ほさかだもん (カレー大好き)
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第1話 ほさか
全部で4話の予定ですので、気軽にお楽しみください。
日本には書道という伝統文化がある。
遥か古に大陸より伝わり、数千年の時を経て独自の発展を遂げた歴史ある造形芸術だ。
意思を伝えるために生み出された文字を更に洗練し、独自の表現法で形にする事で、心の内に湧き上がる感情のすべてを紙という限られた空間に開放し、書き記す。
そうして形となった言葉には力を持った言霊が宿り、見る者たちに大いなる感動を与える。
その瞬間、ただの紙だったものに神が降臨するのだ。
書道家とは、内なる神を解き放って現実世界に顕現させる、可能性を具現化する者たちなのである。
そして、この物語の主人公、保坂(23歳・男性・独身)もまた、そんな浮世離れした書道家の1人であった。
有名な書道家の後継ぎとして生まれた彼は、ご他聞に漏れず父親と同じ道を進む決意をした。
高校まではバレー部で青春を謳歌していたのだが、卒業をきっかけに両親と話し合った結果、大学に通いながらプロの書道家を目指すことにしたのである。
「見ていてくれ南ハルカ。俺は、君と築いたかけがえのない思い出を胸に、新たな世界で頂点を極めてみせよう!」
実際は、南 春香(みなみはるか)という名の下級生とは話したことすらなかったのに、勝手に美化して前向きな原動力にしてしまう。
そのように前向きかつ独創的すぎる性格がこの男の良い所であり、【きもちわるい】ところでもあった。
しかし、憎たらしいほどに器用な保坂は、本格的に書道を始めて1年も経たずに頭角を現し、初めて出展した有名な書道展で見事に1位を取ってしまう。
「ありがとう南ハルカ。君のおかげで、俺は最高のスタートを切ることができた。これぞまさに、愛のなせる奇跡と呼べるだろう!!」
ものすごく勝手な妄想で盛り上がっている点はいただけないが、素晴らしい結果を出せたことは間違いない。
とにもかくにも華麗なデビューを果たした彼は、その後も類稀な才能を遺憾なく発揮し、5年経った現在では書道界で知らぬ者がいないほどの若き新鋭として名を馳せていた。
☆★☆★☆★☆
初夏を迎えたある日、大きな書道展でまたしても1位を取った保坂は、受賞パーティーに出席するために会場へと向かっていた。
「書道を始めて日の浅い俺が、5年でここまで認められるようになるとはな……改めて振り返ってみると、我ながら上手くやってこれたものだ。これもバレー部で培った器用さのおかげだな」
「いや、バレー部あんま関係なくね?」
保坂の隣を歩いているメガネをかけた金髪男がツッコミを入れる。
中学時代からの友人にして良き理解者である川藤 鷹生(かわふじ たかお)は、学生の頃とまったく変わらない奇妙な友人に微妙な笑みを向けた。
画商を営む彼は保坂の実力を買っており、彼の人気が順調に上がっていることを公私共に喜んでいるのだが、この独特な性格はどうにかならないものかと思うときが多々ある。
「(容姿も良いし、性格も悪くはないんだがなぁ……)」
あまりに独特すぎるきもちわるい雰囲気がすべてを台無しにしてしまっている。
今も歩道を歩きながらYシャツの胸元をやたらとはだけて、すれ違う女性たちをドン引きさせている真っ最中だ。
汗ばむほどに気温が上がっているとはいえ、正装した姿で乳首が見えるほど肌を出してるヤツはどう見てもおかしいだろう。
「ふぅ、それにしても今日は暑いな……」
「確かに暑いが、街中で上半身を出すな! これから受賞パーティーだってのに、俺に恥をかかせんなよ?」
「当然だ。この俺が親友であるお前にそんな思いをさせるだろうか。いや、させるわけがない!」
「反語で反論する前にYシャツのボタンをとめやがれ!」
いつもの調子でおバカな会話を進める2人。
しかし、この後予期せぬ大事件が起こることになろうとは思いもしていなかった。
その出来事は、展示館の館長と保坂が会話し始めたことで起こった。
書道界の重鎮でもあるその老人は、1位を取った保坂の作品を、事もあろうに本人の前で酷評したのである。
「まだ若いのに、型にはまった字を書くね」
「お褒めに預かり光栄の至りです」
「……えっ!? いや、あの、今のは褒め言葉じゃないし、私の話にはまだ続きがあるのだが……」
「なるほど、どうやら早とちりをしてしまったようですね。とんだご無礼をいたしました」
「あ、ああ……そこまでかしこまらんでもいいよ、うん……」
あまりに前向きすぎる保坂に流石の館長も調子を狂わされた。
しかし、心を鬼にしてでも、この礼儀正しき(?)若者に伝えなければならない言葉がある。
才能ある彼の将来を、より実りのあるものにして欲しいと願う者として……。
「君の字は確かに上手い。だが、手本のような字と言うべきか、賞のために書いた字と言うべきか。君自身の個性が感じられない」
「俺自身の個性……?」
「そうだ。君は、平凡と言う壁を乗り越えようとしたか?」
年老いてなおを書道家として前に進み続けている館長は、鋭い眼差しで保坂を見据えた。
彼の目から見た保坂の字は他人の猿真似にすぎず、それは事実であった。
この字は、尊敬すべき父親の技術を忠実に踏襲して書いたものだからだ。
書道家として経験の短い保坂は、地盤を固めるためにあえて人気の取れる書き方をしているのだが、若者の可能性を期待している館長としては、もっと個性を感じさせる作品を求めていた。
つまり、保坂と館長の考え方は、根本的な部分で食い違っているというわけだ。
「「……」」
その瞬間、2人の間に緊張が走る。
どちらの意見も正しさと間違いを含んでおり、期せずして対立することになってしまった彼らの関係にも暗雲が立ち込めるかと思われた。
しかし、やたらと打たれ強い保坂は、公衆の面前で批判されたにもかかわらず、ごく普通に意見を返した。
「館長の含蓄あるお言葉、痛み入ります。しかし、そのありがたいお言葉を返すようで恐縮ですが、私も自分なりのスタイルを確立するための努力を試みております」
「ほぅ、はっきり否定されているのに、反論できる何かがこの字にあるというのかね?」
「はい。まずは論より証拠、実際に確かめてみてください」
「……確かめる?」
館長は疑問符を浮かべた。
確かめるも何も既に鑑賞したからこその批評なのに、この若者は何を言い出すのか。
しかし、彼の努力は館長の想像の斜め上を行っていた。
「一体何を確かめろというのかね?」
「それは、私の作品の【匂い】です」
「に、匂い!?」
「はい。とりあえず、近くに寄って嗅いでみてください」
よく分からないが、言われるままに鼻を寄せて匂いを嗅いでみる。
すると、嗅ぎ慣れた墨汁の匂いの中になぜかスパイシーな香りが混ざっている。
「これは……」
「どうですか? 墨汁の中にカレーのスパイスを混ぜることで、視覚だけでなく嗅覚でも書を楽しむことができるように試みたのです! これぞ私の新境地! 名付けて、【華麗なる時代の幕開け】!!」
「…………へっ!?」
この若者は一体何を言っているのだろうか?
訳が分からず一瞬呆然としてしまったが、徐々に理解しだすと館長は怒りを感じた。
彼は書道を冒涜しようとしているのかと。
「保坂君、君は書道を何だと思っているのかね?」
「はい。私の思う書道とは、目に見える文字を用いて姿無き己の心を自由自在に表現する、人智と神秘を融合させた素晴らしき造形芸術です」
「ふむ……ということは、これが君の心という事かね?」
「その通りです」
内心で憤っていた館長は、堂々と自分の考えを答える保坂の目を見て本気だと理解した。
もちろん保坂はまったくふざけてなどおらず、真剣に考えた末にこの作品を作った。
その理由は以下の通りだ。
「一般社会における書道のイメージは、お世辞にも開けているとは言えません。伝統や格式を重んじるあまり必要以上に敷居が高くなり、残念ながら親しみにくい特殊な芸術となってしまっているのが実情です。だからこそ私は、書道をもっと自由に楽しめるものとして変革させたいと考えたのです!」
「……それがこの匂いかね?」
「ええそうです。カレーとは、日本における代表的な家庭料理であり、子供たちの大好きな食べ物でもあります。そのように慣れ親しんだ匂いが堅苦しい書道作品から香ってくれば、子供たちも親しみを持ってくれるのではないか。そうして興味を持った書道に新たな風を呼び込んでくれるのではないだろうか。そんな願いを込めてこのアイデアを実行しました。書道とは、もっと身近にあるべきものなのだと理解してもらうために!」
「むぅ…………(まさか、そこまで考えての行動だったとは……。この若者、私が思っている以上に大物なのかもしれん)」
真相を聞いた館長は思わず唸ってしまった。
確かに一理ある意見であり、アイデアも面白い。
新しい形の芸術としては試してみる価値があるだろう。
しかし――それはもう、書道ではない別物だ。
当然ながら館長の求めている新境地ともまったく関係ないので、その点では評価に値しない。
ただし、凡庸な愚か者ではないことも分かった。
「(思っていた通り、この青年の将来には大いに期待が持てる。だが、今はまだ目指すべき道筋が見えていないようだ。というか、努力の方向性を完全に間違えている! 墨汁にカレーのスパイスを入れてみようだなんて考えるものかね普通!?)」
常識人の館長は保坂の奇行に若干途惑ったものの、流石は年の功ですぐに落ち着きを取り戻し、いつもの冷静沈着な思考に戻る。
そして、次のように結論を出した。
若き書道家が行き先を見失っているのであれば、その道の先駆者として正しく導いてやらねばなるまいと。
こんなとんちんかんな男でも、書道家としての才能は確かなのだ。
後は、彼自身の道を見つけられれば――偉大な父親をも超える大物になれるだろう。
「(心熱き青年よ。願わくば、この老いぼれに新たなる可能性を見せて欲しい)」
未来を見つめて邁進している彼の話を聞いた館長はそのように期待した。
このおかしな若者にはそれができるような気がしたのである。
だからこそ、再び心を鬼にしてお叱りタイムを始めた。
「……君の考えは分かった。確かに、君が真摯に努力していたことは認めよう。だが、それを書道として評価することはできない。そもそも、目の前にある壁を乗り越えようともせぬ者がその先を求めるなど、まったくもって論外だ」
館長は、図星を突くことで保坂の成長を促そうとする。
前にも述べたが、保坂の書く字は父親の模倣だ。
書道家として大成している父親の字は、既にお手本と言えるほどまでに完成されている。
ゆえに、それを模しているだけでは先に進めないのだと館長は言いたいのである。
「(君が更に躍進するためには、父親という大きな壁を乗り越えようとしなければならんのだ)」
書道界の重鎮である自分からここまで言われれば、当然我が身を省みようとするだろう。
館長はそう思い、あえて人目のある受賞パーティーで罵って見せた。
しかし、それでも保坂は引き下がらなかった。
高校時代に【カレーの妖精】とまで呼ばれていた彼のカレーに対する愛情は、異常なまでに過剰で純情な感情となっているからだ。
書道とはまったく関係ない所で熱くなった保坂は、アホな事を言いながら館長に詰め寄った。
「待ってください館長! このスパイスは、私が何年も研究を重ねて完成させた極上のブレンドで、味の方も絶品なのです! 確かめてもらえば、すぐにでもご理解していただけるでしょう!」
「えっ!? いや、私はそのスパイス自体を否定しているわけではなくてだねー!?」
もう何が何やら無茶苦茶になってきた。
しかも保坂は、その極上スパイスとやらをなぜかタッパに入れて持ってきており、館長に味見してもらおうとフタを開けた。
その時、予期せぬアクシデントが起こってしまった。
慌てた保坂が足をもつれさせて、館長に向けて倒れこんでしまったのである。
そして、手に持っていた極上スパイスを館長の頭から全身にぶちまけた。
「「あっ!」」
華やかなパーティー会場に場違いなカレー臭が広がる。
更に運の悪いことに、ズッコケた保坂の右ストレートパンチが館長の左頬にクリーンヒットしてしまった。
「ぐはぁーっ!!?」
結構勢いがついていたので、杖を使っている館長では耐えられるわけもなく、思いっきりふっとばされてしまった。
「きゃ――!?」
「館長がカレー粉まみれにされた上に殴られた――!?」
「って、おい、保坂!? お前一体何やってんだ!?」
「あっはっは……よもや、カレーに対する愛情が俺の運命を変えてしまうとはな……。これが、若さゆえの過ちというものか」
「なぜこの場所でそうなる!?」
まるで状況が分からない川藤のツッコミももっともだが、保坂の言っていることも真実だからややこしい。
何にしても、色々な不幸が重なった結果、父親から反省と成長を求められることになった保坂は、とある場所へ送られることとなった。
こうして、この物語のお膳立ては整ったのだった。
☆★☆★☆★☆
数日後、父親から紹介された場所へと旅立った保坂は、長崎県に属する【五島】に到着した。
五島は九州の最西端にあり、大小あわせて140あまりの島々が連なる列島である。
都会から離れているため風光明媚な所なのだが、その代わりに人口も少なく、保坂が住んでいた東京とは比べるべくも無かった。
「人が見あたらないな……」
小さな空港から出て来た保坂は、辺りを見回しながらつぶやいた。
視界に見える範囲には1人もいない。
もちろんタクシーなどは1台も止まっておらず、1日1回しかこないバスも既に運行していないので、父親から教えられた場所に向かう手段が自分の足しかなかった。
目的地の七ツ岳郷はここからかなり離れており、歩いていけば半日以上はかかるため、普通の人なら途方にくれる所だ。
しかし、この男は違った。
「なるほど、これが俺に課せられた第一の試練というわけか。新たな門出の始まりとしては丁度良い。素晴らしい大自然を堪能しながら一汗かかせてもらうとしよう!」
恐ろしいまでにポジティブな彼は、まったく動じていなかった。
そうして勢いよく走り出すこと1時間後、保坂はようやく第一村人と出会った。
荷台の付いた耕運機に乗った爺さんが脇道からやって来て、見慣れない彼に話しかけてきてくれたのである。
その際に事情を話した結果、途中まで乗せてもらえることとなり、保坂は今、荷台に座りながら爺さんと会話していた。
五島弁という方言で喋っているため意味が分からない部分も多かったが、変な所で勘の良い保坂は普通に会話を成立させる。
そのように第一村人と親睦を暖めているうちに、海が見える場所までやって来た。
「ほら、兄ちゃん! うんぞ、うん!」
「うん?……海のことか」
「どげんか? おっが孫はうんば好じょってなぁ、キャーキャー叫んで喜ぶとよ!」
どうやら、彼のお孫さんはとても元気な子で海が大好きらしい。
そしてそれは保坂も同じだ。
海は良い……あらゆる生物がそこから生まれ、いずれは還っていく命のゆりかご。
「そう、海は母性の象徴であり、俺にとっては南ハルカを身近に感じさせてくれるかけがえのない場所なのだ……」
そう言って目を瞑った保坂は、幸せそうに浜辺で戯れる家族の幻影を見た。
父親の彼と母親の春香が、元気にお弁当を食べている2人の娘たちを優しげな眼差しで見つめる光景を――
『ハンバーグ、並びに唐揚げ、卵焼き、タコさんウィンナーは私のものだ。このバカ野郎』
『おいおい、このカナ様がレタスとブロッコリーだけ食ってろってかー!?』
『いや、お前などバランだけで十分だ』
『食いモンですらねーじゃねーか!!』
『あっははははは! 仲良くケンカをする前にいただきますが先だろう、娘たちよ!』
箸を武器にしてケンカしだした娘たちを嗜める。
すると、となりにいる春香が、おかずを取り分けたお皿をそっと差し出してきた。
ベージュ色のロングヘアがよく似合う美少女は、安心感を与えてくれる優しい声で保坂に語りかける。
『はい、こちらがあなたの分ですよ』
『ああ、ありがとう、ハルカ』
保坂は、愛しい妻からお皿を受け取ろうとする。
しかし、その行動は果たされなかった。
突然衝撃が走り、胸に感じる痛みと共に美しくもはかない幻想(妄想)から現実に引き戻されてしまったからだ。
「ハルカ!? そして娘たち!?」
「なんば言っちょっとか兄ちゃん。熱ばあっとか?」
急ブレーキをかけたらしい爺さんが変な目で保坂を見る。
彼が妄想に浸っていて様子がおかしかったからという理由もあるが、元々ここが終点らしい。
「おっが乗せゆっとはここまでたい。畑に行かばじゃそい」
なるほど、彼の畑がこの近くにあるのか。
ならば、ここからは再び徒歩だ。
しかし、その前に聞いておかなければならないことがある。
父親が用意してくれた借家では自炊が必要なので、先に食材を買っていこうと考えたのだ。
「ここまで送っていただき、どうもありがとうございました。ところで、ここから一番近いスーパーや商店街などを教えていただきたいのですが」
「ああよかよ。じゃっけん、そん前に服ば着んと若か女子に嫌われっとぞ?」
保坂は、妄想に耽っているうちに上着を脱いで上半身が丸裸になっていた。
いかに田舎とはいえ、この姿のまま歩き回れば速攻で不審者と認定されてしまうかもしれない。
流石に引越し早々から問題を起こしてしまうわけにはいかないので、すばやくシャツを着ると世話になった爺さんにお別れを言う。
「では、失礼いたします」
「ああ、気ぃつけちなぁ~」
爺さんは、おかしな青年を見送りながら、これから楽しいことが始まりそうだと感じてニヤリと笑った。
いきなり外で半裸になる男ですらすんなりと受け入れられる、実に大らかな爺さんであった。
☆★☆★☆★☆
親切な第一村人から教えてもらった商店街で食材などを買った保坂は、これからしばらくの間住むことになる借家に着いた。
平屋の一戸建てでだいぶ古臭い家だが、住めば都となるだろうと満足げにうなずく。
「とはいえ、だいぶかかったな」
あの爺さんのおかげで時間は短縮できたが、寄り道した商店街が予想以上に遠かったせいで既にお昼を過ぎている。
そのため、引越し屋に頼んで送っていた荷物の方が先に届いていた。
当然ながら鍵が閉まっているので、すべての荷物が玄関先に置きっぱなしだ。
この時保坂は悪いことをしてしまったと思ったが、その気遣いはある意味無用だった。
彼が来るのを待っていた従業員は必要な確認を済ませると、荷物を家の中に運ぶことなくさっさと帰ってしまったのである。
競争の無い地方のサービスは都会より行き届いていないらしい。
「まぁ、いいさ。このくらい元バレー部の俺にはどうということはない。いや、鈍った筋肉を鍛えなおすにはもってこいだ! 最近は書道に集中しすぎて運動不足だったからな、むしろ都合が良いとさえ言えるだろう!」
ここでもやはり前向きな発言をする。
炎天下の中をほぼ走り回ってきたのに、都会人とは思えないタフネスさである。
このように島に来て早々に馴染みまくっている彼だが、果たしてこの小さな冒険で父親の目論見通り人として成長することができるのだろうか?
