比企谷八幡と黒い球体の部屋 (副会長)
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ねぎ星人編
まぁ、でもこいつらに出会えたなら、碌なことなかった俺の人生にも、ちったぁ意味があったのかもな……。


これは、とある孤独に塗れた少年と、黒い球体の物語。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 もし、運命なんてものがあるというのなら、それはどんな形をしているのだろう。

 

 下らない例えだとは思うが、どうか聞いてくれ。

 

 そもそもこんなことを言い出すこと自体、どうしようもない戯言で、泣き言で、世迷言だということは分かっている。実際、これは恨み言なのだろう。

 

 どうしようもなく、救いようのない男の恨み言だ。

 

 色んな人に迷惑をかけて、色んな奴を不幸にして、色んな人生を台無しにしてしまった、これは恨み言なのだろう。

 

 そう、恨み言だ。こんな結末を迎えておいて、こんな状況を作り出しておいて、あろうことか放つのが、運命なんて言うものに対する恨み言だというのが、どうしようもなく俺らしい。

 

 性根の根元から腐りきっている。ああ、やはり救えない。

 

 こんなことに成り果てるのも、当然と言えば当然の報いか。

 

 

 いや、まさしくこのふざけた有様こそ、運命なのかもしれない。

 

 

 俺という――比企谷八幡という腐りきった男の、迎えるべき当然の末路なのだと。

 

 

 真っ白な化け物が、俺の上に馬乗りになり、咆哮と共に俺を殴り続ける。

 

 それは、まるで泣いているようだった。

 

 俺に拳を叩きつける度、まるで自分が苦しんでいるようだった。

 

 対して俺は、何も感じない。

 

 とっくの昔に、壊れ切ってしまったかのように、俺は何も感じない。

 

 

 どうして、こんなことになってしまったのだろうか。

 

 

 運命とは、一体どんな形をしているのか。

 

 選ぶべき選択肢によってルートが変わり、辿り着く結末が変わるといった仕様なのだろうか。

 

 例えそうだったのだとして、こんな結末に辿り着いてしまった俺は、一体どこでまちがえたのだろう。

 

 

 俺は、一体、いつ、どこで、何をまちがってしまったのか。

 

 

 俺の運命は、俺の物語は、俺の結末は。

 

 いつ、どこで、こんなにもまちがってしまったのだろうか。

 

 

 奉仕部に連れていかれた、あの時か。

 

 文化祭で全校生徒の嫌われ者になった、あの時か。

 

 京都の幻想的な竹林で嘘告白をした、あの時か。

 

 生徒会長選挙で一色いろはを生徒会長へと唆した、あの――時か。

 

 

 それとも――あの日。

 

 

 あの、黒い球体の部屋へと、誘われた、あの時から。

 

 

 俺は、こうなる運命だったのだろうか。

 

 

「……ころ……せ……」

 

 

 俺は請う。

 

 この、真っ白の化け物に。ゆっくりと、手を伸ばして。

 

 

 どうか、どうか、どうか。

 

 

「……ころせ……俺を――」

 

 

 

――殺してくれ

 

 

 

 

  

+++

 

 

 

 

 

 時計の針が、この空間を終わらせる時刻を告げる。

 

 この、既に終わらせるまでもなく終わってしまった、冷たいこの空間を。

 

「……それじゃあ、今日はもう終わりにしましょうか」

「……そうだな」

「……そうだね」

 

 俺は今日もただ開いたままで読みもせず、ずっと文字列を眺めたままだった文庫本を鞄に仕舞う。

 

 あの生徒会選挙が終わってから、この奉仕部の空気はずっとこんな感じだった。

 沈黙を恐れて意味のない会話を矢継ぎ早に行い、上っ面だけを取り繕った馴れ合いを繰り返す。

 

 俺は、かつてこのような欺瞞を最も嫌った――筈、だった。

 

 だが、今の俺にはこの関係を終わらせることなど出来なかった。

 

 

 もうすぐ二学期が終わり、今年が終わる。

 

 あれほど守りたくて、結果的に守れた筈の居場所なのに、今は凄く――居心地が悪い。

 

「じゃあ、帰ろっか」

「……悪い。ちょっと平塚先生に呼ばれてんだ。先に帰ってくれ」

「……そっか。じゃあ、また明日ねヒッキー」

「また明日ね、比企谷くん」

 

 別方向に帰っていく雪ノ下と由比ヶ浜に片手を挙げて別れる。

 

 また明日。

 

 そう。明日も明後日も続いていく。

 例え二学期が終わって、年を越しても、また同じような時間を過ごすのだろう。同じような時間を作るのだろう。

 

 意味のない会話を重ね、沈黙を作らないよう腐心し、表面だけを取り繕う。

 そんな、かつての俺が鼻で笑い、嫌悪していた行為を、恥ずかしげもなく続けるのだろう。

 

 これが、俺の行いの結果だ。人の感情を理解できない理性の化け物の、成れの果てだ。

 

 俺は自身の考えうる中で最善の策をとった。

 もし、人生にセーブポイントのようなものがあるとして、過去の行動が選び直せるとしても、俺には意味がない。選ぶべき選択肢がないのだから。

 

 だから、俺は悔やむというなら人生のおよそ全てに悔いている。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 平塚先生から解放されたのは、午後6時を過ぎた頃だった。

 冬場の6時となれば外はすっかり真っ暗だ。その上ついてないことに、今朝は降っていなかった雨まで降っている。

 

 平塚先生に呼び出されたのは、かつてのように作文の内容に色々と文句を言われたからだったが――それは、口実だろう。

 途中からは、今の奉仕部の雰囲気について色々と気を遣ってくれていたような内容だった。更に俺にまで気を遣ってくれたのか、直接的な表現を避けて。

 

 いい先生だ。紛れもなく、俺の恩人と言っていい。

 

 だからこそ、そんな風に気を遣わせてしまったことを申し訳なく思う。

 

「………………」

 

 はぁ……それにしても、どうしたものか。

 今朝はチャリで来たが、この雨だと相当濡れて帰る羽目になりそうだ。傘は持ってきていない。

 最悪それでもいいが、今日は正直、濡れたい気分ではなかった。

 

「…………」

 

 ……まぁ、たまにはバスで帰るのもいいだろう。

 

 こんな時間なら、早々知ってる奴には出くわすまい。

 

 

 

 

 

 

 …………そう、思っていたのに。

 

「――あれ? ヒキタニ君じゃないか。珍しいな、こんな時間まで学校にいたのか?」

 

 ……よりによって葉山かよ。なんなの? 最近のお前とのイベントの多さは。こんなの海老名さんしか幸せにしねぇよ。

 

「………平塚先生に捕まってな。お前こそ、何でこんな時間まで残ってたんだ? この雨じゃあサッカー部は早上がりだろう」

「監督と今週末の練習試合のメンバーを話し合っててな。思ったより遅くなった」

「そうかい」

 

 このクソ寒い中で練習試合とかアグレッシブだな。いや、サッカーはむしろ冬が本番だったか? 興味ないから知らんが。

 

 その二往復のキャッチボールで俺達の会話は終わる。

 俺は前の扉に一番近い一人席に着席。目的地に着いた時にいの一番に降りることが出来、尚且つ誰か知らない人が隣に座って気まずい思いをすることのないという、バスに乗る時の俺の指定席だ。今は俺の他には葉山しか客はいないが。

 

 ちなみに葉山は俺と離れた斜め後方の二人席の窓側だ。

 これまでの葉山隼人という男ならば、俺がクラスメイトというだけで、俺の近くの、それこそ吊り革にでも掴まって、当たり障りのない会話を義務のようにしてきたかもしれない。

 そんなコイツとも、先日の生徒会選挙の時に一悶着あり、こんな関係になった。

 

 奉仕部とは違い逆に沈黙を恐れなくなったというのだから、皮肉な話だ。

 こいつとの沈黙は決して心地いいものではないけれど、だからといって会話をしようとは露ほどにも思わない。雨が降っていても思わない。

 家に着くまでの数十分程度の我慢だ。大したことはない。

 

 ピーという音が鳴り、扉が閉まろうとする。出発のようだ。

 俺は音楽でも聞こうと休み時間のお供である音楽プレーヤーを取り出し、イヤホンを耳に当てようとすると――

 

「すいませーん! 乗ります!」

 

 一人の女生徒が走ってくる。

 プシューと扉が再び開き、バスがその女生徒を迎え入れた。

 その女生徒は、濡れた髪を弄りながら「もう、最悪……」とか言いながら乗り込んでくる。

 顔を見ると、そいつは知っている女子だった。

 

 相模南。

 

 ちょっと前に色々あって、今じゃあ顔を合わせても挨拶しない程度の関係に落ち着いたどうでもいいやつだ。ていうかコイツこんな時間まで何してんだよ。部活に青春してるようなキャラじゃないだろ。興味ないから部活に入ってるかどうかなんて知らんけど。

 

 一瞬こっちと目が合うが、そのままノーリアクションで後ろの席に向かう。

 露骨に目を逸らしたりしない。嫌悪に顔を歪めたりしない。

 

 どうでもいいやつ。俺と相模のお互いの立ち位置はその辺に決まった。

 人生な中で出会う人達の、およそ大多数が占められるその位置に。

 

 あの相模ともこのような関係に、言うならば修復することができたのだ。

 

 ならば、今の奉仕部もしばらくすれば、またあの時のような居場所に修復されるのだろうか。

 

 ……それとも、このまま――

 

「え? 葉山君!? うわぁ~偶然! こんな偶然あるんだ~! 凄い偶然!」

 

 なにやら相模がうるさい。どうやら思わぬ場所で葉山に会えて舞い上がっているようだ。

 乗客が俺達しかいないからいいものの、普段のバスなら確実に迷惑行為だ。普段はバスに乗らんから普段のこの時間帯のバスがどれぐらい混んでいるかなんて知らんけど。

 っていうかさっきから知らんけど多いな。俺は脳内でまで誰に対して言い訳してるんだ。

 

 相模はまだキャーキャー言っている。

 まるで街で偶然芸能人に会えたミーハーな一般人みたいなテンションだ。……自分で例えといてなんだが、凄くしっくりきた。二人ともハマり役過ぎてびっくりした。

 

 そうこうしている間に、バスは出発する。

 

 相模と葉山はザ・何気ない会話を繰り広げている。なんでも相模は数学の課題をやっていなかったから、図書室で勉強していてこんな時間になったらしい。

 相模のようなタイプはどんな時でもお友達と一緒と思ったが、勉強ぐらいは一人でするようだ。まぁ、俺達も4月からは受験生だしな。

 

 ……そう。4月からは受験生。部活も徐々に引退し、勉強一本となるだろう。

 運動部のように明確な大会がないので分かりづらいが、それでもずっと活動し続けるというわけにはいかないはずだ。

 

 終わりが来るのだ。どんなものにも。

 

 もちろん奉仕部にも――俺達3人にも。

 

 ……だめだ。せっかく濡れるのを避けたのに、バスの中でまでこんな思考をしていたのではバス代がもったいない。

 

 俺は今度こそイヤホンを装着し、相模と葉山の会話も、雨の音も、余計な思考もシャットアウトしようとする。

 適当にシャッフルモードで再生したら、それは俺のアニソン満載のレパートリーには珍しいJ-POPのバラードだった。

 愛と再会と希望を歌った、綺麗なバラード。正直、俺の趣味じゃなかった。いつ入れたのだろうか。

 

 ……まぁ、たまにはいいか。

 現在は6時半。まだ今日という日は四分の一ほど残っているけれど、俺が――いやおそらくは全国の学生の大多数が一日の終わりを感じるのは、この下校中だ。

 一日の終わりを、こんな綺麗なバラードで締めくくるのも悪くない。

 そうして、俺は目を閉じ、冷たい窓にもたれかかる。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 だから、決定的な場面を、俺は覚えていない。

 

 

 それは、俺が乗っていたバスが交差点を突っ切ろうとしたときのことらしい。

 

 

 俺は目を瞑っていた。だから、バスが信号無視をしたのか、それとも軽トラックの方だったのかは知らない。

 

 

 

 とにかく、俺の乗っていたのとは逆側の側車部に、軽トラックが突っ込んできた。

 

 

 

 よく覚えていない。

 

 

 イヤホン越しにも聞こえる相模の悲鳴。どちらからか――もしくは両車両から発せられるクラクションの甲高い音。

 

 

 そこで、俺の記憶は途切れている。

 

 

 

 次に覚えているのは、現実感のない激痛と、真っ赤に染まって何も見えない視界。

 

 

 そこで覚えたのは、猛烈な死の予感だった。

 

 

 怖い。怖い。痛い。怖い。怖い。怖い。痛い。怖い。

 

 

 死ぬのってこんな怖かったのか? クソっ、聞いてねぇよ。

 

 

 だが、何もできない。

 バトル漫画みたいに死にかけるような重傷を負いつつも気力で立ち上がるなんてことは絶対に無理だ。顔を動かして葉山や相模の様子を確かめることもできない。

 

 

 初めて味わう感覚ばかりで現実感がまるで湧かない。

 

 

 その時、未だあのバラードが耳元で流れ続けていることに気付く。

 その希望溢れる歌詞が、現実のこの光景とあまりにミスマッチで逆に笑えてきた。

 

 

 だが、現実は一向に変わらない。死へと一直線に向かっていることが分かる。

 

 

 

 すると、真っ先に浮かんだのは、雪ノ下と由比ヶ浜の顔だった。

 

 

 

 ……よかった。ここで黒歴史ばかりの俺の人生の走馬灯なんて流されたらどうしようかと思ったぜ。どうせなら小町と戸塚も加えてくれりゃあよかったのに。

 

 

 まぁ、でもこいつらに出会えたなら、碌なことなかった俺の人生にも、ちったぁ意味があったのかもな……。

 

 

 視界が真っ赤から真っ黒に変わり始めたころ、俺の意識が遠くなりはじ――――

 




こうして、比企谷八幡は黒い球体の部屋へと誘われる。


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ああ、そうだ。俺はカッコ悪い。間違ってもヒーローなんかにゃなれはしない。

 

 

 

 気がついたら、何処かの部屋にいた。

 

 

 

 

 

 そこに居たのは、見た目も年齢もバラバラの数人の男達。

 

 

 そして、その中心に位置する――黒い球体。

 

 

 何が起こったのか、起こっているのか、さっぱり分からない。

 

 だが、あれだけの激痛もなくなり、怪我一つ見当たらないのに、なぜか助かったという気がまるでしなかった。

 

 ……怪我が、痛みがないだと?

 

 なんだそれは。有り得るのか、そんなことが?

 

 一体……何が……どうなってる?

 

「あれ? ……何だ? 一体、どうなっているんだ?」

「何? 何? どうなってるの? ……うち、確かに死んだはず……」

 

 横を見ると、葉山と相模もそこにいた。血痕ひとつない、綺麗な制服姿だ。

 

「……な、なに……なに? なんなの? なんなの?」

 

 次第に相模が顔を真っ青にし、ガタガタと震え始める。

 

 ……それは、そうだろう。

 死をあれだけ間近に感じて、何事もなかったかのように振る舞える奴なんていない。

 

 俺だってこんな意味不明な状況に陥っていなかったら、ガタガタと無様に震えているかもしれない。

 

 葉山が相模の肩を優しく支える。相模が葉山をうっとりとした表情で見上げるが、その葉山も決して普段通りというわけじゃない。顔色は相当に悪い。

 

「……何か、知っているか?」

「いや、俺も何が何だか……」

「――あの、君達……」

 

 葉山と俺が状況を把握しようとしていると、初めから部屋にいた数人の男の一人が声をかけてきた。

 

 年はそれほどいってない。二十代前半といったところの、真面目風な人だ。

 その男は眼鏡をくいっと直しながら、徐に再度、口を開き――

 

 

「君達も――死んだの?」

 

 

 ……こいつは今、何と言った?

 

「死んだって……どういうことですか!?」

「ここにいる他の人達も、君達のように死の直前に――いや、直後にと言った方がいいのかな? 連れて来られてきたんだよ。あの――黒い球体に」

 

 眼鏡の男は、そう言ってこの無機質な部屋の中心に座する、異様な真っ黒の球体に目を向ける。

 

 大きさはバランスボールよりも少し大きいくらいだろうか。だが、余りにも真っ黒で、模様どころか傷一つないそれは、この状況も相まってあまりにも不気味だ。

 それに……この男が話す内容も、訳が分からない。異次元過ぎて、ついていけない。

 

 ……落ち着け。一つ一つ整理するんだ。混乱するな。

 

 ということは、つまり――

 

「――皆さんは、その、死んだ記憶が……あるってことっすか? 少なくとも死んだと感じた後に、気が付いたらこの部屋にいたってことですか? 自分で来たとか、誰かに運ばれたとかの記憶はない、と」

「あぁ? なんで俺が! こんな何もねぇクソつまんねぇ場所に来なきゃいけねぇんだよっ!」

 

 俺の疑問に答えたのは、いかにもガラの悪い不良風のチャラ男だった。

 その威圧感に相模がひっと小さく悲鳴を上げる。かという俺も表には出さなかったが、実は完全に威圧されていた。思わずごめんなさいっとか言いそうになった。何なら喉元まで出かかってた。

 

 その男を眼鏡の真面目そうな人が宥めて、優しく俺の問いに答えてくれる。できた人だ。教師か何かをやっていたのかもしれない。

 

「君の言う通りだ。誘拐犯に拉致されてこの部屋に監禁されている――といった状況じゃない。さっきも言ったけど、僕達はこの黒い球体に転送されたんだ。信じられないだろうけど、この球体から君達が出てきたのを、僕達はこの眼で見ていたんだ」

 

 ……この球体から、人が出てくる。なんだそれは? イリュージョンですか?

 

 そんな面白い状態は想像出来ないけれど――だが、少なくともそんなトンデモ技術でもない限り、今の俺の状態の説明がつかない。

 

「…………確かに、人力の誘拐事件とかだったら、俺がこうして無傷なのはおかしい」

「そうだね。君達がどんな風に死んで――いや、死にかけたのかは知らないけれど、僕はスクーターでガードレールに突っ込んだ。しかし、この部屋で気づいたときは五体満足の体だった」

 

 例えあの状態の後、奇跡的に一命を取り留めたとしても、意識を失ったまま何か月も眠り続けていたという話だったとしても――目が覚めるのは病院のベッドの上の筈だ。少なくとも入学時の事故の時は、気がついたらちゃんとベッドの上だった。

 

「おい、比企谷!こんな話を信じるのか!?」

「…………少なくとも、筋は通ってる」

 

 ように、見える。

 

 まぁ、疑問点は山のようにあるが。

 まず第一に――

 

「――監禁されているわけではないというのなら、なんで皆さんはおとなしくここにいるんですか?」

 

 見るからにここは、何の変哲もないマンションの一室だ。

 ミステリー小説のような密室というわけでもあるまいし。さっきのチャラ男の言動からして、好き好んでこの部屋にいるわけでもなさそうだが。

 

 そんな俺の疑問に、やっぱり真面目そうな眼鏡さんが、苦笑気味に答えた。

 

「…………出られないんだよ」

「出られない?」

 

 俺はとりあえず窓に近づく。

 ごく普通のマンションの部屋の、ごく普通の窓だ。

 ガムテープで目張りなんかもされていない。取っ手のようなものを内側に捻るだけで開く一般的なタイプ……? ん? なんだこれ? 開かない? ――というより“触れない”? 取っ手を掴もうとしてもスルスルとすり抜ける。

 

「……なんだ? これは」

「もう! 何やってんのよ!」

 

 俺を押し退け、相模が開けようと試す。しかし、俺の時と同様にスルスルとすり抜けてしまう。

 

「何なのよ、これは!?」

「そう。開かないというより、触れないんだ。だから窓を破って脱出もできないし、勿論玄関だって開かない。出られたら君の言う通り、こんな所で大人しくしてないよ」

 

 教師風の人は言う。

 ……なるほど。いよいよオカルト染みてきた。

 

 だが、そういうものだと割り切って考えれば、色々と受け入れられることも増えてくる。荒唐無稽ではあるけれどな。

 逆に相模はどんどん現実(?)を直視できなくなっているようだ。元々決して良くなかった顔色を更に真っ青にして「うそ……こんなのうそよ……夢に決まってる……」としゃがみこみながらブツブツと呟いている。……無理もないか。こんな事態、俺だって夢であることに越したことはないと考えている。

 

 だが、ぼっちはあらゆる可能性を考えることに長けている。

 自らを守る為に常に最悪を考え、心の防御に備える。()()()()()()()()()()()()()()()()、あらゆる予防策は張るべきだ。考え得る可能性は、全て想定しておくに越したことはない。

 

「じゃあ、声は? 大声を出して隣に響かせれば、外側から開けてもらえるんじゃ?」

「それも試したけど、一切音沙汰なし。もしかしたら、こちらの声は届かないのかもね」

 

 だろうな。言ってみただけだ。

 こんな不思議技術を使ってまで閉じ込めているんだ。普通の技術でも出来る防音に対策が講じられていないはずがない。

 

 すると、何処かに行っていた葉山が戻ってきた。

 

「……確かに玄関は開かなかったよ。それと、他に出口のような所も見当たらなかった」

 

 なるほど、流石は葉山。情報を鵜呑みにせず、かといって相模のように現実逃避するわけでもなく、ちゃんと情報収集に励んでいたか。

 葉山は基本的に高スペックの男だ。雪ノ下や陽乃さんを除けば、葉山以上の能力を持つ人間を俺は知らない。

 こんな意味不明な状況の中で、こいつのような知り合いがいることは、唯一の救いなのかもしれない。

 

 しかし、だからと言って当てにしすぎるのもよくないだろう。

 

 俺はもう勝手に期待しない。

 勝手に理想を押しつけて、勝手に裏切られた気になって、勝手に失望したりしたくない。

 

「………」

 

 考えるんだ。

 自分で、自分だけでも、この状況を打破する方法を――

 

 

 その時、黒い球体からレーザーのようなものが虚空に照射された。

 

 

「「「!」」」

 

 俺と葉山と相模が驚愕する。

 

 そのレーザーは徐々に競り上がっていき、“人間のシルエットを(かたど)っていく”。

 いや、シルエットなんかじゃない。はっきりとした質感が見て取れる。紛れもない、“人体”が何もない宙に出現していく。

 

「い、いやぁ!!」

 

 相模が悲鳴を上げる。それほどにショッキングな衝撃映像だ。気持ち悪い光景だ。

 

 だが、俺達以外の奴等は平然としている。疑問に思っていると、先程の教師風の男が言っていた言葉を思い出す。

 

『この球体から君達が出てきたのを、僕達はこの眼で見ていたんだ』

 

 …………まさか、これが? これが、黒い球体から人が出てくるという、イリュージョンの正体ってことか?

 

 教師風の男に目を向けると、苦笑しながら頷く。転送ってこういうことだったのか……。

 

 色々とオカルトじみたこの状況だが、これは群を抜けて異常だ。訳が分からない。

 

 やがて、レーザーの照射が終わると――そこには、その虚空には、中学生風の少年が現れていた。

 

 その少年は、目を瞑って、ただ平然と立っていた。

 俺と、葉山と、相模は、ただそいつを呆然と眺めていることしか出来なかった。

 

 こうして、この部屋の人口が――この部屋の住人が、また一人増えた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 俺は今、部屋の隅にポツーンと立っている。どんな状況でもぼっちを貫く俺マジでぼっちの鏡。超一匹狼。

 葉山はしきりに怯える相模を励まそうと話しかけている。その御蔭か相模の顔色も少しはマシになってきた。相模のことは葉山に任せておけば大丈夫だろう。

 

 そして部屋の中心では、教師風の男が俺達にしたように、出現した白いパーカーの中学生に状況説明をしている。この説明したがりな様子を見ると本当に教師なのかもな。

 

「…………」

 

 だが、俺が不審に思うのは中学生の方だ。これだけおかしな状況なのに、一切戸惑う様子を見さない。教師風の男(あ~も、長い。眼鏡さんでいいや)が教える異次元な情報も表情一つ変えずに淡々と受け流している。冷めた十代なんてレベルじゃない。こいつ、間違いなく俺と同じぼっちだろうな……。

 

 一通り説明が終わると、中学生は俺と同じように壁際まで移動して観戦体勢に入った。一切動揺した様子はない。

 

 今、この部屋には、俺達の他には、眼鏡さんとチャラ男の他にも数人の男達(みんな俺より年上で少なくとも成人はしてる。年下は今現れた中学生っぽいやつだけだ。多分)がいて、そいつらも俺が来てから一言も喋ってはいないが、そいつらの顔には少なからず動揺が見える。

 大人でもそうなんだ。いくら冷めた十代(確定)だからって……ここまで落ち着いていられるものなのか? 俺の経験からすれば、中学生のぼっち(確定)なんざ、周りを見下して調子づいていても、不測の事態には人一倍弱いもんなんだが……ソースは俺。

 

「そうか! 分かったぞ!」

 

 眼鏡さんは立ち上がって、大声で言った。

 

「これはきっとテレビか何かの撮影ですよ! 催眠術とかで……そうだ! きっとそうですよ! 最近じゃあ一般の人にドッキリかけたりも多いじゃないですか! そう! きっとそうだ!」

 

 ……そうか? 例えテレビのドッキリだとして、こんな洒落じゃすまないようなドッキリをするだろうか? 下手すりゃ誘拐だとかで訴えられかねないぞ。

 

 この人は結構冷静な人だと思っていたんだが……俺達に必死に説明してたのも、俺は君達よりも優位にいる、情報通だぜっていう心境になって心の平静を保とうとしてたのか?一人で思考に耽るとゴチャゴチャになるタイプか、この人?

 

「いや、それは――」

 

 葉山が異を唱えようとする、その時、その“歌”は鳴り響いた。

 

 

 

あーた~~らし~~いあーさがき~~た~~きぼーのあーさーがー

 

 

 

――部屋のいる人間達が、一斉に口を閉じる。

 

 ……ラジオ体操? 一体、何処から流れてる?

 

 耳を澄ますと、その不気味な音色の音源は――あの黒い球体であることが分かった。

 違和感だらけな無機質なこの部屋(くうかん)でも、ひたすらに異彩を放つ、その奇妙な物体。

 

 自然と皆の視線が、そこに集まる。

 

「ほ、ほら、やっぱりドッキリだったんですよ。ネタバラシの音楽ですよ、きっと!」

 

 眼鏡さんの声には誰も反応しない。ここにいる大人の中で一番高学歴そうな見た目なのに、ここまで不測の事態に弱いのか、この人。いや、だからこそか……。

 

 まあいい。今はそれよりもこっちだ。

 

 音楽が鳴り止むと、黒い球体に文字が浮かんできた。

 

【てめえ達の命はなくなりました。】

【新しい命をどう使おうと私の勝手です。】

【という理屈なわけだす。】

 

 その文字を見て、相模が騒ぐ。

 

「命はなくな……やっぱりうち死んじゃったの!?」

 

 せっかく戻ってきた相模の顔色が、またみるみる青くなる。

 

「はぁ……落ち着けよ、お前」

「なによ!!」

 

 声を掛けた俺を鬼の形相で睨む相模。

 

「書いてあるだろう、新しい命って。つまり、俺達は一度死んでしまったのかもしれないが――どうやったかは知らないが――新しい命があるってことだ。自暴自棄になるのは、まだ早い」

「…………なんで? なんでアンタは……そんな冷静でいられるの?」

 

 相模が信じられないといった表情で俺を見る。いや、恐れるといった方がいいのかもしれない。

 その問いに俺は答えない。そんなの俺だって知りたい。だが、俺は死にました。はい、そうですかって受け入れられる程、俺は人間が出来てないし――それに。

 

 あの場所を、あんなまま、放置して死ぬ。そんなこと――

 

「――――出来るわけねぇだろ」

「へ? 何?」

「……なんでもない。それより続きがあるみたいだぞ」

 

 そう言って俺は相模の方を見ずに、球体を見る。葉山がこっちを見ていた気がするが、取り合っている暇はない。

 

 

【てめえ達はこいつをヤッつけてくだちい】

 

《ねぎ星人》

 

 

「なんだ、これ?」

「気色わるっ!」

「弱そうw」

「やっつけるって、ゲーム?」

「外に出られるのか!?」

 

 表示された情報により、これまで口を開かなかった男達もこぞって球体の前に集まり出した。

 

 人数は俺と葉山と相模を入れて9人。

 眼鏡さんとチャラ男。そしてガラの悪いヤクザ風の2人。おじいさんとおじさんの中間くらいの風格のある男。

 

 そして、俺達の後に来た中学生。

 

 こいつは一人何も喋らない。一応、みんなと同じように球体の前に来てはいるが、目はそこを向いていない。

 むしろ、それを見てる人達(おれら)を観察しているというか…

 

「!」

 

 今、目が合った。すぐに逸らされたが、この状況で人だかりの最後尾にいる俺に目を向ける理由などないは筈だ。……なんだ、こいつの違和感は?

 

 

 ドンッ!!!!

 

 

「「「「「「「「!!!!!」」」」」」」」

 

 その時――突然、球体の左右と後部が飛び出した。

 

 突き出たそこはラックになっており――中には、幾つもの“銃”だった。

 まるでSF映画に出てきそうなゴツイ長銃。他にもこちらもSFチックだが片手サイズの短銃も見受けられる。

 

「ウホッ、なにこれ重~。本物くせ~」

 

 チャラ男が長銃を構えテンションが上がっている。その様子からしてかなりの重量があるようだ。

 

「っ!! うわっ! ひ、人! 人がいる!!」

 

 眼鏡さんが突然悲鳴を上げて、尻餅をつく。ガタガタ震えながら球の中を指さす。

 

「うわっ」

「きゃあっ!」

「……なんだ。これは……」

 

 そこには、裸の男が体育座りで座っていた……いや、寝ているのか?

 体毛というものが一切なく、髪の毛すら一本も生えていない。

 呼吸はしているのか、病院なんかで見られる酸素マスクのようなものをつけ、時折シュコーというウォーズマンのあれのような音がする。いや、コーホーとはまた違う音だが。

 

 だが、その様子は一切生気というものを感じさせない。まるで――

 

「い、いや、作り物っしょ。これ。全然動かないし、人形だよ、人形」

「へっ……人形? ……そっかぁ。よくできてるなぁ」

 

 ……そう。人形のようだ。だが、そうなのか? こんな球体の中に人形を入れておく意味が分からない。……ここに連れて来られて明確に意味が分かったことなどないんだが。

 

 俺は後部に開いた部分を見ようと移動する。そこには幾つかのケースのようなものがあった。

 

 それを一つ取り出す。

 

 そこには――

 

 

【ぼっち(笑)】

 

 

 ……俺か? い、いや待て。ぼっちというならあの中学生も……。

 

 なんて俺が躊躇していると、その中学生が【厨房】というケースをさっさと持って行った。……じゃあ、やっぱこれ俺のか……。

 

「ん? 比企谷、どうした?」

 

 すると、近くに葉山が寄ってきた。

 

「あ、ああ。どうやら、このケース一人一人に専用の奴があるらしい。…………本名では書かれていないみたいだが」

 

 俺の説明を聞いて、葉山の背中にいた相模が俺のケースに目を向ける。そして、その書かれた文字を見るとぷっと馬鹿にしたように笑った。……くそっ、覚えてろよ。

 

 すると、全員がわらわらとこっちに向かってきた。俺はもう自分の物は取ったので反対に広い部分に出る。常に多数の逆の少数に属する。ぼっち(笑)の面目躍如といった所か! ははは!

 

 そして、そんな時にさらっと俺は球体の中の男の脈をとる。

 

「――!」

 

 ……あった。だが、驚くほど体温を感じない。

 なんだ? こいつは生きてるのか? 死んでるのか? そもそも人間なのか? 人形なのか?

 

 人間だとすれば、文字を出したり、武器を出してたりするのもコイツ――ひいては俺達をここに転送したのもコイツということになるが……この状態だと、何も聞けない。どうやっても反応を示しそうにないしな。

 

 俺は一旦球男(長いので短縮)の事は置いておき、このケースの中身を見る。

 

「……服、か?」

 

 そこには、黒い服のようなものが入っていた。所々に機械のようなものが付いていて、新時代的というか、銃なんかの世界観と同じくSFチックな代物だった。

 まぁ服ならば一人一人個別に用意されているのも納得だが……いや、待て。そもそも全員同じものが支給されているのか?

 

「葉山、お前のは――」

 

 と、葉山の方を向こうとしたとき、目の前にケースを抱えた相模がいた。

 

 ケースに書かれていた文字は【うちぃ~】。

 

「……ふっ」

「あ、笑った! 今、笑ったっしょ、アンタ!」

「い、いや笑ってねぇって」

 

 いや、笑ったけど。いや、笑うでしょこれ。確かにこの面子だと、その名前は相模のだろう。相模以外はみんな男だし。男でうちぃ~はない。

 顔を赤くした相模が俺から遠ざかる時、俺はふと思った。

 

 ……そういえば女は相模だけだな。これは偶然なのか? それとも何らかのルール? だとしたら何故相模だけ……。

 

 ……まぁ、今はいいか。

 

「そういえば、相模。おまえは中身なんだったんだ?」

「これから開けるところよ!!」

 

 相模は乱暴にケースを開く。その中身は、俺と同じようなデザインのスーツだった。

 

「は? なにこれ? 全身タイツ?」

「さぁ、分からん」

「何よ! 使えないなぁ~」

 

 無茶言うな。っていうかお前カリカリしすぎてツンデレキャラみたいになってるぞ。こいつが俺にデレるところなんて想像できないが。

 

「比企谷」

「あ、葉山くん♡」

 

 デレたよ。葉山にだけど。

 さっきまでずっと慰めてもらってたから、好感度急上昇したんだろうな。吊り橋効果ってやつか? いや、コイツは葉山にはずっとデレてるみたいなものか。

 

「このケースの中身って……」

「ああ。俺と相模はなんか良く分からんスーツみたいなものだった。たぶん全員のサイズに合わしたものが、それぞれ支給されてるんだと思う」

「はぁ? なんで、うちらのサイズなんて分かんの?」

「忘れたのか。俺達はあの球体から出てきたんだぞ。サイズくらい把握してるだろう」

 

 しかし、その場合は、このスーツを作った奴は“俺達が死ぬのが分かっていた”ってことになる。もしくは、そいつの仲間が殺した……とか。深読みしすぎか? まぁ考え過ぎて損ってことはないだろう。

 

「何それ? キモッ!」

 

 ……俺が言われたってわけじゃないのは分かるが、どんどんツンデレキャラっぽくなるなこいつ。

 だが、体のサイズを勝手に知られたってのは、確かに女子にとっては嫌悪感でしかないよな。

 

「葉山。お前は?」

「……ああ。確かにスーツのようなものが入ってる」

 

 葉山は既にケースを開けていた。

 

 そのケースには【イケメン☆】と書かれている。

 

 ……コイツ、これを迷わず自分のだと判断したのか。確かに、この中で一番のイケメンは葉山だし、当たりなんだろうが……なんだろう。葉山だからナルシストとも言えない。雪ノ下が初対面の時に『私、可愛いから』って淡々と言ったのを思い出した。

 

 だが、となると、次の問題は――これを着るか? 着ないか?

 

 他の連中を見ると、とうにスーツに対する興味はなくなったようで、Wヤクザとおじさんは既に別の話をしている。大人は対応が早いな。必ずしもそれが正しいとは限らないが。

 眼鏡さんとチャラ男は銃の方に興味津々のようだ。眼鏡さんは短銃(二種類あるうちの丸っこい方の銃)を、チャラ男は長銃を弄くっている。……あまり得体のしれないものを弄らない方がいいと思うが。曲りなりにも銃の形をしているんだし。

 

 そして、中坊は……? いない?

 姿が見えない中坊の行方を捜していると、ガチャと部屋に中坊が入ってきた。何処に行っていたのだろうか?

 

「……!」

 

 よく見ると奴は、転送された時に身に付けていた私服の下に、このスーツを着ているようだった。

 ……何故、こんな怪しいものを、迷いなく着用することが出来る? 

 

 ……やはり、あいつは――

 

 

「――う、うわぁぁぁぁ~~~~ッッ!!」

 

 

 その時、突然悲鳴が轟く。

 

「ッッ!?」

 

 俺達は一斉にそちらを向く。

 

 

 男の頭部が、消失していた。

 

 

「ひぃ!」

「な、なんだ!?」

 

 どうやらWヤクザの内の一人らしい。男の腕が自身の頭の部分に手を振り回す。しかし、空を切るばかりだ。頭部がなくても動いているその光景はホラーそのものだった。

 

 そして、肩、腰、終いには爪先の全てまでもが消えていく。そう、中坊がこの部屋に現れた時の、逆再生のように。

 

「……消え、た?」

「な、なんだよ、なにがどうなってるんだ!?」

 

 そうしている間に、もう一人のヤクザ、おじさんと、部屋の住人達が次々に消えていく。

 

「うわぁぁぁぁぁあああああ!!! いやだぁぁぁぁあああ!!」

 

 そして、眼鏡さんも。このままいくと全員消えるだろう。

 

 間違いなく、俺達も。……どうする? どうすればいい? こんな時、どうすればいい。

 

 こんな状況で、訳の分からない異常な状況で、何を、どうすれば正しいんだ?

 

「や、やだ……怖い……葉山くん! 何、これ? どうなってるの!?」

「くっ……比企谷っ、俺達は一体どうすればいい!?」

「…………――!」

 

 その時、俺は見た。

 

 あの不気味な中坊が、消えていくとき、銃を手に取り――――笑っている所を。

 

「…………」

 

 銃 

 

  スーツ 

 

死んだ人間達 

 

      新しい命 

 

 ヤッつける 

 

   星人 

 

「比企谷!」

「……葉山。なんでもいい、あの銃を持って行った方がいいかもしれない」

「!? ……どうしてだ?」

「……なんとなく。只の勘だが」

「……分かった」

「ああ。あとス――」

 

 スーツも。と言おうとしたとき、葉山が消え始めた。その手には短銃の一種。どうやら間に合ったようだ。

 

「っっ!!! 葉山くん!! 葉山くん! いやだ、置いて行かないで!!」

「相模、落ち着け!」

「これが落ち着いていられるわけないでしょう!? ねぇ! 教えて! うちらどうなるの!? 助かるの!? それとも死んじゃうの!?」

 

 相模が泣き喚きながら、俺の胸倉を掴む。

 

 俺が今、人が消えるなんて状況である程度落ち着いていられるのは、なんとかなるという確信があるからだ。

 勿論、消えた後どうなるかなんてのは皆目見当がつかないが、それでもこれだけのお膳立ての後、すぐさま殺されるというのはない――と思う。

 

 そう――“思う”。

 これは只の推測で、言うならばそんな気がするという程度の薄弱な裏付けしかない。

 それを、こんな状態の相模に、一から説明しても納得するとは思えないし、第一している暇なんかない。

 

 そう考える間にレーザーが相模の頭頂部に照射され始める。

 

「っ!? いやぁぁあああ!! 消える!! 消えちゃう!! 助けて! 助けてヒキタニ!!」

 

 なりふり構わず、俺なんかに助けを求める相模。

 これだけの異常空間。頼れる葉山もいない今、こいつの精神は崩壊寸前なんだろう。

 

 だが、俺は葉山のようなヒーローじゃない。問題を解決することなんかできない。いつだって俺が出来るのは、ただの先延ばしだけだ。

 

 俺は相模の肩を掴み、言い聞かせる。

 

「聞け、相模。俺達は何処かに送られる。此処に送られてきたときのように。この球体は、俺達に何かをさせたくて集めた。そして、何処かに送るんだ」

 

 相模に疑問を挟ませない為に、断定口調で、決めつけて言う。

 あやふやでぺらっぺらの、中身ゼロの只の推論を、最もらしく言い聞かせる。

 

「どんな場所だかは分からない。だが、そこには葉山がいる。あいつはお前を見捨てない。必ず助ける。絶対にだ」

 

 そして、全てを葉山に丸投げする。間違っても、俺がお前を助けるなんてカッコいいことは言わない。言えない。それは葉山(ヒーロー)の役目だ。

 

 相模は呆気に取られていたが、顔が消える瞬間、確かに笑った。呆れるように。

 

「カッコ悪い」

 

 そして、相模の頭部は消失した。ああ、そうだ。俺はカッコ悪い。間違ってもヒーローなんかにゃなれはしない。

 我が身を犠牲に人を救う。これまで奉仕部の依頼をいくつかそういった方法で解消してきたが、それはそれが俺の考えうる方法の中で一番効率的だったからだ。断じて自己犠牲なんかじゃない。俺はそんないいやつじゃないし、カッコいい男でもない。

 

 だから、今回も一番効率的な手段を選ぶ。俺が考えうる中で、最善を尽くす。

 

 相模の体はもう膝の辺りまでしかない。

 

 気が付けば、部屋の中には俺だけ。またぼっちだ。こんな怪しい球体にまで存在を忘れられるとかステルスヒッキー有効過ぎでしょ。

 

 まぁ、そんな冗談を言ってる場合じゃない。今、すべきことは消えた後の為に万全を備えることだ。

 

 

 そして俺は、短銃を一つ手に取り―――――忘れないようにスーツの入ったケースを手に取った。

 




そして、彼と彼と彼女はその部屋の住人となる。


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なんとかして……絶対家に帰してやるよ。…………俺と……葉山で

 

 

【いってくだちい】

 

 

【1:00:00】ピッ

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 次に目を覚ますと、目の前には何処かの住宅街のような風景が広がっていた。

 

 当たり前のように――夜。

 

 周囲に目を配ると、予想通り、他のメンバーも近くに居た。

 

「――比企谷」

 

 やはり葉山もいた。その後ろには当然のように相模。

 

「どうやら他の奴もみんな居るみたいだな」

「ああ。……それにしても、どうして銃を持って行けなんて言ったんだ?」

 

 葉山は俺に尋ねる。

 

 俺は、少し離れた場所で飄々と佇んでいる奴を見遣りながら言った。

 

「……あそこの中学生。見てみろ」

「ん? 中学生?」

「あの子がどうかしたの? 普通の子じゃん」

 

 ……そうか。相模には、奴が普通の中学生に見えるのか。

 俺からすれば、俺から見れば――アイツほど異常な奴はいないんだが。

 

「……アイツ、あの部屋に来てから一切動揺してない。服の下にあのスーツも着てるみたいだし、自分の身体が消える時も、まったく慌てず銃のチェックなんてしてやがった。……ここまで重なれば、アイツは何らかの事情を知ってるとみて、まず間違いないだろう」

「……なるほど。それで、銃を……」

「ああ。あいつが持っていったってだけなんだが、何かしらの意味があるのかもしれない」

「……ねぇ。そんなことより帰ろう。ここ、もう外なんでしょう?」

 

 俺と葉山の会話の色が怪しくなっていくにつれ、相模が不安そうにそう言った。

 

 確かにそうだ。此処は見知らぬ住宅街だけれど、辺りの景色は外――少なくとも日本の一般的な平穏な街並みだ。

 

 俺はてっきり某モンスターをハントするあのゲームのようにどっかファンタジーなフィールドにでも飛ばされるのかと思ったが(ってかあの状況でここまで妄想できる俺我ながら引くなぁ……)、少なくとも電車を乗り継げば、頑張れば帰れそうな感じすらする。

 

 ……何だ? ここまで色んな物を用意しておいて、何もさせることなくただで帰すのか? ……この状況を用意した奴は、一体何がしたい――

 

「一千万!!??」

「あ、声がデカいよぉ~。困るなぁ。内緒だって言ったのに」

 

 その時、突然眼鏡さんが絶叫する。眼鏡さんに何か吹き込んでいるのは――やはり、あの中坊。

 

「おいおい。なんだよ、一千万って」

「やっぱりテレビの企画らしい! しかも賞金付きの!」

「なんだ? どういうことだ?」

 

 眼鏡さんの叫びにチャラ男が真っ先に食いつき、ヤクザ風の男達が群がる。

 

 そして、中坊が仕方ないなぁと言った様子で説明を始めた。

 その顔は、俺から見れば虫唾が走る程に、子供のような笑顔だった。

 

 (よこしま)でしかない、無邪気な笑顔だった。

 

「――今、この地球には、一般人にはバレないように潜伏してる宇宙人たちがいるんだ。そして、それを僕たちが退治しに行く」

 

 ……? コイツは、何を言ってるんだ?

 

 そう思ったのは俺だけじゃなく、全員ポカンとしている。だが、中坊はそんな俺たちを見て、ニヤリと笑って、

 

「――っていう設定。プロデューサーはうちのお父さんなんだ。賞金が出るっていうから無理言って参加させてもらってる。コネってやつだね」

 

 その言葉に大人連中は納得したようだ。相模も「へぇ~。そうなんだ~」とか言ってる。いや、お前ちょろすぎだろ。さっきまでガタガタ震えてたお前はどこ行ったんだよ。

 

 だが、俺はそう簡単に納得できない。文言もふざけてるが、一番引っかかったのは、アイツのあの笑み。あれは完全に俺達を馬鹿にした笑いだ。それも『こいつら何も知らないで……くっくっくっ』って奴の笑いだ。中学ぐらいのぼっちにはこういう奴が多い。実際行動はできない癖に、心の中で上から目線で物を言う。ソースは俺。

 

 そして俺の他にも納得してない奴がいる――葉山だ。その理由は、勿論俺とは異なるんだろうが。

 

「なぁ。君、今テレビの企画って言ったか?」

「ん? ああ。そうだよ」

 

 葉山が中坊に食って掛かった。……大丈夫か? 確かにあいつの言ってることはおかしな点ばっかりだ――しかし。

 

「本当なのか? 俺達は死にかけたんだぞ。それに、こういうのは絶対に本人の同意が必要なはずだ。例えドッキリだとしても、些か以上に度が過ぎてる」

「それは、あれだ、催眠術ってやつだよ。それで、死んだ記憶を作られたんだ。一度死んだ奴が新たな命を与えられて、その代わりに宇宙人討伐を命じられるって“設定”だからね。同意云々はちゃんとしたよ、みんな。リアリティを出す為に一時的にその記憶は催眠術で消してあるけどね。ゲームが終わったら、ちゃんと元に戻るよ。ええと、他に質問はあるかい? イケメンさん?」

「…………………いや、ない」

 

 中坊は勝ち誇った顔に。葉山は悔しそうに顔を歪ます。

 葉山もあんな説明で納得したわけじゃないだろう。だが、気づいたのだ。無茶苦茶な状況は、無茶苦茶な理論で納得するしかないってことに。

 

 いかに嘘くさい理屈だろうと、それを確かめる方法がない以上、納得せざるを得ない。催眠術と言われたら、そうですかとしか言いようがない。

 確かホームズで、不可能な事を全て排除して残ったものは、例えどれだけ信じがたくとも真実である。とかそんな言葉があった。あんなカッコいい言葉がこんな形で牙を剥くなんてな。皮肉だぜ。まぁ、厳密に言えばちょっと違うか。

 

 だが、否定できないだけで、中坊の言ってることが真実とは限らない。いや、十中八九嘘だろう。

 

 何故なら、もしこれが本当に賞金の懸かったゲームだとするなら、こんな所でライバルを増やした所で、あの中坊に何の得もないからだ。

 それこそ『馬鹿め。何も知らずにのんきなもんだ。くっくっくっ』とさっさと一人でねぎ星人とやらを狩りに行ってるだろう。コイツはそういうタイプだ。

 

 このことをこの場で指摘してもいいのだが、さっきの葉山とのやりとりで分かる通り、あいつは口が回る。うまく躱されるだけだろう。

 

 それに、なぜか知らんが大人達は乗り気だ。

 怪しいと思わないものなのだろうか。

 それとも、右も左も分からないこの状況をテレビの番組の仕掛けという安全な状況だと思い込むことで、心を必死にを保とうとしているのか。大人なのにずいぶんと情けない。いや、そういうのが上手いのが、そういうのばかり上手くなってしまうのが大人なのか。

 

 人間というのは、それが物であれ人であれ状況であれ、理解できないということに多大なストレスを感じるものだ。

 そうであって欲しいという気持ちも、意識的にすれ無意識的にすれ働いているんだろう。

 

「つまり、そのねぎ星人“役”を捕まえれば……」

「賞金一千万ってことですね!」

「でも何処にいるんだよ、それ?」

「ああ。それはこれで」

 

 そう言って中坊はそのスーツの手首部分をスライドさせて、小さなモニタのようなものを取り出す。いや、ボタンやアナログスティック? のようなものもついているから、何かのコントローラなのか?

 

 そして、人混みの後ろからそれを覗く(俺はいつも人混みというものは最外部にいるからこの手のコツは知っている。嫌な特技だ)と、そのモニタには地図のようなものが表示されていた。ゲームにおけるマップという奴か。

 

「なんだ近いじゃん」

「じゃあ行きますか」

「あ、そうそう。一つ言い忘れてました」

 

 中坊が指を一本立てながら言う。そのニヤニヤとした顔からはうっかり忘れたという感じはなく、むしろ意図的に隠していたんだろう。

 

「このゲームには制限時間があります。一時間です。“このエリアに転送されてから一時間”ですので、こうしている今も刻々と時間が過ぎてます。急いだ方がいいですよ」

 

 その言葉で一同が一瞬シーンとなる。しかし、次の瞬間、大人達は一斉に駆け出した。

 

「マジかよ!」

「急がなきゃ!!」

「一千万! 一千万!!」

 

 ……うわぁ。醜い。そんな旨い話があるわけねぇだろ。

 こういう奴等がいるから犯罪ってなくなんねぇんだろうな。カモに困んねぇもん。

 

「おい! お前も来いよ! マップねぇと困んだろ!」

「っ! ……分かりましたから、引っ張らないでください」

 

 中坊もチャラ男に引っ張ってかれた。チャラ男に腕引かれた時、すげぇ顔したなアイツ。人を動かすのは好きだけど、動かされるのはめちゃくちゃ嫌いなんだろうな。プライド高そうだし。生きにくそうだなぁ。人の事言ねぇけど。

 

「………くだらん。儂は帰る」

 

 お。大人達全員があの話に食いついたってわけじゃなかったのか。おじさんとおじいさんの間くらいの年齢の……重役っぽい人。重役さんでいいか。重役さんは、文字通り偉い人なのかお金持ちなのか。そもそも話自体を信じていないのか。まったく興味なさそうに家路を急ぐ。場所分かるのか? まぁタクシー止めたり駅に行ったりと方法はいくらでもあるか。

 

「比企谷。俺達はどうする?」

 

 と、葉山が聞いてきた。気付けばこの場には俺と葉山と相模しか残っていない。

 っていうか何で俺に聞いてんの? いつの間に俺がリーダーポジションに? いや、そういうのは葉山の仕事だろう。

 でも、葉山はそれが当然みたいに聞いてきた。相模もなんか俺の意見を待っている。

 

「……葉山。お前、あんな説明に納得したわけじゃないよな」

「当たり前だ」

「じゃあ、俺達も帰ろうぜ。万が一これがテレビの企画でも、勝手に帰ろうとしたらスタッフが出てきて止めるだろうし、そうじゃなければ普通に帰れる」

「……ん。そうだな」

「そうね。あんな胡散臭いゲーム、付き合う義理ないし」

 

 そう言って、俺らも重役さんの後を追う形で家路を目指す。っていうか相模、お前さっき信じてなかったか? 葉山に合わせたのか? しれっとしやがって、女ってこわっ!

 

 相模は全力で葉山に甘える形で話しかける。「怖かった~♡」と一色もドン引きのレベルで猫撫で声を出す。鳥肌が凄い。相模、お前そんなキャラだっけ? なんか吹っ切れちゃったのかな? 今回の件でガチで葉山に惚れたとか。……死ぬほどどうでもいいな。

 

 葉山はそれに付き合いながらも肝心な部分はうまく受け流して踏み込ませない。流石は学校一モテる男。女子のアプローチを躱す技術は天下一品だな。うまく傷つかせず、かといって希望もみせない。……俺には一生縁のない技術だ。

 

 だが、そんなことより、俺の頭の中では嫌な予感が消えなかった。

 

『この地球には一般人にばれないように潜伏してる宇宙人たちがいるんだ。そして、それを僕たちが退治しに行く』

「……………」

 

 このまま、本当にすんなりと家に帰れるのか? あんなわけ分からんテクノロジーまで使って俺達を集めて、あんな手の込んだ品々まで用意して。何もせずに、はいさようなら。訳が分からない。いたずらにしては、葉山の言う通り度が過ぎてる。

 

『一度死んだ奴が新たな命を手に入れて、その代わりに宇宙人討伐を命じられる』

 

 かといって、中坊の言うことが本当かといえば、それも信じられない。本当に全部が催眠術なのか? あの死の恐怖も、あの無機質な部屋の不気味さも、そして今こうして歩いている感覚も――全てが夢の中の非現実だと、そう言うのか?

 

 だが、なら、どうする? 俺達は、俺は、一体どうすればいい? どのように行動すればいい? 大人達のように状況に流されてねぎ星人とやらを捕まえに行くか? それともいつも通りに空気を読まずにこのまま重役さんの後について行って帰宅を目指すか?

 

 ……くそっ、ヒントが少なすぎる。

 なら、せめて準備をするべきだ。これから、この訳の分からない状況から、更に続けて起こる可能性のある不測の事態に備えて。

 

 こうしている今、出来ることは……。

 

「………………」

「ん? どうした比企谷?」

「なによ。さっきから黙って。気持ち悪いわね」

 

 ずっと黙っていた俺に二人が問う。何気に相模に毒を吐かれた気がするが、雪ノ下のに比べればなんてことはない。ピリ辛みたいなもんだ。

 

「……悪い、葉山。相模を連れて先に行っててくれないか」

「ッ! どうした!? 何か気づいたことがあったのか!?」

「何なの! いったいどうしたっていうのよ!?」

 

 バッと振り向いた二人に、俺は神妙に顔を上げて――

 

「このスーツ、着てみたいんだ」

 

 僕はキメ顔でそう言った。

 だが、二人の反応は冷ややかだった。

 なんか哀れむような視線を向けられる。

 ……僕はもう二度とキメ顔なんてしない……また黒歴史が追加されちまったぜ。

 

「…………え? 何? アンタそういう趣味があったの? コスプレマニア?」

「違う。決して個人的嗜好の為に着用を試みるわけじゃない」

「じゃあ、いったいどうして?」

 

 侮蔑するような目の相模に反論していると、葉山が真面目な顔で問いかける。

 

「……この色々不可解な状況については、あの中坊のテレビの企画と催眠術って説明で、荒っぽいが説明はつかなくもない。まぁ、俺も信じちゃいないがな」

 

 俺の言葉に葉山は暗い面持ちになるが、構わず俺は続ける。

 

「だが、それだとアイツが、このスーツを着てた説明にはならない」

 

 葉山と相模が目を剥く。

 

「勿論、このスーツにどんな意味があるかなんてわからない。だが、何かあるんじゃないかと俺は踏んでる。マップ機能だけならあのコントローラだけで事足りる筈だ。……いいか。忘れちゃならないことだからもう一度言うが、俺達は一度死んで、よく分かんないが生き返った。そんな訳分からん状況が、普通である筈がない。どんな危険が潜んでるのか分からないんだ。対策になりそうなことはなんだって手当たり次第にすべきだ」

 

 俺の言葉に相模は俯く。せっかく帰ることができる希望が見えて、少し明るくなっていた所に、俺のこの言葉はまさしく水を差すものだったんだろう。

 

 だが、これは紛れもない、俺の本音だ。

 

 俺はずっとぼっち――孤立無援で生きてきた。

 その為には、あらゆる危険性を予測し、その対策を立て、危機を避ける。このノウハウは必要不可欠だった。

 俺の深読みのし過ぎなのかもしれない。もしかしたら本当にテレビの企画で、今頃お茶の間でメンドクサイ奴だと笑いものにされていて、帰ったら小町にこれだからごみぃちゃんはと小言を言われるのかもしれない。

 

 それならそれでいい。俺が笑いものになって、笑い話で済むなら、そんなハッピーエンドはない。

 

 だから、俺は無駄だと思えても、石橋を叩く。叩いて、叩いて、ゲラゲラ笑われても叩き続ける。

 

 生き残る為なら、プライドも好感度もクソくらえだ。

 これが、最善だ。

 

「――分かった。だが、お前を置いてはいかない。お前が着替え終わるまで待つよ」

「はあ?」

 

 俺の話を聞いて、しばらく黙った葉山の第一声はそれだった。

 

「待て。そんなことをして、お前に何のメリットがある?」

「比企谷は、何らかの危険性を、それを着ることで突破できると考えて着るんだろう。なら、その危険な事態(こと)に遭遇した時、そのスーツを着ている比企谷が傍にいた方が、俺達の生き残る可能性が上がるじゃないか」

「………………」

 

 まぁ、その理屈は間違っていない。あくまで可能性の話だがな。

 俺は相模に目を向ける。

 すると相模はそっぽを向きながら答える。

 

「葉山くんがそう言うなら、仕方ないから待ってあげるわよ」

 

 もう完全にツンデレキャラのセリフだった。覚醒したのか相模。まぁ、デレる相手は葉山オンリーなんですがね。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 どこかのガレージに潜入し、着替えを始める。

 公衆トイレかコンビニでトイレを借りようかと思ったが、住宅街だからか右を向いても左を向いても一軒家しかない。諦めて一階がガレージ二階以上が住居となっているお宅のに潜入し着替えをすることにした。

 状況は完全に不審者だ。作業は普段の着替えの三倍スピードで行わなければ。

 一応これはスーツっぽいのでズボンを脱ぎパンツ一丁になる。上はそのままだが、知らない他人の――ガレージとはいえ敷地内でパンツ一丁になるのは物凄い背徳感だ。心臓がバクバク荒ぶる。急いでスーツを着なければ。

 

「っ!? なん……だと……」

 

 きっつ……。まさかこれ……全裸にならないと着れないのか。

 だがパンツ一丁でも相当心理的に抵抗があったのに、下半身全裸とか本格的に言い訳がつかない。

 もし家族でディナーとかでこの家の者がこのガレージに降りてきたらすぐさま110番される。雪ノ下が良く毒舌で使うが、本当にお世話になったら洒落にならない。

 

 だが……ここまできて後戻りは出来ない。

 あんなキメ顔で決めた以上、きつくて入りませんでしたじゃ、余りに居た堪れない。

 

 ……やるしかない。俺はそうキメ顔で覚悟を固めた。

 

 男を見せろ、比企谷八幡! いや決して下半身的な意味じゃない。

 

 そして、俺はまずブレザーを脱ぎ、腰に巻いて、せめてものバリケードを作りながらパンツを下した。小学校時代のプールの授業を思い出したが、人様のガレージでこんなことやってる奴は確実に変態だ。そういえば小学校のプールの授業の後髪を拭いていた女子がタオルを落としたから拾ってあげたらそれだけで変態呼ばわりされたことがあったな……。あれは理不尽だった。

 

 そんな黒歴史を回想しながらも無事下半身は穿けた。どうやら裸になればピッタリ穿けるらしい。なんだその仕様。もう少しゆとり持たせろよ。こちとらゆとり世代だぞ。……うん、関係ないな。我ながらつまらない。

 そして上半身も裸になっていく。こうなったらスピード勝負だ。隠す暇があったら、少しでも手を動かす。最悪上半身なら、服が濡れちゃってとか、苦しいけどなんとか言い訳できる……か? まあ、テンションで押し通してダッシュで逃げればいい。

 

「ねぇ! ちょっといつまで着替えてんの! なんか変なことにな――」

 

 相模、乱入。俺、半裸。

 ……おいおい、間違ってるだろう。学園ラブコメ的に逆っしょ、逆。需要ないよ~。葉山とですらないんだから、海老名さん的にも需要ないよ~。いや、そんな展開俺も望まないけど。断じてお断りだけど。

 

「……な、な、な何してんのよ!! こんな時に、ばっかじゃないの! 変態!」

 

 いや、俺着替えるって言ったよね。勝手に覗いたのお前だよね。

 それとお前のツンデレキャラ化はスルーでいいかな。もう突っ込まないよ、めんどくさいし。

 

 まあ半裸を相模に見られたところで恥ずかしくもなんともないので、落ち着いて残りの行程を済ませて、ガレージを出る。

 すると、出口のすぐ脇に顔を赤くした相模が居て、こっちをキッと睨んできた。……まぁ可愛くなくもない。

 

「…………変態」

「しつこいぞ。そもそもお前が勝手に覗いたんだろうが。それに男の半裸くらいプールとかでいくらでも見るだろう」

「うっさい! そういう問題じゃないの!」

 

 ツンデレさがみんと話していても仕方ないので、直ぐに本題に入る。

 

「で、何があったんだ。……葉山はどうした?」

 

 そう。辺りを見渡してもいるのは相模だけ。葉山がいない。

 これがグループ活動とかだったら、他の奴らが俺を置いて行って、そんでたまたま俺と二人っきりにされた女子が泣き出し、次の日学級裁判が開かれる所なんだが。被告人は俺。それは違うよ! とキメ顔でダンガンロンパする状況。ってか今日の俺キメ顔好きだな。

 

 まぁそれは置いておき、葉山は相模を置いて一人で帰ったりはすまい。何か理由があるはずだ。

 

 相模は困惑を隠しきれない表情で言う。

 

「……それがね――」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 相模が言うには、いきなり空から降ってきたらしい。

 

 宇宙人の子供が。

 

 ……いや、俺も何言ってんだコイツ。って思ったさ。ストレス許容値超えちゃったのかな~? なんて思ったが、紛れもない事実らしい。

 

 その子供は、あの部屋の球体に出てたねぎ星人の画像そのままだったそうなのだ。

 ねぎ星人は頭から落下し、人間なら間違いなく首が折れているの間違いなしの勢いだったらしいのだが、ピンピン、とまではいかずともそのまま立ち上がり、再び“逃走”を開始した。

 

「……逃げた? 何かから追われてたのか?」

「……うん。……あの部屋にいた大人達。ヤクザみたいな人達とか、あのチャラい男とか。……あの真面目そうな眼鏡の人まで」

「……なるほど」

 

 テレビの企画に熱中してるってわけか。あんな大人達がいずれは上司になるとか、マジ就職とかするもんじゃねぇな。やっぱり専業主夫が一番――

 

――って、なんか相模が俺の制服の裾を握ってきた。あ、俺は今、あのスーツの上から制服着てます。中坊みたいに。いや、いくら夜で周りに人がいないっていっても、あんな全身タイツ状態で外をうろつけるほどメンタル強くないんで。

 

 っていやいやそうじゃなくて、なんで相模が俺の裾を!?

 なんか震えてるし、瞳ウルウルしてるし、やべっいけない何かに目覚めそうだ。いやいや、俺には戸塚という心に決めた人が――

 

「なんかね……怖かったの……」

「え? ……そりゃあ、宇宙人なんてみたら普通は怖いだろう。てかまだ本物の宇宙人と決まったわけじゃ――」

「そうじゃ、なくて……」

 

 相模はそう言うと、口を濁し、ポツリポツリと言い始めた。

 

「……うちが怖かったのは……宇宙人の方じゃないの。それを追っかけてた人達……あの人達の目が……なんていうか――輝いてた。子供みたいに、無邪気に、子供を殺そうとしてた」

 

 うちには、追われてる宇宙人が只の子供に見えて、それを追っかけてる大人達の方がよっぽど化け物に見えた。

 

 相模はそう言った。

 

 俺はその現場を見たわけじゃないから確かなことは言えないが、それは恐らく本質を正しく突いているのだと感じた。

 

 相模がそう感じたのだ。人一倍正義感が強いあいつなら、なおさら。

 

「………じゃあ、葉山はそいつらを止めに行ったのか?」

「……うん。比企谷と一緒に先に帰れって」

 

 先に帰れ……か。そう言われると帰りづらいって分かってんのかね。あいつは。

 案の定、相模の表情は晴れない。少なくとも、家に帰れるとはしゃいでいたさっきまでの笑顔はない。

 

 それに、俺もなんとなく気になる。

 

 葉山のことだけじゃなく、さっき相模が挙げたメンバーに、あの“中坊がいなかったこと”が。あいつだけ別行動してんのか?

 

 ……まぁ、今はあいつより葉山、相模のことだ。

 葉山のことは気がかりだが、相模のことも心配だ。ここまで怯えている相模を、その連中の元に連れて行くのが得策だと思えない。

 

 さて、どうする?

 

「……相模。とりあえず、帰ってみるか」

「え? はぁ!? 何言ってるの!? 葉山くん見捨てるの!?」

「そうじゃない。……いや、結果的にそうなるかもしれない可能性があるのは否定しない」

「……何それ。意味わかんない。アンタ、最低だとは思ってたけど、ここまでクズだったなんて」

 

 相模の手が俺の裾から離れる。目線は完全に敵意に満ちている。はっ、縮んでもない距離がまた広がったな。別にどうでもいいが。

 

「まあ聞け。俺らがこれから葉山を追っかけた所で、何が出来る? 相手は完全にテレビの企画っていう大義名分を得て、殺人ゲームに熱中してる狂人集団だぞ。少なくとも、俺はそんな奴らを説得できるほど口は回らないし、力づくでヤクザ連中を止められるほど喧嘩も強くない」

「……………」

「だったら逃げるしかない。……その宇宙人の子供はかわいそうだが、俺は見ず知らずの宇宙人の子供を助ける為に命張れるほど、いい奴じゃない。葉山と違ってな。だから逃げる」

「……葉山くんを置いて? そんなこと――」

「しねぇよ」

「え?」

 

 俺が吐き捨てるようにそう言うと、相模はぽかんと呆気に取られた。

 

「……宇宙人の子供は見捨てても、知り合いのクラスメイトを置いて逃げるほど腐ってねぇよ。だが、今のままだと葉山はおそらく言うことを聞いてくれない。あいつは変な所で意地を張るからな。……それに、気になることがある」

「気になること?」

「ああ。これを見てくれ」

 

 俺はスーツの手首部分にあるモニタを取り出す。そこにはここ周辺のアバウトな地図。そして、赤い点が九個。青い点が二個ある。

 

「なにこれ? 赤い点と青い点がある」

「……おそらく、赤い点は俺達の座標だ。ほら、ここに赤い点が二つ固まってる。たぶん俺達だ。そして、ここに四人と、その少し後方に一つ。おそらく、あいつらと葉山だ。そして、その集団のかなり後方に一つ。……おそらく、あの中坊だろうな。なんで集団から離れてるのかは知らんが」

「じゃあ、この四人に追われてる青い点は、あのねぎ星人? ……だけど、その中学生の更に後ろにもう一個青い点があるけど?」

「……もしかしたら、ねぎ星人は一体じゃないのかもな」

「ッ! ……どうするの、このままじゃこの子も!」

「……葉山を助けに戻る際、助けられるようならこいつも助ける。……それよりも、今はこれを見てくれ」

 

 俺は一つの赤い点を指さす。

 

「これって……」

「ああ。序盤でさっさと帰宅を決め込んだあのおじさんだろ。………だけど、この住宅街のある部分を大きく囲むこの長方形……怪しいと思わないか?」

「どういうこと?」

「………俺は、この長方形内がこのゲームのエリア内で、そこから出れないんじゃないか――そう思うんだ。少なくとも、このゲームが終わるまでは」

「え!? でも、そんなの……」

「なくはないだろう。そもそも、これだけ大掛かりな準備をしておいて、帰りたい人はご自由にどうぞなんて親切設計になってると思う方がどうかしてる。あんな強引な手段で参加させられてるんだからな。……これを見ると、あのおっさんはもうすぐエリアの外に出る。とりあえず、それを確認してからでも、葉山の救出に向かうのは遅くないんじゃねぇか。外に逃げられるのと、時間内エリア内を逃げ回るのとじゃあ、取るべき対策もまるで違ってくるだろう」

「……そうね。でも! それを確認したら、すぐに葉山くんを助けにいくよ! 逃げないでよ!」

「ああ。分かってる」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、俺達は重役さんの元に駆け出した。

 

 ……とりあえず、ここまではいい。帰れないというのは俺の真面目な推測だ。それを確認するのは決して無駄にならない。

 

 それに、万が一帰れるとしたら、まず相模を逃がすことが出来る。

 ……おそらく、今あっちでは相模には見るに堪えない光景が広がってるだろう。それは、あのゴツイ銃から容易に想像できる。葉山も苦しんでいるだろうが、相模を逃がすことが出来るなら、まずはそれに越したことはない。

 

 それに、あの葉山だ。あいつ程の奴が、そんな簡単に死ぬ筈がない。

 あいつは俺とは反対の男だ。それゆえお互いを理解し合うことはできない。

 

 だが、俺と真逆故に、あいつはヒーローになれる。

 あの甘っちょろい思想を実現させることが出来れば、だが。しかし、その資格――素質さえ、持たない俺なんかよりは遥かに可能性がある。

 

 そして、こんなイレギュラーな状況には、そんなヒーローが必要だ。

 

 俺はモニタを見ながら重役さんの居場所をナビゲートしつつ、そんなことを考えていた。

 

 すると――

 

「ッ! ……反応が消えた?」

「え!? 何どういうこと!?」

 

 赤い点の反応が一つ消えた。エリアの端まで近づいた所で、突然それは消滅した。

 

「……行ってみよう」

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

 

 俺は赤い点が消滅した地点にダッシュで向かう。だが、だんだんそれに近いていくと――

 

 ピンポロパンポン ピンポロパンポン

 

「……ん? なんだこれ? どっかにケータイでも落ちてんのか?」

「ウチのスマホじゃ……ってない!? うわーあの部屋かな?」

 

 ちなみに俺のスマホは鞄の底だ。滅多に電話なんぞかかってこないからな! あ、俺の鞄もあの部屋だ……。

 

「って、そんな場合じゃない。なんかだんだん音が大きくなってないか?」

「ウチもそんな感じする。……ん? 何あれ? ……え………きゃぁああああ!!」

 

 相模が絶叫する。

 その方向に目を向けると、そこにあったのは――

 

――死体だった。

 

 正真正銘、首が丸ごと吹っ飛んだ、人間の死体だった。

 

「……ッッッ! 何だ……あれ?」

 

 あの服装からして、重役顔のおっさんに間違いない。

 

 でも、一体、誰が、何が、どうして――って無理だ。名探偵の少年じゃあるまいし、冷静じゃいられねぇ。

 体中から嫌な汗が噴き出す。体温が一気に下がった感じだ。ヤバい、寒い、怖ぇ!

 

 相模が蹲って嘔吐している。そりゃそうだ。人間の死体――しかも、あんなグロい死体なんか見たことないに決まってる。生理的に、本能的に、忌避感を抱いて当然だ。

 

「うぇ……ね、ねぇ! ねぇ! 何あれ!? なんで? 何なの? なんで死んでるの!?」

「分かんねぇよ……とりあえず、なんか被せて……移動させるか」

 

 相模の取り乱しようを見て、少し冷静になってきた。

 とりあえず、あのままじゃかわいそうだ。少しでも人目のつかない場所に。そう思って上着を被せようとするが、これはこれ以上、こんな死体(もの)を直視していたくなかったが故の行動なのかもしれない。

 

 でも、あれ? 死体って勝手に動かしていいのか? 警察が来るまでそのままにした方が――そんなことを考えてると、再びあの音楽が聞こえる。

 

 ピンポロパンポン ピンポロパンポン

 

 くっ。この変な音楽、ドンドン強くなってくる。どっかから聞こえてくるというより、むしろ脳の中に直接響いているかのよ――

 

――脳?

 

 あのおっさんの死体は首から上がない――つまり、頭がない。

 

 そもそも、俺はエリア内から出れないと仮定していた。

 見えない壁みたいなのがあってそこから先には進めないようになっている(こんな状況だからそんなのも可能だろうと思っていた)とか、何かそういう仕掛けになっているものだと思っていたが――

 

 もしかしたら、もっとえげつなくて、もっととんでもなく――容赦ないものだったとしたら?

 

 外に出ようとした途端、頭を問答無用で弾け飛ばすような――

 

「ッ! 相模!! ここから、一刻も早く離れるぞ!!」

「え!? 何? で、でも――」

「いいから、早く!!」

 

 俺は相模の腕を引いて一目散に駆け出した。

 

 エリアの中に向かって進めば進むほど、脳内の音は小さくなり、やがて止んだ。

 

 ……なるほど。………そういうことか。

 

「……相模。どうやら、しばらく帰れそうもない」

「え? 何? さっきからどうしたの? ちゃんと説明して!」

「………なぁ。今、頭の中で変な音は鳴ってるか?」

「え? ……ううん。さっきまでは鳴ってたけど、今は聞こえない」

「それは、おそらく警報だ。それ以上行くと、死に(ころし)ますよっていうな」

「死っ……ってことは……」

 

 俺は、努めて抑揚のない言葉で言った。

 

「ああ。俺達の頭には爆弾か何かが埋め込まれている」

 

 その言葉に、相模は顔を一瞬で真っ青にした。

 

「ばく……だん……」

「爆弾かどうかは分からない。だが、このエリア外に出ようとすると、頭を吹き飛ばされる。……あのおじさんのように、な」

 

 相模は震えている。

 今日一日で、コイツにはどれだけの負担がかかっているだろう。午前中――少なくともついさっきの放課後までは、いつもと変わらない日常だったのに。

 

 だが、もうこれで確定した。死人が出たんだ。テレビの企画ですなんて妄言は通らない。

 

 あの中坊をとっ捕まえて、知ってることを吐かせるんだ。

 

「相模、行くぞ。葉山にこの事を伝えるんだ。」

「あ、あの……ちょっと、待って……」

 

 相模の膝はガクガクと震えていた。

 恐怖心を抑え込めないんだろう。

 

 今までは訳が分からない状況に対する漠然とした恐怖だったが、明確に死を、死体を見てしまったことにより、よりリアリティのある恐怖を感じているのかもしれない。

 

 俺は相模の前で屈む。

 

「え?」

「乗れよ。今は一刻を争うんだ。葉山を助けたいだろう。早くしろ。それとも、此処に置いて行かれたいか?」

「う、ううん! 乗る! 乗るから置いて行かないで!」

 

 今のは少し意地が悪かったか。でも、こうでも言わないと、俺なんかに背負われたくないだろうからな。

 

 俺は相模を背負い、モニタで葉山の位置を探り、そこを一目散に目指して駆ける。

 

 にしても軽い。重さを感じない。相模がスリムだとしてもこれは……。

 もしかして、このスーツの意味って……。

 

「ねぇ……比企谷……」

 

 背中の相模が震えながら言う。ってか、こいつ今ちゃんと俺の名前を……。

 

「どうしよう……凄く……怖い……ッ」

 

 相模は、俺の制服の背中をギュッと握り締めた。

 

「………」

 

 俺は――

 

「……なんとかして――」

「………え?」

「なんとかして……絶対家に帰してやるよ。…………俺と……葉山で」

 

 ……くそっ。こんなの俺のキャラじゃない。葉山の仕事だろう、こういうのは。

 

「……ぷっ。カッコつけるならちゃんとカッコつけなよ。最後ので台無し」

「うっせ。……俺だけじゃ信じられなくても、葉山もいるなら信じられるだろう」

「………うん。信じてあげる。……葉山くんに免じて」

 

 心無しか、相模の震えが治まった気がする。すげぇな。葉山効果絶大だな。特効薬過ぎる。

 

「……ねぇ」

「……なんだ」

「……………ありがと」

 




唐突に少年少女は戦場に送り込まれる。


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何やってんだ、葉山?

 

 

 時間は少し遡り、八幡がスーツに着替えているときのこと。

 

 

 

「……ん? ……なんだ、あれは?」

「え? なに? どこ?」

 

 空から何かが落下してくる。

 

 もう既に時刻は夜――空は暗く、闇が濃くて、何が落ちてきているのかは直前まで気づかなかった。

 

 そして、気づいた時には、それは地面に落下していた。

 

――ゴキャッ。

 

 およそ平和な日常において、決して耳にする機会のない音――――首の骨がへし折れる音だった。

 

「きゃぁ!」

「うわっ!!」

 

 善人葉山をもってしても、その身を気遣うことより、己の生理的嫌悪感が凌駕してしまう残酷な光景。

 

 しかし、そこは葉山隼人。

 なんとかその嫌悪感を押し戻し、その少年――というには、余りに奇妙な、その子供に駆け寄る。

 

「おい! 大丈夫か!」

 

 少年は口からなにやら見たことのない色の体液――おそらく唾液や血液だろう――を大量に吐きながらも懸命に立ち上がろうとする。――――首の骨は折れているが。

 

「お、おい! 動くな!」

「ネギ……あげます……ネギ……あげます……」

 

 しかし、葉山の声は届かない。

 恐怖で震えながら搾り出しているというのが丸わかりで心が篭っていないというのもあるが――いや、そんなことまるで関係ないのかもしれないが――この少年、否、このねぎ星人は今それどころじゃない。

 

 まさに、生命の危機なのだ。

 

「はは! おいおい生きてるぞ!」

「すげぇ! すっげぇ! 超イリュージョンじゃん!」

「追え追え!! ひゃははは!」

 

 葉山と相模が立っていたのはT字路の交差点。

 その葉山達から見て左側の道から、数人の男達がやってきた。

 

 それは、自分達と一緒にあの部屋にいて、あっという間に中坊の口車に乗り、意気揚々とネギ星人狩りに出ていた四人の大人達。

 

 彼等の顔は、彼等の瞳は、皆一様に輝いていた。

 野山を駆け回る小学生のように、心から楽しそうだった。

 

 賞金一千万の為なのか。それとも、自分より弱いものを追いつめることが快感なのか。

 呆然と立ち尽くす葉山達のことなど、視界にすら入っていないようだった。

 

 ねぎ星人は道をまっすぐ逃げる。首が折れて不安定な頭を両手で抑えながら、必死に。

 大人達はT字路をスピードを落とすことなく左に曲がり、ねぎ星人を追う。葉山と相模に目もくれずに。

 

 相模南は恐怖していた。

 ねぎ星人にではない。謎の宇宙人よりも、自分と同じ人間の大人達が怖かった。

 あんなに無邪気に、何の罪悪感も持たずに、命を嬉々として奪おうとする人間達に恐怖していた。

 

 同じ人間だからこそ、ついさっきまで同じ部屋にいた人達だからこそ、心の底から怖かった。

 

 葉山隼人は拳を握り締めていた。

 彼もまた気付いていた。彼等は、あの大人達は、異常だと。

 相模と同じく、葉山もまた、正体不明のねぎ星人の子供より、彼等の方がよっぽど危険に見えた。そもそもテレビの企画だとしたら、あのねぎ星人は子役かなにかじゃないのか。それがあんな見たこともない色の体液を撒き散らし、首が折れても走り続けるのか。

 

 訳が分からない。ただ一つ確かなのは――

 

――このままだと、間違いなくあのねぎ星人は彼等に殺される。

 

(……どうすればいい……俺は、一体どうするべきなんだ)

 

 あのねぎ星人は只者じゃない。どう考えても普通じゃない。

 助けるべきなのか。

 どうやって?

 彼等を説得するのか? 彼等を糾弾するのか?

 そもそも助けてどうなる? そもそもアレは一体何だ?

 ならば見捨てるのか? 殺されるぞ? 見殺しにするのか? そんなこと許されるのか?

 

(こんなとき――アイツならどうする?)

 

 思い浮かべるは不気味に丸まった背中。寂しげな背中、けれど、とても、遠い背中。

 

(…………俺はもう、後悔したくない。……間違えたくない)

 

 葉山は一度、拳を解いて――より一層、強く拳を握り直す。

 

「……相模さん。比企谷の所へ行って、二人で先に逃げるんだ」

「……え? ちょ、ちょっと待って。葉山くん何するつもり!?」

 

 相模が狼狽しながら手を伸ばそうとするが、葉山はそんな相模を一瞥もすることなく走り出す。

 

「――彼らを追う!!」

 

 正しいかどうか分からない。軽率かもしれない。間違っているかもしれない。

 

(だけど……俺だって、何かを守りたいんだ。……他の誰でもない、自分の、この手で!)

 

 葉山隼人は、震える膝を懸命に動かしながら――誰かを追うように、走り出した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 だが、そう簡単にうまくはいかない。

 

 どんなに立派な決心も、全て成果が出るとは限らない。

 

 世界は葉山のように、正しくない。

 

 だから、葉山の思う通りにはならない。

 

 

 

 葉山が連中に追いついた時には、連中はねぎ星人を囲み、銃を乱射していた。

 

 

 

「…………っ! ヤメロォォォォオオオオ!!!」

 

 

 ギュイーン。

 ギュイーン。

 ギュイーン。

 ギュイーン。

 

 

 ………何も、起こらない。

 

 

「なんやこれ、オモチャか?」

「時間差あるんすよ。ちょっと経ってから爆発するんす。まぁ、これ壁吹き飛ばしてましたんで、コイツ確実に死」

 

 バンッ!

 

 ねぎ星人の右腕が吹き飛んだ。

 

「ぎぃ~~~~!!!!」

 

 ねぎ星人の少年が奇声をあげ、苦しみ、のたうちまわる。

 

 しかし、これだけでは終わらない。

 

 バンッ バンッ バンッ

 

 続いて、左腕、両足が吹き飛び、最後に胴体に衝撃が走り民家のコンクリート塀に叩きつけられた。

 

 ダルマ状態のネギ星人。

 しかし、まだ死んではいない。

 ろくに身動きもとれず、荒い呼吸音を漏らしながらも、それでも逃げようと――生き延びようと、必死にもがいている。

 こんな状態で、生きている。間違いなく人間では――少なくとも地球人ではない。

 

 だが、このままでは死ぬ。間違いなく死ぬ。地球人じゃなくても――宇宙人でも死ぬ。

 

 そんな状態まで追い込んだのは、葉山と同じ地球人だ。

 

「やめろぉぉぉぉおおおおおおおお!!!」

 

 葉山はもう一度、叫ぶ。手遅れでも叫ぶ。

 信じられなかった。目の前の光景が、信じられなかった。

 

 葉山の目には、死にかけてる宇宙人が、ただの子供のように思えた。

 それを囲み、銃を乱射する大人達が、同じ人間なのか疑わしかった。

 

「何やってるんだ……お前ら……信じられない……こんなの……こんなのって……」

 

 葉山は呆然とした足取りで、集団に近づく。

 

 寒気が止まらない。本音を言うと、今すぐにでも大声をあげてこの場から立ち去りたかった。

 

 だが、この光景を否定する要素を、現実じゃないことを証明できるかもしれない要素を求めて、一歩ずつその悪夢へと近付く。

 

 ねぎ星人は手足のないその体で必死にもがく。

 そうだ。彼はまだ生きている。もしかしたら、まだ助かるかもしれない。

 葉山は近づく。

 

 

 そんなに甘くなかった。

 

 

 ヤクザの一人が、ネギ星人の頭に銃口を向ける。

 

 ギュイーン

 

 放った。

 

 呆然とする葉山に、そのヤクザは悪びれもせず、言う。

 

「文句あるか」

 

 葉山は立ち尽くす。言葉を失くす。

 ねぎ星人はあがく。もがく。生きようと。必死に生き延びようと。

 

 それでも、もう何も変わらない。彼の運命は決まってしまった。

 

 ねぎ星人は最後に、葉山を見つめた。必死に懇願するように。

 

「ポピキュチュチヨニ……」

 

 それは、彼の母星の言語だったのだろうか。

 

 

 その真偽を確かめる間もなく、ねぎ星人の少年は破裂した。

 

 

 その破片は、近くにいた葉山にも飛散する。

 

「うわっ!」

 

 葉山はそれを目をつぶって身を仰け反らしながら受けた。汚いものでも浴びるかのように。

 そんな自分を嫌悪した。

 

 

 

 何も出来なかった。“また”、見ているだけしかできなかった。

 

 

 

「……そうだ。人間じゃなかった!このガンのレントゲンに写ってた骨、人間じゃなかった!!そうだよ!コイツ人間じゃない!!」

「ンなもん、もうどっちでもええやろ」

「釣りと同じだ……そうだ……」

「あ~あ。ノリで変なもん殺しちまったなぁ~」

 

 四人がそれぞれ好き勝手なことを言う。

 葉山の脳はそれをまっすぐに受け止めることが出来なくなっていた。

 

「なぁ……これ本当にテレビなのかよ……」

 

 葉山は思ってもいないことを言う。

 だが、今はもうそうあってくれとさえ思っていた。ここで、テレビ局の人間がドッキリ大成功の立札を持って現れても笑って許すだろう。戸部あたりに明日話せる笑い話になるかもしれない。

 このどうしようもない罪悪感と無力感が、少しは薄れるかもしれない。

 

「なんだコイツ……泣いてやがる……変なの」

 

 チャラ男が言う通り、葉山は泣いていた。

 ねぎ星人の体液でドロドロなっているので少し分かりづらいが、確かに涙を流していた。

 死んでしまったねぎ星人に対しての同情か、それとも自身を襲うどうしようもない後悔故か。

 

「なぁ……テレビっていうなら、触って確かめてみてくれないか」

 

 これはあまり葉山らしくない物言いだ。死体を凌辱するととらえかねない。

 だが、今の葉山隼人はどうしようもなく怒っていた。自身がこれほど苦しんでいるのに、テレビの企画という免罪符――現実逃避で、一種の達成感すら得ているコイツラに、せめて罪悪感を持たせたかった。

 

「……いいけど……」

 

 眼鏡がネギ星人の死体に手を伸ばす。

 持ち上げたのは、作り物というにはあまりにリアル――グロテスクな内臓だった。手触り、質感、そして圧倒的な血の匂い。

 

「ゔっぉおぇぇぇええ!!」

 

 眼鏡は嘔吐する。その物凄い生理的嫌悪感に。

 

「うゔ……うおぇええ!」

 

 葉山も限界だった。襲い続ける嘔吐感に耐えられない。

 その溢れ出す吐瀉物を必死で手で抑えながら、再び涙を流す。

 

「ちくしょう……助けられなかった……死んだ……俺の目の前で…くそっ…かわいそうに…」

 

 葉山はポロポロと涙を流しながら懺悔する。目の前の助けを求めた命を見殺しにしてしまったことに。

 

 

「ふざけんな。偽善者が」

 

 

 チャラ男はそんな葉山を見て、吐き捨てる。

 

「俺は見た。この銃のレントゲンでな……こ、こいつは人間じゃなかった」

 

 俺は悪くない。そう言いたげ――そう必死に思い込もうとしているようだった。

 

「ンなことどうでもいい言うとるやろ」

「なんだ。まだ終わんないのか」

 

 逆にこの2人は罪悪感など、微塵も感じていない。

 この子が宇宙人だろうと、人間の子供だろうとどうでもいいとでも言いたげだ。

 

「あ」

 

 その時、チャラ男が気づいた。

 

 

 少し離れた民家、そのテラスから子供がこちらを見ている。

 

 

「ヤバい、見られた!」

 

 この状況は決してただ事ではない。この距離、この暗さだと、凄惨な殺人現場としか見えないだろう。

 

「おい!警察を呼んでくれ!!」

 

 葉山はその子に叫ぶ。そんな葉山をヤクザの一人が睨みつける。

 

「てめぇ……何言ってんだ……」

 

 しかし、葉山は見向きもしない。

 例え、自身も警察で取り調べを受けることになろうとも、コイツラは何らかの裁きを受けるべきだと思っていた。

 

 だが――

 

 

「ママ~。斉藤さんの家、壁が壊れてる~」

 

 

 

 

「…………はぁ?」

 

 

 

 葉山もチャラ男と同じ気持ちだった。

 

 いや、確かに壁も壊れている。ここにねぎ星人を追いつめるまでに、誰かが銃を乱射したのだろう。そりゃあ、木端微塵に砕けてはいる。

 

 

 だが、違うだろう。

 

 

 そんな些事よりも、もっと目を引く、もっと目を背けられない、惨事があるだろう。目に入るだろう。入れざるを得ないだろう。

 

「あら、ほんと。大変ねぇ」

 

 お母さんらしき人が出てきた。子供ならまだしも、大人なら。

 

「あのーー!!すいませーーん!!!」

 

 葉山は大声で呼びかける。大きく手を振り、注意を引く。

 

「留守なのかしら。何かあったのかしら……」

 

 しかし、お母さんはそのまま子供を連れて家の中に入る。

 

 残された彼らの中には、なんともいえない重苦しい空気が漂っていた。

 

「はは……ははは……」

「何がおかしいんや……」

「いやさ……まるで…俺たちのこと…見えてない…みたいな……」

 

 チャラ男が自棄になったかのように言う。これまでヤクザには下手くそな敬語でへつらっていたにも関わらず、それすらも判別できないようだった。

 

「やっぱさ……俺たち、あの時」

 

 

 

「死んでたんじゃねぇの」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その時、彼らの背後に一人の男が現れた。

 いや、男というよりは、大人――ねぎ星人の大人バージョン。父親だった。

 

 

 彼は、その右手に持っていたスーパーの袋――その名の通り、ねぎが大量に入った袋――を落とし、彼らをかき分け、自分の息子の亡骸を抱え上げる。

 

「フ・オ・オ・オ!!!!!」

 

 ネギ星人父は、文字通りの血の涙を流す。

 その圧倒的な迫力――殺気は息子の比ではない。

 

 先程まで優越感すら感じながらねぎ星人子を虐殺していた彼らも、恐怖でガタガタと無様に震えあがっていた。

 

 しかし、そんな中、彼だけは動じない。今まで、このような修羅場をいくつも(くぐ)ってきたのだろうか。

 

 ヤクザの一人が、怒りの形相のネギ星人父の胸倉を掴み上げ――彼も地球人と同じような服装を身に付けていた――吠える。

 

「てんめぇ、何ガンくれてんだぁ、コルァ!!!」

 

 それに対し、ねぎ星人父も吠える。

 

「ウォォォォォォォォオオオオオオオオオオオオ!!!!!」

 

 それは、どちらかと言うと、威嚇に近かった。

 獰猛な獣の雄叫び。

 

 眼鏡も、チャラ男も、葉山も心の底から恐怖した。

 明確に死を想起させた。

 

 だが、ヤクザは動じない。

 先手必勝とばかりに、ねぎ星人父の顎めがけてヘッドバッドする。

 

 2mはある巨漢のねぎ星人父に向かって放たれた勇猛な一撃は、彼自身の額を割ることしか出来なかった。

 

「コイツっ……コンクリかっ……」

 

 ヤクザ1がふらつく。

 

 その時、ヤクザ2が銃を取り出し、ねぎ星人父に向かって構えた。

 

「いまや!撃てぇ!」

 

 その声に反応し、眼鏡、チャラ男、そしてヤクザ1が銃を構える。

 ……葉山だけは、銃を取り出したものの、この期に及んで、銃口を向けることが出来なかったが。

 

 しかし、その行為も徒労に終わる。

 

 ヤクザ1の頭を、ねぎ星人父が片手で握りつぶさんとばかりに持ち上げたのだ。

 

 軽く180cm以上あり、体格からしてこちらも十分巨漢と呼ばれるにふさわしいヤクザ1。

 そんな男を軽々と持ち上げるねぎ星人父。その持ち上げる左手は、刃のように五指の爪が伸びていた。

 

「待て……撃つな……お前ら撃つな……」

 

 ヤクザ1は周りに言う。

 刺激したら、間違いなく殺される。

 

「悪かった……俺が悪かった!!」

 

 ヤクザ1は謝罪する。命乞いといった方が正確か。

 ここにきて、ようやく悟った。思い知った。

 

 コイツは、自分より強い。自分は、コイツより弱い。

 

 自分は狩られる側で、コイツは狩る側。

 

 自分は、コイツに殺される。

 

「バベギョニチュニダモ!!ヴォ!ゾンダゴゲーニバ!!」

「うあああああ!!!ぐあああああ!!!」

 

 ヤクザ1の顔面から、血が流れ出す。

 脳が圧迫され何らかの機能異常をきたしているのか、それとも純粋に死への恐怖故か、小便も垂れ流してした。

 

 そんな光景を見せつけられ、チャラ男の精神は限界だった。

 自分よりも強いヤクザ1が、手も足も出ずに殺されようとしている。

 

 次は自分の番かもしれない。

 なら。それなら。

 

 今の内に、()るしかない。

 

 チャラ男は手に持つ長銃を振り上げる。

 

「死っねっ!」

 

 ギュイーン

 

 

 その攻撃は、ねぎ星人父が盾にしたヤクザ1に命中した。

 

 

「な……」

「あ……あ……」

「撃ちやがったな、てめぇ……」

「あ……やべ……」

「よくも!よくも撃ちやがったなてめぇ!!」

「す、すいません!すいません!!」

 

 いまさら、言葉による謝罪など、何の意味があるのか。

 

 こうしている今にも、ガンのタイムラグは終わりを告げる。

 

「俺には効かねぇ!俺は、生き残る!!」

 

 根拠のない宣言も空しく。

 

「うぉぉおおおおああああああ!!!!」

 

 ヤクザ1の胴体は破裂し、真っ二つになった。

 

 内臓、肉片、体液。

 そういったヤクザ1の人体を形作っていた――あまりにも生々しい物体が撒き散らされる。

 

 ねぎ星人父は、もはや上半身のみとなったヤクザ1の醜態を見ても一向に怒りを治める気配を見せず、血の涙を流しながら、その人外の強靭な握力を駆使し、ヤクザ1の頭蓋を握り潰した。

 

 グギャッ!

