島津由乃に転生 (琉命)
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プロローグ

剣道は、私の生き甲斐だった。

人を怖れ、怯えて逃げてばかりだった私は、面を被って剣を振っている時だけは平常心を保っていられた。

剣道が、私の全てだった。

 

――

 

中学三年生までの私は、他人と接することを避け、部屋に籠って狂ったように読書しているだけの人間だった。

本を読んでさえいれば、それでよかったのだ。

内容なんて構わず、興味を持った本をひたすらに読みふける。そうして、まだ見ぬ知識が蓄積されていく。それが楽しくて、楽しくて。

将来のことなんて気にもしていなかった。きっと、一生本を読んで過ごしていくんだろうって、思っていた。

 

そんな私を見かねていたのか、ずっと勝手に振る舞ってきた私に、母はぴかぴかの竹刀と胴着、そして防具を差し出した。

「剣道、やってみない?」

なんて提案してきたのだ。

それは、母にとっては賭けだったのかもしれない。私に外へと目を向けてもらうための。

 

侍がバッタバッタ斬る小説――剣客ものの作品を愛読していたから、私が剣道に興味があると考えての行動だったのだろう。

男の魂がぶつかり合う、熱い物語に心引かれていたのは確かだ。

けれど、自分が剣道をやるなんて考えてもいなかった。剣を交えて戦う競技が自分にできるとも思えなくて。母の気遣いが苛立たしくもあった。

だから、その時は突っぱねたのだけれど。

 

気づけば私は竹刀を手にとっていた。柄を軽く握り、適当に構えてみると、胸の内の激情が沸き上がるのを感じた。

生まれて初めての竹刀――。

手に馴染む竹刀の感触が心地よい。

沸き起こる衝動のままに振ってみると、かすかに空を斬る音が小気味良く耳に響いた。

周囲を気にしていなかったため、ガツンっと鈍い音を上げ、電灯に直撃してしまったが、そんなことは些末な問題でしかなかった。

 

――楽しい。

楽しい、楽しい、楽しい!

 

心はただその感情に満たされていたから。

悔しいけれど、母の思惑に嵌まってしまったわけだ。

 

 

それから私は、剣道にのめり込んでいった。

毎日が輝いていた。

高校へ進学し、ひたすら剣を振り研鑽を積む日々。

剣道をしているときだけは、人を恐れずに、平穏な心のままでいられた。

 

そうして無心に努力を重ねた結果であろうか。

三年生になる頃には、私は全国大会に出場するほどの実力をつけていたのだった。

 

 

――そして、事故は起こった。

大会会場へ向かうバスが何かに突っ込んだのだ。耳をつんざく轟音が上がり、あまりの衝撃で、私は座席から投げ出された。

何が起きたのか全く理解できないまま、バスの中は地獄絵図と化していく。

 

乗客らは私を含め混乱の最中にあった。皆が狂ったように叫んでいる。

 

助けて、助けて!

 

 

私も皆も血まみれになり、殆ど無意識に床を這い、懸命にバスから抜け出そうともがいている。

 

――苦しい。

 

息ができない……。

 

ああ、もっと、剣道がしたかった。

まだまだ、私は上達できたはずなのに。

 

剣道をしていたいよ。

 

生きたい――。

 

死にたくない――!

 

そして、私は意識を失った。

 

 

 

 

 

 



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原作開始前
1


――あれ?

 

覚醒して最初に覚えたのは、体が自分のものでないような、奇妙な違和感。

意識ははっきりせず、どことなくもやもやしている気がする。

体も思うように動かない。

 

それでも――私には意識があったのだ。

私は助かったのだろうか。すると、私はまだ剣道を続けられる?

 

小さな希望が芽生えかけたその時、

「女の子ですよ!」

祝福するような、優しい声が近くで聞こえた。

知らない人の声に、私は盛大に驚いた。

 

だ、誰?

 

「ええ! 私の娘――」

今度先程とは違う、慈愛に満ちた聖母のような声がかけられた。

やはり体は動かないが、そっと視線を声の主の方へと向けると、まだ若々しい女性の姿があった。

 

「名前はもう決めてあるの。由乃――あなたは由乃よ」

その女性は花が開くような微笑みで私を見つめている。

 

ど、どなた?

 

ここ、どこ?

 

私は――誰なの?

 

――

 

しばらく考えていたからか、次第に心は落ち着いていき、冷静になれた。

周りの様子を鑑みるに、どうやら私は今赤ん坊になっているらしい。

どこからどうみても、正真正銘の赤ん坊になってしまった。自分の目で確かめたのだからそれは間違いない。

 

つまり、私はやっぱりあの時死んだのだ。

そして再びこの世に生を受けた。そう考えるべきではないだろうか。

それならば、あの事故で助からなかったことも、もはやそれほど悲しくはない。

いずれにせよ、剣道を再びやることができるなら、それでいいのだ。

 

私の生活の中心には常に剣道があって、剣道をやらなければ生きていけないほどだから。

もう一度剣道をやる機会を与えられた。これが嬉しくないわけがない。

転生なんていう非現実的なものを体験してあまり戸惑わずにいられたのは、そういうわけだった。

 

現世での私は、島津由乃というらしい。

お母さんが嬉しそうに何度も名前を呼ぶし、看護婦さんも「良かったですね、島津さん!」なんて祝っているから、もう覚えてしまった。

島津由乃として、これから私は第二の人生を歩んでいくことになる。とても楽しみだ。

 

それから、ひどく慌てた様子でお父さんもやってきた。

「由乃、僕がお父さんだよー」

などと緩みきった威厳の欠片もない顔つきで話しかけてくるもんだから、どうしたらいいか分からず困っていると、

「まったく可愛いなあ、僕たちの娘は!」

なにもしていないのに誉められた。何でもいいのか。

 

「ふふ、甲太さんたら親バカね」

そう笑うお母さんも幸せそうで、あんたも親バカだと言ってやりたくなった。

 

 

まあ、そんなこんなで騒々しい時間を過ごし、一週間ほど経って、私たちは退院した。

お母さんとお父さんに連れられて、自宅へと向かう。

 

到着した家は――なんというか、すごかった。

家が二つあって、それぞれの門はあるんだけれど、一歩入るとその敷地は中で繋がっているのだ。

共通の庭とか、すごく密な二つの家族とか。

ちょっとした二世帯住宅みたいな感じで、私はあまりよく思わないんだけれど、一般的には魅力的なんだろう。

 

一つはもちろん、我らが島津家。

もう一つが、嬉しそうに語っていたお母さんとお父さん曰く、支倉さん一家の住まいらしい。

 

話によれば、令という名の一つ上の娘さんがいるのだという。きっと仲良くなれるよ、なんて呑気に言っていたけれど。

 

……うわあ、嫌だ。

まだ顔も知らないけれど、仲良くなれる気がしない。前世でも、結局友達なんて一人もできなかったのだ。

帰宅する前に憂鬱な案件を持ち込まれて、すっかり気分は落ち込んでしまった。

 

でも、嫌なことばかりじゃない。

自宅での生活が始まり、早速隣の支倉一家が訪ねてきた。

その時に支倉家の一人娘令さんとも対面を果たしたのだけれど。

まだ相手も一歳だからどんな子かよくわからないが、将来有望な感じの可愛い子供だった。

 

それよりも重要なのは、その時大人たちとの間で交わされていた会話。それを盗み聞きした限りでは、どうやら、支倉家のご主人は剣道の道場をやっているそうなのだ。

 

それを聞いた時、私は心から歓喜した。

なんたる幸運か!

ここは剣道をやるにあたって、最高の環境ではないか。

ここでなら、私はもっと強くなれる。そんな確信ができた。

 

それにしても、赤ん坊は不便だ。

前世の時、赤ちゃんは何も考えず、ただされるがまま、身を任せていればいいのが羨ましいなんて思ったことがあった。それが間違いであったと、年不相応な精神を持って転生した私ならわかる。

 

誰かの助けがなくてはなにもできないのだ。そのもどかしさを、精神年齢とのギャップ故に感じてしまうのだ。

 

まだはいはいもろくに出来ないし、用を足すのもできないし、言葉はわかるのに上手く喋れないし――と、ストレス源は列挙すればきりがない。

 

なにより恥ずかしかったのは、もちろん授乳だ。

なにが悲しくて、他人の乳房を吸わなくてはならないのか。

しかし赤ん坊にとっての栄養源はこれであるとわかっているから受け入れているが、つらい。これ以上の羞恥プレイがあるだろうか。

 

そして極めつけに、赤ん坊は非常に退屈なのだ。

剣道はもちろん、読書だってできない。お母さんとお父さんが色々構ってくれるけれど精神年齢十八、それも普通の十八ではない私には壊滅的なまでにつまらない。

それをなんとか楽しんでいる風を装うのがまた大変で。それなりに付き合ってあげてから、寝た振りをするのだが、これが面倒臭いとしかいいようがない。

 

現世のお母さんとお父さんについてだけれど、私にとってはやっぱり他人としか思えない。でも向こうからしたらもちろん、かわいい娘。この壁はどうあっても埋まらないと思う。

でも家族として、それなりには付き合っていかなくちゃいけない。

 

「うぅ……」

 

そんなことを考えていると、再び目覚めた時の激しい頭痛がぶり返してきた。

軽快にリズムを刻んでいるみたいに、痛みが押し寄せてくる。

耐え難いものへと、その痛みは強さを増していく。

 

「うああっ!」

さすがに堪えきれなくて、私は無様に甲高い声を上げた。

 

「由乃っ! どうしたの、大丈夫?」

異変に気付いて、台所にいたお母さんが血相を変えて駆け寄ってきた。心配そうに、不安の色をその目に湛えている。

 

自分を案じているその声もどこか遠くに聞こえる。

ふと、額に手を当てられた。

お母さんの手はひんやり冷たくて、辛いのにふっと微笑んでしまった。けれどその笑みも、すぐに苦痛に歪んでしまう。

 

「すごい熱じゃない……」

 

お母さんが驚愕して瞠目した。無理もない。

先程まで普通にしていたところに、突然の発熱ときたもんだ。驚かないわけがない。

慌てて冷蔵庫へと走ったお母さんは、私の額に冷えぴたシートを貼ってくれたけれど、それも焼け石に水。

大した効果もなく、すぐに温くなってしまった。

 

熱い、熱い……。

 

「はぁ……はぁ……」

 

体が異様なまでに熱を帯びていくのが感じられる。珠のような汗がぶわっと全身を駆け巡っていく。

 

熱い、熱い……。

 

「うあああぁっ!」

柄にもなく、けれど年相応に、私は泣きわめいた。声をあげずにはいられなかったのだ。あまりに苦しくて、辛くて。

 

「由乃っ! 由乃っ!」

 

ああ、そんなに強く揺すらないで。

 

熱い、熱い……。

 

赤ん坊の私の体では、その激しい頭痛と熱に耐えきれなかったのだろう。

私は前世の最期のごとく、再び意識を失った。

 

その瞬間。

 

死――。

その言葉がまた脳裏に過った。



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2

 

もし神様が本当にいるのなら、どうしてこんなひどい仕打ちをするのだろう。

転生なんて奇跡をもたらしておいて、なんたることか。

これでは生き地獄ではないか――。

 

――

 

重い瞼を開いて、視界に映ったのはお母さんの暗い表情だった。

お母さんは私の様子に気づいてはっと目を見開き、体を乗り出した。

 

「由乃っ!」

 

お母さんの小さい、けれど確かな喜びを孕んだ声音。それは私を心から想っているがゆえの温もりを帯びていて。

私はそれを、ほんの少しの戸惑いをもって迎えた。

 

ここはどこだ?

目を丸くして、視線を這わす。

 

白を基調としたシンプルな部屋で、窓からは穏やかな陽光が差し込んでいる。

 

――ここは、病室だった。自宅へ帰って数日も経たずして、再びこの場所へと舞い戻ってしまったというわけだ。

 

ふと、人肌の温もりを感じた。言うまでもなく、それはお母さんの腕。

私の小さな体はお母さんに優しく抱き止められ、その耳に、耳心地の良い声で囁かれる。

 

「生きていてくれてよかった……愛してる、由乃」

 

そうして私の頭は撫でるお母さんの手はとても優しかった。優しすぎて、涙が出てくる。

 

「うぅ……えぅ……」

 

嗚咽を洩らし、鼻水流し、 羞恥心なんてかなぐり捨てて私は泣いた。

ここまで感情を露にしたのは、前世を含めても始めてだったかもしれない。

 

比喩でなく、私は生と死の瀬戸際に立っていたのだと思う。

現世に生まれて以来、私はずっと気を張っていたのかもしれない。

そうやって声をかけてもらってはじめて、私はこのお母さんからの深い愛情を感じた。

 

私が目覚めた興奮が冷めやらぬ中、お母さんはナースコールを押し、私が覚醒したことを嬉しそうに告げた。

 

看護師さんとお母さんの話によると。

意識をなくしてすぐ、私は病院へと搬送されたそうだ。

なんと熱が四十度を優に超えていたらしく、下手したら死んでいたかもしれなかった、と。

それぐらい危ない状態だったらしい。

 

良かった、良かったと目に涙をためてしきりに呟くお母さん。

そんな様子に、涙が収まっていた私までつられてもらい泣きだ。

 

お母さんはグスグス泣いて、私は子供らしくわんわん泣いた。

このような状況になってようやく、私はお母さんをお母さんだと思うことができた。自分はこのお母さんの娘なのだと。

お母さんとの心の繋がりが、ようやく出来た。そんな気がした。

 

 

――問題は、その後だ。

看護師が告げた、私の突然の発熱は原因不明であるとの言葉。

私が何らかの病気にかかっていたのか、それともただ症状がひどいだけの風邪だったのかは分からずじまいだったのだ。

 

ともかく、少々弱い身体に生まれたのかもしれないから、ちょっとした風邪なんかでもひどい症状になりうる。

だから、覚悟しておいてください、と。

 

私は愕然とした。お母さんもショックを受けているらしかったけれど、私はそれ以上だったと思う。

おいおい、ちょっと待て、それは聞き捨てならないぞ。

 

――弱い身体。

ふざけるな。

それは私には不都合な話だ。脆弱な身体では満足な剣道をすることができない。それではせっかく転生したというのに、意味がないではないか。

 

剣道をしてさえいれば、自分は自分でいられるのだ。

私の唯一の拠り所まで、奪わないでほしい。

 

だから。

どうか、それがただの杞憂であってほしい。

思い過ごしであってほしい。

 

私を現世に転生させ賜うた神様が、本当にいらっしゃるのなら――どうか、どうか、ささやかな私の願いをお聞き入れください。

 

生まれて始めて、神様へ祈る。

手は合わせられないけれど、私は心から願った。

 

 

 

――

 

 

 

ああ、その心配が杞憂に終わればどんなにか良かっただろう。

 

不安が的中してしまったのだ。

私の身体はやはりどこまでも虚弱であったらしい。

 

成長するにつれて、私の虚弱体質はその姿を明確に現していった。

三歳になる頃には、病弱な身体がほぼ完成していた。

原因不明の発熱、発作、時には吐血。不定期に起こるそれは、私の心までも徹底的に蝕んでいく。

 

運動はもちろんのこと、ただ走ることすらも、満足にできない。

ちょっとはしゃぐと、それだけで身体が悲鳴を上げる。

 

そんな不自由な身体を、私は心底嫌った。

満足に動かせないこの身体に、もどかしさ以外、何を感じるというのか。

私を生んでくれたお母さんを恨んでいるわけじゃないけれど、もっと健康体でありたかったと、そう思わない日はない。

 

剣道。

それは私の生きる道であり、生きがいであり、私の全てだった。

剣道をするために、私は再び命を与えられたのだと思っていた。

再び剣を握ることができると、私は当たり前のように考えていた。

 

なのに、なぜ!

なぜ、私は剣道ができないのだ。

 

これでは、何のために私は再びこの世に生を受けたのか分からないじゃないか!

 

剣道という、確固たる生きる意味を見失ってしまった。

 

これから先、何のために、私は生きていけばいいのだろうか。

分からない。

分かるわけない。

――そうして生きていく道しるべをなくし、絶望の淵にいた私を正しき道に戻してくれたのは、隣家の御令嬢、令ちゃんだった。

一歳年上の、可愛い従姉妹だ。

 

 

「……あ」

 

例によって、ベッドで安静に寝かせられている私はその音を聞いて顔を綻ばせる。

 

ばたばたばた。

慌ただしく廊下を走る足音。今日も今日とて、飽きもせず来てくれた。

 

「由乃っ」

 

勢いよく部屋の扉が開かれて、令ちゃんが入ってくる。令ちゃんもどこか嬉しそうだ。

端正で見目麗しい顏に、少年かと見紛うほどのベリーショートからなる完璧なルックス。よもや美少年と勘違いしてしまいそうなくらい、格好いいのだ、令ちゃんは。

 

見た目とは裏腹の乙女っぷりもまた素敵なの。

こんななりして、おままごととか大好きで、お母さん役をやりたがって駄々をこねたりする。

そんなギャップが可愛いのだ。

 

 

「令ちゃん……おはよう」

 

「おはよう。身体の調子はどう?」

 

「うん……今日はだいじょうぶ、だと思う」

 

昨日は久しぶりに四十度近くの熱を出して、一日中寝込んでしまった。支倉家総出の用事があったのに、令ちゃんはそれを突っぱねて私を看病してくれたのだ。

ずっとそばにいて、手を握ってくれていた。

令ちゃんがいてくれているだけで、不思議と心が穏やかになる。

 

「ほんとう? 由乃の大丈夫は信用できない」

 

精神年齢のせいか、私は自分の体調をかえりみず無理をしてしまうことがままあるらしい。自覚はないのだけれど。

 

「ほ、本当だよ。令ちゃんたら、心配性なんだから」

 

拗ねてそう言うと、令ちゃんは笑って私の頬をつんとつついた。

 

「や、やめてよぉっ……令ちゃんのばか」

 

「ふふ、拗ねてる由乃もかわいい」

 

かあっと頬が熱くなって、照れ隠しのため話題転換を図った。

 

「えと、それで……今日はどうしたの、令ちゃん?」

 

「ふふ、今日も一緒に本を読もうと思ってね、持ってきたの」

 

子供らしいというかなんというか、令ちゃんは本が好きな私のために、お姉ちゃん風吹かして読み聞かせをしてくれたりする。

前世でも読んだことのある本でも、令ちゃんと肩を合わせて読めば百倍楽しいのだ。

 

「あ、ありがとう……今日はどんな本なの?」

 

「えへへ、今日はこれ!」

 

そう言って令ちゃんが差し出したのは、ロミオとジュリエットの絵本。

子供向けに書き起こされたものらしく、可愛らしい絵でかかれている。

話自体は知っているけれど、この絵本は読んだことがなかった。

 

私がベッドから身体を起こすと、令ちゃんは寄り添うようにして隣に腰かけた。

私の右膝と令ちゃんの左膝に本をのせて、ゆっくりと令ちゃんは読み始めた。

令ちゃんの優しい声で、物語が紡がれていく。

 

――

 

「……でした、おしまい。どうだった?」

 

読み終わって、令ちゃんは本を閉じた。

おもちゃをねだる子供みたいに感想を求めてくる令ちゃんがかわいくて、私は笑った。

 

「すごくよかったよ、ありがとう」

 

「えへへ、また本読もうね!」

 

隣に令ちゃんの存在を感じながら過ごす、穏やかなひととき。

私はそれが大好きだった。

それこそが、剣道を失った私が唯一享受できる幸福だった。

 

 

本をしまった令ちゃんを横目に、私はふと思い浮かんだことを口にする。

 

「明日は、リリアンの入園式だね」

 

リリアンとは、私立リリアン女学園のこと。東京都下、武蔵野の面影をいまだに残す地区に建つ、幼稚舎から大学までの一環教育が受けられる乙女の園。いわゆるミッション系お嬢様学校だ。

 

「うん、由乃とはあんまり一緒にいられなくなっちゃうね」

 

令ちゃんはちょっと寂しそうだ。

令ちゃんは明日からリリアンの生徒となる。

歩いて行ける距離だし、離ればなれになるというわけではないけれど、今までいつでも会いたいときに会えていたから、寂しく感じてしまうのだ。

 

でも私も、来年になればその一員だ。

そうなれば、令ちゃんと一緒に通うことができる。

 

前世のころから、引きこもりでありながら勉強に関しては得意だった。

だから休みがちにはなるだろうけれど、学業に関しての不安はない。

 

なによりも、知らない子と過ごすことへの恐怖が未だにあって、不安が心に重くのし掛かっている。

 

でも。

令ちゃんがいるから。

隣で令ちゃんが手を握ってくれていれば、きっと大丈夫。

 

剣道を失って絶望せずにいられたのは、なにより令ちゃんがいたから。

生まれた時からいっしょの令ちゃんがいたから。

 

初めは憂鬱だった隣家との交流も、令ちゃんが私をずっと気にかけてくれたから、次第に心を開いていったのだ。

そうして気付けば大切な存在になっていた、令ちゃん。

令ちゃんがいれば、なんだってできそうだ。

 

だから私はまだ、この世界の住人として、生きていられるんだ。

 

「大好きだよ、令ちゃんっ」

 

令ちゃんはとびきりの笑顔で私を抱きしめてくれた。

 

 

 



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3

 

それは、小学部に入ったばかりの頃の話だ。

令ちゃんには私が必要で、私には令ちゃんが必要なんだって、改めて認識させてくれた、かけがえのない思い出。

私たちは付かず離れず一心同体なのだと、あの時は心から思うことができたのだ。

 

――

 

「え……剣道を?」

 

その日、令ちゃんは学校から帰ってきてすぐに私の部屋へやってきて告げた。

剣道を始める、と。

 

「うん、今度から家の道場で、ね」

 

分かってはいた。支倉家が剣道道場をやっている以上、遅かれ早かれ、いつか令ちゃんは剣道をはじめることになると。

なにもおかしくない。

ないのだけれど、何かすごくもやもやする。

 

「……私もやりたい」

 

仕方のないことだと分かってはいても、令ちゃんだけずるいという思いは隠せなくて。

気付けば、私はそれを口に出していた。

 

「えっ」

 

令ちゃんがぽかんとしている。

なにもかもさらけ出している私と令ちゃんだけれど、異常ともいえるであろう剣道への執着を話したことはなかった。

 

「だって……私もやりたいもん、令ちゃんだけずるい」

 

だから、そんなに剣道やりたいの、って驚いてるんだろう。

 

頬を膨らませて、私は令ちゃんの腕を掴み、抱き留めた。私の弱い力じゃ何の拘束力もないけれど、それでも、ぎゅっと包み込む。

 

剣道ができなくても、令ちゃんがいたから私の心の平穏は保たれていた。

けれど、令ちゃんが剣道、を始めるとなったら、嫉妬心が芽生えてしまうのはしょうがない。

だって、剣道と令ちゃん、どちらも好きなんだから。

 

そして、私の預かり知らぬところで令ちゃんが熱く打ち込んでいるのがいやなんだ。

私も同じところで、同じ空気を吸っていたかった。

 

「だって、由乃は……」

 

令ちゃんはそうやって言葉を濁した。

由乃は身体が弱いから無理だよって、正面切って現実突きつけるのは憚られたんだろう。

身体が弱いのは、当人である私だってよくわかってる。ましてや剣道なんて、できるわけないって。

それについてはもう、虚弱体質が判明した時点でさんざん泣きはらしたくらいには思いしらされている。

 

「わ、分かってる。分かってるけど……でも、私だって」

 

「……はぁ」

 

寄りすがってさんざんごね続ける私を、重い溜め息をついて見下ろす令ちゃん。困っているのがありありと分かる。

令ちゃんを困らせたかったわけじゃないのに。

 

「あのさ、由乃……」

 

令ちゃんはきりりと真剣な表情を浮かべた。

なにを言われるのだろう。

嫌われるかもしれないと思うと怖くなって、令ちゃんの言葉の途中で手のひらを返すように謝った。

 

「……わがまま言ってごめんなさい、令ちゃん。嫌いにならないでっ」

 

怯えるあまり、令ちゃんの腕を一層強く抱きしめる。

 

暫し間をおいてから、令ちゃんは再び溜め息を吐いて、もう片方の手で私の頭を撫でてくれた。令ちゃんの繊細な指が、私の髪一本一本の間をさらさらと流れていく。

その心地よさに私は思わず目を細めた。

 

「……嫌いになんか、なるわけないじゃない。それだけは、絶対にありえない」

 

「うん……ありがとう」

 

私よりも背が高くて体格のいい令ちゃんの四肢は、ぽかぽかあったかくて、抱きしめられるととても気持ちいい。お母さんには悪いけれど、人肌が恋しくなったら、私はお母さんよりも令ちゃんに抱きしめてもらいたいと思う。

令ちゃんの包容力は、この年にして私のお母さんを越えているんじゃないだろうか。いや、それは言い過ぎか。

ほら、いつしか潤みかけていた涙もひっこんでいる。

 

「あのね、私だって由乃と剣道の稽古を一緒にできたら嬉しいよ。でも、そのせいで由乃が倒れちゃったら、みんな悲しむよ」

 

令ちゃんは優しい声音で語りかけてくる。

こんな風に諭されると、はいと言わざるを得ないような妙な説得力を感じる。

 

「……ごめんなさい」

 

「でも」と令ちゃんは言葉を継いだ。

 

「……まあ、ちょっと素振りするだけとかなら、叔母さんだって許してくれるんじゃない?」

 

甘える私に、令ちゃんは妥協案としてそう言ってくれた。

 

「そ、そうかな?」

 

恐る恐る令ちゃんの顔を見上げる。

 

「私だって一緒に頼んであげるから」

 

「……ありがとう、令ちゃん。大好きっ」

 

「ただ、先に言っておくけれど、絶対に無理は禁物だからね。約束できる?」

 

「……はーい」

 

「じゃあ、お願いしに行こっか」

 

「うんっ」

 

二人寄り添って、私たちはうきうきと部屋を出た。

 

 

――

 

「剣道をやりたい?」

 

そんなこんなで令ちゃんと一緒にお母さんに直談判しに行ったのだけれど、やはりというか何というか、お母さんは難色を示した。

 

「う、うん……」

 

激しい運動はもっての他な私だから、何寝言言っているんだという感じで、お母さんは明らかに否定的だ。

素振りとかちょっとしたものに参加するだけだからと、懸命に説得を試みる。

 

「ぜ、絶対無理しないから……」

 

「私からもお願いっ」

 

令ちゃんまで、しっかりと頭を下げてくれた。二人して、それこそ土下座せんばかりの勢い。

それに圧倒されたのか、お母さんは押されぎみだ。

 

「令ちゃんまで……私も、いい、って言ってあげたいけれどね……」

 

