犬とお姫様 (DICEK)
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やっぱり、比企谷八幡は車に轢かれる

 

 一人で通学路を行くのは、比企谷八幡にとって珍しいことではなかった。

 

 通学を供にするくらいに付き合いのある人間は過去一年遡っても二人しかおらず、その内一人――雪ノ下陽乃は気が向いた時、いきなりリムジンを家の横につけることがあるくらいで、それは多くても一月に一度くらいのものだった。

 

 残りの一人は城廻めぐりである。八幡にとっては生徒会活動を供にした、陽乃以外では唯一友人と呼べる付き合いのある人間だったが、彼女の家は学校を挟んで比企谷家と反対側にあるため、登校はおろか下校も一緒にしたことはほとんどなかった。

 

 生徒会の用事で、あるいは陽乃に巻き込まれて一緒に出かけたこともあるにはあるが、それも比企谷家とは離れた場所に集合し、解散することが多かった。住所くらいは知っているはずだが、家の正確な場所は知らないはずである。

 

 そして、現在。

 

 二人しかいない貴重な友人の内一人は、先月総武高校を卒業して大学生になった。今は実家から県内の国立大学に通っている。一度は一人暮らしをしたいと言っていたので、いずれは部屋を買って――借りて、ではない――大学の近くで一人暮らしをすることになっている。

 

 そうしたら呼んであげるね、と色々と含みのある笑顔で言っていたのを思い出す。

 

 自分の城を持った彼女の家に一人で行くなど、何をされたものか解ったものではない。男としての期待は大いにあるが、それ以上に恐怖を感じて仕方がなかった。その恐怖こそ望むところではあるのだが……

 

 ともあれ、現在同じ学校に通っている人間で、辛うじて友達と呼べる人間は、めぐり一人しかいなかった。他の人間がどの程度友達がいるのか知らないし興味もないが、一人というのは間違いなく、少ない部類に入るだろう。

 

 そのめぐりは現在、生徒会長をしている。陽乃は誰も公認しなかったので自力で勝ち取ったようなものだが、彼女から会長職を引き継ぐ形で生徒会長に就任した。その際、はっちゃんもどう? とメンバーに誘ってはくれたが、それは丁重に辞退している。

 

 雪ノ下陽乃という強力な後ろ盾があったからこそ、ぼっちの比企谷八幡でも生徒会にいることができたのだ。めぐりの就任時点では陽乃はまだ学校にいたが、三月の卒業は避けようのないことだった。

 

 めぐりが生徒会長になった年から、会長選挙の日程が後ろに伸び、めぐりの代だけ任期が長期化することになった。その任期の後半には陽乃はいない。彼女の手先となって色々やった八幡には敵が多く、庇護のない環境では攻撃をされるだろうことは想像に難くなかった。

 

 手先になっていたのはめぐりも同様だったが、彼女は彼女なりに自分の支持層を増やしていて、根強い陽乃アンチ派だった真面目層も取り込んでいた。彼ら彼女らに『女王様の犬』は受けが非常に悪い。一緒に苦労をした。そのめぐりを助けてあげたい気持ちがないではない。一緒にいて手伝えることは色々とあったろうが、ダメージの方が多いことは疑いようがなかった。

 

 そんなことを一から十まで説明したりはしなかったが、陽乃の下で一緒に働いた仲間である。八幡の辞退にどういう配慮があったのかは、言葉に出さずとも理解はしてくれただろう。『しょうがないね』と寂しそうに笑っためぐりの顔を思い出す。自分にもっと力があれば、とでも考えていたのだろう。それを慰めるような気の利いた言葉は、八幡には思い浮かばなかった。

 

 八幡も、それはしょうがないことだと思った。

 

 何でも自分のしたいことを通すことのできる、陽乃のような人間が特別なのだ。大体の人間は何かを成すのに力が足りないし、それに悔しい思いをするものである。近くでそれを見てきた八幡は、それを嫌というほど思い知った。

 

 そんな絶対者である陽乃も、今はいない。

 

 個人的な関係は、今もしっかりと続いている。卒業したくらいで、彼女は犬に飽きたりはしなかった。連絡は一日に一度は絶対に来るし、顔を見て話せるようにと八幡の部屋にも比較的高スペックのパソコンが設置された。環境が変わる時こそばたばたしていたが、今では彼女の顔も結構な頻度で見ている。

 

 正直そんなに離れたという気がしないのだ。

 

 だからこそ、学校に行っても陽乃がいないという環境が、八幡にはピンとこなかった。彼女に連れまわされるようなことが学校ではもうないのだと思うと、無性に寂しくなってくる。

 

 人間強度が下がったとでも言えば良いのだろうか。依存しているつもりはあったが、ここまでとは思わなかった。それこそ中学を卒業したばかりの時、もう家族以外の人間を信じるものかと思っていた頃の自分が見たら、絶句するだろう。その依存する相手が性格以外およそ欠点のない美人だとしたら、夢だと思うに違いない。

 

 赤信号で、足を止める。

 

 通学には少し早い時間だ。何がある、という訳ではないがこの時間に目が覚めてしまったのだ。学校に行っても生徒会の仕事がある訳ではないし、陽乃に連れ回されることもない。陽乃がいないと本当に暇なのだな、と思いながらカバンの中を確かめる。参考書くらいは入っている。学生の本分は勉強だ。図書室辺りで勉強するのも、悪いことではないだろう。

 

 陽乃が進学した国立大学は、彼女の学力からすれば大分余裕を持った進学先である。八幡の第一志望もそこだった。静からはもう少し上を目指したらと言われたが、八幡に他に選択肢はなかった。陽乃がそこにいるのだから、比企谷八幡に他に選択肢はない。八幡も三年生で、進学先を本格的に考える時期である。陽乃からは不自然なほどに進学先に関する質問はなかったが、彼女の方も当然同じ場所に来ると思っているのだろう。

 

 そうであると嬉しい、と思いながら道の反対側を見た。犬を連れた、いや、犬に引きずられた少女が走らされている。あれではどちらが散歩しているのか解ったものではない。犬は大変だな、と思いながらぼんやり眺めていると、その犬と目があった。見るからに単純そうなそのアホ犬は八幡をロックオンすると、一目散に駆けてくる。

 

 おいおい、と思うと同時に右からリムジンが来た。直撃コースだ。そう判断するよりも先に八幡はカバンから手を放し、駆け出していた。柄にもないことをしてるな、と考えながら、横目でリムジンを見る。何度か乗ったこともある。雪ノ下のリムジンだ。ナンバーが一緒だから間違いがない。

 

 もしかして陽乃が? と思い運転席を見れば、そこにいるのは見覚えのない中年の男性。飛び出してきた犬と、それを目指す人間に目をむいて急ブレーキを踏んだ。耳を劈く急ブレーキの音。それでも、リムジンは止まらない。間に合え、と念じながらアホ犬に手を伸ばし、腕に抱え込む。

 

 八幡にできたのはそこまでだった。

 

 その一瞬後、想像以上の衝撃が八幡とアホ犬を襲い、一人と一匹を容赦なく吹き飛ばした。

 

 アスファルトの上を転がりながら、それでもアホ犬だけは放すまいと腕に力を込める。

 

 ぱたり、と倒れた八幡の腕は、役目は果たしたとばかりに力なくアルファルトの上に落ちた。何が起きたのか理解していないのだろう。アホ犬はのんきに八幡の顔をぺろぺろと舐めている。顔にはぬめっとした感触がある。頭を打って血を流したのだろう。人間の血というのは、犬に大丈夫なのだろうか。痛みに耐えながら考えたのは、そんなことだった。

 

 人の声が聞こえる。意味まではとれない。朦朧とした意識と激痛の中、眼球を動かして空を見上げると、そこに『陽乃』がいた。真新しい総武高校の制服を着込んだ『陽乃』が、八幡を覗き込んでいた。

 

 勝手に一人で卒業したくせに。

 決して口には出さず、心の奥に押し込んでいた文句が八幡の中で渦巻いたが、それを口には出さなかった。卒業したところで関係は変わらない。比企谷八幡は雪ノ下陽乃の犬なのだから。

 

「じっとしてなさい」

 

 いつも余裕に満ちていた『陽乃』の声には、隠し切れない不安の色がある。態度にも余裕がなく、声もどこか幼い気がする。

 

 それではいけない、と八幡は思った。

 

 それではただの美少女だ。雪ノ下陽乃は女王であり、完全で完璧でなければならない。犬一匹が怪我をしたくらいで心を乱すようでは、女王失格だ。余裕たっぷりに笑いながら、つま先で小突くくらいのイカれっぷりがなければ、らしいとは言えない。

 

 だが、らしくないというのなら、それは犬も同じだった。女王の許しなく怪我をするようでは、女王の犬とは言えない。身体はバラバラになりそうなほど痛いが、多分死ぬほどではない。血こそ出ているが、自分は死ぬかな、と考える程度の余裕はあった。

 

 それくらいなら、おそらくではあるが、大丈夫だろう。見た目ほど重症ではないということは、見た目はそれなりに危なく見えるということでもある。それが陽乃の不安に繋がっているというのなら、犬としてはそれを取り除かなければならない。

 

 気をしっかり持つと、何だか死なないような気がしてきた。ここで死んだら容赦なく陽乃は、比企谷八幡と言う人間を過去のものにするだろう。それは絶対に、嫌だった。

 

 絶対に、死んでやるもんか。無事に回復したら、文句や嫌味の一つも言ってやる。犬だって、タダで尻尾を振っている訳じゃないのだ。一人で勝手に卒業したのだから、それくらいの報復はあっても良いだろう。

 

 あぁ、でも。

 

 もう見ることのないと思っていた、陽乃の制服姿を見ることができたのは、幸運だった。何を着ていても美人だが、出会った時、彼女が着ていたこの服が一番、八幡の心に残っていた。

 

 

 

 絶対に、死なない。犬の矜持を胸に、八幡は意識を失った。

 

 

 

 




冒頭部分だけですが思いのほか早く完成したのでアップしました。
犬の方が姫様よりも前に来ている辺り、原作よりもヒッキーの立場が向上しているのがうかがえますが、どんな関係になるのかは次話以降をお待ちください。

日本語で姫様を複数形にしたかったのですが、上手い言葉が浮かばなかったのでこのような形になりました。
途中でタイトルが微妙に変わる可能性がありますが、ご容赦ください。


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入れ違いに、姉妹は病室にやってくる

 歌が聞える。

 

 耳に馴染みのある歌だ。比企谷八幡の短い人生の中で、一番練習した歌である。

 

 この歌に出会ったのは、去年の文化祭が始まる二ヶ月も前。陽乃の提案で結成されたバンドで演奏した曲の一つで、既存の曲ではつまらないと陽乃が作詞作曲した歌だ。観客には大いにウケたが、それまでかじった程度だったギターを陽乃の要求通りに弾きこなすため、一日4時間の練習を二ヶ月も続けることになったのは、今となっては良い思い出である。

 

 陽乃の旋律が、途切れる。ちょうどこの後、ギターソロが始まる。トチらずに弾けるようになったのは本番の三日前のことだ。本番でしくじったらどうしようと、心臓が飛び出そうな程に緊張したのを覚えている。

 

 自然に指が動いていた。しばらくギターには触っていないが、あれだけ練習した曲だ。今でもそれなりには弾くことができるだろう。

 

「……お寝坊さんだね」

 

 本当に穏やかな陽乃の声が聞こえる。影になっていて、顔までは見えないが、陽乃にしては珍しく声と同じく穏やかな顔をしているのだろう。首が固定されていて動かない。陽乃が近くにいるのに顔が見えないのは、落ち着かなかった。

 

「俺、どれくらい寝てました?」

「二日ってところかな。命に別状はないらしいけど、間違いなく大怪我だね。本当、死んでたらどうするつもりだったの?」

「どうすることもできなかったと思いますが、ともあれ死ななくて良かったと思います。ご迷惑をおかけしました」

「全くだよ。色々と予定があったのに、八幡のせいでぱぁになったんだから。後でちゃんと埋め合わせはしてね」

「それはもう、喜んで」

 

 顔も見えないまま、反射的に答えてしまう。陽乃に対して何か、することがあったような気がしたが、陽乃の声を聞いたらそんなことはどうでも良くなってしまった。

 

 安心すると、自分の現状が良く解ってくる。痛い。動けない。何か色々と不自由である。

 

「右足と肋骨が三本と右腕が骨折。筋もそれなりに痛めてて、退院するまでに一ヶ月。全治二ヶ月ってところかな」

「一ヶ月もここにいるんですか俺……」

「雪ノ下がちゃんと個室を用意したから、そんなに不自由はしないと思うよ。入院費も持つから安心して養生してね」

「それより、あの犬はどうなりました?」

「……無事なんじゃない? 八幡が怪我してまで助けたんだから」

 

 陽乃の声音に、無視できないほどの険が混じる。一瞬にして機嫌が氷点下まで下がったことを察した八幡は、この話題を振ることを諦めた。言葉の内容からして、無事なのだろう。これであの犬が死んだとなれば、陽乃の性格ならばそう言っているはずである。一ヶ月も病院にいるハメになったのだ。これであの犬を助けられなかったら、怪我のし損である。

 

「あのクソ犬のことはもう良いよ。後、一番グレードの高い個室にしてもらったから」

「俺相手に何て無駄なことを……」

 

 個室という配慮はありがたいが、グレードについてはどうでも良いことだった。陽乃に付き合って見聞が広がったとは言え、比企谷八幡は庶民である。無駄に広い部屋に一人という環境には、耐性ができていない。まだ日がある内だから良いが、これで深夜になったらホラー度は中々の物になるのではないか。

 

 孤独を愛するぼっちとは言え、慣れない環境には抵抗がある。ここで一ヶ月も過ごすのかと思うと、身体の不調も相まって気分が滅入る八幡だった。

 

「そんな寂しそうな顔しなくても大丈夫だよ。私が毎日お見舞いに来てあげるから」

「それは嬉しいんですけど、大学は大丈夫ですか?」

「私を誰だと思ってるのかな、八幡は」

 

 得意気な声に、八幡は思わず苦笑する。人間関係の構築において、たかが一ヶ月程度で陽乃が遅れを取るとは思えない。例えある程度のグループが構築された後だとしても、陽乃ならば余裕で切り込んでいける。そもそも、総武高校からも陽乃派が何人か、同じ大学に進学している。陽乃の言葉を借りるなら、彼女らは決して有能ではないが忠実で、それなりにお気に入りだ。八幡との恋人関係を、手放しで応援してくれた面々でもある。八幡も知らない仲ではない。

 

「私の方こそ楽しみだよ。私が卒業したのに一ヶ月も空白期間があって、八幡は学校に居場所を残せるのかな?」

「0に何をかけても0ですよ。俺の居場所は三月になくなりましたので」

 

 陽乃が卒業した直後から、微妙に風当たりの悪さは感じていた。そこに一ヶ月も空白があれば比企谷八幡の居場所など、学校の外にまで吹き飛ばされていることだろう。元々一人だったことを思えば、大したことでもない。自分の居場所は学校にはなく、今ここにあるのだから。

 

「嬉しいこと言ってくれるねー。そういう犬っぽいところ好きだよ。八幡が助けようとしたクソ犬より、ずっとかわいい」

「お褒めいただきどうも。その内嘘でも、かっこいいと言われるように適当に頑張ってみます」

「それくらい軽口が叩けるなら、大丈夫だね。名残惜しいけど、私は一度帰るよ」

「もうですか?」

 

 言って、自分のあまりに女々しい言葉に、八幡は早速後悔した。パイプ椅子から腰を上げた陽乃が、満面の笑みで覗き込んでくる。言葉がなくても何が言いたいのかは良く解った。弱さを見せた自分を心の底から面白がっているのだ。

 

「明日もくるから、そんなかわいいこと言わないの」

「失言でした。忘れてください」

「それは無理。今日は八幡のかわいさを思い出しながら、ベッドに入ることにするよ」

 

 それじゃ、と陽乃が目を閉じて顔を近づけてくる。合わせて目を閉じた八幡の唇に、そっと陽乃のそれが重ねられた。一秒、二秒。これで離れる、と気を抜いた瞬間に、唇にぬめりとした感触。

 

 驚いた八幡がとっさに身体を引くと、全身に激痛が走る。声も動きもなくのたうつ八幡に、陽乃はたった今唇を舐めた舌の意味を変えて答えた。

 

 小さく手を振り、陽乃は部屋を出て行った。痛みと動悸が治まると、どっと疲れが出てくる。

 

 相変わらず台風のような人だ。身体はびっくりする程動かないが、全身の力を抜いてベッドに全てを預ける。

 

 一ヶ月もここで過ごすのは確かに窮屈であるが、陽乃が見舞いに来てくれるのならば、それでも良い気がした。元よりぼっちは他人との交流を必要としない。一ヶ月というのは長くはあるものの、一人でも暇を潰す方法はいくらでもある。優雅に読書しても良いし、勉強をしても良い。

 

 無理矢理良い方向に考えると、入院生活も悪くないような気がしてきた。

 

 それにはまず、身体を治すことである。

 

 眠気に任せて眠ろうとした八幡を、ノックが邪魔をした。

 

 どうぞ、と答える間もなく、一人の少女が病室に入ってくる。真新しい総武高校の制服に身を包んだ少女は、ベッドの上の八幡に意識があるのを見るや、目を見開いた。驚きの表情を浮かべたまま静かに歩みより、ベッドの脇で八幡を見下ろす。

 

「…………お久しぶり、と言えば良いのかしら」

「軽井沢で会って以来か。話だけは頻繁に聞いてたから、久しぶりって感じはしないが」

「情報漏洩くらいはあると覚悟していたけれど、貴方の顔を見る限り、それは深刻なことのようね……」

 

 ふぅ、と少女――雪ノ下雪乃は小さく息を漏らす。二年ぶりにあった陽乃の妹。姉妹というだけあって顔立ちは似ているが、こうして見るとやはり雰囲気はまるで違う。前後不覚になるくらいの極限状況でもなければ、見間違うことはないだろう。どこがとは言わないが、陽乃と違って起伏にも乏しい。

 

「今、不愉快なことを考えたかしら?」

「別に何も」

 

 姉と一緒で、勘は鋭い。人でも殺せそうな視線の鋭さを適当にやり過ごすと、雪乃は先ほどまで陽乃が座っていたパイプ椅子を引き寄せ、座る。

 

「姉さんから聞いたと思うけれど、貴方を轢いたリムジンはうちのものよ」

「それは気づいてた。あれ、お前が乗ってたんだな」

「……それだけ?」

「お前が運転してたんなら文句の一つも言ってただろうが、そうじゃないんだろ? この事故に関して、お前に言うことは何もないよ」

 

 今更誰がどうだった、という事実を知った所で怪我をして動けないという事実はなかったことにはならない。それならば文句を言って他人の気分まで盛り下げるよりは、納得して黙っていた方が、物事はスムーズに進んでくれる。八幡にとって全体の収支を考えて理性的に行動するのは、特に陽乃と付き合うようになってからは当然のことだったが、文句の一つも言わず嫌な顔の一つもしない八幡が、雪乃には意外なようだった。

 

「あの人の言った通りなのね。気持ち悪いくらいに理性的。そうでなければ、あの人と病院でいちゃついたりはできないんでしょうけど」

「まだ病院でいちゃついたりはしてないぞ」

「そう? ならその口紅は私の見間違いね」

 

 なに!? と反射的に身体を動かそうとして、ベッドの上でのたうつ。手で拭うこともできず、目で確認することもできない。八方塞になった八幡に、雪乃が邪悪な笑みを浮かべている。嗜虐的なことに関する限り、陽乃と雪乃の振る舞いは良く似ている。

 

「まるで芋虫のようね。真摯にお願いするなら口元を拭いてあげても良いのだけれど」

「…………頼む」

 

 恋人の妹にそこまでしてもらうのは激しく抵抗があったが、口紅をつけたまま、というのが事実であれば放っておくことはできない。少ない見舞い客に見られるのも問題だし、何よりこれを家族に見られたら一月はこの件でからかわれ続けることになる。背に腹は変えられなかった。

 

 ベッド脇のウェットティッシュを手に取り、口元に手を伸ばす。

 

 雪乃の顔を近くで見るのは、初めてのことだ。陽乃よりも少し目つきが鋭いが、整った顔立ちのおかげでそれも美人の特徴として捉えられるだろう。華やかな容姿という点では陽乃と共通している。

 

 しかし、万人受けしそうな陽乃と比べると雪乃の顔立ちは幾分、怜悧な印象を受けた。どちらが好みか、というのは人に寄るだろう。八幡個人は無論、陽乃の方が好みであるが、雪乃の方が良いという人間も多いに違いない。

 

 受ける印象が違っても、姉妹と言うだけあって陽乃と良く似ている。似ているとは言われたことのない比企谷兄妹とは随分な違いだ。

 

「終わったわ。一応、他人の目は気にした方が良いんじゃないかしら」

「次からはそうする。それからできたら、このことは内密にしてくれると嬉しい」

「それは貴方の態度次第ね」

 

 今度は、穏やかに微笑む。邪悪な笑みは陽乃とそっくりだったが、こういう普通の笑顔は随分と印象が違った。顔立ちが鋭い分、笑顔が際立って見える。

 

「怪我人をこれ以上いじめるのも何だから、私ももう行くわ。その内ご家族も来るでしょうから、それまで寝てなさい」

「態々来てもらったのに悪いな」

「うちの車が轢いた人間だもの。気になるのは当然でしょう?」

 

 そこは嘘でももっと、他の理由をつけて欲しかったところではある。じっと雪乃を見つめるが、彼女はあっさりと踵を返し部屋を出て行った。無機質な音を立てて閉まったドアを見つつ、動かない身体の八幡は寝転がったまま肩を落とす。

 

 人恋しい訳じゃない。

 

 だが、何だか妙に寂しい。

 




寒い……
そんな中導入したゆたんぽ様の超性能。
何だこれマジあったかい。

他にも見舞い客は来ましたが、家族と事件関係者を除くと来てくれたのはめぐりんと静ちゃんだけでした。
入院生活を一ヶ月書いてもしょうがないので、次回奉仕部結成編。
ガハマさんの登場は残念ながらもう少し後で。


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こうして、奉仕部は発足する




「八幡、話がある。ついてきてくれ」

 

 復帰して一日目。お見舞いに来てくれた礼をと思って顔を出した職員室で静に捕まった八幡は、不良にカツアゲされるいじめられっこよろしく空き教室に連れ込まれた。右手と右足からはまだギブスが外れていないため、歩き難いことこの上ないが、静は八幡に手を差し出さなかったし、八幡も静に助けを求めなかった。生徒と教師という間柄ではあるが、ある種対等な関係が築かれていた。

 

「一応確認しておくが、お前の進路は陽乃と同じ大学に進学ということで間違いはないな?」

「その通りですけど……どうしたんです、今更」

「どうにも一般試験を受けて入学しようとしているようだから、推薦入試を薦めにきた。まぁ、とりあえず座ってくれ」

 

 空き教室に放置されていた机に腰掛けると、静は懐から資料を取り出した。成績関係の書類である。昨今、取り扱いには十分に注意されたし、と教職員の間でも持ち出しには細心の注意を払っているはずのものだが、静の扱いは随分と雑なように思えた。静はそれをぱらぱらと捲りながら、

 

「昨年度は普通科で年間主席。最新の全国模試も、国際教養科の連中を抑えて学年トップだ。加えて二年間陽乃を支えた実績を、私を始め教職員は高く評価している」

「大したことはしてないと思うんですがね」

「お前がいたからあの程度で済んだと思ってるんだよ、皆な。彼らの認識は真実全てを捉えている訳ではないが、嘘ではあるまい。内申については、一年間の生徒会活動と文化祭実行委員のへの協力で問題ないだろう。ただ……」

 

 きたな、と八幡は思わず身構えた。早々上手い話など、あるはずがないのだ。

 

「お前の経歴には部活動をしていた形跡が全くないだろう。それが聊か問題になってな」

「執行部員を一年やった、というのじゃ不足でしょうか」

「一年で終わった、とも取れる。一年で役員をしていたら、めぐりのように二年になっても続投というケースは多いからな。問題があって首になった、というイメージにも繋がりかねない」

「気にしすぎじゃないですかね」

「私もそう思うが、そういうのを気にする人間というのはいるものだ、ということは覚えておいてくれ」

 

 陰鬱そうに、静は溜息を吐く。

 

「部活についても厳密に言えば、あちらの募集要項に必要だという記述はない。『部活か委員会に所属しており、それを引退まで継続している』というのは、こちら側が勝手に設けたハードルだな。必須ではないが、内申に加点される。あったら有利という程度のものだ」

「なら必要ないんじゃありませんか? 成績では問題ないですよね?」

「推薦するにはお前の人間性もアピールする必要があるんだ。積極性とか協調性とか、そういうものだな。お前、成績は良いんだが、どうにもそういうのがな……」

 

 静の言葉に、八幡は何も言えなかった。積極性、協調性。どれも比企谷八幡の辞書にはない言葉である。推薦にそれが必要、と言われたらもうどうしようもなかった。陽乃のしごきのおかげで入学した時とは比べ物にならないほど成績が伸びたが、それとこれとは話が別、ということなのだろう。後一押し、と向こうから声をかけてもらえるだけ、マシなのかもしれない。

 

「そういう訳で我々も、お前が自発的に何かに参加したという事実がほしいのだよ」

「部活ですか……」

 

 八幡の声も、重い。

 

 何しろ、部活である。比企谷八幡は今三年生だ。果たしてこの時期に部活に入ろうという人間を、受け入れてくれる所があるだろうか。まして純粋に興味があるのならばまだしも、内申点を稼ぎたいという下心を持った人間である。何を今更と思う人間がほとんどだろう。

 

 そもそも、そういう人間関係が苦手だからこそ、比企谷八幡はぼっちなのだ。虎の威を借る狐という認識がある以上、敵対する人間の方が多いとさえ言える。今の時点で入れる部活があるとは思えない。

 

「受ける、という前提で話を進めさせてもらうが、既に奉仕部という名前で同好会を設立させておいた。時間を遡って、お前が設立のために骨を砕いたということにしてな。お前に口説き落とされた私が、その部の顧問になる。既にめぐりを通して書類の申請も済ませてあるから、所属する部については何も問題はない」

「随分と比企谷八幡がアグレッシブになってますね……」

 

 本物ならばまずそんなことはしないが、書類の上でそうなのだとされたら、書類しか見ない人間にはそれしか見えない。ポイントを稼ぐならば、それで十分ということなのだろう。

 

「同好会にしても、俺一人じゃ具合が悪いんじゃありません?」

「それについては既に一人当たりをつけている。向こうも適当な部活を探していたらしいから、渡りに船だろう」

「それでも二人じゃないですか」

 

 部を設立、あるいは存続させるのに必要な人数は五人、同好会でも三人である。当たりをつけた一人を合わせても二人だから、同好会の設立にも一人足りない計算になる。既に設立されているというのなら急ぐ必要はないのかもしれないが、アクシデントというのはこちらの都合を考えずに起こるものだ。数合わせの幽霊部員でも、用意しておくに越したことはない。

 

「それにしても良くそんな申請通りましたね」

「顧問が既に決まっている、というのが大きかったな。部室は空き教室を使うし、出て行けと言われれば出て行くから、何も問題はない。部室も部費も現状必要としていないのだから、誰も問題にはするまいよ」

 

 それでは書類上はともかく、実態はサークル活動と変わらないが、顧問がついているということは、何かあった時はその人間が責任を持つということである。 大人しくポイントを稼ぐための部活なのだから何か起こるはずもないが、大人がついていてくれるというのは、こういう時に大きい。

 

「で、どうする?」

「それで推薦に有利になるなら、安いものだと思うことにします」

「それでは、契約成立だな」

 

 静の差し出した手を、八幡は強く握り返した。これで自分達は共犯、という事実をお互い、改めて確認してから八幡は疑問に思っていたことを問うてみた。

 

「後一人について、当てがあったりしませんか?」

「全くない。だがボランティアを真剣にやりたい人間は、お前にとってももう一人にとっても邪魔だろうと思ってな。どういう人間に声をかけたものか、地味に悩んでいたところだ。八幡の方こそ、心当たりはないか?」

「ぼっちを捕まえて何言ってるんですか」

「全くだな。有望そうな人間がいたら、私の方でも声をかけてみる」

「よろしくお願いします」

 

 アクシデントのためにそれなりに急いではいるが、実際のところ、同好会の件が明るみに出る可能性は、低いように思えた。既に書類が受理されているのなら、改めてその書類を確認しない限り、書面上の正確な部員数を確認することはできない。部活関係の書類は生徒会執行部が一元管理している。総武高校の生徒ならば誰でも開示は可能だが、何の役職もない人間はあの部屋には入りにくいもので、執行部の人間も仕事でなければ部活の書類など見ない。

 

 部活、同好会に関することで執行部の仕事と言えば予算の編成であるが、同好会には予算は支給されないので会計も書類を引っ張り出したりはしないだろう。後は教室を借りるためにも書類が必要であるが、こちらは元々軽いものである。部室、同好会室として正式に登録した訳ではないだろうから、他に優先する案件があれば立ち退く必要があるが、元より同好会の立場などそんなものだ。正々堂々と放課後に屯できる部屋を確保できたのだから、まずはその事実を喜ぶことにしよう。

 

 話は終わり、と白衣を翻して教室を出て行こうとする静の背に、八幡は声をあげた。

 

「今更ですが、もう一人の部員って誰ですか?」

「そりゃあ、もう一人の雪ノ下だよ。陽乃の相手を二年もできるんだから、妹なんて楽勝だろう?」

「だと良いんですがね……」

 

 顔を合わせたのは軽井沢を入れても二度であるが、たったそれだけでも与しやすい相手には見えなかった。妹だから、と言って油断はできないだろう。陽乃曰く、彼女は世界で一番かわいい妹であるが、その事実だけでも八幡を警戒させるには十分だった。

 

 

 静の背を見送り、時間は流れ、そして放課後である。

 

 

 八幡なりに部員がどうにかならないものか考えてみたのだが、やはりぼっちにはどうにもならなかった。八幡にとって辛うじて友人と呼べるのは、共に生徒会の仕事をしためぐりだけなのだから、そもそも声をかけられる人間すらいない。陽乃経由で貸しがある人間もいないではないが、陽乃なしではその回収はできないし、する気もなかった。まさしく、自分の力での勧誘は絶望的である。

 

 新入部員に求められるセンスは、適当さだ。変に正義感の強い人間や、主張の強い人間は雪乃とぶつかる。かと言って、状況に流されるだけの人間、名義を貸すだけの人間を雪乃は好まないだろう。

 

 便利な人間が、どこかに落ちていないものか。右手は動かないので、左手で頭をかきながら廊下を歩き――その先にいた人間を見て、八幡は思わず動きを止めた。

 

 セミロングの黒髪に、赤いフレームの眼鏡。まぁ、お洒落でかわいい部類に入るのだろう。少し前まで中学生だったことを思えば、十分洗練されているように思う。

 

 しかし、である。

 

 そんな及第点以上の容姿を飛び越えて、八幡がその少女に見たのは陽乃にも通じる内面のどす黒さだった。普通に歩いているのを遠目に見ているだけなのに、背筋がぞくぞくする。陽乃的な感性について、犬の嗅覚は敏感に反応する。何も話さなくても、あの少女がロクデナシであることが八幡には感じ取れた。

 

 自発的に女性に話しかけようと思ったのは、久しぶりのことである。前はいつだったか、と思い出そうとして、それが中学生の時のことだと気づいた八幡は、思い出すことを止めた。

 

 ともかく、八幡は一目で目の前の少女のことが気に入っていた。多分、陽乃も気に入ってくれるだろう。陽乃について色々な場所につれまわされたが、こんな人間にはお目にかかったことがなかった。わくわくしながら松葉杖をついて歩き、少女との距離をつめる。

 

 もう、顔がはっきりと見える。眼鏡の奥の瞳には、どんよりとした闇が見えたような気がした。

 

「なぁ、そこのアリの巣に水を流し込んで全滅させたことがありそうな女子、ちょっと良いか?」

 

 思い返せばあんまりな声のかけ方であるが、八幡はそれで通じると思っていたし、声をかけられた女子は他に廊下を歩いていた女子はいたのに、自分が話しかけられたのだと理解していた。足を止め、こちらを見つめる少女を見返しながら、八幡は言葉を続ける。

 

「なんちゃってボランティアを標榜するだけで、同好会に入っているという書類上の勝利が得られる上手い話があるんだが、一枚噛んでみる気はないか?」

 

 声のかけ方がアレならば、話の内容はもっと最低だった。目つきの悪い上級生の男子に声をかけられてこんな話をされれば、大抵の女子は引くに違いないのだが、眼前の少女は八幡が感じた通り普通の感性をしていなかった。

 

 八幡の言葉を聴いた少女は小さく首を傾げると、にっこりと笑った。

 

「面白そうですね。話を聞かせてもらっても良いですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

「遅かったわね。待ちくたびれた……わ……」

 

 読んでいた本を閉じ顔を挙げた雪乃は、教室に入ってきたのが八幡だけでないのを見ると、立ち上がりかけた姿勢で動きを止めた。説明してほしいのだけれど、と無言で主張する雪乃をとりあえず無視して、手近にあったパイプ椅子を少女に勧める。さて、と自分の分を探すが、畳んだパイプ椅子は雪乃の後ろにあった。

 

 それを取りに行こうとすると、雪乃がさっと進路を塞ぐように動いた。話が先、ということである。

 

「あー……しばらくぶりだな。ここが『部室』になるって先生から聞いたんだが、間違いないんだよな」

「ええ。そして代表は貴方にしてくれ、とも言われたわ」

「まぁ、それくらいなら良いか」

「それで、私からも聞きたいことがあるのだけれど――」

「こいつのことだな。実は廊下を歩いてたら有望そうな奴を見つけたんで連れてきた」

「よろしく、雪ノ下さん」

「……ごめんなさい。私は貴女を知らないのだけれど」

「雪ノ下さんは有名だから。あ、私は普通科の一年ね」

 

 少女の差し出した手を、雪乃は反射的に握り返した。陽乃の妹にしてはらしくなく、どうにも距離を測りかねているようだった。少女の態度はなれなれしく見えなくもないが、上手い具合に距離を保っている。どこまで近づいたら他人が拒否反応を示すのか、本能的に理解しているのだろう。この辺りは陽乃に通じるものがあった。浮かべる笑顔も、どこか嘘臭い。

 

「それで、入部希望?」

「ううん。まずはお話を、ってことで、こちらの人についてきたの」

「もしかして、この人の名前も知らない?」

「というか、会ったのも今日が初めてかな。ですよね?」

「少なくとも、俺には会った記憶はないな」

 

 こんな目をした人間、会ったら絶対に忘れるはずがない。そんな八幡の内心を知らず、見知らぬ女性に声をかけて連れてきたという事実だけを見た雪乃の目は、氷よりも冷ややかだった。

 

「つまり、100%見た目でこの人を連れきたということ?」

「そういう穿った言い方をするな。フィーリングで選んだってのは、否定しないが」

 

 犬の感性は概ね、他人には理解されない。実際、八幡のように目に解りやすい特徴があるのならばまだしも、陽乃や少女にはそれがない。少なくとも見た目の上では、彼女らは普通に美女美少女だ。話すのは簡単だが、その上で雪乃に『お前は頭がおかしい』という反応をされたら、流石に八幡でも傷ついてしまう。

 

「先生にも勧誘できるなら、ってことを言われた。俺らとしても、頭数が揃ってるに越したことはないだろ?」

「それはそうだけれど……」

「それに入るって確定した訳じゃない。その辺をはっきりさせるためにも、まずは部活の活動内容をだな」

「知らないわ」

「……なんだって?」

「ボランティアということしか聞いてないもの。多分、知っていることは貴方と似たようなものじゃないかしら」

 

 雪乃の言葉に八幡は唖然とするが、考えてみれば雪乃も静に誘われた側だ。全ての事情を掴んでいるのは、糸を引いた静ただ一人である。雪乃が事情を知っていると判断したのは、明らかに早計だ。

 

「なら、先生が来るのを待って、話を聞くか――」

「話は聞かせてもらった!」

 

 あんまりにもあんまりなタイミングで力強く扉が開く。うんざりした表情で八幡がそちらを見ると、そこにはドヤ顔をした静が軽くポーズをつけて立っていた。

 

「入ってくるタイミングを見計らってましたね?」

「まぁな。一度これをやってみたかったんだ」

 

 ははは、と満足そうに笑いながら、静は気取った仕草で白衣を翻し、部室となった空き教室に入ってくる。

 

「と言っても、『ボランティア』という活動内容に違いはない。学内から広く解決してほしい案件を募集し、その中から解決できそうなものを選定し、対応するというスタンスだ」

「随分と受身ですね……」

「積極的にやりたいなら私は別に構わないが、最初の内はそれで十分だろう。やりたくなったら、後からハードルを上げれば良いのだ。ところで――そっちの女子は、新入部員ということで良いのかな。まさか八幡が誘ってきたのか?」

「有望そうだったんでつい……」

「ハチマンって、もしかして先輩、比企谷八幡ですか? 前の生徒会長の補佐をしてた、女王様の犬の?」

「……八幡、お前は自分を知らない人間を連れてきたのか」

「俺はどちらかと言えば、一年にまで犬の名前が広まってることに衝撃を受けてるところです」

 

 にやついた静と、どんよりした顔の八幡二人の視線を受けて、少女はひっそりと笑う。

 

「先代さんは有名ですから。当然、犬の話も付いて回る訳で……良ければ一年に出回ってる話を詳しくしますけど」

「いらねえよ。どうせ悪い話ばっかりだろ?」

 

 八幡の問いに少女は苦笑で答えた。実際に、その通りなのだろう。陽乃の大人気に反比例して、比企谷八幡の評判は生徒にはあまりよろしくなかった。同級生でさえそうだったのだ。そこから話を聞いた新一年の評判がどうなのか、考えるまでも無い。

 

「その犬さんがどうして部活を?」

「内申点のためらしいわ。考えることが姑息よね」

「何とでも言え。話が大分逸れちまったが、ここは俺も含めてこういう連中がいて、こういう所らしい。個人的にはこのまま入部してくれるとありがたいんだが――」

「良いですよ。私で良ければ喜んで」

「……自分で言っておいてなんだが、一度くらい話を持ち帰ったって良いんだぞ?」

「私もフィーリングで選びました。それじゃあ駄目ですか?」

 

 駄目なはずがない。ただ部員がほしいだけの八幡からすれば、少女の提案は願ったり叶ったりだが、二年で染み付いた犬の感性が、自分にそんな都合の良いことがあるはずがないと告げている。

 

 まして相手は、比企谷八幡がフィーリングで選んだ相手だ。陽乃に通ずるものがあると思ったのは、何より八幡自身である。そんな相手が一筋縄でいくはずがない。浮かれてそのまま連れてきてしまったが、落ち着いて考えてみるとこれで良かったのかと思わないでもない。

 

 しかし、他に部員が確保できる見通しはない。ここでこの少女を逃したら、もう一人確保できる保証はどこにもないのだ。

 

 しばらく考えて、八幡は観念した。何より自分が誘ったのだ。ここで難色を示すのは筋が通らないし、そういう不安を別にすれば八幡はこの少女のことが気に入っていた。

 

 

 

 

「わかった。とりあえず、よろしく頼む。知ってるって話だが改めて。比企谷八幡だ」

「平塚静だ。この部の顧問をしている」

「雪ノ下雪乃よ」

「私は海老名姫菜です。よろしくお願いします」

 

 




冒頭部分を修正しました。話の流れに大きな変更はありませんが、お知らせします。


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つねに、由比ヶ浜結衣はおどおどしている

 奉仕部という名の同好会を結成して、早一ヶ月。校内から広く依頼を集めるということを早速やってはみたが、依頼というのは要するに自分では対処しきれない問題を他人に請け負ってもらう、ということに他ならならい。

 

 言い換えればそれは、その人間の弱みである。

 

 それを良く解らない人間に曝け出せる人間が、どれだけいるだろうか。藁にも縋るという人間もいるが、そこまで深刻だと今度は奉仕部の人間に対処できない。奉仕部が求めているのは、学生でも何とか解決できる程よい悩みなのだ。進路相談くらいならばまだ良いが、恋人が三股かけているのが発覚して別れたい死にたい、という痴情の縺れを持ち込まれても困るのである。

 

 幸か不幸か、深刻な話題も含めて依頼は一件もなかった。これでは放課後に集まって適当にダベっていただけだ、と気づいた八幡たちは適当に活動実績を作るために月末、休日を潰して本当にボランティア活動を行った。子供に混じって川沿いでゴミ拾いである。三人全員にとって、生まれて初めての経験だったが、雪乃も姫菜も一言も文句を言わなかった。その程度には、放課後、誰にも邪魔されない空間を確保できることが、心地良いことだったのである。

 

 このまま月一回程度のボランティアでお茶を濁して、しばらく過ごそうかしら。三人全員が本気でそう思っていた頃、思い出したように奉仕部のドアは叩かれた。

 

 つまりは、初めての正式な依頼人である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「八幡先輩が紅茶得意って意外ですね」

「例の女王様に何度も淹れさせられたからな。経験値だけはそれなりなんだよ」

「その割には、味もそれなりよね」

「自販機よりはまだマシだろ? ああ、そう言えば陽乃にも良く同じ感想を言われたよ。流石、姉妹は良く似てるな」

 

 ちくりとした嫌味を言ってくる雪乃に、八幡は即座に言葉を返す。

 

 ねっとりと、しかし的確に急所を抉ってきた陽乃に比べると、雪乃の言葉は鋭くはあるものの、どこか幼い気がする。陽乃ではない、という思いが余裕を持たせる一因かもしれないが、余裕を持って相対してみると雪乃の毒舌にもどこか親しみが感じられた。

 

 陽乃の名前を出したら案の定、雪乃は不機嫌そうに押し黙ってしまった。陽乃と比較されるのは相変わらず、好きではないらしい。態度に出るようだとまだまだだな、と八幡は雪乃に見えないように苦笑を浮かべる。

 

「でも、本当にまったり進行ですよねぇ、この部活。八幡先輩も雪乃くんも、勉強したり本読んでるだけだし」

「そういう海老名は書き物してるな。小説でも書いてるのか?」

「はい。私TS物って初めての挑戦なんですけど、もう色々刺激的で……『はちゆき』なのか『ゆきはち』なのか、それが問題ですよね?」

 

 それだけ聞いて、八幡は姫菜が書いてる小説がどういう内容なのか、ある程度理解してしまった。八幡にとっての問題は『はち』と『ゆき』のどちらがTSしてるのかということだ。『はち』がTSしてるなら、男性の八幡としてはまぁ、良い。同性物でも女性同士ならばまだ受け入れることができるし、そういうものも見たことはある。何より興味がない訳ではない。自分が女になっているという事実にさえ目を瞑ることができれば、それなりに楽しんでみることができるだろう。

 

 だが、TSしているのが『ゆき』の方だったら、そこから先はもう未知の領域だ。できることなら、と思わずにはいられないが、姫菜が雪乃のことを『雪乃くん』と呼んでいる辺り、どちらがTSしているのかは考えるまでもないことだった。

 

 そもそも、比企谷八幡を女性にするよりは雪ノ下雪乃を男性にするほうが無理がない。そう思うのは、自分が男性だからだろうか。姫菜に聞けばその辺りの機微も詳しく教えてくれそうだが、それは聞かない。人間が腐っていると顔を見た時に思ったものだが、こういう方向に腐っているとは全くもって予想外だった。

 

 問題なのは、雪乃だ。ホモが嫌いな女子はいないという暴論を聞いたことがあるが、雪乃までそうだとは限らない。何かと潔癖なこの少女のことである。もし自分が男性にされて、姉の恋人と絡まされていると知ったらショックで倒れてしまうかもしれない。

 

 見てみたいと思う反面、心配でもある。それに愛する妹の学生生活に影響が出たら、あの歪んだ妹愛を持つ女王様が何をするか解らない。

 

 姫菜の小説は雪乃に見せるべきではない。八幡はひっそりと心に決めた。

 

 この手の創作物を扱う人間は、やたらと他人にそれを勧めたがる物らしいが、姫菜は書いていることを見られているにも関わらず、八幡が聞くまで内容についてはまったく口にしなかった。自己主張の少なさは不気味な程である。だからこそ、八幡も雪乃も助かっている訳だが、今後もこの静けさが続くとは限らない。今が潜伏期間ということも考えられないではないのだ。

 

 態々藪を突いて蛇を出すこともないだろう。内容については全く興味ありませんよー、という顔をしながら八幡は紅茶セットの前に立つ。元々、生徒会室にあったもので、陽乃の卒業と共に八幡に譲渡されたものだ。それなりに値段のするものなので、貰う訳にはいかないと八幡は断ったのだが、練習用にあげる、と押し切られて八幡の物になった。そもそも家では大体マックスコーヒーのため、紅茶はそれほど飲まない。

 

 どこで練習しようと思っていた矢先、部室の寂しさに苦言を漏らしていた雪乃を見つけ、それならと持ち込んでみた。雪乃は紅茶の腕前にぷちぷちと文句を言うが、それでも飲んではくれる。不機嫌そうな、それでいて痒いところをかけないようなもどかしさを感じさせる雪乃の顔を見るのが、八幡は好きだった。

 

「海老名、おかわりいるか?」

「ありがとうございます。ぬるめでお願いしますね」

 

 その注文に、八幡の動きが止まる。ぬるめというのも初めての注文だ。とりあえずポットからお湯を別の入れ物に入れ替える。これをしばらく冷まして、それで紅茶を淹れれば良いだろう。正式に別のやり方があるのかもしれないが、初めてやるやり方なのだから、失敗しても大目に見てもらうより他はない。

 

 ポットとにらめっこしていると、誰かが部室のドアを叩いた。

 

 その音に、三人は顔を見合わせる。まさか依頼者?

 

 その時、三人の意思は図らずも統一されていた。このまま居留守でも使ってしまおう。

 

 八幡だけでなく、雪乃も姫菜もそう思っていた。息を潜めて扉の向こうの人物がどこかに行くのをじっと待つ。中からどうぞ、という反応がなければ、諦めてどこかに行くかもしれない。そういう可能性にかけての行動だったが、

 

「失礼します……」

 

 からからと遠慮がちな音を立てて、ドアは開いてしまった。小さな溜息は誰のものだっただろうか。

 

 しかし、仕事である。

 

 まだ確定ではないが、依頼のためにやってきた人間だとしたら、これを雑に扱うことはできない。最初に対応したのは、余所行きの顔になった姫菜だった。

 

「奉仕部にようこそ――ってなんだ、結衣じゃん。はろはろー、どうしたの?」

「姫菜――え? ここ姫菜の部活?」

「そうだよ。言ってなかった?」

 

 最初に我に返った姫菜が対応するが、何というか笑顔がうそ臭い。学年が違うため普段の姫菜を八幡は知らないが、全方位にこの態度なのだとしたら中々の外骨格である。

 

 そんな姫菜の友達――結衣というらしい――は、良く言えば今風な風貌の少女だった。赤みがかった茶髪は最近染めたものなのだろう。似合ってはいたが、髪の色の鮮やかさにそれ以外がついていっていない。結衣の八幡の第一印象は『軽そうな女』だった。何も考えずに本能のままに判断するなら自分からはまず近づかないタイプであるが、この少女のことをどこかで見たような気がした。

 

 八幡が思い出せずにいる内に、結衣は姫菜に手を引かれて部室中央の椅子に座らされた。姫菜は卓を挟んで反対側に移動する。そちらにはパイプ椅子が3つ並んでおり、結衣から見て左側に姫菜が、右側に雪乃が座っていた。空いている中央の席が、比企谷八幡のもの、ということか。この野郎、と視線を向けると、雪乃は僅かに口の端を上げて得意そうに微笑んで見せた。先ほどの意趣返しのつもりなのか、整った容貌に反して、子供っぽい皮肉な笑みが浮かんでいる。

 

「はじめまして。私は一年の雪ノ下雪乃。話を聞かせてもらえるかしら」

「一年の由比ヶ浜結衣です。こちらこそ、よろしくお願いします。それで今日はその……お願いがあってきました!」

 

 由比ヶ浜、と雪乃は繰り返す。雪乃にも、ひっかかるものがあったらしいが、八幡と同様に疑問を解決するには至らなかった。

 

 同時に錯覚をしたというのでなければ、結衣は共通の知人という可能性が高いが、そもそも雪乃とは彼女が総武高校に入学するまでほとんど付き合いはなかった。情報こそ一方的に知ってはいたが、顔を合わせた回数はそれまで二度。共通の知人などいるはずもない。

 

 結衣が有名人という可能性もないではないが、それならば顔を見るか名前を聞いた段階で、思い出しても良さそうなものだ。凡才の自分はともかく、雪乃まで思い出すことができないというのは、違和感を覚える。

 

 やはり共通の知人という線が強そうであるが、さて――と考えて、八幡はようやく思い至った。

 

 陽乃以外に、比企谷八幡と雪ノ下雪乃を結びつける強力な要素があった。八幡にとっては既に過去のことだったので失念していた。

 

 自分達は二ヶ月前の事故の加害者側と、被害者だ。

 

 そして事故にはもう一人、原因となる人物がいた。こちらに駆けてきた犬と、その飼い主。横目に結衣の顔を見て、ようやく思い出す。あの時は黒髪だったから、思い出せなかった。良く見ると、顔立ちはそのままだ。

 

(こいつ、あの時の飼い主か……)

 

 一度か二度は病院に来たはずだから、顔はその時に覚えたのだろう。由比ヶ浜家との間にどのようなやり取りがあったのか、八幡は良く知らない。金銭については雪ノ下の顧問弁護士が間に立って、スムーズに処理してくれたとだけ聞いている。

 

 犬は助かって、自分も無事だった。そりゃあ、一ヶ月の入院生活に加えて更に一ヶ月不自由を強いられたが、入院中、それなりに良い思いもしたので、今更どうこう言うことはなかった。

 

 紅茶の準備をしながら、雪乃に向かって影絵の要領で『犬』『車』と伝える。聡明な雪乃はそれで全て理解した。

 

「実は、ある人にプレゼントがしたいの。できれば、手作りの。でも私、料理とか全くできないから、作るの手伝ってほしくて……」

「なに、結衣。好きな人でもできた?」

「そういうのじゃなくて! その……感謝の気持ちを伝えたいって言うか……」

 

 話が進むと雪乃が『やっぱりこれは貴方の担当ではないの?』という視線が強くなってくる。感謝の相手=比企谷八幡ということか。ありえない話ではないが、ここで判断するのは早計というものだ。二人の意を汲んだ姫菜が、更に探りを入れていく。

 

「お父さんとか? 父の日近いもんね」

「違うよ。うちのサブレを庇って事故にあった人。一応、家族みんなでお礼には行ったんだけど、私個人ではまだお礼してないから」

 

 やっぱり貴方の担当だったわね、と雪乃は視線を外した。これはもう決めてかかっている。言いたいことは色々とあったが、この三人の中でなら自分が担当するべきことなのだろうし、話が早い。

 

 八幡にとって、あの事故は済んだ話だ。一番の被害者である自分が気にしていないのに、関係者が引きずっているというのも、不憫な話である。

 

「紅茶で良かったか?」

「あ、ありがとう――」

 

 姫菜のリクエストのせいでぬるめになった紅茶を差し出すと、初めて結衣と目があった。結衣は目をぱちくりとさせると、

 

「あー!!」

 

 椅子から立ち上がって叫び声を上げ、八幡を指差した。本人と気づいてくれたのだろう。結衣と違って八幡の見た目は、ここ数年全くと言って良いほど変わっていない。小町に言わせると悪かった目つきがより悪くなったらしいが、二ヶ月では流石に変化のしようがない。

 

「久しぶりってことで良いのか? 一応奉仕部という名の同好会の部長、比企谷八幡だ。よろしくな」

「あ、はい。由比ヶ浜結衣です。よろしくお願いします!」

「よろしく。ちなみに俺を轢いたリムジンに乗ってたのが、そっちの雪ノ下だ。図らずも関係者が全員揃ったな」

「え……え?」

 

 話についていけないらしい結衣は、一人で混乱していた。雪乃はそんな結衣を見ても平然としている。一人怪我をした八幡が気にしないと言っているのだから、少なくとも八幡の前では、雪乃にとっても終わった話である。

 

 それよりも、八幡には心配なことがあった。自分が集中治療室に運び込まれた時、陽乃の精神状態は雪乃やその両親がドン引きする程のものであったと聞いている。今はそうだったことも忘れそうなくらいにいつも通りであるが、荒れたという事実は消えない。

 

 陽乃は意味のないいじめなどしないが、意味のあるいじめはするし、スナック感覚で人の心を抉ってくる。控えめに言っても、陽乃の結衣の印象は最悪だ。関わった三者の内、轢かれて怪我をした人間が気にしないと言い、轢いたリムジンに乗っていた人間もそれに追従している。事故の原因を作ったとは言え、結衣がこれ以上嫌な思いをするのは、唯一怪我をした八幡としても望むところではなかった。

 

「幸いなことに、俺はぴんぴんしてるよ。あの犬は元気か?」

「はい! サブレ超元気です!」

「そりゃあ良かった。なら、この件はこれで終わりだ。お前が気にする必要はないぞ。難しい話は葉山さんとやらが全部やってくれたし」

 

 残務処理も全て、その葉山さんのお力により解決している。入院費は雪ノ下が持ってくれたため、比企谷家の収支は八幡が一ヶ月病院に拘束されたことを差し引いても、プラスになっているくらいだ。弁護士、医者、会計士の友人がいると人生は安泰と言うが、三強の一角の力を思い知った一ヶ月だった。

 

 気持ちの上でも金銭の上でも話は終わっている。だから気にするな、というのが八幡の言い分だったが、結衣はそれでもまだ納得していなかった。自分のせいで、という思いに決着をつけるには、何かやっておく必要があるのだろう。

 

 面倒くさい、というのが正直なところであるが、結衣に謝罪の気持ちがあるのも本当だろう。それを無下にするのは流石に八幡でも気が引けた。

 

 ちら、と姫菜を見る。

 

 全くと言って良い程友達がいない八幡や雪乃と違って、姫菜はリア充グループに所属している。内面を知っている八幡には意外なことだったが、どろどろした内面を発揮することなく、それなりに上手くやっているらしい。結衣はそのグループの一人だろう。世間的に言えば彼女らは友達のはずだが、姫菜から依頼を受けてやれ、という圧力は全く感じられない。存外に反応が軽い。

 

 雪乃は結衣の目的が解った段階で、これは八幡が処理する案件という意思を固めたようだった。結衣の正面に座り、話を聞いてはいるが心はもう別のところに行っているのが良く解る。顔にはしっかりと我関せずと書いてあった。

 

「一応確認するが、そのお礼ってのは俺にってことで良いんだよな?」

「これで違ったらかっこ悪いわね……」

「違わないし! 私、全然料理とか得意じゃないんだけど、その、受け取ってもらえますか?」

 

 結衣のすがるような視線に、八幡は思わず天を仰ぐ。ここでNOと言えるような心の強い人間は、そういない。黙っていれば風化したはずの問題に、自分で決着をつけるためにここにきた。それくらいには、結衣は善人だ。その気持ちは信じても良い。何を作るのか知らないが、依頼をされた以上この中から補佐が付くのは確定だ。そこまでやって、まさか失敗などするまい。

 

「別にそんなに凝ったもんじゃなくて良いからな? こういうのは気持ちが大事なんだ。何なら野菜を棒状に刻んで貰って、調味料と一緒に食べるんでも俺は一向に構わないぞ」

「それじゃあ私の気持ちは伝わらないし!」

 

 結衣が吼える。めんどくさいなぁ、と思うが、その熱意は本物のように思えた。良い子なのだろう。陽乃ならば都合の良い子と呼びそうだが、八幡はこういう少女のことが――自分に深く関わらない場合、という前提ではあるが――嫌いではなかった。

 

「で、誰が手伝う? 三人で行くか?」

「できれば比企谷先輩には完成した後に見てほしいんだけど……」

「なら、メンバーについて選択肢はないわね。海老名さん、料理の腕は?」

「それなりかな。雪乃くんは?」

「一人暮らしを始めたばかりよ」

「へぇ、良いなぁ。今度泊まりに行っても良い?」

 

 姫菜の提案に、雪乃は一瞬微妙な表情をした。潔癖な内面と、寂しがりな内面が喧嘩をしているようにも見える。友達とお泊りというのはなるほど、リア充向けの展開であるが、それだけに過去の雪乃にはなさそうなイベントだ。友達がいないと決め付けたばかりだが、雪乃の交友関係について八幡は詳しく知らない。最悪、姫菜がこの高校で唯一の友人という可能性すらあるが……おそらくそれが真実だろうと、八幡は確信に近い思いを抱いていた。

 

 八幡の目には雪乃が迷惑そうにしているようには見えなかった。つかず離れずの姫菜はしかし、思っていた以上に雪乃と距離を縮めていた。押せば倒れる。姫菜がもう少し食い下がれば雪乃はOKを出しただろうが、話を最初に切り上げたのは雪乃の方だった。小さく咳払いをした雪乃は、

 

「その話はまたの機会にしましょう。由比ヶ浜さん、私達二人で手伝うことになるのだけど、良いかしら?」

「よろしくお願いします!」

 

 女三人揃えば姦しいという。姫菜はともかく雪乃はおしゃべりが得意なタイプではないが、結衣は見るからに饒舌なタイプだ。こういうタイプが一人混じると、雪乃もそれなりに喋るようだ。部室で静かに読書をしている雪乃も絵になっていたが、姫菜と結衣と話す雪乃は、普通に女子高生していた。

 

 まるで比企谷八幡という人間などその場にいないとでも言うように、女子三人は部室を出て行く。向かったのは家庭科室だろう。生徒会執行部に申請すれば施設として利用できるはずだ。当日、飛び込みでというのはあまり良い顔はされないが、会長のめぐりとは知らない仲ではない。奉仕部だ、と言えば特に何も聞かずにハンコを押してくれる。

 

 紅茶を飲みながら、勉強して待つことしばし。

 

 さて、と立ち上がった八幡が見た三人は、一様に暗い顔をしていた。特に結衣の表情が暗い。出張してまで行った調理実習がどういう結果になったのかは、聞くまでもないだろう。それなりに料理ができる二人の協力をもってしても、結果が芳しくなかったのだ。

 

 お互いのことを考えるなら別の日にまた、ということを提案するべきなのかもしれない。結衣は失敗したことをなかったことにできるし、八幡は失敗作を食べなくても済む。そうするつもりで口を開きかけた八幡は結衣が後ろ手に小さな箱を隠していることに気づいてしまった。ラッピングまでされている。

 

 誰が見ても明らかな失敗作であれば、雪乃辺りが後にすべきと提案しているはずだ。依頼を受けた以上、それを完遂しなければ気分が悪い。完璧主義の雪乃が結衣の行動を黙認した以上、消極的にではあるが、ここで渡すという結衣の行動に賛成しているのだろう。

 

 雪乃が黙認している以上、食べられないような代物ではないはずだ。最悪でも、クソマズイくらいで済むはずだが、そこまで理解できたところで八幡の顔は明るくならなかった。

 

 こういう時、男の方が立場が弱い。女の努力というものは、何よりも優先される。そういう場の流れ的なものを雪乃も姫菜も好まないはずだが、調理に付き合ったという事実が、二人を結衣寄りにしていた。男の八幡に味方はいない。

 

 できることなら食べてほしい、というのが三人の本音だろう。

 

 不景気な顔をしながら、八幡は結衣に向かって手を差し出した。恐る恐るといった様子で、結衣は包みを手渡す。ラッピングも手ずからやったのだろう。きっちりしていないへにゃっとした見た目に手先の不器用さが見て取れるが、これで良いやという手抜きは見られない。作り手の気持ちが解る、丁寧な仕事だ。

 

 そっとリボンを外す。小さな箱を開けると中から出てきたのは……想像した通り、黒ずんだ何かだった。炭化した匂いがする。明らかに焼き時間を失敗しているのは見て取れた。ある程度料理のできる人間が二人もついていてどうして……と視線を向けると雪乃と姫菜は気まずそうに視線を逸らす。

 

 比企谷憎しでわざとということはあるまい。言い訳もせずに黙っていることから『気が付いたらこうなっていた』という線が濃い。

 

 黒い固形物を一つ手にとって見る。持ってみると更に炭だった。手には既にパサパサとした黒い粉末が付着している。やはりこれを人の食べる物とするのは間違っていると思うが、八幡に食べる以外の選択肢は残されていなかった。

 

 一思いに、その黒い固形物を口の中に入れる。顔をしかめないようにしながら、とりあえず噛み砕き、嚥下した。

 

 匂い以上に、舌触りは悪い。炭の匂いが口の中に広がり、ざらざらとした感触が今も残っている。はっきり言えば失敗作だが、クッキーを失敗したのだ、ということは辛うじて解った。原型を留めているのだから、まだマシだろう。食べたことはないが、炭を直接食べるよりはいくらか美味いはずだ。

 

「……想像してたよりはマシだった。悪いな、気を使わせて」

「ほんと? 不味くない?」

「…………流石にここでNOと言える日本人にはなれないぞ、俺」

「八幡先輩さいてー」

「ほんと、こういう時にこそ気を使えないでどうするのかしら」

「ならお前らこれを食ってみろ」

 

 愚痴を零しながらも、八幡は手を止めない。覚悟ができたからか、ざらざらした舌触りにもある程度抵抗ができた。それでも立て続けにこの味はキツいと思っていると、姫菜がそっとマックスコーヒーを差し出してきた。適度に無遠慮な甘さが、喉に心地良い。

 

「あの、まずいなら別に無理して食べなくても……」

「そう思うなら次からは美味いものを出してくれ。貰った以上は俺のもんだ。どう食べようが勝手だろう」

 

 もそもそ、と決して美味そうには見えないが、八幡は手も口も止めなかった。結局、黒い固形物を全て一人で平らげてしまった八幡に、結衣を含めた三人は複雑な視線を向ける。

 

「その……自分で作っておいて言うのも何だけど、大丈夫ですか?」

「大丈夫ではないな。マックスコーヒーの助けがなければ危ないところだった」

「少しだけ感心したわ。貴方でも男を見せる時があるのね」

「去年までに比べたらどうってことはないな。何しろ食えば終わりだ。温いにも程がある」

「なるほど、八幡先輩はちょっとやそっとのプレイじゃ満足できないドMってことですね?」

「薄い本を厚くしないでくれよ」

 

 ぐふふ、と不気味に笑う姫菜はもはや腐海の住人だった。これを止めることはできそうにない。ドMになった自分など見たくもないが、陽乃が姫菜の趣味を知ったら喜んで見ようとするだろう。その時、男になった自分の妹を見たらどう思うのかが、気になって仕方がない。

 

「じゃあ、今日はありがとうな、由比ヶ浜。これで貸し借りはなしってことで、安心してくれると俺は助かる」

「それなんだけど、比企谷先輩……」

 

 今度こそこの話は終わり、と突き放すような言い方をする八幡に、結衣は言葉を続ける。その姿はやってしまった悪戯を親に告白する子供のようで、八幡にとってはロクでもないことの前触れに見えた。

 

 この部にもいずれ、陽乃がやってくるだろう。それは結衣にとって良い結果を生まない。それをどうにかして解らせないといけないのだが、直接陽乃の名前を出すことには抵抗があった。陽乃も八幡と同様、あの事故は終わったものとして処理しているが、内面はそうではない。あれで陽乃は根に持つタイプだ。家族がドン引きするほどの怒りを一番向けられていたのが、他ならぬこの結衣である。

 

 陽乃がやってきた時、一番損をするのは結衣に間違いがない。本当に話はこれで終わったのだ。お手伝いが二人もついていたのに、クッキーを黒い固形物にするぽんこつだが、根は良い娘なのだ。それが女王の暴虐に晒されるのはやはり忍びない。

 

 万全を期するなら断るべきなのだろう。ここにいてもロクなことにはならない。その説明をするのに陽乃を語らなければならないのならば、七日七晩でも語り続ける自信があったが、例え真実全てを語ったとしても結衣が納得してくれるかはまた別の話だった。

 

 八幡がしようとしていることは、要するに拒絶である。どれだけ理由を並べたとしても、結衣がそれを信じてくれないのならば、単純に相手は自分のことを嫌いなのだ、と解釈されてしまうかもしれない。

 

 何度でも言うが、根は良い娘なのだ。これ以上つまらない理由で傷ついてなど欲しくはないし、面倒なことに関わってもらいたくはない。こういうタイプにとって陽乃は劇薬だ。既に怒りを買っているのだから尚更である。

 

 押し黙っている八幡を他所に、結衣は一人で決意を固める。それを止める手段は八幡にはなかった。力不足を痛感しながら、八幡は結衣の言葉を聴く。

 

 

 

 

「私もこの部活、参加しても良いですか?」

 

 

 

 




初登場ということで距離がありますが、次回からは多分ガハマさんもフレンドリーになるはずです。
順番通りに行くと次は材木座なんですが、さてどうしましょう……


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どう考えても、戸塚彩加は天使である

 

「ヒッキー先輩さ、運動って得意?」

「得意ではないな。自分から率先して運動しようと思ったこともない」

「インドアそうですもんねー、八幡先輩」

 

 からかうような口調の姫菜を軽く睨むと、彼女はささっと雪乃の影に隠れた。代わりに視線を受けることになった雪乃は、威圧するかのように睨み返してくる。ガンつけられたから睨み返すチンピラのような反射であるが、睨みつけるという仕草一つでも、雪乃がやるとどこか美しくさえあった。並の高校生ならばその場に竦みあがっていただろうが、陽乃の威圧感に比べればそよ風のようなものである。

 

「で、どうしてまた運動だよ。海老名の言う通り、俺はインドア派だぞ」

 

 拗ねてるー、と軽くはしゃいでいる姫菜に今度はデコピンを入れ、結衣に向き直る。少し前には依頼者だった結衣も、今では奉仕部の一員に収まっている。

 

「や、うちのクラスにね? さいちゃんっていうすっごくかわいい子がいるんだけどさ、その子がテニス部なんだ。でも、さいちゃん以外幽霊部員で、全然練習できないんだって」

「ほー、そりゃ大変だな」

 

 答える八幡の口調は、完全に人事のそれだった。姫菜に分析された通り、インドア派の八幡はそもそも運動部には全く縁がない。それどころか、全くと言って良いほど良い印象を持っていなかった。体育会系のノリというのが、どうしても肌に合わないのだ。リア充とはまた別の暑苦しさが、どうしても好きになれないのである。

 

 せめてもう少し食いついてくれると思っていた結衣は、肩透かしを食らった気分だった。彼女にとってはこれが、入部して初めての依頼である。しかも友達からの依頼であるから張り切っていたのに、部の仲間達は皆消極的に見えた。特に八幡のヤル気のなさは際立っている。思わず声を荒げるのも、彼女の性格を考えると当然と言えた。

 

「ヒッキー先輩、食いつき悪いよ!」

「運動部は俺の敵だ。係わり合いになりたくない」

「そんなこと言わないでさ。さいちゃん、正式な依頼をしたいんだって。私達に練習相手になってほしいみたい。一応、個人では大会に出れるけど、このままじゃ練習も何もできないからって」

「テニスの練習相手になれって由比ヶ浜、お前テニスできるのか?」

「できないけど……経験者じゃなくても、練習に付き合うだけで良いんだって。それなら全然テニスできない私でも手伝えるし」

「その『さいちゃん』さん一人が強くなっても、解決する問題には見えないのだけれど。依頼は練習の手伝いということで良いのよね?」

「そうみたいだけど、他に良い方法があるの? ゆきのん」

「私達が今回協力したとしても、それが終わったら部員一人に逆戻りでしょう。それなら部員の勧誘でもした方が早いのではなくて?」

「毎回手伝う訳にはいかないしねぇ」

「いや、勧誘は難しいと思うぞ」

 

 間髪入れずに否定をした八幡に、雪乃が目を向ける。それなりに自信を持って出した案が、一瞬で否定されたのだ。意外に気の短い雪乃にとって、それは耐え難いことだった。苛立つ内心を顔に出さないように苦心しながら、雪乃は静かに八幡に問うた。

 

「どういうことなのかしら、比企谷くん」

「俺が入学した前後の話だ。テニス部員が不祥事を起こして、公式大会に出られなくなった。元から真面目にやってる奴は少なかったらしいんだが、それを切っ掛けにゼロになってな。その後も素行の悪さばかりが目立って、一時は廃部寸前まで行った」

「今も残ってるみたいですけど、それはどうしてですか?」

「廃部の動きが出た辺りから、素行の悪い連中がそれなりに大人しくなった。それにそいつらは陽乃の同級生だったから、もうこの学校にはいない。そいつらが卒業した段階で廃部もしくは同好会に格下げってことにもできたらしいんだが、今年度入学者を対象にした募集要項には『テニス部はある』と書いちまったらしいんだな。だから少なくとも、年度初めまではテニス部を部として存続させる必要があった。で、誰も入部者がいなければ廃部、もしくは同好会に格下げという線で話はまとまってたらしいんだが……」

 

 真摯にテニスに打ち込みたいという真面目な『さいちゃん』が入部した、という訳だ。

 

 一応部としての体裁を保っているテニス部であるが、陽乃が会長の時の予算編成会議で活動実績と素行の悪さを理由に予算をばっさりとカットされた。更に翌年、めぐりが会長になってからの会議でも同様の理由で予算を削減された。現在の予算は運動部どころか文化部を合わせてもぶっちぎりの最下位であり、まさに雀の涙だ。

 

 運動部としては踏んだり蹴ったりであるが、小額であっても予算が降りることに変わりはない。それは同好会には無いものだし、何より部には固有スペースである部室がある。過去、それなりに部員がいたテニス部の部室は、運動部全体を見回してもかなり広い部類に入る。テニス部が廃部、もしくは同好会に格下げになると、この部室が放出される可能性が高いのだ。ルームレスの部や同好会は、これを狙っているのである。

 

 そういう連中を始め、素行の悪い連中にちょっかいをかけられた人間等々、テニス部がなくなって欲しい人間は実のところ、校内に一定数存在していた。

 

 方々に敵がいる上に、テニスの指導をできる人間がいない、予算が少ないなどマイナスの要素が揃っている。道具とコートこそあるが、これを新調するとなれば少ない予算ではまかないきれず、部員のカンパで何とかするしかない。加えて現状活動しているのが、ヤル気はあるが一年が一人というのでは、テニスを始めてみようかな、という人間が門戸を叩く可能性は限りなく低い。経験者ならば尚更である。

 

 救いがあるとすれば今の二、三年に幽霊部員がまだそれなりにおり、それで頭数だけは確保できていることだが、『さいちゃん』以外が幽霊部員であることは既にめぐりも把握している。今すぐ廃部ということにはなるまいが、部員の数がこのままであれば部室を放出させられる可能性は大いにある。そうなれば、後はテニス部にとっては悪夢の、負のスパイラルが続いていく。今の時点でも、部員の勧誘が難しいのだ。これで部室までなくなったら、さらに可能性がなくなってしまう。

 

「せめて団体戦に出れるくらいまで活動する気のある部員を確保しないと、部室の放出がかなり現実味を帯びてくる。そうなったらジリ貧だ。その『さいちゃん』のやる気だって、いつまで続くか解らんしな。できるだけ早く手を打つ必要があるぞ」

「さいちゃんかわいそう……」

 

 結衣の言葉には実に哀愁が漂っていたが、八幡はそうは思わなかった。テニス部の事情を最初から知っていたのであれば、今から他者の同情を引くのは筋違いであるし、知らなかったのであればそれは本人のリサーチ不足に寄る。その『さいちゃん』が悪いとは言わないが、今の苦境に好きで身を置いているのならば、全く責任がないとは言えない。

 

 何もしないのに文句だけは言う人間を、八幡は陽乃の近くで何人も見た。そういう連中相手に、陽乃は笑顔で大鉈を振るい情け容赦なく予算をカットしていった。何かしようとしているだけ、『さいちゃん』は彼らよりマシだと言える。

 

 しかし、気持ちがあっても何とかなるかは別の話だ。ことは『さいちゃん』のテニスの技術が上達しても解決する問題ではない。彼女が経験者で、大会でも好成績を望めるのならば話は別だが、素人相手に練習相手を求めるくらいだ。今週、来週にでも賞状を貰って来るような活躍は、期待できない。

 

「話は戻るけど、由比ヶ浜さん。今回の依頼はその『さいちゃん』さんの練習を手伝うということで良いのね?」

「OKだよ。今日はさいちゃん日直だから、少し遅れるって行ってたけどそろそろ来るんじゃないかな」

「運動部の女子と話が合うとも思えないから、俺は席を外しても良いか?」

「ヒッキー先輩もいないとダメだし! あと、さいちゃんは男の子!」

 

 なんだそりゃ、と八幡の口から思わず言葉が漏れた。男性で『さいちゃん』というのは、一体どういうことなのだろうか。結衣と同じクラスであれば、姫菜も知っている可能性が高い。どんな奴だ、と問おうと視線を向けると、姫菜は既に『グフフ』と嫌らしい笑みを浮かべていた。

 

 勿論、知っていて黙っていたのだろう。男性に興味があると口にしたら、それこそどんな妄想に巻き込まれるか解らない。いや、あの顔は既に妄想を展開している顔だ。八幡は今すぐ姫菜の顔をタコにして懲らしめてやりたい衝動に駆られたが、姫菜のことだ。それも妄想のスパイスに転換してしまう可能性が大いにあった。やおいだのBLだのが絡む時、姫菜は無駄に高いバイタリティを発揮する。係わり合いにならないのが吉と視線を外すと、軽いブーイングを始めた姫菜の隙を見てデコピンをする。額を押さえながらも、どこか姫菜は嬉しそうだ。

 

 本当にタコにしてやろうか。八幡が一歩足を踏み出した時、部室のドアがノックされた。他の三人の視線がドアに向いた瞬間、姫菜は椅子ごと八幡から距離を取る。安全域まで逃げ遂せたことで軽く舌を出して挑発する姫菜に、八幡は手近にあったものを掴んで放り投げた。それが雪乃の読みかけの本だったのは全くの偶然である。本は姫菜が反射的にキャッチしたが、飛んでいく過程で栞が床にはらりと落ちた。

 

 今度は八幡が逃げる番である。全力で姫菜の後ろまで逃げる八幡を、雪乃が追う。室内で唐突に始まった追いかけっこに、結衣は複雑な視線を向けるが、好奇心よりも仕事の方を優先させた。はーい、とドアを開ける結衣に、八幡は完全に逃げ遅れたことを理解した。栞を拾い、姫菜から本を回収した雪乃は、それで八幡の後頭部を軽く叩く。

 

「逃げられなかったわね」

「俺のことは置物とでも思ってくれ」

 

 それでも諦め悪く部屋の隅に移動しようとした八幡の肩に、そっと雪乃の手が置かれる。抵抗する間もあればこそ。そんなに力を込めたようには見えない雪乃の腕の一振りで、八幡は手近にあった椅子に座らされた。立ち上がろうとしても、肩に置かれた雪乃の手がそれを邪魔する。いつか陽乃もやっていた、合気道の技の一つだ。重心をどうこうという説明を受けたが要するに、雪乃に触れられている限り、身体の自由はきかないということだ。

 

 完全に行動を封じたと確信した雪乃の目には、ドSの輝きがあった。男性を下においていることに、そこはかとない快感を覚えているのだろう。面差しは似ているだけに、陽乃のことを彷彿とさせる。そんな雪乃の顔を見て抵抗する気を失った八幡は、両手を挙げて降参した。雪乃は自らの小さな勝利をかみ締めながら、元の椅子に戻る。

 

 結衣に伴われ部屋に入ってきたさいちゃんに、全員の目が集まったのはこの時、ようやくだった。

 

 先に聞いた説明によれば『さいちゃん』というのは、部員不足に悩むテニス部の『男子』のはずである。

 

 そのはずなのだが、八幡には目の前の人物がどうしても男子には見えなかった。雪乃も同じことを思ったのだろう。彼女にしては珍しいはっきりとした驚きの色を顔に浮かべて『さいちゃん』を凝視している。

 

「紹介するね。こちらさいちゃん。さっきも話したけど、テニス部の部員で、今回の依頼主だよ」

「ゆいちゃんの友達で、戸塚彩加っていいます。依頼をしたいんですけど――」

「話は由比ヶ浜から聞いた。俺達は素人ばっかりだが、本当にそれで構わないのか?」

 

 既に受けることにした、という物言いの八幡に、部員達の――特に雪乃の強烈な視線が集まる。『貴方、さっきまであんなに乗り気じゃなかったじゃない……』と雪乃は視線で責めてくるが、そんな昔のことはとうに忘れてしまった。それに考えるよりも先に言葉が出てしまったのだから、もうどうしようもない。

 

 受けてくれると理解した彩加の顔がぱぁと輝く。笑顔一つでこれだけの破壊力とは、と八幡は内心で戦慄した。美人は陽乃で見慣れている。今更多少の仕草では動じないという自信があったが、それが過信であることを思い知らされた。世の中にはまだ見ぬ強敵が犇いているのだ。

 

「手伝ってくれるんですか!?」

「一応な。全員が毎日協力できる訳じゃないが、それでも良ければ」

「十分です。ありがとうございます」

 

 礼を言って、頭を下げる。ただそれだけなのに、何故こんなにもかわいらしいのだろう。断られる可能性すらあった話が纏まったことで、結衣もそっと胸を撫で下ろしていた。雪乃はもう八幡に任せると決めたのか、回収した本を開き栞が挟まっていた場所を探していた。姫菜はと言えば、ぐふふと下品に笑いながら八幡と戸塚を見つめ、しゃかしゃか凄まじい勢いでペンを動かしている。中身を読んだ訳ではないが、何となく、今回は掘られる側だろうな、という確信が芽生えた。確認してみたい気もしたが、それよりも今は、眼前の依頼人のことだ。

 

「テニス部、本当に一人なのか?」

「そうなんです。他の部員にも練習しようって声はかけてるんですけど……」

 

 彩加の表情は暗い。自分の力不足を責めている様子だが、元より幽霊部員だった連中だ。反応が芳しくないだろうということは、やる前からでも想像ができる。加えて眼前の美少女――ではない、彩加が頼んでもダメならば、彼らの復帰は絶望的と諦めた方が良いだろう。

 

「それなら、一年を中心に部員を勧誘した方が良いな。最低、次の予算編成までには活動してる奴らだけで部の要件を満たすぐらいにしておいた方が良いと思う」

「解りました。何とかしてみます、せんぱい」

 

 せんぱい、という少し舌足らずな彩加の言葉が、八幡の胸に響いた。姫菜も結衣も八幡のことを呼ぶ時に先輩と付けるが、彩加の『せんぱい』は響きからして二人とは違った。この『せんぱい』を毎日聞けるのならば、テニス部も良いかもしれない。彩加のような後輩が一人いればどんな部活にも身が入ると思うのだが、声をかけられた二、三年はそうは思わなかったのだろうか。

 

 奴らはアホだな、と顔も知らない生徒のことを軽く罵倒しながら、彩加に視線を戻す。

 

「で、俺達はいつからどれくらいの期間手伝えば良いんだ?」

「平日一週間。来週の月曜から金曜まで付き合ってくれれば十分です」

 

 精々一ヶ月と予想していた八幡には、大分控えめな提案に思えた。そもそも奉仕部は四人全員が素人である。そんな連中が彩加の練習に一週間付き合ったところで、彼の窮状が変わるとは思えない。現状がかなり厳しいということは、彩加本人が一番理解しているだろう。テニス部を救う妙案に心当たりがあるならば、そもそもド素人の集団に頭など下げないはずだ。

 

 そうしないといけないくらいに、戸塚彩加は困難に直面している。そんな彼を、八幡は助けたいと思った。

 

「それじゃあ、来週からよろしくお願いします」

 

 細かな話を詰め終わった彩加は、ぺこりと頭を下げて部室を出て行く。彩加の足音が完全に遠ざかると、最初に口を開いたのは雪乃だった。

 

「どういう風の吹き回しかしら。運動部の男子というのは、貴方の好みの対極に位置する存在だと思っていたのだけれど」

「いかにもな運動部ならな。さっきの戸塚を見て、運動部だって思うか?」

「思わないわね……」

「だからって気が合うとも限らないけどな。たまには運動でもしようと思った。理由なんてそんなもんだよ。それより、来週一週間。月金帯でスケジュールを押さえられちまった訳だが、全部出られそうな奴は俺以外にいるか?」

 

 八幡の問いに、手を挙げたのは雪乃と姫菜。話を持ってきた結衣は、気まずそうに視線を逸らしている。

 

「――結衣、別に毎日優美子に付き合う必要はないと思うよ?」

「いや、姫菜がずっとこっちだと、女子が優美子一人になっちゃうし……」

「女子が一人ってことは別に気にしないと思うけどなぁ。むしろ、私も結衣もいないことに、何か思いそう」

 

 まぁ、私はこっちに出るけど、と姫菜は言葉を結んだ。二人がクラスで同じグループに属しているというのは聞いているが、その参加具合には二人の間で随分と温度差があった。結衣はたまに部活に顔を出すという感じだが、姫菜はたまにあちらに行くという感じである。

 

 だからどうした、というつもりは八幡にはない。部として活動さえするのならば、その貢献度合いも参加の頻度も完全に自由だ。基本的に毎日やってくる八幡や雪乃が、本来は異常なのである。学校に友人が一人しかいない八幡にとって、友人付き合いというのは馴染みのあるものではないが、それが大事という人間がいることは理解できる。結衣などはその口だろう。

 

 八幡が気にしているのは、姫菜の方だ。結衣が頻繁に顔を出す以上、そのグループはそれなりに連帯を求めるのだと推測できる。まさか全員が帰宅部ということはあるまいから、放課後、全員で一緒になることは毎日ではないはずだ。それでも、基本参加する結衣が近くにいると、参加の頻度が低い姫菜の行動は相対的に目立つようになる。リア充というのは、同じ行動をしない人間を排除するものだ。それで大丈夫なのかと、一応、部活の仲間である姫菜のことが心配になった八幡は、一度だけと決めて問うてみた。

 

 よほどそんな質問をされたことが意外だったのか、姫菜はしぱらくぽかんとした後に、陽乃を思い起こさせる、魅力的だがどろりとした微笑みを浮かべて『大丈夫ですよ』とだけ言った。 きっと、その後にも言葉は続く。そこで言葉を切ったのは、姫菜がそれなりに結衣のグループを大事にしている証だ。

 

「話を戻すけれど、根本的な問題を解決するには、部員を増やすしかないと思うわ。比企谷くんには、何かアテがあるのかしら」

「そっちのアテはないが、何も解決方法は一つじゃないと思うぞ」

「おー、何か妙案があるんですね、八幡先輩」

「一応な。他力本願過ぎて、あんまり好きじゃないんだが」

「ヒッキー先輩。どっか行くの?」

「執行部室」

 

 行くか? と振り返って雪乃たちを見やると、三人は揃って首を横に振った。

 

 

 

 

 



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意外なほどに、城廻めぐりは会長をしている

 よく、会長以下役員たちを『生徒会』であると勘違いする学生がいるが、彼らはあくまでその役員であって、生徒会そのものではない。その学校に通っている生徒が概ね自動的に加入させられる組織が生徒会であり、そのメンバーとなれば全校生徒のことを指す。

 

 では、その役員たちが集まる部屋を何と呼ぶのか。そもそも所謂『生徒会』の名前も学校によって異なるため一概には言えないが、『生徒会室』と呼ぶのがおそらく、一番通りが良いだろう。総武高校のそれも元々はそういう名前だったのだが、紆余曲折の末、前の生徒会長の陽乃が『生徒会執行部室』と名称を改めた。

 

 公式にどうなっているのか知らないが、少なくとも部屋の前にはそういうプレートが下げられており、陽乃政権の時のメンバーである八幡とめぐりは、プレートができてからの期間はこの部屋のことを執行部室と呼んでいたし、認識している。

 

