少女、黒。 (へるてぃ)
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少女は黒
オッドアイ


どうも初めまして、へるてぃと申します。
見てのとおり、ハーメルンに自作のホラー小説を投稿させていただきました。
不定期更新ではありますが、よろしくお願いいたします。


 なんてこった。

 まさかこれ程までに後ろの荷物が重いとは。予想外、計算外、合わせて予算外だ。いやなんでもない。

 この子単体なら重量はそこまで無いと思われる。せいぜい30キロ台か。しかしまぁ、この子供は後ろに大層な大荷物を持っちょる訳で。せめてその大きなバッグの中の物を半分に減らしてくれれば、俺も少しは楽にコイツを楽に運べた気がする。

 

「…………」

 

 それにしても、コイツ本当に何も喋らないな。そういう障害でも持ってんのか? いや、単に俺と喋るのが嫌なだけか。

 俺は今、小さなダンボールに入った小さな少女と大きな大きな大荷物を、それらに繋げられた一本の頼りなさげな縄で引っ張り、自分の家へ運ぼうとしている最中なのである。その間に、俺とこのダンボール少女が会話を交わしたのは一度だけ。

 平凡なサラリーマンとダンボール少女が交わした奇跡の会話をお届けする前に、まずはこういう状況になった経緯を説明したいかと思う。

 それは、つい数十分前に遡る。

 

 

 

・・・一話 『オッドアイ』

 

 

 会社からの残業帰り。近所の良い子達ならとっくに布団に潜り込でいるであろう時間帯に一人、真っ暗な夜道を歩く俺は、河野楓(かわのかえで)。そこら辺を必死に転げまわるサラリーマンである。

 通勤、会社帰りに歩く道は街灯が少なく、それが原因か、空が暗い時間帯は通行者も少なかった。空が明るい内は、ジョギングをしている若い子や、犬の散歩をしている老人が通る。ところが最近、ここら辺で黒ずくめの格好をした不審者がよく見掛けられるようになり、ここを通学路とする学生は少なくなった。

 そんな噂はさほど気にしない俺は、真夜中の残業帰りでも、普通にこの道を使って我が家を目指していた。

 

 しかし俺はその日、不審者らしき何かを見かける事になる。

 数少ない街灯がわずかに照らす道の端に、謎の四角い何かが放置されていたのだ。大分距離の離れた場所からよ~く凝視すれば、それは古い小さなダンボール。ただのダンボールなら、誰かが捨てたのだと適当に考えてスルーする事だろう。ところがそのダンボールは、ただのダンボールではなかった。

 街灯に照らされているとはいえ、遠目から見ればそれは暗く見えて、それはまるで黒い何かが蠢いているようだった。そんな謎の黒い物体を見た俺が、普通に情けない悲鳴を上げそうになったのは言うまでもない。

 心の底から湧き出る恐怖と戦い、ゆっくりとダンボールに近づいて、もっとしっかりとダンボールの中に居る何かを見つめてみれば、それは人。

 

 ──少女が蹲っていたのだ。その小さなダンボールの中に。

 

 彼女は俯いているために顔はよく窺えないが、たしかに少女だった。

 見たところ、歳は6才くらい。もう少しで腰にまで届きそうな長い黒髪に、前髪を留める小さな可愛らしいヘアピン。俯いているために顔はよく窺えないが、親に捨てられた原因として挙げられるほど、醜い容姿という訳ではなかった。

 いや、彼女はむしろ可愛いだろう。表情こそ見えないが、少女がほんの少しだけもぞっと動くだけでサラサラと動く髪に、か細い腕に、白く透き通るような肌。

 姿が醜いというだけで生まれてきた子供を捨てる非情な親は世界にいくらでも居るが、彼女はそんな理由で捨てられるような子ではない気がする。

 

 とにかく話をしてみなければ、それこそ話が進まない。

 もしこの子が家出少女であれば警察に頼むなどして親元へ戻し、もし親が子供を捨てるような人間であれば声を張り上げて抗議してやるべきだろう。

 

「……あの、どうかしたの?」

 

 少女の前にしゃがみ込むと、警戒はさせないようにと俺はできるだけ柔らかい口調で話しかけてみる。

 すると少女はハッとしたように顔を上げた。どうやら今まで俯いていたのは、俺が近づいてきた事に気づかなかっただけのようだ。 

 いやそんな事より、こんな事があってもいいものだろうか。

 

 ──可愛い。

 

 顔を上げた少女は、俺が想像していた以上に可愛かった。いや、可愛いというよりは、綺麗と評すべきかもしれない。

 おそらく小学生低学年程度と思われる背丈、身体の割には、やや大人びた顔。整った目鼻立ちに、何かを秘めたように大きな瞳。高校生くらいにでも成長すれば、確実に容姿端麗、眉目秀麗と周りに囃し立てられてもおかしくないであろう顔立ちだった。

 容姿の限り、とても家族に捨てられるような子とは思えない。

 

 ──ただ一つ。

 左は赤、右は青と光る瞳を除いて。

 

 ずっと眺めていれば引き込まれてしまいそうなその少女の瞳に、俺は少しの間見惚れてしまった。

 

 これはオッドアイだ。

 オッドアイとは、左右の目の色が異なる事。医学的には『虹彩異色症』と呼ばれるそうだ。

 

 この子は、これが原因で捨てられた?

 可能性としてはあり得るだろうが、ただそれだけで子供を捨てるような人間が居るだろうか。

 たしかに実際に間近で見るオッドアイは、とても不思議だ。人によっては、これを見た第一印象は良くないだろう。小学生なら、これのせいでクラスから虐められる事もあるかもしれない。

 

「……綺麗だ」

 

 しかし、俺はそうは思えない。

 何故なら、この少女の瞳はとても綺麗だから。

 片方は赤、もう片方は青に光る両目は、本当に何かを秘めているように思えてしまう。そんな引き込まれるような瞳に見惚れてしまった俺は、とてもこの少女を貶そうとは思えないのだ。

 

 と、こんな事を考えている場合ではない。

 もしこの状況を、偶然通りかかった通行人に見られてしまえば、黒い服を来た男が言葉巧みに少女を連れ去ろうとしていると勘違いされてもおかしくはない。この服、会社のスーツだけど。

 不思議そうにこちらを無言で見つめてくる少女。俺は一度、小さく咳払いをしてから改めて話しかけた。

 

「何を、しているのかな?」

 

 俺が質問して大分間を置いてから、少女はゆっくりと口を開いた。

 

「…………………………家出」

 

 一応予想はしてたけどトンデモ衝撃発言。誰かに捨てられたんじゃなくて自ら捨てられに来た子だった。

 

 この会話が、本日最後の奇跡の会話になるとも知らず、俺は言った。

 

「理由は敢えて訊かないとして、家出は駄目だよ。早く家に帰りな?

きっと、お父さんやお母さんが心配してるよ」

 

 少女は答えない。

 俺の言葉を聴くとまたもや俯き、もはや俺の顔さえ見なくなってしまった。

 名前も知らない大人に突然話しかけられたところで心が開けないのは分かるが、そこで無視されるのはちょっと辛い。良心から流れ出た言葉をそのまま流されるのはさすがに応えます。お兄さん、泣いちゃいそう。

 

 それでも返答を待つ俺と、答えようとしない少女。そこから生まれる沈黙は、しばし続いた。

 ふと腕時計で時間を確認してみると、時刻はとっくに九時を過ぎていた。明日も早い内に会社に出勤せねばならないので、今日のところはここから離れるしかない。

 

「俺はもう行くけど、気が変わったら早く家に帰るんだよ。

あと誘拐には気を付けな。そういう奴らはだいたい飴ちゃん持ってるから」

 

 今回は返答を待たずに、こちらを見向きもしない少女に軽く手を振ってから俺は立ち上がると、さっさと家に戻ることにした。

 

 ところが、ダンボールを見守るたった一つの街灯から数メートルほど離れた所で俺の背中に掛かる声。即座に振り向けば、ついさっきまで俯いていた筈の少女がこちらを見ていた。

 その透き通るようなオッドアイに再度見つめられた俺は、少々立ち竦む。彼女の瞳には、なにか不思議な力が宿っているように思えたのだ。

 学生の頃の厨二がまだ消え去っていないのかと心の中で苦笑いする俺を、少女はずっと見つめていた。

 

 ここは敢えて「なんだよ」とは訊かず、彼女の言葉を待ってじっと堪える。

 体内時計が狂ってしまいそうなほど長い時間見つめ合っていると、不意に少女が口を開いた。

 

「…………………………て」

 

 しかし距離が離れているために、少女の小さな声はここまでは届かない。

 そんな彼女に、俺は一言。

 

「大きく」

「…………家に、連れてって」

 

 そんな事を言い出す少女の真横には、謎の大荷物。

 

 かくして、俺の『ダンボール少女と大荷物のセットを自分の家まで運搬大作戦』は幕を開けたのだった。

 

 …………重い、思い、思ひ、想い、おもい、重い。

 思わず頷いてしまったあの時の自分を、いまの俺は大荷物だけに大きく振りかぶって殴り飛ばしてやりたい。




誤字・脱字、表現のおかしなところがあればご報告お願いいたします。


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 一人暮らしの俺が住むアパートは古く、部屋を仕切る壁も薄いが、駅が近く家賃も割と安い。部屋は狭いものの、一人で暮らすには十分な広さのために、不動産屋に足を運んだ時の俺は真っ先にこのアパートを選んだのだった。商売上手の店員は言葉巧みにこれより家賃がやや高めのオススメ物件を勧めてきたが、そんなのお構いなしにとここを選んだ数年前の自分を、今の俺はまったく後悔しちゃいない。