令ちゃんの妥協案も提示して、いい流れになっていたのに、お母さんはやはりどこか不安そうだ。

やっぱり母親としては心配なんだろうな。なにせ、こんな身体だし。

 

「私がちゃんとそばについているから! それに、お父さんだっているし」

 

令ちゃんはまるで自分のことのように必死で、それにつられて私の語気も強まった。

 

「……お、お願い!」

 

深々と頭を下げる。

思えば、生まれ変わってからここまで必死に頼み事をしたことはなかった。

らしくないと怪しまれているかもしれない。

 

なんて考えてたら、頭をわしわしと撫でられた。

令ちゃんにお母さんにと、私は何かと撫でられやすいらしい。心地よいからいいんだけど。

訝しんでいると、お母さんは何故か笑いかけてきた。

 

「はぁー……分かったわ」

 

いよいよ根負けしたのか、お母さんはついに認めてくれた。表情がぱっと華やいでいくのが自分でも分かる。

 

「貴女がここまで頼んでくること、今までなかったものね」

 

「ほ、本当にいいの?」

 

「ええ、いいわよ」

 

「ただし」と、お母さんは真剣な表情で付け加えた。

 

「絶対に、無理しちゃダメよ。ちょっとでも辛くなったら、すぐやめなさい。もちろん、貴女がさっき言った通り、やるのは、素振りとか簡単なものだけ。大丈夫そうだからって調子に乗ったりしないこと。いい、約束できる?」

 

「う、うん」

 

「それなら、よし! 頑張りなさいね。令ちゃん、よろしくね」

 

「はい、ありがとう、叔母さん」

 

「令ちゃんっ」

 

嬉しさのあまり、私は半泣きになって令ちゃんに抱きついた。

認めてもらえないだけならまだしも、叱られたらどうしようって、かなり気を張っていたのだ。

緊張の糸が切れて、涙が溢れだす。

 

「良かった、良かったよぉ……」

 

「うん……良かったね、由乃」

 

「大袈裟ね、由乃は……むしろ、もっとわがままを言ってくれてもいいのよ?」

 

令ちゃんからも、お母さんからもなでなでされて。

私は幸せ者だなあって心から思った。

 

転生してから、この私にはもったいないくらい素敵な家族に、不満なんて持ったことはない。あるとすれば、剣道ができないことだけだから。

だから我が儘言ったことなんて、殆どなかった。

でもそれは、私が精神的には子供じゃなかったから、年相応に駄々をこねたりしなかっただけの話。

 

「貴女は本当に手がかからない子だわ。いつも落ち着いているし、体調がいいときはお手伝いだってしてくれる。貴女みたいな娘を生んで、私は本当に幸せ」

 

なのに不相応に褒めちぎられて、私は嬉しいというより困惑していた。

 

「けれど、私はもっと由乃の我が儘を聞きたいの。あれがほしい、あれが食べたいって、もっと言ってくれていいのよ」

 

「えと、うん……が、頑張るね」

 

戸惑いの中なんとか言葉を紡ぎ出すと、今度は令ちゃんがぷっと吹き出した。

 

「ふふ、由乃はいつも文句一つ言わないものね。だから今日、あんな風に我が儘言われて新鮮だったよ」

 

令ちゃんまでお母さんの言葉に乗っかって、からかってくるから。

 

「も、もう、令ちゃんまでっ!」

 

むきになって声を荒げるも、「はいはい、かわいいかわいい」って軽くあしらわれる。

挙げ句にまた頭を撫でまわされて、あっさり尻尾振ってしまう私……なんて情けないんだろう。

 

「うふふ……」

 

お母さんはそんな様子を、温かく見守っていた。

 

 

 



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4

そして、いよいよその日はやってきた。

私の体調を考慮しての調整だったから、令ちゃんが一足先に剣道を習いはじめることになってしまったのは残念だったというほかない。

稽古を終えて帰ってきた令ちゃんがへとへとに疲れきっているのを何度か見ていたから、心の奥から沸き起こるワクワクを抑えるのは大変だった。 だから今日という日を、私は今か今かと待ち望んでいたのだ。

 

朝、令ちゃんの迎えで家を出て、道場へと向かう。

その更衣室で、令ちゃんはぴかぴかでまだ解れひとつない新品の剣道着に着替えて、私はジャージに着替えた。さあ、準備万端だ。

「お互い、頑張ろうね」

 

なんて笑いかけてくれる令ちゃんの手を握りしめる。

道場に入っていく令ちゃんの隣について、私も中へ足を踏み入れた。

そこではすでに、稽古が始まっていた。

 

「わ……」

 

幾人かの男性女性が入り交じって、打ち込み稽古を行っている。気迫のこもった発声と、激しい剣戟の音が道場に響く。

剣士たちの汗が染み込んだ、独特の匂い。

前世の時散々堪能していた、そして今でもなお渇望する懐かしき雰囲気が、そこにはあった。

 

素晴らしい光景を目にし、一筋の涙が流れる。抑えつけてきた剣道への欲望が、ここにきて一気に解放されたのだ。

ああ、剣道って、やっぱりいい。

 

「由乃、どうしたの? 怖くなった?」

 

一歩入ったところで立ち尽くし、涙までこぼす私を心配してくれたのか、令ちゃんがこちらを見つめている。

余計な不安を与えてしまったと、私はあわてて首を横に振った。

 

「ううん……大丈夫」

 

「そっか、辛くなったらすぐ言ってね?」

 

令ちゃんが殊更に真剣な顔になるから、私も顔を強張らせて頷く。

二人で見つめあうのもそこそこに、私たちは指導を行っている叔父さんのもとへ向かった。

 

「由乃ちゃん、よく来たね」

 

いつもと違って、年季の入った胴着を着て防具をつけた叔父さんが、笑って迎えてくれた。その口許なんかが、令ちゃんそっくりだ。

 

「由乃ちゃん、絶対に無理は禁物だよ。君のお母さんにも、しっかり念押しされたからね。厳しくいくよ」

 

私のこと、お母さんはちゃんと根回ししてくれていたらしい。またも釘をさされてしまった。

そして叔父さんは、道場に置いてある竹刀を快く貸してくれた。邪魔にならないように、空いているところで竹刀を握り、構えてみる。

 

ぎゅっ。

手に馴染む竹刀の感覚が、ひどく懐かしい。元々自身の一部だったように、身体に浸透していくような心地だ。

 

「おっ、由乃ちゃん、構えは綺麗だね。姿勢もいい」

 

叔父さんからはお褒めの言葉を頂いたけれど、それに返答する余裕は私にはなかった。一瞬にして、魅せられてしまったから。竹刀を握り、そして再び振ることができる、その幸福に。

 

いち。

に。

さん。

 

竹刀を振り上げ、まっすぐ降り下ろす。

その一連の動作に、全神経を費やす――ああ、気持ちいい。

 

「ふむ、中々筋がいいね」

 

やはり返事はできない。

はあはあと荒い呼吸をしながら、静かに、私は振り続けた。

 

一通り私に軽く教えてから(既に知っていることだったけれど)、叔父さんは「さて」と表情を変えた。

 

「では、皆の指導に戻るとしよう。何かあったらすぐにいいなさい」

 

「気をつけてね、由乃」

 

そうして各々の稽古のため離れていく背中を見送り、素振りを再開する。

 

いち。

に。

さん。

 

私は無心になって、ひたすら竹刀を振った。

素振りだけでも、ここまで気持ちが昂るのだ。

ああ、防具を着けて打ち込むことができたら、どんなに楽しいだろう!

 

いち。

に。

さん。

 

いち。

に。

さん。

 

物足りなさは感じつつも、私は夢中で素振りを続けた。

空気を裂く音が、私の感情を揺さぶる。

 

――楽しい、楽しい!

その思いだけが、私の心を支配していた。

 

「……っあ……」

 

しかし限界は、突然やってくるものだ。

唐突に腕に力が入らなくなって、握っていた竹刀はあっさりと床に落ちた。

腕が痙攣し、ぷるぷると震えている。

私は、立ち眩みを起こしてしまったのだ。体調は良かったはずなのに、視界がぐらつき、足元はおぼつかなくなる。

 

倒れる――!

 

そう思った瞬間、私は令ちゃんに肩を抱かれていた。

令ちゃんは叔父さんに指導を受けていたはず。それを中断してすぐに駆けつけてくれたわけだ。助かったという喜びより、申し訳なさが先に立つ。

 

「っと……大丈夫、由乃? もう、無理しないでって言ったじゃない」

 

「ご、ごめんなさい……」

 

「由乃ちゃん、大丈夫か?」

 

令ちゃんだけでなく叔父さんまで心配して来てくれて、完全に稽古は一時中断してしまった。

二人に添われて、私は道場の隅に腰を下ろす。

喉元まで嘔吐感がのぼってきて――うう、気持ち悪い……。

 

「ほら、これ飲んで」

 

あらかじめ用意しておいたスポーツドリンクを令ちゃんに飲ませてもらう。冷たい液体は喉を潤し、気分を幾分か楽にしてくれた。

でも。

きっと――今日はもう、素振りも厳しいだろう。

 

「由乃ちゃん、お家帰るかい? 送って行くよ」

 

叔父さんは親切にそう言ってくれたけれど。

せめて、稽古の様子を見学するくらいはしたいと思った。

 

「いえ……まだ、皆さんの稽古を見たいから」

 

「そうか、体調が悪化したらすぐ言いなさい」

 

令ちゃんに背中を擦ってまでもらって、だいぶ楽になったのはいいけれど――気持ちは落ち込む一方。次第に暗鬱とした思いに、囚われていく。

せっかくお母さんに許してもらったのに、って。

それでも私の事情で、令ちゃんの邪魔だけはしたくなかった。

 

「ありがとう……令ちゃんのおかげでだいぶよくなったよ」

 

「もう、大丈夫?」

 

「うん、もう平気。稽古に戻っていいよ。私は……見学してるね」

 

それでも渋る令ちゃんだけれど、結局、叔父さんに言われて仕方なく私の側を離れた。

 

一人になって、私は道場を見回す。

皆、汗水流して熱く剣を振り交わしている。そのなかで、私という存在だけが異質だった。

 

――そのうちに、打ち込み稽古は終わり、次の稽古へと移っていく。熟練者は掛かり稽古を行い、その間に初心者は素振り・踏み込みの基礎練習を行うようだ。

もちろん令ちゃんは後者。熟練のおじさまから直々に、指導を受けるわけだ。

 

通常の正面素振り、跳躍素振り、上下素振り、左右素振り等一連の素振り練習とか。

真っ直ぐ竹刀を振りながら、足を踏み込む練習とか。

そんな基礎中の基礎だけれど、だからこそ将来的にも活きてくる、とっても大事な練習だ。

 

なのに令ちゃんときたら、何か余所見していたりと心ここに在らずって感じで、すごく危なっかしい。

それに、まだ始めたばかりだから当然と言えばば当然なんだけれど、構えも姿勢も拙い。

踏み込みは浅いし、左の踵も床に着いちゃってる……もう、もう!

 

「令ちゃん……右手に力が入りすぎてるよ」

 

見かねて、思わず私は口に出してしまった。

 

「え?」

 

まさかまさかの私からのダメ出しに、令ちゃんは開いた口がふさがらないご様子。

それを良いことに、私は更に続けた。

 

「それに、左の踵は床についていたら駄目だよ。あと、令ちゃん。もっと声出さなきゃ。それじゃあ試合で一本なんて取れないでしょ。気合いが足りないよ、気合いが。それに――」

 

剣道に関することになると饒舌になってしまって、収拾つかないくらいべらべらと語り尽くしてしまう。

 

「よ、由乃?」

 

そんな戸惑いを含んだ令ちゃんの声に、ようやく我に帰ったけれど。

気づけば、怪訝そうに私を見つめる――視線、視線、また視線。まさに今、自分は注目の的となっているのだと、否応にも悟らされる。

 

どくん。

私は心臓が途端に早鐘を打ち始めるのを自覚した。

 

――やってしまった。

剣道の事となると、つくづく私は周りが見えなくなるらしい。

初めて竹刀を握った、それも病弱で剣道とは無縁であろう少女が偉そうに指摘するなんて。

不審に思われないわけがない。

敵意とも取れる数々の視線に脅え、一挙に顔が赤らむ。

やめて。

お願いだから、そんなに見ないで。

怖い。

怖いよ……。

 

「由乃、分かるの?」

 

「え?」

 

本人にその気があったかはわからないけれど、救いの手を差しのべてくれたのは令ちゃんだった。

それこそ数秒間は理解が追い付かず、言葉を発することが出来なかった。

 

「あ……う、うん……えと、ほ、本で読んだことがあって……。えへへ、自分では出来ないんだけどね」

 

ようやく理解してもなお、言葉が出てこず返答に窮してしまって、自分でもよくわからないことをぼそぼそと呟いた。

 

「ほう……由乃ちゃん、やるじゃないか。さっきの指摘は的を射ていたよ」

 

叔父さんに言われて、ますます赤くなる。

 

「令、稽古はちゃんと集中してやりなさい」

 

叔父さんの標的は、今度は令ちゃんへと移った。

令ちゃんはしゅんとなって、「はい……」と落ち込んでしまった。肩を落として悲しげに叔父さんの言葉に耳を傾けている。

 

悪いことをしてしまった、なんて、ちょっぴり罪悪感に駆られたけれど。

令ちゃんの言葉と叔父さんのお説教のおかげで、私への視線はいつのまにか散り散りになった。

だから、私はほっと胸を撫で下ろしたのだった。

 

反省した私は、余計な口出しをしてしまわないよう努めて、その場に静静と座し、沈黙を保っていた。口を閉ざし、無心になって稽古を眺める。

そうして、三時間ほどが経過して。

叔父さんの声かけにより、ついに稽古は終幕を迎える。幸いなことに、その間に体調は朝の良好状態と何ら遜色ないくらいに回復していた。

 

「令ちゃんっ。はい、これ」

 

汗で前髪が額に張り付いているのも、これはこれでなかなか蠱惑的で良いなと内心思いながら、稽古終わりのお疲れ令ちゃんにタオルを手渡す。

 

「ありがとう」

 

令ちゃんの汗を拭いて、乾いた喉も潤したら、早々に更衣室へ。

着替えを済ませて道場を出れば、いよいよお待ちかね、昼食のお時間だ。

 

令ちゃんと私、二人での初稽古はこうして終わったのでありました。

 

 

――

 

 

次の日。

案の定、私はがっつり体調を崩した。高熱に倒れ、朝からずっとベッドから出られずじまい。当然リリアンには行けるわけもなく、お休みすることとなった。

 

お母さんにはこっぴどく叱られた。無理しないって言ったでしょ、って。

私自身反省していたから、それも甘んじて受けた。

言い訳にしかならないけれど、私としては無理をしたつもりはなかった。

お母さんや令ちゃんと約束した通り、やるのは素振りだけに留めていたのに。

それも、それすらも満足に出来ないのは、この忌まわしき弱い体。この身体のことを、私は分かっているつもりで全然分かっていなかった。

 

ああ、身体が熱い。

さっき体温を測ったときには、四十度一歩手前だった。

呼吸は乱れ、思考はぐちゃぐちゃに混濁している。

薄ぼんやりとして朧気な視界に、ふと、人間の輪郭がぼおっと浮かび上がった。

 

誰――?

疑問が浮かぶも、すぐに氷解する。それは私を深き安堵へと誘う、令ちゃんの顏だった。

 

「由乃」

 

その瑞々しい唇から、私の名前が紡がれる。

 

「れ、令ちゃん……?」

 

発する声すら震えてしまい、その響きも明瞭としない。

けれど令ちゃんは、私の手を握ることでしっかりと答えてくれた。

そこでようやく、ここにいる令ちゃんは幻影ではなく本物なんだって、気づくことができた。

「令ちゃん、私って本当にだめだね……ちょっと素振りしただけで、こんなになっちゃうんだもん。笑っちゃうよね」

 

本物の令ちゃんに、私は胸に蟠る思いを苦しみの中、吐露する。

 

「そんなことない、由乃はすごいよ」

 

「……えへへ、ありがとう。慰めてくれて」

「慰めなんかじゃない、本当のことだよ。由乃は私なんかより剣道のこと詳しいじゃない。あんなに的確なアドバイス、私にはできないもの。だから、由乃はすごい」

 

「……そ、そんなの」

 

前世でやってきたのだから当たり前だ、なんて言えるわけない。

いまいち納得のいっていない私に、令ちゃんは「由乃は」と笑った。

「自分を過小評価しすぎ」

 

「……え?」

 

「由乃はそうやって自分を卑下するけれど、じゃあそんな由乃が大好きな私はどうなるの」

 

その言葉に反論できずに口をつぐんでいると、令ちゃんは更に続ける。

 

「そりゃ、由乃の身体が良くなるなら、それに越したことはないけれどね。そうならなくたって、由乃には良いところが沢山あるじゃない」

 

「わ、私に……?」

 

「ええ、例えば……ほら、そのきょとんとした表情とか。すごく可愛いよ?」

 

「え、あ、う……」

 

「あ、赤くなった」

 

そう言われてから、令ちゃんにからかわれたのだと気づいて、更に顔が紅潮した。

 

「ごめん、冗談よ。でもね、わかる? 私、由乃がいてくれるおかげですごく勇気づけられてるの。由乃のためなら、なんだって出来そうな気がする。私は、由乃の分まで強くなりたい。きっと由乃を守れるくらい、強くなってみせるから」

 

令ちゃんはそこで一拍おいてから、私を真っ直ぐ見据えた。令ちゃんの瞳に、私の顔が揺れている。

 

「だから、由乃は私のそばで、昨日のようにアドバイスをしてほしい。そして、時には叱りつけてほしい」

 

「え、えっと……わ、私でいいの……?」

 

「うん、由乃じゃなきゃ嫌なのよ」

 

「そ、そっか……ありがとう、令ちゃん。私、頑張る……頑張るねっ!」

 

令ちゃんに必要とされるのが嬉しくて、私は頬を緩ませる。

喜びのあまり声を大にしたのがいけなかったのか、

 

「う……けほっ、けほっ!」

 

痰の絡んだ咳が連続し、令ちゃんは顔色を変えた。

 

「大丈夫? ごめんね、寝てなきゃいけないのに」

 

邪魔してごめん。しっかり寝て、早く良くなってね、って。

私の髪を一撫でして、令ちゃんはそう言った。

 

邪魔なんて、とんでもない。私だって、令ちゃんがいてくれたおかげで、何度救われてきたことか。

――ありがとう、令ちゃん。

 

「おやすみ、由乃」

 

令ちゃんの暖かな腕に抱かれ、私は穏やかな心地で眠りについたのだった。

 

 

――えへへ、ご指名受けちゃった。いわば私は、令ちゃん専属のマネージャーになったわけだ。

前世では全然やらなかったけれど、これからは料理も本腰入れて覚えなくては。令ちゃんに差し入れもできないようじゃ、マネージャー失格だもんね。

 

私はもう、剣道をすることは叶わない。それは分かっている。

でも、前世で参加すら出来ず終わった全国大会だって、令ちゃんならきっと代わりに成してくれる。だから、私はそのお手伝いをするのだ。

令ちゃんという美しい女優を照らす、舞台照明。私はそれになろう。

令ちゃんの剣道を支える、裏方。そんな道も、案外悪くないかも。

だって、ずっと令ちゃんと一緒にいられるんだから。



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5 -黄薔薇のつぼみの憂鬱- (前)

 

リリアン女学園高等部、一年桃組の教室。

深い色の制服に身を包んだ無垢な天使たちが、学校新聞「リリアンかわら版」を手に、机を囲んで何やらきゃいきゃいやっている。

 

「聞きました? 黄薔薇のつぼみが由乃さんを妹にしたんですって」

「ええ、もちろん!」

 

「由乃さん、お美しくていらっしゃるものね。あの凛々しい令さまにお似合いですわ」

 

「でも由乃さんって、病弱でよく学校をご欠席なさるのよ? そんな人に黄薔薇のつぼみの妹が務まるのかしら」

 

「そうなの?」

 

「ええ、由乃さんは原因不明の病にかかっているそうよ」

 

「まあ、原因不明だなんて。お可愛そうに」

 

「あら、確かに由乃さんは病気で学校を休みがちだけれど、とっても頭がいいのよ。今まで常にトップの成績でしたし、問題ないのではなくて? それに由乃さんは、中等部の剣道部でマネージャーとしてずっと令さまを支えていたもの。由乃さん以外に令さまに見合う方なんていないと思うわ」

 

「まあまあ、そんなに熱くならないで。彼女令さまのファンだから、由乃さんに嫉妬しているだけなんです」

 

噂好きの乙女たちが、言いたい放題言っている。

「早くも黄薔薇のつぼみの妹誕生」のニュースがかわら版で報道されてからというもの、高等部はこの話でもちきりだ。

いかに由緒正しいお嬢様学校の生徒といえども、噂話とは無縁ではいられない。

 

噂というものは得てして、当事者の預かり知らぬところで膨らんでいくもの。

はてさて、この次はどんな噂が生まれることやら。

 

 

――

 

春。

高等部入学式が終わってすぐに、黄薔薇のつぼみ――支倉令は一年生の島津由乃を妹にした。

病弱で人と接するのも得意でない従姉妹を山百合会に引きずり込むのは心苦しかったが、お姉さま方は無理させなくてもよいと言ってくださった。

だから令は安心して、発熱のために入学式すら参加できなかった由乃の首にロザリオをかけてやり、姉妹の契りを交わしたのだ。

 

今のところ、由乃はよくやってくれている。

その身体のせいで休みがちだったにも関わらず、由乃はずっとトップクラスの成績を維持していた。無理して夜遅くまで勉強しているのではと心配したこともあったが、どうやらそうではないらしい。

由乃曰く、毎日ちょっと予習・復習をすれば問題ないのよ、とのことだ。本当に、勉強面に関してはあの愛しい従姉妹に全くかなわない。

それに加えて、由乃は生粋の読書家で知識も豊富だから、そつなく仕事をこなしている。

 

はじめは知らない人に囲まれ身を固くしていた由乃だったが、令が見守ってあげる形で隣に座ってあげたから、なんとか馴染んできていた。

だから。

――由乃も山百合会でうまくやっていけそう。

令はそう一安心していたのだった。

 

 

――

 

 

由乃が紅薔薇さまと黄薔薇さまに呼び出されたのは、新入生歓迎会から一週間ほど過ぎたある日の放課後のことだった。

今日は由乃共々剣道部へ赴くつもりだった。令はもちろん、部員として。由乃はマネージャーとして。その出鼻を、見事挫かれた形である。

 

召集を受けたのは由乃だけだったのだが、由乃のことが心配なのに加えて少し嫌な予感がしたから、当然のように令も付き添った。

ただでさえ、同じ校舎に由乃のいない一年間を過ごしてきたのだから、少しでも由乃と一緒にいたいという思いもあったから。

そして、薔薇の館にて由乃はお茶さえ入れる暇もなく、頼まれたのだ。新入生の藤堂志摩子さんを薔薇の館へ連れてくるように、と。

 

「由乃が藤堂志摩子さん……を?」

 

一番動揺したのは、当人の由乃よりも令の方であったかもしれない。

そりゃ。

由乃は山百合会唯一の一年生だから。新入生の志摩子さんを薔薇の館に招待するのならば、由乃が駆り出されるのは当然の話だ。

でも、由乃は……。

 

「なに、不満なの、令?」

 

令がわずかに顔をしかめたのを見逃さなかったであろうお姉さまが、訝しげに尋ねた。

 

「い、いいえ……そういうわけでは」

 

「そもそも、今日令は呼んでいなかったわよね?」

 

「それはっ……その……」

 

お姉さまに言われ、令は恐縮するばかりだ。

 

「なぁに、そんなに由乃ちゃんが心配なの? 私、嫉妬しちゃいそう」

 

姉バカねえ、とお姉さまはからかうように笑い飛ばす。

羞恥で令の頬が、かあっと赤くなった。

 

「お、お姉さまっ」

 

「……まあまあ、当人を無視して熱くなるのはやめましょう。改めて確認するけれど、由乃ちゃん。今日は体調いいのよね?」

 

紅薔薇さまが、論点がずれてきているのをすかさず修正してくださった。正直、助かった。

面白そうなモノを見つけたお姉さまはもう、止まらないから。

 

「は、はい」

 

由乃はか細い声で頷いた。確かに由乃のいう通り、体調が悪いわけではないのだ。

 

「じゃあ、問題はないわよね、令?」

 

紅薔薇さまが再び了解を求める。

令としても、もとより薔薇さま二人を相手に声を大にして反対するつもりはなかった。

ちょっと由乃が心配なだけだったから。

 

「そうですね……大丈夫? 由乃、行ける?」

 

「う、うん……」

 

戸惑いぎみに答える由乃を見て、令はふと、思い付いた。

しかと薔薇さま方に向き合い、口を開く。

 

「あの、私も付き添ってよろしいですか」

 

いいながら令は席を立ち、由乃の腰に手を回し、抱き寄せる。

 

「だめよ」

 

しかし紅薔薇さま、にこりと笑ってこれを切り捨てた。

 

「なぜです?」

 

「あなたには別の仕事をしてもらいたいのよ」

 

お姉さまにもそう言われ、渋々腰を下ろす。

 

「別の……?」

 

「ええ。そうね……志摩子ちゃんにもてなす紅茶の準備とか」

 

明らかに今思い付いたような口振りだが……仕方ない。自分が我が儘を言っていることも分かっているので、令は潔く引いた。

 

「……わかりました」

 

令たちの問答が終わり、場の空気を見計らっていたのだろう由乃は、ゆったりと足を踏み出した。

 

「では……志摩子さんを連れてきますね」

 

「由乃、気を付けてね」

 

何をそんなに心配しているのだろう。自分でも思う。薔薇の館から桃組の教室へ向かうだけだし、目的は一年生を連れてくるだけなのだ。何も懸念する点などないはずだ。そうだ、問題ない。

 

きぃー……ぱたん。

考えているうちに、由乃は部屋を出て行ってしまった。

なるべく音をたてないよう努めたのだろう。扉はゆっくりと閉じられた。

古びた階段が軋む音が、だんだん遠ざかっていく。

その音も聞こえなくなってから、令はようやく席をたった。

 

仕方ない。さて、流し台でお紅茶の準備だ。

由乃は温かいアールグレイティーをとても気に入っていて、令がよく入れてあげている。由乃はティーポットでちょっと長めに置いておいた濃い目の紅茶が大好きだ。

だから、薔薇の館で私が用意する時は、ついつい由乃好みの濃い紅茶を入れてしまうことがままある。

志摩子さんの好みがどんなものかわからない以上、癖の強いのはやめておいたほうが無難だ。普通に入れて、普通の紅茶を堪能してもらおう。

なんて考えていたら、自然と顔が綻んだ。

紅茶とかお菓子とか好きな令だから、何だかんだいっても、この時間を楽しんでいるのだった。

 