 八幡はこのプレートを見る度に、感慨深い思いにさせられる。ある日突然、陽乃からこのプレートを作れと言われ、散々リテイクを食らった挙句、最終的には彫ることになった。素人仕事が際立って安っぽく見える、というのは製作者の逆贔屓目という訳ではないだろう。陽乃からめぐりに会長の座が移動した時、八幡はこれを取り払うことを提案したのだが、新会長の鶴の一声によって使用継続が決定された。

 

 基本的に陽乃とは違う路線の政策を行うことで、支持を集め実績を作っているめぐりにしては珍しい、陽乃路線を踏襲した部分である。

 

 この部屋に、ノックをせずに入っていたのも今は昔のことだ。複雑な心境のままドアをノックし、待つことしばらくして、ドアが開いた。

 

 さて、仲が良いかは別にして、八幡は現政権のメンバーを全員記憶している。結局最後まで会長を含めても三人しかいなかった陽乃政権と異なり、城廻政権は引継ぎの段階で既に全ての役職が予備人員も含めて埋まっていた。メガネ率の高い地味な集団だったと記憶しているが、ドアを開けた少女は初めて見る顔な上に、何とメガネをかけていなかった。

 

 随所にアレンジの見える制服には、まだ真新しさがあるから一年だろう。お洒落具合は、結衣よりは堂に入っているように見え、彼女よりも幾分華やかに見えた。何というか、自分がどの程度かわいいのかを自覚しているかのような図々しさをひしひしと感じる。

 

 八幡一人ではおそらく、友達にはしないタイプだ。なるべく視線を合わせないようにする八幡を他所に、一年女子はじっと彼の目を見つめていた。小さく溜息を吐いて、その目を見返すと、一年女子は不満そうに視線を逸らした。自分の視線を受けて動揺しない男がいるとは思ってもみなかったのだろうが、陽乃の視線を間近で受け続けてもう二年が経過している。今更年下の視線など、どうということはない。

 

「その腐った目……もしかして比企谷先輩ですか?」

「もしかしなくてもそうだ。城廻はいるか?」

「いるよー」

 

 少女の肩越しに、めぐりの声が聞こえる。それを『どうぞ』という意味だと解釈した八幡は、今度は自分から少女に視線を向けた。

 

「……ようこそ、いらっしゃいませ」

 

 いまいち歓迎していない様子の少女を気にするでもなく、八幡は執行部室に足を踏み入れた。

 

 かつて陽乃の席だった会長のデスクで、めぐりは微笑んでいた。かつての同僚の急な来訪に、彼女は八幡が使っていた書記のデスクを指差すが、八幡はそれを無視してめぐりの前に立つ。

 

「そこはもう、俺の席じゃないだろ?」

「そうだね、ごめん。それにしても珍しい。はっちゃんがここに来るのも久しぶりだね? もしかして、引継ぎの時以来?」

「部外者が態々顔を出すようなところでもないだろ」

「うちの生徒に生徒会の部外者はいないよ。たまには顔を出してくれても良いのに」

「そのうちな」

 

 めぐり相手は、どうも調子が狂う。このままだと押し切られそうだと感じた八幡は、定番の断り文句で強引に話を終わらせた。相変わらずな八幡の態度にめぐりは苦笑を浮かべるが、それ以上は追求してこない。どこまでならば踏み込んでも良いのか。その絶妙な距離感を理解できるのは、友達ならではである。

 

「それで、今日はどういう御用かな?」

「他校と部活動同士で交流するための規定について聞いておきたい」

「相手のあることだから、こっちとあっちで別の許可が必要だね。まずこっちは顧問の先生と校長先生の許可が必要だよ。それから今度はあっちの校長先生と、部活の顧問の先生の許可」

「面倒だな……」

「他所の生徒を呼んで、校内で問題とか起こされちゃうと困るからねー」

「お前の強権一つでどうにかなるか、と少しだけ期待してたんだが無理そうだな」

「ここに座ってるのがハルさんだったら何とかなったかもしれないけど、私はほら、普通の生徒会長だから」

 

 ははは、とめぐりは笑うが、会長としての彼女の評判はそれほど悪いものではない。前任者が陽乃なので事あるごとに比較され悪し様に言われることもあるが、堅実で痒いところに手が届く実に細やかな手腕は陽乃とはまた違った良さがあった。教師からの信頼は陽乃よりも厚く、申請などをねじ込む時はめぐりを仲介すると通りやすいと、生徒の間では評判である。

 

 勿論、何でもかんでも引き受ける訳ではないが、それが切実なもので会長として公平な判断の内に入るならば、めぐりは断ったりしない。一つの部に肩入れすることは黒に近いグレーと言えるが、その話を切り出す前に黄色信号が灯ってしまった。テニス部の先行きは暗い。

 

「その許可は簡単に出ると思うか?」

「顧問の先生に寄るかな。先生の方がOKなら、校長先生はOKって言うと思うよ」

「そうか……」

 

 想定していたよりも厳しい条件に、八幡の表情が曇る。いつも以上に暗い顔をしている八幡に、今度はめぐりが問うた。

 

「はっちゃん、部活にでも入ったの?」

「テニス部から依頼を受けたんだよ。練習相手がいなくて困ってるから、相手をしてくれってな」

「あれ、テニス部って幽霊部員しかいないんじゃありませんでしたっけ?」

「一年の中ですらそんな認識か……」

 

 少女の言葉に、八幡は渋面を作った。部員の勧誘が早くも暗礁に乗り上げたことに憂鬱な気分になったが、それで諦めるくらいならば、態々執行部室にまで足を運ばない。息を吐いて、気持ちを切り替える。今知りたいのは、実質部員一人のテニス部でも、他校と交流ができるかどうかだ。

 

「はっちゃんは知ってると思うけど、うちのテニス部は外で評判が良くないし、顧問の先生もそんなにヤル気がある方じゃないから、今のままだと難しいと思うよ」

 

 めぐりの正直で率直な意見は想定の範囲の物だったが、ここまで芳しくない結果だといっそのこと清々しく思えた。ドマイナーなスポーツならばいざ知らず、テニスという名前の知られた競技でコートも道具も揃っているという十分な環境が整っているにも関わらず、部外の人間を頼らなければ普通の練習もできないほどに、人員がいないのだ。テニスをやりたいという人間にとってそれがどれだけ良くない環境なのか、推して知るべしである。

 

「粘り強く部員を集めていく方が良いんじゃないかな。幽霊だけど部員だけはいるから、今すぐ廃部ってことはないだろうし」

「このままだと部室が取り上げられる可能性が高いだろ? そうなったら部員集めにも支障が出る。次の予算編成の前には大会に出れるくらいに部員を集めて、活動してますアピールをさせときたいんだ」

「珍しく面倒見が良いけど、どうしたの? テニス部の依頼主さんがハルさんより美人だったりした?」

「確かに天使みたいだったが、それはないな」

 

 だよねー、と同意するめぐりに、八幡も当然のように頷いた。気持ちが動いたことは事実だが、傾く程ではない。犬が簡単に他人に尻尾を振ったりはしないことを飼い主以外で最も理解しているめぐりは、即答した八幡に笑みを浮かべた。

 

 ともあれ、これで聞きたかったことは聞いた。状況は良くないが、それでもどうにかするしかないだろう。助かった、と礼を言って踵を返した八幡に、めぐりがさも今思い出したというように声をあげた。

 

「はっちゃん、いろはちゃんとは初めてだよね?」

「そこのそいつのことなら、会ったことはないな、多分」

 

 そいつという呼称にむっとした表情を浮かべた少女は、陽乃ほどではないが整った容姿をしていた。これだけ『私かわいい』オーラを出していたら、リア充の顔は覚えたくない八幡でも、流石に記憶に残る。記憶にないということは会ったことはない、と機械的に判断した故の即答だったのだが、その即答が少女の気に障ったらしい。

 

「はじめまして、一色いろはです。どうぞよろしくお願いします、先輩」

 

 差し出された手を握り返すと、いろはと名乗った少女は更に渾身の力を込めた。とは言え女子の膂力である。部活に汗を流すよりも、友達と喋ることに放課後の時間を使っていそうないろはの全力は、やはり大したことはなかった。それでも年上の男子相手に『やってやった』ことに溜飲を下げたのか、当のいろはは満足そうな表情だった。

 

「メンバー増やしたのか? どの役職も人は足りてただろ」

「会長になりたいから生徒会活動に参加して勉強したいんだって」

「……悪いが会長とかやりたがるタイプには見えないんだが、そんなめんどくさい仕事を、どうしてまた」

「先代の会長の雪ノ下陽乃さんみたいになりたくて……」

 

 いや、無理だろと反射的に口を突いて出そうになった言葉を、八幡はとっさに飲み込んだ。目指すかどうかは人の自由である。それに口を出す権利は、八幡にもない。

 

 だが、犬の感性でもって言わせてもらうと、陽乃を目指す人間として見た場合のいろはは、色々と力不足に見えた。陽乃を構成する上で一番重要な、あの『人間の濃さ』がいろはからは全く感じられない。

 

 もっとも、陽乃みたいになりたいという言葉に、内面までが含まれているとは限らない。陽乃からみれば、いろはたちは三つ下になるから中学で一緒だったということもないはずだ。下手をしたら、会話をしたこともないかもしれない。八幡からすればそれでどうして憧れることができるのかと疑問に思うばかりだが、それも人それぞれだろう。何しろ陽乃は内面の強烈さほどではないが、見た目も十分輝いているのだから。

 

「一色は陽乃と会ったことがあるのか?」

「去年、文化祭のライブ見ました!」

 

 あー、と乾いた声が八幡の口から漏れる。そのライブで陽乃の横でギターを弾かされたのも、今となっては痛ましい思い出である。舞台上での良い思い出など何一つ残っていない。緊張と羞恥と戦いながら舞台の上で考えたことと言えば、演奏でトチらないことだけだ。

 

「ハルさんみたいになりたいって人、結構多いんだよ」

「俺が言うのも何だが、世の中趣味が悪い奴が多いな」

 

 自分がその筆頭であることを棚にあげている八幡の物言いに、めぐりは声をあげて笑った。元々ピアノが弾けためぐりはライブではキーボードを担当し、ドラムの不在を埋めるために打ち込みもやった。あの日の成功の影の功労者であるがおそらくライブを見に来た人間で、めぐりを記憶している人間はほとんどいないに違いない。

 

 観客は皆、陽乃だけを見ていた。舞台にいたのは陽乃たちではなく、陽乃とそのおまけである。これで皆、自己主張の強い人間であれば文句も出ただろうが、八幡と静はライブなど早く終わってくれと心の底から思っていたし、めぐりは全力で皆でバンドというのを楽しんでいたから他人の視線など二の次だった。思い返してみれば、共にバンドを組む面々としては割りと理想的だったのかもしれない。

 

 めぐりの視線が、机の上の写真立てに移る。ライブが終わった時、陽乃に撮らされた記念写真だ。八幡にとっては黒歴史そのものの写真も、めぐりにとっては良い思い出らしい。

 

「……まぁ、そんな訳で人は足りてたんだけど、役員に加えることにしたんだ。はっちゃんも何か、アドバイスとかあったら言ってあげてね? ハルさんの一の子分は、間違いなくはっちゃんだし」

「子分じゃなくてそのものになりたいって奴には、俺の助言は役に立たないだろ」

 

 他人からアドバイスを受けたくらいで陽乃になるのならば、世の中もっとスリリングになっている。高校に入ってからも色々あったに違いないが、おそらく入学する前から陽乃はああだったはずだ。それまでに培ってきたものを才能の一言で片付けるのは抵抗があるが、陽乃が陽乃であることの最大の要因はおそらく、生まれ持った感性である。

 

 陽乃個人の能力や置かれていた環境は、他人に真似できるものではない。今から陽乃になるというのであれば、よほど劇的な環境に身を置かない限りは不可能だ。一年の時点でこれでは、卒業するまで頑張っても陽乃の影も踏めないだろう。

 

「……見た目は良いみたいだから、頑張れば何とかなるんじゃね」

「雑過ぎません!?」

「陽乃が増えても俺に良いことないからな」

 

 要約するならばその一言に尽きる。雪ノ下陽乃は一人で十分だ。めぐりも雪乃も、この意見には賛成してくれるだろう。あんな内面の濃い人間が他にもいたら、周囲にいる人間はそれだけで疲れるし、何より自分と似たような存在が近くにいることを、あの陽乃が許容するとは思えない。全力で相手を潰しにかかる陽乃など想像するだけでもぞっとするが、幸いにも陽乃とキャラが被るような人間には今のところ遭遇していない。

 

 できれば一生お目にかかりたくないものだが、万が一がないとは限らない。陽乃を目指すといういろはに、八幡はなるべく関わるまいと心に決めた。

 

「じゃあな。忙しいところ悪かった」

「はっちゃんなら別に良いよ。他校との交流のことは、こっちでも調べておくから」

「頼む」

「ちょ、せんぱ――」

 

 何か言っている後輩を気にもせず、八幡は足早に執行部室を出て行き、ドアを閉めた。

 




おなじ後輩なのにどうしてこうも扱いの差が……
合流はもう少し先の話なので、今回は顔見せ程度のいろはすでした。


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珍しく、比企谷八幡は自分で策を練る

八幡にしては珍しく気合を入れて望んだ月曜日。ジャージに着替え自前のラケットを持ち、雪乃、姫菜と一緒にやってきたテニスコートは、思っていた以上に綺麗に整備されていた。彩加以外に部活に顔を出している人間はいないというのが事実であるなら、当然、この整備をしているのも彩加一人ということになる。

 

 新しい部員はいつやってくるか解らないし、最悪来ないかもしれない。練習も満足にできない環境で一人黙々とコートやボールの清掃整備を続けられる気持ちの強さは見上げたものだと心の底から思う八幡だったが、部活でスポーツに打ち込んだことなどない彼は彩加の行動に尊敬の念を覚えると同時に引いていた。

 

 自分とは明らかに人間が違う。八幡の隣にはジャージに着替えた姫菜がいたが、彼女もコートを見た瞬間、『うわー……』という声を挙げた。姫菜ももう少し寂れた風景を想像していたのだろう。それが思っていた以上に綺麗だったものだから、八幡と同じ感想を抱いたのだ。

 

 顔を見合わせた八幡と姫菜は、隣にいる人間が自分と同じ感想を抱いたことにそっと安堵の溜息を漏らした。普通とは違う感性をしていると自覚していて、それを受け入れていても、たまにはマイノリティになるのが怖いこともあるのだ。

 

 そんな中、見た目と性格に反して内面は意外にも熱血系だったらしい雪乃は、きちんと整備されたコートを見て、満足そうに頷いた。

 

「一人しかいないのに、ちゃんと整備しているのね」

「筋トレにもなるかなって。テニスの整備や清掃って、結構重労働だから」

 

 えへへ、と笑う彩加は天使のように愛らしかったが、テニスの腕はともかくとして、それほど筋肉がついているようには見えなかった。女性のスタイルと一緒で着やせする、ということもありえない話ではないものの、ジャージを脱いだ彩加が細マッチョだったら、それはそれで残念に思う。

 

「私は実は細マッチョに一票入れたいですねー」

「やめてくれよ誰得だよ」

「もちろん私と八幡先輩にですが? 想像だにしなかった美少女のような美少年の力強さに、恐怖と共に興奮を覚えたりしません?」

「今お前の発想と視線に恐怖を覚えてるよ」

「そのうちその恐怖が快感に変わりますよ。そうなったら是非知らせてください」

「ならねーし、なっても教えねーよ」

 

 野球部にサッカー部。沢山部員のいる部活がフェンスの向こうで汗を流し、青春の声を挙げている中、部員一人と部外者三人の練習は始まった。

 

 基本的には雪乃が球を出し、彩加がそれを追い、八幡と姫菜がボールを拾うという役割分担となった。雪乃が球出しを買って出たことに驚いた八幡だったが、前後左右、スパルタンに彩加を動かす様を見て、雪乃の中にあるスポ根魂とドSの精神に火が点いたのだと理解した。

 

 ボールを拾いながら、彩加の動きを観察する。フォームは悪くない。こうあるべしという理想の形に近づけるよう、日々練習をしているのが良く解る。動きもそれなりだ。基礎練習の反復をしている証拠だろう。一人でこれだけできるのだから、まともな練習環境、面倒をみてくれる先輩や指導者、一緒に雑用をやる同級生がいればもっと伸びたに違いないのだが、いかんせん、彩加は一人だった。

 

 それに他にも問題はある。雪乃のボールを受けて五分ほど経つと、彩加の息は上がり始めた。運動部にしては体力が少ない。雑用とラケットを持った基礎練習だけで、走りこみの時間まで取れないのだろう。他のことができていても、最後までそれを実行できるだけの体力がなければ宝の持ち腐れである。

 

 十分ほどでコートに倒れ込んだ彩加を見て、雪乃は休憩を提案した。彼女からすれば実に物足りない結果だろうが、彩加の体力が足りないのは誰が見ても明らかだった。

 

「戸塚、大丈夫か?」

「あ……ありがとうございます、せんぱい……」

 

 彩加の手を取り、引っ張り上げる。小さい女子のような手だが、ラケットのタコの固さが残るスポーツマンの手。その固さは線の細い印象の彩加には似つかわしくない感触だったが、それも努力の証だと思うと素直に彼を尊敬することができた。

 

「ところで比企谷くん。貴方テニスはできないの? あの人と軽井沢まで行ってたでしょう?」

「行ったが、テニスはてんでダメだな。陽乃はもちろん、誰とやっても1ゲームも取ったことがない」

 

 才能がないんだな、と嘆息する八幡に、雪乃は珍しく同情的な表情を浮かべた。

 

「そんなに落ち込むことはないわ。あの人は勝負を挑んでくる人間を叩き潰すのが、何より大好きな人だから」

「負けることが大嫌いなんだろ。うっかり勝っちまった時は、そりゃあ酷いもんだったぞ」

 

 その時の陽乃はまず信じられない、という顔をし、そして顔を逸らしてしばらく視線も合わせなかった。機嫌を悪くしたというのは八幡にも解ったが、内心を悟らせないことにおいて、陽乃は天才的な才能を持っている。こういう、解りやすい反応をされるのは初めてのことだった。基本的に、陽乃は我慢をしない。機嫌が悪いとなれば即座に報復をしてくるのが雪ノ下陽乃という人間である。その陽乃が何もしてこないというのは逆に八幡の恐怖を煽ったが、その不可思議の答えは勝負の当事者以外のところから齎された。

 

 その時の勝負に付き合っていた最後の一人である静が、にやにやと笑いながらこっそりと八幡に近寄り、耳打ちをする。

 

『負けたくらいで拗ねる人間だと、狭量なところをお前に見られたくないんだろう。かわいいところもあると思わないか?』

『静ちゃん、うっさい!』

 

 その言葉を耳ざとく聴きつけた陽乃が思い切り放り投げたスポーツバッグを、静は笑いながらひらりと避けた。その後、恥辱を雪ぐべく勝負を挑まれた訳だが、今度は万が一にも負けないと本気モードになった陽乃に、八幡は手も足も出ずに完敗した。それで陽乃は溜飲を下げいつものように振舞うようになったが、その日、八幡は改めて陽乃の勝負事に対する姿勢を知った。

 

「貴方……姉さんに勝ったことがあるの?」

「数える程だけどな。ゴルフとかボウリングとか、直接妨害されない種目だと意外と勝てると思うぞ」

 

 それでも本気を出されるとどうしようもないのだが、それは言わないでおく。

 

 基本的に何でもできる陽乃に勝つには、その道に打ち込んでいる才能ある人間を連れてくるしかないが、陽乃はそういう人間と相対するような状況に追い込まれないよう、器用に立ち回る。勝てる勝負しかしないのではなく、陽乃が勝負に出る時はもう、勝てる算段がついた時なのだ。ある日の八幡の勝利も偶然と幸運の産物である。決して八幡の実力で勝った訳ではないのだが、雪乃にはそれが自慢の一種と思えたらしい。

 

 雪乃は一瞬、憮然とした表情を浮かべると、すぐにその表情を引っ込め、八幡から視線を逸らした。

 

 何があったんだろう、とその背中を見ながら首を傾げていると、あの日の静と同じ笑みを浮かべた姫菜が寄って来て、やはり彼女と同じようにそっと耳打ちした。

 

「雪乃くん、あれでお姉ちゃんが大好きみたいですから。八幡先輩相手とは言え、負けたことがあるっていうのが気に食わなかったんじゃありません?」

 

 その言葉が聞えていたのだろう。鋭い角度で飛んできたテニスボールを、姫菜は笑いながら回避した。陽乃は少なくとも八幡に対して、妹を好いていることを隠したことはないが、雪乃が陽乃を好きだと言っているのは聞いたことがない。複雑な感情を持っているのは誰が見ても解ることだが、その感情の向こうに屈折した愛情を持っていることを、八幡は見抜いていた。

 

 それを姫菜のように『大好き』と表現するのは抵抗があるが、好意があるのは間違いがない。目の腐った八幡をして実に屈折した姉妹愛だと思わずにはいられないが、それが逆に、雪乃らしいとも言えた。あの陽乃の妹が、解り易い愛情表現をするはずもない。

 

「せんぱい」

 

 気持ちを落ち着けるためにコートから離れた雪乃と入れ替わるように、体力も回復し手の空いた彩加がぱたぱたと足音を立てて寄ってくる。ラケットを抱え、もじもじとする仕草はその辺の女子などよりも格段に可愛らしい。

 

「良ければ、アドバイスが欲しいんですけど……」

「前にも言ったが俺は素人だぞ? テニスを上手くなりたいって戸塚の野望には、貢献できないと思うが」

「それでも、聞きたいです。何かありませんか?」

 

 雪乃様に走らされた後だからか、彩加の頬は紅潮していた。目も僅かに潤んでいて、身長差から上目遣いになっている。これを狙ってやっているのだったらまさに悪女であるが、天然だとしたら更に性質が悪い。そんな彩加の仕草を見て、八幡は疑問に思った。彼女、いや彼はこれまで男性の中で生きてきて身の危険を感じたことはないのだろうか。陽乃という決まった相手がいる八幡は、間違っても間違いを起こさない自信があったが、この仕草この表情この声には、同性を惑わす力がある。これでは同級生の男子は大変だろうな、と心中で彼らに同情しながら、八幡は先ほどから思っていたことを提案してみた。

 

「……そうだな。これは俺が言うまでもないことだと思うが、体力作りをもう少しやった方が良いと思うぞ。走りこみとかしてないだろ?」

「部活内だと時間がとれなくて……」

 

 申し訳なさそうな彩加の声に逆に八幡の方が申し訳なくなったが、時間が取れないというのは本当だろう。彩加一人とは言えボールとコートを使って練習するのだから、そのメンテナンスにも多くの時間を取られるのは間違いない。いっそボールもコートも諦めて、基礎体力を作ることに専念すれば十分な時間も取れるのだろうが、明確な目標を定められない状況で、一人筋トレ走りこみを続けるのはよほどメンタルが強くないとできることではない。一人でも彩加が部活を続けていられるのは、コートとボールを独占できたことが大きい。

 

 ともあれ、技術の向上を求めるならば、体力作りは避けては通れない道だ。部活内で時間が取れない以上、部活外でその時間を捻出するしかない。

 

「休みの日でも良ければ、走りこみくらいなら付き合うが、どうする?」

「ほんとですかっ!?」

「目を輝かせてるところ悪いが、走りこみに付き合うだけだぞ? それ以外の意味はないからな、特に海老名」

「そんなことより八幡先輩、私も走って良いですか? 二人と一緒ならどこまででも走っていけそうな気がします!」

「来るっつーのを止める気はないが……」

 

 確認の意味を込めて、八幡は彩加を見た。この場で一番の年長は八幡であるが、ランニングをしよう、というイベントのメインは彩加であるから、当然、決定権の彼にある。彼が区切った期限は金曜日まで。八幡の提案した休みの日というのはその外になる訳だが、彩加はそれに気づいていないかのように、姫菜の案に同調する。

 

「いいですよ。皆でやろう?」

「やった。八幡先輩、おいしいの期待してますからね?」

「適当にな。そういう訳で休みに走ることになったんだが、雪ノ下はどうする?」

「今週末、ということであればとりあえずは良いけれど……」

 

 微妙に曖昧な返事は、継続して付き合う気はないという意思表示でもあった。

 

 雪乃の肌ははっとする程に白く、普段外に出ていないことは見て取れる。それは見る人間によっては『不健康』にも見える白さだ。性格からしても、自発的に走ろうというタイプでないのは見て取れる。本音を言えばランニングなど面倒くさくて仕方がないというところなのだろうが、雪乃は一瞬も逡巡することなく、今回だけという条件付きではあるがOKを出した。雪乃にしてはかなりの譲歩である。思いも寄らなかった付き合いの良さに苦笑を浮かべつつ、八幡はこの場にいない最後の部員のことを思いだした。

 

「由比ヶ浜にも声をかけないとな。あいつも運動得意そうには見えないが」

「皆がやるって言ってる上に休みを使うなら、喜んでくると思いますよ」

「それは良いことね」

 

 雪乃の言葉に、八幡も頷く。結衣は活動に参加できないことを大層気に病んでいるようだった。ただ走るだけでも一緒にやれば、少しは気も晴れるだろう。見た目通りの運動神経だとしても、犬の散歩のついでと思えばランニングもそれほど苦にはなるまい。

 

「それでは、今週末は皆でランニングということで良いのね?」

「そうだな。戸塚、お前と連絡取れるようにしておきたいんだが、番号を教えてもらえるか?」

「はい! ちょっと待っててください」

 

 彩加が自分のバッグに駆けて行こうとしたその時、テニスコートに見覚えのある人間が息を切らせて飛び込んできた。

 

「ヒッキー先輩!」

 

 ジャージ姿の結衣である。今日は予定が入っていると言っていたはずだが、予定が変わったのだろうか。それにしては切羽詰っているように見える。よほど急いできたのだろう。ぜーぜーと息を切らせている仲間の違和感の正体に、最初に気づいたのは姫菜だった。

 

「……優美子?」

「そう。これからここで、テニスやりたいって。今準備してるとこなんだけど、私一人じゃ止められなくて、せめてヒッキー先輩たちに知らせなきゃって思って一人で先に来たんだけど――」

 

 そこで結衣は黙り込んでしまった。テニス部の手伝いは結衣が持ってきた依頼である。それが自分の力不足で妨げられようとしていることに、心を痛めているのだ。姫菜の目が、危険な感じに細まる。部活に勧誘したあの日と同じ、ロクデナシの目だ。こういう目をしている人間を勝手に行動させると、何をするか解ったものではない。取り返しのつかないことをしでかす前に、思う通りに誘導する必要がある。

 

 姫菜の機先を制するように、八幡は彼女に問うた。 

 

「二人でなら説得できるか?」

「無理だと思います。私と結衣でテニス部に協力するって聞いて、興味を持ったみたいですから」

「でも、見学するくらいならOKですよ? 部員増えるかもしれませんし」

「準備をしてたんでしょう? そのユミコさんは、見るだけじゃなくて参加するつもりのようよ。私見だけれど、冷やかしの可能性が大ね」

「それは……その……」

 

 言葉にこそしなかったが彩加の顔には『それは嫌だ』と顔に書いてあった。依頼主の意向であるならこれは尊重したいが、部活仲間がクラスのグループに馴染めなくなるのも避けたいところだ。依頼主である彩加との関係は、悪く言ってしまえば依頼が終わればそれまでだが、結衣と姫菜はこれからも同じ部活に残るのである。個人的な感情を別にすれば、どちらを優先すべきかは考えるまでもない。

 

 だが、優先すべきを優先したら彩加の依頼を完遂することができなくなる。何かを得るために何かを完全に切り捨てるなど、二流の証拠だ。欲しい物は全て手にするのが、雪ノ下陽乃のやり方である。比企谷八幡は雪ノ下陽乃ではないが、その思想は身体に染みこんでいた。彩加を立てて、姫菜たちの問題も解決する。奉仕部が、比企谷八幡がするべきは、それだった。焦る結衣と暗く淀んだ姫菜の視線を受けて、八幡は考える。まずは、相手の戦力を分析することだ。

 

「お前らのグループって全部で何人だ?」

「私達も含めて女子が三人と男子四人です。男子は皆サッカー部。今日は部活休みみたいですね。名前は――」

 

 姫菜の挙げていく名前の一つに、聞き覚えのあった八幡は眉根を寄せ、雪乃に視線を向けた。雪乃は苦々しい顔をしながら、小さく頷く。

 

「察しの通りよ。父の会社の顧問弁護士のご子息ね。一応、私の昔馴染みでもあるわ」

「雪ノ下のご令嬢らしいハイソな交友関係だな。それで、葉山某のテニスの腕ってのはどんなもんだ?」

「中学の時に対戦したきりだけれど、誰かに師事した訳ではないにしては、上手い方ではないかしら。少なくとも、平均よりは大分上よ」

「勝てるか?」

「誰に物を言っているのかしら。それよりも――」

 

 語気を強めた雪乃は八幡に詰め寄り、その胸倉を掴み挙げた。もっとも、身長は八幡の方が高く体重も同様である。非力な雪乃が渾身の力を込めてもそれは高が知れていたが、見た物を凍てつかせる氷の視線には、人をたじろがせるには十分な迫力が篭っていた。そんな雪乃の視線に、八幡は歪んだ快感を覚えていた。性格は違っても、やはり姉妹である。

 

「次にそんなふざけた呼び方をしたら、ただでは済まさないからそのつもりでいなさい」

「悪かった。ただこれで方針は固まったぞ」

 

 雪乃に襟首を掴まれながら、八幡はにやりと笑った。陽乃が卒業し、執行部からも離れて久しい故に、かつてのご主人様にならって策謀のようなものを巡らせることもなかったが、久しぶりにその機会を得ることができた彼は喜びのあまり邪悪に笑っていた。

 

 それは妹である雪乃をして、陽乃に通ずると感じさせるほどのものだった。姉の人を人と思っていないかのような、ロクデナシの笑みが雪乃は好きではなかったが、八幡の微笑みはどこか親しみを感じさせた。姉ではないという贔屓目のなせる業かもしれないが、その笑みに毒気を抜かれた雪乃は思わず彼の襟首から手を離してしまった。

 

 自由になった八幡は、居並んだ一年生たちを見回して、宣言する。

 

「最終的に叩き出すのは当然だが、煽りに煽って練習相手になってもらってから、お引取りいただく。葉山某に恨みはないが、精々テニス部の礎となってもらおう」

 

 

 

 



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こういう時、ラブコメの神様は微笑まない

「対戦?」

「そうだ。そっち全員とこっち全員でダブルスだ」

「別にあーしらがそれを受ける必要は――」

「いやなら『正式な』コートの使用許可と校則を盾に、お前らを叩き出すまでだ。それでもテニスがしたいってんなら、そこはもう俺の知ったことじゃない。どうぞ他の場所を探してくれ」

 

 取り付く島もない八幡の物言いに、優美子は苛立たしげに押し黙った。彼女はここのテニス部を見たかったのであって、テニスがしたい訳ではない。本音を言えばテニスそのものすら二の次だった。結衣や姫菜とおもしろおかしく遊ぶことができればそれで良かったのだが、八幡はあくまで『部活にまぜてやる』という姿勢を崩さなかった。何故お前が……と思った優美子だったが、耳ざとい彼女は目の前にいるのが何処の誰かということを、良く知っていた。

 

 比企谷八幡。現生徒会長である城廻めぐりとともに、先代の会長雪ノ下陽乃の政権を支えた人間だ。唯我独尊で知られた陽乃に対する忠犬っぷりから『女王様の犬』とも呼ばれる男である。生徒会活動に一年も関わっていた男だ。普通の生徒ならば校則などほとんど知らないだろうが、彼ならば校則に精通していても不思議ではない。そんな人間を相手に、生徒手帳など一度も開いたことのない優美子は、太刀打ちすることはできなかった。

 

 だが、葉山隼人はそうではなかった。将来弁護士になるつもりの彼は生徒手帳も熟読し、校則にも精通している。いつかやりあうことがあるかもと思って部活に関する規則もしっかりと読み込んでいた。それによると授業以外で学校の施設を使うためには、校庭ならば校庭の、テニスコートならばテニスコートの使用許可が必要になる。校庭などの広い場所の場合はそれ全体ではなく、半分とか四分の一とかエリアを区切って許可が出されるのだがそれはさておき、それら運動部が使用する場所については、そこを使用する部が持ち回り、あるいは場所固定で終日、かつ恒常的に許可を得ているのが普通だ。

 

 総武高校の場合、校庭ならば野球部、サッカー部、陸上部といった具合だが、テニスにしか使えないテニスコートについては、基本的にテニス部が校庭と同様の使用許可を得ているはずで、これは八幡の言う通り学校が認めた正式なものだ。

 

 そしてこの手の許可は、他の全ての生徒の都合よりも優先される。それを無視して行動した場合、校則違反として処罰の対象になる可能性があった。まさかいきなり停学などという重い処分にはなるまいが、サッカー部である隼人たちがそれを破るのは、運動部全体のパワーバランスに関わる問題になってくる。野球部もサッカー部も、もっと広いスペースを使いたいと常々思っているし、スペースについての争いは使用許可が厳密に区切られている現在でも後を断たない状況だ。

 

 ここで隼人たちがそれを無視した、という話が広まるとサッカー部以外の他の部から突き上げられかねない。最悪使用スペースの削減などという事態に陥ることも考えれば、ここで八幡の提案を突っぱねるのは得策ではない。

 

 これは従っておいた方が良さそうだ。そう判断した隼人は、八幡の提案を受け入れることにした。 

 

「テニスコートを使わせてもらえるってことで良いんですよね?」

「俺達の相手をするならな。それから、いきなり来るのはこれっきりにしてくれ。少数でも一応部活なんでな。サッカー部だって、半面空いてるからって俺らがキックターゲットで遊んでたらムカつくだろ?」

「俺なら練習サボってそっち行くかも」

 

 例え話に大笑いする三人を冷めた視線で眺めている八幡を見ながら、隼人は考えた。

 

 隼人の父は弁護士事務所を開いている。県下でも有数の企業である雪ノ下建設の顧問弁護士をしており、社長である雪乃や陽乃の父とも親しい。それ故に、雪ノ下家の個人的な案件を請け負うこともあった。雪乃の乗ったリムジンが八幡を轢いた際の示談交渉を請け負ったのは、記憶に新しい。

 

 その時、彼が陽乃の恋人であるということを知った。隼人自身は彼に縁がないこともあって見舞いにはいかなかったが、あの陽乃が毎日病院に顔を出し、献身的になっていたと聞いた時には耳を疑った。

 

 あの陽乃にそんな人間らしい面があるなど、誰が信じられるだろうか。何より驚いたのは陽乃がそうであることよりも、彼女に恋人がいて、それが学校の後輩ということだった。学校でもプライベートでも『あの』陽乃と一緒にいて、これからも一緒にいたいと思える人間。きっと菩薩のように心が広い人間か、陽乃と同じように人格が破綻しているかのどちらかだ。勝手にそう予測していたのだが今日初めて相対して、後者の方がより近いと理解した。陽乃とはまた方向性が違うが、彼は陽乃の同類である。

 

 深く淀んだ目からは、言い知れないプレッシャーを感じる。陽乃よりは控えめだが、致死量を超えた毒ならばそれがどういう種類の毒かは関係がない。これを覆すのは自分では力不足だ。それを悟った隼人は、八幡の提案を今度こそ全面的に飲むことにした。

 

「解りました。それでお願いします」

「おうよ。その代わり勝ったらその分だけ残り続けて良いぞ」

 

 マジで!? と戸部たちがその言葉に食いつく。

 

 彼らにはそれが、とても太っ腹で良い条件に思えたのだろう。実際には特に話し合いもせずに勝手に条件を追加されただけなのだが、それには気づいていないようだ。

 

 話もどんどん大きくなってきている。元々テニス部の様子を見に行こうと言い出したのは優美子で、隼人はそれに賛成しただけだ。結衣と姫菜がどういう部活に顔を出しているのか気になってはいたし、たまにはテニスをするのも良いと思ったからだ。

 

 歓迎されないということも勿論考えてはいたが、ここまでとは思っていなかった。皆で楽しく、というのが隼人の流儀である。それは多くの場合に好評で、今回もそうであると楽観していたのだが、八幡は明らかにそう思っていなかった。軽い主義の対立に、隼人は密かに気を引き締めた。簡単には負けられない。

 

 姫菜を向こう、結衣をこちらとすると、数の有利は自分たちにあるが、その利を活かせるのが全員が一定以上の腕を持っている場合だけだ。隼人以外の男子三人は、ボールを前に飛ばせるレベルの腕であり、運動そのものが得意ではない結衣も、気持ちは大分あちらに傾いている。仮に得意であったとしても、善人で情が強い結衣は、こういうグループ同士が対立する構図では十分に実力を発揮できない。戦力としてカウントできるのは、自分と優美子の二人だけだ。そう隼人が考えをまとめる直前に、八幡はさり気ないタイミングで、話を進めていた。

 

「じゃ、ローテでやろうぜ。最初、俺らは戸塚と海老名が入る」

「隼人くん、最初に俺、俺やりたいんだけど!」

 

 力強い戸部の主張に、隼人は陰鬱な気分で頷いた。経験者二人で押し切り、時間を稼ぐことはできなくなった。腕で劣る人間が入ればその分勝率が下がる。頭数で劣るが経験者が多そうなあちらは、腕に劣る人間を参加させることで勝率を上げようとしているのだろう。一回以上付き合うつもりはないという、八幡の強い意志を感じる。

 

 ならばそれに抵抗するまで。

 

 どうすればこの状況を打破できるか、考えをめぐらせている隼人を横目に見ながら、八幡は自分の企みが半ば成功したことを悟った。ルールの細かい設定を彩加に任せ日陰のベンチに下がると、やりとりを眺めていた雪乃が話しかけてくる。

 

「貴方の予想の通りになったわね」

「そうだな」

 

 ダブルス、ローテーション。こちらが飲ませた条件はそれだけだ。コートがあり、道具も揃っている。他に決めなければならないことは、それ程多くはない。こちらは姫菜と彩加が出て、あちらは男子二人が出てくる。二人ずつ出るのであれば、残り二つのチーム構成は、結衣と残りの男子、隼人と優美子というペアで決まりだ。

 

 そうこうしている内に、最初のゲームが始まる。彩加が現役のテニス部員という有利はあるが、相棒の姫菜はボールを前に飛ばせるレベルの腕である。対する男子二人は姫菜と同じレベルであるが、現役のサッカー部男子故に、体力と腕力では分があった。結果、二組の実力は均衡し、一進一退の攻防を繰り広げることとなった。

 

 あくまでレクリエーションの域を出ないやり取りに、表面上は和やかな空気となっていたが、相手方のベンチでは隼人と優美子が入念な打ち合わせをしていた。明らかに勝ちにきている。

 

 それも狙い通りだ。依頼内容は彩加の能力の向上であって、遊びにきた素人集団を叩き潰すことではない、奉仕部的にはこの勝負、勝とうが負けようがどちらでも構わないのだ。あの二人相手ならば、彩加も良い経験になるだろう。これからもふらっと現れるようになれば問題だが、それについては八幡が釘を差した。

 

 遠まわしではあるが、部活中に迷惑だと伝えたのだ。優美子はどうか知らないが、同じく運動部に所属する隼人は運動部の暗黙の了解を無視することはできない。仮に今日と同じ流れになったとしても、その時は彼が止めに入るだろう。集団の核はあの二人だが、精神的には対等とは言えない。隼人が反対すれば、優美子はきっとそれに従うという確信が八幡にはあった。この問題はそれで良い。

 

 この勝負に勝つ、というのは奉仕部というよりも八幡や雪乃の個人的な理由だったが、八幡にとってはここからが難しかった。向こうのへっぽこを引きずりだすために、ダブルスでローテというルールを持ち出したが、こちらは姫菜が戦力にならず彩加もテニス部にしては体力が少ない。雪乃はテニスの腕は期待できるが、体力については彩加以下ということが推測できた。

 

 この面子で確実に勝利を得るならば、隼人と優美子のペアが出てくる前に確定的なリードを得ることだが、人数で劣るこちらは各々の負担があちら以上だ。特に男子四人はサッカー部で、体力に自信があるのが見て取れた。少なくともこの点においては、テニス奉仕部連合に勝ち目はないだろう。

 

 勝つためには一瞬の油断もできない。それを良く理解していた雪乃のコートを見る目は、今まで見たこともないくらいに真剣だった。

 

「戸塚くんは、固定なのよね?」

「そうなるな。次は海老名とお前で入れ替えだ。できればこれで勝負を決めてほしいところだが……」

「善処はするわ。でも期待はしないで」

 

 自分の腕に絶対の自信があっても、勝負を決めきる体力がないことは雪乃本人が良く知っていた。一気に勝負を決めるつもりで畳み掛けたとしても、決めきる前に力尽きることは目に見えている。せめて彩加が固定でなければまた話も違っていたのだろうが、奉仕部の仕事は彩加のテニスの腕を向上させることであって、この勝負に勝つことではない。そもそもこの勝負は偶発的なものだ。部活のルールを持ち出した以上、自分たちがそれを侵す訳にはいかない。

 

 雪乃の態度には苛立ちが見えた。自分で決め切れない以上、勝負が次のセットに流れると思っているのだ。彩加が経験を積めるのだから、それはそれで奉仕部本来の目的と合致してはいるが、誰だって負けるのは悔しい。雪乃は特に負けず嫌いであり、八幡もそれに大いに同調した。

 

 この場で最も真摯に勝利したいと願っているのは間違いなく雪乃だ。自分で勝ちきれないことを予感した彼女は非常に苛立っており、それは隣に立つ八幡にも伝わる程だった。無言で佇んでいるだけなのに、この迫力なのだから溜まらない。性質は大きく違っても、やはり雪乃は陽乃の妹だ。

 

 八幡が俯き、にやつきそうになるのを堪えていると、コートでプレイ中の姫菜が手を挙げた。

 

 体力の限界だ。へとへとになってコートから出てくる姫菜と入れ替わり、コートに入る雪乃の背中には昔のスポ根物のような炎が燃えていた。これで勝負が決まってくれるのならば本当に楽なのだが、そう上手く話は転がらない。雪乃の体力が尽きる可能性は高く、そうなれば自分に出番が回ってくる。自分の出番を半ば確信した八幡は、ベンチから立ち上がってストレッチを始めた。

 

 雪乃の猛攻に相手もペアを交代する。二組目は大柄な男子と、結衣のペアだ。結衣は一応、奉仕部の内通者、ということになるのだろう。あくまで無理のない範囲で協力してくれるだけで構わないと説明した。授業以外でテニスをしたことがなく、加えて運動もそれ程得意ではないという彼女では、不自然でない程度に八百長するのは無理だ。下手に何かされて話がややこしくなっても困る。八幡としては遠まわしに『何もするな』と言ったつもりだったのだが、その真意は結衣には伝わっていなかった。

 

 奉仕部と友人のために役に立とうとしているのは、八幡にも理解できる。彼女なりに何かしようと考えた結果、とにかく時間を稼げばと思ったのだろう。何から何までもたもた行動する結衣は実にいじらしかったが、雪乃にとってそれは逆効果も良い所だった。きっちりと休む時間を貰えるならば助けにもなっただろうが、結衣が稼げるくらいの時間ではそれも高が知れている。

 

 テンポ良く進まないゲームに雪乃は苛立ち、それ故に体力を予定よりも早く消耗していたが、皆のためと必死になっている結衣は普段ならば真っ先に気づいていたはずの雪乃の変化にも気づかなかった。

 

 善意が空回りする好例を横目に見ながら、ストレッチを終えた八幡はベンチに腰を下ろした。その横に、姫菜がつつ、と距離を詰めてくる。眼前の試合にはまるで興味がないらしい姫菜は、ストレッチで軽く汗をかいた八幡の顔をしげしげと眺めていた。

 

「何だ。何か用か?」

「……八幡先輩、メガネとかかけてみません? 私はほら、メガネキャラですから、色々と見繕ってあげられますよ?」

 

 自他共に友達がいないと認めている八幡は、それが姫菜なりの冗談なのかと疑ったが、メガネの奥にある姫菜の澄んで淀んだ目には、冗談の色は欠片もなかった。

 

 本気ならばなお悪い。八幡は内心の呆れを隠そうともせず、胡乱な目つきで姫菜を見た。陽乃がかつて『死んだ魚のような目』と評した目にかつてあった卑屈な色はなく、その代わりに陽乃から感染したある種の自信が漲っていた。その自信と生来の淀みの融合は言い知れない迫力を生み出しており、見つめた人間に威圧感を与える程になっていたのだが、同じく内面が歪んでいる姫菜にとって、そんなものは何処吹く風だった。むしろ、その威圧感を身体に感じ、嬉しそうに身震いしている。

 

 そんな姫菜を見て、八幡は深々と溜息を漏らした。彼も自分が普通の感性をしていないと自覚していたが、姫菜も相当なものだと改めて実感したのだ。これ以上見ていても、姫菜を喜ばせるだけである。もう係わり合いになるまいと試合に視線を戻しても、姫菜はずっと八幡を見続けていた。話が決着するまで諦めないという、姫菜の強い意思を感じた八幡は、ついに根負けした。

 

「……俺は別に目は悪くない」

「いやー、八幡先輩は絶対鬼畜メガネの才能があると思うんですよね。メガネ越しの冷たい視線で隼人くんを見つめてくれたりすると、もう最高って言うかー」

「俺はお前の腐った趣味に付き合うつもりもない」

 

 何でもない風を装う八幡だったが、内心では少し驚きを覚えていた。何かの確信があった訳ではないのだろう。しかし、メガネというのは地味に的を得ていた。先日陽乃と会ったとき、伊達メガネでもしてみたらと勧められたばかりだった。そういう小癪なお洒落が肌に合わない八幡は当然難色を示したのだが、彼女が提案をしたのならば即ち、それは決定事項だ。女王様の意思の前に、犬の趣味嗜好は問題にならないのである。メガネは間違いなく、近いうちに一緒に買いに行くことになるだろう。

 

 陽乃にそう言われれば学校でもかけることにもなるだろうが、八幡はその可能性は低いと見ていた。ドSな陽乃は犬が羞恥プレイに悶える様を自分で鑑賞することを好む。逆に自分の見ていない所で勝手に何かすることを激しく嫌う。むしろ学校ではかけるな、くらいのことは言いそうだと思った。姫菜の要望には応えつつも、しかし姫菜はそれを知ることはできない。迂遠な意趣返しであるが、これはこれで気分も良い。

 

 あーでもないこーでもないと提案してくる姫菜にそっけない態度を取り続けていると、脈なしと判断した彼女は渋々と白旗を揚げた。

 

「……残念です。八幡先輩に似合うと思うんですけどね、鬼畜メガネ」

「俺はメガネに詳しくないんだが、もしかして鬼畜メガネって種類のメガネがあったりするのか?」

「八幡先輩! すごい! さいこー! そんなメガネあったら私大喜びですよ! やっぱりかけると鬼畜になるんですか!? かけてくださいよ、そのメガネ!」

「気が向いたらな」

 

 鼻息荒く詰め寄ってくる姫菜の態度に、そんなメガネは実在しないことは理解できた。余計なネタを提供してしまったようで気分が良くないが、薄い本が厚くなるくらいは我慢するのが、姫菜と上手に付き合っていくコツである。

 

「あ、雪乃くん、そろそろヤバイみたいですよ」

 

 姫菜の言葉にコートに視線を戻すと、雪乃の動きが目に見えて鈍り始めていた。あちらのチームは隼人と優美子に変わっている。スコアを見れば、僅かにあちらがリードしていた。雪乃に変わって大きく得点を重ねたはずだが、目を離していた隙に逆転されたようだ。

 

 ここから雪乃が逆転するという、少年漫画のような展開はないだろう。ベンチから八幡が交代を告げると、雪乃は素直にそれに従った。交代に不満はあるだろうが、ゲームを決めきれずにガス欠になってしまったのは事実だ。雪乃は文句を言える立場ではない。

 

「ここから勝てる?」

「善処はするが、期待はするな。だがまぁ、ここであの葉山某に負けたとなると、陽乃に何を言われるか解らないからな。死力は尽くす」

「乗馬用の鞭で叩かれたりするのかしら」

「それは良いな。その程度で良いって言うなら、俺は喜んで鞭で打たれるね」

 

 雪乃の冗談に、八幡は冗談で返したが、雪乃の方はそれを冗談とは思わなかった。路肩の動物の糞を見るような目で八幡を見ると、ささと距離を取ってベンチに走った。後輩の態度に聊か傷ついた八幡だったが、目下の問題は彼女の機嫌や好感度ではなく、目の前の試合だ。

 

 隼人がバリバリのテニス部であるならば、陽乃でも目こぼししてくれる可能性は微粒子レベルで存在する。だが彼はサッカー部だ。テニスは苦手ではないようだが、得意ではない。そこだけを見るならば、八幡と条件は一緒だ。そういう相手に負けることを、陽乃は許してはくれない。彩加からの依頼があるなしに関わらず、勝負を受けた以上比企谷八幡は勝たなければならないのだ。

 

「1ゲームも取ったことがないのよね?」

「テニスは陽乃としかやったことがないからな。授業でもやったが、その時はボールと壁だけが友達だった」

 

 陽乃と恋人になったことで八幡の視野は広がり能力的に大きく成長したが、その事実は交友関係を広げたりはしなかった。高校に入ってからできた友人は同級生の中ではめぐりのみで、教師まで含めてようやく静が増えるくらいだ。片手で数えても十分に足りる。

 

 そしてその中に、授業で一緒にテニスをやってくれる人間はいない。結果、体育で二人組になる時はいつも余る訳だが、中学生の時ほどその環境に悲しさを覚えることはなかった。心が強くなった訳ではない。心中に引かれた線が、より鮮明になったと言うべきだろうか。何が大事で、何がそうではないか。はっきりと意識した八幡は、そのくらいでは悲しいとか寂しいとか思わなくなったのだ。

 

 それだけ孤独な八幡であるから、テニスができるということはあまり知られていない。知っているのは友人として数えられる二人と陽乃。それから小町くらいのものである。実力がどの程度のものかは八幡自身にも解っていないが、隼人は少なくとも陽乃よりは弱く、動きも単調である。彼女に比べればまだ勝てる可能性はあるだろう。八幡は隼人の実力をある程度看破しているが、隼人はそうではない。その情報の差も、優位に働くはずだ。

 

 ケースから取り出したラケットには、流麗な文字で雪ノ下陽乃の名前が刻印されている。陽乃としかテニスをしたことがない八幡が持っている、唯一のラケットだ。

 

 すれ違う時、八幡のラケットに姉の名前を見た雪乃は、不満そうに眉根を寄せた。これは雪ノ下の家も姉の名前も関係なく、奉仕部として自分たちが請け負った仕事だ。ここに姉の名前を出されるのは、自分たちの仕事を横取りされたようで気分が悪いが、それを口にするのはあまりにも狭量だ。何より八幡は陽乃の恋人で、あちらよりの人間である。文句を言ったところで、聞きはしないだろう。

 

 不満を燻らせた雪乃を他所に、八幡は雪ノ下陽乃の名前と共にコートに入る。彼を出迎えたのは、葉山隼人のきらきらとした笑顔だった。人の黒々とした内面を見抜くことが得意な八幡をして、その笑顔には裏が見えなかった。心の底から微笑んでいるのだろう。尊敬できる美徳であるが、波長が合う気は全くしない。

 

 だが、それくらい合わない方が、割り切った友人付き合いができるのかもしれない。事故の件で助けてもらったこともある。自分でも意外なことに、八幡の隼人に対する評価はそんなに悪いものではなかった。

 

「改めて、葉山隼人です。良いゲームをしましょう」

「比企谷八幡だ。俺が勝っても悪く思うなよ」

 

 あくまで勝つつもりの八幡に、隼人は苦笑を浮かべる。勿論、隼人も勝つつもりであるので、その言葉には答えない。よろしく、と短く応えてパートナーのところに戻る隼人の背中を眺める八幡の隣に、彩加が駆け寄ってくる。

 

「せんぱい……」

「あと1ゲームくらいは体力は持つな? これに懲りたら、体力作りはもっときちんとしろよ」

「がんばります」

 

 疲れてはいるようだが、彩加もまだ集中は切れていなかった。関係ない素人に声をかけてでも、テニスの上達を望んだだけのことはある。そこらの女子よりもよほど少女のようで愛らしい彩加が、この中で最も純粋に闘志を燃やしていた。八幡は改めて、人は見かけに寄らないということを思い知った。

 

 ラケットを握り、ボールを持つ。ゲームカウントは5-5。タイブレークなしの1セットマッチ。つまり、これが最後のゲームだ。誂えたように、サーブ権は奉仕テニス部連合にあった。

 

 確かに隼人はテニスに強い。相方である優美子も経験者だけあって、中々の腕であり、二人とも間違いなく八幡よりも上手だ。彩加がテニス部であることを考慮に入れても、テニス奉仕部連合が勝てる見込みは少ないが、付け入る隙はいくらでも見出すことができた。

 

 相手は陽乃ではない。そのことが、八幡の心を軽くしている。

 

 必ず勝つ。八幡の心にも、炎が燃えていた。

 

 



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ようやく、テニス対決は決着する

 対角線上に優美子を見ながら、八幡はルールを確認する。

 

 タイブレークなしの1セットマッチ。ゲームカウント5-5。15-0でリードされている。状況は芳しくないが絶望的でもない。要するにあちらが後3回得点するよりも先にこちらが4回得点すれば良いのだ。

 

 ラケットを弄びながら、呼吸を整える。相手二人はしばらく試合をしていた訳だが、優美子はともかく隼人が疲れているようには見えない。やはりサッカー部。体力には自信があるのだろう。今すぐガス欠ということにはなりそうになかった。それを期待するならば優美子の方だが、こちらも見た目の割りに体力があるようだ。このゲーム内くらいは持ちそうに見える。

 

 対してこちらは、彩加の体力の消耗がかなり激しい。元々決して機敏とは言えなかった動きも、更に精細を欠いている。荒い息を吐きながらもそれでも勝つために前を向く様は正に天使といった風だったが、いくら見た目が可愛らしくても得点しなければ勝てない。テニスに限らず、それが勝負というものだ。

 

 精神を、集中させる。

 

 テニスの腕では、相手二人に劣る。試合が長引けば長引くほど、不利になるのは明白だった。奇策の連打で最短距離を走りきる。それが最も安全かつ確実に勝つ方法だが、果たして上手くハマってくれるだろうか。

 

 考えて、八幡は苦笑した。

 

 手には陽乃の名前が刻印されたラケットがある。今この試合を見ているはずもないが、こういう試合をしたことはいずれ彼女の耳にも入るだろう。そこで惜しいところまで行きましたけど負けました、などと恐ろしい報告はしたくはない。それはそれでぞくぞくするが、負けは負けなのだ。どうせならば負けた報告よりも勝った報告をしたい。

 

 大きく息を吐き、吸う。ボールを高く放り投げ、八幡はサーブを放った。

 

 ボールは正面に――飛ばない。フレームに引っかかったボールは大きく弧を描き、天空へとすっ飛んでいった。ホームランである。このタイミング、この雰囲気でこういう『失敗』をするとは思っていなかったのだろう。敵味方両方のベンチから、白けた空気が漂ってきた。特にこちら側、雪乃の視線は刺すように鋭くそれが八幡の背筋を震わせた。

 

「どんまいですよ、せんぱい!」

 

 憮然とした表情で構えを解く八幡に、彩加が駆け寄ってくる。これだけ人間がいて、励ましてくれたのは彼だけだった。その優しさに涙が出そうになるが、今はまだ試合中である。ここで鼻の下の一つも伸ばせば、キモい先輩と引かれてしまうことだろう。天使のような存在に、そうされることは避けたい。八幡は努めて表情を消し、小さく咳払いを一つ。今すぐ『オチ』を暴露したい気持ちに駆られるのを押さえながら、数を数える。1、2、ああ、もう大丈夫だ。

 

「ありがとう戸塚。まぁ、言い訳するとテニスをするのも久しぶりなんだ。サーブなんて特に苦手でな、こんな風に――」

 

 八幡が指で差した先、隼人チームのコートにすとんと、軽い音を立ててボールは落ちた。アウトでないことは誰の目にも明らかである。背後にボールが落ちたことに優美子は気づくが、仕切りなおされるものだと思っていた彼女は、既に構えを解いてしまっている。今更気持ちを切り替えて、捕球できるものでもない。呆然とする彼女の前で、ボールは二度目のバウンドをした。つまりは、テニス奉仕部連合の得点である。

 

「――こんな風に、どうにか狙ったところに飛ばすのが精一杯だ。とりあえず、これで同点だな」

 

 八幡の何でもない物言いに、何故か隼人サイドのベンチから歓声があがった。すげーと単純に興奮してるのは戸部で、もう一人は結衣である。楽しそうで良いことだ。逆に隼人と優美子は渋い顔をしていた。特に優美子は射殺さんばかりの目で八幡を睨んでいる。サーブが狙い通りの所に落ちると確信した上で、相手を油断させるために構えを解いたのだ。正々堂々としているかと言われれば否であるが、公式試合ではないし明確なルール違反はない。対戦相手に責められる筋合いはなかった。

 

 サーブにおける奥の手をいきなり消費してしまったのは痛いが、レシーブは一球ずつ交代というのがダブルスの特徴である。運動神経の良い優美子の次は、隼人の番だ。あちらの最強のプレーヤーである。普通に一対一でテニスをするならば、百に一つくらいしか勝ち目はない。

 

 しかし、これはダブルスだ。

 

 八幡一人で戦う訳ではなく、また隼人も彼一人で戦う訳ではない。何を弱みとするかは人それぞれであるが、八幡は優美子のことをあちらの『弱み』と見ていた。おそらく次も、優美子はこのサーブに対応できないだろう。今現在の懸念は、隼人の前でこのサーブを見せてしまったことである。

 

 優美子よりも、彼の方がテニスは上手い。一度見ただけで対応できるものでは中々ないが、できる人間というのはできない人間が思いもしないことをやってくるものである。隼人ならば返してくる。半ば確信に近い思いで、八幡はボールをバウンドさせた。

 

 二球目。八幡は同じサーブを打つことを選択した。

 

 フレームに引っ掛け、天高くボールを打ち上げる。ほとんど同じ軌道を描いているが、同じくらいの場所に落とせるとは限らない。打った段階では、おそらくアウトにはならないだろう、くらいのことしか八幡には解らない。

 

 隼人ならばどうするだろうか。

 

 彼は八幡がサーブを打った瞬間、空を見ずに大きく後ろに下がった。コートのフェンスぎりぎりまで下がってから、空を見上げる。それで落下地点は大体予測された。どういう意図をもって放たれるのか解れば、対応は何もしないよりも格段に容易くなる。

 

 これならば打ち返せる。隼人が確信に満ちた笑みを浮かべたことで、八幡は現実にその通りになると予感した。悪い予感は良く当たる。

 

 そして、彼がまっすぐ自分を見返していたことで、どう打ち返してくるのかも予測できた。彼は裏をかくことを好まない。正々堂々と真正面から戦うのである。勝ち負けよりも、隼人にとってはそれが重要なのだ。自分は正しいことをしたと胸を張ることができ、彼は正しいことをしたと万人に解ってもらえる。ある人には好まれるのだろうが、ある人には徹底的に嫌われる。それが葉山隼人の流儀だ。

 

 使える奴だけど好きではない、というのが陽乃の隼人評である。

 

 彼女からすれば好ましい人間の方が少ないのだが、能力が高く容姿に優れ、またブレない精神性を持っている点だけは評価していた。比企谷八幡にとって雪ノ下陽乃が絶対であるように、葉山隼人にとっては善性によって行動するということが絶対なのである。集団に埋没するか、弾かれるかの違いはあるが、集団を俯瞰し、どこか他人ごとのように捉えることは、八幡と隼人に共通している。

 

 実のところ、八幡は隼人のことが嫌いではなかった。

 

 友達になれるとは思わないが、彼のような生き方には興味をそそられる。違う出会い方をしていたら絶対に交わろうとはしなかっただろうが、二つも年下で、また陽乃から事前に情報を仕入れていたことから、主観的なことを考えずに、葉山隼人という人間を知ることができた。

 

 故に、これから彼がどういう行動をするのかも、ある程度予測することができた。

 

 真っ向勝負を挑む彼は、絶対にそのまま打ち返してくる。勝負だ。隼人の強い意志が篭ったボールに、八幡は内心で舌を出した。

 

 これは、ダブルスである。

 

 隼人の方に打ち返す――と見せかけて、ぎりぎりまで勢いを殺した打球を、優美子の方に落とす。意表を突けた訳ではない。こういう行動をする奴だということは、先のサーブで知れただろう。優美子も警戒をしていなかった訳ではないが、空気を読むのが普通のリア充にとって、空気を度外視する人間の思考というのは、読みにくいものである。

 

 彼女にすれば、あそこは空気を読んで当然の場面だった。勝負を挑まれたのだから、勝負は受けるべき。その思考が、警戒を上回ったのである。意識の間隙を突いた打球に、優美子は追いつくことができなかった。隼人はそれを、呆然と見つめている。

 

 30-15。

 

 これで一つリードである。

 

 ボールをコートに打ちつけながら、八幡は優美子の殺意すら篭った視線を平然と受け止めていた。先ほどは打球を受け損ね、最初はサーブを返せなかった。これを彼女のミスと責める人間はいないだろうが、本人の気持ちまではそうはいかない。優美子本人はミスをしたと自分を責めるだろう。自分と他人への怒りが態度と表情にしっかりと表れている。熱しやすい人間、というのは一目みて解っていたが、その通りのようで安心する。

 

 怒りは集中力を乱し、焦りはミスを生み出す。全ての感情を行動力に変えることができる、陽乃のような感情の化け物であれば話は別だが、怪物というのは早々市井にいるものではない。三浦優美子が普通の女子高生であることに安堵し、続けてサーブを放つ。

 

 ボールは天に――飛ばない。それまでと同じようなフォームから放たれたサーブは、ネットを越えたぎりぎりの所に落ちた。サーブに対応するために下がっていた優美子は、全力でダッシュするが間に合わない。

 

 40-15.

 

 これでマッチポイントだ。転びこそしなかったが、裏をかかれた優美子はやはり射殺さんばかりの視線を送ってくるが、陽乃の威圧感に比べたらそよ風のようなものだ。軽い敵意など心地良くすらある。

 

「せんぱい、テニス上手かったんですね……」

「でも付け焼刃だからな。今回だけしか通用しないぞ。また勝負ってことになっても、今度こそ俺は戦力にならないから、期待はするなよ」

「でも、せんぱいのおかげでここまで来れました」

「俺の前に海老名と雪ノ下がやってるんだってこと忘れるなよ。後、まだ勝ってないからな。後一ポイントだ。最後くらいはダブルスで勝とうぜ」

「はいっ!」

 

 掲げられた彩加の手を、ぱちんと軽い音を立てて打ち鳴らす。まるでリア充のような仕草で気恥ずかしいが、気づいたらやっていた。彩加は楽しそうに笑っている。これで男子なのだから学園七不思議だ。こんな笑顔を振りまいていたら、男であると解っていても放っておかないと思うのだが……

 

 彩加のことばかり考えそうになっていた気持ちを切り替える。ここまで心が揺れるのは久しぶりだった。陽乃と出会っていなければ、恋に落ちるくらいまではあっただろう。

 

 何はともあれ、後一球だ。

 

 一つ決めればこちらの勝ちだが、それは隼人たちに後がなくなったことを意味する。今までだって本気度は決して低くはなかったが、今の隼人の瞳には炎が燃えているように見えた。死んでもここは落とさない、という鋼の意思が見える。スポ根だなぁ、と八幡は微笑ましい気分になったが、隼人のそれは独り相撲というものだ。

 

 相手のある勝負である。気持ちを高めて最高の動きをしようと、勝てない時は勝てないものだ。勝負に集中するあまり、ボールしか見ていないように見える。狙い以上に視野が狭くなっていた。これなら、と期待を込めて、八幡はサーブを放った。

 

 全力で、真っ直ぐ。

 

 初めての普通のサーブは、真っ直ぐに隼人の所に向かった。望んでいた普通のテニスである。困惑しながらも隼人はきっちりと対応し、八幡に向かって打ち返してくる。ちらと優美子を見れば、今度こそはと気を張っていたがそちらには視線も向けない。この世界には二人しかいないとばかりに、全力で隼人に向かって打ち返す。

 

 それからしばらく、打球の応酬が続いた。実力の拮抗しない二人である。体力も腕力も劣っている八幡が段々と押され始め、誰の目にも不利がはっきりと見えてきた。それでも八幡はボールに喰らいついていたが、すぐに息が上がってしまう。今すぐ勝負をつけないと、このまま押し切られる。そう判断した八幡は優美子の方に視線を向けたが、優美子は気を逸らさず、しっかりと待ち構えていた。

 

 元々、不利な状況である。優美子の方を向いたまま、不安定な視線で打ち返した打球は、彼女の方ではなく隼人の方に飛んだ。打ち頃の球である。隼人の前には体勢を崩している八幡がいる。このまま打ち込めば、彼は対応できずに得点できる。スマッシュを打とうとした隼人は、その直前に八幡の目を見た。得点されそうな段階になっても、彼は不敵に笑っていた。

 

 何かある。瞬時にそう判断した隼人は、ぎりぎりで方向を変え、逆サイドに向かって打ち返した。シングルならばそれで決まっていただろうが、これはダブルスだった。八幡の打球に優美子が対応しようとしていたのと同じように、彩加も隼人の打球に対応しようと、常に八幡をフォローする形で動いていた。

 

 打ち返した後にコートを見た隼人は、まるで打球が来ることを読みきっていたかのようにそこにいた彩加に絶句していた。八幡にのみ意識を集中していた二人は、彩加の存在すらその時失念していた。その一瞬が、勝負の分かれ目になる。

 

 見た目の可愛らしさに反して、力強いその打球は隼人と優美子のちょうど中間に打ち込まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やったっ! やりましたせんぱいっ!」

 

 自分たちの勝ちが決まったその瞬間、感極まった彩加はラケットを捨て抱きついてくる。汗の匂いとは別の、表現に困る良い匂いにどきどきしたが、ベンチの雪乃の氷のような視線と、うはーと野太い悲鳴を挙げながらしゃかしゃかペンを動かす姫菜に正気を取り戻した。

 

 断腸の思いで彩加を引き離し、うな垂れている隼人に手を差し出す。

 

「まぁ、悪かったな色々と」

「こちらこそお騒がせしました。良い勝負……とはいきませんでしたが」

「そう言うなよ。依頼のことだけじゃなくて、俺も負ける訳にはいかなかったんだよ」

 

 解るだろ? と隼人に向けてラケットの刻印を見せる。雪ノ下陽乃という名前に、隼人は全ての事情を理解した。陽乃と色々あったのは八幡だけではない。むしろ家族ぐるみの付き合いのある隼人の方が、その度合いは大きいと言えるだろう。試合の最中には色々と思うところのあった隼人だが、ラケットを見せた時の八幡の表情を見て、心底彼に同情した。

 

 ただ付き合いがあるだけでも振り回されるのである。恋人となれば、言葉にもできないような苦労があるのだろう。

 

「比企谷先輩も、大変ですね」

「今はその大変をようやく楽しめるようになったところだよ。良い思いもしてるのは間違いないが、外から見てトータルプラスになってるかは微妙なところだな」

「後悔してるとか?」

「それはねーな」

 

 即答した八幡に、隼人は苦笑を浮かべた。この人だからあの人と付き合うことができるのだと実感した隼人は、暗い顔をした優美子の腕を取ると、残りのメンバーを引き連れてテニスコートを出て行った。後ろ髪を引かれている様子の結衣が何度もこちらを振り返っていたが『そっちのフォローをしろ』と手で伝えると、大きく頷いて走り去っていく。

 

「やー、いーですよ八幡先輩。鬼畜攻めから一転した誘いうけかと思ったら、はちはやじゃなくてはちとつだったとか。もう展開が急すぎて私も妄想も追いつきません!」

「たまには健全な方向で行ってみたらどうなんだお前」

「八幡先輩は私に死ねって言うんですか?」

「悪かった。好きにしてくれ」

「じゃあ好きにします。私はリバもOKなんで受けに回ってくれてもOKですからね。隼人くんを誘いたい時は私に声をかけてくれれば色々セッティングしますから」

 

 ないとは思うが、その時は絶対に尾行には気をつけようと八幡は心に決めた。

 

「まぁともあれ、これで邪魔してくる奴もいないだろ。後は若い連中でお好きなように――」

「そこそこテニスができることが解ったのだから、練習には付き合ってもらうわよ比企谷くん。依頼主も、それをお望みのようだし?」

 

 ベンチに下がって一息つこうとした八幡を、雪乃が呼び止めた。彼女一人であれば八幡も無視しただろうが、依頼主である彩加を見れば彼の目は期待できらきらと輝いていた。こんな純粋な視線を裏切ることは、八幡にはできなかった。

 

「解ったよ。つっても、俺は体力ねーからそこまで運動できないぞ」

「じゃあ、一緒にランニングでもしませんか? できればその、明日からでも……」

 

 彩加は頬を染め、俯きがちにもじもじとしている。付き合うという話だったから付き合うことそのものは吝かではないのだが、さっきから姫菜の目が真剣に鬱陶しい。彼女もインドア派だから自発的なランニングなどしないだろうが、話がまとまったら一緒についてきそうな気配である。ならばついで、とばかりに八幡は雪乃にも目を向けた。

 

「どうも俺と海老名は参加する気配なんだが、やっぱりお前もどうだ? 健康には良いって聞くぞ」

「体調管理には気を使ってるから、心配は無用よ」

「雪乃くん、今はツン期ですから攻め方を変えないと。多分、結衣が一生懸命頼んだら言うこと聞いてくれると思いますよ」

「海老名さん、適当なことを言わないで」

 

 姫菜を睨む雪乃だったが、その視線にも言葉にも力がない。そうされると不味いということを、雪乃本人も解っているのだ。言い合いを始めた雪乃と姫菜を横目に見ながら、八幡は携帯電話を操作し、結衣にメールを送った。

 

 

 

 

 体力作りのランニング、犬の散歩のついでにどうだ?

 

 




ルール知らないスポーツを書くのがこんなに大変とは思いませんでした……
テニスをやらずに口八丁で丸め込む展開にした方がまだ楽だったような気がします。

次回ははるのんの引越し手伝い編(お泊り)
その次が川なんとかさん編です。


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まさかの来客に、比企谷八幡は絶句する

 目を覚まし、身体を起こそうとした八幡は腕に柔らかな重みを感じた。

 

 馴染みの薄い天井。人の暮らしている匂いのしない広い部屋。二人は余裕で寝ることのできる、大きなベッドの上。

 

 ここがどこで、昨夜何があったのか。段々と思い出してきた八幡は、腕の重みはそのままに小さく溜息を吐いた。

 

 重みの原因である陽乃は、気持ち良さそうに眠っている。それを起こすのは憚られたのだ。

 

 起きている時でも十分過ぎる程美人である陽乃だが、寝顔にはまた別の趣がある。神秘的とでも言えば良いのだろうか。起きている時が美しくないとか、そちらの方が好きという訳では絶対にないが、口を開かず力を抜いている寝顔は、肩書きの通り良家のお嬢様然としている。

 

 恋人になってから解ったことだが、陽乃にも弱点があった。

 

 寝起きが非常に良くないのである。

 

 態との場合を除いて、陽乃が約束に遅刻をしたことは一度もないが、どうも体質的に惰眠を貪ることが好きなようで、その日急ぎの予定がない場合は中々ベッドから出てこない。惰眠を貪っている間は大抵寝ぼけており、そこでは普段からは信じられない程甘ったるい声を出す。

 

 これも恋人の役得かと思えば、そうでもない。

 

 陽乃にとって、寝ぼけている自分というのは間違いなく恥である。そんな恥を晒すことは例え恋人であっても許せないものらしく、それがどういう事情かに関わらず寝ぼけている所を見られた後は、必ず報復が実行される。朝起きて、至福に包まれた瞬間に暗い未来が確定するというのも目覚めの悪い話であるが、一緒に目覚めた時は大抵そんなものである。

 

 後の報復が確定していると言っても、寝顔が美しいことに変わりはない。それに、この寝顔を見ることができるのは、世界でただ一人だ。それが自分だと思うと気分も良い。

 

 このままゆっくり寝顔の鑑賞でもしようか。視線を戻した八幡の視線はそこで、陽乃のそれと交錯した。神秘的な雰囲気の寝顔は消え、瞳には蠱惑的な気配が満ちている。

 

「おはよう、八幡」

「おはようございます」

 

 朝の挨拶を交わしたが、声は間延びしており全くと言って良いほど覇気がない。まだまだ寝ぼけているのだろう。んー、と小さく呻いた陽乃が、マーキングする猫のように身体を押し付けてくる。その間、八幡は無抵抗でじっとしていた。手を出しても怒らないだろうし、報復内容が過激になることもないだろうが、途中で介入すると覚醒が早くなるのは実験済みだ。どうせなら良い思いを長く味わいたいというのは、男のサガである。

 

 結局、陽乃の意識がはっきりとしだしたのは、それから十分もした頃だった。覚醒した後の行動は早い。ベッド脇に用意してあったラフな部屋着に着替えて、リビングの方にさっさと歩いていく。薄手のブラウスにジーンズだ。寝転がりながら後姿を眺めていた八幡には、歩くのに合わせて揺れる陽乃の尻が良く見えた。

 

 この世全ての幸福がここにあるのでは、という気になるが、恥ずかしい思いをさせられたら必ず報復するのと同様に、相手にタダで良い思いをさせたりはしない。陽乃に言わせると自分は顔に出るタイプらしく、どの程度良い思いをしたかというのが、勘で解るらしい。これからリビングに行けば、どの程度良い思いをしたかというのはしっかりと看破されるだろう。それが先ほどの行為の報復と重なるとどういうことになるのか。背筋がゾクゾクして止まない。

 

 震える指先で陽乃の匂いのする服を着替え、リビングに向かう。

 

 引っ越したばかりの部屋には、調度品などはほとんどとない。人を通す可能性のある場所は、できるだけシンプルにまとめたいというのが陽乃の意向である。

 

 ならば寝室には陽乃らしい物があるのかと言えば、これもそれほどではない。

 

 趣味の良い文机の上に小さな本棚。そこには大学で使う教科書と、やたらハイスペックなノートパソコンがあるだけだ。

 

 寝室で一番目を引くのはやはり、ベッドだろう。二人どころか三人で寝ても余裕な大きさのそのベッドは、八幡も家具屋まで同行して選んだものだ。

 

 寝室に併設されたウォークインクローゼットの中には、実家から持ち出してきたほとんど全ての衣類が収められている。箪笥どころか段ボール一つで全ての衣類が納まってしまう八幡からすると正気を疑うほどの量であるが、その分陽乃が着飾ってくれるのだと思えば、嬉しくもあった。

 

「朝ごはん食べる? 外に遊びに行くついでに、そっちで食べるんでも良いけど」

 

 紅茶を用意しながら問うてくる陽乃に、八幡はリビングを見回した。

 

 大量にあった服は昨日の内に荷解きを済ませてあり、そのほとんどは既にクローゼットの中にある。家具などの重いものは本職の人たちが運び込んでくれたので、八幡が手を貸さなければならないような案件はもうない。

 

 元々、土日は陽乃のために空けてあったのだ。一緒に過ごす時間が増えるのならば、八幡としては言うことはない。

 

「外にしましょう。今朝は紅茶だけで」

「了解。引越しを手伝ってくれたお礼に、私が紅茶を淹れてあげる」

 

 八幡の前に、カップとソーサー。実家から持ち出してきた高価なもので、陽乃の部屋にあっては八幡専用と決められた物だ。それに琥珀色の液体がゆっくりと注がれていく。普段紅茶を淹れるのは八幡の役目なので、陽乃手ずから淹れる機会はほとんどない。

 

 差し出された紅茶に、感動に打ち震えながら口をつける。

 

 一口飲んだ八幡の口から漏れたのは、感嘆の溜息だった。

 

 昨日同じ道具、同じ茶葉を使って紅茶を淹れたが、それよりも明らかに美味い。淹れ方一つでここまで味が変わるのかと感心する八幡をにやにや眺めていた陽乃は、ふと時計を見た。その一瞬の動作に、八幡は気づかない。紅茶に夢中になっているのを確認した陽乃は、一瞬だけ人の悪い笑みを浮かべ、すぐに引っ込めた。

 

「八幡が一息入れてる間に、シャワー浴びてくるね」

「どうぞごゆっくり」

「……一緒に入る?」

「ご冗談を」

 

 即座に切り返されたのが気に入らなかったのだろう。小さく頬を膨らませた陽乃は、砂糖壷から角砂糖を取り出す。八幡のカップの中にそれを投入した。一つ、二つ、三つ、四つ。

 

「はい、今好きという気持ちを四つ追加しました。ちゃんと味わって飲んでね?」

 

 地味に効果的な報復に八幡が渋面を作ると、満足そうに微笑んだ陽乃はバスルームに向かった。一緒に入るかという提案は半ば本気だったのだと思うが、一緒に入るとそれだけで済まないのは目に見えていた。『それ』は『それ』で素晴らしくはあるが、せっかくの日曜を寝て過ごすことにもなりかねない。 昨日の続きは、また今度でも良い。

 

 甘すぎる紅茶を飲みながら、部屋を見回す。陽乃曰く、二人で暮らしても十分な広さがある部屋だ。泊まりに来る機会も増えるのだろうなと感慨に耽っていると、インターホンが鳴った。

 

 来客である。居留守を使おうかとも思ったが、ここは八幡の家ではなく陽乃の部屋だ。主を訪ねてきた人間を、犬の判断で追い返すことはできない。それに出るなと言われていない以上、出ても良いということなのだろう。リードを離した犬がどういう行動をするのか。それを観察するのも、陽乃の楽しみの一つだ。

 

 インターホンに出て、応対をする。言葉にすればそれだけだが、八幡の気は重かった。ここが恋人の部屋だと思うと、気恥ずかしいのである。

 

 二度目のインターホンが鳴った。出ると決めた以上、出なければならない。覚悟を決めて甘ったるい紅茶を飲み干し、余りの甘さに顔をしかめながら、インターホンを取り上げる。そこで初めて端末の画面を見た八幡は、そこに映っていた少女の姿に絶句した。

 

『姉さん、私よ。開けてもらえる?』

 

 そこにいたのは雪ノ下雪乃。陽乃の実の妹であり、高校で同じ部活に所属する後輩である。陽乃に良く似た面差しには、不機嫌という文字が張り付いていた。姉妹の仲は陽乃が言う程に良くはないが、雪乃が言う程には悪くない。呼べば来る程度には、姉妹の関係は良好と言えた。

 

 問題は、誘ったのであろう陽乃が恋人の存在を隠していたことである。姫菜の分析ではあれで結構なお姉ちゃん子であるというから、姉の他に部屋に人間がいたら誘いを受けたりはしなかっただろう。それが男であれば尚更である。

 

 沈黙したのが良くなかったのだろう。インターホンに何も応答がないことを不信に思った雪乃は、僅かな逡巡で真実を導き出した。

 

『……………………まさか比企谷くん、そこにいるの?』

「お前、エスパーかよ。どうして解った」

『友達のいなそうな残念なオーラが、機械ごしにも伝わってきたもの。私の知る限り、そこまで残念な人間は貴方しかいないわ。ところで、私に若い二人の関係を邪魔するような趣味はないのだけれど、もしかして貴方には自分の愚かな姿を見せ付けるような趣味でもあるのかしら?』

「そんなもんはないし、あったとしても俺主導じゃない。ここは俺の部屋じゃないが、この時間に外に出たんだから上がっていくのが良いだろ。今なら眩暈がする程甘い紅茶もあるぞ」

『それは遠慮するわ。それから、その辺にいる姉さんに伝えておいてちょうだい。男を連れ込んでいる部屋に妹を誘うような変態は、私の姉ではないって』

「了解。婉曲に伝えておく」

 

 端末を操作し、雪乃をマンションに招き入れる。これでエレベーターで上がってくるまでの時間は稼げた。時間があったところでどうなるものでもないが、気持ちの整理は必要だ。

 

「雪乃ちゃん、なんだって?」

 

 バスルームのドアが開き、中から陽乃が顔を除かせる。ドアで隠すようにしているが、当然服などは着ていない。何もなければその艶姿にどきどきもしたのだろうが、もうすぐ雪乃がここに来ると思うと表現しがたい焦燥感が劣情の先に立った。

 

 雪乃と何かあった訳では勿論ないが、陽乃の前では絶対にしないような行動を雪乃の前ではしている。それに奉仕部は顧問の静を含めて、八幡以外の全員が女性だ。事実として疚しいことは何もなくとも煙が立つくらいの燃料は腐るほどあった。

 

 陽乃と大の仲良しになった小町は、あることないこと情報を漏らしていると聞くが、それとはまた別次元の焦燥感である。

 

 その焦燥感を何とかするために、八幡は雪乃の言葉を婉曲に伝えることにした。

 

「お姉ちゃん大好きと言ってました」

「うん、それは知ってる」

 

 機嫌良さそうに微笑んで、陽乃はバスルームに引っ込んだ。陽乃のことだから容赦なく今の言葉をバラすのだろうが、毒を食らわば皿までだ。陽乃からの地味な報復が確定しているのだ。それに雪乃の視線が加わったところで、どうということはない。

 

 部屋のインターホンが鳴る。ドアの向こうのお姫様の、不機嫌な顔は容易に想像ができた。ドアの前で咳払いを一つ。どんな顔をして出たものかと考えていると、ドアが力強くノックされた。これ以上待たせるとドアを蹴飛ばされるかもしれないと危惧した八幡は即座に観念し、ドアを開けた。

 

 案の定、そこには不機嫌な顔をした雪乃が立っていた。いつだか軽井沢で見た時のような、余所行きのめかしこんだ格好である。一人暮らしを始めた姉に会いにきたにしては、随分と気合が入っているようにも思える。やはり、お姉ちゃん子という姫菜の見たては間違っていないのだろう。あの雪乃がそうなのだと思うと笑えてくるが、人の悪感情に敏感な雪乃は、八幡の表情から何を思っているのかを敏感に察知した。踵を返した雪乃の腕を、八幡が慌てて掴む。

 

「おっと、ちょっと待て」

「離してちょうだい。バカップルっぷりを見せ付けたいなら、他の人にして」

「ここでお前を帰したら、俺が陽乃に何されるか解らないだろ」

「貴方が姉さんとどんな変態的なプレイをしても、私には関係のないことよ」

「変態は確定かよ。ともかくあれだ、紅茶でも飲んでいけ。今なら角砂糖入れ放題だぞ?」

「……甘くない紅茶でお願いするわ」

 

 姉に呼ばれて足を運んだのに、ここで踵を返したら全くの無駄足である。どんな用事で呼んだのか知らないが、お茶の一つも飲まないと割に合わない。そう判断した雪乃は、これ見よがしに溜息を吐くと、陰鬱な気分で姉の新居に初めて足を踏み入れた。

 

「お前の部屋と比べてどうだ?」

「少し広いわね。物が少ないのは、私と一緒だけど」

「そうなのか? クローゼットには服が山のようにあったぞ」

「あの人は昔から服を沢山持っていたから……それはそうと比企谷くん、クローゼットは寝室に併設されているように見えるのだけれど?」

「…………」

「あの人とどういう生活を送ろうと私は関知しないけれど、もう少し配慮の行き届いた話題をお願いするわね」

「努力するよ」

 

 バツの悪そうに視線を逸らす八幡を他所に、雪乃は優雅に椅子に腰を下ろした。テーブルをとんとん、と静かに叩く。暗に紅茶を要求しているお姫様に、八幡は手馴れた所作で紅茶を用意する。カップとソーサーは、雪乃専用のものだ。注がれた琥珀色の液体をじっと眺めた雪乃は、香りを楽しんでからそれに口を付けた。

 

 茶葉は陽乃の私物なので、部室で使っているものより高級だ。同じ人間が同じ淹れ方をしても部室のものよりは美味いはずだが、雪乃は八幡を真っ直ぐに見つめると、にっこりと微笑み、

 

「まぁまぁね」

「いつも以上の評価をありがとうよ」

「茶葉が良いからじゃないかしら?」

 

