艦隊これくしょん-艦これ-司令艦、朝潮です!! (めめめ)
しおりを挟む

Season1 虚帆泊地二着任セヨ
任務1『虚帆泊地ニ着任セヨ!』


「バグか、この画面は?」

 

 定期アップデートが終わった水曜日の夜、ペットボトルの緑茶を片手に机の上に置いた公私兼用のノートパソコンに向かう。

 

 いつもやっているようにDMMのログイン画面から『艦隊これくしょん』を起動……したところ、突然見たことの無いページが表示された。

 

 いや、正確には少し違う。

 

 それは既に着任した提督には関係ないハズのサーバー選択画面。サービス開始時からは比べ物にならないほど増えたいくつものサーバーたち。

 

 その最前面に、『虚帆泊地 サーバ』と書かれた黒文字のサーバーが表示されている。

 

「……何て読むんだろ、これ」

 

 g00gle先生に聞いてみるが、その名前でヒットするページは無い。念のために公式tw1tterも確認してみたが、書いてあることは微調整内容についてばかり。

 

「サーバーに負担がかかり過ぎてるから、大湊みたいに移動しろ、ってことなのかな?」

 

 着任数が爆発的に増えていた頃……いや、未だに着任希望者は途切れていないのだけれども……運営から呉・舞鶴鎮守府の一部提督に、サーバー負担軽減のため大湊警備府サーバへの移動要請がなされたことがある。

 

 同じように今回のアップデートでも新たなサーバーが導入され、自分がその移動要請対象になったのかもしれない。

 

「しっかし虚帆泊地ってどこだよ」

 

 これまでは歴史的に大日本帝国海軍と関連する場所が選ばれていたのだが、サーバーが増え過ぎたためネタ切れに陥り、とうとう架空の泊地を設定することになったのだろうか。

 

 少し気になったので、某巨大掲示板の『艦隊これくしょん~艦これ~質問スレ』に書き込んでみる。

 

 夜のサーバーが込む時間帯だ。ここにも艦これを起動しながらスレッドを開く提督たちがひしめいていたらしく、それほど待たずして次々とレスが返ってきた。

 

『知らね~よそんなサーバー』

 

『運営に聞いてみたらどうです?』

 

『虚帆wwwwとうとう運営も東方面に堕ちたかwwwうにゅほかわいいようにゅほprpr』

 

『如月駅みたいだな。これオカ板行き案件じゃね?』

 

『スクリーンショットのうpを。話はそれから』

 

『さっさと選択して続報ヨロ。あ、何かあっても骨は拾えないから、気が向いたら靖国に参拝しとくわ。南無~』

 

 予想通りというか、全く役に立たないコメントばかり。ただスクリーンショットに関してはもっともなので、念のためにPrtScでデスクトップ画像を保存しておく。

 

 相談してみたものの答えは出ないようなので、聞くのはまた今度にしてその時画像もアップしようか。

 

 待っていても時間ばかりが過ぎていく。

 

「ま、サーバーが軽くなって環境が良くなるならいいか」 

 

 どうせ運営からは掛け軸くらいしかもらえないだろうけど。

 

 昨日は遠征要員の駆逐艦にキラ付けしている途中でうっかり寝落ちしてしまった。

 

 その後は『艦これ』をいじる時間も無くアップデートに突入してしまったため、今日はまだデイリー任務も終わっていない。

  

 イベントの準備も大型建造も終わってない今、あまり余裕はない。さっさと開始しなければ。

 

「よし、行くか!!」

 

 ペットボトルのお茶をぐっと口に入れ、画面上の『虚帆泊地サーバ』をクリックする。

 

 いつもの真っ暗な背景に、ぷかぷか丸がローディングの間ぷかぷか浮かぶ姿が表示された。

 

 何だ、別に普通じゃないか。

 

『代理提督が鎮守府に着任しました。これより艦隊の指揮に入ります!!』

 

 え、今代理って言ったような……。

 

 

 

 瞬間、昼の光が目に飛び込んできた。

 

「朝潮、何ぼ~っとしてんだ?コロッケいらないんなら深雪さまがもらうぞっと」

 

 

 誰かのお箸が振り下ろされ、串刺しにされたコロッケが上がっていく。

 

「やったぜー!!」

 

「ちょ、ちょっと深雪ちゃん!!そんな勝手に……」

 

「だったら五月雨のもいただきっ!!」

 

「もうっ、なんでぇ!?」

 

 不意に目の前に、違うセーラー服を着た小学校高学年っぽい女の子二人が現れた。

 

 握り箸で小さなコロッケを二つ突き刺している方は、黒髪をショートボブにして少し強気な目をした子。スポーツクラブの陸上部かバスケ部、といった感じで、いかにも体を動かすことが好きそうだ。

 

 対してそれを止めようとしているもう一人は色白で華奢、ちょっと変わった意匠のセーラー服を着ている。普通ではありえない水色の長い髪と、優しそうなたれ気味の青い瞳が印象的な少女だ。

 

 二人とも、その顔を見たことがあった―――ゲームの、『艦隊これくしょん』の中で。

 

 吹雪型駆逐艦4番艦、駆逐艦『深雪』と、白露型駆逐艦6番艦、駆逐艦『五月雨』。

 

 旧海軍の船を擬人化した架空の存在である彼女たちが、今、自分の目の前で何やらもめているではないか。

 

「ぶーっ!!」

 

 あまりの衝撃に、口に含んだままのお茶を噴き出してしまう。

 

「わぁっ、朝潮が潮吹いたっ!!」

 

「やぁーっ!?」

 

 驚いて箸を取り落とす深雪と、ちゃっかり自分をガードする五月雨。

 

「なぁに?騒がしいけど、3人ともちょっと行儀が悪いんじゃないかな?」

 

 定食屋によくあるトレイを持った、また違う制服を着た高校生くらいの女の子が近づいて来る。

 

 薄紫色の太くて長いサイドポニーの髪型が特徴的で、すぐに彼女が誰なのか分かった。

 

 長良型軽巡4番艦、軽巡洋艦『由良』。

 

 八四艦隊計画に基づいて建造された姉たちと違い、八六艦隊計画に基づいて設計された由良型一番艦とも呼ばれる軽巡洋艦。

 

 基本能力は平均的だが、その突出した高い対潜能力にはお世話になった提督も多い。

 

「だって深雪ちゃんが……」

 

「だって朝潮が……」

 

 指差さされた順番に由良の視線が巡り、最後にこちらを見たところで止まる。

 

「ああ、これは着替えなきゃダメね。鳳翔さ~ん!!」

 

 振り返って後ろの方、木製のカウンターの奥に声をかける。

 

 そういえば今気づいたが、いつの間にか自分は広い食堂のような場所の、4人掛けの椅子席に座っていた。

 

 窓からは明るい光が差し込み、食堂の隅に掛けられた柱時計の針は、12時27分を指している。

 

 食堂には他にも、事務員っぽい人や工場の整備服のようなものを着た男女の大人たちが皆、自分の昼食と格闘しているところだ。彼らのいる場所とこちら側は、簡単な屏風のようなもので仕切られている。

 

 よく分からないけれども、職員用とそうでないのの違いだろうか。

ぽた、ぽた、ぽた……

 

 さっき噴き出したお茶の水滴が規則正しいリズムでテーブルから滴り落ち、穿いているスカートを濡らしていく。

 

 ……スカート!?

 

 自分の足元を見る。

 

 そこには女子小学生用の、黒い制服スカートと、また同じ色のハイソックスを穿いた足があった。絶対領域には白くて細い、そして子供らしい肉付きの薄い足が覗いている。

 

 何でこんなものを?何でこんなものが?

 

 

 女装趣味にしても小学生の制服は無いだろう。

 

 というか、そもそもそんな趣味があった記憶など無いが……どうにも状況が掴めない。

 

 一人考え込んでいると、カウンターの方からぱたぱたと草履の音が聞こえてきた。

 

 現れたのは割烹着の似合うおっとりした感じの大人しそうな女性。

 

 エンタープライズやロナルド・レーガン含め、世界の空母のお母さん。

 

 鳳翔型空母1番艦、軽空母『鳳翔』、その人だ。

 

「あらまあ、みなさんどうしたのでしょうか?」

 

「朝潮がいきなり潮吹いたんだ」

 

「お茶です!!深雪ちゃんが勝手にコロッケ取るからだよ」

 

「だって朝潮、全然食べてなかったし」

 

 潮を別の意味に捉えたのか、こちらを見た一瞬鳳翔の顔が紅くなったが、すぐ元に戻る。

 

「鳳翔さん、片づけをお願いします。由良も手伝いますから」

 

「もったいないですけど、致し方ありませんね」

 

 目の前にあったお茶浸しのトレイを一つ持ち、カウンターの奥に戻っていく。台拭きでも取りにいくのだろうか。

 

 由良も自分のトレイを脇に置き、残された2つのトレイの皿を重ねて片づけはじめた。

 

 深雪の分はほとんど残っていないが、五月雨のトレイにはまだ食べかけのご飯やら味噌汁やらが多く残されている。確かにもったいない。

 

「深雪、あなたは朝潮をお手洗いに連れて行ってあげて。五月雨は悪いけど、ちょっと寮まで戻って朝潮の着替えを持ってきてくれるかな」

 

「ぃよーしっ、楽な方で良かったぜ!!」

 

「何言ってるの?朝潮が脱いだ服は、深雪がドックの脱衣所まで持って行くの」

 

「なぬ、やられたっ!!そんなことだと思ったぜ、チクショ~!!」

 

 きびきびと駆逐艦二人に指示を下す由良。

 

「じゃあトイレ行くぞ、朝潮」

 

 少しぶすっとした顔の深雪が先に歩き出す。

 

 どうしていいか分からずそれを見ていると、深雪が戻ってきてええぃもう!!と言いながら手を握ってきた。

 

「……本当にどうしたの、朝潮。さっきから一言も喋ってないけれど、どこか具合が悪いのかな?」

 

 引っ張られて行く途中で、由良がさっと額に手を当ててきた。

 

 しなやかな白い指先は少し冷たく、気持ちいい。

 

「うん。熱はなさそうだけど、濡れた服で風邪ひくと大変よね。早く着替えてきちゃって」

 

「わかったよ。深雪、最大戦速!!」

 

「……わわわわぁっっ!!」

 

 想像以上に深雪の足は速い。

 

 食堂を通り抜ける際思わず甲高い奇声を上げてしまい、周囲の注目が集まる。

 

 深雪は構わずそのまま進み、食堂を出てすぐのところにある手洗いに、手を引いたままずかずかと入っていった。

 

 『女子便所』と書かれた方に。

 

 きしきしと音を立てる扉を開けて手洗いの中に入ると、タイル張りの床と壁に木製の個室が4つほど備え付けてあった。先客はいないらしく、ちらっと中を見た限りでは全部和式みたいだ。

 

「ほら、さっさと脱ぎなって」

 

 脱衣を促される。

 

 といっても、何をどうすればよいのか見当もつかない。そうしてまごまごしていると、深雪の無遠慮な手が肩に伸びてきた。

 

 吊りスカートの肩ひもを下ろし、意外と器用にぷちぷち、とお茶の染みができたブラウスのボタンを外していく。が、ボタンの四つ目あたりで面倒になったらしく、

 

「えぇい、もう一気に脱がすか。朝潮、バンザーイってしろよ」

 

 向かい合ってバンザイのポーズをしてみせる。それに従って両手を上げると、えいやっとばかりに上着を引っ張り上げられた。

 

 しばらく身をよじっていると、すぽん、とブラウスが抜ける。

 

「じゃあ深雪は服を持ってくから、五月雨が来るまで顔でも洗って待ってな」

 

 そしてごそごそと自分のスカートのポケットをまさぐると、

 

「これ、使っていいぜ。さっきは一応深雪も悪かったからな」

 

 そう言って白いハンカチを差し出してきた。

 

 受け取ってよく見ると、隅に雪の結晶の小さな刺繍が施されている。

 

 誰の持ち物か非常に分かり易い。

 

「……どうしちまったんだよ朝潮。てっきり『いいわ、自分のを使いますから』なんて言うと思ったんだけど、いやに素直だな。それにさっきから妙に大人しいし、もしかして何か変なもんでも食べたのかい?」

 

「……あ……その……自分は朝潮じゃ……」

 

「まあいいや、寝ぼけてるなら着替える間にちゃんと目覚ましとけよ。じゃーな!!」

 

 一方的に言い放って脱ぎたての服を持った深雪はドアの向こうに消えた。

 

 女子便所の中に自分だけが取り残される。

 

 安物の芳香剤と男子便所と同じようなアンモニアの鋭い匂いが混ざって、気付け薬のように鼻の粘膜と脳を刺激した。

 

「……さっきから朝潮って呼ばれてるけど、一体どういう……」

 

 これが何かの夢ならば、深雪が言った通りさっさと目を覚ましたい。

 

 顔を洗おうと洗面台に近づく。

 

 すると正面に備え付けられた古い鏡に、自分の姿が映った。

 

 毛先が少しカーブした、背中の半ばまで伸びる黒くて長い髪。細い眉毛の下には、意志の強そうな少し目尻の上がった大きな瞳。

 

 美人の条件を揃えてはいるものの、精悍だがまだ幼い顔つき。

 

 そして第二次性徴期が始まったばかりといった、ほとんどが直線で構成された小さな身体。

 

 唯一女性的なのは、微かなその胸の膨らみを覆う白いジュニアブラくらいだ。

 

 

――――70年近く前、太平洋戦争で激戦を繰り広げた大日本帝国海軍。

 

 海に沈んだその艦船たちの力と魂を持ち、今また人類の新たな敵、深海棲艦と戦うことを運命づけられた少女――――の姿をした兵器たち。

 

 自律機動戦闘艦艇『艦娘』。

 

 鏡の中にはその一人、艦娘――――朝潮型駆逐艦1番艦、駆逐艦『朝潮』の姿があった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

任務2『ハジメテノ艦娘!』

「どういう―――ことだ―――」

 

 唖然としてしばらく言葉を失ってしまった。手に持った深雪のハンカチを取り落としそうになり、思わず屈みこむ。すると鏡の中の朝潮が消えた。

 

 ゆっくりと立ち上がると、再び鏡の中に少女の小さな頭が現れる。手洗い場のくたびれた蛍光灯の光を反射して、艶やかな黒髪のキューティクルが天使の輪のようにぴかぴかと輝いた。

 

 目の前の朝潮の顔はいつもの優等生然としたふうではなく、いつもからは考えられないくらい自信の無い表情だ。彼女の特徴的なキリッとした細い眉も、どこか困惑したようにへにょっ、となって見える。

 

 試しに手を上げると朝潮も手を上げた。

 

 顔をしかめてみると、今度はクラスメートの男の子を叱る委員長みたいな顔になる。

 

「そんなバカなことが――」

 

 おずおずと右のほっぺたを抓んでみる。切り揃えられ磨かれた小さな爪先が、弾力のある子供の肌が指に食い込んだ。

 

 ぐいっと引っ張る。

 

 ―――痛い。これは夢ではない。

 

 鏡の中で朝潮が涙目になってきたので、慌てて手を離す。白い彼女のほっぺたに、爪と赤い指の痕がくっきりとついてしまった。

 

「じゃあもしかして――」

 

 恐る恐る朝潮の、白いジュニアブラに包まれた慎ましい胸に手を伸ばす。

 

 ―――ぺたん

 

 かなり寂しい感触が伝わって来た。

 

 一度触れてからは自分の中でタガが緩んだのか、もっと大胆にふにふにと揉んでみる。童女と少女の境目にある性徴途中の膨らみは、まだ未成熟で硬く、周りの皮膚とほとんど区別がつかない。

 

 ブラをちょっとだけずらして中を見てみる。誰にも侵されたことの無い小さな乳首、やや大きめの桃色の乳輪があり、その周りがちょっと盛り上がっている程度。これを乳房と呼べるかどうか、本当に微妙なラインだ。

 

 駆逐艦の艦娘は一部を除いて幼い体つきが基本だし、それは朝潮も例外ではない。

 

 潮サイズまでと贅沢は言わないけれど、今後に期待しよう。

 

「でも朝潮になってるってことは――」

 

 ―――下もそうなのだろうか、までは恥ずかしくて言葉にできなかった。

 

 しかし好奇心は抑えきれない。振り返って女子トイレの中をもう一度見回し、自分以外に誰もいないことを確認。今なら見られる心配はない。

 

 ゆっくりと手を伸ばして、朝潮型姉妹共通の、公立小学校の制服みたいな黒い吊りスカートをめくり上げていく。

 

 もうすぐ―――ほんの少し―――あとちょっとだけめくれば、中破でも表示されない朝潮のスカートの中が―――。

 

 ふと、我に返って鏡を覗き込む。

 

 そこには危険な誘惑に頬を紅潮させ、自分でスカートの裾を持ち上げる朝潮がいた。瞳は潤み、息を弾ませ、年不相応な蕩けた表情を浮かべている。

 

 その姿は仮にその気が無い聖人君子でも、どきっとさせられるくらい妖艶だ。

 

 やがて背徳の探究心が重力の抵抗を打ち破り、秘密の花園が露わになる。

 

 ジュニアブラと同じ、白い子供用のパンツ。

 

 とはいえ木綿のごわごわしたものではなく、中学の運動部が穿くようなショーツとボクサーパンツの間みたいな、ぴっちりと下半身を包み込むタイプ。

 

 ―――うん、まあブラが実用重視な時点で大体デザインは想像できてた。

 

 これで黒とか紐とかなら意外性があったのだけれども、真面目な朝潮がそんなものを穿くわけは無いし、そもそも上下合わない下着を選ぶ性格には思えない。

 

 ちょっと残念かも、と思いながらの凹凸のないつるっとした股間を眺めていると、何だか不思議な、言葉にできない妙な気分になってきた。

 

 見慣れてた自分のそれとは決定的に違う部分。幼い朝潮の身体で、女の子だということを最も主張している部分。

 

 無意識にごくん、と唾を飲み込む――――。

 

「朝潮ちゃ~ん、着替え持って来ましたよ~!!」

 

「きゃいんっ!!」

 

 突然女子便所の入り口の扉が開き、替えのブラウスを小脇に抱えた五月雨が勢いよく飛び込んできた。

 

 とっさにスカートを下ろして蛇口をひねり、ばしゃばしゃと顔を洗う。

 

「あ、あれ、朝潮ちゃん一人で何してたんですか?」

 

「かっ、顔を洗っているの、ですわ、よ……」

 

「ふ~ん?」

 

 女の子っぽい喋り方で答えようとしたが、無理したせいで語尾がおかしくなってしまった。これじゃ熊野だ。

 

 深雪のハンケチで顔を拭く。まだ自分で引っ張った頬が赤い気もするが、しばらくすれば消えるだろう。

 

 はいこれ、と五月雨に渡された新しい半袖ブラウスに手を通していく。

 

「何だか今日の朝潮ちゃん、ちょっと親近感があるな~」

 

 着替えを見守っていた五月雨が、ちらっと漏らした。

 

「え、えと、何が……かしら?」

 

「慌てん坊さんで、ちょっとドジっぽいところ。いつもの朝潮ちゃんも格好良くて好きだけど、真面目で責任感が強くって何ていうかこう……スキが無いんだもん」

 

 五月雨にはそんな風に思われていたのか。まあの提督たちも同じ感想だろうけど。

 

 そういえば朝潮は、口調が厳しい朝潮型3番艦満潮の姉だ。実際朝潮自身も、真面目と言うことに関しては相当我が強いに違いない。

 

「そう、なら良かった……わ」

 

「うんうん、着替え終わったら鳳翔さんが替えのご飯を用意してくれているから、朝潮ちゃんも一緒に行きましょう!!」

 

 何だかゲームの五月雨よりも、朝潮に対しては言葉が砕けているような気もする。

 

 当然か。

 

 ゲームの提督は艦娘たちの上司で、その命令は絶対。文字通り艦娘たちの生殺与奪を握っているのだから、言葉遣いは自然丁寧になるのだろう。

 

 今は同じ駆逐艦の女の子が相手だから……。

 

 改めて自分が朝潮になっているということを思い知らされる。

 

 ブラウスの裾をスカートに仕舞い、肩ひもをかける。最後に鏡で身だしなみの確認。

 

 艤装や兵装を外しているものの、そこにはゲームで見慣れた朝潮の姿があった。というか、装備が無いと本当にただの女子小学生にしか見えないな。

 

 にこっ、と笑ってみる。笑顔の練習。まるで画面の中の朝潮は提督の前だからか、いつも真面目で勇ましい表情だったっけ。

 

 うん、こんな普通の女の子みたいな朝潮も、悪くない。

 

「行こう、五月雨―――ちゃん」

 

 そう名前を呼ぶと、五月雨は嬉しそうに手洗いの扉を開けた。

 

 どがん、と何かが衝突する音が響く。

 

「痛ってぇ、なにすんだよ!!」

 

「あれぇっ?!深雪ちゃん!!」

 

 ちょうどさっき脱いだ服を片づけて、戻ってきた深雪の艦首にクリーンヒットしてしまった。

 

「大丈夫?立てるかな、深雪……ちゃん」

 

「いっけるいける、大丈夫だぜ……って朝潮、まだ着替えてたのか」

 

 尻もちをついて頭を押さえる深雪に手を差し出す。

 

 躊躇わず握る深雪をよいしょっ、と引っ張って立ち上がらせた。

 

「ごめんなさい深雪ちゃん!!今度は気を付けるから」

 

「別にいいけどさ。それより朝潮、怒らないのか?」

 

「何を?」

 

 深雪はおいおい、と呆れた顔をする。

 

「いつもだったら『廊下は走らないで』とか、『前方不注意です』とか、きゃんきゃん言ってくるのによ。今日は拍子抜けだぜ」

 

 本当にみんなの学級委員長だったんだな、朝潮って。

 

「それより早くいかないとご飯、冷めちゃうよ?」

 

 深雪は五月雨と顔を見合わせると、あはは、と笑い出す。つられてこちらも笑ってしまった

 

「なら競争だ。負けたら深雪さまの代わりに、寮の掃除当番一週間だぜ」

 

「じゃああたしが買ったら、あたしの洗濯当番一週間交代!!」

 

 一斉に食堂に向かって走り出す。

 

 彼女たちと少し打ち解けられたような気がした。

 

 

 

 

 

「遅かったじゃない、3人とも」

 

 先ほどのテーブルには4人分の定食が乗ったトレイが並んでおり、うち一つの席に由良が座っている。

 

 ちなみにさっきの競争の賭けは、食堂の扉に深雪と五月雨が同時に激突してノーゲームになった。

 

「由良さん、待っててくれたんですか?」

 

「朝潮の様子も気になってたから、ね」

 

 全員が席に着くのを確認して、由良が手を合わせていただきます、と言う。

 

 一緒に唱和して、自分も箸を取った。

 

 トレイの上には味噌汁とご飯、お新香と、さっきダメにしてしまったコロッケではなく、代りに豚の生姜焼きの皿がついている。鳳翔が気を利かせて別のメニューに変えてくれたらしい。

 

 最初に味噌汁をすすってみると、熱く濃厚な赤味噌の香りが口の中に広がる。なめこと豆腐の味噌汁だ。

 

 さっきのコロッケをほとんど食べていた深雪は、一日に二回定食を食べることができたのが嬉しいのか、早速豚肉にかぶりついている。

 

 成長期だからお腹が減るのだろうか。とりあえず自分も目の前の生姜焼き定食と格闘始める。

 

「そういえば、他の艦娘ってどこにいるんですか?」

 

 半分ほど食べ終わったところで、ふと誰に対してとなく尋ねてみた。

 

 びくっ、と他の3人の箸が止まる。何か不味いことでも言ったのだろうか?

 

「どの鎮守府に誰が着任しているかは機密事項に抵触するから由良もわからないけど、今横鎮にはここにいる4人と鳳翔さんだけ、かな」

 

 朝潮、深雪、五月雨、由良、鳳翔。

 

 駆逐艦3隻、軽巡1隻、軽空母1隻。水雷戦隊がやっと一つ組める員数。

 

 対潜番長がいるから潜水艦相手ならそこそこやれるだろうけれども、正面火力が圧倒的に弱すぎる。

 

「じゃあ提督は?姿が見えませんけど、提督はどこで何をやっているんです?」

 

「朝潮、そんなこと忘れるなんて、頭でもぶつけたのかな?うちの鎮守府に提督、いないじゃない」

 

 絶句した。

 

「あ、もしかして夜中に深雪ちゃんに蹴っ飛ばされたからかも。前から朝潮ちゃん、深雪ちゃんの寝相が悪いから横で寝たくない、って言ってたし」

 

「ありそうな話ね。それで記憶が混乱するかは別にしても、朝潮は普段我慢してばっかりなんだから、具合が悪い時は早めに言いなさい。ね?」

 

「―――朝潮ちゃん?」

 

 黙ったままでいると五月雨が顔を覗きこんできた。

 

「それで大丈夫なんですか―――それで深海棲艦相手に戦えるんですか!?」

 

「あんまり大丈夫じゃない、かな。提督がいないと大規模な艦隊編成や作戦行動もできないし、艦娘の数も増えないし、装備も更新されない。由良たちが着任してから一か月、今のところ深海棲艦が現れないからいいけど、この平穏がいつまで続くやら―――」

 

 ぱりん、とお新香を噛む由良。

 

「深雪は早く出てきてほしいぜ、深海棲艦。でないと活躍できねーもんな。にしても提督かぁ……前にいた呉鎮じゃ着任時に挨拶くらいはしたもんだけどな。考えてみれば横鎮の提督って見たこと無いぜ」

 

「あ、あたしもです。朝潮ちゃんも一緒に着任した時、提督がいない鎮守府なんて、ってぼやいてたじゃないですか」

 

「そう?」

 

 余計なことを突っ込まれないよう、お茶で咽喉を潤す。

 

「由良も引き継ぎ資料でしか知らないけど、そもそも2代前の提督が鎮守府を途中で放棄していなくなっちゃったのが始まりなの」

 

 敵前逃亡、ということだろうか。世が世なら軍法会議ものだろうに。

 

「それで後を継いだ前の提督さんかなり頑張っていたらしいんだけれども、危険な任務で出撃した際、艦隊が全滅してしまって――」

 

「うわ……」

 

 見事な泣きっ面に蜂、酷いことは重なるものだ。由良が続ける。

 

「結局前の提督は責任を取って辞任。その時の鎮守府メンバー唯一の生き残りが、鳳翔さんなんだって。その時のことはあんまり話したがらないけどね」

 

「あら、私が何か?」

 

 振り向くとすぐ横に、鳳翔がお盆を持って立っていた。

 

「前の提督の話をしていました。直接知っているのは鳳翔さんだけですし」

 

「まあ知っているといえばそうですが、直接、というのは違います」

 

 デザートの小皿を配る鳳翔。

 

 暗く黒く輝くしっとりした肌を持った、ほのかな甘い香りを漂わせる肉厚の練小豆羊羹。これが噂の間宮羊羹?。そうでなくとも美味しそうだ。

 

「でも提督はいたんですよね―――」

 

「ええ確かに。でも私を含め誰も姿を見た者はおりません。指令という形で遠征や演習、作戦行動の指示が伝えられるだけ」

 

 そして天井の方を見上げる。つられて視線を向けるが、そこには白天井とLED照明の室内灯しか無い。

 

「この司令部の建物には提督の執務室があります。掃除のために何度か入ったことがあるんですが、今も昔も提督はおろか、使っている人を見たことはありませんね」

 

「そう考えると提督ってお化けみたい。ちょっと怖いです」

 

 怯えた小動物みたいな顔をする五月雨。

 

「まあ実際は海軍軍令部から直接指示を出している、というだけなんでしょうけれども―――執務室がただの物置になっているのはもったいない気もします。提督が来なければ仕方ありませんけど」

 

 それだけ言って鳳翔はまたカウンターの奥にぱたぱたと引っ込んで行った。その様子はまるで小料理屋の女将。よく二次創作絵で見るけど、艦娘よりこっちの方が天職なんじゃないか、あの人。

 

「もう一時半かぁ。少し遅くなっちゃったけど、今日の訓練どうする?朝潮の体調が悪いなら、陸で各自自習ってことにしてもいいよ」

 

 食堂の隅の柱時計を見ながら由良が話題を変える。

 

「深雪はやるぜ!!今日は水上機動じゃなくて砲雷撃戦、しかも実弾の訓練だよな?」

 

 くぅ~12.7cm連装砲撃ちまくりたいぜ~!!と拳を握って震える。

 

「あなたじゃなくって、聞いてるのは朝潮。どう、いけそうかな?」

 

「朝潮ちゃん?」

 

「もちろんやるよな?」

 

 艦娘たちの6つの瞳がこちらを見つめてくる。由良と五月雨は慈しむ様な優しい視線だが、深雪のには大丈夫だよな、な、という無言の圧力が込められている。思わずごくん、と唾を飲みこんだ。

 

 正直自分が置かれた状況を受け入れられていない今、落ち着いて考える時間が欲しい。ただ、『砲雷撃戦』と聞いて少し心が躍ったのも事実。

 

 海上自衛隊員でもなければ、Y0utubeなどでしか見ることのできない戦闘艦の砲撃。それを間近で、しかも自分の手で行える絶好の機会。

 

 危険かもしれないが、やってみたい。

 

 それに今は色んなことをやって情報を集めなければ、何故自分がこんなことになったのかはずっと分からないだろう。乗れる流れがあるのなら、乗るべきだ。

 

「できる、と思います。ただいつもみたいにはいかな……」

 

「ぃよーしっ!!そうと決まれば出撃だ~っ!!」

 

 テーブルを挟んだ向こうから深雪が抱き着いて来た。

 

「くぎゅんっ!!」

 

 というかヘッドロックの要領で首の周りに腕を回してくる。幼い割に筋肉の付いた二の腕が頸動脈にきゅむっと食い込んだ。

 

「まだ皆食べ終わってないでしょ。あと深雪、朝潮が止めないからって調子に乗り過ぎ。訓練で怪我しても知らないよ」

 

 由良に窘められ、深雪はちぇ、とぼやきながら腕を離した。もう少し長ければ陸で轟沈していたかもしれない。

 

「じゃあご飯を食べ終わったら、ヒトヨンマルマルに艤装してドック前海上に集合。復唱!!」

 

『ヒトヨンマルマル、艤装してドック前海上集合、了解!!』

 

 急に深雪と五月雨が食べるのを止め、びしっと掌を見せない海軍式の敬礼をしながら復唱する。間に合わず、あわあわとそれに倣う。

 

「―――やっぱり朝潮が遅れるなんて不思議。いつもと逆だけど、二人とも、ちゃんと朝潮を気遣ってあげてね」

 

 そう言って由良は自分の味噌汁をすすった。

 

 

 

 

 

 

 食後、由良と別れて深雪と五月雨と一緒に艤装が置いてある軍需装備保管庫に向かう。

 

 保管庫と装備整備場、また艦娘がドックと呼ぶ『艦娘専用傷病療養施設』は隣接しているらしいので、装備を受け取って外に出ればそこが集合場所だ。

 

 どうやら艦娘の損傷というものは『艤装』と『生体部分』の2つが意図的に混用されているらしい。両方が揃わなければ戦力としての『艦娘』にならないわけだから当然か。

 

 つまり赤城さんをはじめ大型艦の入渠時間がやたら長いのは、装備の修復に時間がかかっているせいであって本人たちは出撃したがっているのだ、と好意的に解釈しておこう。

 

 重いガラスの扉を開けて司令部の建物を出ると、室内でも眩しいと感じた陽光が全身に降り注ぐのと同時に、初夏の熱気と海の磯臭さがむわっと襲い掛かってきた。着ているのは半袖ブラウス一枚のハズなのに、首筋にじんわりと小さな汗の珠が浮かび上がる。

 

 昼夜どころか季節も違うことに動揺して足が止まっていると、先を行く深雪が手を振って呼んだ。それを追いかける。

 

 時間にまだ余裕があったので、記憶があやふやだとの言い訳で鎮守府内を案内してもらう。

 

 艦娘は自分たちだけ、ということだったが、実際そこかしこを旧帝国海軍のような軍服を着た兵士や整備員、スーツ姿の職員など様々な職種の人たちが歩いていた。敷地内の建物は倉庫が多いが、喫茶店やテニスコート、コンビニなどもあり、かなり環境は恵まれている。

 

 

 ゲームをやっていた時、鎮守府と言うのはてっきり艦娘の基地として特化した場所だと思っていた。しかし大きなクレーンやドライドックを見ていると、どうやら事情は逆で艦娘たちの方が普通の海軍基地に間借りさせてもらっているのだと気が付かされる。

 

 海軍の仕事は攻めてくる敵と戦うだけではない。海上航路の警備と維持が主な仕事で、海上自衛隊がそうである通り、どちらかというと戦闘はイレギュラーだ。

 

 深海棲艦と戦うという使命を帯びた艦娘に、それ以外の負担を強いて磨り潰しては本末転倒。哨戒や偵察、海上警備は可能な限り通常兵器や艦艇で、と棲み分けがなされているのだろう。

 

 途中、海沿いにある大学のクラブハウスみたいな木造建築の横を通りかかった。潮風で劣化が激しいのだろうけれども、最低でも築30年以上。意外と柱はしっかりとしているものの、地震が来たら一瞬で自動解体されそうな極悪物件だ。

 

「ここが私たちの寝起きしている寮ですけど、覚えてないですか?」

 

「う~ん……覚えているようなそうでないような……」

 

 五月雨の言葉にもごもごと誤魔化す。見覚えなどあるわけがない。

 

 彼女が指差す一階の窓には花柄の布団が3組、仲良く並んで磯風にばたばた煽られていた。そしてカーテン全開で丸見えの室内には、天井近くに張られた紐に趣向の違う下着が何枚か干してある。

 

「おっと、パンツ仕舞うの忘れてた。まいっか」

 

 深雪のかい!!

 

「ああ、あたしもでした!!」

 

 お前もか五月雨!!

 

 女の子って、女だけだと時々異様にずぼらになるよな。その点朝潮はきっちりしてそうだから、心労並大抵では無かっただろうに。

 

 慌ててに寮に飛び込む五月雨と、大げさだな~、とのんびり見ている深雪。

 

 彼女が戻るのを少し待ち、出発。いよいよ目的の軍需装備保管庫が近づいて来た。

 

 保管庫は艤装、兵装と弾薬を保管している場所と聞いていたが、ちょっとした自動車整備工場みたいな外見だ。駆逐艦や軽巡なら大丈夫だろうが戦艦、特に大和型みたいな超弩級の装備は管理できないだろうな。いないからいいけど。

 

 五月雨はシャッターの降りた保管庫の通用口に近づき、呼び鈴代わりのブザーを押した。

 

 ビーっという音が鳴って扉が開き、中からサングラスをかけ、くたびれた兵帽を被った壮年男性が姿を現す。

 

「すいません、おじさん。訓練用に艤装を使いたいんですけど」

 

「おう、五月雨の嬢ちゃん。さっき由良ちゃんにも電話で聞いたよ。機関にはもうとっくに火が入ってるから好きに持ってきな。今入り口開けてやるからよ」

 

 男性が中に引っ込むと、すぐにシャッターが開き始めた。隙間から3人で潜り込む。

 

 薄暗いドックの内部に充満していたのは、鉄の匂いとむせかえるような機械油の匂い。その中を足元に気を付けながら、おっかなびっくり進んでいく。

 

「あったぜ、これこれ!!」

 

 深雪が目当ての物を見つけて駆け寄る。

 その時シャッターが開き切り、太陽の光がさあっとドック内を照らし出す。

 

 黒光りする鋼鉄の城。一瞬、本当の駆逐艦がいるかのように見えた。

 

 目を擦って再び見ると、そこにあったのは金属製の台座に置かれた3人分の艦娘の艤装、その機関部分だった。

 

 艦娘たちの艤装は、艦種、そして艦型によって大きく異なる。

 

 駆逐艦は機関部を背中に、兵装は手足に装備することが多い。そして主機と呼ばれる靴型の推進器を履くことによって水上を自在に駆け廻り、艦娘としての力を十全に発揮する。

 

 早速深雪は大きな煙突を持つ自分の機関装置、「缶」とも呼ばれるユニットを背負う。五月雨はと言うとベルト部分にジョイントがあるらしく、背中を近づけると電車の連結器のようながしゃっこん、という音がして、魚雷発射装置と一体化された機関が装着された。

 

「朝潮ちゃん、装備の仕方覚えてる?」

 

「背負うだけだから簡単だぜ」

 

 言われて自分の機関ユニットを手に取る。ずっしりと重い鉄の塊、その奥からは低く静かな起動音が脈打つように響いている。

 

 よいしょっ、とランドセルの感覚で背負う。途端、機関の音が自分の鼓動に重なった。

 

 体中に力が満ちる。機関ユニットも天使の羽のように全く重さ感じない。

 

「これが――――艦娘の力――――」

 

「すげーよな。機関が動いてなかったら漬物石みたいに重い缶が、こんなに軽いんだもんな。不思議な話だぜ」

 

「深雪ちゃん、前に起動前の缶を持ち上げようとして腰痛めたから……」

 

 その時を思い出したのか、ぷふっ、と五月雨が可愛く吹き出す。

 

「それなら五月雨だって、最初背中の魚雷を下に向けたまま座ろうとして、尻から轟沈しかけたろっ!?」

 

「うわあぁん、それ忘れてって言ったのにぃっ!!」

 

「お互い様だっ!!」

 

 大丈夫なのか、ここの水雷戦隊は?わきゃわきゃ騒ぐ駆逐艦二人はさておき、自分の装備を淡々と整えていく。

 

 ブラウスの袖口まで覆うハイソックスと同じ色のアームカバー。

 

 右手には幼い朝潮の身体には不釣り合いに大きく、これでもかと砲塔が強調された造りの12.7cm連装砲。左手には大型艦さえ一撃で屠る威力を持った駆逐艦の必殺武器、61cm四連装魚雷。どちらも簡単には外れないように、革バンドでしっかりと手首に固定する。

 

 連装砲の砲塔をどうやって動かすのか分からなかったが、グリップを握って動けと念じるとウィーン、という鈍いモーター音と共に砲が勝手に仰角を取り始めた。どういう理屈なのか謎だけれども、戦闘ヘリの自動照準装置みたいなものが付いているんだろう、多分。とりあえず深く考えるのはよそう。

 

 無線通信用の小型インカムを耳に付け、最後に主機と呼ばれる靴型の推進装置に履き替える。

 

 吹雪型や白露型のようにブーツ型のものなら普段使いにもできるだろう。だが朝潮型主機は、先の尖ったミサイル駆逐艦ズムウォルト級みたいな金属製ハイヒール。しかも靴底が鉄板一枚なので、陸で履いたら衝撃を吸収できず、膝か足首を悪くするのは想像に難くない。

 

「朝潮ちゃん、準備できた?」

 

 深雪との不毛なドジッ子争いを終えた五月雨が尋ねてくる。

 

「多分できた、と思います」

 

 装備の数も少なく、それらを身に着けるだけだ。幼い駆逐艦娘でも自分で装備できるように、そもそもの手順もかなり簡略化されているのだろう。

 

「よし、深雪さま駆逐隊出撃!!海~の乙女の艦娘勤務~♪月月火水~」

 

「勝手に変な名前をつけないでぇ!!」

 

 足元からかしゃこん、かしゃこん、という駆動音を上げて妙な替え歌を歌いながら外に出る深雪を、カンカンカンと五月雨の足音が追いかけていく。

 

「仲がいい、んだよな?」

 

 そんな二人を微笑ましく思いながら、びたん、びたんと板底のハイヒールで保管庫出口のシャッターに向かった。

 

 ――――あ、やっぱりこの靴足首にくる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

任務3『ハ級標的デ練度向上!』

 

「今日はこの横須賀鎮守府海域で砲雷撃戦の訓練を行います。といってもここいらは民間船の航路にもなっているから、流れ弾が変なところに飛んで行かないようにね。しかも今回は実弾を使うわけだから、いつも以上に注意が必要なんだけど―――」

 

 横須賀鎮守府内、ドック前の海上では先に出港していた由良が待っていた。

 

 両手に単装砲を一門ずつ装着し、一回り大きな高出力の機関ユニットを背負った彼女は女子高生のような見た目もさることならがら、深雪たち駆逐艦とは存在感が違いすぎる。

 

 軽巡でこれなら重巡、戦艦は一体どれほどのものなのだろう。

 

「いっけるいける~!!早く戦いたいぜ~!!」

 

「もう、深雪ちゃん落ち着いて」

 

 そんな由良に対して無駄に自信満々な深雪が、手に持った12.7cm連装砲を振り回してアピールする。横に立つ五月雨は方針に当たらないよう体をかがめた。

 

 吹雪型の深雪の主砲は朝潮型に比べて砲身が短く、代りに本体がトーチカのように大きい。対して白露型の五月雨の連装砲は、自動小銃のように小さくてコンパクト。実際の口径でなく威力で武器の種類が分けられているとはいえ、駆逐艦の持つ連装砲の外見は多種多様だ。

 

 はいはいわかったから、と深雪をたしなめた由良は、立ったままの姿勢で海面を滑るようについ~とこちらに近づいてきた。

 

「朝潮、海に出たら少しは感覚が戻ったかな?」

 

「さっきよりは……」

 

 それは本当だ。

 

 五月雨に手を引いてもらいながらおっかなびっくり海面に立ってみたのだが、浪の揺れは多少感じるものの、実際には地面と変わらず二本の足でしっかりと水を踏みしめることができた。

 

 進む方法もスケートのように―――いや、転倒の恐れが無い分スケートより安定しているのだが、大胆に海面を蹴り、滑るようにして自在に動き回れる。通常の船舶と違って旋回半径も極端に小さく、急な加減速も陸上と同じような感覚で問題ない。

 

 まさに海を往く人型の艦艇。『艦娘』とは言い得て妙だ。水を得た魚のように、朝潮の身体は海によく馴染む。

 

「無線機の状態は?みんな聞こえる?」

 

「深雪、感良し!!」

 

「五月雨、感良し!!」

 

「あ、朝潮、感良し!!」

 

 うんうん、と頷く由良。そして懐中時計を取り出して時間を確認する。

 

「そろそろ頃合ね……」

 

 何が、と尋ねる間もなく軍港の出口、はるか沖の方からぽんぽんぽんぽん、と軽快な音が聞こえてきた。

 

 目を凝らしてやっと見える水平線に、ぽっぽっぽっと丸い煙球を煙突から吐き出して釣り船サイズの小さな船が進んでいる。その後ろから20mほど離れて黒い発泡スチロールの浮きのような軽自動車大の塊が二つ。塊は紐で繋がれて引っ張られているのか、同じ速度で並んで小舟を追いかける。

 

「あれが今回の標的―――って、これまで何度も模擬弾でお世話になってるよね。見ての通り鎮守府の海兵さんに曳航してもらっていけど、あの駆逐艦ハ級の模型二体が相手よ」

 

 そう言われて発泡スチロール塊をみると、剥き出しの大きな歯が並ぶ口と、駆逐艦ハ級の特徴である砲口みたいな単眼がペンキで描かれているのが分かった。大分歪んだ形をしているが、描き手の絵心の無さが逆に不気味さを演出している。

 

 深海棲艦……いつの間にか世界各地の海に現れ、船を、そして海の道を文字通り食い散らかしていった人類の仇敵。

 

 沈んだ船、沈んだ人の怨念から生まれた存在というオカルトじみた噂があるが、それも仮説の域を出ず。ただ分かっていることは、彼らが昏く深い海の底からやって来るということだけ。

 

 ゆえに深海棲艦。

 

「最初は3人で単縦陣での砲撃。陸に近いのと距離感に慣れてもらう意味から、水平射撃でしっかり当てて。次に由良が合図したら模型が船から切り離されるから、それに向かって単横陣で雷撃を喰らわせる。停船状態から魚雷発射と同時に回頭、戦域から離脱でお終い。簡単よね?」

 

「ぃよーしっ!横鎮に来てからこっち、模擬弾演習しかやってなかったから燃えるぜ!!」

 

「はい!あたし、頑張っちゃいますから!」

 

「……努力します」

 

 元気に答える駆逐艦二人に比べると、どうしても自信なさげになってしまう。

 

「そういえばこの中で、実戦を経験した人はいるかな?」

 

 何を思ったのか、由良が尋ねてきた。

 

「当ったり前だ!!呉にいた時、遠征先でイ級を2隻撃沈したこともあるぜ!!」

 

「撃沈はまだですけど、あたしも出撃したことはあります」

 

 朝潮の戦績は分からないのでここは黙っておく。

 

 由良は少し手を顎に当てて考え、

 

「うん、じゃあ旗艦は深雪にお願い。何かあった時に備えて由良は後ろにいるから、ちゃんといいとこ見せてよね」

 

「了解!!全艦抜錨、この深雪さまに続きな~!!」

 

 リーダーに抜擢されて舞い上がった深雪は、スカートの裾を翻し初っ端から両舷最大戦速。背中の機関ユニットからもうもうと黒煙を噴き上げて、後ろも見ずに海面を蹴って走り出す。

 

「行こう、朝潮ちゃん!!」

 

「う、うんっ!!」

 

 遅れないよう五月雨と一緒に、慌てて深雪を追いかけた。

 

「怪我しないようにね~っ!!」

 

 二つの主機で水を踏み込みたび小さな身体がどんどん加速され、後ろから気遣う由良の声がドップラー効果で低くなる。

 

 軽やかな駆動音を上げる背中の機関ユニット。全身に感じる海の風。波を蹴立てて進むと塩気混じりの飛沫が降りかかるが、艦娘には特殊な防護フィールドが張られているため、肌に当たる前にさらに小さな粒になって散っていく。

 

 そういえば訓練前に濡れた服を着替えさせられたのは、濡れた状態で機関ユニットを取り付けると、立ち上げ時に機関が水密区画の設定を誤認識してフィールドが上手く働かないからだとか。

 

 ほどなくしてトップスピードに到達。

 

 走るのを止め、目の前の五月雨がそうしているように少し腰を落とし、ぶれる砲身を少しでも安定させる。砲塔は言われた通り仰角0°、水平射撃の態勢。

 

 やがて目標が近づいて来た。浮きに描かれた駆逐艦ハ級、仮にA、Bとするか。ふとこちら向いたAの顔が、脳天に開いた単眼を歪めて嗤っているようにも見えた。

 

 ……何かムカつく。

 

『五月雨、朝潮、測距、主砲装填!!深雪さまに遅れるな―――斉射ぁっ!!』

 

 インカムを通して深雪の勇ましい声が聞こえたのと同時に、浪音をかき消す砲撃音が辺りに響き渡った。彼女はともかくこちらはまだ射程圏内に到達してもいないというのに、斉射もなにもあったものではない。

 

 音に遅れて模型の手前に二つの水柱が上がった。命中弾無し。

 

『ちぃっ、失敗したぜ。でもまだまだ~っ!!』

 

 すぐさま次の水柱が上がった。さっきより近いが命中弾なし。模型は砲撃で生れた波にあおられ大笑いを続けている。

 

『深雪ちゃん、全弾撃ったら怒られちゃいますよ!!次、あたしが行きます。たぁーっ!!』

 

 前で突っ込みを入れながら、深雪の砲撃が止んだところで続いて砲撃を開始する五月雨。

 

 二つの発射音。

 

『あれぇ!?』

 

 一発は至近弾。そして二発目は、なんとハ級Aの頭右半分を吹き飛ばした。

 

『やったぁ!!みなさん、見ててくれましたか?!』

 

 こんなに着弾がぶれるということは、手元がぶれていたか砲塔が仰角だったか。明らかにラッキーショットなのだけども、喜んでいる彼女に突っ込むのは野暮だろう。

 

 五月雨は嬉しそうに左手の12.7cm連装砲を掲げると、模型の横を通り過ぎて向こう側に消えた。

 

 そうしているうちに、やっと自分も有効射程と思われる距離に入った。だが普通に撃って当てる自信は無い。もっと近くで!!

 

「……敵艦発見、突撃する」

 

 マイクの感度以下でぼそっ、と呟く。自分で言ってみて気恥ずかしくなった。

 

 誤魔化すように右手の12.7cm連装砲の狙いを付ける。

 

 進む向きとしては、向こうから見て丁字有利。相手が攻撃してこない模型だからこそ、ゆっくり射撃する余裕もある。

 

 目標補足、両の目でしっかりと五月雨が破壊したのとは別な方、駆逐艦模型ハ級Bを見据える。汗の滲んだ右の掌で、連装砲の武骨なグリップを握りしめた。

 

「っ!!」

 

 手前に生まれた波がハ級Bを持ち上げ、その頂点で動きを止めた一瞬。

 

 人差し指でグリップの引き金を引く。

 

 自分では叫んだつもりだったが、咽から飛び出したのは声にならない空気の塊だけだった。

 

 どうん、どうん、と轟音が二回、腕を、鼓膜を、内臓を震わせる。反動で倒れそうになるが、なんとか姿勢を立て直す。火薬の焼ける酸っぱい匂いが鼻の粘膜を焦がした。

 

 当たったかどうかも確認できずに、そのまま模型の横を通り過ぎる。

 

『朝潮、二発とも命中を確認。いいんじゃない?!でもちょっと近づきすぎかな、ということで50点』

 

 由良先生は採点が厳しい。しかも当たりやすいように敢えて距離を詰めたのを見抜かれてしまった。

 

 去り際に横目で確認すると、砲撃で抉られたハ級Bの目玉は中の白い発泡スチロールがのぞき、笑い顔が泣き顔に変わっている。いいざま。

 

 模型の向こう側には深雪と五月雨が機関をアイドリングさせて待機していた。

 

「凄いな~、もういつもの朝潮ちゃんだね!!」

 

「ああ、うん……」

 

 喜んでくれる五月雨に生返事を返す。

 

「ぐぬぬぬ……!!」

 

 対して命中弾が無かった深雪はふくれっ面で唸っている。睨まれているっぽいのは気のせいだよな。

 

 ゆっくりと水面を滑り、速度を落として二人の隣に並ぶ。これで指示通りの単横陣。

 

『次、雷撃戦準備。ロープ切り離してください!!』

 

『イエス・マム!!』

 

 インカムから由良の指示と、ポンポン船に乗っているであろう海軍兵士の威勢のいい声が聞こえた。すぐに目の前を横切る壊れかけの二つの模型が推進力を失い、慣性だけでゆったりと漂い始める。

 

「各艦、魚雷発射体勢取れ。チクショー、今度は汚名挽回だぜ!!」

 

「ええっ、深雪ちゃん挽回しちゃうの?!本当にいいの!?」

 

 漫才みたいな掛け合いをしながらながらも、魚雷発射管を構える二人。

 

 深雪は水面に片膝をつき、両太ももにバンドで固定された3連装の魚雷発射管二つを海面に向ける。

 

 五月雨はその細い体に似合わない巨大な4連装魚雷管、機関ユニットと一体化したそれをぐいんと動かして、まるでサソリの尻尾のように自分の横に巡らせた。

 

 小さな身体に大きな魚雷、とは朝潮型2番艦大潮の台詞だが、比率から言えば五月雨の方がよっぽど大きな魚雷を背負っている。

 

 自分も魚雷を、と姿勢を整えようとする。が、左手に装着した4連装の魚雷発射管を見て動きが止まった。

 

 どうやって発射すればいいんだ、これ?

 

 連装砲での砲撃はグリップに引き金も付いてたし、見よう見まねで何とかできた。

 

 でも魚雷は―――魚雷の撃ち方は同型艦ではない深雪と五月雨を見ても参考にならない。

 

 どうする?どうしよう?

 

 魚雷は水中を進むから―――そうだ!!

 

「深雪は先頭の奴を狙うから、五月雨は真ん中あたり、朝潮は後ろ側の奴を狙ってくれよな」

 

「それだと深雪ちゃんが一番当たりやすいよ。一人だけずるい!!」

 

「旗艦は深雪なんだぞ!!」

 

「ぶぅ~っ、深雪ちゃん横暴!!そう思わない?朝潮ちゃ―――あ、あれ―――朝潮ちゃん何やって―――」

 

 五月雨がこちらを見て不思議そうな顔をしている。

 

「何って、魚雷の発射準備を―――」

 

「うわっ、朝潮お前それ!!」

 

「へ?」

 

 チチッ、と何かの起動音。それと同時に魚雷発射管を装備した左手が、思いっきり水中に引っ張られた。

 

「わっ、わわわわわわわっっっっっ!!!!!」

 

 何とか足を踏ん張って水底に引きずり込まれるのは免れたが、今度は海に浸かったままの左手の魚雷が一斉に小さなスクリューを回転させて進み始める。

 

 ぶしゅう、と泡の渦が巻き起こり、一度は立ち直った体勢が崩れ、びたん、と海面に腹をしたたかに打ち付けた。

 

 幸いフィールドのおかげで濡れることは無かったが、今度はそのままの姿勢で模型の方に向かってずりずりずりと曳航されていく。

 

『深雪っ、見えないけどそっちで何かあったの!?』

 

『あ、朝潮が魚雷を魚雷発射管ごと海に付けて―――それで一緒に発射されちまったっ!!』

 

『はぁぁぁっ!?』

 

 由良が心底呆れた声を上げた。お姉さん然として冷静な彼女がこんな声を出すんだ、と意外に思ったが、今はそんなことを言っている余裕は無い。

 

『朝潮、聞こえてる?』

 

「はっはいっ、感良しです!!」

 

『それはいいから、どういうことなのかな!?』

 

「ぎょ、魚雷を発射しようとして、その、発射体勢が分からなくて……」

 

『それで魚雷管を直接海に入れちゃったの!?』

 

「そう、です……」

 

 インカム越しに由良が絶句するのが分かった。そうしている間にも模型のハ級がぐんぐん近づいてくる。

 

『朝潮、魚雷発射管は水に浸けて使うものじゃないの。方向だけ決めて発射すれば一旦沈んで調定深度に達した後、目から投射時に入力された情報に従って自動的に姿勢制御、目標に進んで行ってくれる』

 

 よく分からないけれども、つまりは余計なことをしてしまった、ということか。だとしても、

 

「それよりどうしたらいいんです、これぇっ!?」

 

 薄い胸の下で波がぴしゃぴしゃと跳ねる。引きずられながら知らない内に泣き声のような悲鳴を上げていた。

 

『落ち着いて。由良も朝潮型の魚雷発射管については詳しくないけれど、多分朝潮がよく分からずに魚雷を発射しようとしたから、諸元入力が混乱しているんだと思う。魚雷発射はトリガーじゃなくて艦娘の意識制御で行うから、朝潮が魚雷だけを発射しようと念じれば切り離せるはず』

 

 由良もすぐに向かうから、と付け加えて通信は切れる。しかし間に合うだろうか。標的はもう目の前だ。

 

 とにかく言われた通り、魚雷を切り離さなければ。魚雷発射魚雷発射魚雷発射……。

 

「魚雷このっ、飛んでけっっっ!!」

 

 無我夢中で叫んだ瞬間、ふっ、と左手が軽くなった。

 

「外れたっっきゃんっっ!!」

 

 加速度がついたままで体勢が崩れたため、こんどはもんどりうって水面を転がっていく。

 

 一瞬視界に魚雷の航跡が模型に到達する光景が映った。そして何やら叫んでいる深雪と五月雨の顔も。

 

 この距離では逃げられない。模型の爆発に巻き込まれるのは必至。

 

 轟沈の二文字が脳をよぎる。

 

 ここで死んだら自分の墓には『朝潮』って書かれるんだろうな。それって中の人的にはどうなんだろう?

 

 そんなどうでもいいことを考えながらぼんやり見上げた空、瞳の中に人影が映った。

 

 この期に及んで新発見……どうやら天使の髪型はサイドポニーだったらしい。

 

「朝潮っっっっ!!」

 

 突然伸びてきた白い腕のおかげで転がる体が止まった。というか、ウエスタンラリアットの要領でその腕が自分の柔らかいお腹に食い込んだ。

 

「くはぅっ!!」

 

 横隔膜が押し上げられ肺の中の空気が絞り出される。あやうく胃の中身までも出てしまいそうになったが、それは何とか押し留めることができた。

 

 直後、

 

どむんっっ!!

 

 くぐもった炸裂音が響いたかと思うと、先ほどの砲撃とは比べ物にならない大きな水柱が立ち昇る。少し遅れて雨、いや爆発で空に巻き上げられた海水と、粉々になった発泡スチロール、元駆逐艦ハ級の模型が降り注いできた。その破片の一つが頭に当たった。

 

「あいたっ……て、生きてる……」

 

 そこで初めて、誰かに抱きかかえられていることに気が付いた。自分より背の高い、浅黄色のセーラー服を着た紫髪の女性。

 

「由良……さん?」

 

 爆風に煽られたのか、彼女の髪は毛先が少し縮れてしまっている。

 

「朝潮、無事?怪我は無い?」

 

「う、うん……」

 

「良かった!!」

 

 むぎゅっ、と由良の胸に抱きしめられる。セーラー服の胸に顔が押し付けられ、その柔らかい優しい匂いに体中が包まれる感覚。身体は女同士のはずなのに、まるで異性の抱擁を受けたかのように心がきゅんっと踊った。

 

「朝潮っ!!」

 

「朝潮ちゃんっ!!」

 

 深雪と五月雨が、文字通り海面を走ってくる。

 

「良かった~っ!!朝潮ちゃんっっ!!」

 

 そのままの勢いで五月雨が泣きながら飛びついて来た。彼女の顔は既に涙でぐしょぐしょだ。それにつられたのか、自分も瞼がじわっと熱くなる。

 

「心配したんですから!!朝潮ちゃん、あたしよりドジなのは止めて下さい!!」

 

「……ごめん、五月雨」

 

 というか自分がドジ基準なのか、この子。

 

「朝潮、訓練だからって気を抜いてると痛い目に遭うぜ。深雪だって演習で……演習で電が……来るなっ、こっちじゃないっ、やめてぇぇぇっっっっ!!」

 

 言葉の途中でらしからぬ悲鳴を上げ、蒼い顔でガタガタと震えだす深雪。

 

 彼女には演習中、暁型駆逐艦4番艦の電に激突され、船体を真ん中から真っ二つにされ深/雪になったあげく開戦前に轟沈、という悲惨な過去がある。どうやらそのトラウマスイッチをONにしてしまったらしい。

 

「でも由良さん、凄かったです。いきなり空から現れて朝潮ちゃんを助けるなんて」

 

 五月雨が姉のような女性に羨望の眼差しを向ける。

 

「迂回してだと間に合わないかもしれなかったから。それにちょうど二人が連装砲を命中させてくれていたおかげで、模型の足場には困らなかったのよね」

 

 結果オーライでいいんじゃない?と当の由良は飄々としている。

 

 これが軽巡と駆逐艦の圧倒的な差か。いや、由良個人の資質なのかもしれない。軽巡にも夜戦バカやら艦隊のアイドルがいるし。

 

「さて、と。標的模型もバラバラになっちゃったし、今日の訓練はこれでお終いにしようかな。皆それぞれ自分の問題点が見えてきたでしょうから、それを次回までに解決……」

 

 抱き締めていた腕を離し、頬に付いた煤を拭って由良が立ち上がったその時、

 

ピピーッピピーッピピーッピピーッ!!

 

 いきなり全員のインカムから危急を告げる不快なビープ音が鳴り響いた。

 

『訓練中の皆さん、聞こえていますか?こちら横須賀鎮守府司令部、聞こえていますか?』

 

「鳳翔さん?」

 

 いつもおっとりした喋り方の彼女にしては妙に焦っている。嫌な予感がした。

 

『つい先ほど、帝都の防空警備隊から緊急入電がありました。房総半島の相模灘沖、約30kmの海域にて所属不明の艦影3を認める。艦種識別反応無し。信号弾にて警告行うも応答無し。肉眼観察にてこれを駆逐艦級の深海棲艦と確認。横須賀鎮守府、至急対処されたし』

 

それを聞いた由良の顔が難しくなる。

 

「駆逐艦級って、もしかして引き継ぎ資料にあった……」

 

『はい。ここ一か月ほど運休していましたが、間違いありません―――』

 

 鳳翔さんは一息入れ、重々しく宣告した。

 

『―――帝都急行です』

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

任務4『浦賀水道海域ヲ護レ!』

「帝都急行?」

 

 耳慣れない単語に首をかしげる。他の二人も同様。っていうか、深雪はいつの間にトラウマスイッチから立ち直ったんだ。

 

「あれ、駆逐艦用の引き継ぎ資料には書いてなかったかな?」

 

「言われてみればそんな項目、あったかも―――」

 

「深雪は覚えてね~ぞ!!」

 

そして右に同じく、と上目遣いで視線を送る。

 

「みんな―――ちゃんと資料は頭に叩き込んで置くようにって、由良言ったよね、ね?」

 

 普段敵が現れないからって緩みすぎ、と、さっきの爆風で乱れた自分の髪を撫でつけながら苦笑いする由良。

 

『では私の方から説明させていただきますね』

 

 フォローするように鳳翔さんの優しい声がインカムを通して届いた。

 

『――――帝都急行というのは、横須賀鎮守府で使われていた隠語が公用化したものです。前に提督がいた頃は駆逐艦・軽巡洋艦を中心とした小規模な敵船団が、週に2-3回のペースで帝都侵入を試みていたためそう呼んでいました』

 

 帝都に向けた高速艦艇による定期的な襲撃―――それで帝都急行か。

 

『みなさんが赴任する少し前から、この一か月ほどぱったりと活動が止まり、影も形も無かったのですが……現在敵の詳細な情報を掴むべく、海軍からも偵察機を上げたところです。また既に周辺海域の民間船にも退避勧告が出されています』

 

「……鳳翔さん、警備隊の第一報からどれくらい経ちました?」

 

 由良が尋ねる。

 

 少し間を置いて、

 

『鎮守府への通報があってから10分程度。ただ、あちらでどれだけ確認に手間取ったかまでは不明です。既に帝都への入り口、浦賀水道に差し掛かっている頃かもしれません……』

 

 浦賀水道というと、すぐに横須賀鎮守府前。そしてその先は東京湾だ。

 

 あまり時間的猶予は無い。

 

「いよいよ私達の出番ですね。ちょっと怖いですけど……」

 

 五月雨がさっきまで抱き着いていた手を離し、自分の12.7cm連装砲をぎゅっと握りしめて立ち上がる。武者震いする小さな体に合わせて、水色の長い髪先がぴこぴこ揺れた。

 

 その頭を由良がそっと撫でる。

 

「ううん、みんなはさっきの訓練で疲れているから、ここは由良が一人でやっつけてきちゃう」

 

「え……由良さん?」

 

 てっきり全員で迎撃に向かうものと思っていたので、拍子抜けしてしまう。

 

「帰投したら造修補給所に寄って、各自燃料弾薬を補給したら別命あるまで待機。お願いね」

 

 そう言って彼女は自分の背中の機関ユニットをアイドリング状態から再始動させた。

 

 すぐに駆逐艦のそれより重く力強い駆動音が響き始める。

 

「そんな!!だって由良さん……さっきの爆発で怪我しているんですよ!!」

 

 悲鳴を上げる五月雨。

 

 言われて初めて気が付いた。先ほど魚雷の誤爆から助けてもらった際、爆風に巻き込まれたのだろう。由良の浅黄色のセーラー服はところどころ破れ、機関ユニットからも何かが引っ掛かるような不協和音と共に薄い白煙が上がっている。

 

 艦これ的には小破、といったところか。

 

 通常なら深海棲艦の駆逐艦級3隻は、軽巡である由良の敵ではない。だが駆逐艦でもeliteやflagshipならば、今の彼女にとって十分な脅威になりうる。

 

「仕方がない、かな。このまま敵を放っておくわけにはいかないし、まだ練度の足りないみんなを戦場に送り出すわけにもいかないから」

 

 少し寂しそうな、それでいて決意を込めて言い切る由良。

 

「大丈夫、こんなのじゃ……由良は沈まない」

 

 彼女の覚悟が、そして艦娘がどういうものなのか、少し分かったような気がした。

 

 泣きもするし笑いもする。それでもやはり、艦娘は一個体で戦局を左右しうる決戦兵器であり、そして戦場の駒。

 

 駆逐艦の自分たちを残して行こうとするのも、ただの優しさだけではない。戦力としての駆逐隊が完成するまでは、母鳥が雛鳥を守るようにして、徹底的に自分を使い潰す。そうすることで次の戦いへと道を繋げようとしているのだ。

 

 軽巡由良は進撃する。

 

 例えそれが絶望的な状況でも、そこに戦場があれば彼女は一人ででも立ち向かう――冷たい方程式が命じるままに。

 

 理屈は分かる。分かるけれども―――

 

「―――嫌です。連れて行って下さい」

 

 自分でも驚くほど簡単に言葉が出た。

 

 もしかするとそれは、『朝潮』の言葉でもあったのかもしれない。

 

「朝潮、あなた――――」

 

 一瞬ぎょっとして表情を硬くした由良は、すぐに普段の優しそうな顔に戻って窘めようとする。

 

「だから大丈夫だって、心配しないで」

 

「嫌です」

 

「ちょっと行って帰ってくるだけだから」

 

「嫌です」

 

「朝潮、あのね、由良を困らせないで」

 

「嫌です」

 

「……今のあなたたちの練度じゃ、足手まといになるってことくらい分かるでしょ、ね?」

 

「分かります。だから囮でも盾にでも使ってください。敵の攻撃が分散すれば、その分生還率は上がります」

 

 はぁ、と由良がため息をついた。

 

「困った子。いつも通り、一度言い出したら全然聞かないんだから」

 

「朝潮ちゃん……うん、そうだよね……」

 

 何やら一人で頷く五月雨。そして、やおら由良の方を向き、

 

「由良さん、あたしも連れて行って下さい。一人よりも二人、二人よりも三人です」

 

「だったら深雪も行くぜ。三人より四人の方が強いのは当たり前だもんな」

 

「ちょ、ちょっと、みんな何を言って」

 

 有無を言わせず3人で詰め寄り、口々に懇願する。

 

「由良さん!!」「由良さん!!」「由良!!」

 

「ああもう、やめてってば!!ダメだったらダメなの!!」

 

 3方向からサラウンドで呼びかけられ、耳を塞いでしゃがみこむ由良。

 

 ――――この人に傷ついて欲しくない。一人で死地になんか赴かせたくない。

 

 絶対に……絶対っっ!!

 

 ―――ヴンッ!!

 

 一瞬、自分の右目の前に何かが浮かんだような気がした。今のは……艦これの母港画面?

 

 でもこんな時にどうして?

 

『―――聞こえますか由良さん?緊急事態です!!』

 

 と、突然無線のインカムから鳳翔さんの慌てた声が飛び込んできた。

 

「今度は何?こっちも取り込み中なんだけど!!」

 

『それどころじゃ無いです!!たった今海軍軍令部の提督から、由良さんに指令が入ったんですよ!!』

 

 皆が息を呑む。

 

「提督から直接?」

 

 つい先ほど食堂で、提督はいない、という話をしていたばかり。

 

 だというのに何故このタイミングで提督からの指令が、しかも一軽巡を指名して届くのか。

 

 インカムに耳を傾け鳳翔さんの言葉を待つ。

 

『はい。

 

発 横須賀鎮守府提督、宛 長良型軽巡4番艦由良 

 

指令 嚮導艦トシテ駆逐艦3隻ト水雷戦隊ヲ編成シ、帝都急行ヲ撃滅セヨ

 

以上です』

 

 一瞬の沈黙の後、

 

「え~と……もの凄くピンポイントな指令が来ちゃいましたけど」

 

 おずおずと感想を口にする五月雨。

 

「提督って、もしかしてどこかでこっそり由良たちを監視してたりするのかな?」

 

「いいぜいいぜ、中々話の分かりそうな提督じゃん」

 

 ぽかーん、と口を開ける当人の由良と、無邪気に喜ぶ深雪。

 

 だが自分はそれを聞いて、さっき現れた謎の画面のことを考えていた。

 

 突然浮かび上がったあれにはどういう意味があるのだろう。

 

 そして提督の存在。

 

 あの画面が出た直後、鎮守府に提督からの指令が届いた。その内容は自分の要望と同じ、由良を一人で行かせないようにするものだった。偶然にしても出来すぎている。

 

 ―――突然活動を再開した帝都急行といい、自分が朝潮としてここにいることといい、一体何が起きている?

 

「提督から直接命令が来ちゃったら……これは、逆らえないよね」

 

 仕方ないなぁ、という風にこちらを見る由良。だが口とは裏腹に、彼女の表情は晴れやかだ。もしかすると、結局皆で行くことになったのが嬉しいのかもしれない。

 

「それではただ今よりあなたたち3隻は、軽巡由良嚮導の水雷戦隊指揮下に入ります。分かったら復唱!!」

 

 今度は遅れない。右掌を隠す海軍式敬礼の姿勢を取る。

 

「駆逐艦 深雪!!」「駆逐艦 五月雨!!」「駆逐艦 朝潮!!」

 

『以上三名、ただ今より由良水雷戦隊指揮下に入ります!!』

 

「はい、よろしい―――ってみんな、戦隊名それでいいの?」

 

 当の由良が面喰っている。

 

 自分の名前を戦隊名にされたのが気恥ずかしいらしい。といっても、

 

「あたしはいいと思います。第二戦隊の時みたいで、ちょっと懐かしいですし」

 

「そもそも他に嚮導できる軽巡がいないもんな」

 

「よろしくお願いします、艦隊旗艦!!」

 

 うっとおしいまでに眩しい笑顔で答える。

 

 む、年上をからかうなんて余裕が出て来たんじゃないかな?と、ジト目で睨んでくる由良の視線をスルー。それは邪推というものだ。

 

「ではこれより……こほんっ……由良水雷戦隊は、帝都急行を撃滅すべく出撃します。各艦機関再駆動。報告のあった海域に向かって航行しながら敵の追加情報を待ちます」

 

『了解!!』

 

 昂ぶる気持ちが伝わったのか、アイドリング状態だった背中の機関ユニットが軽快な駆動音を上げ始めた。どういう原理でコントロールされてるんだろう、この謎機関。

 

「途中までの陣形は複縦陣。深雪と五月雨で一列、朝潮は由良に続いてね」

 

 横の深雪に睨みを利かせながら、後ろもフォローできる隊形だ。

 

「全艦抜錨!!行くよ、みんなっ!!」

 

 4人の機関ユニットが一際大きな音を響かせた。

 

 

 

 

 訓練していた鎮守府正面海域を出発し、右手に無人の猿島を臨みながら陸地に沿って南東に進路を取る。

 

 流れる景色から推測すると、時速は40km/h程度。車だと思えば遅いが、生身で海上を疾走するとなると体感速度はもっと早い。しかも前を行く由良、隣の五月雨との距離を測りながら隊列を崩さないように気を付ける必要があり、さらに時々進路上に漁船や貨物船が現れたりするから一瞬たりとも気が抜けない。

 

『民間船には退避勧告が出ています!!至急最寄りの港に避難してください!!』

 

 指揮を取る由良は、皆の陣形に気を配りながらも釣り船やレジャーボート横を通り過ぎる時は毎回声を張り上げて一々警告している。

 

 艦隊はやがて観音崎に差し掛かった。こんもりと茂った緑の木々の間から、白い八角形の観音崎灯台がにゅっと頭を出している。陸の方からサイレンが聞こえたのでそちらを向くと、慌てて海から上がる海水浴客たちの姿が見えた。

 

 灯台を眺めながら面舵を切り陸地の影を抜ける。曲がった先からは浦賀水道だ。

 

 進路変更、陸地から離れるようにして真南へ。右舷前方から差し込むやや傾きかけた初夏の太陽の光が眩しい。

 

「由良さん、深海棲艦って早期発見は難しいんですか?例えばレーダーや偵察衛星を使うとか……」

 

 航路上に他の船舶が無いことを確認し、後ろになびく彼女の長いサイドポニーを眺めながらマイクに問いかける。

 

『いい質問ね。できれば便利なんだけど鋭意検討中、かな。一応海軍でも研究はしてるけど、深海棲艦ってレーダーに映ったり消えたりして信号が安定しないから難しいみたい』

 

 映ったり消えたり?それって……

 

「なんだかお化けみたいです」

 

『そうそう。だから深海棲艦は沈んだ艦の怨霊だ、って話に繋がるの。見た目がお化けっぽいのもそうだけど、元々レーダーの影をゴーストっていうから、そこから来た噂だと思うな』

 

 言葉を喋る艦種もいるって話だけど、由良は会ったことないし、と続ける。

 

 彼女が又聞きレベルでもそれを知っているということは、『鬼』『姫』もこの海のどこかに潜んでいるのだろうか。

 

『そんな経緯があって深海棲艦を捕捉するには、結局肉眼が一番信用できるの。だから海軍ではレシプロの零式水偵がいまだに現役活躍中なのよね』

 

 なるほど。深海棲艦相手にジェット機では速すぎるし、早期警戒機のレーダーには引っかからない。であれば足は遅いがフロートで海面に離着できる水偵は、索敵追跡にはうってつけだ。

 

『だけどな~、お化けって言えばうちの提督の方がお化けだぜ。いつの間にか着任してるし、妙に事情に詳しいし。今もこっそり五月雨の後ろから……』

 

『やめてぇっ!!』

 

 怯えて周りを見回す五月雨。その前を走る深雪の航跡は、彼女が笑っているせいか白蛇みたいにぐねぐねと蠢いた。

 

『みんな、ちょっと静かに!!』

 

 と、突然由良の厳しい声がインカムから飛び込んできた。

 

『鳳翔さん、聞こえますか?戦隊は現在浦賀水道を南下中、久里浜沖を過ぎたところですが、進路上に大型客船を確認しました。退避勧告が届いていないんでしょうか?』

 

 由良の視線を延長した先、確かに浦賀水道のど真ん中を、真っ白な船体が印象的な豪華客船が悠々と進んでいくのが見て取れた。何故先ほどは気付かなかったのだろうか?

 

『少々お待ちください。すぐに照会させていただきます』

 

 しばらく無言の緊張が場を支配する。

 

『……こちらでも確認が取れました。戦隊の航路上にいるのは、帝國汽船所有の大型客船”ひの丸”号、排水量33,000t。一旦は金田湾に退避したのですが、岸に近付きすぎて船底が接触したため、船長が強引に抜錨を決定。本来の目的地である横浜港を目指して現在航行中とのことです。先ほど当該客船の通信士から、鎮守府に謝罪と救援要請がありました』

 

 重い。限りなく空気が重い。

 

 取材で勝手に遭難したマスコミ関係者を救助するときのレスキュー隊が、こんな気持ちになるのかもしれない。

 

『TVの占いだと今日の由良は、空からお団子が降って来るくらいラッキーだって言ってたのに……』

 

『心中お察しします……』

 

 と、同情の意を表した鳳翔さんの声が、急に険しいものに変わった。

 

『偵察機から緊急入電!!敵艦隊は既に館山湾沖を通過、現在浦賀水道を北上中とのことです!!』

 

 最悪のタイミングで最悪の続報。ぐんぐん大きくなる豪華客船のその後ろ、ずっと向こうに目を凝らすと、浪を蹴立てて進む黒い豆粒のような何かの姿が見て取れた。報告を信じるのであれば、あれが帝都急行―――深海棲艦。

 

「由良さん……」

 

『……あちらさんに文句を言う暇も与えてくれない、ってことかな』

 

 マイクを通して彼女が苦虫を噛み潰すじゃりじゃりという音が聞こえた気がした。

 

 その間にも会敵時間は刻々と近づいてくる。

 

『何悩んでんだよ。ば~と行ってが~っとやっつければ、全部解決だぜ!!』

 

『だけど深雪ちゃん、あたしたち客船を守りながら戦うんだよ!!そんなに簡単な話じゃ……』

 

『ううん、今回に限っては深雪の言う通りだと思う』

 

 意外にも深雪の脳筋提案に由良が賛同する。

 

『敵が客船を射程圏内に捉える前に交戦状態に入ることができれば、客船の退避時間を稼ぐことができる。それにどのみち―――』

 

 インカムから届く声のトーンが低くなった。

 

『―――どのみち由良たちが帝都急行を撃退できなければ、あの客船が真っ先に襲われる。そうしたら船は大破轟沈。救助隊は近づくこともできず、乗客と一緒に暗い海の底に沈んでいく……』

 

「そんなこと―――絶対にさせません!!」

 

 反射的に叫んでいた。

 

 別に朝潮の真似をしたわけでは無い。素直にそう思っただけだ。

 

 前を行く由良がこちらをちらっと見て、こくりと頷いた。

 

『―――皆聞いて!!現状、一分一秒でも速く戦端を開くことが民間人を守ることに繋がるの。これより艦隊は可能な限り接敵し、直前で回頭、単縦陣に陣形変更。敵進路を丁字に塞ぐ形で砲撃戦を仕掛けます!!全艦、機関最大戦速!!』

 

『了解!!』

 

 全員の機関ユニットが絶叫に近い唸り声を上げ始めた。主機で思いっきり海面を蹴り飛ばすとすぐに加速が始まり、景色が猛烈な勢いで後ろに流れていく。

 

 途中、件の大型客船とすれ違った。

 

 艦娘が珍しいのか、船窓やデッキでは沢山の乗客たちがカメラや携帯を構えてしきりに写真を撮っている。由良が止めないところを見ると、艦娘の存在自体は一般人に機密事項ではないらしい。

 

 なら深海棲艦の存在は?

 

 乗客たちは客船の後ろから死の運命が近付いていることに気付いた様子は無い。

 

 客船の巨体が生み出す波をジャンプで避けたりしながら横を通り過ぎる。やがて客船の姿は小さくなり、その航跡も消えていった。

 

 逆に黒い豆粒に見えた深海棲艦の影が、どんどん大きくなっていく。

 

『敵艦確認、こちらには気付いていないみたい。砲身の角度は水平に固定。攻撃目標を先頭の一体に、ギリギリまで接近して一斉射撃。敵隊列が乱れたら反転して、各個撃破していきます』

 

 やがてターゲットとなる敵の姿が細部まで分かるくらいにまで近づいた。

 

『うえ、またあいつか』

 

 深雪がそう言うのも無理はない。3両編成で進む帝都急行、その先頭に立つのはさっきの訓練でお世話になった、額の大きな単眼が特徴的な駆逐艦ハ級だ。しかし今度は本物。その後ろにイ級が二隻付き従う。

 

 深海棲艦の実物は初めて見るが、これに比べると発泡スチロールの標的に描かれた絵など可愛いものだ。

 

 軽自動車大の身体は機械と生物を無理やりミキサーに入れて合体させたような醜悪な風体、そして異形の顔貌。

 

 外殻を覆うクジラみたいな黒い硬質の肌はしっとりと艶を帯び、額に大きく開いた発光機も兼ねるすり鉢状目は、沼地に現れる幽鬼の光ウィルオウィスプのように陽光の下でも青く怪しく輝いている。

 

 下半身は水面に出さず、少し浮かび上がるようにして海面を疾走する深海棲艦たちの姿は水中翼船にも似ていた。

 

『深雪、由良より先に絶対砲撃を始めないでね。大丈夫、さっきのは勇み足だっただけだから。必ず当てられると信じて』

 

『ぃよーし、行っくぞ~っ!!』

 

『五月雨と朝潮は、とにかく落ち着いて撃つこと。あなたたちの腕なら、この距離での水平射撃は絶対当たる。さっき上手く言った感覚を忘れずに』

 

『はいっ!!』

 

 五月雨と一緒に返事をする。

 

『これより砲撃戦に入ります!!全艦、主砲装填!!』

 

 まっしぐらに進む帝都急行とすれ違うべく進む戦隊。突然由良が単装砲を着けた左手をさっと真横に差し出した。取り舵の合図。彼女の航跡が綺麗な弧状のシュプールを描くのを眺めながら、それをなぞる様にして続く。複縦陣で並走していた深雪、そして五月雨が後ろに合流、4人が一列に並んで単縦陣が完成した。

 

 やっと接近する敵に気付いたのか、こちらを迎撃すべく先頭を走るハ級の無駄に歯並びの良い大口が顎でも外れたかのようにぐばぁっと開く。中から金属光沢を放つ真っ黒な5インチ連装砲がでろりと剥き出しになった。

 

 が、遅い!!

 

『全砲門、よぉく狙って―――てーぇ!』

 

 声に合わせて自分も連装砲の引き金を引く。その瞬間、大音響音と共に8つの砲門が火を噴いた。

 

 撃ち終った後は立ち込める発砲煙のカーテンを突っ切り、敵の反撃に備えて主砲を再装填しながら距離を取る。

 

 駆逐艦ハ級の手前に上がった水柱は3つ。

 

 どうっ、と大きな何かがが倒れる音に続いて、砲撃によるものではない一際太い水柱が上がった。その中から横倒しになったハ級の巨躯が、まるで水切り石のように海面を跳ねて飛び出す。

 

 穴だらけになった黒い外殻の下、白い腹と申し訳程度の足が無様に陽光に曝け出された。

 

 14cm単装砲と12.7cm連装砲。どちらも軽巡と駆逐艦の初期装備だが、一度に喰らえば重巡級だって無事ではいられない。装甲の破片をばら撒きながら水面を転がるハ級は、そのまま浮力を失って海中に没していった。

 

『命中弾5、ハ級撃沈!!後ろのイ級がもたついてる間に仕留める!!』

 

 先頭車両を失い2両編成になった帝都急行は、つんのめったようにブレーキをかける。船間距離が急速に詰まり、巨大な魚雷にも見える後ろのイ級の頭が、前を行くイ級の尻尾に軽くごつんと激突した。

 

 渋滞を起こしたイ級は、だが直ぐに体勢を立て直す。そしてまだ白く泡立つ僚艦の沈んだ跡を踏み越え、帝都への疾走を再開した。深海棲艦は想像以上に切り替えが早いらしい。

 

『あいつら深雪たち無視かよ!?』

 

『このままだと逃げられちゃいます!!』

 

 敵の反撃を予想していた艦隊に動揺が走る。

 

『全艦、跳躍反転!!五月雨を先頭に単縦陣で追撃―――後ろから噛みつくよ!!』

 

 由良の凛とした声がインカムから聞こえた。場慣れしているのか、旗艦の彼女はこんな時でも乱れない。

 

 しかし反転は分かるけれども、跳躍とは一体?

 

 そんな感想を抱いた瞬間、目の前の由良が言葉通りぴょん、と跳び上がった。重い背中の機関ユニットをものともせず、空中でクルっと180°回転し身体の向きを変える。

 

 彼女はそのまま陸上選手がするクラウチングスタートみたいに、海面に胸が接触するくらいの低い前傾姿勢で踏ん張った。突然反対方向の慣性に晒された主機が、唸りを上げて波を弾き飛ばす。

 

 競艇選手にもできない、人型の艦娘だからこそできるぶっ飛んだ方向転換。

 

 ……しまった、遅れた!!

 

 慌てて自分もジャンプして反転。着水すると同時に襲い掛かるGに全身で耐える。

 

 水面で踏ん張った二本の細い脚がガクガクと震え、負荷のかかった主機がその下で悲鳴を上げた。だが、

 

「――――っ、止まらないっ!!」

 

 このままだと流される!!

 

 少しでもブレーキをかけようと海面で足掻くが、むしろ姿勢が崩れてしまった。幸い機関ユニットにオートバランサーが組み込まれているのか、転びはしないが風に煽られたように仰け反った状態で後ろに滑っていく。

 

「朝潮、落ち着いて」

 

 耳元で優しい声が囁き、そっ、と両肩に手が置かれた。すぐに姿勢が安定し、主機が前向きの推力を発揮し始める。

 

「あ、ありがとう、ございます」

 

「いいの。さ、仕上げに追いかけるよ」

 

 支えてくれた由良に礼を言うと、彼女はにっこり微笑んだ。

 

『深雪さま一番乗りぃ!!』

 

『きゃっ、深雪ちゃん危ないっ!!』

 

 突然インカムを通して五月雨の悲鳴が鼓膜を突き刺す。

 

「どうしたの!?」

 

『あの、深雪ちゃんがあたしを追い越して―――!!』

 

 見ると、五月雨の後ろに続くはずの深雪が迂回して先頭に躍り出ていた。それだけならまだしも、後続を無視して単艦で帝都急行に追い縋ろうとしている。彼女の敢闘精神に反応してか、背中の機関ユニットから噴き出す黒煙はいつにもまして盛大だ。

 

「深雪?!命令違反はやめて隊列に戻りなさい!!」

 

『行っくぞー!!敵はどいつだぁ!?』

 

 当の本人は聞いちゃあいない。

 

 これは懲罰ものね、と由良がため息をつきながら頭を振った。

 

「五月雨、こうなったら仕方がないから、深雪を追いかけてフォローお願い。射撃タイミングも深雪に合わせて。由良と朝潮は残った方を叩く!!」

 

『は、はい!!あたし、頑張っちゃいますから――――深雪ちゃん待ってぇぇぇっ!!』

 

 半泣きになりながら進む五月雨の姿がみるみるうちに遠くなる。その航跡を踏むようにして、由良と二人並んで追跡を再開した。

 

「深雪は2隻の敵のうち、先頭の方を攻撃すると思うの……正常な判断力が残っていればの話だけども、ね」

 

「さっきみたいに頭を押さえたら敵の動きが鈍るから、ですか?」

 

「そうそう。残った方は仲間がトドメをさせるから。逆に全部自分で倒そうと思っていたら……」

 

 後ろの敵から一隻ずつ、自分が近付いた順に攻撃していく、と。

 

 その場合、下手をすればトカゲの尻尾切りで先頭の敵に逃げられ、転覆する後ろの敵に仲間が巻き込まれる恐れもある。……深雪がそこまで脳筋でないことを祈ろう。

 

 そう思った瞬間、

 

 どうん、どうん、と砲撃音が二つ。そして遅れてもう二つ、大気を震わせた。

 

 すぐさま大きな水柱が上がり、前を行くイ級の船足が目に見えて遅くなる。

 

 深雪たちがやったのか!?

 

「行こう朝潮、しっかりね」

 

「はいっ!!」

 

 右手の12.7cm連装砲を水平に構え、少し腰を落とす。そうしている間にも足元の主機は白浪をかき分け敵の元へと自分たちを運ぶ。

 

 有効射程距離に入った。横にいる由良の顔をちらっと見るが、彼女は砲撃指示を出さない。引き絞った引き金に掛けた指が震える。

 

 眼前のイ級が進路調整のため回頭モーションに入った。外殻に覆われた黒く細長いその船腹が、こちらに向かって一瞬無防備に晒される。これを待っていたのか!!

 

「てーぇ!!」

 

 掛け声と同時に引き金を引いた。

 

 轟音、振動で体の芯が震える。

 

 だがもう3回目だ。暴れる砲身を捻じ伏せて自分の進路を維持。

 

 風を切って飛翔する4つの砲弾の軌跡が、今度ははっきり見えた。そしてその全てがイ級の胴体に吸い込まれるところも。

 

 直後、イ級が爆ぜた。

 

 急激に上昇した内圧が外殻を変形させ、逃げ場所を求めたエネルギーが船殻に開いた口と目から中身と一緒に吹き出す。

 

 もはや自力航行能力を失ったイ級は、大破後も潮に流されてゆっくりと回頭を続けた。

 

その顔と正面から向かい合う。

 

 瞳の蒼い光は消え、眼窩からは涙のように内容物が垂れ落ちている。生命の息吹は感じられない。またその姿には恐怖も無い。ただ漂うだけの船の残骸。

 

 これを自分が――――朝潮がやったのか。その小さく幼い身体で。

 

「朝潮、お疲れ様。自分から言い出したとはいえ、具合が悪いのに頑張ったね。あっちの二人と合流して帰投しよっか?」

 

 一仕事終わった、と言った感じで晴れやかな表情の由良。

 

「は……はい……」

 

 それを見て、勝ったのだ、という実感がやっと湧いて来た。途端に限界に近かった緊張の糸が途端に緩む。糸は自分の背骨にも繋がっていたらしく、膝の関節に力が入らずへたり込みそうになるのを必死で支える。

 

……ついでに下腹部に尿意も感じるけど、帰ったらどうしよう、これ。

 

『やったぜー!!深雪さまの活躍、見てくれた?なぁ!』

 

『やめようよ、危険だから降りようよ!!』

 

「また何かやらかしているのかな、深雪は……」

 

 巡航速度で由良と一緒に二人のところへ近づく。

 

 途中、深雪と五月雨が撃沈した前列のイ級の脇を通り過ぎた。

 

 波間に漂いながら三分の二ほどを水面に出し、力無く体を横たえたそれは、浜に打ち上がったクジラの死体を思わせる。反撃を試みる前に攻撃されたためか、白い歯が印象的な大きな口は、きっと横一文字に閉じられていた。

 

 外殻に開いた穴は2発。どちらの砲撃がトドメになったのかは分からないが、深雪の独断専行がうまく転がってくれて良かった。

 

 やがてインカムから聞こえていた彼女たちのやり取りが肉声でも聞こえる距離になった。

 

 そして騒ぎの原因が分かると、一気に疲労感が全身を襲う。

 

「深雪――ちゃん、何やってるの?」

 

「おおっ、朝潮!!ちょうどいいところに来たな。せっかくだから写メ撮ってくれよ。五月雨の奴がMVP取られて不貞腐れててさ」

 

「そうじゃなくって―――だから深雪ちゃん、危ないって言ってるのにぃ!!」

 

 先ほど撃沈した最後列の駆逐艦イ級。4分の1ほど沈みかけたその船体の頭の上に、深雪が登って連装砲を構えてポーズをとっている。それを何とか降りてもらおうと、おろおろしながら周囲をくるくる回る五月雨。

 

 いや、本当に何をやっているんだか……。

 

 どうしましょうこれ、と隣の由良を見た。彼女も疲れた顔をしているがすぐには動こうとせず、まず一通り辺りを見回してインカムのマイクに話しかける。

 

「鳳翔さん、こちらは由良水雷戦隊。敵駆逐艦ハ級1隻、イ級2隻の轟沈を確認。肉眼では周囲に他の敵影は認めておりませんが、偵察機の方はいかがでしょう?」

 

『こちら横須賀鎮守府。現在水偵の索敵範囲内に敵影はありません。やはり今までと同様、短発の帝都急行であったものと考えられます。そうそう先ほどの大型客船も、無事横浜に入港できたそうですよ』

 

 ほぅっ、と安堵した空気が流れる。

 

 良かった、今度は護ることができた…………ん、今度?

 

『周辺海域の哨戒はこちらで継続しますので、みなさんは敵残骸の海没を確認後、随時鎮守府に帰投してください。お疲れ様でした。お夕飯、奮発しますのでお楽しみに……』

 

 鳳翔さんとの通信が終わった。由良はマイクを切ると、きっ、と深雪の方を見据える。

 

「み~ゆ~きぃ~さっきの命令無視は何かなぁ?それに敵艦とはいえ死体で遊ぶのは、由良もさすがに褒められないなぁ……」

 

 ずごごごごご、と笑顔の後ろで不動明王のオーラを立ち昇らせる由良。

 

 だが深雪は気にした様子も無く、イ級の頭の上ではしゃぐのを止めない。

 

「よ、由良もお疲れ!!今日のMVPは深雪だよな、な?」

 

 ……ある意味大物だな、この子。

 

「こら待ちなさい、っていうか降りなさい深雪っ!!」

 

「深雪がMVPって報告してくれるんなら降りるぜ!!」

 

「そんな勝手なこと、認められるわけないじゃない!!」

 

「そうだよ深雪ちゃん、だってMVPはあたしなんだから!!」

 

 某猫と鼠のようにイ級の周りで追いかけっこを始める深雪と由良。

 

 そしてどさくさ紛れに何を言ってはるんですか、五月雨さん。

 

 ……これがこの鎮守府の日常的な風景なんだろう。何だかんだで皆仲が良い。

 

 そこに混じることも考えたが、僅かばかりの抵抗を感じ、くるっと踵を返した。

 

 どうせもうしばらくすればイ級の残骸は完全に海没して、深雪は逃げられなくなる。それまで待てばいい。

 

 彼女たちから離れたところで主機を止め、大きく深呼吸した。潮の香りが胸を一杯に満たす。何だか懐かしいような気がするのは、自分が朝潮だからだろうか。

 

 西の空にいつの間にか沈みかけていた太陽が、視界に広がる太平洋をオレンジ色に染めている。光を反射した海面には、どこか遠い異国に続くキラキラと輝く橋が掛かっていた。

 

 さっきまでここで、命がけの戦いを繰り広げていたとは思えないほど美しい光景。陽が消える直前にしか現れない、一瞬の幻想。

 

 それを眺めながら、暗くならないうちに鎮守府に戻れればいいのだけれど、とも思う。夜間の航海も夜戦もやったことが無いし。

 

 というか、切実な問題として早くトイレに行きたい。長時間洋上で戦闘やら遠征やらをやっている艦娘は、一体どう処理しているのか謎だ。

 

 さっきの深雪が登っていたイ級に目をやると、既に顔の半分も見えない状態。追いかけっこも佳境に入った様子だ。

 

 その場でさっと反転。もう一隻の深雪と五月雨が撃沈した方は、と……

 

ドウンッ!!

 

「え――」

 

 風が、音が、そして何か黒い物体が通り過ぎた。

 

 遅れて積み木をバラバラに崩した時のような乾いた炸裂音。

 

 後ろから届いた爆風が、長い黒髪を揺らす。 

 

「何―――」

 

 轟沈したはずのイ級、先ほどは閉じられていたその口から、黒くて長い砲身がぬっと伸びていた。砲の先端からは白い煙が立ち上っている。

 

 まだ生きていた―――倒しきれてなかった―――

 

「みんなっ、大丈……」

 

 急いで振り向く。だがそこには、誰もいない。

 

 ただ爆散したイ級の黒い外皮が波間に揺れているだけだ。

 

 はしゃいでいた深雪も、

 

 怒っていた由良も、

 

 慌てていた五月雨も、

 

 誰も―――

 

「う――そ――」

 

 護れなかった―――

 

 ズクンッと左胸が疼く。

 

 私はまた――護れなかった

 

 護れなかった護れなかった護れなかった

 

 護れなかった護れなかった護れなかった護れなかった

 

 護れなかった護れなかった護れなかった護れなかった護れなかった

 

 護れなかった護れなかった護れなかった護れなかった護れなかった護れなかった

 

 護れなかった護れなかった護れなかった護れなかった護れなかった護れなかった護れなかった

 

「あぁうっ!!」

 

 思考と心を、悲しみと後悔が綯交ぜになったものが浸食、塗りつぶしていく。

 

 目から珠の形が分かるくらい大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。

 

 視界の中、黄昏の空が赤黒く染まる。

 

 降り注ぐ幾条もの光の矢が、黒煙を上げて燃え上がる船に突き刺さる光景。

 

 妹の、荒潮が上げる断末魔の悲鳴。

 

『俺はもう疲れたよ』

 

 焔の中、ふいに海軍の軍服を着た、ずんぐりとした壮年男性の姿が浮かび上がった。

 

『このへんでゆっくり休ませてもらうさ』

 

 水雷の鬼と呼ばれ、どんな難局も男冥加と笑っていたあの人も。

 

 私が―――私だけが―――護ってあげられるはずだったのに!!

 

『ザザッ――あ――お――あさ――――朝潮!!朝潮!!』

 

 耳元で何かを呼ぶ声がする。誰の事だろう?

 

『朝潮!!目を覚まして、朝潮!!聞こえないの!?』

 

 逡巡、やっと自分が呼ばれているのだと気が付いた。

 

「はいっ朝潮、感良し、です!!」

 

『それはいいから』

 

 声の主は由良だ。彼女は無事だったのか!!

 

 途端に視界が広がった気がした。空には夕闇が押し寄せているが、まだ太陽は西に残って光を投げかけている。

 

「由良さん、みんなは大丈夫なんですか?」

 

『なんとか。でも状況はかなり悪いかな。あいつ、仲間の弾薬庫区画を狙って撃って来たの。爆発の衝撃で深雪は意識が飛んだみたいで、機関ユニットのレスキューモードが発動中。そこらに漂ってる。五月雨は機関ユニットが中破した上に、主機にダメージを受けて速度が出ない。由良はその五月雨を曳航中だけど、こっちも中破しちゃったから戦闘は難しいかも』

 

 壊滅的被害ではないか。

 

「すぐに救援に――!!」

 

『ダメよ!!』

 

 否定の言葉が鋭く突き刺さる。

 

『朝潮、よく聞いて。あなたはすぐにこの海域を離れるの。鎮守府で運用可能な艦娘をゼロにはできない―――分かって』

 

「そんな!!敵はどうするんです?!」

 

『さっき鳳翔さんを呼んだから。あの人のアウトレンジ攻撃なら、動けなくなった駆逐艦なんて一撃よ』

 

 そうかもしれない。でも、

 

「その間―――由良さんはどうするんですか?」

 

 ふふっ、と自嘲するような声。

 

『耐えてみる、しかないかな。装甲がどれぐらいもつか、根競べ』

 

 それを聞いた途端、一瞬で頭の天辺にかぁっと血が昇るのが分かった。

 

 もう誰も犠牲にしたくない。

 

 今度こそ―――今度こそ―――護り通す!!

 

 怒気が全身にぶわっと満ち溢れ、気が付いた時には体が砲撃してきたイ級に向かって最大戦速で駆け出していた。

 

『朝潮!!命令よ、早く撤退しなさい!!』

 

「嫌です!!みんなを助けた後、みんなで帰ります!!」

 

 そう言い放ち、インカムを海に投げ捨てる。後ろを確認すると、爆発したイ級の破片の影に、白煙を上げながら五月雨と一緒にゆっくり移動する由良の姿が見て取れた。

 

 あれではいい的だ。

 

 眼前の沈みかけのイ級に集中する。その黒光りする砲塔が、標的を由良たちに据えようと向きを変えた。

 

 やらせないっ!!

 

 全速力でその射線上に割り込む。真ん丸な砲口が目玉のようにこちらを見ている。

 

 そうだ、それでいい。これなら由良と五月雨に、こいつの砲撃は届かない。

 

 正面からイ級と向き合う形で、ぐんぐん距離を詰めていく。

 

 主砲再装填。これで決める!!

 

 もっと近くで、もっと確実に!!

 

ガウンッ!!

 

 イ級の第二射。

 

 左胸から左腕にかけて、スカートの肩紐と一緒に昼間着替えたばかりのブラウスが吹き飛び、飾りっ気のない白いジュニアブラが露わになる。

 

 痛い。

 

 野球選手の金属バットを使った全力フルスイングを左胸に喰らったような衝撃。思わず息がつまる。

 

 でも―――あの突き刺すような胸の痛みに比べればっ!!!

 

 被弾の反動で体が傾き、自然に12.7cm連装砲を握った右手が前に出た。

 

 あいつの弾が当たるのならば、こちらの弾も絶対当たる!!

