はザコ。負ける確率なんて1パーセントも無いわ」

 

 どん、と胸を叩く。

 

「任せておきなさい!!」

 

 自信を超えた確信の笑みを見て、子供たちの顔から幾分不安が消える。

 

「……枢さんと私のペアの序列は30位、この東京エリアでのナンバーワン……」

 

 続いて前に出たのはモデル・ウルヴァリンのイニシエーター、エックスであった。手を掲げてぐっと握り拳を作ると指の付け根の間から皮膚を突き破って、長さ20センチほどの黒い鉤爪が飛び出してくる。彼女の二つ名である鉤爪(クロウ)の由来であり、クズリの因子による肉体の変異(ミューテーション)と人体実験によって骨格へと接合された超バラニウムの組み合わせによる彼女の武器だ。

 

「私達の戦場に、敗北は無い」

 

 笑いながら強い口調で話すソニアとは対照的に、エックスは無表情で言葉も淡々としている。確定された事項を、ただ読み上げているだけのようだ。しかしこれはソニアとはまた違った形で、子供たちに安心感を与えたようだ。ちらほらと、笑顔を浮かべている者も見える。

 

「勿論、僕も戦うよ。大丈夫、みんなは必ず僕が守るから」

 

 次は、綾耶の番だった。いつも子供たちの為に戦っていた彼女の存在は、この場の面々の中でも一際大きかったらしい。「あややお姉ちゃん」「お姉ちゃん」と、口々に明るい声が上がる。

 

 楽観できる状況ではない。それは、子供たちとて分かっているだろう。いくら最強のイニシエーターであるソニアが参戦しようと、東京エリアナンバーワンの一色枢・エックスのペアが民警軍団のトップを務めようと、絶対の信頼を寄せる綾耶が戦おうと、不安は残る。

 

 戦とは水物。勝敗は常に揺らいでいて、未来は往々にして思いも寄らぬものになる。

 

 希望を持たせるような事を言うのは、残酷かも知れない。裏切られた時、その絶望はより深いものになるだろうから。

 

 でも、それでも。

 

 希望はある。明るい未来へ向かう事は出来る。その未来と、今を繋げる事が出来る。

 

『きっとそれが……僕が、この力を持って生まれた意味……!! 僕の力の、正しい使い方……!!』

 

 綾耶は自分の手を見て、そして拳を握る。今まで感じた事の無い力が、そこに宿っているのが分かる。

 

 今は違う。生まれ持った力に怯えていた頃とも、何となく漠然とした想いで人の助けになろうと働いていた頃とも違う。今の自分は一人ではない。自分の生き方は、父が教え導いてくれたもの。もう、姿を見る事も話す事も触れ合う事も出来なくても、それでも父は一緒に居てくれている。

 

 この力は、何かを壊したり殺したりする為のものじゃない。これは、全てを護る為の力なのだ。

 

 今までずっとそう思って力を使ってきていたが、自分で言っていたその言葉の意味が、本当の意味でやっと分かったと綾耶は思った。

 

「戦うのは、自衛隊や民警の人達だけじゃないわよ。いざとなったらガストレアの一匹や二匹、私がやっつけてやるわ」

 

 と、これは琉生の言葉である。担いでいたゴルフバッグのファスナーを開けると、そこからはバズーカの砲口が顔を出した。それを見た蓮太郎は思わずごくりと唾を呑む。今の今まで彼女をただの気の良い中年女性と思っていたが、存外に恐るべき女傑かも知れない。

 

「あんた、使えるのか? それ」

 

「説明書は読んだわ」

 

 冗談めかして蓮太郎にそう返すと、琉生は子供たちに向き直る。

 

「あなた達には、未来を生きて幸せになる権利があるの。その未来を守る為に私や、里見先生や木更先生、延珠ちゃんに夏世ちゃん、エックスちゃんにソニアちゃん、ティナちゃん……綾耶ちゃん。みんなが戦うの。だから……大丈夫よ」

 

「琉生先生!! 私も一番お姉ちゃんとして、先生と一緒にみんなを守ります!!」

 

 子供たちの中で、一人の少女が元気良く手を上げた。彼女の名前はアンナマリー・ローグ。年は10歳ぐらい、本人の言葉通り呪われた子供たちの中では最年長に当たる部類だ。名前通り東洋人ではなく、ティナやソニアと同じで面立ちには西洋風の特徴が見られる。肩まであるブラウンの長い髪が、前髪の部分だけ色素を失って白く染まっているのが印象的だ。

 

「頼もしいわね、アン……では、お願いするわ……いざという時は、私の後ろはあなたに任せるわよ」

 

 ゴルフバッグのファスナーを閉めた琉生は笑いながら、アンナマリーの頭をくしゃくしゃと少し乱暴に撫でた。

 

 その時、二人は誰にも気付かれないぐらい僅かな時間だけ真剣な目になって、アイコンタクトを交わす。

 

 これは二人の関係を知っていない者には、見えたとしても何の違和感も感じ取る事が出来ないだろう。それぐらい、僅かな時間の出来事だった。当然、その意味も察せられない。気付く事が出来たのは、エックスとソニアの二人だけであった。そしてこの二人とも、それを知りながらその意味を誰にも話さなかった。

 

 

 

 アンナマリーが、琉生ことルイン・ベネトナーシュのイニシエーターである事を。

 

 

 

「まぁ……万に一つも、そんな事態は起こり得ないでしょうけど。ねぇ、里見先生?」

 

 流し目を送りながらどこかねっとりとした声の琉生にそう言われて、蓮太郎は戸惑ったように頭を掻いた。

 

 どこかくすぐったい気分ではあるが……しかし、こうして期待を寄せられるのは悪い気分ではない。

 

「あぁ……成り行きとは言え、俺はお前等の先生になった訳だからな……守ってやるよ。それに、まだまだ教えてやりたい事も沢山あるし……」

 

「みんな、集まって!!」

 

 生徒の一人が掛け声を上げて、集まっていた少女達が円陣を組む。延珠、夏世、綾耶、ティナ、ソニア、エックス、アンナマリーはその集まりに加わらなかった。子供たちは額を付き合わせながら、何やらひそひそと話し合っていた。時折「あの先生良いね」などと漏れ聞こえてくる。

 

 数十秒ほどして、話し合いは終わったのだろう。少女達は一列に並んで、頭の上で一斉にマル印を作った。

 

「先生、合格です」

 

「な、何?」

 

「私達は、先生が好きって事です」

 

「結婚を前提にお付き合いしたい者が5人居ます。私もその一人です!!」

 

「私も!!」

 

「私もです!!」

 

 ぞろぞろと子供たちが集まってきて、蓮太郎は勢いのまま押し倒されてもみくちゃにされてしまう。ちゃっかり、延珠もその中に入っていた。

 

 そんな喧噪をやや離れた所で眺めながら、ソニアはすぐ横のティナを見た。

 

「お姉さん?」

 

 首を傾げる妹分に、デンキウナギのイニシエーターは優しい笑みを一つ。そうして視線を蓮太郎や子供たちへと戻す。

 

 ちょうど、木更が「わ、私は?」と泣きそうな声を上げて、「木更先生は保留中です」とすげなく返され、夏世にぽんと背中を叩かれて慰められているシーンだった。

 

「楽しそうね……みんな……」

 

 そう言った後で、ソニアは少しだけ悲しそうな顔になる。

 

「この時間がずっと……この幸せが……永く続くと良いわね……」

 



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第26話 衛る為、戦う者達

 

<母親は時々、子供たちを残して出掛ける事があります>

 

 将城教会の食堂ではとっくに就寝時間を過ぎていると言うのにテレビが付いていて、綾耶が一人難しい顔でスプーンでアイスクリームを掘り、口へと運ぶ作業に忙しかった。

 

「眠れぬのか?」

 

 スクリーンに少女の顔が映り、ほぼ同時に声が掛かった。

 

「延珠ちゃん」

 

 パジャマ姿の親友に、綾耶はスプーンを置くと立ち上がって応じる。

 

 モノリス崩壊まで、後二日足らず。正確には、後二時間も経たぬ内に最後の一日が始まる。この日は第39区第三小学校にて延珠と綾耶で天誅ガールズのコスプレショーを行った。延珠扮する天誅レッドと、綾耶扮する天誅オーシャンのコンビの息はぴったりで、主題歌である「ミライ*ガール」のデュエットも完璧だった。

 

 その後で写真撮影会を行って、誰からともなく「今日、泊まっていったら?」と声が上がった。

 

 蓮太郎もここが綾耶の実家だという事もあって快く外泊を許可した。イニシエーターと言っても延珠は10歳の少女でしかない。普通の女の子として、友達と少しでも長く過ごさせてやりたいという彼なりの配慮もあったのだろう。

 

<その日、母親は危険を感じて家に取って返しましたが……>

 

「まぁ、無理も無いな……後、二日もせぬ内に妾達は二千体のガストレア軍団と戦う事になるのだからな」

 

「うん……」

 

 綾耶は冷蔵庫からペットボトル入りのドクターペッパーを取り出すと、延珠に渡した。延珠はそれを一口含んで、そして微妙な顔になる。綾耶は好みなのだが、クセのある味なので初めて飲む延珠にはイマイチ受け付けなかったようだ。

 

「慣れると病み付きになるよ」

 

 肩を竦めつつ、綾耶はアイスクリームの掘削作業を再開した。

 

 眠れないのは単に緊張感からだけではないだろう。お互い、戦いが終わって生きていられる保証も無い。少しでも、皆と一緒に居られる時間を大事にして長く感じていたい。だから、眠りたくない。

 

「今度はオランジーナを買っておく……か…………ら……」

 

 綾耶は再びスプーンから手を離した。延珠も、飲みかけのドクターペッパーのボトルをテーブルに置く。

 

 二人とも、もうほんの十数秒前までのリラックスした顔はしていなかった。綾耶は眼鏡を掛け直して、延珠は解いていた髪をいつものツインテールに結い直す。四つの瞳が、イニシエーターとしての力を解放して紅く輝いた。

 

 起きていたのは全くの偶然だったが、しかし今はその偶然に感謝したい気持ちで一杯だった。何が起こっているのか? 延珠は兎の因子によって発達した聴覚があり、象の因子を持つ綾耶は流体を吸い込む機能を持った両腕で大気の揺れ動きを感じ取って、緊急事態の発生を知覚していた。

 

「延珠ちゃん、こっちに……!!」

 

「うむ!!」

 

 二人は食堂のドアを蹴破る勢いで開け放つと、勢いそのままに教会の廊下を駆けていった。テレビは、付けっぱなしだった。

 

<殺人者は既に家の中に……もう、遅かったのです>

 

 

 

 

 

 

 

「これは……!!」

 

 異常を察知していたのは、延珠達だけではなかった。ソニアは、がばっとベッドから飛び起きた。

 

 デンキウナギの目は小さく退化しておりしかも濁った沼に生息している。その弱い視力と利かない視界を補う為に進化の過程で獲得したのが、微弱な電界を発生させる事による定位能力である。10~25ボルトほどの微弱な電気を発生させてそれが障害物に当たる時に生じる乱れを感じ、周囲の様子を探る。これはデンキウナギに限らず、デンキナマズやシビレエイといった他の発電魚にも共通する特徴だ。

 

 当然、デンキウナギのイニシエーターであるソニアにも同じ能力が備わっている。方法こそ違えど綾耶や延珠と同じものを、彼女も感じ取ったのだ。

 

「お姉さん……!!」

 

 床に敷かれていた布団を蹴飛ばして、ティナが起き上がる。彼女も今日は、この将城教会に泊まっていた。

 

 生活習慣を昼型に矯正中とは言え、ティナのモデルは夜行性のフクロウ。夜が彼女のあらゆる能力が最高に発揮される時間である事に変わりはない。それに加えてプロモーターを必要とせず序列98位にまで上り詰めた彼女の戦闘経験が、危険が迫りつつあると警鐘を鳴らしていた。

 

「お二人とも……!! これは……!!」

 

 数秒ばかり遅れたが不穏な気配を感じ取った夏世が起きて、二段ベッドの上段から飛び降りてくる。彼女のモデルはドルフィン。イルカの因子による固有能力は優れた記憶力と高い知能指数であり、お世辞にも戦闘向きモデルとは言えない。だが逆に言えば彼女は戦闘向きの能力を持たないにも関わらず序列千番台、つまり民警ペア全体の上位1%にまで上り詰めたのだ。非力さを補う為に、前もって危険を察知する感覚は特に磨かれていた。

 

 ティナは枕の下から取り出したグロック拳銃の動作を確認し、夏世はこちらもベッドの下からフルオートショットガンを取り出すとティナに少しも負けない滑らかな手付きで各部をチェックしていく。

 

 数秒で二人の戦闘態勢が整った事を確認すると、ソニアは手を振って部屋のドアから離れるように指示する。

 

 フクロウとイルカのイニシエーターがそれぞれ左右に待機したのを見て取ると、デンキウナギのイニシエーターはそっと人差し指をドアに向ける。すると触れてもいないのにドアノブが回って、ドアが内側に開いた。ソニアの作り出した電磁力が、金属製のドアノブに作用したのだ。

 

 開いたそこには、ひとまず敵の影は見えなかった。ソニアがハンドサインを送るとそれに従ってティナと夏世が動いて、左右の廊下の様子を確認する。今は、不審者の姿は見当たらない。

 

「クリア!!」

 

 報告を受け、ソニアは悠然とした足取りで廊下へと進み出る。

 

「二人は右へ行って。私は左を……」

 

「いえ、お姉さん。私が左に行きます」

 

 言い掛けたソニアの言葉を遮って、ティナが強い口調で言った。

 

「ティナ……」

 

「お姉さんが戦う必要はありません。お姉さんも、みんなも、私が守ります」

 

 有無を言わせない強い口調だった。ほんの数秒ほどの間、二人は睨み合っていたが……やがて、ソニアの方が瞳に燃えていた炎を鎮火させた。

 

「……頼むわ、ティナ。夏世ちゃんもね。私は、みんなを避難させるわ」

 

「……では、非常口までソニアさんは私が護衛します」

 

 夏世はそう言って、ぱちっとティナにウインクを送った。『大丈夫、ちゃんと分かっていますよ』という意味だ。

 

 夏世にとっては、ここ何日かで綾耶とティナが妙にソニアに対して神経質になっている事と、その他の要素から結論を導き出す事は難しくなかった。

 

 ソニアがプロモーター無しで序列11位の高みにまで到達するほどの激戦を潜り抜けてきた事、そしてもう一つには、デンキウナギというモデル動物の特性。

 

 フグは自分の毒では死なないが、デンキウナギは自分が発生させた電気で自分も感電する。自然界のデンキウナギは体全体を分厚い脂肪層で覆う事で絶縁体として致命的な損傷を免れるが、肉体の基本構造が人間と同じソニアではそうは行かない。つまり発電・通電する毎に彼女の肉体も損傷するのだ。そのダメージは呪われた子供たちが共通して持つ再生能力によってすぐに修復される。しかし、肉体の治癒と能力の使用はどちらもウィルスの体内侵食率を加速させてしまう。

 

 要するにソニアは極めて強力かつ応用性に富んだ電気という能力が使える代わりに、侵食率の上昇が他のイニシエーターに比して遥かに早いのだ。恐らくはもう40パーセントを越えて超危険域にまで達しているのだろう。

 

 明晰な頭脳を持つ夏世はそれを察して、ティナを安心させようとしたのだ。

 

 ティナもその気持ちを受け取って無言で頷くと、左側の廊下へと走っていった。

 

「では……ソニアさん。私達も」

 

「ええ、しっかり守ってね、夏世ちゃん」

 

 

 

 

 

 

 

「……エックス、これは……」

 

「敵が、来る」

 

 別の寝室ではルームメイトであるエックスとアンナマリーがやはり瞳を赤熱化させて、たとえ次の瞬間にドアがぶち破られて敵が突入してこようと即応できる体勢を整えていた。

 

 エックスが持つ動物因子はクズリ。非常に凶暴且つ獰猛な肉食獣であるが、デンキウナギの微弱電流センサーやシャチのエコーロケーションのような周囲の状況を把握する特殊能力は持っていない。しかし、その代わりに彼女の五感の全てはそれこそ野生の猛獣と同じかそれ以上に鋭く、危険な存在がすぐ近くまで来ている事を察知していた。

 

 すんすん、と鼻を動かす。

 

 まだほんの微かだが、火薬の臭いがする。しかも近付いてきている。

 

「……間に合わない」

 

 敵の数は多く、しかも複数の方向から迫っている。今から全員の寝室を回って皆を起こしていたら、避難を完了させるより前に敵が襲ってきて犠牲者が出てしまう。

 

 ただしそれは普通のやり方で、皆に危険を知らせていたらの話。

 

「アン、声を」

 

 エックスは一言そう言っただけだった。

 

 しかしそれだけで十分だった。アンナマリーは頷くとすうっと息を吸い込んだ。

 

 エックスが、両手で耳を塞ぐ。

 

 アンナマリーは、叫んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 教会のあちこちでガラスが割れて、電球や鏡も同じようになった。

 

 エンジンを全開にしたジェット機の爆音を間近で聞いたらこんな感じなのだろうか。

 

 延珠は両手で耳を押さえて悲鳴を上げながらそう思った。綾耶は空気吸引で自分の周囲を僅かな間だけ真空状態にして、音の影響をシャットダウンした。

 

「あ、綾耶!! 今のは何だ!?」

 

 声は数秒で治まった。頭の芯がぐわんぐわんと揺れているような感覚を味わいつつ、涙目で延珠が尋ねる。

 

「……恐らくアンちゃんだよ」

 

「アンナマリーか?」

 

「うん、アンちゃんはモデル・シケイダ……蝉のイニシエーターだって言ってたから……」

 

 蝉と言えば夏の風物詩であり、固有特性はやはりミンミンと鳴くその声だ。殆どの人間はその声を聞くと「今年も夏が来たな」と風情に思うか「うるさいな」と感想を持つぐらいだろう。しかし蝉の声とは、もし人間と同サイズであったのなら東京タワーで鳴いたその声が遥か九州にまで響き渡ると言われている大蛮声でもある。

 

 耳元で大声を上げたのなら、それだけで対象の脳を破壊する事すら可能な音響兵器という表現すら過言ではあるまい。

 

「な、成る程……しかし、今のはナイスかも知れぬな」

 

 廊下を走りながら、延珠が言う。綾耶も頷いた。

 

 今の声がアンの独断かルームメイトであるエックスの指示かは分からないが、いずれにせよ目覚まし時計の何十倍も強力な大音響が響き渡ったのだ。どんなねぼすけでも一気に夢の世界から現実へと引き戻される。これで、各人の部屋を回って起こしていく手間が省けた訳だ。

 

 だが良い事だけでもない。今ので襲撃者は不意を衝く事が出来なくなって奇襲のアドバンテージが消滅した。ここからは武力に物を言わせ、一気に制圧に乗り出してくるだろう。

 

 他に懸念する事があるとすれば……高齢者である松崎老人が、今ので心臓麻痺でも起こしていないかという点だが……

 

「う、うう……な、何だ今のは……?」

 

 頭を押さえながら、寝間着姿の松崎が寝室からのっそり出て来たのを見てその心配は杞憂に終わった。

 

「松崎さん!!」

 

「無事であったか!!」

 

「あ、ああ……綾耶に延珠ちゃん……今の声は……」

 

 寝起きである事とアンナマリーの声の影響で、まだ視界がハッキリ定まっていないのだろう。老人は、焦点の定まらない目を二人に向けてくる。

 

「松崎さん、今すぐみんなを避難させて下さい!!」

 

「琉生も起こして手伝わせるのだ!! これは危険な状況だぞ!!」

 

「ま、待ってくれ二人とも。一体何がどうなっているんだい?」

 

 事態が呑み込めていない松崎は説明を求めてくる。これは当然と言えば当然の反応であるのだが、しかし延珠も綾耶もこの反応の鈍さに理不尽だとは思いつつも彼を怒鳴りつけたくなった。今は一刻はおろか一分一秒を争う緊急事態だ。呑気に説明などしている暇は無い、有無を言わせずにやってもらうか……いや、それとも可能な限り簡潔に状況を説明して、迅速に避難誘導を頼むのが良いだろうか。

 

 どちらを選ぶか、コンマ数秒で決断しようとしていて……その必要は無くなった。

 

 松崎の額に、赤い光点が現れた。松崎は、気付いていない。延珠は反射的に跳躍して、すぐ後ろに立っていた侵入者を蹴り飛ばした。綾耶は松崎をたった今出て来た寝室へと引っ張り込む。

 

「延珠ちゃん……大丈夫?」

 

 松崎の部屋から綾耶がおっかなびっくり顔を出す。蹴られた拍子に反射的に引き金に掛かった指に力が入って流れ弾が飛ぶ事を警戒していたが、どうやら大丈夫のようだ。警戒しつつ油断無く、ゆっくりと廊下に出てくる。少し遅れて泡食った顔の松崎も出て来た。

 

「綾耶、こいつらは……」

 

 延珠が、たった今蹴り飛ばして昏倒させた男を用心深く観察している。彼は戦闘服で完全武装して、夜間ゴーグルを付けていた。この装備、明らかに只の過激派や暴徒の類ではない。親友の言わんとしている事を理解した綾耶は頷きつつ、手際良く男を武装解除していく。と、手の動きがブーツに仕込まれていたナイフを取り出した時に止まった。

 

「……延珠ちゃん、これ見て」

 

「このナイフは……金属ではないな」

 

 重さや、刃の側面を指で撫でた感覚で分かった。このナイフは金属ではなくセラミックで作られている。

 

「待てよ? じゃあこの銃も……」

 

 男が持っていた銃を綾耶が拾い上げて、そして半分は予想通りで半分は面食らった顔になった。

 

 エアガンのように軽い。良く見ると金属的な光沢も無いし質感も違う。この銃に、金属は使われていない。しかしこの精度は3Dプリンタで作ったような粗悪品とは全く違う。

 

「これは……オールプラスチックピストル。SR議定書の……!!」

 

 IISOによって定められ、ソニアの扱いについて国際的に取り決められたSR議定書。そこには電磁力によって金属を操る彼女が自由に出来ないプラスチック・セラミック製の武器を各国が一定数配備する事も明記されている。それらは金属探知機をすり抜けてしまうので、要人警護・セキュリティの観点から保有できるのは警察や軍隊など公的な機関に限られているのだが……古来より破られない法律も、腐敗の無い組織も存在しない。

 

 どこからか、流されたのだ。

 

 そして、襲撃者がこんな物をわざわざ用意してやって来たという事は……!!

 

 

 

 

 

 

 

「お姉さんが、ここに居るのを知っていた……?」

 

 両膝を撃ち抜いた後にグリップエンドで頭を殴って気絶させた男の関節を全部外して動けなくした後で、ティナは身包みを全部剥いで調べてみたが、彼女が倒した男もプラスチック銃を使っていて、しかも体に金属の類は1オンスたりとも身に付けていなかった。鍵も、コインも。ベルトの金具すら外されていてマジックテープ製になっていた。

 

 ここまで徹底しているという事は、明らかにソニアが此処に居る事を知っていて交戦する前提で仕掛けてきたという事だ。

 

 

 

 

 

 

 

「もしくは……最初から私だけを狙ってきたのか……」

 

 ソニアは夏世が倒した男から取り上げたプラスチックピストルをくるくる回しながら弄んでいたが、やがてそれにも飽きて一瞬だけ瞳を紅く染めると、電熱によってドロドロに溶かしてしまった。

 

 一方で、夏世の思考はそこより更に先へと飛んでいた。

 

 先日、ニュースで反『子供たち』の秘密結社である日本純血会の東京エリア支部長が、自宅から数キロ北の公園で死体となって発見された事件が報道されていた。目撃情報から犯人は呪われた子供たちであると見られている。この事件によって世論は大きく動き、聖天子が進めていた『ガストレア新法』は棄却され、代わりに『“子供たち”からヒトへのガストレアウィルス感染の危険の再認とその対策』という法案、通称『戸籍剥奪法』が提出されて、衆院を通過した。

 

 それに伴って子供たちの排斥運動もより活発になって、ちょっと外周区や人通りの少ない通りを覗き込めば、魔女狩りの如く子供たちを迫害する景色が目に入るようになっていた。

 

 この将城教会は39区の学校としても使われていて、呪われた子供たちが集まっている。反ガストレア団体の目には、ここは害虫の巣窟にでも映っているのだろう。

 

 今回仕掛けてきたのはそうした過激派の連中だとばかり思っていたが……しかしどうも違うようだ。まず横流し品とは言えSR議定書で製造された武器を持っているし、夜間スコープや戦闘服など不自然なほどに装備が充実している。それに裸にしてみて分かった男の体つきはどう見ても一般人ではなく、ボディーガードか軍人か、いずれにせよ長期間に渡って特別な訓練を受けた人間のそれだった。

 

「これは……只の突発的な犯行ではありませんね。もっと組織的な襲撃です」

 

 

 

 

 

 

 

「……五翔会か」

 

 鉤爪で心臓を串刺しにして絶命させた男の死体を調べつつ、エックスはひとりごちた。

 

 彼女が殺した男の左肩には、五芒星の一角に羽が付けられた紋様が刻まれていた。これはルイン達が敵対している秘密結社『五翔会』の、ヒエラルキーの最下層に位置する一枚羽のものだ。

 

 確かに、ここには変身しているとは言え8人のルインの一人、『七星の七』ルイン・ベネトナーシュが居る。どこからかその情報が漏れていたとすれば、五翔会が襲撃を掛けてくるのにも頷ける。

 

 だがルイン達の変身能力を知る者は限られているし、“ルイン”が8人居る事を知る者も限られている。両方を知る者は更に少数。この時点で、呪われた子供たちの教師であり表に出て動いていない琉生がルインであると結論、とまでは行かずとも推論すらも立てられたとは考えづらい。

 

『では、やはり狙いはソニア……?』

 

 確かにソニアは、今の世界では核兵器以上に危険な存在だ。五翔会にとっても目障りだろう。彼女がここに居る事を知って、そして呪われた子供たちを排斥する運動が盛んになっているこの時期を渡りに船として、過激派の犯行に見せ掛けて殺しに来た……?

 

 だが考えはそこまでだった。これ以上は、思考に費やす時間すら惜しい。

 

 鉤爪を体内に収納したエックスは階段を駆け上がる。

 

「みんな、慌てないで!! でも急いで!! いつもやっている訓練通り、落ち着いて下水道に避難するのよ!!」

 

 すると、琉生が子供たちを避難させている所に出くわした。

 

 少女達の表情は一様に恐怖によって引き攣っているが、しかし絶対の信頼を置く琉生が傍にいる事が辛うじて理性を繋ぎ止め、何とか組織だった行動を取らせていた。

 

「急いで!! 早く!!」

 

「マス……いや、琉生先生」

 

 エックスの姿を認めた琉生は彼女を一瞥して、もう一度「急いで!!」と子供たちに呼び掛ける。

 

 最後の一人が避難用の入り口に入ったのを確かめると、琉生の瞳が紅くなった。ここからは琉生先生ではなくルイン・ベネトナーシュとして話すという事の合図だ。エックスもそれを見て頷く。

 

「この教会は包囲されていて、敵は少なくとも三方から攻めてきてる。通信も妨害されてる。さっき、マスター・ドゥベに電話してみたけど繋がらない」

 

 やや早口で、ポケットから取り出したスマートフォンを見せるエックス。画面の右上にあるアンテナのアイコンには、今は赤いバツ印が表示されていた。

 

「私は引き続き、子供たちを避難させるわ。あなたは、侵入してきた連中を排除して」

 

 トラブルを求めてこの教会にやって来たのが大いなる過ちであったのだと、愚か者どもの骨の髄にまで刻み込んでやるのだ。

 

「……アンが別行動で、侵入者の排除と避難誘導に行った。私も、手伝いに行く。彼女一人じゃ危険だから」

 

「あの子なら一人でも大丈夫よ」

 

 ルイン・ベネトナーシュの言葉を受けて、普段からあまり表情の起伏を見せないエックスは珍しく驚いた顔になった。

 

「……アンのモデルは蝉の筈。戦闘には向かない」

 

 ベネトナーシュが自分のイニシエーターを選んだのは、彼女の任務は呪われた子供たちの教育であり、その性質上今回のように過激派に狙われる事も十分に考えられる。その時、生徒である子供たちへ迅速に危険を知らせる事の出来る能力者とは何だ? そう考えて、白羽の矢が立ったのが蝉の因子を持ち大声を上げられるアンナマリー……と、いうのがエックスの知る経緯だった。

 

 確かにあの大声は初見の相手であれば意表を衝く事も出来るだろうが、所詮は一芸。訓練された相手にそう何度も通じるものではない。声を上げて、次にもう一度叫ぶまでの息継ぎを狙われたらそれまでだ。

 

 琉生はしばらくとぼけたような表情になって、そして得心が行ったと頷いた。

 

「ああそうか、エックス……あなたは知らなかったのよね」

 

「……? 何を?」

 

「アンのモデルが蝉というのは、嘘なのよ。彼女のモデルは別にあるの」

 

 その答えを受け、今度はエックスがとぼけた顔になった。イニシエーターが弱点を衝かれる事を避ける為にモデル生物を詐称するというのは珍しい話ではないが……しかし、蝉でないならあの大声は一体何の動物の能力だと言うのだ?

 

「……ああ、アンの声は、あれは蝉の特性よ」

 

「???」

 

 ますます訳が分からなくなった。モデルが蝉ではないのに、蝉の能力を使える。つまりどういう事だ?

 

「まぁ……何にせよ、アンに心配は要らないわよ。何故なら彼女は……」

 

 琉生の姿が蝋燭のように溶けて、白い長髪をした美女“ルイン”の姿へと戻る。

 

「私のイニシエーターは、アンナマリー・ローグは。この地球で最も、神に近い生物なのだから」

 

 

 

 

 

 

 

 アンナマリーが出会った男達は、全員揃いの戦闘服に身を包んで夜間ゴーグルを身に付け、まるで映画に出てくるコマンド部隊のようだった。

 

 彼等はアンの姿を認めると、殆ど反射的に手にしていたサブマシンガンの銃口を向けてきた。この銃もSR議定書で製造された物だ。バラニウムの武器以外では脳か心臓を一撃しない限り呪われた子供たちは死なない。ならば複数の銃による飽和攻撃によって再生能力を超えるダメージを与えようという狙いだ。

 

 しかし彼等が引き金を引くよりも、アンの方が早かった。

 

 ぱちん。

 

 アンナマリーは小さな手の親指と中指を擦り合わせ、鳴らす。

 

 乾いた音が響き渡って、男達の一人が脳天から股間まで真っ二つになって、床に転がった。

 

「えっ……?」

 

 何が起こったのか分からなくて、引き金に掛けられた指が止まる。

 

 ぱちん、ぱちん。

 

 もう二回、指を鳴らす音が響いて、二人の男が同じように斬られて四つの肉塊になって倒れた。

 

「な、何だ!? こいつは!!」「朝田!! 川島!!」「い、今のは何だ!? 何を飛ばしたんだ!?」

 

「落ち着け!! こいつはモデル・シュリンプ!! エビのイニシエーターだ!!」

 

 男達の中で隊長クラスと目される特に体つきのいい男がそう怒鳴って、部下達を統率する。

 

 それを見ていたアンは「へえ」といった顔になって、次には厳しい表情を見せた。

 

 確かに今のは、エビの因子による能力だった。テッポウエビがハサミをぱちんと閉じる時、その周囲には時速100キロ以上もの超高速の水流が発生する。たった今、アンナマリーが指パッチンで男達を切り裂いたのも同じ原理だった。エビがハサミを閉じるように指を鳴らす動作で真空波を作り出し、人体を切断したのだ。

 

 しかしこれは、簡単には分からないタイプの特性だ。指パッチンという動作を交えて超能力のように演出してみせたのに、隊長はそれに惑わされずたったの3回見ただけで、能力の正体をベース生物も含めて完璧に見極めてしまった。明らかに、様々なタイプの能力を持ったイニシエーターとの戦いを想定し、学習と訓練を積んでいる。

 

「撃て!! 撃て!! 撃て!!」

 

 号令に従い、サブマシンガンが火を噴く。

 

 金属製の弾頭と同じぐらい効率的に人体を破壊できるプラスチックの弾丸は、しかしアンナマリーの体には丸めたティッシュペーパーをぶつけたぐらいの効果も発揮出来なかった。

 

 今のアンナマリーの体は全身が真鍮のような色と質感に変化していて、銃弾は金属のようになった体表にカスリ傷はおろか凹みさえ作れず、弾かれてしまった。

 

「……なっ……?」

 

 あまりにも驚いたのと、弾切れになった事で男達は銃撃を止め、リロードも忘れて銃口も下ろしてしまっていた。

 

「無駄ね。これはモデル・スネイル。ウロコフネタマガイ、スケーリーフットの鉄の鱗に、モデル・ウィービル、ゾウムシの甲皮とモデル・クラブ、蟹の甲殻の固さを上乗せしたもの」

 

 ゾウムシは非常に固い甲皮を持つのが特徴であり、特に日本一固いとされるクロカタゾウムシは標本用の針が刺さらず、鳥が食べても消化できないとされている。

 

 蟹のような海洋性甲殻類の甲羅は水圧に耐える為にカルシウム分を多く含み、その強度は甲虫のそれをも上回る。

 

「たとえミサイルでも、私の鎧を破壊する事は出来ない」

 

 そう言って、アンはすっと手を上げて男達を指差す。

 

「……出来れば、殺したくはないけど。でも、仕掛けてきたのはそっちだし、どうせこの後で他の子供たちも皆殺しにするつもりだったんでしょ? じゃあ……私はそれをさせない為に、あなた達を殺すわ」

 

 瞬間、アンの指先から糸が飛び出て、男達二人の体にくっついた。

 

「な、何だこれは!?」

 

 何とかして糸を引き千切ろうとするが、しかしびくともしない。

 

「モデル・スパイダー+モデル・バッグワーム+モデル・シルクワーム。蜘蛛の糸は同じ太さなら、ワイヤーなど比べ物にならないほどの強度を持つ。それに、その2.5倍の強度を持つミノムシの糸の特性と、繭を作る為に長さ1.5キロもの糸を紡ぎ出すカイコガの特性を上乗せしてあるの。ゴリラやオランウータンのガストレアだろうと、その糸を引き千切る事は出来ない……そして……」

 

 ばちっと、アンナマリーの全身に火花が散る。

 

 次の瞬間、電線の如く糸を伝って走った電流が二人の男の全身を焼いて焦がして、人間大の消し炭に変えた。

 

「なっ……あ……あ……?」

 

「モデル・エレクトリックイール+モデル・マンタ+モデル・キャットフィッシュ。発電魚最強のデンキウナギの能力に、同じく発電魚のシビレエイとデンキナマズの特性を重ね掛け・上乗せしたの。単純な出力だけなら、ソニアちゃんよりも強力なのよ」

 

 部下が皆殺しにされ、たった一人になってしまった隊長はこの現実が信じられなかった。

 

 いくら呪われた子供たちが超人的な能力を持っているとは言え、所詮は子供だ。自分達はこの赤目の化け物共に対抗する術を学び、何ヶ月も前から訓練されていた。例えどんな能力の持ち主だろうと、一致団結して戦えば必ず倒せる筈だった。

 

 だが、こんなヤツは訓練の範疇に入っていない。

 

 イニシエーターのモデルは一人に一つ、能力もそのモデル生物が持つ一系統だけ。それは絶対の原則である筈。

 

 殆ど何でも出来ると言って過言ではないソニア・ライアンとて、持っている能力それ自体はデンキウナギの因子による発電能力のみ。磁力を操ったり地殻変動を起こす力は、それを応用して生み出した副次的なものに過ぎない。

 

 だが、コイツは一体……!? 明らかに、複数の生物の特性を併せ持っている。

 

「……言っておくけど、私は生まれつき複数のモデル生物の能力を持っているとか、実験によって後天的に複数の動物の因子を埋め込まれたとかそんなオチは無いわよ。私も他のイニシエーターと同じ、モデル動物は一つで、持っている特性も一つだけ」

 

 アンナマリーにとって、これは冥土の土産というヤツだった。もしここにルイン・アルコルが居たら「当たったら50点獲得よ」なんて言うのかな、と彼女は思った。

 

 恐怖で腰を抜かし、失禁と脱糞した隊長はガタガタ震えながら、そしてはっと気付いた。

 

「わ、分かったぞ!! お前は……!! お前のモデルは……!!」

 

 彼がその言葉を最後まで言い切る事は出来なかった。アンの指が彼の眼前でぱちんと打ち鳴らされて……

 

 そして彼は、何も感じなくなった。

 

「これで全部……? いや、違う……」

 

 敵を排除したアンナマリーは、しかし油断の欠片も無かった。それどころか、警戒値をこれまで以上に引き上げている。

 

 モデル・キャット、猫の聴覚が、既に新たな敵の接近を彼女に教えていた。しかも、これは……

 

「かなり速い……!! イニシエーターか……!!」

 



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第27話 少女達の戦場(前編)

「ソニア、夏世!!」

 

「延珠さん、綾耶さん、ご無事でしたか!!」

 

「お姉さん!!」

 

「良かった、ティナ。あなたも無事だったのね」

 

 教会の礼拝堂には、延珠・綾耶、夏世・ソニア、ティナと、3組に分かれて侵入者の迎撃と子供たちの避難誘導に当たっていた5人が集まっていた。見た限り、全員が無傷。まだ危険が完全に去った訳ではないが、まずは一安心といった所か。

 

「松崎さんは?」

 

「一足先に避難してもらってます。誰か一人は保護者が居ないと、他の子達が不安になるでしょうし……」

 

「了解しました……ところで皆さん、気付きましたか?」

 

 そう言ってティナが差し出したのは、光沢の無い素材で出来た拳銃だった。SR議定書によって製造された金属を一切使わないオールプラスチックの武器。ソニアが磁力で操れない、彼女に対抗する為の武器。

 

 あれだけ装備を調えて襲ってくるという事は間違いなくこの襲撃は突発的ではなく事前に、しかも綿密に計画されての犯行だ。ならばこの教会が呪われた子供たちの学校だという事も調べがついていた筈。通常、高い再生能力を持つ呪われた子供たちを効率的に殺傷するのならば、バラニウムの武器を以て行うのがセオリー。なのに襲撃者達は、バラニウムのナイフや銃はおろかコインの1枚、ボールペン1本に至るまでおよそ金属は一切身に付けていなかった。

 

 ……つまり、彼等は知っていたのだ。この教会にソニアが居るという事を。

 

 そしてそこまで分かっていて、襲撃者の目的が単純に多くの呪われた子供たちを殺すだけならばソニアが留守の時を狙った方がずっと安全・確実な筈。それがこのタイミングで襲ってくるという事は……!!

 

「……やはり、狙われているのは私……という事ね」

 

 今にも泣きそうな顔で、ソニアがいった。

 

 今日はたまたま綾耶や延珠が居たから良かったものの、そうでなかったなら子供たちにも犠牲者が出ていた可能性が高い。襲撃者達にとってはソニア一人だけが殺されたら彼女だけを狙っていたのがあからさまだから、”反呪われた子供たちの過激派団体が起こしたテロ”に見せ掛ける為のカモフラージュで子供たちは殺されていただろう。

 

 自分のせいで、何も知らない、何の罪も無い子供たちが死ぬなんて。

 

 そんなソニアの胸中は察するに余りある。

 

 ……だが。

 

「お姉さんは悪くないです!!」

 

「そうです。襲ってきた相手の方が200パーセント悪いに決まってます!!」

 

 ティナと綾耶が、全く同じタイミングで言った。殆ど、反射的な早さで。

 

 そんな二人にソニアは少しだけ目を丸くして……ふっと優しい笑みを浮かべる。

 

 確かにそう、なのだろうが……自分と親しいティナは兎も角、子供とは言えこうした真っ直ぐな言葉を言える綾耶は、世の中の汚いもの醜いものを嫌と言うほど見てきたソニアにはとても眩しく思えた。少しだけ眼を細めて、笑う。

 

「……ありがと」

 

「急ぎましょう、皆さん。私が先導します」

 

 フルオートショットガンをいつでも撃てるよう構えつつ、夏世が促す。一同が頷いて外へと繋がる扉へと進もうとしたその時、

 

「!! みんな、気を付けて!!」

 

 綾耶が叫んだ。と、同時にドアの一つが蹴破られて、戦闘服に身を包んだ人影が飛び込んできた。

 

 小柄で、どう見ても大人には見えない。そして、闇の中で爛々と輝く紅の光点が二つ。

 

 イニシエーターだ。しかも、手にはアサルトライフルを持っている。敵。

 

 全員が瞬時にその結論へと達し、ティナと夏世はそれぞれ手にした銃口をイニシエーターへと向けて、延珠は蹴りを放てるように体重を移動して、綾耶は腕に充填した空気を解き放つ準備を整える。ソニアも、発電能力こそ使わないものの臨戦態勢に入って瞳が紅く変わる。

 

 だが、彼女達の誰よりも速く、誰よりも先んじて。

 

 破壊音。礼拝堂のステンドグラスが粉々に吹っ飛んで、きらきらと光の欠片が舞い散るような光景の中、人が降ってくる。

 

「シャアアアアアアアッ!!!!」

 

 ガラスの装飾をぶち破って乱入してきた新手の人影は獣のような吠え声を上げながら、大きく腕を広げ、指の間から鉤爪を伸ばし、そしてその黒い超バラニウムの爪を、戦闘服を着たイニシエーターの顔面と胸に、突き立てた。

 

「エックス!!」

 

 序列30位のイニシエーター、モデル・ウルヴァリンのエックス。彼女はイニシエーターに爪を突き立てたままで腕に捻りを加えて存分に抉った上で、引き抜いた。

 

 噴水のような赤い飛沫が上がり、床には血溜まりが出来る。

 

「うっ……!!」

 

 思わず、延珠が顔を青くして口元に手を当てた。

 

「……皆、無事?」

 

 全身血塗れになったエックスが、イニシエーターから爪を引き抜いて少女達を振り返った。

 

 高い再生能力を持った呪われた子供たちだが、その再生力とて無限ではない。バラニウム製の武器でなくとも、脳か心臓を一撃で破壊されたのなら絶命する。ましてやこの場合、エックスは脳と心臓を同時にしかもバラニウムの武器で貫いて、更には抉りまでしたのだ。ひとたまりもない。

 

「……エックスさんも、ご無事で」

 

 延珠と同じように顔色を悪くした夏世が、言った。

 

 イニシエーターを殺した事は、いささかやり過ぎと思わなくもないが誰も咎めたり責めたりはしなかった。状況から考えて、このイニシエーターも襲撃者の一味に違いない。下手に手心を加えようものなら教会の子供たちや、綾耶達までもが殺されていたかも知れないのだ。敵を救う為に味方を殺すなど極め付けの愚行だ。エックスの行動は仲間を護ったと賞賛されこそすれ、咎められるような要素など何も無かった。

 

「……兎に角、今は外へ……」

 

 頭を切り換えたティナに促されて、一同が外への扉へと再び足を向けた時だった。

 

「待って、まだよ。まだ磁気を感じる……まだ、終わってないわ」

 

 ソニアがそう言って、ほぼ同時に最後尾に居たエックスが振り返る。獣の如き五感が、危険を察知していた。

 

「なっ……!?」

 

 少しだけ、上擦った声が上がった。

 

 たった今、殺した筈のイニシエーターが何事も無かったかのように音も無く立ち上がって、逆手に持ったセラミックナイフで斬り掛かってきていたのだ。

 

「っ!!」

 

 エックスは反射的に爪を振って、イニシエーターの右腕を切り落とした。が、すぐさま彼女の顔面に返す刀の右裏拳がぶつかった。確かに切断した筈の右手による攻撃が。

 

「ぐっ……?」

 

 エックスは鼻血を出しつつ二、三歩ばかりたたらを踏んで後退ったが、すぐに持ち直した。

 

 ちらりと床に視線を落とすと、そこには上腕の中程から切られた右腕が転がっていた。そして、眼前のイニシエーターにも右腕がある。良く見ると、エックスが抉った顔面と胸の傷も既に癒えて傷跡すらも残ってはいなかった。

 

「こ、こやつは……一体?」

 

「い、今、見ました。切り落とした腕が、切断面から一瞬で生えてきました。トカゲの尻尾みたいに……!!」

 

「……凄い再生能力ね。傷の治癒だけなら兎も角、失った手足が生えてくるなんて……エビやカニ……あるいは、タコやイカがモデル?」

 

「違いますね。甲殻類も軟体動物も、手足程度ならいざ知らず脳や心臓は再生しません。このイニシエーターのモデルは、もっと別の動物です。プラナリアか……ヒトデ?」

 

 警戒しつつ、夏世が分析を締め括る。だが、イニシエーターと対峙するエックスが首を振った。

 

「……違う。コイツのモデルはプラナリアでも、ヒトデでもない……」

 

 両手の鉤爪を構えながら、エックスはじりじりとすり足でイニシエーターを牽制するように動く。他の5人を、自分の体を死角として庇うように。

 

「……コイツは私が相手する。皆は、ソニアを安全な所へ……」

 

「エックスさん……でも……」

 

 逡巡したティナがそう言い掛けるが、しかしそれよりも早く事態が動いた。

 

 鈍い破壊音が響く。コンクリート製の教会の壁を砕いて、破片の中を何かが向かってくる。

 

 飛び込んできたのは小さな人影。またしてもイニシエーターだ。

 

「ハアアアアアアッ!!!!」

 

 反射的に跳躍した延珠が繰り出した蹴りと、そのイニシエーターが繰り出した蹴りとがぶつかり合い、弾かれた両者は5メートルほどの距離を隔てて着地する。

 

「蹴れなかった……!!」

 

 厳しい表情で身構えつつ、延珠がこぼした。

 

 新手のイニシエーターは、たった今エックスが対峙しているイニシエーターと同じ戦闘服を着ている。やはり、敵は組織だ。しかもイニシエーターを刺客として使える事からそれなりに大規模な。

 

「こやつは妾と同じ脚力特化・蹴り技主体のイニシエーターだ!! ここは妾に任せろ!! お主達は早く外へ避難するのだ!!」

 

 延珠に促されるまでもなく、4人とも動き出していた。敵にイニシエーターが一人ならば兎も角二人も現れたとあっては、事態は尋常ではない。ここからは、どんな些細なミスもほんの一瞬の迷いすらも許されない。

 

「分かった。延珠ちゃん……気を付けて!!」

 

「心配性だぞ、綾耶。妾を誰だと思っている?」

 

「そうだね……ここは、任せるよ!!」

 

 短いやり取りの後、ソニアと彼女を護衛する綾耶・夏世・ティナの4人は一番大きな扉を開けて教会の外へ出た。二人のイニシエーターはそれぞれ彼女達を追おうとするが、それぞれエックスと延珠が立ちはだかって阻まれた。今の反応を見て確信した。やはり、敵はソニアを狙っている。

 

「此処は通さぬ!!」

 

「……追いたいなら、私達を殺してから……」

 

 兎とクズリのイニシエーターは、示し合わせるでもなく背中合わせになっていた。

 

「……延珠」

 

「む、どうしたエックス?」

 

「……襲ってきているイニシエーターが、こいつ等だけとは思えない」

 

 クズリの因子を持つ少女のその言葉に、兎の因子を持つ少女の顔が蒼くなった。

 

「ま……まさか……まだ他にも刺客が居るというのかっ……?」

 

「……多分。でも、こいつ等を放置しておく訳には行かない……ならば私達の取るべき道は、一つ」

 

「うむ、そうだな。取るべき道は一つだ」

 

 エックスの言葉に、延珠は頷く。それは何だ? などと間抜けな質問はしない。

 

「こいつ等は……」

 

「一分で倒す!!」

 

 

 

 

 

 

 

 教会の外へ出た綾耶達。今日は曇りで月や星が出ておらず、この辺りは大戦からの復興が進んでおらず街灯が死んでいるので不気味なほど暗い。だが少女達の足取りに迷いはない。

 

 綾耶は両腕で大気の動きを感じ取り、ティナはフクロウの因子により夜目が利き、ソニアにはデンキウナギの因子による微弱電流レーダーがある。4人の中で3人までが、闇の中で活動する術を持っている。残る夏世も、夜間での活動は十分な訓練を積んでいる。不自由は無かった。

 

 教会の中には避難用のマンホールがあって、有事の際にはそこから下水道へと逃げる手筈になっている。それが出来ない場合はまず教会から脱出して、その後に手近なマンホールから下水道に逃げ込んで、他の子供たちと合流する。

 

 これが第39区第三小学校での緊急時避難マニュアルである。

 

 だが、目的のマンホールまで後10メートルという所で。

 

「止まって!!」

 

 先頭を行く綾耶が、さっと手を上げて一同を掣肘する。

 

「どうしました?」

 

 夏世が尋ねるが、しかしレーダー能力を持つ綾耶がこうして露骨に警戒反応を示すのだ。大方何が起こっているかを把握して、ティナと背中を合わせつつ愛銃の動作をもう一度確認する。

 

「敵、ですか?」

 

 拳銃を保持するティナが、こちらも微塵の油断も無く周囲に気を配りながら尋ねる。

 

 だが……妙だ。フクロウの因子がティナにもたらす固有能力は高い視力と暗視能力。この暗闇も、彼女にとっては真昼の平原とさして変わるものではない。

 

 にも関わらず、敵の姿は何処にも見えない。

 

 見えないが……!!

 

 象のイニシエーターは両腕に彼女の武器となる空気をありったけ充填して、圧力を掛け始めた。

 

「居るよ……何かが……!!」

 

 

 

 

 

 

 

「シャアアアアッ!!!!」

 

 気の弱い者ならそれだけで恐慌状態に陥れそうな咆哮を上げながら、エックスは右手の鉤爪を振り下ろした。超バラニウムの爪は、眼前のイニシエーターの頭部右半分を抉り取ってしまった。

 

 だが、敵イニシエーターは頭の半分を失ったにも関わらず、倒れない。それどころかほんの僅かな時間ぐらついただけで失った頭部は、傷口から新しい頭部が生えてきて取って代わってしまった。

 

 顔に爪を突き立ててしかも捻りを加えて抉った攻撃でピンピンしていた事から予想は出来ていたが、やはりこのイニシエーターは頭脳や心臓を破壊してもそれが致命傷にならない。

 

 ……しかし、モデル生物が何でどんな能力なのかは分からないが、これだけ斬ったり突いたりされたら痛みで怯むぐらいはしてもいい筈なのに、セラミックナイフを振り回して襲い掛かってくる勢いが全く衰えない。それどころか、斬られた瞬間に走る痛みによる体の反射的な動きですらもが、無い。

 

 注意深く観察すると、このイニシエーターは目に意思の光が全く宿っていないように見えた。

 

「……薬物? 条件付け? 強迫観念?」

 

 ぶつぶつ呟きながら、エックスは用心深く眼前敵を観察していく。

 

 実際にどんな処置が施されているのかは計り知れないが、兎も角このイニシエーターからは全く自我が感じられない。それに少しの痛みも感じてはいないようだ。

 

 これは単純にガストレアウィルスの効能やモデル動物の固有能力だけではない。何らかの後天的な処置、肉体改造が施されている。エックスは再生する動物がモデルのイニシエーターを見た事があるが、そのイニシエーターは確かに極めて高い再生能力を持ってはいたが失った部位がくっついたり再生したりはしなかった。恐らくは何かの手術か薬物かで、再生力もパワーアップされている。

 

「……外傷で、死なないなら……」

 

 エックスは戦法を変えた。イニシエーターが横薙ぎに振ってきたナイフを腕で受けた。

 

 ガキン!!