 ちくりと釘を刺しながらも、紅茶を飲むのを辞めない。陽乃も雪乃も、文句は言うが毎回残さずに飲んでくれる。どうせならば美味いと言わせて見たいものだが、二年を費やしても中々良い返事はもらえていない。

 

「姉さんは?」

 

 雪乃の問いに、八幡は無言でバスルームを指差す。雪乃は、今度は大きく溜息を吐くと、寝室とバスルームを交互に見やってから、八幡をギロリと睨んだ。

 

「確認だけれど、本当に、バカップルっぷりを見せ付けるために、私を呼んだのではないのよね?」

「お前を呼んだのは俺じゃない。インターホンが鳴るまで、来客があることも知らなかった」

「じゃあ、貴方も罠にかけられた口なのね。あの人らしいわ。本当に悪趣味ね」

 

 いらいらと悪態を吐くくらいならば帰れば良いと思うのだが、雪乃は椅子から動こうとしなかった。八幡は別に雪乃が嫌いな訳ではないが、その姉と先ほどまで二人きりでお泊りをした後となれば、気まずさはいつもの比ではない。

 

 本心を言えば、今すぐにでも帰ってほしいのだが、雪乃にその様子はない。それに彼女は、陽乃が世界一かわいいと公言して憚らない妹である。陽乃が呼んだ雪乃を帰るように仕向けたとバレたら、口にするのもおぞましいような報復をされるに違いない。

 

 胃が、羞恥やら不安やらで、胃がきりきりと痛んでいる。前借した先ほどの幸福に対する報復が、早速行われているような気がした。

 

 タダで幸せにはなれないんだな、と悟った八幡は冷蔵庫からマッカンを取り出し、雪乃の向かいに座る。陽乃が出てくるまでまだしばらくある。雪乃の刺すような視線に耐えながら、八幡は無視を決め込んだ。

 

 

  




誰が誰といちゃいちゃするシリーズなのか書いてて解らなくなってきました……
次回は雪ノ下姉妹がいちゃいちゃします。


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誰が相手でも、雪ノ下陽乃は遠慮しない

「雪乃ちゃん、いらっしゃい」

 

 バスルームから出てきた陽乃は、八幡の懸念に反してちゃんと服を着ていたが、それでもきっちり余所行きという訳ではなかった。ここは陽乃の部屋なのだから当然だが、バスルームに入った時よりもさらにラフな感じになっている。上から三つはボタンを外しているシャツからは、胸の谷間とブラがしっかりと見えていた

 

 昨晩から今朝にかけて、もっと凄い恰好を見ていた八幡にとってはこれでも十分にきちんとしている方ではあったのだが、今日初めてこの部屋にきた雪乃にとっては十分にアウトであったらしい。これ以下はないと思っていた雪乃の視線の温度が更に下がったのを見て、八幡は自分が今針の筵の上にいるのだと自覚した。

 

「姉さん、服をちゃんと着てもらえる?」

「ここは私の部屋ー」

「それでもよ」

 

 眦を釣り上げた愛する妹の強い言葉に陽乃は肩を竦め、大人しく服装を直すために寝室に戻っていく。学校では一番仲の良い静の言葉でも聞かない時があったのに、妹の言葉には素直に従うのか。陽乃の新しい一面を見た八幡は、陽乃を思い通りに動かしてみた雪乃に対し。小さく感嘆の溜息を漏らした。

 

 しばらくして、部屋着をきちんと着てきた陽乃は椅子を引き寄せると、雪乃の前で背中を向けて座った。

 

「雪乃ちゃん、髪をやってもらえる?」

「そこで物欲しそうな顔をしてる比企谷くんにでも頼めば良いじゃない。喜んでやってくれると思うのだけれど」

「髪はだめ。八幡、こういう手先は不器用なんだもん」

「それは解る気がするわ」

「悪かったな……」

「そんな訳で自分でやっても良いけど、せっかく雪乃ちゃんがいるんだしやってもらいたいなって思ったの。ね? お姉ちゃんのお願い!」

「――今回だけよ?」

「やった! 雪乃ちゃん大好き!」

 

 深々と溜息を吐く妹と、喜ぶ姉。対照的な構図である。椅子に座って後ろを向く陽乃の背後に、洗面所からドライヤーを持ってきた雪乃が立つ。髪に櫛を入れられ、気持ちよさそうな声を挙げる陽乃を見る雪乃の目は、部室で見る時とは比べものにならないくらいの優しい表情をしていた。

 

 こういう顔もできるのかと、八幡は内心で感心する。よほど姉の髪に集中しているのだろう。普段ならば視線に気づいてキモ谷君だの悪口の一つも言ってくる頃合いなのに、その気配がまるでない。手持無沙汰になった八幡は、ただぼーっと髪の手入れをする二人を眺めていたが、先にその視線に気づいた陽乃が、雪乃にそっと囁いた。

 

「雪乃ちゃん、八幡が暇そうにしてるから構ってあげて?」

「それは姉さんの役目じゃないかしら。私はただの、部活の仲間よ」

「これを機に仲良くなってほしいなぁ、ってお姉ちゃん思うんだけどなぁ」

「放課後、それなりに親睦を深めているから、心配は無用よ」

「奉仕部だっけ? 八幡がボランティアとか意外だな。そういうの嫌いだと思ってた」

「確かに好きじゃありませんが、まぁ、内申を良くするためですからね」

「世のため人のためって、柄じゃないもんねぇ、お互い」

 

 陽乃の言葉に雪乃も八幡も大きく頷いた。大枠の主義主張にこそ拘りはあるが、三人が三人とも、自分と身内以外は基本的にはどうでも良いという感性をしている。この中では雪乃が比較的マシな部類に入るがそれでも、一般人の『普通』とは大分乖離していた。長いこと友人という友人を作らなかった弊害か、所謂『普通』の感性よりは、八幡や陽乃のものにその感性は近い。

 

「その奉仕部、普段は何をしてるの? 毎日ボランティアしてる訳じゃないんでしょ?」

「依頼があればそれに対応しますが、そうじゃない時は部室で待機してるだけですね。何にも依頼がなければ、月末にでも適当にボランティアをします」

「あー、最初の月はゴミ拾いしたとか言ってたね。そもそも、依頼って来るの?」

「この前はテニスの練習相手をしたわ……比企谷くん、姉さんに何も話してないの?」

「ただ集まってダベってるだけの話をしてもなぁ……」

 

 八幡以上に、陽乃はそのテの行為を嫌っている。それなら、これからのことでも話した方がよほど建設的だと思ったのだ。実際、学校で何があったという話をするよりも、これから二人で何をするかという話をした方が、八幡から見た陽乃は楽しそうなのだ。

 

「でも、雪乃ちゃん以外の二人のことは知ってるよ? まさかあの娘が一緒にいるとは思わなかったなぁ。本当、どの面下げてと思うけど、雪乃ちゃんの友達なら仕方ないね」

 

 陽乃の声に力が籠ったのを聞いて、八幡は結衣が雪乃と仲良しであることに心底安堵した。そうでなければ、同じ部活にいると知られた時点で、結衣に何某かの不幸が起こっていただろう。多少アホなところはあるが、良い奴なのだ。既に知り合い程度の仲ではあるのだし、不幸に見舞われるのはどうにも忍びない。

 

「もう一人は何か面白い娘だって聞いてるけど」

「面白い――のかしら?」

 

 雪乃は怪訝な顔で首を傾げた。雪乃の前では押しの強いお腐れ様という印象が強く、内面の黒さは形を潜めている。姫菜なりに、相手を選んで『腐って』いるのだろう。クラスでは同じグループに属している葉山達にも、黒々とした内面を出している様子はない。八幡の知る限り、姫菜が全く遠慮をしないのは自分の前だけだった。

 

「陽乃は気に入ると思いますよ。考え方は、俺より大分陽乃に近いんじゃないかと思います」

「そっかぁ、それなら会ってみたいなぁ」

 

 陽乃の声音には、喜色が宿っている。陽乃から八幡へならばともかく、八幡が陽乃に人間を推すのはめぐりに続いて二人目だ。めぐりの時は彼女に押されてという経緯があるから、純粋な推薦はこれが初めてである。あの八幡が、という陽乃の期待は大きかった。

 

「その娘は雪乃ちゃんとはどうなの?」

「部活の仲間、と表現するのが一番近いんじゃないかしら。仲は良いと思うけど、友人と言うには少し壁を感じる気がするわ」

「雪乃ちゃんが壁とか、言うようになったねぇ」

「――私にだって、友人の一人や二人はいるのよ?」

「今でてきた二人だけじゃないって、お姉ちゃんは信じてるから!」

 

 欠片も信じていない様子で微笑む陽乃に、雪乃は悔しそうに俯く。リア充はぼっちを見抜く技術に長けている。リア充の代表のような陽乃は、雪乃から鍛えられたぼっち力(ぢから)を感じ取っていた。友達がその二人だけだというのは、陽乃なりに確信があるのだろう。八幡も、雪乃が自分のクラスでどういう立ち位置にいるのか知らないが、ただだべって過ごすだけの普段は何もしない部活に、出席率が現状100%ということは、他に交流を持つような友人がいないということの証明でもあった。

 

「そ、れ、よ、り、二人はどうしてそんなに他人行儀なのかな? 彼氏と愛する妹の間に壁があるなんて、私は悲しいよ。せっかくだから呼び方を変えてみようか?」

「いや、別に雪ノ下で不自由は――」

「八幡?」

「はい、解りました」

「少しは抵抗したらどうなの!?」

「いや、だってなぁ……」

「こういう時は使えない人ね! 姉さん、私は遠慮するわ。親しみを込めた呼び方をして、本当に親しいと人に思われても嫌だもの」

「そう? なら仕方ないね。今日の私は優しいお姉ちゃんだから雪乃ちゃんに無理強いしたりはしないよ。どうせ、八幡が折れれば結果的には同じことだから」

 

 しまった、と雪乃は尻尾を巻いて逃げようと試みたが、椅子の上で器用に反転した陽乃に腕を掴まれ、背後から抱きしめられた。んー、と声を挙げて雪乃の髪の匂いを堪能する陽乃に、当の雪乃は身震いして嫌悪感を示したが、がっちりと組まれた腕からは抜けられそうにない。合気道を嗜んでいる雪乃だが、陽乃の実力はそれ以上だ。抑え込まれた状態からでは、例え抜けられるとしても手荒なことをしなければならない。

 

 そして、手荒なことをするという選択肢が全く浮かばない程度には、雪乃は姉のことを大事に思っていた。抜けられないと悟って大人しくなった妹に満足そうにほほ笑むと、陽乃は身体ごと八幡に向き直った。

 

「さぁ八幡。雪乃ちゃんのことを呼んであげて?」

 

 天使のような悪魔の笑顔からは、『これで雪ノ下と呼んだら不幸にする』と読み取れた。第一、陽乃に命令された時点で、八幡には選択肢がない。雪乃は全力で『止めろ』と視線で訴えかけていたが、人間にはできることとできないことがあるのだ。

 

「……………………雪乃」

 

 名前を口にするだけで、ここまで恥ずかしかったのは初めてかもしれない。陽乃を呼び捨てにした時以上の息苦しさを感じた八幡だったが、雪乃が感じたのはそれ以上のもののようだった。渋面を作る雪乃の顔は、少しも嬉しそうには見えなかった。当然と言えば当然である。予想していた雪乃の反応に、むしろ安堵していた八幡だったが、雪乃の顔を覗き込んだ陽乃は、全く別の感想を持った。

 

「雪乃ちゃん、嬉しそうにしてるから、これからは名前で呼んであげて?」

「…………善処します」

 

 八幡はそう答えるのが精いっぱいだった。これで学校でもと命令されたら、そうせざるを得なかっただろう。なるべく呼ばないように気を付ければ済む話ではあるのだが

そういう時に限って良くないことは起きるものである。姫菜や結衣の前で呼び捨てにする羽目になったら、追求は避けられない。

 

「それで、姉さん。今日はどうして私が呼ばれたの?」

「かわいい妹の顔を見たいから、じゃダメ?」

「それならこの人がいない時に呼ぶでしょう? 恋人を自慢したいだけなら、もう帰らせてもらうのだけれど」

「心配しないで、目的はちゃんとあるから」

 

 そう言って、陽乃は今日、一番嬉しそうに笑った。

 

「これから三人で、デートしようか」

 




毎回タイトルを考えるのに一時間くらいかかっているため、次回から普通なタイトルに切り替わるかもしれません。


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思わぬ場所で、比企谷八幡は過去に出会う

 総武高校に入学し、陽乃に見いだされて振りまわされるようになるまで、八幡にとって目立つというのは、ほとんど悪い意味だった。それにしたって、中三の時の告白で手痛い目にあった時が最大であり、それ以外は本当に目立たないように生きてきたという自負と自覚がある。

 

 それが陽乃に見いだされてからは、目立つ側の仲間入りだ。最初は周囲の視線を集めるということに慣れなかったが、次第にそれにも慣れ、視線の種類が理解できるようになってくると、周囲を観察する余裕も出てくるようになった。

 

 例えば今現在、八幡と雪ノ下姉妹の三人は周囲の視線を大いに集めているが、そのほとんどが八幡ではなく雪ノ下姉妹に向けられている。数少ない八幡に向けられた視線は主に男性からの嫉妬の視線であり、八幡は正確にその視線の種類を理解していた。

 

 中学生の時分だったら、目立つ集団の一人という事実に舞い上がっていただろうが、今の八幡はこれが三人ではなく、二人と一人ということが良く解っていた。視線を肌に感じながら、前を歩いている二人を見る。

 

 美女と美少女。どちらも優れた容姿をしているのは言うまでもない。こうして並んでみると、容姿の方向性が正反対なのが良く解るが、それでも姉妹と一目で解るくらいに顔の造りが似ているのだから、見ている側としては面白いものである。

 

 三人でデートと陽乃は言っていたが、実際には姉妹のデートに八幡がついて回っている感じだった。雪乃とのデートは久しぶりなのだろう。いつも二人で出かける時よりもはしゃいでいる陽乃の笑顔が、実に眩しい。あの陽乃が世界一かわいいと公言して憚らない妹が一緒にいるのだから、無理もない。

 

 そこまで考えて、八幡ははたと気づいた。同じく世界一かわいい妹であるところの小町と、二人で出かけることも時にはあるのだが、そういう時の自分も今の陽乃と同じような顔をしているのではないか。顔のつくりは悪い物ではないと信じてはいるが、人には向き不向きがある。自分があんな顔をしていると想像した八幡は、思わず身震いした。

 

 気持ち悪い。確かに気持ち悪い。

 

 今度から、小町と一緒の時にはあまりはしゃがないようにしようと、八幡は心に決めた。それはそれで小町的にポイント低い、ということになりそうではあるのだけれども、愛する小町にキモいとか言われたら、立ち直ることはできない。

 

「ところで八幡、そろそろお茶でもしようと思うんだけど」

「是非もありません。ファストフードならすぐそこに。落ち着いた所が良いなら、少し歩きますがどっちにしますか?」

「近い方が良いかな。雪乃ちゃんもそれで良い?」

「別に構わないけれど、比企谷君。貴方、もしかしてこの当たりの喫茶店を全部把握していたりするのかしら」

「お前がファッションショーをしてる間に調べただけだよ」

 

 三年近く陽乃に連れまわされている八幡だが、こういう店のレパートリーではまだまだ陽乃には及ばない。自分で開拓などしないのだから無理からぬことではあるのだが、調べようにもリア充御用達のサイトや雑誌には拒否反応が出てしまい、中々情報収集には使えないのだ。こういう場所を調べる時は専ら、無味乾燥な検索サイトを使うことにしている。その分、ハズレを引くこともあるのだが、その時はその時だ。

 

「雪乃ちゃん、そういうお店大丈夫?」

「別に入ったことがない訳ではないわ。自分一人では入らないというだけよ。姉さんは、違うのでしょうけれど」

「付き合いで入ったりすることがあるかな。後は一人になりたい時にたまに入るくらいだよ」

「一人になりたいのなら自分の部屋に――」

 

 と言った所で、雪乃は言葉を切った。

 

 実家は元より、マンションでも誰かに場所を知られている。一人になりたい時というのは、それだけで重荷になるものだ。雑多である必要はないのだが、要は誰にも所在を知られないような状態が『一人になりたい時』には好ましいのだ。

 

「あまりオススメはしないけどな。陽乃はともかく、お前の場合は多分補導されるぞ」

「そもそも深夜に出歩くような真似はしないわ。貴方には経験があるようだけれど?」

「私が沢山連れまわしたからね~」

 

 けらけらと陽乃は笑うが、今は大学生の陽乃も三月までは女子高生で、総武高校の制服を着ていたのだ。年齢を確認されれば補導されるのは雪乃と変わりないはずなのに、補導されたという話は元より、されかかったという話すら聞いたことがない。姉は姉なりに、上手くやっていたのだろう。そういう所は本当に如才のない人だ。

 

「じゃ、ここにしよっか」

 

 結局陽乃が決めたチェーン店に、三人で入る。普通であれば注文を取りまとめ、席まで運ぶのは八幡の役目である。荷物を持ったまま、そのように動こうとした八幡を、陽乃は苦笑と共に呼び止めた。

 

「八幡は席。荷物を持ってくれたお礼に私が奢るよ。何が食べたい?」

「陽乃と同じもので」

「りょーかい。それじゃあ、行こうか雪乃ちゃん。まずはこの列に並んで――」

「買い方くらいは知っているのだけれど」

 

 相変わらず、仲睦まじく列に並ぶ姉妹を横目に見つつ、八幡は席を探した。四人掛け、片方はソファ、禁煙と条件を絞っていくと奥まった場所に全ての条件に合致する席が見つかった。

 

 椅子の側に陽乃たちの荷物を置き、八幡も椅子に座る。陽乃と雪乃が座るのは、奥のソファだ。何かを取りに行く時、すぐに立てるように八幡が手前の席に座る。陽乃と一緒にいる時の、いつもの位置取りだ。一仕事終え、八幡は深く息を吐いた。

 

 雪乃が一緒ということでどうなることかと思ったが、陽乃が雪乃を構いまくっているせいかいつもより八幡の負担は少なくなっていた。物足りないと思ってしまうのは、流石に毒され過ぎだろうか。

 

 ともあれ、姉妹がこちらに合流するまでは一人の時間だ。気を抜いて、椅子にだらりと寄りかかっていると、すぐ近くを通りかかった女子高生の一人が八幡の顔を見て小さくあ、と声を挙げた。

 

 八幡は声のした方を見て、ほんの少しの間だけ、呼吸が止まる程に驚いた。かつて、声を聴くだけで安らぎ、顔を見るだけで幸せになれた人がそこにいた。

 

「比企谷?」

「……折本」

 

 普通に彼女の名字が口から出たことに、まず八幡は安堵した。ここで挙動不審な振る舞いをしたら昔に逆戻りだ。一時期は彼女のことを思い出すだけで体調を崩すくらいだったのに、素晴らしい進歩である。

 

「折本、折本。この人誰?」

「こいつ? 中学の時の同級生」

「比企谷八幡だ。よろしく」

 

 初見の少女はおそらく折本の友達だろう。その問いに答える折本に、先んじるようにして自己紹介をする。それが、自分の話を邪魔されたように感じた折本は、少しだけむっとした表情をし、今思い出したというように、

 

「中学の時に私に告ってきたの」

 

 折本にすればそれは、必殺の一撃だったのだろう。それで機先を制するような意味もあったのかもしれないが、既に恋人がいる八幡にとっては、あまり愉快ではないが、数ある思い出の一つに過ぎなかった。自分が思っていた通りに八幡が動揺しないことに、折本は今度こそ眉根を寄せたが、先に反応したのは連れの少女の方だった。

 

「いや、そういう冗談は良いから……」

「本当だって。ねー、比企谷?」

「まぁな。それだけならまだ良いが、翌日に黒板一杯にそれを茶化されて、危うく登校拒否になりかけたけどな」

 

 過ぎたことではあるが、いまだに忘れられない思い出である。中学時代の中でも最悪に印象に残る事柄で、できれば他人には語りたくないことの筆頭だ。それを、本人を前に言いたいことを、言いたいように言っている。中学の時の自分が見たら、死ぬほど驚くだろう。人はちゃんと変われるんだと、実感した瞬間である。

 

 自らの進歩に内心で感動していた八幡を他所に、折本は感じていた違和感を更に強くしていた。目の前にいるのは比企谷八幡であることは間違いがない。見た目は随分変わったが、声とか身体的な特徴はそのままで、何よりあの、見る人間を不安にさせた目つきの悪さは健在だった。

 

 八幡のことはそれなりに記憶に残っているが、間違っても自分の目を見て、真向から言い返してくるような人間ではなかった。誰とも視線を合わせず、きちんと物も言えないような男子だったはずなのに、これではまるで別人である。

 

「折本、ちょっとこっちきて」

 

 違和感と戦っていた折本を、連れの少女が引っ張っていく。八幡から隠れるように物陰に隠ると、少女は折本に詰め寄った。

 

「あんた、あれを振ったの!?」

 

 血相を変えて、友人(三日前に失恋。現在恋人募集中)は折本に詰め寄った。ナイーブな時期の彼女に、贅沢にも男を振ったという話はキツかったのかもしれない。

 

 折本も、中学の時からあぁだったのならば、最終的に受けるかは別にして、その場で振ったりはしなかっただろう。高校に入ってから何があったのか。元からクラスメート以上の関係がなかった上に、振ってからはより関わりがなくなった八幡に関する情報は、皆無と言って良い。

 

 個人的な繋がりがない以上、人づてに情報を仕入れるしかないが、比較的偏差値の高い高校である総武の人間とは折本はあまり交流を持っていなかった。実を言えば八幡が総武に進学したことも、今思い出したくらいである。あの高校について折本が知っていることと言えば、一つ上の学年に超絶美人の生徒会長がいて、校内外で『犬』を連れまわしていたということくらいである。

 

「中学の時は別人だったんだって。いかにも引きこもりな挙動不審でさ」

「うそ。写真とかないの?」

「ある訳ないじゃん。同級生のクラスメイトってだけで、友達ではなかったし……」

「……それでどうして告白とかできる訳?」

「さぁ……何か勘違いしたんじゃない?」

「でもさ、今の彼は問題ないでしょ? 強面だけどイケメンなのは間違いないし」

「そうなんだけどさぁ」

 

 その事実を認めるのは吝かではない。好みは解れるだろうが、八幡を美形と評することに異論を差し挟む女子はいないと断言できる。折本がそう認めることに渋っているのは、過去の八幡を知っているからだった。自分が告白を断ったという負い目もある。無論のこと、断ったことそのものを後悔はしていないが、自分から振っておいて状況が変わった後から尻尾を振るというのは、女としてのプライドに関わるような気がして、気が引けたのだ。

 

「というか、絶対彼女いるでしょ。横の荷物見た? 女物の服ばっかりだよ」

「あー……本当だ。デート中なんだね」

 

 がっかり、と意気消沈する友人に、折本はそっと胸を撫で下ろした。関わらないと決めたのであれば、さっさと退散するに限る。何しろ自分には彼を振った上に、こっぴどく痛めつけたという事実がある。当時は何とも思わなかったことであるが、先ほど八幡に目を見て物を言われて、自分がどういうことをしたのか薄々と感じ取り始めていた。

 

 当時の八幡は受け身になって引きこもるだけだったが、今の彼ははっきりと言い返してくる。今の八幡の容姿を基準にした場合、それと釣り合う恋人が出てきたら、まず太刀打することはできない。折本もそれなりに自分の容姿に自信を持っていたが、友人が評した通り、今の八幡は十分にイケメンである。

 

 腐った目をしたヒキオタが、目力のあるイケメンインテリヤクザになるとは、何の冗談だろう。

 

「そういう訳だから、さっさと行こう。邪魔したら悪いし――」

「まぁまぁ、そんなことないから。少しお話していこうよ」

 

 耳元でいきなりした声に、折本は死ぬほど驚いて飛びのいた。

 

 振り向いた先に立っていたのは、美人という言葉が霞むほどの美人だった。華やかではあるが派手ではない。洒落っ気はあっても下品ではない。女性が外に出る時のスタイルとして、完成された魅力を持った女がそこにいた。

 

「貴女、折本かおりさんだよね? 八幡から聞いてるよ。すっごくお世話になったって」

 

 にこにこと微笑んでいるが、まったく友好的な感じはしなかった。武道など全く齧ったことのない折本でも、眼前の女性が殺気を放っているのが良く解る。下手なことを言ったら首をねじ切られるかもしれない。そんな恐怖を感じ取っていた折本に、眼前の美女はさらに死刑宣告を追加した。

 

「自己紹介が遅れたね。私は雪ノ下陽乃。八幡の恋人だよ。よろしく、折本さん」

 

 

 

 

 

 

 

 



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結局、折本かおりは何もできない

 今日の昼食を持って陽乃が戻ってきた時、彼女の視線は誰に言われるまでもなく周囲の客から隠れるようにしている折本たちに吸い寄せられた。相変わらず驚異的な勘の良さである。この人に隠し事はできないな、と再確認する八幡に『ちょっと声かけてくるね』とだけ言って、陽乃は折本の方へ歩いていった。面白いおもちゃを見つけた、という陽乃の背中に、八幡はこっそりと溜息を洩らす。

 

「知り合い?」

 

 折本の方に視線を向けた雪乃が、怪訝そうに問うてくる。『貴方に知り合いなんていたのね』とでも言いたげな顔だったが、それが女子というのが八幡のイメージには合わなかったのだ。

 

 八幡の中学時代に、良い思い出などない。今の八幡にとって絶対である陽乃にさえ、相当に粘られてようやく話した程だ。まだ付き合いの浅い奉仕部のメンバーには、誰一人として中学の事は話していない。今現在総武高校に在籍している人間で八幡の中学時代のことを知っているのは、何かと騒々しいあの男くらいのものである。

 

 入学した頃ならばともかくとして、もうかなり時間も経った。告白暴露の件もいまや笑い話の一つであるが、思い出したくない過去の一つであることに変わりはない。それがいくらか顔に出ていたのだろう。八幡の様子を見て、雪乃は追求することを止めた、興味を失った様子でアイスティーに口をつける雪乃に、今度は八幡が問う。

 

「てっきり聞きたがるもんだと思ってたんだが」

「話したいなら聞いてあげなくもないけれど、そうでないなら聞かないわ。貴方は知らないのでしょうけど、私はそれくらいの配慮はできる美少女なのよ?」

「すまん、それは初めて知った」

「失礼な人ね。まぁ、姉さんについていけるような人だから、無駄に目が肥えているのね」

「見た目が美少女なのは軽井沢で会った時から知ってるよ」

「…………そう。どっちにしても失礼な人には違いないわね」

 

 顔を逸らした雪乃の頬は、僅かに朱に染まっていた。自分で美少女と言えるくらい自信を持っているのに、直球を返されると脆い辺り、陽乃に比べるとまだまだである。

 

 自分の前に置かれた包みを開ける。既に雪乃の分は全て引いてあるから、残りを2で割った分が八幡の取り分である。さて、と飲み物に口を着けると、妙に健康的な甘みが口の中に広がった。自分では普段まず飲まない味に、思わず蓋をあけて中身を確認する。

 

「野菜ジュースを頼んでいたはずよ。良いじゃない。健康的で」

「まぁ、不健康よりは良いんだが……」

 

 ファーストフードを食べている時点で、飲み物だけ野菜ジュースにしても無駄な抵抗な気はするが、しないよりはマシなのだろう。別に嫌いではないので、それ以上文句も言わずにストローに口をつけながら、陽乃と折本の方を眺めていると、陽乃優位で決着が着いたのか、三人でこちらに戻ってくる。

 

 青い顔をしてる折本と、にこにこしている陽乃。どうして良いのか解らないという顔をしている残りの一人に、八幡は同情的な気分になった。陽乃のターゲットは折本一人だろうから、彼女については完全にとばっちりである。せめてこの人は巻き込まないようにしてほしいな、とは思うものの、それを口にはしなかった。

 

 女王の行動に口を挟むようなことを、犬はしないのである。

 

「この折本さんも一緒することになったから」

「まぁ、貴女が言うなら止めはしませんが、雪乃――はそれで良いか?」

「私のことは置物とでも思ってくれれば良いわ」

「こんなかわいい置物なら部屋に飾りたいなぁ……それはともかく、そっちの貴女。ちょっと大事な話があるから、外してもらえる?」

 

 陽乃から水を向けられた少女は、その提案にぱっと顔を輝かせ、次いでバツが悪そうな顔で折本を見た。折本の顔には『置いてかないでよ!』と書いてあったが、誰でも我が身は可愛いものである。帰って良いと主犯格の女に言われているのに、それに従わない道理はなかった。

 

 それじゃあ、とそそくさと退散する少女を見送ると、陽乃の視線は八幡に向いた。

 

「八幡、ちょっとトイレにでも行ってきて」

「解りました」

 

 追い払われる気配を薄々と感じていた八幡は、野菜ジュースを一気飲みすると、さっさとトイレに向かう。途中、折本のすがるような視線が見えたような気がしたが、気にしないことにした。喧噪を抜け、トイレの個室に入って便器の蓋の上に腰を下ろす。

 

 十分か、十五分か。何しろ折本の相手は陽乃である。言葉で痛めつけるのに、そんなに時間はかけないだろう。折本はこれから、一言で言うならば『酷い目』に遭う。かつて勘違いから好きになった同級生だ。その負い目から不憫に思うところも少しはあったが、自分が善人でないことを自覚している八幡は、先の折本の顔を見て少しだけ良い気味だと思った。そう思う権利くらいは、自分にもあるだろう。

 

 スマホのタイマーをセットすると、八幡は一人、目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて、折本かおりさん。まず質問。どうして八幡のこと振ったの?」

 

 一発目からエグい所を突いてくる女である。これでジャブなのだとしたらこれからどんな質問をされるのだろうと、折本は気が気ではなくなってしまった。それにしても、見ず知らずの女の質問に答える道理はない。有無を言わせず席を立って、どこへなりとも消えても良いのだが、眼前の女の雰囲気はそれを許してくれそうになかった。質問には答えるしかない。改めて腹を括った折本は、全てを正直に話すことにした。

 

「ただのクラスメートってだけで、特に親しい訳でもなかったし……」

 

 八幡については、それが全てである。クラスでも目立たない、というよりもハブられているような人間で、間違っても主流派の人間ではなかった。それどころか、根暗は根暗なりに作っていたグループの中にも、彼は入っていなかった。正真正銘のぼっちである。

 

 そんな日々を送っている人間から告白をされても、受け入れる女子はいないだろう。ただのクラスメートで、特に付き合いがないというのなら、尚更である。告白を断ったことそのものについて、折本は自分の判断に間違いはないと思っていた。現恋人が問題にするのなら、更にその後の行為である。

 

 隣を見れば、眼前の女によく似た少女が我関せずを貫こうとして失敗しているのが見える。似た面差しから姉妹なのが解った。眼前の女が姉で、こちらが妹である。姉は笑顔の中に上手く感情を隠しているが、妹は無表情を貫こうとして明らかに失敗している。八幡を振ったの辺りで飲み物を吹き出しそうになっていた辺り、この妹も八幡と某かの関係があるのだろう。まさか姉妹で一人の男を、というのではあるまいなと、自分の想像に折本は寒気を覚えたが、妹の方からは姉のような殺気は伝わってこなかった。

 

 軽い相手とも思えないが、少なくとも今現在敵対する様子はなさそうだった。目下の敵は、眼前の姉のみである。

 

「あー、それは解るかなぁ。私も中学生くらいまでは、そういうのあったし。雪乃ちゃんもでしょ?」

「私は置物と言ったはずなのだけれど……」

 

 折本も自分がそれなりにイケている方だという自覚はあるが、この姉妹は完全に別格だった。異性に告白されることなど、片手では数えきれないだろう。男受けするのは姉の方だろうが、妹も相当なものだ。その妹は自分は置物と言いつつも、こちらの話に耳を傾けているのが解った。恋人の妹というには、距離が曖昧な気がするが……今は自分の身を守ることを優先するべきだ。

 

「で、これは興味本位で聞くんだけど、とりあえずキープしておこうとは思わなかったの?」

「いや……だって、接点なかった訳で……」

「接点あってもなくても、それなりに良い顔してるのは見れば解るでしょ? 私が見つけたのは八幡が高校一年の時だから、貴女に告白した時とそんなに見た目は変わってないと思うけど」

 

 見れば解ると姉の方は言うが、それはフラットな環境で八幡を見ることができたからだ。中学の時の空気は少なくとも、誰一人として彼を身内だとは思っていなかった。まともに見ていないから、顔がどうかなど考えもしない。折本の脳裏に思い浮かぶのは、クラスの隅で目立たないようにし、声をかけられれば卑屈な笑みを浮かべる八幡の姿だった。

 

 実は顔が良いということは、今日。久しぶりに再会するまで気づきもしなかった。まともな恰好をして背筋を伸ばし、自分に自信を持つだけであそこまで変わるものだろうか。あの状態の八幡であればおそらく、告白を断ったりはしなかっただろう。それどころか自分から告白をしていた可能性だってあった。

 

 しかしそれを惜しいと思うのは流石に傲慢だろう。あの時点で告白を受けていたとしても、八幡はああはならなかったと確信が持てる。八幡という素材と、この姉という要素がかみ合って、初めて今の八幡ができたのだ。

 

 ついでに言えば、あの時点で容姿が優れていることに気づいていたとしても、告白を受け入れることはなかっただろう。彼はどのグループにも入っていないはぐれものだ。それときちんとお付き合いをするということは、同じところまで落ちることを意味する。折本がいる位置にまで引き上げることは不可能だ。全体の中心の方にいたという自覚はあるが、全てをけん引するほどの力を持っていた訳ではない。

 

 異分子を排除するのが集団というものである。八幡とつるむということはすなわち、集団から排除されるということだ。それを加味したうえで告白を受け入れることはやはり、当時の自分にはできなかっただろう。

 

 縁がなかった。一言で言えばそういうことだ。自分にはどうしようもないと黄昏る折本に、姉はにっこりと勝利の笑みを浮かべた。誰もが見とれる綺麗な微笑みだが、正面から相対している折本には、心の中で自分をあざ笑っているのが良く見えた。女としての格の違いを見せつけられた形である。正直、今まで生きてきた中で一番みじめな気持ちだった。

 

「もう少し粘ると思ったんだけどな、ちょっと残念。まぁ弱い者いじめしてもかっこ悪いから、次で終わらせてあげる」

 

 笑顔を張り付けた陽乃が、折本の耳元に顔を寄せた。その瞬間、気温が下がったような気がしたのは、きっと錯覚ではない。

 

 

「魔がさしたなんて言い訳は聞かないから。どんな理由があったとしても、次に八幡に何かをしたら、私、貴女を殺すからね」

 

 

 心が凍り付くような声音に、折本はその言葉に嘘がないことを知った。法律がどうであろうと倫理が何であろうと、この女はやると言ったことは本当にやるだろう。生まれて初めて人間に恐怖した折本は、ただ首を動かしてかくかくと頷いた。

 

 それを見て、姉の方――雪ノ下陽乃は、にっこりと笑みを浮かべた。自分の優位を確信した勝者の笑みである。

 

「自分の立場を理解したなら、もう行って良いよ。できることなら、二度と私の前に現れないでね?」

 

 そんなもの、こっちから願い下げだ。転がるようにして陽乃の前から逃げ出した折本は、全速力で店を出た。全力疾走する女子高生を行きかう人々は怪訝な目で眺めていたが、周囲の目など気にもならないほど、折本の心はたった一つの事柄に支配されていた。

 

 あの女に逆らってはいけない。

 

 心の奥深くにそれを刻み込まれた折本は、息が切れるまで走り続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「悪趣味ね」

「そう? 当然だと思うけどな。私の恋人がいじめられたんだもの」

「でも、姉さんと付き合うようになる前の話でしょう? そもそも、それが起こらなかったらあの人も総武高校には来なかったと思うのだけれど」

「少しは感謝してるよ? だから()()()()で済ませてあげたんじゃない」

 

 くすくすと笑う陽乃に、雪乃は嘆息した。

 

 確かにこの姉にしては、言葉だけというのはいかにも温い。何かするまで何もしないというのは、手加減するにも程がある。先ほど聞いたレベルの話が、最近八幡に起こったのであれば、言い訳も何もなくあの女は社会的に死刑にされていたことだろう。言い分を話せて猶予を貰えただけ、あの女は幸運である。

 

「さて、それじゃあそろそろ八幡を呼び戻そうかな。友達いない人はトイレでご飯を食べるのが定番らしいけど。流石に一人で手持無沙汰だろうし――」

「姉さん。一つ質問があるのだけれど」

「なになに? 珍しいね。雪乃ちゃんが私に改まって。何でも聞いて? お姉ちゃん、何でも答えちゃうから」

「姉さんは、あの人のどこが好きなの?」

 

 よく話すようになってから、姉についていけるとしたらこんな男だろうと確信を持つに至っていたが、姉の方の気持ちを確認したことはなかった。姉妹であり、それ程仲が悪い訳ではないが、色恋の話とは無縁の関係だった。

 

 疑問に思っても、照れくさくて聞けなかったことである。それでどうなるという訳でもないが、聞くならば今しかないと思った時、雪乃の口からその問いは出ていた。世界一かわいいと公言してはばからない妹からの問いに、陽乃は、

 

 

「世を拗ねた、捻れた性根が好き」

 

「どんなに意地悪をしても、犬みたいに尻尾を振って、ついてきてくれるところが好き」

 

「からかうと赤くなって、照れるところが好き」

 

「それなのにたまに見せる、男らしくあろうとするところが好き」

 

「私の言うことを何でも聞いてくれるところが好き」

 

「私のために、自分を変えようと努力してくれるところが好き」

 

「本当に、言葉では語りつくせないくらい、色々なところが好き。でも一番好きなのは――」

 

 

 

「私を見つめる時にたまに見せる、泣きそうな、寂しそうな顔。あの顔を見るとね、とっても背筋がぞくぞくするの。八幡の心が私だけに向いてるって、錯覚できるあの瞬間が、私は大好き」

 

 恋する乙女そのものの顔で、そう言ってのけた。予想していた以上の答えに、雪乃は深く、深く息を漏らす。

 

「歪んでるわね、姉さん。今に始まったことではないけれど」

「うん。八幡にも良く言われる。でもそんな私のことが、八幡は好きだと思うよ」

「ごちそうさま、とでも言えば良いのかしら?」

「いつでもごちそうするから、気が向いたら言ってね?」

 

 微笑む姉に、雪乃はもう二度とこの話はしないと心に決めた。

 

 

 

 




八幡の方がどんな風に好きかはまた後程。
次回から川なんとかさん回になります。


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色々あって、比企谷八幡は彼女のことを知っている

「お兄ちゃん、ちょっと会ってほしい人がいるんだけど……」

 

 折本との不意な遭遇からしばらく。勉強の合間、自宅の居間でマッカンを楽しんでいた八幡は、愛する妹の小町からそう声をかけられた。その言葉の意味を吟味することしばし。対面のソファに座るように促した八幡は、明日の天気を訪ねるような口調で小町に問うた。

 

「東南西北白發中。どれが良い?」

「それって麻雀の話? 別にどれでも良いんだけど……じゃあ、白で」

「解った。俺はこれから大量の塩と壺を買いつつ、信頼のできる業者を知らないか陽乃に聞いてくるから、お前は何もせずにここで待ってろ」

「……ちょっと待って、何の話?」

「いや、付きまとってくる男が迷惑だから、どうにかして闇に葬れないかって相談じゃないのか?」

「違うよ! もう、心配してくれるのはポイント高いけど、ただでさえ見た目がインテリヤクザになってるんだから、言葉には注意してよね! 本気にする人だっているんだから!」

 

 もう、とぷりぷり怒る小町はかわいいなぁと思いつつも、半ば本気だったことは口にしない。塩と壺は冗談だが、本当に小町にそういうことが起きたのならば、あらゆるコネを尽くして潰しにかかるだろうことは、自分のことだからこそ想像に難くない。

 

「あのね、塾のお友達のお姉さんが総武高校に通ってるらしいの。すごい真面目な人だったんだけど、最近帰りが遅くなってきて、その……素行が悪くなったんじゃないかって心配してて」

「素行なぁ……」

 

 総武高校は進学校であるが、一応世間一般で言うところの不良というのは存在している。勉強についていけなくなった、家庭の事情、高校デビューに失敗した等々、グレた理由はそれぞれであるが、所謂進学校の不良であるので他所の気合の入った連中と比べるとどこか大人しい。素行が悪くなったのかもと心配している辺り、家族に実害は出ていないのだろう。正直、それ程大きな問題とも思えなかった。小町からの話でなければ、聞き流していたことだろう。

 

 しかし、小町からの話であるなら、どんなものであれ聞かない訳にはいかない。あえて聞いていないふりをしながら、考えを巡らせてみる。

 

 執行部を離れて久しいが、校内における八幡のアンテナはまだ高いままだ。会長であるめぐりとの交流は続いており、彼女は聞いてもいない情報を話してくれる。陽乃閥に所属していた面々も主力のほとんどは卒業してしまったが、まだ校内にもいくらか存在していた。

 

 素行不良の人間というのは、執行部としてはそれなりに重要な情報だ。学内で完結するならばいくらでも揉み消しは可能だが、一度外部に話が漏れてしまうと、それだけ大事になってしまう。外で問題を起こしそうな人間は、それとなくマークしているのだ。

 

 そんな訳で。まだ生きている情報網から素行不良の生徒について情報が八幡の元には集まっていたが、ここ最近となるとまだ網に引っ掛かっていない可能性があった。

 

「その姉は何年だ?」

「今年入学したばっかりの一年生だって」

 

 小町の言葉に、八幡は嘆息した。

 

 素行が不良になったのが最近であれば、情報はまだ入っていない可能性が高い。それでもダメ元で当たってみるつもりで、八幡はスマホを操作した。一年女子で素行不良の可能性アリ。端的に情報を入力していた八幡の指が、ぴたりと止まる。

 

「名前と風貌、解ったりするか?」

「わかんないよ。小町もまだ話は聞いてないし。でも、その子の名前は川崎って言うんだよね。お兄ちゃん、知ってる?」

 

 小町もダメもとで聞いたのだろう。その言葉に期待するような色はなかったが、八幡は川崎という言葉にぴたりと動きを止めた。

 

 素行不良で総武高校の高校一年という情報から、一人の少女の姿が脳裏に思い浮かぶ。女子にしては高い身長、青白いロングヘア―を頭頂部で縛った、とにかく目立つポニーテール。素行不良という印象は受けなかったが、思い返してみるとヤンキーと言われれば、そう見える気もする。

 

 いや、まさか、そんな偶然は……考えを巡らせるが、考えれば考える程、その『川崎』は小町の言う条件に合致するような気がした。

 

 流石に小町も妹で、兄の変化にいち早く気づいた。陽乃と付き合うようになってから、友達以外の繋がりは無駄に増えていると聞いている。同級生の姉がその中にはいっていた所で今さら驚いたりはしないが、楽天的な小町をしても、その話はデキ過ぎていると思った。

 

 そして小町は、こういう降って湧いた幸運に、素直に感謝できるタイプである。兄の正面に回りにっこりと微笑んだ彼女は、兄に無理難題を吹っ掛ける時の声音で、おねがいをした。

 

「お兄ちゃん、協力してくれる?」

「一応な。違うって可能性も考えて、その川何とかにも繋ぎを取ってくれ。二人きりにはなるなよ? ちゃんと人通りの多い所を通って、指定の場所まで連れてこい。不埒なことをされそうになっても安心しろ。その時は壺と塩の出番だ」

「……お兄ちゃんだけだと心配だから、学校のお友達も連れてきてもらえる?」

「かわいい顔して酷いこと言うな。あの学校の俺の友達は一人しかいないぞ?」

「そういう悲しい暴露はもう良いから! 奉仕部って部活を作って女の子といちゃいちゃしてるんでしょ? 陽乃さんから聞いてるよ」

「内申のためで、別にいちゃいちゃしてる訳じゃないんだが……」

 

 少なくとも、放課後集まって過ごしているアレを、いちゃいちゃしていると思っている人間は、八幡を含めて一人もいない。陽乃らしい、微妙に悪意のある伝聞である。ともかく一人よりも二人、二人よりも三人である。女性からの女性がらみの相談であるなら、相談を受ける側にも女性がいた方が良いだろう。

 

「解った。全員の都合がつく日を選ぶから、その日に川何とかを連れてきてくれ」

「りょーかい。あと、壺も塩もなしだからね!」

 

 こっそりと、某通販サイトで壺を検索していた八幡は、小町の言葉にそっとブラウザを閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「学校外から依頼を受けるというのは、そう言えばアリだったのね……」

 

 依頼と言えば彩加の手伝いでテニスをしたくらいで、残りは自発的にボランティアをしたくらいである。奉仕部の依頼として、実質的にはこれが二件目だ。設立の目的を考えるならば、ここで外部からの依頼に奮起しているところなのだろうが、学校生活のカモフラージュの側面が強い部活である。人のために、ということでは唯一奮起しそうな結衣も、部員の身内からの依頼ということで少し気を抜いている風である。

 

「ところで海老名さんに由比ヶ浜さん。その川崎さんとやらに心当たりはあって?」

「同じクラスにはいないよね。体育とかでも一緒になったことはないと思うけど、姫菜は知ってる?」

「私も知らないかな。素行が悪くなったとかなら、少しは目立つと思うんだけど」

 

 一年生の中でも目立つ集団に所属している二人が知らないのだから、学内ではそれ程目立っていないのだろう。素行不良が事実であったとしても、少なくとも同学年の中で実害は出ていない可能性が高い。

 

「そういう雪乃は知らないのか? 実はそっちの学部とかだと話が早くて助かるんだが」

「うちのクラスには川崎さんというのはいないわね。他のクラスとは交流がほとんどないから解らないわ」

「そうか……まぁ、難しいところは会ってみてだな」

「ちょっと待つし、ヒッキー先輩! どうしてゆきのんのこと名前で呼んでるの!?」

 

 結衣にしては、凄い剣幕である。

 

 今この時呼び捨てに気づいた結衣であるが、呼び捨てそのものはこの前、陽乃に連れられて折本に会った時から続けている。それが一週間前のことだ。今週も奉仕部の活動があったが、結衣は家の用事とグループの用事で、今週はほとんど顔を出すことができなかったのだ。

 

 八幡からすれば、実に面倒くさい質問だった。呼び捨ては八幡が自発的に始めた訳ではなく陽乃から言われたので仕方なく始めたことだが、そうであるが故に、八幡にとっては絶対のものだった。陽乃の目が届かないからと言って手を抜く訳にはいかないし、可能性は低いが雪乃本人が陽乃に告げ口をする目もある。陽乃からの、特に雪乃がらみの命令に関しては、特に気が抜けないのだ。

 

「どうしても何も、こいつの姉からそう言われたからとしか……」

「お姉さんに言われたら何でもするの、ヒッキー先輩!」

「そりゃあなぁ。今すぐ死ねとでも言われなければ」

 

 一瞬も躊躇わずに答えた八幡に、質問した結衣の方が絶句してしまった。

 

 犬を自認する八幡からすれば当然の返答であるが、その感覚はそうでない人間には馴染みが薄いものだ。友人からは犬っぽいと評されることもある結衣は今まで、誰かのために何でもするという極まった感性とは無縁に生きてきた。何か言葉を続けようとするが、上手く言葉にならない。うーうーと繰り返す結衣に、助け船を出したのは集まった奉仕部のメンバー三人の中では、最も八幡に感性が近い姫菜である。

 

「それじゃあ、私も姫菜って呼んでくださいよ。ほら、親愛の情でも込めて」

「陽乃がそう言ったらな」

 

 笑顔ですり寄ってくる姫菜に、八幡の答えはにべもない。雪乃を呼び捨てにすることにまだ違和感があったが、それもいずれ慣れるだろう。三人いる中で、一人だけが呼び捨てにされている。見る人間によってはそれは特別扱いとも言えるものだったが、名前で呼ばれた雪乃と言えば、結衣の八幡への追及も、姫菜の要請にもどこ吹く風だった。

 

 それでも、それが当然という風ではない。雪乃を名前で呼ぶ人間は、家族以外では皆無と言って良い。一番呼ぶのが姉で、次が父親、その次が母親だ。家族以外で、それも男性に呼び捨てにされることは、高校一年とまだ幼く、多感な時期である雪乃にとってそれなりに衝撃的なことだったのだが、姉に付き合わされたあの日以降、一週間も時間があったことで、どうにか表面を取り繕うことくらいはできるようになった。

 

 八幡が感じている以上に、雪乃もまた、違和感を覚えているのだ。その微妙な感情の機微を見抜いていたのは、その場の人間では姫菜だけだった。腐った妄想を脳内ではかどらせながら、ぐふふと笑みを漏らす。彼女の脳内では男性に変換された雪乃が、八幡にあれやこれやされているのだが、その妄想には口を挟まないというのが奉仕部の暗黙の了解である。

 

 姫菜の様子を見て、逆に冷静さを取り戻した結衣は、呼び捨ての件でさらに食い下がろうとしたが、その時には八幡は歩みを進めていた。声をかけそこなった形になった結衣は唸り声を挙げたが、友人の不満そうなその態度に、雪乃は口を挟むことができなかった。

 

 自分の友人であるという事実、ただ一点において姉は結衣のことを許しているが、八幡が死にそうになったという事実については、恐ろしいことにまだ彼女の中では整理がついていないようである。結衣とはまだ顔を合わせていないが、下手にちょっかいをかければ怒りがぶり返す可能性もある。雪乃の目から見て、結衣が八幡のことを憎からず思っているのは良く解るのだが、そろそろ自重させた方が良いのではないか、というラインに結衣の態度は迫りつつあった。

 

 元々、親しい人間とは距離感の近いタイプなのだろう。同性である雪乃も、たまに結衣との距離感を測りかねている所がある。男性の八幡ならば猶更だろうが、姉に鍛えられた犬は、年頃の男性ならば挙動不審になりそうな結衣の距離感にも冷静だった。あまりにも冷静なその態度は、お前らとは経験が違うのだと言われているようで、少々気分が悪い。

 

 少女らの心中で様々な感情が燻っているのを気にもせず、ぷらぷらと歩みを進めた八幡が待ち合わせのファミレスに着くと、その姿を見つけた小町が窓際の席で軽く手を振ってきた。その向かいにはこざっぱりした恰好の男子が座っている。愛する妹が知らない男子と向かい合わせに座っているという事実に、八幡の心は瞬時に苛立ったが、そんな八幡の肩を軽く叩く者があった。

 

「ただでさえ怖い顔が、人殺しの形相になっているわよ」

 

 微かな苦笑を浮かべた雪乃である。妹と男が一緒にいるという事実の前には、そりゃあ気分も荒立つだろうと思うが、公衆の面前で人殺しの形相というのも具合が悪い。顔の筋肉をほぐすようにしながら歩いた八幡は、雪乃たちを伴ってファミレスに入った

 

「お兄ちゃん、来てくれてありがとう。こっちが川崎大志くん」

「今日はよろしくお願いします、お兄さん」

「小町の頼みだからな。後言っておくが、二度と俺をお兄さんとか呼ぶな」

 

 怖い顔をしないようにと、僅かに努力しようとしていた気持ちをあっさりと放棄して、八幡は全力での不機嫌な顔と声音でもって大志に詰め寄った。妹フィルターを持っている小町をして、インテリヤクザと言わしめる風貌である。ただの中学生である大志にとって、それは恐怖以外の何物でもなかったが、恐怖で硬直する彼を救ったのは、八幡にとっては女神に等しい小町の行動だった。

 

 友人相手に凄んでいる兄の頭に拳骨を落とすと、全力で自分の隣の席に座らせる。頭を押さえながら自分を見る兄に、小町は小さく舌を突き出した。かわいらしい仕草に、対面の席に座った大志がぼーっとするのが見えた。即座に脛を蹴り飛ばすと、大志は軽く悲鳴を挙げる。テーブルの下で何かをしたのは解ったのだろう。小町がまた拳骨を放つが、これが兄として当然と思っている八幡は、悪びれる様子もない。

 

 兄の子供っぽい姿に深々と溜息を吐いた小町は彼を放って、同道してきた雪乃たちに目を向けた。

 

「はじめまして。妹の比企谷小町です。兄がいつも、お世話になってます」

「雪ノ下雪乃よ。聞いていると思うけど、その人のご主人様の妹になるわ。よろしくね、小町さん」

「海老名姫菜です。部活の後輩……ってことで良いのかな。八幡先輩には、いつもお世話になってます」

 

 小町の初めて顔を合わせた二人は、自己紹介をした後八幡たちの隣のテーブルに腰を下ろした。三人の中で唯一、小町と初めて会った訳ではない結衣は、小町を前に不安そうな顔をしていたが、兄が事故にあった事実など知らないとばかりに、小町は努めて明るく結衣に話しかけた。

 

「お久しぶりです。一緒の部活だったんですね?」

「うん。その、ヒッキ――比企谷先輩には、いつも良くしてもらってます」

「学校で話し相手がいるようで、嬉しいです。これからもうちの兄をよろしくお願いします」

 

 と、型通りのやり取りを横目で眺めていた八幡は、正面に座る大志に視線を戻した。

 

 そうでなければ良いなと思っていたのだが、彼の顔を見て確認した。八幡の記憶にある『川崎』と大志は地味に面差しが似ている。まだまだ他人の空似と言える範疇であるが、年齢、性別、名字、所属など合致している諸々のことが、眼前の少年と彼女が姉弟であることを示していた。はぁ、と小さく息を漏らした八幡は、言った。

 

「お前の姉ちゃん、俺と同じくらいの身長だろう。青白い色のロングヘアーで、このくらいの位置で髪をシュシュで縛ってる。細身で切れ長の目。どちらかと言わなくても、パッと見は怖い印象の」

「ど、どこで見たんすか!?」

 

 姉がどこで働いているのか解れば、問題の半分は解決するのだ。身を乗り出して問い詰めてくる大志に、八幡は彼の本気を見た。本当に、この少年は姉のことを心配しているのだろう。家族に対して心を砕ける人間に、悪い人間はいないと思いたいが、それでも小町に近寄る毒虫には違いない。早いところ問題を解決して、永久にお引き取りを願おう。そうしたいのは山々な八幡だったが、大志の姉である所の川崎――下の名前は確か沙希だったと思う――とは、あまり顔を合わせたくない事情があった。

 

 しかし、それは八幡と沙希とついでに言えば、その時その場にいた陽乃の都合であって、それ以外の人間には関係がない。姉の問題の手がかりを持っていると確信した大志は、梃子でも動かないという顔で八幡の目をまっすぐに見据えていた。

 

 根負けしたのは、八幡の方だった。

 

「姉ちゃんのシフトは解るか? 今日仕事なら、今日話を付けてくる」

「本当ですか!? ありがとうございます!!」

「ただ、何かしてるってことはなるべく気づかれないようにな。俺らが合流するよりも前にバイト先を変えられるようなことになったら、また最初からだ」

「比企谷くん、まさか一人で行くつもり?」

「そうだ、と言えると心強いんだけどな……悪いんだが、一人で行くのは心細い。こいつから今日だって連絡があったら、今日決行ってことで手伝ってもらえると助かる。ジャケット着用の店だからそれなりの恰好をして――」

「ちょっと待って、待って! ヒッキー先輩とゆきのんだけで行くの?」

「話聞いてただろ。こいつの姉ちゃんがバイトしてるのは、それなりの恰好じゃないと門前払いされるところだ。俺は一応そういう服持ってるし、雪乃も持ってると思うが、お前ら持ってるか? そういう服」

「でも仲間はずれは良くないと思いまーす」

 

 ぐぬぬ、と呻く結衣に、姫菜が助け船を出す。結衣と同じく持ってはいないのだろうが、こちらは置いて行かれるつもりはないと目で言っている。置いていくのは簡単だが、姫菜のこの顔は、そうなった場合は勝手にこっそりと付いていくと言っている。一緒に連れて行った方が、おそらく被害は少ないだろう。

 

「こいつら用の服って、見繕えるか?」

「多分大丈夫よ。姉さん程ではないけれど、私も結構な衣装持ちだから」

「ありがとー、ゆきのん!」

 

 感激して抱き着いてくる結衣を鬱陶しそうに、それでもどこか嬉しそうにあやす雪乃を横目に見ながら、八幡は義務的に大志と番号のメアドの交換をした。こういうことでもなければ絶対にしないという不満がありありと顔にあふれているが、姉の問題を解決できると希望が見えたばかりの大志はそれに気づかない。八幡としてはもっと、小町に近づかないようにと釘を刺したいのだが、隣では小町が目を光らせている。

 

 あんまり兄ぶると、しばらく口を利いてくれない気配を感じた八幡は、大人しく大志とアドレスの交換を済ませた。

 

「遅くなっても戻ってこないようだったら、これで連絡してくれ」

「でも八幡先輩。バイト掛け持ちの可能性もありません? そしたら今日は、皆でおしゃれしてデートで終わりですか?」

「バイトはあそこだけだ。本人が言ってたんだから、間違いないだろ」

「この間の一件と言い、不思議な女性の友人がいるのね。もしかして他にも沢山いるのかしら?」

「知り合いであって友達ではない。友達の少なさなら自慢できるぞ? 何しろ一人しかいないからな」

 

 八幡としては会心のネタのつもりだったのだが、それを聞いた奉仕部の面々は一様に不満そうな顔をした。結衣と雪乃ははっきりと、あの姫菜でさえ、八幡が見て解る程度には不満そうな顔をしている。俺の友達が少ないことの、何が不満なんだろうか。本気で首を捻った兄を見て、隣に座っていた小町は深々と溜息を吐いた。

 

 

 



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あっさりと、雪ノ下雪乃は撤退する

「遅いよヒッキーせんぱ、い……」

 

 八幡の声に振り返った結衣は、彼のその姿を見て声を詰まらせた。遅れて振り返った雪乃と姫菜も、八幡の姿を見て同様に固まっている。

 

 それくらいに、八幡の面差しは変わっていた。上等なオーダーメイドのスーツにオールバックに撫でつけられた髪。極め付けはノーフレームのメガネである。度の入っていない伊達メガネだが、本人は悪い目つきを少しでも和らげるつもりで買ったのに、逆に悪い目つきを強調する結果になっていた。

 

 スーツも相まって、その風貌はまさにインテリヤクザそのものである。これで強面の子分でもいたら本職と勘違いされても不思議はないだろう。若すぎるのが違和感と言えば違和感であるものの、そういう業界に馴染みのない人間ならば、そうかもしれないと思わせるには十分な雰囲気があった。

 

 揃って仲良く固まった三人に、八幡は自分の服装を見下ろしてみた。自分が持っている服の中で、文句なく一番上等な服である。金を出したのは陽乃なことが懸念材料ではあるが、今日の目的を考えれば服の来歴は問われないだろう。事実、結衣と姫菜が着ているのは雪乃の借り物である。雪乃の服を結衣が着れるか心配だったが、胸がきついとかそういう残念なことにはなってないようだ。

 

「あぁ。メガネは伊達だぞ? 視力は別に悪くない」

「そこじゃなくて! いや、そこもだけど、それ以上に全体的にヤバいよヒッキー先輩!」

「そうか、ヤバイか……」

 

 実を言えば最初に小町にこの恰好を見せた時も、似たような感想を言われたのだ。ただでさえ怖い感じなのに、正真正銘の本物に見えると。

 

 本物、という響きは悪い物ではなかったが、この場合の本物とは反社会勢力のことを指す。そういう雰囲気が役に立つ時もあるだろうが、小町に真顔で言われた時は流石に傷ついた。これを着るのは、本当にいざという時だけにしようと封印することに決めたのだが、ジャケット着用の店ということで、じゃあこれで良いかと軽い気持ちで着てきたらこの様である。

 

 後輩たちの反応に肩を落とす八幡の救世主となったのは、固まっていた一人の姫菜だった。

 

「凄いですよ! 八幡先輩!」

 

 興奮した様子で詰め寄ってくる姫菜も、ドレスアップしている。これも雪乃の借り物なのだろう。結衣ほど女性的なスタイルをしている訳ではないが、ほっそりとしている雪乃に比べると、姫菜も十分女性的なスタイルをしている。結衣が着れるならば姫菜も着れるのは道理だろう。黒い、落ち着いた色合いのイブニングドレスは、大人し目な顔立ちの姫菜には良く似合っていたのだが、それ以上に、腐った趣味の講釈を延々と垂れる時の顔をした姫菜に、八幡は早くもうんざりとしていた。

 

「どういう超進化ですか! いつもの腐った目つきでもう十分なのに、私の理想の鬼畜メガネに変身してくるなんて! 私を萌え殺す気ですねそうですね! あーもう、今すぐ家に戻ってこの情熱を何かにぶつけないと、もう本当にどうにかなっちゃいそうです鬼畜メガネサイコーヒャッハー!!」

 

 むはーと熱い息を漏らす姫菜の顔を、八幡は鬱陶しそうに押しのける。仮に姫菜に恋する男がいたとしても、この顔を見たら一瞬で冷めるだろう。それくらいに、今の姫菜は酷い顔をしていた。これさえなければ美少女なのにな、としみじみと思う。

 

(まぁ、そういう所も含めて気に入っている訳だが……)

 

 うんざりするし鬱陶しくも思うが、これくらい趣味も人間も腐っている方が割り切って付き合うことができて面白い。陽乃もきっと、同じ意見だろう。早く紹介したいと思うが、今はそれよりも川崎某からの依頼のことだ。

 

「さて、今日はどういう計画で行く? 俺が一人でやって良いって言うなら、そうするが……」

「えー、最初からそういう計画じゃないの?」

「結衣、それじゃ私たちはおしゃれして4Pデートしてるだけだよ? それで良いの?」

「海老名さん、卑猥な言い方はやめてもらえるかしら」

 

 姫菜の言い方に形の良い眉を寄せた雪乃は、少し考えるそぶりを見せてから答えた。

 

「比企谷くん一人に頼るのも悪いわ。貴方には話を早くしてもらった功績があるのだし、ここは休んでくれていても構わないのだけれど」

 

 すまし顔で言うが、要するに『自分たちでやるからお前は手を出すな』ということである。前回のテニスは肝心なところでガス欠になったため、今回は自分で、という思いがあるのだろう。 面倒なことは御免だ、という思いは雪乃と姫菜と共通していると思っていたのだが、雪乃は妙なところで子供っぽい張り合いをする。

 

「いや、雪乃が良いならそれで良いんだけどな。お前らもそれで良いのか?」

「ゆきのんがやるなら私も手伝うよ!」

「私は八幡先輩の鬼畜メガネなところが見たいんだけど……」

「このインテリヤクザにそんなことをさせたら、18歳未満お断りの展開になるに違いないわ。同級生の未来を守るためにも、まずは私たちがやらないと」

 

 うーん、と小さく唸った姫菜は、少しだけ困った顔をした。隠そうと、そして本人は隠していると思えているようだが、八幡にははっきりと姫菜が『この女めんどくさい』と思い始めていると理解できた。まだまだ爆発はしないだろうが、隠そうとしている不満が身体の外に出るようでは、まだまだである。陽乃ならばこういう時、一発で男を恋に落とすような笑顔で隠すだろう。その後、イラつかされた分はきっちりと報復するのがお約束である。

 

 まぁ、感情の化け物たる陽乃と同じ行動をしろというのも無理な話だ。幸い、雪乃は姫菜の不満には気づいていないようだが、今後の円満な関係のためにも注意は必要である。雪乃が視線を逸らしたのを見計らって、八幡は姫菜の後ろ頭を軽く小突いた。振り返った姫菜に、八幡は黙って首を横に振る。自分がうまくやっていると思っている姫菜は、八幡の仕草の意味が解らず首を傾げた。

 

 埒があかない。そう判断した八幡は姫菜の耳元にそっと顔を寄せた。

 

「イライラしてないつもりなら、せめて顔に出すな」

 

 まさか、見抜かれているとは思っていなかったのだろう。姫菜ははっきりと驚きの表情を浮かべ、次いで相好を崩した。そんな言葉を言われたのは、生まれて初めてだったからだ。この腐った目は自分を見抜くことができる。そう思うと、自分の感情を含めた全てのことが些事に思えた。

 

「……了解、雪乃くん。鬼畜メガネな八幡先輩が見れて機嫌が良いから、今日は雪乃くんに従うよ、私」

「そう? それなら良いのだけれど……」

 

 あっさり引き下がった姫菜に釈然としないものを感じつつも、任せてくれるというのならば、それ以上追求することもない。紆余曲折はあったが、満場一致で先鋒は自分と決まると、雪乃は足音も高く建物に踏み込んでいった。

 

 八幡はその後をのんびりと付いていく。その細い背中を見るにそれなりに自信があるようだが、八幡の見立てでは川崎姉はよほど相性が悪いと感じない限り、怯まないタイプだ。そして、それなりに頭も回って弁も立つ。

 

 正直、大上段、真正面から正論で突っ込んでいく雪乃との相性は最悪と言っても良い。このメンバーなら姫菜の空気で丸め込むか、まだ結衣が情に訴えた方が上手く行く気がするが、本人が自分でやると言っている以上、邪魔をするのも角が立つ。後で事態を収拾する面倒を予感しながらも、八幡は黙って雪乃の後ろを歩いた。

 

 目的の、ハイソなフロアについても雪乃は全く動じなかった。

 

 こういう場所に何度も足を運んだことがあるのだろう。スタッフに対する態度も、堂に入っている。半面、庶民丸出しの結衣は、場の空気そのものに飲み込まれていた。そんな結衣の姿を見て、八幡は懐かしい気分になる。

 

 陽乃に最初にこういう場所に連れて来られた時、自分はおそらくこういう態度をしていたのだろう。

 

 美少女である結衣がやると男性は保護欲を刺激されて仕方がない。事実、陽乃という絶対的な存在を持つ八幡も、今の結衣を見てそんな気分にさせられていたが、そんな仕草を過去の自分がしているところを想像したら、その気持ちも一瞬で冷め、むしろ苛立ちが沸き上がった。美少女ってのは得だなと思いつつ横を見れば、姫菜は物珍しそうにきょろきょろとしていた。

 

 姫菜も庶民には違いないのだが、結衣ほど動揺はしていない。純粋に、好奇心を満たすために観察をしているといった風である。姫菜は姫菜で、やはり肝が据わっている。そんな二人とはぐれたりしないよう目を離さないようにしながらも、八幡は遠目に、さっさと歩いていった雪乃が仕事を始めるのを見ていた。

 

 バーカウンターの中に、川崎姉はいた。女性にしては高い身長、整った顔立ち。おまけに客商売なのに人を寄せ付けまいという雰囲気は離れていても人目を引いた。

 

 雪乃も一目であれが川崎姉だと解ったのだろう。足音も高く歩み寄り部活を開始したのだが、形勢はわずか数秒で決した。遠目にも解る雪乃不利の雰囲気に、姫菜が隣で苦笑を漏らした。

 

「雪乃くん、劣勢みたいですよ」

 

 遠目に見ても、川崎姉に取り付く島もないのが解る。彼女にすれば、バイト先はここである必要はない。ここで働けないのならば他を探すだけで、雪乃に比べればまだまだ余裕があった。対して雪乃は、自分が失敗することなど許せないとばかりに、肩に気合が入っている。元より相性の悪い相手にそれでは、勝てるものも勝てないだろう。

 

 川崎姉に関わらず、高校生がバイトをする目的など金以外にあるはずがない。金銭を得るために労働をするというのは、庶民からすれば当たり前の感覚だが、裕福な家庭で育った雪乃は、いまいちそれがピンときていないのだろう。それがまた、雪乃と川崎姉の会話をかみ合わない物にしていく。

 

 金を都合しなければいけない川崎姉は、多少のことでは自分を曲げたりはしない。始まる前から上手くいかないだろうことは解っていたが、全くと言って良いほど聞く耳を持っていない川崎姉に、ついに雪乃が焦れ出すのを見て、八幡はようやく助け船を出すことに決めた

 

 先日、川崎姉と知り合った時のことが脳裏を過る。

 

 本音を言えばあまり、川崎姉の前に顔を出したくはないのだが、背に腹は変えられない。後輩の尻拭いをするのは先輩の義務であり、陽乃の妹を助けるのは犬の義務だ。

 

「雪乃、交代だ」

「比企谷くん、私はまだ――」

 

 まだやれる。そう言葉を続けようとした雪乃を遮るように、八幡の姿を見た川崎姉は、ぱっと顔を輝かせ、

 

「八幡さん! お久しぶりです!」

 

 そんな、喜色に満ちた声を挙げた。苛立ちと共に雪乃と会話していた時とは、雲泥の差である。

 

 その声を聴いた雪乃は、今まで険悪な雰囲気だったことも忘れて、茫然と八幡を見る。こういう顔をされるから嫌だったんだと、後ろ頭をがりがりとかきながら、八幡は雪乃を努めて無視する形で、言葉を続けた。

 

「元気そうだな。バイトも続けてるみたいだし」

「はい。あれから無事に続けられてます。あぁ、もしかしてそっちのは――」

「俺の後輩だ。それで、俺も同じ事情でここに来た」

 

 ふぅ、と八幡は小さく息を吐いた。音楽の授業の時、クラスメートという名の他人の前で、一人歌わされる時のような嫌な緊張感が、八幡を満たしていた。

 

 だが、歌わなければ歌のテストが終わらないように、言葉を続けないとこの問題を解決することはできない。意を決して、八幡は更に言葉を続けた。

 

「そう言えばまともに自己紹介をしてなかったな。俺は比企谷八幡。お前の先輩なのは事実だが、まだ現役の高校生だ」

「え…………え?」

 

 混乱している様子の川崎姉を軽く無視する形で、八幡は腕時計を見た。

 

「これから時間取れるか? 休憩の時にでも話せると助かるんだが」

「……はい。じゃあ、十二時には休憩に入れると思うんで、その時に」

「解った。それまでここで待ってる。後ここにマッカン――はなかったんだよな確か……適当にメニュー見て注文するわ。邪魔したな」

「あの!」

 

 そのまま、踵を返してテーブルの方へ歩こうとした八幡に、川崎姉は声を挙げた。自分が声を挙げたことに、驚いたのだろう。八幡が振り返ると、川崎姉はバツが悪そうな顔をして、視線を逸らした。頬は僅かに、朱に染まっている。

 

「いえ、あの、八幡って名前だったんですね。名字じゃなくて」

「確かに珍しい名前ではあるな。俺の他に見たことないし」

「すいません、気安く読んじゃったりして」

「別に構わねーよ。悪口でもなければ、好きに呼んでくれて」

「解りました。それじゃあ、()()()()。十二時に」

「了解。別に急がなくても良いからな」

 

 それじゃ、と川崎姉と会話を打ち切った八幡を、雪乃を伴って結衣たちの所まで戻った。全員の視線が自分に集中している。説明しろと無言の圧力をかけてくる後輩三人を見渡した八幡は、努めて明るい声で言った。

 

「そんな訳で、時間がかかりそうだから未成年はもう帰れ。夜道は危ないからな。雪乃の家の車に、一緒に送ってもらえ」

「どういうことか説明してほしいのだけど?」

「明日な。ついでに問題はこっちの方で解決しておく。念を押すが、寄り道しないでまっすぐ帰れよ」

 

 事実上の敗北勧告とも言える八幡の言葉に、雪乃は心底悔しそうな表情を浮かべた。部室であれば湯水の如く文句が出てきたのだろうが、ここはドレスコードがあるような場所であり、自分たちは未成年である。何かあったら親を呼ばれる弱い立場であることに違いはない。

 

 事実だけを見れば八幡も未成年だ。雪乃たちがそれを触れ回れば八幡も時間がくれば退店させられるだろうが、そうなると奉仕部として受けた依頼が滞ることになる。報復をするということにだけ着目するならそれでも良いかもしれない。事実、雪乃はその選択肢にかなりの魅力を感じていた。

 

 ここにいるのが自分一人、八幡一人ならば確実にそうしたという自負があるが、近くに姫菜と結衣がいたことが雪乃に理性を自覚させ、衝動的な行動を押しとどめた。それをしても一時的に心が満たされるだけで、誰も得をしないし、何も解決しない。

 

 この場で、最も効率的に事態を収拾できるのが比企谷八幡である。それをかつてない程の敗北感と共に自覚したことで、雪乃は撤退を決めた。

 

「明日、部室で、きちんと報告をすること。それをすっぽかすようなら、依頼にかこつけて後輩の女子をホテルに連れ込んだと姉さんに証言するわ」

「それは、その……なんだ、やめてくれ…………」

 

 そんなことをするはずがないと、陽乃も信じてはくれるだろうが、感情は別のものだ。陽乃の知らないところでその後輩の女子と二人きりになろうとしていることは事実なのだ。場所も誂えたようにホテルに併設されたバーだ。雪乃の言葉も一部事実であることが、その嘘にも無駄な説得力を持たせていた

 

「それは、取引成立ということで良いのかしら?」

「取引も何も、最初から部活の一環だろ? 俺部員、お前たちも部員。報告するのは当然のことだ」

 

 実を言えば、一人で解決してうやむやにしようとしていたことがあるのだが、陽乃を引き合いに出されてはそうもいかない。雪乃の脅迫に屈する形で、八幡は渋々イエスと答えた。小さな勝利を勝ち取ったことに、雪乃は満足そうにほほ笑む。

 

 

 

「それは良かった。それじゃあ、明日学校で。土産話を楽しみにしているわ」

 

 



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こんな風に、川崎沙希は覚悟を決める

 八幡が退院して一息吐いた頃、陽乃から飲みに行こうと誘いがあった。

 

 何をと陽乃は口にしなかったが、それが酒飲みの誘いということは八幡にも解る。陽乃が大学生になり、八幡がすぐに事故にあったせいで話が流れていたが、前から行こうと誘われてはいたのだ。確認するまでもなく、陽乃も八幡も未成年である。その上で、陽乃は八幡を誘っていた。

 

 八幡にとって、陽乃の誘いは絶対だ。学校にバレるかが懸念ではあったが、その辺りは陽乃が上手くやってくれると信じることにした。

 

 ただ店に行くだけだと思っていたら、陽乃が行きたい店に行くには準備が必要だと言われた。ジャケット着用が義務の、聊か格式の高い店であるという。そういう場所に着ていける服の持ち合わせはないではなかったが、進学祝いということで陽乃がスーツを買ってくれることになった。進学したのは陽乃なのに、意味が解らない。陽乃にとって理由などどうでも良いのだ。何かにつけて理由をつけて、陽乃は八幡に物を与えようとする。

 

 最初は自分で払おうという気を持っていたような気もするが、付き合うようになってからはそれもなくなった。プレゼントの値段は聞いていないし、深く考えてもいない。どうせ聞いても答えないだろうし、聞けたとしても払える金額ではない。金のことは極力、考えないことにした。

 

 これもある意味、ヒモという奴なのだろう。高校入学時の夢が叶ったと言えなくもないが、過去の自分が今の状況を見ても決して喜びはしないと断言できた。ヒモにもヒモの苦労があるのだ。それを身をもって知った、高校三年の春先である。

 

 スーツをオーダーメイドするに当たり、どういうのが良い? と陽乃が珍しく要望を聞いてくれたが、服飾に希望などない八幡は全て任せることにした。結果、スーツには何故か伊達メガネがセットになっていて、髪型はオールバック限定という注文までついた。インテリヤクザの出来上がりである。

 

 誰が見てもインテリヤクザとなった八幡が姿見の前に立ったのを見て、陽乃は腹を抱えて大笑いした。予想以上の出来と褒めてくれたが、その時のテーラーの引きつった笑みは、八幡の印象に強く残った。

 

 インテリヤクザになったその足で、陽乃と共に向かったのはエンジェルラダーという店だった。聞けば、ここのオーナーとは付き合いがあり、顔も聞くという。夜遊びに使ったこともあるとか何とか。値段を見ないようにしながら、メニューを眺める。当然、酒など自発的に飲んだこともないから、名前を見てもどういう酒なのか解らない。オススメは? と聞くと、陽乃が『こう頼むのがかっこいい』という頼み方を教えてくれた。

 

 それは八幡でも知っている酒であり、知っている頼み方だったが、陽乃はそれをやってこいと言っている。やれと言われたらやるしかないのが犬というものだ。やれやれ、と顔に出さないようにしながら立ち上がると、これから向かおうとしたバーカウンターでトラブルが起きているのが見えた。

 

 カウンターの中にいたのは背の高い女性店員だった。それに、男が絡んでいる。一応ジャケットは着用しているが、如何にもなチンピラだ。店のハイソな雰囲気にそぐわないダミ声が響くと、女性店員がびくついた。女性店員は見るからに気の強そうな顔立ちをしていたが、状況が状況である。大の男に絡まれたら、ビビるのが普通だ。誰もが陽乃のように図太い神経をしている訳ではないのだ。事実、離れて聞いている八幡でさえ、一瞬ではあるが気を飲まれそうになった。陽乃に比べれば怖くも何ともないのだが、それはもう本能的な反応と諦めるより他はない。

 

 店が店であるから、放っておけば店の偉い人が来るだろう。何しろ陽乃がお気に入りにして、使い続けている店だ。本来であれば八幡が割って入るような理由はないのだが……ちらと振り返ると、陽乃がゴーサインを出しているのが見えた。

 

 正義のヒーローになれとでも言うのだろう。陽乃に女性を助けようという正義感がある訳ではない。単純に、八幡が自分のキャラに合わない、正義の味方ごっこをするのを見たいだけだ。娯楽のためにチンピラにけしかけられる八幡は良い迷惑だったが、女性店員相手に凄むチンピラにもイラっときていたのも事実だ。

 

 問題は、どうやってチンピラを叩きだすかだが……考えながら歩いていると、チンピラの方が先に八幡に気づいた。

 

 八幡の姿を視界に収めたチンピラは、自分が今まで女相手に怒鳴っていたことも忘れて、硬直した。

 

 それも無理からぬことではある。全身陽乃のコーディネートで一分の隙もなくなった八幡は、どこから見てもインテリヤクザだ。ハイソな店の雰囲気もあって、それなりの格の人間にも見える。チンピラヤクザの世界も、男を売る稼業であると同時に、縦社会であることに変わりはない。粗相をすれば指が飛ぶかもしれない世界なのだ。リアルに自分の身に危険が及ぶとなれば、誰でも警戒するというものである。ただの粋がっている素人ならば猶更だ。

 

 硬直したチンピラの姿に、八幡ははっきりと自分の有利を悟った。元より、こんな場所で堅気の少女相手に怒鳴っている時点で、本職ではないと半ば確信していたのだが、それはそれだ。調子に乗ってメガネをくい、と軽く持ち上げ下からチンピラを睨みあげる。

 

 最近、ますます目力が増したと言われる腐った目だ。見ず知らずの人間に、全力で睨みつけてやるとその効果は絶大だった。全くひるまずに睨みつけてくる八幡に、チンピラは完全に腰が引けていた。既に逃げ腰になっているチンピラに、八幡は無言で出入り口を顎で示した。

 

 雑な扱いに、しかし、チンピラは文句を垂れることもなくそそくさと店を出て行った。あちらからすれば、見逃してもらった、ということになるのだろうか。ヤクザの世界のことなど知らないが、これからも使うかもしれない店にああいう手合いがいるのも困る。少しだけ住みよい世界にできたと思えば、気分も良かった。

 

 一仕事済んだところで、八幡は陽乃の指令を思い出した。チンピラを撃退したことで忘れてくれると良かったのだが、振り向くと陽乃はバーカウンターを示して行け! とのサイン。仕事がまだ終わっていないことを理解した八幡は、チンピラに近づく時よりも多大な精神力を発揮して、何やらぽーっとしている女性店員に指示通りの声をかけた。

 

「ウォッカマティーニ。ステアではなくシェイクで」

 

 知る人間が聞けば何を気取っているのか一目瞭然の注文である。注文一つで顔から火が出るほど恥ずかしくなる八幡だったが、幸いなことに女性店員は数字三文字で表現される世界一有名なスパイを知らなかったらしい。八幡の注文にはっとなると、注文を別のバーテンダーに伝えに走る。

 

 カウンターに立っているだけで、カクテルが作れる訳ではないようだ。新人なのだろう。見た限り、自分と同じくらいには若く見える……というか、ここで働くには若すぎる気がする。注文ができるまでの間に何となくスマホを操ってその懸念を陽乃に伝えると、彼女は即座に返信してきた。

 

『八幡の魅力でたらしこんでみて!』

 

 その文面を見て、八幡は頭を抱えた。今までの命令の中でも最高級に面倒臭い命令である。こいつはイモだと思えば普通に他人と話せるようにはなったが、別に魅力的なトークができるようになった訳でも、人付き合いが良くなった訳でもない。人付き合いそのものは相変わらず苦手なままな八幡に、初対面の女性というのはかなりハードルの高い相手だった。

 

 だが見方を変えれば、これ程後腐れのない人間もいないと考えることもできる。明らかに最低の発想だが、元より女王様からの命令からして最低なのだ。多少最低スパイスを加えた所で最低に違いなく、大勢に影響はない。

 

「災難だったな」

「はい。あの、助けてくださってありがとうございました」

「なに。連れがやれって言ったからやったまでだ」

 

 視線を向けると、陽乃がひらひらと手を振ってくる。陽乃を見た女性店員は一瞬だけ残念そうな顔をした。夜のバーに男と女。それが意味する関係は一つである。

 

「それはそうと……」

 

 陽乃から視線を戻した八幡は、指で女性店員を呼び寄せる。素直に顔を寄せてきた女性店員の頬は、朱に染まっていた。見た目の割りにウブな反応に心中で戸惑いながらも、八幡は思ったことをそのまま口にする。

 

「お前、年誤魔化して働いてるだろ」

「…………何をおっしゃいますか」

「あぁ解ってるよ、冗談だ」

 

 欠片も冗談ではないといった口調で、八幡は苦笑を浮かべた。冗談ということで済ませてやる、という半ば脅しのようなものだ。女性店員の顔に、緊張の色が浮かぶ。どの程度誤魔化しているかにも寄るが、未成年が夜のバイトをしているとなれば、それがバレた時親の呼び出しは免れないだろう。

 

 そうなれば、今後の学生生活にも制限が付くことになる。どうしてもここでバイトをしたいという風には見えないから、目的は金を稼ぐことであるのは間違いない。最悪、バイトは他を探せば済むが、出足で躓くと後が続かないものである。

 

 ここのバイトも始めたばかりのようだし、本人的にはここで続けたいところだろう。実に突き甲斐のある弱みであるが、八幡程他人の人生に興味がない人間もいない。

 

「どこの高校だった? 俺は総武高校」

「あ、私も一緒です」

 

 卒業した高校は? という体で探りを入れてみると、何と同じ高校だった。意図しないところで、大当たりが出る。これから先不幸が続きそうで気分が悪いが、実際、今現在も通学している八幡からすると、同じ高校というのはあまり良いことではなかった。

 

 十分に変装できているとは思うが、学校で顔を合わせた時に今日の行動がバレるようだと困る。年齢を誤魔化しているのは、八幡も陽乃も一緒なのだ。たらしこむつもりが弱みを握られたのでは、全くもって割に合わない。

 

 どうしたものか。考えていると、注文したウォッカ・マティーニが届いた。持ってきたバーテンダーは八幡に軽くウィンクをすると、そっと顔を寄せた。

 

「先ほどはありがとうございました。雪ノ下様にはお世話になってございますので、こちらはサービスになります、とよろしくお伝えください」

「何か、すいません」

 

 思わず素で返してしまった八幡に、バーテンダーはとびきりの営業スマイルを浮かべた。

 

「当店の従業員を助けていただいた訳なのですから、当然です。お客様も、くつろがれますよう」

 

 一礼し、去っていくバーテンダーの背中を見ながら、注文したカクテルに口をつける。舌がひりつくくらいに冷やされたそれはどうも強い酒だったようで、一口飲んだだけで頭をふらふらした。思わず頭を押さえた八幡に、八幡の名を呼んだ陽乃は指で『戻ってこい』という仕草をする。

 

「連れが呼んでるんで、戻る。バイト頑張ってな」

「あの!」

 

 もう関わることもあるまい。軽く手を振って去ろうとした八幡を、女性店員は呼び止めた。

 