早くも根本的なところで疑問が生じ始めているが、何にしても買って来た食材を冷やさなければならないので、とりあえず管理人に会いにいくことにする。
すると、元気過ぎる保坂に対してツッコミを入れるように、後方から見知らぬ男性の声が聞こえてきた。
「いやぁ、この炎天下の中を徒歩で商店街まで行って来るなんて、とんでもなく元気な人ですなぁ、田舎モンでも敵いませんよ」
「ん?」
声に反応して振り返ると、そこにはメガネをかけた壮年の男性が立っていた。
この借家の管理人で、集落の代表を務める木戸 裕次郎(きど ゆうじろう)だ。
「待ってましたよ」
郷長は、保坂が持っている買い物袋に気づいて軽く驚きつつも、親しげな様子で挨拶してきた。
しかし、ここで疑問に思うことがある。
鍵を持っているはずの彼は、引越し屋を放っておいて何をやっていたのだろうか。
ぶっちゃけると、先に鍵を開けても荷物を運んでくれるサービスはないので、2人はじっと保坂の到着を待つしかなく、ヒマを持て余した郷長は、どうせならと荷物の影に隠れて彼を脅かしてやろうと待ち構えていたのである。
普通の人なら中年オヤジのお茶目な行動に対して、『今までわざわざ隠れてたのかよ』とつっこんでやる所だが……
「ああ、郷長さんでしたか。初めまして、保坂です。気軽に保坂と呼んでください」
「……東京からご苦労でしたね」
保坂の場合、自分の方がビックリ人間なため、そんな当たり前なリアクションをするわけもなく話を進めていく。
「それでは郷長、鍵を渡してもらえますか?」
「え、ええ……(なんだろうこの人、かなり変わった感じがするぞ?)」
どこまでもマイペースな保坂は、目論見が外れて少し寂しそうな郷長から家の鍵をもらい、このあたりの土地事情などを聞きながら玄関の扉を開けようとする。
その時、なぜか保坂の動きが止まった。
「どうしました、保坂さん?」
「……いや、何やら家の中から複数の人間がいるような気配がしたのですが、恐らくは気のせいでしょう」
「はぁ……そうですか?」
郷長は、意味不明なことを言い出した保坂にドキリとしたが、とりあえず当たり障りの無い返事をして誤魔化した。
実を言うと、彼の発言に心当たりがあったからだ。
確かに、この家は人の気配を感じてもおかしくない状態にある。
しかし、家の中を見る前に気づくとは、この男の無駄に鋭い勘には驚かされる。
「(彼に中を見せて大丈夫かな?)」
恐らくは生活観が漂っているであろう家の中を想像して不安になる。
先にネタばらしをすると、この家は長い間借り手がいなかったため、近所の子供たちに秘密基地として活用されていたのである。
もちろん管理者側にも利点があって、家の痛みを抑えられる効果を狙って許していたのだが、そんな事情などまるで知らされていない彼が中の状態を見てどう思うか、そこが問題だ。
そんな郷長の心配を他所に、変なクセのある鍵をあっさりと開けた保坂は、昔ながらの引き戸を開いて玄関と一体化した居間の中を見た。
するとそこには、つい先ほどまで誰かがいたような痕跡が残っていた。
「これは……」
「(やっぱり……)」
見ると、四畳半の畳部屋にポテチやジュース、トランプや座布団が散らばっており、奥には電源の入ったラジカセと数枚のCD、壁にはポスターが貼ってあった。
明らかに新しい入居者を迎える状態ではなく、その光景を見た保坂は肩を震わせている。
もしかしなくても怒っているのだろうか?
「あ、あの~」
「郷長!」
「は、はひっ!?」
「お気遣いいただいてありがとうございます」
「……へっ?」
怒っているのかと思ったらなにやら感激している様子だ。
独特な感性を持つ彼は、この光景を常人とは別の視点で見たらしい。
「日常的な風景を用意することで、見知らぬ土地に単身引っ越してきた俺を安心させようとしてくださったのですね! 実に優しさのこもったおもてなしに、この保坂、心から感服しました!」
「えっ!? う、う~ん、喜んでもらえたのならなによりだよ……?」
「いやぁ、さきほど出会ったお爺さんといい、この島の方々は親切な人たちばかりだ! やはり、人間は素晴らしい!」
「(なんというか、すごく変わった人だなぁ……でも、まぁいっか)」
嘘をついたことは少し申し訳なく思うが、結果オーライなのでこのままやり過ごすことにする。
保坂に劣らずアバウトな性格の郷長は、上手くまとまりそうだと密かに胸をなでおろすのだった。
しかし、玄関前にとどまっている間に新たな問題が発生した。
この現場を作り出した張本人――制服を着た中学2年の少女2人が、右側の裏手から脱出して来たのだ。
「誰かが引っ越しち来るっちゅうこつば聞いちょったけど……」
「まさかここに来るなんてね……」
仲が良い2人の少女は、そっと歩きながら小さい声で話し合う。
先に喋った方言を使っている子は、山村 美和(やまむら みわ)という名のボーイッシュで勝気な少女だ。
酒屋を経営している豪快な父親の影響をもろに受けているようで、所属しているソフトボール部以外の運動部でも活躍するような行動派だ。
そして、標準語で話している子は、新井 珠子(あらい たまこ)という名の三つ編みで眼鏡をかけている大人しそうな少女だ。
彼女は自称文学少女で漫画家を目指しているのだが、ある時偶然見てしまったBL本のせいで腐女子属性に半覚醒してしまったという悲しい過去を持つ。
そんな2人が、家の角からそっと顔をのぞかせて保坂たちの様子を伺っている。
「若くてカッコイイ青年の引越しイベントか……漫画でよく見る第1話的な展開だわ」
「タマ、そんセリフは言うたらあかん。現実ば見うしなっち中二病ばなんぞ?」
メガネを光らせながらメタ発言をするタマに、美和のツッコミが入る。
それに今は無事に脱出するほうが先だ。
忍び足で歩き始めた2人は、引越し荷物の山で身を隠しながら2人の後ろを通り抜ける。
部屋の観察に集中している保坂と違って、彼より外が見えていた郷長はすぐに少女たちの姿に気づいたが、「しー!」とジェスチャーされたため見なかったことにした。
その瞬間、後ろ向きに立っている保坂が、意味ありげな言葉を言い放った。
「それにしても、実に趣のある佇まいだ……もしかするとこの家は、可愛い妖精たちの遊び場なのかもしれんな」
「「「(ぜ、全部バレちょるぅ―――!!?)」」」
保坂の言葉が聞こえた郷長と少女たちは戦慄した。
実際は、時間の経過を感じさせる古き良き佇まいに感動しての発言だったのだが、非常に紛らわしい言い方だった。
そんなわけで、一応保坂は美和たちに気づいていない……と思われる。
いずれにしても姿を見られてはいないので、無事(?)に脱出できたと言ってもいいだろう。
木で作られた塀の外に逃げ込んだ少女たちは、胸を押さえながらふぅっと一息つく。
「はぁ~、ばり焦ったぁ~……絶対うちらに気づいちょっとぞ、あれ!」
「でも、怒ってなかったみたいだし、けっこう良い人なのかも……」
「そげんかなー? っち、部屋に置いちきた私物ばどがんすっと!?」
「あ……」
そう言えばその通りだ。
貴重なお小遣いで買ったCDやラジカセ、それにお気に入りのポスターなどが置きっぱなしにしてあることに気づいた2人は途方に暮れる。
「こんままじゃ、全部捨てられっかもしれんぞ!?」
「うう、せっかく集めた私のCDが……」
2人の女子中学生は、悲惨な未来を想像して焦り出した。
あれは彼女たちにとって大事なお宝なのだ、処分されてしまう前に取り戻さなければならない。
いや、それ以前にあの基地自体を奪われるわけにはいかない。
そもそも、いきなりやって来た向こうの方が悪いのだから、勝手に追い出されてたまるものか。
とても逞しい精神を持っている彼女たちは、都会から来た青年に対してもまったく物怖じする気配は無かった。
「こげんなったら、基地ごと取戻しちゃるけん!」
「そうだね、あそこが奪われちゃうとかなり痛いし」
「あ~、今のセリフば、ちょこっとエロかね?」
「……」
「ごめん。ばり謝るけん、反応ばしてよ!」
タマに目をそらされた美和は、自分から話を振ったクセに恥ずかしくなって泣きついた。
実に中学生らしい甘酸っぱい(?)やり取りである。
「と、とにかく、今日のところは見逃しちゃるけん、次に会った時ば覚悟しときよ!」
「典型的な悪役のセリフだね……」
何はともあれ、脱出に成功した少女たちは、逆襲を誓いながらその場を後にしていった。
そんな怖いもの知らずな2人が保坂の恐ろしさ(?)を思い知るのは、これより数日後の事となる。
残念ながら、1話目にはヒロイン(?)のなるは出ません。
彼女の登場は次回からとなります。
まぁ、あの子をヒロインと呼んでいいのか迷うところですけどね。
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第2話 なるはヒロインぞ!