 

 脳が情報として認識するのを本能的に拒否するような残酷な破砕音と共に、下半身に続いて上半身も地面にポトリと落ちる。

 

 もはやねぎ星人父の手の中には、潰れた脳と脊髄の一部しか残っていなかった。

 

 人間として――いや、生物としても、これ以上――いや、これ以下とない無残で醜悪な末期(まつご)

 

「……わぁ……わぁー!!ワァーーー!!!!!ああああぁぁぁぁーー!!!!」

 

 チャラ男が絶叫する。いや、錯乱――狂乱か。

 長銃を問答無用で乱射する。

 

 ヤクザ2もなりふり構っていられず攻撃する。

 下手に刺激するな、なんて悠長に構えていれば安全なラインなど、とっくの昔に越えていた。

 

 眼鏡さんは「アハハハハハハ。知ってるよ。すぐスタッフが出てくるんだろう。放送いつかな?生徒たちに自慢しなきゃ。はははははははははは」と壊れた笑いを発しながら、銃を連射している。

 

 葉山は――何もできない。していない。ただ棒立ちし、銃すら構えず。

 

「あ……あ……」

 

 ガタガタと無様に震え、涙を垂れ流しながら――

 

「グァアアアァァァァァァァ!!!!」

「い、いやだっ!やめろっ!!いやだあああああぁぁぁぁ!!!」

「ハハハハハハハハ!!!イタイ!!すごいリアル!!ははははははははは!!」

 

――彼らが壊され、千切られ、殺されるのを見ていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 気がつくと、そこは血の海だった。

 

 葉山の体感的には、ほんの数秒。

 

 自分以外は(みな)殺された。虐殺された。惨殺された。

 

 ねぎ星人父の目が、自分に向く。

 

 もはや危機感すら感じない。完全に現実感が麻痺している。

 

 ねぎ星人父は、先程の大量殺人で威力が十分に証明されたその鋭い爪で葉山に襲いかかる。

 

 

 バンッバンッバンッバンッバンッ

 

 

 五発の銃声。それで葉山の意識は再び現実に帰還する。

 

「――はっ!」

 

 五発の銃弾は全弾ねぎ星人父に命中した。

 

 ねぎ星人父が倒れこむ。

 

 撃ったのはヤクザ2。その職業柄持ち歩いていた使い慣れたリボルバー銃で、イタチの最後っ屁を喰らわした。

 ニヤリと笑い、再び血の海の中に倒れ込む。そして、二度と呼吸をすることはなかった。

 

 

 そして、地獄の光景の中に佇むのは、葉山隼人ただ一人。

 

 

 攻撃も、防御も、逃走も、援護も。

 

 何一つ行わなかった。

 涙を流し、体を震わせ、小動物のように目の前の惨劇にただただ怯えていた臆病者のみが、こうして生命活動を続けていた。

 

「……いやだ……もう……いやだ……」

 

 葉山の心にあるのは、ただ一つ。

 

 圧倒的理不尽な現状への不満。

 

 生き残った喜びも、助けてもらった感謝も、何もしなかった罪悪感も、何もできなかった無力感も。

 

 今このときは、微塵も感じていなかった。

 

 あるのは、どうして自分がこんな目にという不満。

 

 

 

 そんな葉山の目の前に、ねぎ星人父が立ち上がった。

 

 

 

「……あ……あああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」

 

 恐怖がぶり返す。

 

 理不尽は、まだ終わらない。

 

 

「……すまなかった……ほんとうに……あなたの気持ちはわかる……だけど」

 

 一歩ずつ、ゆっくりと近付いてくるねぎ星人父に、葉山は諭すように問いかける。

 

 言葉が通じる相手ではないことは、十分知らしめられているはずなのに。

 

「ズゴヌアバッ!グァヌネリッ!!アゴァオァケリッ!!!」

 

 しかし、そんな薄っぺらい同情で、彼の怒りは収まらない。

 

 子供を殺された――――血の涙を流すほどの激情は、葉山の命乞いが多分に含まれた謝罪などで減るようなものではない。

 

「俺は……殺し合ったりとか……傷つけ合ったりとか……嫌なんだ……そういうのは……」

 

 

 それは、葉山がこれまで繰り返し主張してきたことだ。

 

 争いは嫌だ。犯人捜しはしたくない。話せば分かる。現状維持が一番だ。

 

 葉山はそうやって、自分の周りの世界を守ってきた。波風を立てず、平和に、穏便に。

 

 それに伴う痛みは、自分と真逆の“彼”に全て背負わせて。

 

 それを見て、上から目線で同情してきた。かわいそうだと、哀れんだ。

 

 

「アグッァァッァ!!グゴキャラデシ!!!」

 

 ねぎ星人父の怒りはまったく収まらない。むしろ、悪化すらしている。

 

 葉山隼人では、この状況は変えられない。何もできない。

 

「くそッ!!なんでこんな目に!!俺が……どうして俺が!!死にたくない!!ちくしょう!!死にたくない!!」

 

 葉山は銃を構える。

 

 自分の命が危ない。このままじゃ殺される。だから――

 

 

――“しょうがない”。“これは正当防衛だ”。

 

 

 葉山は瞬時に自身を守る言い訳を構築し、容易く前言を撤回し、“敵を殺す”べく短銃を発砲しようとし、引き金を引いた。

 

 

 しかし、発射されない。

 

 

 葉山は知らなかったが、この銃はただ引き金を引くだけでは発射しない。

 

 ちょっとしたコツが――正確には上下のトリガーを両方とも引く必要があるのだ。

 

 だが、葉山はそんなことは知らない。

 

 “殺す”為に、“自分の身を守る”為に、“撃ち殺すつもり”で引き金を引いたのだ。

 

 自分がさんざんしたくないと言った、殺し合い――いや、自身が殺されるつもりなど毛頭なかったので、単純な殺しを決行しようとしたのだ。

 

 だが、世界はそこまで葉山に都合が良くなかった。

 

 銃は葉山の想定した効果を生まず、結果としてねぎ星人父の怒りを増長させるだけだった。

 

「……えっ?なんでだ!?おかしいだろ!!さっきまであんなに」

 

 葉山はパニックに陥る。

 

 死の危機を本能が全力でアラートするが、葉山は必死にそれを否定する材料を探す。

 

「はは……そっか、時間差だ!確かそんなことを言っていた……だから、大丈夫だ!そうに決まってる!!」

 

 しかし、それは儚い幻想。

 

 先程、他の連中が使用していた時は、発射と共に近未来的な発射音と、青白い光が発せられた。

 だが、自身の射撃は、手応えのないカチンという悲しい音しか鳴らなかった。

 

 だから、自身の攻撃は失敗に終わっていて、いくら待とうとも、ネギ星人父の体は吹き飛ばない。

 

 そのことを、学年2位の成績を誇る優秀な葉山隼人の頭脳は割り出している。

 儚い希望を、残酷に叩き潰している。

 

「くそぉ……ちくしょう……」

 

 葉山隼人は、抵抗を、止めた。

 

 顔を俯かせ、涙を流し、理不尽な現実に呪詛を呟くことしかできない。

 

 

 

 ねぎ星人父は、右腕を大きく振りかぶって。

 

 

 

 突然現れた黒い流星に吹き飛ばされた。

 

 

「え?」

「グォォォオアアァァァァァアア!!!!」

 

 ネギ星人父の巨大な体躯は、その流星と縺れ合うように吹き飛び、数メートル先の地面にお互い叩きつけられた。

 

 そして、その黒い流星とは。

 

 

「ひ……き……が…や?」

 

 

 彼はゆっくりと立ち上がると、街灯の光の元に現れ、その腐った目で葉山を見つめた。

 

 

 

「何やってんだ、葉山?」

 

 

 

 彼は、ただの状況確認として問いかけたのかもしれない。

 

 だが、その言葉は今の葉山には冷たく響いた。

 

 




やはり葉山隼人は救うことはできない。


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これからよろしくね☆ ぼっち(笑)さん♪

 

「比企谷~! 葉山く~ん!」

 

 相模が八幡が来た方向から走ってくる。

 その声に、呆気に取られていた葉山が、目の前の惨状を思い出し、相模に向かって来てはいけないと叫ぼうとする、が、葉山が気を取り直すよりも早く、八幡が瞬時に判断し彼らしからぬ大声を放った。

 

「来るな、相模!!」

「え、何でよ!?」

「いいから来るな!! そこにいろ!!」

 

 相模は八幡の横柄な物言いに不満がありそうだったが、八幡の言う通りに素直に立ち止まった。

 周囲の暗さがして、あの距離ならば、この残酷な光景は見ずにすんだだろう。

 

 本来であれば葉山がすべき仕事は、この悲惨な状況を詳しく知らない、今来たばかりの八幡が代行した。

 葉山は自分よりも遥かに周りのことが見えている八幡の横顔を複雑な思いで眺めていたが、次第に八幡の顔が強張っていくのが分かった。

 

「葉山……本当ならこの惨劇の理由とか、アイツは何なのかとか、聞きたいことは山程ある……だが、そんなもんは全部後回しだ。一刻も早く、相模を連れて出来る限り遠くに逃げろ」

「な……どうして――ッ!?」

 

 ゾッ――と。

 葉山は周囲の温度が一気に下がった気がした。

 

 ゆっくりと、八幡の視線の先に目を向ける。

 目を背けたくはあるけれど、視線が勝手にその存在に引き付けられる。

 

 

 ねぎ星人父が――威風堂々と立ち上がっていた。

 

 

 銃弾を五発喰らっても、流星のごとき体当たりが直撃しても、奴は倒れない。

 

 その存在が放つ殺気は衰えを知らず、鋭い刃物のように――葉山を貫く。

 

 葉山の体がガタガタと震える。

 

 嫌だ。

 嫌だ。嫌だ。

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。いy――

 

「何してんだ葉山!! 早く、相模を連れて逃げろ!!」

 

 その声を聞いた瞬間、葉山は一目散に逃げ出した。

 

 背中を押してもらえた気がした。この恐ろしい現場から、今すぐに逃げ出していい理由を貰えた気がした。

 

 逃げる。逃げる。逃げる。

 一刻も早く。全力で。全速力で。震える膝を気力で抑え付けて。

 

 途中、同じようにねぎ星人父を見て、顔面蒼白で佇んでいた相模の腕を取って、足を止めずに葉山は叫んだ。

 

「早く逃げよう!! 早く!!」

「で、でも、比企谷がまだ――」

 

 その時、葉山はようやく、八幡に再び全てを押しつけたことに気付いた。

 

 思わず葉山隼人は振り返る。

 比企谷八幡は、一切こちらを見ていない。

 

 ただ、葉山達とねぎ星人父の間に、自身の体を入れるだけ。

 背負うように。庇うように。

 

「――――………ッッ!」

 

 だが、今回はこれまでのような奉仕部への依頼とは訳が違う。 

 

 死ぬ。殺される。

 このままだと、彼は――比企谷八幡は明確に死を迎える。

 

 しかし、葉山は――足を、止めることが出来ない。

 立ち止まり、引き返すことが――震える足を、止めることが出来ない。

 

「――大丈夫、だ。彼はスーツを着ている。さっきの凄い勢いの体当たりも、あのスーツのお陰だろう。彼は俺達よりも、あの化物に対抗できる。…………大丈夫だ。……死なない。……きっと、死なない」

「………………」

 

 相模は、そんな葉山に、まるで自分に言い聞かせるような葉山の言葉に、何も言わず、何も言えず、ただ顔を俯かせた。

 一度だけ、後ろを振り返り、八幡を心配そうに見つめ――そのまま、前を向いた。そして、葉山と共に走り続けた。

 

 唇を噛み締め、一筋の涙を流しながらも、立ち止まることなく走り続けた。

 

 そんな彼女を見て、葉山も、胸に鋭い痛みを覚え、心にモヤモヤを抱えながらも、走り続けた。

 

――これでよかったのか? 

 

――俺は、またアイツに全て背負わせた。

 

 そんな葛藤を胸中で繰り返してはいたが、現場から遠ざかろうとする葉山の足は、一向に速度を落とさなかった。

 

 葉山隼人は、今回もヒーローにはなれなかった。

 

 比企谷八幡にはなれなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「さて……何なんだ、コイツは」

 

 俺は今、化け物と向かい合っている。

 

 目の前に屹立するには、2m近い長身に、緑色の肌、そしてシャキーンって効果音が似合いそうな巨大な爪を持つ――宇宙人。

 

 …………いやいや、おかしいでしょう。何なの? ラノベのクライマックスなの?

 俺は第四真祖でもないし、幻想を殺す右手も持ってないよ? 何処にでもいる平々凡々のぼっち野郎だよ?

 

 ……まぁ、ちょっとばかし不思議なスーツを着てるだけの、な。

 

「……………」

 

 どうやらこのスーツは、只のコスプレ衣装じゃないらしい。

 

 相模を背負った時も重さを感じなかったし、さっきも全力で走ったらとんでもないスピードが出た。

 そして、そのままの勢いで一切の受け身なく地面に激突しても、怪我一つしていない。

 

 ……察するに、このスーツは身体能力とか防御力を上昇させるのか。尋常じゃないレベルで。

 剥き出しの顔面とかにもかすり傷一つないとか、本当どういうテクノロジーなんだ。まぁ今更か。

 

「グォックシャ!! グラダッシャスァ!!」

 

 ……目の前にこんな化け物いるもんなぁ。これガチで宇宙人? あの中坊が言ってたこともあながち間違いじゃなかったってことか?

 

 マップによると、青い点は一つ。

 目の前のコイツのことだろう。一つ消えているということは、相模が見たっていう追いかけられていた子供――あの球体の映像のねぎ星人は死んだのか……間に合わなかったか。

 

 そして、赤い点は四つ。

 ……つまり、俺と葉山、相模、それと――()()()()()中学生。

 

 恐らくこの赤点は中坊だろう。俺が生き残っているのに、アイツが死ぬとは思えない。

 この距離で姿が見えないのは疑問だが、アイツが隠れている理由くらいは想像がつく。

 

 とにかく、今は――ッッ!!?

 

「ッ! くっ!?」

 

 あぶねぇ。なんとか避けられた。何だよ、あの爪! 超怖ぇよ!

 

 くそっ! ……落ち着け。漫画とかでも、ああいう爪武器キャラって大概大したことないだろう。

 精々が序盤の小ボスの取り巻き集団のリーダーだ。具体的なモデルがいるわけじゃないが。イメージ的に。

 

 取り敢えず、距離を取れ。そして落ち着け。落ち着け。バクバクいってる心臓を抑え込め。

 俺は某上条さんのように前兆の予知なんかできない。麦わら帽子の未来の海賊王みたく見聞色の覇気なんかも使えない。

 バトル漫画界を生き残れるような器じゃないんだ。さっき避けれたのは完全な偶然だ。

 

 ……この惨い惨状は、十中八九コイツによるものだ。

 油断したら、間違いなくアイツらの二の舞になる。そこら辺に転がる死体の一つにされる。

 

 身体能力、防御力を上昇させるこのスーツ――これが、どこまで頼りになるのかは分からない。

 あんまり当てにしすぎて、そのまま腕を持っていかれる、なんてことになったらその時点でお仕舞いだ。

 

 ……俺はまだ――

 

「――死ぬわけにはいかないんだよ!!」

 

 俺は意を決して、化物に向かって駆け出す。

 緑色の化物も、迎え撃つように奇声と共に腕を振り上げた。

 

 そして俺は、その脇の下をスライディングの要領で潜り抜ける。

 相手の背後を取り、そのまま全体重を込めて――スーツが何やら発光し、駆動音のようなものが発せられた――がら空きの背中を思いっきり殴りつけた。

 

「グォォォオオオ!!」

 

 確かな手応え。数メートルは吹き飛ばした。

 倒してはいないかもだが――間違いなくダメージは与えた!

 

「…………よし」

 

 俺は生まれてからこの方、ずっとぼっちだった。

 中学や高校は、省り方も陰湿だがその分直接的な被害は少ないし、慣れていれば上手いやり過ごし方も見つけ出す。周りの連中も上手い弾き方を学び出す。

 

 だが、小学校は違う。特に低学年――それも男子の場合は、気に食わない奴はクラスのボス的な奴によって、すぐさまジャイアン的な制裁をされる。つまりは暴力だ。

 そして自慢じゃないが、俺はそんな奴らのターゲットに選ばれ続けてきた、ぼっちの中のぼっち、エリートぼっちだ。

 

 つまりはそんな奴が、そんなぼっちが――喧嘩の経験がないわけがないだろう。

 

 ……まぁ決して強くなかったから(万が一にでも勝ったら、そのままジャイアンポジションをやらされることになって変に悪目立ちすることになるし)すぐに上手くやり過ごす方法(ステルスヒッキー)を編み出すことになったが――このスーツがあるなら話は別だ。

 

 腰に装着しているこの銃は、未だ試し撃ちすらしていない。

 使い方も分からない道具に頼るより、あの程度慣れ親しんだ小学校時代の喧嘩殺法の方がまだ頼りになる。幸い、こんな素人パンチでも通用してるみたいだしな。

 

「グ……オオオォォォォ……」

 

 ……やはり、立ち上がるか。

 だが、ダメージはあるみたいだ。少なくとも、さっきの体当たりよりは効いてるみたいだな。

 

「……………」

 

 この住宅街に転送されてから、ずっと気にはなっていた。

 

 まるで“ゲーム”のようなこの状況。

 もし、これが本当に何かのゲームなのだとして、その“クリア条件”は何なのか?

 

 あの球体曰く――『俺達の命はなくなった』『新しい命をどう使おうが私の自由だ』。

 

 そして――『ねぎ星人をやっつけろ』。

 

 誰も本気にしなかった。当たり前だ。あまりにも荒唐無稽で馬鹿げてる。

 

 だが――。

 

 用意されていた銃等の“武器”。“戦闘用”としか思えない機能を持つ技術レベル測定不可能なスーツ。

 更に、現実に実在した、それらの武器を使わなくては到底勝てない“(ねぎ星人)”。

 

 ここまで来れば、ここまで揃えば、立てたくもない推論も立つ。

 

(――俺達は、この化物(ねぎ星人)を倒さなくては……ゲームクリアにならな(かえれな)い)

 

 そして――あの中坊はこうも言っていた。

 

『このゲームには制限時間があります。一時間です。()()()()()()()()()()()()()()()()ですので、こうしている今も刻々と時間が過ぎてます。急いだ方がいいですよ』

 

 あれが本当なのか。それとも、あの場を手っ取り早く動かすための方便なのかは分からない。

 だが、大抵こういうゲームには制限時間はつきもの。守れなければゲームオーバー。

 

 ……そして、コンティニューできる保障なんかない。

 

「ある程度コイツを弱らせないと……アイツは出てこないだろうしな」

 

 俺がボソリと呟く間に、ねぎ星人が立ち上がった。凄まじい殺気だ。俺を自身を脅かしかねない敵と認識したか。

 宇宙人にまで嫌われるとは、ここまで行くとそういう運命(さだめ)とすら思えてくる。まぁ、いきなり後ろから本気グーパンチしてくる奴なんて、俺も大嫌いになるが。

 

「……だから俺はバトル漫画で生き残れるような器じゃないっつってんだろ」

 

 それでも――生き残る為なら、あの場所に帰れる可能性があるならば。

 

 慣れないこともしよう。似合わない役だって買って出よう。

 

 ルフィにでも悟空にでもナルトにでもトリコにでも一護にでも。

 

 

 主人公(ヒーロー)にだろうと、なってやる。

 

 

 向いてないことなど、柄じゃないことなど、百も承知だ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そしてその先の展開は、バトル漫画よろしくカッコいい爽やかな戦い――――とはならなかった。

 

 再び、俺の拳がねぎ星人の腹部に突き刺さる。

 

 最初の一撃のような、背後からの攻撃ではない。

 真正面に向かいあって、相手の懐に潜りこんでの一撃。

 

 俺は生まれてこの方、武術を習うどころか運動部にすら入ったことのない生粋のインドアぼっちだ。

 格闘術なんて欠片も知らないし、生まれ持った特別な戦闘センスもない。

 何度も言うようだが、バトル漫画の世界に放り込まれたら、即座に前線から撤退し――大会とかで「アイツ……また一段と強くなってやがるっ……」とか分かった風なことを言うことに全力を注ぐようなモブキャラ野郎だ。

 

 そんな俺でさえ、真正面からぶん殴れるくらい、ねぎ星人はもうボロボロだった。

 肩で息をし、片膝を着いて、自慢の爪も半分以上も圧し折られている。

 

 この真っ黒スーツは――それほどまでに圧倒的だった。

 余りにも一方的なワンサイドゲーム、これを自分の隠された力の結果だと自惚れることなど出来やしない。全てこのスーツの力だ。

 俺は腰の銃がどれくらいの破壊力だかは知らない――だが、それこそバトル漫画の主人公クラスの戦闘センスを持つ奴がこれを着たら、と思うと、それだけでぞっとする。

 

 このスーツは一つの凶器――このスーツだけでも、一つの兵器だ。

 

「ネギ……アゲマス……ユルシテ……クダサイ……」

 

 始めはとても理解できない奇声ばかりを発していたコイツだが、いつしか地球語――それも日本語で、片言だが、必死に命乞いをするようになった。

 

「………………」

 

 確かにコイツは、何人もの人間を殺したんだろう。

 だが、これも恐らくだが、あの子供のねぎ星人――もしかしたらコイツの子供だったのかもな――は、あの大人共が殺したんだろうな。

 きっと、悪気もなく――けれど、純粋な悪意によって。そんなきらきらの笑顔で、奴らはあの子供を追い掛けていた。

 

 だとすれば、俺はコイツが100%悪いとは思わない。むしろコイツの肩を持ちたいくらいだ。

 

 それでも、コイツを倒さなくては、俺達は帰れない。

 この『ゲーム』を、クリアすることが出来ない。

 

 やっつける。

 

 アイツが――あの球男が、この曖昧な言葉を“()()()()()()()”を指して言っていたのかは分からない。

 だが、少なくとも、ボロボロ、ボコボコという状態がピッタリな今のコイツですらダメとなると……。

 

 俺はゆっくりと再びねぎ星人のどてっ腹に突き刺さった拳を抜く。

 すると、ねぎ星人は何の抵抗もできずに、地面にうつ伏せに倒れ込む。

 

 もう立ち上がることも出来ないようだ。

 それでも、何も起こらない――ゲームクリアにならない。

 

 

「――――おい。中坊。いるんだろう? もうそろそろ、出て来い」

 

 

 すると、案の定――中坊は直ぐに姿を現した。

 バチバチバチと電磁的な効果音と共に、虚空から出現した。

 

「……便利な力だな。それも、このスーツの力か」

「まぁね。使いこなすにはコツがいるけど……まぁ、アンタならすぐに出来るようになるさ」

 

 そう言って、中坊はニヤリと笑った。本当に見るものを不愉快にさせる笑い方をする。

 中坊は倒れているねぎ星人を一瞥すると、何やらニヤニヤと呟き始めた。

 

「にしても、本当に凄いね。最近は生き残る人すら稀だったのに、何の情報も無しにそのスーツの重要性に気付いて、あまつさえターゲットを倒すなんて。しかもアンタ、僕が隠れてたことも、その理由にも気付いてたでしょ」

「……お前に聞きたいことは山程ある――が、それよりもだ。まずはさっさとこのゲームを終わらせてくれ。おいしいところはくれてやる。()()()()()()()()()()()()?」

「――くっ。くっくっくっ……やっぱりアンタ面白いや。……うん。決めた。まぁいっか。コイツ点数低そうだし、それより――」

 

 こっちの方が、面白そうだ♪ ――そう言って、中坊は俺に丸い短銃を差し出してきた。

 

「……なんだ、これは」

「今回は、アンタに点数を譲ろう。コイツ――」

 

 

――殺していいよ♪

 

 

 中坊は、心から楽しそうに、見るものを不快にさせる笑顔で言った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「………………」

 

 殺す。

 

 中坊はそう笑顔で言った。

 

 予想していなかったわけではない。むしろ、その可能性は高いと思っていた。

 

 これだけの武器、装備。捕獲ゲームにしては明らかに過剰だ。

 現に、目の前のねぎ星人は明らかに瀕死状態――それでも、マップの青点の反応は一切消えず、ゲームも終わらない。

 

 あの球男は、この状態ではまだ『やっつけた』とは認めていないのだ。

 さっきの中坊に言ったおいしいところ譲る云々も――実際の所はただ自分に覚悟がないだけだ。

 

 この人間のように二本足で歩き、衣服を着用し、不器用ながらも言葉を操る。

 

 そんな、人間のような生物を――――殺す覚悟が。

 

 彼らを殺して、自分が生き残る。

 そんな野生の食物連鎖を、実行する覚悟が。

 

「どうしたの? やらないの? それとも、()()()()()?」

 

 中坊は笑う。ニタニタと笑う。

 

 コイツは今、試している。

 俺が、()()()人間か、どうか。

 

 これまでのコイツの言葉の端々から、なんとなく伝わってくる。

 コイツはこんなことを何度か繰り返していたのだろう。

 

 そして、コイツは分かっている。ここで殺せないような人間は、この先は生きていけないと。

 

 暗に告げている。試している。()()()かどうか。

 

 見定めている。見極めている。

 

 なんて捻じ曲がった性格と根性だ。間違いなくぼっちだな、コイツ。そういう意味では、俺はお前側の人間だが。

 

「グ……ァァァアア」

 

 っ! まずい、徐々にねぎ星人が回復してきてる!

 

「動くな」

「――! グァァァァア!!」

 

 中坊は右手で俺に銃を差し出した体勢のまま、左手で別の銃を発射した。

 差し出されている丸い短銃とはまた別の、細い三本の射出口がある短銃。

 

 その短銃からは捕獲ネットのような不思議な光線が発射され、ねぎ星人をグルグル巻きにし、完全に動きを封じた。

 

「捕獲用の銃……」

「まぁそうだね。正確には『送る』用の銃」

「送る?」

「そう。こうやって」

 

 ギュオン、と中坊は左手の銃をもう一発ねぎ星人に向かって放った。

 

 すると、真っ暗な天から新たなビームが照射され、徐々にねぎ星人姿を消していく。

 

 あの部屋から、俺達がこのエリアに転送された時のように。

 

「……これ、転送か? ……一体、何処に?」

「さぁ? どうでもいいよ。大事なのは、これでも点数は貰えるってこと。手間かかるし、こっちでぶっ殺した方が確実だから、僕はあんまりやらないけど」

 

 中坊は右手の銃を軽く振りながら、そう軽い調子で言った。

 

「あ。っていうか送っちゃったよ! アンタの仕事奪っちゃったなぁ! ごめんね☆」

 

 コイツ謝る気ゼロだわ。殺意しか湧かねぇよ。お前のテヘペロなんか。

 

「ま、いっか。アンタと会えたし、今回は久々に楽しかったよ。点数はしょぼいだろうけど、次回取り戻せばいいしね」

「……突っ込み所は色々あるが、これでこのゲームは終わりなのか? 俺達は――帰れるのか?」

「うん、帰れるよ。この後、またあの部屋に戻って、採点されて、家に転送されてって感じ」

「っ! 家に帰れるのか!? 葉山と相模も!?」

「その二人が誰だか分かんないけど、生き残っていれば――っと、言ってる傍から」

 

 中坊が転送され始める。

 

 今夜だけで見慣れてきた、人体が段々と消失していく現象。

 この光景に慣れてきた自分に引くが、それも少なくともこれで終わりだ。

 

 奴は、これが終わったら家に転送されると言っていた。

 少なくとも連戦仕様の鬼畜ゲーではないらしい。

 ねぎ星人はこっちにいたし、他の青点はなかったから、恐らくは葉山と相模が死んでいることはないだろう。

 

 一先ず、一段落だ。

 

 だが、アイツは生き残っている人間は、と言った。

 …………葉山と相模以外の、他のメンバーは……。

 

「あ、そうそう。一つ言っておくよ」

 

 中坊は顔の半分が消えているシュール(というよりホラー)な風体で言った。

 

「――最後躊躇ったよね。あれじゃあ、この先は生きていけないよ」

 

 ホラーなカットの中坊は、けれど、そのまま半分の顔で笑い、告げる。

 

「まぁ、そこまで心配していない。アンタは、いざというときは、迷わず殺れる人だ。一番正しく、一番効率的な判断を下せる人だ」

 

 その為なら、()()()()()()()()を許容できる人だ――と、楽しそうに、ニヤニヤと、人を不愉快にさせる笑顔で。

 

 俺は――笑っている、自信はなかった。

 

「これからよろしくね☆ ぼっち(笑)さん♪」

 

 そう言い残して、そう言い捨てて、中坊は完全に転送された。

 

「……アイツ、俺のケース見てたのかよ」

 

 初対面から目をつけていたのは、お互い様ってことか。

 類は友を呼ぶってやつかね。あんな奴とは絶対に友達になりたくないが。

 

 それにしても。

 

「……どいつもこいつも。人のことを知った風な口聞いてんじゃねぇよ」

 

 それでも、やはり同類か。

 

 

 葉山よりは、的を射ているかもな。

 




ついに比企谷八幡はねぎ星人と対峙する。


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それぢは ちいてんを はじぬる

 

 俺が『あの部屋』への帰還を果たした時、既に残りのメンバーは顔を揃えていた。

 

 葉山隼人。

 

 相模南。

 

 そして、あの中坊。

 

 俺を含めて……四人。始めこの部屋にいたのは九人だったから、結果的に半分以下になっちまったわけか……。でも――

 

「へぇ~。残ったね。僕以外に生き残りがいることすら稀なのに、こんなに生き残ったのなんか本当いつ以来かなぁ~」

 

 中坊はニコニコと笑っている

 顔立ちは整っていて、中学生という年齢も相まって、普通ならかわいいとでも言われる筈の笑顔だが――コイツの笑いは人を不快にしかさせない。

 

「なに、コイツ……キャラ変わってない?」

 

 相模は嫌悪半分恐怖半分といった表情を浮かべる。要するに引いている。

 

「比企谷……」

 

 葉山は痛ましげな目でこっちを見る。

 何か言いたげだったが、別にこっちは葉山と話すことなんかない。

 ……後ろで相模も気遣わしげな表情をしていた気がするが、気のせいだろう。

 

 それよりも、俺には中坊と話さなければならないことが山ほどある。

 

「おい、それよりも採点とやらはいつ始まるんだ?」

 

 俺は葉山が何かを言いかけるのを遮るように中坊に話かける。

 

「採点……?」

「なにそれ? ああもう、どういうこと!? アンタ、いい加減説明してよ!」

 

 俺の疑問に葉山と相模が乗っかる。相模の口ぶりからして、俺が来るまでにどうやら中坊に色々と疑問をぶつけていたらしい。

 

 中坊は、そんな俺達を愉快そうに見ながら口を歪ませて言った。

 

「まぁ、そう焦るなよ。すぐに『ガンツ』が採点を始めるさ」

 

 ガンツ?

 また新しいキーワードが出てきた……本当に勘弁してくれよ。

 

 俺がうんざりしていると、黒い球体に表示されていたタイマーがゼロになる。

 もしかしたら、これが噂の制限時間ってやつか? ……なら、本当にぎりぎりだったってわけだ。

 

 チーンとレンジのような音が鳴り、タイマー表示が吸い込まれるようにして消えた後、球体表面に新たな文字が浮かび上がる。

 

【それぢは ちいてんを はじぬる】

 

「採点……どういうことだ? いったい何が始まるんだ?」

「いいから黙って見てなよイケメンさん。どうせアンタは0点なんだからさ」

 

 ゲームクリアの後の、採点タイム。

 ……とことん、あの殺し合いをゲームにしたいのか。

 

 

『うちぃ~』0点

 

 ビッチ過ぎ

 男の後ろに隠れ過ぎ

 

 

「…………え!? これ、うちのこと!?」

「0点か……」

 

 相模は確か戦闘にはまったくといっていいほど参加していない。

 ただ生き残るだけでは、0点ってことか。

 

 ……どうすれば、この点数とやらは手に入るのか。

 そして、この点数を溜めるといったい何があるのか……。

 

 このゲームは、一体、何を目指して開かれているゲームなのか――分からないことだらけ、知らなくてはいけないことだらけだ。

 

 

『イケメン☆』0点

 

 ビビリ過ぎ

 口だけ過ぎ

 嫉妬し過ぎ

 

 

「……くっ!」

「葉山くん……」

 

 葉山も0点か。戦っても、倒さなきゃ点数にはならない、ってことか。

 ということは、あの子供のねぎ星人を倒したのは葉山じゃない――そりゃそうか。葉山にそんなことは出来ないだろう。

 

 ……にしても、このコメント。

 コイツ、俺達のメンタル面すら把握してるのか。葉山が嫉妬って……俺には、想像できないな。興味もない。

 

 

『ぼっち(笑)』0点

 

 ぼっちの割に人助け過ぎ

 頼りになり過ぎ

 色々と鋭過ぎ

 

 

「ははは! アンタ絶賛じゃん!! よかったねぇ~ははは!!」

「…………っつても、0点だろうが……」

 

 何、この中坊。俺のこと好きすぎでしょう? 俺は絶賛同族嫌悪発動中だってのに。

 ……確かにコメントの内容は悪くない。ってか適当だ。ゲームにありがちな次回へのアドバイスってわけじゃなさそうだし。

 不親切な所はとことん不親切だな、コレ。あのでっかいねぎ星人のことも教えてくんなかったし。

 

 

 …………次回、か。

 

 

『厨房』3点

 

 Total 90点

 あと10点でおわり

 

 

「ッ!!」

「90点って……アンタどんだけこんなことやってんのよ……」

 

 いや、そこじゃない! 確かにそこも重要だが、もっと大事なことがある!

 

「おい、中坊!! あと10点で“おわり”ってどういうことだ! 100点集まれば、一体どうなるんだ!!」

 

 俺は中坊に詰め寄る。俺の剣幕に葉山も相模も引いてるが、そんなことは知ったこっちゃない。

 

「答えろ!!」

「ふふふ。知りたい?」

 

 今ばかりはコイツのニヤニヤ笑いが腹が立つ。

 胸倉を掴み上げたい衝動に駆られるが、今は我慢だ。

 コイツの機嫌を損ねたら、肝心なことが聞けなくなる。

 

「100点メニューを選ぶことができる。あとは、ガンツに聞いてくれ」

 

 コイツッ……。

 

「落ち着け、比企谷! 今、コイツを殴っても何の解決にもならない!」

 

 葉山が俺と中坊の間に割り込む。

 クソッ、コイツ分かってるのか!? 今、俺達がどれだけ()()()()()にいるのかを!?

 

「それから……君? 君は俺達より、随分この状況に詳しそうだ。……教えてくれないか? ここは何なのか? そして、俺達はどうなってしまったのか?」

 

 葉山が中坊に話しかける。まだ、俺は聞きたいことが山ほどあったが、相模が俺の腕をとって「落ち着きなよ」と窘めたので、しぶしぶ引き下がる。

 

 だが、アイツは葉山を舐めきっている。

 あの初めてのやり取りの時に葉山は完全にやり込められていて、中坊は葉山を下に見てるし、その後も何かあったのだろう。

 

 このクソ中坊――こういうタイプは、自分より下と見る人間には恐ろしく強気に出る。もしくは、相手にされない。

 

「え~どうしよっかな~? 知りたい? 知りたいよね? どうしようっかな~。教えちゃおうっかな~。それともやめよっかな~」

 

 案の定、中坊はニタニタと笑いながら、覗き込むように葉山を見上げる。

 葉山はそんな中坊に、怒るどころか、まるで恐れるように一歩下がり、反射的に距離を取る。

 

 本当に……一挙手一投足が気持ち悪い奴だ。この部屋もそうだが、俺にはこの中学生も心底恐ろしい。

 

「――ま、いっか。時間は限られてるし、その間なら何でも答えちゃうよ! 今日は面白かったから、機嫌がいいんだ♪」

 

 ……だが、取りあえずこの調子なら、こっちの疑問には答えてくれそうだな。

 自分だけ知っていて、他の誰も知らない。

 そういう自分が完全に強者のこの状況が、コイツには堪らないんだろう。らしい歪みっぷりだ。

 

「おもしろ……っ! アンタねぇ!」

「!」

 

 相模が食ってかかろうとしたのを手で抑える。

 

「なに「ここはアイツから一つでも情報を聞き出した方がいい」………くっ」

 

 俺の囁きに、相模がしぶしぶ引き下がる。ったく、俺に落ち着けと言ったのはお前だろうに。

 ここでコイツの機嫌を損ねたら、まさしく命を落とすかもしれない。

 

 ……今日のような命がけのゲームは、これから幾度となくあるだろうからな。

 

「………………」

 

 それに、アイツは言っていた。この後は各自、自分の家に転送される、と。時間が限られているとは、そういうことだろう。

 本当は俺が自ら質問者をやりたいが、状況的にその役目は葉山だ。

 

 葉山がこちらを向いて、頷く。……任せてくれってか。

 しょうがない。ここは聞き手として、少しでも状況を探り、少しでも多くの情報を得る。

 

 ……そして、俺の転送が、()()()の後であることを祈るのみ。

 

「ありがとう……。それで、まず最初の質問なんだが…………君は今日のようなことを何回も繰り返しているのか?」

 

 ……葉山。質問が軽すぎだ。最初は軽くって言っても、時間が限られているんだ。もっと切り込め。

 

「うん、そうだね。最初にここに来たのは、一年くらい前かな?っていっても僕も初期メンバーじゃない。僕が来るずっと前から、この部屋ではこんなことが繰り返されていたらしいよ。死んだ人間が集めらて、その死人もま死んだら――更に()()()死人を補充する。その繰り返し。今日なんて実はかなり優しかったんだ。なんせターゲットは二体だけ、その上ボスが3点だ。チュートリアルかって」

 

 ……あれで、優しかったのか。半分以上が死んだ、今回のゲームが。

 

 適当に死人を蘇生させ、また殺して、また適当に生き返らせる。

 

 まるで神だな。

 人間の命なんて、いかにもなんとも思ってなさそうなところが特にそれっぽい。

 

「……やっぱり、俺達は死んだのか」

「ん? どういうこと?」

「……さっきのゲーム中、俺達の姿は一般の人には見えていないようだった。お前もさっき、死んだ人間が集められるって、はっきり言った。……なぁ。俺達は、()()()()()なのか?」

 

 一般人には見えていない。そのことは、俺も初耳だった。

 ……まぁ、考えてみれば納得か。あれだけの惨状――にも関わらず、誰も警察を呼ぶ気配すらなかったのは、一般人には感知できなかったからか。……もう何があっても驚かないな。余りにも色々とSF過ぎる。

 

 そして―――俺達は、本当に俺達なのか、か。

 葉山の言うことは、感覚的過ぎるが、何となく分かる。

 

 俺達――――少なくとも俺には、死にかけた、というより死んだ記憶がある。

 

 命が消えていく実感が、流れていた走馬燈が、はっきりと思い出せる。

 

 はっきりと残る、己の死の感触。

 にも関わらず、俺は生きている。

 

 俺は――本当に、俺なのか?

 

「死にかけるような重傷を負って、死ぬ間際に助けられた者がここにやってくる。僕は、そう考えていたよ」

 

 ……考えて“いた”、か。

 

「今回はそんな奴らはいなかったけど、ミッション中どんな大怪我をしても、生きてさえいれば、ここに無傷の状態で戻ってこれるんだ。その技術を応用して、そんな風に死者を蒐集しているんだと思ってた」

「っ! じゃあ、うちら実はみんな生きてるの!?」

「“いた”、って言ってるだろ。国語力ゼロかよビッチ」

「はぁ!? ビッチいうなし!! 年下のくせに!!」

 

 なんか由比ヶ浜っぽかったな今の。……ってか急な毒舌だな。キャラ作りも適当なのか、この中坊は。

 いや、そんなことより今は、こんなコメディパートを差し込んでいる場面じゃない。話を逸らさせるな。

 

 俺は相模を遮るようにして中坊に問う。

 

「っていうことは、違ったのか?」

 

 中坊は、割り込んできた俺に向かって楽し気に答えた。

 

「……僕の考えでは、オリジナル――つまり、()()は死んでる」

 

 今の僕達は、ガンツによってつくられたコピー。ファックスと同じなんだよ――そう、中坊は言った。

 

「っ!!」

「ッ!? 嘘……」

 

 葉山が瞠目し、相模が蒼白する。

 

 俺は、震える手で誤魔化すように拳を握りながら、喉から言葉を搾り出した。

 

「……どういう、ことだ?」

 

 中坊はニヤリと笑う。不快に笑う。

 

 まるでこの部屋の一部であるかのように、笑う。

 

「――こんなことがあった。ずいぶん前の話だ。一人のおっさんがここに集められた」

 

 その男の死因は飛び降り自殺だったという。

 理由は会社をクビになり、借金で身動きが取れなくなったことを苦にしての突発的な衝動だったと。フィクションにすらありがちな分かり易い自殺例だ。

 

 その時のミッションは今回のねぎ星人と同等の難易度で、中坊と、その自殺したオッサンが生き残ったらしい(そのオッサンは終始逃げ惑っていただけらしいが)。

 

 今のように採点を終えて、おっさんと中坊は日常に帰った。

 そして、何の因果か日常世界で中坊と邂逅したそのおっさんは――今にも死にそうな真っ青な表情で、中坊に詰め寄って、言ったそうだ。

 

――『家に帰ったが誰もいなかった! ……家族が、“俺”の見舞いに病院に行っていたんだ!』

 

 ……怖いな。

 今まで聞いたどんな怪談よりも、よほどゾッとする話だ

 

 相模は、真っ青だった顔から更に血の気を失せさせながら、呆然と呟く。

 

「それっ、て……」

「簡単な話だよ。何の意外なオチも、叙述トリックもない、そのまんまの話。そいつは()()()()()()()ことだ。そいつの本体は、オリジナルは生きていた」

 

 だけど、その男は死人としてこの部屋に集められた。

 生き残って、日常へと帰ったら――そこには、死んでいなかった自分がいた。

 

「――結果、そいつは世界に『二人』存在してしまうことになった。まぁ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()よね。そいつは、次のミッションの時には呼ばれなかったよ。何でも、改めて自殺し直したらしい。二度手間だよね」

 

 でも、これで分かったでしょ? ――と、中坊は笑う。

 恐ろしく、黒く笑う。

 

「僕達はガンツの遊びに付き合わされるために作られた模造品(おもちゃ)なんだ」

 

 ただのコピーなんだよ――その軽い言葉は、この無機質な部屋に嘘のように響いた。

 

 その静寂を、少女の悲鳴が掻き乱す。

 

「……ぁぁぁぁああぁぁぁああああああああああああ!!!」

「っ! 相模!?」

「さ、相模さん!! 落ち着いて!!」

 

 葉山の声すら届かないとばかりに、相模は狂ったように泣き叫ぶ。

 

 自分は偽物。本体は死んでる。

 そんなことを、ただの女子高生が――常人が、容易く受け入れられる筈がない。

 

 受け入れられる奴が異常なんだ。目の前の中学生が――異常なんだ。

 

 異常な少年は、何処にでも居そうなただの中坊は、そんな俺達を見てクスクス笑っている。

 この残酷過ぎる現実を受け入れる為には、この部屋に適応する為には、コイツのように、ある種壊れなければいけないのだろう。

 

「安心しなよ。ミッション中以外なら、ちゃんと他の人間にも見えるし、声も届く。今まで通りに過ごせるよ。それに、こんな面白事件は滅多にないんだ。大概は本体はきちんと死んでるし、その上で人知れず処理されてるから、何食わぬ顔で戻れるよ。本物面して帰れるよ。ていうか、普通にラッキーだと思いなよ。君達は事故死――――望んで死んだわけじゃないんだろ? 普通はできないコンティニューができて、そうして立って息をしていられるんだぜ? +《プラス》に考えなよ。不幸ぶるなよ。ネガティブに生きたってつまんないだろ」

 

 中坊は笑う。ニコニコと笑う。

 コイツは始めっからこうだったのだろうか。それとも、この理不尽なデスゲームを生き抜いている内に、こうなってしまったのだろうか。

 

 どっちにしろ、コイツはヤバい。この中学生は――ヤバい。

 俺は、自分の訳分からない今の状況より、分かり易く怖いコイツの方が恐ろしい。

 

「お。残念。時間切れだね~」

 

 中坊が転送されていく。

 ミッションに送られた時と同じように、まるで世界から消失するように。

 

 ……これで、終わりなのだろうか。

 

 それとも――何かが、始まったのか。

 

「あ、それからここのことは他の人間に話さない方がいいよ。頭が吹き飛ぶから」

 

 ビクッと相模が震える。

 ……エリア外に出た、あのおっさんのようにか。

 

「じゃあね~♪ 大丈夫、またきっと会えるさ♪」

 

 そんな死亡フラグと共に、中坊は完全に転送された。

 笑えない状況で、笑えないことを平気でする奴だ。

 

 中坊は、俺達に不安と恐怖と絶望だけを与えるだけ与えて去っていった。

 

 異様なこの部屋で分かり易く異質だった存在が消えたことで、残された俺達に僅かながらのほっとした空気が流れるが―――今ばかりは、それに流されるわけにはいかない。

 一人転送されたってことは、俺達もすぐに転送されるだろうが――俺には、まだやらなくちゃいけないことがある。

 

 確かめずにはいられない――重要事がある。

 

 俺はすぐさま黒い球体――ガンツの前に移動した。

 

「比企谷……?」

「ガンツ。100点メニューとやらを見せてくれ」

 

 葉山も相模も、俺の行動の意図が読めないらしい。

 

 だが、これは今後を左右する、大事なことだ。

 

 ガンツが、その表面に100点メニューを表示する。

 

 

【100てんめにゅー】

 

【・きおくをきされてかいほうされる】

【・つよいぶきとこうかんする】

【・めもりーからひとりいきかえらせる】

 

 

「……やっぱり、か」

「これは……」

「かいほうって……」

 

 二人とも、驚きを隠せない。

 だが、俺はそんな二人のリアクションよりも、推測が当たっていたことに対する安堵と昂揚に身を震わせていた。

 

 思った通りだ――これなら、まだ、俺は。

 

「比企谷! これは……?」

「……アイツの話を聞いていて思った。まるでゲームみたいだって。それなら、これだけ危険なゲームで100点を集めるなら、それ相応の“ボーナス”があると思ったんだ」

「ボーナス?」

「このかいほうは……たぶん、解放――このデスゲームから抜け出せるってことだと思う。記憶を消して、情報漏洩を防ぐって策も講じるなら、きっと今まで通りの平穏な日常に戻れるんだ。……こんな残酷な記憶、なくなった方がいいしな。」

「っ!! そ、それじゃあ、本当の意味で助かる日が来るの!?」

「――ああ。きっとな」

 

 相模はパァと顔を輝かした。しかし、すぐに表情を曇らせ、俯く。

 

「どうした?」

「……でも、その為には100点を稼がなくちゃダメなんだよね。あんな化物だって、3点しか…………100点なんか、とても」

 

 相模の声がどんどん暗くなる。

 心なしか、葉山の顔色も悪くなっている。

 

 …………………。

 

「ガンツ。メモリーとやらを見せてくれ」

 

 俺の言葉に、俯いていた二人が顔を上げた。

 

 100点メニューが吸い込まれたガンツの表面に、今度は次々に幾つもの顔写真が表示され始める。

 

 その最下列の右下には――今回のミッションで死んだ、あの大人達の写真があった。

 

「こ、これって――」

「……恐らく、これまでのガンツゲームで亡くなった人達だろうな」

「……こんなに、たくさん……ッ」

 

 相模がまた怯え出す。

 葉山の表情も、尚も暗い。

 

 …………逆効果だった、か?

 だが、俺の考えが正しければ、これはきっと希望になる。

 俺の推論でしかないが、これは公算の高い推測のはずだ。

 

「100点メニューの三番。覚えているか?」

「え?」

「…………!」

 

 俺は、黒い球体から――葉山と相模の方に向きなおして言う。

 

「メモリーから、一人生き返らせるってあったろ」

 

 葉山も、相模も――息を吞み、瞠目する。

 

「……あ」

「比企谷……お前」

「あれだけ恐ろしいゲームだ。100%毎回生きて帰れるなんて、口が裂けてもいえない。お前を絶対死なせないなんて言えねぇよ。俺はそんな、ヒーローなんてガラじゃないしな」

 

 言葉を続けるにつれ、俺はそっぽを向きながら声のボリュームを分かり易く落としていった。

 ……なんだこれ。なんだこれ。俺っては何キャラじゃないこと言ってるの? デスゲーム帰りでハイになっちゃったの?

 

 しかし、そっぽを向きかけた所で、きょとん顔の相模と目が合い――俺は、きっと今夜は枕に顔を埋めながら発狂することになるだろうことを覚悟して、きっともう二度ということはないであろうキャラ違いの台詞を、ぼそぼそと気持ち悪く言った。

 

「……だが、もし万が一、お前が死んだら。……絶対に……生き返らせてやるよ。………俺か…………………葉山が」

 

 …………ああ。なんかもう、逆に俺が死にたい。

 むず痒い。何よりも恥ずい。こんなの似合わないってかキモ。キモ谷くんか俺は。

 

 案の定、相模はぼかんと呆気に取られたような表情をしていたが――ぷっと笑って、俺の背中をバシバシとデリカシーゼロな笑い声と共に叩いた。

 

「ぎゃはは! 何それ!! だから、カッコつけるなら最後までカッコつけなって! 最後ので台無しじゃん!」

「ううううっせ! 俺だけだったらどうせお前信じねぇだろうが」

「当たり前じゃん。っていうか、どうせなら死なないように守ってよ」

「残念だったな。こちとら自分の身を守るので精一杯だ」

「うわっ。さいてー。葉山く~ん。比企谷は頼りになんないから~。うちのこと守ってね♡」

 

 相模が取り戻したぶりっ子仮面の笑顔で葉山の方へと向き直る。

 

 だが、葉山は――遠い何処かを見るような顔で、呆然としていた。

 

「…………………」

 

 …………? 葉山?

 

「葉山くん?」

「ッ! あ、ああ。もちろんだ。それにあんな憎まれ口を叩いてるが、いざという時はヒキタニくんも相模さんを守ってくれるさ」

「え~。信用できな~い」

「オイコラ」

 

 姦しさを取り戻した相模が俺に失礼を働いた所で、相模の頭頂部に電子線が照射された。

 

「あ、うわっ、きた。……ね、ねぇ。これ大丈夫なんだよね。ちゃんとうちの(ウチ)に繋がってるんだよね!?」

 

 うちのウチってわかりづらっ。

 

「大丈夫だよ。また明日、学校で会おう」

 

 葉山はそう言って、相模を見送る。

 

 ……正直、現実がどうなっているのか、本当の所は、まだ分からない。

 もしかしたら俺達は本当に死んだことになっているかもだし、再び全く知らない場所に飛ばされている可能性もある。

 

 だが、ミッション中一般人からは見えなくしたり、解放する時も記憶消去したりと――この部屋は、あの球体は、情報漏洩には比較的しっかりしているように思える。

 

 たぶん、何事もなく学校に行けるくらいには、身辺は整理されているだろう。

 それもまた、ゾッとしない話だが。

 

「わ、分かった。じゃあ、また明日学校でね。葉山くん。………………あ、ヒキタニも」

「ねぇ、今完璧に忘れてたよね。俺の事、完全についでだったよね」

 

 相模はクスッと笑いながら――柔らかい笑みと共に、完全に転送されていった。

 

「……さて。後は、俺達だな」

「…………なぁ、葉山おま「ヒキタニ君。今日は本当にありがとう。君がいなかったら、俺達は本当の意味で死んでいたのかもしれない」……もう、死んでんのか、生きてんのか、よく分からんけどな」

 

 葉山は、ははと爽やかに笑う。

 だが、その爽やかイケメンスマイルに――陰りがあるような気がするのは、気のせいか?

 

 あの時、俺が来るまでの間に何があった?

 

 そう聞いてみたい衝動が一瞬湧いたが、すぐにどうせ聞いても答えないだろうと思い直す。

 

 何故なら、きっと逆の立場だったら――俺ならコイツだけには、絶対に答えないだろうと思ったからだ。

 

 それに――そんな個人的な感情よりも、今は優先しなくちゃいけないことがある。

 

「葉山。明日、話せないか? 今日の事で、ちゃんと情報を交換しあった方がいい。次のミッションってやつが、一体いつくるのか、その辺の情報は手に入らなかったからな。出来る限り早い方がいい」

「…………………………」

「葉山? どうした?」

「……いや、分かった。確かに必要だな。昼休みでいいか? 相模さんには俺から伝えておく」

「そうしてもらえると助かるが……三浦達には怪しまれないようにしろよ」

「ああ。分かってる」

 

 そして、葉山の転送が始まる。

 相模と違い終始落ち着いていたが、その表情は家に帰れると晴れやかだった相模と違い、暗く陰りがある。

 

 葉山は、顔が消える瞬間、俺の方を見た。

 その目は、いつもの同情の視線ではなく、だが葉山から初めて向けられる類ではない感情が篭った視線だった。

 

「君は……本当に強いな」

 

 何かを呟いたかのように見えた。

 だが、それはあまりにも小さい呟きで、転送時の電子音に紛れて聞こえなかった。

 

 俺は何も聞き返さなかった。

 

 そして、葉山は完全に転送され――黒い球体の部屋には、俺一人が残された。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ……コイツ、ガンツだっけ、本気で俺のこと嫌いなんじゃねぇの。

 むしろ好きなのか!? 俺と二人っきりになりたいのか!?

 ……球男×ひねくれぼっち野郎って誰得カップリングだよ。さすがの海老名さんでも……いや、あの人なら許容しかねんな。

 

「………………」

 

 静かに電子音が響く。

 俺の転送が始まった。

 

 その間――俺は、この黒い球体以外は何の調度品もない、簡素な2LDKを眺めた。

 

 次、この部屋に送られるのはいつなんだ。

 ミッションは一体どれくらいの頻度で、どれくらいのインターバルを持って行われる?

 

 中坊の言い方だと難易度はランダムのようだが――今回のミッションはチュートリアルのようだと言っていた――なら、恐らくは次のミッションは今回のとは比べ物にならないんだろう。対策は必須だ。

 

 出来る限り期間が欲しい。

 明日? 一週間後? それとも――いや、だが。

 

 希望が――ないわけじゃない。

 

 道はある。方法はある。光明はあるんだ。

 

 だから――俺は。

 

 目を、瞑る。

 

 そして、誰もいない、黒い球体の部屋に——決意を表明する。

 

「……稼いでやるよ。100点でも、200点でも、300点でもな」

 

 苦境に立たされるのは慣れてる。俺は、そんな中、ずっと一人で生き抜いてきた。

 

 ずっと、戦い抜いてきた。

 

 だから――俺は。

 

 絶対に、生き残る。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 こうして、俺の一夜の戦いは幕を閉じた。

 

 それは、まるでアニメや漫画のような非日常で。

 

 夢や幻と言われた方が、よほど納得が――――

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「お兄ちゃん! いつまで寝てるの!? 小町的にポイント低いよ!!」

「頼む……あと10分だけ寝かせてくれ……お兄ちゃん昨日は宇宙人と殴り合って疲れてんだ」

「そんな二秒でバレる嘘吐かないで! ほら早く! 今日は日直で早く行かなきゃいけないんだから! 小町が!」

「お前がかよ……なら歩いていけよ……なんで俺がお前の為に早起きしてチャリ漕がなきゃならんのだ……」

「何言ってるの! 可愛い妹の為に30分くらいの早起きなんてことないでしょう!」

 

 (小町)が去った後、俺はのそっと体を起こす。

 体は重い。瞼も重く、中々直視出来なかった。

 

 けれど――いつまでも夢を見てはいられない。

 現実からは逃げられず、俺は制服を取り出そうと、クローゼットを開けた。

 

「嘘なら…………それでハッピーエンドだったんだがな」

 

 そこには――現実が転がっていた。

 

 

 あの一夜の非日常が、地獄が、戦争が。

 

 

 嘘でも、夢でも、幻でもないということを――現実だということを。

 

 

 気がついたら持って帰ってきてしまっていた――漆黒のスーツと近未来的な丸い短銃が、何よりも雄弁に物語っていた。

 




そして、彼は囚われたまま日常へと帰還する。





次章予告


『黒い球体の部屋』から帰還し、日常へと戻った八幡達。

何も変わっていない筈なのに、何かが変わった世界に戸惑いながらも、束の間の平和を実感する――間もなく、彼らは再び、黒い球体の部屋へと、凄惨な戦場へと呼び戻される。

そこで繰り広げられるのは、一度目を遥かに凌駕する、見たこともない戦争だった。


「そして、今の時点で確定しているのは、必ず、次のミッションがあるということだ」

「俺、しばらく奉仕部休むわ」

「ふざけんなよっ!! そんな話信じられるわけねぇだろぉ!!」

「なんで殺した?」

「由比ヶ浜は、雪ノ下の傍にいてやってくれないか?」

「何やってんだ……俺は」

「……君さぁ。ちょっと調子に乗り過ぎだよ」

「うん! 任せて! ゆきのんは、絶対あたしが一人にしないよ!」

「信じられようと、信じられまいとそれが現実なんだよ!!!」

「どうでもいいよ。さっさと殺しなよ」

「助けに行こう」



「宇宙人をやっつけにいくんだよ」

「僕は、悪くない」


「そこで見てろ」



「アンタ達より、僕の方が100倍役に立つ」

「星人と戦おうと思う」

「はぁ……はぁ……アンタ、何してんの?」

「逃げろ!! そのスーツは壊れたんだ!! 直撃を喰らったら死ぬぞ!!」

「私だって……負けたままじゃ嫌なの!! ……これ以上、みじめになりたくない!!」

「……お前らぁぁぁぁぁあああああああああああアアアアアアアアア!!!!!」



「お前さ、死ぬの怖くないの?」


「死にたくないよ」


「死にたくないなぁ……」


「裕三君?」
 
「裕三君」「裕三君」「裕三君」「裕三君」「裕三君」



「………………それしかない、か」



「アンタなら辿り着けるよ。カタストロフィまで」

「こんなとこで、つまんなく死ぬな」

「バイバイ。ヒーロー」



奉仕部(ここ) に、戻ってくるから」





【比企谷八幡と黒い球体の部屋】――田中星人編――


――to be continued


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田中星人編
由比ヶ浜は、雪ノ下の傍にいてやってくれないか?


『――――昨日(さくじつ)、○○交差点にて、路線バスと軽トラック車両の衝突事故が発生しました。路線バスの運転手の男性とトラックの運転手の男性は、近隣の病院に搬送されましたが、昨夜九時間ごろ、死亡が確認されました。()()()()()()()()()()()とのことです。トラックの運転手の遺体から規定値を上回るアルコールが検出され、警察は――』

 

 俺は、リビングのテレビから流れるニュース番組を食パンモグモグしながら黙々と視聴していた。

 

 それは、本来他人事ではなかった筈のニュース。

 渦中にいた筈の、巻き込まれていた筈の、一つの交通事故。

 

 俺も、相模の、葉山も――そこにいなかったことにされていた。

 影も形も――DNA一つさえ残さずに。

 

「本体は人知れず……処理……()()……」

 

 中坊の昨夜の言葉が脳内にリフレインする。

 

 本体――死体。

 

 この交通事故で、本来の俺の肉体――今まで十七年間共に生きてきた筈の肉体は、人知れず処理されたそうだ。

 今こうして食パンを体内に取り込んでいる体は、ガンツからの――あの黒い球体からのプレゼント。

 

 勝手にコインを投入され、俺の意志とは無関係に行われたコンティニュー。

 

「……………………」

 

 俺はテレビを消して、レンジで温めたマックスコーヒーでパサパサの食パンを流し込む。

 

 そして、俺しかいない家から出て鍵を閉め、徒歩で学校に向かうべく、いつもより早めに登校を開始した。

 

 バス登校をする気には、流石になれなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

『え!? 学校に自転車置いてきた!? もっと早く言ってよ! っていうか、昨日どうやって帰ってきたのさ! 気が付いたら部屋にいるし! 小町的にポイント低い!』

 

 小町はまるで一昔前のコントのように分かりやすくアタフタしながら、俺よりも大分早く――日直なのに、俺のチャリでにけつして行くことを当てにして余裕ぶっこいていたらしい――家を飛び出した。

 食パンを口に咥えて。

 ……美少年転校生とフラグ建てたりしないだろうな。そうなった場合は大志に続いて絶対に許さないリストに加えなければならなくなるが……。

 

 とにかく小町の言う通り。

 俺は昨日、気が付いたら自分の部屋にいた。

 

 昨夜、ガンツに最後に転送された後、気が付いたら自宅の自室にいた。

 

 あの黒いスーツを身に纏い、手に学生鞄とあの丸い短銃を持った姿で。

 

 その時点で俺は内心、あの常識外れの体験が夢ではないと半ば確信していたのだが、その後、帰りが遅くなったことへの小町への対処と、ぐったりとした体の疲れからの睡魔によって、現実から目を逸らすように、すぐさま夢の――本当の夢幻の世界へと、ベッドに身を投げ出してダイブした。

 生憎、こちらの夢の方はまるで覚えていないが。本当に熟睡すると夢は見ないというから、本気で限界だったようだ。少なくとも精神は。

 

 そんな限界体験をしながらも、こうして遅刻もせずに徒歩通学する俺マジで学生の鏡。

 

 まぁ、今日は多少無理してでも学校には行かなくてはならない。

 ()()()()()()()とやらが、いつあるか分からない以上、葉山達との情報共有は急務だ。

 

 ……そう考えると、葉山はともかく相模がサボらないか心配だ。

 俺はあいつ等とLI〇Eの交換などしていないから、会議をするにも直接会わなくてはならないわけだが……。

 昨日、精神的に一番参っていたは相模だろうしな。あの豆腐メンタルなら有り得るから怖い。これだからゆとりは。あれ、同い年じゃね?

 

 そうして思考に耽っていると、どうやら大分学校に近づいてきたようだった。

 いつもより早めに家を出たのだが、徒歩ということもあり結果的にはチャリで来るいつも通りの時間に着いたようだ。

 

 今日もぞろぞろと学生達が一糸乱れず一つの校舎に向かって集まってくる。

 

 お友達同士と固まって登校する者。

 あるいは、バラバラに登校しつつも見知った者を見つけて合流する者。

 または、音楽プレーヤーを耳に当てあくびを噛み締め単独で登校を果たす者(言うまでもなく俺はこのグループだ。ぼっちなのにグループとはあら不思議)。

 

 だが、この有象無象な愛すべき同校生諸君らにとっては、今日はあくまで昨日の続きで、変わらない有り触れた日常なのだろう。

 代わり映えのしない、大多数にとっては思い出にすら残らない、飽きてすらいる光景なのだろう。

 

 今日もなんとなく、惰性で来ているに過ぎない。

 ひょっとすれば、昨日告白にでも成功してリア充の仲間入りを果たし、昨日までとは世界が変わって見えているハッピー野郎もいるかもしれないが――少なくとも、俺以上に世界が変わって見えている奴はいないだろう。

 

 

 まず、俺は嬉しい。柄にもなく、少し感動している。

 独りで登校し、教室に辿り着いても当たり前のようにぼっちで、放課後の部室も決して居心地の良い空間とは言えない。

 つまりは限りなくアウェーで、登校した瞬間から帰りたくなるような――――まさしく惰性で登校を続けていたような、この場所に。

 

 今日も惰性で登校出来ていることが、はっきりと嬉しかった。

 改めて――俺は生き残ることが出来たのだと実感する。

 

 そして、俺は怖い。知らなくてもいいようなことを、知ってしまったからこそ恐怖する。

 

 今朝のニュース。俺達はいなかったことになっていた。

 あのバスには初めから誰も乗っていなくて、俺達の被害は、死亡は、なかったことにされていた。

 

 その御蔭で今日もこうして何食わぬ顔で雑踏に紛れ込むことが出来ているわけだが――俺は、あのニュースを見た時、こう考えた。

 

 もし、俺が昨日ねぎ星人に殺されていたら?

 あの眼鏡やチャラ男達のように、殺されていたら、どうなっていたのだろうか。

 

 まず、本体の方は、既に俺達がされているように、人知れず処理されているのだろう。

 しかし、彼らのように、複製()の体すら、死んでしまったら――殺されてしまったら?

 

 果たして、どうなる?

 行方不明扱いされるのか? いや、短期間ならそれでもいいだろうが、長期に渡ると隠蔽も難しくなってくる。

 それにあの人数が――メモリーにあったあの人数が全員行方不明となれば、それはもう国が動いてもおかしくない――動いていなければ、おかしい。

 

 それでも、少なくとも国民の大多数は違和感なく日常を過ごしている。

 あんな地獄を知らずに、あんな化物を知らずに――何も知らないかのように、日常は動いている。

 

 となると――やはり。

 

「…………記憶……か」

 

 それしか考えられない。100点メニューの一番にあったように、ガンツは人の記憶を好き勝手にすることが出来る。 

 つまり、ガンツによるコピー体である俺達だけでなく、日常を形成している無関係な人々にすら、あの黒い球体の支配は及ぶ、と、いうことになる。

 

 背筋が震え――ぞっとした。

 いや、そもそも無関係だった――昨夜まで、昨日の今頃ですら無関係だった俺達を、日常世界の一般人だった俺達を、無理矢理に己の関係者にしたのはガンツだ。ガンツは、俺達を()()()()()()()()()()()()()()

 

 そうなると、ここにいる全員が――この日常の住人全てが。

 いや、ひょっとすると、世界中の人類全てが、あの黒い球体の――ガンツの、支配下に置かれているのはないか?

 

「……………っ」

 

 今は『死んだ人間のみでしか遊ばない』というルールを守り、自分の情報を広めないように『首輪』を付けてまで隠蔽工作をしているから、この一見平和な日常を守れてはいるが。

 

 もし、あのとんでもないテクノロジーを、ガンツが乱雑に振り回し始めたら?

 もし、あのガンツを悪用しようと企み、それが可能な存在が現れたら?

 

 俺は――何度考えても、どう考えても、“ガンツ”は人の身に余るものと思えてならない。

 

 何であんなものがあるんだ? そもそも、誰が、どういう目的で作ったんだ?

 

 ガンツとは、何なんだ?

 

「……………………」

 

 気が付いたら下駄箱に到着していた。

 俺は目を強く瞑り、思考を強制的にシャットダウンする。

 

 今、そんなことを考えても仕方がない。

 俺なんかがいくら無い頭を絞って考えた所で、今すぐに答えが出るとは思えない。

 

 それよりも俺が――俺達が最優先に取り組むべきことは、次の、一回一回の『ミッション』を生き残る確率を少しでも上げることだ。その為の努力をすることだ。

 やりたいことは、試したいことは、既にいくつか思いついている。

 この辺のこともなるべく早くアイツと話さないと――。

 

「――やぁ、ヒキタニ君。おはよう」

 

 そんなことを考えながら靴を下駄箱に仕舞い込んでいると、タイミング良く葉山が現れた。

 サッカーのユニフォームだ。どうやら朝練を終えてきたらしい。

 

 昨日の今日でよくやる、と思ったら―――顔色があまり良くはない。昨日の今日で、あまり寝れていないのか?

 

「ああ」

 

 いつも通り、最低限のやり取り。

 ふと、葉山の後ろを見る。どうやら集団から抜け出してきたようで、戸部達とはまだそれなりの距離がある。そのことを確認し、俺は葉山に小声で告げる。

 

「それで、昨日のことだが……昼休みでいいか? 場所は屋上で」

「……分かった。彼女には、俺から伝える」

 

 誰かに聞かれることを恐れ、極力固有名詞は出さない。

 すると、なんだか以心伝心しているみたいになり、海老名注意報が脳内で鳴り響いたが、全力で気付かないふりをする。俺の精神衛生の為にも。

 

 あ、海老名さんで思いだしたが(それで思い出すのも変だが)、屋上といえばよくか……かわ……大志の姉ちゃんがいる。(け、決心して名前思い出すのを諦めたわけじゃないんだからねっ!)アイツ、最近は海老名と少し仲が良いから教室で食うことも少なくないが……事が事だ。万全を期すか。

 

「それとな、葉山――「お~す、隼人くん!ちょ、先に行くとはないわ~」

 

 海老名さんに川なんとかさんを足止めするよう、葉山に頼もうかと思ったが、どうやら戸部達が追いついてしまったらしい。

 俺は、そっとステルスヒッキーを発動し、何食わぬ顔で上履きを取り出し、その場を後にしようとする。

 

 葉山が俺を呼び止めようとするが、それを目線で制する。

 俺と葉山はそんな仲良くおしゃべりする関係じゃない。なるべくいつも通り、昨日通りにすることが大切だ。

 

 ……おい。周りに付き合ってることが秘密のカップルみたいとか言うな。

 海老名シャワー(鼻血)が吹き荒れるだろうが。悪寒しか感じないからやめろ。

 

「お、ヒキタニくん、ちーす!」

 

 すると、戸部がステルスヒッキ―をものともせず俺に挨拶(?)をしてくる。

 

 ……こいつにとっちゃ、俺は一世一代のマジ告白を邪魔した奴でしかない筈なのにな。

 どうしてそんな邪気のない笑顔を向けられるんだか。

 何も考えてないバカなのか? それとも全部受け入れて、それでもものともしない器の持ち主か?

 

「……ああ」

 

 どっちにしろ、俺は一生ああはなれない。

 

 羨ましくなくも、なくもなくもない。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 俺は流れるように誰にも気付かれずに教室に滑り込む。

 もう始業ギリギリなので教室にはいつものように、幾つものグループが出来上がっていた。

 

 窓際の席では三浦と海老名さんの間に由比ヶ浜も居る。

 一瞬そちらに目が行くと、由比ヶ浜もこちらを見ていて目が合い、そして軽く微笑む。

 

 選挙後も由比ヶ浜とは、特別に溝が出来たわけではない。

 

 だが、それでも――俺達は奉仕部だ。あの三人としての関係、空気が万全でない以上、やはり由比ヶ浜との関係もベストとはいえない。

 そして、それは俺なんかよりも遥かに雪ノ下と仲が良いアイツの方が感じている筈だ。

 

 ……アイツの為にも、どうにかしなくちゃな。

 

 由比ヶ浜とのやりとりはそれで終わり――基本的に俺と由比ヶ浜は教室ではこんなもんだ――俺は席に移動する。

 

「おはよ」

 

 ん?

 今、誰に挨拶された?

 

 俺に挨拶するような人間はこの教室には戸塚と由比ヶ浜くらいしかいない。

 

 由比ヶ浜との挨拶(?)は済んだし、天使戸塚なら俺が声で分からない筈がないのだが……。

 

 その声の方向に目を向けると――

 

――――相模南、だった。

 

 は? 相模? あの相模が俺に朝の挨拶だと?

 

 相模は俺の横をさっとすれ違い――すれ違いざまに小声で挨拶したようだ――そのまま自身のグループ連中の元に向かう。

 

 俺は「お、おはよう……」とバカみたいな顔で呟く。

 思わず去っていく相模の方を見てしまうが、直ぐにこのままだと「うわっ、なんかアイツこっち見てるよ~www」と相模グループの奴らに笑いものにされてしまうので――相手が相模というのが色々な面で最悪だ――直ぐに表情を戻し、自身の席に座り、イヤホンの音楽の音量を上げ、突っ伏せる。

 

 ……何やってんだ、相模。

 

 昨日のことを誰にも悟られない為にも、ここはいつも通り無視する場面だろうに。

 いや、相模もそれが分かっているからああいう形をとっんだろうな。悪いのは必要以上に動じてしまった俺か。

 

 俺は突っ伏した腕の間からこっそりとアイツを覗く。

 

 ……やっぱり。空気を読むことに長けているアイツが見逃すはずがないか。

 

 

 由比ヶ浜結衣は神妙な顔でこちらを見ていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 一限が終了後、俺はさっと教室を後にする。

 別に学校をエスケープするわけでも、保健室に行ってサボタージュするわけでもない。

 むしろ一限が数学だったため、寝不足も解消し今はベストコンディションだ。

 

 俺が向かった先は、自販機。

 毎度お馴染みマックスコーヒーを購入し、一息つく為だ。

 

 俺がマッ缶の優しい甘みに身を委ねていると、予想通り――由比ヶ浜がやってきた。

 

「ヒッキ―」

「おう、由比ヶ浜。どうした? またジャンケンに負けたのか?」

「昼休みでもないのに、飲み物ジャンケンなんかしないよ」

 

 特に棘の無い、穏やかな会話。

 だが、由比ヶ浜の表情は、どことなく固い。

 

「……ねぇ、ヒッキ―」

「なんだ?」

「さがみんと、なんかあったの?」

 

 …………やっぱり、か。

 

「どうして、そんなことを言うんだ?」

「いや、さっきさがみん、ヒッキーにおはようって言ってたような気がしたから。珍しいなって思って」

「……よくわかったな。どんだけ俺のこと見てんの? ストーカーなの?」

「はぁ!? べ、別に見てないし!? た、たまたまだよ、たまたま! ヒッキーキモい!」

 

 おおっ、ちょっと返す言葉を考えるまでの繫ぎのような言葉だったんだが、そこまで必死に返されると本当じゃないかって逆に勘違いしそうになるぞ。

 

「……さあな。見てたんなら分かるだろう。俺も驚いてんだ。まぁ、こっちの聞き間違いかもしんねぇしな。俺にはおはようって聞こえたけど、実はなんで来てんの? って言ったのかもしれん」

「似ても似つかないよ……ってか被害妄想にしても毒強過ぎ……」

「何を言う。こんなものは雪ノ下なら挨拶代わりに……っ」

 

 俺は失言に気付き、思わず言葉を止める。

 由比ヶ浜も顔を逸らして、力無い言葉を返した。

 

「っ……はは、そうだね。ゆきのんならそこからもっと畳み掛けるよね。……はは」

「…………そうだな」

 

 気不味い沈黙が支配する。

 ……何やってんだ俺は。それは()()()()、仮面を着ける前までの雪ノ下だろうが。

 由比ヶ浜に気ぃ遣わせてんじゃねぇよっ……。

 

 お互い、次の言葉を出せずにいた所に――沈黙を消すように予鈴のチャイムが鳴る。

 

「……行こうぜ。次は平塚先生の授業だ。遅刻したら殴られちまう」

「はは。平塚先生、ヒッキ―には容赦ないもんね~」

「まったくだ。婚活のイライラを拳に乗せやがるからな。ホント、早く誰かもらってやれよ…………なぁ、由比ヶ浜」

「ん? なぁに?」

 

 俺は努めて――言葉に感情を篭めずに、言った。

 

 

「俺、しばらく奉仕部休むわ」

 

 

 先行し、彼女に背を向けて放った言葉――彼女の歩みが止まった気配がした。

 

「――え」

「ちょっとな。やることが出来たんだ」

「え、や、やだよ! ヒッキ―奉仕部やめちゃう「辞めない」……え?」

 

 由比ヶ浜の言葉にみるみる涙が混じり始める。

 俺はそれを反射的に塞き止めるように、後ろを振り向き、だが顔だけは俯いたまま――彼女の顔を見ることも出来ないまま、力強く言う。

 

「絶対に、辞めない。俺は奉仕部を、必ず()()()()。その為にも今は、やらなきゃいけないことがあるんだ」

「……ほんと? 本当に辞めたりしない?」

「……ああ。まだ、お前とハニトーも食ってないしな」

 

 何て空っぽな言葉だ。

 中身が伴わない、彼女の目を見て言うことすら出来ない滑稽な宣誓。

 

 だが、俺は、それでも虚勢を張り続ける。

 上滑りの戯言だと分かっていながら――ただ、彼女にそんな顔をして欲しくなくて。

 

「――――だから、泣くなよ」

「……………だってぇ」

 

 由比ヶ浜は目から涙を零す。

 怖かったのだろう。人一倍他人に気を遣い、場の空気を守ることに長けている由比ヶ浜にとっては、今の奉仕部の危うさを誰よりも敏感に感じ取っていたはずだ。

 彼女にとって、奉仕部がどれだけ大事か……俺のような理性の化物でも、人の感情を理解できない怪物でも、なんとなく分かる。

 

 ……俺は、今からそんな由比ヶ浜の気持ちに、優しさにつけこむ。

 我ながら最低だ。唾棄すべき所業だ。それでも、この役目を託せるのは、由比ヶ浜しかいない。

 

「……なぁ、由比ヶ浜」

「……なぁに?」

 

 ぐすっと涙を啜る由比ヶ浜に―――俺は。

 

「由比ヶ浜は、雪ノ下の傍にいてやってくれないか?」

 

 俺は――きっと、何よりも重いものを、背負わせた。

 

「………………」

「お前にも、三浦達との付き合いとか、他にやらなきゃいけないことがあるのは分かってる。……でも、それでも、俺が戻るまでの間、雪ノ下を一人にしないでやって欲しいんだ」

 

 今の雪ノ下と、あの空間で、二人だけで過ごす。

 彼女に、あの他人を寄せ付けない、仮面を被った態度で接せられる。

 

 雪ノ下の事を本当に大事に思っている、由比ヶ浜には相当な苦痛の筈だ。

 

 だが、それでも今の雪ノ下を一人にしてはいけない気がする。

 これ以上、雪ノ下に()()()()()()――きっと、これからどんなに頑張った所で、あの頃にはもう戻れない。

 

 その場所から逃げ出すとも取られる行動をしようとしている俺に、こんなこと言えた義理ではないことは分かっている。

 

 だけど、それでも、由比ヶ浜なら。

 

 そう期待してしまう。そう押し付けてしまう。

 ……何やってんだ、俺は。懲りない、本当に成長しないな。小町にごみいちゃんと言われるのもしょうがない。

 

「うん! 任せて! ゆきのんは、絶対あたしが一人にしないよ!」

 

 由比ヶ浜は、涙で潤んだ瞳を嬉しそうに輝かせ、キラキラと笑った。

 その綺麗な笑顔は、思わず息を呑むぐらい魅力的で。

 

 ……本当に、すごい奴だよ。お前は。

 

「ねぇ! その用事が終わったら、今度こそハニトー食べに行こ! ゆきのんも連れて三人で!」

「……まぁ、行けたら行くよ」

「それ行く気がない人が言うセリフだよね!?」

 

 でも、そのハニトーはさぞかし美味いんだろうな。

 

 

 

 結局、授業には間に合わず――由比ヶ浜が泣いたことを隠す為に化粧し直すのを待っていた――平塚先生には授業後に魂の一撃を頂いた。

 その上、三浦には由比ヶ浜を泣かせた嫌疑をかけられ――獄炎の女王の目は誤魔化せなかった――そのまま校舎裏に呼び出された。やっぱ怖ぇよ、アイツ……。

 





こうして、比企谷八幡は一時、日常に帰還する。


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奉仕部に、戻ってくるから

 

 昼休み。

 場所は川崎(思い出した)の黒のレースを目撃した――そして文化祭の時に相模に暴言を吐き、葉山に胸倉を掴み上げられた――総武高校、屋上。

 

 そこに再び、こうして俺、相模南、葉山隼人の三人が揃う日が来るとはな。

 人生というのは、分からないものだ。

 まぁ、分からないというのであれば、あんな命懸けのサバイバルゲームに巻き込まれる方がよっぽど予想外な出来事なんだが。

 

「それじゃあ、始めようか」

 

 葉山の一声で、俺達は会議――というより、情報共有会を始めた。

 

 その話し合いは予想以上にスムーズに進んだ。

 俺は正直、この昼休みだけで終わるか不安があり、しかし何度も集まると怪しまれるしで、内心どうしようかと思っていたんだが、終わってみれば昼休みを五分以上残しての終了だった。

 

 この結果は、相模が俺の思っていた以上におとなしかったのが大きい。

 

 会議はやはり、持っている情報の多さからか、俺主導で進んだ。

 

 だが、相模はそれに不満そうな態度を見せなかった。

 場所が場所だけに、彼女が文化祭の時の確執を思い出し、皮肉の一つでも飛ばしてくるか――むしろ、皮肉程度で済むなら御の字だと思っていた――と身構えていたが、そんなことは一切なく、彼女自身が持っている独自情報もないらしいので、相模は静かに聞き役に徹していた。

 

 俺はちょっと気持ち悪くさえ思っていた。何だ? コイツ本当に相模か? もしかしたら偽物なんじゃねぇか?

 ……いや、このセリフは今の状況じゃ冗談にしても性質が悪いし、そのままブーメランで自分に帰ってくるからやめよう。

 

 まぁ、結果としてスムーズに終わることに越したことはない。

 このメンバーが一堂に会するだけで当事者ながら猛烈な違和感だ。もし、こんな現場を誰か(数少ない)知り合いに見られたらうまい理由を取り繕う自信がない。

 

 

 会議の成果は次の通りだ。

 

 俺が出した情報は――

・Xガン、Yガン(具体的な名前があった方がいいとのことで命名)の性質の違い。

・スーツの効果(身体能力、防御力のアップ)。

・コントローラーの分かる限りの使い方。

・エリア外に出ることのペナルティ。

・(方法は分からないが)姿を消すことが出来るということ。

 

 葉山が出した情報は――

・Xガンの詳しい説明。(何やら操作にコツがいる、発光後効果が現れるまでタイムラグがあること、など)

・自身の姿が一般人から見えないと発覚した時の状況。(戦闘の際の器物の破壊は一般人からも認識されるということ)

・あのゴツイ長銃(チャラ男が使っていたらしい)はXガンと同様(もしかしたら威力等に違いがあるかもしれない)の性質をもつということ。(以下Xショットガンと命名)

 

 殆どが俺由来の情報だったが、こういうのは独占しても(わだかま)りしか生まないし、それに誰かに話すことによって俺自身もその情報を再検討出来る。メリットは大きい。

 

 それに、器物破壊は隠蔽出来ないという初耳の情報も知ることが出来た。

 

 初めて発見できた、ガンツの限界のようなものだ。

 欠点が無い奴を相手取ることほど、徒労を覚えることはないからな。正直、ホッとしたような気持ちになれたのも事実だ。

 まぁ、別にガンツが敵というわけではないが、俺にはアイツが味方だとも思えないからな……。

 

「じゃあ、みんな持ってる情報は、これくらいかな」

「ああ。だが、これをやるとやらないじゃ大違いだ」

「……うちだけ、何の情報も持ってない」

「気にしないでいいよ。こういうのは、相手に伝えることで知ってる情報を再検討する意味合いも兼ねてるんだから。聞き役も重要な役目だ」

「……葉山くん♡」

 

 ……確かに俺も同意見だが、葉山に言われると癪だなぁ。俺よりも出した情報少ないくせに。

 まあいい。葉山が相模にフラグを立てようとどうでもいい。

 

 それよりも、今はやるべきことがある。

 

「――だが、何よりも重要なのは、必ず、次のミッションがあるということが、ほぼ確定的だということだ」

 

 俺がいちゃつく二人に向かって意図的に低い声で発した言葉に、相模と葉山が表情を引き締め、真剣味を帯びさせる。

 ……だから、何で俺がリーダーっぽいことをしてんだよ。仕事しろよ、葉山。

 

 ……まぁ、いいか。この集会を提案したのは俺だし、一回で情報共有も済んだからコイツらとこうして集まるのも、これが最後だ。

 慣れない役だとは自覚しているが、面倒なことはさっさと終わらせるに限る。早く締めに入ろう。

 

「そう、だな」

「……また、あるんだよね」

「……そうだ。そこで俺の疑問なんだが――あの部屋には死んだ人間が集められる。そして、100点を稼ぐまで、縛られ続ける。じゃあ、俺達みたいな()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()時は、どういった手順で『あの部屋』に呼び戻されるんだ?」

「――あ」

「確かにそうだな……」

「流石に、毎回死ぬような目に遭わせられるとかはないだろう。だからもっと穏便に集められる筈、だと思う」

 

 まぁこれは、ガンツがあくまで死んだ人間を無作為に回収しているという希望的観測に基づく見解であって、元々玩具にしようと目を付けた人間を死ぬように仕向けて回収しているという絶望的見解を見ないふりをしての仮説だが。

 ……これのどちらでもバスとトラックの運転手両名が転送されなかった理由になるのが嫌な所だ。判断がつかない。

 

 そして、もし後者なら。

 ガンツは死人しか――少なくとも呼び寄せることはできないということになり、俺らはミッションに呼ばれる度に文字通りの意味で死ぬ思いをすることなる。

 そして、この仮説が事実となった時は、同時にガンツが人の運命を操れるという事実も判明することになるのだが――しかし。

 

 少なくとも俺には、前者の説を推せる――希望がある。

 

「そして、俺の見解では。あの『転送』で強制集合させられると踏んでいる。ミッション終了後にエリア内からあの部屋に転送されたように」

 

 ガンツは生人を呼び戻せないというわけではない、と、これから分かる。

 ……まぁ、これはガンツにとって自分が作ったコピーは死人扱い可能という解釈も出来るし、それとガンツが人の運命を操れないかどうかは別問題だが。

 

「確かにそれが一番ありそうだな」

「うわぁ……あれ嫌なんだよね」

「確かにあれは気分のいいものじゃないことには同意するが、今俺が問題にしているのはそこじゃない。――――問題は、その転送が一般人に見られるかどうかだ」

 

 二人の表情が固まる。

 そう。これは実はかなり高い危険性(リスク)を孕んでいる。

 

「中坊は言っていた。あの部屋のことを誰かに話すと頭が吹っ飛ぶと。アイツは冗談めかして言っていたが、俺はかなり信憑性は高いと思う。ガンツは情報漏洩の防止には結構神経質だ。だからこそ、もし転送シーンが一般人に視認可能なのだとしたら、そのシーンは絶対に見られちゃいけないということだ。もし見られたら、それだけで頭が吹っ飛ぶかもしれない」

「で、でも! その転送ってのがいつ来るか分からないんでしょ!」

 

 確かにそうだ。いつ来るか分からないものに四六時中備えろといっても無理だろう。

 

「……こういう言い方はおかしいかもしれないが、俺はその辺はある程度ガンツを信用している。そういうタイミングは気を遣ってくれるんじゃないかってな。――だが、ガンツは完璧じゃない。中坊の、あのコピー話を聞くと、特にそう思う。……だから、心に留めておけって話だ。もし人混みとか街中で転送が始まったら、速やかに人気のない場所に移動するとか、前もってそういう心構えをしておくかいないかで、いざという時の混乱が大分違うからな」

「……っていうか、よくアンタそんな最悪の事態を想定できるね。神経質っていうならアンタこそが神経質なんじゃない?」

 

 相模は呆れた――というより気持ち悪いものを見る目で俺を見てくる。

 うっせ。ぼっちは常に最悪の事態に備えておくもんなんだよ。いざという時に誰にも頼ることが出来ず、自分で何とかするしかないからな。

 

「でも、その通りだな。せっかくのヒキタニ君の助言だ。活用させてもらうよ」

 

 葉山は相変わらず爽やかだ。

 こういう場合、リア充は不利だな。絶えず誰かしらと一緒にいるということは、常にこの危険性と共にあるということだ。

 その点俺はもしかしたら教室の中で転送が始まっても下手すればスルーされるレベル。それはないか、流石に。……ない、よな?

 

「一応気に留めておいてあげる。……実行できるかは分からないけど」

 

 確かに相模は、もしグループの連中と一緒にいるときに転送なんて始まったら、分かり易くパニックになりそうだな。

 そこら辺は個人でなんとかしてもらおう。そこまで面倒みきれん。

 

「よし。じゃあ、そろそろ切り上げて、教室に戻ろうか。一応、怪しまれないように、時間差をつけてね」

 

 そして、俺は相変わらず、一番最後に屋上を後にした。

 

 まぁ、今回に限っては誰に自主的になんですけどね。ホントだよ?

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、放課後。

 

 俺は奉仕部の部室前に居た。

 

 帰りのHRが終わってすぐさまこの部屋へとやって来たが、それでも――雪ノ下は、俺よりも早くこの部屋に来て、あの窓際の席で本を読んでいるだろう。

 

 あの日。

 雪ノ下の期待を裏切ってしまったあの日。

 雪ノ下が俺を、俺と由比ヶ浜をある種見限った――雪ノ下に見限られたあの日。

 

 あれ以降、雪ノ下は仮面を被ってしまったけれど。

 

 それでも雪ノ下は、この場所に居続けた。

 こうして誰よりも早く、この場所に来てくれ続けた。

 

 それこそ惰性で、体に染みついたルーチンワークをこなすように、無感情な機械的行動だったのかもしれないけれど。

 

 もしかしたら、まだ望みを捨てずに、俺達に期待してくれているのかもしれない。

 その表れなのかもしれない。

 

 …………ダメだな。死ぬような思いをしたせいか、やめると誓った手前勝手な期待の押し付けが止まらない。

 

 特に雪ノ下相手には、一度酷く後悔した筈なのに。

 

 それに、俺にはそんな資格はない。

 

 俺は今から、そんなありもしない、かけられてもいない期待を――裏切るんだから。

 

 

 

「ういーす」

「あら、比企谷くん。こんにちは」

 

 雪ノ下は、読んでいた文庫本から目を上げ、俺に挨拶をする。

 

 挨拶代わりの罵倒もない、すっかり慣れてしまった平和な光景。平和なだけな、ありふれた光景。

 どこにでもありふれる、俺達らしさなど皆無の光景。

 

「ん? どうしたの、比企谷くん?」

 

 扉の所から動かない俺を訝しがってか、雪ノ下が疑問を投げかける。

 

「……ああ、雪ノ下」

「……本当に、どうしたの、比企が――」

 

 喉にへばりついたように離れない、飛び出すことを拒絶するような往生際の悪い言葉を――俺は、努めて、淡々と吐き出した。

 

 

「俺、しばらく奉仕部休むわ」

 

 

 その時、一瞬、垣間見えた気がした。

 

 あの選挙の時の、あの言葉が脳裏を過ぎる。

 

『わかるものだとばかり、思っていたのね……』

 

 空虚な――冷たく、何かを失くしてしまったような呟きが、再び脳裏に響く。

 

「――――」

 

 雪ノ下の目が、失望に、彩られた。

 

 気が、した。

 

 しかし、それも一瞬。

 

「……そう」

 

 雪ノ下は、再び仮面を被った。

 心なしか――それは、厚みを増した、ような気がした。

 

 俺は、それに気づかない振りをして、言葉を続ける。

 

「……用事が済んだら、また来る。だけど一応、平塚先生に聞かれたら言っておいてくれ。俺が直接こんなことを言ったら、あの人は問答無用で拳を振るいかねん」

「――ええ。伝えておくわ」

「……それじゃあな。依頼があったら伝えてくれ」

「――ええ。分かったわ」

 

 雪ノ下は、こちらを見てすらいない。

 何かに彩られた目は、何かを失った目は、手元の文庫本の文字列に注がれたままだ。

 

――その手は、一向に、次のページを捲らないが。

 

 俺は雪ノ下に背を向ける。

 

 そして、扉に手を掛け――

 

「――雪ノ下。俺が用事を終わらせて戻ってきたら……きちんと話そう。……その似合わない仮面も外して。本音で」

 

 この言葉は、少しは雪ノ下に響いただろうか。

 それとも、こんな言葉では動揺もさせられないほど、見限られてしまったのだろうか。

 

 何よりも滑稽なのは――もし、そんな日が来たとしても、きっと俺達は本音などでは話せないのだろう。

 

 だって――こんなにも、何かを言わなくてはと思っているのに、何も言葉にならないのだから。

 

 故に俺は、言葉にするのが、答えを知るのが、形を得るのが怖くて堪らない臆病者は。

 

 雪ノ下の顔を、瞳を見ないように、後ろ手で扉を閉め、何も言わず――奉仕部を後にした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「あ、ヒッキ―……」

 

 奉仕部部室から下駄箱へ向かう途中、奉仕部へと向かっていたのだろう由比ヶ浜と遭遇した。

 

「……今、雪ノ下にしばらく部活を休むことを伝えてきた」

「……そっか。別に、あたしがゆきのんに伝えたのに」

 

 由比ヶ浜はそう言ってくれたが、俺は俯きながら首を振る。

 これは俺なりのけじめだ。これ以上、由比ヶ浜におんぶにだっこってわけにはいかない。

 

「……じゃあな」

「っ……」

 

 俺は由比ヶ浜の横を通り過ぎる。

 すると、数歩進んだ俺の背中に、湿っぽい声の叫びが届く。

 

「ま、また! ……戻ってくるんだよねっ!」

 

 由比ヶ浜の、悲痛なそれは、俺の足を止めるに十分な威力だった。

 声の調子からして、もしかしたらまた泣いているのか。

 

 だが、それを確認することは出来ない――振り向くことすら出来ない、臆病者には何もしてやれることも、そんな権利もない

 ……俺は、由比ヶ浜を何度泣かせれば気が済むんだ。また三浦に校舎裏に呼び出されちまうな。自業自得以外の何物でもないが。

 

 小さく、か細い声で、俺は返す。

 それ以上大きな音量を求めると、何かが溢れてしまいそうだった。

 

「…………ああ」

「…………ねぇ。用事って何? もし、もしあたしに何か、出来ることがあるなら――」

 

 だが、そんな自制は、そんな由比ヶ浜の声で弾け飛ぶ。

 抑えきれないものが瞬時に膨れ上がり、俺は廊下中に響き渡る―――叫びを上げた。

 

「ダメだっ!!!!」

 

 思わず声を荒げてしまった。

 由比ヶ浜が怯えるのが気配で分かる。

 

 だが、ダメだ。絶対にダメだ。それだけはダメだ。

 

 由比ヶ浜を、『あの部屋』に関わらせることは、絶対にダメだ。

 

 例え、俺が死んだとしても。それだけは…………。

 

「………………わるい」

 

 由比ヶ浜からの返答はない。

 俺は一刻も早く彼女の前からいなくなるべく、早口で告げた。

 

「大丈夫だ。これは、俺が何とかすべき問題だ。お前には関係ない。……だけど、約束する。必ず、俺は――」

 

 だけど、この言葉だけは、この誓いだけは。

 

 例え、どれだけ資格がなくとも、薄っぺらでも――それでも、真摯に、彼女には伝えなければならない。

 

 

奉仕部(ここ)に、戻ってくるから」

 

 

 俺は、それだけを告げると、再び足を踏み出す。

 

 余りにも申し訳なく、余りにも恥ずかしく、余りにも――許せなかった。

 

 合わせる顔があるわけがなく――俺は、終ぞ由比ヶ浜の方を振り返らずに、まるで地面に八つ当たりするような歩調で、帰途についた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 比企谷八幡は去っていく。

 

 由比ヶ浜結衣は、その背中を見ていることしか出来なかった。

 

 彼が、あれほど声を荒げるのも、あんなに感情を露わにするのも、初めて見た。

 

 思えば、今日は始めからおかしかった。

 相模と挨拶を交わすのも不自然だったが、その後、自分をあんなに素直に頼るなんて、これまでの彼からは考えられないことだった。

 

 生徒会選挙の件で心を閉じたのは、雪ノ下雪乃だけではない。

 

 あの依頼の時に、比企谷八幡は少なからず手法を変えた。

 自分を犠牲にせず、周りを頼り、誰も傷つかない方法を、本人なりに模索した。

 

 その結果が、あれだ。

 

 本人がどこまで自覚的なのかは分からない。――それは、八幡だけでなく雪ノ下にも言えることだが。

 

 八幡はその件を――他人に頼ったことを、手法を変えたことを――意識的にしろ、無意識的にせよ。

 

 失敗だったと。間違っていたと。

 

 後悔している。

 

 由比ヶ浜は、そう思っていた。

 自分は今回助けられる側だったので、八幡を手助け出来たわけではない。

 もちろん、八幡を助けた人達を責める気など毛頭ないし、八幡自身を責める気も皆無だ。

 感謝こそすれ、恨む気持ちなど一切ない。

 

 だって自分も、雪ノ下の親友を自負する自分も、雪ノ下が仮面を被る事態になるまで何も出来なかったのだから。

 

 何も気付けなかったのだから。

 

 だから、歯がゆかった。

 

 八幡が。あの比企谷八幡が。

 遂に自分を犠牲にせず、他人を頼ってくれた、今回の依頼で――結果を残せなかったことが。

 いや、一色いろはの依頼はクリアしたのだから、結果は残せたのだが。

 

 いつものように、いや、いつも以上に。

 後味の悪い結果になったことが。そう、してしまったことが。

 

 

 だけど、そんな八幡が、自分を頼ってくれた。

 再び他人を、信用してくれた。

 

 凄く、嬉しかった。

 

 しばらく奉仕部を休むと言われたときは、もうダメかと思ったけれど。

 

 彼は――比企谷八幡は、まだ諦めていない。

 あの時の奉仕部を取り戻すことを、諦めてない。

 

 なら、自分も諦めない。

 

 きっと比企谷八幡は戻ってくる。

 

 それまで雪ノ下雪乃を支えるのは、自分の仕事だ。

 

 そう意気込んで、奉仕部に向かった。

 

 

 

 

 そして、奉仕部からの帰りであろう、比企谷八幡に遭遇した。

 

 その時の彼の顔を見て、なぜだかはわからないけど、急に不安になった。

 

 だから思わず、彼に問い詰めた。

 

 彼を信じた筈なのに、このまま黙って行かせることは出来なかった。

 胸の内から、嫌な予感が溢れてくる。

 

 

「ダメだっ!!!!」

 

 

 彼に拒絶されたのは、初めてではない。

 

 しかしここまで力強い――しかし弱弱しい拒絶は初めてだった。

 

 去っていく彼の背中が、とても遠い。

 

 彼は、今、何を背負っているのだろう。

 何と、戦っているのだろう。

 

 それは、あの彼をここまで追い詰めるほどのことなのだろうか?