 

 金属音が鳴って、刃はエックスの皮膚を裂いただけで止まってしまった。何も人体実験による処置が施されているのは、敵イニシエーターだけではない。エックスにも、全身の骨格に超バラニウムが接合されている。通常のイニシエーターにそんな処置を行えば再生能力が常時落ち込んで間違いなく死に至るが、エックスは実験により作り出された抗バラニウムガストレアのデータをフィードバックされた、世界に唯一人の抗バラニウムイニシエーター、その成功例。

 

 セラミックナイフは、超バラニウムでコーティングされた尺骨を切断出来ずに止められたのだ。

 

「……捕まえた」

 

 そして、ナイフの間合いは同じくエックスの爪が届く間合いでもある。黒爪を、イニシエーターの腹部・正中に突き入れる。

 

 超バラニウムコーティングされた爪が、イニシエーターの背骨を確実に破壊した感覚が伝わってきた。

 

 外傷は治癒しても、脊髄を破壊されれば半身の機能が麻痺して動けなくなる筈。エックスの攻撃はそれを狙ったものであったが、しかし、敵イニシエーターは(ある程度は予測の範疇であったが)強く足を踏み締めると、ナイフを握っていない方の手でがっしりとエックスの体を掴んで固定した。

 

「これは……!!」

 

「……捕まえた」

 

 イニシエーターが、鸚鵡返しではあるが初めて言葉を発した。同時に、エックスの頬を僅かに冷や汗が伝う。捕まえたつもりが、捕まえられていた。

 

 ぱかっと口が開いて、噛み付いてくる。

 

「っ!!」

 

 エックスは思わず蹴りを入れてイニシエーターを突き飛ばしたが、僅かにタイミングが遅れて肩口を食い千切られた。

 

 幸い、バラニウムによる攻撃ではなかったので傷はすぐに治癒した。

 

 攻撃は失敗したが、しかし収穫はあった。

 

 脳や神経系が損傷しても回復する再生能力と、今の噛み付き。これらの特徴から考察するに、該当するモデル動物は、一つ。

 

「……モデル・アホロートル……メキシコサラマンダーのイニシエーター……」

 

 無表情を崩さず、エックスが呟く。

 

 日本ではウーパールーパーの名前でも知られ、メキシコでは神の化身として崇められているこの両生類は脅威的な再生能力を持ち、手足の欠損は勿論の事、脳や神経系まで再生した例も報告されている。この再生能力の秘密は、ウーパールーパーが”子供のまま大人になる”生物である事に起因している。

 

 ウーパールーパーは幼形成熟(ネオテニー)といって、完全に成熟した個体であっても非生殖器官に未成熟な、つまり幼生や幼体の性質が残る。そして幼体の部分、つまり手足や脳・心臓といった何らかの器官に分化する前の万能細胞こそが、再生能力の秘密である。何らかの損傷を受けた時、傷口に体内の万能細胞が集結し、失った部位へと分化(変化)して再生するのである。

 

 そしてウーパールーパーは動く物には何にでも噛み付く性質があり、時としては共食いさえも行う。

 

「……脳か心臓を破壊されない限り死なないイニシエーターに、脳や心臓を破壊されても再生するモデル動物……」

 

 ある意味最も相性の良い組み合わせと言える。ガストレアウィルスの再生能力+ウーパールーパーの再生能力+薬物もしくは手術による再生能力のブースト。成る程、バラニウムの再生阻害も押し返して、切り落とした腕が生えてきて、脳や心臓が復元する訳だ。

 

 最も重要な事は……この相手には、エックスの最大の武器である超バラニウムの爪が通じない。

 

「……少し、ヤバイ、かな?」

 

 

 

 

 

 

 

「ハアアアッ!!」

 

 裂帛の気合いを乗せ、延珠が上段蹴りを繰り出す。目前のイニシエーターもまた、鏡写しのように同じ上段蹴りを放ち、ちょうど両者の中間に当たる位置で激突。

 

 何かが爆発したかのような衝撃と、破裂音が鳴って、二人は同じように後方へと弾かれる。

 

 否、同じように、ではなかった。

 

「グッ!!」

 

 延珠の方が、より長い距離を後退っていた。崩れた体勢を立て直すのに要した時間も、僅かながら敵イニシエーターの方が短かった。延珠の方が、押されている。

 

 再び、蹴りを繰り出す。結果は、同じだった。対手の攻撃の威力を受けて後方へ押し出されるが、延珠の方が吹っ飛ばされる距離が長く、体勢も大きく崩されてしまう。

 

 敵は同じタイプのイニシエーター。だが、その脚力はモデル・ラビットの延珠よりも上だ。

 

「……そう言えば、蓮太郎が前に話してくれた事があったな……バッタやノミといった一部の昆虫の脚力は、もし人間と同じサイズであったのならビルを飛び越えるぐらいに強力であると……」

 

 菫は、もし昆虫がそんなに巨大だったら自重を支えきれないし皮膚呼吸すらままならないと笑っていたが、そうした条理・常識を全てを覆すのがガストレアウィルスだ。その因子を持つイニシエーターであれば、恐るべき脚力を持つ事にも納得できる。そしてその脚力を転化したキックの威力など……想像したくもない。

 

 ……と、考察はそこまでだった。

 

 イニシエーターが、自慢の脚力で教会の床を蹴り、突進してくる。

 

「速い!!」

 

 凄まじい脚力を活かした踏み込みがもたらす恐るべき初速で、イニシエーターは一瞬で延珠の眼前にまで肉迫してきた。

 

 咄嗟にガードを固めた延珠は蹴りを受ける事には成功したものの、威力までは殺せず更に後ろに飛ばされて、背中から壁に激突した。

 

「うぐっ!!」

 

 呻き声が洩れる。

 

 拙い。延珠の顔に焦りが表出する。

 

 兎の因子を持つ延珠の最大の武器は、脚力。眼前の相手は、その最大の武器の威力で彼女を上回っている。エックスのように総合力に秀でたイニシエーターならば、たとえ一能力で相手が上回ろうが他の能力でカバーする事も十分可能だろうが、延珠は尖った能力を持つ特化型。長所で上を行かれる相手との戦いは、絶対的に不利。

 

 壁を背にした延珠の腹に、イニシエーターの前蹴りが突き刺さった。

 

「がはあっ!!」

 

 衝撃を逃がせず、威力をモロに喰らった延珠の口から鮮血が飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

「……あんたが、コイツ等の親玉?」

 

 将城教会の一角、襲撃者達を蹴散らしたアンナマリーの前に現れたのは、人相の悪い大男……ではなく、麦わら帽子を被って熊のぬいぐるみを抱えた少女だった。

 

「ええ、そうよ。名前はハミングバード。まぁ、あなたはすぐに死ぬから覚えなくて良いわよ」

 

 アンナマリーはじっと眼前の女を見ていたが、イニシエーターではないと分かった。気配が違う。

 

「……私と戦うと言うのなら、止めておいた方が良いわよ。私は自分で言うのも何だけど、ジャガーだからね」

 

 と、自信満々にアンナマリーは笑ってみせる。

 

「ジャガー……?」

 

 豹とよく間違われる猫科動物がどうしたのかと、ハミングバードと名乗った女はしばらくの間首を傾げるが、ややあって合点が行ったという表情になった。

 

「……それはひょっとしてチーターじゃないの? 動物のチーターじゃなくて、不正行為(チート)を行う者を指すチーターの方の……」

 

「…………」

 

「…………」

 

 物凄く気まずい沈黙が数秒間場を支配して、アンナマリーはやっと「そうとも言うわね」と絞り出した。

 

 と、ここでハミングバードは「はん」と鼻を鳴らす。

 

「別にあなたの能力は特別なものじゃないでしょ? あなたも他の赤目と同じ存在でしかないわ」

 

「……へえ?」

 

「色んなモデル生物の力を使えるのは確かに凄いけど、手品のタネはもう割れてるわよ」

 

「ふぅん? じゃあ、言ってみてよ。当たったら50点獲得よ」

 

 主の一人の口癖を真似て、アンナマリーが挑発する。

 

「あんたは、モデル・シースラグ。ウミウシのイニシエーターでしょ?」

 

 ぴくりと、アンナマリーの眉が動いた。

 

「ウミウシの中には盗葉緑体といって、葉緑体を持った生物を食べてその生物が持っていた葉緑体を体内に取り込み、光合成をして栄養を補給する種がいるわ。同じように盗刺胞といって、刺胞……つまり毒針を持った動物を捕食してその刺胞を体内に取り込んで、身を守る為に使う種もいる。あんたが複数のモデル動物の力を使えるのも、同じ原理と見たわ。ガストレアウィルスによってウミウシの特性が強化されて、何らかの方法で他生物の体細胞を取り入れる事でその能力が使えるようになる……それが、あんたの能力でしょう?」

 

「へえ」

 

 感心した表情のアンナマリーが、口笛を吹いた。

 

「見事に50点獲得ね」

 

 ハミングバードの推理は大正解だった訳だ。

 

「でも……原理が分かっても、攻略法まで分かった訳じゃないでしょ? 私が能力を使える生物は、軽く千を越える。そして各生物の特性を組み合わせていいとこ取りも出来るのよ? モデル・チーターにモデル・ツナ……マグロの組み合わせで持久力のあるチーターとか、モデルスパイダー+モデルマンティスで、蜘蛛の糸に蟷螂の刃をくっつけるとか。そういう事が出来るから私はジャガーなのよ」

 

「……だからそれを言うならチーターだって」

 

「…………」

 

「…………」

 

 再び、気まずい沈黙。そうして、次に口を開いたのはハミングバードの方だった。

 

「……まぁ、確かに凄い能力だけど……でも、私の相棒(イニシエーター)に勝てる訳が無いわ」

 

「!!」

 

 アンナマリーが振り返ると、背後から戦闘服に身を包んだ少女が近付いてきていた。紅い目をしていて、イニシエーターだと分かる。

 

 すんすんと鼻を鳴らして、そして露骨に不快な表情になるアンナマリー。

 

 モデル・ウルフの嗅覚。このイニシエーターの全身からは、尋常でない量のヤバい薬の臭いがプンプンしている。

 

「ふん、相棒が聞いて呆れるわね。薬物とか手術で自我を焼いた言いなりの人形さんが、あんたの言う相棒なの?」

 

「そうよ? この子は私の忠実な道具(あいぼう)よ?」

 

 たっぷり皮肉を込めて言ってやったが、ハミングバードを全く応えておらず悪びれもしない。寧ろ、アンナマリーが何故にそんなに憤っているのか分からないと言いたげですらある。

 

「……少し、話し過ぎたわね。私達のターゲットはあくまでもソニア・ライアン。あんたはあくまで只の通過点……シズク、殺しなさい」

 

「……」

 

 シズクと呼ばれたイニシエーターは無言のまま頷くとベルトに差していた強化セラミック製の双剣を抜き放ち、アンナマリーへと無造作に間合いを詰めてくる。

 

 ぴくりと、アンナマリーの表情が変わった。

 

 構えも、足運びも、剣の握りも、全てが問題外。ド素人だ。

 

 だが、ソニアを狙ってきた暗殺者が引き連れているイニシエーターなのだ。何かがあるのは間違いない。

 

 念の為、モデル・スネイル、ウロコフネタマガイの鉄の鱗にモデル・クラブの甲殻とモデル・ウィービル、クロカタゾウムシの甲皮の硬さを上乗せした鎧を身に纏っておく。これは先程、サブマシンガンの乱射をも訳なく防ぎ切った優れ物だ。

 

 剣で、この装甲を切り裂く事は出来ない。これは以前に小比奈と模擬戦を行った際に証明済み。

 

 それこそ、”常軌を逸した速度で斬り込まない限りは”。

 

 瞬間、シズクと呼ばれたイニシエーターの剣を持つ両腕が、消えた。

 

「!!」

 

 アンナマリーの両眼が、驚愕に見開かれる。

 

 

 

 

 

 突然だが、大食いの動物と尋ねられて何を思い浮かべるだろうか?

 

 象? クジラ? 間違いではない。種類にもよるが、象は一日に150~250キログラムもの植物を食べて、100リットルもの水を飲む。体重100トンのクジラは、一日に4トンものイカやプランクトンを食べる。

 

 だが自然界には、彼等を遥かに上回る大食漢が存在する。

 

 その大食漢は、アメリカ合衆国南西部からアルゼンチン北部を住処とする小さな鳥である。

 

 ハチドリ。

 

 体重5グラム程度のこの鳥の食事量は一日に10グラムほどである。

 

 たった10グラム。しかしその量たるや、実に体重の2倍。仮に体重が65キログラムの人間が同じ比率で食事を摂ろうとした場合、その量たるやおにぎりで計算すると実に1300000個、カロリーにしておよそ2億3400万キロカロリーである!!

 

 ハチドリがこれほどのエネルギーの摂取を必要とする理由は、他に類を見ないその飛行法にある。

 

 鳥の飛行はほとんどが羽ばたきによる浮遊や、風に乗っての滑空であるが、ハチドリは違う。この鳥は、ヘリコプターのように空中で静止(ホバリング)する事が出来るのだ。何故そんな事が出来るのか? これは、その羽ばたきの早さに起因する。

 

 ハチドリの羽ばたく速度は、一秒間に80回にもなる。この羽ばたきの速さからハチドリが飛ぶと虫のようなぶんぶんという音が響き渡り、それがハチドリという名前の由来でもある。それほどの運動を行うが故に、莫大なカロリーが必要になるのだ。

 

 ……もし、全長6センチメートルほどしかないこの鳥が人間と同じ大きさであったのなら、その羽ばたきの速度は。

 

 

 

 

 

 チカッ。

 

 煌めきが走って、アンナマリーが纏う無敵の鎧に無数の線が走った。目に見えない超高速の斬撃によって、切り裂かれた跡だ。

 

「ゴフッ……!! モ……モデル・ハミングバード……ハチドリの……イニシ……エーター……!!」

 

 血を吐いて、鎧の裂け目から噴き出た鮮血で全身を真っ赤に染めたアンナマリーは、自分の血の海に倒れ沈んだ。

 



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第28話 少女達の戦場(中編)

 

 強烈な蹴りで延珠を壁にめり込ませたイニシエーターは、これで脅威を完全に排除できたと判断したのだろう。恐らくはエックスと交戦中のウーパールーパーのイニシエーターを援護する為に、くるりと背を向ける。

 

 が、三歩も進まない内にその足が止まった。

 

「何処へ行く? まだ終わっておらぬぞ?」

 

 壁に叩き付けて、衝撃の逃げ場の無い状態から必殺の蹴りを叩き込んで仕留めた筈の延珠は、しかし何事も無く立ち上がってきていた。

 

 イニシエーターの表情は変わらなかったが、瞳が僅かに大きく見開かれた。これは穏やかな驚きの反応である。

 

「凄い脚力だな。明らかに妾よりも強い」

 

「……」

 

 今度は、イニシエーターの視線が僅かに左右へブレる。これは戸惑いの反応だ。

 

「今、お主が何を考えているか当ててみせよう。その脚力で蹴りを叩き込んだのに、どうして倒せない? ……で、あろう?」

 

 延珠の言葉が終わるか終わらないかという所で、イニシエーターは自慢の脚力に物言わせて再び突貫してくる。そのスピードを乗せて発射される、必殺の蹴り。まともに当たれば人間の頭蓋など容易く、熟れた果実を石畳に落としたかの如く爆ぜさせるであろうキック。先程までの蹴りの応酬では延珠を終始圧倒していた恐るべき攻撃である。

 

 しかし。

 

「シッ!!」

 

 今度は、延珠の繰り出した蹴りとぶつかって、弾く事が出来ずに止められた。

 

「……」

 

 イニシエーターは相変わらず無言だが、先程と同じように瞳が大きくなった。再び蹴りを繰り出すが、まるでビデオのリプレイのように延珠の蹴りと激突し、吹っ飛ばす事は出来ずに止められてしまった。

 

 何故!? 先程までは、明らかに自分が押していたのに。

 

 無表情ではあるが、今度は明らかに分かるほどの動揺の所作を見せるイニシエーター。延珠はにやりと笑って返す。

 

「確かにお主の脚力は妾よりも上で、蹴りの速度も速い……が、それだけだ。攻撃に移る前の動きにはクセがあり、蹴りの軌道は大振りでフォームも力任せの無駄だらけ。力も分散する。対して妾の蹴りは、小さく鋭く、最短距離を走る。だから、脚力の差を埋める事が出来るのだ……もし、お主が妾と同じように技術を使っていたのなら……恐らく妾は立ち上がれなかったであろうな」

 

「……!!」

 

 その言葉を理解出来たかどうかは定かではないが、ともかくイニシエーターは次の攻撃に移った。回し蹴り。

 

 だがそれよりも速く。

 

「シッ!!」

 

 延珠の上段蹴りが、イニシエーターの顔面を打っていた。

 

 イニシエーターは白目を剥いて、ひとたまりもなく崩れ落ちる。

 

 呪われた子供たちは保菌するガストレアウィルスの恩恵によって超人的な身体能力・再生能力を有するが、肉体の構造それ自体は(綾耶のような例外もいるが)基本的に人間と同じだ。つまり急所の位置も同じなら、その急所にダメージを受けた際の反応も同じ。延珠の蹴りの威力はイニシエーターの脳を揺さぶり、典型的な脳震盪の症状を作り出して昏倒させたのだ。

 

「ふうっ」

 

 大きく息を吐いた延珠は、口元の血を拭いつつ前に訓練でソニアが言っていた事を思い出していた。

 

『いい、延珠ちゃん? 私達イニシエーターは共通して高い身体能力と再生能力、そしてモデル動物に由来する固有能力を持っているけど、それだけだと単なる劣化ガストレアか良くてガストレアのレプリカでしかないわ』

 

 ソニアのその意見は、確かに一つの正論である。例えば延珠は兎の因子により強大な脚力を持っているが、同じモデルを持つモデル・ラビットのガストレアならば同等以上の脚力を持っているのである。つまり単純なスペックだけでぶつかり合えば、良くて五分の勝負にしかならない。

 

 ならばどうして、呪われた子供たちが勝つ事が出来るのか? それは、彼女達が人間だからだ。

 

『超人の身体能力を活かした技か……ガストレアの弱点となるバラニウムの武器か……あるいは固有能力を応用する知恵……それらの人間しか持ち得ないプラスアルファを上乗せするから、ガストレアに勝てるの。ガストレアウィルスがもたらす生物としての超スペックと、人間の技術。その組み合わせこそが、イニシエーターの最強の戦闘スタイルなのよ』

 

 綾耶は象の鼻が持つ流体の吸引能力を応用し、切断・防御・飛翔・衝撃波の発生までやってのける。

 

 ティナはフクロウの視力を狙撃手としての能力に転用し、しかも機械化兵士としての能力をも併せ持っている。

 

 ソニアはデンキウナギの発電能力から電磁石のように磁力を作り出し、金属を自在に操り、磁場を地磁気とシンクロさせて地球規模での天変地異すらも引き起こす事が出来る。

 

 ならば延珠は?

 

 答えは、簡単だった。

 

 彼女は天童流戦闘術の使い手である蓮太郎のパートナーであり、彼の戦い振りを誰より近くで誰より多く目の当たりにしている。

 

 そのやり取り以来、見様見真似ながら天童流の蹴り技を練習していたが……それが今回、延珠を助けた。そもそも格闘技とは、爪も牙も持たない生物としては弱者の部類に位置する人間が、その弱さを補う為に生み出したもの。ならば強者であるイニシエーターがそれを使えばどうなるのか? たった今の攻防が、その答えだった。

 

「さて、エックスを助けねば……」

 

 彼女が戦っていたイニシエーターは、手足が千切れても生えてくるような強力な再生能力を持っていた。そしてグチャグチャに千切られたような傷よりも、すぱっと綺麗に切れた傷の方が回復は早い。刀剣のような鉤爪による”斬る”攻撃を主体とするエックスには、不利な相手だ。

 

 加勢すべく延珠が振り返ったそこには……

 

「……少し、苦戦した? 延珠……」

 

 余裕の顔で、相対していたイニシエーターにチョークスリーパーを掛けているエックスの姿があった。首を締め上げられているウーパールーパーのイニシエーターは白目を剥いて口からは泡を噴いて、失禁している。落ちていると、一目で分かった。

 

 エックスが腕を解くと、イニシエーターは糸が切れたマリオネットのように倒れて床に転がった。

 

「う、うむ……」

 

 意外な結果に、延珠は少し圧倒されているようだった。

 

「エックス、お主こそもっと苦戦していると思ったが……」

 

「……別に。高い再生能力を持った敵との戦いは、初めてじゃないから……」

 

 エックスの戦法も、延珠と同じでイニシエーターの肉体の構造が基本的に人間と同じであるという点を衝いたものだった。

 

 どんなに傷が治っても、脳に血が行かなければ意識は飛ぶ。頭や脊髄を破壊されても再生した時点でエックスはこの相手を殺害する事を諦め、無力化する方に頭を切り換えたのだ。

 

「延珠、手伝って」

 

「ん? 何をだ?」

 

「こいつらが目を覚ましてまた襲ってこられたら面倒だから……関節を全部外しておく」

 

 言いながらもエックスは手際良く、イニシエーターの手足を引っ張ってごきごきと音を立てさせる。思わず、延珠は体をぶるっと震わせた。

 

 

 

 

 

 

 

「思ったより手強かったけど、最後はあっけなかったわね……行くわよ、シズク……シズク?」

 

 倒れたアンナマリーを一瞥して、ハミングバードはこの場を立ち去ろうとしたがしかし、彼女のイニシエーターは剣を構えたまま警戒態勢を解いていなかった。

 

 アンナマリーの心臓めがけて、突きを繰り出すハチドリのイニシエーター・シズク。するとアンナマリーはバネ仕掛けのように跳ね起きてすんでの所で回避。剣は教会の床に突き刺さっただけだった。

 

「!!」

 

 思わず、ハミングバードは数歩後退って身構える。

 

「い、いくらバラニウムの武器でなかったとは言え、あれだけ斬られたのに生きているなんて……」

 

「まぁ、確かに普通に攻撃を受けたのでは流石の私もやばかったけどね……でも、私は未知の相手と戦う時は、常に再生強化の能力を発動しておくようにしてるの」

 

「さ、再生強化……?」

 

「そう、モデル・プラナリアの再生能力にモデル・アホロートルとモデル・スターフィッシュ……つまり、ウーパールーパーとヒトデね。その、再生能力に優れたモデル動物の特性を上乗せしてるのよ」

 

 アンナマリーはモデル・シースラグ、ウミウシのイニシエーター。その固有能力は、他の生物の細胞を自らの中に取り込む事でその生物が持っていた能力を自分が使えるようになるというもの。アンナマリーは自分が能力を使える生物の種類は軽く1000を越えると豪語していたが……それは、嘘ではないらしい。

 

 しかし、ハミングバードは驚きながらもまだ慌ててはいなかった。

 

「ふん……じゃあ、シズク。今度はミリ単位で切り刻みなさい。二度と再生できないぐらいに」

 

 主からの命を受けて、ハチドリのイニシエーターはアンナマリーへと突進、斬り掛かる。

 

 モデル・ハミングバードの特性は超高速の羽ばたきを可能とするその瞬発力。モデル生物はこれを滞空をも可能とする浮力・推進力として用いるが、このイニシエーターはそれを攻撃へと転化し、秒間数百発にもなろうかという超連続斬撃として繰り出してくる。

 

 ただ、速い。シンプルではあるがそれ故に回避も防御も絶対に不可能な連続攻撃。

 

 先程はアンナマリーも初見であった事もあってまともに喰らったが……今回は、数百という斬撃を全てかわしきった。

 

「……!!」

 

「なっ!?」

 

 ハチドリのイニシエーターとハミングバードは、揃って驚きの表情を見せる。

 

 回避も防御も不可能な筈の斬撃を、避けられた!! アンナマリーは今度はかすり傷一つ負ってはいなかった。

 

「くっ……も、もう一度よ!!」

 

 プロモーターの指示に従い、シズクは再び超高速斬撃を放ちはするものの、結果は同じ。アンナマリーは全ての攻撃をしかも危なげなく避けた。マグレではない。

 

「そんな……どうやって……!!」

 

「モデル・ドラゴンフライ、トンボの複眼による動態視力プラスモデル・スクイラァ、シャコの視力で攻撃を見切り!!」

 

 昆虫の複眼はピントが一定の為に殆どのものがぼやけて見えるが、個眼の一つ一つが少しずつ違う方向を向いている為、どの方向にどれぐらいの速さで動いているかがすぐに分かる。それは視力を捨てる代わりに発達した動態視力。

 

 対してシャコの眼は、紫外線・赤外線・電波すらも見えているという説まである。更には自然光に加えて、デジタル技術に使われる円偏光の方向すらも全て捉える事が出来る。

 

 その二つの組み合わせが、どんなに速い攻撃であろうとその動きの全てを手に取るように把握して。

 

「モデル・コックローチ、ゴキブリの瞬発力に、モデル・スパイダー、アシダカグモとモデル・ワーフローチ、フナムシの瞬発力を上乗せしてそれをかわす!!」

 

 ゴキブリの瞬発力は、もし人間と同サイズであったのならば初速から時速320キロ……つまり、新幹線並のスピードを出す事ができる。そしてアシダカグモは、そのゴキブリを走って捕らえる程に足が速い。フナムシに至っては、更にその数倍のスピードを持っている。この3つの高速生物の特性の重ね合わせがもたらす超体術の前には、どんな攻撃も当たらない。

 

 どんな攻撃も見切る眼と、どんな攻撃もかわすスピード。およそ回避に於いては無敵と言って良い組み合わせだが……しかし、アンナマリーのこの能力には一つだけ弱点があった。

 

「オ……オエーーーー……」

 

 突然うずくまると、盛大に嘔吐するアンナマリー。

 

 トンボの複眼とシャコの視力を組み合わせた視界など、どう説明すれば良いのか分からないほど凄いものがあるだろう。その視界で、ジェットコースターも真っ青なスピードで動くのだ。酔うのは当たり前である。アンナマリーは最低限の防御手段としてモデル・キャット、猫の三半規管の能力を発現させていたが……それでも、キツかったようだ。

 

 勝機!!

 

 隙だらけの姿を見て、そう判断したハチドリのイニシエーターは未だゲロゲロ吐いているアンナマリーの背後から襲い掛かるが……

 

「違う、シズク!! それは……!!」

 

 ハミングバードが制止するが、遅かった。

 

 アンナマリーの背中から服を突き破って無数の触手が飛び出して、シズクの体をがんじがらめに絡め取ってしまった。ハチドリのイニシエーターは何とか脱出しようともがくが、頭足類のような触腕はびくともしなかった。

 

「油断したわね」

 

 すくっと、口元の吐瀉物を拭いながらアンナマリーが立ち上がる。

 

「どんな凄い攻撃でも、それを出させなければ問題は無いわね」

 

 イニシエーターに限らず、どんな達人であろうとも初めて見る攻撃の前では必ず一瞬、反応が遅れる。所謂“初見殺し”というものだが、そこへ行くとアンナマリーはどんなモデル生物の能力を持っているのか、相手には知る術が無いので、常に相手の不意を衝ける。それが彼女の強みの一つでもあるのだ。

 

 話している間にもシズクは体をばたつかせて脱出を試みているが、やはり触腕の拘束は緩まない。

 

「モデル・オクトパス+モデル・スクイード、タコとイカの触手。イニシエーターがどんなに凄い力を持っていても、体の作りは人間と同じだから……関節を取れば動かせないわ」

 

 アンナマリーはそう言うと、触手の一本をシズクの首に回して締め上げ、気絶させてしまった。これはエックスがウーパールーパーのイニシエーターに用いたのと同じ攻略法である。アンナマリーとエックスはどちらもルインのイニシエーターであり、ルイン達から様々な能力を持ったイニシエーターとの戦闘を想定し、訓練を受けているのだ。

 

「な……!!」

 

 絶対の自信を持っていた自分の道具をいとも容易く攻略され、ハミングバードの表情から余裕が消えて動揺が取って代わる。

 

 アンナマリーは触手を器用に使ってシズクの体を丁寧に床へと下ろした。そうして、触手は彼女の背中へと吸い込まれて引っ込む。

 

「呪われた子供たちは同胞、姉妹同然だから出来るだけ傷付けないようにしたけど……あなたはそうは行かないわよ。その姉妹を使い捨ての道具みたいに使ったのだから……覚悟は、出来てるわよね?」

 

「くっ……!! 死滅都市の徘徊者(ネクロポリス・ストライダー)!!」

 

 ハミングバードの背後から数個のタイヤが現れ、それらはひとりでに回転しながらアンナマリーへと向かっていく。これはティナのシェンフィールドと同じ、BMIによって操られる遠隔操作モジュールだ。タイヤはその側面から刃が飛び出し、回転ノコギリのようにアンナマリーへと殺到する。

 

 が、アンナマリーは事も無げに全てのタイヤを殴って砕いてしまった。

 

「さっきと同じモデル・スクイラァ、シャコのパンチよ。シャコのパンチは蟹の甲殻や貝殻を叩き割り、ダイバーの指を折り、水槽に穴を空け、22口径の拳銃にすら匹敵するほど強力と言われているわ。ほんの15センチほどのエビが、しかも水中でこの威力。ならば、人間大で水の抵抗も無く、その上ガストレアウィルスによる強化もあれば……こんな玩具を壊すなんて簡単な事よ」

 

「そ、そんな……」

 

「さぁ、覚悟は良いかしら?」

 

 一歩、アンナマリーが踏み出す。それが限界だった。

 

 イニシエーターも、機械化兵士としての装備も全てが通用しなかったハミングバードの心は、既に完全に折られていた。背中を見せて、まさに脱兎の如く逃げ出そうとする。

 

 が、アンナマリーに回り込まれてしまった。先程と同じ、ゴキブリとアシダカグモとフナムシの瞬発力を重合させた超高速移動である。そしてアンナマリーの背中から伸びた触腕によって、手足を拘束されてしまう。

 

 磔にされるように、両手足を伸ばされて拘束されたハミングバード。ガタガタと震えて歯が鳴り、顔は汗と涙と鼻水と涎でグシャグシャになり、股間からは盛大に水音が鳴る。

 

「た、助け……!!」

 

「ダメよ。私達を殺しに来たのに……自分が殺されそうになったら助けてくれなんて……それは、虫が良すぎるでしょう? それに……あなたは五翔会……マスター・ベネトナーシュだけではなくルイン様達全員の敵だから……ルイン様達と、私達の未来の障害となる者は……全て、この私が殺すのよ」

 

 アンナマリーのその言葉が死刑宣告だった。

 

 ズン、と丈夫な作りの床が陥没する。ハミングバードを拘束するのに使っている余りである数本の触腕と、両足で踏み込む。しかもアンナマリーの両脚はモデル・グラスホッパー、バッタの脚力で強化されていた。

 

 その踏み込みからモデル・スネイル、ウロコフネタマガイの鉄の鱗にモデル・ウィービルとモデル・クラブ、クロカタゾウムシの甲皮とカニの甲殻の硬さを掛け合わせた文字通りの鉄拳を!!

 

 ゴキブリとアシダカグモとフナムシの瞬発力を重ね合わせた速さに乗せて!!

 

 放たれる、シャコのパンチ!!

 

 有り得ないその威力の前に、ハミングバードの肉体は跡形も無く、数滴の血を残してこの世から消え失せた。

 

「ふう……結構手こずってしまったわね。さて、後は……?」

 

 アンナマリーは意識を失ったシズクの体をひょいとおんぶするとモデル・キャット、猫の聴覚とモデル・ウルフ、狼の嗅覚で状況を把握しようとする。ほんの数秒で、膨大な情報が彼女の脳に届いた。

 

「……外、か」

 

 

 

 

 

 

 

 教会の外では綾耶、ティナ、夏世、ソニアの4人がそれぞれ背中合わせに円陣を組みつつ、警戒の構えを取っていた。

 

「綾耶さん……誰も、居ないようですが……」

 

 腰溜めにショットガンを構えながら、夏世が言った。

 

 夜の闇があるとは言え、ここは見晴らし自体は良い。気付かれずに近付いてくるなどまず以て不可能な筈。他に可能性としては地面を掘って進んでくるぐらいだが……だとするなら振動がある筈。それを捉え損なうほど、夏世は未熟ではない。

 

 だが……

 

 自分で言っておいて何だが、誰も居ないという言葉は撤回すべきのようだ。

 

 この一帯には、言い様の無い殺気が充満している。姿は見えないが……

 

「確かに、居るわね」

 

 表情を厳しくしたソニアが、言った。綾耶も、頷く。

 

「ティナさん、油断しないで」

 

「ええ、分かっています」

 

 警戒態勢を全員が取った事を確認すると綾耶はもう一つ頷き、じっと前方を睨み据える。

 

「さぁ……いい加減出て来たらどうです? 相手になってあげますから」

 



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第29話 少女達の戦場(後編)

 

 姿は、見えない。

 

 だが、気配は感じる。

 

 そしてそんな曖昧なものよりずっと確かな感覚で、綾耶とソニアは敵の接近を察知していた。

 

 綾耶の両腕はガストレアウィルスの影響で象の鼻のように変異していて、空気や水といった流動する物体を吸い上げ圧力を掛けて放出する機能がある。その能力から、彼女は腕で空気の流動を感じ取って視覚に頼らず周囲の状況を完璧に把握する。

 

 ソニアはデンキウナギの他にもシビレエイやデンキナマズといった発電魚がそうであるように微弱な電磁波を周囲に放ち、その反響を感じ取って生身のレーダーとして定位を行う力がある。

 

「夏世ちゃん、銃はしっかり構えていて」

 

「ティナ、一瞬も気を抜いちゃダメよ……」

 

 油断無く身構えつつ、二人は互いの右隣に立つイニシエーターへと注意を促す。

 

 見えざる敵は、すぐそこまで迫っている。

 

 敵の位置は……!!

 

「私の後……!!」

 

「そこだ!!」

 

 ソニアが叫ぶ声に先んじて、跳躍した綾耶の蹴りが空間に繰り出されていた。

 

 そして、本来なら何も無い所を素通りする筈のキックは、ソニアのすぐ後ろ1メートルほどの位置で明らかに何かにぶつかったような動きを見せて、綾耶はその反動で空中で一回転し、着地。同時に、綾耶が蹴ったそこからは景色から溶け出すようにして、一人の少女が姿を見せる。

 

 先程、エックスと延珠が教会内で交戦した二人のイニシエーターと同じ戦闘服を着ていて、真紅の両眼からやはり彼女もイニシエーターだと分かる。だがその瞳は意思の光を宿しておらず、無表情も合わさってまるでロボットかマネキン人形のような印象を綾耶は受けた。

 

「え、えっと……出来れば見逃して欲しいんだけど……ダメ、だよね?」

 

 眼鏡を掛け直しながらダメ元でそう言ってみるが、返事は言葉ではなく攻撃だった。

 

 ただし、それはナイフや刀、あるいは銃弾でもなく。

 

「っ、触手!?」

 

 イニシエーターの背中から服を突き破って頭足類のような数本の触手が生えて、それらが鞭のようにしなりながら綾耶へと襲い掛かってくる。

 

 その数と不規則な動きは、視覚では捉えきれない。

 

 だが綾耶は視覚に頼らない。

 

 ほんの僅かな隙間でしかない安全地帯に滑り込むように体を動かして全ての攻撃を避けると、触手の死角となるイニシエーターの眼前へと肉迫。そこから放たれるのは、最大の陸上動物である象の因子がもたらすパワーを存分に乗せた、必殺のパンチ。

 

 タイミング・間合い共に完璧。イニシエーターの胸の急所に拳の鉄槌が突き刺さる。そこを打たれては如何に再生する呪われた子供たちでも、しばらくは激痛と呼吸困難で確実に戦闘不能になる筈。それが綾耶の狙いでもあったのだが……

 

 しかし、イニシエーターは威力に押されて数歩ばかりは後退ったものの、まるで応えていないかのように攻撃を再開してきた。

 

「これは……!?」

 

 一瞬、綾耶が戸惑ったように動きを止める。これはソニアや夏世には異様なタフさに驚いての反応に見えた……が、実際は違っていた。

 

 手応えが、おかしい。綾耶のパンチはガストレアであろうと、ステージⅠ程度なら一撃の下に粉砕する。だからイニシエーターであろうと人間を殴ったからには、骨の砕ける手応えが伝わってくる筈なのだが……それが、無かった。代わりに伝わってきたのは……まるで大型トラックに使われるタイヤをブッ叩いたような、弾力のある繊維がぎゅうぎゅうの高密度に詰まった物体の感触だった。

 

「綾耶さん、危ない!!」

 

 僅かに反応が遅れた綾耶は危なくイニシエーターの触手に掴まりそうになったが、ティナの援護射撃によってイニシエーターが後方に飛び退いた事で辛くも難を逃れる形になった。

 

「ありがとう、ティナちゃん」

 

「礼には及びません……でも、中々手強いみたいですね」

 

「うん……」

 

「綾耶さん、あの触手……彼女は恐らくモデル・スクイード、イカの因子を持つ呪われた子供たちです」

 

 明晰な頭脳を持つ夏世が、そう分析する。

 

「触手は分かるけど……じゃあ、最初に透明になってたのは?」

 

「コウイカの仲間であるミナミハナイカは、皮膚の中に1平方ミリメートル当たり200個もの色素胞を持っていて、それらを収縮させて体色を変化させ、海底や海藻に擬態します。景色に溶け込む透明化は、その能力の応用でしょう」

 

 ソニアの疑問にも、夏世は即答してみせた。

 

「夏世ちゃん、実はさっき僕が彼女を殴った時……骨が無いみたいな異様な手応えを感じたんだけど……それも、イカの特性なのかな……?」

 

「……恐らくは」

 

 綾耶の問いを受けてほんの数瞬だけ黙考すると、夏世が頷く。

 

「触手がそうであるように、彼女は綾耶さんと同じくガストレアウィルスの侵食によって肉体が変異しているタイプのイニシエーター。パワー特化型の綾耶さんのパンチをまともに受けてびくともしないという事は……うん、多分彼女には本当に骨が無いんでしょう」

 

「……ほ、骨が無いって……じゃあ、どうやって立ってるんですか?」

 

「簡単ですよ、ティナさん。筋肉だけで体を支えてるんです」

 

「……有り得るの? そんな事が……」

 

「有り得ないとも言い切れませんよ? 前に読んだフューチャー・イズ・ワイルドって本では、人類が滅んだ後の2億年後の世界の地上では脊椎動物が絶滅していて、それに取って代わる形で無脊椎動物が地上に進出、触手の筋肉を歩行が出来る程に発達させた8メートルもある巨大イカが森を歩いていると考察されてます。元々、タコやイカといった軟体動物は、全身が複雑に絡み合った筋肉の塊みたいな生物ですから……ガストレアウィルスによってその特性が強化されているとしたら、骨格を持たない体も……十分有り得ます」

 

「だとすると、こりゃ相当厄介だね」

 

 綾耶が、そう言って締め括る。

 

 骨格を持たないという事は、まず関節技の類は全てが無効。打撃も、分厚い筋肉に衝撃を吸収・分散されてしまって効果薄。締めによる攻撃も簡単に抜けられてしまうだろうし、投げてもやはり衝撃を散らされて有効打には成り得ないだろう。それどころか重心をズラされて、投げそのものが不発に終わる可能性もある。

 

 ならば斬るか突くか、あるいは銃撃だが……それぐらいは相手も想定しているだろう。上手く決まるとは思えない。

 

 では、どうするか?

 

「私がやろうか?」

 

 ソニアが一歩前に出る。

 

 いくら超高密度・単位面積当たりの仕事量が破格の筋肉であっても、構造と仕組みそれ自体は人間と同じ。活動電位が流れればその部位の筋肉が収縮する。ならばソニアの電力は、スタンガンのように対象の筋肉を麻痺させて、無力化するのにうってつけであった。

 

 だが……

 

「お姉さん……!!」

 

 心配半分、咎めるのが半分という感じでティナが言って。

 

「大丈夫、僕に任せて」

 

 ずい、と綾耶が前に出る。

 

 ソニアの侵食率は既に限界間近。力を無駄遣いさせる訳にはいかない。ソニアの為にも、ティナの為にも。

 

「綾耶さん、気をつけて下さい。モデル生物がイカだとすれば……バラニウム武器で攻撃しない限り、手足や触手が再生するかも……私が、援護します」

 

 象の因子によるパワーを活かした打撃が決定打にならない以上、綾耶の主力武器は超圧縮した空気のカッターによる斬撃。だが、自慢の見えない刃物は強力ではあるがバラニウムの武器ではないので、余程破壊的な損害を与えない限りガストレアや呪われた子供たちが相手では決定打とはならない。これまで綾耶はまさにその破壊的なダメージを与えてのオーバーキルで問題を解決してきたが、ここへきて天敵とも言える敵が現れた。

 

 骨格を持たない体の前に打撃は効果薄、斬撃も高い生命力・再生力で封じられる。

 

 ならば夏世の援護こそが勝負の鍵、と言えるが……

 

「いや、大丈夫。夏世ちゃんはソニアさんを衛って」

 

「でも、一人では……」

 

「……突然だけど、夏世ちゃんはパソコンとか家電を買ったら、取り敢えずテキトーに弄って体感で操作を覚えるタイプ? それとも、説明書をじっくり読んでから操作するタイプ?」

 

「え?」

 

 夏世の言葉を遮り、唐突に質問する綾耶。脈絡の無いいきなりの問いに、イルカのイニシエーターは眼を丸くする。

 

「どっち?」

 

「え、ええ……私は、説明書を見てから操作するタイプですけど……」

 

「ティナちゃんと、ソニアさんは?」

 

「わ、私も説明書を読んでから使うタイプです」

 

「私は体感で操作を覚えるタイプね。特に電化製品は、一度電気を流せば大体構造と機能が分かるから」

 

 ティナとソニアもそれぞれコメントする。

 

 ここまで聞いて、大体綾耶が何を言いたいのか。3人とも分かり掛けてきた。

 

「僕も、説明書を読んでから操作するタイプでね。期間は短いとは言え、しっかり練習してから使いたかったんだけど……」

 

 すっと、綾耶が両手を掲げる。

 

「そうも、言ってられないよね!!」

 

 吼えた、その瞬間。綾耶の修道服の両袖が、爆ぜた。

 

 露わになった彼女の両前腕と拳が纏うのは闇よりも濃く月のように冷たい、紛れもない超バラニウムの輝きを持った手甲。

 

「バラニウムの、籠手(ガントレット)……!!」

 

 思わず、夏世が息を呑む。

 

「……一見しただけだけど、凄い精度ね……そんな武器を作れる人となると……」

 

「ドクター室戸……!!」

 

 ソニアとティナのコメントに、綾耶は頷く。

 

「そう。これは今朝、菫先生にもらったばかりなんです」

 

 

 

 

 

 

 

『先生、この籠手は……』

 

『今日完成したばかりの、君の為の武器だ。二日後の決戦に臨む君へ……私からの、ささやかな餞別だよ』

 

 試しに装着した籠手は、大きくも小さくもなくあつらえた様に綾耶の腕にぴったりだった。

 

『でも……良いんですか?』

 

『ん?』

 

『先生は、僕達があまりに強くなる事には反対だったのでは? だからゾーンに至る前の成長限界だって、これ以上強くなる必要がない神様からのお達しだって言ってたじゃないですか』

 

 四賢人の一人はふっと微笑し、優しい眼で綾耶を見詰める。

 

『他の呪われた子供たちであったのなら、武器を造って渡したりしないよ。綾耶ちゃん、君だからこそだ』

 

 長い間陽光を浴びず、病的なほど色白な手がぬっと伸びて、しかし丁寧に綾耶の頭を撫で回した。

 

『君ならきっと私の武器を正しく使って、聖天子様を、延珠ちゃんを、このエリアの全ての人達を衛ってくれると信じているからこそ託すんだ。人の悪意を受けて、差別されても。誰かに裏切られても。大切な人達を奪われても。それでも、その人達を衛ってくれる本当に優しくて強い子だと思うから、これを渡すんだ』

 

『……先生』

 

『ん?』

 

『約束します。僕は決して、先生の気持ちを裏切らない。先生がくれたこの力を僕は……聖天子様と、僕の友達と、このエリアに生きる全ての人を衛る為に使う事を、誓います!!』

 

 

 

 

 

 

 

 そして今、約束を果たす最初の機会が訪れた。

 

 綾耶は空手で言う中段に構える。両腕に装着されたバラニウムの籠手はその動きに連動するようにして重厚な音を立てて変形し、肘の部分にロケットエンジンの噴射口のようにも見える機構が顔を出した。

 

 

 

 IP序列番外位・将城綾耶専用装備、超バラニウム製対ガストレア噴射籠手『バタリング・ラム』起動。

 

 

 

 綾耶の戦闘準備が整ったのを見計らったように、敵イニシエーターも体勢を立て直した。パワー特化型イニシエーターの中でも更に上位にランクされるであろう腕力を秘めた両腕と、恐らくは同等以上のパワーを秘めた6本もの触腕を水車のように回しながら、突貫してくる。

 

 敵にしてみれば、これまでの攻防や事前に行われていたであろうブリーフィングから綾耶の攻撃は打撃にせよ斬撃にせよ致命傷にはならないと踏んでいるから、思い切って攻めてこれるのだろう。その判断は、間違いではない。

 

 これまでは。

 

 空気の流れを読み取り、全ての攻撃を感じ取ってかわす。避けきれないものは、弧を描くように腕を回して捌く。

 

 再び、肉迫。

 

 ここまでは、先程と同じ流れ。ついさっきは綾耶の打撃が決まるものの、骨格を持たないこのイニシエーターには有効打とは成り得なかった。

 

 違いとなるのは、起動状態となった綾耶の専用装備。その機能こそが、結果をも分ける。

 

 バン!!

 

 何かが破裂するような爆音。一刹那遅れて、肘部分の噴射口が膨大な空気を吐き出す。その瞬間、夏世にも、ティナにも、ソニアにも、綾耶の肘から先が消えたように見えた。

 

 ロケットエンジンのような噴出口からもたらされた爆発的な加速を得た綾耶の拳は、高い練度を持ったイニシエーターの眼にすら映らない速さでまさしく小さな破城鎚(バタリング・ラム)と化して、鈍い音を立ててイニシエーターの胸に突き刺さった。

 

 数秒間、イニシエーターは棒立ちの状態で、綾耶は拳を叩き込んだ状態のままで膠着状態となる。

 

 先に、変化を見せたのはイニシエーターだった。

 

 口元から、どす黒い液体が垂れる。イカのスミだ。そのまま血泡のようにぶくぶくと空気が混じって、イニシエーターは仰向けに倒れた。

 

「あ、相手が打撃に強い耐性を持っていて有効打にならないなら……有効打になるぐらい強力な打撃を入れればいい、ですか……凄い力業ですね」

 

 相手を倒すのに100の威力が要るが、相手は打撃の威力を九割殺してしまう。つまり100の力で攻撃しても10の威力しか伝わらない。ならばどうするか? 答えは簡単、1000の威力を叩き込めば良い。元98位にして機械化兵士としての力を持つティナをして、ドン引きさせるに十分な滅茶苦茶な所行であった。

 

「……機能自体は、蓮太郎さんの義手と同じですね」

 

 と、夏世がコメントする。

 

 彼女の分析通り、綾耶の専用装備である『バタリング・ラム』の機能は菫が携わっていた新人類創造計画セクション22と戦術思想を同じくしている。つまり爆発的な加速を生み出し、人の手でガストレアを葬り去るだけの圧倒的な破壊力を実現すること。

 

 蓮太郎は義手に内蔵されたカートリッジを炸裂させる事でその爆速を得ているが、綾耶は籠手の内部に充填した圧縮空気を開放する事で、同様の結果を実現している。

 

 ただし『バタリング・ラム』は蓮太郎の義手とは違い、子供で小柄な綾耶にサイズを合わせている事とあくまで着脱可能な『装備』である事から、カートリッジシステムは廃止され、その収納スペースもオミットされている。

 

 ならばどのようにして空気を内部に溜め込むかだが……その課題は、綾耶が本来持つ両腕からの空気の吸引能力によって解決される。

 

 人間である蓮太郎ですら、義手の力を使えばガストレアを一撃で粉砕する破壊力を発揮する。ましてやそれをイニシエーターが、しかもパワー特化型である綾耶が使えばどうなるか。想像したくもない恐ろしい威力を思い描いて、夏世はごくりと唾を呑んだ。

 

 何よりも特筆すべきは。

 

「他の人がそれを身に付けても、只のガントレットとしてしか使えない……腕から空気を吸い込める綾耶さんであるからこそ、その籠手の真価を引き出せる……!! まさに綾耶さんの為だけに造られた、専用の武器……!!」

 

「象の因子によるパワーと、流体を吸い込む力を応用する知恵と、特性を最大限に引き出すバラニウムの専用武器と……それに、綾耶ちゃんは空手も使えるみたいね」

 

「紫帯ですけどね、まだ」

 

 くすっと笑いながら、残心を解いた綾耶が振り返る。うんうんと腕組みしつつ、ソニアは頷いて返した。今の綾耶には考える限り、イニシエーターの最強の戦闘スタイルとなる要素が全て揃っている。しかもそれらの要素は全て相性とバランスが良く、ポテンシャルを最大以上に引き出している。

 

「……今のあなたと戦ったら、私でも危ないかもね」

 

「謙遜は止して下さいよ、ソニアさん。今の僕じゃ戦ったら、多分ソニアさんの楽勝でしょう。大体してソニアさん、前に僕と延珠ちゃんが二人掛かりで戦った時ですら、実力の半分……いや、3分の1も出してはいなかったでしょ?」

 

 肩を竦める綾耶。ソニアもふんと鼻を鳴らす。

 

 そんなやり取りの後、綾耶は大きく息を吐いた。

 

「取り敢えず、襲撃は退けた……と、見て良いですよね」

 

「ええ、そうみたいね」

 

「シェンフィールドでも、周囲に敵影は確認できません」

 

 3人のイニシエーターがそれぞれ、自分の索敵手段から得た情報を報告し合う。綾耶の空気レーダーも、ソニアの微弱電流センサーも、ティナのシェンフィールドも、敵の存在を捉えていない。残る夏世も、彼女の五感に襲撃者の気配は引っ掛からない。

 

 終わった。

 

 誰もが、そう思った。

 

「!?」

 

 異変に気付いたのは、綾耶だった。

 

 ソニアの、すぐ後ろ。空間に、人のカタチが溶け込んでいる様に見えた。ほんの少しだけ、景色が人型にズレているように見えたのだ。

 

 何か、ヤバイ。

 

 全く無根拠の直感だが、綾耶は躊躇わずにそれに従った。掌をソニアへとかざして、吸引能力を発動。あっという間にソニアの体は巨大掃除機に吸い込まれたように綾耶へと引き寄せられる。

 

「え? ちょ、綾耶ちゃ……」

 

 そして、綾耶の判断は正解だった。

 

 さっきまでソニアの頭があった空間を何か(恐らくは刃物)が薙いで、彼女の蒼い髪が十本ばかり切り落とされた。

 

「「なっ!?」」

 

 驚愕しつつも、ティナと夏世は素早くその場から飛び退いて身構える。

 

「ふん……運の良い奴等だ、ギリギリで俺の存在に気付くとはな」

 

 声が響く。それを合図として何も無い、誰も居なかった筈の空間から突如として現れたのは、身長190センチを越える大男だった。

 

「な……何です、この人は……!?」

 

「どうして私のシェンフィールドにも、綾耶さんの空気のレーダーにも、お姉さんの電波センサーにも引っ掛からなかったんですか……?」

 

「……マリオネット・イジェクションね」

 

 ぼそりと、ソニアが言う。3人のイニシエーターの視線が彼女に集中し、大男は「ほう」と感心した表情になった。

 

「知ってるんですか? ソニアさん」

 

「うん。四賢人の一人である、オーストラリアの機械化兵士計画『オベリスク』の責任者であるアーサー・ザナックが開発した機械化兵士としての兵装よ。その能力は、皮膚に埋め込まれたナノマテリアルによる光学迷彩……つまり、透明になる能力ね」

 

「でも、それだけならシェンフィールドを欺けたのは兎も角、綾耶さんやお姉さんが探知できなかった説明が付きませんが……」

 

 妹分の疑問に、ソニアは頷いて返す。

 

「多分……こいつの装備にはオリジナルには無い改良が施されているわね。恐らく、だけど……ノイズを消去するヘッドホンが雑音(ノイズ)と逆位相の音波をぶつけて相殺するように……動く事による空気の揺れを皮膚を微妙に振動させる事でパターンを誤魔化して、綾耶ちゃんのセンサーを無効化したのよ。私の電波センサーで捉えられなかったのも……多分電波を体表で吸収するか、皮膚の方が微弱な電波を発信して、正確に受信できなくした……って所でしょうね」

 

「成る程、流石は元11位だな。博識なだけじゃなく、全てお見通しという訳か」

 

「元11位と知って、私の前に立つとは……それに、さっきから何か感覚がおかしい気がしてるし……MECMも持ってきてるわね」

 

「その……M、ECM……というのは何ですか?」

 

「マグネティック&エレクトリック・カウンター・メイジャー……SR議定書で造られた、ソニアさんの力を無力化する為の装備です」

 

「具体的にはその装置自体が攪乱電磁波を発していて、お姉さんに放電や磁力を使った金属操作を出来なくさせてしまうんです」

 

 ソニアの最大の強みは何と言ってもデンキウナギという極めてレアな電撃生物の特性を活かした放電攻撃と、それを応用して造り出した磁力によって金属を操り、バラニウムの武器を無力化してしまう事。それが封じられてしまうとなると、キツい。

 

 だが、ソニアも含めて他の3名にも動揺は無い。

 

 今回綾耶達にとって、ソニアは戦力ではなく護衛対象。最初から、彼女に頼るつもりはない。

 

 綾耶が天地上下に構え、ティナは二丁拳銃の銃口を男に向け、夏世も同じように腰溜めに構えたショットガンを狙いを男の胸に合わせる。

 

 いくら相手が機械化兵士であろうと、こっちはイニシエーターが3名。しかもその内一人は機械化兵士の力をも併せ持つハイブリッド。まず勝てると見て良い戦力差だが……

 

「おっと……ベタな手だが動くなよ。コイツの命が惜しければな」

 

「あ……かはっ……!!」

 

 男がぐいっと腕を掲げると、一人の少女が首を鷲掴みにされて吊り上げられた。イニシエーター3名の顔に、動揺が走る。

 

「ササナちゃん……!!」

 

 この学校の生徒の一人である呪われた子供たちだ。逃げ遅れて、捕まってしまったのだろう。

 

「俺の名はソードテール。俺の目的は、あくまでソニア・ライアンだけだ。ソイツが大人しく殺されるなら、他のヤツには何もしないと約束しよう」

 

「……言うまでもないと思いますが、耳を貸さないで下さいね、皆さん」

 

 夏世が男、ソードテールの提案を切って捨てる。

 

 モデル・ドルフィンの明晰な頭脳はこの状況でも冴えている。実際、夏世の判断は全く正しい。第一にこのソードテールが約束を守る保証が何処にも無いし、第二に状況から考えて襲撃者達は明らかにこれを反ガストレア団体が起こしたテロにソニアが”巻き込まれた”という形でカモフラージュしようとしている。つまり、ソニアだけを殺すのが目的だったとバレないように、他の子供たちも皆殺しにされる可能性が高い。

 

 第三には、この状況は実はまだ五分以上なのだ。確かに、ササナを人質に取られてはいるが……同時に、ササナを殺したが最後ソードテールは3名のイニシエーターの一斉攻撃に晒される。状況や雰囲気から圧倒的に綾耶達が不利と錯覚しそうではあるが、夏世はそこを誤魔化されてはいなかった。ギリギリのタイミングだったが最初の一撃でソニアを殺せなかった時点で、ソードテールは相当不利になってしまっていたのだ。

 

 とは言え、ササナを犠牲にする事は綾耶にも夏世にも、ティナにも出来ない。ソードテールもササナを殺せない。

 

 行き詰まり状態である。

 

 だが、破局点があった。

 

 この場には、超越者が居た。

 

「……あなた、何をしてるの?」

 

 抑揚の無い、棒読みの合成音のような声が静かに響く。

 

 ソニアの声だ。

 

 同時に、この廃墟を住処としていた野鳥たちが眠りから目覚めて、真夜中だと言うのに何処かへと飛び去っていく。

 

 野生の動物である彼等は、突如として湧き上がった巨大な殺気を敏感に察知して少しでも遠くへ離れるべく行動したのだ。

 

「これは……!!」

 

「あの時と同じ……!!」

 

「お姉さん……!!」

 

 この状況に、3名のイニシエーター達は覚えがあった。ティナと戦った時、戦意を失ったティナに保脇が銃口を向けた時と同じものだ。

 

 あの時もいきなりソニアの殺気が膨れ上がったと思ったら次の瞬間には、保脇の銃を握っていた手がいきなり引き千切られてソニアの手に握られていたが……

 

 ただし、ソードテールは保脇とは違って戦闘経験も豊富であり急激に強くなった殺気に敏感に反応して、反射的な速さで銃をドロウ、銃口がソニアの体に向いた瞬間、引き金を引く。

 

 

 

 パ……

 

 

 

 瞬間、ソニアの両眼が紅く輝き……彼女の視界に映る全てが、静止したように見える。

 

 銃弾は、銃口から出てすぐの位置で止まっている。

 

 綾耶達は、警戒した厳しい表情のままで固まってしまっている。

 

 砂埃ですらもが、舞い上がった位置で動きを止めていた。

 

 より正確には、止まっているのではない。非常にゆっくりと、コマ送りのように。超スローで動いている。

 

 ソニアの体感で、銃弾は秒間1センチぐらいの速度で前進している。綾耶達も、注意深く見ないと分からないが本当に微妙に動いている。砂埃も同じで、僅かずつ形を変えている。

 

 これが以前に、いきなり保脇の腕をもぎ取った手品の正体であり、ティナも知らないソニアの奥の手だった。

 

 元11位、ゾディアックの一角を落とした伝説のイニシエーターの最強能力は放電でも金属操作でもない。

 

 それは、スピード。

 

 ガストレアウィルスによって強化された発電器官によって生み出される膨大な生体電流と、それに耐え得る強靱な神経系。この二つの組み合わせによって全身の筋肉に意思や鍛錬で到達し得る限界を超えた最大収縮を起こし、ソニアはコンマ1秒程度の短時間でしかないが、電光そのものとなる。その速度はマッハにして400を軽く越える超々高速。その加速世界に対応すべくギアを上げた彼女の感覚の前には、万象の一切合切が止まって見えるのも道理であった。

 

 超スローな世界の中でジム・クロウチの「time in a bottle」を口ずさみながら、ソニアは動き出す。

 

 まずは悠々とソードテールの前まで歩いていって、ササナの首を掴んでいる指を一本一本丁寧にへし折りつつ、自由になったササナの体を担いで10メートルも離れた所まで運んで注意深く丁寧に下ろすと、またソードテールの眼前にまで戻って、今度は無造作に手から銃をもぎ取って、ぽいと捨てる。ハンドガンは、空中で数メートルだけ動いた後、その空間に静止した。

 

 更にソニアは既に発射されていた銃弾を側面からチョンとだけつつく。これで、この弾は明後日の方向へと吹っ飛んでいく。

 

 そこから、ソードテールの銃を持っていた手に触れて握り拳を作らせると、肘を曲げさせた後で内側へとぐっと押して拳を顔にめり込ませ、自分で自分を殴るように仕向ける。その後で彼の懐に手を入れてまさぐって、スマートフォンぐらいの大きさの端末を取り出した。これがMECM、これまでソニアの放電や磁力操作を封じていた機械である。彼女はそれをぐしゃりと握り潰して捨ててしまった。

 

 トドメに、懐からサインペンを取り出すとまるで羽子板で負けた相手にそうするようにソードテールの顔中に落書きをして、悠然とした歩みで綾耶達のすぐ傍まで戻る。

 

 そして、能力を解除する。

 

 神経系のギアが雷速から低速へとシフトして、世界が、正常な速度を取り戻す。

 

 

 

 ……ン!!