 ただ、このアパートは一階の二階が存在し、上の方を選んでしまった事を除いて。

 

「畜生……、この中、一体、何が入ってるんだよ……」

「…………」

 

 錆びついてはいるものの、まだ頼り甲斐のある丈夫さを持っているアパートの外階段。段数はせいぜい十数段程度しかないのだが、俺はその一段一段に十秒ほど掛けて二階を目指していた。

 憎たらしい事に、先に二階へ運んだダンボール少女がそのオッドアイでまるで見下すように俺を見下ろしている。お前も手伝えよ、これお前の荷物だろうが。

 

「…………」

 

 俺が心の中で愚痴を垂らしたところで、この少女は微動だにしない。伸びた前髪から覗かせた不思議な瞳で、階段中腹にて息を荒げている俺を見つめていた。

 子供相手に罵声を浴びせるのも気が退けるので、俺は何も言わずに背中に背負っていた荷物を両腕に抱え直し、残りの階段を一気に駆け上がる。途中、一瞬だけバランスを崩しかけた時は本気で死ぬかと思った。

 

 決死の思いで階段を上りきり、大荷物を置く俺を少女は感謝の一言も言わずに見つめる。微かに口が開いているので、一応感心はしてくれているのだろう。

 そんな訳で、俺は自宅の眼前で、背中に荷物抱えて山を登る登山者の気持ちを知る事が出来たのだった。

 

 山、登ってないけどな。

 

 

 

・・・二話 『話』

 

 

 

 古びた玄関の扉を開けて中に入ると、俺は脇のスイッチを押して部屋の電気を点ける。二足歩行で自ら歩こうとしない少女に目をやりため息を吐いてから、俺は彼女が入ったダンボールを部屋の隅へと運び、移動させた。ついでに大荷物もヒーヒー言いながらダンボールの真横に置く。

 それから俺は正面で少女と目が合う位置に、壁に背を預けて座り込む。ダンボール少女と大荷物を運搬した自分の腕を見てみると、情けない事にまるで限界だとでも訴えるようにプルプルと震えていた。この状態で鉄棒でもしようものなら、逆上がりどころか前回りもできずに地面に尻餅を着く事になりそうな気がする。

 

「す~……、す~……」

 

 ちょっとくらい鍛えないとなぁ、とまた溜め息を吐く俺の耳に、小さな寝息が聞こえた。ふと少女に視線を向けると、彼女は規則正しい寝息を微かに立てて眠りに落ちていた。ダンボールの中で体育座りをしながら就寝できるとは。

 近くにあった目覚まし時計の針が指し示す時間は、十時過ぎ。

 道端でこの少女を発見したのは九時頃。まさかあれから一時間も経っているとは、予想外だった。

 

「……明日は早いだろうし、俺も寝るか」

 

 少女の事で、色々とやらねばならない事がある。

 

 俺は重い腰を上げて立ち上がり、就寝準備を始めた。風呂に入ってさっぱりしたいのは山々だが、もう今日は遅い。

 とりあえず自分の布団は敷いたが、この子の分も敷いておくべきだろうか。今のところはダンボールの中で寝てるけど、夜中に寒くなって起きた時のために一応もう一枚敷いておこう。意地でもダンボールが良いというのなら、それはそれでどっちでも良いのだが。

 

 一度トイレで用を済ませてからリビングに戻ってみると、意外なことに既に俺が敷いた布団に少女が身を滑りこませていた。まだ浅い眠りだったのが俺の布団を用意する音に目が覚め、俺がトイレへ行っている間に潜り込んだらしい。

 そんな彼女に俺は微笑を浮かべると、部屋の電気を消し、少女に「おやすみ」と言った。

 

 部屋は暗かったが、コクンと静かに頷いた少女が、微かに微笑んでいたのは見えた。

 

 

 

・・・

 

 

 

 朝。

 

 窓から差し込む眩しい日差しで、俺は目を覚ました。日差しから逃れるように寝返りを打つと、そこにはまだ静かに寝息を立てている少女の顔があった。

 瞼が閉じられているためにオッドアイが隠れているその顔は、本当に綺麗だった。彼女がダンボールではなく風情ある木の椅子にでも座っていれば、それはさぞ絵になる事だろう。不思議な事に、俺にはその姿が容易に想像することができた。妄想ではない。

 

「……俺も、なんで受け入れたんだか」

 

 ここは俺の家、俺の部屋。本来一人暮らしをしていた筈の俺の部屋に、ある日の真夜中、オッドアイの少女がやって来た。

 友人にでも話そうものなら、「妄想はほどほどにしろ」と小突かれるような話。ラブコメじゃないんだから、フクションじゃないんだから。んな事は分かっている、重々承知だ。

 しかしいくら自分の頬を抓っても壁に頭をぶつけてみても、簡単に覚めてくれるような夢ではないようだった。なぜなら、これはれっきとした現実だから。ノンフィクションだから。

 実際に、少女はここに実在しているのだから。

 

「さて、朝飯でも作るか。この子も腹減ってるだろうしな」

 

 一度ぐ~っと伸びをしてから、俺は自分の布団を畳んで押し入れに仕舞うと、キッチンに構えた。朝飯を作り終えるまでは、少女はこのまま寝かせておこう。

 親の制止を振り切って一人暮らしを始めてから早数年。体に悪い不規則な生活は送りたくないと、不器用ながらできる限り自炊していれば、料理のスキルもとっくに身についてしまっていた。かといって金銭的な余裕はさほどないために、豪華な食事を取るのは極々稀なのだが。

 そのうえ彼女が居ないので、夜の食事はいつも独りぼっち。運命の人を、切実に、募集中です。ちなみにロリコンではないので、布団の少女は論外です。

 

 などとごちゃごちゃほざいてる間に、二つの目玉焼きは完成していた。俺はそれをフライパンから二枚の皿に移すと、きっちりと整理された冷蔵庫から袋を取り出し、その中から数本のソーセージをあらかじめ油を引いておいたフライパンの上に置いた。ソーセージに火が通るまでに、俺は次に冷蔵庫から取り出したキャベツを千切りにし、それもそれぞれの皿に分けて盛っておいた。

 そして焼けたソーセージを目玉焼きの横に置けば、完成。あとは簡単な味噌汁と温めて解凍した冷凍ご飯を茶碗に盛り、それらをリビングの真ん中の卓袱台に置いて朝食の準備は完了。

 

「おい、起きろ。朝飯だぞ」

 

 未だ寝ていた少女の肩を軽く揺すり、声を掛けてみる。すると少女はパッと目を覚まし、すぐ近くの卓袱台の上に並べられた朝食を見つめた。

 

「…………………………ごはん?」

「おう」

 

 なんだ、俺が家に泊まりに来た子供にはご馳走しないような非情な人間にでも見えたのか。家出した君を家に入れて上げただけでも、お兄さんは相当優しい人だと思うんだけど。それにちゃんと君の分の朝ご飯も用意してますし。

 

 卓袱台にある二人分の朝食を目を丸くして眺める少女を俺が怪訝な面持ちで見ていると、彼女はまた微かに口を開いてこう訊いてきた。

 

「…………………………たべて、いいの?」

「食べさせる気が無かったら、まず二人分も用意してない」

「…………………………いただきます」

 

 少女は卓袱台の前に座りなおすと、胸の前で手を合わせてから朝食にがっつき始めた。案の定、家出してから空腹だったようだ。

 しっかりと背筋を立てて姿勢よく箸を進める少女を満足げに眺めてから、俺も自分の分の朝食を食べ始める。

 

 今日は休日。さっさと朝食を食べて

 

「あ、そういえば、お前の名前って何なんだ?」

 

 俺が思い出したように訊くと、少女はお約束となった間を置いてから、はっきりと口に出した。

 

「…………………………ない」

 

 その回答に、俺は耳を疑った。

 

「な、『無い』って……。いや、あるだろ普通」

「…………………………ない」

「それじゃあ、やっぱ酷い親に捨てられたのか?」

 

 卓袱台に身を乗り出した俺の質問に、少女は小さく首を振る。

 

「…………………………おとうさんとかおかあさんとか、しんじゃったから」

 

 家出という事実に対する俺の驚きを遥かに超越した、驚愕の衝撃発言。

 両親は死んだと俺に告白した少女は、手に持っていた茶碗と箸を卓袱台に置き、正座した膝の上に両手を置いて俯いてしまう。そんな彼女の表情は、見えているのに、見えなかった。

 まるで暗い影が、少女の顔を覆ってしまっているかのように。

 

「…………………………このまえ、わたしのめのまえで、しんじゃったから」

「目の前、で……?」

「…………………………うん」

 

 俺は朝食を食べる事も忘れ、俯く彼女をただ驚愕の表情で見つめていた。

 それでも尚、彼女は小さな口を動かし続ける。ゆっくりと、ゆっくりと。

 

「…………………………みんなであそんでたら、おとうさんとおかあさんのうしろに、なにかがでて」

「…………………………でも、おとうさんとおかあさんはきづかなくて」

「…………………………なにかが、おとうさんとおかあさんにぶつかったら」

 

「──…………………………おとうさんと、おかあさんが、しんじゃった」

 

 少女の話に、俺は絶句するしかなかった。

 言葉で聞く限りは、あまりにも突飛な話。いや、それを実際に目の当たりにしたこの子が、その突飛な出来事を一番突飛に感じた事だろう。

 

 彼女が言うには、その『なにか』にぶつかられた両親は倒れ、倒れた際の両親の様子は全身の肌が青白く、目も白目が剥き出しだったという。その両親の変わり果てた姿を見て、彼女は両親が死んだ事を悟ったらしい。