「私、川崎沙希といいます。今日は本当に、ありがとうございました」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その出会いは、沙希からすればそれなりにキレイな思い出だったのだろうと思う。

 

 だが八幡はあの日、慣れない酒で存分に酔わされ、陽乃がこっそりと取っていた部屋に連れ込まれた挙句、美味しく頂かれてしまった。翌朝、信じられない程の頭痛で目が覚めると、隣では陽乃が気持ち良さそうに眠っていた。同じくらいの量を飲んだはずなのに、どういう理不尽だろう。心中で嘆いてみても、現実は変わらなかった。八幡にとって頭痛で終わったその日の記憶は、どちらかと言えば後味の悪いものだった。

 

「お待たせしました」

 

 十二時少しを過ぎた辺りで、沙希は八幡の待つテーブルにやってきた。ベストを脱ぎ、上にジャケットを羽織った状態である。休憩中の従業員といった装いにこれで良いのかとバーカウンターを見れば、あの日、ウォッカマティーニを持ってきてくれたバーテンダーが、今日もウィンクを返してくれた。問題なし、という店側のリアクションに、軽く溜息を吐く。

 

「うちの弟が迷惑をかけたようで、申し訳ありません」

「他人には実感が湧かないかもしれんが、学校での俺にとってはこれが仕事のようなもんだ。お前が気にすることじゃない」

 

 それは八幡の本心だったが、義理堅い性格、というよりは他人に借りを作るのが嫌いな沙希は、自分の弟が恩人を引っ張り出したことにかなり負い目を感じていた。見るからに恐縮した様子の沙希に、八幡は苦笑を浮かべる。

 

「これも部活動なんだよ。実を言えば推薦の内申のためにやってることだ」

「内申……ですか」

「ああ。そして、お前にも関係のあることだろ? 学費のために働いてるんだろうしな」

「……どうしてそれを?」

 

 沙希にとってはそれは、純粋な疑問だった。何しろ一緒に暮らしている弟が、沙希の目的に思い当っていなかったくらいだ。それを他人に言い当てられるとは思ってもみなかったのである。近しければ近しい程その人間を理解できるというのは、実のところただの思い込みだ。距離を取って離れた他人だからこそ、見えるものだってある。沙希の話は、八幡にとってその典型だった。

 

「弟の話では、夜に出歩いて早朝に戻ってくるようになったのはいきなりだそうだ。中学までは真面目だったようだし、一緒に暮らしてる家族から見てそれまで非行の兆候がなかったんなら、そっちの線は薄い。かと言って、派手に金を使った様子もない。元々真面目となればそうなんじゃないかと思っただけなんだが、どうやら本当に本当だったみたいだな」

 

 かまをかけた風を装う八幡だったが、実際には半ば確信を持っていた。両親共働きという事情と、沙希を含めて子供が複数いることを加味すれば、川崎家が決して裕福な経済状況ではないことは想像に難くない。聞けば、バイトを始めた時期は大志が塾に通い始めた時期と被っている。いくらかはこっそり家計の足しにもしているのだろうが、究極的には将来のための貯蓄という線が、濃厚だ。

 

 経済的に苦しい家にとって、大学進学はかなりの負担になる。弟を大学に行かせる前提なら、姉の状況は更に苦しいと言って良い。奨学金という手もあるが、将来的に返済しなくても良いタイプのそれは審査が厳しく、成績が良かったとしても確実にゲットできる保証はない。進学そのものが目的であればそれ以外の奨学金でも十分助けにはなるが、いずれ返済することを考えれば金は用意しておくに越したことはない。

 

 とにもかくにも金、金、金である。

 

 八幡の言葉に、沙希は黙って俯いた。

 

 隠れてバイトをすることにしたのは、これ以上家族に負担をかけたくないと思ったからだ。弟には心配をかけることになったが、実際に不良になった訳ではないのだから、と内心で言い訳をして、自分を誤魔化してきた。今日まではそれで自分を騙すことができたが、八幡が同級生を引き連れて店にまでやってきたことでそれはご破算になってしまった。

 

 自分に似て、弟も引かないと決めたら一歩も引かない男だ。明確な成果が出ない限り、殴られても引かないのは目に見えている。ここまで話が大きくなった以上、家族の問題になることは避けられないだろう。親が腰をあげたら、バイトを始めた理由まで話さなくてはいけなくなる。家族の負担にはなりたくない。それだけは、何としても避けたかったことだったのだが……

 

 悔しそうに俯く沙希に、八幡は何でもないように声を挙げる。

 

「そこで、だ。俺は俺の内申のために、お前に耳よりな話を提供することにした。まず塾の費用だが、総武高校(うち)と提携してる塾でなら費用を減免できるシステムがある。俺は使ったことないが、調べたからやり方くらいは知ってる。お前なら申請すれば通るだろう。時間が作れるようになったら、教務の方にお前の方で申請してくれ」

 

 給付の奨学金は狭い門だが、沙希はまだ一年だ。最終的な成績次第では、それを獲得することも夢ではない。静に手配してもらって成績を調べたら、入学試験からこっち普通科の中では上位の成績をキープしている。本腰を入れて勉強すれば、一桁代のキープも十分射程範囲だ。バイトをしなくても良く、かつ成績も上昇する。これが最善のルートだが、世の中そう上手く運ぶ訳ではない。沙希の精神の安定のためにも、ある程度の金策は必要だった。

 

 しかし、できるだけ家族に心配をかけたくないという沙希の願望を叶えなければ、また今日のような問題が起こってしまう。バイトをするにしても、沙希が都合の付けやすい時間帯にする必要だあった。

 

「次にバイトだが、うちで家庭教師をしないか? うちの妹、世界一かわいいんだが残念なことに勉強の方はからっきしでな。お前の弟と同じ塾に通ってるんだが、それだけじゃ足りんとうちの両親は判断したらしい。最初は俺が教えるつもりだったんだけどな、俺相手だと手を抜きそうだと、女性で、信頼のできる相手がいないか探してるところだったんだ」

 

 店舗ではなく比企谷家が雇うことになるから、ここで働くよりも手取りは低くなる可能性があるが、睡眠時間を削って労働するよりはずっと沙希の身には優しくなるはずだ。普通に学校に行き、家族の面倒を見て食事の準備などをし、夜に家を出て早朝に帰るなんて生活をいつまでも続けられるはずがない。勤務時間応相談というのは、沙希にとっては魅力的な条件だった。

 

「それは、八幡さんにご迷惑では」

「金を払うのは俺じゃないし、勉強を教わるのも俺じゃない。金を出さない以上、俺が注文を付けるのも筋違いだろ? だがあえて注文を付けるなら、信頼のおける相手ってくらいだったんだが……お前は俺の注文通りの相手だしな。何も不満はない」

 

 強いて問題を挙げるならば、川崎家全体と仲良しになり、小町と大志が親密な関係になることだが、沙希が比企谷家に来る時に一人で来てもらえば、その心配もない。妹の部屋に他の男があがりこんでいたら、と想像しただけで胃がねじ切れそうになるが、その辺りの事情は沙希も汲んでくれるに違いない。

 

「後はそうだな。給付の奨学金を真面目に狙ってみるのも良いだろ。進学先が決まってるんでなければ、それを条件に進学先を探しても良い。その分、一年の今から本腰入れて勉強することになるが、その辺りはまぁ、頑張って努力してくれとしか俺には言えない」

 

 箸にも棒にも引っ掛からない学力ならば目も当てられないが、総武高校に入学しただけあってそれなりに勉強はできるのだ。家族に負担をかけないため、睡眠時間を削ってまでバイトをするという選択ができる人間だ。こつこつ勉強を続けるくらいは、難なくこなしてくれると信じたい。

 

「まぁ、こんなところだな。現時点ですぱっと解決したとは言えないが、勉強する環境、金銭的な問題、その他諸々、解決する用意がある。お前が一つ頷いてくれれば、俺はお前の状況を改善するために努力する。睡眠時間を削ってまでバイトするよりはマシだと思うが、決めるのはお前自身だ。時間をかけて決めてくれて――」

「お受けします」

「…………もう少し考えなくて良いのか?」

「反対する理由が一つも思いつきません」

 

 即決に、八幡は逆に不安になった。沙希は芯がしっかりしていて頭も良いが、それ故に悪い人間に騙されそうな気がした。これが罠であるとは欠片も疑っていない様子だ。これと信じた人間には、とことん尽くすタイプなのだろう。それはそれで長所ではあるが、時に欠点にもなるのだということは早い内に理解しておいた方が良い気もする。特に陽乃のような相手だと、知らない内に大失敗をしそうだ。

 

 他人などどうでも良いと思っている八幡だが、結衣とは違った意味で犬のようなこの少女のことを、他人とは思うことができなかった。本来ならばこの依頼が終了すれば切れる関係だったはずが、紹介したバイトのせいで関係を続けることになってしまった。正直に言えば、バイトの世話までする必要はなかった。それをしてしまったのは、既に沙希にそれなりの愛着を感じてしまっているからだ。

 

 頭がそれなりに回って、一本気。陽乃流の言い方をすれば、実に使いやすい女だ。一度しか会ったことのない男の話を鵜呑みにしている辺り、陽乃ならば一言『愚か』と切り捨てる救い難さであるが、その人間性が八幡は嫌いではなかった。誤解されやすいタイプだろうが、悪い奴ではない。自分が苦労することを厭わず、家族のために行動できる優しい人間だ。

 

 そういう人間が、良い目を見てほしいというのは、まだまだ甘いという証拠だろうか。陽乃ならばどう言うだろうと、沙希を前に八幡は考える。内心はどうあれ、結局は笑って許してくれそうな気がした。ならばきっと、これは犬として正しいことなのだ。

 

「何はともあれ、よろしくな。いきなり辞めるってのもアレだろうから、ここが一区切りついたらってことで良い。弟の方には依頼完了って話しに行く用事があるから、詳細を伝えておいても良いが」

「いえ、あいつには私の方から伝えます。貯金してることが親にバレると色々と面倒ですから、口裏を合わせてもらわないと」

「川崎さんちも大変だな」

「八幡さん程じゃ。話をしていて思い出しました。あの日、一緒に連れられてた方が、雪ノ下陽乃さんですね? それで八幡さんは、その……『女王様の犬』」

「一年の間にも悪名が轟いてるようで、何よりだよ」

 

 八幡は小さく溜息を吐く。それ程学校の事情に通じていなそうな沙希ですら知っているのだ。一年でもほとんどは知っていると考えて良いだろう。陽乃はもう卒業したというのに、大した影響力である。

 

「それを知ってるなら話は早い。陽乃の手伝いをした関係で、教職員にはそれなりにコネがある。単位をどうこうとまではいかないが、教務関係の話は通しやすいと思うぞ」

「その時には、お世話になります」

 

 ぺこり、と沙希は頭を下げる。実に従順で、つい先ほど雪乃とやりあっていた人間と同じとは思えない。当初から考えていた通り、雪乃とは相性が悪いことを先の会話で証明されてしまった訳だ。推薦の内申を上げるため、自分が取った方法と同じものを勧めることが、微妙に難しくなってきた。

 

 とは言え、推薦を狙うならば部活や委員会活動はしておいた方が良い。実績が残せないならば同じだという向きもあるが、白紙よりは何か埋めるものがあった方が良いというのが八幡と静の結論である。欲を言えば生徒会活動などにもねじ込んでおきたいところではあるが、家の仕事で時間を取られるならば、これ以上学校の仕事を押し付けるのも気が引ける。その辺りは沙希の事情も鑑みて、ということになるだろう。

 

「まぁ、話がまとまって良かった。俺はそろそろ行く。あんまり家族に心配かけないようにな」

「八幡さん」

 

 立ち上がろうとした八幡を、沙希の言葉が押しとどめる。提案に何か不足があっただろうか。椅子に座り直して正面を見ると、沙希とまっすぐ視線があった。

 

「内申のために参加してらっしゃる部活について、お話を伺いたいんですが……」

(あぁ、こういう展開か……)

 

 沙希がこういう提案をしてくると想像していなかった訳ではないが、雪乃と相性が悪いと感じた矢先のことである。例えば雪乃が沙希の立場だったら、相性の悪い人間がいる部活に、自分から参加をしたいとは言いださないだろう。沙希にすれば、自分が言いくるめた相手である。雪乃から見た沙希ほど苦手意識はないはすだが、それでも主義主張が普段からぶつかるだろうことは、想像に難くない。

 

 八幡が内申目的に参加している部活に、雪乃もまた参加していることは沙希も把握している。それにも拘わらずこういう提案をしたのは、自分の内面よりも実利を取ったからだ。内申のためならば、そりの合わない相手がいても我慢する。中々できない選択だが、おそらく沙希は我慢するだけで、仲良くする努力はしないだろう。部活に波風が立つのは、今の内から見えているが、自分が内申のために参加していると標榜している手前、お前はダメだと断るのは筋が通らない。

 

 どうやって紹介したものか。考えた八幡が、悩んだ末に出した言葉は、

 

「何か飲むか?」

「じゃあ、オレンジジュースを」

 

 なるようになるだろう。適当なところで、八幡は考えるのを止めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そんな訳で、今日から一緒に部活動に参加することになった川崎沙希だ」

「よろしく」

 

 八幡の雑な紹介に従い、沙希がそれ以上に雑な自己紹介をする。追加で新入部員が来るとは予想していなかったのか、八幡の目の前で雪乃たちは口を開けてぽかんとしている。そんな少女らを無視して、沙希はテーブルの一番端を自分の席と決めると、参考書を開いて勉強を始めた。学校での空いた時間は勉強に使うと決めたらしい。見上げた向上心だが、この強面で普段からこれでは、友達はできないだろう。クラスで孤立しないか心配である。

 

 勉強する沙希を眺める八幡の両腕を、姫菜と結衣が部室の隅まで引きずっていく。それに、興味なさそうな顔をした雪乃がついてくる形だ。沙希は部員たちにちらと視線を向けただけである。

 

「八幡先輩、八幡先輩。本当にたらしこんじゃったんですか? 回転するベッドのある部屋に連れ込んでオールナイトですか?」

「人聞きの悪いこと言うな。普通に話して、まとめただけだよ。結局、学費のためだったんだと」

 

 かいつまんで沙希の事情を説明すると、根が単純な結衣はさっそく絆された。尻尾を振って沙希を構いに行くが、沙希はその悉くを軽くいなしている。話しかけるなオーラをこれでもかと出している沙希に話しかける結衣も強者だが、集団の中で遠慮なくオーラを出せる沙希も相当だ。

 

 そんな結衣を他所に、雪乃は沙希の方を一度見ただけで、それ以降は視線を向けることもせずに文庫本に視線を戻した。昨晩、やり込められたばかりで相性が悪いことを自覚しているのだ。全てのことで負けるとは思ってもいないだろうが、雪乃も喧嘩が好きな訳ではない。自分が行動しないことで立てなくても済む波風は、立てないに限る。雪乃は雪乃で、奉仕部の平穏無事な空間をそれなりに愛しているのだ。

 

 雪乃が消極的な無視を決め込んだ後も、結衣はこれでもかと質問を重ね続けたが、結果は惨敗だった。肩を落としてとぼとぼ戻ってくる結衣と入れ替わるようにして、今度は姫菜が沙希の隣に座る。攻め手は結衣よりも遥かに緩やかだが、基本的に人間に興味がない姫菜はそれ故に、やろうと思えば適格に急所に踏み込むことができる。適当な答えはさせないとばかりに攻める姫菜に、沙希は戸惑いを隠せないでいた。

 

 横目で見ていた八幡は、落ちるのは時間の問題だなと確信し、自分で入れた紅茶に口を付ける。

 

「……私、川崎さんに嫌われてるのかな」

「川崎は誰にもあんな感じだろ? 気にするなよ」

「でも、ヒッキー先輩には川崎さん優しいじゃん。私も川崎さんと、お話ししたいよ」

「何かの漫画で言ってたが、友情って植物は花を咲かすのにとても時間がかかるらしい。長い目で行けよ。俺は知らんが」

「ヒッキー先輩冷たい!」

「他人事だからな……」

 

 誰と誰が友達になろうが、八幡にはどうでも良いことだ。ぷりぷりと怒る結衣を横目に見ながら、姫菜の様子を見る。巧みな手腕で次々と情報を引き出している姫菜はなるほど、リア充グループに所属しているだけのことはある。自分ではここまでスムーズにはいかないだろうな、と適当に考えていると、姫菜は唐突に振り向き、八幡に話を振った。

 

「八幡先輩。サキサキの趣味って何ですか?」

「なんで俺に聞くんだよ……」

 

 問い返すが、姫菜はふふ、とほほ笑むだけで答えない。その意図が八幡には解らなかったが、今まさに攻められていた沙希はすぐに察することができた。ヤバい、とはっきりと顔に書かれていたのを見ることができたのは、たまたま文庫本から視線を挙げた雪乃だけだった。同様に、機嫌良さそうに微笑した雪乃を見ることができた人間は、部室の中には一人もいない。

 

 ともかく、聞いて? と頼まれたと解釈した八幡は、姫菜の疑問をそのまま口にした。

 

「川崎、趣味とか特技って何かあるか?」

 

 八幡の問いに、沙希は一瞬答えを詰まらせた。自分のキャラにあっていない特技を口外することを、沙希はあまり好いていなかった。本音を言えば誰にも言いたくはないのだが、八幡に聞かれたら答えない訳にはいかなかった。

 

「趣味は特に。特技は……裁縫、だと思います、多分」

「裁縫!? あ、もしかしてサキサキのシュシュってお手製? すごーい、ちょっと見せてー」

 

 わざとらしく声を挙げた姫菜に、結衣も乗ってくる。沙希が参考書を広げているにも構わず、沙希お手製のシュシュの出来に、女子二人は遠慮のない歓声を挙げていた。普段、家族とくらいしか会話をしない沙希は、当然ながら褒められることに慣れていない。そもそも手腕を見せる機会があるのも、妹くらいのものだ。自分の仕事を褒められるのは悪い気はしないが、それ以上にこそばゆさを感じていた。それが同年代の同性なのだから尚更である。

 

 居心地の悪さを感じながら、助けを求め辺りを見回す。女物の装飾に興味のない八幡は、二杯目の紅茶をいれるべくポットに向かっていた。残っていたのは文庫本を読む雪乃だけだったが、沙希が視線をさまよわせるタイミングを狙いすましていたかのように視線を挙げた雪乃は、沙希と目を合わせると小さく笑みを浮かべた。

 

 人を小バカにした笑みというのは、こういうものを言うのだ、と教科書に乗せても良いくらいの笑顔である。それを、上品なままに行う辺りに雪乃の育ちの良さが出ていたが、育ちが良かろうが悪かろうが向けられる人間には関係がない。人並み以上の察しの良さを持っている沙希は雪乃の笑みを『良い気味だ』という風に解釈した。昨晩やり込められた報復なのは考えるまでもなかった。

 

 やはりコイツとは、ソリが合わない。

 

 沙希は遅まきながらに、それを確信した。いい加減女子二人が鬱陶しくなってきた沙希だったが、シュシュ一つにまだ二人は興味を維持したままである。どうしたものかと途方に暮れた沙希の前に、紅茶のカップが置かれた。

 

「粗茶……ではないな、茶葉は良い奴だ。市販の奴よりは美味いと思う、多分」

 

 腕前はそれなりだと思うのだが、雪ノ下姉妹の反応は相変わらず手厳しい。初めて飲む人間にはどうなのだろうと、沙希の好みも聞かずに勝手に淹れてしまった。ちなみに普段は自分で淹れたいものを淹れ、飲みたいものを飲むスタイルである。たかが部活仲間に、犬は茶坊主の真似事をしたりはしないのだ。

 

 沙希は恐る恐ると言った風で、カップに口を付けた。家にある飲み物と言えばジュースか牛乳くらいのもの。実を言えばカップに淹れられたお茶を飲むのも、随分と久しぶりのことだった。久しぶりに飲んだそれは、適度に温かく上品な味をしていた。正直に言えば物足りない気もするが、それを差し引いても、

 

「美味しいです」

「そうか、そう言ってくれるか」

 

 部室では久しく聞いていなかった褒め言葉に、気を良くした八幡はどうだとばかりに雪乃を見た。雪乃は読んでいた文庫本を閉じると、慈愛に満ちた表情を浮かべる。それで、何も言わない。無言でいられる方が、文句を言われ続けるよりも堪えるものだ。何よりも雄弁に内心を語った雪乃の沈黙が、八幡の心にちくちくと刺さる。

 

「……とりあえず、部室では飲み放題だ。道具はそっちにあるから、飲みたい時に淹れてくれ」

 

 どことなくしんなりした様子で、八幡は自分の席に座りなおした。しょぼくれた八幡を、沙希は不思議そうに眺めていたが、やがて興味をなくし、勉強に戻った。所定の時間に集まるが、誰もが他人の邪魔をしない。今日加わった沙希も、必要以上にその領分を犯さなかった。色々あったが、居心地の良い空間は守られた。八幡からすれば、当面は、それで満足である。

 

 

 

 



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一人を足して、少年少女は山へと向かう

小学生と二泊三日でキャンプ。

 

 リア充感満載な雰囲気に考えただけで吐き気がするが、それも一人で全ての子供の面倒を見るならばの話だ。そのイベントに参加する高校生は、何も八幡だけではない。奉仕部からは沙希を除いた全員が参加し、ここに何故か葉山組が加わっている。

 

 適材適所。何も苦手な人間が無理にその分野に手を出す必要はない。得意な人間がいるのならば彼らに任せれば良いのだ。葉山組が子供の面倒を見るのが得意かなど全く知らないが、リア充チームならばきっと無難にやってくれるだろう。子供たちも、人相の悪い男よりは彼らの方に好感を抱くに違いない。

 

 子供の面倒を彼らが見るとなれば、後は言われたことをただこなすだけだ。普段やっていることに比べれば、これほど簡単な仕事は他にない。二泊三日も拘束されるのは地味に痛いが、これも奉仕部が存続するためのノルマと思えば腹も立たなかった。

 

 実に簡単な仕事。その認識は、早朝、集合場所に着いた段階で早くも崩れ去った。

 

 集合場所に、陽乃がいた。思わず二度見してしまったが、間違いなくそこにいた。爽やかな夏の装いである陽乃はいつも以上に美しかったが、見とれている場合ではない。確かに、予め二泊三日で小学生のキャンプに、という予定を彼女に伝えてはいたが、これは陽乃を伴わずに遠出する時の義務のようなものだ。

 

 それに対して陽乃は特に何も言わなかった。これもいつものことであるから、無意識に気を抜いていたのかもしれない。陽乃に相対するのに、安心できる時など存在しないのだ。

 

 にこにこ微笑みながら手を振ってくる陽乃におざなりに手を振り返しながら、考える。

 

 陽乃が予想外のことをするのは今に始まったことではないから、ここにいることそのものに驚く必要はない。そういう気分だから、という理由だけで地球の裏側にでも行けるような人だ。千葉の山奥までキャンプに行く道中に現れ、合流するくらい何てことはない。

 

「会えて嬉しいですよ。キャンプとか行くんですね」

「小学校以来かな。散策するくらいならたまには良いけど、泊まりは嫌だよね」

「それでどうして今回参加を?」

「八幡が行くから、っていう理由じゃだめ?」

 

 下から覗き込むように見上げてくる。相変わらず、男心を擽るのが上手い人だ。内心、どきどきしているのを隠しながら、八幡は一つ咳払いする。

 

「ダメじゃありませんが、参加することが解ってたら色々とすることができたと思うんですがね」

「前日、私の部屋にお泊りできたね。一緒に楽しく準備したり?」

「……まぁ、それは否定しません」

「八幡のすけべ~」

 

 からかわれ始めると、八幡は精神的に劣勢に立たされる。大分旗色が悪くなってきた。ここで更に調子に乗らせると、キャンプの間ずっとからかわれることにもなりかねない。誰か助けてはくれまいか。視線を彷徨わせると、視界に隅に綺麗な黒髪が見えた。

 

 その黒髪の持ち主――陽乃の妹であるところの雪ノ下雪乃は、姉とその恋人が並んで立っているのを見ると、ぽとりと荷物を落とした。ぐっと身体が動いたのは、そのまま踵を返そうとしたのを理性で強引に押しとどめたのだろう。気持ちは解る。八幡も雪乃と同じ立場だったらそうした。

 

 雪乃の後ろには結衣と姫菜、それから葉山組の面々がいた。一年は全員、時間を合わせてきた……ように見えなくもないが、雪乃と結衣と姫菜の三人と、それ以外の面々には若干の距離がある。三人とそれ以外で集合し、それがたまたま一緒になったと考える方が自然である。

 

 結衣は陽乃の顔を見た瞬間に凍り付いた。この世で最も自分を歓迎していない人間がいたのだから当然であるが、結衣と同じように陽乃の顔を見て凍り付いた人間がもう一人いた。葉山組のリーダーである葉山隼人である。

 

 朝からお通夜ムードになった二人と雪乃を他所に、葉山組の男子一同は陽乃の登場に盛り上がっていた。既に卒業したとはいえ、雪ノ下陽乃の名前は一年の間でも有名である。生徒会の一色いろはのように、彼女に憧れて総武高校を目指した、という人間も少なくはない。

 

 陽乃本人は、自分のやりたいようにやっていただけと笑うだろうが、高い進学率などよりもよほど、学園の広報活動に貢献したと言える。テンションの上がった男子一同を、陽乃はにこやかに、しかし物凄く適当にあしらっていた。

 

 八幡から見ると、陽乃が男子一同を路傍の石とも思っていないことは一目瞭然だったが、男子一同はそれに気づかない。普通は、陽乃に微笑みかけられればそれだけで満足なのだ。

 

 男子一同とは対象的に、くるくるした金髪の三浦優美子は、陽乃との距離を取りあぐねていた。相手は3つ年上の大学生で、今なお総武高校に異名を轟かせる伝説の女だ。女王(ちから)なるものがあるとしたら、その強弱は歴然である。

 

 優美子も一年の中ではそれなりの存在感を持っているのだろうが、こういう時、年齢の差はいかんともしがたい。大人しくしているのが賢明な判断というものだが、普段通しているキャラというのは簡単に変えられるものではない。優美子にとってはこの二日間、居心地の悪いものになるだろう。陽乃の側に、優美子に配慮する気持ちがあれば別だが、陽乃もキャラかぶりには厳しい。女王キャラは一つの集団に二人もいらないのである。

 

 陽乃相手に無邪気に盛り上がっている後輩を眺めていると、隼人と視線が合った、彼は周囲を伺うと、人目をはばかるようにこっそりと歩み寄ってくる。

 

「――どうにかできなかったんですか?」

「悪いな。俺も今知ったところだ」

「サプライズって奴ですか。お二人はいつも、こんな感じなんですか?」

「いやぁ、流石にいつもじゃないな」

 

 ははは、と乾いた笑いを漏らす八幡に、葉山は苦笑を続けるが、

 

「いつもこんなに温かったら、俺はもう少し楽な学生生活を送れたろうな」

 

 その発言に、葉山の苦笑は凍り付いた。きっと、今まで色々な苦労をしてきたのだろう。雪ノ下さんちと家族ぐるみの付き合いとなれば、物心ついた時から陽乃の影が付きまとっていたに違いない。想像するだけでぞくぞくする環境であるが、この感性を共有できるのはきっと、今日集まった面々の中では姫菜だけだ。

 

 姫菜は今、旧来の友人であるかのように、陽乃と親しくしている。ここまで初対面で陽乃と近い距離を取れた人間は、八幡の記憶にある限りでは一人もいない。仲良くなれるだろうとは思っていたが、姫菜の距離の近さは想像以上だった。

 

「八幡先輩、八幡先輩」

 

 どんよりした葉山と入れ替わるように、姫菜がやってくる。BL話でテンションが振り切れている時を除けば、いつになく興奮した様子での姫菜に、今度は八幡が苦笑を浮かべた。

 

「仲良くなれたみたいで良かったよ」

「いやー、凄い人ですね、陽乃さん。私、あんなに上っ面だけの会話を楽しめたの、生まれて初めてですよ。いるんですね、ああいう人を人とも思わない人」

「――お前が言ってると褒め言葉にしか聞こえないな」

「褒めてますよ? 心の底から。私が今まで出会った中で、二番目に気が合いそうな人ですね」

「あれ以上がいるとは驚きだな」

「あれ以上が何言ってるんですか」

 

 やだなー、と背中をバシバシと叩かれる。気の合う陽乃と会話をしたことで、テンションが上がっているのだろう。それはそうと、と改めて視線を向けてきた姫菜の目は既に、腐りきっていた。

 

「隼人くんと何話してたんですか? ダメですよ恋人がいるのに。でもでも、そういう路線で燃えるっていうなら私もアシストしちゃいますよ? あんな美人の彼女がいるのにイケメンと浮気とか業が深いですね八幡先輩」

「お前がいつも通りで俺も安心だよ」

 

 ぐふふと妖しく笑って近づいてくる姫菜の頬を無理矢理掴んでタコにする。年下とは言え女子にする行いではないが、これくらいで怯むのであればどんなに楽だったか。どうにか押しやろうと姫菜に抵抗していると、静がやってくる。貯金を叩いて買ったアストンマーチン・ヴァンキッシュではなく、全員乗れるワンボックスカー。おそらくレンタカーだろう。自分から手を挙げた訳ではない仕事だろうに痛い出費だが、経費で落ちるのか他人事ながら心配である。

 

「待たせたな、皆乗ってくれ。ああ、八幡。ナビ役の君は助手席だ」

 

 集団の中に座りたくなかった八幡にとって、それは天の助けだった。顔には出さないようにしながら、嬉々として助手席に乗り込む八幡を余所に、残りの面々がぞろぞろと後部座席に乗り込んでいく。これだけ人数がいると流石に手狭だが、早速集団の中心になりつつある陽乃が音頭を取って座席を割り振っていく。

 

 妹や知人がいるとは言え、初めて会った人間の方が多いのだから、如何に陽乃でも普段であればもう少し時間がかかっただろうが、陽乃の行動に一々姫菜がフォローに回っている。話が早く進んでいるのはこのためだ。

 

「犬のお株を奪われた形かな?」

「頭数が増えるのは良いことですよ。俺も負担が減るんで」

「まぁ、そういうことにしておこうか。しかし、陽乃から連絡が来た時にはどうしたものかと思ったが、蓋を開けてみれば、何とも無難じゃないか。あいつがここまで大人な行動ができるとは、私は知らなかったよ」

 

 静の言っているのは、結衣とのことだ。雪乃や八幡に次いで陽乃の性格を良く知っている静は、同時に彼女がどれだけ結衣に敵対心を持っていたかを知っていた。興味を持っていないだけならば雑な対応で済むが、一度敵と認識した場合、陽乃の行動には容赦がなくなる。静が心配していたのは、結衣が言葉なり行動なりで責められたりしないかということだったのが、陽乃は結衣とはきっぱりと壁を作ることで対応していた。

 

 それはそれで大人気のない対応だが、一時期、首でも絞めかねないくらいだったのを考えれば大した進歩である。これからも雪乃との友情が続けば、やがてこれも改善されていくことだろう。結衣ともそれなりに親しくなってしまった今、犬としては無駄な波風が立たないことを祈るばかりである。

 

「子供に悪い影響がなければ良いんですがね。小学生の内からあんなのに触れて大丈夫なんでしょうか」

「人生何事も経験だよ。それに、雑に仕事を片付けているのに相手にそう思わせないのは陽乃の得意技だ。小学生の集団くらい、手足のように統率するだろう。子供の面倒を見るということだけを見れば、あいつ以上に適任の存在はいないぞ」

「俺は子供はそんなに得意じゃないんで、助かりますが」

 

 打算ではなく感情で動く子供は、八幡にとっては苦手なものの一つだが、感情の化け物たる陽乃にとっては、御しやすい生物であるのだろう。陽乃が子供が得意というのもイマイチピンとこないが、苦手なよりは遥かに良い。任せることのできる相手が増えたと前向きに考えれば、更に良い。

 

 ただ、陽乃がいる以上、ただのキャンプでは終わらないだろう。公平とか無償の奉仕とかいう言葉と同様、無難や平穏無事というのは陽乃が嫌う言葉の一つだ。集まっているのは彼女からすれば初対面の小学生ばかりだろうけれども、その小学生相手にさえ何かやりかねない。

 

「そういう時は何とかしてくださいよ、平塚先生」

「私は生徒の自主性を重んじる主義なんだ。未成年は未成年同士、気楽になると良い」

「他人事だと思って……」

「なに、陽乃が大学生になったように、君らもいつか成人するんだ。未成年の内は、未成年にしかできないことをやりたまえ。それは私にはない君らの特権だ」

「俺が大人になったら、先生のアストン・マーチンを運転させてもらえます?」

「それとこれとは話が別だな。でもそのうち、助手席には乗せてやろう。緊急脱出のシートはついていないが勘弁してくれ。あれはそのものじゃなくて、親戚なんだ」

「ミサイルかステルス迷彩で手を打ちますよ。何はともあれ、楽しみにしてます」

 

 




ちなみにサキサキは家の用事で参加できませんでした。
その穴埋めのイベントは番外編でやろうと思います。できればけーちゃんと一緒に。

夏休み中のイベント(予定)
・キャンプ(ルミルミ編)←いまここ
・夏祭り

確定なのはこの二つ。思いついたら追加します。



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どんな場所でも、雪ノ下陽乃は我を通す

 現地に着くと、早速班分けが行われた。ぐるりと見回してみれば、三つ子の魂百までとでも言うべきか、この年の段階で小学生の見た目に、リア充かそうでないかの違いが表れているのだ。長いこと非リア充側にいて、今もそこに片足を突っ込んでいる身からすると、この事実はとても悲しい。

 

 特に男子はその差が顕著だった。自分でこのイベントに参加したのか、親だか何だかに強制されて参加したのか。八幡にもそれが解るのだから、彼らの嫌々感も半端がない。ボンボン派はアキバ系に。コロコロ派は渋谷系になるという迷信を昔に聞いたことがあるが、なるほど。強制的に参加させられたと思われる方は、ボンボンを読んでいたような気がしないでもない。

 

 そして、高校生の側からそれが解るのだから、小学生の側からも解るのが道理というものだ。高校生から見た小学生は紛れもない子供だが、小学生から見た高校生は大人の仲間である。高校生チームの中で、見た目の段階から明らかに尊敬を集めているのが、容姿が優れていて人当りも良さそうな陽乃と隼人。陽乃は主に男子からぎらぎらとした、隼人は女子からきらきらとした視線を向けられている。

 

 それに不機嫌になっている雪乃と優美子が、体感の尊敬度では二人に続いていた。容姿は優れているが雰囲気に難があるコンビだ。容姿のレベルで言えば雪乃と優美子には若干の開きがあるが、ちびっこたちからすればそこまでの差はないのだろう。

 

 これにそれ以外の面々が続く。容姿のレベルだけで言えば結衣も雪乃のコンビにいてもおかしくはないのだが、

多くのことを年上の人間に任せなければいけない小学生の立場からすると、その緩い雰囲気から『この人に任せて大丈夫なのか……』と不安になるのは否めない。

 

 反して、姫菜は腐ったオーラを引っ込めて擬態していれば、クラスに一人はいそうな感じの美少女である。何でもそつなくこなせそうな雰囲気は、小学生から見たら頼もしく思えるだろう。それでも容姿の優れた組に比べると人気の面では見劣りするが、見た目だけで不安になりそうな隼人以外の男子一同と比べれば、相当頼もしく見えるに違いない。

 

 男子が五人で、女子が五人。小学生のグループが5つということで、高校生組の方でもグループ分けが行われた。誰が誰と、ということを話しあいで詰めていくとまとまりそうにないため、最初からクジである。その結果、陽乃戸部ペア、隼人優美子ペア、結衣大岡ペア、雪乃大和ペア、姫菜八幡ペアとなった。

 

 意中の相手とペアになることのできた戸部と優美子のテンションが最高潮に達したところで、キャンプは始まる。高校生と小学生ということで、最初は距離を作っていた子供たちも、高校生側の歩み寄りにより段々と良い雰囲気を作り始めた。

 

 これで最後まで行けば何も問題はなかったのだろうが、対処する人間の質によって結果に差が出るのは世の常。盛り上がっている班とそうでない班が綺麗に解れた始めたことで、八幡は周囲の班を観察することに始めた。

 

 人当りの良い隼人は子供受けも良く、男子からも女子からも見事に慕われていた。意外だったのは優美子だ。あの見た目で面倒見が良いらしく、子供相手にも笑顔を振り撒いている。隼人とベアを組めたということも良い方向に働いているのかもしれない。加えて実は男を立てる性質だったようで、隼人の行動の邪魔にならないよう、逐一彼の行動に気を配ってフォローまでしている。

 

 これで料理まで完璧だったら言うことはないのだが、そちらについてはそこまででもないようだった。隼人主導で行われるカレー作りでは、子供たちに交じって隼人に尊敬の視線を送っている。

 

 ガハマペアは男子の力不足が目立つものの、それを結衣が一人でカバーしていた。悪く言えば八方美人な結衣は良く言えば感受性が豊かで、子供の話にも一々感情移入し、同調することができる。それが当初の頼りなく見えるという評価をすぐに覆した。子供もちゃんと話を聞いてくれているというのが解るのだろう。それだけに心を開くのも早い。

 

 単純に、目の前で揺れているおっぱいに男女ともに騙されている感も否めないが、それで集団がまとまっていて楽しそうならば、それはそれで結衣の功績だろう。心配なのはカレーの出来栄えだが、そこまでは八幡の知ったことではない。

 

 一番、というよりも唯一和気あいあいとしていないのが雪乃ペアだ。カレー作りはきっちりとしたスケジュール管理により、粛々と進められている。小学生たちもきちんとそれに従っているのだが、集団行動の勉強にはなるだろうが、楽しそうではない。

 

 小学生の面倒を見るという点で、目的は達成できているのだろうが、キャンプそのものの目的から鑑みると、雪乃の班は合格点が貰えるか怪しいところである。小学生の側から不満が出ないことを、奉仕部メンバーとしては祈るばかりだ。

 

 不満が出るかは別にして、子供の管理ということだけならば雪乃でも問題はないだろう。そう自分を無理やり納得させたところで、八幡は陽乃から視線を向けられていることに気づいた。見れば、彼女だけでなく班の小学生とついでに戸部もこちらに注目していた。どう考えても、良くない感じの視線である。

 

 そんな中、笑顔で手を振ってくる陽乃に、八幡は力なく手を振り返した。

 

 それだけで、陽乃班の小学生、特に女子から黄色い歓声が挙がった。ああいう雰囲気がどうにも好きになれない八幡は、苦笑を浮かべて視線を逸らす。大方、陽乃が『事実』を公表したのだろう。恋愛及び性的ゴシップが好まれるのは、どの地域どの世代でも変わらない。手伝いにきた高校生の中にカップルがいれば、小学生が興味を集めるのは当然のこと。それが陽乃のような美人であれば尚更だ。

 

「八幡先輩、陽乃さんの班を見てどうしたんですか?」

「別に、何でもねーよ」

「そうですか。戸部っちのことが気になるなら、こっそり紹介しますから。いつでも言ってくださいね?」

「お前、男友達売るのやめろよ……」

「良い子ですよ? 戸部っち。隼人くんと比べるとちょっと玄人好みな気がしますけど、八幡先輩なら大丈夫だと思います。先輩パワーで男の魅力を教えてあげてくださいね」

「気が向いたらな」

 

 いくら言っても聞くような相手ではないので、あえて曖昧な返事で気を持たせておく。姫菜も、本気で八幡が男趣味に走るとは思っていないが、その曖昧な返事から妄想が発展して黄色い悲鳴を挙げる。女子高生が頬を染めて大きく悲鳴を挙げると、それだけを見れば男心を擽って仕方がない光景なのだが、頭の中身がホモ一色となれば男としてはげんなりするばかりである。

 

 突然奇声を挙げた姫菜に、小学生たちは怪訝な顔を向けるが、まぁそういう人なんだろうとあっさりと興味をなくしカレー作りに戻った。既に作業の分担は済んでいて、仕込みも始めている。ここでもたもたしていて作業をしくじることがあれば、今日の夕食に影響が出ることは小学生たちも解っていた。こんな世の中である。女子高生が奇声を挙げるくらいは、どうということはない。目の前の変人よりも、未来の夕ご飯だ。

 

 元々、将来の目標は専業主夫と考えていたこともあり、かつ陽乃と恋人関係になってから料理のレパートリーも増えてきた。唐突にあれが食べたい、これが食べたいという陽乃のリクエストに応えるためだ。今さらカレーくらいどうということはない。

 

 小学生たちが料理をしたことがあるかというのが不安だったが、姫菜と八幡の班は比較的当たりであり、自分からキャンプに参加した積極的な人間が多くいた。元より、カレーは市販のものを使っている。ルーとご飯の水の配分を間違えず、過剰に時間をかけたりしなければ、そうそう不味いものはできない。

 

 手際の悪い人間がいれば手伝うことも考えたが、怪我をしないように監督するだけで大丈夫そうだ。そうなると見ているだけというのも暇である。何か時間を潰せることはないか。視線を彷徨わせると、一人の少女が八幡の目についた。

 

 美少女と言って良いのだろう。長くて黒い髪。小学生にしては落ち着いた雰囲気で、料理の手際も悪くない。陽乃班の女子の一人だが、この少女は一人で淡々と作業をしていた。元々ぼっちである八幡は、他人との距離感に敏い。他の面々とあの少女の間に、透明で強固な壁があるのが良く解った。

 

 少女の方から距離を置いているようにも見えるが、他の面々にも、少女を排除しようという意思は感じられる。どちらも強烈でないのが救いだろう。これを「いじめ」とするならば、まだ初期段階だと思われる。これから悪い方向に発展することはいくらでも考えられるが、現時点では最悪な状況ではない。

 

 何か手を打つならば今の内、というのが八幡が少女を観察した結論だ。気になるのは、少女が陽乃班にいるということだ。自分が気づくならば陽乃が気づいていないはずがない。にも拘わらず、陽乃も少女の孤立を放置している。

 

 普通の感性を持っている人間ならば、これをどうにかしようと少しは思うはずだが、幸か不幸か陽乃は普通ではないし、いじめを根絶しようとか、そういう正義感は欠片もない。

 

 だがそれ以上に、陽乃は完璧主義である。自分の周囲にいじめがあっても積極的に関わったりはしないのだろうが、今は出先のことだ。ここで目についた問題を放置して帰ることは、陽乃の性格的にありえない。

 

 良い方向に持っていくか、悪い方向に加速させるか。それは陽乃の気分次第であるが、少女が一人であるのを見るに、まだ手を出してはいないはずだ。

 

 自分が気づいて、陽乃も気づいている。ここには他の奉仕部のメンバーもいるから、夕食が済む頃には全員の耳に入るはずだ。遠からず、あの状況をどうにかしようということになるだろう。二泊三日のイベントであるから、どうにかするとしたら今日か明日しかない。

 

 作戦を練る意味も込めて、それを決行するとしたら明日の夜のはずだ。奉仕部の活動としてでなく、あくまで個人的に処理するのであれば、それまでにどうにかするしかない。問題は、陽乃がどういう行動をするのか読めないところだ。奉仕部に任せそうな気もするし、自分でやりそうな気もする。

 

 雪乃がいるから奉仕部に任せる可能性の方が高いと見ているが、陽乃が八幡の想像を超えた行動をすることはそうでなかった時よりも圧倒的に多い。八幡が何より恐れるのは、先走って行動をした挙句、結果的に陽乃の意思に反することをしてしまうことだ。

 

 ならば確信が持てるまで放置しておくに限るのだが、受け身になっていると陽乃から指示を受けた時に間に合わない可能性がある。何を言われても対処できるように、準備をしておくべきだろう。普段であれば情報収集から始めるのだが、ここはアウェーで使える道具も人材もない。

 

 唯一の情報源は小学生たちだが、男子高校生が女子小学生の情報を嗅ぎまわっているというのは、他人の目から見て明らかに異常行動である。このご時世だ。怪しい事案として即座に通報されてもおかしくはない。

 

 初手から手詰まり感が漂っていることに、八幡はそっと溜息を漏らした。これは使えない子と判断されて説教コースだろうか。それはそれで嬉しいから別に構わないのだが、陽乃程ではないにしても、八幡も完璧主義のきらいがある。使えない子と思われることは最悪構わないにしても、目の前の問題に何も手を出すことができないこの状況は、精神衛生上、あまり好ましいものではなかった。

 

 さて、どうしたものか。

 

 小学生を監督しながら考えている内に、ポケットのスマホが震える。電話、コールが一回。間違い電話の可能性も否定できないが、このタイミングで、となると相手は陽乃に違いない。事前に変更の通達がない限り、1切りは『今すぐ集合』の意である。

 

 陽乃に視線を送る。八幡の視線を受けた陽乃は、機嫌良さそうにほほ笑んでウィンクして見せた。その笑顔を見て、陽乃は自分でこの問題に対処するつもりなのだと理解した。

 

 小学生の少女に、雪ノ下陽乃というのは劇薬にしかならないと思うが。

 

 せめて良い結果になるように、と八幡は全く信じていない神様に祈りを捧げた。

 



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だからこそ、鶴見留美は目をつけられる

「一応、言うだけ言っておきますが、小学生に手を出すってのはどうなんですかね」

「珍しいね。八幡がいきなり私に意見するなんて」

「一番最初じゃないと意見できないということを学んだもので……」

 

 視線を逸らしながら八幡は言うが、自分の抵抗が形だけのものであることは本人が一番理解していた。陽乃がやると言えば、大抵のことはそのまま受け入れてしまう自負があるし、陽乃も、何か言われた程度では自分の行動を曲げたりはしない。

 

 八幡としては行動に移す前に飽きてくれるのが一番平和で良いのだが、キャンプの合間に小学生に目につくように集合をかけたあたり、相当ヤル気になっているのは間違いない。今さら一言二言言われた程度では、陽乃の気持ちは変わらないだろう。

 

「まぁ、八幡が何と言ってもやるけどね。無駄だって解ってるのに意見して……かわいい」

「褒め言葉と解釈します。それで、ぼっちになってた女の子をどうこうしようってことで良いんですよね?」

「そうだね。クラスの人気者は無理でも孤立しないようにしてあげたいの」

「それはまた優しいことで」

 

 八幡の言葉には、少なくない驚きも込められていた。

 

 陽乃はその他大勢の人間のことなど、路傍の石程の関心も持たない。大事な人間とそうでない人間の区別が、常人よりもはっきりと付いているのだ。今日会ったばかりの小学生など、人間と認識しているかも怪しい。件の少女が孤立して見えたのは事実だろうが、あの陽乃が態々時間を割くような事例にも思えない。

 

 理解の色が浮かばない八幡を見て、陽乃は笑みを浮かべた。出来の悪い生徒を前にして教師のようなその顔は、実に嗜虐的な雰囲気に満ちている。

 

「あれー、本当に解らない?」

「恥ずかしながら。答えを教えてくれると助かります」

 

 ポーズで降参の意を示す八幡に、陽乃は顎に指を当てて考えた。大抵の場合、自分で考えろと突き放された挙句、かなり勿体ぶられた末に答えを教えられるのだが、

 

「そう? なら教えてあげる」

 

 今回は違った。言いたくて仕方がないという顔をしている。陽乃がこういう顔をする時、出る話題は一つである。

 

 陽乃はスマホを操作して、画面を八幡に見せた。昔の写真をデータ化したものだ。どこかのパーティだろうか。中央には着飾った二人の少女がいる。片方は陽乃だ。周囲の大人と比較して、おそらく小学生くらいだろう。目も覚めるような華のある美少女で、写真ごしでも解る圧倒的な存在感は健在である。

 

 そして隣にいるのは、写真の状況を推測するに雪乃なのだろう。隣の陽乃に顔立ちも似ているし、今の雪乃と比べても十分に面影があるが、その雪乃を見て、八幡は別のことを考えていた。

 

「あぁ、雪乃に似てるんですね。あの子」

 

 孤立していた少女は、幼い頃の雪乃によく似た面差しをしていた。無論、瓜二つという訳でもない。度合で言えば陽乃の方が近いが、他人でここまで似ているのならば十分そっくりと言える。この雪乃と並んでいれば、あの少女も姉妹と勘違いされたに違いない。

 

「雪乃と似てるから助けるんですか?」

「それが一番の理由かな。私が他人を助けるなんて、そんなものだよ」

 

 あの陽乃が世界一かわいいと公言して憚らない愛する妹だ。それに似ているというだけで、陽乃からすれば十分に救うに値する。これだけでも陽乃にとってはかなりの特別対応だが、当然のことながらあの少女は雪乃本人ではない。特別対応と言っても最後まで面倒を見るつもりはないだろう。

 

 手を差し伸べるのはきっと、このキャンプの間に一度だけだ。

 

 それでどうにもならなければ、陽乃は何のためらいもなくあの少女を切り捨てる。陽乃が手を貸すのだ。どうにかする自信があるからそれを口にしたのだろうが、仮に失敗したとしても彼女は気にも留めないだろう。愛する妹に容姿が似ている程度では、少し手を貸す以上の関心を得ることは難しい。

 

「さて、あの娘の情報ね。名前は鶴見留美。小学校六年生で家族構成は両親と本人。一人っ子みたいね。最近は特に仲良くしてる友達はなし。というか、軽いいじめにあってるみたい。隼人の班だったかな。女の子が三人いたでしょ? あのグループがやってるみたいよ」

「いつの間にそんな……」

「信頼されるってのはこういうことだよ? 私には簡単。でもさ、皆本当に口が軽いと思わない? 特殊詐欺がなくならない訳だねー」

「その時は俺を受け取り役とかにしないでくださいね?」

「使うならもっと重要で大変な役回りで使うから安心して? 受け取り役なら、今日あった中では戸部くんとか良いんじゃないかな? あの子がやることなら、裏があるとは誰も思わないだろうし。それで、留美ちゃんの話だけど、八幡みたいに最初からぼっちだったらこんなに情報は広まらないね。どの辺りまでかは解らないけど、途中までは普通に過ごしてたみたいよ」

「人間、些細な切っ掛けで関係も環境もがらりと変わるもんですからね。俺も経験があります」

 

 八幡の場合、人生最大の転換点は些細でも何でもなかった。振り返ってみれば、よくプレッシャーに負けずに登校拒否にならなかったものである。そうならないように陽乃が誘導していたのかもしれないが、それにしても、中学までの自分を振返ってみると、陽乃に喰らいついていけたのは、奇跡とさえ言える。

 

「私のことを考えてる顔してる。ねぇ、あの時私に声をかけられて、何て思った?」

「運命は感じませんでしたね、残念ながら」

「ここは嘘でも運命でしたって言うところじゃないの?」

「俺が運命でしたとか言ったら、どうしてました?」

「キモいって笑ってた。八幡にはそういうかっこつけは似合わないよ」

「俺だって、たまにはかっこつけたいと思う時くらいはあるんですよ。一生に一度くらいだと思いますが」

「プロポーズの時くらい?」

 

 陽乃にとって、それは何気ない問いだった。一生に一度という言葉から連想した言葉を、何も考えずに口にした結果、しかし彼女は思わぬ羞恥を味わうことになった。ここにいるのは年頃の一組の男女で、恋仲である。結婚するなどお互いに、まだまだ先のことだと思っていたが、陽乃はいずれ確実に、八幡の方はそのうち何となく結婚することもあるだろうと考えていた。

 

 男女の間のことである。将来、隣に立っている人間が今隣にいる人間とは限らない訳だが、現状、特に問題を抱えていない間柄ならば、順当にこの関係が続けばいずれそうなる、というイメージを何となく想像することくらいはあるものだ。

 

 八幡の方は将来像と一緒で漠然と、何となく想像したことがある程度だったが、陽乃の方はそうではない。他の人間の関心のなさから言えば、八幡と妹雪乃に対する執着は狂的とさえ言える。その狂的な感性から言えば、女の子が生まれたら名前は陽華にしたいと希望を持っているくらい、当然過ぎるくらい当然のことだったが、眼前にいる男性は、この世で最もそれを秘密にしなければならない存在だった。

 

 雪ノ下陽乃は、自分が他人にとってどの程度価値があるのかを良く理解していた。その明晰な頭脳によれば、恋人は自分の『完全で完璧なところ』に最も好意を持っていると分析していた。年頃の少女のような反応というのは隙でしかない。

 

 実は年頃の少女のように照れているのだということを顔に出さないように、笑顔の裏に努めてその羞恥を隠す。

 

「もし私にプロポーズをする時は、膝をついてかっこつけたりしないでね? 真面目な場面で笑ったりしたら、八幡が傷ついちゃうから」

「その時は、よくよくセリフを考えて求婚させていただきます」

「うん。期待しないで待ってる……で、何の話だっけ? 今度一緒に行く旅行の話?」

「あの女の子をどうにかするんでしょう?」

 

 八幡は呆れた様子で、小さく溜息を漏らした。陽乃は既に飽き始めている。やらないで済むならそれで良いような気もするが、察するに、ここで先に手を打っておかないと不味いことになる。どっちの場合も不味いに違いないが、より被害が少ない方はどちらかを考えるなら、陽乃が一人でやる方がまだマシに思えた。

 

「自分で言い出したこと、忘れないでくださいよ」

「ああ、そうだったね。八幡と話してたら、どうでも良くなっちゃった。実は八幡が一人でやりたいなら、私はそれでも良いけど、どうする?」

「小学生とは言え女子ですからね。俺一人だと手に余ります。もたもたしてる内に、俺を含めた高校生連中で何とかすることになるでしょう。それは陽乃も、好ましくないと思うんですが?」

「雪乃ちゃんたちの手腕を見てみたい気もするけど、今この時に限って言うなら、あの子のことは私の方が上手く面倒みられると思うんだよね……」

「どうします? 明日の朝には作戦会議が開かれると思いますよ?」

 

 高校生組の内、敏い連中は留美の扱いに気づく。集団の中で少女が孤立しているのだ。姫菜以外はきっと、何とかしてやりたいと思うに違いない。また、集団の主導的立場である隼人と雪乃は、その考えを実行に移そうと提案するタイプだ。実際、留美の状況を改善するに有効な手段を思いつくかは別にして、行動することそのものは、高校生組の間で前向きに考えられることになるだろう。

 

 その場合の成功する確率は未知数であるが、相手を慮った案が採用されるに違いない。

 

 だが、相手のことを考えた案が相手にとって最も良い結果を生み出すとは限らない。陽乃は相手のことなど考えもしないだろうが、その手段を問わないというのであれば、不特定多数が含まれた人間関係を操作することにおいて、陽乃の右に出るものはいない。

 

 孤立している今の状況を楽しめるようなら別に手を出す必要はないが、八幡の目から見ても、留美は寂しさを感じているように思えた。

 

 孤独に慣れるには時間が必要で、留美はまだ小学生。孤立したばかりというのなら、余計に寂しさを感じている時期だ。人間には友達が必ず必要だと言うつもりはないが、孤独を愛することができないならば、それを埋める手段はどうしても必要になる。

 

 問題は、終わり良ければ全てよしとする陽乃と、結果は当然として手段にも拘る雪乃の確執だ。陽乃と雪乃。八幡から見てどちらを取るのかなど考えるべくもないが、陽乃にとって雪乃は最愛の妹だ。あれで仲は悪くないようだし、姉妹仲に恋人とは言え口を挟むべきではないのかもしれないが、姉妹喧嘩の要因になりそうなことは、聊か看過しにくい。

 

 これが原因で仲がこじれるようなことがあったとしても、陽乃は恨んだりはしないだろう。むしろ、その状況を楽しむくらいの余裕はあるが、雪乃はそうではない。一人暮らしを勝ち取り、普段は大学に行っている陽乃は、雪乃と顔を合わせる機会は以前ほど多くはないだろうが、八幡は基本、毎日学校で顔を合わせる。

 

 部室にいる間、ちくちくと嫌味を言われるようになったら……実を言えば、それはそれで望むところではあるのだが、腐った精神をお持ちの同僚に、ネタを提供することもない。小説の中とはいえ、TSした雪乃とあれやこれやというのも抵抗がある。今後の安定した学校生活のためにも、問題はできるだけ早く片づけた方が良い。 

 

「一人でいるところを狙って、声をかけてくるね。すぐには効果は出ないと思うけど、雪乃ちゃんたちが動くようなことにはならないと思うけど」

「目につくように陽乃が動けば、あっちはあっちで動くような気もしますが」

「即座に邪魔はしてこないと思うよ。様子見してる間に効果が出れば、文句も言ってこないんじゃないかな」

 

 外堀は全て埋められている。後は行動に移し、結果を出すだけだ。実行役の陽乃は既にやる気になっているし、八幡にはもう止める手段はない。

 

 

 

 

「……お手並みを拝見させていただきます」

「たまにはご主人さまらしいこともしないとね?」

「陽乃がご主人様らしくなかったことなんてありませんよ」




タイトルに名前が入っていたのに登場しないとは初めてかもしれませんごめんなさい


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時を経て、雪ノ下陽乃は報復する

 夕食が終わった後、気付いたら一人になっていたことに鶴見留美は溜息を吐いた。クラスを主導する連中の思惑が入った結果だろう。別に一緒にいたい友達がいる訳でもないが、完全に連中の予想の通りというのもそれはそれで面白くない。

 

 最終的にどうなるか分からないが、現状、留美に対して行われているのは無視される、仲間外れにされる程度のもので、我慢しようと思えば何とかなるものだった。我慢し続けるというのはストレスが溜まるものの、それでより悪い事態になるよりはマシだ、と留美は考えていた。世間で行われているらしい所謂いじめの中には、留美がされているよりももっと酷いものもあるという。

 

 そんな現状を改善することを、考えなかった訳ではない。実際、この状況から脱出するだけならば簡単ではないが難しくもなかった。要するに逆の手順を踏めば良いだけの話である。留美を無視している連中も、どうしても標的が留美でなければいけない訳ではないのだ。

 

 早い話、彼女らにとって標的というのは、攻撃する理由があれば誰でも良いのである。なので、脱出のためには留美を攻撃する以上に魅力的な理由を用意してやれば良い。冷静に冷酷に、自分の代わりに生贄にできそうな人間を脳内でリストアップし始めた所で、留美は考えることを止めた。

 

 冷酷冷徹になれば、ここから脱出するのは簡単だ。それを実行するための手順も、生贄が頭に思い浮かんだ段階で二つも三つも思い浮かんだが、それを本当に実行してしまえば最低の人間になると自重してきた。自分の立場などそこまでして執着するものでもない。

 

 それでも、皆が皆でいる時に一人でいるのは寂しいと思うのは、我儘なのだろうか。自分の近くに誰もいないことを誰にともなく毒づきながら、一人で時間を潰す方法を探して歩いていると、留美の背中に声をかける人間があった。

 

「あ、見つけたー」

 

 軽い声に振り返り――声をかけられた時点で走って逃げなかったことを、留美は心の底から後悔した。

 

 雪ノ下陽乃。留美たち小学生の班の面倒を見るために配置された、高校生組の内の一人である。彼女本人は大学生で、高校生の中の彼氏に付き合って参加したとか聞いているが、そんなものはどうでも良い。

 

 留美はこの女を一目見た瞬間、関わり合いになるべきではないと心に決めていた。ここまで、直感的に物を判断したのは生まれて初めてだったが、留美は自分の感性に全力で従うことにしていた。

 

 この女、どう見ても留美の思う『人間』ではない。自分が思いつき実行するのを躊躇った手順を、この女は迷いなく、しかも鼻歌でも歌いながら実行することができる……そんな気がした。良く言えば強い信念を持った強い女性だが、悪く言えばロクデナシだ。

 

 そのロクデナシはあっという間に、小学生たちの中心に立ってしまった。今なら留美の同級生たちは、あの女の令さえあれば、大抵のことを実行してしまうだろう。それは留美が生まれて目にする『カリスマ』というものだった。

 

「鶴見留美ちゃんだよね。ちょっとお話があるんだけど、良い?」

 

 良い? と確認こそしているが、それは実質的な命令だった。笑顔を浮かべてはいるが、断ることなど許さないという雰囲気を察した留美は、思わずこくりと頷いてしまう。

 

「良かった。じゃあ、その辺に座って話そうか」

 

 陽乃に促され、一番近くにあったベンチに腰掛ける。陽乃の距離が妙に近い。既に小学生の人気者になったのだ。爪はじきにされている自分と一緒にいるところを見れば、彼女らはたちまち突撃してくるに違いない。普段は関わり合いになることも避ける同級生の登場を、この時の留美は心の底から欲していたが、そういう時に限って、近くに人の気配はなかった。

 

 元より、そういうタイミングをこの女は狙っていたのだろう。人を避けてまで、一体自分にどんな話があるのだろうか。考えてみたが、留美には分からなかった。所謂良い人ならば、留美が仲間外れにされているのを察して、ということも考えられるが、この女はどう見ても扇動してけしかける側で、良い人サイドではない。

 

 考えれば考えるほど、雪ノ下陽乃という人間が解らなくなるが、それこそが陽乃の狙いだった。留美が軽い思考のドツボにハマって頭が鈍っているところに、陽乃は言葉を口にした。

 

「単刀直入に言うけどさ、留美ちゃん。人気者になってみない?」

「……人気者?」

「そ、私の言う通りにすれば、留美ちゃんクラスの人気者になれるよ? なってみたくない? 人気者」

 

 そんな上手い話があるはずないが、この女ならばそれくらいは実行してしまいそうな気もする。相変わらず、どうして自分に? という疑問こそ残るが一人でいることにいい加減、寂しさを感じていた留美は、よせば良いのに、視線で陽乃にその先を促してしまった。

 

 悪魔の提案に食いついてきた獲物を見た陽乃は、小さく口の端を上げた。

 

「簡単だよ。人気者の仮面をかぶるだけ。自分がどう思ってるかとか全部投げ捨てて、皆が望む自分になるの。雪乃ちゃんみたいに不器用だったらどうしようかと思ったけど、話してみた感じ留美ちゃんそういうところは器用そうだからできると思うよ」

 

 もしかしてこいつ、結構良い奴なんじゃ……留美がそう思い始めていた頃、やはり悪魔は爆弾を落とした。

 

「一人嫌われ者を作るの。留美ちゃんが今、そういう役割でしょ? 代わりの人を作ってあげるの。留美ちゃんが一言お願いしてくれれば、私がそれをやってあげるよ? 一人くらいいるでしょ? 背中を蹴飛ばしてあげたい同級生くらい」

 

 いる。一人どころではない、何人もいる。

 

 今の状況を主導した奴。留美にとって友達だった少女を裏切らせた連中。報復のための手段がないなら我慢もするが、そのための手段があるならば話は別だ。この女ならばそれをやれるということは、留美にも何故だか確信できる。はっきり言って人気者になることになど全く興味はないが、その過程であいつらに報復できるならば喜んで人気者になってやる。

 

 二つ返事で悪魔の問いに頷こうとして、留美はそこで押し黙った。悪魔はいまだに留美の前で微笑んでいる。こいつの手を取れば、すぐにでも今の状況から脱することができる。憎いあいつらにも、仕返ししてやることができる。自分をこんな状況に蹴落とした連中だ。それくらいの報いはあってしかるべきで、自分は復讐するに正当な権利を持っている。

 

 どんどん自分を正当化しようとする内面に、しかし、留美の理性と良心は抵抗した。それは本当にやっても良いことなのか。元いた場所に返り咲くためだけに、他人を自分と同じ目に合わせることは、本当に正しいことなのだろうか。

 

 考えれば考えるほど、理性が欲望を駆逐していく。悪魔の手を取りたい欲求は依然、留美の中で燻っていたが、今ははっきりと言うことができる。震える身体を叱咤しながら、留美ははっきりと悪魔の目を見て言った。

 

「……お断り、します」

 

 留美の返答に、悪魔は眉を僅かに顰めた。良い気味だ。少しだけ気分を良くしながら、更に言葉を続ける。

 

「私は、そこまでして、人気者になりたくありません」

 

 言いたいことを全て口にすると、留美の中から全ての圧迫感が消えた。悪魔なんて怖くない。未だ、笑みを崩さない陽乃を前に、留美は毅然と睨み返す。小学生にしては意思に満ち溢れた瞳に、

 

「…………良かった」

 

 陽乃は、心の底から声を漏らした。ここに八幡がいたら、あまりに優しさに満ちた陽乃の声音に耳を疑っただろう。彼が目の前にいないという、気の緩みがあった故のある意味弱みとも言える悪魔の感情の発露に、留美も思わず彼女を見返した。さっきまでの悪魔と同じ人間とは思えない。これではただの優しいお姉さんだ。

 

「……そういう、気高い気持ちを大切にしてね。私にはもうないものだから」

 

 こくこくと頷く留美に、陽乃は笑みを深くすると距離を詰めた。警戒心を全く持っていなかった留美は、その極端に狭いパーソナルスペースまで、接近を許してしまう。この世で最も陽乃について理解している八幡が横で見ていたら、これこそが彼女の目的だったのだと気づいたのだろうが、まだまだ人生経験の少ない留美は陽乃の意図に気づかない。

 

「あ、でもでも、仮面を被ったら良いっていうのは本当だよ? 人気者とまではいかなくても、今と違う自分になるのは結構簡単なんだから。それができそうって思ったのも本当だよ? 要するに、こんなのは気の持ちようなんだから」

 

 努力して、変わってみよう。いつの間にか、悪魔の言葉は留美の中に浸透していた。それこそが陽乃の狙いであったことには、気づいていない。そこは経験の差である。せめて同年齢だったならば違う展開にもなっただろうが、いくら敏いと言っても小学生に見抜かれるほど、雪ノ下陽乃は甘くはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 仲間外れにされている女の子がいる、という葉山の言葉に、八幡たち高校生は朝食の後に召集された。案の定、これを改善するために尽力すべき、という意見が結衣から出される。曰く、これは奉仕部の活動として適当なのではないだろうか、と慣れない難しい言葉を使っての結衣の主張に、雪乃などは眉根を寄せた。

 

 心情的には救ってあげたいところなのだろうが、現状の奉仕部は依頼があって初めて行動に移される。明確に自分たちの意思を持って行動する以上、その結果には責任が伴う。何とかしてあげたいという高潔な意思は尊重したいと雪乃も思うが、正しい目的を持って行った行動が、本人にとって良い結果になるとは限らないと、雪乃は身をもって体験していた。

 

 まして音頭をとっているのは葉山隼人だ。提案には慎重にならざるを得ない。

 

「その、鶴見さんというのは、どの娘なの?」

「かわいい娘だよ、えーっと……」

 

 留美を探そうとして、結衣は小学生たちを見回した。昨日は一人でいたから、一目で解る。軽い気持ちで小学生を見たのだが、さっぱり見つからない。あんな綺麗な黒髪の美少女だ。探して見つからないということはないはずだ。もしかしたらまだ寝てるのだろうか。別の心配をする結衣を余所に、先に留美を見つけたのは八幡だった。

 

「あれだろ? あの黒髪の」

「そうそう、あの娘――」

 

 八幡の声に視線を向け、結衣は言葉を詰まらせた。その視線を追って全員がそちらを向くが、皆同じように言葉に詰まる。

 

「俺はその鶴見さんとやらを良く知らないんだが、仲間はずれ? されてるようには見えないんだが」

 

 視線の先には女子ばかり小学生の集団があったが、そこでは全員が談笑していた。仲間はずれがいるようには見えない。しかも、輪の中心にいるのは黒髪の、隼人が話題に上らせた留美だ。

 

 留美のことを認識していた隼人達は元より、認識していなかった面々も混乱する。一体どこにいじめがあるのだろう。良く解らない空気に戸惑う面々を他所に、八幡は留美の笑顔に違和感を覚えていた。

 

 程度は大分低いがあれは、陽乃がよくやる仮面のような笑顔だ。教えてできるようなものだと思ったことはなかったが、実際、仮面を被っているのを見ると陽乃の手腕に敬服せざるを得ない。たった一晩で何をどうしたのか。疑問を持って視線を向けると、陽乃は小さく肩を竦めて見せた。

 

 留美の背中を押したのは事実だが、陽乃が尽力したのは受けての側。留美を仲間はずれにしていた連中に働きかけたのだ。それとなく、自然に。留美を受け入れられるような土壌を、昨日の内から作っておいた。

 

 もっとも、留美に集団に戻る意思があり、なおかつ仮面を被って自分を殺すくらいのことができないと、溶け込むことはできなかった。クリアできるだろう、という見立てではあったものの、そこは他人任せだ。八幡に話した時点では実のところ絶対ではなかったのだが、留美は陽乃の思惑を難なく超えて見せた。

 

 見た目は小さい時の雪乃のようなのに、内面は思っていた以上に柔軟である。

 

 斜に構えているだけで、実は孤独に飽いていたのは、陽乃には一目で解った。ただ『落とす』だけであれば、自分よりも八幡の方が向いていることは解りきっていたが、落としきってしまうと強力な敵になってしまう可能性があったため、それは見送ることにした。

 

 容姿は雪乃に近く年下で、内面に自分と共通するものがある孤独な少女など、八幡は放っておくことはできないだろう。一度こちらに転ばせてしまえば、そうした場合よりは距離は遠くなる。後はどうにでも料理できる。

 

 一瞬で理解した八幡と、何となく理解できた静と姫菜。陽乃に近しい人間全員の視線が集まっていたことで、雪乃と隼人も遅まきながら、陽乃が何かしたのを理解した。これで何か、目に見えて悪影響があったと断じることができれば、雪乃も隼人も抗議の声を挙げていたのだろうが、昨日つまはじきにされていたはずの留美は、今、少女の輪の中で談笑している。突っ込むところは一つもない。

 

 あの雪ノ下陽乃が……と現実を見ても信じることのできない隼人の肩に、陽乃はそっと手を置いた。口の端を小さくあげて笑うその顔は、陽乃をこの世で最も敬愛する八幡の目をもってしても、地獄の大魔王そのものに見えた。

 

「隼人。問題を解決するっていうのはこういうことを言うの。よく覚えておいてね?」

 




ルミルミをかわいくするはずだったのに葉山をいじめて終わりました
おかしいこんなはずでは……
クリスマスイベントの時には何とかします
次回は多分二人で旅行にでも行く話です







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雪ノ下陽乃にも、できないことはある。

 

 

 

 

 若者の性の乱れが叫ばれる昨今である。例えば中学を卒業してからその同級生と成人式で再会するまでの間に、子持ちになっている同級生がどれくらいいるだろう。きっと片手の指では足りないと思うが、そんな彼ら彼女らに比べると比企谷八幡と雪ノ下陽乃の関係は、少なくとも表面上は健全と言えた。

 

 陽乃が高校を卒業するまでに泊まりで出かけたのは長期休み、それも雪ノ下家が保有する軽井沢の別荘に行くくらい。デートも基本放課後、たまに休日を使うのみで夜更かしなども『あまり』しない。八幡はともかく陽乃は性格的にかなり奔放な部類である。禁欲的で純情なお付き合いというのは本来であれば望むところではなかったのだが、ハメを外し過ぎて監視が強くなることを嫌った彼女は、常識の範囲内で交際することを自分に義務付けた。

 

 それ故に八幡との交際が常識的に鑑みて極めて健全であるというのは、雪ノ下陽乃を知るつもりの人間を大いに驚かせ、雪ノ下陽乃を良く知っている人間に疑念を抱かせた。あの雪ノ下陽乃である。隠れて何かしているに違いないと彼ら彼女らは思ったが、その影を踏むこともできない。

 

 各々が確信に近いものを抱きながらも、対外的には八幡と陽乃の交際は実に健全なものとして処理された。それが疑念の域を出るのは彼女が自ら情報をリークする時まで待たなければならない。およそ自分の尻尾を掴ませないことに関して、雪ノ下陽乃は間違いなく天才だった。

 

 最近の高校生にしては健全な交際は、陽乃が高校を卒業すると転換期を迎えた。陽乃が実家を出て一人暮らしをすることになったのである。妹の雪乃が高校に通うためにそうしたように、賃貸ではなく分譲マンション。大学生が一人暮らしをするには少し広いその部屋で過ごすことが、比企谷八幡の週末の定番になった。

 

 陽乃が高校を卒業するまでは放課後に時間を作ることができたが、これからはそれが難しくなる。それでもなるべく会おうとお互いに努力はしていたが、大学生と高校生。生活のサイクルも微妙に違っている。ならば週末にとまとまって時間を取るようにした訳だ。

 

 両方高校生だった時と打って変わって毎週末のお泊りデートである。聊か健全とは言えない状況だが、片方は既に大学生で、二人が交際をしていることは八幡が通っている高校の人間ならば教師を含め全員が知っていたし、雪ノ下家は常識を逸脱しない範囲であれば、娘の交友関係には口を出さないという方針を貫いている。陽乃のマンションはまさに、彼女の城だった。

 

 毎週末の泊まりを楽しんでいる彼らだったが、長期の旅行に魅力を感じていない訳ではなかった。初めて一緒に旅行をしたのは軽井沢の別荘である。その時は管理人の監視の目、静という同行者がいたが、今度は完全に二人っきりで一緒に旅行をしようと、陽乃の提案で計画は進んでいた。

 

 雪ノ下の別荘は使わず、どこに行って何をするか。夏休みまでの全ての時間を使って立てられた綿密とは言い難い計画の、今日がその実行日である。

 

 当日は駅で待ち合わせだ。車で旅行という案も途中で出たが、陽乃自身に寄って却下された。免許を持っているのは陽乃のみで、移動の時はハンドルで手が塞がる。たかが移動手段に自分の行動が制限される。それが陽乃の気に障ったらしい。移動は電車で、というのは旅行を計画するかなり初期の段階で決まっていた。

 

 この時点で、八幡は旅行中は常に手を繋いだままになることを覚悟した。それが最低ラインで、陽乃の要求はそこから始まるのだ。旅行中にどんな羞恥プレイを要求されるのかを考えると、わくわくが止まらない。それが顔に出ていたのだろう。旅行に出発する一週間くらい前から、彼が妹に言われた言葉の99%が『キモい』の一言だけだった。

 

 小町は八幡がこの世で『愛している』と公言できる唯一の女性である。普段であれば『キモい』と言われただけで死ぬほど落ち込んだのだろうが、お泊り旅行で気もそぞろになっていた八幡には、愛する妹の口撃もどこ吹く風だった。それが更に小町の口撃を鋭くさせたのだが、それでも八幡の精神は揺らがない。

 

 あれだけ他人と関わろうとしなかった兄が、こんなにも一人の女性に夢中になっている。この世で誰よりも兄の将来を心配していた小町はその事実に何度も感激の涙を流したものだが、それまでの兄の関心は自分ただ一人に向いていた。今も深い愛情を感じる。時に気持ち悪いと感じる程に兄は自分を気に掛けてくれていたが、自分一人に向いていたはずの気持ちが、他の女性に向いていると思うとやはり一抹の寂しさも覚えてしまう。

 

 それでも、兄の慶事は自分の慶事である。陽乃は自分に良くしてくれたし、あんな兄を好いてくれている。これを逃したら他に女を捕まえることはできないだろう。この女性を逃してははらないと小町は密かに燃えていた。

 

 そんな愛する妹の支援もあって、当日朝の八幡は準備万端だった。一人では満足に服を選ぶこともできない――仲の良い三人の女性にはそう決めつけられている――ため、着ていく服も持っていく服も全て小町によるプロデュースである。将来義姉になる人に恥をかかせる訳にはいかないと、将来の義妹の気合は計り知れない。

 

 その甲斐あって、今日の八幡は中々の男っぷりだった。今日はメガネを着用している。メガネをかけると『インテリヤクザ』に見えると周囲の評価は半々に分かれるのだが、小町の選んだ黒縁の眼鏡は視線の鋭さを見事に緩和させていた。できるだけ柔らかい印象になるように、けれど持前の良さは失わないよう最大限の配慮がなされている。

 

 頭の天辺から足の先まで隙なく兄をコーディネートした小町は、自分の仕事に大いに満足した。妹のひいき目を抜きにしても、兄は男として素材『だけ』は良い。少し磨いただけでこれくらいになるのだから、義姉以外にも騙される女の一人や二人はいても良さそうなものなのに、義姉とくっつくまでそんな話は一度も聞いたことがなかった。きっと世のほとんどの女は男を見る目が腐っているのだろう。

 

 最近は義姉以外にも女の影が見え隠れしているが、妹の立場からするとそれは遅すぎた。もっと早く出てきてくれれば楽しく悩むこともできたのにと心底残念に思ったが、既に陽乃を義姉と思っている小町にとって、それはもう望むべくもないただの夢だった。

 

 色々な感情がないまぜになった『お義姉ちゃんによろしくね』という小町の言葉を、八幡は駅前のロータリーで反芻していた。小町の中では既に自分たちがくっつくということは規定事項のようだが、そう上手く事は運ばないと八幡は思っている。

 

 おそらく陽乃は、より強くそれを感じているだろう。話したことは数える程しかないが、雪ノ下夫妻は難敵だ。あれを攻略するには陽乃程の才能を以ってしても、入念な根回しを必要とするだろう。齢を重ねて力を付けても、その分相手も力強くなっていたら意味がない。

 

 いずれどこかの時点で、あの二人を上回る必要があるのだ。そのために陽乃は、自分の勢力を広げることに余念がない。既に大学でも手を広げている陽乃は、着々と自分の勢力を伸ばしている。自分のために動いてくれる人間、あるいは将来性のある人間。陽乃の人間関係はほぼ打算のみで完結している。

 

 例外は妹の雪乃、恋人の八幡とその妹の小町。後はめぐりや静を初めとした少数の友人で固められている。その中に、年下は数える程しかいない。それが今後の課題であると、陽乃は言っている。大学に籍を置きながら母校である総武高校に何かと関わろうとするのも、勢力拡大の一環だ。

 

 陽乃が卒業した今でさえ、主を失った陽乃閥は総武高校の中で一定の勢力を有している。当初は雪乃がその派閥を継ぐものと思われていたが、本人にその気がないと知れると勧誘もなくなった。組織をNO2の人間が引き継ぐという理屈に照らし合わせるならば、八幡にも派閥を受け継ぐ権利はあったのだろうが、自他共に認める『女王様の犬』である八幡は、NO2や盟主代理には相応しくても、盟主そのものになることはできない。

 

 結果、構成員たちは各々が陽乃閥であることを認識しながらも、今は適当に過ごしている。いずれ選挙を経て生徒会長に、などと野心を持っている人間にとっては不気味で仕方がない集団だ。八幡も陽乃の繋ぎで何度か会ったことがあるが、自分がコミュ障であることを差し引いても、あまり関わり合いになりたくはない集団である。

 

 もっとも、それは八幡が陽乃に一番近い人間であると知れているが故の嫉妬も多分に含まれていた。陽乃の手足になるということについて、八幡ほど上手く動いた人間はいない。多くの人間が陽乃のために働こうと懸命に努力したが、陽乃の在学中に彼女の眼鏡に叶い『使える人間』として今も総武高校に籍があるのは、八幡以外では現生徒会長である城廻めぐりと二年の女子が一人だけだ。多くの人間は残念ながら、その他大勢なのだ。

 

 八幡を含めた三人の実力は彼らも認めるところだったが、感情はまた別のものだ。八幡にとって女王である陽乃は、彼らにとってもまた女王なのである。対立こそしていないが、仲良しでもない。八幡が好んで関わり合いになりたくないと思う所以である。

 

「八幡、おまたせ~」

 

 それが陽乃であるというのは八幡には解った。悶々とした考えを振り払い、声のした方を振り向き――そして絶句した。陽乃の装いが八幡の予想とは大きく違っていたからだ。

 

 華やかな見た目はそのままだが、明らかに『地味な女』を装うとしている。自分を最大限魅力的に見せようと常日頃から自己の研鑽を怠らない陽乃にとって、三つ編み眼鏡というのは選択肢の一番最後に位置するものだ。その見た目の印象は八幡の友人の中で言えば、めぐりが一番近い――というよりも、意図してめぐりの真似をしているように思える。陽乃にしてはやぼったい服装も三つ編みも、その延長だろう。その中で眼鏡をしている意図だけは八幡にも読み取ることができなかった。

 

 見たことのない陽乃の装いに胸の鼓動が早まるのを自覚する。『地味な女』というのは全体のイメージだけで、陽乃がやると全く地味ではない。図書委員でもしていそうな恰好なのに、中身が違うと受ける印象がまるで違う。こんな図書委員がいたら、どんな図書室も男子で盛況になるだろう。既に陽乃のことを『色々と』知っている八幡でさえ、くらりときたのだ。初見の純朴な男子なら一溜りもない。

 

「どうして眼鏡を?」

「小町ちゃんがコーディネートするなら、絶対眼鏡にしてくると思ったの。それならお揃いにした方が、らしいじゃない?」

 

 そうですね、とも答えることができなかった。顔がにやけるのを抑えるのに必死な八幡を見て、陽乃は笑みを漏らす。八幡の形容しがたい表情を見て、陽乃は自分の企みが成功したことを知った。この犬は忠誠心こそ見上げたものだが、主人のことを理解しようとするあまり、最近はあまり驚いてくれないのだ。事実上、比企谷八幡はこの世で最も、雪ノ下陽乃を理解している人間になりつつある。

 

 血のつながった両親よりも愛する妹よりも、自分を解ってくれる異性が隣にいる。考えてみれば女としてこれほどの幸せはないが、平穏無事よりは刺激を求めるタイプである陽乃にとって、それは退屈でもあった。

 

 自分を理解してくれる。いてほしい時にいてくれる。それは当たり前に陽乃が求めるものだし、言葉にしなくてもそれを実行してくれる八幡を頼もしく思っているのは偽りのない事実であるのだが、時折ふと、出会った頃のおっかなびっくり自分に食らいつこうとしていた頃が懐かしく思えるのである。

 

 あの頃の八幡は、何をしても驚いてくれた。今が楽しくない訳ではない。むしろ、昔よりもずっと楽しいと確信を持って言えるが、だからと言っても全てが新鮮だった頃を懐かしく思わない訳ではない。

 

 大学生になってできることが増えた。自由にできる金銭も増えた。自分の部屋は実家から離れ、ある種の城になった。今の環境の方が昔よりも恵まれている。もし時間を戻せるとしても、昔に戻るつもりは全くない。過去は今の時点で懐かしむから楽しいのだ。自分の行動に後悔はない。だからこそ、たまに触れてみたくもなるのである。

 

 手始めに、驚く比企谷八幡。この旅行では、それを引きだしたいと陽乃は思っていた。めぐりのコスプレは破壊力があった。この恰好を見ただけで八幡は動揺している。

 

 そして顔を見ただけで陽乃は理解していた。驚く八幡は、普段なら当たり前のようにしている今後の想定を全くしていない。雪ノ下陽乃の攻撃が、たかが城廻めぐりのコスプレ一つで終わると本気で思っている。こういう時の八幡は本当にちょろい生き物になる。

 

 これで終わるはずがないのに、と陽乃は心中でほくそ笑む。せっかく物凄く恥ずかしい思いまでして後輩のコスプレまでしたのだ。正直今も、新しいプレイに目覚めてしまいそうなくらいに恥ずかしいが、ここで攻撃の手を緩めては雪ノ下陽乃ではない。コスプレなど序の口だ。今回は前からやろうと思っていたありとあらゆる攻撃を用意している。

 

 問題があるとすれば八幡の動揺を引きだす代わりに自分も決して少なくない精神的ダメージを負ってしまうことだが、背に腹は代えられない。目的は八幡を驚かせること。ならばそれ以外は全て些細なことだ。

 

 大したことない、些細なこと……と陽乃にしては珍しく自己暗示をかけながら、ずれていない眼鏡をずらす。自分でも動揺していることがよく解る。他人にバレる程ではないが、動じないと自他共に認める雪ノ下陽乃にしては相当テンパっている。

 

 その動揺と、羞恥心が溜らなく楽しい! 緊張も羞恥心も動揺も、全てを自分の糧に変換した陽乃は、恋人の動揺を誘うべく、次の一手を繰り出した。

 

「せっかくめぐりみたいな恰好してる訳だし、呼び方もしゃべり方もめぐりみたいにしてみる? はっちゃんとか……わー、何だか普通のバカップルみたい!」

 