そうしているうちに、十五分ほどたった頃だろうか、ちょっと遅いなと思い始めた時に、扉がノックされた。

 

「あ、あの……藤堂志摩子さんをお連れしました」

 

外からは、儚さすら覚える声。由乃が帰ってきたのだ。

 

「ご苦労様、入っていただいて」

 

紅薔薇さまのやわらかい返事の後、ゆっくりと扉が開かれる。おずおずと、その後ろの少女――藤堂志摩子さん――が由乃に促されて入ってきた。

 

「藤堂志摩子です」

 

そう挨拶して、志摩子さんは綺麗にお辞儀した。

ふわふわ巻き毛のブロンドヘアーに加えて、その非常に整った顏は、そう、まさに西洋人形のよう。由乃ほどではないが、美しい女の子だった。

紅薔薇さまと黄薔薇さまが立ち上がり、志摩子さんを迎え入れる。令もそれに続けとばかりに席を立った。

 

「お呼びだてして、ごめんなさいね」

 

「ちょっとお話を伺いたくて」

 

お二人が客人を半ば強引に座らせている間に、令は紅茶の準備に取りかかる。

そこに、背後から由乃に声をかけられた。

 

「あ、私が……」

 

紅茶を淹れるのは自分の仕事なのでは、と思ったのだろう。

 

「いいから。由乃は座っていて」

 

しかし令はそれを突っぱねて、志摩子さんの席から一つ飛ばして右隣の椅子に座らせた。

最近由乃には山百合会という慣れない場所で無理させているから、志摩子さんと一緒に紅茶を飲んで、日々の疲れを癒してもらいたいと思ったのだ。

 

「うん……ごめんね」

 

令は四人分の紅茶 ――茶葉の芳しい香り漂うあつあつのアールグレイを、カップに注ぎ、皆様に提供する。

そしてすぐさま令も、由乃の隣の席についた。お二人に余計な口も挟まず、黙ってお話の行く末を見守る。

 

令も何故志摩子さんを此処へ呼び出したのか知らずにいたのだが、どうやら彼女に山百合会のお手伝いをしてもらいたいという話らしい。

しかし志摩子さんの表情を見る限り、どうも開口一番に「わかりました」では終わりそうになかった。その顔には明らかに戸惑いがある。

 

「お話はわかりました。でも、なぜ私が」

 

訳もわからず薔薇の館に連れて来られた哀れな一年生は、当然の疑問を口にした。しかし悪戯好きなお姉さまは、それを自らが楽しむ機会と見て、からかいにかかる。厳正なる抽選で選ばれた、とかなんとか。志摩子さん、見事にお姉さまの術中に嵌まってしまった。

 

そんな中。

由乃は、空になった自らのティーカップを手に取った。同じく中身のなくなった志摩子さんのカップも持って、立ち上がった。

それはもちろん、流し台で洗うためであろう。

 

「お下げしますね」

 

にこりと微笑んで、歩きだす。

その時だった。

ばん! と先程由乃がゆっくりと閉めていった扉が、今度は乱暴に開かれた。あわやおんぼろ扉が壊れてしまったのでは、と危惧するほどの凄まじい勢いである。

 

「ひっ!」

 

令でも思わずびくりとするほどだったのだ。

元々ちょっと臆病なところがある由乃は、非常に驚いたんだろう。小さく、それでいて明確な脅えを感じ取れる悲鳴を上げた。

 

「なにやっているのよ!」

 

同時に、部屋へ入ってきた白薔薇さまの絶叫が部屋に轟く。

唐突な白薔薇さまの登場、そして怒りを孕んだ声に、由乃の驚愕はいよいよピークに達してしまったのだろう。

内心はどうあれ表向きは優しいリリアンの乙女たちに接してきた由乃が、ここまでの怒気を目の当たりにするのは、もしかしたら初めてだったかもしれない。

持っていたティーカップは見事に由乃の手をすり抜け、床に直撃し――ばらばらに割れてしまった。

 

「由乃っ!」

 

白薔薇さまの乱入に戸惑っている余裕は、令にはなかった。

割れた食器の破片が、由乃の柔肌を傷つけてしまったら。

その傷口から菌が感染してしまったら。

そんな恐怖が、真っ先に令の心に芽生えたから。

 

「ご、ごめんなさい、令ちゃん。ごめんなさい……」

 

取り乱した由乃は令のことを「お姉さま」と呼ぶことすら失念してしまっていたが、流石にこの状況で注意する者はいない。

 

「ううん。それより、怪我はない?」

 

「あ、う、うん……」

 

幸いなことに由乃の身体には傷一つなく、令はほっと安堵の息を吐き出した。

 

「良かった……」

 

令の安堵の一声に、一瞬固まっていたお姉さまと紅薔薇さまも事態の収拾を図るため、すぐさま立ち上がる。

この騒ぎにより、白薔薇さまの怒りもある程度収まったようだ。我に帰り、由乃を心配する余裕すら見せている。

 

「由乃ちゃん、ごめんなさい、驚かせてしまって……大丈夫?」

 

「はい……すみません」

 

白薔薇さまはとりあえず由乃を座らせて、何が起きたのか分からず呆然としている志摩子さんを睨み付けた。

 

「とりあえず……出て行ってもらえない?」

 

「は?」

 

「あなたよ。聞こえないの?」

 

「でも」

 

「お願いだから……出て行って」

 

目を丸くしている志摩子さんにそう命じる白薔薇さまの声は、悲しげで泣いているようにも感じた。

そんな白薔薇さまを見かねた紅薔薇さまが、口を挟んだ。

 

「言う通りにしてあげて。こんな騒ぎになってしまって、ごめんなさいね。由乃ちゃん、志摩子ちゃんを送ってあげてもらえるかしら」

 

頷いて、由乃は再び立ち上がった。

 

「はい……い、行きましょう、志摩子さん」

 

志摩子さんを連れて、由乃が外に出て行く。

片付けに集中していたのと、由乃に怪我がなかったことに安心しきっていたのと相まって、令は由乃の表情に陰りが見えたのを気づくことができなかった。

 

 

「よ、由乃さん!」

 

――志摩子さんの焦燥を含んだ叫びを聞いたのは、それからすぐのことだった。

 



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6 -黄薔薇のつぼみの憂鬱- (中)

 

「由乃っ!?」

 

その叫び声を聞いて、令は真っ先に部屋を飛び出した。先ほどの白薔薇さまさながらの勢いである。

 

「志摩子さん、どうしたの!」

 

焦っていたせいだろうか、怒鳴り付けるような声色になった。志摩子さんを脅えさせてしまったら申し訳ないが、それを配慮してはいられない。

 

部屋を出て、周囲を見渡し――いた。

歩く度に軋み、悲鳴を上げる年季の入った階段を数段降りたくらいのところで、由乃は志摩子さんにもたれかかり、苦しんでいた。

 

「あの、由乃さんが……」

 

聞くまでもなく、令には状況がわかった。発作が起きてしまったのだ。しかも、場所がまずい。

ここで志摩子さん共々倒れてしまったら、そのまま階下へと転がり落ちてしまうであろうことは想像に難くない。

 

「由乃!」

 

恐ろしい想像が頭に浮かび、令は古い階段への配慮はどこへやら、音を立てて駆けだす。

志摩子さんを押し出すようにして、由乃の身体を抱いた。

そのまま抱えて、床に寝かせる。

 

「はぁ、はぁ……れ、令ちゃん……令ちゃん……」

 

動悸が激しい。

うわ言のように何度も何度も令の名を呼ぶ痛ましい様子に、自然と由乃を抱く手に力が籠った。

 

「令ちゃん……助けて……令ちゃんっ」

 

「大丈夫、私がついてるから、安心して。私はここにいるよ」

 

落ち着け。自分が取り乱しては由乃が危ない。

まずは薬を飲んでもらわなくてはならないのだ。

努めて冷静を装い、由乃の背中をさすってやりながらも令は口を開く。

 

「ごめん、志摩子さん。部屋にある私と由乃の鞄を持ってきてくれないかな」

 

「は、はい!」

 

志摩子ちゃんはすぐに部屋へ走っていった。物分かりがよくてありがたい。間もなく彼女は鞄を二つ持って戻ってきた。

お礼を言い、中から常備している錠剤を取り出す。由乃の症状を和らげる薬だ。

 

「ほら、由乃。薬飲める?」

 

「んぅ……令ちゃん……」

 

首をもたげて、その口に薬を含ませる。吐息を漏らしながらも飲んでくれた。

発熱もしているらしく、顔が赤い。タオルで汗を拭いてやると、気持ちよさそうに微笑んだ。

 

「あの、由乃さんは……」

 

志摩子さんが心配そうに由乃の顔を覗きこむ。

 

「大丈夫、ちょっとした発作が起きただけだから。由乃を助けてくれてありがとう」

 

「い、いえ……」

 

志摩子さんはほっと安堵の表情を浮かべた。心配してくれたのだ。将来山百合会の一員になったら、由乃の友人になってくれるだろうか。

ともかく今日はもう、由乃は帰ってベッドに横になっていた方がいいと判断する。

 

「ほら、由乃、立てる?」

 

「れ、令ちゃん……っ」

 

薬を飲んで少々落ち着いた由乃をゆっくり立たせてやると、令の腕に甘えるように抱きついてきた。途方もない愛情がこの妹に沸き上がってくるが、いつまでも惚れ惚れとはしていられない。

 

「お姉さま、私たちは帰宅しても……」

 

「え、ええ。早く病院へ連れていってあげて」

お姉さまも少々困惑気味だった。

由乃の身体が弱いということはもちろん薔薇さまもご承知のことだが、由乃に発作が起きたり、倒れてしまったりというのをお三方が実際に見たのは今が初めてだったから。

 

「はい、申し訳ありません。では失礼します。ごきげんよう」

 

一礼してから、令は由乃を連れて薔薇の館を出ていく。

 

自分が由乃を護ってあげなくては。

その強い思いが、令を突き動かす原動力となる。

 

 

――

 

 

その場に残された、由乃を抱き抱えるようにして去っていく令を見送る三人の薔薇さま。

 

「由乃ちゃん、大丈夫かな……」

 

「ふう……令の懸念が、見事に的中してしまったわけね……」

 

「身体に大事なければいいけれど……」

 

白薔薇さまも黄薔薇さまも、紅薔薇さまも。皆、その表情は暗い。

三人共身の回りに重い病気にかかった人がいるわけではない。知識が浅かったが故に無理をさせてしまったのかもしれない、と。

一見薔薇さまとしてしっかりしているように見えても、たかだか高校生だから臆病なのだ。

 

「……由乃ちゃん」

 

紅薔薇さまは険しい表情で、ぼそりとそう呟いた。

それに端を発して場が静寂に包まれるが、志摩子の声によって破られた。

 

「あ、あの……」

 

「あら、あなたまだいたの?」

 

やはり志摩子には冷たく接する白薔薇さま。

 

「早く出ていきなさい」

 

「……行きましょう」

 

紅薔薇さまの何か言いたげな視線に頷いて、黄薔薇さまが志摩子を連れ出した。

二人の姿が見えなくなって、ようやく白薔薇さまは落ち着きを取り戻した。

 

「……助かったわ」

 

「……はぁ」

 

白薔薇さまが素直にお礼を言うのを聞きつつ、ここにきて問題が積み重なってしまった、と紅薔薇さまは憂鬱な思いに駆られ、溜め息。

全く今年の山百合会は大変なことばかりだ。思いながらも紅薔薇さまは、笑みを浮かべる。

まあ、それも仕方ない。

損な役割を引き受けるために、友達はいるのだから。

 

 

――

 

 

雨降りしきる、湿気の強いじめじめした朝。

 

「おはようございます」

 

令は勝手知ったる由乃の家の玄関を開ける。由乃の様子を確認したかったのだ。

 

「あら、令ちゃん」

 

叔母さんが顔を見せたが、その表情は贔屓目に見ても明るいとは言えない。叔母さんは、大事をとって今日も学校を休ませる、と悲しげに告げた。

 

「そうですか……じゃあ、ちょっと由乃の顔見てから行きますね」

 

返事を聞く間も惜しい。令は早々に由乃の部屋へ赴く。

あの後帰宅してすぐに身体を暖かくして寝かせてやったから、大事にはならなかった。それは本当に幸運だったのだが、その後由乃は体調を崩したため、以降学校を欠席することとなる。

由乃の落ち込みようは凄まじく、せっかく体調が良かったのに、発作を起こして令ちゃんに迷惑をかけてしまったと嘆いていた。

 

「っあ……令ちゃん……」

 

令の顔を見るや、由乃は赤らむ顔に笑みを浮かべた。

 

「おはよう、由乃」

 

熱を帯びた手を握ってやり、朝の挨拶をする。

 

「おはよう……え、えへへ……今日も一緒に学校行けないね……」

 

「仕方ないよ……ゆっくり寝て、身体休めてね」

 

「うん……迷惑かけてごめんね」

 

由乃はきっと、休んでいるせいで山百合会の仕事ができないから、申し訳なく思っているのだろう。とにかく今は、身体を癒すことだけを考えてほしかった。

 

「もう、由乃は気にしなくていいの。……じゃあ、行ってくるね」

 

「行ってらっしゃい」

 

由乃に送られ部屋を出ていくその背中越しに、声がかかった。

 

「……気をつけてね」

 

その優しい声に令は振り返って微笑みかけ、そして今度こそ部屋を出た。

 

ざあざあと耳障りな音を響かせながら、雨が降っている。その中を、傘差して令は歩き出した。

 

雨の日は嫌いじゃない。雨を口実に、由乃のそばにいられるから。

例えば、相合傘して一緒に登校したりとか。

その際、あえて小さめな傘を持っていくのだ。そうすれば、自然と肩を寄せ合うくらい近寄ることになる。互いの顔が近くなって、使っているシャンプーの香りが分かるくらいに。車に水をかけられたりしないよう、令が車道側を歩いたりして。

リリアンへ登校するまでの、ほんのつかの間の幸せなひとときだ。

ああ、なんて素晴らしいのだろう。

よし。

今度雨が降ったときは実践してみよう。

 

と、その日の朝は由乃がいないながらも気持ちは少々弾んでいたのだが。

 

 

――

 

 

「あなたと由乃ちゃんについてなのだけれど」

 

数日前由乃が呼び出された時のごとく、令がお姉さまと紅薔薇さまに召集されたのは、その日の放課後のことだった。

お姉さま方の呼び出しを断れるはずもなく、授業後薔薇の館へ赴くと、お二人はいつになく真剣な顔で待ち構えていた。

椅子を温める暇もなく、紅薔薇さまはそう言ったのだ。

 

「私たち……の?」

 

何か問題があっただろうか。まずそれを考えた。

由乃は仕事に関して問題などなに一つないことは先に述べた通りであるし、令も呼び出されるほどのことをしでかした記憶はない。

そんな当惑を見てとったのか、紅薔薇さまはさらに言葉を続ける。

 

「ええ……あなたたち、一度関係を見直すべきではないかしら」

 

「……は?」

 

しかしそれは、令の戸惑いを解決する言葉にはならなかった。

このお方は、今なんと仰った?

一瞬、自らの時間が停止したような錯覚に陥る。それほど、理解しがたい言葉だったのだ。

数秒経過してようやく、脳内にその意味が伝播する。

それは、つまり……。

 

「それはつまり、由乃との姉妹関係を解消しろということでしょうか」

 

「……そこまでは言ってないわ」

 

このお二人に対し、失礼な態度を取っていることは分かっていたが、自らの発する言葉に怒りがはらむのを令は抑えられなかった。

 

「では、なぜですか。お姉さまも蓉子さまも、私が由乃を妹にすること、反対しませんでしたよね。それに、由乃は仕事だってちゃんとやっています」

 

「そうね。由乃ちゃんは頑張ってくれているわ」

 

お姉さまも紅薔薇さまも、令の態度を前にして冷静を保っている。

二人とも、どうやら由乃の仕事ぶりを否定しているわけではないらしい。

それを知り、令も怒りの刃を鞘に納めた。

 

「でも、そういうことじゃないのよ」

 

「では、どういうことです?」

 

どうにもお二人の発言の意図が読めず、質問ばかりを繰り返してしまう。

 

「今の貴女たちの関係は、決して良い方向には向かわないと思うの」

 

「だから、一端距離をとって互いを見つめ直せ、と?」

 

発言の意味は汲めても、その理由はわからなかった。なぜ、お二人はそんなことを言うのだ。離ればなれになる必要はあるのか。

第一、そうなったとして、由乃はどうなる。

由乃と距離を置くなんて、今まで生きてきて考えたこともなかった。

だって。

 

「……私がついてあげないと、由乃はだめなんです」

真顔で答える令に対し、お二人は呆れた表情を浮かべて、声を揃えた。

 

「それよ!」

 

「……は?」

 

令はまたもや、呆然とした。

 



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7 -黄薔薇のつぼみの憂鬱- (後)

お二人が何を指して「それよ!」と仰ったのか分からないから、言葉が出てこない。返答に窮してしまい、令は黙りこんでしまった。

 

「今の貴女たちは……互いに依存しあっている。それでは良い方向には向かわないと思うの」

 

「依存、ですか」

 

「ええ。だから、令。由乃ちゃんを理由にするのはよしなさい。それでは、由乃ちゃんに令が必要なんじゃなくて、令に由乃ちゃんが必要なだけなんじゃないの?」

 

「そ、そんな事は……」

 

「あるわ。令は由乃ちゃんに、すがっている。もっと言えば、『病弱な由乃ちゃんを守る』と言う大義名分に、ね」

 

きっぱりと言われてしまう。

そんな事は無いと反論したかったのに、その言葉に何も言えなくなった。

 

「今はまだいいわよ、令も由乃ちゃんも、まだ高校生だもの。でも、いつまでも二人一緒にいられるなんて、本当に思う?『病弱な由乃ちゃんを守る』と言う大義名分が無くなった時、令は令でいられなくなるのではなくて?」

 

「わ、私は……」

 

令は答えられなかった。今までずっと、由乃と共にいることが令の全てだったのだ。由乃のいない日々が想像できないくらいに、令の生活に由乃の存在は浸透している。

確かに由乃がいなくなったら、令は簡単に壊れてしまうだろう。自分が自分でいられなくなるかもしれない。

 

「でも、本当に怖いのは……由乃ちゃんの方ね」

 

「え?」

 

自分が由乃に依存している。それは認めよう。

しかし、由乃の方が怖いとは一体どういうことであろうか。お二人と話していると、疑問が際限なく涌き出てくる。

 

「それは、どういう……」

 

「由乃ちゃんの眼には、令の姿しか映っていない」

 

「私……の」

 

「ええ、由乃ちゃんは周りが見えなくなるくらい、令ばかりを見つめている」

 

やはり、令には否定できなかった。

あの日、救いを求めて令の名を何度も口にしていたように、由乃は危機に陥ると令を渇望する。助けて令ちゃん、と。

ひたすらに自分を求められるのが、令はある意味誇りにも感じていたのだが、それは良くないことだったのだろうか。

 

「令のことを好きなのはいいけれど、少々行き過ぎていると思うわ。令がいないと、由乃ちゃんは駄目になってしまう……身体のことだけではなく、精神的にもね。けれど、令が卒業したら、どうするの? その先は? 由乃ちゃんを見ていると、怖いのよ。あの頃の聖を見ているようで……」

 

「蓉子」

 

聖――白薔薇さまの名を紅薔薇さまが口にしたとき、お姉さまが窘めるように言った。

 

「……ごめんなさい。ともかく、貴女たちはこのままではよくない。それだけは言っておくわ」

 

確かに……そうかもしれない。少なくとも令には、反論することはできなかった。

 

由乃には、仲のいい友達がいない。

幼い頃から剣道にしても、何にしても令と一緒にいたから、由乃は寂しさとは無縁ではあったかもしれない。令がいれば友人など必要ないと思うくらいには。

その身体のこともあって休み勝ちだから、クラスメイトにも気を使われているだろう。特別扱いされて、中々友人として心を開ける相手がいないということも、要因とは思われるが。

令のほかに心許せる人が学校にいないことは、確かに心配してはいた。

 

「由乃ちゃんの身体のこともあるから、中々思い切ったことはできないかもしれないけれど」

 

紅薔薇さまの言葉をお姉さまが継いで、端的に言い放った。

 

「考えておいて」

 

その「はい」と頷かざるを得ないほどの迫力こもった一言で、お二人の話は終わった。紅薔薇さまに解散を告げられ、令は一人薔薇の館を出る。

そして雨の中を帰路につくわけだが、もはや朝の弾むような心地は霧散してしまっていた。

 

「はぁ……」

 

体内に溜まった暗い感情を、吐息にのせて吐き出す。

お姉さま方に言われて、令ははじめて気がついた。自分が由乃に依存していると。

確かに、このままじゃよくないのかもしれない。由乃はこれから先もあの身体と付き合っていかなければならない以上、せめて心は強く在ってほしい。それは間違いなく自分の思いだ。距離が近すぎることで由乃がさらに自分に寄りかかってしまうのだとしたら、やはりそれは改善すべき問題なのかもしれない。

由乃のことを愛しているからこそ、離れなければならない。

……自分にできるだろうか。

 

結局考えても答えは出ぬまま、家に着いてしまった。

憂鬱な思いが蓄積されていたから、ともあれ今は由乃の顔を見たかった。

自分の部屋に鞄を置いてから、すぐに由乃の家へ向かう。

 

「んぅ……令ちゃん?」

 

部屋に入ると、そこには令を見て顔を輝かせる由乃の姿があった。身体を暖かくしてベッドに横になっている。

 

「由乃、ただいま」

 

由乃に笑いかけるが、果たして本当に笑えていただろうか。もしかしたら、暗い表情を無理矢理歪めて笑顔を演出していたかもしれない。

 

「……お帰りなさい」

 

由乃の嬉しそうな声を聞きながら、令は由乃の隣に腰を下ろした。

 

「今日は、山百合会の集まりがあったの?」

 

「えっ!?」

 

ふと由乃が洩らした、今日の憂鬱の原因を言い当てるような言葉に、令は思わず声を張り上げてしまった。

普段から由乃が驚かないよう、極力大きい音を出さないようにしている令だから、その大声は不意を突かれたことによる不可抗力にほかならない。

 

「ど、どうしたの……令ちゃん?」

 

胸に手を当てて目を瞬かせる由乃の様子を見て、令の顔は即座に青ざめた。

前例があるから、どうにも過敏になりすぎるきらいがある。

由乃を診てみたが、発作が起きる様子はなく、令はほっと胸を撫で下ろした。

 

「ごめん、由乃。驚かせちゃったね」

 

「ううん、大丈夫だけど……何かあったの?」

 

由乃が尋ねる。

図らずも、お姉さまたちに言われたことを由乃に告げるチャンスが来たわけだ。

 

「……いいや。何もなかったよ」

 

「そう……」

 

しかし、令は言えなかった。

ベッドで横になるこの愛しい妹に、なんといえばいいのだ。

一度離れてみて、関係を見つめ直してみない?