 しかし両親が亡くなっても、その『なにか』は、少女の目の前から去ることはなかった。

 

 ──自分も同じ事になるんだ。

 

 いち早く未来を悟るも、あまりの事態に怯えた彼女は足が竦んでしまった。

 ところがその『なにか』は彼女を襲う事はせず、すでに亡くなった両親の遺体を包み込むように覆い、そして消え去ったという。

 それも、両親の遺体と共に。

 

「…………………………それから、こわくなって、いえからとびだして、よるになって」

「んで、帰宅途中の俺に拾われた、と」

 

 少女は静かに頷く。

 あまりにも突飛すぎる。さすがに信じられない。

 しかし彼女の様子からして、今の話が虚偽だとも思えない。実際に彼女が家出をしていて、真夜中のダンボールに入った姿で道端に居たのは確かなのだ。俯き、暗い影をつくる少女が、そんな嘘をつくとは思えない。

 

「でも、そこまで成長してて名前が無いのはおかしいだろ」

「…………………………おぼえて、ない」

 

 ついには膝を抱えて蹲ってしまった彼女の訂正に、俺は頭を抱えた。

 彼女が言った話は、下手すればホラー映画にありそうな展開だ。主人公の家族が、主人公の目の前で謎の物体に襲われて死亡。不思議な事にその謎の物体は主人公だけは殺さず、家族の遺体だけを連れてどこかへ消え去る。

 俺は想像力が乏しいためにその先の展開は想像すら出来ないが、それは本当にB級ホラー映画にでも取り上げられそうな突飛すぎる出来事だった。

 本人が嘘を吐いているような態度ではないために信憑性を感じてしまうが、出来事が出来事なためにどうしても信じられない。

 俺は少女に疑いの眼差しを向けながら、先ほどの話が真実であるかどうかを確認する。

 

 これはあくまで確認。彼女が首を縦に振ろうと横に振ろうと、信じるつもりもないし信じないつもりもない。

 

「──本当、なのか?」

 

 俺が疑っていると察したらしい少女は、俯いていた顔をゆっくりと上げて、俺の目を見据えた。

 澄んでいるようで、どこか、闇を抱えたように濁った、赤色と青色の瞳。

 二つのオッドアイは、うっすらと涙を浮かべていた。

 

 辛い過去を思い出すように、少女は、はっきりと、頷いた。

 

「…………………………ほんとう」

「……そうか」

 

 彼女の返答を聴くと、俺は箸を持ち、朝食を再開した。

 少女は、それを驚いた様子で眺めてくる。もしかして信じてくれないのか、とでも心配するようだった。

 

 仕方なく、俺はまた箸を置く。

 箸を離した俺の手が向かう先は、少女の頭。

 

「…………………………っ?」

 

 俺に頭を撫でられた少女は、「どうして」とでも言いたげに目を丸くして俺を見る。俺は優しい笑みを浮かべると、彼女に対して頭を下げた。

 

「ごめん」

「…………………………え?」

「悪かったな、辛い過去聴き出して。お前をここに居候させる代わりに訊いたつもりだったけど、過ぎた真似だったな」

 

 俺の謝罪を黙って聴いていた少女は、俺が過ぎた真似をしたと謝ったところで、首を振った。

 

「…………………………わたしも、だまってここにいるのは、だめだとおもったから」

「そうか。それじゃあ、お相子だな」

「…………………………うん」

 

 彼女は俺の言葉に頷くと、静かに瞼を閉じ、頭を撫でる俺の手に自らを委ねてきた。優しい手つきでしばらく少女の頭を撫でてから、俺は再度箸を取る。

 何故か名残惜しそうに俺の手を見つめてくる少女に、俺はこう促した。

 

「早く食べろよ、(くろ)。腹減ってるんだろ?」

「…………………………く、ろ?」

 

 箸を進める俺の横で、少女は驚きの表情をしていた。

 俺は少女に向かって微笑み、答えた。

 

「お前の名前。お前黒髪だし、人の名前なんて考えた事もない俺には、これが限界。

あ、嫌ならなんとか別のを考えるぞ?」

 

 インターネットで人気の名前ランキングとか調べて。

 

 しかし"(くろ)"は、異なる色の瞳を輝かせた満面の笑みを浮かべていた。

 

「…………………………なまえ、うれしい。まえのなまえ、わすれちゃったから」

 

 それはおそらく、記憶喪失だろう。目の前で亡くなった家族が『なにか』に連れ去られていく現場を目撃すれば、そうなるのも仕方ない。そんな非現実的な現状を目の当たりにして冷静でいられる人間の方が、よっぽどおかしい。

 しかし一度は名前を失った少女も、また新しい名前を手に入れる事が出来た。それがネーミングセンスゼロの名前であっても、彼女は名前が貰えるという事実自体に歓喜していた。

 

 黒は俺の隣で、朝食を再開した。

 小さな両手で茶碗を持ち、味噌汁を啜る黒を横目に、俺は部屋の窓から眩しい空を見上げた。

 ……しかしその窓の脇に置かれた大荷物が目立ち過ぎていて、どうしても目線がそっちに行ってしまう。

 ついに痺れを切らした俺は、パンパンに膨らんだ巨大バッグの中身を、黒に訊くことにした。

 

「なぁ黒、ところでアレは何なんだ?」

「…………………………ほんとか、おかねになりそうなもの」

「──売れってのかよ!!?」

 

 案外しっかりしてんな!!

 

 

 

 



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勘違い

 ほんの少し肌寒い程度の柔らかい風が、アスファルトを踏みしめる俺の頬を優しく撫でていく。

 暑くも寒くもない時季は、やはり過ごしやすい。かといって春は桜を見ると学生時代の苦い思い出が必ず脳裏を過るので、一番好きな季節と問われれば少し悩んで『秋』と答えるのが俺。次が冬、そして春。夏は最下位以前に論外と言える。

 先ほど外出する前に例の大きなバッグの中を確認してみれば、それは本当に本やCDなどの、まとめて売れば多少はお金になりそうなものばかりだった。ところが、生活においては肝心の衣服がまったく無かったのだ。

 よって、取り敢えずはまずこの子、黒の服を買ってやらなくてはならない。

 

 以上の理由から、現在俺と黒は、服を買いに近くのショッピングセンターへと歩を進めているのであった。

 

 

 

・・・三話 『勘違い』

 

 

 

 澄んだ秋空の下、俺は一歩また一歩と道を歩いていた。赤くもしくは黄色く色づいた街路樹は、見る者に秋らしさを感じさせてくれる。やはり俺は秋が好きだ。

 そういえばコイツはどの季節が一番好きなのだろう。ふとどうでもいい疑問が脳内に浮かび、俺はやや斜め後ろを歩く黒に視線を向けた。黒は俺にぴったりとくっつき、アスファルトの地面を見つめながら俺の後を付いて来ていた。その手は、俺のシャツの裾を握りしめている。

 そして時折何かを思い出すように、黒は微かにビクッと体を震わせていた。訊くまでもなく、俺はその理由が理解できた。

 本人が言うには、黒は両親が自分の目の前で死亡したところをはっきりと見ていたのだ。そこに居た『なにか』が、白目を剥いて倒れた両親を連れ去って行くところを、ただ傍観するしかなかったのだ。

 得体のしれない『なにか』によって両親が死んでいく様を見た子供は、その出来事に対して、なんの感情も持たずにいられるだろうか。あまりにも突飛すぎた出来事を、故意に記憶から抹消できるだろうか。

 できる訳がない。少なくとも子供の頭には、その出来事は"トラウマ"として記憶されるし、人が殺される様子を見た子供は、恐怖という感情を持つだろう。そして招かれるのが、得体のしれない恐怖に呑み込まれた事による混乱。

 それによって記憶の一部を失ってしまった子供を、誰が笑い飛ばせるだろうか。中には子供の戯言だと馬鹿にする大人、人間もいる。記憶喪失なんて嘘だと、必死に訴える子供の言葉をすべて虚言だと思い込む人間もいる。

 俺はそんな事をして、黒を泣かせたり落ち込ませたりはさせたくない。

 だからこそ俺は、黒の言葉を信じる事はせず、そして疑う事もしなかった。話でしか聴かなかった現状では、これが最善。黒もそれは分かってくれている筈だ。

 

 休日だってのに考え事はよくない。ましてや中に"死"や"記憶喪失"など、聞けば決して気分は良くない内容の考え事など、悩むだけ気が滅入るだけだ。

 黒が目撃したあの出来事が、事件または事件もしくはそれ以外の何かであるにしろ、この問題は普段以上に頭が回る時にゆっくりと解き進めていくに限る。時が経てばもしかしたら、黒の記憶が戻ることだってあるかもしれないのだ。

 

 一度軽く息を吐いて思考を止めた俺は、ずっと腰に引っ付いてきている黒に話しかけてみる。

 

「黒」

「…………………………?」

「お前さ、どの季節が好きなんだ?」

 

 俺の質問に、黒は少し思案するように俯いたのち、顔を上げて答えた。

 

「…………………………ふゆ」

「どうして?」

「…………………………おふとんが、きもちいいから」

 

 雪が好きなのかと思えば、それは違った。どうやらこの子は三度の飯よりも二度寝が好きらしい。

 まぁ、たしかに気持ちいいよね。冬の布団。中々離れさせてくれないような魔力があるよね。

 頷いて同感する俺は、次は逆に、「どの季節が嫌いなんだ」と尋ねた。

 これについては、黒は即答した。即答とは言っても、いつもの謎の間があるが。

 

「…………………………あき」

「……それは、どうして?」

 