 軽くはしゃいで見せたが八幡は言葉もない。握った手が物凄く熱い。物凄く照れているのだ。攻撃は効いている。自分も同じくらい恥ずかしかったが、この顔を見れただけでもやった価値はあった。この顔を将来の義妹にメールしてやったら物凄く喜んでくれるだろうが、そういうのは宿に着いてからだ。

 

 このネタは相当にいじれる。そう判断した陽乃の行動は、早い。当初は呼び方だけに努めるはずだったが即座に軌道修正する。城廻めぐりは雪ノ下陽乃の数少ない友人である。表面上だけならば、行動を真似することも容易い。

 

「はっちゃんと旅行なんて初めてだから、ちょっと緊張しちゃうかな……恋人なんだから、その、そういうことしても大丈夫だけど、お願いだから優しくしてね」

 

 演技過剰だと自分でも思う。恥ずかしがったふりはもはやふりではなかったが、ここまで来たら自分との闘いである。現に八幡には効いている。ついに視線も合わせることができなくなった彼は、身体ごと明後日の方向を向いていた。

 

 本当ならば今すぐにでもこの場から逃げ出したいのだろうが、陽乃の手がそれを許してくれない。握った手からは熱が伝わってくる。自分の行動で恋人に影響を与えている。それがバカみたいに楽しい。

 

「それじゃあ、行こうかはっちゃん。これからしばらく、二人っきりだね」

「……お願いしますから、それはもう止めてくれませんか?」

「それじゃあ比企谷くんは、どういう女が好みなのかしら」

「雪乃の真似をしろって言った訳でもありません」

「もう、文句ばっかり。そういうのは、は、は…………」

「陽乃にもできないことがあるようで安心しました。城廻も雪乃もなしで、とりあえずゆっくりいきましょう」

「…………そうしよっか。何か微妙に疲れちゃった」

「電車ですからね。寝てても構いませんよ。俺は起きてますから」

「八幡の肩貸してくれる?」

「俺で良ければ喜んで」

 

 

 

 

 

 

 

 




小旅行編①です。
めぐり先輩やゆきのんの真似はあっさりできても、小町の真似は抵抗があるのでした。


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どこに行っても、雪ノ下陽乃は女王である

 

 

 

 

 

 

 

 

 遠すぎず近すぎずということで陽乃が選んだのは、群馬県は草津町にあるとある旅館だった。温泉街として全国的に有名な観光地だが、共に十代のカップルが出かけるには地味な場所だ。とは言え、二人にとって重要なのは他人に干渉されないところで二人きりでゆっくりすることである。地味なことはむしろ望むところだった。

 

 ちなみに関東近郊にはいくつか雪ノ下の別荘が存在する。軽井沢の別荘はその一つで、近場で言えば他に那須塩原にもある。群馬から見て那須塩原は隣県であるが、近場というには聊か遠い。別荘が近くにないから雪ノ下の目はないというのは早計であるものの、人を使って尾行されているという可能性もないではない。疑い出したらキリがないのだ。ここには実家の目がないと思うことにして、陽乃は旅行を楽しむことにした。

 

 からころというのはキャリーケースの音である。それが男の役割とばかりに、荷物は全て八幡が運んでいた。無駄なことは好まない陽乃だが、自分の容姿を磨くことに余念がないのは他の女子と一緒である。他の女子に比べればそれでも少ないのだろうが、キャリーケースは八幡の鞄の倍くらいの重さがあった。

 

 特に何をするでもない旅行で、何故これほどの荷物が必要になるのだろう。陽乃に限らずこれは小町にも見られる特徴だが、未だに理解できない要素の一つである。理解も共感もできないが、八幡にとっては担ぐ転がす荷物が重いというだけの話である。それで陽乃が小町が楽をできるならば、文句などあるはずもない。

 

 八幡の三歩先を歩いている陽乃は、相変わらずめぐりのコスプレを続けている。すぐに飽きると思っていたが、予想が外れた形である。地味な装いでも陽乃の容姿が優れていることは変わらない。三つ編み眼鏡の美人が通り過ぎる度、老若男女全てが振り返り、陽乃を見つめる。

 

 地味な装いをしているのにいつもより目立っているのは皮肉な話である。いつもの――例えば大学に向かう時にしている恰好はめぐりのコスプレよりも幾分華やかなものだが、ここまで人目を引くものではない。その理由を聞けば陽乃は喜々として、主に八幡をからかって遊ぶためと答えるのだが、そんな未来が見えていた八幡は敢えて何も質問しなかった。

 

 今の陽乃は誰が見ても『私幸せです』という顔をしている。笑う門には福来るだ。機嫌の良い美女はただそこに存在するだけで、周囲を幸福にして人目を引くのである。例え内心が魔王であっても、眺めるだけの人間には理解できまい。

 

「八幡の意見とかほとんど聞かないで滞在先も予定も決めちゃったけど、良かった?」

 

 現地に着いてから改めて言うのも陽乃らしい。気にするくらいならば事前に聞けば良いのに、自分で決めたいことは必ず自分で決める。雪ノ下陽乃はそういう女性だ。八幡は苦笑を浮かべながら、それでも他人が見れば随分と嬉しそうに答えた。

 

「全てお心のままに。文句は有っても申し上げません」

「いい子いい子。そのご褒美にいつもよりほんの少しだけ優しくしてあげるから楽しみにしてて」

「感激で涙が出そうですよ。泣いたりはしませんが」

「そうだね。男の涙なんて見てて楽しいものでもないし」

「女の涙なら見てみたいと?」

「見たいのは雪乃ちゃんくらいかな。かわいいんだよ、本当に。背筋が凄くぞくぞくするの」

 

 それはそれでどうかとも思うが、その気持ちも解る気がした。友人知人の中で、一番泣かせてみたいのは誰かと問われれば、熟慮の末に八幡も雪乃と答えるだろう。ツンと済ました態度でいる女子というのは、男子にとっていくつになってもからかいの対象なのである。それは陽乃に出会うまで友達などいなかった八幡にとっても変わることはない。

 

 陽乃の報復が怖いので実行に移すことは永久にないだろうが、この姉ならば一緒に泣かすくらいのことは娯楽として処理してくれるかもという期待と不安はある。陽乃ならばある日突然、『一緒に雪乃ちゃんを泣かせてみない?』と持ちかけてきても不思議ではない。やはり自分の恋人はどこかおかしいと、八幡は改めて感じていた。 

 

「……貴女の性癖が歪んでいると改めて知れて安心しました」

「えー? 八幡もぞくぞくしない? 雪乃ちゃんがこう、悔しさを顔に滲ませてぷるぷる震えてるところとか、もう世界一可愛くて思わず抱きしめたくなったちゃうんだけど」

「そこで抱きしめたりはしないんでしょう?」

「当然。一番楽しいのは『それを我慢してる時』だもの。待てのできない人間に幸せは来ないよ」

 

 涙目の雪乃が陽乃にとっては大好物というのは疑いを差し挟む余地もない。普通、大好物を前にすれば人間我慢できないものだが、我慢できると言っているのだから、陽乃は我慢できるのだろう。自制心の強い人間だ、というのが他人が陽乃を評する時にたまに聞く言葉であるが、八幡の意見は違っていた。

 

 その評は事実を捕らえてはいるのだろうが、陽乃の我慢強さはある種の性癖の副産物に過ぎない。『我慢すること』それそのものが、陽乃にとってはご褒美なのだ。陽乃の性質は純善たるドSであるが、同時に自己に対しての嗜虐的な性質も持ち合わせている。

 

 ドS部分に比べれば極々微量なものであるが、その僅かな性質こそ、不特定多数の人間をコントロールする陽乃の手腕に大きく寄与していた。この適度な同居具合が、陽乃を完全で完璧な人間へと押し上げているのだ。

 

 逆に妹の雪乃は多面的に物事を考えるということが苦手である。自分の理想と現実にギャップがある時、雪乃はとりあえずその場で行動を起こすような節があった。それは正義感が強いと言いかえることもできる。対処方法を考えつつもまず行動するというその性質は、八幡をしても好ましいと思ったが、良いこと、良い人が必ずしも物事を解決に導くとは限らないというのも事実である。

 

 同じような問題に直面した時、陽乃は序盤をのらりくらりとかわす。即断即決で行動することもあるが、陽乃はまず物事の観察に時間を費やす。物事の急所、弱点が見えてくるとそこからは社交力が物を言う。自分で行ったりあるいは人を使ったりと様々だが、関係各位に根回しをし必勝の手が完成してから、一気呵成に攻めかける。

 

 雪ノ下陽乃が攻撃を始めることと、彼女が勝利することはほとんどイコールで結ばれている。それが陽乃の評価を盤石な物にし、物事を解決することで人間の好悪は別にして信頼を勝ち取っていく。陽乃を嫌いな人間も彼女の在学中には一定数がいたが、そんな連中でも陽乃がデキる人間であるということは認めていたくらいである。

 

 雪乃のやり方が、八幡は嫌いではない。潔癖とさえ言える正義感は好ましくさえあるが、雪乃と陽乃のどちらの方がより問題を解決できるかと問われれば、陽乃の方だと答えるしかない。

 

 雪乃も資質において陽乃に大きく劣っている訳ではないが、陽乃に比べて酷く不器用だ。それが雪乃の人間的魅力に繋がっている訳だが、その評価には何より雪乃本人が納得できないだろう。雪乃にとって陽乃とは理想であり壁であり倒すべき敵でもある。姉妹仲は決して悪くはないのだが。ある意味、雪乃から一方的に仕掛けられているこの戦いは、雪乃の中で精神的な折り合いが着くまで続いていく。

 

 陽乃ならば、雪乃の心に区切りをつけることもできるはずだが、陽乃はそれをしようともしない。雪乃がそうである限り、自分から視線を逸らすことはない。羨望であり嫉妬であり敵意であり、色々な感情が入り混じった雪乃からの視線が、陽乃は溜らなく気持ち良いのだ。

 

 これを姉妹愛と言えるのであれば、雪ノ下姉妹は世界で一番仲の良い姉妹と言えるだろうが……言えば陽乃は喜んでも、雪乃は嫌な顔をするに違いない。家庭の事情に首を突っ込む気はないが、一応妹がいる身としてはもう少し普通に仲良くできないのかと思う。

 

「――その点、八幡は待てが上手だね。私が見てきた中では一番かも」

「先生が良かったんでしょう。貴女はご存じないかもしれませんが、俺の先生はもう相当な無茶ぶりをする方でしてね。何度このまま死ぬんじゃないかと思ったか知れません」

「ほんと、良い先生を見つけたねー八幡は」

 

 当の先生は、我関せずとばかりのおかしそうに笑う。少しだけ薄情な気もしたが、他人の不幸など関係ないという態度の方が陽乃らしい気もする。

 

 そうして他愛のない話をしながら道を行くと、陽乃が予約した旅館に着いた。夏休み。旅行シーズンである。どこもかしこも予約で一杯というイメージが八幡の脳裏にはあったが、旅館のロビーは閑散としたとは言わないまでも空いていた。

 

 混雑しているよりは、していない方が良い。全ての旅館が混雑している訳ではないのだろうと納得した八幡は、陽乃を見た。チェックインなどの余計な手続きは自分の役目だと思ったからだが、陽乃は小さく首を横に振って先に立って歩き出した。

 

 自分でやるということなのだろう。旅行の行き先を決めるのとは異なり、チェックインは誰がやっても変わらない。陽乃が拘ることもないはずだが、と思った八幡だったが受付の女性への開口一番の言葉でその理由が知れた。

 

「二名で予約しました比企谷です」

「承っております」

 

 あまりに堂々と比企谷と名乗ったことに、八幡は小さく溜息を吐いた。雪ノ下も比企谷も珍しい名前だが、雪ノ下の家を警戒しているなら、名乗るべきは比企谷である。偽名を使ってチェックインというのは身分を偽りたい時の定番の手であるが、宿帳に偽名を記入するのは犯罪だ。

 

 比企谷で予約したのなら、宿帳に書く名前は雪ノ下陽乃ではなく比企谷八幡とするべきだろう。宿帳の記載をと差し出されたペンを八幡が受け取り、必要事項を記入していく。その間も、陽乃と受付の女性の会話は続いていた。

 

「何でも婚前のご旅行だとか?」

「ええ。ようやく彼がプロポーズしてくれて……ですので、予約の名前は彼の名前ですけど、私はまだ違う姓のままです。早く旧姓って言えると良いんですけど……」

 

 言って、陽乃と共に受付の女性が視線を向けてくる。特に睨まれている訳でもないのに『この甲斐性なし』と言われているような気がして背筋が悪い意味でぞくぞくする。いつの間にかプロポーズをしたことになっている比企谷八幡の立場はここにきて急激に悪くなってしまった。居心地悪そうに視線を逸らすと、陽乃が苦笑を浮かべてフォローする。

 

「ごめんなさい。彼ったら普段は奥手なんです。でも、いざという時には頼りになるんですよ? プロポーズをしてくれた時も、普段からは想像もできないくらい頑張ってくれて……」

 

 ありもしないその時を思い出しているかのように、陽乃は頬を朱に染めた。そうしているとまるで可憐な乙女のようであるが、その実が大魔王であることを八幡は良く知っている。めぐりモードのままなのは、この方が八幡の羞恥心を煽ることができるからだ。陽乃のままでも破壊力はあったのだろうが、今のこれはめぐりに秘密を暴露されているようでとても気分が良くない。

 

「まぁまぁ。男性はいざという時にこそ頼りになる方が頼もしいとも申します。良い旦那様を見つけられたようで羨ましいです」

 

 より正確にはいざという時に『だけ』頼りになってほしい、というのが女性の言い分であるらしい……と八幡は小町から聞いたことがあった。普段男を尻に敷いている方が、状況をコントロールできるかららしいのだが、お兄ちゃんには関係ないね! とも同時に言われている。女王と犬のどちらに主導権があるのかなど、犬の妹の目には明らかだった。

 

 しかし、普通の女性でないところの陽乃の要求はこの真逆を行った上に更に要件を追加したものだ。普段頼りにならないようでは話にならないが、いざという時にも使えないのは勿論困る。基本能力の高い陽乃は大抵のことは自分で何とかしてしまうが、より高い成果を挙げるには周囲の人間を使うことが必要不可欠である。優秀であるというのは、最低限必須の条件なのだ。配偶者であるならば猶更である。その上で男をコントロールするつもりなのだから、陽乃の女性としての能力の高さが伺える。

 

 そんな中、受付の女性の視線が陽乃の指に向いた。そうして、婚約しているならあるべきはずの物がないのを目ざとく見つけてしまう。他人の事情に首を突っ込むとロクなことにならないというのは世の常であるが、人里離れた場所にある旅館の従業員であれば、その認識も一入である。

 

 やってきた男女のカップルが実は表ざたにできない関係であるなど、旅館やホテルでは良く聞く話だ。受付の女性はプロである。相手の言っていることが嘘と解った所で追及したりなどしないが、役柄になりきっている陽乃はそういう片手落ちを許さない。婚約したカップルという設定を通すと決めたら、彼女は意地でも通す。それくらいの疑問は想定していた陽乃はネックレスを軽く持ち上げて見せた。

 

「彼がプレゼントしてくれたんです。日差しの強い時に指輪をしてると、白くなるのが気になって」

「まぁ」

 

 陽乃はネックレスを持ち上げただけで、その先にあるものは見せない。無論、その先に指輪などついていないのだが、その行動だけで受付の女性は『全て納得した』という風になった。内心でどう思っているかは伺う術もないが、現状は表面上そうなってさえいれば十分である。

 

 全て丸く収まったところで、従業員の案内を受けて部屋に案内される。二人で泊まるには広い部屋だが、ゆっくりするにはこれくらいは必要だろう。八幡は部屋の隅に荷物を置くと、窓際で景色を見ながら伸びをしている陽乃に声をかけた。

 

「指輪なんて付けてたんですね」

「付けてないよ。ああ言いながらああすれば、勝手に勘違いしてくれるでしょ?」

 

 陽乃は小さく微笑んで、臆面もなくそう言って見せた。確かに受付の女性は見事に勘違いしていたし、それに陽乃は一言も嘘は言っていない。日差しの強い時に指輪をしたら日焼け後が気になると陽乃が言っていたのは事実だし、ネックレスは去年八幡が贈ったものだ。

 

 形としては相手が勝手に勘違いをしたということになるのだろう。陽乃はそれを指摘しなかっただけだ。

 

「いつかほんとにプレゼントしてね」

「相応しくなれるように頑張ります」

 

 穏やかな雰囲気が流れたのもつかの間。陽乃は自らそれを壊すように『それにしても』と続ける。

 

「知らないところで二人で過ごすのって、新鮮だね」

「軽井沢に行った時は、平塚先生も一緒でしたからね」

 

 八幡の声も感慨深い。最初に軽井沢に行った時だけでなく、その翌年も静は同行した。陽乃にとってだけでなく八幡にとっても彼女は年の離れた友人という感覚で、一緒に旅行することに否やはないのだが……カップルに一人恋人のいない女性がついてくるというのは、傍からみてどうなのだろう。実はついてくるのが苦痛なのではと気にしたこともあったが、静本人に気にした様子はなかった。

 

 考え過ぎだろうとは思いつつも、そろそろ本腰を入れて婚活をした方が良いんじゃないかと、友人兼生徒としては思うばかりである。

 

「ところで八幡、何かしたいことはある?」

「貴女と一緒にいられるなら、他には特に……あぁ、少しは受験勉強をしたいですね。貴女はご存じないかもしれませんが、俺は一応受験生なもので」

「推薦は安全圏なんでしょ?」

「平塚先生の話ではそうですね。学校側も俺を陽乃と同じ大学に送り出したいみたいで、何かと便宜を図ろうとしているようです」

「打算的なんだ」

 

 否定的な言葉を吐きつつも、陽乃の顔は嬉しそうだ。学校側は地元の有力者である雪ノ下と陽乃に恩を売っておきたい。八幡を同じ学校に送り出すことに協力するのは、雪ノ下の家にとってはどうでも良いことかもしれないが、順当に行けば陽乃は親の地盤か会社のどちらか、あるいはその両方を引き継ぐだろうし、一般論を言うならば子供と親、先にくたばるのは親の方である。

 

 元々八幡の成績も内申も悪いものではなかった。陽乃とつるむようになってから急激に成績が伸びはじめ、二年一学期の中間テストで普通科首位を取ってから、一度もその座から陥落していない。二年中盤の全国模試では、ついに国際教養科の生徒を抜いて全学科の生徒の中でも首位に立った。

 

 三年になれば模試も頻繁に行われる。国際教養科の面々も、普通科に負けたままではと勉強に打ち込んだようだが、最新の全国模試でも首位は八幡のままである。そのせいで地味に国際教養科の面々から目の敵にされているのだが、それはまた別の話だ。

 

 ともかくデキの悪い人間を押し上げるならば角も立つだろうが、学校が手を貸しているのは元々とても高い確率を更に盤石なものにしているだけだ。修正される個所がそれほどあるとも思えないが、仮にあったとしてもそれは誤差のようなものである。客観的に見て便宜を図っているような証拠が出てくるようなことはまずないだろう。

 

 このまま油断しなければ、推薦入試で合格するだろう。仮に一般試験で行くにしても、既にA判定と安全圏に位置している。比企谷八幡は問題なく合格する。それは本人と学校、それに陽乃と静まで加えた全員の共通認識ではあるのだが、当人の気持ちまでその通りに行く訳ではない。

 

 陽乃の犬になる前より大分肝は太くなったと自分でも思うが、明らかに天賦の才に恵まれている陽乃と異なり、八幡はあくまで自分を秀才の域を出ない人間だと認識している。ある程度の結果を出せているのは、それ相応の努力をしているだけだ。同じだけの努力ができれば、他の人間だって同じような結果を出すだろう。

 

 八幡がそんな自己認識をしていることを、陽乃も把握している。何より八幡にとてつもない追い込みをかけて勉強や他のことをさせたのは彼女自身だし、旅行に行こうと提案し、計画したのも彼女だ。八幡が勉強をしないことで焦燥感にかられているのだとしたら、それは自分にも責任があるというのは道理であるが、そも王権というのは道理や常識を超えた所にあるものだと、陽乃は認識している。

 

 実際に辞書にどう書かれているのかは知らない。だが少なくとも、八幡との間においては絶対にそうでなければならないと陽乃は強く思っていたし、それは八幡にとっても同様だった。陽乃が主であり、八幡が従。この関係は、ある特定の場面を除いて、覆ることは絶対にない。

 

 てい、と軽い声で陽乃は八幡に足払いをかけた。完全に虚を突いた攻撃に、八幡は背中から畳に落ちる――が、それを陽乃の腕が掴み、思い切り引き上げる。それで助けるのかと八幡が思った刹那、陽乃は引き上げた八幡を抱きしめ、そのまま座布団にダイブした。

 

 座布団に人間二人をカバーするだけの面積はない。背中を強打しないようにすれば陽乃が怪我をするかもしれない。僅かな逡巡の後、八幡は自分の身を守ることの一切を放棄した。陽乃を抱え、そのまま畳に倒れ込む。衝撃。一瞬呼吸が止まったが、それだけだった。怪我はしてないし、陽乃も怪我をしている様子はない。

 

 一応確認をしようと陽乃を見て――目の前に陽乃の顔があることに気づいた。許可を取らず、目もつぶらず、陽乃は強引に唇を重ねてきた。驚きで身体が一瞬硬直するが、すぐに八幡は力を抜いた。陽乃が唐突に行動を起こすなど、いつものことだったからだ。

 

 こういう時、八幡は自発的に行動せず逃げの一手を選択する。攻めても上手くいかないのは目に見えているし、だからと言って何もしないと陽乃に怒られるからだ。逃げるというのもそれはそれで不味いのではと思ったのも最初の内だけ。逃げる相手を追い詰める方が、陽乃の性癖的にはアリであるらしい。逃げる八幡と追う陽乃。この構図は陽乃が満足するまで終わることはない。

 

 好き放題にされたのは、五分くらいだろうか。

 

「ごちそうさま」

 

 二人の間には唾液の糸が繋がっている。僅かに頬を染めた陽乃に手を引かれ、八幡は起き上がった。微妙に腰が抜けている。陽乃の方は足取りもしっかりしていた。男として立場がない。悔しい。そういう感情はなるべく顔に出さないよう常日頃から意識しているつもりだったが、それが陽乃に見抜かれなかったことはなかった。

 

 八幡が陽乃を観測し、内面を予測することに関して類稀な感性を持っているように、陽乃もまた八幡を観測することにかけては小町に次ぐ感性を持っている。元より陽乃は感情の化け物。人間を観察し、不特定多数を操ることに関しては天才的な手腕を発揮する。そんな化け物に犬になるまでぼっちだった八幡が対抗できるはずもない。

 

 何より、そういう自分を隠そうとする八幡の内面を暴いてやることが、陽乃は大好きだった。屈辱に震える八幡の頬を無駄に突くと、八幡はぷいと視線を逸らした。母親に絡まれる男子中学生がやるような仕草である。女王に対して行って良い行動ではないし、普段であれば八幡もこういうことはしない。主従の関係を誰より意識しているのは八幡だ。それが「二人きりの旅行」という開放感が、勢いで彼にそういう行動をさせていた。

 

 犬として見た場合、八幡はとても優秀と言えたが、デキが良すぎるというのは時に物足りなくなることもある。八幡の小さな反逆は、陽乃の嗜虐心を大いに煽った。

 

「もう、八幡かわいい!」

 

 少女がお気に入りのぬいぐるみを抱きしめるように、陽乃は八幡を抱きしめる。柔らかな感触に決して幸福感を抱かない訳ではないのだが、かわいい、という表現はやはり男の自尊心を傷つけるのだった。かわいいかわいい連呼される度に、八幡の自尊心はガリガリと削られていく。

 

 そうして削りきられる直前を見計らって、陽乃は八幡から離れた。人の限界を見極めるのも、彼女の得意技である。

 

「さ、いちゃつくのはこのくらいにして。現役大学生の私が、少しくらいは勉強見てあげるよ」

「結局その辺りに行きつくんですね」

「最近は一緒にいるとずっと不健全で退廃的なことしてるからね。たまには建設的で健康的なこともしないと」

 

 勉強は建設的な行動ではあるのだろう。受験生にとっては、勉強をする行為そのものが精神的な安寧をもたらす効果があるのも事実である。現役の大学生が勉強に付き合ってくれるならこの上ないが、それはあくまで付き合うのであって、二人で時間を共有しているとは言い難い。

 

 陽乃の提案は八幡にとっては望むところではあったが、陽乃の側に立ってみればそれ程旨味がないように思えた。それだけ自分のことを大切に思ってくれていると感動するのは陽乃初心者だ。何かあると勘付いて中級者。上級者である犬になると、期待や幸福感の代わりにじんわりとした快感を伴った悪寒を憶える。

 

 言葉の裏にあるものを八幡がしっかりと感じ取っていると確信した陽乃は、めぐりの真似をしたままにやりと嗜虐的な笑みを浮かべた。にこにこと、何も知らない男性が見たら素敵な笑顔を思うのだろうが、八幡からすると狩猟者の笑顔だ。獲物をどうやって追い詰めるか。こういう笑顔をしている時の陽乃が考えているのは、その一点である。

 

「健康的なことばっかりでもつまらないだろうから、ご褒美でもあげようかな。私が出す課題を満点でクリアできたら、八幡のしてほしいことを『何でも』してあげる」

 

 にこにこと微笑みながら陽乃は提案してくる。からかう時の常套手段だ。この言葉そのものに嘘はない。一度やるといったら陽乃はやるし、要望を曲解したりもしない。課題をクリアしさえすれば、どんな要望でも陽乃は必ず叶えてくれる。

 

 だが、それに報復をしないとは言っていない。過去に悪ノリと不幸な行き違いから陽乃にとある羞恥プレイを強要するハメになったのだが、陽乃は持前の矜持でもってそれを完遂した。話題に出すことも禁じられたようなものだから、陽乃にとっては相当な黒歴史なのだろう。

 

 無論、陽乃はその羞恥プレイをやりきった後、感じた羞恥の十倍以上の報復を八幡に行った。言葉や行動には責任が伴うのだと、あれほど実感した日はない。

 

「今回は特別。報復は必ず今晩中に終わらせてあげる。外に持ち出したりはしない」

 

 意訳すれば、お願いは対価が今晩中に相殺できるものであるべし、という限定条件だ。要望は出すばかりである陽乃にしては大盤振る舞いである。してほしいことは山ほどあるが、それを口にすることは難しい、元々社交的な陽乃と異なり、他人にお願いをするということに、八幡は慣れていない。恋人である陽乃であっても、それは変わらなかった。

 

 陽乃にとっても、お願いを叶えることはそれ程重要なことではない。自分であれば叶えられるという確信があるからこその強きだが、目的は八幡にお願いをさせることである。精神的な成長のためという建前もあるが、一番見たいのは羞恥に耐えながら要望を口にする恋人の姿だ。

 

 雪乃や八幡など社交的でないタイプの人間が羞恥心に耐えながらも何かをする姿を眺めるのは、陽乃にとっては至福の一時なのである。

 

 





お久しぶりです。
八月前半は漢字で書いてもひらがなで書いても一文字の、命には全く関わらない病気に悩まされて椅子に座ることが難しい状況でしたが、どうにか快方に向かい始めたため一話完成の運びとなりました。

予定では後二話か三話、旅行の話は続きます。


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たまには、比企谷八幡も奮起する

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 陽乃と出会ったのは高校一年の時である。彼女と一緒にいるようになって大変でなかった時など一度もないが、最初に大変だと思ったのは最初の期末テストの時だった。

 

 全教科で順位に指定がついたのだ。得意な国語と苦手な数学以外は全教科五十位以上。国語は努力目標(・・・・)で一位、数学は特に指定はなかったが、とにかく頑張ってと言われた。全てで順位を指定された方がどんなに楽だったか、というのは勉強を始めてから思い知らされた。

 

 どの程度までなら許してもらえるかと考えたのは一瞬のこと。勉強を見てくれている間のプレッシャーのかけようから、舐めたことを考えていると破滅しかないと思い知った。この女はやると言ったら必ずやる。それを肌に感じた八幡は、生まれて初めて死力を尽くして勉強し、国語は一位、数学は平均点。残りの教科も全て五十位以内と見事陽乃の要求を達成することができた。

 

 いきなり上がった成績に両親は驚いた。小町優先といっても、長男に全く関心がない訳ではない。何があったと聞いてきたが、流石に一つ年上の女性の犬になったとは答えられず、適当にお茶を濁して答えた。

 

 原因と経過はどうあれ、とにかく成績は上がったのだ。終わりよければ全てよし。苦労した甲斐があった……と気楽に考えることができたのは、やはり一瞬だった。生まれて初めて死にもの狂いで勉強したこの事件(・・)が陽乃から課せられた中で最も軽いものだと思い知ったのは、夏休みが空けてからのことである。

 

 とは言え、この最も軽かった死にもの狂いの勉強も、ただ苦労しただけという訳ではない。今まで漫然と行っていた勉強に、陽乃流の効率の良いやり方を導入することができた。天才肌である陽乃は物事の要点を掴むのがとても上手く、勉強にも無駄がない。

 

 テストの順位要求が毎回上がることを考えれば、ここで効率の良いやり方を憶えることができたのは幸運だった。プレッシャーで吐きそうになったこと多数、実際に吐いたことも少数。過度のプレッシャーは人体に影響を及ぼすのだと知った一年目であるが、そこにあったのがプレッシャーだけということはない。

 

 それは過去だけでなく、今現在にもある。

 

 今陽乃はテーブルを挟んで、向かいに座っている。この状況が、特に男性にとっては結構レアなのだ。陽乃の周辺は概ね女性で固められており、男性が入り込む余地がほとんどない。八幡という恋人ができる前でもほとんどだったそれは、恋人ができてからは事実上皆無になった。

 

 大学にまで行ったことはないからそちらの状況は知らないが、聞いた話では大して変化はしていないということである。総武高校にいた時の陽乃グループも、女性の方が微妙にヒエラルキーの上位にいた。きっと大学でもそうなのだろうとあまり深くは考えないことにしている。

 

 ともかく、陽乃の周囲にいる男性に下心がないはずもない。彼らはとにかく陽乃に近づくことを目標の一つとしているが、手を伸ばせば触れられるくらいの距離まで近づくのは、実の所相当な難事であるらしい。陽乃が総武高校に在籍していた間、その距離の内側まで意図的に入ることができたのは比企谷八幡ただ一人である。リア充そのものの見た目と雰囲気の割に、身持ちが恐ろしく固いとそのギャップも評判だったのだ。

 

 高校の中でただ一人。特別な距離に優越感を覚えたのも今は昔のことのように思えるが、それでも陽乃の近くに座ることの嬉しさが消えた訳ではない。むしろ嬉しさは、過去よりも深くなっていると言って良い。

 

 視線をあげれば、手が届くくらいの距離に陽乃が座っている。髪が少し伸びたとか、高校生だった時よりも美人になったとか、顔を合わせるのに時間をあけたことはほとんどないのに、顔を見る度に発見があるような気がする。

 

 ノートや参考書ではなく、自分に視線を向けていることに気づいた陽乃が、視線を上げた。にこり、と微笑むとそれだけで、八幡の背筋は凍った。勉強しろ、とそういうことだろう。言葉よりも雰囲気で雄弁に物を語る。言葉にしなければ意図が理解できないようだと、陽乃の近くに残ることは難しい。

 

 この心情を読むことについては、めぐりの方が上手くできるようなのだが……それが犬としては少しうらやましい。めぐり曰く『同性だから解ることもあるんだよ』と励まされたが、あまり励ましにはならなかった。同時に『異性じゃないと解らないこともあるんだよね……』と文句を言われたが、それはそれだ。陽乃に関することで劣っていることがあるなど、そう簡単に認める訳にはいかないのである。

 

 さて、とにもかくにも勉強であるが、推薦入試を受けるつもりの高校三年夏休み。今さら他人に教えを請うようでは見込みはない。元より一般入試でも十分に合格できるだろうという判定である。今は何より油断しないことが大切だが、陽乃が近くにいるというのは幸福感もあるが、何より程良い緊張感を得られる。

 

 勉強を見てあげるとは陽乃が言っていたことではあるが、特にその必要がないことは本人が一番理解していた。ちらと視線を向ければ、陽乃は文庫本に視線を落とし、備え付けの緑茶を飲んでいた。自分で淹れたのだろう。見た目に大きな違いはないが、八幡には美味しそうに見えた。

 

 実際、同じ物を同じような手順で淹れているはずなのに、八幡と陽乃のお茶には誰が飲んでも解るくらいの違いが出る。めぐりや静も同じ意見で凹まされたことがあるから間違いない。視線に気づいた陽乃が文庫本から視線を挙げた。

 

 めぐりのコスプレでおさげにメガネだから、一応、文学少女に見えなくもない。こんな華やかな文学少女がいたら本家の文学少女はストでも起こしかねないが、本家の感情など女王には関係ない。視線を受けて八幡の要望を理解した陽乃は、めぐりのコスプレをしたままいじめっこの笑みを浮かべた。

 

 それで何かを言われれば反論でもしたのだろうが、陽乃は何も言わない。しょうがないな、と態度で語りながら八幡の分のお茶を淹れ、目の前に差し出した。シャープペンを置き、湯呑に手を付ける。

 

 美味い。

 

 同じ物を使って自分で淹れた物を飲んだばかりだが、飲み比べてみると明らかに違う、何がここまで味を変えるのだろうか。首を傾げながら湯呑を空にすると、すかさず陽乃がお代わりを淹れてくれた。

 

 妙に甲斐甲斐しくて、正直不気味なものを感じないでもない。親切にされると何かの前フリかと思うのはそれだけ、過去に色々なことがあったからだ。今日もこれもそれなのかとお茶の味を堪能しつつ、戦々恐々としていると陽乃は笑みを浮かべたまま読書に戻った。

 

 しばらく待ってみても何もない。ただ怯えさせたかっただけか、と判断した八幡は心中でこっそりと安堵の溜息を吐き、勉強に戻った。

 

 カリカリとシャープペンを動かす音と、文庫本のページをめくる音だけが部屋に響く。陽乃と一緒にいる時、大抵陽乃は何かしてくる。お互いがお互いの時間を過ごすというのは極めて稀だ。適度な距離、穏やかな時間。陽乃が一緒にいてこれほど穏やかに時間が進むのは本当に珍しい。

 

 そういう気分なのだろうか。めぐりのコスプレをしているのも影響しているのかもしれない。八幡や陽乃の目をもってしても彼女は善人であり、騒々しいことを好む性質ではない。意外に悪戯好きで地味に意地悪だったりもするが、そんなものは陽乃に比べればないに等しい。

 

 既に犬根性が染みついている身には、特に何もない状況というのも落ち着かないが、これはこれで楽しみではある。何より陽乃がそう過ごしたいと思っているのならば、犬としてはそれに口を挟む理由はない。安心して受験勉強に打ち込めるというのならば猶更だ。

 

 雪ノ下陽乃が近くにいるという穏やかな時間を過ごすためには、およそ最悪な条件が揃っていたにも関わらず、時間にして三時間ほど、八幡はただ勉強し、陽乃はただ読書をしていた。陽乃が二冊目の文庫本をぱたりと閉じたのを合図に、八幡も参考書とノートから顔を上げた。

 

 時計を見れば、午後七時になろうとしている。そろそろ夕食の時間だ。

 

「ありがとうございます。時間を作ってくれて」

「集中してる八幡の顔を見るのもそれなりに楽しかったから、別に良いよ」

 

 同じ姿勢でつかれたのか、んー、と陽乃が大きく伸びをする。その際、胸元に視線が行ってしまうのは、男の習性のようなものである。その視線に気づかれるのも、お約束のようなものだ。実際に見る以上のことを何度もしているのだが、この習性がなくなる気配はない。

 

 陽乃にからかわれている内に食事が運ばれてきた。からかわれている現場を見られては、仲居さんにはあらあらまぁまぁという顔をされる。それが客の物であってもゴシップが大好きなのだろう、受付にいた女性とはまた違った仲居さんだったが、まさか毎回この反応をされるのだろうか。

 

 微妙に憂鬱になりながらではあったが、食事そのものは非常に美味しかった。流石に陽乃が選んだだけのことはある。料理の感想を言いあいながら、食後のお茶を飲んで一息入れると、八幡の気分も落ち着かなくなってきた。

 

 残っている今日のイベントは風呂と就寝だけである。布団は食事を下げる時に用意してもらっており、一組の布団に枕が二つとなっている。予約した時の設定を鑑みると当然ではあるのだが『私たちはこれから如何わしいことをします』と公言しているようで、落ち着かない。

 

 実際、男女のカップルの部屋でこういうセッティングをする時、仲居さんというのは何を考えているのだろうか。しかもセッティングをしている際、そのカップルは同席しているのである。実際に仲居さんは実に淡々と仕事をしていたのだが、女性の内心が態度と一致しないのは八幡も良く理解している。

 

 これが進むと女性不信になるんだろうな窓の外を見ながら物思いに耽っていると、

 

「お待たせ」

 

 浴衣に着替えた陽乃がそこにいた。めぐりのコスプレをまだ続けているために三つ編み眼鏡はそのままだが、浴衣姿になったことでスタイルの良さが強調されている。文学少女スタイルでも人の目を引いたのだ。これではすれ違う男の視線を独占するだろう。恋人としてはとても面白くない。

 

「そういう顔しないの」

 

 微妙に膨れていた八幡の頬を、陽乃が指で押す。微妙に不機嫌な八幡に対して、陽乃はとても機嫌が良い。恋人が自分のことを考えて不機嫌になっているので、ご機嫌なのだ。八幡は陽乃に従順だが根が真っすぐな訳ではない。特に感情を素直に表現することには調教が済んだ今でも抵抗があるらしく、特に陽乃に対する不満を態度で明確に表すことは少ない。

 

 男女逆ではあるが、これも一種のツンデレのデレと言えるのだろう。陽乃はそういう俗っぽい表現をあまり好まないのだが、八幡をからかう時にはその限りではない。ツンデレだーと頬を突くと、照れた顔を見られたくない八幡は身体ごと陽乃から視線を逸らすが、それを許す女王様ではない。

 

 からかいは陽乃が満足するまで続いた。既に精神的に疲れていた八幡は、それでも犬と恋人としての責務として左腕を軽く持ち上げる。陽乃はその腕を、笑顔で取った。浴場に行くまでの道すがらである。食事の済んだ後ということもあり、同じ目的の宿泊客と道が同じになった。

 

 案の定、陽乃は老若男女全ての視線を集めている。視線はただの視線だと人は言うだろうがとんでもない。複数の強烈な視線は確かに圧力となり、八幡の全身に突き刺さっている。それを快感と思えば、人前に立つことに向いているということなのだろう。

 

 生徒会活動をしていたこともあり、人前に立つことも経験させられた八幡だが、未だに快感と思うことはできない。精々アガらずに話をする程度が関の山だが、幼い頃から視線を集めることが当然だった陽乃は、快感を通り越して意にも介さない。

 

 視線を集めているとは理解しているのだろう。何しろこれだけ気を抜いて好き放題しているように見えても、全身に隙がない。陽乃が完全に気を抜く時があるとしたらどんな時か。付き合い始めた頃は想像すらできなかったが、今ではいくつも知っている。その内一つを知った時には全力で殴られたのも今は昔のことである。

 

 ちなみに浴場は男女別である。陽乃は当初、混浴が良いと言っていたのだがそれに八幡が断固として反対したのだ。混浴露天風呂ではしゃごうと内心で思っていた陽乃は自分の行動が制限されたと思って気分を害したが、それも一瞬のことだった。

 

 基本的に従順な八幡がどうして口答えをしたのか。それに思い至った瞬間、陽乃は機嫌を直して八幡の要望を全面的に受け入れた。その要望を口にした訳ではないが、陽乃は八幡の顔色だけで内心を理解した。他人の、しかも他の男性の目に陽乃の姿がさらされるというのは八幡だって我慢ができなかったのだ。

 

 八幡が陽乃の心情を良く理解できる稀有な人間であるのと同じように、陽乃もまた八幡の心情を良く理解できる稀有な人間なのである。

 

 浴場の入り口で別れ、一風呂浴びてそして出る。女性と違って男の入浴などそんなものだ。普段より念入りに身体を洗って湯船に使っても、陽乃が同じことをした時の半分にも満たない。陽乃の入浴時間を大体把握していた八幡は、脱衣所でマッサージ椅子に挑戦してみたりしながら時間を潰す。

 

 そろそろ良い頃合いである。八幡がさも今出てきましたという風で男湯の暖簾をくぐると、ちょうど陽乃が出てきたところだった。八幡としては余裕を持って出てきたつもりである。少しくらいは待つだろうと思っていたのだが、まさかのタイミングに面食らっていると、その表情を見た陽乃がほほ笑んだ。

 

「良い偶然だね」

 

 えへへー、と笑うその表情はいつもより幼いように見えた。眼鏡はそのままだが、風呂上りだから三つ編みはやめている。それなのにめぐりっぽく見えるのだから、陽乃の彼女への理解の程が伺える。今度は文句を言われる前に左腕を差し、また腕を組んで歩く。

 

 風呂上りの熱とシャンプーの香り。湯上りで上気した陽乃の頬に耳元で囁くような陽乃の声。五感の内の四つを陽乃に支配された八幡は、ふらふらと部屋までの道を歩く。何か話かけられていた気がするのだが、内容はさっぱり覚えていない。

 

 鍵を開けて、部屋の中に入る。先導するように八幡の手を引いた陽乃は荷物を放り投げると、さっと八幡の足を刈り、自らも布団に飛び込んだ。二人で布団の上をごろごろと転がり、八幡が上になった状態でぴたりと止まる。

 

 いつにない光景に、八幡は目を瞬かせた。陽乃は性格上、自分上位であることを好み、それはこういう時でも変わらない。普段は見上げる陽乃が、今は見下ろしている。その理由を理解できないでいると、陽乃は悪戯っぽく微笑み――めぐりのキャラを思い出して、恥ずかしそうに視線を逸らした。

 

「めぐりの真似をしてた訳だから、最後までそうするの。今日は特別に、本当に特別に――」

 

 八幡の好きにして良いから――

 

 耳元で囁かれた声音に、八幡はどっと全身が抜けてしまった。下から陽乃に抱きしめられ、背中をさすられている。またとない絶好の機会なのに、どうにも締まらない。こういう体たらくも陽乃の狙いなのだろうが、男としては恥ずかしい。

 

 しかし、今から気合を入れて襲い掛かるというのもやはり締まりがない。どうしたものかと困り果て陽乃を見ると、数少ない親友の物真似をした女王は眼鏡の奥で困ったように微笑みを浮かべた。

 

「初めてじゃないでしょ? こういうの」

「それはそうなんですが、あまりのことに力が抜けたというか……」

「普段の私だったらお仕置きしてるところだけど、今日は許してあげる。あ、眼鏡は外した方が良い?」

「せっかくなのでそのままで」

「そう? 海老名ちゃんが『八幡が絶対眼鏡プレイが好きだ』って言ってたけど、ほんとだったんだね」

 

 とりあえず、奴には後で話を聞こう。

 

 それだけ決めると脳裏から後輩の姿を振り払った八幡は、いつもより少しだけ強引になった。




こんなやり取りが旅行の間ずっと続きますとさ……
未来から娘二人が時をかけてくるイベントを考えていましたが、あまりにSF過ぎるということでボツにしました。

次回ゆきのんたちの視点で旅行編終了です。二人がバカップルしている間、実は女四人で寂しくお泊り会をしていました。


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反対に、処女(おとめ)たちは友情を深める

 

 

 

 

 少女四人がその内一人の家に集まって泊まりこむ。その行為を何と呼ぶか。由比ヶ浜結衣はそれをパジャマパーティと呼び、海老名姫菜は女子会と呼んだ。それに名前を付けることに抵抗を覚えた雪乃は特に何とも呼ばなかった。沙希の感性は雪乃のそれに近かったのだが、不幸にも『それ』に名前を付けなければいけない事情に見舞われてしまった。

 

 妹の京華の純真無垢な瞳を思い出す。何をしにいくの? と問われて適当に答える訳にはいかない。何をするという具体的な予定もなかったため、妹が納得しそうな言葉を苦心して捻りだした結果、沙希は自分の参加する集まりのことを『お泊り会』と呼ぶことにした。

 

 ただそれを口にするだけなのに、何故だか顔から火が出るくらいに恥ずかしかった。元々、友人の少なかった沙希は、学校などの公的な催しを除いて友人とどこかに泊まったことはない。私生活において泊まりで遊ぶほどの友人がいなかったのも大きな要因ではあるのだが、共働きの両親に代わって家のことをしなければならなかったという事情もあった。

 

 今でも妹の京華は幼稚園に通っていてまだまだ手のかかる年頃ではあるのだが、弟の大志も中学生。家事の分担も姉弟でできるようになり、今までに比べれば負担も減ってきたのだが、負担が減ったからと言ってやりたいことがあった訳ではない。

 

 それでも時間が取れるようになったのは良いことだ。何をするかは暇ができてから考えよう。年頃の女子にしては華のないことを考えていた沙希の日常はしかし、総武高校に入学してから大きく変わった。

 

 そこに至るまでに紆余曲折はあったが、それは割愛する。とにかく色々とあった結果、沙希は恩人の妹の家庭教師をすることになり、彼の所属する部に入部することになり……そして何故か、自分ではなく妹の京華が彼と仲良くなった。

 

 京華が八幡と顔を合わせたのは一度だけだ。何の気まぐれか妹の通う幼稚園に迎えに行く時に八幡がついてきたことがあり、その時彼は京華と顔を合わせた。姉妹だから男の趣味が似ているのかもしれない。それなりに人見知りをするはずの京華は一目で八幡に懐いてしまい、はーちゃんはーちゃんと遠慮なく呼ぶようになった。自分のこともけーちゃんと呼ばせている。妹ながら、その積極性は羨ましい。

 

 まだ幼稚園児ということで携帯もスマホも持っていないが、その京華に配慮してか、八幡は律儀にも週に一回は京華当てに手紙をくれる。妹は毎週毎週その手紙を楽しみにしていて、きちんと返事も書いている。京華にも読めるように、ひらがなを多用した手紙を八幡が書いているのだと思うと沙希も笑みが浮かぶが、同じ高校に通い同じ部活に所属している自分よりも手紙のやりとりをしているだけの妹の方が仲良しなのは、聊か思うところがないでもない。

 

 今日のお泊り会にも、沙希は本当は参加するつもりなどなかった。同級生と寝間着姿で顔を合わせ、何を話して良いのか解らなかったからだ。企画を立てたのは結衣で、それに姫菜が同調した。見た目と雰囲気の割りに友人からの攻勢に滅法弱い雪乃は、その二人に押し切られる形で参加することになった。沙希に声がかけられたのは最後だ。

 

 結衣も、最後の相手こそ難物だと理解していたのだろう。直接声をかけるのではなく、最初から絡め手を使った。総武高校においては、沙希にとって唯一の弱点でもある八幡に、助けを頼んだのである。

 

 八幡からすれば後輩の女子四人がどこで女子会をしようと知ったことではなかったのだが、自分が助成しなければ沙希が不参加を決め込むことは理解していたらしい。八幡はその場でせっせと手紙を認め、それを沙希に手渡した。封筒の宛名は『川崎京華様』となっていた。

 

 結衣が絡め手を使うならば、八幡もまた同じだった。中に何が書いてあるのかは、大体想像できる。できることなら渡したくはなかったのだが、恩人から手渡された、愛する妹宛の手紙をまさか破り捨てる訳にもいかない。沙希は重い足取りで家に戻り、渋々というのは顔に出さないように気を付けながら京華に手紙を渡した。手紙を一読した京華は目を丸くして、手紙と沙希を交互に見つめる。

 

 沙希がどうしたの? と聞いても秘密! と言って教えてくれない。予想以上のことが書いてあった気配が濃厚だ。一体手紙には何が書かれていたのだろう。気にはなるが、一度京華が秘密と言ったことを強引に聞くのも姉として憚られた。家事をしながら手紙の中身を気にしていると、両親共に帰宅した。

 

 いつもはもっと遅いのに、しかも一緒に帰ってくるとは珍しいこともあるものだ。玄関まで迎えに行こうとした沙希を、京華が走って追い越す。足音も高く両親に突撃した京華は、『さーちゃんをお泊り会に行かせてあげてください!』と頼みこんだ。

 

 元より、子供の行動に制限を付けるような両親でもない。どういうことだと不思議そうな顔をした両親を顔を見合わせた沙希は、これこれこういう事情で……と一から十まで説明し、そういうことなら行ってきなさい、という両親の許可――という名の命令を受けた。

 

 自主性を重んじる両親であるが、沙希に友達の気配がまるでないことには色々と思うところがあったのだ。下の妹が頼んでくるというおかしな切っ掛けではあったが、同級生と親睦を深める機会となれば、これを見逃す手はない。沙希が完全に退路を塞がれた瞬間である。

 

 その後に、それとなく手紙には何と……と京華に聞いてもやっぱり教えてくれない。けーかとはーちゃんの秘密なの! と息巻く京華は確かに可愛かったが、この年でこれ程までに男に義理立てする妹の将来が、沙希は心配になってきた。

 

 結局、その話は川崎家でとんとん拍子で進み、沙希が泊まりに行く時には大志が家事を頑張る、ということで話がまとまった。普段はねーちゃんがやってるんだから……と弟にまで気を使われてしまう。その生暖かい視線から大志にも、友達がいないと思われているのだと沙希は察した。流石に少し腹が立ったが、いなかったのは事実なのだからと怒りを飲み込むことにした。いなかった、過去形で言えるだけマシなのだろう。

 

 お泊り会は、雪乃のマンションで行われることになった。誰の家でも良かったのだが、一人暮らしをしているというのが一番の決め手になった。雪ノ下があの雪ノ下ということは知っている。金持ちだろうと思ってはいたが、実際にそのマンションに足を運んでみると、済む世界が違う人間というのはいるものだと実感した。

 

 初めて見るオートロックにドキドキしながら入った雪乃の部屋は、マンションの外観から想像していたよりもずっと広い。雪乃の部屋など沙希の部屋が三つは入るんじゃないかというくらいに広く、リビンクはパーティでもやるのかというくらいに広い。

 

 羨ましいと思うより先に、沙希の胸に去来したのは寂し過ぎないかという心配だった。家族に囲まれて過ごしてきたからか、沙希は家に誰もいないと落ち着かない。家族がいるべき家に、一人でいるという状況に酷い違和感を覚えるのだ。

 

 その感覚から行くと、この広い家に一人というのは耐えられないんじゃないかと思う。いずれ一人暮らしをする時はもっと狭い部屋にしようと、雪乃の部屋を見て沙希は心に決めた。

 

 さて、女子四人のお泊り会と言っても特にすることがある訳ではない。皆で夕食の材料を買いに行き、ついでにレンタルショップに寄って一緒に見るDVDを借り、四人で夕食――結衣のリクエストでカレーとなった――を作って食べ、優雅に食後の紅茶など嗜んだ後、入浴である。

 

 てっきり、順番に入るのだと思ったら、全員一度でも大丈夫だと言う。ちなみに川崎家は2人入るともう狭いくらいだ。あまりの格差にもはや苛立ちすらも覚えないが、広々と使える風呂というのは単純に羨ましい。これで一人でゆっくり浸かることができたら言うことはなかったのだが……そこはお泊り会なので妥協するより他はない。結衣のあまりの成長っぷりに別な苛立ちを覚えもしたが、それ以外は特に何もないまま進み、寝間着に着替えてからDVD鑑賞……しようと思ったら、どういう訳か速攻で結衣が寝落ちしてしまったため、その日は大人しく就寝した。

 

 翌朝、起きた傍から平謝りしてくる結衣を宥め、軽い朝食を取ってから飲み物片手にDVD鑑賞をしていると、沈黙に耐えきれなくなった結衣が不意に口を開いた。

 

「……ヒッキー先輩。雪ノ下先輩と喧嘩とかしたことあるのかな」

「基本、比企谷くんの方が折れるから喧嘩になることは少ないそうよ」

「まぁ想像の通りだよねー。陽乃さんも八幡先輩も手を挙げるとかしなそう」

「一度だけ、うちの姉が本気で比企谷くんを殴り飛ばしたことがあるそうだけれど」

「えー!? 雪ノ下先輩酷いし!!」

 

 どんな理由であれ、手を挙げるなんて許されることではない。我がことのようにぷりぷり怒る結衣を眺めながら、雪乃は深々と溜息を吐いた。姉とその恋人の喧嘩の原因を友人に語ることが、これほど憂鬱なことだとは思わなかったのだ。

 

「……比企谷くんが、姉さんがすね毛を剃っているところを目撃してしまったことが原因らしいわ」

「ヒッキー先輩最低……」

 

 原因を聞いて、結衣は主張を180度変えた。無理もない。女として見られたくない所を、よりにもよって一番見られたくない人に見られてしまったのだから、手も出るというものだ。姫菜も沙希も、結衣の言葉に同調している。八幡に対して思うところがある二人であるが、自分がその場面を見られた時のことを考えれば手が出るのもやむなし、という考えだった。女子には見られたくないことの十や二十はあるものだ。

 

 雪乃はと言えば、感じることが少し他の三人とは違った。手が出てしまった、ということそのものに異論はない。男が女の見てはいけないものを見てしまった。その報復はあってしかるべきだと思う。

 

 雪乃が考えたのは姉である陽乃のことだ。

 

 感情の制御に長けたあの人が、一過性の感情に任せて手を挙げるなど雪乃からすれば考えられないことだ。見られたくないところを見られた、その羞恥心故の行動と言えば普通は納得できるのだが、感情に任せての行動というのは雪乃にとって、陽乃のイメージから最も縁遠いものだった。

 

 羞恥心に任せて行動してしまったことを、陽乃は心の底から恥じているようだ。それだけ八幡に執着しているということなのだろう。その恥ずかしい行為を妹に話してしまっている辺り、時間を置いてもまだ完全には理性を取り戻していないようではあるが。我が姉のことながら、ごちそうさま、という感想しか湧いてこない。

 

 対して殴られた八幡はと言えば、全面的に自分が悪いと言って殴られた傍から平謝りしていたそうだ。不興を買うことを恐れている、というよりも自然と出た行動であるという。いきなり殴られたのだ。男女の立場の差はあっても、もう少し怒っても良いとは思うのだが、それが二人の関係であると言われてしまうと、例え片方の妹であっても口を出せるものではなかった。

 

 男女の関係というのは難しい……と黄昏ていると、メールが来た。差し出し人は姉の名前で。添付ファイルがあるようだがこんな早朝にメールというのも、嫌な予感しかしない。無視してしまう、ということは考えられない。他の三人にもメールが来たのはバレてしまったし、元来の几帳面な性格がすぐに処理できることを放置することを、許せそうになかった。

 

 まったく、と深々と溜息を吐きながら、雪乃はメールを開いた。タイトルは『二人の朝なう』となっている。ヤバい。そう思った時にはもう、雪乃の指は操作を終えていた。写真が展開され、それが目に飛び込んでくると、雪乃は小さく悲鳴を挙げ、スマホを振りかぶった。

 

 結衣と姫菜はあ、と声を挙げるがとっさに行動できない。続いて雪乃が自分の行動にまったをかけようとするが、既に振りかぶったスマホは指から放たれようとしている。自分で止めることはできない。その場で冷静に動くことができたのは、沙希一人だった。

 

 雪乃のメールにやはり嫌な予感を憶えていた沙希は、手近にあったクッションを掴んでいた。そうして、雪乃がスマホを振りかぶった瞬間、クッションを持って正面に飛び出す。沙希がけだる気にクッションを構えるのと同時に、雪乃の指からスマホが放たれた。

 

 ぼふっと、やる気のない音を立ててスマホがクッションに直撃する。跳ねたスマホは再び宙を舞うが、沙希に遅れて動いた姫菜が、床に落ちる前にキャッチした。続けて動こうとした結衣は、既に自分の仕事がなくなっていることにしょんぼりとしている。何にも、誰にも被害がでなかったことに、雪乃は安堵の溜息を漏らした。

 

「ありがとう。川崎さん」

「別に良いよ。まぁ、見たくないものでも見たんだろうけど……」

 

 沙希と、結衣の視線が姫菜が確保した雪乃のスマホに向く。見ない方が良い、と雪乃が忠告するよりも早く、姫菜を中心にして三人はスマホを覗き込み……そして絶句した。

 

 メールのタイトルは『二人の朝なう』となっている。写真に写っているのは一組の男女。雪ノ下陽乃と、比企谷八幡である。目を開けているのは陽乃一人。八幡は陽乃に腕枕をしたまま、目を閉じて眠っている。目つきの悪さがまず印象に残る八幡だが、目を閉じて眠っていると印象ががらりと変わる。元々、顔の造形は整っているだけに目を閉じてリラックスしていると、まるで別人のようだ。特に八幡を憎からず思っている女性には、この寝顔は衝撃的だろう。

 

 その八幡の横にいる陽乃は、自撮りをする時特有の腕を伸ばしたポーズで、八幡に顔を寄せている。化粧っ気のない寝起きの顔であるはずなのに、そのけだる気な表情には言い様のない色気が漂っている。布団で隠れてはいるが、八幡の腕や陽乃の胸元を見るに、何も着ていないのは明らかだった。

 

 恋人である二人が起き抜けに、裸の状態で寄り添っている。昨晩に何があったのかは明白である。八幡がまだ高校生とは言え、陽乃はもう大学生。お互いに未成年ではあるが、泊まりの旅行に出かけているのだからすることはするだろう。四人とも、特に妹である雪乃はそれを解っていたはずなのだが、いざ現物を見てしまうと感情の処理に困った。

 

 写真で特筆すべきは、陽乃の表情だ。勝ち誇っているようであり、感情を持て余しているようであり、とにかく同性の目から見ても色っぽく見える陽乃は、幸せを噛みしめているように見えた。写真を見て四人の女子高生はまず羞恥を覚え。その後にどうしようもない敗北感に襲われた。

 

 電波の向こうにいる二人はこんなにも青春を謳歌しているというのに、ここに集った女子四人は恋人も作らずに同性で屯してばかり。男を咥えこむことが幸せの絶対条件などとは断じて思わないが、持つ者と持たざる者の差はやはり大きいものだと実感する。誰ともなく吐いた溜息が、部屋の中でやけに大きく響いた。これが男のいない女の溜息×4かと思うと、虚しさも一入だ。

 

「ケーキバイキングというものがあると聞いたわ」

 

 唐突に呟いた雪乃は部屋の中を横切り、机の中からチケットを取り出した。少し電車で遠出をする必要はあるが、とあるホテルに新たに開業した女性向けの店で、ケーキバイキングが売りである。誂えたようにちょうど四枚あるチケットを、雪乃は三人に向けて差し出した。

 

「私は行ったことないのだけれど、機会があったらと父が招待券をくれたの」

 

 だから何をしようとは言わないが、一緒に行こうと言っているのは明白で、それが何故なのかも乙女3人は理解していた。そのチケットに、まず最初に手を伸ばしたのは結衣である。元々甘い物は好きな部類であるが、とにかく何かでウサ晴らしがしたかったのだ。

 

 次いで、チケットに手を伸ばしたのは姫菜である。恋人など特に欲しいと思わないと思っていたのに、いざいない事実を突きつけられると、地味にショックを受けていた。その事実に悶々とした姫菜も、何となく憂さ晴らしがしたくなっていた。ケーキそのものに興味はそれ程ない。ただ、何でも良いから何かに集中したかったのだ。

 

 三人の視線が、沙希に集まる。ショックは受けているし、何かに集中したいとも思っている。尖って見せても、川崎沙希も女子高生だ。ケーキ、しかも食べ放題という単語にときめいていない訳ではない。

 

 気になっていたのは、ここで飛びついてしまうと周りからどう見られるかということだ。何処の誰かに懸想をしているように思われはしないか。それを恥ずかしいとは思わないが、それで相手に迷惑がかかってしまっても困るのだ。相手に恋人がいようと家庭があろうと、ただ思っているくらいならば問題ないだろう。

 

 女子高生にしては屈折した恋愛観を持っている沙希だが、屈折具合では他の追随を許さない人間がここにはいた。逡巡する沙希を見て大体何を考えているのかを看破した姫菜は、沙希の背中を押すべくそっと助け船を出した。

 

「これはさ、あれだよサキサキ。女子会ってやつ? 特に深い意味とかないんだ。放課後に部室に集まってお話ししたりするでしょ? その延長と思ってよ。まぁ、八幡先輩はいない訳だけど、たまには良いよね? だって女子会に男子がいるのはおかしいし……」

「まぁ、そうかな……」

 

 いい訳にも何にもなっていないが、背中を押すことの役目は果たしていた。同時に、沙希は姫菜に気を使われたのだということを理解する。姫菜に視線を向けると、彼女は眼鏡の奥で目を細めて静かに微笑んだ。性格はまるで似ていないが、姫菜は本質的な部分で八幡に似ているところがある。

 

 以前、八幡にその話をしたことがあるのだが、彼に言わせると『それは俺じゃなくて陽乃に似てるんだ』と言われた。沙希は陽乃のことを良く知らないし、会いたいともあまり思わないが、八幡がそう言うのならそうなのだろう。まだまだ彼に対する理解が及んでいないと、より暗い気分になりかけたのを誤魔化すように、沙希もチケットを手にした。

 

「皆、午後の予定は決まったようね」

「それならお昼は抜きにしない? その方がお得な感じだし」

「タダ券もらってお得もないんじゃない?」

「お金の話じゃないよ。カロリーの話」

 

 姫菜の言葉に、四人は顔を見合わせて重々しく頷き合った。全員、特に体重について深刻な悩みを持っている訳ではないが、少しの油断が命取りになるということは、女ならば全員知っている。男が思っている百倍くらい、女にとって見た目というのは重要なのだ。

 




vitaのゲームやってて少し遅くなりました。
サブキャラのルートからクリア。共通パート長すぎやしませんかねとは思うものの、陽乃ルートがある、OVAの一色かわいいということで満足でした。

次回は特に思いつくことがなければ二学期文化祭編になります。いろはす久しぶりの登場です。


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久しぶりに、一色いろはは現れる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 楽しかった夏休みも終わり、二学期が始まる。

 

 一年から三年まで、夏休み明けのクラスの光景というのは概ね決まっている。休みの間にこういうことをした、という報告会……という名の自慢合戦だ。稀に光るものがあるものの、実の所衆目を集める程のことをしたという報告はほとんどないというのも定番だ。

 

 そりゃあ、平日一学期に比べれば色々なことがあっただろうが、衆目を集めるというのは相対的に凄いという意味でもある。皆が普段しないことをしまくっていれば、大抵のことは人目を引かない。普通は友人たちの話を聞いたり聞き流したりしながら、それでも、自分たちの連帯が破られていないかを大いに気にするものである。身ぎれいな集団の中で、一人だけ大人の階段を上ってしまったりすると、今後の集団の運営に大きな影を落とすことになるのだ。

 

 その点、奉仕部の面々は夏休み前と全く(・・)変わらない様子で二学期を迎えた。既に大人の階段を上った後の男と、足をかけてもいない女子四人で構成された部は、二学期になったからと言って特別何かが変わることはないまま、今日も平常運転を続けている。

 

 その平常運転に、変化が起こる日のことである。その日はたまたま、部員全員が部室に顔を揃えていた。参考書を開いて勉強している沙希の向かいで、同じく勉強している八幡。空いた時間を有意義に使おうという彼らは、暇さえあれば参考書と格闘している。

 

 八幡は二年時から国際教養科を含めて学年トップを維持しているが、その成績は普段の勉強に支えられている。決して才能の上に胡坐をかいている訳ではないし、そも八幡は自分が勉学について才能に恵まれていると思ったことは陽乃と出会ってからは一度もない。

 

 陽乃に面倒を見て貰ったから成績が上がったのだと言う者もいるが、それは必ずしも正しくはなかった。

 

 成績向上に陽乃が大きく関わっているのは事実であるが、彼女は相手が八幡でなければここまで執心したりしなかっただろうし、八幡が期待に応えようと努力しなければ結果は伴わなかった。

 

 努力することも才能の内だと言うのならば、そうなのだろう。陽乃の期待に応える才能については、比企谷八幡というのは紛れもない天才であるが、その期待に応えるための偏執狂的な努力も、相手が陽乃だからこそ生み出されたものだ。他の人間が相手では、こうはいかなかったろうことは、八幡本人も認めるところである。最低限の資質と、それを最大限に引きだすことのできる人間と、それら全てを結果に繋げる偏執狂的な努力。今の八幡を作りだしたのはこの三点だ。

 

 その点、沙希は自分が八幡に大きく劣ることを自覚していた。同じだけの努力ができれば、同じくらいの結果が出せると八幡は事も無げに入るが、高いモチベーションを長時間維持し続けることがどれだけ難しいことなのか、実のところ彼はよく理解していないように思えた。

 

 その原動力となっているのが一人の女性だと思うと、女として沙希の胸も痛んだが、その痛みにかまけていては未来の選択肢を狭めることになると、参考書に目を落とす。

 

 残りの三人の1人、海老名姫菜は何処から持ってきたのか型落ちのノートパソコンとにらめっこをしている。BL小説を書く趣味があるということは部員全員が知るところだが、最近は頓に気合が入っているように見える。

 

 誰もが気にならない訳ではなかったが、それを聞いてしまうと嬉々として作品の内容を語りだすため、今のところ『何を書いているの?』という質問をした人間は部内にいない。

 

 マイノリティの趣味というのは理解されないものだが、奉仕部においてもそれは同様だった。

 

 雪乃は長テーブルの上座に近い位置に陣取り読書、結衣はその向かいでスマホをいじり続けている。どちらも一人の世界に没頭している。他人のいるところでやることではないのではと思うが、雪乃は結衣の近くで読書することを好んだし、結衣はそもそも雪乃の近くにいることを好んだ。

 

 性格も生い立ちも対極にある2人だが、意外にウマは合うらしく部室でもいつも近くに座っている。休日につるむこともあるようで、昨日はゆきのんとどこどこに行った、という話を八幡も良く聞く。葉山グループは大所帯であるから、休みの日まで一緒につるむということは、意外と少ないらしい。

 

 沙希が増えて五人となった奉仕部だが、基本的に席順は入口に近い方の端に八幡と沙希、少し距離を置いて、それでも入口寄りの位置に姫菜が座り、反対側の端に雪乃と結衣が座っている。姫菜をして『微妙な距離感』と評されるこの立ち位置だが、決して仲が悪いということではない。

 

 この位置が落ち着くというだけの話であり、長テーブルの反対側からでも結衣は遠慮なく八幡に話しかけるし、八幡が紅茶を淹れる時には自分も含めて全員分も淹れる。三年の男一人に一年の女子四人という、総武高校の歴史の中でも他に類を見ない人数構成の部活であるが、中々上手く奉仕部という部活は回っていた。

 

「もうすぐ文化祭だよねー」

 

 その話を切り出したのは結衣である。誰に向かって話しかけたという訳ではないのだが、それに答えたのはたまたま執筆に一区切りついたらしい姫菜だった。

 

「そうだねー。サキサキのクラスは何やるか決まりそう?」

「さあ……模擬店やりたいって言ってる連中はいるけど、それくらいかな」

 

 乗り気である結衣に、それ程でもない沙希。姫菜はその中間と言った様子である。文化祭に対する熱意という点で奉仕部の面々の間にはかなりの開きがあった。ちなみに雪乃は名前の通りに氷点下である。全く興味がないのか文化祭の話題に加わりもせず、文庫本に視線を落としたままである。

 

「海老名と由比ヶ浜のクラスは何やるか決まってるのか?」

「まだですね。でも、私が力の限りプレゼンをして演劇します」

 

 初めて聞くんだけど! と結衣が驚きの声を挙げるのを華麗にスルーし、姫菜がパソコンの画面を八幡に向ける。長い文章の、最初の1ページである。表題と思しき場所には『星の王子さま』とあった。流石に、オリジナルで行くという訳ではないらしいが、

 

「あぁ、お前が書いてるのはその脚本か」

「そうです。古典作品に独自の解釈を沢山盛り込んで、更に隼人くんと戸塚くんって方向性の違う美男子を餌にBLを布教してみせます」

 

 冗談のような内容だが、姫菜の言葉に冗談めかした雰囲気はない。本気の本気で言っているのだろう。これで校内にBLの嵐が吹き荒れるというのであれば苦言の一つや二つは言うべきなのだろうが、姫菜曰く、直接的な内容でしか語れないのは素人であるらしい。

 

 一見普通に見えて、随所に、あるいは全体に主張を盛り込んでいく。後は観客の解釈に任せるというスタイルだが、BLの心を持つ選ばれし者は、そこに何かを見出すらしい。BLとは奥が深いのであるらしい。

 

「問題は演劇が審査通るかなんですよね……他と競合しちゃまずいんでしたっけ?」

「体育館のステージを使うなら別だが、クラスでやる分には問題ない。俺がやった時とルールが変わってなければだが、クラス展示で出展数が制限されるのは飲食物を扱う場合だけだ。諸々の申請の都合があるからな。それもどれくらいで制限がかかるかはその年によって変わる」

 

 陽乃が会長だった時は、その制限の一切を取り払った。各クラス、各団体、ルールの範囲内で好きなことを好きなようにやれという号令の元多くの生徒が盛り上がったのだがその反面、文化祭実行委員会と生徒会執行部にしわ寄せがきた。あの時は相当に働いたものである。

 

 逆説的には、その時の生徒会、実行委員会と同様の働きをすれば、飲食関係も含めて同様の条件を設定できるはずだが、あの環境を維持できたのは偏に、陽乃が会長だったことが大きい。仕事の割振りが上手いこともさることながら、あの人は不特定多数の人間をその気にさせる天才だった。

 

 学校全体がやる気になっていたからこそ、あの条件を達成できたのである。今の政権に文句がある訳ではないし今年は誰が実行委員長になるか知らないが、同じような方法であそこまでの狂乱を生み出すのは不可能だろう。全く別のアプローチならば有り得なくもないが、それで同程度以上の結果を出すためにはやはり、全校生徒を引っ張っていけるだけの人間が必要になってくる。

 

 現状、総武高校を見回してもそこまで存在感のある生徒はいない。雪乃や隼人ならばやればできるだろうが、どちらも先頭に立って集団を導くというタイプではない。しばらくはあそこまで盛り上がる文化祭はないだろうと思うと、その文化祭に関わった人間としては少し寂しい。

 

 この寂しさを、さてどうしたものか。後輩ばかりの部室の中、微妙に黄昏ていた八幡の耳に、控えめなノックの音が届いた。依頼者だろうか。八幡は部員たちに視線を向ける。全員が首を横に振った。そも、依頼者がやってくる予定ならば、他の部員に黙っている理由がない。

 

 もう一度、今度は少し強めに、それでもかなり控えめなノックが響いた。そのノックの仕方に心当たりがあった八幡は、雪乃たちに伺いを立てるよりも先に『どうぞ』と扉の向こうの相手に入室を促した。

 

「失礼しま~す」

 

 緩い言葉と一緒に部室に入ってきたのは、この部屋では初めて見る顔だった。八幡以外の部員全員も彼女の顔を知っていたが、それを迎えた表情は皆、程度の差こそあれ茫然としたものだ。それくらい、この部屋で彼女の顔を見るとは思っていなかったのである。

 

「…………会長がここに依頼を持ち込むなんてことがあるんだな、城廻」

「私だって生徒なんだから、おかしくはないでしょ? はっちゃん」

 

 それはそうなのだが、どういう内容のものであれ執行部員がそうではない生徒に問題解決を依頼するというのも具合が悪いものだ。少なくとも、陽乃ならば絶対にしなかっただろうが、めぐりはそういうものを気にしない。陽乃がやっているものが仕事の割振りだとすれば、めぐりがやっているのは仕事のお願いだ。

 

 結果的には同じでも、アプローチの方法がまるで違う。何かと陽乃と比較され、当時の執行部を知っている人間からすると物足りないと思われることも多いめぐりであるが、自然と相手を立てることのできる穏やかな物腰は陽乃にはないものだ。

 

「八幡先輩、会長にはっちゃんとか呼ばせてるんですか?」

「俺が呼ばせてるんじゃねーよ……」

「そうだよー。私が勝手に呼んでるだけ。でも、やめろって言われないから、実ははっちゃんも気に入ってるのかもしれないね」

 

 うふふ、とめぐりは嬉しそうに笑う。二人だけであれば文句の二つも三つも言ったのだろうが、八幡は何も口にしなかった。やりとりをじっと眺めている後輩の女子が四人もいたからだ。あると思っていた反撃が八幡からないことをめぐりは疑問に思ったが、今はお仕事と会長の顔になる。

 

「それでね、はっちゃんたちに依頼があるんだけど、聞いてもらえるかな?」

「聞けるか聞けないかは内容を聞いてからになるな。お前なら無理難題はふっかけてこないとは思うが」

「はるさんみたいに?」

「陽乃の話は今いいだろ。それで、依頼ってのはどんなだよ」

「はっちゃん以外は初めてだよね? まずは紹介します」

 

 入ってきてー、とめぐりが部室の外に声をかける。他にも人がいると思っていなかった八幡たちは意外に思いながらそれを待つ。

 

 視線を集め、部室に入ってきたのは八幡にとっては知った顔だった。自分がどの程度かわいいのかをはっきりと自覚し、それを最大限に活かすために制服を着こなしている。存在そのものがあざとい女と言っても良いだろう。めぐりが自身の性格でもってその雰囲気を作り出しているとするなら、この少女は自分で計画して自分のイメージを作りだしている。

 

 その計画まで含めて少女の素なのかもしれないが、外から見ればどちらであろうと同じである。とにもかくにもあざとい女、というのが少女に対する八幡の印象だった。普通であれば、その印象は悪いものなのだろう。少なくとも総武高校に入学したばかりの頃の八幡ならば、こういう男に媚びるタイプの女は嫌悪の対象だったが、今はそうでもなかった。

 

 良くも悪くもこの少女は、こうありたいという明確な方向性を持っている。そのために一年の内から行動し、執行部にも籍を置いていた。めぐりから聞く限り、その働きっぷりも悪いものではない。以前聞いた、陽乃のようになりたいという目標が達せられることはおそらくあるまいが、そのために努力する姿勢は八幡も嫌いではなかった。

 

「一色いろはです、はじめまして。先輩は、お久しぶりです」

「戸塚の件で執行部室に行って以来だな。城廻がわざわざ連れてきたってことは、お前絡みの依頼か?」

「そういうことだね。というか、いろはちゃんをお願いしますって依頼かな」

 

 そういうと、めぐりは珍しく得意げな表情になった。小学生の姉が幼稚園に通っている妹に自慢話をする時に見せる表情とでも言うのか。とにかく、陽乃政権の時にはあまり見なかった表情である。後輩の前だとこいつはこんな顔するのか……と内心で少し感動している八幡を他所に、めぐりは言葉を続ける。

 

「学校は今文化祭のことで忙しい訳だけど、その後に生徒会選挙があることは、皆も知ってるかな?」

 

 この問いは、八幡以外の全員に向けられたものである。陽乃が就任した時は年度の頭に実施されていた選挙も、めぐりが会長になる時に制度が改定されて、二学期の実施――正確には文化祭や体育祭の後に実施されることになった。学校にとっては文化祭や体育祭にも劣らない一大イベントなのだろうが、実際の所、立候補やそれに付き合う人間でもなければ、正確な日程を意識している人間は少ないい。

 

 まだ選挙を一回も経験していない一年ならば猶更だ。めぐりの問いに、雪乃たちは困惑した様子で顔を見合わせた。選挙の日程を、誰も知らなかったからである。これにはめぐりもしょぼんと肩を落とした。自分が会長になった選挙のことを、後輩が誰も知らないという事実は、地味にショックだったのである。

 

「もう少し前の時期からアピールした方が良いのかな、はっちゃん」

「どうだろうな。普通はこんなもんな気はするが」

「会長としてはショックだけど、それは後で考えることにするよ。それで、こちらのいろはちゃんなんだけど、会長選挙に立候補するの」

「ほー、それは凄い。城廻が推薦人になるのか?」

「違うよ。私は私で推薦する人がもう決まってるよ。このまま選挙しても、多分いろはちゃんは負けちゃうと思う」

 

 今度は八幡も加わって、奉仕部の部員たちは困惑した顔を突き合わせる。話がややこしい方向に向かってきた。

話題に上ったいろはも、今は苦笑を浮かべている。現生徒会長からお前は勝てないと言われては立候補を考えている人間としては、立つ瀬がない。

 

「でも、それはそれで公平じゃないと思うんだ。いろはちゃんが会長になりたいっていう気持ちは本当だと思うし、私もそれを無下にはしたくないの。だから、せめて対等な勝負になるように、実績を作ってあげたいなって思って」

「こいつを文化祭の実行委員にねじ込もうってことか?」

「それもできれば役職持ちにしてあげたいかな。委員長か、副委員長辺り」

 

 八幡は腕を組み、大きく唸り声を挙げた。実行委員は一年から三年まで、各クラス男女一名ずつからの代表者で構成される。そこで実行委員長になるためには、実行委員の過半数の支持を集めなければならない。

 

 それ自体は、実のところそれ程難しいものでもないのだ。激務の委員長職は学生にとっては内申点が良くなるくらいしかメリットがない。委員長職そのものに魅力を感じるようなタイプでなければ、押し付けられた人間くらいしか、なり手がいないのが現状だ。

 

 候補者がいろはしかいなければ、例え一年でも委員長になることはできるだろう。二年、三年は一年に任せることに不安を覚えるかもしれないが、じゃあお前がやれと言われてはたまらないからだ。

 

 しかし、他に立候補者がいた場合、しかもそれが二年以上であるといろはの就任は途端に厳しくなる。こういう場合一年というのはそれだけでハンデになるのだ。如何に天性のあざとさがあっても、過半数を獲得するのは厳しいだろう。全ての男子がそのあざとさにころりと行く訳ではないし、そもそも委員の半数は女子である。

 

 とかく女子受けの悪いだろうあざとさが武器のいろはの委員長就任を盤石なものにするには、事前の根回しを行うしかないが、

 

「俺たちに実行委員に潜りこめってことか?」

「そうしてくれるなら嬉しいけど、そこまではお願いできないかな。クラスでなりたいって人がいたら、そもそも委員になるのも難しいし……いろはちゃんが委員になった後、そのお手伝いをしてくれるだけで十分だよ」

「外部協力者か……」

 

 外部協力者は実行委員とは別枠で勘定される。クラスで選任される必要はないし、そもそも総武高校の学生である必要もない。過去の事例を見てみると、OB、OGが何人か参加している。流石に誰でも何人でもどうぞお越しください、という雰囲気ではない。在学生よりもOBOGが目立っては意味がないからだが、在校生が手伝う分には邪見にされたりはしないだろう。どこでも人手では欲しいはずだ。

 

「一色が委員になるのは確定なのか?」

「それは大丈夫です。うちのクラスはなり手がいないみたいなので、根回しもすんでます」

 

 進んで嫌な役を引き受けてくれるというならば、それがどんな立場の人間であれ反対はしない、ということなのだろう。一年の内から内申を意識している人間もいないだろうし、普通は一年では委員長などの役職につけるとは考えない。めぐりの支援を受けられるいろはの立場が特殊なのだ。

 

「委員長を本気で狙うなら多数派工作をしておいた方が良いと思うが、それは難しそうだな」

「立候補だけしてもらって、後は他の人たちの様子見ってとこかな。なれたらラッキー、くらいで良いと思うよ」

「それだと選挙のアピールに使うのは難しそうだが……」

「それは私も解ってるので、問題ありません」

 

 めぐりの支援が受けられなかった時点で、劣勢に立っているのは解っているのだろう。いろはもそこまで、委員長職に頓着している訳ではなさそうである。

 

「お前のことだから聞くまでもないと思うが、もう対抗馬の方に話は?」

「通したよ。選挙経過、結果に関わらず、当選した方は落選した方をスタッフとするってことで約束してもらったから」

 

 お互いに遺恨は残さず。めぐりらしいやり方である。一年であるいろはは生徒から信頼されるスタッフを集められるかという懸念があったが、対抗馬の引き込みが確定しているならばその必要もない。めぐりが推すのは現政権のスタッフだ。めぐりと同じ三年生以外は留任したがるだろうから、いろはが勝った時も、心配するのは補充人員のことだけで良い。

 

 後からやってきたこれだけあざとい女子の、しかも一年なのだ。てっきり執行部でも嫌われているかと思ったが、意外とそうではないらしい。

 

「俺らができることは少なそうだが……それでも良いのか?」

「何かお手伝いしたいっていうのが、私の依頼だからね。はっちゃんたちはできる限りのことをしてくれるだけで十分だよ」

 

 善意を前提とした行動を要求されるのもそれはそれで困るのだが、めぐりならばどういう結果になっても文句は言ってこないことは解っている。頼まれたことに手を抜くつもりはないが、結果が出た後のことを考えることも時には大事である。

 

「さて、それで、受けてもらえるかな?」

 

 別に断っても良い、という空気をめぐりは出しているが、その隣には依頼者の一人であるいろはも立っている。彼女の前でやりません、やりたくありませんと答えるのはそれなりに勇気のいることだったが、結衣以外は大事な場面でNOと言える胆力を持ち合わせている。自分たちの都合に合わなければ依頼は断ることができる。その点は安心できるのだが、受けるか受けないか、受ける前にこれ程見通しが立たない案件は、八幡にとって初めてだった。

 

 依頼を受けるか受けないかは多数決で決定する。仮に八幡が賛成しても、残りの四人が反対すれば部として依頼を受けることはできない。実際、いろはは女子に受けが悪そうで、しかも生徒会選挙という政治絡みの案件を元会長であるめぐり経由で持ちこんでいる。これに協力するとなれば、実行委員会絡みで長時間拘束される可能性も出てくる。

 

 いろははともかく、陽乃政権で苦楽を共にしためぐりの頼みである。八幡としてはきいてやりたいのだが、果たして奉仕部の女子どもは何と答えるのか……

 

「私は受けても良いと思うわ」

「私も、別に良いと思います」

「海老名に同じです」

「私もOKだよ」

 

 特に反対する意見もなく、すんなりと全員が賛成した。自分が女受けしないことを理解しているらしいいろはにも、驚きの表情が浮かぶ。いろはの視線が八幡に向いた。これは先輩の差し金ですか? 細められた視線は、内心の疑いを物語っている。

 

 話がスムーズに進むならば依頼主としては歓迎すべき事態のはずなのだが、いろはは疑心暗鬼が先に立つタイプのようである。

 

「はっちゃんは賛成?」

「お前の頼みだからな」

「もう、はっちゃんったら……はるさんに言いつけちゃうぞ?」

「それは勘弁してくれ。で、詳細についてだが……」

「それはまた明日ってことで良いかな。資料を作って出直してくるよ」

「よろしく頼む」

 

 話はそれで終わりと踵を返しためぐりの背中に、いろはが慌てた様子で視線を向ける。これで帰るの? とめぐりと八幡たちを交互に見るが、めぐりに世間話をするつもりがないことは見れば明らかだ。それにめぐりが持ってくると言っている資料だが、話の流れからして作成するのはいろはの仕事である。

 

 まだ何も手をつけていない状態だ。既に今代、先代の会長の間で話がつき、ある程度の方向性は決まっているとしても、それを文章に起こすのはそれなりに手間がかかる。世間話などしている暇はない。いろはは奉仕部の部室を見まわした。雪乃、結衣と奥にいるメンバーから順に視線をやり、最後に八幡に目を止める。

 

「それじゃ、先輩。よろしくお願いしますね」

「ああ。お前も選挙頑張れよ」

 

 そっけない対応は、いろはの美少女としての自尊心を大いに刺激した。とびきりの笑顔の中に僅かに険が混じったことに、八幡は気づかないふりをする。強化外骨格をまとった陽乃を相手に、何度も通った道である。たかが美少女の笑顔一つで挙動不審になったりする時期は、既に通り過ぎたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 悔しさを漂わせたいろはの背中が見えなくなるまで見送ってから、八幡は奉仕部の面々を見渡す。

 

「で、どうして受けることになったんだ?」

「あら、比企谷くんは反対? ああいう女子は、男子の好みそうなところだと思ったのだけど」

「そういうどう答えても外聞の悪い質問するのやめろよな……今回の依頼と戸塚のテニス部の時と、全く状況が違うだろ? 打算的というか、あまり関わり合いになりたくない系の依頼っつーか……」