 

 

 

「ぎゃっ、ぶっ!?」

 

「え? あれ、私……え!?」

 

「これは……あの時と同じ……!!」

 

「な、何が……!?」

 

「い、いやそれよりも……ササナちゃん!!」

 

 この時ばかりは、驚愕は敵も味方も変わらなかった。

 

 首を締め上げられていたササナがいきなり10メートルも離れた位置に瞬間移動していて、ソードテールは握っていた筈の銃をあらぬ方向へと放り出し、更にはその手で自分を殴っていた。おまけにもう一方のササナの首を絞めていた手の指は、全てが折られている。ソニアの胸に着弾する筈だった弾丸は、明後日の方向へとすっ飛んでいった。

 

 パンと銃声が鳴る間に、一体何が起こったのか!? 綾耶にも皆目見当が付かなかったが、しかしいち早く我に返った彼女はササナの傍まで駆け寄ると、友達を自分の背後に庇った。

 

「き、貴様っ……!!」

 

 ソードテールは懐からプラスチック製ナイフを取り出し、ソニアへと投擲しようとするがそれよりも背後からコンクリートの塊が飛んでくるのが早かった。

 

「がっ!!」

 

 後頭部にコンクリートが直撃し、ソードテールはばたりと倒れた。

 

 これは、ソニアの電磁力によるものだ。ここは廃墟。町中ほどではないが、彼女が操れる金属はいくらでもある。特に、倒壊した建物に使われていた構造材などは。

 

 コンクリートがぶるぶると震えて砕け、中に埋め込まれていた鉄骨が姿を見せる。磁力が作用した鉄骨は蛇のように動いて、ソードテールの皮膚を突き破って体の中へと侵入していく。

 

「ぎ……ぎゃ……ああああああああっ!!」

 

 悲鳴が上がる。当然だ、体内に錆び付いた金属が侵入してそれが全身を食い破って進んでいくのだ。その痛みたるやどれほどのものか。綾耶は、反射的にササナの眼と耳を覆った。思わず、ティナと夏世も眼を背けた。

 

 ソニアの前に立つ以上、ソードテールとて全身から金属を取り除いて来ているのだろうが……こうして体内に鉄骨を埋め込んでしまえば関係無い。ましてや、金属操作を封じるMCEMも既に破壊されている。

 

 デンキウナギのイニシエーターがそっと手を上げると、磔のように両腕を左右にぴんと広げられたソードテールの体は地面から10センチほどの高さに浮き上がった。

 

「な、何を……」

 

 磁力によって拘束された体の中で、ソードテールは唯一自由になる口を動かして尋ねた。

 

「……何をする気だ、って?」

 

 ソニアは、くすりと笑みを漏らす。

 

「あなたは、招かれざる客……なら、こちらがさせてもらう処置は一つだけよ」

 

 そうして、一度肘を軽く曲げて何かを押し出すような仕草を見せる。

 

「う、うわああああああああああああああああああっ!!!!」

 

 その動作に連動するようにしてソードテールの体は、ドップラー効果を伴う悲鳴と共にまるでホームランボールのようにすっ飛んで空の彼方へと消えていった。

 

 3人のイニシエーターは、全員が眼を丸くしている。人間があんな風に飛んで、しかも姿が見えなくなる所など彼女達をして初めて見るものだった。これがアニメや漫画なら、見えなくなった所でキラーンと星が輝いているようなシーンだ。

 

 ソニアの言った通り、招かれざる客に対する措置は一つだ。

 

 丁重に、お引き取り願うという訳だ。

 

「大丈夫? ササナちゃん……」

 

「う、うん……あややお姉ちゃん、悪い奴は……」

 

「あいつなら、星になったわ」

 

 と、冗談めかしてソニアが言う。ちなみに、このセリフは間違いではない。ソニアが磁力でソードテールをぶっ飛ばした際の初速は、軽く第一宇宙速度を超えていた。今頃は大気圏を突破して、デブリベルトの中で世界一小さな人工衛星と化して周回軌道に乗っているだろう。

 

 綾耶はササナをまだ自分の背後に置きつつ、周囲を警戒している。空気の揺れは、今の所は不審者の接近を伝えてはいないが……今のソードテールのようなヤツが居たのだ。自分のレーダーとて絶対ではない。油断は出来なかった。

 

 ちらりとティナに視線を送る。シェンフィールドに反応は無し。続いてソニアを見ると、彼女の電磁センサーも同じ結果のようだ。

 

「……機械化兵士は手術の成功率の低さから量産には不向き……それに、イカのイニシエーターのその子を捨て駒の囮に使って攻撃してきた訳だし……もう次は無いと見て良いでしょうね」

 

 少なくとも今日の所は、と付け加えてソニアの眼から赤色が消滅する。

 

 綾耶、ティナ、夏世の3人も頷き合うと力を抑えて、彼女達の瞳も本来の色へと戻った。

 

「あの……お姉さん、すいません。私がお姉さんを衛る筈だったのに……」

 

 申し訳なさそうに、ティナが上目遣いでソニアを見る。

 

 ソニアの侵食率は既に45パーセントを超える超々危険域。そして今回の戦闘で力を使ってしまったから、そこから更に上がってしまっただろう。菫の見立てでは、ソニアが戦闘に耐えられるのは3回が限度だとされている。その内の1回を、早くも使ってしまった。

 

 今日、ソニアの寿命は何日減ったのだろう。十日か、二十日か。

 

 少しでもお姉さんと一緒に居る為に、自分が戦うと。お姉さんには戦わせないと、決めたのに。

 

『私が……不甲斐ないから……!!』

 

 忸怩たる想いからティナが瞳に涙を溜めるが、ソニアはそんな義妹の頭を引っ掴むと、ぐいっと自分の胸に抱き寄せた。

 

「良いのよ。ティナ……私は……あなたから……百年生きても得られないものを、既に貰っているから」

 

 そのまま、ソニアの手がティナのプラチナブランドの髪を優しく撫でていく。それが、限界だった。ティナはそれ以上堪える事が出来ずに、年相応の子供のように泣きじゃくった。

 

『でも……そろそろ、潮時かも知れないわね……』

 

 考えながらソニアはそんな妹分を、泣き止むまでずっと頭を撫でたり背中をさすったりしてやっていた。

 

「綾耶、無事か!!」

 

「延珠ちゃん、エックスさんも……」

 

 教会の中で戦っていた二人が、出て来ていた。

 

「……敵は片付けた。これから、どうする?」

 

「まずは松崎さんと合流して、学校の生徒全員の安全を確認しましょう。欠員が居た場合は教会内や周辺を捜索するよ。みんなには、しばらくはまた下水道で生活してもらう事になるけど……」

 

「……今は、それが最善であろうな」

 

「……異議無し」

 

「私も同意見です」

 

 延珠、エックス、夏世の3名も綾耶に同意。その後、ティナを落ち着かせたソニアと共に松崎と合流。不幸中の幸いと言うべきか、教会の子供たちは全員が無事であった。

 

 ふと、綾耶が顔を上げると既に夜が明け、日が昇っていた。

 

 モノリスの倒壊まで、後一日。

 

 最後の一日が、始まる。

 



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第30話 最後の日

 

 ふわりと、聖居に小さな人影が舞い降りる。

 

 空からの来訪者は、将城綾耶だ。スマートフォンの時計を見ると、6時。何とか時間通りに着けた。彼女はフリーパスで聖居内部を進むと、程なくして目的地である厨房へと辿り着く。

 

「ああ、綾耶ちゃんか」

 

「料理長さん、いつも通りちょっと厨房を使わせて下さいね」

 

 ぺこりと頭を下げ、慣れた様子でエプロンを着けると髪を纏め、台に乗ってティーセットを取り出して紅茶を煎れる。これはもう、すっかり慣れて体に染み付いた日々の習慣だ。明日には二千のガストレアとの戦いが始まるという日であっても、変えられない。

 

「……ところで、余計な事かも知れませんが……料理長さんはご家族の元に帰られないんですか?」

 

 避難用の大深度地下シェルターへの収容率は東京エリア全住民のおよそ30パーセント。つまり単純計算で10人中7人はシェルターに入れないという計算になる。当然、その者達は自衛隊及び民警軍団が作戦に失敗してガストレア軍団のエリア内部への侵入を許した場合、大絶滅によってほぼ確実に死亡する。そうした事情から多くの職場では、必要最低限の人員以外は勤務から外れている。

 

 この厨房も、いつもより人が少ないように見えた。

 

「まぁ、明日になったら死んでるかも知れないんだ。家族や恋人と一緒に過ごして、思い残す事の無いようにしたいって気持ちは……責められないだろう」

 

「料理長さんは……確か、娘さんが居たとお聞きしてますが……」

 

 綾耶がおずおず尋ねるが、料理長はにやっと笑って返した。

 

「俺は料理長。お前等イニシエーターの職場が戦場であるように、この厨房が俺の職場だからな。自分の仕事を、全うするだけさ」

 

 そう言って、調味料の臭いが染み付いた手がぬっと伸びて、綾耶の頭をわしゃわしゃと撫でた。

 

「それに、必要無いだろ? 民警やお前等が、俺達やこのエリアを守ってくれるんだから」

 

 「違うか?」と問われた綾耶はくすぐったそうに体を揺すった。

 

「……いいえ。違いません。僕は必ず、聖天子様も皆さんも守ります」

 

 この言葉は、無根拠の無責任な発言ではない。

 

 これは宣誓であり、宣言だった。絶対に、成し遂げると。

 

 綾耶は幼いが、そうした考えの出来る子であった。それを、料理長も知っている。

 

「生きて帰ってこいよ。フルコースを食べ放題で振る舞ってやるからな」

 

 そんな暖かな声を背中に受け、綾耶はにっこり笑って返すと聖天子の執務室へと移動する。ノックをするといつも通り「どうぞ」と返ってきたが、ドア越しであってもその声に疲労が滲んでいるのが、少女にはハッキリと分かった。無理もない。彼女の主はここ数日間はマスコミへの対応や諸外国との交渉など激務続きで謀殺され、まともな睡眠はおろか、食事すら満足に摂っていないのだから。

 

 だからほんの十分でも、心安らかに過ごしてほしい。これは綾耶の偽らざる本心だった。

 

「聖天子様、お茶が入りました」

 

「ええ……ありがとうございます、綾耶……」

 

 面と向かって、綾耶はぎょっとした。

 

 一瞬、部屋を間違えたかとさえ思った。主の顔は毎日見ているのに、今日は見違えるぐらいに顔色が悪く、髪には艶が無く、目の下には隈がくっきり浮かんでいた。近付くと強めの香水の匂いが鼻を付く。満足に入浴する時間すら無いのだろう。

 

「綾耶……明日はいよいよ決戦の日。今日ぐらいは……自由に過ごして良いのですよ? 私の事は、気にせずに……」

 

「いえ……聖天子様のお側に仕え、お守りする事。これがボ……私の、仕事ですから」

 

 一人称の切り替えが上手く行かない九歳児を見て、若き国家元首は疲れた顔でそれでも優しく笑いかける。

 

「余りかしこまらなくて良いのですよ? ここには私達二人しか居ませんし……」

 

「お気持ちは嬉しく思いますが、公私の区別は疎かにしてはいけないと思いますので……」

 

 やんわりと断りを煎れてくる自分のイニシエーターに、聖天子は「真面目なのですね」と微笑と共に嘆息して、そして綾耶の煎れた紅茶を口に運ぶ。

 

 綾耶は何も言わずに直立不動の姿勢で聖天子のすぐ傍に控えていて、やがてカップが空になったのを見計らうと、少しだけ躊躇った後に口を開いた。

 

「あの、聖天子様……少しお休みになられた方が……お体を壊します。一時間でも30分でも……」

 

「そうも行きません。ほんの僅かの努力が、未来を大きく変えるのです……私は戦う事は出来ませんが……この東京エリアの統治者として、出来る限りの事はしたいのです」

 

 聖天子はそう返して、手元の書類へと視線を動かすが……ちらりと、傍らの少女が自分を見詰める視線に気付いて、困ったように笑った。

 

「では……一時間だけ、仮眠を取る事にします」

 

「ありがとうございます、聖天子様!! では、私は一時間後に起こしに……」

 

 嬉しそうにそう言って退室しようとする綾耶だったが、服の裾をきゅっと摘まれて立ち止まった。

 

「聖天子様?」

 

「一緒に居てもらえませんか? あなたが傍で守ってくれていると思うと、私はとても安心出来ます」

 

 同室で眠りの番を任されるなど、首席補佐官である天童菊之丞ですら許されていない。主からこれほどまでの信頼を得ていると思うと、従者冥利に尽きるものがあって綾耶は胸が熱くなるのを感じた。

 

 ベッドで横になった聖天子は、白磁のように美しくたおやかな手をそっと綾耶へと伸ばす。

 

「綾耶、私が眠るまでで良いですから……手を握って、離さないでいてくれますか?」

 

「はい……」

 

 卵を掴む時のように、綾耶は注意深く左手の掌を主の掌に重ねて支えて、その上から包み込むように右手を乗せる。

 

 聖天子は安心したように笑うと、疲れのせいもあったのだろう、すぐに眠りに落ちて規則正しい寝息を立て始めた。

 

「どうか……今この時だけは、全てを忘れて……お休み下さい」

 

 綾耶は囁くようにそう言って、後は主の眠りを妨げぬよう、下手に身動きして物音を立てたりしないように注意しつつ一時間を過ごした。たった一時間はこんなに長く感じたのは、産まれて9年生きてきて、初めてかも知れなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 東京エリア市街中心部。いつもは時間・曜日を問わず絶える事の無い人並みでごった返している通りも、明日にはモノリスが倒壊しようという瀬戸際にあっては、流石に閑散としたものだ。

 

 そんな通りをぶらりと歩くのは、タンクトップにカーゴパンツというラフな格好をした短髪の少女。序列30位。東京エリア最強のイニシエーターであるモデル・ウルヴァリンのエックスだ。彼女も今日はオフ。決戦を明日に控え、十分に英気を養うべく町へ繰り出したのだが……案の定と言うべきか、飲食店も商店も、殆どの店はシャッターが降りていた。

 

 当てが外れた形になったが、しかし彼女の目当ては別にあった。

 

 きょろきょろと辺りを見渡して、探していた姿を見付ける。

 

 汚れの目立つケープを羽織った少女だ。足下には托鉢用の椀が置いてあって、物乞いであると分かる。顔の造作は整っているが服と同じで肌にも汚れが目立ち、両眼は包帯で痛々しく塞がっている。今の時代、何処のエリアでも見られる姿だ。

 

「……こんにちは」

 

「あ……エックスさん……」

 

 この少女はいつもこの通りで歌っていて、そしてエックスは彼女の歌が好きだった。これまでもよく、歌を聞きにこの通りへ足を運んでいた。

 

 カーゴパンツのポケットから取り出したガマ口を開けると、そのまま逆さに振るエックス。じゃらじゃらと、椀の中で小銭が跳ねてぶつかり合った音が響いた。物乞い少女が、驚いた顔になって次には喜びが取って代わる。

 

「こんなに……? いつも、ありがとうございます」

 

「歌って」

 

 ぶっきらぼうにそう言って、歩道にどっかりと腰を下ろしてあぐらを掻くエックス。本来ならばマナー違反と咎められるべき行為だが、ゴーストタウン一歩手前という様相のこの日だけは、彼女を注意する者も迷惑を被る者も居ない。

 

 物乞い少女はすうっと息を吸い込み、そしてたった一人の観客の為に、歌う。

 

 誰も居ない町に、荘厳で透明なソプラノの歌声が響き、広がって、溶けていく。

 

 エックスは瞑目して、その歌を味わっていた。耳で聞くのではなく、全身全てを使って、感じ取って味わう。それが彼女流の、音楽の楽しみ方だった。

 

 やがて曲が終わって、エックスは眼を開くと立ち上がって、手を叩く。歌い終えた少女は歌手がそうするように、ぺこりと頭を下げた。

 

「……戦いが終わったら、迎えに行くから。妹と一緒に、私達の所に来て」

 

 唐突に、エックスは言った。物乞い少女は分かり易く驚いた顔になって、そして申し訳なさそうな顔になった。

 

「でも……私は眼がこんなですから……連れて行ってもらってもお役には……」

 

「……私達、呪われた子供たちは、みんな姉妹同然。だから、助け合う」

 

 エックスは無表情のままで、まるで確定事項を淡々と報告しているかのようだ。事実、彼女の中では既に二つの確信があった。

 

 一つは、この少女と彼女の妹を自分達の仲間として迎える事。

 

 もう一つは。

 

 ぐっと、両手で握り拳を作る。

 

 シャキーン!!

 

 指の付け根から三対六本の超バラニウムの鉤爪が、エックスの皮膚を破って飛び出した。

 

「あなた達には、未来をあげる」

 

 もう一つは、明日が、未来が、少女達とこの東京エリアに訪れる事だ。

 

 

 

 

 

 

 

 外周区にほど近いアパートの一室。さほど広くもない部屋の中程に置かれた机の上には、分解された銃の部品が並んでいる。

 

 ティナとソニアは向かい合いつつ、お互いに一言も発さずに銃器のメンテナンスを行っていた。

 

 かちゃかちゃと部品が触れた時に鳴る金属音と、メンテナンススプレーのシューッという噴出音以外は、咳一つとして聞こえない。

 

 ティナは全ての部品が完璧に手入れ出来た事を確認すると、スマートフォンのストップウオッチ機能をオンにして目を瞑って愛銃を組み立てていく。彼女の手は少しも躊躇いや戸惑いの動きを見せずに、さながら熟達した職人が手がけた時計の針のように滑らかに動いてほんの十数秒で愛銃を元通りの形に組み立て直してしまった。無論、部品が余っているなどというマヌケなオチもない。

 

 ストップウオッチを止めて表示された時間を見て、ティナはうんと頷く。ほぼ自己ベストと同タイム。腕はナマっていないようだ。これなら、明日の戦いでも十分に戦える。

 

 ふと視線を上げると、ソニアも部品清掃を終えて銃を組み上げる所だった。ただし彼女はティナと違って、手を使わない。ほんの数秒間、瞳を赤熱化させて能力を発動。

 

 デンキウナギの因子による発電能力によって磁力を創り出し、その磁力を銃の部品に作用させて動かし、空中で銃器を組み上げていく。

 

 魔術のようなその技を見るティナの表情は、複雑だ。

 

 ソニアの能力はあくまでも発電。磁力による金属操作はそれを応用しての副次的な能力だ。当然、磁力のオペレートは電気を操るよりも遥かに難しいものがあるだろう。例えるなら、本来ならば徒手で行うべき作業を、わざわざマジックハンドを使って行っているようなものだ。

 

 にも関わらず空中で組み上がっていく部品は、バネやネジの一つ一つまでもがそれぞれ個別の意思を持っているかのように独立してしかも無駄なく動く。

 

 これほどの力と技術を身に付ける為に、ソニアはどれほどの苦難を超えて、どれほどの痛みに耐えて、どれほどの物を捨ててきたのだろう。

 

 それを思うと、ティナは胸が痛んだ。

 

 まだ十にもならない少女が何を想い、何の為にそこまで出来たのだろう。答えは、決まっている。

 

『……全て、私の為に……』

 

 昔、ソニアが旅行用のトランク一杯の札束を持ってきた事があった。あれは彼女が正式にイニシエーターになるので、もう一緒には居られないと告げる前の日だった。

 

『このお金を使って、平和に生きなさい。こんなゴミ溜めや下水の中じゃなくて、日の当たる世界で……もう、これからは……誰からも奪わずに、誰も傷付けずに……』

 

 血の繋がらない姉のその切なる願いを、ティナは裏切ってしまった。もう一度ソニアに会えると、エイン・ランドの甘言に乗せられて。

 

 機械化兵士の手術は只でさえ成功率が低く、しかも呪われた子供たちを対象に行う場合は再生能力を無効化する為にバラニウム製メスを使って体を切開するので、確率は更に落ち込む。あの日にソニアが持ってきたお金は、まさしく彼女が命を懸けて手に入れたものだった。

 

 エインの眼に叶うべく克己と修錬を経て、死線を越え続けて己の力を高め続けて。そうして最強のイニシエーターとなって、そこから更に機械化兵士としての施術を受けて。自分が同じ真似をしたら……生存率は恐らく1パーセントを割るであろうとティナは分析する。

 

 血の繋がらない姉は、そうまでして自分を光ある世界へと押し上げようとしてくれていた。そこまで、自分を想ってくれていた。

 

 なのに自分は、自ら日の当たる場所を捨てて闇の世界へ踏み込んで。この手を血で穢して。

 

 その行き着いた先が……あの日に告げられた、ソニアの絶望的な侵食率。もう……自分が義姉と過ごせる時間は一年も残っていない。

 

 そんな僅かな時間さえ、ソニアが力を使う度に目減りしていく。特に民警軍団がガストレア軍団と戦闘になった際、軍団長である一色枢が立案したプランAは、ソニアがアルデバランに向けて真っ直ぐ特攻、高位序列ペアが彼女を護衛しつつアルデバランを倒すまでの時を稼ぐというものだ。

 

 ゾディアックすら墜としたソニアの実力と相手がいくら強くても所詮はステージⅣである事を考えれば、成功率は低く見積もっても八割にはなるだろうが……しかし作戦の性質上、どうしてもソニアへの負担は大きくなる。つまり……彼女の限りある時間がまた喪われてしまう。

 

 希望があるとすれば……

 

「ねぇ、お姉さん……」

 

「ん?」

 

「自衛隊は……勝てると思いますか?」

 

 今回の戦いでは、自衛隊は前衛に配置される。民警軍団はその後詰めだ。つまり、ガストレア軍団と真っ先に戦うのは自衛隊となる。

 

 だから、自衛隊がガストレア軍団を殲滅する事が出来れば民警軍団が戦う必要も無い。

 

 そしてそれも決して低い確率ではないと、ティナは見ている。既に自衛隊に於いて対ガストレア戦のノウハウは確立されているし、第二次関東会戦では快勝した実績がある。

 

 是非そうなって、民警軍団にお鉢が回ってこなければ良いのにと思うのはティナの本心だった。

 

『そうすれば、お姉さんが戦う必要も無いのに……』

 

「……」

 

 ソニアは無言のまま、ああそうかという顔になって立ち上がると、ぽんと義妹の頭に手を乗せてやった。ティナが、上目遣いに視線を向けてくる。

 

「私の事は、良いのよ。ティナ」

 

「お姉さん……」

 

「あなたと出会ってからの一日一日は……毎日が贈り物のようで……私はもう、一生分幸せになったわ」

 

「でも、私は……」

 

 ソニアは指をティナの唇に当てて、続く言葉を封じた。

 

「前にも言ったけど……あなたが元気で生きてくれている事が、今も昔も私にとって一番の幸せなの……でも、あなたをイニシエーターにしてしまったのは……私が、間違っていたのかも知れないわね……私はあなたに真っ当に生きて欲しくて、イニシエーターになって機械化兵士の手術を受けて、大金を手にしたけど……その代わりに、あなたを一人にしてしまった。本当にあなたが大切なら……どんなに生活が苦しくても、あなたと一緒に居るべきだったのかも……ごめんね、ティナ」

 

「そんな事ないです、お姉さん!!」

 

 ティナはいつの間にか両目に滲んでいた涙を拭って、そしてソニアの手を取る。

 

 お姉さんは、ソニアは。絶対に間違ってなどいない。仮に世界中の人が間違っていると断じたとしても、自分は。そこまで大切に想われている自分だけはこの姉を肯定する。せねばならない。

 

「お姉さん……戦いが終わったら、一緒に天誅ガールズを見ましょう!! 映画に行って、オシャレなカフェでパフェを食べましょう!! 同人誌の即売会にも行きましょう!! 服も沢山買って、オシャレして……私、新作のピザを作りますから二人で……いえ、蓮太郎さんや延珠さんに綾耶さんも呼んで……一緒に、食べましょう。他にも……色んな所へ行きましょう!! 一杯、二人でお話しましょう。今まで、出来なかった分まで……二人一緒に……」

 

 言いながら、ティナの頬には再び涙が伝っていた。ソニアはふっと微笑んで、指で涙を拭いてやった。

 

「そう、ね……」

 

 言いつつも、ソニアはその願いが叶わない事を分かっていた。

 

 自分とティナが共に居られる時間は、もう長くない。

 

 だからこそ、この僅かな時間を大切に過ごそうというのは同感だ。どのみち、自分は後二回しか戦えない。だから、ソニアはガストレア軍団を殲滅した後は侵食率の上昇を理由にイニシエーターを引退するつもりでいたのだが……

 

 どうやら、それも難しいような気がする。

 

 窓を開ける。日本という国特有の、湿度の高い熱気がエアコンの効いた部屋の空気と混ざり合い、掻き乱していく。

 

「……お姉さん?」

 

「妙な風ね……I have a bad feeling about this(嫌な予感がするわ)……」

 

 

 

 

 

 

 

「「「あなたのハートに、天誅天誅♪!!」」」

 

「はい、撮りますね」

 

 天誅ガールズのコスプレをした少女達がビシッとポーズを決めて、夏世が手にしたデジカメのスイッチを押す。

 

 東京エリア第39区の将城教会。呪われた子供たちの為の学校として使われているこの建物の礼拝堂では、延珠が持ち込んだ天誅ガールズ変身セットで仮装した少女達による撮影会が行われていた。

 

 蓮太郎はやや離れた位置で壁にもたれ掛かりつつ、きゃっきゃっと騒ぐ少女達を眺めている。

 

 今朝方、延珠が帰ってきて教会が襲われたと聞いた時には肝を冷やしたが、しかし居合わせた綾耶やエックス達の力もあって一人の死者も出さずに退けられたと聞いて、一安心と胸を撫で下ろした。今日は寝起きから忙しい。

 

 ふと、手にしていた原稿用紙に視線を落とす。

 

 昨日の授業で子供たちに書かせた作文でテーマは「将来の夢」だ。

 

 アイドル、女優、パティシエ、看護師、お嫁さん。

 

 この願いの中の、どれだけが叶うのだろうと蓮太郎は黙考する。

 

 呪われた子供たちの未来は、多くの場合幸多いとは言えない。過酷な生活環境やウィルスの侵食によって短命な者が多く、そこから抜け出す為にイニシエーターとなってもガストレアとの命懸けの戦いが続く。

 

『それでも……』

 

 それでも、と。蓮太郎は思う。

 

 希望を抱かせる事は時に残酷であると、人は言う。それは、確かにそうかも知れない。何かを夢見て、それが叶わないと知った時の悲しみは最初からそんな望みなどは無いと諦めていた時のそれよりもより深いものだろう。それでも。

 

『ああ……それでも、だよな』

 

 七星の遺産の争奪合戦時に、蓮太郎は影胤に言い放った。「こいつらは人間だ!! ただの十やそこらのガキなんだ!! こいつらの未来は、明るくなきゃ駄目なんだよ!!」と。

 

 勢いで出た言葉ではあったが……だが、あの時の気持ちに嘘は無い。

 

 いや……そうじゃない。

 

 ぐっと、右手を握る。

 

『先生……そんな未来を創る為に、俺は、この力を使うよ』

 

 あの日、菫から貰った力。蓮太郎はずっとこの力が嫌いだった。より正確には、この力を持った自分自身が。

 

 両親も死んで、自分も人間ではなくなった。世界は機械化兵士の存在を許してくれない。だから、他人も自分も騙してきた。この世から消えたいと思った事もある。こんな醜い世界なんて、無くなってしまえばいいとも思った。

 

 だけど、そんなのは些末事。取るに足りない。なんてことない。

 

「何をしている蓮太郎!! こっちへ来て、一緒に写真撮るのだ!!」

 

 天誅レッドのコスプレをした延珠に手を振って返すと、蓮太郎は気怠そうに少女達の輪の中に進んでいく。

 

 そう、なんてことないのだ。

 

 木更さんが居る。先生が居る。延珠が居る。

 

 それに比べたら、なんてことはない。

 

 一度は絶望した事もある世界だけど。捨てたモンじゃない。あの日、綾耶が教えてくれた。

 

 

 

『毎日生まれてくる呪われた子供たちも含む一人でも多くの人が幸せになって、そして僕も幸せになる為に。その為に僕は、僕の力を使うんだ!!』

 

 

 

 この力は何かを殺す為のものではなく、全てを護る為のもの。

 

 明日をきっと、今日より良い日とする為に。

 

 今一度、決意を固め直してそうして延珠達の中に混ざろうとした、その時だった。

 

 懐の、携帯電話が鳴った。

 

「ああ、木更さん。俺と延珠は今学校に……」

 

<それどころじゃないわ、里見君!!>

 

 電話の向こうの木更は息せき切っていて、只事ではないと蓮太郎はすぐに理解した。

 

 

 

 この時、東京エリアの各所で同じやり取りがあった。

 

「はい、マスター・ドゥベ。どうかしましたか」

 

<エックスか>

 

 

 

「兄貴!! 大変だ!!」

 

<どうした、弓月?>

 

 

 

「翠、聞こえているか?」

 

<はい。彰麿さん>

 

 

 

「朝霞。状況は分かっているな?」

 

<は、長正様>

 

 

 

 民警達の間で。自衛隊の通信網で。

 

 政治家の執務室の直通電話に。シェルターに入れなかった民間人の携帯電話に。

 

 話す内容はまちまちであったが、それを聞いた後の行動は全員が一致していた。

 

 モノリスを見る。

 

 そして、全員が驚愕に顔を引き攣らせた。

 

 32号モノリスが、崩れていく。

 

 白化した足下の部分から全体にヒビが入って、巨体が地面に沈み込むようにして崩壊していく。

 

 

 

 

 

 

 

「そんな……どうして……!!」

 

 聖居、聖天子の私室のバルコニーから、綾耶は崩れ落ちていくモノリスを睨んでいた。

 

 そんなバカな。崩壊まではあと一日あった筈だ。これは聖居の優秀なスタッフが精密かつ繰り返し計算した結果であった。無論、机上の計算と現実とである程度の誤差は当然あるだろうが、それにしても早すぎる。

 

「……風の、影響ですね」

 

 スマートフォンから報告を受けていた聖天子は通話を切ると、部屋の中から綾耶が立つバルコニーへと進み出てきた。

 

 2031年現在、未だ気象の正確な予測は難しく、特に気流の複雑且つ混沌とした流れを完璧に予測する事は不可能に近い。ましてやモノリス倒壊予測時間の計算が行われたのは六日前。間が空くほどに、精度は低くなる。

 

 始まる。始まってしまう。『第三次関東会戦』が。

 

「……聖天子様、ご命令を」

 

 頭を切り換えると騎士の如く主の前に膝を折り、忠節を示す綾耶。

 

「綾耶、この東京エリアを……エリアに住む人達を、守って下さい。ガストレアの唯一体も、最終防衛ラインを越えさせてはなりません。そして……絶対に生きて、私の元に帰りなさい」

 

 年若き国家元首は、最も信頼する自分の従者へ命令を下す。イニシエーターは頷くと、頭を上げた。

 

「承りました。必ずや全ての命令を完遂し、吉報を持ち帰る事をお約束いたします。では、暫しの別れを」

 

 立ち上がった綾耶は両眼を紅く染め、バルコニーの柵に足を掛けて跳躍。そのまま持ち前の飛翔能力で以て空の彼方へ消えていく。聖天子はみるみる小さくなっていく自分のイニシエーターの姿を、見えなくなるまで見送っていた。

 

 

 

 

 

 

 

「……?」

 

 空を飛び、真っ直ぐモノリスへ向かっている綾耶は違和感を感じていた。

 

 恐らくこれは、今現在モノリスを見ている自衛隊や民警の全てが感じている事だろう。

 

 モノリスが、倒れない。

 

 確かに足下の部分が崩れてバランスを維持する事など遠目から見ても絶対に不可能な状態である筈なのに。先程まではほんの数分でテレビで見た発破解体のように地に沈んで底無し沼に呑み込まれるようにして崩落するはずだったのに。

 

 突然、崩壊が止まった。モノリスは細部こそ崩れているが、未だその巨体を保っている。

 

 よくよく目を凝らしてみると、バラバラになった細かい破片の一つ一つが重力に従って下に落ちずに、空中に浮遊して留まっていた。

 

「これは……一体?」

 

 何が起こっている?

 

 考えて、はっと気付いた。

 

 一人だけ、居た。

 

 このエリアにはたった一人だけ居る。24時間進んでしまった時計の針を、戻せる者が。

 

 思い至った、その時だった。

 

<聞こえるかしら?>

 

 聞き覚えのある声が、頭に響く。

 

 だがこれは、耳を通じて声が鼓膜を震わせて、そうして脳にその刺激が届いて“聞こえた”と認識するのとは全く違う感覚だった。

 

 まるで頭の中に、直接声が送り込まれてきたかのような。漫画やアニメで良く見るテレパシー能力者の精神感応とは、こんな感じなのだろうか。

 

<東京エリアの民警及び自衛隊の全ての人達に告げるわ。私はIP序列元11位のイニシエーター、ソニア・ライアン。今、微弱電流であなた達の頭脳に直接声を送っているわ。ああ、この声に返事をしても、私は答えられないから、そのつもりでお願いね>

 

 人間の感じているあらゆる感覚は、情動と同じで究極的には単なる脳内での電気信号だ。

 

 例えば眼がリンゴを見ると、リンゴを見たという情報が電気信号に変換され、脳へと伝わってここで初めて“リンゴが見えている”と認識する。ならばオープンチャンネルのラジオのように、リンゴなど何処にも無いのに“リンゴがある”という電気信号が直接脳内に送り込まれたのなら、実際に目の前にリンゴがあるように見える筈である。

 

 ソニアのこの通信も、原理は同じだった。発電能力で作った微弱電流をラジオの基地局のように発信して、自分の声をエリア全体へと届けているのだ。元々彼女は、綾耶にそうしたように対象の脳に働きかけて古い記憶を蘇らせる事すら可能とする。この程度は、出来ても不思議ではない。

 

<みんな分かっていると思うけど、たった今モノリスが倒れつつあるわ。けど、私が磁力で倒壊を防いでいるの>

 

 やはりと、綾耶は頷いた。

 

 SR議定書なる物が作られて国際的にその扱いを定められるほどソニアが恐れられたのは、その強さもあるが何より今の世界では、彼女が操る磁力は各エリアのモノリスを解体して容易に大絶滅を引き起こす事が可能な、戦略兵器級の能力を持つ事に起因している。

 

 モノリスを崩す事が出来るのならば、崩れかけたモノリスを支える事とて出来るのが道理であった。

 

<ただし、私がモノリスを支えられるのは精々12時間が限度。その間に、戦闘態勢を整えて!!>

 



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第31話 決戦開始

 

 空を飛んで現場へ急行した綾耶が見たのは、地表にて慌ただしく動き回る民警軍団と地上50メートルほどの空中に浮遊しつつ、両手をモノリスにかざして不可視の力を全開で放出しているであろうソニアの姿だった。

 

 遠目からでも見えていたが、近くにまで来ると今の32号モノリスはもう自立する事は不可能であり、別の力によって支えられているのが良く分かった。分解して個々のブロックとなった部分はふわふわと空中に浮かんでいて、まだ形を保っているモノリスの総体も今まで見た事がないぐらいにぐらぐらと頼りなく震え、揺れている。

 

 今、モノリスを支えているのはその千分の一ほどの大きさもない少女。序列元11位、モデル・エレクトリックイールのイニシエーター、星を統べる雷帝(マスターオブライトニング)、ソニア・ライアンたった一人の力だった。彼女は持ち前の発電能力を応用して磁場を作り出し、それによってバラニウムを操ってモノリスの倒壊を防いでいる。

 

 綾耶は正直今の今まで、ソニアがモノリスを分解して大絶滅を引き起こす力を持つと言われていてもどこか半信半疑だった。いくらトップクラスのイニシエーターが単身で世界の軍事バランスを左右する力を持つとされていても衆寡敵せずという言葉がある。たった一個人にそんな事が出来るのは、映画やコミックの中だけではないかと心のどこかで思っていた。しかしこうして縦1.6キロメートル超、横1キロメートルもある金属の塊を支えている所を実際に目の当たりにすると、否応無しに信じざるを得ない。

 

 これが、序列元11位の実力。だが、驚き呆けていたのもそこまでだった。

 

「ソニアさん!!」

 

 全身に纏う風の強さを調整して滞空、ソニアのすぐ前へと回り込む。

 

「……ああ……綾耶ちゃん……流石に……早いわね……」

 

 同僚の顔を覗き込んだ綾耶は思わず、ごくりと唾を呑んだ。

 

 ソニアの顔色は土気色で汗びっしょり。一目見て分かるほどに疲労の色が濃い。これは絶え間なく凄まじいパワーを使い続けている事もあるが、保有する動物因子にも原因がある。彼女のモデルは最強の発電魚であるデンキウナギ。体内に発電器官を持ち、微弱電流によるレーダーと川を渡る馬をも感電死させる程の強電流を発生させる攻撃力によってアマゾン川における生態系の頂点に君臨するこの生物であるが弱点もある。それは、持久力。デンキウナギが放電を持続出来る時間は、1回につき1000分の3秒で1時間に150回ほどが限界である。

 

 だから現地住民がデンキウナギを捕らえようとするなら野生の馬を何頭もデンキウナギの居る川へと追い込んで、デンキウナギが疲弊して放電できなくなったところを捕まえるという狩りの手法があったという。

 

 要するに今回のように長時間力を発揮し続けなければならない状況は、デンキウナギの因子を保有するソニアが最も苦手とする所なのだ。

 

 だが、ソニアは確かに疲れてはいるが少しも諦めていない。面と向かってその眼を見た綾耶には、すぐに分かった。炎の色をした双眸が、強き意思を宿して爛々と輝いている。

 

 確信出来た。モノリスを支え続けられる限界だと言った12時間。彼女ならば、絶対に持たせる。ソニアはただ強力な動物因子を持つだけではない。弱点を克服し、精神力までも鍛え抜かれている。

 

「下に、ティナが来てるわ……あの子と合流して……戦闘態勢を整えて……」

 

「……分かりました!!」

 

 綾耶は頷き、降下する。

 

 民警軍団の陣地では、イニシエーターもプロモーターも前に後ろにひっきりなしにしかも秩序無く動いていて、右往左往という言葉がぴったりと当て嵌まるように思えた。だが少しずつ、本当に少しずつではあるもののその動きは統制されていく。

 

「急げ!! 急げ!! 急げ!! 各中隊長は担当のアジュバントが揃っている事を確認して、順番に報告しろ!!」

 

「メシは今の内にたらふく食っておけよ!! イニシエーターも、今から6時間は休ませておくんだ!!」

 

 慌てるばかりの民警達の中で、きびきび動いて檄を飛ばす二人。民警軍団副団長の我堂長正と団長である一色枢。東京エリアの2トップである両名の存在感は際立っていて、慌ただしかった空気は少しずつ落ち着いたものへと変わっていく。

 

 そんな喧噪の中、きょろきょろと周囲を見渡していた綾耶であったが、ややあって探していた姿を見付けた。

 

「綾耶さん!!」

 

「ティナちゃん!!」

 

 聖室護衛隊特別隊員、モデル・オウルのティナ・スプラウト。身の丈ほどもある対戦車ライフルを抱えていて、今すぐにでも戦えるといった様子である。だが、その瞳は今は頼りなく揺れていて自信が感じ取れない。

 

「綾耶さん……あの……」

 

 声も、震えていた。

 

「大丈夫!!」

 

 綾耶はティナがそれ以上何かを話す前に全てを察して、がしっと両手で肩を掴むと力強く言い放った。

 

「あ……綾耶……さん?」

 

「僕が、戦うから。ソニアさんが、これ以上戦わなくて済むように!! だから……ティナちゃんも力を貸して。二人で……ううん、蓮太郎さんや延珠ちゃんも一緒に、守ろうよ。この東京エリアも、ソニアさんも!!」

 

 ソニアの侵食率は既に限界間近で、後二回の戦闘にしか耐えられないとされていた。そこへ来て、12時間にも渡る能力の連続使用。侵食率がどれほど跳ね上がるか……考えたくもない。今こうしている一秒一秒が、ソニアの命を削って成り立っている。

 

 これ以上、ソニアを戦わせはしない。彼女の為にも、ティナの為にも。

 

 その言葉を受けたティナは少しの間眼を丸くしていたが……やがて、ふっと微笑んだ。

 

 綾耶自身はそこまで考えている訳ではあるまいが、彼女は今やるべき事が自然と分かっている。

 

 聖天子が綾耶を傍に置く理由が分かった気がした。彼女の言葉は、その在り様は、周りの者に力をくれる。

 

 そう、今は戦うべき時だ。姉が強い力を使って命を縮めてしまう事を嘆くのではなく。共に生きて、明日を迎える為に。残された時間を、一緒に過ごす為に。

 

 ティナは、手の震えが止まっていたのに気付いた。

 

 

 

 

 

 

 

 そして、12時間が経過。現在時刻は午前4時。夜明け前の最も暗い時間帯だ。モノリスは未だ倒壊を免れてはいるが、しかし全体の揺れ幅は明らかに大きくなってきておりもういつ倒れても不思議ではない。ソニアの力にも、限界が近付いてきているのだ。

 

 だが、この時間を使って自衛隊・民警軍団は共に万全の布陣と戦闘準備を整え、十分な休息を取ってベストコンディションを整える事が出来た。

 

 戦場に於いて時間とは黄金よりも貴重な宝物だ。たかが半日、されど半日。

 

「この半日はでかいぞ」

 

 小高い丘に立って陣形の全体像を俯瞰する枢が、ひとりごちた。

 

「団長、全アジュバントがプランBに従い配置に付きました!!」

 

「オーケーだ、フィーア」

 

 直轄のアジュバント構成員の一人、序列444位のプロモーター、フィーア・クワトロからの報告を受けて枢は頷くと、懐から取り出した信号弾を打ち上げた。赤い煙が立ち上がって、視界の端にそれを捉えたソニアは僅かに頷くと、最後の力を振り絞って磁力を操作する。

 

 するとこれまでは形を保っていたモノリスが、組み立て前の個別のブロックへと分解されてしかし重力に従って落ちることなく、空中に留まり続ける。

 

「ふ……んっ!!」

 

 絞り出すような声と共にソニアが腕を押し出すように動かすとモノリスブロックの一つ一つがひとりでに宙を舞い、遥か前方へと消えていく。上部から次々と分解されて飛んでいったモノリスは、アルデバランのバラニウム侵食液によって白化していた部分を除いて一分と経たずに姿を消してしまった。白化していた部分は、灰のように崩れていく。

 

 これが蝋燭の最後の輝きだった。ソニアの瞳から赤色が喪われる。同時に全ての磁力が消失して、支えを失った彼女の体は真っ逆さまに落ちていく。

 

「お姉さ……!!」

 

 上擦った声を上げたティナが姉の体を受け止めるべく落下点に駆け寄ろうとする……よりも早く、綾耶が空を飛んで空中でソニアの体を抱き留めていた。

 

「ナイス……キャッチ……ね……」

 

「喋らないで!! 安静にしていて下さい!!」

 

 ぴしゃりとそう言うと、綾耶は衝撃や振動を与えないよう可能な限りゆっくりと降下していき、用心深く着地した。

 

「お姉さん……!!」

 

 悲壮な顔で駆け寄ってくる義妹に、ぐったりと綾耶に抱えられたソニアは疲れを隠し切れない顔でしかし笑って応じる。

 

「だい……じょうぶよ、ティナ……私は……大丈夫……」

 

 少しも、大丈夫そうには見えなかった。こんなにも弱々しい姉の姿を、ティナは見た事が無かった。無理も無い。今のソニアは12時間インターバル無しで全力疾走を続けていたようなものなのだ。疲労困憊を通り越して、命すら危ぶまれるような状態である事は想像に難くない。

 

「でも……すこ……し、疲れたわ……ちょっと……休む……から……その間は……あなた達が……守って……」

 

 そう言うと、ソニアの瞳が閉ざされた。ティナは思わず息を呑むが「大丈夫、眠ってるだけだよ」と綾耶に言われてほっとした顔になった。

 

 そこに、枢が彼のイニシエーターであるエックスと、他にプロモーターとイニシエーターを各2名、彼のアジュバントを従えてやって来た。30位のプロモーターはソニアと出来るだけ同じ目線になるよう、しゃがんで巨体を可能な限り縮めると、その大きな手で少女の髪を梳いた。汗に濡れて、ぐっしょりとした感触が伝わってくる。

 

「よくやってくれたな。本当に……たった一人で。嬢ちゃんの頑張りを、無駄にはしねぇよ。おい、陽斗!!」

 

「ああ、分かってます団長。群星(むるか)。ソニアちゃんの護衛を頼むぞ」

 

「了解しました、マイマスター。では……ソニアさんはこっちのテントに……」

 

 見るからに平凡そうな風体のプロモーター、六車陽斗(むぐるまあきと)の陰から姿を見せたのは、こちらも容姿・身長・体型など全てに於いて平均的な日本人の少女という印象のイニシエーターだった。名前は数多群星(あまたむるか)。しかし侮るなかれ、こう見えても序列は666位と凄腕のペアである。

 

 群星は眠るソニアをひょいとおんぶして、後方の幕舎へと運んでいく。

 

「ソニアの嬢ちゃんは、群星に守らせるよ。俺達にはこれぐらいしか出来ないが、許してくれ」

 

 ペコリと頭を下げる枢。だが綾耶にもティナにも、彼を責める気持ちなど微塵も無い。

 

「666位のイニシエーターが護衛を務めてくれるなら安心ですね。僕達は、後顧の憂い無く戦えます」

 

「お姉さんの事……どうか、よろしくお願いします」

 

 二人のイニシエーターに頭を下げられて、枢達はうんと頷いた。とそこに、今度は長正が彼のイニシエーターである壬生朝霞を従えてやって来た。

 

「オウ、長正……全員、戦闘準備は万全か?」

 

 団長の立場にあるとは言え自分のプロモーターに対しての礼を弁えぬ物言いを受け、朝霞はむっとした表情になるが他ならぬ長正に制された。

 

「は……団長。その陣形に関してだが……本当にこのままでよろしいのですかな? 今からでも遅くはない、陣形を組み直しては……」

 

 長正の声には、迷いと懐疑の響きがあった。

 

 ソニアがモノリスを分解して前方へと飛ばした大量のバラニウムブロックは、ちょうど民警軍団と自衛隊が布陣している位置の中間の地点に集中して投下されている。倒壊したモノリスであるが、アルデバランの侵食液によって白化し磁場発生能力を失ったのは全体を支える役目を持つ下部のみであり、上部のバラニウムは特性が未だ無事であり磁場を放ち続けている。

 

 故に、仮に自衛隊が撃破された場合ガストレア軍団は、投棄された大量のバラニウム塊の影響でまっすぐ進んで民警軍団へと襲い掛かってくる事は不可能。必ず右か左に迂回してくる。

 

 迎撃する側としては左右どちらかに戦力を集中させるのは読みが外れた場合やガストレアが戦力を二分して進行してきた場合のリスクが大きすぎる為に避けるべきで、戦力・数共に両翼に均等に分けるのがセオリーだが……しかし今回、枢はそのセオリーを無視して左翼に戦力を集中して配置していた。この布陣には長正の他にも何名かが異議を申し立てていたが、枢は団長権限で反対意見を封殺していた。

 

「俺には確信がある。ガストレア共は必ず、左翼から来る。外れた時は、俺が全ての責任を取る。自害でも何でもしてやるよ。それで文句ねぇだろ?」

 

 むう、と長正が唸る。

 

 仮に読みが外れた場合、その時に発生するであろう被害は到底枢一人の命で償えるようなものではない。だが……仮にも相手は序列30位。対ガストレア戦にかけては他の誰よりも精通するプロ中のプロ、スペシャリスト中のスペシャリストであり、序列に関しては自分よりも200位以上も高い東京エリア最高位序列保持者である。その彼がここまで自信たっぷりに言うのだ。何らかの勝算は、確かにあるのだろう。

 

 信じても、良いだろうか……?

 

 そんな風に考えていた時だった。

 

 かなりの距離を隔てているにも関わらず、肌で空気の震えがはっきり分かるほどの爆音が響いてくる。

 

 自衛隊とガストレア軍団との戦闘が始まったのだ。

 

「自衛隊からの支援要請は?」

 

「ありません、まだ……」

 

 陽斗からの報告を受け、枢は「ちっ」と舌打ちを一つ。

 

「……これだから、現行人類は……種の存亡を懸けた事態に……既に10分の1にまで数を減らしているのにまだ団結出来ないなんて……」

 

 誰にも聞かれないよう、ぶつぶつ呟く。思わず演技を忘れて、正体であるルイン・ドゥベの口調が出てしまっていた。

 

「団長殿は、自衛隊が勝てるとお思いか?」

 

 焦れたように長正が尋ねてくる。枢は腕組みして、唸り声を一つ。

 

 この態度を答えかねていると見たのか、長正はもう一つ質問を重ねる。

 

「……ソニア・ライアンの力はモノリスを支える為に使うのではなく、我々は当初の予定通りプランAを実行すべきだったのでは?」

 

「いや、自衛隊にも勝算は十分にある筈だ。対ガストレアのノウハウの蓄積と、集団戦の練度、装備の質、そして第二次関東大戦で勝利した実績……特に、民警は殆どが個人携行の火器しか持てないが、自衛隊は戦車や自走砲といった兵器……飛び道具を運用出来るのも大きいな。それを考えれば……自衛隊が万全で戦えるよう、モノリス倒壊を遅らせるのも決して間違った判断ではないだろ」

 

 枢の回答を受け、長正は「確かに」と頷いた。

 

 民警が自衛隊に勝るのはイニシエーターとプロモーター二人一組で行動するが故に身軽で小回りが利くという点。そもそも民警自体がモノリス内部に”迷い込んだ”数体から多くても十数体のガストレアと戦う事を前提として作られたシステムであり、百体単位で襲い掛かってくるガストレア群との戦闘など想定していない。アジュバントシステムは、あくまで不足しがちな戦力を補充する為の後付の制度でしかない。

 

 逆に自衛隊は近代戦、つまり集団対集団の大規模戦闘を想定して日々訓練を積んでいる。今回のような多数同士の戦いに於ける錬磨の度合いは、民警軍団とは比較にならない。

 

 地球にガストレアが現れた直後ならばいざ知らず、現在ではガストレアの弱点となるバラニウムの存在も周知され、あらゆる兵器へ転用が為されている。ならば勝てる。

 

 ……筈、なのだが。

 

 誰もが、その可能性に目を瞑っていた。いや、瞑ろうとしていた。そもそも本当に自衛隊が勝つと信じているなら、こんな話自体していないのではないか?

 

 答えが出ないまま悶々としていて、どれほど経っただろうか。不意に、稜線の向こう側から聞こえていた銃火の音がまばらになり、ガストレアの声も徐々に小さくなり……やがてどちらも聞こえなくなった。

 

 この静寂が意味する所は、一つだ。戦いが、終わったということ。

 

 ガストレアか、自衛隊か。どちらかが敗れたのだ。

 

「……綾耶、さん?」

 

 ティナはすぐ隣に立つ綾耶を見て、少し驚いたようだった。レンズの奥の眼が細く鋭くなって、噛み締めた歯がぎりっと鳴っている。

 

「ティコ、あなたなら分かるでしょう? 戦いは、どちらが勝ったの?」

 

 “七星の四”ルイン・メグレズの化身であるフィーアが、自分のイニシエーターへと尋ねる。444位のイニシエーターであるティコ・シンプソン。彼女はモデル・オルカ、シャチの因子を持つ呪われた子供たちであり、その固有能力はエコーロケーション。超音波を放ち、潜水艦のソナーのように周囲の状況を把握する力である。この能力を持つ彼女であれば、視界の外であろうと何が起こっているのか手に取るように把握しているだろう。

 

 イニシエーターの表情は、暗い。

 

 それだけでこの場の全員が、言わんとしている事を察した。綾耶にも、レーダーとして使える両腕がある。彼女も、恐らくティコと同じものを感じていたのだ。

 

「……総員、構えろ。すぐに敵が来るぞ」

 

 枢からの通達を受け、民警軍団全体に緊張が走って空気が変わった。

 

 5分、10分……大きく息を吸ってそのまま呼吸を止めているような時間が過ぎて……いよいよ限界に達して誰かがふっと息を吐いたその時だった。

 

 爆発。そして黒炎の中から、大きく四角い何かが飛び出してくる。

 

 それが宙を舞って地響きと共に地面に落ちて、やっと戦車だと分かった。自衛隊で運用されている物だ。

 

 こんな物がぶっ飛んでくるという事は、つまり……

 

 考えたくもなかった結論は、前方の丘が動き出した事で証明された。

 

 勿論、地形が動く訳がない。地形そのものが動いていると錯覚するほどに膨大な数の“何か”が蠢いているのだ。

 

 夜が、白み始めた。蠢く者共の、全体像が見えてくる。

 

 ガストレアだ。数百数千のガストレアの群れが地を埋め尽くして、ぞるっと、河のように。否、津波のようにという表現が的確か。まるで大海嘯が小さな漁村を呑み込むが如く、全てを喰らい尽くさんと流れてくる。薄れ始めた闇の中に、無数の紅い光点が浮かび上がる。ガストレアの目の色だ。それら全てが、お前達も同族にしてやるぞと民警軍団を見据えてぎらついている。

 

 夜の闇が消えて、隠れる事が不可能になったガストレア群は先頭を進んでいた巨大な個体が一声上げると、一糸乱れぬ動きで菱形陣形を作って走り出した。このまま進むとぶつかるのは、民警の主戦力が配置された左翼の部隊である。

 

「団長の読みが当たったか」

 

 これは長正のコメントだった。結果論ではあり、確率50パーセントのギャンブルであったかも知れない。それでも、いずれにせよ、敵が攻めてくる所にこちらの主力をぶつける事が出来た。どのような根拠から枢がこの陣形に思い至ったかを聞き出す事は出来なかったが、結果的に彼の判断は正しかった訳だ。

 

 しかしそれでも、民警軍団全体の士気は著しく低いのが空気から伝わってくる。

 

 それも当然であろう。これほど多くのガストレアとの戦いなど、この中の何人が経験しているか。どんなプロフェッショナルでも、初めて経験する状況の前には只のルーキーでしかない。

 

 まして民警の質はイニシエーター・プロモーター共に玉石混交。強いイニシエーターはソニアのように近代兵器すら凌駕して一人の為に世界が動くほどに強いが、弱いプロモーターは民間人に毛の生えた程度でしかない。

 

 蓮太郎がリーダーを務める物も含む十数組のアジュバントを統率する中隊長、我堂英彦は強者弱者という括りで分けた場合には、弱者に分類される。何度か行われた訓練でも、命令の伝達速度の遅さや自信の無さ、決断力の鈍さが指摘されていた。

 

「そ、そういっ……そういん……!!」

 

 英彦が指揮下にあるアジュバントに指示を与えようとするが、言葉途中で噛んでしまって声の震えも隠せていない。動揺が、ありありと伝わってくる。

 

 指揮者がこれでは、上がる士気も上がらない。蓮太郎はせめて自分だけでも出来る限り大きく、強く声を上げて命令を復唱して仲間の戦意を高めようと深呼吸した。

 

「総員……っ、戦闘……」

 

 何とか英彦が声を上げようとして、

 

「総員……!!」

 

 言葉の終わりを待たず、蓮太郎が下されるであろう「総員、戦闘用意」の命令を復唱しようとして、

 

 

 

「突撃だぁぁぁっ!!!!」

 

 

 

 誰よりも先んじて、戦場全体に蛮声が響き渡った。

 

「えっ?」「なっ!?」「うそ?」

 

 一瞬だけ、民警軍団全ての意識が迫るガストレア群から外れる。

 

 だがそれが聞き間違いでも言い間違いでもなかった事は、続いて眼に入ってきた光景で証明された。

 

 民警軍団の陣形の中から、突出して前へと躍り出た影が二つ。一つは大きく、一つは小柄だった。

 

 遠目であったが、見間違える筈もない。民警軍団団長である一色枢と、そのイニシエーターであるエックス。二人はそのまま、雲霞の如きガストレア群へ向けて走っていく。

 

「バカな!!」

 

 長正が、何たる愚挙をと毒突く。

 

 指揮官が先陣切って突入するなど暴挙も暴挙、大暴挙だ。それはその個人だけではなく率いる軍すらも全滅に追い込むであろう愚行である。

 

 迫ってくるガストレアの数は、軽く千を越える。立ち向かう枢とエックスは二人。数の差はどうしようもない。

 

 枢・エックスのペアとガストレア群との距離はみるみる縮まっていって、あっという間にゼロになる。誰もが、二人がガストレアに呑み込まれて終わる未来を確信した。

 

 だが、そうはならなかった。

 

 雲霞の如き異形の群れは、二人が前進する速度をほんのちょっぴりでも緩める事すら出来なかった。

 

 両腕を旋回させ、黒爪を振り回して走るエックスはさながら爆走する芝刈り機。ただし刈るのは芝ではなくガストレアだが。爪が届く範囲に入ったガストレアを少しの抵抗感もなく引き裂いて、解体していく。エックスはガストレアの群れの中に、飛行機雲のように一本の線を引いていった。彼女が真っ直ぐ走ったその跡だけには、ガストレアが存在しない。全て彼女に切り殺されたからだ。

 

 枢は、まるで巨大トラックのようだった。立ちはだかるガストレアには、一切の例外無く同じ運命が降りかかった。跳ね飛ばされ、轢き潰され、粉砕されていく。30位のプロモーターは、まだ一発のパンチすら繰り出してはいない。ただ、駆け抜けるだけ。それだけでガストレア群の陣形が乱れ、崩され、蹂躙されていく。

 

 疾走するエックスの前方に、いかにも固そうな装甲を全身に纏ったカブトムシの背中からエビのハサミが生えたような姿のガストレアが姿を見せた。

 

 エックスは今までバラバラにしてきた奴等と一味違いそうなこの相手を前に、立ち止まるどころか更に加速して突進。甲虫類と甲殻類の硬さを併せ持った鎧と、超バラニウムの鉤爪が激突する。しかし、矛盾は起こり得ない。この度は、矛の勝利であった。エックスの爪は電気を流して熱を持った銅線を発泡スチロールに触れさせた時のように、装甲をいともあっさり裂いてしまった。高い防御力が売りであったのだろうそのガストレアは、その長所を全く発揮出来ずに頭から尻まで真っ二つになって、骸を地面に横たえた。

 

「……アーニャの鎧に比べたら、まるで豆腐」

 

 枢の走る先に出現したのは、他の個体と比べて軽く2回りは巨大な体躯を持った象と亀の合いの子のようなガストレアだった。恐らくはステージⅣ。遠目でその姿を見ていた夏世は、以前に呼んだ「フューチャー・イズ・ワイルド」という本で予想された1億年後の世界に登場するトラトンという生き物を思い出した。

 

 千年単位の樹齢を誇る巨木を思わせる前肢に、枢は相撲で言うぶつかり稽古の様に突進。がっぷりと抱え込む。

 

「ま、まさか……あんなのを投げる気かっ……!?」

 

 プロモーターの一人がそう呟いた。

 

 到底無理だ。いくら大柄で筋骨隆々の枢が怪力でも、所詮は人間だ。軽く10トンはありそうな巨体が持ち上がる訳がない。

 

 それは確かに常識的な判断である。彼の意見は全く正しい。しかしそれはあくまで常識の範囲内での話である。

 

 彼には忘れている事があった。

 

 室戸菫曰く、序列100位以上は例外無く悪魔に魂を売り渡した正真正銘の化け物。序列30位の枢とて例外ではない。小賢しい常識など鼻歌交じりに超越してこそ、その域にまで達する事が出来るのだ。

 

「ぬ!! あ!! りゃあああああああっ!!!!」

 

 雄叫び。額に血管が浮かび上がり、全身の筋肉が着衣の上からでもハッキリ分かるほどに隆起・バンプアップし、枢の体格が一回り大きくなったようにさえ見える。

 