 一応なんとなくは理解している。この質問が、今の黒の心境を無視した、気を兼ねるという言葉など知らないような図々しい質問である事も重々承知済みだ。

 しかし敢えて、訊かねばならない気がした。何故そう思ったのかは、自分でもわからない。

 黒はまた顔を陰で覆うように俯き、そして答えた。

 

「…………………………あんなことがあって、おとうさんもおかあさんも、しんじゃったから」

 

 相槌は打たない。

 ましてや、『俺が助けるから』や『お父さんもお母さんも、どっかに連れて行かれただけで死んでないよ』なんて、持つだけ無駄な期待外れの希望も持たせはしない。

 先ほどの質問より、むしろそのような慰めの方が図々しく、相手の気持ちを考えていない言動である事を、俺はちゃんと分かっているから。

 小さい頃は無駄に壮大な夢や希望を何個も持ち、そして大きくなって相応の挫折を味わった俺は、自分が希望を持って自分に自信をつける事もしなければ、他人に希望を持たせて他人に無駄な期待を煽るような事もしないのだ。学校で『この世はそんなもんだ』と、これでもかというほど教えられたから。

 

 かといって、自分はそんな人間だと俺自身が暴露しただけで、河野楓は最低の人間だと思い込む奴がいるのなら、俺はソイツを殴り飛ばす。そんな単純な発想しかできない馬鹿は、もう少し勉強して想像力と聴解力を身に着けるべきだ。

 俺は人に希望も期待も持たせないとは言ったが、助けないとは言っていない。救わないとも言っていないのだ。

 例えば失恋した奴がいたとする。ある日、俺はソイツに『失恋した』という相談を受けた。なら俺は、ソイツに慰めの言葉は掛けずに希望や期待も煽らない。

 代わりに、しばらく傍に居て真剣に話を聴いてやる。そうすれば言葉は無くとも、俺という"話を聴いてくれる"存在自体が、ソイツにとって"失恋"という挫折を味わった自分の心の支えとなる。同情する事もなければ、慰める事もない。でも傍に居るだけで、ソイツは幾分か心を救われる。

 貫徹なんかより挫折の方がよっぽど多い人生において、人間同士が寂しがって"家族"だの"友達"だの"親友"だの呼び合っているだけの結局は他人同士の間での慰めなど、その程度で良いのだ。申し訳程度、雀の涙、それくらいで十分。

 実際にそうやってそうやられても、人生を道から外れる事なく歩んで来れた俺が言えば、多少の説得力はあるだろう。異論は認める。

 しかしそれも結局は、『これからもズッ友ダヨ』なんてとても阿保らしくておめでたい事を、メールでしか言い合えない人間の筋の通らない反論でしかない。

 しっかりと、ちゃんとした、人間らしい人生をめげずに歩んできた俺にとって、スマホ片手にLINE交換しようなんてほざいて、メールの間でのちょっとした勘違いだけで大喧嘩繰り返す奴らは、その程度の馬鹿でしかないのだ。

 

「…………………………かえで、なんだかこわい」

「……あぁ、いや、なんでもない。ちょっと考え事してただけだ」

 

 黒が俺の顔を見上げ、妙に強張っている俺の表情を少し震えた瞳で見つめていた。

 危ない危ない、また学生時代を振り返って、過去の自分に嫌悪感を抱くところだった。考え事は止そう。ながら歩行は危険だ。

 

 自分が名乗らないのはおかしいと思い、家にいる間に俺が自分の名を教えたところ、黒は早速俺を下の名前で呼び捨てにしていた。その程度で子供相手にムキになるのも阿保らしいので、別に構わないが。

 そんな事より、両親が『なにか』に殺害されるという生涯ないであろう恐怖を目にした黒は、どうやら"恐怖"というものに敏感になっているようだった。

 今も俺が少々眉間に皺を寄せてしまったというだけで、彼女の瞳には恐怖の色が見えていた。澄んでいたはずのオッドアイが、濁っていた。

 ある意味残酷な状況に居合わせていたとなれば、そうなるのも致し方ない。俺も出来るだけ、彼女が怖がるような言動はしないようにしよう。そして出来る限り、黒に恐怖を与えるような存在や出来事は、彼女から遠ざけるようにしよう。考えるまでもなく、それが最善の筈だ。

 

 俺がそう決意したところで、眼前には目的地。毎回しみじみ思うのだが、自宅から歩いて行ける距離に商店街があるというのは、本当に便利なものである。

 俺に続いて、黒もショッピングセンターに足を踏み入れた。エレベーターの前まで来ると、俺は壁に取り付けられた店内マップで本屋とCDショップのある階と場所を調べた。

 はやく黒の服を買ってやりたいのも山々ではあるが、まずはこの半端なく重い荷物を軽くしなければならない。そのうえ尋常じゃない大きさに膨らんだバッグを担ぐように持つ俺は、ショッピングセンターに入る以前から異様な存在感を発していた。

 まるで変人を見るかのような目で俺に視線を向けてくる通りすがりの人の視線からさっさと逃げたい一心で、俺はこの重さに耐えていた。

 昨晩、黒がどうやってあの場所までこの荷物を運んだのか、正直謎だ。持つ限り、これは到底子供が持ち上げられるような重量じゃない。

 

「……ったく、これなら何分割かして売りにくる方が良かったか?」

「…………………………かえで、えれべーたー」

「…………分かってるよ」

 

 到着して扉が開かれるエレベーターに、俺は少々時間を掛けて乗る。その間、黒はエレベーターの開くボタンを押してくれていた。

 さすがにエレベーターの最大許容荷重を超えてはいないらしく、なんかブザーが鳴ったりなんて事はなかった。本屋のある階のボタンを押されたエレベーターは、俺が抱える荷物の重さなどものともせず上へと上がって行く。

 しばらくして、エレベーター内にチーンといういかにも機械的な音が鳴り響くと、扉が開いた。

 

「…………………………かえで、ついた」

「…………分かってるっての」

 

 報告する暇があるならアンタも手伝ったらどうだい。

 

 

 

・・・

 

 

 

 全ての中の荷物を売却したために萎んだバッグを背負った俺と、売却分のお金を仕舞った財布を持った黒は、店を後にする。

 

 結果的に言おう。結構な額だった。それはもう、結構な額だった。

 実際に中身を売る際、もちろん黒には確認した。「本当に売っていいのか?」と。

 黒が売ってお金にするために持ってきた荷物とはいえ、これは形見ともいえる親の遺物達。黒自身にはそれらに対して愛着は無くても、少なくとも黒の親はそれらに対して愛着を持っていた、れっきとした父と母の形見なのだ。

 しかしそれでも黒は、首を縦に振った。それはもしかすれば、あの時の恐怖を思い出してしまうような代物は、さっさと自分の周りから消し去ってしまいたいという思いからなのかもしれない。

 親と居た最後の記憶が楽しい思い出か恐怖のトラウマかで、遺族の行動はここまで違うのかと俺は思った。

 

 だが黒の親へのせめてもの手向けに、このお金は黒のために、黒のためだけに使うとしよう。自分達の遺物を売って替えられたお金が、まさか見も知らない他人に使われたとなれば、亡くなった黒の両親はさらに報われない事だろう。

 だからこのお金は、黒のためだけにしか使用しない。それが楽しい事かもしくはそれ以外の事でも、黒の両親の遺物を売却して得たこのお金は、何があっても黒の物。黒にしか使えない、大事なお金。

 

「さて、服買いに行くか。黒の、な」

 

 まずは黒の衣服を買うために。

 

 黒は俺の言葉に頷くと、エレベーターのボタンを押しに歩いて行った。今度は俺が、その後ろを付いて行く。

 これからは"両親の死"という記憶を背負って生きていかねばならないであろう、小さな少女の小さな背中を見つめながら。

 

 

 

・・・

 

 

 

 黒の衣服などが入った袋を持って両手が塞がれている為に、俺は黒に玄関の扉を開けてもらって家に入る。一旦リビングに荷物を置いて電気を点けると、昨晩と同じように俺は壁に背を付けて座った。

 手、腕、腰。そのどれもが悲鳴を上げていた。

 原因は勿論、まだ中身がびっちりと詰まっていた頃のバッグである。大人の人間を一度に数人抱えているようなものだった。会社で力仕事をしていなければ、ましてや毎日筋肉トレーニングをしている訳でもない俺には、中身があった時のバッグを背負っている時間はまさに地獄だった。

 確実に明日は筋肉痛になってるだろうな、と呻く俺に、

 

「…………………………おつかれさま、かえで」

 

 黒はそんな労いの声を掛けてくれた。

 いや俺がお疲れだと思ってたならなんで手伝ってくれなかったんだよ。あの重さの荷物が子供一人の力で運べるとは思わないけど、二人で協力して持ってたら多少は楽だったよきっと。

 心の中では色々な愚痴や文句が溢れるが、俺の口から発せられたのは、労いに対する感謝の言葉。

 

「……あぁ、ありがとう」

 

 そのまましばし休むと、俺は立ち上がって風呂場へ向かった。

 今日こそはシャワーを浴びてさっぱりしたい。出来る事なら風呂を沸かして湯船に浸かりたいところではあるが、今日の俺にはもうそんな余力さえ残っていない。

 

「俺、シャワー浴びてくるけど、晩飯はその後でいいか?」

「…………………………うん」

 

 黒が小さく頷いたのをしっかりと見てから、俺は風呂場に入った。

 全く、休日だというのになんでこんなに疲れているのか。理由は明確だが、それを口に出さない俺は偉い。

 一度溜め息を吐くと、俺はシャツを脱ごうとする。

 ここで『脱ごうとする』にまで留まったのは、すぐ後ろに小さな存在があったからだった。

 俺はその小さな存在の名を呼ぶ。

 

 

「…………黒」

「…………………………?」

 

 黒は『なに?』とでも言いたげに首を傾げた。

 俺は至って冷静に質問する。

 

「何か、用でも?」

「…………………………かえでのせなか、ながそうかなって」

「……それは、俺一人でもできるんだけど」

「…………………………ちがう。わたしをひろってくれた、おれい」

 

 こちらも至って冷静、いつものトーンで回答してくる黒の腕には、着替えらしき服が抱えられていた。

 

 洗面台の鏡には、オッドアイの黒髪少女と、もう一人。

 少々女顔よりの、中性的な顔立ちをした大人が映し出されていた。

 

 一応、俺はある重要な事実を伝えてやる。

 

「──……分かってるだろうけど、俺は男」

 

 黒の反応は、いつも以上に遅れた。

 

「……………………………………………………えっ?」

 

 …………………………なんでそこで疑問符なんだ。

 やめろよ。自分は女みたいな名前してる上に、女みたいな顔してる事は確かに自覚してるけど、まさか勘違いされてるとは思わなかったよ。確かに声も中性的ではあるけどさ。

 やめろよ。俺、ちゃんと一人称"俺"を使ってたよね? なのになんで今更、女だと思われてるの?