 

 私は、彼に何も出来ないのだろうか?

 

 由比ヶ浜結衣は、そのまま八幡の背中が見えなくなるまで見つめ続けて、そして、ゆっくりと、雪ノ下雪乃が佇む奉仕部へと足を向けた。

 




比企谷八幡は、彼女たちに背を向ける。


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何やってんだ……俺は

 

 火花が瞬くようなバチバチバチという音と共に、俺は『透明化』を解除した。

 場所は自宅の門の中、路地からは死角になる位置――それでも一応通行人がいないことを、そして家の中から小町が見ていないことを確認してからだ。万が一誰かに、の、万が一すらあってはならない。確率は可能な限り0%に近づけるよう、叩ける石橋は叩けるだけ叩くべきだ。

 

 いや、そもそも何でお前透明になってんの? という鋭いご指摘はごもっともだ。お前、朝は普通にチャリ通学だったじゃん、と。まさか透明人間のままチャリンコに乗って来たのかと。お前は何処の両津〇吉だよ、と。

 

 なんてことはない。一足早くチャリで帰宅を果たした後に、そのまま鞄を持ったまま近所の公園の公衆トイレで、()()()()()()()()()()()()()()ガンツスーツ(命名)に着替えて、

そのままトイレの中で色々とコントローラーを弄くっている内に透明化する方法を見つけ、()()()()()()()()帰宅した、というわけだ。

 

 …………いや、分かるよ。散々リスクがどうのこうの言ってるくせに何やってんの? 石橋の欄干をスキップで渡ってんじゃんって言いたい気持ちは分かる。

 

 でも、これも一応色々とこれからに繋がる実験なんですよ、マジでマジで。

 

 多少の危険を冒してでも俺は、絶対に次のミッションが始まる前に、透明化だけはマスターしたかった。

 昨夜の戦争の終盤――中坊がこの透明化を使っていたのを見た時から、これを使えるか使えないかで、これから先の生存確率は大きく変わると、俺は確信した。

 

 恐らくはかなりの『あの部屋』の経験者である中坊が――この透明化を、あの土壇場で使っていた。

 それはつまり、星人にも、この状態の俺達は目視出来ないということ。

 

 殺し殺される戦場に置いて――そんなチートがあるか?

 勿論、これから先、どんな敵に対しても有効っていう反則技ではないんだろうが――中坊もねぎ星人はかなり格下のようなことを言っていたし――それでも透明化(これ)がかなり便利な機能であることは変わりない。

 次のミッションがいつなのか分からない以上、これは一刻も早く見つけなければ、身に着けなければならない優先事項だった。

 

 ガンツスーツを持ち歩いていたのも、それが理由だ。

 これは、俺があの部屋から持って帰ってしまった代物だ。

 

 このスーツは一人一人に合わせて作られたオーダーメイドのようだったし、もしかしたら毎回毎回支給されるものではないのかもしれない。

 スーツを着用することは、透明化習得以上の、あのゲームにおける必須条件。前提条件と言ってもいい。

 

 もし次のミッション時、これを家に忘れたなんてことになったら笑い話にもなりやしない。

 だから、この鞄にはXガンも入っている。

 

 ……もし手荷物検査でも受けたらどうするんだという意見も分かるが、こればっかりはしょうがない。

 これらを発見されるリスクより、これら無しでミッションに放りこまれるリスクを避けた結果だ。

 

 Xガンに至っては、あの部屋にいっぱいあったから別に持ち歩かなくてもいいじゃんかって思うかもだが、これは家に置きっぱなしだと小町に見つかるかもしれない。

 俺の部屋に黙って入る奴だとは思ってないが、帰宅はアイツの方が早いからな。精神衛生上、たとえ危うくても俺の目の届くところに置いておきたい。念の為だ。

 

 まぁ、そんなわけで。別に何の考えもなくこんなことをしたわけじゃないんだ。

 しかし、俺は今ピンチだ。大ピンチだ。

 

「………………」

 

 ……どうやって、家に入ろう?

 

 家の中は電気が点いている。いつも通り、小町は俺よりも早く帰宅しているようだ。

 なんがかんだ色々やっていたら、結局は部活帰りと同じくらいの時間になっちまったからな。

 

 そして、俺は透明化を解除した所。つまり、がっつりスーツを着ている。

 一応は上から制服を着ているのでパッと見は分からないだろうが、このガンツ支給の真っ黒コーデは全身スーツ。すなわち首元とか、足元とかからチラチラあの光沢とか機械部分とかが見え隠れしているわけで。

 

 つまり、小町にバレる可能性も0じゃない。

 

 っていうことは……。

 

「はぁ……戻るか……」

 

 俺はもう一度、全身に透明化を施す。

 

 そして、ずこずこと公園へ戻った。個室トイレで着替えるためだ。

 お前なんで自宅(いえ)まで来ちゃったんだよと聞かれれば。

 

 ……テンション上がっちゃったんだよ、ちくしょう。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 翌日――土曜日。

 

 葉山隼人は近隣高校に練習試合の為、遠征していた。

 サッカー部となれば、土日も休みとはいかない。

 

 現在、午後三時。

 午前中から数試合をこなし、途中に昼食休憩を挟みながら、午後からは時折サブメンバーのみの試合や、一年生のみの試合などを行ったりしながら、サッカー部員としては有意義な時間を過ごしていた。

 

 だが、爽やかな青春の汗を流しながらも、葉山の表情は優れない。

 

 ここ最近、葉山はよく寝れていない。

 と、いっても、昨日と一昨日の話だが。

 

 寝ている間に、あの部屋に転送されていて、またあんな戦争をやらされるんじゃないか。

 目が覚めたら、あの部屋に転送されていて、またあんな怪物の前に放り出されるのではないか。

 

 そう思うと、文字通り、夜も眠れなかった。

 

 今は、両チーム控えメンバーを中心に組んだメンバーでの試合の最中だ。

 葉山はベンチにすら入らず、コートから程よく離れた大きな木の根元で涼んでいる。

 

 この季節に涼んでいるというのもおかしな話だが、先程の試合で葉山はフルタイム出場で、何かを振り払うように遮二無二に走り回っていたので――おかげでハットトリックを達成し、自校の応援団と相手校のファンの子達の喝采を浴びた――この木陰に吹く風が心地よかった。冷えすぎないようにと上着は着ているし、何より、今は一人になりたかったのだ。

 

「……………」

 

 ふと、歓声が沸き起こる。

 

 総武高の一年生が出したパスが上手い具合に相手校のディフェンスの間を抜け――そこに走り込んでいた戸部が、そのスルーパスにぴったりと右足を合わせて、ゴールを決めた。

 これで総武高のリードだ。

 

 戸部はレギュラーだが、彼の明るく距離を感じさせない性格からか、後輩の人望はチーム内でも抜けて厚く、同学年の控えメンバーも気さくに接しやすい。

 

 運動部というのは面倒なもので、同学年でもレギュラーとそうでないものでは浅くない溝があるものだ。それはコンプレックスやらでしょうがないものだが。

 しかし、かといってレギュラー無しで急に試合をやれといわれても、そもそも普段試合に出ていない者達であるが故に、圧倒的に経験が不足しているのだ。ましてやサッカー強豪校でもない、進学校のサッカー部。それも世代交代してまだ半年だ。

 だからといって、葉山のような強すぎるカリスマが入ると、みんな遠慮して葉山に任せきりになってしまう。それでは練習にならない。

 

 そこで戸部だ。

 彼は試合経験は豊富だし、気負いと緊張で動きが硬くなりがちな試合慣れしていないメンバー達を、上手くほぐして引っ張ってくれるだろうと、葉山が推薦した。

 

 奇しくもそれは、葉山があの日、監督と話し合って決めた人選だった。

 どうやら上手く嵌まったようだと、木陰から見守る葉山の、しかし、表情は晴れない。

 

「…………………」

 

 あの日、メンバー決めで学校に残らなければ――あんなことには……。

 そう思わずにはいられない。まるで意味のない、後悔だけのifだとは分かっていても。

 

 比企谷八幡のように現状を受け入れて、生き残る確率を上げるための努力をする方向に、葉山隼人はまだ、思考を向けられない。

 

 だが、これは葉山の方が一般的だ。普通だ。葉山が正しい。

 比企谷八幡が間違っているのだ。いや、間違ってはいないが、違ってはいる。普通じゃない。正しくない。

 

 それでも葉山には、その間違いが、間違えることが――堪らなく、羨ましい。

 

「よ。どうした、一人なんて珍しいな」

 

 葉山が声の方向に顔を上げると、そこには相手校のエースがいた。葉山自身も市選抜のメンバー合宿などで顔を合わせ、それなりに仲良くしている男だ。

 

 達海龍也(たつみたつや)

 葉山に負けず劣らずイケメンなリア充。葉山が優しい王子様タイプなら、達海はワイルドな俺様系だろうか。某ジャンプバスケ漫画なら、葉山が黄色で達海が青か。サッカー部をバスケ漫画で例えるのはどうかと思うが。

 

「……いや、ちょっと疲れてな」

「はは、さっきの試合お前凄かったもんな。やられちまったよ」

「何言ってんだ。午前中はお前もハットトリック決めただろう」

 

 達海は葉山の隣に腰を下ろす。

 この二人が話しているとまるで映画の撮影のようだが、今はカメラも回っていないし、別に二人は芸能人でもないのでマネージャーなんかもいない。サッカー部のマネージャーは現在自分達の本来の仕事を全うしている。

 

 なので、こんな絶好のチャンスを、彼らのファンの子達が見逃すはずがない。

 今も少し遠目に女子高生の集団が彼らを熱い眼差しで見つめていて、「行きなよぉ~」「いや、ちょっと押さないでよぉ~。アンタが行けばいいじゃ~ん」「え~でも~」などとお互い牽制し合っている。

 そして、彼らはお互いこんなことには慣れっこだ。お互いがこういうのが苦手なことも知っている。

 

「じゃあな。あと一試合くらいレギュラー試合もあるだろう。次は負けねぇぜ」

「ああ。またな」

 

 そういうと達海は、敢えてその女の子達が群がっている方向に足を進めた。

 あちら側が自陣なのは分かるが、迂回することも可能だった筈なのに。

 

 葉山は先述の通り、達海がああいうのを嫌がることは知っている。

 なのに、敢えてその集団に突っ込んでいったということは。

 

「……気を遣わせたか」

 

 恐らく、それほどに葉山が参っているように見えたのだろう。

 つくづく――自分と似ている。

 

 だから、だろうか?

 彼の事をいいやつだとは思っても、あまり好きになれないのは。

 

 自分も周りからそういう風に見えているのだろうか。同じように、思われているのだろうか。

 

 彼女や、彼に。

 

「………………」

 

 葉山はようやく、重い腰を上げて自陣の方に――総武高のベンチへと戻っていった。

 

 しかし、相手側のファンの子は達海が引き受けてくれたとしても、総武高ベンチ側にファンがいないというわけではない。

 葉山単独狙いというファンもアウェーとはいえいるわけで、そういう子達はむしろこちら側に陣取る。

 

 その子達の相手を、自前の薄い笑顔でこなしていると、

 

「葉山せんぱーい。次の試合の用意してくださーい」

 

 そう、一色いろはが呼びかけてきた。

 生徒会長になってからは、サッカー部に出られる機会も減ったが(というよりも殆ど皆無だったが)、今日は休日ということもあってか、本当に珍しく出席していた。

 

「ああ。今行くよ」

 

 葉山は女の子達から離れる理由が出来たとほっとしたが、ふと一色の対応が変わっていたことに気付く。

 今までの一色なら、葉山が女の子達に囲まれる前に、すぐさま壁となって葉山を引き離した筈だ。

 一色はあの三浦相手にすら引かないのだ。勝てるかどうかは別にしても。このようなミーハーなファンなどに恐れを抱くような一色ではない。

 

 しかし、今は遠目から呼びかけただけで、それ以降は見向きもしない。

 

 葉山は総武高ベンチに戻り、ストレッチを開始する。

 そして、それとなく一色に話を振ってみた。

 

「そういえば、いろは。生徒会の方は大丈夫そうか?」

「え? あ、はい。それなりに。城廻先輩もこまめに来てくれますし、雑用があったら先輩に無理矢理やらせてますから♪」

 

 葉山の靴紐を結ぶ手が、止まった。

 一色がただ()()と呼ぶ時は、あの男を指している。

 

「へぇ……ヒキタニくんに」

「ええ。まぁ、私が生徒会長になったのも、あの人の口車に乗ったからですしね。それくらいはやって貰わないと。……だけど、やっぱり忙しいは忙しいので、これからはあんまりサッカー部の方には来れないかもですね」

 

 心無しか、八幡のことを話す一色の表情は明るい。

 そして、葉山に対して猫を被るのを忘れている。

 

 以前、葉山は八幡に一色が素を見せる相手は珍しいと言った。

 しかし、今、一色が葉山に素を見せているのは、決して一色が葉山に心を許しているとかそんな理由では決してないと、葉山は気付いていた。

 

 

 その後に行ったレギュラー試合は1対1――葉山と達海が互いに1ゴール――で終え、その日の練習試合は全て終了した。

 

 互いに遠征用のジャージに着替え、整列して挨拶し、そのまま現地解散。

 

 葉山は達海と二言三言話した後、戸部を含めた数名と食事に行くことになった。その中に一色はいない。

 

 そして帰り際、達海を囲む女の子集団に何とはなしに目を向けると――門前にたむろっていたので目に入った、という方が正確かもしれない――そこに見知った、というよりは見たことがある顔を見つけた。

 

 折本かおり。

 

 先日、八幡とそして彼女の連れとダブルデートの真似事をして、彼が傷つけた女生徒だった。

 一瞬だけ、彼女と目が合ったが、すぐさま葉山は戸部へと、彼女は達海へと目線を逸らした。

 

 そして葉山は、そんな再会ともいえない再会を果たし――――海浜総合高校を後にした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 時刻は土曜日深夜。

 

 俺は人気の無い場所――高架下に来ていた。よくヤンキーがスプレーで落書きをするあそこだ。

 一応、ヤンキーの方達がいないことは既に確認済。居たらサッと何も見ていない振りして帰るまである。

 

 俺は、このガンツスーツの性能をチェックするべく、こっそり家を抜け出した。

 

 今回は自分の部屋で直接着替え、その上からスウェットのズボンとパーカーを着用。

 そして、室内で透明化を作動し、窓から屋根伝いに移動して、ここまで来た感じだ。

 

 なるべく音を立てないように短い移動を繰り返したため、それなりに時間がかかっちまった。

 

 早いとこ始めよう。

 受験生の小町が寝静まってから、早朝出勤の両親が起きるまでの間しか、俺にはトレーニングの時間がない。

 

 そして、こんな深夜の人気の無い郊外の河川敷の高架下まで来たのは――これを試したいからだ。

 

 俺は、持ってきた鞄から――Xガンを取り出した。

 

 

 ゴガンッ!!――と、俺が川から拾ったそれなりに大きな石(両手で抱えるくらいの大きさ。スーツを着ているので、重さは全然苦ではなかったが)は、木端微塵に破砕した。

 

 ……なるほど。このレントゲンのような画面の意味はよく分からんが(石を透かしても訳が分からん)、葉山が言っていたコツと言うのは、二つのトリガーを同時、または両方引いた時に発射するということか。片方だけ何度引いてもダメだと。

 

 Yガンの方もこうなのか? それともXガンだけなのか? そもそもなぜ二つ? それぞれのトリガーの個別の意味はあんのか?

 分からないことだらけだが、今、考えてもそこら辺は答えは出ない。

 

 Xガンの性能確認はこれまでにしよう。リアクションが派手過ぎる。まさか生物に向けるわけにもいかないし、これ以上はバレるリスクが増すだけだ。

 あとは、スーツだが……これも、だいたい試したからな。そもそもここまで屋根伝いを飛び回って――跳び回って来れただけで、十分だ。

 

 それに、帰りも同じ方法で帰らなくてはならない。

 

 時間が朝に近づくほど、バレるリスクが増す。

 

 そろそろ帰ろう。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 屋根から屋根へと、まるで忍者のように移動していく。

 

 分かる――俺は今、高揚してる。

 自分でも分かるくらい、心が躍っている。

 

 漫画やアニメに一度はハマったやつなら――いや、そうでなくても、子供の頃、ウルトラマンや仮面ライダー、または戦隊ヒーロー。そういうものに憧れたことのある奴は、これにハマらないやつはいないだろう。

 

 俺は今、月光のみが照らす夜の街並みを、上から見下ろしている。

 

 このスーツによる跳躍は、現実感が無さ過ぎて、まるで空を飛んでいるかのようだ。

 

 俺は、浮き立つ心を必死に抑えながら、帰宅の途に就いた。

 

 

 

 正直、この夜の事を思い出すと、その時の自分をぶん殴りたくなる。

 

 誰かに見つからなかったのは――次の日、俺の首と胴体が繋がっていたのは、間違いなく奇跡だった。

 

 

 

 俺は、鍵を開けておいた自室の窓を開け、二階の部屋に直接、ひっそりと中に入る。

 

 鍵を閉め、そのままの動きでスーツを脱ぎ、スウェットとTシャツに着替える。

 そして、スーツとXガンの入った鞄をクローゼットに放り込み、そこでようやくベッドに身を預けた。

 

 俺は、大きく、溜め息を吐く。

 

「何やってんだ……俺は」

 

 舌打ちをし、腕で顔を覆いながら、俺は吐き捨てるように自嘲する。

 ガンツスーツ――あの部屋の黒い装備、その一番危ういポイントに気付いた。

 

 これは、麻薬だ。

 

 いや、麻薬よりよっぽど性質が悪い。

 

 巨大な石をまるで発泡スチロールみたいに持ち上げるパワー。

 忍者のように身軽に屋根を跳び回れるジャンプ力、ダッシュ力。

 

 正しく超人だ。

 あれだけの力を、ただ着るだけで手に入る――着るだけで、超人になれる。

 

 それに溺れない人間が、どれだけいるだろう。

 甘美な程に――圧倒的な全能感だった。

 

 力とは――卓越した力とは、それほどまでに魅力的で――人格を大きく捻じ曲げる。

 正直、この力に溺れるのも悪くないと、先程の空中散歩で思いかけてしまった。

 

 だが、それは同時に、誰かにあの部屋の秘密がバレる危険性を飛躍的に高める。

 この秘密が誰かに漏れた時――その相手がどうなるのか?

 

 俺は、それが一番恐ろしい。

 もちろんバラした本人は頭が吹き飛ぶのだろうが、それを知ってしまった一般人には、果たしてどんな罰がある?

 

 何もしないというのは有り得ないだろう。

 俺が昨日考察したように、その該当の記憶だけ消えるのか。

 しかし、その相手諸共……という可能性も、危険性も、決してゼロではない。

 

 そして、何より。

 この力に溺れたら、あの部屋から解放されたいというモチベーションが無くなる。

 

 ……その為の、選択肢②か――『つよいぶきとこうかんする』。

 俺は、この選択肢の意味が分からなかった。

 

 例えばそれが50点ボーナスとかなら分かるが(途中のレベルアップ的な意味で)――100点に辿り着き、わざわざ解放を選べるのに、新たな武器を手に入れる必要があるのか、と。

 

 だが、今なら少し分かる。

 この高揚感を味わってしまったら……思ってしまう。

 

 もっと、もっと……強くなりたい、と。

 ゲームでレベル上げをして、自分より弱いモンスターを無双する。

 

 あの快感を、現実――生身の自分で味わえるのだ。

 どっぷりあの部屋の魔力に魅了される人間が居ても、おかしくない。

 

「はぁぁ……くそっ!」

 

 俺は、あの装備はガンツの唯一の親切設計だと思っていたが、なんてことはない。

 

 あれも、ガンツの罠の一つだった。

 だが、これらを使いこなさなければ、生き残れないのも確か。

 

 …………よし。

 ガンツのミッション以外で、あれらに触れるのは、もう止めよう。

 

 勿論、いつ来るか分からないミッション召集に備えて、常備はするだろうが、決して身に付けない。

 

「次のミッションの時に……あの部屋に置いて帰らねぇとな」

 

 俺はゆっくりと眠りにつく。明日も休みでよかった。休日最高。昼まで寝よう。

 

 

 

 

 

 ……くそっ。寝れない。

 

 

 結果的に、寝つけたのは朝方で、起きたら夕日が眩しかった。

 




やはり比企谷八幡は生き残る為の準備を惜しまない。


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僕は、悪くない。

 

 

――そして、その時は来た。

 

 

 時刻は夜六時頃。

 夕方までぐっすり眠り、小町にゴミを見られるような目で睨まれ――受験生からしたら、そりゃ腹も立つよね。ゴメンね――朝飯代わりの昼飯を含む夕飯を食べ、そのまま一っ風呂浴びようと着替えを自室に取りに行った時だった。

 

 寒気がした。

 

 寒気? ……悪寒?

 

 とにかく――――嫌な、予感。

 

 俺は大急ぎでクローゼットを開き、その中のスーツとXガンを手に取った。

 

 

 

 

 

 そして、気が付けば俺はあの部屋にいた。

 

 先客はただ一人――見覚えのある、不愉快な笑みを浮かべる中学生。

 

「やぁ! 久しぶりだねぇ! 僕! 僕のことを覚えてるかい! よく一緒に遊んだじゃないか! 懐かしいな~!」

「……何でお前は、同窓会で久々に同級生に会ったかのようなテンションなんだよ……」

 

 俺はお前の同級生でも、ましてや友達でもないし、最後に会ったの三日前だし、よく一緒に遊んだことないし、それに俺同窓会とか行ったこともたぶんこれから呼ばれることもないし、ってあああ! ツッコミ追いつかねぇ! やっぱコイツ嫌いだわちくしょう!

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「ねぇ! いいじゃん、行こうよ! 今日は特に練習があったわけじゃないんでしょ!」

「ああもう、うっせぇな! 俺は別に今は彼女欲しいとかないの! だから、逆ナンなら別の奴誘えよ!」

 

 場所は変わって――夕方から夜に変わろうとする千葉。

 そろそろ周囲を行き交う客層が、若い学生から休日出勤を終えた勤労戦士へと変わり始める時間帯。

 

 苛立ち混じりで早歩きで進む達海龍也を、折本かおりがしつこく追いかけまわしていた。

 

 折本はあのダブルデートの後から、ずっとこんな感じだった。

 折本は別にクラスのマドンナというわけではない。

 だが、その姉御肌(自称)な気さくな性格と、決して悪くはないルックスで、少なくとも面と向かって馬鹿にされたことなどなかった。

 

 彼氏も常に長続きはしなかったがコンスタントにいたし、少なくともそんな自分は()()()()()、と思っていた。

 

 だが、そのプライドのようなものは、この間の一幕でズタズタにされた。

 葉山隼人に取られたあの態度も、折本の心に影を落としていたが、それ以上に突き刺さったのは、彼のあの言葉だった。

 

――比企谷は君たちが思っている程度の奴じゃない

 

――君たちよりずっと素敵な子たちと親しくしてる。表面だけ見て、勝手なことを言うのはやめてくれないかな

 

 かつて、中学時代に自分が振った比企谷より、あの日会わなかったらそのまま告白されたことすら忘れてひょっとしたら卒アルを見てこんなやついたかも! って笑い話にしかならなかったかもしれない、そんな男より、近隣高校に名前を轟かせる学園の王子様から直々に――自分は格下だと言われた。

 

 それが――無性に、我慢ならず、恥ずかしかった。

 どうにか見返してやりたい。何か、行動を起こさなくちゃ――と。

 

 そんな折本がとった手段は、葉山と同等、あるいはそれ以上のレベルの男子と付き合うこと。

 もし、葉山隼人と同等以上に有名な、同クラスのステータスを持つ達海達也の彼女になれれば――このクラスの男子に認められれば。

 

 少なくとも、あんなことを言われるような筋合いはないと。

 あんな惨めな思いをするような、あの時のショックを受けた自分は、払拭出来る――のでは、と。

 

 どこかで、なにかがまちがっているような、そんな焦燥感を振り払うように、折本はとにかく行動した。

 ここでそういう思考しかできない時点で、葉山の言っていることの十分の一も理解できていないということに気付かずに、気付かない振りをして突き進む。

 

 サッカー部のイケメンエースとして、校内だけでなく他校の女子からも人気の高い、達海龍也。

 傍から見れば、とてもではないが釣り合いが取れない――それこそ、あの日、あの現場に現れた、二人の少女クラスの女の子でなければ。

 

――比企谷は君たちが思っている程度の奴じゃない

 

――君たちよりずっと素敵な子たちと親しくしてる。

 

「――――ッ!」

 

 あの日の葉山の言葉が蘇り――折本は、それを振り払うように、達海に追い縋る。

 

 始めは達海も、自分の他のファンと接するように丁寧に応対していたが、折本のアタックがあまりにもしつこく、鬼気迫るものがあった為ので、いつからか荒っぽく切り捨てるようになった。

 

 元々、達海は葉山のような八方美人タイプではない。

 むしろ男子だけのグループでガサツな掛け合いを好むような、根っからの体育会系。

 根が優しいので、女子に汚い言葉を吐いたり乱暴な対応をしたりはしないが、基本的に男子同士の方が気楽だと感じるのだ。

 

 彼女を作らないのもそれが理由。なんとなく、だ。別に明確に想い人がいるわけでもない。だが、友達に彼女いた方が女避けになるぞと言われても、そういう理由で彼女を作るのはなんとなく気が引ける、というくらいには恋愛に興味がない、というより恋愛に理想を抱いている部分はある男だった。

 

「ああもう、しつけぇよ!!」

 

 達海が本気で怒鳴ると、折本はビクッとなり体を硬直させる。

 時間も少し遅めとはいえ、まだまだ人通りも多い。

 お陰で注目を浴びてしまったが、達海は限界だった。

 

 彼が折本を鬱陶しく思う最大の理由――それは、別に折本が()()()()()()()()()()()()()()()()()と気づいているからだ。

 

 達海は葉山のように学年二位の成績というわけでもない――ぶっちゃけスポーツバカだ――が、葉山のように幼少期からモテてきた由緒正しいエリートリア充だ。

 だから折本のように、自分という()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()女子を何人も知っている。

 

 達海が恋愛に幻想を抱きがちになったのも、それが理由の一端ではあるのだ。

 恋愛の汚さ、薄っぺらさを知っているからこそ、恋愛へのハードルが上がっていった。

 

 それに気付いてからは、折本のことはきつく、激しく拒絶してきた。

 

 今日オフなのに友達と遊ばずに、ここまでバッティングセンターに繰り出してきたのも、ただただストレス解消の為だった――達海はサッカーだけでなく、色んなスポーツが好きだ。その中でサッカーが一番好きだったからサッカー部に入っただけで。強豪校に行かず、地元高校を選んだのも、勝ち負けに拘らない、ただスポーツが出来ればよかったという理由だ――にも関わらず、何の因果か道中で折本と遭遇し(偶然だと信じたい)こうして付き纏われている。よく一日我慢した方だ。

 

 それが遂に爆発した形だが、折本は達海の怒声に怯えているものの、立ち去ろうとしない。

 

 何が彼女をそこまでさせる?

 

「…………っ!」

 

 達海は折本を気味悪く感じ始めた。

 

「……付き合ってらんねぇよ」

 

 達海は自前のバイクに乗った。

 海浜総合は担任の教師の許可証があれば二輪免許を取得することが出来る。

 

 達海はバイクが好きなので趣味として休日はツーリングをしていた。

 

 そのまま折本を振り切ろうとするが――折本は、達海がヘルメットを被った隙に後ろに乗り込んだ。

 

 達海は気付かずにそのまま発進させる。

 車体が進み始めた時、折本は初めて達海の腰に手を回す。そこでようやく、達海は折本に気づいた。

 

「っ! てめぇ、何してんだ! 早く降りろ!」

「……や、やだ! こんなとこで降りれるわけないじゃん!」

 

 達海は一刻も早く折本を振り切ろうと、道路に出る直前まで車体を手で押してから発進させたので、既に路上だった。

 だが、幸いにもすぐに赤信号で止まった。前のファミリーカーの後ろで停車し、折本に降りるよう促す――というより命令する。

 

「てめぇ! 早く降りろよ! このままだとお前のノーヘルで俺が罰金取られんだよ!」

「ヘルメット着ければいいの? じゃあ着けるから出して」

「俺は一人乗りしかしねぇから持ってねぇよ! だから降りろ! 早く!」

 

 達海は、ヘルメットの中から、くぐもった声でもはっきりと伝わる憤怒の――あるいは、畏怖の表情で叫ぶ。

 

「オマエ――なんで、ここまですんだよッ!」

 

 折本は気付かない。

 その言葉に、唇を噛み締めた自分に。

 

「―――――ッ!」

 

 折本は、達海は、どちらも気づかない。

 

 自分達のすぐ後ろに――居眠り運転のトラックが近づいていることに……。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 始まったか……二回目のミッション。

 

 今現在この部屋にいるのは俺と、葉山、中坊。そして、ヤンキーが四人(さっきから喚いてうるさい。ていうか怖い)。

 この四人は、いわゆる新人だろう。窓に向かったり圏外の携帯に向かって吠えたり玄関が開かないと騒いだり忙しない。

 

 葉山が、説明した方がいいか、とか言っていたが俺は全員揃ってからの方がいいだろうと言った。

 正直、状況は時間勝負。全員の転送が終わってからあのラジオ体操の曲が流れるまでの時間で説明しきるか不安だが、それこそ同じことを何回も説明するのは時間の無駄だし、それにコイツ等が荒唐無稽なこの状況を受け入れるとは思えなかった。

 

 こういう人種は、政治家並みに自身に都合が悪いことは耳に入らない。

 アナタたちは死にました、これから命懸けで戦ってもらいます、なんて言われたら、ヤンキーじゃなくても大抵の人物が受け入れないだろう。

 

 だから、俺はその役目は葉山に押しつけ――ゴホゴホッいや任せるつもりだ。俺なんかよりもはるかに初対面の人物の印象が抜群だからな。うん。完璧だ。適材適所だ。決して面倒だからとか苦手だからとかじゃない。

 

 それに――。

 

「ねぇ、ねぇ。今回はどんな敵かな? 強いかな? 怖いかな? 楽しみだなぁ~。ねぇ、ぼっち(笑)さんもそう思うよね! ね!」

「……俺は二回目だから知らねぇよ。ねぎ星人さんとしかお会いしてないんだからな」

 

 さっきからコイツが纏わりついてきてうるさい。っていうかウザい。なんなの? なんでそんな物騒な話をそんなキラキラした顔で言えるの?

 うわ~ん。もう早く相模来いよ~。少なくとも相模が来れば、これで全員かもとか言って葉山に説明任せて、スーツに着替えられるのに~。

 スーツを着ろなんて言ったって、コイツらおとなしく着るわけねぇから、目の前で俺がこれを着る宣言すれば少しは有効かな? なんて思ったから着るの我慢してるのに……くそっ。前回生き残ったやつから優先的に転送されるわけじゃないのか。まぁ、中坊は前回ラストだったしな。

 

 

 ん? また誰か転送されてきたな。

 ……二人?いや、二人二組で四人か。

 

 おいおいずいぶん多いな。前回死んだメンバーは五人だったから、補充されるとしてもそのくらいだ……と……。

 

「おい……まさか……」

 

 葉山が絶句する。まさしく信じられないという心情が強く言葉に現れている。

 ……そっか。確かに、葉山もコイツとは縁があったな。

 ったく、最近俺は関わり合いたくない奴とのイベントばっかり増えるな。

 

 それにしても、どうして。

 

 何で死んだんだよ……。

 

 

「折本……」

 

 

 四人の中の一人――それは、折本かおりだった。

 

「ん? なんだ……ここ……」

「え!? なに!? ここ……おばーちゃん……こわ…いっ!」

「だいじょうぶ……だいじょうぶよ……おばーちゃんが守るから」

 

 その他の三人、高校生くらいの男子に、小学生くらいの少年、そしてその祖母と思しき老人。

 

「え? 何? ……っ! ……比企谷? ……葉山くん?」

 

 折本は俺と葉山の顔を見て――呆然と。

 

「ここ……どこ?……」

 

 折本の問いに、俺達が明確な答えなど、持ち合わせている筈もなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 相模が転送されてきたのは、葉山が新メンバーに状況を説明し終えたころだった。

 

 新人達のリアクションは、……まぁ、概ね予想通り。

 

「ふざけんなよっ!! そんな話信じられるわけねぇだろぉ!!」

 

 ヤンキーの一人が大声で喚く。

 ……はぁ。やっぱこうなったか。

 こいつだけじゃない。他のヤンキーも、葉山の知り合いっぽいあのイケメンも信じていない。おばあちゃんと子供にいたってはガタガタ怯えてそれどころじゃない。……こんな人達すらターゲットになりうるのか……。

 

 そして、当然――折本も。

 

「…………………」

 

 この部屋に転送されてからというもの、折本は部屋の隅で体育座りをしながら、ちらちらと俺や葉山を細めた眼で見てくるだけで、何も言おうとしない。葉山の説明も、果たしてどう受けとっているのか……。

 

 ……はぁ。……どうすんだ、これ?

 

「ねぇ、どうしたの?」

 

 相模が俺に問い掛ける。……まぁ、こいつにしても、よく分からない状況だろう。

 

「こいつらが、今回、新しくこの部屋に連れてこられた奴らだ。葉山がこれから起こることを説明したんだが……」

「……ああ。……まぁ、信じられないよね。……っていうか」

 

 信じたくない、よね、と相模はそう言った。

 

「悪いが、葉山。いきなり、俺達はもう死んでいて、これから命がけの戦いに送られるって言われても、はいそうですかって簡単には信じられない」

 

 ワイルドイケメン君が言う。

 

 ……まぁ、そうだよな。

 俺だって、いきなりこんなことを言われたら、まず当たり前のように詐欺を疑う。

 

 誰だってそうだろう。

 死んだなんて、戦うなんて、誰だって、そんな可能性を全肯定できるわけがない。

 

 だって、そんな都合が悪いだけの真実は、信じるメリットが一つもないんだから。

 

 そんな思考が腐った眼に出ていたのだろうか――折本が、イケメン君の背中に隠れながら、俺に向かって疑問を呈す。

 

「……それに、戦うって、何と戦うっていうの?」

 

 折本の、淡々と放つ疑問に、葉山は窮する。

 

「それは……」

 

 葉山……言いにくいのは分かるが、この状況で言い淀むのは最悪の選択だぞ。

 

「ほらっ! 言えねぇのかよ! イケメンさんよぉ!」

「そんな話で騙せると思ってんのか!」

「ゾクなめてんじゃねぇぞ!」

 

 ヤンキー達が分かり易く勢いを増して喚く。こういった連中に弱みを見せるとこういうことになるんだ。

 葉山がその声を受けて、どんどんと俯いていく。

 

 ……このままじゃまずいな。

 

 

「宇宙人をやっつけにいくんだよ」

 

 

 俺の言葉に、部屋中の人間の視線が集まった。

 

 そして、少しの沈黙の後、どかんと湧き上がるようにヤンキーの大爆笑が響く。

 

「ははははは、何だそりゃあ!」

「腹痛ぇ! ヤバい腹痛ぇ!」

「会いてぇw! 宇宙人会いてぇww」

 

 すげぇウケっぷりだ。R-1の一回戦突破ぐらいなら夢じゃないレベル。

 折本は完全にコイツ頭おかしいんじゃねぇの? ってレベルの眼で見てるし、イケメンも戸惑いを隠せないって感じだ。

 

 

「まぁ、信じたくない奴は死ねばいい。俺は死にたくないから準備を怠らないがな」

 

 

 笑い声がピタリと止む。

 

 ついさっき死に掛けた――紛れもなく死んだコイツ等にとって今、死って言葉は重い。

 

「あぁ? 何言ってんだお前?」

 

 ヤンキーの一人が本気でガン飛ばしてくる。

 はっ! 残念だったな。お前程度じゃあ、由比ヶ浜を泣かせた疑惑で校舎裏に呼び出された時の獄炎の女王に遥か劣る。こ、怖くなんてねぇぞ。俺のナックルパンチが火を吹くぞ!

 

 一切、動揺を見せるな。あくまで不敵に。コイツ何か知ってる風なキャラを装うんだ。

 

 そろそろ……。

 

 

あーた~~らし~~いあーさがき~~た~~きぼーのあーさーがー

 

 

 全員がギョッとした表情をする。

 確かに、こんな状況で流れるラジオ体操は不気味だよな。

 

「な、何!?」

 

 折本が怯える。

 

 ……始まるな。またアレが。

 

 

【てめえ達の命はなくなりました。】

【新しい命をどう使おうと私の勝手です。】

【という理屈なわけだす。】

 

 

「は、ふざけんなよ何だよコレ!」

 

 ガンツからのメッセージ。

 

 そして――。

 

 

【てめえ達はこいつをヤッつけてくだちい】

 

 

 ここまでは、前回通り。

 

 

《田中星人》

 

 

「はぁ? 田中……星人?」

「何……コレ……?」

 

 ヤンキーらと折本は球体に浮かび上がる文字を食い入るように見ている。

 

 その時、ドンッ!!!! ――と、黒い球体が三方向に勢い良く開く。

 

 子供の泣き叫ぶ声が響くが、それも相応しいかもしれない。

 

 なんせ、そこに現れるのは――無数の黒い銃器なんだから。

 

「ゲーム……?」

 

 イケメンが呟く。

 的を射ている。

 これはゲームだ。ガンツの動かすキャラクターとなって、命懸けのゲームを強いられる。

 

 だが、TVゲームのキャラと違って――このキャラクターには、俺達には、自我がある。

 

 ならば、最後まで、足掻くしかねぇだろ。

 

「これで、少しは信じたか」

 

 俺の言葉に、再び視線が集中する。

 

「葉山の言う通り、今から俺らは、その田中星人とやらと戦う――戦わされる為に、どっかに送られる。そして――」

 

 黒い球体を背負いながら、俺は新人達に言った。

 

「――負ければ、死ぬ」

 

 死ぬ――今度こそ、死ぬ。

 

 既に死人の俺達が、偽物の生を謳歌出来るか、それとも相応しい地獄に今度こそ送られるか。

 

 それを決める戦場に――俺達は送られる。

 

「俺は死にたくない。だから、それなりの準備をする。死にたい奴は好きにしろ」

「準備って……何?」

 

 折本が俺を睨みつけるようにして問い詰める。

 

 俺は、部屋の外に向かって歩きながら、ガンツスーツを見せびらかすように肩にかけて、言う。

 

「葉山に聞け」

 

 俺は葉山に目線を向ける。葉山は呆気に取られていたが、俺の意図が伝わったのか。

 

「……生き残る為には、あのスーツを着ることが重要なんだ。それで生死が決まると言っていい」

 

 葉山が全員の視線を、注目を集める。

 

 これでいい。集団を纏めるには、全員のヘイト値を集める役と、纏め上げる役が必要だ。

 事情を知ってる四人の中で役を振り分けるなら、自然とこうなる。

 

 俺はスーツに着替えるべく廊下に出るが、その際に中坊と目が合う。

 

 コイツは前回事情を知らない人間を囮として使っていたから、今回、葉山が全員に状況を説明するとき何らかのアクションを起こすものだと思っていたが、何もしなかった。

 ただ楽しそうに嗤っているだけだ。

 

「名演技だったね♪」

 

 すれ違いざまにこんなことを呟かれた。

 

 ホント、食えない奴だ。

 

 ……ってかコイツ毎回既にスーツ着てるけど、日常的に普段着にしてるのかな?

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 俺が廊下で着替えていると、葉山とあのイケメンがやってきた。

 

「……あのヤンキー達は?」

「…………………」

 

 葉山が悔しそうに唇を噛み締める。

 ……馬鹿だな、アイツら。まぁ、無理もないか。俺らみたいなガキの言うことを死んでも聞きたくないって人種だろうし。それが文字通り死に繋がるって理解してるのかいないのか……いないんだろうなぁ。

 

「気にするな。俺らがメインで戦えばいい」

「っ! …………」

 

 葉山の顔が青くなる。

 ……しまった。葉山は前回殺されかけてるんだったな。

 

「あぁ、まあ無理に戦わなくてもいい。葉山はスーツ着てない奴を守ることに――「なぁ」

 

 俺が葉山と話していると、イケメンが俺に話しかけてきた。

 

「えぇと……」

「…………比企谷だ。比企谷八幡」

「そうか。俺は達海龍也だ」

「……達海。で、何だ?」

 

 何だよ。なんでコイツ名前までイケメンなんだよ。葉山の周りはそんなんばっかか。

 

「……お前らは、こんなの何回やってんだ?」

「……二回目だ」

「二回目!?」

 

 達海が驚く。

 

「何だ? だから、俺らが分かるのは本当に表面的なことだけだ。あんまり俺らに依存すんなよ」

「い、いや。…………ああ。分かった」

 

 ん? 何だ?

 ……まぁ、いいか。話が無いなら、俺は部屋に戻って武器を仕入れることにしよう。

 できれば、Yガンが欲しい。……まだXガンは、星人とはいえ生物に向けるのは抵抗があるしな。

 

「そうだ、比企谷。コレ、どうやって着るんだ?」

 

 達海が問い掛ける。葉山も良く分からないようだ。

 俺は意地が悪い、きっと気持ち悪く歪んでいるであろう表情で言う。

 

「全裸だ。全裸にならないと着れない」

 

 二人のイケメンは固まった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 このガンツルームは2LDK。部屋はあのガンツがあるデカい部屋の他にも二つある。

 俺ら男子が玄関からの廊下部分で着替えたので、相模達はまた別室で着替えているんだろう。……相模が折本を上手く説得できればいいんだが。

 

 ……もしかしたら、あのヤンキーどもが覗こうとするかもな。無人島とかの極限状態ではモラルが著しく低下すると聞いたことがある。今はそれと同等以上の状況だしな。

 

 早く戻ろうと、部屋の扉を開けた途端。

 

 

 

 そこは、血の海だった。

 

 

 

 前回のミッションの時、ねぎ星人が住宅地に作り出した惨状。

 

 それに酷似した真っ赤な地獄が、ルームマンションの一室に再現されていた。

 

 

 元はヤンキーらであっただろう――ほんの数分前まで活動していたであろう肉の塊が四つ、無造作に転がっている。

 

 その部屋の中央で。

 

 白いパーカーを鮮血で染めた中坊が。

 

 Xガンを片手に、あの見る人を不快にさせる笑顔で佇み、言う。

 

 

「おっと、誤解しないでくれよ」

 

 

 天使のような、悪魔な笑顔で、言う。

 

 

 

「僕は、悪くない」

 




またしても、比企谷八幡は黒い球体に誘われる。


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……君さぁ。ちょっと調子に乗り過ぎだよ。

 

 殺人鬼。

 

 この言葉で、なぜ、鬼という言葉が使われるのか?

 

 詳しい由緒、正しい起源なんて、国語学年三位の俺も知らない。

 

 ただ、俺の主観、個人的見解を言わせてもらうなら、それはきっと――

 

 

 人、ではないからだと思う。

 

 人、と呼ぶには、あまりにも壊れている。

 

 大量の人間を殺すことで、人としての、大事なものが、欠落している。失くしてしまっている。

 

 彼らは――奴らは。

 

 失くしてしまい、壊れてしまい、外れてしまったのだろう。

 

 人――では、人――から、なくなってしまったのだろう。

 

 

 だから、人は――()()を、鬼と呼ぶのだ。

 

 

 お前は、俺達とは違うと。あれは、それは、人ではない、別の何かなのだと。

 

 線引きをし、己が近くから排除して、迫害する。当然の防衛として。

 

 嫌悪と、そして圧倒的な畏怖を込めて。

 

 

 それが殺人鬼。人の身から外れ、“鬼”へと堕ちた異形たち。

 

 

 俺の目の前で佇むコイツも。

 

 血だまりの中で微笑むコイツも。

 

 恐らくはそんな“鬼”たちと同様に、人としての大事なものを失っている。

 

 人ではない、なにかなんだろう。なにかに、なってしまったのだろう。

 

 そんな彼に、そんな鬼に、そんな人ではないなにかに。

 

 恐怖よりも、嫌悪よりも。

 

 同情を、感じてしまった俺も。

 

 

 人ならざるものへと、着実に近づいているのかもしれない。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「キャァァァァアアアアアアアア!!!!!」

「!」

 

 俺は、相模のその悲鳴で現実へと意識を取り戻した。

 

 どうやら俺は、この悍ましい惨状を前にして、悲鳴も上げず、かといって中坊への糾弾も怠って、ただただ思考に耽っていたらしい。

 

 相模の悲鳴を皮切りに、その後ろから折本、そして俺の後ろから葉山と達海が続けて顔を出した。

 

「ッ!!」

「はぁ!? なんなんだよ、コレ!!」

「えっ、何!? イヤァァァァアアアアアア!! 何!? なんなの、コレ!?」

 

 ……まずいな。

 折本も、達海も、現時点では只の一般人でしかない。

 相模も前回は遠目でしか惨劇を見ていないし……それに、葉山は――。

 

「ッッッ!!!」

 

 顔面蒼白で体をぶるぶると尋常ではない程に震わせていた。……完全に、前回の体験がトラウマになってるな。

 ……これじゃあ、今回まともに戦えるかどうかすら怪しい。

 

 なら――やるしかないか。

 

「落ち着け!!」

 

 俺の精一杯の叫びで、何とか悲鳴だけは止まった。

 普段大声なんて出さないから喉潰れるかと思った。噛まなかっただけましか。

 

 ちっ。それもこれも……。

 

「な、何? こんな状況で落ち着けるわけないじゃん!?」

 

 折本が絶叫する。

 分かってる。そんなことは百も承知だ。

 

「だから、今から事情聴取するんだろうが」

「事情聴取って――」

「おい」

 

 悪いが、折本に構っている時間はない。

 もう、いつ転送されてもおかしくないんだ。

 

「なんで殺した?」

 

 俺は、さっきからこっちを――っていうか俺をニヤニヤしながら見ている中坊を睨みつけながら、今更ながらに糾弾する。

 

「おいおい、事情聴取とか言うなよ、物騒だな。まるで僕が殺人犯みたいじゃないか」

「どこからどう見ても上から下まで殺人犯じゃねぇか」

 

 最有力容疑者の少年は、頭のてっぺんから爪先まで返り血を浴びている男は、そこで更に一層笑みを深め、ドヤ顔で言う。

 

「いやいや、さっきも言っただろう――――僕は、悪くない」

 

 中坊は、再び先程のセリフを繰り返した。

 

 これだけ状況証拠が――いや、そんなものはどうでもいい。

 そんなものなくても断言できる。

 

 犯人はコイツだ。間違いなくコイツだ。

 

 コイツは間違いなく、四人の人間を虐殺してる。

 

 その直後に、コイツは真顔で――いや、笑っているが――堂々と言い張れる。

 

 自分は、悪くないと。

 

 気持ち悪い。

 

「お前の善悪なんてどうでもいい。お前がコイツらを殺すに至った経緯を簡潔に述べろ」

 

 だが、今はそれより事件の解明だ。

 コイツが気持ち悪いことなんて初対面の時から変わらない。

 

 事件の解明なんて大仰なことを言ったが、俺のすることはなんてことはない。

 

 中坊と会話をすること。ただそれだけの簡単なお仕事だ。

 

 正確には、このまま転送までの時間を潰すこと。

 俺がコイツから何か聞き出せるとは思ってないし、それに聞き出すほどの真実なんてない。

 

 中坊が、四人の人間を殺した。ただそれだけのこと。

 

 俺は中坊はイカれた奴だと思っているし――まぁ、何の理由もなく人を殺すような奴だとは思っていないが、逆に言えば()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だとは思っている。

 その理由のハードルが恐ろしく低く、尋常じゃなく気まぐれだろうとも。常人じゃ考えるだけでも発狂しそうな被害妄想だろうとも。

 

 阿呆か。そんな奴相手に話を聞き出そうなんて無駄だ。万一聞き出せたとしても、俺なんかに理解出来るとは到底思えない。

 だからこそ、今すべきことは、推理物のドラマのような事件の悲しい背景の追及とかお涙頂戴な動機の聞き出しとか――じゃあ、ない。

 

 他のメンバーに――今、非常に不安定な精神状態の()()()()()()のメンバーの意識を、俺達の会話に向け、何も考えないようにすること。

 この悍ましい現場に対する考察を深めずに、深入りせずに――転送までの時間を潰すことだ。

 

 ただでさえ訳の分からない状況で、突如発生した殺人事件。

 パニック状態になって、収拾がつかなくなる奴が出てきてもおかしくない。っていうか確実に出てくる。

 

 そして一人パニックになると、連鎖的に全員がパニックになる。

 下手をしたら、更に死人が増えるかもしれない。

 

 故に、意識を他に向けさせる。そうすることで、時間を稼ぐ。俺に出来る小細工としてはこんなものが精々だ。

 

 今の所、それは成功しているようだ。皆、俺達の会話に耳を傾けることで、少なくとも思考が出来るくらい落ちつい――――?

 

「…………?」

 

 なんか、周りの奴等の俺に対する視線もきつくなったな。よくあることだから気付くのが遅れたが………ああ、そうか。

 

 コイツ等からしたらコイツと会話している――会話出来ている時点で、俺も相当気持ち悪いんだろうな。

 

 それぐらい、コイツは――中坊は異常だ。

 そして、その異常と一見対等に接している、ように見える、俺という奴も異常だと感じている。

 

 まあ、気持ちは分かるし、別に今更何とも思わない。

 俺が誰かに嫌われるのも今に始まったことじゃないし。

 

 中坊は、そんな俺に対する笑みを深めながら、へらへらと「昨日嫌なことがあったんだよぉ~」的な愚痴を言うかのテンションで回答する。

 

「いやね、聞いてよぼっち(笑)さん。酷いんだよ~あいつらってばさぁ~。ぼっちさん(笑)やイケメンズやそこのお姉さんたちやそこのおばーちゃんとお孫さんがスーツに着替えに行った後、そこのヤンキー達が武器を漁り始めてさぁ――――なんと、僕目掛けてXガンを撃ったんだよぉ。非道いよね」

「ッ!!」

 

 中坊のあざというるんだ上目遣いの言葉に、Xガンの威力を知る俺と葉山が絶句する。

 他のメンバーは訳が分からずポカンとしている――訳の分からない状況が続きすぎて処理が追いつかないのかもしれない。

 

 だが、中坊の言うことが本当なら、確かにこれは悪ふざけで済ませていい問題じゃない。

 下手をすれば、この血だまりを他ならぬ中坊自身の血液で作り出していたのかもしれないのだから。

 ……いや、というより――。

 

「ね。ね。分かってくれた? つまりは、僕は被害者だ。正当防衛。なんて甘美な響きだろう。つ・ま・り、僕は悪く――」

「……なんで、お前は生きてるんだ?」

「もう! 最後まで言わせてよ! これ決めコマに使うんだからぁ!」

「質問に答えろ。お前は何で、X()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 すると、中坊はそれまでの能面のように変わらなかった不快な笑顔を止めて。

 

 ミステリアスに、不敵に笑う。

 

「…………さぁ? 何でだと思う?」

 

 ひっ! と小さく悲鳴。相模か、折本か、悲鳴の主は分からないが、恐怖したのは彼女だけじゃない。他のメンバーも、全員漏れなく恐怖した。

 いや、先程からずっと中坊を恐れているのだから、恐怖の大きさが増したというべきか。

 

 増したというより、濃くなった、という感じか。

 

 アイツの纏う空気が、放つオーラが。

 

 より濃く、黒く、冷たくなった。

 

――だが、いまはそれよりも確かめるべきことがある。

 

「……スーツ、か?」

 

 俺の答えに、中坊は、口角を吊り上げて。

 

「答えは、webで♪」

 

 そう言い残し――転送されていった。

 

「――っ! おい、中坊!!」

 

 声を張り上げても、既に中坊は胸の辺りまで転送されている。

 

 質問の答えは、返ってこない。

 

「くそっ!」

 

 俺は、中坊の()()の横を――つまりは、ヤンキー達の死体の血の海の中――を通過し、XガンとYガンを手に持つ。

 

「葉山! マップの使い方は教えたから分かるな!?」

「……え? あ、ああ」

「転送されたら、とりあえず全員を一か所に集めろ! そして、()()()()()! いいな!」

「お、お前はどうするんだ、比企谷?」

 

 俺は自身が転送され始めているのを感じながら――何気に転送されるのが一番最後じゃないのはこれが初めてだった――葉山に言う。

 

「中坊を追う! アイツに聞かなきゃならないことがある!」

 

 俺のこの考えが――嫌な予感が、もし正しければ――大変なことになる。

 

 

 こうして、俺の二回目のガンツミッションは幕を開けた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

【いってくだちい】

 

 

【1:00:00】ピッ

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「………はは。いきなりかよ」

 

 転送されたのは、またしても見知らぬ住宅街。前回とは違う場所のようだが。

 

 

 そして、俺の目の前に、ガンツに表示されていた今回のミッションのターゲット――田中星人がいる。

 

 

 前回のねぎ星人よりは人間に近いフォルムをしている。だが、人間()()()という点に置いては、奴よりも遥かに劣っていた。

 光沢が強く、硬質な印象を覚える表面。何かの金属だろうか――少なくとも鉄とかステンレスじゃないようだが。

 そして何よりも異様なのは――笑顔からピクリとも動かない、その張り付けられたような表情。

 

 ロボット――という表現が、一番しっくりくる。

 一歩一歩、こちらに向かってくるごとにウィィン、ウィィンという音が響くのも、ロボットっぽさに拍車をかける。

 

 ……っていうか、ロボットなんじゃねぇの?

 確かにレベルは物凄く高いが、こちとら散々トンデモテクノロジーを目の当たりにしてきたんだ。いまさらこんなレベルのロボットがあっても驚かない。なんなら初めてペッ〇ーくんを知った時の方が衝撃を受けたくらいだ。

 

 ……よし。

 一歩間違えればとんでもないリスクだが、幸いまだ距離がある。

 

 俺は、近づいてくる田中星人に向かって――Xガンを向けた。

 

 こんなのは俺のエゴに過ぎないが、初めてXガンを撃つなら、できるだけ()()()()()()()のがいい。

 Yガンだけでは、Xガンなしでは、どうしても直に限界がくるのは明白だ。

 

 この先、この戦争を生き抜くためには、Xガンの射撃経験は必須だ――――どれだけ言い訳を重ねようが、命を奪うことには変わりない。

 

 そのことを――Xガンに表示される田中星人のレントゲン画像が、ありありと示している。

 映るのは、田中星人の全身骨格。紛れもなく、()()()()()()()()

 ロボットのように見えても、機械のように駆動しても、文句無しに生きている。

 

 そして、俺は、今から。

 

 コイツをころ――っ!

 

「なッ!?」

 

 田中星人が突然口を開けた。そして、何かを発射しようとしている!?

 

 口の中で青白い光が発光し始め、危機感を煽るチャージ音(?)がどんどん大きくなる。

 

「ッ!」

 

 俺は気が付いたら、トリガーを二つ同時に引いていた。

 

 それに呼応するように、田中星人が青いビーム弾のようなものを発射する。

 おいおい、そんなのアリなのか!?

 

 だが、そのビーム弾は俺の手前数メートルで弾け飛んだ。

 

「……っ!」

 

 どうやら、俺のXガンの射撃で相殺したらしい。

 だが、衝撃は殺しきれず、俺は風圧で吹き飛ばされてしまう。

 

 田中星人は、そのロボットのような歩みを止めない。

 

 土煙が広がる住宅街の中の路上を、無機質に、無感情に、淡々と近づいてくる。

 怖いよ。ターミネーターかよ。見たことないけど。

 

 にしても、まさかの飛び道具とは。

 星人のことを、殴る蹴る噛みつく引っ掻くくらいしか出来ない怪物だとでも思い込んでいたのか?

 

 こちらが銃という飛び道具を持っている以上、敵もそういう()()()()()()()()()()()ぐらい、考慮しておくべきだった。迂闊だ。

 

「っ! くそッ!」

 

 不味い。再び、あのチャージが始まった。

 どうする? またXガンで相殺を狙うか? だが、あんなこと毎回上手くいくのか? しかし、あんな攻撃をどうやって確実に避ける?

 

 ヤバい、迷うのが一番ダメだ。

 動け、逃げろ、このままじゃ――。

 

「!!」

 

 田中星人が――顔の向きを直前で変えた!?

 

 なぜだ、そこには何も――。

 

「ぐぁあああ!!」

「!? 中坊!?」

 

 ステルスで隠れてたのか?

 

 いや、それよりも――田中星人は()()()()()()()()()のか!?

 

「ッ!! ……おいおい、嘘だろ」

 

 さっきから!マークが止まらねぇだろうが。

 

 ……飛んでいやがるよ、田中星人(アイツ)

 足から炎を噴射して、ロケットのように。

 

 ……確かに、ねぎ星人は相当()()()()()みたいだな。

 

 空を飛んで、ビームを放つ、ロボットのような星人――それが、田中星人か。

 

 真夜中の住宅街の空に浮かんだ田中星人は、中坊が吹き飛んだガレージの中にミサイルのごとく突っ込んでいく。

 

「ぐ……ああああぁぁぁぁぁ!!」

 

 中坊の悲鳴。そして、青白い光が何度か瞬く。

 Xガンの発射光にも似ているが、その前に響くチャージ音から恐らくは田中星人のビーム弾の方の残光なんだろう。

 

 あのガレージの中の戦いは、田中星人の方が優勢なのだろうか。

 

「…………」

 

 ……本来なら、俺がアイツの味方をする必要なんてない。

 あの中学生は散々俺達を囮として使ってきた。そして、さっきも奴は四人の人間を殺した。恐らくは俺達があの部屋に来るまでも、同じことを繰り返してきたんだろう。

 

 なら、俺がここで中坊を見殺し――いや、あえて中坊と田中星人を戦わせて、弱った田中星人に俺が止めを差す。

 つまり、俺があの中学生を()()使()()――そうしても、俺は責められる(いわ)れはないし、この『ゲーム』においては、それが最善の策だろう。

 

 ……いや、本当にそうか?

 ここで中坊を失う。それが、果たして()()か?

 

 アイツは、ここで失っていい奴なのか?

 確かに中坊は紛れもなく危険人物だ。一緒にいるだけで常に死のリスクと共にあるような、そんな不発弾のような、いや地雷原のような危険物だ。

 

 だが、あの中学生は間違いなく、現時点で俺達の中で一番強い。それだけでも確かな、代えられない価値だ。

 

 そして何より――情報。

 今、俺達が置かれてるこの不可解な状況で一番大事なのは、必須なのは、間違いなく一つでも多くの情報。

 

 まだ俺達が知らなくて、あの中学生が、中坊だけが知っている情報が、間違いなくまだまだある筈だ。

 

 なら、ここでするべきことは、見殺しではなく、囮ではなく――助けること。

 中坊は、まだ使い道がある。ここで死んでいい奴じゃない。

 

「――ッ!」

 

 俺が脳内で面倒くさい葛藤を終え、行動の指針を決めた時。

 

 なぜか俺の足は、既に走り始めていた。

 

 

 そして、ガレージに辿りついた時。

 

 

 田中星人が中から吹き飛んできた。

 

 

 それが何かは、はじめは速すぎてよく分からなかった。

 勢いよく向かいの壁に叩きつけられ、砂塵が落ち着いて、ようやくそれが――田中星人なのだと判別できた。

 

「……君さぁ。ちょっと調子に乗り過ぎだよ」

 

 中坊自身も、ゆっくりと同じガレージから出てくる。

 

 その顔は――やはり、笑っていた。

 

 だが、その笑顔は見る者を不快にするあの笑みではなく。

 

 見る者を残らず恐怖させる、凄惨な笑みだった。

 

 中坊は、壁に寄りかかり、ぐったりとして動かない田中星人を。

 

 容赦なく――踏みつける。

 

「ガアアアアアアアア」

 

 田中星人の――悲鳴?

 

 あれだけ無機質だった田中星人が初めて発した――感情のようなもの。

 

 その声を聞き、中坊の凄惨な笑みが、より強く、より濃くなっていく。

 

「散々人をタコ殴りにしといて、ビームを何発も浴びせて、ただで済むなんて、思ってないよねぇ」

 

 鳴り響く、スーツの駆動音。

 どんどん踏みつけられる力が増しているのだろう。田中星人の悲鳴も、それに合わせるように強くなっていく。

 

「ガァ……アアアアアアアアア!!!」

「っ!」 

 

 田中星人がチャージを開始した!? まずい、あの距離じゃ――

 

「甘いよ」

 

 中坊は田中星人の顎を蹴り上げ、発射直前の顔を強引に上方に向けさせた。

 田中星人の決死な思いで放ったであろう最後の悪足掻きは、暗闇を照らす花火のように夜空に儚く散った。

 

「そんな予備動作が長くてタイミングも取り易い攻撃が、何度も通用するわけないだろう。ステルスを破ったのは驚きだし、確かに当たれば痛いけれど、所詮そこまでだ」

 

 これが、この過酷な戦場を何度も生き抜いてきた、歴戦の戦士なのか。

 逆に言えば、このレベルにならなければ、この先は生き残れないのか……。

 

「アアアアアアアア!!!」

 

 田中星人の断末魔の叫び。

 終わったか……、と思ったその時。

 

 

 田中星人の頭頂部が割れた。

 

 そして、そこから()()()()()()()()が飛び出してきた。

 

 

「!!」

 

 俺は、反射的にYガンを発射する。

 

 Yガンによる捕獲網が、その鳥のような化物を捕えて固定した。

 

 

「何だ……コレ?」

「うわっ、気持ち悪っ、生臭い!」

 

 ……キャラ、戻ってるな。

 

「コイツが中身、ていうか本体で、このロボットみたいのは外装? それとも俺らが着てるみたいなスーツなのか?」

「どうでもいいよ。さっさと殺しなよ」

「いや、コイツ倒したのはお前だろう。俺が殺したら俺の点数だぞ」

「別にいいよ。やられた分はやり返したし、それに前回アンタの手柄を横取りしちゃったしね。これでチャラってことで」

 

 明らかにねぎ星人とコイツとじゃコイツの方が点数高いんじゃねぇかと思ったが、中坊の興味は田中星人からは既に完全に失せているようだった。

 

「…………」

 

 中坊は、既にガンツの世界に心を奪われている。

 俺らのように、この『ゲーム』から解放されようなんてモチベーションは、もう残っていないのだろう――初めから無かったのかもしれないが。

 

 ゲームを楽しんで、バトルを楽しんで、その結果として100点が溜まったらその時は、すぐさま新しい武器(②番)を選ぶに違いない。

 もしかしたら、コイツはもう何周かしてるのかもな。

 

 俺は、田中星人の正体である鳥男にYガンを向ける。

 ガンツはまた肝心な情報をくれなかった。

 もしかしたら、この間のねぎ星人みたいに、もう一匹――それも数段強いのがいるのかもしれない。

 

「にしても、コイツの姿面白いよね。これが鳥人(とりじん)なのかな?」

「お前、笑い飯知ってんのかよ……」

 

 まさか彼らも自分達がネタにした面白生物が実在して、今まさにどこか分からない場所へ送られるとは夢にも思うまい。

 

 さっさと気を取り直して、さっさと済まそう。

 恐らく、これで終わりではないだろうから――。

 

「――ん?」

 

 鳥人(←思わず使ってしまった)の様子がおかしい。

 

 なんというか、息苦しそうだ。

 確かに全身グルグル巻きのこの状態は快適ではないだろうが、前回のねぎ星人の時は窒息するほどの強さで縛ってはいなかった。精々身動きが取れないくらいだった筈。

 

 しかし、鳥人は海で溺れるように悶えて、息絶えて――死んだ。

 

 ()()()()

 

「死んだみたいだね? なんか窒息したように見えたけど」

「…………ああ」

 

 俺は、Yガンのトリガーを引く。

 死んだ後で転送して点数がもらえるかは知らないけれど、あんまり放置して気持ちのいいものじゃなかった。

 ヤンキー達の死体を放置して、中坊と話込んでいた俺が言っても説得力がないだろうけれど。

 

「……もしかしたら、このロボットは外装とかスーツとか以前に、鳥人達にとっては宇宙服的な意味合いが強かったのかもな」

 

 だから、息が出来ずに、死んだ。

 鳥人達にとっては、ここは異星で、宇宙だから。

 

 ……本当に、アイツらが、宇宙人だったとしたら、という前提だけれど。

 

「かもね」

 

 中坊はクスリと笑う。

 

「さて、()()、行こうか。僕達の戦いはこれからだ!」

 

 中坊が打ち切りフラグな言葉と共に、言う。

 ……やっぱり、終わりじゃないんだな。

 

「はぁ……後、何体だ。………………おいおい、ウソだろ」

 

 俺は、自身の血の気が失せるのを感じる。

 そのマップに示された、絶望的な現実に。

 

「確かに、これは大変だね♪」

 

 中坊が言う。ちょっと楽しそうに。

 コイツのメンタルはどうなってんだ。

 

「お前、前回制限時間は一時間って言ったよな。今回はどうなんだ? また一時間か?」

「そうだけど……コントローラーの画面変えれば、普通に残り時間出るよ」

 

 中坊が何言ってんの? みたいな感じできょとんと首を傾げながら言う。

 ……出た。嘘っ、恥ずかしっ。何で気づかなかったんだろう。

 

「……残り50分。いけると思うか?」

「どうだろうね。手練れが何人もいるなら十分いけると思うけど、あのメンバーじゃね? 少なくともアイツらが何体か倒してくれないと。……それでも、僕達のどっちかじゃないとボスは倒せないだろうね」

「ボス?」

 

 中坊はけろりといった様子で言う。

 衝撃的な事を、事もなくあっさりと。

 

「毎回、一匹はいるんだよ。他の奴とはレベルが違うボスキャラが」

「………………はぁ」

 

 思わず溜め息が出た。甘く考えていたわけじゃない。

 だが、俺が考えていた以上に、100点を獲るまで生き残り続けるっていうのは、かなりの無理ゲーだ。

 

 こうなると、中坊が生きていてくれたのがせめてもの――。

 

「それに、僕のスーツも限界だしね。ちょっと攻撃喰らい過ぎた」

「……………なんだって?」

 

 俺は中坊の顔を凝視する。コイツ、今何て言った?

 中坊はまるで、他人事のように言い放つ。

 

「あと一撃でも喰らったら、たぶん僕のスーツは壊れる。只の黒い服になる」

 

 このスーツはね、無敵ってわけじゃないんだよ。

 

 中坊のセリフは、この絶望の状況を更に悪化させた――目の前が真っ暗になりそうだった。

 




その者達は血まみれの惨状から血塗られた戦場に送られる。


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こんなとこで、つまんなく死ぬな。

「おい! みんな集まってくれ!」

 

 葉山は呼び掛ける。

 しかし、葉山の元へ集まったのは相模だけだった。

 

 少し先にいる達海と折本は集まろうとせず、子供と祖母はそもそも見える範囲にいなかった。

 

「…………くそっ」

 

 葉山は自ら達海と折本の元へ移動する。

 

「おい、待てよ!」

「――はぁ。なぁ、葉山。何が何だか分かんねぇが、俺はこんなんに付き合うつもりはねぇぞ」

「……そうだよ。あんな趣味の悪いドッキリし掛けるなんてどうかしてるって。マジでウケない」

 

 どうやらこの二人は先程の一連をテレビか何かの企画だと思ったらしい。

 精神衛生上一番優しい受け入れ方だが、葉山はそうして死んだ人間を少なくとも四人知っている。

 

「テレビじゃない! 帰ったら死ぬんだ! そもそも、そんなことをする理由もないだろう!」

「……じゃあ、これは何なんだ? この状況を、分かるように説明してくれ」

 

 達海は立ち止まったが、厳しい目つきで葉山を睨み付けたまま問い質す。

 だが、葉山は口を噤んだまま、二の句を継ぐことが出来なかった。

 

「…………」

「……何も言えないんだ。それで信じろって無理じゃない?」

「葉山くん……」

 

 葉山は俯き、内心で吐き捨てる。

 

 この状況を説明しろ? ――こっちの台詞だった。そんなこと、誰よりも自分が聞きたかった。

 

 何百回と心の中で叫んだことだ。

 これは何だ? 何でこんなことに? 何で俺が?

 

 だが、答えなど出ない。誰も答えてくれない。

 

 葉山が知っているのは、先程彼らにも説明した、荒唐無稽な事実だけなのだ。

 説明しろと、そんなことを言われても、出来ることは既にしている。

 信じられないのも分かるが、信じられないようなことに巻き込まれているのだ。

 

 達海は、そんな葉山の苦悶の表情を見て違和感を覚えた。

 彼が知っている葉山は誰よりもスマートな男だった。

 少なくとも、こんな弱い表情をする男ではなかった筈だ。

 

(……そういえば、こないだの練習試合のときも……)

 

 達海が思考に入ろうとするのを、くいっと引っ張られる袖口の違和感が止める。

 

「達海くん。もうこんな人達放っておいて帰ろう?」

 

 袖口を引っ張っていたのは、隣に立つ折本だった。

 折本の瞳には、確かにこの奇妙な状況に対する違和感や疑念は有るようだったが、それよりも早くこの状況から、そして目の前の葉山隼人から離れたいという意思があった。

 

 それでも、達海を誘うのは、漠然とした恐怖と不安故なのか、それとも――。

 

 達海はとりあえず思考を止めて、折本の手を振り払った。

 

「……やめろ。袖口伸びんだろうが」

 

 そして、そのまま帰宅と決め込み、歩き出す。その背中に折本が続くと、葉山が焦ったように声を上げた。

 

「おい、帰るなって!」

 

 しかし、二人は葉山の言葉を無視し、帰ろうとする。

 そんな彼らの背中に、葉山は思わず吐き捨てた。

 

「くそっ!」

「葉山くん、どうする? このままじゃ……」

 

 相模の顔が青くなる。

 エリア外に出ると頭が吹っ飛ぶという現象は、葉山隼人は目撃していない。

 

 目撃したのは、ここにいる相模と、そして比企谷八幡だけだ。

 今、相模はその時のことを思い出しているのかもしれない。

 

「……あのおばあさんと子供は? 今どこに?」

「え、えっと――」

 

 相模はマップを取り出す。

 

「ええと、赤い点がうち達だから……二人組が四つ。位置的に、これがうち達で、これがあの二人だよね。」

「ああ」

 

 比企谷八幡はあの中学生と一緒に行動しているのかと、そう理解した次の瞬間――葉山はその事実に気付き、声を張り上げた。

 

「――――!! この二人、()()()()()()()()()()()()()! 恐らくはあのおばあさん達だ!」

「ッ! 急いで止めないと!!」

 

 葉山達はすぐさま行動を開始し、急いでその二つの赤点のポイントへと向かう。

 途中、進行方向前方を歩いていた達海と折本をあっさりと抜き去って――。

 

「ッ!」

「えっ! ……な、何なの? あたし達には帰るなって言っておいて、自分達は――」

「いや、そんなことより」

「……ん? どうかしたの」

「……何だ? あの()()()()

 

 達海は絶句していた。

 いくら葉山が自分と同様に運動神経抜群だと言っても、あのスピードは常軌を逸している。それに、相模も同様のスピードを出せていたことにも説明がつかない。

 

「……このスーツか? ……もしかして俺も?」

 

 達海も折本もスーツを着ている。

 達海は葉山達の行動の意図を確かめるというより、スーツの力を試すべく。

 

「よし、行くぜ!」

「あ、ちょっと待って!」

 

 葉山達の後を追いかけ始めた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「おうち帰りた~い!!」

「あぁ、分かったわ、りょうちゃん。今、タクシー捕まえてくるからもう少し我慢してね」

 

 泣きじゃくる子供をお婆さんが宥めながら、二人は住宅街を出るべく道路に向かって歩いていた。

 

「それにしても……何かしら、この音? 耳鳴りかしら? 嫌だわぁ。もう歳ねぇ」

 

 おばあちゃんは子供の手を離し、耳に当てていた手を上げながら、タクシーを止めようと道路に向かって身を乗り出す。

 

 

「………あ……さん! …………めだ!!」

 

 

 住宅街の外へ――エリア外へと。

 

 

「え?」

 

 

 身を乗り出して、一歩。

 

 

「ダメだ!! 戻って!!」

 

 

 足を――踏み出した。

 

 

 

 バンッ!!! ――と、風船が割れるような音と共に、頭部が破裂した。

 

 

「…………え」

 

 少年の小さな呟きが漏れる。

 

 目の前で、祖母の頭が吹き飛び、鮮血の噴水が勢いよく噴き出した光景に、脳内を占めるのは圧倒的な疑問の嵐だった。。

 

 頭部を失った祖母の体は、重力にゆっくりと負け、何の抵抗もなく地面に崩れ落ちる。

 祖母が止めようとしたタクシーの運転手は欠伸混じりのまま眠い目を擦って―――死体の横を何事もなく車を走らせ、ブレーキを踏むことなく通り過ぎる。

 

 子供は――ピタリと泣くのを止めていた。

 

「あ……あ……」

 

 葉山隼人は、その光景を前に、ゆっくりと膝から崩れ落ちる。

 相模南は口元に手を当て、何も発しない。

 

 その二人の更に後方で、達海達也と折本かおりも絶句していた。

 

 達海は、スーツによる身体強化の興奮から一瞬で醒めていた。

 頭に流れる不可解な音楽に、ここに来てようやく気づいた。

 

 折本も、ここに来てようやく現実と向き合った。

 何か大変な事態に巻き込まれていることを自覚した。

 その途端、猛烈な不安と恐怖が襲い――吐き出すように、絶叫した。

 

 

「何が――どうなってんの!!」

 

 

 折本の叫びに、少年がふと現実へと引き戻される。

 

 目の前に広がる血溜まり。目の前に死に骸。

 

 少年は、涙をぶわっと溢れさせ――改めて、泣いた。

 

「あああああああ~~~~~~!!! おばあちゃ~~~ん!!!!」

 

 その言葉とは裏腹に、少年は祖母から背を向けた――あるいは、祖母の死から、逃げ出した。

 まるでここではない何処かに居る祖母を探しに行くが如く、目の前に転がる死体から遠ざかるように、少年は来た方向と同じ道、すなわち葉山や相模のいる方向へ走ってくる。

 

 だが、葉山も相模も目に入っていないかのように、そのまま二人の隣を通り過ぎ、後方にいる達海や折本の横も通り過ぎた。

 

「あ、ダメ!」

 

 相模が、今更ながら呼びかける――が、もう手遅れだった。

 

 あの子供もスーツを着ている、というより相模が着るように促したのだ。着方を教えたのも相模。その甲斐あってか正しく効果を発揮して、尋常ではないスピードであっという間に、エリア内(住宅街)へと姿を消した。

 

「大変!? また一人になっちゃったよ、あの子! どうする、葉山くん!?」

「………………」

「葉山くん!!」

「ッ!! ……ああ」

 

 葉山は、しっかりしろと自分に喝を入れ直した。

 

 八幡が葉山に託した使命は、戦闘に参加しない者達を守ること。

 あの男は、葉山が戦闘に参加することを怖がっていると見抜いていた。

 それを理解した上で、葉山にバックアップ――即ち、()()()()()()()()()()()()()()()を、葉山隼人に与えたのだ。

 

 こうして葉山は、体よく八幡に戦闘という、()()()()()()()()()()()()()

 

 だが、葉山はその与えられた大義名分すら、満足にこなすことが出来なかった。

 しかも、星人に殺されるのではなく、エリア外に出してしまうという、最悪な凡ミスを犯して。

 

(…………それでも、だからといってここで項垂れていても、何も解決しない)

 

 これ以上、誰も死なせない。一人でも多く、あの部屋へと還す。

 

 八幡も、中坊も、ここにはいない。

 

 それが出来るのは――自分だけ。

 

 葉山隼人、ただ一人だ。

 

「ねぇ! お願い、説明して! ……何がどうなってるの? これは何なの? ここは何処なの? あたしたちは、どうなっちゃったの!?」

 

 折本が一歩一歩と葉山に近づきながら問い詰める。

 葉山は、苛立つように髪を掻き毟りながら、折本の方を見ずに吐き捨てた。

 

「……最初から言ってるだろう。これはあの黒い球体――ガンツのゲームで、俺達は星人を倒すまであの部屋に還れない。勝手に帰ろうとして、エリア外に出ると…………あのおばあさんのように、頭が吹き飛んで死ぬんだ」

「……そんなの、信じられるわけないでしょ! 言ってんじゃん! 分かるように説明して――あたしたちを、納得させてよ!」

 

 折本が葉山に懇願するように詰め寄ると――葉山が折本の方を向き、振り払うようにして、声を荒げた。

 

「信じられようと、信じられまいと――それが現実なんだよ!!!」

 

 葉山の叫びが、真っ暗な住宅街に響き渡る。

 

「っ!?」

 

 折本は、葉山の剣幕に閉口する。

 少し離れた場所にいた達海も瞠目し――相模は。

 

「葉山くん……?」

 

 心配そうに呟き、目を細めるが、頭に血が昇っている葉山には届かない。

 

 折本へ――もしくは自分へ――あるいは誰かへ、絶叫を続ける。

 

「そんな意味が分からない、荒唐無稽な御伽話のようなふざけた世界に、俺達は巻き込まれてるんだよ!! それも絵本みたいな夢いっぱいな幸せな物語じゃない!!! もっと理不尽で!! もっと危険な、地獄絵図だ!! 気を抜けば死ぬ!! 間違えれば殺される!! そんな状況に! こんな事態に! 俺達は強制的に放り込まれてるんだ!!」

 

 葉山はそこで、一度、少し先の血溜まりへと目を向ける。

 真っ赤な池の中に沈む、人間だった肉塊。

 

 歯を食い縛り「……これで、分かっただろ……ッ」と低く唸るように言うと、再び折本へと、達海へと目を向けて。

 

「……やるしかないんだよ。納得出来なくても、理解出来なくても、意味が分からなくても。やらなきゃ死ぬんだ! 戦わなきゃ殺されるんだ!! 元の平和な当たり前の日常に戻りたければ、ここに適応するしかないんだよ!! “アイツ”のように!!」

 

 アイツ――その代名詞に、折本の頭に思い浮かんだのは。

 あの死体に埋め尽くされた『部屋』に君臨する中学生――では、なく。

 

「…………」

 

 折本が目を伏せる。

 葉山は「はぁ……はぁ……」と息を切らながら、再びくっと唇を噛み締めた。

 

 相模は、そんな葉山を両手を握り締めながら痛ましげに見詰めていると、そんな相模に向かって、葉山は顔を見ずに小さな声で問い掛ける。

 

「…………相模さん。あの子は何処に行ったか分かる?」

「……あ、うん。……ええと、だいぶ住宅地の奥地に行ったみたい。敵は近くにいないみたいだけど――あっ!」

 

 何処かへと走り去っていった少年の行方をモニタで確認した相模は、そこに映っていた情報に思わず声を上げる。

 

「どうしたの、相模さん?」

「葉山くん、見てこれ!」

「っ!? ――これは!?」

 

 葉山が相模の持つマップに顔を覗き込ませる――すると、そこに映っていたのは。

 

 四つの青い点――そして、それに囲まれている、二つの赤い点。

 

 これが意味することは――つまり。

 

「これ、中学生とヒキタニじゃ!?」

「ああ……ッ」

 

 葉山は再び唇を噛む。

 奇しくも、葉山は先程の八幡のように二択を迫られることとなった。

 

 八幡は見捨てるか? 助けるか? の二択だったが、葉山は加勢に行くか? それとも子供の救出を優先するか? という二択だ。

 

 葉山はまだ今回の敵――田中星人がどれほど強いのかを知らない。

 普通に考えて、ここは子供を助けに行くことが優先されるだろう。そもそも、それが八幡が葉山に託したことなのだから。

 

 だが、ここで葉山はやはり先程の八幡と同じことを考えた。

 

 もしここで、あの二人を失ったら、と。

 

 そうすれば、残る戦力は実質ここにいる四人。全員、ほぼ戦闘経験は皆無といっていい。

 田中星人がどれほど強いにしろ、あるいは弱いにしろ、素人戦士の四人が生き残る可能性は、限りなく0に近いだろう。葉山は、悔しくもその現実を素直に受け止めた。

 

 そして、あの少年の近くに、現在は敵がいないという事実も、葉山の背中を押した。

 

 葉山にとって、星人のイメージは前回のミッションにおいて自分以外の四人の大人を瞬時に虐殺したねぎ星人で固まっている。

 故に、葉山は――あの二人が殺されてしまうという予感を、あるいは恐怖を、拭いきれなかった。

 

「助けに行こう」

 

 葉山は、少しの黙考の後――二人の救出に向かうことを決定した。

 

「ぁ…………分かった」

 

 相模は何か口を開きかけたが、結局、胸に浮かんだ言葉は呑み込み、葉山の決定に従った。

 

 そして、葉山は達海と折本に向かい合う。

 

「俺は今から、仲間を助けに行く。付いて来たければ付いて来い。別に来なくても構わないが、エリア外には出ないでくれ。この腕のコレで、エリアは確認できる」

 

 葉山はそう言って、二人の横を通り過ぎる。相模もそれに続く。

 

「……………」

 

 達海と折本はしばし固まっていたが、やがて葉山達を追うようにその場を後にした。

 

 

 

 ちなみに、相模も、葉山も気付いていなかった。

 いや、ひょっとしたら都合が悪すぎる情報だった為、脳が受け付けるのを拒否したのかもしれない。

 

 八幡と中坊を囲む四つの青点――そこから離れた場所には、更に“巨大な”青い点が存在した。

 あまりにも多くの青点が一か所に固まっているが故に、一つの大きな青点に見える程の敵の数――星人の残数。

 

 絶望は、止まらない。敵は、ウジャウジャと、この一キロ四方のエリア内に隠れ潜んでいる。

 

 

 残り時間は、あと45分。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「そうか…………やっぱり、な」

 

 ガンツスーツには、限界がある。

 

 それは、あの部屋で中坊がヤンキー四人を惨殺した経緯を聞いた時に、もしかしたらと思ったことだ。

 

 だが、これはかなり不安な事実だ。

 このスーパースーツがあるからこそ、俺達は星人とかいう危険生物に立ち向かうことが可能になる。

 

 何よりもこのスーツを着ることこそが、ガンツのミッションに参加する上での絶対条件にして前提条件。

 

 それが、もし戦闘中に壊れたら?

 変身ヒーローものだと、そこで仲間が助けに来たりするものだが、そんな都合のいい展開が俺の人生において起こる筈がない。

 

 只の打ち切り最終回――惨めな末路、ジ・エンドだ。

 

 そして、今まさに隣を歩く中学生がその状況に瀕しているわけだが、中坊のピンチは他人事じゃない。

 

 敵は、まさに未知数。少なくとも後十体以上はいる。それを俺一人で殲滅するのは不可能だ。

 さっきの田中星人だって、決して弱くなかった。ねぎ星人よりは、明らかに強かった。

 

 そして、戦いにおいて、数が多いというのはそれだけで強さだ。

 アイツらに仲間意識や意思疎通の精神があるのかはしらんが、抜群の連携の集団攻撃なんて仕掛けられたら、それだけで勝てる気がしない。

 

 ……あぁ、マイナス要素が多すぎる。もう、帰りたい。プリキュア見て寝たい。働きたくない。

 だけれど、クリアしないと帰ってベッドにダイブすることも出来ない。

 

 それに制限時間なんてものもある。あれだけの数を一時間で倒せとかなんて無理ゲーだ。

 もし、タイムアップでゲームオーバーになったら……どんなペナルティがあるのか。

 

 中坊に聞いても「なったことないから分かんない♪」だからな。だからテヘペロやめろ。殺意しか湧かないから。

 

 はぁ……でもまぁ、愚痴ってる暇はない。正確には愚痴っている時間すらも勿体無い。

 今回のメンバーでまともな戦闘経験があるのは俺と中坊だけだ。

 

 一刻も早く、一体でも多く倒さないと。

 

「はぁ~。行くか」

「お、ぼっち(笑)さん、エンジンかかってきた?」

「働きたくないが仕方ない。やらなくてもいいことは極力やらないが、やらなくてはならないことは手短に、だ」

 

 早く新刊出ないかなぁ、あのシリーズ。そして原作が溜まったら、是非ともまたアニメに……何年後だろう。

 

「そうだね。どうする? いきなりココに突っ込む?」

 

 中坊はマップの――青点が集合しすぎて、一個の巨大な点になっている所を指さした。

 

 確かに、ここは一番の難所だ。逆に言えば、中坊のスーツがかろうじてでも生きている内に片付けるのも、手ではある――だが。

 

「…………いや、やめておこう」

「ふーん、理由は?」

「見ろ」

 

 俺と中坊がマップを覗き込む中――たった今、巨大な青点から小さな青点が一つ、別の場所に移動し始めた。

 

「さっきから不定期にだが、青点が分かれ始めてる。もしかしたら、既に俺達に気付いて見回りを出しているのかもしれない。数が減る算段があるなら、相手にするならなるべく少人数がいい。ここは、なるべく数の少ない固まりから潰して行こう」

 

 俺の考えに、中坊はクスクス笑う。

 

「……ん? どうした? 何か間違ってたか?」

「ううん、正しい。正しすぎて、気持ち悪い。やっぱアンタ僕に似てるよ。どっかずれてる」

「…………じゃあ、これで行くぞ。まずはここからだ」

「りょ~かい♪」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――って! 結局四体相手にすることになってんじゃねぇか!」

「ははは。まさか二体追加で飛んでくるとは思わなかったねぇ!」

 

 住宅街の中心を流れる用水路の中。決して水深は深くはない。膝まで浸かる程度だ。

 そこで俺達は、田中星人四体に囲まれている。俺と中坊は背中合わせでそれぞれ二体ずつと向き合っている。分かりやすくピンチなんだよなぁ。

 

 始めはマップに二体がココにいると示されていたので、一人一体ならなんとかなるかと、ノコノコやって来たわけなのだが――戦っている内に新たに二体増えた。

 

 4対2。

 ここでもし有能な指揮官が居たら、一旦下がって態勢を立て直すという決断を下すんだろう。

 最高の軍師は、最高の臆病者というのを聞いたことがある。それも一理ある。

 

 だが、この状況では逃げることすら難しい。何より――時間も有限だ。

 

「ちっ」

 

 俺は舌打ちをかましながら、覚悟を決める。

 

「やるしかねぇか」

「だね♪」

 

 俺は右手にXガン。左手にYガンを構える。

 中坊も右手にXガンを構え、臨戦体勢だ。

 

「中坊。間違ってもスーツ壊すなよ。まだボス戦控えてるんだからな」

「了解了解。アンタこそ、こんなザコ戦で死んだら笑い話にもならないよ」

「おい、やめろ。割とありえる話なんだから、それ」

 

 軽口を叩き合いながら――俺達は一斉にビームをチャージし始めた田中星人軍団に向かって突っ込んでいった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 葉山達が現場に到着した時、そこで行われていたのは、まるでSF映画のような戦闘だった。

 

 既に、田中星人は二体にまで減っている。

 

 田中星人は足の裏からロケットのように炎を噴射して、都市部の用水路特有の左右をコンクリート壁で囲まれた限られたエリア内を縦横無尽に飛び回っていた。

 そして時折、口腔内から青白い光を発光させ、ビーム弾のようなものを八幡と中坊に向かって発射する。

 

 しかし、この二人には当たらない。

 中坊は後方へ、八幡は前方へ飛んで、それを躱す。

 ビーム弾を放った個体の真下を八幡は潜り抜け、そのまま背後に回り込んだ。

 

 八幡は、YガンとXガンを“同時に”発射する。

 

 田中星人はYガンの捕獲網を、飛行高度を下げることによって躱す――が、()()()()()()()()()()にXガンの時間差の衝撃波が直撃した。

 

 ドガンッと田中星人が吹き飛ぶ。

 八幡はすかさず田中星人が墜落した位置に駆け込み、背後から抱き締めるようにして締め上げた。

 

「ガァァァァアアアアアア!!!!!」

 

 田中星人は苦悶の咆哮を上げる。

 しかし、八幡は締め上げる強さを一切弱めず、むしろどんどん強めていっているのはスーツの膨れ上がる筋肉が物語っていた。

 

 ロボットのような田中星人の頭頂部が開き、その本体が飛び出してくる。

 

「中坊!」

 

 他の一体を引きつけていた中坊が、八幡の合図を受けるやいなや、一瞬視線をそちらに寄越し、Xガンを片手間に発射する。

 それを確認した八幡は、すぐさまその田中星人を放り投げ、中坊の加勢に向かった。

 

 八幡の興味の対象から外れた、外装から本体が体半分飛び出した鳥人は、苦しそうにもがきながら――数秒後に木端微塵に破裂した。

 

 続いて八幡が、中坊と戦う田中星人にYガンを発射する。

 その田中星人は後方に飛ぶことで難なく回避したが、これは元々中坊との距離を空ける為の威嚇射撃なので目的は果たしている。

 

「おい、大丈夫か!?」

 

 八幡は中坊の前に立つ。

 

「……はは。いや、ダメみたい」

「何言って――っ!?」

 

 八幡が後ろの中坊を振り返って見ると――中坊のスーツの機械部分からドロドロとした液体が流れ出ていた。

 

「お前……それって……」

「そんな重い攻撃喰らってないんだけど……やっぱ、あの部屋で受けたXガンが痛かったかな」

 

 中坊は、たははと力なく笑う。

 いつも不敵な中坊の、初めて見せる年相応の表情だった。

 

 ただの、子供だった。

 

「…………おい、下がってろ。アイツは俺がやる」

「…………え?」

「何度も言わせんなよ。お前には、まだ死んでもらったら困るんだ」

 

 比企谷八幡は座り込む中学生の前に立ち、不気味に宙を飛ぶロボットのような化物と相対しながら――子供に向かって言う。

 

「こんなとこで、つまんなく死ぬな。笑い話にもならない」

 

 中坊が呆気に取られている。

 呆然としている。何を言っているのか分からないという顔だ。

 

 八幡は、そんな中坊の首根っこを持ち上げ、そのまま河川敷――といってもコンクリートだが――に無理矢理引っ張り、ポイと放る。

 

「イタッ」

 

 もうスーツは只の服でしかない。コンクリートに乱雑に落とされるだけで痛むくらいだ。何の役にも立たない。

 

 それは、この命懸けの戦争において、明確にゲームオーバーを意味する。

 

 事実、中坊は、このスーツが壊れた時点で自身の命を当たり前のように諦めていた。

 

 この目が腐った男も、スーツが壊れた自分――只の足手まといの自分は、すぐさま切り捨てるだろう。

 自分ならばそうする。当たり前にそうする。

 この男は、自分と似ている。勝つ為なら、生き残る為なら、どれだけ非情で無慈悲でも、正しい選択を出来る人間だ。

 

 “人”として、間違っていようとも。

 “鬼”になることを、厭わずに、受け入れることの出来る人間だ。

 

 だから、この男との共闘も、ここまで――と。

 

(まぁ、それなりに楽しかった。最後にこんな男に会えただけで、十分かな)

 

 そんな風に、自分の十五年の人生にそれっぽい区切りをつけた――筈だった。

 

 しかし、この男は自分を助けた。もう自分には、何の価値もない筈なのに。切り捨てるべき対象の筈なのに。

 

「そこで見てろ」

 

 八幡は、振り返らずに戦場に向かう。

 

 中坊は、真っ白になった頭で、その後ろ姿を眺めていた。

 




葉山隼人は奔走し、比企谷八幡は奮闘する。


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僕の命は、僕のものだ。

 

 比企谷八幡は、残り一体の田中星人の前に立つ。

 

 田中星人はヘリコプターのホバリングのように、一定の高度――水面から2m程の高さ――をキープして飛翔している。

 そして、その能面のような笑顔の顔を一回転――360度回転させた。人体には不可能な動き。なまじ人体を模しているが故に、一瞬生理的嫌悪感が走る。

 

 顔が再び元の位置に戻った時――その表情は、怒りの面に変わっていた。

 

「カァ!!」

 

 口腔内に青白い光がチャージされる。既に何度も見た光景。しかし、その充填速度が先程よりも段違いに早い。

 

「っ!」

 

 八幡はとっさに右前方に転がるようにして回避する。チャージに伴う甲高い音も変化していた為に気付けたが、明らかに性能(パワー)が変わっていた。

 

 バッシャーン! と水飛沫(しぶき)が辺り一面に吹き荒れる。外れたビーム弾が水面を襲った際の副産物。

 

 八幡はそれをカーテンに距離を取る。

 すると、そのカーテンを田中星人が弾丸のようなスピードで突き破ってきた。

 

 飛行速度も先程までのそれとは段違いに速い。

 

 八幡はXガンを発射する。

 

「ガァ!!」

 

 しかし、田中星人は最小限の回避でスピードを落とさず突っ込んでくる。

 

「ッ! ちぃ!!」

 

 ギョーン

 ギョーン

 ギョーン

 ギョーン

 

 次は、当てることではなく、相手の回避の仕方を念頭に置き、距離を詰めさせない形で連射する。

 それでも、これは只の現状維持。時間稼ぎに過ぎない。それは八幡も分かっていた。

 

 しかし、突破口がない。

 敵が追い詰められると突然パワーアップする。

 ゲームではお決まりの展開だが、実際目の当たりすると、予想以上にテンパっている自分に気づいた。

 

「はぁ~~ふぅ~~」

 

 敵から目線を外さず、銃を撃つ手も休めず、八幡は深呼吸をする。

 呼吸はベストなパフォーマンスを発揮する為に非常に重要だとかなんとか、そんなことを漫画か何かで八幡は知っていた。

 だが、そんな理論的な裏付けとは別に、大きく深呼吸をするだけで大分落ち着きを取り戻した。

 

 敵は確かに強くなった。が、別に変身したってわけじゃない。動きが速くなっただけ。

 攻撃手段もビーム弾と肉弾戦のみ。

 こちらの対処も変わらない。肉弾戦にならない距離を取りつつ、ビーム弾の予備動作が始まったら当たらない位置に潜り込んで、銃を当てる。

 

 八幡がそう頭の中で結論付けた――その時、田中星人が川の中に潜り込んだ。

 

「なに!?」

 

 水の中から鈍く響くチャージ音。

 川はそこまで深くない。体も全て隠れきっていない。だが、突然の奇行に落ち着き始めたメンタルが乱れ、軽くパニックになってしまった。

 

 発射されるビーム弾。水中から発した分、水飛沫が大量に巻き上げられ、本命のビーム弾の正しい位置が把握できない。

 そこまで考えて、八幡はようやく体を回避運動の為に動かし始めた。

 正しい位置の把握など必要ない。とにかくこの水柱から逃れることが重要だ。

 

 だが、その行動は少し遅かった。ビーム弾の直撃こそ避けられたものの、巻き上がる水流に体をとられ、一瞬目の前が何も見えなくなる。

 

 体を起こした時、田中星人の顔が肉迫していた。

 

 スピードアップしたチャージは既に終了間近。

 ビーム弾が発射されるその瞬間――

 

 

――八幡の右拳が田中星人の頭部左側面にヒットした。

 

 

 スーツの力がふんだんに込められたその一撃により、田中星人は大きく吹き飛ぶ。

 

 その際、見当違いの方向に飛んだビーム弾は、この川を見下ろせる形で架けられた橋の手すり部分を吹き飛ばし、何人かの悲鳴――怪我人はなし――が上がったのだが、八幡にはそんなものは耳に入らなかった。

 

 八幡にとっては、今は逃すことの出来ない好機。

 

 河川敷に吹き飛んだ田中星人が行動を再開する前に、田中星人の体に馬乗りになり、左手で田中星人の顔をコンクリートの地面に押し付け固定。

 そして、ビーム弾を撃つべくチャージを開始したその口腔内にXガンを突っ込み。

 

 発射した。

 

「……悪いな。俺の勝ちだ」

 

 八幡は、その腐った目で冷やかに見つめながら冷酷に告げる。

 

 ビーム弾のチャージはそのまま進行中。だが、八幡の今のメンタルは一切動揺していない。

 

 田中星人の決死の一撃が放たれた――が、八幡はそれをあっさりと背筋を伸ばすように回避した。

 

 その一秒後――田中星人の頭部が吹き飛ぶ。その中身ごと。

 

 こうして、比企谷八幡と田中星人の対決は、誰が見ても明らかな形で勝敗が決した。

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 葉山達は、全員残らず絶句していた。

 

 星人との戦い。

 言葉の意味すら分からなかった達海と折本は勿論のこと、言葉では知っていたが、それを体感としては知らなかった相模も同様。

 

 そして、星人というものの恐ろしさを体感し、その強大さをここにいる誰よりも知っていた葉山すらも、いや葉山だからこそ、さっきまで行われていた戦闘が理解できなかった。

 

 戦いの渦中にいた、バトルを行っていたのが八幡だということも、葉山の混乱に一役買っていた。

 

 八幡は自分と同じで、前回からの参加者。つまりスタート地点は一緒だった筈だ。

 

 いつのまに、ここまでの差が出来た?