2人の女子中学生が去った後、保坂と郷長は何事も無かったかのように家の中へ上がった。
まずは目の前の居間に入り、向かって右側にあるふすまを開いて隣の部屋を見てみる。
そちらの部屋は押入れなどの収納がある寝室だった。
更に、向かって左手のふすまを開けると、この家で一番広い六畳間に繋がる。
「よし、パソコンはすぐに使えそうだな」
事前に頼んでおいたネット環境がこちらの部屋に整っていたので、保坂は満足気にうなずく。
しかし、寝室に戻ってきた彼は、とある場所を見ると考え込むような表情になった。
どうやら収納のほうが気になっているようだが、その原因とは一体何なのだろうか。
「どうかしましたか?」
「ふむ……あの引き戸の中が気になるな」
視線を向けた途端に何かを感じたらしい保坂は、クローゼットと思しき引き戸を開く。
すると、右側の奥に貼ってある怪しげなお札が2枚ほど目に入った。
よく見るとかなり本格的なもので、いわゆる魔除けの札らしい。
「郷長、これは――」
「ああ、気にしないで。ただのお札だから」
どうやら中身を知っていたらしい郷長は自然な様子でそう言うと、さりげない動作でお札を引き剥がそうとした。
普通だったら「そんなことしていいのかよ」とか「なぜこんなものが張ってあるのか」とつっこむ所だ。
しかし、まったく動じていない様子の保坂は、その隠蔽作業(?)をやんわりと止めた。
「いけませんよ郷長。そのお札があればこそ、彼らの心も安らぐのでしょうから」
「はぁ、そうですか……って、彼ら!? 彼らってなんですか!? ねぇ保坂さん!!」
郷長は、何やらおかしなことを言い出した保坂に恐怖した。
やたらと心の広い彼は、危害を加えてこないものなら妖精だろうが何だろうが受け入れる度量があったため特に気にしなかっただけなのだが、その余裕が逆に気になる。
とはいえ、本人が残していいと言っているのなら、そのままにしておいたほうがいいかもしれない。
ここで遊んでいる子供たちも気にしてなかったし、問題はないはずだ……たぶん。
「……それじゃあ、次行きましょうか?」
「ええ、頼みます」
何はともあれ、いわくありげな寝室を後にした2人は、水周りのほうに向かう。
玄関から向かって左側にある居間の引き戸を開けると、古めかしい台所が目に入ってくる。
そこから廊下に出て左手側の突き当たりに洗面台、その右手にお風呂とトイレが設置されているようだ。
それらを順次見て回ると、どれも古き良き昭和のかほりを感じさせる作りをしていた。
「ほう、よもやこれほどのものとは思わなかったな」
内装を見た保坂は、興味深げに目を見張った。
汲み取り式便所にバランス釜のお風呂など、もはや都会では見受けられない代物ばかりだ。
どれもこれもが古過ぎて、近代的な東京での暮らしに慣れている者なら思いっきり引いてしまうところである。
しかし、ここでも保坂は違う反応を示した。
「うむ、これは想像以上に創作意欲が湧いてきそうだ」
「へぇ~、そうなんですか?」
「はい、元々文字と言うものは、こういった不便な生活から生み出されてきたものですから。それを直に経験できることは書道家としてプラスになるのです」
「なるほどねぇ……(やっぱり変わった人だなぁ。でも、真面目な人みたいで安心したよ)」
郷長は呆れながらも安堵した。
昔馴染みである保坂の父親から世話を頼まれた時はどんな問題児が来るのかドキドキしていたが、良い意味で裏切られた感じだ。
そりゃ、目上の人にカレーのスパイスをぶちまけてからパンチをかますような人間と聞けば誰でもビビるだろう。
「(まぁ、それは事故だったらしいし、この分なら問題ないかな。たぶん)」
保坂の人柄を見てとりあえず一安心した郷長は、ほっとしながら説明を続けた。
汲み取り式便所の注意点や風呂場でバランス釜の使い方などを一通り解説する。
そうこうしているうちに数分経ち、2人は再び台所に戻ってきた。
保坂は書道家であると同時に料理にもプロ意識を持っているので、第二の職場とも言える台所は要チェックすべき場所なのだ。
「南ハルカならばそうするだろうからな……」
台所の入り口に立った保坂は、愛しい女性のエプロン姿を思い浮かべつつ辺りを見渡す。
この家の台所は実にシンプルな作りで、旧式のガスコンロとタイル張りの流し台、そして備え付けの食器棚ぐらいしかない。
借り手がいない間も手入れはしているようで、それほど痛んではいないようだ。
なぜか床に落ちている鍋やフライパンなどが気になるが、東京から送ってきた道具と冷蔵庫を持ってくればとりあえず問題ないだろう。
「なに、過酷な状況の方がかえって燃え上がるというものだ。この保坂、粗末な環境に負けることなく、最高の料理人となってみせよう!」
「おお~、すごい気合だねぇ。若者らしくて実にいい……って、最高の料理人!? 君って書道家じゃなかったっけ!?」
急に変なやる気を見せた保坂に、郷長はノリツッコミをしてしまった。
まったく、この青年は本当に奇妙だなぁ。
それでも、料理に対する熱意と誠意は本物なので、悪いことではないだろう。
本来の目的を忘れていなければの話だが。
「後は一通り掃除をするだけで良さそうですね」
「ええ。水道、ガス、電気もちゃんと使えますから、普通に住めますよ」
借り手がいない間もライフラインはそのままにしてあり、問題なく使える状態となっている。
子供たちがここを秘密基地にしていたのもそのためだ。
しかし、古い家だけあって悪い部分も当然あった。
この場には、古い家には付きものの【招かれざる客】がいたのである。
カタカタッ
「ん?」
保坂は、隣にある食器棚の上から聞こえてきた物音に気づいてそちらに顔を向けた。
見ると、そこには茶筒らしきものが置いてあり、それが勝手に揺れていた。
そして、その理由を確かめる間もなく、そちらから飛んできた何かが保坂に向かってきた。
ぶっちゃけると、この家に住み着いている【ネズミ】だ。
「!?」
最近作られた家では滅多にお目にかかれないポケモン……もとい、小動物である。
しかし、小さいからと言って侮ってはいけない。
ネズミを媒介とする恐ろしい感染症は多いので、実際に見かけたら早急に駆除すべき存在だ。
残念ながら、現実では夢の国のように可愛いというだけで済ますわけにはいかないのである。
もちろん保坂もその辺は心得ており、すぐさま行動に移った。
「ふんっ!」
「ええ―――!? とんできたネズミを空中で捕まえたぁ―――!?」
「元バレー部の俺に向かってくるとは、ずいぶんとやんちゃな奴だ」
なんと、恐ろしい反射神経を持っている保坂は、飛び掛ってきた野性のネズミを素手で捕獲した。
本当は直に触らないほうがいいのだが、体が咄嗟に動いてしまったのだ。
とはいえ、気に病むことは無い。
こんなこともあろうかと買っておいた消毒液があるので、しっかりと手を洗えばいい。
後はこの不法侵入者をどうするかだ。
「本来なら駆除すべきなのだろうが、今日はめでたい日だからな。特別に解放してやろう」
保坂はやたらと爽やかな表情でそう言うと、なぜか玄関から外に出た。
そして、そこから手に持ったネズミを――思いっきりぶん投げた。
「さぁ、大自然にお帰りっっっっっ!!!!!」
「って、あれじゃあ別の意味で大自然に還っちゃうよ――!!?」
あまりに衝撃的なシーンを目撃して郷長はビックリした。
この家の周りはちょっとした森になっているのでネズミを投げても苦情は来ないが、まさかあんな豪快な手段にでるとは思いもしなかった。
しかし、これが自然の摂理というものなのだ。
人里離れた場所での一人暮らしで食中毒にでもなったら命にすらかかわってくる。
だからこそ、害獣を遠ざけた保坂の行動は間違っていない。
ぶん投げたのは、生き残れる可能性を残してあげた保坂なりの気遣いだったわけだ。
「よし、後は手洗いを済ませるだけだな」
「(なんてワイルドな人なんだ……本当に東京から来たのかな?)」
あまりに野生的な行動を目の当たりにした郷長は、密かに疑惑の眼差しを向ける。
そんな中、マイペースな保坂は先ほど商店街で買った消毒液を持って台所に戻り、念入りに手洗いを済ませた。
「しかし、新居にやって来て早々にネズミからの歓迎を受けるとは。この家は夢の国を彷彿とさせてくれる」
「いやいや、さっきから夢の無い展開の連続ですよ!?」
いきなりメインマスコットを追い出しといて何を言うのか。
もはやツッコミ役と化した郷長が、無茶苦茶すぎる保坂の行動に目を丸くする。
すると、そんな郷長を助けるように、すぐさま次のイベントが起こった。
今度は、流し台の下にある引き戸から物音がしたのである。
ガタガタッ
「?」
気づいた保坂はすぐに視線を向けた。
しかし、外側から見た限りでは特に音が出るような要素は見当たらない。
明らかに中にいる何かが戸を動かした音だ。
「ふむ、どうやらそこにもキャストが潜んでいるようだな」
「キャスト?」
郷長は聞きなれない単語に首を傾げたが、そこに潜んでいる者に心当たりがあるため、すぐにニヤリとした。
あの女子中学生たちがいたということは、恐らくあそこには【あの子】が隠れているに違いない。
「(保坂さんにいたずらする気だな?)」
見た目通りにお茶目な郷長は、【彼女】の企みに気づいて乗っかることにした。
これまではやたらとこちらが驚かされけど、今度は逆襲できそうだ。
密かに鬱憤を溜めて込んでいたらしい郷長は、保坂が驚く瞬間を思い描いてほくそ笑む。
だがしかし、ここでも彼は予想外の行動に出た。
「このまま夢の住人と戯れるのも一興だが、これから荷解きをしなければならないのでね。彼らと遊ぶのはまた次の機会にしておこう……せいぜい今の内に生を謳歌しておくがいい」
「って、なんか最後に物騒な言葉が聞こえましたけど!? そこの引き戸は調べないんですか?」
「ええ。恥ずかしがり屋の妖精を驚かすなど無粋ですからね。今日のところはそっとしておきましょう」
「は、はぁ……」
郷長は曖昧な返事をした。
確かに、自分の意思で隠れているからそうとも受け取れるが、実際はまったく違う。
急にやって来た保坂を驚かしてやろうと隠れて待ち構えていたのだから、探してもらわなければ自分の行動が無駄になってしまう……というか、悲しすぎる。
驚かす側から驚かされる側になってしまった張本人は、放置されそうな流れに慌てて自分から出てきてしまった。
「こら―――!! なるのことば無視すんなっち!! ばり寂しかやろが―――!!」
引き戸を勢いよく開けると同時に、中から小さい人影が飛び出してきた。
何事かと見てみると、そこには小学校低学年くらいの小さい子供がいた。
彼女は【琴石 なる】という名の少女で、一応この物語のヒロイン(?)である。
髪はうすい茶色のショートカットで、左の前髪を赤い紐で縛っている点は女の子っぽい。
ただし、服装は白地のTシャツに半ズボンという男の子っぽい格好で、腰に縄を巻いて更にワイルドさを上げている。
顔立ちは整っており将来は美人になりそうだが、今はやんちゃな子供にしか見えなかった。
「このー! ちゃんと探しちくれんば、つまらんじゃろー!」
せっかくの企みが台無しにされて不機嫌になったなるは、保坂のシャツをグイグイと引っ張る。
初対面なのにまったく人見知りしない元気な子らしい。
しかし、この少女はなぜここにいたのだろうか。
流石に事情を知らないと犯罪行為になりかねないので、顔見知りであると思われる郷長に訪ねてみる。
「郷長、この子は誰です?」
「この村の悪ガキです。この家を基地にしていたみたいで」
「基地?」
「ああ、コロニーです、コロニー」
「なるほど、彼女はスペースノイドというわけですか。では、アースノイドの代表として仲良くしなければなりませんね」
「……意外な知識がありますね」
まさか話を合わせてくるとは思っていなかったため、郷長のネタはまたしても滑ってしまった。
この男に隙は無いのだろうか?
「と、とにかくすみません、出て行くように言ったのですが……」
出会ってから滑りっぱなしな郷長は寂しそうに言い訳した。
そんな彼を助けるように、丁度良いタイミングで機嫌を直したなるが話に割り込んできた。
保坂のカッコイイ容姿に注目したらしい彼女は、彼に向かって変な質問をしてきたのだ。
「兄ちゃん、ジュノンボーイ?」
「ん?」
「こら、なる! いきなり失礼じゃろ」
「美和姉が言いよったよ! ジュノンボーイはかっこよかちた! こん兄ちゃんかっこよかねー、ジュノンボーイよ!」
「それは間違ってなかけど、こん人は書道の先生ぞ?」
「なるほど~、郷長! 字ば書くジュノンボーイったいね~!」
どうやら、なるの中では、かっこいい男性=ジュノンボーイという認識になっているらしい。
ただし、言葉の由来は分かっていないようで、郷長と一緒にとんちんかんな会話をしはじめた。
そもそもボーイという歳じゃないという話になり、芸能人が実年齢を誤魔化すようなものだという議論になって、最後にカウボーイは中年でもボーイだから年齢なんて関係無いという結論に達した。
「歳ば関係なかっちゅうこつば、やっぱり兄ちゃんはジュノンボーイったい!」
「ふっ、ジュノンボーイか。悪くない響きだ。しかし、その言い方は正しくないな」
「え~。じゃったら、どげん言うと?」
「うむ、一般的にはハンサムやイケメンという言葉が使われているぞ」
「ハムサンドとイカソーメン? 何か食べもんみたいっちね!」
「ほう、男を食い物に例えるとは面白い……そうか、これが噂の肉食系女子というものか!」
「たぶん違うと思いますよ?」
すっかりツッコミ役が板に付いてしまった郷長は、気疲れしながらもつい合いの手を入れてしまう。
とはいえ、これで案内は終わりだ。
最初から振り回されっぱなしで妙に疲れたけど、保坂という人物が分かった気がするので良しとしておこうと思う郷長であった。
「とりあえず、説明はこんなとこですかね」
「はい、これだけ教えてもらえれば十分です。お忙しいところ、ありがとうございました」
一応社会常識を持ち合わせている保坂は、世話になった郷長に感謝の言葉を述べる。
すると、保坂の横にいたなるが、待っていましたとばかりに今後の予定を聞いてきた。
大人の女性からは変人扱いされる彼だが、基本的には面倒見の良い好青年なので同性や子供には意外と慕われるのだ。
「ねぇねぇイケメン兄ちゃん! こん後なんばすっと?」
「そうだな……まずは荷物を中に運んで、その後は夕食のカレー作りに取り掛かるつもりだ」
「へぇ~、カレー作れっとか!」
「当然だ。カレーの妖精とまで言われたこの腕前、君にも存分に味わわせてやろう!」
「おおー! 妖精っち呼ばれよっとか! 何かよく分からんけど、ばりかっこよかねー!」
「(う~ん、かっこいいかなぁ?)」
目の前でおこなわれている変なやり取りに郷長は首を傾げる。
島に来て早々にカレー作りをしようだなんて、マイペースにもほどがあるだろう。
っていうか、肝心の書道はどうしたと言いたいところだが、どうやら本人もそこに気づいたらしい。
「おおそうだ、今日の記念に一筆書いておかねばならんな。カレーに気をとられて忘れる所だった」
「(本当に何しに来たんだろう、この人……)」
保坂の父親から聞いていた状況とそこはかとなく違う気がする。
彼をここに送り込んだ理由は、書道家として先に進むために必要な心の成長を促すことだと聞いていたが……その書道を二の次にしている時点で既にアウトだろう。
さっきも最高の料理人になるとか言ってたし……。
でもまぁ、「必要以上に落ち込んでいないのなら良いんじゃね?」と思うことにしよう。
「よろしければ郷長も一緒にどうですか? とってもスパイシーなカレーをご馳走しますよ」
「いやぁ嬉しい申し出ですが、この後ちょっとした用事がありますので、私はこれでお暇させていただきます」
「そうですか。それでは仕方ありませんね」
保坂から招待を受けた郷長は、面倒なことになりそうな雰囲気を察して逃げようとした。
一応やることがあるのは本当だし、それを済ませた後で荷解きを手伝ために戻ってくる予定なので、今は脱出してもいいだろうと判断したのだ。
しかし、郷長の反応を見たなるは、とある情報を思い出して間違った答えに行き着いた。
それは以前、姉貴分の美和から仕入れた知識だった。
「あ~、もしかしち郷長、【カレー臭】ば気にしちょっとね!」
「え?」
「美和姉が言いよったよ! 郷長みたいなおっちゃんはカレー臭ば気にしちょるもんやけん、臭いのこつば言わんように気ばつけれっち」
「なるほど、郷長は加齢臭を気にしていたのですか。しかし少女よ、そのことを本人の前で言ったらダメじゃないか」
「おおっ、そうじゃった! ついうっかりしちょったよ~」
「って、別にそういう理由じゃないよ!? そもそも、私たち中高年だって好きで臭いを発しているわけじゃないんだからねっ!!」
ちょっぴり涙目になった郷長は、中高年の悲哀を感じさせる心の叫びを吐露した。
無邪気な子供の言葉は時に大人を傷つけるものなのだ。
社会に出たら色々と気になる場面も多くなるが、みなさんも言葉には気をつけよう。
「と、とにかく、私はこれで失礼するから……」
「それでは、玄関先までお見送りさせていただきます」
「なるも行くー!」
「いや、見送りは俺だけでいい。その代わりに、君には居間の片付けをしてもらいたいのだが、頼めるかな?」
「うん、分かった!」
保坂の頼みを快く引き受けたなるは素直に頷いた。
散らかったままの居間を片付けなければ荷物を運び込めないので、小さい子供でもできる作業を任せたのだ。
そして数分後、郷長を見送った保坂が戻ってくると、散らかっていた部屋はなるによって一通り片付けられていた。
遊んでいた状態で放置されていたトランプ、座布団、飲食物を一箇所に纏めただけだが、とりあえずはそれでいい。
「イケメン兄ちゃん、こげん感じでよかと?」
「うむ、頼んだ通りに片付いているな。上出来だぞ、琴石 なる!」
「えへへ~、こんぐらいどうっちことなかよ~っち、なぜ分かった!? なるの名前!?」
褒められて得意げだったなるは、まだ教えていない自分の名前を保坂が知っていたことに驚いてノリツッコミを決めてしまった。
これだけ馴染んでるのに、実はまだお互いに自己紹介をしていなかったりするのだが、なぜ保坂は初対面の少女の名前を知っていたのか。
「さては超能力者じゃろ!?」
「ふっ、超能力者か……魅力的な響きだ。しかし、ここがコロニーだと言うのなら、ニュータイプと表現したほうがしっくり来るな」
「にゅう、たいぷ……なんそれ? オッパイのこつか?」
「それでは、乳タイプになってしまうじゃないか」
先ほど聞いた郷長のネタに乗っかってみたものの、残念ながら7歳になったばかりのなるにガンダムネタは理解できなかった。
これが若さか……。
因みに、保坂がなるの名前を知っていた理由は、見送った際に郷長から聞いていたからであり、超能力でもニュータイプでもない。
しかし、タネが分からず驚かされたなるは、妙な対抗意識を持ってしまったようだ。
「なるも知っちょっぞ、イケメン兄ちゃんの名前~!」
「ほう、ならば聞かせてもらおうか、君の知っている俺の名前とやらを!」
「えっと~、えっとね~、さっき郷長が言いよった~……」
保坂に促されたなるは、可愛らしく体を揺らしながら数分前におこなった会話の内容を思い出そうとした。
その結果、求めていた答えが出たらしく、頭上に豆電球を浮かべたような古臭いリアクションをしながら目の前にいる男の名を叫んだ。
「イケ・メン太郎!!」
「駄菓子のようで語呂は良いが全然違うぞ」
「じゃあ、どげん言うと?」
「ふむ、俺の名が気になるか? では、一筆したためて教えてやるとしよう」
そう言うと保坂は立ち上がり、書道の道具が入っているダンボール箱を外から持ってきた。
そして、都合よく居間に置いてあった折り畳みのテーブルを使わせてもらい、さらっと自分の名前を書き記した。
見ると、真っ白い半紙にやたらと達筆な4つの漢字が書かれており、保坂はそれをなるの眼前に突きつけて自己紹介した。
「俺の名は保坂
「ふ~ん、中学生のペンネームみたい」
「ほぅ、よくわかったな。まさに、君の言葉は的を射ている!」
「えっ、ほんとに当たっちょっとか!?」
「ああ、そうだとも。この雅号は、中学生が経験する初恋のように甘酸っぱい想いを具現化したもの……そう、南ハルカに対する俺の想いそのものなのだ!」
「ミナミハルカ? 誰ぞそれ?」
いきなり変な話を聞かされたなるは、当然ながら疑問符を浮かべる。
とはいえ、この場合は詳細を知らなくて良かったと言えるだろう。
彼の雅号は、【南 春香と結婚した状況を想像して付けた妄想の産物】だからだ。
こういうことを臆面も無くやってしまうところが、【きもちわるい】と言われる所以である。
まぁ、こんな奴でもイイ男には違いないので、いつかは努力が報われる時が来る……かもしれない。
「さて、自己紹介も済んだことだし、カレー作りの支度を始めるとするか、琴石 なるよ!」
「おー!」
意外とマイペースなところが似ている2人は、先ほどまでのおかしなやり取りなど一切気にすることなく次の行動に移った。
保坂は、外に置いてあるダンボールを居間に運び込むと、料理に使う道具類を取り出していく。
一方のなるは、なぜか荷物の中に入っていたバレーボールを見つけて顔を輝かせていた。
それは最近ほとんど見かけなくなった白い奴で、かなり使い込まれていることが分かる一品だ。
「うわぁーい、バレーボールみーっけ!」
手に入れたお宝を頭上に掲げたなるは、発掘の成果を喜ぶ。
これは保坂が高校時代に購入した自主練用のマイボールで、運動不足解消のために持ってきたものなのだが、早速役に立っているようだ。
使っているのは保坂ではなく、地元のわんぱく少女だけど。
「そりゃ! アターック!!」
バシッ!