 …………………………やめろよ。嘘だと言ってよ。

 

 数十秒ほどの時間を置いて、黒は首を傾げた。

 

「…………………………かえで、うそついちゃ、だめ」

「──嘘じゃねェよッッッ!!!!!」

 

 もういい、今日はもうお前の晩飯作ってやんない。



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 俺は滅多に会社を休まない。仕事の相棒(パートナー)が極度の怠け者で、技術はあるのに役に立たないというのもあるが、自ら仕事を休んで手持ち無沙汰だらけの(いとま)をつくるというのが嫌だったというのが、一番の理由だ。

 有給休暇がとれるような余裕があっても、そんな中で体調を崩しても、本当に(つか)えない相棒の所為で少々鬱気味になっても、俺はよっぽどの事がない限り、会社を休むつもりは無い。

 別に自分が勤める会社で日々真面目に働き、貢献したいという情熱的な志を持っている訳でもない。単に、自分の意思で手持ち無沙汰を覚えるような、無駄な時間を作りたくないだけなのだ。

 ほとんど邪魔でしかない相棒の所為で苦労の日々を送っていて、それでも平日の早朝から会社へ足を運び、独りで昼食をし、そして他の会社員もまばらになる時間帯まで残業を続ける。それを土日を除いた、毎日続ける俺は、当然の事ながら有給休暇が余りに余っていた。

 

 そんな俺が、今日は珍しい事に、有給休暇をとっている。

 理由は当然、家に黒が居るから。黒の内心に残る不安を少しでも取り除くためにも、傍に居てやらなければならなかったからだ。

 有休をとる、と俺に申請された時の上司の驚きっぷりは、正直滑稽な気もした。かといって込み上げてくる笑みに肩を震わせて耐えなければならないほど、面白かったという訳ではないが。今までは意地でも休もうとしなかった奴が、何の前触れも無しにいきなり有休をとると言い出せば、そんな反応になるのも分からなくはないが。

 

 少しの間、黒の傍にいる事にした俺は、ただ話しかけて黒を安心させる事だけに時間を潰した。──訳ではない。

 ただ俺が近くに居座ったところで、暗闇に満ちた黒の心が癒される訳がない。そんな黒の心に根付いた恐怖を解決してやるのは、黒が見た例の光景、例の出来事、その真実を明らかにすることだろう。

 その為に、黒から何かを聴き出そうと、俺は彼女に思いつく限りの質問を投げかけている。しかし、記憶喪失とは思った以上に厄介なもので、必死に謎を解き明かそうとする俺がする色々な質問に対する彼女の回答は、大半、いやほぼ全てが『分からない』だった。

 黒の家を調べてみれば何か手掛かりが得られる可能性があるかもしれない。悩みに悩む中で俺がそう踏んでも、それへの彼女の答えは。やはり。

 

「──…………………………わからない」

 

 

 

・・・四話 『月』

 

 

 

「…………………………かえで、かえで?」

 

 一人暮らしで体に染み付いた生活リズムによる早朝の起床、そして朝食。朝飯も食べ終わって、さっさと皿洗いを済ませ、リビングのど真ん中に置かれた卓袱台に肘を付き、俺はいかにもな仏頂面を浮かべていた。

 朝っぱらから不機嫌な俺。ダンボールに入ったままずりずりと俺の真横まで移動してきた黒が、そんな俺の肩を軽く揺すっていた。しかし態度から俺が怒っていると感じたのか、俺の肩を掴む彼女の手の力は弱々しい。

 

「…………」

「…………………………かえで……?」

 

 どれだけ声を掛けられても肩を揺すられても、俺はそれに呼応せず、無視を決めつける。昨晩までは優しく構ってくれていたのが、急に相手をしてくれなくなったのを、辛く、不安に感じたのか、俺に呼びかける黒の声は段々と泣きそうな声になっていく。横目でこっそりと黒を様子見したところ、心なしか彼女の瞳も潤んでいる。

 何故俺が怒っているのかどうしても気になるらしい黒は、泣きそうになりながら、それでも俺に声を掛け続けてくる。

 遂には、俯いて俺に謝っていた。

 

「……………………………………………………ごめんなさい」

 

 俺の肩を掴み、揺すっていた手が、俺のシャツの袖を弱々しく握りしめる。おそらく今になって、俺が不機嫌である原因を察したのだろう。俺がここまで怒っているので、それだけ自省しているのかもしれない。

 

 ちなみに、何故俺がここまで怒っているのか。その原因は、昨晩の出来事にある。

 シャワーを浴びようと脱衣中の俺。そんな俺が居る浴室へと、「背中を流したい」と着替えを抱えて来た黒。びっくり仰天な事に、彼女は俺を女だと勘違いしていたのだ。

 確かに俺は、"楓"という女みたいな名前だし、顔もよく女みたい──中性的と言われるし、まともに鍛えてない体はそれなりに細い。小さい頃からそうだったので、学生時代はよく『男の娘』とからかわれ、囃し立てられていた。俺が学生の頃を思い出したくない要因としては、殆どがそれにある。

 かといって俺は、自らそれを笑いのネタにしていた訳ではない。男にしては高めの地声をなんとか低くしようと頑張ったり、小学生の頃までは"僕"だった一人称を"俺"で定着させたり、いかにも男らしい服装や態度を意識したりと、苦悶の日々の中で密かに努力を続けていた。男らしくなろうと、汗を流していた。

 しかしそんな俺の願望は叶わず、いざ大人になってみりゃこのザマ。女顔よりの中性的な顔は変わらず、声だって成人男性にしちゃ大分高い。

 鏡を覗き、特殊な趣味を持つクラスメイトによく『女装が似合いそう』と言われる自分の顔を見る度、泣きそうになっていた学生時代の涙も、今となっては枯れてしまった。

 

「…………」

 

 冷静に考えてみれば、今さら女と勘違いされたところで、それは仕方がないのかもしれない。

 それに黒は子供だ。子供が何かを間違えたり、勘違いしたりするのは致し方がないだろう。それだけ子供は知識を持たず、世間を知らないのだから。そんな黒が河野楓を女だと間違えれば、それは河野楓本人であるこの俺が、苦笑いを浮かべながら事実を教えてやればそれでいい。

 子供に勘違いされただけで機嫌を損ねる俺こそ、生まれて二十数年経った今でも自分の外見を受け入れられていない俺こそ、子供だと笑われるべきなのだろう。

 

 黒には、無駄な涙を流させてしまった。謝らなければ。

 

「…………………………っ……、かえで?」

「……ごめんな、俺の方が子供だったよ」

 

 俺は控えめに苦笑いしながら謝罪し、黒の頭を撫でる。すると一瞬だけ安心したような笑みを浮かべた黒は、すぐにまた反省の念を込めた涙を瞳に浮かべると、大きく首を横に振った。

 

「………………………………わたしが、かえでをおんなのこっていったから」

「つぎ間違えてくれなきゃ、それで良いよ」

「…………………………うん」

 

 黒は少し安堵したように鼻を鳴らすと、 壁を背凭れにする俺と肩を並べて座り、ついでに俺の肩に自分の頭が触れるように少し首を傾ける。

 

「…………………………す~……」

 

 そして、寝た。

 実際に、黒の目の前で両親が死んだという日から、まだほんの数日しか経っていない。精神的にとても辛い体験をしてからさほど時間が経っていないのだから、彼女としても、未だに恐怖に体が震え、夜も眠れない部分があるのだろう。

 俺が見る限り、夜十時にでもなれば黒はすんなりと就寝しているように思えるが、それは俺の主観でしかない。もしかしたら、俺も寝静まった時間帯つまり真夜中は、不意に目が覚めるとそれから中々眠りに落ちることができずに、不安にオッドアイを濁らせる黒が居るのかもしれない。

 しょせん他人でしかない俺は、黒の傍にいるだけで、彼女の不安を根本から解消させられるような存在ではない。出来る限り二人で行動し、時には頭を撫でてやり、それにより黒に一時的に薄っぺらい安心を与えてやる程度しかできないのだ。

 

 それでも良い。

 少しでも、黒に"一人で生きる勇気"を与えられるのなら。

 少なくとも、黒が"自殺"という概念を覚えることがなければ、俺はその程度の存在で良い。

 

「頑張ったな、黒」

 

 家族の死を目撃しておきながら、家族の後を追って自ら死のうという気持ちを持たなかっただけ、彼女は偉い。身内が死んだだけで生きる気力を失い、自殺を決意する人間はこの世にいくらでもいる。

 それを悪いとは言わない。死んだ相手を、死んででも追いかけようとするのは、その人にとってその相手はそれだけ大事な存在なのだろう。

 

 しかし、人が自分を追って死んだことを知れば、その相手はどう思う?