 

 自分は未だに、星人を前にすると恐怖で動けなくなる。

 今だって、この距離で見るだけでも怖かったし、指先が震える程に恐ろしかった。

 

 だが、八幡は自分が見ている間だけで二体の星人の撃退に成功していた。

 それも、一体は完全に独力で。

 

 マップで見た時には四体いたから、残る二体もあの二人が倒したのだろう。

 

 葉山は八幡との間に再び距離が開いたことを感じた。

 

 そして、その八幡の強さに嫉妬した。

 

 

 

 相模は、葉山とは別の意味で八幡との距離を感じた。

 

 前回のミッション時、相模の命を救ったのは八幡だ。それは相模も自覚していた。

 

 あの文化祭の時、相模は八幡を憎んだ。そして、その後の体育祭。

 二つの行事を終えて、相模は八幡をどうでもいい奴というポジションに落ち着かせることに成功した。

 

 いけ好かない奴。嫌な奴。どうでもいい奴。

 決してプラスではない。若干のマイナス感情を抱く程度。相模にとって八幡はそんな奴だった。

 

 それが、あのねぎ星人のミッションを経て、少し変わった。

 若干のマイナスが、若干のプラスに変わる程度には。

 

 決して好きではないけれど、この命懸けの状況を共に乗り越えるのに協力し合うくらいには、信用してもいいかな。信頼、してもいいかもしれない。

 そんなことを思うくらいには、八幡のことを、見直し始めていた。

 

 だが、さっきの戦闘を見て、思ってしまった。

 何故か、先程の、あの部屋での虐殺を演じた中坊を思い出した。

 

 怖い。

 

 八幡は、明らかに自分とは違うと思ってしまった。

 

 コイツは、本当に自分の同級生なのだろうか。

 つい先日まで、自分と同じ只の高校生だったのだろうか。

 

 相模には、信じられなかった。

 

 

 

 折本も同様のことを感じていた。

 

 初めて見る、星人との戦闘。

 こんなことを、自分もやらなくてはいけないのか。

 

 そのことにも恐怖を覚えるが、信じられないが、それ以上に信じられないのは、八幡だった。

 

 これが、あの比企谷八幡か?

 あの自分の記憶の片隅にかろうじてぶら下がっていた、あのどもりながら自分に告白してきた少年なのか?

 

 信じられない。信じたくない。

 

――比企谷は君たちが思っている程度の奴じゃない

 

 葉山の言葉が脳裏を過ぎる。

 

 ちらっと横目で葉山を見るが――その葉山は、唇を噛み締めながら、何かを噛み締めているようだった。

 

 それはきっと、今、自分の口の中に広がっているのと同じ――苦い、味で。

 

 折本は、目を伏せながら、ギュッと橋の欄干を握り締めた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「ほら。もう立てんだろ」

「あ、うん」

 

 戦闘終了後。

 未だに座り込んでいた中坊に手を差し出して、引き上げる。

 

 ……さて。ここからどうするか。

 

 さっきはあんなことを言っちまったが、スーツが壊れた中坊をこれ以上戦場に連れて行くわけにもいかない。

 

 つまり、残りは全部俺がやらないといけない。

 

 

 残り時間は、あと32分。およそ半分。

 ここまで倒したのは、最初のを合わせて5体。それも中坊と2人で。

 

 マップを開く。あの巨大な青点は健在だ。ここには少なくとも5体以上は固まっているだろうな。

 他にも3体がエリア内にバラバラの位置にいる。各個撃破するにも相当な時間が掛かる。

 

 ……絶体絶命、だな。

 

 だけど、だからといって、このままタイムアップを座して待つって選択肢はない。

 

 雪ノ下に見限られたままで、由比ヶ浜を泣かせたままで。

 

 これ以上――死んでたまるか。

 

「中坊。お前はそこでおとなしくしてろ」

「え? あ、ちょ――」

 

 中坊が何か言ってるが、取り合ってる時間はない。

 

 俺は、階段を上り、橋の上へと移動する。

 すると。

 

 そこには、葉山達がいた。相模や折本、達海もいる。

 

 全員、あの部屋で中坊に向けたような視線を、俺に向けていた。

 

 ……ちょうどいいか。

 

「葉山。コイツらのことは頼む」

「何処に行くんだ」

 

 通り過ぎようとする俺の行く手を葉山が遮る。

 ……邪魔だ。今はお前の()()に付き合ってる時間はない。

 

「お前には関係ない」

「関係ないわけあるか! 今のこの状況で!!」

「今のこの状況だから言ってるんだ」

 

 思わず苛立ちが混じる俺の声に、女子二人が悲鳴を上げる。

 だが、葉山は動じない。

 それが何故か更に癇に障り、俺も言葉を連ねてしまう。時間がないのに。

 

「残り時間は半分。だが、敵は腐るほどいる。ボスも残ってる。中坊のスーツも壊れた。なら――俺がやるしかねぇだろ」

 

 こんなことを言っても葉山には半分も理解できないだろう。

 残りタイムを見る方法は俺もさっき気づいた技術だから教えてないし、スーツが壊れることも、ボスの存在も知らない筈だ。

 

 だが、俺の様子で切羽詰まっていることくらいは伝わるだろう。

 葉山は由比ヶ浜並みに、空気を読むことには長けている。

 

 頼むから、今も空気を読んでくれ。

 

「……お前は、そのボスとやらを倒しにいくのか」

「ああ」

「……一人で?」

「……ああ」

 

 ……やめろ。それ以上、言うな。

 

「俺も行く」

 

 俺は、頭が沸騰したのかと思うくらい、腹が立った。

 コイツは、何にも分かっていないッ……。

 

 さっきの戦いを見てなかったのか? どうしてそういう考えになる?

 

 俺が思わずがなり散らそうとした、その時。

 

 

「出来んの? アンタに?」

 

 

 ちょうど階段を上ってきた中坊が、今まで聞いたことのないような、冷やかな声でいった。

 思わず振り返ると、表情も氷のように冷たい。

 

「……な」

「前回あれだけビビッておいて、ボスとまともに戦えるのかって聞いてるんだ」

 

 中坊はその極寒の表情と氷の言葉の刃を向けながら、葉山に向かって一直線に早歩きで突き進んでくる。

 葉山は、さっきまでの威勢はどこへやら、顔には出してないが、態度には少なからずの怯えがあった。

 

「アンタ達、少なくともぼっちさんが星人とタイマンになった時にはもういたよね。そして、それをバカみたいな表情でただ見てたアンタ達が、ボスに立ち向かえる? 足手纏いにならないって言える?」

「…………」

「中坊、もういい」

「だがッ!」

 

 中坊に完全にねじ伏せられたと思った葉山だが、まだ何か言うらしい。

 こいつ……。

 

「彼一人に、任せるわけには!」

「だから、アンタが行っても足手まといだって言ってんだ、ビビりイケメン」

「ッッ!!」

 

 葉山が表情を苦渋に歪ませる。

 

 引き下がるか、と思った次の瞬間――中坊が言った。

 

「それに、誰も一人で行かせるなんて言ってない」

 

 ……ん?

 

「アンタ達より、僕の方が100倍役に立つ」

 

 ちょちょちょちょ。

 

「待て待て待て! お前スーツおしゃかになってんだろ! 連れて行けるわけねぇだろうか!?」

「おいおい、何言ってんの? アンタの為に命を懸けるとでも? どんだけ自分のことを特別な人間だと思ってるんだよ、恥ずかしい~」

「……はぁ!? だって、おま――」

 

 お茶らけたような振る舞いをする中坊は、そこで表情を突如として引き締めて、仰け反りながら俺の方を見下ろすように言った。

 

「星人を全員倒さないと僕たち“全員”がゲームオーバーなんだよ。まだミッション二回目の“新人”に――自分の命運を黙って託せるとでも」

「っ!」

 

 瞠目する俺に、中坊は向き直り、一言一言を突き刺すように、捻じ込むように言う。

 

 

「誰かに責任放り投げて、あとは高みの見物なんて冗談じゃない。僕の命は、僕のものだ。誰にも責任を押し付けるつもりは、ない」

 

 その言葉に、俺も、葉山も、何も言えなかった。

 

 中坊は、ここにいる誰よりも年下だが、ここにいる誰よりも、この場にいるべき覚悟を持っていた。

 

「……好きにしろ」

「当たり前だよ♪」

 

 俺は中坊と共に歩き出す。

 

 葉山は手を伸ばし、何か言いかけたが、そのまま腕を下し、顔を俯かせた。

 

「……葉山」

 

 俺は葉山に声を掛ける。

 葉山は顔を上げ、俺を力の無い目で見る。

 

「俺らがボスを倒す。お前はお前の出来ることをしろ」

 

 それだけ言って、俺は歩みを再開する。

 

 ああ言えば、葉山はどう動くか、俺にはなんとなく分かっていた。

 そうするように誘導した。

 

 俺は、今回葉山に戦闘を強要するつもりはなかった。

 明らかに怖がっているアイツを無理矢理戦わせても勝ち目はないと思ったし、アイツには戦う気の無い奴らを守る役割を担ってもらおうと思っていた。

 

 それが適材適所だと。

 

 だが、中坊の言葉で気付いた。

 

 俺は何様だったんだ? 俺は全員の命運を背負える程の器か?

 

 答えは否だ。前も言ったが、俺はヒーローじゃない。ヒーローなんかにはなれない。

 自分の身を守るのに、精一杯の男だ。

 

 それに、奉仕部でこの半年間散々やってきたじゃねぇか。

 飢えた人に魚を与えるのではなく、魚の取り方を教える。

 

 何もさせずに、俺が全ての星人を殺す。

 そんなこと出来るわけがない。仮に、そんなことを続けて――

 

――俺が死んだ後、アイツらはどうなる?

 

 戦闘経験0のままじゃ、そのまま雑魚星人にあっさり殺されて、あっという間にゲームオーバーだ。

 そもそもこのゲームが、敵を倒さない限り抜け出せない仕組みだ。生き残るだけではずっと点数は貯まらない。ずっと解放されない。そういうシステムになってるんだ。

 

 いつかは、やらなくてはいけない。

 

 恐怖に勝たなくてはいけない。

 トラウマを乗り越えなきゃいけない。

 

 もちろん、死ぬリスク、殺されるリスクは、当然ある。

 

 その時は背負おう。その重荷を。けしかけた責任を。

 

 誰しもが、中坊のように自身の命の責任を背負える奴ばかりじゃない。

 いや、もしかしたら背負っているのかもしれない。

 だがそれでも、俺がまるっきり無責任かといえば、そうではない。

 

 葉山が死んだら、相模が、折本が、達海が死んだら。

 

 その原因の一端は、俺にある。

 だから、俺はその罪を背負うべきだ。一生。

 

 ……この考え方は、自意識過剰で傲慢なのかもしれないけれど。

 

 そもそもこんな考えは、このままじゃクリアできそうにないから、葉山達を使()()ことへの、只の自己擁護なのかもな。

 

「何、難しい顔してんの?」

 

 中坊が首を傾げてこちらを下から覗きこむ。

 

「別に……」

 

 だが、これも全部俺の憶測だ。

 

 俺の言葉で葉山がどう動くか?

 それは葉山が決めることだ。

 

 俺の誘導通り星人と戦うのか? それとも――

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「星人と戦おうと思う」

 

 葉山隼人はそう宣言した。

 

「え!? 何言ってるの、葉山くん!?」

「……正気か、葉山?」

「……………」

 

 対して、残る三人の反応は芳しくない。

 それも当然だ。ついさっき、異次元としか思えないレベルの死闘を目撃したばかりなのだ。怖気づくなという方が無理な話だろう。

 

「それって、比企谷たちの後を追うってこと?」

「いや、違う。悔しいが、今の俺達じゃあ彼の言う通りボスを前にしても震え上がって足手纏いになるだけだ。……だが、このマップを見る限り、何体も固まっている巨大な青点の他にも、バラバラで行動している奴らが、三体いる。比企谷は時間がないとしきりに言っていた。いくら彼らでも、ボスを相手にした後でエリア内にバラバラに散らばる個体を撃破していく時間なんてない筈だ。……だから、せめてこっちは俺達が処理しよう」

 

 葉山が滔々と話す中、折本が一歩前に出て、葉山に言う。

 

「……ふざけないで。そんなの無理に決まってんじゃん。まったくウケないよ」

 

 達海の、相模の目が折本に集まる。

 葉山もまっすぐに見据える中、折本は俯くように、地面に向かって吐き捨てるように言った。

 

「……いきなりこんなわけわかんないことに巻き込まれて……なにが何だか分かんないのに……その上、あんなビーム出したり空飛んだりするやつらと戦う? 倒す? どうやって!? そんなのできるわけないじゃん!!」

 

 そう叫ぶ折本の目には、いつの間にか涙が溢れていた。

 

「……折本」

「……折本さん」

 

 達海が、相模が、そんな折本を痛ましげに見詰める中――葉山は。

 

「……分かってる。嫌がる人を無理矢理に連れていく気はないよ」

 

 それでも、葉山は――やめるつもりはなかった。

 彼女は知らない。ガンツがどれだけ理不尽か。このままミッションをクリアできずにタイムアップなんてなったら、どんなペナルティがあるか分からない。その危険性は葉山も十分察していた。

 

「……折本さんは安全な所に隠れてて。……達海、折本さんと一緒に居てやってくれないか?」

 

 達海は、目を瞑り黙考する。そして、目を開き、葉山に言う。

 

「いや、葉山。俺はお前についていく」

「……達海くん」

 

 折本が目を見開き、達海の名前を呟きながら見上げるが、そのまま沈み込むように俯いていく。

 葉山も、達海に苦言を呈した。

 

「何言ってるんだ、達海!? お前は折本さんと安全な所に――」

「安全な所って何処だ? アイツらは飛べる。それに数もたくさんいるんだろ。この制限されたエリアじゃあ、何処にいたってアイツらと遭遇するリスクがある。その時に、俺とコイツだけじゃあ黙って殺されるだけだ。それなら、お前と一緒に迎え討つ。そっちの方がまだ生き残る可能性は高い。逃げるより、攻める方が性に合ってるしな」

 

 達海の言うことは、間違っていない。それなりに筋は通っている。

 だが、葉山は達海の表情を見て、幾ばくかの不安を覚えた。

 

 達海の表情は、まるでここ大一番の試合に挑む時のように輝いている。有体に言って、わくわくしていた。

 

 あれだけの死闘を目の当たりにして、恐怖ではなく、興奮を覚える。

 それは良い言い方をすれば大物、器が大きいと評されなくもないが、悪い言い方をすれば、現状を正しく見えていない、愚か者といった表現もできるだろう。

 

 その両者の差は、紙一重。

 

 果たして、達海はどっちか。

 

「……分かった。だが、いざというときは」

「分かってる。女子供を見捨てるほど、腐ってねぇさ」

 

 葉山は、分かっているのか分かっていないのか微妙な――葉山は、自分が死にそうになった時もちゃんと逃げろという意味も込めていたが、そっちは伝わったかは微妙だった――達海の返答に、いまいちすっきりしなかったが、それとは別の意味で達海の言葉に引っかかった。

 

 女子供――子供。

 

 すると、相模が真面目な顔で葉山の服――スーツの上に着ている総武高制服の上着――を引っ張り、振り向かせる。

 

「なら、早く行こう。あの子の近くに、一体、近づいてる」

 




そして、比企谷八幡は田中星人と対決する。


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裕三君?

 

「なぁ」

「何?」

 

 それは、目的地に行く道すがら、なんとなく発した言葉だった。

 

「お前さ、死ぬの怖くないの?」

 

 俺達は今、散々時間がないとか喚いておきながら、のんびりと夜中の住宅地を散歩していた。

 中坊のスーツが壊れていてダッシュ出来ないというのもあったが。

 

 一番はやっぱり怖いのだ。死ぬのが。

 

 葉山にはあんな大見得を切ったが、正直勝つ自信なんて殆どない。

 

 今までの人生も負け続けてきた。負けることでは俺が最強なんてぬかしたこともあるくらいだ。

 自分が勝つビジョンなど、皆目見当もつかなかった。

 

 だから、非合理的だと知りつつも、こんな呑気なウォーキングで向かっている。

 

 敵が移動してしまう可能性を考えると、中坊を抱えて――もしくは置き去りにして――スーツの力を発揮してダッシュするのが一番のはず、取るべき行動のはずだ。

 

 だが、中坊は何も言わない。コイツの性格なら、とっくに皮肉の一つでも言ってきてもおかしくない筈なのに。

 

 そんな後ろめたさもあってか、重苦しい沈黙を和らげようと俺らしくもない気遣いの結果、振った話題がそれだった。

 いくら頭の中を占めていた事柄とはいえ、世間話には重すぎるテーマだ。俺の会話スキルがヤバすぎる。

 

 中坊は、何も言わない。

 かといって、不快な笑みで馬鹿にする、というわけでもない。

 ただただ無表情だ。

 冷たい感じではなく、ぼおとした感じの。考え事をしているような感じの。さっきからこんな感じなのだ。

 シリアスさがない。かといってコメディさも皆無だ。

 だからこそ、何を考えているのか分からなくて、こんな質問が口を飛び出してしまったのかもしれないが。

 

「死にたくないよ」

 

 中坊はさらっと言った。今日の天気を答えたかのように、あっさりと。

 

 だが、それは言葉の調子ほど軽い言葉ではなかった。

 

「僕は確かに刹那的な生き方をしていると自分でも思うけれど、それでも死にたがりの自殺志願者というわけじゃない」

 

 死ぬのは嫌だ。

 

 死ぬのだけは本当に嫌だ。

 

 僕は死んでも、死にたくない。

 

 中坊は、そう虚空を眺めながら呟いた。

 

「――こんな僕でも、希望が見えたんだ。持つことができたんだ。一生叶わないと思ってた、僕なんかには(えん)(ゆかり)もないと思っていた、というより実在してるかどうかも怪しんでいた眉唾物に、ようやく出会えることができたんだ」

 

 だから 死にたくない――と。

 

 生きたい――と。

 

 そうはっきりと、重くもなければ軽くもない言葉で、はっきりと口にした。

 

 言葉の内容と込められた温度がちぐはぐだったけれど、虚空を見たまま淡々と語っていたけれど。

 

 それでも、それは――中坊の本心のような気がした。

 

 中坊の、死にたくないという気持ちが、はっきりと伝わった。

 

「…………」

 

 そんな奴を、これ以上ないくらい危険な所に放りこむのは抵抗をめちゃくちゃ覚えたけれど、俺にはコイツを説得する言葉など、持ち合わせていない。

 こんなカッコいい奴に、何も言う資格なんかない。

 

 いざという時は、俺が盾にでもなんでもなろう。

 コイツの死にたくないという気持ちが伝わったときに、不覚にも、俺の中にもコイツを死なせたくないって気持ちも芽生えちまった。

 

「そっか。じゃあ、精々生きなきゃな」

「当然だよ。僕はアンタより先には死なないよ」

「なんだそれ? じゃあ俺が死んだら死ぬのかよ?」

 

 中坊は俺の一歩前に躍り出し、振り向きながら言った。

 

「アンタは死なないさ。僕が守るもの」

 

 その某有名アニメのセリフは、パクったのか? それとも確信犯か?

 もしオマージュなのだとしたら、その表情は本家とは似ても似つかない。

 

 不敵な笑みだった。このときばかりは、コイツの笑顔を見ても不快な気持ちにはならなかった。

 

 むしろ、その笑顔で覚悟が決まった。

 これ以上ない生還フラグだ。あのシンジくんと綾波もあのチート使徒に勝ったんだ。それに比べれば鳥人など恐るるに足らない。

 

「そっか。じゃあさっさと勝って、あのシーンを再現しながらエヴァごっこでもやるか」

「いや、いいよ。いい年して恥ずかしいし。そういうのは友達とやりなよ」

「おいおい、急に突き放すなよ。それに俺にそんな友達はいねぇよ。……言わせんなよ、そんなこと」

 

 せっかく覚悟を決めたのに、さっそく死にたくなったじゃねぇか。

 え? 材木座なら喜んでやるだろうって? 誰それ? どこの剣豪将軍?

 

 俺は目から涙が零れないように、上を向いて歩く。

 そんなふざけたやり取りをしている間に、目的地に到着していた。

 

 目の前には、木造二階建ての、はっきり言ってしまえばオンボロのアパート。

 雨漏りとか100%してそうな、超家賃低そうな物件に、今回のボスキャラは隠れ潜んでいる。

 

 それは、あくまで確率論でしかない。このマップではボスとその他のモブキャラの区別はつかない。同じ大きさの青い点だ。

 だから複数体が固まっているこの場所が明らかに怪しいというだけで、もしかしたら葉山達が向かっている三点の中のどれかがボスの可能性も、もちろんある。

 

 もしそうだとしたら、俺達は道化もいいとこだが、その時はその時だ。

 ここの群体を即座に屠り、残りの方に向かう。

 

 その為に、いつまでもここで建物を眺めていても仕方がない。

 俺はマップを仕舞い、右手にXガン、左手にYガンを構える。

 

 中坊も漆黒の剣を肩にかけ、戦闘準備完了といった感じだ。

 

「よし、行くぞ」

「了解」

 

 俺達は、ボス部屋としては余りに不似合な生活感溢れるアパートの中に踏み込んだ。

 

 

 

 

 

「……ねぇ。ところでそれ何?」

「え? ガンツソードだけど?」

「いや、初耳なんだけど? え? 何、刀とかあったの?」

「え、あるよ。むしろ、ベテランはこっちを使うよ? 銃と違ってタイムラグないし、攻撃力は抜群だし、伸びるし。まぁ、僕はステルスで背後から銃撃派だったからあんま使わなかったけど」

「何それ聞いてない。おい、そういうの早く言えよ。めちゃカッコいいじゃん」

「扱いは難しいから初心者にはおすすめしないけどね。……ってか重い。生身じゃ無理だ。銃にしよう」

「なら何で出したんだよ……ってかそこから出し入れしてんの!? このスーツにまだそんな驚きの機能が!? え、手品!?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そんな緊張感の無いやり取りをしながら足を踏み入れたその場所は、特に何の変哲もないアパートだった。

 

 電気は点いている。だが、人の気配を感じない。

 俺達は刑事ドラマのワンシーンのように扉の両側にそれぞれ寄りかかり、ハンドサインで合図を出してゆっくりと扉を開け、中を覗きこむ。

 

 何もない。誰もいない。

 

 それを、一階の全ての部屋で繰り返す。

 

 このアパートの間取りと、マップの点の配置は一致していた。

 

 つまり、一つの部屋に一体ずついると、この間取りを見た時そう思ったが、全ての部屋がもぬけの殻だった。

 だが、俺らはマップの誤表示を疑うよりも、より現実味のある推論に気いていた。

 

 ニ階だ。

 

 どっかの感性豊かなデザイナー作の物件でもない限り、こんな築年数が古そうなアパートだとほぼ確実に上階も同じ間取りだろう。

 

 この上に、星人はいる。

 

 俺は中坊にハンドサインで――言うほど本格的なものではない。ただ、声を出さずに身振り手振りで意思を伝えているだけだ――上に行くと伝える。中坊も頷く。

 流石にこの期に及んでふざけたりはしない。

 

 紛れもなく、正念場だ。

 

 

 階段を昇りきり、二階に上がる。

 

 予想通り、二階も同じ間取りだった。

 廊下の右側に三部屋、左側に三部屋。そして、真正面の奥に一部屋。計七部屋。

 

 それぞれ一体ずつ田中星人が潜んでいる。その中にボスが一体紛れ込んでいるってわけか。はは、笑えないロシアンルーレットだ。

 

 廊下には一体も出てきていない。これはチャンスだ。七体を一斉に相手にするより、一体一体潰していく方が遥かに勝率は高いだろう。

 まぁ、あのガンツ部屋みたいに完全防音というわけではないだろうから、全員を各個撃破は無理だろうが、先んじて一体でも数は減らしておくべきだ。

 

 そう考えて、一番近いドアに向かって先程と同じように刑事風アタックを仕掛けようと中坊に合図を出そうとすると、後ろにいた筈の中坊が顔を強張らせて後ずさる――つまり、どんどん奥に来ている。

 

「おい。どうした?」

 

 俺が声を潜めて話しかけると、中坊は目線を変えずに指だけで問題の方向を示した。

 

「――――っ!!!」

 

 俺は危うく漏れそうになった悲鳴を必死で押し殺す。

 

 そこにいたのは、手の平サイズの不気味な鳥だった。

 体の半分を占める頭部と、その頭部の大半を占める大きさの気味の悪いギョロ目。

 そして、そのミニチュアサイズの体には不釣り合いなほど巨大な嘴。

 違和感しか湧かない二足歩行。

 

 はっきり言って、気持ち悪い。

 

 そして、それらが床を真っ黒に染めるほどの大群で――俺達の退路を塞いでいた。

 

 カァー カァー カァー

 まるで下手糞なカラスの物真似のような鳴き声で、恐怖の合唱を披露する。

 

「…………っ!」

 

 何だ? どうすれば正解だ?

 こんなのは全く予想していなかった。

 

 何をすることも出来ず、何も行動に移せず、ただパニックで急激に上がった心拍数を落ち着かせることに専念する――それが悪手だということは、重々承知だが。

 そして、それは事態を更に悪化させる結果を生む。

 

 背後から、ドアが開く音が、聞こえた。

 

「裕三君?」

 

 それは初めて聞く言葉だったが、声で分かった。

 

 田中星人だ。

 

「裕三君」「裕三君」「裕三君」「裕三君」「裕三君」

 

 次々と、続々と、前から後ろから田中星人が姿を現す。

 

 その数六体。完全に囲まれた。

 

 ……最悪だ。

 この不気味カラスは、こいつらの防犯装置(セキュリティー)のようなものだったのか? だとしたら大成功だな。コイツらにとっては。

 

 俺はゆっくりと前を向く。中坊も続く。

 

 まだ、一部屋開いていない。

 正面奥の部屋。

 

 今の所、6体全てが田中星人――これまでと同じ、不気味な外装を纏ったスタイルの通常体で、大きさも変わらない。

 人は見かけによらないが、それは星人にも当てはまるのか?

 

 田中星人には、どうなんだ? こいつらは、他の田中星人と違うのか?

 

 俺達を囲む田中星人達は、まだ裕三君(誰だよ……)コールを続けていて攻撃してくる様子はない。顔も笑顔モードのままだ。

 

 どうする? やるか?

 残る一体がボスだろうと通常種だろうと、七体より六体の方がマシな筈だ。今の内に仕掛けるか?

 

 いや、囲まれているこの状況ならどっちにしろ勝ち目はない。

 

 なら、一か八か中坊を抱えて脱出を試み――

 

 

 キィ――と。

 

 正面奥の扉が、開いた。

 

 

 そこから、部屋の主の姿が確認できる。

 

 巨体な、鳥人だった。

 外装は身に付けていない。

 ただ、後姿からも十分に分かる筋肉量。大きな翼。

 

 ……間違いない。

 

 アイツが、ボスだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「この近くみたい!」

「手分けして探そう!」

 

 葉山達はマップの赤い点の反応を頼りに住宅地の奥に来ていた。

 

 だが、変わらず青い点も、三体、近くにある。

 

 にも関わらず、葉山が出した指示は()()()()()()()だった。

 それは、敵と遭遇した場合、一対一で戦わなければならないことを意味する。

 

 あの葉山がそこに気づかない筈がないのだが、それに気づかないほど今の葉山は危うかった。

 

 葉山には、人を惹きつける才能はある。

 だが、人の上に立つ、人を引っ張る才能があるかと言われれば、そこには疑問符を付けざるを得ない。

 

 それでも八幡が葉山を、はっきり言えば疎ましく思っていても一目置いているのは、資質はあるからだ。

 葉山の掲げる理想論。それは机上の空論だが、それを貫く覚悟と、リスクを抱える決断をする勇気を持てれば、それは最高のリーダーともなりうる。

 

 誰もが着いていきたくなる、理想のリーダー。

 葉山はそれになりうる資質がある。

 

 あとは、葉山の方にそれに応える覚悟、()()()()()()()()覚悟があれば、葉山は正義のヒーローになれる。

 八幡はそう考えた。

 

 それは、一種の憧れであり、嫉妬。

 自分とは真逆の立ち位置ゆえに感じる劣等感。それが多分に含まれている。

 

 葉山が同様の嫉妬を感じているように。

 隣の芝生は青く見えるのだ。

 

 だが、それは真実を見誤っていることと同義。

 八幡らしくない、幻想の押し付け。

 

 確かに、葉山は人を惹きつけるスターだ。

 八幡の言う通り、理想のリーダーになる器を持っているのだろう。

 

 だが、それを使いこなせるかどうかは、また別の話だ。

 才能を持て余す。そんなことは世の中には溢れている。

 

 葉山はまだ、正義のヒーローの才能を持て余していた。

 

 葉山の出した指示で、それぞれ手分けして子供を探そうとする葉山達。

 その作戦は悪手だったが――落ち着いてマップを操作すれば、拡大して子供の所在の詳しい場所も分かる。手分けをするメリットはないのだ――幸運にも、その作戦は実行されなかった。

 

 いや、決して幸運ではなかった、のかもしれない。

 

 何故なら、動き出そうとしたその瞬間。

 

 空から、田中星人が現れたのだから。

 

 三体、同時に。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ここは、住宅街の道路。

 細長く東西に延びた道は、四方の内、南北は塀でふさがれている。

 

 残る二方向を塞ぐように、田中星人が着地する。

 この時点で大ピンチだ。少なくとも全員の頭は真っ白になっている。

 

 そんなパニック状態の四人の集団のど真ん中に。

 

 残る一体の田中星人が着地した。

 

「……え?」

「うそっ!」

「何!?」

 

 彼等が困惑してるのもまるっきり無視して、田中星人は至近距離でチャージを始める。

 

 先程、橋の上でまるで映画のように他人事として眺めていた殺人ビーム弾の発射への準備が着々と進行する。

 チャージ音はどんどん甲高くなり、口腔の青白い発光は勢いを増す。

 

 その田中星人を、達海は腰からタックルの要領で押し倒す。

 

 決死の行為の甲斐あって、放たれたビーム弾は向かいの民家の屋根を掠め取る程度の被害で済んだ。

 とりあえず、メンバーには怪我はない。

 

 だが、まだ田中星人を倒したわけではない。

 達海の腕の中で田中星人は激しく抵抗する。達海は必死で食らいついて離れない。

 

 そこに、左右に陣取っていた田中星人二体が加勢に来た。

 

「ッ!」

 

 達海は腕の中の田中星人を締め付ける力を強める。

 

「ガァアアアア!!」

 

 だが、まだ死なない。

 他の二体の田中星人は、達海を囲むように着地し、達海をタコ殴りにする。そして、同時にチャージを開始した。

 

「あぁ! あぁぁぁぁ! 達海くん! 達海くん!!」

 

 折本が絶叫する。

 

「お願い! 達海くんを! 達海くんを助けて!!」

 

 折本が涙ながらに葉山に懇願する。

 

 

 だが、動けない。

 

 

 葉山は動けなかった。膝が震え、歯をかき鳴らし、顔を青褪める。

 

 目の前にいる星人が怖かった。

 今まさに命が奪われようとしているこの光景が恐ろしかった。

 

 頭の中に“ねぎ星人”のあの咆哮が響く。

 葉山は、あの時のトラウマを克服していなかった。

 

 相模も同様。初めて間近で見る殺し合いに、足が竦む。

 だが、葉山程の大きなトラウマを抱えているわけではない。

 

 相模は震える手で、Xガンを達海を囲む田中星人に向かって構えた。

 

 自分なりにだが、覚悟はしていた。いつか、このような場面に直面することになるのだと。

 100点を取らなければ、解放されない。

 その高すぎる壁に、目の前が真っ暗になった。絶対に無理だと思った。

 

 だが、八幡は言った。もし相模が死んだら、自分か葉山が生き返らせてくれると。

 あの言葉は励ましで言ってくれているのだと、相模にも分かっていたけれど、その言葉の意味すら分からないほど、相模は馬鹿じゃない。

 

 それはつまり、自分が解放されない限り、二人も解放されないということだ。

 

 なら、自分は100点を取らなきゃいけない。あの二人の足手纏いになるのだけは嫌だった。

 

 相模は震える指を、必死に動かし、引き金を引――

 

――だが、遅かった。

 

 相模のXガンが発射される前に、左右の田中星人のビーム弾が発射される。

 

 至近距離で直撃を受けた達海。

 両サイドから衝撃を食らった達海は、真っ直ぐ目の前の塀に直撃する。

 

「がぁぁぁあああ!!!!」

 

――だが、それでも腕の中の田中星人は離さなかった。

 

 背中から塀にぶつかりそれはクッションにもならなかったが、むしろソイツの分の体重の衝撃も余分に喰らうことになったが、それでも離さなかった。

 そして、攻撃を喰らっているその間も、抱き締める力は緩めなかった。

 

 遂に、腕の中の田中星人の頭部が割れ、中身が飛び出す。

 

「ガァ……グァ……」

 

 中身の鳥人は、苦しそうな息遣いで逃走を開始する。

 このままでも鳥人は窒息死するのだが、そんなことを知らない達海は執念で追跡する――いや、もしかすると知っていたとしても、この時の達海は忘れていたのかもしれない。それぐらい、今の達海は目の前の敵を倒すことで頭がいっぱいだった。

 

「待てごらぁぁぁああ!!!」

 

 スーツの力でたっぷりの威力が乗った拳が鳥人の右頬に直撃する。

 鳥人は十メートル程も吹き飛び――動かなくなった。

 

「……はっ。見たか」

 

 達海はそれを確認した後、急激に体から力が抜けるのを感じた。

 それは、一仕事終えてほっとしたから――だけではなかった。

 

 スーツの機械部分からボコッと液体が漏れた。キュイィィィーンという音と共に、先程から膨れ上がっていた筋肉が萎み、機械部分の青い発光もなくなる。

 

 それを見て、葉山が我を取り戻す。

 

「逃げろ! そのスーツは壊れたんだ!! 直撃を喰らったら死ぬぞ!!」

 

 その言葉に、達海と折本の顔が強張る。

 

 間髪入れずに、残る田中星人二体のビームのチャージが始まった。

 

「うっ……」

「達海くん!?」

 

 達海は逃げようとしたが、体に力が入らず、地面に倒れこむ。

 ダメージは思ったより深刻だった。

 

 このままでは、達海は死ぬ。生身と変わらない今の状態でビーム弾を喰らえば、確実に死ぬ。

 

 助けなければ。

 

 葉山は動かない足に必死で命令を送る。

 

(動け動け動け動け動け動け!!)

 

 だが、動かない。動けない。

 

 チャージ音がどんどん甲高くなる。

 

 

 その時、折本が達海を庇うように立ち塞がった。

 

 

「ッ! バカっ……逃げろ、折本!」

「嫌!」

 

 強気な物言いとは裏腹に、明らかに折本は怯えていた。

 

 震えていた。泣いていた。

 

 それでも、彼女は逃げない。

 

「何してんだよ……死ぬぞ!!」

「うるさい!」

 

 折本は震える声を、精一杯に張り上げて叫んだ。

 

「私だって……負けたままじゃ嫌なの! ……これ以上、みじめになりたくない!!」

 

 それは、誰に向けての対抗心だったのか。

 

 あの時比べられた雪ノ下や由比ヶ浜か、それとも――

 

 どちらにしろ、葉山があの時見下した少女は、もういない。

 

 恐怖と必死に戦い、仲間を守ろうとする彼女は。

 

 

 とても、魅力的な少女だった。

 

 

 だが、無情にも田中星人のチャージは止まらない。

 

 折本が目を瞑る。

 

 

 吹き飛んだのは、田中星人だった。

 

 

 いや、正確には田中星人がいた場所周辺の塀だった。

 先程間一髪で間に合わなかった相模のXガン。今回は発射前に間に合い、攻撃を止めることができた。避けられてしまったが。

 

 二体の田中星人はしばし空中から4人を見ていたが、やがて方向を転換し、何処かへ飛び去っていった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 葉山はそれを呆然と見送り、マップを取り出す。

 

 マップを見ていると、ツカツカと誰かが近づき。

 

 バチンッ! とビンタされた。

 

 葉山がゆっくりと目を向けると、そこには涙で目を充血させた折本。

 

「はぁ……はぁ……何してんの?」

 

 葉山は何も言わず、ただ黙って折本の鋭い眼光を受け止めた。

 

 達海も、相模も、黙って状況を静観する。

 

「……さっきさぁ、葉山くん言っていたよね? 比企谷と中学生に、散々カッコいいこと言ってたよね? その結果があれ?」

 

 折本は涙を流しながら、充血した瞳で葉山を睨み据える。

 

「ガタガタ震えて! 達海くんが死にそうなのに何もしないで! ふざけないでよ! 星人を倒すって言ってたの葉山くんじゃん!」

 

 折本の叫びを、葉山は無表情で受け止める。

 

 その態度が気に食わなかったのか、折本は吐き捨てるように絶叫した。

 

「ふざけないでよ!! 結局、口だけじゃない!! これなら比企谷の方がずっとカッコいいよ!!」

 

 それまで無表情だった葉山の顔が、はっきりと苦渋に染まった。

 

 唇を噛み締め、俯きながら、先程とは別の感情で震える。

 

「…………すまないっ」

 

 葉山は、そのまま走り出した。

 

 

 

 

 

+++

 

「……何、それ。……ダサっ」

 

 折本は駆けだして行った葉山の方を見ながら、軽蔑するように悪態を吐いた。

 

「……いや、違う」

 

 だが、その言葉に達海が反論する。

 

「あの方角はあの二体が飛んで行った方角だ。……倒しに向かったんだろうさ」

「……ハッ。何それ、ウケる。どうせビビッて終わりじゃない?」

 

 折本の中で、葉山の評価はドン底に落ちたようだ。

 達海はそんな折本から相模へ目線を移す。

 

「なぁ、お前。葉山に惚れてんだろう」

「へ?」

 

 当然のキラーパスに、相模は頬を染め、呆けた反応をする。

 

「え? ……正気? 面食いって言っても限度があると思うけど」

 

 先日までの自分を見事に棚に上げた発言の折本だったが、相模は何も言わずに目線を逸らす。

 

 達海は、そんな相模を見て。

 

「心配なら、行ってやれ」

「え?」

「俺はスーツが壊れてるから追いつけないし、折本はどうせ行かないだろう」

「当たり前。なんであんな奴の為に命懸けなきゃなんないの?」

「……今のアイツじゃ危険だ。なんていうか、危うい」

「危うい……」

「止めるか、加勢するかはアンタの自由だ。だが、このまま一人にしたら――」

 

 達海は表情を引き締めて、重く鋭い口調で言った。

 

「――ほぼ間違いなく、葉山は死ぬぞ」

 

 相模は、その言葉にぐっと閉口して。

 

「…………」

 

 しばらく黙考し、やがて顔を上げて、駆けだして行った葉山の後を追った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 マップを見て、葉山が気付いたこと。

 

 それは、あの二体は、決して逃げたわけではないということ。

 アイツらは、ただ標的を変えただけ。

 

 葉山らから――――あの子供へと。

 

 葉山は走る。

 あの子の祖母は助けられなかった。そして、今の今まであの子を助けることを後回しにした。

 

 何もかもさっぱり分からない場所にいきなり連れてこられて。

 信頼できる唯一の人が目の前でこれ以上ないくらい残酷に死んで。

 

 たった六歳の子供は、一体どれだけ怖かったことだろう。

 

 男の子の反応があったのは、一軒家のガレージだった。

 恐らく、ずっとここで小さく震えていたのだ。

 

 この夜が、夢であることを祈って。

 目が覚めたら、おばあちゃんが運転する車の助手席に乗っていて、窓の外を見たらお母さんが待つ我が家に着いている。そんな光景が広がっていると信じて。

 

 葉山がそのガレージを目にした時。

 

 

 青白い発光と、トラックが突っ込んだが如き破壊音。

 

 そして、男の子の悲鳴が轟いた。

 

 

「…………ぁぁぁぁぁぁ」

 

 葉山がガレージを覗き込む。

 

 

 そこにいたのは、返り血を大量に浴び、不気味さを増した二体の田中星人。ボロボロの軽自動車。

 

 あちらこちらに肉片が飛び散り、男の子は原型すら留めていなかった。

 

 

 プチン――と。

 

 

 その時、葉山の何かが切れた。

 

 

 

「……お前らぁぁぁぁぁあああああああああああアアアアアアアアア!!!!!」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 相模が合流した時、そこはまさに惨事だった。

 

 葉山は田中星人と臆せずに戦っていた。

 いや、それは戦っているといえるのか。

 

 葉山隼人は、暴れていた。

 

 涙を垂れ流し、雄叫びをあげながら、がむしゃらに田中星人に突っ込んでいた。

 

 回避など頭にない。

 相手が殴ってこようと、後ろからもう一体がビームをチャージし始めようと、お構いなしに目の前の一体を殴り続けた。

 

 泣きながら。喚きながら。

 ただただ、殴った。殴り続けた。激情の赴くままに。

 

 葉山の左拳が、マウントポジションを取った田中星人の喉元に突き刺さる。

 カウンター気味に、田中星人が殴る。葉山は動じない。

 

 田中星人の中身が飛び出す。

 その鳥人の頭部に、葉山の右拳が突き刺さるのと、葉山のスーツが壊れるのはほぼ同時だった。

 

 鳥人は頭部の残骸のみが外装から飛び出した形で絶命する。

 

 もう一体の田中星人は、隙だらけの葉山に襲いかかろうとしたとき、既に相模のXガンの攻撃を受けていた。

 

 葉山は、そちらには目も向けなかった。

 最後の田中星人も、中身ごと破裂する。肉片と体液をスプリンクラーのように撒き散らす。

 

 むせ返るような悪臭を放つそれらを、至近距離にいた葉山も相模も全身に浴びるが、二人ともまったく反応を見せない。

 

 葉山は田中星人の死体に馬乗りになりながら、田中星人の血液の雨が降る天を仰ぐ。

 

 相模は、それを黙って見つめる。

 

「う……っ……うぅっ……ぁぁ……ぁ……」

 

 やがて、葉山は再び泣く。

 

 俯き、声を押し殺し、嗚咽を漏らす。

 

 相模は、そんな葉山にゆっくりと近付き。

 

 背中から、優しく抱き締めた。

 

 

 その一分後、葉山隼人と相模南は、あの部屋に転送された。

 




苦悩の中、葉山隼人は絶叫する。


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バイバイ。ヒーロー

 

 ボスが――立ち上がる。

 振り向き、扉の高さより遥かに大きなその巨体を、まるで暖簾を(くぐ)るかのような動きで屈めながら、廊下に姿を現した。

 

 圧巻、だった。

 

 その迫力、殺気、そしてこうして目の前に対峙した時の恐怖感。

 

 全てが、他の田中星人とは一線を画していた。

 別格だった。

 

 …………怖い。

 

 ボスは、他の田中星人とは違い、外装を纏っていない。

 始めっから鳥人モードだった。

 

 だが、他の鳥人とは違い、明らかに猛獣だった。

 鷹のような鋭い目。常時にらみつける状態だ。どんどん防御力が削られている気がするぜ。

 

 そして、その明らかに猛者なことが伝わる筋骨隆々の体躯。

 鳥というのは翼で空を飛ぶために鳩胸といわれるような物凄い胸筋をしていると聞いたことがあるが、コイツは全身が凄い。足も丸太のように太いし、その両腕も羽があるから翼なんだろうが――そういえば、今までの通常体は鳥人の癖に羽がなかったな――本当に飛べるんじゃねぇかって思えるほど逞しい。

 

 そんな見るからにボスな個体が、ゆっくりと、こっちに近づいてくる。

 

 周りを囲む田中星人たちも裕三くんコールを止め、この状況を静観しているかのように黙っている。

 

「――――っ!!!」

 

 ボスが、俺の目の前に顔を近づけてきた。あとほんの少しで、その嘴とキスしちまうくらいの距離に。

 相手が美少女だったら顔を真っ赤にさせて童貞丸出しなリアクションで失笑の一つでも掻っ攫うところだが、コイツ相手だと恐怖しか湧かない。

 

「グルルルル……」

 

 まるでライオンか虎のように、喉を鳴らすボス。

 

 その態度で、悠然と語っているようだった。

 

 俺は、狩る側だと。散々好き勝手に同胞を殺しまっくった俺達に。思い知らせるように。

 

 勘違いするな。思い上がるな。

 お前達は、狩られる側の、弱者だ――と。

 

 有無を言わさず、その威圧感だけで。

 

 これが、ボスか。

 

 ……くそっ。ダメだ。限界だ。

 膝が、全身が、ガタガタと無様に震え出す。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 息が荒れる。冷や汗が止まらない。

 今まで必死に抑えていたが、もうダメだ。

 明確に頭を過ぎってしまった。さっきから何度も脳裏に現れるその言葉を認識してしまった。

 

(死ぬ……殺される……っ!!)

 

 まずい。まずい。まずい。

 呑み込まれるな。恐怖に持っていかれるな!

 

 この状況で動けなくなったら、それこそ終わりだ!

 まだだっ……。

 まだだ! まだだ! まだだ!!

 

 膝よ、動け!

 腕よ、銃を構えろ!

 

 戦え! 比企谷八幡!!

 

「――――ッ!」

 

 俺は、ボスを睨み返す。目つきの悪さには定評がある俺だ。にらみつけるならこっちだって得意技だ。

 

 ボスにも、俺の敵意は伝わったのか。大きく口を開け、威嚇してきた。

 

「アアアアアァァァぁぁぁ!!!」

 

 ……呑まれるなっ!!!

 俺は必死で恐怖心を抑え込み、闘争心を保つ。

 

 ……だが、それ止まり。

 脳の機能の全てが、そのメンタル整理作業で手一杯で、作戦を練ることまで手が回らない。頭が回らない。

 

 コイツ相手に無策で突っ込んでも勝ち目はない。

 ましてや、残る三方全てを田中星人六体に囲まれているのだ。

 

 ……くそっ。何かないのか!

 

 閃けよ! 起死回生の一手!!

 いつも最低な解決(かいしょう)方法をすぐさま思いつく癖に! こんな時は何も出てこない……っ。

 

 つくづく主人公(ヒーロー)の素質ねぇのな……俺。

 こんな所で……死ぬわけにはいかねぇのに……。

 

 

「………………それしかない、か」

 

 

 ……ん? 今、中坊が何か言ったのか?

 

 ぼそっと聞こえたそれを問い返そうと中坊の方を向こうとする前に、中坊が小声で話しかけてきた。

 

「とりあえず、そこの部屋に逃げ込もう。そうすれば出入口は一つだ。全部は無理でも、一、二体なら倒せるかも。……その後は、とりあえず窓から脱出しよう。今はそれしかない」

 

 ……確かに。そうすれば瞬間的にだが、一対一の状況を作れる。

 すぐに雪崩れ込んでくるだろうが、そしたら窓から飛び降りて逃げればいい。

 俺のスーツはまだ健在だ。二階から飛び降りるなんて中坊を抱えても楽勝だろう。

 

 問題の解決にはならないが、先延しにはなる。

 ゲームオーバーになるよりは遥かにマシな良案だ。

 

 この状況でパニックにならず、ここまで思考できる中坊に感心する。

 やはり越えてきた修羅場の差か。頼りになる。

 

「それで行こう」

 

 俺は中坊の方を見ずに、ハンドサインで右側の部屋に突っ込むこととカウントダウンを告げた。

 

――3。

 

 っ! 

 ボスが、俺に噛みつこうとしてきた。

 俺は反射的に――ハンドサインを出す為に左手に持ち換えていた――Xガンでブロックする。

 

「2!!」

 

 もうハンドサインなんて言ってる場合じゃない。

 周りの田中星人も親玉に手を出されたことで次々に怒りモードに変身している。何体かはビーム弾のチャージも始めている。

 

「1!!!」

 

 俺は中坊の手を取り、向かって右の部屋に飛び込んだ。

 その刹那、ビーム弾による爆発の衝撃波が追い風となり、強烈な勢いで空き部屋に突っ込む。その際に中坊の手を離してしまったが、手応え的にこの部屋の中にはなんとか入れたようだ。

 

 だが、あれくらいではアイツらの一体たりとも死んでないだろう。

 同士討ちを狙えるほど、奴らの外装の防御力は低くない。少なくないダメージはあると思うが。

 

 タイマンのチャンスは一瞬。奴らがこの部屋を覗き込んだとき、射撃する。

 逃すわけにはいかない。

 

 俺は扉が吹き飛んで剥き出しになっている、この部屋唯一の出入り口にXガンを向ける。

 

 

 中坊が、俺に向かって銃を向けていた。

 

 

「……な――」

「ゴメンね」

 

 中坊は笑っていた。

 

 泣きそうな顔で。

 

 

「アンタなら辿り着けるよ。カタストロフィまで」

 

 

 バシュッ! ――という射撃音。

 

 硬直した俺の体は、中坊が発射したY()()()()()()()で吹き飛ばされた。

 

 パリィン! と、そのまま窓を突き破る。

 

 俺は、空中でグルグル巻きにされながら――あのアパートから()()()()()した。

 

「―――――っ!!!」

 

 俺は、そこまで思考して気付いた。

 

 中坊の真意に。

 

 アイツ、まさか――

 

 

「中ぅぅぅぅ坊ぉぉぉ!!!!」

 

 

 俺は、ただがむしゃらに吠えながら、受け身も取らずに、落下した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

『中ぅぅぅぅ坊ぉぉぉぉぉぉぉ!!!!』

 

 その少年は、一人ぼっちになった空き部屋で、背後から聞こえてくるその叫び声に苦笑した。

 

 最期の最後まで中坊とは。

 ……いや、待て。そういえば、彼に自分の名前を教えたか?

 

 ……教えてなかった気がする。よく考えれば自分も彼の名前を一度も呼んだことがない。名前も周りが呼んでいる「比企谷」という苗字しか知らない。(それにしても、呼ぶ人によって「ひきがや」だったり「ひきたに」だったりするから正しくは知らない)

 

「……ぷ。はっはっはっは。はははははははははは」

 

 少年はお腹を抱えて笑う。

 人生で一番シンパシーを感じ、強い“なにか”を結べたと感じた人物の正しい名前も知らないとは、つくづく“らしい”。

 

 少年は、自分の人生の特異さに、笑いが止まらない。

 

 

 

 少年は――異質だった。

 

 性格も、能力も、考え方も、在り方も。

 

 異質だった。

 

 だが、それも始めは“個性”の範疇だった。

 

 あの子変わってるわねぇ~で、済まされていた。

 

 誰しも、始めはそうだ。

 だがその内、幼稚園や保育園、小学校などのコミュニティに無理矢理に放り込まれて。

 自分を殺し、個性を潰して、周りと合わせる術を身に付けることを強要される。

 

 目立てば排除されるからだ。

 出る杭は打たれる。そういう風に、コミュニティというものは出来ている。

 

 少年も例外ではなかった。

 

 だが、少年はそこでも異質だった。

 

 少年は、沈まなかった。

 何度打たれても、幾度となく弾かれても、変わらず異質であり続けた。

 

 あの、見る者を不快にする笑みを、周囲に向け続けた。

 

 それは別に、少年が意地になっていたとか、自身の正義を貫いたとか、そんないい話ではない。

 

 ただ、少年が異質だった。それだけの話。

 

 現にこの少年には、周りから晒される敵意も、浴びせられる暴言も、受け続けた暴力も。

 何一つ、心に響いていなかったのだから。

 

 全て、“そういうもの”だと、受け流していた。

 

 別に恨みに思うことも、理不尽だと感じることも、トラウマとして抱え込むこともなく。

 受け入れ、受け流した。単なる日常の1ページとして。

 

 そんなある日、少年は気まぐれに反撃した。

 別にキレたわけじゃない。溜りに溜まった鬱憤をぶつけたとか、そんな平和な話じゃない。

 変わらない日常に飽きを覚え、試しに反撃したらどうなるか、思いつくままに試しただけだ。

 

 漫画で、攻撃力が高いと知ったので、折角なのでバットを使ってみた。

 

 

 少年への攻撃が、ピタリと止んだ。

 

 彼をいじめていた(と、本人達は思っていた)グループは、全員別の学校に転校した。

 

 残されたクラスメイトで、少年と関わろうとするものはいなかった。

 

 

 

 

 

 それから、少年も、学校に行かなくなった。

 

 これもまた、別に仲間外れが辛かったとか、居心地が悪い空間から逃げ出したかったからというわけじゃ、残念ながらない。

 

 何の刺激もなかったので、飽きた。それだけの話だ。

 

 

 その頃から、だろうか。

 

 少年が、とにかく刺激を求めるようになったのは。

 

 

 日がな一日中、色んな所に出歩いた。

 面白いものを求めて。退屈を忘れさせてくれる刺激を欲して。

 

 だが、大抵のものは、少年の人並外れた才覚で極めてしまう。

 そして大抵の人は、少年のスペックの高さに惹かれて一度は集まってくるが、直ぐに少年の異質な人間性に恐れを為して逃げ出してしまう。

 

 少年は、人にも、ものにも、弾かれた。恐れられ、嫌われた。

 

 常に、ひとりぼっち。

 

 

 異質な少年は、そんな環境にも、何も感じない。

 

 

 

 筈――だった。

 

 

 

 死んだ理由は覚えていない。

 

 気が付けば、あの部屋にいた。あの黒い球体の部屋に。

 

 訳も分からず、ただ状況に流された。

 だが、すぐに“それ”を受け入れた。そういうのは得意だった。

 

 そして、みるみる内にその部屋に適応し、極めた。一回目の100点を取ったのは、確か五度目のミッションだったか。

 その時には、既に少年は一人だった。五回のミッションの間に皆、死ぬか、解放された。

 

 あれだけこの部屋の魔力に囚われた戦士達も、最後は逃げるように現実世界への帰還を選んだ。

 星人ではなく、少年に恐れを抱いて。

 

 少年は、迷わず二番を選び続けた。

 

 それでも、退屈な“あっち”より、“こっち”の方が少しは面白かったから。

 

 

 

 ある日、知る。

 

 カタストロフィ。

 

 詳細は不明だが、この言葉に対する見解は一致している。

 

 

 その日、人類は滅亡する。

 

 

 だが、中坊は受け流した。

 

 その情報を、只の情報として処理して、受け入れて、受け流した。

 

 

 だから、どうした?

 

 

 きっと自分は、その日が来ても、そんな終焉が来ようとも何も変わらない。

 

 受け入れて、受け止めて、受け流す。

 生きれたら生き残るし、死ぬときは死ぬんだろう。

 

 自分の感情は、“楽”しかない。

 喜も怒も哀も存在しない。

 

 楽しいか、つまらないかの二択だ。

 

 今は、このガンツゲームがそれなりに楽しいから、とりあえずやってる。

 飽きたら解放を選んで、また新しいゲームを探す。

 

 ただ、その、繰り返し。

 

 

 それが、僕、―――――の人生だ。

 

 ……あれ? 僕の名前、何だっけ?

 

 最後に名前呼ばれたの、いつだっけ?

 

 

 僕って。

 

 

 いつから――独りなんだっけ?

 

 

 

 

 

 そいつは、名もなき少年の人生において、異質だった。

 

 誰よりも異質な少年が、初めて感じたシンパシー。

 

 コイツは――同種かもしれない。

 

 初対面で、そう感じた。

 

 

 

 結果的に言えば、彼は少年と同種ではなかった。

 

 仲間を助けて、命を奪うことに躊躇するくらいには、少年とは違い普通だった。

 

 だが、同類と言っていいほどには、少年に近い人間性を持っていた。

 

 

 彼は、少年が知る限り誰よりもスマートに1stミッションを生き残る。

 

 それよりも、何よりも驚きだったのは。

 

 

 彼は、少年を弾かなかった。

 

 

 人一倍に少年の異質さを見抜き、それに恐怖しながらも、彼はそれを受け入れていた。

 

 少年と会話し、少年に食って掛かり、少年から目を逸らさなかった。

 

 

 名も無き少年は――歓喜した。

 

 

 

―――――――――面白い!!!

 

 

 

 少年は、記憶にある限り生まれて初めて心を震わせた。

 

 今までに会った覚えのない人種だった。

 あんなに一人と会話をしたのも、きっと生まれて初めてだった。

 

 腐ったあの目。あの目は孤独を知っている目だ。そして、それを受け入れている目。

 弾かれた経緯は違うだろうし、その乗り越え方も、得た教訓も、最終的に出した結論も、やはり違うのだろう。

 

 決して、同種ではない。

 だが、紛れもない同類だ。

 

 彼は、今まで出会った人とは、違うのかもしれない。

 

 少年は、久方ぶりに、次のミッションを心待ちにした。

 

 

 

 結果的に、少年はそのミッションで、ガンツゲームで初めて死に掛ける。

 

 確かに田中星人はそれなりに強いが、今までにもっと強い敵と何度も戦ってきた。それと比べれば雑魚といって差し支えない程度の強敵だ。

 

 ミッション前に受けたXガンの攻撃。

 相手がステルス看破能力を持っていたこと。

 

 ツイてない。

 だが、それも少年らしかった。別に未曾有のピンチでもなんでもないところで躓く所などが特に。

 

 死にたいという願望はなかった。

 だが、生きたいと思えるほど、“希望”もなかった。

 

 だから、少年は死を受け入れてた。

 

 

 

『こんなとこで、つまんなく死ぬな』

 

 今まで、散々弾かれた。逃げ出された。切り離された。迫害された。線引きをされた。

 

 

 きっと――初めてだった。

 

 死ぬな、と言われたのは。

 

 存在を受け入れられたのは。

 

 

 彼は、少年を守るべく、たった一人で星人に立ち向かい、勝利した。

 

 そして、座り込んだ少年に手を差し伸ばす。

 

 少年にとって、記憶にある限り、初めて感じた人の温かみ。

 

 他者との繋がりを、恐らく初めて感じた瞬間だった。

 

 

 生きたい。

 

 

 そう、思った。

 

 ないと思っていた。少なくとも、自分には一生(えん)(ゆかり)もないものだとばかり思っていた。

 

 自分の前に現れるものではないと、諦めていた。

 

 

 希望は、あった。遂に見つけたんだ。

 

 生まれてから十五年間で、きっと初めて感じる感情。

 

 同時に、ずっと、気づかないふりをしていたものが溢れ出してくる。

 

 

 ああ、そっか、僕は、ずっと――

 

 

(寂しかったんだ……)

 

 

 独りぼっちが、すっと――

 

 

(嫌だったんだ……)

 

 

 ずっと――ずっと――

 

 

 

(友達が……欲しかったんだ……)

 

 

 

 彼なら、もしかしたら、僕の友達になってくれるかもしれない。

 

 こんな僕を。異質で、鬼な、人でなしのこの僕を。

 

 そう考えたら、生きたくなった。

 

 希望が溢れてきた。

 

 アイツとなら、カタストロフィを乗り越えられるかも。

 

 ああ。

 

「死にたくないなぁ……」

 

 中坊は、笑う。

 

 力の無い、苦笑を浮かべる。

 

 

 彼は、田中星人の集団に生身で単身突っ込みながら、自身の人生を振り返って、思った。

 

 

 人生、何があるか分からない。

 

 まさか、この僕が、誰かを守って死ぬなんて。

 

 自分が一番信じられない。

 

 

 荒れ狂う田中星人。

 飛び交うビーム弾。

 轟くボスの咆哮。

 

 それらを、中坊は積み重ねた経験と生まれ持った異質な才能(センス)で掻い潜っていく。

 

 Xガンを連射する。

 計算し、想定した現象を引き起こすポイントに、確実にヒットさせていく。

 

 効果が出るまで――およそ一秒。

 

 中坊は、力無く、苦笑する。

 

 生きる希望が芽生えて、一時間も経たない内に死ぬなんて、あまりにも“らしい”。

 

 誰かを守って死ぬなんて、とんでもなく“らしくない”。

 

 だけど、中坊の顔は、どことなく晴れやかだった。

 

 

「バイバイ。ヒーロー」

 

 

 中坊は、呟くように自分の唯一の“友達(ヒーロー)”に別れを告げる。

 

 別れの言葉を託したい人に、死ぬ前に巡り合えたことに、らしくもなく――感謝しながら。

 

(ありがとう……ガンツ。そして、さようなら……僕のともだ――

 

 

 

 

 

 アパートが崩れ落ちた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「くそっ! ……クソッ、ちくしょう!!」

 

 俺は巻きついた捕獲網を引きちぎろうと、スーツの力を最大限に引き出して力を込める。

 流石に星人用。並大抵の固さじゃない。スーツの力をマックスにしても、少しずつしかダメージを与えられない。

 

 だが、そんなペースじゃダメだ。

 こうしている今も、中坊は一人でアイツらと戦っている。

 

 スーツも無しで、一人で、全部を背負って。

 

「ふざけるな……ふざけんなよっ!」

 

 アイツは強い。

 だがあの数を相手に、しかもボスまでいるんだ。

 

 それに、俺を外に出したってことは、俺が居たら止められると思ったからだ。

 つまりは、それだけ危険な策だということ。

 

 もしくは俺を巻き込まない為に……? いや、アイツに限って……だが……。

 

 くそっ! 今はそれより、この拘束だ!

 さっきから、ヤバい戦闘の音が響いてる、このままじゃ――

 

 

 俺が拘束を引き千切った――その時。

 

 何か、聞こえた気がした。

 

 

「―――――中坊?」

 

 

 次の瞬間、アパートが一気に崩れ落ちた。

 

 ぺしゃんこになった。二階建ての木造アパートが、ただの木材の集落になった。

 

 

 いくら戦闘が激しくても、建物がボロくても、こんな一気には崩れない。

 

 だと、したら―――。

 

 

 

「中坊ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおお!!!」

 

 

 

 何も、聞こえない。何の、応答もない。

 

 何も、誰も――

 

「!!」

 

 空高く、一匹の巨鳥が飛び出してきた。

 

 ボスだ。

 

 ……中坊が、あれだけやったのに、まだ死ななかったのか――

 

「化物がっ…………!」

 

 俺は空高く飛ぶボスを睨むが、そんなもの何のダメージにもならない。

 

 コントローラーに表示される時間を見る。

 

 ……残り二分を切っている。

 

 中坊を救出して、ボスを倒す――不可能だ。

 

「……………くそっ!」

 

 ……いや、待てよ。中坊はこう言っていた。

 

 ミッション中、どんな大怪我をしても、()()()()()()()()、無傷で部屋に帰ることが出来る。

 

 そうだ! まだ、中坊を助けられる可能性は残っているッ!

 

 ボスは良く見れば、決して猛スピードで飛翔しているわけじゃない。

 なにやら息苦しそうに、フラフラと旋回している。

 

 田中星人の通常個体は、あのロボットのような外装の外に出ると、まるで窒息したかのように息絶えていた。

 ……もしかしたら、ボスが咥えていたあのチューブ――あれは俺達でいう所の酸素ボンベのようなもので、それが壊れて呼吸出来ないのか?

 

 目立った外傷はないが、中坊の捨身の攻撃は、ボスをも瀕死に追いやったんだ。

 

 ……あれなら、放っておいても直ぐに死ぬのかもしれない。

 だが、時間はもう一分ちょっとしかない。

 

 今すぐ――息の根を止める。

 そして、あの状態のボスなら、俺でも十分殺せる!

 

 俺は、ガンツソードを取り出す。

 

 そして、それを槍投げの要領で、空中のボスに向かって――

 

「いけぇ!!」

 

――投擲した。

 

 その投剣は、一直線にボスに向かって飛翔し――

 

「ギェェェェエエエエエエエエ!!!!!!!」

 

――胴体を、深々と貫いた。

 

 ボスは落下する。

 その巨体故の重力加速度をふんだんに乗せて、コンクリートの地面に激突した。

 

 俺は、ボスの死体が落ちた方向へ、呟く。

 

「……どうだ。中坊の勝ちだ」

 

 転送が始まる。

 

 俺は、瓦礫の山となった、アパートに目を向ける。

 その下にいる、今回のミッションの一番の立役者に向かって、呟く。

 

「…………帰ってこいよ。中坊っ!」

 

 こんなとこで、……カッコよく死ぬな。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ……また、帰ってきた。帰ってこられた。この部屋に。

 

「お前……」

「比企谷!」

 

 達海と、折本。

 

「ヒキタニ……」

「…………」

 

 相模と……葉山。

 

 葉山は、両手をついて項垂れている。死んでるかのように、顔に表情がない。

 相模はそんな葉山に寄り添っている。

 

「……あの子供と、おばあさんは?」

 

 俺は、この中では一番気丈そうな達海に問いかける。

 

 しかし、俺の言葉に葉山がピクリと肩を震わし――

 

「……っ……うぅ……ぁぁ……」

 

 嗚咽を、洩らし始めた。

 

 ……それで、全て伝わった。

 

 相模が俺を、今はそっとしてあげて、と言いたげな目でこちらを見る。

 言われなくても、今の葉山を責めたてるようなことはしない。出来ない。

 

 達海も、折本も、葉山を何とも言えない表情で見ている。

 

 俺も、葉山に視線を移す。

 

 ……これが、葉山か? あの、葉山隼人なのか。

 

 ……俺は、思い違いをしていたのかもしれない。

 俺は、こんな状況だからこそ、リーダーが必要だと判断した。

 みんなが信頼し、命を預けるに値するリーダーが。

 

 そして、葉山ならそれになれると思った。

 葉山のカリスマと能力なら、可能だろうと。

 

 だが、逆だったのかもしれない。

 

 葉山のような男にとっては、この場所は地獄だ。

 

 責任感が強く、無駄に潔癖症で、優しい葉山には。

 葉山も、まだ高校生のガキなんだ。俺と同じ。

 

 ……荷が、重かったか。

 

「ねぇ。あの中学生は?」

 

 折本が俺に尋ねる。

 その言葉に、達海と相模も俺に目を向ける。

 

 俺は、その言葉には答えず、ガンツの前に――黒い球体の前に立つ。

 

 そこ表示されているのは、制限時間のカウントダウン。あと10秒。

 

 ……来い。来てくれ、頼む。

 

 生きて……生きていてくれ。

 

 

――あと、5秒。

 

 

 ……まだ俺には、俺達には、お前が必要なんだ。

 

 

――あと、3秒。

 

 

 …………お前が居なければ、これからどうすればいい?

 

 誰を……頼りにすればいい。

 

 

――あと、2秒。

 

 

 誰に……背中を預ければいいんだよ。……頼む。

 

 

 

――あと、1秒。

 

 

 

 中……坊……。

 

 

 

 

 

チーン

 

【それぢは ちいてんを はじぬる】

 

 

 

「…………」

 

 俺は、膝をつき、俯く。

 

 

 中坊は、帰って、こなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「採点……?」

「え、何? どういうこと?」

 

 達海と折本が困惑の声を上げる。

 

 ……まぁ、いいか。すぐに分かる。

 

 

『うちぃ~』5点

 

 Total 5点

 あと95点でおわり

 

 

「…………」

「5点?」

「あと95点で終わりって、何?」

 

 ……相模も、倒したのか。

 だが、相模の表情は晴れない。

 葉山の傍から、離れようとしない。

 

 

『びっちw』0点

 

 うるちい

 もぉ~ちょっと静かにしてもらえませんかねぇ~

 

「……え? 何これ? 私?」

「他にいねぇだろ。ピッタリじゃねぇか」

「はぁ!? だ、誰がビッチ!? 私はまだ処――って何言わせんの!!?」

「聞いてねぇし。誰も信じないから、つまんないアピールするな。すげぇあざといんだよ」

「ちょ、ちょっと待って! 私は本当に――」

 

 達海と折本が何かうるさい。

 ってか折本。そのくだり色んな人が既にやってるからな。由比ヶ浜とか相模とか。

 

 

『タッツミー』5点

 

 Total 5点

 あと95点でおわり

 

 

「……5点か」

「……え、何? もしかして、0点って私だけ?」

 

 達海は5点……。初めてのミッションで星人を倒したのか。

 

 

『イケメン☆』5点

 

 Total 5点

 あと95点でおわり

 

 

 葉山も5点。

 おそらく田中星人は1体5点なんだろう。前回のねぎ星人父が3点だったから、やはり前回は相当レベルが低かったんだな。

 

 葉山は一向に顔を上げようとしない。

 ひたすら、フローリングに両手両膝をつき、項垂れている。……一体、コイツに何があったんだ。

 

 そんな葉山を余所に、黒い球体は再び別の文字列を浮かび上がらせる。

 

 

『ぼっち(笑)』23点

 

 Total 23点

 あと77点でおわり

 

 

「23点っ……!」

「え? 何コレ……比企谷……どんだけ……」

 

 達海と、折本。相模が呆気に取られた表情で見る。

 ……別に俺が凄かったわけじゃない。この点数は、全部アイツと共同で獲得したものだ。

 

 アイツと二人で、稼いだ点数だ。

 

 ……だが、アイツは、もう。

 

 

 

 

 

「え、あ?」

 

 相模が送られる。

 これで、今日のミッションは終了か。

 

「え!? 何、どうなってんの!?」

「まだ、なんかあんのか!?」

 

 二人がパニックになっている。

 そっか。コイツらは知らないんだったな。

 

「大丈夫だ。たぶん、自宅に転送される。少なくとも前回、俺はそうだった」

「ホント!? 家に帰れるの!?」

 

 俺は、喜色を表情に滲ませた二人に対し――上げて落とすように言う。

 

「……ああ。だが、また近いうちに、ココに強制的に連れて来られる。100点を集めない限り、今日みたいなことの繰り返しだ」

 

 その言葉に、二人は露骨に表情を固まらせた。

 

「……え?」

「……近い内っていつだ?」

「分からない。俺達は前回は3日前だった。毎回ランダムらしい」

「……な、何それ!? またこんなことやらなきゃいけないの!?」

「やらなきゃいけない。ガンツからは逃げられない。何処にいようが転送されて嫌でも連れてこられる。――解放される方法は1つ。100点を取ること。それだけだ」

 

 折本は泣きそうな顔になった。

 達海は折本ほどショックを受けていない……ように見える。実際はどうかは分からないが。

 

「あと、これだけは守ってくれ。現実に帰っても、今日のことは誰にも話すな。頭が爆発するぞ」

 

 達海と折本は分かりやすく二人とも顔を青褪めさせた。

 

 その後一言も話すことなく、静かに転送されていった。

 

 

 

 そして、部屋に残ったのは、俺と葉山。

 

「葉山……」

 

 返事は、ない。

 

 一言も言葉を交わすことなく、葉山は転送された。

 

 

 

 そして、部屋にはただ一人、俺だけが残される。もはや定番だ。

 

 俺は、スーツを脱いで、制服に着替える。

 最悪着替えの途中で転送されても自室だからいいや、という感じだ。

 

 幸いスーツが着替え終わる前に転送、とはならなかった。……気を遣ってくれたのか? まさかな。

 

 俺は、ガンツの前に立つ。

 

「ガンツ。メモリーを見せてくれ」

 

 黒い球体の表面に無数の写真が表示される。

 ガンツの苛酷なミッションに勇敢に挑みつつも、命を落とした戦士達が羅列される。

 

 

 その右下に、中坊の顔写真があった。

 

 

 中坊が死んだ。

 

 俺を助ける為に。俺のせいで。

 

 ……ちくしょう。ちくしょう! ちくしょう!!

 

 俺は、また守れなかった。救えなかった。

 

 どれだけ繰り返せば気が済むんだ、俺は。

 

 

 中坊という、最強の味方を失って、俺達はこれからどうなるんだ。

 

 

 葉山も、まるで魂が抜け落ちたかのようだった。あれじゃあ、次回の戦いにまともに参加できるかも怪しい。

 

 ……こんな調子で、俺達は、次のミッションを勝ち抜けるのか?

 

 

 結果的には、今回も生き残った。

 

 だが、その代わりに、失ったものも、大きい。

 

 数々の問題を抱え、様々な傷跡を残し、俺達は、再び日常へと帰還する。

 

 

 

 

 

 その日は朝まで眠れず、そのまま不眠不休で登校する羽目になった。

 




少年は、ようやく手に入れたそれを守る為、自らの命を手放した。





次章予告



中坊という最強の戦士を失い、勝利の歓喜を感じる間もなく、不安と喪失感の中で日常へと帰還する比企谷八幡。

彼を待っていたのは――更なる、喪失。

守りたかった場所、取り戻したかったもの、今までやってきたこと――その全てを、失って。

失意の中、再び送られた『黒い球体の部屋』。

そこで比企谷八幡を待っていたのは、新たな出会い、そして最強の敵だった。



「もう、無理して来なくていいわ……」

「……俺は君が思っているほど、いい奴じゃない」

「……やめろよ。……もう……やめて、くれよぉ……」

「僕らは、少なくともあなたよりも、地獄というものを知っています」

「惑わされるな! 愚か者共がぁ!!」

「言ったでしょ。傍にいて支えるって。独りになんかしないよ」

「コイツは、俺の獲物だっ……!」

「いいよ。君がどうしようもない子って言うのは、もう分かってるからね」

「だからアンタは、今も昔も、何も救えないのよ」

「――わたしたちは、逃げちゃダメなのよ」

「……馬鹿野郎。逃げろって言っただろ」

「どいつもこいつも比企谷比企谷うっせぇんだよ!!!」

「俺は、もうダメなんだよ。自分でも分かるくらい壊れてる。――もう、取り返しがつかないくらいに」

「――好きなんだから。気づいてたでしょ?」

「……チート過ぎんだろ」

「――わたしを死なせたくないなら、ここでじっとしてて」


「アイツを倒して、全部終わらせて――――そしたら」
 
「わたしに告白して」
 

「……救えないなぁ」
 
「――例え、あなたがあなたを救わなくても、俺が勝手に救いますよ」
 

「何をしてるんだ、比企谷」
 
「君にはやるべきことがあるだろう」
 
 
「僕は人間だ。それでも殺すのかい?」
 
「やっぱり君は面白い」

「この偽善者が」

「どうでもいいやつを殺すことで大切な人を救えるなら、俺は躊躇いなく――――そいつを殺す」


「さぁ。最後の一人だ。やはり、君が残ったね」

「大丈夫だ。お前は一人じゃない」


「殺してやる!!」
 
「やってみろよ」


「分かっているんだろう。君は僕に勝てない」
 


「…………はち、まん」
 
 
 
「………………かって」
 



 俺は、もう一度――――今度こそ手に入れてみせる。
 
 ×××××と、『本物』を。




「……俺を――」
 
 
 
 
 
「一人ぼっちに、しないでくれ」

 
 
 

【比企谷八幡と黒い球体の部屋】――あばれんぼう星人・おこりんぼう星人編――


――to be continued


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あばれんぼう星人・おこりんぼう星人編
ついに、比企谷八幡は失った。


千手編スタートです。

……はやいなぁ。もうここまで来ちゃったか。

早く二部の続き書かないとなぁ……。


 

 

 

 

 

 

 

「もう、無理して来なくていいわ……」

 

 

 

 雪ノ下は酷く優しい声で、けれど酷く寂しげに言った。

 

 

 ……どうして、こうなっちまうんだ。

 

 

 雪ノ下は俺に背を向け、ローファーを鳴らしてゆっくりと遠ざかる。

 

 今、行かせてしまってはダメだ。このままで終わってしまっては絶対にダメだ。

 

 

 けれど、俺の足は縫い合わせたかのようにピクリとも動いてくれない。

 あの部室の、椅子の位置のように。

 

 雪ノ下の後姿が、クリスマス前の街の雑踏の中に消えていく。

 

 俺は口を開くが、声帯は何も発しない。

 搾り出す言葉が、何も見つからないから。

 

 

 俺は、ただ失いたくなかったんだ。

 

 

 初めて失いたくないと感じた居場所を、守りたかっただけなんだ。

 

 知っていたから。散々聞かされてきたから。

 

 

――大事な物は、替えが利かないと。

 

――かけがえのないものは、失ったら二度と手に入らないと。

 

 

 だから、信念を曲げた。

 

 嘘を吐いた。偽りに縋ってしまった。

 

 

 うわべだけのものに意味を見出さない。

 

 

 それは、彼女と共有していたであろう信念。

 

 それを曲げた。歪めて、捻じ曲げて、手放した。

 

 

 だから、雪ノ下雪乃に、見限られてしまった。

 

 

――これが、あの部屋の地獄を生き抜いてまで、やりたかったことなのか。

 

 

 俺は、一体何のために……。

 

 

 忙しなく行き交う人混みの中で、雪ノ下の最後の言葉と、去りゆくローファーの足音が、虚しく耳に残り続けていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 中坊を失った、二回目のミッションを終えた翌日。

 不眠不休で学校に向かった俺を出迎えたのは、由比ヶ浜からの奉仕部への依頼の知らせだった。

 

 依頼主は、一色いろは。

 

 依頼内容は海浜総合との合同クリスマスボランティアのサポート。

 

 驚いたことに雪ノ下は、この依頼を受けるか否か、俺達の意見を聞くというのだ。

 今まで雪ノ下は依頼を受けることに躊躇したことはなかった。断るときも間髪入れずにその場で断っていた。

 

 問いかけてきた由比ヶ浜はやりたそうにしていたが、俺は断るように言った。

 

 生徒会長をやりたかったかもしれない雪ノ下に、その生徒会のサポートを間近でやらせるのは、どうにも酷なことに思えたのだ。

 

 俺は由比ヶ浜にそのことを雪ノ下に伝えておいてくれというと、彼女は残念そうに肩を落として去っていった。

 少し心が痛んだが、仕方ない。

 

 俺は放課後に生徒会室に向かった。

 そして一色に、奉仕部としてではなく、個人的にサポートすることを約束する。

 奉仕部としては依頼を受けづらくとも、俺には一色を生徒会長にした責任がある。出来る限りのことはしてやるべきだと思った。

 

 だが、それは思った以上に困難だった。

 

 相手側の高校が思った以上に難儀な集団だったのだ。

 

 具体性がまるでなく、その癖一見すると活発な会議。

 中身が定まらず、膨れ上がる規模。押し迫るスケジュール。

 

 こちら側の代表者である一色は一年生ということもありなかなか強く出ることが出来ない。

 

 ただ時間だけが、無為に過ぎていった。

 

 

 

 

 

 一色と入れ違いになり迎えに行こうとサッカー部を訪れた時、人が変わったかのような葉山隼人と鉢合わせた。

 

 あのミッション以来、葉山は時々表情を失くす。精神が限界にきているのかもしれない。そのせいか、葉山グループの雰囲気が最近おかしい。

 

 それは最近の相模との噂も一因かもしれない。

 今回の相模は茶化すようにではなく真面目にその噂を否定しているからそこまで大げさに広まってはいないが、三浦は相模と一緒に下校する葉山を見たと言っている。そのせいか、葉山と三浦に距離が出来てしまい、それも雰囲気の悪化につながっているのかもしれない。

 

 真実を知っている俺は、おそらく事情を――ガンツに関する悩みを共有できる相模を支えにしているのだろう、と考えている。相模も支えになりたいと思っているのかもしれない。

 

 まぁ、そういったことから真実に恋心が芽生えることもあるのかもしれないが、そこまでいくと俺の範疇じゃない。好きにすればいい。

 

 だが、葉山の様子がおかしいのは確かだ。より具体的に言うならば、人畜無害な爽やかイケメン像が時折崩れ、ぞっとするような冷たい一面が露わになる。

 

 それは葉山隼人という人間が元々持っていた一面なのだろう。

 林間学校の時も、修学旅行の時も、そしてこないだの生徒会選挙の時も、その片鱗をちらつかせていた。

 

 俺は葉山隼人という人間のことを、何も知らなかったのかもしれない。

 

「……俺は君が思っているほど、いい奴じゃない」

 

 忌々しげに呟き、俺を睨み据えて言ったその言葉に、迫力に、俺は。

 

 怖い、と。

 

 そう思ってしまった。

 

 

 

 

 

 その後、俺は一人でコミュニティセンターに向かうと、途中いつものようにコンビニからお菓子の袋を抱えて出てきた一色を目撃した。

 

 なんだ入れ違いかとんだ徒労だったと思いながら近づくと、一色の顔が暗く、俯いていることに気づく。

 

 当然だ。

 一色は生徒会長になりたてで、同じ総武高の生徒会のメンバーとも打ち解けていない。

 その上更に他校の人間との関係も築かなくてはならないのだ。負担でないはずがない。

 

 

 そして、その負担を背負わせたのは、俺だ。

 

 

 俺はそのコンビニ袋を一色の代わりに持った。

 

 俺には、それくらいしか出来ない。

 

 

 

 

 

 流れで参加することになった小学生の中に、あの鶴見留美がいた。

 

 夏休みの林間学校。

 あの時に彼女を取り巻く人間関係をぶち壊し、トラウマを植え付けた少女。

 

 彼女は相変わらず一人だった。

 

 あの時のグル―プのメンバーは彼女しかいなかったから詳細は分からない。

 俺の目論見通りあのグループが解散したのかもしれないし、今でも学校ではあのグループは健在で留美を追いつめているのかもしれない。現在の彼女を取り巻く人間関係は窺うことは出来ない。

 

 

 だが、少なくとも、鶴見留美は相変わらず一人だった。

 

 

 

 

 

 今日もまるで進行がなかった。

 

 にも関わらず、有限の時間はみるみる消化されていく。

 

 玉縄と俺の相性は最悪だ。

 何を言っても暖簾に腕押し。効果がない。それにアイツの言い分も決して間違っていないから性質が悪い。

 

 何も出来ない。

 ストレスだけが溜まっていく。

 

 

 一色と留美の現状を見ると、まるで俺の今までの活動が間違っていたかのように感じる。

 

 

 いや、事実、間違っていたのだろう。

 

 俺がやってきたのは、全て問題の解消だ。解決じゃない。ただの先延ばし。

 

 

 先延ばしにした問題は、時に形を変え、時により大きな問題となって降りかかる。

 

 

 俺はそれを今、見せられている。見せつけられている。

 

 だが、それなら。

 

 

 俺は今まで、いったい何をしてきたんだのだろう。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 雪ノ下に会ったのは、そんな時だった。

 

 貴重なはずの時間を無理矢理つぶすような無為な作業を終え、コミュニティセンターの近くのケンタにパーティバレルを予約した後だった。

 

 俺が何の用もなくこんな時間にいるべきではない場所だった。

 

 当然、雪ノ下からもそこを突かれる。

 

「……こんな時間に、どうしたの?」

「……まぁ、色々な」

 

 俺は本当のことを言うわけにもいかず、ぼかした感じで言ったのだが。

 

「そう……一色さんの件、手伝っているのね」

 

 雪ノ下には、通じない。

 その声は、氷細工のように冷たかった。

 

「成り行き上……な。……悪かったな。勝手にやって」

 

 しかし、責めているような、口調ではない。

 

「あなたの個人的な行動に、私の許可は必要ないでしょう。……それに、あなたなら一人で解決できると思うわ。これまでのように」

 

 まるで、何かを。

 

「……俺は何も解決なんてしてない。一人だから一人でやっているだけだ。お前だってそうだろ」

 

 

 諦めて、しまったような。

 

 

「私は……違うわ。いつも、できてるつもりで……わかっているつもりでいただけだもの」

 

 

 その微笑は、とても美しかった。精巧な、仮面のように。

 

 俺は、そんな顔は見たくなかった。

 その仮面を外す為に、これまで戦ってきたはずなのに。

 

 雪ノ下は何か言葉を続ける。

 

 だが、よく覚えていない。

 

 なにかたどたどしく言い返した気がするが、それはただの足掻きでしかなく、そんなものが雪ノ下の仮面を被った心に届くはずもなくて。

 

 すでに決まってしまった結末(おわり)を覆すことなんて出来やしなくて。

 

 そして、突き付けられる。最後通牒。

 

 

「――けど、別に無理する必要なんてないじゃない。それで壊れてしまうなら、それまでのものでしかない……。違う?」

 

 

 その問いかけは、まったく関係ないのに、奉仕部を取り戻すために奮闘したあの戦いを、あの命懸けの戦争を、なぜかまるごと否定された気がして。

 

 何も、言えなかった。

 

 最後のチャンスを逃してしまった。

 

 彼女は悲しげに微笑み、小さく吐息を零す。

 

 雪ノ下の綺麗な唇が、これ以上ない残酷な言葉を紡ぐ。

 

 俺が、みっともなく縋っていたあの場所を、終わりにする言葉を。

 

 

「もう、無理して来なくていいわ……」

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 気が付いたら、どこかの広場のベンチに座り込んでいた。

 

 はぁ……と空中に息を吐き出す。肺の中にたまっていた嫌な空気は真っ白に染まり、すぐに消えた。

 

 だが、肺の中はすぐに気持ち悪い空気で再び満たされる。

 

 

 それとは逆に、心にはポッカリと空虚な穴が開いてしまったかのようだ。

 

 

 ……分かっていたんだ。永遠なんてないことくらい。

 

 いつか、必ず壊れてしまうなんてことくらい。

 

 修学旅行のあの一件がなくても、生徒会長選挙のあの失敗がなくても。

 

 いつか、必ず訪れていたことなんだ。

 

 にも関わらず、俺は逃げた。向き合わなかった。立ち向かわなかった。

 

 それが、これだ。この様だ。

 

 本来ならすぐにでも行動に移すべきだったんだ。取り返しがつかなくなる前に。

 

 いや、まだ取り返しがつくのかもしれない。だが、やり方が分からない。

 

 俺は仲直りの方法なんて知らない。今まで仲直りをするべき友達がいなかったから。

 

 雪ノ下には速攻で断られ、そして友達になる前に……中坊は死んだ。

 

 

 ……そうだ。ここ最近間が空いたが、ガンツの次のミッションはいつなんだろうか。

 

 俺は今まで、奉仕部の現状をなんとかしなければならない、これをモチベーションに――心の支えに戦ってきた。

 

 だが今は、その支えがポッキリと折れてしまった。

 

 まだ終わったわけじゃない。ここから直すんだ。

 雪ノ下の信頼を取り戻し、再びあの日常へ。紅茶の香り漂う、あの部室に。

 

 そう、理屈では理解しているのに。

 

 心が、追いつかない。隙間が埋まってくれない。

 はは……今の俺は絶好の駆け魂のターゲットだろうな。あれ?あれって女限定なんだっけ?

 ……ダメだ。いつもみたいにくだらない脳内遊びをしてみても、何も変わらない。

 

 

 俺は、いつからこんなに弱くなったんだ。

 

 

 こんな状態で…………俺は、生き残れるのか。

 

 

 思わず、天を仰ぐ。アニメとかなら心情を表現するために雨とか雪とか降るんだろうが、皮肉にも空は澄み切っていて、綺麗なオリオン座が見えていた。

 

 しばらく意味もなくこうしていると――

 

 

 

「…………はっ。嫌になるな。本当に」

 

 

 

 俺の人生には碌なことがない。

 思わずそんなことを吐き捨てたくなるような、まるでどこからか見ているかのような、最悪な悪意しか感じないタイミングで――

 

 

――首筋に、悪寒が走った。

 

 

 別に寒空の下で黄昏ていたから風邪を引いたってわけじゃない。

 

 

 その証拠に、俺の足は徐々に消失し――転送され始めていた。

 

 

 また、あれが始まる。あの部屋に送られる。

 

 

 

 だってのに、俺の心は、まるで奮い立たなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「おい……ちょっと、面貸せよ」

 

 達海が部活終わりにゲームセンターで息抜きをしていた時、その背中から数人のガラの悪い輩たちが達海に声をかけてきた。

 

「……はぁ。何のようっすか?」

 

 折本がクリスマスイベントとやらのメンバーになってから付き纏われる時間も減り(決してなくなったわけではない)、いい気分でゲームに熱中していたところを邪魔されて、達海は声に不機嫌さが出てしまったことを自覚した。

 

「……てめぇ。目上の人間に対する礼儀がなってねぇな」

 

 一体何を持ってして、自分を俺よりも目上だと判断しているのか。

 そんなことを達海は思ったが、何分すでに店内の注目を集めてしまっている。

 

 今は決して深夜というわけでもなく、ここは不良たちの溜まり場というわけでもない。

 ごく普通の駅前のゲームセンターだ。学校帰りの中学生や、なんだったら小学生も利用するような。彼らはこっちを見て明らかに怯えている。

 不良たちが自分目当てでこんなテリトリー外に足を運んだことも明白であり、達海は溜め息を吐きながら格ゲー用の座高の低い椅子から腰を上げた。

 

 

 

 歩くこと数分。達海は路地裏で不良たち三人に囲まれていた。

 

 達海はお決まりの展開に内心うんざりしながらも理由を尋ねる。

 

「で、何なんですか?」

「とぼけんな!人の女に手ぇ出しといて、ただで済むと思ってんじゃねぇよな!あぁ!?」

 

 またか。と達海は思った。

 勿論、達海に身に覚えはない。

 大方コイツの(元)彼女が達海のファンになり、別れを切り出したのだろう。その事の逆恨み。こういった因縁を吹っ掛けられるのも一度や二度ではない。

 

 大方その程度なのだ。彼女のコイツに対する想いとやらは。

 

 そして、その程度の想いしか抱かせなかったくせに、この男は彼女にではなく、自分にでもなく、達海にその原因を押し付けて憂さを晴らそうとする。

 

 それで彼女とやらが帰ってくるわけでもあるまいし。

 

 達海は大きく息を吐く。その行為に不良たちの額に青筋が浮かぶ。

 

 いつもの達海なら、ここでわざわざこんな風に相手を煽るような真似はしない。

 そもそもこんな所にむざむざと付いて来たりしない。

 その程度の敵意を嗅ぎ分ける嗅覚は、達海にはある。今回もどうせそんなことだろうと思っていた。

 

 ちなみに達海はこんな奴らにやられるほど喧嘩は弱くない。運動神経が段違いだ。

 しかしそれでも普段の達海はこんな愚行を犯さない。こんなくだらないことで万が一怪我でもしたら最悪だ。

 

「コイツ……なめやがって」

「やっちまうか……」

「イケメンがぁ……」

 

 不良たちは一斉に達海に襲いかかる。

 

 

 それなのに今回達海がこんな愚行に走ったのは――――制服の中に着こまれた、黒いスーツ故か。

 

 

 

 

 

「ねぇ!」

 

 達海が路地裏から出ると、そこには息を切らせた折本がいた。

 それを見て達海は露骨に舌打ちをし、無視して足を駅の方向に向ける。

 

「待って!」

 

 去りゆく達海の手を後ろから折本が掴む。

 

「なんだ――」

「さっき」

 

 達海は振り払おうとしたが、真剣な眼差しで自身を見据える折本の目に、動きを止めた。

 

「そこの路地裏で何してたの?」

「…………関係ないだろ」

 

 今度こそ力強く折本の腕を払い、帰宅しようとする。

 その背に向かって折本の声が響いた。

 

「今までああいう奴らは適当にあしらってきたじゃん!なんで――」

「別にいいだろ」

 

 

「絶対に怪我しないのに、何であんな奴らを気遣う必要がある」

 

 

 そういって顔だけをこちらに向けた達海は。

 

 

 口元を歪め、笑っていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 折本はトボトボと宛もなく歩いていた。

 

 先程の、達海の笑顔。

 

 怖かった。だが、同時にとても無邪気だった。

 

 新しいおもちゃに夢中になっている子供のような。

 父親に教えてもらった知識を弟に嬉しそうに話すお兄ちゃんのような。

 

 

 達海は、どこか変わってしまった。ように、折本は感じていた。

 

 

 あの部屋から帰ってきた、その日から。

 

 

 八幡は言った。またあそこに送られると。100点をとるまで、逃れることは出来ないと。

 

 あれから数日が経った。まだ再招集はかからない。だが折本は、なぜか解放されたという気分にはなれなかった。

 

 どうしようもない不安に駆られて、学校でこっそり達海を誰もいない場所に引っ張り問いかけたことがあった。

 

 怖くないのか、と。

 

 達海はあっけらかんと答えた。

 

『100点を取ればいいんだろ。簡単だ。見てろ』

 

 その時は、なんてカッコいいんだとうっとりしたものだったが、今思えば明らかに変だ。

 

 なぜ、達海はあんなにも自信満々なのだ?