なるは、テレビで見たことのあるプロ選手をイメージしながらバレーボールを叩いた。
しかし所詮は小一、彼女の打ったボールは狙った所に行かず、あさっての方向に飛んでいってしまった。
しかも、壁に当たって跳ね返ったボールは、皿を出していた保坂の後頭部に直撃した。
ドカッ!
「痛いじゃないか」
「あっ、先生ごめ~ん!」
「いや、君が気に病む必要は無い。あの程度のボールを避けられなかったこちらが未熟なだけなのだから。しかし、俺もまだまだだな……まだまだだな……」
「ばり落ち込んじょる!?」
保坂は、どんなカレーを作るか考えている隙を突かれてボールを避けられなかったことを密かに悔やんでいた。
よもや、元バレー部の部長ともあろうこの俺が直撃を受けるとは。
「認めたくないものだな、バレー部部長の、経験ゆえの過信というものを……」
「先生~、どがんして服ば脱いじょっと?」
悔やんでいる間につい熱くなった保坂は、またしてもシャツの前をはだけさせた。
普通なら幼女の前で半裸になるなど危険過ぎてできないことだが、この男には悪意が無いので堂々とやれてしまう。
しかも幸運な事に、被害者(?)のなる本人がまったく気にしてなかったため、話はそのまま何事も無かったように進んでいく。
「ふむ、料理関係の道具はこんなところかな」
シャツを着なおした保坂は、とりあえず使う物だけを出して一通り確認した。
その間に、またしても暇を持て余したなるは、更に別のダンボールを物色して面白そうなものを探しはじめる。
「なんか他に面白かモンなかかな~?」
なるは期待を込めて物色する。
しかし、ダンボールの中にあるものは、彼女の希望を満たすものではなかった。
衣類、家電品、仕事関係の書類、書道の道具など、遊びに使えないものしか見当たらない。
その様子に段々と落胆しかけたが、ふと目を向けると丁寧に梱包された貴重品らしきものを見つけた。
なるが見つけたそれは、二つ折りのフタがついた木製の写真立てみたいなものだった。
「ん~? 先生~、これなんぞ?」
「うむ……君の持っているそれは、俺の宝物だ」
「先生の宝物?」
「そうだ。我が青春のすべてがそこに詰っていると言っても過言ではない大切なものだ……」
保坂はそう言うと、静かに目を閉じて過去に思いを馳せた。
あの懐かしき高校時代――バレーに、恋に、青春を謳歌していた眩しい日々へと……。
ご意見、ご感想をお待ちしております。
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第3話 南ハルカ
荷物をあさっていたなるが偶然見つけた写真立て。
それは保坂にとって、とても大切なものだった。
宝物と聞いたなるは子供ながらに気を利かせて、中を見る前にどのようなものか聞いてみた。
「こん中に先生の宝物ば入っちょっとか?」
「うむ。その中にある写真には、俺に力を与えてくれる女神が宿っているのだ……」
そう言うと保坂は、静かに目を閉じて過去に思いを馳せた。
恋に燃え、愛に萌えた、あの懐かしくも輝かしい日々。
そう、あれは卒業を間近に控えた寒い冬の頃のことだ――
☆★☆★☆★☆
今より5年前の2月。
3学期も半ばを過ぎて後は卒業を迎えるだけとなった保坂は、とある悩みを抱えていた。
やたらと自信家なクセに恋愛に対してだけは変に奥手となってしまう彼は、この期に及んでも片思い中の春香と会話すらできていなかった。
このまま卒業してしまったら、まったく接点が無くなってしまうというのに……。
「許してくれ南ハルカ! 恋人を引き裂く悲しき運命(卒業)にはこの俺でも抗えんのだ!」
「いやいや、恋人どころか知り合いでもないのに、嘘はダメでしょ?」
相も変わらず勝手な妄想に耽っている保坂だったが、その発言を傍で聞いていたクラスメイトの【速水】がツッコミを入れてきた。
しかし、当の本人は妄想などとは思っておらず、すぐさま反論してきた。
「果たしてそうかな? 離れ離れになるとはいえ、南ハルカと結ばれる可能性が潰えた訳ではない。それに、今はまだ知り合いではないとしても……」
「しても?」
「俺たちの運命が重なる時まであきらめずに歩み続ける! いや、2人で共に進んでいこう! するとどうだ、2人は将来、誰もがうらやむ恋人同士となるではないか!」
「保坂、卒業する前に現実の将来を考えて」
前向きすぎて逆に将来が見えていない保坂に対して、生暖かい目をした速水が適確なアドバイスを送る。
だが、内心では彼の変人っぷりを存分に楽しんでいた。
「(まったく、保坂は最高ね! コイツのおかげで、最後までおもしろい高校生活が送れるわ)」
心の声を聞いてみたらとんでもない悪女(?)だった。
彼女は、女子バレー部の元部長でスタイルの良い美人なのだが、普段は細い目で【おもしろいこと】を探求している変わった人物でもある。
つまり、知人をからかっておもしろイベントを発生させようとする困った趣味の持ち主なのだ。
そのせいか、奇行の多い保坂と一緒にいることが多く、傍から見てると仲の良い恋人同士のように見えなくもない。
しかし、残念ながらお互いにその気はまったく無かった。
とはいえ、保坂にとって重要な人物であることは間違いない。
「なぜなら速水は、南ハルカの友達だからだ!」
保坂は、いつの間にか教室からいなくなっていた友人の名を叫ぶ。
そうだ、彼女に頼べば【あの願い】が叶うかもしれない。
そのように思い立った保坂は、昼休み中にどこかへ行った速水の後を追った。
恐らくはあの場所にいるだろうと当たりをつけて向かってみたところ、案の定彼女はいた。
「ふっ、やはりここにいたか。こうまで的確に行動が読めるとは、案外、俺とお前は相性が良いのかも知れんな、速水よ!」
「おおうっ!? 何やら凄まじい悪寒が!?」
勝手に保坂から仲良し認定されて身震いしている速水がいる場所は2年生の教室前だった。
そのクラスには速水と仲が良いバレー部の後輩が2人おり、彼女たちと友人である春香も同じクラスにいる。
どうやら速水は、後輩の2人と廊下で会話している最中のようだ。
残念ながら春香はいないようだが、事ここに至ってはもう高望みはすまい。
今は、アレを手に入れることを優先しよう。
「ふむ、マキとアツコも一緒にいたか。実に好都合だ」
「げっ、保坂先輩!?」
「えっ?」
無駄に男前な様子で近づいてくる保坂の姿に気づいた後輩たちは、一斉に表情を変えた。
彼女たちは、速水と春香の友人でバレー部に所属している【アツコ】と【マキ】だ。
長身のアツコは、女性としてもバレー選手としても理想的なスタイルの持ち主で、最近さらに胸が大きくなってきているらしい。
自己主張が苦手なせいで損をする場合が多いものの、見た目通りに優しい性格の美少女だ。
一方、中学からアツコと友人関係にあるマキは、彼女と対照的に小柄で背が低く、本人もその点を気にしている。
それでも、持ち前の陽気な性格で元気に今を楽しんでいる、美人と言うより可愛いという表現が似合う少女だ。
この2人は前述の通りバレー部に所属しており、先ほどまで先輩の速水と楽しく雑談をしていたのだが……そこへ招かれざる客が現れてしまった。
最近は大学受験のおかげで保坂との遭遇率が減っていたため、つい油断をしていた彼女は大いに慌てた。
「(懲りずにまた来たよ、この人! っていうか、もうすぐ卒業だってのに、まだハルカのこと諦めてなかったのー!?)」
嫌な事実に気づいたマキは、こちらの気も知らずに堂々と近づいてくる保坂に対して嫌な顔をした。
変な妄想癖のある彼の奇行を知っている彼女は、出会って間もない頃から【きもちわるい】男だと警戒しているのだ。
そのため、彼の毒牙(?)から春香を守るために色々と妨害活動をしていたりする。
実際は、保坂がヘタレだったり、やたらとタイミングの良いすれ違いなどが発生して2人が接触すること自体が無く、彼女の努力はそれほど意味がなかったのだが。
「やっぱりハルカに用があるのかな?」
「それしかないでしょ! でも、丁度ハルカは職員室に行ってるから助かったよ」
アツコとマキはひそひそと話をしながら安堵する。
幸か不幸か万事がこんな感じで、保坂と春香の仲は一向に進展していなかった。
しかし、今回彼がここに来た理由は彼女に会うためではない。
「速水、並びにマキとアツコ、少し時間をもらえるか?」
「ん~? こんなところまで来て一体なによ?」
「うむ、お前たちに折り入って頼みたいことがあるのだが……」
「やだ」
「まだ何も言ってないじゃないか」
「あ~ごめんごめん。別に悪気があったわけじゃないんだけどさぁ、もうすぐ卒業しちゃうのに、未だにハルカちゃんと話すらできないヘタレの頼みを素直に聞くのも癪だから、とりあえず拒絶してみただけよ?」
「思いっきり悪気がこもっているじゃないか」
この時、何かおもしろいことが起こりそうな雰囲気を察した速水は、楽しい時間を存分に味わうために保坂の話をわざとじらせた。
それはもう夫婦漫才のようなやり取りで、様子を伺っていたマキは思わず噴出しそうになる。
こういうところは仲の良い先輩後輩にしか見えないのだが、やはり保坂はマキにとって天敵と言える男だった。
どうしても聞いてもらいたい頼みごとがあった保坂は、なぜか上着を脱いで上半身をさらけ出しながら、廊下のど真ん中で土下座したのである。
「頼む、お前たち! 俺のために、一肌脱いでくれまいかっ!!」
「とか言いつつ、アンタが一肌脱いでどうするっ!!?」
公衆の面前でこんな事をされては、流石の速水も度肝を抜かれる。
もちろん、一緒にいた後輩2人も……。
「ひゃうっ!? (なんで脱ぐんですかー!?)」
「この人、やっぱりきもちわるい!」
確かに、ツッコミどころ満載の行動だった。
とはいえ、ここまでされては無視もできない。
というか、元々聞いてやるつもりではあったので、速水たちは呆れながらも話を促す。
すると、保坂にしては控えめな内容の答えが返ってきた。
「実は、お前たちに南ハルカの写真を撮ってきてもらいたいのだ。もちろん、彼女に事情を話して了承を得たものをな」
「ハルカちゃんの写真? そんなものどうすんのよ?」
「もちろん、俺の宝物にするのだ」
まったく気後れすることなく堂々と宣言する保坂。
一般的な常識で考えると、かなり危険なかほりがする提案だ。
しかし、ある意味で純粋過ぎる彼の心には、よこしまな考えなど微塵もない。
残念ながら後輩2人からは疑われているものの、付き合いの長い速水はちゃんと理解しているので、もう少し事情を探ることにした。
「まぁ、アンタの気持ちは分かるけど、写真のためにここまでする必要は無いんじゃない?」
「いや、それは違うぞ速水。今の俺には十分に必要な試練なのだ」
ここで保坂は、無茶な行動をしでかした事情を語った。
それは、高校を卒業した後の進路が原因だった。
保坂は、大学に進学しつつ父親と同じ書道家としての道を進むことに決めたのだが、流石の彼も人並みに不安を感じていた。
書道に関しては、子供の頃より指導を受け続けているので、技術的な問題はほとんど無い。
だが、それを裏付ける実績がまったく無い点に問題があった。
文武両道に秀でている保坂は、学生時代に様々な興味を抱いて色々なことに挑戦してきた。
いや――本音を言うと、高校までは自由を謳歌したくて、母親が熱心に勧めてくる書道から逃げていたのだ。
「いわゆる反抗期というヤツだな。今思えば、恥ずかしいことをしていたものだ」
「ふぅん、アンタにも恥という概念があったんだー」
「速水先輩、要点はそこじゃないです」
まぁ、ツッコミを入れたアツコ自身も速水の感想を理解できるのだが……。
それはともかく、現在の保坂は若さゆえの過ちを悟って書道家を目指すことにしたわけだ。
しかし、覚悟を決めたからといって、マイナス要素を解決するのは容易ではない。
反抗しつつも大切にしていた書道で中途半端な行動をしたくなかったため、これまで一回も公の評価を受けたことが無かったのだが、その事実が今になって重くのしかかってきているのである。
「だからこそ、愛する人を傍に感じて未来へ進む活力にしたいと思ったのだ。南ハルカには、それだけの魅力があるのだから!」
「ふぅん、書道ねぇ。アンタにそんな裏設定があったなんて、ちょー意外ー」
「っていうか、なんでバレー部から書道家なのよ!? つながり無さ過ぎでしょ!」
「2人とも、気にするところが違うと思う……」
聞いてみたら意外とまともな理由だったものの、いきなり出て来た書道という単語のほうが食いつきがよかった。
ただ、荒唐無稽な所は実に保坂らしいと言えるため、速水はすぐさま納得した。
「(それはともかく、コイツにも人間らしいメンタルがあったとはね~……しゃーない、ここはひとつ借しを作っておきますか)」
彼にはこれまで十分におもしろい思いをさせてもらったので、彼女としては珍しくお礼をしてやろうと思った。
なにげに酷い受け取り方をしているものの、速水のおかげで保坂の望みは叶う事になる。
「よろしい、この私がアンタの願いを聞き届けてあげようじゃないの!」
「おおそうか! この保坂、お前の誠意に感謝する!」
速水の協力を得られた保坂は、やたらと爽やかな笑顔で喜んだ。
しかし、マキとアツコはその結果に驚く。
「ええっ!? いいんですか速水先輩!?」
「そうですよ! 何に使うか分かったもんじゃありませんよ!?」
まだ少しだけ保坂の言葉を疑っているマキたちから不満げな意見が出た。
もちろん友人を思っての反応なので十分に納得できる発言だった。
ただ、保坂は2人が――特にマキが思っているほど嫌うべき人物ではない。
確かに、この男にはきもちわるい部分があるものの、彼の愛は本物なのだから少しくらい協力してやってもいいはずだ。
だって彼は――
「2人とも、もうすぐコイツは見事に失恋するかもしれないんだから、散り際くらい花を持たせてあげなさいよ」
「おい速水、説得するにしても言い草が酷すぎるぞ」
あまり誠意は持ってなかったようだ。
しかし、彼女も悪魔ではない。
内心では、彼の恋が続けばいいなとは思っていた。