 誰もが必ずしも、そんなに大事に想ってくれてたなんて、と喜ぶだろうか。中には、自分の死のせいで誰かに勝手に自殺されたことを知って、それを迷惑に思う奴や、責任を感じる奴だっているかもしれない。

 大事な人を想って自殺を選ぶくらいなら、最初から心中でもしていればいい。極端だろうが、要するにそういう事だ。

 止むを得ない場合は別に良い。自分、もしくは家族が誰かに命を狙われ、先に家族が殺され、その後に自分にも死が迫っていたのなら、家族を追って死ぬのも仕方のない事だろう。

 でもそうでないのなら、死んだ人が自分の想い人であるからこそ、必死に生きるべきだ。その人の形見を肌身離さず身に着け、共に壁を越えるべきだ。

 

「…………」

 

 ──少なくとも、俺はそれを選んだから。

 

 実のところ、俺も成人しない内に、親を亡くしている。実際に親を亡くした時は、いまの黒より成長しており、高校生の頃だったが。

 とはいえ、高校生の俺でも、親の死というのはかなり堪える出来事だった。このような、ある意味卑屈な性格になったのも、それの所為かもしれない。何故なら、兄弟も姉妹ももたない一人っ子だった俺としては、両親の死というのは、家族全員の死と同等だったから。

 その後は祖父母に引き取られ、祖父母からはまるで腫れ物にでも触れるかのような扱いをされて育てられたが、引き取られる直前に家で発見した、父親の小さな手帳と母親の使い古された髪飾りを形見として自分の懐に収め続けておくことで、辛い日々をなんとか過ごしてこれた。

 

 今となっては、学生時代の俺を育ててくれた祖父母も天国へと旅立ち、両親の形見も、どこかへと失くしてしまったのだが。

 それでも俺は、今を生きている。

 

 横にいる、黒のように。

 

「…………………………く~……」

「ほら、寝るなら布団で寝ろよ」

 

 俺は卓袱台を壁に立てかけてスペースをつくると、そこに布団を敷きなおして黒を寝かせた。掛け布団から顔と小さな両手だけを出して静かに眠る黒は、瞼を閉じてオッドアイが隠れているために、この姿を観察する限りは、どこにでもいる普通の女の子のように思える。

 ただし、子供にしては整った目鼻立ちと、やや大人びたその綺麗な容姿を除けば。

 そんな黒の綺麗な寝顔を眺めていると、不意に俺はこう思ってしまった。

 

 ──……アイツがこれ見たら、天使とか言って騒ぎだすんだろうな。

 

 もっとも、もうとっくに、俺とソイツは接点を無くしているのだが。

 

「ん?」

 

 不意に、寝ていたはずの黒が、布団から出したその小さな手で俺の手を掴んだ。

 いや、たしかに寝ている。黒は無意識に、人肌のぬくもりを求めているのだろうか。いつでもその機会を与えてくれる、一番身近な存在は、既に消えてしまったから。

 

「…………………………………………お、とう、さん……、おかあ、さん……」

 

 その証拠に、彼女は、寝言でも未だにその存在を求めている。

 

「…………………………かえ、で……」

 

 その代わりが、この俺だ。

 

「……分かってる」

 

 俺がそう言って、片手で黒の手を握ったまま、もう片方の手で黒の頭を優しく撫でてやると、黒の寝顔は、心底安心したような表情(もの)へと変わっていった。

 

 

 

・・・

 

 

 

 同日。時刻は夜の八時過ぎ。

 とりあえず夕食を済ませた俺は、黒がいつでも寝れるようにあらかじめ布団を敷いたあと、自分は部屋の窓枠に腰を下ろし、暗闇に満ちた空にぽっかりと浮かぶ三日月を眺めていた。どうやら黒は俺が一緒に寝るまで布団に入るつもりはないらしく、俺のすぐ隣で、テレビで最近の人気番組を観ていた。この角度からじゃ、画面見えにくいだろうに。

 でもそれを指摘することはなく、隣にて無言でテレビを観続ける黒と同様、俺も夜空に堂々と居座っている大きく欠けた月を、黙って見上げる。都会であるここは、さほど空気も澄んでいるとはいえず、空も月の周りを分厚い雲が覆い、星はまったく見えなかった。

 

 俺が酒好きかタバコ好きか、またはそのどちらも好きだったのなら、ここで酒を飲み、タバコを吸っていただろう。ところが生憎、俺は酒が苦手で、タバコは尚更なのである。なので、開け放った窓から吹き込む生ぬるい風を楽しむくらいしか、俺にはできない。

 こうやって月を眺めていると、俺はふと、祖父母と暮らしていた頃の自分を思い出した。祖父母の家はド田舎だったので、月はもちろん、星もたくさん見る事ができた。かといって、その綺麗な星達に、学生時代(そのころ)の俺が目を輝かせていたのかと問われれば、そうでもないのだが。

 

「…………」

 

 思わず過去の記憶にまで振り返りそうなった自分の思考を、俺は首を振ることで追い出した。親が死んでからの記憶なんて、忘れられなくても思い出したくない記憶だ。それらは決して、"思い出"と呼べるようなものじゃない。

 

 まず両親を亡くして、友達を捨ててまで祖父母の家にお世話になって、大人になった頃にはその祖父母も亡くして。転校先じゃ、両親を亡くした根暗で女みたいな奴に、自ら関わろうとするお人好しなんているわけもなくて。

 気が付けば、友達と呼べる関係の近しい人間なんて一人もつくりなおせぬまま、俺は大人になっていた。社会人という言葉に相応しくない社会人となっていたのだ。

 

 それでも死にたくはなくて、孤独な人生を頑張って生きてりゃ、自分と同じく両親を失った少女を拾うことになるなんて、思いもしなかった。しかもその少女は、この世のものとは思えない『なにか』に、父母を殺されたというのだ。

 

「…………」

「…………………………」

 

 俺も黒も、運が無いのにもほどがある。

 なんでもかんでも頭に残っている俺はまだマシだ。黒なんて、自分の個人情報についての記憶を失くしてしまっている、謎の記憶喪失少女と成り果ててしまった。名前や歳、自そのうえ自分の家の住所も忘れてしまったのだから、黒の家を調べて、彼女が体験した出来事についてなにか手掛かりを得る事さえ叶わない。

 

 俺はともかく、黒については、何もしなくても手詰まり状態なのだ。朝も昼も夜も家の電気が点かない黒の家を不審に思った近隣の住民が通報するまで、少なくとも一週間以上は間があるはずだ。

 いや、そもそも、黒や黒の両親が、近隣の住民と接点があるのかさえ分からない。もし黒の家族が、近所において一切の存在感を示さない陰の家族だったとすれば、失踪届が出されるまで数か月かそれ以上──下手すれば、数年掛かる可能性だってある。

 どうやらこの謎の解決は、時の流れに任せようとしてもそうはならないらしい。

 

 それに、黒の両親が死亡したのは、この世のものとは思えない『なにか』ではなく、両親に何かしらの恨みを抱いた人間、人物による殺人とも考えられる。黒い『なにか』というのは、単に黒の見間違えか、犯行に及んだ犯人が黒ずくめの服装をしていただけ──という可能性はあるといえるだろう。むしろ、妖怪ましてや幽霊や宇宙人の存在も確率されていない現代じゃ、あきらかにそっちの可能性の方が、数字は大きい。

 しかし、疑問が残る。

 たとえそれが人間の犯行だったとして、なぜ犯人は、黒の両親を殺したあと、それを目撃していた黒を殺さなかったのか?

 たまたま近くで事件、事故現場を目にしていた子供の証言で犯人を逮捕できたという話は、いくらか耳にしたことがある。ならば犯人は、実際に両親を殺された現場を目撃していた彼女を、殺すか金目的として人質にするはずだ。なのにソイツは、黒の両親を殺したあと、それを眼前にしていた黒を放置し、彼女の両親を連れてどこかへ消え去った。

 

 黒の両親の死亡の原因を人間の犯行と仮定しても、結局は謎だらけだ。いやまず、黒の目にした黒い『なにか』が、彼女の見間違えだと断定するわけにもいかない。

 一つ一つの可能性を、確証ももたずに信じるのは、切り捨てるのは、どちらも間違いだ。とりあえずは、やはりなにか手掛かりを探りたいところ。かといって、そんな大事な情報がそこら辺の道端にでも転がっている訳がない。黒の両親を殺した『なにか』にとっても、自分を見つけられる手掛かりとは、ゴミ捨て場にでも安易に捨てられるようなものじゃないだろう。

 

 ……どうすればいい?

 黒が覚えている限りの情報は、昨日と今日とで彼女自身が話していた分の内容で全てだろう。

 きっと、その中に、一つくらいは手掛かりがあるはずだ。

 だとしたら、それは何なんだ?