 

 深海棲艦―――仲間を傷つける、私の敵。

 

「この海域から―――出ていけ!!」

 

 引き金を引く。

 

 発射音は自分の絶叫にかき消された。

 

 二つの砲弾は真っ直ぐ進み、イ級のぽっかり空いた口の中に吸い込まれるように飛び込む。

 

 水面が揺れた。次の瞬間、イ級の口から大量の海水が吹き出す。

 

 砲弾が腹を食い破ったのだ。

 

 間抜けな噴水のようになったイ級は船尾の方から沈んでゆき、最期は黒い空を光の消えた瞳で睨みながら、とぷん、と一際大きな波紋を残して暗く冷たい海中に消え去った。

 

 だがこちらも無事ではない。

 

 背中の機関ユニットから、もうもうと白煙が立ち上がっている。足元の主機もがくがくと震えておぼつかない。オートバランサーの許容範囲を超えて体勢が崩れ、海面に倒れ込む。

 

ピーッピーッピーッピーッ

 

 機関ユニットから警告音が響き、すぐにそこからエアバッグのような一人用の救命筏が膨らんだ。

 

 だが乗り込むだけの力が残っていない。

 

 主機が浮力を失い、足元からぶくぶくと水に沈んでいく。が、代りに救命筏と一体になった背中の機関ユニットが浮きになって体を支えてくれた。

 

 といっても水面で吊り下げられる格好のため、下半身は完全に海の中だ。海水で急に冷やされたせいで、下腹部の刺激するあの感覚が戻ってきた。

 

「朝潮っ!!」

 

「朝潮ちゃんっ!!」

 

 由良と五月雨がゆっくりとこちらに近づいて来た。よく見ると五月雨の主機は片方無く、由良に支えてもらってやっと立てる状態だ。

 

「朝潮ちゃぁぁぁんっっ!!うわぁぁぁっっ!!」

 五月雨が突然飛びついてきて号泣し出した。が、主機が一つしか無いことを忘れていたらしく、そのまま落とし穴に足をとられたように、ずぼっ、と海中に落ち込む。

 

 水に触れた五月雨の機関ユニットからも警告音が響き、救命筏がもう一つ増えた。

 

「無茶ばっかりして、もう」

 

 優しい笑みを浮かべながら手前でしゃがんだ由良が、動けない自分のおでこにデコピンを一発。

 

「これで許してあげる」

 

「由良さん……」

 

 彼女を見ていると、何故だか気になっていたそれを尋ねてみたくなった。

 

「あの、朝潮は……駆逐艦朝潮は、みんなを護れましたか?」

 

 自分の問いかけにすぐには答えず、由良は立ち上がった。そして両手を広げ、くるりと目の前で一回転する。

 

「そうよ、朝潮。船も、由良たちも、この海も……全部あなたが護ったの」

 

 その一言ですっと体が軽くなり、疲労も痛みも全て飛んでいくような気がした。

 

 街の光に彩られはじめた東京湾を背に、波を蹴立てて進む鳳翔と、回収艇と思われる小型船が向かって来る。

 

 海に全身を委ねて空を眺めた。

 

 イ級が最後に見上げた夜空には、一番星が遠く輝いていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

任務5『艦隊大整備計画!』

帝都急行との戦いが終わった後、レスキューモードで放出された筏と一緒に海月状態で漂っていたところを鳳翔さんと回収艇に救助され、横須賀鎮守府に戻る。

 

 皆疲労困憊していたことから、帰りの船の上では誰も口を開かなかった。尤も一番騒がしい深雪が目を回したままだったこともあるのだろうけれど。

 

 回収艇が港に着き陸に上がると、そのまま例の艦娘専用傷病療養施設に行くと思っていたのだが、どうやら違うらしい。機関ユニットは途中で別れて整備工廠へ。

 

 そしてオレンジ色の毛布を打ち掛けたまま歩く由良と五月雨、起きる気配の無い深雪の乗った担架と一緒に連れてこられたのは、鎮守府敷地内の近代的な白いビル、言ってしまえば普通の町病院みたいな建物だった。

 

 表の白看板に赤字ででかでかと『男子禁制』と書いてある以外は。

 

「は~い皆さん、診察するので服を脱ぎましょうね~」

 

 両開きの大きなドアを開け中に入ると、待ち構えていた女医らしき白衣を着たメガネの中年女性が、脱衣するよう号令をかける。

 

 背後で扉が閉まるのを確認してから羽織っていた毛布を取り、言われた通り自分の服に手を掛けようとすると、それより先に彼女の周りに控えていた若い女性看護師たちの手が何本も伸びてきた。

 

 抵抗する暇も、そして恥ずかしがる暇さえなく服を引っぺがされる。

 

 それは脱がす、などという優しいものではなく、看護師たちが手に持った大型の裁ち鋏によって、破れたブラウスから焦げたジュニアブラ、スカート、パンツ、そしてニーソックスに至るまで、文字通りズタズタに切り裂かれた。

 

 よくドラマで意識の無い患者が救急車で運ばれてきた時、鋏で服を切って脱がされるシーンがあるけれども、まさにそれと同じ。いや、それ以上に荒っぽいかもしれない。

 

 立ったまま一瞬で素っ裸にされてしまったのだが、前にいる由良と五月雨は慣れているのか、黙って看護師にされるがままになっている。

 

 さっきまで服だった布切れの最後の一枚ががはらりと落ちると、二人の白い陶磁器のような背中ときゅっと引き締まった可愛いお尻が、蛍光灯の光の下露わになった。

 

 無機質なリノリウムの廊下に立つ大小の少女の裸体像からは、現代アートにも似た非現実っぽさが漂っている。

 

 だがすぐに看護師の腕が薄手の白いバスローブを肩に掛け、淫靡なショーは終わりを告げた。

 

 担架で運ばれる深雪と別れ、中年女医に引き連れられて診察室へ移動。順番に学校の保健室みたいな部屋に入り、簡単な問診と診察を受けることになった。

 

 自分の番が来たので中に入り、小さな丸椅子に腰かける。先に入った由良が被弾状況を説明してくれていたらしく、すぐさま「敵の砲弾が当たった左胸は大丈夫?」と尋ねられる。

 

 改めて意識してみると筋肉痛のような軽い痛みは感じるものの、腕を動かしても特に支障は感じない。

 

 大丈夫みたいです、と告げると、女医は両手を伸ばして直接こちらの左胸に触れ、その少し脂の抜けた手で胸と肩関節あたりの肋骨を何度か押し、「これはどう?」と聞く。

 

 やっぱり痛くはないです、と答えると彼女は満足したらしく、聴診器を取り出して簡単に胸の音を聞き、それで診察は終わった。

 

 診察室の外に出ると、先に診察を終えたはずの五月雨が待っていてくれていたので、一緒に建物の外へと続く短い渡り廊下に向かってペタペタと裸足の音をさせながら歩く。

 

 廊下のお終いにある扉に辿り着き、電子ロックに五月雨が2回間違えながらも暗証番号を入力。ガチャッ、と鍵の外れる音がした。

 

 扉を開けるとそこには―――

 

「お風呂?」

 

 そう、渡り廊下から入ったところは、スーパー銭湯とか、温泉付きホテルの公衆浴場の脱衣所といった感じのベージュ色の壁と床、その上に脱衣籠がまばらに置かれた部屋だった。

 

『二人とも、来たなら早く入ったら?』

 

 湯気の立ち込める大きな硝子戸の向こう側から、くぐもった由良らしき女性の声が呼びかけてくる。

 

 は~い、と威勢よく答えた五月雨は、羽織っていたバスローブを躊躇うことなく脱ぎ捨てて手近な籠に投げ込む。再びすっぽんぽんになった彼女は、いこ、とこちらに声をかけると、引き戸を開けて、とてとて湯気の中に消えて行った。

 

 ……入渠が入浴というネタはアンソロジーでもあったけど、いざ自分が入るとなると女湯に侵入するのと変わらない。

 

 硝子戸に手をかけたまましばらく悶々としていたが、小さな傷でも命取りになる場合があるし、最終的に治療のため、と自分を納得させた。

 

 バスローブをはらりと脱ぐと、仔鹿のような朝潮の裸が現れる。起伏の少ない発達前の少女の肢体は、その身を戦場に置いているにも関わらず、目立った大きな傷痕は無い。

 

 首を傾けると、膨らみと呼ぶには寂しい起伏に乏しい胸と、少しぽっこりしたお腹に小さなおへそ、無毛の股間までが一直線に繋がって見下ろせた。

 

 じっと見ていると変な気持になりそうなので、ぶんぶん首を振って邪念を振り払う。

 

『朝潮ちゃ~ん?』

 

 五月雨の呼ぶ声。あまり待たせても不審に思われるかもしれない。

 

 意を決してがらっと引き戸を開け、中に入る。途端にぶわっ、と全身が湯気に包まれた。

 

 薄目で辺りを見渡すと、タイル張りの床、壁に並んだ鏡とシャワーヘッド、奥には大きな浴槽が一つ。

 

 ……やっぱり銭湯だ、これ。

 

 しかし先に入っているはずの二人の姿が見えない。探しながら湯船に近付く。と、お湯の中に紫色と水色の触手を広げたクラゲ二匹が浮いていた。

 

「ぷはっ―――ふぅ」

 

 突然水色のクラゲが浮上。その下から現れたのは五月雨だった。濡れて乱れた長い髪の毛が、利尻の昆布みたいに頭から垂れ下がっている。

 

 続いて紫色のクラゲ、由良がざばあっと水の中から頭を出す。彼女のトレードマークである太いサイドポニーは解かれており、一瞬誰だか分からなかった。

 

「二人とも、何をやってるんです?」

 

 クラゲごっこ?五月雨だけならともかく、由良がそれをやるとは思えないが。

 

「痛んだ髪の高速修復、かな。深雪ぐらい短いならいいけど、由良や五月雨みたいに髪の毛が長いと、修復液に浸けてからじゃないとシャンプーで逆に痛んじゃうの」

 

「こうすると、髪が凄くつやつやになるんだって。朝潮ちゃんも髪の毛長いんだから、一緒にやらない?」

 

 言われて自分の黒髪を触ってみる。湯気で大分潤ってはいるが、潮風と爆風、爆炎に曝され、最後は海に浸かった髪の毛は、指先にさらさら、ではなく確かにごわごわと触れた。

 

「でも、皆が使うのに頭を浸けてもいいんですか?」

 

「気にしないで。どうせ由良たちが入り終わったら、お湯は全部入れ替えるんだから」

 

 なら大丈夫か。

 

 手近な洗面器――ケ○ヨンと書かれた黄色いそれを手に取り、浴槽からお湯を汲んで身体にかける。その温かさが、知らない間に自分の身体が冷え切っていたことを教えてくれた。

 

 お湯自体は市販の温泉の素のような、芳しいのにどこか得体のしれない人工的な香りがすることと、多少ぬるぬるする以外は至って普通。

 

 これが艦娘専用の修復液なのだろうか。入浴剤と変わらない気がするけど。

 

 ゆっくりとつま先から湯に入る。触れた部分からじんわりと熱が広がっていく感覚。

 

 やがて肩まで湯に浸かった。そしてこの柔らかいとろけるような肌触り、まるで全身が温かいゼリーにでも包まれているみたいだ。

 

 確かにこれは効く。疲れが溶けて毛穴の一つ一つから滲み出だしていく感じがした。

 

 ふと浴槽の脇を見ると、『天然横須賀温泉掛け流し』という看板が下がっている。視線に気づいた由良があはは、と笑いながらそれをひっくり返すと、『高速生体修復液使用中』の文字が現れた。

 

「普段ここは鎮守府の職員向けの24時間風呂になっているんだけど、艦娘の出撃後にはお湯を入れ替えて、簡易メンテナンスドックに早変わり、ってわけ」

 

 いつもは寮のお風呂しか使わないから、皆ここは初めてだよね、と続ける。

 

 確かにゲームみたいに一つの鎮守府に100人以上の艦娘が駐留するならいざしらず、この人数規模なら一般施設を流用した方が効率的、という上層部の判断なのだろう。

 

 それに専用施設を造ることで、艦娘と軍関係者の間に溝ができるのを避ける意味もあるのかもしれない。

 

「じゃあ装備保管庫の脇にあった傷病療養施設は、ドックとは違うんですか?」

 

「あっちも通称ドックだけど、リハビリを兼ねた長期療養のための施設かな。重傷なら横須賀市内の海軍病院送りだし、使いどころが微妙なのよね」

 

「そういえば深雪ちゃんが、あそこ人がいなくてお化け屋敷みたいだから、今度肝試しに行こう、って言ってたな~」

 

 ぱちゃぱちゃと足を動かしながら五月雨がぼやく。お湯に蛍光緑っぽい色が付いているのと濃密な湯気のため、幸い彼女の大事なところは見えていない。

 

 由良と五月雨がそうしているように、自分も耳元まで浸かって髪の毛を湯の中に解き放つ。

 

 粘度があるせいか、自然には広がらない。仕方ないので手を動かし波を立ててやると、黒い線が海藻のようにゆらゆらと揺れながら放射状に広がっていった。

 

「ほふぅ……」

 

 思わずため息が漏れる。それを聞いた五月雨がくすくすと笑った。

 

「朝潮、今日は頑張ったものね。お風呂は貸切だから、思いっきり休んだらいいよ。それにこのお湯には治癒促進以外にも、美肌と保湿の効果があるから、ね」

 

 そう言って由良はお湯で顔を洗うと、自分もはぁ、と色っぽいため息をついて身体を浮力に任せた。

 

 3人で湯船に浮かんだまま、しばらくゆったりとした時間が流れる。

 

 天井近くを見上げると、LEDではない橙色の電球照明が湯気の向こうでぼんやりと浮かんでいた。そこから視線をスライドさせると、入った時には気付かなかった葛飾北斎の有名なペンキ絵が目に入る。名前は忘れたけれども、大浪に翻弄される船の奥に富士山を望む、富嶽三十六景の一枚。風呂の中でも海を忘れないとは。

 

 あれを見る限り、少なくともあの絵が描かれた頃までは、自分の知っている歴史と同じということなのだろう。だとすると……

 

「……深海棲艦って……艦娘って……何なんだろう……」

 

 誰に言うとでもなく、湯気に向かって小さく問いかける。

「突然海から現れた謎の侵略者。艦娘はそれをやっつける海軍所属の正義の味方、じゃ足りないかな」

 

 聞いていたのか由良が答えてくれた。

 

 無言の時間が流れる。

 

 耳を澄ましていると五月雨の方からすぅすぅ、という小さな寝息が聞こえてきた。どうやらリラックスし過ぎて風呂の中で眠り始めたらしい。

 

「……やっぱり朝潮は誤魔化されてくれない、か」

 

 軽巡向けの対駆逐艦問答用例なんだけど、と由良はお湯の中でぶくぶくと独りごちる。

 

「そんなものがあるということは、海軍は知っていて何かを隠しているんですか?」

 

「さあどうかな?軽巡レベルで閲覧可能な情報には何も書いていなかったし、痛くも無い腹を探られたくないだけだと思うけど」

 

「じゃあ……由良さんは?由良さん自身はどう考えているんです?」

 

 え、と一瞬言葉に詰まる。湯気の向こうで彼女は逡巡しているみたいだったが、やがて意を決したように口を開いた。

 

「みんなには言わないって約束、できるかな?」

 

 即座にはい、と答えると、由良は参ったなぁと言いながら話始めた。

 

「といっても通常兵器が通じない謎の敵が深海棲艦で、唯一対抗できるのが私たち艦娘、という大前提は変わらないよ。そこで由良は考えたの。深海棲艦と艦娘、どちらが先に生まれたのかな、って」

 

 普通に考えてみると深海棲艦が先で、それに対抗するため艦娘が生み出されたと考えるのが妥当だ。対深海棲艦以外で艦娘が必要とされる背景が想像できない。

 

 その旨を告げると、由良はそうそう、と同意した。

 

「だとすると、次に艦娘の『兵器としての構想』はどこから来たと思う?」

 

 深海棲艦に対抗するため、深海棲艦に続いて誕生した艦娘。だとすればその構想は、

 

「もしかして艦娘は……深海棲艦と同じコンセプトの下に生み出された兵器……」

 

「……軍上層部が誤魔化したくなる気持ち、分かったかな」

 

 確かに人類の決戦兵器が実は忌むべき敵の模倣、というのでは締まらない。広報するにも単純に正義の味方、ということにしておいた方が楽だ。

 

「そう考えると深海棲艦と艦娘って、やっぱり良く似ているんだよね。例えば深海棲艦を構成する要素は3つ、生体部分、兵器の機械部分、それと悪霊的な怨念……」

 

 ちゃぽちゃぽちゃぽ、と指折り数える水音が聞こえる。

 

 怨霊説には懐疑的ではなかったのか、と尋ねると、襲ってくる動機や目的がはっきりしないから怨念的としか形容できないし、との答えが返ってきた。

 

「由良たち艦娘も一緒。女の子の生体部分、艤装、そして船霊とも呼べる戦闘艦艇としての記憶と力。ただ深海棲艦と違うのは、この3つを結ぶ名前があることかな」

 

「名前?」

 

「海軍での私の名前は『由良』。艤装の名前も『由良』。記憶にある船の名前も『由良』。3つの全く異なる要素が『由良』という名前をカスガイにして結びつき、艦娘『由良』の出来上がりって寸法ね」

 

「……どうしてそこまで分かって……」

 

 突然脱衣所の方でどたどたという荒々しい足音が聞こえたかと思うと、ガラスの引き戸が無遠慮にがらがらっ、と開かれた。

 

「待たせたなぁ、深雪さま参上だぜ!!」

 

「ふわっ、深雪ちゃん!?」

 

 じゃぼん、という水音と共に五月雨の起きる気配。

 

 体を隠そうともせず腰に手を当てて仁王立ちになった深雪は、そのままずかずかと大股で浴室に入ってくる。

 

「深雪、検査は異常なかったの?」

 

「楽勝楽勝!!頭の写真まで撮られたけど、問題なしだってさ。あとは風呂入って飯食って、よく寝れば大丈夫だってよ」

 

 薄い胸を張って自慢げに答える深雪。イ級の爆発で吹き飛ばされてからずっと意識が無かったけれども、どうやら無事で良かった。そっと自分の胸を撫で下ろす。

 

 と、気が緩んだ拍子に、下腹部に忘れていた排尿刺激が戻ってきた。

 

 そういえば鎮守府に戻ってからもトイレに行くタイミングを逸していたわけで、そろそろ膀胱も限界に近い。

 

 十分に温まったから、そろそろ身体を洗って上がることにしよう。

 

「じゃあ自分は先に出ますね」

 

 そう断って湯船から立ち上がると、修復液をたっぷり含んだ長い黒髪がべたぁっ、と体に貼り付いた。

 

「朝潮!!」

 

 浴槽の縁に足を掛けたところで深雪が目の前に立ち塞がった。

 

「あのさ、その……今日はサンキューな。深雪が倒し損ねた奴、朝潮がやっつけてくれたって聞いたんだ。だから……」

 

「いいよ。それよりも深雪が無事でよかった」

 

「お、おう……」

 

 満面の笑みで素直な気持ちを口にすると、深雪は顔を真っ赤にして言葉を詰まらせた。

 

「そうだ、これから身体洗うんなら、お礼に深雪が背中を流してやるよ」

 

「いやそれは……」

 

「遠慮するなって、ほら」

 

 手を掴まれ、無理やり湯船から引き摺り出される。

 

 気持ちはありがたいけれども、こちらにも色々と事情が……

 

「あ、あたしも!!あたしが朝潮ちゃんの背中、流してあげます!!」

 

 後ろから名乗りを上げる五月雨。振り返ると水色の髪の毛から雫を垂らしながら、じゃぶじゃぶとお湯をかき分けて近づいてくる彼女の姿があった。が、

 

「きゃあっ!!」

 

 湯船の中で自分の髪の毛を踏んづけてしまったらしく、姿勢を崩して勢いよく倒れ込む。

 

 こちらに向かって。

 

 ずんっ、と下腹部に重い衝撃。五月雨の全体重をかけた渾身のタックルが決まったのだ。腰にしがみつかれたままの形で、彼女と一緒に後ろに倒れてしまう。背中をタイル張りの床に強か打ちつけた。思わず息が詰まる。

 

「何やってんだよ、五月雨!?」

 

「ご、ごめんなさい。朝潮ちゃん、大丈夫?」

 

 歯を食いしばり、下の方から襲い来る放水圧力に何とか耐えきる。朝潮の消火ポンプは優秀だ。

 

「いいから……早くどいて……」

 

「う、うん」

 

 色白の朝潮よりさらに白い透けるような肌を持った五月雨の小さな身体が、へその上でもぞもぞ動く。粘性のあるお湯に濡れた彼女の平坦な胸と、その上にある二つの桜色のぽっちりが、視界の隅でちらちらと妖しく蠢いた。

 

「よいしょっ―――わぁっ!!」

 

 腕立て伏せの要領で起き上がろうとする五月雨。その右手がつるっ、と床を滑った。

 

 身体を支えるために足場を求めた彼女の右手が、こちらの下腹部に、膀胱に、掌底となってずどむっと突き刺さる。

 

 一瞬脳裏に動画サイトで見た艦娘轟沈シーンが浮かんだ。

 

ちょろっ

 

「え?」

 

 もはや堤防は決壊した。止めるものは何もない。

 

ぷしゃぁぁぁぁぁっっっ

 

「ああああぁぁぁぁぁぁぁぁ……」

 

 勢いよく飛び出した噴水が孤を描き、タイル張りの床との間にアーチ橋を架ける。

 

 言葉にならない情けない声が咽の奥から洩れ、それが枯れた後も水は途切れることなく流れ続けた。

 

 見られている。深雪に、五月雨に、その四つの瞳に困惑の色を湛えながら。

 

 全身を心地よい虚脱感と解放感が襲う。自然と口の端が緩むのが分かった。

 

 やがて放水の勢いが弱くなり、ちょっちょっ、と絞り出すように数回小さな飛沫を最後に恥辱の時間は終わりを告げた。

 

 むわっ、と室内に立ち込めるアンモニア臭。股の付け根に感じるお湯とは別種の生温かさ。

 

 急に自分の仕出かしてしまった事の重大さに気付き、さっと顔から血の気が引いていく。

 

「あ、朝潮……ちゃん……?」

 

「う……あ……うわぁぁぁぁん!!」

 

 いつの間にか泣き出していた。

 

 惨めに、愚かしく、まるで何も考えられない子供のように。悲しいとか恥ずかしいといったものを通り越して、ただ泣くためだけに声を上げ、涙を流し続ける。

 

 止めよう、止めようと必死で試みるのだが、身体がそれを拒否してしまう。

 

「五月雨、何泣かしてんだよ!?」

 

「ううっ、ごめんね朝潮ちゃん、ごめんね!!」

 

「わぁぁぁぁん……ひぐっ……えくっ……うわぁぁぁぁ!!」

 

「ちょっと2人とも、ぼうっとしてないで早くシャワーで流してあげないと!!」

 

 滲んだ視界に立ち上がった由良が、お湯を掻き分け近付いてくるのが見えた。

 

 そこから先のことは良く覚えていない。というか思い出したくない。

 

 一つだけ言えるのは、尊厳も大破轟沈するということだ。

 

 ―――――結局高速生体修復槽という名のお風呂から上がったのは、大分時間が経ってからのことだった。

 

 あんなことがあったにも関わらず、いや、だからこそか、深雪も五月雨も頭のてっぺんから足の先まで、丁寧にスポンジで、時には素手で優しく洗ってくれた。

 

 修復液の効果もあってか、おかげで全身つるっつる。ドライヤーまでかけてもらった長い黒髪からは、ほんのり柑橘系のシャンプーの香りが漂っている。

 

 特に五月雨は気に病んでいるようで、着替えてから食堂までの道すがら、由良に止められるまで何度も何度も頭を下げて謝っていた。

 

 気にしていない、というより正直忘れたままにして欲しかったので、もう大丈夫と言うとやっと止めてくれた。

 

 夕食は奮発すると言った鳳翔さんの言葉通り、ハンバーグにエビフライが3本乗った豪華なお子様ランチ仕立て。というかお子様ディナー?

 

 すぐさま飛びついて食べ始める深雪と、こちらをちらっ、ちらっ、と確認しながらナイフとフォークを進める五月雨が対照的だった。

 

 味はデパートの屋上レストランみたいに、肉の質よりソースやケチャップと一緒に食べてどうか、ということを意識した味付け。これはこれで美味しいと思う。

 

 自分としては台形に盛られたライスの上に立てられた旗が旭日旗だったのが印象的だった。さすが鎮守府の食堂だけはある。

 

 食後のアイスクリームまでしっかり楽しんだ後、由良と鳳翔さんと別れ、昼に寄った海を臨む艦娘寮(木造築30年以上)に深雪、五月雨と一緒に帰る。

 

 一階にある駆逐艦部屋は10畳ほどの広さの畳が敷かれた角部屋で、四隅のうち一つが入り口、残り3つがそれぞれ個人スペースになっていた。

 

 朝潮のスペースは教本や洗濯物、筆記用具などがきちんと整頓されているのですぐ分かった。

 

 なお、五月雨のは小奇麗にまとまっているものの、バランスが悪いのか私物が雪崩を起こしていた。そして深雪はカオスの一言。脱ぎ捨てた服やら下着やらに混じって、漫画やスナック菓子の袋がちらほら見える。しかもどんどん周囲を浸食している様子だ。どこかでまとまった時間が取れたら、部屋の片づけが必要だろう。

 

 今日は特にやることも無いので、部屋の真ん中に思い思いに布団を敷いてごろごろしていると、日中の疲れもあってかいつの間にか眠ってしまっていた。

 

 

 

 

 深夜。

 

 熟睡していたところを、どごっ、と背中を蹴っ飛ばされた衝撃で目が覚めた。

 

「深雪ぃスペシャるぅ~むにゃ、いっけ~!!」

 

 犯人は自己紹介が終わると、すやすや気持ちよさそうな寝息を立て始めた。

 

 ……これか、朝潮が不満がっていた理由は。明日は布団でバリケードを作って対応しよう。

 

 誰かが電気を消したのか、暗い部屋の中眠い目を擦りながら柱に掛けられた丸時計を確認すると、短針は12時を回ったところだった。

 

 海がすぐそばにあるせいか、寄せては返す波の音や行き交う船の機関音などが、壁の向こうから遠く聞こえてくる。 

 

 いつもなら部屋で艦これをやりながらネットをいじっている時間帯。

 

 なのに今は自分が艦娘になり、艦これの世界で深海棲艦と戦っている。

 

 夢だとしても、寝ても目が覚めないのだから、どこかの時点でこれを自分の現実として受け入れなければならないのかもしれない。

 

 寒気を感じてぶるっ、と体が震える。少し尿意を感じた。

 

 起き上がり、深雪を避けて出口に進む。共用のサンダルをつっかけ、薄い扉を開けてぱたぱたと足音をさせながら廊下に出た。

 

 ショック療法というか、先ほどの荒療治が効いたのか、もはやトイレに行くことに抵抗感はない。というか抵抗してもろくなことにならない、というのはよく分かった。

 

 所用を終え、手を洗った後、ふと窓の外を見る。

 

 煌々と明かりが灯り、夜だというのに眠らない横須賀鎮守府。

 

 東京湾、そして日本の海を護る最前線にして、自分たち艦娘の基地。

 

 自分の知るこの場所には自衛隊と米軍の施設があったはずなのに、この世界では海軍基地のままだ。

 

 食堂のある赤煉瓦の建物、鎮守府司令部に目を移す。

 

 夕食時に聞いた話では、提督の執務室は二階にあるという。

 

 姿を現さない謎の提督。そして昼間、目の前に艦これ画面が表示された後、彼は便宜を図るように指令を出してきた。

 

 やはり鍵は提督なのか?

 

 そういえば、あの変なサーバーをクリックしたとき、『代理提督が着任しました』というセリフが流れた。それを信じるのなら、自分が代理提督ということだが。

 

 と、司令部の二階に並ぶ暗い窓のうち一つ、端から二番目の部屋に引かれたカーテンの隙間から、ちらっと何かの明かりが見えた。

 

 室内照明ではない。どちらかというと、携帯電話の着信を示すカラフルなLEDの光、といった感じだ。

 

 誰かが提督に電話をしている?こんな真夜中に?

 

 ……提督の携帯番号を知っているのに、ここに提督がいないことを知らないのか?いや、もし知っているのにかけているとすれば、その相手はもしかして……

 

 そう思った瞬間、居ても立ってもいられず寮の扉を開け外に飛び出していた。

 

 夜風が子供用パジャマ一枚の肌に凍みる。ほんの数百メートルの距離が遠い。

 

 途中ですれ違った歩哨の人が驚いていたが、顔を知っていたらしくスルーしてくれた。

 

 やがて司令部の建物に到着。下から見上げると、今度ははっきりと執務室内で光っている何かが見えた。

 

 裏手に回り、守衛さんに忘れ物をしたと言って中に入れてもらう。

 

 既に中の照明は落とされており、真っ暗な廊下を進んで突き当りの階段を上へ。

 

 昇る最中、食堂の方から水の流れる音と食器のカチャカチャとぶつかる音が聞こえてきた。鳳翔さんが片づけをしているのだろうか。

 

 電気の消えた二階の廊下、端から二番目の扉の前に到着。

 

 重厚な木製の扉、その鍵穴から中を覗くと、確かに外から見えたチカチカと眩しい光、そして携帯電話のバイブ音が確かに聞こえた。

 

 扉を開けようとドアノブに手を掛けたところで、はっ、と正気を取り戻す。

 

 そもそも鍵を持っていないし、提督にかかってきた電話を取ってどうするつもりなのだ?

 

 自分の立場はただの駆逐艦。中身はともかく、見た目もただの女子小学生。

 

 上下関係が絶対の軍隊においては越権行為も甚だしい。

 

 でも、さっきの推測が正しいとすれば……ええい、ままよとドアノブを回すと、意外にも鍵はかかっておらず、扉はガチャリと音を立てて開いた。

 

 執務室の中に入る。

 

 鳳翔さんが掃除をしてくれいるおかげか、あまり埃っぽい感じはしない。

 

 厚手の絨毯をサンダルで踏みしめて進む。部屋の奥にはずっしりとしたいかにも高級そうな大きな木製のデスクが鎮座していた。万年筆や地球儀などと一緒にその上に置かれた2世代ほど前の外見をした使い古された折り畳み式携帯電話、その着信ランプが暗い部屋の中でネオンサインのようにぴかぴかと光っている。

 

 発信者はよっぽど気が長いらしい。

 

 充電用クレイドルから携帯電話を外し、蓋を開く。

 

 ここまで来たからには、後でどんな罰を受けても仕方がない。

 

 意を決して着信ボタンを押した。

 

「もしもし……」

 

 恐る恐る小声でマイクに話しかける。と、

 

『テイトク~!!やっと出てくれマシタね~、とっても心配したデ~ス!!』

 

 スピーカーから響く威勢のいい若い女性の声。

 

 この耳に残る独特のイントネーションと語尾、あからさまにインチキ臭い外人みたいな喋り方は―――

 

「――――金剛?」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

任務6『新艦娘建造指令!』

金剛型戦艦一番艦『金剛』。

 

 超弩級戦艦の建造技術導入を兼ねて英国ヴィッカース社で建造された、大日本帝国海軍所属の高速戦艦。

 

 二度の改修の末に得た30ノットという足の速さ生かして、姉妹艦の比叡、榛名、霧島と共に太平洋を縦横無尽に駆け巡り、マレー沖海戦やヘンダーソン基地艦砲射撃など数々の戦場で功績を上げた武勲艦。

 

 ちなみにゲーム内での金剛は巫女服を着て巨大な戦艦型艤装を背負い、長い茶髪の左右に小さなお団子を付けた帰国子女として描かれている。

 

 彼女は外人っぽい怪しい日本語を駆使しながら提督Love勢の筆頭として、またそのビジュアルと愛嬌のあるキャラクターから多くの提督に愛されている艦娘だ。

 

 もちろん戦艦としての能力は折り紙付きで、史実を反映した彼女たち金剛型の高速高火力高燃費による使い勝手の良さは、他の戦艦の追随を許さない。

 

 しかし、その金剛が何故提督に深夜の電話を?

 

 まさか夜戦の誘いというわけでもあるまいに。

 

『What?そのpretty voiceは提督じゃないですネ~。Youは一体誰なのデ~ス?』

 

「あ、その……朝潮、です。駆逐艦の……」

 

『朝潮?Destroyerの朝潮デスか?何でYouが提督のPrivate cell phoneに出ているのデ~ス?』

 

 訝しむような声で問い詰める金剛。確かに提督に電話をかけたら関係ない駆逐艦が出ました、というのは説明のしようがない。

 

 何故自分がここにいるのかヒントを掴めるかと思ったが、考えが甘かったか。このまま彼女に叱られてお終いかもしれない……そう思って沈黙を守り、次の言葉を待つ。

 

『ところで朝潮Girl、Youは今どこでこのcell phoneに出ているのデ~ス?』

 

 突然の質問。

 

「横須賀鎮守府の提督執務室です」

 

『Office?提督の?そこは鍵が掛かっているはずデスネ~』

 

「いえ、ノブを回したら簡単に開きましたけど……」

 

『開いた!?提督以外はrejectされるはずなのに――――もしかして、そういうことデスか……Oh……Oh, God……』

 

 彼女は受話器の向こう側で何やらぶつぶつと一人呟いている。

 

 もしかすると彼女は提督が居ない、居ても姿を見せないというこの鎮守府の異常な状況について、何か知っているのかもしれない。

 

 どうせ怒られるついでだ。多少の無礼は覚悟の上。

 

「金剛さん、横須賀鎮守府の提督について何か知っているんですか?」

 

 答えは無い。

 

「あの、金剛さん?」

 

『―――Sorry、少し考え事をしてましたデ~ス。横須賀の提督デスか―――提督ならalready鎮守府に着任しているネ』

 

「そうかもしれませんけど、指令だけで実際影も形も―――」

 

『先に言っておくネ、この世界でprotectのかけられた提督のofficeに入れるのは提督only―――つまり』

 

 そこで一旦言葉を区切る。

 

『朝潮Girl―――」

 

「は、はい!!」

 

 普段の金剛にあるまじき、静かで重い声が名を呼ぶ。携帯を持ったままの姿勢で思わず身体が強張る。

 

『Youが横須賀鎮守府の提督デ~ス―――朝潮Girl、いえ朝潮提督』

 

「なっ!?」

 

『新しい仲間の着任を歓迎しマ~ス――――Welcome to艦これWorld――――』

 

 電話越しで表情は分からないが、歓迎と言いながらも金剛の声はどこか元気が無く悲痛に感じた。

 

 しかしそれ以上にショッキングだったのは、彼女が自分を、朝潮を提督と呼んだこと、そして『艦これ』という単語を使ったことだ。

 

 提督?自分が?

 

 全く想像していなかったわけではないが、それを他人の口から宣告されるとなると、受ける衝撃が違いすぎる。

 

 しかもゲームの中の存在である彼女が、何故そのゲームの名前を知っている?

 

 混乱して考えがまとまらない。

 

 手の力が緩み、汗をかいた掌から思わず携帯を取り落とす。携帯は固い執務室のデスクに当たって軽い音を立てた後、跳ね返ってそのまま分厚い絨毯の上に落ちた。

 

『朝潮Girl?どうしましたデ~ス?』

 

 慌てて携帯を拾い上げる。

 

「大丈夫です、ちょっと携帯を落としただけで。あの、金剛さんはどこで『艦これ』のことを……?」

 

『Where?どこ?もちろんInternetの艦これ公式サイトデ~ス。朝潮Girlと一緒ネ~』

 

「一緒って―――」

 

『私もHollow Server―――虚帆泊地を間違ってClickしてしまったのデ~ス。そうしたら佐世保の鎮守府で金剛になっていマシタ』

 

 確かに同じだ。謎のログイン画面に出会った事、泊地を選択した瞬間艦娘になっていたことも。

 

『最初は私の金剛Loveが具現化したものと思って喜んだのデスが、良く考えたらmyselfが金剛になってどうする、と気付き愕然とシタヨ』

 

 ――――そこは考えなくても気付こう。なんだか呑気な人だな。

 

『Anyway、朝潮Girlには司令艦として色々informationが必要になりマスネ~。数日後に you and meのような提督で艦娘、司令艦たちが集まる提督会の定例会が帝都で開催される予定デ~ス。明日にでも招待状を出しマスので、そこで詳しいlectureを行うネ~』

 

 自分や金剛以外にも、艦娘になってしまった人たちがいる。

 

 何も解決していないけれども、たった一人でこの世界に放り出されたのではないことが分かっただけで少し気持ちが楽になった。にしても、

 

「提督会……」

 

『Yes、通称T-party。真面目な話もしますが、基本的にTea timeを楽しみながら情報交換するeasy goingな集まりデ~ス』

 

 提督だからTなのか。何故にそこだけ日本語。

 

『Oh、忘れるところデシタ。朝潮GirlはCommander Interfaceの使い方を知っていマスカ?』

 

「いえ。何ですか、それ?」

 

『司令艦の持つabilityの一つデ~ス。やり方はvery easy、艦これの母港画面をimageして下サ~イ』

 

 他にも司令艦にはlevel cap無し、大破生存etcのadvantageがありマ~ス、と続ける金剛。

 

 それはともかく、まずは言われた通りに艦これの母港、秘書艦と行動コマンド表が表示されているそれを思い出す。

 

ヴンッ

 

「あ、これって―――」

 

 昼間、由良に提督の指令が届く直前に一瞬表示されたものと同じ、艦これの母港画面が視界の中に浮かび上がった。

 

 秘書艦は朝潮。中破状態で服の破れた彼女が涙目でこちらを見上げている。

 

『出来マシタ?それがCommander Interfaceデ~ス。細部は異なりマスガ、基本的な使い方は艦これと一緒ネ~。操作も考えるだけでOK。適当にいじってみて慣れたらいいデ~ス』

 

 見た感じ本家のそれと大して変わらないように思える。

 

『ただしbe careful、ここで指示した編成、開発、建造、解体、廃棄、出撃などは、time lagはありますが全て現実に反映されマ~ス。間違えると艦娘lostにも繋がるので、lectureが終わるまでは極力見るだけに留めて下サ~イ』

 

 早目に戦力充実は必要デスガネ~と言いながら、受話器を通してずずっ、と何かを飲む音が聞こえた。

 

 紅茶か?紅茶なのか?

 

 編成画面、と念じると、「由良水雷戦隊」と書かれた第一艦隊と現在いるメンバーが表示された。昼間のあれはこのインターフェースから無意識に艦隊編成と出撃を指示していた、ということなのか。そしてそれが提督からの指令という形で由良に発令された。既に同じメンバーで演習に出ていたため、タイムラグが無かったことも頷ける。

 

 落ち着いて画面を確認するため、提督用のいかにも高価な革張りの執務椅子を引いて腰を下ろす。

 

 薄い子供用パジャマ越しのお尻に感じる、適度な硬さと厚み。事務用というより、マッサージチェアにもなるんじゃないかと思えるぐらいに座り心地がいい。

 

 朝潮の身長には大きすぎるのが難点だけれども。

 

 リクライニングに背中を預け、改めて編成画面を見る。旗艦は自分こと朝潮。隣には由良、彼女には嚮導艦として旗艦とは別に星印がついている。そして深雪と五月雨。

 

 レベルは由良が18。そして自分を含めた駆逐艦は8-9あたりで横並びだ。

 

「にしても全員修復中かぁ……」

 

 ぶほっ、っと何かを吹き出す音に続いてむせる金剛。その後ろから『ひえ~、お姉さま大丈夫ですか?』と、どこかで聞いたようなセリフが。

 

『ごほっ――――ぜっ――全員修復中!?一体何をやったらそんなことに!?そもそも鎮守府には朝潮さんしかいないのではなかったのですか?』

 

「いえ、自分以外にも軽巡と駆逐艦が。ただ帝都急行とかいう敵駆逐艦と戦った際、皆負傷してしまったので」

 

 お風呂に入ったことで入渠扱いになったらしく、全員が中破画像でその上に修復中と表示されている。

 

 そして金剛の人、地というか中身が出てます。

 

『コホン―――司令艦は普通なら一旦鎮守府が解体された後、改めて一人でのstartになるはずですが……そんなこともあるのデショウ、I see。とはいえ、手元に動かせる艦娘がいないのはbig problemデ~ス。帝都急行にattackされたのであればなおさらネ』

 

 あ、喋り方戻った。

 

『All right, cause it’s emergency. 今すぐ艦娘を一隻建造・配備するネ~。Commander Interfaceの工廠画面をopenして下サ~イ』

 

 言われた通り、工廠を選択し建造画面を開く。大型建造が実装されていない以外はここも艦これと変わらない。

 

『Targetは重巡または軽巡デ~ス。朝潮Girlは自身がdestroyerなので、現時点で戦艦や正規空母が出ても有効活用できず無駄飯喰らいになってしまいマ~ス。大型艦艇は自分のplay styleを固めてからでも遅くないですヨ』

 

 こっそり戦艦が欲しいと思っていたところに釘を刺されてしまった。

 

 最初は水雷戦隊を充実させろ、ということか。一理ある。

 

 そして資材投入。資材の現在量は……

 

「全部999!?しかも開発資材が3つしか無いって……」

 

『Yes、と説明の前に資材欄の上にあるblue and red barを見て下サ~イ』

 

 言われて燃料鋼材の上を見ると、何も無かったはずの細長い部分が青と赤、二色のバーになっていた。

 

『これが鎮守府と深海棲艦の勢力比ネ。私たちはOur naval powerのblue barが一定値を超えることが、この世界からreleaseされる条件ではないかと考えていマ~ス』

 

「それって深海棲艦を倒していれば、いつか帰れるんですか?元の世界に……」

 

『perhaps。任務や戦績画面にもそれらしいものはありマスが、これが一番分かり易いindexネ』

 

 勢力バーは青側がやっと3割を越えたころだ。一体あとどれだけ戦えばいいのか、見当もつかない。

 

『Barは全司令艦で共有されていて、同時に資材備蓄と資材回復速度のlimitter表示にもなっていマ~ス。そのため朝潮Girlの資材も本来の1/3程度でstopしているのデ~ス』

 

 これでも頑張って押し戻した方ヨ。ちなみに私は一割切ったところからstart、戦艦の身で節約生活はso miserableデシタネ~、と感慨にふける金剛。

 

 それは確かに大変だっただろう。というか資源増加量も1/3なら、戦艦はもちろん正規空母なんかもっての外だ。

 

 やはり先輩の助言はありがたい。言われた通り戦艦や空母が出ないよう、300,100,200,30の軽めのレシピで資材を投入、金剛に確認して建造ボタンを押した。

 

 必要時間が表示されるかと思いきや、建造はすぐに終了。そして完成した新しい艦娘の姿が明らかになる。

 

「これは――――阿武隈!?」

 

 画面の中に現れた某美少女戦士みたいな、金髪にお団子付きのツインテールには見覚えがあった。

 

 長良型軽巡6番艦、阿武隈。

 

 既に着任している由良の妹艦でもあり、浅葱色のセーラー服と両手に装備した14cm単装砲は姉と同じ。とはいえその外見は姉よりもかなり幼く、小学校から上がったばかりの中学生みたいな印象を受ける女の子だ。

 

 しかしその幼さに反して、史実ではキスカ島からの撤退作戦で第一水雷戦隊旗艦を務めるなど、数々の戦場を潜り抜けた歴戦の勇士。

 

『阿武隈Girlデスか、悪くないデ~ス。彼女がいれば、最低限鎮守府のdefenseは可能になりますネ~』

 

 早速水雷戦隊に編入しようとするが、編成画面に彼女の名前は無い。不思議に思って再度工廠画面を確認すると、建造が終わったはずのドックに時間が表示されていた。

 

「10時間って、軽巡なのに?」

 

『それが現実とのtime lagネ。どこか別の鎮守府、もしくは軍のschoolから阿武隈の赴任にかかる時間がそれだけ、ということデ~ス』

 

 現実。駆逐艦と軽巡であるにも関わらず入渠時間が長いのも、現実との擦り合わせを反映したためか。

 

 やはりただゲームの世界に入ってしまった、みたいな簡単な話では無いのだろう。

 

 一区切りついたところでふわぁ、そろそろgo to bedな時間ネ~、と欠伸をする金剛。

 

 こちらとしては、まだまだ知らないこと、知りたいことは沢山あるのだが、既に執務室の机の置時計は午前一時半を回っている。自分も少し眠くなってきた。

 

『―――朝潮Girl、当初の予定とは違いましたが、お話ができて良かったヨ。詳しいことはnext time、また会える日を楽しみにしているデ~ス。それではGood night!!』

 

 電話は唐突にぶつん、と切られた。

 

 中の人は違うにしても、何と言うか、ゲームで抱いた印象通り嵐のような人だ。さすが帰国子女。

 

 光の消えた携帯電話をクレイドルに戻す。

 

 ふぅっ、と息を吐いて椅子に背中をもたれかけさせながら、そのまま体を横に向けた。頬に感じる椅子の革が冷たい。

 

 一方の肘掛に両手ですがり付き、そっと目を閉じた。

 

 瞼の奥の暗闇に、阿武隈着任までのカウントダウンが続く工廠の画面が浮かび上がる。どんな理屈で表示されているのか分からないが、今後はこのインターフェースを有効に使って戦っていかなければならない。

 

 画面を閉じると真っ暗な世界が訪れた。聞こえるのは鎮守府の沖を行き交う船の音と、自分の、朝潮の小さな呼吸音だけ。

 

 今日は色んなことがありすぎて、正直なところ理解も心情も追いつけていない。突然朝潮になっていて、いきなり深海棲艦と戦って―――そして今、提督でもあることが判明した。

 

 明日になったら、また朝潮としての一日が始まる。そうして流されながらも戦っていれば、いつか元に戻る方策が掴めるのだろうか。

 

 暗闇は何も答えてくれない―――

 

 

 

 

 ―――いつの間にか自分の体が、波がうねるようにゆっくりと小さく揺れているのに気が付いた。冷たい革張りの椅子で横になっていたはずなのに、今すがりついているそれは何だか温かい。

 

「あら、起こしてしまいましたか?もうすぐ寮に着きますから、そのまま寝てて下さっても結構ですよ」

 

「……ほ~しょ~さん?」

 

 はい、と彼女は振り向かずに答えた。後ろで括った髪の毛が手の代わりに頭を撫でてくれる。

 

 どうやら自分は鳳翔におんぶされているらしい。海辺にある寮へと続く道、鎮守府に打ち寄せる波の音を掻き分けて、彼女はゆっくりと進んでいく。

 

 遠慮して自分の足で歩こうとも思ったのだが、手足に力が入らず頭も瞼も重い。体が休息を欲しているのか、脳髄に鎮座した睡魔のせいで目を開けることもできないみたいだ。

 

 ごく自然な感じで袴を着た鳳翔の背中に、猫がそうするようにんんっと顔と体を擦り付けて甘える。途端に彼女の体温と、椿の花のような香りに全身が包まれた。仕込みに使ったのであろう鰹出汁の匂いもするが、それも含めて遊んだ帰り道、迎えに来た母親に負われているような感覚だ。

 

「守衛さんが教えて下さったんですよ、朝潮さんが中にいるって。色々探したんですけど、まさか提督の椅子でお休みしていたなんて……」

 

 電話が終わった後目を閉じてからの記憶が無いが、座ったまま寝てしまっていたらしい。

 

「……もしかして朝潮さん、司令官が来るまで、ずっとあそこで待つつもりだったのですか?」

 

 ふふ、と上品に笑う鳳翔。

 

 ある意味それでも良かったのかもしれない。

 

 誰か全てを知る人が来て、全ての答えを用意してくれて、それに従っていれば全てが上手くいく……。あの電話を取る前に、そんなことを期待していなかったわけではない。

 

 澱んだ頭で考える。

 

 だが金剛、同じ場所から来たと言う彼女は、司令官は自分自身だと告げた。

 

 それはつまり自分が答えを探し出し、そこへ艦隊を導かなければならない、ということだ。

 

「大丈夫です。司令官がお出でになられましたら、いの一番に朝潮さんにお伝えします。ですから今日は安心して休んで下さい。そして明日から、またがんばりましょう」

 

 みんなのためにも、司令官のためにも、と鳳翔は自分に言い聞かせるように呟く。

 

 そうですね、と答えたつもりだが、言葉になったかどうかは分からない。

 

 鎮守府には仲間がいる。そして自分と同じ境遇の人がいることも分かった。今はそれだけで十分。明日の事は、明日の自分に任せよう。

 

 もう意識を保つのも限界だ。全てを彼女の背中に委ねて、この心地良いまどろみに沈んでしまいたい。身体をくっつけて、自分と鳳翔の背中の接触面積を最大にする。

 

 世界を包んだ闇には人肌の温かさがあり、先ほどと違って優しく柔らかく、そして安らぎに満ちていた。

 

 

 

 

 

 

 遠くから聞こえるじわじわ煩い蝉の鳴き声をBGMに、パンパンパンパン、と規則正しい手拍子が初夏の空に響く。

 

「深雪~ちょっと間隔狭くなってきてるかな、逆に五月雨は遅れてるよ。朝潮はちょっと後ろを気にし過ぎ」

 

 上は白い体操服、下は小豆色の芋ジャージという高校の演劇部員みたいな恰好をした由良が、手を叩きながら注意を促す。

 

「両舷原速、もうすぐ方向転換するよ~!!はい、進路変更一五○、そのまま原速維持~」

 

 くるっと回って3人で単縦陣形を維持しながら行進を続ける。目の前をきびきび歩く五月雨の水色の長髪は、彼女の穿くブルマの赤色で強調され、いつもより鮮やかに見えた。

 

 そういう自分が着ているのも、ゼッケンに黒マジックで『おしさあ』と書かれた白体操服に赤ブルマ。

 

 おまけに旗艦役ということで、リボン代わりの白ハチマキで長い黒髪を縛って簡易ポニーテールにする、という小学校の運動会スタイルだ。

 

 今朝は、軍隊にしては遅めの○七○○起床。まあ成長期の駆逐艦娘を考慮してのことだろう。寝る子は育つというし、昨日夜更かしした悪い子の身としてはありがたい。

 

 ○七三○、司令部の食堂で戦隊全員揃って朝食。メニューは汗をかいてもいいように濃い味付けの塩鮭の切り身、納豆、味噌汁、お浸し、お新香、そしてどんぶりに盛られた麦飯。そこに青海苔を散らした山芋のとろろが小鉢で付いてくるとは、良く分かっていらっしゃる。

 

 そして○八三○、鎮守府敷地内の多目的運動場に体操に着替えて集合。

 

 簡単な柔軟体操とウォーミングアップの後、少しずつ熱量を増してくる太陽光の下で陸上での艦隊機動訓練が始まった。

 

 PTAも海軍には口出しできないからか、アグ○ス一派のせいで既に絶滅して久しいはずのブルマがここで生き残っていることはまだ理解できる。由良の姉の長良もスカートの下はブルマだし。

 

 ただそれは置いといて―――何故にランドセル?

 

 いや、多分機関ユニット代わりなんだろうけど、駆逐艦にランドセルは似合いすぎだ。

 

 前を行く五月雨の背中には、本体の革部分が擦り切れて塗装の剥げた、かなり年季の入った誰の物かも分からない赤いランドセルが揺れている。

 

 もちろん自分の背中でもへたれたランドセルとその金具が、由良の指示で方向や速度が変わる度しゃんしゃん、と音を立てた。

 

「五月雨、朝潮、第一戦速で深雪の左舷に出て、陣形変更、単横陣に。そうそう、いいんじゃない。最後に跳躍反転、そのまま陣形を崩さないでこっちに戻ってきて~」

 

 横並びの状態からぴょん、と跳んで180°回転。由良に向かって行進し、両舷停止の指示でその場に直立で留まる。

 

「う~ん、こうやって見ると艦隊機動自体には問題は無い、かな」

 

 訓練開始から約二時間、内心冷や冷やしながら参加していたのだが、ぶっつけ本番でも意外と何とかなるものだ。

 

 大分高く昇った太陽の光で、剥き出しの二の腕に浮いた汗の珠が輝いた。

 

 耳慣れない海軍の単語であっても、日本語なので意味は大体推測できる。しかも艦娘は船の形でなく女の子の姿。つまりやることは基本的に小中学校の行進練習と変わりない。

 

 最初しばらくは『両舷』という言葉に少し戸惑ったが、やがてそれがただの接頭語みたいなものだと気が付いた。超小型船舶である艦娘は海面で飛んだり跳ねたり進路変更も自由自在なので、船のように左右で主機の速度を変える必要が無く形骸化したらしい。

 

「だから陸上訓練なんて要らない、って言っただろ。ったく、こんなの陸軍がやることだぜ……」

 

 全身汗だくの深雪がぜ~は~言いながら抗議する。彼女も似たような赤いランドセルを背負っているが、一人だけ服装が違った。

 

「深雪ちゃん、何で潜水艦の制服着てるの?」

 

 そう、彼女は体操服にブルマではなく、潜水艦娘が着ているようなスクール水着に靴下だけ、という水中戦特化スタイル。

 

 見た目は小学校高学年くらいの深雪が、初夏にスク水姿なのはいいとして、そこにランドセルと靴下が加わると一気にいかがわしい絵図になってしまう。

 

「深雪だって知らね~よ。由良がこれを着ろって言ったから着てるだけだぜ」

 

 その真意は自分にも量りかねる。というか、言われたからって着る方もどうかと思うけど。

 

「だって深雪、昨日由良の命令を無視したあげく、イ級の上で遊んで皆を危険に曝したよね。本当なら軍法会議ものの案件だけど、この程度の懲罰で赦してあげるんだから文句言わないでね」

 

「にしたって、潜水艦の服着せてどうするんだよ?」

 

 『きゆみ』と書かれたスク水の胸のゼッケンを引っ張りながら突っかかる深雪。だぼついた水着の紺色の生地は、彼女の汗を吸って所々色が濃紺に変わっていた。

 

「うん、正確にはこれ、懲・罰ゲームだから」

 

 悪戯っぽく微笑みながらさらっと非道いことをのたまう由良。実はこの人、怒らせると怖いタイプなのか?

 

 まあ深雪の勝手な行動で、冗談抜きに水雷戦隊が全滅しかけた代償と考えれば、スク水羞恥プレイ程度は優しい罰なのかもしれない。

 

「ちなみに今日の陸上機動訓練は、あっちのカメラで録画しているの。いい映像が撮れたら海軍の宣材にしてもらうかもしれないから、みんな頑張って、ね」

 

 にこやかに衝撃の事実を告げる。

 

 彼女が指差す方向には夜間照明の柱の陰に隠れるようにして、三脚に乗った小型のビデオカメラがこちらをじ~っと見つめていた。

 

 いつの間にあんなものまで……前言撤回、明日は我が身だ。真面目に訓練しよう。

 

「さ、もう一回最初から始めるよ!!戦闘機動中に考えなくても自然に体が動くよう、徹底的に叩き込んであげるから!!」

 

 幼い駆逐艦といっても、艦娘は海軍所属の軍人だ。

 

 この際某ブートキャンプに入ったとでも思って、厳しいシゴキもある程度覚悟しなければならないだろう。

 

 ずり落ちそうになっていたランドセルを背負い直す。と、

 

「由良姉ぇ、ここにいたんだ!!」

 

 聞いたことの無い、少し高い少女の声が運動場に響き渡った。

 

 いや、聞いたことはある。ここに来る前、艦これのゲーム画面の中で。

 

 少し離れた運動場の入り口から、金髪のツインテールとスカートの裾を翻しながら、由良の制服と同じデザインのセーラー服を着た小柄な少女が駆け寄ってきた。

 

「阿武隈!!久しぶりじゃない。もしかしてあなたも横鎮に?」

 

「うん。今朝方急に軍令部から指令が下って、すぐに赴任して欲しいって身の回りの物と一緒に朝一の飛行機に放り込まれて。それでさっきパラオ泊地から着いたところなの」

 

 おかげでちょっと寝不足かも、ふわあぁ、と大きな欠伸をする阿武隈。確かに彼女の後ろには、オレンジ色の小さなキャリーバッグがちょこんと置いてある。

 

 彼女がここに来る原因になったのは昨夜の自分の建造結果なので、少し迷惑をかけてしまったかもしれない。

 

 しかし結局建造とは何だったのだろう。既にいる艦娘なら普通に異動要請でもいいだろうし、この世界がゲームでないのならランダム性を持たせる意味も無い。とすると、何か別の理由があるとでもいうのか。

 

 再会を喜びながら二人で盛り上がっていた由良と阿武隈だが、しばらくして自分たちを見つめる6つの瞳にやっと気が付いた。

 

「ひぇ―――やだあたし、自己紹介忘れてた?」

 

 うんうん、と自分含む三つの頭が動く。

 

 由良がほら、しっかりね、と阿武隈の背を押した。前に出た阿武隈はしばらくあわあわしていたが、やがて腹を括ったのかすぅ、と大きな深呼吸をする。

 

 そして改めてこちらに向き直ると、少し震えながらもびしっ、と敬礼の姿勢を取った。

 

 自分たちも姿勢を正し、敬礼して相対する。

 

「こ、こんにちは。本日付で横須賀鎮守府に着任いたしました長良型軽巡6番艦、阿武隈です。姉妹艦の由良姉ぇと一緒に、主に水雷戦隊を指揮することになると思います。く、駆逐艦の皆さん、よろしくお願いしましゅ―――します」

 

 あ、最後に噛んだ。

 

 さあっと運動場を吹き抜けた心地よい風に、彼女のお団子ツインテールが揺れる。

 

 敬礼を終えた阿武隈は、改めて屈託の無い笑顔をこちらに向けてくれた。

 

「深雪だよ。よろしくな、阿武隈!!」

 

「五月雨っていいます。よろしくお願いします。護衛任務はお任せください!!」

 

「朝潮です。こちらこそ、ご指導ご鞭撻よろしくです」

 

 おっとこれは不知火だった。まあ大した落ち度でなし、気にしない気にしない。

 

「朝潮……そういえばさっき司令部に寄った時、朝潮に渡してってFAXを受け取ったんだっけ」

 

 あるんだFAX。

 

 ごそごそと浅黄色のスカートのポケットをまさぐる阿武隈。そして四つ折りにされた二枚重ねの白い紙を差し出してきた。

 

 何だろう。もしかして昨夜金剛が言っていたT会とやらの招待状が届いたのだろうか。

 

 だとしたら不用心だ。下手をすると他の艦娘に、自分が提督であることも知られてしまう。

 

 紙を受け取り、恐る恐る折り畳まれたそれを開く。

 

 物見高い深雪と五月雨が何だよ朝潮にって、もしかしてラブレター?と近寄ってくる。いやそれは無い。

 

 二人に構わず、一枚目の紙をぱっと見て気になった単語を読み上げる。

 

「――――演習要請?」

 

「朝潮宛に?変なこともあるのね」

 

 由良と阿武隈も加わり、自然と円陣が出来上がった。

 

 この内容なら読み上げても大丈夫か。

 

『発 ラバウル基地提督  宛 横須賀鎮守府 駆逐艦朝潮

 駆逐艦演習要請

 明朝○九○○ヨリ、当ラバウル基地駆逐艦隊トノ海上演習ヲ希望ス

 回答急ガレタシ』

 

「急げって言われても、本当に急な話よね」

 

「深雪は大歓迎だぜ!!」

 

「ううっ、ラバウルですかぁ……白露お姉ちゃんとぶつかったり、その後一晩中敵に追い回されたり……あんまりいい思い出が無いです」

 

 反応は色々。

 

 紙をめくると二枚目は、相手駆逐艦隊の編成名簿だった。

 

 書かれた艦名は、『初春』『子日』『若葉』『初霜』『吹雪』『霞』……

 

「これを見ると、初春型の第二十一駆逐隊ベースの編成って感じかな」

 

 由良が呟く。

 

 だがそれよりも自分が気になったのは、『霞』の名前だ。

 

 朝潮型駆逐艦十番艦、霞。

 

 大日本帝国海軍の栄光から衰退まで、その全てを見守った艦。

 

 彼女の横で仲間は次々に沈んでゆき、乗船した司令官は敗戦の汚名を着せられ割腹自殺。

 

 自身も大和と一緒に連合艦隊最後の出撃に参加し、雲霞のように群がる米艦載機によって嬲り殺しにされるという悲惨極まりない最期を遂げた―――朝潮型の末妹。

 

 そのせいもあってか、霞の性格は螺旋階段もびっくりなくらい捻じ曲がり、提督に容赦のない毒舌を浴びせかけるキャラクターになってしまっている。最近ケッコンカッコカリでやっとデレたという話だけれども、Lv99までの道のりは遠く、途中で心を折られた提督も多い。

 

 彼女と朝潮たち第八駆逐隊との歴史的な関係は少ないものの、演習であれば霞との接触は避けられないだろう。姉の、朝潮の異変に気が付いてもおかしくない。

 

 と、突然編成表を見ていた深雪が大口を開けてだははは、と爆笑し始めた。

 

「深雪、どうしたの?」

 

「ははっ!!何だよこの、ラバウル第二艦隊『ヒャッハーズ』ってのは!!」

 

 ―――あ、誰がラバウル基地の提督か分かった気がする。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

任務7『友軍トノ演習ニ挑メ!』

 ○九三○房総半島相模灘沖合40km。

 

 一昨日訓練中に帝都急行発見の第一報があった海域が、今日の演習の舞台。

 

 あれからラバウル基地側と交渉し、結局開始は午前十時にずれ込んだ。

 

 相手側駆逐艦6人に対してこちらは3人という戦力偏重に対しては、指揮訓練も兼ねて新たに阿武隈を嚮導艦に任命し、計4人の阿武隈水雷戦隊を編成し演習に臨むことになった。

 

「こちら朝潮です。指定座標に電子戦ブイを曳航完了しました」

 

 横須賀鎮守府から引っ張ってきた黒い大玉スイカにも見える浮標をリリースし、インカムに向かって報告する。これを演習海域の四隅に設置することでバトルフィールドを設定し、精密な航路や弾道の記録、また場外や模擬魚雷の直撃判定が可能になるんだとか。

 

『五月雨です。あたしも設置完了です』

 

『深雪だぜ。場所は多分合ってる』

 

『了解。これからブイを起動させますので、みなさん少し離れて下さい』

 

 阿武隈の声。数秒して浮標の表面に緑色のパイロットランプが点灯。ここからでは見えないが、水面下ではブイから棒状の位置固定錨が伸びているという。緑のランプはしばらく明滅を繰り返した後、スリープ状態になったのかオレンジ色に変わった。

 

『4基とも正常作動を確認。お疲れ様、そろそろラバウルの人たちが到着する時間だから、一旦由良姉ぇの船に戻ってくれる?』

 

 はい、と応答しマイクを切る。

 

 その場からしばらく動かず波に肌を洗われる黒スイカを眺めていると、不思議なことに気が付いた。

 

「外洋なのに、波が低い―――」

 

 本格的な船旅などやった記憶はないが、少なくとも太平洋はこんなに穏やかなものだっただろうか。まるで昔TVで見た瀬戸内海か地中海のような、静かで穏やかな海が水平線の果てまで広がっている。

 

 いや、そうでなければ船に比べて背の低い艦娘は、沿岸から離れての外洋航行など不可能だろう。鎮守府の銭湯に描かれていた葛飾北斎の大波のように、何mもの高さに荒れ狂う波を打ち砕いて海面を滑っていく能力は、艦娘には与えられてない。

 

 艦娘と海軍、深海棲艦以外に大きな違いは無いと思っていたこの世界は、想像以上に元の世界との矛盾を孕んでいるのかもしれない。

 

 遠くで深雪と五月雨がこちらに向かって手を振っている。相変わらずちゃぷちゃぷ水遊びを続けるブイを一瞥し、その場を去ることにした。

 

 

 

 

 

 今回ベースキャンプとして使用している装甲駆逐艦『竹』は、元々大戦末期に大量生産された松型と呼ばれる小型で廉価な駆逐艦群の一隻だ。

 

 タンカーの護衛任務の後、たまたま補給のため横須賀鎮守府に立ち寄っていたところを、鳳翔さんが交渉して今回の演習に協力してもらうことになった。もっとも彼女に頼まれては、どんないかつい海軍のお偉いさんでも頚を縦に振らざるをえないだろう。

 

 安っぽい装備といかにも間に合わせといった名前から海軍では『雑木林』と呼ばれていた松型だが、厚手の鋼板で両側面装甲を強化改修したその姿は、全身鎧の西洋騎士みたいで少し格好いい。

 

「船団護衛任務で深海棲艦に喰いつかれたら、自分が盾になって船団を護るためなのよ」

 

 快速を特徴とする駆逐艦が何故こんなにゴテゴテの増加装甲で身を覆っているのか、阿武隈に尋ねた答えがこれだ。連装高角砲と対空機銃で身を固めた移動トーチカみたいな船だが、それでも深海棲艦に対しては肉壁にしかならないらしい。

 

 深海棲艦は通常兵器が通用しない、というのは由良も風呂場で話していたが、どういう意味で通用しないのかはそのうち確認する必要がある。

 

 敵装甲に砲弾が跳ね返されるのか、効果が弱くて決定打にならないのか、機器が狂って当てられないのか、機動性が高すぎて避けられるのか。

 

「にしてもラバウルの人たち、演習が昨日いきなり決まったのに、どうやって日本に来るんでしょう?」

 

「時間的に考えても飛行機、だと思うな。でも横須賀基地に滑走路の使用申請は無かったはずだけど」

 

 艤装の修理が間に合わず今日は審判に徹する予定の由良が、例の制服に紺のウインドブレーカーを羽織った姿で手元のノートパソコンに何やら打ち込みながら答えた。

 

 彼女が乗っているのは釣り船みたいな小型の船で、船外機の横に操船要員として海軍の若い男性兵が控えている。小船は横須賀鎮守府の備品らしく、船の胴体に平仮名で『よこ ちん ご』の黒文字が書かれていた。というか濁点が波に洗われて消えそうなんだけど、早く書き直さないと大変なことになるぞ。

 

「あ、あれじゃないですか?」

 

 南の空をぼんやり眺めていた五月雨が一際大きな声を上げた。

 

 彼女の指差す方に目を凝らす。

 

 雲一つない夏の青空を背景に、こちらに向かって近づいてくる機械仕掛けの大鳥の姿が見て取れた。

 

 固定翼に取り付けられた4つの発動機が、機嫌の悪い蝉のようにヴンヴンと重低音を奏でる空気の振動は機影が大きくなってくるにつれ徐々に騒がしくなってくる。バナナボートっぽい曲線で構成された巨大な機体は濃緑一色に塗装されており、側面に描かれた白い縁取りの大きな日の丸がジャノメチョウの羽模様みたいにこちらを見つめている。

 

 戦時中もオーパーツ気味の性能で世界を驚かせた日本が誇る飛行艇。そして元の世界では最近輸出も決まったUS-2のご先祖様。動いている姿は初めて見るが、あれは……

 

「二式大艇!?」

 

「うわぁ、大きい!!」

 

「あれで直接ラバウルから来たの?贅沢だなぁ……」

 

 大口を開けて素直に感心している五月雨と、パラオから飛行に電車、バスを乗り継いで横須賀にやってきた阿武隈の微妙な顔は対照的だ。

 

 目の前で大きく旋回した二式大艇は、スピードを落としながらゆっくりと着水体勢に入る。あの低速で墜落しないとは、何と言う安定性。少し離れた海面に優雅に舞い降り、そのままつい~と滑るようにして駆逐艦『竹』と由良の乗る小舟の間に停船した。100mくらいしか離れていないのに、上手いものだ。翼上の4つの発動機がアイドリングに変わり騒音が小さくなる。

 

 機体の揺れが収まったところでこちらに向いた左側面の後部搭乗口がぱかっと開かれ、中から少し深雪に似た素朴な顔の、背の低いセーラー服を着た少女が姿を現した。黒髪の短いポニーテールが後頭部でぴょこんと跳ねる。

 

「はじめまして、吹雪です。今日は演習よろしくお願いいたします!!」

 

 海面上に直立し、笑顔でぴしっ、と敬礼。が、

 

「こら若葉、押すでない!!」

 

「違う、それは子日だ」

 

「うぅ、早く出たいよ~!!」

 

 後ろから初春、若葉、子日の3人の駆逐艦娘が団子状になって飛び出してきた。その勢いで跳ね飛ばされる吹雪。せっかくの見せ場だったのに、主人公……。

 

「あ~もう、バカばっかり!!ただでさえ抜き打ち演習でイラついてるってのに」

 

「霞、仲間にそんなこと言っちゃ……」

 

「何よ、初霜。用があるなら目を見て言いなさいな!!」

 

 そして自分にとってはある意味最大の難敵。銀髪をサイドポニーに纏め、白ブラウスに吊りスカート、黒ハイソが特徴的な朝潮型10番艦『霞』。朝潮と同じ細い眉毛をきりっと吊り上げた彼女が、はた目にも分かるくらい剣呑なオーラを纏って搭乗口から姿を現した。  

 

 霞と一緒にいるのは初春型4番艦『初霜』か。先に出てきた姉妹艦の若葉と同じ、黒いブレザーに緋色のネクタイと私立のお嬢様小学校の生徒みたいな恰好だ。そのくせ腰まで伸びた黒髪を末端近くで無造作にヘアゴムで括り、単装砲と連装砲を両手に一つずつ構えた姿はとても勇ましい。彼女は何か言いたそうな顔で霞の目を見つめていたが、やがて諦めたように視線を落とした。

 

 最後に搭乗口から現れたのは、軍服と巫女服を折衷させた紅白鮮やかな衣装を着た年上の女性。長くてツンツンした紫色の髪、襟元には橙色の勾玉を付け、手にはくるっと巻いたスクロール型の飛行甲板を提げている。

 

 彼女こそラバウル第二艦隊の引率であり、また『ヒャッハーズ』というふざけた艦隊命名の主犯――――そして恐らく自分と同じ司令艦であろう飛鷹型2番艦、軽空母『隼鷹』。

 

「横鎮の皆、出迎えご苦労さん。ご存知あたしが商船改造空母、隼鷹で~す!!ひゃっはぁおぼっ!!」

 

 おぼ?

 

 急に顔を真っ青にして口元を抑えた隼鷹は、残った片方の手でちょっとタンマ、のジェスチャーをしたかと思うと、いきなり海面を走って二式大艇の陰に姿を消した。

 

直後、

 

『おぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼっっっ!!』

 

 飛行艇のエンジン音に負けないくらい盛大な嘔吐の音が場を支配する。

 

 向こう側で何が起きているか想像に難くない。というか、こちらから見えなくても駆逐艦側から丸見えだと思うのだけれども。

 

 しばらくして姿を現した隼鷹は少しすっきりしたような感じだが、まだ顔色は青いまま。

 

「あ~やっべ、やっぱ飲み過ぎたみたいだ。ってことで後は任せたよ」

 

 そう言い放って彼女は、んじゃっと手を上げながらのそのそと搭乗口から艇内に戻る。緑色の扉がぱたんと閉まった。

 

 取り残された自分たちはもちろん、駆逐艦隊ヒャッハーズの皆さんも唖然として上官の消えて行った搭乗口を見つめている。

 

 突如、アイドリング状態だった二式大艇の発動機が一際大きな音を上げ始めた。プロペラが高速回転し、ゆっくりと緑色の巨体が動き始める。

 

『え゛!?』

 

 全員が絶句して見守る中、二式大艇はふわりと離水して青空に舞い上がり、そのまま大きく旋回して本土を目指し飛び去っていった。

 

 ―――どうするんだ、これ。

 

「まったく、調子に乗るからこんな無様なことになるのよ。だからお酒はほどほどに、って言ったのに」

 

 振り向くと、飛行艇の去ったその場所に立つ人影があった。

 

 先ほどの隼鷹と同じ紅白の巫女風軍服と襟元の勾玉は同じ。だが腰まで伸びた長い黒髪と切り揃えた前髪、大きなアーモンド形の瞳といかにも深窓の令嬢然とした容貌。自分より年上の女性だが、頭の左右に結んだ羽を広げた蝶みたいな白いリボンが、その可愛らしさを強調している。

 

 女性―――隼鷹の姉である彼女は真っ赤なスカートの裾を持ち上げ、こちらに向かって優雅に一礼した。

 

「こうやってお会いするのは初めてよね。ラバウル基地所属の出雲ま……じゃなかった、飛鷹型軽空母1番艦『飛鷹』です。先ほどは隼鷹が失礼しました。彼女は演習に参加できそうにないので、先に内地に向かってもらいました」

 

 あの有様では仕方ないだろう。演習海域にもんじゃを撒き散らされても迷惑だし。

 

「そこで今日は私が代わりに駆逐艦隊の指導とバックアップをさせていただきます。よろしくね」

 

 きゃるんっ、という感じでお嬢様スマイルを振りまく飛鷹。

 

「ようこそ横須賀鎮守府へ。機関修復中のため審判を務めさせていただきます、軽巡由良です」

 

「本日、駆逐艦隊を嚮導させていただきます、軽巡阿武隈です」

 

 立ち上がった由良と阿武隈が敬礼。飛鷹はスカートから手を離し、同じように敬礼を返した。

 

「急な演習の要請、受けて頂き感謝しております。艦娘同士の演習は昨今中々難しくて……ラバウル駆逐隊全員整列。吹雪から順に自己紹介なさい」

 

 名前を呼ばれた吹雪がはいっ、と返事をして飛鷹の前に立った。

 

「既に吹雪は終わっておるぞ」

 

「なら初春、あなたから始めなさい」

 

 うむ、とワンピース型の白いセーラー服を着た麻呂っぽい眉毛の少女が進み出る。残念そうな顔で引っ込む吹雪。主人公……。

 

「初春型駆逐艦、1番艦の初春じゃ。よろしく頼みますぞ」

 

 ぺこっ、と頭を下げると紙垂で括った長い薄紫の髪がばさっと音を立てて揺れた。

 

 それはいいけど、背負った機関ユニットの横でヘリコプターみたいに飛んでいる二基の連装砲が気になる。発射の反作用で吹っ飛ばないのだろうか、あれ。

 

 次に前に出たのはピンク色の髪を長いお下げに結って垂らした、元気の良さそうな女の子。背中の機関ユニットは初春と同じ形で、服装も同じワンピースだが下には黒スパッツ。ウサギの耳のような謎パーツが頭の上に二つ浮いている。手足に包帯……ゲートルを巻き、両手に持つ連装砲は球状の砲台に直接手を突っ込む独特の形だ。

 

 今日は何の日?

 

「子日だよ。初春型駆逐艦2番艦。今日はどんな日かなぁ」

 

「初春型駆逐艦3番艦、若葉だ」

 

 初霜と同じブレザーを着た茶髪ショートの若葉は、それだけ言うと黙って子日の横に並んだ。無口キャラというより寡黙キャラなんだろうけど、もっと喋ってくれないと正直キャラクターが掴めない。

 

「初春型四番艦、初霜です。皆さん、よろしくお願いします!!」

 

 はきはきと自己紹介する初霜。そして、

 

「霞よ。ガンガン行くわよ。足、引っ張らないでよね」

 

 ぶっきらぼうに吐き捨て、そっぽを向く霞。この性格だとラバウルでも大変だろうな。

 

 じゃあこちらも、ということで、阿武隈の横に深雪、五月雨、自分の順番で並ぶ。

 

「深雪だよ。今日は負けね~よ」

 

「五月雨です。あたし、頑張っちゃいますから!!」

 

「朝潮です。よろしくお願いします」

 

 無難に挨拶を済ませる。

 

 ……何か、目の前の霞にじろじろ見られているような。

 

「それでは私、阿武隈から、簡単に演習の概要を説明させていただきます。既にこの一帯、10km四方は電子戦用ブイで標識済みです。各自砲塔に電子銃を装着、魚雷発射管には模擬電子魚雷が装填されていることを確認して下さい」

 

 言われて右手の連装砲を覗き込む。丁度砲口にキャップするように、信号を相手に向かって照射する電子銃のレンズが装着されている。同じく魚雷も、推進器と電子装置だけで構成された軽いものに入れ替えてある。

 

「開始位置は事前にお伝えした通り、海域の辺縁から2kmの位置で自由に設定。演習が始まってからは、当鎮守府の由良から命中・損害の程度をオープンチャンネルで随時両チームにお伝えします。どちらか一方が全て轟沈判定となった時点で演習終了です。また一時間経過しても決着がつかなかった場合、残存艦数と被害状況で判定することとします」

 

 澱み無く説明を終え、ほっ、と一息つく阿武隈。それが無ければ完璧だったのだろうけれど、彼女らしいと言えば彼女らしいか。

 

「ラバウル駆逐艦隊が先に出発。飛鷹さんには彼女たちに随行していただき、万が一に備え開始位置での待機をお願いします。特に質問など無ければ、予定通り一〇〇〇より演習を開始しますが……」

 

「あのさ、なんで『ヒャッハーズ』なんて変な艦隊名なんだ?」

 

 ぴしっ、と空気が凍る。

 

「……演習についての質問は無さそうですね。それでは……」

 

「ち、ちょっと、深雪が聞いてんだろ!!『ヒャッハーズ』って何なんだよ、なぁ?!」

 

 駄目だ深雪……それは―――それを言ってはいけない!!

 

「まあ気になるでしょうね。とりあえず私が付けたんじゃない、ってことは理解してもらえるかしら」

 

 ため息をつきながら律儀に答えてくれる飛鷹。でしょうね。

 

「昨日隼鷹の演習引率が決まって、せっかくだから艦隊名でも付けたら、って言ったらあんな名前になっただけよ。一応私も反対したんだけど、なら酒で勝負だって言い出して……」

 

 その結果があれ、ということか。勝負に勝って艦隊名を固持したはいいものの、本人は二日酔いで轟沈して演習に参加できず……ん、これって隼鷹の独り勝ちじゃないか?

 

「ということで、そこはさらっと流してくれると助かるわね」

 

「ではラバウル駆逐艦隊の皆さん、開始位置に向けて出発して下さい」

 

 阿武隈、ナイスフォロー。飛鷹はすっと片手を上げ、

 

「さあ、いくわよ!!隼鷹が言ってた通り、勝てたら全員帝都一日自由行動だから!!」

 

 ひゃっはー!!とラバウル組から歓声が上がる。あながち隼鷹の命名も的外れではなかったらしい。

 

 ゆっくりと移動を始める飛鷹に駆逐艦たちが続く。

 

「深雪、横鎮で頑張ってるみたいだね」

 

「おう、吹雪もな。今日は手加減無しだぜ!!」

 

 ハイタッチを交わす特Ⅰ型姉妹の二人。というか、しばふ型は皆素直だよな。一部欲望にも素直な子もいるけど。

 

 そのまま初春、子日らともタッチをしていく深雪。彼女のコミュニケーション能力は見習いたい。そう思った直後、

 

ゴンッ!!

 

「何するのよ、ポンコツ!!」

 

「ひぅっ!!ご、ごめんなさいっっ!!」

 

 深雪と同じように手を差し出そうとした五月雨が、あろうことか連装砲をうっかり霞の艤装にぶつけてしまったのだ。

 

 瞬間湯沸かし器で真っ赤になる霞と、反対に真っ青になる五月雨。

 

「はぁ!?それで済むと思ってんの!?これが実弾入りだったらどうするつもりだったのよ?!」

 

「こ、今度から気を付けますから……」

 

「今度?さっきので砲が暴発してたら、今度なんてあるわけないでしょ。あんた、戦争舐めてんの!?どうせ演習だからって、今だけ謝ってやり過ごせばいいとか思ってるんでしょ」

 

「そんな……」

 

 声を詰まらせた五月雨の蒼い瞳がみるみるうちに潤んでゆく。

 

「それくらいで止めよう、霞。五月雨も不注意だったけど、これ以上は傷つけるだけよ」

 

「は、ポンコツがどれだけ壊れようと、あたしの知ったことですか」

 

「彼女は仲間なのよ!!」

 

 初霜が強く諌める。が、

 

「仲間?このポンコツが?悪い冗談ね。大体こいつ、戦艦の比叡を撃ったことがあるらしいじゃない。油断してたらあたしたちも後ろから撃たれるかもしれないわよ」

 

「霞っ!!」

 

 一気に不穏な空気が充満する。飛鷹たちも霞の剣幕に呑まれたのか、その場で船足を止めて見守るだけだ。

 

「にしても帝都守護の要、横須賀鎮守府様も地に堕ちたものね。こんなポンコツが混ざってるなんて。とはいえポンコツ以外の連中も似たり寄ったりかしら。よくもまあ、こんな役立たずばっかりかき集めたもんだわ」

 

「ああん?!」

 

 深雪が喧嘩腰で詰め寄ろうとするのを吹雪が引き止めた。

 

「自分で分からないの!?戦う前に沈んだダメ駆逐艦に、真っ先に沈められた無能軽巡。それに―――」

 

 ぎろり、とこちらを睨め付ける。

 

「それに―――命令無視したあげく犬死にしたクズのこと言ってんのよ!!」

 

 頭を金槌で叩かれたような衝撃が走った。

 

 そうだ……朝潮の最期は、特務艦野島の松本艦長との約束を守るため、撤退命令に背いて一人戦列を離れ……そして救助の途中で空襲を受け沈没した。

 

 客観的に見れば犬死にかもしれない。

 

 でも――でも――!!

 

 気が付く前に左手がすっと伸び、霞の襟元を掴んで締め上げていた。

 

 後ろで誰かが止める声が聞こえたような気がするが、気にする意味も無い。

 

「―――司令官を―――侮辱―――しないで―――」

 

「口で敵わないから手を出すの?!この野蛮人!!私、なんでこんなこと。あんたみたいのが姉妹艦だなんて悪い冗談―――」

 

 掴む手に力が籠り、霞の顔が苦痛に歪む。今度は抵抗して爪を立ててきた。磨かれた爪先が白い肌に食い込み、皮が剥けて血が滲む。だが、それがどうしたというのだ。

 

 自分の中に燈った黒い怒りの炎が、じりじりと理性を焦がしていく感覚。

 

 撤退命令を無視した司令官は間違っていない。間違っていなかった。

 

 後世の何百万人が罵り謗ろうとも、私は、朝潮だけは、司令官の決断を信じ続ける。そう決めたのだから。

 

「―――霞―――訂正―――しなさい―――」

 

「何言ってるのよ、犬死には犬死にじゃない。いや、こんなの!!それを命じる司令官もクズよ。もうやめて!!さっさと沈んだ船は気楽よね。違う、そんなこと思ってない!!あの後私たちがどれだけ苦労したか知ってるの、このクズが―――助けて―――お姉ちゃ―――」

 

「はい、そこまで。軽巡『由良』の権限で駆逐艦『霞』、機関緊急停止」

 

「あ―――」

 

 急に霞の主機が浮力を失い、墜落するように霞の全身がずぼっと海中に消える。すぐにレスキューモードが起動し、水面下で白い救命筏が開いて霞の身体が浮き上がってきた。

 

 先日の自分がそうだったように海面にぶら下がったような体勢になった霞は、さっきまでの勢いはどこへやら。びしょ濡れになったまま何も言わずに、虚ろな瞳で自分に打ちかかる小さな波を見つめている。

 

「ちょっと同調しすぎたみたいね。駆逐艦『霞』は戦歴の長い武勲艦だし、情報量も多いから仕方ない、かな」

 

 いつの間にか霞の後ろに立っていた由良が、心配そうに波間に漂う霞を見つめていた。

 

「由良――さん、一体どうして?」

 

「これ?艦娘なら誰でも使える内火艇ユニット。見たこと無いかな?十馬力の十ノットくらいだけど、ちょっとした海上移動ならこれで十分なの」

 

 言われてみると、ウインドブレーカーを羽織った彼女の背中には、いつもの艤装でなくオレンジ色の小さなリュック大の箱が背負われていた。艦艇の機関ユニットと違い内燃機関を使用しているらしいそれは、ドルッ、ドルッとバイクみたいなエンジン音を発している。

 

「手間をかけさせたみたいね。霞は近代化改修を終えたところだったから、演習で慣らしができれば、と思ったのだけど」

 

 飛鷹がゆっくりと近づいてくる。彼女も突然の事態に動揺しているみたいだ。

 

「それが原因だと思います。途中から記憶と感情の溢流が起きていたみたいですから。とりあえず彼女を休ませた方が――」

 

「お願いできるかしら」

 

 了解です、と由良が答え、そして手伝うようこちらに視線で促す。

 

 皆が見守る中、由良と二人で片方ずつ霞の腕を取り、一気に海中から引き上げた。機関ユニットを使用しているためか、霞の服がずっしりと水を含んでいるにもかかわらず、彼女の身体はとても軽い。

 

 途中から初霜が手を貸してくれたので、ささっと霞の艤装と兵装を解除。そのまま艤装は初霜に任せて、自分は霞をお姫様抱っこで駆逐艦『竹』へと運ぶことにした。

 

「わたし―――かすみ―――だれ―――くちくかん―――かすみ―――」

 

 まだ意識の朦朧としている霞は、焦点の定まらない目で空を見上げながら、紫色の差した小さな唇でひたすら自分の名前を呟いている。

 

 潮風に吹かれて左手の甲がひりひりと痛む。首を傾けて見ると、引っ掻かれたような爪痕が4条刻まれており、そこから血が流れ出していた。

 

 消毒代わりにぺろっ、と舐めると、生臭い鉄と塩の味が口の中に広がる。

 

 ――――いつの間にこんな怪我をしたのだろう?

 

 

 

 

 

 予定時刻より少し遅れて一〇二〇。両艦隊が定位置に到着し、演習の準備が整った。

 

 霞が脱落したおかげでこちらが軽巡1駆逐3、向こうが駆逐5と戦力差は縮まったが、まだ予断は許さない。

 

『ただ今より横須賀鎮守府、阿武隈水雷戦隊とラバウル基地、駆逐艦隊ヒャッハーズの演習を開始します。双方、健闘を祈ります』

 

ぼぉ~

 

 インカムから聞こえる由良の声に続き、駆逐艦『竹』が汽笛を鳴らす。

 

「みんな、やればできるから頑張ろうね!!」

 

 微妙に腰の引けた激励を発する阿武隈。

 

「ぃよ~し!!あいつら目にもの見せてやるぜ!!」

 

「もうドジっ子なんて言わせませんから!!」

 

「受けて立った以上、勝ちます」

 

 深雪も五月雨も気合十分。

 

「じゃあ昨日話し合った通り、最初は作戦『扶桑』発動!!」

 

『了解!!』

 

 阿武隈の背中に五月雨がよじ登り、肩車。そして仁王立ちになった阿武隈の両脚を、自分と深雪が持ち上げる。

 

 一分そこらで高さ4m弱の人櫓が出来上がった。

 

「動かします」

 

「はい、見張りはお任せ下さい!!」

 

 主機を片方だけゆっくりと駆動させ、レーダーのように五月雨の視界を、目を回さない程度に左右に振る。

 

 偵察機を持たない水雷戦隊と駆逐隊の勝負だからこそ、先に相手を発見した方が勝つ。そのためにはより広い視界の確保、つまり単純に高さが重要だ。

 

 扶桑型戦艦の艦橋と同じコンセプトなのでそう名付けた作戦だが、本人が聞いたら絶対『組体操と一緒にされるなんて、不幸だわ』とか言いそうだな。

 

「敵影発見!!え~と、方位一五〇、距離は6500くらいです。単縦陣でこちらに接近中。多分向こうは、最初から最大戦速だと思います」

 

 とすると、あと4-5分で魚雷の最大射程に入るか。

 

「五月雨、一旦降りて。次は作戦『玄武』を発動します。全艦単横陣に。船体を前方に最大傾斜で抜錨!!方位一五〇で両舷微速前進!!」

 

『了解!!』

 

 阿武隈の横に五月雨、深雪、そして自分の順番で一列に並ぶ。

 

 作戦『玄武』。名前は格好良いが、要するに機関ユニットのバランサーを最大利用して、姿勢を低くしたクラウチングスタートのポーズで進むことだ。作戦『扶桑』と組み合わせることで先に敵の位置を知り、その後は相手がこちらを発見しにくくする効果がある。

 

 ここからしばらくは目視でなく、時間と速度だけで相対距離を推測しなければならない。阿武隈が自分の懐中時計を見ている。

 

 1分、2分、3分……前傾姿勢で進むだけだが、緊張感で額に汗が滲んできた。

 

 4分、5分、6分……。

 

「全艦、魚雷に諸元入力。構え―――発射!!」

 

 プシュプシュプシュプシュッ!!

 

 61cm三連装魚雷と61cm四連装魚雷から、計14本の魚雷が圧縮空気音と共に扇状に発射される。

 

 必殺、掟破りの駆逐艦開幕魚雷!!

 

 といっても、その効果を立ち上がって確認するわけにはいかない。

 

「速度はこのまま、進路変更一八〇に変更。魚雷着弾まで60秒を想定しています」

 

 1分か。短いはずの時間が長い。

 

 何も考えず、とにかく姿勢を低くして進む。阿武隈の方を見るが、彼女もしきりに時計と魚雷の向かった方を見比べている。

 

「着弾まで、5、4、3、2、1……」

 

『ラバウル駆逐隊、魚雷被弾。吹雪大破轟沈、初春大破、子日中破、若葉小破』

 

 相手艦隊の損害を知らせる由良の声。

 

 よしっ!!

 

「五月雨はあたしに、深雪は朝潮に続いて。全艦最大戦速、最終作戦『十字砲火』発動!!」

 

 掛け声と一緒にダッシュ。一気にトップスピードに乗り、相手を右舷に臨みながら海面を滑っていく。

 

 先頭を走っていた吹雪がやられたため、向こうは魚雷を警戒して船足が止まっている。

 

 砲口を次に被害の大きい初春と子日に合わせた。

 

「深雪ちゃん!!」

 

「行っくぞ~、深雪スペシャル!!当ったれぇ~い!!」

 

 それが痛いのは実体験済みだ。

 

 グリップの引き金を引く。電子銃モードになっているため、発射の衝撃は無い。

 

『初春轟沈、子日大破、若葉中破、朝潮小破』

 

 これで残り3人。見ると若葉と初霜がこちらに連装砲を向けている。さっき反撃を受けたらしいが、幸い大したダメージではない。

 

『子日轟沈、若葉大破、初霜小破』

 

 二手に分かれたもう一方からの攻撃。初霜が別働隊に気付き、ちょうど対角線上にいる阿武隈たちにもう片一方の単装砲を向けた。しかし一度傾いた天秤は戻らない。

 

「まだまだ~!!」

 

 深雪が再度連装砲を発射。

 

『朝潮中破、阿武隈小破、若葉大破轟沈、初霜大破轟沈、演習終了です』

 

 ぼぉ~、と再び汽笛が鳴り響き、演習の終わりを告げる。

 

「やったぜー!!なぁ、今度こそ深雪さまがMVPだったろ、なぁ、なぁ!?」

 

「分からないけど、勝ちは勝ち、かな」

 

「嬉しい癖に、朝潮も素直に喜べよ」

 

 このこの~、とスピードを落としながら脇を突っついてくる深雪。

 

 言われなくても、自分の顔が綻んでいるのは分かっている。昨日演習が決まってから陸上練習を切り上げ、午後を全部機関ユニットの調整と作戦会議に費やしたのだ。艦これ世界のセオリーを逆手に取った形だが、主な発案者として皆で色々アイデアを練った甲斐があったのは、正直嬉しい。

 

『両艦隊の皆さん、お疲れ様でした。一旦駆逐艦『竹』まで戻ってきて下さい』

 

「よっし、せっかくだから吹雪たちとも合流して帰ろうぜ」

 

 うん、と頷いて進路をラバウル駆逐隊に向ける。

 

 だが少しずつ距離が近付くうちに、様子がおかしいことに気が付いた。

 

「いよう、吹雪!!深雪さまの活躍、見ててくれたか!?」

 

「……どういうつもりなのよ、深雪」

 

 演習は終わったというのに、吹雪を始め初春、若葉、初霜の8つの瞳が冷たい視線でこちらを睨みつけている。子日は負けたことが信じられないのか、突っ立った状態で目玉が宙を泳いでいた。

 

「どういうつもりって、何か変なことしたか?」

 

「何なの、あの戦い方は。駆逐艦同士の演習は、互いに相手の姿を確認しながら艦隊機動と砲雷撃戦で練度を競い合うもの。なのに深雪たちがやったのは、こそこそ隠れてとにかく相手の裏をかくことだけ―――」

 

「言い訳かよ、みっともないぜ吹雪」

 

「違う!!私たちの敵は深海棲艦なんだよ!?あんな戦い方で演習したって―――艦娘相手に勝ったって何の意味も無いよ!!」

 

 ぐっ、と深雪が言葉に詰まる。

 

「そうじゃ、お主ら一体何を考えておる!?こんな遺恨の残る勝ち方をしておいて、いざ敵を前に連携ができると思うてか!?」

 

「正直、最低だ」

 

「子日だよ~」

 

「図らずしも霞の言葉を証明してしまったみたいね」

 

 次々に突きつけられる厳しい言葉。その一つ一つが胸に突き刺さる。

 

 間違いだったのか?勝ちにこだわったことは……。

 

「どうしたの、皆帰らないの!?」

 

 こちらの喧噪が気になったのか、五月雨と阿武隈がゆっくりと近づいて来た。

 

「阿武隈さんっ!!」

 

 突然吹雪が阿武隈に詰め寄り、頭を下げる。

 

「ひぇ、やだ私?な、何かな……」

 

「お願いします、もう一度演習をやらせて下さい!!こんな一方的な負け方、納得できません!!」

 

「若葉も、再戦を要求する」

 

「当たり前じゃ。こんな無法が通って良い道理が無いぞ」

 

 でも、だって、え~、ともごもご口を濁す阿武隈。

 

「深雪は反対だぞ!!勝ったのは深雪たちなんだから、再戦するなら吹雪たちがそれを認めてからだぜ!!」

 

「認められるわけ無い!!こんなの絶対おかしいです!!」

 

 ぐぬぬぬぬ、とにらみ合う深雪と吹雪。さっきまであんなに仲が良かったのに。

 

『ちょっと皆、オープンチャンネルで何喧嘩してるのよ』

 

 と、全員の耳に飛鷹の声が飛び込んでくる。

 

「飛鷹さん!!聞いて下さい、私たち再戦を―――」

 

『言わなくていいわ、聞こえてたから。とにかく落ち着きなさいな、吹雪』

 

「でも飛鷹さんっ!!」

 

 はぁっ、とインカムの向こうで大きなため息が聞こえた。

 

『あのね吹雪、他の皆も納得がいかないかもしれないけれど、負けは負けよ。大体深海棲艦相手だって、いつ新型が現れて、今までの戦法が使えなくなるか分からないんだから。セオリー通りに事が運ばなかったからって、臍を曲げるのは思考停止と同じ。事実は事実としてちゃんと認めなさい』

 

 今度は吹雪たちが言葉に詰まる番だった。だがこれで事態は収束したか、と思いきや……、

 

『でも、釈然としないのは私も同じ。ということで由良さん、阿武隈さんも。このまま再戦はどう?』

 

「飛鷹さん―――ありがとうございます!!」

 

『ああ、勘違いしないでね吹雪。あなたたちじゃなくて、私が戦いたいの。私、飛鷹と阿武隈水雷戦隊とで、もう一戦どうかな?』

 

 やっぱり彼女も納得してなかったか。

 

 しかし飛鷹一人と演習?

 

 1対4なら例え軽空母が航空戦でこちらを爆撃できても、手数で押し切れるはずなのだけれども。彼女には何か勝算があるのだろうか?

 

『由良は別に構わないけど、阿武隈はどう?』

 

「あたし的にもOKです」

 

『決まりね。私は今の場所から動かないから、阿武隈水雷戦隊は準備ができたら教えてちょうだい。ラバウル駆逐隊は演習海域から退避。大丈夫、仇は取るわよ!!』

 

 

 

 

 一〇五〇、電子魚雷を補充し再び開始位置に戻る。

 

「阿武隈さん、あたし空母と戦ったことが無いんです。どうしたらいいんですか?」

 

 不安そうな顔の五月雨。

 

「さっきみたいな方法は使えないから、とにかく距離を詰めないとね。あと、敵機が飛来したら爆撃前に可能な限り撃墜、敵機が攻撃態勢に入ったらその都度回避運動をするくらいかな」

 

 さっきの吹雪たちみたいに、相手から近づいて来ることは期待できない。ましてや低速の飛鷹であれば、その場から艦載機を飛ばすはず。

 

『それでは二戦目。横須賀鎮守府、阿武隈水雷戦隊とラバウル基地、軽空母飛鷹の演習を開始します』

 

 再び駆逐艦『竹』の汽笛がぼぉ~、と吠えた。

 

「全艦対空警戒、輪形陣を取って。機関最大戦速!!敵に肉薄することを最優先とします!!」

 

『了解!!』

 

 阿武隈の後ろに深雪と五月雨が並ぶ。自分は最後列だ。

 

 スピードスケートの要領で加速し、すぐ最大戦速に到達。そのまま空を見回しながら全速力で進んでいく。

 

 速度は30ノット強、時速60km相当。演習海域の広さが10kmだから、数分もしないうちに会敵するはずだが、そこは相手が軽空母。

 

「敵機襲来、対空機銃構え!!機種は……」

 

 阿武隈が叫んだ。

 

 ほぼ真南に近付いた初夏の太陽を背に、10以上の機影が等間隔に並んでこちらに向かって来る。

 

「みんな落ち着いて。あれは彩雲、偵察機です」

 

 少し安心した。偵察機に攻撃力は無いし、自分たちの場所を見つけたら帰っていくだろう。

 

「阿武隈、何か変だぜ。嫌な予感がする」

 

「え!?」

 

 編隊を組んだ彩雲の群れは、逃げることなくそのままぐんぐん接近してくる。そして一番手前の一機が、阿武隈目がけて襲い掛かってきた。

 

「きゃっ!!嘘でしょ!?」

 

 背中の機関ユニットの対空機銃で弾幕を張る阿武隈。演習中だが艦娘の生体フィルターを貫けないため、実弾が装填されたままの機銃。その無数の砲口から吐き出される鉄の嵐にまともに突っ込んだ彩雲は、全身穴だらけになってばらばらに引き裂かれ、その姿を紙切れに変えてヒラヒラと海面に舞い落ちた。

 

 飛鷹と隼鷹、それに龍驤が使う式紙式艦載機。さっきまで彩雲だった紙切れは、今となってはぴくりとも動かない。

 

 一機目が撃破されたのを皮切りに、十機以上いた彩雲が一斉に突撃を開始した。スズメバチの羽音のようなわ~んわ~んという耳障りな音が鼓膜を揺らす。

 

 各自機銃を空に向け思い思いに彩雲を狙い撃つが、当たらない。

 

「もうっ!…なんでぇ?」

 

「っん……やられたっ!!」

 

『五月雨小破、深雪小破』

 

 撃墜しきれなかった彩雲の体当たりをまともに喰らったのか、インカムから被弾を知らせる由良の声が届いた。

 

「か、艦隊集合、密集隊形を取って!!皆で背中合わせになって、弾幕の密度を上げます!!!」

 

 前を行く阿武隈が急に船足を落としたのか、お互いの間隔が狭くなった。その拍子に打ち漏らした彩雲が直上から突っ込んできた。そのまま頭に激突。生体フィールドのおかげで痛みは無い。が、

 

『朝潮小破』

 

 ダメージ判定をもらってしまった。ぐずぐずしている暇は無い。

 

 すぐさま反転。背中を阿武隈に預け、空から執拗に付け狙ってくる彩雲に機銃掃射を浴びせかけた。

 

 やっと命中弾が増え、空にぼんっ、ぼんっ、と火花が次々と咲いて行く。

 

『阿武隈小破』

 

 やがて最後の彩雲が燃え上がる紙切れに姿を変え、攻撃第一波を凌ぎ切ることができた。

 

 だがこちらはまだ飛鷹の姿さえ捉えていないというのに、既に被害は甚大だ。

 

「うわあぁん、偵察機が体当たり攻撃してくるなんて滅茶苦茶ですよぅ!!」

 

 そうだ。五月雨の言う通り滅茶苦茶。だがそれは、さっき自分たちがやったことをそのまま返されているだけ。この攻撃には『お前たちはこんなことをやっていたんだぞ』という、飛鷹の無言の抗議が込められている気がした。

 

「皆、動揺しないで。陣形は輪形陣を維持、今度は敵襲に備えて距離は短めにね。何が起きたって、接近して攻撃する、という方針は変わらないんだから」

 

 嚮導艦の阿武隈が勇気づけてくれる。

 

 身長は自分たちと大して違わないというのに、駆逐艦と軽巡では背負っている責任の重さが違うということか。

 

 負けてられない!!

 

「進路は敵機が来た方向へ、艦隊機関駆動。あたしだって、やるときはやるんだから!!」

 

 自分に言い聞かせるようにして走り出す阿武隈。その背中に続く。

 

 しばらく進むと、水平線の向こうに飛鷹らしき紅白の人影が見えてきた。左手にスクロール型の甲板を広げたその姿が、少しずつ大きくなってくる。

 

「周囲に機影は!?」

 

「今んところ空には何も見えね~ぜ!!」

 

「油断しないで!!どこから攻撃が飛んでくるか―――」

 

ぽこっ、ぽこぽこぽこっ

 

 右肩にドングリか消しゴムでも投げつけられたかのような、小さな何かが当たる音と感覚。

 

『阿武隈中破、五月雨大破轟沈、朝潮中破』

 

「やぁ……なんでぇ?!」

 

 轟沈扱いになった時点で機関を止めるルールだ。戦隊から涙目の五月雨が脱落する。

 

「右舷から攻撃!?」

 

 ぶぅんっ、と頭上を通過するプロペラ音。見上げると編隊を組んだ緑色の機体が翼裏の日の丸を見せつけるようにして飛び去るところだった。

 

 艦上爆撃機の彗星!?でもどうやって……。

 

「阿武隈、何かが左舷から飛んで来てるぜ!!」

 

「ッ!!深雪、朝潮!!あたしの右舷に、陰に隠れて!!」

 

 とっさに自分を盾にするよう指示を下す阿武隈。何が起きているのか分からないが、今は従うしかない。深雪と一緒に急いで阿武隈の右側に並ぶ。

 

ぽこぽこっ

 

 阿武隈の艤装に何かが当たる軽い音がした。そして目の前を小さな丸い物体が、ちょうど水切りの石のように水面を跳ねながら通り過ぎて行く。

 

 まさか反跳爆撃!?帝国海軍が何でこんな戦法を―――

 

『阿武隈、大破轟沈』

 

「やられた……」

 

 由良の声が無情に告げる。悔しそうな顔の阿武隈。だが、

 

「二人とも早く行って!!今ので少しは距離を稼げたはずだから!!」

 

「ああ、これ以上はやらせねーよ!!」

 

 無言で頷き、さらに速度を上げた深雪に続く。

 

 もう飛鷹の表情が分かる距離だ。

 

 周囲を見渡すが、次の艦載機の発進までタイムラグがあるためか、空にも、そして水平線にも敵機の姿は見えない。

 

 今ならいける!!

 

 右手の連装砲を構え、照準を付ける。

 

「朝潮、止まれっ!!」

 

 突然深雪が振り向いて大声を上げた。咄嗟に踏ん張って急ブレーキをかけると、そのすぐ足先を白い航跡が走っていく。

 

『深雪、大破轟沈』

 

 雷撃!?でも機影は―――

 

ぶわぁん……

 

 水面から一斉に飛び立つ緑色の機体、その数二十機近く。先ほどの彗星よりもスマートなそのフォルムは、

 

「流星改・艦上攻撃機!?」

 

 待ち伏せされていた―――航空魚雷で網を張られていた!?

 

「失敗したぜ、チクショ~!!」

 

 停船して海面で地団太を踏む深雪。

 

「ごめん朝潮、後は任せた」

 

「うん、分かった。ありがとう」

 

 魚雷がいないことを確認し、深雪の横を通り過ぎる。すぐに再加速。

 

 皆が作ってくれたこのチャンス、無駄には出来ない。

 

 きっ、と前を睨むと、その場から動いていない飛鷹に再び照準を付け、12.7cm連装砲の引き金を引いた。

 

「このっ!!」

 

 だが、当たったはずなのに損害を告げる由良の声は聞こえない。

 

 装甲が硬いのか、それとも自分の主砲が非力なのか……ダメージが通っていない!?

 

「このっ、このっ!!」

 

 何度もトリガーを引くが、有効な損害を与えることができない。

 

「だったら肉薄する!!」

 

 近付けば軽空母の飛鷹は、自身を巻き込むため攻撃ができないはずだ。密着してからの零距離射撃で、それがダメなら魚雷で仕留める!!