綺麗で優しい春香は結構モテるのだが、恋愛に対してとても奥手なので、恐らく進学した後も恋人ができる可能性は低いと思われる。
そうなると、まだまだ保坂とのおもしろいやり取りが楽しめるはずだ。
「(ふふふ……私ってば、何て酷い女なのかしら。でも、アンタが悪いのよ保坂。アンタのキャラがあまりにもおもしろ過ぎるから!)」
保坂は、気づかぬうちに変な女に目を付けられてしまっていた。
しかも、この時閃いた速水の読みは当たり、春香は就職した後も恋人を作らず、悩み多き年頃になった妹たちの世話にかかりきりとなる。
そのおかげで(?)速水は、大人になった現在も2人をネタにおもしろいことを企み続けていた。
仕事の合間に保坂と会っては春香の近況を伝え、未だに彼の反応を楽しんでいるのだ。
『まだよ、まだ終わらないわ! 知り合いの恋バナほど、おもしろいモノはないからね~♪』
まことに傍迷惑な女である。
とはいえ、流石にこのままでは悪いと思ったのか、最近になってようやく春香に紹介してやったりもしているので、一応は汚名返上していたりする。
以下のやり取りは、その際に初めて2人が会話した時の回想だ。
『それにしても、保坂先輩が有名な書道家さんになるなんて驚きましたよ!』
『いや。俺の方こそ、後輩の君に名を覚えてもらえて光栄の極みだ』
『そんなの当然ですよ。保坂先輩はあの高校で一番の出世頭ですし、雅号が私の名前と同じですから』
『あっはっは! 実に縁のある偶然だな!』
『はい。実は、初めて知った時につい嬉しくなって、家族と盛り上がったんですよ?』
『そうかそうか、それは良かった。俺も、あの名を選んだ甲斐があるというものだ!』
『……言いたい。あの雅号は、ハルカちゃんの名前を勝手に使った危険な妄想の産物だということを、今ここでぶちまけてやりたい……』
『え? 何か言いましたか、速水先輩?』
『いんや、別に? (まぁ、これはこれでおもしろいかな……後でマキたちにも教えてあげようっと)』
――そのように、速水のお膳立てで始まった保坂と春香の関係だが、今もほんのりと進展している。
ただし、お互いに奥手なせいで相変わらず奇妙なすれ違いが続いている上に、独り身のマキからも嫉妬に近い妨害を受けており、その歩みはうぶな中学生以上に遅い。
それでも、意外に春香からの感触は良くて、いずれは本当にくっつく可能性も出て来たのだから世の中おもしろいものだ。
「むむっ!? 何やらおかしな未来が見えた気がする!」
「突然なに言ってるのよ、マキ……」
変な電波を感じてマキがおかしなことを言い出したが、それは置いといて……とにかく、土下座までした保坂の頼みは叶うことになった。
春香には3年生のファンが写真を欲しがっていると説明して納得させ、仲良し4人組で一緒に撮ったものを渡すことにした。
その写真こそが保坂の宝物だった。
「ありがとう、お前たち! この恩は、いつか必ず、この身をもって返してみせると約束しよう!」
「「それは結構ですから、今すぐ上着を着てください!!」」
「あっははは!!」
数日後、念願が叶った保坂は嬉しさのあまり半裸になり、それを直視するはめになった後輩2人は恩を仇で返された。
そして速水は、そんな彼らの様子を見て、高校生活を締めくくるような大笑いをするのであった。
☆★☆★☆★☆
以上のような経緯を経て、なるが手にしている写真立てには愛しい女性の写真がおさめられている。
可愛らしく微笑んでいる春香を中心に、微妙な笑顔のアツコと不機嫌顔のマキ、そして、心なしか邪悪な笑みを浮かべた速水が写った写真が。
「見目麗しく、慈愛に満ちた彼女の存在は、まさに女神と呼ぶに相応しいのだ……」
「ほえ~! そがんすっと、こん中に入っちょっとは女神さまの写真なんか!?」
「そうだ! たとえ厳重に梱包されていようと俺にははっきりと感じられる。彼女からあふれ出る慈愛の心を。それこそが、女神の証と言えるだろう!」
「おお~、何かよく分からんけど、ばりすごかー!」
保坂は、初対面の幼女にまで己の愛を熱く語った。
もちろん彼の心は純粋そのもので嘘偽り無いのだが、残念なことにきもちわるいと言わざるを得ない。
ただ幸いな事に、幼いなるも純粋だったため、彼の言葉に対して素直に興味を持った。
彼の言う女神とは、いったいどんな容姿なのだろうか。
「ねぇ先生。こん中ば、なるに見せちくれんかな?」
写真を見るための許しを得ようとしたなるは、写真立てに向けていた視線を保坂に向けた。
その瞬間、彼女は気づいた。
保坂がものすごい勢いで涙を流していることに。
「おーいおいおい!」
「えぇ―――!? 先生が、ばり泣いちょる―――!?」
「ああ、南ハルカ。今すぐ君に会いたい……会って愛を確かめあいたい!」
この時保坂は、過去を思い出した拍子に感極まってしまったのだ。
今、彼の心は、ここへ来る前に空港まで見送りに来てくれた春香のことで一杯となっていた――
今より数日前、五島へ行くことが決まった保坂は、想い人の春香へ真っ先に知らせた。
しばらくの間は直に会うことができなくなると。
話を聞いた彼女は当然のように残念がり、悲しそうな表情を見せる。
『どうしても行かなければならないのですか?』
『ああ……この旅は、未熟な俺が新たな一歩を踏み出すための試練なのだ。故に、背を向けて逃げるわけにはいかないのさ』
『そう、ですか……』
その言葉で保坂の覚悟を感じ取った春香は、己の本心を押さえ込んで笑顔を向ける。
『それではせめて、あなたのことをお見送りさせてください』
『もちろんいいとも、ハルカ』
そうして更に時が経ち、ついに保坂が東京を離れる日がやって来た。
約束どおり空港まで見送りに来てくれた春香は、憂いを秘めた笑顔を向けて、旅たつ保坂に言葉をかけた。
『保坂さん、不慣れな土地での1人暮らしは大変でしょうけど、くれぐれもご自愛くださいね?』
『ありがとう。その言葉だけで、俺は不死身の超人になれるよ』
『もう、そうやってすぐ調子に乗るんだから』
『あっははははっ、すまないハルカ。俺は不器用な男だからな』
春香は、軽い冗談を言う保坂の胸を優しく叩きながら綺麗な笑みを浮かべた。
しかし、その笑みは次第に泣き顔へと変化し、ついには涙があふれ出して頬を伝っていく。
『う、うう……』
『泣いているのか、ハルカ……』
『いいえ、泣いてなんかいません。これは、目にゴミが入っただけです』
『そうか……君がそう言うのならば、そうなのだろう』
それが誤魔化しだと知りつつも、あえて気づかぬ振りをした保坂は、春香の肩を優しく抱いた。
その時、彼女は彼も泣いていることに気づく。
『保坂さんの方こそ泣いているじゃないですか』
『いや。この涙は、近くに潜んでいる忍者がタマネギをきざんでいるせいさ』
『ふふっ、貴方がそう言うのなら、そういうことにしておきます』
『あっはっは、なかなか言うようになったな、ハ・ル・カ!』
春香は、自分を気遣う保坂に対して同じような言い回しで答える。
そうして気持ちを通じ合った2人は、一緒に涙を流しながら再会を誓い、共に笑いあうのであった。
『『あはは、あはは、あはははは! あはは、あはは、あはははは!』』
――というのは保坂の妄想で、残念ながら真実はかなり違う。
彼の旅立ちを聞いて見送りに来てくれたことは事実だが、それほど長期間の滞在になる訳ではないと聞いていたため、『お土産楽しみにしてます』と笑顔で言われながら、ごく普通に見送られた。
ただ、【基本なまけもの】の春香がそこまでしてくれるだけでもかなりの進歩なので、彼の妄想もあながち間違いではない……かもしれない。
まぁ、自分の境遇に酔いしれて泣き笑いしている彼の行動がおかしいのは確かだが。
「あはは、あはは、あはははは! あはは、あはは、あはははは!」
「うわ―――!? 今度は泣きながら笑い出しよった―――!?」
未だに妄想の中にいる保坂は変な状態になってしまい、なるを大いに困惑させた。
しかし、とても良い子に育っている彼女は、保坂の様子を見てひとつの答えを出した。
涙を流しているということは、自分が何かいけない事を言ってしまったのではないかと。
そう思った途端に、彼女は強い罪悪感を抱いてしまった。
だから、真摯な気持ちを込めて謝罪した。
「先生、ごめんなさい!!」
「……ん? なぜ君が謝るのだ?」
「なぜっち、先生、ばり泣いちょるけん、なるが先生の好かんことば言ったせいじゃと思ったとよ……」
「なるほど、そういうことか。だが、君が謝る必要はまったくないぞ?」
「そんじゃあ、許してくるっと?」
「当然だ。許すも何も、君に悪いところなど微塵もないではないか」
まったくもってその通りだった。
なるは誤解してしまっただけであり、すべての責任は保坂の妄想癖にある。
それでも、真実は知らないほうがいいこともある。
現に、とても純粋な心を持ったなるは、許してもらえたことに心の底から安堵していた。
「はぁ~、良かったぁ~! 許してくれて良かったぁ~!」
なるはそう言うと、気が抜けたように座り込んだ。
どうやら、かなり緊張していたらしい。
「どうした、琴石 なるよ?」
「うん……謝っとは、ばり怖かね。でも、謝ってよかったぁ」
「うむ、そうだな……」
保坂は、可愛らしく微笑むなるを見て清々しい気持ちになった。
この子はなんて美しいのだろう。
「君は本当に良い子だな」
「え? なんで?」
なるは保坂の発言に疑問符を浮かべた。
なんで先生を泣かした自分が良い子なのだろうか。
謝ったばかりの彼女はそう思ったものの、それはただの誤解であり、人がこの程度の過ちを犯すことは当たり前なので、元より気にする話でもない。
保坂が評価したことは、彼女が素直に謝った点だった。
「君の言う通り、自分の非を認めて謝ることはとても恐ろしく、難しいことだ。それこそ、大きな国の偉い人でもできないほどにな。ゆえに、今の君は、世界でもっとも良い子だと言っても過言ではないのだ!」
「ほえ―――!? なるは、いつの間にか世界一になっちょっとか―――!?」
「そうだ! 今年の良い子・オブ・ザ・イヤーも夢ではないぞ!」
「うわーい、やったー! 言っちょることはよく分からんけど、つまりは一等賞っちこったいねー!」
言葉の意味はよく分からないが、とにかく褒められているらしい。
幼いなるにもそれだけは伝わり、何となく誇らしくなった。
それにしても、このおかしな青年との会話は驚きの連続で、とてもおもしろい。
「(こん先生といると、ばり楽しかね~)」
大人の視点で見ると奇妙な保坂も、子供の目から見ると面白かっこいい青年に見えるらしい。
でも……涙を流していた保坂の様子は、ちょっとだけ寂しそうだなと思った。
たぶん、引っ越してきたばかりで寂しいんだろう。
「(先生ば元気にしたかけど、どげんすればいっかな~?)」
なるは、なぜか上着をはだけて胸元を出している保坂を気にすることなく考え込んで、ひとつの答えを出した。
そうだ、これから自分の好きな場所に案内して、先生を楽しませてあげよう。
お気に入りの綺麗な景色を見てもらえば、先生も良い気分になってくれるに違いない。
先ほどの会話で保坂が寂しがっていると感じたなるは、彼を元気づけてあげるために行動を開始した。
「先生、これから良かもんば見せてやるけん、外に行こうや!」
「ほう、それは興味深いな。いいだろう、君の提案に乗らせてもらうとしよう」
「さすが先生! 話が分かるったいねー!」
なるの優しい心遣いに気づいたのか、保坂は迷うことなく了承した。
ただし、その前にやらなければならないことがある。
「先に冷蔵庫を中に入れて、カレーの下ごしらえも済ませておこう。このまま放っておいたら、買ってきた食材が痛んでしまうからな」
「はーい! なるもカレー作るー!」」
「あっはっは! 今夜は特製カレーでお祝いだ!」
並々ならぬ熱意を注いでいる料理に関しては手抜かりなんてしない。
たとえアホな行動をしていても、こういうところは冷静な保坂であった。
ただ、一番優先すべき書道の事を再び忘れてしまっている点はいただけないのだが……もはやお約束と思うしかないかもしれない。
☆★☆★☆★☆
30分後、やるべきことを終えた保坂は、汗ばんだシャツを寝室で着替えて外に出て来た。
その間、バレーボールを塀に当てながら待っていたなるが、元気な様子で歩み寄ってくる。
「遅かぞ、先生ー!」
「うむ、待たせたな」
「そんじゃあ早速、出発すっぞー!」
「ああ、どのような絶景を見せてもらえるか、期待しているぞ、琴石 なる」
出かける前に気合を入れ直し、いよいよなるのお気に入りの場所へ向かう。
それにしても、今日出会ったばかりとは思えないほどの仲良しっぷりである。
ただ単に、保坂の純情ハートが子供のなると同レベルだったからかもしれないけれど……。
何はともあれ、これまでのやり取りですっかり意気投合した2人は、既に家族のような関係を築きつつあった。
「先生ー! 早よ行かんと見逃しちまうぞー!」
「そうか、ならば急いで向かわねばならんな」
「おうよ! 超特急で行くっけんねー!」
仲良く並んで歩き出した2人は、親子のようにじゃれあいながら家の前の道に出た。
しかし、先へ進む前に、少し離れた場所にいる人影に気づいて足を止める。
借家へと続くゆるい坂道の途中に、なると同い年くらいの少女がいたのだ。
「ん? あの子は……」
謎の少女を見た保坂が疑問符を浮かべる。
すると、となりにいるなるが彼女に向けて親しげに話しかけた。
「あれぇ? 今日は用事ばあるっち言っちょったのに、なしてこがんとこにおると?」
どうやらなるは彼女のことを知っているらしい。
というか、状況的に考えると同じ学区に住んでいる友人なのだろうが、初対面の保坂にはその程度のことしか分からない。
果たして、あの少女は何者なのか。
答えはバレバレだとしても、ちょうど区切りがいいので次回まで引っ張ることにする。
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第4話 ひな、妖精に会ったよ!