なんて、言えるわけがなくて。

 

「ちょっと遅かったから、何かあったのかなって思ったの」

 

「まあ、ちょっと友達と、ね」

 

「……ふうん」

 

「それより、喉乾いてない? 何か入れてこようか?」

 

「ううん。それより、そばにいてほしい」

 

立ち上がりかけたのを再び座り直して、由乃の手を握ってやる。ずっと寝ていたからか、温もりを帯びていた。

 

「令ちゃんの手、つめたいね」

 

「ふふ、由乃の手は温かいな」

 

 

結局令は、こうして由乃との耽美な時間に溺れてしまうのだった。

 

 

――

 

 

例えば、剣道部で共に頑張っている時。

いつもなら由乃にアドバイスを求めるところを、由乃に頼りすぎないよう、そもそも聞くことを止めたりとか。

いつもなら由乃に汗を拭いてもらうところを、由乃に甘えすぎないよう、別の後輩にやってもらったりとか。

 

他にも一緒に登校する時や、薔薇の館で仕事をしている時。

そんな由乃と行動を共にする瞬間ごとに、お二人の提言は令の脳裏に甦ってくる。

そのせいでつい意識してしまい、無意味に由乃を戸惑わせる。そして結局、何も変わらない。

なんて事が、何度もあった。

 

結局行動は起こせぬままで。

このままではいけない。分かってはいるのだ。

けれど、愛しい由乃と離れがたくて、ついつい先伸ばしにしてしまう。

由乃と共に過ごさないという選択肢がそもそもなかったのだから、それは一大決心を要するくらいのものなのだ。

気持ちが揺らぐばかりで、時間だけが過ぎていく。

 

それでも、少しずつ。

よくなるよう、努力はしているつもりだった。



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黄薔薇革命
1


 

私は一年のうち、どれくらい学校をお休みしているだろう。

クラスメイトと共に過ごす時間がなくなるのが惜しいとは思わないが、自分が欠席するせいで山百合会の仕事ができず、結果的に姉の令ちゃんに迷惑をかけてしまうのは心苦しかった。

 

同級生の福沢祐巳さんを盛大に巻き込んで行われた山百合会主催の演劇は、無事に成功を納めた。学園祭期間中においては体調も良好状態を保っていたので、与えられた役割を果たすことが出来た。

それは良かったのだ。令ちゃんの顔に泥を塗るようなことにならず、安心したものだった。

しかし、その後疲れが一気に押し寄せてきて、見事体調を崩してしまった。

だから、私は今こうしてベッドに寝そべっている。

 

「はぁ……」

 

最近、私はため息をつくことが多い。

悩みの種はもちろん、令ちゃんのこと。この三、四ヶ月ほど、令ちゃんの様子がおかしいのだ。

例えば、令ちゃんと登校する時。

令ちゃんはいつも優しく手を握ってくれていたのに、最近は手を繋いでくれなくなった。歩幅は合わせてくれるけど、それでもやっぱり寂しくて自分から手を繋ぎにいったら、それとなく手をほどかれたのだ。

私は愕然とした。令ちゃんに拒絶される恐怖は、その時刻まれたのだと思う。

 

他にも、剣道部で一緒に頑張っている時、薔薇の館に集まっている時。

令ちゃんと行動を共にする時、令ちゃんはちょっと様子がおかしい。具体的に説明できないのがもどかしいが、ともかく、変なのだ。十数年一緒に生きてきて、今まで見たことのない表情を見せたりする。

もしかしたら令ちゃんは私のことを嫌いになったのではないか、と恐ろしい想像をしてしまうこともあるくらいだ。

けれど体調を崩したりすると令ちゃんはやっぱり優しくしてくれるから、変わらず自分を好きでいてくれていると、信じていられる。だから、生きていられるんだ。

 

「由乃、起きている?」

 

令ちゃんが私の部屋にやってきたのは、ベッドの中でそうやってうじうじと考えていた時だった。

ふと時計を見れば時刻は既に六時を回っている。時間から考えると、剣道部での稽古が終わってから様子を見に来たのだろう。もうすぐ交流試合があるから、稽古に力を入れているのだ。

 

「令ちゃんっ」

 

侵入者の顔を視界に捉えた私は、現金なもので悩んでいたことも忘れ、ご主人様に尻尾を振る子犬のようにぱあっと瞳を輝かせた。

 

「熱は、まだ下がらないの?」

 

枕もとに腰かけた令ちゃんは、私の顔を覗きこんできた。

 

「まあ、下がった……かな」

 

私は、ちょっと大げさに言った。実際は現状維持、よくて微減といったところだ。嘘はついていない。

令ちゃんはそっか、とだけ言うと鞄からバインダーを取りだして、何枚かの書類を机の上に置いた。

 

「……私は今日は宅配便屋さんだから、お届け物が済んだら退散するね」

 

令ちゃん直々に用が済んだらすぐ帰ると宣言されて、再び私の心は荒む。

ずっと令ちゃんとお話したいのに。

ずっと令ちゃんのそばにいたいのに。

 

私の落ち込みようなど気づかないらしく、令ちゃんは一見素知らぬ顔で英語のリーダーの宿題や古文のレポートとか、学校で預かってきたプリントを見せてくれた。

私は本格的に体を起こして、お届け物をチェックする。

課題については私にとってとるに足らないものなので、軽く目を通すだけにとどめたけれど、その中に混ざっている茶封筒が目に止まった。

 

「あ、これ、新聞部に頼まれていたアンケートなんだけど」

 

私が不審げにそれを見ているのに気付き、令ちゃんが言った。

 

令ちゃんの話によると。

私たち支倉令・島津由乃姉妹が、ベスト・スール賞に選ばれたらしい。そして、それに際し新聞部から取材の申し込みがあり、断ったところアンケートだけでもと泣きつかれたそうだ。

アンケートはともかく、ベストスール賞受賞という事実は誇らしかった。

言ってみれば、令ちゃんと私はお似合いで最高の姉妹なのだと、高等部の生徒に認められたのだ。嬉しくないわけがない。

きっと、令ちゃんだって同じ思いでいるはずだ。

 

アンケートはパーソナルデータを除けば、好きな言葉とか憧れの芸能人とかそんな設問ばかりだった。辟易しながら答えていったが、愛読書は何か? という設問には難儀した。

それこそ古典から何から、とにかく手に取る乱読家だから。

 

何となく気になったから詳しく尋ねてみると、どうやら他にもいくつか賞があったらしい。

何とミスター・リリアンなる奇怪な賞があったらしく、しかも受賞したのが令ちゃんだというから、笑ってしまった。確かに令ちゃんはかっこいいけれど、ミスターはないだろう、と。

 

あと、番外として、福沢祐巳さんがミス・シンデレラ賞を受賞したという。ザ・お嬢様って感じの祥子さまに見初められた祐巳さんは、確かにシンデレラのイメージにぴったりだ。

そこから話が及んで、彼女が祥子さまからロザリオを受け取ったという話になった。祐巳さんにお姉さまが出来た。それはもちろんめでたいことだけれど。

 

「また、山百合会に一年生が増えるね」

 

「そうだね……」

 

祐巳さんが嫌いなわけではないが、あまり嬉しくはなかった。

 

 

――

 

 

学園祭の余韻もやっとなくなった、ある日の放課後。

 

「あれ?」

 

薔薇の館へ向かう途中、一年菊組の教室を通りすぎようとしたところで、祐巳は中に見知った顔を発見した。

 

「由乃さん?」

 

声をかけると、席についている由乃さんはびくりと肩を震わせた後、おずおずとこちらを振り向いた。

菊組は既に掃除が終わっていたらしく、由乃さんの他に人気はない。静かだったから余計に声が響いて、驚かせてしまったのかもしれない。

 

「ゆ、祐巳さん……?」

 

「ごめん、驚かせちゃった?」

 

「い、いいえ……こちらこそ」

 

由乃さんはすーはーって深呼吸してから、由乃さんは慎ましくも可憐に微笑んだ。

何が「こちらこそ」なのかはよくわからないけれど、ともかく祐巳は教室へ入った。

 

「登校していたんだ」

 

「……うん、一週間ぶりくらいかな」

 

「由乃さん、一人?」

 

「うん……休んでいた分のノートを、その、写させてもらってるの」

 

由乃さんの言う通り、確かに机の上には数冊のノートが並んでいる。

 

「大変だね……あ、座ってもいい?」

 

「う、うん。もちろん」

 

祐巳は椅子を引いて、由乃さんの前の席に腰を下ろした。

由乃さんがせっせと写す作業に勤しんでいるのを眺めながら、祐巳は由乃さんってどんな人なんだろうと考えていた。

 

全体的に小柄で、女の子らしい女の子って感じ。

スカートの上に掛けている膝掛けは、制服の色に合わせた新緑色の毛糸で編まれているけれど、由乃さんにかかればそれすら可愛らしく見えてくる。

うつむきがちなのがまた、憂いを帯びていてとてもいい。

こう言っては悪いけれど、由乃さんの纏う雰囲気が弱々しいというか、薄幸の美少女という感じで守ってあげたくなる。

二年生になったら、こんな子を妹にできたらいいと思う。

 

「あの……」

 

由乃さんは不意に顔を上げた。視線を感じたらしく、戸惑っているのが見てとれる。

 

「あっ、ううん、何でも。……ごめん」

 

慌てて取り繕おうとしても、自分のことながら何を言っているのかわからなくなった。

 

「そんな……き、気にしないで」

 

由乃さんは困惑した様子ではあったが、祐巳を気遣ってくれた。

不快に感じたわけではなさそうなのはよかったけれど、由乃さんを戸惑わせてしまって、落ち込んだ。

そうしている間にも由乃さんはノートを写し終わったのか、筆記用具をしまっている。

 

「あの」

 

ノートをしまう手を止めて由乃さんが言った。

 

「え?」

 

「私と令ちゃ……お、お姉さまって、どう見えるかな?」

 

「由乃さんと令さま?」

 

言われてぼんやりと考えてみるが、答えは明白だ。

それはもちろん、ベスト・スール賞を頂いていたことからも分かる通り、お似合いの姉妹だろう。

 

「えっと、お似合いの姉妹って感じかなあ。言うなれば、こう……病弱なお姫様と、姫を護る騎士?」

 

「そっか……」

 

頭の中のイメージを懸命に言葉にしてみたが、由乃さんは得心のいかない様子で、そっけないお返事である。言葉選びを間違えただろうか。

 

「……私、ちゃんと妹やれてるかな」

 

「え?」

 

すると由乃さん、今度はまた別の質問を投げ掛けてきた。

おいおい。

由乃さんがちゃんと妹やれていないというのなら、誰がちゃんと妹やれているというんだ。

 

「よ、由乃さんはよくやってると思うけど」

 

「そうかな……」

 

どこか不安げに俯く由乃さん。

どうも由乃さんは、答えを求めて質問を繰り返しているわけではないらしい。

心の内にある不安を、吐き出しているだけなのかも。

 

「私お裁縫も、お料理も、お姉さまのために覚えたのに」

 

お姉さまのために、って。

こんなに自分に尽くしてくれる由乃さんがいて、令さまは幸せ者だと思う。

けれど由乃さんはやっぱり悲しげで、のろけているようには見えなかった。

 

「由乃さん、令さまのこと、大好きなんだね」

 

だから何も言わず、ただ由乃さんの想いを肯定する。

由乃さんは小さく首を縦に振った。

 

「もちろん。……だって」

 

そこで言葉を止め、由乃さんは表情を変えた。場が凍りつくような鋭い雰囲気になって、祐巳は思わずごくりと生唾を呑み込む。

 

「私は、お姉さまがいないと生きていけないもの」

 

「っ……」

 

それが冗談めかしたものであったなら、祐巳も「またまたぁ」と笑って返すことが出来ただろう。しかし、由乃さんは真面目な表情でそこに佇んでいて、本心からの発言らしかったから。

祐巳は何も言えず、黙りこんでしまった。

由乃さんは一体どんな人なのか。ここにきてわからなくなった。

 

静寂の中、由乃さんはゆっくりと立ち上がって膝掛けをしまった。帰る準備万端の由乃さんに、祐巳は我に帰り慌てて声をかける。

 

「薔薇の館、行く?」

 

このまま別れるのは嫌だったからそう尋ねてみたものの、由乃さんは首を横に振った。

 

「剣道部に行くから」

 

「剣道……部?」

 

由乃さんと、剣道。

はて。

どうも二者が線で繋がらない。まさか由乃さんが剣道をやるわけではないだろう。令さまと待ち合わせでもしているんだろうか。

すると由乃さんは、祐巳の疑問を氷解させるように言葉を続けた。

 

「私、剣道部のマネージャーなの。形だけなんだけどね」

 

「……なるほど」

 

由乃さんは剣道においても、令さまを支えているわけだ。

病弱でありながらも、陰から騎士――お姉さまを支える深窓のお姫様。

そりゃ、妹にしたいナンバーワンにもなるわけだ。

 

「いつでも令ちゃんのそばにいたいから」

 

だから由乃さんは、マネージャーとしても頑張っているわけだ。

うーん、見上げた妹心。

由乃さんの令さまへの想いの凄まじさを実感する。

って、ちょっと待て。今、由乃さん何て言った?

 

「今、令ちゃんって……」

 

指摘すると、由乃さんは「しまった」という顔をした。

 

「あ、えっと……私とお姉さまは従姉妹同士だから」

 

「……なるほど」

 

こうして祐巳は二度も「なるほど」と唸らされたのだった。従姉妹同士で気心知れた仲だからこそ、二人は深い絆を築いている。

一学年上の先輩をちゃん付けで呼ぶからには、それくらいの長い関係なんだろう。

それこそ、互いのことはなんでも知っているくらいに。

すると不意に、先程の祐巳よろしく廊下から声がかけられた。

 

 

「由乃、いる?」

 

そこに現れたのは、令さまだった。

剣道着と防具を身につけた、凛々しいお姿。きっと稽古中に抜け出してきたんだろう。似合っていて素敵な格好ではあるが、これで校舎を歩いてきたのだとしたら、令さまファンにキャーキャー言われて大変だったのではなかろうか。

 

「あ……令ちゃん」

 

「ちょっと遅かったから、迎えに来た」

 

令さまはあっさり言ってのける。

お姫様のお迎えに上がる、騎士さま。何てお似合いなんだろう。まさにベスト・スールの名にふさわしい姉妹。

ふと令さまは、隣の祐巳に目を向けた。

 

「祐巳ちゃんも一緒だったんだね」

 

「あ、私はちょっと通りがかっただけで。すぐ失礼しますから」

 

理想の姉妹であるお二人の手前祐巳はちょっぴり遠慮してしまい、早々に席を立った。噂の主が目の前に現れたが故の気まずさもあって、ちょっと居心地の悪さを覚えたのだ。

 

「祐巳ちゃん、そんな気を使わなくてもいいよ」

 

「へ?」

 

扉へ向かって足を踏み出しかけたところで、祐巳は令さまの声で停止した。何とも不細工な格好になってしまっている。

 

「私たちは昨日今日姉妹になった仲じゃないんだから」

 

そんなにベタベタしたりしないわ。そう言って令さまは笑った。祐巳をからかう令さまの隣で、由乃さんは控えめに微笑んでいる。

うーん、絵になる。美男美女カップルって感じだ。いや、美男は令さまに失礼か。

なんてうっとりしていたら、令さまと目があった。何かじーっと見つめられている。

 

「……祐巳ちゃん、この後時間ある?」

 

「……え?」

「……え?」

 

唐突な質問に思わず祐巳は呆けた声を出してしまった。それと同時に、別の声が被さった。声が重なって聞こえ、その違和感に再び「えっ」と声を洩らしてしまう。

コーラスの主は状況的に由乃さんしかありえない。由乃さんもまた、突然の令さまの発言にその意味を図りかねているのだろうか。

 

「ちょっとお話、しない?」

 

「あ、えっと、あの……はい。構いません」

 

そんな情けない姿を晒してしまったから、ただ返事をするだけなのにしどろもどろになってしまう。ああ、恥の上塗りだ。

 

「ありがとう。由乃、先に剣道場に行っていてくれる?」

 

祐巳の了解を取り付けて、令さまは今度は由乃さんに優しい声音で話しかけた。

 

「……私も一緒じゃだめ?」

 

令さまのそばにいたいという想いが、その顔には分かりやすく現れていた。

由乃さんは上目遣いで令さまの胴着の裾を掴み、挙げ句に小首を傾げてみせる。

その仕草は大抵の人ならあっという間にノックアウトされ、あっさりお願いを聞いてしまうような恐ろしい魅力を秘めていた。

 

「ごめん、祐巳ちゃんと二人きりで話したいの」

 

しかし令さまはそれを断った。

わざわざここまで迎えにきたのにも関わらず、由乃さんを先に行かせてまでしたい話とは何だろう。

 

「あ……うん、分かった」

 

「先生にもちゃんと言ってあるから、気にしなくていいからね」

 

由乃さんも大して抵抗はせず引き下がった。そんな由乃さんの頭を撫でてやる令さまの表情はミスターリリアンのイメージとは違って、お母さんのような包容力のある優しいものだった。

撫でられてる由乃さんも嬉しそう。

というか、お二人も自覚がないだけでベタベタしているじゃありませんか。しかし野暮だから心の中でだけ突っ込みを入れた。

 

「じゃあ、先に行くね……祐巳さん、ごきげんよう」

 

「あ、うん。ごきげんよう」

 

ちょっと名残惜しそうに去っていく由乃さん。

令さまはそれをじっと見守っていた。扉が閉められて、その姿を視認できなくなるまで。

 

「さて」

 

気を取り直すように祐巳の方に向き直り、令さまは口を開いた。



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2

 

「先生にもちゃんと言ってあるから、由乃は気にしなくていいからね」

 

そんな令ちゃんの声に背中を押され、舌の根も乾かぬうちに私は教室を出た。一見説得されたような形になったが、納得はしていない。

令ちゃんは祐巳さんと何のお話をするというのだろう。せっかく迎えに来てくれたのに、わざわざ私を放ってまでしたい話とは一体何なのだ。

ぐるぐると、終わりのない思考に捕らわれる。

剣道部へ向かうその足取りは、石のように重い。

 

 

――

 

 

令さまとは知り合ってまだ間もないけれど、いつになく真剣な表情をしているから祐巳の表情も固くなった。一体どんな話をするというのだろう。

ドキドキしながら令さまの言葉を待つ。

 

「祐巳ちゃん」

 

「は、はいっ」

 

名前を呼ばれただけで、その溢れ出る凄みに祐巳は思わず一歩後ずさってしまった。

 

「由乃とお話していたよね?」

 

しかし令さまが言ったのはちょっとした確認のような質問でしかなくて。ちょっと拍子抜けした心地である。

だから祐巳も、気の抜けた返事しかできなかった。

 

「へ? ……あ、はい。ちょっとだけ」

 

「どんな話をしたの?」

 

「えっと、その、他愛もない話ですよ」

 

久しぶりだね、とか。ノート写すの大変だね、とか。

そんな社交辞令的な話をしただけ。

 

「あとは、その、ちょっとした愚痴をこぼしていました」

 

「へえ……由乃が。どうだった?」

 

三度繰り返される質問はどうも掴み所のないものばかりで、答える祐巳も困惑しっ放しだ。

話をしているというより問い詰められている感じで、やっぱり居心地の悪さは拭いきれない。

 

「どうだった、とは?」

 

「その……印象、とか」

 

ああ、なるほど。

つまり令さまは、由乃さんのことを心配しているのだ。

 

「まだそんなに話したわけではありませんから、偉そうなことは言えませんが……仲良くなりたいとは思っています。だって、一緒に山百合会で働く仲間なんですから」

 

「っ……そう」

 

令さまは祐巳の発言で一瞬目を丸くし、そして凛々しく微笑んだ。それは花開くような笑顔だった。例えるなら、向日葵のような。

 

「令さまも、由乃さんのことが大好きなんですね」

 

「ええ……もちろん。大好きよ」

 

令さまは胸を張ってそう言う。

 

「由乃さんも、令さまのこと大好きって言っていました」

 

「うん、知ってる」

 

すごいな、この姉妹。

由乃さんは令さまのことが大好きで、令さまも由乃さんのことが大好きで。

祐巳も祥子さまのこと好きだけれど、この二人ほど通じあっているとは手前味噌でも言えない。

お互いのことを大好きだと胸を張って言えるって、いいな。

 

「良かったら、また由乃の愚痴聞いてあげてくれる?」

 

「聞くだけでいいんですか?」

 

「十分。由乃にはそういう友達がいなかったからね」

 

「そうなんですか……でしたら、私なんかでよければお引き受けします」

 

あっさり答えてしまったけれど、つまり由乃さんは、クラスメイトに心を開いていないということ?

共に幼稚舎からリリアンに通っている身でありながら一度も同じクラスになったことがなくて、祐巳は由乃さんの人となりはよく知らなかった。

体育の授業は見学ばかりで、遠くから座って眺めている由乃さんの姿を何度か見たことがあるくらいで。

ともかく、令さまは周りに心を開いていない由乃さんを心配しているわけだ。

 

「ありがとう、祐巳ちゃん」

 

「いえ、そんな。というか、私なんかでよろしかったんですか」

 

「うん、祐巳ちゃんでよかったよ。由乃と仲良くしてあげてね。人見知りするけど、可愛くていい子だから」

 

そう自慢の妹を誉めちぎる令さまの表情は、とびきり素敵だった。蔦子さんがここにいたら、きっと迷わずカメラに納めていただろう。

学園の令さまファンや蔦子さん、そして新聞部には申し訳ないけれど、このかわら版にも載らないようなご尊顔はこの不肖福沢祐巳が独占させてもらおう。

 

「ごめんね、時間とらせちゃって」

 

言いながら令さまはふと壁掛け時計をちらりと見て、きっと思った以上に長引いたんだろう、「わっ」と小さく声を上げて立ち上がった。

 

「いえ、急ぎの用事があったわけではないですから、気にしないでください」

 

「うん、ありがとう。そうだ、薔薇の館に行くんだったら、お姉さま方によしなに伝えて」

 

試合が済むまで我が儘させてもらってすみません。

祐巳はそんな伝言を申し使った。

 

「じゃあ、私も剣道部行くから。ごきげんよう」

 

そういって、どこか清々しい表情で去っていく胴着姿の令さまは本当に格好いい。

 

「あ、はい。ごきげんよう」

 

背中に向かって声をかけると、令さまは振り返ることなく手を振って「ごきげんよう」と返してくれた。あまりに堂に入った仕草にぽーっと見とれてしまう。

 

……うーむ。

いつぞやに桂さんが言っていた、「黄薔薇は三年二年一年、すべて安泰」という言葉は的を得ていたと、祐巳は改めて思った。

だって、あんなに想いあっているんだもん。

 

けれど、祐巳の心には一つ疑問が残った。

令さまはなぜあんなにもすっきりした表情を浮かべていたのだろう。

 

 

――

 

重く垂れ込む不安の雲は、いつまで経っても晴れることはない。闇に包まれた心を照らしてくれるのは、世界中でただ一人令ちゃんだけ。今令ちゃんはここにいないのだから、それも当然だ。

令ちゃんのそばにいたい。今はその思いだけを拠り所にしていた。

 

その日、私には定期検診のため病院へ行く予定があった。

だから私は休まざるを得ないけれど、剣道部は例日通り稽古が行われる。試合が近いからもちろん令ちゃんだって参加するだろう。でも私は令ちゃんにそばにいてほしいと思った。一緒についてきてほしいと思った。

私は心から令ちゃんを渇望していたのだ。私の心の安定は、令ちゃんの存在によるものだから。

我が儘なのは分かっているけれど、令ちゃんの腕に抱かれて安心したかった。

だから私は今、令ちゃんに会うため二年菊組の教室目指して廊下を歩いている。

 

ああ、大好きな令ちゃん。どうして私たちは一年違いで生まれてきてしまったんだろう。

同じ学年であったなら、こうして令ちゃんを求めて二年の教室まで遠出する必要もないし、先に令ちゃんが卒業しちゃって、寂しい思いをしたりせずに済むのに。体裁の為にわざわざお姉さまって呼んだりもしなくて済むのに。

――とそこまで考えて、私は思い直した。

その場合、令ちゃんは別の妹を作っていただろうと。それは本当に嫌だなあって思ったのだ。いつからか私は、嫉妬深くなってしまったらしい。空想でしかないその妹にまで嫉妬心を覚えるとは。

それもこれも、最近令ちゃんがちょっと素っ気ないせいだ。令ちゃん分が足りないんだ。

そうやって令ちゃんのことを思いながら歩いている最中。剣道部へ向かう大好きな令ちゃんの姿を見つけ、私はすぐさま駆け寄った。

 

「令ちゃんっ」

 

「由乃? 今日は病院で検診があるんじゃ」

 

「う、うん。そうなんだけど……」

 

早く行った方がいいよって。気を付けてねって。もしかして体調悪くなったのって。

ううん、そういうわけじゃない。

心配してくれるのは嬉しいけれど、せっかくこうして会えたのに私の顔を見て一番に言うのがそんな言葉だなんて。

 

「えっと、その……令ちゃんも一緒に来てくれないかなぁなんて」

 

「私も? いや、でも私稽古が」

 

むっとして私は、渋る令ちゃんに迫った。

 

「い……嫌なの」

 

「え?」

 

「令ちゃんが一緒じゃなきゃ嫌なの。お願い令ちゃん、そばにいて。令ちゃんっ」

 

私は令ちゃんの腕にしがみついて懇願した。行かないで、ってひたすらに。

令ちゃんは優しく頭を撫でてくれたけど、やんわりと断られてしまった。

「剣道部の試合が近いならそっちの方に集中してって、由乃が言ったことでしょ?」

 

それはその通りだった。頑張って稽古して、悔いのない試合をしてほしかったから。剣道には真摯に向き合って欲しかったから、幼い頃から基本的にそういうスタンスでいた。そういうときは病院へも頑張って一人で行ってみせる、って約束したのだ。

けれど今はそれが裏目に出てしまっている。

 

「そうだけど……でも、今日だけは」

 

それでも無様にしがみつく。私には令ちゃんしかいないのだ。

 

「ごめん。私、由乃に甘えられるのは好きだけれど、お願い、今は我が儘言わないで」

 

「令ちゃん、お願い……そばに」

 

ごめん。

嫌だ、そばにいて。

そんな結論の出ない押し問答を何度も繰り返し、ついに令ちゃんは大きくため息を吐く。私を撫でる手も、放されてしまった。

 

「……ごめん」

 

私の口上を断ち切って言い放った謝罪はそれまでと同じ三文字の言葉ではあったけれど、そこに含まれる感情の度合いが違った。だって令ちゃんは真摯な目つきでこちらを見据えていたから。

私は何も言えず、口を閉ざす。

怒られる。

そう思って、私はぎゅっと目をつむった。

 

「由乃、前から思っていたんだけど、私たち、少し距離を置いた方がいいのかもしれない」

 

けれど令ちゃんは怒るのではなくあくまでも冷静に、そう言ったのだ。

その瞬間、心臓が停止したかと思った。

キョリヲオイタホウガイイ。

何だ、それは。そんな言葉、知らない。

その理解不能な言葉で身体機能に支障が起きたらしく、私はぴたりと動きを止めた。

 

「え……?」

 

令ちゃんに抱きついていた手が抜けて、だらりと脱力する。

心が乾いていくのが自分でもわかった。

胸にぽっかりと大きな穴を穿たれたかのように空虚な心地で、令ちゃんを見上げる。

 

「令ちゃん、何言ってるの……? そんなの、おかしいよ。何でそんなこと言うの……?」

 

ごめん、嘘だよ。

そう言ってくれればまだ笑い話で済むのに、令ちゃんはそれを撤回することなくさらに言葉を続ける。

 

「私もお姉さまたちに言われるまで気がつかなかったんだけど、私たちは距離が近すぎて、互いの姿しか見えていないような気がするの。それじゃあ良くないと思う」

 

お姉さまたち。ほとんど聞き流してしまったが、その言葉だけは胸に響く。

薔薇さま方が令ちゃんに何か吹き込んだの?

だから令ちゃんはおかしくなったの?

 

「何で……」

 

「よ、由乃?」

 

「何で、何で何で何でっ!」

 

差しのべられた令ちゃんの手を振り払い、今までにない熱量で喉を震わせる。

もう正常な思考はできなくなっていた。沸き上がる激情に身を任せて、私は思いの丈を叫び続ける。

 

「そうだ……この間だって、その前だって。ずっと令ちゃんはおかしかった!」

 

「由乃、落ち着いて!」

 

肩を揺さぶってくる令ちゃんをよそに、私は一つの結論に辿り着いた。

 

「ああ、そっか。令ちゃんは……私のこと嫌いになったんだっ!」

 

そうだ。

令ちゃんがあんなこと言うなんてそうとしか考えられない。

 

「そ、そんな訳ないじゃない!」

 

この期に及んで令ちゃんは何やら言い訳している。

中途半端に気を遣われるくらいなら、いっそ嫌いって言ってくれた方がよかった。

 

「あはは……そっか。そうだよね……そうとしか考えられないもの」

 

あはは。あははは。あはははは。

何かすごく可笑しくなって、狂ったように哄笑した。いや、比喩でなく既に狂っているのかもしれない。

 

「あはは……もう、どうでもいい。私にはもう令ちゃんしかいないのに……」

 

「由乃……」

 

剣道を失った私を救ってくれた、令ちゃん。

私は令ちゃんに生きる希望をもらったのだ。令ちゃんがいてくれることが、今生の幸せだった。

けれど令ちゃんに嫌われた今、どうでもよくなってしまった。

剣道部も。

山百合会も。

令ちゃんとの姉妹関係も。

何もかも、全てが。

 

「もう、こんなもの……いらない!」

 

自分の首にかけられているのは、姉妹の契りを交わしたロザリオ。入学式の日に令ちゃんがかけてくれたものだ。

姉妹の証のロザリオなど、もはや何の意味もなさない。

私はそれを力任せに首からはずした。そのまま、立ち尽くしている令ちゃんの体に思い切り投げつける。一瞬令ちゃんが怯んだその間に、私は気づけば駆け出していた。

スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻さないようにゆっくりと歩く――そんなたしなみなど唾を吐き捨て、不格好に全力疾走する。

令ちゃんに何度となく可愛いって褒められたお下げ髪も振り乱して、無茶苦茶に走る、走る。

目的地などあるはずもない。私はただ令ちゃんから逃げたいという思いだけだったから。そして、同時に現実からも。

 

「由乃! 待って、そんなに走ったら!」

「こないで!」

 

息も絶え絶えに、追っ手を振り払うため必死に声を張り上げる。

体に差し障る?