 

 飛鷹に新たな艦載機を発進させる素振りは見えない。勢いを付けたまま海面を蹴り手前で大きくジャンプ、一気に飛鷹の懐に潜り込んだ。これなら――

 

「超近距離なら、私には攻撃手段が無い―――そう思ったでしょう?」

 

 弱点を突かれたはずなのに、これ以上ない笑顔の飛鷹が出迎える。

 

 ぐりん、と彼女の腰に装着された艤装が半回転。ぽっかり空いた3つの黒い砲口が顔面に突き付けられた。

 

「駆逐艦の子は皆引っ掛かってくれる―――軽空母も装備できるのよね、15.5cm三連装砲」

 

 砲口に填め込まれたレンズから無慈悲な電気信号が放たれる。

 

『朝潮、大破轟沈。演習終了です』

 

 由良の後ろでラバウルの駆逐艦たちが上げる歓声が聞こえた。

 

 ぼぉ~、と駆逐艦『竹』が汽笛を鳴らす。今度こそ全て終わり。急に全身の力が抜け、その場に座り込んでしまった。

 

「どう?改装空母だって甘くないでしょ?私だって結構やれるんだから!!」

 

 さて、うちの子たちは霞も含めてもう一回鍛え直さなきゃ、と肩をこきこき鳴らす飛鷹。

 

 負けた―――完膚なきまでに。

 

 軽空母一人相手に、四人がかりで手も足も出ないなんて。

 

 しかも彼女はまだまだ余裕の表情だ。正直、底が知れない。

 

「さて、試合が終わったら恨みっこ無しよ。ちゃんと吹雪たちと仲直り、できるよね」

 

 そう言って差し出された手に、ゆっくりとこちらも手を伸ばす。

 

『ラバウル基地の皆さん、横須賀の皆さん、演習お疲れ様でした』

 

 と、突然イヤホンから柔らかい声が飛び込んできた。この声は、

 

「鳳翔―――さん―――!?」

 

 そう呟いた飛鷹の動きが、手を差し出したままの状態で固まる。

 

『今日はお客様が大勢いらっしゃるということで、お昼ご飯は腕によりをかけさせていただきました。皆さんの帰投をお待ちしております』

 

 そうそう、先に到着された隼鷹さんはお一人で始められていますよ、と付け加えて通信は終わった。

 

 二日酔いであんなひどい状態だったのに、今度は迎え酒とは筋金入りの呑兵衛だな、あの人も。

 

「朝潮っ!!」

 

 苦笑いしていると急に両肩をがっし、と掴まれる。

 

「今のは声は鳳翔さんよね、ね!!何で鳳翔さんがあなたの鎮守府にいるのよ?!」

 

 さっきまで余裕綽々だった飛鷹が、何やら切羽詰ったような表情で尋ねてきた。鼻が触れ合うくらいの距離まで顔が近付けられる。

 

「答えなさい、朝潮っ!!」

 

「何でって……鳳翔さんは前の提督がいた頃から、ずっと横須賀鎮守府のメンバーだったって聞いていますけど……」

 

 掴まれた肩が痛い。どうして彼女はこんなにも取り乱しているのだろう。

 

「ああ―――良かった―――生きて―――」

 

 自分の言葉に何やら衝撃を受けたらしく、自分の口元に両手を当てながらよろよろと後ずさる。

 

「あの、鳳翔さんがどうかしたんですか?」

 

 それには答えず、飛鷹は自分のインカムを外してこちらの目をきっ、と真正面から見据えた。

 

「朝潮―――いいえ、朝潮提督―――鳳翔さんを、あの人を二度と戦場に立たせないで!!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

任務8『司令艦隊酒保祭リ!』

 

ガタンゴトン、ガタンゴトン―――

 

 青いフェルトを張り付けただけの簡素な四人掛けの木製座席から、列車が揺れる度その振動が直接お尻の骨に響いてくる。

 

 窓枠に肘をつきながら少し腰を上げて座り直した。久しぶりに穿いた寝間着でないズボンだが、つい先日までスカート生活だったことを考えるとむしろこちらの方が違和感がある気がする。知らない間に朝潮としての生活に染まっていることを痛感させられた。

 

 ちなみに由良の説明では、今着ているのが第2種軍装。夏用の白い男子学生服みたいなものなのだが、これを着た朝潮の見た目は、運動会の白組応援団長に担ぎ上げられたクラスの女の子以外何者でもない。

 

 〇九〇〇ちょうどの横須賀発東京行き各駅停車。待ち合わせの時間は一一〇〇なので、大分余裕がある。

 

 本当ならもう少し早い時間でも良かったのだが、初めて見る軍服に戸惑ったり、ずっこけた五月雨がうっかりボタンを全部むしり取ったりなどのアクシデントがあったため、結局乗れたのがこの便だった。

 

 とりあえず寮に戻ったら、五月雨の行動範囲から壊れ物を撤去する作業にとりかかろう。

 

 車両の片方にパンタグラフを一つだけ乗せた、濃い紺色の車体をぐるっと白い帯が取り囲むような特徴的な塗装がなされた木造の電車は、時折がたぴし言いながらも危なげなく鉄路を進んでゆく。

 

 通勤通学の時間からずれているため車内には5,6人の老人たちと、あとは外回り営業と思われるスーツ姿のサラリーマンが二人ほど。彼らの視線がこちらに向いているような気がして、頭の軍帽を深めにかぶりなおした。

 

 窓の外を流れていく海沿いの景色には明らかに木造の家が多く、どこか懐かしい感じの街並みが続いている。

 

 ……ラバウル駆逐艦隊『ヒャッハーズ』との演習から早二日。

 

 あの日、昼過ぎになって横須賀鎮守府に帰投した自分たちを待ち構えていたのは、湯気を立てる肌も艶やかな鳳翔さん特製のオムライスだった。

 

 しかも昨今のとろける半熟タイプでなく、真っ赤なチキンライスを黄色い薄焼き卵で包んだオーソドックスなもの。

 

 その上ラバウル駆逐艦隊全員の名前まで一人一つずつケチャップで書いている、という手の凝りようだ。

 

 これには彼らも対抗心を維持できるはずもなく、皿に盛られた湯気の立ち昇る赤黄の丘陵を征服しているうちに少しずつ空気が打ち解け始め、デザートの間宮アイスに取り掛かる頃には『うちの基地にも鳳翔さんが欲しい』とか言い出す始末。

 

 あの人のおもてなし力はバケモノか。

 

 昼食を終え、さらに例の高速修復槽―――普段は職員用天然横須賀温泉として営業中―――で一風呂浴びたラバウル組は、赤ら顔で一升瓶を掴んだ隼鷹さんに引率されて鎮守府を去って行った。小耳に挟んだ話では、このまま内地で訓練合宿を行ってから帰るということだ。

 

 しかし一点、海軍所有のマイクロバスに乗り込む駆逐艦隊『ヒャッハーズ』の中に、霞の姿が無いのが気にかかった。演習前に何やら喧嘩腰で騒いでいたのは覚えているが、急に機関が停止して駆逐艦『竹』に収容された後、彼女がどうなったのかは誰も知らない。

 

“同調し過ぎた”

 

”記憶と感情の溢流”

 

 あの時由良が言った言葉。引率していた飛鷹も、霞に起きた症状を知っていたようだったけれども。

 

 飛鷹―――艦これではありえない、ゲームシステムから逸脱した艦載機運用を行った彼女は、『鳳翔さんを戦場に立たせないで』と言った。

 

 最初はラバウルの提督は隼鷹だとばかり思っていたが、どうやら勘違いしていたみたいだ。

 

 自分と同じ司令艦・飛鷹。

 

 しかし当の飛鷹はそれきり帰りの船の中では一言も発せず、駆逐艦『竹』が横須賀鎮守府に帰港するなり自分の艤装を保管所に預けていずこかに姿を消した。

 

 今日の提督会では彼女の言葉の意図を明らかにしなければ。

 

 そういえば……

 

―――ヴンッ

 

 念じると、艦これの母港画面が視界の中に重なるようにして表示された。

 

 編成画面を開くと阿武隈水雷戦隊と書かれた第一艦隊に朝潮、阿武隈、深雪、五月雨、そして機関ユニットの修復が終わった由良の顔が並んでいる。自分の所には『外出中』の文字が書かれているが。

 

 続いて第二艦隊。ここには誰もいないことを確認して、緑色の変更ボタンをクリック。

 

 艦娘の予備ストレージ画面。そこには鳳翔さんが一人だけ、ぽつんと先頭に表示されていた。

 

―――詳細

 

黄色いボタンを選択することで、鳳翔さんの全身像とステータス、装備品が明らかになる―――はずだったが、

 

「データが見れない?」

 

 軽空母・鳳翔の装備スロットは4つとも板海苔を張り付けた様な黒い四角でマスキングされ、数字の部分はレベルに至るまで全て文字化けしており元の値は読み取れない。

 

 試しに自分や他の艦娘のステータス画面を開いてみるが、そちらは特に支障なく閲覧できる。

 

 何度か母港画面を閉じたり開いたりを繰り返したりと色々試してみたが、結局どうやっても鳳翔さんのステータスを見ることはできなかった。

 

 そうしている間に窓の外の景色は青い海と新緑から、やがて灰色の空と林立するグレーの高層建築群に移り変わっていく。

 

『次は終点東京~東京です。本日は国鉄横須賀線をご利用いただき誠にありがとうございました~』

 

 のんびりした車内放送と共に若干油が切れ気味のブレーキが悲鳴を上げる。車体にゆるやかな制動がかかり、しばらくしてがっしゃん、という連結器の音と共に列車が停止した。

 

 コンクリート製のプラットフォームに降り立ち、人の群れに流されながら丸の内側の改札口に向かう。

 

 出発時に渡された緊急連絡用のガラケーを自動改札機に押し当てると、ピッという音と共に『帝国海軍-Imperial Japanese Navy-』の文字が表示される。

 

「こっちよ、朝潮」

 

 声のした方を見ると、赤レンガの壁を背に立つ自分と同じ白い第2種軍装を着た、長い黒髪が特徴的な雛人形みたいな和風美人の姿があった。

 

 帽子のつばで目元は隠れているが、一昨日会った飛鷹に間違いない。

 

「あの、今日はお出迎えありが……」

 

「話は後で。表に車を待たせているから、すぐに移動するわ」

 

 あまり目立ちたくない、ということだろうか。踵を返して丈の短い革靴の底を石畳にカツカツとならしながら、出口に向かって歩き始める彼女の背中を追いかける。

 

「あ、軍人さんだ!!」

 

「どこどこ!?本当だ!!」

 

「でも私たちと同じくらいの子だよ」

 

「それ、もしかして艦娘じゃない?」

 

 赤レンガの東京駅駅舎を出たのと同時に、小学生の集団に出くわしてしまった。正確には普段の朝潮と同じような白ブラウスに赤い吊りスカート、という出で立ちの女子小学生の。

 

 社会科見学なのだろう、引率の女性教師の手には『○○國民學校初等科5年1組』と書かれた小さな旗が握られている。

 

 それを見た飛鷹の顔が一瞬あちゃあ、という感じの苦笑いに変わるが、それはすぐさま営業スマイルに切り替えられた。

 

「も、申し訳ありません。公務中に失礼致しました!!」

 

「いえ、構いません。子供は国の宝。ましてや彼女たちは、将来小官らと肩を並べて戦うやもしれぬ仲間なのですから」

 

 謝る女性教師にぴっ、と敬礼して返す飛鷹。宝塚の役者さんみたいだ。彼女の姿に女の子たちはきゃあきゃあと無遠慮な黄色い歓声を上げる。

 

 慌てて自分もそれに倣い、ぎこちない敬礼の姿勢を取った。

 

「軍人さん、ひょっとして駆逐艦『朝潮』ですか?」

 

「え!?」

 

 急に名前を呼ばれたので驚くが、それを口にした女の子の顔を見てさらに息が詰まった。

 

「似てる……」

 

 同級生と同じ制服姿のその子は、後ろで長い黒髪を二つに分けて垂らしてはいるものの、と引き締まった目元、意志の強そうな細い眉毛など、全く同じではないが自分……朝潮によく似た容貌をしている。

 

「委員長、行くよ~」

 

「は~い!!」

 

 少女は友人に呼ばれると、短いスカートの裾を翻してクラスの集団に戻っていった。

 

 それからぞろぞろと続く女子小学生の集団を飛鷹と一緒に直立不動で見守ること五分少々。

 

「列が途切れた。今のうちに」

 

 小走りにその場を去り、停車場で待っていたイギリスのタクシーみたいな形の何やら高級っぽい黒塗りの車に乗り込む。

 

 見た目の古めかしさに相反して中は空調が聞いており、茶色い革張りの座席の柔らかさは横須賀線のそれに比べるまでもない。

 

「出して下さいな」

 

 手元のマイクに飛鷹が話しかけると、車は音も無く走り出した。

 

 後部座席から板で仕切られ運転手の顔は見えず、音も完全に遮断されているみたいだ。

 

「ふぅ、とりあえず一息つけたわね」

 

 白手袋を着けた手でぱたぱたと顔を仰ぐ飛鷹。

 

「いきなりで驚いたでしょ。アイドル、ってほどじゃあないけれど、艦娘はそれなりに目立つ存在なのよね」

 

 スモークガラスが張られているとはいえ、さっきとは大分雰囲気が砕けた感じだ。その変化に唖然としていると、

 

「ああそうか。一昨日の演習はごめんなさい、何だかあなたたちを悪者にしてしまって。うちは水雷戦隊を嚮導できる軽巡がいないから、駆逐艦の子たち、言われたことだけきちんとやってればいいって勘違いしちゃってて……」

 

 萎縮しているものと思われたらしい。

 

 それであの子たち頭が固くなっちゃったのよね、失敗だったわ、と自分に言い聞かせる飛鷹。

 

「いえ、あの、ラバウル基地に他の艦娘は?」

 

「私と隼鷹、駆逐艦の子たち以外には、第一艦隊に『陸奥』『木曽』『加古』『古鷹』がいるわ。しかも木曽は改二よ。ただおかげで普通の水雷戦隊を編成できなくなって、そして結果は見ての通り」

 

 なるほど、木曽が高火力艦になってしまったがため第一線に駆り出されてしまい、護衛などの遠征任務が第二艦隊の駆逐艦任せになってしまったということか。

 

 その状態で演習に挑んだというのなら、あの教科書的な考え方も頷ける。

 

 彼女たちの状態に危機感を覚えたからこそ、飛鷹たちは駆逐隊『ヒャッハーズ』をぶつけてきたのだろう。今回の演習が少しは彼女たちの成長の手助けになれていればいいが。

 

 窓の外の景色は、電車から見たものとあまり変わらない。

 

 自分の知る丸の内周辺であれば、高級ホテルや企業オフィスが立ち並ぶビジネスエリアのはずだが、同じビルでもやはりくすんだ色をしたコンクリートやレンガ造りのものが目立つ。

 

 ほとんどがデザインセンスが大正か昭和初期で止まっており、とにかく光やガラスが少なく、どうしても地味な印象を受けてしまう。

 

「気付いているとは思うけれども、この世界は私たちの知る歴史とは違う道筋を歩んでいるわ。ここら辺りの建物やなんかも、東京大空襲が無かったから古い物が結構残っているの」

 

 大通りに出た車は皇居の周りに巡らされた堀の外側を進んでいく。緑の森に覆われた吹上御苑の姿は変わらない。

 

 懐かしく思いながら外周を走る皇居ランナーたちを眺めていると、ふと気づいたことがあった。

 

「何だか彫りの深い顔をした人が多いですね」

 

「ああ、そのこと……」

 

 肘掛からリモコンを取り出した飛鷹がボタンを押すと、天井からTVモニターが下がってきた。電源が入り、スピーカーからアナウンサーの男性の声が流れ始める。

 

『―――さて夏の全国高等学校野球選手権大会関連のニュースです。全ての地区予選が終わり出場校が揃いましたが、今年はどうでしょう?』

 

『やはり注目は国立嘉義大付属でしょうか。予選の台湾大会でも圧倒的な名門校の実力を見せつけてくれました。ところがさらに南から新たなライバルがやってきたんです―――』

 

 パラオ・マルキョク高等学校が高知で合宿入り、南国野球密着取材と書かれたテロップの後ろで、イガクリ頭の日に焼けた高校球児たちが船のタラップを降りて来る映像が流れる。

 

 少年らの顔は明らかに彫りが深く、いかにも東南アジア系といった感じだ。

 

ピッ

 

『―――内地の予報に続きまして、大東亜共栄圏の天気をお伝え致します。ジャワ島では1000mmを越える大規模なスコールが見込まれており、外出の際は予め退避施設を確認しておきましょう。また残った雨水はハマダラカなど熱帯病の原因となる害虫の発生源に―――』

 

 ピッ

 

『―――来日した豪州外務大臣は帝国との航路安全保障条約の延長について―――』

 

ピッ

 

『―――東亜の平和を乱す悪い深海棲艦は、この艦隊のアイドル那珂ちゃんがやっつけてあげる!!くらえ、那珂ちゃん探照灯ビーム!!』

 

 ピッ

 

「と、今の日本、大日本帝国は第二次大戦時の最大勢力版図を維持しつつ西洋の旧植民地国を次々と独立させ、絵に描いた餅だった大東亜共栄圏を実現。東南アジア各国はAseanみたいな諸国連合――大東亜会議を結成し、日本はそのオブザーバーを務めているわ」

 

 標準語が日本語だから旅行する分には困らないけど、人や物の動きが活発になったせいで治安面では色々問題も起きているのよね、と付け加える。

 

「じゃあ満州とかはどうなっているんですか?」

 

「大陸のこと?あっちはとっくの昔に全面撤退」

 

「……それだと関東軍みたいな陸軍が抵抗しそうですけど」

 

「もちろんお偉いさんたちは反対したけど、深海棲艦のおかげでソビエトが不凍港を求めて南下する可能性が限りなくゼロになったから、大陸に橋頭保を維持する必要も無くなった。それで日本海を行き来するリスクだけが残って、結局海軍が護衛を出さないぞって脅したら、渋々撤退に同意したわ」

 

 戦後の歴史を知っているとその決断は正しいのだろう。

 

 広大な大陸の土地は魅力的だが、日本を動かす化石燃料などの資源を運ぶ海の道とは比べ物にならない。

 

 さらに大陸経営を続けると言うことは、本土からの補給なしにソビエト連邦や国民党、共産党と戦わなければならないことも意味する。

 

 図らずしも『深海棲艦』という最強の盾を手に入れてしまった大日本帝国は、対岸のアメリカが手をこまねいている間に艦娘を戦力化。着々と南方での勢力地盤を固めていったということか。

 

 とはいえアメリカも大陸利権を狙って日本に手を出したはいいものの、10万の命を無駄に散らした骨折り損に終わり、逆に日本に代わり赤化の防波堤として朝鮮戦争、ベトナム戦争、そしてソビエトとの冷戦を戦うことから免れたのだから、悪いことばかりではないのかもしれない。

 

 ……日本の南進を煽動したスパイたちはそれが帝国を利する結果となった今、地の底で歯軋りして悔しがっていることだろうけど。

 

「皮肉な話よね。深海棲艦が現れたおかげで、私たちの知る東京大空襲、広島、長崎、沖縄……その前段階としての硫黄島やガダルカナルみたいな悲惨な戦いの歴史、全てがキャンセルされて無かったことになっている」

 

 言われてみると確かにそうだ。失われるはずだった軍民合わせた300万余の命。いるはずのない彼らが紡いだ歴史が、いま目の前にある。

 

「……あれ?さっき長崎と広島が無事って……じゃあアメリカは原爆開発に成功していないんですか?」

 

「多分、ね。仮に成功していたとしても、深海棲艦への決定打にはならないでしょうけど」

 

 だとするとおかしい。

 

 この世界が艦これに準じた世界であるのならば。そして艦娘たちがこの世界の艦艇を元に生み出されているのだとしたら……。飛鷹の言う通り戦争に原爆が使われていないのなら、艦これの長門が轟沈台詞で原爆実験のことを言う訳が無い。

 

 オペレーション・クロスロード。

 

 戦後アメリカに摂取された長門は、ビキニ環礁での原爆実験、その標的艦となった。

 

 二度の至近での核爆発に耐えた彼女は、実験4日目、人知れず母なる海へと還った。

 

 その時の記憶があるからこそ、長門の轟沈台詞には『あの光ではなく…』という核爆発を意識した言葉が混ざっている。

 

 ……そもそも大日本帝国が『負けていない』にも関わらず、朝潮を含めた艦娘たちが自分の『戦歴と最期の記憶』を持っているのはどういうことだろう。

 

 彼女たちがこの世界で沈んだのなら、既に大日本帝国は敗北していなければならない。

 

 その相手が深海棲艦でなく米海軍であることは、言葉の端々から推察できる。

 

 加えて長門のように負けた後、『戦後の記憶』を持つ艦娘が存在していいはずがない。

 

 そして自分たちは、少なくとも自分と飛鷹は、艦艇としての艦娘たちが沈んだ歴史を知っている。

 

 つまり艦娘は、自分たちと同じところから―――

 

「着いたわ。降りるわよ」

 

 気が付くと自動車は茶褐色のレンガとコンクリートで作られた大きな建物の入り口に停まっており、降車を促すようにドアが開けられていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 建物、海軍軍令部内の専用エレベーターは地下深くへと降りてゆく。

 

 もう何百m潜っただろう。しばらくしてエレベーターが止まり、シャッター扉がガラガラと音を立てて開くと、目の前に真っ赤な絨毯を敷き詰めた廊下が現れた。

 

 飛鷹に続いて進んでいくと、彼女はある大きな木製の扉の前で歩みを止める。

 

 コンコンとノックすると、中から金剛みたいな声でどうぞ、という答えがあった。

 

 扉を開けるよう、こちらを見ながら飛鷹が頷く。

 

 真鍮製のドアノブを握り、ゆっくりと回す。重い扉が音も無く開いた。

 

「失礼しま……」

 

「ぱんぱかぱ~ん!!」

 

 突然目の前に現れた分厚い胸部装甲に弾き飛ばされる。が、後ろで支えに入った飛鷹の胸部もそれなりに豊かだったため、ぶつかったのと同じ勢いで跳ね返され、再び元の位置に吸い込まれるようにして戻ってしまった。そのまま両腕でぎっちりと抱きしめられる。

 

「お帰り朝潮ちゃん、うふふ♪」

 

「何やってるんですか、愛宕さん!!」

 

「だって二人とも遅いから、わたし待ちくたびれちゃったんだもの」

 

 艦娘屈指の胸部装甲を誇り、長い金髪を腰まで伸ばしたマイペースそうな女性、高雄型重巡2番艦『愛宕』は、着ている第2軍装の上からでも大きさが分かる自前の二つの膨らみを、むにんむにんと容赦なく顔面に押し付けてくる。

 

「朝潮も困ってるじゃないですか!!」

 

「そんなことないわよ。ねぇ~朝潮ちゃん?」

 

「にゃわっ!!」

 

 再び強く抱きしめられ、口から言葉にならない悲鳴が飛び出した。っていうか、愛宕の顔は真っ赤だし、何だか酒臭い。

 

「Hey,朝潮girl、Youもこっちに来て一緒に紅茶を楽しむデース!!」

 

 提督の執務室をそのまま広げた様な会議室。黒光りした高級そうなテーブルについた金剛が、陶磁のティーカップを片手にケラケラ笑いながら誘っている。奥には分厚いカーテンのひかれた窓があるが、地下室に窓とは一体……。

 

「金剛さん!!朝潮がわざわざ来てくれたというのに、何昼間っからお酒飲んでるんです!?」

 

「ち、違いマース!!これはただの紅茶デース!!」

 

 金剛、うそをつけ!!

 

「それに榛名さんも、何で止めなかったのよ!?」

 

「止めたかったのはやまやまですが、実は榛名が来た時には皆さんもう出来上がってらっしゃったので……」

 

 飛鷹とはタイプの違う、愛宕と同じくらいの長さん黒髪を伸ばした大和撫子が金剛の隣であはは、と諦めたふうに力無く笑った。ゲームの中では真面目な顔つきときりっとした眉毛が特徴の凛々しくも可愛い彼女だが、今日は目尻と眉毛がへにょん、と垂れている。

 

 金剛型戦艦3番艦『榛名』。大日本帝国の栄光と落日を見守り、戦後はその身を復興資材として差し出した健気な彼女であっても、暴走する姉は止められないらしい。

 

 他に助けてくれそうな人は、と視線を巡らすと、テーブルの端に二つの人影を認めた。

 

「対空電探が一つ、対空電探が二つ……ドナドナドナドナ……」

 

「今日もオリョクル明日もオリョクル上から爆雷雨あられ……痛いの痛いの飛んでかないよぉ……」

 

 あ、この人たちは当てにならない。

 

「―――ひよっこどもがぴーちく五月蠅いです。大体艦娘のくせに、この程度のエタノールに呑まれるなんて連合艦隊失格なのです」

 

 ブランデーのラベルが貼られたガラスボトルがどん、とテーブルの上に置かれた。

 

 背が小さくて気付かなかったが、榛名の隣にもう一人座っている。その人物は目の前に置かれたティーカップにボトルの中身をどぷどぷ注ぐと、それを一気に飲み干してほうっと熱い息を吐き出した。

 

「愛宕、じゃれるのは用件が終わってからにするのです。ついでに隅でブツブツ言ってる二人、味噌汁で顔洗って目ぇ覚ましてくるです」

 

 暁型駆逐艦4番艦『電』。自分と同じように幼い体に不釣り合いな軍服を着た茶髪の少女が、居並ぶ面々を睨みつけながら言い放つ。

 

 ゲームの彼女は敵さえも助けようとする優しくて穏やかな性格のハズだが、同じ姿でも目の前にいる電の眼光は歴戦の兵のそれだ。

 

 その言葉でやっと皆がごそごそ動き始め、自分も愛宕の胸部装甲から解き放たれた。ほっと息をつく。しかし電はあんなものを飲んでても大丈夫なんだろうか。

 

「DMMの登録は18歳以上だから問題無いのです」

 

 こちらの視線に気付いたのか、先に答えられてしまった。見た感じ確かに素面だけど、いいのかそれで?

 

 全員が席に着き、榛名の手で普通の紅茶が入れられる。自分は飛鷹と愛宕に挟まれる形でテーブルの真ん中に座らされた。両側の分厚い胸部装甲の圧迫感と、向かい側の電が放つオーラが半端ない。

 

「それでは改めて提督会を始めるです。会長を務めさせてもらっている、呉鎮守府の電なのです。このクソゲーな世界にようこそ、朝潮」

 

「佐世保の金剛デース。副会長やってマース。この前は電話越しに失礼したネ、I’m glad to see you!!」

 

「同じく副会長、舞鶴の榛名です。騒がしくして申し訳ありません。集まるといつもこうなんです」 

 

 姉も電も中の人の影響かキャラが濃そうだもんな。

 

 この3人、新選組の試衛館メンバーみたいな感じがする。トップが土方で外見が電というのが違和感の塊だけど。

 

「私は大湊の愛宕。うふっ♪」

 

 唇に人差し指を当ててこちらを見る愛宕。薄く開いた瞳が狩猟者のそれに思えるのは気のせいだろうか。

 

「トラックの五十鈴よ」

 

「リンガ泊地からこんにちは~!!ゴーヤだよ!!」

 

 愛宕の隣、某電子の歌姫みたいに黒髪をツインテールにまとめているのが由良と阿武隈の姉妹艦、長良型軽巡2番艦『五十鈴』。由良を上回る対潜番長だが、大人びた印象を受けるから改二なのかもしれない。

 

 そしてゲームで提督指定のスク水姿に見慣れているせいか、服を着ているのがおかしく見えるのがテーブルの隅に座っている巡潜乙型改23番艦『伊58』ことゴーヤ。

 

 ショートカットにした桃色の髪の上に、くるっと天使の輪みたいなアホ毛と桜の花びらをあしらったカチューシャが目を惹きつける。

 

「最後に私、ラバウル基地の飛鷹。以上、あなたを入れて計8人が提督会のメンバーよ」

 

 隣の飛鷹がこちらに目配せをする。それを合図に勢いよく椅子から立ち上がった。

 

「は、初めまして、横須賀鎮守府の朝潮です。よろしくお願いします!!」

 

「もちろんネ!!T-partyへようこそデース!!」

 

「はい、榛名もよろしくお願いします!!」

 

「―――問題ないのです。電の足さえ引っ張らなければ」

 

 金剛姉妹はフレンドリーだが、電の反応が黒い。これではまるで……

 

「ちなみに電は、ナスは嫌いではないです。大根おろしたっぷりのつゆで食べる肉厚のナスの天麩羅はジューシーで大好物なのです」

 

 電でなくプラズマだ、と考えそうになったところでそれとなく釘を刺された。

 

 何者だろう、この人。

 

「皆に何度も同じ反応をされれば、嫌でも分かることなのです」

 

 ……あまり気にしないことにしよう。手元の紅茶をずずっ、とすする。

 

 苦い。朝潮が子供舌のためか、紅茶もコーヒーもストレートが苦手になっていたことを思い出し、卓上のミルクと角砂糖をたっぷりと入れる。

 

「さて、詳しい話を始める前にまず確認しておくです。朝潮―――元の世界に戻りたいですか?」

 

 紅茶をかき混ぜるスプーンの手が止まる。

 

 頭の中に横須賀鎮守府の仲間たちの顔がよぎった。

 

 元の世界に戻るということは、モニターの向こう側に帰るということ。それは彼女たちと別れ、その活躍を見守るだけの提督に戻るということだ。

 

 躊躇いで心が揺れる。

 

「わたしはこの世界も好きなのよね。色んな女の子が身近に一杯いて楽しいし」

 

「愛宕、酔いを醒ましたいなら紅茶を鼻から飲むことをお勧めするのです」

 

 あらあら、と愛宕が笑って誤魔化す。

 

 朝潮である自分に優しく接してくれた横須賀鎮守の皆との生活は、短い間だったけれどもとても楽しかった。ずっと一緒にいれればとも思った。が、

 

「はい、戻りたいです」

 

 はっきりと言い切った。

 

 確かにあの場所はとても居心地が良い―――でも、あそこは本来朝潮の居場所だ。

 

 それを自分が勝手に奪ったままでいいわけが無い。

 

 電が頷く。

 

「結構、なのです。最低限ただその一点について、我々は心と目的を一にする同志。よく覚えておくのです……では朝潮、母港画面を開いて任務を選択するです」

 

―――ヴンッ

 

 見慣れた艦これの母港画面が開く。そして任務一覧。

 

 ざっと目を通すが、編成や演習、補給や工廠などチュートリアル的な任務は全く無い。

 

 ほとんどは敵空母や補給艦が相手の『〇〇を撃破せよ』系任務だが、そんな中で一つ、黒で縁取られた任務が目を引いた。

 

『司令艦反攻作戦!劣勢に陥った帝国を助け、敵勢力を押し返せ!』

 

 いつの間にか遂行中となっており、50%以上達成のマークが付いている。

 

「黒縁の任務、それが元の世界に戻るためのカギと考えられるものです。勢力比が3割越えで50%以上達成となったことから、少なくとも彼我の戦力均衡を五分以上に押し戻せば任務は完了。司令艦からの解放について何らかのヒントが得られるはずなのです」

 

 『反攻作戦!』の報酬資材はゼロ。つまり任務達成で得られるものはアイテムなど別のものである可能性が高い。

 

「任務がtreeになっていて次の任務が現れる可能性もあるのデスが、私たちにはno choice。できることからやっていくしかないネ」

 

「金剛姉様から伺っているかと思いますが、榛名たちがここに来た時人類側はかなり押し込まれていて、勢力比も1:9と悲惨な状態でした」

 

「艤装の修理も燃料弾薬のsupplyもままならず、猫まんま一杯で敵主力艦隊と殴り合う日々―――思い出したくもないデース」

 

「姉妹4人で砲弾でなく鋼材を手に、戦艦タ級を袋叩きにしたこともありましたね」

 

 何をやってる金剛型。

 

 言われてみるとここにいる司令艦は皆、ベースとなっているのは小型艦や燃費の良い艦娘ばかり。大和や長門のような超弩級戦艦や、赤城などの妖怪ボーキ置いてけこと正規空母たちでは、いるだけで資材の回復が追い付かず、鎮守府が破産していたかもしれない。

 

「そんな困窮生活に耐えながら敵勢力を押し返す日々。少しずつ戦力比も改善し、資材も増加。さらに新たな司令艦のいる鎮守府『サーバー』も増えてきたところなのです」

 

「じゃあこの世界に普通の提督はいないんですか?ゲームのプレイヤーみたいな」

 

 浮かび上がった疑問を口にする。

 

「もちろんいるわ。提督―――艦娘の艦隊指揮と鎮守府での管理を行う、『特務提督』と呼ばれる人たちが」

 

「でも艦娘との相性を最優先にしてかき集めた人材だから、若い人が多かったし、当たり外れも激しかったのよねぇ……しかも上層部からすれば従順で無能な提督の方が扱い易かったり。優勢な時はそれでもいいけれど、一旦劣勢に回ってからはもうグダグダよぅ」

 

 飛鷹に続いて愛宕がスプーンを口に咥えながら続ける。

 

「情が湧いて小破での帰還命令や出撃拒否は序の口。艦娘と恋仲になって脱柵を企てたり、痴情のもつれが傷害事件になったり、果ては艦娘を妊娠させる提督がいたり―――皆、戦時下で子孫存続の欲求が湧き上がるのは仕方ないのですが、時勢と立場をわきまえて欲しいものなのです」

 

「普段は『糞提督』って悪態ついてる駆逐艦娘のお腹が会う度にどんどん大きくなっていくとか、下手なB級ホラーよりも背筋が凍ったのでち」

 

 それでも純粋に恋愛関係だったのが唯一の救いでち、とその光景を思い出したのかゴーヤはぶるっと体を震わせた。

 

 何という今日も鎮守府は修羅場な世界。

 

「ただ、甘いとも取れる彼ら特務提督のことは、榛名としても責められません。艦娘を運用する上で彼女たちに優しいことと愛情を注げることは、提督として最も重要な資質ですから」

 

 仮に自分が同じ立場なら、死ぬと分かっている戦場に艦娘を赴かせることができるだろうか。

 

 いや、画面操作の中破進撃でさえ手が止まるのだから、艦娘たちとの距離が近くなるほど無茶はできなくなるだろう。

 

 兵器と割り切って酷使すれば信頼を得られず本領も発揮できず、かといって女の子として扱えば危険な作戦に従事させられず。提督と艦娘の弱点は、結局人間部分ということか。

 

「ごめんなさい五十鈴ごめんなさい赤城の餌にしてごめんなさい!!」

 

「ゴーヤ赦して欲しいでちもう二度とオリョクルもカレクルもさせないでち!!」

 

 と、急に五十鈴とゴーヤが頭を抱えて自分を責め始めた。

 

「二人ともどうしたんです?」

 

「いつものことネ。司令艦が『なる』艦娘は、Hollow serverをclickした時の秘書艦デス。提督だったころ五十鈴牧場とオリョクルの常習犯だったのが、今になって自分にreturnしているだけヨ。好きなだけconscienceに悶えさせておくデース」

 

「因果応報、情状酌量の余地無し、なのです」

 

 憮然とした表情でクッキー皿から取ったジンジャーボーイの首をがりっと噛みちぎる電。

 

 言われてみれば、あの時自分も秘書艦が朝潮だった記憶がある。だから自分が朝潮になってしまった。

 

 でも、

 

「一体誰が、何の目的で司令艦なんてものを……」

 

「目的は簡単です。行き詰った戦況の打破。この世界でも艦娘は、ゲームの艦これと同じように大破轟沈でlostします。大破した艦娘がいてもあと一歩で勝利に手が届く、そんな状況で提督が賭けに出られなくなることが問題でした。何度でもやり直せるゲームと違って……」

 

「帰ろう。帰れば、また来られる―――キスカでの木村提督ならともかく、every timeそんな状態では巻き返しは望めまセン。だから必要になったのデース―――Victoryのためriskyな進撃を選べる提督、我が身を省みないbattleshipとしての艦娘が」

 

 それが提督であり、また艦娘でもある決戦兵器、『司令艦』。

 

 榛名と金剛が頷く。

 

「艦種の枠を超えたスペック、轟沈しきらない耐久力、補給なしでも出撃可能、兵装スロット増加、柔軟な発想力、リアルタイムな戦場把握、上層部の介入を排除……特務提督に置き換わる形で配備された司令艦は関係者以外その存在を秘匿され、姿を見せない謎の提督と噂されながらも幾多の戦場で勝利を重ねていきました。戦わなければ帰れないのですから、当然といえば当然ですが」

 

「―――艦娘を造る技術の副産物から生まれた割には、安上がりな使い捨ての傭兵なのです」

 

「副産物?」

 

「Yes、前提として艦娘を構成するingredientsは『少女』『艤装』『船霊』の3つネ。『少女』は徴兵で国内から掻き集め、『艤装』と『船霊』は深海棲艦を倒すとdrop―――」

 

「―――待って下さい!!」

 

 ドンっ、とテーブルを叩いて立ち上がった。驚いた金剛が口を開けたまま固まる。

 

「徴兵!?それじゃあこの国の女の子は、無理矢理艦娘にされてるってことなんですか?!」

 

「適性を調べて本人のwillを確認してからデス。無理矢理というわけでは―――」

 

「戦力が足りなくなったらそうも言ってられないはずです!!」

 

「あのね、朝潮。さっき東京駅で女子小学生の集団に会ったのを覚えてる?あの子たち、多分横須賀市内の会場に徴兵検査に向かうところだった。男女問わず徴兵と兵役の義務がある。この世界ではそれが普通のことなのよ」

 

 飛鷹がフォローするが、そんなことで昂ぶった気持ちを抑えることはできない。

 

 あんな年端もいかない女の子たちが家族と引き離され、名前を奪われる代わりに鉄の艤装と戦争の記憶を背負わされ、船の名で呼ばれながら深海棲艦と戦う。

 

 朝潮と呼ばれるこの子にも、普通の女の子としての人生があっただろうに。

 

 視界の中でぎゅっと握りしめた手は、とても小さい。

 

「黙るのです、朝潮」

 

「でも、こんな酷い―――」

 

「平時の感覚で戦時を語るな、この平和ボケ!!」

 

 電の怒号でビクッ、と体がすくむ。

 

「深海棲艦は通常兵器で『殺しきれない』。奴らを倒すには『人間性を持った兵器』が有効―――艦娘が生み出される前、この二つに気付いた軍令部が何をしでかしたか想像してみるのです!!」

 

 人間性を持った兵器?すぐには理解できなかったが、やがて言葉の意味が分かり戦慄が走った。

 

 人間兵器。それはつまり、

 

「特攻兵器……」

 

「なのです。『神風特別攻撃隊』『震洋』『伏竜』『回天』。この世界にも……」

 

「てーとく、アレはいらないからね」

 

 突然ゴーヤが声を上げた。全員の視線が彼女に集中する。

 

「何でてーとくは聞いてくれないんでちか?アレが無くてもゴーヤ戦えるのに。何でてーとくは分かってくれないんでちか?」

 

 瞳孔の開いたゴーヤの虚ろな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ始める。

 

「何で黙ってるんです、提督?伊58は提督が分からない―――提督が―――怖い―――」

 

「大丈夫よ、もう嫌なことはしなくていいんだから落ち着いて」

 

「だって、だって魚雷から声が――『お母さん』って―――」

 

 慰める五十鈴の胸に顔をうずめ、ゴーヤは声も無く泣き出した。対潜番長で最期は米潜水艦に沈められた五十鈴が潜水艦を抱きしめるというのも、ある意味不思議な光景だ。

 

「……失言したのです。五十鈴、しばらくゴーヤを頼むです」

 

 渋い顔をする電。

 

「これは……」

 

「『記憶と感情の溢流』。艦の魂を受け入れたことによる情報のバックフローよ」

 

 あなたも経験あるでしょ?と飛鷹がこちらを見る。

 

 自分が知っているのは深雪のトラウマスイッチくらいだが、あれもそうなのだろうか。

 

「艦娘、特に駆逐艦娘のように幼い子は、ちょっとしたことをきっかけに記憶が溢れ出して、自分では感情制御できなくなっちゃうのよねぇ。司令艦とはいえ、艦娘であるわたしたちも他人事じゃないし」

 

 愛宕が同情するような視線を五十鈴にしがみついたままのゴーヤに向けた。いつも余裕綽々の印象がある彼女が、取り乱す姿など想像できない。

 

「けれども、この記憶の波が曲者です。何度も打ち寄せることで海が崖を浸食するように、艦娘の元の人格、元の記憶が少しずつ削り取られていくんです」

 

「それを利用して船霊と強制的に同調、sympathizeさせ、艦としてさらなる力を引きずり出すのが改造ネ。戦力増強に必要とはいえ、相変わらず軍上層部のgreatなimaginationには頭が下がるデース、bull shit!!」

 

「金剛姉さま、汚い言葉は比叡姉さまが悲しみますので……」

 

 窘める榛名にSorryネ、と冷めた紅茶を一気に飲み干す。

 

「記憶を削る?じゃあ削られた子はどうなるんです!?」

 

「運が良ければ元の人格を保てます」

 

「……運が悪かったら?」

 

「元の人格と艦としての記憶がまだら模様に混ざり合い、除隊し戦場を離れても二度と『元の自分』には戻れません。最悪自分が誰なのかも忘れてしまいます」

 

 淡々とした答えが返ってきた。あまりの内容に絶句する。戦いを潜り抜け生き延びたとしても、それでは生ける屍ではないか。

 

「提督会の初期メンバーは電と金剛を含めた4人だったのです……」

 

 黙っていた電が重々しく口を開く。

 

「けれども電も金剛もこの世界をゲームの延長線と侮り、司令艦として能力を得えたことで慢心していたのです。特にその内の一人、舞鶴の最上提督は好んで危険な戦場に飛び込み、八面六臂の大活躍だったのです」

 

「最上提督?でも、さっき舞鶴は榛名さんって……」

 

 それが答えなのです、と電は静かに言葉を続ける。

 

「司令艦も無敵ではなかった。その力には代償と限界があったのです。最初は話が合わなくなった、という程度だったので、電たちも最上提督の異変に気付けませんでした。けれども大破や轟沈を繰り返すうちに彼女の記憶は少しずつ削られ、いつしか普通の『航空巡洋艦・最上』になっていったのです」

 

 司令艦が記憶を削られる……それは司令艦にとって死を意味するということは、ここに来て日の浅い自分にも分かった。

 

「そしてある日、提督会から最上の姿が消えたのです。司令艦の行動にはフィルターが掛けられていて、軍務以外で他の鎮守府に接触することは禁止されています。電たちにできたのは、執務室に電話をかけることくらい。最上提督が姿を消して2か月、新しく司令艦として赴任した榛名が電話を取ることによって、彼女の辿った運命が分かりました。航巡最上は沖ノ島海域で待ち伏せしていた敵駆逐艦の雷撃を受け、大破轟沈―――司令艦最上は、艦娘最上として戦死していたのです」

 

「最上さんは……還れたんでしょうか?元の世界に」

 

「分からない、です。そうであることを祈るだけなのです」

 

 ふぅ、とため息をついて手に持ったティーカップ、その褐色の水面を見つめる電。戦友を失った彼女の気持ちは、自分の想像できるようなものでは無い。

 

「誰ですか……」

 

「朝潮?」

 

 ふつふつと怒りが湧き上がって来た。

 

 特攻兵器などより艦娘が効率的だというのは分かる。それが一番犠牲が少ないであろうことも分かる。ただ、手段が気に入らない。

 

 艦娘も、司令艦も人間だ。それを理屈でこうだから、と逃げられない状況に追い込んで戦わせるなんて、性質が悪いにも程がある。同じ人間の所業とは思えない。

 

「誰なんですか―――こんなクソッタレなシステムを作った奴は!!」

 

「知りたいですか?」

 

 大きく頷く。そして叶うなら、2,3発ほっぺたをはたいてやりたい。

 

 電が金剛に目線で指示する。金剛がいつの間にか取り出した白く小さいプラスチック製のコントローラーを窓に向け、そのスイッチを押した。

 

 カーテンがゆっくりと開かれる。

 

 窓の向こう、照明に照らされ浮き上がる光景……まるで機械の森、いや墓石の林か。

 

 角柱や板状、立方体などの構造物が、巨大な円筒状の部屋の内面にびっしりと隙間なく立ち並んでいる。そこから伸びた赤青白黒黄緑、色とりどり太さもばらばらなケーブルが、水栽培の球根から伸びた根っこのように構造物を結び付けていた。

 

「―――正式名称『海軍七〇式人型艦艇統合電脳参謀』、通称『提督機』。こいつがこの世界で艦娘を造り運用し、そして電たちを司令艦にした張本人なのです」

 

 開いた口が塞がらない。まさか人間ですら無かったとは。

 

 思わず椅子を蹴って立ち上がり、窓際に駆け寄った。厚いガラスの向こう側、円筒の中心には一際大きな柱が一本、何かの記念碑みたいに高く聳えている。表面で輝くパイロットランプがこちらの視線を感じてか赤から青に変わる。色の変化が漣のように部屋全体に広がる様は、まるで部屋自体が鼓動しているかのようだ。

 

「提督機に人格はありません。あるのは深海棲艦を排除するという妄念のような目的意識だけ。元々深海棲艦の残骸から船霊を抽出する装置だった提督機は、その過程で船霊が来た世界、つまり榛名たちの世界を認識しました」

 

 やはり艦娘の持つ船の記憶は、自分たちの世界のものだったか。そしてそれが二つの世界を結びつける鍵になった。榛名が言葉を続ける。

 

「恐らく何らかの呪術的な機構を組み込まれているから、このような芸当が可能になったのだと思います。私たちの世界に介入した提督機は、どうやってか艦これ運営のシステムサーバーにアクセス。提督であるユーザーを利用すべく罠を仕掛けました」

 

 それが『虚帆泊地』。

 

「司令艦は艦これのインターフェースを使って指示を出していますが、これも提督機がゲームと同じ『運営とユーザー』という体裁を取ることで、呪術的な結びつきを強めているためと考えられます。実際榛名たちの指示は提督機を通して、軍令部から発令される形で鎮守府に伝えられているんです」

 

「面倒くさいfuck’n computerネ。叶うなら46cm三連装砲5スロット論者積みをたらふく喰らわせてやりたいものデース、demn it!!」

 

 歯を食いしばる。ぎりっ、と奥歯の軋む音が頭に響く。

 

「―――壊しましょう。いえ、壊すべきです。こんな人を不幸にする機械―――」

 

 振り返って司令艦たちに呼びかけた。が、誰も応えない。電でさえも、どこか諦めたような表情で窓の向こうを眺めている。

 

「どうして―――」

 

「……気持ちは分かるデス。でもここにいる全員が既に人質を取られているので、その案はimpossibleネ」

 

「安全保障の問題ですか?でも、艦娘に頼り切りの今だって十分おかしい……」

 

「違うのです!!」

 

 電の叫びが空を裂く。彼女の顔は苦渋に歪み、小さな唇は色が変わるくらい強く噛み締められている。

 

「同じことは電たちも考えました。提督機を破壊すれば元の世界に戻れる、艦娘だけに全てを背負わせる現状を変えられる、最上提督のような犠牲を出さなくて済む、と」

 

「だったら何で止めるんです!?」

 

「皮肉にも最上提督が気付かせてくれたのです―――朝潮、答えて下さい。お前の『名前』は何ですか?」

 

 地の底から響くような低い声で電が尋ねる。

 

 名前?そんなの決まっている。

 

「朝潮です。皆知ってるじゃないですか」

 

「違う。それは駆逐艦の、太平洋戦争で沈んだ船の名前です。もう一度聞くです―――今ここにいる『お前の名前』は何ですか?」

 

「自分の―――名前―――」

 

 朝潮ではない、本来の名前。

 

 一人の提督、プレイヤーとして画面の向こう側から艦これ世界を眺めていた時の……

 

「あれ―――」

 

 おかしい。

 

 思い出せない。

 

 あんなに当たり前のように使っていた自分の名前が出てこない。音でなく文字で記憶を掘り起こそうとするが、やはり何も浮かんでこない。

 

「そんな――」

 

 よろめいた拍子にふと窓ガラスに映る少女の姿に目が止まった。

 

 白い詰め襟の学生服を着た、長い黒髪の幼い少女。自分が手を動かせば鏡像の少女も手を動かし、微笑めば彼女も笑う。ならばこの少女こそが私なんだろう。おかしいことは何も無い。朝潮は私。違う!!第八駆逐隊旗艦として佐藤司令官と共に違う違う違う!!

 

「―――だれ―――わたし―――あさしお―――ちがう―――だれ―――」

 

 頭が割れるように痛い。

 

 ぐるぐると世界が回る。

 

 足がもつれて大きく体勢が崩れた。

 

「大丈夫、朝潮ちゃん?ちょっとショックが大きかったかしら」

 

 ぽふっ、と体が柔らかい何かに沈みこむようにして受け止められた。

 

「愛宕―――さん?」

 

「はい、駆逐艦みんなのお姉さん愛宕です。うふふっ」

 

 両腕が回され、そのまま豊満な愛宕の体にぎゅっと抱きしめられる。

 

「いいんです。あなたは今、朝潮ちゃんでいいんですよ」

 

 愛宕の身体は豊満で……というか豊満過ぎてずぶずぶと肉に埋もれるというか溺れていくというか。良い匂いがして柔らかくて気持ちいいんだけど、これは長時間だと癖になるというかダメになる系の気持ち良さだ。

 

「そろそろ離してやるのです、愛宕。そのまま朝潮を吸収合体でもするつもりですか」

 

「あらあら、それもいいわねぇ。朝潮ちゃんだと上昇するのは若さと可愛さかしら」

 

 良くない!!近代化改修の材料にされてたまるもんか!!

 

「ぷふぁっ!!」

 

「いや~ん」

 

 何とか身をよじって愛宕の肉体からから逃れる。

 

「落ち着いたですか、朝潮」

 

「……さっきのは一体……」

 

「名前を見失った魂が拠り所を求めたのです。艦娘になる時、少女は名前を奪われ『艦』としての名前を与えられます。そしてそれは司令艦も同じ。本来の名前を提督機に奪われ、無理矢理押し付けられた『艦』としての名前に縛られ、艦娘にされてしまったのです。気付けたのは、最上提督が目に見える形で記憶を失っていったから―――そうでなければ電たちも名前を失くしたことにさえ気付けなかったのです」

 

 由良が言っていた、『名前』で『船霊』と『少女』を結びつける技術。それを画面の向こう側の提督に応用したということか。

 

「さっき言った人質の一人目は自分自身です。提督機から自分の名前を取り戻せなければ、司令艦は皆、名無しの御霊としてこの世界を漂うことになってしまいます」

 

「そして二人目も自分自身デース。正確には司令艦の素体となった艦娘ネ。nameを奪われ、与えられた『艦』としてのnameも司令艦に取られた今、彼女たちの存在はこの世界から完全にvanishしていマース。可能性はvery lowですが、私たちが帰還を果たすことで彼女たちをrescueできるかもしれまセン」

 

「最後の人質はこの国の、この世界の未来。押し返したと言っても人類は未だ劣勢で、予断を許さない状況なのです。大きく戦局が優位に動けば司令艦がいなくてもこの世界はやっていける。危険な戦場が少なくなれば、後のことは特務提督と艦娘たちに任せられるのです」

 

 自分の席を立った電がこちらに近づいて来る。目の前で止まった彼女の身長は、自分……朝潮よりさらに小さい。

 

 二つの茶色い瞳が心の奥底まで覗き込むかのように、真っ直ぐこちらの双眸を見捉えた。

 

 たじろいで一瞬目を逸らしそうになるが、それは電の自分の心を覗けという意思表示なのだと気付き、視線に力を込めて彼女の瞳を見つめ返す。

 

 電の深淵には、穏やかな海の向こうに水平線がどこまでも広がっている。

 

「朝潮、一緒に戦うのです。戦えばこれ以上、誰も不幸にならずに済みます。この世界の子供たちは、そして時間が止まったままの船魂たちも、戦争しか知らないのです。いつかではなく今、彼らに本当の『静かな海』を見せてやる。そして大手を振って元の世界に帰還しましょう。司令艦には、朝潮にはその力があるのです」

 

 ゆっくりと差し出された電の手を握る。彼女の手は小さかったが、それ以上に熱さを感じた。電の中に燃える炎を映した様な熱は、手を離した後も掌に残り続けた。

 

「では、そろそろ―――」

 

「ご飯の時間でちか?ゴーヤ待ちくたびれたでち!!」

 

「きゃっ!!」

 

 五十鈴の胸元からゴーヤが跳ね起きて、ご飯、ご飯と辺りをきょろきょろ見回す。

 

 さっき泣いていたことも忘れてしまったみたいだ。

 

「相変わらず締まらない子なのです」

 

 電が苦笑したのをきっかけに、皆の間に笑いが広がる。

 

「でも確かにいい時間になったのです。榛名、二次会は?」

 

「はい、榛名にお任せください。既に老舗の牛鍋屋に部屋を押さえています!!」

 

 おおっ、と歓声が上がった。

 

「全艦抜錨!!榛名を旗艦に両舷最大戦速、なのです!!」

 

「Yes!!大蔵省が不当に搾り取ったtaxを、市井に還元するのデース」

 

「ぁん、すき焼きなんて食べてまた排水量が増えたらどうしましょう」

 

「どうせ愛宕は胸部装甲がさらに分厚くなるだけじゃないの」

 

「五十鈴も人の事言えないでち。少し分けて欲しいくらいでち」

 

 皆、口々に好きなことを言いながら席を離れ、先に榛名に続いて部屋を出ていく。

 

「私たちも行くわよ」

 

 いつの間にか傍に立っていた飛鷹が声をかけてきた。

 

 彼女に従って部屋を出るときちらっと振り返ると、提督機が色とりどりのランプをちかちか点灯させながら稼働している姿が目に入った。

 

 司令艦の力で静かな海を、と言った電のことを思い出す。

 

『狡兎死して走狗烹らる』

 

 待っていろ、このクソ提督。

 

 戦いが終わって不要になったら、ガムテープで縛って粗大ゴミに出してやる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 頭の下の二つある枕に頬ずりする。化学繊維のスカート越しに、弾力のある肌が触れた。

 

「もう、何やってるのよ朝潮」

 

「だって飛鷹さんの太もも、とってもすべすべ……気持ちいいです」

 

「ったく、誰がお酒なんか飲ましたのよ」

 

 深夜、人気のない東京駅の横須賀線。プラットフォームに設置された木製のベンチに火照った体を横たえながら、膝枕をしてくれる飛鷹の足の感触を楽しむ。

 

 アルコールのせいか、それとも散々愛宕に抱きしめられたせいか、女性との距離感のタガが変に外れてしまっているみたいだ。

 

「飛鷹さん、連絡してくれてありがとうございます」

 

「はいはい。一応あなたの携帯から横鎮に掛けたけど、迎えに来てくれるかどうかは分からないわよ。誰も来なかったらここで野宿ね」

 

「大丈夫です。枕があるから平気です」

 

「私も付き合うの!?」

 

 素っ頓狂な声を上げる飛鷹。彼女の服装は第2種軍装ではなく、昼に小学生を引率していた女教師みたいな、白いブラウスに事務員が穿いているような丈の長い黒スカートに変わっている。

 

 艦娘が酔った姿を衆目に晒したくない、ということで牛鍋屋の帰りに着替えたのだが、飛鷹のような和風美人が地味な服装というのも、布地の上から魅力が透けて見えるからこれはこれで面白い。

 

 ちなみに自分も着てきた軍装をひっぺがされ、スーパーに売ってる980円くらいの、白地に赤の水玉という微妙なワンピースに着替えさせられている。

 

 飛鷹も自分も長い黒髪なので、傍から見たら仲のいい姉妹に見えるかもしれない。

 

「そういえば飛鷹さん、飛鷹さんって男なんですか?」

 

 頭の上で飛鷹がぶっ、と吹き出す。

 

「な、こんなところで何てこと言うのよ!!人に聞かれたら誤解されるじゃない!!」

 

 慌てて辺りを見回すが、幸いプラットフォームに人影は無い。

 

「心配しないで下さい。朝潮も一緒です」

 

「あのねぇ……」

 

「でも、喋り方が女の人みたいで驚きました」

 

「……じきにあなたもそうなるわよ」

 

「え~、そんなの恥ずかしいです」

 

 飛鷹はふぅ、とため息をついた。

 

「『水は方円の器に随う』って言ってね、今の私は誰が見ても艦娘・飛鷹。元の面影なんて欠片も無いから、知らない間に心は外見に染められていく。それどころか最近じゃ、自分は最初から飛鷹で元の世界の方が夢だったのかもしれない、なんて思うこともあるわ」

 

「じゃあもしかして、立ちションのやり方も忘れたんですか?」

 

「ばっ!?」

 

 コツコツコツ、と革靴の音が飛鷹の後ろを通り過ぎて行った。黒いスーツに駅帽を被った後姿からすると、見回りに来た駅員らしい。

 

「聞かれちゃったじゃない、もぅ!!」

 

「あはは……」

 

 自分の口から鈴を転がした様な可愛い笑い声が響いた。

 

「まあ、そんなことを言える間は記憶の浸蝕も心配ないわね。あの堅物の朝潮が酔っていたってそんな下品な話、するわけ無いもの」

 

 クラスメートの男子が持って来たエロ本を没収して、後でこっそり読んで赤面したりはするかもしれない。

 

「金剛さんたちはどうなんでしょう?」

 

「あの人たちは古株だから、元の性別の記憶なんてとっくの昔に飛んでるわね」

 

「電さんも、司令艦の代表って感じで凄かったです。さすが会長ですね」

 

 飛鷹の答えが返ってこない。

 

「どうしたんですか?」

 

「……電は二代目会長よ。元々提督会は初代会長が『元の世界に戻る為に司令艦同士で協力しよう』と始めたものなの」

 

「初代会長、ですか。その人も凄いです。いきなりゲームの世界にやって来て、他の人のことを考えられるなんて」

 

「……そうね」

 

 いつになく歯切れが悪い。何か気に障る事でも言ったのだろうか。

 

「もしかして初代会長って、最上さんだったんですか?」

 

「違うわ。そもそも私がラバウルに着任したのは、最上提督が轟沈したずっと後だし」

 

 ゲームと同じだとすれば司令艦のいる鎮守府・サーバーは、国内から順に開かれていったはず。つまり初期のメンバーは国内サーバーのどこか、ということになる。

 

「呉の電さん、佐世保の金剛さん、舞鶴が最上提督と榛名さん、大湊が愛宕さん……」

 

 今日会った司令艦たちを指折り順番に数えていく。

 

 おかしい。最上提督の後に榛名が来たのなら、愛宕は初期メンバーではない。

だとすると……

 

ガタンゴトン、ガタンゴトン―――

 

 線路の方に目をやると、ちょうど行きに乗って来たのと同じ白い腹巻を巻いた闇色の車両が、夜間照明を点けながらプラットフォームに入ってくる姿が見えた。

 

「最後の電車が来たみたいね。これに誰も乗っていなかったら、本格的に野宿決定よ」

 

「だったら飛鷹さん、一緒に横鎮に行きましょう!!」

 

「駄目よ、私はまだ東京で用事があるんだから!!」

 

「うちの寮なら飛鷹さんが来ても余裕です!!時々深雪が蹴っ飛ばしてきますけど」

 

「全然余裕無いじゃない!!」

 

 二人できゃあきゃあ騒いでいるうちに少ない降客は改札の方に歩き去って行き、『横須賀』と書かれた行先表示板を持ったつなぎ姿の駅員が車両によじ上り始めた。

 

「お待たせしました。遅くなって申し訳ありません」

 

 優しげな声のした方を見る。

 

 そこには見慣れた小豆色の道着に紺の袴をきゅっと締めた、艦娘としての制服姿の鳳翔さんが立っていた。手にはタオルケットを持っている。相変わらず準備が良い人だ。

 

「鳳翔さん!!」

 

「朝潮さん、軍令部に呼ばれたので致し方ないとはいえ、門限はとっくの昔に過ぎていますよ?」

 

「ごめんなさい……」

 

 さっきまでの浮ついた気分が一気に冷め、しゅんとなる。

 

 鳳翔さんは怒っていない。ただ心配している、という気持ちが言葉の後ろに感じ取れるだけだ。それが響く。

 

「今度からは気を付けましょうね。深雪さんも五月雨さんも、心配しておられましたよ」

 

「はい……」

 

 ベンチの脇に置いてあった第2種軍装を包んだ風呂敷を、脱いだ服はこれですね、と持ち上げる。

 

「それでは帰りましょうか。飛鷹さんも、ご迷惑をおかけしました」

 

 鳳翔さんが差し出した手を取って、よっこいしょ、とふらつきながら立ち上がる。まだ足元がおぼつかない。迎えに来てもらったのは正解だった。

 

「飛鷹さん、今日はありがとうございました。またお会いできるのを楽しみにしています」

 

「ええ、朝潮―――そうね―――」

 

 どうしたのだろう。さっきまでに比べると元気が無いように見える。

 

 ふと、先日の演習で飛鷹に言われたことを思い出した。

 

『鳳翔さんを、あの人を二度と戦場に立たせないで!!』

 

 あの言葉の意図を彼女に聞き忘れていた。自分の知らない何かが、この二人の間にあるというのか。

 

『間もなく横須賀線、本日の最終列車、普通久里浜行が発車いたしま~す。お乗りの方はお急ぎ下さい。お見送りの方は白線の内側に下がって―――』

 

 だみ声の構内放送が列車の出発を告げる。

 

 気になるがもう時間が無い。詳しい事情は日を改めて飛鷹に聞くことにしよう。

 

 手を引かれながらプラットフォームを列車の乗車口へと歩く。途中で肩にタオルケットがかけられた。

 

「鳳翔さん!!」

 

 突然ベンチから立ち上がった飛鷹が叫んだ。

 

 思わず振り返る。乗客たちや発車ベルを鳴らそうとしていた駅員も、彼女の姿に釘づけになっている。

 

「鳳翔さん、私、飛鷹です!!覚えていないんですか!?」

 

「ええ、飛鷹さんですよね、ラバウル基地の。存じ上げておりますが……」

 

「そうじゃない、そうじゃないんです―――私、私のせいで、鳳翔さんはッッ!!」

 

 目を見開き歯を食いしばり、何かを必死に伝えようとする飛鷹。だが、

 

「すみません、もう列車が出発するみたいですので、今日はここで失礼しますね」

 

 そう辞す鳳翔さんの表情は困惑に満ちている。身に覚えのないことで責められている、どうにも理由が分からないといった雰囲気だ。

 

 乗車口のステップを上ると同時に発車ベルが鳴り響き、扉がプシュ―ッと音を立てて閉まった。

 

 ゆっくりと最終列車が動き出す。気が緩んだのか、ふわぁあ、と大きな欠伸をした。

 

「朝潮さん、疲れたでしょうけどしっかり挨拶を返しませんと」

 

 言われて乗車口の窓から外を見ると、飛鷹がこちらに向かって敬礼の姿勢で直立している。

 

 夜間照明に照らされた彼女の大きな橙色の瞳は、少し潤んでいるようにも見えた。

 

 飛鷹に向かって鳳翔さんと二人、並んで敬礼の姿勢を取る。

 

 電車がスピードを上げていくにつれてプラットフォームに立つ飛鷹の姿はどんどん遠くなり、やがて夜の闇が外の世界も彼女もまとめて黒一色に塗りつぶした。

 

 

 

 

 

 

 

――――ヴンッ

 

敵深海棲艦の新たな集簇海域が判明しました。

 

E領域の発生が確認されました。

 

新たな任務が発令されました。

 

任務『敵泊地を襲撃し、これを殲滅せよ』

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

任務9-1『殴リ込メ敵前線泊地!』(前)

『こちらあきつ丸。カ号の観測による最終的な着弾状況をお伝えするであります』

 

 インカムを通して抑揚の無い馬鹿丁寧な少女の声が耳に響く。

 

『深雪、挟叉。五月雨、命中1。朝潮、命中2、駆逐艦ロ級一隻撃沈。残存の敵軽巡ホ級一隻、小破もなお船足衰えず。五吋単装高射砲が旋回中。至急迎撃の要を認めるであります』

 

「やったぁ、命中してましたっ!!」

 

「ええぃ、もうちょっとなのに。チクショ~!!」

 

 それを聞いて連装砲を構えたまま喜ぶ五月雨と悔しがる深雪。

 

 運のステータスは二人とも同じくらいだったはずだが、純真無心の五月雨は意外とラッキーショットによる命中弾が多い気がする。対して開戦前に沈没した艦歴からか、何かと戦果にこだわる深雪は、連装砲に物欲センサーでも搭載されているみたいでいつも惜しいところでも弾が当たらない。

 

 翻って自分の場合、今回は上手く命中してくれたが、仰角を取っての射撃はまだ慣れないみたいだ。練習あるのみ、か。

 

「了解しました。今回はあたしがケリをつけますから、駆逐艦の皆は一旦砲撃を中止。之字運動を継続ながら回避に専念を……」

 

「かまわん阿武隈。お主も進路そのままで見ておれ」

 

 長い焦げ茶色の髪を白リボンでツインテールに結んだ少女が、慎ましやかな胸を張って第一戦速で前進する戦列の先頭に進み出る。

 

 利根型重巡1番艦『利根』。

 

 身長は由良や飛鷹と同じく女子高生程度。だが深緑に飛行甲板の茶をあしらったワンピースを着た彼女のプロポーションは、幼い顔立ちの割に女性的な魅力に満ちている。

 

「回避運動を行いながらの命中率は極端に落ちるものじゃ。駆逐艦の装甲では現実的ではないが、心構えとして聞くがよい。本当にどうしても命中させるのであれば、敵の行動に惑わされず自分の進路を乱すことなくだな……」

 

ガウンッ!!

 

 言い終わる前に軽巡ホ級が発砲。音に一瞬遅れて黒い砲弾が真っ直ぐ戦隊に向かって飛来する。

 

「ええい五月蠅いっ!!吾輩がまだ喋っている途中ではないかっ!!」

 

 水偵用カタパルトを装着した左手をぶんっと振るうと、叩かれた敵弾はかんしゃく玉みたいな軽い炸裂音と共に空中で爆発した。

 

「煙いわ痴れ者っっ!!」

 

 甲高い声で喚きながら右足をずん、と一歩踏み込む。

 

 右腰から肉付きの良いむっちりした太腿にかけて、剥き出しの肌にベルトで直接装着された3つの巨大な砲塔、20.3cm連装砲がムカデの足のように蠢動し、その黒い砲口が哀れな獲物に狙いを定めた。

 

「もらったぁっっ!!」

 

ドンドンッ!!ドンドンッ!!ドンドンッ!!

 

 計6門の砲塔が二回ずつ、轟音と共に時間差で炎の槍を噴き出す。一瞬でホ級は激しく立ち上がった水柱の檻に囲まれ、舞い上がった海水の飛沫がこちらにも飛んできた。

 

「すごい……」

 

 これが重巡洋艦の火力……駆逐艦とは主砲の威力も数も、そして装甲も圧倒的に違いすぎる。

 

 水柱が収まった後、そこにいたはずの軽巡ホ級は影も形も残っていなかった。

 

「ふふん。吾輩が艦隊に加わった以上、もう索敵も攻撃も心配はないぞ!!」

 

「や、やりすぎですよぉ……」

 

 微妙に唇の端を引き攣らせる阿武隈。敵とはいえ、同じ艦種の軽巡が消し飛ばされる姿を見るのは色々含むところがあるらしい。

 

『お見事、でございます。それでは自分は対潜哨戒任務に戻らせていただくであります』

 

「は、はい。お忙しいところ、ご協力ありがとうございました!!」

 

 無線に向かって阿武隈がぺこりとお辞儀すると、上空を旋回していたカ号観測機―――ヘリコプターみたいな回転翼を頭に付けた、緑色のゼロ戦っぽいオートジャイロは、ひゅんひゅんと風切り音を響かせながら母艦であるあきつ丸の所に戻っていった。

 

 ラジコンヘリのようにも見えるあれが、甲板型スクリーンに映った回燈籠の影から次々と生み出されるという現象は理解を越えており、目の当たりにした後でもまだ少し信じられない。飛鷹たちの式神式艦載機もそうだが、この世界の技術体系がどちらかというと魔術・呪術寄りに進化を遂げてきたことを痛感させられる。

 

「ああったく、またMVP取り損ねたぜ」

 

 カ号が飛び去る後姿を眺めながら、船足を止めた深雪が遠い目でぼやく。

 

「でも深雪ちゃん、さっきは挟叉までいったんだから、あとはタイミングが合えば……」

 

「五月雨はいいよな。こっちに来てから駆逐艦3隻も撃沈してんだもんな」

 

 深雪なんかまだスコア0なのによ、と白波の立つ海面を蹴っ飛ばす。

 

 E領域―――Enemy=敵深海棲艦に海上優勢を握られてしまった領域をそう呼ぶらしいが、この海域に入って既に2週間が経過していた。

 

 新たに建造で重巡利根を仲間に加えた阿武隈水雷戦隊……もう水雷戦隊でも何でもない寄せ集めは、留守役の由良と鳳翔さんを横須賀鎮守府に残して定期船に乗り南下すること4,600km。

 

 現在位置は赤道直下のソロモン海北東部。

 

 何もない海の上で空から容赦なく照りつける強烈な南国の陽射しと、海面からの照り返しで挟み焼きにされ、気分は調理中のハンバーガーパティ状態。今なら10.7cm連装砲の上で目玉焼きが作れそうだ。これで艦娘としての生体フィールドが働いていなければ、全員小一時間で401みたいな小麦色の褐色健康肌になっていただろう。そうでなくても黒髪が熱を吸収して、頭が茹っているというのに。

 

 自分も含め司令艦たちはE領域設定の原因となっている海域ボスを討伐すべく、主力艦隊を引き連れて敵基地に最も近い飛鷹のラバウル基地に続々と集結していた。とはいえ自分たちのような水雷戦隊には正面からの殴り合いに参加できる火力は無いので、五十鈴のトラック組、愛宕の大湊組と交代で主力艦隊の航路確保と周辺警戒の任に就いている。

 

 これまでも散発的に敵艦隊と遭遇戦を行っているが、そのどれもが駆逐艦、軽巡主体の小規模な船団で、戦力を増強した今の阿武隈水雷戦隊にはそれほど脅威でもない。今回もカ号の索敵に引っかかった敵軽巡を最寄りの自分たちが迎撃に向かったついでに、練習も兼ねて五十鈴旗下のあきつ丸に着弾観測をお願いしたところだった。

 

「え~と、別に競争してるわけじゃないんだから、戦果を焦らなくってもいいんだからね」

 

「だけどよ……」

 

 阿武隈がなだめるが、あまり効果は無い。

 

「深雪、ごねるでない。それに深雪に限った話ではないが、五月雨に朝潮も、今はまず敵を倒すより生きて帰ることが大事なのだ。生きてさえいれば経験値が積み上がり、いずれ技術と結果は必ず付いてくる」

 

 そうすれば吾輩のようになれるのだぞ、と腕組みしながらドヤ顔で胸を張る利根。せっかくいい感じだったのに、残念なお姉さんだ。

 

 ぷっ、と五月雨が吹き出す。つられて自分も笑ってしまった。

 

「こっ、こら!!お主ら、真面目な話をしておるのに何を笑うか!!」

 

「だってぇ……利根さん可愛いから……うふふ」

 

「わ、吾輩が可愛いだと!?」

 

 言われた本人は目を白黒させて動転する。確かに利根は必要以上に妹の筑摩に対抗意識を持っているところなど、子供が無理して大人に対抗しているようなギャップが可愛い艦娘だ。つまり暁と同じ系。

 

 それを見た阿武隈も、ふくれっ面だった深雪も一緒になって笑い出す。

 

「むぐぐぐ……筑摩なら感心して拍手してくれるところだというのに、こやつら……」

 

 一人だけ納得のいかない顔をする利根。

 

 そりゃまあ筑摩さんは艦娘屈指のできた妹さんですから。

 

「だはははっ!!はは…はぁ~笑った笑った。っと、笑ったところで腹が減ってきたからそろそろ基地に帰ろうぜ~」

 

 すっきりしたのか、さっきまでのうじうじはどこへやら、けろっとした表情で深雪が提案する。

 

「ちょ、ちょっと待って!!警戒任務でここまで来てるんだから、最低限予定の航路を回ってからじゃないと……」

 

「あーめんどくさーい。そんなの空母に任せりゃいいじゃん」

 

 戦闘が終わって一気にやる気が失せたらしい。地味な任務が苦手そうなのは、彼女の日常生活を見ていれば容易に推測できる。具体的には散らかりっぱなしの寮の部屋とか。

 

「そういうことなら吾輩の索敵機の出番だな!!空からも偵察すれば任務は何倍も早く終わるぞ!!」

 

 任せろ、とばかりに零式水上偵察機を射出するべく、利根が左腕のカタパルトを海面に対して水平に突きだし……そのままの姿勢で固まる。

 

 搭載された偵察機が飛び立つ気配は無い。

 

「バカな!!カタパルトが不調だと?!」

 ―――突っ込まないぞ。さっき自分で5inch砲弾にぶつけたろ、なんて!!

 

「ほらほらぁ、ズルはできないってことです。さ、気持ちを切り替えて任務を続けるわよ」

 

 はぁ~い、と阿武隈に生返事を返し、さっきの戦闘でずれた肩のベルトを直す。

 

 まだカタパルトとにらめっこしている利根はさておいて、一旦アイドリングに変えた機関ユニットの回転数を上昇させた。

 

『横須賀の皆さん、調子はどぉよ?』

 

 突然インカムから元気のいい若い女性の声が響く。

 

「きゃっ、何!?」

 

『驚かせてゴメンね~。第八次敵泊地攻撃部隊、戦艦榛名旗下、舞鶴の飛龍です。もしも~し、聞こえていますか~?って聞こえてないワケ無いよね?』

 

 あははっ、とセルフツッコミしながら笑う二航戦の飛龍型正規空母、1番艦『飛龍』。

 

 ゲームの中ではオレンジ色の弓道着を着た多聞丸マニアのお姉さん、といった感じだったが、実際の彼女はさらに明け透けな人だった。そういえばラバウルで顔合わせした時も、特に深雪と気が合っていたみたいだけど、短髪しばふ仲間だからか?

 

「お、飛龍じゃん。よっす!!」

 

『深雪ちゃん、よっす!!』

 

 ノリが軽いな、二人とも。

 

『―――いやいや、のんびり挨拶してる場合じゃなかったわね。実はちょっと気になることがあって、阿武隈水雷戦隊にお願いしたいことがあるんだけれど』

 

「な、何でしょう?」

 

 当の阿武隈は目上相手にガチガチに恐縮して、台詞が棒になってしまっている。

 

『ああ、そんなに大したことじゃないのよ。私たち今、敵泊地に向かって南下中なのだけれども―――途中で変なものを見かけたのよね』

 

「……変なもの、ですか?」

 

 目と頭に?マークを浮かべながら五月雨が呟く。

 

 飛龍も状況がよく分かっていないらしく、インカムの向こう側から困惑が伝わってくるようだ。

 

『う~ん、正確に言うと見かけたのはうちの多摩なのよ。航路から少し離れたところで、変な形の黒い塊が動いてたにゃあ、って』

 

 わざと猫っぽくにゃあ、を強調する飛龍。飛龍の猫キャラ化……いいかもしれない。

 

「黒い塊なら深海棲艦では?」

 

『私もそう思ったんだけど、その辺りはトラック組が既に哨戒しているはずの海域なの。でも多摩がどうしても気になるって言ったから、とりあえずそっちの方角に偵察機を飛ばしてみたのよね』

 

 で、何も見つからなかったと。

 

『結局泊地攻撃の作戦開始時間に間に合わなくなるから、ざっと見渡しただけで帰ってきたんだけれども……それでも多摩が』

 

『気になるのにゃっ!!』

 

 いきなり回線に本人が割り込んできた。

 

 球磨型軽巡2番艦『多摩』。中二病からサイコレズまで、色物揃いのクマー動物園No.2。

 

 

 本人は意識して猫っぽい喋り方をしているが、微妙に無理矢理感が漂ってる気がしないでもない。

 

『多摩の野生の本能が告げているにゃ。あの場所には何か不吉なものがあるはずにゃ

!!』

 

「……不吉なもんなら放っとけよ」

 

 いかにもおっくうそうに深雪が言葉を挟む。

 

『うるさいにゃ。災いの芽は小さい内に摘み取った方がいいに決まっているにゃ』

 

『―――って聞かないのよ。それでこれから座標を送るから、その周辺海域を一通り捜索してきてくれないかしら?』

 

 警戒任務はうちの榛名が何とかしてくれるって、と付け加える飛龍。

 

 今回の作戦絵図を描いているのは提督会会長の司令艦・電だ。同じ司令艦として自分が説明してもいいけれど、榛名が口添えしてくれるのならありがたい。

 

 ―――ふと思った。

 

 編成や出撃など艦娘に対して絶対的な権限を持つ司令艦は、ある意味ゲームの提督みたいに艦娘を支配、コントロールできる。

 

 絶望的な戦場に追いやることも、捨て艦として肉壁にすることも。

 

 榛名が旗下の艦娘の意志を尊重するということは、彼女たちを仲間として平等に見ているということなのだろう。

 

 だが、それだけでは無い。

 

 二次会の牛鍋屋でちらっと聞いた話では、既に金剛たち古参メンバーは仲間の艦娘を守るため、大破轟沈のリスクを厭わず何度も自分を盾にしたことがあるという。

 

 傷つく度、自分の魂とも呼べる記憶が削ぎ落されていく。その事実を知った後でも、司令艦が捨て駒にするのは自分だけ。

 

 素体となった艦娘の性格もあるだろうが、もし提督機がそれも含めて司令艦候補を選んだのであれば―――

 

『安上がりな使い捨ての傭兵なのです』

 

 ―――本当に提督機に意志や感情は無いのだろうか?悪意だけならてんこ盛りなのだけれども。

 

「わかりました。敵別働隊の可能性もありますし、阿武隈水雷戦隊は任務を変更。これより当該海域に向かうこととします」

 

『ありがとう。悪いわね、阿武隈』

 

『任せたにゃ!!多摩の代わりにしっかり頑張るにゃ!!』

 

 ピピッ、と阿武隈のスカートで電子音が鳴った。メールで飛龍が座標を送って来たのだろう。ポケットからスマートフォンを取り出して確認する姿は、電車を待ちながらスマホをいじる女子高生そのもの。

 

 ちなみに携帯を持たせてもらえるのは軽巡以上からだ。駆逐艦は外出など特別な用事が無い限り携帯には触らせてもらえない。情報漏洩を防ぐためと、駆逐艦娘に余計な情報を与えないためだろう。そもそも戦闘時の通信は無線インカムで行うし、非常用の連絡装置やGPSは機関ユニットに組み込まれているし。

 

「わかったわ。ここからそう離れた場所じゃないみたい」

 

 画面から顔を上げる阿武隈。

 

「良かったわね。警戒任務は予定より早めに終わりそう」

 

「あんま内容変わんね~じゃん」

 

「でも敵だったら、もしかしたら戦闘になるかも……」

 

 五月雨の言葉にびくん、と深雪の身体が反応した。

 

「ぃよーし、今度こそ深雪さまが撃沈してやるぜ。待ってろよ深海棲艦!!」

 

「別に敵と決まったわけでもないのに、単純な奴じゃな」

 

 呆れ顔の利根。どうやら彼女はカタパルトの調整を諦めたらしい。

 

「皆、聞いて。これよりあたしたちは目撃情報のあった海域に向かい、探索行動を行います。姿を消したということから潜水艦の可能性を考え、陣形はあたしと利根さんを両端にして単横陣に」

 

 はきはきと指示を出す阿武隈だが、途中で慌ててスマホ画面を見直す。どうやら一瞬方角に自信が無くなったらしい。

 

「進路二一〇、両舷原速、之字運動で目標地点へ!!阿武隈水雷戦隊、全艦抜錨!!」

 

『了解!!』

 

 4つの機関ユニットが唸りながら回転数を上げる。背中の煙突から吐き出される黒煙が勢いよく空に立ち昇った。

 

 

 

 この世界には海図とは別に、深海棲艦との遭遇確率で色分けされた海域図がある。

 

 実際Enemy領域以外にも海域は分かれており、完全に安全なAll-safe、遭遇率3%以下の注意:Beware、10%以下の警告:Caution、30%以下の危険:Danger。また未知の未探索エリアという意味で、手出し不要のForbiddenなんていうのもあった。これらABCDEFで色分けされた海域図を元にして、この世界の海上交通は成り立っているという。

 

 沿岸部や大陸棚を中心に広がるのが安全なA領域。これは定期船航路として使われている。その周囲に広がるのがB領域だが、通行には高速船であるか装甲駆逐艦などの護衛が必要。なお、このA領域とB領域の上空が飛行機の航路にもなっている。

 

 C領域やD領域は基本進入禁止だが、艦娘の護衛が付けば許可される場合もあるらしい。

 

 今回の前線基地となるラバウルまでの道程も、横須賀から岸沿いに本州を南下し沖縄を通過、台湾とフィリピン、そしてパプアニューギニアでの計3回乗り換えが必要だった。もっとも艦娘に同乗してもらえるなら、と各港で船長たちは諸手を上げて立候補。おかげで元の世界では経験できないような豪華な船旅を堪能することができたのだけれども。

 

 そしてこの世界には、基本的に海での遭難者という概念が無い。

 

 遭難、つまり安全領域を外れてしまった場合は、二次災害を避けるため『助けてはいけない』。そして遭難者も『助けを求めてはいけない』。運良く軍艦や艦娘が近くにいればともかく、そのためだけに軍が動くことは無い。

 

 しかも多摩が何かを目撃したというのはE領域の真っただ中。

 

 遭難者の可能性なんてあるはずが―――

 

「なぁ、何か寒気がしねーか」

 

 之字運動中の深雪が、鳥肌の立った自分の二の腕をさすりながら青い顔で話しかけてくる。

 

「寒気もするけど、だんだん天気も悪くなってきたような……」

 

「そうね。気圧のせいかちょっと耳も痛いし、雨が近いのかも」

 

 どうせ見間違いだろうし、ざっと回ってさっさと帰ろうかな、と雲の出始めた空を眺めて呟く阿武隈。

 

 自分も同感。正直あまりこの場所にいたくない。

 

「ああっ、あれ、あれ見て下さい!!」

 

「これ五月雨、はしたないぞ……ぬわっ!!」

 

 窘めようとした利根が、五月雨の指差す方を見て変な声を上げた。つられてそちらに視線を向ける。

 

 ――――多分それは、ずっとそこにいたのだろう。しかし皆、黒々とした重苦しいオーラを放つそれを、本能的に視界に入れないようにしていたのだと思われる。先に哨戒機を飛ばしていた、あきつ丸や飛龍も同じ。というか呪術的な機構で生み出された艦載機なら、悪影響を受けないようになおさらあれを避けていてもおかしくない。

 

「あれって、まさか―――山城!?」

 

 裾の長い巫女服をミニスカートにアレンジした、しかし今は破れてぼろ布を引っ掛けたようになった衣装。姉の扶桑と共に特徴的とも言える馬鹿でかい砲塔が剥き出しでくっつけられた艤装だが、左肩の砲塔は失われ、残った右肩の方も砲塔がもげたり折れ曲がったりしていて到底戦闘に耐えうる状態ではない。黒い髪をボブカットにした頭には、あの違法建築ビルみたいな艦橋を意匠化した髪飾りがちょこんと乗っかっている。

 

 世界の全てを呪うかのような暗黒のオーラを身に纏った彼女、山城は、どこへ向かうとでもなく幽鬼のようにゆっくり海上を彷徨っているみたいだ。しかし山城の後ろ、黄色い小型のゴムボートのようなものが引っ張られているのが気にかかる。目を凝らしてみると、その中に横たわる2つの人影が見て取れた。

 

「大変だぁ―――皆、救助に向かうわよ!!利根さんと深雪は周辺警戒、あたしと五月雨、朝潮は山城さんに接近、接触します!!」

 

『了解!!』

 

 ぱっと利根が戦列を離れ、そこに深雪が続く。阿武隈は之字運動をやめ、真っ直ぐに山城の方へ向かう。

 

「こちら阿武隈水雷戦隊、旗艦阿武隈です。ラバウル基地、聞こえますか?」

 

『はーい、こちらラバウル基地作戦本部、雷よ。どうしたの阿武隈、そんなに切羽詰った声で?』

 

 阿武隈がインカムに呼びかけると、電に似た声をした元気そうな女の子が返事を返す。電の姉妹艦、暁型駆逐艦3番艦『雷』だ。

 

 司令艦である電は、最近では自分が戦場に立つ代わりに作戦指揮、要するに本来の意味での提督として、その能力をいかんなく発揮しているのだという。実際彼女がラバウルに連れてきたのは、主力艦隊でなく秘書艦としての雷だけだったし。

 

 しかし司令艦が作戦に参加して護りが手薄になる鎮守府には、電擁する呉の駆逐隊が補充戦力として派遣される。現在横須賀には自分たちと入れ替わりで、電の指示により呉から陽炎型駆逐艦1番艦『陽炎』、2番艦『不知火』の二人が送り込まれている。なお、電がいない呉を運営しているのは、電の姉妹艦である暁型1番艦『暁』と、秘書艦として暁型2番艦『響』なんだとか。

 

「先ほど飛龍さんからの要請を受け、阿武隈水雷戦隊は現在、警戒予定航路から外れた海域で索敵を行っています。その際扶桑型戦艦2番艦『山城』と思われる艦影を発見。これより接触を試みるところです」

 

『山城!?でも何でそんなところにいるのかしら……そういえば報告に先のショートランドでの戦闘で、山城は扶桑と一緒にlostしたって……』

 

「山城が曳航中のボートに人影が見えます。それが扶桑かもしれません。山城自身も装甲、艤装が大破している状態です」

 

 大破というか、もう幽霊船状態だけど。

 

『すぐに助けるわ。基地から緊急回収用の飛行艇を出すけど、当該座標まで直線距離で約300kmだから45分前後かしら。ごめんね、ちょっと時間かかるかも。その間海域の保持と要救護者の手当てをお願いするわね』

 

「了解」

 

 阿武隈がインカムのスイッチを切る。山城はもう目の前だ。

 

「不幸だわ……」

 

 虚ろな瞳でぼんやり空を見上げる山城のつぶやきが聞こえてきた。

 

「不幸だわ……身体が痛い。不幸だわ……燃料切れそう。不幸だわ……無線も壊れたし。不幸だわ……誰も助けてくれない。不幸だわ……空が高い。不幸だわ……海が青い。不幸だわ……」

 

 だんだんただの言いがかりになってきてるぞ、この不幸マニア。

 

「山城さん!!」

 

 阿武隈が砲塔の失われた左肩に手を置き、大声で名前を呼んだ。

 

 ぶつぶつと紡がれる呪詛の声が止み、山城はちらっとその真紅の視線を阿武隈に送る。

 

「不幸だわ……今度は幻覚が見えてきた。阿武隈は今頃、ヤシの木陰でフルーツジュースでも飲みながらくつろいでいるはずよ。私が飢え乾いているのも知らずに……」

 

 妬ましいわ、とやや色の失せた朱の唇をぎりっと噛み締めた。

 

「そんなことしてませんっ!!助けに来たんですよっ!!」

 

 その言葉にゆっくり顔をこちらに向ける。阿武隈としばらく見つめ合った山城の顔が、ぱあっ、と喜びの色に染まった。儚げな雰囲気と相まって、笑うと凄い美人さんだ。

 

「ああ、そうなんだ。阿武隈もとっくに沈んでて、次は私をお迎えに来たのね!!」

 

「まだ轟沈してませんっ!!あたし、生きてますからっ!!」

 

 どんだけネガティブ思考なんだ、この人は。

 

「……もしかして本当に……」

 

「本当に救助ですっ!!山城さんを―――」

 

「姉さまっっ!!」

 

 急に山城が後ろを振り向き叫んだ。残った右肩の35.6cm砲砲身が、慌ててしゃがんだ阿武隈の前髪をぶんっとかすめる。

 

「姉さま、助けが来てくれました!!もう大丈―――ぁ―――」

 

 山城の身体がぐらり、と大きく揺れた。

 

 安心して緊張の糸が切れたのか、もう限界だった彼女の意識が手放される。

 

 力を失って崩れ落ちる体に艤装の重さが加わり、それが一気に阿武隈に襲い掛かった。同時に山城の機関ユニットが駆動を止め、浮力を失った主機がずぶずぶと海中に沈み始める。

 

「朝潮っ、ちょっと、こっち来て支えるの手伝って!!」

 

「は、はいっ!!」

 

 阿武隈に駆け寄り、山城の身体に潜り込んで一緒に持ち上げる。ぐったりした彼女の身体は想像以上に重い。艦娘も戦艦級になると、見た目以上に重量が変わるのだろうか。

 

「うぅんと、艤装の解除レバーは―――」

 

 必死で背伸びしながら、ちょうど山城の肩甲骨の間あたりをまさぐる阿武隈。

 

「あった!!朝潮、頭に気を付けてね―――戦艦山城の艤装、兵装を緊急パージ!!破損著しいため同装備を現時刻をもって海中放棄します!!」

 

 阿武隈が何かをぐいっと引っ張った。

 

バシュンッ!!

 

 残った右肩の35.6cm砲塔から圧縮空気のような小さな破裂音が聞こえたかと思うと、砲塔は牡丹の花弁みたいにぽろりと外れ、そのまま水飛沫を上げて海面に落下。黒光りする鉄の塊は吸い込まれるように海底に向かって沈んで行った。その後に腹部と両手足に巻かれた拘束具にも見える弾倉帯が続く。

 

 かろうじて残っていた装甲も一緒に剥がれ落ち、重く不自由な艤装から解き放たれた山城の、清楚な巫女服に隠されていた白く肉感的な肢体が露わになった。支えようとすると必然的に直接触れねばならず、その肌の柔らかさが直接両の掌に伝わってくる。

 

 ―――冷たい。

 

 通り雨にでも降られたのか、それとも機関ユニットの水密区画設定が壊れたのか。艦娘の生体フィールドが正常に働いていれば体温の恒常性は保たれるはずだが、山城の身体は赤道直下のソロモン海ではありえないくらいに冷えきっていた。

 

「五月雨、機関ユニットから予備の救命筏を!!」

 

「お任せ下さい!!」

 

 くるっと後ろを向いた五月雨の背中、青光りする彼女の機関ユニットから白い布の塊のようなものが放出される。海面に触れた瞬間それは大きく膨らみ、人一人が乗れるサイズの小型の救命筏になった。

 

 阿武隈と一緒に、気を失った山城の身体をゆっくりと筏に横たえる。その上から五月雨が、これまた自分の背中から取り出したアルミブランケットを被せた。

 

「基地に戻って調べてみないとわからないけど、目立った傷は無いみたいね」

 

 とりあえず山城はこれでよし、と言いながら、阿武隈は山城の曳航していたゴムボートに視線を向ける。

 

 定員6名ほどの黄色い大きな救命ボートはかなりしっかりした造りをしており、多分船舶か何かに搭載されていたものだろう。考えられる状況としては山城が乗っていた船が深海棲艦に襲われ、被弾するもまだ推進力の残っていた彼女がボートを引っ張ってここまで逃走してきた、ということか。

 

 しかし……

 

「あの、誰が乗っているんでしょう、救命ボート―――」

 

 五月雨がごくんと唾を飲み込み、恐る恐るボートの中、白い毛布に覆われた二つの人型の膨らみを指差す。並んで横たわったそれに動く気配は無い。

 

 山城は姉の名前を呼んでいたが、少し病みが入ったシスコンの彼女のことだ。姉の扶桑の戦死を認められず、遺体を船に乗せて彷徨っていた可能性も否定できない。だが何故二人?

 

「―――山城、船足が止まったみたいだけど何かあったのかい?」

 

 突然人型の一方から若い男の声が聞こえた。明らかに扶桑のものではない。皆の視線が集まる中もぞもぞと毛布が動き、そこから髪を短く切り揃えた頭が覗く。

 

 疲労で痩せこけ無精ひげの伸びた頬、目の下に深く刻まれた隈。しかし元の造形はそこそこ端正なのだろう。漂流生活が影を落としてはいるが、素直で真面目そうな感じの青年だ。

 

 しかし彼が着ているのは前に自分が着ていたのと同じ、白い詰め襟の第2種軍装。

軍関係者―――士官か?

 

「あ、あたしは横須賀鎮守府所属、阿武隈水雷戦隊旗艦の阿武隈です。警戒任務中に未確認物体目撃の報を受けこの海域に急行。先ほど戦艦山城を救助、既にラバウル基地からこちらに回収艇が向かっております。それでその、貴官は?」

 

「そうか―――こんな格好で失礼する。小官はショートランドの特務提督、西村。泊地が攻撃を受けた際、扶桑、山城両名と共に何とか駆逐艦で脱出したのだが、敵の追撃を受け艦は轟沈。無線もGPSも艤装と一緒に大破したため、かろうじて推進力の残った山城に安全海域まで曳航してもらっていたところだ」

 

 西村と名乗った青年は、左手でさっ、と毛布を払いのけた。その薬指にはめられた銀色のリングが一瞬輝く。救命ボートの中、彼の隣に横たわっていたのはやはり艤装を外した扶桑だった。

 

 山城の姉、扶桑型戦艦1番艦『扶桑』。妹と同じく儚げな印象を受けるロングストレートの大人びた彼女は、雪のように真っ白な血の気の失せた顔で静かに目を閉じている。浅く早い呼吸に合わせて胸が上下していなければ、出来のいいマネキンか死体と言われても疑わない。

 

 そしてボロボロの巫女服の長い裾から覗く扶桑の左手薬指にも、西村と同じ形をした銀色のリングがはまっていた。

 

 ……なるほど、二人はそういう関係だったのか。どうりで緊急事態とはいえ、姉命の山城が同衾を許すわけだ。

 

「扶桑、しっかりするんだ!!ほら、助けが来てくれたよ!!」

 

「……本当ですか……でも、泊地も守れず落ち延びているこんな惨めな私たちを助けてくれる人なんて……」

 

「本当だとも!!軽巡阿武隈が、それに駆逐艦の朝潮と五月雨もいる。僕たち助かったんだよ!!」

 

 あぁ、と嘆息しながら物憂げな扶桑の瞳がうっすらと開かれる。が、

 

「痛い―――あぁっ―――痛い、痛い痛い痛い―――」

 

 身体を起こそうとした途端、その日本人形のような線の細い顔が苦痛に歪んだ。そのまま抱き着くようにして西村に向かい倒れ込む。

 

「いかん、モルヒネが切れたか。悪いが彼女に鎮痛剤を頼む。僕らのは使いきってて、もう手持ちが無いんだ」

 

 それを抱き止めた西村が阿武隈に懇願するような視線を向ける。

 

「ひゃい!!モルヒネ、ですか。ありますけど―――」

 

 自分の背中の機関ユニットに手を伸ばし、ごそごそとまさぐる阿武隈。やがて彼女はボールペンケースのような細長い小さな箱を取り出した。

 

 ぱかっと蓋を開けると中に入っていたのは、既に針の取り付けられたガラス製の注射器。阿武隈は一緒に入っていた同じくガラス製のアンプルの頭をぺきっ、とへし折り、おっかなびっくり中の液体を、キャップを取った針で吸い上げる。1ml程度の液体、モルヒネで小型注射器が充填されると、それをひっくり返してぴゅっ、と空気を抜いた。

 

「あ、あたしが注射をします。朝潮と五月雨は、二人で扶桑さんの身体を押さえてて下さいっ!!」

 

 緊張しているのか、震えた声での命令。

 

 すぐさま五月雨と一緒にゴムボートに近付き、痛みに小さく身悶えする扶桑に取り付く。

 

「朝潮、袖をまくって腕を」

 

 はいっ、と答え、変色した赤黒い血が所々こびりつく扶桑の右袖を持ち上げる。

 

「待ってくれ!!彼女は―――」

 

 西村が何故か制止した。

 

「あっ――――」

 

「ひっ!!」

 

 思わず息を呑む。隣で五月雨が短い悲鳴を上げた。

 

 肩口をきつく縛って無理やり施された止血、そのすぐ近くでピンク色に蠢く肉に埋もれた白い骨の断端が露出している。

 

 戦艦扶桑、彼女の白くたおやかな右腕は、二の腕から先が千切り取られたようにして―――無かった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

任務9-2『殴リ込メ敵前線泊地!』(中)

氷を詰め込んだビールジョッキが卓上にどんっ、と置かれた。

 

 両側から湯気を放つ濃い琥珀色と乳白色、2種類の液体が注がれる。杯が満ちたところでカクテル用マドラーが差し入れられ、溶けて小さくなる氷やグラスとぶつかりながらカラカラと回転、攪拌。やがて蜂蜜色に輝く液体が生み出された。

 

 汗をかくジョッキの持ち手をがしっと掴み、その内容を一気に咽喉の奥へと流し込む。

 

「ぷはぁっ!!五臓六腑に沁みるデース!!」

 

 ものの数秒で1L近い出来たてのアイスミルクティーを飲み干した金剛は、満足そうに嘆息した。

 

「金剛姉様……あまりお茶ばかり摂られては、その、はばかりが近く……」

 

「こんな状況下ではまず紅茶、飲まずにはいられないネ。それに金剛型のballast tank容量は伊達じゃないデース。加えて海上は全域これbathroomみたいなもの。全く榛名は心配性ネ!!」

 

 Hahaha!!とアメリカンに笑う金剛。あんた本当に英国生まれなのか?

 

「比叡、今度から金剛の紅茶は全部レモンティーにしてやるのです。霧島、新品の尿瓶を用意するので、次からはそれをジョッキ代わりに使うのです」

 

「ひえ~」

 

「ふむ、それは面白い余興ですね」

 

 電の提案にマドラーを持ったままあたふたする、金剛と同じ巫女服を着た茶髪ショートカットの金剛型2番艦『比叡』と、紅潮した頬に嗜虐的な笑みを浮かべて眼鏡をくいっと直すボブカットの金剛型4番艦『霧島』。

 

「比叡―――やったら私の秘書艦fireネ!!」

 

「ひえ~!!お姉様見捨てないでぇー!!」

 

「霧島も、冗談に悪乗りしないで」

 

「ふふっ」

 

 西村提督と扶桑、山城を発見する4日前のラバウル基地、提督執務室兼作戦本部。

 

 突如開かれた緊急作戦会議の重苦しい空気の中、4人寄ればさらに姦しい金剛姉妹の声が響いた。

 

「ま~あたしも自棄紅茶ならぬ自棄酒なら付き合いたい気分だしな~」

 

「今は作戦会議中よ……」

 

 部屋の中央に置かれた巨大な作戦テーブル、そこに座った飛鷹の後ろに立つ秘書艦の隼鷹が、卓上の海域図、一度は青に塗り替えたところまで真っ赤に塗り返されたそれを見ながらぼやいた。どうやら今日の彼女は素面らしい。

 

 現在ここにいるのは哨戒任務と作戦行動中の愛宕、五十鈴、伊58を除く5人の司令艦。そして正体を明かして協力を得ている秘書艦4人の計9人が集まっている。

 

 電と雷、金剛と比叡、榛名と霧島、そして飛鷹と隼鷹。秘書艦がいないのは自分だけだ。

 

 自分が駆逐艦の場合、秘書艦を設定するメリットはあまり無いのです、と電は教えてくれた。対して戦艦や空母のように戦闘の要になる存在の場合、自分が入渠している間大きく戦力が減退する。それを補う意味で自分と同じ艦種、さらに言えば姉妹艦を秘書にすることは、艦隊を運営する上で大きなメリットになる。

 

 それはそれとして駆逐艦であっても、秘密を明かした上で自分がコントロールできるのであれば、艦娘の誰かを秘書艦にするのもアリなのです、というのが電の持論らしい。実際電は雷を秘書艦にした上で、さらに正体を呉鎮守府の全員に明かしている。だが自分が出会った雷、陽炎、不知火は、電の秘密について一言も漏らしていない。それが電への信頼からか、恐怖政治の賜物かは分からないが。そういえば以前深雪は呉から来た、と言っていたが、彼女が司令艦の存在に気付いている様子は無い。深雪は呉でどういう立ち位置だったのか、少し気になる。

 

 現実的には金剛、榛名、飛鷹のように、秘書艦だけに正体を明かすのが安全なのだろう。

 

「まさかブイン基地を占領していた泊地棲姫が、劣勢を悟ってショートランド泊地に宿替えするなんて―――」

 

 全くもって前代未聞なのです、と自分の分のアイスティーをストローですする電。

 

「まるでやどかりね」

 

 上手いことを言ったつもりらしく、何やら得意げな電の姉、雷。

 

 ニューギニア島東にあるニューブリテン島北端のラバウル基地。そこから南東に約400km進めば山本五十六の乗った飛行機が撃墜されたことで有名なブーゲンビル島がある。

 

 そのブーゲンビル島南端のブイン基地は、50kmも離れていないショートランド泊地と共に大日本帝国の最南端かつ最東端。最も米国本土に近く、それゆえ最も危険な前線基地でもあった。

 

 提督会があった日の深夜、新たなE領域の発生が提督機より告げられた。翌朝それを知った自分は朝食中に絶句、思わず箸を取り落してしまった。

 

 視界に表示される艦これ画面、E領域で赤く染まった海域図。その中心にあったのは帝国海軍所属のはずの『ブイン基地』。

 

 味のしなくなった目玉焼きとベーコンを口の中に放り込み、皆にはトイレに行くと断って中座。すぐさま人目を避けて提督執務室に入り、携帯電話で電に連絡を取った。

 

「つまり基地が敵に乗っ取られた、ということなのです」

 

 だが電話口からは意外にも、驚いていない風な電の言葉が返ってきた。

 

 もうすぐ大本営発表があるはずですが、と続ける。

 

「実は飛鷹がラバウルに来る前、ラバウル基地が同じ状況に陥ったことがあったのです」

 

 詳しく聞いてみると、司令艦に情報が来るのは特務提督で支えきれなくなった状態、言い換えれば絶望的な戦況になってからでないと出動がかからないのだという。

 

 秘密兵器として温存されているためか、戦績を上げて発言力を持たせないためか……。

 

 しかし情報が開示されてからの電の動きは早かった。

 

 皆に連絡を取り、ブイン基地に最も近い飛鷹のラバウル基地を作戦基地に指定。

 

 戦争です、ありったけの戦力を掻き集めるのです、との彼女の号令に、各地の鎮守府、基地、泊地、警備府から司令艦率いる主力艦隊が南洋ラバウルに続々と集結。

 

 一週間足らずで観艦式ができるくらいの、40隻を超える艦娘が基地にひしめく状態になった。

 

 すぐさま司令艦と秘書艦を集めた作戦会議が行われ、

 

 逐次投入なんてまどろっこしいことやってるから負けるのです!!

 

 我らが連合艦隊の全力で以てこれを殲滅するのです!!と電が檄を飛ばすと、執務室が歓声に満ちる。

 

 艦隊指揮官として電をラバウル基地に残し、

 

 主力第一艦隊は金剛を旗艦とし、以下『比叡』『蒼龍』『千歳』『球磨』『北上』。

 

 主力第二艦隊は榛名を旗艦とし、以下『霧島』『飛龍』『千代田』『多摩』『大井』。

 

 主力第三艦隊は飛鷹を旗艦とし、以下『陸奥』『隼鷹』『加古』『古鷹』『木曽』。

 

 露払い、哨戒、補充戦力として愛宕、五十鈴が各6隻を指揮し適時参戦。伊58は同じ伊号潜水艦隊を引き連れて遊撃に。そして自分は初めての大規模海戦任務ということで、愛宕や五十鈴と共にバックアップで動くこととなった。

 

 敵勢力圏に進出した主力艦隊はE領域で真っ赤になった海を、まるで無人の荒野を往くがごとく前進し、毎日敵領域を刈り取り、海域図を青に塗り直していく。

 

 当然だ。

 

 超弩級戦艦5隻、正規空母2隻、軽空母4隻、重巡2隻、雷巡3隻、軽巡2隻。

 

 いわば計18隻の大艦隊で一塊になってゲームのE海域を進んでいくようなもの。

 

 しかも周囲からは支援の砲撃、爆撃、雷撃が毎回飛んでくるうえに、進路上障害になる敵艦は自動的に処理される。

 

 敵駆逐艦、軽巡、雷巡、軽空母は降り注ぐ砲撃の雨に射抜かれて次々と沈み、そもそも潜水艦は無数の爆雷で頭を押さえられて浮かんでこれない。輸送ワ級は姿さえ見えず、空母ヲ級の艦載機は接近前に全機撃墜されヲ級は丸裸。弾雨に耐えた重巡リ級や戦艦ル級、タ級は艦隊の前に現れた時点で穴だらけ大破状態のため、ろくな抵抗も出来ずに次々と仕留められていく。

 

 鎮守府同士で意思の疎通が図れ、上層部の介入も無く、なおかつ自分が先頭に立って直接艦隊の編成、指揮を取れる司令艦だからこそできる芸当。

 

 大戦中と違って他の鎮守府海域が襲われないと分かっているから戦力の集中運用も可能になるのだけれども、これは正にチートの一言に尽きる。

 

 もっとも手薄なところを襲われたとしても、実際の艦艇と違い飛行機で飛んで行ける艦娘に死角は無い。さっと駆けつけ、返す刀で切り捨てれば良いのだから。しかもそれさえ呉に残った電の仲間たちが引き受けてくれるため、自分たちは海域攻略に専念できる。

 

 巨大なローラーが草木や虫を圧殺しながらじりじりと進むように、電指揮する司令艦隊はゆっくりと、時に大胆に、確実に南洋における勢力図を塗り替えて行った。

 

 そしてブイン基地手前まで戦線を押し返し、迎撃に出た泊地棲鬼を撃破。その追加装甲を破壊し、あと少しで海域ボス泊地棲姫を討伐できる、というタイミングで異常事態が起きた。

 

 当初真っ赤に塗りつぶされていた海域図で、唯一ぽつんと残されていた青い点、ショートランド泊地。特務提督が管理するこの泊地は、ブイン基地陥落後ひたすら引き籠り専守防衛に努めることで、四面楚歌の状況の中かろうじて生き残っていた。

 

 しかし司令艦隊がブイン基地に最終攻撃を仕掛ける前夜。

 

 周辺警戒をしていたにも関わらず、泊地棲姫は闇に紛れて警戒線を突破。そのまま残存勢力と共にショートランド泊地へ襲撃を仕掛けた。

 

 ここに至り、司令艦と特務提督の間で情報交換がなされていなかったことが仇になる。

 

 そもそも司令艦には本人の知らぬところで行動にフィルターがかけられており、軍務、つまり軍令部を通したものでなければ、司令艦同士でも携帯電話でしか連絡の取りようが無い。さらに特務提督に対しては干渉する術を全く持たない。

 

 ブイン基地への侵攻、奪還作戦に先立ち、電は自分で作成した意見書と陳述書でショートランド泊地への情報連携を呼びかけているが、反応は梨のつぶて。どうやら上層部に握りつぶされてしまったらしい。

 

 そしてショートランド泊地への敵襲来。

 

 彼らも日々帝国海軍の軍事戦術ネットワークにアップロードされる海域勢力図の変化を見て、油断していたのかもしれない。泊地は一夜にして陥落。赴任していた特務提督と所属艦娘たちは消息不明となった。

 

 間抜けな話だがその翌日、司令艦隊は予定通り無人のブイン基地に最終決戦を仕掛けている。

 

 敵影の少なさに疑問は残ったが、ゼロではなかったため攻撃を敢行。かつての海軍施設だった陸上構造物含め、無数の砲弾と爆弾が海と大地を舐めるようにして焼き尽くした。

 

 勝利を確信し艦隊がラバウル基地に帰投した、そのタイミングでショートランド泊地での戦闘と、その結果が司令艦たちに伝えられた。

 

 状況確認のため補給も半ばに、五十鈴と愛宕がとんぼ返りでショートランド泊地に向けて出港。軍令部からの情報が正しく、また制圧したはずの海域で深海棲艦が出没しはじめている、との報告が上がってきたので、今まさに海域図を赤く塗り直したところだ。

 

 ショートランド泊地はショートランド島の南端部分とマガセーアイ島、ポッポーラン島で囲まれた3角形、ちょうど女性の子宮と卵管みたいな形をした場所になる。

 

 侵入路が狭く限られているため、ブイン基地でやったように大軍で侵入し押しつぶすのは難しい。

 

「――――だったら閉塞作戦を行うのです」

 

 小さな唇でストローを弄びながら海域図と睨めっこしていた電が口を開いた。

 

「ゴーヤは制圧したブイン基地の保持を。速度から第一、第二、第三艦隊を2:2:1の割合になるようローテーションを組み、敵泊地に対して主砲による対地、対水上射撃を行うです。狭い場所に誘い込まれての戦闘を避けるため、事前に可能な限り敵戦闘力を奪います。五十鈴と愛宕は交代で、哨戒と主力艦隊不在の間の海域閉塞を頼むのです。朝潮はこれまで通り哨戒と警備任務を主に。特に問題無いようであれば時々五十鈴、愛宕と交代してもらいます」

 

 皆、あと少しなのです。最後まで頑張るのです!!と激励する電。

 

 だが、連日昼夜を問わず働き通しで一番憔悴しきっているのが彼女であることは、誰の目にも明らかだった。

 

 

 

 

 

「扶桑さん、大丈夫なのかな~」

 

 食堂のラバウルランチについてきたマンゴーアイス、半分溶けかけたそれをスプーンで突っつきながら五月雨が呟く。

 

 西村提督と負傷した扶桑、山城を回収してから既に二日が経過していた。

 

 右腕を失い、さらに出血多量で内臓に異常をきたしていた扶桑は、輸血を受けながらすぐに医療用に設備改造された二式大艇に乗り換え内地へ後方搬送。衰弱してはいるが目立った傷の無い西村と打撲症、肋骨骨折で済んだ山城は、事情聴取のためラバウル基地の医務室で休養しているという。

 

「う~ん、やっぱり軍務に復帰は無理だと思う……」

 

「うむ、あの傷では命は助かろうとも除籍は免れんじゃろうな」

 

「じゃあ解体、ってことですか?」

 

「そう。まぁ普通の女の子に戻れるわけだから、悪い話でもないと思うけど」

 

 阿武隈と利根は可哀そうだけど仕方ない、というスタンスらしい。わざとかどうかは分からないが、我関せず、といったふうに食後の日本茶をすすっている。

 

 ……少し攻めてみるか?

 

「普通の女の子に戻っても、艦娘についてや軍の編成についての記憶が残っている場合はどうなるんでしょうね……」

 

 スパイに狙われたりするかもしれないから、ちょっと怖いな、と誰に言うとでもなく口にする。

 

「大丈夫だ。艦娘としての名前を剥された時点で、軍務中の記憶は全部無くなっ……」

 

「わ~っ!!利根さんわ~っ!!それにしても格好良い飛行甲板ですよね、利根さんの!!あたし、もっと良く見てみたいな~!!」

 

 突然阿武隈が立ち上がって素っ頓狂な声を上げた。食堂の視線が彼女に集中する。

 

「おお、阿武隈!!お主も飛行甲板の良さに気付いたか!!そういえば軽巡も水偵を搭載できるのだったな。もし良ければ今夜にでも吾輩と一緒に……」

 

「ま、また今度でお願いしますぅ!!」

 

 全力で断った後、たはは、と愛想笑いを浮かべながら椅子に座り直す。しかしその後も彼女は落ち着き無さそうに、びくっ、びくっ、としながら時折利根の方を警戒しているのが分かった。

 

 やはり提督会で榛名が言っていた通り、退役に際して艦娘は記憶を奪われるらしい。そしてその事実は、軽巡以下の艦娘には知らされていない。

 

 なら戦艦の扶桑はどうなのだろう。

 

 西村提督とケッコンカッコカリまでしていて、退役すれば記憶を全て失ってしまうと分かっていて、それでも戦場に向かった彼女は一体どんな気持ちだったのか。

 

「あのさ――――昼飯食べ終わったら提督見に行かね~か?」

 

 深雪が唐突に言い出した。

 

 さっきまでラバウル銘菓『り陸奥たか』―――銘菓『ひ○こ』に戦艦陸奥の顔とカタツムリの殻を付けた不気味な謎菓子―――の背中の殻を壊さずに外そうと黙々作業をしていたのだが、ついに飽きたのかぽいっ、と一匹丸ごと口の中に放り込み、むっしゃむっしゃと咀嚼する。

 

「提督っていっても飛鷹さんに聞いたら、横鎮と一緒で姿を見た人は誰もいないんだって」

 

 そう言いながら本当は飛鷹がラバウルの提督なのだけれども、と心の中で補足する。

 

「ちげーよ。深雪たちが拾ってきた提督のことだよ」

 

 利根から譲り受けた二匹目の『り陸奥たか』に手を伸ばす深雪。

 

「西村提督?」

 

「ああ。アイツ何だっけ、ケッコンコッコカリ?とかいうのやってただろ?」

 

 あれってどんな感じなのか、その、ちょっと、知りたくてよ……と口ごもりながら顔を赤らめる。

 

 意外と深雪にも乙女なところもあるんだな、と少し驚いた。

 

 そして照れ隠しに『り陸奥たか』の髪の毛を引っこ抜くのは止めて差し上げなさい。第三砲塔が爆発しても知らないぞ。

 

「それ、あたしも知りたいです!!ケッコンカッコカリ、興味あります!!」

 

 五月雨が身を乗り出して喰いついてきた。

 

「阿武隈さん!!いいですよね、あたしたち西村提督にお話聞きに行っても!!」

 

「ふぁ!?い、いいけど、多分……でも迷惑にならないようにね」

 

 利根さんとあたしは、次の出撃の準備があるから遠慮するね、と阿武隈が続ける。

話題を逸らせて助かったと思ったのか、意外とあっさりOKが出た。そして多分利根はこってり油を搾られた上で口止めされるだろう。合掌。

 

「よし、じゃあ食べ終わったらすぐに出発するぜ!!」

 

 この菓子、提督に持ってってやろうかな、と言いながら禿げ頭になった『り陸奥たか』と顔を見合わせる。

 

「深雪ちゃん、行儀が悪いからやめとこう」

 

 怪我人に見せるような代物じゃないし、ね。

 

 

 

 

 

ガッシャーン!!