太陽の位置もだいぶ低くなり、あと2時間くらいで日が暮れる頃。
冷蔵庫のセッティングとカレーの下ごしらえを済ませた保坂は、なると共に借家からでかけた。
良いものを見せてあげるという彼女の提案に乗り、これからその目的地へと向かうことになったのだ。
そして、家の前にある小道に出て来たところで、少し離れた場所に立っている少女に気づいた。
こちらに向かっている途中だったらしく、その表情は予期せぬ遭遇に驚いているように見える。
しかし、なるの姿を確認して落ち着きを取り戻したのか、ゆっくり近づいてきた。
どうやら保坂のことを気にしているようだが、笑顔を浮かべた友達がいるので安心したらしい。
「ひなー!」
期せずして親友と出会えたなるは、嬉しそうに両手を上げながら駆け寄ると、彼女の首に右腕を絡めてお互いのほっぺたをくっつけあった。
彼女流の親愛表現でもって喜びを表現しているのだろう。
とはいえ、なるにはひとつだけ気になることがある。
今日は母親と一緒に商店街へ出かけるため遊べないと言っていた彼女が、どうしてここにいるのだろうか。
「どがんして、ひながここにおると? 買いもんば早めに済んだとけ、遊びに来たんか?」
「うん……」
ひなと呼ばれた少女は、なるの問いかけに曖昧な返事をしながら保坂を見上げる。
何か意味ありげに登場した彼女の名前は【久保田 陽菜】と言って、なると仲良しの同級生だ。
胸元あたりまで伸ばした綺麗な黒髪とピンク色の髪飾りがチャームポイントの、大人しそうな女の子である。
基本的には見た目通りに良い子だが、遊ぶ時はなると同じくらい活発になり、意外なギャップを感じさせる一面も持っている。
ただ、人見知りが激しくて、感情的になるとすぐに泣いてしまうといった弱点(?)もあった。
実際、この後すぐに保坂も実体験することになる。
「先生、紹介す。なるの友だ、ひな!」
「うむ。初めまして、可愛らしい少女よ。俺の名は保坂だ」
なるの言葉に合わせて自分も自己紹介をする。
おかしな性格の彼としては控えめな、ごく普通の挨拶だ。
しかし、それでも何かを感じ取ったのか、ひなは突然怯えだした。
「ひっ!? ひぃぃぃぃぃ!」
「ん? 急にどうしたというのだ?」
「ひなは極度の人見知りじゃっけん!」
「ああ、そういうことか」
保坂は、なるの説明を聞いて納得した。
この子は見た目どおりに繊細なのだな。
ならば自分は、節度ある大人として適切な対応をすべきだろう。
「それでは、君が慣れるまであまり話しかけないほうがいいかな、恥ずかしがり屋のお嬢さん?」
「ひぃぃぃ……びゃあああああああ!」
「おっと、なにか気に触ることを言ってしまったか?」
「ううん、そげんこつばなかよ? ひなは先生にかまってもらいたいらしか」
どうやら彼女は、感情の起伏が激しくて涙もろい性格らしい。
まことに扱いが難しい子である。
だからといって、自分勝手に怒りをぶつけたり、めんどくさがったりしてはいけない。
成長途中にある年頃ならよくある状況なので、ここは大人として適切に対応すべきところだ。
ゆえに保坂は、ひなのために助言をしてあげることにした。
「いいか子供たち。確かに人は泣きながら生まれ、成長していくものだ。ゆえに君の涙は正しく、美しい。だが、それだけではいけない。いけないのだ……」
「……びぇぇ~?」
「なしていかんとね?」
「なに、理由はとても簡単だ。涙で曇った
子供たちの目をしっかりと見つめた保坂は、急に中二病っぽいことを言い出した。
あまりにも恥ずかしいセリフを真剣に言うので、話を聞いていた子供たちは思わず噴出しそうになる。
すると保坂は、その隙を突くようにひなの頭を撫でた。
そして、先ほどの有言実行とばかりに、とびっきりの笑顔を浮かべてこう言った。
「さぁ、俺と……仲良くなろう」
今度のセリフは、そこはかとなくきもちわるかった。
撫でられたひなもちょっとした恐怖を感じとり、更に激しく泣き出してしまう。
「いゃああああああああ!」
「う~ん、参ったな。どうやら俺は嫌われてしまったらしい」
「そいは違うぞ、先生! ひなは嬉しくても泣くけんね~」
「ほう。ようするに、多感な年頃というわけか。女心とは、幼くても複雑なのだな。しかし、この程度で弱音を吐いている場合ではない。いずれは、南ハルカの娘たちとも仲良くならねばならないのだからな。むしろ望む所だ!」
こんな状況を望んでどうする。
しかし、自らの奇行で状況を悪化させることが多い彼は、ある意味で逆境にも強い男だった。
泣いているひなの対応に困っているうちに、なぜか春香との結婚生活を妄想しだして、逆にやる気を増大させたのである。
「ふっ、いいだろう。試練とは、困難なほど乗り越え甲斐があるというもの……。ならば、真正面から受けて立つまで! そして同時に約束よう、南ハルカ! 試練を乗り越え成長した暁には、この俺が必ず君を幸せにしてみせると!」
「先生、さっきからなんば言うちょっとね?」
不思議そうな顔をしているなるを他所に、保坂はいつもの妄想に浸る。
確かに彼がここに来た理由の中に対人関係の向上も含まれており、なるたちと仲良くなることもその一環と言えるが、もっとも最初に治すべきはこの妄想癖だろう。
実際にかなり変だし……。
「俺が、必ず! 必ず、俺が!」
「おーい、先生ー! 急に独り言言い出しち、どがんしたとかー!?」
保坂の勘違いが妄想の進行と共にエスカレートしていく。
親友のなるがひなの反応を喜んでいると判断したので仕方ない部分もあるが、実を言うとその判断自体が正確ではなかった。
確かにひなは、カッコイイ美青年に優しく接してもらえて嬉しい気分を感じている。
しかし、それと同時に別の印象も抱いていた。
「(このお兄ちゃん……なんか変だ!)」
これまでのやり取りでナニカを感じ取ったひなは、内心でそう思った。
実際に彼女の勘は当たっており、保坂は色々な意味で普通の男ではない。
それでもひなは、都会から来たおかしな青年に対して、なると負けないくらいに強い興味を持ち始めていた。
実を言うと、彼女がここにやって来た理由の中に保坂への興味も含まれていたのだ。
☆★☆★☆★☆
ひなと出会う1時間ほど前。
カレーの具材を買うために商店街へやって来ていた保坂は、八百屋で野菜を吟味していた。
「ほう、思っていた以上に良いものが揃っているな」
美味そうに育ったニンジンやジャガイモを手に取りながら満足げにうなずく。
その様子を近くで見ていた店主のおばさんが、見慣れない保坂に話しかけてきた。
「あんちゃん、この辺じゃ見かけん顔だけど、観光かね?」
「いいえ。この度、郷長の借家に引っ越してきた保坂という者です」
「へぇ~、こん島にこげん若もんが来っとは珍しかね。どこん人かな?」
「東京です」
「そげな大都会から!? ばり思い切った決断ばしなさったとねぇ」
人の良さそうな八百屋のおばさんは、事情が分かると笑顔で歓迎してくれた。
保坂の方も、初対面の人相手にまったく気後れすることなく自然に会話を進める。
そうして親睦を深めつつ必要な物を買うと、気さくなおばさんに別れを告げて次の目的地に向かう。
「さぁ、次は肉の買出しだ! 豚か、牛か、もしくは鳥か。それが問題だ……」
書道そっちのけでカレー作りに熱中しだした彼は、中に入れる肉の種類を考えながら歩き出す。
その際になぜかシャツを脱ぎ、胸元を大きくはだけて周りにいる人たちの視線を集めてしまったりしているが、意外にも問題視されていない。
幸い今日は結構な暑さなので、男が半裸になってもさほどおかしくはなく、イケメン好きな奥様方にとっては良い目の保養となっていたのだ。
因みに、ひなを連れて買い物に来ていた彼女の母親もその中に含まれていた。
「ありゃ~、良か男ん来たね~」
ひなの母親は、セクシーな格好で歩く保坂の姿を目撃して素直な感想を漏らした。
ここへ来る前にこの島では珍しい引越しの車を見たが、あれがそうだったのかと納得もする。
しかし、先ほどのやり取りを近くで聞いていたひなにとっては少し困った状況になった。
彼の言っていることが本当なら、なるたちと一緒に使っている秘密基地が無くなってしまうからだ。
「(そういえば、今はなると美和姉たちがいるはずだけど……)」
秘密基地について考えているうちに問題が起こりそうなことに気づいた。
もし、何も知らないなるたちとあの人が遭遇したら怒られてしまうかもしれない。
だとしたら自分は………………どどど、どうしようー!?
「びぇぇぇぇぇぇん!」
「えぇっ!? 急にどがんしたとか?」
こうして、なるたちの様子が気になったひなは、早めに買い物を切り上げてみんなと合流することにしたのだった。
少しだけ、都会からやって来たカッコイイお兄さんに興味を抱きながら――
☆★☆★☆★☆
そのような経緯でなるたちを探していたひなは、秘密基地から脱出してきた美和とタマを見つけて事情を聞いた。
2人の話によると、なるはまだ基地に残っているようだが、郷長もいるから大丈夫だろうと判断して放ってきたらしい。
「美和姉たちは、なるを見捨ててきたの?」
「いやいや、そげんこつばなかとよ? あん時は緊急事態やったとけ、仕方無かったっちね! それに私たちは、なるの力ば信じておるけん!」
「うん、そうだね! なるだったら、今頃あの人と仲良くなって遊んでるんじゃないかな~!」
「……(何となく言い訳っぽく聞こえるなぁ)」
ひなは挙動不審なお姉さんたちに疑惑の眼差しを向けるも、とりあえず信用して1人で秘密基地までやってきた。
どうやらあのお兄さんは怒っていないようなので、ひとまず気を落ち着けながら来たのだが、笑顔のなると出会えてようやく安堵できた。
それでも、一緒にいた保坂はやたらとマイペースで、人見知りの激しいひなは思った以上に途惑ってしまった。
それが、保坂たちの目の前で彼女が泣いているという現在の状況に繋がっている。
「うわぁぁぁぁぁん!」
「ん~、今日のひなは、ばり泣きよるな~。先生と会えて、そげん感動しちょるんか?」
「ふむ、君のような可愛い少女にそこまで喜んでもらえるのは男冥利に尽きるが、このままでは落ち着いて話せんな」
微妙に勘違いしたままの2人は、同じような感想を抱く。
とはいえ、ひなが泣きやむまで待つのも気まずいし、時間が経ちすぎればなるの提案も達成できなくなる。
そこで、保坂は一計を案じた。
後でなるを喜ばせてやろうと準備してあった仕掛けをここで披露することにしたのだ。
実は、出かける前にシャツを着替えたのはソレの準備をするためだった。
「(これを見せれば、彼女も笑顔になるだろう。いや、絶対にしてみせる! そのために、コレを用意したのだ!)」
ニヒルな笑みを浮かべた保坂は、仕掛けの成功を確信する。
「(このように、俺の一挙手一投足には一切の無駄が無い!)」
その時はひなの存在を知らなかったのに、勝手に都合よく解釈して自画自賛する。
とはいえ、実際にこうなることを見越していたかのように【とある仕掛け】を用意していたのだから偶然とは恐ろしい。
それはともかく、いつもおかしな彼が施した仕掛けとは果たしてどのようなものなのだろうか。
「子供たちよ、これから良いものを見せてやろう」
「えっ、良いもの?」
「うむ。これを見れば、ひなも笑顔を見せてくれるはずだ」
「おお~! なんば見しちくれるんか、楽しみやね~!」
「……」
こういうイベントが大好きななるは素直に興味を示し、泣いていたひなも気になったらしく、涙をふき取りながら保坂を見上げる。
よし、これで準備は整った。
「ならば見せてあげようか、この俺の甘美なる姿を!」
そう言うと、保坂はゆっくりとシャツのボタンを外し始めた。
2人の幼女の前で上着を脱ぎ出す男……傍から見れば非常に危険な構図である。
だがしかし、イイ顔をした彼がシャツの裾を鳥の翼のように広げた瞬間、その意味が劇的に変わった。
「うわ―――!?」
「先生が輝いちょる―――!?」
なるの言う通り、雲の切れ間から注ぐ強い西日に照らされた保坂の体は、なぜかキラキラと輝いている。
その理由は、彼のシャツと体を埋め尽くすようにセロハンテープで貼り付けられている【駄菓子】のパッケージが太陽光を反射しているからだ。
出かける前に、商店街で見つけて衝動買いした駄菓子をなるにあげようと思いつき、色々と趣向を凝らした結果……なぜかこうなった。
「どうだ子供たち! おいしいお菓子をみんなで食べれば、あっという間に仲良しこよしだ!」
驚くべき行動を実行した保坂は、たくましい胸元を曝け出しながら笑顔を作る。
普通に考えるとかなりマヌケできもちわるい光景だ。
しかも、腹に巻いたうま○棒の列がダイナマイトを巻いた危険人物のように見えるので、人によっては恐怖すら感じさせる。
しかし、純粋な心を持ったなるとひなは、幸運にも彼の奇行を好意的な目で見てくれた。
「うお――! 先生が駄菓子屋みたいになっちょる――!!」
「キラキラしててすごく綺麗~! まるで【お菓子の妖精】みたいだね!!」
子供たちは保坂の予想以上に強い反応を示し、ひなに至っては非常に興味深い感想を抱いた。
確かに、シャツの裏側に埋め尽くされている色とりどりのパッケージが妖精の羽に見えなくもないが……子供の感性は、時に大人の常識を超えるものらしい。
流石の保坂も妖精に例えられるとは予想がつかなかった。
「ふっ、お菓子の妖精か。こそばゆい響きだ」
保坂は、実に子供らしいひなの言葉に気を良くした。
彼女自身も、いつの間にか泣きやんで、目を輝かせながらこちらを見つめている。
よし、狙い通りだ。
やはりお菓子には、子供を笑顔にさせる素敵な魔法が込められているのだな。
「(人はお前たちのことを甘いヤツだと言うだろう。だがそれでいい。その甘さは、子供たちを幸せにするための優しさなのだから)」
まるで仲間と接するような心境で感謝の気持ちを抱いた瞬間、お菓子の妖精は唐突に閃いた。
彼の想いを形にした【お菓子の歌】を。
「彼女のことを~愛すクリーム♪ 想いは日増しに増し増しマシュマ~ロ♪ 愛しいあの子と~チューインガム♪ いつかは叶うさ~イエス・アイ・キャンディー♪ デートでサービスケット~♪ 手は抜きませんべい~♪ チョコっとでも、ダメな~の~さ~♪ あなたとわたしとふ菓子~♪ 絆をからめるキャラメル~♪ お菓子食って~、い~と~をか~し~♪ プリンプリンと胸弾む~♪ おやつみたいな~、マイ・スウィート・メモリー♪」