それがどうした、構うものか。

 

放課後間もない時間のため、校舎内の人通りも決して少なくない。

歩く生徒の肩にぶつかったり、騒ぎを聞いて集まってきた生徒が目を丸くしてこちらを見ていたり。注目される要素は揃っている。

そんな生徒たちの間を縫って、無我夢中で疾駆する。

呼吸が乱れるのも構わず、勢いに任せて階段を駆け下りようとしたときだった。

 

「ぐっ……!」

 

令ちゃんの懸念通り、発作は起きた。

激しい動悸はそのままに、鋭い胸の痛みに襲われる。そして、多量の発汗とこみ上げてくる吐き気。

あ、これはまずいやつだ。自分の身体のことだ、嫌でもわかる。

思わず胸に手を当てるも、くらっと足元がふらつき、前につんのめった。さて、今自分がいるのは果たして何処であったか。

階段である。

そんな場所にいて、かつこの覚束ぬ足取りでは安定をとれるはずもない。案の定私は足を踏み外し、頭から転げ落ちた。

一回転そして二回転してようやく勢いは止まり、床に倒れ伏す。反射的に腕を回して頭を守ったけれど、それでもかなりの衝撃だった。

きっと、かなりの激痛だったんだろう。何となく血が流れているような気もしたが、それも実際のところはわからない。

それを実感するよりも先に、私の意識は遠のいていったから。

 

その時私は、もうこのまま死んでもいいかなって、ぼんやりと思った。

 

「由乃っ!」

 

そんな声も遠く、遠く――。

 

 



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3

 

――令さまと由乃さん姉妹が破局し、錯乱した由乃さんが発作を起こして階段から転げ落ちて怪我を負い、病院へ運ばれた。

 

祐巳がそんな荒唐無稽な話を聞いたのは、由乃さんや令さまとお話しをした日から数日か経ったある日の放課後。教室で掃除をしていたときのことだった。

こんな眉唾物の話を我が桃組にもたらしてくれたのは、クラスメイトの桂さん。

 

「ええっ!? それ、本当?」

 

その内容に驚くあまり祐巳は、リリアンの淑女たる嗜みなどあっさり忘れて乱暴に詰め寄ってしまった。それこそ、飛びかからんばかりの勢いである。

 

「きゃあっ、祐巳さん。お、落ち着いて」

 

「あ、ご、ごめん」

 

そんな桂さんの悲鳴で我に返り、すぐに謝った。なんたる不覚か。

 

「まあ、動揺する気持ちはわかるから」

 

そう言って気を取り直し、桂さんは事の顛末を語りだした。

桂さん曰く、二人は校舎内で衆目の中かなり激しく言い争いをしていたらしい。それで怒り狂ったか錯乱状態になったかで由乃さんは、なんと令さまにロザリオを投げつけたんだって。

で、由乃さんはそのまま令さまから逃げるようにして駆け出した。そして、階段を降りようとして発作が起きた、と。

 

「由乃さん、今日は調子良かったらしいんだけど……そりゃもう凄まじい勢いで走っていたそうだから」

 

だから、発作は起きてしまった。

由乃さん……どうして、そんなことを。

一通り話を聞いてもまだ、祐巳は信じられなかった。でも桂さんは実際に見た生徒に聞いたというから、きっと事実なんだろう。

事実は小説より奇なりとは言うけれど、こんなことが起こるなんて。

それも由乃さんと令さまが破局したなんていう話だから、全く現実味がないのだ。

凛々しく妹を護る令さまと、ちょっと儚げに微笑む由乃さん。そんなお二人が喧嘩している姿が、祐巳には全く想像できないから。

 

「それで、由乃さんは大丈夫なの?」

 

発作が起きたのと、階段から落ちたのと。

どちらか片方だけでも苦しいだろうに、それが両方ともあの華奢な身体に襲いかかってくるなんて。

そう心配したのだが、どうも容態は想像以上に芳しくないらしい。

 

「どうかな……血も流してたらしいし」

 

「血っ!?」

 

物騒な言葉を聞いて、祐巳は青ざめた。

 

「それ、かなりまずいんじゃ……」

 

「ええ……意識もなかったみたいだからね」

 

ありがたいことに今まで大きな病気も怪我もしたことがないから、それがどれだけ辛いのかは想像するしかない。けれど、少なくともかなりまずい状況なのはわかる。

由乃さん、学園祭が終わってからこっちずっと休んでいて、ついこの間ようやく学校に来れるようになったというのに。

どうして。

本人のいない場で考えても仕方ないが、それでも解のない疑問が浮かび上がってくる。

 

「無事、だよね」

 

「だといいね……」

 

それは確信ではなく、願望だった。

内容が内容だから、お互い暗くなってしまう。

 

うん、お見舞い、きっと行こう。

そうしたら元気な姿を見れるといいな。

祐巳はそう決めたものの、やはり腑に落ちないところがある。

 

「それにしても……あのお二人が言い争うなんて、何があったんだろう」

 

「さあ……そこまでは」

 

桂さんも事の発端までは知らないらしい。

まあ、きっと論争が白熱していって初めて、何だ何だと人が集まってきたんだろう。

喧嘩とは無縁そうな姉妹だし、元々の注目度も相まって、こっそり見ていた野次馬は相当の数に上るだろうと容易に想像できる。

 

「それで、令さまは?」

 

由乃さん大好きな令さまのことだから、由乃さんを心配して共に病院へ付き添ったのではないか。祐巳はそう考えていた。

 

「それが……あの後すごくショックを受けてしまったらしくて、私が見た時は校庭を亡霊みたいに歩いていたわ。あまりの落ち込みように、とても声はかけられなかったけど。……あんな令さま初めて見た」

 

「えっ……わ、私、見てくる!」

 

「祐巳さんっ?」

 

こうしてはいられない。後ろから桂さんが声をかけてきたが、「ごめん」とだけ返して祐巳は教室を飛び出した。

階段を降りて最寄りの扉から外に出る。

靴も履きかけのまま校庭へ走って、令さまの姿を探したが見当たらない。

リリアンの敷地は広いから、闇雲に探し回っても時間を浪費するだけだ。そう考えた祐巳は、頭の中で令さまがどこにいるのか推理した。

かなりのショックを受けてしまっただろう令さま。きっと一人になりたいと思っているにちがいない。だから一人になれる場所にいるのではないか、と。

そう当てをつけ、学園祭の前日に祥子さまも逃げ込んだ古い温室へ向かう。

中へ入ると、確かに令さまはいた。

 

 

――

 

 

由乃が病院へ運ばれた。それは令にとってひどく心を揺さぶられる出来事だった。

由乃が発作を起こし、階段から転落した時。頭から決して少なくない量の血が流れているのを見て、令は発狂したように何度も、意識を失った由乃の名を呼んだ。

 

偶々そこに居合わせていた子――錯乱していたからもう誰だったか覚えてはいないけれど――が冷静に応急処置を手伝ってくれていなかったら、令は落ち着いて救急車を呼ぶことすら出来なかっただろう。

 

やはりあんなことを言うべきではなかったのだろうか。

自分は一体どうすべきだったのだろうか。

そんな自問は何度も繰り返された。自答はないままに。

自分のせいであんなことになったのだと思う度に、胸が苦しくなる。

由乃のことを思うならば、いつかは言わなくてはいけなかったと思う。

けれど、それは何も今でなくともよかったのだ。

いや、むしろ先伸ばしにしてきたのがいけなかったのか。そうやって無駄に意識してしまったために、由乃を不安にさせていたのかもしれない。あまり胸の内を語らない子だから、ずっと溜め込んでいたのだろう。

そうして今日、令はついに引き金を引いてしまったわけだ。

気が気でなくなるくらい心配だったが、結局令は由乃に付き添って共に救急車に乗りはしなかった。

 

令は何度も考えたのだ。

もう一度由乃のもとへ行って、ちゃんと謝り、ロザリオを再びかけてあげれば、それで丸く収まるだろうかと。

しかしそうしたら、もう二度と関係は修復できなくなるかもしれない。

だから狂おしいほどの由乃への思いを押し殺して、令は救急車を見送ったのだ。令に出来たのは、叔母さんに電話をかけて由乃が病院へ搬送されたと伝え、かつそれについての謝罪をすることだけだった。

 

令だって、確かに由乃を愛している。それこそ由乃以上に大切な存在などこの世にはいないと断言できるくらいに。きっと、それは由乃だって同じだろう。

けれど自分がいなければ何もできないというのでは薔薇さまとしてやっていけないだろうし、何よりこれから先の由乃の人生が心配だ。

……そうはいっても、結局は今の由乃と向き合うのが怖いだけなのかもしれない。

 

その時は気が回らなかったが、由乃との一幕はかなりの生徒に見られていたらしい。そうでなくとも山百合会の一員が大怪我をして病院に搬送されたのだ、注目されないわけがない。

ぼんやりと校庭を歩いていると、心配して声をかけてくれる子たちに何度も出くわした。それはありがたいが独りになりたくて、令は何となく古い温室へと足を伸ばした。

中には誰もいなかった。

鉢棚に腰掛け、何をするでもなくぼんやりと薔薇の花を眺める。

ゆったりとした時間が流れる中、令は由乃のことばかりを考えていた。

 

「令さま」

 

そこへやってきたのは、祐巳ちゃんだった。

 

「ああ、祐巳ちゃん」

 

彼女はおそるおそる中へ入ってきたが、令の顔を見るなり目を丸くした。

「令さま、泣いて……?」

 

「え?」

 

言われて目元に手を当ててみると、確かに両の瞳から一筋の水滴が流れ落ちていた。

気づかぬうちに泣いていたらしい。

自覚した途端に、悲しみの滴は堰をきったように溢れだしてきた。

 

「は、はは……私……」

 

言葉も思うように出てこない。出てくるのは涙だけだった。

それを拭うこともせずに、令はその場で頭を抱えてしゃがみこんだ。

祐巳ちゃんは黙ってそこに佇んでいる。何も言わずにそばにいてくれるのが心地よかった。

静寂の中で、令の慟哭だけが温室に響いている。

暫しの時間が過ぎ、機を伺っていたのか、祐巳ちゃんは令の嗚咽がおさまった頃合いに口を開いた。

 

「……あの、令さま。お話伺いました。由乃さんが病院へ運ばれたって」

 

「ああ、うん……私のせいでね」

 

「令さまのせいって……」

 

「はぁ……何でこうなっちゃったんだろう」

 

弱音ばかりが口をつく。

由乃のことになると、どうにも冷静でいられなくなる。

祐巳ちゃんも再び口を閉ざしてしまった。何でこうなったなんて言われても、如何ともしがたいだろうから。

 

「令」

 

そんな祐巳ちゃんの背後から、凛とした声がした。

現れたのは、紅薔薇のつぼみ――小笠原祥子である。

 

「さ、祥子さまっ」

 

「ああ、祥子……」

 

「由乃ちゃんのこと、聞いたわ。ショックを受けるのは分かるけれど、こんな時に貴方がしっかりしていなくてどうするの」

 

未だ呆けている令に、祥子は毅然として向き合った。

 

「ほら、涙でせっかくの凛々しい顔が台無しじゃない」

 

祥子は懐からハンカチを取り出すと、屈みこんで令の顔を濡らす涙をそっと拭う。優しい手つきだ。

 

「とにかく、こんな所でふらふらされていたら迷惑なのよ」

 

そうして祥子に手を引かれ、令は半ば強引に薔薇の館へ連れ込まれた。

有り難かった。

こうして無理矢理にでも引っ張られなかったら、いつまでもうじうじと泣いていたかもしれない。

現に祥子に連れられている間にも、落ち着きを取り戻しつつあった。

 

 

――

 

 

令たち三人が薔薇の館二階の部屋へ入ると、そこには既に白薔薇さまと紅薔薇さまが揃っていた。優雅にお茶を飲んでいる。

令の顔を認めるとお二人は口を揃えて言った。

 

「由乃ちゃん、大丈夫なの?」

 

お二人共、既に騒ぎを聞いていたらしい。開口一番に由乃を案じてくれたことにどこか安心する。

まだ由乃は山百合会の一員であると思ってくれているんだって。

 

「は……はい。応急処置はしましたし、救急車も来るのが早かったので」

 

答えながら、祥子に促されて令は席についた。

 

「そう……良かったわ」

 

ほっと一息ついて紅薔薇さまはお茶をすする。

令も、此処へやってきてすぐ祐巳ちゃんが淹れてくれたお茶を口にした。

透き通るような風味は、令の心を幾分か癒してくれる。

 

「それにしても貴方たち、だいぶ騒がしくやっていたらしいじゃない」

 

そう言ったのは、白薔薇さま。

貴方たちというのは当然、令と由乃のことを指しているのだろう。

令はゆっくりと頭の中で整理しながら語った。

「ええ……まあ。私も由乃も熱中していましたので、注目を集めてしまったようですね。申し訳ありません」

 

「……まあ、新聞部は黙っていないでしょうね」

 

それまで会話を黙って聞いていた祥子が、苦々しく口を開いた。

確かに。

ここまでの騒ぎになっているのだ。新聞部は――いや、あの築山三奈子さんは、間違いなく記事にすることだろう。

 

「うん。ちょっとしたスキャンダルになることは確かだよ。それに加えて由乃ちゃんはかなりの怪我を追ってしまった。こりゃもう新聞部の格好の餌食だね」

 

そう言う白薔薇さまは、言葉こそ軽いものの、その語り口は神妙だった。

 

「そう……ですね」

 

あの時、少しでも周りを気にする余裕があったらここまでの騒ぎにはならなかったかもしれない。

今更言っても後の祭りだが、ともかく由乃が悪者にされることだけは避けたかった。悪いのは自分だ。

 

「記事の内容によっては、山百合会も動く必要がありそうね」

 

「ご迷惑おかけします」

 

自分たちのいさかいで薔薇さま方の手を煩わせることが心苦しかった。

だから、令は再度お二人に謝罪した。

 

「気にしないで。貴方と由乃ちゃんとのこと、私も少し責任感じてるの」

 

余計なことを言ったせいで、と紅薔薇さまは申し訳なさそうに言ったけれど、そうではないと思った。少なくとも紅薔薇さまが気に病むことではない。

 

「いえ、そんな。私が至らなかったせいですから……。きっと、これは自分自身が向き合わなくてはならないことなんだと思います」

 

「……そう。でも貴方が望むなら、相談にのるわよ」

 

「うん、私たちにできることあったら言って」

 

「……はい。その時期が来ましたら、ご相談したいと思います」

 

ここまで気遣ってくれるお二人に心底感謝し、その思いを込めて令は一礼した。

 

ある程度落ち着いたとはいえ、令はまだ混乱状態にある。

だから今はとにかく考えたかった。

自分のこと、由乃のこと、そしてこれからのことを。

 



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4

 

体が熱を帯びている。

熱い、熱い……。

 

「んっ……」

 

息苦しさに身をよじった際、全身が鈍痛に悲鳴を上げ、私は深い眠りから覚醒した。

そこは現世に蘇ってから何度も過ごした、見慣れた病室だった。

自分がベッドで寝ている以外、他に人は誰もいない。

しかし熱のせいもあってか意識が未だに目覚めきっていない私は、ぼんやりとした心地で虚空に尋ねた。

 

「令ちゃん……は?」

 

当然返事などあるはずもない。

次第に頭もすっきりしてきて、私はようやく思い出した。なぜ自分が病室にいるのかとか。あとは令ちゃんとの一件も、鮮明に。

ああ、死ななかったんだなって。自分は生きているのだと、どうしようもなく実感させられた。

 

「……なんでもない」

 

目覚めたばかりだから、どこか会話が覚束ない。いや、会話というか独り言か。

体は起こさずに目だけを動かして周りをよく見てみると、お母さんの鞄が置いてあることに気がついた。今この場にいないのは、お手洗いだろうか。飲み物を買いに行ったのか。お見舞いに本でも買いに行ったのか。

ともかくお母さん、来てくれているんだ。

 

……なのに、何で令ちゃんはいないのだろう。

やはりあの時の、令ちゃんは私が嫌いになったのだというのは間違いではなかったと確信してしまった。

だから、お母さんが来てくれているという喜びはあまりなかった。

 

「……っうぅ」

 

不意に、頭部に軽い痛みが疾る。私は思わず頭に手を当てた。

それ自体は一時的なものですぐ治まったのだが、頭に触れた時額の辺りに違和感を覚えた。明らかに人肌とは異なる感触だったのだ。

 

「由乃っ、目が覚めたの?」

 

と、そこに扉が開かれ、お母さんが戻ってきた。その手には何も持っていないから、おそらくはお手洗いから。

私が目を開けているのに気付き、お母さんは声を荒げた。扉を閉めることも忘れて駆け寄ってくる。

 

「ああっ……いけない、つい大きな声を」

 

すぐに気がついてぱっと口を抑えたが、もう声は発せられてしまったんだから意味のない行動だ。

その後、お母さんは泣きそうな顔で私を見つめた。いや、実際泣いていたのかもしれない。

 

「良かった……目を覚ましてくれて。私気が気じゃなかったのよ」

 

あの時のように、私はお母さんに優しく抱きしめられた。

 

「……ごめんなさい、心配かけて」

 

「ううん、いいのよ。由乃が無事でよかった」

 

それから、お母さんから色々な話を聞いた。

みんな心配しているよって。怪我が治ったらお祝いするねって。

私は令ちゃんの話を意図的に話題に出さずに、お母さんと語り合った。

いつも令ちゃん大好きな私だったから、お母さんはその奇妙な違和感を感じ取ったのだろうか。

 

「ねえ、由乃。令ちゃんのことなんだけど……」

 

「えっ」

 

唐突に令ちゃんというワードが飛び出してきて、どきんと心臓が高鳴る。

思わず私は体を起こしかけたけれど、全身に痛みが走ったために、くぐもった声をあげるだけにとどまった。

 

「ああ、もう。無理して動いちゃだめよ」

 

お母さんに促され、体に布団を被せられた。

お母さんによると私の怪我は、頭――正確には額のところの裂傷、そして全身打撲ということだった。

内出血で腫れちゃって、痣だらけで大変だった、って。

頭の裂傷は五、六センチほどのもので、十四針縫ったらしい。一週間くらい経ったら抜鈎を行うという。

それに加えて発作だって起きていたわけで、体調が思わしくないのは当然だ。

とまあこれだけ色々あったんだから、お母さんは気が気じゃなかったんだろう。心労がたたったのか、お母さんの顔はやつれていた。歳の割には綺麗な顔立ちだったのに、隈もできちゃって今では年相応かそれ以上なくらいに老け込んでしまっている。

 

「大丈夫? 貴女は女の子なんだから。嫁入り前の体に傷ついたら大変よ。これからは気をつけなさいね」

 

「……うん」

 

申し訳なく思ったが、ともかく先程のお母さんの言葉に対して、私は答えねばならなかった。

 

「あの、令ちゃんがどうしたの? 令ちゃん、何か言っていた?」

 

「……いいえ。何でもないわ。ごめんなさい、忘れてちょうだい」

 

お母さんは何も汗でベタつく私の髪を、いとおしそうに撫でた。

 

令ちゃん。

その言葉が飛び出してきたからか、否応にも令ちゃんの姿を思い浮かべてしまう。

少年みたいなベリーショートヘアとか。

高く座った鼻梁とか、艶やかな柔肌とか。

私よりも一回り高い背丈とか。

そんな男性みたいなルックスのくせして乙女なところとか。

そんな令ちゃんを構成する全ての要素を、私は等しく愛している。

想像していたら、それだけで涙がにじんできた。でもそれを拭うことすら、自分ではできない。

 

「けほっ、けほっ」

 

体調のせいなのか、あるいは悲しみのせいなのか。それは定かでないけれど、ひどく胸が苦しい。

咳が止まらなくなり、その反動で体が微動するたびに鈍い痛みが駆け巡る。

 

「由乃、大丈夫?」

 

お母さんが呼んでいる。

 

「ぐ……っ」

 

気持ちの悪い嘔吐感が上ってきた。

これはまずい、と思って我慢しようとしたが堪えることは叶わず、咳をすると同時に吐いてしまった。

 

「かはっ!」

 

しかし、吐いたのは吐瀉物ではなく血だった。純白のベッドが朱に汚される。

そこまで多量ではないけれど、お母さんは青ざめていた。

 

「由乃っ」

 

「だい……じょうぶ」

 

お母さんが叫んでいるが、そこまでのことじゃない。

大袈裟だなあ、お母さんは。

今までだって血を吐くことは何度かあったんだから。

そんなことより、私は令ちゃんのことを考えていた。

 

……ああ、令ちゃん。

令ちゃんっ。

どうして令ちゃんはあんなことを言ったの?

どうして私を嫌いになったの?

どうして?

 

心の中でどれだけ問いかけても、令ちゃんは何も答えない。

 

 

――

 

 

「由乃ちゃん、目を覚ましたって」

 

その日の夜、叔母さんから支倉家に電話がかかってきた。由乃が目を覚ましたらしい。母は受話器片手に、嬉々として令に報告した。

それを聞いて令は返事も忘れてリビングから飛び出し、受話器を引ったくった。

 

「もしもし!由乃は」

 

「わ、びっくりした。令ちゃんね」

 

叔母さんの声に令は少々落ち着きを取り戻した。

 

「ごめんなさい、突然。由乃のことが気になって」

 

「ううん。それくらい由乃のことが心配だということだものね。それで、由乃のことなんだけど――」

 

そうして叔母さんは語り始めた。

それによれば、頭部の裂傷と全身打撲で全治一週間ということだった。命に別状はないらしい。

しかし、発作もあったから体調がかなり悪いらしいのだ。目覚めた後、咳が止まらなくなり、挙げ句に吐血したという。

熱も下がらないから、しばらくは入院することになりそうだって。

最近は体調を崩すことがあっても、発熱程度で済んでいたのに。ここにきて病状が悪化してしまった。

 

「由乃の今の病状って、ストレスによるところが大きいみたい」

 

ストレス。

由乃はきっと、それを捌け口がないまま溜め込んでしまっている。

由乃はあの時、令ちゃんは私のことが嫌いになったんだ、と言った。

令が由乃を嫌うなど天地がひっくり返ってもありえないが、由乃にそう思われてしまう原因を作ったのは自分だったのだ。

 

「ごめんなさい、私のせいで」

 

「……あのね、さっきも言ったけれど、令ちゃんのせいじゃないわ」

 

さっきとは由乃が病院へ搬送され、叔母さんに電話をかけて謝罪した時のことだろう。経緯を告げて謝った際にも、叔母さんは詰ることもなく、そう言って慰めてくれた。

 

「応急処置をしてくれたから、由乃は助かったのよ。ありがとう、令ちゃん」

 

「いえ、そんな……」

 

「それに、私だって責任感じてるのよ。最近、由乃が何か悩んでいたのは私も気づいていた。けれど由乃は自分からはあまり話さないし、聞いても何でもないとしか言わないから」

 

結局何も出来ずに手をこまねいていて、こんなことになってしまった。

叔母さんはそう嘆いた。泣いているようだった。

 

「……由乃が」

 

最近。

それがいつからかは分からないけれど。少なくとも、以前から由乃は令とのことで悩んでいたのだ。

 

「ええ。母親失格ね」

 

「そんな、私こそ……」

 

だったらそれに気づくことすら出来なかった自分はもっと駄目だと、令はそう言おうとした。

 

「いえ……やめましょう。互いに嘆いてばかりいても、虚しいだけね」

 

会話は暗くなるばかりだった。叔母さんにそう言われなかったら、どこまででも落ち込んでいただろう。

 

「私は由乃についているから。ちゃんと気持ちの整理つけておいて。ね?」

 

「……はい」

 

「それじゃあ、お母さんによろしくね」

 

電話が切られた。

受話器を置いて、ぼんやりと部屋へ戻る。

 

「気持ちの整理、か」

 

宙に向かって囁いた。

由乃のために、自分はなにが出来るだろう。

 

 

 

――

 

 

 

そうして考えすぎたせいだろうか。山村先生に怒られてしまった。

それは翌日の放課後、悲しい思いを押し殺して部活動に励んでいたときのことだった。

きっかけは大したことではない。竹刀を握る手にも力が入らず、格下の一年生部員に一本とられてしまったのだ。

父にお前の剣は情に流される女の剣だと言われたことがある通り、本当に心ここにあらずって感じだったから、見事にお叱りを受けたのである。

騒動は聞いているけれど、そんな気持ちで剣道やってたら怪我の元だ、と。

そして、腑抜けている令に先生はさらに言葉をかけてくれた。

 

「支倉さんさ、島津さんがいないとだめなわけ?」

 

「……っ」

 

令にとっては耳が痛い言葉だった。それは雨の日に紅薔薇さまに言われたのと同じだったから。

由乃には自分がいないとだめ。そう思っていたけれど、反対に自分も由乃がいないとだめだったのだ。

図星を突かれて答えられずに黙っていると、更なる言葉が降りかかってくる。

 

「確かに島津さんはマネージャーとして、あなたの相棒として、ずっと一緒にやってきたんでしょうけれど。でも、彼女がいなくなってあなたがあなたじゃなくなるのはおかしくない?」

 

「……はい」

 

ぐうの音も出ない。それは、本当にその通りだったから。

紅薔薇さまに言われて分かった気になっていただけで、結局由乃がいないとこのざまなのだ。

何が少し距離を置いたほうがいい、だ。偉そうに言っておいて、自分が一番その覚悟ができていなかったではないか。

あ、またもや涙が流れてきた。最近どうも涙もろいみたいだ。どんどん、際限なく溢れてくる。

 

「私たちは、互いに寄りかかっていました。私、こんななりで本当は臆病で寂しがり屋なんです。けれど、由乃がそばにいてくれたから。だから、私は強くいられたんです。きっと、由乃も同じだった」

 

自分たちは互いにないものを求めて、互いに寄りかかっていた。

 

「うん」

 

先生は何も言わずただ頷いて、優しく肩を抱いてくれた。そんな大人の温もりに抱かれ、安心していたからだろうか。心の深淵に潜む思いを、令は正直に吐露することができた。

 

「このままじゃいけないと思って、でもその気持ちが空回りしてしまって。きっとそれが、由乃を不安にさせてしまったんです」

 

「……うん」

 

「私が由乃を傷つけたんだ」

 

自分を責めることで、令は自我を保っていた。

 

「支倉さん。そうやって自分を責めていても、何も始まらないでしょう?」

 

黙って聞いてくれていた先生は、そこでようやく口を開く。

 

「でも!」

 