 

 勢いよく倒れた金属製の点滴台がコンクリート打ちっぱなしの病室の床にぶつかり、派手な音を立てた。

 

「何で分かってくれないんだ、山城!!扶桑に関しては状況修復を陳情するから、大丈夫だって言ってるじゃないか!!」

 

「それが分かっていない、って言ってるんです!!ああ、姉さまは何でこんなクズのことを……不幸だわ……これ以上ないくらい不幸だわ!!」

 

 ラバウル基地医療棟の奥、西村提督のいる個室の中から怒号と破壊音が響く。幸い他の入院患者はいないのだが、これでは中に入れない。

 

 扉の隙間からちらっと覗くと、白い浴衣みたいな患者着の山城が鬼の形相で花瓶、本、薬箱、枕など、手当たり次第に西村提督に投げつけているのが見えた。あの違法建築な艤装が無ければ正直誰だか分からない。しかも肋骨骨折だと聞いていたのに元気だな。

 

 対する提督は防戦一方。何やら言い訳をしているみたいだが、それがますます山城の怒りに油を注いでいるようだ。いつもなら扶桑が仲裁に入るのだろうけれども、残念ながら彼女はここにはいない。

 

「頼むから理由を言ってくれ、山城!!状況修復を頼めば扶桑も元気な姿で戻って来るんだぞ!!」

 

「元気な姿って――――そんなの、そんな人、私の扶桑姉さまじゃない!!」

 

「元気の何が悪い!!」

 

 一々会話がかみ合っていない二人だ。それに論点がどんどんずれている気がする。

 

 ポジティブな扶桑は確かに扶桑じゃないけど、山城が言いたいのはそういう意味ではないみたいにも思える。

 

「すげえな、あいつら」

 

「うわ~、もしかして痴話喧嘩ですか?義妹と不倫なんですか?」

 

 呆れ顔の深雪と、何やら妄想を膨らませて目を輝かせる五月雨。こんな子だったっけ?

 

「全く、二人とも病人の癖に騒がしいのです」

 

 後ろから聞き覚えのある少女の声がした。

 

「いぃぃっ電、何でここに!!」

 

「西村に用事があるからに決まっているのです。言わずとも察して欲しいのです」

 

 目の下に隈を作り、連日の疲労で可愛い電を演出する余裕も無くなった電が、三白眼で深雪を睨みつける。ってか既に西村提督のことも呼び捨てだし。

 

「それにしても、中には嵐が吹き荒れていますね。どうしましょう……」

 

 電の横に立つ長い黒髪の巫女服の女性、榛名が五月雨の頭越しに感想を述べた。二人とも小脇に書類の束を抱えている。事務がらみなのだろうか。

 

「任せるのです。今日の電はラッキーなのです……深雪!!」

 

「はっははははははひぃぃぃっっ!!」

 

 がたがた震えてその場から逃げ出そうとしていた深雪を一喝。動きがびくっと止まった。

 

「お願いするのです。電が提督とお話している間、五月雨と一緒に最低一時間くらい、山城を連れ出してお茶か散歩でもしてくるのです」

 

「でっででででもっ山城が素直に言うこと聞くわけ……」

 

 ふぅ、と首を振りながらため息をついた電は、怯える深雪の耳元にゆっくり口を近づけると、魔法の言葉を囁いた。

 

「はわわわわ、止まらないのです!!回避して下さい、なのです!!」

 

 ぎにゃー!!

 

 途端、深雪は声にならない悲鳴を上げると同時に、五月雨の腕を掴んで一緒に病室に飛び込んだ。

 

「山城っ、今すぐ深雪と一緒に来てくれ!!な、な、な!!」

 

「ええっ、何なのよいきなり。私はこのクズに話が……」

 

「いいから、頼むよ山城!!深雪を助けてくれよ!!見捨てないでくれよおおおぉぉ!!」

 

 途中から涙声になった深雪は、目を潤ませ鼻水をすり上げながら山城の袖に取り付いて懇願する。

 

 しばらく振りほどこうとしていた山城だが、必死な彼女の姿を見て諦めたらしく、素直に五月雨に手を引かれ、泣きじゃくる深雪の手を引きながら病室から出てきた。途中こちらにちらっと視線を投げかけたが、それ以上気にならなかったらしく駆逐艦二人と連れだって食堂の方に歩み去って行く。

 

「こうやってお願いすると深雪は一発なのです」

 

「非道い……」

 

「急ぎの用事なのです。これは緊急避難、なのです」

 

 言い放ち、つかつかと病室に入る電と榛名。

 

 二人に続いて扉をくぐると、病室は山城の怒りによって荒れ放題になっていた。点滴台は倒れ、吸い口はぶちまけられ、色とりどりの錠剤が濡れたシーツの上に散らばっている。

 

 そんな中でベッドの上で苦笑いしている青年、今は白パジャマを着ている西村提督は、予期せぬ来訪者にも動じた様子は無い。が、自分を助けてくれた朝潮の姿を認めると、少し顔をほころばせた。

 

「初めまして、呉鎮守府の電です。どうかよろしくお願いいたします」

 

「舞鶴の榛名です。よろしくお願いします」

 

「横須賀の朝潮です。元気そうで安心しました」

 

 3人並んで敬礼しながら自己紹介。実際西村提督の顔は漂流していた時と違い髭を剃り、血色も良くなっている。年齢は20代前半くらいだろうか。さわやかな笑顔に、いかにも育ちがいいです、という感じのオーラがにじみ出ているような。ダークオーラを漂わせる扶桑とは、いいパートナーなのかもしれない。

 

「初めまして。朝潮とは二度目だね。自分はショートランド泊地の特務提督、西村だ。自分と、扶桑山城両名の救助、感謝している」

 

 敬礼で返されるかと思ったが、西村はいきなりベッドの上で正座して頭を下げた。

 

 助けられたことが本当にうれしかったのだろう。彼の二人を想う気持ちが伝わってくるような気がした。

 

「はわわわわ、恐縮なのです!!」

 

 頭を下げ返す電。先ほどとは違い、営業スマイルが眩しい。

 

「ところで僕に何か用事があるのかい?」

 

「はい。こちらの西村提督の書いてくださった報告書について、直接確認しておきたかった点がありまして……」

 

 手元の紙束をぺらぺらとめくる榛名。

 

「6日前、ショートランド泊地で泊地棲姫の攻撃を受けたというのは間違いありませんか?」

 

「ああ、思い出すのも忌々しい。僕らは16日前、ブイン基地が敵の手に落ち、もはや救援も、そして自分たちの脱出も不可能と判明した時点で、泊地での籠城を決意した。そこで扶桑と話し合い、ショートランド泊地に繋がる3つの通路に機雷をたっぷり仕掛けることで牽制、警報代わりとしていたのだが―――あの日の夜、泊地棲姫は何の前兆も無く突然泊地に現れた」

 

 西村の端正な顔が怒りに歪む。

 

「機雷は爆発しなかったのですか?」

 

「一つも爆発しなかった。それなのに僕らが泊地を捨て逃げる時、機雷は思い出したように次々と爆発した」

 

 起爆装置の解除が遅れたせいで、触雷した海軍の船が何隻も失われてしまった。そして僕を守るために扶桑が……悔しそうに唇を噛み締める。

 

「深海棲艦に通常兵器の効果が低いことは当然ですが、そもそも爆発もしない、というのは変な話なのです。爆薬より起爆装置の不具合というべきか……でもこれまで現れた泊地棲姫にジャミング系の能力があったという報告、電は聞いたことが無いのです」

 

「榛名もです。泊地棲姫は火力偏重の深海棲艦。浮遊要塞と護衛要塞を引き連れ、泊地を造り出し、集まってきた他の深海棲艦の司令塔として振舞う。人類側の泊地が海上交通を守るのに向いているのと同時に、破壊にも向いていることを勘案すれば、泊地棲姫が我々の泊地を狙って制圧、要塞化することは理屈に合っているのですが……」

 

 『深海棲艦を倒しきるには人間性を持った兵器が必要』

 

 電はそう言っていた。しかし『倒しきる』ためには人間性が必要だが、通常兵器が完全に通じないというわけではない。西村がそうしたように機雷で足止めして、そこに扶桑、山城らが砲撃を加えれば、たとえ相手が泊地棲姫であろうとも撃破は可能になる。泊地への侵入経路が狭く限られているからこそ有効な戦法。しかし彼らの目論見は、機雷が反応しなかったことで瓦解した。

 

 一体何が起きたのか……。

 

「ではもう一つ、西村提督が泊地を出られてからの話になります。榛名たちはショートランド泊地が泊地棲姫の手に堕ちた翌日から泊地を包囲、泊地に続く通路を全て艦娘により監視、閉塞作戦を行っております。が……」

 

 榛名の顔が険しくなった。

 

「西村提督が漂流を始めてから3日目の夜、海上を航行する泊地棲姫を見かけた、と報告書にあります。こちらについて誤認の可能性はありませんか?」

 

「あの日は星明りが綺麗で、夜だと言うのに遠くまで見通せたのを覚えている。既に扶桑は負傷し艤装を放棄、山城のGPSも壊れていたから正確な座標は分からないが、あの長砲身のシルエットは、泊地棲姫に間違いない」

 

 もっとも同じ個体かどうかまでは分からないが、と付け加える。

 

 山城のあのダークオーラ迷彩は深海棲艦相手でも有効なのだろうか。

 

 以前ラバウル基地が占領された、ということから泊地棲姫が複数存在していてもおかしくないが、これまで複数の泊地棲姫が同時に確認された例は無い。だが、

 

「それが本当だとすれば、閉塞作戦が効いていない、ということですか?」

 

「ありえないのです。閉塞開始時点の偵察で、泊地内に泊地棲姫の姿は確認済みです。その後も定時偵察で存在を確認しています。しかも泊地に繋がる水路は、艦娘が交代で24時間常に監視しているのです。それこそ小魚一匹逃げ出す隙も無いはず」

 

 横で見ていても、電の立てた閉塞作戦に穴は無いように思える。

 

 ならば目撃されたのは別の個体と考えるのが妥当だが、何かがおかしい。

 

「これはもう少し情報を集めてみる必要がありそうですね」

 

「ふぅ。西村提督ありがとうございました、なのです!!」

 

「いや、僕の方こそ大して助けになれず、すまなかったね」

 

 それでは失礼します、と部屋から出ようとした時、ふと手を振る西村提督の薬指に光る銀色の指輪が目に入った。

 

 艦娘を構成する要素の一つ『船霊』は、太平洋戦争で沈んだ時の司令官、提督と強く結びついている。それは提督が死んだ後でも同じ。

 

 そこに割り込む形で現在の提督と新たな絆を結び、精神と記憶に負担をかけることなく艦としての力を引き出す儀式がケッコンカッコカリ。

 

 負傷した扶桑が解体されるのだとすれば、戦艦扶桑でなくなった彼女の結んだ絆はどこに繋がるのだろうか。

 

「そういえば、さっき山城さんと何を話していたんですか?」

 

 ふと気になって振り返り、西村に尋ねてみた。

 

「ああ、大したことじゃないよ。朝潮たちに救助してもらった時、扶桑が大破していただろう?だから軍令部に状況修復を頼もうと思ってる、って話したら、急に怒り出したんだ」

 

「その、状況修復、って何です?」

 

 電と榛名に尋ねるが、二人とも何のことだろう、と呆けた顔をしている。

 

「分からないのです。電も特務提督に会うのは初めてなので、是非とも教えてほしいものなのです」

 

 榛名も頷く。司令艦と特務提督は同じ提督でありながら、この世界では棲む世界を隔たっている印象がある。提督と言う存在がどういうものなのか、知っておきたいという興味はあった。

 

「状況修復はね、要するに艦娘の傷を即座に直すことのできる特殊な陳情だよ。特務提督にだけ許されているんだけれども、戦績によって陳情可能な回数が決まってしまうのが玉に傷、かな」

 

「え……でも傷を治すって言っても、扶桑さんの右腕は……」

 

「それがね、治るんだよ」

 

 不思議だろ、と自慢するように話す西村。

 

「僕自身は一度しか使ったことは無いけれど、前に駆逐艦の初風が敵戦艦の主砲弾で被弾して、片足が吹き飛ぶ、なんてことがあったんだ」

 

 その時を思い出してか遠い目をする。

 

「どうしても戦線に穴を開けたくなかったから、初風に対して状況修復を依頼した。そうしたらすぐに軍令部から人が派遣されてきて、翌朝には元通り、元気になった初風がいた」

 

「つまりその人たちが、初風を治してくれたんですか?無くなった足も全部……」

 

「そうだよ、凄いだろう!!艦娘に関する技術は隠匿されているものがほとんどだけれども、状況修復に関しては本当に素晴らしいと思う。これを扶桑に使えば、戦闘で無くした扶桑の腕も元に戻る。そうすればまた僕とも、山城とも一緒にいられる!!」

 

 なのに何故か山城は反対するんだ。おかしいだろ、と同意を求めてきた。

 

「何を―――言っているですか?」

 

「え……」

 

 興奮する西村に、黙っていた電が低い声で冷水を浴びせかける。

 

 俯く彼女の握りしめられた小さな拳は、抑え込まれた激しい怒りで震えていた。

 

「足が生える?手が戻る?艦娘をタコやトカゲと勘違いしているのですか!!」

 

「だが実際に……」

 

「ごたくはいいのです!!初風に状況修復を使った?なら分かるはずです。その大鋸屑が詰まった哀れな脳味噌で、もう一度彼女の言葉を思い出してみるのです!!」

 

 初風―――陽炎型駆逐艦7番艦。重巡妙高に激突され艦首を切り落とされた経験から、妙高と斬首の恐怖に怯えるぶっきらぼうな青髪の少女。彼女の着任時の台詞は、艦これ世界の謎を解くキーワードとして話題になったことから、それだけは覚えていた。

 

『提督さんにとって、私は何人目の私かしら?』

 

「まさか―――治ったと思っていたのは別人なのか!?そんな―――だったら何故山城は僕にそれを言わない!?」

 

「艦娘には開示できる情報に制限があります。特務提督に対しては『状況修復の内容を明かしてはいけない』、という義務があるのでしょう」

 

 無機質に淡々と告げる榛名。

 

「つまり西村提督、お前は山城に向かって『今の扶桑を諦めて新しい扶桑を貰おう』と言ったのです。ケッコンカッコカリまでしているにも関わらず、お前を庇って傷ついた扶桑を、その妹の前でぼろ雑巾のように捨てると宣言したのです!!」

 

「なっ―――!!」

 

「補足ですが軍令部に確認したところ、損傷著しいため扶桑は治療を受けた後解体、除籍処分になる予定です。何にしても西村提督、貴方とあの扶桑はもう二度と会うことは無いでしょう」

 

 真っ青になった西村提督の端正な顔が絶望に彩られる。自分の仕出かしたことの大きさ、そして二度と扶桑に会えない現実に気付いた彼は、ベッドの上で自分の身体を抱きしめ、魂が抜けたように動かなくなった。

 

「全く――――相変わらずクソゲーな世界なのです」

 

 その姿を見て吐き捨てる電。別に彼女も西村提督が憎いわけでは無いのだろう。彼に悪意は無く、単に知らなかっただけ。その行動も扶桑を想ってのことだ。

 

 でも――――このやり場の無い怒りは、誰にぶつければいい?

 

「電、少し早いですが……」

 

 榛名が電に目配せをした。電が頷く。二人の雰囲気から、これから始まる会話が危険なものであることが察せられた。開きかけていた扉を閉め、がちゃりと鍵をかける。それを横目で確認した榛名がゆっくりと口を開いた。

 

「ところで西村提督。既に戦艦扶桑が後送されたにも関わらず、なぜ貴官と山城がここラバウルに留め置かれているか、その理由はご存知ですか?」

 

「……理由?」

 

 視線を伏せながら、蚊の哭くようなか細い声で西村提督が反復する。

 

「どうせ『栄光ある帝国軍人なら失地回復まで帰ってくることは許さん』とかだろ……」

 

「違います。軍令部からはラバウル基地提督に向け、回収直後から西村提督と山城の帰還出頭命令が2時間ごとに電信されている状態です」

 

「なんだって!?ならどうして……」

 

「簡単な話です――――二人の身柄を押さえている電が、片っ端から命令書を握りつぶしているからなのです」

 

「横暴だ!!」

 

 西村提督が勢いよくベッドから立ち上がった。どんな理由でも行き場の無い感情をぶつけられる標的を見つけた悦びでか、その瞳はぎらぎらと輝いている。

 

「艦娘が勝手に提督宛ての情報を遮断するなんて、これは立派な軍紀違反。軍法会議ものだぞ!!すぐにラバウルの提督を呼びたまえ!!直接抗議を―――」

 

「と言われましても、残念ながら飛鷹さんは第13次泊地攻撃隊旗艦として出撃中でして……」

 

「飛鷹!?艦娘は今関係ないだろう!!僕はラバウルの提督に……」

 

「―――ラバウル基地の提督は、飛鷹型軽空母1番艦『飛鷹』なのです」

 

「何っ?!」

 

 言葉を失った西村提督の前に、自分のセーラー服のポケットをごそごそ探りながら電が進み出る。

 

「正式な自己紹介がまだだったのです。自分は呉鎮守府提督、また今回の泊地攻撃作戦総司令官、『帝国海軍特務大将:電』なのです」

 

 よろしくお願いするのです西村大佐、とポケットから取り出した小さな布切れ……階級章を西村提督の鼻先に突き付けた。

 

 二本の黒線に囲まれた黄色地に、三つの白い桜があしらわれた『大将』の階級章。

 

「馬鹿な―――ありえない!!艦娘が提督!?海軍大将!?こんな幼い少女が―――」

 

「事実は小説より奇なり、なのです」

 

 別の世界から連れてこられて無理やり艦娘にされた司令艦からすれば、この程度で驚いてもらっては、という気がしないでもない。

 

 狼狽し、その場にへたり込む西村提督。

 

「さて本題はここからなのですが、電たちは海軍内部に協力者が必要なのです。特務提督であればなおさら、電たちと接触していても不自然でなく最適です」

 

「また協力していただけるのであれば、今回泊地攻撃作戦に西村提督のご助力、ご助言の功が大きかった旨付け加えて可能な限り好意的な形で、失態部分は全てカットして軍令部に報告させていただきます」

 

「―――断ればどうなる?」

 

「直近の泊地でありながらブイン基地を見捨て、友軍の反攻作戦に協力せず殻の中に閉じこもるも籠城にさえ失敗。敵に易々と大事なショートランド泊地を奪われ戦力回復の機会を与える。さらに敗走に際しては無防備な海軍兵士、軍属、民間人への蹂躙を許し数多の人命、艦艇を喪失させ、あげくの果てに貴重な艦娘さえ自分の盾にして大破損壊。惨めな漂流の後友軍に救助され、味方が古巣の泊地奪還作戦中にも関わらず一足先に颯爽と内地へと帰還―――列挙するだけで頭の痛くなる生き恥のオンパレードです」

 

 こんなの榛名でも大丈夫じゃないですね、と首を振る。

 

 偶然が積み重なっただけとはいえ、確かに彼の仕出かしたことは大きすぎる。最悪のタイミングで最悪の事態が連発。これも扶桑姉妹が呼び寄せた不幸の一端なのだろうか。

 

「―――分かった。きみたちに協力しよう。いや、させて欲しい」

 

「殊勝かつ賢明な判断なのです」

 

 満足そうに頷く電。

 

「ただ、一つだけ頼みがある。もう一度扶桑に合わせて欲しい」

 

「解体され名前を失った扶桑は、もう貴方の知る扶桑ではありません。思い出の一つさえ残っていないでしょう――――それでも彼女に会いに行きますか?」

 

「当たり前だ!!」

 

 迷いを振り払うような意志のこもった声。ぐっと握りしめられた手、その薬指に銀色の指輪が光る。

 

「艦娘だとか提督だとか、そんなことは関係ない!!僕は扶桑を守ってあげたい、ずっとそばにいてやりたい、そう思っていたのに―――守られたのは僕の方だった―――僕は守ってあげられなかったッ!!」

 

「大丈夫です―――」

 

「朝潮?」

 

 気が付くと自然に口が動いていた。

 

「大丈夫です。例え守れなかったとしても、守ろうとした西村提督の気持ちは、ちゃんと扶桑さんに伝わっています」

 

「そうだろうか……」

 

「そうです。でなければ……でなければこんなの……ひぐっ……悲しすぎま……えぅっ……」

 

 心の中に冷たい感覚が満ちてくる。また胸が痛む。

 

 ああ、これは西村提督じゃない、私の、朝潮の願望なんだ。

 

 あの日虚空に消えた自分の想いが、誰かに届いていて欲しいと願っている……。

 

「朝潮、自分でトラウマスイッチ押していれば世話がないのです。全く……」

 

 そう言いながらもピンク色をした自分のハンカチを差し出してくれる電。受け取って鼻をかみ、自分のポケットに仕舞う。後で洗って返そう。

 

「残念ながら扶桑の居場所は電たちには分からないです。そもそも解体、退役した艦娘がどうなるか、概論での答えはあるのですが、個人の具体的な情報については完全に隠蔽されているのです」

 

「じゃあ僕はどうすれば……」

 

「自分で見つければいいのです。さがして探して捜して、気のすむまで調べて、そして扶桑を見つけ出すのです。そのための協力は出し惜しみしないのです」

 

 それと一緒に電たちの欲しい情報も調べて貰えれば、と付け加える。

 

「破格の条件だね」

 

「その代り軍上層部に暗殺されても文句は言えないのです」

 

 ははは、と二人の乾いた笑いが病室に響く。

 

「ではまた来るのです。電たちの事は他言無用。西村提督お大事に、なのです」

 

「きみたちもね。にしても、3人は一体何者なんだい?」

 

 病室の扉を開け、半分身体を外に出したところで電が振り返った。

 

「『提督』で『艦娘』。この世界を救うためにやってきた、正義の味方『司令艦』、なのです」

 

 

 

 

 

 

「お疲れ様です、電。執務室に戻りましたら、榛名が金剛姉様の紅茶をお煎れしますね」

 

 医療棟を離れて執務室に向かう誰もいない通路。少し肩の荷が降りた、と言った感じの榛名が電を労わる。

 

「ありがとう、なのです。とりあえず、これで心置きなく泊地奪還に専念できるのです」

 

 こきこき、と小さな肩を鳴らす電。

 

「朝潮も、さっきは助かったのです。理詰めで言いくるめても反発を招きそうなところで、感情面でも西村提督に共感を示してくれたおかげで、彼も随分受け入れやすくなったはずなのです」

 

「……泣いてただけなんで、そう言われても恥ずかしいだけなんですけど」

 

「大事なことなのです。理屈と効率だけで全てが片付くと考えるのであれば、それは提督機と同じ、冷たい機械なのです」

 

 それに涙が女の子の武器なのは、古今東西どんな世界でも変わらないのです、と意地悪く笑う。

 

「電さんが大将だっていうのも知りませんでしたし」

 

「ああ、これのことですか」

 

 さっき使った大将の階級章を、ぴらぴらと指先で弄ぶ。

 

「こんなのは艦これの階級と同じです。自分で見て喜ぶか、ハッタリくらいにしか使い道が無いのです」

 

「とにかく戻ったら作戦の見直しが必要ですね。もし本当に泊地棲姫が自由に出歩いているのであれば、弾を撃ち尽くしたところや単独行動しているところを各個撃破されるかもしれませんし……」

 

「あれだけしっかりと閉塞しているにも関わらず、どこかに穴があるかもしれない、ですか。まったくもって面倒な話なのです。泊地棲姫の件といい、西村提督の件といい、どうして世界はこんなにもクソッタレなんでしょう」

 

「そう言わずに頑張って下さい。皆も榛名も、電を頼りにしていますから」

 

 不貞腐れているが、榛名の言葉に電もまんざらでもないようだ。

 

 実際自分の目から見ても電の指揮・管理能力は司令艦の中でもずば抜けている。何かと毒を吐く頻度は高いものの、それが単なる怒りや憎しみではなく道理や義憤からであることは、言葉の端々から感じ取れた。

 

 最初の印象だが、新選組の土方歳三と沖田総司って電と榛名みたいな人たちだったのかもしれない。そして大口開けて紅茶の飲む金剛が近藤勇、と。

 

 一筋縄ではいかない濃い性格の司令艦たちをまとめ上げ、元の世界への帰還という目標に向けて導く、まさに嚮導艦。『船頭多くして船山に上る』ともいうけれど、電がいる限りその心配は無いだろう。

 

 ―――ん―――

 

「現在泊地に向かっている飛鷹の艦隊には攻撃前に進入経路の再評価を―――どうしたですか、朝潮。何やら難しい顔をしているのです」

 

「『船頭多くして船山に上る』、か」

 

 自分の呟いた言葉に前を歩いていた2人の動きが止まり、こちらを覗き込んでくる。

 

「いえ、何となくひっかかっただけなので。別に大した意味は無いんですけど……」

 

 きょとんとしていた電と榛名の顔が、みるみるうちに驚愕の色に染まっていく。

 

「あああぁぁぁぁぁっっっ!!馬鹿なのです!!電は大馬鹿だったのです!!」

 

「は!?」

 

 突然顔を両手で覆ってしゃがみ、自分を責め始める電。持っていた紙束が通路の床にばら撒かれる。まさか彼女のトラウマスイッチを押してしまったのだろうか。

 

「深海棲艦が船の怪物だと考えていたせいで、こんな簡単なことさえ思いつかなかったのです!!馬鹿です、本当にどうしようもない愚図なのです!!」

 

「ど、どういうことです?」

 

「―――メフメト2世です」

 

 沈痛な面持ちで補足する榛名。だが意味が分からない。

 

「1453年、東ローマ帝国首都コンスタンチノープル包囲戦。その時オスマン帝国のメフメト2世が使った戦法―――油を塗った枕木の上を滑らせ、70隻の船に山を越えさせて奇襲をかけた―――俗に言う『オスマン艦隊の山越え』」

 

 彼女の言いたいことが分かり、自分でも顔の血の気がさっと引いていくのが分かった。

 

「それってつまり―――」

 

「もし泊地棲姫の陸上移動が可能だとすれば、閉塞作戦の前提が全て覆ってしまいます」

 

「西村提督の話で敵が触雷しなかったのも、そもそもブイン基地から逃走を許したのも、全部説明がつくです――――電の作戦は、小さな穴どころか穴しかなかったのです!!」

 

 潤んだ瞳をセーラー服の袖でごしごし拭いながら立ち上がる電。

 

「至急作戦行動中の全艦隊に通達を!!早くしないと――――間違った前提で動いている皆が危ないのです!!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

任務9-3『殴リ込メ敵前線泊地!』(後)

『こちらブイン基地跡駐留中のAcht……いえ、はちです。周囲に敵影?見当たりませんけど……』

 

 マイペースそうな、それでいてはきはきした女の子の声がスピーカーから響く。

 

「ゴーヤはどこなのよ!?」

 

『伊19と一緒に、先の戦闘で沈没した湾内の海軍艦艇を調査しに……はっちゃんは一人でお留守番。浜辺でゆったり読書中ですね』

 

 無線送信器を握ったまま、雷が電と目を見合わせる。電が頷く。

 

「はち、あなたもすぐに潜航して海中で二人と合流するの。そのままショートランド泊地の西側に回って、水路の出口沖で別命あるまで浅層待機よ」

 

『Entschuldigung……つまりブイン基地は一旦放棄するのですか?』

 

「そう言ってるの!!メールで作戦の変更内容を送ったから、後でゴーヤたちと確認して。分かったら早く潜航開始!!」

 

『Ja。あ、本濡れちゃう……』

 

「置いてきなさい!!後で取りに戻ればいいから!!」

 

 じゃぽん、という水音がして通信は途切れた。

 

「ショートランド周辺海域で哨戒任務中だった五十鈴にも、作戦の変更と泊地棲姫の陸上移動の可能性について通達しました。現在指令通り泊地東側の水路出口に移動中。……また金剛姉様にも連絡が付きました。こちらも周囲に敵影無く、予定通りラバウルに向かって帰投中。なお洋上で低気圧群に遭遇したため、基地への到着は少し遅れるとのことです」

 

 霧島が通信状況を報告する。その都度巨大なタッチパネルになっている執務室の作戦卓、赤と青に塗り分けて表示された海域図に艦隊の現在位置が追加されていく。

 

「後は飛鷹と愛宕の隊ですね……」

 

 モニターを睨みながら榛名が独りごちる。

 

「繋がったわ!!」

 

 雷が叫んだ瞬間、スピーカーの向こう側からズドーンッ!!と内臓を震わせる砲撃音が届いた。一瞬執務室が爆発したかと思った。

 

『―――緊急?今まさに泊地砲撃中なんだけど――ちょっと陸奥、一旦射撃止め!!第三砲塔が?知らないわよ!!加古も古鷹も砲撃中止、止め止め!!』

 

 荒れ狂う連続射撃の暴音を背に、慌ただしい飛鷹の声が聞こえる。しばらくすると爆発音が収まり、聞こえて来るのはちゃぽちゃぽという波の音だけになった。

 

『ふぅ、お待たせ―――それで用件は?』

 

「その前に艦隊の残弾量と、泊地棲姫の最終確認時刻を教えて欲しいのです。それと今すぐ泊地に向かって偵察機を飛ばすのです!!」

 

 送信機のマイクを受け取った電が指令を下す。

 

『事情が呑み込めないけど―――陸奥、加古、古鷹は残弾チェック。隼鷹は彩雲発艦、木曽は艦隊の周辺警戒を!!』

 

 了解!!と第三主力艦隊、ラバウル組の面々が答える。

 

『先に泊地棲姫の最終確認時刻だけど、第12次泊地攻撃隊の金剛さんが砲撃を開始する直前、一一〇〇が最後ね。私たちはその諸元に基づいて全力射撃を敢行、こちらが帰投フェイズに入った時点で五十鈴隊のあきつ丸が泊地の偵察と着弾評価、そのまま監視閉塞を続ける予定だったと思うけど……』

 

「事情が変わったのです。救助した西村提督の証言から、泊地棲姫が陸上移動で閉塞を無効化している可能性が浮上してきました」

 

『なんですって!?でも―――確かにこれだけの攻撃を受けているのに泊地棲姫自身からの抵抗が少ない、いえ、ほとんど無いというのも異常だわ。いいかげん炙り出されてきてもいい頃なのに―――』

 

 戸惑いの混じった飛鷹の声。

 

 水際作戦の反抗によるこちらの被害を考慮して、第二次大戦で米軍が行ったように、総攻撃の事前に砲撃で徹底的に敵の戦力を削ぐ、という決断自体は間違っていない。

 

 それに飛鷹の言う通り、焦れた泊地棲姫が飛び出して来てくれれば、それを全力で叩き潰して海域攻略は成っただろう。

 

 だが、泊地棲姫は動かなかった。朝夕の定期偵察でその姿を確認してはいたが、それ以外の時間、彼女がどこで何をしているかまで想像が及ばなかった。

 

 ここで素直に『砲撃で動けないくらい弱った』と考えて泊地に侵攻していれば、早晩泊地棲姫の不在に気付き、また違った展開があったのかもしれない。

 

 しかし電は決断できなかった。それは金剛や榛名、そして自分を含む他の司令艦たちも同じ。

 

 この状況で皆が思い出したのは、硫黄島で栗林中将が行った持久作戦。米側を想像以上に苦しめ、また上陸した海兵隊に対して3割に近い壊滅的被害を与えたあれだ。誘い込まれての手痛い反撃、全滅覚悟の消耗戦。下手に歴史を知っていたことが、そして敵の抵抗が少なかったことが、逆に罠の可能性を疑わせ、最後の一手を躊躇わせる。

 

 それが悪い意味で、味方の被害を極端に厭う司令艦の心情に上手く噛み合ってしまった。

 

 少しでも抵抗があるのなら危険だ。自分たちが一方的に有利な条件の下、抵抗が完全に消失するまで徹底に叩いて叩いて叩き続けよう、と。

 

 結局泊地への砲撃はだらだらと6日間、第13次にも及び、そして現在に至る。

 

『残弾出たわ。さっき砲撃を始めたところだったから、消費率7%くらいね。それと偵察結果。泊地内には敵戦艦4,重巡5、軽巡8が小、中破状態で残存―――泊地棲姫の姿は見られない、とのことよ』

 

「やっぱり、なのです―――泊地棲姫はここにはいない―――」

 

『それでどうするの?このまま砲撃を中止してラバウルに帰投、体勢を立て直した方が良いかしら?』

 

「――――いえ」

 

 皆が息を呑んで見守る中、ゆっくりと電が口を開く。

 

「既にショートランド泊地に繋がる3つの水路の内、東と西の水路には五十鈴とゴーヤを待機させているのです。飛鷹にはこれから南の水路、一番大きく開いた進入路から突撃し、一気呵成に攻めたてて泊地を攻略して欲しいのです!!」

 

 そう、電は自分たちが一転不利になった状況で、あえて進軍を選んだのだ。

 

『いいの!?泊地棲姫がいないと分かっているのに―――』

 

「だからこそ、なのです。ショートランド泊地は進入路が限られ、攻めるのが難しい天然の要害。そんな場所をわざわざ敵の手に渡したままにしておく義理は無い。それにここを制圧しておけば周辺海域のどこに巣を作られても、ショートランドから効率的に叩くことができます。お出かけ中のヤドカリ姫には、これを期にヤドナシになってもらうのです!!」

 

 彼女が帰還よりも攻勢を優先する理由はそれだけではない。

 

 半分が低速艦で構成された飛鷹の艦隊は、これからラバウルに戻るにしても時間がかかりすぎる。最悪の場合、ブイン基地もショートランド泊地も失い、撤退途中に追撃を受けてしまうかもしれない。逆にここでショートランド泊地を押さえておけば、敵拠点を潰せる上に今後は味方との挟撃も可能になる。

 

「既に五十鈴とゴーヤには飛鷹の指示に従うよう連絡しています。攻撃のタイミングと内容は飛鷹に一任するです。危険かもしれませんが、飛鷹を信じているのです―――」

 

 しばらく両者無言の時間が過ぎる。そして、

 

『了解。そこまで言われて栗田ったら女が廃るわ!!さぁ、ペテンにかけてくれた分は倍にして返すわよ!!』

 

「ありがとう、なのです!!それでは吉報を待っているのです」

 

『ええ、期待してて。一旦通信を切るわね』

 

 じゃあまた後で、と軽く挨拶して無線は終了。ため息をついた電が雷から受け取ったハンカチで額の汗を拭う。

 

「ふぅ、これで大体リカバリーできたはず、なのです。問題は――――」

 

「未だ連絡の取れない愛宕艦隊、ですね」

 

 再度海域図を見る。

 

 ラバウル基地のあるニューブリテン島東、ラタンガイ島。

 

 その南端沖50kmに帰投中の『金剛』艦隊。

 

 ショートランド泊地、ポッポーラン島とマガセーアイ島に挟まれた南水路沖に『飛鷹』艦隊。

 

 ポッポーラン島とショートランド本島に挟まれた細長い西水路沖に『伊58』潜水部隊。

 

 反対側、マガセーアイ島とショートランド本島に挟まれた東水路沖に『五十鈴』艦隊。

 

 ラバウル基地作戦本部にいるのが『電』『榛名』そして自分『朝潮』。

 

 攻撃部隊の往復航路を警備する役割を担っていた愛宕の艦隊は、縦に長いブーゲンビル島北にある小さなブカ島、その西側沖100kmの海域で消息を絶った。ちょうどそこだけ海域図上でも、金剛からの連絡にもあった低気圧群による雨雲ですっぽりと覆われている。

 

 彼女たちは本来であれば金剛艦隊が帰投した後も海域の哨戒を続け、さらに砲撃を終えた飛鷹艦隊と合流して一緒にラバウルに戻ってくる予定だった。

 

 この世界の通信は深海棲艦のため海底ケーブルが敷設できないことから、旧軍時代のように各島に建設された通信アンテナ、それを補う通信衛星によって成り立っている。

 

 深海棲艦が特殊な磁場を発生させて通信機が使用不能になる、という噂レベルの話はあるが、それ以上に悪天候は通信インフラの天敵だ。

 

「単なる通信障害だと思いますが、愛宕さんの安否が気にかかりますね」

 

 霧島がモニターを反射した眼鏡をくいくいっと動かす。

 

「しかし泊地棲姫は超弩級戦艦級。その水上移動速度は25ノットを越えないはずです。巡航速度の実際は20ノット強、時速40km程度と推定されます。例え金剛姉様が姿を確認した一一〇〇、その直後にショートランド泊地を離れていたとしても、現在時刻は一六〇〇。5時間ではブカ島にも到達できません。敵は愛宕さんたちを追って北上するよりも、やはり新たな泊地を求めてさらに南下、ソロモン諸島に向かったと考えるのが妥当と思われますが……」

 

「―――そうでしょうか。深海棲艦は人の全くいない所には現れません。また西村提督が洋上で泊地棲姫を目撃したというのも、彼らが漂流しながらラバウル基地を目指して北上していた時でした。そして泊地棲姫は、性質的に効率的にシーレーンを破壊できる場所に泊地を設けようとする。以上から考察しますと敵の目的地は……」

 

 地図の上、榛名の視線の先にある場所。

 

 三日月形をしたニューブリテン島北東端。

 

 つまりここ、『ラバウル基地』だ。

 

「だとすれば飛鷹の着任前に続いて二度もターゲットになるなんて、運の悪い基地なのです」

 

「呪われた何かでもあるのかしら?」

 

 雷の言葉に医療棟にいる山城の顔が全員の頭をよぎる。

 

 まさか、ね。

 

「とはいえ霧島の仮説も否定はできません。ソロモン諸島へは一度体制を整えてから、改めて偵察機を飛ばします。今はまず愛宕の安全の確保を優先するのです。現状ラバウルの戦力として、敵火力に正面から対抗できるのは榛名、霧島のみ。少なくとも金剛が戻って補給が完了するまでは、二人を基地から動かすことはできない―――」

 

 と、こちらを見つめる電と目が合った。

 

 反乱を恐れられているためか、司令艦が持てる艦娘は二艦隊分、自身を含めて12人だけ。そして今ラバウルにいるのは榛名の舞鶴組と電、雷、そして自分たち横須賀組のみ。

 

 彼女の言いたいことは分かったが、果たして自分にそれができるかどうか。

 

「―――お願いするのです。ソロモン海に愛宕を迎えに行ってもらえませんか?」

 

「私からもお願いします。もし会敵しても戦う必要はありません。愛宕さんと接触して、一緒に帰投すればいいだけですから」

 

 そもそも敵が水雷戦隊の速度に追いつけるわけがありませんし、心配いりませんよ、と優しく微笑む榛名。

 

「それに阿武隈さんが嚮導するのであれば、問題なく成し遂げられる……」

 

「いえ、気は引き締めて欲しいのです」

 

 電が榛名の言葉を強い口調で遮った。

 

「今回の作戦、この海域討伐任務はイレギュラーが多すぎるのです。電のポカだけが原因なら杞憂なのですが……こうまでフットワークの軽い泊地棲姫は、これまで電たちが戦ってきた一か所に留まって同じ行動を繰り返す―――いわゆるゲーム的な敵たちとは毛色が違いすぎるのです。何か嫌な予感がする―――」

 

 改めてこちらに向き直る。そして彼女は、その小さな頭を深々と下げた。

 

「朝潮、そういった未知の危険も含めて、愛宕の事を頼むのです。大規模な作戦参加が初めての朝潮に頼むのは申し訳ないのですが、今愛宕を迎えに行けるのは朝潮だけなのです。金剛が帰投、補給が終了次第、入れ替わりに榛名にも出てもらいます。だから―――」

 

「――――ここで引いては女がすたる、でしたっけ?自分も飛鷹さんと同じ気持ちです。任せて下さい!!」

 

 すぐに念じて艦これ母港画面を表示。出撃でイベント海域を選択、出撃決定を押す。これで阿武隈水雷戦隊に出撃命令が下ったはずだ。

 

「ありがとう、なのです。本来であれば先ほど榛名が言った通り、大した危険は無い遠征任務のはず。ただ、万が一泊地棲姫に遭遇してしまった場合には、遅滞戦闘を行いながら海域を離脱、何とかラバウルまで撤退して下さい。そうすれば後は電たちで何とかします」

 

「朝潮、武運を祈っているわ!!」

 

 電と雷、姉妹の声に背中を押されて執務室の外に出た。

 

 自分しかいない、そして電は自分を信じてくれた―――左の胸のあたり、まだ小さな膨らみに温かい火が灯るのを感じる。

 

 期待にはちゃんと応えなくては。

 

 廊下の向こうから五月雨と微妙にぐったりした深雪を連れた阿武隈が走ってくるのが見えた。

 

 

 

 

 

 

 

「そろそろ愛宕さんたち、見つかってもいい頃なんだけどなぁ」

 

 GPSを受信するべくスマホを持ち上げたりひっくり返したりしながら阿武隈がぼやく。

 

 海軍の高速艇に搭乗した阿武隈水雷戦隊は一六四〇ラバウルを出発。船はブランチ湾、ワランゴイ湾を右手にニューブリテン島沿岸を進み、サム・サム湾を過ぎたところで進路を南東に変更。

 

 基地を出てから一時間ほど経過したところで、ニューブリテン島とラタンガイ島の間の水道を北上する金剛艦隊と合流。高速艇とはここで別れ、金剛たちを乗せて引き返してもらうことにした。

 

 さらに進路を東に取り、島影さえ見えない外洋をブカ島に向かいながら探索行動を続ける。

 

 現在時刻一八二〇。

 

 日中あれほど眩しく輝いていた南国の太陽は西の海に沈み、水平線の向こうから申し訳程度の残光を投げかけているのみ。

 

 艦隊の進路、厚い雲に覆われた東の空には、ひたひたと夜が忍び寄ってきていた。

 

 逢魔が時。

 

阿武隈が早めの航海灯点灯を指示する。彼女を先頭に深雪、自分、五月雨、利根の順に楔形陣形で進む戦隊の背中、機関ユニットの両側に緑と赤の舷灯、そして真ん中に白い船尾灯が燈る。

 

 低気圧の端に突入したのか、風が強くなってきた。

 

 狐の嫁入りか、はたまた狸の提灯行列か。身体が横から煽られて傾く度にちらちら踊る舷灯の群れは、薄暗がりの中をさらなる闇に向かってひた走る。

 

「しかし、それらしい物は何も見えんのぅ。こう天候が悪くては、偵察機は飛ばせんし……」

 

「何だか雨も降ってきそうです。うぅぅ……」

 

 曇天を見上げながら五月雨が不安な声で呟く。こうしている間も時折愛宕に向かって呼びかけているのだが、無線機からはノイズばかりで何も応答は無い。せめて彼女たちも航海灯を点けていてくれれば、遠くからでも分かり易いのだけれども。

 

「なあ、だったら久しぶりにあれ、やってみね~か?」

 

「あれ?」

 

「ほら、吹雪たちと演習やった時に使った作戦。あ~何だったっけ、作戦『山城』だったか」

 

 船足を緩めながら深雪が提案する。

 

「何じゃそれは?」

 

「作戦『扶桑』ね。皆で人櫓を作って、高いところから遠くを見渡すんです」

 

 阿武隈に説明され、ほうそれは面白い発想じゃの、まあ吾輩の水偵には及ばんが、と、こんな時でもドヤ顔を忘れない利根。

 

「そうですね!!今なら利根さんがいるからもっと高く……高く……あれ、もしかしてあんまり変わらない……」

 

 前を行く阿武隈と後ろの利根の身長を見比べているうちに、五月雨の声がどんどんトーンダウンしていった。軽巡一小柄な阿武隈と、重巡一小柄な利根。身長差は5cmも無い。

 

「……何やら失礼なことを言われた気もするが、まあ良い。だが深雪の言う通り、やってみる価値はありそうじゃ」

 

「わかったわ。じゃあ、あたしのかわりに利根さんが真ん中で……」

 

「一番上は深雪だな!!五月雨はこの前やったし」

 

「朝潮ちゃんとジャンケンして決めたら?」

 

「ええっ!?」

 

 別にそんなつもりは無かったのだが、いつの間にか観察役に立候補したことになっていた。諦めて無駄にやる気満々の深雪とジャンケン。数回のあいこの後、

 

「しっかりお願いね、朝潮」

 

「っきしょ~、何で勝てねえんだよ!?」

 

「あはは……」

 

 阿武隈が機関ユニットから取り出した双眼鏡を渡してくるその後ろで、チョキを出した手のまま叫ぶ深雪。

 

 いや、負けるつもりでずっとグーを出してたら、そっちが勝手に自爆してくれただけなんだけど。

 

 周囲に敵影が無いことを確認。すぐさま土台に五月雨とぶーたれ顔の深雪、その上に利根が仁王立ちになり、櫓の準備が整った。なお演習の時と違ってここは敵性海域のため、阿武隈は櫓に加わらず単装砲を構えて横に立っている。

 ツインテールを掴みそうになって怒られながらも利根の背中をよじ登り、櫓の天辺へ。双眼鏡を構えると、合図と共にゆっくりと櫓が動き始めた。

 

 水平線の闇の向こうに何か見えないか、レンズ越しに必死で目を凝らす。

 

 が、

 

「それらしいものは見当たらないですね……」

 

 しばらくねばって観察を続けたが、成果はあがらなかった。双眼鏡の先にあったのは、真っ暗な水面と夜風に立ち騒ぐ白浪、そして遠くに壁のようにも見える黒いカーテン。

 

 雨が近い。

 

「ふぅ、愛宕さんこの辺りにはいないのかなぁ。ありがとう、気を付けて降りて……」

 

 ズンッ!!

 

 支えようと手を伸ばしたままの体勢で、阿武隈の動きが止まる。

 

 内臓に響くような重い炸裂音。空気を通して肌と鼓膜に伝わる震動。

 

 これは―――

 

「砲撃音!?」

 

「あちらを見よ、朝潮!!」

 

 音の聞こえてきた方向を指差す利根。すぐさま双眼鏡の接眼レンズを目に当てる。

 

 スコールのカーテン、その少し手前で閃光を伴った赤い炎がちかっちかっと輝くのが見えた。

 

 間違いない。

 

 暗くて良く見えないが、誰かがあそこで戦っている!!

 

「発砲炎が見えます!!また光った……でも視界が悪くて詳しい状況は分かりません!!」

 

「阿武隈、照明弾を撃て!!何かあっても吾輩の責任で構わん!!」

 

「ふぇ―――い、いえ、これは旗艦の、あたしの判断で!!」

 

 右手の14cm単装砲から通常砲弾の弾倉を外し、機関ユニットから取り出した照明弾を新たに装填。砲口を利根の指差す方に向ける。

 

「発射します!!」

 

 ガウンッ!!

 

 低い角度で飛び出した照明弾は、夜の帳の向こうへと飛んでいく。

 

 小さなパラシュートが開くと同時に、中空にぽぅっと咲いたオレンジ色に輝くタンポポの花のような光弾が、暗闇に包まれた海面をゆらゆらと明るく照らし出した。

 

「愛宕さんの艦隊を確認、全員無事みたいです!!それと―――」

 

 言葉に詰まる。

 

「どうしたの朝潮ちゃん?何が見えたの?」

 

「ええい、はっきりせん。吾輩が見てやろう!!」

 

 肩車した状態で利根が双眼鏡を奪い取る。

 

「む、やはり交戦中のようじゃな。相手は泊地棲姫とイ級駆逐艦が1,2,3―――ぬぅわ!?」

 

 小さく叫んで彼女も言葉を失った。自分が見た光景が信じられないのか、何度も目を擦っては双眼鏡を覗くのを繰り返している。

 

「おい利根、どうしたんだよ」

 

「黙ってないで、早く何か言ってくださいよぅ……」

 

 下で支える二人が急かす。ただ、あれを何と表現すれば良いのか。

 

 そう、例えるのならば―――

 

「戦車です!!」

 

「犬橇じゃと!?」

 

 同時に違う単語が飛び出した。しかし意味するところは同じ。

 

「戦車?犬橇?一体……」

 

「引っ張っているんです!!多数の敵駆逐艦から伸びたワイヤーが―――泊地棲姫を!!」

 

「な――何ですかそれ!?もぅ、冗談でしょ―――」

 

 いやだなぁ、と阿武隈が引き攣った笑いを浮かべる。

 

「冗談ではない、紛れも無い現実じゃ!!泊地棲姫の鈍足を駆逐艦が引っ張ることで補っておる―――あれでは高速艦で構成された愛宕たちでも、一度喰いつかれたら逃げられんぞ!!」

 

 普段では考えられないような利根の真剣さに、ようやく事態の呑み込めた阿武隈の表情がみるみるうちに強張っていく。

 

 このままでは愛宕たちには、隊から遅れて脱落した者から一人ずつ食われていく未来しかないだろう。

 

 照明弾もあと数分で燃え尽き、すぐに暗闇が戻ってくる。

 

 猶予は、無い。

 

「―――――これより阿武隈水雷戦隊は愛宕艦隊の救援に向かいます!!敵進路を塞いで丁字になるよう単縦陣で突入、横合いから思いっきり殴りつけます!!」

 

 皆が見守る中、旗艦の少女からの絞り出すような勇気と、決意の言葉。

 

「航海灯を消して最大戦速、最短距離で接敵するわ!!全艦抜錨、みんな―――あたしに続いて下さい!!」

 

『了解!!』

 

 待っていました、とばかりに人櫓が崩され機関ユニットの駆動音も高らかに、走り出した阿武隈の背中を皆が次々に追いかける。誰に指示されるとでもなく、自然に彼女を先頭にした単縦陣が整った。

 

 一本の矢になった阿武隈水雷戦隊は光を目指して、黒い海面を疾駆する。

 

「こちら阿武隈水雷戦隊、旗艦阿武隈。ラバウル基地応答願います!!ソロモン海洋上で敵と交戦中の愛宕さんを―――」

 

 通信を試みる。が、

 

「―――駄目じゃ、ノイズが酷い!!やはり本隊への救援要請は、この海域を出なければ届かん!!」

 

「だったらオープンチャンネルで――――」

 

 すぅっと息を吸い込む。

 

「愛宕艦隊の人!!誰でもいいから応答して下さいっ!!味方ですっ!!助けに来たんですっ!!」

 

 彼女たちに答える余裕は無いのかもしれない。だが、

 

「深雪さま参上だぜ!!おい、聞いてんのかよ!!」

 

「返事をして下さい!!」

 

「吾輩が来た以上、もう心配はないぞ!!」

 

 皆でインカムに向かってとにかく呼びかける。声が届くことを信じて。

 

「お願いします―――誰か―――答えて!!」

 

 祈るような五月雨の叫び。それが通じたのか、一瞬だけノイズが途切れる。

 

『……こち……んたい……くまですわ……』

 

「聞こえました!!」

 

 艦隊に歓びの空気が流れるが、それも次の通信で凍りつく。

 

『……奇襲……浜風、長波が大破、龍驤が主機損……高雄さんと三隈で曳航し……船速維持できませ……』

 

「愛宕さんは―――愛宕さんはどうしたんです!?」

 

「ちょっと朝潮、何を―――」

 

 悪いと思いながら割り込む。愛宕は、司令艦の彼女はどうしている?

 

『……たごさ……ひとり……んがりに……』

 

 途切れ途切れだが、何が起きているのかは伝わった。膝の力が抜ける。

 

 ああ―――やはりそうなってしまったか。そうなってしまうのか。

 

 それは消耗できる記憶の続く限り大破轟沈しない、司令艦だからこそできる芸当。

 

 だからこそ仲間を守るため一人で敵に立ち向かえる、その身を盾にもできる―――自分の魂が擦り切れ果てるまでは。

 

「愛宕艦隊の皆さん、聞いて下さい!!答えてくれなくても結構です!!」

 

 突然阿武隈がマイクに向かって、その小さな身体からは想像できないくらいの大声を張り上げた。

 

「これよりこの戦場は、阿武隈水雷戦隊が引き継ぎます!!皆さんは海域からの離脱を最優先に考えて下さい!!」

 

「ちょ、ちょっと、いきなりそんな大見得切ってもいいのかよ!?」

 

 意外にも泡を食ったような声を出したのは深雪だった。

 

「何じゃ深雪、怖気づいたのか?夜戦は水雷戦隊の華、ではないか」

 

「し、知ってらぁ!!いっけるいける、深雪さまにお任せだっての!!」

 

 また利根はドヤ顔してるんだろうな。そう考えると少しだけ気持ちが和んだ。

 

「あ、敵艦が見えました!!泊地棲姫と駆逐艦イ級が……え~と5隻です!!でも本当に駆逐艦が引っ張ってるなんて……まだ信じられない……」

 

「あいつ深海棲艦の癖に紐なんか持って、犬の散歩でもするつもりかよ!!」

 

 近づくにつれ、交わされる砲火の轟音と硝煙の臭いが漂ってきた。

 

 目の前に現れた泊地棲姫は青白い肌に銀色の長髪、生物ではありえない紅く燃える瞳の持ち主。艦娘の艤装にも似た黒いマントのような装甲と、背中に装備した長砲身の主砲が一際目を引く。

 

 駆逐艦を従えた彼女の姿は、狼を引き連れた古代の女神を模した彫像のように美しい―――が、その美しさは邪神の多くに備わった、触れると危うい類のものだ。

 

 見渡す周囲に、ゲームでは連れていたはずの浮遊要塞と護衛要塞の姿は見えない。

 

 既に愛宕たちによって落とされたのか、あるいは何か裏があるのか……。

 

「これより艦砲射撃を行います!!撤退援護のため敵全体を散布界に収めながら、5隻の駆逐艦のうち最も突出している真ん中の個体を狙います!!愛宕艦隊の皆さんはこれを聞いたら戦闘を中止して、全力で距離を取って下さい!!」

 

 通信が届いたのか、砲撃音が心なしか少なくなった。

 

「主砲仰角に構え!!今です―――艦隊全砲門、放ってぇ!!」

 

 ぐわんっ!!

 

 皆の主砲発射音が重なり、一つの大きな咆哮となって夜天を震わせた。

 

 14cm単装砲2門、12.7cm連装砲6門、20.3cm連装砲6門、計24個の砲弾が放物線を描いて、消えかけの照明弾を追いかけるようにして駆ける。

 

 だが、着弾を待っている暇など無い!!

 

「次弾装填、以降各自のタイミングで撃って撃って撃ちまくって下さい!!」

 

 そう叫びながらも彼女の両手の14cm単装砲からは、次々と砲火が吐き出されていく。

 

 絶え間なく紡がれる主砲弾発射音は、雷の聲かとばかりに天空に響む。

 

 ……最初の一発以外てんでばらばらに行われる砲撃は、もちろん一撃必中を狙ったものでは無い。面での制圧。愛宕たちが撤退する間、敵の頭を押さえることができれば事足りる。泊地棲姫を倒せなくとも、その機動力さえ奪えばこちらの戦術的勝利。将を射んと欲すればまず馬から、とはよく言ったものだ。

 

 やがて照明弾が海に落ちた。辺りが急速に暗闇に包まれる。

 

「みんな、砲撃を止めーっ!!これより戦隊は、可能な限り敵に肉薄して雷撃を仕掛けます!!全艦、魚雷発射管準備!!之字運動開始!!」

 

 陽が落ちたといっても、まだ視界は薄ぼんやりと見渡せた。しかし先ほどの砲撃の効果を確かめられるほどではない。最後まで手は抜けない。

 

 前を走る阿武隈のツインテールを目印に、右へ左へと舵を切りながら、先ほどの砲撃で船足を止めた泊地棲姫と飼い犬たちへ少しずつ距離を詰めていく。

 

 もう敵の表情まで見えるかというところで、阿武隈が右手を高く掲げた。

 

「逃がさないわ!!艦隊、魚雷発射体勢に移行―――放ってぇ!!」

 

 プシュプシュプシュプシュッ―――

 

 左手の61cm4連装魚雷管、そこから圧縮空気で押し出された魚雷は、黒い海に吸い込まれるとすぐに溶け込んだ。

 

 続いて現れた定規で引かれたような何本もの白い雷跡が、真っ直ぐ泊地棲姫に向かう。

 

 遅れて鈍い破裂音と共に、足元の海面が揺れた。敵の姿は立ち昇ったいくつもの水柱に覆われ、何も見えなくなる。

 

 舞い上がった海水が雨のように海面を打ち付け収まった時、そこにあったのは死んだ魚のように真っ白な腹を晒して海面に浮かぶ5隻の駆逐艦イ級。そして一部装甲が剥がれ落ちた状態で膝をついた泊地棲姫だった。

 

 愛宕が応戦中に入れた横槍だったとはいえ、反撃を受けることなくこれほどのダメージを与えることができたことには、正直驚きを隠せない。

 

「やったぜ!!深雪さま大金星だ!!」

 

「落ち着いて、まだ完全に倒したわけじゃないんだから!!」

 

 諌めながら阿武隈は自分の機関ユニットに備え付けの探照灯―――装備アイテムの探照灯ほど光量は無いサーチライト―――を点灯。之字運動を続けながらも少し船足を落とて、大破轟沈した5隻の駆逐艦イ級、その船体を次々と照らしていく。

 

 既にイ級の目の青い光は消え、穴だらけになった黒い外殻からはどす黒い血ともオイルともつかない体液が流れ出し、まさしく死屍累々という有り様。うちいくつかは既に半分ほど傾き海没しかけている。じきに全てが昏い海の底へと還るだろう。

 

 泊地棲姫はくずおれたまま、顔を伏せてぴくりとも動こうとしない。余程のダメージだったのだろうか、それとも罠か。

 

『―――こちら愛宕艦隊三隈ですわ。当艦隊は無事に海域を離脱。通信も回復し、ラバウル基地とも連絡が取れました。既に榛名さんと霧島さんがこちらに向かってらっしゃるとのこと』

 

「うむ、作戦目的達成じゃな」

 

 利根が満足そうに頷く。愛宕は無事だったのだろうか?

 

『そうそう、先ほどは見事な援護をありがとうございました。愛宕さんも喜んでらして、今度お会いしたら皆さんにフリーハグをプレゼントして下さる、とのことです』

 

 気持ちはありがたいが遠慮しておこう。人を駄目にするあの魅惑の柔肉には、抵抗できる気がしない。

 

 それでは後ほどラバウル基地で、ごきげんよう、と通信は切られた。

 

 ……三隈、か。

 

 最上型重巡2番艦『三隈』。

 

 かつて電や金剛と共に戦い、記憶と魂を擦り潰し、最期は艦娘として海に沈んだ舞鶴の最上提督―――その妹艦。

 

 艦これでも頻繁に最上の事を口にしていた彼女は、自分の姉が司令艦となったことは知らずとも、戦死したことにどんな感情を抱いているのだろう。それとも西村提督が状況修復を行ったという初風のように、既に最上提督とは別の重巡最上がどこかで元気に暮らしているのだろうか?

 

 なら艦娘とは一体―――。

 

「あ、あの……後は榛名さんたちにお任せして、あたしたちも撤退しませんか?」

 

 五月雨がおずおず提案する。確かに目的は果たしたのだから、これ以上ここに留まる意味は無い。それにダメージを与えているとはいえ、泊地棲姫に動かれて無傷で済むとは思えない。

 

「自分もそう思います。暗くなってきましたし、これ以上は―――」

 

『……オノレ……イマイマシイカンムスドモメ……』

 

 いきなりインカムから女性の声が飛び込んできた。

 

「ふぁ!?だ、誰、誰ですか今の!?」

 

 驚いた阿武隈が周囲を探照灯で照らす。皆も慌てて辺りを見回すが、先ほどと変わったところは無い。

 

 ―――だが、自分はこの声を知っている。そしてこの台詞も。

 

「朝潮!?」

 

「朝潮ちゃん、何を―――」

 

 気付いた時には、自然にそちらに向かって船足を進めていた。

 

「泊地棲姫―――さっきのは―――」

 

 彼女は答えない。

 

 伏せた顔を少し上げ、その真紅に輝く瞳を歪めてにやり、と笑い――白い小枝のような細い人差し指をくいくいっと曲げる。

 

 誘っているのか……。

 

「馬鹿な!?深海棲艦が話しかけてきたじゃと!?ぬ―――」

 

「止まって、朝潮!!」

 

 背中に冷たい物を感じて振り返ると、サーチライトの光を反射して鈍く輝く阿武隈の右手、14cm単装砲がその真っ黒な砲口でこちらを睨んでいた。

 

「阿武隈さん、朝潮ちゃんは仲間ですよ!!どうして砲を向けるんです!?」

 

「そうだぜ!!撃つんだったらどう考えても敵の方―――」

 

「二人とも黙ってて!!」

 

 いつにない厳しさで制する阿武隈。

 

「阿武隈さん、どうして……」

 

「そのまま黙ってこっちに戻ってきて。何を言われても、何を聞かれても、決して答えちゃダメ。でないとあたしは―――深海棲艦に汚染されたあなたを、ここで処分しなければならなくなる!!」

 

 汚染?処分?言葉の意味が分からない。

 

「どういうことじゃ?吾輩はそんな指令、聞いておらんぞ!!」

 

「これは軽巡の任務なんです。敵深海棲艦の姫級には、言葉を話す個体がある。理由は分かりませんがそれらの個体と会話した艦娘がいれば、これをその場で処分。軍令部に報告しなければなりません―――たとえそれが駆逐艦でも―――重巡でも―――」

 

「何じゃと!?」

 

 つまり場合によっては重巡の利根であっても手に掛ける、という宣告。

 

「だから朝潮、お願い―――あたしに撃たせないで―――」

 

 砲身が震えている。いくら軍令部の命令とはいっても、本当は仲間に砲を向けたくないのだろう。

 

 ちらっと泊地棲姫の方を見る。彼女はその大理石の女神像のような顔に貼り付いたような笑みを浮かべたまま、こちらの様子を覗っている。

 

 知らぬ間に唇を噛んでいた。

 

 悔しい。すぐ手が届く場所に情報があるというのに―――。

 

「あのさ、会話がダメだったら話を聞くだけ、ってのはどうなんだ?」

 

 と、場にそぐわない深雪のとぼけた声。

 

「ぷっ―――くははははっ!!全く、先ほどの人櫓といい深雪は時々天才じゃの」

 

「時々って何だよ!!」

 

「まあまあ。褒めておるのだから堪忍せい。で、どうなのじゃ阿武隈?」

 

 笑うのを止めた利根は、鋭い眼光で真っ直ぐに阿武隈を睨みつける。

 

「え、それは、あの―――あたしは会話してたらダメ、って言われただけで―――」

 

「なら問題ないな――――分かったらその物騒な代物を仕舞え。軍令部がそうまでして隠す内容、吾輩も興味がある。榛名たちが来るまでの短い間、せっかくじゃから皆で囲んで泊地棲姫の独演会を楽しもうではないか」

 

 のう朝潮、とウインクしてくる。

 

 見かけも言動も子供っぽいけど、この人もやはり一筋縄ではいかないんだろうな。

 

「さて、まだ沈みきっておらん駆逐艦どもの頭を潰しながら往くとするか」

 

 3つある利根の20.3cm連装砲、そのうち1つが頭をもたげる。

 

 連続する発砲音。

 

 手前で漂流するイ級駆逐艦二隻、その眼光の消えた頭部が同時に擂鉢状に陥没し、ゴムボールのように跳ね飛ばされる。道が開けた。

 

「ほれ、朝潮。奴の話に興味があるならお主も手伝え」

 

「…………」

 

 黙って阿武隈の方に視線を向ける。14cm単装砲を降ろした彼女は、ばつが悪そうに顔を背けた。

 

「―――責めてやるなよ。軍令部からの指令とあっては、あ奴も逆らうことができん。許せなくともせめて、本意でないことくらいは分かってやれ」

 

「理解はしているつもりです……」

 

 それより軍令部が何故そんなことを指示したのかが気になる。

 

 以前由良との会話で、艦娘の設計思想が深海棲艦と同じ、という駆逐艦には秘密の話があった。さらに高い機密レベルで、艦娘に漏れると困る何かがあるのか?

 

「うむ、ではもう少し近づくとするかの。皆、吾輩に続くがよい」

 

 なに、いざという時は吾輩が盾になってやろう、と背中で語る利根は、自分も探照灯を点灯し、周囲を照らしながらゆっくりと泊地棲姫に舳を向けた。深雪と五月雨がそれに従う。彼女たちの12.7cm連装砲が火を噴く度、頭を吹き飛ばされたイ級の残骸が海面を跳ねる。

 

「む、朝潮、阿武隈、お主らも早く来んか」

 

「で、でもあたしは―――」

 

「阿武隈―――お主が誰から、どのような指令を受けておるのか詳細はあえて聞くまい。だがわけもわからず仲間を撃ってしまえば―――例え艦娘の任期を終え退役したとしても、その魂に刻まれた慙愧の念は終生お主を苛み続けるであろうよ」

 

 永久に救われる機会を失ってな、と冷たく言い放つ。

 

「あ―――あたしも知りたいです―――いえ、知っておかなければなりません。それがあたしの責任です!!」

 

「良く言った。それでこそ我らが艦隊旗艦じゃ」

 

 満足そうに頷く利根。

 

 ふと思いつき、阿武隈に手を差し出す。一瞬その手を取るのを躊躇った彼女だが、すぐに恥ずかしそうに頬を染めて握り返してくれた。

 

 二人で手をつなぎ利根たちの所へ急ぐ。

 

「しっかしさっきからニヤニヤしてばっかで全然動かねえな、こいつ」

 

「このまま黙ったままならどうしましょう?」

 

 近付いてみると既に深雪と五月雨は泊地棲姫から10mほど距離を取ったところで、12.7cm連装砲の照準をその頭部に据えている。

 

 不審な動きをした瞬間、容赦なく撃つためだ。

 

「なに、時間は吾輩たちの味方。榛名と霧島が到着した時点で、こ奴はゲームオーバーじゃ。あとは捕えるも沈めるも思うがまま」

 

 そう言いながらも自分の20.3cm連装砲の砲身をわきわきと動かして威嚇する。

 

「さて、知っていること全部、ちゃきちゃき喋ってもらおうか……と、これは独り言じゃ」

 

 危ない危ない、と利根が口を噤むと、沈黙がその場を支配した。

 

 5人のサーチライトで照らし出された身動きしない泊地棲姫の姿は、爛々と紅く燃える瞳以外は、彫像として美術館に飾ってあってもおかしくないくらい均整がとれている。

 

 風が少し強くなってきた。光の中で白浪が騒ぎ出す。

 

 耳の奥に万雷の拍手にも思える打音が届いた。スコールのカーテンはもうそこまで来ている。

 

『……タタカイハ……』

 

 泊地棲姫の青白い唇が微かに動いた。どこか現実感の無い女性の声が、直接と、どういう原理かインカムを通して二重に聞こえる。

 

『……タタカイハ……タノシカッタカ……』

 

「なっ――――」

 

『……ショウリハ……ビミ、ダッタカ……カンムス……イヤ、マケイヌドモ……』

 

 その形の良い口の端を大きく吊り上げ、満面の笑みを、心からの喜びを浮かべる。

 

 敵意や殺意、そんな剣呑なものは無く……まるで久しぶりに会った友人にそうするかのように。

 

 さっきまでの作り物のような表情とは違ったその感情的な仕草に、誰もかれもが息を呑んで見とれていた。

 

『……オソレルコトハナイ……マモル、ユエツモ……セメル、カンキモ……ミナ、ココニアル……』

 

 ―――提督機は、深海棲艦の残骸から艦娘の素材となる『船霊』を分離する装置だったという。ならば深海棲艦が、艦娘と同じく元の歴史の記憶を持っていてもおかしくない。

 

 しかし、だとすればこいつは誰だ?何故、元の世界では無いと知りながら闘争を求める?

 

『……キオクノオメイヲ……ココデ、ススグガイイ……ワレワレトトモニ……』

 

「なあ、こいつ何言ってんだ?深雪にはさっぱり―――」

 

 困惑した表情を浮かべて頭を振る吹雪型4番艦。

 

 そうだろう。

 

 この気持ちは、戦場に出たことの無いこの子には決して分からない。

 

「無念を晴らすため―――」

 

「朝潮?」

 

 私はあの時には無かった自分の足を、一歩前に踏み出した。

 

「果たせなかった想いを―――」

 

「いかん、様子が変じゃ!!こ奴、敵に魅入られておる!!」

 

「戻って、朝潮!!」

 

 ―――今度こそ成し遂げるために―――

 

「朝潮ちゃん、危ないっっ!!」

 

 右舷が何かに接触した。衝撃と共に船体が傾く。

 

 白露型の6番艦か。船長は何を―――

 

「きゃぁぁぁっ!!」

 

 突如、眼前にいくつもの水柱が立ち昇る。

 

 敵の砲撃。

 

 攻撃の嵐の中で五月雨の小さな身体は、風に煽られる木の葉のように翻弄される。

 

 砲弾が命中した彼女の機関ユニットは内側から弾けるようにして破裂し、薄い装甲も四散。

 

 剥き出しになった柔肌は爆炎に焦がされ、その長い水色の髪に火が燃え移る。

 

 爆風に吹き飛ばされた五月雨の白い身体は黒い海面に叩きつけられ、2回跳ねた後そのまま海中へと沈んで行った。

 

『……ごめんなさ…… 私……ここまでみた……』

 

 ―――ブツンッ

 

 最期の言葉の途中で無線は途切れ、ノイズだけが鼓膜を叩く。

 

 彼女を飲み込んだ水面には大きな波紋が一つ。

 

 それもすぐ漣にかき消され、跡には何も残らない。

 

「さ……五月雨ちゃ……」

 

 恐る恐る呼びかけるが、無線機は反応しない。

 

 答える者が、いないのだから……。

 

「―――あああああぁぁぁぁぁぁぁ――――」

 

 言葉にならない獣の呻きが咽喉の奥から漏れる。

 

 瞬間、黒い人影が視界をよぎった。

 

「うわぁぁぁっっ!!五月雨っ、先に逝くなぁぁぁぁっ!!」

 

 真っ先に動いたのは深雪だった。

 

 手に持った12.7cm連装砲を投げ捨て、両太腿の魚雷管を外し、全てをかなぐり捨てて五月雨の沈んだ場所へ全速力で突き進む。

 

 途中で背中の機関ユニットを外し、ベルトで片手に提げる。機関が緊急停止し、主機が浮力を失って深雪の身体はみるみるうちに海中に沈んで行った。

 

「気をしっかりせい、朝潮!!五月雨の事は深雪に任せて、すぐにこの場を離れるんじゃ!!留まっておっては狙い撃ちにされる―――だが砲撃はどこから!?駆逐艦どもは頭を潰して沈めたはず―――」

 

「あ、あれを見て下さい!!」

 

 周囲に転がる駆逐艦イ級の船体。無様に海面に晒されたその白い腹が不自然に蠢く。

 

 目の前で柔らかい腹部の外皮が裂けた。

 

「―――なんと!?」

 

 イ級の体内から現れた球状の物体、粘液と体液に塗れたそれは、泊地棲姫の瞳の色と同じ紅の光を纏い、薄暗闇の中で禍々しいその姿を顕わにする。数は5つ。

 

「浮遊要塞、護衛要塞も!!見当たらんと思っておったら、こんな所に隠れておったとは―――」

 

「こ、こうなったら泊地棲姫だけでも!!」

 

 要塞群が本格的に動き出す前に司令塔を潰そうと、阿武隈が14cm単装砲を巡らせて発砲する。が、泊地棲姫は大きく跳躍し回避。宙に浮いた浮遊要塞の一つ、まだ液体を滴らせるその下の海面に、音も無く降り立った。

 

「ぬぅ、小癪な!!」

 

 苦虫を噛み潰したような表情の利根。

 

 一瞬で戦況が逆転してしまった―――自分の不注意のせいで。それに、

 

「五月雨ちゃん……」

 

 何故自分は敵の誘いに乗ってしまったのだろう。皆を危険に曝すことに比べれば、情報など大したものでは無いのに。

 

 と、泊地棲姫の後方、深雪と五月雨の沈んだ場所で海面が泡立ち始めた。海中から立ち昇る泡は移動しながらどんどん大きくなっていく。

 

 そして海面が一際大きく盛り上がり、ざばぁっと人の姿が現れる。

 

 影は―――二つ!!

 

『ごほっ、うわしょっぱっ!!ぺっぺっ、っと―――こちら深雪さまだ!!五月雨は助けたぜ!!朝潮、後でちゃんと謝っておけよ!!あ、それと深雪にも何かおごって―――』

 

 海中に沈んだ後、五月雨を捕まえてから機関ユニットを再起動。無理矢理浮力を発生させて浮上してきたのだろう。

嬉しさで思わず滲んだ涙が頬を伝う。

 

「うん、うん!!何でもするから!!二人とも無事で良かった―――」

 

 そうしている間に深雪に気付いた泊地棲姫が背中の長砲身を動かし、海域から離脱しようとする彼女に狙いをつける。

 

「深雪、之字運動!!早くっ!!」

 

『おっと、忘れてたぜ!!』

 

 右に舵が切られ、さっきまで深雪がいた場所に砲弾が落ち、水柱が上がる。

 

『ざぁっとこんなもんだ!!楽勝だなぁ!!』

 

「うぅ……危なっかしいんだから」

 

 忠告した阿武隈が頭を抱える。

 

 白い五月雨の裸体をお姫様抱っこで運ぶ深雪は、潜水でバランサーに不具合が出たのだろうか、時折ふらつきながらも之字運動を続け少しずつ海域を離れていく。

 

「阿武隈、朝潮も、何をのんびりしておる!!深雪が完全に離脱するまで、砲撃で泊地棲姫の気を引き付けるんじゃ!!」

 

 が、それを察したのか5つの球体、浮遊要塞と護衛要塞が泊地棲姫を守るかのように展開。最初の全力射撃でさすがに要塞も傷ついている様子だが、それに構わず丸い身体を挺してこちら側からの射線を遮る。

 

 そうしている間にも深雪を狙っての砲撃が続く。

 

 何とか之字運動で回避しているが、深雪がいつまで避けることができるかは定かでない。

 

「砲撃が通らない――」

 

「やっぱムリ―――ううん、でもこのまま諦めるなんてイヤ!!」

 

 空中を上下左右自在に動く要塞は、ただ肉壁になるだけでなくしっかり反撃も行ってくる。おかげでこちらも回避運動をしながらの砲撃になるし、うまく直撃コースに乗った砲弾もガードされてしまう。

 

ガキンッ!!

 

 急に右手の12.7cm連装砲のトリガーが引けなくなった。見ると既に残り弾数は10%。

 

 警告のロックだ。阿武隈や利根の残弾も同じような状況だろう。

 

 ……このまま戦い続けていれば、じきに榛名たちが到着する。

 

 しかしその前に深雪が被弾してしまったら意味が無い。自分たちも弾薬が無くなれば、牽制射撃もできず逃げ回るだけになってしまう。無事でいられる保証も無い。

 

 いや、司令艦である自分は生き残れるだろう。仲間を失って、それでも無様に。

 

 ―――司令艦、か。

 

 記憶の消耗に耐えうる限り、決して大破轟沈しない身体。味方の盾になる、と言う方法がメジャーだが、それ以外の使い道は無いのだろうか。

 

 たとえばそう、普通の艦娘であれば轟沈してしまうような危険な攻撃方法、とか。

 

 ―――試してみる価値はある、かもしれない。ヒントはさっき深雪が教えてくれた。

 

 連装砲のロックを解除、そして左手の61cm四連装魚雷を再装填する。

 

「阿武隈さん、利根さん―――自分がこれから泊地棲姫に直接攻撃を仕掛けます。少しの間だけ、敵の注意を引き付けて下さい!!」

 

「朝潮、正気なの!?」

 

 弾雨を避けながら阿武隈が叫ぶ。

 

「このままだと皆、榛名さんたちが到着する前にやられてしまいます!!一か八か、自分にやらせて下さい!!」

 

「お主の提案はこの状況を吾輩と阿武隈の二人で支えろ、という暴論なのじゃが―――それでもやるのか?やれるのか?」

 

 利根の目を見つめながら頷く。

 

 負担が増えるのは承知の上。それでもこの二人なら大丈夫、という信頼もある。

 

「ふむ、決意と覚悟があるのなら良し!!吾輩は朝潮に任せても良いと思うが、艦隊旗艦殿はどうかの?」

 

「こんな時に限って旗艦、なんて言わないで下さいっ!!どうしてそんなに簡単に決めちゃえるんですかっ!?それにさっきから利根さん、朝潮に甘すぎです!!何でもかんでも好きにやらせて、あたしじゃフォローしきれないですよぅ!!」

 

 最後の方は少し泣きが入った声。

 

 確かに、言われてみればそうかもしれない。泊地棲姫との接触も、背中を押してくれたのは利根だった。

 

 旗艦の阿武隈としては、好き勝手に動かれると面白くないことも多いだろう。

 

「むむむ、依怙贔屓と言われては心外じゃが、そう見えても仕方が無いかの……」

 

 思案顔の利根だが、

 

「まあ種明かしをするとな、実は吾輩、横須賀を発つ時に、朝潮が何かしようとしたら協力してやってくれ、と由良に頼まれておるのじゃ」

 

「由良姉ぇに!?」

 

「うむ。最初理由は分からなんだが、共に戦う内に由良の気持ちが少しずつ吾輩にも分かってきたぞ。朝潮は、こ奴は面白い。何を仕出かすか分からん危うさもあるが、見てて退屈せん。もっともそれは、朝潮に限ったことではないがの」

 

 お主も、深雪も五月雨もな、と付け加える。

 

 由良は司令艦の事は知らないはずだが、何か勘付かれていたのだろうか。確かに朝潮にしては不自然な言動てんこ盛りだったのは否定できないけれど。

 

「わかったわ。不本意ではあるけれども―――由良姉ぇが信じたのなら、あたしも信じてみる!!」

 

「よし、話は決まったな。筑摩ほどではないが、物わかりの良い妹は好きじゃぞ」

 

 回避運動を止めた利根が、戦場の中央で腕組みして仁王立ちになる。

 

「これより吾輩は、ここに留まり全力射撃を行う!!利根型重巡の火力と装甲、とくと見せつけてくれるわ!!」

 

「朝潮、あたしも援護するから、砲撃と同時に仕掛けて!!」

 

「はいっ!!」

 

 アイコンタクト―――6つの瞳が通じ合う。

 

「ではゆくぞっ!!」

 

 利根の20.3cm連装砲3つ、計6門が一斉に火を噴いた。続いて何度も何度も、残弾を気にすることなく。その代り彼女に敵の砲撃が集中するが、それを気にした様子も無く攻勢は続く。

 

 まさに弁慶の仁王立ち。

 

 だがぐずぐずしてはいられない。いくら重巡だと言っても、利根にも限界がある。敵の火力が集中してる今のうちにっ!!

 

 発射炎に隠れて距離を取り迂回、泊地棲姫の位置を目視でしっかりと確認した後、大きく息を吸い込んで―――機関ユニットを外して海に飛び込んだ。一瞬阿武隈の『ええっ!?』という声がインカムから聞こえたような気がしたが、気にしない。

 

 南洋なのに少し冷たいが、戦場の熱で火照った体には気持ちがいい。

 

 目を開けると水は想像以上に澄み切っており、水中眼鏡が無くても遠くまで見渡せる。だが魚影は無く、ガラス細工の水槽にでも飛び込んだような不思議な気分だ。

 

 生体フィールドの効果が切れ、服も下着も髪も、海水が全身を包み込む。

 

 機関ユニットのレスキューモードが発動し、頭上の海面で筏が開くのが分かって。

 

 左手の魚雷に諸元入力―――するが、発射はしない。以前訓練で間違ってそうしたように命じる。

 

 ただ、『進め』と。

 

 魚雷のモーターが始動、スクリューが回転を始め、推進力が発生。

 

 走り始めた4本の魚雷は水中スクーターの要領で身体を引っ張る。前はいきなりで驚いたが、それが自分の制御下にあるのならば怖くもなんともない。吹き上がる白い泡を手で散らして隠しながら進む。

 

 海の上ほどではないが、海中も騒がしい。空を利根の砲火が赤く染めると水も血の色に染まり、時々流れ弾が落ちてくる。

 

 後ろで何かが爆発した震動が伝わって来た。

 

 外した機関ユニットだろう。動かないあれはいい的だ。

 

 砲火が煌めいた一瞬だけ海中が明るくなるのを狙って、泊地棲姫の足を探す。

 

 今海上に立っているのは、利根と阿武隈、そして泊地棲姫のみ。厚底の足だからすぐに分かった。

 

 逃げられないように魚雷の爆発のタイミングを少しずつずらして設定。

 

 急かす左手の魚雷管で狙いをつけ―――――発射!!

 

 檻から放たれた猛犬の群れのような魚雷たちは、我先に争って獲物を求め、青黒い水天井に向かってひた走る。

 

 1,2,3……沈黙の時間。そして丁度10秒が経過した時、空に大輪の爆花が咲くのと同時に強烈な爆裂音が空と海中を震わせた。

 

 一度ではない。続いて2回、3回、4回。発射した魚雷の本数と同じ4度の爆発。

 

 艦娘と同じように水上に立ち、水に接触する部分の少ない泊地棲姫相手には、恐らく浮力を生んでいるであろう足元への攻撃よりも本体へ直接の方がダメージが大きいと考えての魚雷攻撃。

 

 突然、青天井から二本の白い足がぶら下がってきた。泊地棲姫の足だ。

 

 ダメージが大きく、浮力を維持できなくなったらしい。ならば海没速度に個体差はあるが、もうすぐ全身が沈むはず――

 

 ―――ん?

 

 空に紅い焔が二つ浮かんでいる。

 

 ゆらゆら揺れるそれが瞬きをした。

 

 眼!?

 

 瞬間、海上から突き込まれた黒い槍のようなものが長く伸び、逃げる間もなく鳩尾に突き刺さる。

 

 内臓が、肺が容赦なく押しつぶされ、ごぼっと空気が漏れ出した。代わりに冷たい海水が一気に気管に流れ込む。

 

 苦しい。だが横隔膜を押さえ込まれては、咳をすることさえできない。

 

 槍は銛に刺さった魚でも引き上げるように動き、そのまま強引に海の中から掬い上げられる。

 

 顔と体が海上に出た。これ幸いに空気を吸い込もうと試みるが、息ができない。だらしなく開いた口と鼻の穴から海水を垂れ流すままだ。

 

 引き上げる動きは止まらず、ついに串刺しにされたまま槍は垂直になった。

 

 百舌鳥の早贄。そんな言葉が頭をよぎる。

 

 下を見て初めて、自分の腹に刺さっているのが槍などでは無く、泊地棲姫の背負った長砲の砲身であることが分かり戦慄する。

 

 これから何が起こるかも想像できたからだ。

 

 泊地棲姫―――魚雷の爆発で左腕が不自然な方向に折れ曲がり、顔の左半分も瞼と唇が焼け落ちて真紅の眼球、そして象牙色の歯が剥き出しになった彼女は、それでも笑顔を崩さず――――発砲した。

 

ガウンッ!!

 

 腹部にトラックが衝突したかのような強烈な衝撃。

 

 気が付くと自分は空を飛んでいた。

 

 時間の流れが妙にゆっくりと感じる。

 

 雨雲が足元に、そして黒い海が頭上に広がっている。ほとんど夜だというのに不思議と視界は明瞭で、遠く地球の丸みを帯びた水平線の向こうまではっきりと見ることができた。

 

 あそこにいるのは阿武隈と利根だろうか。金色と茶色のツインテールで見分けがつく。

 

 阿武隈の両手の14cm単装砲は砲身が破裂し、由良とお揃いの浅葱色のセーラー服の上は破れ、ぼろ布を肩にかけただけになっている。利根は自慢の飛行甲板がへしゃげ、20.3cm連装砲は折れ曲がり、服も左半分が失われてほぼ半裸。

 

 既に二人とも大破した背中の機関ユニットからは白煙が立ち上がっているが、それと引き換えに浮遊要塞と護衛要塞は全て撃沈させたらしい。素直に凄いと思う。

 

 時折見下ろしては―――彼女たちにとっては見上げてか―――何かを叫んでいるようだが、その声は空まで届かない。

 

 少し先に視線を移すと、裸の五月雨を抱きジグザグに疾走する深雪の姿が見て取れた。

 

 ―――ありがとう、深雪。五月雨を助けてくれて。

 

 戦争に出ることなく生涯を終えた貴女は、本当は私なんかよりずっと純粋で優しいはず。

 

 どうかこのまま無事に――――

 

 そう思った瞬間、黒煙を吐き出し続けていた深雪の機関ユニットが突然火を噴いた。もんどりうって海面を転がった深雪は、しかし決して五月雨を離さない。

 

 すぐに立ち上がり、再び走り出す。

 

 が、再度機関ユニットが爆発。移動は危険と判断した深雪は、五月雨を守る様にして身を屈めた。

 

 何が起きているのだろう。

 

 見るとすぐ真上で背中の長砲を構えた泊地棲姫が、いつの間にか深雪に向かって砲撃を再開していた。

 

 砲口に閃光が走るたび、深雪の傷が増えていく。

 

 そんな……救助中に攻撃なんて……卑怯だわ……

 

 戦う力も戦う意志も無い……ただ仲間を……大切な人を助けたいだけなのに……

 

 そうしているうち深雪の機関ユニットが一際大きく爆発。燃え上がった炎が機関ユニットから深雪の身体に燃え移る。

 

 だが深雪は動かない。

 

 自分の最期の瞬間まで、その身を挺して五月雨を庇うように。

 

 ……やめて……やめてよ……もう……

 

 懇願の意を込めて縋るように泊地棲姫を見る。

 

 が、彼女は目が合ったかと思うと、にっこりと微笑んだ。

 

 そして深雪に最後の一撃を加えようと、視線を砲口の先に戻す。

 

 ―――ああ―――やめて―――くれないのなら―――

 

「――――沈め」

 

 急に時間が元の速さを取り戻した。風切り音が耳元を通り過ぎる。

 

 落下、海面に叩きつけられる直前、左手を伸ばして泊地棲姫の銀髪を掴む。

 

 そのまま着水の衝撃を両脚に込め、はだけられた白い胸元に叩きつけた。

 

 二―ソックスを履いた足の下で乾いた枝のようなポキポキと、姫の肋骨が束になって折れながらメロディを奏でる。

 

 口からごぽり、と黒い液体が漏れる。

 

 髪を引っ張ると、白い唇がだらしなく開いた。

 

 右手の12.7cm連装砲を縦にして突っ込む。

 

 砲身の一つは門歯をへし折り姫の口腔を凌辱する。

 

 砲身のもう一つは剥き出しの紅い左目、その嵌った眼窩に突き刺す。

 

 ばきばきっ、という固い感触と、ぐじゅっ、という柔らかい感触が手元で混じりあう。

 

 グリップのトリガーを引いた。

 

 発砲、装填、発砲、装填、発砲、装填、発砲、装填、発砲…………

 

 機械的に繰り返す単純作業は、しかし弾切れであっけなく終わりを告げた。

 

 砲身を外そうとするが、食い込んで中々外れない。

 

 仕方がないので姫の二つの穴に突っ込んだまま、梃の原理で無理矢理殴り抜ける。

 

 音ばかりはバキバキと鳴るが砲身が折れ曲がっても外れないので、外すのを諦めて力を込めると、砲身は二つとも根元からぽっきり取れてしまった。

 

 これで自由に右手が動く。

 

 連装砲の砲塔、そのグリップを握ったまま大きく振りかぶった。

 

「沈め」

 

 顔面に砲塔を叩きつけると、砲塔の方がひしゃげてしまった。

 

「沈め」

 

 今度は金属製の保護カバーが取れてしまった。

 

「沈め」

 

 三回目で砲塔は完全に崩壊、グリップだけを握った状態になってしまった。

 

 まあ取り回しやすくなっただけだ。

 

 また単純作業の続きに戻ろう。

 

 右手を振り上げ、右手を振り下ろす。

 

 ただその繰り返し。

 

「沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め―――」

 

 手に伝わる感触は最初硬かったが、次第にこなれてきたのか柔らかくなってきた。

 

「止めんか朝潮!!そやつはもう動いておらん!!」

 

 右手が動かなくなった。

 

 おかしい。

 

 少し出力を上げると、右手は再び動き出した。

 

「くぉっ!!機関ユニット無しで15万馬力の吾輩が赤子扱いとは!!」

 

 何やら周りが騒がしい。

 

「阿武隈、早く強制コードで緊急停止せんか!!」

 

「やってます!!でもユニットを外した時点で管理上、朝潮は機関停止しているはずなんです!!」

 

「何じゃと!?ならどうやって止めれば―――」

 

 不意に後ろから何かが被さってきた。

 

「朝潮、もう全部終わったから!!」

 

 終わった?何を言っているのだろう。戦争はまだ続いているはずなのに。

 

「もういいの!!戦わなくてもいいの!!深雪も五月雨も助かったから!!」

 

 聞き覚えのある名前だ。

 

「みゆき……さみだれ……」

 

「そうよ!!朝潮のおかげで皆無事だったの!!だからもう止めて―――」

 

 ぎゅっ、と後ろから強く抱きしめられる。

 

 気が付くと、いつの間にか雨が降り始めていた。

 

 視線を手元に降ろす。

 

 ずぶ濡れになって冷えきった華奢な身体、破れて下着の見えるブラウスと吊りスカート。

 

 赤黒い血にまみれ、連装砲のグリップだけを握った右手。

 

 端に血のこびり付いた頭皮のぶら下がった、長い銀髪を握りしめた左手。

 

 そして自分の両肩に回された腕、背中に感じる温かい体温。

 

 見上げると、金髪ツインテールの見慣れた少女が、空色の瞳に涙を浮かべていた。

 

「あぶくま……さん……」

 

「ええ……お帰り、朝潮……」

 

 急に体の力が抜けた。両手に持っていたものが滑り落ち、海に沈む。

 

「こちら阿武隈水雷戦隊、利根じゃ。泊地棲姫の海没を確認。だが全員満身創痍での。悪いが回収艇を頼む……雨?じゃから急げと言うておるに!!」

 

 ここは……空が……遠いなぁ……。

 

 利根の通信を子守唄にして、もはや限界だった意識は深い海の底へと沈んで行った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エピローグ:任務達成報告

そこは青い空がどこまでも広がる、とても静かな世界だった。

 

 司令官と一緒だったから寂しくはなかったけれども、私はそこに降る雨が大嫌いだった。

 

 一つは空が黒くなったら降って来る―――鉄の雨。

 

 わんわん煩く鳴り響くその音は、いつも私を不安にさせた。

 

 もう一つは鉄の雨が止んだ後、空が赤くなったら降って来る―――人の雨。

 

 若者からお年寄りまでの、色んな服を着た男の人たち。

 

 でもそこに貼り付いた表情は、

 

苦悶

 

悲嘆

 

後悔

 

憤怒

 

憎悪

 

困惑

 

絶望―――そんなものばかり。

 

 おかげで私は、ここしばらく司令官以外の笑顔を見たことが無いような気がする。

 

―――まあそう嫌ってやるなヨ

 

 空模様を覗いながら恰幅の良い身体を揺らして、上機嫌の司令官がやってきた。

 

―――俺もお前も、あいつらと同じなんだからさァ

 

 私の隣に腰かけて、いつものようにのんびり煙草を燻らせる。

 

 あの―――司令官?

 

―――なんせ―――もう死んでんだもんナ

 

 腐った顔からずるり、と皮が剥げ落ちた。

 

 

――――ャァァァァァァァ――――

 

 最初、何のサイレンが鳴っているのか分からなかった。

 

 しばらくしてやっと、それが自分から発せられている悲鳴だということに気付く。

 

 だがいくら止めようと思っても、咽喉の奥から絞り出されるような絶叫は止まろうとしない。

 

 胸が痛い。苦しい。誰か―――

 

 と、手に何か温かいものが触れた。

 

「ちょっと、何であたしが当番の時に限って―――あ~もうっ、起きて!!起きなさいったら!!朝潮―――お姉ちゃん―――」

 

 え――今のは―――

 

 ゆっくりと目を開けると、そこは白天井にカーテンで仕切られた病室だった。どうやら自分はベッドに寝かされていたらしい。

 

 木枠のガラス窓の向こうには、船が行き来する見慣れた横須賀の海が広がっていた。だとすればここは、ほとんど使っていないという艦娘専用傷病療養施設、通称ドックなのだろう。

 

 温かさを感じた左手を見る。

 

 掌に重ねられた、もう一つの小さな手。そこから上へと視線を移す。

 

「―――霞?」

 

 艤装は背負っていないが、朝潮型に共通する小学生用の白いブラウスと黒い吊りスカート姿。どこか朝潮に似た細い眉と気の強そうな栗色の瞳。そして緑色のリボンで銀髪を顔の右側にサイドテールにして垂らした少女。

 

 ラバウル基地の駆逐隊と演習した際、機関ユニットに異常をきたして離脱してから会っていなかった霞がそこにいた。

 

「―――手を―――」

 

「っ違うわ!!これは、その―――」

 

 慌てて重ねた手を離そうとする霞だが、逆にその手を逃がさずぎゅっと握りしめる。そしてそのまま自分の頬に導いた。

 

 そっと霞の掌を自分の左頬に当てる。彼女の体温が、血潮の熱さが、じんわりと沁み込むようにして感じられた

 

「―――温かい―――生きてるんだ―――霞―――」

 

「はぁ?ったく、やっと目が覚めたと思ったら、どこか頭でもぶつけ―――何、泣いてんのよ」

 

「あ―――」

 

 気が付かなかった。

 

 いつの間にか流れ出した涙が、熱い一条の流れとなって頬を伝い霞の手を濡らしている。

 

 ―――生きている。私にも霞にも、温かい血が、生命があるんだ。

 

「霞ぃっ!!」

 

「わっ、ええええっ!!」

 

 思わず衝動的に体を起こして、霞に抱き着いてしまった。体勢を崩した彼女の首に両腕を回し、思いっきり力を込める。

 

「霞……生きててくれてありがとう……ここにいてくれてありがとう……」

 

「な、何よいきなり!!」

 

 慌てて抵抗するが、構うことなく抱きしめ続ける。

 

 その声も、その仕草も、今は彼女の全てが愛おしい。

 

 白いブラウスの背中部分に、涙で出来た染みがどんどん広がっていった。

 

 やがて霞も躊躇いながらだが、その細くしなやかな腕で抱きしめ返してくれた

 

「―――ホントはあたしも、朝潮――お姉ちゃんがいなくなったら寂しいし―――元気になってくれて嬉し―――ち、違うぅっ!!今のはその、言葉の―――」

 

 そう言いながらも彼女の声のトーンは弱くか細くなっていく。

 

 二人で抱き合い互いの体温を感じながら、沈黙の、だが安らかな時間が流れる。

 

「こら吹雪、押すなって!!今いいところなんだからよ!!」

 

「私じゃないよ!!」

 

「子日だよ~」

 

「うわぁぁぁ、これ、禁断の姉妹愛ってやつじゃないですか!?」

 

「はぁ、五月雨興奮し過ぎです」

 

「痛っ、今わらわの足を踏んだのは誰じゃ!!」

 

「若葉だ」

 

「―――あなたたち、怪我人も混じって朝潮の病室の前で、一体何やってるの」

 

 個室の扉の向こう側でどたばたと暴れる音。

 

 木製のドアがばたん、と開くと、皆が団子になって転がり込んで来た。

 

 まだ頭に包帯を巻いたり顔に絆創膏を貼ったりした、入院着姿の深雪と五月雨。そして吹雪、初春、子日、若葉、初霜のラバウル基地駆逐隊『ヒャッハーズ』の面々。

 

「な、ええっ、いつからっ!!」

 

 驚いて身体を離す霞。少し名残惜しい。

 

「よ、朝潮!!」

 

「うわあぁん、朝潮ちゃ~んっ!!」

 いつものように手を上げて軽く挨拶する深雪。その脇から弾丸の飛び出した五月雨が、肩までの長さに短くなった水色の髪をなびかせて抱き着いて来た。と、その直前で急ブレーキ。

 

「―――って朝潮ちゃん、何で裸なの?」

 

 言われて初めて気が付いた。横にさっきまで着ていたと思われる入院着が脱ぎ捨てられており、膨らみかけのささやかな胸と白いパンツが丸見えになっている。

 

「おい霞、まさか眠ってる間に変なこと―――」

 

「されたのはあたしの方よ!!ラバウルの皆で朝潮の世話を順番にすることになった、って前に言ったの、忘れたの!?」

 

「深雪はラバウルじゃねーから知らねーよ」

 

 ぐぬぬぬ、と釈然としない表情の霞と、どこ吹く風といった感じの深雪。

 

 裸でいては居心地が悪いので、早速上着だけ羽織る。胸の先が布に擦れて少し違和感。

 

「そういえば、何でラバウルの人たちがここにいるんですか?」

 

 主力艦隊の飛鷹は泊地棲姫討伐に参加していたけれども、駆逐隊『ヒャッハーズ』の面々は、演習後どこかに去ってから姿を見ていない。何をやっていたのだろう?

 

「それが聞いて下さい……」

 

 ラバウル組を代表して、何やらべそをかきながら話し始める吹雪。

 

「演習の日、昼ご飯を食べた後、私たち箱根に連れていかれたんです。そのまま芦ノ湖畔の旅館に一泊って言われて。それで慰安旅行かな、と思ってのんびりしていると、次の朝起きた時には服も荷物も無くなってて、代りに潜水艦用の水着とランドセルが残されていて……」

 

 ああ、由良が深雪にやった懲罰ゲームがこんなところで採用されていたのか。

 

「隼鷹さんの字で『横須賀まで走って帰れ』って書置きがあって、それで水着にランドセルを背負った格好で、炎天下の東海道を東へ東へ―――。沿道の人たちには応援と視線と容赦ないカメラフラッシュを浴びせられ、地元の新聞には『海軍変態行列』と書かれて―――。途中親切な人に泊めて貰ったり基本野宿しながら丸5日間かけて横須賀に戻ったら、飛鷹さんも隼鷹さんもいなくて……」

 

「わらわ、もう二度とやりとうないぞ!!」

 

「ごめんだよ~」

 

「私も流石に疲れました」

 

「勘弁だ」

 

 ……どうやら知らない所で彼女たちも、新人芸人のTV企画みたいな大冒険していたらしい。

 

 お疲れ様でした。

 

「えと、じゃあ今まで横須賀で何やってたんです?」

 

「訓練です。恥辱の5日間が終わって私たちも帰れるかと思ったら、そのまま呉から来た不知火ちゃんの地獄特訓が始まって……」

 

 それはご愁傷さま。

 

「不知火に何か落ち度でも?」

 

 不意に入り口から聞こえた妙に冷めた女の子の声に、霞を除くラバウル組がびくっ、と背筋を正す。

 

「Sir, no sir!!」

 

「あら、いい返事。不知火も心を鬼にして頑張った甲斐がありました」

 

 現れた紫色の短い髪を後ろでぴょこっと括ったブレザー姿の少女、不知火が満足そうな、というか嗜虐的な笑みを浮かべる。

 

 陽炎型駆逐艦2番艦『不知火』。

 

 吹雪たちの怯えよう、どこのフルメタルジャケットだ。というか、この子は絶対自分の趣味でやってる。

 

「不知火、あんまり怖がらせちゃダメよ」

 

 茶色の髪を黄色のリボンでツインテールにした、不知火と同じブレザーを着た少女が窘める。

 

 陽炎型駆逐艦1番艦『陽炎』。

 

 不知火と共に呉の電から派遣された、電が司令艦だと知る二人の少女。

 

「ああ、私たちの事は気にしないで。今日の夜呉に発つから、皆に挨拶しておこうと思って探してたの」

 

 短い間でしたがお世話になりました、と深々と頭を下げ、陽炎は不知火を連れてそれ以上何も言わずに去って行った。

 

「また会えるって分かってても、少しさびしいです……」

 

 吹雪がぽろりと漏らす。

 

「他人事じゃないわよ。あなたたちも明日の飛行機でラバウルに帰るんだから」

 

 と、今度は顔にかかった前髪を払いながら飛鷹が入ってきた。後ろに薄緑色の病院着姿の阿武隈と利根、そして何やら菓子折りらしき箱を手に持った由良が続く。

 

 さっき声が聞こえてからすぐに入ってこなかったが、どうやら病室の外で立ち話をしていたかららしい。

 

「明日、ですか?」

 

「そう。作戦の事後処理で隼鷹と、あと電がラバウルに残って頑張ってるみたいだけれども、人手が足りなくて猫の手も借りたいらしいのよね。だから予定を繰り上げて早めに帰ることになったの。でも……」

 

 病室内に詰めた駆逐艦娘たちを見回す。

 

「皆、なんだかんだで仲良くなってくれたみたいだから、それがラバウル第二艦隊の一番の戦果ね」

 

 ふふっ、と笑う。

 

「じゃあ私たちも、今は邪魔にならないように退出しましょう。せっかく朝潮が目を覚ましたんだから、横鎮の人たちが一番気になるでしょうし」

 

 ラバウルの駆逐艦たちに退室を促しながも、自身はベッド際に近寄ってきた。

 

 その朱色の小さな唇を耳元に寄せて囁く。

 

「覚えてる?」

 

 ……記憶の事だろう。

 

 実際どれくらいの記憶が削られたのか、自分では分からない。だが、自分が司令艦であることは分かる。

 

「―――大丈夫です」

 

「良かった。じゃあ詳しい話はまた―――今回の作戦で条件は4割を超えたわ―――あと少しよ」

 

 わしわしっ、と子供にするみたいに頭を撫でられた。次の提督会では何か進展があるのだろうか。

 

 飛鷹は最後まで残っていた霞を伴って外に出る。

 

 照れながらも霞は、去り際にこちらを向いて「じゃあね」と言ってくれた。今はそれだけで十分だ。

 

 そして騒がしいラバウル組が去った後には、鳳翔さんを除く横須賀鎮守府のメンバー、由良、阿武隈、利根、深雪、五月雨が残された。

 

「朝潮、今回の大規模攻略戦は大変だったね。これ、飛鷹さんからもらったお菓子、ここに置いておくから」

 

 由良が手に持った菓子折りをベッド脇の机に置く。

 

 包み紙に見覚えのあるカタツムリの姿が描かれているが、見なかったことにしよう。

 

「いや、目が覚めて本当に良かったのう。泊地棲姫に撃たれたときはもう終いかと思うたが、その後の朝潮の鬼神もかくやと言う容赦ない攻撃、今思い出しても震えがくるわ」

 

「利根さん、それは……」

 

 由良が利根の腕を押さえて頸を振る。

 

「おお、そうじゃった!!あれは吾輩と阿武隈が倒したんじゃったな!!追い詰められてもはやこれまで、という場面で放ったあの合体攻撃、朝潮たちにも見せてやりたかったぞ」

 

 かっかっか、と笑う。

 

 建前上そうなっている、ということなのだろう。

 

 泊地棲姫との戦い―――魚雷で攻撃した後吊り上げられ、お腹のあたりに砲撃を受けた記憶はある。

 

 その後は――――頭の中に霧がかかったようになっていて、はっきりは思い出せない。けれども自分が泊地棲姫をてにかけた、それだけはおぼろげながら覚えている。

 

 あの時の自分は、自分ではない。全てが別の大きな何かに塗りつぶされたような感覚があった。

 

 深く、重く、冷たくて、そして熱い、得体のしれない矛盾した何か。

 

 もしかしてあれが、太平洋戦争で沈んだ『朝潮』の船霊なのだろうか。だとすれば自分は、艦娘朝潮は、その心の内にどれほど恐ろしいものを棲まわせているのだろう。

 

 哀しみが形を持った痛みと狂気に変わるまで、碧い海の底で哭き続けた彼女の魂は。

 

「あはは………あたしも含めて艦隊全員大破なんて前代未聞ですけれど、精密検査で誰も問題なかったのが不幸中の幸いです」

 

 苦笑いしながら阿武隈が付け加える。

 

 「そういえばさっき鳳翔さんに朝潮の目が覚めたことを伝えたら、何だかすごく張り切ってたっけ……心配してくれてたから、ちゃんと顔は見せておかないと」

 

 今日はごちそうかもね、と由良が微笑んだ。

 

「そうそう、実は朝潮が眠っている間に、新しく横須賀に着任した子がいるの」

 

 入って、と彼女が促す。が誰も入ってくる気配はない。

 

 どういうことかと目を凝らすと、見覚えのある巫女服を着た黒髪ボブカットの少女が、扉の隙間から幽霊のようにこちらを眺めていた。

 

「え~とまだ慣れていないだけだと思うけど、朝潮も前に会ったから知ってるよね。扶桑型戦艦2番艦『山城』。ショートランド泊地が一時閉鎖になって責任者の西村提督が軍令部に栄転されるのを機に、彼の意向でこちらに転属が決まったの」

 

「不幸だわ……どこに行ったって姉さまはいないのに、よりによってあのクズに一番近い鎮守府なんて……」

 

 そう言いながらガジガジ裾噛んでるし。

 

 最後に会ってから数日経つが、相変わらずの堂に入った不幸っぷりと言うか何というか。

 

「山城の分の艤装は、新しいのが明日届く予定なの。飛鷹さんたちがラバウルに帰るのと入れ替わりに、由良と一緒に鎮守府の防衛に就いてもらうつもり。でもそんな事より……」

 

 すっ、と腰をかがめ視線の高さを合わせる。白い手が伸ばされ、手の甲を撫でた彼女の指が絡められた。

 

 そんな事よりって何よ、ああ不幸だわ……、と後ろから声が聞こえる。

 

 由良のエメラルド色の双眸が、真っ直ぐにじっと見つめてきた。

 

 ベッドを取り囲む仲間たち―――深雪、五月雨、阿武隈、利根―――が優しく見守る中、由良がそっと呟いた。

 

「おかえりなさい、朝潮」

 

「はい……ただいま」

 

 

 

 艦娘たちの戦いは続く。

 

 その先にあるのはあの戦争と同じ悲劇的な末路か、それとも別の未来なのか。

 

 今の自分には見当もつかない。

 

 けれどもただ今は信じたい。

 

 

 

 沢山の仲間たちに囲まれて

 

 今度こそ朝潮が

 

 幸せな夢を見られますように、と。







★次章予告★








E領域の攻略を終え、散発的な深海棲艦の対処と新海域開拓に邁進する横須賀鎮守府

「朝潮型駆逐艦3番艦、満潮よ。私、なんでこんな部隊に配属されたのかしら」

「あら、自己紹介まだでしたか~?私、朝潮型駆逐艦4番艦、荒潮です。また一緒に戦えるなんて数奇なものね、朝潮」

艦娘建造で現れたのは、浅からぬ因縁持つ元第八駆逐隊の仲間

「何か最近朝潮、ずっと荒潮と一緒にいるよな。つまんねーの」

「やっぱり姉妹艦の間には、あたしたちじゃ割って入れないのかな―――少し寂しいです」

「うふふふふ、皆が私たちを噂してる。でも、しつこいって言われたって今度は離さないわ、朝潮―――」

少しずつ軋み始める絆

「本日から艦娘体験学習で横須賀鎮守府に配属されました!!短い間ですがご指導よろしくお願いします!!」

「え、え~と……この子は駆逐艦朝潮候補、だそうです。大変かもしれないけど、朝潮について色々教えてあげてね、朝潮」

「やっぱり適性がある者同士、外見も雰囲気も似ておるの」

朝潮となる運命を担った少女

「あれってもしかして……最近帝都で噂の怪奇ジェンガ女?」

「姉さま~どこにいるんですか~?」

横鎮には今日も問題がてんこ盛り

そして壊滅したブイン基地とショートランド泊地にも新たな司令艦が着任する、が……

「こんな戦術思想の欠片も無い素人の指揮で、よく今まで戦ってこれたわね!!」

「―――否定はしないのです。現役海上自衛官の助言が得られるのなら、電としてはむしろ大歓迎なのです、瑞鶴提督」

「ふんっ!!」

提督会に投げ込まれた新たな火種

「わぁ、ういろうって丹陽、初めて食べました!!やっぱり日本は美味しいお菓子が多いですねっ!!」

「たんやん?雪風じゃないの?」

「この子ねぇ、元の世界では台湾からの留学生だったみたいなのよぉ」

「是!!できれば丹陽って呼んで下さい!!」

と、不確定要素

「すぐに戻って皆に知らせないと―――あんな敵、艦これでも見たこと無いでち!!」

迫りくる未知の脅威

「レ級だかレッキュウザだか知りまセンが、よくも可愛い後輩を苛めてくれたデース!!Nice and kindな私もいい加減ブチギレたネ!!」

「金剛姉様、比叡姉様、榛名も―――久しぶりにやりませんか?」

「はい、榛名は大丈夫です!!」

「気合、入れて、行きます!!」

「All right, sisters!!第7回時間無制限、金剛型SUTEGORO festivalデース!!Let's finish up this fuck'n bustard!!Ha!!」

混迷極める戦場

「ならばその怨念さえ誰かが、人間が造ったものなのです。自分の憎悪を受け継がせるため――この海に地獄を現出させるために―――」

帝都の奥底に潜む機械仕掛けの狂気

「やっと見つけた―――今度は僕がキミを守る!!」

「あの、軍人さん。その―――どなたかと勘違いされていませんか?」

分たれた想いは届くのか

「もう置いて行かないでよ!!取り残されるのは、一人になるのは嫌なのよ―――お姉ちゃん―――」

再び悪意と絶望の渦巻く海へ―――

「絶対に負けてやるもんですか―――でないと、鳳翔さんをあんなにしてまで生き残った自分が許せない!!」

その魂、紅き大洋に沈むまで―――

「一緒に行こう、満潮!!荒潮が、妹が私たちを待ってる!!」

『司令艦、朝潮です!!』next season!!