 

 所謂政治的な案件である。三年の八幡はあと半年もすれば卒業だが、一年である雪乃たちはまだ二年以上在学期間が残っている。おかしな関わりを持って後の学園生活に影響がでたら、ということを八幡は心配していた訳だが雪乃を始め、四人はどこ吹く風だった。

 

「そんなの今さらでしょう? 私はあの人の妹だし、貴方はあの人の閥の人間。貴方が設立したこの部も、見る人間が見れば政治的背景を感じるはずよ」

「だからって率先して政治な話に関わる必要もないっつーか……」

 

 いつになく八幡は食い下がるが、それに意味がないことは良く解っていた。既に依頼は受けてしまった。今さら反故にしては信頼に関わる。一度イエスと言ってしまった以上、受けるしかないのだが、雪乃たちが検討もせずあっさりと依頼を受けた理由が八幡には解らなかった。八幡自身はめぐりにとてつもない義理がある。陽乃に絶対と命令されない限り口にしないが、めぐりは大事な友人であり、その頼みならばできる限りきいてやりたいと思っている。

 

 だが、雪乃たちにはめぐりに義理はない。生徒会選挙のためのポイント稼ぎなど、普段であれば最も嫌がる案件だと思うのだが……

 

「混乱してる様子ね。いつもの澄ました顔を見ていると、世の中に解らないことなんてないって誤解してるものだと思っていたわ」

「そこまで自分に自信持てねえよ。世の中知らないことばっかりだ」

 

 全員が同じ理由で依頼を受けた。八幡が解ったのはそこまでだった。結衣にも姫菜にも視線を向けるが、二人は笑顔を向けるだけで答える様子はない。唯一、聞けば答えてくれそうな沙希に目を向ける八幡だったが、彼女は顔を真っ赤にすると思い切り首を横に振った。

 

 お願いですから聞かないでくださいと全身で訴えている。聞けば答えてくれるのだろう。その確信が八幡にはあったが、これを無理に聞きだすのは男として終わっている気がした。

 

 結局、その日一日、八幡は雪乃たちがどうして依頼を二つ返事で引き受けたのかを悩み続けた。雪乃たちもそれには応えない。何でも率先してこなす上級生の男子が、頭を悩ませているのを見るのがたまらなく面白かったからだ。

 

 雪乃たちからすれば、何故理解できないのかが解らないが、それが比企谷八幡という男なのだろう。

 

 友人が、その友人のために何かしようとしている。ただ、その手助けをしてやりたいと思うのは、これもまた、友人としては当然のことだ。この学校に友達が一人しかいないと思っている彼には、きっと理解できないことである。

 

 精々混乱するが良いのだ。尚も難しい顔をしている八幡を横目に見ながら、雪乃は小さく笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そろそろ来る頃だと思ってたよ」

『はっちゃんは何でもお見通しだね』

 

 自宅に戻り、風呂にも入って一息ついていた頃、まるで暇な時を見計らっていたかのようなタイミングでめぐりは電話してきた。着信音は一般の物と同じもの――つまりは個別設定をしている陽乃でも小町でもない。だが八幡は、画面を見るまでもなくめぐりからの電話だと解った。

 

 陽乃以外に、八幡に電話をかけてくる人間は少ない。この世で最も会話をする女性であるところの小町は一緒の家に住んでいるし、奉仕部のメンバーは電話よりも文章でのやり取りを好む。めぐりは八幡の知り合いの中ではほぼ唯一の、文章よりも会話を好むタイプだ。

 

「態々電話ってことは、俺だけに別件で依頼ってことだな」

『いろはちゃんにも雪乃ちゃんたちにも秘密でお願いね。これははるさんとも相談して決めたことなんだけど……』

 

 めぐりの顔色から何かありそうだと予感した時から、そういう内容だろうと思ってはいたのだが、果たしてそれは八幡の想像した通りの内容だった。依頼内容――早い話、遠回しな陽乃からの指令を受け取った八幡は、深々と溜息を吐いた。

 

「……俺の知らないところでそこまで話が固まってたんだな」

『はるさんもあれで結構心配性だから。それで、こういう話だから『あの人』に協力してもらうってことになって、もう話は通してあるんだけど……』

 

 電話の向こうで、めぐりが申し訳なさそうな声を出す。彼女の言う『あの人』に対して、八幡があまり良い感情を持っていないことを知っているからだ。それは向こうの方も解っているのだろうが、どういう訳だかあちらの八幡の受けはそれ程悪いものではない。

 

 それは大いにあちらの自尊心を満たすことであるのだろう。気持ちは解る。八幡も逆の立場だったら、気分を良くするはずだ。できることならば顔も合わせたくないのだが、それは八幡個人の事情であり仕える女王様には何も関係がない。どれだけ苦手な人間が相手でも、陽乃がやれというのならば手も握ろう。

 

「陽乃がやれって言うなら、俺に文句はないな」

『……仲良くしてねとは言わないけど、喧嘩しないでね?』

「俺が我慢すれば済む話だから、大丈夫だろ。どういう訳かあっちには嫌われてないみたいだしな」

『はっちゃんってば、ちょっと特殊な人にモテるからね……』

「特殊とか言うなよ……」

 

 モテているかは知らないが、実際八幡の周囲には普通ではない感じの知り合いが多い。これで結構個性的なめぐりが極めて普通の女子に見えるのだから、その普通でなさっぷりが伺える。没個性で固められるよりはマシなのだろう。事実、陽乃と付き合うようになってから、ほとんど退屈したことがない。

 

「俺からあいつに連絡したい時はどうすれば?」

『なんだっけ。ライン? で連絡できるようにする方法を聞いてきたから、それで逐次連絡を取ってだって』

 

 つまりあまり好ましくない相手と、既読だ未読だと気にするような関係にならなければならないのである。陽乃も八幡があちらと相性が良くないのを知っている。これはきっと、そういう趣向のプレイなのだろう。陽乃らしい悪趣味だが、その扱いに少なくない快感を憶えないようでは周囲からまで犬と呼ばれるようにはならない。

 

 めぐりとの電話を切り、設定を終えると早速メッセージが飛んできた。

 

『一緒に仕事なんて不思議ですね』

『全くだ。解ってると思うが、連絡取ってるとはバレないようにしろよ?』

『その辺は大丈夫ですよ。外では初対面って感じで?』

『顔見知りくらいで良いんじゃないか? 実際、会ったことない訳じゃねえだろ』

『そうします。後は、雪ノ下先輩の計画の通りに。事情が変わったら逐次連絡を入れますんで』

『了解。それじゃ、色々よろしく頼む』

『こちらこそ。『女王様の犬』と一緒に仕事なんて、楽しみです』

 

 それで、メッセージのやり取りは終わった。画面を見ながら思う。こんなに普通な奴だったか? 一方的に距離を置いていたから、実際、あいつがどんな性格をしていたか、実のところ正確なところは覚えていない。一方的に抱いていた嫌悪感が、無駄にハードルを押し上げていたのかもしれない。

 

 これなら仲良くとはなれなくとも、平穏無事に仕事をすることができそうだ。とりあえず一安心した八幡は、日課の勉強をこなし、落ち着いた気分で床についた。

 

 それが全くの間違いだったと知るのは、もう少し後。今年の実行委員会が初めて招集される日のことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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こうして、委員会は動き始める

 

 

 学校という場における委員会という組織の例に漏れず、文化祭実行委員会も各クラスから強制的に人員が選出される。なり手がいればそれで良いのだが、いない場合は壮絶な押し付け合いが始まるのも世の常。総武高校の毎年の風物詩と言えるだろう。委員会には、各クラス男女一名ずつが選出される。総武高校は一学年10クラスあるため、一学年20人。三学年合わせて60人の人員が集まる。

 

 図書委員会や美化委員会など任期が通年である通常の委員会とは異なり、文化祭実行委員会は文化祭のシーズンが始まる前に発足され、後始末が終わると解散される臨時の委員会であるが、臨時とは言え扱う予算は決して少なくはない。

 

 それ故に大きな責任が伴い、内申にもそれなりに色が付くのだが、激務であることは皆が知っているからそれでもなり手が少ないというのが現状である。陽乃は大いにやる気を持って委員長になったが、全体として見えると彼女のようなタイプはレアなのだ。

 

 そんな風にレアに分類される一色いろは本人(・・)の第一目標は、そこで委員長になることである。投票権を持っている60人の内、過半数である31人の賛成を得られればその時点で確定。そうでなくても、立候補者が三人以上であれば、それ以下の人数でも勝利できる。

 

 厳密な話をすれば有効投票率がどうしたとか、さらに細かい規定が生徒手帳にはあるのだが、会長の選出は全員が出席している時に行われるため、今回はあまり関係がない。つまり、立候補した中で最も票を集めた人間が勝つというのは、実際の選挙とあまり変わらないのである。

 

「先輩なら、確実に勝つためにはどうしますか?」

「……なんで俺にそんなこと聞くんだよ」

「え? だってほら、女王様の犬だったんでしょう? そういう根回しとか先輩の仕事だったんじゃないですか?」

「俺が仕えてた会長様は、根回しが必要な程対抗馬がいた訳じゃないからな……」

 

 事も無げに言う八幡に、嘘を吐いていると思ったいろはは彼の顔を見た。自分で思っているほどポーカーフェイスが上手くない彼は、嘘を吐いている時は必ず顔に出る、というめぐりのアドバイスに従ったのである。特に同性に敵を作り易いいろはにとって自分を騙そうとする人間を見破ることはそう難しいことではなかったが、その感性を持ってしても、八幡が嘘を吐いているようには見えなかった。

 

 嘘を吐いていないように見えるのだから、そりゃあ本当のことを言っているのだろう。それを理解したいろはが憮然としているのを見ながら、八幡は小さく溜息を吐いた。陽乃のファンが『なんだそりゃ』と思うのも無理はない。八幡がやっていたのは確定された勝利を更に華やかにするためのテコ入れくらいのものだ。

 

 およそ人気という点で陽乃に追随できる人間は皆無だったし、根回し程度ならば陽乃が普段の生活で当たり前のように行っている。投票が生徒のみで行われ、それに学校の外が介在する余地がないのであれば、どれだけ悲観的に勝率を見積もったとしても、100%以外の数字が出てくることはないだろう。

 

 そんな陽乃と一緒に働いていた八幡からすると、勝負の時が近づいてから動き出したいろはの動きは大分遅い。

 

「まぁあれだ。人付き合いくらい普段から真面目にやっとけってことだな。俺にはとても無理な話だが」

「先輩、友達いなさそうですもんね……」

「お前が言えた義理かよ」

「酷いです先輩。私にも友達くらいいますよ?」

「だったら会長選挙も楽勝だな。その友達大事にしとけよー」

 

 その友達が校外の友達であれば、会長選挙の役にはあまり立たないのだが、八幡はそれを聞くことはしなかった。会話をした感じで何となく、校外の友達であると確信が持てたからだ。クラスにも一応友達はいるのだろうが、会長になろうという彼女を弁者になってまで応援しようという熱意ある友達はいないのだろう。自分のコネだけで今後の選挙も勝てる見込みがあるのであれば、めぐりもわざわざいろはに助け舟を出したりはしないはずだ。

 

 諸々の事情を見透かした上で八幡が軽い嫌味を言ってきたことに、いろはは僅かに顔を顰めたが、その一瞬の後には彼女の思い描く『かわいい後輩』の笑みを浮かべていた。

 

 その切替の早さに、八幡は心中で感嘆の溜息を洩らす。陽乃ならば顔に出すこともしないだろうがそれでも、負の感情を押し込めて自分で決めたキャラを押し通すのは、それ程簡単なことではない。

 

 ここまで自分を取り繕うことができるのは、八幡の知っている限りでは陽乃と姫菜くらいのものだ。突出して人間が歪んでいるその二人とは比べるべくもないが、人物評価が辛くネガティブになりがちな八幡をして『まぁまぁ』という評価は、付き合いの浅い女子に対してはおよそ最高に近いものだ。

 

 そんな内心の感嘆を出さずにいると、今度はいろはの方から絡んでくる。学年が違う。性別も違う。おまけに相手は『女王様の犬』であるのに、ここまで物怖じしないのは、ある種の才能だ。『かわいい後輩』の笑みは崩れていない。男を落とすためのあざとい笑顔に、八幡はどこか挑戦的な色を見た。

 

「先輩いじめないでくださいよー」

「事実を言っただけだ。友達大事にできないようだと、俺みたいにぼっちになるぞ」

「それもう完全に嫌味ですよね? あんなに美人の彼女作っておいてそんなこと言うんですもん」

「親しい人間がいないって意味なら、事実には違いないぞ。恋人はいるが友達は一人しかいないからな」

「城廻会長ですよね? あの人もたまに自慢するんですよ。私ははっちゃんの数少ない友達の一人だって」

「唯一の、とは言わないんだな」

「先輩と会長で『友達』の定義が違うんじゃないですか? 私の目から見ても、奉仕部の人達は十分友達だと思いますけどね」 

 

 どうですか? といろはは八幡の前で僅かに屈み、上目使いになる。カットインするタイミング、声音、身体の動きから角度まで、完璧に計算された上目使いだ。鏡の前で虚しさと戦いながら練習したこれは、一色いろはの『男を落とすための必殺技』である。

 

 これでダメならもう打つ手がない。柄にもなく全力で放った必殺のそれは、いろはの執念が神に通じたのか、八幡の鉄壁とも言える防御を僅かに上回った。

 

 八幡は常日頃から、美女美少女を見慣れている。恋人はあの雪ノ下陽乃であるし、奉仕部の面々も一年女子を上から順に集めたかのような豪華なラインナップである。中学の時は不審者そのものだった立ち振る舞いも、今は見る影もない。

 

 場数を踏んで自信がついた。色々あって大人の階段を上ったなど理由はいくつかあるだろうが、レベルアップしたと言っても、比企谷八幡が男であるという事実に変わりはなく、人間、本質的な部分が早々変わるものではない。

 

 防御力が上がった所で男である以上、攻撃をされればノーダメージとはいかないし、それが美少女のあざとさ全開の攻撃ともなれば、せっかく上がった防御力も意味を成さない。恋人が美女だからと言って、美少女相手にときめかない訳ではないのである。 

 

 陽乃を理想とするなら一色いろはという少女は毛色が大分異なっていたが、それでも美少女には違いない。その美少女の渾身の一撃である。動揺し、狼狽えてしまったことを自覚した八幡はとっさに顔を逸らすが既に遅い。

 

 自分の攻撃が効いた。自分でもやれるんだと自信をつけたいろはは、すばやく八幡の正面に回りこんでこれまたお手本のようなドヤ顔を浮かべた。

 

 その顔があまりにもムカついた八幡は、無視を決め込むことにした。一人でさっさと会議室に入る八幡に、待ってくださいよー、といろはも続く。

 

 人の入りはそれなりだったが、会議室に入ってきた人間が比企谷八幡だと知れると、会議室はシンと静まり返ってしまった。良くも悪くも、八幡は総武高校の有名人だ。同級生の三年生や、陽乃と一緒に活動していた所を見たことのある二年は言うに及ばず、どういう人間か伝聞でしか知らないはずの一年も、目つきの悪い一人の男子のことを注視していた。

 

 八幡が悪目立ちしていることに遅れて入ってきたいろはも気付いたが、当の八幡はそんな視線などどこ吹く風とばかりに、ヘルプ人員用の席に腰を下ろす。いろはもそれに着いていこうとしたが、八幡が視線で『来るな』と遮ると、しぶしぶといった様子で自分の席に腰を下ろした。実行委員会の会議は役職が決まるまでは基本、学年、クラス単位で席が決まっているため、一年のいろはとヘルプの八幡の席は離れているのだ。

 

 それからぞろぞろと生徒が入ってくる。望んで実行委員になった者、貧乏くじを引いた者と様々だが、入ってきた生徒は一様に、ヘルプ席にいる八幡を見て、一度驚きの表情で足を止める。それ程、この場にいるのが意外な人間なのだ。

 

 八幡が『女王様の犬』というのは有名な話だが、その飼い主である陽乃が卒業してから、彼が行事に関わるようなことはなくなった。良くも悪くも波乱がなくなったという意味でもあるのだが、その犬が今、この場所にいる。

 

 それは良くも悪くも、波乱が起こるという意味でありはしないか。犬がいるということは、もしかして飼い主も来るのでは……様々な憶測を持ちながらも、生徒たちは誰一人八幡に声をかけることなく、自分の席に腰を下ろす。この学校で彼に物おじせずに話し掛けることのできる生徒は少なく、奉仕部の人間を除けば、それは一人だけと言っても良いだろう。

 

「こんにちは~」

 

 席が全て埋まるのを見計らったようなタイミングで会議室に入ってきたのは、城廻めぐりである。現生徒会長であり、実質的に雪ノ下政権を引き継いだ女子だ。性格や生徒会運営の方向性など、陽乃と共通するところを探すのが難しいくらいに似ていないが、その共通していない部分で勝負し、その悉くで成功を収めているために生徒からも学校からも評価は高い。

 

 めぐりは会議室を見回し、八幡の姿を見つけるととびきりの笑顔を浮かべて小さく手を振ってくる。それは相手の反応を期待してのものだということは誰の目にも明らかであり、その相手が誰であるのか、会議室の全員が知るところだった。

 

 あの強面の男に手を振るなんて……実行委員の色々な感情がないまぜになった視線が八幡に向けられるが、その八幡は心底嫌そうな表情でおざなりに、それでもきちんと手を振り返した。その事実は実行委員たちをまたも驚愕させたが、そんな連中のことなど知らないとばかりに、めぐりはひとり満足して、うん、と大きく頷いた。

 

 優しくて頼りになる生徒会長さん、というイメージのめぐりだが、実はこれで相当な頑固者である。特に八幡のひねくれっぷりについては梃子でも動かないということがあり、何度八幡が意見をしても絶対にそれを曲げなかった。そこで話が終われば困った友達だな、とため息の一つも吐くだけで済むのだが、これに陽乃が悪ノリしてくるものだから、忠実な犬であるところの八幡としては、めぐりの要望に応えない訳にはいかないのだ。

 

 友達は仲良く、というのがめぐりのポリシーである。あまりべたべたしたくはないという八幡の意見を尊重してはくれるのだが、こういう仲良しっぽい行為については頑として譲らない。ここで手を振りかえさないとめぐりは何の躊躇いもなく陽乃に『はっちゃんが手を振り返してくれなかったんです!』と泣きつくだろう。そうなると陽乃の報復が怖い。人を人とも思わない陽乃だが、あれでめぐりのこともそれなりに大事にしているのだ。

 

「さて、まずは委員長を決めたいと思います」

 

 諸々の挨拶が済んだ後、満を持してのめぐりの言葉に、会議室がしんとなった。ほとんどの人間が息を潜めて他人の反応を伺っているその状況は、いろはにとっては望むところだった。対抗馬は少なければ少ない程良い。ライバルを蹴散らして勝てればそりゃあ気持ちが良いだろうが、自分が誰からも好かれるタイプでないことはいろは自身、よく理解している。

 

 一年で女子のいろはにとって問題なのは、いかに角が立たない形で立候補するかだ。

 

 まず自薦は問題外である。実績のない状態で立候補しても一年生なのに生意気と思われておしまいだ。自分のかわいさには自信があるが、それが女受けがあまり良くないことも十分に自覚している。実行委員は一年から三年まで綺麗に男女均等に分配されているから、仮に男子全員を骨抜きにすることができたとしても、女子が全員反対したら委員長にはなれないのだ。

 

 実際にはそこまで極端なことにはならないだろうけれども、敵を作らないに越したことはない。

 

 つまり、いろはとしては他薦が望ましいのだが、そういう工作を一緒にやってくれる、信頼のおける友達はあまり多くない。八幡に宣言した通りいるにはいるのだが、その友達は実行委員などをやる柄ではなく、この場にはいないのだから仕方がない。

 

 日々顔と名前を売るべく努力はしているが、それでもこの場でいきなり推薦してくれる程、自分を買ってくれる人間はいないと確信が持てる。

 

 一年二年三年と、集まった実行委員の顔を見まわして見るが、交流がある人間はやはり一人もいない。顔に覚えがあるのはヘルプ席に座っている八幡と、上座にいるめぐりくらいだ。総武高校における『陽乃閥』の重鎮である二人は、この場において最も影響力を持っているのだが、委員長選出の投票権を持っているのは実行委員の六十人だけであるため、彼らに投票権はない。

 

 一色いろはに一票を、と働きかけてくれるならば別だが、話してみた限り、八幡はそこまで積極的に干渉してくる性質ではないし、めぐりもこれ以上の後押しは期待できない。彼女は既に後継者を決めている。それなのに奉仕部に依頼をするに当たり、間に立ってくれたのだからいくら感謝しても足りない。

 

 他薦が望めないとなると、最終的には自薦以外の選択肢はない。こういう場で一年が手を挙げるというのはそれなりに勇気のいることだったが、それも場の空気に依る。土台、面倒臭い委員長の仕事など、やりたい人間の方が少ないのである。

 

 全ての実行委員が自分から手を挙げ、やる気のある人間ばかりだったら委員長選挙も候補者乱立で接戦になるのだろうが、ここにいる人間の半分は、クラスで押し付けられた側だ。彼らが自薦で立候補する訳はないから、対抗馬は残りの半分に限られる。勝つのは半分だけで良い。

 

 およそ容姿という点で、自分に勝る人間はいないことは確信が持てた。見た目だけの勝負ならば、負けはない。後は雰囲気だ。他に候補者がいないなら。一年だけど頑張ります。そういういろはを後押しする雰囲気であることが望ましい。やる気のある人間よふっとべと心の中で熱心に祈りながら、数秒。会議室を沈黙が支配していた。

 

 これはもしかして、といろはの心に期待が持ち上がったその時、悲しいかな一人の人間が自分から手を挙げてしまった。

 

「他にいないなら、ウチがやります」

 

 他にいないなら。いろはが言いたかったセリフを分捕る形で手を挙げたその女子に、会議室中の視線が集まる。そんな中、八幡とめぐりだけは一瞬、いろはに視線を向けた。単に表情を見たという程度のものだろうが、その二人の表情から、彼らも『これは不味い』と思っていることが察せられる。

 

 他に候補者がいないことは、いろはが立候補するための大前提である。席順から察するに、手を挙げた女子は二年である。それに対抗する形で、といろはが手を挙げるには躊躇われる年齢差だ。二年を相手に一年が戦いを挑む。それだけならば誰でもできることだが、これに勝つとなると難しい。

 

 自分より上の学年で立候補があった時点で、いろはの委員長になる目は消えたと言っても良い。これならもっと早くから根回しをしておけば良かったと、心中で歯噛みしながら待っていると、他に候補がいないということでその二年の女子が委員長に選出された。

 

「それじゃあ相模さん、よろしくね」

 

 それまで司会進行をしていためぐりが、委員長に選出された女子生徒、相模南に席を譲る。

 

 改めて見てみると、中々に顔は良い。クラスで一番くらいにはなれそうだが、学年で一番になれるかと言われると難しい……そんなレベルである。他に候補者がいないならと前置きしたとは言え、自分から立候補するのだから野心はあるのだろう。内申点を上積みしたいというタイプには見えないから、八幡の言葉を借りるならリア充サイドの人間ということになるのだろうが、それにしてはどこか気怠さが見える。

 

 いろは以外の生徒会執行部のメンバーは、めぐりが選んだ生徒だ。全員、例外なく真面目で生徒会の仕事にも熱意を持って取り組んでいる。彼らはそれはもうデキる人間っぽい雰囲気をまき散らしているのだが、そんな彼らと比べると、相模はいかにも頼りない。

 

 誰かに背中を押されてという風でもない。存在というか雰囲気というか、南が今ここに立っていることそのものに、強い違和感を覚える。第一印象では、何故立候補したのかすら不思議なくらいだ。

 

「次に他の役職を決めたいと思います。ウチが二年なので、副委員長はできれば一年生にお願いしたいんですけど……」

 

 相模の物言いに、いろはは違和感を強くする。理屈としては間違ってはいないのだろうが、態々違う学年の人間を自分の隣に据えようとは、普通は思わない。立場が下の人間が欲しいのかと思ったが、それにしては堂々と言い過ぎているし、そういう場合は最初から根回しをしておくものだ。

 

 この時点で私がやると声が挙がらないならば、そういう根回しはしてないと見るべきである。まさか本当に単独で、単純に委員長がやりたいから立候補したのか。ますます混乱するいろはに、八幡とめぐりが揃って視線を送ってきた。その意味は良く理解している。委員長になる目はなくなったが、役職持ちになるに、これ以上の好機はない。理由は知れないが、向こうから『副委員長は一年』という条件を付けてくれたのだ。同学年相手ならば奉仕部の美少女レギオンでも出てこない限り、負ける気はしない。

 

 熱意と、明確な意思を持って手を挙げたいろはに、会議室中の視線が集まる。その視線を力に変えて、いろはは笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 



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早速、不安の影は広がり始める

 

 

 

 

 主に自分以外の力によって副委員長に就任した、その翌日である。委員長になれなかった悔しさはまだ胸の奥で燻っていたものの、役職なしよりは良い結果だと無理矢理前向きに考えることにしたいろはは、一人で会議室への廊下を歩いていた。

 

 クラスでのいろはの立場は微妙なレベルで向上している。副委員長就任のニュースが担任の熱意に火をつけ、他にすることもなかったクラスメートが、それに乗っかる形となったのだ。

 

 いろはが元々目指していたのは委員長である。副委員長になった結果だけを見れば、彼女にとっては敗北の歴史でしかないのだが、二年生以下が委員長になるという慣例の都合上、その補佐をする副委員長も、二年生以下という暗黙の了解が総武高校にはあった。

 

 補佐という意味では三年が就任しても良さそうなものだが、夏休みも終わったこの時期に、受験を控えた三年生に仕事を任せるというのも気が引ける。一応進学校である手前、その手のことには下級生は配慮しなければならない。

 

 三年生が候補にならないという環境下ではあったものの、他の二年生や同級生を押さえて自分のクラスの生徒が副委員長に就任したという事実は、同じく一年であるクラスメイトには何やら胸のすくようなものであったらしい。普段別に仲良くしていない女子からも励まされたりと、クラス内でも色々な変化があった。

 

 それで自分が人気者になったとは錯覚しないいろはである。この手の盛り上がりが一過性のものであることは、十分に自覚していた。この環境を維持してこそ良い女への道も開けるものだが、そのためには文化祭をより良いものへと導いていかなければならない。

 

 一色いろはには何より実績が必要なのだ。目標としては、雪ノ下陽乃の率いた一昨年の文化祭である。過去最高の来場者数と収益を記録したイベントを超えるというのは並大抵のことではないが、せめて目標くらいは高く設定しておかなければならない。これを標榜するかは他の委員の熱意にも寄るのだが、この辺りは今日の会議を含めて追々決めていけば良いだろう。

 

 扉の前で一人気合を入れ、会議室に入る。部屋をぐるりと見まわし、物足りなさを覚えたいろははちらと腕時計に視線を落とした。会議開始の十分前である。

 

 実行委員の出席は一応、強制ではない。クラス展示の進行や部活の事情もある。委員全員、あるいは全てのクラスの代表が毎回出席するとは限らないのだが、まだ二回目の会合であるにも関わらず、会議室はどこか閑散としていた。

 

 開始十分前という時間にあって、この人数というのはいろはには聊か集まりが悪いように思えた。二年で着席しているのは国際教養科の1クラスだけ。他の学年に比べて明らかに出席率が悪く、当然、委員長である南の姿もない。

 

 これはもしかすると、もしかするかもしれない。嫌な予感を全身に覚えたいろはは、それを共有できる人間を探した。最初に目に留まったのは、良くも悪くもいろはがこの学校で最も注目している人間である。

 

 会議室の端の方。外部協力者の席に座っている八幡の所には、人影があった。会議室の中でも、その背の高さは目立つ。正面から見なくても整っていると解るその顔立ちには、いろはのクラスにもファンが多い。

 

 F組の葉山隼人だ。所属はサッカー部。父親が弁護士の所謂富裕層出身で、勉強もできる。おそらく将来は弁護士になるのだろうと、イケメンというだけでは動かない打算的な女子からも人気があった、いろはの見立てでは、一年で一番モテる男子である。絵に描いたようなリア充イケメンであるが、それだけにその真逆を行っているような八幡と接点があるイメージはない。

 

 八幡も顔は悪くないのだ。あの雪ノ下陽乃が彼女なのだから、リア充でないという訳でもない。目つきの悪さというかとっつきにくさというか、諸々の事情から所謂イケメンと表現するには多くの女子が抵抗を覚えるだろうし、仮に陽乃という彼女が存在しないとしても、彼がモテるというのは想像ができない。

 

 いろはが近寄ってくるのに気づいた隼人は、そこで笑顔で会話を打ち切った。そのまま軽い挨拶をしていろはの横を通り過ぎ、自分のクラスの席に座る。クラスの女子代表は金髪の縦ロールの、いかにも女王様風の女子である。こちらも、見覚えはあった。中学の時はテニスでそれなりに活躍していたらしいが、今は帰宅部で葉山グループの女子代表といった風である。

 

 名前は確か三浦優美子。隼人にちょっかいをかけたい女子も、彼女がいるせいで大きくは踏み込めないでいるらしい。確かに、彼女を相手にするのは骨が折れるということはいろはにも解った。容姿で負ける気はしないが、自分のグループを維持する手腕が、その強気な性格と相まって彼女の立場をより強固なものへと変えている。

 

 一年女子の中で『権力』を数値化すれば、実際、かなり上位に位置しているだろう。他のクラスにまで影響力を及ぼせなくとも、1クラスを十分に牛耳っている上に、隼人をグループに取りこんでいるという事実があれば、その権力は盤石である。

 

 存在感を放つカップルを横目に見ながら、いろはは八幡に向き直る。とびっきりの営業スマイルを浮かべてみるが、八幡にはどこ吹く風だった。

 

「こんにちは、先輩。さっきのF組の葉山くんですよね。知り合いですか? 向こうは仲良くしたいみたいでしたけど」

「海老名みたいなこと言うなよ……少し前にテニスやっただけの仲だよ」

 

 それだけだ、とあまり話を広げてほしくなさそうな風である。振り返って隼人を見てみれば、優美子の話に笑顔で相槌を打っていた。見れば見る程リア充一直線な男である。自分から八幡に話しかけるようなタイプにはどうしても見えないのだが、彼の八幡に対する興味は中々強いように思えた。

 

 男なのに良く解らない趣味だと思うが、そんなものは人それぞれだろう。奉仕部の海老名姫菜がそういうのが得意だと聞くが、それはさておき、

 

「奉仕部の方、実行委員になったのは雪ノ下さんだけみたいですね」

 

 横目で席を見ると、雪乃は周囲の喧噪など知らないとばかりに文庫本に視線を落としていた。そこだけ別世界が広がっている風である。総武の姫は読書のために静かな空間を所望している。それを察知した周囲の人間はなるべく静かにしようと努めているが、そんな彼女の横には一人、男子が所在なさげに座っていた。

 

 国際教養科は女子が多いというのは中学生にも知れ渡っていることだが、多いだけで全てが女子な訳ではない。少ないながらも男子は存在しており、雪乃の隣に座っているのはその一人だ。ただその男子、気を抜くと消えてしまうんじゃないかというくらいに存在感がない。

 

 女子が多いどころか、女子しかいないんじゃないかと、同じ学校に通っている人間すらそういう認識でいる国際教養科だ。いろはも噂には聞いていたが、男子の立場というのは低いようである。見られていることに気づいたのだろう、雪乃は文庫本から視線をあげていろはを見た。軽く会釈をし、そしてまた文庫本に視線を戻した。

 

 雪乃からのアクションはそれだけである。つれなくしている……訳ではないらしい。協力体制を大っぴらにしない方が良いだろうという、彼女なりの配慮である。

 

「そうなるな。F組はどういう訳かさっきの葉山が男子代表になって、あっちの縦ロールがそれに追従した。由比ヶ浜が謝ってたぞ。役に立てなくてごめんとさ」

 

 何とも律儀なことである、といろはは内心で感嘆の溜息を漏らした。会話をしたのは部室を訪れた時だけだが、

『良い子』だというのはそれだけで解った。女子でも視線を吸い寄せられずにはいられない巨乳が見てて忌々しくはあるが、同じクラスであれば、いろはも声をかけたに違いなく、それだけに、実行委員で一緒になれないことは残念ではあった。

 

「先輩が実行委員やった時も、こんな感じだったんですか?」

「一昨年はこれくらいの時間には全員が席について待ってたな。出席率は基本、百パーセントだ」

 

 各委員のやる気もあるだろうが、そこは委員長の資質の差が大きいのだろう。あの雪ノ下陽乃が委員長として音頭を取っていたのだ。彼女を知る人間なら、何か起こりそうだと、胸を躍らせていたに違いない。当時の狂奔をその中心で眺めていたはずの八幡だが、集まる実行委員を見つめる彼の目は、どこか冷めたものだった。

 

 能動的に行動していた理由の大部分が恋人であるとすれば、今彼が校内行事に注力する理由はないのかもしれない。部活で依頼されたというだけでここまで来てくれるのだから、彼の性格を考えればこれはとても得難いことなのだろうといろはでも思う。

 

「懐かしいねー、文化祭。はっちゃんとお話するようになったのもその頃からだよね?」

「まだお前の押しの強さと頑固さを知らなかった頃の話だな」

 

 めぐりも陽乃の補佐として文化祭の運営に参加したが、実行委員として参加した経験はない。一年の時は陽乃政権を支えていたし、二年の今頃にはめぐりは生徒会長に就任していた。陽乃は実行委員長と生徒会の役職を兼務したが、めぐりはそれを辞退し、補佐という形で実行委員を手伝った。

 

 陽乃と八幡はバンド演奏に専念したため、運営そのものには全く手を出さなかったが、めぐりはバンド演奏の練習もした上で委員会の補佐もし、生徒会の活動もこなしたのだ。書類上は委員としての活動は未経験のめぐりだが、経験値という面では他の追随を許さない。経験者がいるというのは、初参加が多いこの手の委員会で、何よりの助けになるものだ。

 

「会長と先輩は、元々クラスメートだったんですよね? それまでお話しなかったんですか?」

「そりゃあなぁ。今も昔もぼっちの俺が、女子に自分から話しかける訳ないだろ」

「……それでどうしてあんな美人の彼女捕まえられたんですか?」

「どうも死んだ魚のような目が目についたらしいな……」

 

 ふぅ、と疲れた様子で八幡は溜息を吐いた。めぐりは隣で苦笑を浮かべている。八幡本人は隠したいようだが、近年、総武高校で起こった出来事の中で、比企谷八幡と雪ノ下陽乃の出会いは、大事件として語られている。勿論、いろはも総武に進学した先輩から聞いて知っていた。その時はただそういうことがあったのだ、という認識だったが、去年のバンド演奏を生で見た時に、それがどれだけ大きな出来事だったのかを思い知った。

 

 遠目であるが、生で見た陽乃はそれこそ、存在感の塊だった。ステージの上で演奏し、歌う彼女は人の目を引きつけて止まず、人の上に立つことを宿命付けられたような存在感に、当時中学生だったいろはは魅了され、総武への進学を決めた。

 

 あの人のようになりたい。その願望は今も揺らいでいない。そのために色々と努力を重ねた。あの時よりもずっと成長したとは思うが、あの輝きの一片でも身についている気はしなかった。道は険しいが、だからこそ挑み甲斐がある。良い女への道は、遠く険しいのである。

 

 陽乃がまだ高校生であれば最高だったのだが、彼女は今は大学生だ。高校の中を探しても伝説が転がっているばかりで、良い女度を上げるための助けにはなりそうにない。そんな中、その陽乃と交際を続けていられる八幡はいろはにとって、良い女の指針になってくれるかもしれない存在だった。

 

 今までは接点を全く持ってこなかったが、今は実行委員会という共通項がある。八幡は全力で話かけるなオーラを出していたが、いろははそんなものを気にしない。邪見にされてもめげずに話しかけるいろはと八幡のやり取りをめぐりはにこにこと微笑みながら見守っていた。

 

 先日は議事進行をしためぐりであるが、今回からはただのアドバイザーになる。実行委員長が選出され、諸々の役職が大雑把にではあるが決まったからだ。この時期は執行部も忙しいと聞いている。時間を割いて出席する程暇な訳ではないはずなのだが、めぐりはいつものほんわかした様子である。

 

 自他共に認める八幡の友達である彼女は、八幡が自分以外の人間と話しているのを見るのが単純に嬉しいのだ。

八幡は基本、その時々で接点のある人間と、最低限の会話しかしない。自分から他人に話しかけるという気は基本的にないのだ。沈黙が苦にならないタイプとでも言えば良いのだろうか。

 

 奉仕部の部室では一応、雪乃や他の部員とも会話しているようだが、彼が学校で会話をしているのはそれくらいだろう。陽乃が卒業してしまった今、この学校で彼が所属しているコミュニティは奉仕部だけだ。

 

 だから、今回の依頼はいろはのためであると同時に、八幡のためでもあった。出不精の彼を久しぶりに引っ張り出すことができた。たまには『他人』と会話をするのも良い。噂が広まりきっているため、八幡に好き好んで話しかける人間は少ないが、隼人やいろはのような変わり者も少なからずいる。

 

 依頼をした甲斐があった、とめぐりがうんうん、と一人頷いていると、会議室のドアが開きぞろぞろと人影が入ってくる。先頭にいるのは相模南。先日、委員長に就任した二年生である。一緒にいるのは二年生の委員で、彼ら彼女らは談笑しながら各々の席へと散っていく。

 

 それを見て、いろはは時計を見た。集合の四時を五分過ぎている。堂々とした遅刻だが、南を始め遅刻してきた委員たちに悪びれた様子はない。そんな彼らに、一部の真面目な委員――特にその筆頭である雪乃の力強い視線が突き刺さると、流石に遅刻していることそのものは認識しているのか、バツの悪そうな表情を浮かべる。

 

 彼らは二年で雪乃は一年だ。一年のくせに生意気な、という思いは彼らにも当然あったが、雪乃がどういう立場の人間なのか、彼らは先輩から聞かされて良く知っていた。その上この場には、雪乃を含めた総武高校で敵に回してはいけない人間三人が全員揃っている。思うところは色々あったが、それを口にすることはできない。彼らとて命は惜しいのだ。

 

「ごめん、遅れちゃった」

 

 悪びれた様子もなく謝りながら、さて、と気を取りなおした南はいろはを見た。司会進行は副委員長の役割である。南や二年生の実行委員に思うところがないではなかったが、僅かとは言え議事進行が遅れてしまった。つまらない問答でこれ以上遅れることは、いろは自身の精神衛生上良くないし、自分の出世欲のために依頼を引き受けてくれた奉仕部の面々に申し訳が立たない。何より、不機嫌な様子を隠そうともしていない雪乃が、とても怖かった。爆発しないよう自制してくれているようだが、それがいつまで持つのか雪乃歴の短いいろはには解らない。

 

 もうさっさと進めてしまう。南たちがやってきたことで全員が揃った会議室を見まわしたいろはは、副委員長の席に座り、議事進行を始めた。決めなければならないことは、昨日の内に決めてある。それなら昨日の内にそれも決めてしまえば良かったのではと思ったが、慣習というものの前に人間というのは無力なのである。

 

 初日は顔見せと、主要な役職の選出だけと言われては何もできない。その分の遅れを取り戻そうと、主要でない仕事の割り振りを進めていく。それ自体はあっさりと済んだ。遅刻してきた二年生も積極的とは言わないまでも仕事を受け入れ、全ての割り振りは一時間もしないで終わった。

 

 その間、南は椅子に座ってぼーっとし、相槌を打っていただけである。委員長らしいことは何もしていない。もっと前に出てきてというのがいろはの偽らざる気持ちだったが、二日目に堂々と遅刻してくるような精神の持ち主である。足を引っ張られないだけマシだと自分を納得させて、一応、彼女の許可を取り、その日の会議は解散となった。

 

 委員全員の積極的な参加が望めない以上、時間の許す限り仕事を進めていくべきだと思ったが、これも慣習である。誰もが時間を持て余している訳ではないし、いろはのように積極性を持っている訳でもない。事実、解散を告げると南を筆頭に、二年生たちはぞろぞろと会議室を出ていってしまった。二年で残っているのは、雪乃と同じ国際教養科のペアだけである。

 

 これで本当に大丈夫だろうか。まだ二日目だというのに真剣に不安になるいろはだったが、その不安は早くも的中することになる。

 

 

 翌日、委員長相模南を筆頭に二年実行委員の大半が会議に出席しなかった。早い話が、サボリである。

 

 



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頑張って、一色いろはは対策を練る

 

 

 

「ありえなくないですか!?」

 

 吠えるいろはは、憤懣やるかたないといった有様である。

 

 会議が始まる時間になっても南が現れなかったため、彼女のクラスまですっとんで行ったのだが、そこでクラスメイトから得られた情報は既に十人以上と連れ立って学校を出た後ということだった。連絡先の交換などしていないし、いろはや実行委員について特に伝言もないという。非の打ち所のない完全なサボりだと気付いたいろはは廊下を走って会議室に戻り、そして吠えた。

 

 とは言え、吠えたところで仕事は進まない。委員長がいない以上、その職責は副委員長が背負うことになる。仕事の振り分けについて、南よりもしっかりと把握していたいろはは、サボりの分も含めて仕事を振り直し、自分は生徒会執行部室から去年以前の資料を引っ張り出して、スポンサー関係やら何やらを洗い出す作業を始めた。

 

 過去最高の動員と収益を記録した一昨年の文化祭を、目標としては超えたいところであるが、あれは陽乃のカリスマ性と、それに釣られる形で実行委員から生徒から、学校の全てがやる気になっていたことが大きい。開始時点で実行委員長がサボっているようでは挽回は難しいだろう。

 

 それ以前に、きちんと文化祭を開催できるかも怪しくなってきた。流石に今日サボった面々もこれからずっとサボるとは思わないが、出席が芳しくない状況が続けばスケジュールが圧迫される。当初の予定を実行するのは厳しく、当日の運営に支障が出るようなことになれば、それは実行委員長である南や、副委員長であるいろはの名前に傷がつくことになる。

 

 南はともかく、これから生徒会長選に出ようといういろはにとって、直前のイベントでの大失態は致命的である。一年なのだからまた来年があるさと人は励ますのだろうが、失敗の印象は成功の印象よりも根深くついて回るものだ。

 

 めぐりが対抗馬との話をつけてくれた今年はまだしも、来年の対抗馬まで仲良しでいてくれるとは限らない。相手がこの失点を持ち出してきたら、それだけでいろはは不利になってしまう。

 

 だからこそ、いろはにとって最低限の形を作ることは至上命題なのだが、それを成すための人手が足りないのでは如何ともしがたい。故に最初にいろはが取った手段は、とにかく人手を確保することだった。

 

「と、いう訳なので馬車馬のように働いてくれませんか、先輩」

「できるだけ自分で何とかしようと思ったりしないのか」

「まずは成功させないことには意味がありませんから。お説教は後でまとめて聞きますので、今は身体だけ貸してください」

 

 自分の要求だけを通そうとしてくるいろはにしかし、八幡は『大した面の皮の厚さである』と内心で感心していた。立っているものは親でも先輩でも使う主義なのだろう。和を重視した結果、生徒会役員が全員眼鏡になっためぐり政権の一員とは思えない物言いだが、陽乃の後継を目指すのであればこれくらいが良い。能力的には陽乃に及ばなくとも、正統派であっためぐりの後であれば、生徒には眩しく映るに違いない。

 

「でも実際、俺一人が馬車馬になったところでたかが知れてるだろう。他に人は集められないのか?」

「もうめぐり会長には頼みましたけど、最低限の手伝いしかできないって言われました」

「これは仕方ないの。ごめんね、いろはちゃん」

 

 そりゃあそうだろう、と八幡は思った。本来、実行委員会の仕事は実行委員がするもので、そこに実行委員でない執行部員が絡むと話がおかしくなってくる。一昨年の陽乃の行いは、会長が実行委員長を兼ねていたからこそできた行いなのだ。建前というのは本来、きっちりと守るべきものなのである。

 

「雪ノ下先輩がその内いらっしゃるんですよね? その時に――」

「発破をかけてもらうのは無理だな。既に顔を出すだけって念を押されてる」

「そこは彼氏パワーで何とかなりませんか?」

「俺とあの人の力関係は聞いてるだろ? あの人が黒いって言えば、雪も黒くなるんだ。俺には口答えなんてできん」

「じゃあ妹パワーで――」

「私には期待しないでちょうだい」

 

 資料から顔も上げない雪乃の答えはにべもない。元来女子とは相性が良くない上、特に優等生系とは相性の悪いいろはであるが、その属性の通り雪乃の反応はどうにも渋い。

 

 いろはの方には、雪乃と仲良くなる意思はある。何しろあの雪ノ下陽乃の妹であり、その犬である八幡の関係者だ。奉仕部というボランティア主体の謎の同好会に所属しており、そこに所属するのは雪乃を始め全員が美少女というのだから近づいておいて損はない。

 

 既に雪乃以外の三人とも交流は持っているが、反応が良かったのは結衣だけだった。一部では『犬の犬』と呼ばれている川崎沙希は取り合おうともしてくれなかったし、海老名姫菜は会話くらいはしてくれるが、こちらに興味が全くないのが見える。雪乃はその二人に比べるとマシなのだろうが、最低限の会話しかしようとしない。

 

 そっけない態度にいろはもかちんと来ることがあったが、元から相性は悪いだろうという見通しである。完全に無視される訳ではないし、仕事もしてくれる責任感の強い少女だ。相性とは別のところで、いろはは雪乃のことを信用できる人間だと認めていた。後は向こうも同じように思ってくれれば、と思うがそれはまた別の機会に持ち越すことにする。

 

「サボってる先輩たちを連れ戻すのは無理ですか?」

 

 資料の確認を手伝うメンバーは、いろはを含めて五人である。生徒会長であるめぐり、一年代表である雪乃、外部協力者代表の八幡と、たまたま相方の優美子が不在のため、手持無沙汰になっていた葉山隼人だ。手を止めずに問うた隼人の視線の先には、いろはではなく八幡がいる。

 

 何で俺に、と素直に思った八幡だが、答えることそのものは吝かではない。姫菜がふんすと喜んでしまうので口にはしないが、陽乃に関することで苦労したろうこの後輩のことが、八幡は嫌いではなかったからだ。

 

「俺や城廻が言えば一応言うことは聞くと思うが、それはそれで角が立つだろ。俺たちは外部の協力者だから、本来は実行委員の中だけで解決するのが望ましい。だが、実行委員の三年の中にそこまで協力してくれる奴はいないから、残りは一年だ。一色、お前直接頼みに行って連れ戻す自信あるか?」

「二年十六人ですよ? ちょっと厳しいです」

「友達のいない俺には解らないんだが……なんだ城廻、邪魔だぞお前」

 

 無駄に視界に入ってきためぐりを、八幡は雑に押し返す。無遠慮に頭に触れて強引に押し戻したのだが、そんな扱いにもめげずにめぐりは八幡の視界に戻り、自分を指さして何かを強く主張し始めた。めぐりのそんな態度に八幡はそっと溜息を吐く。それなりに付き合いのある八幡は、めぐりが何を言いたいのか理解できていたが、それを素直に口にするのは憚られた。

 

 諦めてくれるのが八幡としてはベストだが、こういう時、信じられないくらいにめぐりは諦めが悪くなる。伊達に陽乃に食いついていた訳ではない。無駄だとは知りつつも、めぐりの頭を何度も押して視界の外に追いやるのだが、その度にしつこくめぐりは戻ってくる。

 

 一分ほどの押しあいを経た挙句、ようやく八幡は根負けした。無駄なことをしてしまったと深々と溜息を吐いて、後輩たちに言ったばかりの言葉を訂正する。

 

「友達はこいつくらいしかいない俺には解らないんだが……」

 

 その言葉を聞いて、めぐりはにこにこしながら八幡の視界の外に出た。友達いないアピールをする八幡に対するめぐりのいつもの行動だったのだが、校内で八幡とめぐりがつるむことは今となってはあまりないために、二年生以下の人間がこのやり取りを見るのは稀である。

 

 ある意味衝撃の場面を見た一年生たちは八幡たちを茫然と見つめるばかりだったが、話を進める八幡は『この話題に触れたらぶっ殺す』くらいの強い気配を放っていた。聞きたくない訳ではないが、たまには人の顔を立てることも大事だろうと思った一年生たちは、一瞬の目くばせで『今は』この話題に振れないことを心に決めた。

 

「普通は動きやすい人数で動くだろ。サボりやがった二年の実行委員は16人いる訳だが、最近のリア充はその人数でどっか行ったりするのか?」

「流石にちょっと多いですね……」

「俺も最大で七人です」

 

 リア充組であるいろはと隼人の答えは、八幡の考えを裏付けるものだった。ちなみに雪乃は何も言わない。環境としては恵まれているが、コミュ力に難ありの彼女は分類上は非リア充側なのだ。

 

 実際、放課後の行動は付き合う人間がいるのであれば、そのグループ単位で動くのが普通である。日によってグループの人数や構成は変わるものだが、十人を超えると流石に多いと感じるようになる。サボった連中は全部で十六人。ならば二つ、ないし三つのグループに分かれて行動しているはずで、彼ら全員の統制を取っているのが南であるならば、南がいない方のグループを捕捉すれば、一応交渉の余地はあるのだが、

 

「一斉にサボらせるのだから、それなりに統制は取れているのではなくて? 逆に足元を掬われる可能性もあると思うのだけれど」

 

 どういう形であれ、一年が二年に意見をすることは角が立つ行いだ。真っ当な主張をしていたとしても、あの一年ムカつく、という方向に話を持っていかれては、委員会内でのいろはの立場が悪くなってしまう。あくまで委員会内部の人員で話を解決しようとした場合、既に二年で統制が取れている南一派が相手では、いろはは少し具合が悪い。

 

「そんなに統率力があるタイプには見えなかったんだがな……誰か知ってるか? あの相模ってやつ」

「先輩は話したこともないんですか?」

「話したことくらいはあるかもしれんが、どんな奴かは記憶にない。城廻はどうだ?」

「私も記憶になかったから、二年の子に聞いてきたよ」

 

 鞄から取り出したメモ帳には、既に南の情報が常識の範囲で網羅されていた。

 

 南は二年ではそこそこ大きなグループの代表であるらしく、実行委員にも自分から立候補したとのこと。サボった二年の中には南のグループの人間もいるらしい。性別による偏りはなく、グループの構成比は男女均等だ。運動部よりも、帰宅部文化部が多いらしいがそれによる対立はない。

 

「…………つまり、計画的なサボりということ?」

「そうなるな……」

 

 面倒なことになった、と八幡はぼやくが、そのしわ寄せを一身に引き受けることになるいろはは、より強くそれを感じていた。立候補もサボりも計画的ならば、この後に続くこともまた計画的であるはずだ。南とその一派は何を計画しているのだろうか。

 

 実行委員に立候補する目的は、大きく分けて二つである。

 

 純粋に文化祭を盛り上げていきたいという正道なものか、ポイント稼ぎをしたいという邪なもの。開始早々サボっているのだから前者ではないだろうが、サボっていてはポイントも何もない。

 

「相模先輩の成績ってどうなんですか?」

「真ん中くらいだね。内申が良いタイプでもないみたいよ。先生たちの受けもそこまでではないみたいだから、相模さんが実行委員長になったのに、先生たちもびっくりしてたし」

「じゃあ、何のために委員長に?」

「将来的な内申稼ぎということでないのなら、稼いだポイントは直近で使うつもりなんでしょう」

「まさか会長選挙に出るつもりってこと?」

「その可能性は高い、と判断したまでのことよ」

 

 興味なさそうに、雪乃は言う。立候補するつもりのない彼女にとって生徒会長選挙というのは完全に他人事である。依頼こそ受けたし、受けた以上全力は尽くすが、それは相手がいろはでなくても同じことだ。雪乃の反応が微妙に冷たいことにいろはは地味にショックを受けているようだが、八幡は隼人と視線を交わし、さもありなんと頷きあった。雪ノ下雪乃。確固たる自分を持っておりできる女ではあるのだが、あれで結構人見知りなのである。

 

 さて、人見知りでなく立候補するつもりであるいろはにとって、雪乃の推測は他人事ではなかった。一年であるというのはただでさえハンデであるのに、二年の立候補者が増えることはマイナスになってもプラスになることはない。学年が同じでさえあれば負けないのに……と確信めいたものがいろはにはあったが、固く信じる程度で改変されるほど現実は甘くはない。

 

 そして南が立候補を見据えている可能性があるというのであれば、その対策を立てなければならない。不利になることが解っているのに何もしないのは、ただの馬鹿である。めぐりの話を聞いた限りでは、役員選挙にも実行委員にも興味がなさそうなタイプである。部活はしておらず委員会にも入っていない。ポイントを稼ぐならもっと早くからやっていても良いだろう。

 

 基本的に多くの生徒は責任者をやりたがらない。何かの長になるタイミングは他にもあった。単に思い切りが悪く、出足が遅かっただけであれば恐れるに足りないのだが、共謀して大人数でサボりを決行するあたり、行動力はある。

 

 いろはからすると今現在仕事をサボっている状態こそ南の本質のように見えるのだが、人間見た目が全てではない。何かを目指す理由は、人それぞれだ。いろはが会長を目指す理由も、どちらかと言えば個人的なことである。他人が邪な理由で上を目指したからといって、それを非難する権利はない。

 

「立候補を考えてるなら、最初から一生懸命仕事した方が良くありませんか?」

「人手を高く売る時期を見計らってるんだろ。このまま行けばどういう理由にしろ、仕事が滞る訳だからな。それに自分たちが介入して文化祭を成功させた、って事実だけが欲しいのさ」

「なんて悪質な……」

 

 自分たちで仕事を遅れさせたにも関わらず、遅れを他人のせいにして手柄は自分たちの物にする。八幡の推論はそういうことだ。無論のこと、南がそこまで考えているとは限らないし、そこまで頭が回るのであればもっと効率の良い方法をいくらでも思いつくんじゃないか、ともいろはは思ったが、悪い顔をした八幡が言うと本当にその通りな気がしてくる。

 

「他人事じゃないぞ一色。あいつらが介入して成功させるってことは、それまで滞ってた責任を誰かに取らせるってことだ。その場合、残った人間の中で一番席次が高いのはお前だぞ」

「自分の株を上げて他人の株を下げる作戦ということね。相当に綱渡りな作戦だと思うけど、成功させる自信があるなら悪くない手ね」

「今立候補の可能性があるのは、両方とも今の執行部員だからな。実績のない人間が勝つには、スキャンダルを捏造するのが手っ取り早い」

「……学校の選挙でそこまでやるんですか?」

「学校の選挙だからそこまでやるんだろ。校則読んでみろ。選挙に関する規定は現実にあるものと比べるとびっくりする程緩いからな。やった方が効率が良いならやるだろ。ペナルティも大したことない」

 

 そもそも南がやろうとしているかもしれない行いは、人道的には不味いことでも校則的に明確に罰せられるものではない。無論のこと、その話が広まれば南のイメージダウンは免れないだろうが、そこまで考えての集団サボりだとすれば、その後の対応もきちんと行える自信があるのだろう、と伺える。

 

「不正を推奨してるように聞こえます」

「そういうことをする奴もいるってことだな。大抵の人間は割に合わないと気づいてやらないもんだ」

「でも割に合うなら、雪ノ下先輩も、そういう状況ならやるってことですか?」

「そんなバカな」

 

 その言葉は、今までの八幡のどの言葉よりも確信に満ちていた。自信たっぷりの八幡に一瞬茫然とするいろはに構わず、八幡は言葉を続ける。

 

「あの人こそ、不正からは最も縁遠い人だ。そりゃ根回しくらいはするが、誰とやっても正面から戦って、その上で叩き潰せる人間が、どうして不正なんかするんだ?」

「やりたいからでしょう。あの人はいざとなったら何だってするわよ」

「まぁそうだろうな。付き合わされる人間の身にもなってほしいもんだが」

「でも、そういう扱いが好きなんでしょう? 何しろ犬だものね、比企谷くんは」

「否定はしない」

 

 深いなぁ、と思った矢先、先輩のド変態な言葉を聞いてしまった。しかも本人はその言葉に誇りをもっている風ですらある。これも女王のカリスマの成せる業だろうか。複雑な気分でいると、雪乃と視線があった。一瞬困ったような表情を見せた雪乃は、ちらと八幡に視線を向け小さく肩をすくめて見せた。

 

 困ったものね。無言の雪乃の言葉に、いろはは親近感を覚えた。



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密やかに、女王と犬は動きだす

 

 

 

 

 

 

 今日も今日とて、いろはは八幡と連れだって廊下を歩いていた。厳密には歩く八幡の横を勝手についていっている形である。時刻は放課後。行き先は会議室。文化祭実行委員会の会議に出席するために歩いている訳だが、そこに向かうまでに八幡といろはが合流する確率は、実のところとても低い。

 

 一年と三年で学年が違うこともあるが、そもそも一緒に行こうなどと約束をするような間柄でもない。だからいろははたまに強制的に、八幡に関わっていくことにした。クラスまで押しかけとびっきりの笑顔を浮かべて一緒に行きましょう先輩と言って、嫌がらせをしてやるのである。

 

 心底迷惑そうな顔を遠慮なく向けてくる八幡に、いろはは背筋をぞくぞくさせた。いろはに対し、そんな反応をする男子はほとんどいない。かといって少数派である嫌悪感をまる出しにするような反応でもなかった。とびっきりの笑顔は結構効いているというのがいろはの見立てであり、迷惑そうな顔はその誤魔化しであると確信していた。

 

 そんな顔をしながらも、後輩の誘いを断らずに近くを勝手に歩いてくれる八幡は、見た目に反して良いヤツではあるのだろう。理解できた気分になると比企谷八幡というのは実に面白い人間だった。

 

 二年以上になると八幡に話しかける人間はほとんどいない。今年度に入ってからだと精々めぐりくらいとしか会話していないはずだ。理由は単純である。陽乃第一の子分にして恋人である彼と関わり、悪い意味で陽乃に目を付けられるのが嫌だからだ。

 

 男子でさえそんなノリであるから、女子はもっと近寄らない。雪ノ下陽乃はそれこそ、敵と認識した人間には全く容赦をしないと評判である。そんな女の恋人に懸想していると思われたら、何をされるか解ったものではない。

 

 この学校で一度でも陽乃を見たことがある人間は基本的に、八幡に積極的に関わろうとしない。権力拡大を狙う人間は直接陽乃が相手をしたし、その他大勢にとってはあくまで八幡は子分の一人という認識である。しかもめぐりと違ってとっつきにくく、恋人でもあるので扱いも難しい。

 

 そんな人間に無理して話しかける人間もおらず、学校ではめぐり以外に話し相手もいない有様だったのだが、奉仕部が結成されてから色々と状況が変わった。

 

 一部には女王様の犬が一年女子を侍らせていると噂も立ったが、そこに集まっているのがどういう女子かを知ると噂も沈静化した。その一人が陽乃の妹であるのは言わずもがなであるが、その妹を含めて普通とカテゴライズされる人間が一人もいないとあっては、子分育成所なのだなと認識するより他にない。

 

 その筆頭が『犬の犬』と影で呼ばれる川崎沙希なのだが、それはまた別の話。

 

 いろはが話しかけ、八幡が適当に相槌を打つというやり取りを飽きもせずに繰り返していると、いつの間にか会議室についていた。先だって歩いていた八幡がドアを開け、いろはに入るように促す。彼女がいる余裕なのか仕草の端々に配慮が伺える。これで表情が普通以上であれば言うことはないのだが、仏頂面の男性に親切にされるというのもそれはそれで趣があると思えるいろはだった。

 

 うきうきしながら中に入ったいろはと八幡が見たのは、会議室の隅で一心不乱に資料に赤ペンを走らせるめぐりの姿である。添削すべきところは添削し、書き加えるべき所に書き加えているだけなのだが、それをほとんど全てのページで行っているために、資料を作成した実行委員などは重くブルーになっているのだが、めぐりはそれにも気づいていない。

 

「城廻なにやってんだ」

「はっちゃんこそ何してるの? 手が空いてるなら手伝ってよ」

「何かあったのか? 外部協力者がここまで手伝うって珍しいな」

「……もしかして聞いてないの?」

 

 手を止め、資料から顔を上げためぐりの声で、八幡は全てを察した。めぐりが手を付けていない中から半分を受け取り、めぐりと同じように赤ペンで添削と書きこみをしていく。黙って見ていたいろはもこの時点で事情を察した。八幡とめぐりが揃って血相を変えるような理由など、一つしか思い浮かばない。

 

「雪ノ下先輩が今日来るんですか?」

 

 誰も聞きたくても聞けなかったことをいろはが聞いたことで会議室にどよめきが広がった。来るという話は噂としては把握している者がほとんどだったが、正確な日程までは誰も知らなかったのだ。関係者の中で日程を把握していそうな人間は八幡とめぐりだが、その二人は外部協力者であって実行委員ではない。

 

 それでもとっつき易いめぐりならば可能性があると考える人間も多いが、彼女は『はるさんの担当はまずはっちゃん』という関係者以外にはそれこそどうでも良い主義を持っているため、陽乃関連についてははっちゃんに聞いての一点張りで日程については答えてはくれないのだ。

 

「そうみたいだよ。はっちゃんに知らせてなかったってことは本気みたいだね。サプライズ?」

「心臓に良くないサプライズな所があの人らしいな」

「私会うのは少し久しぶりかも。はっちゃんは先週末には会ってたんだよね?」

「ああ。免許持ってることを俺に知らしめるとかで、数字三文字のスパイ御用達メーカーの車に乗ってきたよ。陽乃の持ち物じゃなくて静さんのだったんで、あの人も一緒だったが」

「平塚先生、かっこいい車乗ってますもんねー」

「金の使い方がたまにぶっとんでんだよなあの人。緊急脱出装置とかオートトラッキンングガンとか装備してないのがうちの女王様は甚く不満だったようだが、確かにかっこいい車ではあったよ」

「ところで先輩。数字三文字のスパイって誰なんですか?」

「アレック・トレヴェルヤン」

「はっちゃん……」

 

 どうしてそういうことを言うのと八幡の答えに呆れるめぐりであるが、その間も手は止めていなかった。二人でやっただけあって仕事もスムーズに進み、今日配られるはずの資料の添削はあっという間に完了した。資料を作った委員が物欲しそうな顔をしているが、当然のことながら添削した資料は一部しかないため、修正して刷りなおすような時間はない。

 

 会議が終わったら渡すと伝えると、委員はそっと胸をなで下ろしたようだった。何事でも、向上心があるというのは良いことである。

 

「お疲れさまです」

「いや、疲れるのはこれからなんだが」

「そうですか頑張ってください。私も勉強させてもらいます」

「心を折られないように気を付けろよ」

 

 事も無げに八幡は言うが、見た目ほどいろはも緊張していない訳ではなかった。雪ノ下陽乃は現状、いろはの人生の目標である。中学生の時分、あんな人間になりたいと憧れを抱き、そうなるために努力を重ねてきた。過去の自分よりも前に進んでいる確信はある。同年代の中でもトップ集団を走っているという自信もある。

 

 だが、あの日の陽乃と肩を並べられるかと言われると、首を横に振らざるを得ない。思い出が美化されているという可能性もないではないが、総武高校に入学してから集めた雪ノ下陽乃の伝説を一つ聞く度に、近づいたと思った背中が遠のいていくのを感じるのである。

 

「……それにしてもまだ相模先輩は来てませんね。ここでサボりがバレると大目玉ですが」

「嬉しそうに言ってるところ悪いがそういう期待はするだけ無駄だ。ああいうタイプはこういう時に限って鋭い嗅覚を発揮するからな」

 

 八幡の言葉が終わるかどうかというところで、会議室のドアが開き南以下サボり組がぞろぞろと入ってくる。南は当たり前のように会議室前方の委員長の席に座る。いらっときたいろはだが、それを顔には出さないように努力する。ここで怒っても相手に攻撃の材料を与えるだけで何の解決にもならない。ここは我慢、我慢と心中で念じていると今度は雪乃が会議室にやってきた。

 

「比企谷君、本当なの?」

「主語がなくても伝わるってのもアレな話だが本当だ。俺もさっき知ったばっかりだが」

「…………私、今日欠席しても構わないかしら?」

「好きにしたら良いと思うが、そんなことしたら今日お前の部屋まで押しかけに行くぞあの人」

 

 その状況を想像したのだろう。興奮で赤くなっていた雪乃の顔が普通に戻る。ふぅ、と小さく息を吐いて落ち着きを取り戻した雪乃は、邪魔したわね、と言って自分の席に着く。いつの間にやってきたのか、一年J組の男子も既に雪乃の隣に着席していた。存在感の塊のような雪乃の隣にいるからか、まったく目立たない地味な生徒である。

 

「雪ノ下さんとお姉さん、そんなに仲が悪いんですか?」

「とっても仲良しだよ。ただ雪ノ下さんの方がどう接して良いか解らないみたいで」

 

 あーといろはは声を漏らした。めぐりの言いたいことは良く解る。八幡を含めた奉仕部五人の中ではまだ雪乃はとっつき易い方ではあるが、それはトップクラスに難物である八幡と色々アレな姫菜と沙希が比較対象だからだ。世間の基準で言えば十分過ぎるほどとっつきにくい上に、どうやらJ組には同性のファンがいるようである。

 

 女子が多い国際教養科では仕方のないことかもしれないが、男子の存在感が薄いのもその辺りが理由なのだろう。あのクラスの生徒からすると女子二名で代表を出したかったのだろうが、男女一名ずつというのは委員会発足時からの慣習であり、男子がクラスに存在する以上これを覆すのは容易なことではない。続いているというのはただそれだけで存在感を持つのだ。

 

 いろはが奉仕部に混ざっても辛うじて何とかやっていけるのは、いろは自身が八幡の『大親友』であるめぐりの紹介であることと、奉仕部唯一の良心っぽい存在であるところの結衣の貢献が大きい。良心的で人当りが良いがあの娘も奉仕部に残って平然としている辺り普通の感性はしていない。いろはの目から見てもあそこには誰一人として普通の人間はいないのだが、その普通でない雪乃でも姉である雪ノ下陽乃というのは相手にするに難物なのだろう。

 

 八幡とめぐりは黙って椅子を立ち、ドアの前に並んで立つ。在校生の中では一目も二目も置かれる二人が緊張した面持ちであることに、会議室は静まり返る。

 

 その静まりかえった会議室に、女王は現れた。

 

 この感動を、何と表現したら良いのだろう。あの日ステージ上で見た雪ノ下陽乃は、今までいろはが見たどんな人間よりも輝いて見えたのだが、今この時、いろはの前にいる雪ノ下陽乃はステージでもないのにあの日よりも遥かに輝いて見えた。

 

 高校生と大学生というのはこうも違うものだろうか。彼女も半年前までは間違いなくこの学校に通い同じ制服を着ていたはずなのだが、とてもそうは思えない。ただでさえ大きかった戦力差が、しばらく見なかった間にもっと大きくなっている。

 

 あの人に並び立つような良い女になる。それがいろはの現在どころか一生涯の目標であるのだが、実物を見るとその決意もぐらりと揺らいでしまう。それ程までに陽乃は全身から存在感を放っていた。自分の成功と幸せを疑っていない人間はこうまで輝けるのかと。男のいない我が身が惨めに思えてきた。

 

 そんないろはの心中を知らない陽乃は、八幡とめぐりの案内で外部協力者の席に座った。右後ろには八幡が。左後ろにはめぐりが立つ(・・)。当たり前のように着席しない二人に、この学校で三人揃っているところを見たことがないいろははそういうものかと思ったが、現在の状況に最初に疑問を持ったのは陽乃本人だった。振り返り、苦笑を浮かべた陽乃は、

 

「座ったら? 二人がそうしていると、私が立たせてたみたいに思われちゃうんだけど?」

 

 すいません、と八幡たちは揃って謝り、各々陽乃の隣に着席した。陽乃一人が中央に座り、その両脇に八幡たちが立つ。悪の組織感が半端ない構図だったが、全体として見るとめぐりのほんわかした雰囲気が色々とぶち壊しにしていた。八幡と陽乃だけならば悪の組織でも、めぐり一人が入るだけで雰囲気ががらりと変わってしまう。

 

 見ているだけで面白い三人だが、それだけで時間を潰してしまってはあまりに非生産的過ぎる。同じくぼーっとしていた南を促して、議事の進行を始める。

 

 最大の懸念は進行状況の確認だ。予想していたことではあるのだが、やはり進行状況は悪い。各自の危機感のない報告をメモしながら、いろはは頭の中に浮かべた工程表に修正を加えていく。経過時間と残り時間。そこから全行程の何割を消化できたのかを判断するに――

 

「この時期に三割弱なんだ。凄いね」

 

 陽乃の言葉に、いろは他、一部の少数が小さく肩を震わせる。凄いねと言ってはいるが額面通りに褒めている訳ではない。陽乃が委員長をやっていた時は、この時期には今の委員会よりも遥かに多い仕事量を抱えて六割は終わらせていた。基本的な仕事はかなり前倒しをして片づけ、残りの時間は追加でやりたいことの処理に回していた故に最後まで忙しかったのである。

 

 文章で見ただけでも正気を疑うような処理量だが、やりたいことがあったら何で持ってこいと言いだしたのは陽乃であり、彼女はその全てを逐一審査して、基準に照らし合わせて問題がなければそれを受理した。それを実行できるかはやりたいと言った人間にかかっているのだから陽乃は関係ない……ということもなく、自分のネットワークも使って人員の調整をし、申請を受けたものは全て当日までに形にしたという。

 

 ここまで働いた上に、陽乃は更に新規のスポンサーまで開拓した。八幡を子分に連れて、自分で挨拶周りをしたスポンサーは今年になっても自分から支援を言いだしてくる程である。

 

 一体どれだけ働いたのだろうと疑問に思うが、その当事者から見ると今年の委員会は相当頼りなく見えるのだろう。今の委員会は進行そのものが例年に比べても遅い上に、追加で何かをやるような余裕はない。陽乃の言葉は暗に進行が自分がやった時は元より、平年と比べても遅いことを揶揄してのものだったのだが、それを理解しているのは去年以前の進行に目を通している人間か、当時を経験したことのある人間のみのため、その真意を理解できたのは少数に留まっていた。

 

 そして悲しいことに、相模南は多数派に属する。陽乃の言葉を額面通りに受け取ったらしい南は照れまくってお礼の言葉を言っていたが、その横で黙って座っているいろはは気が気ではなかった。話には良く聞く『顔は笑っているけど目が笑っていない』という表情を、陽乃は今まさにしている。

 

 この人は人を殺す時もきっとこんな顔をするのだろうと、いろはは確信した。ここからあれこれと口を出してくるのかと思ったが、陽乃が進行について口を出したのはここだけだった。それきり会議は滞りなく、いつもよりもさくさくと進み、解散が近くなった折、またも陽乃が口を開いた。

 

 今度はどんな方向から肝を潰しに来るのだろうと身構えてみると、陽乃の口から出てきたのは実に普通な『質問』だった。

 

「外部参加のステージについてなんだけど、申請の方法は去年までと一緒なの?」

「それについては――」

「同じですが、申請する予定なら今の時点で時間一杯確保しておきますよ?」

 

 南の言葉を遮ってのいろはの言葉である。当然、南は不満そうな顔をするがそれには取り合わない。雪ノ下陽乃を前に自分をアピールできる機会はそうないのだ。後で文句を言われるかもしれないが、それは後で何とかすると決めていろはは更に言葉を続けた。

 

「一枠十分ですが、外部参加者の枠は二つあります。ですがご存じの通りここ五年は自発的な外部参加はなく現時点でも申請がありません。早い者勝ちで占有しても文句は出ないでしょう」

 

 何しろ貴女ですから、と続けたいところを寸での所で堪える。いろはのやり方は十分に独善的で独占的ではあるが過去の例を振り返るに、陽乃以外に申請を出してくる人間がいなそうというのも実情なのだ。

 

 何しろ条件が厳しい。OB、もしくはOGであることが最低条件なのだが、いくら自分の母校だからと言って後輩相手に出しものをしたいという人間はそういない。おまけに集団で参加する場合は、構成人員全てがその条件を満たす必要がある。

 

 あまりに参加者が少ないせいで枠そのものの廃止も検討されている。毎年在校生に枠を振りなおしているのだからそれも無理もない。

 

 その点、雪ノ下陽乃はOGという条件を満たす上に、地元の有名人でもある。元々誰も使っていない枠を解放することに、誰も文句を言うはずもない。枠が埋まらなければ例年の通り在校生に解放することになるため、それを当てにしていた在校生は思うところもあるだろうが、相手が相手だから少なくとも表面上は文句は出まい。

 

 主催する側であるいろはとしては、在校生に受ければ誰がステージに立っても問題なく、それが実行委員会の、引いては自分の功績に繋がるのであれば文句はない。 

 

「良いの?」

「何とかします」

 

 陽乃の問いに、いろはは言いきった。枠については実質的に早い者勝ちであるし、仮に別の人間あるいは団体が申請をしてきたとしても、予備に確保してある二枠を解放すれば問題はない。陽乃とて二年前には実行委員長をやったのだ。当然、どういう風に枠を埋めていくのかは理解しているだろう。この辺りの規定は二年前と全く変わっていない。さも大仕事をしますという体で話してはいるが、時間のやり繰りをするのがいろはたち実行委員会である以上、その辺りの融通は思っている以上に利くのである。

 

 万が一にも邪魔をされないようにそれとなく噂をまいておく必要はあるだろう。ちらと八幡に視線を送ると、彼は非常に嫌そうな顔をしながらも小さく首を縦に振った。先輩らしくフォローはしてくれるらしい。

 

「そう? それならお願いしようかな。出し物はこれから決めるけど、機材が必要な場合はこっちで人手も用意して持ちこむから心配しないで」

「お気遣いありがとうございます」

 

 女王様とまで言われた陽乃である。多少の無理難題が出てくることは覚悟していたが、この調子ならば問題は自分で何とかしそうだ。

 

「で、何しよっか。二人でダンスでもする?」

「えー? 私も混ぜてくださいよ。一生懸命練習しますから」

「おい待てお前まで混ざったら俺が完全に晒し者――」

「いいねー。八幡一人にプレッシャーがかかるのが凄く良い。静ちゃんどうする?」

「私が協力できるのはバンド演奏くらいまでだ。それ以上は巻きこむな」

「雪乃ちゃんは?」

「当日は委員の仕事があるだろうから無理よ」

「そう? それなら仕方ないね」

 

 どちらも後半に時間を作りたいという理由で、実行委員個人のスケジュール調整が可能であることは知っているはずなのだが、雪乃は当然それを口にしなかったし、陽乃も敢えて突っ込んだりはしなかった。八幡の参加は確定しているようなものであるし、そこまで本気ではなかったのだろう。陽乃をそれ程知らないいろははそう結論づけていたが、自分で言いだしたことを追及してこなかったことで、逆に雪乃は心中で身構えた。

 

 何だかんだで最終的にステージに立っている自分を幻想している。あってほしくない未来であるが、陽乃は自分でやると決めたことは、そのほとんどを最後までやりとげる人間である。

 

 何やら華やかそうな出しものになりそうだなぁと見る側であるいろはは適当に考えつつ、副委員長の義務として会議を解散した。解散といってもこれから仕事をしなければならないのだが、南たちはそれが当然とばかりにぞろぞろと会議室を出ていく。陽乃がいてもお構いなしだ。急ぎでない仕事を割り振ってはいるのだが、それにしてもやはり限度があるだろう。

 

 いい加減腰をあげなければならないのか。二年生と衝突するのはできれば避けたいことではあるのだが、文化祭そのものが立ちいかなくなるのは絶対に避けなければならない。

 

 いろはが内心で葛藤しているのを楽しそうに眺めながら、陽乃はぼそりと呟く。

 

 

 

 

 

 

 

「八幡。私は憂慮したよ?」

「…………吉報をお待ちください」

 



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このように、一色いろはは力を得る

 

 

 

 学校である以上年齢を学年を跨いだコミュニティに所属することは、よほど他者との交流を避けていない限り必須と言える。それは委員会であったり部活であったりとクラス以外の手段であることが常であり、どういうコミュニティが存在するか、またどのコミュニティに所属しているかは、学内のコミュニティの上下と本人のヒエラルキーに大きな影響を及ぼす。

 

 運動部が文化部よりも偉く、文化部の中でも漫研部が偉くない。また運動部の中でも卓球部などが下に見られるというアレである。何の根拠があるのか知れないが、それなりの信ぴょう性があるかもしれない序列である。本人たちでさえ自分がそれを信じているのか理解できないあやふやな基準の中で、一際異彩を放つ集団が総武高校にはあった。

 

 名前を奉仕部。設立当初は部員が三名しかいなかったため同好会だったが、後に二名の部員が加入したことにより部へと昇格した。部への昇格には本来もう少し煩雑な手続きが必要なのだが、今後一切の部費を求めないこと、部室は空き教室を使うこと、そこを出ていけと言われたら出ていくなどの条件を積み上げた結果、生徒会執行部からあっさりとOKを勝ち取った、総武高校で久しぶりに新規に設立された部である。

 

 その部室に、一色いろはは足を踏み入れた。約束の時間よりも早くきたはずだが、部室の中には部員全員が揃っている。

 

 入り口に一番近い席に座っているのが、海老名姫菜。眼鏡をかけた一見無害そうな少女であるが、かなり救いようのない『腐女子』であることが一年女子には知れ渡っている。結衣と共に一年で最も上位カーストである葉山グループに属しているが、同時にその腐った趣味を持つ同好の士のコミュニティにも属している。趣味の割りには顔の広い少女だ。その筋ではそこそこ著名な物書きであるらしいが、いろはは興味がなかった。

 

 姫菜の隣、雪乃に向かいあうように座っているのが由比ヶ浜結衣である。姫菜と同様、葉山グループに属しており、一年の女帝として振る舞っている三浦優美子に最も気に入られている少女だ。おそらく一年で最も巨乳であると一部の女子からは目の仇にされている。それ以外には取り立てて長所というか特徴がある訳ではないが、この部に平気で居座れる辺り、頭のどこかのネジが外れているのだろうといろはは考えている。この中で誰となら友達になりやすいかと言われれば、間違いなく彼女だろう。

 

 その向かいに座って文庫本に視線を落としているのが雪ノ下雪乃である。ある意味、一年の中で最も有名な女子だ。本人の容姿、能力もさることながら、先々代の生徒会長である雪ノ下陽乃の妹であるというのが、彼女を一際有名にさせていた。聞いた話では姉妹仲はそれほど悪くないそうだが、陽乃の妹として扱われることは雪乃としては甚だ不本意なことであるらしく、それが原因という訳ではないようだが、基本的に他人と積極的に交流を持とうとはしない。

 

 それでも女子の多い国際教養科では引く手数多で、女王と呼ばれた陽乃に対し姫と呼ばれて持ち上げられているらしい。この呼称も雪乃の好むところではないらしいが、いろはの印象も確かに姫である。他人から姫と呼ばれるのも仕方のないことなのだろう。

 

 その三人の集団から少し離れるようにして、参考書とにらめっこをしているのが川崎沙希である。部室に入ってきたいろはにも視線も向けずに参考書に視線を落としたままだ。ヤンキーっぽい見た目と裏腹に勉強に打ち込んでいる姿が散見され、部室でも参考書を開いていることが多いと聞いている。

 

 またこの見た目で裁縫が得意技ということはどういう訳か一年女子に知れ渡っており、そのギャップから地味に男子のファンも多いらしい。なお、結衣に次いで一年女子の中では巨乳であると目されている。

 

 誰ともつるむ気はないぜと孤高な雰囲気を出しているにも関わらず、比企谷八幡には尻尾を振って後をついていく姿が校内でさえ多々見られる。普段と違う嬉しそうなその表情から『犬の犬』などと陰口を叩かれており、それは当然本人の耳にも入っているはずなのだが、彼女に気に留めた様子はない。おそらくその陰口を気に入っているのだろう、というのがいろはの見立てである。

 

 更にその四人から離れて、奥まった椅子に座っているのが比企谷八幡だ。彼も沙希と同様に学校にいる時は参考書とにらめっこをしているか、そうでない時はめぐりに捕まって話し相手にされているかのどちらかである。彼女以外に友達がいないというのが彼の持ちネタであり、彼が他人と話しているところはめぐりに捕まっている以外は奉仕部でしか見れないとまで言われている。

 

 実際にはそこまでではない。用事があれば話しかけるし、質問をされればきちんと答えてくれる。見た目の悪さに反して律儀だし誠実ではあるのだ。一部対応が雑になることはあるが、それでも引き受けたことを途中で放棄したりはしない責任感がある人だ、というのはめぐりの評価である。

 

 その八幡がいろはがやってきたことに気付くと、参考書から視線を上げた。視線を廊下に向け、いろはが一人であると確認すると、始めるぞ、と他の面々に声をかける。八幡がいる奥まった方へ全員が椅子を寄せ、会議のムードになった所に、いろはも部室の隅から椅子を持ち出し、結衣の近くに座る。

 

 全員が着席したのを待って、さて、と短く言葉を発した八幡は、

 

「相模の奴を首にする。何か質問は?」

「…………いや先輩、その短い言葉の中に疑問しかないんですけど」

「そんなに分かりにくかったか?」

「結論を先に言うのは構わないけれど、普通は過程も説明してから質問を受け付けるものじゃないかしら」

「それもそうだな……昨日の会議に来た陽乃から、このままじゃ間に合わないと言われた。俺と城廻の見立てはもう少し先だったんだが、今の時点で相当危ないらしい。あの人の基準だとな」

 

 いろはも進行状況に危機感は抱いていたが、危機レベルでは八幡やめぐりの方に近い。総武高校の文化祭に対し一番危機感を持っているのが卒業した陽乃というのも皮肉な話であるが、彼女が危ないというのならば危ないのだろうと、いろはも思い直した。事態はいよいよ以て深刻であり、そこから南を首にするという話に繋がるのだろうがそれでも、いきなり首というのはいろはの理解が追い付かない。

 

「それでその状況を打破するために、実行委員長の首を挿げ替えることにした。差し当たっては代わりの第一候補のお前に話を持ってきた訳だ」

 

 八幡は鞄から書類を取り出していろはに渡す。見ても良いという雰囲気だったのでクリアファイルから取り出すと、中から出てきたのは十人分の署名が入った『委任状』だった。曰く、此度の文化祭実行委員長のリコールについて、投票権を1年E組一色いろはに委任するものであるなどなど。

 

「なんですかこれ?」

「工作が済んだって証明みたいなものだな。うちのご主人が事態を憂慮されていると端から声をかけて回ったら、全員快くそれにサインをしてくれた。勝手に名前を使って悪いが、お前を発起人ってことで解任請求をする」

「解任請求って……そんな簡単にできるものなんですか?」

「簡単ではないな。その組織に所属する人員の三分の二の賛成がないと不可能だが、実行委員会に所属する60人の内、三年の二十人は白紙委任を受けた。残りはお前と一緒に作業してる連中を足せば三分の二は超えるし、足りなければ相模のグループから引っ張ってくるまでだ」

「でもさヒッキー先輩、そういう時に友達裏切ったりするかな」

「沈む船に好んで残る奴はいないだろ? どのみちサボりのためだけに連帯してるようなもんだしな。ここでゴネたら仕事が遅れた責任を明確に追及されるとなれば、喜んで裏切ると思うぞ」

 

 うんうん、とそれに続くのは雪乃と姫菜である。二人の反応に結衣は納得いかない様子だったが、反論はしなかった。おそらくそうなるだろうことが、彼女にも理解できたからだ。

 

「それでその後の話だが、委員長が解任された場合即座に——厳密には即座ではないんだが、今回は即座になるだろうからそういうことで頼む。ともかく即座に委員長の再選挙が行われる。その時にお前が推薦されるようにしておくからそこで委員長になってくれ」

「簡単に言ってくれますけど、そこで票を集めるって難しくないですか?」

 