令も嗚咽交じりに反論するが、更なる勢いをもって先生はそれを遮った。

 

「自分の行動が間違っていたと思うなら、それを修正する努力をすればいいじゃない。島津さんは怪我をしてしまったけれど、でも、死んでしまったわけではないんだから。まだやり直せるわけでしょう?」

 

「……はい」

 

「ね。だから、支倉さん。向き合うことから逃げてはだめよ」

 

ぽんぽんと令の肩を叩き、最後に「そこで素振りやってから帰っておいで」と言い残して先生は剣道場へ戻っていく。

 

「はい。ありがとうございます」

 

その実際より幾倍も大きく見える背中に、令は声を張り上げた。ちょっとだけ心が晴れた気がする。

先生を見送ってから、先程とは正反対の心持で令は竹刀を握りしめた。

前に構え、大きく振り上げ、そして振り下ろす。

 

「一! 二!」

 

由乃が倒れて以降初めて、令は澄んだ気持ちで竹刀を振ることができた。

 

……やり直す。まだ、自分にそれが許されるだろうか。

心にはまだそんな不安が蟠ってはいたものの、それでも、なんとか頑張ってみようと思った。



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5

 

令さま・由乃さん姉妹が破局した。そして由乃さんが怪我を負い病院へ搬送された。

この一連の事件が起きて数日が経過したが、当人の由乃さんは入院していて、未だ解決の兆しは見えていない。この事件、やはり目撃者はかなりいたようで、噂は瞬く間に広まった。

何故か新聞部は由乃さんが怪我を負って入院したという記事だけをかわら版に掲載し、二人の破局については何も報道しなかった。

だから、想像で話を膨らませるしかない生徒たちは好奇心が満たされない。

では、満たすために彼女たちはどうするか。

それを祐巳はこの数日、嫌というほど思い知らされた。

 

「祐巳さん、ごきげんよう」

 

「ごきげんよう」

 

「あの、由乃さんのことなんだけれど。祐巳さん、ご存知ないかしら?」

 

「え、えっと……」

 

「新聞部も今回の一件については報道する気がないようなの。でも私、気になって気になって夜も眠れないんです」

 

祐巳は、その日の朝校門をくぐってマリア像でお祈りを済ませたところで、噂好きの乙女たちの悪意ない質問攻めに追い立てられた。

 

「ごめんなさいっ。私もよくわからなくて」

 

それだけ言い捨てて逃げ出し、息も絶え絶えに桃組の教室へ辿り着いたものの。

 

「祐巳さん、ごきげんよう」

 

「ご、ごきげんよう……」

 

そこで、また別勢力に襲われてしまった。表面上は笑顔で取り繕っているけれど、そこには打算が隠れている。

 

「令さまと由乃さんのこと、祐巳さんは何かご存知ないかしら」

 

と言われましても。

祐巳だって、昨日桂さんから聞いた以上のことは何もわからない。

何度もそう説明しているのに。

でも気になってしまう気持ちもわかるから、強く言えないのだった。

 

「申し訳ないけれど……」

 

だからそう言って何も知らないことをやんわりと告げるしか、祐巳にはできなかった。

 

「でも、山百合会で何か聞いているんじゃないの?」

 

しかし妙に諦めの悪いクラスメイトたちは、スッポンみたいにしつこく食らいついてくる。

 

「ごめんね、詳しいことは何も知らないんだ」

 

「そう、何か分かったらすぐに教えてちょうだいね」

 

「あ、あはは……分かったらね」

 

ふう、ようやく解放された。

ほっと一息つく間もなく、彼女たちは思うままに語り始めた。

 

「本当に、一体お二人に何があったのかしら……」

 

「由乃さん、令さまのことを誰より慕っていらっしゃるはずなのに」

 

「ロザリオを投げつけるなんて、相当よね」

 

「ええ。お姉さまにそんな真似、私にはできないわ」

 

当人の由乃さんが学校にいないから、皆憶測で好き放題言っている。

真相はどうあれ、由乃さんは上級生のお姉さまにロザリオを投げつけるという暴挙に出たことには変わりない。だからどうもリリアンの世論としては、ちょっぴり由乃さんが悪者って感じになっているようだ。由乃さん自身も怪我をしているから、なんとか緩和されているけれど。

それでも令さまとしては辛いだろうな。

 

本当に、どうなってしまうのだろう。

祐巳は不安を隠しきれず、クラスメイトの前で大きくため息を吐いた。

 

「大変ね、祐巳さん。ごきげんよう」

 

同じ山百合会の一員であるのに、やけにほんわかとした雰囲気で志摩子さんが話しかけてきた。

 

「ごきげんよう。志摩子さんは平気そうだね」

 

「ええ、まあね」

 

涼しい顔で答える志摩子さん。何でそんなに平然としていられるんだろう。志摩子さんだって、質問攻めの被害に遭っているはずなのに。

 

「あら、志摩子さん。ごきげんよう」

 

ほら、こうしている間にも魔の手が志摩子さんに迫っている。

 

「ごきげんよう、皆さん」

 

たちまち志摩子さんは、クラスメイト数人に囲まれた。

あーあ、御愁傷様。祐巳は心の中で合掌した。

 

「ね、志摩子さんは例の件……」

 

しかし志摩子さんは、にっこりと素敵なスマイルを振り撒きつつ、その言葉を一刀両断した。

 

「存じません」

 

「志摩子さんでも知らないの?」

 

「存じません」

 

「で、でもちょっとくらい……」

 

「存じません」

 

「わ、分かったわ。ごめんなさい、失礼しました」

 

ついに彼女たちは諦めて、すごすごと引き下がっていった。

なんという鮮やかなやり取りであろうか。

志摩子さんったら、にっこりと笑って最後まで「存じません」だけで通してしまった。

いつも通りの穏やかな微笑みのはずなのに、どこか冷たく見える。

美人って得だなと思った。こんなきれいな顔できっぱりと言い切られたら、普通の子なら何も言えなくなってしまうだろうから。

 

 

――

 

 

そんなこんなで忙しなく時間は過ぎていき、ようやく迎えたお昼休み。

根掘り葉掘り尋ねてくる人たちから逃げるため、祐巳は薔薇の館を訪れた。

二階のいつもの部屋には二人の薔薇さまがいらしていた。ちょっと暗い顔してお弁当を食べている。

 

「ごきげんよう、紅薔薇さま、白薔薇さま」

 

「あら、祐巳ちゃん。ごきげんよう」

 

「ごきげんよう。疲れた、って顔してるね、祐巳ちゃん」

 

白薔薇さまは祐巳の顔を見て苦笑しつつ言った。

けれど白薔薇さまだって、ついでに言えば紅薔薇さまも、どこかぐったりしている。

 

「……はい。お二人も疲れていらっしゃいますね」

 

「分かる?」

 

「朝からずっとクラスメイトから質問責めだもの。嫌になるわ」

 

そう言って、同時にため息をついた。

どうやらお二人も、薔薇の館に逃げ込んできたらしい。

 

「時に志摩子は、一緒に逃げてこなかったの?」

 

「存じません」

 

「え?」

 

「そう言えば、みんな引き下がりますから」

 

「あははは、なるほどね。美人は得だわ」

 

白薔薇さまは口を空けて笑った。

 

「はい、本当に。あ、私お茶入れますね」

 

「悪いね。濃いのをお願い」

 

「紅薔薇さまは何になさいます?」

 

「そうね……できればオレンジペコ」

 

「わかりました」

祐巳は弁当箱を机においてから、お茶の準備に入った。

日本茶とオレンジペコ、ついでに自分の分のお茶を茶碗とカップに注いで、それぞれの前に置く。

椅子に座り、祐巳は弁当を開ける前にあつあつのお茶を一口飲んだ。

 

「はぁ……」

 

思わずため息が溢れる。

午前中の授業を受けただけで、ひどく気疲れしてしまったから。

ちょっと穏やかな心地で、祐巳は弁当箱を開く。

 

「それにしても」

 

そしてカニさんウィンナーを口にした時、紅薔薇さまが言った。

 

「築山三奈子さんがあれだけの記事で済ませるなんて、意外だったわね」

 

紅薔薇さまが言っているのは、事件の翌日に発行されたリリアンかわら版の号外のことだろう。

 

「うん。どんなゴシップ記事になるかと思っていたのに、拍子抜けした」

 

白薔薇さまが答えた通り、実際に掲載されていたのは、由乃さんの怪我についての記事と、お早い復帰をお祈りしているというメッセージだけだったのだ。

逆に不気味だ。少し警戒しておいた方がいい。

それが薔薇さまお二人の、今のところの見解だった。

 

「まあ、余計な騒ぎを起こされるよりはましよね」

 

紅薔薇さまがそう締めて、この件に関する話は幕を閉じた。

白薔薇さまに絡まれたり、紅薔薇に救い出されたり。そんな賑やかに談笑しながらの楽しい昼食タイムの到来である。

祐巳たちは静かなこの部屋で、穏やかな時を過ごした。

午前中は少し騒がしかったから余計に、この安穏な平和が愛しく感じられる。

これで由乃さんが無事に復帰して、令さまとの姉妹関係も復縁、となれば万々歳なんだけれど。

仲違いの理由すら知らない祐巳には、行く末を憂うことしかできない。

 

「さて、そろそろ戻ろうか」

 

白薔薇さまが言う。

そうこうしている間に昼休みも残り五分を切っていた。

予鈴が鳴るまでには教室へ戻らねばと、祐巳も弁当箱を片付けて席を立つ。

白薔薇さまと、紅薔薇さま。すごいお二人と肩を並べて、祐巳は薔薇の館へ出たのだった。

 

「ここにいたんだね、祐巳ちゃん」

 

しかし廊下を歩きはじめたところで、声をかけられた。見ると、声の主は令さまだった。

昨日までは、表面的には元気だけれどどこか無理しているのが見て取れて、それがかえって痛々しい様子だったのに。

今日の令さまは見違えるようだ。どう見ても、凛々しいいつも通りの令さまである。

 

「令、そろそろ予鈴鳴るわよ。 大丈夫?」

 

予鈴間近に話しかけてきた令さまに、紅薔薇さまは三割訝しげに、七割心配そうに尋ねた。

 

「はい。すぐ済みますから」

 

紅薔薇さまにことわってから、令さまは口を開いた。

 

「突然ごめんね、祐巳ちゃん」

 

「いえ……その、ご用件は?」

 

「今日の放課後、空いてない?」

 

委員会も部活もやっていない身の上だから、放課後は薔薇の館へ行く以外にすることはない。

この間もこんなことがあったなと思いながら、祐巳は頷いた。

 

「じゃあ、放課後、剣道場に来てくれないかな」

 

「はあ、構いませんけど」

 

「ごめんね、稽古があるから来てもらわなくちゃいけないけど」

 

由乃のことについて話したいんだ。そう話す令さまは、とても真剣な表情を浮かべていた。

自分なんかでいいんですか、とは聞けなかった。

令さまは、明らかに祐巳を求めているらしかったから。

 

 

――

 

 

そして、放課後。

掃除を済ませてから、祐巳は小走りで道場へと向かった。少し時間がかかってしまった。

時間の指定はなかったけれど、上級生との待ち合わせで下級生が遅れるのはいただけないから。

帰宅部の祐巳とは無縁の場所だから、少し緊張する。

 

「お、お邪魔しまーす」

 

恐る恐る道場の扉を開け、中へ入るとそこでは既に稽古が始まっていた。

道着と防具を身に付け、竹刀を交わせる乙女たち。

面を着けているから表情は見えないけれど、気迫のこもった発声からはその真剣さが伝わってくる。

テレビでさえ見たことがない剣道だけれど、こうして見るととても格好いい。

 

「祐巳ちゃんっ」

 

麗しい女剣士たちの内の一人がこちらを見て、名を呼んだ。面をつけているから顔が分からないけれど、おそらく令さまだろう。思わず祐巳は一礼した。

すると令さまは群れから離れ、隅で面を外してこちらへ歩いてきた。

 

――なんだ、この美少年っ!

 

祐巳は心の中で叫んだ。

ピンと背筋伸ばして颯爽と歩く令さまはいつも以上に凛々しく、もはや綺麗な男性にしか見えない。仄かに滲む額の汗が光に照らされて艶やかに輝き、令さまを彩っていて。

それを手拭いで拭き取る所作がまた美しいから、惚れ惚れする。

 

「ごめんね、先に稽古を始めていたから」

 

「いえ、そんな。私剣道には疎いんですが、格好よかったです」

 

「はは、ありがとう。まぁ、ちょっと外に出ようか」

 

苦笑しつつ、令さまは扉を開け祐巳をエスコートして外へ出る。

入口付近で立ち止まり、令さまは「さて」と話を切り出した。

 

「本題に入ろうか。由乃についての話なんだけど。ちょっと長くなるかもしれない」

 

「は、はい」

 

そう言った後、令さまは黙りこんでしまった。

長くなるとのことだから、どこから話したものか頭の中で考えているんだろうか。

急かすわけにもいかず、祐巳は口をつぐんで次の言葉を待った。

 

「格好よかったって、言ってくれたよね」

 

「へ? ……あ、は、はい。とても!」

 

由乃さんの話というから身構えていたのだが、早々に脱線かと拍子抜けしてしまった。

けれど令さまの顔は真剣そのものである。

 

「確かに剣道やっているし、強そうに見られがちだけれどね。私なんて、本当は気が小さい臆病者。ミスターリリアンなんかとは正反対なのよ」

 

「は、はぁ……」

 

突如自虐に走る令さまに、祐巳は何と答えてよいものか困ってしまった。

令さまが臆病者かどうかはともかく、ミスターリリアンとは正反対という件については、祐巳も同意できないわけではなかったから。

リリアンかわら版のアンケートで令さまの趣味が編み物と判明した時には、クラスの令さまファンがきゃーきゃー言っていたものだった。

ギャップがあっていいわね、って。

 

「でもね。由乃がいてくれたおかげで、私は強い子でいられたの。由乃が、私に勇気をくれていたから」

 

こうして聞いていると、分かってはいたが令さまの中での由乃さんの大きさを思い知らされる。

 

「幼い頃から一緒に過ごしてきたからね。病弱な由乃を守らなきゃって思いがあったのよ。けれど、守られているのは私も同じだった」

 

「令さまも?」

 

「そう。由乃がマネージャーとして、剣道部に在籍していることは知っているよね?」

 

そこで祐巳は、由乃さんと話した際に剣道部のマネージャーを務めていると聞いたことを思い出した。

 

「はい、由乃さんも言っていました。少しでも一緒にいたいからって」

 

そう言うと令さまは嬉しそうに顔を綻ばせた。

 

「うん。由乃は小さいときから、何故か剣道の知識が豊富だったのよ。的確なアドバイスもしてくれたし、叱られたことだって何度もある」

 

叱るだなんて。

由乃さんが誰かを叱責するなんて、全く想像できない。

 

「剣道部では有名な話なのよ。由乃は剣道のことになると人が変わるって」

 

驚く祐巳に対して、令さまはくすくすと笑った。

 

「ともかくね。由乃はずっと、良い相棒として私の剣道を支えてくれていたわけ」

 

「由乃さんが……」

 

令さまのために剣道について勉強したのだろうか。

それほどまでに令さまの支えになりたいという思いが強いわけだ。

 

「だからね、私は今まで大会でもいい成績を修めてきたけれど、それはすべて由乃と二人で共に勝ち取った結果だと思っている」

 

由乃さんはマネージャーとして、令さまは選手として。

二人三脚でこれまでやってきたのだと、令さまは言う。

 

「由乃と一緒にいれば、どこまででも強くなれる気がしていたの」

過去形でそう言ったのが、祐巳は気になった。

 

「今は違うんですか?」

 

「違うとまでは言わないけれど。実際のところ私は、由乃がいないと駄目だったの」

 

「そんな」

 

否定したものの、確かに、と思わないでもない。

由乃さんが倒れて以降の令さまの憔悴ぶりを見ていたから、そうと言われれば頷ける言葉ではあった。

 

「そして由乃もまた、私がいないと駄目だった」

 

だんだん、祐巳にも令さまの言いたいことがわかってきた。

令さまには由乃さんがいないと駄目で、由乃さんには令さまがいないと駄目。

騎士がお姫様の身体を護り、お姫様が騎士の心を護る。

そんな風に互いに寄りかかっていることを、今の令さまは不安に感じている。

その思いの強さが、祐巳にはわかった。

 

「でも、このままの関係を続けるのはよくないと思うようになったの。由乃はこれから先もずっと、病と付き合っていかなきゃいけない。体が弱いからこそ、心は強く在って欲しいと思ったから。けれど、由乃はそうではなかった」

 

「……それが、由乃さんとの言い争いの原因ですか」

 

「そうなるね。このままじゃいけないという思いが先走って、由乃を傷つけてしまったというわけ」

 

そうして苦笑する令さまは、笑っているのに悲しそうだった。

騒動が起こって以来ようやく、祐巳はお二人の破局の原因を知った。

もちろん、知りたがりのクラスメイトに話すつもりはない。

想いあっているのに、それがお互いのためにならない。そんな関係があるなんて、祐巳には想いもよらなかった。

 

「……私がいると、由乃がだめになると思うの。由乃には、私がいないと何もできないような子でいてほしくない。だからここで踏ん張って、私なしで病気に立ち向かってほしい。強くなってほしいのよ」

 

さっき令さまはご自分を気が小さい臆病者と言ったけれど。

悲しいのを堪えて、それでも強い意思を持って前を向いている令さまは十分格好よかった。

 

「私は、どうすれば?」

 

「うん。時間があるときでいいから、由乃のそばにいてあげてもらえないかな」

 

そう言う令さまに手渡されたのは、由乃さんが入院している病院の住所と病室が書かれたメモだった。

お見舞いに行きたいとはかねてより思っていたから、吝かではない。

それに、これほどまでの令さまの想いを、ちゃんと由乃さんに伝えなくてはいけないと心から思った。

だから祐巳は、自分でよければと笑って首肯した。

 

「ありがとう。由乃を独りにさせてしまうけれど……由乃にだけ苦しませやしない。私だって、独りで試合に望む。そして、強くなってみせるから。きっとこれは、それぞれが乗り越えなければならない問題なのよ」

 

令さまの由乃さんへの深い愛情を見て、祐巳は二人が無事に元の鞘に収まってくれればいいと思った。

だって二人は、こんなにも想いあっているんだから。報われなくては悲しすぎる。

 

 



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6

 

翌々日。

事前に買っておいたお見舞いの花を持って、放課後に祐巳は由乃さんが入院しているという病院を訪れた。

令さまによれば、由乃さんの怪我そのものは全治一週間程度ということだったが、体調がすこぶる悪いらしい。

 

由乃さん、大丈夫かな。

以前由乃さんを驚かせてしまったことがあるから、大きな音などには注意を払わなくては。

そう思って、祐巳は入り口のプレートの名前をちゃんと確認してから、ゆっくりと扉を開けた。

 

「令ちゃんっ!?」

 

同時に中から由乃さんとおぼしき声で、しかし由乃さんとは思えないほどの声量をもった叫びがこちらに向けられ、祐巳の方が驚かされた。

見ると由乃さんはベッドの上、体を起こしている。付き添いの人は今はいないようだ。

先程の一声からわかる通り、きっと令さまが来ることを心から待ち侘びていたんだろう。由乃さんはこちらを凝視していた。

 

「ごめんね。令さまじゃなくて」

 

「あ……ゆ、祐巳さん……」

 

やってきたのが令さまでないとわかって、由乃さんは見るからに落ち込んでいた。

もう、体調がよくないはずなのにそんなに興奮していたら更に悪化してしまうでしょう、って。

そう思いながら中へ入り、ベッドの側の丸椅子に腰掛ける。

 

由乃さんは最後に会ったときよりもやつれていた。顔は赤く火照っていて熱があるようだし、額にある傷痕は縫合こそしてあるものの、ちょっと痛々しい。

まだちゃんと眠れていないのだろうか。目の下には濃い隈ができていた。由乃さんって白くて綺麗な肌をしているから、余計に際立っている。

心身ともに傷ついた姿をありありと見てしまって、悲しくなった。

 

「あの、なんでここに祐巳さんが……?」

 

「今日はお見舞いに来たの。病室は令さまに聞いたんだ」

 

そんな胸の内は悟られないよう笑顔を保ちつつ、祐巳は持参した花を差し出した。

 

「あ……ありがとう」

 

困惑しきりといった様子ではあったけれど、ちゃんと受け取ってくれた。

黄色い花が三種類。似合ってはいるけれど、由乃さんが万全の状態だったなら、もっと素敵に彼女を彩っていたことだろう。

 

「調子はどう?」

 

怪我のこととか、体調のこととか。

令さまに頼まれてこうしてやってきたけれど、由乃さんを心配する気持ちは確かにある。

 

「あ、うん……まあ」

 

しかし、由乃さんの返事はとりとめのないものだった。

まあ、聞くまでもなく芳しくないのは分かっていたが。

 

「焦らず、ゆっくり治してね。令さま、心配していたよ」

 

励ますつもりで言ったのだが、由乃さんの表情は暗い。

 

「令ちゃんが……?」

 

「もちろん」

 

「……嘘」

 

「嘘じゃないよ。令さまは誰よりも由乃さんを想っている」

 

「……」

 

由乃さんは何も答えなかった。けれど納得したようには見えない。

祐巳にだって、由乃さんが何を考えているか分かった。

由乃さんはこんなにも令さまを欲している。

令さまがいない今、由乃さんからは儚げな印象をより強く受けた。

 

「あの、由乃さん。私、令さまから伝言を預かってきたの」

 

あの時聞いた、令さまの由乃さんに対する熱い想い。まさに今、それを伝えなければならないと思ったのだ。

 

「えっ……」

 

しかしそれを聞いた由乃さん、びくりと体を体を震わせた。怯えているようだった。

令さまの気持ちを知るのが怖いのだろう。けれど、それは言わなきゃいけないことだから。

 

「えっとね――」

 

祐巳は拙いながらも、懸命に令さまの想いを語りはじめた。

由乃さんは、泣きそうな顔で俯いている。

 

 

――

 

 

「……というわけで。令さまからの伝言は、『試合は独りで頑張るから、由乃も私なしでも病気に立ち向かってほしい。そして強くなってほしい』。以上です」

メッセージを聞き終わった由乃さんは、目が点になっていた。

ぷるぷると小さな手を震わせて、すっかり怯えきっている。まるで審判を受ける罪人を見ているようだ。

 

「え……いや、だって。私がいないと令ちゃん、試合頑張れないんじゃ……」

 

「今まではそうだったみたい。でも、頑張るって意気込んでいたよ。そして、令さまは由乃さんにも頑張って欲しいって」

 

「そんな! 私一人じゃ無理っ……無理だよ……」

 

胡乱な瞳には涙が滲んでいる。

悲しい時、辛い時、由乃さんのそばにはいつも令さまがいたんだろう。そうして由乃さんをずっと支えていたのだ。

だからこそ令さまがいない今、由乃さんはこれほどまでに衰弱してしまっている。

 

「……由乃さん」

 

祐巳は由乃さんの小さな掌にそっと手を重ね合わせた。少し熱を持っているそれを、優しくにぎりとめる。

ほんの少しでも勇気を分けてあげられたらと思って。

 

「っあ……」

 

小さく声を漏らすと、由乃さんの既に潤んでいた両目から、涙が滴となって頬を流れていく。

それでいい。

悲しい想いは溜め込まずに、吐き出してしまえばいい。

気持ちを共有しあって、悲しみを半分こだ。

「わ、私……令ちゃんにそばにいてほしくて、我が儘ばかり言っていたの」

 

その震える唇から、弱々しい声が紡がれていく。

 

「うん……」

 

珠のようにこぼれ落ちる由乃さんの涙を、指でそっとすくいあげる。

ただ、由乃さんの言葉を聞いてあげたいと思った。

今、由乃さんが内に秘めてきた感情が、奔流となって溢れだしているのだ。だから、それを受け止めてあげようって。

 

「私が頼りないから。そんな私だったから……だから、令ちゃんは……」

 

「うん……」

 

令ちゃんは。

そこまで言って、由乃さんの台詞は途切れてしまった。

感極まって、言葉が出てこないのだろうか。焦点の定まらない瞳でしきりに視線を這わせている。泣くまいと唇をかみしめて懸命に堪えているけれど、しかし一度堰を切って溢れ出した涙はその勢いを緩めることなく流れていく。

沈黙していながら、そこには確かな感情の動きがあった。

何を言われても、祐巳は全て受け入れるつもりだった。

 

「……死にたい」

 

「え?」

 

しかし。

その言葉だけは、祐巳には受け入れられなかった。

 

「いいよね……どうせ、私は元々あの時死んでいたんだから」

 

あの時死んでいた。意味は図りかねたが、それでもその言葉はやけに胸に響く。

死。

由乃さんの口から溢れる死という言葉はあまりにもリアルで、今この瞬間にも消えてしまいそうな恐怖を感じた。

 

「そ、そんなこと言わないで! 令さまは由乃さんのことをあんなに想っているのに!」

 

だからつい、祐巳は大きな声を上げてしまった。

だめだ。病は気からっていうのに、由乃さん、すっかり心が折れてしまっている。

弱音を吐くとか、悲しみに暮れるとか、そういう段階ではない。

 

「だ、だって、今まで私と令ちゃんは二人で一緒に頑張ってきたのに! 本当に令ちゃんが私のこと思ってるって言うなら、ここに連れてきてよ! ねえ、祐巳さん、早く――」

だんっ!