 

 この間は死にかけて、実際に死んでしまい帰って来なかった者までいるというのに。

 

 ぶるっ!と体が震えた。寒い。怖い。折本は、どうしようもなく不安になった。

 

 

 達海はまるで別人のようだ。誰か、他に頼る人は。

 

 八幡は言った。あの部屋の事を誰かに話すと頭が爆発すると。

 それは、実際に人の頭が破裂する所を目撃した折本には、嘘だと思えなかった。

 

 そして、そこで、気づいた。そうだ。八幡がいると。

 折本の中では先日のミッションを終えて、葉山の評価はどん底になったが、八幡の評価は少し上がっていた。

 自分達と違い、怯えることなく敵に猛然と立ち向かうその姿は、自身の中の八幡のイメージとは大きくかけ離れたものだった。

 

 そして、今回のクリスマスイベントの会議。

 場の空気に流されず、自身の意見を恐れずに言うその姿は、まるでこういったことに慣れているかのようだった。

 その姿は、少なくとも、カッコ悪くはなかった。

 

 頼ってみてもいいかな、と思ったその時。

 

 

「…………比企、谷?」

 

 

 ふと顔を上げると、広場のベンチに八幡がいた。

 足を伸ばし、ベンチの背もたれにもたれかかり、空中に白い息を吐き出していた。

 

(なんか……落ち込んでる?)

 

 何かあったのかと折本は訝しんだが、こうして会ったのだから声を掛けようとした。が。

 

 

 折本は、首筋に嫌な悪寒が走ったのを感じて、思わず立ち止まった。

 

 

 そして、戦慄する。

 目の前の八幡が、少しずつ消えていく。八幡はまったく動じていないが、明らかに異常な光景だった。

 

 

 思わず悲鳴を上げそうになり、口を手で覆う――――が、その手が、なくなっていた。

 

 レーザーのようなものが、徐々に手首を侵食し、肘へと迫ってくる。レーザーに侵された部分は消失していた。

 

 自分の体が。

 

 なくなっていた。

 

「……い、」

 

 今度こそ、折本は哭いた。

 

「いやぁぁぁぁぁああああああああああああアアアアアアア――――――――――」

 

 誰もいない公園の横の道を行き交う人達は、悲鳴を聞いて足を止め、公園に目を向ける。

 

 だが。

 

 

 そこには、誰もいなかった。

 




次回、あの人登場。


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そして、比企谷八幡は魔王に救われる。

魔王、降臨。


 ……なんか、すっかり慣れちまったな。この感じ。

 

 そして、この部屋。

 

 俺が転送されて来た時、知っている人間は一人もいなかった。

 

 新しい参加者が……八人。全員男だ。

 頭が爆発している(髪形の)若い男に、眼鏡に帽子のでかい男。帽子の方はなんかラップとかヒップホップとか愛してそうだな。あと、サラリーマン風のスーツの男が二人。一人は眼鏡。そして、190cmはある白人の格闘家。さらに、迷彩服の軍事オタクっぽいやつに、ゴルゴ13みたいな眼光鋭いつなぎの男。背中に立ったら撃たれそう。

 そして、一番目立つのが。

 

「……また一人、このためしの場に呼ばれたか」

 

 は? 何言ってんだ、この坊さん?

 

「……ここ、どこなんすか?」

 

 ラッパー風味の男(コイツはラッパーさんでいいや。たぶんラッパーじゃないけど)が坊さんに問いかける。

 

「ここは、死者が極楽浄土に往生するか、それとも無間地獄に堕とされるか、そのふりわけがされる場所だ」

 

 ……コイツ、すげぇこと言うな。自信満々に言い切るとこが凄い。

 まぁ、今までの奴らと違い、パニックを起こさないとこは素直にすごいな。……内心はどうだか知らないが。

 

 だけどその妄言を、他の奴らも信じるかはまた別か。

 

「……ためしの場って、ここが?」

 

 髪の毛爆発男(ボンバーさんと名付けよう)が、坊さんに食って掛かる。まぁ、何の変哲もないマンションの一室ですしね。閻魔とかいないのかよ。鬼灯さんもびっくりだよ。

 

「死した記憶があるだろう。死を認めぬ者は、極楽浄土に往生できぬぞ」

「………………」

 

 確かに、そう言われると、何も知らない彼らはぐうの音も出ないだろう。

 

 だが、このおっさんはこの後どうするつもりだ?

 アンタは今までそう信じて生きてきて、こうして死んだ今もここでちゃんとすれば極楽浄土に行けると思うことで自己を保っているのかもしれないが。

 

 ここで、他の人達にも、自分の価値観を押し付けて。

 

 責任、とれんのか?

 

 

 ……まぁ、それを俺がとやかく言う資格なんてないか。

 現に今も、俺はここにいる誰よりも本当のことを知っているくせに、何もしようとしていない。

 

 俺は部屋の隅――中坊の指定席だった場所に移動し、腰を下ろす。

 

 疲れた。誰かの何かを背負うことが。本来そんなの、ぼっちの俺の与り知る所じゃない。

 

 もういい。どうでもいい。

 

 自分のことは、自分でやれ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 また誰か転送されてくる。

 すでにこれだけいるんだ。さすがに俺の知っている誰かだろう。

 

 そして案の定、そいつは俺の知る奴だった。

 

「…………よぉ」

「比企、谷……」

 

 折本は現れるなり俺をまじまじと見つめてきた。その目にあるのは驚愕と……安堵?

 

「比企谷ぁ!」

 

 すると折本は涙を浮かべ、俺に飛びついてきた。

 

 ……え? なになにどういうこと!?

 俺の胸に顔をうずませ、涙声で折本は言う。

 

「……公園で、アンタ見かけたら、なんか、消え始めて……そしたら、私の腕もなくなって……もうわけわかんなくて!……すごく……怖かったぁ……」

 

 折本は俺の制服をぎゅうと掴む。

 ……そうか。折本はまだ2回目。そりゃ戸惑うか。……むしろ、慣れ始めてる俺が異常なんだ。

 

 

「大丈夫だ、御嬢さん。怖がることはない。ここはためしの場。私と一緒に念仏を唱えれば、極楽浄土に往土できる」

「…………比企谷。この人何言ってんの?」

 

 俺に振るな。ってか、念仏唱えれば行けちゃうのかよ。簡単だな、極楽浄土。

 っていうか近い近い。至近距離でキョトンとするな。惚れちゃうだろうが。いい匂いだなぁ。

 

 

 

 ビーという音と共に、この部屋に新たな人物が追加される。

 すると我に返ったのか、折本が自分の状況に気づき、顔を赤くして慌てて離れた。だからそういう反応やめろ。どきっとするだろうが。

 

 そいつは――――

 

「葉山……」

 

 葉山隼人だった。

 葉山はこの部屋に転送されたことを悟ると顔を歪ませたが、すぐに雪ノ下とも陽乃さんのとも違う、葉山特有の仮面をつけた。

 そして、こちらに気づく。

 

「比企谷……折本さんも」

 

 俺は軽く目線で応えたが、折本は露骨に不機嫌になり顔を背ける。

 この二人、なんかあったのか?

 

 次々と増える人たちに坊さんは困惑していたが、気を取り直して葉山に話しかけようとする。

 

 するとその時、ガチャと廊下へとつながる扉が開いた。

 綺麗な顎に細い指を添えながら「ん~」と唸っているその人物は、俺が知っている人――――だが、この場所にいることが、一番信じられない人物だった。

 

 その女性が顔を上げると、部屋の片隅にいる俺に真っ先に気づく。

 そして、すぐにあの“強化外骨格な笑顔”を、この絶望の場所に不釣り合いな精巧過ぎる笑顔を向ける。

 

 

 

「あ、比企谷君だ~。ひゃっはろ~」

 

 

 

 雪ノ下陽乃。

 

 

 俺が今、ひょっとしたら雪ノ下以上に会いたくない人物だった。

 いや俺がこの人に会いたい時なんて、出会ってから今まで一瞬たりともないんだが。

 

 けど。だけど。

 

 

 今この時だけは、本当に、会いたくなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「…………陽乃さん」

「ん? あれ? 隼人じゃん。隼人もこんな所に? あ、それに君は前に会ったことあるよね。 あらら、ちょっと探検してる間にずいぶん知り合いが増えてお姉さん心強いよ」

 

 表面上はいつも通りを装ってはいるが、いくら雪ノ下陽乃といえど、この状況は相当切羽詰まっているはずだ。陽乃さんのように頭のいい人間ほど、こういう理論じゃ説明出来ない状況に混乱するはず。

 まぁ、あの坊さんの言うことに一切耳を傾けず、おそらく誰も知り合いがいないであろうこの状況でパニックにならずに情報収集に動いていたのは、さすがというところか。

 

 今は俺よりも陽乃さんに近いところにいた葉山と何か話している。おそらく葉山が陽乃さんにこの状況を説明しているのだろう。

 その後は葉山のことだ。今、極楽浄土が云々と信じ込まされている他の連中にも同じように説明して、全員を救おうと動くだろうな。

 

 ……俺の認識している――認識していた――葉山隼人なら、だが。

 

 俺はその二人の様子を傍から見ていたが、そっと壁から背を離す。

 

 ……ダメだ。今、あの人とまともに言葉を交わせる気がしない。

 

 

『もう、無理して来なくていいわ……』

 

 

 ……会わせる顔が、なさすぎる。

 

 

 俺は、会話を弾ませる葉山と陽乃さん、そしてその二人を少し離れた所から少しの敵意を放ちながら眺める折本に気づかれないように、陽乃さんが出てきた扉から廊下に移動した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 地獄のようなこの空間も、廊下の造りはごく普通のマンションと何も変わらない。

 風呂やトイレも完備しているのかいくつか扉があるが、どれも触れることは出来ない。

 

 このガンツルームで触れることはできるのは、あの球体がある一番大きな部屋から玄関へと繋がっているこの廊下へと繋がるあの扉と、球体の部屋から別の一室へと繋がる扉の2つだけ。前回女子が着替えに使った部屋だ。前に一度入ったが、何もなかった。

 

 

 

 そんなことを改めて振り返りながら、俺は廊下の奥へと進み、壁に手を突いた。

 

 …………無様、だな。

 俺は、雪ノ下どころか、その姉の陽乃さんにすら顔を合わせることが出来ない。

 

 俺が、雪ノ下の期待を裏切り、信頼――そんなものがあったのかすら、今となっては自信がないが――を失った。

 

 雪ノ下雪乃を、悲しませた。

 

 そんなことを言っても、陽乃さんは俺を責めやしないだろう。

 歪んではいるが、あの人は雪ノ下を大事に思ってはいる。シスコンを自負する俺が引くほどに。

 だが、それでもあの人は、俺を決して責めない。

 

 

 失望して、がっかりして、飽きて、見限られるだけだ。

 

 

 俺に対する興味を失うだけだ。

 

 

 ……はっ。それでいいじゃないか。俺は元々あの人が苦手なんだ。

 変な興味を持たれて、絡まれて、面倒なことにならなくなる。結構なことだ。

 

 俺はぼっちだ。俺の元から人が離れるなんて、今更だろう。恐れることはないだろう。

 慣れたもんなはずだ。

 そんなことで傷つくようなメンタルは、とっくの昔に持ち合わせてはいないはずだ。

 

 

 今まで散々、裏切られて、誤解されて、弾かれて、失望されてきたんだ。

 

 日常茶飯事だ。むしろ自分から遠ざかって嫌われるまである。

 

 

 

 

 

 …………なのに。

 

 

 

 

 ………なのに。

 

 

 

 ……なのに。

 

 

 

 …どうして、こんなに。

 

 

 

 

 

 こわいんだ。

 

 

 誰かに、失望されるのが。

 

 

 

 

 

 やめろよ。

 

 

 

 

 

 俺に、期待しないでくれ。

 

 

 

 

 

 だから、俺を

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「比企谷君?」

「!?」

 

 

 その声は、陽乃さんだった。

 

 この人に向き合いたくないから、ここに逃げてきたのに。

 

 

「…………なんですか?」

 

 だが、ここまで来たら、もう逃げられない。

 

 俺は陽乃さんの方を向く。

 すると、陽乃さんは目を見開いた。

 

 どうしたんだ? 改めて俺の目の腐り具合に絶句したのか?

 

 陽乃さんは、ポツリポツリと、言葉を漏らす。

 

 

「比企谷君…………泣いて、るの?」

 

 

「はぁ?」

 

 何言ってるんだ、陽乃さんは? と思いながら、手を目元に持ってくると。

 

 確かに、俺は泣いていた。

 俺の腐った目から溢れた温い水滴が手の甲について、ポタポタとフローリングに垂れた。

 

「あ、あれ?……違うんすよ、これは……目にゴミが」

 

 なんてベタな言い訳をしてるんだと思いながら、今更ながらに自分が涙声なのに気づいた。

 

 ゴシゴシと乱暴に目をこする。だが、その手を外せない。

 陽乃さんに、こんな情けない自分を見せたくなかった。

 

 そして許せなかった。こんな風に子供みたいに泣いて、被害者ぶってる自分に。

 俺かわいそうアピールを、よりによって陽乃さんにしている自分に。

 

 

 ふざけるな。

 

 俺は誰よりも加害者だ。

 

 自分の間違った行動で、留美も一色も追い込み、由比ヶ浜を悲しませ、雪ノ下を失望させた。

 

 それが加害者でなくてなんだ。

 

 そんな奴が、被害者ぶって泣き喚いていいはずがない。

 

 

 すると、俺の体を暖かい何かが包んだ。

 

 

 俺の視界は、まだ自分の腕により塞がれて暗いままだ。

 

 だが、この暖かさの源は、分かる。

 

 

「…………やめてください」

「や~だ♪」

 

 ダメだ。こんなのは許されない。

 

 加害者の俺が、元凶の俺が、優しく慰められるなんてことは、あってはならない。

 

「………離れて、ください」

「なんで私が比企谷君なんかの言うことを聞かなきゃならないの?」

 

 その雪ノ下のような物言いが、俺の心を突き刺して、さらなる罪悪感をもたらす。

 

 けど、俺の体は、一向に陽乃さんを押し返そうと働いてくれなかった。

 

 

「……やめろよ。……もう……やめて、くれよぉ……」

 

 俺の声により一層嗚咽が混じり、情けなさを増す。

 

 もう恥も外聞も捨てて懇願する。ダメだ。これ以上は。

 

 これ以上、この暖かさに浸ってしまっては。……俺は。…………俺は。

 

 

 その時、暖かさが体から離れる。

 俺の懇願が受け入れられた結果なのに、不意に寂しさを感じてしまって、それを理性で抑え込む。

 

 だが、その暖かさは俺の視界を塞いでいる左手にだけは残って、そっと、決して強くない力で、それを剥がす。

 

 抗えない。

 

 やがて徐々に視界が景色を取り戻す。

 そこには、強化外骨格など微塵も感じられない、優しい笑顔を讃える陽乃さんの綺麗な顔が、すぐ目の前にあった。

 

 心臓が、跳ね上がる。顔の温度がみるみる上昇するのを感じる。

 

 俺は顔を背ける。その優しい眼差しが、あまりにも眩しくて。

 

 陽乃さんは、くすりと笑う。この人にかかれば、俺のこんな行動など物凄く子供っぽく映るだろう。

 

 本気で嫌なら、本気で嫌がる。陽乃さんがいかに只者でなくても、男と女だ。力づくで暴れれば、逃れることは出来るだろう。

 

 けど、俺はしない。出来ない。つまりは、そういうことだ。

 

 許されないのに。あってはならないのに。

 

 この暖かさに、優しさに。

 

 

「…………い・や・だ♡」

 

 

 抗えない。

 

 

 どうしようもなく。

 

 

 浸りたい。

 

 

 陽乃さんが、俺の頬に両手を添える。

 

 その濡れた瞳が、桜色に染まった頬が、雪のように美しい肌が、蠱惑的な紅の艶やかな唇が、ゆっくりと近付いてくる。

 

 俺は、陽乃さんの肩に手を置き、引き離そうとする。

 

 だが、その手にはまるで力が入らず、抵抗の意味を為さなかった。

 

 俺は、また、負けた。

 

 

 そして俺達は、キスをした。

 

 

 目を閉じ、再び視界を真っ暗にし、その柔らかい唇の感触を存分に感じた。

 

 視覚を封じた分嗅覚が鮮明になり、陽乃さんの甘い匂いが脳のより深くを刺激する。

 

 現実感がなくなる。

 

 まるで、天国にいるかのようだった。皮肉にも、ここが天国に一番近い場所ということも忘れて。

 

 いや、もう忘れたかった。何もかも忘れて、今はこの唇の柔らかさを楽しみたい。

 

 

 それが、許されないことだと分かっていても。

 

 

 陽乃さんが息を吸う為、唇を離す。その時の名残惜しそうな息遣いにすら、俺の心は揺さぶられる。

 

 俺は、陽乃さんの腰に手を回し、抱き寄せる。

 

 その時の陽乃さんの小さな悲鳴が、この人の意表を少しでも突けた気がして、少し嬉しかった。

 

 俺の顔を見上げた時の陽乃さんは、案の定呆気にとられていて。

 

 それが、どうしようもなく可愛くて。

 

 俺の人生のセカンドキスは、俺から奪いにいった。

 

 絶賛童貞中の俺は、ただ不格好に唇を重ねることしかできない。

 

 だが、たったそれだけの行為でも俺の中の何かが融け、少しずつ軽くなり、そしてその事にどうしようもなく罪悪感を覚える。

 

 

 けれど、今だけは、快楽に身を任せたい。

 

 

 これから先、どのような罰でも甘んじて受けるから。

 

 

 だから――――

 

 

 そんな俺の葛藤を知ってか知らずか、再び息継ぎの為に顔を離すと、陶然とした表情の陽乃さんが、俺の首に手を回し、抱き着くようにして三回目のキスをした。

 

 その勢いで押され、背中が壁につく。

 陽乃さんの柔らかな二つの膨らみが、俺の体で押しつぶされ、形を変える。

 

 だが、そんなことはお構いなしに、先程の二回のキスとは違い、陽乃さんは荒々しく俺の唇に吸い付く。

 

 俺を求めてくれる。こんなにも無我夢中に。それがどうしようもなく嬉しくて。

 

 俺は、陽乃さんの腰を力強く抱き寄せ、陽乃さんの口づけを受け入れた。

 

 ……あぁ。ダメだ。俺は、この人からもう離れられない。

 

 

 

 

 

 俺は

 

 

 陽乃さんに

 

 

 溺れてしまった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 彼は、こちらに目を合わせようとせずに、廊下へと姿を消す。

 

 あんな彼を、私は始めて見た。

 

 彼は決して最強ではない。むしろ、一般的な男子高校生より、はるかに弱い。

 

 例えば、今私と会話している隼人なんかよりは、はるかに。

 

 だけど、だからこそ彼は、決して人に弱さを見せない。

 いや、見せることはあるが、見せ方が違う。

 普段の彼は、誰かに攻撃されるよりも先に自分の弱さをひけらかして、見せつけることで、弱点で武装することはある。自分にとってはこんなのはなんともないと誇示し、そうすることで身を守ることはある。

 

 だが、今の彼は、違う。

 

 前回会った時も少なからず正常運転というわけではなかったが、あれからさらに何かあったのか。

 

 いや、もし、今隼人が話してる荒唐無稽のおとぎ話が事実なら。

 

 あの比企谷くんでも、追い込まれるかもなぁ。

 

 ……ちょっと、鎌かけてみようか。

 

 せっかく目を付けていたあの子が、こんなイレギュラーで潰れちゃうのはもったいない。

 

 雪乃ちゃんを受け入れてくれそうな子が、やっと、やっと見つかったんだから。

 

 ……あの二人には、もっと、もっと……。

 

 

 

 

 

「――というわけなんだ。……信じ、られないよな」

「ううん。信じるよ」

 

 隼人が呆気にとられる。

 何?この期に及んで、常識に縋りつくとでも思ったの?この私が?

 

 そもそも、この私がこんなとこに連れてこられてた時点でもう事態は普通じゃない。

 

 これがただの誘拐ならすでに雪ノ下家が何らかの行動をとっているはずなのに、いつまで経ってもそれがない。

 

 始めはあの坊主の人が何か胡散臭いことを言ってくるから新手の新興宗教による集団的な拉致かと思ったけど、むしろそういう場合はこちらよりも同等あるいは多数の人間でそういう空気を作らなきゃ効果は薄い。見るところあのお坊さんにお仲間はいなさそうだしね。

 

 そして、さっき私は玄関に触れなかった。

 

 ここまで条件が揃えば、明らかに普通じゃない。むしろ隼人の説明で納得したくらいだ。

 

 見ると、隼人が苦笑してる。

 ようやく自分の浅さに気づいたみたいね。あなた如きが私のことを心配するなんておこがましいのよ。

 

 ……にしても、この子ずいぶん慣れてるわね。

 比企谷くんはともかく、隼人みたいなタイプはこういう状況は明らかに弱そうなのに。

 

 ……もう何回も経験してるってことか。

 隼人だけなら生き残れそうにないから、おそらく彼も同数かそれ以上の数を生き残ってきたのか。

 

 

 

 また、あの黒い球体――ガンツ だっけ?――から、人が転送されてくる。

 ……本当に現代科学を大きく凌駕してる。確かに、コイツに勝つには、一筋縄ではいかなそうだ。

 

 

 その為にも、彼だ。

 

 

 私はまだ、こんなところで終わるわけにはいかない。

 

 

 

「じゃあ、隼人。後よろしく」

 

 そういうと隼人が何か言っていたが、無視する。

 新しく来た子達も隼人の知り合いみたいだし――なんか女の子は見たことがあるような……まぁ、いっか♪――後の色々メンドクサイことは隼人に任せよう。坊主さんの相手とか。

 

 私は廊下に出た比企谷君を追うべく、扉に手をかける。

 

 

 

 ……にしても、そっか。

 

 

 

 私、やっぱり、死んだんだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 廊下に出ると、そこに比企谷くんは居た。

 

 

 壁に両手を拳の形で押し付けて、顔を俯かせ、肩を、拳を小刻みに震わせている。

 

 彼がここまで感情を露わにしているのを、私は始めて見た。

 

 一瞬本当に比企谷くんなのか疑ったくらい。

 

 そのせいか、自分でも知らず知らずの内に、口から言葉が零れ出てしまった。

 

 

「比企谷君?」

「!?」

 

 彼はビクリと過剰に反応し、体の震えを止め、ピタリと静止する。

 

 少しの間そうしていたが、やがて決心がついたかのように、ゆっくりとこちらに顔を向けた。

 

「…………なんですか?」

 

 その光景に、私は今度こそ絶句する。

 

 この時の私はさぞかし間抜けな顔をしていたに違いない。

 

 それぐらい、私には衝撃だったのだ。

 

 

 彼は、比企谷君は。

 

 あの、比企谷君が。

 

 泣いていた。

 

 

 目元を真っ赤にし、その生気のない双眸から透明の雫を溢れさせていた。

 

 私は、掠れた声を絞り出して、彼に言葉をかける。

 

「比企谷君……泣いて、るの?」

「はぁ?」

 

 何言ってるんだと言いたげに怪訝な表情を向けながら、彼は目元を拭う。

 

 その時初めて、自分が泣いているのだと気づいたようだ。

 

 比企谷君は分かりやすく狼狽し、必死に取り繕う。

 

「あ、あれ?……違うんすよ、これは……目にゴミが」

 

 いつもつらつらと流れるように出てくる皮肉気で自虐的な言い訳も出てこないくらい余裕がないらしい。目にゴミなんて本当に言う人初めて見た。

 

 彼は先程までとはおそらく違った理由で顔を赤くし、それを見られまいと必死に腕で顔を隠す。いつまで経っても外そうとしない。

 

 

 ……あぁ。この気持ちはなんだろう。初めて覚える感情だ。

 

 雪乃ちゃんに対する愛情とは、また別。

 

 年下の男の子に対する庇護欲?それとも泣いている子を慰めてあげたいという母性本能だろうか?

 

 ……ううん。なんとなく、違う。これはそんな不特定多数に対して抱く感情じゃない。

 

 

 これは、比企谷君だからこそ、抱く感情だ。

 

 

 これは、比企谷君に対してだけ、宿る感情だ。

 

 

 愛おしい。この、強くて、弱い少年が。

 

 

 私は、ゆっくりと、彼に歩み寄って。

 

 

 両手で包み込むように、彼を抱きしめた。

 

 

 不意に、彼の体がビクリと跳ねる。

 

 暖かさに、怯えるように。

 

「…………やめてください」

 

 案の定、彼から出たのは拒絶の言葉。

 

 弱い、弱い、強がりの言葉。

 

 だから、やめてなんかあげない。

 

「や~だ♪」

 

 彼の身長は、私よりも少し高いくらい。目線はほとんど変わらない。

 

 だから、こうして顔を俯かせる彼を抱きしめると、胸に抱く感じになる。

 

 胸の中で震える彼が、どうしようもなく愛おしい。

 

「………離れて、ください」

 

 彼は、まだ、怯えている。

 

 自分に向けられる好意に。自身を包み込む暖かさに。

 

 彼は、怯えている。

 

 その裏に、“あるかもしれない”悪意に。

 

 それとも彼にとっては、100%の善意こそが、何よりの毒なのかな?

 

「なんで私が比企谷君なんかの言うことを聞かなきゃならないの?」

 

 私は、離さない。離してなんかやらない。

 

 彼が望んでないとしても。私がそうしたいから。

 

 それに彼は、言葉では拒否するけれど、一向に振り払おうとはしない。

 

 勘違いしたく、なっちゃうじゃない。

 

「……やめろよ。……やめて、くれよぉ……」

 

 彼は震える。

 

 ……一体何が、彼を、あの強い彼をここまで追いつめたのかな?

 

 私?……い、いや、否定はできないっていうか……確かに要因の一端である可能性は高いけれど……こないだちょっと雪乃ちゃんいじめ過ぎちゃったし。その勢いで比企谷くんも怯えさせちゃったし。

 

 でも、この怯え方は、ちょっと普通じゃない。

 

 好意が信じられないっていうより、まるで。

 

 

 好意を許容してしまうことを、恐れているかのような。

 

 

 ……もしかして、自分にはその資格はない、とか、そんなことは許されない、とか考えているのかな?

 

 ……ああ、ありそう。それ。

 

 ……本当に、不器用なんだから。

 

 

 頑固で、強いけれど、その実誰よりも不器用で、純粋。

 

 そんな……私にとって、とっても眩しい、綺麗な存在。

 

 

 

 ……ほんと、嫉妬しちゃう位、そっくりでお似合い。

 

 

 

 どっちに対して……かな?分かんないや。

 

 

 私は、ゆっくりと比企谷君から離れる。

 

 だけど、別に言葉上のお願いを鵜呑みにしたわけじゃない。

 

 ……だからそんなに寂しそうにしないで。

 

 私は、彼の視界を塞いでいる左手をそっと払う。

 

 力は込めていないけれど、その腕はゆっくりと剥がれる。

 

 そこから現れたのは、いつもは彼のそれなりに整っている顔を台無しにしている瞳。

 

 けれど、今はその濁った瞳に溜まった雫が、天井の蛍光灯の光を反射してキラキラと光って見えた。

 

 

 その目が、どうしようもなく、欲している。

 

 それが、私の心に痛いほどに伝わってくる。

 

 

 彼は顔を真っ赤にし、私と目を合わせないように背ける。

 

 私はくすっと声に出さずに微笑んだ。彼のそんな抵抗が可愛くて。微笑ましくて。

 

 愛しくて。

 

 彼は、逃げない。それって、そういうことだよね?

 

 彼は、決して鈍感ではない。むしろ敏感だ。悪意にも。そして好意にも。

 

 だけど、彼は、悪意を恐れてる。だから、必死に予防線を引くのだ。あらゆる可能性を考慮に入れて。

 好意も、その裏に悪意が潜んでいる可能性を考えて、遠ざける。

 

 そんな生き方は、彼に平穏を齎しただろう。

 

 それでも、決して幸福で満たしてはいなかった。

 

 どれだけ自己肯定を重ねても、彼は心の奥底で欲していたのだろう。

 

 好意を。自分に向けられる、策謀なき好意を。見返りを求められない、無償の愛を。

 

 けれど、求めるのは怖くて。期待しても、裏切られるのが嫌で。

 

 

 ……なら、私が、捧げたい。

 

 

 私も、そんなものは知らない。

 

 彼が求めるような綺麗なものを信じられるほど、私はおそらく純粋じゃない。

 

 そんなものを信じるには、私は汚いものを見過ぎた。汚れてしまった。

 

 

 けれど、教えたい。彼に、それを教えるのが、私でありたい。

 

 

 誰にも、その役目は、渡したくない。

 

 

 

 私は、彼の両頬に優しく両手をあてがう。

 

「…………い・や・だ♡」

 

 

 彼の手が、私の両肩に置かれる。彼はおそらく、抵抗の意思表示のための行動なのだろうけれど、まったく力の入っていないそれを、私は逆に肯定と受け取った。

 

 私は、ゆっくりと彼に顔を近づける。恥ずかしながら、こういった行為の経験はいまだに一度もない。

 

 心はすっかり汚れてしまったけれど、せめて体はと必死で守り抜いてきた。

 

 今、本当にそうしてきて良かったと、心から思える。

 

 こうして、彼に初めてをあげられるから。

 

 

 ……ごめんね。雪乃ちゃん。でも、今だけは許して。

 

 

 ……愛なんて、私は知らないけれど。

 

 自分なりの、精一杯を。

 

 この胸いっぱいの“これ”が、彼に届くように。

 

 “これ”が愛だと、あなたへの想いだと信じて。

 

 私は、比企谷くんに、大事にとっておいたファーストキスを捧げた。

 

 

 

 目を閉じて、全身を駆け巡る幸福感に身を委ねる。

 

 唇と唇が接しているだけなのに、まるで彼と繋がったかのような錯覚に陥る。

 

 おそらく彼も始めてなのだろう。

 お互いどうしていいか分からずに、始めに接した状態から全然動けない。初心者丸出しのみっともない子供なキス。

 

 でも、そんなことがどうしようもなく嬉しくて。

 

 私も、彼のように綺麗になれた気がして。

 

 

 名残惜しかったけれど、息が続かなくて、やむなく唇を離す。

 

 限界ギリギリまで離れたくなくて、思わず吐息が漏れちゃった。

 

 彼の反応が気になって、彼の目を見つめようとする。

 

 ……もしかして、今の行為を後悔していないだろうか。

 

 そんな不安は、私の腰に手を回して私を抱き寄せた彼の行為で吹き飛んだ。

 

 思わず小さな悲鳴が漏れる。

 

 そして彼の腕の中にいること。彼の胸の中にいること。彼の温もりが私を包んでいることで、どうしようもなく体温が急上昇してしまう。

 

 いつも受け身な彼の、少し強引な男らしい行動に、キュンと心臓がときめいた。

 

 思わず彼の顔を見上げると、彼はこちらを愛おしそうに見つめていた。

 

 その彼の表情に、心が燃え盛った瞬間。

 

 彼が私の唇を塞いだ。人生二回目の、それも今度は彼から求めてくれたキス。

 

 今度も酷く不格好で、お互いの唇を重ねるだけのスマートとはいえないキスだったけれど。

 

 私の心は、みるみる内に満たされていく。

 

 膨れ上がる。溢れ出す。彼への想いが。彼への好意が。彼への愛が。

 

 

 再びお互いの息が限界になり、唇が離れると、今度は再び私からキスを求める。

 

 もう抑えきれなくて。彼が欲しくて、欲しくて、欲しくて。

 

 とびかかるように、襲いかかるように、彼を求めた。

 

 彼の首に手を回し、全身で彼を感じたくて彼に体を押し付ける。

 

 彼の意外に筋肉質な体が、私の熱い体を受け止めてくれた。

 

 今までのキスとは違い、荒々しく、貪るように彼の唇に吸い付く。

 

 そして、彼は、私の腰に手を回し、そんな私を受け入れてくれた。

 

 ……ああ、もうダメだ。私はもう、彼を知らなかった頃には戻れない。

 

 

 

 

 

 私は

 

 

 

 比企谷君に

 

 

 

 狂ってしまった。

 

 

 

 




少し長くなってしまいましたが、区切るとこが分からなくて。

何はともあれ、雪ノ下陽乃(魔王)加入。


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思いのほか、葉山隼人は手段を選ばない。

 葉山、覚醒…………?


 すでに、部屋にいる人数は総勢十二人の大所帯になっていた。

 

 ここにいない八幡と陽乃を合わせて、十四人。

 

 これが、おそらく今回の総メンバー。かつてない規模だ。

 

 たまたま死者が多い一日だったのか。それとも――

 

 葉山は壁に背をつけ思考に耽っていた。

 それは、これまでただ状況に戸惑い、恐怖することしか出来なかった今までの葉山では見られなかった姿。

 

 三回目ということで余裕が出来たのか。

 普通に考えればこの部屋に毒され感覚が麻痺してきたともいえるが、少なくとも事情を知るメンバーからすれば頼り甲斐が出てきたと歓迎される変化なのかもしれない。

 

 だが、そんな葉山を見つめている相模は、とても喜んでいるようには見えない、不安げな眼差しだった。

 

 

 

 折本は達海を見ていた。

 彼はすでにスーツを着込んでいた。普段着ばりに愛用しているらしい。

 その目はひたすらに、黒い球体――ガンツに注がれている。

 早くあの球が開き、武器が放出されないかと待ちわびるように。

 

 明らかに、戦いを恐れていない。むしろ待ちわびているのがヒシヒシと伝わってくる。

 これも見る人によっては頼もしさに映るだろう。

 

 しかし、そんな達海を見る折本の目も、決して望んでいるようには見えなかった。

 

 

 

 そんな彼らに、坊主が声を掛ける。

 

「君たちも、こちらに来て念仏を唱えなさい」

 

 彼らは、坊主の言葉にそれぞれ異なった反応を見せた。。

 

 折本は呆れ、相模は訝しみ、達海は鼻で笑う。

 

 そして葉山は、壁から背を離し、坊主と相対した。

 

 能面のような、無表情で。

 

「それは、なぜですか?」

 

 葉山のような端正な顔が作り出す無表情は、それだけで相手を威圧する迫力があったが、坊主は動じなかった。

 

「唱えれば、極楽浄土へと送られる。唱えなければ、永遠に無間地獄を彷徨うこととなろう」

 

 坊主は断言する。それは、この先に何が起こるかを知る彼らからしたらいっそ滑稽ですらあったが、葉山は表情筋を一切動かさず。

 

「それは違います」

 

 一刀両断する。

 

 坊主の眉が一瞬吊り上がる。葉山の声色は、後ろで念仏を唱えていた数人(決してこの部屋にいる全員が念仏を唱えているわけではない。葉山達を除いても)が念仏を止めてしまうくらいの迫力があった。

 

「これから僕たちが送られるのは、極楽浄土でも無間地獄でもない。

 地獄のような戦場だ。

 それを生き残れば、天国のような現実に還れる。

 だから俺達がすべきことは、念仏を唱えて逃げることじゃない。

 生きるための努力をして、戦うことだ」

 

 その葉山の言葉を聞き、むしろ驚いたのは相模たちの方だった。

 

 前回までの葉山は、はっきり言ってオドオドとした頼りない男だった。

 

 実際、前回も初めにここの状況を説明したのは葉山だった。

 しかし、ヤンキーたちどころか面識があった折本もそれなりの好関係を築いていた達海ですら説得させることが出来なかった。

 

 だが、今の葉山の言葉は、前回よりもはるかに説得力が篭っていた。

 

 

 ……目の前の坊主がいなければ、ひょっとしたら全員の心を動かせたのかもしれない。

 

 

「……ふっ。この状況だからな。気が狂っても仕方がない」

 

 坊主はそう言い、念仏を唱えていた集団の元に戻る。

 

「念仏を続けるぞ」

 

 坊主がそう言うと、一人、また一人と念仏を再開した。

 

 

 これは一重に葉山の言葉の力不足が要因、とは言えないだろう。

 

 葉山はただの高校生だが、相手は法衣も来ている本職の坊主だ。それだけでも受け取り手が感じる説得力が違う。

 

 それに、話の危険度――重みの問題もある。

 

 念仏を唱えれば極楽浄土に行けると謳う坊主に対して、これから命懸けの戦争が始まるという葉山。

 

 どちらも何の裏付けもない、言葉だけの情報。

 

 それなら、人は安全で楽な方を選ぶ。それはもう本能だ。

 

 

 だから、相模たちは葉山を責めなかった。

 

「……気にしないで、葉山くん」

「ああ。どうせ俺達だけでなんとかなんだろ」

 

 葉山は二人の方を一度向いた後、再び念仏を唱える集団に向かって呟いた。

 

「……いや、もう一人も死なせたくない。絶対に。……最低でも、スーツだけでも着てもらう」

 

 葉山は言う。氷のような無表情で。

 

「……葉山くん」

 

 相模には、何も出来ない。

 

 

 

 

 

 そんな葉山の思いとは裏腹に、彼らは無意味な念仏を唱え続ける。

 とはいっても、彼らの中に仏教徒は坊主しかいない。ただナムアミダブツと平坦な調子でそれっぽく呟き続けるだけ。

 そんな空っぽな信仰心を取り繕うだけで、行けるものなのだろうか。極楽浄土という場所は。

 そんな簡単に行ける場所が、そんなに素晴らしい所なのだろうか。

 

 

 だが、葉山の言葉は誰一人として届かなかった、というわけではない。

 

 葉山達四人を、眼鏡のサラリーマン風の男、ミリタリー姿のオタク、そしてつなぎを着た仕事人風の男が、興味深そうに見ていた。

 

 

 

 すると、葉山が再び動いた。

 

 念仏を唱える集団を見下ろすように立つ。

 

 そして、睨みつける坊主に、こう言い放つ。

 

「もうすぐ、その球体が歌い出す。ラジオ体操だ。

 そしたら、その球体が左右後方に開き、そこから武器が現れる。

 そして、順次エリアに飛ばされ、そこにいる敵――星人と戦い、勝てば再びここに戻ってくる。……負ければ死ぬ。今度こそ、本当に」

 

 葉山が次々と言い放つ妄言に、坊主だけでなく、先程少し葉山に心を揺さぶられた念仏派たちすら敵意の篭った目で、葉山を見る。

 

「……くだら――」

 

 

あーた~~らし~~いあーさがき~~た~~きぼーのあーさーがー

 

 

 坊主の言葉を遮るように、部屋に不気味なラジオ体操が響いた。

 

 葉山に敵意を向けていた念仏派も呆気にとられ、他のメンバーも葉山への興味を濃くする。

 

 唯一、坊主のみが葉山を睨みつけ続ける。

 

 そんな坊主を、葉山は冷たい目で見下したまま、淡々と言い放つ。

 

 

「僕らは、少なくともあなたよりも、地獄というものを知っています」

 

 

――まだ、続けますか。

 

 

 葉山の目は、言外にそう語っていた。

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

【てめえ達の命はなくなりました。】

【新しい命をどう使おうと私の勝手です。】

【という理屈なわけだす。】

 

 葉山と坊主の睨み合いの背後で、ガンツが次々と文字を浮かび上がらせる。

 

 ぞろぞろと球体の前に人が集まり、皆好き勝手の感想を言い合う。

 

 しかし、相模と折本の表情は晴れない。その文言が、文字通りの意味だと知っているから。

 

 ただ一人、達海は爛々と目を輝かせ、口元を好戦的に歪めていた。

 

 

【てめえ達はこいつをヤッつけてくだちい】

 

 

《あばれんぼう星人》

《おこりんぼう星人》

 

 

「……二種類?」

 

 相模が疑問を呈する。

 相模がこれまで参加した二つのミッションのターゲットは一種類の星人だった。二種類の星人が提示されたのは初めてだ。

 

 画像を見ると、どちらもそう変わらないように見えるが……

 

 相模がそんな疑問を持っていると、メガネのサラリーマンが葉山に近づく。

 相模はこの人を見ていて、ふと一回目に似た人がいたのを思い出す。あのテレビ番組説を誰よりも熱く唱え、最終的には相模はどう死んだかも知らない人。

 だが、この男は少なくとも彼よりは状況認識力に長けているらしい。

 

 葉山に向かって眼鏡を指で押し上げながら質問する。

 

「……これが、これから僕たちが戦わせられるという敵かい?」

「……ええ。そして――」

 

 葉山は坊主から眼鏡に目線を移し、そして再びガンツに目を向ける。

 

 ドンッ!!!と勢いよくガンツが三方向に開いた。

 

 そして、そこに現れるのはSF風の兵器の数々。

 それを見て、ミリタリーオタク風の男が腰を上げ、真っ先に飛びつく。Xショットガンを取り出し、構え、目をキラキラと輝かし、無邪気に笑う。

 

「……重い」

 

 ガシャと自身の知識から弾丸を装填する真似事をする。その銃に弾丸はないが、それの威力を知る葉山は眉を潜ませた。

 

 だが、特段注意することなく(引き金を引かなければ大丈夫だろう。と思った)、後ろの突出部分に向かう。

 眼鏡はXガンを取り出し、興味深げに眺めていた。

 

 葉山はそこに収納されている黒いスーツケースを取り出す。

 

「これです。これがこれから戦場に向かうにあたって最も重要になる。これを着ることが、最低限するべき、しなければならない準備です。全員これを着てください。アイツが着ているように」

 

 葉山が達海を指差す。

 急に矛先を向けられた達海はぎょっとしたが、葉山の鋭い目線に込められた意味をちゃんと受け取り、上に着ていた制服を上半身だけ脱ぎ、ガンツスーツを着ていることをアピールする。

 

「……コスプレ?」

 

 ボンバーさんの呟きに達海は顔を赤くしそっぽを向く。

 そんな達海を気にも留めず、葉山は全員に向けて言った。

 

「これを着ると着ないとでは生き残る可能性が劇的に変わります。生き残りたい人は着てください」

 

 そう言う葉山の前に、再び眼鏡が出て質問をする。

 先程よりも、ぐっと真に迫る質問を。

 

「君はずいぶんここに詳しいな……。何なんだ、君は?」

 

 その眼鏡の質問に、葉山は淡々と無感情で答える。

 

「俺は……いや、俺達はこの夜を何度か経験しているんです。だから、あなた達よりは少しは事情が分かる。ですから、俺達の言う通りにしてください」

 

 

 

「惑わされるな! 愚か者共がぁ!!」

 

 

 

 坊主が、これまでの葉山の説得を吹き飛ばすべく、文字通り喝を入れる。

 

 その大声により部屋中の注目を集めると、ビシッと葉山を目も見ずに指差して声量を落とさずに言い切る。

 

「奴こそが、このためしの場における煩悩の象徴だ!!奴の甘言に乗せられ、この期に及んで生にしがみつこうとする亡者を地獄に引き摺り下すのだ!!惑わさるな!!」

 

 そして坊主は両手を広げ、選挙演説を披露する政治家のごとく謳い上げる。

 

「この悪魔に騙され!その命を奪う兵器を手にしたら!救済されることなく無間地獄に落とされる!!強靭な精神でその誘惑を退け!念仏を唱え続ければ!必ずや極楽浄土への道は拓ける!!さぁ!!念仏を唱えよ!!祈りを捧げろ!!今、この瞬間!道は決まるのだ!!」

 

 それはここにいる誰よりも、自身に向かって言い聞かせているようだった。

 

 相模も折本も恐怖を感じ、自身の体を抱きしめた。

 達海も額に汗を一滴たらりと流した。

 

 そして、その鬼気迫る演説には少なくとも、彼らの迷いを棚上げにするくらいの迫力はあったらしい。

 

 先程までの念仏組は、再び腰を下しナムアミダブツを唱え始めた。

 そこに坊主も座り、数珠を手に南無阿弥陀仏を心なしか先程よりも力強く唱える。

 

 

 それを、葉山隼人は氷のような瞳で眺めていた。

 

 

 

 

 

「……相模さん。折本さん。2人は先にスーツに着替えてきてくれないか?大丈夫。他の人達は見張っているから。もう、いつ転送が始まるか分からない」

 

 すでにガンツは開き、必要なプロセスは終了している。

 後はガンツがエリアに転送するだけ。

 

 相模と折本は頷いてそそくさとスーツケースを手に取り――

 

 

――いまだに帰って来ない二人がいる廊下へと踏み込んだ。

 

 

 

 

 

「……で、どうするつもりだ?」

「ん?何がだ?」

 

 女子二人が廊下へ行った後、達海は葉山に耳打ちする。

 

「とぼけんな。何かアイツらに見られたらまずいことでもするんだろう?」

「……別に、そこまでまずいことはしないさ」

 

 

「でも、言葉で分からない奴は、ちょっと荒っぽい手段も仕方ないよな。」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 相模と折本が廊下に出ると、切れ切れの艶やかな吐息とピチャピチャという水音が奥から響いていた。

 

 相模と折本は2人で「「?」」と顔を見合わせると、ゆっくりと奥を覗き込んだ。

 

 すると――

 

 

「……ぁ……ぅん……はぁ……ん……」

「……はぁ……はぁ……っ…ん………」

 

 

 そこには、この短時間であっという間にディープなキスをマスターした陽乃と、それに不器用ながらも必死に応える八幡がいた。

 

 ぶっちゃけ濡れ場だ。

 

「…………………」

「…………………」

 

 絶句する二人。

 だが、八幡と陽乃の放つピンク色の雰囲気から、思春期真っ盛りの女子高生達は目を逸らすことは出来なかった。

 

 キスにのめり込むために閉じられた瞳は、八幡の元々整った顔立ちを映えさせた。

 そして、頬を赤く染め、桜色に上気したうなじを覗かせる陽乃は、これ以上ないくらい扇情的だった。

 

 そんな二人がお互いを求め合いながら熱中するその行為を、相模と折本は卑猥な行いではなく、むしろとても美しいものに思えて、思わず時を忘れて魅入ってしまった。

 

 だが、この廊下に視界を遮る障子などはない。

 

 相模と折本のどちらかが思わず身を乗り出し、フローリングが軋む。

 

 それに反応し、八幡が閉じていたその目を開いた。

 

「……げ」

「……あ」

「……う」

「……ん?比企谷くん?」

 

 三人の間に気まずい空気が流れる。

 陽乃は少しの間余韻に呆けていたが、直ぐに脳が運行を再開し、折本と相模の存在に気づいた。

 そして、頬をこれまで以上に急速に赤くする。その範囲は額、首筋と頭部全体に広がった。

 

 

 それを確認する前に、折本と相模はダッシュで部屋に戻った。

 

 

 バタンッ!と勢いよく扉を閉める。

 

「うぉ! びっくりしたぁ~。 え?何?お前ら着替えてないじゃん。 ……っていうか顔赤くね?どうしたんだよ」

「はぁ……はぁ……い、いや、別に何も?ね、ねぇ」

「う、うん!何も!何もなかったなんでもないよ、うん!」

「? ……そうか」

 

 明らかに様子がおかしかったが、達海は別段この二人に興味があるわけではない。

 ただタイミングが悪いと思っただけだ。せっかくの葉山の心遣いが不意になった、と。

 

「あ、あれ?葉山くんは?」

 

 相模が葉山の所在を尋ねたので、達海は顎でそちらを指し示す。

 

 すると、その別室から葉山が現れた。スーツを着た姿で。

 

 そして葉山は、相模たちが戻っていることにも気づかず、念仏を唱えている集団に向かって歩いて行く。

 

 彼らが葉山を訝しんだ様子で見上げると、そこで葉山は―――――

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ……今日、この日。俺の人生に新たなる黒歴史が誕生した。

 

 ファーストキスを同級生に目撃されるってそれ何てイジメ?しかもその内一人は過去フラれた相手とかイタすぎる。帰って布団に包まってアァー!!ってやりたいレベル。

 

 ……まぁいい。俺はいい。黒歴史が今更一つ二つ増えた所で、大して変わらん。時折ベッドに向かって吠えて、発作的な何かに苦しむだけだ。

 

 だが、今まで黒歴史とは(えん)(ゆかり)縁もなかったであろうこの人には、相当ダメージが大きいようで。

 

「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~~~~~~~~~~~」

「……雪ノ下さん。そろそろ立ってください。ね?」

 

 陽乃さんはorzな体勢で唸っている。顔は見えないが、こちらから見える綺麗なうなじは真っ赤に染まったままだ。

 ヤバい。超可愛い。

 

 今まで他人にこんな弱みを見せたことはなかったのだろう。陽乃さんは相当精神的にきているようだ。

 

 ……けれど、いつまでもこうしているわけにはいかない。

 

 さっき折本と相模はスーツを持っていた。おそらく着替える為に廊下に出てきたんだ。なら、もうガンツは開いてる。いつ転送されてもおかしくない。

 最低でも、陽乃さんにスーツを着てもらわないと。

 

「雪ノ下さ―― ?」

「…………」

 

 陽乃さんを動かそうと呼び掛けようとしたら、なぜか俺を見上げて頬を膨らませていた。

 ヤバいヤバい陽乃さんみたいな普段隙がない完璧超人お姉さんが見せる子供っぽい姿のギャップ破壊力で俺の理性の化け物がKO寸前DAZE☆ひゃっ―――――ハッ! 危ない危ない。危うく俺の鋼の理性が崩壊して真理に到達する所だったぜ。いや、何リック兄弟だよ。

 

 とにかく、なぜか陽乃さんの機嫌が悪い。

 膨れる陽乃さんはとんでもなく可愛いが、今は一刻を争う。急いで陽乃さんを動かさないと。

 

「あの、雪ノ下――」

「陽乃」

「……え?」

 

「だから……陽乃って呼んで。……八幡くん」

 

 がはぁ!!

 こ、これが二次元の世界なら間違いなく吐血していたぜ……。なんだ、この破壊力は……。ここが高天原(たかまがはら)か。

 上目遣い+ギャップ+年上の甘え声+濡れた目+名前呼び+照れ+染めた頬+……

 と、止まらねぇ。何連鎖だよ。ぷよぷよだったら確実にゲームオーバーだよ。というか何この人デレ過ぎでしょ。十分前とは別人じゃん。まぁ可愛いけどさ。何度でも言うけどめちゃくちゃ可愛いけどさ。

 

 拗ねる+照れるの二大萌えポイントだけでも凄まじいのに……陽乃さんレベルの絶世の美女がやると特に。

 

 ……こんな人とキスしてたんだよな。俺。

 

 ……と、とにかく今は行動だ。あんまり考えすぎると死ぬる。

 

 俺は照れ隠しの意味も兼ねて、陽乃さんの細い腕を掴んで力づくで立たせる。

 

「きゃ……もう。強引なんだから♡」

「~~~~~と、とにかく、スーツ着てください、スーツ!!」

 

 くそ!この人段々余裕取り戻してる!いつもの陽乃さんのペースだ!

 だけどさっきのキスの後だと破壊力が段違いだよ!!

 

 俺はなるべく陽乃さんを見ないようにして、廊下を進む。

 すると、陽乃さんもふざけるのを止めたのか、真面目なトーンで話してきた。

 

「スーツって、隼人が言ってたやつ?」

「葉山がどこまで説明したのか分かりませんが、とにかくスーツを着ないことには話になりません。それにたぶんもういつ転送されてもおかしくないはず――」

 

 俺は、陽乃さんに説明しながら扉を開ける。

 そこでは――

 

 

――――葉山が、大の男二人を宙吊りにしていた。

 

 

「……ちょ!アンタ!」

「やめてよ、葉山くん!!」

 

 葉山の暴挙を折本と相模が止めようとする。

 それを達海が止めた。

 

 ……なるほど。そう言うことか。にしても――

 

「――隼人、ずいぶん吹っ切れたみたいね」

 

 陽乃さんが面白そうに呟く。

 ……確かに、今までの葉山じゃ考えられない行動だ。

 

 だが、確かに合理的だ。

 

 葉山に吊るされているラッパーさんとボンバーさんは、必死にもがいて葉山を蹴り飛ばし、思いっ切り膝蹴りを食らわせたりしてるが――

 

「がぁああ!!」

「こ、コイツ……岩かよッ!」

 

――当然、効かない。

 

「……へぇ~。あれがスーツの力か」

「ええ。あれがないと、まったく戦力になりません」

 

 さすが陽乃さん。この状況で冷静に分析を欠かさない。

 

 葉山は二人を静かに下すと、冷たい目で見下して、言った。

 

「これが、スーツの力です。着てください」

 

 葉山には、決して脅しているなどというつもりはないだろう。

 だが、彼らからしたら、葉山のやり方は恐怖政治そのものだ。

 

「着てください」

「ヒぃ!」

 

 ボンバーさんが後ずさる。完全に怯えている。

 

 だが、それでいい。その方が、着ないという選択よりはるかにましだ。

 

 以前の葉山なら、こんなやり方はしなかっただろう。

 みんな仲良く。話せば分かる。輪を乱したくない。

 そんな理想論を語っていた葉山なら、こんなやり方は無意識に避けた、いや思いつきすらしなかったはずだ。

 

 考え方が変わったのか、それとも許容範囲が広がったのか。

 

 ……どっちにしろ、この環境に適応したのだろう。

 

 男たちは葉山から逃げるようにしてスーツを取りに行く。

 

 他に取りに行くのは眼鏡くらいか。つなぎとミリタリーは銃の方に興味が行ってる。もう一人のサラリーマンはブツブツと念仏を唱え続けてる。完全に逃避体勢だ。

 坊主は葉山の親の仇のように睨んでいる。

 そして、格闘家は――

 

「ほわたぁ!」

 

 ……葉山に向かって蹴りを放っている。もうやらせておこう。

 

「陽乃さん。俺達も」

「うん」

 

 とりあえずスーツを着よう。

 

 俺は白人格闘家に引いてる折本と、葉山を心配そうに見ている相模に声を掛ける。

 

「……お前ら。早く着替えた方がいいんじゃないのか?」

 

 すると、二人は我に返り。

 

「そうだった!早く着替えよ!」

「あ、ちょ――」

 

 折本は相模の腕を引っ張って、再び廊下へ。

 相模は葉山を後ろ髪が引かれるように見ていたが、やがて廊下に消えていった。

 

 そして俺達はスーツを取ると、俺は陽乃さんを廊下へ送る。

 

「それじゃ、着方は二人に教わってください」

「えぇ~。八幡は~?」

「……いや、この服全裸にならないと着れないんすよ」

「……別に、八幡くんならいいよ~。お姉さんの裸、見たい?見たい?」

 

 …………いつもの悪魔ネタもそんなに頬を染めてたら、可愛いだけですよ、陽乃さん。

 

「はいはい。ホントに時間ないんですから。早く着替えて来てください」

「……もぉ。つれないな~」

 

 そう言って、陽乃さんはようやく行ってくれた。

 

 ……さて、俺も着替えるか。

 前回は転送されて二秒で敵と遭遇したしな。あ、そう言えば今回の敵の画像見てねぇ。

 

「……リア充がっ」

 

 ボンバーさんがこちらを見て苦々しく吐き捨てた。

 ……まさか俺の人生でそんなことを言われる日が来るとはな。ホント、人生何が起こるか分かんねぇな。ここ最近は特に。

 




リア充爆発しろ。――――ボンバーさん。心の叫び



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比企谷八幡は、彼と己の在り方について自問する。

少し短めです。


「……ふふ♪」

 

 陽乃はスーツケースを抱えて廊下を奥に進む。

 八幡との何気ないやり取り一つ一つで心が躍るように弾む。

 

 死んで間もないというのに、人生で一番充実しているのかもしれない。

 

 そして玄関の方に近づくと、すでに服を脱いで下着姿の折本と相模がいた。

 

「二人とも、ひゃっはろ~!」

「……あ、ええと」

「こ、こんにちは」

 

 二人は陽乃をぎこちなく迎える。

 

 元々この二人は陽乃の(雪乃や八幡に対する)“悪ふざけ”の間接的な被害者だが、今はそれ以上に先程のキスシーンを目撃してしまったことの気恥ずかしさが大きかった。

 

 八幡とはまた別の意味で観察眼の鋭い陽乃はすぐに察知し、強化外骨格の笑顔を張りつけながら二人に向かってにこやかに近づく。

 

「ねぇねぇ、二人共経験者なんでしょう? “八幡が”このスーツの着方を二人に教えてもらえってさ。頼んでもいいかな?」

「は、はい」

 

 心なしか八幡の部分を強調して、陽乃は頼む。

 それに反応したのは相模で、スーツの仕組みを陽乃に説明する。

 

「――そっか。やっぱり裸にならないとダメなんだね」

「ええ。体にピッタリフィットしたサイズになってるので――」

「じゃあ、仕方ないね」

 

 そう言って相模の説明の途中で陽乃は着ていた服を躊躇なく脱衣し、上半身の下着姿を晒した。

 元々肩を大きく露出していた服装だったので十分な色香を漂わせていたが、黒い下着で胸を隠しているだけの半裸状態の陽乃は、同じ女性でも、いやある意味同じ女性だからこそ目を奪われてしまう、そんな妖しい魅力があった。

 その大きいけれど下品ではない形の良い胸、素晴らしく締まった腰、そして大胆に脱ぎ去った上半身とは裏腹に、ゆっくりと魅せつけるように丁寧にスキニージーンズから一脚ずつ抜いて徐々に露わになる美しい脚線美、張りのあるヒップ。

 まさしく女性が憧れ、男性が魅了される、理想の“美”がそこにあった。

 目の前に確かに存在しているのに、夢の中にいるような錯覚をしてしまう。それほどに雪ノ下陽乃は別格だった。

 

 陽乃はくすっと笑い「着替えないの?」と二人に言う。

 すると、陽乃に見惚れていて手が止まっていた二人が動き出そうとして、また止まる。

 

 陽乃の肢体を見た後だと、どうしてもこれ以上肌を晒すのを躊躇ってしまう。ここに同性しかいないと分かっていても。

 相模も折本も平均以上なスタイルをしているが、陽乃と比べたらどうしても自分の体が貧相に感じてしまう。比べる相手ではないと分かっているが。

 陽乃レベルになると嫉妬心は湧かないが、それでも劣等感はなくなるわけではないのだ。

 

 陽乃はそんな相模と折本を見て、

 

「急がないとまずいんでしょ?」

 

 といい、ブラを外そうとする。このスーツを着るには全裸にならないといけないので当然下着も外さなくてはならない。

 折本と相模は顔を赤くし背ける。いくら女同士でも、裸をまじまじと見るのは決して褒められた行いではない。

 それ以上に見てはいけないと思わせるほどのオーラが陽乃にはあった。

 

 結果として陽乃の裸を視界から外すことが出来たので二人とも着替えを続行する。

 

 しばらく着擦れの音のみが静寂に響いていたが、やがて沈黙に耐えかねたのか、折本が陽乃に問いかけた。

 

「あ、あの……いつから比企谷と付き合ってたんですか?」

 

 その問いかけに――正確には他の女から八幡の名前が出たことに――ピクリと反応し一瞬動きを止め、しかしすぐに着替えを続けながらなんでもない風に返す。

 

「ん~。どうしてぇ~?」

「い、いやぁ。この間お会いした時は、学校の先輩って話だったんで……いつの間に付き合ったのかなーって、はい……」

 

 折本は由比ヶ浜とはまた違った形でコミュ力の高い女子だが、どうにも陽乃相手だとそこまでグイグイ行けないらしい。

 いや、初対面の時は結構グイグイ行っていたのだが、その時は陽乃が八幡をからかう為に話を引き出しやすい空気を出していた。しかし今、陽乃はまた違った空気を出している。

 

 ……どこか牽制というか、格の違いを見せてやろう!といった攻撃的な空気を。

 

 言葉の物腰も、態度も柔らかい。しかし、陽乃レベルになればオーラのみで女子高生を圧倒する事など容易い。今の陽乃は百獣の王ばりの威圧感を放っていた。

 二人の段々高まりつつあった八幡への好感度を察知したのかもしれないが、正直大人げな――あ、なんでもないです。

 

「はは♪ ところで折本ちゃんこそどうなの?あの達海くんって子に随分あつ~い目線を送ってたみたいだけど。もしかして彼氏?」

「え!?いや、ちが――」

「委員長ちゃんこそ。隼人のことずっと見てたけど……やっぱり好きなの?いや~大変だね、ライバル多いよ。なんならわたしが協力してあげよっか♪」

「ええ!?わ、わたし、そんな――」

 

 

「いいねぇ、青春だね♪やっぱり女の子は恋をしないと!お姉さん応援しちゃうよ!“それぞれ”頑張ってね!お姉さんも頑張るから!――――ね」

 

 

 相模と折本は背筋に猛烈な寒気が走る。

 女子同士の会話に、明確な固有名詞など必要ない。

 

 今の言葉は牽制、有体に言ってしまえば脅し。

 

 彼はわたしのものだ。手を出したら容赦をしない。

 

 二人の女子高生は、言葉の裏に隠された冷たいメッセージをしっかりと理解した。

 

 この人は、敵に回してはいけない。

 相模と折本はこのことを、転送するまで続いた陽乃主導のガールズトークの間にたっぷりと思い知らされた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 俺は陽乃さんを送り出した後、もう一つの別室でスーツを着用した。

 

 そして部屋を出ると、一人の眼鏡が声を掛けてきた。

 

 眼鏡は眼鏡を中指で押し上げながら(ややこしっ!)俺に問いかけてきた。

 ……っていうか、眼鏡かけてる人って良くそのインテリポーズするけど、緩いならちゃんと直した方がいいよ。更に視力落ちるから。

 

「君も、彼らと同じようにここに詳しいのかい?」

 

 ……なるほど。俺の態度があまりにおとなし過ぎるから、不審に思ったのか。よく見てるな、コイツ。

 確かに、俺と達海以外の連中は銃に興味津々だったり、ビクビクと念仏を唱えたり、何かしらこの状況にリアクションを示してる。何もしていないと逆に目立つよな。

 それにこの人は俺よりも先にこの部屋に来ていたから、俺が葉山と(こういう言い方は嫌だが)気軽に話していたのも見られていただろうしな。

 

「まぁ……アイツと同じくらいには」

 

 俺は葉山を見ながら言う。

 

 ……そう。俺は葉山と同等くらいにしか知らない。

 葉山と同じ回数のミッションしかこなしていないし、情報は共有してきた。

 

 違うのは、ただ一点だけ。

 

 

『アンタなら辿り着けるよ。カタストロフィまで』

 

 

 ……あのミッションの後、俺はガンツに聞き、更にネットで調べて、一つの仮説に辿りついた。

 もしそれが当たっていれば、事はこの部屋だけに収まらない。

 スケールが大きすぎてまだ誰にも話していない。信じられる話じゃないだろうしな。

 

 …………中坊のやつ、こんな面倒くさい置き土産残しやがって。

 

 だが、それも確実性がある情報じゃない。だから、俺が葉山と同等レベルの知識がないということは真実だ。

 

 

 眼鏡は、俺の目をジーと見て、再び眼鏡を押し上げ「……ふーん」と言うと、更に質問を重ねた。

 

 ……なんだコイツ。今までにいなかったタイプだ。

 まるで似てはいないが、タイプで言えば俺や中坊に近いかもしれない。認めたくないが。

 

 

「……この会の主催者、誰?」

 

 ……コイツ。

 

「……さぁ」

「じゃあ、あの球の中の男。アレは何?」

「……知りませんよ」

 

 ああそうか。間違いない。

 

 今回の新人の中で、陽乃さんを除けば、コイツが一番の曲者だ。

 

 視点が鋭い。

 少なくとも、さっきのラッパーさんやボンバーさん、坊主やガタガタ震えながら念仏を唱えてるサラリーマン2(にしてもコイツ怯えすぎだろ。地獄行きの心当たりでもあんのか?横領とか?)なんかよりは、はるかにここに“向いてる”。

 

 ここを、このゲームを何者かの仕組んだ遊びであること。

 そして、ガンツがその最重要手がかりであることを推測したんだ。

 

 俺は、この眼鏡は一回目のミッションに居た眼鏡さんよりもはるかに要注意人物だと認定した。よってこの人のことはインテリさんと呼ぼう。心の中で。

 そのインテリさんは俺のそっけない反応の裏でも読んでいたのか、俺の顔をジーと見ていたが、やがて質問を変えた。

 

「これから、この服を着て、あの武器を持って、さっきの絵の敵と戦うんだよね」

「……ええ」

「それで、この服を着なきゃ死ぬ、と?」

「……死ぬというよりは、生き残る可能性が激減しますね。限りなく0に」

「……了解」

 

 そういうと、俺とすれ違うようにして奥の部屋に入っていった。

 

 ……あの人は、もしかしたら生き残るかもな。

 

 まぁ、葉山は全員生き残らせるつもりみたいだが。

 

 今も残るメンバーを説得している。……白人格闘家を思いっきり押さえつけながら。

 実力差を見せつけようとしたのかもしれないが、それは逆効果だ。思いっきり対抗心燃やしてんじゃねぇか。成果は芳しくないな。

 

 坊主は意地になっているし、サラリーマン2は半狂乱状態だ。

 

 ミリタリーとつなぎは武器の構造を理解するのに忙しそうだ。まぁ、この二人は戦いになったら頑張ってくれるだろう。生き残れるとは思えないが。

 

 

 

 ……そうだ。俺は葉山じゃない。俺は全員を助けるなんてそんな幻想抱かない。上条さんにゲンコロされるまでもなくぶち殺されてる。

 あんなに強かった中坊一人救えなかった。そんな俺がやる気のない新人を何人も生き残らせる。そんな真似は不可能だ。

 

 自分のことは、自分でやれ。

 

 俺は自分と、自分より大事な命を守るので精一杯だ。

 

 

 

「お」

 

 達海が転送され始めた。

 その口は、獰猛に歪んでいる。両手にはXショットガンとXガンの2丁拳銃。

 やる気満々だな。まぁ、やる気はあるのはいいことだ。

 

 その方向性が間違っていなければ、だが。

 

 ひょっとしたら、もう憑りつかれたのかもな。この部屋の魔力に。

 

 

 達海に続き、インテリさん、ラッパーさんやボンバーさんと次々と送られる。

 もしかしたら相模や折本も、もう転送されたかもな。

 

 俺はガンツに近づき、XガンとYガンを2丁ずつ持つ。

 2丁ずつなのは、あの人の分だ。

 ……あの人はちゃんとスーツを着れただろうか。

 

 

「ははは、裁きだ!見ろ!私は正しかった!愚かにも武器を取ったものは神に見限られ、地獄に落ちたのだ!」

 

 坊主が楽しそうに言う。

 ……なぜ、この状況で笑える?自分だけは大丈夫と思える根拠はなんだ?

 そもそも他人が地獄に落ちる光景に歓喜を覚える時点で地獄堕ち確定だろ。それに神って……仏教じゃねぇのかよ。念仏唱えてたじゃん。

 

 気が付けば、ミリタリーさんやつなぎさんもいない。送られたか。初めての転送で叫び声を上げなかったのは凄いな。

 今回はずいぶん強い新人が多い。

 

 

 

 が、俺は弱い。

 

 だから、やれることは限られている。

 なんでもはできない。できることだけ。

 

 誰かを救う。

 そんな高尚で殊勝な真似事ができるほど、大した人間じゃない。

 

 俺が出来るのは、自分の命を守ることと、自分より大事な人間の盾になること。

 

 それだけだ。そして、それで十分だ。

 

 

 

「た、助けてくれ!!」

 

 サラリーマン2が文字通り坊主の足に縋りつく。

 坊主は分かりやすく戸惑っている。

 

「じ、地獄とは、どういうところなんだ!教えてください!お願いします!」

「じ、地獄?」

 

 おい。知らないのかよ、坊主。

 

「自信がないんだ!お、おれはきっと地獄に落ちる!だから助けてくれ!お願いします!お願いします!!」

 

 ……お前、ほんと何したんだよ。

 

「あ……あ……」

 

 坊主は縋りつくサラリーマン2に何も出来ない。

 そして彼の転送が始まる。頭頂部から徐々に彼の体が消えていく。

 

「あ……嫌だ……やめ、たすけ、あああああぁぁぁぁぁぁ――――」

 

 消えた。消失した。

 部屋が静寂に包まれる。

 残されたのは、俺と、葉山と、坊主のみ。

 

 坊主はしばし呆然としていたが、やがて何もできなかったことをごまかすかのように、小声で念仏を唱え始めた。

 

 

 

 そんなもんだ。口では大したことを言っていても、人間にやれることは限られている。

 

 人は、神でも仏でもない。

 

 だから俺は、欲張らない。夢をみない。幻想なんて抱かない。

 

 不特定多数の人間の為に、命なんて張れない。

 

 この命は、大事な人の為に使う。

 

 

 

 陽乃さん。

 

 アナタだけは、何としても帰して見せる。元の世界に。

 

 それが俺の、戦う理由。

 

 命懸けの戦場に向かう、新たなモチベーションだ。

 

 

 

 俺の転送が始まった。

 

 ふと目を向けると、葉山の転送も始まったようだ。

 

 俺が目を向けるタイミングで、葉山もこちらに目を向けていた。

 

 

 冷たい目だった。これまでの葉山隼人の目ではない。

 目的を達するためなら、手段は選ばない。そんな覚悟の篭った目。

 

 けど、気づいているか、葉山。

 

 全員救うという目的は一緒でも、道を選ばなくなったら、それはもう別物なんだよ。

 

 形だけ同じでも、中身は空っぽだ。

 

 お前の抱いている目標は、もうハッピーエンドじゃない。

 

 今のまま突き進めば、待っているのは確実にバッドエンドだ。

 

 …………俺と同じ、な。

 

 俺と葉山は前を向く。それぞれ別の方向を向く。

 

 坊主の喚き散らす声をBGMに、俺達は戦場に向かう。

 

 変わった想い。変えた手段。変わってしまった在り方。

 

 それは妥協か。それとも正しい成長か。

 

 欺瞞か。それともついに手に入れた本物なのか。

 

 再びこの部屋に戻ってきたとき、俺は、また変わっているのだろうか。

 

 

 できれば、俺は――――

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

【いってくだちい】

 

 

【1:00:00】ピッ

 

 

 

 

 




 次回から、ついにミッションスタートです。


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三度、彼らは残酷な戦争を強いられる。

 今回も少し短めかな。
 自分で書いたものなんだけど、場面場面の文字数がバラバラで分け所が難しい。


 転送された場所は、どこかの寺院。

 

 ……住宅街でなかったのは初めてだ。

 破壊された器物は一般人にも見えるんだろ? ここまで大きな寺院が破壊されたら大騒ぎになるんじゃないのか?

 

 まぁいい。そこら辺は俺の領分じゃない。

 

 それよりも、あの人はどこに……

 

「八幡!」

 

 俺の背後から声が聞こえ振り向くと、そこには陽乃さんと――

 

「陽乃さん。…………なんかあったのか、お前ら?」

 

――やけに青い顔をした相模と折本がいた。いや、マジでどうしたんだよ。

 

「い、いやなんでも」

「だ、大丈夫大丈夫!」

 

 ……いや、ザ・空元気なんですが。

 ……まぁ、犯人は分かりましたよ。めっちゃ怯えた目で陽乃さんをチラチラ見てるもの。

 

 俺は陽乃さんに近づき、耳打ちする。

 

「……ちょっと。二人に何したんですか?」

「え~。ただの恋バナだよ☆」

 

 嘘だ!!!

 っていうか、貴重な経験者のメンタル始めっから削らないでくださいよ。……ただでさえ、この後の展開はヘビーなんですから。

 

 

 ……それにしても、なんていうか。

 あれだね。目に毒っていうか、俺の腐った目に映すには高尚過ぎるっていうか……

 

「八幡?」

 

 陽乃さんは覗き込むように俺に顔を近づける。

 ほんのり頬が朱い。くっ……気づいてて、言わせたいんだなっ。

 

「あ、あの…………陽乃さん」

「な~に?」

 

 首傾げるなよ、可愛いなちくしょう!!

 さっきからSAN値削られ過ぎだよ!童貞のメンタル舐めんなよ!

 ……けれど期待にキラキラさせる陽乃さんの目を見ると、逃げられないと悟らざるを得ない。……覚悟を決めるか。

 

「すごい……似合ってるってか、綺麗、です」

「そう?ありがと♪」

 

 っていうかエロ――おっとダメだ、これ以上はダメだ!

 

 なんていうか、陽乃さんのガンツスーツ姿はヤバい。

 ピッタリと体のラインを出すこのスーツを陽乃さんほどのナイスバディが着ると、もの凄い妖艶な雰囲気を醸し出す。

 俺みたいな制服とは違って上から着れるような服じゃなかったし、それに着る時間もなかっただろう。相模も折本もスーツだけしか身に付けていないし。当然、陽乃さんも同様で、抜群のスタイルをこれでもかっていうほど強調している。

 色が黒で光沢があってってもうあれにしか見えないよ。Sで始まってMで終わる女王様のコスチュームに。確かに似合いそうだけど。

 ついついそういういかがわしい目線で見てしまうが、それとは別に、やっぱり綺麗だ。

 この人は黒が似合う。こんなコスプレみたいな衣装でも、陽乃さんは息を呑むほど美しかった。ってか――

 

「…………誰にも見せたくねぇ」

 

 他の男が陽乃さんで欲情してるかもって思うとそれだけで胸の中から暗い感情が湧きだす。

 俺自身もそういう感情を抱いてるってのに、勝手な話だな。

 …………ってか俺、今の声に出てた?

 ヤバいすげぇ恥ずかしい独占欲剥き出しじゃねぇか聞かれてないよねお願いだからそうだと言って300円あげるから

 

「………………ふぇ?」

 

 はいばっちり聞かれてました死にてぇ~~~~!!!!!!

 うわぁぁぁぁぁぁはずかしはずかしはずかし×1000000

 陽乃さんの顔見れない俺絶対顔真っ赤だよっていうか俺何口走ってんだよ何が「誰にも見せたくねぇ(キリッ)」(脳内補正あり)だよ!究極に似合わねぇよ!何様だよ!キャラじゃねぇよ!

 あ、顔真っ赤な陽乃さんはめちゃくちゃ可愛かったです本当にありがとうございました。

 

 ……相模と折本の目線が業務用冷蔵庫並みに冷たいのはスルーの方向で。

 

 

 

「――――うあああああアアアアアアアアア!!!!!!!」

 

 すると、俺の後ろから蹲り両手で頭を抱え断末魔のような叫び声をあげながら一人の男が転送されてきた。

 

 坊主だ。

 

 坊主はガタガタと震えていたが、恐る恐る目を開けると、こちらを――というより寺院の方に目を向ける。

 

「……羅鼎院(らていいん)じゃねーか」

 

 ん?ここは羅鼎院っていうのか?

 さすが坊さん、本業だな。詳しいじゃねぇか。少し見直し――

 

「なんだよ。生きてんじゃねぇかよ、俺」

 

 …………おい、坊主。本音でてんぞ、本音。

 

 横で折本が「……うわー」って言ってる。折本引かせるとかどんだけだお前。

 相模も陽乃さんも一様に軽蔑っていうのがピッタリの表情をしている。今まで散々向けられた感情だからよく分かる。うん。

 

 周りを見ると、あの坊主に縋りついていたリーマンが携帯に「ちっ。圏外かよ、クソが」とか言ってる。……さっきの必死に念仏唱えてたお前はどこ行った。

 

 ……なんかガンツのミッションって本当に人間性が出るよな。ミッションの度に大人ってやつに絶望し、働くもんかという決心を強固になる。俺は絶対にあんな大人にはならない。専業主夫最高!

 

 っていうか、あのリーマン以外にもどんどん帰宅組が増えてる。

 このままじゃ、頭破裂するぞ。

 

 そう思っていたら、寺院の門の前にアイツが立っていて、全員に向かって大声で呼びかけた。

 

「みんな!!これから星人と戦う!!このマップに表示されているエリアから外に出るな!!文字通り頭が吹き飛ぶぞ!!!」

 

 葉山の言葉に全員の歩みが止まるが、それでも引き返すやつがいない。

 

「……は!証拠はあんのかよ、証拠は!」

 

 ……確かに、言ってることは最もだが、この状況に陥ってもまだ信じないのか?

 普通に考えて、葉山が嘘を吐くメリットがないだろう。

 

 ……こんな考えに至るところが、俺がガンツに毒されている証拠か。

 

 普通の人間は日常が壊れるのを嫌う。訳分からない状況から、一刻も早く日常に帰りたくなるもんだ。それを阻害する要素を否定したくなるもんだ。

 

 この状況に抵抗を覚えない。

 つまり、この状況が日常になってきてるってことか。

 

 末期だな。

 

 

 葉山の方を見ると、葉山はぐっと踏込み、文句を唱えたボンバーさんの元まで跳んだ。

 

 10m以上の飛距離と4、5mの高さを助走無しでジャンプし、ダンッと目の前に降り立った葉山に、ボンバーさんは見て分かるくらい狼狽える。

 

 そして葉山は、無表情でボンバーさんを片手で持ち上げた。

 

「ちょ!何すんだ、降ろせ!」

「見ろ」

 

 そう言って、葉山は何かをボンバーに見せる。

 コントローラー?――おそらくはマップ画面だな。

 

 そして葉山は、その状態でエリア“外”に向かって歩き出す。

 

「この四角内がエリアだ。この赤い点がプレイヤー――つまりこの移動している点が俺達だ」

「だから何だってんだ!!いいから降ろ――」

 

ピンポロパンポン ピンポロパンポン

 

「……ん?何だ?この音楽?」

「聞こえたか?これは警告音だ。エリア外に近づくにつれて大きくなる。――そして、エリア外に出るとそのまま頭が破裂する。俺達の頭の中には爆弾が埋め込まれているんだ」

 

 葉山はボンバーさんの目を見据えるように話しているが、ボリュームは帰宅組全員に聞こえるような音量で話している。

 

 ボンバーさんは笑い飛ばそうとするが、自分を持ち上げる葉山の表情を見て、その笑いが引きつっている。

 やがてボンバーさんの表情が恐怖に染まってきた頃、葉山はボンバーさんを降ろす。ボンバーさんは「ひぃ!」悲鳴を上げながら逃げるように葉山から遠ざかる。

 ちゃんとエリア内に。

 

 帰宅組は何も言わず、誰も動かず葉山を見ている。

 

 葉山はそんな視線に動じず、冷たく。

 

「試してみるか?」

 

 と言い放った。

 そして一人、また一人とエリア内に戻ってくる。

 

 リーマンと坊主は最後まで立ち止まっていたが、やがて葉山が彼らに向かって足を踏み出すと、リーマンは慌てて戻ってきた。

 坊主は葉山を睨みつけていたが、大きく舌打ちをし、寺院に戻ってきた。

 

 

「……葉山君、どうしちゃったんだろう?」

「なんか、前までとキャラ違くない?」

 

 相模と折本が少し怯えながら言う。

 

 キャラが違う……か。それは少し正しくない。

 

「逆だろ」

「え?」

 

 俺の言葉に、相模が驚いたような顔を向ける。

 

「別に性格が変わったわけじゃない。あれも葉山だ。……おそらく葉山は、切羽詰まっているんだ。全員を助ける、誰も死なせない。そういった目標(げんそう)に縋っているんだ。ずっと抱き続けているそれを実現させることに邁進することで、精一杯今まで通りであろうとしてるんだよ。その形を取り繕うことに、必死なんだ。……それが葉山の今の心の支えなんだろう。そうしないと、立ってられないんだよ。……きっとな」

 

 俺が今まで、奉仕部というあの場所の形を、必死で取り繕っていたように。

 

 あの場所に、あの時間に、縋っていたように。

 

「相模」

「……なに?」

「葉山の傍に、居てやれ」

 

 俺は、相模の顔を真正面から見据えて、そう言った。

 

 

 あのままじゃ、葉山は壊れる。

 

 あんなやり方だと、みんなは救えても、葉山は救えない。

 

 いずれ気づくだろう。形が似ているだけの偽物だと。望んだものとは違う空っぽだと。

 

 その時、葉山の心は確実に折れる。――その際には、折れた葉山の心を支える、支えが必要だ。

 

 それが出来るのは、三浦でも、一色でもなく、今までこのガンツミッションにおいて、ずっと葉山に寄り添ってきた――――

 

 

 相模はじっと俺の目を見ていたが、やがて、

 

「わかった」

 

 と言って頷き、葉山の方へ駆け出す。

 

 あの葉山隼人を救う。

 それはおそらく困難を極める。

 

 あいつは何かを抱えてる。それはきっと、深く、暗く、黒い何か。

 

 ……だが、俺にはそれが分からない。

 どれくらい深いのか、どれくらい暗いのか、どれくらい黒いのか。

 

 きっと、分かる日は来ないだろう。あいつが俺のことを何も分からないのと同じように。

 

 ……相模は、あいつのことを理解できるのだろうか。

 

 

 ……俺は――

 

 

 ……ん? なぜか、相模が途中でこちらに振り向いた。そして、

 

「比企谷。……ありがとね」

 

 ……そう言って、今度こそ葉山のところに向かった。

 

 相模があんな風に俺に笑いかけるとは……あいつもあんな風に笑えばトップカーストに負けないくらいモテるんだろうな。

 なんか背後の殺気が凄いけどきっと気のせいですハイ。

 

 

「相模さん、大丈夫かな」

 

 そして、そんな殺気に気づかず、折本が俺に話しかけてきた。すげぇな、お前。昔からそういうとこあるよな。

 

「……人の心配してる場合か」

「え? どういうこと?」

「達海だよ。あいつもおかしいだろ」

 

 そう言うと、折本は大きく目を見開く。

 そして、すこし顔を俯かせて、呟くように答えた。

 

「……比企谷も、やっぱりそう思う?」

 

 ってことは、やっぱ折本も気づいてたか。まぁ、同じ学校だし、こいつ達海に付き纏ってるらしいしな。

 

「……あいつも、葉山とは別の意味で暴走してるだろう。危うさでいったら同じくらいだ」

「……どうしたら、いいかな?」

 

 そう言って折本が俺を潤んだ目で見つめる。

 ……こいつ、俺のことウザがってたんじゃねぇのかよ。前のミッションの時、あんな敵意が篭った目で睨んできたくせに。

 

 ……良くも悪くも素直なんだよな、折本は。

 下に見ている奴にはそういう振る舞いをするし、上に見ている奴にはそういう振る舞いをする。

 

 唯一いいところは、その評価を固執しないってとこか。

 上に見てたやつも情けない所を見たら見下すし、その逆に下に見ていたやつでもいいところを見つけたら見直す。

 

 よく分からないが、折本の中で俺は相談するに値する相手くらいには評価が上がったらしい。

 

 だとしたら、自分のことは自分でやれ、とは言えないな。

 

 だけど、ここで折本が言って欲しい言葉を探って贈るといった女子的相談のお約束を守るほど、俺はいい人間じゃない。

 厳しいようだが、俺の中で正しいと思う答えを言わせてもらう。

 

「……おそらく達海は、このスーツによるパワーアップに酔ってる。男ってやつは、一度は超人的なパワーのヒーローに憧れるもんだ。……だから、達海は今回積極的に戦闘に参加するだろう。しかし、このスーツの力だけで生き残れるほど、ガンツのミッションは甘くない。過信はこのゲームにおいて、命取りになる。――故に、達海にも傍で暴走を止める支えが必要だ。

 ……だが、そんな達海を支えるってことは、同じように危険な戦いに巻き込まれるってことだ。――折本、お前にそんな覚悟があるか?別に無理してアイツに付きあうことはない。あいつは強いしな。案外大丈夫かもしれん。……お前の自由だ。誰も責めやしない。強制なんかしない――お前は、どうしたい?」

 

 折本は、しばらくじっと考えていたが、やがて顔を上げて。

 

「うん。やるよ」

 

 と笑顔で言った。

 

「別にどこにいたって死ぬ可能性があるのは一緒だもんね。だったら、私は好きな人の傍で戦うよ」

「そっか……」

 

 ホント、良くも悪くも心に素直な奴だ。

 

 折本も達海の方に駆け出そうとし、相模と同じように途中で振り向いた。

 

「ありがと、比企谷!比企谷っていい奴だったんだね。ウケる」

「いや、ウケねーから」

 

 そして、輝く笑顔でこう言った。

 

「比企谷と付き合うのはやっぱり無理だけど、友達としてはちょっとアリかも♪」

 

 折本は達海の元へと走っていった。

 ……なんで俺、告白してもいないのにフラれてんの?『……友達でいいかな?』って苦笑いで言われた告白数知れず。あの後友達どころか一言も喋った記憶ないなー。はは。

 

 …………さて。そろそろ背後の殺気がえらいことになってきた。

 まだ星人に出くわしてもいないのに、早くも本能のアラートが全力でエマージェンシーを知らせている。

 

 俺はゆっくりと振り返ると、ニコニコとした笑顔の陽乃さんが文字通り仁王立ちしていた。すぐ傍にある仏像よりも怖い。

 

「えっと……陽乃さん?」

「ずいぶん楽しそうだったね、八幡」

「いや、別に……」

「ついさっきキスをした女の子の前で、別の女の子の好感度上げるの、楽しい?」

「そ、そんなつもりは……」

 

 怖い。超怖い。ねぎ星人とか田中星人とか足元にも及ばないレベル。

 なんか背後のオーラが具現化しそうな勢い。幽波紋(スタンド)とか出さないよね。オラオラオラとか始めないよね。…………ちょっと似合うな、陽乃さんに。自分の手を汚さずに相手をボコボコにするとことか特に。まぁ、幽波紋(スタンド)のダメージは本人に返ってくるから、手を汚していないわけではないんだろうけど。

 

 陽乃さんはふうと息を吐くと、「まったくしょうがないなぁ」と言いながら髪を掻き上げる。一挙手一動足が絵になるなぁ、この人は。

 

「それで。どうするの?この後?」

「とりあえず、俺達も葉山に合流しましょう。俺達は今回の敵がどういう星人かも知りませんから」

「……ああ。あつ~いキスを交わしてたもんね」

「…………顔を赤くするくらいなら言わないでください」

 

 まったく、この人は……。

 俺が少し歩くスピードを早めて先導しようとすると、陽乃さんが背中から優しく抱き着いてきた。

 

 ガンツスーツは体のラインにピッタリと張り付くような素材なので、さっきの私服よりもさらにはっきりと陽乃さんのダイナマイトボディの感触が感じられて、陽乃さんの甘い匂いと共に俺の脳髄を刺激し、顔に急速に熱が集まるのを感じる。

 

「ちょ、陽乃さん!!何して――」

 

「――わたしも。八幡の支えになるよ。ずっと、傍にいるから」

 

 耳元で囁くように呟やかれた優しい言葉に、ドキドキとした性的興奮は薄れ、代わりに温かい何かが胸の中に流れ込む。

 

 俺は肩から回された陽乃さんの華奢な細腕に手を添えて、一言だけ呟いた。

 

「…………ありがとう、ございます」

 

 

 ……俺はずっと、こんな言葉をかけてもらいたかったのかもしれない。

 

 単純だけど、なんか、救われた気がした。

 




 ってかバトルまで行ってねぇじゃん……

 すいません。次回はちゃんとバトると思います。


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彼らは、巨躯なる門番に挑む。

これが、作者精一杯の星人バトルです。違和感を覚えたら申し訳ない……。


「さっき坊主さんが言ってた羅鼎院って、確か東京の寺院だよ。文京区だったかな?」

「マジですか……千葉じゃないんですね」

 

 陽乃さんは俺の隣を歩きながら思い出したように言った。

 俺の知り合い率が高いからてっきり千葉限定で行われてるのかと思ったが、意外に場所を選んでないんだな。

 言葉に方言持ちがいないから、首都圏の人間だけとかか? ヤダ、それってもう半分近く千葉民が選ばれてるってことは千葉≒首都じゃない? 違うか? 違うな。

 

 そういえば、今までのミッションの場所はどこにでもありそうな住宅街だったから気にも留めなかったが、もしかしたら中には県外もあったのかもな。考えてみればエリアに選ばれた場所なんか、ガンツに繋がる可能性のある貴重な情報だ。突き詰めれば、エリアに選ばれやすい場所――つまり、星人が生息しやすい場所の特定も出来るかもしれない。くそっ、迂闊だった。

 

 

 

 俺と陽乃さんが葉山達の所に行くと、そこには相模の他に達海と折本、そしてインテリがいた。

 

「なぁ、葉山」

「なんだ?」

 

 俺は葉山に問いかけると、葉山はこちらを向かずに、どこか一点を見上げている。

 俺はそれを訝しんだが、指摘せずに質問をぶつける。

 

「俺達は今回のターゲットの画像を見てないんだが、どんな奴なんだ?」

 

 俺がそう言うと葉山は言葉で答えず、見上げていた一点を指さした。

 

 そこにあるのは、大きな門を守るようにそびえ立つ、10m近い大きさの仁王像のような仏像。

 

 ……おい、まさか――

 

「これだ。それと右側の像の画像もあった。この二体が、今回のターゲットらしい」

 

――絶句する俺に構わず、俺の嫌な想像通りの言葉を葉山は言った。

 

 ……おいおい、マジかよ。

 もうガンツのやることに驚くことはないって思ってたが、まさか仏像がターゲットとは……。

 

 こんなデカい奴が暴れたら手がつけらんねぇぞ。いきなりボスなのか?

 

「ねぇ、これが君たちの言う星人なのかい?」

 

 インテリが俺達の問いかける。

 

「い、いやでも……今までこんなに大きい奴いなかったし……」

 

 折本がそうあってくれと言わんばかりに涙目で言う。

 

 ……でも、ガンツのミッションで俺達の希望が通った試しなんかない。

 

「いや、これで間違いない」

 

 俺の言葉に、その場にいる全員の注目が俺に集まった。

 

 みんなに見えるようにマップを見せつける。

 

 そこには、七つの赤い点のすぐそばに、二つの青い点。

 

 この馬鹿でかい仏像が、紛れもなくターゲットであることを示していた。

 

「……青い点が、ターゲットってことかい?」

「ええ。この青い点を全部倒さないといけません」

「倒せなかったら?」

「まだそんな事態に陥ったことはないから明確なことは言えませんが……分かるでしょ」

「………………」

 

 案の定、インテリさんは察しがついたようで、それ以上質問を重ねてはこなかった。

 

 そう。ただでさえこんな不親切設定ばかりのゲームなんだ。

 100円入れたらコンティニューできるようになってるなんてことはないだろう。

 

「どうする、葉山?」

 

 さっきマップを使ってたコイツは、この仏像がターゲットって確信があったはずだ。

 だからさっきの俺の質問にも、迷わずこの仏像を指さして答えたんだ。

 

 それに、俺はエリア全体を拡大したから、コイツがほんの序の口だということも知った。

 

 思わず震える。陽乃さんに不安を与えないように必死にポーカーフェイスを気取っているが、今にも泣きそうだ。

 

 

 ……なんだ。この星人の数は。

 

 

 この寺ん中は、まさしく化け物の巣窟だ。

 田中星人も多かったが、今回はそれ以上。だから、これだけの人数をガンツは集めたのか?

 

 ……だが、やるしかない。

 俺が死んでも、陽乃さんは必ず帰す。

 

 その為には、ターゲットを一掃する必要がある。

 

 この数だ。間違いなく鍵は時間だ。

 グズグズしている暇はない。

 

 葉山はしばし考えた後、俺の方を向いて、言った。

 

「俺は、とりあえずこの扉を開けるべきだと思う。コイツと戦うにしても、ココはあまりにもエリア外に近い。この巨体と戦うには、絶対に不利だ」

 

 ……俺は驚いた。葉山がここまで具体的な作戦を思いつくなんて。

 筋は通っている。いい作戦だ。

 それに敵はむしろこの中に多いんだ。なら、なんか知らんがコイツが動かない内に開けるのがいいだろう。

 

「それで行こう」

 

 俺は頷き、陽乃さんを見る。彼女も頷いてくれた。

 葉山も全員の了解を得たようで、扉に向かう。

 

 巨大な木製の扉は案の定、(かんぬき)による鍵がかけられていた。

 特別な道具で開閉しているのか、人の背では届かない位置にある。

 

 ……仕方ない。

 

「「これ(Xガン)で壊そう」」

 

 俺と達海が被った。

 達海がこっちを見て照れくさそうに笑う。やめろ。海老名シャワーが噴くだろうが。

 

 相模は大丈夫なの?って顔で見てくるが、構うことなくXガンを構える。

 

 あ、そうだ。

 

「陽乃さん。これ陽乃さんの銃です」

「あ、ホント?ありがとう♪ねぇねぇ、どうやって撃つの?」

 

 俺は陽乃さんに銃の使い方を簡単にレクチャーする。

 さすが陽乃さんというべきか、一発で覚えたようだ。

 

「じゃあ、とりあえず俺とあの扉撃ってみますか?」

「やるやる!」

 

 一緒に射撃とかハワイで親父に教わったんだとか言いたくなるな。

 っていうかあのお父さんハワイで息子に何教えてんだよ。危な過ぎでしょ。

 

 そして、俺と陽乃さん、それと達海で(←空気嫁)閂のある場所を目掛けて数発発射する。

 

 そして少しの静けさの後、扉が吹き飛んだ。

 

「! ……凄いね。でもホントにタイムラグがあるんだ」

「ええ。実際の戦闘ではこれも視野に入れないと――」

「大丈夫。間隔は把握したから」

 

 何この人ハイスペック過ぎでしょ。逆に俺が守られちゃうんじゃないの?

 

 そして扉が破壊される轟音で、帰るに帰れなくなった他の連中がわらわらと集まってきた。

 

 彼らに向かって葉山は大きな声で言い放つ。

 その姿は、まさしくリーダーだった。……目が凍ってなければ満点なんだがな。

 

「聞いてくれ!俺達は今から、戦争をしに行く!全員が生き残る為に!誰一人死なせない!スーツは俺達の体を超人にしてくれるし、この銃は2つのトリガーを引くと少しのタイムラグの後、これだけの破壊力を発揮する!」

 

 そう言って葉山は扉を後ろ手に指さす。

 ミリタリーオタクがニヤリと醜悪に笑った。うわぁ、嬉しそう。好きそうだもんな、こういうの。

 

「だが、それでも今まで何人も死んだ!もう誰も死なせたくない!制限時間は一時か『ギュイーン!!』――な!!」

 

 何!?

 

 葉山の演説中に突然銃の発射音が響いた。

 全員の目が、音の発信源に向かう。

 

「フヒ」

 

 ミリタリーオタクが左側の仏像に向かって銃を向けていた。

 

 コイツッ……!!俺達の話を盗み聞きしてやがったな!!

 

「そろそろかな。そろそろかな」

 

 ミリタリーが狂気の篭った目で仏像を見ている。

 ヤバい。このままだと――

 

「お前ら!!全員で扉を開けろ!!中に逃げろ!!」

 

 俺は一気に駆け出し、扉を押す。

 少し遅れて陽乃さん。そして、葉山、達海らスーツ組が続く。

 いそげ……いそげッ!