即興で歌を考えた保坂は、指揮を取るような仕草をしながら歌いだした。
高校時代に数々の迷曲を生み出してきた彼だが、その才能(?)は大人になっても健在だった。
かつて、小学5年生だった南 千秋を魅了したことのある彼の歌は、5年の時を越えてなるとひなの心にも不思議な感動を与えていた。
「なん、その歌!? 先生が作ったとか?」
「うむ。君たちのおかげで、美味い菓子から上手い歌詞を作ることができたのだ。改めて礼を言わせてもらおう」
「えへへ~、なるたちは何もしとらんよ~。先生がばりすごかけん、良い歌ば作れたとけ。なるは感動したっちた!」
「うん。あんな面白い歌を作れるなんて、本当にすごいよねー!」
子供たちは次々に褒め言葉を言うと、保坂に尊敬の眼差しを向ける。
大人が聞けば苦笑するような内容でも、幼い彼女たちにとっては素直にすごいと感じられた。
なぜなら、この2人には保坂に対する悪意が無いからだ。
悪意が無いから、歌を作れる技術を素直に賞賛できるのである。
もちろん趣味で作った保坂の歌は、誰もが認められるほど素晴らしいものではない。
しかし、物の価値が分からない子供の意見だからといって一蹴するほど簡単な話でもない。
「(表裏の無い純粋な評価とは、クリエイターとして何物にも代えがたいものだからな)」
保坂は、拙い自分の歌で喜んでくれている子供たちの反応を受けて、改めて考えさせられた。
人の心の有り様というものを。
利害や拒絶などといった醜い感情で生じるつまらない悪意が無ければ、保坂の作ったおかしな歌でも好意的に受け入れ、楽しむことが出来る。
しかし、多くの責任を背負うことになる大人の世界ではそう簡単にはいかない。
「(人の業とは、子供のように無邪気なままではいられないのだ。悲しいことにな……)」
もちろん、それは書道家とて例外ではない。
生活資金を稼がなければならない以上、どうしても他者と争い優位に立つ必要がある。
そのような状況で個人の思い通りに芸術活動をおこなっていくことは非常に困難をともなう。
社会から認められ続けるために不安定要素を極力減らすのは自明の理であるからだ。
芸術の世界では、先ほどの歌のように安易に作った作品を発表して迂闊に評価を落とすわけにはいかないのである。
だからこそ自分は、著名な書道家である父親の字を見習い、多くの人々が好む流行に沿った作品を作り続けて――自分の可能性を封じてきた。
無意識の内に自身に向けていた【妥協】という悪意によって。
「そうか……館長の言いたかったことは、そういうことだったのか!」
不意に何かを思いついた保坂は、ここへ来るきっかけになった出来事を思い出す。
後に【カレーなる惨劇(笑)】という名がついた、館長との熱いやり取りを。
あの時彼は、保坂の字を見てこう言った。
『君の字は確かに上手い。だが、手本のような字と言うべきか、賞のために書いた字と言うべきか。君自身の個性が感じられない』
あの時は1位を取った自分の書を否定する館長の意見に疑問を持っていた。
なぜ多くの人が上手いと認めてくれる字を書いて文句を言われるのだろうかと。
しかし、今は館長の気持ちが何となく理解できる。
あれは【保坂 春香】の書きたい字ではないだろうと言いたかったのだ。
「(流石は館長、良く分かっておられる……。ようするに、俺は恐れていたのだ。他者から受ける評価というものをな)」
だからこそ、悪評を受けないように無難な作品しか作ってこなかった。
当然、売るための作品なら需要に応えることも必要だが、己の道を探求し続けるべき書道家としては、それだけではダメなのだ。
少なくとも、書道展に出品する作品は父親の模造品などではいけなかった。
他人の言葉で綴ったラブレターでは、自分の本心を伝えることなどできないのだから。
「(ふっ。こんなにも基本的なことを忘れていたとは、これでは叱られても仕方がないな)」
ようやく館長の真意に気づいた保坂は、己の過ちを反省した。
唯一無二の作品を生み出すことにこそ心血を注ぐべき芸術家が、他者の評価を恐れてどうするのかと。
それは、書道家として生きていく道を選んだ自分の存在意義を否定することに他ならない。
他人のマネをするだけで満足している程度の愚か者には、決して
そんな当たり前なことをなるたちのような小さい子供に教えられるとは、本当に情けない。
「(これが、大人になって悪意に汚れた者の報いか。だからこそ、純真無垢な子供たちの言葉が心に響いたのだろう。そしてその瞬間、かつての純粋さを取り戻した俺はこう思ったのだ。人とは常に、そうあれかしと!)」
保坂は、小難しい言葉を使って今の心境を表現した。
大げさ過ぎてわけ分からないだろうが、ようするに「素直に気持ちを伝えられることは、とても大切なのだなぁ」という意味である。
「(芸術家としてこれほど嬉しい事はない。そんな素晴らしい感動に気づかせてくれた2人には全力で感謝せねばならんな!)」
「お~い、先生! 急に黙り込んでどがんしたと?」
「いや、なんでもない。それより、このお菓子を君たちにあげようではないか!」
「わーい! なるはチョ○バットが欲しー!」
「じゃあひなは、うま○棒のコーンポタージュ味ー!」
「あっはっは! いいだろう。どれでも好きなだけ持っていくがいい、可愛い怪盗たち!」
保坂は、重要なことに気づかせてくれた子供たちに感謝して、お菓子を大盤振る舞いする。
その際、体に貼り付けたテープを思いっきりはがして不必要に痛い思いをしてしまったが、余計な心配をさせまいとあえて平然を装うのだった。
☆★☆★☆★☆
そのように、おかしな出来事があってから十数分後。
好きな駄菓子を選び終わった3人は、仲良くそれらを食べながら海の見える場所までやって来た。
そこには磯に沿って遊歩道のような小道が通っており、広大な海と豊かな木々に囲まれて気持ちよく歩ける環境となっている。
その道を更に進んでいくと、この辺りの人たちが使っている漁港や村落に行き着く。
「波の音が聞こえると思っていたら、想像以上に海が近かったのだな」
「おうよ! いつも海水浴ば行った後は、先生ん家で昼寝すっとよ?」
「それでね、甘いスイカとか冷たいアイスを食べるんだ~」
「ほう、それは面白そうだな。幸い季節は夏だから、近いうちにみんなで行くとするか?」
「「うん、行く~!」」
お菓子作戦ですっかり打ち解けた3人は、仲良く話をしながら小道を進んでいく。
しかし、あまりのんびりはしていられない。
予期せぬイベントで時間を費やしたせいで、なるの見せたいものに間に合うかギリギリのタイミングとなりつつあった。
「先生、早よ急がんと間に合わんぞ~!」
「早く早く~!」
「あっはっは! そんなに走っては危ないぞ、子供たち!」
なるとひなは競争しながら先を行き、保坂はその後を早歩きで追いかける。
元バレー部で背が高い彼はそれでも十分ついていけた。
「それにしても、この島に来て初日だというのに色々なことがあったな」
綺麗な景色を見て気分が落ち着いた保坂は、今日起きた出来事を思い返してみた。
美しい大自然に囲まれた新しい我が家に、親しみ易い島民たちとの楽しい会話。
どれも既に思い出深い記憶となっている。
特に、なるとひなとの出会いは、自分の成長を期待させるような予感を抱かせた。
「よもや新天地に来て早々に2人の少女から慕われようとは思わなかったが……良いことには違いない。その証拠に、彼女たちからは早速大事なことを教えてもらった」
保坂は、子供たちの元気な様子を見守りながら目を細めた。
またしてもシャツを脱いで胸元をはだけているので一見すると変質者だが、彼の心はどこまでも清らかだった。
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最終話 全開だ!
海岸沿いの道を歩く保坂は、自分の前を行く子供たちの元気な様子を見守りながら目を細めた。
そして同時に、東京にいる春香とその娘たちにも思いを馳せる。
「みんなをこの地に呼べれば、より楽しくなるだろう。うむ、それは実にいい考えだ」
そのように思った途端に保坂の妄想は膨らみ出す。
もちろん、きもちわるい方向に。
「ここでの暮らしに落ち着いた俺は、南ハルカを招待するわけだ。そして、彼女の娘たちとともに海水浴に行くわけだ。そこで、父親である俺が2人の浮き輪に空気を入れるわけだ。すると、南ハルカは汗をかいた俺に気づいて優しく拭いてくれるわけだ……」
またしても自分勝手な保坂ゾーンを展開しだした彼は、いつものように妄想の世界へと突入していく。
妻となった南ハルカと2人の娘たちを連れて海に遊びに来た妄想を――
眩しい日差しと綺麗な青空が鮮やかに映える真夏の浜辺。
愛しい家族と共に海水浴へとやって来た保坂は、子供たちのために浮き輪を膨らませていた。
『さぁ、空気が入ったぞ、娘たち!』
保坂は、パンパンに膨らんで使える状態になった浮き輪を子供たちの前に差し出す。
すると、末っ子のチアキがすばやく駆け寄ってあっという間に奪っていく。
どうやらそれは彼女のお気に入りのようで、先を越されて悔しがっている姉のカナに譲りたくなかったらしい。
『このネコさん柄の可愛い浮き輪は私が使う』
『おいおいチアキ。姉である私を差し置いて、ずいぶんと好き勝手言ってくれるじゃないか?』
『ふん、私がお前を姉だと思ったことは生まれてこの方一度も無いよ』
『なんだと!? 子供とは思えない辛辣な言葉でこのカナ様をバカにするとは、何て邪悪な妹なんだ!』
『いや、バカにしてるんじゃない、実際にお前がバカなだけだ、このバカ野郎』
『実も蓋も無さすぎだろ!?』
まさにその通りであるが、カナがバカなことも残念ながらその通りだった。
しかも、容赦ないチアキの口撃は、おバカなカナに更なる追い討ちをかけてきた。
『そんなお前に浮き輪など贅沢すぎる。お前なんか、その足元にあるビーチサンダルで十分だ』
『ビーサンをビート板にしろだなんて、お前は鬼か!』
仲が良いのか悪いのか、幼い姉妹はお約束のようにケンカしだした。
ポコポコと殴りあう可愛らしい(?)光景を優しい眼差しで見つめていた保坂は、笑顔を浮かべながら注意する。
『あっはっは! ケンカをする前に準備運動が先だろう、娘たち!』
仕方ないなというように、若干的外れな言葉で2人を嗜める。
そもそも、浮き輪はもう一つあるのだから争う必要はないのだ。
保坂は不毛なケンカを止めるために、もう一つの浮き輪にも空気を入れようとした。
その時、彼と同様に娘たちを見守っていた春香がタオルを手にして近寄ってきた。
『あなた、すごい汗ですよ』
『ああ、3リットルはかたいな』
『うふふ、随分とがんばりましたね。それじゃあ私は、貴方のために汗を拭いて差し上げます』
『ふっ、ありがとうハ・ル・カ』
『どういたしまして、あ・な・た』
愛する夫から感謝の言葉を受けたハルカは、笑顔を浮かべつつ彼の顔に浮き出た汗を拭いた。
実に仲睦まじい光景で、まさに絵に描いたような理想の家族像だった。
でもそれは本当にただの理想であり、保坂の妄想でしかなかった。
実際の彼は、今日仲良くなったばかりの少女2人と散歩している真っ最中である。
それでも幸せな状況ではあるのだが、なるたちを放っていた罰が当たったのか、未だに妄想の中にいる保坂に予期せぬハプニングが起こってしまう。
「あっはっは、こちらも頼む……いや、そこじゃない、胸元の辺りを重点に……そう、その辺だ……ああ、上手いぞ、ハルカ……」
彼は未だに妄想の中で春香に汗を拭いてもらっている真っ最中だったが、それはこの際どうでもいい。
今は、現実の保坂が外の状況を把握していないことに問題があった。
いつの間にか、安全な小道から危険な岸壁にやって来ていた彼は、とある危機に瀕していた。
「ちょっ、先生ー!?」
「そんまま行くと危なかぞー!?」
前を進んでいたなるとひなが異常に気づいて注意をしたが間に合わなかった。
イイ顔をしながら目を閉じていた保坂は、船を係留するために置いてあったロープに足を取られてバランスを崩し、階段状の段差から転げ落ちてしまったのだ。
そして、そのまま岸壁を飛び越えてダイナミックに海へと落下していった。
「さぁ、俺たちも一緒に泳ごう、ハルカ!」
ドッボォォォン!
大きな音を立てて落下した保坂は、春香と一緒に海に入っていく妄想を抱きながら海中に沈んでいく。
元バレー部部長の彼でも、あそこまで油断していては反射的に受身を取るのがやっとで、満足な抵抗もできずに水没していくしかなかった。
というか、彼自身は未だに妄想の中にいるようで、異常事態に気づいているかどうかも怪しいのだが……とにかく、放っておけない状況になったことは間違いない。
「きゃ―――!!?」
「先生が海に落ちた―――!!?」
なるとひなは、目の前で起きた惨劇に凄まじい衝撃を受けた。
そりゃ、イイ笑顔を浮かべた青年が思いっきりぶっ倒れた後にものすごい勢いで回転しながら海に落ちていく光景を目撃してしまったのだから当然である。
しかも、なかなか浮いてこないではないか。
「……先生?」
「……浮いてこない?」
目を凝らして見ても海面には泡が浮いてくるばかりで、それも徐々に途切れてきた。
この状況には流石のなるも慌ててしまい、ひなは早速泣き出した。
「うわぁぁぁぁ、先生が大ピンチじゃ―――!?」
「びぇぇぇぇぇぇん!」
ひなが泣き出したことで更に慌てたなるは、後先考えずに自分も海に飛び込んだ。
ドッボォォォン!
「先生―――!!」
頭を海面上に出したなるは、保坂が消えた辺りに向かって叫ぶ。
まだ幼い彼女だが、このぐらいの深さならいつも泳いでいるので、その点は問題ない。
とはいえ、都会育ちの保坂ではこうはいかないはずだ。
「きっとおぼれちょるんだ!」
そう思ったなるは、とにかく潜って探しに行こうとした。
だがしかし、彼女が行動をおこす前に事態が急変した。
というか、沈んでいたはずの保坂が彼女の目の前に急浮上してきた。
バッシャァァァン!!