その言葉には我慢できず、思わず祐巳は机に両手の平を叩きつけていた。

乾いた音が病室に響き渡り、由乃さんは息を呑む。

 

「違うっ! 令さまの気持ち、由乃さんは全然わかってない!」

 

「わ、わからないよ……わかるはずないじゃないっ!」

 

涙まじりに、由乃さんは叫んだ。

 

「誰のために令さまは今頑張っていると思うの?」

 

「だ、誰のって…」

 

「他ならぬ、由乃さんのためでしょう?」

 

「だって……だって! っ……けほっ、けほっ!」

 

二人とも、熱くなりすぎていたのだ。

由乃さんが咳き込んだ瞬間に祐巳は我に帰り、一気に顔が青ざめていく。

お見舞いに来ておいて、患者の体調を悪化させてしまうなんて。

 

「ごめん、ごめんなさい。由乃さんっ」

 

「はぁっ……はぁっ……」

 

慌てて由乃さんの身体に手を添えて、ゆっくりとベッドに寝かせる。

涙でぐちゃぐちゃになってしまっている可愛い顔をハンカチで拭いてあげると、由乃さんは少しだけ楽になったのか表情を弛めた。

 

「ねえ、由乃さんの世界には令さましかいないの?」

 

「え……?」

 

「そうじゃないよね。だって世界はこんなにも輝いているもの。ね、もっと周りに目を向けてみようよ。そうだ、私と友達になろう。 一緒にお弁当食べて、お話しして、笑い合うの。素敵だと思わない?」

 

ひっく、ひっく。

激しい呼吸を繰り返しながら、由乃さんは嗚咽を漏らしている。

とにかく落ち着くようにと、由乃さんの手を握り、時に頭を撫でてやりながら。

祐巳は今度こそ優しく語りかけた。

 

「私も、志摩子さんも。令さまだけじゃなくて、みんな由乃さんのこと大好きなんだよ?」

 

由乃さんから返事はない。

構わなかった。自分の気持ちが伝わってくれれば、それで。

 

「私たち、山百合会の仲間でしょ? ね、頑張ろうよ。由乃さんっ。お願いだからやけにならないで。みんな由乃さんのこと心配してるんだから」

 

由乃さんは令さまにロザリオを投げつけたけれど、それと同時に山百合会から外れたとは、誰も考えていない。

至極当然のように、由乃さんを一員だと思っているんだ。由乃さんの帰ってくる場所は、変わらずにリリアンに在る。

だから、お願い。

 

――うん。

 

由乃さんはそう頷いてくれた……気がした。

確信がないのは、その後由乃さんが寝入っていることに気付いたためだ。

返事であったのか、寝息であったのか。それは定かではない。

けれどその寝顔を見て、祐巳は安心した。

それは、きっと由乃さんは大丈夫だって思えるような穏やかな表情だったから。

 

「ごめんね、由乃さん。おやすみなさい」

 

すぅすぅと慎ましい寝息を立てて安らかに眠る由乃さん。

そのあどけない横顔をそっと一撫でして、祐巳は席を立ったのだった。

 

 

 

――

 

 

 

夢を見ていた。

祐巳さんと、あと志摩子さんと三人で談笑していて、令ちゃんはそれを優しく見守ってくれている。

何気ない雑談の中で、二人に言われるのだ。

由乃さんは、令さまのことが大好きなのねって。

私はとびきりの笑顔で頷いて、見せびらかすように二人の前で令ちゃんに抱きついてみせる。

すると令ちゃんは満更でもない顔で頭を撫でてくれるのだ。

何の変哲もないただの日常なのだけれど、なぜか幸せな気持ちになれる素敵な夢だ。

その余韻に浸りながらの、中々心地よい目覚めだった。

 

「おはよう、由乃。また熱が出ているみたいね」

 

目を開けた私の視界に真っ先に飛び込んできたのは、お母さんの顔だった。その言葉通り、確かに身体は熱いしどこか気怠さがある。

ともかく、問題はお母さんだ。何故か視界が全て埋まるくらいに近付いてきていた。具体的には、鼻先と鼻先が触れるか触れないかくらい。

 

「あ、あの。何でそんなに近いの?」

 

「……由乃、泣いていたの?」

 

お母さんは私の問いには答えず、丸椅子に座り直してから質問で返してきた。

そのままはいと頷くのも憚られたから、私はなにも言わず黙っていた。

周りを見回してみたが、祐巳さんはもう帰ってしまったらしい。すごく優しくてあたたかな人肌の温もりを感じていたから、暫く手を握ってくれていたんだろうか。

 

「目、腫れているわよ」

 

「えっ?」

 

なんて関係ないことを考えていたら、お母さんが先に口を開いていた。

指摘されて思わず目元に手をやると、確かに少し腫れているような気がした。いつにもなくわんわん泣いたからだろうか。

 

「どうしたの、って聞くのも野暮な話よね」

 

お母さんはそう言って笑った。

そう、令ちゃん。

令ちゃんのことで、私はあんなにも泣きわめいたのだ。

 

「……うん」

 

まだ令ちゃんのことを思うと胸がズキッと痛むけれど、軽々しく死にたいなどとはもう言うつもりはない。

 

「あの……令ちゃん、どうしてる?」

 

あの一件以降、お母さんの前ではあまり令ちゃんの名を出さなかった。嫌でも令ちゃんを想ってしまって、辛くなるから。

お母さんは少し驚いていたけれど、笑って答えてくれた。

 

「由乃がいなくて寂しそうだけど、試合に向けて稽古に励んでいるわよ」

 

「……そっか」

 

祐巳さんの言った通り、令ちゃんは一人で頑張っているらしい。

 

「ねえ、お母さん」

 

「なあに?」

 

「令ちゃんは……私が重荷になったのかな。私がずっと、寄りかかっていたから」

 

さっき散々泣き晴らしたからだろうか。悲しい気持ちはあるけれど、もう涙は出そうにない。

 

「あなた、小さい頃から令ちゃんにべったりだったものね。私よりも、令ちゃんの方が懐かれてるんじゃないかって思ったこともあったわ」

 

お母さんは微妙に質問の答えになっていないようなことを言った。

 

「ご、ごめんなさい」

 

「いいのよ。令ちゃんには、由乃のことでたくさん助けられてきたからね」

 

「うん……本当に」

 

本当にたくさん、たくさん助けられてきた。

それで生きる理由まで預けていたんだから、相当だ。

 

「重荷になったのかは分からないけどね。寄りかかっていたんだと気付いて、それが良くなかったんだと思うなら、少しずつでも直していけばいいじゃない」

 

「直す……」

 

「ええ。令ちゃんも、今それを頑張っているのよ」

 

「うん……そうだね」

 

ようやく私は、それを素直に受け入れることができた。

 

――もうちょっとだけ、頑張ってみようかな。

 

窓から覗く空は紅の輝きを放っている。それを見上げ、私は心の中で呟いた。

すると。

ふわぁっ、て。

込み上げてくる眠気から、つい、大きなあくびをしてしまった。

 

「ああ、また眠くなってきちゃった」

 

「無理しないで、ゆっくり寝なさい」

 

そしてお母さんに布団をすっぽり被せられ、いつものように頭を撫でられる。

ああ。

やっぱり私はなでなでされるのが好きみたいだ。

令ちゃんに、お母さんに、祐巳さん。

三者それぞれ違いはあれど、私を想ってくれているのが分かる優しい手つきだったから、安心して身を委ねられる。

 

「うん……おやすみ」

 

ゆっくりと、私は目をつむった。

 

 



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7

 

入院して、一週間が過ぎた。

元々の体の弱さは当然あるんだろうけれど、それにしても怪我の治りが遅い気がする。

全身打撲による腫れが未だ完全に引いてなくて、体を動かすと少し痛みが走る。

そんなに長引いているのなら、本来はもっとひどい症状を懸念するらしいんだけど、私の場合そうではないみたい。だから本当に単に治りが遅いだけなんだって。

 

ただ体調に関していうならば、今は調子がいい。入院してしばらくは吐血が続いたりしたけれど、昨日今日はそんなこともなく容態は落ち着いている。せいぜい三十八度手前の微熱があるくらい。

これなら、退院して自宅療養もできるだろうって。まあ、もう少し様子を見る必要があるみたいだけれど。

これで油断するとまたぶり返してしまうから気を付けなければ。

いずれにせよ、まだ学校をお休みすることにはなりそうだ。

 

「それにしても……退屈」

 

私はぽつりと愚痴をこぼした。

お母さんもお昼には帰ってしまったから、今病室には誰もいない。

だからとにかく、暇なのだ。

退屈を紛らわすためにお母さんが買ってきてくれた文庫本も、もう読み終えてしまった。

テレビ番組には前世の時からとんと興味がなく、見るものといったらニュースくらいである。剣道の試合の中継をしてくれるのは喜んで視聴するだろうけれど、実際そんなのほとんどない。

暇潰しのために興味のない番組を見るのも、体を動かすのも億劫だったから、私はぼんやりと令ちゃんを思い浮かべて妄想を楽しんでいた。

 

「ごきげんよう、由乃さん。また来ちゃった」

 

そんなときに、祐巳さんはやってきた。人懐っこい笑顔で近づいてきて、傍の丸椅子に腰かけた。

 

「あ……ゆ、祐巳さん。ごきげんよう」

 

祐巳さん二度目の来訪である。

昨日は言い争いがヒートアップした挙句、私がダウンしてしまっておしまいになったから、少し気まずい。それに醜い部分を見せてしまっているから、恥ずかしかった。

あの時のこと、祐巳さんはどう思っているんだろう。

 

「あの、祐巳さん。昨日はごめんなさい」

 

「え?」

 

まずは昨日の非礼を詫びなければと思ったのだけれど、祐巳さんは何故か驚いていた。

目を丸くして口を開け放し、とてもわかりやすい表情で。

 

「ううん。私の方こそ、由乃さんを興奮させてしまったから……ごめんなさい」

 

しかし私は私で逆に謝られるとは思っていなかったから、頭を下げる祐巳さんを前にどうしていいかわからずあたふたしてしまう。

 

「そんな。私が悪いのに」

 

「ううん。私が悪かったの」

 

そんな終わりの見えないやり取りが暫し繰り返され、やがてどちらからともなく笑いが起こった。

 

「やめよう。きりがないよ」

 

「そ、そうだね」

 

お互い悪かった。そういうことにしようって。

祐巳さんはそう言って笑った。

 

「今日はね、由乃さんとお話ししたいと思って来たの。ほら、昨日はほとんどできなかったから」

 

「お話……?」

 

きょとんとして祐巳さんを見る。

 

「そう、お話」

 

お話だなんて。

前世では言わずもがな、現世では両親と令ちゃんくらいとしかまともにしたことがない。だから祐巳さんがお気に召すようなお話はできないかもしれない。

そう思ったけれど、祐巳さんの笑顔を見たら断れなかった。

退屈していたのは事実だし、それに、私も……。

 

「……う、うん」

 

とは言ったものの。

お話って、どうすればいいのだろう。

自分から積極的に話題提起すればいいのだろうか。

ずっと一緒にいる令ちゃん相手なら考えなくてもお話できちゃうけれど、なんたって人見知りなもんだから。慣れない私はテンパるばかりだった。

情けない私を前に、祐巳さんは「何から話そうかなぁ」って無邪気に笑っている。

そんな祐巳さんが羨ましいと思っていたら、その張本人は何か閃いたって顔をした。

 

「そういえば、ね」

「な、なに?」

 

「あのね……」

 

何故だかわけもなく緊張している私とは裏腹に、祐巳さんはどこかテンションが高い気がする。

 

「さっき、私黄薔薇さまを見たの」

 

「……黄薔薇さまを?」

 

黄薔薇さま……令ちゃんのお姉さま。

何かのご病気なの、と聞こうとしたら、祐巳さんはあらぬ方向へ舵を切った。

 

「そう、あれは黄薔薇さまだったんだわ。黄薔薇さまの幽霊!」

 

興奮気味に語る祐巳さんだったが、私には何が何だか、全く訳がわからない。

黄薔薇さまが出てきたと思ったら、今度はその幽霊だって?

突拍子もない祐巳さんの言葉に、私は戸惑うばかり。

 

「ど、どういうこと?」

 

そうして聞いてみたところによると。

祐巳さんは今日、私の病室に来る途中に黄薔薇さまらしき人を見かけたというのだ。黄薔薇さまは今熱で学校をお休みしているらしいんだけれど、それで入院までしているとは思えない。だから、自分が見たのは黄薔薇さまの幽霊だったのだと、祐巳さんは主張しているのである。

しかしその話には矛盾がある。

 

「……でも、黄薔薇さまは生きてるよ?」

 

だから、幽霊にはなりえない。そう指摘したのだけれど。

 

「じゃあ、えっと……生き霊とか」

 

どんどん話が飛躍していく祐巳さんに、私は怯えるどころかむしろ笑ってしまった。

ここにきて私はようやく得心がいった。祐巳さんは怪談話をしたかったのだ。

それなら、私にもできる。

前世の時から怪談の本とか読みあさってきたから、怖い話の一つや二つ、空で語れるだろう。

いくら臆病な私といえども、得意分野はある。幼い頃には令ちゃんを泣かせてしまったこともあるくらいだ。

それにしても黄薔薇さまの幽霊を見たなんて話で、怖がってもらえると本気で思っているんだろうか。

 

「ふふ、祐巳さんたら。怪談だったらもっといい話があるよ?」

 

「え?」

 

一瞬顔を引きつらせる祐巳さん。案外怖がりなのだろうか。

さて、何の怪談を語ろうか。此処は病院だから、病院に関する怪談がいいかな。

そう決めて、なんとかそれっぽい雰囲気を醸し出しつつ話し始める。

 

「えっと、とある病院にね。入院している女の子がいたの」

 

「あ、あの……由乃さん?」

 

おどろおどろしい語りを意識して、低いトーンで静静と語った。

 

「隣のベッドには優しそうなお婆さんが入院していて、とっても可愛がってもらっていたんだって。……ある日、その子、夜中に目を覚ましてしまったの。そして何気なく隣のおばあちゃんを見たら――」

 

「ス、ストーップ!」

 

「え、え?」

 

突然の祐巳さんの静止に、私は驚くと同時にちょっとがっかりした。まだ続きがあるのに。

 

話すのに夢中になっていたから気がつかなかったけれど、ふと見ると祐巳さんは涙目になっていた。それはつまり怖がってもらえたということだ。

話は遮られてしまったけれど、これは怪談としては成功でいいのかな。

 

「あの、最後まで聞かなくていいの?」

 

「も、もうやめてっ」

 

祐巳さんは目をうるうるさせながら、必死に懇願してきた。

こうしてみると、祐巳さんって面白い。

祐巳さんは喜怒哀楽がはっきりしていて、すごく表情に出るからわかりやすいのだ。まさに百面相。

白薔薇さまが祐巳さんをからかうのも分かる気がする。

ずっと気持ちの余裕がなかったから気づかなかったけれど、祐巳さんってとっても魅力的だ。

 

――由乃さんの世界には令さましかいないの?

あの時、祐巳さんはそう言った。こうして他にも目を向けてみれば、確かに世界は輝いている。

 

令ちゃんが一番大好きなのは揺るがないけれど、祐巳さんも私の好きな人ランキングに入賞できるかもしれない。

くすりと笑ったら、祐巳さんは何故か苦笑した。

 

「由乃さんって、天然?」

 

「え? どういうこと?」

 

「……ううん。なんでもない」

 

祐巳さんは、令ちゃんがいなくなって勝手に絶望していた私を勇気づけ、気付かせてくれた。そばにいてくれた。

ここまでしてくれた人は、前世を含めてもそうそういない。それくらい、私は他人を拒絶していたから。

 

――ああ、そっか。きっと、これが友達なんだ。

 

何か清々しい気分だった。

祐巳さんに、この気持ちを伝えたい。私は思いきって口を開いた。

 

「あの、祐巳さん。この間も今日も、私迷惑ばかりかけてしまって」

 

「もう、それは気にしなくていいってば」

 

「う、うん。だからね……」

 

そうだ。友達には、ごめんじゃなくてこう言うべきなのかな。

 

「ありがとう。その……私、頑張るね」

 

どう頑張っても病気とはこの先もずっと付き合っていかなければならないけれど、気の持ちようでだいぶ変わる気はする。病は気からっていうもんね。

祐巳さんからの話によれば令ちゃんは、体が弱いからこそ心は強く在ってほしいって言っていたらしい。

いつまでもうじうじしていたら、今度こそ令ちゃんに見放されちゃう。

黄薔薇のつぼみの妹。その肩書きを背負える人でありたい。紅薔薇のつぼみの妹として立派にやっている、祐巳さんのように。 

 

「うん……どういたしまして。早く治して、学校に来てね。みんな待っているよ」

 

嬉しそうに、祐巳さんは顔を綻ばせる。それは私までつられてしまうような、気持ちのいい笑顔だった。

 

「それで、その、一つお願いがあるの」

 

「お願い?」

 

「うん……あの、もし暇だったら、明後日の令ちゃんの戦いを見に行ってもらえないかな」

 

「令さまの?」

 

「うん、私は……遠くから応援しているから」

 

だから、私の分まで代わりに見てきてほしい。そこまでは言わなかったけれど、きっと思いは伝わった。

 

「……わかった。見てくるね」

 

「ありがとう、祐巳さん」

 

 

――

 

 

その後、祐巳さんは夕食の時間だからと名残惜しそうに帰っていった。入れ違うようにお母さんもやってきて、色々とお世話してくれた。

そんな騒がしさも過ぎさって、夕食も済ませた夜八時頃。

 

「ふふ。この時の令ちゃん、可愛かったな」

 

お母さんが私の部屋から持ってきてくれた写真を眺めていた。思い出が蘇ってきて、思わず笑みがこぼれる。

それは、写真立てに入れて大切に飾っていたものだった。中等部の入学式に参加したときに撮ってもらった、令ちゃんとのツーショット。高等部の入学式は欠席したから、貴重な入学式の写真である。

 

写真の中の令ちゃんは、凛々しい微笑みで私の腰に手を回している。幼い顔立ちの令ちゃんは格好よいというよりも可愛いって感じだった。

ああ。

今、令ちゃんはどんな気持ちでいるのだろうか。

 

「……令ちゃん、がんばって」

 

私にできるのは、こうして祈っていることだけ。

今までのようにそばにくっついてアドバイスすることも、汗を拭いてあげることも、できないのだ。

それがこんなにもどかしく、辛いなんて。

 

令ちゃんの実力であれば、気持ちで負けていない限りは勝てるはず。

それは今までそばで見てきたから分かる。 けれどそんなことで安心なんてできなかった。

 

――マリア様、お願いします。

私は手を合わせて、祈りを捧げた。

 

 

 

 



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8

 

結局私が退院したのは、令ちゃんの試合当日のお昼のことだった。午前は学校で普通に授業があるから、 令ちゃんに会うのは試合が終わった後になるだろう。

 

私が令ちゃんにロザリオを投げつけてから、今日で十日になる。こんなに長い間互いに顔を合わせなかったことなんて、今までなかった。

でも今なら、それがあったからこそ、私たちの関係はいい方向へ進んだのだと思える。

 

お母さんに連れられて、私は自分の部屋のベッドで横になった。

退院できたとはいえ、体調が万全になったと浮かれてはいられない。ちゃんと体を暖かくして睡眠を取らないとすぐにまた悪化してしまうから。

だから寝てなさいって、お母さんにも言われていたんだけれど……。

 

「ね、寝れない……」

 

とりあえず布団をかぶって寝る態勢にはなったけれど、いかんせんドキドキしてしまって目が冴えている。

 

大会があるとき、私はいつも令ちゃんのために気合いを入れてお弁当を作っていた。令ちゃん、これを食べれば絶対勝てる気がするって大会の度に言っていたけれど、今日はそれもないわけで。

ああ見えて結構緊張しがちな令ちゃん、大丈夫だろうか。

そんな後ろ向きな考えが次から次へと沸き上がってくるから、眠気など吹き飛んでしまう。

羊を数えたりと古典的な方法も試してみたけれど、うまくいかなかった。

 

とにもかくにも眠ろうと、目をつむる。

令ちゃん、頑張って。

ああ、今すぐにでも会いたい。試合を見届けたい。令ちゃん……。

 

 

――

 

 

「……由乃」

 

どこか遠くで、誰かが私を呼んでいる気がする。

誰だろう。お母さんだろうか。

何か意識もはっきりしないから、よくわからない。

 

「んぅ……」

 

軽く肩を揺すられた拍子に、私はゆっくりと覚醒した。

そして目を開けると、そこにいたのはお母さん――ではなく、令ちゃんだった。

なんとベッドのそばに立って、私を見つめているではないか。

 

「……え?」

 

理解が追い付かない。

あんなに待ち望んだ令ちゃんが今目の前にいるのに、全く現実味がない。もしかして、私はまだ夢を見ているんだろうか。

 

「……久しぶり」

 

優しくにこりと微笑む令ちゃん。この綺麗な笑顔は、流石に夢じゃないような気がする。

ようやく意識もはっきりしてきて、私は理解した。同時に飛び起きる。

 

「れ、令ちゃんっ!?」

 

「わっ!」

 

体調も考えずがばっと飛び起きてしまって、令ちゃんは驚いていた。

 

「な、なんで?」

 

「落ち着いて。試合が終わって帰ってきたんじゃない」

 

そう諭されて、はたと気づく。

 

「私……寝てたの?」

 

「うん」

 

令ちゃんが頷くのと、私が時計を見て現時刻を確認するのはほぼ同時だった。

いつのまにか寝入ってしまっていたのだ、私は。

そのうちに試合も終わって、令ちゃんは帰ってきたというわけか。

令ちゃんがいなくなって散々悩んでいて。

そうして、今ようやく再会できたのに。ああ、何かすごく恥ずかしくなってきた。

 

「もう、寝ぼけてるの?」

 

「令ちゃん……」

 

呆然と呟くと、令ちゃんはベッドに座って私に寄り添った。

 

「ただいま」

 

「……おかえりなさい。こんなに会わないでいたの、初めてだね」

 

後れ馳せながら、私は令ちゃんの「久しぶり」の返事をした。たった十日ほど顔を会わせなかっただけなのにひどく懐かしく思える。

 

「うん」

 

……もう、離れたくない。

 

「令ちゃん、ごめんね。本当にごめんなさい。令ちゃんの気持ちを全然分かってなくて、私あんなこと……」

 

とにかく謝りたいという思いだけが先走り、言葉が上手くまとまらない。

勝手に思い込んで、突っ走って、怪我して。本当に私は、迷惑も心配もかけまくりだった。

わたわたしてる私の頭を、令ちゃんは久しぶりに撫でてくれた。その優しい手つきも、眼差しも、すべてが懐かしい。

 

「……今なら、信じてくれる? 私は由乃のことを嫌いになったわけじゃないって」

 

「うん、わかってる……」

 

令ちゃんは私を心配してくれたんだ、って。

あのままの関係じゃよくないと思ったから。だから令ちゃんは距離をとろうって言ったんだ。

 

久しぶりに、私は令ちゃんの腕に抱きついた。

 

大好き。

ううん、そんな言葉じゃ令ちゃんへの想いは言い表せない。

 

「世界で一番、令ちゃんが好き……愛してる」

 

「……私もだよ」

 

令ちゃんの笑顔が、今はより一層輝いて見えた。

 

 

――

 

 

その後、令ちゃんから試合の結果を報告された。なんと見事勝利をおさめたらしい。それを聞いて私は心から喜んだ。

 

「お祝いに、令ちゃんにマフラー編んであげるね」

これから寒くなる時季にぴったりの暖かいマフラー。令ちゃんのために、時間をかけていいものを作ろう。

 

「いいの?」

 

「うん。お詫びもかねて、ね」

 

「それはありがたいけど……無理はしちゃだめだからね。夜更かしなんてもってのほかだよ」

 

「……はあい」

 

令ちゃん、まるでお母さんみたい。

ちょっと拗ねて頬を膨らませてみせると、令ちゃんはぷっと吹き出した。つられて私も笑ってしまう。

私は今、すっごく幸せだ。

幸せついでに、令ちゃんにちゃんと言っておかなくちゃ。

 

「令ちゃん……私、頑張るからね」

 

山百合会も、部活も、勉強も、友達付き合いも。みんな頑張ってみせる。

胸を張って、令ちゃんの隣に立つために。

 

「そっか。じゃあ、私はちゃんと見守っててあげる」

 

「えへへ……それなら百人力だよ」

 

それから。

私が休んでいる間にあった出来事とか、部活のこととか、色んなことを令ちゃんと語り合った。

空白の時間を埋めるように、ずっと。

 

「あのね。入院してた時、祐巳さんがお見舞いに来てくれたの」

 

「うん。今回、祐巳ちゃんにはお世話になったよ」

 

「祐巳さん、憧れるなぁ」

 

しみじみと思う。祐巳さんは素敵な人だと。

愛嬌があって、優しくて、すぐ顔に出るところも面白くて。

天使みたい。

 

「祐巳ちゃんと仲良くなった?」

 

「うん。祐巳さんって、面白いよね」

 

祐巳さんは自分にないものをたくさん持っていて、強く惹かれる。

いや、祐巳さんだけじゃなくて、志摩子さんも祥子さまも、白薔薇さまも紅薔薇さまも黄薔薇さまも。

私が目を向けてなかったから気付かなかっただけで、みんな素敵な人たちなんだ。

世界は、こんなに輝いている。

 

「由乃。あの、これなんだけど」

 

「あ……」

 

令ちゃんが鞄から取り出したのは、私が考えなしに投げつけた、あのロザリオだった。

それを両手に持って、令ちゃんは私をじっと見つめた。

 

「また、かけてもいい?」

 

そんなの。

聞かれなくとも、私の答えはイエスしかない。令ちゃんがいいというなら、それで。

 

「私でいいの?」

 

「私の妹は、由乃しか考えられないよ」

 

「じゃあ、えと……ふつつか者ですがよろしくお願いします」

 

そうして、私は本当の意味で黄薔薇のつぼみの妹になったのだった。

 

 

――

 

 

休日明けの月曜。

ロザリオをしっかり首にかけて、私は令ちゃんと一緒に登校した。しっかり指を絡めて手を繋ぎ、肩を寄せあって。令ちゃんを傍に感じながら歩くのは幸せだった。

 

そんな私たちを見たリリアンの生徒たちは、ひどく驚いていた。しかし面と向かって問い詰めてくる者はいない。

聞いたところによると、私と令ちゃんの一件は生徒たちの間でとても騒がれていたらしい。だからその二人が復縁し、仲睦まじくしているというのは、それだけで注目されてしまう。

マリア像の前でお祈りする際にも、小さな騒ぎになったほどだ。

 

それから逃げるようにして菊組の教室に入っても、やはり多くの視線が注がれた。皆、令さまとの一件はどうなったのだと聞きたげな表情を浮かべている。

 

今回のことについて、ちゃんと皆さんに報告したほうがいい。

自分の机に鞄を置きながら、私は覚悟を決めた。

そのまま席を立って、クラスメイトの視線が集まる中、皆の前に歩み出る。

ごくりと唾を呑み込んでから、私は緊張を押し殺して話しだした。

 

「皆さま、ごきげんよう。この度はお騒がせしてしまって、申し訳ありませんでした」

 

深々とお辞儀をする。

何を言われるかな。皆の反応はどうなんだろうと、不安に駆られながらゆっくり顔を上げると。

 

「令さまとは仲直りなさったの?」

 

「お怪我はもう大丈夫なの?」

 

待っていたのは、クラスメイトたちの心配そうな表情だった。

戸惑いつつも、説明を続ける。

「私が至らぬゆえにお姉さまと仲違いしてしまいましたけど、先日再びロザリオをかけていただいたの。怪我も、しっかり治りました」

 

そう告げると、みんなホッと胸を撫で下ろして微笑んだ。

何か、じわりと涙が滲んできた。

こんなに案じてくれていたんだって。こんなに想われていたんだって。

 