 

 バンッ! という音とともに仏像の左腕が消し飛び――

 

「ぬぁぁぁああああ!!!」

 

 仏像が唸りを上げて、俺達に襲い掛かってきた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「はははははは!凄い!ホントに吹き飛んだよ!本物だよコレ!」

 

 案の定、真っ先にターゲットになったはミリタリーだった。

 

 狂ったように歓喜するミリタリーを、仏像は大きく足を振り上げ踏み潰そうとする。

 

「――! クッ!」

 

 すると葉山が扉を押していた集団から抜け出し、ミリタリーに向かって駆け出す。

 

「ははh…………ぁぁ……あああああああああ!!!」

 

 すると、迫りくる恐怖によりこれがTVゲームでないことをようやく察したのか、ミリタリーは腰を抜かし涙や鼻水を流して泣き叫ぶ。

 

 ズドン!!という地響きがするほどの踏みつけ。だが、その足の下にはミリタリーはおらず、葉山が間一髪で助け出していた。

 

 扉の方はこれだけスーツ組がいながら少しずつしか開かない。クソッ!一体何キロあんだよ!!

 

 すると、恐れていた事態。

 

 もう一体の方の仏像も、己を囲っていた柵を蹴り飛ばし、ついに動き出した。

 

 今まで傍観者だった他の奴らも、慌てて扉を開ける作業に加わる。

 

「早く!早くしろよ!!!」

「なんだよアレ!!」

「も、もう少し……!」

 

 そして扉は完全に開き、雪崩れ込むように一斉に寺院に飛び込む。

 

 だが、間髪入れずに左側の仏像がこちらに狙いをつけ、襲い掛かってきた。

 

「!! みんな!!急いで走れ!追ってくるぞ!!」

 

 俺の指示に、皆少しでも遠くへと寺院の奥へと進んでいく。

 俺も続こうとしたが、俺の視界の先――仏像の後ろ――で一人の人影を見た。

 

「ひ……ひぃ……うわぁぁぁぁぁあああああ!!!!」

 

 リーマンだった。扉組に参加していなかったのか――それとも動き出した仏像を見て、足が竦んで動けなかったのか――アイツは左側にいた仏像よりもさらに外側にいた。

 

 そして、何を血迷ったのか。

 大声で叫びながらエリア“外”に向かって逃げ出した。

 

「!! 馬鹿野郎!!」

 

 俺は気がついたら仏像に向かって駆け出していた。

 

 すると仏像は俺に気づいたのか、両手で一つの拳を握り、スマブラのDKのようにそのまま力任せに振り下ろす。

 

「八幡!!」

 

 陽乃さんの悲鳴。

 だが、俺の経験値をナメないで欲しい。

 俺は攻撃の瞬間に飛び込み前転の要領で仏像の股下を潜り、そのまま寺院の外に躍り出た。

 

「俺は大丈夫です!!陽乃さんは少しでも遠くに逃げてください!!」

 

 俺は大声でそう叫ぶと、左方向に目線を走らせる。

 リーマンはもたつきながらもエリア外に向かって泣きながら逃走している。

 

 葉山の話を聞いてなかったのか!?

 それとも恐怖で頭から吹き飛んだのか!?

 

――――敵は一体じゃないんだぞ!!

 

 案の定、もう一体の仏像のターゲットはミリタリーからリーマンに移っていた。

 葉山は攻撃を避けるとそのままミリタリーを担ぎ、視界から消えていたのだ。巨体故に、自身の背後などが死角になる。今の葉山はそれくらいの判断力はある。

 

 葉山は銃を仏像に向け、タゲを再び自分に向けようとするが――

 

「――葉山!!お前は中の人達を頼む!アイツは俺がなんとかする!!」

 

 俺と葉山が抜けると、あの中にまともな戦闘経験者は達海しかいない。

 だが、今のアイツに全体を指揮するなんて不可能だ。

 

 だから、葉山には一刻も早くあっちに向かってもらわなければならない。

 

 葉山は一瞬考えたが、すぐに銃を下した。

 

「分かった。任せたぞ!」

「そっちもな!!」

 

 俺はリーマンを追う仏像の背中を追いかけた。

 

 

 

「ぁぁぁぁ。なんだよ、これ!?なんなんだよ!!変な音が鳴ってるし。仏像は追いかけてくるし。もういやだ……。訳が分からない……」

 

 全面的に同意。

 

 リーマンはぶつぶつ呟きながら、ふらふらと歩く。

 そのおかげかなんとか追いつきそうだが、俺が追いつけるってことはあの仏像も追いつけるってことだ。

 

 ……くそ。何やってんだ俺は。命懸けで守るのは、自分の命と自分よりも大事な命だけって決めたはずだろ。

 

 でも気がついたら体が動いてた。

 あの日、由比ヶ浜のサブレを助けた時と同じように。

 

 ……ここまで来たら、もう引き返す方が面倒だ。

 やることは一つだ。さっさとやって済ませよう。そして、陽乃さんの元へ。

 

 俺はリーマンをかばうようにリーマンの前に立ち、仏像との間に割り込む。そして真正面から向き合う。

 よし。何とか間に合った。

 

「へ?君――うわっ!」

 

 俺はリーマンを葉山がボンバーさんにしていたように担ぎ上げる。

 いちいち口で説得するのも面倒だ。

 それにコイツに死なれると葉山がどう暴走するか分からない。

 

 なんかごちゃごちゃ言ってるが、完全にシャットアウト。

 

 仏像の動きに全神経を集中する。

 

 アイツは距離がある程度近づくと、一歩一歩踏みしめるように歩く。

 

 アイツが一歩ずつ足を踏み出す度に地面が大きく揺れる。

 まるでゴジラだ。そうじゃなくてもウルトラマンの怪獣くらいは威圧感があるな。

 

 肩のリーマンがもはや人語を発していない。うっせぇ。くそ、ポイ捨てしてやろうかな。

 

 リーマンを左肩に背負っているので使えるのは右手――Xガンのみ。

 

 だが、動きは前回の田中星人より遅いし、的もデカい。この巨体に威圧されずに平常心を保てばいけるはずだ。

 

 俺達を踏みつぶそうと足を上げた瞬間、軸足を狙う。さっきの踏みつけの時、足を上げきった後一瞬の溜めがあった。タイムラグを考えても振り下ろす前に間に合うはず。万が一に備えて撃った瞬間に足が上がって空いたスペースを駆け抜ければいける。

 

 そうだ。出来る。俺なら、出来る。

 

 巨体が近づくにつれてどうしても本能的な恐怖が増し、心拍数も上がる。

 それを俺は過去の修羅場を乗り切ったことを根拠に己を鼓舞して必死に抑え込む。なんか肩のリーマンは息してなくて泡をぶくぶく吹いてきた気もするけど生きてさえいればまたいいことあるさ頑張れ社畜マン(棒読み)。

 

 ついに仏像は俺の目の前まで接近し、視界がほとんど仏像でいっぱいになる。

 先程から脳内に流れる着信音のようなメロディ。おそらくこれ以上下がったらいつエリア外と判定されてもおかしくない。これ以上は下がれない。

 

 前に逃げる。やってみせる。

 

 目の前の壁のような仏像の足が上がる。

 

 いm――

 

 

 俺が撃とうとした瞬間、開けた視界の一部に、漆黒のスーツの美女がこちらに銃を向けているのが見えた。

 

 

 俺はそれに目を奪われ、痛恨にもXガンを発射するのを忘れてしまう。

 

 だが、俺達に仏像の巨足が振り下ろされることはなかった。

 

 仏像の軸足が、Yガンの捕獲ネットによって文字通り足を掬われ、仏像の巨体が柔道の足技を喰らったかのように尻餅をつく体勢で転倒する。

 

 俺はそれに巻き込まれないように弧を描くような軌道で、その人の元へ向かう。

 

「陽乃さん」

「もう、お姉さんを置いていくなんて非道いじゃない」

「…………なんで?」

 

「言ったでしょ。傍にいて支えるって。独りになんかしないよ」

 

 陽乃さんはそう言ってYガンの先端を顎につけてウインクした。

 

 ……まったく、この人には敵わない。

 

 

 

「そ~れ~で~。お姉さんを置いて一人で突っ走っちゃたことに言い訳はあるかな~」

「ととととととりあえず、アイツなんとかしましょうアイツ!ほ、ほら!なんか立ち上がりましたよ!」

 

 俺は陽乃さんが再び幽波紋(スタンド)を発動する前に、全力で話題を変える。

 いや、マジで怖いんだって。雪ノ下もそうだけど、顔立ちが綺麗だからこそ笑ってない笑みが怖すぐる。怖いよ。あと怖い。

 背中で感じる殺気はすぐには消えなかったけれど、「はぁ」という溜め息の後は、キリッとした陽乃さんに戻った。なんか溜め息が深くなってる気がする。ヤバい、愛想尽かされるペースが早過ぎる。

 え?リーマン?なんか気絶してたけどさっき目が覚めてまた「ひぃぃ~~」とか言いながら走ってったよ。まぁ、エリア内はそれなりに広いし、中に向かって走ってったから途中で頭も冷めるだろう。あんな奴をずっとエスコートするほど俺も暇じゃない。

 

 っていうか、ぶっちゃっけ修羅場だ。

 今からあのデカブツと命懸けで戦うんだからな。

 

 でも、なんでだろうな。

 

「さて、やろうか八幡。一緒にアレを倒そう。二人初めての共同作業だよ♪」

「……そうですね。ちゃっちゃと終わらせましょうか」

 

 負ける気が、まるでしない。

 

 




 次回は、あの二人のイケメンタッグ。


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彼らはそれぞれの相棒と共に金剛力士像に挑む。

イケメンズの奮闘。


 

「ッ!? 馬鹿野郎!!」

 

 陽乃は、急に踵を返して仏像に向かって駆け出す八幡を見て、反射的に叫ぶ。

 仏像は両手で作った巨大な拳を、八幡に向かって叩きつけようとしていた。

 

「八幡!!」

 

 しかし、八幡は足を止めようとしない。

 

 ドカンッ!! と仏像は攻撃を振り下ろす。

 もの凄い衝撃と砂塵に思わず目を閉じてしまいそうになる。

 

 周りの人達も叫び声を上げながら吹き飛ばされる中、陽乃の脳に一瞬最悪の想像が過ぎった。

 

 陽乃はスーツの耐久性を八幡や葉山からレクチャーされた知識でしか知らない。強いて言うならあの部屋で葉山がボンバーやラッパー、白人からの攻撃にびくともしなかったくらいか。

 だが、あの攻撃がそんなものとは桁違いなのはどう見ても明らかだ。

 

 もしかして……嫌、そんなわけ……。

 

 陽乃の心にかつてない冷たさが走った。が――

 

「俺は大丈夫です! 陽乃さんは少しでも遠くに逃げてください!!」

 

 仏像の向こう側――おそらく寺院の外から彼の声が届く。

 

 それにより、無意識の内に強張っていた陽乃の体から余分な力が抜ける。

 

 そして、すぐさま思考を巡らせる。

 せっかく寺院の中に入れたのに、彼は一瞬でそれを放棄し、危険を冒してまで外に出た。

 

 彼がそんな非合理的な行動に出た理由は?

 

 葉山やミリタリーに加勢する為?いや、それなら扉を開けるのを他の連中に任せてすぐさま加勢するはずだ。一度中に入る必要はない。

 

 なら、これはアクシデント。不測の事態。

 

 陽乃は視線を巡らせる。やはり足りない。おそらく彼は誰かを助けに行ったんだ。

 

 その人は逃げ遅れたか?もしくはとんでもない方向に逃げてしまった?

 

 どっちにしろ、危険だ。敵は一体じゃない。おそらく彼はそれにすぐに気づいて、だからこそすぐに助けにいった。

 

 まったく、彼は変わらない。誰だって助けてしまう。

 自分が一番大事だとか悪ぶっているくせに、いざという時は我が身を省みるということを疎かにする。

 

(そんな彼を――一人にしておくわけにはいかないじゃない!)

 

 陽乃は一瞬で思考を終え、次の瞬間には駆け出していた。

 

 仏像はアクションが大きい攻撃の後で、体勢を立て直すのに手間取っていた。

 

 陽乃はそんな仏像に向かって真っすぐに駆け出す。

 

「ちょ、陽乃さん!!」

「危ないですよ!!」

 

 相模と折本が悲鳴を上げるが、陽乃は止まらない。

 一刻も早く、八幡の元へ!

 

 仏像が体勢を戻し、サッカーボールを蹴るかのように左足を大きく後ろに反らす。

 

 陽乃はそれを見てYガンを構える。

 

 そして、仏像が勢いよく足を振り抜く!

 

 陽乃はその足が通過する場所に的確にYガンを発射。捕獲ネットで簡易的なトラップを仕掛ける。

 ちょうど体重が前方に傾く箇所に的確に設置されたネットは仏像の蹴りを受け止め、バランスを崩した仏像の体が前に倒れ込んでくる。

 

 陽乃はそれを最小限の動きで躱し、ズズーンという音を背中で聞きながら、寺院の外に躍り出た。

 

 その時、門の右側から葉山が現れる。

 

「陽乃さん!」

「隼人、八幡は!?」

「あっちだ。男が仏像に狙われてて、それを助けようとしてる」

「分かった!」

 

 そして、陽乃は一目散に左に向かって走る。

 

 後ろから葉山が叫んでいるが、意に介さず進む。

 

 大事な存在を、失わないために。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 遠ざかっていく陽乃を葉山は複雑な表情で見つめたが、意識を切り換え、寺院の中へと踏み込む。

 

 陽乃の優秀さを、別格さを、葉山は雪乃と同じくらい知っている。身をもって知っている。

 常に目の前に立ちふさがる壁。どう頑張っても越えられない壁。

 それをずっと見せつけられてきたのは、決して雪乃だけではないのだ。

 葉山には、雪ノ下陽乃が敗北するなど、想像も出来ない。

 それに、あっちには自分よりも強い八幡がいる。おそらくは大丈夫だ。

 

 それよりも、中。

 八幡と陽乃というWジョーカーが抜けているこちらの方が、よほどピンチだ。数では圧倒的でも、こう言っては難だが、質が違う。

 

 葉山は寺院の中に入る。

 

 

 その瞬間、ビュオォ!!という風切音が轟いた。

 

 

 それの発信源は、葉山の前方。そこから更に前方に向かって突風が吹いている。発信源の後方にいる葉山にはその余波しかこないが、それでも目を開けていられない。

 

 

 やがて収まり、葉山が目を開けると――――そこは大惨事だった。

 

 

 葉山と八幡、陽乃とリーマン、ミリタリーを除く全メンバーが、みな蹲っている。

 

 先程の突風で石階段や石畳や砂利などに叩きつけられ、スーツ組は何とか外傷はないようだが、着ていないものは立ち上がれすらしないようだ。

 

 皆、目の前に迫る巨体の仏像の恐怖に呑まれている。

 経験者の相模や折本ですら、たった一撃で心を折られたようだった。

 

 こんな奴に、勝てるのか?

 

 そんな思いが表情から滲み出ている。

 折本と相模は何とか気丈に銃を向けているが、その手は震えていて、とてもじゃないが引き金など引けそうにない。

 

「なんだよ、これ!?誰か何とかしろよ!!」

「ふざけんな!!こんなん勝てるわけねぇだろ!!」

 

 ボンバーやラッパーが大声で喚く。それはここにいる全員の心の声を代弁したかのようだった。

 

 仏像が右拳を作り、後ろに引いて溜めを作る。

 

 それは、銃を向け続ける二人の少女に向けられた殺意だった。

 

 葉山はそれを察し、フリーズしていた体を瞬時に動かして、後ろから仏像に特攻を仕掛ける。

 葉山は不意打ちという利点がなくなるのも気づかず、己を鼓舞する為、大声で雄叫びを上げた。

 

 

「「うぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおオオオオオオオオオオオオ!!!!!」」

 

 

 轟いた雄叫びは二人分だった。

 

 相模や折本たちの後方から、助走をたっぷりとってトップスピードで石段から一人の男が飛び上がる。

 

 達海龍也。

 

 葉山隼人。

 

 二人の男が、10mの巨像に戦いを挑む。

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ダンッと着地し、達海は目の前の敵を睨みつける。

 そして、口元を歪める。獰猛に笑う。

 ついに来た。あの日からずっと待ちわびた瞬間に、歓喜する。

 

 そして、ふと仏像の向こう側にいる葉山に気づく。

 笑みを消し、目を細めて、闘志を露わにする。

 

「コイツは、俺の獲物だっ……!」

 

 

 葉山は走りながら銃を構える。

 Xガン。葉山は今までこの銃を撃てたことがない。

 撃とうとする度に、一度目のミッションの恐怖が蘇り、体が震えてしまう。

 

 葉山はその事を分かっていた。だからこそ、できることならYガンだけで乗り越えたいと、自身を客観的に捉えながらそんなことを考えていた。

 

 だが、この巨体を見た途端、それは諦めた。これを送るには時間がかかるし、何より転送の間、Yガンのネットで捕獲し続けられるとは思わなかったからだ。

 

 しかし案の定、葉山はXガンを構えた時に顕れた震えで、自身がトラウマを完全に克服できていないことに気づく。

 

 くっと舌打ちをすると、仏像を挟んで達海と目が合う。

 達海の目は闘志に溢れていて、鋭い目でこちらを睨んでいた。

 邪魔をするな、と。

 

 それを見て、葉山はXガンを仕舞い、Yガンへと持ち替えた。

 

 

 仏像が達海に地を這うかのようなローキックを仕掛ける。それも左足で左側にいる達海を狙う為に踵を滑らせるような形で。

 達海はそれをジャンプして躱すが、仏像は左足の勢いをそのまま右足に乗せ空中で身動きのとれない達海にミドルキックを放つ。

 

 達海が目を見開く。折本が小さな悲鳴を漏らす。

 

 その時、仏像の右足が葉山の放ったYガンの捕獲ネットにより軌道を逸らされた。

 

 しかし仏像も学んだのか、そのまま逆回転するように脚を引き戻し、転倒を避ける。

 

 達海は葉山を見る。そして、葉山はアイコンタクトで応える。

 

 それだけで、二人は意思を共有した。共にハイレベルなサッカープレイヤーだからだろうか。無言の意志疎通などお手の物だった。

 

 そして、先程の一撃により、葉山が仏像のターゲットとなった。

 

 葉山は距離をとり、仏像をおびき寄せる。

 仏像は再び大きく腕を引き、葉山を殴りかかろうとする。

 

 ギュイーン

 

 背後から、達海がXショットガンによりその腕に命中させた。

 

 構わず仏像は葉山に向かって拳を放つ。

 

 しかし、葉山はすでに回避体勢に入っており。

 

 右腕は葉山に届く前に吹き飛んだ。

 

 急に腕がなくなったことでバランスを崩したのか、再び仏像が転倒する。

 

 その隙に、葉山は達海と合流していた。

 

「よぉ」

「悪い、助かった」

 

 二人とも、最低限のやり取りだけを交わすと、再び仏像に目を戻す。

 

「葉山君!」

「達海君、大丈夫!?」

 

 折本と相模が二人に近づこうとするが。

 

「来るな」

「まだ終わってないよ」

 

 達海と葉山が仏像に目を向けたままで制止させる。

 

 動きを止めた二人は恐る恐る目を向ける。

 その先には――

 

――隻腕となりながらも、ゆっくりと立ち上がる仏像がいた。

 

 葉山は表情を引き締めながらYガンを装備する。

 達海は獰猛に笑いながらXショットガンを肩に乗せた。

 

「行くぞ」

「ああ」

 

 達海が一言告げ、葉山が一言で応える。

 

 二人はすでに臨戦態勢だった。

 

 仏像に向かって駆け出す。

 

 仏像が左腕を大きく振るう。

 

 

 突風が吹き荒れた。

 

 

 葉山も、達海も、相模も折本もインテリもボンバーもラッパーも白人も。

 

 みんな立っていられず吹き飛ばされ、石段や灯篭や階段の柱や手すりに体を強くぶつける。

 

「くっ…………!」

 

 葉山はなんとか階段の一段目を掴み、吹き飛ばされないように耐える。

 

 その前方の達海は必死に踏ん張り、飛ばされまいとしていたが、やがて足が地面から離れる。

 

「!! なめんなぁぁぁぁ~~~~!!!」

 

 スーツの駆動音。

 達海が右腕を膨れ上がらせ、そのまま地面に突きたてた。

 

 その結果、体は鯉のぼりのようにはためかせていたが、腕一本でその場に根性で留まり続けた。

 

 そして、突風が止んだ瞬間、腕を引き抜き仏像に特攻を仕掛ける。

 

「おおおおおおおお!!!!!」

 

 仏像は腰に下げていた棍棒を引き抜き、左腕一本で無造作に振るう。

 

 それは明確に達海を狙っていた。だが、達海はスピードを落とさない。

 

 そして、棍棒はそのまま――――駆けつけた葉山が体全体で受け止めた。

 

「ぐぅ…………!!!!」

 

 葉山と達海は再び一瞬のアイコンタクトを交わし、達海は仏像に突撃した。

 

 ギュイーン

 ギュイーン

 ギュイーン

 

 走りながらXショットガンを連射する。

 

「うぉぉおおおおお!!!!」

 

 そのままスライディングの要領で仏像の股下を潜る。その間も体中の至る所に連射する。

 

 ギュイーン

 ギュイーン

 ギュイーン

 

 そして背後に出て、すぐさま立ち上がり、頭部に一発撃ちこんだ。

 

 ギュイーン

 

 その一発が合図となり、仏像の左腰が吹き飛ぶ。

 

 そのまま体中が一部ずつ連鎖的に吹き飛び、最後に頭部を弾けさせ、仏像は絶命した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 仏像の灰色の体液が雨のように降り注ぐ中、達海は葉山の元に歩み寄り、達海は満面の笑顔で、葉山は複雑な苦笑で、パァンとサッカーの試合でゴールを決めた時のようにハイタッチを交わした。

 

 そして、それを見て沸き立つボンバーやラッパー達。

 

「うぉぉぉおおおおおお!!!!勝ったぁぁぁあああああ!!」

「すげぇよ、アンタら!!ヒーローだよ、ヒーロー!!」

 

 達海はその声に嬉しそうに「へへへ」と少年のように笑っている。

 葉山は複雑な表情で俯いていた。

 

 相模と折本は、そんな2人を見て八幡の言葉を思い出す。

 

 

――『葉山の傍に、居てやれ』

 

――『達海の暴走を止める支えが必要だ』

 

 

 相模と折本は歓声を浴びる葉山と達海に近づこうとする。

 

 

 その時、寺院の門が吹き飛んだ。

 

 

 ドガーーンッ!! という衝撃と共に、門の欠片が嵐のように吹き荒れる。

 

「きゃぁああああ!!!」

「なんなんだよ!!」

 

 怒号と悲鳴が錯綜する中、葉山は一つの最悪の結論にたどり着く。

 

(まさか……もう一体の仏像が乗り込んできたッ!?)

 

 今、寺院の外で戦っているはずの仏像。

 その戦いが終わり、この中に乗り込んできたのか?

 

 その可能性が一番濃厚だが、もしそうだとすると、あの二人が……。

 

 葉山はその考えに至り、恐怖する。もう誰も死なせないと決めたのに。

 葉山は自身を保っている頼りない支えが折れかけるのを感じる。もしこれが折れてしまったら、自分は――――俺は――――

 

 葉山はそれを自覚していた。だから手段を選ばなかった。

 それもこれも、もしあの二人が死んでしまったのだとしたら、全てが破綻する。

 

 それに、葉山も見た。ここに存在する夥しい数の青点(せいじん)を。

 あんな仏像は前哨戦に過ぎない。もしこんな序盤であの二人を失ったら……。

 

 葉山は祈るような思いで土煙が晴れる先を見つめる。

 門を吹き飛ばしたものの正体が明らかになる。

 

 それは、葉山が危惧した通り。

 

 

 もう一体の仏像――――――の、上半身だった。

 

 

「!?」

 

 葉山は絶句する。そこに転がっているのは、まさしく先程ミリタリーを助ける際に葉山自身にも肉迫した、10m近い体躯を誇っていたあの仏像に間違いない。

 

 だが、今は見るも無残な醜態を晒し、おそらくすでに絶命している。

 

 下半身はなくなり、胸の辺りで真っ二つにされていて、全長3mくらいの肉塊と化している。

 

 その奇妙さに、葉山だけでなく全員が気づいたようで、ざわざわとし始めた頃。

 

 

 門から――正確にはついさっきまで門だった場所から――漆黒のボディスーツを身に纏った美女が現れた。

 

 

 その女性は自分の背丈よりもはるかに長い剣を携え、颯爽と寺院の中に侵入する。

 

「いやぁ~、これ凄い威力だね。気に入ったよ。わたしこれで戦う」

 

 そういって彼女は自身の右側の、何もいない空間に向かって嬉しそうに話す。

 

 

 すると、突如その空間が歪み、バチバチバチという電子音と共に、学生服の目つきの悪い少年が現れる。

 

 

「…………いや、陽乃さんがいいならいいんですけど。よくその剣一回で使いこなしましたね。っていうか伸ばしてるし。俺もまだ伸ばしたことないのに……」

 

 陽乃は八幡の背中を叩き気にするなとニコニコしながら励ましている。

 八幡はそんな陽乃に恨みがましい目線を送りながらも陽乃の歩幅に合わせて隣を歩いている。

 

 

 転がる星人の死体に。

 

 見向きもせず。

 

 まるで、勝つことなど当然だと言わんばかりに。

 

 

 二人は一番近くに居る呆然とした葉山に声を掛ける。

 

「よお、葉山。お前たちも一体倒したみたいだな」

「…………やっぱり、あれは二人が?」

「陽乃さんが色々試したいって言って、結構時間かかっちまったけどな」

「八幡もこの後のことを考えると決して無駄じゃないからってOKしてくれたじゃない」

 

 葉山は絶句する。

 自分たちは無我夢中でこの仏像をなんとか退けたというのに、この二人は次に戦う星人との練習代わりと捉えていたのだ。

 実際に陽乃はガンツソードをものにし、八幡は透明化の有用性を確認している。

 

「あ、そうだ、陽乃さん。一応、アイツ送っといたほうがいいですよ。もしかしたら再生とかするかもですし」

「それなら八幡が送りなよ。送っても点数になるんでしょ」

「俺はもう23点持ってるんで。大丈夫っすよ」

「そう?分かった。じゃあ、遠慮なくもらうね」

 

 そう言って陽乃は流れるようにYガンを発射し、転送する。実際にとどめを刺したのも陽乃なので、点数は確実に陽乃のものだろう。

 

 

「さて。次はどうする?」

「そうですね……なんか五体が一か所に固まっていて、後はバラバラに九体。目の前のあのデカい建物にも一体いるみたいですね。……あと十五体か。どんだけいるんだよ」

「まぁ、着実に倒していこうよ。八幡はどれがボスだと思う?」

「そうですね……前回もボスは固まっている所にいました。だから個人的にはこの五体固まっている場所が怪しいですね。根拠は薄いですが」

 

 そう言って、二人だけで今後の方針を話し合っている。

 

 その様子を、他のメンバーは半分怯えるように眺めていた。

 

 達海や葉山の時とは違い、歓声は沸かない。誰も声を掛けない。

 

 

 もしかしたら、この場で誰よりも歪なのは、この二人なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 そんなメンバー達を、寺院の中にある幾つもの建物の屋根の上から、何体もの仏像が眺めていた。

 




 この戦いは、まだ始まったばかり。


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次なる絶望として、彼らの前に大仏が立ち塞がる。

 そろそろサブタイにネタ切れが……。


「はぁ……はぁ……」

 

 坊主は集団から離れて一人逃亡していた。

 

 鐘がある建造物の壁に背中を預け、ゆっくりと座り込む。

 

 巨大な仏像の突風によって吹き飛ばされ体中をしこたま強打した上、更に坊主故に裸足だった足の裏にいつの間にか深々とした裂傷を負ってしまった。

 

 それにより満足に走ることもできず、こうして身を隠すしか出来なかった。

 

「くそッ!……くそっ!」

 

 ズキズキと痛む足の痛みを堪える為に、踝を強く握る。

 医学的に根拠のない行動だが(出血を抑えるという効果があるのかもしれないが、こんなことでどうにかなるような怪我ではなかった)、本能的にやってしまう。案の定、まるで痛みは治まらなかった。

 

 なんでこんな目に。

 

 ガンツのミッションに巻き込まれた者が確実に抱くであろう理不尽に対する怒りが、坊主の胸の中に生まれる。

 

 結局、葉山の言った通りの事態に陥ってしまった。

 

 あの時、必死で否定し、耳を貸さなかったが故に、自分はこうして動けなくなってしまっている。

 

 あのスーツをアドバイス通りに着ていたら、今頃は……。

 

 そんな思いが坊主の頭を過ぎるが、それを必死で振り払う。

 それはもはや信仰心故ではなく、ただの意地であると理解しているが、それでもこの男はその事実を受け入れることが出来なかった。

 

 しかし、心はどんどん弱気になり、ついに坊主は己の人生を振り返り始めた。

 

 この職業に就いたころは、仏への信仰心で満ちていて。

 誠心誠意尽くせば、きっと何事も報われると信じていた。

 

 いつからだろうか。

 

 経を唱えるのが、ただの作業になったのは。

 

 いつからだろうか。

 

 日々の修行が、無感情にこなすルーチンワークになったのは。

 

 これは、信仰心を忘れた己への(ばち)なのか。

 

 あの部屋に転送された時、坊主の頭に過ぎったのはそれだった。

 

 必死で否定した。自分はまだ見捨てられたわけではない。

 ここで誠意を尽くせば、きっと俺は成仏できる。極楽浄土に往生することが出来る。

 

 必死で言い聞かせた。他人の声に耳を貸さず、見ず知らずの人間を巻き込んで。

 

 

『た、助けてくれ!!』

 

『じ、地獄とは、どういうところなんだ!教えてください!お願いします!』

 

『自信がないんだ!お、おれはきっと地獄に落ちる!だから、助けてくれ!お願いします!お願いします!』

 

 

 あの時のリーマンの醜態は、まるで鏡で自分を見ているかのようだった。

 

 そうだった。自信がなかった。

 

 坊主はとっくに気づいていた。だが認めるのが怖くて。

 

 

――自分が、極楽浄土に相応しい人間なんかじゃないって。

 

 

 坊主は、俯いた顔をゆっくりと上げる。

 

 

 そこには、2mほどの大きさの仏像がいた。

 

 

 坊主は感情の伴わない虚ろな目でそれを見つめる。

 さっきまでは、こんな所に仏像なんてなかった。

 職業柄、色々な仏像を見てきたが、残念ながら自力で歩く仏像には出会った経験はなかった。

 

 仏像は、ゆっくりと坊主に近づく。

 三叉鉾に似たさぞかし殺傷力のありそうな杖を持っている。

 苦渋に満ちた怒りのような表情は、そういう風に作られたのか、それともこの星人の感情を表しているのかは分からない。

 

 坊主は恐怖と痛みで震える両手を合わせ、ポツポツと紡ぎだす。

 

「南妙法蓮華経……南無阿弥陀仏……」

 

 経だった。

 坊主自身も最後の最期で自らが縋るのが経だとは思わなかったが、無心で経を唱え続けた。

 

 そこで、仏像の動きがピタリと止まる。

 

 坊主は自分のまさしく最後の悪足掻きが予想外の成果があったことに驚く。

 

(まさか……仏像だから、経に弱いのかッ!?)

 

 坊主は自分にとってあまりにも都合がいい理屈を捻り出し、希望を見出す。

 

「南妙法蓮華経……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏!!」

 

 一瞬復活した信仰心は霧散霧消に消え失せ、再び唱えたそれはただ死にたくないという強欲に満ちた汚い経だった。

 

 最後の最期でこの男が縋ったのは、純粋な信仰心ではなく、打算と欲望だった。

 

 それを感じ取ったのか。それとも一瞬動きを止めたのはただの偶然だったのか。

 

 目を瞑り、にやにやとした口元を隠しきれないまま、生き残る策として見せかけの信仰心を取り繕う坊主に。

 

 

 憤怒の表情の仏像は、自らの手に持つ断罪の鉾で、坊主の体を顔からまっすぐに串刺しにした。

 

 

 

 

 

 こうして、今回のミッションの最初の犠牲者が生まれた。

 

 全員生きて帰る。

 

 自身の心の支えとなっている目標が早くも崩れたことを、葉山はまだ知らない。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「おい……何だあれ?」

 

 俺は陽乃さんと今後の方針を話し合い、とりあえず余力のある内にボスっぽい奴がいそうなこの五体で固まっている離れに行こうか、と結論を出しかけた。

 

 が、その時。少し離れた場所にいる(っていうか俺達は集団から孤立している。近くにいるのは葉山くらいだが、コイツもなんか引いてる。……あ、なんだ、通常運転か)ボンバーさんが戸惑った声を上げた。

 

 俺達は階段を昇り、そちらに視線を向ける。

 

 

 そこには、血まみれの2mくらいの仏像がいた。

 

 …………血まみれ?

 

 

「きゃぁああ!!」

「うわ、何だ!?」

「こいつら、何なんだよ!?」

 

 すると、まず俺達の背後にいた相模が悲鳴を上げ、次にラッパーさん、そしてインテリが続いて悲鳴を上げる。

 

 俺はそれらに目を向ける前にマップを確認する。

 

「八幡、これって――」

「ええ」

 

 陽乃さんは俺に近づき、背中合わせのような態勢になる。

 

「囲まれましたね。迂闊でした」

 

 マップには、9個の赤い点を、9個の青い点が囲むように配置されているのを示していた。

 

 くそっ。9体がバラバラに配置されているのを確認した後、5体が固まっているのを拡大表示で見ていたから、気づかなかった。

 

「比企谷、どうする?」

「は! 決まってる」

 

 葉山の俺に対する問いに、なぜか達海が答える。Xショットガンをガシャンと鳴らしながら。

 

「全部倒す!!そんだけだ!!」

 

 カッコいいな。さすがイケメン。

 

 ……まぁ、そうだな。見た所、アイツらはさっきの奴らほどデカくない。全部大きくて2mくらい。ちょっとデカい人間サイズだ。

 デカくないから弱いってわけじゃないだろうが、少なくとも倒せない相手jy――

 

 

 メキ

 

 

 ……ん? 何の音だ?

 

 

 メキメキメキ

 

 

「おい……なんか変な音しないか?」

「はぁ!? 今それどころじゃねぇだろ、空気読めよ!!」

 

 葉山の言葉に、すでに臨戦態勢に入っている達海がうっとうしげにあしらう。

 いや、でも確かに――

 

 

 メキメキメキメキメキメキメキメキメキメキメキメキメキ

 

 

 すでに異音は無視できないレベルで鳴り響いている。

 仏像に囲まれたことで、恐怖していた連中も、また別の恐怖を誘うこの音に焦燥感を感じていた。

 

「八幡……」

 

 背中で感じる陽乃さんの体も少し震えている。

 

 俺も嫌な予感が止まらない。

 ……そう。中坊と乗り込んだ、あのアパート。二階の廊下で田中星人に囲まれ、正面のドアが開いたあの時のような――

 

 

 ドガーンッ!!! という轟音が響いた。

 

 俺達の目の前、この寺院で一番大きな建物から飛び出すように、巨大な何かが飛び出してきた。

 

 

「大……仏……?」

 

 

 誰かがポツリと呟く。

 確かにそれは、大仏のような見た目をしていた。

 

 そして、大仏の名にふさわしい巨体だった。

 

 先程、俺達が倒した巨大な仏像よりも、更にデカい。

 おそらくは15m以上はあるだろう。

 

 これだけのスケール。そして威圧感。もしや――

 

「これが……今回のボスか……?」

 

 周りを囲む、9体の仏像。

 そして目の前の巨大な大仏。

 更に、少し遠くの離れに控える5体のまだ見ぬ星人。

 

 もはや毎度恒例だが、今回も目の前が真っ暗になるくらい絶対絶命だった。

 

「八幡……」

「大丈夫です」

「!」

 

 俺は手探りで背後にいる陽乃さんの手を握る。

 

「あなたは絶対に帰してみせます」

 

 俺はギュッと力強く陽乃さんの手を握る力を強めて、目の前にそびえ立つ大仏を睨み据える。

 

「わたしも」

 

 すると、陽乃さんも俺の手をギュッと力強く握り返してくれた。

 

「わたしも、必ず、君を守る」

 

 思わず陽乃さんの方を振り向くと、陽乃さんは優しく微笑んでくれていた。

 

 この笑顔を守る為なら、何だって出来る。

 

 そんな恋愛脳なことを思わず考えちまうくらい、その笑顔は魅力的だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「相模さん、折本さん、陽乃さん!あと、スーツを着たアナタ!小さい仏像の方を何とか出来ないか!?倒さなくていい!出来る限り俺達から引き離してくれないか!?大仏は俺と達海と比企谷でなんとかする!!スーツを着ていない人間はとにかく逃げろ、早く!!」

 

 葉山が大声で指示を出す。っていうか俺ちゃっかり大仏討伐メンバーに勝手に入れられちゃったよ。まぁ、いいんですけどね。

 

 ……だが、他のメンバーはどうだろうか?確かに戦力分割としては理想的だ。陽乃さんがいれば相模と折本にも万が一はないだろうし、真っ先に排除すべき大仏に男三人をぶつけるのも正しい。

 

 だが、逃げるっていうのは簡単じゃない。

 

 相手は星人だ。スーツを着てなきゃ、背中を見せただけで殺されるんだぜ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 海王神ポセイドンが所持してしそうな三又の鉾を構える血まみれの仏像。

 

 それと相対するのは、ボンバーとラッパーの二人。

 この二人は一応スーツを着ている。(葉山に半ば脅されるような形で、だが)

 

 だが、それでも恐怖は消えない。仏像はゆっくりと鉾を水平に構え、刃を二人に向ける。

 

「ひ……」

 

 ボンバーは本能的に一歩後ずさる。反対にラッパーは一歩前に躍り出た。

 

「ちょ、アンタ――」

「喧嘩もしたことねぇような青瓢箪は下がってろ。コイツは俺がやる」

 

 そう言ってラッパーは首と拳を鳴らすことで戦闘準備完了をアピールする。

 

 巨大仏像の突風攻撃により、すでに特徴的だった帽子とサングラスは吹き飛びラッパー要素は皆無だったが、その短く切り上げた金髪とピアス、そしてぎらつく眼光は、確かに喧嘩慣れしていそうな風体であった。

 

 元々彼は今回のメンバーで白人の格闘家に次いで屈強な体格をしている。

 身長も180cm以上あるだろう。

 

 そんな彼は、2mを誇る目の前の仏像に迫力では負けていなかった。

 

 睨み合う両者。

 しびれを切らしたのか、先に動いたのは鉾の仏像だった。

 

「しかるはまくれしなば!!!」

 

 独自の言語を発しながら放った必殺の突きを、ラッパーは紙一重で躱した。

 いや、躱していなかった。ビリビリに引き裂かれた服が物語るように、完全に躱しきれず、腹部を切り裂かれたはずだった。

 

 だが、痛くない。血も一滴も出ていない。

 

 この時ラッパーは初めて、服の中に着こんだ黒いスーツの意味を理解した。

 

「は……はは!すげぇ!!こりゃあ、すげぇ!!こんなもん着てたら、もう何も怖くねぇ!!」

 

 ラッパーは笑う。楽しそうに笑う。

 

 そして、再び放たれた突きを、今度は完全に避け、更に仏像が鉾を引く前にそれを脇で挟むようにして動きを封じ――

 

「おらぁ!!」

 

――仏像の顔面にヘッドバッドをお見舞いした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「フフッ……ジーザス!!」

 

 その言葉とは裏腹に、彼の顔は歓喜で色づいていた。

 

 彼の目の前には、こちらも2mほどの獣のような頭部をした仏像。

 

 

 そいつは数百キロはあろうかという岩石のような灯篭を片手で担ぎ上げていた。

 

 

 仏像故に無表情だが、口を開いたシーサーのような相貌の目の前の敵は、まるで獲物を求めているかのようだと、白人の格闘家は思った。

 

 故に彼は、一切ひるまず、素早く距離を詰め、灯篭を持っていないがら空きの右側頭部に上段蹴りを放った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そいつは高速で移動していた。

 

 9体の仏像はそれぞれ違った特性を持っている。

 

 武器を使うもの。

 怪力を発揮するもの。

 

 そして、この個体の武器は、スピードだった。

 

 そいつは乱戦と化した戦場を縦横無尽に駆け回り、自らの獲物を探していた。

 

 そして、一人の男をロックオンする。

 その男は連れの金髪の男が鉾を使う仏像と戦っているのを少し離れて見ていた。

 見ているだけだった。

 

 ターゲットは決まった。

 

 そして、その男に向かって方向転換すべく、自慢のスピードを一瞬0にする。

 

 

 そこを狙われた。

 

 

 どこか離れた場所で、青色の閃光が光る。

 

 撃たれたことに気づかないそいつは、当初の目的通り男に向かって突進する。

 

「……え? !! う、うわぁぁぁぁああああああ!!!!!」

 

 ボンバーは合掌の状態で前傾姿勢で猛スピードでこちらに急接近する仏像に気づき、恐怖で絶叫する。

 まるで弾丸のようなそれに、ボンバーは腰を抜かしてへたり込むことしか出来なかったが――

 

 

――それはボンバーに激突する手前で木端微塵の破片へと変わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼は見事、復活を果たした。

 

 そのミリタリールックのコスチュームに相応しい2丁の大型銃(Xショットガン)をガシャコンッ!と同時に弾を装填するように操作し、目の前の敵を見定める。

 

 遅れてやってきたヒーローのごとく、乱戦の戦場にゆっくりと不敵な笑みを携えながら現れる。

 

 そして、そんな彼に一体の仏像が気づいた。

 

 こちらも2mほどの身長だが、大きく逆立った髪がまるでライオンのような雰囲気を演出している。

 こいつも地獄の使者のように恐ろしい形相の仏像だった。

 

 しかし、そんな迫力のある殺気をその身に受けても、ミリタリーは余裕の笑みを崩さなかった。

 

「戦争の時間だ」

 

 彼はキメ顔でそう言った。

 恐怖のリミッターが振り切れておかしくなってしまったのか、彼はまるで懲りていなかった。

 

 もう手遅れかもしれない。色々な意味で。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ………………………………。

 

 うん。なんだかんだで平気そうだ。(一人を除いて)

 ホント、今回の奴らは曲者揃いだ。なんていうか逞しいな。

 これは葉山のファインプレイだろう。ラッパーさんにスーツを着せたのは大きい。他のメンバーは黙っていても戦うような奴らみたいだしな。

 

 にしても、あのつなぎ。

 銃の遠距離射撃を試して、スナイパーの役に徹するとは。凄い発想だ。

 だが、これはもの凄く頼りになる。後で俺も試してみよう。安全圏にいられるし、動かなくていい。何それ素敵。ぼくはしょうらいすないぱーやさんになりたいです。

 

 

 とにかく。そうなると、葉山の作戦通りに動くのがベストか。

 

 俺は葉山の方に目を向けると、アイツは頷いた。

 

 そして、俺が葉山の方に行こうとすると――

 

「俺が()る」

 

――達海の獰猛な、野心に満ちた低い声が響く。

 

「達海君、何言って――」

「アイツは、俺の獲物だ!!」

 

 折本の制止の声も振り切り、単身で大仏に向かって駆け出す。

 

 ちっ! やはりこうなったか。

 

「比企谷!」

「分かってる!」

 

 俺と葉山が達海の後を追う。

 別に達海が一人で倒してくれるならそれに越したことはないが、それが出来ないから協力プレイなんてぼっちの苦手分野な作戦に乗ったんだ。

 達海は貴重な戦力だ。こんなとこで無駄に死なせてたまるか。

 

 

「八幡!」

「葉山君!」

 

 陽乃さんと相模の声が響く。

 

 そして、達海は大仏の足元に辿りついた。

 

「――――ッ!!」

 

 達海は絶句している。

 その気持ちは分かる。俺も段々近づくにつれて実感しているところだ。

 

 遠くから見るのとはまたわけが違う。

 

 デカい。圧倒的に。

 

 デカさもそうだが、放っている威圧感がハンパじゃない。さっきの仏像とはレベルが違う。

 やはり、コイツが――

 

「クソォ!」

 

 達海が恐怖をごまかすようにガシャァン!と乱雑にXショットガンの装填を行う。

 

 そして ギュイーン!ギュイーン! と大仏の足に向かって連射した。

 

 が。

 

 バンッ バンッ と小さな花火のように、足の甲の表面が弾けただけだった。

 

「ダメだ! 火力がまるで足りない!」

 

 俺は思わず呻く。Xショットガンであれなら、Xガンじゃあ歯も立たないだろう。

 

 だが、どうする!? Xショットガンは今の俺達の最強装備だ。

 それ以上の武器なんて――

 

「!!」

 

 達海がこっちに吹き飛んでくる!

 それを俺と葉山がキャッチするも、勢いを殺せず、そのまま階段下まで吹き飛んだ。

 

「がッ!」

「ぐはぁ!」

「ぐッ」

 

 俺、達海、葉山はそのまま石の地面に叩きつけられる。

 

「八幡!」

「達海君!」

「葉山君!」

 

 三人が駆け寄ってくる。

 にしても、こういう時陽乃さんが誰よりも早く俺の名前を呼んでくれるのがちょっと嬉しかったりする俺は自分でもちょっと気持ち悪いな。自重しよう。

 

「大丈夫、八幡?」

「ええ。大丈夫です」

 

 そういって俺は膝に手を着いて起き上がる。

 実際、まだスーツが全然機能しているから体は全然痛くない。

 

 だが、痛いのは頭だ。

 どうする?あの大仏にどうやって立ち向かう?

 

 今の攻撃は全然見えなかった。おそらくただ歩く為に足を前に出しただけなんだろう。それであの威力。

 加えて厄介なのがあの防御力だ。Xショットガンであの程度となると、方法は……一つしかない。が、出来れば取りたくない。

 

 俺は陽乃さんを一瞬見て、すぐに目を逸らす。

 

 Xショットガン以上の武器。それは現時点ではガンツソードしかない。

 そして、それを使いこなせるのも、今は陽乃さんだけ。

 あれだけの巨体だ。剣を伸ばす技術は必須。

 

 だが、俺は陽乃さんをアイツに――ボスに単身で近づけたくない。矢面に立たせたくない。

 

 ……ああ、分かってる!これは俺の傲慢な我儘だ!

 

 ガンツのミッションは戦争だ!試せる手段があるなら試すべきだ!使えるものは何だって利用すべきだ!1%でも可能性が高い作戦を実行すべきだ!

 

 そんなことは分かってるッ!!

 

 ……でも。怖い。万が一にでも、億が一にでも。

 陽乃さんが危険に晒されると考えるだけで。陽乃さんを失ってしまうと考えるだけで。

 

「…………ッ!」

 

 ……くそッ! 何かないのか、別の方法は! 既存の武器だけであの怪物を打倒する方法は!?

 

 このままじゃ、陽乃さんは自力でこの結論にたどり着いて、単身で突っ込んじまう。

 

 俺を置いて。あの時の中坊のように。

 

 また俺は、守ってもらうだけなのか……?

 

 っ!ふざけんな!もう二度と繰り返してたまるか!あんな思いは二度とゴメンだ!

 

 考えろ!考えろ!考えろ!

 

 

 

「ありゃあ~。これはまた凄いなぁ。門がボロボロじゃないの」

 

 

 

 その見知らぬ声に、俺達は一斉に振り向く。

 

「…………誰だ?」

 

 そこにいたのは、あの部屋にはいなかった、よれよれのスーツ姿の中年男だった。

 




 さっさとガンツソードでぶった切ればいいじゃん。……というツッコミはなしでお願いします……。
 ……我ながら無理矢理が過ぎるとは自覚はあります。ごめんなさい。

 八幡はずっとぼっちであったが故に、一度内に入れたものは、大事なものとして認知したものには、すごく依存するタイプだと思うんですよね。

 ただでさえ中坊と奉仕部を失って、そこに現れた陽乃に依存して、どうしようもなく怯えていると考えてください。

 それで納得していただければ……いや、やっぱり無理矢理だなぁ。


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招かれざる一般人が、唐突に無関係の戦場に侵入する。

pixivでの掲載時におかしくね? と指摘された部分を、出来る限りですが直してみました。少しでもマシになっていれば幸いです。


 なんだ……? 今まではこんなことはなかった。

 あいつはどう見ても一般人だ。俺たちも、そしてあの大仏も見えていない。見えていないから、あんな風に呑気に大仏の正面で突っ立っていられる。

 

 だが、建物の破壊といった副次的効果は見える。ボロボロに破壊された寺院を不審がって――あるいは、面白がって、か?――寺の中に入ってきたのだろう。

 

 …………どうする?

 そもそも、俺たちはこのオッサンに触れることが出来るのか?姿は見えていないから、触れないなんてことも――いや。

 俺たちはこうして現実の物質に触ることが出来る。これがもしSAO見たいな仮想空間だとしたら、こうして一般人の乱入が可能なのはおかしい。

 

 ここは現実で、星人たちも存在していて、ガンツの何らかの技術で姿を隠している――と考えるのが妥当だろう。ぞっとしないけどな。

 

 だから、触ることは出来るのだろう。そして、俺たちが触ることが出来るということは――

 

 

――星人も、このオッサンに触ることが出来るということだ。

 

 

「おい、なんだあのオッサン?」

「俺達が見えてねぇのか?」

 

 ボンバーやラッパーがざわめく。

 

「何で一般人が紛れ込んでんの?」

「……ねぇ、なんかヤバくない?」

「……八幡、どうする?」

 

 折本と相模も困惑し、陽乃さんは俺に問いかける。

 

「――ハッ。関係ねぇ」

 

 しかし、俺が答える前に再び達海が吐き捨てる。……なんか、さっきから俺のセリフが達海に持ってかれるな。これが主人公補正か。確かに少年漫画の主人公みたいなオーラがあるやつだが。

 

「今やるべきことは、速やかなあの大仏の排除だろうが!!」

「あ、達海くん!!」

 

 そう言って、達海は再び大仏に真っ向から向かっていく。折本の声になど耳を貸さない。

 

 ……確かに、それも一理ある。

 あの大仏の撃破は急務だ。このまま放置しておけば、全滅もありうる。

 

 それに、あのオッサンはいうならば招かざる客だ。あいつが死のうと、俺たちには何の不利益もない。

 むしろ、余計なことをして俺たちのことがバレたら、ガンツに何をされるか分からない。下手すれば、情報漏洩を防ぐためにその場で俺達の頭が吹き飛ぶかもしれない。

 

 だが、このまま放置していれば、あのオッサンはほぼ間違いなく死ぬ。

 

 俺たちの都合に、無関係の事情に、巻き込まれて。

 

 俺はあいつを見る。

 それによって、陽乃さんも、相模の目もあいつに向く。

 

 今日の、俺たちのリーダー――葉山隼人の元へと。

 

「………………」

 

 葉山は混乱している。額には滝のような汗を流し、顔色がみるみる青くなる。

 

 迷っている。どうすればいいのか迷っている。――迷ってしまっている。

 

 そして、何かを言おうとして、しかし口を閉じ、そして改めて口を開き、ついに言葉を発した。

 

 

「…………やめて、おこう。……達海の言う通り、今はあの大仏を倒す方が先決だ」

 

 

 それを聞いた瞬間、自分の中で何かが失くなるのを感じた。

 

 自分の葉山に対する視線が、凍りつくのを感じる。

 その俺の視線を受けて、葉山は気まずそうに視線を逸らした。

 

 別に、葉山の選択が間違っているとは思わない。

 筋は通っている。正しい選択だ。間違いなく合理的だ。

 

 だが、俺は葉山なら、きっと違う答えを言うと、言ってくれると思っていたのだ。

 ……期待、していたのかもしれない。

 

 葉山は、俺とは違うと。

 

 あいつは、本当のヒーローになると。きっと、なってくれると。

 

 勝手に期待して、勝手に幻想を押し付けた。自分だって出来もしない癖に。

 

 俺は、あの時と、何も変わっていない。結局、変わっていない。

 

 だから、俺は失望したんだ。

 

 どうしようもなく愚かに、同じ事を繰り返し続ける。

 

 比企谷八幡に、俺は再び失望した。

 

 

「!! きゃぁぁぁあああ!!!」

 

 相模の悲鳴が轟く。

 

 達海の奮闘むなしく、大仏はろくにダメージを受けず、その足を進め続けた。

 

 そして今、その巨大過ぎる一歩が、ついに俺たちの頭上を越え――

 

 

――何も知らない、何も分かっていない無関係の一般人へと、容赦なく振り下ろされようとしている。

 

 

 

「比企谷ぁ!!」

 

 葉山が大声を上げる。

 

 だが、俺は止まらない。止まれない。知るか。条件反射だ。体が勝手に動くんだよ。

 

 分かってる。これは欺瞞だ。俺の大嫌いな欺瞞だ。

 こんなことをしたって、誰も得をしない。ただの独りよがりの偽善だ。

 

 今はこんなことをしたって、次もそうするとは限らない。

 案外すんなり見捨てるのかもしれない。都合が悪かったら切り捨てるかもしれない。

 

 その場限りの、気まぐれな行動。それが偽物でなくて何と言うのか。

 

 だからこれは、ただの俺の自己満足だ。

 

 

 ズシンッ!!

 

 俺の体に、今まで感じたことのない信じられない重量が圧し掛かる。

 

 

 だが、何とか支えた。キュインキュインとスーツが悲鳴を上げているが――

 

――俺の目の前にいる名前も知らない見知らぬオッサンは、のんきにタバコを咥えて火をつけながら黄昏ている。傷一つ負わず、五体満足の姿で。

 

 

「八幡!!」

「比企谷!!」

 

 陽乃さんと相模がこちらに駆け寄ろうとする。

 だが――

 

「来るなぁ!!!」

 

 俺は叫ぶように怒鳴る。

 陽乃さんと相模はビクッと震え、足を止めた。

 

「…………なんで?」

 

 ……今の声は葉山か?正直、大仏の巨重を受け止めるのにいっぱいいっぱいで余裕がない。

 

 なんで、か。はは。そうだな。俺にも訳が分からない。

 あれほど、自分に言い聞かせていたはずなのにな。

 

 

 俺に出来ることはたかが知れてる。救える命なんて、限られている。

 

 だからこそ、それを俺は有効に使う。自分と、自分よりも大切な存在に使う。

 

 

「八幡!――ッ!」

 

 陽乃さんがガンツソードに手を伸ばしかけ、その手が止まる。

 ……今、大仏は俺を踏みつぶそうと体重が前傾にかかっている。コイツを斬ったら俺やこのオッサンも巨体に潰されてしまう、か。ごめんなさい、迷惑かけて。

 

 陽乃さんは無我夢中にXガンを乱射する。それに相模、折本が続く。

 

 

 ……ああ。俺は何をやってるんだ。陽乃さんにあんな顔をさせてまで、見知らぬオッサンのために命張ってるなんて、なんて悪い冗談だ。夢なら覚めて欲しい。

 

 俺は、こんな人間じゃない。こんなご都合主義なヒーローみたいな役割なんて似合わない。

 

 こういうのは――

 

「ッ!!……ぁぁあああ!!!」

 

「八幡!!」

「比企谷!!」

 

 ……くっ。少しでも気を抜いたら、今にも押し潰されそうだ。

 

 陽乃さんたちも必死に助けようとしてくれているが、それでも一撃の効果が小さすぎる。

 

 大仏は、ビクともしない。

 

 ただ一人、棒立ちの葉山を、俺は思わず睨みつける。

 

「……っ……!」

 

 ……葉山。お前、言ってたよな。全員、生きて返すって。誰も、死なせないって。

 

 それは、どうしてだ?

 いらない苦労をしてまで。本来背負わなくていい責任を背負ってまで、そんな大言壮語をかましたのは何でだ?

 

 自分の納得できない理不尽で、命が失われるのが嫌だったからじゃないのか?

 

 そんな不合理が、どうしても、許容出来なかったからじゃないのか?

 

 それが、葉山隼人の正義に、信念に、反したからじゃねぇのかよ。

 

 

 俺の睨みに、葉山は体を震わせるが、アイツは一向に動かない。

 

 

 ……これは、100%、俺の妄想だ。

 俺の中で勝手に作り上げた葉山隼人像による勝手なシミュレーションにより勝手に叩き出した、俺の中の葉山隼人という勝手な幻想だ。

 

 だから、もしかしたらまるで的外れなのかもしれない。

 かすりもしていなくて、何言ってんだコイツって思われるのかもしれない。

 

 だから、これは俺の傲慢な怒りだ。

 

 分かっていても、俺は今の葉山が許せない。

 

 

 今、ここで、この人が死ぬのを見逃したら、許容したら、それこそ本末転倒だろうが。

 この人は、ガンツとまるで無関係の、ただの一般人(ぶがいしゃ)だろう。

 

 ここで死んでいい道理なんか、俺たち以上に全くない人だろうが。

 

 なんで勝手に助ける人間をガンツメンバーだけに区切ってやがる。

 

 なんでそこで、手頃な偽物に置き換えてんだ。

 

 

 一度吠えたなら、最後まで貫け!妥協してんじゃねぇよ!

 

 本当に成し遂げたかったことを――守りたかったものを、履き違えるな、葉山!

 

 

 ビキッ

 スーツから嫌な音がした。……そろそろ限界か。だが、もう抜け出そうにも一歩も動けない。

 

 クソッ。何でこんなことしたのかなぁ。今になってすげぇ後悔してる。一時の感情に身を任せて身を滅ぼすとか、どこのマダオだよ。呑気にリング型の煙とか吐き出してるこのオッサンにイラっとしてる。てめ、早くどっか行けよ、このマダオ(マジでダメージヘアなオッサン)が。

 

 所詮、俺の正義感なんかこんなもんだ。時間にして数十秒で心変わりするくらいブレッブレだ。日本の国政並みに統一感がない。つまりこれは日本の国民性なわけで、俺が悪いわけじゃない。政治が悪い、政治が。

 

 グググっと重みが増す。俺の食いしばった歯の間から変な声が漏れる。死因が大仏に踏まれましたとか、笑い話にもならない。どんだけ罰当たりなことをしたんだ。

 

 

 ……こんなとこで、呆気なく死ぬのか。……せっかく、俺にもやりたいこととか、守りたいものとか、出来たのにな。

 

 口だけって言うなら俺こそ口だけだ。俺は結局、あの人の為に、死ぬことすら出来なかった。

 

 

「…………ごめんなさい。陽乃さん」

 

 

 

「いいよ。君がどうしようもない子って言うのは、もう分かってるからね」

 

 

 

「…………え?」

 

 急に、圧し掛かる重さが減った。

 俺は、横を見ると――

 

「は、るのさん…………」

「本当に君は…………人一倍リスクリターンの計算が上手いくせに、いざというときは真っ先に自分っていうカードを切るんだから……悪い癖だよ……ッ!」

「陽乃さん!!」

 

 この人、Xガンじゃ間に合わないって悟って突っ込んできたのか……ッ。

 陽乃さんの顔が苦痛に歪む。いくら、二人になったとはいえ、この巨重は体に相当な負担だ。だからこそ、さっき来るなって言ったのに。

 

「なんで……来たんですか……早く、逃げて――」

「嫌」

 

 キッパリと、バッサリと切り捨てる。こういう所は、さすが雪ノ下の姉だな。

 陽乃さんは妹のように、氷の女王のように、冷たく言う。

 

「ここで八幡を置いて、それで八幡が死んだら、私は自殺するわよ。もう貴方はそれくらい、私にとって欠かせない構成要素なの。あなたが自分の命を軽々しく賭けるのは自由だけど、その時は当然、私の命も勘定に入れてね」

 

 ぞっとする。陽乃さんは説得でも、脅しでもない。

 心の底から本心で言っている。

 

 自分の命も――雪ノ下陽乃という命も、その身に背負えと、そう言っている。

 

「全く、愛されてるね、比企谷」

「陽乃さんを死なせたら、あなた色んな方面にこれまで以上に嫌われるわよ。精々生きなさい」

 

 そして、また軽くなる。

 

「折本……相模……どうして」

「知らないわよ、そんなの……っていうか重い……」

「……まぁ、たぶん、アンタいなかったら、多分どっかで死んでたし。その借りってことで……本当に重い……」

「馬鹿っ!だったら、早く出ろ!」

「無理……動けない……」

「一歩でも動いたら……多分、潰れちゃう……」

「クソッ!」

 

 なんなの?ツンデレなの?

 でも、時と場所を考えろよ!一つの萌えポイントの為に命を懸ける必要がどこにあんだ!?

 

 確かに、重量負担的には軽くなった。潰されるってことはないと思うが、それはあくまで、現時点の話。

 

 この大仏の気分次第で、俺たちはすぐに殺させる。なんならコイツが全体重掛けてきたら、その時点でおしまいだ。

 だが、俺たちはまったく動けない。

 

 でも、まだ、死ぬわけには、いかない。

 

 あぁ、そうだ。相模の言う通りだ。

 俺ごときの命と陽乃さんの命が等価なはずがない。この人は、俺なんかの道連れにしていい人じゃない。そんなことになったら、雪ノ下にも何を言われるか分かったもんじゃない。ハイライト消えのんになっちまう。

 

 

 絶対に、死なせない。この人だけは、死なせない。

 

 

 俺は、必死で踏ん張りつつも、普段あまり使わない声帯を酷使し、腹の底から叫んだ。

 

「達海~~~~~!!!!!」

 

 俺の叫び声は自分の思った以上に響き渡り、近くにいた陽乃さんや相模、折本はもちろん、今まで遠くから響いていた他のメンバーと星人の戦いの喧騒も一瞬止まった気配がした。ヤバい、恥ずかしい。新たな黒歴史誕生の瞬間かも。

 

 そして俺の恥ずかしい叫びは、ちゃんと俺の目的の人物へと届いたようで。

 

「――なんだ!!俺は大仏ぶっ倒すのに忙しいんだよ!!」

 

 と、明らかに苛立ったような声が返ってくる。

 だが、その声の調子と、さっきからこの大仏がピクリともしないことから、その戦果は窺える。

 この大仏は、まともに戦って渡り合える相手じゃない。

 

 そう、“まとも”には。

 コイツにとって、俺たちは居るかどうかも分からないような、そんな虫けらなんだろう。

 

――だが、虫けらには虫けらの、戦い方がある。

 

「達海!!コイツに、真正面から戦っても不合理だ!いつまでたっても有効なダメージを与えられない!!」

「だが――」

「だから!!」

 

「より、ダメージを与えられる場所を狙え!!“これ”を使え!!」

 

 俺の言葉に、陽乃さんや相模や折本は訝しげな反応を見せる。俺の言葉の意味が分からないようだ。

 

 達海にも、もしかしたら伝わっていないかもしれない。何の言葉も返ってこない。

 

 ……この俺の考えは作戦と呼べるほどのものじゃなく、ただの思いつきだ。上手くいく保証なんてないし、失敗したら下手すりゃ死ぬ。それに一から丁寧に説明している余裕もない。

 だが、俺たちの中で一番戦闘センスがあるのは――陽乃さんは別格として――達海だ。

 アイツなら、もしかしたら――

 

「……なるほどな」

 

 達海の呟きが、聞こえた気がした。

 

「よっしゃあ!俺に任せろ!!」

 

 先程とは明らかに違う、朗らかな声が響く。

 どうやら上手く伝わったらしい。後は、この考えが正しいことを祈るのみ。

 

「……っ!……ぐぅ」

 

 折本が苦しそうに呻く。

 四人で分担することで、一気に圧殺されるほどの重さではなくなったが、それでも身動きがとれないほどの負担がかかり続けているのだ。限界は近い。

 

 頼む。上手くいってくれ。

 

 

 

 

 

 達海は、一気に階段を飛び下り、そのまま門跡の近くまで走る。

 

「おい!なんだあいつ、逃げたのか!?」

 

 ボンバーさん(たぶん)の怒声が響き、折本が少し不安げな表情をする。

 

「大丈夫だ。アイツを信じろ」

 

 折本に言い聞かせる。折本は俺の目を見て頷いた。

 

 俺は横目で再び達海へと視線を戻す。

 

 アイツは十分に距離を取ったところで、陸上選手のようにクラウチングスタートの姿勢をとった。

 

「…………行くぜ」

 

 ギシッ……ギシッ……と達海の体が膨れ上がる。

 スーツによる身体能力の強化が、極限まで高まっていく。

 

「はらぁっ!!」

 

 達海が弾丸のように駆け出す。まさしくロケットスタート。

 

 一直線に大仏へと――すなわちこちらへと向かってくる。

 

「だぁっ!!」

 

 そして、その勢いのままジャンプする。

 

「うわっ!」

「なんだアイツ!!」

 

 こちらからは、もう見えない。

 アイツは、俺たちを踏んでいる為に曲がっている大仏の膝を段差替わりに使い、大仏の顔面の高さへと飛んだはず。

 

 ギュイーン ギュイーンと甲高い音が上方で響く。

 

 そして――

 

 

「あがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああ!!!!!」

 

 

 という唸り声と共に、俺たちに圧し掛かっていたプレッシャーが無くなった。

 

 そして、影はゆっくりと俺たちの頭上から無くなり、大仏は背中から倒れこむ。

 

 メキャメキャメキャ ズズーーーン!!!

 

 という轟音と共に、この寺院で一番大きな本堂――大仏が飛び出してきた建物が崩壊する。

 

 その余波は凄まじく、思わず目を瞑ってしまいそうになった。

 

 そして、その影響は俺たちだけではなく――

 

「な、なんだ!? 何がどうなってんだ!?」

 

 さっきまで呑気にタバコをふかしていたオッサンが慌てふためき、逃げるように去っていった。

 まぁ、オッサンからしたら、突然何の前触れもなくこれだけ大きな建物が崩壊したんだからな。なにそれこわい。

 

 

 …………ま。とにかくこれで何の憂いもなく戦える。

 

 

「八幡」

「陽乃さん」

「倒したと思う?」

「…………いえ、まだ何とも」

 

 俺と陽乃さんは大仏が倒れこんだ本堂を見る。

 

 そこには臨戦態勢を崩さない達海と、棒立ちのままの葉山がいた。

 

 すると、どこからか地響きが――

 

 

 ドガァァァァーーーンッ!!

 

 

 初登場の時とはまるで段違いの迫力で、大仏が立ち上がってきた。

 

 額の白毫の部分から血のような何かを垂れ流し、その表情は先程までの穏やかな仏顔ではなく、悪鬼のような憤怒を滲ませている。

 

 

 うぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおお!!!!!!!

 

 

 大仏が天に向かって吠える。

 

 不動のイメージが強い分、ミスマッチなギャップでより一層恐ろしさが増している。

 

 やはり、まだ終わらないか……

 




 ちなみに指摘された部分とは「なんで大仏に踏まれたままぺちゃくちゃ喋ってんの?周りの人達早く助けなよ」という部分です。なので、八幡の葉山への説教をモノローグにして、周りの人が手出しできない理由みたいのを言い訳がましく入れてみました。

 ……どうでしょうかね? 八幡はこんな上条さんみたいな説教しねぇよ。みたいなことは言われそうですが、どうしても書きたかったので……キャラ崩壊になってないといいんですが。

 どうもこの大仏戦は自分的にすごく難しかった覚えがあります。

 たぶん、次回大仏戦は決着がつくと思います。


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その男は、勝利を手に入れ、何かを失った。

 難産だった大仏戦も、ようやく終わりです。

 次回から、本当の意味でのこのミッションの本番です。


「陽乃さん! 距離を取りましょう! 折本と相模も逃げろ!!」

「そうね。これはちょっと一筋縄ではいかなそう」

「で、でも! まだ葉山君が――」

 

 俺は葉山の方を見る。

 アイツは、呆然自失で、心ここにあらずといった感じだった。

 

 くそっ。こんな時に何してる!?

 

「葉山! 何してる、離れるぞ!!」

「――あ、ああ」

 

 今回の葉山は、ずれているとはいえ、良くも悪くも迷いがなかった。

 だが、ここにきてまためんどくさい状態に戻っちまったか?この状況でそれは致命的なんだが。

 

 ……しかし、葉山に偉そうなことを言う資格なんてない。

 

 ぶれてる、ずれてるっていうなら、俺の方が遥かに救い難い。

 

 

「達海君! 早く逃げて!」

 

 折本の声が響く。

 それに引っ張られるように目を向けると、達海は激昂する大仏のお膝元で、不敵に笑っていた。

 

 当然としてそんな場所にいると真っ先に大仏のターゲットになる。

 

 だが、それでも達海は不遜な態度を崩さなかった。

 

 その姿は、まるで無邪気な子供のようで。

 

「……いいね。楽しくなってきた」

 

 本当に、楽しそうで。

 

「コイツは、俺が倒す!!」

 

 どうしようもなく、危うく見えた。

 

 けれどコイツは、俺達と違って、本当にぶれない。

 

 

 

 

 

 達海がそう吠えた後、先に動いたのは大仏だった。

 

 これまで、まるでゴジラのように一歩一歩踏みしめるように歩を進めていた大仏だったが、明らかに動きが変わった。

 

 拳を固く握りしめ、腕を大きく振りかぶり、そして鉄槌のごとくそれを振り下ろした。

 

 ドガンッ!!!

 

 今までのそれとは明らかに違う。圧倒的な威力。

 凄まじいスピードで繰り出されたそれを避けたのは、さすが達海といったところだが、それで大仏の攻撃は終わらなかった。

 

 達海が大仏を見上げた時は、すでに左腕が振り上げられていた。

 

 そして、再び凄まじいスピードで一直線に放たれる。

 何とかまた避けていたが、このままでは時間の問題だ。

 

「……ね、ねぇ!比企谷!達海くんが!達海くんが!」

 

 折本が泣きそうな顔で俺を見る。いや、瞳にはすでに涙が浮かんでいた。

 

 分かってる。だが、一体どうする?

 明らかに大仏の動きは変わっている。このまま俺が加勢して闇雲に数だけ増やしても、事態は好転しないだろう。

 

 達海が距離を取って、Xショットガンを放つ。

 だが、それは表面をわずかに弾けさせる程度で、到底ダメージには繋がらない。

 

 大仏はそこまで移動スピードはないが、あの巨体だ。このままじゃ、達海は捕まる。いや、このまま暴れまわるだけで、他のメンバーが巻き込まれて被害を被るか。

 

 …………ちくしょうッ。

 

「……陽乃さん。ガンツソードであの大仏、斬れますか?」

「……出来るとは思うけど……あれだけ激しく動き回られると、達海君を巻き込まない自信がないわ」

 

 ガンツソードは威力がありすぎる。まさしく諸刃の剣だ。

 いくら陽乃さんでも、今日初めて扱う武器にそこまで精密さを求めるのは酷過ぎる。

 

「……ね、ねぇ、葉山君。いったいどうしたら――」

 

 相模の言葉は、途中で止まってしまった。

 ふと葉山の方を見たが、葉山は呆然としたままだった。

 …………しばらく葉山は使い物になりそうにないな。

 

 俺がまた大仏に目を戻そうとすると、ツカツカと葉山に陽乃さんが近づいた。

 葉山も気づき、顔を向ける。その顔は、焦燥や困惑、苦悩で満ちていた。

 

「……は、陽乃さん。お、俺――」

 

 葉山は、まるで母親に頼る子供のように、陽乃さんを見た。

 顔はクシャクシャで、今にも泣きそうだった。

 俺は、ここまで誰かに情けない弱さを隠そうとしない葉山に驚いたが、次の瞬間、俺はさらに驚愕した。

 

 パァン!

 

 陽乃さんは、一瞬の躊躇なく、葉山に強烈なビンタをかました。

 

 俺だけでなく相模も、そして折本も呆気にとられている。

 

「は……る……のさ――」

「隼人。アンタ、いつまで甘えているつもり?」

 

 陽乃さんは雪ノ下も真っ青な絶対零度の視線で葉山を睨みつける。

 

 ……そうだったな。正直、迂闊にも忘れていた。

 陽乃さんは俺の知っている人たちの中でも、ぶっちぎりナンバーワンで怒らせてはいけない人だ。

 

 これが、雪ノ下陽乃なんだ。

 

「自分で言ったことをもう忘れたの? 一人も死なせない。全員生きて帰す。 そう言って、先頭に立ったんでしょ。その覚悟があって、全員の命を背負ったんでしょ。勝手に落ち込んで、勝手に責任放り出してんじゃないわよ。……何でもそつなくこなす癖に、自分のキャパ以上のことには途端に弱くなる。……ホント、中途半端でつまんない男」

 

「だからアンタは、今も昔も、何も救えないのよ」

 

 陽乃さんは淡々と言い募る。それに込められるは怒り、呆れ、そして蔑み。

 

 葉山は、その言葉に何も言えなくなる。

 

 ……そして、陽乃さんの言葉は、俺の心にも鈍く、そして深く突き刺さった。

 

 葉山は唇を噛みしめ、拳を震わせ、そして、ポツリと言葉を零す。

 

「…………でも、どうすればいいんだよ。……俺は、メンバーを失わないことに必死で、無関係な人を見殺しにしようとした。…………そんな俺に、何ができるっていうんだ。どんな顔して、みんなに指示なんか出せるって言うんだ……」

 

 

「それと。今、あそこで必死に戦っている達海君を黙って見ているだけなこと。何か関係あるの?」

 

 

 葉山は顔を上げる。

 陽乃さんは淡々と告げる。

 

 

「いい加減逃げるのはやめなさい。あなたが守っているのは、ただの自分の安いプライドよ。非道いことを許容することで罪悪感を感じることから逃れたいだけ。自分はいい人で、正しいことをしているって思い込みたいだけ。……だけどね、今はそんな状況じゃないの。いいえ、あなたが見ないふりをしていただけで、ずっとそんな状況じゃなかったの。そんな甘っちょろい理想論が、あなたのつまらない自己擁護が、通じる状況じゃね。……覚悟を決めなさい。妥協する覚悟を。百二十点を諦める覚悟を。誰も傷つかない世界の幻想を、捨てる覚悟を。一度間違ったからって、全部捨てて逃げるなんて、そんな真似は許さない。そんな楽な道を選ぶ資格なんて、私たちにはないのよ。……何度間違ったって、どんなに惨めで辛くて情けなくったって、どんなにかっこ悪くったって――」

 

 

「――私たちは、逃げちゃダメなのよ」

 

 

 俺は、途中から葉山を見るのをやめて、達海と大仏の戦いに集中していた。

 

 なぜだが分からないが、俺が踏み込んではいけない領分の話な気がしたのだ。

 

 今の葉山の腑抜けた態度を諌めること以上に、もっと深い、葉山隼人という人間の根幹についての話だと感じた。

 

 俺は葉山のなんでもない。口を出す権利などないだろう。

 

 だから、俺に出来ることなど、何もない。

 

 ならばせめて、達海と大仏の戦いから、何か突破口を見出すべきだ。そちらの方が、余程俺のやるべきことだ。

 

 ……葉山は今、どんな顔をしているのだろう。

 おそらく、今までの人生で、最も複雑な胸中に違いない。

 

 陽乃さんの思惑は、正直分からない。

 もしかしたら深い考えなどないのかもしれない。案外、先程の俺のように、葉山の態度に我慢できなかっただけかもしれない。

 

 だが、俺は賭けだとは思う。

 葉山隼人という人間が、潰れてしまうか、それとも一皮剥けるか。

 

 どちらにしろ、葉山にとっては、ここが大きなターニングポイントだ。

 

 ならば俺は、なおさら達海を死なせるわけにはいかない。

 ここで葉山の目の前で死者が出れば、確実に葉山は壊れる。

 

 葉山は曲りなりにもこの集団のリーダーだ。葉山の崩壊は、この集団の崩壊につながりかねない。

 

 忘れるな。これはまだ最終決戦じゃない。

 

 この大仏の他にも、まだ星人は控えているんだ。

 

 

 ……逃げちゃダメ、か。まったくその通りだな。……耳が痛い。

 

 

 

 

 

「だらぁ!!」

 

 大仏が達海を掴もうと地面スレスレに滑らせた手の平を、達海は掻い潜って闇雲に銃を連射する。

 

 しかしそれは表皮を少し吹き飛ばすばかりで、有効なダメージには――

 

 ぐぉぉ

 

 !? 今、大仏が呻いた……?

 ほんの少しだけれど、今まで気にも留めなかった達海の攻撃に、確かに苦しんだ。

 

 なんだ……。さっきの攻撃と、それまでの攻撃の何が違った?

 武器は同じXショットガン。さっきのように顔面を狙ったわけじゃない。

 

 なら……

 

「陽乃さんはここに居てください!」

「え? ちょっと、八幡!」

 

 俺は、自分の仮説を確かめるべく走る。

 

 達海が大仏の注意を引き付けているから、俺は透明化を施し、静かに、だが全速力で近づく。

 

「――ちっ!くそがぁぁぁぁあああ!!!」

 

 達海は咆哮し、それでも果敢に大仏に立ち向かう。

 ……大したもんだ。この星人相手に互角……とまでは言わないが、やられずにたった一人で持ちこたえている。

 

 俺は、そんな両者から少し離れた正面で立ち止まり、Xガンを構える。

 

 

 狙うは一点。俺の考えが正しければ……

 

 ギュイーン

 

 ……これが、大仏打倒の突破口になるはずだ。

 

 

 バンッ

 

 がぁぁぁああ

 

 俺の撃った攻撃は一発。それでも、明らかに効果アリだ。

 

「……ビンゴ」

 

 俺は、自分でも分かるくらい気持ち悪い笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「ん?なんだ……」

 

 達海が訝しんでいる。自分のではない攻撃が、大仏に効いたのが分かったんだろう。

 

 俺は後ろから達海の肩を叩く。

 

「おい」

「うわぁぁ! え?何?誰もいないよな!?」

 

 おっと。透明化してたのを忘れてた。

 

「俺だよ、俺」

「……………………」

 

 おい。

 

「あ、比企谷か」

「今、ちょっと素で忘れてたよね?」

「それより、何の用だ」

 

 コイツ、決め顔で誤魔化しやがった(イラッ)。

 ……まぁいい。今は俺の存在感より大事な伝えるべきことがある。

 

「達海。今ので確信した。コイツには弱点がある」

 

 俺は大仏を見上げながら言った。

 

「何!?なんだ、それは!?」

 

 ものすごい食いつきっぷりだった。

 ……コイツ、一つのことに夢中になると、周りのことが見えなくなるタイプか。本当に子供だな。

 

「……おそらく、あいつの防御力が高いのは“表皮”だけだ。体の中は、他の仏像達と同レベル――すなわちXガンでダメージを与えられる。だから、狙うなら傷口だ」

 

 俺は自分の考えを達海に告げた。

 さっきの達海の攻撃、そして今の俺の攻撃。

 どちらも一度攻撃が当たり、表皮が弾けていた部分に命中していた。

 

 おそらくこの仮説は正しいと思う。

 あとは傷口を何度も狙って撃っていけばその内倒せるだろう。

 問題はこの方法だとかなりの時間がかかってしまうことだが――

 

「なるほど、ね」

 

 俺はその声につられて達海の方を見ると、思わず体を硬直させてしまった。

 

 達海は、笑っていた。それは、無邪気な子供のよう、なんてかわいいものじゃない。

 

 獲物を見つけた猛獣のような、標的を前にした殺人鬼のような――

 

――――狩人の、笑み。

 

 

 ズシンッ!

 

 大仏の重く低い足音が響く。

 

 クソッ。再起動したか。

 俺はXガンを構えて、再び透明化を――

 

「比企谷。ちょっと試したいことが出来た。ちょっとの間、大仏の注意を引き付けていてくれ」

「はぁ!? ちょ、ま――」

 

 そう俺に一方的に押し切り、達海は大仏に背を向け、一気に距離を取るべく離れていった。

 

 俺は透明化を中途半端に行い、幽霊のように薄くぼやけている。これぞステルスヒッキー。俺は誰にも振り込まない。ここからはステルスヒッキーの独壇場っすよ!

 

 なんてふざけてる場合じゃない!

 この中途半端な透明化は大仏には通用しないらしく、完全に俺に狙いを定めている。

 

「おいおいおいおいおいおいおいおいおいおい」

 