 そもそも委員長に強く推してくれるだけの頭数を揃えられるなら、最初から根回しをして委員長になっていた。棚ぼたの副委員長に収まっているのは、それができなかったからである。リコールされるということは、まさか現委員長である南に票は集まるまいが、だからと言っていろはに手放しで票が集まるかと言えばそう簡単なものではない。

 

「そうでもないだろう。相模がお前の名前で首になる上、時間がないってことでせっついてる以上、何も知らない連中の頭の中に出てくる候補はお前しかいないし、仮に自分がなりたいって思ってる人間がいたとしても、なし崩し的にお前が最初に立候補しちまえば、それを押しのけてまで立候補はしない。候補が一人しかいなければ信任投票だ。白紙委任を受けてる三年生とお前と一緒に作業した連中を合わせれば半分は超える。解任請求が通ればお前の委員長就任は決まったようなもんだな」

 

 そしてその解任請求はほぼ通ったようなものであるから、いろはの委員長就任は決まったようなものであると八幡は言外に言っている。そこに至るまでの過程は物騒であっても、そこに拘らないのであれば委員長就任というのは当初いろはが望んでいた状況である。

 

 既にスケジュールが差し迫っている以上、普通に文化祭を開催するだけでも株は上がるだろう。そこから更に素敵なものにすることができれば、ポイントの上積みも可能である。生徒会長戦を視野にいれているいろはにとってはこの上もなく好ましい状況であるのだが、ここまで八幡たちがお膳立てしてくれる理由がいろはには解らない。

 

「依頼をしただろう? 俺には――」

 

 言葉を遮るようにして、机を軽く叩いた雪乃をちらりと見て、八幡は小さく溜息を吐いた。

 

俺たち(・・・)には、それで十分だ。お前はポイントを稼げる。俺たちは活動実績が得られる。おまけに文化祭が軟着陸して無難に終わるなら、俺個人としても言うことはないな」

 

 欲を言えば成功させたいというのが八幡の本音であるが、スタートダッシュに失敗した今それが難しいことは自覚している。陽乃が参戦したとしても、今から巻き返すのは不可能だ。どれだけダメージを少なく切り抜け、かつその中でどれだけ自分たちに都合の良い状況に持っていくことができるか。八幡が考えているのはそれだけである。

 

「で、まさかとは思うんだが反対したりしないよな? ここまで他人の力を借りるのは嫌だというのなら早目に言ってくれると助かるんだが……」

「どうしてですか? 反対なんてする訳ないじゃないですか。立っているものは親でも使う主義ですよ、私」

 

 八幡を含めた全員が、いろはを見る。依頼を受けた身とは言え、一方的に今後の行動を決めたのだ。多少なりとも反対されると思っていたのだが、いろはは少なくとも表面上は全面的に賛成をしている。喜々とした表情で三年生の委員全員のサインが入った書類を見ていたいろはは、自分に視線が集まっていることに気づくと、苦笑を浮かべて手をぱたぱたと振った。

 

「勝ち方に注文をつけられるような立場なら、最初から先輩たちに依頼なんてしてません。自分一人じゃ勝てないからこそ、人の力を借りたんです。違いがあるのは0か1だけで、10と100には大した違いはないんじゃないでしょうか」

「十倍も違ったら、大きな違いだと思うのだけれど……」

 

 言葉の始めには苦笑だったのに、終わりにはもうドヤ顔を浮かべている。肝の太さと変わり身の早さに逆に八幡の方が苦笑を浮かべる始末である。それを好感触と判断したいろはのドヤ顔にはますます力が入るが、そのせいで雪乃の突っ込みは無視されてしまった。自分の見せ場に水を差すような言葉など、一色いろはは欲していないのである。

 

 それに、悪いことばかりではない。自分で依頼をしたとは言え、ここまでお膳立てをしてもらったことは八幡と奉仕部に対する大きな借りができたことを意味するが、彼らと繋がりができたと思えば悪い話でもなかった。

 

 グループの中核である陽乃が卒業した今も総武高校で大きな影響力を持っている彼女のグループであるが、流石にピークは過ぎており、ゆっくりではあるがその影響力は下降線を辿っている。子分の代表であった八幡とめぐりが卒業すれば、その影響力は目に見えて小さくなるだろう。のし上がることを目指しているいろはとしては、そうなる前にその力を使いたいのである。

 

 人当りの良いめぐりはともかくとして、八幡はどうみても社交的な性格ではない。自分からぐいぐい行かないと関係を維持するのも難しい。自分の容姿に自信を持っているいろはは、もう普通の同級生であればダース単位で恋に落とせそうなくらい八幡に笑顔を振り撒いているのだが、八幡の態度はとてもつれない。

 

 恋人がいる男性の反応と考えれば誠実と言えなくもない。いろはとしてもむしろ、こうである方が好感が持てるくらいだ。突っかかるようになる前と比べると、確実に今の方が八幡に好意を持っていると断言できるがそれだけに、自分が相手にされていないという事実を突きつけられるのは、中々に傷つくのである。

 

 全く手ごたえがない訳ではないというのが救いではあるものの、これまでの付き合いから受け身ではどうしようもないということは嫌という程学んでいる。今の時点で彼とゼロから付き合おうと思うのならば、鬱陶しいと思われるくらいでちょうど良いのだ。

 

「ともかく! その申し出ありがたくお受けします」

「まぁ、お前が良いなら良いんだが……」

 

 もう少し反対されると思っていた八幡は、いろはの態度に拍子抜けしていた。こういういかにも男に媚びるタイプの女は自分と相性が悪いと今までの人生経験から強く思っていたのだが、この面の皮の厚さと勝利のためには手段を選びませんという図々しさは八幡にとって好感の持てるものだった。

 

「お前、思ってたよりも厚かましい奴だな」

「そんなに褒めないでくださいよー」

 

 それが八幡なりの褒め言葉であることを理解できる人間は少ないのだが、いろはは当たり前のように自分が褒められていると理解していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして大して打ち合わせもしないまま一日が過ぎて翌日。委員全員が出席した全体会議において、一色いろはの名前で出された委員長の解任請求は、57対3という圧倒的大差で可決された。梯子を外され、目に見える形でつるし上げられることになった南はしかし、新しく委員長に就任したいろはによって、一応、救われることになる。

 

「私も一年ですし、補佐が必要ですから」

 

 その一言により、いろはと役職を入れ替える形で南は副委員長に就任した。これ以上ない程の晒し者状態に、むしろ南に同情が集まり、彼女への風当たりも想像よりは弱くなったという。彼らも自分たちの投票によって南がつるし上げられたのだという自覚はあるため、特に裏切った面々はその空気に安堵したという。

 

 いずれにせよ、これが一色いろはのデビューとなった。長い長い付き合いになる比企谷八幡との、最初の一仕事である。

 



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いつの日にも、一色いろはは反抗する

 

 

 

 一色の乱と後に呼ばれる混乱を経て、ようやく文化祭実行委員会は一つに纏まりまともに動きだした。サボり組は今までサボっていた気まずさを紛らわそうと、馬車馬のように働いている。

 

 それを指揮するのは一色いろはだ。一年で委員長というだけでもレアなのに、いろはは躊躇なくサボり組の二年生たちに指示を与えていた。そうでなければ組織が立ち行かないと腹を括った故の行動だが、それが他の委員にはとても頼もしく映った。雪ノ下陽乃に憧れて生徒会入りし、今度の会長戦でも立候補を模索しているという情報もいつの間にか(・・・・・・)委員に知れ渡っている。それを応援しようという雰囲気さえ、委員会の中には既にできあがっていた。

 

 まさに委員会発足前にいろはが望んだ状況ができあがっていた。後は無難に文化祭を成功させることができれば注文通りである。不満はない。そのはずなのだが……出来過ぎた今の流れにいろはは静かに不満を覚えていた。

 

 注文をつけられるような立場ではないことは解っている。依頼という形を取っているとは言え、いろはは八幡たち奉仕部にめぐりを仲介に立ててまでお願いをしている立場だ。その依頼に対して八幡たちはいろはの期待以上の働きをし、絵空事だった『一年時でも会長』の椅子を手に届く所まで持ってきてくれた。

 

 勝負にさえならなかったはずのものを、勝ちが見える状態にまでしてくれたのだ。いくら感謝してもしたりないはずというのはよく解っている。この成功は自分以外の力が大部分を占めているということも理解しているし納得もしている。自分一人では勝てないと判断したからこそ、いろははめぐりを頼って奉仕部に依頼をした。この結果に不満があるはずもない。

 

 だが、激動する諸々にいろはの感情が追い付かなかった。それは自分の力が雪ノ下陽乃に遠く及ばないという実感であり怒りだ。本来自分の中で消化して昇華すべきそれらは、燻って比企谷八幡に向かっていた。

 

 いろはの視点から一言で言うならば、比企谷八幡はいろはのことを舐めていた。

 

 それは勿論八幡からすれば正当な評価ではあった。八幡のデキる人間の基準は雪ノ下陽乃であり、それは絶対的な価値観として八幡の中に君臨している。それ以外の基準は自分とほぼ唯一の友達であるところの城廻めぐりだ。

 

 その二人は現在、総武高校においてはデキる人間の双璧として知られている。才能という点では陽乃に及ばないものの、その陽乃に容赦なく仕事を振られて鍛えられた二人が積んだ経験値は、そんじょそこらの高校生では追いつけない程になっていた。

 

 加えて八幡は三年であり、いろはは一年である。経験の密度が同程度であっても、八幡の方が二年分有利なのに加えて『経験の密度』はいろはとは比較にならない。

 

 そういった事情を考慮すれば、八幡のいろはの評価は決して悪いものではない。一緒に仕事した時間は少ないが奉仕部のデキる三人に次ぐくらいにいろはのことを信用できると思っていた。加えてあの愛敬は奉仕部の四人にもないもので、いろはの才能と言っても良い。

 

 あくまで陽乃を目指すというのであれば『大分劣化した雪ノ下陽乃』という評価を脱せないだろうが、誰が何処を目指すなど八幡には関係ないし正直どうでも良い。他人からの評価など言ってしまえばただの数字だ。いくら絶世の美女が恋人であっても八幡の非リア充気質は健在だ。他人とは極力関わらず静かに平和に生きたいというのが八幡本来の願望である。

 

 ビジネスライクにいろはに接し、要望を叶えるために行動する。相手になるべく利益をもたらすことがコミュ障でも人間関係を上手くいかせるコツだと八幡は認識していたが、それら八幡の態度が一々いろはの癇に障っていたのだった。

 

 今回の件もそうだ。スポンサー周りはサボり組が大絶賛サボリ中だった時もいろはが率先して行っていた仕事の一つである。文化祭用として予算は組まれており学校からもまとまった額が支給されるが、より大きなことをやりたいとなるとより多くの金が必要になる。

 

 スポンサーというのはそのために存在する。パンフレットなどに広告を載せることを対価として、近隣の会社商店あるいは個人から小口の寄付を募るのだ。普段であればこれは予算への足しになる程度のものだが、陽乃が委員長として活動した年は学校から支給される予算をスポンサーの寄付が抜いた。単純計算でその前年の予算の倍に近い予算を突っ込むことができたのだ。

 

 好き放題できたのも当然と言える。それに比べると今年の予算の集まりは当然良くはないのだが、去年あるいは一昨年と比べさえしなければスポンサー献金は平均を大きく上回っていた。一昨年のことが陽乃の功績と言うのであれば、今年のこれはいろはの功績と言えるだろう。

 

 陽乃には及ばなくても、自分でもこれだけできるのだ。サボり組に足を引っ張られながらもこれだけのことをしてたんですよ! とこれはいろはの自慢の種の一つであったのだが、当日発行の臨時パンフレットに載せるという名目で、更に追加のスポンサー周りをする段になって急に八幡が着いてくると言いだしたのだ。

 

 一人では何もできないと思われているようで、はっきり言って気分は良くなかったが、自分のデキる女アピールを間近で受けさせると思えば、いろはの溜飲も下がった。そんな訳で学校を出る時は意気揚々としていたいろはだったが、二歩三歩と足を進めた後に、それが難しいことに早くも気づいてしまった。

 

 この段階まで後回しにされているということは現時点でスポンサー契約を結んでいないということで、かつ過去のいろは自身に感触が良くないと判断されていたということでもあった。残っているのは揃いも揃って難物だ。過去文化祭に寄付をしてくれた所ばかりだが、他のスポンサーが過去何度もやってくれているのに対し、残っているスポンサーはほとんどが一回、多くても三回程度である。

 

 それを説得できるような力強い材料はいろはにはない。足を運んでお願いをする。ただそれだけのことだが、このままではおそらく空振りが続くだろう、最悪、一件も寄付を貰えないという可能性もある。デキる女アピールをするのにこれでは逆効果だ。デキない女だと思われたらどうしよう。内心で焦っていたいろはを見透かしたように、八幡は鞄からクリアアフィルを取りだした。

 

 今日回るスポンサー候補の資料だ。それをぱらぱらとめくりながら、八幡はこともなげに言う。

 

「一番近いところから効率的に行くか。今日全部回るつもりなら少し急がないとな」

「何で先輩が決めてるんですか」

「経験者だからな」

 

 陽乃がスポンサーを開拓した時は八幡も同行したのである。美人は得だというのは良く言われることだが、その上弁が立つと手が付けられないのだなということが良く理解できた時間だった。

 

「経験者って……交渉には全く参加しなかったんですよね?」

「そうなるな。だがまぁ、何とかなるだろ」

 

 実に軽い口調で八幡は答える。総武高校において彼がデキる部類に入ることはいろはにも疑いがないが、人前に出ての交渉事というのは見た目インテリヤクザの彼が最も苦手とするところである。陽乃やいろはならば問題なくできる『人前で愛想よく微笑む』という作業を、彼は最も苦手としているのだ。その彼が何とかなると言っているのである。実際に何とかする算段があるのだろう。

 

 私の仕事を取って……いろはも心中穏やかではなかったが、今日まで残っているスポンサー候補は間違いなく難物である。立っている者は親でも使えというのがいろはの流儀だ。それが比企谷八幡であるならば、使うことに抵抗などあるはずもない。

 

 それに、笑顔の苦手な八幡がどんな交渉をするのか単純に興味もあった。先輩こんなだったんだよー、と脚色して話してやれば『犬の犬』さんは悔しがるかもしれない。奉仕部の面々ともそれなりに交流が深まったいろはが、何だかんだで一番仲良くしているのが沙希である。

 

 話が合うのは結衣なのだが、彼女は奉仕部以外のグループにも所属しているためにあまり時間が取れないのだ。残った三人の中で一番『疲れない』のが沙希だったという話である。雪乃は精神的に鉄壁であるし姫菜は表面上こそ普通だが腹芸しかしてこない難物だ。

 

 その難物が八幡には懐いているようなのだから、得体が知れない。めぐり情報では雪ノ下陽乃は『あんなもの』ではないらしいが、そんな化け物と恋人になれる八幡は一体どれだけ精神的なドMなのだろう。

 

 想像して、ぞくりと背筋が震えた。この人を足蹴にできたら一体どんなにか。きっとこの人は何をしても受け止めてくれるだろう。それが全く大したことがないとでも言うように。それに相応しい相手でさえあればという条件が付くのだろうが、一色いろはにはそれが圧倒的に足りていない。

 

 どうも最近貯まったストレスが良くない方向に加速している。横恋慕など趣味ではない。確かに比企谷八幡というのは悪くないが、相手が雪ノ下陽乃では流石に分が悪い。精々観賞用として眺めるだけに留めて、ストレスとは上手く付き合っていくことにしよう。

 

 まずはインテリヤクザがどういう交渉をするのか。一色いろはという美少女を連れているとは言え、あそこまで自信ありげに断言したのだから、それを使うということはしないだろう。八幡個人でやるのであれば強面という見た目のしかも男子という要素は、交渉事では不利に働くようにも思う。

 

 八幡は奉仕部の中で最も弁が立つがそれはいろはや奉仕部の面々に受け入れる態勢ができているということも大きい。見た目から忌避するような相手にはその力を十分に発揮することができない。個人商店のおじさんなどはその最たるものだと思うのだが。

 

 期待と不安を胸に、最初の商店に足を踏み入れる。

 

「こんにちはー。総武高校から来ましたー」

 

 最初に声をかけるのはいろはだ。今日時間を作ってほしいということは、伝えられる場所には伝えてある。この商店は伝えてある側であり、電話をした段階ではあまり感触が良くなかった場所でもあった。それでも会うと言ってくれたあたり、マシではあるのだろう。来るなと言われることもままあると、めぐりからは聞いている。

 

 店主のおじさんは五十代後半の、如何にも堅物という風だった。いろはの経験でこの世代の男性は、いろはを見てめじりを下げるか拒否感を示すかのオールオアナッシングである。前者であれば話は早かったのだが、いろはを見たおじさんの反応は明らかに後者だった。

 

 これは不味い。デキない女と思われるよりも早く、いろはは一歩退いて八幡に場所を譲った。お手並み拝見といった風を装っての、後ろ向きなバトンタッチである。意図の透けて見える場所移動に八幡も嫌そうな顔をするが、出先であることを思い出し、彼にしては余所行きの愛想の良い表情を浮かべた。

 

 それだけでいろはにとっては爆笑ものだったのだが、店主のおじさんは八幡の顔を見て怪訝そうな表情をするばかりだ。見覚えはあるのだが誰だか思いだせない、そんな顔である。

 

「ご無沙汰してます。二年ぶりですか」

 

 二年ぶり。八幡の言葉に、おじさんはようやく合点がいった、という顔をした。

 

「雪ノ下さんと一緒にいた彼か!」

 

 相好を崩したおじさんは八幡に近づいて手を握ると、肩をばしばし叩く。この年代にありがちな感情表現に八幡も密かに苦笑を浮かべていたが、おじさんはそれに気づかない程に上機嫌である。

 

「そうです。お元気そうで何より」

「まだまだ若いもんには負けんよ。君も三年か。受験生だろう? 文化祭の仕事なんてやってて良いのか?」

「まずは推薦狙いなんで。まぁ、内申稼ぎと思っていただければ……」

「黒いねぇ。流石雪ノ下さんの彼氏だ。ところで君が来たってことはあれか? 今年は…………」

「去年は参加するだけでしたけどね、今年は委員会の方にも顔出してますよ。去年程じゃありませんがステージもやるらしいんで、良ければ来てください」

「そうか……それならいくらか出さないと悪いな」

「ありがとうございます」

 

 交渉も何もなく、向こうの方から金を出すと言ってきた。ははは、と男二人で笑いあっている内に自然と八幡の方から話を打ち切り、商店を後にした。必要な話は全てまとまっており、必要なものがあれば後日取りにくるということだ。

 

「過去にパンフに載せたことがある所は、前回に同じって手法も使えるからな。ここはおそらくそうなるだろう。二年前ならまだゲラ版が残ってるはずだから、今日行く所は全部用意しておいた方が良いな」

「もしかして全部こんな調子でまとめる自信があったりします?」

「全部はどうだろうな。ただ、今日行く所は全部、陽乃がいた時にはスポンサーをやってくれたところで、俺も陽乃と一緒に足を運んだことがある所ばかりだ。一色一人で交渉するよりはやりやすいだろ」

 

 交渉材料として陽乃を使えるのも大きい。実行委員会に顔を出しているとは言うが、彼女が現役だった時程あれこれ口を出している訳ではない。既にサボり組のサボりはどうにか帳消しにできそうな雰囲気であるが、規模で言えば一昨年の文化祭とは比べるべくもないだろう。

 

 それでも一昨年の文化祭を知っている人間には、陽乃が参加しているというだけでアピール材料になるのだから現役のいろはとしてはたまったものではない。言葉とは違いそれなりに自信があったらしい八幡は行く先々で陽乃の名前をさりげなく出してはおじさんおばさんたちの注意を引き、スポンサー候補全てをスポンサーにしていった。

 

 六限の授業が終わってからすぐに学校を出た訳だが、候補全てがスポンサーになった頃には陽もとっぷりと暮れていた。できれば委員会の進捗状況を直接確認したいが、これから学校に戻るのは微妙な時間である。進行はこのままいけばとりあえず問題ないレベルまで改善された。学校に残してきた委員やめぐりからも、問題が発生したというメールは来ていない。つまるところ何も問題はないということなのだが、一仕事終えた八幡の前でそれじゃあ帰りましょうか、というのは激しく負けな気がしてならなかった。

 

「私はこれから学校に戻ります」

 

 明らかに直帰する風だった八幡は、いろはの言葉に眉根を寄せる。

 

「何か問題があったのか?」

「いえ、そういう訳では。ただ進捗状況を確認しておきたくなりまして……」

「別に明日でも良いと思うがね」

 

 八幡からすれば時間の無駄、ということなのだろう。彼の性格ならば特に用事がなければ学校には近づきたくないのかもしれない。その気持ちはよく解るが、八幡は戻らないというのならば猶更、いろはの選択肢は戻る一択だった。

 

「一応委員長ですからね」

「そうか。ちゃんと人通りの多い道を歩いていけよ」

 

 じゃあな、と八幡はさっさと踵を返して歩きだした。彼の今日の仕事はスポンサー周りだけであるため、学校に戻ってまでしなければならないことは何もない。推薦狙いとはいえ受験生なのだからここまで協力してくれただけでも大助かりなのは事実なのだが、暗くなりつつある道を女子高生一人で歩かせるのはいかがなものだろうか。

 

 それでも人通りの多い道を歩いていけと言ってくれただけ、八幡的には優しくしているのかもしれない。完全な塩対応に比べれば幾分マシだろう。完全に溜飲が下がった訳ではないが、少しだけ気分を良くしたいろはは忠告をまるっきり無視して学校への近道を歩きだした。

 

 人通りがない訳ではないが、八幡の意図した道とは違う道である。薄暗く、人通りが少ない。穿った見方をするのであれば何かありそうな道であるが、危険なことなど早々あるはずもない。いかにも危ない目に合う直前の人間の思考で、軽い気持ちで歩みを進めていたいろはの腕を、やはりと言うか何と言うか、いきなり誰かが引いた。

 

 え、という声を上げる間もあればこそ。いろはの腕を引いた男はずんずんと人のいない方へと進んでいく。大声でもあげるべきなのだと解っていても、思考が追い付かずに行動することができない。されるがまま路地裏に連れていかれると、待っていたのはいかにも柄の悪い男がもう一人。いろはの手を引いてきた男も含めて、あまりお友達にはなりたくないタイプだったが、美少女一人を薄暗い場所に連れ込んで何をするのかと思えば、彼らの顔にあるのは困惑だった。

 

「で、これからどうするんだ?」

「そりゃあ、あれだろ……エロいことすんじゃねえの?」

「後腐れねーならそうだろうけどさ、無理じゃね?」

 

 人を連れ去ってから相談とかしないでほしいものである。既に腕も離されていて、男たちはいろはを放って――一応逃げられないように気にはしながら、あーでもないこーでもないと言いあっている。

 

 冷静になってみればとても計画的とは思えない行動だ。薄暗い人通りのない場所とはいえ大声を出せば人に聞こえる距離である。いかがわしいことをするような場所ではないし、そもそも二人は積極的に行動したようにも見えない。誰かがノリで提案し、それを誰も否定できなかったから実行に移した風である。

 

 相手にされたいろはからすれば迷惑極まりないが、一先ず自分の純潔が散らされるような事態にはならなそうだと小さく安堵の溜息を漏らした。

 

 とは言え事態は全く改善されていない。どこの誰とも知れない男に、暗がりに連れ込まれたという事実は何も変わりない。当面の身の安全は保証されているようだが、それがいつまで続くという保証もない。

 

 一刻も早くこの場から逃げなければならない。

 

 幸い後ろには誰もいないので、退路は確保できている。踵を返し走ればすぐに人がいる所までたどり着けるはずだ。途中で大声でもあげればこの連中も諦めるだろうし、それが成功する確率は高いように思える。男たちは今いろはに注意を払っていない。やるなら今だ、といろはの理性的な部分が告げているが、心情的な部分が行動を躊躇わせていた。

 

「つーかさ、そういうことやるとしてその後どうすんのよ。俺ら普通に捕まらね?」

「漫画とかだととりあえずその場逃げ切って後で殺されたりするんだよな……どうしてんだべなあれ」

「解る。俺ら犯人はお前だ! って所までには死んでそうだもんな」

 

 どうしてこの場でそれに気づける知恵があって、こういうことを実行しようと判断するに至ったのか。不良二人の思考回路に理解しがたいものを感じるいろはだったが、やはり足は動かない。不毛で不安な時間がいろはにとってはじりじりと過ぎていく。その間にも続いていた不良たちの話しあいは、僅かな時間の後に一応の結論に達した。

 

「とりあえずカラオケにでも行くか」

 

 不良二人の視線がいろはに向く。無論のこと、いろはの答えはNOだった。今日あったばかりの全く好みではない男子二人と一緒にカラオケに行って何を歌えば良いというのだろうか。楽しい時間は過ごせそうにもないしできれば遠慮したいが、やはり声が出てこない。

 

 肝の太い方だと自分では思っていたことは、どうやら思い過ごしであったらしい。こんなことなら言われた通りに人通りの多い所を通っていれば良かったと心中で後悔しても遅かった。どうにかしてこの危機を乗り越えなければ。声を出せない身体が動かないまでも、諦めるということだけはせず頭を働かせ続ける。

 

 いろはが無言でいることを、勝手に同意と取ったのだろう。不良二人が無遠慮に近寄ってくる。手を取られそうになった時、いろはは思わず目を閉じてしまった。

 

「人の言うこと聞かないから、こういうことになるんだよ」

 

 耳元に、愛情が欠片も感じられない冷たい声が届いた。目を向ける。やぶにらみの悪党面がそこにあった。いろはを挟んで不良が二人。彼の姿を見て距離を取る。

 

「無事だな?」

 

 八幡の問いに、いろははこくこくと頷いた。言いたいことは沢山あるのに、まだ声がでない。本当は涙が出そうなほどに嬉しかったが、それを示すこともできなかった。やっぱり自分は雪ノ下陽乃にはなれないな……と心中で落ちこんでいるいろはと不良の間に、八幡が割って入る。彼の背中ごしに見る不良二人は、突然現れた男の顔を見てそれが誰なのかに即座に思い至ったらしい。

 

「総武の制服に悪党面……お前、『女王の犬』か!?」

「うちで他にそう呼ばれるような奴はいないだろうから、まぁそうだろうな」

 

 不良に犬と呼ばれ八幡は一瞬だけ嫌そうな表情を浮かべた。自分で名乗ったり陽乃をご主人様と呼んだりするのに勝手な話である。反射的に突っ込みたくなるいろはだが、それを寸前で堪えた。せっかく助けに来てくれたのだ。今は一刻も早くこの状況を脱したかった。

 

「その名前で呼ぶなら俺のご主人様が何処の誰なのか良く解ってるだろ? こいつは今度の文化祭の実行委員長でな。その進行具合について、うちのご主人が大変憂慮されておられるのだ。これ以上進行が遅れてみろ。あの人の逆鱗に触れるぞ?」

 

 それは不良たちに対する脅しのつもりだったのだろうが、言葉を重ねるごとに八幡の顔色は悪くなっていく。誰よりも陽乃に近しい場所にいる八幡だ。そういう人間が見せる顕著な反応に、不良たちは一歩、二歩と後退っていく。

 

「それからもう一つ言っておく。お前たちは色々陽乃の噂を聞いてると思うが、それは全部間違いだ」

 

 一瞬、不良たちの間に安堵による気の緩みが見られたが、それを見計らったように、八幡は言葉を続けた。

 

「噂はどれも物凄く控えめに語られている。あの人はやると決めたら必ずやるし、途中で手を止めたりは絶対にしない。報復される可能性が見込めるなら、手を引いておいた方が良い。俺が言うんだから間違いないぞ。いや、もうお前らのために言ってるようなもんだが、悪いことは言わない。興味本位であの人に絡むとロクなことにならないからなマジで」

「…………今なら何もなかったことにしてもらえるのか?」

「当たり前だろう。俺だって面倒ごとに巻きこまれたくない。俺は何も見なかったし聞かなかった。お前たちもそうだ。お互い安心安全な放課後を送るんだ。それで何か問題あるか?」

「いや、何もない。悪いな、その、気を使ってもらって…………」

「そもそもここでのことはなかったことになるんだ。気にするも何もないだろ。良いからさっさと行け」

 

 八幡に促され、不良たちはそそくさと去っていった。陽乃が生徒会長だった頃はまさに、近隣の高校生たちの女王として君臨していた。良い子も悪い子も普通の子も、大小はあれど雪ノ下陽乃の影響を受けており、特に悪い子の集団は陽乃の影響下にあった。

 

 総武高校の周辺を陽乃の縄張りと認識し、その内部及び周辺では自主的に問題を起こさないようにしていた程だと言えば、その影響力も理解できるだろう。陽乃と同学年であった連中は陽乃と同様卒業しているが、不良は不良で縦社会である。どういう事情であれ、自分たちがそれなりに敬意を払っていた人間に後輩が粗相をしたとなれば彼らにとっては大問題だ。尻尾を巻いて逃げるのはむしろ、当然の判断であると言える。

 

「その……お手数おかけしました。ごめんなさい」

「さっきの連中にも言ったが、ここでのことはなかったことになったから気にするな。解ってると思うが他言無用だぞ」

 

 他校の不良に絡まれたなど公開してもいろはに良いことは何もない。他言無用というのはむしろいろはの方から願い出なければならないことだ。八幡の方からそう言ってくれるのであれば否やはなかったが、いろはが言いたいのは別のことだった。

 

「言いつけを守って人通りの多い所を歩いていればそもそもこんなことには……」

「だろうな。だがまぁ、起こっちまったもんは仕方ない。次から気を付ければ良い」

 

 八幡の反応は軽い。それはいろはの期待したものではなかった。二つ年上で、学校では実績もある人から言われたことを、自分の都合を優先して無視した上にトラブルに巻きこまれ、しかもそのトラブルを解決してもらった。そのまま家に帰っているはずの八幡が、どういう事情かはともかく後をついてきてくれたのだ。

 

 どちらかと言わなくとも、非はいろはの方にある。一方的に手間をかけてしまったのだ。せめてその相殺くらいはしないと、八幡の方に割に合わない。何より借りを作ったままにしておくのは、いろはとしてもしっくりとこない。どうせ水に流してくれるのならば、ここで一つ怒ってもらった方が良かったのだが、八幡はあくまでなかったこととして処理しようとしていた。

 

「不満そうだな」

 

 それを良く思っていないことが、顔に出ていたらしい。指摘されたいろはは慌てて顔を背けるが、時は既に遅い。そんな後輩を八幡は八幡で居心地悪そうに眺めていたが、やがて小さく溜息を吐くと、がりがりと頭をかきながら嫌そうに話し始めた。

 

「お前の気持ちは解らんでもない。俺も二年前はそうだった」

「二年前と言えば、先輩は素敵な彼女さんができた時期じゃありませんでしたっけ?」

 

 八幡と陽乃の馴れ初めは、総武高校の学生の間では有名な話である。今だにどちらから告白したのかという話には決着がついていないものの、八幡か陽乃、そのどちらかを知っていれば文化祭の時期に付き合い始めたという話は知っているはずである。

 

「……そう言えばちょうど今の時期だったな、文化祭の時には付き合ってたが……まぁそれは良い。俺が言いたいのは人が褒めてくれることを期待するなってことだ」

 

 どんな的はずれな話をするのかと思っていたら、結構的を得てきた。ささくれた気持ちを誤魔化すためにどんな話でも茶化すつもりでいたのだが、黙って聞いてみることにした。

 

「自分が会心のできだと思ったことでも、相手にとっては大したことのないことだったりする。想定を下回ってたりもする。そうなれば、相手にとっては褒めないのが当然のことだ。それに値しないんだからな。だが、こっちにとってはそうじゃない。それが不満になりストレスになり、間が悪いと胃に穴が開くらしいんだが、幸いにも俺はそこまでになったことはない。体調を崩したことくらいなら何度もあるが……」

 

 そこで、八幡は自分の胸に手をやる。それまで集団の外にいた人間が、いきなり陽乃の子分になってこき使われるようになるのは相当なストレスだっただろうことは、生まれてからずっとリア充側にいたいろはにさえ理解できる。非リア充のぼっちと自分で言うだけあって、強面な見た目ではあるものの、八幡は決して健康的な風貌ではない。何度もあるというのは、本当に本当のことなのだろう。

 

「それくらいの気は使ってしかるべきとも思うだろう。だが大抵の場合、相手はそこまで暇じゃない。なら、ただそれだけでストレスを溜めるのもバカらしいだろ? 他人は褒めてくれないものだ。何よりやるべきことをやってれば良い。そうすればまぁ、たまには誰かが褒めてもらった時にはそこはかとなく嬉しいもんだ」

「それは経験談ですか?」

 

 いろはの顔に小さく笑みが浮かぶ。ここまで言われると、八幡なりに励ましているのだといろはにも理解できた。珍しいことだ。今を逃したらもう一生ないかもしれない。そう思うと、いろはの心にも熱が戻ってくる。気づけばいつもあろうとしている『かわいくあざとい後輩』の一色いろはに戻っていた。

 

「…………コメントは控える」

「二つも下の女子にそんな赤裸々な告白をするなんて……ちょっと先輩のイメージが変わりました」

「血も涙もないインテリヤクザとでも思ってたか?」

「実はその通りです」

 

 ふぅと、二人揃って大きな溜息を吐く。色々考えていたことがバカらしくなってきた。先ほどまでのことがなかったことになったのなら、気持ち的に仕切りなおしても良いだろう。比企谷八幡という人間に対して、いろははもう少し――いや、もっと、遥かに、図々しく行ってやろうと思った。

 

「物は相談なんですけど先輩」

「学校までついてこいってんだろう? いいよ、さっさと行こう」

「何だか先輩、傷心の後輩のために少しだけ優しくなってません?」

「…………行かないなら帰るぞ俺は」

「冗談ですよ。頼りにしてます、先輩」

 

 



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不機嫌そうに、比企谷八幡はため息を吐く

 

 

 

 

 

 

 

 サボり組は心を入れ替えたかのように働き、遅れていた分も含めて仕事は極めて順調に進んだ。その結果、一昨年の陽乃時程とはいかないまでも、文化祭の企画や出店の数、質は充実し近年では充実したものになった。少なくとも去年は超えることができたはずである。スタートで出遅れた割には完成度の高い文化祭になったのは、外部協力者の質が高かったからだ。

 

 委員長は一色いろは。働いたのは実行委員を始め準備に励んだ一般の生徒たちだが、空中分解しそうだった委員会をまとめ上げ一年にして、しかも途中から委員長になるという前例のない展開で耳目を集めた。二年の生徒を追い落としてという事実だけを見ればあの一年は生意気だ的な反応はちらほらあったものの、元々サボり組の態度に問題があったこと、そしてそのサボり組の代表である相模南が取り巻きを連れてきちんといろはに頭を下げたことで、マイナス面の印象は概ね払拭された。

 

 加えて、一年にして次期会長になろうとしているといういろはの情報は、実行委員会での顛末が学校中に広まるに連れて広まった。立候補者の公示はまだ先のことであるものの、既に全ての生徒がいろはを立候補者の一人として認識している。

 

 既にめぐりは二年の生徒を後任に推すことをそれとなく知らせていたが、中にはいろはが後任であると認識する者まで現れるようになった。知らない生徒から会長戦がんばれよ、と声をかけられまくる日々である。最初は自分の時代が来たと舞い上がったいろはも、それが途切れることがないと理解できるとげんなりするようになる。

 

 声をかけてくれる以上自分の支援者であり、無下にすることはできない。それが途切れることなく、しかも知らない人間なのだから、精神的な疲労は計り知れなかった。自分は相当に面の皮の厚い人間だと思っていたいろはだったが、その認識を変えるべきかもしれないと本気で思うようになる。

 

 準備を進めていたこれまでの時間よりも、文化祭前日と当日の方が間違いなくキツいと思うのは間違いなくそれのせいだった。そして恐ろしいことに文化祭は今日で終了となるが、生徒会長選挙はまだ先の話である。これがまだまだ続くのかと思うと、立候補を取りやめようかなという気さえ起こった。

 

 とは言え、そんな弱気の虫の声に耳を貸す訳にはいかない。どれだけ疲れようとそれがあの時からのいろはの夢であり、これはその第一歩だ。見上げる壁は高くともようやくその壁に手をかけ足をかけることができた。今までは遠くに見上げるだけだった壁を登り始めようとしている自分に、気怠い疲れを覚えながらもかつてない程興奮している。

 

 自分の時代がきた。流れが来てる。それを信じ、有頂天になってもおかしくない展開であるのだが……興奮する自分を自覚しつつも、いろはの中にはどこか冷静な部分があった。考え得る限り最高の環境が自分の周囲にできあがっている。クラスにも応援ムード。知らない人間にも多く声をかけられた。知名度で行けばめぐりが推す役員の先輩よりも自分が勝っているという自信がある。

 

 たかが高校の選挙であれば、それはとてつもなく有利なカードだ。加えていろはは自分が激しく男受けするタイプだということを自覚している。能力という点で役員の先輩に勝てるかと言われると首をひねらざるを得ないものの、見た目の華で言えば圧勝だ。仮に立候補者を当日に立て、その時の印象、話す内容で決めるような選挙があるとすれば大体の人間には勝てる自負があった。その先輩とは百回やれば百回全てで勝つだろうが、そんな都合の良い勝負はこの世にはない。

 

 だからこそめぐりを介して奉仕部に依頼をしたのだ。依頼はまだ継続している。この雰囲気の上、まだ彼らの援助を期待できるのであれば、もう勝ったも同然だろう。結果そのものが出るのはまだ先の話であるが、依頼は達成されたと言っても良い。

 

 興奮した思考を冷ますように、大きく息を吐く。

 

 さて、一体どこからどこまでが『彼』の手が入っているのか。一度疑問を持ち出すといろはには全てが疑わしく思えてきた。奉仕部に依頼を持ちこんだ時からだろうか? それともめぐりに話を持ちかけた時から? 何時からというのはこの際問題ではない。全てが疑わしいというのであれば、本当に全てを疑うべきだと思ったが、全てとなると余計に難しい。

 

 これを絞りこむことが、いろはには全くできなかった。予感はある。彼らは何か手を回した。おそらくそれは間違いないのだが、その確たる証拠というのを提示できない。それはいろはにとって精神的な敗北ではあるが、しかしいろはの精神以外に何らダメージを与えるものではなかった。

 

 不気味ではある。何となく釈然としない。だが、本当にそれだけだ。仮に証拠をあげて彼に突きつけたとしてもそれでいろはが得るものは何もない。このままでも何ら問題はないのだ。それがまたいろはの敗北感を強くしたのだが、しばらく考え、いろははそれを受け入れることにした。

 

 彼我の戦力差がどうしようもないということが実感できた。それだけでも良しとしよう。元より彼女は邪魔者には容赦しないという。これだけ得るものがあったのだ。まさか排除の対象とは思われていないはずだ。今がまさに持ち上げて落とす途中という可能性は捨てきれないものの、自分の理解の及ばないことをいつまでも気にしても仕方がない。

 

 考えることは止めないが、気にすることはやめにした。今のところ彼らは味方である。それが解れば、それ以外は些細なことだ。

 

「委員長」

 

 考え事をしながら歩いていると、隣を歩く副委員長に呼び止められた。文化祭当日にも委員長の仕事は山ほどある。出し物の受け持ちをしていない生徒は友達なり恋人なりと文化祭を謳歌しているのだがろうが、委員長にそんな暇はない。本部に詰め見回りをし、イベントのスケジュールの確認を直に行う。今のところ大きな問題は起きていないことが唯一の救いだ。

 

 今は本部に戻るまでの移動中。正門を正面に見て、一年用の昇降口から校内に戻る途中だったのだが、副委員長の視線は正門を指していた。それを追ってみる。詳細を求めるまでもなく、彼女が何を言いたかったのかいろはには理解できた。

 

 そこには一組の男女がいた。正門で待ち合わせしていたのだろう。彼女は卒業生だ。中に入ってからもっと解りやすい場所で待つこともできたはずだが、態々正門で待ち合わせたのは、そこが外部に恋人がいる在校生にとって定番の待ち合わせ場所であるからだろう。

 

 定番など彼が最も好まないものだ。それを態々選ぶ辺り彼女らしいという気もする。満面の笑みを浮かべた彼女は苦虫を噛み潰したような顔をしている彼に笑顔を振り撒くと、腕を取って歩きだした。その道を妨げないようにと、人だかりがさっと開く。

 

 周囲の賑わいはそのままに、しかしここには自分たちしかいないとばかりに、二人は文化祭を楽しみ始めた。恋人などできたことのないいろはだが、彼らのそれが恋人らしい振る舞いとはイマイチ思えなかった。彼女は心の底から全てを楽しんでいるように見えるが、彼の方はそうでもない。

 

 必要だからやるというだけで、彼は目立つことが好きではない。一方の彼女は幼い頃から目立つことが当たり前だった。衆目を集めることに関しては経験値が絶対的に違う。前よりは慣れたと言っても、それは誤差のようなものだ。

 

 居心地が悪いと顔に出しながらも、彼に文句を言っている様子はない。聞きしに勝る犬っぷりである。一緒にいるのを見たのは初めてではないが、周囲を気にせず恋人のように振る舞っているのを見るのはこれが初めてだ。

 

 幸せな恋人たちには違いないのだが、どこか歪に見えるのは彼の方の人となりを知っているからだろう。色々な意味で気になっている彼が恋人といるのを見て、いろはの心に漣が立つ。これはもしや嫉妬なのかしら、と益体もなく考えて、心中で苦笑を浮かべた。いやいやまさか。そんなことがあるはずがない。

 

 一体どこの女が好き好んでそんな面倒臭い恋をするというのか。彼でなければいけない理由はないし、世の中に男は他にも大勢いる。何も女王様に囲われている犬に手を出す必要はないのだ……

 

 ともあれ珍しい八幡の姿をまた見ることができた。後でそれをからかうことにして、この場は逃げると決めた。一色いろはは雪ノ下陽乃に憧れているが、いつでもどこでも仲良しになりたい訳ではないのだ。

 

 だが副委員長を促して踵を返そうとしたまさにその直前、離れた場所にいたはずの陽乃の視線がしっかりといろはを捉えた。そのことに不幸にもいろは本人も気づいてしまった。気づかなかった、と誤魔化すことはできないだろう。何しろしっかり目が合って、微笑みまで向けられてしまったのだから。

 

 遠くに見える八幡も面倒くさいことになった、と苦り切った表情をしている。そんな顔しないでください先輩私だって予定外なんですからーと心中で聞こえもしない言い訳をしていると、女王様は笑みを浮かべて近寄ってきた。

 

「いろはすちゃん、ひゃっはろー」

「ひゃ、ひゃっはろー」

 

 意味の分からない掛け声だったが、反射的に返事をしてしまった。自分一人だけが果てしなくバカになったような気がする。眼前の女王様が言ったから自分も繰り返しただけなのに、ダメージはこちらにだけしかきていない。ズルい。不公平だ。助けを求めて横を見れば、副委員長はいろはと僅かに距離を開けて他人の振りをしていた。話しかけないでくださいと全身で主張している。

 

「この前は心配しかなかったけど、凄いじゃない。ちゃんと形になって」

「ありがとうございます」

 

 褒めてくれてはいるが、100点の褒め方ではない。陽乃の言葉がいろはの胸をちくりと刺した。確かにサボり組の件がなければもう少し良い文化祭にすることはできただろう。陽乃からすれば、もっと早く手を打たなければならなかったということだが、一色いろは単独ではそれも難しかったのだ。二年の集団であるサボり組を何とかするためには結局のところ奉仕部――より具体的には八幡の力を借りなければならなかった。

 

 やり出す時期の見極め、そのための根回し、普段からの得点稼ぎに貸し借りの清算。勉強になることは沢山あった。次に同じことがあればもっと上手く処理できる。中途半端な出来の文化祭という無様を晒してしまったが、得るものは沢山あった。現時点での実力不足は認めて次に活かせば良い。起きてしまったことはもうどうにもならないのだ。後はもう、せめて前向きに考えるより他はない。

 

 ここをこうしたかった、今度はこうしたい。いい訳ならば腐る程思いついたが、それを陽乃が聞きたがっているとは思えなかった。笑みを浮かべたまま中身のない世間話を続けていると、陽乃の方から話を切り上げてきた。元より男連れである。大して仲良くもない女と、時間をかけてまで話を続ける理由もないだろう。

 

「それじゃあね? 今度時間がある時にでもゆっくりお話ししようよ」

「楽しみにしてます。雪ノ下先輩も文化祭とステージ、楽しんでください」

「忘れてないよー? 大丈夫!」

 

 ひらひらと手を振りながら、陽乃は去って行った。

 

 無言を貫いた八幡はなるべく視線を合わせないようにしていたが、すれ違う一瞬、いろはと視線が合った。視線と表情だけでどれ程の思いが伝わるのか。いろはは小さく笑みを浮かべた。声は出さなかったが、声をつけるとしたら『へー』とでもなっただろう。普段最上級生である八幡が『犬』になっているのを揶揄した表情だったが、その思いはしっかりと八幡に伝わったらしい。

 

 顔を逸らした八幡の顔は先ほどにも増して苦り切っていた。陽乃に引きずられるようにして遠くなっていく八幡の背中が見えなくなると、いろはは声を出してガッツポーズをする。普段の色々に対して仕返しをした。後で何を言われるかは知ったことではないが、とにかく今は気分が良い。文化祭の準備のために色々苦労もしたが、今の一瞬で十分に元が取れた気がする。委員長にもなってみるものだ。

 

「それじゃあ、仕事に戻りましょうか」

 

 しれっと隣に戻ってきた副委員長にも、大らかな気持ちで接することができた。首にチョップを決められぐえとうめき声を上げる副委員長を放って、いろはは仕事に戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 八幡が陽乃から解放されたのは彼女のステージが始まる30分前だった。陽乃は体育館に向かいこれからステージに立つ訳で、途中で合流しためぐりもそれに着いて行った。陽乃のソロステージかと思っていたのだが、めぐりと二人でやるらしい。微妙に疎外感を憶えないでもないが、慣れないギターの練習を死ぬ程やらされないだけマシだったと前向きに考えることにした。

 

 絶対に見に来るなと言われているので、万が一にも体育館の音が聞こえないような場所――一番離れた校舎の屋上まで避難してきた。聞かないだけならば帰れば良いのだが、この後身内だけの打ち上げが行われるためそうもいかない。実行委員会主催のものではなく完全な身内だけの集まりなのだ。陽乃、八幡、めぐりに静。完全に前の生徒会のメンバーである。

 

 打ち上げとは言うが、自分が巻き込まれた時の文化祭と比べると何もしていないと言っても良いくらい働いていない。陽乃に至っては集まりに顔を出して資料を見て、これからステージで歌うだけだ。女王様もそれは理解しているから学校の方の打ち上げには参加しないのだろう。単純に大して仲良くもない人間と顔を合わせたくないだけの可能性の方が高いが、それは言わぬが華である。

 

 フェンスに寄りかかりながら、ぼーっと校庭を眺める。

 

 陽乃がいる体育館ではステージが行われているが、その間最後のイベントであるキャンプファイヤーの詰めが行われている。

 

 ステージも華であるが、個人の思いで作りとなればキャンプファイヤーに軍配があがるだろう。既に恋人がいる生徒、これから恋人を作りたい生徒、参加したい人間の思惑は様々だが、伝統的にそうだとされているのだから人間が思う普遍的な『良い雰囲気』というのがキャンプファイヤーにはあるのだろう。

 

 実際、これを機にカップルになりましたという人間は八幡の世代にも多い……らしい。興味は全くなかったがアンケートではそういうことになっていたので、知識としては知っている。

 

 今年もリア充たちがあの炎を囲んで踊るのだろう。そう思うと自分に合わな過ぎて吐き気がしてくるが、燃える炎を一人でただぼんやりと眺めるのも、それはそれで趣がある。どの道、陽乃がフリーになって彼女の打ち上げに呼ばれるまでは自由時間だ。ここで一人、遠くから炎を眺めるのも悪くはない――

 

「絶対ここだと思いましたよ」

 

 ――はずだったのだが、聞こえた自分以外の声に八幡は深々と溜息を吐いた。予め用意しておいたそいつの分の缶コーヒーを差し出すと、ててと駆けよってきたその女生徒はありがとうございまーすと、軽い口調で受け取る。来てほしくなかったが来る予感はしていた。人間良くない予感は当たるものだ。

 

 蓋を開け、ちびちびとコーヒーを飲みながらキャンプファイヤーの炎を眺める女生徒の横顔を見る。美人の部類には入るのだろう。少なくともクラスの中ではイケている部類に入るに違いない。陽乃は元より雪乃ほどに美少女度は高くないが、結衣同様に自分の容姿を最大限活かそうという年頃の女子らしい努力が端々に垣間見える。

 

 ぱっと見はリア充側だ。事実彼女はリア充のグループに属しており、それなりに人望もある。だが八幡の目を引くのは何よりその眼だった。切れ長の瞳のその奥には、どんよりと濁った黒々としたものが渦巻いている。比企谷八幡はどういう訳かそれが一目で解る。それは女王様と同じ『ロクデナシ』の目だった。

 

 人物評価の恐ろしく辛い陽乃をして、現在総武高校に所属する生徒の中で唯一、雪乃以外に天才と言わせしめたのがこの女だ。希少性で言えば自分よりも遥かに価値のあるこの女のことが八幡はあまり好きではなかったが、今回のことはこの女がいなければ成しえなかったし、大きく見れば自分と同じグループに所属する人間なので無下にもできない。

 

 一年とは言え年長者なのだから仕事を果たした人間には労いの言葉くらいはかけなければならないだろう。うん、と小さく咳払いをすると女生徒は待ってましたという表情で顔を上げた。

 

 文化祭実行委員会、サボり組の先導者で扇動者。陽乃閥の隠れた幹部で八幡にとっては真の意味での最初の後輩。一色いろはよりも遥かに可愛げがなく鬱陶しいだけのその女――相模南の顔を見返しながら、八幡はどうしてこんな面倒臭いことになったのかと、過去に思いを馳せた。

 

 

 

 

 

 

 



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要するに、事の真相はこういうことだ

 

 

 

 

 一言で言うならば、相模南は謀反を企てそれを実行する前に捕まった。計画が漏れたということは100%ありえない。何故なら彼女は心中で考えただけだ。具体的なことにはまだ何も手をつけていなかったのに捕まった時の一連の出来事は、彼女の人生の中で最も衝撃的なこととして記憶される。

 

 中学3年の時に見た総武高校の学園祭。その会場でただ歩いていた雪ノ下陽乃に目を奪われた。リア充の中のリア充。キラキラ輝くこの女の所属する集団をぶっ壊してやりたい。そんな手前勝手な欲望が当時中学生の南を突き動かした。

 

 そのために少しだけ努力もした。総武高校は当時の南の学力では少しだけ厳しかったのだ。三年の二学期になってから志望校を変えることは聊か急ではあったものの、南の決意が固いと知ると家族も担任も喜んでくれた。

 

 その甲斐あってか、高校には何とか合格することができた。欲望に突き動かされると人間というのは強いのである。真新しい制服に身を包み、さてあのリア充をどうしてくれようと思った、高校生活二日目のことだ。

 

『そこのロクデナシ、ちょっと付き合ってくれ』

 

 やたら目つきの悪い上級生に引きずられるようにして、当時はまだ本人たちも生徒会室と呼んでいた部屋に連れ込まれてしまった。そこで待っていたのは雪ノ下陽乃。南が謀反を企てた女だ。てっきりこの女王様が目つきの悪いチンピラを使って自分を拉致したのかしらと思えば、その女王様も自分を見て目を丸くしていた。

 

 チンピラの単独行動であると理解した南は、腕を掴まれたまま彼を見上げた。身長は高くない。顔は整っていると言っても良いのだろうが、誰に聞いても悪いと答えるだろう目つきが全てを台無しにしていた。それでもまぁまぁ美形と思える辺り、目つきだけで相当損していることが伺える。

 

 南の評価ではアリだが、多少ナシに偏った風に意見が分かれるタイプの面構えだ。

 

 何故一年生を引きずってきたと問うた女王様に、アリなチンピラは平然と答える。

 

『いや、ロクデナシが目の前を歩いていたので……』

 

 何て横暴なチンピラだろうか。何もしてない女子高生を捕まえてロクデナシとは。自分はただ、雪ノ下陽乃に何となくムカついたから高校生活をメチャクチャにしてやろうと思ってそれを実行しようとしただけなのに……

 

 と遠回しに全てを告白した南に対する女王様からの判決は『有罪』だった。審議も何もない。当然控訴も上告もない。灰色を通り越して真っ黒な高校生活が確定しつつあることを悟った南は、あっさりと白旗を上げた。

 

 元より陽乃を何とかしてやりたいと思っていたのも何となくというふわっとした理由からである。自分の高校生活を対価にしてまでやるようなことでもない。

 

 そうして自分の生い立ちから特技から全てを女王様の前で詳らかにすると、女王様は目を輝かせて喜んでくれた。目の前の人間が自分を陥れようとしていたことなどどうでも良いとばかりに、貴女には才能があると褒めちぎってくれたのだ。

 

 女王様が褒める程のものだろうかと、南は首を傾げる。南の得意技は集団を堕落させることだ。人数が多い程良くカリスマ的なまとめ役がいないならば朝飯前だが、それだけだ。

 

 良い方向に導くことはできないし、他人と仕事を共有できないからある程度の時間がかかる。自分がやったと手が伸びてこないだろうことが良い所と言えばそうなのだが、精々憂さ晴らし程度にしか使えないというのが南の認識だったが、女王様はそうではなかった。

 

 あれよあれよという間に南は女王様の子分にされてしまったが、性質の問題から表ざたにはできないとも言われた。とりあえず良い思いはさせてやると言質が取れただけマシではあったのだろう。必要な時にこっそりと呼びされて言われた通りのことをするのがその日から南の仕事になった。

 

 それから特に何をした、と言う程働いた訳ではない。女王様に敵対的な委員会なり集団に潜りこんで適当に不和を起こした程度だ。それも十分仕事だと女王様は褒めてくれるが、殺人的な仕事量をこなしていた八幡などと比べると自分のだらしなさに優越感(・・・)に浸ってしまうのだ。

 

 その上陽乃閥としては対外的には認識されていないため、相模南はフリーとなっている。

 

 陽乃本人は元より、八幡やめぐりとも極力接触を避ける徹底っぷりであり、影の幹部というのはそういうことだ。陽乃などはこっそり外で交流を続けているようだが、波長が合わないという理由で八幡は自分の方からも接触を避けている。

 

 初めてできた後輩ということもあり、その距離感に戸惑っていたのだ。

 

 その距離感が逆に作用したのだろう。南は逆に八幡に対しては距離を詰めてきた。隠れた幹部であるので派閥内でやり取りをするのは幹部のみだ。陽乃が卒業した今、在校生の中では八幡とめぐりだけとなっている。めぐりも決して南と仲が悪い訳ではないらしいが、懐いている人間とそうでもない人間の二択であれば、南がどちらに寄りつくのかは自明の理だった。

 

 今の環境に合わせて表現するなら試作型一色いろはとでもなるのだろう。世間では試作型の方が性能が高いことも多いらしいが、総合力で言えば明らかにいろはの方が上というのが八幡の認識だった。

 

 では需要がいろはの方が多いかと言えば、陽乃にとってはそうではなかった。いろはができることで陽乃ができないことはほとんどないが、こと『集団を堕落させる』という行為において南は陽乃に勝る手腕を持っている。そのせいで陽乃の予測を上回る形でトラブルが起こることもあるが、そういう時が八幡たちの出番だ。

 

「途中やり過ぎてたよな。逆転できるか俺も少し心配になった」

 

 これは混沌とした委員会をいろはがまとめ上げ、文化祭を成功に導くというシナリオのデキレースだ。南の仕事はそのお膳立てだった訳だが、手が入り過ぎて進行具合が予定よりも更に遅れてしまった。挽回できなければ選挙戦におけるいろはの加点にはなりにくいし、南に失点がついて目立ってしまう。南のようなタイプは目立たなければこそだ。いろはのことは最悪来年に回せばよいものの、一度フォローできない形で目立ってしまうとそれを取り消すのに時間がかかる。

 

 それは陽乃としては面白くない。幸い、八幡やめぐりが手を回せば挽回可能なレベルであったため、影に日向に手を回してどうにかまともな文化祭開催にこぎつけた訳だ。試す機会が少なかったために南本人でさえ目測を誤るのが玉に瑕である。

 

 とは言え、それも言葉を選べば期待以上ということだ。何とか文化祭も開催されたことで陽乃はご満悦であり、南の働きにも大変満足していた。今回の功労者は間違いなく相模南と言って良いだろう。

 

 その事実は八幡も良く認識していた。にこにこと微笑む南を前にどういう言葉をかければ良いのかも良く解っていた。南もそれを期待して待っている。その顔がぶん殴ってやりたいくらいにムカつくが、その時々に良識的な振る舞いをするのが人間というものだ。

 

 性根がひん曲がっていることを認識しつつも最低限の礼節と貸し借りくらいは理解してると自認している八幡は、

 

「まぁ、その、あれだ……………………よくやったな」

 

 心底嫌そうな顔でぼそりと呟いたが、それだけのことでも南を満足させるには十分だった。接触を避けているだけあって、八幡と直接言葉を交わす機会は少ない。まして褒められたことなど南の記憶では一回もなかった。その八幡が自発的に褒めたのだ。これはもう南的には大勝利である。

 

 いえす! と小さくガッツポーズをして、物凄い速度でスマホをいじり始める。今の喜びを友達にでも知らせているのだろう。委員会には事情を知っている人間が二人送り込まれており、南の取り巻きと周囲に目されているのがそれだ。

 

 南を影の幹部とするなら彼女らは影の構成員である。南ほどではないがロクデナシとつるんでいるだけあって、あの二人も大概に頭がおかしい……らしい。好んで交流を持っていない八幡は知らないが。

 

「それにしても結構やりますよね、あのいろはすちゃん。流石城廻先輩のイチオシですね」

「あいつの立場だと心苦しいだろうけどな」

 

 元々の予定ではめぐりは自分で集めた生徒の中から後継を選ぶつもりだった。陽乃からみれば取るに足らない人間だったろうが、めぐりにすれば自分で選び一緒に仕事をした仲だ。情もあるし、信頼もある。

 

 だがそこでめぐりに予定外のことが起こってしまった。年度が変わってすぐに一色いろはが現れたのだ。めぐりはいろはを一目見て次に会長になるべきはこの娘だと直感した。使ってみれば能力もある。陽乃ほどではないが見た目に華もあった。きちんと実績があり選挙をやれば、間違いなく彼女が勝つだろう。

 

 しかし、めぐりは既に後継者を表明してしまっていた。めぐりの性格上それを撤回することはできない。早めにそれを言っておかないと不和が生まれそうだったために執行部の会議で『いろはを後継者として指名することはできない』と改めて念を押した。

 

 それで表面上の問題は解決したが、根本的な問題を解決するだけの力がめぐりにはなかった。

 

 困っためぐりは先輩であり自分のボスでもある陽乃を頼った。いろはを次の会長にしたいのだが、個人的な事情でそうすることができない。ついては協力をお願いしたい。

 

 めぐりの願望を聞いた陽乃は早速動きだした。めぐりがいろはを助けるという名目で奉仕部に依頼を出し、その裏で個人的に八幡が協力する。八幡以外の奉仕部といろは本人は依頼の通りの理由で動いているが、八幡だけはめぐり個人の依頼でも動いていたのだ。

 

 文化祭を使っていろはの株を上げ、指名を受けずに自力で会長の椅子をもぎ取ってもらう作戦である。成功しても指名を受けた上で負けてしまった生徒といろはの間に心情的な遺恨は残ろうが、それを飲みこんで仕事をするようにと話し合いはついている。

 

 それでも不安は残るが何も問題が起こらなければいろはは二年会長を続投する。対して現状指名を受けた生徒は二年のため、長くても一年で役員を退く。真に好き放題やるのはその後と、いろはには我慢してもらうより他はない。

 

 こういう事情で動いていたと正確に知っているのは少数のだけだ。実際には姫菜辺りは勘付いているかもしれないが、口に出すような無粋な真似はしないだろうと八幡は踏んでいる。あれはあれで『ロクデナシ』の部類だ。その方が面白いと感じ取れば邪魔はしてこない。

 

「これで会長戦は問題ないと思うか?」

「大丈夫じゃないですか? 明日選挙をやってもいろはすちゃん勝てると思いますよ。なんだったら私がもう一肌脱ぐつもりでいましたけど、その必要もないみたいですし」

 

 こともなげに南は言う。めぐりの後継者の生徒は、南の隣のクラスなのだ。早目に指名されたこともあってクラスはその生徒を押し上げる雰囲気でまとまっているが、既に風がいろはに吹き始めていることは感じているだろう。その生徒には何も落ち度がないだけに、若干ではあるが心苦しくも思う。

 

「不安の虫に苛まれてる時が一番動かしやすいんですよね。私の本分とは別の方向ですけど」

「そういう扇動は陽乃の得意分野なんだよな……お前でもできるならいざとなったら任せるが」

「できれば手を出したくないですね。妹さんが陽乃さんくらいアレな人だったら良かったんですが」

「あれでデキる奴だぞ。姉と比較してるせいか自己評価はすげー低いけど」

 

 是非雪乃を、という意見は派閥内でもちらほらと散見された。派閥を維持し続けるのには中心となる人物が必要となる。陽乃が作ったコネクションだけあって彼女が卒業してしまった今当時と比べると勢力は衰えてきている。幹部ポジションである八幡とめぐりがいるからこの程度で済んでいるが、これで二人も卒業してしまえば事実上の自然消滅は目に見えていた。

 

 影響力が及ばなくなるというのも陽乃にとっては小さな問題であるが、構成員にとっては地味に深刻な問題だ。今は卒業後も母校で大きな顔ができるかどうかの瀬戸際が今なのだ。卒業すれば関係を切るつもりの非リア充であればまだしもリア充系の連中にとって後輩へのパイプの太さというのは直近の生活の豊かさに直結する問題なのだ。

 

 あの手この手の試みを行った形跡はあるがいずれも失敗している。そも、陽乃や八幡、めぐりの同意なしに核となる人間を選べるはずもないのだ。雪乃が拒否し直系のめぐりが自身の係累にイケてない感じの人間を選んだ段階で、いよいよ派閥も最後かとお通夜ムードが漂い始めた。

 

 そこに現れたのが一色いろはだ。

 

 めぐりの指名を受けていない傍系の人間であるものの、めぐりの子分である以上一味ではある。何よりいろはは見た目にリア充系であり、直系のめぐりよりも遥かに陽乃を彷彿とさせる雰囲気だった。陽乃に比べれば力不足であることは否めないものの、候補者すらいなかった所に現れた、まさに救世主である。

 

 派閥の構成員にとっては他の選択肢などあるはずもない。宙ぶらりんになっていた浮動票は獲得したも同然。雪乃が立候補する番狂わせでもない限り、彼らはいろはを支持するだろう。

 

「さて。先輩の嫌がる顔も見れたんで私はもう行きますね」

「気を使ってもらえて助かる」

 

 できれば顔を合わせるのも精神的には避けたいのだ。苦手オーラをはっきりと出していると認識しながら苦手な相手と話すのも、精神的にかなり疲れる。それでも会いに来たのは、南なりの嫌がらせなのだろう。陽乃や姫菜程ではないが相模南も十分にロクデナシだ。

 

「陽乃さんのステージには行かないんですよね?」

「来るなって言われたし見るなとも言われたからな」

 

 動画くらいは出回るだろうが率先して探さなければ見る機会もないだろう。来るな見るなというのは照れ隠しの一種ではあろうが、振りではなく純度100%の本気である。どういう事情であれそれを見てしまったら冗談抜きで命が危ない。

 

 奉仕部の面々にも具体的な情報は寄越すなと言ってあるのだが、さっきから爆発しろという趣旨の奉仕部ラインが煩くて仕方がない。一体どんなステージなのか興味はつきないものの、それを自発的に知るイコール即ち死だ。比企谷八幡はまだ死にたくないのだ。

 

「まぁ私は後で友達から動画を見せてもらうんですけど」

「さっさと失せろロクデナシ」

 

 間違っても奉仕部の面々にはかけない強い言葉にも、南はびくともしない。二人の間ではこれくらいの距離感が定着していた。距離が近くて鬱陶しいと思うが、本当に駄目な所までは南も踏み込んでこない。空気はむしろ読める方だ。これだけは八幡も見習いたいところではあった。

 

 だからと言って仲良くしたい訳ではないのだが。これでしばらくは顔を見なくても済むだろうと、安堵の溜息を漏らしながら、八幡の頭は文化祭から選挙戦へと切り替わっていく。

 

 いろはからの依頼はまだ継続している。文化祭が終わり、むしろ本番はこれからだ。委員長となったいろははまだ後始末に忙しいだろうが、それが終わったら本格的に選挙戦の準備に乗りださなければならない。

 

 間に二年の修学旅行が入るのが若干痛いが、奉仕部には二年がいないしいろはも一年のため関係がない。むしろ対立候補の二年が一年と三年にアピールできる時間が減ると思えば、一年のいろはに有利な状況とも言える。勝利を盤石なものにするためにしなければならないことは山ほどあるのだが……

 

 考えつつも、八幡は少なくとも選挙戦については楽観的に構えていた。文化祭で顔と名前をこれでもかと売ることができた。この時点で、いろはの勝利は九割方確定していた。

 

 

 

  

 

 

 

 




ちなみにはるのんは自分で作詞作曲したエブリデイワールドをめぐりんの伴奏で一緒に歌ってました。中原麻衣&浅倉杏美verとか聞いてみたいです。


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知らないところで、組織の網は張り巡らされる

 

 小さな諸々のトラブルはあったが、一色いろは主導による文化祭は小成功の内に幕を閉じた。雪ノ下陽乃が主導した文化祭には及ばなかったものの、動員数は去年の物を超えぶっちぎりの動員数を記録した一昨年に次ぐ規模となった。陽乃回を殿堂入りとするのであれば、実質的なトップである。

 

 調べないと解らないようなその情報を、八幡はしっかりと宣伝させた。陽乃閥のネットワークを使い、三年から一年、ついでに教職員にまでその情報を流したのである。勿論、それが一年で実行委員長を務めたいろはの功績であると付け加えるのも忘れていない。いろはの名前を宣伝するためのイベントとして、文化祭は大成功したと言える。

 

 唯一の懸念は南との間のトラブルだ。学年の違う人間とのトラブルは後を引くと面倒であるが、両方が身内であればどうとでもなる。いろはは生きた心地がしなかっただろうが、片八百長が成立しているのであれば事態の収拾は容易である。万が一いろは憎しと考える人間が煙を立てようとしても、南本人がどうでも良いと思っているのだから、炎が出るまでには至らない。

 

 公式にも、南は体育祭の実行委員長を務めることで下げた評価を元に戻すことに成功している。妙に手回しが良いと思ったが、これはめぐりの仕業だったと八幡は後で知った。文化祭で泥を被ることに対するめぐりが用意した報酬がこれであるという。南は別にいらないと固辞したらしいが、こういう時のめぐりは梃でも動かない。

 

 結局、南が根負けする形でめぐりからの報酬を受け入れることにしたらしい。南の精神的には、めぐりに貸しが一つである。南の希望というよりもめぐりの希望の通りに南は体育祭の委員長に就任し小成功を収めた。文化祭がなければ成功の前についた単語は一つか二つグレードが上がっていただろう。隠れているとは言え幹部扱いなだけあって、南も中々良い仕事をするものだと八幡は内心で感心していた。

 

 その二つのイベントが終われば、次のイベントは生徒会選挙である。ほとんどの生徒に主体性のないイベントだが、会長の座を狙う人間にとってはそうでもない。尤も近年は生徒会活動に興味を持つ人間は少なく、前の生徒会長の指名を受けた信任投票の面が大きかった。

 

 風向きが変わったのは陽乃が立候補した年である。前年の会長から指名を受けた立候補者を圧倒的得票で敗北させた彼女の印象は当時の生徒にも強く残っていたらしく、めぐりが立候補した年は陽乃が後継指名をしなかったこともあって、めぐり以外にも複数の立候補者が立った。

 

 めぐりが当選できるか当時の八幡はそれなりに心配していたのだが、陽乃は『めぐりなら大丈夫』と確信に近いものがあったらしい。放任主義に見えて身内には甘い陽乃のことだ。本当にダメなようであれば裏から手を回すつもりでいたのだろうと今ならば解るが、結局めぐりは表立った陽乃の力を借りずに自力で会長の椅子をもぎ取った。

 

 そのめぐりは、自分のところのスタッフの二年を後継者に指名した。めぐり政権ができた時からのスタッフで政権発足前からの知人であるらしい。八幡と陽乃にその人物と交流はない。会話らしい会話をした記憶もなく、個人としては精々顔と名前が一致しているくらいで興味は全くと言って良いほどない。

 

 何もなければ八幡とは一生関わり合いにならなかった存在だが、いろはが話を奉仕部に持ち込んできたことによって事情が変わった。敵対する人間に興味なしという訳にはいかないからだ。めぐりを経由せずに少しずつ情報を集め相手のことを分析してみた結果、八幡が出した結論はめぐりと同じだった。

 

 これならいろはが会長になった方が何倍も良い。めぐりと一緒に働いていたのだ、無能という訳ではないのは八幡にも解るのだが、何の情報もない状況でどちらに投票するかと言われたら、八幡は間違いなくいろはに投票するという確信があった。おそらく陽乃も同じことを言うはずである。

 

 力不足を一番実感しているのは、当の候補者だろう。戦っても勝てないと解っているのに、戦わない訳にはいかない。めぐりのスタッフとしての誇りがきっとあるのだ。それがいろはにないとはあちらも思っていないはずだ。めぐり政権のスタッフの関係は、誰に聞いても良好という答えが返ってきている。それはめぐりの努力の賜物であるし、スタッフの努力の賜物だ。

 

 最終的にそれしかないとなればめぐりも戦うことを躊躇わないが、はっきりと好戦的な陽乃やどちらかと言えば主戦派の八幡と異なり、めぐりは対話とか調和を重んじるタイプだ。闘争によって幕引きを図るというのはめぐりにとっては甚だ不本意な結果ではあるのだろうが、当事者二人はきっとこの状況を楽しんでいる。

 

 所属しているチームが違うだけで、一丸になって事に当たっているのは間違いない。本当に不本意であればいくらめぐりの頼みとは言え、負けた相手に膝を屈するのを由とはしないだろう。めぐりが腐心して生み出した調和は意味のあるものだった。そのことを八幡は友人として――恥ずかしいので口に出しては絶対に言わないが、とても誇らしいと思う。

 

 生徒会選挙もめぐりチームの一騎打ちとなれば恰好もついたのだろうが、去年と同様本命以外にも複数の候補者が出た。締め切りまでに届け出があったのはいろはを含めて実に五人。予定外の人間が三人も出てきてしまった。リストに目を通したが記憶の片隅にもひっかかっていない名前に、八幡はひっそりと溜息を漏らした。

 

 記念立候補程度のつもりなら面倒が増えるだけなのでやめてほしいのだが、正式に書類が受理されてしまった以上本人からの辞退がないと不出馬は認められない。一応、油断せずに情報を集めたが、立候補者は全員二年であったため、奉仕部には知っている人間がおらず、念のため葉山チームにも伺いを立ててみたが、彼らからも知らないという返事があった。当然いろはも聞いたことがないという。

 

 めぐりに聞きにくいためしょうがないので南に聞いてみた所、比較的交友関係の広い南でも辛うじて知っているというレベルで会話したこともないというレベルだった。勉学でもスポーツでも芸術でも特に秀でているという情報はない。見た目も中の域を出ない。慎重に検討を重ねては見たが、どうひいき目に言葉を使っても彼らは所謂泡沫候補だと判断せざるを得なかった。

 

 念のために奉仕部の面々といろはにも意見を聞いたが、結衣以外は全員一致で無視してよし、というものだった。本命候補の二つが何か致命的な失策でも犯さない限り、泡沫候補に逆転の目はないだろうし、調べた限りではそれを何とかしようという熱意も意欲もなさそうである。記念受験ならぬ記念立候補といった所か。

 

「でも、能ある鷹はー、ほら、えーと…………何とかってことない?」

「隠そうと思って隠せるような爪なら、それは大したことはない物なのよ由比ヶ浜さん」

 

 結衣の言葉を雪乃が補足するが、まさか続く言葉を知らないのではあるまいなと怖い考えが八幡の脳裏に持ち上がる。部室を見回せばあははと笑う結衣に他の全員が小さな苦笑を浮かべていた。物を知らないことを一種の愛嬌で済ませることができるのは結衣の持つ才能である。これは逆立ちしても八幡が手に入れることのできないものだし、陽乃にもないものだ。

 

 だからこそ陽乃は結衣と波長が合わないのかもな、と八幡は心中で考えた。相変わらず結衣の話をすると陽乃の機嫌は急降下するのだ。感情を制御することに長けた陽乃にしては珍しい燻りっぷりであるが、これを突くとロクなことにならないことは恋人である八幡は良く知っている。

 

 排除しようと攻撃しないだけ、手加減はしているのだろう。事故の一件がなければそれなりに仲良くなれたかもと思うとやるせないが、そうならなかったのが現実である。問題を起こさないように陽乃が立ちまわっている以上八幡としては軌道修正をするべきではない。なるようになるだろうといういつも通りの結論を出して、八幡は思考を選挙戦に切り替えた。

 

「大人が行く普通の選挙と学校の選挙、何が違うか答えてみろ」

 

 八幡が全員に問うと、結衣を除く全員が一斉に手を挙げた。妙にやる気な面々と、私だけ!? と困惑する結衣の対比に苦笑を浮かべつつ、それじゃあ一番右からと最初にいろはを指名する。

 

「はい。投票率が100%に近いことです!」

「まぁ学校行事の一環なんだから当然だよな」

 

 100%そのものではなくあくまで近いなのは、当日に病欠や法事などで出席していない生徒が一人二人はいるからだ。実際の選挙のように期日前投票というシステムもあるにはあるが利用する生徒はここ10年の間に一人もいない。生徒会選挙は平日に学校行事の一環として行われるため、当日予定があると見越すことはサボりの宣言に等しい。校外のイベントに学校の代表として出席する際には公欠という形で出席日数が補填されるが、少なくともここ十年、生徒会選挙に合わせてそういうイベントが行われたことはない。

 

「それじゃあ次は川崎」

「選挙演説を確実に聞いてもらえることです」

 

 当日には立候補者と推薦者の二名による演説が全校生徒を前にして行われる。投票はその後のため、立候補者の顔も知らないで投票するという事態は防げる訳だ。実際にきちんと話を聞いて訴える内容を理解しているかはまた別の話であるが、少なくともその機会が設けられているというのは実際の選挙と明確に違うところと言えるだろう。自分が投票した人間がどういう主義主張をしているのかも知らないなど、よくある話だ。

 

「海老名はどうだ?」

「規定が緩いことですね。悪いことやり放題ですよ。八幡先輩の得意技じゃありませんか?」

「前半は同意見だが後半はノーコメントだな」

 

 選挙規定も一応存在するが、たかが学校の選挙と作った人間が思っていたのか実際の選挙に比べると制限も罰則も恐ろしく緩い。何しろワイロに関する規定が全くない。金持ちが立候補したらそれこそ全校生徒に金をばらまくだけで得票できてしまうシステムだ。

 

 実際にそこまで大がかりなことをすれば教師陣からクレームが入るだろうが、実弾がまずいならばそれ以外のことをするだけだ。怒られるだけで済むのならやらない手はない。陽乃の選挙の時は八幡はまだ一味ではなかったが手を出すまでもなかったと陽乃から聞いている。

 

 だが陽乃ならば、必要に迫られれば躊躇なくそういうことにも手を出すはずだ。清廉潔白に見せることの方が効率的だからそうしているだけで、不正行為に大した罰則もないのであれば手を出さない理由はない。

 

「雪乃は?」

「年長者が立候補できないことかしら」

 

 会長の任期は最長一年であり、その途中に在学生でなくなる見込みの者、具体的には三年生の立候補が校則として制限されている。選挙権はあるが被選挙権はない訳だ。実際のケースでそういうことは儘あるものの、年長者に対してそれが適当とされるケースは皆無に近い。何しろ新会長の任期の後半、彼らは学校にいないのだ。自分たちが卒業した後のことであるだけに投げやりな気分でいる生徒も多い。

 

「由比ヶ浜は何かあるか?」

「私も!?」

 

 手を挙げなかったのに指名されたことに、結衣は困惑する。あわあわと周囲を見るが、皆期待した目を向けるだけで助け舟を出してくれそうにない。何か言わないと収まらないということを、結衣はリア充側の感性で敏感に感じ取っていた。

 

 とは言え、言うべきことを思いつかなかったから手を挙げなかったのである。それなのに指名するなんて……と結衣の中には八幡に対する小さな文句がぐおぐおと渦巻いていたが、それを口にするよりもまず、質問に対する答えだ。指名された以上、何もないとは言えない。あまり良くないと自覚している頭を捻って十秒少々考えた結衣は、全くもって自信のなさそうな顔で答えた。

 

「任期が一年ってとこ…………かな?」

 

 結衣の答えに八幡は小さく感嘆の息を漏らした。答えが返ってくるとは思ってもみなかったのだ。しかもちゃんと正解していることに、普段一緒にいる姫菜などは軽く感動していた。

 

 選挙で選出される仕事は概ね任期が定められている。法律によっては終身制ということもあるが、任期を短く区切るということは早々ない。組織の代表は最長でも一年しか在任しないと考えると、いかに一年という任期が短いのか理解できるというものだ。

 

 とは言うものの、高校生活の三年を人間の一生ととらえるのならば、その三分の一を政治に費やすというのは、短くないと言えるかもしれない。内申点が良くなるなどのご褒美があってさえ、なおなり手がいない年があることを考えると、普段はどれだけ人気のない仕事なのか解るというものだ。

 

「流石由比ヶ浜は賢いな。花マルをやろう」

「え、ほんと?」

 

 文句があったことも忘れて、結衣は手放して喜んだ。その表裏のなさに癒されつつ、結衣も含めて全員が選挙戦がどういうものかある程度理解しているのを確認した八幡は、それ以外のことを確認することにした。

 

「そんな訳で選挙戦が始まってる訳だが、状況はどうだ?」

 

 今回はめぐりの助力を表面上(・・・)は得ることができない。無論八幡は水面下で繋がりを維持していたがそれを知らせることのできる人間は限られている。奉仕部の面々でも知っているのはいろはを助けてほしいという依頼を受けたところまでで、それ以降は少なくとも選挙に関する限りは音信不通であるという建前で動いている。

 

 そのため表面的な情報収集はめぐりを介さずに行われている。奉仕部においては交友範囲が比較的広い結衣と姫菜が生命線だ。部員は他にも二人いるがこちらは交友関係が狭いのと皆無に近いのであまり役に立っていない。特に沙希などあまりに手持無沙汰にしているものだから、別の仕事を頼んでしまった程だ。

 

 自分にもすることがあったことに沙希は尻尾を振って喜んだが、全く友達がいないと言っているに等しい二つ下の後輩の人生が、今から心配な八幡だった。

 

「一年は国際教養科以外は全クラス一色支持で固まってそうですね。いろはのクラスがかなり活動的に選挙活動をしてるようです」

「うちのクラスにも来たよー。一年で会長っておもしろいよね、って投票する子多いかな」

 

 軽い情報収集であるが、それでも雰囲気だけは解る。誰が誰にという詳しい動向を得られるのが理想だが、学校の選挙戦であればこれくらいで十分だろう。国際教養科まで含めて1クラスの人数は同じだから、全てのクラスの有利不利が解れば、現時点での得票数をざっくりと予想することができる。

 

国際教養科(そっち)はどうだ?」

「こっちも一色一択ね。私が応援しているというのが大きいと思うわ」

「相変わらず人気者なようで何よりだよ」

 

 人気者の意向というのは無視できるものではない。まして一年の国際教養科は、雪乃の一党独裁と言っても過言ではないクラスだ。その雪乃が部活の一環とは言え早期にいろはの支持を表明したのだ。特に強い政治思想を持っているのでなければ、彼女のクラスメートは追従してくるというのは事前に八幡には予想できたことだった。

 

「三年の情勢はどうなの?」

「俺に聞くなよ、と言いたいところではあるがさすがに今回は俺も足を動かした。知ってそうな連中に片っ端から声をかけてきたよ」

 

 めぐりであれば一人に声をかければ済んだ所を、慣れない八幡は聞く人間が増えてしまった。三年の情勢はいろはと対立候補で7:3といったところだ。投票日一週間前で、しかも三年相手にこれなのだから大分いろは有利と言える。

 

「後は二年だけどね……」

「こればっかりはしょうがないね」

 

 姫菜と結衣が暗い表情を見せる。交友範囲が広い彼女らも二年の知り合いは少ないのだ。部活に所属していればその先輩を頼るということもできるのだが、奉仕部は三年一人に残りが一年という歪な構造をしているため、それに頼ることもできない。

 

 項垂れる後輩たちを後目に、しかし八幡は全く慌ててはいなかった。めぐりが内通者である以上、派閥の力は普通に機能している。普段と異なるルートを使わざるを得ないために時間がかかるだけで、知ろうと思ったことは問題なく知れるのだ。

 

 今回主に足を使ったのは南である。彼女が調べた範囲では二年は三年とは逆に2:8でいろはの不利という状況だった。流石に対立候補のホームグラウンドである。めぐりの選挙活動がうまくいっていることの証明でもあった。相手にとって不足はないとでも言ってやるとめぐりは喜ぶのだろうが、陽乃がこの場にいれば八幡と同じことを考えただろう。

 

 これは楽勝だ。

 

 よほどのアクシデントがふりかからない限り、自分たちの勝利は揺るがないと八幡は確信を持った。この時点で多数の支持を得ているという事前情報の助けもあるが、めぐり陣営にはない強みがいろは陣営にはある。それを理解しているのはこの場では自分だけだろうが……それを説明した所で有利不利に大した影響はないと、改めて説明するようなことはしなかった。

 

「それで先輩、ここから何をすれば良いんですか?」

「別に特別なことはしなくて良い。俺以外の部員を引き連れて、普通に選挙活動してこい」

「…………え、それだけですか?」

「ああそれだけだ」

「何かこう……秘策とかないんですか?」

「そういうのは負けてる人間がすることだ。事前調査で有利なんだから、二年に因縁をつけられないように気を付ければ、後は普通で良い」

 

 既に選挙活動は軌道に乗っている。奉仕部にいろはと同じクラスの人間はいないのにも関わらず、選挙活動に一年生の部員を貸してくれるとまで言っているのだ。援助をお願いしている八幡が大丈夫というのであれば、いろはの方はそれを信用するしかない。

 

 特に陽乃の妹であり国際教養科である雪乃の手を借りることができるのはいろはにとって大きい。一学年10クラス中、1クラスしかない国際教養科は普通科の生徒たちと壁がある。同じ学校の生徒という括りでは大きくみれば一緒であるが、特に国際教養科の生徒は普通科の生徒を同じ学校の生徒と思っていない節がある。弱めの選民思想とで言えば良いのか。ともかく生徒会選挙についても、国際教養科から立候補者でもでない限りはどこ吹く風だ。

 

 しかし、雪乃はその国際教養科の生徒であり、しかもどういう訳か人気者である。雪乃の支持を得ることは、国際教養科の支持を得ることに等しい。実際その効果は既に現れており、浮動票と思われていた国際教養科の票は既に三学年分いろはに流れている。

 

 各学年1クラスしかないと考えると少数派だが、国際教養科全ての票を固めることができれば、それだけで全校生徒の一割の票を獲得したことになる。雪乃の協力はいろはにとってこの上なく力強いものだった。

 

 何もしないという訳ではない。奉仕部の人員を借りることができるとはいえ普通の選挙活動はするのだ。いろはにとってこれからが本番であり、ここで下手を打てばすぐにそっぽを向かれることも理解していた。八幡が言葉で言う程状況はいろはに優しいものではない。気を引き締めなければいけないのだが、八幡の提案はどこかいろはにとってしっくりこないものだった。