「あの……皆さまにはご心配おかけしたみたいで」

 

「ううん、本当によかったわ」

 

「由乃さんの隣にいる時の令さまって、いつも素敵な顔をなさっているのよね」

 

「ええ。だからお二人が仲直りしてくださって、本当にうれしいわ」

 

どうやら、この方々は私たち姉妹を目の保養にしていたらしい。いつも私たちを眺めて、癒されていたんだって。

令ちゃんファンなのだと勝手に思っていたけれど、そうではなかった。彼女達は、自身を黄薔薇のつぼみ姉妹のファンだと言ったのだ。

ともかく、祝福してくれるのはありがたかった。

 

「あの……令さまと何があったのか、聞いてもいい?」

 

「……大したことじゃないの。私が勝手に勘違いして、錯乱して、あんな真似をしてしまったんです」

 

悪かったのは、私だ。そう言うと、深くは追及されなかった。

ともかく解決して本当によかったわ、って。

それでこの件についての話は終わった。そこからは皆さんの雑談に加わって、授業が始まるまで談笑した。

こんなにクラスメイトとお話したのは、初めてだった。

騒がしいのも、案外悪くない。

 

そうしていつになく楽しい一日は終わり。

放課後、私は薔薇の館目指して廊下を歩いていた。

 

「由乃さん」

 

そこに凛とした声がかかる。

 

「志摩子さん……ご、ごきげんよう」

 

声の主は、志摩子さん。突然だったから、少々驚かされた。

 

「ごきげんよう」

 

私のそばに歩みよって、志摩子さんは微笑んだ。

 

「今日から復帰なのよね。良かったわ、本当に」

 

「う、うん。色々と迷惑かけてしまって。ごめんなさい」

 

「そんな、謝らないで」

「じゃあ……ありがとう」

 

心配してくれて。

そう言い直すと、志摩子さんは「どういたしまして」って、また笑った。

 

「薔薇の館に行くの?」

 

「うん、薔薇さま方にもちゃんと謝らなくちゃ」

「じゃ、一緒に行きましょう」

 

歩き出す志摩子さんについて、私も足を踏み出したけれど。

ふと疑問が沸いて、ぴたりと足を止めた。

 

「そういえば、祐巳さんは?」

 

志摩子さんは祐巳さんと同じ桃組のはずだ。

 

「ああ。祐巳さん、今日は掃除当番なの」

 

「……なるほど」

 

納得して、再び歩き出した。

隣で綺麗なふわふわ髪を揺らす志摩子さんを、なんとなく見つめる。

志摩子さんって、どんな人なんだろう。

私は、志摩子さんのことをほとんど知らない。祐巳さんが祥子さまの妹になるまで、山百合会の一年生として二人でやってきたはずなのに、だ。

いつも凛としていて、上級生相手にも物怖じしないところはすごいと思っていたけれど。知っていることといえばそれくらいだ。

仕方がない。自分から閉ざしていたんだから。

でも、これからは知っていきたい。仲良くしたい。

 

「あの、志摩子さん」

 

薔薇の館の前までやってきたところで、私は扉を開けようと手をかける志摩子さんに声をかけた。

 

「どうしたの?」

 

「……私、頑張るから」

 

「え?」

 

「だから、これからもよろしくお願いします」

 

軽く頭を下げながら、手を差し出す。

 

「ふふ。こちらこそ、お願いします」

 

一瞬面食らったようだけれど、志摩子さんは手を握り返してくれた。

そして気を取り直し、扉を開けて館内へ。

 

薔薇さま方にご報告したら、次は新聞部にも行こう。

令ちゃんの話によれば、私と令ちゃんの破局に関して、新聞部は何も記事にしなかったらしい。

私が怪我をしたという記事と、お早い復帰をお祈りしているというメッセージだけだったそうだ。

だから、山百合会の面々は皆拍子抜けしてしまったって。

いずれにせよこうしてかなりの騒ぎになってしまったんだから、結局は同じだ。

むしろ、心配してくれたんだから、ちゃんと復帰しましたって報告とお礼をしに行かなくちゃ。

 

――頑張ろう。

 

明日への展望は開けた。

決意を胸に、二階へ上がる。部屋の中からは何やら話し声が聞こえた。どうやら、もう山百合会の面々は揃っているらしい。

扉を開けて、中にいらっしゃる方々に声をかける。

「ごきげんよう」

「ごきげんよう」

 

中から、爽やかな声が返ってきた。

 

 

 

 

 





本編終了です。ありがとうございました。


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9

 

最近リリアン女学園高等部のうら若き乙女たちを賑わすホットな話題といえば、そう、何を隠そう黄薔薇のつぼみ――支倉令とその妹島津由乃についてだ。

二人がベスト・スール賞を受賞してからというもの、その注目度は鰻登りである。

今回のリリアンかわら版の一面を飾るのはもちろん、この姉妹の特集記事だ。ベスト・スール賞受賞に際し、取材が行われたのだ。そのアンケートが掲載されている。

噂好きの生徒たちがこれに食いつかないわけがない。

朝、新聞部員がかわら版を配っているのを我先にと入手した彼女らは、教室にミルクホールに校庭にと場所を問わず集まって、何やらきゃいきゃいやっている。

 

「令さまと由乃さんの特集記事、ご覧になりました?」

 

「ええ! 素晴らしい記事だわ」

 

「由乃さんのご趣味は剣道の観戦、ですって。きっといつも令さまの試合をご覧になっているのでしょうね」

 

「あら。そんなことは、普段の由乃さんと令さまを見ていれば当然のことでしょう。それよりも、お二人の思い出が素敵だと思わない?」

 

そう言って彼女は、かわら版のアンケート記事を指差した。その中に支倉令さんと島津由乃さんの、姉妹としての思い出は? という設問がある。ご両人ともに、同様の回答が記入されていた。

 

「そうね……由乃さんのために膝掛けを編む令さま。そして、令さまのためにマフラーを編む由乃さん。お誕生日に贈りあったんですってね。素敵な姉妹愛だわ」

 

確かに素敵だ。由乃さんが編み物をするというのはイメージ通りだが、令さんもそれを嗜むというのは意外だった。だがそれもギャップがあっていい。

 

「ああ、私も由乃さんみたいな妹をつくりたいわ」

 

「令さまのようなお姉さまがほしいわね。私のお姉さま、そそっかしいんだもの」

 

何処もかしこも、かわら版、かわら版、かわら版。

そんな好評っぷりを物陰から眺めて不敵に微笑む、怪しい人影がある。

 

「ふふふ、凄まじい反響だわ。私の目は節穴ではなかったということね」

 

新聞部部長、築山美奈子その人だ。

自信をもって発行へと漕ぎ着いた今回のリリアンかわら版であるが、こうして実際に評判を目にすると更に自信がつく。

美奈子は自分でももう一度かわら版に目を通した。

うーん、つくづく惚れ惚れする紙面だこと。記事内容も文章も、完璧だ。

 

「お姉さま、ごきげんよう」

 

そんな美奈子の自己陶酔をぶち壊したのは、背後から声をかけてきた、妹の山口真美であった。

 

「あら、真美。ごきげんよう。かわら版の評判は上々よ」

 

「ええ、そうですね」

 

興奮ぎみに語る美奈子をよそに、真美は冷静に答える。「ええ、そうですね」なんてすましちゃって、全くこの妹は。

 

「取材できなくてアンケートだけに終わってしまったのは残念だけれどね」

 

「仕方ないですね。由乃さんは休みがちですし……今日は登校していましたけど」

 

「あら、そうなの? 七日ぶり……だったかしら?」

 

「はい。令さまとご一緒に、仲睦まじくお祈りしていました」

 

「ふうん」

 

島津由乃さんは病弱で、学校を休みがちなのだ。令さんに取材を断られたのも、由乃さんの体調を慮ってのことだろう。

しかし、そのくせ成績は常にトップを維持しており、秀才っぷりを遺憾なく発揮している。

そういえば紅薔薇のつぼみ――小笠原祥子さんも、普段から予習などをしっかり行っているから、試験前の勉強などはしないらしい。天才とはそういうものなのだろうか。

由乃さんは儚げでありながらどこかミステリアスな雰囲気があって、美奈子の好奇心は掻き立てられる。

 

「次の号の見出し、『由乃さんの私生活に迫る!』なんて、どうかしら」

 

妹にしたいナンバーワンの座に輝く島津由乃の溢れる魅力を記事にするのは、ジャーナリストの義務であろう。

 

「よろしいんじゃないでしょうか」

 

真美の反応もなかなか悪くない。

次の号も生徒の皆様を満足させられる素晴らしい記事を載せられそうだと美奈子は誇らしさを覚える。

一度やると決めたら、絶対素晴らしい記事にしてみせる。

それが三奈子の、ジャーナリストとしての矜持だった。

 

 

――

 

 

「あら?」

 

その日の放課後、校舎を歩いていたら由乃さんを見かけた。華奢な体つきだし、トレードマークのお下げ髪はその美しい容貌と相まってとても目立っている。

はて、しかしどういうわけだろう。

今日由乃さんは、定期検診のため病院へ向かうのではな かったか。なぜここで油を売っているのだろう。三奈子は首を傾げた。

確かな筋からの情報だから間違いはないはずだが……いや、まあいい。寧ろ自分にとってはチャンスだと、三奈子はほくそ笑む。

対象が自らその姿を現したのならば行幸だ。三奈子はささっと物陰に身を隠し、見つからないようにこっそり後を追った。

由乃さんはしばらく重い足取りで歩いていたが、途中で令さんに出くわした途端に雰囲気が変わり、ぱあっとその表情は輝きだした。

 

「令ちゃんっ」

 

名前を呼びながら、令さんの腕に抱きつく由乃さん。令さんのことを心から慕っているのが見てとれるその行動には、三奈子ですら好感を持つ。

病弱でありながら彼女は、剣道部のマネージャーを務めている。少しでも令さんの手助けをしたいと、頑張っているわけだ。

それもすべて、大好きなお姉さまを支えるためなのだ。

うーん、なんたる妹心。流石は妹にしたいナンバーワンなだけある。ああ、真美も由乃さんくらいとまでは行かなくとももう少し可愛らしく振る舞えないものか。

 

「――っと」

 

いかんいかん。

張り込んでいるのに、対象に見とれてどうする。

気を取り直して三奈子は二人の逢瀬の垣間見を再開するも――どこか様子がおかしいことに気がついた。普段のこっちが恥ずかしくなってしまうような仲の良さはなりを潜め、少々不穏な空気が漂っている。

 

「由乃、前から思っていたんだけど、私たち、少し距離を置いた方がいいのかもしれない」

 

令さんの言葉は三奈子を驚愕させた。瞳には輝きが宿り、決して見逃すまいと二人の様子を凝視する。

三奈子の第六感が告げていた。

これは大スクープであると!

 

「何で……何で何で何で!」

 

いよいよ言い争いは白熱し、由乃さんは声を荒げはじめた。

 

「もう、こんなものいらない!」

 

三奈子は目を疑った。

なんということだろう、あの由乃さんが首にかかるロザリオを引きちぎらん勢いで外し、そのまま令さんに投げつけたのだ。

そして、令さんの声も無視して駆け出してしまった。

 

「おおっ?」

 

思わず大声を出しそうになって、慌てて口を抑える。

リリアンきってのベストスール――支倉令と島津由乃の破局。まさに超大スクープである。

その瞬間を目の当たりにし、三奈子は興奮状態にあった。

 

「題して、黄薔薇革命ね」

 

学園きってのおしどり姉妹の破局ともなれば、その注目度は今回の記事の比ではない。一面に大きく飾れば、学園中の注目を浴びること間違いなしである。

素晴らしい。早速原稿を執筆せねばと、三奈子は嬉々として部室へと足を向けた。

 

――それにしても、由乃さん、病弱な体であんなに走って大丈夫なのかしら。

 

「由乃っ!」

 

なんとなくそんなことを考えたときだ、令さんの絶叫が轟いたのは。この世の終わりかというような絶望を感じさせる声音だった。

言わんこっちゃない。由乃さんが発作を起こしたのだ。しかしこう言っては悪いがいつものことなのだし、令さんも心配しすぎではないだろうか。

 

そう思ったが、どうもそうではないらしい。他にも沢山いた野次馬たちが、次々とけたたましい悲鳴をあげたのだ。自分の想像以上にまずい状況なのだろうか。

 

「えっ……」

 

気になって見に行ってみると、由乃さんが階段から転落し、血を流しているではないか。

さあっと血の気が引いた。

しかも由乃さんは意識もないようなのだ。このままでは危ないということだけは、医療に明るくない三奈子にもわかった。

 

「由乃、由乃っ!」

 

痛ましいほどに、令さんは由乃さんにすがりついている。普段の凛々しさはどこへやら、令さんは完全に正気を失っていた。

けれどそのおかげで、三奈子の心は逆に落ち着いていった。

 

「令さん!」

 

由乃さんが怪我をして、錯乱しているのはわかる。しかし肝心の令さんがこれでは、助かるものも助からない。

幸いにも今日は体育の授業があったので、三奈子は汗を拭くためのタオルを持参していた。迷わずそれを鞄から取り出し、由乃さんのそばへ駆け寄って頭部に当ててやる。

すると見るみるうちに、タオルが血で赤く染まっていった。

 

「令さん、早く救急車呼ばなきゃ! 職員室か保健室!」

 

「由乃ぉ……」

 

「令さん!」

 

「……え、ええ……」

 

呆然としている令さんに声を荒げ、頬を張ってやると、ようやく我に帰ったのかふらふらと立ち上がり、なんとか走り出した。リリアンの生徒にあるまじき行為ではあるが、緊急事態だから誰にも咎められないはずだ。

 

さて、由乃さんの容態であるが。

とりあえずタオルを巻いてやったはいいが、タオルは血で染まり、雫となって零れ落ちていく。どうにも出血が止まらなかった。脈はあるようだけれど、声をかけても一向に意識が戻る気配がない。

由乃さんは本当に大丈夫なのだろうか。そんな不安に苛まれながら、令さんに連れられて養護教諭含め数人の教師が慌ただしくやってくるまで、三奈子は介抱を続けた。

周囲の野次馬たちは、決して少なくない血を流す由乃さんを見て恐怖し、騒ぎ立てるだけで手伝おうともしなかった。

いや、手伝えなかったんだろう。由乃さんを心配してはいるようだったが、どうしていいのか分からない様子だったから。

 

それから十分ほど経って、サイレンを鳴らしながら救急車がリリアンの校舎にやってきた。

リリアンの乙女たちにとってそれは非現実的なものであり、由乃さんを乗せた救急車が走り去っていくまで、いやその後も。リリアン高等部の校舎はひどく騒然としていた。

 

三奈子はそんな騒ぎをどこか遠いもののように感じながら眺めていた。

 

「ああ、もう最悪ね」

 

大スクープが台無しだ。リリアン高等部を揺るがす大事件ではあったが、仕方がない。

生徒一人がいさかいの果てに大怪我まで負ってしまった。ましてや自分は、その現場を目の当たりにしたのだ。もはや面白おかしく騒ぎ立てられる域を越えている。

もう三奈子の中では、この一件を興味本意で記事にしてはいけないという考えが固まっていた。

記事にするとしたら、由乃さんの無事を祈るくらいのものだろう。

 



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10

 

次の日には既に、あの一件は学園中に知れわたっていた。あれほどの騒ぎになっていたのだから、三奈子が記事にするまでもなかったのである。

しかし、なぜ令さんと由乃さんが言い争いをしていたのか。破局の原因は何か。その根本的なところはわからずじまいなので、生徒たちは悶々としている様子だった。

 

当事者の一人である令さんはひどく憔悴しているから、尋ねられる雰囲気ではない。

だから、皆リリアンかわら版の記事を心待ちにしているのは言われなくとも感じていたけれど、それでも、三奈子は動かなかった。

 

「どうして、令さんと由乃さんの一件を記事にしないんです」

 

そして現在、放課後の新聞部部室にて。

三奈子は、数名の一年生部員と対峙している。案の定というかなんというか、なぜ令さまと由乃さんの一件を記事にしないのかと詰めかけてきたのだ。 

皆それを求めているんだと彼女らは主張した。今高等部で一番ホットな話題なのは確かだけれど。

 

あのとき令さんたちが話していたのは、由乃さんがあそこまで錯乱し、そして発作を起こして怪我までするほどのものであるはずで。それを掘り起こして記事にするのは、いくら三奈子と言えどもためらわれた。

これについては妹の真美も同意見だった。

 

「何を言われようと、私は記事にしないわよ」

 

「三奈子さまっ」

 

「……真美も、それでいいわね?」

 

「はい、お姉さま」

 

結局、部長権限で押し切り、記事にはせずに終わった。部長とその妹が記事にしないと主張しているのだ。一年生がそれ以上抵抗できるわけもない。

そもそも、他に話題がまったくないわけではないのだ。そう諭したら、なんとか後輩たちはあきらめてくれた。

 

今はとにかく、由乃さんの無事を祈るばかりである。

 

「あれから、令さんと由乃さんの話題ばかりよね」

 

ため息混じりに愚痴をこぼす。

 

「私のクラスでも、皆そわそわしています。令さまと由乃さん、あんなに仲がよかったのに、って」

 

そう答える真美も、気疲れしている様子だ。

真美も新聞部員として何か知っていることはないのかと、朝から質問攻めに逢っていただろうから。

一体二人に何があったのか。三奈子だって知りたかった。

 

 

――

 

 

そうして十日ほど過ぎ、未だ熱も冷めやらぬ時分。

由乃さんはようやく復帰した。朝には既に、令さんと二人で手を繋いで歩いていたと二年生のところまで噂が広がっていたし、現に三奈子も二人肩を並べてお祈りしているのを見かけたのだ。

 

流していた血の量がかなりのものだったから、あれからずっと心配していたけれど。

由乃さんが無事にリリアンへ戻ってくることができて良かったと思う。それに、令さんとすっかり仲直りして復縁していたというからほっとした。

リリアンきってのベストスールがあのまま離ればなれになっていたら、新聞部にとっては痛手だし、それに築山三奈子個人としても、悲しみに暮れていただろう。

 

ともかく、良かった。早急に由乃さんの復帰を報じなければと、三奈子は午前のうちからそわそわしていた。

ようやく放課後になると、三奈子は掃除当番でないのをいいことに、即座に教室を飛び出して早歩きで部室へと向かう。

早々に到着したので、中には誰もいなかった。一番乗りである。早速ワープロを起動し、執筆を開始した。

 

「――あ、お姉さま」

 

集中していたところに、ふと部室の扉が開き、声をかけられた。自分をお姉さまと呼ぶのは、一人しかいない。

 

「あ、とはご挨拶ね、真美」

 

そちらを見ることなく答える。

別に本気で怒っているわけじゃない。由乃さんの記事の執筆は順調に進み、三奈子はご機嫌だった。

真美もそれが分かっているようで、小さく笑って「申し訳ありません」とだけ言った。

 

「由乃さん、調子はどうだった?」

 

キーを叩きながら、問いかける。

 

「怪我については、もう大丈夫そうでした」

 

「そう。良かったわ」

 

「はい、本当に。由乃さん、何か吹っ切れたみたいでした」

 

真美の話によれば。

由乃さんは登校してすぐ、クラスメイトの前で頭を下げたらしい。ずいぶん騒がせてしまって、迷惑をかけて、申し訳ないと。

 

「へえ。入院中に何かあったのかしら。気になるわね」

 

やはり、ただの退院の報告だけでなく、由乃さん本人へのインタビューも記事にすべきだろうか。

山百合会にいるかは分からないけれど、とりあえず行ってみようかしら。

そうして腰をあげかけた時、再び部室の扉は開かれた。

 

「ごきげんよう」

 

部員がやってきたのかと思ったが、そうではなかった。そこにいたのは、部員ではない。今まさに三奈子が求めていた人――由乃さんだった。隣には、寄り添うようにして令さんがいる。

 

「令さん、由乃さん、ごきげんよう。ちょうどよかったわ。あなたたちに会いに行こうと思っていたの」

 

「え?」

 

「無事に退院したようで、安心したわ。由乃さん」

 

取材対象が自ら来てくれたという事実は、驚きよりも喜びを三奈子にもたらした。

挨拶もそこそこに、二人をエスコートし椅子に座らせる。

 

「お気遣いありがとうございます、三奈子さま。今日は、その報告のために来たんです」

 

「うん。新聞部が由乃の無事を願う記事を掲載してくれたから、ちゃんとお礼と報告をしなければいけないと思って」

 

令さんが呆れた様子で言った。

 

「はい。あの、心配していてくださったようで……ありがとうございます。そして、ご迷惑おかけして申し訳ありませんでした」

 

そう言って由乃さんは深々と頭を下げた。

 

「私からも、お礼を言うよ。ありがとう」

 

令さんもそれに続く。

 

「さっきも言ったけど、本当に無事でよかったわ。お礼はいいから、その代わりにインタビューさせてもらえない?」

 

「インタビュー?」

 

「ええ。今度は由乃さん復帰の記事を大々的に掲載しようと思ってるのよね」

 

ふふふ、と不敵な笑みを見せると、お二人は苦笑したものの。

 

「はい。もちろん」

 

由乃さんは小さく首肯し、

 

「令さんも、いいかしら?」

 

「うん、構わないよ」

 

令さんも頷いてくれた。

以前ベストスールにお二人が選ばれた際はインタビューが出来なかったから、三奈子にとってはまたとないチャンスだ。ここぞとばかりにインタビューを開始する。

 

由乃さんの怪我はどのようなものだったのか。

入院中、どのような生活を送っていたのか。

様々な質問をしていった。

 

そして令さんも由乃さんも是非にというから、今回の一件の発端となった二人の破局の原因や復縁についても掲載することとなった。学園を騒がせてしまった当事者として、しっかり説明責任を果たさなければならないという考えだそうだ。

 

「――さて」

 

そんなこんなでインタビューは長引き、結局一時間ほど掛かってしまった。その間に部員が数人やってきたけれど、令さんと由乃さんの姿を認めるとぎょっとしていた。無理もない。しかし動揺しながらも、皆お二人の言葉にしかと耳を傾けていた。

 

「ありがとう。いい記事になりそうだわ」

 

「ううん。こちらこそ」

 

「あ、ありがとうございました」

 

令さんも由乃さんも、長らく拘束させてしまったが嫌な顔ひとつしていない。というか、微笑んですらいた。

 

「これからは、新聞部とは良好な関係でいたいわね」

 

これには三奈子も苦笑した。

確かに新聞部を運営するにあたり、山百合会の方々との関係は良いに越したことはない。もともと新聞部は――というか三奈子は、報道に熱を入れすぎるあまり薔薇さま方によく睨まれていたから。

しかし、それを気にして良い記事が書けないようでは本末転倒だ。

 

「どうかしらね。私はスクープを見逃さないの。次にまた何かあったら、その時はしっかり記事にしてみせるわ」

 

「もう、開き直らないでよ」

 

「ふふ。三奈子さまでしたら、素敵な記事になると思います」

 

三奈子も、令さんも、由乃さんも、真美も。

皆笑いの絶えない、楽しい時間だった。このお二人にインタビューすることができて、本当によかった。

 

「それにしても」

 

令さんがふと、釈然としない様子でつぶやく。

 

「なに?」

 

「ずっと気になっていたのだけど、そもそも、どうして記事にしなかったの?」

 

先程自分で言ったように、三奈子はスクープを見逃さない。しかし、それなのにリリアンの乙女たちからの注目を集めるであろう、令さんと由乃さんの破局を記事しなかったのはなぜかと。令さんはそう言いたいわけだ。

三奈子はため息をついた。

令さんを前に、由乃さんの手当てを行ったのは他ならぬ三奈子である。だから、当然令さんは分かっていると思っていた。

 

「目の前で由乃さんがあんなことになったのよ。興味本位で騒ぎ立てるべきじゃないと思ったの」

 

三奈子だって分別つけられないわけではない。記者として、越えてはいけない線はあるのだ。

そう告げたのだけれど、令さんはなぜかぽかんとしている。訝しげな表情で、なにやら考えている様子だ。

 

「三奈子さん、あの場にいたの?」

 

数秒の沈黙の後に呟いたその言葉は、三奈子の想像を越えるものだった。まさかそんなことを言うとは、思わなかったのだ。

 

「……え? 忘れたの? 令さんがあまりに呆けていたから、私が由乃さんの手当てをしたんじゃない!」

 

だから思わず三奈子は声を荒げてしまった。

しかしそれでも、何のことか理解しかねているようだから、令さんは本気で忘れてしまったのだろう。

 

「そうだったの?」

 

由乃さんが初耳だというように、令さんに尋ねたものの。

 

「あ、あれ、おかしいな。そうだったっけ?」

 

令さんはあたふたするばかりで、全く答えになっていない。

 

「そうよ」

 

ちょっと不機嫌に頷いてみせる。

すると由乃さんは戸惑う令さんを横目に真剣な表情で、三奈子を見つめた。

 

「あの……三奈子さまが助けて下さったんですね。ありがとうございました。お陰で無事で済みました」

 

再び頭を下げた。

 

「ええ、どういたしまして……そして、令さん」

 

真摯に向き合ってお礼を言う由乃さんには微笑みかけて。ともかく、三奈子は令さんに目を向ける。

 

「私も恩着せがましく言うつもりはないけど、覚えてすらいないのはさすがにひどいんじゃない!?」

 

「ご、ごめんっ」

 

手を合わせて謝る令さんは、全然凛々しくなかった。

 

「まあまあ。お姉さま、落ち着いてください」

 

恐縮しきりの令さんと、三奈子を諌める真美に、くすくすと微笑んで見守る由乃さん。

そんな光景が面白くて、ぶつぶつと文句を言いながらも三奈子は心地よさを覚えていた。

 

「……ぷっ」

 

そしてついに吹き出してしまう。

こんな令さんも、凛々しくはないし情けないけれど、とても魅力的だ。

 

「もう……令さんって面白いわね」

 

「ふふっ。はい、令ちゃんは面白いです」

 

「よ、由乃までっ」

 

つられて由乃さんも心底楽しそうに笑いだした。

その様子を見て、三奈子は由乃さんの雰囲気が、以前と少し変わっていることに気づく。

そういえばさっきの礼にしたって、その所作は由乃さんとは思えないくらい堂々としたもので。由乃さんが纏っていた、儚げで、いつもどこかびくびくおどおどしていて弱々しい空気感がなくなっているのだ。

 

真美の言っていた通り、吹っ切れたということなのだろう。

三奈子はにやりと笑った。この姉妹は本当に面白い。

 

「……よし」

 

これからも二人を追いかけていこう。三奈子の記者の眼が、キラリと光った。

 

――

 

その日から暫く、令と由乃はスクープを追い求める三奈子の尾行に悩まされることとなる。

 

 





fin.


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