 そのままガストレアを放り投げてしまう。巨体を誇るガストレアは10メートルほどの高さにまで舞い上がって、そのまま真っ逆さまに落ちて地面に激突。ショックで脳震盪でも起こしたのか、動かなくなる。その頭部をごつい編み上げのブーツで踏んで砕いた枢は「ふうっ」と朝のジョギングの後のように少しだけ乱れていた息を整えた。

 

 これが序列30位にして東京エリア最高序列保持者、一色枢・エックスペアの実力。

 

 迸るような強さを見せ付けられて、ガストレアの群れですらもが少しだけたじろいだように見えた。

 

 二人の戦い振りを受けての変化は、ガストレア達だけではなかった。

 

「い……いけるぞ」「そうだ、勝てる。勝てるぞ!!」「団長がいれば、俺達は負けないぞぉっ!!」「俺達も続くぞ!!」「よし、団長達が開けた穴へと突入するんだ!! ガストレアの陣を崩せ!!」「団長を死なせるな!!」

 

 触発された民警達が、我先にと枢達の後に続いて、突入していく。狂奔する今の彼等は、熱に浮かされているようですらあった。

 

「成る程、これが団長の狙いであったか」

 

「……鼓舞、ですか」

 

 長正の言葉を受け、影のように従っていた朝霞が頷く。

 

 民警達は烏合の衆であり、装備も統一されておらず集団戦も不得手。ならば頼りは士気一つであるが、今の彼等はその士気すらもが自衛隊の敗北を受けて萎えかけていた。団長である枢はそれを敏感に感じ取って、敢えてセオリーを無視して最前線に立つ事で士気の回復を図ったのだ。彼とエックスは消えかけた火を再び熾す為の風だった。

 

 無論、これは彼等の圧倒的実力を前提とした策であったが……見事、図に当たったと言って良いだろう。

 

「よし、我々第二陣も続くぞ!! 朝霞、遅れを取るな!!」

 

「はい、長正様!!」

 

 双刃の剣を抜き放ち、長正は丘を駆け下りていく。朝霞も腰に差していたバラニウム製の日本刀を抜いてそれに追従。更に長正の指揮下にあったアジュバント中隊も続いた。

 

「……それじゃ、僕達も行くよ。援護よろしく!!」

 

「任せて下さい」

 

 綾耶は飛び立ち、ティナはシェンフィールドを散開させると同時に、自らは匍匐して狙撃体勢を整える。時をほぼ同じくして民警軍団も前進を開始する。

 

 かくして、決戦の火ぶたは切って落とされた。

 

 

 

 

 

 

 

 同じ頃、主戦場となった左翼とは反対方向。ソニアが吹き飛ばしたバラニウムブロック投棄地点によって分断された右翼の、森林地帯。昼尚暗いこの森の中には、ガストレアの死骸が累々と転がっていた。数は、ざっと見ただけでも軽く百は越えている。

 

「マスター」「ドゥベ」「随分と派手に」「始めた」「みたいね」

 

 大きな物も(比較的)小さな物も、ステージⅠも居ればステージⅣの姿も確認出来る。この一帯はそいつらが流した血で、むせ返るような悪臭に包まれていた。

 

 と、地響き響かせてこのエリアに数十体のガストレアが進行してくる。知能を持たないとされるガストレアであるが、流石に同族の死骸がごろごろ転がる中を進むのだから、心なしか足取りは慎重なようだった。

 

「ああ、また」「愚かな獲物が」「やってきたのね」

 

 声が響く。それに反応して、ガストレア群は動きを止めた。そして円陣を組んで360度どこからの攻撃にも対応出来る構えを取った。

 

「だが」「ここから先は」「通行止め」「私達が」「いる限りは」

 

 響く声は、全て同一人物の声色だった。しかし言葉には微妙に間があって、不自然に途切れ途切れである。

 

 人魂のように、無数の紅点が浮かび上がる。この赤色は呪われた子供たちの瞳の色。その数は、ガストレア達の瞳の数よりもずっと多い。

 

 やがて森の中から、修道服のような真っ黒いローブを纏った一団が姿を現した。目深に被ったフードで顔は見えないが、紅く輝く両眼がイニシエーターである事を示している。彼女達は全員がアサルトライフルやショットガン、バズーカなど近代火器で武装していた。

 

「何百体でも」「かかって」「きなさい」「私」「いや」「私達」

 

 イニシエーターの一団は、示し合わせたように一斉にフードを取る。その下から現れたのは、どこにでも居そうな少女の顔だった。

 

 序列666位のイニシエーター。数多群星。

 

 だが、有り得ない。群星は今頃はソニアの護衛の為に、民警軍団陣地の後方で彼女の傍に付いている筈なのだ。しかもこの数はどうだ。まるで合わせ鏡のように。何十人というイニシエーター達は、全員が群星と同じ顔、同じ声をしていた。

 

「モデル・コーラル」

 

「群体生物、珊瑚の因子を持つ」

 

「呪われた子供たち(イニシエーター)」

 

「数多群星・百人衆が」

 

「マスター・ドゥベとマスター・ミザールの命を受け」

 

「最後の一匹まで」

 

「お相手するわ」

 

 無数の群星達はシンクロナイズドスイミングのように整然とした動きで手持ちの火器を構える。そして合図も必要とはせず素晴らしいタイミングで、数十の銃口が一斉に火を噴いた。

 



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第32話 激動の緒戦

 

「始まったわね……」

 

 大阪エリアの大統領府。その執務室では、壁一面に埋め込まれたモニターを睨みつつ二人の男女が話していた。

 

 モニターの地図には東京エリアを円状に囲むモノリスが白い光点で表示されており、等間隔で並んでいるその切れ目の箇所には民警軍団が青の輝点、ガストレア軍団が赤の輝点で示されている。二つの色はめまぐるしく動いており、第三次関東会戦の戦況をリアルタイムで遠く離れたこの部屋にまで伝えてきている。

 

 二人の内一人はこの部屋の主である大阪エリア国家元首、斉武宗玄大統領。もう一人は白い髪に白い衣を纏った美女、“ルイン”の一人であった。東京エリアにて「七星の遺産」を強奪してステージⅤを召喚しようとした彼女は第一級のテロリストとして各国で指名手配されている。その大犯罪者が一エリアの統治者の部屋に招かれているなど、尋常ならざる事態と言える。

 

「東京エリアは……勝てると思うか? ……ますか?」

 

 宗玄が、ルインにそう語り掛ける。だがへりくだったようなその口調は傲岸な独裁者として知られる彼からは想像も付かないようなものだった。

 

 まるで、自分の主に対するように。

 

「良いのよ、ここは私達二人だけ。いつも通りで」

 

 ルインがそう言うと同時に、宗玄の体に動きがあった。突然前屈みになったかと思うと背中周辺が異様に隆起し、遂には背骨が通るラインに沿うようにして裂け目が生じ、その裂け目からはぬっと手が伸びてきて、やがて体内から一人の少女が這い出てくる。彼女は遊園地のマスコットキャラクターの着ぐるみのように、斉武宗玄を“着て”いた。彼の体に潜行していたのだ。その少女も両眼は紅く輝いていて、こんなムチャクチャな真似をしでかすのだからやはりイニシエーターであると分かる。

 

「アリエッタ、斉武宗玄が持っていた情報は手に入った?」

 

「ええ、問題無く。マスター・メラク」

 

「……相変わらず、見事なものね」

 

 8人のルインの一人“七星の二”ルイン・メラクは満足気にくくっと喉を鳴らし、うんうんと頷く。彼女の任務はモデル・ブランク(無型)のガストレアウィルスとウィルス適合因子の組み合わせがもたらす形象崩壊を応用した変身能力によって、秘密結社「五翔会」の最高幹部になりすまし、内部情報を仲間達へとリークする事。

 

 そして彼女のパートナーたるイニシエーターの名前は、アリエッタ・ディープダウン。モデル・パラサイト、寄生虫の因子を持った呪われた子供たちである。その固有能力はモデル生物がそうであるように、他の生物の体内へと侵入する事。

 

 しかもこれは“殺して皮を被っている”などという単純な変装ではなく、筋肉も神経も脳も内蔵も傷付けずに、対象を生かしたままその体内に潜み続ける事が出来る。その性質上、歩き方や手持ち無沙汰な時に出るような細かなクセまでも完璧に再現し、宿主の脳内にあった情報は当然として泳ぎ方や自転車の乗り方、包丁の捌き方といったような“体が覚えている”技能すらも全て自らのものとして知り、使う事が出来る。

 

 ……つまり、映画や小説では右利きの人間が怪我もしていないのに左手を使っていたり、普段は親しく名前で呼んでいる者を何故か名字で呼ぶようになったり、あるいはラグビーボールをキャッチする時必ず両手で捕球するようにしていたのにどういう訳かその日は片手で捕ったりする事や、本人ならば当然知っている筈の質問に答えられなかったりするのが化けている偽物の正体が露見する切っ掛けになるが、それが有り得ないという事なのだ。更には何か特別な情報や技術を持っているから殺したり薬物で自我を焼いたりする訳には行かない人物に対しても、アリエッタが乗っ取る分には何の問題も生じ得ない。潜入工作には最適と言って良い能力だった。

 

「……これで、五枚羽根の内二人までもが私達の影響下に入った事になるわね」

 

 実は、斉武宗玄も「五翔会」の中では最高幹部である五枚羽根に数えられる人物であった。

 

 ルイン・メラクは同じく五枚羽根である自分が二人きりで話したい事があると言って彼の元を訪ね、そのまま体内に潜ませていたアリエッタに強襲させて、斉武宗玄を乗っ取ったのだ。当然、国家元首ともなれば身辺警護は厳重極まるものがあるが同じ五枚羽根ならと宗玄の側に僅かな油断があった事と、メラクが東京エリア壊滅後のバラニウムの分配量についてという議題を切り出した事で上手く二人きり……否、三人きりの状況を作り上げる事に成功したのだ。

 

「今まで以上に情報は筒抜け……ですね」

 

 と、アリエッタ。メラクも頷くが、それだけではない。最高幹部二人を意のままに動かせるとなれば、今後は五翔会全体の動きや方針すらもある程度なら自分達“ルイン”がコントロールする事が可能となる。しかも変身能力は8人のルイン全員に共通する能力だし、仲間にはガストレアやイニシエーターの能力をコピー出来るモデル・シースラグのアンナマリーも居る。いずれは五翔会そのものを自分達ルインの傘下に治める事すら可能となるやも知れない。

 

 おまけに、これからは大阪エリアを丸ごと影響下に於けるのだ。行動の自由度は、今までとは比較にならぬほどに広がるだろう。

 

「……まぁ、これで私達の任務は完了……後の事は一番(ドゥベ)や三番(フェクダ)に任せるとしましょう。大丈夫よ、四番(メグレズ)や六番(ミザール)も行っているし……万全を期す為に五番(アリオト)に七番(ベネトナーシュ)、番外(アルコル)も援軍を送るらしいわ」

 

「……総力戦、ですね。私達にとっても」

 

 アリエッタはそう言うと、宗玄の中に侵入し直して豪奢な造りの執務椅子へとその体を沈めさせる。

 

「それも当然ね。東京エリアは星の後継者の始まりの地となるのだから……何としても、守らねばならないわ」

 

 

 

 

 

 

 

 件の東京エリアに於ける戦場の一角では、ガストレア群に対しての圧倒的な殲滅劇が展開されていた。

 

 数十から百にまで達しようかというガストレアの前に立つのは、たった一人のイニシエーター。聖室護衛隊特別隊員にして東京エリア国家元首である聖天子のイニシエーター・将城綾耶。このような一対多数の状況は、彼女が最も得意とするものであった。

 

 専用装備である手甲「バタリング・ラム」で最初の一体を粉微塵に殴り殺すと、後は簡単であった。

 

 その一体が流した血を綾耶は両腕で吸収し、圧力を掛けて発射。ウォーターカッターのようなその攻撃は、眼前にまで迫っていた数体のガストレアを纏めてバラバラに切断してしまう。よく使用する空気のカッターと原理は同じだが、空気と血液とでは比重が違うので武器として使った際の威力も段違いであった。

 

 更に、血の刃で切断された断面から血液を吸収。再び解き放つ。鉄砲水ならぬ鉄砲血はまさしく鉄砲の如く、ガストレア達の体に穴を開けて撃ち抜き、貫く。再び出血。その血がビデオのリプレイの如く綾耶の両腕へと集まっていき、放出。今度は濁流となってガストレアを呑み込んでいく。

 

 殺しては血を奪い、血を奪ってはまた殺す。戦えば戦うほどに、殺せば殺すほどに綾耶の武器となる血液が周囲一帯へと撒き散らされ、その破壊力は手が付けられなくなっていく。

 

 あつらえたように一対多数に向いたこの戦闘スタイル。かつて「七星の遺産」強奪事件の際に、たった一人で未踏査領域を活動出来たのもこの戦法があってこそであった。

 

「次っ!!」

 

 血の砲弾を発射した綾耶だったが、迫ってきていたガストレアは巨体に似つかわしくない素早さで地面に潜って攻撃を避けた。標的を見失った紅い弾頭はそのまま飛んでいって、延長線上にあった岩盤を吹き飛ばした。

 

「今のは……モグラ?」

 

 近付いて見ると、ガストレアが姿を消したすぐそこの地面には大きな穴が空いていて、今のガストレアはそこへ身を隠したのだと分かった。

 

 これは厄介な敵と言える。綾耶のレーダーは空気の揺れを感じ取って周囲の状況を知覚する。よって、空気が揺れない地中からの攻撃は探知出来ない。地上のガストレアと戦いながら、足下から奇襲されてはたまったものではない。

 

 ……が、倒す手段はある。

 

「今、炙り出してやる……!!」

 

 綾耶はガストレアの消えていった穴へと手をかざすと、腕に充填していた空気を開放。超高速で噴出された圧縮空気は強烈な衝撃波となって、穴の中へと注ぎ込まれる。あっという間に綾耶の周囲のあちこちから間欠泉のように土が爆ぜて、衝撃波が吹き出す。その内の一つからは、ずんぐりむっくりの体躯を持つモグラのガストレアがまるで水中にダイナマイトをぶち込む漁の手法で打ち上げられる魚のように飛び出して、地面に叩き付けられるのを待たずに飛来した弾丸によって頭部を貫かれ、絶命した。ティナの援護射撃だ。

 

 モグラが掘る穴は全てが地中で一つに繋がっている。理科や生物の教科書にも穴からコンクリートを流し込んで、固まった物を掘り出した写真などが載っていたりする。綾耶が発射した衝撃波は瞬く間にモグラ塚の中に充満して、ガストレアを地上へと押し出したのだ。ガストレアは綾耶の攻撃を避けたつもりが、逆に自分が逃げ場の無い場所へと入り込んでしまっていたという訳だ。

 

「さぁ、まだまだ何体でも……って……」

 

 更に血を吸収して解き放とうとした所で、綾耶は周囲のガストレア群の動きが変わった事に気付いた。

 

 これまでは遮二無二に突っ込んできたのが、今は左右に分かれて自分を避け、迂回して進もうとしている。どうやらこのまま攻撃を繰り返していても突破出来る可能性は低い、もしくは突破出来たとしてもそれまでに受ける被害が大きすぎると判断して、別の民警達が守る区画を襲撃する事にしたらしい。

 

 戦術としては正しい。民警達はほぼ全ての戦力をこの戦場に投入しており、今の東京エリアは全くの無防備。一体でもガストレアの侵入を許せば、そこからはシェルターに入れなかった人が襲われて後はネズミ算式にガストレアが増殖して大絶滅が起きる。つまりガストレア側としては民警軍団を全滅させる必要は無く、それどころか弱い区画をたった一つ切り崩すだけで勝利が確定するのだ。無理に強い綾耶を倒す必要などどこにも無い。

 

 だが、綾耶とて甘くはなかった。

 

「そう容易くは、行かないよ!!」

 

 バン、と両手を大地に叩き付けると吸引能力を発動。

 

 既に足下には大量の血が足首を浸すぐらいの高さにまで溜まりを作っており、血溜まりの中央に立つ綾耶はそれを自分の元へと吸い寄せる。当然、彼女を中心として血が渦を巻いて吸い込まれていき、ガストレア達もその流れによって綾耶へと吸い寄せられていく。

 

 そして、引き寄せられてきた所を!!

 

「ふっ!!」

 

 籠手の肘の部分に設けられた噴出口から圧縮空気が解き放たれ、瞬間的且つ爆発的な加速を得た綾耶の拳はまさしくどんな難攻不落の要塞でも城門を粉砕して陥落させてしまう破城鎚(バタリング・ラム)。ガストレアの巨体を木っ端微塵に打ち砕く。

 

「ふン!!」

 

 続く一撃でステージⅣと見られる大型の個体を粉砕した所で周囲を見渡すと、どうやら第一波を凌ぐ事には成功したらしい。恐らくは数分と続かないであろうが、この区画に静寂が訪れていた。

 

「やった、やったぞ!!」

 

「防ぎ切ったよ!!」

 

「気を抜くな!! 負傷した奴は後方へ下がれ!! すぐに次が来るぞ!!」

 

「今の内に、陣形を整えるんだ!!」

 

 一帯に配置されていたプロモーター・イニシエーターが手にした武器を掲げ、歓声を上げる。最初に突貫した枢・エックスのペアがそうであったように綾耶の猛戦振りもまた、士気の高揚に一役買っていたのだ。

 

「よくやってくれたな。疲れてるだろう、ここの守りには交代で2小隊を配置するから、少し休め」

 

 中隊長を務めるプロモーターが、綾耶の肩へと手を置いて労を労う。彼と彼のイニシエーターは全身血と泥にまみれていて、戦闘開始からまだ数時間だが既にかなりの激戦を経てきた事が伺える。

 

「僕はまだ……」

 

 万全とは言えないものの余力は十分残している綾耶だが、しかし戦いはまだ初日である事を思い出す。ここで無理をして、いよいよという時に戦えなくなってはそれこそ本末転倒だ。そして、東京エリアを衛る為に命を懸けているのは自分だけではない。それはここに居る皆が同じだ。仲間を信じて頼る事が出来ないのでは、エリアを衛り切る事など夢のまた夢であろう。

 

「……ええ、それじゃあ少しだけ休ませて……」

 

 そう言い直して一時後退しようとする綾耶であったが、そこにティナから通信が入った。無線機のスイッチを入れて、中隊長にも声が聞こえるようにスピーカーモードをオンにする。

 

<綾耶さん、大変です!!>

 

「どうしたの、ティナちゃん?」

 

<二つ右の区画へ、飛行型ガストレアの部隊が向かっているのをシェンフィールドが捉えました。恐らく、民警軍団を前後から挟撃する為の別働隊です!!>

 

 その報告を聞いた途端、綾耶と中隊長の顔が真っ青になった。特に中隊長は指揮官という立場上、他の区画の戦況もある程度は伝わってきているのだろう。顔色の変化が顕著だった。対面している綾耶はそれを敏感に感じ取って、ごくりと唾を呑んだ。この戦場には一対多に強い自分が居たからまだ比較的余裕を持って対処出来ていたが、他の区画が同じように戦えているとは思えない。まだどこかが破られたという報告は無いが、何か一つの破局点があればそうなりかねないような危うい戦いには違いないのだろう。

 

 そんな状態での背後からの奇襲と、更に前後からの挟み撃ちは決定的だ。薄氷をブチ抜く一踏みには十分過ぎるものがあるだろう。

 

「確かそこは、英彦の奴が受け持っていた所だな……あいつは何をやってんだ!?」

 

<……遠目からですが、眼前のガストレアとの戦いで精一杯のようで……そこへ戦力を回せないようです。私も迎撃しようとしましたが、射程距離外です>

 

 怒鳴るような中隊長の言葉を受け、ティナは自分の事でもないのに少し申し訳なさそうな声で応じる。中隊長は「クソッ」と毒突いて拳で掌を叩いた。

 

 だが苛立ってばかりもいられない。次の手を考えなくては。

 

「……やむを得ないな。将城綾耶は、そちらの応援に行ってくれるか? ここはお前のお陰でまだ士気も高い。今なら何とか俺達だけでも支えきれるだろう」

 

「分かりました。では中隊長さんは、ティナちゃん……あ、僕の同僚ですけど彼女がこの区画を援護している事を伝えて下さい。ティナちゃんは元98位のイニシエーターです」

 

 中隊長と彼のイニシエーターはそれを聞いて「おおっ」と声を上げる。顔にも喜色が浮かんでいた。

 

「成る程、それほどの高序列なら単純な戦力としてだけじゃなく、士気の高揚にも役立つな。よし、その手で行こう」

 

「聞いての通りだよ、ティナちゃん。僕はこれから飛行ガストレア部隊の迎撃に行くから、ティナちゃんはここの援護をよろしく!!」

 

<了解しました。綾耶さんも、お気を付けて>

 

 通信を切ると、綾耶はふわりと宙に舞い上がる。

 

「では、中隊長さん……ご武運を」

 

「お前もな!!」

 

 そのやり取りを最後に綾耶が飛び去ったのを見届けると、中隊長は無線機を自分の麾下にあるアジュバント用の周波数へと合わせ、大声を上げた。

 

「全員、今の内に第二波来襲に備えて迎撃態勢を万全にしておけ!! 大丈夫だ、俺達には元98位のイニシエーターの援護がある!! 無理はせず、スタンドプレーもせずに向かってきたガストレアを確実に、全員の力で仕留めていくんだ!! いいか、落ち着いて対応するんだ!! 冷静さを失ったら死ぬぞ!!」

 

 中隊長の檄を受けて各アジュバントから了解の返事やその代わりに雄叫びが上がり、綾耶の先程の戦い振りを受けて高まっていた士気は依然最高潮の状態が続いている。

 

「良い采配ですね」

 

 対戦車ライフルのスコープ越しに中隊の状況を見て取ったティナは、そう呟いた。この区画は中隊長の的確な指示もあって烏合の衆である民警軍団もよく纏まっている。そこに自分の援護も加われば、十分に押し寄せるガストレア群を押し留める事が出来るだろう。他のブロックでも、まだ救援要請が出ていないという事は苦戦はしつつも持ち堪えていると見て良い。これは団長である枢が最初に特攻して全体の士気をピークにまで引き上げ、同時にガストレア軍団の出鼻を挫いて陣形を乱した事も効いているのだろう。

 

 ならばこの緒戦の趨勢を占うのはやはり、別働隊のガストレアを綾耶が上手く迎撃出来るかどうか。

 

「……信じてますよ、綾耶さん」

 

 

 

 

 

 

 

「うわぁ……」

 

 空中に飛び上がった事で俯瞰視点を得た綾耶には、戦場の全体像が良く分かるようになった。

 

 全体的な戦況としては倒しても倒しても向かってくるガストレアの軍勢に対して、民警達はよく頑張っていると言える。

 

 ある部隊は倒木や岩場を上手くバリケードのように使ってガストレアの突撃を防ぎ、またある一隊は前列にバラニウム合金製の盾を持ったイニシエーターが並んで立ってガストレアの攻撃を防ぐと同時に勢いを削ぎ、そのすぐ後ろに柄の長さが6メートル以上もある長槍を構えたプロモーターが槍衾を作って盾の隙間からガストレアを刺突、ダメージを与えるという戦法で止めている。

 

 通常ならこれで絶対確実とは言わずとも十中八九はガストレアを封殺出来る堅実な戦法なのだが、今回は些か勝手が違った。

 

 押し寄せるガストレア群の勢いは異常なまでに、少なくとも綾耶が今まで見てきた中では一番強く、一部ではバリケードが壊されて民警達がそのまま木材やガストレアの下敷きになった。別の場所では前列の防壁が突破されて盾を持ったイニシエーターが吹っ飛ばされて空中に舞い上げられ、身動き取れないままガストレアに噛み付かれ、そのまま口中で咀嚼され、千切れた手足がどさりと血でぬかるんだ地面に落ちた。

 

「ううっ」

 

 綾耶は思わず着地して助けに行きたい衝動に駆られたが、すんでの所で持ち堪えた。まだ眼下の戦場では、後詰めに控えていた部隊が必死の銃撃によってガストレアを何とか押し返している。それにここで彼等を助けるのは容易いが、それをやってガストレア別働隊の迎撃が遅れて防衛戦に穴が空いたら、この戦いそのものが終わってしまう。

 

「……だったら!!」

 

 彼女は頭を切り換え次善の手段に移行する事にした。高度を下げて地面スレスレを飛ぶとそのままトップスピードでガストレア軍団へ、それも出来るだけ密集している部分を狙って突入。失速しないギリギリのラインでガストレアを薙ぎ倒しながら飛んでいってそのまま目的のブロックの方角へと飛び去る。

 

「……い、今のは……」

 

 イニシエーターの一人はいきなり現れて戦場を横切り、十体からのガストレアを地形ごと抉って飛んでいった未確認飛行物体にあんぐりと口を空けるばかりだったが、隣で戦っていたプロモーターに頭を小突かれた。

 

「お前死にてぇのか、呆けている場合じゃねぇ!! 今のが何でも、兎に角ガストレアの戦列が乱れた!! このチャンスを逃すな!! 戦線を押し戻すんだ!!」

 

「は、はい!!」

 

 イニシエーターは頭を擦りつつも手にしたサブマシンガンを闇雲に乱射し、ありったけの手榴弾をガストレアの群れの中に放り投げた。

 

 

 

 

 

 

 

「天童式戦闘術一の型三番『焔火扇』!!」

 

 義手の力を開放し、爆速を得た蓮太郎の拳がガストレアに炸裂。巨体を地面と平行に飛ばして、吹き飛んだ先に居たガストレアをボウリングのピンの様に巻き込んで倒していく。

 

「ハアアアアッ!!」

 

 延珠が、兎の因子がもたらす強靱な脚力に物を言わせて見舞った蹴りは、只今の蓮太郎の攻撃に勝るとも劣らない威力を見せて、ガストレアをサッカーボールの如くぶっ飛ばした。

 

「行ったぞ!!」

 

「任せて!!」

 

 ぶっ飛んだその先に待っていたのは、天童式抜刀術・免許皆伝の木更。腰溜めに構えたそこから右脚を軸に旋回。遠心力を加えつつ、抜刀する。

 

「天童式抜刀術一の型八番、『無影無踪』」

 

 チカッ!!

 

 一瞬、刀身が光ったかと思うと、ガストレアはサイコロステーキのように切り刻まれて肉片がボロボロと辺りに転がった。

 

 味方の蓮太郎ですら、思わずぶるっと体を震わせずにはいられない圧倒的戦力。それを見せ付けられて本能しかないガストレアですらもが恐怖しているかのように動きを止め、後退しようとする。だが、無駄な事。退路は既に断たれていた。

 

 ガストレア達の動きが止まる。そこには既にモデル・スパイダーのイニシエーター、片桐弓月が張り巡らせた蜘蛛の糸が結界のように張り巡らされていた。まんまとそこに突っ込んだガストレア達は、粘着性の糸に絡め取られて身動き取れなくなってしまう。そこを狙って、

 

「オラアアアアッ!!!!」

 

 弓月のプロモーター、片桐玉樹が腕に巻かれたナックルダスターに回転ノコギリの機構を組み合わせたバラニウムチェーンソーを叩き込み、ガストレアを殺戮していく。

 

 ガストレア達は戸惑ったように動きを止めるが、いつまでもそうしてはいられない。弓月は輪形に設置した糸の結界を徐々に狭めていく。このままではいずれグルグル巻きに縛り上げられて、動きが取れなくなってしまう。しかし、知能を持たない筈のガストレア達は本能で活路を見出していた。

 

 周囲を囲む糸が中心という一点へ集まろうと動くならば、必ず隙間が生じる。その隙間を見付けた彼等は、そこから脱出する為に走る。だが、それこそが。

 

「計算通りです」

 

 次の瞬間、爆音。殺到した極小且つ無数のバラニウム球に襲われて、ガストレア達はひとたまりもなく全身をボロ雑巾の如くズタズタにされ、力無く倒れた。

 

 脱出する為に走ったそこは、トラップゾーンだった。

 

 まだ息のあった個体にマガジン一個分の弾丸を叩き込むと、モデル・ドルフィンの千寿夏世は玉樹から借り受けていた予備のサングラスを外した。

 

 玉樹のサングラスには弓月が作り出す不可視の糸を可視化させる特殊加工が施されている。これを使って糸の並びや木の枝・岩といった張り巡らされているオブジェクトの位置、そして糸を引く弓月の位置から隙間が生じる箇所を計算した夏世は、前もってそこに大量のクレイモア地雷を設置していたのだ。

 

 それでも、全てを殺し尽くすには至らなかった。先行していた数体を盾にする形で致命傷を免れた残り数体が仲間の死体を踏み締めて地雷を回避し、逃亡を図る。

 

 だが、それは叶わぬ夢。

 

 一陣の風と共に現れ出でたるはモデル・キャットのイニシエーター、布施翠。猫の因子がもたらす敏捷性でガストレアの周囲を飛び回りながら両手の爪を振り回して無差別に死を振り撒いていく。

 

 切り刻まれた中で、再生能力に秀でていたらしい一体が傷を再生させ、逃げようとする。が、いきなりその体は水風船に針を突き刺したように、パンと爆ぜて一体に血の雨を降らせる事になった。

 

 翠のパートナー、天童流戦闘術八段・薙沢彰麿。独自に改良を施した絶技は、相手がガストレアであろうと致命傷を与えるに十分な威力を発揮していた。

 

 自分のアジュバントが担当していたポイントへと襲来したガストレア共の殲滅を確認した蓮太郎は「ふうっ」と一息吐いて天を仰いで……表情を凍り付かせた。上空を、昆虫や鳥の因子を持つのであろうガストレアの飛行部隊が移動していくのが見えたからだ。

 

「あのコースは……俺達の背後に回り込むつもりか!!」

 

 だが夜ならば兎も角として、いくらモノリス倒壊の噴煙によって陽光が遮られているとは言え今は昼。中隊長からも奴等の姿は見えている筈なのに、回りを見渡して迎撃の為に動くアジュバントの姿は見られない。

 

 何で迎撃に動かない!?

 

 疑問も憤怒もあるが、蓮太郎は全て後回しにする事にした。兎に角、自分達が行くにせよ他のアジュバントを向かわせるにせよ、中隊長に迎撃を命じてもらわなくてはならない。前列にいる我堂英彦の元に駆け寄ると、肩を掴んでぐいっと自分の方に振り向かせる。

 

「おい、あんた!! 上を見てみろ!! ガストレアの別働隊が出た!! 挟み撃ちにされるぞ!! 俺達に行かせてくれ!!」

 

「今はそれどころじゃないのが分からないのか君は!!」

 

 泡食った顔で眼を血走らせた英彦が「とんでもない」とでも言いたげな表情で返してくる。蓮太郎はいくら戦況が不利とは言えあまりにも近視眼的なこの中隊長に、怒りと失望が入り交じった感情を覚えた。何の事はない、彼はすぐ目の前のガストレアに殺されたくないという思いだけが先行して、それと戦う戦力を一兵でも減らしたくなかっただけなのだ。人間心理として無理からぬ所ではあるが……しかしそれは、今死ぬか後で死ぬかの違いでしかなく、根本的な解決には全くなっていない。

 

 生きる為にはリスクを承知で、踏み出さねばならない。

 

「背後を衝かれたらそれこそお終いだ!! 全滅するぞ!!」

 

「今は目の前のガストレアだ!! 列に戻れ里見リーダー!!」

 

「あれを見てみろ!! あの数が後ろから襲ってくるんだぞ!!」

 

 怒りに任せて叫びながら蓮太郎は空飛ぶガストレア達を指差して……思わず二度見した。

 

 ガストレアの中の、一体が真っ逆さまに落下していく。

 

 続いて一体、また一体と、次々落ちていく。

 

「あれは……」

 

 目を凝らすと、ガストレア達の中を何か……白い影が物凄いスピードで飛び回っているのが見えた。その影が触れる度に、ガストレアが撃墜されていく。

 

 民警軍団の背後へと回り込もうとしていた飛行ガストレア部隊であったが、思わぬ邪魔者の出現に隊列が乱れ、動きがばらける。そしてその混乱に乗じるように白い影は動きが鈍くなったガストレアを先程よりも更に早いペースで次々墜としていく。

 

 数十は居たであろう飛行ガストレアは、もう片手の指で数えられる程に数を減らしていた。

 

「蓮太郎!!」

 

 ここへ来て、他のアジュバントを助けつつ蓮太郎を追ってきていた延珠が到着した。

 

「おい、延珠。あれを見ろ……」

 

「んんっ?」

 

 延珠は目を凝らして、ヘリや飛行機では絶対に有り得ない軌道を描いて飛び回る白い影をじっと見る。だがそれもほんの僅かな時間だけだった。

 

 空中を猛スピードで移動し、ガストレアを次々落とす程の戦闘力を持つ者など、彼女が知る限り唯一人。

 

 白い影は上昇すると、そこから一気に急降下。稲妻の如き蹴りで最後の飛行ガストレアを撃墜し、勢いそのままに隕石の様に蓮太郎達のすぐ傍へと落下した。

 

 落着によってもうもうと立ち込めていた煙が、見えない刃物が振るわれたように切り裂かれて、晴れる。

 

 そうして現れたのは改造が施された聖室護衛隊の白い外套を羽織った一人のイニシエーター。誰あろう、将城綾耶だった。

 

「綾耶!! 来てくれたのか!!」

 

「延珠ちゃん!! 蓮太郎さんも!! 大丈夫ですか、助けに来ました!!」

 

 親友の登場に延珠は嬉しそうに駆け寄り、綾耶も延珠の手をぎゅっと握った。

 

「お前も、無事だったか」

 

 蓮太郎も、強力なイニシエーターである綾耶が来てくれた事とガストレアの空中部隊が殲滅された事もあって今度こそ一息吐いて、相好を崩す。と、そこに、

 

「あ、ああ……!! よ、良く来てくれたね。君の活躍は聞いているよ将城綾耶……」

 

 感極まったという表情の英彦が走り寄ってくる。いい年をした大人がいくらイニシエーターとは言え十にもならない少女を頼り切っている様を見て、蓮太郎は思わず嘆息した。

 

「君のような強いイニシエーターが加わってくれるなら、この区画の無事は保証されたも同じだよ!!」

 

 そう言って、握手でもしようとするのか綾耶に手を差し出す英彦。その姿を見て蓮太郎と延珠はこれが自分達の中隊長かと情けなく思う所もあったが、まぁ当の綾耶はこれぐらいで失望したり臍を曲げたりするような子ではない事を二人とも知っていたので、何も言わなかった。

 

 ……のだが。しかしその時、予想外の事態が起きた。

 

「一緒に戦って……ぐえっ!?」

 

 綾耶はいきなり手を伸ばして英彦の胸ぐらを掴むと、背後へと投げ飛ばしたのである。

 

「なっ!?」

 

「あ、綾耶!?」

 

 蓮太郎と延珠は揃って信じられないという顔になって、素っ頓狂な声を上げる。英彦はそのまま、数メートル先にあった草むらに突っ込んだ。

 

「ひ、英彦さんに何を……!! きゃあああっ!?」

 

 英彦のイニシエーター、彼に心音(ここね)と呼ばれていた少女がいきなりの暴挙を受けて持っていたショットガンの銃口を綾耶へ向けるが、しかし引き金を引くよりも早く綾耶は肉迫すると、投げっぱなしジャーマンの要領で彼女をブン投げてしまった。心音の体は放物線を描いて空を飛び、英彦が突っ込んだ位置に近い草むらへと落ちた。

 

「お、おい綾耶……お前何やって……!!」

 

 普段の彼女からは信じられないような行動を見て、蓮太郎は警戒しつつじりじり距離を詰めながら近付き、詰問する。

 

「待つのだ、蓮太郎!!」

 

 が、延珠が彼の動きを掣肘した。

 

「延珠……!!」

 

「何か……何かが来るぞ!!」

 

 延珠は、厳しい顔で前方上空を睨んでいた。蓮太郎はこの時気付いたが、綾耶も同じ方向を見ている。

 

「……?」

 

 蓮太郎は、何かあるのかと同じ方向を見て……空中に何か、きらりと光る物を見付けた。

 

 星? とも思ったが、しかし今は昼だ。しかも舞い上がった噴煙が厚い雲のように立ち込めていて、星の光が見える道理など無い。

 

 ならばあれは一体……?

 

 そこまで考え、そして更に先へと思考を進める蓮太郎。

 

「!!」

 

 彼が一つの結論に辿り着くのと、それが正しかった事が証明されるのはほぼ同時だった。

 

 一秒後、その光は恐ろしい勢いで地へと達し、ちょうど先程まで英彦が立っていた所を薙いだ。

 

「逃げるのだ、蓮太郎!!」

 

「逃げて!! 延珠ちゃん!!」

 

 綾耶はバックステップを踏むようにして空中へと退避。同時に延珠は蓮太郎の体を抱え込むと全速力で後方へと走る。

 

 天から伸びてきた銀色の光のラインはそのまま流れるように動いて、耳障りな音を立てながらその通過した軌跡に存在した物は民警だろうと建造物だろうと自然物だろうとガストレアであろうと、一切の区別も例外も無く刈り取って切断していく。

 

 車並のスピードで走り回る延珠に抱えられながら蓮太郎は、先程の綾耶の行動の意味を理解した。

 

 レーダー能力を持つ綾耶は、他のイニシエーターと比べても知覚能力は遥かに高い。彼女はいち早くこの光線が飛来する事を察知していて、説明する時間すら惜しいという判断から英彦と心音を力尽くで逃がしたのだ。

 

「イニシエーターは全員、自分のプロモーターを抱えて逃げろ!! いいか、あのビームに当たったら死ぬぞ!! 逃げて逃げて逃げまくれ!!」

 

 延珠に抱えられながら、蓮太郎はあらん限りの声を張り上げて叫ぶ。

 

 声が届く範囲に居たイニシエーター達は、最初の一瞬だけは戸惑いを見せたもののすぐにタックルと錯覚するような勢いで各々のプロモーターを抱えるとランダムに戦場を駆け回る。

 

 “死”が、雨のように降ってくる。あちこちで悲鳴が上がり、イニシエーターの中には走りながら泣き出している者も居た。

 

 絶望的な状況と言えるが、しかし空中の綾耶はまだ諦めていなかった。頭を回転させる。この「光の槍」正体は、何か?

 

 光では有り得ない。それなら空気の揺れを感知する自分のレーダーでは感知出来ないし、光ったと思ったらその瞬間には既に着弾しているだろう。同じ理屈で、ビームのようなエネルギーでもない。「光の槍」は、確かな実体を持った物質だ。

 

 滞空中の綾耶は前方、遥か彼方の大地から光線が伸びてきているのを確認した。そして幾度か繰り返されるそれは全て同じ地点だ。つまり、光の槍の発射台は一つ。恐らくは……そういった能力を持ったガストレアが居る。

 

 綾耶がこの考えに至る事が出来たのには、理由があった。同じ能力の持ち主を、知っていたからだ。

 

「……僕と、同じタイプの?」

 

 だとするならば!!

 

 連射される光の槍の隙間を縫うようにして飛び回る綾耶。すると前方がチカッと光って、視界が銀の閃光に覆い尽くされる。しかし、

 

「はあっ!!」

 

 裂帛の気合いと共に、両手から衝撃波を発射。光の槍にぶつける。すると光の槍は水が壁にぶつかった様に弾けて、飛び散った。

 

 綾耶は着地すると、雨がぱらついて来た時のようにそっと掌を伸ばす。するとそこに、雨粒のように降ってきた銀色の雫が付着して歪な球形を作った。

 

「これは……水銀?」

 

 考察は正しかった。光の槍の正体は、水銀。それを撃ち出してきているのは象かテッポウウオか、モデルまでは分からないが自分と同じタイプの能力を持ったガストレア。流体を吸収し、圧力を掛けて発射してきている。綾耶が良く使う空気や血のカッターと、同じ原理である。ただし、射程距離は比べ物にはならない。数十メートルが精々の綾耶に対して、敵ガストレアはキロ単位。文字通り、桁が違う。

 

 どう戦うか? 厳しい顔で空中を睨む綾耶だが、光の槍の次弾はいつまで経っても飛んでこなかった。

 

「……?」

 

 訝しむように、綾耶が首を傾げたその時、この第40区全体に、この世のどんな生物の声とも似ていない咆哮が響き渡る。しかしそれが雄叫びや何かの指令を伝えるものではなく、悲鳴である事は音色から直感的に分かった。

 

 すると戦場全体に展開していたガストレア群が僅かな時間だけ動きを止め、やがて堅牢そうな外殻を持った個体(最初に先陣切って突入してきたガストレアの生き残り)を殿軍として、緩々と退いていく。

 

 民警達は追おうとはしなかった。追撃を掛けるには、今し方の「光の槍」が彼等に与えた衝撃はあまりに大き過ぎた。

 

 十数分後、全てのガストレアの姿が戦場から消えた。綾耶のすぐ後ろまで来ていた延珠が、ポツリと漏らす。

 

「……助かった、のか? 妾達は……」

 

 綾耶はまだ警戒を解いてはいなかったが、しかしいつまで経っても次の光の槍が飛んでこないのを受けて、やっと安全を確信したのだろう。瞳から赤色が消え失せる。そこで彼女は、やっと親友に返事をしていなかったのに気付いた。

 

「……ひとまずはね」

 



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第33話 束の間の静寂

 

 開始直後に枢・エックスペアの指揮官突撃、降り注いだ光の槍と波乱の第一戦終結から半日ほどが過ぎ、疲れ切った蓮太郎は外周区の奥まった所にある中学校の、体育館へと足を運んでいた。確かここへは負傷者が収容されており、今は木更達が働いている筈だ。

 

 ガストレアが退いた後、プロモーター全員で行った自衛隊の生存者の捜索。しかしこれは実際には死体の確認・収容作業と言い換えた方が正しいようにすら思えた。最終的に発見できた生き残り自衛官は68人。参戦した自衛隊の歩兵師団が7000人強であったので、その100分の1にも満たぬ数字であった。無論、無傷の者など一人も居らず手足が欠損している者も少なくなかった。

 

 それ以上に、瓦礫を掘り起こして手が見えたので引っ張ったら異様に軽く、それもその筈でその手は肘の辺りで千切れていたり、岩だと思って持ち上げたら妙に弾力があって、それが実は人の頭だったりしたような体験が5分ごとに襲い掛かってくるのだ。彼ならずとも気が滅入るであろう。この捜索活動がプロモーターのみで行われたのも納得である。イニシエーターを連れてきていたら、戦意を喪失したり泣き出したりPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症したりする子が後を絶たなかったであろう。

 

 しかし体育館の中とて、決してリラックスできる環境とは言えなかった。そこは、さながら野戦病院の様相を呈していた。

 

 負傷した自衛官や民警が所狭しと寝かされていて、足の踏み場も無い。敷かれたブルーシートやゴザの隙間を縫うようにして、白衣を着た看護師や有志の医師が動き回っている。無数の人の体温でむわっとした不快な熱気に包まれていて、蓮太郎は思わずネクタイを緩めた。

 

「あ、蓮太郎蓮太郎」

 

 ぱたぱたと駆けてくるのは延珠だった。頭には小さなナースキャップを被っている。

 

「可愛いだろう? 手伝ったらくれたのだ。職員はこれを付けるんだって」

 

「そ、そうか……邪魔してないか?」

 

「そんな事ないわよ。延珠ちゃん、とても評判が良いのよ。怪我した人の手をじっと握ってあげて、一緒に居てくれるのが凄く良いって」

 

 声を掛けてくるのはお湯の入った洗面器を手にした木更だ。彼女も延珠と同じでナースキャップを被っている。

 

「ほら、綾耶ちゃんもあそこに……」

 

 木更はそう言って体育館の一角を指差して……そして、笑顔が強張った。

 

 綾耶は左手と右脚を失ったプロモーターの傍らに跪いて、両手を組んで祈っていた。今の彼女は聖室護衛隊の外套を脱いでいて、トレードマークの修道服から本物のシスターのように見えた。この体育館は大声を上げなければ隣の者の声も聞こえないぐらいの熱気と喧噪に満ちていたが、祈りを捧げる彼女の周りだけは全ての音が消えてひんやりとした静謐な空気が降りてきているようだった。

 

 横になっているプロモーターは、もう動いていなかった。

 

 綾耶は何も言わずにプロモーターを横抱きにして軽々持ち上げると、蓮太郎が入ってきたのとは違う出入り口から外へ出て行く。彼を、送りに行ったのだ。蓮太郎も延珠も木更も、声を掛ける事が出来なかった。

 

「あ……その……よ……」

 

 何とか空気を変えようと話題を探す蓮太郎だが、気の利いた台詞など何も浮かんではこない。木更も延珠も、互いに顔を見合わせるだけだ。ほんの何秒かの間だけだが、とてつもない居心地の悪さを感じて延珠は体を揺すった。

 

 そんな雰囲気を打ち破ったのは、カツンカツンと床を突く杖の音としわがれた声だった。

 

「ああ、里見さん、天童さんも……延珠ちゃんも……皆、無事で何よりです」

 

 現れたのは綾耶の実家でもある第39区第三小学校に呪われた子供たちを集め、彼女達を教えている松崎老人であった。木更と延珠は「えっ」と驚きの声を上げて、蓮太郎は眼をぱちくりさせた。

 

「どうしてあんたがここに?」

 

「子供たちだけで、こんな所に来させる訳には行かないでしょ? 私達は保護者よ」

 

 すぐ後ろから掛けられた声に振り返ると、そこに立っていたのは松崎と同じく子供たちの教師を務めている琉生(るい)だった。すぐ傍らにはアンナマリーが控えている。回帰の炎を見学に行った時、もしガストレアが襲ってきたら琉生と一緒に他の子供たちを護ると言った子であり、蓮太郎にはそれが強く印象に残っていた。

 

「保護者……って……」

 

 だがそう言われて注意深く見てみると、延珠や先程の綾耶と同じように負傷者の傍には少女達が付いていて、手を握ったりぎこちない動きで薬を塗ったり包帯を取り替えたりしている。その数はかなり多く見えた。そして少女達の中には確かに、蓮太郎や延珠の見知った顔が混じっている。

 

「見ろ、蓮太郎。あれはマリアだぞ、ササナちゃんも居る。あそこには沙希ちゃんも……!!」

 

 延珠が弾んだ声を上げた。こんな所で、学校のみんなに会う事になるなんて思ってもみなかった。

 

「みんな、先生も延珠ちゃんも綾耶お姉ちゃんも頑張ってるのに自分達だけ何もしないなんてイヤだって聞かなくてね……自分達でも怪我人の手当や、賄いの手伝いなら出来るって……ね」

 

「あんた……」

 

 単純かつ素直に喜べる延珠と違って、蓮太郎と木更は難しい顔だ。子供たちの気持ちが嬉しくないと言えば嘘になるが……しかし松崎や琉生が子供たちの保護者なら、彼女等が何と言おうがここへ来るのを止めるべきではなかったのか。ここは戦場の眼と鼻の先。ガストレアの大群が雪崩れ込んできたその時、逃げられる可能性は絶無だ。そんな所に子供たちを連れてくるのは保護者や大人として以前に人として間違った行いではなかろうか。

 

 松崎も琉生も、互いを見やって苦笑する。二人とも、言われるまでもなくそのような考えには既に思い至って何度も考えたのだろう。全て承知でその上で、子供たちを連れて此処へやって来たのだ。

 

「……心配はしてないわ。私達は安全よ」

 

 アンナマリーは飄々と笑いながら語る。何を根拠に……と、蓮太郎が言うより早く松崎が口を開いた。

 

「綾耶ちゃんや延珠ちゃん、それに里見先生の力は、十分に知っていますからね。その上での判断ですよ」

 

「うぐっ……だがなぁ……」

 

 そこまで信頼されて、それに応えたいというのは間違いなく蓮太郎の本音ではあるが……しかしやはり、子供たちをこんな戦場一歩手前の所にまで連れてきているというのは……!! 二つの感情がせめぎ合って、しかしどちらも完全に肯定も否定も出来ずに蓮太郎はむむむと唸る。その時、負傷者の手を握っていた子の一人が彼に気付いた。

 

「あ、里見先生!!」

 

 その子が声を上げると、後はもうイモヅル式だった。

 

「えっ!! 里見先生が!?」

 

「ホントだ!! 先生だよ!!」

 

「せんせーっ!!」

 

 あっという間に子供たちが群がってきて、蓮太郎はもみくちゃにされる。延珠もどさくさに紛れてパートナーの腕に抱き付いてくる。木更は隅っこで「どーせ私は評価保留で不人気の木更先生ですよ」と拗ねていて、見かねた夏世がポンと肩に手を置いて慰めていた。

 

 怪我人と死人が溢れているこの体育館に於いて、この一角だけは全く雰囲気が違っていてまるで花が咲いたようだった。

 

 蓮太郎は色々と言いたい事もあったが、何か……もう、どうでも良くなった。こうして皆の笑顔に囲まれているだけで、どこかほっとする。何時間か前までは死ぬような思いをしたものだが、彼女達の笑顔が見れただけでも死闘を潜り抜け、こうして生きていて良かったと思えた。

 

「ホント……バカだよな、お前等……こんな所に、自分から来るなんてよ」

 

 ふん、と鼻を鳴らす。まぁ……自分が為すべき事は変わらない。ガストレア軍団の攻撃を防ぎ切り、東京エリアを……こいつらを衛る。

 

 寧ろ、これでより決意が確固たるものになった。

 

 子供たちが前線一歩手前の此処へと来てしまった以上、ガストレア軍団の突破を許せば最初に犠牲となるのは彼女達だ。

 

「これで、ますます負ける訳には行かなくなったな……」

 

 昔の自分なら防ぎきれなかった時の事を想像して、怯えていただろうと蓮太郎は思う。今は違う。彼は中国で言う抱拳礼のように掌に拳を叩き付けた。

 

 そんな事には、断じてさせない。これはある意味では背水の陣。一体でもガストレアを通したら全てが終わる……の、ならば。絶対に一体のガストレアも最終防衛ラインを越えさせはしない。かえって開き直れるというものだ。

 

 疲れた心身に、闘志が湧いて満ちていくのが分かる。

 

「まぁ……心配は要らねぇよ。お前等は俺が……」

 

 言い掛けて、蓮太郎は右手にぎゅっと抱き付いている延珠を見やった。兎のイニシエーターは相棒の意を汲み取り、にかっと輝くような笑顔を見せる。木更は……まだいじけていて夏世が頭を撫でてやっていた。

 

「あー……俺達が、ちゃんと衛ってやるからよ。だから安心して待ってろ。そして俺も延珠も木更さんも夏世も、勿論綾耶も。必ず全員無事で戻ってくるからよ。俺達を信じろ」

 

 誰かさんのせいでイマイチ締まらないが、蓮太郎は少しだけ顔を赤くしながら子供たちに語り掛ける。

 

 この言葉は宝くじが当たる事を期待するような……出来もしない事、有り得る筈もない事が起こってくれと願うような虫の良い祈りなどでは決してない。何があろうと絶対に成し遂げるという決意だった。

 

 そして、ぐっと親指を立てる。

 

「あ、あいるびーばっく……とらすとみー」

 

 次の瞬間、子供たちの笑顔が凍り付いて動きまでもぴたりと止まってしまった。全員がきょとんと眼を丸くして、首を傾げる。延珠でさえ「蓮太郎、流石にそれはないと思うぞ」と引き攣った笑顔でコメントする始末である。

 

「おいおい、君がハリウッド俳優って顔か? 下手くそな演技は許すとしても、せめて照れずに言えるようになれ。後、筋肉が絶対的に足りてないな。せめて車に轢かれても飛行機から飛び降りてもびくともせず、電話ボックスを持ち上げられるぐらいには鍛えたまえ。だがまぁ……今の君にその台詞は少しは似合っているよ。男子三日会わざれば刮目して見よと言うが……あの言葉は本当だね」

 

 からから笑いながら現れたのは検死官・室戸菫。彼女は医療班の統括として招聘されていた。

 

「先生……あんたはもっと頭の良い人間だと思ってたんだけどな」

 

 皮肉気に、蓮太郎が言う。こんな所に来るなどバカの所行だというのは一貫した彼の見解である。少なくとも生存率を上げるという目的の上では、論理的ではない。

 

「人は理屈で考え、感情で行動するのさ。それに……私も、君や綾耶ちゃんを見ていて教えられた事が一つあるんだ」

 

「何だ?」

 

「成功する確率が高いからするんじゃない。そう行動するべきだと、自分が信じているからやるんだ。君は違うのかね?」

 

「……いいや。違わないな」

 

 苦笑いして頷きながらも蓮太郎は脳内の冷静な部分で理解はしている。ソニアという2位以下を周回遅れレベルでブッちぎっている最強戦力が戦えない現状、民警軍団の勝率は決して高くない。寧ろ、敗北の可能性の方が大きいぐらいだ。

 

 だが、だからと言って戦う事を止めるか? 何もせず、抗わずに只滅ぼされるのを是とするのか? 答えは否。断じて否だ。そして、これは戦わずには死なないというような捨て鉢の心とは絶対に違う。戦い、勝って、皆を護り、未来を創る。今の自分には使命がある。だから、ここに居る。

 

 菫も同じだ。(比較的)安全なシェルターの中でガストレアに怯えながら自衛隊と民警の勝利を祈る事が、為すべき事ではないと彼女は知っている。望む未来を手に入れる為に力の限りを尽くす事。その為に戦っている者達の背を押す事。それが己の為すべき事だと理解しているから、彼女は今ここに居るのだ。

 

「……ありがとな、先生」

 

「……こちらこそ、ね」

 

 不健康な顔へ目一杯の笑みを浮かべた菫が頷く。そうして彼女が怪我人の治療を再開しようとした時だった。

 

「……賑やかね」

 

 ぼそりと、感情をまるで読み取れない合成音のような声が掛けられる。蓮太郎達がそちらに視線を向けると、いつの間に現れたのか一人のイニシエーターが立っていた。

 

 健康的な日焼けした肌に、短めの黒髪。強い意思を感じさせる鋭い眼光、子供ながらに引き締まった肢体。

 

「エックスか」

 

 東京エリアのエースである、モデル・ウルヴァリン。クズリのイニシエーターがそこに居た。

 

「団長からの指令を伝えに来た。里見リーダーのアジュバント各員と室戸医師は、今から30分後に仮説司令部に出頭するように」

 

 

 

 

 

 

 

 蓮太郎のアジュバントはエックスに案内されて中学校の本校舎、その2階にある会議室へと通された。此処が現在、民警軍団の仮説司令部として使用されている。

 

 そこには以前のブリーフィングで召集されたアンダー1000のペア達の他、各アジュバントの中隊長達がずらりと顔を並べていた。軍団長である枢は会議室の一番奥まった上座にどっかりと腰を下ろしている。窓際にはオブザーバーのように綾耶とティナが立っていた。この二人は聖天子の直轄であり正規のイニシエーターではないので、暫定的に軍団長である枢へと指揮権が委譲されていると蓮太郎は耳に挟んでいた。

 

「ああ、良く来てくれたな、兄ちゃん達。まぁ、架けてくれ」

 

 いつも通りの気さくな口調で、枢は空いていた席を勧めてくる。蓮太郎達はそれぞれ顔を見合わせた後、最初に蓮太郎が、後は木更、玉樹、彰麿がほぼ同時に着席してそれぞれのイニシエーターは一朝事あればすぐプロモーターを守れるよう、傍らに立った。菫はやや離れた所で壁にもたれ掛かる。

 

「団長、今回は何で俺達を呼んだんだ?」

 

 蓮太郎もまたいつも通りぶっきらぼうな口調だった。これを受けてプロモーター数名からじろりと睨まれるが、他ならぬ枢が「まぁまぁ」と一同を制した。

 

「物事には順番がある。まず兄ちゃんは、現在の状況が把握できているか?」

 

「……どこも頑張ってはいたが、全体的に押されがち。もし後3時間も戦闘が継続されていたら、どこかが破られていたかも知れないな」

 

 蓮太郎の回答は枢を満足させるものであったらしい。「そこまで分かってるなら十分だ」と首肯する。

 

「今し方兄ちゃんの言った通り、互いの戦力は五分に近くはあるがまだこちらのが不利だった。しかもこれは、あくまで初戦での話だ」

 

 言いたい事が分かるか? と言いたげにじろりと睨まれて、蓮太郎は頷く。彼には話の肝が理解出来ていた。一方で延珠は良く分からなかったらしく、隣に立っていた夏世に助けを求めるような視線を送った。

 

「ガストレアは殺した人間にウィルスを注入してガストレア化、自分達の戦力として運用してきます。つまり初戦でこちらに出た被害の何割かの戦力が、そのまま敵軍へと組み込まれて私達が不利になるんです」

 

 民警軍団のゲームはチェスだが、ガストレアのゲームは将棋だ。こちらの駒は倒されればそれまでだが、向こうは倒れたこちらの駒を使ってくる。

 

「ざっくりとした計算だが……現在の戦力比はガストレアが2400体に対して、俺達は700人」

 

 単純な数の差だけでも3倍以上。しかもこの700人というのはあくまでも生き残りの総数であり、イニシエーターを失って戦力を激減させたペアもあればその逆で指揮系統を失ったペアもあるだろう。更にはイニシエーターの中には、十歳にもならない未熟な精神で過酷な戦場を経験した事で心に深い傷を負い、戦えなくなった者も多い筈だ。それを考えると実質的な戦力は3分の1程度。つまり、200人強と見た方が良いだろう。

 

 およそ10倍の戦力差。この場の何人かはその計算に行き着いているらしく顔を青くして、諦めているように見える。蓮太郎も自分で考えて思わず心が折れ掛けたが、子供たちの顔を思い浮かべてぶるぶると頭を振った。

 

「だが、良いニュースもある」

 

 と、枢のすぐ隣の席に座る副団長・長正が発言した。

 

「室戸医師、お願いする」

 

「ああ」

 

 菫はのっそりと背中を壁から離して、会議室の真ん中へと進み出てくる。そしてぐるりと回って一同を見渡した後、語り始めた。

 

「今回、一色軍団長や我堂副団長からの報告によると、ガストレア達が異常なまでに統率された動きを見せていたらしいね。そのカラクリについて、ガストレアの死体を解析して分かった事がある。手品のタネは、フェロモンだ」

 

「フェロモン?」

 

 場の誰かが鸚鵡返しで言ったその言葉に菫は頷いて返すと、説明を続けていく。

 

「フェロモンと言うと異性が惹かれ合う時に体から分泌されるのが一般的だが、実際には無数の効果特性を持ったフェロモンが存在する。例えば……」

 

 菫は白衣のポケットから、液体の入った小瓶を取り出す。

 

「これは集合フェロモンだね。例えばゴキブリのような昆虫の糞に含まれている。ゴキブリは本来集合フェロモンのある巣の中で密集して生活しているんだ。これを使って仲間を集めているのさ。逆に、仲間があまりにも密集し過ぎた時に使う「拡散フェロモン」なんてのもある。他にも、「警戒フェロモン」「気分転換フェロモン」「道しるべフェロモン」……確認されているだけで1600種類以上もある。恐らく、アルデバランは他の未知のフェロモンをも併用して、2000を越えるガストレアの群れを完璧に統率しているんだ」

 

 ここまでは、良いニュースどころかバッドニュースがワーストニュースになったように聞こえた。只でさえ民警軍団は烏合の衆で統率など期待する方が間違っていると言うのに、ガストレアは一糸乱れぬ指揮系統を持って攻めてくる。

 

 本能の赴くまま攻めてくる敵に対して、こちらは作戦を立てて行動して弱点を衝ける。それがガストレアに対する人間側に有利な点の一つであるのに、その利点が潰される形となってしまっている。

 

 いよいよ状況が絶望的であると突き付けられ、何人かは「もう駄目だ」とでも言い出しそうな顔になるが、枢がぱんぱんと手を叩いて場を統制した。

 

「お前等、今の説明を良く聞いていなかったのか? つまり、ガストレア軍団はアルデバランが全て統率しているって事だ。流石にそんな能力を持った奴が他に何体も居るとは考えにくいからな。仮にそうだとしたら、もっと前に集団行動するガストレアの存在が確認されていただろうぜ。分かるか? 俺達は2400のガストレアを全て倒す必要は無ぇ。アルデバラン1体さえ倒せばいい。そうすりゃガストレア軍団は統制を失い、雑魚の群れに成り下がる。後はキノコ狩りでもするつもりで各個撃破していきゃ良い。その内に奴等は潰走を初め、やがて代替モノリスが届くってぇ寸法よ」

 

 詰まる所、これは700対2400の戦いではなく、700対1の戦い。枢が言いたいのはそういう事だ。

 

 実際には違うが、しかしこうした”詭弁”は萎えかけた士気を回復させる為には効果的であった。ちらほらと「それならやれるかも」「戦力を集中させれば」などという声が上がる。

 

 しかし、実際にはそれも容易な事ではない。

 

「……アルデバランには、バラニウムの再生阻害が効かない」

 

 ここで発言したのはエックスだった。彼女の発言を受けて「こんな末端の戦闘員に重要な情報を渡す必要など無い!!」と中隊長の一人が抗議の声を上げるが、やはり枢が制した。彼曰く「何かあったらプロモーターの俺が責任を取る。それに兄ちゃんの序列は300位で、俺と長正の次だ。知る権利は十分だろ」との事である。

 

 シャキーン!!