 分からない。もう、訳が分からない。

 今まで他人の事について悩んだことのなかった俺は、やはり、事件らしき何かを解決できるような頭脳は持ち合わせていないという事か。

 

「…………………………かえで?」

 

 自覚しない内に頭を抱え、唇を噛みしめて頭を痛める俺を、黒が心配そうな表情で見つめていた。

 黒を不安にはさせまいと、俺は強張っていた表情を和らげ、彼女の頭に手を置く。

 

「なんでもない、心配すんなよ。

あぁ、そういえば月が綺麗だし、お前も見ると良いぞ。こんな都会じゃ、普通、夜はほとんど雲だらけだからな」

 

 俺が月のあった方向を指差すと、すぐに黒は窓枠に身を乗り出し、月を探した。月が見つかると、黒は少し感嘆の息を漏らした。

 

「………………………………まんげつ、きれい」

「そうだな、綺麗な満月だよ──って、えっ満月?」

 

 黒の呟きに驚いて月を見上げると、先程までは三日月に欠けていたはずの黄色い月が、たしかに丸い満月になっていた。三日月のはずが、見紛うとことなき満月となっていたのだ。

 

「……ハ? あれ、たしかさっきまでは、三日月だった……」

「…………………………?」

 

 元から満月だったのが、さっき俺が見ていた時までは、月の一部が雲に隠れて綺麗に三日月っぽくなっていただけなのか?

 いやそれはない──筈。間違いなく三日月だった、先程までは。それがこの短時間で、真ん丸な満月様になっている。俺が知らないだけで、こういう事はしょっちゅう起きるものなのか?

 

 少し困惑する俺を、そんな事は露知らない様子の黒が怪訝そうな瞳で見ていた。

 

「…………………………あっ」

 

 不意に、月を眺めていた黒が、なにかを思い出したように声を出した。

 

「…………………………かえで、ちょっとだけ、おもいだした、きがする」

 

 どうやら、なにかを思い出したのは本当らしい。気がする、というのは、思い出している途中、ということなのだろうか。それとも、思い出した記憶自体が元々、曖昧でうろ覚えな記憶だったのか。

 この際、なんでもいい。思い出したのなら、それを言ってくれればそれでいい。

 俺は若干喰い気味に、黒にこう訊いた。

 

「なにを、思い出したんだ?」

 

 すると黒は、夜空にぽっかりと浮かぶ満月を指差した。

 

「…………………………あれ」

「満月が、どうかしたのか?」

「…………………………『なにか』がでてきたのも、あれのよるだった」

 

 

 

 ──突然、部屋が闇夜に包まれた。



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横行

二年以上間が空いてしまい、申し訳ありません。
前書きを借りて明記しますのは、更新再開の決意ならびに二度とこれほどの更新の遅延を招かないことです。

それでは、安心してこの物語をお楽しみいただければと思います。


 関わるべきではない。

 己の身を案ずるならば。

 でも、関わらざるを得なかったのだ。

 境遇は比べ物にならないが、等しいくらいの孤独感は知っているから。

 でも、それでも、関わるべきではなかったのだと思う。

 

 

 

 ・・・五話『横行』

 

 

 

 あまりに間の悪い停電。いや、間が悪いにしたって、あまりに不自然すぎる。

 記憶の断片を取り戻した黒。彼女はそのきっかけを指差し、それを例の出来事の──言ってしまえば怪異の前触れだと明言した。微かな記憶と同時に、微かな恐怖を思い出したような震えた声で。

 直後の、停電。

 俺はとっさに月を見上げようとし、それは違うと思い直し、すぐさま玄関に振り返る。突然の暗闇に戸惑う視界を、目を凝らして無理やり現状に追いつかせ、ブレーカーを確認する。

 異常は無い。

 そこでようやく、月こそがいま俺が確認すべきものだと気付く。舌打ちして月を見ようと筋を痛める勢いで首を回す。その途中、ぶれる視界の中で硬直している黒を捉えたかと思いきや、月を視界に収めた時点で俺は黒を抱えていた。

 理由をいえば、それは本能的な──そう、理性によって落ち着かせるというよりは、本能的に守ろうとしたのだ。身体が。勝手に。

 月はあった。

 団子のような、丸い月。

 その裏は、地球から見ている姿とは比べ物にならないほど醜い姿だと聞く。

 しかし今の精神状態では、古くから多くの絵師が画角に入れたがったその美しい満月すらも、俺には邪気に満ちた闇に浮かぶ異質な光源にしか見えなかった。

 いや、たしかに美しいのだ。

 薄ら黄色くて、穴のかげりが地球の外側の世界の壮大さを感じさせる。

 真に異質なのは、その球体に被さるようにして居る──黒い何か。

 それを凝視した──いや、凝視してしまった俺は、心臓が叫ぶほどに波打つ感覚を覚えた。悲鳴を上げたのだ。喉ではなく、心臓が。

 苦しさとは似て非なる苦しさ。

 何か得体の知れない力によって、無理に操られているかのような。それも、内部から圧迫され、今にも張り裂けそうだ。呼吸など関係なく、ただ形だけが暴れ、しかしそれに呼応するように息は俺の口や鼻から勢いをもって逃げ出していく。

 まもなく、全身で必死に喘がなければ最低限の酸素も取り込めないほどの息苦しさが襲ってきた。

 尋常でないほどの動悸。

 不思議なことに、汗は一滴もあふれない。もはやそんな余裕さえ無いのか。

 唐突なる異常事態。

 満月に浮かぶあれを見たら、こうなった。

 なぜあれを見たらこうなったのか、それは分からない。

 原因不明。分かるようで、まったく分からない。

 とにかく荒れ狂う心臓を抑えることだけに一つしか無い脳を持っていかれてしまい、四肢から力が抜け、黒を巻き込んでその場に倒れこむ。座るほどの余力などとっくに削がれており、踏ん張ることもできず、床に這い蹲ることを余儀なくされた。

 黒もまた、あれを見てしまったのだろうか──息切れに身もだえ、必死に喘いでいる。

 意地でも黒は手離すまいと、痙攣の止まらない手をやっとの思いで彼女に差し出す。寝返った黒は、藁同然のその手を焦点の合わない瞳で見止めると、縋るように己も手を伸ばした。

 しかし、二人が手を重ねることは叶わなかった。

 指どうしが触れるまで数センチも無いところまで近づいたところで、黒の手が急速に離れていったのだ。手どころか、黒の身体が。まるで引っ張られるように。

 とことん己の意思に反する状況。己の願望に反する状況。

 まだ幼い少女は、それに対し、なす術も無くただ泣き叫ぶことしかできない。息も絶え絶えの中、恐怖一色に染められた表情に大粒の涙を浮かべ、搾り出すように俺の名を何度も呼んでいる。

 当の俺も、なす術は無かった。もはやミリ単位に動かすことすらやっとの体。それでもなお届かぬ腕だけは伸ばしつづけ、自分がつけた少女の名をただただ叫ぶ。

 現実感だらけの悪夢は終わらない。

 黒の身体が浮かび上がった。吊りあがったという表現のほうが正しいだろうか。糸繰り人形のように。しかしながら、相変わらず黒の周りには何もなく、何もおらず、黒がひとりでに浮いているようにしか見えないのだ。

 己の身に起こる、あまりにも非現実的な現象。

 次の瞬間、黒は、それが自分の命を刈り取ろうというつもりであることに気付いた。

 黒はすこし顎を上げて目を見開いたかと思うと、首辺りに手をやり、喘いだ。もはや声ではない。息。息すらも、満足に彼女の口を出入りできていないようだった。微小ながらも耳に痛い、枯れた音が彼女の喉を音源として俺の耳に届く。

 ギリギリギリと、嫌な音が聞こえてくるような気がした。幻聴だろうが、本物の音だとするならば──黒の様相と併せて考えれば、それは黒の首がとんでもなく強い力で絞めつけられている音なのだろう。俺が幻聴だと思っているのも、無意識にそう思いたがっているだけなのかもしれない。

 俺はその光景を、視界が徐々に黒く曇っていく中でただ眺めていることしかできなかった。

 ふと、風を感じた。気のせいかと思うほどの微かな微風。

 玄関も窓も閉じきっている。室内には、扇風機など風を起こす機械も無い。

 だが、風はあった。すでに無いが、たしかにそこにあったのだ。どこかといえば、俺の前方。

 俺と黒の、間。

 輪郭すらおぼろにしか捉えられないほどぼやけた視界で、俺はそれを捉えた。

 黒煙のような、黒いもや。

 しかしそれは煙のように天井に吸い寄せられることもなく、俺と黒のあいだの虚空にとどまっている。

 黒いもやは、俺がそれを見止めたのを見計らったかのように、動き出した。俺ではなく黒のほうへ。

 お前も黒を襲うつもりなのか。

 回すための酸素を失った脳でその思考を紡ぎだす。しかしそれまでがやっとのことで、眼前の光景から想像される未来を阻止したいとは思っても、阻止する力が無い。とっくに奪われた後なのだ。

 ところが、その黒いもやは、俺の予想を裏切った。

 黒いもやは、黒のそばまで近寄り、霧散する。と思いきや、それは消えかけた傍からすぐさま収縮し、一つの形を浮かび上がらせた。

 黒を持ち上げ、そのか細い首をきつく絞め上げている──人のような形。

 何もいないなんてのは、嘘だった。俺の目が俺自身を欺き、強いて空間しかないように勘違いさせたのだ。

 それは、確実にそこにいた。そこにいて、黒を苦しめていた。

 俺がそれをしかと見止めた途端、人の形をした黒いもやは空中に消え去り、黒は床に力なく崩れ落ちた。糸の切れた人形のごとく。

 幾度かの点滅をはさみ、ぱっと、思い出したかのように部屋の明かりが点灯した。外から聞こえてくる街の音を耳にし、自分と黒は、"ここ"とは別のどこかにいたのだと悟った。

 こちらに向いた黒の黒い頭は、ぴくりとも動かない。気絶しているだけだと、そう思いたい。

 思いたいが、そうもいかない。脳がまともな活動をするのに十分な酸素を得るまでは、俺も気を失うほか無かった。

 

「…………く、ろ」

 