「―――朝潮、由良に何か隠し事してないかな?」



+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++



<評価のお願い>
よろしければメッセージ機能を使って、下記のテンプレートでの作品のご評価、コメントなどをいただけますと幸いです。
(Arcadia,Pixivで行ったものと同じです)


<作品に関して>
A,B,C,D,Eの五段階

★文章力:A,B,C,D,E
コメント)
★構成力:A,B,C,D,E
コメント)
★世界観・アイデア(二次創作という前提で):A,B,C,D,E
コメント)
★ストーリー:A,B,C,D,E
コメント)
★キャラクター(二次創作という前提で):A,B,C,D,E
コメント)
★テーマ性:A,B,C,D,E
コメント)
★総合評価:A,B,C,D,E
コメント)
★設定やその他


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間劇1『朝潮に提督会をT-partyと呼ばせることに失敗した金剛さんの夜茶会in佐世保』

 

「それでは内々ではありますが、今回のE領域攻略完了祝いと姉妹の絆の幾久しからんことを祈念いたしまして……」

 

 ソロモン海から全艦隊が撤収し、金剛がここ佐世保鎮守府に戻ってきてから既に3週間。

 

 今日は作戦が終了し、ラバウル基地で別れた姉妹が再び本土で集まる初めての日。

 

4つの白い腕が握るカクテルグラスの中では、薄い茶褐色の液体が早く飲めと急かすようにぱちぱちと無数の泡を弾けさせている。

 

「霧島、前口上が長いネ」

 

「はい、では以下略で―――」

 

『乾杯~!!』「デ~ス!!」

 

 ヴィクトリア朝風の英国式内装が施された執務室に、グラスのぶつかり合う高い音と金剛型姉妹4人の姦しい唱和が響き渡った。

 

「ん~、ブランデー入りの紅茶もいいデスが、tea requireもtaste goodデース!! ラムネで割るとさらにexcellent!!」

 

 真っ先にグラスを空けた金剛が、熱い吐息と共に熱弁を振るう。

 

「リンガ泊地の皆さんには本当に感謝です」

 

 少し焦げたような苦みのある芳醇な酒の香りを楽しみながら、にこやかに相槌を打つ榛名。

 

 ティフィン―――アッサムティーの茶葉を蒸留酒に浸けて作ったドイツのリキュールだが、これは巡潜3型2番艦、潜水艦『伊8』こと『はち』が潜水艦派遣遠征でドイツ第三帝国から持ち帰ったお土産の一つだ。

 

 日本とドイツは直線で約9,000kmと、ジェット機ならば一日足らずで辿り着ける距離。

 

 しかしジェットエンジンの開発は、深海棲艦の出現で人対人の戦いが途絶えたことから遅々として進んでおらず、極東の空ではローテクで安定したレシプロ機が未だ現役で飛び回っていた。

 

 そしてレシプロ機は富嶽のような超長距離爆撃機でもなければ、神風号のように途中の中継基地が必要になる。

 

 だが沿岸部はともかくユーラシアの内陸国については情報が少ないため、危険を承知で未だ軍閥が跋扈する戦乱の中国、粛清の嵐吹き荒れるソビエト連邦をまたいでヨーロッパに飛ぼうとする者は誰もいなかった。

 

 では空路が駄目なら海路はというと、ある程度安定した船の行き来が確保できるのは、やはり大日本帝国の支配圏内―――西は大陸から南に細長く伸びるマレー半島とスマトラ島の東側、南シナ海まで―――でしかない。

 

 はち、そして司令艦『伊58』こと『ゴーヤ』の管理するリンガ泊地は、西村提督とは別の特務提督が担当するブルネイ泊地と共にマレー半島とスマトラ島に挟まれたマラッカ海峡の東側出口を塞ぎ、周囲に睨みをきかせる海上交通の要所となる基地だ。

 

 またこの場所は、同時に大東亜共栄圏の中で最もヨーロッパに近い拠点、西洋への玄関口でもある。

 

 遠征で欧州へ向かう場合、リンガ泊地を出た潜水艦隊はマラッカ海峡を抜け、最初にC領域とD領域が混在するアンダマン海を進むことになる。比較的安全な沿岸部をつたい、そのままベンガル湾を西へ西へ。ビルマ、バングラディシュを過ぎ、インド、その南東にあるセイロン島までが、今のところかろうじて水上艇で進むことのできる範囲となっていた。

 

 執務室の壁に飾られた50インチの有機ELパネル、スクリーンセーバーと共に表示されている世界海域図のインド洋には、マーブリングのように5つの色がでたらめにぶちまけられている。だがインド亜大陸最南端のコモリン岬を廻ってアラビア海に入った瞬間、そこから先は真っ黒―――不可侵のF:Forbidden領域に染められていた。

 

『あちらの海は色んな意味でお先真っ暗でち』

 

 とは、二回目の遠征で伊8に同行したゴーヤの言葉。

 

 送り役の高速艇と別れた潜水艦隊は索敵と潜水を繰り返しながら、バスコ・ダ・ガマのインド航路を逆回りにするようにしてアラビア海を横断。アフリカ大陸南端のケープタウン、喜望峰を過ぎれば、後はひたすら敵から身を隠しながら北上すること12,000kmあまり。

 

 やっとの思いで第三帝国勢力圏、ヴィシー政権の流れを汲むフランス国ブルターニュ地方、軍港の街ブレストに辿り着いた潜水艦隊の面々は、しかしそのみすぼらしさに唖然とするしか無かったという。

 

 淡い光の中で何十年も放置され朽ちゆくままになった何隻もの大型戦闘艦艇が、横たえたその錆びだらけの船腹にひたひたと寄せては返す波を受けている。立ち並ぶ家々は漆喰の壁に穿たれた茶色い銃痕もそのままに、窓には片方の蝶番が外れた鎧戸が西部劇の看板のように風に煽られて軋み揺れる。車も通らない道路には痩せた野良猫の子供が一匹、我が物顔で闊歩しているが、それを追い払おうとする市民の姿も見当たらない。

 

 深海棲艦の出現によって植民地からの富や資源の流入が途絶えたヨーロッパ諸国は、緩慢な衰退の道を歩み始め―――歩み続けて早70年弱。

 

 今の彼らに華やかなりし昔日の面影は、無い。

 

 そうした中で唯一、第一次大戦の敗北で植民地を失ったドイツがその痛手に最も耐性があったというのは、『レモンの種が泣くまで』あらゆるものをドイツから奪い搾り取った戦勝国らにとって痛烈な皮肉でもあった。

 

 そして第二次大戦開戦後の電撃侵攻でフランス、ウクライナといったヨーロッパの穀倉地帯を押さえていた第三帝国が、時間経過と共に物資の不足する周辺諸国を労せず影響下に収めていったのは、自然な流れだったともいえる。

 

 今のヨーロッパではイタリアとフィンランド、またハンガリーなどの枢軸国以外は、かろうじてイギリスが抵抗を続けている程度で、それ以外の殆どは第三帝国の前に膝を屈する形に収まっていた。

 

「けれどもお姉さま、潜水艦隊の皆がせっかく苦労して運んできてくれたものなのに、こんなに盛大に飲んでしまってもいいんでしょうか?」

 

 早くも一杯目を空けた金剛のグラスに、オレンジ色のラベルの瓶からどろりとした黒いティフィンの濃縮液を注ぎながら比叡が頸を傾けた。

 

「No problemデース。ゴーヤたちには近いうちにもう一度、潜水艦遠征でEuropeに向かってもらうことになっているネ」

 

 次はミルク割りにでもするつもりか、白磁の小さな卓上ミルクピッチャーを構えながら自分のグラスから目を離さずに答える。

 

「遠征ですか……。しかし友軍とはいえ既にドイツと我が国に大した技術格差は無く、こと艦娘関連技術は我が国の独壇場です。このあいだ提供された出所不明の兵器設計図も、氷山空母やら自走回転爆弾やら、意味不明な粗大ゴミばかりでしたし……」

 

 アルコール分が足りなかったのか、金剛の分を注ぎ終わった比叡からティフィンの瓶を受け取り自分のグラスに追加でどろりと垂らし入れながら尋ねる霧島。

 

「Benefit? そんなnarrow-mindedな話ではありまセン。今回潜水艦隊に運んでもらおうとしているものは、場合によってはEurope全体の未来を左右しかねない情報なのデース!!」

 

「ひえ~!!」

 

 大げさに驚いて見せる比叡の反応に満足そうな笑顔を浮かべながら、金剛はミルクティフィンのグラスにその桜色の唇を近づけて一気に呷った。

 

「どういうことですか、金剛姉さま?」

 

 霧島の眼鏡が輝いた。

 

「帝国海軍でも一部の人間しか知らない最上級秘匿事項デスが、今EuropeではBritain、German、Italyを中心に、人類の一大反攻作戦の準備が進んでいマース。名付けて『ジブラルタル海峡閉塞作戦』!!」

 

「海峡を閉塞……」

 

 気を利かせた榛名が壁のモニターにヨーロッパの拡大地図を映し出す。

 

 ジブラルタルはスペインのイベリア半島最南端にある港湾都市で、太平洋と地中海と繋ぐジブラルタル海峡に蓋をする古代からの交通の要衝、別名『地中海の鍵』。

 

 ただその帰属は少々複雑で、位置的にジブラルタルはスペインなのだが、1713年のユトレヒト条約で英国に割譲されたことから、ここを支配・駐留しているのは英国海軍ということになっている。

 

 深海棲艦が現れた後も親ナチスのフランコ政権下スペインにより何度か奪還が試みられたが、その都度英国海軍に追い払われてしまい、かの地では膠着状態が続いていた。

 

 しかし共通の敵を前にして、大英帝国はついにドイツと手を結ぶことを選択する。

 

「不要な旧式艦艇をEurope全土からconcentrateし、海流に乗せて海峡が狭くなった場所で一斉に自沈。それをfloatにして大量の土砂とコンクリートを運び込み、一気に堤防をbuild up!! 出入り口を塞いで中に残った深海棲艦をeliminateしていけば、いずれ地中海は人類の手にreturnする予定、デシタが……」

 

「―――なるほど。今回泊地棲姫が陸上移動可能と分かったことで、閉塞作戦に水を差された、ということですか」

 

 金剛が頷く。

 

「口止めされていたのですが、榛名の聞いたところによると、帝国海軍にはドイツから秘密裏に艦娘や工作部隊を中心とした戦力協力の依頼があったとのことです。けれども陸地から姫級の侵入を許しては意味がありませんから、このままでは作戦の延期は免れないと思います」

 

「電にそのつもりがあったのかは分からないデスが、今回のショートランド泊地閉塞作戦がいい予行演習になってくれマシタ……結果はso miserableデシタが」

 

「なるほど、陸上での対応策が必要となると、海軍だけの手には余りますね。確かに欧州に直接赴いてでも伝える価値のある情報です」

 

 補足に合点がいった霧島は横で目を?マークにしている比叡を余所に、アルコール濃度の上がったカクテルで改めて自分の喉を湿らせる。

 

「それにしてもあの泊地棲姫は何だったんでしょう。これまで榛名たちが戦ってきた姫級は、それこそゲームのように同じ場所に留まり、戦力補充はするものの攻撃パターンは単純そのもの。数の点で不利になる場面こそありましたが、戦術的な意味での討伐自体は容易でしたのに……」

 

「私にもanswerは分かりまセンが、ちらっと電が漏らしていたのはfeed back――司令艦の活躍で人類側が優勢になり過ぎたせいで、戦力均衡を作り出すためにあのような個体が出現したのでは、ということデシタ」

 

「だとすれば今後はさらに強力な、しかも戦術を駆使する深海棲艦が現れる可能性も否定できない……」

 

 面倒なことになりましたね、と霧島がため息を漏らす。

 

「That’s right. デスから皆、これまで以上に気を引き締めないとネ」

 

「ふぁ―――でもお姉さまがいれば安心です!!」

 

 立ち上がって元気さをアピールする比叡。

 

「Thank you、比叡!! では立ったついでに、何かおつまみをお願いしマース」

 

 はいっ、と元気よく答えてソファーから立った比叡は執務室の棚を慣れた様子で漁り始めた。霧島も舞鶴から持って来た錨と桜の海軍柄をした風呂敷包みをテーブルの上に載せ、その結び目を解く。

 

「金剛姉さま……榛名はこの世界がゲームの、『艦これ』の延長線上にあると考えていたのですが、正直なところ分からなくなってきました。劣勢を察したこと、それに合わせて戦術を変えてきたということは、彼らにも何らかの戦略目的があるのかもしれません」

 

 自分の考えを整理しながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

 グラスを持つ手を止めた金剛は、少し難しそうな顔をした後、

 

「榛名は朝潮たちが遭遇した泊地棲姫とのcommunication reportはもう読みましたカ?」

 

「はい。横須賀の阿武隈さんが由良さんと連名で書いた報告書草案のことでしたら、霧島と一緒に」

 

 これみよがしに寮の談話室に置いてあったのを、飛鷹さんが慌てて回収したらしいですね、と付け加える。

 

「『守る愉悦も攻める歓喜も、皆ここにある』『記憶の汚名をここで雪ぐがいい』でしたか……抽象的といいますか、何の事やら榛名にはさっぱり……」

 

「けれども朝潮はその言葉に反応しましタ。正確には彼女の中の『駆逐艦・朝潮』が、デスが……」

 

「一体何が『朝潮』の琴線に触れたのでしょう? 今再びその言葉を聞いたところで榛名も、そして榛名の中の『戦艦・榛名』も、特に心動かされた様子はありません」

 

「『戦艦・榛名』はあの戦争で金剛姉さまと一緒に思う存分戦場を駆け抜け、本土で最期を迎えたのですから―――分からなくて当然です」

 

 カタリ、と風呂敷から取り出した朱漆塗りの重箱の蓋を開けようとした姿勢のまま、手を止めた霧島が顔を上げた。

 

「霧島、それは……」

 

「1942年11月15日、第三次ソロモン海戦でサボ島沖に沈んだ『戦艦・霧島』には未練がありました……もしあの時私が上手く戦えていれば、その後の戦況は変わっていたかもしれない。そして私と一緒に沈んだ212の英霊の命も、失わずに済んだかもしれない……。ですからもし願い叶ってもう一度戦うことができたのなら……その時は……」

 

 太平洋戦争で迎えた自分の末路を思い出したのか、最後の方は震え声になっていた。眼鏡が光って見えないが、その奥で彼女の瞳は潤んでいるかもしれない。

 

「Oh、霧島……don’t cry, my little sister……」

 

 ソファーから身を乗り出した金剛が、慰めるようにそっと霧島の肩に手を置いた。

 

「―――今度こそサウスダコタのスベタを再起不能になるまでブチのめし、横槍入れくさった糞ビッチのワシントンを引きずり倒して顔面の凹凸が無くなるまで丁寧に叩き均して―――」

 

「そ、そうでした金剛姉さま、今日のスコーンは霧島と一緒に榛名が焼いたんです!! ラバウル基地でドライフルーツにしたパイナップルやパパイヤをいただいたので、小さく角切りにして生地に練り込んでみたのですが……」

 

 慌てて榛名が霧島の手の中でピキピキと断末魔の破砕音を上げ始めた重箱を奪い取り、その中身を金剛の目の前に差し出す。

 

 現れたのは白い体に薄茶色の焼き色を纏った1ダースほどの丸いスコーン。その横では銀紙に囲まれた鮮やかな橙色のペースト、手作りのマンゴージャムが独特の甘みのある濃厚な香りを放っていた。

 

 さらに重箱の二段目にはピーナッツ、カシューナッツ、ピスタチオといったおつまみと、スコーン用のバターが小さく仕切られた部屋に詰め込まれている。既に室温で角が溶け始めているバターは、これも潜水艦遠征で手に入れた、塩気の効いたフランスはエシレ村特産の発酵バターだ。

 

「Great!! Well done 榛名!! 霧島もnice workネ!! さあブツブツ言ってないで、一緒に食べまショウ」

 

「はっ、失礼しました金剛姉さま!!」

 

 誤魔化すように箱の中のスコーンを一つ取り、両手で持ってかぶりつく。途端霧島の顔が幸福感に和らいだ。女教師な出で立ちの彼女が小動物のようにスコーンと格闘する姿は、ギャップもあり微笑ましい。

 

「あっ、お姉さま。スコーンが出てきたのでしたら、普通の紅茶もお煎れしますね~」

 

 取り出した『佐世保バーガーちっぷす』と書かれた袋を抱えながら、ティーセットの仕舞ってある食器棚に比叡が手を伸ばす。

 

「Yes, please!! ところで比叡、youは泊地棲姫の言葉に思うところは無いデスか? あの戦争での『戦艦・比叡』は……」

 

「どうとも感じません」

 

 皆の視線が集まる中、表情も変えずにきっぱり言い切った比叡は、カチャカチャ音を立てながら人数分のカップを揃えている。

 

「あ、でも全くってわけじゃないですよ。あの日、探照灯を持っていたせいで蜂の巣にされたとか、機関が生きているのに見捨てられて沈んだとか」

 

「なら比叡姉さまはどうして……」

 

 奮戦虚しく姉と同じ鉄底海峡に沈んだ霧島は少々面喰らったのか、食べかけのスコーンからゆっくり唇を離す。

 

「また金剛姉さまに、榛名と霧島に会えた。それだけでも充分幸せなのに、それ以上を望んだら……何だか夢から覚めてしまいそうで……」

 

 いけませんね、と向こうを向いたままでずずっ、と洟をすする。

 

「比叡は優しい子デスネ……大丈夫、私はいなくなったりしまセン。No one can split us, anymore!!」

 

 愛おしむような優しい眼差しで比叡を、そして榛名と霧島を眺める金剛。

 

「私たち金剛型は、帝国海軍のbattle shipの中で最も古い船デス。その長い艦暦はあの戦争での悲しいmemoryと同じくらい……いえ、それ以上に幸せなmemoryで埋め尽くされているネ。そんな私たちのheart and soulが、深海棲艦の戯言なんかに惑わされるワケがありまセン!! だからこそ並み居る超弩級戦艦の中でも、金剛sistersは最強なのデ~ス!!」

 

「お姉さまっ!!」

 

「はい、榛名もそう思います!!」

 

「ふふ、やはり金剛姉さまには敵いませんね」

 

 姉妹の間に穏やかな空気が流れる。

 

「ですが……」

 

 ふと榛名が疑問を挟む。

 

「そうなると朝潮が泊地棲姫の言葉に反応したのは……」

 

「誘惑に抗えるだけの何か、例えば私たちが持つ心の支えとなりうる記憶が、『駆逐艦・朝潮』には無かったということでしょうか」

 

 姉の台詞を霧島が引き継ぐ。

 

「Exactly。もっともそれは、駆逐艦girls全般に言えることデス。素体となる少女の幼さ、艦歴の短い船霊の未熟さ……そし悲惨なlast memoryに傷ついた心は、甘い言葉に抗えない。『話すと深海棲艦に汚染される』、デシタか。上層部も上手いexampleを思いついたものネ」

 

 いかにも処置なし、といった風に、比叡から渡されたお気に入りの白いティーカップの縁を爪先でチンチンと弾いて鳴らしながら金剛が嘆息する。

 

「でもお姉さま、少し揺さぶられたくらいであの真面目な朝潮が、報告書にあったように豹変するものなんでしょうか? 撲殺された泊地棲姫は原型を留めないくらいぐしゃぐしゃに頭部を破壊されて、髪の毛は皮ごと毟り取られていたらしいですよ」

 

 いくらなんでもやり過ぎじゃないですか、ひえ~、といかにも恐ろしいと言った風に比叡が身体を震わせた。

 

 が、金剛は首を振ってそれを否定する。

 

「むしろあれが朝潮の本性なのデショウ。電と雷があの戦争で助けたBritainの重巡『エクゼター』と駆逐艦『エンカウンター』、彼女たちを沈めたのが朝潮のcommander、水雷屋こと佐藤康夫中将デス。そんな猛将に指揮され、最期は撤退命令を無視して沈んだ反骨神溢れる『駆逐艦・朝潮』が真面目だなんて冗談、ヘソが紅茶を沸かしマス。けれどももし、『艦娘・朝潮』が真面目であることに何か理由があるのなら……」

 

「お姉さま、それは一体……」

 

 3人の妹は息を呑んで姉の言葉を待つ。

 

「思うに『駆逐艦・朝潮』の船霊は、本来は忠犬どころか夕立と同じ狂犬デス。その上命令を無視した状態で沈んだことから、もはや軍規でさえ彼女をcontrolできまセン。だからこそ素体に生真面目な少女を使うことで、首輪を失くした狂犬に従順なpersonaを被せたのデショウ」

 

 今回のbattleを見る限りrampageは抑えられていまセンけれども、と付け加える。

 

「そういえば朝潮は元の世界でも、普段は真面目で優等生と呼ばれながら、大事な局面では司令官に逆らうことも選びうる艦娘として描かれていました。理由が何であっても軍での命令は絶対だというのに」

 

「Everybody feels something is wrong with her。真面目なだけの朝潮は不自然だと、皆もどこかで思っているかもしないのデ~ス」

 

 金剛は自分が話している間に比叡が煎れたノンカフェインのルイボスティーが湯気を立てるカップを持ち上げ、一息入れようと口元に運ぶ。

 

『♪God save our gracious Queen, Long live our noble Queen~』

 

 突然金剛の巫女服の袖口から、LEDの青い発光と共に着信音のイギリス国歌が流れ出した。カップを置いた彼女はゴールドブラウンのガラケーを取り出してぱかっと開き、耳元に押し当てる。

 

「Oh、偵察の球磨からデ~ス。Sorry……球磨、どうしたデスカ?」

 

『こちら大井北上監視班だクマ。現在、佐世保鎮守府食堂に潜伏中。状況に変化無し。でもいつも通りなら、そろそろ大井が動き始める頃合いクマ』

 

『にゃにゃ!! 大井が北上に手を重ねたにゃ!!』

 

 球磨型軽巡1番艦、クマー動物園園長こと長女の球磨が押し殺した声で報告する。その後ろで隠す気ゼロの2番艦多摩が、素っ頓狂な叫びを上げた。

 

「I see。But今の大井はlesbianの癖に妙にヘタレなところがあるので、もうしばらくは大丈夫ネ。引き続き監視をお願いするデース」

 

『了解だクマ!! 妹の貞操はお姉ちゃんが守るクマ!!』

 

『にゃー!!』

 

 それを狙っているのもあなたの妹艦なんですけど、と霧島が突っ込む間もなく通信は切れた。

 

「全く、あの二人にも困ったものネ」

 

 また邪魔されてもうっとおしいデース、とマナーモードに切り替えた携帯を袖に仕舞う。

 

「榛名たちが会っても不自然に思われないよう、佐世保と舞鶴は主力艦隊を姉妹艦中心に構成しているわけですが……彼女に関しては少し早まったかもしれません。今日も来る時『北上さんへのプレゼントです』とか言いながら大荷物を担いでいましたし、いまいち本心を掴み切れていませんし……」

 

「噂では先代の大井と北上は、パラオ泊地で特務提督を巡って泥沼の三角関係を演じていたらしいですよ。で、最終的に提督と大井が駆け落ちして、53cm艦首魚雷ガン積みにした北上が鬼の形相で追いかけようとするのを皆で必死に引き止めたんだとか……」

 

 同じように見えても素体の女の子が違うと性癖も変わるものなんですね、と感心したような比叡。

 

「その反動でもあるまいし、あの執着ぶりは正直やっかいです。彼女たち重雷装巡洋艦が戦力として極めて優秀なことも含めて……」

 

 はあ、と姉妹はそろって同時に深いため息をつく。

 

 金剛、比叡、榛名、霧島の他に、佐世保第一艦隊の『球磨』『北上』『千歳』と舞鶴第一艦隊の『多摩』『大井』『千代田』はそれぞれ姉妹艦の関係になっている。また正規空母の『蒼龍』『飛龍』も蒼龍型1番艦、飛龍型1番艦と姉妹艦ではないが、同じ二航戦という意味では姉妹艦並に強い絆で結ばれた関係だ。

 

 頻繁に佐世保と舞鶴、長崎と京都を行き来することに疑問を持たれないように、持たれてもそれが自分たちに集中しないように、互いに相手を訪ねる場合は擬装として数人の随伴艦を連れて行くのが彼女たちの常だった。

 

 そして今日はラバウル基地にいる5番艦『木曾』以外の球磨型4人が、ここ佐世保で一同に会する日。これ幸いにと4番艦大井の歪んだ愛情が暴走しないように、金剛の命令で2人の姉が3番艦北上を後ろから隠れて見守っている。

 

「Well, well……気を取り直してお茶の続きを楽しむデース!!」

 

「はい、気合!! 入れて!! 食べます!!」

 

「いえ比叡姉さま、そこまででなくても……」

 

 プレーンスコーンに厚切りバターをナイフで塗りたくる金剛の隣、腰を降ろした比叡が紅茶の入ったティーカップとトロピカルスコーンを二刀流で貪るようにして口へと運ぶ姿に、榛名と霧島は顔を見合わせて苦笑した。

 

 

 

 

 約二時間後の二三三〇……執務室の板張りの床には未開封だったものも含めてティフィンが3本、空になった金剛秘蔵の日本酒『加賀美人』や『赤城山』の一升瓶に混じってごろりと身を横たえていた。

 

『わ~れは海の子~ し~らたきの~♪』

 

 その床にぺたり、と座り込んだ真っ赤な顔した比叡と榛名が互いの肩を組み、普段からは考えられないような調子っぱずれな声で妙な尋常小学校唱歌をがなり立てる。

 

 ソファには背もたれにぐったりと体を枝垂れかからせた金剛。彼女の膝枕には眼鏡を外した霧島が頭を預けていた。

 

「まったく……機関ユニットを起動させればアルコールも連動燃焼されるからって、比叡姉さまも榛名も飲み過ぎです」

 

 呟く霧島のぼんやりした視線の先にあるマホガニー製アンティークテーブル。明治時代に英国から輸入されたものを金剛がわざわざ探し出し買い付けてきたものだが、その濃い琥珀色した分厚い天板の上で中身が半分に減ったオールドパー・スコッチ・ウイスキーの四角いボトルからこぼれ落ちた同じ色の雫が、フルーティな芳香で霧島の鼻腔をくすぐった。

 

「二人ともそこは弁えているはずネ、don’t worry」

 

 薄目で天井を眺めたまま、ぽんぽん、と妹の肩を優しくなだめる。

 

「だといいのですが……」 

 

 んんっ、と気持ちよさそうに身動ぎする霧島。

 

「こんなに温かくて柔らかいのに、艤装を付ければ霧島はbattle shipとなって深海棲艦と互角以上に戦うことができるなんて、unbelievable」

 

「それも生体フィールド技術のおかげですね。原理はよく分かりませんけれど」

 

 ユニット接続と同時に艦娘と装備を包むようにして展開される生体フィールドは、通常時は身体の恒常性を維持する水密隔壁だが、戦闘時は服と一体化して装甲ともなる。また機関ユニットで生み出された動力を少女自身や足元の主機に与える血管、逆に少女の意志を艤装や兵装に伝える神経としての役割も果たす。

 

 この生体フィールドが健全な間は、艦娘の受けるダメージは機関ユニットのダメージコントロール領域に蓄積されることになる。ダメージが吸収しきれなくなった時点で中破判定となり、溢れ出した余剰エネルギーによる破壊が服に及び始める。

 

 ある意味これが、引き時を間違えないよう艦娘の耐久力的な警告装置にもなっているのだが、艦娘たちにはすこぶる評判が悪い。いきなり洋上で全裸に剥かれるのだから、当たり前といえば当たり前すぎるか。ただ戦闘に没入すると自分のダメージを把握する余裕も無くなるので、装備の破壊は仲間が引き止める目印にもなっていた。それによって危険な海域から生還できた艦娘も多いため、この悪趣味なシステムに表立って反対する者は少ない。

 

 この状態から戦闘を続け、さらに機関ユニットのダメージが大破レベルになると生体フィールド自体が不安定化し、戦闘力と防御力が著しく低下。

 

 その状態で一撃を喰らうと、素体の少女が破壊され艦娘は轟沈することになる。

 

「生体fieldは艦娘にとっては命と同じ。けれども司令艦はfieldがvanishしてからもdamageに耐えられマス。それどころか朝潮は、轟沈した後で16万馬力の利根型以上のpowerを発揮しまシタ」

 

「機関や装甲を失ってからさらに強くなるなんて、まるで……」

 

 姫級深海棲艦みたい、という言葉を霧島は途中で飲み込んだ。

 

 二人の間を沈黙が支配する。

 

「勘の良い子は薄々気づいていることデスが……」

 

 先にそれを破ったのは金剛。

 

「艦娘のmilitary conceptは深海棲艦。そこに使われているtechnologyも深海棲艦由来のもの。ならば朝潮に、私たちに同じ現象が起きても不思議ではありまセン。加えて本来の艦娘と違う形で生み出された司令艦なら、irregularは当たり前」

 

 深海棲艦は通常兵器の効果が低い。

 

 標的が小さく高機動のため砲撃が避けられてしまうことも理由の一つだが、それ以上に深海棲艦を既存の兵器に対して無敵の存在としていたのは、その船体を薄く覆うフィールドの存在だった。

 

 時折立ち昇るオーラのようにも見えるそれは、特攻機や艦娘などど『人間性を持った兵器』の攻撃以外、どんな砲撃も雷撃も通さない。

 

 その特性は、艦娘の生体フィールドのそれと同じ。

 

「なのでもし私や榛名にも何かあったら、その時は霧島……」

 

「分かっています……分かっているつもりです……司令艦の、秘書艦の役目は……」

 

 柔らかい姉の太腿に顔を埋める。母に縋り付く子供のように。

 

『自分の司令艦に異常があれば他の司令艦に報告を』

 

『その変化が有害なものであれば各自の判断でこれを拘束、不可能であれば破壊を』

 

 榛名に司令艦の秘密を打ち明けられた霧島が呉鎮守府で電に引き合わされた際、彼女から告げられた秘書艦の使命。 

 

「でも、そんな未来には来てほしくありません……」

 

 金剛は不安を露わにする妹を宥めようと言葉を探したが、それが何の意味も持たないと思い直し、黙って霧島のボブカットにした艶やかな黒髪を梳った。

 

 比叡と榛名の歌う出鱈目な唱歌をBGMにして、しばらく穏やかな時間が流れる。

 

 と、唐突に霧島が口を開いた。

 

「金剛姉さま、姉さまは電を信じられますか?」

 

「……それはどういう意味ですカ、霧島?」

 

 真意を計りかね、質問に質問で返す。

 

「言葉通りです。今回の攻略作戦で、不利な状況でも怯まなかった電の指揮能力は認めます。ですが、彼女には秘密が多すぎます―――偽の提督をでっち上げて深雪を横須賀に送り込んだことも、連絡要員として朝潮と五月雨を向かわせたことも、私たちには一言の相談もありませんでした」

 

「それはそうデスが、きっと電にも色々とexcuseが……」

 

「金剛姉さまは平気なんですか!? 今後強力な敵が出現した場合、矢面に立たされるのは戦艦クラスの司令艦、金剛姉さまと榛名なんですよ!! なのにこんな……私は納得できません。納得したくない……」

 

 金剛の服の裾をぎゅっと掴んで力を込める。

 

 姉がどこにも行かないよう、引き止めるかのように。

 

「……確かに電には秘密主義で独断専行なところがありマス。それでもこの世界を深海棲艦から救い、司令艦を開放するという目的を彼女は決して忘れていナイ」

 

 安心させるように自分の手を握った妹の手に重ねる。

 

「ですから彼女が私たちの与り知らぬ所で何をやっていたとしても、私の信頼は揺るぎまセン」

 

「でも、もし裏切られでもしたら……」

 

「霧島……信じるということは、裏切りの結末も含めて信じる、という意味ネ。Diceを委ねた時点で次にどんな目が出ても、私は何も言いまセン。それに……」

 

 天井を仰いだまま、照明の光を遮るように両の瞳を腕で覆う。

 

「それにあの優しい子が提督を、提督の気持ちを裏切ることなんてありえない。絶対に……」

 

 言ったきり、金剛は口を噤んでしまった。

 

 霧島は知っている。

 

 あの戦争を経てこの場所で艦娘となり、さらに司令艦という一種異様な存在となった明るく妹思いな金剛が、唯一提督と呼ぶ人物のことを。

 

 仲間を守り、仲間を庇い、そして全てを仲間に托して今は抜殻となった女性を。

 

「金剛姉さま……それでも私は、姉さまのように電を信じきることは出来ません。けれども電を信じる姉さまの事は、何があっても信じ続けます。それがどのような結末になっても」

 

「……ありがとう」

 

 ドンッ、ドンドンドンッ!!

 

 と、ふいに執務室の扉が荒々しく叩かれた。

 

『榛名、そこにいるなら早く開けるにゃ!! 異常事態にゃ!!』

 

「えぇ~多摩ぁ? 少ぉしお待ち下さぃね……でも何でここにぃるのでしょうかぁ……」

 

 呂律の回らない榛名が立ち上がると、その肩にもたれかかって寝息を立てはじめていた比叡の身体が、支えを失い倒れて床に激突。その衝撃で比叡は目を覚ます。

 

 内側からガチャリと扉が開かれると、途端に紫がかった髪をショートカットにしたセーラー服の少女、多摩が顔を真っ赤にして飛び込んできた。

 

「大変にゃ!! 大変にゃ!! 大変にゃにゃにゃにゃっ!!」

 

「Yes yes yes, calm down kiddy cat。大変なのは分かったネ。それでWhat’s happen, TAMA? あの二人に何かあったのデスか?」

 

 先ほどまでとはうって変わって金剛は、いつもの英語混じりのお気楽な調子で尋ねる。 

 

 多摩はハァハァと弾む息を整え、ゆっくりと喋り始めた。

 

「大井がとうとう強硬手段に訴えたにゃ!! それでいくら携帯かけても繋がらないから、多摩が直接呼びに来たのにゃ!!」

 

 言われて自分の袂を探る金剛。取り出された携帯には着信を知らせるLEDランプがちかちかとまぶしく点灯している。

 

「Wow、気づきませんでした。Pardon me」

 

「けど球磨はどうしたんでしょうか? 二人で押さえ込めばいくら大井でも……」

 

 榛名の言葉にぶるんぶるんと激しく首を振る多摩。

 

「そんなこと言ってる場合じゃ無いにゃ!! あのバカ娘、お土産とか言ってこっそり舞鶴から内火艇ユニットを持ちこんでいたにゃ!! 球磨が今必死で引き止めてるけれど、このままだと押し切られるのも時間の問題にゃ!!」

 

 訓練や非常用に機関ユニットの代用品として使われる内火艇ユニットは、適性のある少女なら誰でも使える代わりに、出力は10馬力程度。5万馬力の駆逐艦と比べても悲しくなるくらいに弱い。

 

 ただそれは艦娘と比べた場合の話。機関ユニットを外した生身の少女である球磨や多摩からすれば、十馬力を振るう大井はパワードスーツを着ているようなものだ。勝てるわけが無い。

 

「何ですって!! それは本当ですか!? あの変態女、大切な軍の備品を何だと思って……帰ったら折檻ね。あと多摩、あなたは軽巡でしょう!! 何で強制コードで緊急停止しなかったのですかっ!?」

 

「無理にゃ!! 内火艇ユニットは誰でも使えて出力も弱すぎるから、最初から指令コードは登録されていないのにゃ!! でもまさか陸で仲間相手に使うなんて、想定できるはずが無いにゃ!!」

 

 霧島の怒声に半泣きの多摩が絶叫で答える。

 

「比叡、すぐに全館放送で皆を叩き起こすデス!! There’s no time left!!」

 

「は、はいっ、お姉さまっ!!」

 

 寝ぼけ眼でふらつきながらも内線装置を起動させる比叡。

 

 すぐさま深夜の鎮守府に、ピンポンパンポ~ンという場違いなメロディが響き渡る。

 

『緊急!! 緊急!! お姉さまから全艦隊に通達です!! 現在当鎮守府食堂で大井が北上を襲撃中!! 各員、至急現場に急行されたし!! 繰り返します……』

 

 ―――このあと全裸靴下に内火艇ユニットを背負い、「北上さん、私の処女を貰ってください!!」と叫びながら襲い掛かろうとしていた大井が佐世保の艦娘総動員で捕えられ鎮守府出禁半年を喰らうまで―――17分23秒。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

寄港地1『大食艦と主計科提督』

「司令ぇ、もう勘弁したってや!! うち、こんなんやっとれんわぁ~!!」

 

 南洋ブルネイ泊地司令部の木造建物内部に、京都っぽい少し間延びした少女の関西弁での悲鳴が響き渡る。

 

 どたどたと廊下を慌ただしく走る音。それが提督執務室の前で止まったかと思うと、次の瞬間、入り口の薄い板戸が遠慮なくバンッと開かれ、黒髪をショートカットにしたブレザー姿の小さな影が飛び込んできた。

 

「むゎ熱ッ!? ちょいと司令、何でこの部屋こないにくっそ暑いんですのん!?」

 

 少女―――陽炎型駆逐艦3番艦『黒潮』は、入るなり中から吹き出してきた熱い空気の塊に、思わず京人形のように細やかな目鼻口のパーツをしかめた。

 

「おう黒潮、のっけからご挨拶だな。まああれだ、今伝票の整理をしててな。風で飛んでいくと困るから、下手に窓も開けられね~んだわ」

 

 提督用の大きな事務机の脇に積み上げられた大小様々なサイズの紙の山の中から覗く、短く切り揃えたスポーツ刈りの頭が気怠そうに答える。

 

 ざざっ、と書類の雪崩を起こしながら現れたのは、眼光の鋭い二十代前半くらいの、やや気難しそうな顔をした青年だった。白い第二種軍装の襟元をだらしなく開け放した下には、細身ながら引き締まった胸筋が、汗ででらてらと輝いている。

 

「うぁあ~ん!! 提督、やっぱりエアコン買いましょうよ、エアコン!! でなきゃ機関ユニットの装着を許可してよ!! こんなにむんむん暑苦しい場所で仕事って言われても、私、本っ当に困るんですけどぉ!!」

 

 その隣、もう一つの紙の山の中から黒を基調にしたセーラー服を着た別の少女が、薄い色の茶髪をツインテールにした頭をバサッ、と浮上させた。タコ焼きみたいにほっぺたを膨らませて可愛らしく不満をアピールする、彼女の白い肌には珠どころか滝のような汗が何条も流れ落ちている。メイクの必要の無い少女だからこの程度で済んでいるが、これが化粧した女性なら大参事になっていただろう。

 

「却下だ村雨。知っての通り、うちの泊地にそんな財政上の余裕はまぁッたく無いッ!! でなきゃ今さらヘソクリ探して伝票漁りなんざやってやしないぜ」

 

 お、これは最新の資源管理表か。相変わらずボーキ少ねぇな、と言いながら手に持った書類を机の上に放り投げる。

 

「そうそう一応言っておくが、こんな密室で機関ユニットを起動させたりしたら煤煙で真っ先に俺が死ぬぞ」

 

 上司に二階級特進をプレゼントしてくれるなんて、優しい部下に恵まれた俺は幸せだなぁ、と嫌味たっぷりに呟く。

 

 うむむぅ、と一頻り唸った白露型駆逐艦3番艦村雨は、釈然としない顔のまま再び紙片の海に飛び込んだ。

 

「赤城さんもずるいよ!! 今日はただの書類整備だって言うから、間宮アイスの当たり棒3本で秘書艦代わってあげたのにぃ!!」

 

 頭を伝票の山に埋め、体の曲線が露わになった黒スカートの尻が叫ぶ。

 

「なるほど、それで朝から姿が見えないってワケか。空母の癖にいらんところで逃げ足早いな、あいつ」

 

 まぁそれならなおさら、赤城に魂を売った昨日の自分を恨むしかないな、とトドメの一言。

 

 ぐうの音も出ないほど論破された村雨は、書類の海に大破轟沈していった。

 

「そんなに拗ねるな村雨よ。これが終わったら、俺が昨日こっそり作った水羊羹を進呈してやろう。間宮のでなくて悪いがな」

 

 提督―――ブルネイ泊地司令、『海軍軍令部総長直属、人型艦艇運用専任特務提督』南雲大佐は、やはり室内の熱気に中てられているのか、茹蛸になって溶けかけた顔を入り口に向ける。

 

「で黒潮、そんなに慌ててどうしたんだ? お前、今日は第三艦隊で資源運搬任務じゃなかったっけ」

 

「そ、そうやったわ!! いや、遠征は無事終わってもうてんですけど、せっかく運んできた資源が、その……」

 

「はっきりしないな、おい。まさか持ってた資源全部、帰り際の異常潮流に呑まれちまったとでも言うんじゃないだろうな」

 

「ああいえ、その、呑まれたというか、食われたというか、持ってかれたというか……」

 

 もごもご口を濁してハッキリしない黒潮。

 

 と、その後ろ、開け放たれた外の廊下から、パタパタと草履かサンダルを履いたような足音が早走りで近づいて来た。

 

 勢いよく執務室の入り口に現れたのは、紅い袴に白道着、『ア』の字が書かれた垂と黒い胸当てを着けた弓道着姿の女性。

 

 元天城型巡洋戦艦2番艦、現赤城型航空母艦1番艦『赤城』。

 

「提督!! 先ほど提督特製の水羊羹があるって聞こえたのですが、本当ですか!? 空母赤城、これよりご相伴に預かります!!」

 

 鴉の濡れ羽色の長い黒髪をしゃらりとなびかせながら、いかにも大和撫子といった風体の彼女は、瞳を輝かせ開口一番そう言い放った。

 

 

 

 

 

「お前なぁ赤城……少しは旗艦やってた黒潮の気持ちも考えてやれよ」

 

 司令部とは別の建物、ブルネイ泊地の敷地内にある木造平屋の広い職員食堂スペース。

 

 あれから結局、水羊羹を狙って入り口から虎視眈々と監視する赤城の視線に耐えられなくなり伝票整理は中止。皆で揃って少し遅い昼食を摂りに行くことになった。

 

 赤城と南雲が向かい合って座った後ろの席では途中で別れた際に軽くシャワーを浴びて来たのか、まだ髪の毛をしっとりと湿らせた村雨が黒潮たち第三艦隊の駆逐艦娘たちと一緒に、楽しそうに談笑しながら厚切りにした薄墨色の水羊羹にかぶりついている。どうやら機嫌は直ったらしい。

 

「せっかくあいつらが持ち帰ってくれた資源を、俺に報告する前に勝手に奪ってくなんて……銀蠅と一緒じゃねぇか」

 

 食後のサービスコーヒーにクリープを入れ、かき混ぜながらぼやく。

 

「でもですよ、提督。このブルネイ泊地に空母は私一人なんです。彼女たちが運んだボーキサイトは全て私の補給に使われるのですから、その手間を省いてあげて何の問題があるのでしょうか?」

 

「ああ問題だ。空母が一人っきりじゃ、お前の負担が大きすぎるんだよ。俺としちゃ、お前の出撃を控えさせてでも資源を貯めて、建造で早いとこ空母を作って航空戦力の充実を図りたいんだがな」

 

 何も言わずに小鉢に入ったタケノコの煮しめを箸で掴んでひょいっ、と口に放り込む赤城。彼女が咀嚼する度に、ぽりぽりと小気味良い音が奏でられる。

 

 それを見ながらはぁ、と南雲は深いため息をついた。

 

 艦娘の消費する資源―――燃料、弾薬、鋼材、ボーキサイトは、勿論実物をそのまま消費するわけではない。内地では専用の処理施設、泊地では工廠に併設された整備科設備での加工を経て、資源はそれぞれ機関ユニットを動かす高精化燃料、兵装に装填される小型特殊弾薬、艤装を構成する超々圧縮鋼材へと姿を変えることで、艦娘の出撃や補給修理に使用することができるようになる。

 

 またこれら加工された資材は鎮守府同士での取引に使用されたり、また軍令部に対して新艦娘の建造陳述を行う際、書類上ではあるが対価として必要になったりする。

 

 この点、ボーキサイトは他の三つとは趣を異にしていた。対価として取引材料に使える点は同じだが、ボーキサイトを精錬して得られる軽くて丈夫な超々ジュラルミンは本来は空母艦載機など航空機の機体材料であり、艦娘の艤装構造には直接関係しない。そしてこのボーキサイトは艦載機を持つ艦娘だけが補給のために使用・消費することができる、という特徴がある。

 

 とはいうものの提督である南雲には理解できない感覚なのだが、赤城たち空母の艦載機補給は、正確にはボーキサイトそのものを『消費』するのではないらしい。

 

 呪術理論だかなんだか知らないが、彼女たちはどうやってかボーキサイトの持つ『航空機になる可能性』だけを取り出して、それを艦載機の発艦媒体である矢に装填する。そして可能性を付与された空母の矢は、弓から放つことで艦載機に姿を変えて標的の元へと向かうのだとか。

 

 一度南雲も赤城に、何故矢が艦載機に変わるのか聞いてみたことがある。すると彼女からは『パイロットを載せて空母から飛び立たせたら、それは艦載機じゃないですか』と、分かるような分からないような答えが返ってきた。

 

 ちなみに彼女の言うパイロットとは、話を聞く限りどこかの神様たちから派遣してもらう神使のような存在らしい。泊地に勤務する寺生まれだとかいう海兵の話では、空を飛びまわる空母艦載機の翼上には時折、妖精のような小さな人影が見えるのだとか。

 

 艦攻や艦爆を乗りこなす神使を持つ神様、それが沢山いる神社となると南雲に心当たりは一つしかないが、赤城が敢えて明言を避けたため、彼もそれ以上は突っ込まなかった。

 

 そして補給の後に残ったボーキサイトは、これまた理由は分からないが軍事兵器に使うことができなくなるため、民間に払い下げられて窓のアルミサッシや車のフレームなどの材料とされることになる。ある時、勿体ない贅沢は敵だ、とばかりにこの使用済みボーキサイトを回収して超大型戦略爆撃機の試作機に流用した陸軍関係者がいたが、出来上がったのは離陸と同時に100%の確率で空中分解する、飛行機の形をした全自動自殺装置だったという。

 

「……あのな、赤城。第三艦隊に専任させてるボーキサイト輸送任務が駆逐艦のガキどもに何て呼ばれてるか、お前知ってんのか?」

 

 南雲はチンチン、とコーヒーカップの端をスプーンで叩く。

 

「はてさて皆目」

 

「『赤城給食』だぞ『赤城給食』!! おかげで第三艦隊のローテーションは『給食当番』呼ばわりだ!! ちったぁ恥じろや一航戦!!」

 

 剣幕に驚いたのか、後ろで騒いでいた村雨たちの声が小さくなった。

 

 知らずに中腰で大きな声を出していたことに気付き、南雲はゆっくりと座り直す。

 

 一方赤城はきょとん、としてしばらく提督を見つめていたが、やがて思い出したように横に置いたお櫃の蓋を取り、自分専用のどんぶりに白飯をよそい始めた。

 

「おい、こんな時くらい食うのを止めろ」

 

「そう言われましても、食欲旺盛なのは大型艦の宿命みたいなものですから」

 

 少し困ったように赤城が微笑む。

 

 艦娘は人であり艦艇。素体となる少女の意志が機関ユニットや艤装、兵装を動かすのと同時に、それら諸装備からのフィードバックも少女自身に影響を及ぼすことになる。少女から軍艦に『人間性』を、軍艦から少女には『兵器性』を。

 

 あの戦争―――太平洋戦争での記憶や戦闘経験もその一つ。

 

 だが他にもフィードバックされるものがあった。

 

『食欲』

 

 今回のボーキサイト奪取にしてもそうだが、補給欲とも呼べる彼女たちの生理的欲求でもあるそれは、元となった船舶の燃料搭載量に比例して強くなり、特に空母や戦艦などの大型艦艇で顕著に表れる。しかも機関ユニットを起動させ『艦艇』状態になれば経口摂取した余剰エネルギーも燃料の一部として消費されることから、大食いにはメリットこそあれデメリットは無い。

 

 そうでなくても娯楽の少ない軍隊生活だ。

 

 三度の食事を思いっきり楽しむことは、軍務に支障をきたさない健全な趣味として暗黙のうちに推奨されていた。

 

 が、

 

「ったく、別に食わなければ死ぬわけでもあるまいに」

 

 言いながら南雲はずずっ、とカップに入った卵色の液体をすする。

 

 その瞬間、苦味と言うより木の生皮でも齧ったような渋味に近い、コーヒーにあるまじきエグ味が彼の舌を凌辱した。思わずうえっ、と顔をしかめる。

 

 最低限の物資は届くとはいえ戦時中のこのご時世、ブルネイ泊地も補給が潤沢なわけではない。食堂の誰かがコーヒーの嵩増しに、焙煎した木の根か大豆などの代用コーヒーでも混ぜたのかもしれない。サービスとはいえ、これは有難迷惑だ。

 

「……本当は逆なんですけどね」

 

「ん、どうした?」

 

「いえ、別に……」

 

 氷の入っていないグラスの生ぬるい水でまだピリピリする舌を漱ぎながら尋ねるが、赤城はわざと口ごもって誤魔化した。

 

 ともかくこのコーヒーもどきで、これ以上犠牲者が出んようにしなければな、と愚痴る南雲の様子を眺めながら、彼女は薄い衣を纏った鯨カツに漆黒の海ができるくらいたっぷりとウスターソースをかけ、箸でつまんでまず一口。そして、

 

「あら、これは……何もつけない方が良かったですかね」

 

 と、噛み切った鯨カツの断面を見ながら感想を漏らす。

 

 普通なら独特の獣臭さが気になる鯨肉だが、この鯨カツに使われている肉にはたっぷりの生姜をきかせた大和煮のような下味処理が施されていた。硬さも力を込めず自然に噛み切れる柔らかさ。

 

「なるほど、そのために衣を薄手にしたのですか。カツというよりもはやフリットに近い感じですが、肉の歯ごたえとマッチして上々ね」

 

 美味しいです、との台詞も半ばに山盛りの鯨カツと白米を、ひょいぱくひょいぱく交互に口へと運んでく。

 

「そう言ってもらえると、作った方としては恐悦至極」

 

 南雲としては素っ気なく言ったつもりだったが、

 

「ふふ、提督、顔がにやけてます」

 

「……うるせぇよ」

 

 指摘されて赤くなった南雲は、ぷいっとそっぽを向いた。そんな彼を優しく見つめながらも、赤城はマイペースに食事を続ける。

 

 このブルネイ泊地には、一つ特徴があった。

 

 それは今も赤城が食べている、泊地職員食堂の期間限定メニュー『提督定食』の存在。

 

 商品広告で良くある『宮内庁御用達』や『提督の愛した~』とかいう煽り文句ではなく、文字通り『提督が作った定食』という変わり種だ。

 

 元々南雲は実家が老舗の日本料亭だったところを、跡を継ぐのを嫌がって兵役年齢に達して調練に召集されたのを、これ幸いにと海軍勤務を希望しそのまま残留。本人としては、どこかの水雷艇あたりでカレー鍋をかき回しながら生きていければ、とぼんやり考えていたところに、何を間違ったか人型戦闘艦艇『艦娘』を指揮運用する『特務提督』としての適性を見出されてしまった。

 

 霞が関の赤レンガで一通り形だけの研修を受けた後、帝都東京から南下すること直線距離で4,300km余り。

 

 彼はインドネシア、マレーシア、ブルネイ王国の三カ国が領土を有するボルネオ島、その北部にあるブルネイ王国内帝国海軍駐屯地『ブルネイ泊地』の司令官として着任する。

 

 そんな中一人きりで放り出されて右も左も分からない彼を最初期から支えてくれたのが、食習慣に難はあるものの秘書艦として、そして貴重な航空戦力としても極めて優秀な正規空母『赤城』。元々彼女の提案で南雲のストレス解消と所属艦娘の士気高揚を兼ねて始まったのが、この『提督定食』システムだった。

 

 基本的に南雲の気が向いた時、食材がある時に食堂メニューの黒板に告知される『提督定食』は、本土から遠く離れて和食に飢えている少女たちにとって、その味はいつしか究極の目的となっていた。作戦任務でMVPを取った時に貰える『提督定食』の食券は、文字通りお金に変えられないプラチナチケットとしても認識されている。

 

 この『提督定食』が軌道に乗った頃、何かお礼を、と南雲が赤城に尋ねたところ、彼女は『それでは好きなだけ、提督のご飯を食べられる権利をお願いします!!』と間髪入れずに答えた。

 

 以降、件の提督定食とは別に出撃の無い日はできる限り毎日、他の艦娘に提供するもとは別にして、南雲は彼女に手料理をご馳走しているわけなのだが……最近はそれが、泊地構成員の殆どを占める駆逐艦娘と赤城の間に溝を作っている気がしないでもない。

 

「しかしまあ何だ、俺としては艦種と役割は違っても、自分の部下には仲良くやって欲しいってのが正直なところだ。特にお前みたいな空母は攻撃力こそ一級品だが、駆逐艦その他の直掩艦隊がいなければ運用に不安が残る」

 

「それは重々承知していますけれど……」

 

「なら猶更、お前のために護衛も遠征も頑張ってくれている連中のこと、慮ってやってくれないか。俺としても、お前があいつらに食欲魔人みたく言われているのは、あまり聞いてて楽しいもんじゃない」

 

 知っての通り、こっちはお前らが出撃したら銃後で待つしか無い身だからな、と付け加える。

 

「―――善処します」

 

 鯨カツを平らげ終えた赤城は、そう言って付け合せのお新香をぽりん、と噛む。

 

 いつの間にか夕立たちの声は聞こえなくなっており、食堂には南雲と赤城だけが残されていた。その隣のテーブルでは褐色肌をした現地人のおばちゃんが一人、汚れが取れないのか無愛想な顔で何度も天板を台拭きで擦っていた。

 

 

 

 

 

 

「先制攻撃、か……」

 

「はい。先日の遠征任務で、ボルネオ島・マレー半島シンガポール間の定期航路近傍に、E領域発生の兆候と思しき敵の集簇を認めました。現在、長良が駆逐艦を連れて戦闘予定海域の絞り込みと周辺警戒を行っていますが、これまでの情報を分析したところ敵戦力の中心は、軽巡と雷巡が主体となっている模様です」

 

 黒髪をロングボブにした頭から、針を生やした様な空中線支柱を模したカチューシャが特徴的なヘソ出しセーラー服の眼鏡っ娘、高雄型重巡4番艦『鳥海』が、執務室の机の前でレポートを手に説明を続ける。

 

「では、作戦を具申させていただきます。まず軽巡を中心とした快速船団から水偵を飛ばして、海域深部を偵察し位置の詳細を確認。次に敵の反撃を受けないアウトレンジから空母艦載機による爆撃を行い、砲雷撃戦に移行。私の計算ではこの時点で敵戦力の大部分は殲滅できているはずです」

 

 そう言って彼女は、作戦見取り図を南雲の前に差し出した。

 

 ボルネオ島からシンガポールに行く航路は、ちょうどブルネイ泊地から南西に600kmの位置にあるマレーシア領クチン港を経由する形になっている。

 

 クチン港を出た船はボルネオ島沿岸を離れた後はほぼ真西に進み、問題が無ければ約一日でシンガポールに到着することになる。

 

 今回敵艦が集まっているのは航路の北。艦娘たちの記憶にあるマレー沖海戦で、機雷敷設拠点となったアナンバス島を含むリアウ諸島州と呼ばれる小さな島々だった。

 

 F領域に含まれるそこは、放置された無線観測施設がある他は何もない無人島群。その島影に精度の低い監視通信衛星の目を逃れるようにして、多数の深海棲艦が集まってきている。

 

 たまたま定期航路を外れる必要のあった船の護衛任務で、索敵行動を行っていた鳥海がそれを見つけてきたのは、泊地にとって予想外の成果だった。

 

 現時点で確認された敵戦力は、駆逐艦4隻、軽巡4隻、雷巡5隻に重巡が3隻。

 

 幸い軽空母や空母、戦艦級は確認されていないことから、こちらの航空戦力を活用することができれば一方的に有利な状況を作り出せる、というのが鳥海の読みだ。

 

「敵残存艦数が予想より多ければ、空母は損傷を受けた艦を直掩として帰投。現場では健在な艦を中心に臨時の水雷戦隊を編成し、ブルネイに向かって微速で転進し敵を引き付け、そのまま夜戦に入ります。そして空母が帰投次第、交代で泊地の守備艦隊が駆逐艦を中心とした新たな水雷戦隊を編成し出撃。これを追加戦力として戦場に投入し、夜明けまで掃討を行います」

 

「つまり、先行偵察による正確な敵戦力把握と、開幕爆撃でどれだけ敵戦力を削げるか、が作戦の成否を分けるわけだな」

 

「はい。海域の核となるべき鬼級や姫級が出現していないことから、今回の作戦で敵殲滅に成功すれば次のE領域発生を未然に防ぐことができるかもしれません、が……」

 

 ちらっと鳥海が、黒い革張りのワーキングチェアに座った南雲の横に立つ赤城に視線を向けた。

 

「……作戦の性質上、空母の艦隊編入は必須。そして単純な戦力比は深海棲艦有利のため、下手を打つと藪蛇で手が付けられなくなる、と」

 

「仰る通りです。この作戦はハイリスク・ハイリターンかつ、唯一の空母である赤城さんに全てを委ねる形になっています。他の鎮守府、例えば近隣のリンガ泊地やタウイタウイ泊地から応援を得られれば、作戦成功率も飛躍的に高まるのですが……」

 

 そう言って眼鏡の奥で橙色の瞳を閉じる。

 

 既に南雲の名前で両泊地に協力を打診はしているのだが、一週間が過ぎているというのに何の応答も無い。

 

「どこも苦しい状況だ、無理は言わんさ。実際ここ10年の間に急激に進んだ海上劣勢のせいで、アジアの定期航路は優先度の低いものからどんどん閉鎖されてっている。最近は物資輸送も滞りがちだし、現地住民が帝国海軍に向ける視線も冷たい。何でも本土の方じゃ戦況打開のため、秘密裏に特殊な艦娘の配備が始まったとかいう噂もあるが、そんなのがうちに来る頃には、俺たちは海から締め出されているだろう……」

 

 机の上の南雲の拳が、ぎゅっと強く握りしめられる。

 

「だからこそ、俺たちのブルネイ泊地単独で準E領域を攻略できる機会は逃したくない!! これ以上の敵の進出を食い止めるためにも、東亜の海を守るためにも!!」

 

 普段職務中はあまり感情を露わにしない彼のいつになく熱の入った様子に、眼前に立つ鳥海の方はこの人にもそんな一面があったのか、と少し驚いていた。

 

「―――行きましょう」

 

 それまで南雲の横で黙っていた赤城がゆっくりと、だがはっきりとした声で言い切った。

 

「ですが私の計算でも、不確定要素を完全には……」

 

「航空母艦の真価は専守防衛でなく、脅威の事前排除において発揮されます。特に索敵と先制攻撃に於いては、他の艦種の追随を許しません。危険というのであれば、有視界で行う通常の砲雷撃戦の方がよほど危険です。提督……」

 

 彼女は一歩、南雲に向かって踏み込む。

 

「私たち艦娘は提督の『手段』です。そして提督、あなたは私たちの『目的』なんです」

 

 赤城の手が南雲の肩に置かれた。小さな桜貝がその耳元で囁く。

 

「教えて下さい提督……『目的』は『手段』に何を望みますか?」

 

『勝利を』

 

 ―――そう言ったつもりだったが、何故か南雲の声帯はそれを音にすることを拒んだ。

 

 だが彼の唇の動きを呼んだのか、赤城は満足そうに頷いて、すっと身体を離した。

 

「ありがとうございます。空母機動部隊を編成するなら、私にお任せくださいませ。鳥海さん、これから作戦の具体的な内容について……」

 

 その時、とたとたとた、と軽い足音が走ってきて執務室の扉の前で止まった。

 

「提督、早く開けて下さ~い!! 先行偵察に出てる長良さんから、提督宛に緊急無線が入っているよ~!!」

 

 南雲が目で了承すると、鳥海がつかつかと歩み寄り扉を開く。

 

 そこに立っていたのは村雨だった。いつもと変わらぬマイペースな口調とは裏腹に、彼女の顔には何やら焦りが見て取れる。

 

「緊急無線? 偵察任務中ですから、長良さんには無線封鎖を指示していたはずですけれど……」

 

 鳥海が首をかしげる。

 

「余裕が無くて偵察機に短文無線を託して送った、ということでしょうか。村雨さん、中に入って通信文を読み上げてください」

 

「はいはーい!!」

 

 赤城に促されて村雨は、ぴょんとスカートの端を翻して執務室に飛び込んだ。

 

「え~とですね、

 

『ワレ作戦海域ニ接近スル新タナ敵影ヲ認ム』

 

『敵中破ノタメ艦影識別困難、オニ級装甲空母鬼ト推測』

 

『8時間以内二海域侵入、旗艦化ノ恐レアリ』

 

『大至急追加指令乞ウ』

 

……以上です」

 

 最初は元気だった村雨の声が、どんどん小さくなっていくのが分かった。

 

『装甲空母鬼』

 

 巨大な両腕を備えた深海棲艦の生首に、長髪の少女が跨ったような姿をした『鬼』級深海棲艦。16インチ連装砲と艦上爆撃機を備えた、火力・装甲とも一般的な艦娘を軽く凌駕する強力な個体だ。

 

 彼女たちのような『鬼』『姫』級深海棲艦が敵性海域の中心で司令塔となることで、海軍の基準ではE領域と認定される。

 

 これまで『鬼』『姫』級は海域最深部で自然発生的に出現すると考えられていたが、今回のように他の海域から流れてくるパターンがあるというのは、南雲にとっても初耳だった。

 

「鳥海、悪いがさっきの作戦は無かったことにしてくれるか」

 

「妥当な判断だと思います。E領域発生を未然に防げなかったのは痛恨ですが、逆にE領域だと軍令部に認識されれば、他の鎮守府も協力せざるをえなくなりますから」

 

 すぐに長良には撤退指示を出しましょう、と鳥海は回れ右して村雨と一緒にその場を離れようとする。

 

「本当にいいんですか、提督?」

 

 執務室に赤城の凛とした声が響いた。思わず皆の動きが止まる。

 

「敵が旗艦化してしまえば、E領域となった海域の深海棲艦は爆発的に数を増やします。また集まった仲間を材料にして、敵旗艦は驚異的な回復力を発揮します。オニ級であればヒメ級に自己改装する可能性も……。そうなってしまえば通常船舶はもちろん、艦娘の被害も甚大なものになるでしょう。この劣勢下で軍令部は、むしろ貴重な戦力を温存しようと海域の放棄を決定するかもしれません」

 

「何が言いたい、赤城?」

 

「敵を叩くのならば今この瞬間しかない、ということです」

 

 きっぱりと言い切る。

 

「……確かに長良さんの報告が正しいとすれば、装甲空母鬼は中破している上に海域到着まで時間があります。その間に敵戦力を殲滅することができれば、あるいは……」

 

 落ち着かなさげに眼鏡の縁を上げ下げする鳥海。

 

 だが時間との勝負になる上に、ただでさえ戦力的に劣っているところに装甲空母鬼が増援として現れることになる可能性が高い。

 

「やはり却下だ。こんな分の悪い賭けに、多数の艦娘の命を注ぎ込むわけにはいかん。すまんが今回は……」

 

 赤城は握りしめられたままの南雲の拳に、そっと自分の白く掌を重ねる。

 

「相変わらず提督は、自分に嘘をつくのが苦手ですね」

 

「俺は極めて合理的な判断をしているつもりだぞ」

 

「ならば何故、そんなに悔しそうな顔をしてらっしゃるのですか?」

 

 ぐっ、と言葉に詰まった南雲は思わず赤城から視線を外してしまった。

 

「分かっててそれを聞くかよ」

 

「ふふ、こうして突っついてあげでもしななければ、提督は頑として私たちを危険な戦場に遣ろうとしませんから」

 

 もちろんですと言わんばかりに、にこやか答える赤城。

 

 南雲は深く息を吐き出した後頷き、机から立ち上がる。そしてきっと意志を込めた瞳で、鳥海と村雨の方を見つめた。二人は直立して提督の言葉を待つ。

 

「さっきの中止命令は撤回だ、鳥海。これより我々ブルネイ泊地は、泊地の総力をもって準E領域の攻略に臨む!! 正規空母赤城は艦隊旗艦として、待機中の重巡摩耶を副艦に直ちに出撃!! 以降前線での戦闘指揮判断は旗艦に委ねる!! 村雨は通信室に向かい、長良に一旦警戒海域を離れ赤城の合流を待つよう伝えた後、随伴艦として赤城の指揮下に入れ!! 鳥海は秘書艦代理兼守備艦隊旗艦として泊地で待機、第二次攻撃部隊としていつでも出撃できるようにしておけ!! 」

 

『了解!!』

 

 海軍式敬礼で応えた村雨はすぐに執務室を飛び出す。鳥海は部屋を辞する際振り返り、南雲たちの様子を覗いながらぺこっ、と頭を下げ村雨の後を追った。

 

「―――俺は卑怯な男だ。お前たちに『死ね』と命じておきながら、自分はいつも傷つかない場所で悩んだふりだけしているんだ」

 

 二人が去ったのを確認して再び椅子に座りなおした南雲は、音が聞こえるくらい強く唇を噛み締めた。

 

「提督……」

 

 ふわり、と南雲の身体が優しい風に包まれる。微かに甘い香りを漂わせる長い黒髪が、優しく彼のうなじを撫でた。

 

「子を産み育てるはずの女しか戦場に出ることが叶わない……嫌な、世界です。本当に……」

 

「赤城、お前……」

 

 両腕で南雲の頭を掻き抱きならが、まるで自分に言い聞かせるように呟く。

 

「大丈夫です、提督。あなたの艦は沈みません。だって……」

 

 ぎゅっ、と力が込められる。

 

「だって提督のご飯、まだ全然食べたりないんですもの」

 

「……おい、この期に及んで飯の心配かよ」

 

 南雲が苦笑を漏らす。それはやがて笑いに変わり、執務室にいつものような二人の楽しそうな声が満ち溢れた。

 

「ったく、分かったよ。帰ったら好きなだけ食べられるよう、艦隊全員分準備して待ってるさ……ありがとな、赤城」

 

「いえ私こそ。ごちそうさまです、提督」

 

 見えないように口の端の涎をこっそり拭いながら身体を離した赤城は、背筋を伸ばして南雲に対し敬礼の姿勢を取る。

 

「それでは敵性海域攻略のため、提督のため―――南雲機動部隊、これより出撃します!」

 

 凛とした赤城の姿を見ていると、不意に何故か南雲の舌の上に、以前飲んだ代用コーヒーのような苦みが浮かんできた。

 

 

 

 

 

 ―――深夜○一三○、ブルネイ泊地食堂裏。

 

 誰もいない厨房で一人、南雲は黙って包丁を研いでいた。

 

 しゃっ、しゃっ、と石を鉋で削るような音がシンクに溜めた井戸水の上を走っていく。

 

 既に明日の分の仕込みは終わっていた。そして赤城たちがいつ帰ってきてもいいように、夜食のおにぎりや出汁巻き卵などが調理台の上に、ラップを被せられ並んでいる。

 

 ……赤城たち第一陣が泊地を出撃してから、既に10時間が経過していた。

 

 予定では日が暮れる前に爆撃を終えた赤城は帰投しているはずだったが、日没直前に追加戦力の投入要請があって以降、無線封鎖は解除しているのにも関わらず彼女たちからの通信は無い。泊地としても既に駆逐艦2隻を除き鳥海たち守備艦隊も出撃してしまっていることから、手元には状況確認に出す艦娘戦力さえ残されていない。

 

 そして戦闘海域への偵察機の派遣は、何度頼んでも泊地の海軍航空隊に頑なに拒否されてしまった。

 

 深海棲艦蠢く海への深夜飛行は死と同意義。

 

 結局今の彼にできることは、ただひたすら信じて少女たちの帰りを待つことだけだった。

 

 ……南雲は砥ぎ終わった包丁をふと、鉄格子の填まった小さな窓から注ぐ月光に透かし見てみた。

 

 14歳、まだ国民学校高等科二年の時、亡くなった祖父の形見分けとして父から譲り受けた包丁。その刃は十年以上の歳月を経て擦り上げられ短くなってはいたものの、月光を照り返し青白く輝くそれは、何やら迷いを断ち切る魔力が宿っているかのようだった。

 

『提督、綺麗な包丁ですね』

 

 泊地に着任してしばらくの頃、不慣れな提督業務に押しつぶされそうになっていた時……昔よくそうしていたように厨房裏で一人この包丁の手入れをしていると、秘書艦の赤城が話しかけてきた。

 

 それまで彼女とは事務的な会話しかした覚えが無かったので、びっくりしたのを覚えている。そうでなくても男所帯の軍隊生活がいきなり女学校教師のような提督職に変わり、少女たちとコミュニケーションを取りあぐねていたところだったのだ。

 

 ここ数年、郷里の老いた母親以外の女性と会話した経験すら数えることしか無い南雲にとって、外見年齢が近く、その上目の覚めるような和風美人の赤城が秘書艦業務以外で自分に話しかけてくることなど想像もしていなかった。

目を白黒させて動揺する南雲を赤城は、今夜と同じ蒼い月光の中、彼が落ち着きを取り戻すまで柔和な笑みを湛えたまま、何も言わずにずっと待っていてくれた。

 

 やがて気を取り直した南雲が、自身が元々主計科希望だったこと、気持ちを落ち着けるために包丁をいじっていることをぽつりぽつりと打ち明けると、彼女はゆっくり口を開いた。

 

『でしたら提督、提督ご自身のストレス解消も兼ねて、泊地の皆のために料理を作ってあげてはいかがでしょう?』

 

 そんな言葉が返ってきた。

 

『艦娘は船霊との相性問題から、一部を除いて本土の日本人子女にしか適性がありません。お国のためとはいえ泊地の艦娘には、まだ親元から離れるのに早い年齢の子も含まれています。そんな子たちに懐かしい日本の料理を作ってあげられれば、きっと皆、喜んでくれるはずですよ』

 

 翌日、試しに茶碗蒸しを作って昼食時の艦娘たちに振舞ってみたところ、出汁と卵、扇切り紅白カマボコにミツバを散らしただけの簡単なものだったにも関わらず、予想以上の反響が返ってきた。

 

 熱いのにも構わず大量に掻き込む者、黙ってそのプリン色の表面を見つめる者、ひたすら匂いを嗅ぐ者、少しずつ舌先に乗せてゆっくりと楽しむ者、一口食べて泣き出す者……。

 

 そして頃合いを計って『これは提督が、皆のために作って下さったのです』と赤城が打ち明けた瞬間、全員の視線が南雲に集中する。

 

 怖気づいた彼が逃げ腰になると、その背中を赤城がぽん、と押してくれた。

 

 なんとか腹を括って姿勢を正し、自分を見つめる艦娘たちと視線を交差させた時、南雲は初めて少女たちと通じ合えたような気がした。

 

 これをきっかけに艦娘たちと打ち解け普通に接することができるようになった南雲は、赤城の助力もあり徐々に泊地運営を軌道に乗せていった。

 

 だがようやく泊地が落ち着いてきた頃のことだった、理由も無く遠征の輸送物資を横取りするなど、赤城の単独奇行が目立つようになってきたのは。

 

「あいつ、何であんなことを……」

 

 自分に一歩踏み出す勇気をくれた赤城自身が、今は勝手な行動で泊地の不和を広げている。それが南雲には理解ができなかった。

 

 と、軽快な革靴の足音と共に、艤装のがしゃがしゃという忙しない金属音が近づいて来た。

 

 ぱぱっ、と食堂の、続いて厨房の照明が点灯された。

 

「ここにいたんですねっ、司令官っ!! 電話、何度も鳴らしたのに出ないから、直接迎えに来ましたっ!!」

 

 そういえば連絡用の携帯は上着と一緒に食堂入り口に掛けてしまっていた。失敗したな、と南雲は声の主に視線を向ける。

 

 蛍光灯の放つ淡い白色光の中に立っていたのは、先行偵察部隊を指揮していた長良型軽巡1番艦『長良』。短い黒髪をサイドテールにまとめ白鉢巻を締めた、高等学校の陸上部員のような健康美溢れる少女。

 

 だが今の彼女は、脇下に紙垂をあしらったいつものセーラー服ではなく、薄桃色のスポーツブラにえんじ色のブルマ、切り裂かれた白のオーバーニーソとあられもない姿で肉感的な素肌を南雲の前に晒している。背中の艤装も片方のジョイント部分が千切れ、歪んだ魚雷発射管がだらしなく頭を垂れていた。

 

「長良、お前装甲が……いや、よく無事で戻って……」

 

「そんなこと、今は関係ないよ!! 司令官、私なんかより赤城さんが―――赤城さんがっ!!」

 早くっ、そんなんじゃ全然遅いっ!! と彼女に無理やり手を取られ、俎板に包丁を置くや否や職員食堂から引っ張り出される。濁った暗闇の中、厨房の窓からも見えた月光と数多の星影が赤道直下にも関わらず寒々しく二人を照らす。

 

 いつもは元気で饒舌な長良が、今日に限って何も言わずに必死で走っている。

 

 その先にあるのが見慣れた泊地司令部でなく、普段は使っていない艦娘療養施設に併設された緊急医療棟の白い建物だということが分かった時点で、南雲の胸の中に芽生えた不安の影が少しずつ育っていった。

 

 そしてそれは扉を開け、集まった沈痛な面持ちの艦娘たちの姿を目にした瞬間、最高潮に達する。

 

「赤城ッ!!」

 

 群れ為す少女たちを掻き分け、その中心を目指す。

 

 そして彼が見つけたのは、金属製の救急担架の上で白い裸体にシーツをかけただけの姿で横たわる女性。

 

 艤装も装甲も取り払われた彼女の身体には火傷や血痕が残り、突き出された手足は血の気が失せ、マネキンのように生命力を感じさせられない。腕に繋がれた2本の点滴と輸血パック、絡まった幾つものコード線に心電図の波、そして顔を覆う酸素マスクの曇りだけが、かろうじて彼女がまだ死んでいないことを教えてくれていた。

 

「赤城―――どうして―――」

 

 思わず彼女に縋り付こうとした南雲を、白衣を着た若い女性衛生兵が「本来なら緊急手術なのを、本人の強い希望で待機しているのでどうか……」と押し留めた。

 

 一旦引き下がった後、改めて恐る恐る手を伸ばし、赤城の細くしなやかな指先を握る。彼の掌に、人の身ではありえない冷たさが伝わって来た。

 

「うちのせいなんや……」

 

 俯いたまま、赤城の横に立つ黒潮がぼそりと呟く。艤装を付けたままの彼女自身も、ブレザーは焼け焦げスパッツは裂け、酷い有り様になっている。

 

「どういうことだ、黒潮!?」

 

 握った手はそのまま、顔だけを上げて黒潮に鋭い視線を向けると、彼女はぽつりぽつりと喋り出した。

 

「一次攻撃の後うちが…うちが間違って艦隊進路から外れてしもたせいで、皆の艦隊機動が乱れて装甲空母鬼に追いつかれましてん……それで赤城姐さんが時間を稼ぐため、囮に……」

 

 黒潮は言うなりその場でしゃがみこみ、自分の連装砲を抱えて声も無く泣き始めた。

 

「艦隊旗艦なのに、夜戦じゃ空母は役に立たねぇから、って強引にな」

 

 あたしが付いていながらよ、クソが!! と行き場の無い怒りを露わにする高雄型重巡3番艦『摩耶』。鳥海と同じ服装髪型だが、妹と違って男らしいとも言える勇壮さに溢れた彼女は、紺碧色の瞳に悔しさを滲ませながら吐き捨てた。

 

「撤退には失敗したものの、おかげで残存戦力は攻撃に専念することができました。夜戦に入ってから3度の反復雷撃を行い、装甲空母鬼も含め敵戦力の殲滅には成功……したのですが……」

 

 姉に続いて戦績を報告する鳥海だが、そこから先は南雲の事を慮ってか、彼女は口を噤む。

 

 それは、赤城の自己犠牲によって得られた勝利。

 

「……俺が望んだからなのか、赤城……俺が……俺が無理な出撃を命令しなければ……」

 

「提督のせいじゃありません」

 

 目を閉じ顔を歪め自分を責める南雲の耳元で、幽かな声が囁いた。

 

「赤城―――」

 

「ふふ、雷撃処分してくれてもよかったんですけど……また提督のご飯、食べたくて帰ってきちゃいました」

 

 薄く目を開けながら、冗談めかして笑う赤城。だがその声は、いまにも消えてしまいそうなくらい弱々しい。

 

「馬鹿言うな!! 沈まないと言ったのはお前の方だろうによ」

 

「そうでした、ね……」

 

 彼女は一度瞳を閉じ、一呼吸置いてからゆっくりと唇を動かし始めた。

 

「提督……私の慢心が原因で、お預かりした艦隊に手痛い損害を出してしまいました。申し訳ありません」

 

「他の艦娘の事なら気にするな。お前は艦隊旗艦として立派に役目を果たしたし、その上仲間も守り切った。大体資源が足りないことを言い訳にして、お前以外の空母を建造しようとしなかった、攻められるべきは俺の……」

 

 そこまで言って南雲ははた、と気が付いた。

 

 何故自分は空母を建造しなかったのか。

 

 資源に、特にボーキサイトに余裕が無かったのが理由だが、その原因を作ったのは……。

 

「お前……まさか俺に空母を作らせないため、わざと資源を……」

 

 確信が持てず半信半疑で尋ねる。

 

 担架の上の赤城は困ったように少し眉の端を下げて頷いた。

 

「どうしてそんな勝手なことをした!? せめてもう一隻空母が、そうでなくても防空可能な艦娘が揃っていれば、お前を危険に曝さずに済んだのに!!」

 

「それが慢心―――私一人で全てを果たすことができるはずだと、そう思っていたんです。結果はこの有り様ですが」

 

 自嘲するように唇の端を小さく歪める。

 

 だがお前だけのせいでは、と言いかけた南雲をよそに、赤城は言葉を続けた。

 

「ご存知でしたか、提督……あなたが一回艦娘建造を陳情する度に、何も知らない少女の元へ召集を知らせる赤い紙が一枚、届くんです。そして艦娘として異国の海に放り出される……我儘で独善なのは承知していますが、これ以上艦娘になる子を……私は……」

 

 突然赤城が苦痛に顔を歪めた。

 

 心電図が激しく波打ち、耳障りなアラート音が鳴り響く。担架を囲む艦娘たちに不安のさざめきが広がった。廊下の向こうから白い服を着た何人もの軍医や看護師たちがこちらに向かって来るのが見えた。

 

「赤城!?」

 

 だが彼女は自分の事は構わず、酸素マスクの下で荒く息を弾ませながらも必死で言葉を絞り出そうとする。

 

「―――提督、お願いがあります。私がいなくなったら、泊地の皆に私の分も提督のご飯、いっぱい食べさせてあげて下さいね」

 

「ふざけんな、こんな時に何言ってやがる!! いいからもう静かに―――」

 

 狼狽した南雲は赤城を押し留めようとする。彼の耳元では相変わらず鋭いアラーム音が鼓膜を突き刺し続けている。

 

 だが赤城は制止などものともせず、どこにそんな力が残っていたかと思うくらい強く南雲の手を握り返した。彼女の瞳だけが、まるで蝋燭の火が消える前に一瞬激しく燃え上がるかのように、ギラギラと異様な輝きを放っている。

 

「いいえ、聞いて下さい―――明日は海の藻屑になるかもしれない艦娘にとって、今日のご飯が最後の晩餐なんです。だからせめて―――提督、お願い―――」

 

 そう言ったきりくたりと手の力が抜け、彼女の指は南雲の掌をすり抜け硬い金属製担架の上にことり、と音を立てて落ちた。

 

「赤城!! おいしっかりしろ赤城ィィッッ!!」

 

「赤城さん!!」

 

「嫌やっ、赤城姐ぇさんっ!!」

 

 衛生兵の制止も構わず南雲は赤城の肩を激しく揺さぶった。だが生命の焔が消えた彼女の身体は、まるで糸の切れた操り人形のようにされるがまま、何の反応も示さない。

 

「提督、お退きください!!」

 

 白衣を着た衛生班主任らしき男性が南雲と赤城を引き離し、心電図を確認する。

 

「除細動が必要です!! 全員離れて!!」

 

 続いて現れた白衣の男女が艦娘たちと赤城の間に割り込み、人の壁を作った。

 

 主任はそれを確認し、心電図モニターと一緒になっている除細動器の充電スイッチを押す。

 

 電力がチャージされる警告音の後、起動スイッチが押される。

 

ドンッ!!

 

 激しい電気刺激を受け、意識の無い赤城の白い体が担架の上で跳ねる。

 

「よし戻った!! 今のうちに集中治療室に運ぶんだ!! 追加の輸血が届き次第、緊急手術を始めるぞ!!」

 

 よろしいですね提督、と確認する主任に、南雲はただ頷くしかなかった。

 

 担架で運ばれていく赤城の表情は、まるで眠り姫のように美しく安らかだった。

 

「皆、先に行って手術の準備を。提督、私から少々お話があります」

 

 主任の男は呆然自失とする南雲の腕を取り、離れた廊下の隅に誘導する。

 

「正規空母赤城のことです。提督もご覧になられた通り、彼女は今、非常に危険な状態です。敵の攻撃による全身の打撲、熱傷、裂傷に加え、生体砲弾の破片がそこかしこに喰い込んでいます。また外装だけでなく内臓にも大きなダメージを受けていることから、回復には相当時間がかかるでしょう」

 

「―――お前、言いたいことは何だ?」

 

 頭上で明滅する蛍光灯が、ジジッと嫌な音を立てた。

 

「単刀直入に申し上げます。あの空母はもう使い物になりません。たとえ命が助かっても、元のスペックは発揮できない。あれは解体、除籍処分にするべきです。もしくは陳情で高速―――」

 

「―――ッ!!」

 

 気付いた時には既に、南雲の右手は主任の襟元を締め上げ廊下の壁に押し付けていた。

 

「かはッ!! て、提督何を……」

 

 宙吊りにされた白衣の男は空気を吐き出し、自分に起きたことが理解できず眼を白黒させる。

 

「一つだけ言っておく――――俺の赤城はあいつ一人だ。手前らもプロなら死ぬ気で助けろ」

 

「ですがあの状況からの修復は……」

 

「もし!! あいつに何かあってみろ―――手前ェら全員開きにして、司令部の軒下から吊るしてやるぞ!!」

 

 南雲の喉からは、本人も驚くほど低く重い声が湧き出した。

 

「ヒッ!!」

 

「分かったら行け!! 行って、お前のやるべきことを為せ!!」

 

 縛めを解かれた男はよろめき、一度怯えた顔で振り返った後、逃げるようにしてその場を立ち去った。

 

「……くそ、何をやってるんだ俺は!!」

 

 やり場のない怒りでセメントの壁に拳を打ち付ける。何度も何度も、握りしめた指から血が滴り落ちるのも構わず。それは自分が傷つけば、その分赤城の助かる可能性が上がる、という願掛けにも似た無意識の行為だった。

 

「やめろ提督!! あんたまで壊れちまったら、あたしたちどうすりゃいいんだよ!!」

 

 後ろから羽交い絞めにされ、無理矢理壁から引き離される。

 

「摩耶……」

 

「あんたにもまだ、やれることがあんだろ!! 自分だけ怪我して逃げようってんなら、ぶっ殺すぞお前!!」

 

 ほとんど彼女に抱きしめられるような形になった南雲は、ゆっくりと腕を下ろした。

 

 自分の手を見る。血塗れになった拳は、何故か全く痛みを感じなかった。

 

「提督、帰投中に赤城さんから彼女が独自に備蓄した資材のリストをいただきました。これまでの遠征結果と照合しましたが、計算上でも合致しています。現在保有する資材の約3割に相当する量が、手つかずでそのまま倉庫に仕舞われている様子です」

 

 姉の後ろから報告する鳥海。

 

「そうか……ありがとう鳥海。すまん摩耶、もう大丈夫だ。」

 

「お、おぅ……」

 

 摩耶が自分から手を離すと、南雲は自分の服を整えぱんぱんと埃を払い、艦娘たちに向き直った。

 

 幾つもの少女たちの瞳が、不安そうに彼を見つめている。

 

 ……こんな場面が前にもあったっけ、と南雲は妙に冷静になった頭で思い出していた。

 

 その時は赤城が傍にいて、背中をぽんと押してくれたな。

 

「分かってるさ、赤城よ。俺は俺でやってみる。だからお前も、な」

 

『はい、提督!!』

 

 ふと、そんな彼女の声が聞こえた様な気がした。

 

「皆聞いてくれ。今回、泊地全員の働きでE領域発生を未然に防ぐことができたのは、帝国にとっても人類全体にとっても非常に大きな戦果だ。だが俺と秘書艦の赤城との間で意志の疎通が取れていなかったことからこのような事態を招いてしまったのは、謝罪のしようがない」

 

 本当にすまん、と頭を下げる。

 

「その上で皆に頼みがある。泊地唯一の空母である赤城が欠けた今、航空戦力の補充は急務だろう……だが俺は、もうこれ以上艦娘建造を行わない!!」

 

 俯いたままそう宣言すると、南雲の周りでどよめきが起こった。

 

 当然だ。空母も航巡もいない状態では、索敵が重巡と軽巡に搭載した水上偵察機にしか頼れない。

 

 それはつまり航空爆撃による先制ができないばかりか、場合によっては偵察もままならず、不利な状況での戦いを強いられることになる。

 

「これは俺と赤城の独善であり傲慢だ。今後泊地を去りたいものは自由に申し出てくれて構わない。転属でも除隊でも、望む通りの対応をしよう。しかし……」

 

 勇気を出してその先の言葉を続ける。

 

「もし、それでも俺たちに力を貸してくれるのなら……頼む!! 知っての通り、俺は飯を作ることくらいしかできない無能な男だ。なのに今この瞬間も、懲りもせずとんでもなく阿呆なことを抜かしている……」

 

 緊張のせいでそう思えるのか、艦娘たちの声は聞こえない。

 

「だがそれでも!! 俺はあいつの、赤城の気持ちを汲んでやりたい!! 会ったことも無い誰かのために全部一人で背負い込もうとした、馬鹿で優しいあいつの気持ちを!!」

 

 最後の方は知らず絶叫になっていた。

 

 そのまま頭を下げた姿勢で動きを止める。艦娘たちからの裁決を待つかのように。

 

 ……短い時間だが南雲には、それが永遠にも思えた。

 

「司令官さん、顔を上げて下さい」

 

 やがて鳥海が彼に促す。

 

 南雲は恐る恐る頭をもたげて艦娘たちの方を見た。

 

 彼女たちはその場から全く動いていない。去ったものは誰もいない。

 

 ―――いや、それだけではなかった。

 

「お前たち……」

 

 鳥海を始めとして摩耶、長良、村雨、そして涙を拭った跡も赤いままの黒潮や他の艦娘たちも皆、直立不動で南雲に対して敬礼をしていた。

 

 感謝の気持ちが胸一杯に満ち溢れた彼は礼を言おうとしたが、思い直して無言の敬礼を少女たちに返す。

 

 そのまま時間がゆるやかに過ぎていく。

 

 ―――彼らの間に、もはや言葉は要らなかった。

 

 

 

 

 

 その後のブルネイ泊地の働きは、戦力充実を敢えて放棄したことにより海域攻略の中心となることは少なかったものの、泊地が一体になったかのような堅実で危なげの無い戦い方は、軍令部からも高く評価されている。

 

 中でも特務提督の南雲は艦娘たちの話に耳を傾け、その持てる能力を十二分に、そして安全に発揮できるよう適材適所に配し能く運用した。

 

 また彼は自分の持つ料理スキルを最大限に生かし、泊地での食事をただの栄養補給でなく士気の維持とコミュニケーションツールとして有効利用する。自身もそうだが、時には『料理を教えて欲しい』という艦娘と共に厨房に立つこともあったという。

 

 そして傷ついた赤城型航空母艦1番艦・赤城は手術を乗り越え一命を取り留めた。

 

 全治3か月。

 

 一時は艦娘復帰は絶望的と言われていたものの、彼女は諦めずに厳しいリハビリを敢行。本人の頑張りと泊地の仲間たちの支えにより、退院2か月後には泊地周辺海域の警備任務に就ける程度には回復することができた。

 

 以降、正規空母赤城は秘書艦として南雲提督に寄り添い、艦娘として3年の兵役期間が満了するまでこれを勤め上げる。

 

 ほぼ同時期に南雲提督も、実家の日本料亭を継ぐべく海軍を除隊。皆に惜しまれながらもブルネイ泊地を離れ、郷里の山形に帰っていった。

 

 艦娘としての役目を終えた者の行方は、誰も知らない。軍務の間の記憶を失い、代りの名前と新しい生活を与えられるとか、死ぬまで軍の監視が付くといった話もあるが、それも噂の域を出ない与太話。

 

 だが何にしても南雲と赤城の道はこうして別たれ、その後二度と交わることは無い―――はずだった。

 

 

 

 

 

 

『大将、もう勘弁して下せぇ!! また女将さんが座敷に出すお膳、つまみ食いしてやした!!』

 

『くぉんルァァァ赤城ィィィィ!! 手前ぇ大型艦の宿痾だの何だの言っときながら、結局元から食い意地張ってるだけじゃねぇかッ!!』

 

『―――赤城? いえ、知らない名前ですね……』

 

 赤い舌先がぺろり、と自分の頬っぺたに付いた栗きんとんの欠片を舐め取る。

 

『でも、この味は覚えています。これは私の大切な人が、私を想って作ってくれた味ですから』

 

『おま、こんな時に―――ていうか昨日もあんだけ喰い散らかしといて、まだ喰い足りねぇってか!!』

 

 かつて赤城と呼ばれていた長い黒髪が印象的な女性は、あの日と同じ満面の笑顔で答えた。

 

『量なんて関係ありません。私は、私の好きな人の料理を、ずっと食べていたいだけなんです、ずぅっと……』

 

そんな変わらない騒がしい日々まで―――4年7ヶ月と23日。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間劇2『紺色人魚姫伝説』(1)

オリョール海に キス島に~♪

凍る波涛も 赤道も~♪

 

 艦隊の先頭に立ち海中を進む白い軍帽に眼鏡をかけたスク水姿の金髪少女―――巡潜3型2番艦伊号第八潜水艦、通称伊8ことはちの耳に装着されたインカムからは、随伴艦二人の呑気な歌声が絶え間なく流れ続けている。

 

 潜水艦は静粛性が命だと何度も注意しているのに……と、はちはリンガ泊地を離れてから何百匹目かになる苦虫を奥の歯で噛み潰した。

 

征こう~ 萬里の海の中~♪

 

 無言で艤装から自分の海軍謹製海中スマホを取り出して、潜水艦用の航法アプリを起動。前回浮上位置から速度と時間、操舵のデータを入力することで、浮上しなくても現在推定位置を割り出すことができる優れものだ。

 

 ……あのショートランドを占領していた陸上移動する泊地棲姫を倒してから一週間後、司令艦・電から司令艦・伊58を中心とするリンガ泊地の面々に、延べ3回目となる欧州ドイツへの潜水艦派遣作戦が要請・発令された。

 

 すぐさま艦隊は海軍の高速艇で泊地を出発した後、岸沿いに西へと進みインド東海岸沖を南下。

 セイロン島で高速艇と別れてからは、人類未踏のF領域で真っ黒に塗りつぶされたアラビア海を横断。

 アフリカ大陸の西にあるマダガスカル島を通り過ぎ、大陸南端の喜望峰を回り、今は大陸西海岸沖をひたすらヨーロッパを目指して北上している途中だ。

 

 しかし第二次世界大戦中もそうであった通り、潜水艦での航海にはいくつか大きな問題があった。

 

 第一に太平洋戦争時の潜水艦技術をモチーフに開発された伊号潜水艦娘の機関ユニットでは、長時間の潜航が難しいこと。

 

 伊号潜水艦の動力は内燃機関のディーゼルと蓄電池-――ディーゼル・エレクトリック方式という、いわば一種のハイブリッド方式だ。ディーゼル機関には燃焼に空気が必要なため洋上航行で使用し、空気を取り込めない潜水中の動力はバッテリーを用いることになる。

 

 だがそのバッテリーが問題で、一度放電してしまえばディーゼル機関を回して蓄電しなければならないこと、バッテリー自体の容量問題から、伊号潜水艦娘の潜航時間は最大でも30時間から40時間程度。

 

 しかも潜航時間が長くなるほど機関のパフォーマンスは悪化し出力が低下、艦娘自身にも酸素欠乏に近い症状が現れ始める。

 

 なので艦隊は、昼間は水深30m程度の浅層を3ノット、時速5.5km程度で潜水航行。

 

 そして夜になったら浮上し、ディーゼル機関を回してバッテリーに充電を行いながらもっとも燃費の良い速度、つまり巡航速度16ノット、時速約30kmで周辺を警戒しつつ洋上航行を行うことになる。

 

 昼も夜も無く泳ぎ続けても、進めるのはせいぜい一日300km。これは昔、一か月以上かけて太平洋を行き交っていたブラジル移民船と同じ速度だ。

 

 第二次大戦の頃と違って可能な限り深海棲艦の現れない沿岸を進む航路を設定しているとはいえ、ドイツまでの道程は約20,000km。到着までかかる時間は片道二ヶ月程度と、水上艦に比べると異様に長い。

 

 第二に通信の問題。水中では極端に電波が減衰することから、通常の通信帯域の電波は使えない。よって海中での通信は音波か有線が基本だ。そうでなくても大東亜共栄圏を離れてしまえば通信基地アンテナも無く、性能の低い偵察衛星のカバー範囲からも外れてしまい、スマホは単なる箱になってしまう。

 

 ただしこの点、伊号潜水艦の機関ユニットにはVLF(超長波)アンテナが標準搭載されていたことから、艦同士の距離が10m前後であれば電波通信が可能であった。そのため遠征艦隊ははち、ゴーヤ、イクの順にまるで市民プールの遠泳専用コースを行儀良く泳いでいるかのように、10m前後の間隔で一列に並んで進んでいる。

 

 また電波を拾えないスマホであっても、機関ユニットに有線で繋げば友軍同士での簡単なチャットや音声通信のインターフェースとして使うことができた。

 

 そして第三、これが一番大きな問題かもしれない……。

 

乙女よ 力よ 頑張りよ!!

ああ~ われ伊号~潜水艦~♪ 

でち!!

なの!!

 

『Achtung!! いい加減にして下さい、二人とも!! これでは潜航している意味が無いです!!』

 

 『潜水艦娘の歌』の1番が終わったところで、はちが大声でトランシーバー状態になっているスマホのマイクに叫ぶと、歌はピタッと止まった。が、

 

『またはっちゃんのお小言、イクもう疲れたのね!!』

 

『そうでち!! 潜航しててもどうせモーター音が五月蝿いんだから、気分転換に歌くらいは許して欲しいのでち!!』

 

 静かになるどころか代わりに不満げな少女たちのキンキン声が返ってきた。

 

 確かに伊号潜水艦の機関駆動音は、かつてドイツの技術者が驚いたほどに騒がしい。

 

 といっても潜水艦の静音対策は難しく、海上自衛隊が

『ジャーンジャーンジャーン!! げえっ、漢級wwww』

 などと笑っていられるようになったのも、近年になってやっとだ。

 

 もちろん艦娘用に機関ユニットを構築する際、ある程度の消音改修を加えてはいるものの、あまりにオリジナルの伊号潜水艦と構造が違いすぎるといけないので、どうしても同じ問題点を抱えてしまう。

 

『Die klappe halten!! だからこそ少しでも静かに、と言ったはずですよ!!』

 

 はちはスマホを持った手をわなわなとふるわせながら、水中でくるっと身体を回転させて背泳ぎしながら後ろに続く二人を睨みつける。

 

 その視線の先、ショートカットにした桃色の髪の上で桜のカチューシャを踊らせながら、やわらかい頬っぺたをぷくーっと膨らませて威嚇している少女がリンガ泊地の司令艦・巡潜乙型改二3番艦伊号第五八潜水艦ことゴーヤ。

 

 そしてゴーヤの後ろで思いっきりあっかんべーをしている、紫色の髪をツインテールならぬトリプルテールにしたお色気たっぷりの巨乳少女が、巡潜乙型3番艦伊号第一九潜水艦ことイク。

 

 初めて派遣作戦に参加するイクはともかく、既に一度はちと一緒にドイツに遠征したことがあるゴーヤは、隠密行動の重要さを十分理解していると思っていたのだが……。

 

 はぁ、と水中で吐き出されたはちの溜息は気泡に変わることなく生体フィールドを介して、背負った機関ユニットの空気循環装置に回収されていった。

 

『イク、もう限界なのね!! 朝も昼も夜も休まず泳ぎ続けて6週間、一度も会敵していないのに息を潜めて過ごす生活……欲求不満でうずうずがうずうずで爆発しちゃうの!!』

 

『仕方ないですよ。燃料弾薬の補給ができない今、Deutschlandに着くまで一度でも敵に見つかったら、これまでの苦労が全部水の泡になります』

 

『分かってるの!! でも嫌なの!! 太陽浴びたい!! ご飯食べたい!! 身体洗いたい!! 服着替えたい!! なのに、どーしてはっちゃん分かってくれないの!!』

 

『待遇改善を要求するでち!! こんなブラック鎮守府、ゴーヤもやったこと無いでち!!』

 

 はちは背泳ぎ姿勢のままで頭を抱える。

 

 彼女には、二人の気持ちは痛いほど分かっていた。

 

 それどころか本当は自分も、許されるなら今すぐ機関ユニットを投げ捨てて、海軍指定のスクール水着から二―ソックスから全部脱ぎ捨て、裸になって海水の冷たさを直接肌に感じながら眩しい太陽の下に飛び出したいくらいだ。

 

 しかしそれ以上に、ここが我慢のしどころだということも彼女は理解していた。

 

 水上艦型の艦娘にも言えることだが、機関ユニットを起動して生体フィールドが発動し、『素体』『艤装』『船霊』が完全に同調している間は、艦娘は艦艇としての性質を獲得することができる。

 

 つまり燃料さえあれば、本来任務中の艦娘には食事も睡眠も排泄も必要ない。

 

 それどころか代償的に生物としての新陳代謝が極端に制限されるため、入浴や着替えも不要。

 

 また副産物として生体フィールドが発動した状態で過ごす間は、艦娘の素体となっている少女たちは年をとることが無い。

 

 成長期に差し掛かる年齢の駆逐艦娘たちなどが、極端に外見が変化することなく数年にも及ぶ艦娘としての任期を全うすることができる理由がそれだ。

 

 『艦艇』としては、イクの言ったような要求は全くもって不要。

 

 しかし『艦娘』としては、確かに不満が噴出してきてもおかしくない頃合いかもしれない。

 

 はちは自分のスクール水着の肩ひもをぐいっ、と引っ張った。

 

 インドで高速艇と別れてから既に40日以上、彼女はずっと同じ水着を着続けている。

 

 そう考えると、理屈上は問題無いにも関わらず、段々自分がものすごく汚れているような気がしてきた。

 

 黙って肩ひもをバチン、と戻す。気のせいだと理解してはいるが、水着の下の素肌がなにやらもぞもぞしてくるような気がした。

 

『Begriffen……仕方無いです、分かりました。この近くのどこかで休憩をはさみましょう。初めてなのにも関わらず、イクはよく頑張っていますし』

 

『いひひっ、やったのね!! ダメもとで頼んでみるものなの!! はっちゃん、愛してるのね!!』

 

『……あ、あれ? ゴーヤ、前回頑張ったのに、途中お休み貰ってない……』

 

 無邪気に喜ぶイクと、何か釈然としないらしく難しい顔のゴーヤ。

 

 さて、それではどこか上陸待避できそうな場所を探さないと、と背面泳ぎから身体を戻し、起動しかけていた航法アプリの地図画面を見る。

 

 現在深度は海面下32.7m。前回潜水開始位置は、白くてもふもふのアンゴラウサギで有名なポルトガル領アンゴラの、その北岸にある首都ルアンダを過ぎたところだった。本日早朝〇四〇〇に水中航行を始めてから既に13時間が経過していることから、計算ではそろそろフランス領コンゴに差し掛かるはず。

 

 現在時刻は〇五一五。海の上は逢魔が時……もうすぐ潜水艦の時間がやって来る。

 

『ねぇはっちゃん、あれ、あれ何なのね?』

 

 と、突然最後尾のイクが行く手を指差して驚いたような声を上げた。

 

『わぁ~、でっかいでち!!』

 

『あれはSchlucht……海底谷? ということは』

 

 アプリの地図画面と目の前に現れた大陸棚に刻まれた窪み、右から左へ潜水艦隊の進路を横切るように走る巨大な断裂を見比べる。

 

 そして通算5回目の遭遇となるそれをしばらく思い出せなかったことからはちは、やはり自分も疲れているという事実を思い知らされた気がした。

 

『コンゴ海底谷!! もうそこまで来ていたんですね……großartig!!』

 

 思わず歓びの声がはちの口から洩れる。

 

 コンゴ海底谷は文字通り、アンゴラとコンゴの間に流れるコンゴ川が、氷河期が終わり海面が上昇する前に大陸棚を削って作り出した海中の峡谷だ。

 

 峡谷は内陸から始まり、次第に滑り台のように深さと広さを増しながらコンゴ川の河口を通り抜け、西の海中に伸びること約85km。

 

 その最深部は海面下2,000m以上にも達すると言われているが、伊号潜水艦の最大安全深度が100mであることを考えると、その深さは計り知れない。

 

 もっとも深海棲艦のせいで大日本帝国勢力圏内でも海洋資源開発は進められておらず、それに伴い深海探査艇の開発もなされていないため、このコンゴ海底谷に限らずマリアナ海溝や日本海溝も実際の深さは未だに分かっていない。

 

『丁度良かったです。せっかく太陽が出ているので、今日はこれから浮上。コンゴ川を遡上してどこかに投錨できる場所を探しましょう。ゴーヤは先に上がって周辺の索敵を、イクはまるゆのベント調節をお願いします』

 

『そうそう、まるゆも海に浸かりっぱなしでフジツボが生えてきてたから、今夜は川の真水でしっかり洗ってあげるのね!!』

 

 イクが嬉しそうに、自分の機関ユニットとワイヤーで結びつけられた魚雷の形をしたグレーカラーの運貨筒――――通称『まるゆ』の頭を撫でる。

 

 大日本帝国から独逸第三帝国に宛てた機密書類や兵器設計図、その他詰め込めるだけの日本土産を詰め込んだ彼女?も、今回の派遣作戦の立派な仲間だ。

 

 なお、この運貨筒の元々の持ち主である陸軍謹製三式潜航輸送艇『まるゆ』-――白スクに海女さんゴーグルを装備した小柄な黒髪ショートカットの気弱そうな少女は、はっきり言ってスペックがゴーヤたちと違いすぎることからこの遠征には付いてこれそうもないと判断され、潜水母艦『大鯨』ら留守番組と一緒にゴーヤ不在のリンガ泊地守っている。

 

『それじゃゴーヤ、ぱぱっと海面を見てくるねぇ~』

 

 少し心配そうに見上げるはち、船足を止めたため勝手に浮上を始めようとする運貨筒と格闘するイクを残し、ゴーヤはまだ夕陽の残光が朱く煌めく海面を目指して艦列を離れる。

 

 生体フィールドを介してエアブローの指令を受け取った背中の艤装で、メインタンクに注入される圧縮空気がしゅっと配管を駆け抜けた。

 

『それから、司令艦だからといってくれぐれも危険な真似はしないでくださいよ!!』

 

 了解、と親指を立てたゴーヤは振り返らずに、ただ真っ直ぐ水面へ最短距離で突き進んで行った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間劇2『紺色人魚姫伝説』(2)

 

 ――――感覚として伝わるアナログ深度計の針が25,20,15……と海面が近付くのを教えてくれる。

 

(ととっととと!! 潜望鏡深度でストップストップ!! でち!!)