「問題無し!!!!!」
「うぎゃ――――――――――!!?」
なぜか海中でシャツを脱ぎ半裸状態になった保坂が、キラキラと輝く水飛沫を上げながら、やたらと男前な様子でなるの眼前に飛び出してきたのである。
かなりド派手に転げ落ちたクセに傷一つ無く、性格以外は問題なさそうだ。
彼の安否を気にしていた子供たちには申し訳ないが、はっきり言ってこの男に心配などは無用だった。
「あーもう、おどかすなっち! ほんとに死んだかち思ったよ!」
「ふっ、すまない。あまりに綺麗な海の透明度に感動してしまってな、思わず海中散歩を楽しんでしまったのだ」
「そんでなかなか浮いてこんかったとか!? まったく、人の心配ば気にせんと勝手なこつばしよっち、他所もんはこれじゃっけん!」
「それって他所もん以前の問題だと思うけど……」
安全を確認して泣きやんだひなが、岸壁の上からツッコミを入れる。
確かに、この島の海は都会人にとって感動してしまうほど綺麗なものなのかもしれないが、だからといって転げ落ちたついでに楽しむことはないではないか。
それでも、異様なほどに大物であることだけは思い知らされた。
「もしかすると、先生ってすごい人なのかもしれない……何か変だけど」
あんなに心配させておいて、いざ問題が解決したら結局おバカな話で終わった。
すごい人なのにどこか抜けている、まったくもっておかしな男である。
「それにしても、俺を助けるために迷うことなく海へ飛び込むとは、君は勇気があるのだな。本来ならば無謀であると注意すべき所だが、この保坂、心の底では非常に感動しているぞ!」
「えへへ~。こんぐらい、どうっちこつなかよ~。いつも泳いで遊んじょるけんね~♪」
「なるほど。自然と身近に接してきたがゆえの、当たり前の行動だったということか。実に健康的で逞しい……。いや、王子を助けるために身を挺した君は、おとぎ話に登場する人魚姫のように美しい!」
「うぎゃ――!? そげん褒められっとばり恥ずかしかなるけん、止めちくり――!!」
海上にプカプカと浮いた保坂となるは、おかしな状況も忘れてのん気な会話をしだした。
健気なヒロインに例えられて可愛らしく照れているなるは良いとして、勝手に自分のことを王子に例えて納得顔をしている保坂は、やっぱりきもちわるい男なのかもしれない。
それでも、ひなにとっては2人のやり取りが羨ましく思えた。
「むむ~」
妙に息の合った2人の様子を岸壁の上から見ていた彼女は、ちょっとだけむくれながら声をかけてきた。
どうやら、なるばかり構ってもらえて拗ねてしまったようだ。
「2人とも、早く上がってきなよ~」
「おうよー。すぐに戻るけん、向こうで待っちちくりー」
「うむ。確かに、夏だからと言って服を着たまま泳いでいてはおかしいからな。やはり、海水浴をするならば、水着を着用すべきだろう!」
そういう問題ではない。
とはいえ、流石の保坂も服を着たまま泳ぐのには慣れていないため、一応は正論である。
そもそも、彼らには別の目的があるのだから、のん気に泳いでいる場合ではない。
「先生、あっちは坂になっちょるけん、そっから上がろ?」
「ああ、了解した」
「そんじゃ行くぞ~!」
保坂の返事を聞いたなるは、着ているTシャツの腹部分に空気を入れて簡易的な浮き袋を作り、バタ足で泳ぎ出した。
「ほう、面白い技を使う。この俺を感心させるとはなかなかやるな、琴石 なるよ!」
あまりお目にかかれない特殊技を見た保坂は、再び感心しつつ平泳ぎで彼女の後を追う。
そして、1人だけ海に入らずに済んだひなは、岸壁の上を進んで2人の先回りをする。
ほんの少しだけいじけながら。
「ひなだって泳げるもん……」
何となく仲間はずれになったようで悔しくなったひなは、可愛らしく口を尖らせて文句を言う。
彼女もなると同じくらいに泳げるのだが、テンパって泣いているうちに飛び込む機を逸してしまった。
普通だったら飛び込まなかったひなのほうが正解なのに、保坂と一緒に泳いでいるなるを見て羨ましく思ってしまう。
幼いながらも女心(?)がうずいてしまったといったところか。
いずれにしても、保坂が無事だったので、話はそのまま進んでいく。
「おまたせー、ひな!」
数分後、船を移動させるためにスロープ状になった場所から上陸したなるが、近くで待っていたひなの元へ駆け寄る。
しかし、近寄って彼女の表情を見てみると、どことなく不機嫌そうにしていた。
「むすー」
「どがんしたとか、ひな? そげんほっぺば膨らませて?」
「うむ、恐らく待ちくたびれてしまったのだろう。つまらない思いをさせて悪かったな、久保田 ひなよ!」
怒っている様子のひなを見て見当違いな答えを出した保坂は彼女の頭を優しく撫でた。
しかし、その行動は構って欲しいという彼女の願いを期せずして叶えることになった。
ただ、残念なことに彼の手は海水でベチャベチャだった。
そんな手で撫でられて頭が濡れてしまった結果、ひなは再び泣いてしまった。
「びぇぇぇぇぇぇん!」
頭を撫でてもらって嬉しいのと同時に、頭にべっちょりとついた海水がきもちわるくて複雑な心境になったのだ。
「あっはっは、泣くほど嬉しかったのか! ならば、もっと撫でてやろう!」
「うわぁぁぁぁぁぁん!」
「えへへ~、先生にそげん撫でられち良かったなぁ、ひな!」
三者三様に勘違いをしているものの、とりあえず3人は合流を果たした。
色々と問題も起こったが、とにかく無事に揃ったので再び本来の目的地に向かう。
とはいっても、その場所はもう視界内に写っていたが。
「先生、あそこったい! あん壁ば登ったら、ばりすごか夕日見ゆっとぞー! なっ、ひな?」
「うん、ちょうど綺麗に見えるころだねー!」
そう言ってなるとひなが走っていく場所は、港に作られた防波堤だった。
高さ5メートルほどの平凡な作りの壁で、海辺に住む人にとっては特に珍しくもない建造物だ。
近くに来てみてもその意見は変わらず、一本の丈夫そうなロープがてっぺんから垂らされている点以外はなんのも変哲も無い場所だった。
ただし、なるが言うには、この壁の上部は美しい夕日が見える絶好の場所らしい。
「ここから上に登ろうというのか?」
「おうよ! 登らんば見えん!」
なるは、ロープに手をかけながら答える。
目の前にある太いロープには等間隔に輪が作られており、子供でも登れるようになっている。当然、大人の保坂ならば問題なく上まで行けるだろう。
しかし、今日はあいにく雲が多く、たとえ上に登ったとしても望んだ結果を得られるかは難しいところだった。
「確かに夕焼け空ではあるが、夕日が綺麗に見えるかどうかは登らなければ分からんな」
「そん通りじゃ、先生! 登ってみらんば何もわからん。見ようちちぇんば見えん!」
なるは保坂の独り言に答えると、有言実行とばかりにロープを登り出した。
途中で足を滑らせたためヒヤッとしたものの、慣れているのか特に焦ることなくそのまま登っていく。
そんな野性味溢れる彼女の姿を下で見守る保坂は、となりにいるひなに質問した。
「君たちはここをよく利用するのか?」
「うん、とっても綺麗な夕日が見えるから、私たちのお気に入りなの」
「だが、こんな危ないことをして怒られたりはしないのか?」
「見つかったらダメだって叱られるけど、それだけだよ?」
「うむ、そうか……」
ひなの返事を聞いて保坂は考える。
子供を危険から守ることが必ず良い結果をもたらすとは限らないのかもしれないと。
何事においても経験に勝ることは無いからだ。
確かにこれを放っておけば大怪我をする可能性はあるが、だからこそ得られるものもある。
そもそも、生物とはそうやって生死をかけることで学び、進化してきたのだ。
当然ながら、その理屈は人間にも当てはまる。
今の社会常識で考えるとかなり乱暴ではあるものの、収入による格差と偏差値重視による差別を増長させるばかりの愚かな教育よりは遥かに有益だろう。
「(自分の意思で経験させることで自信と責任を身につけさせ、ごく自然な形で成長を促すわけか。なるほど……教育とは、本来こういうことなのかもしれんな)」
文字通り壁を乗り越えようとしているなるを見ながら保坂は思う。
「(幼い彼女は、目の前の大きな壁に臆することなく立ち向かっている。だというのに、この俺はどうなのだ。自分の心に負けて、周囲の雑念に流され、書道家として進むべき道を見誤っていた。これでは南ハルカに会わせる顔が無い!)」
保坂は、不甲斐ない自分に憤る。
しかし、幸いにも悪意に毒されていない子供たちと出会い、大切なことを教えられた。
いや、思い出させてくれた。
ならば、これからは己の意思で過ちを正すのみ!
「とうちゃ~く! 先生もはよ来い! こん壁を越えんば何も見えんぞ!」
防波堤の上に登りきったなるが、下にいる保坂に真理を語る。
行く手を遮る壁を登らなければ、その先にあるものは何も見えないし、何も得られない――まさに言葉の通りだ。
その瞬間、保坂の脳裏に館長の言葉が蘇る。
『君は、平凡と言う壁を乗り越えようとしたか?』
それはすなわち、現状に甘んじて停滞していた、自分自身の弱き心に他ならない。
そうだ、答えはこんなにも身近にあったのだ。
「(見つけましたよ館長! 俺が乗り越えるべき壁を!)」
これまでは色々と言い訳して自分を甘やかしてきたが、もはやそのままではいられない。
ならば――今から全力を出せば良い。
見えるかどうかも分からない夕日を求めたなるが、迷うことなく危険な壁に挑んだように。
「(たとえ困難に挑戦したその先にどのような結果が待ち受けていようとも、逃げるわけにはいかないのだ。それが、生きるということなのだから!)」
健康な体と健全な精神がある限り、努力し続けるべきなのだ!
男としても、大人としても。
そして、書道家としても。
「(改めて君に誓おう、南ハルカ! この俺は乗り越えるべき壁を越え、誰もが認める最高の書道家になってみせると!)」
勝手に気分を盛り上げた保坂は、心の中で決意を叫ぶ。
たとえこれまで築き上げてきた評価が変わってしまうとしても、自分の心に負けずにどこまでも突き進もう。
それが、書道家という道を選んだ自分の成すべきことなのだから。
「決意はとうに出来ている。ならば行こう! 南ハルカとの幸せを掴み取るために!」
「……ミナミハルカって誰?」
ひなの疑問が表しているように見当違いな決意のような気もするが、とにかくやる気は十分だ。
安全のためにひなが登り終えるのを見届けてから保坂も壁を登り、防波堤の上に立つ。
すると彼の眼前には、雲の合間から見える綺麗な夕日と、その暖かな光で輝く海面が広がっていた。
なるたちの小さな挑戦は成功したのだ。
「な、綺麗かろ?」
「うむ……君の言う通りだ」
保坂は、視界一杯に広がる絶景に見惚れる。
見慣れていると思っていた夕日も、今日はまったく違って見える。
とても美しく、そして愛おしい。
「ああそうだ。この輝きこそ、俺の求めていた愛の輝き! そう、南ハルカを初めて見た時に感じた、初恋のときめきだ!!」
「初恋?」
「おおー、先生は恋ばしちょっとか!?」
「うむ。今俺は、改めて恋をした! この美しい景色と感動を与えてくれた君たちにな!」
保坂はそう言うと、とても綺麗な笑みをなるたちに向けた。
普通の状態なら、多くの女性が惚れてしまいそうな状況だ。
しかし、現在彼は上半身裸であり、言っているセリフも子供に言うにはあまりに危険なため、人によっては通報レベルな光景である。
ただし、幸いな事に今は人目が無かった。
しかも、なるとひなにとってはお菓子の妖精という認識の方が強く、そのおかげで子供たちのハートをしっかりと掴むことに成功した。
「うお―――!! なるは初めてコクハクばされちったぞ―――!?」
「うわぁ―――ん!! ひなもだよぉぉぉぉん!!」
いきなり初めての経験をさせられた(?)子供たちは興奮して騒ぎ出す。
微妙に勘違いしているが、それも仕方が無いだろう。
「あはは、あはは、あはははは!」
すべてはこの、変な笑い方をしている変人のせいである。
本来なら感動的な場面となるところなのに、とてもカオスな光景が展開されるのであった。
☆★☆★☆★☆
何はともあれ、人間として一回り成長した(?)保坂と子供たちは新しい我が家に返ってきた。
辺りはもう暗くなり、もうじき日が暮れる。
そんな薄暗い景色の中に1人の老人の姿が見える。
あれは確か、最初に出会った第一村人ではないか。
「あーっ、爺ちゃーん!」
「爺ちゃん? お前のか?」
「そう!」
爺さんを見たなるは彼の元に駆け寄りながら答える。
まさか、第一村人が彼女の家族だったとは。
世間は狭いというのはこういうことを言うのだろう。
「おーい! せんせ-! 早よ来んば、勝手に箱あぐっぞー!」
「え、なぜですか?」
「引越しやっけん! 加勢に来たがな!」
どうやら引越しの手伝いをしてくれるらしい。
しかも、それをきっかけにするように、近所にいる人たちがぞろぞろと集まってくる。
郷長か爺さんが呼んでくれたのかと思ってなるに聞いてみたところ、引越しの車を見て自然と手伝いに集まって来てくれたらしい。
「これが本当の親切心というものか。まだまだ人情は健在なようだ」
基本的に人の善性を信じている保坂は、彼らの親切を素直に受け入れる。
恐らくは、日本だけでしか見られないかもしれない光景だろう。
こんな優しさに溢れた精神がいつまでも続いていってほしいものだ。
そんなことを思って新たな感動をしているうちに、ひなの母親も来て挨拶してくる。
「あら先生、うちのひなが世話になったようで、ありがとねー」
「いえ、礼を言うのはこちらのほうです」
保坂は素直に本心を語った。
彼女にはとても大切なことを教えられたからだ。
ただ、濡れたシャツが気になって未だに上半身をはだけたままなので、あまり感謝をしているようには見えないが……。
それでも、ひなのお母さんはなぜか嬉しそうなので、まぁいいだろう。
などと思っていたその時、保坂は背後から忍び寄る気配に気づいた。
「(何者!?)」
バレー部で培った勘が働き、彼は咄嗟に回避行動をおこなった。
その直後に、子供らしい元気な声が響き渡る。
「カンチョ――!!」
どうやら、昔懐かしい伝統的なイタズラをやらかそうとしたらしい。
しかし、やたらと敏感な保坂には決まらなかった。
「ええーっ!? おいのカンチョーば避けおったやとー!?」
「ふっ、元バレー部を甘く見てもらっては困るな少年! 俺ほどともなれば、背後の気配すらも手に取るように把握できるのだ!」
「ほぇー、バレー部っち、ばりすごかねー!」
保坂にカンチョーを決めようとした坊主頭の少年は、彼の言葉を真に受けて目を輝かせている。
そんな少年に対して、保坂はなぜか部活の勧誘を始めた。
「さぁ、少年! 俺と一緒にバレーボールをや ら な い か?」
「うん、やる――!!」
「どがんしてそうなっとか!?」
保坂が怪しい勧誘を始めた所で、郷長と一緒に初見の男性がやって来てツッコミを決める。
「そいはともかく、こらケン太! カンチョーは禁止っち、学級会で話しおっとろうが!」
「うるせー、ヤニクサ男ー!」
ケン太と呼ばれた少年はタバコをくわえた男性に怒られると、捨て台詞を残して逃げていく。
学級会という単語からすると学校関係者らしいが、堂々と歩きタバコをしているその風体は、まるでダメな男だ。
「郷長、こちらの方は?」
「分校の教頭さん」
「なるほど、やはりそうでしたか。子供の前でもその態度、まさに反面教師の鏡ですね」
「いきなり失礼なやっちゃね、あんた」
確かにそうだが、人の家の前でタバコを吸うのもどうかと思うので、結局お互い様である。
とはいえ、引越しを手伝いに来てくれたことは大変ありがたい。
その後、駆けつけてくれたみんなで引越し作業をおこない、夕食前に大体の作業が終わった。
そして、彼らは別れの挨拶をしながらそれぞれの家に帰っていく。
「先生、またなー!」
「ああ」
最後に、今日一番世話になったなると挨拶を交わし、ようやく静けさを取り戻す。
しかし、ちっとも寂しくはない。
「彼らから暖かな心をもらったからな。そして、新たなアイデアも!」
どうやら、彼らの行動からインスピレーションを感じ取ったらしい保坂は右手に力を込めると、早速行動に移った。
1m以上も幅のある紙をふすまに貼り付けて立てかけ、やたらと太い筆と大量の墨汁を用意すると、そこに豪快な字を書き始めた。
数分後、作業を終えた保坂は出来上がった作品を眺めて満足げにうなずく。
それは紙一杯に書かれた【愛】という字だった。
ちゃんとした作品になっている所を見ると、一応ここに来た理由は覚えていたらしい。
「うむ、いいできだ。新しき門出に相応しいと言えるだろう!」
すると、畳の上においていた携帯電話が鳴る。
東京にいる川藤が様子を確かめるためにかけてきたのだ。
金髪で刺青を入れた彼の容姿はどう見てもアレだが、心の方はとてもまともで、親友の事を心配していたようだ。
『で、どうだ? そっちでやっていけそうか?』
「この島でか? あぁ、どうにかやっていけそうだ。こちらに来たおかげで、素晴らしいカレーも完成したしな!」
そう言ってかたわらに置いてあるカレーを見る。
実は、字を書く前に完成させておいたのだ。
チキンライス、目玉焼き、甘口カレーの3点セットを夕焼けのように盛り付けた、なるとひなのために考えた一品。
「名付けて、サンセットお子様カレーだ! 東京に戻ったら、お前にもご馳走しよう!」
『んなもんいらんわ!!』
川藤は豪快にツッコミを入れながら電話を切った。
「ふむ、どうやらアイツは忙しいらしい」
せっかく心配して電話までしたのにこれである。
まるで子供を気にかける親のような親友の心境も知らず、保坂はカレーを盛った皿を手に取ると、大きな声で宣言した。
「待っていてくれ南ハルカ! この島で力をつけて、いつか必ず自分の道を極めてみせる! そして、その暁には君に告白しよう! この胸に秘めた熱き思いを!!」
島に来て早々に大作を完成させて自信を得られた保坂は、カレー皿を手に持って高笑いする。
「あはは、あはは、あはははは! あはは、あはは、あはははは!」
人気の無い闇夜が広がる五島の一軒屋から奇妙な笑い声が響き渡る。
都会だったら間違いなく苦情が来ているところだが、幸いここではその心配は無い。
と思っていたら、玄関に郷長が立っていた。
実は、彼のために夕食を持ってきてあげたのだが……実にタイミングが悪かった。
「カレーを頭上に掲げながら笑ってる……」
「あはは、あはは、あはははは! あはは、あはは、あはははは!」
どう見ても変な人だ。
不幸にも常軌を逸した彼の様子を見てしまった郷長は恐怖した。
「あの……チャンポン持ってきたんだけど…………怖い」
「あはは、あはは、あはははは! あはは、あはは、あはははは! あはは、あはは、あはははは! うぁはは、うぁはは、うぁははははーっ!」
自分を見てドン引きしている郷長に気づくことなく、高らかに笑い続ける保坂。
果たして彼は、この先この島でちゃんとやっていけるのだろうか?
その答えは、まだ誰にも分からない。
これにて「ほさかだもん」は完結です。
あまり良い結果を得られず残念でしたが、これも良い経験だと思って今後の糧にさせていただきます。
次は「ご注文はうさぎですか」と「コードギアス」のクロス作品を短編で作ってみようかと考えております。
いつになるかは未定ですが、出来上がったその時は見てやってくださいませ。
それでは、最後までご覧いただき、本当にありがとうございました。
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