 大仏が蚊を潰すように張り手を叩きつける。

 俺はみっともないことも承知で無我夢中で飛び込み、ギリギリで避ける。

 

 ~~~~~~~~っぶねぇ!!なんだよ、達海はこんなのを何回も避けてたのかよ。どんな運動神経してんだ。

 でも、俺じゃあそう何度も避けられない。達海、早くしてくれ!

 

「八幡!」

「だ、大丈夫です!陽乃さんはそこに居て!」

 

 実際は大丈夫なんかじゃないが。

 だが俺なんかの為に、陽乃さんになんかあったら、俺が耐えられない。

 

 ……こういうのが、葉山に自己犠牲っていわれたり、あいつ等との関係悪化に繋がったりしたのかもな。

 

 だが、これが俺だ。これだけは変えるつもりはない。

 

 全部、自分の為だ。

 誰かが俺のせいで傷つくのは、俺が辛いから。苦しいから。

 

 だから、全部自分で背負うんだ。その方が、傷つくのは自分だけで済むから。自分が傷つくのは慣れてるしな。

 

 自己犠牲なんかじゃない。……これが、俺にとっての最善手。葉山もびっくりの究極の自己擁護だ。

 

 歪んていると言われようが、正しくないと言われようが。

 

 そんなやり方は嫌いだと言われようが。何で気づかないんだと言われようが。

 

 変えるつもりはない。……俺は、これしか知らないから。

 

 これが、きっと俺だから。

 

 

「もう!本当にしょうがないんだから!!」

 

 ギュイーン

 

 俺に攻撃が向きそうになると、陽乃さんが自分に注意を逸らしてくれた。

 

 ギュイーン

 

 俺はすかさず自分に注意を向ける。そうして大仏を撹乱する。

 

 陽乃さんとアイコンタクトで笑い合う。

 

 この人は、俺を否定しない。こんな自分勝手で面倒くさい俺をそのまま受け入れてくれる。

 

 ……やっぱり俺には、この人が――

 

 

 

 

 

「比企谷ぁ!!大仏を怯ませてくれ!!」

 

 ……ようやく準備完了か?

 ヒーローは遅れて登場するものってか。重役出勤過ぎるだろ。時間稼ぎの脇役も楽じゃねぇんだぞ。

 

 俺は自分の口元が歪むのを感じながら、Xガンを構える。

 俺には達海のように、咄嗟に攻撃を避けながら射撃を決めるなんて大技が出来るほどの運動神経はない。

 

 だが、さっきから達海との攻防を観察して、そしてこの身で何度か体験して、ようやくパターンを見つけた。

 モンハンのように決められた動きを繰り返すわけではないが、こいつらはそこまで知能は高くない。どっちかっていうと獣に近い。自分たちを脅かす敵を、本能的に排除しているだけなんだ。

 

 だから、分かりやすい隙を作ることで、決まった攻撃を誘導することは可能なはずだ。

 

 俺は威嚇の意味で相手の右腕の二の腕辺りを狙い撃つ。ここには傷がないから、ダメージは与えられないだろうが、無意味というわけではない。

 実際、人間でも痛くはなくても虫が止まったりすれば気になるだろう。そうなると大元を排除したくなるはずだ。

 そして俺は大仏の視界の左隅に移動する。すでに、これまでの時間稼ぎで俺のヘイト値はかなりたまっているはずだ。

 だから一気に力任せに排除しようとするはず。そして、この位置関係なら――

 

――左腕による横薙ぎの張り手が来るはずだ!

 

 ブォン!! と重々しい風切音とともに、張り手が巨大な振り子ハンマーのように襲い掛かる。

 確かに恐ろしい一撃だ。だが、予測できたなら避けられる。

 

 俺は、“大仏が攻撃を放つよりも数瞬早く”動きだし、大仏の懐に潜り込む。

 

 この脛には、俺たちが初めにがむしゃらに撃ちまくったおかげで、細かい傷跡が幾つもある。

 

 俺はXガンを発射した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ぐぉぉぉぉおおおおおおおおおおお

 

 一際大きな呻きとともに、大仏は動きを止める。

 

 その瞬間を待ち望んでいた達海は、口元を獰猛に歪ませ、ロケットスタートを開始した。

 

 狙いは先程と同じ。助走をつけての大ジャンプ。目指すは大仏の顔面。

 

 しかし、今回は先程の大仏の膝のように分かりやすいジャンプ台はない。

 

 だからこそ、達海は八幡に時間稼ぎを頼み、ルートを検索していた。

 

 そして、見つけた。

 まず、目指すはあの灯籠。それを踏みしめ、つなぎが姿を隠す二階建ての建造物の屋根に着地する。

 つなぎは無表情ながらも目を見開いたが、それに構うことなく、達海は瓦をがしゃがしゃと踏みしめながら、再び助走する。

 

「はははははははははははははははははははははははははははははははははは」

 

 楽しそうに。本当に楽しそうに、達海は笑う。

 

 手にはXショットガンとXガン。

 

 それを携え、漆黒のスーツを大きく膨らませながら、達海は再び跳躍する。

 

 流星のように。レーザーのように、一直線に。

 

 自身が穿いた額の白毫のあった場所から、自ら弾丸となって、正確無比に撃ち抜いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 がぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああ

 

 大仏が呻き、というより明らかに苦痛を訴える叫び声をあげる。

 

 俺は一気に大仏から距離を取りその様子を窺うと、目や口、鼻や耳から血のような何かを垂れ流し、人間のように両手で頭を押さえながら苦しみながら、やがて膝を突き、倒れるように崩れ落ちた。

 

 俺たちは呆然と、その様子を見ることしか出来なかった。

 

「八幡!!」

 

 声の方に目を向けると、涙目の陽乃さんが駆け寄って、俺を抱き締めた。

 その際に、腰に準備していたガンツソードがあることを知る。……俺が気付くようなことに、この人が気付かないわけがない、か。……きっといざというときは割り込んででも助けてくれるつもりだったのだろう。

 それでも、俺の傲慢な我儘を、この人は尊重してくれたのだ。

 

 ギュッと、陽乃さんは俺の肩に顔を埋め、抱きしめる力を強くする。

 そこに、先程葉山を圧倒していた氷の表情はない。

 

 ……俺も陽乃さんの背中に手を回し、優しく抱きしめる。

 あれも紛れもなく陽乃さんだが、この陽乃さんも正真正銘の陽乃さんだ。

 

 俺だけに見せてくれる陽乃さんだ。それがすごく嬉しい。

 

「……陽乃さん。一体何が……達海が上手くやったんですか?」

 

 俺がそう言うと、陽乃さんは言いづらそうに表情を歪ませる。

 

「あ、あのね、はちま――」

 

 

 ギュイーン ギュイーン ギュイーン と甲高い音が連射した。

 

 

 俺は大仏の方に目を向けると、“大仏の中”から、青白い光がかすかに漏れ出していた。

 

 …………おい。まさか。

 

 そんな俺の頭の中に過ぎった考えを裏打ちするがごとく、次の瞬間――大仏の頭部が吹き飛んだ。

 

 バンッ バンッ バンバンバンッ

 

 連鎖的に、大仏の頭部の穴はどんどんと広がっていき、この世のものとは思えないよくわからない肉片を四方八方に撒き散らす。

 

 

 そして、その中から出てきたのは、人間の血よりもはるかに赤黒い液体で全身塗れた――達海龍也だった。

 

 

 その表情は、愉悦に満ちていて、本能的に恐怖を誘った。

 

 

「……くくくくく。はぁ~~っはっははははっはははっはっはははっはは!!勝ちだ!!勝った!!こんなでっけぇやつに!!俺は勝った!!俺の勝ちだ!!ははは、強ぇ!!俺は強い!!ははははっははっははっはっはっははっははっははっはははは!!ふははははははははは!!最高だ!!ここは最高だッ!!!はっはははあはははははあはは!!」

 

 

 達海は嗤う。

 

 それは、大事な何かを失って。手に入れてはいけないものを手に入れてしまった者の笑み。

 

 見てはいけないものに魅せられ、辿りついてはいけない極地に辿りついてしまった者の歪み。

 

 葉山も、相模も怯えている。恐れている。折本は今にも泣きだしそうな表情だ。

 

 陽乃さんでさえ、表情をわずかに険しくしている。

 

 

 だが、俺は、違う。もっと別の感情を感じていた。

 

 達海の狂気は、確かに狂っていて、歪んでいて、醜悪なものなのかもしれないけれど。

 

 

 それは、どこかあいつを彷彿とさせて。

 

 

 失ってしまった、俺を助け、俺が助けられなかった、あの狂人を想起させて。

 

 

 憐れみと――そしてどこか温かい、懐かしいさを、感じてしまった。

 

 そんな救えない感情を抱いてしまった俺は、相当に歪んでいるのだと再認識した。

 

 何も変われていないのだと、いまだに逃げ続けているのだと、吐き捨てるように自嘲した。

 




 次回、アイツ登場。

 あ、pixivで第二部の二話を上げました。よければぜひ。


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満を持して、その刺客は現れる。

 前回、サブタイトルを入れ忘れたので、改めて入れました(笑)。

 今回から、徐々に千手編はクライマックスに向かいます。


 達海が大仏を撃破したことにより、とりあえず一つの大きな関門は突破した。

 

 俺はマップを出して現状を把握する。

 

 とりあえず、9体居た2m程度の仏像は、5体にまで減っていた。

 

 そして、離れた場所に5体。残りは10体か……。大仏みたいのじゃなくて、雑魚ばかりならなんとかなる、か。

 

 残り時間は――あと、30分くらいか。それでもまだ半分残っているのか。

 今回は敵も強いし面倒くさいが、それでもエリアが狭いからな。移動時間が少ないし、大仏くらいにしか苦戦してないから、思ったよりも時間は残っている。

 

 ……よし、いける。いけるぞ。勝てる。帰れる。

 

 今回も、絶対に生き残る。

 

「――葉山。……あと、達海」

「え!?――あ、ああ。なんだ、比企谷」

「ん、なんだぁ?」

 

 俺の問いかけに、葉山は怯えが入った様子で、達海は血走った爛々とした目で答える。

 

 ……やっぱり、ここは――

 

「マップによると、残りの星人は10体だ。ここにいる5体と、離れた場所にいる5体。……時間は、残り30分だ。絶望的ってわけじゃないが、余裕があるわけでもない。――だから、思い切って2つのチームに分かれないか?」

 

 俺の意見に、葉山は難しい顔をする。

 

「――危険、じゃないか?」

「……確かに、リスクを考えると0とは言えないが、大仏のような別格の奴がいない限り大丈夫だと思う。……少なくともあの2m級どもは、スーツ組なら一対一で勝てる。……問題はまだ見ぬ5体の強さだが――」

「いいんじゃねぇか?」

 

 そう言って、達海はXショットガンを肩に背負って言う。

 

「リスクっていうなら、無駄に戦いを引き延ばすのも、十分にリスクだ。タイムオーバーになったらどうなるか分からねぇんだから。だったら、そこいらの雑魚を相手にしている間に、偵察の意味でも何人か送り込んだ方がいい」

 

 ……おお。達海がずいぶん、それっぽいこと言ってる!

 なんだ、単細胞のバトル馬鹿かと思ったら、ちゃんと頭使え――

 

「そして! その役目は俺が引き受けた!!」

 

――なんだ。ただ、戦いたいだけか。

 

「俺がその5体の強さを見定めてきてやる。ついでにアイツらも連れて行くさ。慣れない戦いで疲れてるだろうし、そろそろ限界っぽいぜ」

「……そうだな。あの2m級の相手は俺たちが代わる。……でも、危なくなったら、すぐに逃げろ。特攻仕掛けなきゃならない程には、まだ俺たちは追い詰められてねぇんだからな」

「ああ。分かってるって」

 

 ……危ねぇな。なんか。

 笑顔が完璧すぎて、逆に危うい。

 

 なんていうか、強い奴と戦いたくってしょうがねぇて感じだ。雑魚退治よりもそっちを選んだのはそういうことだろうな。なんなんだよ、コイツ。地球育ちのサイヤ人なの?

 

 そんなことを考えてると、達海は一段高いところに乗って、2m級と戦っている新人たちに向かって叫んだ。

 

「お前ら!!よく頑張った!!そいつらの相手は、ここにいる先輩たちが引き受ける!!お前たち新兵は、これから俺と一緒に新しい敵の偵察だ!!黙って俺についてこい!!」

 

 何、このキャプテンシー。麦わら帽子のゴム人間なの?もうコイツの主人公感が止まらない。惚れそう。

 

「うおおおお!!かっけーー!!!」

「ついていくぜ、ヒーロー!!!」

「オウ、アメージング!!」

「……ふっ。やはり、アイツは、俺と並ぶ強者……ごふっ」

 

 大人気だった。達海は、知らない間に新人たちのヒーローになっていた。

 まぁ、あれだけ分かりやすく活躍すればな。そうなるか。……にしても、ミリタリー勝ったのか。侮れないな。一人だけ別格にボロボロだが。

 

「じゃあ、行ってくるな!」

「ああ。……くれぐれも気を付け――って早っ!」

 

 もうあんなところに!なんなんだよ、アイツの溢れる少年感!どれだけジャンプ臭出せば気が済むんだよ!

 

「あ、達海くん!」

「折本」

 

 達海の後を折本が追いかけようとする。それ自体は止めはしないが、どうしても釘は刺しておきたかった。

 

 ……正直、今のアイツは死亡フラグが立ち過ぎだ。……あの時の中坊が頭を過ぎりまくる。

 

「分かってるよ」

 

 だけど、俺が何を言う前に、折本は力強く頷く。

 

「達海くんは、絶対に死なせない」

 

 そう言って、折本が達海の後を追い――その後を達海信者のルーキーズが追う。……なんか、ここだけ見ると折本のおっかけみたいだな。

 

 まあ、遊びは終わりだ。

 

 俺は、透明化を発動しXガンを構える。

 

「それじゃあ、俺たちはこの5体をさっさと倒しましょう」

「そうね。なんか、ちょこまかと動き回るから面倒くさそうだけど」

「油断せずに行こう。コイツらも星人なことには変わりないんだから」

「そうだね。……私に倒せるかな?」

 

 5体だから、屋根の上のつなぎさんも入れて、一人一体か。

 葉山の言う通り、油断しなきゃ、おそらくは大丈夫だろう。

 

 

 

 

 

 ……あれ?誰か、忘れているような――

 

+++

 

 

 

 

 

「おいおい、お前らおっせぇぞ。先に入っちまおうかと思ったじゃねぇか」

 

 マップが示していた場所は、敷地内の左奥にあった、本堂の4分の1程度の大きさの離れのような場所だった。

 

 その入口の前に仁王立ちする達海。彼の自由過ぎる行動についていくため全力疾走をした折本と新人4名は、膝に手を着いて息を切らしている。特にスーツを着ていない白人格闘家とミリタリーはしんどそうだ。ミリタリーに至っては人体から発せられているとは思えない奇怪な呼吸音を鳴らしている。

 

 折本は、改めて達海の様子が普段と違うと感じている。

 普段の達海は、たしかに男子達の中心で馬鹿騒ぎするような人物ではあったが、ここまで周りを振り回すような子供っぽい人物ではなかった。

 

 これが、達海の本来の姿なのだろうか。

 普段の学校生活でもキャラクターを作っているわけではないのだろうが、今の状態はいうならば欲望に素直になったというか。

 

 欲望に素直。

 その言葉が浮かんだ時、先程の狂気に憑りつかれたかのような達海の姿が頭を過ぎる。

 あれも、達海の本性の一部なのだろうか。

 

「よし、入るぞ」

 

 達海は、扉を開ける。

 折本は、強烈な不安を押し隠しながら、その背中の後に続いた。

 

 

 

 そこに、無残な死体となったリーマンがいた。

 

 

 

「――――え?」

 

 折本の掠れた声が漏れる。

 

「うわ、なんだこれ!?死んでんじゃねぇか!?」

「おいコイツ、あの部屋にいたお経唱えてたオッサンじゃね!?」

 

 ラッパーとボンバーが驚愕し、騒ぎたてる。

 白人も顔を引き攣らせ、ミリタリーは顔を真っ青にしている。

 

 無理もない。死体だ。人の死だ。

 いくら今回の新人たちが曲者揃いとはいえ、彼らが今回間近に見る死は、これが初めてだ。

 

 動揺する。混乱する。恐怖する。

 

 だが、ただ一人。

 嫌でも目を奪われざるを得ない残酷で凄惨な死体に見向きもせず、ある一点を見据えている男がいた。

 

 

 彼――達海龍也は、目の前の仏像――千手観音を、獰猛な笑みを浮かべながら凝視していた。

 

 

 その時、千手観音の目が妖しく光り――

 

 

――彼を守るように囲んでいた4体の2m級の仏像たちが始動した。

 

 

「おいおいおいおいおいおい」

「くっ、なんだよ、コイツら!」

「オーマイガッド!!」

「あばばばばばばばばば」

 

 新人たち4人は、それぞれ2m級と戦う。

 

 先程、それぞれ星人を一体ずつ撃破した彼ら(うち一人はつなぎが代わりに倒したので撃破していないが)だが、この2m級は、先程よりも明らかに強い。

 

 なぜなら彼らは、いわば千手観音の側近。特別製の個体。

 

 そして、そんな彼らを付き従える千手観音は、ゆっくりと動き出し――

 

――ふわっと、まるで浮いているかのように跳躍し――

 

――音もなく、達海の前に降り立った。

 

 殺される。

 

 達海の背に隠れるようにしていた折本は、千手観音と目が合った瞬間、そう思った。

 

 怖い、よりも。逃げたい、よりも。

 殺される、と、そう思った。真っ先にそう感じた。

 

 そして、遅れるように襲ってくる強烈な恐怖心。

 

 田中星人よりも、あの10m近くあった二体の仏像よりも、そして先程の大仏よりも。

 

 怖い。絶対に、強い。殺される。

 

 折本はそう感じ、ガタガタと恐怖し、涙がこぼれ落ちた。

 

「――折本」

 

 折本は、はっと顔を上げる。

 そうだ。ここには、達海がいる。

 

 いつだって自信満々で、不敵に笑って、ついさっきもあの大仏を打倒した。

 

(そ、そうだ。達海くんがいれば、きっとなんとか「逃げろ」――――え?)

 

 

「逃げろ、折本。……比企谷を、助けを呼んでこい。コイツはヤバい」

 

 

 そう言った達海は、相変わらずの獰猛な笑みを浮かべていたが、その額には(背後にいる折本からは見えなかったが)、一筋の冷や汗が浮かんでいた。

 

 そして達海は、それでも達海は、千手観音に戦いを挑む。

 Xショットガンをガシャンッと力強くリロードし、千手に向かって一気に駆け出した。

 

「ど、どういうい――「グァァァァァァァ!!!」――!!」

 

 折本は、悲鳴の上がった方向に目を向けると、あの白人の格闘家が蹲っていた。

 

 その腕は、本来関節のない部分で不自然に曲がっていて、明らかに骨折していることが分かる。

 

「ひ――」

 

 その生理的嫌悪感が生じるグロテスクな光景に、折本が思わず悲鳴を上げそうになった瞬間――

 

くき

 

 と、まるで枯れ木が折れるような、人一人の命が失われたとは思えないあまりにも呆気ない音とともに、白人格闘家の首の骨がへし折られ、顔面が在り得ない方向を向いた。

 

 その断末魔の表情が、ちょうど折本の方へと向き直り、そのまま垂れ下がる。ぶら下がる。

 もはや表皮のみで体と繋がっているその頭部は、明らかに白人格闘家の生命活動が停止していることを如実に顕していた。

 

 次々と起こるショッキングな映像に、折本の精神はすっかり悲鳴を上げるタイミングを失くす。

 

「うわぁぁぁあああああああ!!!」

 

 だが、再びどこからか上がる悲鳴。

 

 そして、その発生源とは見当違いの場所――折本かおりが棒立ちするすぐ近くに、ドゴッと何かが落下する。

 

 腕だった。

 Xショットガンを握りしめたまま、切断された両腕。

 

 遅まきながら悲鳴の上がった方向を見ると、苦悶の叫びを上げながらミリタリーがのたうちまわっている。彼に両腕はついてなかった。

 そんな彼を見下ろしていた星人は、無感情に、仏像らしい無表情で、人間が蟻を殺すように、彼の頭部を踏みつぶした。

 

 また、死んだ。

 

「がぁぁぁぁあああああああ!!!!!」

「うわ!!いやだ!!やめて!!死、死にたくな――」

 

 もう嫌だ。見たくない。聞きたくない。知りたくない。死にたくない。

 

 ドサッ ドサッ と重々しく響く――――数十キロの物体が、一切の抵抗なく地に倒れ伏せる音。

 

 目を向けなくても分かる。

 

 また死んだ。殺された。みんな、みんな、殺された。

 

 あっと言う間に殺された。この部屋に入って、まだ一分経つか、経たないか。

 

 そんなわずかな時間で、4人もの人間が殺された。4つもの尊い命が失われた。

 

「い、いや……た、達海――」

 

 ドサッ

 

 折本は、自分の目の前に落ちた“それ”に目を向ける。

 

 それは、達海龍也だった。

 息が荒く、スーツも音を立てて駆動中だが、明らかに“負けていた”。

 あの、達海が。

 

 前を見ると、達海と違って“無傷”の千手観音。

 

 折本は、絶望に目の前が暗くなる。

 

 ダメだ。このままじゃ。ダメ。ダメ。いや。死ぬ。いや。いや。ダメ。いや。

 

「……ろ……」

 

 かすかに聞こえる、声。

 

 折本は、恐る恐る下を向き、耳を傾ける。

 

 やはりそれは、ボロボロの達海から聞こえるものだった。

 

 

「……にげろ……折本……逃げろ……」

 

 

 体が勝手に動いた。

 達海の言葉に感化されたのか、ガンツのミッションに適応しかけていた体が危機に自動的に反応したのかは分からない。

 

 だが、危ないと思った。何か仕掛けてくると感じた。

 

 故に折本は、Xガンを前方正面の千手観音に対して発射した。

 

 そして、そのまま特攻する。達海の前に出て。彼を背中に守るように。

 

 

 だが、千手は剣を交差するようにして、Xガンの攻撃を防いだ。

 

 

 折本は目を見開く。

 今まで、Xガンの攻撃をものともしない敵は存在した。先程の大仏がそうだ。

 

 だが、銃撃そのものを防ぐ敵などいなかった。だって、これを防がれたら、私たちは、一体どうやって――

 

 そして、それだけでは終わらなかった。

 

 千手は、交差した剣を開くようにして、銃撃を――目に見えない衝撃波を、弾き返してきた。

 

「グッ!」

「折本ぉ!!」

 

 そのまま入口横の壁まで吹き飛ばされる。

 

 折本は衝撃に息が出来なくなるも、どうやらスーツは壊れてないようだと、一安心し――

 

 

――――千手観音の手元が光ったのを感じた。

 

 

 一瞬の疑問の後、腹部を強烈な痛みが貫く。

 

「……え?」

 

 痛みの箇所に顔を向ける。赤い。腹部が真っ赤に染まっている。

 じんわりと傷口が熱を持ち、反対に体が寒くなるのを感じる。

 

 よくドラマとかで見る拳銃で撃たれた被害者とかはリアルだとこんな気持ちなのかな、なんて場違いなことを考える。

 

「……はは。マジウケる」

 

 なんだか笑えてきた。あまりに現実感がないことばかりが起き過ぎて、なにがなんだかよく分からなくなる。

 

 千手がこちらに近づいてくる。

 その数えるのも馬鹿らしくなる膨大な数の腕を広げながら。まるで威嚇するように。

 

 そして、その内の二本。多種多様の武器宝具を持ったそのたくさんの腕の中で、剣を持ったその二本を構える。

 

 折本は、もはやそれに危機感すら抱けなかった。

 

(……死ぬのかな。……だよねぇ~。私、こんなトンデモない状況でずっと生き延びられるようなスペックしてないもん。そりゃ、死ぬよ。マジ、ウケる)

 

 折本は、もはや命乞いをする気力も湧かない。

 

(……こういうのに向いてるのは、達海くんとか。……あとは、まぁ、比企谷とか。……陽乃さんは、どうやっても死ななそうだなぁ~。むしろ、一回どうやって死んだんだろう?あの人が死ぬところなんて想像できないんだけど)

 

 折本は、もはや死に対する拒否感すら湧かなかった。

 

(100点とか……無理だよ。私、まだ一体も倒してないから、0点だよ。……100点って。後、何回こんな痛い思いすればいいのさ……嫌だよ。ここいらが、私の潮時だって。……ホント、ウケる)

 

 千手は、その二つの剣を折本に向かって突き出す。

 折本は、動けない。動かない。

 

(……本当、最後まで中途半端。……何も、成し遂げてない。……笑うしかないよ。……でも、せめて――)

 

 

――しっかりと、達海くんに告白したかった。

 

 

 こんな中途半端な私が、唯一胸を張って誇れる感情だから。

 

 

 グサグサッ

 

 二つの剣は、容易くスーツを貫き、人体に二つの風穴を開けた。

 

 

 

 達海は、折本に覆いかぶさるようにして、それでも笑う。

 

 

 

「……馬鹿野郎。逃げろって言っただろ」

「……ど、どうして?」

 

 千手は荒々しく剣を引き抜き、達海はごほっと血を吐き出す。

 

 そして、その血を拭いもせずに、ふっと自嘲気味に笑って。

 

「知るか」

 

 そう言って、達海は折本にキスをした。

 

 折本は、驚きで目を瞑ることすらできず、達海はすぐに口を離し、折本の目を、優しい瞳で見つめて――ボソッと、一言告げる。

 

「――あ」

 

 折本の目から再び涙が零れ、達海は「……さっさと行け」と言い捨て、膝に力を込める。

 

「……あ……わ、わたし……」

 

 伝えなければ。この気持ちを。今、ここで。

 

 折本はそう葛藤するが、口はパクパクと開閉するだけで、音をまるで発しない。

 

 達海は、Xショットガンを杖のように突き、化け物たちと相対する。

 

 4体の星人。そして、千手観音。

 

 達海は、血を吐きながら、体に風穴をあけながら。

 

 それでも、折本を背中に守り、威風堂々と対峙する。

 

 Xショットガンを、荒々しく地に叩き付けた。

 

「――ッ!!」

 

 折本は、腹の傷を押さえながら、唇を噛み締め、涙をぽろぽろと零しながら、全速力で離れを飛び出した。

 

 達海は、口元を優しく緩ませ、そして獰猛に笑う。

 

「―――お前らは、俺の獲物だッ!!」

 

 達海は、Xショットガンを放り投げ、星人達に向かって突っ込んでいった。

 




 ……あ~。もっと上手く書けるようになりたい。


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達海龍也は――。そして、折本かおりは――。

戦いは、激化する。

そして、ついに――


 達海は左斜めにいた側近の星人の一体と、相撲の立ち合いのように激突する。

 

 そして、そのまま渾身の力で――キュインキュインと激しくスーツの音が鳴り響く――近くにいたもう一体の側近に向かって投げ飛ばした。

 

 その二体は激しくぶつかり吹き飛ばされるが、達海は気づいた。

 

 スーツが限界だ。

 

 先程、千手の攻撃に貫かれたからか、これまでの戦闘のダメージが蓄積されたせいなのかは分からないが、とにかく限界だ。

 こうしている今も、どんどん効果が落ちている。

 

 達海は目をカッと見開く。

 

 そして、襲い掛かってきた星人を捕まえ、自分の方に引っ張る。

 

 ズサッ! と、千手の一閃。

 

「ぬおおおおおおおお」

 

 それを、捕まえた星人を盾にして防いだ。

 

 そして、そいつを先程2体でぶつけ合わせた星人たちに向かって蹴り込む。

 三体はもつれ合うようにして、再び転がった。

 

(あと一体!!)

 

 達海は残る一体の腕を掴む。とにかくスピード重視だ。

 

 達海は、そいつを集団の方に投げ飛ばそうと、背負い投げの要領で――

 

 ズシン

 

(――ッ!!こいつら、こんな重かったのか――!?)

 

 全身にまるで大岩を背負っているかのような重さが圧し掛かる。

 

 骨が軋む。スーツのアラートが勢いを増す。

 

 達海は歯を喰いしばり、一連の動きを、一瞬も止まることなくこなし、投げ飛ばした。

 

 ズシーンッ!!

 

 四体の側近を一か所に固めることに成功する。

 

 ここまでの工程を、流れるように行った達海。

 

 更に止まることなく腰のホルスターに仕舞っていたXガンを連射する。

 

 これがラストチャンスだ。もうスーツは限界。時間をかければ、コイツらは4体バラバラに攻撃を仕掛けてくる。そしたら、勝ち目はない。

 

(死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねッ!!!!!)

 

「――ッ!!!」

 

 達海は殺気を感じ、連射を止めて転がる。

 

 そこをレーザーが擦過する。

 それを躱した先には、千手の二刀流の剣技。

 

 達海は、なんとかXガンで防ぎ(Xガンは斬られたが、何とか軌道はずらせた)、千手と向き直る。

 

 バンッと爆発音。

 

 バンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッ。

 

 そして、曲を奏でるように連鎖する。飛び散る肉片。噴き出す血液。呻く重低音な悲鳴。

 

 キュィィィィン。

 

 それらが収まるのと同時に、達海のスーツが完全に機能を停止した。

 

 達海は、乱れる息遣いの中、ははっと笑い、挑発するような笑みで千手に言い放つ。

 

「次は、テメーだ」

 

 仲間の死を嘆くように、そして下手人に憎悪を抱くように、千手の目が再び発光した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「比企谷、最後の一体だ!」

「さっき言ったポイントに誘導してくれ!」

 

 葉山、陽乃さん、相模、そしてつなぎさんで、相手を上手く指定の場所に誘導する。

 

 2m級は、どれもそれほど強くないが、それぞれに特技のような性能がある。

 

 怪力や超スピード、そしてこの個体は――

 

「く、来るぞ!!」

 

 葉山がそう言った瞬間、そいつは大きくジャンプする。

 跳躍力。それがこの個体の特性だった。

 

 だが、俺は“そいつの頭上から”Yガンを発射し、地面に固定する。

 

 さっき葉山に頼んだのはこういうことだ。

 俺は先回りして、つなぎさんとは別の建物の屋根の上に“透明化”して待機し、そこでピンチになったら跳躍して逃亡するコイツを捕えた。

 

 俺は大した仕事はやってないが、とりあえず、これで5体全て狩りつくした。

 

「お疲れ、比企谷。さすがだな」

「なに言ってんだ。待って、来たら、撃つ。それだけの簡単なお仕事だろうが。こんなんでポイント貰ったら罪悪感がすごい。っていうことで、陽乃さん。撃ちますか?」

「いや、いいよ。私、自力で100点稼ぐ自信あるし。ここは、委員長ちゃんでいいんじゃない?」

「う、うちぃ~?い、いいんですか?」

「そうですね。この中じゃ、一番相模がポイント稼ぐの遅いだろうし」

「相模さん、せっかくの好意だ。受け取っておきなよ」

「う、う~。なんか悪いけど、確かにうちが一番ポイント稼げないかも……じゃ、じゃあ、えい」

 

 相模がYガンを撃ち、転送されていく。

 

 これで俺たちのノルマは完了だ。

 

 葉山がつなぎさんにお礼を言いに行ってくると言い、この場を離れる。相模も俺に礼を言った後、それについて行く。

 その間、俺は陽乃さんと話をしていた。

 

「お疲れ、八幡。……思ってたより、時間がかかったね」

「ええ。5分くらいでしょうか。あいつ等が取りこぼしてただけあって、回避力の高い厄介な個体が残ってましたね」

「うん。……それと――」

「……ええ。あいつ等、遅いですね」

 

 俺は嫌な予感がしていた。

 マップを取り出し、一瞬躊躇して、起動する。

 

「!! こ、これ――」

 

 俺が、そのあまりの状況に絶句すると。

 

「お、おい折本さん!!」

「かおりちゃん!!かおりちゃん!!」

 

 葉山の驚愕の声と、相模の涙混じりの声が響いた。

 

 俺と陽乃さんは一瞬顔を見合わせて、その場に駆け寄る。

 

 折本は、思っていた以上にヤバい状況だった。

 腹部は全体的に真っ赤に染まり、どこが傷口だか一瞬分からなくなるくらいの大怪我だった。その血は、ここまでの道順を、赤い線としてこの寺の地面に描いている。

 これだけの出血量。折本の顔は、極寒の地域に裸で放り込まれたかのように真っ青だ。

 

 このままじゃ――

 

 俺は、着ていた総武高の制服の上着を脱ぎ、折本の傷口を押さえ付ける。

 傷口が腹部なだけに、縛って出血を止めることすら出来ない。だから、これくらいしか出来ない。……だが、こんなことでは――

 

「比企、谷……」

「喋るな、折本!」

「ダメ……喋らせて……じゃなきゃ、達海くんが……」

「達海?達海はまだ生きてるんだな!?」

 

 さっき見た、離れにあった1つの赤い点。

 

 そう、1つ。プレイヤーを示す赤い点は、たった1つしか残されていなかった。

 

「分かった。達海は俺が助ける。……今度こそ、絶対に見捨てない!!」

 

 俺が顔を上げると、葉山はすでに走り去った後だった。

 

「ば、馬鹿!待て!葉山!!」

 

 敵はたった5分で達海以外の4人を瞬殺するほどの奴等なんだぞっ!

 無策で挑んで、勝てるわけないだろうがっ!

 

「葉山くん!」

「相模!!」

 

 案の定、相模が葉山の後を追おうとする。

 

 俺はその時、ついさっき同じやり取りを折本と――今、まさに虫の息になってる折本としたことを思い出す。

 

 俺はその嫌な想像を無理矢理振り払い、相模に言う。

 

「――いいか。絶対に戦うな。達海と葉山を連れ戻せ。俺たちが行くまで、絶対に戦うな」

 

 俺の本気度が伝わったのか、相模は重々しく頷いて、葉山の後を追った。

 

 俺は再び折本の傷口を調べる。

 ……深い。切り傷じゃない。……刺し傷?だとしても、これはおそらく体を貫いている。塞ぐのは不可能だ。

 

――これほどの攻撃。……ボスは大仏じゃなかったのか?まだ、もっと強い奴がいたのかよっ!

 

「……ふふ。ひき、がや、そんなにじろじろみないでよ。……まじ、うける」

「ウケねぇよ!!いいから喋んな!!」

 

 落ち着け。考えろ。中坊は言っていた。どれだけ深い傷を負っていようとも、生きてさえいれば、五体満足で転送されるって。

 だったら、別に治すことが出来なくても、このミッションが終わるまで――あと最大で25分の間保たせればいい。それだけでいい。考えろ。考えろ。

 

「比企谷……私、達海くんに、キスしてもらったんだ……てっきり嫌われてるかと思ったから………ちょっと……ううん、すっごい嬉しかった……」

「惚気話は後にしろ!!いい加減にしねぇとマジで死ぬぞお前!!」

 

 分かっている。そんなことは、みんな分かっている。

 分かっているから、陽乃さんはさっきから何もしないし。

 分かっているから、折本は少しでも言葉を残そうと口を閉じないのだろう。

 

 俺だけが、足掻いている。どうにもならない状況で――本人すら、覚悟して受け入れている状況で。

 

 俺だけが、みっともなく、現実逃避をしている。俺は、また、逃げている。

 

 ……あの時のような思いを、味わいたくないという、俺自身のエゴを――こんな状態の折本に押し付けている。

 

 俺は……どこまで……ッ。

 

「……だから、私はもういいの。……もう十分、報われたから。……達海くんね、キスしたとき……私に、こう言ってくれたの」

 

 

 

『生きろよ』

 

 

 

 俺は、折本の傷口に押さえ付けた上着を握りしめる力が、無意識に強まったのを感じる。

 

 折本は、本当に嬉しそうに微笑む。

 

 それは、中学時代にも見たことがないような。

 俺が好きになり、告白した、俺の憧れの女の子だった折本かおりですら、見せたことがないような。

 

 誰かに本気で恋をして、その想いが報われた、女の子の笑み。

 

「……だから、わたしはじゅうぶん。……ひきがや……たつみくんを……たすけ」

 

 折本かおりは、優しい微笑みを携えたまま、動かなくなった。

 

 その笑みは、やっぱりすごく綺麗で、とても死んだなんて思えなくて。

 

 それでも、どうしようもなく、折本は死んだ。

 

 折本かおりは…………死んだんだ。

 

 陽乃さんがそっと俺の肩に手を置いて、俺の背中越しに折本の顔に手を伸ばして、瞼を下ろし、彼女を眠りにつかせた。

 

 そして、無様に何もしてやれなかった俺の背中を、優しく抱きしめてくれた。

 

「……本当に、命懸けの戦争なんだね」

 

 そう言った陽乃さんの声は、いつもの余裕がなかった。

 だけど、この人は俺なんかよりもずっと強い人だ。たぶん、先に弱音を吐いて、俺が弱音を吐きやすくしてくれたんだろう。

 

 自分だって、このガンツミッションで初めて人の死を――それも、それなりに会話を交わした知り合いの死を目の当たりにして、相当参っているはずなのに。それでも俺を気遣ってくれている。

 

 俺は、折本の死体を抱えて立ち上がり、屋根のある建物の境内に横たわらせる。ミッションが終わればガンツが回収するのだろうが、さすがにこれ以上、地面に直接寝かせるのは気が引けた。

 

 折本の傷口を抑えていた制服を手に取る。すでに血は止まっていたが、もう遅い。遅すぎる。

 

 俺は、それを着る。

 

 そして陽乃さんに向き直り、告げた。

 

「……葉山たちを追いましょう」

 

 本当は胸の中でぐちゃぐちゃに感情が渦巻いている。

 俺があっちの偵察に行けばよかったとか、もっと早くマップに目を配っていればとか、後悔は無限にある。

 

 だが、今はそんなことを言っている場合じゃない。

 そんな自虐を始めて、陽乃さんに慰めてもらえれば、少しは楽になるかもしれない。

 

 しかし、そんなことをしても、事態はまるで好転しない。

 

 今すべきことは、前なんか向けなくても、それでも行動することだ。

 

「……分かった。行こ――」

 

 ドン

 

 と、陽乃さんの後方――俺の目の前に、一体の銅像が出現した。

 

 2m級。だがその相貌は、鎧のようなものを被った、見たことのない種類の銅像――星人だった。

 

「……クソッ!」

 

 俺と陽乃さんが敵と対峙する。

 

 これじゃあ、葉山たちの後を追えない。

 

 ……頼む、相模。

 

 葉山を、止めてくれ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 葉山は折本が残した血の跡を辿って走った。

 不謹慎かとも思ったが、この方がマップを見ながら走るよりも早くて確実だと判断したからだ。

 

 自分はさっき、達海が大仏と必死で戦っている時に、何もしてやれなかった。

 

 だからこそ、今度こそ救う。

 

 もう、誰も死なせない。

 

 甘っちょろい理想論かもしれない。つまらない自己擁護かもしれない。

 

 覚悟が足りないのかもしれない。夢のような幻想なのかもしれない。

 

 そんなカッコいいものですらなくて、ただの、逃げなのかもしれない。

 

 でも。それでも。それでも!!

 

(……俺は、そんなに、強くはなれない)

 

 強くなんてなれない。どうしても、楽な道を選んでしまう。

 そんな資格なんてないことは、誰に言われるまでもなく、誰よりも、自分自身が痛感しているのに。

 

 

 何度も間違たくない。

 

 惨めで辛くて情けない思いなんて耐えられない。

 

 かっこ悪くなんて死んでもなりたくない。

 

 

 無理だ。俺には無理だ。

 

 

 比企谷八幡のような覚悟なんて持てない。

 

 雪ノ下陽乃のように清濁併せ持つことなんて出来ない。

 

 達海龍也のように戦いを愉しめない。

 

 

 雪ノ下雪乃のように、孤高で、正しく、綺麗でなんてあれない。

 

 

 葉山隼人は、彼らのように強くなれない。

 

 葉山隼人は、彼女らのように美しくなれない。

 

 憧れた。妬んだ。羨んだ。

 

 そして、欲した。

 

 でも、無理だった。

 

(……分かってる。分かってるよ、陽乃さん。俺のこれじゃあ、何も出来ないって。誰も救えないって。……分かっているんだ、比企谷。……でも、もうダメなんだよ――――手遅れ、なんだ)

 

 葉山は走る。

 まだだ。

 まだ、終わってない。

 まだ、潰えていない。

 

 俺の理想は、消えていない。

 

(……俺のこれは、文字通り俺の命綱なんだ。……これがあるから、俺はまだギリギリで持ってるんだ。……これが切れたら……これが消えたら…………俺はもう――)

 

 

 葉山隼人の精神は限界だった。

 

 これで、三回目のミッション。

 

 これまで、目の前でたくさんの人が死んだ。

 

 それはすなわち、それだけ葉山は助けられなかったといえる。

 

 それでも普通の人間は、案外簡単には壊れない。

 

 壊れる前に、逃避する。

 

 助けられない――助けられなかった、“仕方のない”理由を並び立て、合理化し、割り切る。

 

 助けられない自分を正当化し、乗り切る。

 

 適応する。

 

 別に悪いことではない。多かれ少なかれ、一般人でも日常生活で行っていることだ。

 

 何か問題が発生した場合、反射的に、自分のせいではないような解釈をする。逃げられるルートを検索する。

 

 そうして人は、罪の意識から逃げる。

 

 繰り返すが、それは別に悪いことではない。

 こんな日常的に死人が出るデスゲームを生き抜くには、それは必須のスキルともいえる。

 

 だが、葉山はそれに失敗した。

 

 誰も死なない傷つかない――そんな幻想を、120点の解答を捨てることが出来なかった。

 

 その上、それらの全てを抱えて受け入れるほど、葉山は強く在れなかった。

 

 上手く適応出来ず、割り切ることも出来ず、日夜苦しみ続けた。

 

 睡眠時間も減り、魘されることも多くなった。

 相模が気を遣って愚痴を零す場を作ったりもしたが、葉山のケアは上手くいかなかった。

 

 結果的に、ついに限界が生じる。

 

 それが、今回の、氷の葉山だ。

 

 だったら、いっそ逆転の発想だ。

 

 その120点を、実現させればいい。

 

 誰も死なせなければいい。

 

 その為には――理想を叶えるためなら。

 

 俺という――葉山隼人という存在を守る為なら、“なんだってする”。

 

 そうして、葉山隼人は、歪んでしまった。

 

 

 そして、その理想は――葉山隼人の生命線は、崩れ去ろうとしている。

 

 達海龍也が、死ぬ。

 

 犠牲者が出る。

 

 誰も死なせない理想が、120点の幻想が、崩れ去る。

 

 それだけは防がねば。回避しなければ。なんとかしなければ。

 

 葉山は、ついに離れに辿り着く。

 

 

 ドガンッ!!

 

 その時、離れの天井から何かが飛び出した。

 

「――くっ」

 

 葉山は瓦礫から身を守るが、その何か――星人は、そのまま本堂に飛び移り、葉山を無視して、どこかへと駆けていった。

 

「葉山くん!!」

 

 どうやら立ち止まっているうちに相模が到着したらしい。

 

「相模さん。来たんだね」

「はぁ……はぁ……比企谷が、達海くんを、救出したら、絶対に逃げてだって。俺たちが行くまで、戦っちゃダメだって」

「分かった。行くよ」

「ちょ、ちょっと葉山くん!?」

 

 葉山は、急いで離れの扉を開ける。

 

 

 

 

 

 本当は、とっくに気づいていたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 だって。今まで、奇跡的に葉山の目の前で犠牲者が出なかっただけで、本当はとっくの昔に、全員で生きて帰るなんて不可能になっていたのだから。

 

 とっくに犠牲者は出ていたのだから。

 

 そんな予感は、とっくにしていたから。

 

 だから、折本をさっさと八幡に任せてきたし。

 

 ここに来るまで、マップを確認したりしなかった。

 

 本当は、途中で全体を確認すれば、あの2体の15m級と戦い終わった時点で、すでに坊主が死んだことに気づいたはずだ。

 

 

 結局、葉山隼人は、最初から最後まで逃げ続けた。

 

 

 そして、ついに、それも限界。

 

 

 さあ。幻想から醒めて、現実と向き合う時間だ。

 

 

 

 

 

 サク

 

 とても軽い音が響いた。

 人体を貫き、人の命を奪う、あまりにも重たい音のはずなのに。

 

 葉山には、とても儚く聞こえた。

 

 部屋に入った瞬間、見えたのは達海の大きな背中と。

 

 そこから生えた銅色の無骨な剣。

 

 それは、いわゆる心臓があることで有名な左胸を貫いていた。

 

 葉山は絶句する。そして絶望する。

 

 千手は、そんな葉山に見せつけるように。

 

 葉山の都合のいい幻想を断ち切るように。

 

 もう一本の剣で。

 

 薙ぎ払うように容赦なく、達海龍也の首をぶった斬った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 初めは、うっとうしい奴だった。

 

 俺のルックスと運動神経だけを見て、キャーキャー言っている女子共の内の一人に過ぎなかった。

 

 あんなの奴らの内の何人が、本当に俺のことを好きなのだろう。

 

 本当に人を好きになったことがあるのだろう。

 

 あんなのは、誰かのことを愛している自分に酔っているだけだ。

 

 他の人がカッコいいと言っていたから、興味本位でという奴も多数いるだろう。

 

 俺には、そんな奴らが好きですと言ってきても、本当の恋だとは信じられない。

 

 お前らが好きなのは、俺じゃなくてお前らの中の俺という偶像だろ。

 

 自分で言うのもなんだが、アイドルと同じだ。自分たちの中で、達海龍也という名の偶像を当て嵌め、そこに自分たちの理想像(アイドル)を作り出す。

 

 そりゃ、素敵だろうよ。惚れるだろうよ。カッコいいだろうよ。

 

 でも、それは俺なのか?本当の本物の達海龍也なのか?

 

 そういうのは、仕事でやってるテレビのアイドルにやってくれよ。

 

 ファンなんですってやってきて、なんか思ってたのとちが~う、って言われるこっちの身にもなってみろよ。

 

 ったく、女ってのはくだらねぇ。

 

 

 だが、折本は違った。

 

 あんな奴らの、数倍数十倍もウザかった。

 

 何度あしらっても付き纏ってきたし、素の状態の俺を見せて怒鳴り散らしても諦めなかった。

 

 その挙句にコイツのとばっちりで死んじまうしよ。冗談じゃねぇぜ。

 

 ま、それはいいんだけどな。おかげでサッカーよりも楽しいのを見つけられたし。結果オーライって奴だ。

 

 だが、予想外だったのは、アイツがそれでも付き纏うのを止めなかったことだ。

 

 本当に呆れたね。まさか、文字通り死んでも諦めないとは。

 

 正直引いたよ。怖いを通り越して、ちょっと――

 

――ちょっと、感心しちまった。まさか俺のこと本当に好きなのかって思うくらい。疑問だわ。

 

 だから、直接聞いてみた。

 

『なぁ。お前、俺のどこがそんなにいいの?』

『うぇい!?ちょ、そういうの、女子に直接聞く?ま、ま、マジ、う、ウケ――』

『ああ、そういうのいいから。ちょっと気になっただけだから、サクッと教えてサクッと』

『雑っ!?…………えっと。正直言ったら、始めは評判っていうか……達海君が人気あったからなんだけど』

『…………ふーん』

 

 やっぱりか。期待して損したぜ。

 

 

 ……は?期待ってなんだ?

 

 

『――でも、今はなんとなく違うかな?』

『――は?』

『今の私は、達海君がみんなが言うような王子様なんかじゃないのは知ってる。我儘で、子供で、すぐキレる好戦的な性格で。……でもなんでかな?』

 

 

『達海君のこと、嫌いになれないんだ♪』

 

 

――――

 

――

 

 

 

(……はは。まさか、死ぬ間際に思い出すのが、アイツのこととは。我ながら、意外だな)

 

 

 達海はすでに満身創痍だった。スーツは壊れ、Xガンは切断され、先程折本を庇って開いた風穴からは、ダラダラと血が流れ、すでに意識は朦朧としている。

 

(にしても悔しいなぁ……もっといけると思ったんだが。……あの大仏みてぇな奴倒したまではよかったんだけど……コイツ、別格。強すぎ、マジで)

 

 ヒュッと千手の剣が己を突き刺そうとしている。

 

 達海は、それを――笑顔で迎える。

 

(……アイツ。なんとか、逃げきれたかn

 

 サク

 

 

 

 

 

 こうして、達海龍也は、殺害された。

 

 奇しくも、折本かおりが息を引き取ったのと、同時刻に、彼の首は飛んだ。

 




 達海龍也。折本かおり。――――脱落。


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葉山隼人は――。それでも、相模南は――。

悲劇は――絶望は、続く。


 頭部を失った達海龍也の死体は、面白いように鮮血を振り撒いた。

 

 千手はそれをシャワーのように浴びて、仏像特有のあの無感情な目を葉山に向ける。

 

 葉山は自身の中の最後の一本のような何かが、ぷつん、と切れ、葉山隼人というものの何かが爆発するのを感じた。

 

 崩壊などという生易しいものじゃない。爆発。文字通り内側から何かが噴き出して、破裂して、ぶち撒ける。

 

 前回のミッションで。あのガレージで。小さな少年が殺されていたのを発見した時のように。

 

 目の前が真っ暗になり、頭の中が真っ白になる。

 

「うわああああああああああああああああああ!!!!!!!」

 

 葉山は拳を握り、振りかぶって駆ける。

 

 千手に向かって。

 

 こんな残酷な現実なんか認めないと足掻くように。何も考えず、ただがむしゃらに特攻する。

 

 この期に及んで。思考を放棄し。突撃する。

 

 千手は、そんな葉山を嘲笑うかのように、いくつもの武器を備えた腕の中から、水瓶を持った腕を動かす。

 

 そして、その中身の液体を葉山に向かって溢した。

 

 葉山は、そんなものをものともせずに突っ込もうとするが――

 

「ダメぇーー!!」

 

 後ろから相模が葉山を押し倒し間一髪でそれを避ける。

 

 ジュワァ~、と千手が放った液体がかかった床が“溶け出す”。

 

 それを見て相模は背筋が凍る思いだったが、葉山はそんなこと知ったこっちゃないと言わんばかりに相模を荒々しく振り払う。

 

「どいてくれ」

「きゃ! ちょ、ちょっと葉山くん、落ち着いて! 一度、逃げて、比企谷たちに助けを――」

 

 その時、まるで、彼らの会話を聞いていたかのようなタイミングで。

 

 先程からずっと――首を刎ね飛ばしてからもずっと、千手の剣の一方が突き刺さったままだった達海の死体を。

 

 千手は、葉山に向かって見せつけるように、葉山の目の前へと無造作に放り投げた。

 

 葉山と相模の目の前に転がる、達海の死体。首のない、文字通り生前の面影を微塵も残さない、肉の塊。

 

 相模がひっ、と悲鳴を漏らす。それぐらい、惨い、惨たらしい、惨めな、惨殺死体。

 

 つい先程まで自分たちと共に戦っていた。

 

 生きていた。けれど、助けられなかった。

 

 達海龍也の、死んだ、骸。死骸。

 

 

 激情に駆られていた葉山の表情から、一切の感情が消え失せた。

 

 

「コロス」

 

 葉山は自身のトラウマの象徴であるXガンを躊躇なく引き抜く。

 それを見て、相模は葉山の肩に手を乗せる。

 

「だ、ダメだよ、葉山くん! 比企――」

 

 

「どいつもこいつも比企谷比企谷うっせぇんだよ!!!!」

 

 

 葉山隼人は荒々しく相模を振り払い、喉がはち切れそうな怒声を張り上げた。

 

「なんなんだよ!! なんでみんなみんなアイツの元に集まるんだ!! みんなみんなアイツを選ぶんだよ!! アイツの方法は毎回全部間違ってるじゃないか!! アイツが誰よりも傷ついて痛みを抱えて!! アイツの大事な人も助けた人もみんなみんな暗い顔をしてる!! そうやって得たプラスよりも明らかに失ったマイナスの方が大きい!! そんなバッドエンドばっかりじゃないか!! ああ分かってるよ!! 言われなくても分かってる!! それでも俺よりはマシだって言うんだろう!!? 言い訳ばかりで妥協ばかりで!! 何一つ切り捨てることも出来ないで!! 自分が矢面に立つこともしないで胡散臭い笑顔で輪を取り持つことしか出来なくて!! 大事な一つよりもその他大勢を選んじまう!! そんなビビり野郎でチキン野郎でゆとりの国の王子様な俺よりはマシだっていうんだろう!! そうだなそうだよな俺もそう思うよ!! だから俺は大嫌いなんだ!! そんな情けなくて中途半端で逃げてばかりで一向に変われない自分が!! 何も出来ないくせにアイツに全部押し付けてその癖幻想ばっか押し付ける自分が!! それでも……それでも俺は許せないんだよッ!!! 理不尽だって分かってる!! 何様のつもりだってのも理解してるっ!! それでも俺は許せないし大嫌いだ!! 俺が欲しくてたまらないものを持っているくせにそれを傷つけ続けるアイツが!! 自分の有能さを希少さを理解しないアイツが!! 自分がどれだけ素晴らしいものを持っているか気づかずにでもその中心にいるアイツが!! そんなあいつが羨ましいんだ妬ましいんだそうだよ嫉妬してるんだよアイツに!! どれだけたくさんの人から好かれてもそんなの誰も本当の俺を見てやしない!! そんな俺と違ってたとえ大多数から嫌われていてもそれでも本当に大事な絆を持ってる!! 俺が出来なかったことを平然とやってのける!! そんな比企谷八幡がッ!!! 俺はッ!! 葉山隼人はッ!!! 本当に心の底から魂の奥まで羨ましいッッ!!!」

 

 

 

「俺は、比企谷八幡になりたかった!!!」

 

 

 

 息を乱し、大きく肩を上下させる葉山を、相模は何も言わずに、ただ見ていることしか出来なかった。

 

 そして、葉山が絶叫している間、なぜか千手はピクリともせずに、その冷たい双眸で葉山を見つめていた。

 

 すると葉山は、今度は不気味に笑い出す。

 

「……ふふふふふふ。くくくくく。はははははははははははは!!!!だけど、もういい。ダメだ。諦めた。悟った。気づいたんだ。分かったんだ。――俺は、アイツには、比企谷八幡にはなれない。どう足掻いたって、どう転がったって、どう生まれ変わったって、あんな奴にはなれやしない。次元が違うんだよ、アイツは」

「そ、そんなことないよ!!葉山くんだって、きっと――」

「気休めはやめてくれ。君も気づいてるんだろう」

 

「俺は、もうダメなんだよ。自分でも分かるくらい壊れてる。――もう、取り返しがつかないくらいに」

 

 この言葉は、それまでの激昂が嘘のように、冷たく呟かれた。

 感情の起伏が激しすぎる。確かに、葉山隼人は壊れているのだろう。瞳には一切の感情が宿っておらず、ただ、その口角だけはまるでそんな自分を自嘲するかのように悲しく吊り上っていた。

 

 相模は、痛ましげに瞳を潤わし、葉山の背中を見つめる。

 そして、静かに涙を流す。

 

 だが、葉山は止まらない。止まれない。女の涙なんかではすでにどうにもならない。そんな深度で、葉山隼人は壊れている。壊れてしまった。

 

 相模は涙を拭く。すでに葉山隼人は、千手と戦いを繰り広げていた。

 

 涙する相模に一切取り合わずに、己の激情を発散するために千手に暴力を振りかざしていた。

 

 だが、千手はものともしない。葉山がどれだけ攻撃を食らわそうともビクともしない。

 

「ちぃ!」

 

 葉山は肉弾戦を止めて、Xガンを突きつける。

 青白い発光と甲高い発射音が響いた。

 クリーンヒット。葉山は千手の攻撃を受け流しながら、効果出るのを待ち――口元を邪悪に歪ませる。

 

 そして数秒のタイムラグの後、強烈な衝撃が千手に襲い掛かり、千手の顔面が醜悪に歪んだ――――が。

 

 千手の無数の手のある一本――その手に持っている一つの鏡が、唐突に輝きだす。

 

 それにより、千手の顔面が、みるみる内に元の相貌に、回復する。

 

 再生する。まるで映像を――時間を巻き戻したがごとく。

 

「――な」

 

 葉山は混乱し、一瞬硬直する。

 

 その瞬間、体の違和感に気付く。

 

 

――――葉山の左手が徐々に消失していた。

 

 

「――う、うわぁ!」

 

 葉山の表情に、恐怖の感情が復活する。左手はあのガンツの転送のように、徐々に体を侵食するように消失範囲が広がる。

 

 だが、その決定的な違いは、その痛み。今にも意識を失うかのような激痛により、これは“本当に”消えているのだと嫌でも理解させられ、思わず左手首を掴んでしまう。

 

 千手はその隙を逃さず、右側の手の剣を大きく振りかぶる。

 

 

 ズバッ! と、それは見事に――――相模南を、切り裂いた。

 

 

(――え?)

 

 葉山は、ゆっくりと消えゆく左手に目をとられていて、相模が近づき、千手と自分の間に割り込んだことにも気づかなかった。

 

 気づいた時には遅かった。すでに彼女は切り裂かれていた。

 

 彼女は、葉山を背にする形で、千手から彼を守った。だから、葉山には彼女の顔は見えない。だが、彼女が切り裂かれたことは、千手に降りかかる赤い液体で分かる。

 

 それでも、相模南は止まらない。

 

 千手に向かって、Xガンを構える。そして、撃つ。

 

 その機械的な発射音が、相模南が千手観音に立ち向かい続けたことを示していた。

 

 彼女は痛みに負けず、恐怖に負けず、最後まで戦った。葉山隼人を助けようとした。

 

 だがそれは、千手の交差する二刀の剣によって無慈悲に阻まれ――跳ね返される。

 

 見えない衝撃波が、二人を襲う。

 

 相模は、とっさに大きく両手を広げて、それを受け止める。

 

 葉山隼人を守る為に。

 

 だが、それは防ぎきれるものではなく、相模と葉山は離れの屋外まで吹き飛ばされた。

 

 

 

 

 

 これで、この部屋には誰もいない。

 

 君臨するのは、今回のミッションのボスである――千手観音、ただ一体。

 

 千手観音は、自身の側近――達海の連射攻撃を唯一耐え抜いた一体の側近がここを飛び出すのに使用した、天井の壁の穴から飛び出す。

 

 殺された仲間の仇を討つ為に。残りの侵略者たちを狩る為に。

 

 今、最凶の刺客による正当な復讐劇が、幕を開ける。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 だが、彼らはまだ生きていた。

 

「なんで!?なんでだ!?どうして俺を助けた!!?」

 

 葉山は涙ながらに相模を責めたてる。

 

 彼女は、左肩から右脇腹にかけて、深い傷を負っていた。

 どくどくと血が溢れ出ている。さらにその身にXガンの反射を受け、ダメージはもはや致命傷だった。

 

 そんな相模を、葉山は責めたてる。どうして助けたんだと泣き叫ぶ。

 

 自身の消えゆく左手に構わず、みっともなく喚き散らす。

 

「……なんでって、当たり前じゃない。――」

 

 

「――好きなんだから。気づいてたでしょ?」

 

 

 そう言って相模は微笑む。だが相当にダメージが酷いのか、脂汗を額に浮かべ、自然と力無い笑みになっていた。

 

 葉山はギリッと歯を喰いしばり。

 

「なんでだ!!」

 

 と、吠える。

 

「これまでの俺の痴態を見ただろう!!さっきの醜態を見ただろう!!それでもまだ分からないのか!!?俺は……君たちが思っているような綺麗な男じゃないんだッ!!」

 

 だが、相模は困ったように笑う。

 

「それくらい分かるよぉ。……うち、そこまで盲目じゃないよ」

「なら!!」

 

「……それでも、うちは葉山くんが好きなの。……弱くて、情けなくて、カッコ悪い。――それでも、誰かに憧れて、その人に認められたくて、必死に頑張る。……そんな男の子(はやまくん)は、すごく魅力的だよ。……うちは、そんな葉山君に、恋をしたんだよ」

 

 相模は笑う。それは、すごく儚くて、消えてしまいそうで、だからこそ美しい――雪のような笑顔だった。

 

 それは、少年の心の中に常にあった、あの氷のように美しい少女が浮かべる笑みとはまるで違う。

 

 葉山隼人を肯定して、葉山隼人だけを見ている、葉山隼人だけにしか見せない笑み。

 

「……比企谷は、確かに凄いよ。……うちも、この変なのに巻き込まれて、何回助けられたかは分からない。……正直、アイツがいなかったら、とっくに死んでたと思う」

 

 葉山の顔が俯く。その頬に、相模の力無い手が、優しく添えられた。

 

「……でも、葉山君は、そんな比企谷を助けたいんでしょ?……いつだって、傷だらけのアイツを……助けられるような、そんな……強い人に、なりたいんでしょう?……葉山君なら、なれるよ。……これだけ苦しんでも、それでもずっと、戦い続ける葉山君なら……きっとなれる。……私だけは……いつまでもそれを応援するよ」

 

 葉山は、ポロポロと涙をこぼして泣き続ける。

 

 いたんだ。こんなところに。

 比企谷八幡よりも、自分を見てくれている人が。自分の苦しみを、本当の、カッコ悪い葉山隼人を、理解してくれる人が。

 弱い自分を、情けない自分を、受け入れ、そして背中を押してくれる人が。

 

 葉山は、ギュッと自分の頬に添えられた手を握り、嗚咽でなかなか出ない声を絞り出す。

 

「…………あ………ありがどう……」

 

 そんな涙声の情けないお礼にも、相模は本当に幸せそうな笑みをこぼす。

 

 そして、相模の手から力が抜ける。葉山は、相模に必死で呼びかける。

 

「さ、相模さん!相模さん!!相模さん!!」

 

 相模は、そんな葉山に苦笑し、掠れる声で言う。

 

「……キス……して……」

 

 葉山は、その最期のお願いに。

 散々自分に尽くし、最期まで自分の味方であった少女の、ささやかな願いに。

 

 それまでの情けなさを吹き飛ばして、はっきりと、答えた。

 

「分かった」

 

 そして、ゆっくりと、キスをした。

 

 相模は、本当に嬉しそうに、一筋の涙を零す。

 

 そして、相模南は、大好きな人の唇の感触を味わいながら――――息を、引き取った。

 

 葉山は、それに気づき、唇を離す。

 

「……う……っ………ぁ……ぁ……」

 

 葉山は、子供のようにぐずりながら、Xガンを手にし――――すでに二の腕辺りまで消えかかっていた、自身の左腕を射撃した。

 

 タイムラグの後、自身の肉と骨が吹き飛ぶ。

 

「~~~~ッ!!がぁぁぁぁああああああ!!!!」

 

 痛みにのたうちまわりそうなのを、必死に蹲って耐える。

 

 それでも、なんとか消失が止まったのを確認する。

 ほとんど失くなってしまった左腕を、スーツを伸ばしてなんとか止血する。

 

 そして、ゆっくりと立ち上がる。その時、左腕がないからかバランスを崩したが、なんとか立ち上がった。

 

 相模の亡骸を見下ろす。本当は、せめて境内に乗せてやりたいが、片手では引きずる形になってしまうだろう。

 

 葉山は、ポツリと呟く。

 

「……行って、くるよ」

 

 

 こうして葉山は、ようやく、だが確実に一歩ずつ、ゆっくりと歩きだした。

 




 相模南――脱落。 葉山隼人――


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比企谷八幡は、いよいよ千手観音と対峙する。

 ハッピーバレンタイン。
 そんなわけで、一つもバレンタインに相応しくないドシリアスな展開です。


 その鎧はやたらと肉弾戦が強い個体だった。

 

 いままでの2m級のように無闇やたらに暴れるのではなく、拳法というか、格闘術のようなものを駆使している。

 

 おそらく他の個体とは格が違うのだろう。

 

 

 それでも、雪ノ下陽乃の敵ではなかったが。

 

 

 スーツで強化された肉体性能に、陽乃さんが元々かなり高いレベルで身に付けていたであろう合気道。

 

 それらで完全に鎧をいなし、翻弄している。

 

 ……もういいだろう。ここまで追い込まれて目立ったアクションを起こさないということは、飛び道具はない。

 

 なら、やることは簡単だ。

 

「陽乃さん!!」

 

 俺は、陽乃さんに合図を出す。

 

 すると陽乃さんはこれまでいなす程度だったのに対し、相手の渾身の拳を躱したその勢いとスーツの筋力アップを利用して、“こちらに向かって”大きく投げ飛ばす。

 

 そして俺は、Xガンを発射する。

 

 すると、鎧は地面を強く両手でつっぱり強引にバク天のような要領で躱す。

 

 それも予想通り。

 俺は逆の手に構えていたYガンを使用し、そいつを捕える。

 

 空中に高くジャンプしすぎた鎧は呆気なく捕えられた。

 いくら身体能力と反射神経に優れていても、飛び道具もなく空も飛べないコイツに、空中でYガンの捕獲ネットを避ける手段はない。

 

 俺はXガンを連射する。

 タイムラグの後、ソイツは岩石が粉々になるように破砕した。

 俺は一安心して陽乃さんも元に向かう。よかった。Xガンが効いた。これからの敵はみんな大仏のようにXガンの効果が薄いのかと思ったぜ。杞憂だったようだ。

 

 だが、油断は出来ない。現に、大仏以上の敵――ボスが残っているのは間違いない。

 

 100点メニューの2番。強い武器。100点と交換に手に入れるほどの武器。その存在が、俺の脳裏に過ぎる。

 Xガンじゃ倒せない――少なくとも正攻法では――敵が出てきたんだ。

 そんな奴らがいるから、このゲームに魅せられ、戦いを続けることを選ぶ奴らは、2番で武器を強化するのだろう。

 

 そしておそらく、大仏以上に強いボス――そいつは、Xガンを闇雲に撃って通用する相手ではないだろう。達海がやったように、一工夫必要に違いない。

 

 それか――

 

「やったね、八幡!」

「ええ。……でも、敵も強くなってきましたね。まさか――」

「……ごめんね、八幡。私、剣術はフェンシングくらいしかやったことがなくて……」

「何言っているんですか。あの一撃は避けられましたが、その後の肉弾戦で圧倒してたじゃないですか。むしろ囮と偵察のようなことを任せてしまってすみません」

「いいよ、それぐらい。この通り怪我一つないんだから」

 

 そう。俺たちは、本来鎧を瞬殺して、すぐに葉山たちの元へ向かうつもりだった。

 

 なので、こちらの最強の攻撃手段であるガンツソードによる一閃を敢行したのだ。(陽乃さんが)

 

 ソードを伸ばしての遠距離攻撃だったとはいえ、陽乃さんの振りは見事だった。たしかに本人の言う通り、本格的に習ったものではなかったのかもしれないが、それでも素人目からすると、申し分のない速さと鋭さだったと思う。

 

 だが、鎧は避けた。無駄のない完璧なタイミングと高さの跳躍で。

 

 そこで俺たちは瞬殺を諦め、なるべく迅速に倒す為、引き付け役と本命役に分かれて倒すことにした、というわけだ。

 

「気持ちを切り替えて行きましょう。陽乃さんのガンツソードは、ボス戦で必ず必要になります」

「――うん。そうだねっ!」

 

 さすが陽乃さんだ。メンタルコントロールが上手い。表情に力が戻った。

 

 俺は再びマップを開く。頼む。まだ生きて――

 

 その時、どこからかXガンの連射音が響いた。

 

 もちろん俺たちではなく、おそらく葉山たちでもない。

 なぜなら、音は近くから――高所から聞こえたから。

 

 俺は上を見上げる。案の定、つなぎさんが戦っていた。そして、その相手は、同じように天井にいる。

 

 たしかアレは――千手観音。

 

 俺は今度こそマップを確認する。エリア全体が映るようにする。

 

 残る青い点は――1つ。つまり、コイツがボスか。

 

 ……その事と同時にマップを見たことで容赦なく襲い掛かってきた現実に、俺のメンタルは崩れそうになる。

 

 青い点は、確かに1つ。それは、ある意味朗報だ。残り時間は、約20分。それだけの時間をコイツ一体に費やすことが出来て、そしてコイツを倒せば終わり。ミッションクリアだ。

 

 だが、赤い点も大幅に減っていた。その数は、4。

 

 4。4人。それは、つまり俺と、陽乃さん。そして今戦っているつなぎさん。そして、残る1つは、あっちに行ったメンバーが、たった一人だけ。その一人を残して、みんな殺された。

 

 おそらくは、あの、千手観音に。

 

 ……………………。

 

――考えるのは、後、だ。

 

 悲しむことは、後でいくらでも出来る。

 謝ることも、後でいくらでも出来る。

 

 今は、まだ生きている、つなぎさんに加勢に行くことだ。

 

「――陽乃さん。アイツがボスです」

「うん。了解」

 

 間髪入れず陽乃さんが頷く。

 

 だが、どうする?俺たちもあそこに上るか?だが、アイツがそんな決定的な隙を逃してくれる奴とも思えない。なら、つなぎさんのように、ここから射撃で援護の方が――

 

 その時、目を焼くような強烈な閃光が走る。その光は、千手から放たれたものだった。

 つなぎさんはそれを避けたが――その光は横薙ぎに振るわれ、屋根が一部分切り落とされた。

 

「は、八幡!あれって――」

 

 レーザーかっ!

 田中星人はビーム弾を使っていたが、あれは予備動作もないし、速度も威力も段違いだっ!

 くっ!さすがにボスかっ!一筋縄ではいかないっ!

 

 俺はXガンを構える。……だが、この距離では狙いが定まらない。Xショットガンなら別かもしれないが、俺は持ってない。それに、遠距離射撃は技術が必要だし、上から下を狙うならまだしも、下から上は物理的にかなりきつい。

 

「おい!!こっちに来い!!一対一で勝てる相手じゃない!!」

 

 俺はつなぎさんにそう大声で呼びかける。

 だが、つなぎさんは一瞬こっちを見たものの、すぐに回避行動を続行する。

 

「お、おい!!なんで――」

「八幡!!あの人スーツ着てない!!」

「!!」

 

 くそっ!!そうか!!

 ここまで生き残って、ばっちり戦力になっていたから忘れてたけど、あの人はスーツを着ていないんだ。

 あの人は只者じゃなさそうだから、あの高さからも降りろと言われれば降りれるのだろうけど、あんな奴の攻撃を躱しながらだと難しいか。

 

 なら、千手の意識をこっちに。それだけなら、この距離でXガンでもいけるだろう。

 

「千手から離れろ!!」

 

 俺はそう再度叫び、つなぎさんが離れたのを確認してXガンを放つ。

 

 タイムラグの後、砕けたのは千手の近くの屋根。注意を向けるのが目的とはいえ、これでも当たれば儲けものだと思ったんだが、大きく外れた。やっぱりこの距離じゃ厳しいかっ。

 

 だが、千手の意識をこっちに逸らすのは成功した。遠目で分かりづらいが、アイツのいくつもある顔の中のメインっぽい正面の一番デカい顔(って言っても他のが小さいだけで普通の大きさの顔)がこっちを見た。

 

 ゾクリ、と寒気が走った。

 この距離で、顔だけ動かしてこっちを見られただけで。体の向きすらこっちに向き合っていないのに。

 

 恐怖が走った。田中星人のボスとはまた違う恐怖。あっちは威圧するような恐怖だったが、こっちはまるで射抜くような。

 

 その恐怖で体が一瞬硬直したが、ピカッと千手の手元が光ったことで、一気に覚醒する。

 

「陽乃さん!!」

「きゃっ!!」

 

 俺は陽乃さんを抱きかかえ、とにかく全力で回避する。

 一瞬後、俺と陽乃さんが居た場所を、レーザーが着弾する。

 

 大理石製であろう石畳を深々と抉っている。その威力にまた背筋に恐怖が走るが、俺はすぐに立ち上がり、陽乃さんの手を引いて距離をとる。

 

 陽乃さんはすぐに復帰し、手を離して俺と並んで走った。

 

 俺は再び千手に目を向ける。アイツは体ごと俺たちに向き合っている。

 

 そして、近くにつなぎさんはいない。どうやら逃げられたらしい。

 

 だが、そのおかげでアイツは俺たちに完全にターゲットを変えたようだ。

 俺は立ち止まり、陽乃さんも止まる。これ以上距離をとるよりも、まずは千手の挙動に目を光らせる。発射のタイミングと同時に飛べば、この距離ならあのレーザーは避けることが出来ることは分かった。

 

 アイツは、じりじりと屋根の端に向かって歩いている。

 

「……陽乃さん。次のレーザーが来たら、バラバラに逃げましょう」

「……分かってるわ。一か所に固まってたら、いい的だものね」

 

 俺は頷く。そして、そのタイミングを待つ。

 幸い、時間はまだある。こちらが攻撃をするチャンスも必ず来るはずだ。それまでは、アイツの性質を見定める。

 

 アイツはついに屋根の端に立つ。そして、俺たちを屈服させるかのように、高みから見下ろす。

 このまま降りて、接近戦を仕掛けてくるつもりだろうか。あのレーザーは遠距離向きだと思うが、接近戦にも何か武器が?千手の名の通りうじゃうじゃと生えている手にはそれぞれ何か武器や宝具やらを持っていて、その中には剣もある。あれを使うのか?

 

 ……飛び道具も、近接武器も所持。そして、あのフォルムで屋根に上ったってことはそれだけの運動性能もある。かつてないハイスペックな敵だ。

 

 ……くそっ、焦るな。まだ二十分近くある。とにかく攻撃を避けて、アイツを観察して、弱点を見つけるんだ。倒すタイミングは必ずく――

 

 

 その時、千手の背後に青白い光が瞬いた。

 

 

 え?

 

 バンッ!! と、千手の上半身が吹き飛ぶ。そして、そのまま下半身はバランスを崩してグシャ という情けない音と共に地面に落ちた。

 

 

 ……え?これで終わり?

 

 

「は、八幡。……ボス死んじゃったけど?」

 

 陽乃さんが呆然と可愛い声で言う。いつも不敵なのに、予想外のことが起こったらきょとんとなるはるのんマジ天使。

 

 いや、そんなこと言っている場合じゃない。え?うそ?こんなあっさり?なんか、脳内で恐怖心抑えながら必死に戦力分析とかしてた俺超恥ずかしいんだけど。

 

 先程まで千手が立っていた場所にXショットガンを掲げたつなぎさんが現れる。なるほど、俺たちに注意が向いた瞬間、逃げたのではなく、おそらく屋根の反対側とかに身を隠して、不意討ちしたのか。

 

 てか、かっけぇ!めっちゃハードボイルド!今もこっちに向けている微笑が渋い!惚れる!平塚先生紹介したい!

 

 ……にしても、本当にこれで終わりなのか?いや、これで終わりなら最高に嬉しいんだが、呆気なさすぎて――――嫌な予感が拭いきれない。

 

「……一応、確認してきます。陽乃さんはここに「は、八幡!!あれ!!」―?」

 

 俺は、陽乃さんが血相を変え指を差す方向に、目を向ける。

 

「――ッ!!」

 

 思わず息を呑んだ。

 

 千手の下半身が一人手に立ち上がり、上半身のあった場所に肉片が集まっている。

 足元の何かが光輝いていて、まるで神秘的な奇跡を目撃しているような――いや、ないな。そんないいものじゃない。よくてセルだな、連想できても。絶望感からいってもそちらの方が的を射ている。

 

 ……ホント、冗談じゃない。倒したと思ったら復活とか、そういうのは漫画だけにして欲しい。付き合ってられねぇよ。

 

 近接戦闘も、遠距離射撃も、運動性能も完璧で、その上回復能力も完備、か。

 

「……チート過ぎんだろ」

 

 そうこう言っている間に、千手は元の姿を取り戻す。…………死の淵から蘇る度にパワーアップとかないよね?そこまでされたら泣くよ。マジで。

 

「……八幡、どうする?」

 

 さすがの陽乃さんもちょっと引いてるっぽい。だよね、そりゃ。

 

「……漫画とかじゃあ、どっかにある核を壊さない限り何度でも復活、っていうのが定番ですよね」

「なるほど。なら、その核っていうのを探してみようか」

 

 陽乃さんはガンツソードを取り出す。……アイツは下に降りちまったからな。近接戦闘になるか。

 

「……ですね」

 

 俺もXガンを構える。……これがどこまで通用するか。ダメ元で、透明化を試してみる――

 

 ピカッと再び光る。

 俺はピクッと動きかけたが、レーザーはこちらに放ったものではなかった。

 

 狙いは、先程まで自分がいた――そして、千手を撃ったつなぎさんがいる建物そのもの。

 

「「――ッ!!」」

 

 俺と陽乃さんは絶句する。

 俺はすぐにつなぎさんの姿を探したが、少なくとも見える所にはいない。また反対側に逃げたのか、それとも今度こそ降りたのかは分からない。だが、出来れば後者であって欲しい。

 

 なぜなら、千手はレーザーで建物を貫いた後――それを縦横無尽に振り回し、バラバラに焼き切ったからだ。

 

 大仏が登場した時の本堂のように、ズズーンと音を立てて崩れ去る。その様子は、田中星人の時のボス戦を彷彿とさせた。

 

 だが、あの時とは違い、ボスはノーダメージで健在で、俺たちの方に向かってくる。

 

「――陽乃さん。行きましょう!」

「――ええ!」

 

 今度こそ、俺と陽乃さんのボス戦が始まった。

 

 陽乃さんが、ガンツソードを携え千手に向かっていく。

 

 俺は透明化を施し、その後ろを駆ける。

 

 ピカッ!千手の手元が発光する。

 それを陽乃さんは身を屈めて最小限の動きで回避した。もうタイミングを掴んだのか。さすがだ。

 

 レーザーは、あの手に持つ小さな灯籠から放たれている。それを両手に持つということは、二発同時発射が可能ということか。

 

 ……やはり、コイツの特殊能力は、あの無数の手に持つ宝具に依るものか。

 

 ピカッ!

 ――ッ!!ヤバい!!

 

「八幡!!」

 

 俺は間一髪避ける。そして透明化を解除する。

 

「……大丈夫です。それより前を向いて!来ます!」

 

 俺がXガンを放ちながら俺が声を上げると、陽乃さんは剣を両手で掲げるようにし、頭上から振り下ろされる剣を防ぐ。

 

 千手はもう一方の剣で、両手が塞がっている陽乃さんを襲うが、その腕は俺のXガンの効果が現れ吹き飛ぶ。

 

 陽乃さんはその間に距離をとり、俺の近くまで戻る。

 

「ゴメン、ありがと」

「いえ。……それより、どうでした?」

「……思った以上に、剣の扱いが巧み。肉弾戦は、さっきの鎧と同等以上」

「……こっちも、やはり透明化は看破されました。……鎧と同じくらいということは、肉弾戦なら勝てますか?」

「……あのレーザーがなければ」

 

 その言葉に、窮する。

 レーザーは灯籠から放たれることは分かった。だが――

 

 今も、吹き飛ばした剣を持つ腕は、“剣ごと”再生している。あの宝具も肉体の一部ってわけだ。

 

 ……やはり、あの再生能力をなんとかしないと。アイツを倒せない。

 陽乃さんの言う通り、核があると仮定しよう。なら、その核はどこだ?定番は、やはり心臓や脳。だが、そこはさっきつなぎさんが上半身全体を一気に吹っ飛ばした。だが、ダメだった。

 なら、セルのように核が恐ろしく小さい?それとも、これも定番だが、体内ではなくどこか別の場所に隠しているというパターン?ヴォルデモートみたいにいくつか分けてあるとかだったらお手上げだぞ。もしそうなっていたとしても、隈なく探している時間も余裕もない。

 

 ……くっ。唯一の幸いは、この再生が瞬時ではなく時間がかかることだが……。

 

 時間?そうだ。再生する度に、その間光っている宝具が――

 

――ッ!!千手が突然跳んだ!!

 

 俺と陽乃さんは身構えるが、千手は俺たちに向かって跳んだのではない。

 

 むしろ、何かから距離をとって回避するように。

 

 それとほぼ同時に、視界の隅で青白い発光が瞬き、甲高い発射音が響く。

 

 つなぎさんだ。やはり生きていたのか。

 

 だが、それは千手に察知された。再生中は身動きがとれないと踏んだのか。だが、それは間違いだった。

 

 手に持つ鏡のようなものの発光が止む。再生が完了し、剣を持った腕が復活した。

 

 やはり、あの鏡が再生能力の宝具か?なら――――あれが核か?

 

 っ!! 千手がつなぎさんへ突撃する!

 

 まずい!

 俺と陽乃さんも、千手の後を追いかける!

 

 つなぎさんが、迫ってくる千手に向かってXショットガンを放つ。

 

 千手は、二つの剣を交差するようにして、それを防いだ。

 

 防いだ!?避けたり、効かなかったりする敵はいたが、防ぐなんて敵は今までいなかったぞ……ッ。

 

 いや、違った。アイツは防いだんじゃない。

 

 千手は、交差した剣を開くようにして――跳ね返した。

 

 つなぎさんは銃を捨て斜め前方に跳ぶ。そこに、Xガンの衝撃波が襲った。

 

 ……なんて奴だ。いくつ能力があるんだ。

 

 千手はつなぎさんに向かって剣を振りかぶる。

 

 くそっ!間に合わない!Xガンはタイムラグがあるし、Yガンも――

 

 ビュン!という音が隣から響く。

 

 陽乃さんは、ガンツソードを槍のように投げた。

 凄い、これなら――

 

 キィン! と千手は、振りかぶっていない左側の剣でその攻撃を見向きもせずに、それを弾き飛ばした。

 

「――な」

「――え」

 

 くるくるとンツソードが俺たちの頭上を放物線を描きながら飛ばされる。

 俺達はそれを追うことが出来なかった。

 

 その瞬間に、つなぎさんが斬られたからだ。

 

「ごほぁ!!」

 

 とどめのつもりなのか。千手はさらにレーザーで胴体を焼切り、俺たちに向き直る。

 

 その時、俺の中には、本当に申し訳ないけれど、つなぎさんが殺されたことによる怒りや悲しみといった感情はなかった。

 

 あるのは、恐怖。

 

 殺される。その圧倒的な恐怖。

 

 強すぎる。

 

 

 

 チャキッ。

 その音に、俺は隣に目を向ける。

 陽乃さんだった。陽乃さんは、失ったガンツソードの代わりに、Xガンを構えていた。

 陽乃さんは、まだ闘志を失っていない。

 

 だが、いくら雪ノ下陽乃とはいえど、この状況に恐怖していないわけではない。

 現にその手はわずかながら震え、呼吸も乱れている。

 

 

 それでも、彼女は屈しない。

 

 

 なぜなら、彼女は雪ノ下陽乃だから。

 

 

 この強く、美しく、そして誰にも屈さず、誰よりも自由であろうという、この生き様に。

 

 

 俺は惹かれた。この人に、雪ノ下陽乃に魅せられたんだ。

 

 

 この人を失いたくない。この人と並び立つ――この人の隣に立つ男でありたい。

 

 

 それにふさわしい、男になりたい。

 

 

 そんな分不相応な夢を。――愚かにも、抱いてしまった。

 

 

「――陽乃さん。俺が敵を引き付けます。だから、その隙に剣を拾ってきてください。」

「――え?」

「あれは弾かれただけで、まだ折れてはいないはずです。」

 

 剣が必要ならば、俺が俺の剣を渡せばいいだけの話だ。

 そのことに、陽乃さんが気づかないはずがない。

 

 だが俺は、それに気づかないふりをして、とぼけながら言った。

 

「……それに、試したいことがあります」

「……死なないよね」

「もちろんです」

 

 俺は、陽乃さんの目を見ずに、簡潔に答えた。

 

 もちろん、死ぬつもりなんて毛頭ない。試したいことがあるというのも本当だ。

 

 

 だが、それでも一番は、陽乃さんを傷つけたくないという思いが大きかった。

 

 

 今更だと思うかもしれないが、この人への想いと――そして、千手の強さを再確認して、俺は急に怖くなった。千手と陽乃さんを戦わせることに。

 

 失くしたくない。無くしたくない。亡くしたくない。

 

 もう、あんな思いをするのは嫌だ。

 

 俺はもう一度、味わっている。

 

 そして、このガンツのミッションで何度も思い知らされている。

 

 嫌だ。もう嫌だ。

 

 

 掛け替えのないものをなくすのだけは、もう絶対に嫌だ。

 

 

 これは非合理的で、愚かで、傲慢な――ただの馬鹿な男の意地だ。

 

 

 好きな女の前で格好をつけたい。そんな痛い男の暴走だ。

 

 

 どう見たって、どうしたって相応しくなんかない高嶺の花に、無様にも恋い焦がれた男の悪足掻きだ。

 

 

 ……それでも、陽乃さんを失わず、傷つけず、この戦争に勝てるかもしれない可能性があるなら。

 

 

 そんな一縷の希望を掴むことが、俺の命だけを危険性(リスク)に掴みとれる可能性があるなら。

 

 

 挑むべきだ。挑戦すべきだ。それがどれほど愚かで、非合理で、くだらない馬鹿な男の意地だとしてもッ!

 

 

 ……突破口は見つけたんだ。なら、後は俺が――

 

 

 俺は陽乃さんの元から離れ、千手観音に向かって一目散に駆け出した。

 




 さて。寝ますか。
 寝て起きたらさっさと二月十五日になってればいいな。


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そして比企谷八幡は、千手観音に戦いを挑む。

八幡vs千手。一騎打ちです。

にしても、もう30話か。ほぼ一ヶ月毎日更新しても、まだまだストックあるとか、俺結構書いたんだなぁ。


「八幡!! ――っ!」

 

 陽乃さんは何か言いたげだったが、それでも俺の言った通りに剣を拾いに行ってくれた。

 

 陽乃さんが剣を拾い終わって戻ってくるまでに、決着をつける。

 

 

 再生能力さえ無効化すれば、Xガンが効かない相手ではない。

 

 俺はXガンを発射。そして、すぐさま回避する。

 

 千手は両手の剣を交差して防ぎ、そして大きく開いて跳ね返す。

 

 後方の地面が時間差で大きく抉れたが、俺はそのまま走り続けて、千手との距離を縮める。

 

 ……やはり、あの防御方法は、二本の剣を使うことで初めて使える方法のようだ。千手の体自体は、大仏と違って一発でもまともに食らえば大きく吹き飛ぶ。それは、俺が腕を破壊したことや、つなぎさんが上半身を吹き飛ばしたことで、確かだ。

 

 なら、狙うは背後か、剣の内側の懐――――すなわち接近戦。

 

 千手の姿が閃光に包まれる。

――ッ!! レーザーが来る!!

 

 俺は全力で飛び込む。そのわずか上をレーザーが通り過ぎる。

 ッ、まだだ! このレーザーは射出したまま動かして、武器にすることも出来る!

 

 ヒュンッ ヒュンッ とレーザーの鞭が空間を切り裂く。

 俺は、とにかく全力で走り、避ける。

 レーザーの鞭は確かに速いが、射出レーザーのように光速というわけではない。

 出所は分かっているんだ。それにこの暗闇じゃあ、発光するレーザーの全体像がよく見える。

 大丈夫だ。避けられる!

 

 ピカッ! 

――ッ! 来たか、二発目!!

 予想通り、左右の灯籠のどちらからもレーザーを出してきた。それも同時に。

 一発目よりも距離が近く、レーザーの鞭を避けながらだったから、かなりギリギリだったが、なんとか避けることが出来た。こればっかりは運だな。悪運ばっかりは強いらしい。

 

 だが、レーザーの鞭が二本に増えたところで、相当厳しくなってきた。

 紙一重、間一髪の回避が続く。まずい。このままじゃ捉えられるのは時間の問題だ。

 

 もっと距離を詰めろ!レーザーは遠距離、中距離用の武器だ。距離を詰めればレーザーは使わないはずだ。

 

 懐に。とにかくアイツの懐――

 

 

――?レーザーがやんd

 

 ビュォン!! という風切り音。

 俺は咄嗟にYガンを盾n――

 

――ッ!! だ、ダメだ!!

 

 俺は大きく仰け反るようにして躱す。Yガンは真っ二つに斬られ、俺の前髪がパラパラと落ちる。

 

 剣。

 ついに、千手は武器を変えた。つまり、それだけ近寄れた、ということだ。

 

「っ…うぉぉおおおお!!」

 

 俺は千手のどてっ腹を殴る。ズサササッと千手は片足を引くが、結果としてビクともしない。クソッ。さすがにネギ星人の時のようにはいかないか。

 

 千手は剣を振るう。俺は無我夢中で避ける。

 この剣はYガンを斬り裂いた。スーツは当てにならない。おそらくはレーザーもそう、容易くスーツを貫くだろう。

 

 ゾクッ と悪寒が襲う。恐怖心が再びせり上がるのを感じる。

 つまり、コイツの攻撃は全て、一撃必殺。

 

 一発でも食らえば即死。一発でもその身に浴びれば必死。

 

――ッ!! 今そんなこと考えている余裕は無い!!

 

 千手の鋭い右袈裟斬り。

 俺はそれを、片足を引くよう下げて身を開くことでギリギリで躱した。自分でも一瞬真っ二つに斬られてしまったのではと錯覚するほど、まさしくギリギリで。

 

 そして、千手はもう一方の剣を、俺の体を串刺しにするように、突き出す。

 

 俺は、その突きを繰り出す千手の腕を――――片手で掴んだ。

 

「あああああぁぁぁぁぁ!!!」

 

 俺は、その突きの勢いを利用し――陽乃さんのような熟練の技術ではないが――体を回転させて、地面に倒れ込ませるように投げ飛ばした。

 

――今だッ!!

 

 今しかチャンスはない。俺はXガンで千手が下から4番目の左手持つ――――鏡。

 

 それ目がけて、発射する。

 

 ギュイーン と青白い発光と共に発射音が響く。

 

 よし!!

 

 その時、強烈な閃光により目が焼かれそうになる。倒れこみながら、苦し紛れのように放たれる、千手のレーザー。

 だが、俺はその時にはある程度距離をとっていたし、千手から見て背後への攻撃だったので、狙いは粗く、避けるのは容易かった。

 

 千手は即座に立ち上がり、こちらに向きなお――

 

――バンッ

 

 千手の鏡と、それを持っていた腕が吹き飛んだ。

 

「きょーーーー!!! きょーーーー!!!」

 

 甲高く啼き叫ぶ千手観音。

 

 その腕は――――再生しなかった。

 

「―――っしッ」

 

 俺は小さく拳を握る。これで一気に勝ちに近づいた。もう完全再生(パーフェクト・リバース)なんてふざけたことはさせない。

 

 お互いが背水の陣の、凄絶な殺し合いだ。

 

「きょーーーー!!!!」

 

 再び、強烈な発光。俺は身を思い切り屈める。その頭上を交差するレーザー。

 交差。それはつまり、いきなり二発のレーザーを同時に放ってきたということ。

 つまり、全力全開モードってわけだ。まさしく白い悪魔だ。白くないけど。

 

 俺は一気に距離を詰める。

 

 その頭上から、今度は二刀の剣が同時に襲う。

 

「――くっ!」

 

 俺は、それを両手で掴んで防いだ。防いでしまった。

 

 ッ!やっちまった。両手が塞がった。だが、重い。外せない。さすがはボス。パワーも一級品か。

 

 ギギギと力比べのような体勢になる。

 

 その時、千手は、一番下の左手に持った水瓶を傾けた。

 

――水瓶? それも武器なのか?

 

 ぞっ となぜだか分からないが、俺は猛烈な嫌な予感がした。

 

 俺は、両手に掴んだ剣を無理矢理地面に叩きつけるようにしてやり過ごし、その水瓶から零れた液体を強引に身を捩るようにして、無理矢理、躱す。

 

 その液体は地面に零れると、ジュアという音と煙を立てた。

 

――溶解液!? 酸か!? コイツ、一体何種類の武k

 

 

 ピカッ と、俺の視界の隅で何かが光った。――――気がした。

 

 

 その数瞬後、俺の左肩口に、燃えるような痛みが走る。

 いや、本当に燃えていたのかもしれない。それくらい痛かった。というより熱かった。

 

 水瓶の攻撃に気を取られ、それがどういうものなのかを確認する為に、それまで極限まで高めていた危機察知を疎かにした――――と、パニックになった頭の中で妙に冷静な部分がそう分析していた。

 

 あと、勝手にレーザーが遠距離用だと決めつけたのが悪かったのだろう。

 それにより、懐に潜り込むことが出来た時点で、無意識にレーザーを選択肢から外してしまった。

 

 一撃必殺。

 

 先程、俺は千手の攻撃をそう結論づけた。

 その読み通り、今回まだまともに星人の攻撃を受けていなくて万全だった筈の俺のスーツを、コイツのレーザーは簡単に貫いた。

 

 まだ、肩口だ。

 心臓や脳をやられたわけじゃない。まだだ。まだやれる。

 

 俺は意識が飛びそうになる激痛の中、必死にそう自身を鼓舞する。

 

 だが、事態はそう甘くなかった。この戦争は、そんな温くなかった。

 

 すでに、俺の体勢は完全に崩れている。

 

 これまで、千手の攻撃を奇跡的に紙一重で、間一髪で避けてきたが、これじゃあ紙一枚分の厚みも髪一本分の入る隙間もありやしない。

 

 

 

――ちくしょう。

 

 

 

 もう一方の、レーザーが光る。

 

 

 

 どこかで、俺の名前を叫ぶ陽乃さんの声が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 雪ノ下陽乃が千手に弾き飛ばされたガンツソードを拾って振り返ると、八幡がまるで合気道の熟練者のように見事に千手を投げ飛ばしていた。

 

(――すごい)

 

 陽乃は感嘆する。

 元々、逆境に強い子だとは思っていた。

 追い込まれると自分の予想を越えて面白い結果を導き出す。そんなところに、陽乃は始め興味を持った。

 

 そして、彼は再び自分の想像を越えた。

 

 あの千手を、彼は追い詰めている。

 

 このわたしですら恐怖し、慄いた強敵を前に、一歩も引かずに互角に渡り合っている。

 

 陽乃は、自分の胸が激しく鼓動するのを感じる。

 

 彼に見蕩れ、見惚れる。あぁ、今の自分は、まるで初心な乙女のような表情をしているだろう。

 彼女の妹が見たら、それこそ呆気にとられて硬直するような。彼女のことを深く知っている人間ほど、信じられないと、そんな反応を示すに違いない。

 

 雪ノ下雪乃。

 陽乃にとって、この世の全てと言っても過言では“なかった”少女の顔が浮かび、陽乃の胸に別種の鈍痛が走る。

 

 彼女の中で、雪乃の大きさが変わったわけではない。

 

 ただ、彼女に対する気持ちと同等以上に大事な想いが、陽乃の中で膨れ上がっただけ。

 

 あのキスから、必死に気づかないように目を逸らしていたことに直面し、陽乃は顔を俯かせる。

 

 

「きょーーーー!!! きょーーーー!!!」

 

 突如響いた奇声に、陽乃は顔を勢いよく上げる。

 

 その発生源は千手だった。

 そして、それまでとはレベルの違う猛攻を、八幡に浴びせ始める。

 

 八幡はそれらを避けているが、それもいつまで持つか分からない。

 

 陽乃は駆け出す。拾った剣を仕舞い、全力疾走で。

 

 その身を苛む圧倒的な焦りに突き動かされるように。

 

 

 

 だが。

 

 

 陽乃の目の前で。

 

 

 必死のレーザーが、八幡を――――貫いた。

 

 

 

(――うそ。――い、や)

 

 

 陽乃の頭が真っ白になる。死ぬ。死んでしまう。八幡が。殺されてしまう。

 

 陽乃は足元に転がる物体――そこら中に飛び散っている、大仏の残骸、死骸――を掴み、投擲した。

 

 その行為に、陽乃らしい策略や裏はなかったのかもしれない。

 

 ただ八幡の命を奪おうとする死神を、少しでも八幡から遠ざけたくて、無我夢中だっただけかもしれない。

 

 だが、それは結果として、八幡を貫き、そしてさらに貫こうとした二本のレーザーから八幡を救う遮蔽物となった。

 

 八幡の体が、瞬間的にレーザーの楔から解放される。

 

 しかし、そんなものは一瞬の気休めに過ぎない。

 

 千手の殺人レーザーは元大仏の肉塊を何の抵抗もなく貫き、再び八幡に襲いかかる。

 

 

「八幡!!!」

 

 

 陽乃は必死で、八幡に飛びつく。スーツの肉体強化を最大限に発揮したそれは、凄まじい跳躍力を生んだ。

 

 踏切地点が遠すぎたのか――それでも、あと一瞬でも遅れたら間に合わなかっただろうが――八幡の腰や胴体には届かず、両足を抱えて押し倒すので精一杯だった。

 

 それでも、そのおかげで八幡の左肩口を貫いていたレーザーは八幡の顔右横を擦過するだけで、回避に成功した。

 

 だが、八幡の胴体を狙った二本目のレーザーを回避しきることは叶わず、八幡の右脇腹を貫いた。

 

「がぁぁぁああああああああ!!!」

「八幡!! ――ッ!!」

 

 陽乃は八幡の絶叫に気を取られるが、すぐさま殺気を感じて、八幡を抱えて走り出す。

 

 背後から再び殺人レーザーが迫る。陽乃はとにかく距離をとる。

 

 そして、なるべく土の地面を狙いながら、Xガンを乱射する。

 

 バンッ バンッ バンッと連鎖的に地面を吹き飛ばす。

 それはもちろん、千手の進行の妨げになる程には地面を抉れない。

 

 それでも、大量の土煙が巻き起こる。

 

 陽乃はその隙に、建物の陰に隠れた。

 

 見つかるのは時間の問題。だが、今はその僅かな時間でも欲しかった。

 

 

「がぁぁぁ……はぁ……はぁ……は、陽乃さん?」

「八幡!! 大丈夫!?」

 

 大丈夫なはずがない。

 体に二か所も風穴が空いているのだ。特に脇腹は抉り取られていると言っても過言ではないほどの大怪我だ。

 

 だが、彼はそれでも大丈夫かと聞かれたら、こんな状態でも――

 

「……大丈夫ですよ。助けてくれて、ありがとうございます。それより、陽乃さんはどうですか? レーザー、当たりませんでしたか?」

 

 陽乃は、グッと唇を噛みしめる。

 ああいえば、彼はこう強がることは分かっていたのに。あろうことか、こんな状態の彼に気を遣わしてしまった。

 

 陽乃は彼が――比企谷八幡がこんな状態になって予想以上にパニックになっている自分に気づく。

 自分は、いつの間にこんなに弱くなってしまったのだろう。

 

「……わたしは、大丈夫。――それより八幡。いくつか確認しておきたいことがあるんだ」

 

 自分は、わたしは、雪ノ下陽乃は、もっと強かった。

 自分より優れている人間を、わたしは知らない。

 いつか、あの母でさえも超えてみせる。その自信は、確固としてあった。

 

「――アイツがボスで、残り一体。アイツを倒せば、ミッションはクリアで、あの元いた部屋に戻るんだよね」

「……ええ。そうです」

 

 だけど、わたしは弱くなった。

 雪乃ちゃんだけで占められていた、わたしの大事なもの。そこに八幡は、どんどん侵入してきて、今じゃ雪乃ちゃん以上に占領している。

 

 こんなのダメだって分かっているのに。

 そんな資格ないって分かっているのに。

 

 もう二度と、雪乃ちゃんから、大事なものを奪わないって、決めたのに。

 

 

 ……それでも、それでも、わたしは――

 

 

「そして、クリアの時、生きてさえいれば。五体満足で、怪我も治った状態で、あの部屋に送られる。――そうだよね?」

 

 

 わたしは――――

 

 この子を――この人を――この男性(ひと)を――――

 

 

「……陽乃さん。まさか――」

 

 

 失いたく、ない。

 

 

 わたしのものだ。誰にも渡さない。神様にだって、奪わせやしない。

 

 

「わたしが――」

 

 

 

 

 

 たとえ、雪乃ちゃんに、一生恨まれることになろうとも。

 

 

 

 

 

「あれを、倒すよ」

 

 

 雪ノ下陽乃は立ち上がりながら、威風堂々と宣言した。

 

「ま、待ってください!! 一人でなんて――」

 

 八幡は、強引に体を起こしながら反論するが――

 

「一人で勝手に突っ走って、こ~んな大怪我を負ったのは誰かな~?」

 

 ちょん。と八幡の肩口の傷に触れる。

 

「~~~~~~っ!!!」

 

 八幡は悲鳴を必死に堪えて悶える。

 

 陽乃はくすっと笑い、そして表情をガラリと変えて言う。

 

「今の八幡が一緒に戦っても、わたしは八幡に気をとられてまともに戦えない。――――わたしを死なせたくないなら、ここでじっとしてて」

 

 ゾクッと八幡は呑まれる。

 

 この圧倒的さ。底知れなさ。これが、雪ノ下陽乃。

 

 八幡は歯噛みする。

 こんな情けない自分が、この人と並びたいなんて、やはり烏滸がましかったのか。

 

 結局自分は、この人の背中を見送ることしか出来ない。この人の背中しか見えない。

 

(……雪ノ下は、こんな気持ちを、ずっと味わってきたのか……)

 

 八幡は、思わず顔を俯かせる。

 歯がゆい。悔しい。情けない。

 

 

 陽乃は、そんな八幡を、優しく抱きしめた。

 

 

「――ぁ」

「八幡。わたし、絶対帰ってくる。アイツを倒して、全部終わらせて――――そしたら」

 

 

 

「わたしに告白して」

 

 

 

 そう言って、妖しく微笑む。

 そして、八幡の唇を力強く奪った。

 

 

 ああ。やはりこの人は、雪ノ下陽乃だ。

 

 八幡は、再び、心の底から魅せられた。

 

 雪ノ下陽乃に、溺れた。どうしようもなく狂ってしまった。

 

 本当にずるい人だ。本当にすごい人だ。

 

 その言葉一つで、その行動一つで、その表情一つで。

 

 その存在全てで。

 

 この俺の心を掴んで離さない。簡単に揺り動かす。

 

 

 永遠のようなキスを終え、唇を離す。

 陽乃は、名残惜しさを精神力で断ち切って、スクッと毅然と立ち上がり、八幡に背を向ける。

 

 そして、立ち去ろうとした時――

 

「――アイツは」

 

 八幡が、ぶっきらぼうに言った。

 

「――おそらく、もう再生は出来ません。……距離があるとレーザーを使ってきますが、接近戦では剣と、水瓶に入っている酸で攻撃してきます。……けれど、近距離でもレーザーを使ってくることもあるので、注意してください。あと――」

 

 ポツリ、ポツリと自分が命を削って得た情報を、陽乃に伝える。

 

 陽乃は振り返る。八幡は、今まで見たことがないような表情で、陽乃を見つめていた。

 

 そして、最後に八幡は。

 

 振り絞るように、絞り出すように、託すように、祈るように、願うように、懇願するように、嘆願するように。

 

 それこそが、それだけが、唯一の望みであると、告げるように。

 

 

「……どうか、死なないでくれ」

 

 

 陽乃は、その表情と、その言葉に。

 

 色々な感情がかつてないほど襲い掛かり、荒れ狂い、完全に持て余す。

 

 ぐちゃぐちゃになりそうな表情を、必死に抑えて、なんとか無理矢理、笑顔を作る。

 

「わたしを誰だと思ってるの? 八幡が考えるべきことは、わたしへのあつ~い告白文句だけよ」

 

 そこに、陽乃らしい強化外骨格など、微塵もなく。

 

 それでも、紛れもなく、雪ノ下陽乃だけが見せる笑顔だった。

 




次回は、陽乃vs千手。最強vs最強です。