 

 加速度がついたまま水上に飛び出しそうになり、慌ててタンクの空気を排出。

 

 ゴーヤは自分自身でも逆さまになり、下向きに泳いで急ブレーキをかける。

 

 深度計の動きがゆっくりになり、その針が海面下4mになったところでどうにか浮上の勢いは止まった。

 

 ほっ、とセーラー服の上から海軍指定の紺のスクール水着に包まれた薄い胸を撫で下ろす。

 

 よく映画やアニメで急速浮上した潜水艦が鯨のようにざっぱ~ん!!と海を切り裂いて艦体を現すシーンがあるが、実際潜水艦が浮上する場合は緊急時を除いて一旦潜望鏡深度で停止し、洋上の安全を確認してから完全に浮上するのが一般的だ。

 

 海中からでも水上艦の存在はソナーでその存在を知ることができるが、こと偵察機などの航空機は潜望鏡で確認しなければ安心できない。

 

 といっても深海棲艦が相手の場合、彼らは何もいない海域に積極的に偵察機を飛ばそうとはしないことから、不期遭遇戦以外ではそれほど航空機に気を付ける必要は無い、というのがゴーヤの印象だ。

 

 実際にE領域での戦いなども含め多くの場合、艦娘側が索敵に成功して先制攻撃を仕掛けることができている。

 

 これは深海棲艦側が哨戒や索敵網、防空識別圏などの概念を持っていないためと海軍の中で説明されているが、その実態はよく分かっていない。

 

(パッシブソナーには感無し。まずは洋上観測ブイを放出っと)

 

 艤装の一部が外れ、有線コードで繋がった黒い野球ボール大の『浮き』が海面を目指して浮き上がっていく。

 

 球体が海面に到達したのを確認してから機関ユニットに接続された海中スマホを取り出し専用モニタリングアプリを起動。

 

 すぐに液晶画面には、観測ブイに埋め込まれた四つの高感度広角レンズの捉えた映像が表示された。

 

 海の上は茜色に染まり、ちょうど夕方の凪の時間帯なのか、穏やかな水面は金色に輝き、まるで一面実りの季節を迎えた麦畑のようにも見える。

 

 ぼんやり景色を眺めていたゴーヤだが、気を取り直してズーム機能を駆使して360°空を観察する。

 

 敵機の姿は見当たらない。

 

(もっかい見て……うん、大丈夫……だよね)

 

 スマホのディスプレイを何度も確認してからブイを回収。

 

 ゆっくりと再浮上。ぐんぐんと水面が近づいて来る。そして、

 

「―――ぷはぁ~っ!! ん~久しぶりの太陽!! 空気がとっても美味しいでち!!」

 

 海上に顔を出したゴーヤは、一番風呂ならぬ一番空気を思いっきり胸に吸い込んだ。

 

 昼間の熱気を残した新鮮なアフリカの風が、肺胞の隅々まで行き渡るような感覚を堪能する。正確には生体フィールドが起動したままなので、空気はモーターに変わって駆動を始めたディーゼル機関の吸気口に取り込まれただけなのだが、そんな野暮を言う者はいない。

 

 これまでも夜になったら浮上していたのだが、吸血鬼でもあるまいし、やはり久々に全身に浴びる太陽の光は格別だった。

 

「と、忘れないうちに……ハッチ解放、カタパルト展開!!」

 

 再び艤装のギミックが作動。水密ハッチがぱかっと開き、そこから飛行機模型にも見えるフロートの付いた緑色の小さな機体が現れ、カタパルトの上で折りたたまれた翼を伸ばす。

 

 弓矢や式紙を発艦媒体とする空母たちと比べて艦載機と縁の薄い艦娘が航空機を使用する場合、その依代は実物に近くなければならない、という制約がある。そうでなければ世界に艦載機として認識されないし、そうなるとパイロットが乗ってくれないのだとか。

 

 なので航空戦艦、航空巡洋艦や軽巡洋艦、そしてゴーヤたち潜水空母も、模型飛行機のような艦載機の依代と、その発艦用カタパルトを艤装に備えていた。

 

「準備完了……晴嵐発進!!」

 

 エンジンに火が入りプロペラが回転。ゴーヤの背中から飛び立った試製晴嵐は高度を上げ、彼女の頭上で円を描くようにして滞空する。

 

「周辺海域の索敵、警戒を開始!! その後ゴーヤたちが陸に着くまでのエスコートは任せるでち!!」

 

 日の丸が描かれた緑の翼とフロートに夕日を受けながら、晴嵐はまるで誰かが乗っているかのように二三度羽を上下に振ってさらに高度を上げ、その姿はやがて豆粒のように小さくなっていった。

 

 晴嵐は伊401ら海大型に搭載し米本土爆撃用に作られた水上機なのだが、その攻撃能力からいざという時の牽制や囮としても使えるため、好んで搭載する潜水艦娘も多い。

 

 遠ざかっていく緑色の機影を見送ったゴーヤは、ごろん、とお腹を太陽に晒して仰向けになって海面に寝そべる。

 

 本当なら再び潜望鏡深度まで潜って偵察機の報告を待つのが正しいのだが、一度浮上して海上の空気を吸ってしまった彼女に、今さらもう一度潜るつもりはさらさら無かった。

 

 夕陽に照らされたスクール水着が光を反射し、てらてらと怪しく輝く。

 

「はぁ~あ……そろそろ日が落ちるでち……」

 

 晴嵐が戻って来たら、海中のはちとイクを呼びに行かなければならない。

 

 一ヶ月ぶりの日中浮上だ。彼女たちにもこの心地よい太陽の光と暖かい空気を吸わせてあげたい、とゴーヤは考える。

 

 だがそれはそれとして今この瞬間だけは、夕暮れ時の世界は彼女一人のものだった。

 

 思いっきり手足を伸ばし、全身の筋肉と筋を解す。生体フィールドが作動している間は肩こりにもなりえないことは理屈上分かっていたが、いわばこれは『心の肩こり』のようなもの。

 

 リラックスさせてやらなければ、精神がガチガチに凝り固まってしまう。

 

 ……司令艦・伊58が艦これ世界にやって来てから既に一年近くが経過している。

 

 古参の電や金剛ほど実務で忙しいわけではないが、欧州独逸への派遣作戦は潜水艦でなければ行えないことから、ゴーヤは自分のリンガ泊地にいる時間の方が少ない。

 

 さらに索敵、待ち伏せ、交信、輸送、追跡など、潜水艦娘にしかできないことはとても多く、先のE領域攻略の際も水上艦が華々しく砲雷撃戦でなぐり合っているその下で、ゴーヤたち潜水艦娘たちは縁の下の力持ちとして必死に戦っていた。

 

 そして今またこうして、ヨーロッパ遠征などという無茶な任務でアフリカ大陸の沖合を一人漂っている。

 

「前世で一体どんな悪行を積んだら、潜水艦娘になって大西洋を彷徨う羽目になるのかなぁ……」

 

 誰に語りかけるとでもなく、呟きが漏れた。

 

 ゲーム『艦隊これくしょん』ではイベント海域攻略や大型建造用に資源を貯めるため、燃費の良い潜水艦娘を旗艦にして、資源ドロップマスの多い『東部オリョール海』マップに延々と出撃を繰り返す資源貯蓄法、通称『オリョールクルージング』こと『オリョクル』が知られている。

 

 被弾大破してもシステム上旗艦は轟沈しないことに加え、潜水艦娘はダメージ回復のため入渠させても、修復完了までせいぜい10分程度。そのため通常の出撃の合間にオリョクルを挟み込むことで、効率的に資源を稼ぐことができた。

 

 しかし攻略法としては間違っていないものの、それを現実に見立てた場合のあまりの過酷さ、それに反する効率の良さに、どこか皮肉のある笑いと共に『オリョクル』はそれを行わないプレイヤーの間にも、ネタ用語として一気に広がった。

 

 実際ネット上で『オリョクル』で検索すれば、過酷な労使環境に心も体も擦り減らし、目の光が消えて亡霊のようになった潜水艦娘たちの画像をいくらでも見つけることができる。

 

 ゴーヤ自身も伊58を旗艦にして来たるべき大型建造に備え『オリョクル』に励んでいた時に、突然ログイン画面に現れた『虚帆泊地』とかいう謎のサーバーをクリック。

 

 気が付いた時にはリンガ泊地の女子更衣室で一人、スク水一丁でぼんやりと天井を見上げ佇んでいた。

 

「今日もオリョクル被弾入渠そしてまたオリョクル……に比べればマシなのかもしれないけど、実際自分で味わってみると潜水艦生活は大変でち。はっちゃんも、独逸行きが決まった途端に俄然厳しくなるし……」

 

 誰に言うとでもなく、そんな愚痴が口から零れた。

 

 任務の過酷さに加え、水上艦と比べて潜水艦の行動にはどうしても制約が多くなる。

 

 昼間は水中で息を潜め、夜は闇に隠れて忍者のように人目を忍び航行。

 

 自分から攻撃する分にはともかく、一度敵に狙われたら最後。逃げることも身を守ることもままならず、例えの駆逐艦級が相手でも、見つかってしまえばその後は、ただただ嵐が過ぎ去るのを待つしかない。

 

 紙のように薄い装甲の一枚外は、圧力と暗黒が支配する地獄。

 

 轟沈したら最後、一言の声も発せられず孤独に海の底へと消える運命。

 

「全く、世の中旨い話は無いものでち」

 

 と、ため息をついたところで、偵察に飛ばした晴嵐からの無線が入った。

 

 その内容は言葉ではないが、感覚としてその結果がゴーヤに伝わる。

 

 ―――周辺ニ敵水上艦、航空機影ヲ認メズ。我、洋上警戒行動ニ入ル―――

 

「うん、索敵終了!! 早く潜って下の二人にも、この綺麗な夕焼けを見せてあげるでち!!」

 

 海面に寝そべった体勢から起き上がり、機関ユニットにタンク注水を指示しようとしたその瞬間、

 

ゴンッ!!

 

 ゴーヤの頭に何か硬い物がぶつかった。

 

「うみゅう……一体何でちか?」

 

 生体フィールドが発動中なので別に痛いわけでは無いが、ぶつかったものの正体を見極めようとしてゴーヤは首を巡らせる。

 

 目が、合った。

 

 その黒い瞳に夕焼けの朱と驚くゴーヤの顔を映していたのは、木製の古い手漕ぎ船に乗った浅黒い肌の十代前半の少女。

 

 現地の住民だろうか。それにしては目鼻の造りに地中海系のような彫りの深さを感じさせる。

 

 エジプト系の部族か、もしかすると植民地時代の混血児の子孫なのかもしれない。

 

 パーマを当てたような長い栗色の縮れ毛を後ろでひとくくりにしたその先っぽが、薄汚れた白のワンピースの裾と一緒にちらちらと揺れている。

 

「漂流者!? でもさっきまでそんなものは……」

 

 状況が理解できず混乱するゴーヤ。浮上前に観測ブイのカメラで、浮上してからも肉眼と、そして晴嵐でも洋上に何もいないことは確認している。なのに彼女は、それらの監視を潜り抜けて突然ゴーヤの横に現れた。まるで幽霊か何かのように。

 

 木を削って作った武骨なオールを持ち一人船の上に立つ少女は、不思議なものでも見るようにぼうっとゴーヤを眺めていたかと思うと、つい、と何でもなかったかのように視線を逸らして再び船を漕ぎ始めようとした。

 

「ちょ、ちょっと待つでち!! 何が何だか分からないけれど、こんなところに一人でいるなんて危険でち!! ゴーヤが曳航してあげるから、一緒に岸まで戻るでち!!」

 

 船の舳先にしがみ付き、行かせまいとする。

 

 少女はしばらくオールを動かしていたが、やがて船が押し止められているのに気付きその小さな唇を動かした。

 

「Warum gehst du nicht mich gehen lassen?」

 

「……あぅぅ、ドイツ語でちか」

 

 訛りが強くて聞き取りにくかったが彼女の口から紡がれる言語は紛れも無く、今や欧州で標準語の地位を確立しつつあるドイツ語。

 

 ……司令艦としてのゴーヤは、元々現代日本ではドイツ語に縁の無い生活を送っていた。

 

 しかし帝国海軍の基礎教育課程では英語とドイツ語が必須であったことから、艦娘『伊58』の素体となった少女の記憶にはそれらの知識が残っている。

 

 なので、はちほどではないがゴーヤも全くドイツ語を喋れないわけではない。

 

 だが全く違う人間である少女の記憶にアクセスできるということは、ゴーヤの人格を形成する記憶が削られ、その分素体や船霊による精神の浸蝕と同化が進んだ証拠でもあった。

 

(自分のじゃない記憶にはあんまり潜りたくないのに……)

 

 彼女の言葉が未知の言語やフランス語、スペイン語などであれば、言い訳が立ったかもしれないが、解かる言語であれば仕方が無い。これまでドイツ関連の交渉ごとは全てはちに任せていた、そのつけが回ってきたようなものだ。

 

 こんなことならもっとドイツ語の練習をしていれば良かった、と後悔しながらもゴーヤは覚悟を決め、意識を同調。言語記憶の欠片を探り出す。

 

『……どうして、行かせてくれないの?』

 

 再び少女が口を開く。今度は彼女の言うことが理解できた。

 

 その黒い瞳は不満そうにゴーヤを見つめている。

 

『ここは危ない。陸に戻ろう』

 

 なんとか片言のドイツ語で返す。

 

 が、それを聞いた少女は首を振って激しく拒絶した。

 

『嫌。お父さんが待ってる』

 

 すっと伸ばされたオールの先。夕暮れ時でよく見えないが、水平線の向こうに何やら小さな島のようなものが見えた。

 

 あそこに彼女の父が住んでいるとでも言うのだろうか?

 

 それを訪ねるため、一人で深海棲艦の支配する海に漕ぎ出したと言うのか?

 

 ここから島までそれほど距離は無いようだが動力の無い手漕ぎボートで、しかも少女が一人で渡るにはあまりにも遠い。

 

 今はまだ太陽も沈みきっていないし、晴嵐での索敵で周辺数十キロ圏内に深海棲艦がいないことは分かっているが、日が落ちた後にどうなるかは分からない。

 

 そんな中に漕ぎ出すなど、ゴーヤには到底正気の沙汰とは思えなかった。

 

『夜が来る。一人では無理』

 

 少女は再び首を振る。

 

 むむむ、言うこと聞かない困ったちゃんでち、と苦瓜を噛み潰した様な渋い顔になるゴーヤ。

 

 こうやっていてもらちが明かない。少しの時間なら晴嵐をこの子の護衛に付けておいて、先にはちとイクを呼んできた方がいいかもしれない。

 

 ゴーヤが次善策を検討し始めたその時、

 

『大丈夫、一人じゃないから』

 

「……え、他に誰か乗ってるんでちか?」

 

 思いがけない言葉。 

 

 それを確かめるべくゴーヤは船の縁に手をかけ、身を乗り出して中を覗く。

 

 だがそこには彼女以外誰もいない。

 

 古びたロープと傘の歪んだ金属製の小さなカンテラ、それに堅そうな黒パンが一つと水を入れた壺。航海に超・最低限必要なものだけが積み込まれている印象だ。

 

『誰もいない』

 

 ゴーヤがそう言うと少女は、今度は口元に笑みを浮かべながらゆっくりと首を振り、ゴーヤの後ろを指差した。

 

「あっち? ……もしかしてあれでちか、子供の時によくある自分にしか見えないピンク色のゾウさんとか、そういう系の……」

 

 半ば呆れながら彼女の指す方へ顔を向けたゴーヤの視線は、彼女を見つめる別の黒い視線と交錯した。

 

 いや、目では無い。

 

 何の前触れも無く突然世界に現れたそれは、陽光さえ吸収する漆黒の長砲身。

 

 今まさにゴーヤへ照準を合わそうと蠢く、信号機のように行儀よく一列に並んだ正円の砲口が3つ。

 

 16inch三連装砲。

 

「―――深海棲艦ッ!?」

 

 氷柱でも突っ込まれたみたいにゴーヤの背中の毛が一瞬で総逆立つ。

 

 反射的に彼女は少女のワンピースを掴み、無理矢理海中に引きずり込んでいた。

 

 ほぼ間をおかずに海水を揺るがす3つの発砲音が轟く。

 

 少女の乗っていたボートがゴーヤの頭上で砕け散った。

 

(ベント全開注水開始!! 急速潜航!!)

 

 何が何だか分からないが、とにかく今は海の中へ逃げるしかない!!

 

 だが謎の敵はそう簡単に諦めてくれなかった。

 

 砲撃に続いていくつもの黒い影が海面を横切ったかと思うと、ばしゃばしゃと水面に穴をあけて無数の塊のようなものが落ちてきた。

 

(くっ、爆雷まで!?)

 

 ゴーヤの腕の中で少女が苦しそうに身をよじる。このままでは司令艦であるゴーヤはともかく、少女は爆雷の衝撃波と水圧で潰れてしまう。

 

(搭乗モード、この子を乗員設定に!!)

 

 途端に少女の周囲にもフィールドが循環を開始。それを待っていたかのように浅深度に設定された生体爆雷が次々と爆発し始めた。

 

 海の中はペットボトルの炭酸飲料を振り回した時ように、無数の泡が弾けあちこちで暴力的な渦が巻き起こる。

 

 加えて敵艦から放たれるアクティブソナーのピンガーが、ガンガンと容赦なくゴーヤの背中を打ち据えた。

 

(逃げられない―――でも索敵はちゃんとしてたはずなのに、どうして敵に気付かなかったの!?)

 

 姿を見られた潜水艦は、手品のばれた手品師のようなもの。あとは慌てて舞台袖に引っ込むくらいしかできない。

 

 機関を動かすと居場所がばれるため、雨霰と降り注ぐ爆雷の暴風の中を必死に耐えながらゴーヤと少女は深い海の底目指して沈降していく。

 

 早く早く、と心は急くが、機関ユニットに備え付けられた深度計の針は25……30……と遅々として進まない。

 

 徐々に爆雷の投射範囲がゴーヤを取り囲むように、爆発深度設定も正確になってきている。

 

 至近弾――ゴーヤのすぐ横で爆雷が炸裂し、生み出された水圧の衝撃波が薄い装甲を越えて彼女の身体を揺さぶった。背中で艤装がきしきしと嫌な音で唸る。

 

(も、もう、いっぱいでち!! たかが潜水艦一隻に飽和攻撃なんて米帝プレイ、いくらなんでもやり過ぎよぉ!! このままじゃ炙り出されるのも時間の問題-――)

 

 こうなったら最後、浮上して絶望的な砲雷撃戦を挑むしかない。

 

 そう観念しかけたゴーヤの足元から突然現れた黒い影が、猛烈な勢いで水面目がけて彼女の隣を走り抜けていった。

 

 黒い影――牽引用ワイヤーを散歩紐のように引きずりながら疾駆するそれは『まるゆ』-――イクが引っ張っていたはずの運貨筒。

 

 同時にゴーヤのスマホが光り、メッセージの着信を知らせる。

 

 発信元は、はちとイクだ。

 

 先ほどの運貨筒に予め無線発信機と、ゴーヤへのメッセージを仕込んでいたらしい。

 

『緊急事態につきまるゆをloslassen……放出しました。敵が気を取られている間に水温躍層に飛び込んで下さい。そのまま海底谷を伝って東へ、コンゴ川へ逃走しましょう』

 

『イクたちは先に行くのね!!』

 

 こんな時でもわざわざドイツ語を使うはちに苦笑しつつも、作戦を理解したゴーヤはスマホを仕舞う。

 

 と、急に爆雷の雨が止んだ。続いて水中に伝わる発砲音。

 

 敵の狙いが洋上に飛び出した『まるゆ』に切替わったのだろう。

 

 仲間作ってくれた一度きりのチャンス、逃すわけにはいかない!!

 

 深度計の針は既に水面下50mを越えている。

 

 もうそろそろ……と、沈降を続けるゴーヤは、にわかに全身が鉛のように重い水に包まれるのを感じた。

 

 体の沈む速度が鈍くなり、機関ユニットの水温計が急速に低温へと振れる。

 

(あった、温度変化の境界面でち!!)

 

 水温躍層-――海中ではある深度を越えた途端、飛躍的に温度が変化する層がある。

 

 通常は水深500m以上の深海に見られる現象だが、熱帯や日本近海でも夏の間はより浅い場所にできることも多い。

 

 そこは水中に生まれた一種の断層となっており、低温がもたらす海水の密度変化は敵のソナー波を跳ね返す遮蔽幕としての役割を果たす。

 

 潜水艦が追跡を逃れるための場所としてはうってつけ。

 

(助かったでち!! あとは……こいつもおまけに、とっとくでち!!)

 

 艤装に指令。

 

 即座に音も無くギミックが動き、背中から小型の円筒型の機雷が放出される。

 

 ゴーヤの艤装本体から切り離された途端、機雷は盛大に気泡と騒音をまき散らし回転しながら運貨筒の後を追って浮上を始めた。

 

 轟沈欺瞞用の対深海棲艦ダミーマイン。

 

 音響弾をベースに開発された、いわばトカゲの尻尾。

 

 ダミーマインは音と泡を放ちながら浮上し、敵の攻撃または一定の浅さに達すると自壊する。そして中に充填された動物の血や重油、金属破片と共に海面に姿を現し、あたかも艦が撃沈されたかのような演出を行うデコイだ。

 

 機関再始動。

 

 バッテリーからモーターを介し供給された推進力が主機―――潜水艦娘にとっての主機は水上艦のように靴では無く海軍指定の水着だが-――に伝わり、ゴーヤの体はゆっくりと前進を始めた。

 

(にしてもこの子、一体何者でちか?)

 

 彼女の腕の中の少女は、先ほどの爆雷攻撃で激しく揺さぶられたせいか、完全に目を回してしまっている。

 

 父に会いに行くと言ったが、それは本当なのか。

 

 どうしてゴーヤに出会うまで無事だったのか。

 

 何故潜望鏡でも、晴嵐でも見つからなかったのか。

 

 ……深海棲艦が一緒にいると言った理由は……

 

 だがこうして改めてよく見てみると、ごく普通の女の子にしか思えない。

 

(っと、ここで考えても答えが出るわけないでち。さっさとはっちゃんたちと合流して、今後について相談した方が良さそうでち)

 

 再び水面に何かがじゃぽじゃぽと落ちる音が響く。

 

 先ほどのダミーマインに反応した敵が爆雷攻撃を再開したのだろう。だが爆発深度設定が違えば、より深い場所にいるゴーヤにまで衝撃は及ばない。

 

 海域を離れるなら、敵が気を取られている今しかない。

 

 足元の深海にそびえる切り立った海底谷を確認するとゴーヤは、少女の小さな身体を抱きしめながら舵を東へ切る。

 

 そして海上の喧噪を避け水温躍層の重く冷たい海水を掻き分けて、紺色の潜水艦は大陸棚に刻まれた爪痕を眺めながら仲間の待つコンゴ川河口へと転進していった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間劇2『紺色人魚姫伝説』(3)

「ふぅ、一仕事終えた後のお風呂は格別でち」

 

 ジャングルに囲まれたコンゴ川河川敷に据えられたドラム缶風呂の中、肩どころか顎まで浸かりながら嘆息する。

 

 日はとうに西の海に沈み、現在時刻は二〇〇〇。

 

 白手拭を載せたゴーヤの頭上には、アフリカ大陸の澄んだ大気の向こうに満天の星空が広がっていた。南半球の星座はよく分からないが、あれが南十字かな、と適当な星を結んでみるのも楽しい。

 

 海軍指定のスクール水着を脱ぎ、一ヶ月ぶりに素肌で触れるお湯の温かさ。

 

 じんわりと沁み込んでくるような優しい熱伝導に、思わず涙腺が緩む。ほろりとこぼれ落ちた涙の一滴が、水面に小さな波紋を生んだ。

 

「それにしてもはっちゃん、よく『まるゆ』を囮にしようなんて思いついたねぇ」

 

 四方を古びた帆布で囲って作られた天幕の向こう側に話しかける。

 

「イクもびっくりしたの。でも大事な書類はデータの形でも持ってるし、『まるゆ』は喪失できてもゴーヤは替えがきかないからって」

 

 もっともそのデータも、ドイツ製暗号パソコン『エニグマ』のネットワーク端末に一々通さなければ読みだせない面倒くさい代物ではあるが。

 

「助けてもらって嬉しいけど、思い切りがよすぎでち。はっちゃん、艦娘辞めたらトレーダーへの転職がお勧めでち」

 

 ホントそうなの~、と先に一風呂浴びて、今はバスタオル一枚で見張り中のイクが同意する。風呂用とは別に焚かれた炎が帆布のスクリーンに映し出した肉感的な少女の影が、ゆらめきながらケラケラと笑った。

 

 例の特徴的な頭のトリプルテールを解くと、彼女も見た目は童顔の普通の女の子だ。もっとも普通の女の子は、アフリカ大陸の川べりで、タオル一枚で夕涼みをしたりはしない。

 

ハクショ――Haa-tschi!!

 

 水飛沫の音に続いて、聞き覚えのある少女の声。

 

「あ、噂をすれば、なの」

 

 途中まで出かけたクシャミを無理やりドイツ風に直すようなドイツかぶれは一人しかいない。

 

「Gesundheit(お大事に、なの)!!」

 

「Danke!! でも、クシャミを出すのも一か月ぶりとなれば嬉しいものですね」

 

 ゴーヤがドラム缶に身体を隠しながら天幕をめくると、ちょうど水から上がってきたはちが、焚火のそばにある手ごろな大きさの石に腰を下ろしたところだった。

 

 スク水がたっぷり吸った川の水がぽたりぽたりと落ち、オイル漏れのように石を濡らす。

 

 生体フィールドを切ったため、本来搭載モード設定で濡れないはずの二―ソックスも水を含んでルーズソックスのように垂れ下がっている。

 

 それを脱ぎながらはちは、久しぶりの夜の冷気を素肌で感じる喜びに、しばし耽っているようだった。

 

「はっちゃん、お風呂代わろうか?」

 

「いえ、大丈夫ですよ。濡れた書類を乾かさなければならないので……ゴーヤはゆっくりどうぞ」

 

 やがて二―ソックスを脱ぎ終わったはちは、運貨筒『まるゆ』に積んであった全員分の着替え、牛肉大和煮と沢庵の缶詰、元々潜水艦用に開発されたアルファ化米炊き込みご飯のパッケージをイクに渡し、自分は『機密:Geheimnis』と書かれた湿った茶封筒を焚き火で炙って乾かし始める。

 

 あれから海底谷に沿って東上しコンゴ川河口で合流した潜水艦娘3人は、互いの無事を喜び合った後、ゴーヤの連れてきた少女を家まで送っていくことにした。

 

 幸い彼女の棲む『バナナ』というふざけた名前の村は、浮上位置からすぐ近くのサヨリの口みたいな形をした半島の先にあり、少女を探していた村人たちとも接触できたため、意外と簡単に話はついた。

 

 激しい潜水艦機動で揺さぶられた少女は大分グロッキーになっていたが、迎えに来た少女の叔父夫婦に引き取られ、諦めきれなさそうに海を眺めながら去って行った。

 

『あの子の父親は漁師で、河口付近や湾内の比較的安全なところで魚を獲っておったのです』

 

 少女が去ってからそう語ったのは、村長だとか言うアロハシャツ姿の壮年男性。

 

『だが3か月ほど前、湾内に迷い込んできた光る目を持つ黒い船に漁船が襲われ、それから行方が知れやせん。そして彼らが消息を絶ってから数日後、ここから数十キロ離れた対岸の島に、夕方になると煙が上がる様になってのぅ。誰ともなく遭難した連中の生き残りがのろしを上げていると噂し出したんじゃ。だが確かめに行こうと思っても、黒い船どもが徘徊するようになった海には船が出せんでの……』

 

 要するに大人たちが手をこまねいているのを見かねて、少女は自分一人で海を渡ろうと決意したらしい。だが艦娘を持たない村人らが、深海棲艦のいる海を恐れる気持ちを分かる。

 

 一方そんな大人たちの事情は我関せずと、少女が村の古いボートで海に漕ぎ出したのは今回で2回目だという。ちなみに1回目は当然の如く深海棲艦に襲われたが、少女はボートを破壊されるもどうやってか岸に漂着することで難を逃れたらしい。

 

『陸沿いでは島に近づけないのですか?』

 

 はちが聞くと、村長は静かに首を振った。

 

 バナナ村はともかくコンゴ川を渡った南側からは、ヨーロッパを追われアフリカ大陸に逃れた抗独パルチザンたちが徘徊する無法地帯になっているのだという。

 

 そもそもドイツ第三帝国もヨーロッパの方で手一杯らしく、地中海沿岸以南のアフリカの都市は放置されているに等しい。

 

 ここバナナ村にもドイツから視察官が二度ほど訪れた後は基本放置。税金を取られない代わりに、インフラ整備や消防警察などの行政サービスも受けられない状態にある。

 

「海には深海棲艦、陸には抗独パルチザン……この期に及んで人間同士のドンパチが終わらない、というのも嘆かわしい話でち」

 

 掌でちゃぱちゃぱと風呂のお湯を弄びながらゴーヤがぼやく。

 

 第三帝国建国の父であるチョビ髭の伍長閣下が去ってからずいぶん経つが、その支配を快く思っていない勢力はヨーロッパに限っても星の数ほどあるという。

 

 この点大日本帝国は影響力をシーレーン支配に絞ることによって、東南アジア各国とは比較的穏当な関係を維持できているのとは対照的だった。もっとも大陸に戻れなくなった残留華僑などには、西洋植民地時代に貪っていた利権を現地住民に奪い返された経緯から、大日本帝国に恨みを持つ連中も少なからずいるらしいのだが。

 

「そういえばはっちゃん、大分時間がかかったみたいだけど、『まるゆ』本体はどうだったの?」

 

 雰囲気が暗くなりそうだったので、イクが話題を変える。

 

 村の人々と別れてからゴーヤとイクは、借りた帆布とドラム缶でキャンプの準備をするためコンゴ川の川縁へ。

 

 一方はちは囮になった『まるゆ』の回収を試みるべく、まるゆの発する救難信号を辿って再び海に潜っていた。

 

「in Ordnung……無事連れて帰りましたよ。 Attrappeの血でサメが集まっていたくらい。『まるゆ』は外殻に少し亀裂が入っていますが、大したことは無いです。今日はゆっくり休んで、明日帆布を返すついでに村で修理道具を借りましょう。日中に作業が終われば、出発は明日の日没ですね」

 

「それを聞いて安心したでち!! でもはっちゃん、『敵』には会わなかったでちか?」

 

 恐る恐る天幕の中から尋ねる。

 

「Nein……『まるゆ』とボートの破片が漂っているだけで、それらしい影も形も無かったですねぇ」

 

「そうでちか……確かにいたんだけどなぁ……」

 

 はちが会敵しなかったことを喜びながらも、納得いかない、といったふうに顔を半分沈ませてぶくぶく口で泡を立てるゴーヤ。

 

「気のせい、とは思わないです。実際砲撃や爆雷の音は、確かに私たちのところまで届いていましたから」

 

「でもダイブレコーダーには空と海だけで、他にはなんにも映って無かったの」

 

 はちと別れる前、ゴーヤは二人に少女と出会った時のことや攻撃されたことなどを詳しく説明。また艤装に標準装備されている画素数の低い自動記録装置のデータをスマホの画面で再生してみせのだが、カメラの角度が悪かったのか、それとも他の理由があってか、敵の姿どころか少女さえ捉えることができていなかった。

 

 それは洋上待機を命じていた試作晴嵐から回収した動画データも同じ。

 

 逃げ惑うゴーヤの影と立ち上る水柱以外、何も映っていない。

 

「潜望鏡でも晴嵐でも確認したのに、事前に深海棲艦を察知できなかったでち。その上艤装のカメラも使い物にならないなんて、装備全部にリコールかけたい気分でち」

 

「でもおかしいの。異常があったら普通は生体フィールドを発動した時点で気付くものなの」

 

「だからワケが分かんないんでち。大体深海棲艦はともかく、船に乗った女の子まで捕捉できなかったのは、おかしいを通り越して本当、意味不明でち」

 

 風呂の中でゴーヤは頭を抱える。

 

 そう、敵はともかく少女にさえ気付けなかったという事実が、さらに混乱に拍車をかけていた。

 

「あ、イク分かったの!! 実はさっきの女の子も含めて、村人は全員深海棲艦に喰われた幽霊だったの。陽が落ちてイク達が寝静まった頃、月明かりの下正体を現した村人たちがテントに集まって……」

 

 艤装から取り外した小型船外灯で顔を照らしながら、ゆっくりゴーヤに近付く。

 

「やめるでち!! これ以上聞いたらお風呂の後トイレに行けなくなるでち!!」

 

「いひひっ。その反応、いじってくれって言ってるようなものなの!!」

 

「……索敵に引っかからない船、Geisterschiff……でも、そういえば最近、似たような話を聞いた気がしますね……」

 

 ドラム缶の中でばちゃばちゃとお湯を叩いて無駄な抵抗を試みるゴーヤと、獲物を見つけた狩人の目になって怪しい笑いを口元に浮かべるイクをよそに、はちは空を見上げながら自分の記憶を探っていた。

 

―――ぺとっ

 

「ひゃっ?! Welche!?」

 

 不意に小さい手がはちの首筋を撫でる。

 

 驚いたはちは、うっかり手に持っていた機密文書の封筒を取り落としてしまった。

 

 ドイツ語で書かれた書類が河原にばら撒かれ、風に舞う。

 

 はちは慌ててそれを拾い始めた。

 

 データの形でバックアップがあるとしても、書類が飛んで誰かの手に渡ったら大変だ。

 

「あ、さっきの女の子!! もしかして遊びに来てくれたのね?!」

 

 異変に気付いたイクが素っ頓狂な声を上げた。

 

 そこにいたのは先ほど海でゴーヤが助けた黒髪褐色肌の少女。

 

 川から上がってきた妖精ニンフのようにぼんやりと立つ彼女は、何も言わずに持っていた茶色い布の袋をイクに向かって差し出した。

 

「これ? くれるの?」

 

 夜風に煽られて飛びそうになる書類を追いかけるはちをよそに、イクは受け取った袋の口を開ける。

 

「何が入っていたんでちか?」

 

 興味深そうにドラム缶から身を乗り出して、ゴーヤも袋の中を覗き込もうとした。

 

「バナナなの!! しかもこんなに沢山!! イク、バナナ大好きなのね!!」

 

「……バナナ村でバナナが名産とか、安直な話でち」

 

 嬉しそうに袋の中身をゴーヤに見せたイクは、ありがとうなの、と少女の頭を撫でた後、早速バナナの房から熟した実を一つ取り、ゆっくりとその皮を剥いていく。

 

 ゴーヤが見守る中、焚火の炎を照り返して紅潮しているように見えるイクの顔に、剥き出しになった逞しくそそり立つ果実が近づく。

 

 その天を指す尖端に肉厚の唇が優しくキスをしたかと思うと、次の瞬間剛直の1/3がずるり、とイクの咽喉奥に吸い込まれるようにして消える。

 

 風味を楽しむようにしばらくにちゃにちゃと口を動かしていたイクは、ゴーヤの方を振り返り、その口腔で糸を引く白い塊を舌の上で弄び見せつけた。

 

「ん~、ちょっと硬くて青臭いけど、とってもおいしいの!!」

 

「にゅぐ――むぅ―――」

 

 今は同性のはずなのに下腹部にじんわりした違和感を覚えたゴーヤは、何かを言いかけて黙り込むと、顔を真っ赤にしてドラム缶の中に潜航し、ピンク色の頭だけをのぞかせた。

 

 ぴょこんと飛び出したアホ毛の横で、桜のカチューシャがひらひらと揺れた。

 

「もう、ゴーヤも女の子同士なんだから、いい加減慣れてほしいものなの」

 

「そう思うならからかわないで欲しいでち!! だから皆にも『泳ぐ18禁』なんて呼ばれるんでち!!」

 

 きしし、と笑うイクを口からぶくぶく泡を出しながら恨めしそうに見つめるゴーヤ。

 

 リンガ泊地の中でも司令艦・伊58の事情を知っているのは秘書艦のはちと、他には遠征で一緒のイクだけ。

 

 ゴーヤの境遇に同情したはちがゴーヤを軍務と日常両面で何かとサポートしてあげている一方、イクは面白い玩具を見つけたとばかりにことあるごとにちょっかいを出していた。

 

 もっともそのせいで泊地の艦娘たちの間ではイクは両刀使いであるという噂が広まっているのだが、実際のところそれが間違っていないのも、ある意味笑えない事実ではある。

 

 バナナを食べるイクの姿を無言で見ていた少女は、イクが食べ終わると少し嬉しそうな表情に変わった。そして何を思ったか天幕の中に入ると、ゴーヤの入ったドラム缶に近付き、そのペンキが剥がれ錆の浮いたずん胴をこんこんと叩き始めた。

 

「あ、触ると火傷するから離れるでち!! っていうか、そうやって叩かれるとピンガー打たれてるみたいで落ち着かないでち!!」

 

 注意するも少女は、楽しそうにリズムを付けて緑色のドラム缶の肌を叩き続ける。

 

「……もしかして、ドラム缶風呂が珍しいなの?」

 

 既に3本目のバナナを口に咥えたイクが、少女とドラム缶と、お湯の中に避難して頭だけ出している状態のゴーヤを三角形で見比べる。そして何やら思いついたような顔になった後……おもむろに少女のスカートに手を伸ばして中をまさぐり、ずるっと彼女の白い綿パンツをずり下げた。

 

「はゃ?」

 

 あっけにとられるゴーヤと少女をよそに、イクは少女にばんざいの恰好を取らせると、彼女の着ていた白いワンピースを勢いよく上に引っ張ってすぽっと脱がす。

 

 ゆらめく焚火の炎に照らされて、剥き立てのゆで卵のようにつるっとした幼い処女の、生まれたままの褐色の肌が妖しい光沢感をもって浮かび上がった。

 

 まだ10歳になったかならないかといった少女の体は、痩せていることもあり女性らしさは全く感じられず、そのパーツはほとんど直線で構成されている。

 

 よし、準備完了なのね!!と満足そうに呟いたイクは少女を脇の下から持ち上げると、そのままあっけにとられているゴーヤの入ったドラム缶風呂の中へ、どぼ~んと彼女を放り込んだ。

 

「ぶぁぷっ、びっくりしたでちっ!! イクっ!?」

 

「んふふ~、せっかくだからジャパニーズ・お風呂をこの子にも体験してもらうの!!」

 

「だからって一緒になんて……」

 

 真っ赤になって抗議するゴーヤだが、ドラム缶の底に足が届かず沈みそうになっていることに気付き、その小さな身体を優しく支える。

 

 一方の少女も溺れまいしてと、ゴーヤの慎ましやかな胸に顔をうずめるようにしがみ付いた。

 

 小さな黒い二つの瞳が、少し不安そうににゴーヤの顔を見上げる。

 

「うぅ……仕方ないでち」

 

 狭いドラム缶の中、いやがおうでも密着する褐色少女のきめ細かい肌の感触に戸惑いながらも、ついに降参したゴーヤは、少女が沈まないよう彼女の体に両腕を回してしっかりと抱きしめた。

 

 少女の方も緊張してしばらく固くなっていたが、やがて安心したのかゆっくりと力を抜いて全身をゴーヤに預ける。

 

―――はふぅ

 

 やがて、同時に二人の口から同じため息が漏れ出た。

 

 それが面白かったのか、顔を見合わせたゴーヤと少女は一緒にくすくすと笑い出す。

 

「あ~、お風呂は世界最強のコミュニケーションツールだったのでち―――と、『あなたの名前は?』」

 

『……エリーゼ』

 

 ゴーヤがドイツ語で問いかけると少女――エリーゼは一度目を伏せた後、ゆっくりと小さな唇を動かした。

 

「いい名前でち。ゴーヤはゴーヤでち!!」

 

「イクはイクなの!! で、あっちの眼鏡がはっちゃん!!」

 

 ゴヤ……イクゥ……ハチャン……? と少女はゴーヤたちを指さし確認しながら、慣れない日本語で反復する。

 

「上手なのね!!」

 

「え、それでいいんでちか? はっちゃんはどう思うでち?」

 

 天幕の向こう側で、拾い集めた書類を整理するはちに声をかける。

 

 彼女は書類のうち一枚、ドイツ語がタイプライターで印字された白い撥水和紙を睨みながら何やら難しい顔をしていた。

 

「……wenn alles vorbei ist……exile? Unterschrift……署名は、電とBisma……」

 

「はっちゃん!!」

 

「Ah!!」

 

 慌てて手に持っていた書類の束を生乾きの艤装の影に押し込むと、はちは何でもない風を装って振り返る。

 

「さっきから呼んでたでち。このままだとはっちゃん、名前がハチャンになってまうでち」

 

「……あぁすみません、ぼうっとしてました。名前、ですか……別に構いませんよ。どうせ明日か明後日にはここを発つわけですから……」

 

 興味なさげにそう答えたはちは、イクの持つ袋からバナナを一本取って皮を剥き始める。

 

「……はっちゃん、意外とドライでち」

 

「本来は潜水艦遠征の途中で陸に上がること自体、例外ですから。現地人との接触は、さらに好ましくありませんし……」

 

 それ以上言うことは無いとばかりに自分のバナナにかぶりつき、小さくLecker!!と感嘆した。

 

「はっちゃん、ドイツ行くって決まってからいつにもまして厳しいのね……そうなの!!エリーゼはこの海に出る謎の深海棲艦について、何か知っているなの?」

 

「そういえば、急いでて聞いてなかったでち。あ、え~と、はっちゃん!! 『深海棲艦』ってドイツ語で何て言うんだっけ?」

 

 助けを乞うようにはちを見つめるゴーヤ。

 

 咥えたバナナの欠片をごくん、と飲み下すと、仕方ないと言った風に目を細めながらはちは、ドラム缶風呂の中の少女―――エリーゼを見つめ口を開いた。

 

『……この海にいる黒い船のことを知っていますか?』

 

 ―――『深海棲艦』と呼ばれる異形のそれは大日本帝国、ドイツ第三帝国の本土以外、もっと言えば軍事関係者以外では『黒い船』、例えばドイツ語圏ではSchwarze Schiffと呼称されている。

 

 各言語で『深海棲艦』に相当する新しい語を作成、周知するのに手間がかかることと、『黒い船は危険だ』との認識を共有するため、極力シンプルに表現することに努めた結果がこれだ。

 

 日本でも夏になると、海に近付く子供たちに『黒い船に気を付けなさい』と親や教師が注意している姿が見受けられる。これは安全なはずのA領域、沿岸部でごく稀に発見されるのが全て、特徴的な黒くて丸い外殻を持つ駆逐艦級深海棲艦であることにも起因していた。

 

『黒い船はいたけど……もういない……』

 

 だが少女はゴーヤの胸元で首をふる。

 

 彼女の言葉に、怪訝そうに金色の細い眉をひそめるはち。

 

「Ging weg……いなくなった? でも以前海に出た時には、深海棲艦に襲われたと……」

 

「おかしいのね!! 深海棲艦でないのなら、じゃあゴーヤを襲ったのは一体何者だったのね!?」

 

 両手に剥き身のバナナを握ったまま高い声を上げるイクと、眼鏡の奥で眼を光らせるはち。

 

 驚いたエリーゼは、ドラム缶の中でゴーヤの胸にしがみ付いた。

 

 その拍子に桜色に染まった二つの控え目な膨らみが、少女の頬に押しつぶされてむにゅり、と形を変える。

 

「んぁっ―――ちょっと二人とも落ち着くでち。怯えさせてどうするんでちか?」

 

 うっかり喘ぐような声を出してしまい、茹った顔をさらに赤らめ二人をなだめながら、ゴーヤは今日、夕暮れの海で出会った敵の姿を思い出そうとする。

 

 ……謎の深海棲艦、その全体的な形や艦種はよく分からなかった。

 

 しかし刹那視界に入った16inch三連装砲の黒い砲身と、それを向けられた時背中を走り抜け凍えるような恐怖感は、今もって彼女の脳裏に焼き付いている。

 

 艦娘の装備とは違う規格――鋳造で無くその身に纏う漆黒の外殻を変形・多層化することで生み出された深海棲艦の武装である16inch三連装砲。

 

 あれを装備しているとなると戦艦クラスだが、生体爆雷を投下してきたことから随伴艦がいるのか、それとも対潜攻撃可能な特殊タイプの戦艦か。

 

「それでは質問を変えてみましょう……『以前あなたはどうやって、海から無事に帰ってこれたの?』」

 

 じっ、とエリーゼを見つめるはち。皆が彼女の言葉を待つ。

 

 川を挟んだ向こう側で夜の鳥が鳴くひょう、という声が静かな川のせせらぎに混じり溶ける。

 

 ドラム缶の下で赤々と光る燠がばちん、と爆ぜた。

 

『……友達が……』

 

 少女は恐る恐る口を開く。

 

 潜水艦娘たちが黙って見つめる中、それを言ってもいいものか迷っているようだったエリーゼだが、一度ゴーヤの目をちらと見た後、何やら決心したように少しずつ言葉を紡ぎ出した。

 

『……友達が、助けてくれたの……』

 

「Freunde……友達、ですか」

 

「凄いのね!! もしかしてその人、艦娘なの?」

 

 イクが的外れな感想を述べた。もちろん、こんなアフリカの奥地に艦娘がいるはずもない。

 

 深海棲艦に唯一対抗できる貴重な戦力である艦娘は、実際の船舶と同様に定期的な弾薬燃料の補給や艤装のメンテを必要とする。

 

 それを安定して供給できるのが艦娘の拠点、鎮守府であり泊地。

 

 技術、物資、マンパワー、そして戦略の面でも、定期航路の無いアフリカ沿岸に艦娘を派遣する意味は皆無だ。

 

 が、友達という単語を聞いたゴーヤは、驚きのあまり一瞬目の前でチカチカと火花が走った。

 

「ちょっと待つでち!! まさか、友達ってゴーヤを襲った奴のことでちか!?」

 

 はちとイクが絶句する横でそう尋ね直すと、少女はゴーヤの小さな胸の中でこくり、と大きく頷く。

 

 そこから少女の語った事実はあまりにも荒唐無稽過ぎて、3人の潜水艦娘たちは理解するのに多少ならざる時間を必要とした。

 

 3ヶ月前に父親の船が難破した後、少女は叔母夫婦の家にやっかいになりながら、父親の消えた海をずっと眺めて過ごしていた。

 

 そして2週間が経ったある日、対岸の島から煙が上がっていることに気付く。

 

 すぐさま村長たちに父を助けるよう懇願したが、彼らは首を縦には振ってくれなかった。

 

 そこで少女は自分一人ででも父親の救助に向かうことを決意する。一月ほど前、村に残っていた朽ちかけたボートの穴を塞ぎ、早朝の暗闇に紛れて島を目指して出港。

 

 しかし岸を少し離れたところで、父親の船を沈めたのと同じ黒い船―――沿岸部なのでやはり駆逐艦級の深海棲艦だろう―――に彼女のボートも襲われてしまう。

 

 海に出るのは自殺行為。その意味を幼い命と引き換えに学ぶことになるはずだった少女は、だが突如現れた何者かの助けによって窮地を脱する。

 

『白くて黒くて、綺麗だけどちょっと怖い』それは、彼女を襲った深海棲艦を易々と撃破。

 

 さらにボートを壊された少女を岸まで送り届けてくれたのだという。

 

 それから後、彼女が海辺に出ても黒い船の姿は無く、代りに『友達』がいつも近くで彼女を見つめていた。

 

 今日再び海に漕ぎ出したのも、『友達』がずっと見守っていてくれたからなのだ、と言うと、少女は再び口を噤んだ。

 

「……erstaunt!! 深海棲艦が人間を守るために同士討ちなんて……」

 

「にわかには信じられないでち……」

 

 少女はほらやっぱり、という風に不機嫌そうに頬っぺたを膨らましてお湯の中に顔を鎮める。村人たちに説明した時も、同じような反応だったのだろう。

 

「だとすると……もしかしたらゴーヤが攻撃されたのは、エリーゼを取られると勘違いしたのが原因だったりして、なの!!」

 

 そんなバカな、と呆れ顔のゴーヤを、きっとそうなのね!!と妙にキラキラした瞳で見つめるイク。

 

 どんな下世話な想像をしてるのか知らないが、仮にそれが事実だとすれば、巻き込まれた方としてはえらい迷惑だ。

 

「ところではっちゃん、謎の深海棲艦の話もいいんでちが……この子、ゴーヤたちで向こう岸まで連れて行ってあげられないんでちか?」

 

 顔を半分水面下に沈めたままのエリーゼの、潮風でパサパサに荒れた黒髪を湯の中で解きほぐしながらゴーヤが尋ねる。

 

「それはいい考えなの!! 一人で海に出るよりずっと安全なの!! 海の中なら安全に、お父さんの所まで連れて行ってあげられるのね!!」

 

 二人の視線がはちに集中する。だが一方のはちは、眼鏡に付いた水滴をタオルの端で拭って掛け直すと、険しい表情を浮かべた。

 

「二人とも、私たちは現在遠征任務中なんです。戦略上、得体のしれない深海棲艦のいる海は、できれば早く離れたいですね……。それに抗独パルチザンの話を聞いてしまうと私たちに何かあった場合、例えば機密文書を奪われたり人質に取られたりしたら、ドイツとの同盟関係上も問題が……」

 

 心情的には賛成したいのですが、とも彼女は付け加えるが、その結論は同じだ。

 

「……どうにかできないんでちか?」

 

「Nein、どうにもなりませんね。件の深海棲艦が単独で海域を支配可能な個体であれば、既にここは準E領域。通信障害や敵の増援も想定しなければなりませんし」

 

「こんなに可愛いのに、こんなに頼んでもダメなの?」

 

「可愛かろうが何だろうが、ならぬものはならないんです」

 

 ぴしゃり、とにべも無く切り捨てたはちは、ガラスの曇りが気に入らなかったのか、眼鏡を外して再びタオルで磨き始める。

 

「ふんっ、はっちゃんの分からず屋!! もういいの!! イク、先に寝るのね!!」

 

 手に持ったバナナの皮を焚き火の中に放り込むと、立ち上がったイクはバスタオルの裾を翻し、天幕の横に設置した同じく帆布製の簡易テントの中に姿を消した。

 

「休むのは構いませんが、見張りの交代時間になったら起こしますよ」

 

 はちが後ろから声をかけると、分かってるの!!と不機嫌そうなイクの返事が返ってきた。

 

「So lästig……単艦ならともかく、艦隊での長距離遠征は難しいものですね」

 

 溜息をついたはちは海軍帽を脱ぎ、頭の左右で結んだおさげに手をかけ白いリボンを解き始める。はらり、と広がった金髪の束が、焚火の色を反射して赤銅色に輝いた。

 

「はっちゃん……」

 

「ゴーヤ、あなたもイクと同じ意見ですか?」

 

 眼鏡越しではない、はちの空色の瞳がゴーヤの緋色の瞳を覗き込む。

 

 が、ゴーヤは首を振った。

 

「違うでち。はっちゃんの言ってることは良く分かってるでち……多分イクも」

 

 来たるべき英独連合軍によるジブラルタル海峡封鎖作戦。

 

 しかし陸上移動する泊地棲姫の存在によって作戦の致命的な欠点が明らかになった今、ゴーヤたち伊号潜水艦の持つ機密情報がドイツに届かなければ、数万ではきかない数の命が失われることになるのは間違いない。

 

 だからこそ、この潜水艦遠征は失敗するわけにはいかないのだ。

 

 ヨーロッパの、いや人類の未来のためにも。

 

「Weshalb……では何故?」

 

「ゴーヤも、イクも、はっちゃんも……軍人だけど、潜水艦だけど……女の子だから……」

 

 はちは何のことだか分からずきょとん、としていたが、やがてその意味するところを理解すると、表情を和らげくすくすと小さく笑い始めた。

 

「Genau!! その通りでした!!」

 

 そう言いながらも彼女の笑い声はなかなか止まらない。

 

「はっちゃん、笑うなんてひどいでち!!」

 

「すいません、司令艦のあなたに女の子って言われて……」

 

 眼の端の涙を拭ったはちは、やっとのことで笑い止んだ。

 

「ふん、どうせゴーヤは軍艦としても女の子としても半端者でち!!」

 

「ふふ、そんなにへそを曲げないで下さい」

 

 そう窘めた彼女は、ふと遠い目で空を見上げた。

 

「……でも、そうですね……だから司令艦には、普通の艦娘や軍人には見えない、そんな何かが見えるのかもしれません」

 

「それこそ意味分かんないでち……」

 

 先ほどはちが艤装と石の隙間に押し込んだ機密書類の束が、夜風に煽られかさかさと乾いた音を立てる。

 

 焚火の炎が踊る様にして揺れた。

 

「そういえば、エリーゼでしたっけ。先ほどから何も喋っていませんが、大丈夫ですか? 溺れたりしていませんか?」

 

 言われてゴーヤが自分の胸元を見る。少女は昼間の戦闘で疲れ果てたのか、いつの間にか小さな頭をゴーヤに預け、可愛い寝息を立て始めていた。

 

「とっくの昔におねむさんでち」

 

 表情を和らげながら、少女が沈まないようにゴーヤは彼女をそっと両の腕で抱きしめる。

 

 その身体の熱と柔らかさ、生命の温度と安らぎが密着した肌から伝わっていた。

 

 七つの海が深海棲艦の恐怖に沈んだ今、このドラム缶の中が少女にとって、世界で一番安全な海。

 

「何で戦争、終わらないんだろう……」

 

 ぽつり、とゴーヤが呟いた言葉はアフリカの夜風に吹かれ、満天の星空へと運ばれる途中でふいと掻き消えてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「Aufwachen!! 起きて下さいゴーヤ!!」

 

「う~ん、もうオリョクれないでち……」

 

「何を寝ぼけているんですか!! 非常事態なんですよ!!」

 

 テントの中で目を覚ましたゴーヤは、ぼやけた視界の中何やら慌てた様子のはちが自分の肩を揺さぶりながら叫んでいるのに気が付いた。

 

 彼女も起き抜けらしく、眼鏡を付けていないはちは新鮮かも、と思いながらシーツをめくって起き上がろうとする。が、途端に朝の冷気が肌を刺し、ゴーヤは身体を縮こませた。

 

 寝間着代わりに身に付けているのはセーラー服の上とパンツ一枚。半袖からのぞく白くて細い二の腕をさすると、冷えた素肌に鳥肌が立っているのが分かる。

 

 そういえば昨日の夜は風呂を出てから仮眠を取り、〇〇〇〇のてっぺんから〇三〇〇で見張り番を務めた後、イクと交代してすぐテントの中のシーツに潜り込み、そのまま爆睡したんだっけ、と思い出す。

 

「はっちゃん、おはようでち……まだ暗いけどもう起床時間?」

 

 目をしょぼつかせながら手を伸ばし、張られた帆布の裾をめくった隙間から外の世界を覗く。朝と呼ぶには程遠い夜明け前の薄暗闇に包まれていた。

 

 だがのんびり尋ねたゴーヤは、次のはちの言葉で凍りつく。

 

「それどころではないです!! イクが―――イクがいないんです!!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間劇2『紺色人魚姫伝説』(4)

 

「そ、そんなはずないでち!! ど~せ見張りサボって、近くの茂みにお花でも摘みにいってるでち。そもそも見張り番は艤装を付けることになっているから、装備が無くなってても別におかしくないでち」

 

 動揺しながらも、あくまで大したことないと言い張るゴーヤ。だが現実にイクはこの場にいない。

 

「……それよりもはっちゃん、騒いだらまだ寝てるエリーゼが起きて……」

 

 そう言って誤魔化すように自分の隣のシーツの膨らみをめくる。

 

 が、そこにいたのは昨日ドラム缶風呂の中で眠ってしまったため、村に帰せず同じテントに寝かしつけたあの褐色肌の少女……ではなく、脇に置いてあったはずのゴーヤの艤装だった。

 

「あれ、あの子もいない?」

 

 首をかしげるゴーヤを尻目に、はちは鋼鉄の艤装の下に挟まれた一枚の紙切れに気付き、引っ張り出したそれに書かれた丸っこい女の子文字を読み上げる。

 

『ちょっと二人でお散歩してくるなの!!⑲』

 

「ほ、ほぉらやっぱり。はっちゃん大げさだよぉ」

 

 安心して再びシーツに潜り込もうするゴーヤ。

 

「Hör auf!! そんなわけ無いでしょう!! いいから早く探しに行きますよ!!」

 

 そのゴーヤのパンツをはちが掴んで引っ張る。海軍支給の全年齢用綿パンツがびよ~ん、と伸び、桃のようなゴーヤの臀部が外気に曝された。

 

「ひゃうっ――やっぱり寒いのは嫌でち!! 太陽昇っても帰ってこなかったら考えるからぁ!!」

 

「Nein, nein, nein!! ゴーヤ、往生際が悪いです!!」

 

「はっちゃんこそしつこいでち!! 大体何でそんなに慌てて――」

 

―――ズン!! ズン!!

 

 不意にアフリカの未明の大気を震わせる、連続した低い爆発音が響いた。対岸の茂みで驚いた鳥たちが昏い空目がけて鳴きながら飛び立つ音。

 

 パンツで綱引きをしていた二人の動きが止まった。

 

「―――今のは発砲音?! もしかして昨日の――」

 

「Ja、未確認深海棲艦のものだと思われます。おそらく海上でイクが交戦状態に入ったのでしょう……」

 

 脱力したようになったはちは、ゴーヤのパンツからそっと手を離す。

 

 海難事故があってから、近隣の村人たちは海に出ていない。このタイミングで砲撃されることがあるなら、それはイク意外に考えられない。

 

 すっかりゴムが伸びきり、勝手にずり落ちようとするそれを手繰り寄せながら尋ねるゴーヤは、今はもう完全に目を覚ましていた。

 

「でも、どうしてイクが海に――」

 

「彼女は昨日あの女の子を、父親の所に連れて行けないかと言っていました」

 

 あっ、とゴーヤは息を呑んだ。

 

 昨晩のやり取り、はちが提案を却下した時のイクの不満そうな顔が脳裏に浮かび上がる。

 

「見つかると止められるから、私たちが寝ている間に彼女を連れてこっそり出港したのでしょう。対岸の島を目指して」

 

 昨夜あの子を無理にでも家に帰しておけば、と悔しそうに唇を噛むはち。

 

 ―――ズズン!!

 

 そうしている間にも、また発砲音。

 

「何にしても、ここでもじゃもじゃしてる時間は無いでち!! 早く助けに行かないと――はっちゃん!!」

 

 互いに顔を見合わせた二人は頷くと、自分の下着に手をかけた。

 

 ぱっと脱ぎ捨てられた二枚の白い布が宙に舞う。

 

 テントの支柱に干してある紺色のスクール水着を引っ掴み、白魚のような足を通す。

 

 セーラー服を着たまま器用に引っ張り上げた肩紐をかけ、艤装を背負うとすぐさまセルモーターが唸りを上げ、ユニットのディーゼル機関が始動。

 

 少女たちの全身を不可視の生体フィールドが包み込み、潜水艦娘伊58号と伊8号の出港準備が整った。

 

 その間、僅か40秒。

 

「晴嵐発艦!! 対岸の島までの直線航路上を中心に、先行して空からイクを探すでち!!」

 

「Ar196改Starten!! 想定戦闘海域に邪魔が入らないよう索敵を!!」

 

 テントを出て川に飛び込むのと同時に、二人は背中の艤装の水密ハッチを開き水上機のカタパルトを展開。

 

 二つの異なるプロペラ音を響かせながらゴーヤの水上爆撃機『試作晴嵐』と、はちのドイツ製水上偵察機『Ar196改』の両機が翠の翼に描かれた日の丸をひらめかせ、まだ夜の帳に包まれた暗い海へと飛び立っていく。

 

「はっちゃん、このまま洋上を機関最大戦速で追いかけるでち!!」

 

「Ja!!」

 

 言うが早いか主機である紺色のスクール水着から推進力が生まれ、二人はカタパルトを収納しながら水面に顔を出したまま、猛烈な勢いで川を下り始める。

 

 ジャングルの横を通り過ぎ、バナナ状に伸びたバナナ村のある半島を過ぎ、数分と経たないうちにコンゴ川の河口から再び太平洋へと飛び出した。

 

 眼前に広がる真っ黒な海の上に、艦影は無い。

 

 それどころか先ほどから敵主砲の発砲音は絶え間なく鳴り響いているというのに、発砲炎の一つさえ見えない。

 

 だがこの砲撃が続いている間は、少なくともイクは無事なのだ。

 

 得体のしれない深海棲艦の跋扈する海を、昨日見た対岸の島目指して二人は並んで進んでいく。

 

「晴嵐から入電!! 沖合6kmの洋上で、女の子を抱えて回避運動中のイクを発見したでち!! 速度が出せないおかげで、このまま進めば追い付けそう!! でも敵影は……やっぱり確認できないみたいでち」

 

「Verstehen―――こちらも周辺海域の索敵が終わりました。接近する敵艦影は今のところ認められませんね。といっても、もし相手が『見えない深海棲艦』なら、同様に見えない増援がいる可能性は否定できません……」

 

「でも、このままだとイクがやられちゃうでち!!」

 

 搭載モードに設定しているため、波飛沫を弾く眼鏡の紅い縁を撫でながら考えるはち。

 

「―――ゴーヤ、提案です。傍受の危険性がありますが、一旦無線封鎖を解除しましょう!! それで少しでも敵の注意をこちらに引きつけられれば御の字です!!」

 

「許可するでち!!」

 

 ゴーヤが即答するとはちは、すぐさま洋上通信用の小型インカムを自分の耳に装着した。ゴーヤもそれに倣う。

 

「イク!! 聞こえますか!! 聞こえたら応答しなさい!!」

 

 無線周波数をイクの固有波に合わせ、マイクに向かって鋭く呼びかける。

 

「―――普通のE領域みたいに、謎の電波障害で通じないんでちか?」

 

「いえノイズも聞こえませんし、通信状態は驚くほど良好です」

 

「それも不思議でち。至近距離に深海棲艦がいるはずなのに――ならどんどん呼びかけるでち!! イクッ!! 早く返事するでち!!」

 

 暗い水平線を睨みながら、まだか、まだかとイクの声を待つ。

 

 戦場が近付くにつれて砲撃音が大きくなり、イクを狙って放たれた砲弾が海面に当たり立ち昇る水柱も見え始めた。

 

『ごめんなさいなのっ!!』

 

 突如、インカムに今にも泣き出しそうな少女の謝罪が飛び込んできた。

 

『黙って出て行ったことは謝るの!! でも、この子をどうしてもお父さんに会わせてあげたかったのね!!』

 

 こんな時だと言うのに、返って来たのはいかにもイクらしい言葉。

 

 一瞬呆れたような顔になったはちは、だがすぐさま思考を切り替える。

 

「Vergiss es!! それよりも状況を教えて下さい―――あなたは今、一体何と戦っているのです!!」

 

『深海棲艦なの!! それも見たこと無い大きくて黒い奴!! イク、潜航してたはずなのに、気付かれて爆雷で炙り出されたの!!』

 

「Groß und schwarz? そんな艦影は見当たりません」

 

『でもいるの!! イクたちを狙ってるの!! 嘘なんかついてないの!!』

 

 しかし暗い海の上にはやはり、イクのいうような敵の姿は無い。

 

 彼女の上空で待機中の試作晴嵐を通してゴーヤに届く画像データにも、それらしい存在は見て取れない。

 

 映っていたのはジグザグに之字を描いて逃走するイクと、無数に立ち昇る砲撃の水柱のみ。

 

「やっぱりゴーヤが会ったのと同じ、見えない深海棲艦がいるんでち!!」

 

 ゴーヤとはちは、互いの目を見て頷く。

 

 見えない深海棲艦―――その存在は確かだが、一方でイクは敵を認識できているのにも関わらず、追い縋る二人が何故敵を捕捉できないのかは謎だ。

 

 しかし、だからといって彼女たちの救助を諦めるわけにはいかない。

 

 眉間に皺を寄せて考えるはち。

 

「見えない深海棲艦相手に戦うのなら、少なくとも何かZiel……目印になるようなものが必要ですね」

 

「目印、でちか……例えば信号弾でも撃ち込んでみたりとか?」

 

「Nein。信号弾は撃ち込むものでなく、仲間に情報を伝えるためのものです。目印にしようにも、砲弾のように撃って何かに当てることを想定したものではありま……」

 

 何かに気付いたはちの言葉が途中で止まった。

 

 振り返り、自分の艤装に取り付けられた2cm 四連装対空機銃FlaK 38を一瞥。

 

「はっちゃん、どうしたでち?」

 

 思案顔のまま表情が固まったはちに、心配したゴーヤが声をかける。

 

「……ゴーヤ、見えない敵を見るためのAntwort……答えが見つかりました!!」

 

「でち?」

 

 はちはインカムのマイクを自分の口元に寄せた。

 

「イク!! 回避行動を続けながら、25mm連装機銃は使えますか?!」

 

『大丈夫なの!!』

 

 ゴーヤが顔に疑問符を浮かべているのをよそに、はちは作戦を告げる。

 

「Großartig……ならば機銃で敵深海棲艦を撃って下さい!! 砲弾は『曳光通常弾・改一』を使用!!」

 

『分かったのね!! イク、行くのッ!!』

 

 え、今のやりとりで何が分かったんでち?と要領を得ない様子のゴーヤに、はちは方位○○○○、前方のイクのいるあたりを見るように促す。

 

 途端にゴーヤの視界の中、真っ暗な水平線の少し手前で小さな赤い砲火が煌めいた。

 

 飛び出した流星のように尾を引く蒼い光の弾が、夜の帳を切り裂き次々と虚空を駆ける。

 

 時間にして約1秒半。

 

 ひょうひょうと半弧を描いて空を行く蒼い粒子たちだが、その殆どは湖面に降る雪のように、海に落ちると同時にぱっと消え沈んでいくか、水切り石のように水面を跳ねてんでバラバラな方向へ飛んでいった。

 

 だが一点。

 

 何も無いはずの虚空を曳光弾の列が通り過ぎると、光弾が吸い込まれるようにして消えていく。そんな場所がただ一点だけ存在した。

 

 連なる光の線は何度か右に左に行き来し、ついにその消失ポイントを捉える。

 

「はっちゃん、あそこにいるんでちか―――敵が!!」

 

「Ja。『曳光通常弾・改一』は発射後約1600mの地点で蒼から朱に色が変わります。おかげでイクとの相対距離も分かりました。あとは……」

 

「言われなくても分かったでち!! 25mm連装機銃、『焼夷通常弾』装填!!」

 

 勢いよく答えたゴーヤの艤装に備え付けられた機銃が、イクの砲弾が消えた空間に向けて2つの砲口を巡らせる。

 

「―――敵が正体を現すまで、全身を機銃弾でTannenbaum……クリスマスツリーみたいに飾り付けてやりましょう!!」

 

 はちの艤装、細長い四つの機銃を束ねた異形の機銃砲座が、獲物を求め重々しいモーター音を軋ませながらゆっくりと回転を始めた。

 

『2cm Flakvierling38』

 

 以前のドイツ遠征で手に入れた、はち専用の対空装備。

 

 四つの砲門から射撃速度720発/分で吐き出される銃弾の嵐と、そこから生み出される濃厚な弾幕は連合軍の戦闘機を次々と撃墜し、『魔の四連装』とも呼ばれ恐れられた代物だ。

 

「機銃さん、お願いしますっ!!」

 

「水上戦闘はあまり好きじゃないけど、仕方ないですね!!」

 

ダダダダダダッ――――!!

 

 二人の機銃、計6門の砲身が一斉に火の弾を吐き出した。

 

 すぐさま昏い海面は激しい発火炎で真昼のように真紅に染まる。

 

 先ほどのイクの曳光弾など比べ物にならない光の驟雨が払暁の夜気を掻き乱し、すぐ先の消失空間に殺到した。

 

『きゃぁぁっ!? はっちゃんイクも狙ってるなの?』

 

 どうやら流れ弾の一部がイクの方まで飛んで行ってしまったらしく、インカムを通して甲高い少女の悲鳴がはちの鼓膜を揺さぶる。

 

「Scherz、何を言っているんです!! それよりも今のうちに海中へ退避して下さい!!」

 

 流石に雨霰と降り注ぐ機銃弾を無視することはできなかったのか、敵のイクへの砲撃はいつの間にか収まっている。

 

『そうだったのね!! 了解なの!!』

 

 イクが急速潜航したためかぷつんと無線が途絶え、後にはノイズだけが残った。

 

「はっちゃん!! イクが逃げられたのなら、ゴーヤたちも撤退した方がいいじゃないかな!!」

 

「Ja…………いえ、それはできません。もうしばらく敵を引き付けなければなりませんし、せっかく見えない敵の存在を捕捉できたのです。今は少しでも敵の情報を持ち帰らなければ!!」

 

「何を言ってるんでち、はっちゃん!? こんな豆鉄砲みたいな機銃、何万発撃ち込んでも撃沈なんて無理に決まってるでち!!」

 

 実際二人の放つ機銃弾は先の曳光弾のように虚空に吸い込まれてはいくものの、どれほど打っても敵の姿が明らかになるどころか、攻撃が通じた様子さえ全く見て取れない。

 

 といっても敵の方も、機銃の着弾で海中聴音ができずイクを見失い次の行動に移れないまま海上で撃たれるままに佇んでいる。

 

 ……このまま攻撃を続けていても、相手が動いてしまえばすぐにその位置を見失ってしまうだろう。

 

 もっともそれ以前に機銃弾が尽きてしまうのが先だが。

 

「ゴーヤ、事の重大さを理解して下さい!! このまま対潜能力を持つ深海棲艦を放置していたら、今後このアフリカ沿岸航路は使えなくなります!! それに……」

 

 眼鏡越しに空色の瞳がゴーヤをきっと見据える。

 

「それにこれからも、あの女の子みたいに家族を失う子供が生まれるのを、私は見過ごしてはおけません!!」

 

「はっちゃん……」

 

 誰よりも、何よりもこの欧州遣独遠征の成功を最優先にしていたはずのはち。その彼女が任務を放棄してでも人々の海を守ると宣言したことにゴーヤは驚き、そして歓喜した。

 

「はっちゃん!! やっぱりゴーヤは、はっちゃん大好きでち!!」

 

「Stoppen!! 抱き着かないで下さいゴーヤ!! 火線がぶれます!!」

 

 海面でじゃれ合う二人の動きに合わせて光のシャワーが黎明の闇に踊る。

 

「そうと決まれば出し惜しみなんてしていられないでち―――晴嵐!!」

 

 上空で円を描き待機していた自分の艦載機に呼びかける。

 

「二つの火線の交差点を狙って、でかいの一発ぶちかますでち!!」

 

 指令を受けた晴嵐は翼を振るとプロペラの回転数を上げ一旦高度を取り反転、鼻先を機銃弾の消える場所に向けて急降下。

 

 悲鳴のような風切り音を纏いながら爆撃の体勢に入った。

 

「Verstehen……しかし決定打には足りない気もしますが」

 

「何を言ってるでち、はっちゃん!! 決め手はもちろん――」

 

「―――Alles in Ordnung-――了解です!!」

 

 距離を取り、互いの火線が60°になる場所に移動してその瞬間を待つ。

 

 と、急降下を続ける晴嵐から小さな黒い塊が切り離され、海面に向かって叩きつけられるようにして落ちていった。晴嵐は再び反転し戦闘空域から退避。

 

 直後、真っ暗な海面に炎の柱が轟音と共に出現した。

 

 晴嵐が搭載できる限界にして最大の破壊力、二式八〇番五号爆弾。

 

 800kgの大火力徹甲爆弾だ。目印の狼煙には十分すぎる。

 

「見えたでち!! 目標諸元入力、魚雷発射管1番から3番注水、発射口開け!!」

 

「Torpedo eins, zwei, drei――Feuer!!」

 

 2方向から発射された6本の53cm艦首酸素魚雷、沈黙の長槍は航跡も残さず、海面で吹き上がる炎の塊へと一直線に疾走する。

 

 瞬間、朝焼け前の南大西洋が震えた。

 

 炎の柱を覆い尽くすかのような巨大な水柱が次々と立ち上がり、魚雷の着弾を誇示する。

 

 舞い上がった大量の水は重力に引かれ、やがて大粒の雨となって海面に降り注いだ。

 

「やった、でちか?」

 

「いえ、存在を感知できない以上何とも言えません。最低限、敵の姿が見えるイクに確認してもらわなければ……」

 

 するとちょうどゴーヤとはちの中間点あたりの海面に、見覚えのある薄紫のトリプルテールがぽかり、と浮き上がってきた。

 

「海の中まで凄い衝撃だったの……イク、目がグルグルなのね……」

 

「イク!!」

 

 慌てて接舷し、その力の抜けた肩を支える。海軍指定のスク水が一部擦り切れ、艤装の装甲版に歪みが生じている様子だが、損傷は軽微だ。

 

「無事だったんでち!?」

 

「なの。この子も……」

 

 イクが海の中から搭乗モードに設定したあの現地人の少女、エリーゼを抱き上げる。

 

 少女も目を回していたらしく、しばらくぼんやりと空をみていたが、急にハッとしたようになり、いまだ海上で燻る敵のいた場所に向かって叫んだ。

 

『友達が……泣いてる!! 痛いって……』

 

「……やはり沈んでいないのですか」

 

「だったらおまけの魚雷、まとめて叩き込んでやるでち!!」

 

 艦首魚雷は8門。装填済みの魚雷は、まだ5本も残っている。

 

 しかしゴーヤが再び発射体勢に移行しようとしたところで、何かを察したのか少女が肩に縋り付いて来た。

 

『いじめないで!! 友達を、もうこれ以上傷つけないで!!』

 

 小さな身体で、細い腕で必死にゴーヤを行かせまいとする。

 

「はっちゃん……」

 

 すぃ、と近づいたはちが少女の体を抱きしめた。

 

『何で……』

 

『あれは深海棲艦、人間を傷つける黒い船。友達などではありません』

 

『でもっ!!』

 

 優しく、そしてきっぱりと言い切ったはちは、ゴーヤに目で合図を送る。

 

 少女の手を離れたゴーヤは、再び魚雷発射体勢に入った。

 

『止めて!! 殺さないでっ!!』

 

 悲痛な叫びを背中に受けながら、立ち昇る黒煙へと照準を定める。

 

 諸元入力、魚雷発射管5番から7番まで注水、発射口解放。

 

「発射、でち」

 

 先ほどの高揚感が嘘のように、ただ淡々と魚雷を放つ。

 

 再び3本の魚雷が首を並べ、獲物を求める3匹の猟犬のように突き進む。

 

 着弾まで5,4,3……

 

 ―――突然魚雷が届くその手前で、三つの水柱が立ち昇った。

 

「なっ!?」

 

 遅れて激しい音響波の群れがゴーヤたちの体に叩きつけられる。

 

「まさか……ピンガーを収束させて、魚雷を自爆させたでちか……!?」

 

「そんな……Scherz……冗談です、よね? これでは潜水艦の私たちには有効な攻撃手段が……」

 

 ありえない現象。

 

 しかし着弾の直前に、ゴーヤの魚雷が無効化されたのは明らかだった。

 

 いや、そもそも見えない深海棲艦が相手なら、何が起きても不思議ではない。

 

 凍りつく3人の潜水艦娘たちとは裏腹に少女、エリーゼは喜色満面の笑みを浮かべた。

 

『友達!! 無事だった!!』

 

 アフリカ大陸、その山の端がうっすらと朝焼けの色に染まる。

 

 希望を運ぶはずの新しい朝の光の中で、海上にそびえ立つ絶望がその姿をゆっくりと明らかにしていった。

 

 剥き出しにされた青白い肌、紅く燃える瞳、黒い艤装を纏った成人女性型……姫級深海棲艦としての特徴を備えているそれは、しかしどこか普通の深海棲艦とは趣を異にしていた。

 

 顔の半分を外殻が覆い、そこから伸びたチューブが捻じ曲がった多砲塔の兵装へと繋がっている。素体の右腕は無く、代りに残った左腕の付け根から白骨化した別の腕が3本、まるで工場のマニピュレーターのように魚雷管や爆雷投射機を備えてぶら下がっていた。

 

 さらに下半身は両の太腿から先が断ち切られており、バルバスバウ型の黒い殻の周囲には16inch三連装砲が4つ……一つは最初の雷撃で破壊されたそれらがでたらめに配置されている。

 

 できそこないの深海棲艦に、残り物の武器を適当にくっつけた。そんな印象さえ受ける彼女の姿は、その異形ゆえにゴーヤたちの根源的な恐怖を呼び覚ます。

 

「Schrottprinzessin……『残骸戦姫』……」

 

 思わずはちは、目の前の存在をそう呼んでいた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間劇2『紺色人魚姫伝説』(5)

 

「―――敵の新型艦!? でも太平洋では見たことないタイプでち!!」

 

 ゴーヤは必死に自分の記憶を探る。

 

 しかし眼前の異形の深海棲艦は、ゲーム『艦隊これくしょん』の中でも、そしてこちらに来てから読んだ帝国海軍刊行の艦型識別表でも憶えの無い未知のものだった。

 

「ほ~ら見るの!! ほら見るの!! イクの言った通り、やっぱり見えない深海棲艦はいたのね!!」

 

「喜んでる場合ですかっ!! Lass den Quatsch!!」

 

 場違いなはしゃぎ声を上げるイクをはちが叱り飛ばす。

 

 と、スクラップ置き場のガラクタを組み合わせたような、でたらめな形状の艤装に組み込まれた半裸の女性―――深海棲艦の素体―――が、その白骨化した左腕の一本をゆっくりとこちらに向かって突き出してきた。

 

「な、なんなんでち? 一体何をするつもりでち?」

 

「Angriff――――攻撃? それにしては……」

 

 動きに気付いたゴーヤたちが見守る中、工場のマニピュレーターか波止場のクレーンのように機械的に伸ばされた腕が、イクの胸の中の少女に狙いを定める。思わずイクは抱きしめる腕にギュッと力を込めた。

 

『友達……』

 

 どこか心配そうに少女、エリーゼが深海棲艦―――残骸戦姫を見つめる。

 

 すると腕を伸ばしたままの姿で彼女は動きを止めた。

 沈黙したままにらみ合いが続く間も、東の空に上り始めた太陽は少しずつ海面に投げかける光量を増していく。

 

 その沈黙を気に破ったのは、深海棲艦の方だった。

 

 意図を図りかね石像のように硬直したゴーヤたちの前で彼女の紫色の、水死体の色をした小さな唇が開かれる。

 

 空気の振動とインカム、二つの経路で艦娘たちの耳に何語か分からない言葉が届く。

 

 しかし何故か、その意味するところを理解できたゴーヤたちの表情は一瞬で凍りついた。

 

―――オイデ―――

 

「さっ、散開をっ!! Einsetzen!!」

 

 はちが恐怖の中でなんとか号令を絞り出すのと、残骸戦姫の16inch三連装砲が火を噴くのはほぼ同時。

 

 咄嗟に三方に散ったゴーヤたちのいた場所、その海面を高速で飛来した生体砲弾が抉り飛ばす。

 

「はっちゃん!! イク!! みんな無事でちか!?」

 

 敵艦の左舷に逃れたゴーヤは次々と立ち上がる水柱と飛沫に視界を遮られながら、水上機動を取りつつインカムのマイクに叫ぶ。

 

「……らはち……き右舷方向で……」

 

 返って来たのは激しいノイズに妨害され、途切れ途切れになったはちの声。

 

 イクに至っては応答すら無いが、特徴的な彼女のトリプルテールが必死で敵から遠ざかっていくのが見えた。

 

「通信障害!? さっきまで問題無かったのに、どうして今になって!?」

 

 その疑問に答える者はいない。

 

 しかし相手がこちらに敵意を向けてきた今、戦うにしても、潜水艦唯一にして最大の武器である魚雷が通じないのでは、ゴーヤたちが取りうる手段はほとんど無いに等しい。

 

 三十六計逃げるにしかず。

 

 だが残骸戦姫から距離を取ろうとするゴーヤは、ふと自分への追撃が無いことに首をかしげた。

 

 晴嵐の爆撃を受けた後、もはや姿を隠そうともしない残骸戦姫は、自分の正面、すなはちイクと彼女が抱えるエリーゼに向けてのみ砲撃を続けていた。

 

 彼女はゴーヤたちの存在に気を留めた様子も無く、ただひたすら真っ直ぐイクたちを追いかけている。

 

「まさかあいつ、本当にエリーゼだけを狙っているんでちか?」

 

「……ーヤ!! ゴー……Hören、聞こえていますか!!」

 

 ノイズの海の中で、次第に肉感を持ってハッキリしていく呼び声。

 

 見るとゴーヤと同じように残骸戦姫に置いてきぼりにされたはちが、警戒しながらその航跡を横切り近づいてきた。

 

「はっちゃん、あれ……」

 

「ええ、にわかには信じがたい光景です。深海棲艦が特定の目標を追いかけるなんて……」

 

 眼鏡に付いた水飛沫を親指で拭いながら、はちはゴーヤの隣に接舷する。彼女の瞳には困惑の色が浮かんでいた。

 

「でも、最近似たような話を聞いた気がするでち」

 

「……先のソロモン海で、救助活動中の深雪を執拗に狙い続けた泊地棲姫のことですね」

 

 ゴーヤはこくんと首を縦に振る。

 

 突然世界中の海に現れた謎の敵、深海棲艦。

 

 彼らの目的を推し量る術は無いが、蓄積された様々なデータを分析する過程で浮かび上がったその戦闘行動には、一つの法則があった。

 

 『敵を選ばない』

 

 駆逐艦級や軽巡級が対潜行動を優先する、探照灯に砲撃を集中するなど説明可能理解なものもある。

 

 しかし何と言っても、彼らはターゲットを選ばない。

 

 中破大破状態でも駆逐艦がこちらの戦艦に全力攻撃を仕掛けてきたり、あと一撃で轟沈する状態の艦娘がいても無傷の新しい標的を狙ったり。

 

 そういった特性から、商船護衛任務で敵の注意を逸らすのは進路に割り込むだけでよく、比較的簡単であった。一方で派手な陽動作戦を行っても、彼らの気を引くためにずっと攻撃し続けなければならない、という問題もあったが。

 

 そんな見境なしに手当たり次第噛みついてくるはずの深海棲艦が、イクとエリーゼに固執している。

 

 直前に同じようなケースを聞き知っていなければ、ゴーヤもはちも自分の目の前で起きている現象を理解できなかったかもしれない。

 

「けれども敵のtargetが分かっているのであれば、逆に与しやすいかもしれません」

 

 逃げ回っているイクには悪いですけど、と前置きしてはちが見解を述べる。

 

「あの子が敵を引き付けて来てくれている間は、考える時間が稼げます。あとはどうやって倒すか、なのですが……」

 

 ゴーヤたち潜水艦の使う九五式2型魚雷は、航続距離を5kmと短くした代わりに、1型より150kgも多い500kgの九七式炸薬を搭載している。そして魚雷は一旦発射されれば最大雷速48ノット、時速にして約90km/hの高速で敵艦目がけて襲い掛かる。

 

 しかしその高速ゆえに帝国海軍の魚雷には、起爆装置としてはもっとも単純な『ぶつかったら爆発する』接触式信管だけしか搭載されていない。

 

 深海棲艦は生物とも機械とも知れないのだから、磁気感知信管が使えないのは当然。

 

 そして接触式信管を採用したことは、ある意味対深海棲艦では利点にもなっていた。

 

 半身を海中に浸した駆逐艦級や潜水艦型を除き、軽巡洋艦級以上の深海棲艦は艦娘と同じく海面に立つようにして移動する。

 

 その際足元の海中に発生する力場……艦娘も持つ、艤装を含めた一定の質量体積を沈まぬよう海面上に維持する『疑似排水限界』と呼ばれる領域に対して信管が鋭敏に反応。本来、海上の敵であれば足の下を通過していくだけのはずの魚雷が起爆し、有効なダメージを与えることができていた。

 

 だが感度が高いということは、同時に簡単な衝撃でも信管が作動し、魚雷が起爆する可能性を示す。それを知ってか知らずか、敵は対潜水艦用アクティブソナーの探信音を収束発振。水中に衝撃波を作り出すことで信管を誤作動させ、ゴーヤたちの酸素魚雷を自爆させた。

 

 つまりこの敵に対して、接触式信管は意味をなさない。

 

「せめてこちらの魚雷が時限式の遅延信管であれば、対処のしようもあるんですけど」

 

「もう魚雷攻撃は効かないって割り切るしかないでち。機銃弾も残り僅か、それにこんな地球の裏側までは補給も援軍も望めない」

 

「Hilflos……では打てる手段がありませんね」

 

 言葉とは裏腹に不敵な笑み浮かべたはちの黒縁眼鏡が、徐々に強くなりつつあるアフリカの朝日を反射してきらり、と煌めいた。

 

「私たちが普通の潜水艦なら、の話ですが」

 

 そう、常識的に主兵装を封じられた潜水艦が水中探信儀に爆雷投射機、その上巨大な艦砲を備えた水上艦に勝てるはずは無い。

 

 しかし人の形をした艦艇である艦娘は、その常識をいとも簡単に飛び越える。

 

「だったらぶっつけ本番、奥の手のプランBを試すいい機会でち!! はっちゃん、作戦遂行可能海域の座標を!!」

 

「Bereits!! 海底地形データは以前の航海の時に落とし込んでいます。最適の場所は―――ちょうど私たちと敵とのほぼ中間地点、方位○○、距離2000!!」

 

 懐から取り出したスマホの海図アプリを起動しながら、遠ざかってゆく黒い深海棲艦の背を指差した。

 

「このままイクに囮を続けてもらい、当該海域へ敵を誘導するのが良策と思われます!!」

 

「了解でち!! 無線……は突然使えなくなったから、晴嵐!! メッセンジャーボーイを頼んだでち!!」

 

 短文であれば電波圏外や無線障害下であっても、艦載機を接近させれば機体に組み込まれた通信機で相手に作戦を伝えることができる。

 

『敵ガ対魚雷行動ニ移ルト同時ニ方位一八〇ニ転舵セヨ』

 

 メッセージを托された上空の晴嵐は、白からオレンジに色を変えつつある陽光を深緑の両翼で切り裂きながらイクの元へ全速力で飛び去って行った。

 

「……怖い、ですか?」

 

 謎の深海棲艦との決戦を前にして、小さくなっていく晴嵐の尻尾をぼんやりと眺めていたゴーヤに、はちが優しく声をかける。

 

「ちょっと……ちょっとだけでち。でも、もう大丈夫でち!!」

 

 そう言い放ったゴーヤは、自分で自分の両頬を思いっきり引っぱたいた。

 

 ぴしぃんっ、と水を打ったような鋭い音が響く。

 

「よぉしっ、気合入ったでち!!」

 

 と、武者震いするゴーヤのセーラー服を着た肩に、白く細いはちの指が触れる。

 

「心配しないで下さいゴーヤ。あなたに何があっても、私が必ず迎えに行きます」

 

「ありがとう、はっちゃん……」

 

 少しの間、二人の間を沈黙が支配した。

 

 タァン――ッ!!

 

 突然、空に向けて機銃弾が一発放たれる。

 

 晴嵐からメッセージを受け取ったイクの合図だ。

 

 互いに無言で頷き合ったゴーヤとはちは、同時に機関を再始動。半身を海面に出した洋上航海モードのまま、深海棲艦の航跡を追うようにして真っ直ぐ矢のように突き進む。

 

 イクを追い艦砲射撃を続ける敵の影がぐんぐんと近くなる。

 

「艦首魚雷発射管4番、8番注水、発射口開放!! 全部もってくでち!!」

 

「Torpedo fünf, sechs, sieben――Feuer!!」

 

 二人の発射した5本の艦首酸素魚雷が、残骸戦姫の背中に向かって殺到。敵は迫りくる機械仕掛けの猟犬たちに気付いた様子は無い。

 

 が、彼女の艤装は違った。

 

 切断された太腿と16inch三連装砲を接続する黒いフロート、そこに半ば埋め込まれたようになっている頭の潰れた駆逐艦級のような形をしたパーツが、ぐるりと頭を巡らせて魚雷の方を鬼火の燈った目で睨む。

 

『自律艤装角』-――主に姫級深海棲艦で膨大な数の火器を管制するため、巨大な艤装の一部が別個体状に変化したサブコントロールブレイン。照準補正や自動迎撃などに使用すると推測されているそれが、背後に迫る存在を脅威と認めたのだ。

 

 すぐさま艤装の後部が展開。4本の黒い杖のような、柱のような細長いパーツがぬっと姿を現す。等間隔に配置された4本の棒が海中に深々と突き立てられると同時に、残骸戦姫の船足が緩んだ。

 

ギィィンッッ!!

 

 甲高い金属音を放ち棒が震えたかと思うと、次の瞬間先頭の酸素魚雷が自爆する。

 

 すぐさま蒼と白のマーブルを描く航跡の中に、盛大な水柱が立ち上がった。

 

 鯨のそれとは比べ物にならない強烈な音響波が二度、三度と海を震わせるたび、魚雷が自爆。水柱はまるで道の両横に立ち並ぶ街頭のようだ。

 

 しかし残骸戦姫が魚雷の対応に追われ肝心の艦砲射撃の狙いが甘くなる一瞬を、イクは見逃さなかった。

 

 すぐさま少女を胸元に抱えたまま機関を停止し、メインタンクに急速注水。潜望鏡深度まで沈みながら、残りの手足を突っ張ってパラシュートのように目一杯広げる。

 

 海水の抵抗を受け、シーアンカーとなった彼女の船体に急ブレーキがかかる。

 

『ぐぅっ……乗員がいる分負荷がキツいのね……』

 

 きしきしと艤装が悲鳴を上げる中、歯を食いしばり必死で水圧に抗いながら数秒の減速の後、イクは体勢を戻し、海中でくるりと弧を描いて華麗なタンブルターンを決めた。

 

 そのまま機関ユニット内に残った空気を総動員。

 

 ディーゼルエンジンが力強く回り出し、推進力が生み出される。

 

 進路反転に成功した彼女は、今度は急速浮上。水飛沫と共に海面に飛び出すと、機関最大出力を保ったまま元来た方に向けて逃走劇を再開した。

 

 ズンッ!!

 

 大気を揺るがす重々しい発砲音。すぐさまイクの隣に水柱が立つ。

 

 振り向くと、さきほどより大きく見える残骸戦姫の16inch三連装砲が煙を上げている。

 

 人型艦艇の旋回半径はゼロに等しい。隙を突いて方向転換には成功したが、そのためイクは距離のアドバンテージを失ってしまった。

 

「かっ、回避なのね!!」

 

 とっさに面舵。

 

 次弾がイクの背後を掠め、すぐ横で巻き立つ白波を弾き飛ばした。

 

 そのまま之字運動で回避行動を続けるが、直進する敵との距離はさらに狭まっていく。

 

 徐々に挟叉、至近弾が増える。敵の砲口は確実にイクを捉え始めていた。

 

「ゴーヤ!! はっちゃん!! まだなの?! もう、イクもう沈みそうなの!!」

 

 インカムに向かって叫ぶが、今は無線妨害でもされているのか、返ってくるのはノイズばかり。

 

 と、イクの進路のすぐ先で海が弾けた。そのインパクトが海中を伝わり、波に乗り上げたボートのようにイクの全身が激しく揺さぶられる。

 

「きゃうっ!!」

 

 どうやらいっこうに砲弾が命中しないことから、敵はまず頭を叩いてイクの行き足を止める戦法に切り替えたらしい。

 

 無理やり体勢を立て直すが、今度は身体の動揺が収まらない。それどころか速度を上げようとすると、さらに動揺は激しくなり直進さえ難しい。

 

「まさか―――さっきの衝撃で舵が歪んだのね!?」

 

 こうなっては洋上で回避行動を続けても、状況は不利になっていくばかり。行き足の鈍った浮上潜水艦など、腹を見せて浮く死にかけの魚のようなものだ。

 

 ならば潜航すれば良いかといえば、それこそ海中で爆雷の雨に晒され、ぼろきれのようになって大西洋深くに沈む未来しかない。

 

 どちらにしてもイクの進退は窮まり、運命は決まった。

 

 残骸戦姫の巨大な16inchの砲口が、正円の瞳でイクを見下ろす。

 

「……せめてこの子だけでも、もう一度お父さんに会わせてあげたかったのね」

 

 固く目を閉じて自分にしがみ付き震える少女を一瞥し、イクは寂しそうに呟く。

 

 ガウンッ!! ガウンッ!!

 

 くっ、とイクは反射的に目を伏せる。

 

 砲弾の風切音。砲火の炸裂音。そして弾け舞い上がった飛沫が雨のように海面を叩く音。

 

 しかし最後の瞬間は、いくら待っても訪れなかった。

 

「ど、どうして止めを刺しに来ないの……?」

 

 恐る恐る顔を上げたイクのインカムに、聞き覚えのある声が飛び込んできた。

 

『イク!! Antworte mir……答えて下さい!!』

 

「はっちゃん!」

 

 仲間の呼びかけで、諦めかけていたイクの瞳に光が戻る。

 

『間に合いました!! 後は私とゴーヤに任せて、あなたは可能な限り回避運動を続けて下さい!!』

 

「分かったの!! でもはっちゃん、あいつには魚雷が効かないのね!?」

 

『Kein Problem……問題ありません!!』

 

 波を蹴散らし進む何かが、イクの真横を残骸戦姫に向かって駆け抜けて行く。

 

 それを目の当たりにしたイクは瞬きし、二度瞼を擦って自分が夢の中にいるのではないことを確かめた。

 

 アフリカの朝日の中、濡れて照り輝く紺色の水着。頭にちょこんと乗せた海軍帽と、その下からぴょこっと覗く金髪を二つに纏めた短いお下げ。

 

 すらりと伸びた両脚に履く白いニーソックス。その足元で同じくらい白い波が粉雪のような水しぶきとなって、後ろへ後ろへと勢いよく送り出されている。海面にはまるで雪山に描かれたシュプールような鮮やかな曲線の航跡が刻まれていた。

 

「奥の手……Trumpfは、最後まで取っておくものです!!」

 

 駆逐艦や戦艦などの水上艦がそうであるようにすっくと海面に立ち上がったはちは、逃げることも忘れて目を白黒させているイクを置き去りに、一陣の疾風となって残骸戦姫へと向かっていく。

 

 ふいに姿を現した新たな標的。だが残骸戦姫は一瞬動きを止めたものの、再び艤装から生えた黒光りする16inch三連装砲の照準をイクに合わせる。

 

「Halt!! やらせませんよ!!」

 

 その虚ろな眼窩のような砲口が火を噴く前に、はちの背中の艤装と一体化した14cm連装砲が滴り落ちる海水を吹き飛ばしながら砲弾を吐き出した。

 

 ガウンッ!! ガウンッ!!

 

 駆逐艦の主砲に匹敵する火力を持つ潜水艦『伊8』の艦砲射撃。至近から放たれたその一発が、力無く垂れ下がる残骸戦姫の白骨化した左腕に着弾。腕は三本とも根元の切れ端だけ残して粉々に砕け散った。

 

『―――ヨクモ―――』

 

 ひゅっと周囲の温度が下がったのを、はちは水着越しに素肌で感じ取れた……感情など無いと言われている深海棲艦が、激昂している。

 

 イクに向けられていた16inch三連装砲がはちに狙いを変え、さらに艤装のあちらこちらからは無数の機銃群が姿を現した。

 

 全身ハリネズミ、その姿はさながら海に浮かぶガンガゼか移動要塞。

 

 間髪入れずに無差別飽和攻撃が始まった。しかし雨霰と降る機銃弾の中を、はちは16inch三連装砲のみ警戒しながら最小限の回避動作で潜り抜けていく。艦娘の足元に生み出される『疑似排水限界』の特性は靴型をした主機の形状に依存する。代替品のニーソックス型副主機で発生する彼女の力場は極めて不安定だったが、短時間の運用であれば問題ない。

 

「―――そんなにその腕が大事だったのなら、箱に仕舞って鍵でもかけておくべきでした!!」

 

 はちが吠える。

 

 時折当たる機銃弾が生体フィールドと接触し火花を散らす中、主機のハンデなど無いように軽やかに、そして確実に致命傷となる主砲弾を右へ左へと躱しながら、はちは残骸戦姫との間隔をぐんぐん詰めていった。

 

 もう深海棲艦特有の漆黒の艤装、その細部から青白い肌をした素体となる女性の目鼻口まで容易に見て取れる距離だ。

 

 反航戦、しかも明らかに衝突コース。

 

 だがどちらも進路を譲ろうとはしない。

 

「ここまで来ればっ!!」

 

 直前まで自分の体の陰に隠していた厚手の本―――専用の魚雷発射装置を取り出す。

 

 『伊8』の雷撃システムは、魚雷発射管が艤装に組み込まれている他の伊号潜水艦のそれとは兵装のコンセプトが違う。目指したのはよりコンパクトで効率的な形態。そして採用されたのは、既に龍驤・飛鷹・隼鷹で艦載機に実用化されていた、兵装を形代として収納する道術の亜種だった。

 

 撥水処理を施した和紙に魚雷の絵姿と諸元を書き込むことで、資源と等価交換的に実物の魚雷を顕現させる。

 

 『空母から飛び立つのは艦載機』理論と同じく、『潜水艦から飛び出すのは魚雷』という呪術理論で構築されたそれは、使用者にも一定の魔術素養が求められる。それゆえ他の伊号潜水艦娘に比べても、海軍の中で艦娘『伊8』は存在自体が希少だった。

 

 交差する航路、二隻の船が今まさに衝突する寸前、はちは海面を思いっきり蹴り高々と跳躍する。

 

「私も魚雷はこれで看板です!! Torpedo,Vier,Acht―――Feuer!!」

 

 イルカのジャンプのように弧を描いて飛ぶはち。彼女は手に持った書籍のページを見せつける様にして開く。

 

 見開きのページから53cm艦首酸素魚雷、残ったその最後の二本が先を争うようにして実体化、射出された。

 

 敵に極限まで肉薄しての雷撃。

 

 名にし負う、二水戦の『逆落とし戦法』。

 

 接触信管の感度を最大に設定され、柳の枝が撫でても起爆する状態になった魚雷たちは、それぞれが残骸戦姫の腹部と脚部に激突。

 

 瞬間、炸裂音と共に血飛沫が空に舞った。

 

 無差別砲撃が途絶し、異形の艤装から盛大に黒煙が立ち上る。

 

 はちは自分の戦果を確認することなく、背を晒したまま追撃されるのを避けるため、既にそのまま海に飛び込み潜航していた。

 

 ……やがて煙が収まり、中から身体を傾けた残骸戦姫が姿を現す。

 

 元々朽ちた深海棲艦のパーツを寄せ集めたような艤装は、主砲一門を残して脚と一緒に吹き飛び、『疑似排水限界』も維持できず半ば浸水したような状態になっている。

 

 向こう側が見えるくらいの大穴が開いた腹部からは、生き物が流すような赤い血は、一切流れ出していない。千切れ損ねた肉片が、傷痕からだらしなくぶら下がっていた。

 

 ふらふらと幽霊船のように身体を揺らしながら手負いの残骸戦姫は、それでも何かを探す風に最後に残った16inch三連装砲をぐるり、と巡らせた。

 

「――――目標確認、アンカー放出!!」

 

 だが息つく間もなくはちの後ろに隠れて接近していたゴーヤが、艤装から伸ばした係留用の鉄鎖を手に、勢いよく自分の錨を投げつける。

 

 鎖に繋がれたストックアンカーの尖った平爪が、無防備になった残骸戦姫の艤装を貫通する。騒がしく唸る電動ウインチが鎖を巻き上げ始めると、その先端に付いた『返し』にがちん、とロックがかかった。

 

 すぐさまゴーヤはベントを全開放し注水。蒼い海の底目がけて急速潜航を開始する。

 

「ゴーヤと一緒にダイビング、一名様ご招待でち!!」

 

 力場を維持し海面に留まろうとする残骸戦姫は、しかし抵抗虚しく引きずられ、ゴーヤの後を追うようにして海中に姿を消していった。

 

 海の上に残ったのは何が起きたのか分からず推移を見守っていたイクと、その胸にぐったりと身体をしなだれかからせるエリーゼだけだった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間劇2『紺色人魚姫伝説』(終)

 周囲の水の色が見慣れた青から紺、藍、そしてついに光を失った闇色の黒へと変わる。

 

 艤装に組み込まれた深度計の針は目盛の最大値、海面下200mを指したまま振り切れて久しい。

 

 岩盤が剥き出しになったコンゴ海底谷の斜面を横目に、残骸戦姫を牽引するゴーヤはひたすらに下へ、下へと潜っていた。

 

 前方を照らしているのは、背中の艤装に燈った小さな投光器の光だけ。深海に続く褐色の断崖絶壁には海藻一本、貝殻一つ見当たらない。時折、視界に輝く七色の風船玉みたいな丸いクラゲや真っ赤なスカートを履いたナマコなどが迷い出るが、見たことも無い光に驚いた彼らは必死で胴体をくねらし闇の中へと逃げ去って行った。

 

(にしてもこの深海棲艦、見た目が継ぎ接ぎだらけなのに、思った以上にしぶといでち……)

 

 ゴーヤの艤装と敵船体に刺さった錨を結ぶ錨鎖からは、未だに浮上しようともがく残骸戦姫の動きが伝わってきていた。

 

 深海棲艦は深海からやってくる。

 

 深海棲艦は轟沈する。

 

 海の中から現れた敵が、海に沈むという矛盾。

 

 それを説明しようとする議論はこれまで数多くあったが、未だ明らかな結論は出されていない。しかしとある研究者はこれを、胎児と出生の関係に見立てて説明していた。

 

 出生前の胎児は、母親の子宮内で海洋生物のように羊水を泳ぎながら育つ。しかしおぎゃあと産声を上げひとたび外気をその肺に取り込んでしまえば、胎児は二度と水中生活には戻れない。これと同じことが起きているのではないか。

 

 つまり、海中で深海棲艦がどのような生態系を営んでいるかは不明だが、海面に姿を現すということは彼女たちにとっての『出生』。そして轟沈し、母なる海に戻るということは、人にとって『土に還る』ことと同義ではないのか、と。

 

 これまで深海棲艦が海中から直接襲ってきたという記録、そして潜水艦級以外が再潜航したと言う記録が無いことから、このような認識が海軍関係者の間では暗黙の内に共有されていた。

 

(だったら、とことん我慢比べでち!!)

 

 ちらと振り返り、鎖の先にまだ健在な敵の姿を認めたゴーヤは、さらに機関ユニットのモーターの回転速度を上げる。

 

 いつの間にか降り始めたぼたん雪のようなマリンスノーが、逆戻しに上へ上へと昇っていく。

 

 ゴーヤたちの元になった伊号潜水艦の設計限界深度は100m強。これを越えると水の重さに耐えきれなくなった艤装が圧壊し、二度と浮上できなくなってしまう。試したことは無いが、潜水艦娘の限界深度も同程度と推測されていた。

 

 それを知った上でゴーヤとはちは、一つの仮説を立てた。

 

 『潜水艦でも司令艦ならば、水圧に負けることなく理論上どこまでも深く潜航できるのではないか』、と。

 

ボンッ!!

 

 ゴーヤの背後から何かが破裂する鈍い振動。くんっとそちらに投光器を向けると、円錐状に広がる淡いスポットライトが、降りしきる雪の中に揺らめき浮遊する黒い塊を捉えた。

 

 残骸戦姫の艤装の一部。それが先端の花開いた16inch三連装砲と一緒に、主を失ってふらふらと闇の中に消えていくところだった。一方の素体の女性はと言えば、錨の先にはまだ黒い塊がぶら下がっている。しかし彼女の肢体に力は無く、枝に取り残された柿の実のように水流に身を任せゆらゆらと灯火の中で漂っているだけだ。

 

 

 思わずゴーヤは顔を背け、視線を海底谷の先へ戻す。

 

(いくら敵だからって、潰れていくのは……沈んでいくのはやっぱり見たくないでち)

 

 だがこうなれば、あとは時間の問題だ。防御フィールドの耐圧限界を水圧が上回ることで始まった崩壊の波は、すぐに全身へと広がっていく。脆くなった部位から侵入した重い海洋深層水の狂牙は、犠牲者の内部構造を容赦なく食い散らかしてくれるだろう……例えそれが、深海から生まれた深海棲艦だったとしても。

 

 断続的な破壊の振動が、鎖を通してゴーヤの船体にも伝わってくる。もはやそこには、もがくような生命の意志など感じられない。

 

 ……早く終わりにしよう。

 

 ゴーヤは敵の崩壊を加速させるべく、さらに深い闇の奥へと沈降を続けていく。

 

(そういえばこの暗闇……なんだか昔、どこかで見たことがあるような気がするなぁ)

 

 そう思った時だった。

 

『……マショウ』

 

 不意に誰かが囁いたような声がした。

 

 ハッとなって辺りを見回し、照明を巡らせる。本来自動車のヘッドライトほどの光量を持つ投光器だが、太陽の光さえ届かない深海では、せいぜい10m先までしか見通せない。その儚げな光の中に浮かび上がったは、後ろに押しやられていくマリンスノーの吹雪。

 

 念のため、鎖で繋がった残骸戦姫の方も見る。既にその艤装は殆ど圧壊し、残っているのは手足を失った青白い人体模型のような素体のみ。

 

(空耳、だったんだよね?)