 

 とは言え、こういう状況を望んでいたのも事実である。めぐりについて奉仕部に依頼をしようと思った時、思い描いていた状況がここにあるのだ。情勢は自分有利に動いている。クラスどころか学年の支持を得ることもできている。奉仕部との関係も良好だ。注文を付けられるような状況ではない。ないのだが……

 

 それではどういう選挙活動をするのか。実際に活動する一年女子の間で話し合いが始まる。当事者であるいろははそこでも積極的に意見を出したが、その間ずっと八幡を視線で追っていた。選挙活動にしない八幡は、議論には参加せずに参考書に視線を落としていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 選挙活動に関する打ち合わせは順調に進み、八幡が関わらないまま無事に終了した。今は親睦を深めようという結衣の提案で、いろはは引きずられるようにして放課後の街に消えていった。雪乃や沙希もそれに同道している。雪乃は何だかんだで結衣に甘いし、沙希も最近は妹のけーちゃんに交友関係を心配されているせいで、時間が許す限り結衣や雪乃に付き合うことにしている。

 

 対して八幡は女子の集団とは距離を置いていた。一人だけ学年も性別も違うこともあるが、恋人がいてそれが誰かを知られているため、女子たちから誘われることは少ない。誘われればついていくこともあるが、交友を深めることに関してはあまり物怖じしない結衣でさえ、八幡に声をかける回数はあまり多くなかった。

 

 戸締りを引き受け先に女子全員を返した。奉仕部の部室に自分一人だけでいるこの時間を寂しいと思う程感傷的ではないが、疎外感は感じないでもない。

 

「女子会で親睦を深めるんじゃなかったのか?」

「いやいや。流石に一人は八幡先輩がかわいそうかなと思って」

 

 当たり前のように目の前に現れた姫菜は、それが当然という様に八幡の前の椅子に腰かけた。他に部員がいる時にはない距離感だ。沙希などが見ればその距離の近さにいらだちを覚えただろうが、めったにないことではあるが二人の時はこれくらいの距離感が普通だった。

 

 遠慮がないのは例えば雪乃も同じであるものの、姫菜のそれは系統が違った。八幡と雪乃と姫菜。陽乃や南もそうだが、共通点はパーソナルスペースが特殊で歪な形をしており、かつ広いということだ。雪乃はそれを理解しているからこそ無遠慮ではあっても踏み込んではこない。適度な距離感でもって相手を尊重する。自分がそうされたくはないからという防衛的な行動ではあるが、あれで他人を思いやる気持ちは強いのだ。

 

 では姫菜には他人を思いやる気持ちはないかと言えば、もちろんない(・・)。等しく他人に興味がないからこそ、大分余裕をもって距離を保つ。だが全く興味がないが故に、特殊な視点で相手を見ることができた。例えば自分と似たような性質を持った人間が、どういう踏み込み方をすれば拒絶しないのか。

 

 目の前の椅子に座っても八幡は無反応だった。それを確認した姫菜は満足そうに頷くと椅子をもって八幡の隣に移動する。これが他の人間であれば迷惑そうな顔をして椅子を移動させたはずだが、近くに寄ってきても八幡は気にも留めなかった。肩越しに参考書をのぞき込んでも、八幡は微動だにしない。

 

 耳にかかる息がこそばゆい。ちらと横目で見ると、整った顔と眼鏡の奥の濁った眼が見えた。

 

「文化祭が失敗しなかった時点で勝ち確だったんですね」

「二年以上はできれば一年じゃない方が良いだろうが、できる奴だって解るなら頼りになる方が良いだろうからな」

 

 一年と二年の候補者がいた場合、二年以上の有権者が二年の候補者を支持したがるのは心情的なものだ。いろはがデキる奴というイメージは実利的なもので、これはめぐりが推す候補者にはないものだった。リーダーシップを発揮したことがあるかないかというのは有権者にとっては解りやすい指標である。

 

 めぐりの元で一年経験をつんできた対立候補は経験という点ではいろはを上回るだろうが、集団のトップに立ったことはない。経験の差という点も見方を変えればいろはに軍配が上がるのだ。

 

「というか見ただけでいろは有利ってのは解りますもんね」

「ほう。どういう所がだ?」 

「だって、見た目が良いですもん。うちの学年で雪乃くんと美少女度で勝負できるの、いろはだけですよ」

 

 当たり前と言えば当たり前な理由だ。単純に一色いろはは美少女だ。雪乃がいなければ文句なく一年で一番だったろうその容姿は視覚的なアピールに十分である。立候補者の能力に多少の差しかないのであれば、自分たちの代表として仰ぎ見るのは見た目が良い人間の方が良いに決まっている。好き好んで不細工を仰ぎ見たい人間などいるはずもない。加えていろはには直近の文化祭での実績がある。その累積はそう敗れるものではなかった。

 

 めぐり側の候補者もべつに不細工という訳ではないが、いろはには遠く及ばない。人は見た目が九割という。政治的な主張にほとんどの生徒が興味を持っていない以上、最も効果的なアピールは数字に残る実績と目に見える要素である。容姿というのは非常に強力な武器だ。普段であれば女子受けをしないいろはの容姿性格は全校生徒の半分にマイナスに働くものの、文化祭の実績がそれを相殺しプラスに働かせている。

 

 後はそれがプラスに働いている内に勝負を決めれば良いだけの話だ。人間冷静になれば普段通りの感性が戻ってくる。一か月二か月もすれば女子受けしないといういろはのマイナス要素が無視できないレベルになってくるだろうが、その時にはいろはは会長の椅子に座っている。

 

 リコールしてまでいろはを引きずりおろす程の熱意は誰にもないだろうし、そもそもいろはからの依頼は選挙で勝つことまでだ。そこから先どうなるかなど八幡は知ったことではない。

 

「解ってると思うがあまりそういうことは言ってやるなよ。特に本人にはな」

「八幡先輩に言われると喜ぶと思いますけどね、いろはも」

「どうだろうな。美人かわいいなんて言われ慣れてるんじゃないか?」

「そうでもないと思いますよ。媚び媚びなところはありますけど、いつも男の子に囲まれてる訳じゃありませんし」

「じゃあどういう層狙ってるんだあいつは……」

 

 男受け前提のキャラなのだから、男に囲まれているものだと八幡は勝手に思っていた。学年も違うものだから普段のいろはというものを全く知らない。

 

「少しくらいは陽乃さん以外の女性にも興味を持った方が良いと思いますよ?」

「だからって一色はな……」

 

 八幡の女性の好みの最たるものが陽乃だとすれば、同系統であるいろははほとんど全てにおいて物足りなく見える。確かに掛け値なしの美少女ではあると思うが、八幡にとってはそれだけだ。

 

 興味がないとは言わないが、特別時間を割こうとは思えなかった。仕事が絡まないなら猶更だ。

 

 感触が良くないことが理解できた姫菜は、それじゃあと八幡の耳元に顔を寄せた。

 

「それなら私とかどうですか?」

「…………どういう願望を持とうが好きにすれば良いと思うが俺を巻き込まないでもらえるか。俺はまだ死にたくない」

「陽乃さんのこと気にしてます? 私なら大丈夫だと思いますよ。だって、八幡先輩が私に本気になることは、絶対にないですもん。陽乃さんもそれを解ってますから」

「絶対と来たか」

「です」

 

 俺は絶対なんて言葉は絶対に信じないが、という言葉が口を突いて出そうになったが止めた。自分が言う絶対よりも姫菜が言う絶対の方が価値がありそうだったからだ。とは言えここで姫菜の言葉に乗って彼女に手を出すような愚かな真似を八幡はしない。

 

 恋人を裏切ることはできないという真っ当な理由が一つ。もう一つは単純に海老名姫菜という少女が全く、これっぽっちも信用できなかったからだ。

 

「ありがたくもない申し出だが、遠慮させてもらう」

「理由を聞かせてもらっても良いですか?」

「お前、俺もろとも死んでやるのも面白そうとか考えそうだからな」

「……………………やっぱり八幡先輩と私は相性ばつぐんだと思うんですけどね。今なら安くしておきますよ? しましょうよ。無意味でチープで退廃的で生産性のないセックス」

「そういうのは売り時を見極めて高く売りつけてやれよ、俺以外の人間に」

「そうですね。もう少し脂が乗ってから売りつけることにしますよ。八幡先輩に」

「だからやめろって……」

 

 普段であればもう少し手前の所で引いてくれるのに、今日は無駄にしつこい。遠まわしに構ってくれと言っているのだと察した八幡は、これ見よがしに溜息を吐いて覚悟を固めた。無理心中コースよりは大分マシだと無理やり良い方に解釈し、頭をがりがりとかく。

 

「何か飲むか? 紅茶かコーヒーしかないが」

「コーヒーで。砂糖もミルクもなしでお願いしますね」

 

 

 

 

 



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実は、例の連中は既に動いていた

 

 

 

 

 

 

 結果だけを言えば、一色いろはは選挙で圧勝した。

 

 対立候補の二年生は自分の学年でこそ健闘したものの、奉仕部一同の事前調査の通りの得票差により勝利となった。裏を返せばその時点からどちらの陣営も票の上積みをできなかったということだが、早い段階で支持者を固めることに成功したと考えれば、勝利したいろはの側の戦略は間違っていなかったということだろう。

 

 対抗馬にこれを切り崩す戦略がないことは解っていたし、目算では文化祭の実績だけで十分だったものの、絶対ということは絶対にない。さらなる票の上積みを目指して八幡が打った手は奉仕部の女子四人をいろはの選挙応援に回したことだった。

 

 人は見た目が九割という。生徒会の仕事は別に顔でする訳ではないが、見た目の印象というのはこういう票の多寡で短期に勝負する場合大きな役割を果たす。効果が短期的でもその間に勝負が終わるのであれば何も問題はない。いろは本人が学校でも一二を争う美少女にも関わらず、選挙応援に立っているのはそれに匹敵する美少女ばかりだ。

 

 一年の中でこれに対抗できるのは三浦優美子くらいしかおらず、学校全体で見ても片手で数えられるほどしかいない。総武高校の美少女を上から五人引っ張ってきたと言っても過言ではないのだ。いつだか姫菜も言っていた見た目の有利だ。

 

 この五人が運営する生徒会の何と華やかなことだろう。主に男子生徒をときめかせた幻想だが選挙活動中、誰もいろは以外の四人が執行部入りするとは一言も発言していない。四人が執行部に入るというのは生徒たちの勝手な思い込みだと本人たちが気づくのは執行部の新顔がお披露目になる頃なのだが、その頃には後の祭りである。

 

 めぐり政権の残留組を全員入れてもまだポストには空きがある。文化祭の時に世話になったお礼も兼ねて、いろはは八幡以外の全員に声をかけたのだが、雪乃と姫菜は生徒会活動そのものに興味がなく、結衣は付き合い優先で手を上げなかった。これ以上時間をとらえると優美子と一緒にいる時間が減るという判断らしい。

 

 唯一沙希が主に内申のために興味を示したのだが、家庭教師のバイト、塾、家の手伝いに奉仕部の活動と、少し前よりも時間を取られる環境になった上、更に生徒会活動を加える余裕はないと断念した。

 

 八幡としては一人くらい執行部に顔の利く人間がいても良いと思っていたのだが、本人が無理と言っているものを無理に進める訳にもいかなかったのだ。

 

「サキサキなら八幡先輩が言えば何でもしそうですけどね」

「だから何も言えないんだよな。それで倒れられても困る」

 

 八幡にとって沙希は後輩であると同時に妹小町の教師役であり、ともだちであるけーちゃんのお姉ちゃんだ。言えば大抵のことはしてくれるというのは人手がいくらあっても足りない女王の犬という立場上大変ありがたいのだが、何かあったら頭の上がらない女性二人から総攻撃を受けることになる。

 

 陽乃と出会ってから八幡も大概無理を重ねて生きてきたが、同じことをもう一度やったとして無事で済むとはどうしても思えない。まして沙希は後輩の女子だ。誰もが比企谷八幡のように無理に無茶を重ねても幸運に生きていける訳ではないのだと思うと、物を一つ頼むにも躊躇が生まれる。

 

 それは先輩の男性が後輩の女性に対してする配慮としては一般的な範疇に収まるものだったが、沙希の方からすれば声をかけられないのは信頼されていないのでは、と思う原因にもなる。犬の犬と揶揄される沙希にとって何かを成して八幡に褒められることは何にも代え難い喜びなのだ。もっと頼ってくれても良いのに、と奉仕部で一番歯痒い思いをしているのは沙希だ。

 

 では比企谷八幡が誰にも頼っていないかと言われるとそうでもない。奉仕部に一年女子は四人いるが、各々の環境を差し引いても一人だけ多く配分されているのが海老名姫菜だ。彼女の何が気に入っているかと言えば、控え目に言っても人間が腐っているところだ。多少無茶をさせても全く心が痛まず、沙希や結衣よりもずかずかと踏み込んでいけるために物も頼みやすい。

 

 一応女性ということで沙希と同じような配慮はしているが、精神的な遠慮のなさは行動にも影響が出ている。何より姫菜本人が個人的に陽乃と通じているのが大きいだろう。沙希を八幡の子分とするなら、姫菜は同時に陽乃の子分でもあるのだ。故に今では葉山グループよりも奉仕部にいることの方が多い姫菜である。

 

 姫菜のその判断のあおりを食っているのが結衣だ。彼女は逆に最近は奉仕部よりも葉山グループにいることの方が多い。持前の感性で姫菜が抜けた分の穴を埋めようとしているのだろう。それでは負担にならないかと気になるものの、結衣はむしろ生き生きとしている。二つの集団にしっかりと所属できるのが嬉しいのだ。

 

 八幡からすれば方々に顔を出さねばならないというのはストレスでしかないのだが、コミュ力のある人間というのは違うのだな、と思うばかりだ。真似しようとは全く思わないが心の底から尊敬する。

 

 雪乃は諸々の事情にも特に心動くこともなく平常運転だ。基本的には奉仕部の部室で時間を過ごし、紅茶を飲んでは文庫本を読む日々を送っている。奉仕部で一番優雅な時間の過ごし方だ。沙希からすると暇を持て余していると見えるため、若干態度にもとげとげしさが出るのだが、態度のとげとげしさで言えば雪乃も大差ない。二人で会話をしている時は口論にしか見えない時もあるが、特に遠慮なく物を言える人間というのはお互いにとって貴重であるらしく、結衣のように共に時間を過ごすということはあまりないものの、仲自体は決して悪くない。

 

 生徒会選挙という学校として一つの山場を越え、奉仕部は平常運転で部員の増減もなし。新会長としていろはは中々の粘りを見せたが、それでも全員心が動かないと解ると渋々と手を引いていった。 

 

 そんなこんなでいろは政権は八幡の予定通りに発足し、構成員はめぐり政権の二年にいろはが選んだ一年という構成となった。順当に行けば来年もいろは政権が続くため、今年いろはが選んだ一年は来年の政権の中枢を担う予定である。ともすればその中からいろはの対抗馬が出てくるかもしれないが、それはそれだろう。一年会長をやったにも関わらず、そうでない人間に敗れるのであれば所詮その程度ということだ。常に笑顔を浮かべているいろはも、内心ではやる気に燃えている。

 

 傍にいれば鬱陶しいことこの上ないが、離れてみる分にはかわいいものである。

 

 そんな右に左に走り回るいろはを眺めていると、八幡の胸にも一抹の寂しさが去来する。これで学校行事で大きなイベントはない。後は受験して卒業を待つばかりと思うと、特に学校そのものに思い入れのない八幡でもしんみりした気分になった。

 

 思えば陽乃に出会ったからロクでもないことばかりだったが、一度も退屈はしなかった。過去の自分にオススメできる経験では決してないものの、やり直しの機会を与えられてもこの未来以外はありえないというくらいに八幡は今の生活に満足している。

 

 参考書と格闘しながら自分の高校生活をひっそりと振り返る。それがここ数日の八幡の日課だったのだが――

 

「……それなのにどうしてお前はここにいるんだよ」

「いちゃ悪いんですか?」

 

 にこにこと何が楽しいのか微笑んでいるいろはに対し、八幡は深々とため息を吐いた。平日の放課後。奉仕部の部室である。八幡にとってはホームだが、依頼人でも部員でもないいろはにとってはそうではない。会長となったいろはのホームは執行部室であって、ここではないはずだ。

 

 それでも、いろははかなりの頻度で奉仕部の部室に足を運び続けている。ただ遊びに来ているのかといえばそうでもなく、顔をつなぐという意味でも重要な役割があった。陽乃が卒業した今、総部高校における陽乃閥の勢力は衰えていくばかりだが、今でもまだ一定の勢力を持っている。少なくとも今の三年が卒業するまでは完全に消えることはない。つまりいろは政権の一年目の半分の内は、その勢力が残っているのだ。

 

 めぐりの指名を受けずに当選した以上閥の流れを汲むものではないが、それを言えばめぐりも陽乃から指名を受けていないにも拘わらず当選し、対外的には一味とみなされている。いろはも一味と見るのが総部高校生徒の大多数の意見だろう。

 

 だが八幡とめぐりの認識はそうではない。めぐりにとってはかわいい後輩だろうが、派閥の一員という認識はないはずだ。それはいろは本人にとっても同様である。つまり学校で一定の勢力を持つ集団に属していると思われながら、実際にはその集団の恩恵をあまり受けることができないのだ。特にいろはにとっては大問題だ。

 

 既に当選しリコールの可能性も低い以上、支持者数を維持することに現政権のメンバー――特にめぐり政権から続投する面々にはあまり影響はないが、来年も続投する予定のいろはといろはが引き込んだメンバーにとっては他人事ではない。

 

 何より本人がぼっちと標榜しながらもめぐりがしつこく『お友達』と言い続けている人間だ。めぐり政権続投組はまじめ人間が多く彼ら彼女らは個人的には八幡をあまり好いてはいなかったが、めぐりにはとても世話になったため、その友達ならば無下に扱うこともできない。

 

 色々な事情が絡み合って、いろはの入りびたりは認められている。それでも執行部の仕事に問題はないらしいが……居座られる方としては良い迷惑だ。

 

 能力的なものは比べるべくもない。八幡から見て一色いろはは雪ノ下陽乃の下位互換品である。特に何の用もありませんよという顔をして女王様が近くにいる時、大体厄介ごとが持ち込まれるのだ。いろはが特に何をするでもなく部室にいることは多々あるが、今日はそうではないということを八幡は態度で理解していた。

 

 奉仕部員もフルメンバーではない。いるのは八幡と姫菜のみで残りの三人は全て用事で出払っている。部室のドアを開けて二人しかいないと気づいた時、いろはは一瞬だけにやりと邪悪に笑った。いない三人がいないでいる方が都合が良いのだろう。自分と姫菜だけだと都合が良いこと。考えるだけで気分が滅入って厄介ごとの臭いしかしない。

 

「それでですね先輩。ちょっとお願いがあるんですけど――」

「なんだ言ってみろ」

「…………あれ? 引き受けてくれるんですか?」

「どうせ受けるまで粘るんだろうから抵抗するだけ無駄だ。時間をかけずにサクサク行くぞ」

「引き受けてくれるのは嬉しいですけど、何か扱い雑じゃありませんか?」

「丁寧に扱ってほしかったらそれらしい態度を取ってくれ。俺はお前と違って全方位に愛想を振りまいてる訳じゃない」

「陽乃さん相手にだって愛想振りまいてないじゃないですか……」

 

 楽しそうに姫菜は笑っている。雑に扱われ拗ねているいろはを見るのがたまらなく楽しいのだろう。友人が適度に困っているのを見るのが、この腐った女は大好きらしい。

 

「海浜高校と合同でクリスマス会イベントをやるんですけど、知ってますか?」

「俺たちの前の代からの伝統で俺の時もやった。付き合う相手くらいは選ばせてほしいってのがうちのご主人の言い分だったが……」

 

 一応相手を排除せず最後まで合同という程で進行させたが、あれなら自分たちだけでやった方が良いことができたと陽乃の機嫌が悪かった記憶しかない。

 

 あちらの面々も別に能力が低かったという訳ではない。むしろやる気はあったし行動力もあったのだが、その方向性が見当違いの方にばかり向いていて、物を形にするのには邪魔にしかならなかったというだけだ。八幡が陽乃やめぐりと共にそれをやったのが二年前の話である。こちらに当時のメンバーが残っていないように、あちらにも当時のメンバーは残っていないはずだが、悪しき伝統が今も続いているのだとすればいろはの苦労も頷ける。

 

 政権を立ち上げてすぐのイベントだ。めぐり政権のメンバーも残っているこの状況で、如何に過去の執行部員とは言え他所の人間の手は借りたくないに違いない。それでもやってきたということは、いろはの感覚でこのまま進行してもぐだぐだになるか、最悪空中分解するという確信に近い思いがあるのだろう。

 

 皆まで言われた訳ではないが、手伝ってほしいのだということはすぐに解った。彼らを相手にするコツは相手に好き勝手にさせているように錯覚させて上手くコントロールするか、有無を言わせぬパワープレイを強行するかのどちらかだ。陽乃が行ったのは前者だが、それは陽乃が集団をコントロールするのに長けていたからだ。下位互換であるいろはにそれを求めるのは酷だろう。

 

 ならばパワープレイしかなく、そしてそれを総武高校で実行できるのは比企谷八幡しかいない。なるほど最後の手段にしたかったのだろう。八幡がいろはの立場であれば他人に頼むというのもさることながら、比企谷八幡に頼むのはできる限り遠慮する。

 

 それでもやってきたのは自分のプライドなどよりも、目的の達成を選んだからだ。それは力が及ばないことの証明でもあったが八幡には好感が持てた。自分には無理です助けてくださいとは、普通の感性をしていたら人間中々言えないものである。

 

 まさかそこまで理解して来たんじゃなかろうな……と胡乱な目でいろはを見る。自分が見つめられていることに気づいたいろはは、あざとさ全開の仕草で首を傾げてみせた。態とやっているのが見え見えなのに、それでも男の心に訴えてくるものがあった。

 

 美人を見慣れているはずの自分が心動かされるんだから相当だろうなとゆっくりといろはから視線を逸らした。会長になって自信でもついたのか、以前に見た時よりもあざとさが研ぎ澄まされているように思える。これなら同級生が放っておかないだろうと思うがいろはに浮いた噂はないらしい。

 

 今は仕事が恋人というのを遠まわしに標榜していると聞くが、このあざとさでどこまでそれを維持できるのか見ものである。

 

「次の会合はいつだ?」

「明日です。それで申し訳ないんですが……」

「俺と、誰かは約束できないができるだけもう一人連れていくことにする。それから次はもう少し早めに声をかけてくれ」

 

 顔に喜色が浮かびそうになるのを、いろはは寸前で堪えた。あの八幡が次を想定してくれていることが素直に嬉しかったのだが、それを顔に出すのは負けのような気がしたからだ。ぶっきらぼうで口は悪いが、心根は優しいというか人情家なのか。

 

 見た目からは想像もできないが、こういう所を見るとなるほどめぐりがしつこく友達だと言い続けるのも理解できる。見た目だけで判断するといつ見てもぽややんとしているめぐりとインテリヤクザな八幡は全くと言って良いほどつり合いが取れていないのだが、めぐりが付きまとい、八幡もそれを邪険にしないのは執行部員として一緒に過ごした時間とは別なところで精神的な波長が合うからなのかもしれない。

 

 そういう関係を少しだけうらやましいと思う。

 

「わかりました。まず次がないようにします」

「別にそこまで強要しないが……」

 

 するというのならば止める理由はない。その方が八幡にとって都合が良いのも事実だ。そのままお礼を言っていろはは出ていく。本当にこれを頼みに来ただけらしい。

 

「もう少しゆっくりお茶でも飲んでいけば良いのに」

 

 いろはが去ってしまったのが惜しいという訳ではない。単純に疑問に思ったから口にしただけ。それは八幡も同感だがどちらかと言えばおしゃべりな陽乃と一緒にいた時間が長いせいか、主体的に喋るいろはがいなくなるとどことなく寂しさを覚える。

 

 姫菜がつまらない人間という訳ではないが、いろはは一緒にいて退屈しない人間だ。それでも一緒にいてほしいというレベルではない。八幡にとってそこまで重要な人間というのはあまり(・・・)存在しない。

 

「仕事がある……訳じゃないんだろうが、あっちにいないと不安なんだろ。気持ちは分からないでもない」

「八幡先輩もそうだったんですか?」

「どうだったかな。行って良いと言われない限り近くにいたような気もするが、今となっちゃ良く解らん」

「自分のことなのに?」

「不甲斐ないことにな。今にして思うと良い意味で精神的に常に追い詰められてたんだろうと思うが、もう一度あの環境に放り込まれても無事でいられる自信はないな。入院してるかもしれん」

 

 陽乃も誰彼構わず加虐趣味を発揮する訳ではないのは、普段を見ていれば解る。その尺度で判断するに自分の時は常識の範囲内で全く加減せず、面白半分で追い詰めていたように思える。課題そのものは過酷という言葉で片づけられるものでも、そのプレッシャーのかけ方が尋常ではないのだ。

 

「それならもう一度あの頃に戻れるってなっても戻らないんですか?」

「それはないな。今の自分以上に良い状態になるとは欠片も思えない」

 

 一瞬、姫菜は驚いた表情を浮かべるとすぐに穏やかな苦笑に変わった。瞳の奥には羨望の色が見える。自分に近い性質を持ち、自分と同質の人間とお付き合いをしている人間が、自分には存在しないものを持っているのが溜まらなくうらやましいのだ。

 

「…………陽乃さん、愛されてますね?」

「俺がこういうこと言ってたとか言うなよ。俺がからかわれるだけで良いこと全くないんだからな」

「それは八幡先輩の態度によります」

「何が飲みたい?」

「たまにはコーヒーでも飲みますか? うんと苦いやつ」

「苦いやつなぁ……」

 

 とぶつぶつ言いながらポットのそばに八幡は移動する。その背中を眺めながら、姫菜は目を細めた。

 

 

 

 

 

(まぁ、どういう態度を取ろうと告げ口はするんですけど)

 

 



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意外なことに、彼も轆轤を回せる

 

 

 

 

 そして約束の日の放課後。待ち合わせの場所に現れた八幡を見たいろはは絶句していた。 

 

 総武の制服を着ている。顔も八幡で、本人に違いはない。ないのだが、その顔には普段はないメガネがあった。八幡先輩の鬼畜メガネはすばらしいと姫菜から猛烈なアピールをされたことは記憶に新しい。メガネ一つでそこまで印象が変わるものかと思っていたのだが、実物を見てみるとなるほど、姫菜の言っていたことは間違いではなかったといろはは実感した。

 

 ただ、鬼畜眼鏡という印象ではない。普段はそれこそ顔が良いだけに目つきの悪さが際立って見えるのだが、今はそこまででもなく、それ所か柔和な印象さえ受ける。眼鏡一つで人間変わるのだ。はー、と溜息を漏らして感動しているいろはに、八幡は逆の意味で溜息を吐いた。

 

 最初は少しでも悪い目つきの印象をどうにかするためだったのだ。せっかくだから色々試してみようと言い出した陽乃の口車に乗り、彼女の趣味であるノンフレームの眼鏡に手を出したことでインテリヤクザという印象が関係者に知れ渡ることになった。

 

 陽乃や姫菜など一部には好評であるが、目つきの悪さを増幅しているというただ一点において、女性陣の評価は中の下、もしくは下の上という方向で一致している。中でもめぐりの反発は大きなもので、そんなに怖い顔をするなら一緒に歩くのも嫌! とまで言われてしまった。

 

 流石に校内ただ一人の友人にまでそこまで反発されては手段を講じない訳にはいかない。じゃあ何か手はあるかとそのめぐり本人に聞いてみたところ、これならはっちゃんにも似合うよ! と勧められたのがウェリントンである。

 

 海の向こうの全身青タイツに赤マントのスーパーヒーローが正体を隠せる程の一品はやぶ睨みの目にもそれなりの効果があったようで、ノンフレームの時にはインテリヤクザにしか見えなかった男が、ちょっと目つきの悪い少年に見えるようになった。

 

 なるほど悪くないと思う八幡に、これならデートくらいしてあげても良いとめぐりはご満悦だった。何様だよと叩いた軽口は照れ隠しだったことは誰の目にも明らかだったようで、やり取りをぼんやりと眺めていた陽乃はしばらく動けなくなる程の爆笑の渦に巻き込まれた。

 

 その後ちゃんとめぐりと映画に行った(デートもした)のだがそれはさておき。

 

 そういう経緯もあって視力は悪くないにも関わらず八幡は複数の眼鏡を所有している。見た目で押すか年齢を上に見せるのであれば迷わずノンフレームの眼鏡を選択したのだが、いろはの付き添いで来ている現状で見た目で圧をかける訳にもいかない。カンザスのジャガイモ野郎になるのも当然の選択と言えた。

 

「そんな眼鏡持ってたんですね」

「付き添いで迷惑かける訳にもいかないからな」

「来てくれただけで助かってますよ」

「だと良いんだがね。まぁ、できるだけのことはする」

 

 総武は進学校なだけあって、授業で使う書籍は多い。一部の教科書を全て持ち歩くタイプの同級生などは登山部かという程の大荷物を毎日持ち歩いていたりもする。そんな中、八幡の荷物はいつも少ない。片手で軽く抱えられる程の荷物しか普段は持ち歩いていないのだが、今日は彼にしては大きめの荷物を抱えていた。

 

「それなんですか?」

「プレゼン用の資料が入ったノートだ」

「でも、プロジェクターとかあるかは――」

「それは確認してある。クリスマス関連の会議は伝統的に同じ場所でやるからな。そこは普段は企業向けにもスペースを貸し出してる関係で、その手の設備は充実してるんだ」

 

 学生でも貸してくれと言えば貸してくれるのは、陽乃の時に確認済だ。今回も念のために確認したのだが、管理をしているのは八幡が現役だった時と同じ人物だったようで、陽乃の名前を出すとすんなり使用許可も下りた。あとは現場に行ってねじ伏せるだけだ。そのための資料も用意してある。

 

 これらの準備が全て杞憂に終わってくれれば良い。いろはが大げさに騒いでいるだけで、実は大したことないんじゃないかという可能性にも期待していたのだが、現場についてあちらの面々を見た時、それが淡い幻想であったことを八幡は悟った。

 

 見た目だけの印象であるが、二年前よりもむしろひどくなっている風である。何というのか……形から入ってそれで終わっている感が半端ではない。漏れ聞こえてくる単語も無駄にカタカナばかりであるし、バブル期の業界人のようなカーディガンを見た時には、本気で彼らがコントを演じているのではないかと疑った程だ。

 

 だが残念なことに、彼らは本気であるらしい。八幡がこの会議に出席したのは二年程前。同級生でない限り全ての面子は卒業している。そして選挙のタイミングは総武も海浜も一緒であるため、代替わりしてほぼ一発目の対外的なイベントがこれであることは共通している。

 

 つまり外部からメンバーを呼ばない限り、最高学年は二年生のはずなのだ。その中に三年生を、しかも経験者を連れてくることは見方を変えれば暗黙の了解に違反していると言えなくもないが、それが良くも悪くも方々に名前を知られ、一目置かれている人間であれば話は別だ。ここにいるのは実績に乏しい二年以下。実績のある三年生に、しかもその場で文句を言える人間などいるはずもない。どこの学校も、年齢から来る上下関係には厳しいものだ。

 

 定刻になったということで全員が着席する。海浜側の席に一つ空きがあるのが気になる所ではあったが、人数は少ない分には、気にすることでもない。

 

「今回同席してくれました。三年の比企谷八幡先輩です」

 

 名前を出すと、海浜高校の面々にもざわめきが広がった。女王の犬だ……という声も聞こえる。海浜高校とはそれなりに距離が離れているはずなのだが、未だ健在の悪名に八幡はひっそりとため息を吐いた。

 

「会議を始まる前に見てほしいものがある」

 

 いろはによる紹介が終わった後、義務的に行われた海浜側の自己紹介が終わると早々、八幡は切り出した。今回の最上命題はこれ以上時間をかけないことだ。一度流れができてしまうと、口を挟む機会も限られてくる。先手必勝。速さというのはあらゆる局面で有効な戦術の一つである。

 

 異論反論が生まれる前に、八幡はてきぱきと準備を進めた。借りてきたプロジェクターにノートパソコンをつなぐ。その動作だけでも淀みが全くない。その時点で海浜高校の面々は口を挟むという考えそのものを忘れてしまっていた。実際にはどうあれ、こいつは自分よりもデキる奴であると思わせてしまえば、後はどうとでもなるものだ。

 

「これまでの会議を元に現実的な案をまとめてきた。これからかかる時間とコストに見あったスケジュールを組んでみたのでまずは話を聞いてほしい」

 

 八幡のやったことは今までの身のない会議から生まれた案を拾い上げ、現実的なものに組み直し、それをパワーポイントでまとめただけだ。同じことはいろはも海浜高校の面々もやっているはずだが、それに気づいている人間がどれだけいることだろうか。

 

 方法を変えるだけで今までと全く同じことをしても説得力が生まれることはある。一昨年に苦い経験をしたことで八幡が編み出したのが、この手の高校生には手を出しにくい分野を使ったハッタリだ。このユビキタスにIT化が進んだグローバルな現代でも、高校生にペーパーレス社会というのは実現しにくいものだ。

 

 プレゼンに自前のノートパソコンを持ち出すということ自体、そうあることではないだろう。それを最初にやったからこそはったりとして有効なのだ。だからこそ真新しい意見を何も入れていない、ただ議事録を書き直しただけの、もし陽乃に見せたら説教では済まない低レベルな代物でも、これが最善なのだと錯覚させるだけの説得力を持っている。

 

 後は一押しするだけだ。こつこつとテーブルの下で椅子を突くと、早速いろはが切り出した。この方向で行く。ということが既定路線として進められていく。流れはできた。これで問題はないだろう。後は紙の資料を元に話が進められていくはずで、発案者の自分がいる間はその内容に手が加えられることはない。今日で話がまとまればスケジュール的には問題ないはずだ。

 

 ここまで有効な手があるなら何で去年出さなかったのはっちゃん! と脳内で小さなめぐりが蹴りを飛ばしてくる。後で大きい方のめぐりにも怒られそうではあるが、これはこれで欠点があるのだ。パワポを持ち出す人間が最初でかつ一人であるからこそ有効な手である。自前のノートPCを持つ人間は多数派ではないだろうが皆無な訳ではない。

 

 海浜高校の今の面々の中にもいるにはいるだろう。彼らの間では早速自分も、という考えが渦巻いているはずでその方法は一年かけてブラッシュアップされてくるに違いない。

 

 つまるところ、来年はもっと収拾がつかなくなるのが目に見えているのだ。初回限りのみ有効な手であり、かつ来年の難事については全く無視した方法論だからこそ、めぐりに提案することを見送ったのである。

 

 だが今年であれば問題ない。何故なら来年には八幡もめぐりも大学生になっているはずで、高校生ではないからだ。来年も続投の見込みであるいろはは来年、今年以上に苦労するはずだが、まぁそれも知ったことではない。

 

 ともあれ当面の目標はこれで達成した。お役御免だなと椅子にもたれて安心していると、ばたん、と無遠慮な音を立てて会議場のドアが開いた。

 

「ごめーん、遅れちゃ……った…………」

 

 悪びれた様子など全くみせず、笑顔さえ浮かべて会議室に現れたその女、八幡の同級生で知り合いでもある折本かおりは、居並んだ中に女王の犬がいるのを見つけると、この世の終わりを見たような顔でがくりと膝をついた。

 

 

 

 

 

 

 




何が酷いって前話と被る部分が大部分だったということ。
同じ部分を書き直していてそれが六千文字を超えていました。今回短いのはそのためです。申し訳ありません。
次回でクリパ編終了予定。今度こそ玉縄氏しゃべるはずですが、ルミルミやけーちゃんの方が目立つ気もします。


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当たり前だが、協力者は外にもいる

 

 

 

自らをして『あざとい女』という認識のある一色いろはの最大の武器は『戦闘力』を数値化することに長けていることだ。女に限らずおよそ人間社会に生きる者にとって、容姿というのは一番目につく、そして最も有用で使い手のある武器である。

 

 それは老若男女全てに共通する。容姿が優れているということはほとんどの場面においてプラスに働き、物事を自分にとって有利に運ぶことが容易になる。あざとく立ち振る舞うというのは、自分のそれを十全に使いこなして利益を得て、かつ、相手の容姿による利益を封じ込め、相対的に優位に立つ技術に他ならない。

 

 そう、容姿というのは相対的なものなのである。戦闘力の平均が10の集団において、100の戦闘力を持つ人間がいればなるほど、簡単に頂点に立つことができる訳だが、その隣に1000の戦闘力を持つ人間が現れたら、その魅力はかすんでしまう。

 

 つまるところ、自分の属する集団において、自分以上の容姿を持つ者の台頭は可能な限り避けなければならず、そのためには周囲の人間の戦闘力を誰よりも早く、そして正確に把握する必要がある。

 

 その知覚において、いろははそれなりの自負を持っていた。あくまで自分の容姿がものさしの基準であるが、自分の認識と集団の認識がズレていると感じたことは一度もない。

 

 その絶対的な相対的容姿を認識する力によれば、現れた女の戦闘力は自分を100とした場合、おまけして70という所だ。50±10が普通の範疇とすると、美形より。ただし美少女と表現するには難があるレベル。クラスで一番か二番の容姿であるが、学年で、学校でというと疑問符がつく。

 

 単純に戦闘力という点では一色いろはに比肩するものではなかったが、現れたその女の顔を一目見るなり、いろはの顔に浮かんだのは警戒の色だった。

 

 ワンチャンあるかもというのは異性の評価としてプラスに働くものだ。学校一の美少女なら手が届かなくてもクラス一なら、と考えるのは高校生くらいまでの男子なら良くあることだと聞いているが、大抵の場合はそれでも分不相応というのは言わずもがなである。クラス一とつり合いを取るためには、同じくクラス一くらいでないとダメなのだから。

 

 さてそのクラスで二番目の美少女は、八幡を見るなり頽れた。顔見知りと言うのは間違いない。向こうの実行委員にタメ口で話しているのを見るに、学年は二年か三年――おそらく三年だろう。そうなると八幡と同級生ということになる。顔が広くなったのは高校生になってからと聞いているし、あの女王様と恋人になったのは一年生の頃だと言う。

 

 彼女ができてから意味深な反応をする女の知り合いが増えた、というのは彼女的には処刑案件のように思える。そして隠し事を八幡がしていたとして、女王様に看破されないとも思えない。何かあったとしたら高校入学前だろうし、それなら同じ中学であったことは推察できる。

 

 そこから更に推理を続けてみるに――

 

「二年の時に告白してきたものの、先輩のDVが原因で卒業前に別れた中学時代の元カノってところですか?」

「中学時代って所しか合ってないな」

「彼女相手でもDVって言うんですかね?」

「さあな。家庭内の(ドメスティック)なんだから言わん気もするが、大学入試で出てきたら厄介だから調べて答えを教えてくれ」

 

 深々と溜息を吐く間も、いろはは観察を続けていた。あの反応から関係者ということはバレると思ったが、一瞬で中学時代の色恋沙汰という所にまで行きつく辺り、リア充側の観察力も中々捨てたものではない。探られても気にならない痛みしかない腹とは言え、全く問題が起きないという訳でもない。

 

 彼女のいる身で、彼女以外の女のことで起こる問題が面白いはずもないのだ。できることなら何事もなく、平穏無事に過ぎてほしいと思っているのは、何も自分だけではないだろう。ちらと八幡が視線を向けると、折本はその意味を即座に理解した。ぶんぶんと首を縦に振る彼女に、八幡は小さく安堵の溜息を漏らした。

 

「……目と目で通じ合ってませんか?」

「危機意識を共有すると、テレパシーってのは意外と使えるもんだ」

 

 へー、と声を漏らすいろはの疑惑は逆に深まったようだ。元カノ路線もまだ捨てるつもりはないらしい。そうこうしている間に、折本は向こうの代表、玉縄氏の横の席に着席した。何でも向こうの高校の前年の責任者らしく、めぐり政権の時には玉縄氏の席に彼女が座っていたらしい。

 

 めぐり政権にはなるべく手を出さないと陽乃が決めていたから良い様なものの、そうでなければ怖いニアミスをしていた所だ。痛い経験のある女に彼女同伴で会うという経験は、できれば二度としたいものではない。

 

「先輩の元カノ、アドバイザーとか横文字で呼ばれてますけど、遅刻してきて何をアドバイスするんでしょうかね」

「元でもカノでもねーよ。あんまり引っ掻き回してほしくはないもんだけどな。無難な案をさっさとまとめて帰りたいんだが」

「何かあったら文化祭の時みたいに汚い工作で何とかしてくださいよ」

「一番得したお前が汚いとか言うなよ……つっても仕込みもなしに何かやるとか無理だっての」

 

 本物のマジシャンならばギミックなしでも色々な芸ができるというが、犬にできることなどたかが知れている。はったりは既に打ち尽くした。ここで相手の新戦力による問題が起こったら、正直仕切り直しをするより他はない。時間がない現状、ここでの仕切り直しは企画の死を意味し、そして企画の死は比企谷八幡の失敗である。

 

 部下や民の失敗に女王は寛大だ。圧政だけが政治ではない。女王は独裁者であるが、失敗を許すだけの度量がある。実際には失敗も込みで計画を立てているのだから、予定通りと言えば予定通りなのである。

 

 しかし、犬は部下でも民でもない。犬にとって女王は独裁者であり絶対者である。女王にとって犬は犬。芸を覚えれば誉めもするが、覚えた芸をしくじったとなれば何をされるかわからない。

 

 計画は軌道に乗っていた。一番年上の人間が出した案に、これで行こうという言質も取った。八幡がパワポで作成したのは現状からでも無理のない計画であるが、人員が確保できなかったり横槍が入ればその限りではない。最悪、残り全ての時間を使えば八幡一人で処理できなくもないというレベルに設定してあるが、そこまでしてやる義理はないし、それは失敗に等しい。

 

 八幡にとって後からやってきた折本は純粋なイレギュラーだった。ここで昔の遺恨を持ち出して引っ掻き回すようであれば、最悪、陽乃の力を借りてでもアレしなければならなかったのだが、折本に昔のようなふわふわした雰囲気はなかった。

 

 むしろ八幡が目を向けるとびくりと身体を震わせる始末である。事情を知らない人間でも八幡と折本を見て、彼女の反応を見れば、八幡が何かをしたと思うのが自然だろう。事実、向こう側にも折本の反応を不審に思う人間が出てくる。主に女子だ。

 

 彼女らが声を挙げればまた別の問題が持ち上がっていたのだろうが、向こう側で女子は少数派。折本を含めても三人しかいない。残りは全員クリエイティブでアバンギャルドを目指す業界人風の男子ばかりだ。彼らの目には男女問題など首を突っ込んでも手柄にならなそうな問題は目に入らないのである。

 

 

 結局、その日の会合で遅刻した折本は特に何も発言しないままお流れとなった。

 

 

 日が変わってその週末。休日を潰して活動するなど結構なことだが、元々のスケジュールに組み込まれていたことなので文句も言えない。奉仕部の面々が沙希以外休日出勤を強いられる八幡ははっきりと迷惑に感じていたものの、それも契約に含まれると言われればぐうの音も出ない。

 

 今日の総武高校のメンバーはいろはの他にも一色政権のメンバーが勢ぞろいである。城廻政権と異なり引き継ぎの顔合わせはしていないが、二年のメンバーは城廻政権からの引き継ぎのため、知っているメガネが三人ほど存在している。

 

 彼らはめぐりが選んだだけあって地味なメガネであり、特に校内の情報収集においては独自の情報網を持っているらしく仕事が早い。自分とは明らかに違うタイプの人間の情報でも持ってくる辺り、陽乃でさえ一目を置く程であるが、それも全員揃ってこそだ。今の三年のメンバーが欠けた今となっては、彼ら彼女らはただの優秀なメガネとなっていた。

 

 彼らからの八幡の受けは、実の所あまり良くはない。彼らにとってのボスはめぐりだが、八幡とめぐりのボスは陽乃という認識の齟齬からくる問題だ。ボスのボスはまぁボスなりに敬意を払う存在ということで折り合いはついているらしいが、ボスの仲間まではその対象には含まれないというのが当の陽乃の分析である。

 

 もっとも、受けが良い悪いは彼らの個人的なことで、仕事関係で手を抜いたりはしない。その辺りの真面目さは流石にめぐりが選んだだけのことはある。八幡も別に彼らのことは好きではないが、めぐりが選んだのであれば信用はできる。ビジネスライクな付き合いで良いと向こうから言ってくれているのだ。むしろその辺のリア充よりも付き合い易いまである。

 

 遅れ気味のスケジュールだったが、このメガネーズがいればどうにかなるだろう。それなりに緊張しているらしいいろはたち一年の面々と異なり、安心して会場入りしてからの流れは、やはり八幡の予想通りの展開となった。

 

 元より今からでもデキそうなことをプレゼンしたのだから、ベースがあのパワポである限りよほど脱線しない限り大成功はなくとも大失敗は絶対にない。八幡たち総武高校の面々の仕事は脱線しそうになるのを防ぐことだったが、よほど『パワポを使ったプレゼン』というものに心動かされたのか、彼らは杓子定規な程に八幡の提案に従って行動した。遊びの要素は一切ない。

 

 これにはいろはも不思議がっていたが、八幡には理由が解っていた。パワポプレゼンに感動した自分たちはそれに黙って従ったという事実がほしいのだ。つまりは来年以降、自分が主導する立場に収まるためである。学生の時分は縦の関係が強いものだ。職責上位な人間は基本年上。つまり、今年の経験者は来年以降においては先輩にある。

 

 今年が三年であればまた違ったのだろうが、ヘルプできている折本を除いた人間は二年以下。向こうの代表である玉縄氏も二年だ。来年のカオスはここに確定した。

 

 来年も自分がここにいるのであれば全力で修正に走るのだろうが、いろはにも宣言した通り来年のことなど知ったことではない。ヘルプという形でさえ本来二年が主導するべき企画で三年が口を出すのは微妙にルール違反の気配があるのだ。出しゃばりが嫌われるのは古今東西変わるものではない。

 

 自分がされて嫌なことは、他人にもするべきではないのだ。人間関係の超基本であるが、どこかの女王様はそれをご存じないようではあった。

 

 時間をかければ良いものができるというのは完璧ではない。かけるべき時間をかけるべき場所にかけるというのは中々難しいもので、大抵の場合は無駄に時間を浪費するものである。それに時間だけかけても絶対に解決できないものがいくつかある。

 

 その一つが予算だ。文化祭のようにスポンサーを募って集金する手段がない場合、年間を通しての生徒会の予算は生徒総会の際に決定される。これを上回って予算を使うことは――原則的にではあるが――できない。今回のような合同の企画であれば猶更だ。学校も教師陣も生徒会も、なるべくならば相手にだけ出させて自分たちは使いたくはない。

 

 当然、向こうもそう思っているだろうことはお互いに伝わっている。結果、手間をかけることさえできれば見栄えのするものを複数候補に出し、それを絞り込む段階で無駄な時間を使うことになるのだ。企画など何でも良いと割り切ってしまえば楽なのに、よりよくすることに終始して、より悪い方向へと進んでいく。高校生活で学んだことは沢山あるが、こういう時にこそリーダーが必要なのだと体感できたのは大きな収穫である。

 

「小学生と幼稚園児にオファーを出して、老人ホームのご老人方を招待するのは考えましたね……」

 

 小学校と幼稚園の会場にはボランティアに貢献したという実績を与え、ご老人方は子供の出し物を見ることで心癒される。予算がカツカツなのはどこも一緒。というのがミソである。ボランティアとか癒しというのは建て前なのだ。

 

 つまるところ、小学校も幼稚園も総武高校も海浜高校も老人ホームも、ほとんど金を使うことなく実績作りと時間潰しができるという誰も損をしない企画なのだ。あらかじめ小学校と幼稚園に話さえ通しておけば子供たちの時間を押さえることはそう難しいことではないし、演者のスケジュールが抑えられれば老人ホームの予定を押さえるのは更に簡単だ。後は演者の中に孫の一人や二人紛れ込ませておけばパーフェクトである。

 

「小学校にも幼稚園にも老人ホームにも、うちのOBOGがいるのは前から知ってたからな。切っ掛けさえあれば後は楽勝だ。金はかかりませんということがしっかり伝われば、面倒な手続きまで向こうがやってくれる」

「お婆ちゃんたちからしきりに感謝されてましたもんね先輩」

「陽乃なら向こうなら次回もよろしくって根回しされたろうがね。俺なんぞまだまだだ」

 

 冷めた目線で大抵のことを客観的に見れるくせに、自己評価だけは不当に低い。増長されるよりは遥かにマシであるが、デキる人間が俺なんて大したことないと言ってしまうと、それ以下の人間は立つ瀬がないのだ。デキる後輩であるつもりの一色いろはとしては毎回対処に困るのである。

 

「で、その触れ合いイベントですけど大丈夫なんですか? 中身はあちらに丸投げするみたいですけど」

「その点は心配ない。この世で二番目に信頼できる人に協力をお願いしたからな」

「陽乃さんですか?」

「あの人はこの世で最も信頼できない」

「そんなこと言っていいんですか? 告げ口しちゃいますよ」

「構わねーよ。あの人も俺に対しては同じこと言うだろうしな」

「…………良く解りませんけど、恋人ってのはそういうのが普通なんですか?」

「多かれ少なかれ不信感は持ってるもんだと思うが、俺らくらいのは少なくとも普通ではないだろうな」

「良くそれで恋人なんてできますね?」

「変人なんだろう。お互いにな」

 

 良く解らない、というのがいろはの正直な感想だった。彼氏などいたことのない人間として、少なからず恋人関係というものには幻想を持っていたのだが、八幡から話を聞く限り甘酸っぱいことなど全くないように思える。しかし聞いた話では二人は仲睦まじく、むしろ陽乃の方から八幡に迫っている風であるという。

 

 本当にお互いに変人なのだろう。これを運命などとは呼びたくないものだが、本人たちが幸せならば他人が文句を言う筋合いもない。

 

「それなら、その二番目さんはどこの誰なんです? 小学校か幼稚園のOGさんですか?」

「OBって可能性はないのな……まぁ、女性には違いないが」

 

 その割に八幡の言葉は歯切れが悪い。まるで女性と表現することに抵抗があるその物言いに、いろははぴんときた。まさか、とそれを口にするよりも早く。ホールの扉が開いた。団体さんのご到着である。スケジュールを合わせると聞いていたから、当日出演してくれる児童と園児のそろい踏みである。

 

 要望した訳では決してないのだが、やってきたのは全員が女の子だった。流石にこれは偏り過ぎである。誰かの意思が介在しないとこうはならないはずで、そして各位にオファーを出すお膳立てをしたのは八幡だ。主導したのはいろはたち現生徒会であっても、コネはそもそも八幡たち前、前々政権のものである。

 

 何か余計な意思を混ぜる可能性は十分に考えられた。じーっと見つめてみると、居心地悪そうに視線を逸らす。

 

「俺が何か言った訳じゃないからな」

「じゃあどうして女の子しかいないんですか」

「この世で四番目くらいに信頼できない女が、そうした方が良いって言ったからだよ」

 

 また女だ。この男は一体どれだけ女の知り合いがいるんだろう。彼女のいる身でだらしがない。これは一度くらいは説教してやるべきかと思って口を開こうとした、その時、

 

「はーちゃんっ!!」

 

 幼稚園児の集団から飛び出してきた幼女が、全速力で八幡に飛びついた。この男はこんな優しい顔もできるのかと戦慄しているいろはを、幼女が見上げた。ふと、同級生の川崎沙希の顔が連想された。面差しが似ている。おそらく彼女の妹だろうその幼女は、八幡をぎゅーっと力いっぱい抱きしめると、いろはに向けて笑みを作った。

 

 かわいらしいはずのその笑顔が、いろはには紛れもなく挑発に見えた。

 




八幡の信頼できない女ランキング

一位 雪ノ下陽乃
二位 相模南
三位 海老名姫菜



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何が何でも、折本かおりは冒険しない

 

 

 

 

 

 

 

 川崎京華。奉仕部部員川崎沙希の妹で幼稚園児。誰からもけーちゃんと呼ばれることを好み、また誰が相手でもそう呼ばれないと最近は返事もしないらしい。彼女本人の認識では比企谷八幡のだいしんゆーであるということになっている。八幡本人の認識も概ねその通りだ。そういう意味では八幡界隈ではめぐりの最大のライバルと言える。

 

 自他ともに認めるひねくれ者の八幡から見てもとても良い娘なのだが、引っ付き魔でもあった。今もこれでもかというくらいぎゅーと抱きしめられている。幼女らしい体温の高さと程よい力強さ。特殊な趣味のない八幡でも悪い気はしなかった。

 

 聊かスキンシップ過多な気がしないでもないが、幼稚園児ならこんなものだろうと気にしないことにしている。

 

 陽乃が卒業してから広がった人脈の中では一番目に若い――というか幼い人物であり、今回のキーパーソンの一人だ。そんなけーちゃん様は八幡を思う存分抱きしめると、ぐるりと首を動かして姉を見た。

 

「さーちゃんもぎゅー!」

 

 やっぱり私の妹は世界一可愛いと人知れず感動していた姉は、妹様からの急な要請を理解するのに時間を要した。理解すると、途端に頭に血が上ってくる。

 

 八幡の正面から抱き着いている京華が視線で示すのは彼の背中だ。要は衆人環視の中そこに抱き着けと言っているのだ。犬の犬たる沙希の本音を言えば願ったりかなったりではあった。人並程度に触れ合いを欲している沙希だが、相手が相手だけにその欲求はほとんど叶えられたことはない。何か渡す時に手が触れあっただけでも歓喜するくらいだと言えば、犬の犬がどの程度飢えているのかが解るというものである。

 

 注文通りの状況だ。しかし、ここは人目がありすぎる。けーちゃんのお友達は目をきらきらとさせて注目しているし、小学生たちも何だどうしたと興味深々だ。当然高校生や大人たちは事の推移を見守っている。ここで止めてくれれば沙希にとっては残念なことであっても話は穏便に流れるのだが、大人たちの顔にも興味津々と書いてある。男女間のゴシップに興味があるのは、どの年代でも共通のことなのだ。

 

 そんな衆目の中でこういうことをするのは沙希の感性では十分にはしたない行為と言えた。見た目から誤解されがちであるが、川崎沙希は今まで一度も男性とお付き合いをしたことはないし、恋人同士がやるようなことはほとんど全てが未経験である。

 

 だからまぁ、大体の人間が想像しているよりも沙希は恥ずかしい思いをしていた。やりたいけどもやりたくない。できることなら逃げ出したいが、こういう時の妹様が頑固というのは姉だからこそ知っている。やらなければ絶対に収まらないし、やらなければ大泣きするだろう。姉としてはやる以外の選択肢はない。

 

 ただ、覚悟を固めるのに時間はかけられない。京華にとってぎゅーというのは親愛を表すための行為であり、川崎家では主に母と姉相手に行われている。その点を鑑みると男性である八幡にぎゅーしているのは中々どうして深い意味があるような気がしてならない。少なくとも大志や父親が相手だと京華はとても嫌そうな顔をする。

 

 きっと同じ血を引く女だから男の趣味が似ているのだろう。この年でこれだけのことをしているのならば、今の自分と同じ年齢になった頃には何をしているのだろうか。相手の環境を考えると想像するのも恐ろしいが、とりあえず今は目の前のことだ。

 

 親愛を示す行為に付き合ってくれないのは仲良くしたくないという意思表示にも取れる。姉の目から見ても京華は今難しい時期だ。これで話がこじれてしまっても困るのだがそれはあくまで川崎家の事情だ。家庭の事情を楯に恋人のいる男性に抱き着くというのも筋が通らないし何より女王様の復讐が怖い。

 

 それでも妹のことを考えると沙希にやる以外の選択肢はなかった。

 

 そんな後輩の様子をぐりぐり頭を押し付けてくる京華をなだめながら八幡はぼんやりと観察していた。見た目の割に真面目な沙希のことだから難しく考えているのだろう。気にすることはないのだ。いいからさっさとやれと視線を向けると、沙希は一瞬だけむっとした表情を浮かべた。

 

 八幡にとっては気にするようなことでもないのだろう。尊敬できる人だがそれはそれで癪に障る。どきどきしているのはそのままに、沙希は覚悟を固めた。目を閉じて力いっぱい抱き着くと、それを見た小学生幼稚園児の軍団から歓声が上がった。

 

 あまりかいだことのない匂いがする。意外とがっしりしてるなとか。ここで目を開けたらこのまま死にそうとか。余裕のないことばかり考えながら数秒。京華が解放するのを待って、沙希も八幡から離れる。心臓の音がうるさい。かつてないほどの多幸感に本能的に身体が動きそうになるが、

 

「ここで自分の身体の匂いをかぐのは。女子としてどうかと思う」

 

 いろはの指摘でとっさに思いとどまった。気まずい表情を向けてくる沙希に、いろはは人差し指を唇に当てて、小さくウィンクをする。二人の秘密という意図は伝わっただろう。接点のあまりない二人だが、隠しておきたいことの一つや二つ誰にでもある。沙希としては乗らない手はない。

 

 二人の女子高生が密やかに友情を深めるのを他所に、大満足したけーちゃん様はとことこ離れていった。幼稚園児の輪に戻るとすごい! おとなーと大絶賛である。時の人になりご満悦なけーちゃんを横目に見ながら、今度は小学生の集団から代表である少女が八幡の元に歩み出てくる。

 

「今日はよろしくお願いします」

 

 昨今の小学生にしてはカジュアルさの少ない装いは育ちの良さを連想させる。幼稚園児も含めて女子ばかりの中、よく言えば大人っぽい雰囲気のその少女は若干浮いていたが、かつてのようにツマハジきにされている訳でないのは、周囲の少女たちの様子を見れば解る。

 

 よくも悪くも女王様の行いは上手くいっている。それは犬としては喜ぶべきことではあるのだろう。それだけ勢力が広がったことは好ましいことと言えなくもない。八幡自身の感性には合致することでもあるが、当然素直に喜べない部分もあった。

 

 少女の顔を見た八幡は一瞬だけげんなりした表情を浮かべたがすぐに引っ込める。

 

「よろしく。友達を連れてきてくれてありがとう、鶴見さん。詳しい話はあっちの人達が話してくれると思うから、頼めるかな」

「比企谷さんは一緒じゃないの?」

「一緒だけど、俺はお手伝いなんだよな」

「一緒なら安心ね」

 

 にこりと微笑む少女はなるほど確かに見とれる程の美少女ではあるのだが、八幡とその会話を横で聞いていたいろはは、そのやり取りに身の毛もよだつ程の空々しさを感じていた。感性としては普通の人に分類されるいろはも少女から何かを感じ取ったらしい。

 

 珍獣でも見るような顔をしていたいろはに、少女――鶴見留美は視線を向ける。自分と八幡の身体が影になって同級生に顔は見られないことを確信していた少女は、すとんとスイッチが切れたように笑みを消すと先程のいろはを真似て、唇に人差し指を当てて見せた。

 

 やけに様になったその仕草に大体の事情を察したいろはは、小さく頷く。ひと夏の経験を経て、少女が間違いなくロクデナシの道を歩み始めていることに、八幡は深々とため息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゲストが来てくれるなら、呼ぶために尽力した八幡にすることはない。今年のスタッフはいろはたちである。小学生の集団も幼稚園も引率の先生がついてきているから、詳しい話を詰めるのは彼女らで、しかも二人ともが総武高校のOGであり陽乃の知人である。あえてこちらから話すことは特にない。

 

 児童園児たちの役目は、当日出し物をする場所の確認と、高校生たちに対する演目の簡単な内容確認くらいで、それ以外の時間は暇なのだ。思い思いの場所で思い思いの相手と過ごす少女たちの他所に、留美は八幡の所にやってきていた。にこにことほほ笑んだままだが、内心全く笑っていない少女に、自分の恋人も小学生の時からこんなだったのかと思いを馳せる。

 

「案外楽しそうだな」

「楽しくはないわね。面白くはあるけど」

 

 小さな雪乃といった風だ。陽乃と雪乃と並んでいたら三姉妹に見える程度には容姿に共通点がある。その末妹は次女よりも長女らしく振舞うことには適正があったようで、完全な部外者である八幡の目から見てもその振舞いは堂に入っている。

 

 それだけに心苦しくはある。もっと真っ当に周囲に溶け込む方法はあったはずだ。陽乃の提示した方法が効果的であったことは認めるが、このままではロクデナシ一直線である。同級生に興味はないということはないのだろうが……今学校でつるんでいる同級生を、留美が友人と思っているかには疑問が残る。

 

 もっとも、社交性という点では当時の八幡よりは遥かにある。世の為人の為にどれだけ影響を与えることができるかを人の価値に置き換えるならば、鶴見留美という少女はとても有用であり、人間的に価値のある存在である。

 

「推薦入試受かったんだって? 陽乃さんから聞いたよ」

「おかげさまでな。内申のために部活やってて良かった」

「純真な小学生としては、試験で良い点とった方が簡単なんじゃない? って思うんだけど」

「当日何かあって試験受けられんかもしれないからな。選択肢は多いに越したことはない」

 

 そうでなくとも、活動実績や受賞歴というのはどういうものであれ話の種くらいにはなる。何事も白紙で提出するよりは何かしら書いてあった方が良いものだ。部活を作れと静に言われた時は面倒くさいと思ったものだが、ほとんどが終わって振り返ってみればやって良かったと心底思える。

 

「普段から良い子でいるなら、俺みたいにバタバタする必要はないからな。お前なら楽勝だろ」

「八幡みたいに内申を気にして大学まで行くって決めつけられるのもどうかと思うけど、まだ真っ当な評価をしてくれるようで安心した」

「真っ当じゃない評価ってどういうのだよ」

「近所のおじさんは小学生はみんなユーチューバーが大好きなんだって決めつけてくるわ」

「それは……許してやれよ」

 

 自分は若いものの感性を理解できるという、おじさんなりの精一杯の歩み寄りと見栄なのだと八幡には分かる。留美の立場であれば同じ感想を抱いただろうが、こうして年下の少女に相対しているとおじさんの方に同情が沸いてしまった。

 

「それにしても、小さい子にモテるのね」

 

 留美の視線の先には友達と戯れている京華の姿がある。楽しくおしゃべりしている最中も、ちらと視線を向けてはぶんぶん手を振ってくる少女は確かに、強面と内外に評判の八幡が思わず手を振り返してしまう程に愛らしい。

 

 面白がった留美も、八幡と一緒になって手を振り返すと、京華は嬉しそうに飛び跳ねながら両手で手を振った。アクションが一々大げさで見ていて楽しい。幼稚園で孤立しかけているという話だったが、今日の様子を見るにその心配もなさそうだった。

 

「モテるっつーのとは違う気もするが。あの娘にはあまり怖がられたりはしないな」

「優しい内面ってのを見抜かれてるんじゃない?」

 

 その声音にはからかいの色が強い。世間一般では留美も十分小さい子に分類されるのだが、話しているともっと年上のように感じる。見た目は明らかに小学生であるにも関わらずだ。背伸びしているのとも違う。かといって達観している様子もない。無理なく今の自分でいる。肩肘を張っていたキャンプの時と比べると随分自然体に見えた。

 

「どうだろうな。まぁ、悪くはない」

 

 どうであれ、好かれていると思えるのは心地よいものだ。それがいずれ勘違いと陽乃と出会う前は苦行に思えてた人付き合いも、究極的にはこういう好意を得るために行っているのだと思うと意味も理解できる。要するにその対象がたった一人か不特定多数の違いと思えば、今の自分にも当てはめられる。

 

 他人から見るとそう見えるのだと思うとこそばゆいものだ。それでも、何か不思議な力が働いて過去に戻されたとしても、同じように振舞って同じような選択をするのだと確信が持てる。

 

 八幡の表情に固い意思を感じ取った留美は、小さく手を合わせる。

 

「ごちそうさま。私もそんな恋愛がしてみたいわ」

「他人にオススメはできないな。普通に相手を見つけて普通に青春しろよ」

「そんな顔して言われても説得力ないわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 話しあいはびっくりするくらいにスムーズに進んだ。幼稚園、小学校、老人ホームの先生スタッフの方々は誰かさんが作ったらしい当日のスケジュールを持たされており、彼らはそれに沿って運営されるものだと疑っていなかった。

 

 そのスケジュール表が存在することもいろはたちは初耳だったが、大人たちを前に違います知りませんと言える高校生はその場におらず、そのスケジュール表を全面的に採用することで話は決着。表については三方から問題なしという話をいただいたので、本当に当日の流れを確認するだけで終了した。

 

 リハーサルの日程も、幼稚園小学校の先生方に根回しは済んでいたし、当日使用する施設についても話は通っているとのこと。準備根回しというのはこういうことを言うのだなと感心するが、同時にもう少し相談してくれても良いのではと思ういろはだった。

 

 相談を受けていないのは他の面々も同じだが、めぐり政権から続投のメガネーズを除いた新規メンバーと、向こうの海浜高校の面々はむしろ八幡の手腕に感心しきりだった。同じ感動を得たらしいあちらさんたちは高い意識に燃えており、今から来年はこうしたいということを仕切りに話し合っている。

 

 今からこの温度差で大丈夫なのかしらと心配になるものの、修行期間が一年もあるのだと思えば対処可能に思えてくる。なるようになるだろう。適度に肩の力を抜けるのが一色いろはの長所であり強みである。

 

 ともあれ先方とのスケジュールの確認が終われば、他にすることは特にない。あちらさんは意識高い議論をしているし、めつきの悪い先輩は幼女たちに連れ回されてモテモテだ。犬の犬さんはその後をおろおろしながらついて回り、こちらの高校のスタッフは先方と話し込んでいる。

 

 全員がOGであることから、進路などの相談に乗ってもらっているらしい。一年であるいろはたちにはまだ先の話であるが、スタッフの中には二年生も少なくない。聞いておいて損のある話でもないのか、一年のスタッフも一緒に話を聞いている。

 

 幼女と戯れる先輩を目で追っていたいろはは、その全てに乗り遅れた形だ。流石にこれだけ人間がいて話し相手がいないのは寂しい。どこかに自分以外に寂しい人間がいないかと、会議室を見回してみると、隅で気配を消して背景と一体化しようとしている女が目に入った。

 

 自分はここに存在していませんと顔に書いてある人間を見ると、どうにもからかってみたくなる。他に話しかけようという人間もいないようだしと、いろはは笑みを浮かべながらその女に近寄った。

 

「こんにちは。確か先輩の元カノさんですよね?」

「恐ろしいこと言わないでよ!」

 

 鬼気迫った様子の女に、いろはは首を傾げる。照れ隠しという風ではない。純度120%くらいの恐怖が顔に張り付いている。これは本格的にDVですか先輩とわくわくしながら、逃げようとする女の退路を塞ぐ。

 

「まぁまぁそんな逃げないでください。自己紹介はしたと思いますけど、私は一色いろは。総武の一年です」

「折本かおり。海浜の三年。比企谷とは何の関係もないから。私から関わろうとしてないから。というかこれはセーフだからね? 本当、そっちのボスにはちゃんと言っておいてよ」

 

 怯えつつも逃げようとはしない。観念したらしい折本に椅子を進めると、いろははその隣に座った。高校以前の関係者であるなら、いろはが聞きたいことは一つである。

 

「昔の先輩がどうだったとか本人に聞いても教えてくれないんですよね。あんなだから、中学の時からそこそこモテたと思うんですけど」

「いや、全然」

 

 反射的に答えてしまった折本は言った後に気づいて顔をしかめた。折本的にはここは無難にやり過ごす場面である。あちらに関わって良いことはない。いろはは深度はともかく関係者を匂わせているのだから関わらないに越したことはない。

 

 折本は慌てて失敗を取り繕おうとする。場合によっては相手も見逃してくれただろう。何か事情があるのだということは折本の態度を見れば誰でも察せられる。厄介ごとに関わり合いになりたくないのは誰でも同じだ。折本がいろはに期待したのはそういう配慮である。

 

 無言のお願いに、いろはは笑みで応えた。例えるならそれは仕事を始める前に強盗が浮かべる笑みだ。望むものは全て差し出せ。じゃなきゃもっと酷いことをするぞ。その笑みを見て、折本は全てを諦めた。一色いろはというのがやる時はやる女だというのが解ってしまったからだ。

 

「私死にたくないんだけど」

「奇遇ですね。私もです」

「本当に、ほんっとうに。そっちのボスには黙っててよ?」

「解りました。私はこれでも口が固い方ですから安心してください」

 

 それこそ欠片も安心できる要素のない物言いだと自分でも思ういろはだったが、どういう訳か口の堅さを保障する言葉は大多数の人間に一定の効果があるようで、案の定、眼前の折本も大分ハードルを下げてきた。死にたくないとか言ってる割に危機感なさすぎじゃありません? と思いつつも顔には出さない。

 

 今いろはの成すべきはこの女から先輩の情報を聞き出すことであって、この女の安全について考えることではない。こっちのボス――察するに陽乃のことだと思うが――本人から脅しか何かをかけられているのだろう。

 

 おそらく陽乃と直接面識があるが、あまり接点はない。会ったことがあるのは一度か、多くても二度三度だ。主に八幡と因縁がある。それは折本にとっても八幡にとってもあまり良いものではない。

 

 元カノというのはハズレだったようだが、そこまで的外れという訳ではないようだ。因縁が恋愛がらみであることは間違いないのに彼氏彼女の話がではないのなら、それ以前の問題か。

 

 どちらかの横恋慕か、告白未遂か失敗か。今の八幡と折本を見ていると八幡主体で失点をしたのが折本と考える方が自然であるが、それだと陽乃が脅しをかける理由にならない。そこだけを見るのであれば主客が逆であると見るのが正しいのだろう。

 

 横恋慕にしても告白未遂失敗にしても、失点をしたのは比企谷八幡だ。あまりイメージが湧かないが、高校デビューでキャラが激変するというのは良くある話である。八幡もその口だったのだろうかと思いつつ、折本を見る。

 

 美少女寄りではあるがそこまで尖っていない。クラスで一番かそれに準ずるくらい――勿論、一色いろはには及ばないし、雪ノ下陽乃には言うに及ばない。物の好き嫌いはあるにしても直接対決ならば絶対に負けないという自負がいろはにはある。

 

 対してその当時相手になったらしい八幡だが、陽乃と並んで立てるだけあって、顔の造りは中々悪くない。好みがかなりはっきりと出る強面であるも、美形であるという評価は好き嫌いに関わらず共通する感想だろう。

 

 そして陽乃と釣り合いが取れるだけあって、折本と並ばせると八幡の方が大分勝ってしまう。見えるものだけを見るならこの二人の組み合わせで告白騒ぎがあったとしたら、折本の方が告白をしたと思う。だが実際は、

 

「あいつが告って…………いや、告ってもなかったのかな。私に気があるってことが広まって、皆があいつをからかいだしたの。そういう話が出た翌日にはもう、黒板一面使ってね。あいつ、元からクラスの隅にいるような奴だったんだけど、それで完全に浮いちゃってね。それからは良く知らない。何しろ関わってなかったから」

「…………見栄はってウソついてるとか、そういうことじゃなく?」

「ほんとだよ。あいつ中学の時は相当な陰キャだったの」

 

 はぁ、といろはの口から小さな溜息が漏れた。にわかには信じられない。いろはにとって比企谷八幡というのは口が悪く目つきが悪く、でも自分に自信たっぷりでどんな無理難題でも文句を言いながら解決してのけるデキる男だ。

 

 進んで人の目に留まるような男ではない。陰日向のどちらかを問うのであれば間違いなく陰の方のキャラであるが、間違っても折本の言うような陰キャではない。

 

「高校デビューで大成功したってことですか?」

「し過ぎにも程があるって感じだけどね。デビューっていうか、彼女さんができてから変わったんだと思うけど」

「参考までに聞きますけど、中学の時からああだったら、告白断りました?」

「それを聞く? 私の方から告ってたかもね。好みは分れるだろうけど、今の比企谷はかっこいいもん」

 

 はぁ、と今度は折本の口から小さな溜息が漏れた。女王の手の者に殺されたくはない。それでも、今の八幡を見ていると逃した魚は大きいという気はする。全ては過ぎて、取返しのつかないこと。仮に中学の時に告白を受け入れていたとしても、自分が相手では八幡はああはならなかったという確信がある。

 

「未練とか、あっちゃったりします?」

「むしろ吹っ切れてるかな。ここまで縁がないと思うとむしろすっきりする」

 

 何しろ女王のものだ。ここから何かをしようということは、あれを相手にするということでもある。女として勝てる要素が全く見当たらない。今時分八幡に突撃できるのは、まさに今彼に絡んでいる幼女のように事情を何も知らないか、自殺志願者のどちらかだろう。

 

 そして折本の目には、眼前のいろはが後者に見えている。力不足を自覚しつつも、戦うことを諦めていない女の目。一言で言うなら恋する乙女の雰囲気だ。聞けば本人はそんなことありませんよーと何でもないことのように流すのだろう。

 

 八幡の声が聞こえる度に視線をそちらに向ける。声をかけられる度に思わず笑みを浮かべる。近寄る機会があれば面倒くさそうに追いやられてもぐいぐい近寄る。これで何もないというのであれば相当な悪女だ。相手がつれなくしているというのも勿論理由の一つではあるのだろう。

 

 相手が燃えないからこそ自分が燃えているという向きもある。折本が言えるのは精々火傷しないようにということだけだが、これも、言っても本人はきかないだろう。女王の犬と解って好んで近づいているのだから、折本の目から見ればいろはも十分狂人だ。総武で八幡の所属する部活は変人ばかりと聞いているが、この娘もその一人に違いない。

 

 恋する乙女の顔をしたいろはに、折本は曖昧な笑みを浮かべる。

 

「ま、死なない程度にがんばりなさい。私から言えるのはそれくらいよ」

 

 

 




二年生がさがみんだけなので修学旅行編はなし。
残りのイベントはクリスマス、バレンタインと卒業式の予定です。
来年中には完結するかな……もう少し更新頻度を上げていきます。


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番外 番外1 少し前のバレンタインにあったこと

 

 男の戦場。全ての男がギラギラとした気配を放つその日にも、比企谷八幡は平常運転だった。

 

 内面が色々な意味でアレだけれど、美人でスタイルが良く料理も得意な彼女がいるから、という事実もその余裕の一因ではあったが、中学を卒業して以降、自分なんぞに構う人間などいるはずがない……という悟りを開いたのも大きかった。

 

 期待をするから幻滅するのだ。最初からそんな都合の良いことはないと割り切っていれば、成果が0であったとしてもダメージは少ない。冷静に考えてみればそれは負け犬の理論であったのだけれども、高校最初のバレンタインデーを迎えるまでに彼女ができた八幡は、幸か不幸かその理論を高校で実践することはなかった。

 

 さて、その八幡が登校した二月十四日。世の中の男女の第一次決戦のその日、登校した彼が下駄箱を開けると、その中にはファンシーな手紙が一通納められていた。それを見た八幡が最初に考えたのは『こういう時にどういう顔をすれば良いのだろう』ということだった。

 

 これが中学生の時ならば、見た瞬間に挙動不審になっていたことだろう。確実に悪戯だと理性が告げていても、奇跡を信じずにはいられず、放課後まで淡い期待を抱きながら、結局はすっぽかされたことにさらに絶望し、とぼとぼと帰路についたに違いない。

 

 中学生の時の可能性を幻視しながら、手紙を取って裏返してみる。その辺りの店で売っていそうな、如何にも女子が使いそうな封筒だ。差出人の名前はない。外周を指でなぞってみるが、古典的なカミソリ攻撃というのでもなさそうだ。日に透かして見ても、固形物は入っていないように見えた。虫の死骸というケースも、これで消えたことになる。

 

 指で丁寧に封印を解き、中から便せんを取り出す。封筒と同じくこれまた女子らしい見た目の便箋には、しかしあまり女子らしくない綺麗な字でこう書かれていた。

 

『放課後、待ってる』

 

 どこで、という文言はない。それは自分で考えてその場所を見つけ出し、女王様が飽きてご帰宅される前に辿り着くべし、という勅命に他ならなかった。文面の意図を理解した八幡の口の端が挙がる。目つきの悪い八幡がやるとその邪悪さも一入であるが、幸いにも八幡に視線を向ける人間はいなかった。

 

 手紙を懐に仕舞い、教室に向かう。どこに向かうか。犬にとってそんなものは、考えるまでもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 放課後。適当に授業を受けた八幡は、今日は遅くなるという連絡をした後、最寄の駅に寄った。

 

 こういう時のためにカバンの中には着替えが用意されていた。トイレの中で着替えて、鏡の前で髪型を整える。制服を脱いだだけで印象はそれなりに変わるが、高校生よりも上の年代に見えるかは微妙なところだ。

 

 無駄に背伸びをしているような気がする。八幡はこの手の変装があまり好きではなかったが、制服でいると余計なトラブルに巻き込まれることもある、という陽乃の主張に折れる形で、着替えを常備するようになった。制服でいようと私服でいようと陽乃の性格であれば巻き込まれる時は巻き込まれるのだが、それは気にしないことにした。その程度のトラブルなど、陽乃と付き合ってからこっち、驚くには値しない。

 

 私服に着替え、自分の不景気な顔に気合を入れた八幡は、電車に乗って目的地まで移動した。

 

 あの時は人気もなく静かだった公園は、バレンタインデーということもあって、男女の人通りが多くあった。それなりに近隣において定番のデートスポットなのだろう。リア充爆発しろ、とやはり定番のことを思いながら、陽乃の姿を探す。

 

 絶対にここだ、という確信が手紙を見た瞬間からあっての行動だったが、もしいなかったらどうしようという不安は、犬になって一年以上経っても消えななかった。

 

 これで間違いだったら大目玉だ。バレンタインにすっぽかしたとなれば、陽乃のことだ。どんな報復をしてくるか解ったものではない。

 

 日も暮れて外灯が灯る頃。思い出のベンチに座っている陽乃の姿を見て、八幡は小さく安堵の溜息を漏らした。自分の感性が間違っていなかったことに、少しだけ嬉くなる。

 

 陽乃に声をかけずに、八幡はベンチの端に腰を下ろした。長い足を組んだ陽乃は、八幡とは逆の端に静かに腰掛けている。

 

 無言の時間がしばらく続いた。煙草でもあれば絵になるのだろうが、未成年である、という以前に陽乃からは絶対に吸うなと釘を刺されている八幡である。キスが煙草臭くなるのに耐えられそうにない、とのことだ。女王様にしてはかわいい理由もあったものだが、恋人に言われては仕方がない。多少の憧れはあったものの、陽乃と一緒にいる限りは一生涯吸わないと心に決めたのも記憶に新しい。

 

「合格」

 

 少し離れた陽乃が、小さく呟いた。拳一つ分くらいの距離を、そっと詰めてくる。

 

「良くここだって解ったね。ヒントは何も出さなかったのに」

「こういう日くらいは、陽乃も雰囲気とかロマンとか、そういうのを求めるかと思いまして」

 

 苦笑を浮かべた八幡は辺りを見回した。ここは陽乃に告白され、付き合うことに決めた場所である。他にも思い出の場所は色々あるが、校外で、今日中に無理なく行ける場所となれば、ここしかないと八幡は思ったのだ。それでも心配になったのはご愛嬌だが、目の前に陽乃がいるのだから、何も問題はない。

 

「一応、私も女の子だからね。それに高校最後のバレンタインだし? 少しはこういうこともしてみたいなと思ったの」

 

 はいこれ、と陽乃が包みを差し出してくる。一目で陽乃がラッピングしたものだと八幡には解った。こういう性格でも陽乃は全ての家事に万能だ。主夫を目指すと自称した身としては、その完璧さに頭の下がる思いである。

 

「ありがたくいただきます」

「おかえしは無理しなくても良いからね。心さえ込めてくれれば、私は何にも気にしたりしないから」

 

 それが一番難しいのだ、ということを解った上で、陽乃はそういうことを言う。初めての彼女、しかも相手が陽乃ということもあって去年のホワイトデーには散々悩んだものだ。今年もそうなるのかと思うと気分も重いが、今年は幾分、その重さを楽しめるようになっていた。陽乃に毒されているなと思う瞬間である。

 

 言葉の間に、陽乃は少しずつ距離をつめてきていた。離れていた距離は、既に腕を伸ばせば届くくらいの距離になっている。外灯の薄暗い光の中、陽乃のはっとする程白い項が見えた。陽乃にしては控えめな態度に、八幡は彼女が何を要求しているのかを理解した。自分から行動する陽乃にしては珍しい欲求であるが、これもバレンタインだから、と言ってしまえばそれまでだった。

 

 八幡のような性格をしている人間にとって、それは羞恥プレイに等しかったが、陽乃がこういう要求をしてくることなど、いつものことだ。そう割り切れば大抵のことはできる……はずなのだが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。

 

 笑みを堪えながら押し黙っている陽乃の肩にそっと手を置く。僅かに離れた距離で八幡を見上げる陽乃の顔には、やはり笑みが浮かんだままだった。言ってやりたいことは山ほどだったが、それら全てを押し込んで、八幡はそっと目を閉じ――陽乃もそうしているだろう、ということを確信しながら、顔を寄せる。

 

 ごちん。

 

 決して小さくない音がした。痛みを堪えつつ目を開くと、すぐ近くに陽乃の顔があった。楽しそうに笑う陽乃の顔を見て、自然と八幡の頭に浮かんできたのは、ただ一言。

 

「陽乃」

「もっと呼んで」

「陽乃」

「…………八幡の声にも味が出てきたね。もう一回」

「陽乃」

「私も雰囲気に流されてるのかも。何だかとても良い気分。次で最後。ちゃんとバレンタインらしい大好きを込めて」

「…………陽乃」

「うん、良く出来ました」

 

 満面の笑みを浮かべた陽乃は、ポケットから取り出したチョコを自分の口に放り込むと、そのまま唇を重ねた。甘ったるい味が口の中に広がると同時に、陽乃の舌も侵入してくる。逃げようと思った時には、もう遅かった。がっしりと頭を掴まれていた八幡は、陽乃の気が済むまで蹂躙される……

 

 唇を離すと、唾液の糸に外灯の薄明かりが反射していた。真っ赤になっているだろう自分の顔を自覚しながら、適度に頬を染めている陽乃の肩を押す。気持ちが落ち着かない。普通逆だろうと思いながらも顔を逸らそうとする八幡に、楽しそうに笑う陽乃は無遠慮に身体を寄せてくる。

 

「あ、八幡のくせに照れてる。かわいー」

「男にかわいいとか言わないでくれませんか。俺でもたまには、傷つくことがあるもので」

「たまには良いじゃない? 年に一度なんだから」

 

 満足そうに、よしよしと頭を撫でる陽乃の顔を見ながら、八幡は来月のお返しは何にしようと頭を巡らせていた。あっと驚く仕掛けができれば良い。一月もあれば何か、良いアイデアが浮かびそうな気さえしていた。来月はこれで勝てる。自分の未来に根拠のない展望を抱いた八幡は、内心でにやりと邪悪に笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな八幡の顔を見ただけで、陽乃は自分の恋人が何を考えているのか一瞬で理解した。

 

 裏をかけると思っているのならば思い上がりも甚だしいが、努力をしようという姿勢が嬉しくもある。それに、普段はあまり見せることのない八幡の真剣な表情は、決して多くはない陽乃の乙女心を大いに刺激していた。

 

 これはもう、悪戯をするより他はない。

 

 考えに没頭するなど、女王の前では大きな隙だった。そもそも、ポケットの中のチョコが一つだけだと決めてかかっている辺り、眼前のワンコはまだまだ詰めが甘い。

 

 にやり、と邪悪に笑った陽乃はそっと口の中にチョコを放り込んだ。

 

「八幡?」

 

 振り返った八幡の無防備な顔に、陽乃は勢いよく唇を重ねた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




去年はセングラでしたが今年は青春ラブコメ。
日付が変わってから考えて書いたものですが、どうにか間に合いました……


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