 

 握り締めたエックスの右手から、3本の鉤爪が飛び出す。

 

「初戦で、敵陣深く侵入した私はこの爪で確実にアルデバランの首を落とし、心臓を破壊した。でも、奴を殺す事は出来なかった。傷口は徐々に再生を始めて、失った頭が生えてきた」

 

「俺は再生するならミリ単位で切り刻むように指示したが、傷付いたアルデバランが……今にして思えばあれはフェロモンで指示したんだろうな。周囲からガストレアを集め始めて、そいつらに阻まれて撤退を許してしまった」

 

 枢の補足説明を受けて成る程、と蓮太郎達は納得する。第一戦の終盤でアルデバランの咆哮と共にガストレアが退いていったのにはそうした経緯があったという訳だ。

 

「でも……何とか、そこで仕留めておきたかったですね」

 

 と、木更。今の話を聞く限り、例えバラニウムの再生阻害無力化や頭部・心臓の再生が本当だとしてもエックスならばアルデバランを殺す事は可能かも知れないが……しかし初戦でそれが出来なかった事が悔やまれる。敵もバカではない。自分を殺し得る存在が敵にいるとなれば、次に来る時は用心深く護衛ガストレアを増やしていたり急所をしっかり守るように行動すると想像できる。

 

「加えて、いつ降ってくるか分からない「光の槍」……綾耶の嬢ちゃんからの報告で、光の槍は圧力を掛けて発射される水銀である事は分かっている。象かテッポウウオか、液体を放つ特性を持つ動物がモデルのガストレアだろう」

 

「我々は今後、そのガストレアをアルデバランに並ぶ脅威と認定してプレヤデスと呼称する事に決めた」

 

 アルデバランは牡牛座、金牛宮の主星。そしてプレヤデスは同じく牡牛座の中心星団である。

 

「……どちらも、かつて金牛宮(双葉ちゃん)が率いていた軍団のガストレアのコードネームとしては……相応しいわね……」

 

 誰にも聞こえないよう、枢(ルイン・ドゥベ)は口内でごちる。そうして咳払いを一つすると、座り直して蓮太郎達を見据えた。

 

「で、だ。ここからが本題だが……このプレヤデス排除の為に、兄ちゃん達から戦力を出して欲しい。具体的には、里見蓮太郎リーダー、あんたとそのパートナー・藍原延珠に、プレヤデス討伐チームに参加してもらいてぇんだ。このままだと俺達は眼前のガストレアと戦いながら頭上にも常に注意を払わなくてはならず、それじゃあ勝負にならねぇ。逆にプレヤデスを排除出来れば、航空戦力も使えるようになって俺達は圧倒的に有利になる」

 

「待って下さい、団長!! それは……!!」

 

 木更が抗議の声を上げるが、蓮太郎がばっと腕を上げて制した。

 

「里見君!!」

 

「まぁ、待てよ木更さん。まずは話を聞いてみようじゃないか」

 

 そう言うと蓮太郎は目線を送って「続けてくれ」と枢に合図する。

 

「既にチームの編成は考えてある。里見リーダーには、そのチームの指揮官を務めてもらいてぇんだ」

 

「だが……こりゃ殆ど自殺行為だぜ? 勝算はあるのか?」

 

 玉樹の疑問も尤もである。任務の性質上、プレヤデス討伐チームはどうしても2000体以上のガストレア軍の只中へと突入する形になる。

 

「……少なくとも、成功させられる可能性のある能力を持ったメンバーを俺は選んでる」

 

「チームの規模はどれほどになる? 多すぎても少なすぎても、任務の達成は困難になるだろう」

 

 次に発言したのは彰麿だった。彼の意見もまた正論である。あまり大勢で行動しては、ガストレア達に発見されやすくなってプレヤデスに近付く前に迎撃されてしまう。かといって一人や二人では、不測の事態に対応しきれない。何人のチームで行動するか、これも難しい問題だと言える。

 

 勿論、これは枢にとっても既に想定していた質問であった。

 

「まず、バイザーの兄ちゃんの質問に答えよう。討伐チームは全部で4名、プロモーター1名とイニシエーター3名の変則的な編成を考えてる」

 

「4名か……」

 

 彰麿は腕組みして、ひとまずの納得を示した顔になる。4名全員を精鋭で固める事が前提だが、それぐらいの人数が隠密性と戦力とを両立させられるギリギリの一線だろう。

 

「で、次に金髪の兄ちゃんの質問に対する答えだが……正直、成功する確率は高くない。だからメンバーには戦力になると同時に、失敗時には生存率を可能な限り高められる奴を選んでる」

 

 団長のその言葉が合図だったのだろう。二人のイニシエーターが、ずいと進み出る。

 

 一人は橙色の髪をポニーテールに束ね、黄色いTシャツと紅い短パンというラフな格好をした快活そうな印象を受ける女の子。序列444位、モデル・オルカのティコ・シンプソンだ。そしてもう一人は……

 

「綾耶、お主が……!!」

 

 驚いた様子の親友に、綾耶は微笑しつつ軽く手を振って応じた。

 

 この人選を受けて玉樹も「成る程」と一応の納得を見せる。この二人のイニシエーターが持つ能力は、確かに生存率を高める事に向いている。

 

 ティコのエコーロケーションはガストレア群の位置を察知し、潜入時・撤退時共に敵との接触を避ける事に役立つだろう。

 

 綾耶の飛行能力は、任務失敗時に逃走するにはうってつけだ。付け加えるなら討伐メンバーの4名という人数は彼女の能力を考慮してのものでもある。体格にもよるが自分の他に3名が、綾耶が抱えて飛べる限界人数なのだ。

 

 この二人に延珠を含めた3名の指揮を蓮太郎が執る事を依頼されている訳だが……

 

 延珠は分かる。彼女は蓮太郎のイニシエーターなのだから、蓮太郎が参加するなら延珠も付いてくるのは必然だろう。だがそもそも、

 

「何故……俺なんだ?」

 

「……無礼を承知で言うが……兄ちゃんが機械化兵士だからだ。生身の他の奴が行くよりも、生き残る可能性は高いだろ」

 

 尤も、これは半分嘘でもある。生き残る可能性の高さで言えば、“ルイン”の化身でありとあらゆる環境や外敵に適応する進化能力を持つ枢が最も高い。無論、正体に関しては明かす訳には行かないので無意味な仮定だが。

 

「……まぁ、そうだよな」

 

 一方、そうとは知らない蓮太郎は他の取って付けたような理由でない事に安堵していた。この依頼が自分を体良く謀殺しようとする企みでない事ははっきりした。仮にそうだとするなら蓮太郎を殺す事は出来ても、同時に延珠、綾耶、ティコといった強力なイニシエーターをも失ってしまう。いくら何でも手間と効果が圧倒的に釣り合っていない。大雑把な印象を受ける枢だが、今までの行動を見る限り判断自体は非常に適切だ。彼ならそんな愚行は犯さないだろう。

 

「でも……里見君!!」

 

 木更が再び抗議の声を上げる。彼女の反応も当然である。いくら生存率を高める工夫をしても、元々が2000以上の敵の大海原にダイブしろという無理無茶無謀の三拍子揃った特攻・自殺行為としか言い様の無い作戦……と言うよりも起死回生の一手なのである。恐らくは成功率は一割あれば良いという所だろう。社長としてそんな作戦を社員に強いる訳に行かないというのは道理だ。

 

 彼女の反応も、枢にとっては予測できた事なのだろう。嘆息一つして、彼は蓮太郎に向き直る。

 

「……危険な任務ではある。断ってくれても構わない。その時はその時、また別の手を考えるさ。今ここで判断が付かないってぇなら、十分とは言えないが考える時間を……」

 

「必要無ぇ」

 

 枢の言葉は、蓮太郎が一声で切って捨てた。

 

「……まぁ、無理も無いな」

 

 諦めと失望が半々という顔で、長正は目を伏せた。こんな無茶な作戦なのだ。断っても誰も責められない。だが、

 

「「違ぇよ」」

 

 今度は枢と蓮太郎の声が重なった。

 

「では……」

 

「里見君!!」

 

「正気か? ボーイ!!」

 

「里見……!! 蛮勇で飛び込むなら、止めておく事だ」

 

 この会話が意味する所を悟った里見アジュバントのプロモーター達が、彼を止めようと次々詰め寄ってくる。イルカと蜘蛛と猫のイニシエーターも同じ反応だ。だが、蓮太郎はもう決めていた。

 

 死ぬのは怖くない……と、言えば嘘になるが、彼にはもっと怖い事があった。

 

 このまま自分の命惜しさにプレヤデスを放置して、それで民警軍団が敗北したら学校の子供たちは、菫は、未織は、聖天子様はどうなるのか。その未来を想像すると、背中に冷たいものが走るようだった。そうさせない為に。死ぬ為ではなく、生きる為に。

 

 蓮太郎は先刻の、体育館での菫との会話を思い出していた。

 

 成功する確率が高いからやるのではない。そう行動するべきだと、自分が信じているから。だから。

 

「その任務、受けるよ。やらせてくれ」

 

 

 

 

 

 

 

 クチャ……クチャ……ガッ、ガッ……

 

 静かな森の中に、耳障りな咀嚼音が木霊していく。

 

 その音を発しているのは、軽く百人以上は居るであろう黒いローブを羽織った少女達だった。

 

 ここは初戦で、666位のイニシエーター・数多群星(あまたむるか)が何十人もの軍団でガストレア群の侵攻を防いでいたポイントであった。黒いローブの集団はやはり全員が群星と同じ顔をしていて、彼女達は缶詰やカロリーメイト、軍用レーションを咀嚼し、嚥下する作業を一心不乱に行っていた。

 

 これほどの食事を必要とするのは、彼女達の固有特性に起因している。

 

 この時、無数の群星の一人の腹から彼女と同じ顔をした頭が生えてきて、次には胸と背中から手足が伸びてきて、それはどんどん大きくなってやがて五体の全てが”生え揃う”と、元となった方の群星から完全に切り離されてもう一人の数多群星となる。産まれたばかりの群星は木の陰に隠してあった予備の黒いローブを羽織ると、彼女もまた食事を平らげる作業に没頭し始めた。

 

 人間の体から人間が生えてくるというおぞましい光景だが、群星達は一人として驚いた様子がない。ちらりと視線を向ける事すらしなかった。

 

 これがモデル・コーラル、珊瑚の因子を持つイニシエーター・数多群星の能力であった。

 

 珊瑚は(一部には例外もあるが)群体で生きる生物であり、無性生殖によって自分のコピー、クローンを作り出して最初の一体からどんどん増えていく。この特性が群星にも備わっており、彼女はエネルギーが続く限り何人にも分裂する事が出来るのだ。そして当然、分裂した個体も同じ能力を持つ。つまり十分なエネルギーを取り入れられる状況であれば1が2に、2が4に、4が8に、8が16に、16が32に、32が64に、64が128に、128が256に、256が512に、512が1024に、倍々ゲームで増え続ける。

 

 ネズミ算の早さで増えるのはガストレアの強みの一つだが、そのお株を奪う事が出来るのが群星の力だった。ちなみにIISO認定の666位という序列に、この能力は加味されていない。モデルには別の生物を申告して偽装したからだ。

 

 彼女の主は“七星の六”ルイン・ミザール。その任務は軍団としての活動。

 

 実はルイン達のイニシエーターの中で、群星の強さは最弱である。しかしそれはあくまでも「個」としての強さ。彼女の真骨頂は「群」、集団戦にある。

 

 分裂した群星は全員が同じ思考・記憶・経験を持ち、更にモデルが群体生物という特性から一つの意識を全員が共有している。世界中どれだけ探し巡っても、才能ある人間にどれだけ過酷な訓練を施しても、彼女達以上に息の合うチームは存在し得ない。完璧な統率の元に動き、尚かつ一人一人が序列666位のイニシエーターの実力を持ち、更には一つの意識を総体として持つが故に死をも全く恐れない質・量共に精強な軍団は、ソニアのような例外中の例外を除きどんな強力な「個」をも容易く蹂躙する。

 

「「「ん?」」」

 

 何人かの声が揃って響き、同時に群星達は一斉に傍らに置いてあった銃を取ると同じ方向へ銃口を向ける。

 

 何者かが近付いてくる気配を察知したのだ。

 

「誰?」「ゆっくりと」「姿」「を」「見せ」「なさい」「両」「手は見え」「る所」「に」

 

「武器を下ろしなさい、群星。私よ」

 

 森の暗闇から現れたのは白い女。“ルイン”だった。主の一人である事を認めて、群星達は言われた通り銃を下げる。

 

「マスター・フェクダ……この子達が、マスター・ミザールの……」

 

 現れたのは彼女だけではない。胴着姿をした少女、“七星の三”ルイン・フェクダのイニシエーターである魚沼小町。

 

「いつ見ても壮観だね。六の王の軍団は」

 

 仮面の男、序列元134位のプロモーターにして新人類創造計画の生き残り兵士、魔人・蛭子影胤。

 

「パパぁ。これだけ居るなら一人ぐらい斬っていい?」

 

 影胤のイニシエーターである、モデル・マンティスの蛭子小比奈。

 

「駄目だ、愚かな娘よ。彼女達は我が王の大事な兵。一人として私達の勝手に出来るものではない」

 

「パパ嫌ぁい」

 

 悪態を吐きつつも、小比奈は鯉口を切っていた小太刀を納刀した。

 

「マスター・フェクダ。よく来て下さいました」

 

「それで、ご用件は?」

 

 傍に寄ってきた二人の群星の頭を撫でながら、ルイン・フェクダは話を始める。

 

「ええ……一番(ドゥベ)から連絡が入ってね……この先に居るプレヤデスっていうガストレアを殺す為に、あなた達の何人かに付いてきてほしいのよ」

 

「了解しまし」「た。では、私」「達3名が」

 

 3人の群星が進み出て、彼女達はそれぞれ同じ顔である事を怪しまれないよう、ガスマスクを装着する。

 

 戦力の補強が出来た事にフェクダは満足げに頷くと小町、影胤、小比奈、そして3名の群星。自分が率いるプレヤデス討伐チームへ号令を掛ける。

 

「では、行くわよ。まずは一番(ドゥベ)が派遣してくるプレヤデス討伐チームに合流するわ。私達の居場所はティコちゃんがエコーロケーションで見付けてくれるから、それまでは所定のポイントで待機ね」

 

 



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第34話 人生を変えてくれた人

 

「ふんふふんふんふーんふふん、ふふふふふふん、ふふふふーふん♪」

 

 モノリス外部。未踏査領域と呼ばれ、環境の激変とガストレア戦争の敗戦より経過した10年という時の中で、建造物を呑み込むように木々が覆い茂ってジャングルの如き様相を呈するようになった土地。無数のガストレアが闊歩し、かつては人類の生活圏であったここへ立ち入る事は自殺と同義であるというのが大多数の人間が共通して持つ認識である。

 

 そんな魔境に、気安い鼻歌が響いていく。

 

 歌の主の歩みは軽く、まるで散歩かピクニックに来ているかのようだ。

 

 対照的に、彼女の背後を歩く3名は死角を無くすように背中合わせの隊形になって用心深くじりじりと進んでいる。

 

「3人とも、もっと早く進まないと日が暮れちゃうわよ?」

 

 にっかり笑いながら他の3人を振り返る橙色の髪の少女は、序列444位のイニシエーター。モデル・オルカのティコ・シンプソンだ。彼女は「光の槍」を発射するガストレア、通称「プレヤデス」討伐チームの一員として民警軍団団長の枢に選抜され、高い索敵能力からチームの先導役を任されていた。

 

 ティコの後に続く3名、部隊の指揮官役として序列300位のプロモーター・里見蓮太郎とそのイニシエーターの藍原延珠。そして緊急離脱要員として飛行能力を持つモデル・エレファントの将城綾耶。どの一人も東京エリアではトップクラスに数えられる実力者であるが、しかしこの危険地帯を移動するとあっては周囲に気を配りながらとなるので足取りは重い。

 

 尤も、これはいくらエコーロケーションが使えるとは言ってもティコの歩みがあまりに不用心過ぎるとも言える。しかしそれは決して過信や注意力の欠如という言葉で片付ける事は出来ない。事実、このガストレアの勢力圏に足を踏み入れて2時間強が経過、そろそろ日が暮れ始めて野営を行うべき時間となりつつあるが、一行は一度としてガストレアには遭遇していない。ティコは一定のペースで真っ直ぐ進むのではなく、時折進行方向を変えたり待機したりして、この未踏査領域を移動していく。ガストレアとの接触を避けたりやり過ごしたりする為だ。

 

「凄い能力だな」

 

 感心した蓮太郎が頷く。この一帯をどれだけの数のガストレアがうろついているのか、想像しただけでぞっとする。100体か200体か。こちらは少数、それらといちいち戦っていては命がいくつあっても足りはしない。多少遠回りになったり道が険しくても、無用の戦闘を避けて体力・精神力を温存できるのはありがたい。

 

 枢の人選は正しかった訳だ。

 

 一応、綾耶も有効範囲は遥かに劣るとは言え空気の揺れを感じる能力で周辺の状況を探っているが、ガストレアの接近は感じ取れない。ティコのルート選択が的確なのだろう。

 

 一方で、ティコとしては陽気に進んでいるようだが頭の中では色々と思考が回っていた。

 

『さて……どうやってマスター・フェクダや影胤達と合流しようかな?』

 

 ティコのプロモーターであるフィーア・クワトロの正体は“七星の四”ルイン・メグレズ。そして民警軍団団長である一色枢の正体は“七星の一”ルイン・ドゥベ。この二人のルインからティコに出された指示はこうだ。

 

 

 

『ティコ、既に未踏査領域ではフェクダ達がプレヤデス討伐チームとして待機している筈よ。あなたはこちら側から出すプレヤデス討伐チームを上手く誘導して、合流するように仕向けなさい』

 

 

 

 これはただ単にエコーロケーションでフェクダのチーム位置を特定し、そこへ自分達のチームを連れて行けば良いというものではない。

 

 何しろティコが討伐隊に任命されたのはその固有能力でガストレアの位置を探って接触を避けられるからなので、ただフェクダ達の所に蓮太郎達を連れて行ったのでは「どうしてこいつらの接近を察知できなかったんだ?」と疑いを持たれてしまう。そうすればそこから、枢(ルイン・ドゥベ)やフィーア(ルイン・メグレズ)がフェクダと繋がっている事がバレてしまうかも知れない。

 

 一工夫が、必要となってくる。ドゥベとメグレズからそう言われたのを思い出し、ティコは提示された幾つかのプランを脳内で吟味する。

 

『となると……これかな』

 

 オーソドックスであるが、痕跡を敢えて残しつつ移動してガストレアに自分達を見付けてもらって戦闘に入る。そのガストレアは当然殲滅する。そうして戦っている隙にフェクダ達の侵入を許してしまったというのなら、言い訳は立つ。

 

 ティコは後ろを歩く蓮太郎達には見えないよう、隠し持っていたナイフで掌を傷付けると不自然でない程度の動作で樹木や葉に触れて、そこに血を付着させていく。これはマーキングだ。道しるべとして臭いを残しておいて、ガストレアを自分達へと誘導する。同時に、エコーロケーションの応用で超音波を放つ。この音は人間の可聴域を超えているから他の者には聞こえない。しかしティコがこの力を持つ事を知っているルイン達は、専用装置によって超音波を感知・受信できる。ティコは断続的に超音波を打ってモールス信号の要領で自分達の存在と、合流予定の地点を発信していた。

 

 数秒して、自分が放った音の反響とは違う超音波が聞こえてきた。フェクダ達からの「了解」の合図だ。

 

 ほぼ同時に、エコーロケーションで接近する敵群を感知する。良いタイミングだ。心中でガッツポーズを決めるティコ。

 

「みんな、走って!! ガストレアに見付かったわ!! 私達を追ってきてる!!」

 

「な、何だと!? お、おい!!」

 

 叫んで、返事も聞かずに駆け出す。蓮太郎達は止める間も無く彼女を追って走り出していた。計画通り。先頭を走るティコは、にやっと唇を歪めた。この状況では他の3人は彼女の言葉を信じるしかないというのも、作戦が上手く運んだ一因であった。

 

 数分ほど森を駆ける一行であるが、追従するガストレアとの距離は開くどころか縮まる一方だった。

 

「拙いですね……蓮太郎さん、ここは逃げるよりも迎撃した方が良いかも。このままじゃ追い付かれます」

 

 これは綾耶の発言である。既にガストレア達は、彼女の空気レーダーの索敵範囲内にまで接近してきていた。

 

「そう……だな」

 

 蓮太郎は少しだけ迷った後、決断を下した。自分一人なら逃げの一手であったろうが、ここには強力なイニシエーターが3名居る。速攻で迎撃し、他のガストレアが戦闘の気配を察知して集まってこない内にこの場を離れるというのも間違った判断ではあるまい。

 

「よし、やるぞ!!」

 

 逃げる足を止め、振り返る4人。臨戦態勢に入った蓮太郎は義手と義足の力を開放し、イニシエーター3名は瞳を紅く燃やす。

 

「数は11……いや、12体。形状から、犬や狼みたいな四足獣のガストレアと推定されます!!」

 

「私のエコーロケーションでも同じだよ。間違いないと思うわ。大きさから、恐らくはステージⅠ!!」

 

 綾耶とティコ、二人の感知系能力による分析を受け、蓮太郎と延珠が身構える。

 

 ややあって闇の中に光点が浮かび、こちらに近付いてくる。ガストレアの紅眼だ。

 

「じゃあ、僕が先行するから援護お願い!!」

 

「分かった。だが出過ぎるなよ」

 

「気を付けるのだぞ、綾耶」

 

 蓮太郎と延珠に頷き返すと、綾耶はガストレア群へ向けて突進した。少し距離が空いて彼女の姿が木々の隙間から見えるか見えないかギリギリの所で戦闘音と、イヌ科の獣特有の悲鳴が途切れ途切れに聞こえてくる。流石にステージⅠ相手では、敵が十体以上居るとは言え遅れを取る綾耶ではない。

 

 と、二体のオオカミ型ガストレアが綾耶を抜いて蓮太郎達に向かってくる。が、無駄な事。

 

「はあっ!!」

 

 先に向かってきた一体は、飛び出した延珠が蹴りでぶっ飛ばして大樹の幹へ叩き付けた所をティコが正確な射撃で脳と心臓を射貫いて絶命させた。急造チームながら見事な連携と言える。

 

「後は、こいつだけか……」

 

 新手の出現に警戒しつつ、残った一体へとXD拳銃を照準する蓮太郎。そのオオカミ型ガストレアは、仲間があっさりと倒された事で動揺したようだった。じりじりと後に退いていく。

 

 そのまま振り返って逃走しようとするが……そこには既に他のガストレアを殲滅し終えた綾耶が戻ってきていた。退路も封鎖されている。

 

 追い詰められ、横へと離脱するモデル・ウルフ。

 

「あっ……」

 

 逃がすかとばかり、蓮太郎は銃の引き金を引き絞ろうとして……

 

 狼のガストレアは、真っ二つに体を断ち割られていた。そして両断された体をまるで両側に開く襖のように見立てて、一人の少女が姿を現す。

 

 その少女は長い黒髪をポニーテールにしていて、道場着を着ている。その佇まいから凛とした印象を受け、刀は持っていないが蓮太郎は時代劇に登場する侍を連想した。両眼は紅く、この未踏査領域に居るのだから当然と言うべきかイニシエーターだと分かる。

 

「お前は……」

 

 少女は問いには答えず、右手を振って付着していたガストレアの血を振り払う。蓮太郎はその所作を観察していたが、彼女は武器を持っている様子はない。つまりこの子は無手で、ガストレアを真っ二つに斬ってしまったという事になる。蓮太郎も武術を学ぶ身として、空手の達人が手刀で木材を断ち割るのは見た事があるが……いくら呪われた子供たちが超人的な身体能力を持つとは言え、生身の手で“叩き潰す”なら兎も角として“斬る”などそんな芸当が可能なのだろうか。しかもガストレアを相手にして。

 

 次に「コイツは何者だ? 何故こんな所に?」とも思ったが、それよりもいくらイニシエーターとは言えこんな所を一人で歩いているのは危険だという思いが先に立った。

 

「あ、あのよ……」

 

 多少の警戒心は残しつつ声を掛けようとして、

 

「おやおや、こんな所で会うとは奇遇だね、我が友よ」

 

 悪夢の如く、脳裏に焼き付いて消えない声が耳から脳へ飛び込んでくる。思わず蓮太郎は背後へ飛び退った。

 

 少女のすぐ後ろ、最初に髑髏を連想される白い仮面が闇に浮かび上がって、やがてワインレッドの燕尾服を完璧に着こなした痩身が露わになる。

 

 かつて死闘を演じた新人類創造計画の生き残り兵士、IP序列元134位のプロモーター、魔人・蛭子影胤。

 

「あはっ、延珠に綾耶も……会いたかった、会いたかったよ!! 斬り合おう!! ね、ね!!」

 

 喜悦を隠そうともせず狂笑するは、モデル・マンティスのイニシエーター、蛭子小比奈。

 

「小比奈ちゃん、少し我慢しなさい。今は、彼等と争っている場合ではないわ」

 

「うー……」

 

 諫めるこの声がほんの数秒でも遅れていたら、小比奈は抜刀済みであった二刀小太刀を振り回し、蓮太郎一行へ斬り掛かっていただろう。蟷螂因子を持った少女は制止を受けて、表情や動作から不満を隠そうともしなかったがそれでも一応は指示に従い、双刃を納めた。

 

 声の主は、この暗い闇の世界に反逆するかのような色を纏った女。きめ細かい糸のような真白い髪が月光に映えて、きらきらと光っていた。

 

「……ルイン、さん……」

 

 畏敬の念すらあるような声で、綾耶は彼女の名前を絞り出した。黒いローブを羽織り、ガスマスクを装着した3人の少女(恐らくはイニシエーター)を儀仗兵の様に従えて、ルイン・フェクダが姿を現した。

 

 

 

 

 

 

 

 如何に索敵能力を持った者が二人居るとは言え、ガストレアが跋扈する森を夜に歩き回るのは危険すぎる。日暮れまでに比較的安全と思われる場所を確保し、野営して夜明けを待つというのは当然の判断である。しかしまさか、かつて命のやり取りを演じた連中と焚き火を囲む事になるとは夢にも思わなかった。キャンプファイヤーや暖炉の炎は打ち解けた雰囲気を演出するツールとして良く使われるが、この場の焚き火は少しもその役目を果たしているとは思えなかった。少なくともそうした雰囲気は今の所は絶無であった。

 

 蓮太郎は食事の用意や周囲の見張りを綾耶とティコに任せ、自分は延珠と共に影胤達の動きを牽制する役目に回っていた。拳銃の銃口は、ぴたりとルインの胸に合っている。だが玉座に着くようにキャンプチェアに腰掛けている白い女は、少しもそれを恐れているようには見えなかった。泰然とした態度の根拠は、やはりすぐ隣に控える影胤の存在だろう。彼の斥力フィールドを以てすれば、実銃であろうと豆鉄砲と変わらない事を知っているのだ。

 

「そろそろ銃を下ろしてほしいのだけど?」

 

 ルインはそう言うが、彼女のすぐ後ろに立つローブとガスマスクの3名は、しっかりアサルトライフルを構えて蓮太郎を狙っている。

 

「断る!!」

 

 この反応も当然であった。

 

 パートナーがそう言い放つのに合わせて、延珠はさりげなく半歩だけ動いた。ルインが何かするような素振りを見せれば、すぐに飛びかかれる位置へと。兎のイニシエーターは瞬きもせずに、ルインや影胤の指の動きにまで注意を払っていた。

 

「お前等……どうしてここに居るんだ?」

 

「あなた達がプレヤデスと呼ぶ……高圧水銀を発射するガストレアを、倒しに来たのよ」

 

 誠実な回答など期待していなかった蓮太郎だったが、真偽は兎も角はっきり答えられたのは少し驚いた。

 

「……信じろってのか? お前等、自分達が何をしたのか忘れた訳じゃねぇだろ?」

 

 プレヤデスを倒すという事は、東京エリアを救う為に民警軍団に協力するという事だ。そこにどのような目論見があるかは別として、結果的にはそうなる。だがかつて「七星の遺産」を使って大絶滅を引き起こそうとした彼女が今度は東京エリアを救おうなどと、どの面下げて言うのだろうか。

 

 しかしルインはその指摘を受けても、少しも悪びれた様子も見せなかった。

 

「里見蓮太郎くん、あなたは市場を見た事がないの?」

 

「市場?」

 

 何を言っているのかと、蓮太郎は思わず鸚鵡返ししてしまう。

 

「そうよ。例えば早朝には、市場には我先にと人が集まるでしょう? それがお昼や夕方になると、人はまばらになる。でもこれは市場に欲しい物が無くなるからで、市場に対して好悪の感情がある人は居ないわ」

 

 ルインはぬけぬけと、そう言い放った。この女はつまり、かつてはそうする価値があったから東京エリアを滅ぼそうとして、今はそうする価値があるから東京エリアを守ろうとしているだけだと、そう言っているのだ。思わず蓮太郎はかあっと頭に血が上って、指が引き金を絞りそうになった。この女にとって東京エリアは、そこに生活する何十万という人間の命はその程度の価値しかないのか?

 

 いや……実際にその程度の価値しかないのだろう。かつて相対した時、ルインは言っていた。「種にとって最大の敵とは絶滅であり、今の世界では数万人も数十万人もすぐに死んでいく」と。彼女にとって重要なのはあくまで人類という総体であって、東京エリアが壊滅したとしてもそれは絶滅という「死」を回避する為に、悪性腫瘍に冒された手足を切除するような感覚でしかないのだろう。

 

「……お前は、危険だ」

 

 蓮太郎は立ち上がると、義手と義足を起動しようとする。同時に道場着姿の少女、魚沼小町が彼とルインの間に割って入って射線を塞ぎ、小比奈は嬉しそうに立ち上がると小太刀を抜刀しようと構える。ルインの後ろの黒いローブの集団にも緊張が走ってアサルトライフルを構え直した。

 

「止したまえ里見君。殺し合いは私も望む所だが、ここで戦えば我々のどちらも無事では済むまい。それでプレヤデスを倒せなくなるのが、君にとっては最悪の結果と言えるのではないかね?」

 

 少しも警戒した様子を見せない影胤の、楽しんでいるかのような言葉を受けて、蓮太郎はぎりっと歯軋りした。

 

 怪人がリラックスした様子なのは、蓮太郎が撃てないと見切っているからだ。言い様は気に入らないが、影胤の意見は全く正しい。確かにルイン達を生かしておけば明日の災いとなる事は確実である。しかし明日の災いを排除しようとして、今日死んでしまっては意味が無い。今は溺れない為に、藁だろうが芦だろうが掴まねばならない。プレヤデスの討伐こそが第一目標、それを見失ってはならない。

 

 忸怩たる思いを噛み締めながら、彼は銃を下ろした。

 

「蓮太郎……」

 

 パートナーの心境をどこまで察しているかは不明だが、延珠は座り込んだ彼の側に寄り添うと、慰めるように肩に手を置いた。

 

「ルインさん」

 

 そんな蓮太郎に代わるようにして、前に出たのは綾耶だった。

 

 少女は、どこか躊躇っているように見えた。それは当然と言える。今から自分が口にしようとしているのが、どのような意味を持つのかを理解しているからだ。

 

 やがて意を決したように、彼女はルインの前で膝を付くと頭を下げる。後ろで「お、おい綾耶」と叫んでいる声がとても遠く、蓮太郎が言っているのか延珠が言っているのかも分からなかった。

 

 この時なら、まだ後戻りも出来た。だが、綾耶は。

 

「……お願いがあります」

 

 言ってしまった。

 

 もう戻れない。宝石に付けた傷は磨けば消える。だが一度口にしてしまった言葉は、消しようがない。

 

「へえ、あなたからお願いをされるとは思わなかったわ。それで、何が望みなの?」

 

 ルインは、値踏みするような眼で綾耶を見詰める。

 

「あなた達が持つガストレアウィルス適合因子……それを……東京エリアに……いえ、一人分だけでも良いんです。どうか、僕に分けて下さい。その……代わりに、僕が出せるものなら何でも差し上げますから……」

 

 最後の方は、消え入りそうな声だった。それほどに、この言葉を口にする事は綾耶にとっても決断を要する行為だったのだろう。

 

「綾耶……お主は……」

 

 延珠が、呆然としながら呟いた。ルインに求める、一人分のガストレアウィルス適合因子。親友がそれを誰の為に使いたいのか、彼女や蓮太郎は知っている。

 

 それは、ソニアの為に。彼女の侵食率は既に45パーセントを軽く上回っているらしい。しかもこの大戦の開始早々12時間もぶっ通しで全開で力を使っている。最新の数値は聞いていないがもう、いつ形象崩壊が起こっても不思議ではない状態であろう。友を喪わない為に、それを救う手段があって手を伸ばしてしまう気持ちを、誰が責められるだろうか。たとえそれが、悪魔との契約だとしても。たとえそれが、上昇していく侵食率に怯えながら日夜戦う何百人というイニシエーターを裏切るに等しい行為だとしても。

 

 綾耶も十二分に理解している。他の全てのイニシエーターや呪われた子供たちを裏切り切り捨てて、友達たった一人を救おうとする自分がどれほど浅ましく、どれほど醜いか。それでも、縋らずにはいられなかったのだ。

 

「何を言い出すかと思えば。まさか本気で……」

 

「影胤、黙って」

 

 甘い睦言を笑うように喉を鳴らしたプロモーターを、ルインはぴしゃりと制した。そうして一呼吸して間を置くと、じっと少女を見詰める。その眼は真剣で、対等の相手に向けるものだった。今のルインは決して、相手が子供だから適当にあしらったり誤魔化したりしようとは思っていなかった。

 

「綾耶ちゃん、あなたが適合因子誰の為、何の為に使おうとしているかは聞かないわ。でも、あなたは適合因子が世の中に出る事の意味を……分かっている?」

 

「……はい。今の世界の軍事バランスどころか、人類史そのものを根底からひっくり返してしまうほどの危険性を持つものだと」

 

 菫の受け売りだが、その答えにルインは満足したらしい。「うん」と一つ頷く。

 

「あなたがその一人分の適合因子で誰かを救えたとして……今後はその子を、その子の中にある適合因子を巡って争いが生まれるでしょう。その責任が、あなたに負えるの?」

 

「それは……」

 

 綾耶は言葉に詰まる。ルインは、この態度を受けて失望したりはしなかった。むしろ「負える」などと容易く即答したりする方が事の重大さをまるで理解していない、深く受け止めていないとして彼女はそこで話を切り上げてしまったであろう。

 

 蓮太郎も延珠も、掛ける言葉を持たなかった。

 

「飢えて乾いている何百人もの人が居て、その中に一人分だけの食糧と水を与えたりしたら……それを巡って殺し合いが起きるのは当たり前でしょう? それでは……その一人を救う意味が無いとは思わない?」

 

 それは、確かにそうだ。諭すようなルインの言葉は十分に正論だ。

 

 だが、ソニアを諦める事も綾耶には出来ない。

 

 死んでしまったなら、諦める事も出来よう。亡くした者は戻らない。だがソニアは生きているのだ。友達を救う手段があるのに、諦める事など出来ない。

 

 どうするのが最善か。頭をフル回転させ、僅か数秒の間にあらゆる可能性を検証する。そして……はっと一つの道が頭に浮かんだ。

 

 自問する。そんな事が出来るのか?

 

 自問する。もし出来たのならば。

 

 結論が出る。信じよう、ルインを。彼女の中の善なるものを。それを信じられる、自分を。

 

 綾耶は、腹を括った。

 

「お願いを変えます。ルインさん……僕……いえ、東京エリアに力を貸してもらえませんか?」

 

「何と?」

 

「綾耶……本気で言ってるの?」

 

 今度は影胤のみならず小比奈ですらもが鼻で笑うような突拍子もない話である。蓮太郎と延珠は信じられないとばかり、眼を丸くしている。ルインは笑わなかった。どこまでも真剣に、綾耶をじっと見ている。

 

「ルインさん達の力は、良く知っています。ガストレアウィルス適合因子も含めて、その力を貸してもらえたのなら……きっと、想像を超えた世界が実現できると思うんです。適合因子だって、東京エリアの後ろ盾があれば大量に作れるようになります!! そうして迎える世界には、僕や聖天子様がずっと捜していたものが、きっとあると思うんです」

 

「綾耶ちゃん達の捜し物って?」

 

「希望です」

 

「希望?」

 

 鸚鵡返ししたルインの言葉に、綾耶は頷いて返す。

 

「はい。皆が力を合わせ、努力を重ねれば……この世界を覆う差別や憎悪を無くせるかも知れないという希望です。僕も、聖天子様もずっとそれを求め、捜し続けています」

 

「……私達が力を貸す事で、力を得た東京エリアが世界を支配する事になるかも知れないわよ?」

 

「僕が、そんな事にはさせません」

 

「あなた一人で何が出来ると言うの?」

 

「一人じゃありません。蓮太郎さんも延珠ちゃんも、協力してくれます。聖天子様も、目指す所は同じだと僕は確信を持っています」

 

 いつの間にか巻き込まれた二人だったが、しかし心から自分達を信頼してくれる綾耶に、応えたい気持ちはどちらも強く持っている。こうなったらどこまでも、トコトン付き合ってやるか。プロモーターとイニシエーターは顔を見合わせて苦笑し、頷き合って腕組みする。二人とも、覚悟を決める事にした。両人共に綾耶とはそうするに値するだけの時間あるいは体験を共有していた。

 

 ルインはそんな二人を一瞥して「ふむ」と頷く。

 

「……聞くけど、綾耶ちゃん。さっき里見くんが言っていたけど、私は一度は東京エリアを滅ぼそうとしたのよ? あなたは、どうしてそんな私と一緒にやれると思うの?」

 

「ルインさんが、善い人だからです」

 

「あ、綾耶!?」

 

 即答した綾耶に、蓮太郎が何を言ってるんだという顔で叫んだ。延珠も同じだ。端で聞いている小比奈やティコも、眼をぱちくりさせている。だがこれは綾耶にとって決してその場限りの出任せではなく、確固とした考えあっての言葉だった。

 

「あの時……ルインさんが言った言葉は……正しいと思います」

 

 七星の遺産を巡る戦いの最終局面で、ルインは言った。ガストレアという時間に左右されない絶対敵を設定する事で人類全体を団結させ、やがては同族同士で争うという概念を消滅させる事。その上で呪われた子どもたちの更に新しい世代が誕生する事を待ち、肉体・精神共に進化した新しい種、『星の後継者』を誕生させる事が自分達の最終目的だと。

 

「同じ事は、僕も思っていました。争いも憎しみも無く、人と人が本当の意味で分かり合える時代がいつか……いつか、きっと来るって。僕は、少しでも早くそんな世界にする為に今まで戦ってきました。そしてきっと、これからもその為に自分の力を使っていきます」

 

 そういう意味では、綾耶にルインを悪だと断じる事は出来ない。何故ならどちらも目指す所は同じで、ルインはそこへと人類が辿り着く為の近道を案内しようとしただけとも言えるからだ。あるいは彼女のやり方を採った方が、最終的に流される血は少なくて済むかも知れない。

 

 一面ではルインは確かに悪である。蓮太郎が感じた通り、彼女達は一人一人の人間に想いを馳せる事をしていないからだ。だがその一方で、全人類へと向けるルインの想いは確かに善である。人間には一人の人間に想いを馳せる事と、全ての人類に想いを馳せる事の両方が可能だ。ルインの本質は善だが、後者にその善性が偏ってしまっているだけなのだ。

 

 だから私はあなたを許す。

 

 綾耶の言わんとする事を理解して、ルインは静かに頷いた。

 

 だが、まだ問わねばならない事が残っている。

 

「綾耶ちゃん、あなたは言ったわね? 人が、いつか憎しみも争いもなく、本当に分かり合える日が来るって。あなたは本当にそう信じているの?」

 

「はい。前にも言いましたけど、人は少しずつ良い方向へと進んでいく存在だと、信じています。人間は悪い心よりも良い心の方が上回っていると、僕はそう思います」

 

「では聞くけど……人間が生まれてから今日に至るまで、悪人が居なくなった時代が無ければ争いが絶えた時代も無い。あなたはそれをどう説明するのかしら?」

 

「それは、一つの悪い心がもたらす結果が、十の良い心がもたらす結果よりも大きいだけでしょう。人は弱いから……どうしても楽な方へ……間違った方へ……悪い心が囁く方向につい流れてしまいますけど……それを良い方向に導く事が出来るのも同じように人だと、僕は信じています。沢山の人が今までずっと悪い心と戦い続けて、明日が必ず今日より良くなるように頑張ってきたから今があるんだと思います。同じように、僕達も明日を少しでも良くしようと頑張って、今日まで来ました」

 

「……そう……」

 

 ルインは、紅い瞳を細める。眩しいものを見るように。だがそれは眼には痛くない、優しい光だ。

 

 十年も生きていない綾耶は、当たり前だが何も分かってない。でも、大切な事を分かっている。

 

「信じている……か」

 

 ありふれたその言葉を今初めて聞いたように、ルインは呟いた。

 

 

 

『しんじてるよ!!』

 

 

 

 ふと、彼女の脳裏に同じ言葉が、綾耶とは違う少女の声で蘇った。

 

 それは、忘れようにも忘れられない子の声だ。

 

 

 

 

 

 

 

『せんせい、わたしたち、もうすぐびょういんのそとにでられるんだよね?』

 

『そうね、八尋(やひろ)ちゃん……この実験が終わったら……あなた達も普通の暮らしが出来るように……私が必ず取り計らうわ』

 

『やったあ!!』

 

『そしたら……八尋ちゃんは、どうしたい?』

 

『きまってるよ!! あのさんりんしゃにのって、いろんなところへいくの!!』

 

『八尋ちゃん……あの三輪車、いつもこの部屋に置いてあるわね……狭くない? 何なら私が責任を持って預かっておくけど……』

 

『ううん、あれはこのへやにおいておきたいの!! だって……せんせいがくれた、たからものだもん!!』

 

『そう……でも……八尋ちゃん、怖くはない?』

 

『ぜんぜん!! だって、せんせいのじっけんなんでしょ? これで、みんなしあわせになるんでしょ?』

 

『八尋ちゃん……』

 

『わたしだけじゃないよ。かずきも、ふたばも、くるみも、いずみも、りっかも、ななみも、くおんも、おとはも、ともえも、おりえも!! みんな、みんな、こわいなんてすこしもおもってないよ!!』

 

『あなた……』

 

『みんな、せんせいのことしんじてるもん!!』

 

 

 

 

 

 

 

 あれからもう十年にもなるが、あの子達と過ごした日々は今もはっきりと覚えている。

 

 みんなが幸せになれる筈だった。

 

 失敗など有り得なかった。科学の歴史は失敗と犠牲の歴史だ。自分達は、その歴史から脱却する最初の科学者になる筈だった。

 

 スタッフにも上の者にも、口を酸っぱくして言っていた。『迂闊な実験など断じてすべきではない』『失敗は絶対に許されない』と、自分でもくどく思えるぐらいに。

 

 だがその行き着いた先が今の世界。

 

 モノリスの中に身を寄せ合い、いずれ来るであろう破滅の日を少しでも先延ばしにしようと足掻き続けている斜陽の世界。

 

 こんな筈ではなかったのに。

 

 綾耶の語った理想。彼女の捜し物。同じものをルイン達もずっとずっと捜していた。否、今も探し続けている。

 

 この世界から、差別や憎悪を無くす為に。

 

 過去と未来、そして今。それら全てを複合させて考えるなら、自分達にとって綾耶はもう敵とは言えないかも知れない。

 

 だが……それでも。最後に一つだけ、聞いておきたい事が残っている。

 

「ねぇ、綾耶ちゃん……一つだけ、聞いてもいい?」

 

「僕に答えられる事なら、何でも」

 

 快諾を受けてルインは頷くと、一呼吸置いて話し始めた。

 

「あなたの事、調べたわ……昔、反ガストレア団体が起こしたテロに巻き込まれて、両親を亡くしたって……」

 

「!!」

 

 ぴくっと、綾耶の眉が動いた。当たり前だが、これは彼女にとってはデリケートな話題であったのだろう。この辺りの感情の機微を隠せない辺りは、年の割にしっかりしているとは言え彼女もまだ子供だと分かる。

 

「理不尽に、大切な人を奪った世界……あなたは、この世界が憎くはないの?」

 

「そんな訳ないですよ。僕は聖人じゃない。世界が憎いって気持ちも、確かに僕の中にありますよ」

 

 重い話題を扱っているのに、到底そうは思えないほど軽い口調で、綾耶は即答した。

 

 延珠は、前に語り合った時の事を思い出していた。綾耶も結局は普通の人間を憎んでいるのだろうと。綾耶は答えた。確かに半分は人を憎んでいる。だがもう半分は、気の毒に思っていると。彼等は、自分の目で見ているものしか信じられていないから。本当に大切なものは目には見えない事を、分かっていない。

 

 ならば、世界の事はどう思っているのか。ルインの問いを受けての綾耶の答えは、延珠も興味があった。

 

「大切な人を奪った世界……憎しみと悲しみばかりを与えてくる世界……残酷な夢を見せてくる世界……そんな、どうしようもない世界だけど……でも、僕は世界を憎みきる事は出来ないんです」

 

「……それは……どうして?」

 

 綾耶は僅かに言い淀んだ。少しだけ、自問自答する。

 

 自分の力を正しい事に使えと、父に教えられたから?

 

 確かにそれも一つの理由であるが、決定的ではない。

 

 どうして、自分が世界を憎みきれなかったのか……答えは、一つだ。

 

 ちらっと延珠を振り返った綾耶は、にっこりと親友へ微笑みかける。そして、ルインに向き直った。

 

「だって……この世界は、延珠ちゃんが居る世界だから!! 延珠ちゃんが居て、蓮太郎さんが居て、聖天子様が居て、ティナちゃんが居て、ソニアさんが居て……他にもみんなが居る世界だから……僕にとってみんなは世界の一部で……世界を憎む事は、友達みんなを憎む事だと思ったら……僕には、それが出来なかったんです」

 

 語り終えると、少しの間しんとこの場から音が掻き消えたようになる。

 

 思わず、戸惑ったようにきょろきょろと辺りを見渡す綾耶。

 

 静寂を破ったのは、延珠の声だった。

 

「どうだ、蓮太郎!! これが綾耶だ!! 妾の親友だぞ!!」

 

 自分の事のように、延珠はぴょんぴょんと飛び跳ねながら弾んだ声で語る。彼女はとても楽しそうで、誇らしげだった。

 

「ああ……そうだ、そうだな。俺達の友達だ」

 

 蓮太郎も同じ気持ちだった。この、誰より強くて誰より優しい子の友達になれたのは、彼にとっても誇りだった。

 

「お人好しも、ここまで突き抜ければ一つの才能だね」

 

 肩を揺らして笑いながら影胤は語る。彼はシルクハットを外していた。

 

「バカは嫌いだけど……綾耶は大バカだね」

 

 頬杖付きつつ、軽口を叩く小比奈。だが楽しげな笑みがその顔には浮かんでいる。

 

 ティコや、ルインが引き連れる黒いローブの3名は少しばかり離れた所で、事態の推移を見守っている。小町は、瞑目してそっと自分の胸に手を当てた。これは綾耶への「礼」だ。

 

 綾耶は、そっとルインへと手を差し伸べる。

 

「『我々は敵ではなく、友である。敵になってはならない。感情的なしこりはあっても、友情の絆を断ち切ってはならない』……これ、聖天子様から教えていただいた僕の大好きな言葉なんです。今の世界で起こっている色んな事を思えば……今こそ僕達が、率先してこの言葉を実践すべきだとは思いませんか? 争い、空しい戦いで多くを無駄にするんじゃなくて……力を合わせれば沢山の人が救えるって、それを……世界に示しましょうよ!!」

 

「……その言葉を言った人は、インディアンの大虐殺を指導したけどね」

 

 ルインの指摘に、綾耶は凍り付いた。

 

「え……そうなの?」

 

「そう」

 

 教え子の過ちを穏やかに指摘する教師のように、ルインが言う。彼女は「勉強不足ね」と苦笑しつつ、だがキャンプチェアから立ち上がって綾耶の傍まで歩くと、再びしゃがんで彼女と目線を合わせた。

 

「でも、あなたの言いたい事は伝わったわ」

 

 固まったままの綾耶の手を、ルイン・フェクダは両手で包み込むように、しっかりと握り返した。

 

 これは、つまり……!!

 

 綾耶はぱあっと輝くような貌になり、蓮太郎と延珠は「まさか」とでも言いたげに顔を見合わせる。影胤と小比奈は、静かに続くルインの言葉を待っているようだった。

 

「他の仲間は……私が説得するわ。私達はこの戦いが終わった後、東京エリアへの協力を約束する。綾耶ちゃん……あなたを、あなたの語る調和の夢を……私は信じるわ」

 

「僕の夢を……」

 

「私がそれを信じられるぐらいに、あなたが全力を尽くしてきたのが……今も力の限りを尽くしているのが、分かるからね」

 

 今まで見た事がないぐらいに優しく、ルインは綾耶へと微笑んだ。

 

「ありがとう……綾耶ちゃん。礼を言わせてもらうわ。十年前に変わってしまった私の人生を……もう一度変えてくれたあなたに」

 



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第35話 再臨

 

 民警軍団の仮説本部として使われている中学校の、その屋上。

 

 モデル・ウルヴァリンのイニシエーター、エックスはそこで瞑目しつつ片膝を付いた姿勢を保っていた。彼女はぴくりとも動かずに、遠目から見ると人形だと錯覚したかも知れない。あるいは眠っているのかもと思う者もいるだろう。

 

 実際にはエックスの意識は十全な覚醒状態にあった。その上で肉体だけは体力を温存する為に余分な機能を全てカットし、鎮静状態を保っている。

 

「!!」

 

 僅かに風向きが変わったその時、先天的に野生の猛獣をも凌駕するほどに発達し、後天的な訓練によって研ぎ澄まされた感覚が微かな異常を伝えてくる。

 

 それを感じ取った瞬間、彼女はばっと立ち上がった。これまでは必要最低限の機能しか働かせていなかった肉体機能をいきなりトップギアにまで引き上げる。ガストレアウィルスによる強化と過酷な修錬を積んだ体は、その急発進を受けてもほんの少しの軋み・ほんの僅かな悲鳴すら上げなかった。

 

「来る……!!」

 

 まだ望遠鏡を使っても見えないし地面に耳を当てても何も聞こえないほど遠距離だが、エックスには分かる。アルデバラン率いるガストレア群は既に動き出している。一時間もしない間に、第二戦が始まるだろう。

 

 状況は民警軍団に不利。第一戦に比べてガストレア達はその数を増やし、逆に民警軍団は数を減らしている。しかも強力な戦力である蓮太郎や延珠、綾耶が別命で動いており不在。戦力が揃っていた初戦ですら押され気味であったのに、これでは……

 

 軍と軍でぶつかりあっては寡兵である民警軍団が競り負け、砕け散るのが道理。

 

 ならば、やはり勝ち目は一つ。

 

 敵の最強戦力であり司令塔も兼ねるアルデバランを仕留める以外に無い。

 

 先の戦いで枢とエックスのペアはアルデバランに肉迫し、首を落とす事には成功したが予想外の再生能力によって殺し切るには至らなかった。枢はならばミリ単位で切り刻んでやれと指示し、エックスもその手で行こうとは思っていたが集結してきたガストレアに阻まれてしまった。

 

 その時、アルデバランもエックス達の存在を脅威と認識した筈だから、今回は護衛となるガストレアを増やしているだろう。同じように戦っても今度はアルデバランの元にまで辿り着けるかどうかすらもが、怪しい。

 

「だから……どうだと言うの?」

 

 問題は無い。

 

 同じように戦って駄目なら、違うやり方で戦うまで。エックスには、秘策があった。

 

 シャキーン!!