 

 この暗い無間の深海には自分と敵の二人しかいない、ということを今さらながらにゴーヤは痛感する。機関も生体フィールドも正常に稼働しているはずなのに、水の冷たさが鋭く肌を突き刺した。

 

 完全破壊には至っていない。でも、敵の無力化には成功した。

 

 そう判断したゴーヤはアンカーを投棄できる場所を探そうと、投光器を海底谷の荒れた岩肌へと向ける。

 

『―――シズミマショウ』

 

 今度はもっとハッキリと聞こえた。

 

 眼前に広がる闇より昏く、梵鐘の響きより重くくぐもった声が―――ゴーヤ自身の奥底深くから。

 

『沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう……』

 

 壊れたレコードのように繰り返される単語がくるくるくるくるとワルツを踊る。

 

(伊58っ!?)

 

 咄嗟にゴーヤは両腕で自分の細い身体を抱きしめる。瞬間、怒涛の如く押し寄せる記憶と感情の波が理性の堤防を突き破り、少女の全身を打ち震わせた。

 

(どうして、よりにもよって今なんでち!?)

 

 自我もある。記憶も残っている。だからゴーヤの司令艦としての限界は、まだ大分先のはずだった。だが現に伊58は無意識の深淵から手を伸ばし、ゴーヤを呑み込もうとしている。

 

(あ―――)

 

 抵抗をしようにもゴーヤ一人の人格など、伊58の内から湧き出すあまりにも多くの情報と情念の前では、荒れ狂う冬の日本海に浮かぶ木の葉の一片でしかない。

 

 ……潜水艦でなく特攻兵器運搬船として生み出された過去。敗色濃厚な戦況の中で次々と僚艦を失い、幾多の若者たちを『人間魚雷・回天』として死地に送り込んできた。

 

 終戦を迎えるその時まで。

 

(--――そう、あの日私の戦争は終わった――――)

 

 最後に艦長と乗員たちを生きて内地に送り届けられたのが、せめてもの心の慰め。

 

『でも戦争が終われば、穢れた兵器の私はこの世界には必要ない。だから―――』

 

 シズミマショウ―――

 

 小さな唇がそう呟いた瞬間、機関ユニットが緊急停止した。低い唸りを上げていたモーターが動力を失い回転を止めると、辺りを沈黙が支配する。

 

 滲んだ視界の中で投光器の灯りが二三度明滅し、白から非常灯の赤に変わる。

 

 力無く手足を垂れ艤装の重さに身を任せた彼女は、自由落下のようにしてゆっくりと再沈下を始めた。

 

 目を閉じると、伊58の世界は黒一色に塗りつぶされた。

 

(やっと還れる―――)

 

 自分の在るべき場所……仲間たちの亡骸に囲まれ永遠の安息と静寂に満ちた、あの懐かしい海の底へ。

 

(沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう……)

 

 誰に言うとでもなく一人で呟き続ける伊58は、嬉しそうに、そして少し寂しそうに笑う。

 

 

 

 

―――機関再始動―――

 

 

ガグンッ!!

 

 突然沈降にブレーキがかかり、船体が激しく揺さぶられる。伊58が混乱する間もなく、るんっ、と静止していたモーターが勝手に回転を再開。動力が生体フィールドを介して全身に循環を始めた。

 

(どうして―――沈みたいのに―――)

 

『どうして―――終わりたいのに―――』

 

 と、伊58は何かが自分の頬にさらりと触れたことに気が付いた。閉じていた目をゆっくりと開く。

 

 いつの間にか投光器のランプは赤から白に切り替わっている。その光の中に浮かび上がったのは、青白い肌をした残骸戦姫の素体の女性だった。

 

 既に兵装は殆ど剥がれ落ち、錨の平爪は下腹部の艤装を貫いたまま、その圧壊に巻き込まれ一体化している。だが彼女の端正な顔だけは傷つくことなく、柔和な笑みを浮かべ、薄い蛍色に輝く二つの瞳が伊58を慈しむように眺めていた。

 

(何を―――)

 

 眼前の深海棲艦の女性は砕け散って短くなった左腕を、不器用そうに伊58の頭上で動かしている。

 

 最初、その奇妙な行動がどういう意味を持つのか理解できなかった。やがてそれが、母親が赤子にするようにあやす動作であることに気付いた伊58は、思わず言葉を呑み込んだ。

 

―――メインタンク緊急ブロー―――錨鎖強制パージ―――

 

 圧縮空気が艤装のバラストタンクに送り込まれ、船体を浮き上がらせ始める。残骸戦姫と伊58を繋いでいた鉄の鎖が、艤装の一部と共に根元から切り離された。

 

 咄嗟に伸ばした伊58の手の中を、鎖の端がするりと抜ける。

 

 命綱を失った残骸戦姫の船体は、あっという間に彼女の生まれた暗黒の深海へと引きずり込まれていった。

 

 その姿が光の届く範囲から消える最後の瞬間まで、まるで別れを惜しむかのように砕けた左腕を振りながら―――。

 

 

 

 周囲の水の色が完全な漆黒から青みを帯びたものへと急速に変わっていく。

 

 マリンスノーが再び降り始めた。

 

 投光器の光を反射して雪のよう白く輝く粒子一つ一つは、命を終えた生き物たちの営みの証。

 

 その中に仰向けになり艤装の浮力に身を任せながら一人、どこまでも広がる蒼穹を眺める伊58の心は、追憶の海を漂っていた。彼女の袂では大小様々の記憶の泡たちが生まれては消え、また溶け合いながら犇めいている。

 

(沈むことすら許されない―――)

 

 悔しそうに唇を噛み、自分の代わりに深海へと消えた黒い船のことを思い出しながら、伊58が諦観の呟きを漏らす。その拍子に指先の触れた記憶の泡沫が一つ弾け、中から年老いた男性の姿が浮かんできた。

 

『―――あの艦は、私の人生の全てでした』

 

 年老いて少し掠れてはいたが、間違いようが無い。

 

 その懐かしい声を聞いた瞬間、伊58の冷たく錆びついた心にぽっと温かい火が宿った。

 

 それは、伊58と混じりあった司令艦ゴーヤの記憶の欠片。

 

 米軍に接収された伊58が雷撃処分される映像を、戦後何十年も経って初めて目の当たりにした、元大日本帝国海軍中佐・橋本以行艦長の姿だった。

 

 切り取られた8mmフィルムのようにセピア色に染まった世界の中、瞳の輝きだけは昔と全く変わらない彼は、伊58に愛おしげな眼差しを向けながら静かにはらはらと涙を流していた。

 

(艦長――――)

 

「ゴーヤ!! どこですか、ゴーヤ!!」

 

 見上げた蒼穹の天蓋から、聞き覚えのある音響波がマリンスノーに混じって降りてきた。それは伊58の船体にぶつかると、小さく心地よい振動を奏でる。

 

 声の主は仲間の名前を呼びながらどんどん近づいて来る。視界の利かない海の中、イルカのように自分の声を探信儀代わりにして、伊58の姿を探っているのだ。敵に見つかる危険も厭わずに。

 

 やがて伊58の直上に金色の髪を二つに結えた、空と同じ色の瞳を持つ少女が姿を現した。彼女の不安で今にも泣き出しそうに歪んでいた顔が、ぱっと喜びの色に染まる。

 

「やっと見つけました!! Die hand―――手を!!」

 

 何気なく伸ばした腕が力強く握りしめられた。

 

 あの時には無かった、自分の手の感触。そのまま伊58を手繰り寄せた少女は、伊58の身体をぎゅっと抱きしめる。生体フィールドが融合し、少女の体温が、生命の温かさが直接沁み込むようにして伊58に伝わって来た。

 

(―――私は生きている。またこの海を泳げる―――仲間と一緒に―――)

 

 二隻分になった浮力で景色の変化が加速する。いつの間にか止んだマリンスノーの代わりに、分厚い水のガラスを通して昇ったばかりの太陽の光がゆらめく幾条ものヴェールとなって降り注ぎ、伊58と伊8の紺色の船体をくっきりと浮かび上がらせた。

 

『伊58……』

 

 再生が終わり、静止していた橋本艦長の映像が再び動き始める。

 

 存在しない続き。それは妄想、それは願望。

 

 しかし幻影であるはずのそれは、纏う空気や息遣いさえまでも、伊58にとっては本当に艦長自身が喋っているかのように感じられた。

 

『伊58。もしお前が再び海を往くことがあれば、別のお前になるがいい』

 

 いつしか見覚えのある30代の若々しい姿に戻っていた橋本艦長は、記憶の枠を乗り越えて伊58に優しく語りかける。

 

『そして今度こそ、希望を運ぶ船となれ。それは殺すのでなく、死なすのでなく……』

 

(それは奪うのでなく、失うのでなく……)

 

 ごく自然に、伊58の口から言葉が紡がれる。

 

 自分の乗艦の答えに頷いた艦長は、伊58の桃色の髪にぽん、と手を置きはにかんだ。その動作が伊58を強制浮上させた残骸戦姫に重なり、思わず彼女は息を呑む。

 

 気付くと艦長の姿は消え、海はエメラルドブルーに染まり伊58と伊8を取り囲むようにして色とりどりの魚たちが泳ぎまわっている。

 

 伊58はそっと自分の胸に手を触れた。伝わって来たのは鼓動の刻む穏やかな生命の旋律と、一度燈ったまま消えずに燃える炎の温かみ。

 

 いつの間にか目尻に浮かんでいた涙の雫を、過ぎゆく海水が洗い流す。

 

 天を仰げば、白く輝く海面がもうすぐそこに迫っていた。

 

(艦長-――あなたこそ、私の全てでした)

 

 遠い未来、あの懐かしい場所から届いた思い出を抱きしめた伊58は、満足そうに微笑むと、柔らかい日差しの中でそっと目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 つんつん、つんつん……

 

「全く起きる気配が無いのね」

 

 筏の上に寝かせられたまままぴくりとも動かないゴーヤの頬を突きながら、イクが呆れた声を上げた。その隣で中腰になったエリーゼが、イクに倣ってこちらはセーラー服を捲り上げた二の腕の、柔らかいところでぷにぷにと遊んでいる。

 

「んふ~、こうなったら最終手段。イクの五連装酸素魚雷フィンガーをお見舞いするしかないの!! これを喰らったら、どんな奴でも一発昇天なのね!!」

 

「Stoppen-――冗談でも止めておきなさい。前にそれでゴーヤが丸一日入渠する羽目なったこと、もう忘れたのですか!!」

 

 筏の端に腰かけニーソックス型主機を履いた足を海に浸し、推進力を発生させているはちが声を荒らげて制止する。

 

「でも、ゴーヤは喜んでくれてたのね」

 

「悦び違いです!! 大体あのせいで、彼女は四六時中でちでち言うようになってしまったんですよ!! それまでは普通に喋れていたのに……」

 

 イクがリンガ泊地に着任した際、挨拶代わりに披露したフィンガーテクがゴーヤの大事なものを色々と大破轟沈させてしまった『リンガの淫夢事件』は、関係者の間では泊地史上最悪の事件として実しやかに語り継がれている。

 

 つまんないの、とふくれっ面のイク。

 

 と、それまで二の腕の感触を楽しんでいたエリーゼが、何を思ったか身動ぎしないゴーヤのセーラー服の襟口に小さな手を突っ込むと、そこからスクール水着の肩紐を引き出した。そのまま大根でも抜こうとするかのように、肩紐をゆっくり後ろに引っ張っていく。

 

 止めようとしたはちは、面白そうになりゆきを眺めているイクに遮られる。無言で恐る恐る眺める二人の目の前で肩紐はぐいぐいと伸びてゆき、やがて生地が限界に達したところでエリーゼはぱっと手を離した。

 

びたーん!!

 

「ひでちぶっっ!?」

 

 意味不明な悲鳴を上げながらゴーヤが跳ね起きる。

 

「ゴーヤ、やぁっと起きたのね!!」

 

「って、イク!? はっちゃんも……一体何が起きたんでちか?」

 

 起きてすぐ仲間の姿を認めるのと同時に、自分が朽ちかけの丸太を束ねて作った簡素な筏に揺られていることに気付いたゴーヤは首をかしげた。

 

「ゴーヤ、このまま目が覚めなかったらって心配だったのね!!」

 

 すかさずイクがゴーヤの華奢な身体に飛びつき、がっちりと抱きしめがなら身長の割に豊かな胸部装甲を力いっぱい顔にむぎゅんむぎゅんと押し付ける。

 

 だがそれとは対照的に、ゴーヤの台詞を聞いたはちの表情がさっと曇った。

 

「ゴーヤ、『覚えていますか?』」

 

 神妙な面持ちで尋ねる。

 

 主語を明らかにしないそれは、『司令艦』と『秘書艦』の間だけで通じる符牒だった。

 

 記憶が残っていれば回答には困らないはず。しかし万が一その意図を問い質してくるようなことがあれば、その時は……。

 

 ゴーヤはイクに抱きしめられたままの恰好で、こきんこきんと首を動かし考えるような仕草をし、二、三度目を瞬かせた後、

 

「うん、『覚えている』よ」

 

 ハッキリと答えた。

 

 ふぅ、とはちが安堵の溜息を漏らす。

 

「Großartig……良かったです!! おかえりなさい、meine admiralゴーヤ!! 気分は悪くありませんか? 体の具合は……」

 

「むしろ前より調子がいいくらいでち。でも潜ってる途中で意識が無くなっちゃったから、ちょっと不思議なんだよねぇ……もしかして、はっちゃんが迎えに来てくれたんでちか?」

 

「あ、はい。ただ私が接触した時、既に機関はレスキューモードに切り替わっていたんです……ゴーヤには浮上時の記憶は無いのですか?」

 

 首を横に振るゴーヤに、今度ははちが首をかしげる番だった。が、

 

「そんなことより、今は皆無事だったことを喜ぶの!!」

 

 さながらノーチラス号に絡みつくクラーケンのように、今度は両手どころか両脚でもしがみ付こうとするイク。

 

「あー、嬉しいのは分かったから、いいかげん離すでち!!」

 

「ああんいけず、なのね!!」

 

 その拘束を振りほどき、んしょんしょ言いながらやっとのことでゴーヤは泳ぐ18禁の魔の手から抜け出した。

 

 自由になったゴーヤは朝の風を思いっきり吸い込み深呼吸。改めて自分が再び海の上に戻ってこれた事実を噛み締める。

 

 そのセーラー服の襟口から覗く小さな肩には、ゴムぱっちんの要領で強かに叩きつけられた水着の肩紐が残した、朱い一条の痕が白い柔肌にくっきりと刻まれている。

 

「そういえば、エリーゼはどうなったで……」

 

 言いながら視線を巡らしたゴーヤの表情が突然固まった。

 

 狭い四角い筏、はちが座っているのとは反対側の舳の方に、黒や褐色の日焼けた肌をした筋骨隆々の男たちが5人、体育座りの姿勢でゴーヤを見ていた。肌の色とは対照的に印象的な真っ白な白目、その10の鋭い眼光がゴーヤを見据えている。

 

「ひぃっ!? ご、ゴーヤは潜水艦でち、ちっとも美味しくないでち!! 煮ても焼いてもチャンプルーでも食べられないでち!!」

 

 想定外の同舟者に驚いたゴーヤは筏の上にしゃがみ込み、頭を抱えたかと思うと突然命乞いを始めた。

 

「顔を上げて下さいゴーヤ。何か失礼な勘違いしているみたいですが、別に彼らは私たちを取って食べたりはしません」

 

「エリーゼのお父さんと、その漁師仲間たちさんなのね!!」 

 

 呆れた顔のはちと、その横でぷふっと吹き出すイク。

 

「ほへ?」

 

 間抜けな声で返事をしたゴーヤはおずおずと頭を上げ、改めて男たちの方を見た。確かに東洋では見慣れない黒人男性なのでインパクトはあるが、落ち着けば愛嬌も感じられてくる。彼らもゴーヤを好奇の目で見てはいるが、決して攻撃的ではない。

 

 さらにそのうちの一人、まだ30歳前後の若い男性にエリーゼが寄り添っているのを見て、彼女の父親だと言うことが理解できたゴーヤは、やっとのことで警戒を解いた。

 

 するとエリーゼが、筏の丸太の上を器用にとてとて歩いて、ぺたんと座り込んだゴーヤのすぐそばにやってきた。そして、

 

『ゴヤ、イクゥ、ハチャン……お父さんに会わせてくれて、ありがとう』

 

 ぺこり、と頭を下げる。

 

「……はっちゃん、あれから何があったんでち?」

 

 突然お礼を言われても、自分が潜水している間何が起きたのか全く知らないゴーヤは困惑するばかり。

 

「ゴーヤが敵と一緒に海に消えた直後、電波障害が解除されました。そこで危険は排除されたと判断し、私は警戒のため残留。イクにはそのまま対岸に向かってもらったんです」

 

「で、行ってみたらエリーゼのお父さんたちと首尾よく合流できたの。朝早くからドンパチやってたから、皆とっくに目が覚めていたのね!!」

 

 確かに銃撃砲撃爆撃に雷撃と朝っぱらから海戦フルコースだったわけで、ご近所は騒々しいことこの上なかっただろう。

 

「彼らも遭難してから流木で筏を作り、ずっとFlucht……脱出の時機を見計らっていたところでした。なので、イクと一緒に出港してもらうことにしたんです」

 

 騒ぎで刺激されたパルチザンが活発化する可能性もありましたし、と遠い目をするはち。そして現在、ゴーヤを回収したはちと海上で合流し、村に戻っているところだという。

 

「そうだったんでちか……」

 

 何にしても皆無事で、敵も倒せてめでたしめでたしでち、と締めようとしたゴーヤは、エリーゼの茶色の瞳がまだ自分の方をじっと見つめていることに気が付いた。

 

「まだ何か言いたいこと、あるの??」

 

「……この子はあの深海棲艦がどうなったのか、知りたがっているんです」 

 

 察しの付かないゴーヤに、はちが助け船を出す。

 

「でも……」

 

「大丈夫です。あれが人類の敵であることも、私たちが戦わなければならなかった理由も、既に彼女には伝えてあります」

 

 その上で、できれば彼女の気持ちに応えてあげて下さい、と言うと、はちはそれきり口をつぐんだ。

 

 とはいえゴーヤ自身、残骸戦姫と一緒に潜水していたところまでは覚えているが、撃沈したところまでの記憶は無い。

 

(うう、でも何か言わないと正直気まずいでち)

 

 誰かに助けを求めるように視線を宙で躍らせる。するとゴーヤの視界にきらり、と何かが反射した光が飛び込んできた。目を擦ってよく見ると、それは取り外され筏の上に無造作に置かれていたゴーヤの艤装から放たれている。

 

「破片?」

 

 手を伸ばし艤装を引き寄せたゴーヤは、そこに刺さっていたものの正体に気付いて驚いた。

 

 漆黒の滑らかな表面が黒曜石のようにキラキラと輝くそれは、あの謎の深海棲艦の艤装を構成していたものの一部。鏃程度の大きさになった破片は、ちょうど乙型巡潜の機関部をうまく避けるようにして突き刺さっている。

 

 自分の艤装から破片を引き抜いたゴーヤは、しばらく品定めするように触ったり日に透かしたりしていたが、やがてうん、と心を決めると、それをエリーゼの小さな手に握らせた。

 

「ゴーヤ、Gefahr……危険では!?」

 

 民間人には例え残骸であっても深海棲艦に接触させてはならないということは、わざわざ明文化されずとも帝国海軍では常識だ。

 

「うん、分かってる。でも多分、大丈夫でち」

 

 身を乗り出して警告したはちに静かに答えると、ゴーヤはそのままエリーゼを見守る。

 

 当のエリーゼは貰った破片を握りしめたまま自分の掌を無言で見つめていたが、不意にそのアーモンド形の瞳から、ぽろぽろと真珠の粒のような涙が次々と零れ落ちた。

 

「どうしたの? お腹、痛いのね?」

 

 心配して声をかけるイクに、意味は分からないまま激しく首を振る。

 

『聞こえた……友達の声……“見つけてくれて、ありがとう“って……』

 

 そう言うとエリーゼはゴーヤの腹に飛びつき、わっと泣き出した。乾きかけていた紺色のスクール水着の生地に、みるみる藍色の海が広がっていく。

 

 そんな彼女の日焼けしたごわごわの長い黒髪を優しく撫でてやりながらゴーヤは、そういえば最近自分も同じように、誰かに頭を撫でてもらったような……と少し不思議そうな顔をしていた。

 

「良かったのね!! ちゃんとエリーゼの気持ちは届いていたのね!!」

 

「深海棲艦の残骸にzugriff……この子には『艦娘適性』があった……ならあの敵は……」

 

 貰い泣きをしながら素直に喜ぶイク。その隣ではちは暗い深海へと続く足元の海面を睨みながら一人、思案に耽っていた。

 

『オーイ、オーイ!!』

 

 岸の方から筏に向かって呼ぶ声がする。

 

 ゴーヤが舳の方に目を向けると、細長いバナナのように海に突き出した半島の砂浜に多くの人が集まり、こちらに手を振っているのが見えた。

 

「はっちゃん、凄い歓迎ムードだけど、一体あれは何なんでち?」

 

「昨日訪れたバナナ村の人たちです。先に遭難者を連れて帰還することを伝えていたので、わざわざ出迎えに来てくれたのでしょう」

 

 いつの間にそんなことを……とゴーヤが呆れていると、はちはぴっと上を指差す。

 

 澄み渡ったアフリカの空には、はちから発艦したAr196改と、Ar196改に無線誘導されたゴーヤの試作晴嵐が仲良く緑の翼を並べて、輪を描くように飛んでいた。

 

「この海域の危険度が評価できなかったので、万が一の場合は陸路で書類をドイツ本国まで輸送してもらうよう、昨夜のうちに村長には話をつけていたんです」

 

「はっちゃん、ゴーヤやイクが無茶してもあんまり怒らなかったのは、保険があったからなんだねぇ」

 

「Ja……ここが一応ドイツ勢力圏だということが分かっていましたので、多少の無茶は許容範囲できました」

 

「さすが、我らがリンガ泊地の秘書艦様なの!!」

 

 イクがちゃちゃを入れると、照れくさそうに頬を染めたはちはJaJaと呟き俯いた。

 

 漣を掻き分け進む筏は、ゆっくりと岸に近付いていく。

 

 既に待ちきれなくなった気の早い村人の幾人かは、砂浜から海の中に入って筏を受け止める準備を始めている。それを見た遭難者たちも湧き立ち、にわかに筏の上は騒がしくなった。イクなどは彼らと一緒になってきゃーきゃー言いながらはしゃぎまわっている。

 

 そんな喧噪を尻目にゴーヤは、まだ自分のお腹に抱き着いているエリーゼにぐるりと腕を回すと、その胸に少女の小さな頭をかき抱いた。

 

『……友達は、生きている』

 

 ハッと顔を上げるエリーゼに、シーッ静かに、と唇を指で押さえたゴーヤは優しい笑顔を向けた。

 

 もちろん証拠はない。だが同じく艤装の破片に触れたゴーヤには、確信があった。

 

 あの深海棲艦がまだ『沈んで』は、『終わって』はいないのだと。

 

『だから……』

 

 誰にも聞かれないように、そっとエリーゼの耳元に唇を寄せ囁く。

 

『だから、海に行ったら呼んであげて』

 

 深海棲艦を『友達』と呼んだ幼い少女は自分の腕で涙を拭うと、泣き腫らした顔のまま、うん、と力強く頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……以上のように海洋航路上での伝承・説話は海上交易により伝播、さらに現地の土俗説話と混ざり合うことで様々に変化していくのだが、その多くはアーキタイプと呼ばれる原型を留めているため、当該地域のように航路が限定されているところで源流を辿ることは難しくない。

 しかし中には、突然何も無いところに現れた様な説話も存在する。これらの多くはアレクサンダー・スラヴィクのいうところの『神聖なる来訪者』の物語に相当し、突然現れた旅人が何らかの偉業を成し遂げた後、また去っていくというものである。海の向こうからの来訪者の多くは別文明の担い手であるものだが、時にそれが何者であったか類推するのは非常に困難である。今回のフィールドワークで採取した伝承で、このタイプのうち直系の関係者が生存している、また伝承自体がそれほど古いものではないという貴重な例があったため、最後にこれを紹介して終わりとする。

 

『昔々、この海には邪悪な黒い魚が我が物顔で泳ぎ回っていたという』

『あるところに一人の少女がいた。彼女は生まれたばかりの時分に母を海で亡くしたため、漁師の父と共に二人きりで暮らしていた』

『ある日、漁に出た父の船が黒い魚に襲われた、という知らせが入った。少女は村人が止めるもの聞かず、父の安否を確かめるため一人で海に漕ぎ出した』

『岸を離れるとすぐに、黒い魚が彼女の船を狙って集まって来た。しかし、彼女が襲われることはなかった』

『突然海から現れた黒い人魚が、黒い魚たちを火矢で打ち砕いたのだ』

『少女は自分を助けてくれた黒い人魚と友達になる。しかし平穏は長くは続かなかった。黒い人魚は黒い魚だけでなく、村人が海に出ようとすると船に向かって容赦なく火矢を放ち、沈めてしまうのだ。やがて海に船を出す者はいなくなってしまった』

『しばらくたったある日、少女は遠く離れた対岸に見慣れない煙が上がっていることに気が付いた。それを見て父が生きていると考えた少女は、また一人で海に漕ぎ出した』

『すると今度は、海から三匹の紺色の鱗の人魚が現れた』

『少女が別の人魚と一緒に居るのを見て、黒い人魚は嫉妬に怒り狂う。そして紺色の人魚に火矢を放った』

『けれども紺色の人魚たちも負けじと火矢を放ったので、黒い人魚はとうとう深い海の底に沈んでしまい、二度と浮かび上がってこなかった』

『少女が黒い人魚の死をとても悲しんだので、紺色の人魚たちは船の代わりになり、彼女を父親のいる向こう岸に連れて行ってやった。また彼女を慰めるため、海の底から黒い人魚の鱗を拾ってきて彼女に渡した』

『その後、少女は村で再び父と暮らすようになった』

『彼女は美しい女性に成長し、村一番の家の息子と結婚する。そして沢山の子供に恵まれ、幸せに老いていったのだが、彼女は死ぬまでずっと、紺色の人魚から貰った黒い人魚の鱗を体から離そうとはしなかった。なぜならこの鱗を持って海に行くと、いつも黒い人魚が一緒にいるようで、例え一人であっても決して寂しくなかったからだという』

 

 

(ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン

文化学部学生 クリスティアン・ショルのレポート

『南アフリカ大陸沿岸部における海洋伝説の変遷・比較研究』より)

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Season2 血戦!ダンピア海峡ヲ越ヱテ!
任務1『敵潜水艦ヲ制圧セヨ!』


――――そっと目を閉じる。

 

 途端に照りつける眩い南洋の太陽も足元に寄せる漣も遠くに消え失せ、世界は黒一色に塗りつぶされた。

 

 耳を覆うヘッドフォンのイヤーパッドを両の掌でぎゅっと押さえ、そこから聞こえる音に意識を集中させる。

 

 機関ユニットの振動音、主機の推進音、水が海中に沈めた集音器を撫でる音……そんな雑多な音のバックグラウンドに流れるのは、コーン、コーンと規則正しい間隔で鼓膜を打つ探信音だ。後列に続く五月雨の装備した三式水中音波探信儀、その振動素子から放たれるいくつものピンガーが自分を追い越し、走り去っていくのが分かった。

 

 ガポポッ―――

 

 雑多なノイズに混じって、水中で扉を開いたような機械的な音が、水面に逃げる気泡の音と一緒になって耳に飛び込んでくる。続いて何かが水をかき分け近づいてくる音。

 

「魚雷管解放音、魚雷発射音聴取!!」

 

『朝潮さん、数と種類は正確にお願いします』

 

 勢いよく報告するが、返って来たのは窘めるような女性の声だった。

 

 再びヘッドフォン―――九三式水中聴音機の聴音端子から聞こえる音に耳を澄ませ、魚雷の正体を耳と頭で分解しようと試みる。

 

 深海棲艦の使う二種類の魚雷のうち、航跡がはっきり見えるのが21inch前期型魚雷。その推進力になるのは、HTP(高揮発度過酸化物)に近い性質を持つ未知の化学物質の反応だ。

 翻って航跡が見えにくい代わりに射程距離の短い22inch後期型魚雷の方は、静粛性に優れる生体モーター駆動。

 

 ―――大丈夫。この一週間みっちりと仕込まれた座学の知識、そして耳にタコができるほど繰り返し聞かされた泊地の海軍ライブラリの音紋の記憶から、正しい答えは導き出せるはず。スピーカーから聞こえる音のバックに、ザーという壊れたラジオのみたいなノイズが混じっているものの、聴取には問題無い。

 

 探すのは水中に勢いよく火を噴くススキ花火を突っ込んだ時のような、あの小さな気泡が生まれては潰れるごぼごぼという音。

 

 目的の音を聞き取れた時、予習の内容がテストに出た時のような嬉しさがあった。

 

「―――21inch前期型魚雷、数は3です!!」

 

 先に周辺海域の偵察に出ている五十鈴たちからの報告によれば、こちらに向かって来ているのは潜水カ級が3隻。そして先制雷撃を行ってくるのは、潜水艦型深海棲艦でもクラス・エリート以上の上位艦種だ。カ級の魚雷発射管が6連装であることを加味すれば戦力内訳も判明したことになる。

 

 敵は通常型が2隻、クラス・エリートもしくはクラス・フラッグシップが1隻。

 

『正解、良くできました。でも聴音の度に目を閉じていると之字運動が維持できません。加えて前方から注意が逸れてしまうと、衝突事故の元ですよ』

 

 言われて目を開けると刺すような南国の日差しと一緒に、すぐ前に迫る二つの白い巨峰が視界に飛び込んできた。

 

 気付かない内に速度が上がっていたらしい。

 

 慌てて面舵を切り、すんでのところで回避に成功。ほっと女児用ブラウスの下の、自分の薄い胸を撫で下ろす。

 

「ふふ、なのでそういう時は、あらかじめ僚艦にサポートをお願いしておくと安心ですね」

 

 巨峰の主-――白い礼服に黒いタイトスカートと黒ストッキングを合わせ、アッシュブラウンの長い髪をアップに纏めた女性-――司令艦五十鈴旗下トラック泊地所属の教導艦、香取型練習巡洋艦1番艦『香取』は縁なし眼鏡をくいくいっと動かしながら、生真面目な女教師といったイメージに反して悪戯っ子のような愛嬌のある笑顔を投げかける。

 

 そして衝突しそうになったことなど気にしていないふうに、後ろ向き姿勢のまま微速で優雅に水上を往きながら、彼女は指し棒代わりの教鞭を二三度しならせると、その先端で敵潜水艦のいると思われる海域をびしり、と示した。

 

「では実戦編、次のステップです。これまで勉強してきました通り、敵潜水艦の行う先制魚雷攻撃には大きく分けて3つの戦術パターンが存在します。一つ、こちらの予想進路を狙う。一つ、こちらの回避進路を狙う。一つ、待ち伏せからの至近……」

 

「あ~もう、そんな悠長なこと言ってる場合かよ先生!? 魚雷がこっちに向かって来てんだぜ。さっさと避けねーとやられちまうぞ!!」

 

 遠慮の無さそうな元気の良い少女の声で茶々が入る。

 

「だからこそ、です。だからこそ基本は守らなければなりません」

 

 ショートボブの黒髪を躍らせ、手に持った双眼鏡をぶんぶんと振り回して急かす声の主、田舎の女子中学生みたいなセーラー服姿の吹雪型四番艦『深雪』を香取の叱咤がぴしゃり、と打ち据えた。

 

「深雪さん、あなたには肉眼監視をお任せしたはずですが、雷跡は視界にしっかり捉えられていますか?」

 

「お、おおう!? 当然だぜ!!」

 

 言われて思い出した深雪は、誤魔化す様にわたわたと双眼鏡を目に当てる。

 

「なら問題ありません。ところで五月雨さん、探信儀で敵潜水艦と魚雷の動きは追えていますか?」

 

「はぇっ!? は、はいっ、お任せください!!」

 

 いきなり名前を呼ばれた、深雪とは別の私立女子校の制服みたいな純白のセーラー服を着た服の白より色白で華奢な少女、白露型駆逐艦六番艦『五月雨』は、驚いて足元の小さな浪に靴型主機を引っ掛け思わずつんのめり転びそうになった。

 

 何とか体制を立て直し、ずれ落ちかけた香取のものとは違う縁のある眼鏡型ディスプレイを装着した彼女は、恥ずかしそうに顔を赤らめる。そして左目に投影された敵潜水艦と魚雷を示す6つの輝点を見て、すぐに何かに気付いたのか、あっ、と小さく声を漏らした。

 

「この方向って……」

 

「だっはは!! 何だよあいつら、全然あさっての方に向かって魚雷撃ってるぜ!!」

 

 遅れて気づいたのか、さっきまでの緊迫感はどこへやら、双眼鏡を覗きながら深雪が大口を開けて豪快に笑いだした。

 

「つまりあれはこちらの予想進路を狙った魚雷、ということですね」

 

「正解です、朝潮さん。敵の意図を見抜き、落ち着いて対処すれば、先制魚雷は恐れるものではありません。ではそろそろ回避行動に移りましょうか」

 

 先導する香取が白手袋をした左の腕を、自転車の手信号のようにしてすっと上げる。

 

「艦隊は単横陣を維持しつつ取り舵、進路210。速度は微速から第一戦速へ。之字運動を行いながら接近し、もう少し距離を詰めましょう。皆さん、遅れず付いてきてくださいね!!」

 

『了解!!』

 

 言うが早いか、先導する香取の背中に据えられた機関ユニットが回転数を上げた。ハイヒール型の主機が白波を大きく蹴立てて、蒼い海面に綺麗なシュプールを描く。

 

 自分も九三式水中聴音機の集音器を引き上げつつ、航路をなぞる様にして彼女の後を追った。そのさらに後ろに双眼鏡を構えたままの深雪、海風に遊ばれる水色の長い髪を押さえながら五月雨が続く。

 

 香取は時々こちらを気にするように振り返りながら、さらに短く面舵と取り舵を繰り返す之字運動を始めた。首からずり落ちそうになるヘッドフォンを押さえながら、引き離されないように、必死で右に左にとその後ろ姿を追う。

 

 本来、之字運動とは潜水艦に出会う前の対潜警戒行動なのだが、実際の船舶より極端に旋回半径の小さい艦娘では砲雷撃戦時の基本回避運動として採用されている。それは潜水艦に相対した時も同じ。

 

『山城さん、隊列から大分遅れていますけど装備の具合はいかがですか?』

 

 進みながら艦隊の皆に聞こえるよう、オープンチャンネルで香取がインカムの向こう側に話しかける。

 

『未だ復旧できていません……カタパルトの不調で置いて行かれるなんて、利根でもあるまいし……不幸だわ……』

 

 返ってきたのは若干ダウナーの入った、しっとりというかじっとりした女性の声。その相変わらずな内容に、思わず艦隊の面々から苦笑が漏れる。

 

 呉鎮守府の司令艦・電の勧めでここトラック泊地に訓練目的で送り込まれたのは、駆逐艦である自分たちだけではない。あの異常な泊地棲姫の手により崩壊したショートランドの、そして現在は横須賀へ転任となった扶桑型戦艦二番艦『山城』-――正確には戦艦でなく新たに水上機運用能力を強化され航空戦艦となった彼女もまた、装備の馴らしと交流のためこの訓練に参加している。

 

 もっとも大破し海上破棄された艤装の代わりにやって来たのが航空戦艦のものと知った山城は、戦力増強を喜ぶどころか『姉様と一緒のままが良かったのに……』と鎮守府の整備格納庫を占拠。組み立て前の艤装の前で一日中ねちねちぐちぐち不満を呟き続け、仕舞いには整備班から苦情と引き取り要請が出る騒動になったのも記憶に新しい。

 

 今回の実戦訓練では戦艦である山城を守る形で陣を組み、彼女の新しい艤装に搭載された水上爆撃機瑞雲で偵察、潜水艦に対して先制爆撃を行う予定だった。

 

 しかし会敵直前になっても発艦作業が上手くいかず、結局山城には敵の魚雷の射程外で復旧作業に専念してもらう形になっている。

 

「あら、ほほう……なるほど。装備不調では仕方ありませんが、これ以上直掩と距離が離れるのは危険ですね……」

 

 山城の愚痴まがいの報告を聞いて、しばらく唇に人差し指を当て考えるような仕草をしていた香取だが、やがて結論が出たのかぽん、と白手袋で拍子を打った。

 

「ではこうしましょう。一旦私は山城さんの護衛に戻ります。けれども駆逐艦の皆さんは、このまま敵潜水艦への攻撃を敢行して下さい」

 

 これは訓練の予定になかった。抜き打ち卒業試験、といったところだろうか。

 

 一瞬横に並んだ深雪と五月雨の顔がえっ、と驚くが、

 

「深雪様にお任せだぜ!!」

 

「はい!! いよいよ私たちの出番ですね!!」

 

 返ってきたのは動揺ではない、頼もしい言葉だった。

 

 前回の苦しい戦いを経て、二人とも艦娘として確実に成長を遂げている。

 

 その様子に香取はふふっ、と嬉しそうに微笑んだ。

 

「では旗艦は朝潮さん、よろしくお願いします」

 

「―――了解です。香取さんも気をつけて下さい」

 

 反射的に敬礼に敬礼を返す。ふとこちらを見る眼鏡の奥で、なぜか香取の薄萌木色の瞳が悪戯っぽく輝いたように見えた。

 

「ありがとうございます。でも私の事は心配しないで、皆さんでしっかりやり遂げて下さいね」

 

 そう言い残すと香取はくるりと華麗なターンをきめ、肩の飾緒をひらめかせながら元来た方へと波を蹴立てて走り去っていった。

 

「い~な~朝潮。こんなんでもなきゃ、駆逐艦が旗艦なんて普通やらせてもらえねぇんだぞ」

 

 いつの間にか距離を詰め真横に来ていた深雪が、肘でこちらの脇腹を突っつきながら羨ましそうな声を漏らす。

 

「でも深雪ちゃん、旗艦をやったら後で戦闘行動調書、書かなきゃダメなんだよ」

 

「うげっ、あの由良と阿武隈が出撃する度に書いてる奴か。面倒くさいからパ~ス」

 

「もう、深雪ちゃんたら……。朝潮ちゃん、一緒に頑張ろうね!! ……朝潮ちゃん?」

 

 気が付くと蒼い空を背景に、空色の瞳が覗きこんでいた。

 

「朝潮ちゃん、大丈夫?」

 

「あ、うん……」

 

 降ってわいた旗艦任務、駆逐艦だけでの対潜戦闘。

 

 ここには指示してくれる教導艦の由良や阿武隈も、フォローしてくれる利根もいない。

 

 こちらが有利な相手とはいえ、一瞬の判断が自分だけでなく仲間の運命も左右する。

 

 今さらながらに『旗艦』というものの責任の重さがのしかかってきた。もしかすると、この中で一番動揺しているのは自分かもしれない。

 

「んで朝潮、これからどうするんだ?」

 

「もう敵との距離、あんまり無いです。どうしましょう?」

 

 両側から二人の声が急かす。といってもどうすればいいか、こちらが聞きたいくらいだ。

 

 ……こんな時なら、朝潮ならどうするだろう?

 

『知らない間にも進む記憶と自我の浸蝕、それを完全に止めることは難しいのです』

 

『けれどもその影響を最小限に抑えることは、可能かもしれないのです』

 

 不意にトラック泊地での対潜訓練を提案してきた時の、電の言葉が浮かんできた。

 

『本来の電たちは海軍のことも、艤装や兵装の扱い方も知りません。それでも問題無く艦隊行動が行えるのは、ベースとなった艦娘の記憶とアクセスしているからなのです。その無意識に行われている記憶の干渉を意識的にコントロールすることができれば……でもそれは……』

 

 ラバウルから呉鎮守府に帰った直後だったのか、疲れた声で電話をかけてきた電はそこで言葉を切る。

 

 けれども彼女の言わんとするところは分かった。

 

 艦娘の記憶に頼らないということは軍事知識を学び、艤装を扱い、自分の力で戦うことができるようになる、ということ。

 

 だがそれは同時に、自分から積極的に艦娘になっていくことを意味していた。

 

 艦娘にならないため、艦娘になるという矛盾。けれども、逡巡していてどうなるものではない。

 

 今は自分のできることをやるだけ!!

 

「―――隊列を単横陣から単縦陣に変更!! 之字運動中止。これより最短距離で敵魚雷発射点へ向かいます!!」

 

「ぃよーしきた!! 行っくぞぉーっ!!」

 

「はい!! あ、高速だと使えなくなるから、水中探信儀は一旦収納しちゃいますね!!」

 

「っと、忘れるところだったぜ!! サンキュな!!」

 

 五月雨が三式水中音波探信儀の発受信端子を海中から引き上げるのに倣い、深雪も自分の艤装から垂らされた探信儀の子機を回収する。艦娘の装備する探信儀は親機と複数の子機で三角測量を行い、その結果を親機のディスプレイに表示する仕組みになっているらしい。

 

「探信儀収納と共に機関、第三戦速へ!! 全艦突入、さらに肉薄します!!」

 

 三つの機関ユニットが揃って回転数を上げると、足元の六つの主機が勢いよく波の連なりを跳ね飛ばし始めた。

 

 生き残るためには戦うしかない。勝つしかない。

 

 この一点に関しては、司令艦も艦娘も何ら変わりない。

 

 そのための手段はこの一週間、香取がみっちり叩き込んでくれた。

 

「朝潮ちゃん、あと80秒で推定魚雷発射点です!!」

 

 眼鏡型ディスプレイに記録された輝点との相対距離を測りながら、最後列の五月雨が叫ぶ。

 

「各艦左舷、三式爆雷投射機用意!! 最後尾の五月雨は右舷の爆雷も軌条投下を!! ヤマアラシでいきます!!」

 

「朝潮ちゃん、爆雷は集中投下じゃないんですか?」

 

 指示したヤマアラシ戦法は、駆逐艦や軽巡洋艦の艦娘が行う帝国海軍の基本的な対潜戦闘法だ。

 

 五十鈴などはこれを『手動ヘッジホッグ』と呼んでいたが、要は雪崩の現場で一列に並んで雪に竹竿を刺しながら遭難者を探索する時のように、艦娘の機動性を生かして一定の範囲に満遍なく三式爆雷をばら撒いていくやり方。

 

 元々は貧弱な海中測量手段しか持たない帝国海軍で広まった姑息的な方法なのだが、先制雷撃後も二匹目の泥鰌を狙って留まることの多い深海棲艦相手には、それなりに高い効果を上げている。

 

「敵は三隻!! 先制雷撃を行った艦を中心に、随伴艦ごと周辺を制圧する必要があるんです!!」

 

「そうでした!! 私、魚雷を撃ってきた艦のことばっかり考えちゃって―――」

 

「その前に魚雷第二波、扇形に三本接近中だ!! あいつ、相打ち覚悟で浮上してもう一発撃ってきやがった!!」

 

 双眼鏡を構えたままの深雪が絶叫する。

 

 見ると確かに泡立つ波の下、包帯を転がした時のような三条の白い線がこちらに向かって来るのが確認できた。

 

 これまでなら先制攻撃を行ったら、敵潜水艦は海中に潜んで次の攻撃の機会を待っていたはず。

 

 ―――やはり泊地棲姫の時のように、敵の戦術パターンは変化してきている。

 

 このままでは魚雷の接触まで、もう時間が無い!!

 

「朝潮っ!!」

 

「―――機関最大戦速へ、全力で駆け抜けながら主砲で迎撃します!! 各艦、対魚雷砲撃戦用意、俯角取れ!!」

 

 指示を出しながら右手の12.7cm連装砲を巡らし、近付いてくる魚雷に狙いを定める。

 

 通常の軍艦でない艦娘の特徴、その一つが人の手足の可動域を得たことによる仰角、俯角の柔軟性だ。例え目標が直上、直下であっても一瞬で自由に砲口を向けることができる。

 

「対魚雷砲撃、開始!!」

 

 躊躇わずグリップのトリガーを引く。

 

ガウンッ!! ガウンッ!!

 

 計六門の砲が重なる様な轟音と共に、揃って砲弾を吐き出す。

 

 間髪入れず、艦隊の左舷に立ち上がる水柱。遅れて砲弾の破片に当たった敵の生体魚雷が次々と誘爆。

 

 その勢いで飛沫が大量に舞い上がり、目の前が一瞬滝壺かと見まごうばかりの厚い霧に包まれた。

 

 背中の機関ユニットがさらに回転数を上げ、かまわずその中に突っ込んだ。霧のカーテンを抜けるとすぐに視界は晴れ、再び南洋の輝く海面が現れる。

 

「報告っ!!」

 

「深雪、無事だぜっ!!」

 

「五月雨、大丈夫ですっ!!」

 

 後ろを振り返る。そこにはぴったりと自分の後ろを付いてくる二人の姿があった。

 

 魚雷は問題なく爆破回避できたらしい。

 

 なら次はこちらの番だ!!

 

「敵推定座標を修正、深雪は先ほどの魚雷発射点に発煙マーカーを!!」

 

「お任せだっ!!」

 

 双眼鏡を首からぶら下げると、深雪は弾倉を交換して吹雪型に特徴的な四角い砲塔式12.7cm連装砲を腰だめに構え、トリガーを引く。

 

 ダダンッ!!

 

 通常の砲弾より軽い発砲音と共に、800mほど離れた場所に小さな水柱が立った。それが重力に従い崩れ落ちるのと入れ替わりに、着弾点から灰色の煙がもくもくと立ち昇り始める。

 

「弾着、確認したぜ!! どんぴしゃだ!!」

 

 興奮したように深雪が叫ぶ。

 

「各艦、爆雷投射準備!! 第一次攻撃は10発、水圧信管は調定深度40に!! これより発煙マーカーを中心としたヤマアラシを展開します!!」

 

『了解!!』

 

 背中の機関ユニットから追加装備した三式爆雷投射機の稼働するモーター音が聞こえ始めた。

 

 敵潜水艦の推定位置を示す煙の柱が、艦隊の左舷に近づく。

 

「第一次攻撃、投射開始!!」

 

 連装砲のトリガーを爆雷投射機に切り替え、引き金を引く。そこから生体フィールドを介して、背中の機関ユニットに装備した爆雷投射機に攻撃指示が伝わる。

 

 185mlコーヒー缶サイズの圧縮三式爆雷が、T字の付属投射腕と共に火薬の爆発によるガス噴射の勢いでシュバッ、っと空中に射出された。

 

 爆雷は大きく弧を描き、発煙マーカーの上を飛び越えていく。

 

 後ろに続く深雪、そして五月雨も、同じ場所を通り過ぎる度にそれぞれの爆雷を放り出す。

 

 時間差で投射される小さなドラム缶にも似た爆雷は、飛距離が順に遠距離、中距離、近距離に設定されている。そのため射出タイミングが違っても、着水は投射地点から横一列に同時。

 

 最初の投射地点さえ間違えなければ後は自動装填装置が同じ間隔で爆雷の装填、投射を行うため、そこから先はまるで碁盤の目のように規則正しく爆雷が海面に投下されていく。

 

 最初の爆雷が着水してから約8秒。

 

 --――ズゥンッ!!

 

 爆雷が設定された起爆深度の水面下40mに達し、水圧信管が作動する。

 

 五月雨が軌条投下したものを合わせて計4個の爆雷が、同時に海中で炸裂。その振動が足元の主機に伝わって来た。

 

 蒔かれた種が双葉で土を押し上げる時のように、水面でも爆発で海が青白く盛り上がる。

 

 とはいえ実際のところ、これでも本当に敵を倒せたかどうかは分からない。潜水艦は撃沈できたのか、逃げたのか、それとも隠れているだけなのか、水上艦には見当がつかない。

 

 だからこそ、一度尻尾を掴んだ潜水艦は絶対に逃がさないし、逃がしてはならない。

 

 この海域に閉じ込めたが最後、爆雷で海水ごと立体的に焼き尽くす。

 

 でないと大潮が―――

 

「おい朝潮っ!! 何ぼさ~っとしてんだよ!! 早く次の指示出せって!!」

 

 どこか遠くで深雪の声がした。

 

 狭くなりかけた視界が開け、途端に現実へ引き戻される。

 

 いつの間にか背中の投射機は一列10個の爆雷を放出し終わり、次の攻撃に向けて再装填装置がカラカラと動いていた。

 

「第二次攻撃、調定深度を80に!! 跳躍、転舵0270!!」

 

 すぐさまその場でジャンプをして、海面を横に滑りながら最小旋回半径での方向転換。初めての時浦賀水道では失敗したが、あれから何度もやるうちあたり前のようにできるようになった。

 

 常に煙の柱を左舷に睨む形で、海域を四角く囲む次の一辺へ。

 

「第二次攻撃、投射開始!!」

 

 再び爆雷が空を舞い、先ほどの投下範囲と重なる様にして着水する。

 

 ……三式爆雷自身にセンサーがついていれば、こうして深度設定を変え同じ場所に何度も爆雷を投下する必要は無い。

 

 旧帝国海軍兵器の弱点は、同時に現在の艦娘の装備弱点でもある。

 

 そしてそれを補うのが、新たな戦術の研究と開発。

 

『―――速度・出力は軽巡以下。装甲も重巡より薄っぺら。潜水艦のように身を隠すこともできず、空母のように艦載機を扱えるわけでもない。肝心の火力も戦艦とは比べ物にならないほど貧弱―――かように全ての点において、いかなる艦種にも劣る。それがあなたたち駆逐艦です』

 

 トラック泊地のブリーフィングルームを改造した教室で講義を始める際、最初香取は自分たちにそう告げた。

 

 それに対して『じゃあ駆逐艦なんて必要ねぇじゃんかよ!!』と机を蹴倒し、顔を真っ赤にして掴みかかろうとする深雪を五月雨と一緒になって取り押さえる。

 

『ところが少し考えてみて下さい。にもかかわらず、帝国海軍で最も数が多いのは駆逐艦である、という事実を。建造費が安いから、という理由もままありますが』

 

『ごめんなさい、分かりません。朝潮ちゃんは分かる?』

 

『……強い、からですか』

 

 半信半疑で答えてみたところ、的中したらしい。

 

 香取も正答が返ってくるとは思っていなかったのか、少々意外、といったふうに驚いた表情を浮かべ、やがて満足そうに頷く。

 

『その通りです。駆逐艦は強い。海軍最強の艦種と言っても良いでしょう』

 

『はあぁ!? 弱いってったり強いってったり、わけがわかんねーよ』

 

 癖毛の短い髪をくしゃくしゃに掻き乱しながら深雪が唸る。

 

『別に弱いとは言っていません。いいですか皆さん、性能的に突出したもののない駆逐艦が最強な理由、それは機動力-――要するにフットワークの軽さです』

 

 自由な可動域を持つ手足、小回りの利く体、鋭敏堅実な火器管制、簡便な改修修復と補給、迅速な意思情報伝達、臨機応変な状況判断……深海棲艦と互角に渡り合える生体フィールドはもちろんだが、艦娘は人の姿を手に入れたことでより有機的で幅の広い戦術が取れるようになった。

 

 それでも大型艦娘は強大な力を持つ分運用方法が限定され、空母なら主に制空戦、戦艦なら艦隊決戦と、取れる戦術や動ける戦場も自然と限られてくるのだ、という。

 

『そういった艦種として縛りの少ない駆逐艦は、その機動力を最大限に生かすことで取れる戦術に限界がありません。奇襲、掃海、対潜、護衛、輸送、支援、哨戒、陽動、防空……攻めに守りに八面六臂。また夜戦ともなれば、火力で敵戦艦級を凌駕することも可能です』

 

 香取の話を聞いている間に、深雪と五月雨の目がキラキラと輝いてくるのが分かった。

 

『歩の無い将棋は負け将棋、とも言います。駆逐艦は艦隊の”歩”、それも圧倒的に多彩な戦術を駆使して、敵を翻弄し味方を守る”最強の歩”。皆さんがそのような存在になれるかどうかは、どれだけ戦術を血肉にできたかによって決まります。では手始めとして、ここでは対潜任務をしっかりこなせるようになりましょう』

 

 練習巡洋艦、確かにその名は伊達では無いと実感した瞬間だった。

 

「第三次攻撃、調定深度120!! 再転舵0270、これで最後です!!」

 

「いよぅしっ、気合入れるぜ!!」

 

「はいっ!!」

 

 深雪と五月雨は二本の航跡の上を、まるでレールに乗った台車のように正確になぞり、遅れることなく隊列を維持している。

 

 ここに来て皆の練度は確実に上がっている。そして自分も……まだ危なっかしいところはあるものの、自分の意志を保ったまま戦えているように思う。

 

「おりゃおりゃっ、さっさと観念して頭出しやがれモグラ潜水艦っ!!」

 

「深雪ちゃん、モグラなんて言ったら潜水艦の人たちに悪いよ」

 

「そっか、じゃあクラゲにしよう。さっさと浮かんできやがれ、このクラゲ野郎っ!!」

 

「あんまり変わらないような……」

 

 おどけたふうに海面を蹴っ飛ばしてみたりしている深雪だが、双眼鏡での監視は怠っていない。そして、そんな深雪を最後尾の五月雨が見守っている。

 

 時折振り返ると自分とも目が合うことから、彼女は後ろで艦隊全員に気を配っているのだろう。

 

 『艦隊』として『仲間』として、歯車がかみ合い始めている。

 

 背中の艤装から最後の爆雷が投射される音がした。

 

「攻撃終了と共に艦隊、第一戦速へ。このまま海域を旋回しながら評価を行います。隊列変更、単横陣」

 

 速度を落としながら、先ほどヤマアラシを仕掛けた場所を囲い込む形で進む。

 

 やがて自分の分の爆雷を投射し終えた深雪と五月雨も、両脇に並ぶ形で接近してきた。

 

 改めて一面の大海原を見渡す。

 

 第一次攻撃と違い爆雷の調定深度120mともなれば、その爆発が海上へ及ぼす影響はほとんどない。

 

 外洋のはずなのに不思議と凪いだ海面には、撃破された深海棲艦の物なのか、既にいくつかのポイントで黒い樹脂板のような残骸が浮かび上がり、表面を波に洗われながら陽光を跳ね返し雲母のようにちらちらと輝いている。

 

 数は3つ。

 

「やったぁ!! 作戦完了ですね、お疲れ様でした!!」

 

「待てって。ちゃんと確認してからだってな」

 

 五月雨が締めモードに入りかけるのを止めたのは、意外にも深雪だった。

 

 双眼鏡を覗きこみ、波間に揺れる浮遊物をじっくりと観察する。

 

「1,2,3、と。よし、全部撃沈だ!!」

 

「もうドジっ子なんて言わせませんから!!」

 

 制服姿の少女二人が薄い胸を張って立つ姿は微笑ましい。

 

「あ、何だよ朝潮。ニヤニヤしねぇで、もっと素直に笑えって。できねぇんなら、無理矢理笑わせてやるぜ!!」

 

 こちらに気付いた深雪がわきわきと指を動かしながら近づいて来る。

 

 横鎮の大浴場で彼女のフィンガーテクに大破轟沈した記憶が脳裏をよぎった。反射的に身を翻して魔の手をすり抜ける。

 

「逃げたなっ!? ええぃ、もういっちょ!」

 

「やだっ、くすぐったいじゃない!」

 

「もう、二人ともっ!! ちゃんとしてないと、また香取さんに怒られちゃいますよ!!」

 

『私がどうかしましたか?』

 

 突然インカムから香取の声が飛び込んできた。思わず背筋を伸ばし、深雪と一緒に直立する。

 

 それを見て五月雨がくすくすと笑った。

 

『山城さんのカタパルトが復旧したので、偵察機を先行させました。現在、我々もそちらに向かって航行中です』

 

 その言葉に青空を見上げると、遠くから小気味良い空冷式三菱金星エンジンの音を響かせながら、下駄のような二つのフロートをぶら下げた二機の水上機が近づいて来るのが見えた。

 

 良く似た形で同じグリーン系のカラーリングだが、その機種は違う。

 

 片方は香取が使っている『零式水上偵察機』、略して水偵。

 

 もう片方は航空戦艦となった山城が新たに装備した水上爆撃機、『瑞雲』。

 

 どっちがどっちかややこしいが見分けるコツはあって、水偵の方が元は三人乗りとして設計されている分、飛行機本体に対する風防が長くなっている。

 

『朝潮さん、駆逐隊旗艦よりの戦況報告をお願いします』

 

「はい。香取さんと別れた後、私たちは敵潜水艦の魚雷発射座標へと接近。その際敵魚雷による牽制攻撃を受けるもこれを迎撃。十分に肉薄し三式爆雷による『ヤマアラシ』を三度敢行。先ほど敵潜水艦残骸の浮上を確認しました。三隻とも撃沈したものと捉えています」

 

『ありがとうございます。突然旗艦を任されて驚いたでしょうけれども、朝潮さん深雪さん五月雨さん、皆さん訓練の成果を生かして良く対処できましたね。合格です。これなら横須賀に戻って、いつでも対潜哨戒に出られますよ』

 

 香取に褒められていると、自然と頬が緩むのが分る。一緒に聞きながら隣で深雪がガッツポーズを決めた。

 

『でも最近の深海棲艦の行動変容に合わせて、軍令部の撃破規定が変わっていましたね』

 

 チクリと刺す一言に、あっ、と気付いた五月雨が小さく声を漏らして口元に手を当てる。

 

 そうだった。座学の最後にやったのであまり記憶に残っていなかったのだが、深海棲艦を撃破したかどうかの判断基準が以前に比べると厳しくなっている。

 

 相手が水上艦なら、艤装または素体の水面下への完全海没。

 

 そして潜水艦相手ならば海面への敵艦浮上による目視下での撃破、もしくは聴音機での圧壊音聴取をもって撃沈確定となる。

 

 一方で、これまで基準とされていた艤装残骸の浮遊や水中探信儀の高エコー沈降物反応は、信頼性を一段階引き下げられた。

 

『私も山城さんも船足が遅いので、皆さんに追いつくまでもうしばらくかかります。その間偵察機での観察は続けますが、皆さんの方でも撃沈の再確認を行ってみて下さい』

 

『別に鈍足の私なんか待ってくれなくても……』

 

 ―――ブツッ!!

 

 香取に被せて幽鬼のような山城の声が聞こえてきたので、思わずスイッチを切り通信を終了してしまった。

 

「山城さん、相変わらずでしたね」

 

「あれ毎回やられると、さすがにうっと~しいよなぁ。で、確認って結局何すりゃいいんだっけ?」

 

 海域に到着し太陽を背に仲良く頭上で旋回を始めた二機の偵察機を、眩しそうに目を細めて見上げながら深雪がぼやく。

 

「もう一度聴音機を使用します。その後探信儀でも測量してみて、反応が無ければ撃沈確定で……」

 

「そっか。じゃあ、ほらよ」

 

 艤装から再び海中集音端子を降ろし始めたところ、深雪がこちらに向かって手を差し出してきた。

 

「?」

 

「音聴くのに集中するんだろ。だから、またぶつかんねぇようにさ」

 

 しばらくぼんやり深雪の手と顔を眺めていたが、さっき音に気を取られて香取に衝突しそうになったのを見て、今度はそうならないよう手を引いてくれるつもりなのだと合点がいった。

 

 厚意に甘えることにして、彼女の手を取る。触れた部分でお互いの生体フィールドが融合し、掌の温かみが伝わってきた。

 

 首に掛けたヘッドフォン型聴音端子を耳に当て直し、深雪に先導されながらスピーカーから聞こえてくる音に耳を澄ませる。

 

 ……最後の爆雷を投射してから既に5分以上が経過。海中の爆雷は全て爆発し、そこで生まれた泡も海面に浮かび終わった頃合いだ。

 

 ――――ザー

 

 イヤーパッドを装着すると同時に、またあのノイズが鼓膜を叩いた。先ほどは敵潜水艦と魚雷に気を取られていたが、今になってノイズはさらにうるさく聞こえようになった気がする。

 

 混線、もしくは九三式聴音機の故障だろうか。

 

「艦隊、原速へ。之字運動は継続」

 

『了解』

 

 さらに速度を落としてみるが、ノイズは鳴りやまない。それどころか、やはり少しずつ大きくなってくるふうにも感じられた。

 

「朝潮ちゃん、何か聞こえたんですか? 敵艦は……」

 

 難しい顔をしているのが分かったのか、五月雨が心配そうに声をかけてくる。

 

「潜水艦の音は聞こえません。でも何か……聴音機の調子が悪いみたい。ノイズがうるさくて」

 

「そうですか……あ、だったら探信儀!!」

 

 思いついたら即行動、とばかりに、止める間もなく五月雨が自分の艤装から探信儀の発受信端子を放出。間髪入れずにざっぱぁん、と端子が海面を叩く音が、ヘッドフォンから盛大に飛び込んできた。

 

 思わず顔をしかめる。

 

 視界の隅では自分のしでかしたことに気付いた五月雨が、米搗きバッタのようにぺこぺこ頭を下げていた。

 

 やがて端子が十分海中に沈むと、コーン、コーンという規則正しい探信音がスピーカーからも聞こえ始める。

 

「……探信儀、何も反応ありません。敵艦の影も」

 

「本当か? ちゃんと見てんのか五月雨?」

 

 まだ探信儀の子機を降ろす途中だった深雪が突っ込む。

 

 三点測量は相対距離を正確に測るために必要なので、単純に敵がいるかどうかを調べるだけなら五月雨の探信儀だけでも十分用は果たせる。

 

「本当です!! 探信儀には私たち分の反応しかありません!!」

 

 失態を挽回しようとしてか、眉間に皺を寄せながら眼鏡型ディスプレイを睨む五月雨が、ぷんすかと深雪に叫び返す。

 

 海没規定が変わったとはいえ、既に三隻分の残骸を肉眼で確認しているのも事実だから、何もないというのも理屈に合っている。

 

 たださっきから消えないノイズの存在が、どこかにひっかかっていた。

 

 そもそもこれを『ノイズ』として、切って捨ててもいいのだろうか……判断するための経験が、知識が圧倒的に足りない。

 

『艦隊の行き足が落ちていますけれども、皆さん確認作業は終わりましたか?』

 

 と、思考の袋小路に迷い込みそうになったところで天の助けとも思える香取の声が飛び込んできた。

 

 そうだ。自分に知識と経験が足りなければ、借りればいい。

 

「その、聴音機のノイズが気になってまだ……」

 

『ノイズですか……。聴音機は出撃前に整備していますし、この海域で電波障害というのも考えにくいのですが……』

 

 とりあえず聴音機の音声をこちらに、言われてヘッドフォンをインカムのマイクに押し付ける。

 

『探信儀には何も映っていないのですか、五月雨さん?』

 

「あっ、はい。正確には私たち以外には、なんですけど」

 

『そう……』

 

 スピーカーの音に耳を傾けているのか、それきり香取は口を噤む。けれども彼女の判断を待つ間にも、ノイズはずっと聞こえ続けていた。

 

『確かに敵の機関音などでは無いようです』

 

 やはり装備の問題なのだろうか。

 

『朝潮さん、念のために確認しておきますけれども……音は少しずつ大きくなってきたりはしていませんね?』

 

「それは……最初は聞こえるかどうかだったんですが、今聞くと確かに大きくなっているような……」

 

 こちらの答えにインカムの向こうで香取が息を呑む。

 

「香取……さん?」

 

『警戒っ!! 敵艦、真下にいますっ!!』

 

 その言葉が終わらない内に突然、足元の海面が大きく盛り上がった。

 

「なっ!?」

 

「危ねぇっ!!」

 

 ぐいっ、と手が引っ張られる感覚。同時に弾き飛ばされたように身体が宙を舞う。

 

 一瞬、視界に映る全てがスローモーションのようにゆっくりと動いて見えた。

 

 怯える五月雨。焦る深雪。潰れた九三式聴音機の集音端子。

 

 そしてさっきまで自分の立っていた海面から突き出た、抹香鯨の鼻先のような漆黒のドーム状の『何か』。

 

 深海棲艦!!

 

 咄嗟に上半身を捻り、右手の12.7cm連装砲を黒光りする表面に向けトリガーを引いた。

 

 ガウンッ!!ガウンッ!!

 

 放たれた二発の砲弾のうち、一発は至近距離にも関わらず逸れて海中に飛び込む。そしてもう一発は、硬い外殻の曲面を浅く抉るのみに止まった。

 

「バカッ、何やってんだ朝潮っ!! 走れっ!!」

 

 引く腕の力が強くなる。そう言われても足の主機で海面を捕えなければ、推進力は生まれない。

 

 繋いだ深雪の手を支点に射撃の反動でぶれる体の軸をなんとか収め、崩れ落ちる波頭の上を転ばないよう必死で滑り降りながら、機関ユニットの回転数を上げる。

 

「朝潮ちゃんっ、ケガしてませんか!?」

 

「うん。でもあれは―――」 

 

 我に返って追いついて来た五月雨、そして深雪と一緒に全速力で退避しながら、自分たちの元いた場所を振り返る。

 

 そこにあったのは海水に濡れ陽の光を反射して輝く二つの巨大な――

 

「ボールだぁ!?」

 

 どこか間の抜けた深雪の声。確かにそれは、ビーチボールのような真ん丸の球体だった。

 

 仲良く並んで浮かぶ二つの黒い球は見ている間に、まるで意思でも持っているかのようにくるり、と回転。それまで海中に隠れていた、艦橋とも呼ぶべき深海棲艦の素体部分が明らかになる。

 

 球状の外殻から生えているのは、縄文土偶の女神像のような豊満な女性の肉体の腰から上部分。その石膏を塗りたくったみたいに生気の無い青白い肌には、喪服にも似た黒い襤褸切れが申し訳程度にぶら下がっている。

 

 両腕は拷問具を思わせる枷で後ろ手に球体に打ちつけられており、顔は……無い。正確にはその頭部はまるで『鮫に齧られている最中です』といったふうに、首から上の部分が鮫の上顎のようなパーツに置換されている。

 

 異形の多い深海棲艦の中でもとりわけ奇妙で一度見たら忘れようも無い、生理的嫌悪感を催す外見。

 

「輸送ワ級!!」

 

「こいつら、今ここで『生まれ』やがったのか!?」

 

 海中から姿を現したばかりの二隻の輸送ワ級は、深雪の質問に答えるかのように『ぼぉぉぉおおおおぅぅぅぅ――――』と嘶いた。

 

 汽笛の音と赤ん坊の産声が混ざったような生物とも無生物ともつかない悲鳴が、その場に居合わせた全員の背中の毛と脳髄を揺らす。

 

 皆が金縛りのようになっている間に哭き終った輸送ワ級は、身震いで海水の雫を振り払うと、いきなりこちらに背を向けた。

 

「あっ、逃げちゃいます!!」

 

「させません――艦隊反転、追撃します!!」

 

 すかさずその場で跳躍し、180°向きを変え輸送ワ級に追い縋ろうとする。

 

「いいのか? 香取と山城のこと待たなくてもよ!!」

 

 今度は逆に腕を引っ張られる形になった深雪が声を張り上げた。

 

 勿論それは考えた。

 

 けれども輸送ワ級はクラス・エリートともなると、速力が20ノットを越えるものも存在する。

 

 対して戦艦最遅の山城は速力24.5ノット、香取に至っては速力18ノットと圧倒的に劣る。これから艦隊を再編成してから追いかけるとなれば、その間に一方的に引き離される。

 

 駆逐艦だから―――駆逐艦でなければ追いつけない!!

 

「合流している間に逃げられてしまう。それならば!!」

 

「よぉし分かったっ!! 朝潮、五月雨、遅れんなよっ!!」

 

「深雪ちゃん子機っ!! 子機回収し忘れてますっ!!」

 

「おおっと」

 

 引き摺られて海面を絶賛耕し中だった三式探信儀の子機に気付き、ワイヤーごと巻き上げる深雪。

 

 いきなり海中から現れた時には驚いたが、態勢さえ立て直せば火力の低い輸送ワ級は怖いしい相手では無い。

 

 しかも今回のように随伴艦がいなければ、むしろいい獲物だ。

 

 方向転換が早かったおかげで、距離はそれほど開いていない。並んで海を往く二つの黒い球体、その背中がみるみる大きくなってくる。

 

 追いついた!!

 

「艦隊、最大戦速を維持!! このまま単縦陣、同航戦で近い個体から攻撃を仕掛ける!! 各艦、砲撃戦用意!!」

 

『了解!!』

 

 三つの12.7cm連装砲、六つの砲口が手前の輸送ワ級に狙いを定めた。

 

 ここからなら水平射撃でも届く―――絶対外さない!!

 

「撃てっ!!」

 

「喰らえーっ!!」

 

「たぁーっ!!」

 

 次々と上がる発砲炎。標的となったワ級の周囲に水柱が立ち、いくつかの砲弾が漆黒の球状外殻に喰い込む。

 

 途端にワ級の船足が落ちた。推進部に命中したのかもしれない。

 

 傷ついたワ級はそのまま迷走するようにふらふらと航路を逸れ脱落していく。

 

 だがまだ完全に撃沈したわけでは無い。駆逐艦の主砲だけでは、装甲だけは厚い輸送艦に対しても、やはり火力不足は否めない。

 

「こいつは深雪様に任せなっ!! とどめに三連装魚雷、たっぷり喰らわせといてやるぜっ!!」

 

 こちらが制止する間もなく、深雪も中破したワ級を追って隊列から離脱する。

 

「深雪ちゃんどこ行くのっ?!」

 

「いい!! それよりも、残りの一隻を叩く!!」

 

「はっ、はい!!」

 

 五月雨と二人、僚艦を失ったにも関わらず疾走を続けるもう一隻の輸送ワ級に、じりじりとにじり寄るようにして距離を詰めていく。

 

 ワ級に接近するにつれ、その黒い球体部分の外殻に亀裂の様な痕が刻まれているのが分かった。さっき自分が放った12.7cm連装砲弾、その傷痕。

 

 ならば、今度こそ仕留める!!

 

「敵の外殻左側面、傷の入った部分を狙う!!」

 

「分かりましたっ!!」

 

 自動装填装置が動き、連装砲に次の砲弾がセットされた。

 

 艦娘の砲塔に照準器は無い。

 

 砲身が照星、自分の目が照門。

 

 その真正面に、黒い肌に走る一条の弾痕を捉える。

 

「次発、撃てぇっ!!」

 

「やぁーっ!!」

 

 再び連装砲が火を噴いた。四発の砲弾は一直線に飛び、その全てが輸送ワ級の膨らんだ横腹に吸い込まれる。

 

 -――ボンッ!!

 

 小規模の爆発が起きワ級の船体がぐらり、と傾いた。

 

「やりましたねっ!!」

 

「いや、まだっ!!」

 

 大きく傾いたものの、依然としてワ級はその航行を止めようとはしない。

 

 思った以上に装甲が硬い。しかし傷付いた装甲に重ねて砲撃を受けた損傷は大きかったらしく、凹んだ外殻部分にはさらに深くなった亀裂がぐぱり、と虚ろな口を開けていた。

 

 そこから妖しく輝く蛍光緑色の、粘性のあるワ級の体液がだくだくと漏れ出している。

 

 あと少し、あと一撃で!!

 

 自然と連装砲のグリップを握る手に力が入った。

 

「あっ、朝潮ちゃん!?」

 

「もう一度、今度はさらに肉薄するわ!! 五月雨は援護を!!」

 

「危険です朝潮ちゃ―――」

 

 五月雨の叫びを後ろに置き去りにして、よろめく手負いの輸送ワ級に限界まで接近していく。

 

 攻撃を警戒していたが意外にも全く抵抗が無かったため、自分でも驚くほど大胆に近づきけた。もうほとんど外殻に手が触れられる距離。

 

 見上げると黒い球体部分の上に生える白いデメテルの像のような素体が、微動だにせず無言で空を睨んでいる。

 

 深海棲艦は何を考えているのか分からない。コミュニケーションが取れない。

 

 ラバウル近海で遭遇した泊地棲姫とは、何か言葉を交わした様な気もするが、その時の記憶はどこか曖昧だ。

 

 その上出撃中の通話記録は、破損を免れた阿武隈達の一部機関ユニットと併せて榛名と霧島が徹底的に砲撃破壊。最後は隠蔽するため海の底に沈めてしまった。

 そもそも深海棲艦は何なのか、その生態は、どのような目的で人類を海から駆逐しようとするのか、何一つ明らかにされていない。

 

 分かっていることはただ三つ。

 

 深海棲艦は人類の敵で、彼女たちは海からやってくる。

 

 そして深海棲艦に対抗できるのは、艦娘と呼ばれる艦艇の力を持った少女たちだけ。

 

「ん?」

 

 ふと亀裂の開口部、今も体液を垂れ流すその内部に、何か小ぶりのスイカ大の、丸いものが見えたような気がした。

 

 反応の無いワ級はいつでも倒せる。それにどのみち傷口から砲撃を叩きこむつもりだ。

 

 相対速度を調節し接舷。

 

 確認がてら、その夜のように黒い腹の中を覗き込んでみる。

 

 -―――目が、合った。

 

「上っ、朝潮ちゃん上っ!!」

 

 言われて咄嗟に視線を素体の方に向ける。さっきまで石膏像のように屹立していた輸送ワ級、その兜を被ったような頭部がいつの間にか後退し、そこから黒光りする長砲身が姿を現していた。

 

 5inch単装砲―――こいつ、クラス・エリートだったのか!?

 

 機関急減速!!

 

 バスンッ、と軽い発砲音と共に、さっきまで自分がいた場所に小さな水柱が上がる。

 

 さらに速度を落としつつワ級と距離を取り、追ってきた五月雨と合流した。

 

 自由な素体の首関節可動域を生かし、威嚇するように5inch単装砲をぐるりと巡らせながら、輸送ワ級はそのまま悠々と走り去っていく。

 

「やっぱり一緒に行きませんか? その方が安心です」

 

「うん……」

 

 心配そうに寄り添ってきた五月雨には生返事で答えるが、頭の中はさっき見た黒い球体の中身のことで一杯だった。

 

 何だったんだあれは!?

 

 ちらりと見えたスイカ大の丸いもの、そして目--――考えたくない。考えることを感情が、心が拒否している。

 

『朝潮さん、五月雨さん、聞こえますか?!』

 

 遠くで香取の声がする。

 

『応答は必要ありませんので、そのまま敵艦から距離を取っていて下さい。これより山城さんが敵艦に対して艦砲射撃を行います!!』

 

 艦砲!?

 

 空を見上げると山城の瑞雲が逃走する輸送ワ級の後ろに一定の間隔を保ち、ぴたりと貼り付いているのが分かった。

 

 着弾観測射撃が来る!!

 

「待って下さい!! まだ確認したいことが―――」

 

『主砲よく狙って、てぇーっ!!』

 

 ズズズズゥゥゥンッッッ!!

 

 扶桑型戦艦の主兵装である大口径35.6cm連装砲三基、計6門の一斉砲撃が大気を揺らし、その振動が水面を肌を、鼓膜を直接揺さぶった。

 

 続いて幾つもの高速飛翔体が空気の層を切り裂く音。

 

 初速800m/sで発射される砲弾がこの海域に到達するまで、ほんの数秒しかかからない。

 

 さっきの自分たちの連装砲のものとは比べ物にならないくらい盛大な水柱が、目の前で次々と立ちあがる。

 

 その中で宙に舞い上げられた輸送ワ級が見えた気がしたが、一瞬のこと。すぐさま崩れ落ちる大量の海水に呑み込まれるようにして、ワ級は姿を消した。

 

 やがて水柱が収まった時、海面にはワ級のものとみられるバラバラになった黒い曲面外殻が浮いているだけだった。

 

『-――こちら深雪。雷撃での敵艦撃沈を確認、楽勝だなぁ!!』

 

『了解しました。今回は色々とイレギュラーがありましたが、まずは一旦艦隊集結しましょう。朝潮さん、五月雨さんも戻ってきてください』

 

「はい、分かりました」

 

 通信が終わった。

 

「行こう、朝潮ちゃん」

 

 五月雨がそっと肩に手を置く。

 

 けれども自分はそのことに気付かず、しばらく輸送ワ級が藻屑と消えた海を呆然と眺めていることしかできなかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

任務2『司令艦トノ接触作戦!』

「んぁぁ~!! やっぱり事務仕事は肩が凝るわね」

 

 肩までお湯に浸かった五十鈴が、隣で首の筋をこきこき鳴らす。その度に彼女の豊かな胸部装甲が水面にぶつかり、ぽちゃんぽちゃんと縁日の水風船を掌で叩いた時の様な音が柔らかく跳ねた。

 

 あの後、実戦訓練の目的を達成した艦隊はトラック泊地に戻り、総評を経て『香取先生の集中対潜講義』は全プログラム終了。解散の運びとなったのだが、旗艦を務めた自分は戦闘行動調書を書いていたため遅くなったので、それを手伝ってくれた五十鈴と一緒に横須賀に帰る前に泊地敷地内に建てられた艦娘専用の露天風呂で入浴を楽しんでいる。

 

 ちなみに戦闘行動調書とは、艦娘に限らず帝国陸海軍では出撃を行った際に通信記録、航法データと併せて提出が義務付けられている報告書だ。作戦名、指揮官名と部隊構成、使用兵器とその効果評点。それに出撃から帰投まで作戦行動中の詳しい出来事をタイムテーブル方式で記載しなければならない。何時何分に敵を発見、接触、攻撃、敵の特殊行動やダメージの有無……。それらを簡潔に、また過不足なく纏めるのはそれなりに神経を使う作業だ。

 

 ……にしても五十鈴の場合、デスクワーク以外に肩こりの原因はまた別にあると思う。

 

「あ、ごめんね。ちょっと無神経だった?」

 

「いえ、そういうわけでは……」

 

 知らないうちにじぃっと見つめていたことに気付かれてしまっていた。弁解しながら慌てて五十鈴から目を逸らす。

 

「いいわよ、気にしないでも。私だって自分の体は大丈夫だけど、他の子のはどうしても慣れないのよね」

 

 まだ駆逐艦の子となら一緒に入りもするんだけど、と付け加えた彼女は、伸びをしながら湯の中でまた首を回した。

 

 再び二つの球体にはたかれた風呂の水面がちゃぽちゃぽ漣立つ。

 

 長良型軽巡洋艦2番艦『五十鈴』。

 

 横須賀鎮守府の同4番艦『由良』、そして6番艦『阿武隈』の姉妹艦にあたる、高い対空・対潜能力を持つ武勲艦。

 

 普段は長い黒髪をツインテールに結い、脇に紙垂飾りが付いた巫女服を意匠した紅白のセーラー服姿。そして改二となった今は二丁の機関銃型単装砲、ヘアバンドと一体化した水上電探、対空電探と共に縦横無尽に海を往く強力な艦だ。

 

 そして長良型1番艦から3番艦に共通する特徴として、その胸はとても豊満だった。

 

 一方で由良型とも呼ばれる4番艦から6番艦までは、浅葱色のセーラー服姿で両腕には装着型の14cm単装砲。また胸部装甲も、姉たちに比べまことに慎ましやかなものとなっている。

 

「ところで朝潮、この一週間過ごしてみてトラック泊地はどうだった?」

 

「はいっ!?」

 

 記憶の中にある綺麗なお椀型をした由良の胸と、間近にある五十鈴のそれを脳内で比べていたところだったので、いきなりの質問に少し狼狽してしまった。

 

「そうですね……」

 

 考える素振りをしながら、何となく視線を湯船の外に巡らせてみる。基地から突き出した形で砂浜の上に建てられた露天風呂、そこから見える景色は日本では見たことが無いような、南国的な別種の美しさを持っている。

 

 視線の先ではちょうど水平線を紅く染めて、夕陽がトラック諸島を囲む太平洋にゆっくりと沈んでいくところだった。

 

 トラック泊地は大小200を超える島々が世界最大の保礁、つまり珊瑚礁の辺縁に、内海を囲むようにして並んでいる。中でも大きな春夏秋冬・月火水目金土日の名前を与えられた11の島に、海軍施設が点在し結ぶことで『トラック泊地』は成り立っていた。

 

 特に海軍にとって重要なのが、飛行場のある最北の『春島』と、軍司令部のある東端の『夏島』だ。

 

 艦娘たちの居住スペースや整備工廠、補給倉庫、そして今自分たちがいる海を臨んだ巨大な露天風呂などの施設は、口を開き右を向いたアヒルの横顔にも似た『夏島』の上嘴、鼻の穴の位置あたりに軍港と併設する形で設置されている。さらに上嘴の方から車で南下し、上下の嘴を繋ぐ陸橋を渡り辿り着く下嘴の付け根には、発電所や一般士官宿舎、通信施設などの重要設備や、軍属や出入り業者とその家族が暮らす町がある。

 

 今回の滞在では二回ほど、講義の合間に挟まれたマラソンなどで陸橋を渡り向こう側を見る機会があった。

 

 立ち並ぶ椰子の木の間に、『おろないん』や『どりこの』など原色眩しいホーロー看板が見え隠れする木造の街並みの中を走り抜けていると、知らないはずなのに何やら不思議と懐かしい気持ちが湧き上がってきた。

 

 井戸端会議に講じる割烹着姿の婦人たち。黒煙を吐き出しながら通り過ぎるオート三輪。街頭テレビに集まる労働者。手作りのグローブを着け小学校の校庭で野球に講じるイガクリ頭の男子生徒。未舗装の土煙舞う道路に小枝で丸を描いて『けんけんぱ』と跳ねる吊りスカートの女子生徒と、その背中に紐で負われた赤ん坊。

 

 そこにはこれまで本の中でしか見たことの無い、『生きた昭和の写真展』とでも呼ぶべき光景があった。

 

『スマホや携帯、パソコン、あと気象観測衛星みたいな一部先進技術は存在するけど、戦時体制が続いてるからそのほとんどは民生化されてはいないわ。敗戦による西洋文化流入の機会も無かったし、変わらなければならない理由が無ければずっと同じ毎日が何十年も続いている、ってことじゃない?』

 

 以前五十鈴に質問したところ、そんな答えが返ってきた。

 

「本土と違って海も綺麗で……平和で、戦争してるなんて嘘みたいです」

 

「同感。ここは本当に静かだわ……」

 

 焼玉エンジンを積んだおんぼろの渡し船が、ぽんぽん呑気な音を立ててゆっくりと目の前の海を進んでいく。太平洋からの進入路が限られたこのトラック泊地内海は、ある意味人類にとって、深海棲艦の手を免れた最後の海の楽園かもしれない。

 

 いつの間にか横に近づいて来た五十鈴が、風呂桶の縁にくたりとしだれかかりながら、ふぅ、と安堵に満ちた熱い吐息を漏らす。その身体の下でふくよかな増設バルジがむにゅん、と形を変えた。

 

「そうそう、前から気になってたんだけど……別に私に対してそんなに畏まらなくってもいいわよ。同じ『司令艦』なんだし」

 

「でも他の人に聞かれたらと思うと、何だか気が引けてしまって……」

 

 指先でお湯をぴちゃぴちゃと遊ばせながら答える。

「そうね。陸軍に比べたら大分緩いらしいけど、海軍も上下関係は絶対だし。第一そんなの、『朝潮』のイメージじゃないわね」

 

 タメ語で喋る朝潮を想像したのかふふっ、と面白そうに笑う五十鈴。それに合わせて空気が動き、湯気と一緒に季節外れの桜花のような若い女性の身体の匂いが漂ってきた。

 

 自分も肯定を装って笑い返す。

 

 ―――でも、本当の理由は違う。

 

 三ヶ月前、あのラバウルからショートランドまで南洋を舞台にした泊地棲姫との戦いの後、自分の中で何かが変わった。変わってしまった。

 

 それに気付いたのは雨の日に駆逐艦寮で教練書を読んでいた時、隣で寝そべって少女の友最新刊を眺めていた五月雨に『そういえば朝潮ちゃん、最近前みたいに凛々しくなってきましたね!! あ、でもぼんやりして忘れっぽい朝潮ちゃんも好きですよ!! 何だか新しい妹ができたみたいでしたし……』と言われたのがきっかけだ。

 

 突っ込みたい部分は多々あったが、違和感を自覚していたところに改めて他人から指摘されたのは少しショックだった。詳しく聞いてみると日常生活で特に気にしない部分、ふとした反応などが以前より『朝潮らしく』なっているという。

 

 もし普段から五十鈴たち『司令艦』とフランクに接していたら、今後自分がより朝潮らしくなった時、必ず皆に変化を悟られてしまう。それが何故か気恥ずかしく、またとても恐ろしいことのように感じられたので、どうしても敬語を使うのを止める気にはなれなかった。

 

 改めて二人並んで、暮れ行くトラック諸島の夕陽を眺める。

 

 やがて空が藍色に染まってくると、対岸の春島にぽつり、ぽつりと気の早い民家の明かりが燈り始めた。

 

 自然の風景や満天の星空も美しいが、人の生活する光というのは何故かほっとする。ここでは照明の殆どが蛍光灯やLEDでなく昔ながらの裸電球。そのせいか、埠頭を照らす明かりもどこか温かみのあるものになっている。地上の星とはよく例えたものだ。

 

「私たち……生きて帰れると思う? あの平成の日本に……」

 

 唐突に五十鈴が口を開いた。

 

 普段の強気な彼女らしくない言葉は、『軽巡洋艦・五十鈴』でなく『司令艦・五十鈴』の生の言葉なのだろう。

 

 咄嗟にどう答えていいかわからず、しばらくそのまま海を見つめる。

 

「でも懐かしい、っていうのもおかしいわよね。艦娘の身体になって……自分があの場所にいた証拠なんて、あやふやな記憶以外何も無いのに……」

「そんなことありません!!」

 咄嗟に言い返してしまった。

 

 自分の記憶が失われつつある今、それを認めることは自己の喪失を受け入れる事。

 

 いずれは記憶を失い一人の艦娘として海に散った『司令艦・最上』と同じ未来を受け入れる事を意味する。

 

 それだけは―――!!

 

「言わないで下さい、そんなこと!! 皆で生きて元の世界に帰る。そのために『提督会』が作られたんじゃないですか!!」

 

 『提督会』-――全員の生存と帰還、そしてこの閉塞した海の未来を切り開く、別の未来、平成の日本からやって来た『司令艦』たちの集まり。

 

 会長である電は自分にそれを約束してくれている。

 

「提督会、ね……」

 

 しかし予想に反して、五十鈴の反応はつれない。

 

 屋根を支える茶色いマングローブの柱を伝った雫がぽちゃん、と見ず面に落ち、自分と五十鈴の間にゆらゆらと波紋を広げる。

 

「あれも電がトップになってからは、ただの戦闘互助会よ。E領域が発生すれば力を合わせる。でもそれ以外に関してやってることはバラバラ……」

 

「え―――」

 

 彼女の言葉は衝撃だった。

 

 てっきり司令艦は皆仲が良く、自分と同じことを考えていると思っていたのだから。

 

「ああでもあなたは、電に言われてトラックに来たんだっけ。なら、にわかには信じられなくても仕方ないわね」

 

「……どういうことですか」

 

 湯船の中で立ち上がり、五十鈴に詰め寄る。海から吹く潮の香の混じった冷たい夜風が、湯気の立つ濡れた素肌をさっと撫でた。

 

「言葉通りの意味よ。飛鷹は勝手に突っ走ってるし、金剛榛名はそれを止めようともしない。ゴーヤは欧州遠征でほとんど泊地にいないし、愛宕は裏で何やらこそこそ動いている。そして電は、誰にも本心を明かさない」

 

「五十鈴さんは……」

 

「私? 私は単に流れに乗っているだけよ。予備戦力を出せと言われれば出し、訓練しろと言われれば行い……そもそもトラック泊地自体、戦う相手がアメリカじゃなくなった時点で、ほとんど前線基地としての戦略的意義を無くしてるのよね」

 

 何も言えなかった。そのままゆっくり檜製の湯船の縁に腰かける。

 

 ……確かに飛鷹など、いきなり横須賀に演習を挑んで来たりするなど行動に理解できない点がある。

 

 そして電。

 

 彼女がラバウル基地で救出された西村提督に対してスパイになるか、さもなくば軍事裁判かと迫る場面を、自分はその場に居合わせてはっきりと目撃していた。

 

 帰還だけを目的とするのなら、わざわざ海軍内部にスパイを送り込む必要は無いはずだ。

 

 そういえば西村提督に会った時、舞鶴の司令艦である榛名も電と一緒だった。

 

 となると、彼女も電に一枚噛んでいるのだろうか。金剛はそれを知って見過ごしているのだろうか。ゴーヤに優しく接し仲間のため自分を盾にしていた愛宕にも、裏の顔があるというのか。

 

 こうなると全てが疑わしく思えてしまう。 

 

「……私もこの泊地と同じ。本土から遠く離れて、今は自分のできることだけで精いっぱい……最初は41cm連装砲を積んでみたりとか、色々とやってもみたんだけどね」

 

「戦艦の主砲を付けてみたっていうんですか? でもどうやって?」

 

「艤装の火器管制システムを無視してフィールドと直接接続すれば、司令艦に装備できないものは無いわ。でも私の場合、砲が重くて使い物にならずにすぐ外してしまったの。軽巡でも戦艦並みの火力があれば、皆と一緒に前線に立てると思ったんだけどね」

 

 あなたのところに来た山城、大事に使ってあげなさい……寂しそうに呟いた五十鈴の頬を汗だろうか、光る水滴がつぅ、と伝って湯に落ちた。

 

 しばし言葉を失ってしまう。

 

 この世界はゲーム『艦隊これくしょん』のようで、実はそうではない。艦隊を維持するだけでも資材が必要だし、移動にも修理にも当然時間がかかる。

 

 そしてサーバー名は実際の鎮守府の所在地。中でも大日本帝国勢力圏東端、『僻地』トラック泊地に赴任してしまった五十鈴は、何をするにしても他の鎮守府に比べ多大なコストが必要となっていた。

 

 考えてみれば、五十鈴がどうにかして戦艦並みの火力を欲しがった理由も何となく察しがつく。これもまたゲームと違い、鎮守府が違っても艦娘は重複して存在することができない。

 

 限られた貴重な大型の高火力艦をトラック諸島でのんびり遊ばせているわけにはいかない。だからかなのか、トラック泊地の総戦力は軽巡2、練習艦1、揚陸艦1、残りは駆逐艦8と非常にコンパクトな構成になっている。

 

 もしかすると五十鈴は電から直接、大型艦を持たないよう釘を刺されていたのかもしれない。自分もまた、着任したのが横須賀鎮守府でなかったら……。

 

 ぽぉーーぉぅ―――

 

 音階の一定しない古い蒸気船特有の汽笛音が、残光も消え黒く染まった南の海に響く。

 

「……そういえば今日輸送ワ級に接触した際、変なものを見たんです」

 

 ふと話題を変えてみる。

 

「変なもの?」

 

「行動調書に書いた通り二隻目のワ級が中破した後、さらに肉薄して砲撃しようと接舷した時のことなんですが……」

 

「山城が仕留めたエリートの方ね」

 

 頷く。

 

 書類を書きながら聞いたところによるとワ級を相手にする場合、狙うのは船底の推進部分か、もしくは船上の素体部分が普通らしい。黒い球体外殻の部分は異常に装甲が厚く、戦艦の零距離射撃でもそうそう撃ち抜けないからなのだとか。

 

「砲弾の当たりどころが良かったのか、ワ級の外殻球体部分には大きな穴が開いていました。傷から緑色の光る体液が流れ出していて、その中に……中に……」

 

 本当に言ってもいいことなのか、今さらになって逡巡する。

 

 本来であればこういったことは、電に直接報告すべきなのだろう。

 

 けれども先ほど五十鈴の話を聞いてしまった自分の中には、小さいながらも電への不審が芽吹いていた。

 

 頭が混乱する。

 

 自分から話を振ったのにもかかわらず、言葉が出ない。

 

 と、突然肩まで湯船に浸かっていた五十鈴が立ち上がった。濡れて体に貼り付いた長い黒髪、半円球の豊かな胸から大量の水を滴らせながらざぶざぶと湯を掻き分けてこちらに近付き、真正面に立つ。

 

「輸送ワ級……そもそもあいつらが何を運んでいるのか、戦っている私たちは何も知らされていないわ……朝潮、中には何があったの? 燃料弾薬?」

 

 五十鈴の放つ威圧感に気圧されながら、首を横に振る。

 

「じゃあ艦載機? 敵の艤装?」

 

 また首を振る。

 

「まさか別の深海棲艦が乗ってた、なんてないわよね?」

 

 分からない。ただ自分には……

 

「中にいたのは人間……に見えました……」

 

「嘘……そんな……」

 

 お湯の中に五十鈴がずるりと崩れ落ちた。

 

 --――ガサッ!!

 

 出し抜けに視界の端で露天風呂を囲むように生えたソテツの葉が動いて見えた。

 

 誰かに聞かれたっ!?

 

 反射的に手を伸ばし、触れた先にあった檜葉の湯桶を引っ掴むと、迷うことなく音のした方に向かって投げつける。

 

 艦と名前で繋がっている艦娘は、例え艤装を付けていなくとも成人男性の平均をはるかに上回る膂力を持つ。

 

 半分くらいぬるくなったお湯が入った湯桶はくるくる回りながら中身を撒き散らして、一直線にソテツの木陰に吸い込まれていった。

 

 かこーんっ!!

 

「痛ったったぁ!!」

 

 銭湯でよく聞こえるあの軽い音と共に、少し鼻にかかったような幼い少女の悲鳴が上がった。

 

「やだぁ~もう~、なぁにすんのさ~」

 

ごそごそと細長い葉っぱが動き、小さな人影が頭にできた真新しいたんこぶをさすりながら姿を現わす。

 

 ショートボブにした黒褐色の髪。もみあげだけが肩に触れるほど長く、頭から生えた犬耳のようにも見える左右に垂らされた髪の房は、その毛先だけが雪のように白い。

 

 裾丈が短いセーラー服型白ワンピースの襟元には、黄色いスカーフと鎖に繋がれた錨型タリスマンが巻かれている。

 

 そんな彼女の腰から伸びる武骨な鋼鉄のジョイントには、五月雨のものに似た魚雷発射管、機関ユニットと一体化された艤装が繋がっていた。

 

「皆より先にちょっと汚れを落としたいな、って思っただけなのにさ~。叩くことないじゃん?」

 

 黒リボンで留めた煙突型ミニハットを解いた少女―――五十鈴旗下、トラック泊地所属の陽炎型駆逐艦10番艦『時津風』は、恨めしそうな視線をこちらに向けながら、砂地をざくざく踏みしめ露天風呂に近付いてきた。

 

 背中の艤装からぶら下がった九三式聴音機の集音端子が、ずるずると引きずられ砂の上に蛇ののたくったような跡を刻む。

 

 そのまま風呂場の手前までやってきて舵型ヒール付き主機を脱ぎ、きちん揃えた時津風は、よぉいしょっ、と間延びした掛け声と共に浴場の端によじ登った。

 

「あの、時津風はいつから……」

 

「ん~、ちょっと待って」

 

 質問を遮った時津風は腰のジョイントを操作。背中から外れた艤装が重い音を立てて風呂場の床に落ちる。

 

 普段肩からバンドで吊り下げている連装砲をその上に置くと、時津風はセーラー服を脱ぎ捨て腰骨までしかない黒タイツを降ろす。呆気にとられて見ている間に、犬耳少女はローライズの白い紐パン一丁姿になった。発展途上の平坦に近い小さな胸、つんと上を向いて自己主張する生意気なピンク色の蕾が露わになるのも、彼女は全く気にした様子は無い。

 

 そして大事な部分を隠す最後の布切れさえ惜しげも無くぱっと取り去ると、そのまま湯気の立つ水面にちょぽっと足先をつけた。

 

「おっ風呂に浸かるよ~。二人とも、ちょっとごめ~ん」

 

 止める間もなく宣言通りつるん、とお湯の中に滑り込む。

 

「は~ぁ疲れた疲れた~」

 

 一瞬で顔を蕩けさせ、全身を湯に委ねる時津風。その口から満足そうなため息が漏れる。

 

「時津風!! ダメって言ってるのに、また砂浜の方から上がってきたわねっ!!」

 

 我に返った五十鈴が、締まらない顔と胸先のぽっちりだけ覗かせて水面に浮かぶ時津風を激しく叱りつけた。

 

「だってさぁ、そっちの方が楽なぁんだもんな~」

 

「ったく……天津風!! 天津風はどこ!?」

 

 脱衣所に向かって叫ぶ。やがて奥の方でどたどた忙しない足音がしたかと思うと、次の瞬間曇りガラスの引き戸ががらり、と無遠慮に開かれた。

 

「時津風!! 点呼にいないから、どこいったかと思ったら……」

 

 ぷりぷり怒りながら浴場に入って来たのは、時津風のそれとよく似た形の艤装を着けた気の強そうな銀髪の少女だった。

 

 時津風とは色違いの茶色いワンピース型セーラー服を纏い、すらりと伸びた両脚には紅白のニーソックス。

 

 腰まである銀髪は吹き流しを模した髪留めで頭の両側に結われている。

 

 陽炎型駆逐艦9番艦『天津風』-――時津風の姉妹艦である彼女は、湯船で蕩けた表情を浮かべる犬耳少女を見て、もうなんなんだか、とため息混じりに吐き出した。

 

「ぅお~い天津風~、お風呂気持ちいいよぉ~」

 

「知ってるわよ!! 私だって汗臭いのは嫌だもの!!」

 

「だったら天津風も一緒に入ろ~よぉ」

 

「あぁもう……付き合わないわよ!! またお風呂場に自分の艤装とっ散らかしてるし……なに、連装砲くん? 大丈夫よ、報告が終わったらちゃんと新品の機械油、点してあげるから」

 

 天津風が右腰の艤装と一体化した自分の連装砲を宥めるように話しかける。

 

 すると彼女が『連装砲くん』と呼んだ、小船に乗ったロボットにも見える12.7cm連装砲は、まるで意思を持っているかのように、ぴこぴこと櫂型の両手を動かして喜んだ。

 

 次世代高速駆逐艦『島風型』のプロトタイプでもある彼女、天津風には機関ユニットに組み込まれた新型高温高圧缶の他にも、『島風型』以降の標準武装となるはずだった半自律機能を持つ連装砲が搭載されている。

 

 艤装と一体化した火器管制能力を持つ武装―――姫級以上の深海棲艦の艤装に備わった補助脳『自律艤装角』。それを海軍技術研究所が模倣して試験的に天津風に実装したのが、この『連装砲くん』であるらしい。

 

 またこれをさらに進化させ、敵の『浮遊要塞』『護衛要塞』のように完全な自律行動が可能となったのが島風型の『連装砲ちゃん』……になるはずだったのだが、実際は砲単独では浮力が足りずにフロートが必要なため抱えて使った方が扱いやすく、さらに最悪の整備性に反して火力は所詮駆逐艦、と問題点が山積みに。 

 

 結局この自律行動可能な連装砲は、島風型駆逐艦が1番艦『島風』のみで建造中止になったことに合わせて採用も見送られ、比較的ましだった半自律型の『連装砲くん』だけが、その後秋月型防空駆逐艦1番艦『秋月』の武装として採用されるのみに止まっている。

 

「天津風、定期哨戒任務は無事終わったの?」

 

「はい、滞りなく。また旗艦の名取さんは、現在夜当直の香取さんに引き継ぎを行っているところです」

 

 五十鈴の質問に、時津風の艤装を持ち上げてあちらこちらに脱ぎ捨てられた服や下着を拾い集めながら、天津風が答える。

 

「昼間も対潜訓練をやった後だっていうのに、香取には悪いわね」

 

「でも香取さんも、何も無ければ一番楽ですから、と言ってましたよ。一緒に当直の初雪と望月も、これ幸いと昼過ぎ頃からずっと部屋に籠って寝ていますし」

 

 あの調子だと二人が起き出して来るのは明日の朝でしょうね、といかにもやれやれ、と言った風に小さな肩をすくめて呟く天津風。

 

 トラック泊地は五十鈴、香取、五十鈴の姉妹艦である長良型軽巡3番艦『名取』と、陸軍から出向してきた特種船丙型揚陸艦『あきつ丸』の4人が中心になって回している。

 

 それぞれが二人の駆逐艦を従え、4部隊での昼夜二交代制。

 

 基本的に日中は2部隊が哨戒、訓練、迎撃任務を行い、1部隊は泊地で出動待機。

 

 そして夜は1部隊が緊急出撃に備えて当直に就くのだが、夜間当番は日中が自由時間となるため希望する者も多い。

 

「そうそう、さっき廊下で由良さんとすれ違った時、帰る準備があるからそろそろ上がるよう朝潮に伝えて、って言われたわよ」

 

「お~朝潮たちって今夜帰るんだったか~。あんまり遊べなかったから残念だなぁ~」

 

「ひゃっ!?」

 

 さっきまで横で海中のビニール袋のように我関せずと漂っていた時津風が、急に脚に抱き着いてきた。

 

 不意を突かれたため、思わず変な声が漏れてしまう。

 

「そうね。朝潮、もう一度温まったらさっさと上がっちゃいなさい。私ももう上がることにするから」

 

「は、はい。そうします」

 

 太腿に絡みつく時津風を引き離そうともがきながら五十鈴に答える。一方時津風はそれが面白かったのか、足から上にこちらの体を伝ってよじ登って来た。

 

 それを何とか振り解くと、時津風はぶくぶくと泡を出しながらお湯に沈んでいく。彼女はそのまま潜水して湯船の反対側までゆくと、浮上してクラゲごっこを再開する。

 

 なんというマイペース生物。

 

 一方で天津風はそんな時津風の艤装を両腕で抱え上げると、時津風の分も名取さんに記録を渡さないとダメだから持ってくわね、と言って踵を返し、脱衣所の方に姿を消した。

 

 言われた通りに肩まで浸かり、夜風で冷えた身体を温め直す。この露天風呂は温泉ではなく、海岸近くで出た湧き水を敷地内に設置された太陽熱温水器で温めたものだ。おかげで湯量には大分余裕があり、24時間入れる循環式温泉と大差がない優れた福利厚生施設となっている。気のせいかもしれないが、日が落ちた後でもお湯から柔らかい太陽の熱が体に滲み込んでくるような心地よい温かさがあった。

 

「朝潮……」

 

 脱衣所に人影が無いことと、湯船の向こう側でのんきに浮かぶ時津風が聞いていないことを確かめながら、五十鈴がそっと耳打ちしてきた。

 

「さっきのあなたの話、私もできる範囲で調べてみることにするわ。もっともここに入ってくる情報なんて限られているでしょうけれど。それと……」

 

 いつになく真剣な顔でこちらを見つめる。

 

「私を信じてくれてありがとう。でも誰に何を言うか、これからはしっかり考えてからにしなさい。正直は美徳だけど、相手が常に善意で受け取ってくれるとは限らないわ。それが原因で次に会った時、あなたが『別の朝潮』になっていたとしても、私にはどうすることもできない……」

 

 一瞬、お湯の中にいるにも関わらず背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 

 ここに来て知った高速修復の正体が素体となる少女の入れ替えでしかなかったことから推測すると、帝国海軍にとって艦娘の立場は、少なくとも代えの効く強力な兵器以上のものではない。

 

 誰かを信じるのなら、その結果も受け取れるようになってからになさい。言外にそう語った五十鈴はじゃあお先、と言って立ち上がると、お湯をぽたぽた滴らせながらガラスの引き戸をがらりと開け浴室を出て行った。

 

「ねぇ朝潮~、さっき何の話ししてたのさぁ~?」

 

 五十鈴の姿が脱衣所に消えると同時に、いつの間にか背泳ぎですぐ隣に来ていた時津風が尋ねてくる。

 

「……なんでもない」

 

「え~、あたしに隠し事とかよくない」

 

 よくないなぁ~、うん、よくな~い。口ではそう言いながらも大して気にした様子の無い時津風は、それっきり口を閉じ再び僅かな湯の動きに身を任せると、湯船の向こう側にゆらゆらと離れていった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

任務3『「第八駆逐隊」ヲ編成セヨ!』

 この場所で一人、私はまたあの空を見上げていた。

 

 どこまでも広がる、あの果てしない真っ青な空。

 

 私と、私の大切な人たちが沈んだ、あの南の空。

 

 いつからこうしているのか、私には分からない。

 

 いつまでこうしているのか、私にも分からない。

 

 そういえば司令官は、あの人はどこに行ったのだろう。

 

 透けるような蒼穹の天蓋がにわかにかき曇った。

 

 遠くから蟲の羽音のような騒がしい音が響いて来た。

 

 もうすぐ鉄の雨が降る。

 

 もうすぐ人の雨が降る。

 

 何度も

 

 何度も

 

 何度でも

 

 何度でも

 

 繰り返されるあの日の光景。

 

 私は座ったまま、小さな二つの膝頭をぎゅっと抱え込んだ。

 

 誰も守れなかった私に、

 

 約束を果たせなかった私に、

 

 たった一つだけできること。

 

 せめてここでずっと、あの人たちの最後の場所を守っていこう。

 

 ああ、世界が真紅に染まってゆく。

 

 ああ、視界が血色に染まってゆく。

 

 私はもう、どこにも行かない。

 

 ------私はもう、どこにも行けない。

 

 

 

 

 

 

 

「朝潮さんも眠くなったのですか?」

 

 誰かがくすくすと上品そうに笑う声。

 

 そうかもしれない。何だか微睡んでいる間に、悪い夢でも見たような気分だった。

 

 額に浮いた汗の珠を二の腕で拭う。

 

 重くなりかけた瞼を上げると、向かい側に座る深雪と同じセーラー服を着た少女が口元に手を当て、さも面白そうに優しく目を細めていた。海上を走る涼しい夜風が、頭の後ろで二つに結って垂らした茶色のお下げをはたはたと揺らす。

 

 皆さんも、お腹一杯でお休みになられているみたいですし……そう言って少女は乗っている内火ランチの船上を見渡す。

 

 つられてそちらに視線を向けると、向かい合った椅子に並んで座るジャージに体操服姿の深雪と五月雨も、とんとんとん、と響く軽快なエンジン音に合わせてゆらゆら船を漕いでいた。

 

 訓練終了打ち上げの名目で行われた送別会では、本土でも有名な料亭のトラック泊地支店から仕出し料理を取り寄せ、皆盛大に食べて飲んで、また騒いでいた。深雪は調子に乗って、引きこもっていた姉妹艦の初雪にちょっかいを出そうとして叩き出されたり、一方五月雨はトラック泊地所属の涼風、春雨らと久しぶりの会話を楽しんでいるようだった。

 

 そして見送りにと出発間際に乗り込んできた、風呂上りの時津風。けれども彼女は座席を二人分占領して横になると、本来の目的を忘れて隣に座る少女の膝を枕に真っ先に夢の世界へと旅立ってしまっている。

 

 内火ランチの奥、積み込んだ艤装の脇では、同じく体操服ジャージに着替えた山城と、帰りがけに名取から渡された対潜データの入ったピンク色の布製手提げ袋を持った由良が、薄目でなんとか襲い来る睡魔と闘っていた。

 

 二人の年長者としての意地がそうさせているのだろうけれど、陥落はほぼ時間の問題と思われる。

 

 今船上で目を覚ましているのは、舵を握る軍帽を被った上半身白シャツ一枚の中年海軍兵士と自分、そして目の前の少女……吹雪型駆逐艦2番艦『白雪』の三人だけ。

 

 白雪も時津風や天津風と同じく、トラック泊地五十鈴旗下の駆逐艦だ。

 

 とはいえ香取カリキュラムの問題で自分たちとはすれ違いが多く、彼女と接触できる機会は最後までほとんど無かった。

 

「泊地ではあまり自由時間がありませんでしたので、帰り際に私も、皆さんとも少しお話ができれば、と思っていたのですが……」

 

 今日は泊地司令部での待機任務だった彼女は、たまたま定期チェックで見つかった整備不良のため一日中工廠に籠って艤装のマッチングに専念しており、それが長引いて送別会に出席できていない。

 

「ごめんなさい、疲れているみたいですから……ほとんど遊び疲れですけど」

 

「いえ、横須賀の皆さんもこれから飛行機で二日もかけて内地に帰らなければならないのですから。仕方ありません」

 

 白雪はすやすやと寝息を立てる時津風の、その犬耳のような癖毛を撫でる。時津風は、んん、と気持ち良さそうに喉を鳴らした。

 

 船は満天の星空の下、穏やかな内海を滑るように進んでいく。その通った航跡をなぞるようにして、きらきら輝く夜光虫たちが海の上に流れる一本の天の川を描き出した。

 

 自分たちが乗る本土への飛行機は、海軍トラック泊地のある『夏島』の露天風呂から対岸に見えた『春島』、その北部にある春島第一飛行場でエンジンを温めながら出発を待っている。

 

 泊地を出た内火ランチは島の東側を時計回りに飛行場のある北へと向かっていく。

 

 そうしている間にも右舷に暖色系の街明かりの連なりが、ゆっくりと流れて行った。

 

「朝潮さん……あの、朝潮さんは、また仲間に会いたい、と思うことはありませんか?」

 

「……仲間?」

 

 彼女の言わんとするところが、一瞬理解できなかった。

 

「はい。例えば姉妹艦、同じ駆逐隊の方ですとか、あとは同じ作戦に参加した仲間たち……」

 

 姉妹艦……自分の、朝潮の……。

 

「私はここで、また皆さんに逢えて嬉しかったです。11駆で一緒だった姉妹艦の初雪さん、深雪さん……そして、同じ場所で最期を迎えた時津風さんと、朝潮さんにも……」

 

「白雪ちゃん……」

 

「それが艤装によって植え付けられた『駆逐艦:白雪』の記憶だと分かっていても、やはり懐かしいものは懐かしいですし、嬉しいものは嬉しいんです」

 

 白雪は少し微笑んで視線を時津風に落とす。

 

『駆逐艦:白雪』……同型艦の吹雪、初雪、叢雲と共に第11駆逐隊に所属しあの戦争を戦った駆逐艦。

 

 そして最後は『八十一号作戦』、鈍足の輸送艦を護衛しながら昼間に敵中突破するという、大戦後期のあの無謀ともいえる作戦で沈んだ船。

 

 彼女と共に沈んだのが『駆逐艦・時津風』『駆逐艦・荒潮』と……『駆逐艦・朝潮』。

 

「朝潮さんは、もう一度仲間に逢いたいと思ったりしたことはありませんか? 例えばそう、朝潮さんでしたら第八駆逐隊の皆さんですとか……」

 

 何故だろう。彼女の言葉を聞いているだけで、頭が痛くなってくる。

 

 白雪の方に顔を向け続けることができずに、俯いてしまう。代わりに内火ランチの黒い木張りの床が視界を占領するが、その分だけ少し気が楽になった。

 

 何故彼女はそのようなことを言うのだろう。

 

「もう一度、仲間に逢いたいと思いませんか?」

 

 また同じ質問が飛んでくる。

 

 頭痛が酷い。

 

 白雪の声が頭の中でわんわんと鳴り響いている。

 

 その無遠慮な物言いに、いい加減うんざりしてきた。

 

「ごめん、悪いけど今その話は止めて。疲れてるから考えたくない」

 

 はっきりとそう言い切ってしまった。

 

 返事は無い。気分を悪くしてしまったのかもしれないが、自分も限界だった。

 

 向かい側の席で、白雪が立ち上がる気配がする。

 

 どうしたのだろう。まだ到着まで時間はあるのに。

 

 そう思っていると、不意に白い腕が自分の頸元に伸びてきて、そのままがっしと掴んだ。

 

「-――ッ!?」

 

 驚きで声が出ない。苦しくて息も吐けない。足をバタバタさせてもがくけれども、腕は頸から離れようとしない。

 

 そのまま片腕一本で高々と掲げられる。見下ろすと船上に仁王立ちになった白雪が、頸を掴んだままこちらを鬼の形相で睨みつけていた。

 

「何故、逢いたいと思わないの!? 何故!? 姉妹と引き離され、友と生き別れて……でも今なら、あなたなら、望めばまた皆と出会うことができるのに!?」

 

「ぐ――白雪――やめ―――」

 

 助けを求めて船内に視線を巡らせる。

 

 白雪の膝を枕にしていた時津風なら、さっきの衝撃で目を覚ましたはず。

 

 ―――しかし、時津風の姿はそこにはなかった。

 

 内火ランチの木製ベンチには、彼女の寝そべっていた形に赤黒い染みが残っている。

 

 そんな―――じゃあ深雪は? 五月雨、山城でもいい。由良も---いない、誰もいない!!