 ただ無意識に、わずかに動いた唇の隙間から少女の名が漏れる。

 俺の眼は、見るべきものは全て見終えたとばかりに、休息を取るのに最適な暗闇を求めてまぶたの裏に隠れた。



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蚊帳の外から

 縁とは不思議なもので、縁どうしが廻りめぐって絡まりあってもしぶとく切れないものである。とはいえそれも、縁を糸と例えたとして、その糸がよほど丈夫な場合の話なのであって、細い糸で繋がった薄い関係なら、それはいつ途絶えてもおかしくない他人同然の縁なのである。

 俺と黒は、どうなのだろう。

 少なくとも、出会った以上、その時点で縁は生まれていて、切る可能性も切れない可能性も考えられる。断ち切るとすれば、それは断ち切れるだけの力を持つ俺次第といえるのかもしれない。今さら、俺の持つ鈍った鋏ではそんなことも叶わないのだが。

 そして黒とのそれではなく──唯一の俺と別の相手との縁であって、しかし俺次第で断ち切ることが不可能なしぶとい縁も、実は存在するのだ。

 そいつは、俺との絶縁など微塵たりとも考えない図々しい人間だった。

 

 

 

 ──六話『蚊帳の外から』

 

 

 

「──かはッ、は……」

 

 喉が多量の息を一気に吸い込んだと同時、眼球が光を覚えた。動きだす前に、俺は自身の容態を冷静に把握する。

 心臓は静かに鼓動を打っている。呼吸は正常にできているし、四肢も思い通りに動く。視界は物の輪郭をはっきりと捉えていて、見たくないものを探すように見回すと、見たくないものが俺の顔を覗き込んでいた。

 

「やあ、おはよう」

 

 ひたすら穏やかな印象を受ける垂れ目。眉間に皺の跡も見られないほど緩んだ眉。形のよい小鼻はやたら口に近くて、上品な薄い唇は自然な微笑を浮かべている。それらを黄金比に収める輪郭は一片の贅肉も無いのに秀麗なカテナリー曲線を描いている。大きく開かれた瞼に居座っている大きな瞳は、射止めるような正確さで俺を映していた。

 艶のある黒褐色の三つ編みのおさげを肩より前に垂らしたそいつは、顔の雰囲気より数段幼い声色で挨拶を唱えた。

 

「……なんで、お前がここに」

 

 見たくないどころか、会いたくもなかった相手。

 高校生時代にして親を失くし、祖父母に引き取られて親の故郷を訪れた俺。転校生としてもてはやされることもすっかりなくなってからというもの、校門に別れを告げるまで俺に絡み続けていた唯一の同級生が、奴。

 

「やだなあ、名前で呼んでよ」

 

 丁酉霞。

 

「嫌なのは俺だ。苗字ならまだしも」

「じゃあ苗字で結構」

「……なんで、ここにいるんだよ」

 

 丁酉は当時、校内でも五本指の座を保持するほどの美人だった。それどころか、今でも群を抜いた容姿は衰えない。顔は既述の通り。スタイルの方も、太すぎず細すぎず、また胸も実っていて、絶妙に男の劣情を煽るような完成されたもの。そのうえ有智高才と、秀外恵中を絵に描いたような人間なのである。また常人よりひとまわり大きな人格と器を持っていて、頼られれば一切を拒まず、己に嫉妬を抱く人物すら納得させるほどの包容力がある。

 まさに、非の打ち所が無い。人の理想に足る、完璧な人物像。

 一見、嫌う要素など無い。

 しかし、俺はどうしても、こいつが嫌いでならない。

 強いて理由を挙げるのならば、丁酉も親の顔を忘れた身なのである。生まれて間もなく、親に育児を放棄されたのだ。道端にダンボールを見つけた老夫婦が、その中で毛布に包まれて泣いている赤子を拾った。自分達の苗字と霞という名を与え、温もりを以って育てたのだという。

 そんな物語を、霞はなぜか俺だけに語ったのだ。

 いくら丁酉に迫られようと、俺は過去について語ったことは無い。俺が口を滑らせるまでもなく──偶然、初めて目が合ったその瞬間、丁酉は俺という人間を性根まで見透かしたのだ。

 あくまで、丁酉には非など塵ほども存在しない。むしろ非があるとすれば、将来はここまで立派になる彼女を、毛布一枚という申し訳程度の人情に包んで捨てた親。

 いずれにせよ、運命であるからには避け様のなかった運命。しかしながら俺としては、家族を失った事実が、河野楓と丁酉霞の大きな欠点であり、汚点であり、そして非なのである。

 人より劣った俺。また、同じ苦しみを知り、なお俺どころか人の手の届かない優位に立っていた丁酉。

 丁酉と俺は同じ境遇を経験した同族である。ゆえに、丁酉は俺に固執する。反対に、同族でありながら自分とはかけ離れた存在を、俺は憧れるより疎んだのだ。

 それを嫌というほど自覚した上で、やはり俺は、こいつが──丁酉霞という女性が、苦手なのである。

 

「そりゃもちろん、楓くんに用があってきたわけさ」

 

 じゃっかん外見には似合わない口調だが、これが常時の丁酉である。

 

「これといった目的も無くて楓くんのもとへ来てみれば、楓くんと一緒に天使が寝てたもんだからあらびっくり」

 

 前後の発言にわざと矛盾を設けてボケたつもりでいるのも、常時の丁酉。

 可愛い生物であれば何でもかんでも天使と称するところも。

 接点は俺のほうから断ち切ったはずなのに、構わず気まぐれに数年以来の顔を見せにくるその神経の太巻き具合も、まさに俺の嫌いな丁酉そのものであった。

 

「──そうだ、黒ッ!?」

 

 あれは夢だったのだろうか。

 どちらにせよ、死の危険に立たされていたように見えた以上は、拾い子の安否が心配になり、とっさに身体を起こす。

 

「あだぁっ!?」

 

 その際に丁酉と額同士を衝突させたのも気にせず、テレビの前あたりで横たわっている黒を探し当て、近寄り、名を連呼しながら細い肩を揺らす。

 

「黒、黒!」

 

 ほどなく、息を吹き返すかのように大きく息を吸って、黒は目覚めた。

 

「……ッ、──ッ!?」

 

 目覚めた途端、黒ははなはだしく身震いしたかと思うと、ひどく怯えた様子で自分に触れる手から逃げようとする。しかし放そうとしないその手が俺のものだと気付くと、胸に飛び込んできて、嗚咽混じりに号泣し出した。

 やはりあれは、現実だったのだろうか。

 だとすれば、無理もない。あのようなことに出くわせば。

 露骨な殺意に、身を晒されては。

 

「いたた……。ずいぶん怯えてるみたいだけど、何かあったのかい?」

 

 たしかにあった。

 何かが、あった。

 俺と黒は、得体の知れない何かに遭ったのだ。

 

「……さあな。あったのかもしれないし、なかったのかもしれない」

 

 しかし、それを語るだけの確立された情報が無い。

 黒も俺も、たまたま同じ悪夢にうなされただけなのかもしれない。たしかに遭ったというのは、あくまで夢の中での出来事なのであって──だとすれば、それは鼻で笑うにすら値しない、他愛の無い現実になってしまう。

 それが怖い。

 語るに語れない。

 ただ、そんな夢かもしれない悪夢がやたら現実味を帯びていた事実に、確証の無い恐怖を植えつけられたのだ。

 黒も、俺も。

 

「……お前、いつからここに?」

 

 胸の中でなおも震え続ける黒の背中を抱き、頭を撫でながら、俺の肩から顔をのぞかせる丁酉に尋ねる。

 丁酉は、黒を抱える俺を羨ましげに見つめながら、答えた。

 

「ついさっきだよ。楓くんが目覚める直前」

「本当か?」

「ほんとほんと。ご無沙汰ってことで、楓くんを朝からびっくりさせちゃおうと思って」

「……朝?」

「うん」

 

 窓の外を見やる。

 四角い景色は眩い日光に照らされていて、空は絵の具で塗りたくられたような青一色に染まっている。耳を澄ますと、朝の訪れに喜びを示すかのように、小鳥が軽快に囀っていた。

 無論、月は見えない。

 不気味なほど丸く、黄色かったあの満月は。

 満月に浮かび上がっていた、あの影も同様。

 陰も形も無かった。

 思わず──ほっと、安堵する。

 同時に、懐疑心も膨む。

 無意識に、上唇が歯に引っ張られる。

 丁酉は、それを見逃さなかった。

 

「何かあったのかい、昨日の夜?」

「……どうなんだろうな」

 

 信憑性は薄れるばかり。

 俺と黒は、今朝まであの悪夢を見ていたというのか。それとも、あの一幕があってからというもの、一晩ぢゅう気絶していたのだろうか。

 困惑しかできない俺。嫌でも記憶に残る恐怖の余韻に血を凍らせることしかできない黒。

 そんな俺たちの様子を目の当たりにした外部者は、とうとう痺れを切らしたようだった。

 

「ああ、もう!」

 

 丁酉が叫び、立ち上がる。

 俺も泣いていた黒も驚き、丁酉を見上げる。

 

「私は今から、親友と天使に朝ごはんを振る舞います!」

 

 縁と縁が刺し違えても、黒はそんなご大層な存在じゃないし、俺にとってのお前は悪友だぞ。

 

「それを食べたら、二人はこれまでの経緯の一切合財を私に話すこと!」

 

 話したところで、お前のような頭のいい人間が信じてくれるかどうか。

 そんな思考をねじ伏せるほどの気迫で、丁酉は仁王立ちで俺達を見下げて同意を求めた。

 

「いいね?」

 

 物言わさぬ態度に、俺たちは頷かざるを得なかった。



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