 

 拳を握り締めた事による腕の筋肉操作に伴い、バラニウムの鉤爪が指の付け根の間から皮膚を破って飛び出してくる。

 

「……アルマジロと亀の化け物……細切れにされても動いていられるか、試してやる……!!」

 

 そして、どれだけ多数のガストレアを護衛として従えていても無駄だと、教えてやる。

 

「他の者には真似出来ない……ガストレアウィルス適合因子を持つイニシエーターの戦い方を……見せてやる」

 

 

 

 

 

 

 

「ふんふふんふん……ふーん……ふふん……ふふふ……ふんふふん……」

 

 未踏査領域には、昨日と同じようにティコの鼻歌が響いている。

 

 ……が、そのメロディはどこか音程が外れていて途切れ途切れである。

 

「はぁ……」

 

 それも当然と言うべきか。彼女は溜息吐いて背後をちらりと振り返る。

 

 昨日の夜、ルインは綾耶に東京エリアへの協力を約束している。つまり綾耶や蓮太郎達の味方となった訳だが……当然と言うべきか蓮太郎や延珠は「はいそうですか」とそれを受け入れる訳がなかった。これは当然の反応だ。「七星の遺産」を巡る戦いでどれほどの人が命を落とし、そして何かが違っていれば今頃は東京エリアが地図から消えていたかも知れないのだ。いくら自分の行いを後悔し、心を入れ替えたとしても彼女達の行いは絶対に許されるものではないだろう。

 

 綾耶はそれでも彼女達を許し、受け入れるのだろうが……誰もが彼女のように考えられる訳ではない。寧ろ、これについては綾耶の方が異常と言えるだろう。

 

 未だに、蓮太郎達はルイン達への警戒を解いていないしルイン達もそれは同じ。

 

 しかし彼女達の目的はプレヤデスを撃破する事で一致している。つまり、目的地も同じ。必然的に同じ方向へと進む訳だが……お互い、背中を見せて後ろから撃たれてはたまらないのでどちらから提案するともなく横並びで歩く運びとなった。さて、その並び方であるが……

 

 綾耶の右をルインが歩き、ルインの右には延珠、綾耶の左には影胤、影胤の左に蓮太郎、延珠の右に小町、蓮太郎の左は小比奈が一列横並びで歩いている。

 

 何故このような並び方になっているかと言えば、最初に綾耶とルインが横に並んだのが始まりで、後はもうルインを綾耶と延珠で挟み、ルインと影胤で綾耶を挟み、綾耶と蓮太郎で影胤を挟み、影胤と小比奈で蓮太郎を挟み……と、まるでオセロゲームの様相を呈してしまっていた。

 

 しかもこの中で、綾耶とルインの二人を除いた全員が隣を歩く奴が少しでも妙な動きを見せれば即座に襲い掛かろうと神経をピリピリさせているのである。異様な雰囲気が醸し出されるのも必然と言えた。

 

 ティコはちらりと、自分の両脇を固めている群星の二人へと視線を送る。殺伐とした空気に耐えかねて「何とかしてよ」と助けを求めてのものだ。しかしモデル・コーラルのイニシエーター達もこれにはお手上げと首を横に振るばかりである。はぁ、と溜息を一つ。しかしすぐに表情は引き締まったものになる。エコーロケーションによって、目的地が近い事を認識したのだ。

 

「みんな、ピクニックは終わりだよ!! ここからは敵の拠点の中を進む事になるから……用心して私に付いてきて」

 

 この場で最も高い索敵能力を持つティコにそう言われた事で、全員に今までとは違った緊張感が走る。

 

 流石にこの状況に於いては、全員の警戒は隣の人間よりも周囲を囲むガストレアへと移行した。図らずも呉越同舟の構図である。危ういバランスとは言え人間同士の争いを止めたのがガストレアとは、中々皮肉が利いている。

 

 ここからはティコのエコーロケーションは使えない。多数のガストレアの中には超音波を聞き分ける個体がいるかも知れない。今までは距離が開いているから良かったものの、近距離では暗い建物の中でライトを照らして泥棒を捜すようなもの。逆にこちらの存在をアピールするだけに終わってしまう可能性もある。

 

 だが綾耶の空気レーダーや延珠の兎因子による鋭い聴覚は、アクティブなティコの能力に代わるパッシブな索敵能力として十分に威力を発揮していた。

 

 用心深く、数メートルの距離を十分も二十分も掛けるようなペースで進む。

 

「おい、これを見ろ」

 

 耳を澄まして聞こえるか聞こえないかというぐらいの声で、蓮太郎が言った。彼が指差す先には囓られたような跡が残る葉がある。

 

「これは……」

 

「コカの葉ね」

 

 「ふむ」と頷きつつコメントするのはルインだ。

 

「コカって言うと……」

 

「コカイン……麻薬の原料になるアルカロイド物質が取れる木だよ。これをガストレアが囓っているってことは……」

 

「恐らく……興奮剤として使っているのね」

 

 人類同士の戦争でも(特に条約などが整備されていない時期では)兵士が恐怖で萎縮しないように薬物を投与した状態で戦わせたという事例が存在する。古くは中東の暗殺教団には恐怖や罪悪感を消失させて夢見心地で暗殺を行わせる為、任務に入る前には必ずハシシという麻薬を服用したという伝承もある。

 

 初戦でガストレアが異様に勢いづいて襲い掛かってきたのは単純な士気の高さだけではなく、興奮剤の服用によって恐怖や痛みが一時的に失われていたからだったのだ。

 

 それにしても今回のガストレアは、アルデバランの存在故かいつもとは違う。夜闇に紛れ、足音を消して近付いてきた事と言い、整然とした陣形を取って攻めてきた事と言い、単純な進化や本能の一言で片付けられるものではない。これではまるで、戦い慣れた人間の将帥が指揮を執っているようだ。

 

「ガストレアも、進歩するのね」

 

 ルインは敢えて“進化”と“進歩”を区別していた。

 

 こうした一幕を経て、一行はとうとう目的地へと到着した。

 

 大きく開けた広場になっていて、ざっと見ただけでも数十は下らない数のガストレアが確認できる。うろうろと動いているのもいれば、体を丸めて眠っている個体もいる。

 

 ターゲットはどいつか? それはすぐに分かった。他のガストレアより頭一つ抜けて大きな体躯を持つ、長いクチバシを持ったガストレアだ。これは、ライフルの銃身のように圧縮水銀を一方向へと正確に発射する為の進化かも知れない。手足は対照的にデフォルメされた絵のように短く、腹は気球のように膨れ上がっている。これも水銀を撃ち出すという一つの機能を突き詰めた結果であろうが、総合的に見ると典型的なガストレアウィルスがもたらす異常進化の失敗例だ。多量の水銀を貯蔵する為の太っ腹とあの短い手足では獲物を獲る事も、動く事すらままならないだろう。注意深く観察するとそのガストレア・プレヤデスは他のガストレアが運んでくる餌を与えられて家畜の如く”生かされている”のが分かった。

 

「さて、どうするかね?」

 

 影胤が蓮太郎へと、楽しんでいるように言った。

 

「持ってきたプラスチック爆弾で爆破するつもりだったが……」

 

 難しそうだな。と、蓮太郎は周囲を見渡す。彼とてプレヤデスが無防備だと思うほどおめでたい頭はしていなかったが、それにしても予想以上に取り巻きのガストレアの数が多い。敵の最高指揮官・アルデバランも、貴重な遠距離攻撃要員であるプレヤデスの重要性は正しく認識していたらしい。ここまでガードが厳重だと、起爆範囲ギリギリで爆破したとしてもその爆音で動き出した護衛ガストレアに追い付かれ、取り囲まれてしまう可能性が高い。

 

「私がやろうか? ああいうのとは一度戦り合ってみたかったんだ」

 

「いや……影胤さんのエネルギー槍でも放ったら凄い音が鳴りますから……蓮太郎さんの義手も駄目ですね……」

 

 と、綾耶。これは確かに正論と、影胤と蓮太郎は納得を見せて引き下がる。

 

 今この場で求められるのは、何十というガストレアの群れに全く気付かれずにターゲットであるプレヤデスだけを確実に仕留める隠密性・静粛性を兼ね備えた攻撃力だ。

 

「と、なれば妾と……」

 

「私だね」

 

 延珠と小比奈が前に出る。この二人の武器は蹴り技と剣術。どちらも炸裂音や機械の動作音が鳴らないので、蓮太郎や影胤よりは余程適任と言える。

 

「待って」

 

 しかし、二人をルインが制した。

 

「お主の指図は……」

 

「黙ってて、三番」

 

 兎と蟷螂のイニシエーターはどちらも拒否反応を見せるが、ルイン・フェクダは少しだけ語気を強める。

 

「二人とも、下がってなさい」

 

 威圧感に当てられたように、二人は思わず半歩分だけ後ろに下がった。ルインはそれを見て頷きを一つ、そうして蓮太郎へと向き直る。

 

「里見蓮太郎くん」

 

「ん、ああ……」

 

「これは、私達が味方になった事を証明する良い機会よ。それに、こうした状況なら、私のイニシエーターが一番向いているわ。ここは、小町……あなたに任せるわね」

 

「承りました、マスター・フェクダ」

 

 視線で指示を受けると、道場着の少女・魚沼小町はしずしずと歩みを進め、ガストレアの群れの中へと降り立った。

 

「お、おい……!!」

 

 いくら腕が立っても、あんなガストレアの坩堝へ単身飛び込むなど無謀と断じられる暴挙である。蓮太郎は反射的に止めようとして、綾耶や延珠も同じように動きかけるが、ルインに「静かに」と止められた。対照的に小町の能力を知る影胤・小比奈・ティコ・群星達は落ち着いたものだ。

 

「……分かった、見てれば良いんだろ?」

 

 とは言いつつも、もし小町が窮地に陥ったならばすぐに助けに入れるよう身構えつつ、蓮太郎は彼女の姿を追う。

 

 見る限り小町は丸腰。小比奈の小太刀や綾耶のガントレットのような武器と呼べるものは何も持っていない。ならば彼女はどのようにして、蓮太郎達の前に姿を現した時にガストレアを真っ二つに切り裂いたのか。そしてどうやって、プレヤデスを倒すつもりなのか。

 

 そんな思考を回している間にも、小町は高級な絨毯の上を歩くように少しの足音も立てず、プレヤデスに近付いていく。その動きが全く無音である事と気配を断っている事から、周辺のガストレア達が気付いた様子は無い。彼女はそのまま、プレヤデスのすぐ傍にまで接近した。

 

 ここまでは順調。だがどうやって巨体を誇るステージⅣのプレヤデスを倒すか?

 

「突然だけど、里見蓮太郎くん。あなたは子供の頃、草むらで遊んでいて気が付いたら手足が傷だらけになっていた……って経験はない?」

 

「あ、ああ……それはあるけどよ……」

 

「じゃあ……小町の力……良く見ていて」

 

 蓮太郎の疑問に対するヒントは、ルイン・フェクダが与えた。

 

 全部で8人居るルイン達は、それぞれ民警と同じようにパートナーとなるイニシエーターを持つ。そして各人固有の任務を受け持つ彼女等は、より効率良く己の担当任務を遂行できるよう、最適な能力を持ったイニシエーターをパートナーに選ぶ傾向がある。

 

 民警として表の世界で活動するルイン・ドゥベは、凶暴な肉食獣の因子を持ち単純に戦闘力に長けたエックスを。ガストレアの監視を任務とするルイン・メグレズは、索敵能力に長けるモデル・オルカのティコをパートナーに選んでいる。

 

 そして、影胤のようなアウトローを従えての非合法活動を任務とするルイン・フェクダが自らのイニシエーターに求めた役割は”暗殺者”。身に寸鉄一つ帯びずに近付き、ターゲット自身さえもが殺された事にも気付かぬ内に仕留めてしまう、静かで鋭い攻撃力。

 

 小町は、あつらえたかのようにその条件を満たすイニシエーターであった。

 

 プレヤデスに肉迫した小町は無造作に手を横薙ぎに振って、続いて垂直に蹴り上げるような蹴りを放つ。

 

 そのたった二撃で、事は済んだ。

 

 重力に逆らって巨体を支えられるよう強化されたプレヤデスの外殻にいとも容易く切れ目が走り、やがてその亀裂は大きく広がって遂にプレヤデスを四つの肉塊へと変えてしまった。

 

 一連の出来事はまるで作業のように短時間でしかも物音一つ立てずに行われた。周りを囲むガストレア達は、殆どが何が起こったか理解出来ていない、どころか何かが起こった事に気付いてすらいないようだった。

 

「これが……」

 

「そう、これが私のイニシエーターの力」

 

 自慢げに、ルインは胸を張る。

 

 シロガネヨシというイネ科植物がある。この植物は葉の縁が鋭く、刈り込み作業などを行う際には必ず軍手を付けて行うべしとされている。うっかり素手で葉に触れて指を切ってしまうというのは良く聞く話である。

 

 風に飛ぶような葉に、そっと触れただけで人間の皮膚が切れてしまう。ならばその葉に人の腕ほどの重さがあり、勢い良く振り回されればどうなるか。

 

 その答えがたった今、プレヤデスを解体した手刀と足刀であった。

 

 刀剣よりも研ぎ澄まされた手足を持ち、延珠の蹴り技による打撃音も、小比奈の双剣が鳴らす鍔鳴りや鞘走りの音も無い。金属探知機もボディーチェックもすり抜けて、全く無音でターゲットに近付き、斬殺する。暗殺者としては一つの完成形と言えるだろう。

 

「魚沼小町……モデル・ライス。稲の因子を持つ、呪われた子供たち」

 

 話している間に、何事も無かったように小町が戻ってくる。その歩みは静かでペースも落ち着いたものであり、散歩でもしているみたいに見えた。

 

 蓮太郎はしばらくはショーでも見ていたようにぼうっとしていたが、はっと我に返ると傍らのパートナーに指示を出す。

 

「よし、延珠。あいつ……小町が戻ってきたら、すぐにここを離れるぞ。退路を確保するんだ。ティコも一緒に行け」

 

「あいわかった、任せよ」

 

「分かりました、里見リーダー」

 

 兎とシャチのイニシエーターは頷き、すぐ後ろを注意深く見渡す。

 

 その時だった。

 

 身の毛もよだつような咆哮が森全体に響き渡り、これにはイニシエーター・プロモーターの区別無く全員が反射的に耳を塞ぐ。

 

「!! 気付かれたか!?」

 

「いや、これは出撃命令だろう」

 

 蓮太郎の意見を、影胤が訂正した。恐らくは離れた場所に居るアルデバランが、このタイミングで侵入者である自分達に気付いて迎撃指令を出したというのは考えにくい。となると初戦でエックスに受けたダメージから回復して、全軍に第二次攻撃を指示したのだろう。

 

 その証拠に、視界の中に居るガストレア達はもうプレヤデスの生死になど興味を無くしたように、一斉に動き出していた。彼等はプレヤデスの護衛を命じられていたのであろうが、たった今アルデバランから上位命令を上書きする形で与えられたのだ。民警軍団を殲滅せよと。

 

 森全体が眠りから目覚めたようだった。夜の静寂を、蠢く者共の気配が塗り潰していく。

 

 ガストレア達は、真っ直ぐ一つの方向を目指していた。東京エリアへと。

 

 

 

 

 

 

 

 ステージⅣに率いられる一団は、未だ周囲に転がっている同胞達の死骸をちらちら見ながら、前進していた。

 

 この一角は第一戦では血を操る敵が陣取っていて、味方が倒される度に敵の攻撃力が増大していくという悪夢のような連鎖が繰り広げられ、侵攻が思うに任せなかった。

 

 しかし今はその敵が不在なのか、行けども行けども血の濁流が襲い掛かってくる気配は無い。

 

 他の敵も、まだ初戦のダメージから回復せず再編成が上手く行っていないのか迎撃には出て来ない。

 

 今ならば、突破は可能。

 

 前線指揮官役であったそのステージⅣはそう判断すると雄叫びを一つ上げ、自らの小隊に全速前進の指令を下す。

 

 ……よりも前に、飛来した何かによって落としたスイカのように頭部を爆ぜさせていた。一瞬遅れて、ひゅっと風を切る音が鳴る。これは飛んできた物体の速度が音速を突破していた為だ。

 

 指揮官を失い、ガストレア達は動きを止める。しかしそれこそが、この攻撃を仕掛けてきた者の思う壺であった。

 

 四方八方からバラニウムの弾頭が、しかも恐ろしく正確な狙いでガストレア達に次々撃ち込まれていく。弾雨が止んだ時、動いているガストレアは一体も居なかった。

 

 この攻撃は、あらかじめこのポイントに兵が伏せられていた……のではない。

 

 ここを守っていたのは、たった一人のイニシエーターだった。

 

「お姉さんが戦えず、綾耶さんや蓮太郎さんが不在であるからと言って……易々と突破できると思われるのは……心外ですね」

 

 見晴らしの良い丘の上で、匍匐して狙撃姿勢を取っていたティナ・スプラウトは対物ライフルのスコープから目を外して視界を広くすると、モデル・オウルの特徴である高い視力で一帯を睥睨する。見渡す限りの景色全てが彼女が受け持つ守備範囲である。

 

 本来であれば、いくらイニシエーターが超人的な能力を持つとは言えこの広い戦場を単身で守り切るなど絶対に不可能。だが、ティナにはそれを可能とするものがあった。

 

 それが、機械化兵士としての力。彼女の脳内に埋め込まれたマイクロチップはBMI(ブレイン・マシン・インターフェイス)として機能し、思考するだけで機械を遠隔操作する。これによってティナが操れるのは専用装備である偵察機・シェンフィールドに留まらない。遠隔操作モジュールを搭載した銃器をあらかじめスナイピング・ポイントに設置しておき敵が射線に入った瞬間、それは彼女の意思一つを引き金として火を噴く。発射タイミングは、それぞれのポイントに待機させておいたシェンフィールドで把握する。

 

 当然、それぞれの銃器は初戦からガストレア群の侵攻ルートを割り出し、高所から敵群を狙い撃ち出来る絶好のポジションに設置してある。

 

 ガストレア達は民警軍団の不在によってこれまでなく敵中深くまで侵攻できたと思っていたが、実際は全くの逆。ティナによってまんまと死地へと誘導されていたのだ。

 

 これが、ティナ・スプラウト。

 

 IP序列元98位、モデル・オウルのイニシエーター、黒い風(サイレントキラー)、神算鬼謀の狙撃兵。

 

「ここから先、あなた達は通行止めです。この私が居る限りは」

 

 

 

 

 

 

 

 顔半分が口になったようで、何列にも並んで円を描くように生え揃った鋭い歯を持ったガストレアに噛み付かれて、あるプロモーターは上半身を丸ごと失った。

 

 あるイニシエーターはウィルスごと揮発性の液体を体内に注入されて、ガストレア化するのを待たず電子レンジ中に入れられた犬猫のように小さな体を爆裂させた。

 

 背中合わせに戦っていたペアは、ガストレアが吐き出してきた胃酸を頭から被って全身をドロドロに溶かされた。

 

 地獄絵図。この戦場を表現するのなら、その一言が最も適切だった。

 

 初戦は何とか持ち堪えていたが、しかし第一戦と比べてガストレアはその数を増やし、民警達は数を減らしている。二重の不利はそのまま、戦局に反映されていた。プレイしているゲームの違いがモロに出てしまっている。民警達のゲームはチェスだが、ガストレアのゲームは将棋だ。

 

 元98位のティナや、イニシエーター不在とは言え30位の枢、副団長の長正・朝霞のペアなど要所要所に配置された強兵の存在によってまだ何とか持ち堪えてはいるが、しかしそれも限界が近いように思われた。どれほど強くても一人が守れる場所は一箇所。守りが脆弱な隙間を抜かれるのは、時間の問題だ。

 

「団長、このままでは……!! ぎゃっ!!」

 

 泣きそうな顔で、一人のプロモーターが訴えかけてくる。そのプロモーターは、体高が3メートルもあるオオカミのガストレアに飛び掛かられて喉笛を食いちぎられた。

 

 血の雨を払いながら、枢はそのガストレアの頭を引っ掴むと握力に任せて握り潰した。頭部を失った胴体はふらふらと数歩だけ進んで、地響き立てて倒れた。

 

 手を払ってこびりついた血と脳漿を落とすと、アルデバランの咆哮に負けないぐらいの大声を張り上げる。

 

「お前等!! 後少しだけ持ち堪えろ!! 俺達はディフェンス、もうすぐオフェンスが大将首を取って、戦局をひっくり返す!! それまでは一人十殺で凌げ!! ちなみに俺は、最低でも百匹は仕留めるつもりでいるぜ!」

 

 言いながら、枢は向かってきた蛇のガストレアの頭をネリョチャギ(踵落とし)で踏み潰した。

 

 一瞬だけ戦場がしんと静まり返り、時差を置いて歓声が上がった。

 

「おおおっ!! やるぞ、やってやるぞ!! 一人十殺だコラァッ!!」

 

「団長に負けるな!! 俺達でも二十匹ぐらいは殺してみせるぜ!!」

 

「三十匹殺るまで、俺は死なねぇぞ!!」

 

「俺は四十だ!! くそったれ!!」

 

 檄を受けて、下がりかけていた士気が再燃する。

 

 だがこれは、燃え尽きる前の蝋燭が放つ最後の輝きに近い。メインタンクの燃料が尽きたから、リザーブタンクの燃料を使っているようなものだ。再びガス欠になるのにそう長い時間は掛からない。

 

 残された時間は、少ない。

 

「頼むわよ……エックス」

 

 枢(ルイン・ドゥベ)は演技を忘れて、ひとりごちた。

 

 

 

 

 

 

 

 ガストレア軍団総大将・アルデバランはステージⅣの中でも一際大きなその体躯を活かして、高台になど登らずとも戦場全体を睥睨して全体状況を把握する事が出来た。

 

 何カ所かには強力な敵が配置されていて進行が止められてしまっているが、全体的にはガストレア軍団が押していて民警達が敷く防衛戦は徐々に後退を始めている。このまま行けば遠からず戦線は崩壊し、後はモノリスの穴からこちらの軍勢が東京エリアに雪崩れ込む。それで、全てが終わる。

 

 目算だが彼我の戦力比は3対1から4対1。これだけ数に差があるのなら、区々たる用兵は必要無い。寧ろ小細工を使った方が、付け入る隙を与えてしまう。ここは単純に数に任せて押し潰すのが正解だろう。

 

 作戦を決めたアルデバランは、フェロモンを散布して戦域全てのガストレアに命令を伝達する。

 

 注意すべきは、第一戦で自分の首を刎ねた二人組。あの突破力は脅威である。特に小柄な方は、あるいは自分を殺し得るかも知れない。

 

 そう考えているから、アルデバランは護衛の数を初戦時の3倍に増やしていた。如何に枢・エックスのペアでもこれだけの数のガストレアを倒しきる事は出来ない。仮に出来たとしても、それまでに自分が安全圏に離脱する時間は十分に稼げるとの計算故だ。

 

 アルデバランは、防御陣形を完璧に整えるべく眼下の護衛ガストレア達を見下ろす。

 

 そこで、微かな違和感を覚えた。

 

 護衛ガストレアの数が、多い気がする。

 

 護衛に付けたのは甲殻類や甲虫類、あるいは亀などの防御力に長けたモデル生物をベースとしているステージⅢとⅣの混成部隊だったが……その中に何故か一体だけ、ステージⅠが居る。全身が毛皮に覆われた、クズリのガストレアだ。

 

 何故、ステージⅠがこんな所に居る? 疑問を感じたアルデバランは、取り敢えずフェロモンを飛ばして指示を出そうとしたが……そこで、思いも寄らぬ事態が起きた。

 

 クズリのガストレアの全身の体毛が、急激に失われていく。正確には段々と短くなって、最終的には皮膚に埋没していく。手足は段々と縮んでいって、爪は退化して代わりに5本の指が取って代わる。顔つきも、鼻に当たる部分が徐々に引っ込んでいってのっぺりとした平面的なものになっていく。

 

 まるでウィルス侵食率が限界に達した人間が形象崩壊してガストレア化する過程を、逆再生しているかのようだ。

 

 ものの数秒としない間に、そのステージⅠの姿は一変していた。アルデバランに致命傷を与えた強大なイニシエーター、モデル・ウルヴァリンのエックスの姿に。

 

 護衛ガストレア達も、いきなり本陣に敵が現れた事には驚いたらしい。動きは鈍く、驚愕と戸惑いが感じられる。

 

「……久し振り」

 

 完全に人間の姿を取り戻したエックスが、アルデバランに凄絶な笑みを向けた。まるで肉食獣が獲物を前に牙を剥いているようである。

 

 これが他のイニシエーターには真似の出来ない、ガストレアウィルス適合因子を持つ者だけに許された戦法だった。

 

 ルイン達からもたらされたガストレアウィルス適合因子は、呪われた子供たちが持つ抑制因子とは異なりウイルスの侵食を完全に抑えて宿主の体と共存させ、形象崩壊をコントロールして人間とガストレアの姿を自由に行き来する事さえ可能とする。ルイン達は感染源を持たないモデル・ブランクのウィルスを保菌する為にどんな姿にでも変身できるが、それ以外の適合因子持ちイニシエーターはモデル生物のガストレアにしか姿を変えられない。

 

 完全にガストレア化してしまうと、巨体を得たりパワーがアップするというメリットはあるものの人間の体で訓練した技術や武器が使えなくなるなどデメリットも大きい為、普段は使わないが……この力は今回のようなケースでは、非常に有効だった。

 

 当然だがアルデバランも、ガストレアの姿に変身できるイニシエーターの存在など全くの想定外。この盲点を衝いて、クズリのガストレアに変身したエックスは全くのフリーパスで二千以上のガストレアの海原を渡り切り、単身本丸にまで乗り込んできていたのだ。

 

 握り拳を作る。二対三本、合計6つの超バラニウムの爪が姿を現す。

 

「……死ね、アルマジロ野郎」

 

 

 

 

 

 

 

「はあっ!!」

 

 ぴかりと剣閃が走り、ガストレアを両断。

 

 木更は残心の構えのまま、周囲に気を配る。どん、と背中に小さな何かが当たる感覚がする。いちいち振り返って見たりはしない。後ろにいるのは彼女のパートナー、夏世だ。モデル・ドルフィンのイニシエーターは弾切れしたショットガンを投棄、サブマシンガンに持ち替えながらこちらも油断無く木更の死角を見張っている。

 

 蓮太郎が特別任務で不在の今、木更がリーダー代行としてアジュバントを指揮している。彼と延珠の不在は痛いが、それでも序列1000番台以上のペアや天童流の手練れを擁するこのアジュバントは強い。押し寄せるガストレアを前に、一歩も引かない戦い振りを見せていた。

 

「全員無事!?」

 

「俺っちは生きてますぜ、姐さん!!」

 

「あたしも!!」

 

 片桐兄妹が、意気の良い返事と共に駆けてくる。

 

「翠は!?」

 

 ガストレア数体が爆散して生まれた血と泥のぬかるみを踏み越えて現れた彰麿は、普段の彼からは考えられないほどに狼狽していた。

 

「そう言えばさっき……向こうの方に走っていくのがちらりと見えたような……」

 

 夏世のその言葉を受け、里見アジュバントの面々は残らず最悪の事態を想像して青くした顔を見合わせた。

 

「ちっ!!」

 

 だがそれも一瞬の事。最初に彰麿が、一拍遅れて他の全員が夏世の指差した方へ駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 

「もう大丈夫ですから……きゃっ!?」

 

 翠の腕には、両足を失ったイニシエーターが抱かれていた。

 

 この子と彼女は親しい間柄ではない。寧ろ、他人に近い。キャンプ地でたまたま何度か顔を合わせて、目礼を交わすぐらいの関係だった。

 

 それでも、戦場の只中でプロモーターとはぐれ、しかも両足を失って逃げる事も出来ないような状況に置かれているのを見れば、助けようと動くのは当然だろう。しかし、それこそが罠だった。駆け寄ってその体に触れた瞬間、足下の砂地が沈んで漏斗状の穴が発生した。

 

 そして逆さにした円錐の頂点に当たる部分から、巨大な顎を持ったガストレアが姿を現した。姿が変形し過ぎて殆ど原形を留めてはいないが、恐らくはアリジゴクの因子をベースとして持つ個体だ。重傷を負ったイニシエーターは、生き餌だったのだ。敢えて殺さずに、助けに来た者を新たな獲物として引きずり込む為の。

 

「くっ……」

 

 逃れようともがく翠だが、これは悪手だった。

 

 アリジゴクは暴れれば暴れるほど、嵌った獲物はより早く穴の終端へと引き込まれていく。砂漠の流砂に引き込まれたように、緩やかな死を待つだけの状況。だが、穴に呑み込まれて窒息死する心配は無さそうだった。その前に、大量のウィルスを注入されてガストレア化するだろう。

 

 ガストレアの顎がバカリと開いて、噛み付こうと迫ってくる。

 

「……っ!!」

 

 数秒後に襲ってくるだろう痛みを覚悟して、翠は名も知らぬイニシエーターの体を強く抱き締めるときゅっと目を瞑る。

 

 その時だった。

 

『その子を、しっかりと掴んでいなさい』

 

 静かで、だが良く響く声が聞こえた。

 

 いや、聞こえたという表現は正確ではない。発された声が空気を伝わって鼓膜を震わせて脳に届いたのではなく、直接翠の脳にその声が響き渡ったような感覚だった。彼女はこの感覚を、数日前にも一度体験している。

 

 同時に、翠の全身を包み込むように凄い力が掛かった。まるで見えない巨人が、彼女ともう一人のイニシエーターを鷲掴みにしたようだった。

 

 そのまま、二人は一気にアリジゴクから引き上げられて空中を舞った。

 

「ふっ!!」

 

 猫の因子がもたらすバランス感覚で、翠は空中で完璧に姿勢を制御、見事な着地を見せる。そうしてきょろきょろと視線を動かした彼女の目に入ってきたのは、思った通りの人物の姿だった。

 

「あなたは……!!」

 

 獲物を後少しの所で奪われたアリジゴクのガストレアは、怒りの咆哮を上げながら自分の陣地から出て、邪魔した者へと牙を剥く。

 

「二人とも、耳も塞いで口を開けなさい」

 

 今度は、肉声だった。その声に従って、翠ももう一人のイニシエーターも耳に両手を当てて「んあ」と口を開く。

 

 次の瞬間、視界が白くなった。同時に、響き渡る轟音。

 

 巨大な雷が、天から落ちてきたようだった。

 

 電光に打たれたガストレアは、倒れる暇すら無く闖入者へと襲い掛かろうとした姿勢のまま、黒コゲになって絶命していた。やがて風が吹いて、炭化していたその体はボロボロと崩れて形を失っていく。

 

「あ……あの……」

 

 茫然自失だったイニシエーターだったが、やっと事態を理解して礼を言おうとする。だが、その言葉は制された。

 

「それは……生きて帰れてからにとっておきなさい」

 

 顎をしゃくったその動きに釣られるようにして翠が目線を動かすと、いつの間にか自分達の周囲ぐるりを無数の紅い光点が取り囲んでいるのが分かった。

 

「翠ちゃんは、その子を守って」

 

「はい……」

 

 ばちっ!!

 

 紫電が走る。

 

「大丈夫……その子も、あなたも……必ず私が衛るから……必ず……生きて、みんなの元に帰る……!!」

 

 ばちばちっ!!

 

 火花が散る。

 

「大丈夫。必ず、助けるから」

 

 ごろごろと、天すらもが呼応しているかのように空がにわかに掻き曇り、雷音が轟いた。

 

 電光を纏うそのイニシエーターは僅かな恐れも見せず、絶対の自信、否、確信を漲らせてガストレアの軍勢と相対する。

 

「道(そこ)を……退(ど)け!!」

 

 

 

 ソニア・ライアン アメリカ国籍

 

 10歳 ♀ 141cm 34kg

 

 モデル・エレクトリックイール -デンキウナギ-

 

 IP序列・元11位

 

 

 

 『星を統べる雷帝(マスターオブライトニング)』復活。

 



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第36話 伝説の強さ

 

「道(そこ)を……退(ど)け!! ……とは、言わないわ。造作も無く……殺して通るから」

 

 雷を纏い、風のように現れたソニア・ライアン。ガストレアの大群を前に僅かな怯えすら見せないその背中を見て、翠はこれ以上ないほどの頼もしさと安心感を覚えた。まるでパートナーである薙沢彰麿と共に在る時のような。彼女自身はソニアが戦っている所など見た事は無く、伝説のイニシエーターとしての勇名を耳にした事があるだけだ。

 

 だが、こうして眼前に立っていると理屈ではない所で解る。

 

 万に一つも、この人が負けるなど有り得ないと。しかし唯一つ、懸念すべき事があるとすれば……

 

「あ、あのソニアさん……!!」

 

「ん?」

 

「お体は……もう、良いのですか?」

 

 ソニアはこの戦いの序盤で、持ち前のマグネティックパワーで倒壊するモノリスを半日に渡って支え続け、力を使い果たして後方で療養中との事であった。今現在、彼女はどれほど回復できているのか……もしかしたら、無理をして出て来たのではないか? それが不安材料だ。

 

 優しい猫のイニシエーターへ、デンキウナギのイニシエーターは苦笑を返した。

 

「まぁ……まだ完全ではないわね」

 

 力の入り具合を確かめるように、ソニアはぐっぱぐっぱと拳を握っては開いてを繰り返す。

 

「全開時の七割……って所かしら」

 

 ばちばちっ!!

 

 スタンガンのように、指と指の間に火花が散る。

 

「でもまぁ……この程度のザコ相手ならこれで十分よ」

 

 そう、ソニアが言った瞬間に侮辱の言葉を受けて怒った訳でもあるまいが、数体のガストレアが飛び掛かってくる。

 

 だがソニアは少しも慌てず、翠の腕に抱かれたイニシエーターへとさっと手をかざす。すると、少女の懐に仕舞われていた拳銃が空中を滑って彼女の手に納まった。当然ながらこの拳銃は金属製。ソニアが磁力で引き寄せたのだ。

 

 そのまま、ソニアは片手で向かってくるガストレアへ拳銃を照準する。だが、それを見ていた翠は「いけない……!!」と、思わず声を上げた。ステージⅠであろうとガストレアに対して、たった一挺の拳銃だけではバラニウム弾を使っていようと明らかに火力不足。精々、一体を足止めするのが関の山だろう。その間に残りの数体がソニアに襲い掛かる。元々、イニシエーターとてメイン武装は今は喪失してしまったがアサルトライフルであり、拳銃はあくまでサブウェポンとして携帯していたに過ぎない。

 

 本来のソニアであれば、拳銃に頼る必要など無いだろう。やはり、彼女はまだ完調ではないのだ。援護すべく駆け寄ろうとする翠。だが次の瞬間、

 

 ぎぃぃぃん!!

 

 火薬の破裂音とはまるで違う、擦過音にも似た異様な銃声と共に銃口から走った一条の光が、ガストレアに着弾。たった一発の弾丸を受けただけで、巨体が水平に50メートルも飛んで木々を薙ぎ倒しながらやっと止まった。突然の甲高い音を受けて思わず猫耳を押さえていた翠は、ぱちくりと目を丸くする。

 

 とても、拳銃の弾丸では有り得ないエネルギー。その恐るべき威力に、翠もイニシエーターの少女も、ガストレアですらもが驚愕して数秒ばかり動きを止めてしまった。

 

「超電磁砲(レールガン)……天の梯子のミニチュア版と言えばいいかしら? 私の電磁誘導(ローレンツ力)で弾丸を超加速して発射する……その威力はご覧の通り……」

 

 続け様にソニアは正確な狙いで引き金を引き、その都度にガストレアの巨体が数十メートルもぶっ飛ばされる。弾数さえ十分ならこれだけでも敵群を殲滅することが可能であろう恐るべき破壊力。ソニアの圧倒的な攻勢は、しかし長くは続かなかった。

 

 4発目を撃った所で、拳銃がバラバラに分解してしまったのである。これは当然と言えば当然の結果だった。音速の何十倍もの速度で放たれる弾丸の威力に耐えられる強度など完全に設計の想定外。只のハンドガンがそんなに頑丈な訳がないのだ。

 

「ふん」

 

 と言っても、これもソニアにとっては予測できた結果であったのだろう。大して落胆した様子も無く、彼女はグリップだけになってしまったピストルをぽいと捨ててしまう。

 

 そして今度は、ガストレア達に掌を向けて「待て」と制止するようなポーズを取る。無論、そんな事でガストレアが止まる訳もない。武器を失ったソニアを今度こそ倒すべく突進してくる。

 

 かざしたソニアの掌中に、テニスボールくらいの光球が現れる。

 

 瞬間、その光球を起点として真っ直ぐ光線が走ってガストレアの巨体を、焼け火箸を当てられたティッシュペーパーのように貫いてしまう。

 

 二発、三発。

 

 次々発射される光線はその度にガストレアを撃ち抜いて、大きさによってはそのまま跡形も無く蒸発させてしまう。

 

「い……今のは……」

 

「粒機波形高速砲(メルトダウナー)……電子を粒子と波形のどちらでもない曖昧な状態で…………あー……要するにビームね。メガ粒子砲よ」

 

 途中から説明するのも面倒になったようで、ソニアは投げやりな口調になった。そのままガストレア達を見渡せば、レールガンとビームの合わせ技を受けて流石に警戒心を強くしたらしい。先程までの一気呵成の突撃攻勢から一転、ソニア達から一定の距離を保ちつつじりじり包囲するように動きが変わった。恐らくは援軍の到着を待っているのだろう。

 

 数が増えた所で負ける気は無いが……

 

「面倒ね」

 

 ソニアはそう一言呟き、どんと大地を踏み締める。

 

 すると、いきなり局地地震が起きた。

 

 翠は、反射的に姿勢を低くするとイニシエーターを庇うように覆い被さる。ソニアはイオノクラフトの原理で空中に浮いているので、揺れの影響を受けていない。

 

 そしてソニアの立っていた所を中心として蜘蛛の巣のように大地が引き裂かれ、ガストレアの群れが割れ目に呑み込まれる。翠とイニシエーターの二人は、無事だった。幸運にも地割れは彼女達を避けるように走っていたからだ。

 

 いや……それは本当に偶然だったのだろうか。翠は、そんな風に思ってしまう。そして、その考えを裏付ける出来事が起きた。

 

 ぱちん。

 

 ソニアが指を一つ鳴らす。すると開いていた地割れが不自然なほどの早さで閉じる。同時に、揺れも治まった。ほんの数秒前まで3人を包囲していたガストレア達の姿は、もう何処にも無かった。全て地割れに落ちたのだ。割れ目があった箇所は、今は線状に少しだけ土が盛り上がっている。あまりに勢い良く地面が閉じた為だ。それは、明らかにさっきまでガストレア達が立っていた箇所に合わせて走っていた。

 

 最早疑う余地は無い。今の地震も地割れも、それらが急激に閉じた事も全てソニアによって引き起こされたものだ。

 

「……どうやって?」

 

「これが……私の二つ名である『星を統べる雷帝』の由来。私達が住んでいるこの地球は、それ自体が一個の巨大な磁石だから……磁界を操る私は自分の磁力を地磁気とシンクロさせて、地球のどこにでも地殻変動を起こす事が出来るの」

 

 つまりソニアはこの一帯恐らくは数十メートル範囲のピンポイントで地震を引き起こすよう、地球を操った。地球にガストレアを攻撃させたのだ。

 

 理論上、イニシエーターの能力に限界は無いとされている。だが、翠にとってそれは力やスピードが際限無く強く速くなるというイメージしかなかった。スピード特化型イニシエーターである彼女だが、上には上が居るという事は知っている。身近な所では、延珠が自分を上回るスピードを持っている。恐らく序列50位以上ともなれば、視界の全てが間合いと言っても過言ではない瞬間移動と錯覚するような超速を持った者が居るのだろう。

 

 だがソニアは根本的にスケールが違う。たった一人の人間が自然現象を操るなど……この目で見るまでは想像する事すら出来なかった。

 

 数十体のガストレアを掃討するのに、要した時間は一分に満たない。これが元序列11位の実力かと翠は驚愕を通り越して最早笑うしかないという様子だったが……その時、ぴくっと猫耳が動く。猫の五感の中で、最も鋭いのが聴覚である。当然、その因子を持つ彼女も音には敏感だった。

 

「ソニアさん、まだ終わってません」

 

「……そうね」

 

 驚いた様子も無く、ソニアは振り返る。すると地面が爆ぜて、一匹のガストレアが姿を現した。大きい、恐らくはステージⅣ。10本もある手足の中で、一番前の二本一対が異様に肥大化している。昆虫を思わせる外見から想像して恐らくはオケラの因子でも入っているのだろう。それで地中を掘り進み、地表へと脱出してきたのだ。

 

 ソニアはさっと手をかざすとビームを乱射する。熱線はガストレアの体躯に、コンパスで描いたような綺麗な風穴をいくつも空けて貫通していく。しかも最初の二発は的確に頭脳と心臓を貫いていて、確実に致命傷だ。

 

 しかし、そのガストレアは倒れなかった。バラニウムの攻撃でなかったとは言え、損傷箇所はすぐに肉が盛り上がって塞いでしまった。

 

「む」

 

 少しだけ瞠目し、驚きを見せるソニア。肉体を再生しながらガストレアが豪腕を振るってくるが、空中を滑るように移動して後退、それをかわす。

 

「再生能力が自慢か……では、これはどう?」

 

 ソニアは戦法を変えた。ポケットから、3つのバラニウム球を取り出す。一つ一つはビー玉ぐらいの大きさで、完璧な球形を成している。

 

 黒球はソニアの手からふわりと浮き上がって、それらは一つ一つが個別の意思を持つかのように複雑な軌道を描いて、ガストレアに向かっていく。これも当然、ソニアが磁力によって精密オペレートを行っている為だ。

 

 バラニウム球は銃弾より速く動いてガストレアに着弾、しかも当たった後も運動エネルギーを失わず、貫通した後は空中で反転して再び着弾。これが何度も繰り返され、それなりの強度を持つであろう外殻をズタズタに裂いて、手足を簡単に吹き飛ばしてしまう。

 

 しかし、これほどのダメージをしかもバラニウムによって受けてもこのガストレアは怯まなかった。傷は早送り映像のようにすぐ治癒し、失った手足も多少形が歪ではあるが新しい物が切断面から生えてきて補い、勢いを失わずに向かってくる。

 

「ソニアさん……こいつは……」

 

 警戒心を強くした翠の言葉に、頷いて返すソニア。どうやら一匹だけ、別格が混ざっていたようだ。

 

「再生レベルはⅢ以上……恐らくⅣはあると見て良いわね」

 

 ガストレアや呪われた子供たちが持つ再生能力はその強さによってⅠからⅤまでの位階に分類される。

 

 まず、バラニウムの武器であれば殺傷可能なのがレベルⅠ、殆どのガストレアやイニシエーターがここに属する。次にバラニウムの再生阻害を押し返すものの、首を切ったり全身を焼却するなどすれば殺害可能なレベルⅡ、その上のレベルⅢともなるとトカゲの尻尾のように千切れた手足がくっついたり生えてきたりして、更に上級のレベルⅣは細胞の欠片一つ残さず破壊せねば完全には殺せない。最上級のレベルⅤは分子レベルで再生し、現代科学では完全殺害は不可能とされている。

 

 このガストレアは、バラニウムを用いた攻撃で欠損した手足が再生している事から間違いなくレベルⅢはある。再生速度もかなり早いので、レベルⅣはあると見積もっておくべきだろう。

 

「これはどうかしら?」

 

 今度はソニアの指先から電火が走り、瞬く間に巨大な光の柱となってガストレアの全身を包み込む。

 

 電撃はほんの一瞬だったが、しかし一瞬で十分だった。ガストレアの全身は黒コゲに炭化している。

 

「やったか!! ……って、ダメよね」

 

 と、ソニア。予想通り、炭化していた体表面はカサブタの如く剥がれ落ちて、内側から脱皮したてのように瑞々しい肉体が現れた。確定。やはり、こいつはレベルⅣクラスの再生能力を持っている。

 

「ソニアさん、ここは一旦退いて他の人達と合流しましょう」

 

 すぐに走り出せるようイニシエーターを背中に担いで、翠が言った。これは正論である。倒しきる手段が無い以上、戦い続けるのは徒に消耗するだけの愚策。戦力を整えて、閉じ込めるなり動きを止めるなり、作戦を切り替えるべきだ。

 

「必要無いわ」

 

 が、ソニアはその意見を一蹴してしまうと、黒い金属球を手元へ呼び戻した。彼女の掌の上で、固い筈の金属球がゴムや粘土のようにぐにゃりと形を変えて、3つの球は1つに結合する。合体したバラニウム球は、ソニアとガストレアのほぼ中間の位置、高さ数メートルほどの空間に静止する。

 

「……?」

 

 何をするつもりなのか、狙いが読めずに翠の動きが止まる。そこに、ソニアから声が掛かった。

 

「翠ちゃん、急いで何かに掴まって体を固定しなさい」

 

「え?」

 

 指示の意図する所を掴みかねて、首を傾げる翠。この反応の遅さに、ソニアは苛立った様だった。

 

「早く!! 樹の幹でも何でも良いから、なるべく頑丈そうなどっしりした物を掴んで!!」

 

「は、はい!!」

 

 強い語気で指示されて、翠は慌てて手近な中で一番太い樹の幹を掴み、伸ばした爪を食い込ませてしっかりと体を固定する。彼女に背負われたイニシエーターも、肩を掴む手に力を入れた。

 

 そうして二人がひとまず指示を守った事を確認するとソニアは「うん」と頷き、そして彼女の全身がより強い稲光に包まれる。これまで以上の電力を体内で創り出しているのだ。

 

 同時に、滞空するバラニウム球が猛烈な速度でスピンを始めた。磁力によって操られる金属球はまるで天体のような自転運動を行い、やがてぽつんとした小さな、黒い光とでも形容すべき点に変わる。

 

「これは……」

 

 翠は、空気の流れが変わった事を知覚する。視線を落としてみると、砂や小石が舞い上がっている。風に舞う木の葉も、明らかに自然ではない動きを見せている。

 

 周囲一帯の全ての物が、ある一点へと集まっている。ソニアが生み出した黒い点へと吸い寄せられているのだ。それに触れた物はそのままひしゃげるように形を変えて、中へと消えていく。

 

 見れば、黒い玉は徐々に大きくなり始めている。まるで吸い込んだ物をそのまま自らの養分として取り込んでいるかのように。

 

「? 辺りが暗く……?」

 

 最初は気のせいかと思ったが、しかし猫因子がもたらす特性から自分の瞳孔が僅かな光を取り込むべく拡大しているのを自覚して、翠は思い直す。錯覚などではない。実際に、周囲が暗くなってきている。信じられない事だが、光すらもがソニアが創り出した漆黒の球体へと呑み込まれているのだ。

 

 ソニアが操るバラニウム球は彼女が磁力を用いて超圧力を掛ける事によって精製されており、質量は一立方ナノメートルでおよそ200キログラムという自然界では絶対に有り得ない超密度を持つ。この球体にスピンを掛けると、自転する星がそうであるようにその中心へ向かって強力な引力が発生する。そしてそれはソニアが操る電磁気の引力とも合わさって、光をも捕らえて逃がさない重力の塊と化す。

 

 黒点が発する引力はどんどん強くなり、細い木々などは根こそぎ引き抜かれて呑み込まれ、消えていく。空気すらもがどんどん引き込まれて、まるで風呂の栓を抜いた時の水の流れのように、一点へ向かって強大な気流が発生する。黒点はみるみる肥大化し、やがて巨大で空虚な穴へと姿を変える。

 

 天文学用語では、この黒い穴をこう呼ぶ。

 

「暗黒星(ブラックホール)!!!!」

 

「きゃああっ!!」

 

 思わず、翠は悲鳴を上げた。彼女の背中に掴まっているイニシエーターも同じだった。翠が掴まっている大木はしっかりと地面に根を張っているので、何とか吸い寄せられずには済んでいた。

 

 この術を発動させているソニアは、術者である故か巨大な引力に晒されながらも凪の中に立つように平然としている。

 

 ガストレアは、何とか地面に爪を立てて吸い込まれまいと踏ん張っていたが、地面そのものが崩れ、黒い星へ呑まれる。支えを失って風船のように空中に舞い上がったステージⅣの巨体は、あっけないほど簡単に無へと繋がる孔へと吸い込まれて、そこには何も無くなった。

 

 敵は排除した。ソニアはそれを確認すると、電磁力を緩める。まず彼女が纏う電光が弱くなり、そしてブラックホールは徐々に小さくなっていき、異常な吸引現象が止まる。やがて闇の星は、一個のバラニウム球へと戻った。それらは再び3つに分裂すると、惑星のようにソニアの周囲を周回し始める。周囲の光量も元に戻った。風は止み、辛うじて呑み込まれずに済んでいた石や砂は、地球の重力に従って地に落ちた。

 

「ブラックホールに落ちて消滅してしまえば、再生も何もないでしょ。本来はいずれ戦うであろうステージⅤ・ゾディアックの中でも、レベルⅤの再生能力を持った奴を倒す為に開発した技だけど……良い予行演習になったわ」

 

 「ふうっ」と息を整えて少しだけ額に滲んでいた汗を拭いながら言うソニアを見て、翠は戦慄した。これほどの、全ての常識を超越した大技を繰り出しておきながら、ソニアの消耗は精々が朝の軽いジョギングを済ませた程度でしかない。しかも彼女の自己申告を信じるなら、これで本来の七割程度の力しか出せていないという。

 

 理屈も常識も、否、全てを超越している。

 

 これが、元11位。伝説のイニシエーターの最強の力。

 

 これが、ソニア・ライアン。

 

 恐れも憧憬も敬意すら通り越して、感動すら覚えるほどの強さ。

 

 ソニアの圧倒的実力を目の当たりにして、翠は僅かな時間だけ状況を忘れていたが、すぐにはっと我に返る。

 

「ソニアさん、新手のガストレアが来ない内に、彰麿さん達と合流しましょう!!」

 

「……その必要は無いみたいよ?」

 

「え?」

 

「翠、無事か!!」

 

 くいっとソニアが顎をしゃくった方向を見ると、木々を掻き分けるようにして彰麿がやって来ていた。すぐ後ろには玉樹や木更の姿も見える。

 

「彰麿さん!! すいません……勝手に動いてしまって……」

 

 翠は最初は弾んだ声を上げたが、すぐに申し訳なさそうなトーンになってしまう。だが、彰麿は彼女を責めたりはしなかった。

 

「いや、無事ならいい」

 

 翠に背負われたイニシエーターは、今は緊張の糸が切れたのか意識を失ってしまっていた。そんな少女を見て彰麿は全て悟っていたのだ。

 

 そして、木々が薙ぎ倒されたり中程からへし折られたり、あるいは根こそぎ引っこ抜かれたりしていてまるで竜巻でも起きたのかと錯覚するようなこの区画を見渡して、もう一つの事を理解する。これほど広範囲且つ大規模な破壊は、到底翠一人で出来る物ではない。出来る者が居るとすれば、一人。その一人の元へと歩み寄ると、彰麿はばっと頭を下げた。

 

「翠を助けてくれた事……感謝の言葉もない……!!」

 

「礼には及ばないわ。仲間を助けるのは、当たり前でしょう?」

 

 笑って返すソニア。そこに、

 

「ソニアちゃん!? あなた……!!」

 

 木更が駆け寄ってきた。彼女の声には、どこか咎めるような響きがある。

 

「戦ったのね……最後の力で」

 

「ええ……」

 

 ソニアの侵食率が限界近い事について、木更は綾耶から聞いていた。

 

 開戦前に診断を行った菫の見立てでは、ソニアが戦えるのは3回が限度との事だった。

 

 3回。

 

 一度は、教会が襲われた時に。二度目は、崩壊するモノリスを支える時。そして最後の一度は、この時に。

 

 これで、アルデバランと戦う時に彼女の力を当てにする事は出来なくなった。切り札を一枚失ってしまった訳だ。

 

 だが……もし、ソニアが駆け付けてくれなかったら翠やもう一人のイニシエーターは助からなかったかも知れないのだ。それを思うと、彼女を責める言葉を木更は持たなかった。

 

 そもそも、侵食率が45パーセントをオーバーしているイニシエーターを戦線に駆り出す方が間違っているのだ。

 

「ありがとう……後は、私達に任せて。私達が、あなたの分も戦うから」

 

 木更はそう言って、ソニアの頭をそっと撫でた。

 

「よく……頑張ったわね」

 

「ええ……ところで木更さん、一つ聞いていい?」

 

「? 何かしら?」

 

「ここへ来たのは、あなた達だけ?」

 

 ソニアは顔を動かして、集まった面々を見やる。木更、夏世、玉樹、弓月、彰麿、翠、それに翠の背中に背負われたイニシエーターが一人。全部で7名。

 

「え、ええ……ここは私達の受け持ち区画だから。私達だけよ」

 

「辺りには誰も居ないわね?」

 

「……居ない……筈だけど?」

 

 重ねて尋ねるソニアに、木更はどことなく違和感を感じ始めた。何故そのような事を、わざわざ確認する必要があるのだ?

 

 そう、思った瞬間。

 

 ぬっとソニアの手が伸びて、木更の頭を鷲掴みにしていた。予想もしなかった事態に木更は硬直し、他の面々も「え?」「お、おい何を?」と、戸惑いがちで反応が鈍い。

 

「そう、それは良かった」

 

 ばちっ!!