 

 皆のいたところには、やはり赤い染みが残されているだけだ。

 

 駄目元で船を操縦する海軍兵の方を見るが、そこでは舵だけがひとりでにカラカラと回っていた。

 

 いつの間にか空の星々も、街の灯りも海の夜光虫も消え失せて、船は真っ暗な海面を宛ても無く漂っている。

 

「私は逢いたい!! 妹たちに、仲間たちに―――もう一度、もう一度司令官に逢いたい!!」

 

 白雪―――いや、白雪だったそれ、もはや原型を留めていない少女の影は、絶叫するように激しい感情を叩きつける。

 

 長く伸びたストレートの黒髪。白いブラウスに軍緑色の吊りスカート姿。

 

 切れ長の目が真っ直ぐにこちらを睨みつけてくる。

 

 涙に濡れた空色の瞳を持つ少女。そう、私がずっと見上げていたあの空と同じ色の。

 

「朝潮―――!?」

 

 認識した瞬間、手にずしりとした重みがかかった。

 

 私は何を持っているのだろう。

 

 目をやると、私は誰かの首を掴んでいた。片手で空中に釣り上げられたその少女は、苦しそうにもがいている。

 

 私と同じ服装。私と同じ顔。私と同じ瞳。

 

 首を絞められているのは私。

 

 首を絞めているのも―――私。

 

 私を苦しめているのは、私。

 

 ならば私を苦しみから解き放てるのも、私。

 

 不意に言葉で形容できない巨大な感情の塊が、まるで間欠泉が突沸するように勢いよく私の奥底から湧き昇った。それは一瞬で身体を満たし脳髄を駆け抜け、心までその真っ黒な闇色に染め上げる。

 

 無数の苦悶、無数の悲嘆、無数の後悔、無数の憤怒、無数の憎悪、無数の困惑。それらが海の底で互いに喰い、互いに混じり合って生まれた、古くて新しい絶望---。

 

 逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい――――

 

 頭の中がただ一つの単語がリフレインされ、無我夢中で『司令艦』の操作パネルを開く。

 

 『工廠』画面から資源を最低設定で建造開始。

 

 すぐさま結果が表示される。

 

 違う、これじゃない。解体、次!!

 

 建造……違う、解体。次!!

 

 建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造-――

 

 

 

 

 ---視界に鈍色の天井が薄ぼんやりと浮かんできた。機体と同じく、作られてからどれくらい経ったのか分からない簡素な備え付け二段ベッドの天板。

 

「――違う、解体-――建造-――違う、解体-――建造-――違う―――」

 

 どこかで誰かが、何事かを念仏のようにぶつぶつと呟いている声が聞こえる。

 

 不意に喉に強い渇きを覚えた。口の中がカラカラで、唾とも痰とも呼べない粘度の高い液体が舌の根に絡みついている。

 

 少しでも湿気を逃すまいと口を閉じる。

 

 すると途端に、さっきまで聞こえていた念仏も止まった。

 

 ……待ってみても再開される気配が無いことから、どうやら寝言の主は自分だったらしい。

 

 耳を澄ますと代わりにヴ―、という低いエンジン音が、僅かなベッドの揺れと同期するように聞こえてきた。寝ている間に外気が忍び寄っていたのか、壁側の頬がやけに冷たい。

 

「飲まないと……水……」

 

 重い体を持ち上げ、黄色い煎餅毛布をシーツで包んだ掛布団を跳ね除ける。ゆっくりとベッドの柵を跨ぎ、素足で板敷の狭い機内通路に立った。

 

 隣のベッドでは五月雨たちがまだ寝息を立てている。時折寝苦しそうに『フ~コ~、フ~コ~』と聞こえるのは誰のものだろう。

 

 一方通路の反対側にある窓際の椅子では、イヤホンを差したままの由良がリクライニングを倒して横になっていた。彼女のお腹の上にはファイルに綴じられた戦闘資料の束があるところか、書類に目を通している途中で眠ってしまったのだろう。彼女のいつもの巨大なサイドテールも今は解かれ、ヘアゴムで軽く留めるだけになっている。

 

 よろよろとおぼつかない足取りで居住区と格納区を過ぎ、機体尾部にあるトイレ兼洗面所へ。

 

 個室に入って洗面台の蛇口を捻ると、冷たい水が勢いよく吹き出してきた。それをぶら下がっていたアルマイトカップで受け、乾いた喉へ一気に流し込む。

 

 氷点下の大気に晒された水はまるで液体になった氷みたいで、冷たさというよりむしろ心地よい痛みとなって、口腔から咽頭、食道と胃を順番に灼いていった。

 

 一息ついてカップを戻したところで、洗面所の鏡に映った自分の顔が目に入った。

 

「酷い、わね……」

 

 苦笑と共に自然とそんな感想が漏れる。

 

 寝汗でべったりと額に貼り付いた黒髪。張りを失った肌、目元には何日も徹夜したような深い隈が刻まれ、唯一空色の瞳だけが異様な光を湛え顔の中心でギラギラと輝いている。

 

 幼い少女であるはずの朝潮の……自分の顔は、まるで墓の下から這い出してきたばかりの幽鬼のようだった。

 

 両手に冷水をたっぷり貯め、思いきり顔にかける。

 

 何度も何度も。

 

 繰り返しているうちにやっと目が覚めてきた。棚から新しいタオルを取り、顔と髪、水が飛び散ったところを拭いていく。

 

「つっ―――」

 

 頸を拭った際、電気が走ったかのようなぴりぴりとした痛みがあった。

 

 不思議に思い、ジャージの襟元を広げてみる。

 

 あったのは白い肌に刻まれた小さな掌の痕。

 

 薄い皮膚が剥がれ赤く腫れあがったその場所に、濡れた自分の指先でそっと触れた。

 

 ……滲み入るような疼きと共に、傷痕と手がぴったりと重なりあう。

 

「-――嘘-――」

 

 あれはただの夢だ。

 

 どれほどおぞましくとも、朝の目覚めと共に泡となって消える、ただの悪夢でしかない。

 

 なのに―――!!

 

 途端に膝の力が抜け、立っていられなくなった。浅く早い呼吸を繰り返すが、どんどん胸が苦しくなってくる。

 

 何とか手を伸ばしタオル棚に寄りかかった。しかし体重に耐えられなかった棚は、がらがらと音を立てて崩れ落ちる。

 

「ぁ――ぁぁ―――ぁあぁぁっ!!」

 

 震える身体を動かしずるずると床を這う。やっとのことで辿り着いた洗面所の扉に、背中を預けながら何とか立ち上がろうと試みる。

 

 だが両足は弱々しく萎えたままだ。

 

バンッ!!

 

 突然背後の扉が勢いよく開かれた。支えを失い、もたれかかった身体が後ろに倒れ込む。

 

 後頭部が何かに激突するごん、という鈍い音。床にぶつかったにしては妙に柔らかい衝撃……そう思ってゆっくりと首をもたげた。

 

「痛っ~」

 

 通路の照明をバックに、由良の緑翠の瞳が上から覗き込んでいた。

 

 

 

 

 

 窓際の席に戻り、その脇ポケットから取り出した魔法瓶の蓋を開け中身をこぽこぽ、と注いだ由良は、はい、飲んでみてね、と対面に座る自分にそれを差し出してきた。

 

 抹茶碗のように両手で受け取る。中を覗くとやや黒っぽい琥珀色の液体がなみなみと入っていた。

 

 ためらいながら縁に唇を付け、少し口に含んでみる……甘い。やや薄い紅茶の芳しさと濃厚な蜂蜜の柔らかさ、それにほんのり漂う檸檬の鋭さが一つになって鼻腔を通り抜けた。

 

 煎れてから大分経っているらしく、お茶にはほんのり温かみが残っている程度。けれどもそれが今の渇いた喉には優しく感じられ、そのまま一杯分を一気にごくごくと飲み干してしまった。

 

「どうかな? まだ飲む?」

 

 こくんと頷くと、すぐさまお代わりが注がれる。二杯目、そして三杯目も半ばに差し掛かったところで、やっと気分が落ち着いて来た。

 

 それを見届けてからリクライニングを戻して対面座席に腰を降ろしていた由良は、手を伸ばして寝台の下段から薄い掛布団を引っ張り出して渡してくれた。本人はさっきまで使っていた膝掛毛布の位置を直し、こちらに柔らかな視線を投げかけている。

 

 なんとなく気まずくなり、機内を見渡すふりをして顔を横に向けた。

 

 帝国海軍の兵員輸送、特に艦娘の運搬任務に使われているこの零式輸送機二三型改は、昭和飛行機工業がライセンス生産した米国のプロペラ旅客機ダグラスDC-3に軍の要望で改修を加えたものだという。

 

 エンジンを三菱製『金星六二型』に取りかえるのに併せて元々両側1列と2列、計3列の座席が据え付けられていたところを、片側の2列を撤去する代わりに二段ベッドを3つ縦に置き、残った空間は艤装の格納庫としている。

 

 その内部構造がDC-3開発の元になったDC-2改良型寝台機DSTと似通っていることから、関係者からは『先祖返りした』などと揶揄されたりもしていた。

 

 暗い海に突き出したトラック泊地の春島第一飛行場に現れた軍用の濃緑色に塗られた超ジュラルミン製ボディの機体は、レストアを繰り返されたといってもそれが作られてから70年以上経っているとは考えられないくらいしっかりしていたのを覚えている。

 

 それぞれがベッドに潜り込むのを待って南国の夜空に飛び立った零式輸送機は、哨戒の終わったB,C領域上空を西へ西へと進み、一旦夜明け前にパラオ泊地で郵便を降ろすとまた空へ。

 

 翌朝、機体はちょうど朝食時を見計らったようにフィリピン、ミンダナオ島のダバオ市郊外にある帝国海軍ササ飛行場に降り立った。

 

 そこで燃料の補給と気象観測、通過海域の哨戒が終わるまでの間、自分たちは基地の食堂で簡単な朝食を済ませると、大昔にここに駐留していた米軍から鹵獲した、というおんぼろジープに乗って気晴らしに市街地観光と洒落込むことにした。

 

 連絡員として忌日由良を残して、山城の運転でバナナ農園や麻畑を越え、日本人街を廻り屋台の氷屋や果物屋などを散々ひやかして(主に深雪が)から夕方ごろ飛行場に戻ったのだが、それでもまだ管制からの離陸許可は下りていなかった。

 

 せっかくなので現地華僑人の中華料理店に出前を頼む。そして皆が夕食を終えたところで夜遅くの出発予定を知らされ、一日遊んだ分の汗を宿舎のシャワーを借りて流した後、今度は横須賀に向かう機上の人となっていたわけだが……そういえば、

 

「今、どのあたりを飛んでいるんだろう」

 

「気になる? ちょっと待ってね」

 

 独り言だったのに、止める間もなく先ほどのポケットを漁る由良。そして彼女は折りたたまれた一枚の紙片を引っ張り出した。

 

 小卓の上に広げると西太平洋―――大日本帝国の勢力圏を描いた、使い古されてくたびれた地図が現れる。

 

「う~んと、今回の航路はここだから……」

 

 フィリピンのダバオと横須賀を結んだ赤い線を探し当てると、目盛が刻まれたその上を由良の指が辿る。

 

 飛行機は首都マニラのあるルソン島、そして台湾を左手に見ながら北上したところで東に進路を変え、沖縄、南西諸島沿いにユーラシアプレートの縁をなぞるようにして本土へと向かうことになっている。

 

 危険な深海に近づくを避け、敵の出現率が低い沿岸、島伝いの海上航路の、さらに上を飛ぶ最大限安全に配慮した航路だ。

 

 当初、横須賀までの所用時間は14時間程度を想定しているとのことだったが、

 

「出発して8時間だから、まだ半分を過ぎたところね」

 

 指は沖縄手前の海上、台湾の右あたりの8と書かれた目盛のところで止まった。どうやら数字は経過時間で大体の位置を把握するための補助だったらしい。

 

 この世界の宇宙開発、通信技術は、深海棲艦の存在もあるためあまり進んでいないのが実情だ。そのため衛星は精度の低い気象観測用のものしか無いらしい。

 

 よってGPSも衛星では無く、各地に設置された通信塔の発する電波を使った三点測位方式、もしくは航海データを使って出発場所から航路を地図上に直接プロットする疑似GPSが主流だ。しかも深海棲艦の活動が活発化すれば電波状況も悪化するため、これらの装置は真っ先に使い物にならなくなる。

 

 この零式輸送機にも通信、地上式GPSを兼ねた航空アンテナ用空中線が張られているのだけが、結局最後に頼りになるのは人間の力。そういった事情から機体の天辺には、アンテナと共に監視・天測のための見張り塔が備え付けられていた。

 

 自分たちの頭の上では今この瞬間も、海軍の熟練見張り員が静かに暗い夜空を見上げていることだろう。

 

「あれ、この航路は……」

 

 地図の上に赤い線とは違う、黒い線が記されているのに気が付いた。黒線は後からボールペンで書き込まれたものらしく、トラック泊地やパラオから直接本土に引かれた線の上に年月日が記入されている。

 

「それは緊急航路。何か理由があって、まだ偵察の終わっていない未知のF領域を目的地まで最短コースで強引に突っ切る航路ね」

 

「そんなこともできるんですか?」

 

「一応は、ね。ラバウル基地の飛鷹さんたちが訓練で横須賀に来た時、二式大艇で直接飛んで来たじゃない」

 

「そういえば……」

 

 自分たちも前回のE領域攻略の際ラバウル基地に行ったが、それは客船を乗り継いで何日もかかる長旅だった。

 

 今回のトラック泊地への行きも戻りも、中継地を挟みながら結局飛行機で丸二日かかっている。

 

「でもそれは、空母型の艦娘がいなければ使えない強硬手段なの。飛行機の中から艦載機を飛ばして、自分の進路のその先と周辺を常に偵察しながら飛ばなければならないから、とても負担が大きいのよね……」

 

 プロペラ機では出せる速度が限られている。そして空を飛んでいる時に襲われれば、艦娘も普通の人間も脆弱なことに変わりは無い。F領域で遭難したら救助は絶望的なため、あらかじめ艦載機を飛ばすことで万難を排した航路を選ばなければならない。

 

「そんなに大変なのに飛鷹さん、何でいきなり横須賀に来たのかな」

 

「さあ……」

 

 それに関しては、自分にも分からない。

 

 結局あの時突然彼女が来訪した理由は、今もって聞きそびれたままになっている。

 

「でも、だったらあの時飛鷹さんは……」

 

「ほとんど徹夜で飛んで来て、それでも彼女にはあなたたち全員を相手に圧勝するだけの実力があった、っていうことじゃないかな」

 

「…………」

 

 今さらながらに自分との差を思い知らされた気がした。

 

 そう、彼女は、飛鷹は強い。

 

 それは『司令艦』たちの中で、自身が軽空母であるにも関わらず金剛、榛名に次ぐ戦力として認められていることからも明らかだ。

 

 しかしそんな飛鷹のことを、五十鈴は『勝手に突っ走る』と評した。

 

 もちろん彼女の場合は若干の嫉妬が混じっていない、と言い切れない。そして自分の知る範囲では訓練に来た時以外は、飛鷹が独断専行に走ったところなど見たことが無い。

 

 なら彼女が『勝手に突っ走った』のは一体いつのことだろう。

 

 もしかすると自分がここに来る前に……。

 

「別の事を考えてたら、少し気が紛れたかな?」

 

「えっ―――」

 

 気が付くと卓に頬杖をついた由良がこちらを見つめていた。

 

「見たんでしょう? 悪い夢」

 

 どう答えればいいのか一瞬迷ったが、曇りの無い澄んだ彼女の目を見ていると、この人を相手に取り繕うのは無理だと言うことが何となく分かった。

 

「はい」

 

「そう……」

 

 目を閉じて少し考えるような仕草をした由良は、

 

「じゃあ、由良が一緒にいてあげる。到着するまでまだ大分あるし、ここでもう一度寝直したらいいんじゃないかな?」

 

 そんなことを提案してきた。

 

「ああ、別に深い意味はないから、そう恥ずかしがらないで。なんてことの無い戦闘の後でもね、駆逐艦の子は不安定になることがあるの。それをケアするのも由良たち軽巡の任務の一部なのよね」

 

「あの、由良さんは……」

 

「なぁに?」

 

 気が付くと自分の中で以前から気になっていた疑問の言葉が溢れ出していた。

 

 鎮守府の皆は、そして目の前の彼女は、自分たちと同じなのかどうか、と。

 

「由良さんも見るんですか……悪い夢」

 

 驚いて反射的に、ん、と唾を飲み込んだ彼女は、しかし自分のように視線を逸らそうとはしなかった。

 

 輸送機のエンジンの音と、そこに混じる深雪たちの寝息が機内を満たす。由良の横顔を映す正方形の窓の外では、夜明け前の暗闇の中、消え残った星が雲の上でまばらに瞬いていた。

 

「空を埋め尽くす敵機の群れ……」

 

 しばらくして由良の唇が小さく動いた。

 

「機銃の雨、爆弾の雨。燃え上がる炎、真っ赤に染まる世界。飛び交う悲鳴、怒号、流れる血と涙、そして命……」

 

「由良、さん?」

 

「朝潮が見たものとは違うけれども、良く似た光景を由良も見たことがある」

 

 そこで言葉を切った由良は、ふぅ、と物憂げなため息を吐き出す。

 

「けれどもね、朝潮……あんなものと無理に向き合う必要は無いの。あれはただの夢、ただの記憶と割り切ってしまうことができれば、深く傷つくことなく艦娘の任期を終えることができる……」

 

 頭に冷水を掛けられたような気持ちがした。

 

 一瞬脳髄が冷えた後、すぐさまかっと血が昇り、思わず椅子から腰が浮き上がる。

 

 ―――そんなこと、できるわけがない。

 

 確かに普通の艦娘には、そういう選択肢もあるのだろう。だけど自分たち『司令艦』は、戦わなければ元の世界に戻れない。

 

 そして戦えば必ず、今の自分のように人格が削り取られていく。自分の記憶が艦の記憶と入れ替わっていく。

 

 また由良の言うように任期が終わって、この朝潮となった少女が軍から解き放たれた時、彼女は市井に戻れるのかもしれないが、自分はどこに行くのか分からない。

 

 強制的に元の世界に引き戻されるのか。

 

 居場所を無くしてこの世界を幽霊のように彷徨うのか。

 

 泡と弾けて消えるのか。

 

 少女と一つになって別の人間になるのか。

 

 それとも再び別の朝潮となって、深海棲艦と無限に終わらない戦いを繰り広げるのか。

 

「でも―――」

 

 激昂しそうになった自分の肩に、由良の手がそっと置かれた。

 

「でもね、それを知った上で---それでも自分の中にあるものと向き合いたいというのであれば---その気持ちを助けるのもまた、由良たちの役目。今以上に強くなろうとすれば、いずれ避けては通れない道だから、ね」

 

 本当はこれ、改造を受ける時に話す内容なんだけど……霞もこんな感じだったのかな、と付け加える。

 

「だからこそ今は、その時に備えて休んでおいて、ね」

 

 そう言いながら、さっき立ち上がろうとした際床に落ちた薄手の掛布団をぱんぱん、と埃を払ってから渡してくれた。

 

 一方の自分は、由良の言葉で完全に毒気を抜かれてしまっていた。

 

 椅子に座り込むと、突然抗いがたい眠気が襲ってきた。。

 

 瞼が重い……だけど眠るとまた……。

 

「安心してお休みなさい、朝潮。由良はここにいるから。由良は、沈まないから……」

 

 彼女の言葉を聞いた途端ぷつりと緊張の糸が途切れたのか、意識は深く暗い、でも温かい暗闇の底に落ちて行った。

 

 

 

 

「おぃ、起きろ朝潮!! 横須賀に着いたぜ!!」

 

 突然肩をガクガクと揺さぶられて目が覚めた。

 

「深雪ちゃんやりすぎ!! 朝潮ちゃんの首が取れちゃいます!!」

 

「取れたらくっつけるから大丈夫だって」

 

 いやそれは無理。

 

 目を開けると、既に起きていたらしい深雪と五月雨が、例の体操服ジャージ姿でリュックサックを背負い、機内の通路に立っていた。

 

 そのまま林間学校に突入できそうだ。

 

 ちらりと視線を向けた窓の外にはコンクリートの滑走路が広がり、すぐその向こう側には船の行きかう東京湾の海と横須賀鎮守府の軍港、そして背の高い赤煉瓦の建物が見えた。

 

 ならば今いるのは出発の際にも使った、鎮守府から1kmも離れていない追浜第一横須賀飛行場なのだろう。

 

 床が水平ではなく斜めになっていることが、輸送機が滑走路の上をゆっくりと移動していることを教えてくれた。

 

 ふと、向かい側の席に座っていたはずの由良を探すが、どうやら彼女は機長と話しているらしく、操縦席に続くドアから小豆色の芋ジャージを穿いた二本足が覗いている。

 

 まだベッドの中で眠い目を擦っている山城の脇を抜け、洗面所で顔を洗う。 

 

 戻ってくると由良がおはよう、よく眠れたかな?と声をかけてきた。

 

「皆、そろそろ降りるけど忘れ物が無いように、もう一度確かめてね。艤装は整備班の人たちに引き渡すからそのままで」

 

「おう」

 

「分かりました」

 

 まるで引率の先生のように振舞う彼女の手には、自分のリュックの他に名取から受け取ったピンクの手提げ袋が握られている。

 

「そうそう、それから朝潮」

 

「はい」

 

「え~と、驚かないでね……」

 

 突然がたん、という大きな揺れと共に機体が停止した。立っていた皆がよろめき、ベッドの中の山城は天板に頭をぶつけて呻き声を上げる。

 

「ぃよーし深雪様、横須賀一番乗りぃ!!」

 

「深雪!! すぐ出たら危ないから---」

 

 由良が止めるのも聞かず、タラップと一体化した零式輸送機の扉が勢いよく開かれた。

 

 プロペラから送られてくる磯の匂いが混ざった暖かい日本の風が、さぁっ、とドアから吹き込んでくる。

 

 開けてしまったのなら仕方が無い、と由良は肩をすくめて皆に外に出るよう促した。

 

 まだベッドで蹲っている山城を残して、深雪に続く形でドアを潜り狭いタラップを踏みしめて降りる。

 

 南国とはまた違った照りつける太陽、そして滑走路からの輻射熱で、一気に汗が噴き出してきた。

 

「うむっ、皆のもの長旅ご苦労であった!!」

 

 外には機体に横付けする形で、海軍を示す錨のエンブレムを付けたいかにも昭和といったカーキ色の軽トラのような……確かくろがね小型貨物自動車とかいう自動車……その運転席から降りてきた利根が、仁王立ちで出迎えてくれる。

 

「利根さん、ありがとうございます。それで先ほどの連絡で……」

 

「そうじゃな。だが説明するより、直接会った方が話も早かろう」

 

 自分より背の高い由良相手に恰好をつけたものの、プロペラの風に吹き飛ばされそうになって必死に足を踏ん張りながら、利根は貨物自動車の後部、幌で覆われた荷台に向かって手招きした。

 

「なんなんでしょう?」

 

 不思議そうに五月雨が隣で耳打ちするが、自分にも見当がつかない。

 

 すると荷台の後ろから二つの小さな影が飛び出してきた。

 

 その姿を見た瞬間、思考が完全に停止するのが分かった。

 

「ほれ、二人とも先任者に挨拶せんか」

 

 利根の横に並んだ白ブラウスに軍緑色の吊りスカートを履いた二人の少女は、背筋を伸ばして敬礼の姿勢を取った。

 

 どうしてあの二人が……いや、理由は分かっている。

 

 二人を呼んだからだ---彼女たちに、姉妹に逢いたがっていた、自分の中にいる『駆逐艦・朝潮』が。

 

「朝潮型駆逐艦3番艦、満潮よ。私、なんでこんな部隊に配属されたのかしら」

 

 一人はライトブラウンの髪をお団子型ツインテールにした、その髪と同じ色の不機嫌そうなの瞳を持った少女。

 

「朝潮型駆逐艦4番艦、荒潮です」

 

 もう一人は少しだけウェーブがかったこげ茶色の長い髪に、どこか天然さを漂わせる朽葉色の瞳を持った少女。

 

「また一緒に戦えるなんて数奇なものね、朝潮」

 

 すっと細められた彼女の両目には表情を硬くした黒髪の少女の姿が、はっきりと映り込んでいた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

任務4『強襲!空母機動部隊』

 海軍軍令部の地下に作られた大空間に鎮座する『提督機』。

 

 そのすぐ隣にある司令艦専用の会議室は大正レトロな内装の割にしっかり空調が利かせてあり、うだるような屋外の暑さが嘘のようだった。

 

 入室してから大分時間が経ったおかげで汗を吸ったシャツはとっくに乾き、むしろ少し肌寒い。目の前に置かれた溶けかけの氷入り麦茶グラスが、代わりに汗だくになって卓上に水たまりを広げていた。

 

 自分と同じ夏用の白い半袖シャツ姿で作戦卓を囲んでいるのは、呉鎮守府の電、トラック泊地の五十鈴と大湊警備府の愛宕だ。最初は皆、そこそこぴしっとした姿勢で椅子に座っていたのだが、待ちくたびれたせいで今は思い思いにくつろいでいる。

 

「はぁ……」

 

「朝潮、口から魂が半分出ているのです」

 

 うつ伏せの顔に感じる冷えた作戦卓の天板は、とても心地よい。

 

 ガラス越しに歪む電の顔が苦笑に変わる。彼女の瞳に映る自分の姿は、随分だらしないものになっているのだろう。

 

「いい加減邪魔なので引っ込めて欲しいのです」

 

「はい……はぁ……」

 

 電の忠告は右から入って左耳から抜けていった。

 

 けれど何も考える気力が起きない。このまま卓と同化してしまいたい気分だった。

 

「……これは重症なのです。五十鈴、トラック泊地では一体何の訓練をやっていたです?」

 

「濡れ衣よ!! 普通の対潜訓練だけで、他には何もやってないわ!! ほら朝潮、あなたもちゃんと説明して!!」

 

 横に座っていた五十鈴がツインテールを揺らして抗議する。彼女の袖口から覗く褐色味を帯びた肉感的な二の腕が眩しい……そんなどうでもいい感想が頭をよぎる。

 

「はい……朝潮は大丈夫です……」

 

「キャラがぶれるほど大丈夫じゃないわけね」

 

「そういえば朝潮ちゃん、報告だと最近仲間が増えたはずよねぇ。もしかして……」

 

ガタッ―――

 

 向かいの席に座る愛宕の言葉に反応して、びくっと身体が震えた。

 

「あああぁぁぁぁああああぁぁぁぁあああああっっっ――――!!」

 

「あら、あらあら~」

 

「直撃弾だったのです」

 

 フラッシュバックする記憶に頭を抱えて悶絶する。

 

 新しい仲間―――荒潮―――満潮―――

 

 

 

 

 

『うふふふふ。こう見えても私、お掃除は大好きなのよぉ~』

 

 トラック泊地から横須賀鎮守府に帰り、普段生活している海沿いの木造艦娘寮に荷物を置きに戻った時のこと。

 

 自分と深雪と五月雨の三人で寝泊まりしていた畳敷きの駆逐艦部屋は、見違えるように綺麗になっていた。

 

 荒潮と満潮のものと思われる赤と黒の大きなザックが新な主を示すかのように部屋の二隅に置かれており、その代りゴチャゴチャと散らかっていた深雪と五月雨の私物は整理され、丁寧に仕舞われていた……ゴミ袋の中に。

 

『深雪様のもの何勝手に捨てようとしてんだよ!!』

 

『な……なんでぇ……ちょっとそのままにしてただけなのに……』

 

 すぐさま被害者二人が荒潮に喰ってかかる。が、当の彼女は、

 

『もう、ひどい言い方ねぇ。気を利かせて任務に不必要なもの、片づけてあげただけなのにぃ』

 

 まるで心外、と言わんばかりに小可愛らしく首をかしげて見せた。毛先の跳ねたこげ茶色の長い髪が、おどけるようにしてぴょこりと動く。

 

『ふざけんな!! おい朝潮、姉妹艦のお前からもこいつに何とか言ってやってくれよ!!』

 

『えぇっ!?』

 

 自分の私物は手を付けられていなかったのであっけにとられていたところに、深雪からのキラーパスが飛んできた。

 

 荒潮が朝潮型の姉妹艦と言っても今日が初対面だし、相手は小さな女の子。

 

 何を言ったらいいのかも分からないが、とりあえず荒潮の肩に手をかける。

 

『荒潮、確かに整理整頓は大切だけど、これはやりすぎだと思う』

 

『あらあら、そう? かわいそうかしらぁ?』

 

 どこか作為を漂わせる間延びした声で、頬に手を当てながら荒潮は呟く。そして深雪の方を横目でじぃ、と見ると、

 

『でもぉ朝潮……こういう自己管理ができない子に限って真っ先に死んじゃうんじゃないのぉ? 戦場にも出られずに……』

 

『何だとぉっ!!』

 

『深雪ちゃん落ち着いてぇっ!!』

 

 激昂して荒潮に掴みかかろうとする深雪を、五月雨が必死で取り押さえる。

 

 ちょうどたまたま様子を見に来た由良と阿武隈が各自私物の管理を徹底するという約束でその場を納めてくれたが、二人の私物を勝手に処分しようとした荒潮も当然注意されることになった。

 

『もう、仕方ないわねぇ~』

 

 軽巡二人に叱られながら終始柔和な笑みを浮かべていた荒潮。

 

 その後もゴミ袋から私物を取り出す深雪たちの作業を微笑ましそうに眺めていた彼女の朽葉色の瞳は、けれども全く笑っていなかった。

 

 

 

 

 

 

『ほんっっっと、この部隊はぬるいわね!! 仲良しごっこしてんじゃないんだから!!』

 

 小さな身体のどこからそんな声が、と思うほどの大音量で、頭の両横に付いたライトブラウンのお団子をぷるぷる震わせながら満潮が叫んだ。

 

 彼女は彼女で何をやっていても必ず不満を上げるため、周囲とのトラブルが絶えない。特に自身に厳しい分、他人が同じことをできない時には容赦がない。

 

 確かに満潮、そして荒潮は、着任直後なのにも関わらず練度が非常に高かった。艦隊機動はどれだけ複雑なものでも即座に理解、反応し、一糸乱れず旗艦の動きについてくる。さらに満潮は砲撃、雷撃共に駆逐艦では最も高い命中率を誇っていた。

 

 が、それだけならともかく攻撃に手間取っている僚艦がいれば、その破壊目標もついでとばかりに撃破する。まるで力の差を見せつけるかのように。

 

 現にその日の訓練でも……。

 

 

『あれぇっ!? あ、あのっ、私の目標撃たないで下さい!! これじゃあ練習に……』

 

『バカね。弾が当たるまで敵が待っててくれるとでも?』

 

『うぅぅ……でも私、頑張って……』

 

『なにそれ、意味分かんない』

 

 抗議をさらっと切り捨てる満潮。バラバラになって波間に漂う『防水厚紙製廉価標的・イ級くん』を見る五月雨の瞳に涙が滲む。

 

『こりゃ満潮、なに勝手をしておる!! 常在戦場の心意気は買うが、訓練は訓練として分を弁えんか!!』

 

 練習監督艦を務める利根の抗議にも素知らぬ顔。

 

『うるさいわね。敵艦殲滅以外に何があるっていうのよ』

 

『上官に対して何じゃその態度は!!』

 

 構わず『練習目標は破壊したから戻るわね』と手をヒラヒラ振りながら、まだプリプリ怒っている利根としょぼくれている五月雨を尻目に鎮守府に向けて満潮は舵を切る。

 

 あまりのことに言葉を失っていた自分の横を通り過ぎる時、

 

『腐れ縁だから忠告しとくけど、いつまでこんなオママゴトに付き合ってるつもり?』

 と耳打ちして。

 

『まったく!! 第八駆の連中はどうなっとるんじゃ、朝潮!!』

 

『朝潮ちゃん……』

 

 利根と五月雨の咎めるような視線がこちらに集中する。

 

『……後で注意しておきます』

 

 結局その場はうなだれてやり過ごすことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

「それはそれは、朝潮もご愁傷様なのです」

 

「しばらく見ない間にやつれたと思ったら、道理で……聞いてるだけで胃粘膜が大破轟沈しそう」

 

「満潮ちゃんも荒潮ちゃんも、ちょっと極端じゃないかしら?」

 

 皆が口々に同情を示してくれる。

 

「……でもそれだけじゃないんです」

 

 

 

 

 

 

『満潮さんですか?』

 

『はい。今日は一緒にご飯でも、と思ってあの子にも伝えていたんですけど……』

 

 訓練が終わり艤装を片づけてから、赤煉瓦の食堂に行った時のこと。

 

『先ほど夕食を終えられて、もう食堂を出られましたよ』

 

『あの、どこに行ったかは……』

 

『すいません』

 

 申し訳なさそうに頭を下げた割烹着姿の鳳翔は、ぱたぱたと厨房に戻っていく。

 

 

 

 

 

『満潮? さっきまで私と一緒にお風呂に入ってたわよ』

 

『本当ですか!?』

 

 風呂上り、脱衣所でバスタオルを身体に巻きつけただけの山城が、自販機で買った牛乳の蓋と爪先で格闘しながら答えた。ちなみに何故格闘しているかと聞けば、いつもは取り出し口の横に紐でぶら下がっている蓋開けの先っぽの針だけが無くなっていたのだという。

 

 横須賀に着任してからの彼女は砲撃シミュレーターで訓練したり、由良や阿武隈、利根たち上位艦種と一緒に作戦室で兵棋演習を行っていることが多いため、基本的に駆逐艦の自分たちと行動することは少ない。強力な戦艦級艦娘は演習をするにも資源を大量に消費するし、戦闘となれば自動的に指揮官となる。駆逐艦とは果たすべき役割が違うのだ。

 

『でも、体を洗って温まったらすぐに出て行ったわ……そう言えば満潮とは、何故かお風呂も食堂も一緒になることが多いわね』

 

 牛乳瓶と戦っているこの黒髪紅眼の女性と同じ名を持つ『戦艦・山城』は、連合艦隊旗艦を務めたこともある殊勲艦。さらには大戦末期に編成された西村艦隊の旗艦として『駆逐艦・満潮』と共に絶望的なレイテ沖海戦に挑み、無数の砲雷撃を受けスリガオ海峡に沈んだ経歴を持つ。

 

 その縁からか、満潮も山城のことは憎からず思っているのかもしれない。

 

 あぁっ、つまみが取れた!! 

 

 あぁっ、蓋が剥がれて残った!! 

 

 あぁっ、紙が瓶の中に……不幸だわ……。

 

 と、一人で騒いでいる山城からは、横須賀で最大火力を誇る超弩級戦艦の威厳などあったものではないのだけれども。

 

『なぁ朝潮、なんか深雪たち満潮に避けられてねぇか?』

 

 脱ぎかけたセーラー服の手を止めて、眉間に皺を寄せた深雪が呟く。

 

『そんなはずは……』

 

『そうです、絶対避けられてます!! だって私たち、最近は訓練以外で満潮ちゃんと会えたこと無いじゃないですか!!』

 

『…………』

 

 確かに五月雨の言うとおりだった。

 

 艦娘寮で同じ部屋に寝ているはずなのに、満潮はいつも誰よりも先に起き出し、誰よりも遅くに戻ってくる。

 

 結局その日も満潮に会うことはできず、消灯時間になっても艦娘寮に彼女の姿は無かった。

 

 

 

 

 

 

 満潮が徹底的にこちらと接触を避けるその一方で、

 

『あらあらぁ、朝潮も一緒だったのぉ?』

 

 トイレに入ろうとしたら、後ろから荒潮の声。

 

 そうだよ、と答えて個室に入ると、続いてすぐ隣のドアが閉まる音。

 

 他にも空いている個室は沢山あるのに。

 

 

 

 

『うふふふふ、強化は大好き~朝潮はどうかしら?』

 

 一人で艤装の具合を確認していたら、いつの間にか横に座ってじっと作業を眺めている荒潮。

 

 こちらから話しかければ答えるが、こういう時の彼女は最初の一言はともかく、自分から話しかけてくることはほとんど無い。

 

 ずっと座ったままにこにこと見つめているだけで、作業が終わるころには勝手に満足したのか、いつの間にか姿を消している。

 

 

 

 

『もう、ひどい汚れねぇ。私が流してあげるわよぉ、朝潮のせなか』

 

 深雪と五月雨が先に上がった風呂で身体を洗っていると、いつの間にか自分の後ろに立つ荒潮。無防備な背に彼女のしなやかな指がつぃ、と触れる。

 

『ひゃっ!? い、いい……自分でできるから』

 

『そうだわぁ!! せっかくだから朝潮も、私と背中の洗いっこしない?』

 

『だから……』

 

『たのしみねぇ~』

 

『…………』

 

 結局押し切られる形になり、彼女に背中を任せることに。

 

 荒潮の指使いは優しく繊細でとても気持ち良いのだが、洗うだけなら必要無いはずの力の強弱や緩急、特に背中と胸の境界線ギリギリを攻めるような動きが妙に意識されてしまい、洗われている間はずっと警戒が解けない。

 

 お湯で泡を流してもらい、じゃあ今度は自分が……と振り向くと、そこに荒潮はおらずガラスの引き戸を開けて脱衣所に出る白い背中が見えた。いったい彼女は何をしに来たのだろう。

 

 

 

 

 

「それから横須賀市内に買い出しに行ったときは……」

 

「まだあるの? もう十分、お腹一杯よ」

 

 真っ先に音を上げた五十鈴が、頭のツインテールを振って続きを遮る。すると電が急に椅子から立ち上がったかと思うと、こちらに近付きとぽんぽん、と慰めるように肩を叩いた。

 

「朝潮、気をしっかりと持つのです」

 

「そうね、頑張りなさい朝潮」

 

「ぱんぱかぱ~ん……」

 

 同情されているにも関わらず、三人の生暖かい視線が弱った心と胃腸にズシンと響く。

 

 何となく会議室内に微妙な空気が漂い始めたところで、扉がぎぃ、と軽い軋みと共に開かれた。

 

「お待たせしました」

 

 ぺこりと一礼して入って来たのは司令艦の榛名。いつもの巫女装束でなく軍服を纏った彼女の一本筋の通った凛とした姿は、どこかの劇団所属の女優のようにも見える。

 

「思っていたより説明に時間がかかってしまい、申し訳ありません」

 

「いえ、御苦労さまなのです」

 

 榛名の後ろに白い長袖の2種軍装を着た、どこか焦燥したような表情の青年が続く。彼の顔に自分は見覚えがあった。

 

 元ショートランド泊地司令、西村特務提督。

 山城の元上司で、彼女の姉である『戦艦・扶桑』とケッコン指輪を交換した人物。

 

 前のE領域発生に伴う深海棲艦の襲撃で泊地が壊滅し、扶桑さえ失った彼は帝都の海軍軍令部勤務に戻り、電の指示で内部調査を行っていたはずだが……その彼がここにいるということは、何か成果があったということなのか。

 

 西村は促されるまま愛宕の隣の席に座る。が、そのままずるりと全身を脱力させ、椅子の背もたれにしなだれかかった。

 

「はぁ……」

 

「まったく、今日はこんなのばっかりなのです」

 

 ぼやきながら電がぬるくなった麦茶をタンブラーからコップに移して差し出すと、黙って受け取った西村は一気に中身を飲み干した。

 

「少しは落ち着いたですか?」

 

「すまない。思った以上に衝撃を受けていたようだ」

 

 ポケットから取り出したハンケチで額に浮いた汗の球を拭う。

 

 以前会った時の人のよさそうな、けれども世間知らずなお坊ちゃんのようだった彼の顔は、数か月ほどの間に大分変ってしまった。眉間と額に刻まれた皺は深く、頬の肉が削げてやつれ、眼光だけがギラギラと輝いている。

 

 まるでほんの短い期間に、彼だけ何歳もの年月と経験を重ねてしまったかのようだ。

 

「僕ら特務提督も艦娘の記憶レポートで『あちら』の終戦までの流れはおおよそ聞き知っていたのだが……」

 

「電たちが軍令部用に作成した平成『日本国』の報告書。西村提督には気に入っていただけたようで何よりなのです」

 

「言葉も無いとはこういう気分のことを言うのだな……」

 

 苦虫を噛み潰したような顔で電の皮肉をスルーした西村は注がれた二杯目の麦茶を呷ると、また深いため息を吐き出した。

 

 帝国海軍軍人である彼の時計は太平洋戦争で止まったまま、もう何十年も動いていない。

 

 けれど自分たちにそれを嗤う資格があるのだろうか、とも思う。少なくとも帝国の勢力圏内では深海棲艦の脅威のため、人間同士の戦争は起きていない。

 

 彼の吐息にどこか、大戦後も泥沼の闘争を続ける世界への諦観を感じてしまったのは気のせいだろうか。

 

「もう大丈夫だ。進めてくれてかまわないよ」

 

「了解なのです。では金剛たちは到着でしばらくかかりそうなので、一足先に始めてしまうのです」

 

 自分も席に着いた電がぱんぱん、と手を叩くと入り口とは別の給湯室の扉が開き、中から電に良く似たショートカットの少女が大きめの盆を持って現れた。

 

 電の秘書艦でもある彼女の姉妹艦、セーラー服姿の暁型駆逐艦3番艦・雷は、人懐っこそうな笑顔に八重歯をちらり覗かせながらくるりとその場で一回転。

 

 スカートの裾が華麗に舞う。

 

「じゃ~ん!! 紅葉饅頭を凍らせてきたわ!!

 

 呆気にとられている間に手際よく菓子皿を配り終えた雷は一度給湯室に戻り、次は盆に湯呑と急須を載せて再び姿を見せると、湯気を立てる煎茶を急須からこぽこぽと提督たちに注いでまわる。

 

「ささやかですが先日のE領域攻略の労うため、呉から持って来たのです。食べながらでも結構ですので聞いて欲しいのです」

 

 促されるまま、添えられた小刀型の菓子楊枝で二つある紅葉の片方に入刀する。

 

 しゃっ、という荒氷を刺したような手応えと共に薄墨色の断面が露わになった。そうして紅葉の葉縁を一切れ口に入れると、肌理細かい上質の漉し餡が舌の熱でほろりと溶ける。

 

 次の瞬間、冷たさと甘さの混じった不思議な味覚がさっと広がり口腔に沁みこんでいった。

 

 そして、そこに熱い緑茶を流し込む。

 

 お茶の温度と渋味が餡子の冷たさと甘さで中和され、子供舌にしばらく忘れていた茶葉の旨味だけが残る。

 

 苦味に傾けば餡子を、甘味に傾けば緑茶を……幸せな反復行為を続けるうちに、皿の上の紅葉はどんどん小さくなっていった。

 

 ふと隣を見ると、先ほどから五十鈴が皿の上に鎮座する霜の降りた紅葉饅頭を何故か、まるでバケモノの触手が乗っかっているかのように渋い顔で見つめている。

 

「五十鈴さん苦手ですか? 紅葉饅頭」

 

「そうじゃないの。電がこういう気の回し方してくるってことは、大抵ストレスに耐える準備をしておけ、って意味なのよね……」

 

「?」

 

「でも饅頭に罪は無いし……」

 

 ようやく決心した五十鈴は思い切ってその一切れを口に含むと「あ、美味しい」と小さな感嘆を漏らした。

まず提督会招集に先立って伝えた通りなのですが、ショートランド泊地、ブイン泊地に新たな司令艦が着任したのです」

 

 皆が皿に手を付けたのを見計らって電が切り出した。そして、紹介は彼女たちが到着してからなのです、と一区切りしてずずっと茶をすする。

 

 誰も異論を挟む者はいない。

 

 茶菓子を出したのはこうして進行を邪魔されないため、という理由もあるのだろう。

 

「次に本題。軍の内偵をお願いしていた西村提督から、提督機について判明した事実について説明してもらうのです」

 

「ああ」

 

 おもむろに立ち上がる西村提督。榛名が部屋の照明を消すと、降りてきたスクリーン上に黒背景が投影され『第一次報告』の白抜き文字が浮かび上がった。

 

 白手袋を填めた親指が有線リモコンのボタンを押すと、がしょっこん、という歯車音と共にマイクロフィルムが切替わる。スライド映写機なんてものが現役なのか、とツッコミを入れる間もなく映し出されたのは、どこかで見たことのある円筒形をした構造物の青写真設計図だった。

 

「『提督機』!?」

 

「その通り。きみたち『平成の日本人』を司令艦に変えた『海軍七〇式人型艦艇統合電脳参謀』、艦娘全体の統括装置でもある通称『提督機』の中間計画図面だ」

 

「これが……」

 

 誰もが楊枝を動かす手を止め、言葉を失っている。

 

 海軍軍令部のさらに地下、この司令艦用会議室と窓一枚隔てた巨大空間で、今も唸りを上げて稼働している全ての元凶。深海棲艦の残骸から艦娘の材料となる船霊を抽出するだけの装置だった『提督機』は、何故か『平成の日本』を認識し、自分たちをこの『艦これ』の世界へと導いた。

 

「残念ながら入手できた情報はこの一枚だけなんだ。期待に応えられず済まない……」

 

 うなだれて首を振る西村提督。やはり短期間で海軍の機密に辿り着くのは難しかったということか。

 

 設計図も最終版でなく中間計画のものだから持ち出せたのかもしれない。

 

「けれど、この設計図からいくつか判明したことがあります」

 

 伸ばした銀色の指し棒で円筒部分を示しながら、榛名が説明を引き継ぐ。

 

「まず『提督機』の構造ですが、簡単に言えば巨大なコンピューター兼分別装置です。特徴として情報処理が直接物理的なアクションとなるように造られています」

 

「自動車工場の作業用ロボットみたいなものですか?」

 

「いいえ、ロボットはプログラムに従って動くだけ。一方『提督機』は、内部の演算工程がそのまま付属マニュピュレータ群の動きに変換されます。例えば『1+1=2』という数式が直接『1+1=2』という動きになる、といったところでしょうか」

 

「またコンピューターといっても電たちの知る電算式でなく『階差機関』に近い歯車の塊。そこに陰陽術やらイザナギ流やらの呪術理論が組み込まれており、自律判断も可能と、もはや工芸品で作られたAIと呼んでも過言ではありません。もはや電たちでは手におえないバケモノ装置なのです」

 

 お手上げ、とばかりに両手を挙げて電がおどけてみせる。

 

「何だか知らないけど、とにかく凄い機械だということは分かったわ。ところでさっきから気になったんだけど、本体のところに『大淀』って書かれてるのは?」

 

 五十鈴の言葉でスクリーンの青写真に視線を戻す。

 

 一か所、『提督機』の中央部から引かれた線の先には、ペンで乱暴に書き込まれた人の形と『大淀』の文字が確かにあった。

 

 大淀型軽巡洋艦・一番艦『大淀』―――最新鋭の阿賀野型とほぼ同時期に建造された彼女は、魚雷管を撤去する代わりに水上偵察機搭載能力を最大限に引き上げた、重巡に匹敵する全長を持つ超大型軽巡だ。

 

 艦娘としての『大淀』もそれに倣い、魚雷・対潜能力が低い代わり空母に匹敵する索敵能力と重巡並の水偵搭載能力を誇る。

 

「指摘してくれた通り、『提督機』はシステムに軽巡『大淀』を組み込んでいる。いや、提督として乗艦している、というべきか」

 

「組み込んでいる? それに乗艦、ですか?」

 

「『提督機』の本体が存在する空間は、艤装を稼働させた『大淀』の生体フィールドで全面を覆われている。つまり『提督機』が設置されているのは『大淀』の腹の中、というわけさ」

 

「深海棲艦のものと同じく、艤装のフィールドは通常兵器を無効化します。つまり銃撃も爆薬もフィールドに阻まれ、提督機の外殻には一つ傷つけられません。加えて『提督機』があるのは軍令部施設の地下深く……海からフィールドを貫通可能な砲撃を加えようと思えば、軍令部を瓦礫に変える覚悟が必要なのです」

 

―――がしょっこん

 

―――がしょっこん

 

―――がしょっこん

 

 スライドが次々に切替わる。

 

『三号航空焼夷弾起爆による防壁破壊』

 

『艤装の極秘搬入と陸上稼働による強行突破』

 

『東京湾からの九一式徹甲弾・遅延信管による長距離対地下砲撃』

 

 ……電たちも計画まではやっていたらしい。だが、どれも先ほどの話を聞いた後では現実味を失う。

 

「あらあら、力技も絡め技も無理なのね」

 

 どうしましょう、と困った風に頬に手を当てる愛宕。

 

「艤装をここに持ち込めば、軍令部を避けて攻撃ができるんじゃないですか?」

 

 陸上でも艤装を起動することはできる。

 

 しかしフィールドのエネルギー循環が水上ほど上手くいかないため、水に電気が拡散するように生体フィールドは足元から地面に拡散してしまい、出力が上がりきらず燃料だけがどんどん消費されてしまう。

 

 それでも燃費を気にせず短時間、フィールドに守られた壁さえ破ることができれば……。

 

「朝潮のアイデアは試してみたのです。艤装の起動はできましたが生体フィールドが発生した瞬間、大淀から緊急停止コードが送られてきたのです」

 

「榛名も一緒に試してみました。結果は同じで、48時間艤装が再起動できないようロックされてしまいました」

 

「電はともかく榛名も駄目だったの? 強制コードは駆逐艦にしか効果が無いはずなのに」

 

 五十鈴が思わず声を上げた。水雷戦隊の旗艦を務める軽巡洋艦には駆逐艦の艤装を強制停止させる権限が与えられている。しかし最上位艦種の戦艦である榛名が、軽巡に強制停止させられることなど普通はありえない。

 

「それこそ『提督機』が『大淀』を取り込んだ理由です。彼女は全ての海軍艦艇に指令を下せる『最後の聯合艦隊旗艦』ですから」

 

「つまり『大淀』に乗艦した『提督機』こそが名目上『最後の聯合艦隊司令長官』、というわけなのです」

 

 だから艦娘は『提督機』に逆らえない。艦娘かつ提督である『司令艦』であっても。

 

 まったくもって不愉快な話です、と電が毒を吐く。

 

「とにかく、この問題は僕らだけでどうにかするには手詰まりだ。整備さえ自身で行う『提督機』は、少なくとも10年以上は閉じた環境で稼働し続けることができる。ここから見える窓の向こう側には、誰も立ち入ることができない」

 

 すぐ近くに自分たちを支配している諸悪の根源があるというのに、黙って指を咥えて見ていることしかできない事実が改めて身に沁みる。

 

 結局、解放されるためには『提督機』の駒として深海棲艦と戦うことしか選択肢が無いということか。

 

「一部の将官を除いてね」

 

 え……?

 

「なのです。元々『提督機』はただの艦娘製造管理装置。万一に備えて非常用のメンテ経路を取り付けていないはずが無いのです」

 

「言われてみればそうよね。『司令艦』を生み出したり、提督のいない鎮守府を作ったり、機械なんかに好き勝手されたまま海軍が放っておくわけが……放って……」

 

 電の言葉に一瞬納得しかけた五十鈴の顔が、途中で怪訝そうなものに変わる。

 

 そうだ。もし『司令艦』を作り出したのが『提督機』の独断であれば、海軍上層部に泣きつけば助けてもらえるかもしれない。

 

 けれど、そもそも鎮守府の運営は海軍の協力が無ければ成り立たたないし、物資や人員輸送、鎮守府施設など有形無形のサポートは続いている―――人間の提督が鎮守府からいなくなった後でも。

 

「はい。『提督機』と海軍はグル、と考えてよいでしょう。戦後日本の報告書を提出した時の反応から、薄々気付いてはいたのですが」

 

 はっきりと榛名が断言した。

 

「といっても、海軍も一枚岩ではない。今回僕が情報提供を受けたのも、現在の帝国海軍の在り方やり方に疑問や不満を持つ若手将校の集まりからだったからね……彼らからは今後も色々と面白い話を聞けそうだ」

 

「とりあえず今回は安易な解決策は無い、ということが知れただけでも収穫なのです。今後しばらく電たち司令艦は、西村提督が動きやすいよう目立つ行動を避けようと思います」

 

 ずずっ、と電が冷めた茶をすすると、横から雷がさっとお代わりを注ぐ。湯飲みから白い湯気が一本、ふらふらと頼りなさげに立ち上がった。

 

「それにこの件以外にも、西村提督には頑張って内偵を続ける理由があることですし」

 

 にぃ、と少しからかうような電の視線に気づいた西村提督は、自分の目線をそっと軍帽で隠す。

 

 そう、彼が指輪を交わした『彼だけの戦艦・扶桑』と再会することを望む限り、西村提督はこのスパイまがいの行為を続けていかなければならない。

 

 ふと横須賀鎮守府にいる扶桑の姉妹艦、山城の姿が脳裏に浮かぶ。軍令部に移った西村提督が今も姉を探し奔走していることを知れば、彼女はどう思うのだろうか。

 

 と、会議室の扉の向こう側の通路から複数の革靴を履いた足音が近づいて来るのが聞こえてきた。

 

「金剛お姉さまたちが到着されたみたいですね」

 

 出迎えるべく榛名が取っ手に触れたのと同時に、勢いよく扉が開かれる。

 

「HEY、提督ぅ!! Newfaceが登場したヨ~!!」

 

「艦隊が帰投いたしました!!」

 

 現れたのはいつも通りフランクな笑顔を湛えた金剛。

 

 そして背の高い彼女の後ろで元気よく声を上げるのは明るい茶髪をボブカットにした、ぶかぶかの第二種軍装を着た小柄な少女だった。

 

 細い頸に掛かった革バンドには、手に持つのがやっとなくらいの大きさの武骨な金属製の双眼鏡がぶら下がっている。

 

 好奇の目を気にした様子も無い少女は、背丈に対して長すぎる白詰襟の裾を漁師の地引網さながらずるずる引きずり歩きながら雷が下げた椅子の前に来ると、ぴょんと軽く飛んでその上にちょこんと腰かけた。

 

 続いて入ってきたのは童顔に長い黒髪と、軍服では隠しきれないグラマーな身体の線を持った大和撫子風の女性、飛鷹。

 

「さぁ、入らないの?」

 

「…………」

 

 彼女が手招きするともう一人、小脇に書類の束を抱えた少女が無言で会議室に入って来た。

 

 緑の黒髪を五十鈴よりも短めのツインテールに束ね、つぅと一本筋の通った目鼻立ちが、どこか聖歌隊の少年のような危うい中性的な凛々しさを醸し出している。 服装も背丈も隣に立つ飛鷹とほぼ同じなのだが、彼女との対比でスレンダーな体形がいっそう強調されてしまうため、そんな感想を抱いてしまうのかもしれない。

 

 新顔の二人を案内してきた金剛、飛鷹が席に着くのを確認して、おもむろに電が口を開いた。

 

「ではここで改めて、新たに着任した司令艦を紹介するのです。復旧を終えたブイン基地司令・翔鶴型正規空母2番艦『瑞鶴』提督、そして現在再建中のショートランド泊地司令・陽炎型駆逐艦8番艦『雪風』提督なのです」

 

 皆の視線がツインテール少女と双眼鏡少女に注がれる。

 

 『瑞鶴』『雪風』は共に幸運艦と呼ばれ、また幾多の激戦を潜り抜けてきた帝国海軍屈指の武勲艦だ。さらに司令艦初の正規空母ということで、戦力的にも心強い。

 

 しかし当の瑞鶴は自己紹介をするでもなく、腕を組んだままぺこりと頭を下げたきり仏頂面を崩そうとはしない。

 

 一方の雪風は、と言えば……

 

「わぁ!! 紅葉の形のお饅頭って丹陽、初めて食べました!!」

 

 雷の配った冷凍紅葉を両手で掴むと、喜色満面でしゃくしゃくと頭から齧り付きながら歓声を上げる。

 

「やっぱり日本は美味しいお菓子が多いですねっ!!」

 

「たんやん? あなた雪風じゃないの? それに紅葉饅頭を知らないって……」

 

 頬杖をついた五十鈴が珍しい小動物でも見つけたかのように、唇の端に漉し餡の欠片を付けた雪風をしげしげと眺める

 

「NONO、誤解しないであげて下サイ。どうやら雪風提督は、台湾からの留学生だったみたいデ~ス」

 

「是!! できれば丹陽って呼んで下さい!!」

 

 早速一個目を平らげた雪風-――丹陽は、続いて二つ目に手を伸ばしながら元気に声を張り上げた。

 

 『丹陽(たんやん)』とは大日本帝国が連合国に降伏した後、戦時賠償艦として中華民国に引き渡された駆逐艦『雪風』に与えられた名前だ。共産党に敗北した国民党と共に台湾に落ち延びた彼女は小さな体で新たな主人のため再び戦場を駆け巡り、そして日本に帰ることなく異郷の地で最期を迎える。

 

 しかし目の前の丹陽はそんな過去を気にかけている様子もなく紅葉饅頭と格闘を続け、その隣には押し黙ったままの瑞鶴。

 

 会議室の中に漂う空気に耐えられなくなり、榛名が二人に代わって説明を続けた。

 

「以上、新しく着任した仲間をご紹介させていただきました。これからしばらくの間、お二方には飛鷹さんのラバウル基地で訓練を行っていただく予定です」

 

「仕方ないわね。まっ、駆逐艦はともかく空母の司令艦は、今は私だけなんだし」

 

 と言いつつも後輩ができて嬉しいのか、少し得意げな顔で応える飛鷹。艦載機の依代が式紙と破魔矢の違いはあるが、瑞鶴にとって空母の戦い方を学ぶには彼女に付くのが最適なのだろう。

 

 自分の場合、横須賀には既に由良や美雪、五月雨、鳳翔といった仲間が着任していたから助かったが、本来なら司令艦はたった一人で鎮守府に放り出されるのだという。

 

 ラバウルなら以前模擬戦をやった初春型を中心とした駆逐隊の皆がいるし、丹陽にとっても馴染みやすいはずだ。

 

 そういえばしばらく会っていないが、霞は元気にしているだろうか。満潮と荒潮に悩まされる今となっては、正面から感情をぶつけてきてくれた彼女が懐かしい。

 

 視線を丹陽から瑞鶴に移す先ほどから彼女だけ、一言も喋っていないのが妙に気になった。

 

 艦これの『瑞鶴』といえば負けず嫌いの猫系女子高生、でもお姉ちゃん子といったふうな印象だったのだが、目の前のツインテール少女は溌剌そうな外見とは逆に驚くほど寡黙だ。

 

 艦娘としての記憶の浸食が進んでいないからなのだろうか。

 

「意外にあっさり片付いてしまったので、拍子抜けなのです。榛名、この後の予定はどうなっているです?」

 

「はい。今回は丹陽さんが台湾出身と伺いましたので、お寿司が有名な銀座の料亭を予約しています。五十鈴さんと飛鷹さんも、久しぶりの内地の和食を楽しんで下さいね」

 

「気遣い助かるわ。トラック泊地の出張日本料亭も美味しいけど、どうしても魚の色が気になるのよ。特にピンクや緑の活造りはね……」

 

 鮮やかな原色の魚皮が意図的に残された南国刺身の数々を思い出したのか、ややうんざりした顔になる五十鈴。その様子が面白かったのか、誰かから笑いが漏れるとすぐさま会議室の中に広がった。

 

 ばっ―――

 

 突如、無造作に投げ出された書類の束がテーブルの上に舞い降りる。さっき瑞鶴が持って入ってきた書類だ。

 

 和気あいあいとしかけた室内の空気が一瞬で凍り付く。

 

「どういうつもりなのです-――瑞鶴提督」

 

 真意を測りかねた電が低い声で問いただす。

 

 ふん、と鼻を鳴らして自分のツインテールを跳ね上げた瑞鶴は、電を無視してばらばらになった書類を見下ろす。

 

『戦闘詳報』……直近のE領域攻略についての詳細な作戦報告書。ラバウル基地で電と飛鷹が作成していたものだ。

 

「あなたたち、こんな戦術思想の欠片も無い素人の指揮でよく今まで戦ってこれたわね!!」

 

 これまで全く喋ろうとしなかった瑞鶴にいきなり『素人』と面罵された作戦指揮官の電は、想定外の事態に目と口をぽかん、と大きく開けたまま固まる。一瞬の忘我の後、彼女は金色の双瞳をぱちぱちと忙しなくしばたたかせると、幼い顔に張り付けたような営業スマイル復活させ瑞鶴へと向けた。

 

 しかし下弦の三日月のような細い瞼の切れ目からは、隠そうともしない視線に乗せた感情の刃が覗いている。

 

「どういうことよ!?」

 

 電が爆発する前に、瑞鶴を連れてきた飛鷹が慌てて仲裁に入った。彼女にとってもこれは想定外の事態だったらしい。

 

「確かにここにいるのは素人だけよ!! だから皆、一生懸命どうにかしようと頑張っているんじゃない!!」

 

 それを……と言葉を詰まらせる。

 

「知りもしないで新参者のあなたが勝手なこと言わないで!!」

 

「古参も新参も関係ない!! 司令艦の耐久性に頼った力押しを続けていたら、近いうちに戦線は破綻するわ。必要だから言ってるの!!」

 

「何でそんなことが分かるのよ?!」

 

「分かるわよ!!」

 

 藤色の瞳と薄向日葵色の二人の視線が激しく交錯する。

 

「私は海上自衛官だったんだから!!」

 

 ―-――本日最大の爆弾が投下された。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

任務5『第二一駆逐隊、帝都ヘ』

 

 

 関東平野から太平洋に向かって突き出された千葉県房総半島と神奈川県三浦半島。そこに挟まれた幅20km弱の浦賀水道は、外洋と東京湾を結ぶ唯一の航路だ。

 

 そのため浦賀水道と東京湾の接続域に位置する横須賀鎮守府正面海域は、帝都東京を目指す大型客船や輸送貨物船などが頻繁に行き交う賑やかな海となっている。

 

 だが、ここは同時に帝国海軍の海でもあった。特に横須賀港と対岸にある富津港を結んだ周辺海域は海軍艦艇や艦娘が緊急出動できるよう航行優先権が設定されており、民間船舶はこの場所を警報に注意しつつ速やかに通過するよう通告されていた。

 

 要するに警察や消防署前の白い網かけ道路みたいなものだろうか。

 

 もっとも回避義務は原則的に小型船舶の方にあるので、一番小さな艦娘は全ての船舶を避けて航行する必要があるのだけれど。

 

『逃しはせぬぞ朝潮!!』

 

 インカム越しに怒号が鼓膜に突き刺さってきた。

 

 背後から迫る鬼気をひしひしと感じながら無数の漁船や貨物船の間、驚いて顔を出してきた船員たちの鼻先スレスレを第二戦速で素早くすり抜けていく。

 

 掻き乱された潮風との間に生まれた乱気流で、グレーの吊りスカートの裾がバタバタと騒ぐ。下着が見えてしまうかもしれないと心配するのは今さらだろうか。

 

『先の演習で受けた屈辱-――ここでは、ら、さ、で、おくべきか~っ!!』

 

『子日、反撃の日~!!』

 

『この瞬間を待っていた!!』

 

 ラバウル基地駆逐隊の初春、子日、若葉の三人は演習開始の合図と同時に、12.7cm連装砲の砲身も焼けよとばかりにペイント弾を全力斉射しながらこちらに突っ込んできた。

 

 もはや戦術や戦法がどうとかいう問題ではない。

 

 彼女たちのあまりに無謀な捨て身突撃に対し、とにかく遮蔽物を挟みながら尻尾を巻いて逃げることしかできなかった。

 

「それで朝潮は、このあとどうするつもりなのかしら~?」

 

 黒スパッツを穿いた足で之字回避運動を続けながら器用に船舷を寄せてきた荒潮が、ふふっと意味ありげに笑う。

 

 横須賀鎮守府正面海域は一般航路も兼ねているので、演習を行う際はオープンチャンネルが原則。なのでこうしている間も怨念の籠った初春たちの声が、おろろんおろろんとイヤホンから垂れ流しになっている。

 

「あいつら二一駆は全員旧式だけど、船足はバカにできないわ!!」

 

 すぐ傍を通り過ぎた客船の作り出した大波を跳ね飛ばしながら、反対側から寄せてきた満潮が毒づいた。彼女の頭の両脇でお団子から垂れた髪の房が吹き流しとなってスカートと一緒に暴れている。

 

「進路をあんなガラクタが邪魔してるし、このままだと追いつかれるのは時間の問題よ!!」

 

 彼女の視線を追う。

 

 自分たちの向かう先、コンクリートと煉瓦でできた残骸の群れが海面から顔を出していた。

 

 あれは『第三海堡』の遺構だ。帝都防衛に作られた、三葉虫の形をした縦250m・横150mの人工砲台島。

 

 浦賀港から富津港にかけて東京湾口を塞ぐように横一列で三つの海堡が建造されており、東から順にそれぞれ第一、第二、第三海堡と名付けられている。しかし第三海堡は完成した2年後の大正12年、関東大震災で崩壊海没し、わずかに残った構造物が船にとって危険な暗礁と化していた。もちろん自分たちも普段の訓練では、安全マージンを取り絶対に近づかない。

 

 今さらそれを指摘してきた彼女の言わんとすることを理解する。あれを上手く使え、と。

 

「ありがとう、満潮」

 

「ふんっ!! せっかく三対三、八駆と二一駆の真っ向勝負なんだから、つまらない戦略立てないでよね!!」

 

 そう言うと満潮はぷぃ、とそっぽを向いた。

 

 飛鷹と隼鷹がラバウル基地から連れてきたのは、横須賀鎮守府との再戦を強く希望した三名だ。残りの吹雪と初霜は改二への改装準備で動けず、霞はそれに付き合っているのだとか。

 

 立ち合う上位艦種は軽巡の由良と阿武隈、軽空母の隼鷹。人数が合わなくなるので深雪と五月雨はお休みで、他に新規着任した司令艦二人が観戦している。

 

 当のラバウル基地司令である飛鷹いないのは気になるが、隼鷹が二日酔いで使い物にならなかった前回と違って今回はほろ酔い程度らしいので大丈夫なのだとか。

 

「あらあら大変。だったらあれも使ってみるかしらぁ?」

 

 荒潮が目くばせして誘導した先には、第三海堡の向こう側の水路をゆっくりとこちらに進んでくる塗装が剥げかけた古い大型タンカーの姿。

 

 瞬間、二人のくれた情報を元に戦い方が組み上がる。

 

「満潮、荒潮――自分が先行するから、あの時と同じで!!」

 

「二一駆となら、あれね!!」

 

「素敵なこと考えるわね。うふふふ……」

 

 単横陣を梯形陣に変え、第三海堡に進路固定。ちら、と後ろを確認すると、初春たちは単縦陣のまま真っ直ぐこちらに向かって来ていた。

 

 気づかれないよう少し船速を落とす。

 

 追って来ればいい……このまま目標海域まで誘い込む!!

 

『おおっと朝潮、座礁して白旗なんてことになるなよ~!! ひゃっは~!!』

 

『隼鷹さん、一升瓶それで三本目ですよね!? ね!?』

 

『まぁまぁ飛鷹みたいにかたいこと言うなって……あ、あれ……由良が2人に見えるよ……ひゃっはっはっは!!』

 

 上空で大きく旋回しながら演習を監視する隼鷹の彩雲が、彼女の笑い声に合わせてガクガクと機体を震わせる。

 

 そのさらに上層、隼鷹のものとは別の細い胴体を持つ機体が豆粒のように小さく見えた。艦上型試作景雲―――正規空母瑞鶴の操る最新鋭の高々度試作艦上偵察機だ。

 

 でも、誰が見ていようと関係ない。私たち第八駆逐隊は負けないんだから!!

 

 波を蹴立てて直進するうちに、構造物群がぐんぐん近付いてきた。

 

 海面に顔を出し無数に屹立するそれは、まるで打ち捨てられたストーンヘンジのよう。

 

 しかし波に隠れて見えない水面下には、見える残骸以上に危険な瓦礫が散らばっているはず。

 

 海面を滑るように移動する艦娘の座礁は、普通の船のそれとは少し違う。

 

 背中の機関ユニットから発生した生体フィールドが、主機を通じて足元の水中に形成する『疑似排水限界』-――艦娘が海面に立つ浮力の根拠ともなり、推進力を生みだす不可視の力場は、半円球のドーム型形状が維持されている時に最大パフォーマンスを発揮するようになっている。

 

 例えるなら二つに割ったスイカの半分を海に沈め、赤身のちょうど真ん中にいる艦娘が見かけ上海面に立っているふうに見えるようなものだ。

 

 そんな『疑似排水限界』の力場形成半径は、元になった艦の排水量と艦首形状を反映し駆逐艦で短く、大型艦になるほど長くなる。

 

 ドーム半径内に異物が入り込み力場が形成不全になると、浮力と機関出力が著しく低下して最悪行動不能に陥る。

 

 それが艦娘の座礁。

 

 特に戦艦や空母など排水量の大きい艦種は重い艤装と武装を浮かせるため巨大な『疑似排水限界』を必要とし、そのため座礁しやすく力場に接触して爆発する魚雷の『当たり判定』も大きい。

 

 逆に駆逐艦は重い荷物を積めない分必要な『疑似排水限界』も小さくなり、座礁しにくく魚雷も当たりにくい。

 

『背水の陣のつもりかや? わらわたちに有利な暗礁海域に逃げ込むとは、あまりに浅薄!! このまま姉妹共々始末してくれる!!』

 

『無駄無駄無駄ぁ~!!』

 

『玉砕覚悟の無謀な戦いか……だが悪くない!!』

 

 ペイント弾で染められた水柱がこちらの進路を制限するかのように、艦隊の両脇で次々と立ち上がった。

 

 初春の言葉は正しい。

 

 同じ駆逐艦級艦娘とはいえ、軍縮条約に縛られた彼女たち初春型は睦月型と並ぶ排水量1400tの小型艦だ。

 

 一方条約失効を見越して開発された自分たち朝潮型は後の陽炎型・夕雲型へと続く決戦型駆逐艦のプロトタイプなので、その排水量も2000tと大きい。

 

 だから船の『喫水の深さ』に相当する『疑似排水限界』半径の短い初春型の方が、水深が浅く座礁しやすい海域では朝潮型より有利-――そう考えてくれればやり易い!!

 

「散開っ!!」

 

 沈んだ第三海堡の領域に入る直前で、さっと両腕を開く。すると満潮と荒潮が暗礁を回避するかのように、砲撃を抜けてぱっと両翼に散った。

 

『初春~朝潮たちが三手に分かれたよ~』

 

『こちらも分散するなら対応可能だ』

 

『うふふっ、わらわには見える……大方朝潮を追って暗礁に入れば、反転した彼奴らが袋の口を閉じるように挟撃してくる……じゃが捨て置けい!! 全艦進路このまま!! 朝潮を追撃し、そのまま暗礁海域を突破するのじゃ!!』

 

『にゃっほい!! はりきっていきましょう!!』

 

『やるな……初春!!』

 

 彼女たちの殺気と共に、砲撃の狙いが自分に集中してきた。色付きの水柱がすぐ後ろに迫り、主機の生み出す白い航跡を叩く。

 

 暗礁に追い込めばがこちらが先に減速しなければならず、容易に撃破できる。さらに満潮と荒潮が反転攻勢をかけてきても、その前に暗礁を抜けてしまえば今度は身動きが取れなくなった二人を狙い撃ちできる。

 

 普通の艦船同士の戦いなら!!

 

 第三海堡の残骸群がぐんぐん大きくなる。

 

 出力上昇――背中で機関ユニットの上げる駆動音が一段と騒がしくなった。

 

『さらに速度を上げたじゃと!?』

 

『どういう意味だっ!?』

 

『危険だよぉ~!!』

 

 後ろの三人の声色が困惑に変わる。

 

 しかし構わず暗礁群の中に突っ込んだ。

 

 -――ごごりっ

 

「っ!!」

 

 早速『疑似排水限界』が何か硬いものに接触した感覚で全身が震えた。陽光の隙間に海砂と共に舞い上がる遺物らしい錆びた破れ鍋と煉瓦の破片が見えた。

 

 足元の浮力が失われ体勢を崩しそうになるが、直前に上げた機関出力が生み出す推力で、無理矢理全身を引き上げる。

 

 次は海面に突き出した崩れたコンクリートの支柱、真正面!!

 

「ったっ!!」

 

 波に洗われるその根元を思いっきり蹴っ飛ばした。

 

 触れたところから生体フィールドがアースされ放散、一瞬浮力が完全に消え去る。けれど足が支えてくれるので沈まない。

 

 そのまま跳躍。海面に足が着いたのと同時に、まるでプールに飛び込んだ時のようにざぼんと飛沫が上がって全身が沈んだ。

 

 しかし海中に『疑似排水限界』が再形成されると、すぐに浮力が戻り走行を再開。以前深雪が五月雨を助ける時にやっていたのと同じ方法。

 

 力場が海底を擦るのを振り切り、建物の残骸を踏みつけながら、速度を落とすことなく廃墟の森の中を駆け抜けていく。

 

 これが艦娘―――船であり人間である兵器の特性。

 

『おっ、朝潮の八艘飛びかっこいいなあ!! でも危ないから良い子は真似すんなよ~』

 

『で~きぬわっ!! 』

 

 インカムから聞こえる隼鷹の茶々に初春が吠えた。

 

『子日、若葉、わらわと手を繋ぐのじゃっ!! まだまだ……この程度では止まれぬぞっ!!』

 

『うむっ、悪くない!!』

 

『でも変だよぉ~。満潮と荒潮はどこに行ったのかな~?』

 

『なんぞ企んでおるのかもしれぬが、今はここを抜け出すことを考えよ!!』

 

 どうやらあちらは海底に接触しても大丈夫なように、『連環の計』で互いの浮力を補い牽引し合いながら進むらしい。そういえば赤壁の戦いは喫水の浅い船での話だったか。

 

 古式な彼女らしい選択だ。でも、賢明でもある。速度を落とせば暗礁の中で狙い撃ちにされることを理解しているのだろう。

 

 向こうが進むのに手間取っている間に第三海堡領域を抜けた自分の前には、ゆるゆると航行する先ほどのタンカー。その長い船体はまるで海上に作られた巨大な鉄の壁だ。

 

 主舵一杯!!

 

 タンカーの腹にぶつかる直前で進路を右に取り回避すると、そのまま船体に沿って南下し船尾の方を目指す。

 

 やがて壁が途切れた。

 

 今度は取り舵。

 

 大型船用のスクリューが生み出す背の高い紺碧の大波に対して、主機の爪先を直角に立て突っ込む。足元で激しい水飛沫が上がり大波が砕け散った。

 

 

 谷になったタンカーの航跡に入り込むと、すぐさま目の前に右舷スクリューが生み出した次の大波が迫る。

 

「――やぁっ!!」

 

 主機を履いた足で思いっきり蹴り上げると、『疑似排水限界』の干渉を受けた波が弾け飛んだ。

 

 二つ目の波も突破。

 

 しかし当て所を誤り砕き損ねてしまったのか、波に乗り上げたままスキージャンプの要領でうっかり空中に飛び出してしまった。

 

 想定外の事態で姿勢が崩れ、前のめりのまま顔面から着水しそうになる。

 

「まだまだね……」

 

 横から伸びてきた小さな満潮の手が左腕を捉え、握りしめられたかと思うとぐぃ、と引き寄せられた。おかげで何とか足から無事に着水し、ほっと一息つく。

 

 いったん別れ、相手を引き付けたところに再び合流しての攻撃。姉妹だけに通じる符丁を察した彼女は、上手くタンカーの陰に回り込み待っていてくれたらしい。

 

「やっぱり私がいなきゃ話にならないじゃない!!」

 

「満潮―――」

 

「礼ならいいわ。さっさと終わらせるわよ!!」

 

「うふふふふ……もうすぐ獲物が罠にかかりまぁ~す」

 

 いつの間にか隣に立っていた荒潮が嬉しそうににぃ、と口角を上げる。

 

 この子もあの高揚感を思い出しているのだろうか。姉妹四人で敵水雷戦隊を撃退したバリ島沖の戦いを。

 

 よく見ると満潮も、口元に薄っすらと不敵な笑いを浮かべている……多分、今の私も二人と同じ顔をしているのだろう。

 

『くっ、この波は何ぞっ!?』

 

『船体が安定しないだと!?』

 

『タンカーだよぉ!! 舵が効かないよぉ~!!』

 

 第三海堡の残骸を飲み込まんばかりに打ち寄せたタンカーの大波に巻き込まれ、逆に身動きの取れなくなった初春たちの上げる悲鳴がインカムから聞こえる。

 

 小型で軽量な初春型駆逐艦の弱点。

 

 それは凌波性と復元性の圧倒的な欠如だ。

 

 彼女たちは喫水が浅いため座礁しにくいがその分船体が波に翻弄され易いという、元になった船と同じ欠陥を抱えてしまっている。笹船にジェットエンジンを積んでも台風を越えられないのと同じく、体が軽いという根本的な問題は機関出力でどうこうできるものではない。

 

 今の初春たちにとって、大型船舶の作り出す波は大時化の海のようなものだ。

 

 波間に揺れ動く薄紫、ピンク、茶色の小さな三つの頭が覗く。

 

「右舷前方、敵艦隊発見!!」

 

 ジャッ!!ジャッ!!ジャッ!!

 

 三つの腕に三つの12.7cm連装砲、計六門の砲口が狙いを定める。

 

「調子に乗って誘い込まれて、バカね。その先にあるのは地獄よ!!」

 

「逃げられない、って言ったでしょう?」

 

「―――主砲、一斉掃射!!」

 

 全く同時に響く発砲音が天を貫く。

 

 飛び出した色とりどりのペイント弾が、もはや標的艦となった初春たち三人の体に次々と叩き込まれていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「なぁんで朝潮達に勝てんのじゃ~っ?!」

 

「民間船の陰に隠れて砲撃するなんてひどぉい!!」

 

「無念、だ……」

 

「洗ってる時は口閉じとかねぇと、陸に上がってから中に入った水で溺れるぜぇ~!! まぁ勝つも負けるも勉強だ。かっはは~!!」

 

 演習が終わり軍港内に退避してもまだ不平の声をあげ続けるラバウル基地駆逐隊の少女たちに深雪と五月雨、そして由良が持つホースから大量の海水が容赦なく浴びせられる。

 

 服も艤装も素肌も関係なく、演習用ペイント弾の水性インクで全身べっとりマーブルに染め上げられた三人の姿は、まるでスペインのトマト祭りに巻き込まれた被害者のようだ。

 

 民間船に付着する可能性のある演習弾のインクは、すぐに洗い流せて自然分解される有機塗料が望ましい。ということで、インクの主成分は野菜ジュースらしい。

 

 初春たちの見た目は悲惨なことになっているが、生体フィールドの上に塗料がのっかっている状態なので水をかければ簡単に落とせる。しかも着ている服も汚れない。

 

 

「んぅぅ……もぅ、追いかける時は『追いかけさせられてる』可能性を忘れたら駄目でしょぅ!! 第一水雷戦隊の名が泣きますよ!!」

 

 責任者のはずの隼鷹は、中身の半分減った一升瓶を手に敗北を笑い飛ばしていた。その一方でバスタオルを持ったまま洗い終わりを待ち構えている阿武隈は、いつもと違った激しい語調でぷりぷりラバウルの駆逐艦少女たちに説教している。

 

 そういえば『あの戦争』での阿武隈は、長らく第二一駆逐隊の所属する一水戦で旗艦を務めていたのだったか。

 

「ただでさえ初春型は単純な性能で劣っているんですから、開始直後に強く当たれば後は流れで勝てるほど甘くないんですよぅ!!」

 

「子日、はんせぃ~」

 

「くっそぉ……」

 

「初霜たちに合わせる顔が無いのぅ……」

 

「でも、皆さんが勝ちたいという気持ちはちゃんと伝わってきたわ。あとは勝利への道筋が必要なんです!! 今日の演習報告書はあたしもチェックするから、それを踏まえた改善点を一人三つずつ書いてくること!! いいよねっ!?」

 

『了解!!』

 

 阿武隈の短評に海水を滴らせながら三人が敬礼を返した。

 

 いつもは由良の妹キャラの彼女がお姉さん風を吹かせている様子は、ちょっと新鮮かもしれない。

 

「で、どうだい新入りさん方。艦娘の戦闘を見た感想は?」

 

 初春たちの洗浄が終わったのを確認した隼鷹は、後ろで観戦していた丹陽と瑞鶴に水を向けた。

 

「すっごいですっ!! あんなに自由に海の上を走れるなんて丹陽、感動しましたっ!!」

 

「い~ねぇい~ねぇ!! 隼鷹さん、ノリのいい子大好きだよ!!」

 

 まん丸な目をキラキラさせて見上げる雪風こと司令艦・丹陽。その頭を隼鷹がくしゃくしゃと荒っぽくなでると、丹陽は嬉しそうに目を細める。

 

「よ~し、なんなら今から演習に参加してみるかい?」

 

「はいっ!! 丹陽、いつでも出撃できますっ!!」

 

 小さくガッツポーズでアピールする彼女。その白い水兵服の裾を、丹陽とは対照的な黒いセーラー服姿の背の高い少女がつぃと引いた。お下げに編んだ彼女の長い黒髪の先で、深紅のリボンがぴょこりと跳ねる。

 

「あっ、なんでしょう時雨さん?」

 

「丹陽。艤装の慣らしも十分終わらないうちから無理をするのはどうだろう」

 

 どこか遠くを見るような空色の瞳から、優しい視線が彼女より背の低い丹陽に降り注ぐ。

 

 白露型駆逐艦2番艦『時雨・改二』――かつて『佐世保の時雨』として『呉の雪風』と並び称された幸運艦。そして『あの戦争』では山城、満潮と共にレイテで戦い唯一生還した彼女は、司令艦・丹陽の秘書艦として横須賀にいた。

 

 先日の提督会の散会前、電が丹陽と瑞鶴に『よろしければ二人には、呉鎮守府にいる駆逐艦の誰かを補助として付けるのです』と提案した。

 

 純粋にサポートのつもりか、新人司令艦の監視と取り込み……もしくはその両方か。

 

 けれど鎮守府に駆逐艦がいなければ、乏しい配給資源による自然回復だけではまともに艦隊運用ができないもの事実だった。

 

 特に瑞鶴は燃費が良い方とはいえ正規空母。

 

 今から自前で駆逐隊を建造・編成し訓練する手間を考えると、この電の提案は利益の方が多いように思えた。

 

 が、当の彼女は『結構よ』と固辞。

 

 一方の丹陽は『はいっ!! じゃあ一番強い駆逐艦を下さいっ!!』と遠慮の欠片も無く叫ぶ。

 

 一瞬いつも冷静で計算高い電の浮かべた、鳩が豆鉄砲を食ったような顔は忘れられない。

 

「絶対、大丈夫!! 丹陽は沈みませんっ!!」

 

「……まぁ、いいさ。なら僕も一緒に参加することにしよう」

 

「時雨さん!! ありがとうございますっ!!」

 

 外見年齢不相応に飄々とした空気を纏った時雨は、喜ぶ小さな提督にふふっと微笑みかけた。

 

「よ~し、俄然面白くなってきたねぇ。で、さっきから立ったまま寝てる正規空母さんはどうするよ、っとぉ!?」

 

 挑発するように隼鷹が自分の紫トゲトゲ頭で迫ると瑞鶴は眼を閉じたまま、無言でそれを遮るように左肩の巨大な飛行甲板をすぅと水平に突き出した。

 

 すると空から沢山の破裂音を重ねたようなけたたましい航空機エンジンの駆動音が聞こえてきたかと思うと、彼女の甲板にスマートな飛行機が舞い降りる。

 

 隼鷹の彩雲の、さらに上空を飛んでいた艦上偵察機『景雲』だ。完全に着陸した景雲はエンジンを止めると、そのまま甲板に吸い込まれるようにして消える。

 

「見せてもらったわ。やるじゃないの……『私たち』はそんな感じで戦えばいいのね」

 

 艦載機の御霊を無事収納し終えた瑞鶴は、隼鷹を無視してずぃ、とこちらとの距離を詰めてきた。

 

 身長差のせいで、ちょうど隆起の少ない胸当てに書かれた『ス』の白文字が目の前に突きつけられる。

 

「でも言ったはずよ。私の方が素人のあなたたちより上手く戦える、って」

 

「-――ッ!?」

 

「おおっと瑞鶴選手、朝潮を名指しで宣戦布告だぁっ!? 正規空母がちっこい駆逐艦相手に喧嘩売っちゃったぜ!! 」

 

 険悪な空気が流れそうになったところで、タイミングよく隼鷹が乱入してくれた。

 

『司令艦』として自分と瑞鶴は対等なのだが、知らない者が見れば下校中の小学生を脅す女子高生の図。

 

「これが栄えある五航戦のやることかねぇ? か~っ、大人げねぇっ!!」

 

 わざとらしく首を振って嘆いて見せる。

 

「ちょっと!! 私はそんなつもりじゃ―――」

 

「……それとも、これがあんたの言う『海自』流なのかい?」

 

 周りに聞こえない声で隼鷹が囁くと、さっきまで勝ち誇った表情を浮かべていた瑞鶴の顔に動揺の色が混ざる。

 

 が、すぐさま彼女はそれを仮面の奥深くに仕舞い込んだ。そして隼鷹に鋭い視線を向ける。

 

「あなた、どうしてそれを?」

 

「やっべ!! これ言うなって注意されてたっけ? まぁいっか」

 

 提督会での顛末を飛鷹の秘書艦である隼鷹が知らないはずは無い。何故瑞鶴が驚く必要があるのかと思ったが、彼女の隼鷹を侮るような態度を思い出して合点がいった。

 

 要するにゲームプレイヤー視点のまま、司令艦と秘書艦を単なる主従関係のように考えていたのだろう。

 

 けれど一緒に過ごし、一緒に戦っていれば分かる。

 

 彼女たち艦娘は泣きもし、笑いもする。時には喧嘩もするが、生きてここにいる存在なのだということを。

 

 司令艦の力と権限を持っても、彼女たちの命と尊厳を駒のように扱う権利は無い。それでは『提督機』と同じだ。

 

「とにかく!! 私と戦いなさい、朝潮!! あなたたちの何が間違っているか、直接体に叩き込んであげ……何よ?」

 

 居丈高な台詞が終わらないうちに、横で見守っていた由良が体ごと瑞鶴と自分の間に割って入ってきた。

 

 身長はほとんど変わらない二人が、同じ高さにある互いの眼を覗き込むことでバチバチと視線が空中でぶつかり合う。艦種は違っても由良と瑞鶴の素体となった少女は、同じくらいの年頃かもしれない。

 

「朝潮、そろそろ任務の時間ですよ。ここは由良に任せて先に上がって、ね」

 

 振り向かずに紡がれる由良の慇懃な言葉の後ろに、静かな憤りが感じ取れる。彼女の長い薄紫色のサイドテールの先が、艦上に呼応するように小さく震えている。

 

 そういえば今日は午後から、横須賀駅に人を迎えに行くよう言われていたのをすっかり忘れていた。

 

 行けば分かる、と詳しい内容は聞かされていなかったが、もうすぐ迎えの車が来る頃だ。

 

「待ちなさい!! まだ話は―――」

 

 踵を返して場を辞去しようとした瞬間、自分に向かって瑞鶴が手を伸ばす。しかし手は由良によって阻まれ、体に届くことはなかった。

 

「邪魔しないで!! 私に何の用があるっていうのよ!!」

 

「瑞鶴さん。もし朝潮に失礼があったのなら、あの子の代わりに嚮導艦の由良が謝罪させていただきます。でも……」

 

 由良の声のトーンが急に低くなった。

 

「もし違うなら例え正規空母であっても、仲間への侮辱は撤回していただきます……ね」

 

 瑞鶴の目の前で手首に付けた14cm単装砲を、これ見よがしにじゃっこん、と装弾してみせる。

 

 誰にでも分かる宣戦布告。代わりに戦うという意思表示。

 

 立ちふさがる由良の姿を瑞鶴は上から下までしげしげと観察する。

 

 そして、

 

「ふ~ん、開戦時点で時代遅れの旧式軽巡が……面白いじゃない」

 

 標的を切り替えた最新鋭空母は、真っ赤な舌先で自分の上唇をちろ、と舐めた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

任務5.5『夏色の空』

 

「横須賀鎮守府所属、駆逐艦『朝潮』帰投しました」

 

『おう朝潮の嬢ちゃん、演習お疲れさん』

 

 古い自動車整備工場のような外見の鎮守府軍需装備保管庫、その外壁に取り付けられたスピーカーから野太い男性の声が答えると、引き込み水路の鉄門がぎしぎしと音を立てて開かれた。

 

 驚いて逃げ出したボラの幼魚の群れを横目に、機関ユニットの出力を落としつつ狭い水路を進む。

 

 生体フィールドから主機の生み出す足元の『疑似排水限界』が小さくなれば、浮力も推力も自然と霧消していく。途中からスロープになった水底に足を降ろして歩きながら整備場の屋根の下に入ると、ハイヒール型主機の下板が硬いコンクリートの床とぶつかってカツン、と高い音を立てた。

 

 それを合図にしたかのように、くたびれた兵帽をかぶった壮年の男性が奥の扉からぬっと顔を出す。

 

 整備班の人たちは接する機会のある数少ない一般海軍兵なので、整備班長である彼のヒゲ面にも慣れたものだ。

 

「艤装はそのまま点検台に置いといてくれや。どうもこの後忙しくなりそうだから、他が帰ってくる前に嬢ちゃんのから整備しとくぜ」

 

「分かりました」

 

 それだけ言って、すぐさま引っ込む整備班長。

 

 スロープ終点に置かれたぶ厚い水取りマットの上で足踏みした後、言われた通り電球で照らされた中央の作業台、その天板に刻まれた乾渠型の窪みにゆっくりと背中の艤装を降ろす。

 

 接地音が聞こえたら機関ユニットの動力主缶をアイドリングに切り替える。生体フィールドの消失と共に何かがすぅっと抜けていくような脱力感が体を包むと、室内の熱気で蒸し焼きになった素肌から途端にどっと珠のような汗が噴き出した。

 

 思わず顔を拭うと、汗を吸った長い黒髪がべったり額にくっつく。

 

「ほらよ、先着一名様限定だ」

 

 髪の毛と格闘していると再び姿を見せた整備班長が、タオルにくるんだ何かをぽん、とこちらに投げてよこした。

 

 手を伸ばしてキャッチ。包みを開いてみると中から出てきたのは、ほどよく冷えたガラス瓶のラムネだった。

 

 水気を求めた身体が反射的に蓋を叩く。すぽんっ、と軽やかな音と共にビー玉が落下すると、すぐさま唇を瓶の飲み口に押し付けた。ラムネが白い泡になって勢いよく吹き出し、口の中で冷たく甘い嵐となって暴れまわる。

 

 一気に瓶の中身を咽喉の奥に流し込み、ふぅと一息。体感温度が10℃くらい下がったような清涼感に満たされたまま、ざっと顔の汗を拭き取り、使い終わったタオルを傍の洗濯籠に投げ入れた。

 

「思った以上にいい飲みっぷりだったな」

 

 嬉しそうに整備班長が声をかけてきた。

 

「はい、美味しかったです。あの……」

 

「別にいいってことよ。嬢ちゃんたちには頑張って帝国の海を守ってもらわなきゃならん。なのに儂らには、これくらいしかできんからな」

 

 それにこいつは配当兼口止め料だ、と彼はヒゲ面に悪戯小僧のような笑いを浮かべた。

 

「口止め?」

 

「班長~早く来ないと始まっちまいますよ~」

 

 質問を遮って間延びした若い男性の声が扉の向こうから聞こえてきた。

 

 皆で野球中継でも見ているような喧噪。奥で整備班の人たちが集まって何かしているらしい。

 

 しかし彼らの会話の内容を理解した瞬間、頭が真っ白になった。

 

「頼むぞ瑞鶴、お前に決めたっ!! 俺の間宮羊羹配給券、半年分かけてんだからな!!」

 

「バッカモン!! 貴様、横須賀の軍人ならしっかり由良ちゃんを応援せんか!! 由良ちゃんファイトぉっ!!」

 

「自分は時雨殿がインクまみれのべとべとになる姿が見られれば、他はどうでもいいであります!!」

 

 首を傾けて部屋の中を覗くと、4つある監視用ブラウン管モニターのうち1つに外のライブカメラ映像が流れている。画面の中ではちょうどラバウル基地の三人と雪風時雨を連れた瑞鶴、深雪五月雨を連れた由良と満潮荒潮を連れた阿武隈が、それぞれの開始位置に移動するところだった。

 

 その前で数人の若い整備兵と水兵が、興奮した声を上げながら食い入るようにしてモニターを見つめている。うち一人は黒いヘッドホンを着けており、そこから伸びる太いコードはすぐそばの無線機に繋がっていた。ないが、オープンチャンネルで流される通信を傍受しているのだろう。

 

 もしかしてこの人たち、艦娘の演習で賭け事やってる!!

 

 確か海軍内で賭博行為は禁止されていたはずだが……

 

「そんな怖い顔すんなって、嬢ちゃん」

 

 整備班長が毛むくじゃらの手でぽん、と肩を叩いた。

 

「別に賭けるっても金じゃない。菓子とか昼飯とか当番とか……大のオトナが可愛いもんだ」

 

「………」

 

 言われて少し考えてみる。

 

 賭博行為は風紀の乱れなのかもしれないけれど、これが問題視するレベルかと聞かれれば迷う。

 

 彼らには常日頃から艤装の整備、補給、点検、調整と世話になっている身だ。

 

 最近は駆逐軽巡以外の重巡と戦艦が横須賀に着任したため、仕事量が膨らんだせいか夜通し整備保管庫に明かりが灯っていることも珍しくない。そんな彼らの些細な楽しみに水を差していいものか。

 

 それに……ラムネの炭酸ガスでぽっこり膨らんだようになった、白ブラウスの下のお腹を見る。

 

 口止め料はとっくの昔に胃袋の中だ。

 

「……やるならあまり目立たないようにして下さい」

 

「お、おおうっ!?」

 見なかったことにする旨を整備班長に伝えると、彼は帽子の下の目をまん丸く見開き、必要以上に驚き、また狼狽してみせた。

 

「?」

 

「そ、そうだな……憲兵隊の連中に見つかるとやっかいだ。次からは気を付けるぜ」

 

「はい。あ、ラムネご馳走様でした」

 

 空になったガラス瓶を班長に渡すが、彼はそれを受け取ったままの姿勢で動こうとしない。

 

 仕方が無いので彼のことは置いておいて、自分のアームカバーを外してタオルと同じ洗濯籠に放り込んだ。そしてハイヒール型主機の代わりに、普段靴の白い下履きを突っかけて出口へと向かう。

 

 通用扉を開いて外に出ると、燦燦と輝く太陽の光が網膜に突き刺さり、思わず目を細めた。

 

 朝の天気予報では、今日の予想最高気温は34℃。

 

 司令部の赤煉瓦に続くアスファルトの道路はじりじり焼け、立ち昇る熱気の中で陽炎がふらふらと踊っている。

 

「では、整備よろしくお願いします」

 

 去り際に薄暗い保管庫の中に向かって声をかけるが、演習の映像に夢中になっているのか、誰からも応えは返ってこなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 途中で誰もいない駆逐艦寮に寄り、汗を吸った下着を新しいものに替えて赤煉瓦の司令部施設へ。

 

 けれども早く来すぎたのか、迎えの車の姿は無い。

 

 入口の階段に腰かけてしばらく待ってみたが、現れる気配すら皆無。

 

 昼休みの時間はとっくの昔に終わっているので、赤煉瓦の大正ロマンな司令部の建物に出入りする人影も無く、いつも見かける歩哨の海軍兵士も席を外しているようだ。

 

 急にまるで自分だけが、真夏の鎮守府に一人取り残されたかのような孤独感が押し寄せてきた。

 

 先ほどまでの海上の騒がしさに比べ、聞こえてくるのは蝉の声だけ。

 

 ……それにしても五月蝿い。

 

 四方八方からじ~わじわと大音量で鳴き喚かれると、何となく気持ちが落ち着かなくなる。ラムネで一旦引っ込んだ汗が、再びうっすらと肌の表面を湿らせ始めた。

 

 焦れてきたので少し不作法だが、座ったまま足を伸ばして空を仰ぎ見る。

 

 横須賀鎮守府の上には、まるで絵具で塗り潰したかのように鮮やかな青い世界が広がっていた。どこか懐かしさを感じさせるそれを眺めていると、視界の隅、赤煉瓦の屋上で、白いリボンの端が蝶の羽根のように舞っているのが見て取れた。

 

 誰かいるのだろうか?

 

 スカートの埃を払いながら立ち上がり、辺りを見回す。

 

 まだ車は来ない。

 

 建物の脇に備え付けられた非常階段への扉を開けると、一気に上まで駆け上がった。

 

 屋上に出ると、さあっと涼しげな潮風が髪を弄びながら吹き抜けていく。慌てて自分の頭を押さえてその場にしゃがみ込み、風が止むのを待つ。

 

 やがて風が弱まってきたので、暴れ終わった髪を手櫛で梳き直しながら、改めて屋上に人影を探す。

 

 いた、飛鷹だ。

 

 石組みの平らな床に転落防止の柵を付けただけの殺風景な場所で、一人の女性が日傘を差して佇んでいた。

 

 先ほど下で見かけたのは彼女の長い黒髪に結ばれたリボンだった。

 

 こちらに気付いた様子は無い飛鷹は、赤い薄手のドレス一枚という鹿鳴館で踊れそうな格好で、錆の浮いた柵の内側から物憂げな顔で海を見つめている。

 

 やはり整備兵たちのように艦隊の勝敗が気になるのだろうか。なら隼鷹に任せるだけでなく、自分も艤装を着けて参加すればいいものを。

 

 まだ気付かない彼女に声をかけよう思って手を上げた、ところで途中まで出かけた言葉が喉の奥に引っ込む。

 

 飛鷹が見ているのは海ではない。彼女の視線を辿ると、あったのは波打ち際に建つ木造の横須賀鎮守府駆逐艦寮。

 

 さっき自分が寄った場所だ。

 

 寮の屋上には横須賀の艦娘たちの洗濯物が物干し竿にかけられ、ばたばたと海風にはためいている。その陰から姿を現したのは、洗いたてのシーツが入った籠を抱えた、見覚えのある割烹着姿の女性だった。

 

『―――鳳翔さんを、あの人を二度と戦場に立たせないで!!』

 

 プップー!!

 

 突然のクラクションで意識が引き戻される。

 

 下を見るとボンネットバスのような長い鼻を持った黒光りするセダン車が、司令部の前に停まっていた。軍帽を被った運転手らしい詰襟姿の男性が、隣に立って腕時計でしきりに時間を確認している。

 

 迎えが来たのなら、もう行かなければならない。

 

 階段を降りる前に一瞬振り返ると、飛鷹は同じ場所でまだ動かずにいた。

 

 シーツの皺を額に汗して伸ばしている鳳翔さんの姿を、ずっと無言で見守りながら。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。