 

 電気が走る。

 

 木更は最後に、犬歯を見せて唇を三日月型に歪めて笑うソニアを見た気がした。

 

 

 

 

 

 

 

「走れ!! 走れ!! 何も考えずに走れ!!」

 

 未踏査領域を、プレヤデス討伐チームは全力疾走していた。蓮太郎は走りながら、あらん限りの声を張り上げる。

 

「うおっ!?」

 

 ぬかるみに足を取られて転倒しそうになるが、首根っこを引っ掴まれて浮遊感が襲う。

 

「え、延珠!?」

 

「蓮太郎、しっかり妾に掴まっているのだ!!」

 

 パートナーが、抱えて走ってくれていた。

 

 既にアルデバランの命令によってガストレア達は東京エリアへ向けて動いているが、それでもここは2000体以上の敵の坩堝のど真ん中。前後左右上下、どこからどんなガストレアが飛び出してくるか皆目予想が付かない。逃げながらでも、一瞬たりとて油断は許されない。

 

「はあっ!!」

 

 延珠は横合いから飛び出てきたガストレアの頭をサッカーボールのように蹴飛ばした。そのすぐ後ろから、二体のガストレアが出現。

 

「斬っ!!」

 

「しゅっ!!」

 

 二つの大きな影は、四つに増えた。小比奈と小町、二人の斬撃が見事に正中から巨体を断ち割っていた。

 

「お前等……!!」

 

 だが、安心している暇などない。今度は後方から、十数体のオオカミのガストレアが追い縋ってくる。

 

 しかし、後顧の憂いは無い。

 

「マキシマム・ペイン!!」

 

「でえいっ!!」

 

 影胤の展開した斥力フィールドと、綾耶が壁状に発生させた空気圧が押し出されて、追っ手をまとめて吹き飛ばす。

 

 世界を滅ぼす者と世界を衛る者の共闘。七星の遺産争奪戦の際には想像も付かなかった光景が、今ここにあった。蓮太郎は、すぐ隣を悠然と歩いているルインを見てふと思う。こんなガストレアが蠢く地獄の中に居ると言うのに、不思議な頼もしさを感じているのは自分だけなのだろうかと。

 

 綾耶は言っていた。ルイン達がその力を貸してくれたのなら、きっと想像を超えた世界が実現できると。

 

 蓮太郎も、どこかそんな気がしてきた。まだ完全に信用した訳ではないが……それでも、彼女に希望を持っても良いかも知れないと、心のどこかで思ってもいた。

 

 その為にも、何としてもこの戦いを生き延びねばだが……

 

「……埒が明かないわね。このままでは四方八方から狙い撃ちにされて、安全圏に離脱する前に力尽きるわよ」

 

 ガスマスクを装着した3人のイニシエーターを供回りのように引き連れて、優雅さすら感じさせる動きで歩みつつルインが言った。彼女はきょろきょろと辺りを見渡して「ああ」と声を上げる。

 

「おあつらえ向きのがあったわよ」

 

 指差す先には、ボロボロになったジープがあった。恐らくは大戦時に逃げる為に使われて、故障かガス欠かでここに遺棄された物だろうが……

 

「……動くとでも思ってんのか?」

 

 ルインの正気を疑うような表情と声で、蓮太郎が尋ねる。10年前に乗り捨てられて一度も動いていない車なのだ。ガソリンが残っているかすら疑わしいし、残っていたとしてエンジンが正常に作動するとはとても思えない。だが、ルイン・フェクダはその程度の質問は想定内だった。

 

「エンジンは外付けのを使うわ。メダカハネカクシ方式で行きましょう」

 

 そう言ってロックされたドアを紙で出来ているかのようにもいでしまうと、後部座席に乗り込んだ。

 

「メダカハネカクシ……って」

 

 ファーブル昆虫記が好きだった蓮太郎は、動植物全般に詳しい。たった今ルインが挙げたその生物に関しても、通り一遍の知識は持っている。

 

 ハネカクシ科に属するその昆虫は尾端から界面活性剤を分泌し、体の前後の表面張力差を利用して滑るように水面を移動する。そして危険が迫った際にはガスを勢い良く発射してジェット噴射の要領で水面を滑走して逃げる。この時、メダカハネカクシは僅か1秒で自長の150倍もの距離を移動すると言われ、そのスピードは人間サイズに直せば実に時速945kmに相当する。

 

「ガスを発射して……成る程!!」

 

 ぱちんと、指を鳴らす。ルインが言わんとする事が、蓮太郎にも伝わった。

 

「おいみんな!! このジープで脱出するぞ!! 急いで乗り込め!!」

 

「れ、蓮太郎……!!」

 

 延珠は、パートナーが至った結論にはまだ辿り着けていないようだ。蓮太郎を信じてはいるが、半信半疑という様子である。

 

「大丈夫だ、延珠。全員乗れ!!」

 

「ふむ……では、私が運転手を務めようか」

 

 言いながら影胤が運転席に乗り込むとハンドルを掴む。差しっぱなしのキーを回してみたが、やはりエンジンが掛かる気配は無い。

 

 そうこうしている間にも小比奈、小町、ティコが車内へ飛び込み、3人の群星は屋根に乗った。最後に綾耶だが……彼女こそが、ルインの言う“外付けのエンジン”だ。

 

「綾耶、お前はコンテナに入ってくれ。お前のジェット噴射でこの車を動かして、一気にここを突破するんだ!!」

 

「!! 分かりました!!」

 

 綾耶はバックドアを開けてコンテナに座り込むと、後方に向けて空気を充填した両腕をかざす。

 

「全員、ショックに備えろ!! 物凄いGが掛かるぞ!!」

 

 蓮太郎が叫んで、影胤はぐっとハンドルを掴み、延珠・ティコ・小比奈・小町の4人はしっかり手足を踏ん張って体を固定する。屋根に掴まっている群星3人は、せめてもと手に力を入れる。ルインは、いつも通り泰然とした様子だ。

 

「綾耶ちゃん、カウントダウンを始めるわよ。10……9……」

 

 だが、そうしている間に進行方向にガストレアが集まり始めた。このままでは進路を塞がれてしまう。

 

「ああ面倒ね、0よ!!」

 

「了解!!」

 

「「「えっ!?」」」

 

 いきなりカウントダウンが終了し、乗客達が一斉に戸惑いの声を上げ……

 

 そして綾耶が、両腕のジェットを噴かす。

 

 次の瞬間、重いジープが弾丸のように飛び出した。

 

「う、お、お!!」

 

 予想通り凄まじいGが掛かり、シートに体が押し付けられる。延珠・小比奈・ティコ・小町はもみくちゃになって、蓮太郎は彼女達に押し潰されそうになった。屋根の上の群星達は、振り落とされないようにするのがやっとだった。

 

 そんな状態で不整地を走るので、ジープ内の揺れは凄まじい。影胤は必死でハンドルを左右に動かし、辛うじて車体をコントロールしていた。

 

 ルインは、落ち着いたものだ。彼女の進化能力はこの状況にも既に肉体を適応させているのだ。

 

 ジープは未踏査領域を、何度も飛び跳ねながら進んでいく。このスピードならば民警達の防衛ラインへ到達するまで5分とは掛からない。だが、そう容易くは辿り着けそうもなかった。前方に、多数のガストレアを確認。このままではモロに突っ込んでしまう。

 

「小町、小比奈ちゃん!!」

 

「延珠ちゃん、お願い!!」

 

「分かったよ、三番!!」「了解しました、マスター・フェクダ」

 

「任せよ、綾耶!!」

 

 ルインと綾耶の指示とほぼ同時に、3人のイニシエーターは器用に窓から体を出して車体を伝うようにして移動すると、ボンネットの上に立つ。そしてそこから、

 

「ハアアアアアッ!!」

 

「斬っ!!」

 

「しゅっ!!」

 

 延珠の蹴りが、小比奈の双刃が、小町の手刀が。当たるを幸いの勢いで、群がるガストレアを蹴飛ばし、両断し、薙ぎ払い、進路をこじ開けていく。視界の全てを埋め尽くすような敵の海原を、オンボロジープは無人の野を行くが如くに疾走していく。屋根の上の群星と、箱乗り状態のティコも手持ちのライフルで援護射撃を行っていく。

 

 後少し、後少しで民警軍団の陣地へ滑り込める。

 

 だが民警軍団の陣地に近いという事はガストレア達にとっての前線であるという事。そして今は交戦中。つまり両軍の主力がぶつかり合っているここは、最も多くのガストレアが集まっているポイントである。

 

 両サイドから、更に多数のガストレアが接近。流石にこの数は延珠達でも捌き切れない。このままでは、逃げ切る前にすり潰されてしまう。

 

 その時、綾耶が一本の小瓶を放り投げた。

 

 ガラス製の瓶は地面にぶつかると当然割れて、中に入っていた液体がびちゃっと情けない音を立てて飛び散る。

 

 すると、ガストレア達の動きに変化があった。それまではこのジープへと群がるように集まってきていたのが、今は瓶が割れた場所へと脇目も振らずに向かっている。

 

「綾耶、あれは……」

 

「集合フェロモンね」

 

 ルインの言葉に、頷く綾耶。

 

「この任務に就く前に、菫先生が持たせてくれたんです。もしガストレアに囲まれたら、これを使えって。これを割れば、ガストレアは一時的にそこへと集まっていく筈だから、その隙に逃げろって」

 

 そう言えばと、蓮太郎ははっとする。菫がこの任務の前のブリーフィングでフェロモンの説明の為に、あの小瓶を使っていたのを彼は思い出した。

 

「でかした綾耶!! お手柄だな」

 

 実際、このタイミングで使ったのは見事の一言である。あるいはここへ来るまで切り札を温存していた事こそ賞賛に値するのだろうか。いずれにせよ、これでガストレアの追跡は完全に振り切れた。ジープは勢いそのまま民警軍団の陣地へと飛び込んで……そして目の前にあった岩がジャンプ台のようになって空中に飛び出した。

 

「うおおっ!?」

 

 口を開けると舌を噛みかねないと分かっていても、蓮太郎は悲鳴を上げずにはいられなかった。車外に居た群星3人と、小比奈と小町は素早く跳躍して離脱する。延珠は小柄な体を活かして車内に戻ると、パートナーの体を掴んだ。

 

 そしてジャンプの頂点に達し、後は落ちるだけとなる。フロントガラスから見える景色が、地面で一杯になる。襲って来るであろうショックを覚悟して、蓮太郎は歯を食い縛った。数秒後、覚悟していた以上の衝撃がやって来て彼は天井に頭をぶつけた。車はそのまま縦回転しながら3回跳ねて、4回目の接地でタイヤから落ちて、やっと止まった。完全に静止した所で車体がガクンと、力尽きたように傾いた。

 

「……到着だよ。忘れ物の無いようにね、里見くん」

 

 仮面の運転手が、いつも通りどこか芝居の台詞を思わせるような口調で言った。

 

「ああ……その忘れ物が命じゃなくて、助かったぜ」

 

 不幸面をげっそりとやつれさせて、蓮太郎は這い出すようにジープから出た。本当に、一歩間違えなくても命を失う所だった。寧ろ、今こうして生きているのが不思議でならないぐらいだ。ぶつけた頭を押さえながら、ここは民警軍団の陣地の中でどの辺りかと周囲を見渡して……

 

「里見くん?」「里見さん?」「ボーイ?」「里見蓮太郎?」「里見?」「蓮太郎さん?」

 

 木更、夏世、玉樹、弓月、彰麿、翠。

 

 アジュバントの面々がぽかんとした顔で、彼を見詰めていた。

 



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第37話 未来の為に(前編)

 

「里見くん……よく無事で……」

 

 目に涙を溜めて、木更が駆け寄ってくる。蓮太郎は彼女とはもう二度と会えない事も覚悟していただけに、思わず二の句に詰まった。

 

「もう、遅いわよ!!」

 

 祈るように胸に当てた手は、震えていた。罪悪感に駆られた蓮太郎は何とか話題を切り替えようと周囲を見回して、そして辺りに転がっている無数のガストレアの死体と、巨大台風が過ぎ去った後のように抉れた地面や、根こそぎ引っこ抜かれたりへし折れたりした木々が目に入った。

 

「と、ところで……これは一体、何があったんだ? 凄い有様だが……」

 

「ついさっきまで、戦闘の真っ直中だったんですよ」

 

 と、夏世。

 

「戦闘……って……」

 

「みんな、私を助ける為に来てくれたんです。私が、この人を助ける為に列を離れてしまって……そこで待ち伏せしていたガストレアに襲われてしまったんです」

 

 背中に両足を失ったイニシエーターを担いだ翠は、申し訳なさそうだった。

 

「だが、間一髪で間に合った。俺達全員で二人を助け、集まってきたガストレアも何とか全て殲滅できたんだ」

 

 彰麿が、パートナーの言葉を継ぐ。

 

「み、皆さんが、これをやったんですか」

 

 乗り物酔いの吐き気を堪えつつのろのろとジープから出て来た綾耶が、怪訝な表情で尋ねる。

 

「ああ、そうだぜ? 激戦だった」

 

 顔の血と汗を拭いながら玉樹が答えるが……綾耶はおかしな顔をしている。

 

 何か……気に入らない。何かが、おかしい。

 

 周りに散らばっているガストレアの死体は、黒コゲになったり物凄い熱量で融かされたり、ズタズタに引き裂かれたりしている。焼夷弾でも使わない限りガストレアの全身を焼いたりは出来ないだろうし、融かすともなれば更なる熱量が必要となるだろう。引き裂かれた死体にしてもそうだ。木更の刀や翠の爪での斬撃なら、傷口はもっと綺麗にすっぱり切れているだろう。逆に玉樹がバラニウムチェーンソーでやったのなら、もっとグチャグチャになって原形を留めていない筈だ。一体誰が、どんな武器を使ってこれをやったのだ?

 

 大体して、この一円の惨状。ここは森の中だが、自分達の周囲だけは木が無くなってしまっていて見晴らしが良くなっている。

 

 木更の剣術や彰麿の戦闘術がどれほど強力であっても、それはあくまで人の力。確かに森の中でガストレアの群れと序列1000番台以上の腕利きペアが猛戦すれば余波で木の5本や6本はへし折れるだろうが、これは地形そのものが変わってしまっている。それも、恐らくは極短い時間で。そんな事が有り得るのだろうか。

 

 違和感を覚えて木更や夏世に視線を送るが、二人はその意図を汲み取れないようで戸惑ったような顔で返すだけだ。

 

 彼女達は、嘘を吐いてはいない。大体、木更達が自分達を騙す理由が存在しない。

 

 だが、それではこの破壊状況の説明が付かない。

 

 このちぐはぐさに綾耶はどうにも胸に何かがつっかえたような気分になって、居心地の悪さに体を揺すった。

 

 どういう事だ? 本当の事を言っているのに、事実が証言と合致しない。しかも木更も彰麿も夏世も翠も玉樹も翠も、誰もそれに違和感を覚えていないようだし……

 

『まるで、実際にはこの破壊を行ったのもガストレアを倒したのも別の”誰か”で……その”誰か”が自分の存在を隠す為にみんなの記憶を書き換えていったとでも……?』

 

 などと考えたが、前者は兎も角後者の記憶操作など、そんな事が出来る者が居る訳がない。故に、その可能性は却下する。

 

 それに、この状況は気になるが今はまだアルデバラン率いるガストレア群との戦闘中だ。もっと重要な事は他にいくらでもある。取り敢えずはみんな無事だったんだし、それでいいじゃないかと思考を切り替える。

 

 まず、最も重要な事は……

 

「さて、そろそろ良いかしら?」

 

 屈強の民警達を前にしても全く怯えた様子を見せず、影胤・小比奈・小町・3人の群星を供回りとして従えて、王のように。ルイン・フェクダが現れた。

 

 一斉に、木更達が臨戦態勢に入る。殺気を向けられ、銃口を突き付けられてもルインは少しも慌てない。この余裕も当然と言えば当然である。影胤が作り出す斥力フィールドは工事用の鉄球ですら跳ね返す。個人で携行可能な武器の破壊力など恐るるに足りない。

 

 それに、何よりも。

 

「綾耶ちゃん?」

 

 木更達とルインの間に、綾耶が両手を広げて立ちはだかったのだ。しかもルイン達へ背を向けて、彼女達を庇うように。

 

「皆さん、少し待って下さい。言いたい事が色々あるのは分かりますけど……でも、ルインさん達はもう敵じゃないんです。これからは東京エリアの為に力を貸してくれるって、約束してくれました!!」

 

 玉樹と彰麿が、戸惑ったように顔を見合わせる。

 

「……里見くん、これはどういう事なの?」

 

「俺も、まだ信用した訳じゃないが……でも確かにそいつらは綾耶と話して、「東京エリアに協力する」とは言ったんだ。それは、確かだ」

 

「綾耶、お主の判断を妾は尊重したいが……今回ばかりは止めておいた方がいいと思うぞ?」

 

 蓮太郎と延珠のペアが、それぞれ発言する。聖天子のイニシエーターは、困った顔になった。綾耶とて、自分の方が無理を言っている事は十分に承知の上であるからだ。

 

 しかし蓮太郎率いるアジュバントの面々は、綾耶の行動と態度もあっていきなりルイン達に攻撃を仕掛ける事はせず、警戒こそ解かないものの待機状態となっている。同じようにルイン達も、すぐさま動く気配は見せていない。互いに動きが取れず、膠着状態となっていたが……この空気を破ったのは、蓮太郎が携帯していた通信機だった。蓮太郎はボタンを操作してスピーカーモードに切り替え、この場の全員に通信内容が聞こえるようにする。

 

<生存している全民警に告げる。本日1500までに、回帰の炎へ集結しろ。繰り返す、回帰の炎へ集結しろ。そこを最終防衛ラインに設定する!! 現時点を以て、指令本部は放棄する!!>

 

 雑音混じりに団長・枢の野太い声が、場に響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 指定された時刻の5分前に蓮太郎達が回帰の炎へ辿り着くと、そこには民警軍団の残存戦力が殆ど集結を終えていた。蓮太郎はそれを見て、思わず「マジかよ」と呟く。

 

 負傷者が多いのは当然だが、数があまりにも少ない。第二戦が始まる前には戦力になるならないは兎も角、700人は居た民警達は今は100名強といった所だ。その100名強とて、果たして何割が戦力となるか。ただでさえ開いていたガストレア軍団との戦力差は、今や絶望的なまでに広がってしまっている。

 

 勝てるのか?

 

 恐らくはこの中の誰もが抱いているであろう疑問を、同じように蓮太郎も胸中に浮かべた。

 

 団長の使いの者に案内されて中央の広場へと通された蓮太郎達、当然のようにルイン達もそれに付いてきたが、やはりと言うべきか騒ぎが起きた。

 

「なんであのテロリストがここに居るんだ!!」「里見リーダーと一緒に来たぞ!!」「まさか、グルだったのか!!」などと口々に叫ぶ民警達を黙らせたのは、何かが爆発したのかと錯覚するような鈍い轟音だった。場に集った全員が視線を向けると、団長・枢が蜘蛛の巣のようにヒビの走った壁から拳を離す所だった。

 

 ごくりと、唾を呑む音が一瞬で静まり返った空間に響く。

 

 この回帰の炎は、第二次関東会戦の勝利を記念するモニュメントとして二千挺の銃を融かして造られたもの。当然、材質は金属である。枢はそれに拳を叩き付けたのだ。常人がそんな事をすれば間違いなく拳の方が砕けるだろうが、枢は逆に金属に亀裂を走らせたのである。流石は序列30位のプロモーターと言うべきか。

 

「お前等、少し黙れ」

 

 気さくな普段の彼とは打って変わり有無を言わせぬ強い口調で凄まれて、まだ何か言えるような勇者は命知らずの民警達の中にも居なかった。そうして雑音を排除した所で、枢は一つ頷くとルイン・フェクダと対面する。

 

「単刀直入に聞くぜ、ルイン・フェクダ。あんたは俺達の敵か、味方か?」

 

「味方よ」

 

 しれっと、ルインが答える。あまりにも気安い回答を受けて民警達の中にはすぐさま彼女に飛び掛かろうとした者が居たが、枢にジロリと睨まれて思い留まった。

 

「じゃあ次の質問、あんたは味方として俺達に何をしてくれる?」

 

「戦力の提供を。私と私のイニシエーターである小町、影胤と小比奈ちゃん、それとこの3名……」

 

 ルインはそう言いつつ、小町と蛭子親子、そしてガスマスクで顔を隠しローブを纏った3名のイニシエーター(分裂した数多群星)へと順番に視線を動かしていく。

 

「そして……」

 

 白い女の目があらぬ方向へと向くのを受けて、釣られるように全員の視線が同じ方向へと動き、そして「あっ」と声が上がった。

 

 目を向けたそこには、いつの間に現れたのか100名にはなるであろう一団が整列していた。軍団の最前列に立つ2名以外は全員が黒いローブにガスマスクで装いを統一しており、これはあるいはルインが率いる兵隊の制服のようなものなのだろうかという思考が蓮太郎の頭に浮かぶ。

 

「このイニシエーター100名と、リーダー格である二人も同じく戦列に加わらせてもらうわ。二人とも、挨拶して」

 

 その言葉を受け、前に出たのは光のような金髪と雪のような白い肌を持ったロシア系白人の少女と、灰銀の髪をぼさぼさにしているどこか陰のある少女だった。

 

「アナスタシア・ラスプーチン、モデル・スネイル。巻き貝の因子を持ったイニシエーター……デス…………ハラショー」

 

「……ステラ・グリームシャイン……モデルは……マッシュルーム……キノコ……」

 

「この二人と小町は、三人とも小比奈ちゃんと同等かそれ以上の実力者。それとイニシエーターの軍勢100名。これを丸ごと民警軍団に組み込ませてもらおうと思っているわ。いかがかしら?」

 

「……いいだろ。あんた達の、軍団への参加を認めよう」

 

 枢の決定を伝えられ、やはりと言うべきか場に詰め掛けた民警達からどよめきや抗議の声が上がった。それを代表して前に出たのは、禿頭の偉丈夫。民警軍団副団長である我堂長正だった。傍らに控える壬生朝霞が腰に差した刀は鯉口が切ってあり、状況次第では相手がルインであろうが枢であろうが斬り掛かりかねない剣呑な気を全身に纏っている。

 

「団長、私は反対です。こやつらは東京エリアに大絶滅を引き起こしかけたテロリスト……この申し出とて、何かの企みがあるに決まっています!!」

 

「ンな事ぁ俺だって百も承知だよ、長正。だが現実問題、今の俺達にルイン・フェクダに序列元134位のペアと、それに匹敵するイニシエーターが3名、更にイニシエーターの兵隊100名の参加を断れる余裕があンのか? 猫の手も借りたい、掴めるなら藁でも芦でも掴みたいこの戦力不足の現状で?」

 

 むう、と長正が唸り声を上げて腕組みする。

 

「ついでに言うなら申し出を断った瞬間、こいつらは丸ごと俺達の敵になる可能性だってあるんだ。そしたらアルデバランの軍勢と戦う前に、今この場で人間同士で殺し合う事になる。そしたら終わりだぞ? 俺達も、東京エリアも。何もかもが」

 

 噛み含めるようにそう言われて、長正や他の民警達も納得した訳ではなかろうが同時に選択肢が既に存在していない事も理解したらしい。今度は反対意見も出なかった。

 

「……では、私達の参加を認めてもらえるという事でよろしいかしら?」

 

「まぁ……そうだが。だが一つだけ言っておく」

 

 枢は抜く手が見えないほどのクイックドロウで懐から取り出したデザートイーグルを、ぴったりとルイン・フェクダの額に照準する。眼前に銃を突き付けられてもルインは落ち着いていて少しも動じた様子を見せない。彼女のイニシエーターである小町が動こうとするが、他ならぬルインが手で制した。

 

「妙な動きはしない事だ。もし裏切るような素振りを見せたら……俺があんたを殺す。覚えておけ」

 

「……心に留めておくわ」

 

 妖艶な笑みと共に返され、枢は銃を仕舞った。これは勿論実際にそうなった時は有言実行するという警告であるが、同時に民警達の不満を抑える為の”けじめ”でもあった。全面的に信用しているのではなく、あくまで戦力的に必要だから仕方の無い措置であると、アピールする為だ。

 

 ……だが、実際にはここまでのやり取りは全てが予定調和、マッチポンプ、出来レースである。

 

 何を隠そう、”七星の三”ルイン・フェクダの参加を認めた民警軍団団長の枢こそが、”七星の一”ルイン・ドゥベなのだから。全ては、あらかじめ決められていた台本通りの展開だった。ルイン達が保有する戦力を、この戦場に集結させる為の。

 

 序列30位、民警軍団団長、一色枢こと”七星の一”ルイン・ドゥベとそのイニシエーターであるモデル・ウルヴァリンのエックス。

 

 ”七星の三”ルイン・フェクダとそのイニシエーターであるモデル・ライスの小町。

 

 序列444位、フィーア・クワトロこと”七星の四”ルイン・メグレズとそのイニシエーターであるモデル・オルカのティコ。

 

 ”七星の五”ルイン・アリオトのイニシエーターであるモデル・スネイルのアナスタシア。

 

 序列666位、六車陽斗こと”七星の六”ルイン・ミザールとそのイニシエーターであるモデル・コーラルの数多群星が百余名。

 

 ”七星の番外”ルイン・アルコルのイニシエーターであるモデル・マッシュルームのステラ。

 

 そして蛭子親子のペアと、現在では第39区第三小学校の子供たちの引率として後方にて医療活動を行っているが”七星の七”ルイン・ベネトナーシュとそのイニシエーターであり『地上で最も神に近い生物』モデル・シースラグのアンナマリーもここに来ている。

 

 五翔会に潜入している”七星の二”ルイン・メラクとそのイニシエーターであるモデル・パラサイトのアリエッタ・ディープダウン、本拠地の守りと訓練中のイニシエーターを統括しているルイン・アリオト、そして研究作業の仕上げに掛かっていて動けないルイン・アルコルを除いて、”ルイン”達が保有する戦力は殆どこの戦場に投入されている。彼女達にとっても東京エリアは滅んでもらっては困る場所であり、だからこそ投入できるだけの戦力を送り込んできていた。

 

「よし、主だった者は司令部に集まってくれ。そこで作戦会議を行う」

 

 そうして枢の一声を受け、一同は後方に設置された粗末なテントへと移る。ここが今の民警軍団の本陣であった。

 

 その中には勿論団長である枢、副団長の長正、蓮太郎アジュバントの面々、綾耶、菫、ルイン、そしてヘリコプターでやってきた未織の姿もあった。彼女はアドバイザーとして、蓮太郎の推薦もあって枢に招聘されていた。アルデバランを倒す為には、やはり兵器関連のスペシャリストが必要である。

 

「で……だ。司馬のお嬢。単刀直入に聞くがアルデバランを倒す方法はあるのか? 奴の再生レベルはⅣ。殺しきるのは難しいぜ」

 

「……私の爪でバラバラに斬っても、破片がくっついて元通りになった……」

 

 エックスが握り拳を作ると、指の付け根の間から3つの黒爪が飛び出してきた。クズリのガストレアに変身してガストレアの群れに紛れ、アルデバランに肉迫した彼女は初戦以上の猛攻を加えたが、倒すには至らなかったのだ。とは言え、それでもアルデバランを後退させて第二次攻撃を中止させる事には成功していた。

 

「……私が本調子なら、ステージⅣ如き……チリも残さずこの世から消滅させてやるのだけどね……」

 

 ティナに寄り添われてテントの一角に座るソニアが、どこか自嘲気味に言った。

 

 開戦前に行われた菫の診断で、彼女の侵食率は既に限界近く戦闘、正確には強度の能力使用に耐えられるのは3回が限度とされている。1回目は将城教会が襲撃に遭った時に、2回目は倒壊しようとするモノリスを支える際に既に使ってしまっている。ソニアが力を振るえるのは、次が最後。だが今の彼女は24時間休み無く力を全開で使い続けた疲労から回復しきっていない。ステージⅣとは言え、アルデバランはその中では突出した個体である。圧倒する事は出来ても、完全抹殺は難しいだろう。

 

 そんな義姉の肩にそっと手を置くと、ティナは枢へと向き直った。

 

「団長さん、お姉さんは……」

 

 みなまで言うなと、枢が手を差し出して彼女を制した。

 

「ああ、分かってる。確かにソニアの嬢ちゃんには、最後の力を使ってもらうつもりではいるが……同時に、矢面に立ってアルデバランと戦ってもらうつもりはねぇよ。それは不確定要素が多すぎるからな」

 

「でも、ソニアちゃんの力を使わずにアルデバランを倒すのは、難しいわよ」

 

 ルインのコメントを捕捉するように、エックスが進み出る。

 

「……恐らく、跡形も無くぶっ飛ばさない限りダメ……それは、可能?」

 

「ウチを誰やと思うとるの? 当然、考えてきとるよ」

 

 そう言って未織は、水筒ぐらいの大きさの円筒形をした物体を取り出した。

 

「これはウチの技術開発陣が作った特殊爆弾で開発コードは『エキピロティック・ボム』。長いからEP爆弾って呼んどる。これ一つで、500ポンド爆弾の20倍の威力があるって代物や」

 

 物騒な説明を受けて、何人かが思わず数十センチほど後退った。

 

「ただし、これでもただ爆発させただけやったらアルデバランを倒す事は出来へん。密閉状態で起爆させない限りは……」

 

「密閉状態……それをどうやって作るつもりですか? まさかアルデバランの口の中に放り込むとでも?」

 

「良い線行ってるで、綾耶ちゃん。その通り、これをアルデバランの体内で爆発させて初めて、撃滅まで持って行けるとウチの分析班は結論しとる」

 

「……つまり、こういう事ですか? 何らかの攻撃でアルデバランの外殻を破壊し、その体内に爆弾を放り込み、そしてガストレア特有の再生能力によって密閉状態を生じさせる事で最大の破壊力を生み出そう、と」

 

 夏世の分析に、未織は「満点やね」と笑う。しかし他の面々の表情は複雑だ。

 

 アルデバランを爆弾の近くにまで誘導するだけなら、まだ可能かも知れない。しかしたった今夏世が挙げたようなプロセスを踏むとなると、成功率はどれほどになるか……あまり考えたくはなくなってくる。

 

「だがどうやって、アルデバランに風穴を開ける? 司馬未織、あなたには釈迦に説法だろうが、ガストレアは自重を支える為に巨大な個体であればあるほど外殻は強固なものになる。アルデバランほどの巨体ともなれば、移動要塞と言っても過言ではない。今の俺達には、それほどの破壊力を持った武器、いや兵器は……」

 

 彰麿がそう言い掛けて、彼の視線がぴたりと止まる。この動きにシンクロするように、テント内の全ての視線がある二人へと集まっていく。それを見て取った未織は、我が意を得たりと会心の笑みを見せた。

 

「確かに、アルデバランはさながら動く城塞や。けど、ウチらも持ってるやろ? 攻城兵器……破城鎚(バタリング・ラム)を!!」

 

「僕?」

 

「お、俺か?」

 

 集まった視線の先に居たのは、綾耶と蓮太郎。より正確には綾耶の両腕と、蓮太郎の手足だ。

 

 菫が蓮太郎へと施術した『新人類創造計画』セクション22の戦術思想は『ガストレアステージⅣを確実に倒しきる攻撃力』。そして綾耶の専用装備・バラニウム製手甲『バタリング・ラム』も同じコンセプトの元に設計されている。アルデバランの堅牢な外殻を破壊できる者が居るとすれば、この二人を置いて他にはないだろう。

 

「そうやね。義肢と装備の違いはあれ、攻撃力を増加させる分が同じとすれば、イニシエーターで地力に勝る綾耶ちゃんのが成功率は高い。よって綾耶ちゃんがEP爆弾を持ち、里見ちゃんは延珠ちゃんとそのサポートに……今のウチ等に打てる手は、これしかないんよ」

 

 やってくれるか? と暗に尋ねられる形になっているが、二人には要らぬ問答だった。

 

 後方で、負傷者の治療に当たっている将城教会の子供たちの顔が思い出される。

 

 自分達が失敗したら、あの子達はどんな目に遭うと言うのか。

 

 成功するかどうかなど、最早思考の枠外だ。必ず、成功させる。させねばならない。

 

「やります。やらせてください」

 

「ああ、俺もやらせてもらうさ」

 

「話が纏まった所で、次の報告や。アルデバランは既に第三次攻撃の為に動き出した事を衛星が確認した」

 

 携帯電話からの報告を受けた未織が、全員に告げる。

 

「到着予想時刻は?」

 

「午前4時30分。およそ、半日後やね」

 

「聞いての通りだ。お前等、モタモタしてる暇はないぞ!! 残された時間で、可能な限りこの『回帰の炎』の要塞化を進めるんだ!!」

 

 ぱんぱんと手を叩いた枢の檄を受けて、民警達は慌ただしくテントから駆け出していった。

 

 

 

 

 

 

 

「……と、いうのが次の作戦です。恐らくはこれが、最後の戦いになるかと」

 

 作戦会議を行っていたのよりもずっと小さなテントの中で、綾耶は机上に置かれたノートパソコンに話し掛けていた。PCのモニターには、敬愛する主の美貌がある。彼女は戦いの前に、プロモーターへの報告を行っていた。

 

<本当は私もそちらへ行きたかったのですが、避難民の誘導など諸々の仕事を最後まで行いたいので……画像越しでしか話せないのは、許して下さいね>

 

 予想された事態ではあったが、綾耶は困った顔になる。

 

「……聖天子様は、シェルターに入られないのですか?」

 

<私がシェルターに入るのは、東京エリア市民の最後の一人の安心が確認されてからです>

 

 菊之丞を初めとして聖居の側近達が青い顔をしているのが頭に浮かんで、綾耶は吹き出しそうになった。この分では何人かの胃には穴が空いているのではあるまいか。

 

<それに、必要無いでしょう? あなたや里見さんの力は、良く知っています。私はあなた達を、信じていますから>

 

 画面の中の聖天子は、そう言って綾耶に笑いかける。国家元首のイニシエーターはぱちくりと目を大きくして、そして言葉の意味を理解してそっと胸に手を当てた。主からここまでの信頼を受け、従者としてはこれに勝る喜びは無い。

 

「ご期待に応えられるよう……力の限りを尽くします。では、これで……」

 

<綾耶、少し待って下さい>

 

「は……」

 

 聖天子は、何かを言い淀むようにして少しの間瞑目する。そして、意を決したように目を見開いてじっと綾耶を見据えた。

 

<綾耶>

 

「はい、聖天子様」

 

<あなたを戦わせている私にはこんな事を言う資格は無いのでしょうが……私はあなたを、妹だと思っています。だからどうか……生きて……生きて、帰ってきなさい。私の元へ。この闇に閉ざされた世界で、あなたという光を喪っては……私はもう、歩けませんから>

 

「……」

 

 しばらく呆然としていた綾耶は、その言葉の意味を理解して……モニターに映る主の顔が、急に歪んで見えた。彼女は慌てて眼鏡を外すと、目許を抑える。十数秒もそうしていただろうか。やっと胸中の感情の波を抑える事に成功すると、眼鏡を掛け直して聖天子へと向き直る。

 

 今し方、聖天子からの信頼を受ける以上の喜びは無いと思っていたが……ほんの一分ほどで、それが違っていた事を思い知った。

 

「……僕は、聖天子様にお仕えする従者でしかありません。ですが……妹と、そう思っていただける事は……何よりも幸せです」

 

 普段は、例え二人きりであろうと君臣のけじめは疎かに出来ないと気を遣っている一人称の使い分けが出来ないほどに、今の綾耶は強く喜び、そして感動していた。

 

<東京エリアの為、延珠ちゃんや蓮太郎さん……僕の友達の為、そして何よりも聖天子様、あなたの為に。良き知らせを持ち帰る事を、お約束いたします>

 

 

 

 

 

 

 

 残存する火器を至る所に設置し、柵やバリケードとして使える物はコンクリートであろうが材木であろうが何でも積み上げ、イニシエーター達にはなけなしの休息を取らせ、防御に適切な位置に人員を配置して……と、やる事は山積みであり何とか全ての作業が完了したのは、アルデバランの予想到着時刻の15分前であった。何らかの誤差を考えれば、作業終了前に襲われるかも知れない際どいタイミングだった。

 

 だが、やり遂げた。これは運がまだ民警軍団を、東京エリアを見捨てていない証明だろうか。

 

 地面が揺れているのが、伝わってくる。遠くから、地鳴りのような音が響いてくる。

 

 アルデバラン率いるガストレア群が、近付いてきている。

 

「アルデバランの姿を確認しました。三角形をした陣形の、底辺中央に陣取って侵攻してきています」

 

 ティナが持ち前の優れた視力と、シェンフィールドの偵察機能を活かして報告してくる。彼女にその知識は無かったが、ガストレアが組んでいる陣形は日本古来の兵法で言う魚鱗の陣に近いものがあった。消耗戦の強さと同時に、前後左右のどの一角が破られても大将が居る本陣には近付く事の出来ない防御力に優れた陣形でもある。

 

 ガストレアが高い知能を持っている事は様々な状況証拠から最早疑う余地は無いが、しかしここまで高度な集団戦のノウハウを持っているとは。”高い知能”の一言で片付けるには、あまりにも秀で過ぎている。これがかつてゾディアックの一角たる金牛宮(タウラス)の右腕としてガストレア群を指揮して、世界を蹂躙して回ったアルデバランの実力だと言うのだろうか。

 

 前方の闇に、土煙が上がった。空気が、ビリビリと痺れる。

 

「ガストレア群が、森を抜けました!! 接触まで、後5分!!」

 

「始まるな……」

 

 大将らしく、腕組みしつつ泰然と構える枢。と、そんな彼に蓮太郎が近付いてきた。すぐ傍らには延珠と綾耶の姿がある。この3名は先のブリーフィングで決まった通り、アルデバランに接近してEP爆弾を奴の体内に放り込む役割を担う、作戦の要だ。

 

「なぁ、団長……」

 

「どした、兄ちゃん」

 

 こんな時でも、相変わらず気さくな調子で話し掛けてくる軍団長を見て、蓮太郎は少しだけ肩の力が抜けたようだった。

 

「いや……俺達は、必ずアルデバランを仕留めてみせるからよ。何とかそれまでの間、この防衛線を持たせてくれ」

 

 アルデバランを倒す事は重要だが、ガストレアを内地に行かせない事も同じぐらい大切だ。たとえ敵の親玉を倒せても、その時東京エリアがパンデミックで絶滅していたのでは意味が無い。この作戦はアルデバランに突貫する「攻」の蓮太郎チームと、回帰の炎で籠城戦を行う「守」の枢チームの二つの呼吸が一つとなって、初めて成功するものと言える。

 

 そう、蓮太郎は思っていた。延珠も綾耶も、同じだった。

 

 しかしこの決意の言葉を受けても、枢は首を傾げて怪訝な顔だ。そうして数秒が過ぎて、やっと「ああ」と納得が行った顔になった。

 

「兄ちゃん、残念だが俺は守りの戦は苦手でな。やはり戦いは、こちらから攻めなきゃ勝てねぇよ」

 

「……確かにその通りだが、攻撃は俺達の役目だろ? 第一あんたは、限られた時間で要塞化を進めて立て籠もる準備を進めてたじゃあ……」

 

「立て籠もる? 残念だが兄ちゃん、それは前提が間違ってるな。俺が回帰の炎にありったけの武器・兵器を集めたのは、守る為じゃない。”こっちから攻め込む為”だ」

 

「……?」

 

 言っている意味が分からない。民警達を回帰の炎の各所に配置させているのだから、枢が籠城して戦うつもりなのは間違いない。だが当然、要塞の防御力を活かそうとすれば配置された兵士を出撃させる事は出来なくなる。それなのにどうやって、こちらから攻め込むというのだろうか。

 

 そんな事、この回帰の炎が動かない限りは絶対に不可能な筈……

 

 そこまで考えて、蓮太郎ははっとする。

 

 バカな考えだと思っていたが、ある。この、ドーム球場ほどの大きさもある巨大モニュメントを動かす方法が、たった一つだけ。

 

 そして彼の到達した結論が間違っていなかった事は、にやっと笑う枢の表情が証明していた。

 

「ソニアの嬢ちゃん!! 始めてくれ!!」

 

 声を張り上げた軍団長の視線を追う。そこにはソニアが、磁力によって空中に静止していた。

 

 合図を受けたソニアは頷き、両手を翼のように大きく広げると、自らの手足の伸張とも言える磁力を最大にまで強く、長く伸ばし、見えない意思の蔓を建造物の至る所に”接続”する。この回帰の炎は二千挺の銃を融かして造られた物。当然、大量の金属を含んでいる。ならばそれは、磁界を統べるソニアの僕である事に他ならない。

 

 ソニアは手首を捻って、下を向いていた掌を空へ向ける。

 

 途端、ズンという轟音と共に蓮太郎達を揺れが襲った。

 

 地震かと思ったが、揺れは徐々に激しさを増していき、ある時を境に急に停止した。

 

「み、見ろ!! 蓮太郎……地面が、沈んでいくぞ!!」

 

 延珠が大地を指差して、泡食った顔で叫ぶ。確かに、眼下に見える大地がだんだんと下がっていっている。

 

「違う、延珠ちゃん……これは……!! 僕達が……この回帰の炎そのものが……!!」

 

 普段から空中飛行を多用し、同じような景色を見慣れている綾耶は状況を正確に捉えていた。

 

 浮遊している。

 

 この巨大な建造物が、空中へと浮かび上がっているのだ。

 

 ソニアの力の強大さを示す資料として、彼女が持ち前の磁力を使って金門橋を引き千切り、原子力潜水艦を深海から釣り上げ、スタジアムを丸ごと空中に持ち上げた映像を見た事があったが……実際に目の当たりにするとここまで常識をブッチぎった神業だと、思い知らされた。

 

「なるほど、これなら……!!」

 

 これなら、籠城の利を持ったままで攻勢に撃って出られる。

 

 勝てる!! 蓮太郎の顔に、多少引き攣りながらも笑みが浮かぶ。

 

 縁から体を乗り出して見てみると、これだけ巨大な構造物が空中に浮くというデタラメな状況に、流石のガストレア達も驚いているようだ。赤い光点は、一つ残らず動きを止めていた。アルデバランも例外ではない。どんなに百戦錬磨の将帥も、初めて見る戦術の前では只の新兵でしかない。

 

「それだけじゃねぇぞ……!!」

 

 枢の言葉を合図に、視線を合わせたソニアは頷き……そして背負い投げのように大きく腕を振った。

 

 同時に、回帰の炎は凄まじい推進力を得て急降下。ガストレア群へ向けて真っ直ぐに突き進んでいく。

 

 ここへ来て、アルデバランも枢の狙いに気付いた。フェロモンを使って「散開」の指示を飛ばす。

 

 だが、全ては遅すぎた。

 

 陣形が変わるよりも早くその中心部へと、回帰の炎は大地を削りながら滑り込む。

 

 時速200キロは出ているだろう速度とその大質量の前には、強靱な外殻も何の意味も為さなかった。ガストレア達はただ巻き込まれ、挽き潰され、紅いラインへと変わっていく。

 

 三角形の頂点を成していた前陣が消滅し、中陣も八割を削りきった所で、回帰の炎は漸く静止した。

 

 枢の狙いは、最初からこれだった。

 

 部隊を拠点ごと前線へと移動させ、同時に敵戦力を可能な限り削る。その二つを同時に行う為に、ソニアの最後の力を使わせたのだ。

 

「よし……ここからは、兄ちゃん達の仕事だ。俺は予定通りここの指揮に移る。頼むぜ」

 

「ああ、任せてくれ!!」

 

「吉報を待て!!」

 

「行ってきます!!」

 

 蓮太郎、綾耶、延珠は跳躍すると大地へと降り立ち、今や目の前となった本陣、その中央に位置するアルデバランへと突進していく。

 

 他の民警達も、突撃班を援護するチーム、籠城しつつガストレアに応戦するチームと合わせて慌ただしく動き始めた。

 

 そんな喧噪から少しだけ離れた所に、ソニアは降り立った。

 

 三度目の、最後の力を使った彼女は、もう戦えない。後は待機しつつ皆の健闘と幸運を祈るだけだ。

 

「ソニアちゃん、よく頑張った……すぐに横になって、抑制剤の注射を……」

 

 医療器具を一杯に詰め込んだ鞄を持った菫が後ろから近付いてきて、未だ前方を睨んだままのソニアの肩へそっと手を乗せる。

 

「!?」

 

 そして、びくっと体を震わせて反射的に手を退けた。

 

 菫の掌には液体が付着していて、それは異様な”ぬめり”を帯びていた。

 

 まるで、ウナギの体表のような……!!

 

 その意味する所を悟って、元々蒼白い天才科学者の肌から更に血の気が失せて、白蝋のようになった。

 

「ソ……ソニアちゃん……君は……!!」

 

 菫は震え、上擦る声で何とかそう言うのが精一杯だった。

 

 そこでやっと振り返ったソニアはどこか達観したような、透明な笑みを浮かべていた。

 

「……ちょっと、ムチャし過ぎたみたいですね」

 



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第38話 未来の為に(後編)

 

「回帰の炎が突っ込んできたせいで、ガストレアの陣形は滅茶苦茶だ!! チャンスは今しかない!! 走れ!!」

 

 延珠に肩車された蓮太郎が、すぐ隣を併走する綾耶へと叫ぶ。彼の言葉通り、アルデバランに肉迫できるチャンスは今この時をおいてない。もしこの機会を逃せば、アルデバランは再び陣形を整え直して、もう誰も近付けなくしてしまうだろう。

 

 全力疾走する延珠と綾耶。と、不意に彼女達の視界が暗くなった。

 

 見上げると翼長20メートルはあろうかという怪鳥のようなガストレアが飛来してきた。

 

「くっ!!」

 

 迎撃すべく両手に空気の刃を作り出す綾耶であったが、それが振るわれるより早く飛来した弾丸がガストレアの頭部と心臓を撃ち抜いて絶命させた。

 

「今のは……!!」

 

「ティナちゃんです!! 援護してくれてます!!」

 

 回帰の炎に据え付けられた天使像の肩の部分に陣取ったティナは、戦場全体を見渡せる絶好のスナイピングポジションから正確無比な射撃で飛行型ガストレアを次々撃ち落としている。

 

 彼女だけではない。

 

 左右から挟み込むように迫ってくるガストレアは、蓮太郎達に併走するように追い付いてきた影胤・小比奈、木更・夏世、玉樹・弓月、彰磨・翠、枢・エックス、ルイン・小町。他にもアーニャやティコといった強力なイニシエーター達によって排除されていく。

 

 今の蓮太郎達は、後ろに気を配る必要も無ければ左右に気を取られる必要も無かった。ただ、前のみを見据えて進む。それだけを考えて実行すれば良かった。

 

 ただし、それとて決して容易な道程ではない。

 

 ソニアが回帰の炎を敵陣真っ直中へと投げ込んだ事で、前陣の殆どと中陣の一部を構成していた数百体のガストレアがすり潰されたとは言え、未だ2000体近くが残っている。アルデバランは既にそれらに集結命令を下しているだろう。民警軍団の戦力はおよそ100名強。この混乱を収束されたら、確実に全滅させられる。

 

 そして、乱れた中陣と後陣を構成しているガストレアだけでも300体近くは居る。アルデバランに辿り着くにはそれらを突破せねばならない。

 

 視界を、異形の群れが覆い尽くす。

 

「邪魔を、するなあああっ!!!!」

 

 突進した綾耶が、今度こそ見えない刃を振り回してガストレアを切り裂き、道を切り開いていく。

 

「ハアアアアッ!!」

 

 延珠が義経八艘飛びのように、ガストレア達を次々踏み台にしつつその強靱な脚力で砕いていく。蓮太郎は、XD拳銃を乱射してまだ息のあるガストレアを仕留めていった。

 

 そして遂に後陣の守りを、抜けた。

 

 一気に、視界が開ける。

 

 そこには、小さな山と見紛うばかりの巨体があった。

 

 二度までコイツと戦ったエックスはこのステージⅣガストレアを「亀かアルマジロの化け物」と評していたが、成る程と蓮太郎は思った。ただし足は8本もあり、頭には目も鼻も無く、ただ口のような巨大な孔が一つ空いているだけだ。ステージⅣはおしなべて異形の姿を持っているものだが、このガストレアは飛び抜けている。悪夢に現れる怪物をそのまま現実に持ち込んだかのようだ。

 

 と、3名がアルデバランの姿に圧倒され目を奪われていたのはほんの短い時間でしかなかった。

 

「時間が無いぞ、蓮太郎」

 

「ああ、短期決戦で行く。綾耶!!」

 

「はい」

 

 延珠の背中から降りた蓮太郎が、生身の手を綾耶の肩へと置く。

 

「俺と延珠でアルデバランの体勢を崩す。そしたら後はお前がやるんだ。奴の外殻を破壊して、EP爆弾を体内に投入。そしたら一気に距離を取る。できるな?」

 

「任せて下さい」

 

 腰へ巻いたガンベルトに固定していたEP爆弾を取り出す綾耶。3名はアイコンタクトを交わし合うと、頷き合う。それが、合図だった。

 

 延珠が跳躍、アルデバランの顔面を幾度も蹴り付ける。だがこれはあくまで助攻、本命は上と見せ掛けて下。

 

 上へと注意が向いたそこへ、足下へと潜り込んだ蓮太郎が義手と義足の力を全開で解き放つ。まず、義足内部のカートリッジを全弾撃発。円状のクレーターが生み出される程の踏み込みを以て地面を蹴り、その反作用を得て全身を加速。更に義手内部のカートリッジを全弾撃発。

 

「天童式戦闘術一の型十五番・雲嶺毘湖鯉鮒・全弾撃発(アンリミテッドバースト)!!!!」

 

 最高の速度を得た超バラニウムの拳が、アルデバランの腹へと突き刺さる。これが里見蓮太郎、神医・室戸菫の最高傑作にして新人類創造計画によって生み出された機械化兵士の、最大の力。

 

 アルデバランの巨体が一瞬、風船のように宙へと浮かび上がって、そのまま逆さまになって背中から地面へと落ちた。何とか起き上がろうとして足や首をしきりに動かしているが、亀に似た体の構造上、すぐには持ち直せない。最大のチャンスは、今この時。

 

「綾耶!!」

 

「了解!!」

 

 流星のように飛来した象のイニシエーターは、専用武器たる噴射手甲『バタリング・ラム』の機能を解放。蓮太郎の義手と同じ爆速を得た拳が、たった今アルデバランをひっくり返した一撃で付いた傷口を更に抉り、体を開く。

 

 綾耶はすかさずEP爆弾の起爆缶を捻って時限信管を作動。体内へと投げ込むと、両腕のジェットを噴かして空中へと逃れる。同時に、全周波に設定した無線機へと怒鳴った。

 

<アルデバラン体内にEP爆弾の設置、完了しました!! 3分後に爆発します。皆さん、速やかに離脱して下さい!!」

 

 空を飛びながら見下ろすと、蓮太郎を抱えた延珠が何度もジャンプしつつアルデバランから離れていくのが見えた。二人は巨岩の背後へと身を潜めた。綾耶も同じように、大きめの瓦礫を見付けるとその陰へと滑り込むようにして体を隠す。

 

 時刻を確認すれば、爆発時間まで後10秒。襲ってくる衝撃を覚悟して、ぐっと身構える。

 

 後5秒……3秒……1秒……ゼロ……

 

「……?」

 

 いつまで経っても、爆音も衝撃波も来ない。

 

 恐る恐る、瓦礫から体を出す綾耶。アルデバランは未だ、健在。しかも残存していたガストレア達が集まってきていて陣形が組み直されている。ガストレア達は釣り鐘形に集結して、鐘の空洞部分に当たる箇所へ大将たるアルデバランが隠されている。

 

 爆弾が、不発。ここへ来て。

 

 作戦は失敗。戦線は突破される。東京エリアが蹂躙される。

 

 最悪の未来が浮かんで、しかし綾耶は首を振る。まだ、最後の手段が残っている。

 

 起爆状態になったEP爆弾は衝撃に弱く、強い衝撃を与えられれば暴発する。アルデバランにゼロ距離まで近付いて体内にまで衝撃を伝導させる事が出来れば。しかし、その性質上ノータイムで起爆する為、作業を行う者は爆発から逃れる術は無い。

 

 この戦いに勝利する為には少なくとも後一人、誰かが犠牲にならねばならない。

 

「……蓮太郎さん」

 

「ボーイ」

 

「里見くん」

 

「里見蓮太郎くん」

 

 綾耶の他にもアジュバントの面々やルイン達が、蓮太郎の元へと集結してきた。

 

「兄ちゃん、状況は把握してる。爆弾が不発……と、なりゃ誰かがアルデバランをぶん殴って無理矢理信管を作動させにゃだが……」

 

 と、枢。問題は誰がそれを行うかだが・・・・・・

 

「やはりここは団長の務めとして、俺が」

 

「俺が行こう」

 

 どんと胸を叩いた枢を差し置いて前に出たのは、薙沢彰磨だった。

 

「彰磨兄、なんで……!!」

 

「お前も俺の技を見ただろう? 俺は天童の技をねじ曲げた。俺の技は外道の技だ。金輪際封印しなきゃならん」

 

「ま……待ってください、彰磨さん!!」

 

 彼のパートナーである翠が悲痛な声を上げ、袖を引く。

 

「契約を……破るんですか!? 私が彰磨さんの孤独を、彰磨さんが私の孤独を埋め合うって、約束したじゃないですか!!」

 

 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして訴える猫のイニシエーターの頬を、彼女のプロモーターはそっと撫でた。

 

「すまないな、翠……昔、師範に言われた事がある。このままで行くと俺は、自分の力を悪事に使うとな。だからその前に、封じなくちゃならん」

 

「待って下さい、じゃあ……僕が行きます。空気のバリアを張れる僕なら、僅かながら生き残れる可能性が」

 

 綾耶が進み出て、制止しようとした。実際には彼女の言葉は全て嘘だ。EP爆弾の衝撃は、空気の障壁程度で防げるものではない。それは、綾耶自身も良く分かっていた。これは後先など考えず、彰磨を死なせない為に出た言葉だった。

 

「将城綾耶……嘘は上手に吐くものだぞ?」

 

 当然、彰磨には見抜かれていた。

 

「それに……聖天子様にはお前が必要な筈だ。お前は、聖天子様の剣であり、盾であり……導きの光である筈だ。あの方から……それを、喪わせるな」

 

「彰磨兄っ……!!」「彰磨さん……!!」

 

 最早誰の制止も受け付けず、彰磨は駆け出そうとして……

 

<団長でも綾耶ちゃんでも彰磨さんでもない……行くのは、私よ>

 

 脳裏に巨大な意思が響き渡って、足を止めた。同時に、蓮太郎や綾耶達も動きをぴたりと止める。鼓膜を介さずに声が頭脳に直接送られてくるこの感覚は、ここ数日で何度か経験している。見ると空から、ソニアがふわりと舞い降りてきていた。

 

「ソニア……お前……!!」

 

「ちょ……待って!! ソニアさん……ダメです!! 他の誰よりもソニアさんは、行っちゃダメです!!」

 

 いきなりの登場には驚いていたものの、綾耶はすぐ我に返って掴み掛からんばかりの勢いでソニアへ詰め寄った。彼女の言葉は、ソニアの侵食率が限界でありいつガストレア化してもおかしくないというのもあるが、それ以上に。

 

「ソニアさんが死んじゃったら……!! ティナちゃんが……ティナちゃんが、また一人になっちゃう!! お父さんとお母さんが居なくなって……ソニアさんが居なくなって……!! それでも生きてくれていて、また会えたのに……!! あなたが今また居なくなったら……!! 大切な人が居なくなる悲しみを、三回もティナちゃんに味わわせるつもりですか!?」

 

 ティナが、友達が悲しむのを見たくないから。それが、綾耶の心を占めていた想いだった。

 

 ぴくりと、ソニアの体が震えた。振り返った彼女はふっと、綾耶へ笑いかける。何もかも受け入れたような、透き通った笑みだった。

 

「ありがとう綾耶ちゃん……でも、ダメなのよ。あなたも教会が襲われた事、覚えてるでしょ? あれは明らかに、私を狙っての襲撃だった……私の力は強くなりすぎたの。私の力を手に入れる事が、世界を手に入れる事と同義であるぐらいにね。私が生きている限り、私は狙われ続けて……私の周りの人達が傷付いていく。そんなのはもう……イヤなのよ、私は」

 

「そんなの、誰が何回襲ってきたって僕が……!!」

 

 みんなを衛ると、綾耶はそう言い掛けて……ぬっと突き出されたソニアの右手を見て、言葉を失った。

 

 それは綾耶だけではない。蓮太郎も、延珠も、木更も、夏世も同じだった。この場の全員が。

 

「もう、私は助からないから……だから、私が行くのよ」

 

 ソニアの右手は、今は指と指の間に魚のヒレのような膜が張っていた。下半身に目をやると地に着いている筈の両足はそこには無く、イオノクラフトの要領でふわふわ浮いているそこには、人魚のように魚類の尾が伸びていた。そして露出している顔の部分はてかてかしていて、最初は汗かと思ったが違う。これは粘液だ。ウナギの体表面のようなぬめり。

 

 この現象は、この場の誰もが最低一度は見た事があった。

 

「形象……崩壊……!! 体内侵食率が、50%を超えて……!!」

 

 口元を押さえた夏世は、絞り出すようにそう言うのがやっとだった。

 

「そんな……まだ、大丈夫なんじゃなかったのかよ!! 先生が・・・・・・3回は、大丈夫だって……!!」

 

 自棄になったように、蓮太郎は頭を掻き毟って叫んだ。菫が誤診するなど有り得ない。3回までなら、ソニアはギリギリで侵食率の上昇に耐えられる筈だったのに。

 

「蓮太郎さん、先生を責めないで……私が、ムチャし過ぎただけの事よ」

 

「待って!! ソニアさん!!」

 

 綾耶が、ソニアの腕を掴む。パワー特化型イニシエーターに掴まれても、ソニアは少しの痛みも感じていないようだった。あるいは形象崩壊に伴って痛覚が、既に消失しているのかも知れない。

 

「分かってるでしょ? 誰かが、行かなきゃならないって……」

 

「だから僕が行くって……!! それにティナちゃんは……ティナちゃんは、どうするんですか……」

 

 その問いを受け、ソニアは優しく笑って綾耶へ手を伸ばした。

 

「ティナは大丈夫よ。綾耶、あなたが居れば」

 

「どうして、そんな事……」

 

 言い切れるのかと、そう言い掛けた綾耶への、ソニアの答えは。

 

「言い切れるわよ? それはね」

 

 指がすっと綾耶の頬を動いて、流れていた液体を拭った。

 

「あなたが、人の為に泣ける子だからよ」

 

 いつの間にか綾耶の両目から、涙が滂沱として流れていた。

 

「ティナを……頼むわ」

 

 そっと動いた手が、綾耶の腕を退ける。そこにもう少しの力も入ってはおらず、抵抗感無く動かせた。

 

「薙沢彰磨さん。もしその力の使い方に迷っているなら……どうか……ティナや私のような子の出ない世界を創って……お願いね」

 

「ソニア・ライアン……お前……!!」

 

 そう言いながらソニアは一同を見渡す。形象崩壊を起こしている事実とその覚悟を見せ付けられて、もう誰も、彼女を制止しようとする者は居なかった。それを確かめると、アルデバランの居る方向を睨む。

 

「ソニア……さん」

 

「まだ何か?」

 

 綾耶の声を受けて振り向いたソニアの声はどこか気怠げで、言外に止めても無駄だぞと語っていた。綾耶もそれは分かっている。だから彼女はもう、ソニアを止めようとはしなかった。その代わりに。

 

「僕は……僕に出来る事をします」

 

 そう言って、懐から小瓶を取り出す。

 

「イニシエーターとして、友達の為に出来る事を」

 

 瓶を割ると、中に入っていた液体を自分の服へと振り掛けた。それを見た蓮太郎が、顔を引き攣らせる。

 

 瓶の中身は集合フェロモンだ。ガストレア達を引き寄せる作用がある。視線をアルデバランの方へ向けると、早くもこの作用によって陣形外周部を構成するガストレアがこちらに向かってきているのが見えた。

 

「綾耶、お前……何をしているのか、分かってるのか?」

 

 勿論、と綾耶は頷いて返す。

 

「ソニアさんが確実にアルデバランへと到達できるように、僕の方へガストレアを引き付けるんです」

 

 自分自身を囮に使うと、彼女はそう言っているのだ。

 

「延珠ちゃんは……」

 

 何か言い掛けた親友へと、延珠はばっと手を差し出して言葉を止めた。

 

「共に来いと……よもやそれ以外の言葉は言わぬよな? まさかここに残れとか自分から離れろとか言うつもりであるのなら……親友とて許さぬ」

 

 じっと、真剣な目で延珠は綾耶を睨む。聖天子のイニシエーターは、少しだけその迫力に圧されたようだった。背筋が仰け反ったようになる。それでも暫くは睨み合っていたが、やがて根負けしたのは綾耶の方だった。

 

「そうだね、延珠ちゃん……一緒に来て。一緒に戦って」

 

 会心の笑みを浮かべ、延珠が頷く。

 

「承った!! 蓮太郎!!」

 

 彼女のプロモーターは、期待の籠もった視線を向けられて少し戸惑ったようだったがすぐに腹を括った顔つきになった。

 

「ああ、延珠。今の綾耶への言葉、俺からもお前に言わせてもらうぜ。一緒に来るなとか俺だけ逃げろ、なんて言うなよ? お前等みたいなガキが戦っているのに、俺だけ高みの見物している訳に行くか!!」

 

 義肢に予備カートリッジを装填して、XD拳銃の動作を確認する蓮太郎。

 

 死地へと飛び込む覚悟を決めたのは、これで3名。否、彼等だけではない。

 

「里見くん、私も行くわ!! 社員を衛るのも、社長の務めだからね」

 

「私もご一緒します!! 未踏査領域では、綾耶さんに助けてもらいましたから……今度は私が、綾耶さんを衛ります!!」

 

 木更と夏世が。

 

「ボーイ、俺を忘れんなよ。姐さん、俺がお守りしますぜ」

 

「兄貴だけじゃ心配だしね。あたしも行くよ」

 

 玉樹と弓月が。

 

「俺も行こう。俺が自分の技をどうするかは兎も角として……少なくともソニア・ライアン……お前を無駄死にさせてはならない事は、確かだ」

 

「私も行きます。彰磨さんが行くのなら」

 

 彰磨と翠が。

 

「俺も行くぜ。団長の役目を全うする為にもな」

 

「……」

 

 枢とエックスが。枢はこれよりは全体の指揮権を副団長である長正へ委譲する旨を無線機で連絡する。エックスは何も言わない。ただ、両手から超バラニウムの鉤爪を伸ばす事で応える。

 

「無論、私もご一緒するわ」

 

 小町やティコ、アナスタシア、ステラ、100人の群星達という麾下のイニシエーターを見渡したルイン・フェクダは、全員の意思が統一されている事を確認すると綾耶へと向き直った。

 

「綾耶ちゃん……あなたは……賢いとは言えないけど、優しくて、勇敢ね。その勇気と優しさが……これからの世界に必要なの。それを喪わせない為に、戦うわ」

 

「王よ、私もお供致します」

 

「私も行くよ、パパ!! 延珠も綾耶も、斬るのは私なんだから!!」

 

 影胤と小比奈も。

 

 他にも幾名かのペアが、覚悟を決めて進み出る。

 

「ったく……どいつもこいつも、命知らずめ……!!」

 

 呆れたように頭を掻く枢。既に、アルデバランの統率を離れたガストレアの一団がこちらへ向かってきている。正確には集合フェロモンまみれになった綾耶を目指してきている。その数は……数えるのも面倒なくらいだ。

 

「ああ……みんな見ろよこの数。ったく、何匹居ンだよコレ……!! 今更だがよ」

 

 もう笑うしかないという様子で、呆れた笑みと共に蓮太郎が言った。

 

「く……くくっ」

 

「は……ははっ」

 

「ハハハ……」

 

 誰ともなく始まった笑い声が伝播していく。

 

「「「ハハハハハハハハ!!!!」」」」

 

 全員、大爆笑。然る後、

 

「走れえっ!!」

 

 団長として、枢が号令を下す。同時に、夜が明ける。

 

「総員、走れ!! あの朝日に向かって!!」

 

 目的はソニアを確実にアルデバランへと接触させる為、可能な限り多くの敵を引き付ける事。故に民警軍団はガストレア群の真っ直中へと正面から突入する。同時に、ソニアは地面スレスレを滑るように動き始める。

 

 これが、この第三次関東会戦、最後の戦い。

 

 口火を切ったのは、綾耶であった。

 

 地上を疾走するガストレアの頭上から、小さな影が舞い降りる。

 

 視線を上げたガストレア達が迎撃態勢を整えるより早くその影・綾耶は彼等の只中へと飛来した。そのまま着地を待たず両手に宿る見えない刃物を振り回し、無数の異形をなますの如く斬っていく。蜘蛛のような個体が口から異臭を放つ毒液を吐き出すが、それらは見えない壁に阻まれて一滴すら綾耶の身に触れる事は叶わなかった。

 

 眼前の一際巨大な個体へ向けて、綾耶は左手をかざす。

 

 持ち前の吸引能力が発動し、発生した気流に引っ張られてガストレアの巨体が彼女へと吸い寄せられる。そうして間合いに入った所を、カウンターで迎撃。専用装備『バタリング・ラム』の噴出口から圧縮空気が吐き出され、超高速の鉄槌と化した右手はガストレアを木っ端微塵に粉砕する。

 

 

 

 将城綾耶 東京エリア国家元首・聖天子直轄

 

 モデル・エレファント -ゾウ- × 空手(4級) × 超バラニウム製対ガストレア噴射籠手『バタリング・ラム』

 

 IP序列・番外位 翼のない天使(リップタイド)

 

 

 

「天童式抜刀術・一の型八番『無影無踪』!!」

 

 抜刀と共に発生したカマイタチの如き真空の刃によって、数十体のガストレアが間合いを超えて両断される。

 

 巨大な体を支えるガストレアの外殻を、紙の如く両断する。どれほどの業物を以て、どれほどの技量があればこの様な離れ業が成立すると言うのか。だが、それを可能にするのが天童木更という女性だった。

 

 自分達の体の十分の一ほどの大きさしかないこの女性を、しかしガストレア達はまともにぶつかり合っては危険な難敵と判断したらしい。左右に分かれ、彼女を避けて進んでいく。だがそれは好判断とは言えなかった。何故なら、

 

 続け様に、爆音が鳴る。地面が爆ぜて、殺到したバラニウムの小球に全身を蜂の巣にされたガストレアが小石のように舞い上げられる。

 

 そこは、地雷原だった。

 

「木更さんの圧倒的強さを見せ付けられては必ず正面から激突する愚は避け、左右に分かれると思っていました」

 

 ガストレアの動きを読み切っていた夏世が、通るであろうコースに仕掛けていたのだ。

 

 

 

 天童木更 × 千寿夏世 東京エリア・天童民間警備会社所属

 

 天童式抜刀術(免許皆伝) × 殺人刀・雪影 × モデル・ドルフィン -イルカ-

 

 IP序列・19820位

 

 

 

 夏世の地雷に吹っ飛ばされた中で、幸運にも脳や心臓への損傷を免れた個体は空中で早くも再生の兆しを見せていた。

 

 しかし再生が完了するよりも、その手足が地に触れるよりも早く。風を超える速さで白い影が走り、爪を振ってその数体を切り刻む。白いロングコートが翻り、突き出された拳は衝撃を内部へ伝導させて地面に落とされた水風船の様に、比較的大きなガストレアの全身を爆裂させた。

 

 

 

 薙沢彰磨 × 布施翠 東京エリア・無所属

 

 天童式戦闘術(8段・独自改良) × モデル・キャット -ネコ-

 

 IP序列・980位

 

 

 

「オオオラアアアアアッ!!!!」

 

 両拳に装着されたバラニウムチェーンソーが唸りを上げ、ガストレアを惨殺死体へと変える。勢いのまま数体を屠り去っていた玉樹は、その時ゴツンと爪先に何かが当たるのを感じた。

 

「ン?」

 

 視線を落とすと、そこにはパンツァーファウスト(110mm個人携帯対戦車弾)が落ちていた。恐らくは最初の戦いで、自衛隊が落としていった物だろう。持ち主は使う前に逃げ出したか殺されてしまったらしく、弾頭は装填されたままだ。

 

「良いモン見っけ」

 

 彼はニヤリと笑いながら思いがけず手に入った重火器を担ぐと、照準もそこそこに引き金を引く。元々、前方は見渡す限りのガストレア、ガストレア、ガストレア。敵、敵、敵。いちいち狙いを付ける必要など無い。適当に撃てばそれで当たる。後方の安全確認はしなかったが、幸い今回は彼の後ろに誰も居なかった。

 

 しかし、扱い慣れていない事もあってガク引き(引き金を引く際に力が入って、銃全体を揺すってしまうこと)してしまった。発射された弾頭は地上を進むガストレアにも空を飛ぶガストレアにも命中せず、ちょうどその中間辺りの空間をあらぬ方向へと飛んでいく。

 

「シィッット!! 外したか!!」

 

「いいや」

 

 かに、見えた。

 

「ナイスだ、兄貴」

 

 弓月が指先から飛ばした蜘蛛の糸を弾頭へと付着させ、絶妙な動きで糸を手繰るとさながら有線誘導ミサイルのようにその軌道をコントロールし、見事ガストレア群の密集ポイントへと着弾させた。大爆発と共にガストレアの手足や肉片が飛び散り、文字通りに血の雨が降った。

 

 

 

 片桐玉樹 × 片桐弓月 東京エリア・片桐民間警備会社所属

 

 ケンカ殺法 × バラニウムチェーンソー × モデル・スパイダー -クモ-

 

 IP序列・1850位

 

 

 

「うおおおおおおおっ!!!!」

 

 第一戦と同じく、重戦車の如く突貫する枢は当たるを幸いガストレアを薙ぎ倒し、弾き飛ばし、踏み潰して進む。ただ走るだけで、戦列を蹂躙していく。追従するエックスも、鉤爪を出した両手をグルグルパンチの様に旋回、異様な風切り音を響かせて爆走する芝刈り機の如く巻き込まれた不幸なガストレアを刈り取っていく。

 

 その時、前方の地面が隆起して、アルデバランにも匹敵するであろう巨体を誇るガストレアが出現した。地中に潜んでいたのだ。これほどの巨体が相手では、枢のパワーもエックスの爪も、足下を傷付けるだけの効果しかない。どうにかして、脳か心臓を破壊しなくては。

 

「マスター、ファストボールスペシャルを」

 

「応っ!!」

 

 エックスの言葉に枢は威勢良く返すと、彼女の襟首と腰のベルトを引っ掴み、ジャイアントスウィングの要領で投げ飛ばす。砲丸のように飛んだエックスは、勢いそのまますれ違い様に爪を一閃、ガストレアの首を切断した。枢は落ちてきた頭を片手でキャッチすると、そのままミカンのように握力で握り潰した。

 

 

 

 一色枢(ルイン・ドゥベ) × エックス 東京エリア・一色民間警備会社所属

 

 モデル・ブランク -無し- × モデル・ウルヴァリン -クズリ- × 対人・対ガストレア超バラニウムコーティング骨格『ウェポンX』

 

 IP序列・30位 鉤爪(クロウ)

 

 

 

 ルイン・フェクダはこの大混戦の中に在っても王者の如く、悠然と歩んでいた。ガストレア達の攻撃など取るに足りない。進化の能力を持つ彼女の肉体はあらゆる外敵・あらゆる環境に適応して耐性を獲得し、どんな攻撃をも無力化する。

 

「全員、10名ずつ固まって一斉射撃。ガストレア共を牽制しなさい」

 

 100名の数多群星は忠実に命令に従い、10個の固まりとなって10の銃口を10セット、一斉射撃をガストレア群に浴びせる。

 

 だがいくら100名が一丸となった銃撃も、それはライフルやショットガンといった携行可能な小火器によるもの。雲霞の如きガストレアの勢いを押し留める事は出来ない。しかし、それでも十分だった。群星達は急流の中に置かれた巨岩のように流れを枝分かれさせて指向性を持たせ、大きな一つの流れを三つの支流へと分断させる事に成功していた。

 

 そして、その3つに別れた流れの先には。

 

「シュッ!!」

 

 小町の手刀が向かってきた全てを解体し。

 

「さあ……次はどいつ? 玩具が増えるのは、私も嬉しいけど?」

 

 ティコが、モズの早贄かさもなくば吸血鬼ドラキュラ伝説の原典の如く、無数のモリで串刺しにして並べていき。

 

「今……何かした、デスか? ハラショー」

 

 ウロコフネタマガイの特性によって、全身を超バラニウムすら遥かに凌駕する強度を持った生体金属の鎧へと変えたアナスタシアが全ての攻撃を弾き返していく。

 

 そして、この3名によって動きを止めたガストレア群へ待つ運命は、同士討ち。

 

 それまでは本能によって集合フェロモンを全身に付着させた綾耶へと一直線に向かっていたガストレア達は、今はどうした事か綾耶にも民警軍団にも目もくれず、すぐ隣のガストレアに襲い掛かって、共食いを演じていた。

 

 気が付けば、この一帯には何かが降っていた。小さな、雪のようなものが。だが雪ではない。いくら昨日までモノリス倒壊に伴い舞い上がった粉塵で太陽光が遮られ気温が下がっていたとは言え、雪が降るほどではない。これは、胞子だ。

 

 “七星の番外”ルイン・アルコルのイニシエーターであるステラの固有能力。彼女が散布する胞子は吸い込んだ者の頭脳へと侵入し、数十数百もの数を一度に、事前にプログラミングした命令に従わせる事が出来る。

 

 ルイン・フェクダはスマートフォンを取り出すと、登録した番号へと掛ける。相手は、ほぼ1コールで通話に出た。

 

<はい、マスター・フェクダ>

 

「ステラ、張り切るのは良いけどほどほどにね。私達まで操らないでよ」

 

 苦笑気味にそう指示を出して、ルインは通話を切った。

 

「みんな、出来るだけこの胞子には近寄らないように!! 特に蟻とかバッタとか蜂とか、昆虫系の因子を持った子は一吸いでもしたら最後、一発で自我を破壊されるわよ!! 絶対に近付かないで!!」

 

 

 

 ルイン・フェクダ × 魚沼小町 × ティコ・シンプソン × アナスタシア・ラスプーチン × 数多群星100名 × ステラ・グリームシャイン 国籍無し・無所属

 

 モデル・ブランク -無し- × モデル・ライス -イネ- × モデル・オルカ -シャチ- × モデル・スネイル -マキガイ- × モデル・コーラル -サンゴ- × モデル・マッシュルーム -キノコ-

 

 IP序列・無し(ティコは序列444位ペア、群星の一人は666位ペアに所属)

 

 

 

 空中を進みながら東京エリアへ侵入しようとするガストレア達は見えない壁がそびえ立っているかのように、あるラインから先へは決して進めなかった。そこを越えようとした個体は、一切の例外無く全身をバラバラに解体されて、地へと墜とされていく。

 

 それを行っているのは、唯一人のイニシエーター。アンナマリーだった。彼女の両腕は今は鳥の羽のように変化して、背中からはトンボのような羽が生えている。

 

 両腕の羽はモデル・スワロー、ハリオアマツバメのものだ。この生物は水平飛行時の最高速度に於いては地球生物の中で最速を誇り、時速170kmから350kmに達するとも言われている。全長たった20センチほどの鳥がこの速度を叩き出すのである。大きい物ほど速く動く事になる為、もしハリオアマツバメが人間大であったのならばその速度は、軽くマッハの域にまで達するだろう。

 

 そして背中の羽はモデル・ドラゴンフライ、トンボのそれ。トンボの飛行性能は急発進・急停止・バック・ホバリング・旋回が自由自在であり、飛行機やヘリコプターのような人間が作る機械では決して再現出来ないとされている。

 

 この二つの特性を併せ持つアンナマリーは、機械は勿論イニシエーターやガストレアを含む彼女以外のどんな生物にも絶対に真似できない異常な軌道と異常な速度で飛び回り、飛行ガストレアをハエのように落としていった。

 

 更に、周辺のビル屋上に設置されたバルカンや榴弾砲など無数の対空火器が一斉に火を噴き、空中に火の海を顕現させてガストレアを撃墜していく。しかも驚くべき事にこの射撃は、猛スピードで飛び回るアンナマリーには掠りもしていない。

 

 要塞砲の迎撃にも似たこの攻撃を統括しているのは、たった一人の少女だった。ティナ・スプラウト。彼女の脳内に埋め込まれたニューロンチップが全ての火器を遠隔制御し、イージス艦のCIWSもかくやという精度で群れに致命打を叩き込んでいく。

 

 空から迫る数百のガストレアは、二人のイニシエーターによって足止めどころか壊滅の危機に陥ってしまっていた。

 

 圧倒的な優位を維持しつつ、ティナははっと顔を上げる。脳裏に、声が響いたのだ。聞き慣れた、義姉の声が。

 

<ティナ……どうか、良き世を生きて……幸せな未来を創って……私に、もう会えない世界でも……生きてね>

 

「……お姉さん?」

 

 

 

 アンナマリー・ローグ 東京エリア在住・無所属

 

 モデル・シースラグ -ウミウシ- × これまでに獲得した千以上の生物の特性

 

 IP序列・無し 地上で最も神に近い生物

 

 

 

 ティナ・スプラウト 東京エリア国家元首・聖天子直轄

 

 モデル・オウル -フクロウ- × BMI制御バラニウム製偵察機『シェンフィールド』

 

 IP序列・元98位 黒い風(サイレントキラー)

 

 

 

「ハアアアッ!!」

 

「斬っ!!」

 

 延珠と小比奈は肩を並べ、当たるを幸い競うようにガストレアを仕留めていく。

 

「啼けソドミー、歌えゴスペル!! これだ、これこそ戦争!! 私は生きている!! 素晴らしき哉人生!! ハレルウゥゥヤァッ!!!!」

 

「ああ、五月蠅ェ!! 少しは黙れねぇのかよ!! 手ェ前ェは!!」

 

 蓮太郎と影胤は背中合わせになってカスタムベレッタとXD拳銃を乱射し、ガストレアを一匹も近付けなかった。

 

 その間にも延珠と小比奈は次の標的を見付けて突進。靴底にバラニウムを仕込んだブーツと、二刀小太刀の合体攻撃が次の犠牲者を……増やしはしなかった。

 

「なっ!?」

 

「へえ?」

 

 鈍い音が鳴る。西洋のキメラかはたまた東洋の鵺を思わせるそのガストレアの毛皮は下手な金属よりも硬くしかも柔軟性に富み、延珠の蹴りは衝撃を逃がされてしまい、小比奈の刃でも太刀筋が狂わされて斬る事が出来なかった。

 

 そのガストレアは体を大きく回すと、勢いに任せて二人を弾き飛ばす。飛んだ先には、

 

「蓮太郎!!」

 

「パパ!!」

 

「応っ!!」

 

「分かったよ」

 

 蓮太郎は義手を振り、影胤は斥力フィールドを展開する。

 

 空中で何度も回転して体勢を立て直した二人のイニシエーターは、小比奈は蓮太郎の拳に、延珠は影胤の斥力フィールドにそれぞれ“着地”する。更に、そこから。

 

「天童式戦闘術・一の型五番『虎搏天成』撃発(バースト)!!」

 

「マキシマム・ペイン!!」

 

 カートリッジの炸裂によって生じた爆速と、斥力フィールドが膨張する勢い。それを味方に付けた小比奈と延珠は音を置き去りにして、紅い両眼の光が空間に軌跡として残るほどの速度でガストレアに突貫。先程に数倍するその勢いは硬さと柔軟さを併せ持つ毛皮でも殺す事は叶わず、全身を四散させた。

 

 

 

 蛭子影胤 × 蛭子小比奈 国籍無し・無所属

 

 バラニウム製斥力フィールド発生装置『イマジナリー・ギミック』 × モデル・マンティス -カマキリ-

 

 IP序列・元134位

 

 

 

 里見蓮太郎 × 藍原延珠 東京エリア・天童民間警備会社所属

 

 天童式戦闘術(初段) × 超バラニウム製撃発義肢 × グラフェントランジスタ仕様CPU『二一式黒膂石義眼』 × モデル・ラビット -ウサギ-

 

 IP序列・300位

 

 

 

「僕達に出来るのはここまで……後は……ソニアさん……!!」

 

 またしても一体のガストレアを仕留めた綾耶が呟いた、その時だった。

 

 目も眩むような閃光が走り、一拍遅れて熱波と衝撃波が襲ってくる。綾耶は咄嗟に空気のバリアを張って身を守った。

 

 視線の彼方ではEP爆弾の圧倒的な破壊力によって生じた火の玉が上空へと伸びて、巨大なキノコ雲を形成していた。

 

 まだ煙と炎が酷くて見えないが、爆心地に動く物は見当たらない。アルデバランは、殲滅された。ソニアは、やり遂げた。課せられた役目を全うしたのだ。

 

 綾耶は、無意識の内に手を胸に当てていた。祈るように。

 

 彼女は、主の言葉を思い出していた。聖天子は、自分の事を光だと言ってくれた。闇を照らす光だと。綾耶にとっては、聖天子こそが光だった。自分を導いてくれる、命と引き替えにしてでも護るべき光。きっと……ソニアにとってはティナこそがその光だったのだろう。自分は、その光を託されたのだ。

 

 だから自分は受け継いだその光を守り続け、未来へ繋げなければならない。

 

 それが、生きる者に出来る事だから。

 

「……ティナちゃんは、僕が必ず衛ります。あなたの分まで……平和な世界を、一緒に生きれるように」

 



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最終話 新世界へ

 

「さてと……私達も、そろそろ行かなきゃ」

 

 ルイン・フェクダは何気なくそう言って歩きだした。小町と影胤・小比奈ペア、それに100名のイニシエーター達は当然のように彼女に従い、民警達も暫くは呆けたようにその姿を見送っていたが、数秒ほどの間を置いて「はっ」とした顔になった蓮太郎がXD拳銃を彼女の背中に照準した。

 

 彼の姿を見て他の幾名かのプロモーターも、銃口を彼女に向ける。

 

「どさくさに紛れて逃げる気だろうが、そうは行かねぇ。お前達の身柄を拘束させてもらう」

 

「心配しなくても、綾耶ちゃんとの約束通り必ず出頭するわ。仲間を説得しに戻るだけだから」

 

 無数の銃口を前にしても、ルインは少しの緊張も見せずにしれっと言い放った。

 

「……それを、信じろってのか?」

 

 蓮太郎の反応も当然である。ルインの言は、浮気した妻が「もう二度とこんな事はしないから」という言葉を信じろと言っているのに等しかった。

 

 小比奈は小太刀を抜き放ち、100名の群星達は応戦すべく手にしたライフルやショットガンを構える。

 

 アルデバランを失い統制を欠いたガストレア群を撃退したばかりと言うのに、今度は人間同士の戦いが勃発するのかと思われたが……

 

「まぁ、待てよお前等」

 

 その火ぶたが切って落とされるのを阻止したのはこの場の最高責任者である枢であった。ぱんぱんと手を叩いて場を統制し、銃を下ろせと両陣営に指示する。

 

「止めとけ止めとけ。ここで俺等が争ったら、どっちも無事では済まねぇ。そうなったら東京エリアを衛る者が居なくなる。そりゃ拙いだろ。心配すンな。こいつらは逃げやしねぇよ」

 

 彼の判断を受け、当然と言えば当然の流れでプロモーター達から抗議の声が上がるが、そこは枢が「責任は全て俺が取る」と鶴の一声で黙らせた。

 

 実際には、このやり取りもマッチポンプである。何しろ一色枢の正体は“七星の一”ルイン・ドゥベなのだ。同志である“七星の三”ルイン・フェクダに不利な提案など、する訳が無い。

 

 とは言え、フェクダの言葉も嘘ではない。未踏査領域で綾耶と交わした約束は、全てが本当だ。仲間を説得する事も、東京エリアに協力する事も。

 

「またね、綾耶ちゃん……私は、あなたの事が好きだから……だからどうか……長生きしてね」

 

 ルイン・フェクダはそう言って、優しく綾耶の頭を撫でる。抵抗はせずに上目遣いで綾耶が見た彼女は、目も顔も嘘を吐いてはいなかった。綾耶は一つの確信を抱いて、会心の笑みを見せる。きっと自分達はこの先、手を携えて一緒に同じ未来を見て進めると。

 

「ルインさんも、お元気で。早めに戻ってきて下さいね。忘れないでよ、僕達の戦いはまだ始まったばかり……いえ、これからの戦いこそが、大変なんですから」

 

「……そうね」

 

 やはりこの子は、大切な事を自然に分かっている。生まれ持った気質か、良き出会いを重ねてきたのか、あるいはその両方であろうか。ルインは満足そうに笑って頷いた。

 

 ガストレアとの戦いなど、取るに足りない些事でしかない。

 

 本当の戦いとは、この世界を救う事。

 

 10分の9が殺されても未だ団結せず破滅への道を辿る人類に新たなる視座を与え、より良き存在へと導く事。真にこの地球を受け継ぐに相応しき存在「星の後継者」へと。

 

 そして綾耶こそが自分が知る限り「星の後継者」に最も近い存在であると、ルイン・フェクダは思う。

 

 他者を慈しみ、友を愛し。大切な人を奪われながらも奪った者達と世界を衛り、会った事も無い誰かともう二度と会わないかも知れない誰かの涙の代わりに自分の血を流す事を恐れない勇気を持つ。そんな綾耶は、光だ。この絶望の闇に閉ざされた世界で、進むべき道を示す灯台の燈。

 

 喪わせはしない。絶対に。

 

 

 

 

 

 もし。仮に。歴史の流れに“もしも”は無いが……それでももしも、綾耶と出会った”ルイン”が三番目(フェクダ)でなかったのなら。あるいはこの時、蓮太郎や木更、もしくは彰磨が団長である枢の反対を押し切ってルイン・フェクダを拘束していたとしたら……

 

 その時は、東京エリアの……人類の……そして地球の運命はまた違った方向へと流れていたであろう。

 

 

 

 

 

「木更さん、大変だ!!」

 

 第三次関東会戦の勝利から二週間が経過したその日の朝、息せき切った蓮太郎が蹴破る勢いでドアを開き、事務所へと飛び込んできた。

 

「どうしたの里見くん、朝からそんなに慌てて……」

 

「テレビを見ろ!! 和光義兄さんが大変な事になってるぞ!!」

 

「!!」

 

 和光、天童和光。自分にとって仇の一人であるその男の名を聞いて、木更はぴくりと眉を動かした。

 

 若くして国土交通省副大臣という要職に就いている彼だが、しかしその裏では32号モノリスに使用されるバラニウムに不純物を混入させて浮いた工費の一部を懐に入れている。木更はその証拠を掴んでおり、これをネタに彼を引きずり出して父母の死の真相を聞き出そうと考えていた。

 

 それにしても蓮太郎の様子は只事ではない。何が起こったのかと取り敢えずリモコンを取るとスイッチを押す。

 

 映し出されたニュースを見て、彼女が言葉を失うのに時間は要らなかった。

 

<今朝早く、国土交通省副大臣・天童和光氏が自宅の一室で首を吊っている所を発見されました。和光氏はすぐに病院へと搬送されましたが、既に死亡している事が確認されました>

 

<本日未明、天童和光国土交通省副大臣が、32号モノリス建造に当たって使用されるバラニウムに不純物を混入し、浮いた金を着服している事の自白動画がネット上に公開されました。天童菊之丞閣下はこの件に関してはノーコメントを貫いておられますが、映像・音声の専門家による分析によるとこの動画の証拠能力は極めて高く……>

 

<警察は二つの事件についての関連性についても捜査を……>

 

 どのチャンネルでも、同じニュースを扱っている。

 

 木更はしばらくは立ち尽くしたまま呆然と報道を見ていたが、やがて全ての力が抜けたように社長椅子へと体を投げ出した。

 

「き……木更さん……」

 

「悪いけど、里見くん……しばらく、一人にしてくれるかしら」

 

「で、でもよ……」

 

「お願い」

 

 消え入りそうな声でそう言われて、蓮太郎はそれでも食い下がろうとしたが何も言う事が出来ずに「何かあったらすぐに連絡をくれ」とだけ言って退出していった。

 

 残された木更は、思わず下腹部を押さえる。ここ暫く治まっていた痛みが、ぶりかえしてきたようだった。

 

 十年年掛けてここまで来て、やっと復讐の手掛かりを掴んだのに。

 

 机の棚から書類を取り出す。ここには和光の不正の証拠と、それによって彼が得た金の流れが克明に記されている。

 

 これは十年も待ち望んだ復讐の足掛かりであり、天童へ肉迫する為の手掛かりでもあった。これを手にする為に木更は多大な労力と膨大な時間、多額の資金を費やしてきた。そうまでして手に入れた切り札は、一夜にして無価値な紙切れと化した。そして仇の一人も、もうこの世には居ない。

 

 こんな筈ではなかった。今日にも和光に連絡を取って、天童流の道場へと呼び付けて、そこで復讐を果たす筈だったのに。

 

 これからどうすれば良い? 自分の十年は何だったのだ?

 

 復讐など止めろと、運命が言っているのだろうか? 両親の魂が、闇に堕ちるなと叫んでいるのだろうか?

 

 考えて、木更は自嘲するように首を振った。

 

「それでも……私はもう、止まれない。止まる訳に行かない」

 

 余命は全て、復讐の為に費やすと誓った。

 

 今の自分にとって、復讐する事は生きる事に等しい。復讐を止めたら、自分は死ぬ。

 

 ぎりっと、噛み締めた歯が鳴った。

 

「私の息がある限り、天童を皆殺さずにはおかない……!! お父様お母様の仇は、全て地獄に送ってやる……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 綾耶の実家である教会を校舎として使っている第39区第三小学校。

 

 第三次関東会戦終結と共に都市機能が麻痺していた東京エリアの各施設は徐々に機能を取り戻しつつあり、学校も再開しつつある。青空教室に毛が生えたようなこの学校も例外ではなかった。

 

 礼拝堂を利用した教室では、呪われた子供たちが興味津々という顔で目を輝かせている。彼女達の視線は一様に、教壇に立つ二人へと注がれていた。新任の先生と、転入生の少女へと。

 

「あぁ……今日からお前達の教師をする事になった、薙沢彰磨だ。よろしく頼む」

 

 彰磨はサンバイザーを外すと、ホワイトボードに達筆な字で名前を書いて自己紹介する。

 

 しかし子供たちは反応を示さず、じっと彰磨を見詰めているだけだ。

 

「趣味は……鍛錬、だな……天童式戦闘術の、八段を修めている」

 

 ガストレア相手には八面六臂の活躍を見せる達人も、子供相手では勝手が違うらしい。戸惑いが前面に出てしまっている。

 

「……他に何か、質問があるか?」

 

「「「ハイハイハイハイハーーイ!!!!」」」

 

 壁際に立ってこれを見ている蓮太郎は、思わず吹き出しそうになった。以前の自分もちょうど、今の彰磨のようだった。

 

 と、続いては転入生の紹介だ。

 

「……布施翠といいましゅ。特技は匂い占いです」

 

 とんがり帽子を外してお辞儀する翠。露わになったネコミミを見て、子供たちはわっと彼女へと駆け寄る。

 

「わぁ、かわいいーっ」「その耳、ホンモノですか?」「触っても良いですか?」

 

「にゃ、にゃあああっ!?」

 

 もみくちゃにされる彰磨と翠を遠目に眺めつつ、蓮太郎はすぐ傍に立っていた松崎へと向き直った。

 

「そう言えば、琉生先生は居ないのか?」

 

「あぁ、彼女でしたら今日は大切な用事があるとの事で、お休みされているのですよ」

 

「ふぅん?」

 

 別段それ以上疑う意味も無いので、納得した蓮太郎は話を切り上げると、逆隣に立っているティナを見た。

 

 戦闘終結後、ソニアの特攻を知らされた彼女はまず泣き叫び、その後は部屋に閉じこもって誰にも会わない日々が続いていた。こうして外へ出てこれるだけでも、随分と回復したと言える。

 

 とは言え、完全とはとても言い難い。光のような金髪には艶が無く、枝毛も目立つ。顔色も悪くあまりよく眠れていないのだろう、目許にはうっすらと隈が見える。綾耶がこの様子ではとても聖室護衛隊の任を果たす事など無理と判断し、しばらくは心の静養も兼ねてこの学校で過ごすようにと言ってきていた。松崎老人にも気を遣ってやってほしいと話は通っており、無論彼は快く了承してくれていた。

 

「ティナ……もう、良いのか?」

 

 どこか腫れ物に触るような蓮太郎の言葉を受け、ティナは寂しそうに微笑んで返した。

 

「ええ、蓮太郎さん……お姉さんが、言ってくれていましたから。もう、会えない世界でも生きてって……だから私は」

 

 言い掛けたティナの頭が、脇から伸びてきた手に引っ張られて、ぐいっと引き寄せられた。ティナの頭を掻き抱いたのは、延珠だった。

 

「延珠……さん?」

 

「良いのだ、ティナ。我慢する必要など無い。泣きたい時には泣け。妾の胸で良ければ、いつでも貸させてもらうぞ」

 

 ウサギのイニシエーターはそれ以上は何も言わずに、ティナを抱き締めていた。フクロウのイニシエーターは、しばらくは戸惑ったように無言であったがやがて、堪えきれなくなったのだろう。その体が震え始めた。蓮太郎には見えないが、泣いているのだろう。

 

 パートナーと視線を合わせて、蓮太郎と延珠は頷き合った。今日は綾耶は居ないが、彼女がここに居ればきっとそうしただろう。

 

「あれ? そういやぁ、綾耶はどうした?」

 

「蓮太郎さんはご存じなかったですか?」

 

 声を掛けてきたのは、夏世だった。

 

「綾耶さんなら、今日は聖居ですよ。聖天子様の政策発表に立ち合うと言ってました」

 

 

 

 

 

 

 

<この国難を乗り切った我々に、再び融和の機会が訪れたのです。ガストレア新法を成立させる事こそが、この戦いで亡くなった多くの人々への鎮魂になると信じます。私達は今、本来ならば年端も行かぬ子供たちに、あまりにも多くの物を背負わせてしまっています。今はそれ以外に、選択肢が無いのかも知れません。ですが未来にはきっと、彼女達が重荷を下ろせる日が来る筈です。いえ、私達が必ず、その日を創るのです!!>

 

 聖居に詰め掛けた五千とも一万ともつかない群衆は、聖天子の演説が終わると同時に喝采と、万雷の拍手を贈る。

 

 この東京エリアが大絶滅を乗り切った最初のエリアとなった事。そしてその最前線で戦った一人が、聖天子の傍に侍る綾耶である事。それらの要素が重なり合って、世論は戸籍剥奪法が国会で棄却されガストレア新法承認へと傾いている。

 

 しかも法案制定に反対派である菊之丞の派閥は今、身内の不祥事によって致命的にではないにせよ一時的に力を失っている。そういう意味でも聖天子が新法を制定しようとするのなら、今を於いて他にはなかった。

 

 鳴り止まぬ拍手に手を振って返すと、聖天子は降壇して聖居の奥へと戻っていく。綾耶はその後を影のように付き従っていた。

 

 私室に戻ると、綾耶は何も言わずに煎れたお茶を聖天子に差し出す。国家元首は目礼して感謝を伝えると、カップに口を付ける。そうして「ふうっ」と一息吐いた。

 

「お疲れ様でした、聖天子様。素晴らしい演説でした」

 

 それまでは沈黙を貫いていた綾耶が、ここで初めて口を開いた。

 

 これはおべっかではなく、偽らざる彼女の本音である。少なくとも綾耶は、先程の聖天子の演説に感動を覚えていた。

 

 本当にこの東京エリアの、そして世界の未来を真剣に考えたいと、そう思わせるような見事な演説だった。

 

「ガストレア新法は、今度こそ制定されるでしょう。これで……沢山の呪われた子供たちが救われます。聖天子様には……この東京エリア全ての呪われた子供たちを代表してお礼の言葉を申し上げます」

 

 だが、それを受けて聖天子はとても悲しそうな顔になった。綾耶は戸惑ったようになる。いつもなら、優しく微笑み返してくださる筈なのに。

 

「綾耶……私が何故、ガストレア新法を成立させようとしていたのか……分かりますか?」

 

「それは……聖天子様がお優しい方だから……」

 

 ここで、やっと聖天子は笑みを見せた。だがそれは、深い悲しみを内に湛えたものだと綾耶にはすぐ分かった。

 

「……勿論、呪われた子供たちが健やかに育つようにと……その想いも決して偽りではありませんが」

 

 一度言葉を句切ると、若く美しい国家元首は手を振って側に来いと綾耶を呼ぶ。そうしてとてとてと近付いてきた自分のイニシエーターの頭を、聖天子はそっと撫でた。

 

「私がガストレア新法を発案した切っ掛けは……あなたなのですよ、綾耶」

 

「ボ……私、ですか?」

 

「そう……言いましたよね? 私はあなたを、妹だと思っていると。妹の幸せを願わない姉など、この世には居ませんよ」

 

 ソニアの、ティナへの想いを綾耶は思い出してぐっと言葉に詰まる。あれと同じものを、聖天子様は自分に向けてくれていたというのだろうか。だとしたらこれに勝る喜びは、彼女には想像出来なかった。

 

「……私は政治家として失格なのでしょうね。こんな個人的な感情で、法を定めようというのですから。国家元首という立場を使って自分の願いを叶えようとする私は、誰より浅ましいのかも知れません……でも……それでもあなたには……幸せになって欲しいのです」

 

 誰より尊敬する人からこれほどに想われていると知って、綾耶は涙を堪える作業に多大な労力を割かねばならなかった。

 

 一分ほどそうしていて、やっと涙腺が落ち着いた所で彼女は「失礼します」と先に断っておいて、背伸びすると両手を伸ばして聖天子の頬に触れた。

 

「……綾耶?」

 

「聖天子様、僕は今でも十分幸せです」

 

 実際に、自分は恵まれていると綾耶はそう思っている。勿論、両親を反ガストレア団体が起こしたテロで殺されている時点で幸せばかりの人生という訳ではない。だがそれでも雨風凌げる場所で暮らして、暖かい布団で寝て、飢えに苦しむ事もない。何よりも、数は多いとは言えないが自分を受け入れてくれる人達が居る。

 

 差別されて不当な暴力に晒されるどころか、嬰児の段階で人知れず殺される事すら珍しくない呪われた子供たちの中では望外の幸運に恵まれていると言えるだろう。

 

「だから僕は、その幸せを他の人にも分けてあげたいんです」

 

「……そうですか」

 

 聖天子は椅子から立つとしゃがみ込んで、綾耶と目線の高さを合わせた。

 

「……聖天子様?」

 

 主の意図を掴みかねて、綾耶はきょとんと首を傾げる。少しだけ間を置いて、聖天子が尋ねてきた。

 

「……綾耶、あなたを抱き締めて良いですか?」

 

「はっ?」

 

 一瞬、聖天子が何を言っているのか分からなくなって綾耶は間の抜けた声を上げてしまったが、瞳を見てこれが真面目な話だと察するとすぐに態度を改めた。

 

「はい、ぼ、私で良ければ……」

 

 了承の意図を受けて、聖天子はほっそりした両手を綾耶の背中に回し、小さな体を抱き寄せた。綾耶は抵抗する事もなくされるがままに任せている。

 

「……この世界に、あなたほど優しい子は居ませんよ。私は一人の人間として、あなたの優しさと勇気を尊敬しています。あなたのような子こそが……これからの世界に必要なのです。それなのに……それなのに……!!」

 

「……聖天子様?」

 

 聖天子の体は、震えていた。

 

 最新の検査によると、綾耶の体内侵食率は30.9%。予測生存可能日数消費まで、残り1530日。およそ、4年と少し。

 

 たったそれだけ。

 

 現在の技術では、どう足掻いても綾耶は成人するまで生きられない。

 

 聖天子にとって、綾耶と過ごしているこの一日一日はずっと別れの一部なのだ。その先にある、綾耶が居ない永遠への。

 

 何故、この子が。こんなに優しい子が、どうして大切な人と結ばれる事もなく、子を授かる事もなく死ななければならない?

 

「……死なないで……逝かないで……何でもしますから……一緒にいて下さい……!! お願いです……!!」

 

「聖天子様……どうか、泣かないで」

 

 主の嗚咽を受けた綾耶の小さな手がすっと動いて、美貌を伝っていた涙を拭った。

 

「僕はもう……聖天子様からあらゆるものを頂いています。もう、十二分に。それでも、聖天子様が僕に与えていないものがあるとお思いでしたら……どうか、その分は今この世界に生きている全ての人と、これから生まれてくる子供たちにあげてください。僕が居なくなった後に……僕が見られなかったものをその人達に見せてあげて下さい。モノリスの無い景色を……どこまでも走れる大地を……同じ空を……」

 

「綾耶……」

 

 聖天子はこの時、綾耶の両親に会いたくなった。こんなに優しい子に育つのだ。立派な人達であったに違いない。

 

 そう思った時、聖天子は一つの事に気付いた。この子とはそれなりに長い時間一緒に居たが、自分は今の今まで重大な勘違いを犯していた。

 

 綾耶は、特別な子だと思っていた。これほど優しく、勇敢な子が特別でなくて何なのかと。

 

 でも違う。違っていた。綾耶は特別でも何でもない、普通の女の子だ。彼女が持っている光は、彼女の親から受け継いだもの。そして綾耶の両親もまた、その親かあるいは近しい人から光を継いでいたのだろう。

 

 綾耶はきっと聖天子を残して逝ってしまう。でも彼女が遺していく光は消えはしない。受け継ぐ者が居る限り。継いだ者はその光を守り、更に力強く輝かせる。今はまだ螢のようなその光は多くの人へと伝わりながら星となり、月となり、太陽となるだろう。

 

 そうして人がより良き存在となり、世界をより良く変えていく事こそが本当の命なのだ。

 

 聖天子はもう一度強く、綾耶を抱き締めた。

 

「あなたと会えた事は……私の誇りです、綾耶……どうか、一日でも長生きして下さい」

 

 

 

 

 

 

 

 東京エリア上空数千メートル。雲の平原を眼下に臨むその景色を、巨大な飛行船がゆったりと進んでいた。

 

 こんな形状の飛行船は、古今東西どこの国の企業や空軍にも存在していない。

 

 それも当然、これは個人の発注によって造られた物であるからだ。

 

 いつの時代にも、あまりにも先進的な発想の為にその分野から爪弾きにされる天才は存在する。この飛行船を設計したのも、航空部門では狂っているとしか思えないアイディアを提出して業界から干されたエンジニア達だった。彼等の狂気のアイディアは、無尽蔵の資金を持ったスポンサーによって具現化される事となった。スポンサーとは、当然ルイン達だ。

 

 ルインには、モデル・ブランクのガストレアウィルスとウィルス適合因子によってどんな姿にでも変身する能力がある。この力を以てすれば、大金を手にする方法などダース単位で用意する事が可能だった。

 

 この飛行船は、無着陸で空中を移動する基地として設計されている。更にステルス機能によって電子探索は勿論、機体全面に施された光学迷彩システムによって肉眼での発見も不可能な、まさに見えざる天空の神殿であった。

 

 そして神殿には、祭壇の間が付き物である。

 

 その祭壇には今、同じ顔をした女性が8人、それぞれ傍らに呪われた子供たちを従えて顔を突き合わせていた。彼女達からは少し離れた所に、影胤・小比奈も姿勢を正して立っている。

 

 同じ顔の女性達は、8人のルインだ。

 

 “七星の一”ルイン・ドゥベとモデル・ウルヴァリン(クズリ)のイニシエーター、エックス。

 

 “七星の二”ルイン・メラクとモデル・パラサイト(寄生虫)のイニシエーター、アリエッタ・ディープダウン。

 

 “七星の三”ルイン・フェクダとモデル・ライス(稲)のイニシエーター、魚沼小町。

 

 “七星の四”ルイン・メグレズとモデル・オルカ(シャチ)のイニシエーター、ティコ・シンプソン。

 

 “七星の五”ルイン・アリオトとモデル・スネイル(巻き貝)のイニシエーター、アナスタシア・ラスプーチン。

 

 “七星の六”ルイン・ミザールとモデル・コーラル(珊瑚)のイニシエーター、数多群星。

 

 “七星の七”ルイン・ベネトナーシュとモデル・シースラグ(ウミウシ)のイニシエーター、アンナマリー・ローグ。

 

 “七星の番外”ルイン・アルコルとモデル・マッシュルーム(キノコ)のイニシエーター、ステラ・グリームシャイン。

 

 彼女達と、蛭子親子と、そしてもう一人。

 

「ああ、ごめんなさいね。少し、遅れてしまったわね」

 

 気安い声と共に入室してきたのは一人の少女。

 

 ボリュームのある蒼い髪をポニーテールに束ね凛とした空気を纏った呪われた子供たち。

 

 モデル・エレクトリックイール(デンキウナギ)。IP序列元11位、星を統べる雷帝(マスターオブライトニング)、ソニア・ライアン。第三次関東会戦でアルデバランを道連れに死んだ筈の彼女が、そこに居た。勿論、両足はきちんとついている。どころか、その体には目立った外傷の一つとして無かった。

 

「……生きてたんだね」

 

 小比奈が、流石に度肝を抜かれたらしくぽかんとした顔でそう呟く。

 

 彼女の疑問も当然だ。如何に呪われた子供たちが高い再生能力を持つとは言え、地形をも変える爆発の爆心地に居て手足一つの欠損も無いなど、有り得るのだろうか。

 

「驚く事じゃないわよ」

 

 と、ソニア。目に炎を点すと、ばちっと指先に火花を作ってみせる。

 

「私の電磁バリアは、最大出力で展開すれば核爆発ですら防ぎ切る。あの程度の爆発をガードするぐらいは造作もないのよ」

 

「……あ、そう」

 

 流石の小比奈も、頭痛を感じたように頭を押さえた。

 

 EP爆弾の爆心地にいて生き残っていた理由は分かったが、それを成し遂げた理由がムチャクチャだった。本当に、ソニアは常識を超越している。何でもありにも程があるというものだ。

 

「……それで、良かったの? あなたさえ良ければ、今からでもティナちゃんの所へ帰っても……」

 

 気遣うように言ったのは、ベネトナーシュだった。彼女は39区第三小学校の教師・琉生としての顔を持ち、他の面々と比べてもソニアやティナと過ごした時間が長い。だからこその問いだった。

 

「分かってるでしょ? 私が生きている限りティナや、周りの人達は安全じゃないって。だから、私は死ぬ必要があったのよ」

 

 あの時、綾耶に語った言葉は嘘ではない。寧ろ本当の事が多い。

 

 最強のイニシエーターであるソニアの力は、比類無く強大だ。

 

 周囲数キロの砂をガラス化させる程の電熱を生み出し、あらゆる金属を操り、電位レーダーで周囲の状況を把握し、星の裏側の地殻変動を操り、マッハ400以上のスピードで走り、超電磁砲・粒機波形高速砲を撃ち、マイクロブラックホールすら作ってみせる。一個人が持って良い力の範疇を、遥かに逸脱している。

 

 ソニアを手に入れる事はそのまま世界を手に入れる事にも等しい。逆に手に入れられないなら、その力が自分達に向けられる可能性がある。ならば殺さねばならない。そうした欲と恐怖に取り憑かれた連中は叩いても払っても湧いてくる。自分一人だけならそれこそハエのように払って終わりだが、周りにティナや綾耶、戦う力を持たない子供たちが居るのではそうも行かない。

 

 だから、ソニア・ライアンは死ななければならなかった。

 

 まず、翠を救った後で駆け付けた木更達の記憶を書き換えた。人間の思考・記憶とは、極論すれば脳内での電気信号。電気を操るソニアは微弱電流を綾耶へ用いて彼女が忘れてしまっていた記憶を蘇らせたように、数十分前までの事象なら頭に触れた人間の記憶を書き換える事が出来るのだ。

 

 そうして3回目の出撃を2回目と誤認させたソニアは、回帰の炎を動かした3回目(実際には4回目)の能力使用の際、ウィルス適合因子の恩恵による形象崩壊のコントロールによってガストレア化間近を装い、アルデバランに特攻する”口実”を作った。EP爆弾の爆心地に居れば、死体が見付からなかったとしても不自然ではない。勿論、司馬重工でEP爆弾が開発中であるという情報は事前に電磁波を操って行ったコンピューターのダイレクトハッキングによって入手している。アルデバランを確実に倒す為には、これが使われるだろうと彼女はアタリを付けていた。

 

 全ては計画通りに進み、そして見事にソニア・ライアンは“死んだ”。こうなれば、最早彼女は追われる事もない。周りの者が、巻き込まれる事もない。

 

 後一つ、懸念すべき事があるとすれば……

 

「ティナちゃんは、良いの?」

 

「綾耶ちゃんが居れば、大丈夫よ。あの子が一緒なら、何があっても」

 

「そう……」

 

 琉生先生として綾耶を知るルイン・ベネトナーシュは、それ以上は何も言わなかった。

 

「じゃあ……本題に入るとしますか」

 

 進み出たルイン・アルコルが白衣のポケットから取り出したリモコンのスイッチを押すと、床全体がモニターとなって複雑な化学式や元素記号が表示される。

 

 イニシエーター達はその意味がさっぱり分からないという様子であったが……アルコル以外の7人のルインは一様に喜色を浮かべた。

 

「とうとう……完成したのね」

 

「CLAMPが……」

 

「10年の時を越えて……」

 

「遂に……私達の夢が叶うのね」

 

 感無量という風にプロモーターだけで盛り上がって、イニシエーター達は居心地が悪そうになった。エックスが、主の袖をくいっと引く。

 

「……マスター・ドゥベ。クランプって何? 教えて」

 

「ああ……ごめんなさいね、エックス。じゃあ、アルコル……お願い」

 

 白衣を羽織ったルインの一人は頷いて、進み出る。

 

「CLAMPとはつまり……天秤宮(リブラ)の殺人ウィルスのデータをフィードバックして完成させた空気感染型ガストレアウィルスと、侵入した生物にガストレアウィルス適合因子を組み込む機能をプログラミングしたナノマシンの事よ」

 

「く……空気感染型ガストレアウィルス……!!」

 

 小町が、ぞっとした顔になった。

 

 ガストレアウィルスによって人間が滅亡していないのは、偏にこれが血液感染しかしないという特性による。ガストレアを食べたり性交したりしても、感染する事はない。だが、アルコルが品種改良によって作り出したこの新型ウィルスはそれを覆す。これだけなら、まさに人類史を終わらせる悪夢である。

 

 そこで物を言うのがもう一つ、ウィルス適合因子を組み込む機能を持たせたナノマシンである。ナノマシンとはつまり極小の機械、人工のウィルスと呼ぶべき物だ。

 

「ここで問題。当たったら50点獲得よ」

 

 いつも通りの調子で、アルコルが尋ねる。

 

「この二つをバラ撒いたら……世界に何が起こると思う?」

 

 イニシエーター達はそれぞれ顔を見合わせて、ややあってはっとした顔になって視線をアルコルへと集中させた。

 

「そう、最初に散布したナノマシンによってウィルスへの適合因子を持った人達の頭上に、空気感染するガストレアウィルスが降り注ぐ……すると……?」

 

「適合因子を持った人達は、当然ガストレア化しない……」

 

「ウィルスの保菌者になる……」

 

「私達、呪われた子供たちと、同じような……」

 

「つまり……」

 

「全ての人が、イニシエーターになる?」

 

「見事に50点獲得ね」

 

 上機嫌に、くっくっと喉を鳴らすアルコル。

 

「補足するなら、まずは散布するのはこの東京エリアだけに限定するつもりよ。流石にいきなり世界全部に散布するのはリスクが大き過ぎるし……それに、住民全てがイニシエーターになったエリアの統治をどのように行うのか……そのモデルケースが必要になるからね」

 

 ルイン達がアルデバランの侵攻から東京エリアを衛ろうとした理由が、これだったのだ。最悪CLAMPに何かしらの不具合があった場合でも、被害はエリア一つ分で止まる。

 

「マスター・ベネトナーシュ、どうして人類全てをイニシエーターにするのですか?」

 

「平和な世界の為よ」

 

 アンナマリーの問いに、ベネトナーシュが答える。

 

「アン……この世の全ての争いは、詰まる所……あなたは私と違う。此方は彼方と違う……そこから始まるのよ」

 

「人は今まで、住む所・貧富・肌の色……そんなものを理由に、あるいは拠り所として争いを続けてきたわ……それは2000年前から今まで、残念ながら変わっていない」

 

「でも、今の世界では人類同士の争いは驚くほど少なくなっている」

 

「それはガストレアという、時間には左右されない絶対的な敵と、紅い目を持った呪われた子供たちという分かり易い“差別階層”が生まれたから」

 

「特に後者……要するに“紅い目ではない”というのが、差別する人達の拠り所であるのよ。ならば、それが“無ければ”? ある日、一瞬にして喪われたのなら?」

 

「人種差別だって、ガストレアがこの地球に現れる前の時代では既に、声高に叫ぶような人は極一部に限られていたのよ? それは差別意識を持つ事は恥だという、健全な理念を人が獲得しつつあった事に他ならない」

 

「でも残念だけど、理念と感情は別物……差別の意識は、未だ全ての人の中に燻り続けていた。不用意に触れれば爆発する、不発弾のように……それは、今の世界で差別されている呪われた子供たちを見れば分かるわね?」

 

「だから私達は……その不発弾の信管をブッ叩くのよ。CLAMPを使って……!!」

 

 ルイン達が代わる代わる、説明していく。

 

「危険では……?」

 

 ティコの疑問も、尤もであった。

 

「そう、危険で乱暴な方法ね」

 

「でもどんなに危険な方法でも、その壁を乗り越えない限り……この世界から差別は無くならない……!!」

 

「本当ならこれは、10年前に成される筈の事だったのよ……」

 

「私達は、ずっとその為に研究していた」

 

「一姫(かずき)ちゃん、双葉(ふたば)ちゃん、来三(くるみ)ちゃん、五澄(いずみ)ちゃん、六花(りっか)ちゃん、七海(ななみ)ちゃん、八尋(やひろ)ちゃん、九音(くおん)ちゃん、乙十葉(おとは)ちゃん、土萌(ともえ)ちゃん、王里栄(おりえ)ちゃん……あの子達も、その為に……」

 

「あいつらの、暴走さえなければね……」

 

「まぁ……過ぎた事は良いわ」

 

 ぱん、と手を叩いてアルコルが締め括る。

 

「さて、このCLAMPだけど……使うには、私達8人の全員一致が大原則なのよ」

 

 ルイン達にしても、このCLAMPがどれほどの劇薬であるかは百も承知。それ故の全員一致だった。

 

「それで、フェクダ……あなたの意見は、変わらないの?」

 

 実は8人のルインの中で、三番目のルイン・フェクダだけはCLAMPの即時使用には反対していた。

 

 彼女達が生み出す事を目的とする星の後継者とは、人間が肉体・精神の両面でより良く進化した新たな種である。CLAMPはその開発コードの通り、肉体面を進化させて現行の人類と星の後継者を繋ぐ鎹(かすがい)だ。だが肉体だけが進化しても……と言うのが、フェクダが反対する理由だった。

 

 ガストレアとの戦いが永遠に続き、人間同士で争うという概念が消滅したその時にこそ、CLAMPは使われるべきだ。その時こそが、星の後継者が誕生する栄光の日なのだと。それまでは自分達ルインはCLAMPを守り続け、その日が一刻も早く来るように、人類を導くべきなのだと。

 

 それがフェクダの意見だった。

 

 昨日までは。

 

「いえ……私も、CLAMPの即時使用に賛成するわ」

 

「フェクダ……」

 

「良いの? 私達に気を遣っているなら……」

 

 ドゥベとミザールの問いに、フェクダは首を振って返す。

 

「そんなんじゃないわ……私は、もっと個人的な事情でこの案に賛成票を投じるの」

 

 CLAMPの効果は、人類全てをイニシエーターにするだけではない。ガストレアウィルス適合因子を全ての人が持つようになるという事はつまり、現存する全ての呪われた子供たちが完全なウィルスへの適応能力を持つようになるという事。つまり彼女達は侵食率の上昇による、命の枷から解放される。

 

「私はあの子に……綾耶ちゃんに、長生きして欲しいの。それだけよ」

 

「……そう」

 

「まぁ、良いんじゃない?」

 

「私達だって賛成する理由の、動機の根本は結構違っているんだし」

 

 メラクと、ベネトナーシュが頷く。

 

 元々10年前に起きる筈だった事が今起きるだけという意見の者も居る。

 

 同時に、あまり大きな変化が起きないではないのかという者も居た。

 

 ガストレア戦争が始まる前、アメリカ合衆国ではセルフディフェンスの為に銃の所持が認められていた。ある時、二つの市で同時に市長が替わって、銃に関して二つの市では正反対の政策が執られた。一方の市では銃器の所持を全面的に禁止し、もう一方の市では小火器や弾薬を家に常備する事を義務付けた。しかしこの二つの市で、犯罪の発生率はどちらも全く変化しなかったという。それはつまり、犯罪を犯すのは銃ではなく人であるからだ。ならば同じように力を得ても、人は変わらないのではないだろうかと。

 

 誰もが、ガストレアに抗う事が出来る力を持つべきという者も居る。

 

 使用を待っている間にCLAMPが何者かに奪われない保証は無い。ならばすぐに使うべきだという者も居る。

 

 理由は各人それぞれだがしかしこの時、8人のルインの間で、意思の統一は成された。

 

「じゃあ……始めますか」

 

 アルコルがリモコンを操作するとガコン、という音が振動と共に伝わってくる。

 

 飛行船下部の、爆撃ハッチが開いた音だ。そこにはCLAMPを充填したポッドが格納されている。計算ではこの高度でポッドを開放すれば、CLAMPは気流に乗って一日と経たず東京エリア全域へと拡散する。

 

「永遠の平和と、永遠の闘争の始まり……ヒヒッ、面白くなりますね。我が王達よ」

 

「強い奴が、沢山生まれる世界になるんだよね? あはっ、会いたいな、斬りたいな、会いたいな、斬りたいな♪」

 

 蛭子親子は壊れた機械のように、どこか調子を外して笑い。

 

「私は……見届けさせてもらうわ。ルイン、あなた達が世界への義務を……どう果たすのかを」

 

 ソニアは、少し離れた所で静かにそう言い放った。もしルイン達が自分達の理想を自ら裏切るようならば、その時は自分が裁定者としてルインを滅ぼす。それがソニアとルイン達との契約だった。

 

「さあ……始めましょう。これより全てが終わり、これより全てが始まるのよ」

 

 そうしてアルコルはCLAMP発動の最終スイッチを、押した。

 



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