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比企谷八幡は――。だから、雪ノ下陽乃は――。

今回は本当に短いです。ごめんなさい。

久しぶりにランキングに入って嬉しかったです! これからも頑張ります!



 陽乃が再び外に姿を現した時、千手は真っ直ぐ陽乃を見ていた。

 

 やはり、あの程度の目くらましはコイツに通用しなかった。いずれ向こうから攻撃を仕掛けてきただろう。

 

 陽乃は一度剣を虚空に大きく鋭く振るう。感触を確かめるように。そして己を鼓舞するように。

 

 ピンと空気が張り詰める。

 最初に動いたのは――千手だった。

 

 閃光が瞬く。暗闇を切り裂く一筋の光が、陽乃の胴体に向かって走る。

 陽乃は最小限の動きでそれを躱した。確かにこの攻撃(レーザー)はまさしく光速だが、銃弾と同じだ。軌道は直線で出所もはっきりしている。慣れれば避けれないものではない。

 

 もちろん、雪ノ下陽乃ならば、という前置詞が付くが。

 

 だが、決して余裕というわけではない。いくら陽乃が只者ではなくとも、陽乃自身は平和な地で健やかに過ごしてきたただの女学生だ。軍隊で戦場を闊歩してきた経験があるわけでもない。ガンツミッションすら初めてなのだ。こんな神業を何度も無事に成功できる確証はない。

 

 よって陽乃は、一刻も早く距離を詰めようと全力で特攻する。

 

 陽乃が警戒するのは、単純なレーザーではなくレーザーの鞭。あの光速のレーザーが、点ではなく線で襲ってきたら、さすがの陽乃でも対処は難しい。

 

 しかし、陽乃には勝算があった。これも八幡に教えてもらった情報の一つ。

 

『……アイツのレーザーは、そこまで精度がよくないみたいです』

 

 八幡があれだけ光速のレーザーを避けられたのも、それが理由。

 レーザーの鞭も、少なくとも効果音がヒュン!というぐらいには速いのに、八幡は避けきっていた。

 

 それは、レーザーの精度――特に、高速で移動する物体への精度があまり良くないからだ。

 普通の人間の移動速度くらいなら鞭で捉えられるかもしれないが、スーツでの全力移動となると、かなりぶれる。そもそもレーザーは元となるレーザーを射出し、それを動かす。その元のレーザーがぶれているのだから、そこから動かす鞭がなかなか当たらないのも道理だ。

 

 八幡は、あれだけの極限状態でここまでの分析を重ねていた。

 彼に言うと『ぼっちは他人の粗探しが得意なんです』なんて言って悪ぶるのだろう。

 

 だが、そんな彼がまさしく命懸けで手に入れた情報――――無駄にはしない。

 

 そして陽乃は自身の剣が届く距離――接近戦へと突入する。

 

 確かに陽乃は剣が伸ばせるが、伸ばす分当たるまでにラグがある。その間にレーザーで撃たれたら、避ける術がない。

 

 だからこそ、一閃で殺せるこの距離まで接近したのだ。

 

 だが、陽乃の剣が届くということは――千手の剣も届くということ。

 

 ビュッ!!という風切り音と共に、千手の二刀が同時に襲う。陽乃は、ガンツソードで受け止める。

 

 キィンという甲高い音が響く。ついに、両者の剣が交錯した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 俺は、折本の傷口にあてがったおかげで血だらけの制服を、今度は自分の傷口をふさぐのに使っていた。

 

 ……あの傷跡。おそらく折本も、アイツのレーザーにやられたんだろうな……。

 

 奇しくも俺も腹をやられたが、折本とは違い脇腹だったので、ぐるりと巻くようにして、傷口をふさぐ。まさしく傷口をふさぐだけなので、出血を止める効果は薄いだろうが、やらないよりマシだろう。

 

 千手を倒すまで保ってくれればいい。

 

 そしてズボンを脱ぎ、ベルトで肩口の傷口を締め上げる。

 

「……くっ」

 

 ……痛ぇ。だが、それぐらいきつく結んだ方がいい――ってなんかの漫画で読んだな。たしか、テニスボールみたいな球状のものがあった方がいいんだっけ?よく思い出せない。

 

 まぁ、所詮応急処置だ。というよりその場しのぎだ。その場――この場だけ凌げればいい。

 

 千手を倒せば、五体満足――綺麗な体で、あの部屋に帰れるんだから。あの世界に還れるんだから。

 

 ……中坊に初めてそれを聞かされた時は、自分たちの体がいくらでも代わりがある作り物だって言われたみたいで、妙に空しかったのを覚えてるが、もうそんなのどうだっていい。

 

 生きてれば、それでいい。

 

 生きて帰れる。それだけで十分だ。

 例え体が作り物の代用品でも。この意思が――この記憶があの球体にバックアップしてある、ただのデータだとしても。

 

 生きていれば、それでいい。

 

 あの人がいれば、それでいい。

 

 ……傷口は処置した。さぁ、動け。俺の体。

 

「――ッ!! ~~~ッ!!」

 

 ――痛ってぇ……っ。

 体に力を入れただけで、神経が傷口を経由するだけで、ここまで痛むのか。……そりゃあ、そうか。銃で撃たれたのと変わんないからな。

 

 けど、そんなことは関係ない。バトル漫画よろしく精神力でカバーだ。精神が肉体を凌駕するあのご都合主義を実現させてみせろ。

 

 ……今、動かないで、いつ動くんだ、俺の体ッ!

 

 

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 何度か剣を交錯する、膠着状態。お互い敵を切り裂こうと全力で剣を振るうが、それでも相手の体には届かない。

 陽乃は見事に千手の二刀にガンツソード一本で対抗しているが、それでもやはり決定打に欠ける。

 そして、その決定打を何種類も保有しているのが、千手なのだ。

 

 千手は水瓶を傾ける。

 

「――ッ!!」

 

 陽乃は咄嗟に下がり、それを避ける。

 

 そして、その隙を狙って千手の剣が鋭く襲う!!

 

 

 ズバッ!!

 

 

 剣が、それを持った腕ごと吹き飛んだ。

 

 

「きょーーー!! きょーー!!」

 

 “千手が”悲鳴を上げる。陽乃は不敵に微笑む。

 

「私に読み合いで勝とうなんて、千年早いよ、千手観音」

 

 陽乃はすぐさま剣を失った右側――陽乃から見て左サイドに剣を振るおうとするが、千手が間髪入れずにレーザーを振り回す。

 それはまさしく悶えるのに合わせて振り回しているようで狙いはめちゃくちゃだが、陽乃が攻撃を諦め少し下がる程度には、勢いはあるものだった。

 

(――八幡の言う通り、再生しない。……八幡がどうにかしてくれたのかな? さすが♪)

 

 陽乃は一度下がった後、間髪入れずに再び突っ込む。

 千手は思った以上に混乱している。再生できる分、痛みには弱いのか?

 

 とにかくチャンスだ。これを見逃す雪ノ下陽乃ではない。

 

 苦し紛れのレーザーが再び陽乃を襲う。陽乃はそれを仰け反るように体を傾けることで躱す。

 

 千手には知能がある。

 それがどの程度のものかは分からないが、少なくとも戦況をある程度読めるくらいの知能はある、と陽乃は踏んだ。

 

 だから千手も分かっている。右側の剣を失った以上、こちら側を狙われるであろうことは。

 

 だからこそ、先程から右手側のレーザーを多用する。

 

 それが戦略的に考えた末の行動なのか。それとも本能的に弱点から遠ざけようとしているのかは分からない。

 

 だが、そんな分かりやすい動揺を、陽乃が逃すわけがない。

 

 陽乃に弱みを見せたら最後、徹底的に壊れるまで追い詰められる。

 

 それは星人といえど、千手観音といえど、逃れられない宿命だった。

 

「悪いけど――」

 

 千手の持つ右側の小さな灯籠は、千手の心の焦りを示しているかのように、散発的にレーザーを射出する。

 

 だが、それは陽乃を捕えるには至らない。陽乃にはまるで弾道予測線が見えているかのごとく、それを最小限の動きで回避し、接近する。

 

 そして、それは更なる焦りを生み、狙いがみるみる粗くなる。

 

 陽乃は、極限まで恐怖感を煽るように、歩幅、雰囲気、そして接近スピード。それらを完璧にコントロールする。

 

 これが、かつて八幡をして魔王と畏れた、雪ノ下陽乃。

 

 誰よりも強く、誰よりも美しく、そして、誰よりも恐ろしい少女だった。

 

 

「――斬り落とすよ」

 

 

 陽乃は、ニヤリと笑う。

 

 それは、千手観音にはどう映ったのだろう。星人である千手に、人間ではない千手に、それはどう映ったのだろう。

 

 ただ、その一瞬、あれほど乱発していたレーザーが止まり。

 

 次の一瞬、灯籠を持つ彼の一本の右手が、本体から切り離されて宙を舞った。

 

「きょーーーーー!!!!!!」

 

 千手は絶叫する。

 

 陽乃は、それを雑音と切り捨てて完全にシャットアウトし、酷く冷静な心拍数のまま、弱点となった千手の右サイドから、胴体を一刀両断しようとした。

 

 それは、この場における100点満点の正解。理想的なまでの詰め(チェックメイト)

 

 よって、その一瞬後には、千手は絶命し、全ては終わる

 

 

 

――――はずだった。

 

 

 

「きょーーーー!!!」

 

 だが、千手は苦し紛れに一番下の左手に持った水瓶の中身を全てぶちまけようとした。

 

 優秀な陽乃の視野は、痛恨にもそれを捉える。

 

 その時、陽乃の脳を過ぎったのは、あの八幡が敗北するきっかけになった、この水瓶の中身の酸の威力。

 

 そのリフレインが終わる頃には、陽乃の一閃のターゲットは、反射的にその水瓶に移っていた。

 

 陽乃の一撃は、見事その水瓶を一刀両断し、酸は見当違いの方向に振り撒かれた。陽乃にはもちろん一滴もかかっていない。

 

――だが、陽乃のガンツソードは、ドロドロに溶けていた。

 

(――ッ!! しま――)

 

 痛恨。まさしく痛恨。

 

 さすがの陽乃も、脳内が一瞬パニックに陥る。

 

 だが、それを一瞬で抑え込み、流れるような動作で左腰のXガンに手をかけたのは、さすが陽乃といったところか。

 

 

 しかし、その一瞬が、命運――まさしく命の運命を分けた。

 

 

 陽乃がXガンを向けた時には、すでに終わっていた。

 

 千手の、健在の一刀が、陽乃の胴体の真ん中を貫いて。

 

 そして、ゆっくりと引き抜かれた。

 

 

 

 

 

【失いたくない。わたしのものだ。誰にも渡さない。神様にだって、奪わせやしない】

 

 

 

 

 

【たとえ、雪乃ちゃんに、一生恨まれることになろうとも】

 

 

 

 

 

(――――罰が、当たったのかな?)

 

 

 陽乃の体から力が抜けていき、ゆっくりと重力に負けて、仰向けに倒れていく。

 

 

(――散々、雪乃ちゃんを苦しめて。……やっと雪乃ちゃんが手に入れた大事なものまで、後から、横取り、しようと、したから)

 

 

 ドスッ と地面に落ちる。 倒れ伏せる陽乃に向けて、陽乃の血で真っ赤に塗れた宝剣が構えられる。

 

 

(――……でも、しょうがないよね。こんなわたし、死んで当然だよ。……だって、この期に及んで)

 

 

 千手は陽乃を見下ろしていたが、念のため止めを刺しておこうとばかりに、無造作に剣を振り上げる。

 

 

 

(――まだ……それでも…………八幡を、渡したくないなんて)

 

 

 

「……救えないなぁ」

 

 

 ビュッ!!

 

 

 キィン!!

 

 

 

 

 

「――例え、あなたがあなたを救わなくても、俺が勝手に救いますよ」

 

 

 

 霞んできた陽乃の視界が、パァッと広がった気がした。

 

 陽乃の目に、大きな黒い背中が映る。

 

 頭頂部に特徴的な毛がひょこっと一房飛び出していて。

 

 筋肉質ではないが、やたらと頼もしい後ろ姿。

 

 そして、不敵な、だけどとても愛おしいその声。

 

 

「……八、幡」

 

 

 比企谷八幡。

 

 

 陽乃が、文字通り死んでも渡したくない、大事なもの。

 

 八幡は、陽乃の命を完全に断ち切ろうとした千手の斬撃を、ガンツソードで受け止めた。

 

 陽乃を連れ去ろうとする死神の鎌を、拒絶するがごとく。

 




大事なシーンなので、ここできちんと区切りたいと思いました。
次回からは、またそれなりの文字数でお送りします。


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彼は、戦い抜いたその先で、ついにその悲願を果たす。

 千手の絶望は、終わらない。


 俺は剣の柄を両手で持ち、刀身を水平に構えて、上から振り下ろした千手の斬撃を受け止めた。

 

 だが――

 

 ズシッと、重圧が圧し掛かる。陽乃さんが斬り落としたらしく、一本に減った剣。だが、その一本の腕の力でも、その重さは少しも衰えない。――むしろ、どんどんその圧力を増していく。

 

「――がぁっぅ……っ!」

 

 その度に、俺の全身を電撃のような痛みが襲う。

 

 スーツはまだ稼働している。降りかかる重量が増すたびに、スーツによる筋力強化もそれに合わせるように強くなる。おそらく、まだ外部からの攻撃になら、それなりに防御力を発揮するんだろう。

 

 だが、それは二つの怪我に圧倒的な負担となり、激痛という形になって現れる。

 

 ちくしょう……痛ぇ……全然肉体を凌駕してねぇじゃねぇか……仕事しろよ精神……。

 

 ダメなんだよ。耐え抜くんじゃダメなんだ。膠着状態なんて陥っている暇はない。

 

 陽乃さんは腹部を貫かれたんだ。

 

 俺が、間に合わなかったせいで。

 

 一刻も早く倒さないと。一刻も早く殺さないと。

 

 一刻も早く。

 

 あの部屋へ。

 

「ぐぉぉおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」

 

 俺は全身に力を込める。

 

 意識を刈り取られるような強烈な痛みが走る。目の前の景色が真っ白に染まる。

 

 だが、気絶するわけにはいかない。

 

 耐えろっ。そして殺せ!!!

 

 

 

 ガ、ギンッ!!

 

 

 

 ……うそ、だろ。

 

 普通、こういう場面だと、相手を吹っ飛ばして、死に物狂いの一撃で、相手を殺すんじゃないのか。

 

 そうやって、奇跡の大逆転ってなるのが定石だろうがよ。

 

 俺の、全力を振り絞った、起死回生の行動は。

 

 俺の決死の一撃は。

 

 不発だった。相手に堪えられた。膠着状態を、崩せなかった。

 

 ……はっ。なんだよ、それ。こんな摩訶不思議な状況の癖に、こんな所ばっかりリアルなのかよ。確かに俺は、そんな器じゃねぇのかもしれないけど――

 

 

 こんな時くらい、ご都合主義を起こしてくれてもいいだろう。

 

 

 好きな人を助ける時くらい、主人公でもいいじゃねぇか。

 

 

 俺は、全てを懸けた一撃を受け切られ、重心が浮いてしまう。

 

 そして逆に、千手の体重移動に押し切られ、倒される。

 

 体が重力に引っ張られる。腰が落ちる。背中から倒れ込む。

 

 

――ギリッ

 

 

 俺は、千手の無表情の顔を憎悪の篭った目で、睨み据える。

 

 ……俺は、大切な女性(ひと)の仇を討つことすらできないのか。

 

 俺には、結局、何も、救えないのか。

 

 千手は、俺の胴体を突き刺そうと、剣を――

 

 

 

 

 

――っ!!千手は、突然跳び上がった。

 

 何かを避けるように。

 

 俺は、崩れゆく中、目を向ける。

 

 

 Yガンの捕獲ネットが、千手に向かって放たれていた。

 

 

 俺は、尻から情けなく地面に倒れ込む。だが、視線は捕獲ネットの行く末に夢中だ。

 残念ながらその捕獲ネットの軌道上からはすでに千手は外れていた。やはりこれを感じて、千手は俺への一撃を諦め宙に跳び上がったのだろう。

 

 

 だが、捕獲ネットも、その軌道を変え、宙へと逃げた千手を追いかける。

 

 

「――な」

 

 俺は、それに驚きを隠せなかった。

 Yガンにこんな機能があるなんて知らなかった。

 

「きょーーー!!」

 

 千手は、結局それによって捕えられ、捕獲ネットの三つの支点が地面に突き刺さり、固定する。

 

 

「――やっぱり、二つあるトリガーの1つはロックオン機能だったか」

 

 

 俺は、その聞き覚えのある声の方向に目を向ける。

 

「……はや――」

 

 俺は、二の句が継げなかった。

 

 

 そこに居たのは、俺と陽乃さんの以外のたった一人の生き残り――――葉山隼人だった。

 

 

 そう、確かに葉山隼人だった。だが、アイツは俺たち以上にボロボロだった。

 

 左腕は肩のあたりから無くなり、顔面はまさしく蒼白、足取りはフラフラと不安定。

 

 本当に今にでも死んでしまいそうな有様だった。なんで生きているのか不思議なくらいだった。

 

 だが、葉山はそれでも柔らかく笑う。そして言う。

 

「何をしてるんだ、比企谷」

 

 そう言って葉山は、残った右腕に持ったYガンで俺の背後――陽乃さんを指した。

 

「君にはやるべきことがあるだろう」

 

 俺は、その言葉を聞いた瞬間、体が動いた。

 

 小さく荒い苦しそうな呼吸をする陽乃さんを抱きかかえ、距離をとる。

 

 最後に顔だけで振り向いて、葉山を見る。

 

 葉山はこちらを見ていなかった。

 

 だが、相変わらず口元は柔らかく笑っていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 八幡は、陽乃と共に遠ざかっていく。

 

 葉山は、そんな八幡を口元を緩ませながら見送った。

 

 やっと、八幡にピンチを押し付けてもらうことが出来た。

 

 彼に、背中を見せることが出来た。

 

 今までは、彼を傷つけ、背負わせ、助けてもらってばかりだった。

 

 苦境の中に置き去りにされる、彼の背中から逃げ去るばかりだった。置き去りにして、逃げるばかりだった。

 

(――ようやく、俺は、君を助けることが出来たかな)

 

 葉山は、そんな不思議な感情の中で、Yガンのトリガーを引く。

 

「きょーーー!!!きょーーー!!!」

 

 千手は絶叫する。その頭部は、徐々に上方に送られ、姿が消えていく。

 

 

 終わった。

 

 ついに。ついに。

 

 葉山は、消えゆく千手を、疲れ切った目で見つめながら、そんなことを思う。

 

 たくさんの人が死んだ。たくさんのものを失った。

 

 いいことなんて一つもなかった。得たことなんて一個もなかった。

 

 戦争は何も生まない。争いは大切なものを奪っていく。

 

 そんな当たり前のことを痛感させられた戦いが、やっと終わった。

 

 達成感なんて微塵もない。あるのは、暗く、空しい、徒労感のみ。

 

 こんなことが、いつまで続くんだろう。

 

 疲弊し、崩壊し、それでも自分を支え続けてくれた人の為に、欠片を強引に繋ぎ合せて、今こうして、葉山は何とか立っている。

 

 何とか立ち上がっている。何とか立っていられる。

 

 スッと、銃を下ろす。

 

 顔を俯かせ、目を瞑り、葉山はあの部屋に転送されるのを待つ。

 

 

 

 ボトッ。

 

 何かが、落下した音が聞こえた。

 

 

 

 葉山は、ゆっくりと顔を上げる。

 

 千手の、頭部がなくなっていた。

 

 だが、それは転送されたからではないことは明らかだった。

 

 Yガンの転送時に発生する天からの一筋の光は――――“千手の足元に転がっている”頭部に繋がっていて。

 

 その頭部を失った千手の体から――――なにかが、出てくる。

 

 それは、これまでの仏像のような硬質感は一切無く、ネチャネチャとした粘液のようなものを纏った光沢のある異形の物体だった。

 首の切断面からズルズルと、這い出るように、抜け出すように現れる。

 

 それが半分ほど出てきたところで、千手の体は腰を曲げ、角度をつけた。

 

 だが、それは葉山の方には向いていない。

 

 葉山は疑問を持つが、そんな葉山に構わず千手の体は、その異形の物体を、異形の化け物を、何もない虚空へと目がけて――――発射した。

 

(ッ!?)

 

 その光沢のある化け物は、筋張った体の先端から大きな口を作り出す。牙が生え揃い、目も鼻もなく口だけがあるその顔は、その巨口を大きく開き、虚空を“食いちぎる”。

 

「ぎゃぁぁぁぁああああああああああああああ!!!!」

 

 バチバチバチバチという火花が散るような音と共に、彼は姿を強引に晒された。

 

(――か、彼は!?)

 

 その男は、あの部屋に居て、途中まで確かに自分たちと共に戦っていた男だった。

 眼鏡をかけて、あの部屋にいた時から八幡たちに鋭い質問をぶつけていた、八幡命名――インテリ。

 

 彼は八幡がこの透明化機能を使っているのを目撃してから、やり方を模索し、それを発見した後は、これで終盤までやり過ごし、最後においしい所を掻っ攫うつもりだった。ずっとエリアの端でじっとしていたので、八幡も気づかなかったのだろう。

 

 それは一つの戦い方ではある。

 千手に八幡の透明化がばれた時は焦ったが、いつまでも自分に気づいた様子がないので、奴は自身に向けられる敵意に敏感なのであって、害意を向けなければ透明化は有効なのではないかと考えた。

 

 だが、自身の首を食いちぎられようとされている今、それは間違いだったと悟る。

 

 自分はただ、泳がされていただけだった。

 

 ブチンッ!!と、首と胴体が荒々しく引き裂かれる。

 

 葉山は、思わず眉を顰める。

 

 だが、あろうことか、その化け物は――――インテリの頭部を丸呑みした。

 

「――っぷ!!」

 

 葉山は、猛烈な嘔吐感に口を押える。

 

 バリバリバリと、何かを砕く音。頭蓋骨の咀嚼音だろうか。

 

 やがてプッとスイカの種を吐き出すような所作で、骨を吐き出す。

 そして、口元を醜悪に染め、化け物の顔に目と鼻と耳が顕れる――――まるで、人間のようなそれが。

 

「―――ふ。ふふ。はははっはははははっはっはは!!!!!」

 

 そして、笑う――――人間のように。人間の言葉で。人間の嗤い声で。

 

「いやぁ、凄い。なるほど。いや、彼らは――というより彼――今や僕かな?――とにかくコイツは、脳髄を摂取することにより、そいつの知識や何やらを取り込むことが出来るらしい。いや~、実に面白く興味深い」

 

 葉山は、何も言わない。

 

「さぁて、君らは残り何人だい?あの女は死ぬとして、彼はまだ戦えるのかな?そして、君は死ぬよね。そんな体で僕に勝てるはずもない」

 

 葉山は、何も言わない。

 

 何の声も上げない。

 

「というより、戦えないかな?この通り、僕は取り込まれた。こいつを殺すということは、僕を殺すということ。それは君の所信証明とは矛盾するよ?」

 

 葉山は何も言わない。

 

 何の声も上げない。

 

 表情すら表さない。

 

 

 ただ、ゆっくりと、右腕を上げる。

 

 

 残された、たった一本の腕を――――Yガンを携えた、その腕を。

 

 

 それを見て、化け物は嬉しそうに笑う。

 

「この偽善者が」

 

 化け物は、一歩近づく。

 

 葉山の足は、無意識に一歩下がってしまう。

 

 それを見て、化け物はなお、楽しそうに嗤う。

 

「なんだよ。めちゃくちゃビビッているじゃん」

 

 葉山の足は、ガタガタと震えていた。

 

「みんな死んだ。あの女も死ぬ。あの男も死ぬ。お前も死ぬ。みんな死ぬ。全員死ぬ。――そんなお前に、何が救える?そんなお前じゃ、何も救えねぇよ」

 

 葉山は、ガタガタと震え、足を竦ませ、心の底から恐怖し。

 

 それでも、笑う。

 

 

「何度でも、送ってやる」

 

 

 彼はもう、揺るがない。

 

 

 化け物は、より一層醜悪な笑みを深め、跳び箱を跳ぶかのような軽快な動きで飛び掛かる。

 

 葉山は、不敵な笑いで睨み据えながら、躊躇なくYガンを発射する。

 

「ひゃっほぉぉぉぉぉおおおおおおお!!!!」

 

「うぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおお!!!!」

 

 

 

 葉山隼人は、比企谷八幡になれただろうか。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 八幡は陽乃を物陰へと運び、慎重に下ろす。

 

 陽乃は、まだ何とか生きているものの、呼吸がどんどん荒く、小さくなっていく。

 

「陽乃さん!陽乃さん!!」

 

 八幡は、彼女の手を握り大声で呼びかけることしか出来ない。

 

 こんなことをしている場合ではないのは、彼はよく分かっている。

 

 同じように腹部を貫かれた折本に、彼は何も有効な治療が出来なかったのだから。

 

 なら八幡のすべきことは、陽乃を戦いに巻き込まない場所に避難させた今、すぐにでも葉山の元へと戻り、共に千手を倒すことだ。

 

 だが、彼はそれが出来なかった。

 

 怖いのだ。恐ろしくてたまらないのだ。

 

 目を離した隙に、この陽乃の消えかかっている命の灯火が、完全に消えてしまうのではないか。

 

 もう二度と、目を覚まさないのではないか。

 

 また、自分は、失ってしまうのではないか。

 

 

(――また、なのか)

 

 

『もう、無理して来なくていいわ……』

 

 

(――――また、俺は失うのか)

 

 

『ゴメンね。――アンタなら辿り着けるよ。カタストロフィまで』

 

 

(――――――大切なものを――――俺は、また、何も出来ずに……ッ)

 

 

「陽乃さんッ!!!死なないでくれ!!!往かないでくれ!!!――――俺を……俺をッ!!」

 

 

 

「…………はち、まん」

 

 

 

 八幡は、その声に、顔をバッと跳ね上げ、凝視する。

 

 陽乃は、絞り出すように、微かな声を、八幡に届ける。

 

 

「………………かって」

 

 

 八幡は、大声で叫ぼうと口を大きく開き――――閉じた。

 

「……………………わかったッ」

 

 そう言い、八幡は、陽乃の手をギュッと両手で握りしめ、立ち上がる。

 

 そして、陽乃の目を、至近距離で真っ直ぐ見据えて。

 

 陽乃の頭を、優しく抱きしめる。

 

「……すぐ、戻る。最高の告白をするから、なんて答えるか考えておいてくれ」

 

 八幡は、陽乃が柔らかく微笑んだのを感じると。

 

 そのまま、ダッシュで戦場へと向かった。

 

 振り返らず、振り向かず、一目散に。

 

 再び、戻る為に。

 

 一緒に、帰る為に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「葉山ぁ!!」

 

 八幡が戻ると、そこには――

 

 

――見たこともない、異形の怪物と

 

 

――その怪物に吊し上げられた、ボロボロの葉山がいた。

 

 

 かつての端正な顔は見る影もなく、ボコボコに腫れ上がってしまっている。

 

 左腕だけではなく、右腕も引き千切られていた。

 

 八幡は、その姿を見て、意識が真っ白になり、足が止まりかける。

 

 化け物は八幡に気が付くと、醜悪に歪んだ笑いを作り、その丸太のような腕を振りかぶる。

 

「――ッ!やめ」

 

 八幡は、止まりかけた足に再び力を込めて、速度を上げた。

 

 そんな時、葉山の顔が目に留まる。

 

 彼は、やはり笑っていた。

 

 目線で、八幡に語りかける。

 

 八幡は、そんな葉山に――

 

 

 グチャッと水風船が割れるような音が響く。

 

 

 化け物は、頭部を失った葉山の体を投げ捨て、八幡に向き直る。

 

「さぁ。最後の一人だ。やはり、君が残ったね」

 

 なぜ千手が最後の一体なのに、代わりに見知らぬ化け物がいるのかなんてどうでもいい。

 

 なぜ星人が喋っているのかなんて、心の底からどうでもいい。

 

 どうでもいい。

 

 どうでもいい。

 

 どうでもいい。

 

 八幡は、ドス黒い底冷えするような殺意を、化け物に放つ。

 

「殺してやる!!」

 

「やってみろよ」

 

 大事なのは、コイツを殺すこと。

 

 そして帰ること。

 

 それだけだ。

 

 

 

 

 

 こうして、正真正銘、最後の戦いの火蓋は切られる。

 

 

 残り時間は――――あと5分。

 




 葉山隼人――――脱落。

 次回、千手観音編、クライマックスです。


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死闘の果てに、生き残った勝者が得たものは――。

長かった千手観音編も、いよいよクライマックスです。


 

「うぉぉおおおおおおおお!!!!」

 

 俺は全速力で駆け抜ける。

 

 キュインキュインという駆動音。まだスーツは健在だ。

 

 目標は、目の前の化け物。

 

 数メートル手前で踏み切り、俺はガンツソードを両手に持って、空中から思いっきり振り下ろすっ!!

 

 が――

 

「ひゃっはー!!」

 

 敵は俺の渾身の一撃を、両手で白羽取りのように受け止めた。

 

「……くっそがぁぁぁぁぁあああああ!!!!」

「ははははははははは!!! 随分と吠えるじゃないか! こんなに感情を露わにする子だとは思わなかったよ!」

 

 化け物は知った風なことを言う。

 

 なんなんだ、コイツ。まるで俺のことを知っているかのような口ぶりだ。

 

 化け物は、首を物理的にろくろ首のように伸ばして、俺の眼前に顔を持ってくる。

 

「僕だよ。間藤だ。千手に脳髄を食われて取り込まれたんだよ」

 

 間藤? 誰だ、ソイツは。

 ……だが、この粘りつくような口調、聞いたことが――――っ!!

 

 コイツ、インテリか……ッ。死んでなかったのか。

 

「……随分と面白いことになってるな。……助けて欲しいのか?」

「ふふ。僕が助けて欲しいと思っているとは微塵も思っていなくて、万が一そう言っても助ける気なんてないくせに。でも、敢えて言わせてもらおう。お断りだ。僕は今、最高に愉しい気分なんだ」

「そうかよっ!じゃあ、お望み通りそいつと心中してくれ!!」

 

 俺は渾身の力を込めて、剣を無理矢理振り下ろそうとする。

 

 だが、ビクともしない。

 

 化け物――間藤は、愉しそうに厭らしく嗤って言う。

 

「おいおい、僕は君たちの仲間だぜ」

「どう見ても裏切ってるだろうが」

「じゃあ言い方を変えよう。僕は人間だ。それでも殺すのかい?」

 

 

「どうでもいいやつを殺すことで大切な人を救えるなら、俺は躊躇いなく――――そいつを殺す」

 

 

 俺の言葉に、間藤は満足そうに笑い――

 

「やっぱり君は面白い」

 

――ガンツソードを圧し折った。

 

「――な……ごふっッ!!」

 

 ドガンッ!!と右脇腹に衝撃が襲う。

 

 吹き飛ばされながら俺が見たのは――

 

(――――尾!?)

 

 しなやかながら、太さが鞭なんてものの次元を越えている、そのハンマーのような尾を、俺の右脇腹に叩きつけたらしい。

 

 俺の、ごっそりと、穴が開いている――右脇腹に。

 

「がぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」

 

 俺は、とにかく叫ぶ。

 喉が潰れようと、醜態を晒そうと構わず、とにかく全力で。

 そうすることで、少しでも痛みを紛らわす。

 

 そして、俺は、直ぐに立ち上がる。

 

 痛がっている余裕はない。苦しんでいる時間もない。

 

 一刻も早く、コイツを殺すんだ。

 

 こうしている一秒も、こんなことをしている一瞬も、陽乃さんを助けることが出来る可能性を奪っている。

 

 陽乃さんの、命の時間が、浪費されている。

 

「ぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおお!!!!」

 

 俺は、折れたガンツソードを、振り回す。

 

 だが、それらは全て軽々と避けられ、代わりにカウンターで奴の弾丸のような拳を食らう。

 

「ゴホッ!」

「がはっ!!」

「あガっ!!!」

「ぐぁぁぁあああ!!!!」

 

 段々と、痛みを感じずに、意識が朦朧としてきた。

 

 それは、別にスーツの効果ではないだろう。

 

 逆に、スーツは限界を知らせるアラートが鳴り響いている。

 

 それでも、俺は、とにかく剣を振るう。

 

 がむしゃらに。むちゃくちゃに。とにかくふるう。

 

「分かっているんだろう。君は僕に勝てない」

 

 うるせぇ。それでも勝つんだよ。絶対に殺すんだ。

 

「仲間を殺されて、さぞ悔しいだろう。でも大丈夫だ。みんな殺すんだから。お前だけ仲間外れにしない」

 

 別にそんなの気にしねぇよ。俺はぼっちだからな。仲間外れにされるのは慣れてる。

 

「大丈夫だ。お前は一人じゃない」

 

 は? 何言ってやがんだ、この化け物は。

 

 だから、俺はぼっちなんだ。ずっと一人でやってきたんだよ。

 

 ずっとずっと、一人でやっていくんだよ。

 

 

『わたしも。八幡の支えになるよ。ずっと、傍にいるから』

 

 

 ずっと、一人で……

 

 

『言ったでしょ。傍にいて支えるって。独りになんかしないよ』

 

 

 ずっと……

 

 

『わたしも、必ず、君を守る』

 

 

 ずっと……ずっと……

 

 

『八幡。わたし、絶対帰ってくる。アイツを倒して、全部終わらせて――そしたら、わたしに告白して』

 

 

 

 

 

『………………かって』

 

 

 

 

 

 グサッ

 

 

 

 

 

「は~はははははっはっははっはは!! 終わりだ! 完全に貫い……た……あ…?」

 

 

 

 ……痛ぇ。めちゃくちゃ痛い。死にそうだ。

 

 

 

 …………だが、まだだ。まだ、行ける。まだ、死んじゃいない。

 

 

 突き刺さったのは、尾の“先端部分だけだ”。

 

 

「な、なにぃぃぃぃぃ~~~!?」

 

 俺は、咄嗟に剣を投げ捨て、尾の一撃を受け止めることに成功した。

 

 

 ……そうだ。俺は、もう一人じゃなかった。ぼっちじゃなかった。

 

 

 例え、どれだけ嫌われても。騙されても。裏切られたとしても。

 

 

 それでも、その人のことをわかりたいと、知っていたいと。

 

 

 その人のことを、あの人のことを、完全に、完璧に理解したい、なんて。

 

 

 独善的で、独裁的で、傲慢で、無謀で、無茶で、無茶苦茶なことを思ってしまった。

 

 

 望んでしまった。欲してしまった。

 

 

 どうしようもなく、心の底から。

 

 

 おそらく、この感情は、きっと捨てられない。

 

 

 何度、否定されても。何度、裏切られても。

 

 

 その度に、死ぬほど苦しみながら。その度に、死ぬほど悶えながら。

 

 

 それでも、きっと捨てられない。

 

 

 気持ち悪くて、浅ましい。

 

 

 

 俺は、自分の腹に突き刺さっている奴の尾を、掴み、引き抜こうとする。

 

 スーツは、再び音を立てて、駆動する。

 

 

 

 でも、それでも俺は、諦められない。

 

 俺みたいな腐った村人Aが、あの人のような光輝く女王に、こんな望みを抱くことを、人は身の程知らずと嘲笑うのだろう。

 

 

 それでいい。

 

 

 勘違い野郎のナル谷君にふさわしいじゃねぇか。

 

 

 

「うぉぉぉぉおおおおおおあああ!!!!」

「な、な、ど、どこからこんな力がッ!?」

 

 

 

 俺は、ただ失いたくなかったんだ。

 

 

 知っていたから。散々聞かされてきたから。

 

 

――大事な物は、替えが利かないと。

 

 

――かけがえのないものは、失ったら二度と手に入らないと。

 

 

 だから、信念を曲げた。

 

 

 嘘をついた。偽りに縋ってしまった。

 

 

 そして、雪ノ下雪乃に、見限られてしまった。

 

 

 

 あの場所を、掛け替えのない場所を、失ってしまった。

 

 

 

 そして、その穴を埋めるように、俺は陽乃さんに狂った。

 

 

 

 溺れて、酔って、のめり込んで、魅せられた。

 

 

 弱っていたところに優しくされて、勘違いしているだけかもしれない。

 

 奉仕部を失った、その代用品かもしれない。

 

 命の危機に陥っているがための、生存本能の昂ぶりなのかもしれない。

 

 ミッションを終えて、穏やかな日常に戻ったら、冷静になって間違いに気づくかもしれない。

 

 

 考え得る色々な否定要素を当て嵌めてみる。

 

 

 普段から重用する、勘違い防止機能だ。これのおかげで俺はいくつもの黒歴史を回避してきた。

 

 

 そして、導き出した結論は――――――その時は、その時、考えよう、だ。

 

 

 馬鹿な奴だと笑うがいい。愚かな奴だと呆れるがいい。

 それでも今は、この気持ちを守り抜いていきたいんだ。生きたいんだ。

 

 

 大事なのは、クオリティだ。

 

 

 偽物の贋作だろうと、本物以上のクオリティだったら――

 

 

 

――それはもう、『本物』だろう。

 

 

 

 

「がぁぁぁぁあああああああああ!!!!」

 

 俺は、間藤の尾を持って、全力で投げ飛ばす。

 

「うわぁぁぁあああああああああ!!!!」

 

 吹き飛ぶ間藤。

 

 俺は、間髪入れずに、足元の折れたガンツソードを手に取る。

 

 

 

 

 妥協だと思うか。逃げだと思うか。

 

 偽物は所詮偽物だと思うか。

 

 贋作はどこまで行っても贋作だと思うか。

 

 そんなものは欺瞞だと、そう思うか。

 

 かもな。

 

 でも―― 

 

 それでも――

 

 

 

 

「これで……終わりだぁぁぁぁぁ!!!!!!」

 

 俺は、ガンツソードを振り下ろす。

 

 そして、圧し折れたガンツソードは――――元の長さ以上に大きくその刀身を伸ばす。

 

「ば、馬鹿なぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」

 

 間藤は、そして千手は――――その躰を真っ二つに切り裂かれた。

 

 

 

 

 

――失ったものの代わりに手に入れたものが、元のそれよりも劣るなんて、誰が決めた。

 

 

 

 

 

 俺は、もう一度――――今度こそ手に入れてみせる。

 

 雪ノ下陽乃と、『本物』を。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 俺は腹から吹き出す血を片手で押さえながら走る。

 

 走るって言っても、体中激痛で、意識も気を緩めれば今すぐにでも手放してしまいそうなほどに朦朧で、もはや感覚が完全に麻痺っている。ふらふらとふらついている状態だ。

 

 それでも、俺は行かなきゃならない。

 

 あの人の所へ。

 

 雪ノ下陽乃の元へ。

 

 

 

 俺は、どうにか転送される前に、陽乃さんの元へとたどり着けた。

 

 陽乃さんは、俺が最後に見た状態のまま、微動だにしていないようだった。

 

「……陽乃さん。……俺、勝ったよ。……もうすぐ転送されるはず。……あの部屋に――いつも通りの日常に、還れるんだ」

 

 俺は、陽乃さんの傍らで跪き、陽乃さんの肩を揺すって言葉を投げかける。

 

「……だから、起きてくれよ、陽乃さん!!目を覚ましてくれるだけでいいんだ!!言葉はいらない!!陽乃さん!!生きてるって証をくれよ!俺を安心させてくれッ!!」

 

 俺は陽乃さんの手を両手で包み込み、祈る。

 

「…………頼む……陽乃さん……目を、覚ましてくれ……っ!」

 

 頼む。間に合っていてくれ。生きていてくれ。

 

 今だけでいい。この転送の瞬間だけでも、生きていてくれ。

 

 

 もう、失いたくないんだ。

 

 

――俺の脚が、ゆっくりと転送され始める。

 

 

 俺は、自分の瞳から、涙がこぼれ落ちるのを、感じた。

 

 その雫は、陽乃さんの瞼の上に落ちる。

 

「………………はる、の…………さんっ」

 

 

 

 その瞼が、ゆっくりと、開いた。

 

 

 

「――っ!!は、陽乃さん!!陽乃さん!!」

 

 陽乃さんは、ゆっくりと、重そうに瞼を開き、俺に気づく。

 

「陽乃さん!!俺、勝ちました!!勝ちましたよ!!帰れるんです!!還れるです!!戻れるんですよ!!――――生きて、いけるんですよッ、陽乃さん!!」

 

 俺の体が、徐々に消えていく。

 

 俺は、そんなことには構わず、陽乃さんにはしゃいだ子供のように呼びかける。

 

 陽乃さんは、母親のような慈愛の篭った目で俺を見つめる。

 

 ついに、転送が俺の上半身にまで及ぶ。

 

「……陽乃さんも、じきにあの部屋に転送されます。その時には、怪我も治っているはずですから」

 

 俺は、陽乃さんを安心させるように、強く言う。

 

 陽乃さんは、穏やかな表情で――

 

 

 

 

 

「……八幡。……雪乃ちゃんのこと、お願いね」

 

 

 

 

 

「――――――え」

 

 俺は、その言葉の意味が、よく分からなかった。

 

「は、はr

 

 

 そして、俺は、その言葉の真意を問いかける前に、完全に転送された。

 

 




 次回、千手編最終回。


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再び、比企谷八幡は失った。 そして――

 千手観音編。最終回です。


 

 

 

 八幡が転送されるのを見届けると、陽乃は、力尽きたかのように、再びゆっくりと瞼を閉じる。

 

 

 そして強烈な睡魔によって、現実との繋がりを断ち切られ、夢の世界へと、引きずり込まれていった……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこにいたのは、八幡と雪乃と、そして自分――――雪ノ下陽乃。

 

 

 陽乃が世界で一番大好きで、大切な二人と、自分だけ。

 

 

 三人きりの、不思議な空間。

 

 

 そんな、幸せな、夢のような光景。

 

 

 

 だが、八幡と雪乃はぎこちなく手をつなぎながら、頬を染めて幸せそうに微笑み合い、どこか遠くへと離れていく。

 

 

 自分の元から、自分を置いて、どこかへ行ってしまう。

 

 

 

 その後ろ姿を、ただ眺めるしかない陽乃は、苦笑しながら、それでも温かく見送った。

 

 

 

 胸に走る、激痛に、気づかないふりをしながら。

 

 

 胸に渦巻く、鈍痛に、必死に、気づかないふりをしながら。

 

 

 唇を噛みしめ、溢れる涙に、こぼれ落ちる雫に、必死に、必死に、気づかないふりを、しながら。

 

 

 

 幸せそうな二人の背中を、見えなくなるまで、ずっと、ただ、見ていた。

 

 

 

 もう、私には、見ていることしか、出来ない。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――uのさん!!それ、どういう……い……み……」

 

 俺の目の前には、陽乃さんではなく、無機質な黒い球体が鎮座していて。

 

 すでに場所は、あの血に塗れた羅鼎院ではなく、いつもの――もはや自然にいつものという副詞が出てしまうほど馴染んでしまった――2LDKのマンションの一室。

 

 俺の恰好は黒い無傷のガンツスーツの上に血痕一つない総武高の制服。

 

 あのミッションに送られる前と瓜二つの――――まったく同一の恰好。

 

 左肩にも、右脇腹にも、そして最後にあの鋭い尾の先端が突き刺さった腹部にも――――傷どころか、服すら破れていなかった。

 

 まるで、あの地獄のような一時間が、悪い夢――極悪の悪夢だったかのように。

 

 チーン

 

 そんな俺の目を覚ます目覚まし時計かのように――そうだとすればあまりにも力不足だが――黒い球体は力が抜けるような甲高い音を鳴らす。

 

 俺は、ゆっくりと、黒い球体に目を向ける。

 

 

 

 ……いや、違うだろう。そうじゃないだろう、ガンツ。

 

 

 まだだろう。まだ早い。だって、まだ来るべき人が――――ここに来なきゃならない人がいるだろうが。

 

 

「――まだ!!陽乃さんが来てないだろうがぁっ!!!!」

 

 

【それぢは ちいてんを はじぬる】

 

 

「ふざけんな!!順序が違うだろう!!採点の前に陽乃さんを連れてこい!!!あの人は死んでない!!あの人はまだ生きていた!!!!」

 

 

『ぼっち(笑)』27点

 

 Total 50点

 あと50点でおわり

 

 

「そんなことはどうだっていい!!!早く……早くッ!!陽乃さんを転送しろよッ!!聞いてるのか、ガンツ!!!」

 

 

 だが、黒い球体は、ガンツは、それ以降、何の文字を浮かび上がらせることもなく。

 

 

 ただの、黒い球体でしかなかった。

 

 

 俺は、ゆっくりとそれに近づく。

 

 なぜか俺の足は上手く動かず、何もないフローリングで転倒し、強く全身を打ちつける。

 

 俺は、ふらふらと両手をついて体を持ち上げ、床を――何の罪もない何もないフローリングを凝視したまま、本当に発声しているのか、自分の耳にギリギリ届くくらいの掠れた音量で、呟く。

 

「…………ガンツ。…………メモリーを」

 

 ガンツは瞬時にその黒い球体面に、無数の顔写真を表示する。

 

 呆然と顔を上げた俺の視点は、まず中坊の顔を捉える。

 前回のミッション終了時、右下にあったその顔は、最下列の真ん中ほどに押しやられていた。

 

 そこから右に続くのは、つい一時間前、この部屋に押し詰められていた人たちの顔、顔、顔。

 

 まずは葉山。俺が最後に見た無残に腫れあがった顔ではなく、ここに初めて送られた時の、爽やかな好青年だったころの、傷一つない表情。

 

 次に相模。俺は、コイツの死に様を見ていない。葉山を追いかけて行った後ろ姿が、俺の中のコイツの最後の姿だ。

 

 そして、達海。折本。……一度、ミッションを生き残ったこいつ等も、今回のミッションは生き残れなかった。

 

 ボンバー、ラッパー、ミリタリー、つなぎ、坊主にリーマン、白人格闘家に、そしてインテリ――間藤。

 曲者揃いのコイツ等も、一人残らず死んだ。誰も、誰も、帰ってこない。

 

 

 

 そして。

 

 

 そして。そして。そして。

 

 

 右端には――――前回、中坊が表示されてた、その場所には。

 

 

 守ると誓った。帰すと誓った。そして絶対に失くしたくないと、願い、祈った。

 

 

 あの人が――俺の一番、世界で一番、この世で一番、大切な女性(ひと)が。

 

 

 雪ノ下陽乃が、そこにいた。

 

 

 いた。いてしまった。変わり果てた姿で――3cm×4cmの小さな顔写真になって、そこにいてしまった。

 

 

 俺は、また、守りきれなかった。

 

 俺は、また、失くしてしまった。

 

 俺は

 

 

 俺は

 

 

 

 俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺はは俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は

 

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

 俺は、狂ったように暴れた。

 

 俺は、壊れたように叫んだ。

 

 ただただただただただただただただただただただただ現実逃避を試みた。現実から、真実から、辛い現実から、残酷な真実から。

 

 逃げて逃げて逃げて逃げて。避けて避けて避けて避けて。否定して否定して否定して否定した。

 

 悪夢から覚めようと、思いっきり何の罪もない何もない凹み一つない綺麗なフローリングに頭を打ち付けた。

 

 スーツのおかげか、全然痛くなかった。

 

 ゴーンという小気味いい音が響いた。

 

 頭を上げた。

 

 

 

 一人だった。

 

 

 

 いつも通りに独りだった。

 

 

 

 ぼっちだった。

 

 

 

 いつも通りの辛い現実が、残酷な真実が広がっていた。

 

 

 一人と一個で過ごすには、あまりにも広すぎる部屋。

 

 

 俺は、ついに限界で。

 

「……ぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああ!!!!うぁぁあああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」

 

 今度は、泣いた。泣き叫んだ。

 

 何度も何度も何度も何度も、何の罪もない何もないフローリングに拳を叩きつけて。

 

 子供のように、赤子のように、泣き叫んだ。

 

 色々な感情が渦巻く。溢れ出す激情の瀑布を抱えきれない。

 

 正直、とっくにキャパオーバーだった。

 

 あれだけ暴れて。あれだけ叫んで。

 

 その上、これだけ泣いても、それでもとめどなく湧いてくる感情が、激情が、俺の中で暴れ狂う。容赦なく責め立てる。

 

 ビュンという音に、俺は自宅へと転送されるのだと分かった。

 

 こんなままじゃあ、こんな様じゃあ、俺は自宅でも無茶苦茶に荒れ狂うのだろう。暴れ狂うのだろう。

 

 それはダメだ。何も関係ない小町に事情を聞かれたら、今の俺は誤魔化し切れる自信がない。

 

「―――――――――――――ッッッッ!!!!」

 

 俺は唇を血が滲む程に強く、強く強く噛み締め、漏れ出す絶叫を力づくで抑え込む。

 

 そして、最後に、泣き言を言うことにした。号泣しているのにかこつけて、泣き言を言うことにした。

 

 こんな事態(こと)になったのは俺のせいだ。

 

 俺が弱かったから。俺が失敗したから。俺が成し遂げられなかったから、こんな結果(こと)になった。

 

 みんな死んだ。

 

 陽乃さんを助けられなかった。

 

 だから、俺に、この俺に、こんな俺に、こんなことを言う資格など、ありはしないのだろう。

 

 でも、小町を守る為だ。小町を巻き込まない為だ。

 

 そんな風に、最愛の妹を言い訳に、俺は、この処理しきれない感情を、少しでも処理するために、泣き言を、恨み言を、吐き出す。

 

 

「……俺を――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「一人ぼっちに、しないでくれ」

 

 

 




 雪ノ下陽乃――――脱落





 再び、比企谷八幡は失った。そして――――また、一人ぼっちになった。



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チビ星人編
彼はこうして歪んだ日常に帰還する。


今回から、GANTZ設定に原作との大きな矛盾が加わります。
この作品での独自設定だと考えてください。


 俺は自宅の自室に転送された後も、布団を被って枕を噛みしめて、嗚咽が絶対に小町に漏れないように、一晩中泣き明かした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、早朝。

 小町が起きてくる前に、置手紙を残して先に登校し――――たと見せかけ、小町が家を出た後、こっそりと家に戻り、タオルを濡らして、それをアイマスク代わりにして、一日中部屋に閉じこもった。

 

 こんな風に泣き腫らした顔を、小町や戸塚――由比ヶ浜に見られたら、変に心配をかけちまう。

 

 それに事情を聞かれたら、今の俺には上手いこと誤魔化す自信がない。

 

 一色には悪いことをした。明日、ちゃんと謝っとかないとな。

 

 

 それに――――――雪ノ下とも、きちんと話をしないと。

 

 

 

 

 

 そして、その翌日。

 

 あのミッションから、二日目の朝。

 

 俺はぐっと腹筋に力を入れて起き上がり、大きく深呼吸をして、部屋を出る。

 

「……うい~す」

「あ、お兄ちゃん!どうしたの!?何回も声をかけても夕ご飯にも起きてこないし!結衣さんから昨日学校来てないってメール来たし!一体何やってたの!?小町的にポイントひっっくいよ!!」

「ひっっくいのか。いや、前の晩に読み込んだラノベが面白くってな。明け方まで読み込んでて、いっそそのまま学校行ってやろうかと思ったけど、登校途中で死ぬほど眠くなって、結局サボタージュ決め込んでそのままずっと寝てたんだ。起きたらAMでビビったぜ」

「……もう、いい年して何やってるの。受験生の小町に喧嘩売ってるの?今日はちゃんと学校行ってよね。……あんまり、結衣さんや雪乃さんに心配かけないでよ」

「…………由比ヶ浜はともかく、雪ノ下は心配しなくても心配なんてしないだろうけどな」

 

 俺がボソッと呟いた言葉に、小町はきょとんとした顔を向ける。

 

「え?」

「いや、何でもない。分かってる。ちゃんと今日は学校に行くさ。めんどくせぇ仕事もあるしな」

「…………おにいcy――」

「それと昨日の無断欠席の件で、平塚先生から迷惑(スパム)メールペースでメールが山のように送られてきて怖すぎるから今日も先に出るわ。……ホントこの人のメール怖すぎる。どうやって指動かせば、この文量でこの量のメール送れるんだよ……」

「あ、おにい――」

 

 バタンと、リビングの扉を閉めて、そのまま玄関へと向かう。

 ……しまった。つい戯言を口に出してしまった。

 また帰ってきてから小町に質問攻めされるんだろうな。どうやって誤魔化すか。さっきのあれだって相当無理があるぞ。

 ……精神的にはまだ万全とは言い難いか。だが、これ以上はもう誤魔化しは効かない。

 

 これ以上は、逃げられない。

 

 

 

 

 

 俺は外に出て、そのまま自転車に跨る。

 ……が、まだ相当時間に余裕があることに気づいて、家から少し離れたところまで漕いだ後、降りて手で押しながら通学路を進んだ。

 

 まだかなり早いせいか、人通りは少ない。

 

 俺はゆっくりと、本当にゆっくりと、通学路を進む。

 

 

 俺以外、みんな死んだ。

 

 達海も、折本も。――――陽乃さんも。

 

 そして、相模も。

 

 クラスの中心人物で、学校の王子様である、葉山隼人も。

 

 死んだ。殺された。もう、この世にはいない。

 

 

 俺はかつて、こんなことを考察したことがあった。

 

 あのガンツミッションで死んだら――死んだ人間が集められるあのミッションで、更に死んだら。本当に死んだら。完膚なきまでに死んだら。

 

 この、ガンツによるコピーの命すら失ったら――どうなるのだろうか、と。

 

 行方不明扱いされるのだろうか。

 だが、それも長期に渡ると、誤魔化しきれない大騒ぎの大事件になるだろう。

 

 特に、陽乃さんだ。

 地元の名家――雪ノ下家の長女が、原因不明の行方不明となったら。例え、大々的に報道されなくとも、あの家が総力を挙げて捜査するに違いない。

 

 そして、そんなことは今までもあったのだろう。ガンツが――あの球体が、メンバー選びにそんな気を遣っているとは思えない。お嬢様だろうが政治家だろうがアイドルだろうが、まさしく無作為で選出しているだろう。

 

 もちろん簡単に、というよりほとんど、あの真実に、あの現象に辿りつける可能性など皆無に等しいとは思うが、それでもガンツは完璧じゃない。決して痕跡を残していないわけじゃないのだ。

 

 なら、答えは一つだ。

 そんな前人未到の大量誘拐、大量殺戮を行ってもなお、真実を露見させない手段。

 

 それは、記憶操作。

 

 ガンツが人の記憶を自由に操作できるのは、100点メニュー①が証明している。

 

 もし、その記憶操作の範囲が、ガンツによるコピー体だけでなく、純然培養の一般市民にまで及ぶとしたら。

 

 そんな荒唐無稽なことを、俺はかつて考察した。そして、それはかなり可能性の高い仮説だと思う。

 

 そして、学校に行けば、嫌でもその仮説が検証される。

 

 俺はただ、聞けばいい。

 

『今日は、葉山はどうした?』と。

 

 俺のようなステルスじゃないんだ。ましてや、あの葉山隼人だ。

 クラスメイトに聞けば、確実に何かしらの反応があるだろう。

 

 まぁ、俺にそんな気さくに人に話しかけるスキルはないが、寝ているふりをして耳を澄ましていればいい。

 

 アイツなら一日の中で一度も話題に上らないなんてことはありえない。

 

 それが、昨日――いや、一昨日までだったら、の話だが。

 

 

 俺は、ぞっとする。

 

 最悪の事態を――だが、かなりの確率で現実となるであろう未来を想定し、ぞっとする。

 

 俺は、その記憶に関する考察をしたとき、さらにこう考えた。

 

 アイツは――ガンツは。あの黒い球体は。

 かつて無関係だった――ごく普通の一般人だった俺達を、無理矢理関係者にした。あの部屋の住人にした。あの残酷なミッションのメンバーにした。

 

“することが出来た”。

 

 それはつまり、誰が、いつ、俺たちのような目に遭うか分からない、ということ。

 ガンツの餌食になるか分からない、ということ。

 

 ガンツは、餌食にすることが出来る、ということ。

 

 今はまだ、無関係な一般人を。今はまだ無関係な――世界中の人類全てを。

 

 それは、つまり。

 

 

 この世界全ての人間が、ガンツの支配下なのではないか、という、こと。

 

 

 ……俺は、かろうじて進めていた歩みを止め、口を手で覆う。

 

 

 一つの黒い球体に、支配される世界。

 そんな中二の頃にハマりそうなSFアニメのような、馬鹿馬鹿しく、荒唐無稽で、失笑必至な仮説が、急速に現実味を帯びる。

 

 帯びて、しまう。

 

 カタストロフィ。

 

 中坊が遺したその単語が、脳裏に()ぎり、こびりつく。

 

「……本当、冗談じゃない」

 

 俺は、止まってしまった足を、なんとか小さく前に進める。

 

 まったく、どれだけハードモードなんだ。俺の人生は。この世界は。超クソゲーだ。

 

 ……誰か、本当に、世界を変えてはくれないだろうか。

 

 

 

「あーーーーー!!!!いたーーーーー!!!!」

 

 ビクッと肩を震わす。

 気が付いたら、それなりの時間になっており、しかも昇降口の目の前だった。

 

 うわぁ。よく事故らなかったな。

 っていうか、チャリを駐輪場まで持って行かないと。こんな場所までチャリ押してるとかめちゃくちゃ目立ってるじゃねぇか。超恥ずかしい。

 

 俺は、チャリの向きを変えてそのまま駐輪場へと――

 

「ちょっとちょっとちょっと!!何、無視してるんですか先輩!!」

 

 ちっ。ダメだったか。

 

「なんだ、俺に用か?……えぇと、愛識(いとしき)?」

「誰ですか!?一色ですよ、一色いろは!一日会わなかったくらいで名前忘れないでくださいよ!」

 

 いやぁ、お前がこの小説で喋ったのって9話以来だから、ついな。(メタ)

 でも、名前ネタはあの川なんとかさんの十八番だったな。そういえば、あの人はこの小説ではまだセリフ……あ(察し)いや、作者は好きなんだけどね、川なんとかさん。

 

「あ、そうだ!休みと言えば、何で昨日先輩休んだんですか!!おかげで、昨日は――」

「……なんだ?何かあったのか?」

「い、いえ。相変わらずの一昨日と同じような……いえ、先輩がいなかった分、より収拾がつかない感じで。……それに……ええと…………」

「………………」

 

 ただでさえ肩身の狭い思いをしているコイツに、更に寂しい思いをさせてしまったか。俺みたいな奴でも、一色にとっては気を遣わなくていい、いうならば気楽な存在だからな。何も出来なくても、いないよりはマシなんだろう。

 

 俺は一色に対して少しは貢献できているらしいことが嬉しく感じ、無意識の内に一色の頭に手を乗せてしまった。

 ……一色にそんな思いをさせてしまう程に追い込んだのも俺なので、決して救われたような気持ちにはならないが。なってはいけない。

 

「――あ」

「悪かったな。ちょっと寝不足でよ。また今日からちゃんと付き合うから」

「や、やめてください調子に乗らないでくださいもしかして口説こうとしてますかごめんなさいまだちょっと無理です」

 

 思わず頭を撫でてしまったら、バシッと手を払われ、電光石火の速さで振られてしまった。

 すると、後ろから戸部がやってきた。彼も7話以来のセリフだ。どうやら、あの時のようにサッカー部の朝練終わりに遭遇したらしい。

 

「ちょっといろはす~。これどこに運べばいいんだっけ~。ってヒキタニくんじゃん。最近よく遭遇するわ~。マジパないわ~」

 

 いや、遭遇するって俺たち一応クラスメイトですよね……。

 

 っていうか一色。お前マネージャーが練習終わりの選手に用具片付けさせるなよ……。そしておとなしく片付けるなよ、戸部。お前確かレギュラーで、そして二年だろ。何をしている一年。

 

「あ、ああ」

 

 その戸部のあまりの境遇に引いてしまい、思わず挨拶を返してしまう。

 そして戸部は、そのリア充得意の距離感の詰め具合で、あっとう言う間に俺と一色の輪に混ざり、会話に加わ「チッ」…………俺は何も聞いてない。聞こえるか聞こえないかくらいの大きさの絶妙の舌打ちなんか全然聞こえなかった。本当だよ。ハチマンウソツカナイ。

 

「戸部先輩。それはいつもの用具ロッカーに入れておいてくれれば大丈夫ですよ」

 

「おう、りょうか~い。っていうか、ヒキタニくん昨日いなかったべ。風邪?最近、さぶいもんな~」

「……………………」

 

 俺は無視して駐輪場に行こうかとも思ったが、戸部を見る一色の笑顔があまりに怖いので、それとなく場を和まそうと何か別の話題を考えた。なんで俺がこんなことを。それこそ戸部の仕事だろ。っていうか、一色なんでそんな怒ってんだ。助けろ、はや――

 

――その瞬間、俺の脳が急速に冷えた。

 

 ……そうだな。教室に入ってタイミングを見計らうよりは、この場の方がやりやすいのかもしれない。

 

 俺は二人に気づかれないように小さく息を呑み、そしてさりげなく――俺に出来る精一杯のさりげない話題転換を装って――切り出す。

 

 

「そういえば、葉山はどうした?アイツも風邪か?」

 

 

 二人は、きょとんとして俺の顔をマジマジと凝視し、口を揃えて答えた。

 

 

 

 

「「“葉山”って、誰(ですか)?」」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 俺は朝のにぎやかな空気を壊さない完璧なステルスヒッキーで教室に入る。

 教室の中には、いつものようにいくつかのグループで雑談の花を咲かせるクラスメイト達。

 

――いや、違うな。いつも通りでは決してない。少なくとも、俺にとっては。

 

 教室の端。そこでは――俺の記憶が確かなら――男子と女子のトップカーストのグループが仲良くくだらない会話を繰り広げているのが定番だったはず。

 

 だが、今現在そこにいるのは、獄炎の女王—―三浦優美子、咲き乱れる腐の花びら――海老名姫菜、そして狂気の菓子職人(マッドパティシエ)――由比ヶ浜結衣。いや、二つ名は適当に今付けたんですけどね。

 

 そして、それだけ。彼女たちは、彼女たち三人で楽しそうに笑い合っている。

 

 その形で完結している。

 それが完成品のように。正しい形だというように。初めから、こうだったと言わんばかりに。

 

 俺はその光景を、いつもより更に腐ったどんよりとした目で見ているのだろう。

 

 由比ヶ浜は俺に気づき、こちらに笑顔を向けて――目を見開く。そして、他の二人に何やらしどろもどろ言葉を掛けて、こちらに向かってくる。……今の俺の目はそんなに緊急事態レベルでヤバいのだろうか。

 

 ヤバいのだろう。正直、気が狂いそうなくらいだ。

 

 ふと、由比ヶ浜がこちらに来るまでに、教室を何気なく見渡す。

 

 先程、挨拶を交わした戸部は、優柔不断で定評のある大和と童貞風見鶏で名高い大岡の二人と一緒に――“相模のいない”旧相模グループと仲よさげに談笑していた。……なるほど、そうなるのか。そうなっているのか。

 

 葉山だけでなく、相模の抜けた穴も、きちんと補完されている。

 

 だが、そうなると――

 

「ヒッキー!」

「八幡!」

 

 マッドパティシエと天使の声が聞こえる。

 

「おう、戸塚おはよう」

「おはよう、八幡!」

「……………………私は!?」

「おう、いたのか由比ヶ浜」

「さっき目が合ったじゃん!?」

 

 そんな風に由比ヶ浜で一下り作った後、由比ヶ浜はジロジロと、俺を文字通り食い入るように見つめる。てか近い近いいい匂い近い柔らかそうなのが当たりそう近い。

 

「……近ぇよ、あと近い」

「――え? ちょ!やだ、ヒッキーキモい!!」

「当たり屋かお前」

 

 自分から近づいといてそれは無いだろう。回避不可じゃん。

 

 そんな当たり屋とは余所に、天sごほっごほっ失礼、天使(とつか)は両手を胸の前で握って、潤んだ瞳で俺を見つめている。なんだ天使か。

 

「……八幡、大丈夫?そんなに体調悪いの?」

「あ、そうだよ、ヒッキー。大丈夫?小町ちゃんから聞いた理由はくだらなかったけど、今顔色ものすごく悪いよ。本当に体調悪いんじゃない?目もいつもより腐ってるし」

 

 ほっとけ。

――といいたいところだが、実際に気分は最悪だ。それこそ、体調面に影響が出てもおかしくないくらい。

 

 それくらい、今のこの教室は気持ち悪い。

 

 まったく問題がない。だからこそ、吐き気がする程、気持ち悪い。

 

 人が二人いなくなったのに――死んだのに。

 問題なく機能する“いつもの日常”が、気持ちが悪くて仕方がない。

 

 はっきり言って、相模も、そして葉山も。

 日常生活では、いつもの日常では、俺にとっては背景でしかないモブキャラだった。

 

 会話も交わさない。目も合わせない。同じクラスに押し込まれているに過ぎなかった数十人の一人。

 

 例え過去の何かで幾度か関わっていても、普段の日常パートでは、俺にとっての二人はそんなものに過ぎなかった。

 

 それは同じようにガンツのミッションメンバーになった後でも、大差なかった。少なくとも、この教室内では。

 

 そんな二人が抜けた穴を、問題ないように埋めただけ。別の何かで埋めただけ。

 

 それなのに、ここまで強烈な違和感を感じるものなのか。

 

 欺瞞が、欺瞞ではなくなっている。

 

 欺瞞が、本物とされている世界。そういうことになっている世界。

 

 ガンツがそういう風に支配し、改変した、別世界。

 

「……いや、戸部がいつも通りうっせぇなって思ってな」

「あ~、“戸部君”?確かに、ちょっと声はおっきいけど、大体いつもそうじゃない?」

「………………」

 

 戸部君、ね。

 確か由比ヶ浜はアイツのことをとべっちと呼んでいたはずだが、“今の”由比ヶ浜にとっては、友達ですらなく、ただのクラスメイトってことか。

 

 だが、戸部の方はまるで、少なくとも何度か話したことはあるかのような口ぶりで、俺に接してきた。

 由比ヶ浜に戸部とのパイプがない以上、“葉山隼人がいない”この世界では、戸部と俺をつなぐ線がないはずだ。

 

「…………まぁ、そんな文句言えるような立場じゃねぇけどな。文化祭の後くらいのあれから比べると、この教室も大分過ごしやすくなったんだから」

「…………ヒッキー」

「…………八幡」

 

 二人は悲しそうな顔で俺を見る。

 ……そうか。相模がいないこの世界でも、俺は文化祭でなにかやらかしたのか。

 

「…………めずらしいね。ヒッキーがそんなことを言うなんて」

「……そうだな。いや、アイツもようやく飽きたのかな、って思ってよ」

「でも、あれはヒッキーだけが悪いんじゃないよ。あの子も――あれ?」

 

 由比ヶ浜は俺を庇おうとしてくれて――途中で、頭を捻る。

 

 

「……あの子って、誰だっけ?」

 

 

 ……そういうことか。そういう風に合わせているのか。

 

 俺は、最後に確認の意味も兼ねて、由比ヶ浜に問いかける。

 

「……由比ヶ浜」

「あれ~えっと~? ん?何?」

 

 

「――雪ノ下の、様子はどうだ?」

 

 

 俺がそう聞いた途端、由比ヶ浜は難しい顔で悩んでいた顔を、優しくて悲しそうな苦笑に変えた。

 

「……変わらない、かな?」

「……そっか」

 

 つまり、“ここの”雪ノ下は、“あの”雪ノ下というわけだ。

 

 そのことに、一瞬がっかりした自分がいて、心底自分に腹が立った。

 

 俯いた俺に、由比ヶ浜は恐る恐るといった感じに尋ねる。

 

「あ、あのさ、ヒッキー。…………“やる事”ってまだ終わらないの?」

 

 俺が、その問いに答えあぐねていた、その時――都合よくチャイムが鳴る。

 

「……ほら、鳴ったぞ。早く席に着け。戸塚も、わざわざ来てくれてありがとな」

「う、うん。……じゃあ、無理しないでね、八幡」

「………………うん」

 

 そして、自分たちの席に戻る戸塚と由比ヶ浜。

 俺は、その背中を見ることすらできずに、廊下側の壁に顔を向ける。そして、ボソリと呟いた。

 

「…………俺が聞きてぇよ」

 

 本当に、いつ終わるんだ。

 俺は、あと何回100点をとればいい。何回あんな地獄に放り込まれればいい。あと何回、あと何回、あと何回。

 

 俺は、いつ、奉仕部に戻れるんだ?――――あの二人を、救うことが出来るんだ?

 

 俺は、いつになったらハニトーが食えるんだ?

 

 いや、そんな日は、本当に来るのか?

 

 

 

 世界で一番大事なものも、守りきれなかったくせに。

 

 

 




 次回も、この作品における、ガンツメンバーの死亡による現実世界での辻褄の合わせ方の説明回になります。

 強引且つ無茶苦茶ですが、今回の作品ではもうこの設定で突っ走ろうと思っているので、ご容赦ください。


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比企谷八幡は、ついに比企谷八幡を見限った。

説明回後編です。


 結局、俺は午前の最後の授業をサボった。

 

 あの違和感だらけの空間に、今の俺の精神力じゃ耐え切ることが出来なかった。

 

 俺は人目に付きにくいマイベストプレイスで、寒風の中マフラーだけを巻いて横になり、冬の曇り空を眺めている。

 

 先程の由比ヶ浜とのやり取りで、この世界の辻褄の合わせ方の法則性のようなものが見えてきた。

 

 まず第一に、消えた――死んだ人間に関する記憶は消える。まるで、そんな人物などいなかったかのように。

 その為、その人物がいない場合における一番自然な形に落ち着くのだろう。だから、三浦達は葉山がいないあのグループには興味を示さないし、戸部たちは自分たちと釣合いの取れるクラスカースト第二位の旧相模グループとつるんでいるのだろう。

 

 だが、だからといって今までの、そいつらが遺した行動の歴史は消えるわけじゃない。

 

 記憶はなくなっているが、相模が、そして葉山が起こした行動は、確実にあったことなんだ。

 

 だから、相模は文化祭の実行委員長になって、俺は奉仕部の依頼を遂行するために相模に暴言を吐き、全校生徒の嫌われ者になった――これは変わらない。変わっていない。あの二人のリアクションから見て、間違いないだろう。もしかしたら、公式記録にはまだ相模の名があるかもしれないな。ここで、相模の代わりに別の人物が委員長になったという風に修正されているのなら、由比ヶ浜はあそこでその人物の名前を口にしたはずだ。

 

 そして、それは葉山も同様なのだろう。

 

 だからこそ、これまでの奉仕部の依頼の行動の結果は、純然と残っていて。

 

 俺はいまだに、雪ノ下雪乃から見限られたままなのだ。

 

 ……とにかく、消えた二人は、本当に消えたわけじゃない。消されたわけではない。文字通り、忘れられているだけだ。それもかなり深いレベル――忘れたことを忘れているレベルで。

 

 だから、二人がいない状況で一番自然な状態に落ち着く。――それが、不自然な形であることに気づかない。

 

 ガンツは、そういう記憶操作をしている。

 この形がガンツの限界なのか、それとも何十、何百人分という人物についての修正をしなくてはならないからこういった中途半端な形にしているのかは分からない。

 

 それとも、まだあいつ等は蘇る可能性があるから、こういった形にしているのか。

 

 この世から完全に消してしまうのではなく、あくまで忘れているという形に留めているのか。

 

 取り戻したくば、勝ち取って見せろ。俺にそう言っているのか。……そこまでは少年漫画の見過ぎか。

 

 だが、これはあのガンツの記憶操作だ。

 先程の由比ヶ浜のように、違和感に気づく奴も多いだろう。特に葉山に関しては、強い関心を抱いていた奴も多いだろうしな。

 

 それでも、その程度で思い出せることが出来るような強度ではないはずだ。

 

 もし、何かの拍子で思い出そうとしたら――もしくは、俺が第三者に無理矢理思い出させそうとしたら、その違和感ごと忘れ去るなんて緊急回避を用意していないとは限らない。いや、むしろ俺はそう施されていると仮定する。アイツは機密漏洩に対する策としてはこれくらいするだろう。最悪ガンツの情報をバラそうとした時と同じように頭が爆発するかもな。少なくとも俺は。

 

 ……やはり、あいつ等を完全に取り戻すには、俺がガンツミッションで100点をとり、生き返らせるしか方法はない、か。

 

 その前に俺も死ぬって可能性が一番大きい気がするけれど。

 

 

 チャイムが鳴る。昼休みだ。

 

 俺は、のそっと起き上がり、昼飯を調達しようと腰を上げる。財布は持ってきてあるから、先にマッ缶を調達しに行くか。購買は昼休みの始めは人がわんさか集まってうっとうしいしな。

 

 

 ……強い関心。

 あの人も、葉山以上にみんなの中心で、多くの人間の強い関心を一身に受けてきただろう。

 

 

 だが、それでもアイツ以上にあの人への関心を――強い気持ちを持っている奴を、少なくとも俺は知らない。

 

 

 雪ノ下雪乃も、雪ノ下陽乃のことを、忘れてしまっているのだろうか。

 

 

 そんなことを考えながら、マッ缶を二本購入し、一本を飲みながらマイベストプレイスへと向かっていると。

 

 

 前方から、雪ノ下雪乃が歩いてきた。

 

 

 その手には弁当箱。いつも通り、奉仕部の部室で由比ヶ浜と食べるのだろう。まだ俺には気づいていない。だが、ここは長い一本道の廊下だ。今更別の道に逃げ込んでやり過ごすことは出来ない。

 

『もう、無理して来なくていいわ……』

 

 ……俺は苦笑する。心中で自嘲する。

 いつの間にか、雪ノ下に対して怯えている自分がいる。

 これ以上に見限られるのが、そんなに怖いのか。

 

 もう雪ノ下は、俺に対して見限る程の価値も、見出してはいないだろうに。

 

 雪ノ下が、俺に気づく。

 そして、その仮面をつけた表情で俺に言う。

 

 

「こんにちは」

「おう」

 

 

 そして、すれ違う。

 

 お互いが逆方向に向かって歩みを続ける。背を向けたまま遠ざかっていく。

 

 俺は、雪ノ下に陽乃さんのことを聞くことが出来なかった。

 

 

『八幡。……雪乃ちゃんのこと、お願いね』

 

 

 俺は、なにも出来ない。

 

 あの人の最期の言葉すら、今わの際に託された想いですら、叶えてあげることが出来きそうにない。

 

 俺は。俺の心は。

 何かがポッキリと折れたように、何かがごっそりと抜け落ちたかのように、虚無感と喪失感に満ちていた。痛い位に、何も感じなかった。

 

 あの造り変えられた教室の日常のように、景色が昨日までと――一昨日(おととい)までと違って見える。

 

 まるで、俺一人だけ別の世界に迷い込んでしまったかのようだ。

 

 変わってしまった世界で、俺だけが取り残されてしまったかのようだ。

 

 俺は、本当に比企谷八幡か? あの比企谷八幡か?

 

 お前は誰だ? 俺は誰だ?

 

 いつからこんなに弱くなった? 情けなくなったんだ?

 

 ……いや、むしろ今までが違ったのか。

 

 鍍金(めっき)が剥げただけで。化けの皮が剥がれただけのことで。

 

 元々、比企谷八幡なんて奴は大した奴じゃなかったんだ。

 

 それを俺は、誰よりも知っていた。他ならぬ俺のことだから。

 

 だから、そんな自分を守る為に、誰よりも自分のことを自分で肯定した。誰も認めてくれないから、せめて自分だけは、自分に優しくした。

 

 それに限界がきた。

 

 かつて俺は雪ノ下に自分勝手な幻想を押し付けた自分を嫌悪したことがあったが、あの時とは比べ物にならない失望感だ。

 

 俺は、限界だった。それだけの話。

 

 自分ですら、自分を擁護出来なくなった。ただ、それだけの話。

 

 

 ついに、比企谷八幡は、比企谷八幡にすら、見限られた。

 

 

 ただ、それだけ。

 

 それだけの、当たり前の話。

 

 

 俺は、結局この日、奉仕部には行かなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その日の放課後。

 俺は生徒会室へ直行し、そのまま一色と共にコミュニティセンターに向かう。

 

 前まではコミュニティセンターで直接待ち合わせをしていたのだが、一度すれ違ってまた学校に戻る羽目になったしな。だったら、こうした方が二度手間じゃなくていい。

 

 一色は俺が生徒会室に迎えに来たとき大きく目を見開いて驚いた後、ニヤニヤしながら肘で俺を突いてきた。うぜえ。

 

「もう、先輩ったら~。そんなに一刻も早くわたしに会いたかったんですかぁ~?」

「語尾を伸ばすな、あざといんだよ。いいから、その重たいアピールをしている資料を寄越せ」

 

 そして一色が持っていた資料を掻っ攫い、「さっさと行くぞ」と言って歩き出す。これで荷物持ちだと周りにもアピール出来て、こいつに変な噂が立つこともないだろう。ないよね?

 

 一色はいつもよりも数段機嫌よさげにニコニコしながら俺についてくる。元気いいなぁ。なにかいいことでもあったのかい。

 

 

 道中も、俺と一色はいつものくだらないやり取りを交わした。

 

 なんだかんだでコイツとのやり取りは、それなりに、まぁ、楽しい。

 

 コイツにも負い目はあるし、それ故にこんな面倒くさい行事の手伝いをこうしてしているのだが、しかしコイツがこんな性格だからか、そこまで重く考えていないというのも正直な所だ。第一、コイツが生徒会長に立候補させられたのはコイツ自身にも多分に責任があるし。

 まあ、それでも俺はコイツに頼まれたら、嫌々言いながらも手伝う羽目になるんだろうな。それはコイツが小町に雰囲気が似ているからか、それとも単純にコイツという人間を俺が気に入っているからか。

 

 たぶんあれだ。阿良々木さんにとって戦場ヶ原さんが彼女で、羽川さんのことが大好きで、一緒に死ぬなら忍さんだけれど、一番会話が楽しいのは八九寺なのと一緒だろう。違うか。違うな。

 

 まぁ、でも当たらずとも遠からず、か。波長が合うというか、楽なのだろう。コイツは俺にガンガン素を見せるから勘違いしなくて済むし、俺は基本小町とばっか話していたから年下の扱いには慣れている。きっとかわいい後輩という奴なんだろう。今までそういうのいたことないから知らんけど。

 

 とにかく、何を言いたいかと言えば。

 コイツとの道中のお喋りは、最近いろいろあって大分ヤバい位に消耗しきっていた俺の精神の、それなりにいい回復になったってことだ。

 

 だが、それと引き換えにコミュニティセンターに着くまでに俺は一色に三回程に振られた。解せぬ。

 

 

 

 そして、一日ぶりの会議。

 わずかながら解消したストレスを補って余りある充実したものでした。まる。

 

 ……いや、冗談じゃねぇよ。そりゃあ、人間が一日見なかっただけで見違えるように成長している、なんて幻想は抱いていなかったよ。でも、まさか悪化しているとは思わないじゃん。しかもあの状態から。

 

 なんか、教会の讃美歌とかジャズのコンサートとかの意見を掘り下げちゃってる感じなんだけど大丈夫なの? いや、お前らがそれでいいならいいんだけどさ。

 小学生なんか完全に持て余しちゃってるし。出来る作業も終わっちゃって思い思いにお喋りを始めている。留美は相変わらず一人だったが。

 そして、それに感化されたのか、いつもの通り思い思いの意見を出していた海浜総合の奴らも、近場の人間と勝手に意見を交換し始めた。もはや会議ではない。完全に幾つもの場所でそこだけで完結している島が出来ている――いってしまえば雑談と変わらない。

 

 時折、玉縄が自分に注目を集め、会議の流れを引き戻そうとするが、すでにまともに収拾のつくスケールを越えている。

 結果アイツに出来るのは意見を求めることだけで、同じことの繰り返しだ。

 

 心なしか焦っているようにも見える。こうなることが目に見えていたから、何度も現実的な案を練るべきだと言ったのに。

 

 一色は不安げに俺を見つめる。……俺は、そんな一色に何もしてやれることは出来なかった。

 

 ……これは、もうダメかもな。

 

 この企画は失敗する。このままじゃ確実に。強引にでも会議の流れを変える一打が必要だ。

 

 ……策は、あることにはある。

 俺が玉縄を徹底的に糾弾して、俺にヘイトを集めればいい。現実を突きつければいい。文化祭の時と同じだ。

 

 そうすれば、雰囲気は最悪になるだろうが、それでも会議はまともな方向に向くはずだ。

 本来なら今すぐにでもそうするべきなんだろう。

 

 それでも、これは一色の生徒会長としての初めてのデカい仕事。本来はこの仕事をやり遂げることで、生徒会長としての自覚と信頼を得ることがベストなんだ。

 だがその為には、ここで俺が悪役になることは、決して良いことではない。今の一色じゃあ、俺が何かをやらかしても、その後のフォローが出来るとは思えない。下手すりゃそのまま追い出されて、共同イベントから外されるかもしれない。ただでさえ、こちらの人員は生徒会メンバー+俺しかいないんだしな。……それでは、決して奉仕部としては。……いや、これはあくまで俺が個人的に請け負った件だから問題はないのか。……ッ、馬鹿かっ! 問題ねぇわけねぇだろっ!……くそっ、こんがらがってきた。

 

 ……結局、今まで通り、玉縄に反感を買わない程度の助言をしつつ、会議の舵を戻すようにしないとダメなのか。

 

 解消じゃなくて、解決、か。……そんなこと、俺に出来るわけないことは、俺が一番知っているはずなのにな。

 

 だが、この一色の顔を見ると、なんとかしてやりたくなっちまう。

 

 ……限界まで、足掻いてみるか。

 

 俺は、そうしてガンガン精神を削られながら、暖簾に腕を押し続けるのだった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「ぐはぁ……」

 

 俺は帰宅するなり、そのまま自室のベッドに倒れ込む。

 

 疲れ切った。

 結局会議の流れは最後まで変わらなかった。

 

 今日は、会議後の海浜総合のメンバーのテンションも低かった。いつもは無駄にやり切った感、俺達青春してるぜ感を仲間と語らいながら無駄に滲み出しているのに、今日は言葉数も少なかった。

 

 本当は奴らも薄々感づいてはいるのだろう。自分たちが崖っぷちに追い詰められていることに。

 

 ……限界か。

 

 次回の会議でもこんな調子なら、あの案を実行に移すしかない。

 なんなら、副会長の彼に後始末を頼んでおこうか。俺がやらかしても、イベント自体には参加できるように交渉してもらう役を。……本当は一色がやるべきなんだろうが。

 

 俺は、そんなことを考えているうちに、徐々に微睡んでいく。

 

 そういえばやっぱり折本はいなかった、とか。

 今日も小町の作った夕飯食えなかった、とか。

 

 そんなことを薄れゆく意識の中で思いながら、俺は制服のまま完全に眠りについた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あーた~~らし~~いあーさがき~~た~~きぼーのあーさーがー

 

 

 その朝を知らせる音楽に、俺の体は一気に覚醒する。ヤバい。ラジオ体操が完全にトラウマになってる。夏休みの早朝の公園とかに近づけない。あ、別に困らないか。昼まで寝てるし。

 

 いや、そんなことを考えている場合じゃない。残念ながら、今は夏休みではなく真冬だ。そして、俺は自室のベッドにいたはず。というより、俺のトラウマが示すように、俺の最近の生活でラジオ体操を聞く機会があるのは――

 

 

 やはりそこは、黒い球体が鎮座する、あの部屋だった。

 

 

 ……もう、かよ。あれからまだ二日しか経ってないのに。

 

【てめえ達の命はなくなりました。】

【新しい命をどう使おうと私の勝手です。】

【という理屈なわけだす。】

 

 

 黒い球体は、そんな俺の心情に構うことなく、表面に今回のターゲットの星人の情報を浮かび上がらせる。

 

【てめえ達はこいつをヤッつけてくだちい】

 

《チビ星人》

 

 この情報は、案外当てにならないからな。今回も、これとは違うボスが――いや、待て。それよりも――

 

 ドガンッ!!!! とガンツが三方向に開き、無数の武器が現れる。

 

 いや、まて、違う。欲しいのはそれじゃない。勝手にどんどん進めるな。それよりも――

 

 

「――――何で、俺以外、誰もいないんだっ!ガンツ!?」

 

 

 だが、ガンツからは何の応答もない。

 

「――――くっ!」

 

 俺は、それ以上喚くのを止めて、準備に取り掛かる。

 これは、俺がこの部屋の異常に適応してきたということだが、それでも内心はパニック状態だった。

 

 スーツを着て、武器を持てるだけ身に付けながら、考える。

 もはや習慣となったスタイルであるスーツの上に制服を身に付けながら、思考を巡らせる。

 

 一人。孤り。独り。

 一人ぼっちで、ミッションに挑む。

 

 こんなことは初めてだ。

 俺たちが来る前は、中坊もこんな目に遭ったことがあったのだろか。

 

 問題は敵だ。ねぎ星人クラスなら、俺一人でも十分に倒せる。

 だが、田中星人――そして、前回の千手の時のような数と強さだった場合、俺一人じゃどうしようもないぞ。

 

 ガンツは何を考えている?俺に何をさせたい?

 

「――!来たか……」

 

 落ち着け……。何年間も、俺はぼっちで生きてきただろうが。

 

 頼れるものは自分だけだった。いつだって俺は一人だった。

 

 だから俺は、自分一人で生き抜くために、周りに頼らずに生きていけるように、ずっと一人で何とかしてきた。

 

 だから、今回も、生き抜く。

 

 俺は、俺だけは、もう死ぬわけにはいかない。

 

 

 

――俺が死んだら、誰がアイツらを生き返らせるんだ……ッ!

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【いってくだちい】

 

 

【1:00:00】ピッ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 次回、チビ星人編、ミッションスタートです。


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唐突に、比企谷八幡は一人ぼっちで戦場へと放り出される。

比企谷八幡のひとりぼっちの戦争が始まる。


 送られた先は、どこかの屋上だった。

 目の前の銀色の柵の向こうにショッピングモールの看板のようなものが見える。

 広さはそんなに広くない。洗濯物やエアコンのヒーターのようなものがあるということは、マンションか? それとも病院?

 

 俺はマップを確認しながら、銀の柵へと向かう。

 

 エリアの広さは田中星人の時と、千手の時の間くらいの面積。

 

 そして、問題の星人の数は――

 

「…………ッ」

 

 そこに映し出されるのは、1つの青点と、10個の赤点。

 

 10――10体。

 

 絶望的、という程ではない。だが、決して油断できない数だ。少なくとも、俺は今まで単独で10体撃破したことなどない。

 

 ……いや、俺は今まで本当の意味で単独で星人を撃破したことなど、ない。

 

 いつだって中坊や陽乃さん、葉山や相模、達海や折本の力を借りて、どうにかこうにか生き残ってきた。

 

 自分だけ、生き残った。

 

 ……だが今回は、まさしく俺一人だ。

 

 俺一人で、俺だけの力で、独力でこの10体を屠らなければならない。

 

 孤軍奮闘。孤立無援。四面楚歌。

 

「…………望むところだ」

 

 俺は口に出してそう言った。そうだ、何を恐れることがある。

 

 いつもの事だ。いつも通りの俺じゃないか。これが本来の在るべき姿だ。

 

 今まで通りだ。

 

 これが、比企谷八幡の戦いだ。

 

「……………」

 

 俺はマップに示される一番近い点の方角を向く。

 

 いた。

 隣のビルの、給水タンクの影。

 

 そこに白い物体がいる。遠目ではっきりとは認識できないが、人型だ。羽のようなものが生えている。星人に間違いないだろう。さすがにこんな時間にあんな場所で佇んでいるコスプレイヤーという可能性よりは高いだろう。宇宙人の方が確率として高いと言えてしまうこの状況になんだが笑えてくる。

 

 笑えるくらいの余裕が出てきた。そうだ。悲観するな。絶望するな。

 

 俺は両手に持つXショットガンを地面に置き、助走をつけようと柵から離れようとする。スーツが万全の今なら、ここから向こうのビルまで飛び移れるだろう。

 

 どうしても高所というのはそれだけで恐怖を起こさせる。万が一失敗してもこのスーツなら大丈夫だと分かっていても、やはり怖いものは怖い。

 

 そこでふと、あることに気づいた。

 

 ……試すなら、相手に気づかれていない、今だな。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その生物はまるで下界を見下す貴族のように、ビルの屋上の貯水タンクの上から人間たちを高みから見下ろしていた。

 

 三角形の頭。両頬と胸の中心には滑稽な渦巻き模様。

 小さなサイズの体躯も相まってコミカルで愛らしさを纏う造形だが、その不釣り合いなまでの筋肉質な両腕と不気味な卵の外殻のようなグロテスクな翼が放つ禍々しさが完全にそれを帳消しにしていた。

 

 その細い瞳からは、下々の者達を、この星の支配者面をして行き交う人間達を見て、どんな感情を抱いているのか、それを伺い知ることは出来ない。

 

 そして、数秒後。それを知ることは、彼の同胞たちですら永遠に不可能となった。

 

 どこからか、青白い光が小さく瞬く。

 それに付随する甲高い発射音の残響が、彼の耳にかすかに届く。

 

 

 それと同時に、彼の体はバラバラに吹き飛んだ。

 

 

 

 

 

 それを、Xショットガンのスコープから確認した八幡は、ポツリと呟く。

 

「まず、一体」

 

 柵から砲身が飛び出すようにXショットガンを構えた姿勢で、八幡は次のターゲットを探すべくマップを取り出した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ……この距離でも問題なく届いた。……まだまだ射程距離は余裕がありそうだな。

 

 

 この新しい戦法――ていうかつなぎさんの丸パクリなんだが――スナイパー作戦は、かなり使えるな。

 

 これだけの距離から狙えるなら、千手みたいにレーザーでも使ってくる相手でもない限り、ほぼ一方的に屠れる。

 

 ……だがそれも、こちらがチームならの話だ。

 

 スナイパーが機能するのも、敵の注意を引き付ける前衛がいてこそ。

 敵にこちらの位置がバレたら、その時点で優位性は激減する。それを承知で作戦を組まなくちゃな……。

 

 あと、敵は9体。どこまでこの戦法で稼げる――

 

――いや、待て。

 

 さっきのアイツの点が、まだ消えていない……?

 

 俺は、もう一度スコープを覗き、アイツの姿を確認する。

 

 アイツは生きていた。かろうじて。

 

 下半身と左半身は吹き飛ばされて、臓物を曝け出すソイツは、まさしく虫の息。

 距離があるため声は聞こえないが、口の動きから必死に何かを叫んでいるかのようだった。おそらく掠れるような声でだろうが。

 

「………………」

 

 放っておいても間違いなく、問題なくあのチビ星人は死ぬだろう。

 俺がこの引き金をもう一度引いても、明確な死が訪れるのが数秒早いかの違いでしかない。

 

 それでも、ソイツは必死に藻掻いていた。足掻いていた。

 おそらく自分の身に起こったことが、訳が分からないのだろう。

 

 なぜ、自分は攻撃されたのか。体が吹き飛んだのか。

 誰が? どこから?

 分からない。何も分からない。だからこそ、分かる。

 

 言葉も分からない。人種どころか種族が違う。生物としての根幹から違う。

 そんなアイツが、そんなアイツでも、それでも、分かる。

 

 怯えている。

 

 恐怖している。

 

 自分の命がこんなにも簡単に失われようとしていることに。

 

 訳が分からず為す術もなく死んでしまうことに。

 

 混乱し、困惑し、恐慌し、絶望している。

 

 俺たちも、これまであんな顔をしていたのだろうか。

 

 彼らも、彼女らも、みんな、あんな顔をして死んでいったのだろうか。

 

 ……………………………。

 

 俺は、引き金を引いた。

 

 青白い発光と、甲高い発射音。

 

 数秒のタイムラグの後――――

 

 バンッ と、呆気なく散った。

 

 まるで駄菓子屋で売っている煙玉のような情けない破裂音と共に、嘘みたいに簡単に止めを刺された。

 

 ……おそらく、慈悲じゃない。同情でも、憐憫でもない。

 

 ただの逃避だ。見ていられなかっただけだ。

 

 嫌なことを思い出すから、排除しただけだ。

 

 くだらない自己保身だ。

 

 自分で勝手に傷つけて、自分で勝手に憐れむなど、自分勝手にも程がある。

 

 それだけは、絶対にしない。それにだけは、絶対にならない。

 

 これもくだらない自己満足なんだろうけどな。

 

 ……とにかく、一体倒した。次は――

 

「――ッ!」

 

 俺はマップに向けた目を、再び前方のビルへと戻す。

 

 スコープを使うことすらせずに、跳ね上げた視線の先には――

 

 

――次々と、続々と、仲間の死体の元に集結する、チビ星人たち。

 

 

 探す手間が省けたぜッ!全員纏めてかかってきなッ!――なんて言える余裕は、微塵もなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 俺の目線の先。

 俺がいるビルよりも、二、三階ほど低いビルの屋上。

 こちらとは違い、給水タンクや四面の看板などの遮蔽物が多く立ち並ぶ、広い屋上に。

 

 9体のチビ星人が集結していた。

 

 幸いにも、死んだ仲間の元に集まってきただけのようで、こちらにはまだ気づいていない。

 

 だが、それも時間の問題だ。

 

 今回のミッションの残り星人数は、9体。

 

 つまり、今見えている全てのチビ星人を殺せば、ミッションクリア。俺は帰ることが出来る。

 

 だが、こちらは一体(ひとり)

 

 そして数というのは、一種の兵器だ。それだけで力となる。

 

 こちらの力が10だとしても、5が3人集まれば、負ける。

 

 さらにこいつらは、仲間が死んですぐさま集結した。

 

 ……俺の予想が正しければ、こいつらは信じられないほど厄介だ。

 

 俺はXショットガンを構え、スコープを覗きこむ。

 

 こちらの存在を気取られる前に、一体でも多く減らす。

 

 しかし、どうする?

 俺がこのまま射撃し、もう一体吹き飛ばした時点で、アイツ等は俺に気づくだろう。そうなると一体しか減らせない。

 それでも十分過ぎるほどの戦果だが、今のような俺に圧倒的有利な状況は、このミッションにおいてもう訪れないだろう。出来るなら、ここで稼げるだけ稼いでおきたい。

 

『――やっぱり、2つあるトリガーの1つはロックオン機能だったか』

 

 ……あの時の葉山の言葉を思い出す。

 

 俺はそれぞれの銃に2つトリガーがある意味に辿り着けなかった。

 ロックオン。

 射撃対象を明確に設定する機能。確かにその機能は必要かもしれない。

 

 同時に押せばこれまで通り“ただ”発射して、発射トリガーだけ押しても意味がない。

 

 なら、先にロックオントリガーだけを押したら?

 

 あの時の葉山のYガン射撃のように、相手を追跡(ホーミング)するのか?

 

 もし、それがXガンだったら?

 

――一度ロックオンできれば、銃口を向けなくても発射トリガーを引けば効果を与えられる、とかか?

 

 ……よし。試してみるか。

 もし違っても、最後の相手は銃口を向けながら発射すれば、最低でもソイツには攻撃出来る。そうすれば最低限の戦果は得られるだろう。

 

 俺はスコープを覗く。

 

 そして、一体に照準を合わせ、2つあるトリガーの内、上トリガーだけを引いた。

 

 カチッ。

 

 ……何も起こらない。ただの射撃失敗か、それともロックオン出来たのか。

 けっこー不安だが、まぁいい。とりあえずこのまま行ってみよう。ロックオンはこれからのことを考えると、覚えておきたい技法だ。Xガン最大の弱点のタイムラグをカバーできるかもだからな。

 

 カチッ。

 

 ……はっ。“これから”、か。ここを生き残らないとこれからもクソもないってのに、悠長なもんだな。

 

 だけど、俺は生き残り続けなければならない。そして、ただ生き残ればいいってもんじゃない。

 

 俺は何百点も稼がなくちゃいけない。

 

 アイツ等を、一人残らず、生き返らせなくちゃならない。

 

 ……こんなふざけたデスゲームなんかで、死んでいい奴等じゃない。

 

 カチッ。

 

 だが、そうなると、俺はどこまで助ければいい?

 

 陽乃さんや中坊、葉山たちはもちろんだが、他の人たちはどうする?見捨てるのか?

 

 ……間藤や坊主といった、正直救う価値のねぇ屑共もいた。

 

 だが、つなぎさんやボンバー達のように、大して会話もしていないほぼ他人だが、一緒に命懸けで戦ってくれた人たちも、確かにいた。

 

 ……それでも、このガンツミッションで100点をとるのは、相当な苦行だ。正直、命が幾つあっても足りないまさしく命懸けの戦いだ。

 

 大した関わりも、繋がりも、……思い入れもないような、そんな人たちの為に、俺は、“命を懸けて”まで戦えるのか?

 

 カチッ。

 

 そもそも、助ける、助けない、なんて。

 

 そんな線引きをするような資格が。

 

 俺にあんのか?

 

 かみ

 

 

《貴様か》

 

 

――ッ!!

ギュイーン!!

 

 

 俺がスコープで覗いた5体目のターゲット――他の個体よりも一回り大きく角が生えていた――をロックオンしようとした時、その個体は俺の方を向き、目が合った。

 

 それと同時に、脳内に響いた、重々しい声。

 

 反射的に俺は2つのトリガーを同時に引いてしまった。

 

「――な!?」

 

 だが、衝撃はそれで終わらない。

 

 その個体は俺が射撃した時には、すでに宙へと飛んでいた。

 

 背中の羽は使っていない。単純な跳躍。

 

 俺はバンッバンッと響く音――おそらくロックオンしていた敵の破裂音――に構うことなく、とにかく柵から離れ、途中地面に置いておいたもう一丁のXショットガンを拾いながら、距離をとる。

 

 ガンっ! と、そいつは先程まで俺が張り付いていた柵に荒々しく着地し、俺を見下ろす。

 

 そいつは一度後ろを向いて佇むと、ゆっくりともう一度、俺と向き合う。

 

 俺はそいつから目を離せない。それぐらい威圧感のある眼光を放つ個体だった。

 

 ダンッ ダンッと、俺を囲むように着地音が響く。

 

 囲まれた。

 俺がそう認識した時には、すでに残る5体のチビ星人は、俺の包囲を完了していた。

 

 そんな中で、やはり一際強い殺気を放つ、俺の正面の個体――おそらく、コイツがボスだ――が、俺を睨み据えながら、言った。

 

 俺の脳内に、直接、響かせた。

 

《許すまじ!》

 

 ご丁寧に、日本語で。俺にも分かる言語で。

 

 それに呼応するように、四方から、おそらく俺を囲んでいる他のチビ星人たちが。

 

 次々と。続々と。

 

 俺の脳内に、直接叫ぶ。

 

 恨み節を。呪詛を。

 

 仲間を殺された、悲痛の叫びを。

 

《同胞は二度と動かない!》

《死んだ!》

《殺された!》

《お前が殺した!》

《アイツも!》

《コイツも!》

《みんな死んだ!》

《お前に殺された!》

《許すまじ!》

《許すまじ!》

《かけがえのない同胞!》

《破壊しろ!》

《殺してしまえ!》

《四肢をもげ!》

《首も引き千切れ!》

《解体しろ!》

《破壊しろ!》

《潰せ!》

《殺せ!》

 

《殺された、かけがえのない同胞のように》

 

《コイツも》

 

 

《徹底的に殺害しろ!!》

 

 

「……………………っ」

 

 脳内に直接響く、圧倒的な悪意、害意、殺意。

 

 思わず奥歯を噛みしめてしまう程の、悲痛な思い。

 

 これがテレパシーって奴か。まさか現実(リアル)に体験出来る日が来ようとは。

 いや、今はそんなことはどうでもいい。今更、驚くに値しない。

 

 注目すべきは、コイツ等の仲間意識。そして、予想以上の知能の高さ。

 

 敵がただ数が多いだけの群れなら、まだ希望があった。

 

 だが、コイツ等は違う。仲間の死にすぐさま駆け付けた時から嫌な予感はしていたが、見事に当たった。

 

 コイツ等は、群れじゃなくてチームだ。連携し、互いに補完し合い、数の力を足し算ではなく掛け算で増大させる。

 

 ぼっちの天敵だ。

 

 ……加えて、言語を巧みに操り、その上テレパシーときたもんだ。人間よりもはるかにチームワーク、コンビネーションのレベルが高いのは、容易に想像できる。

 

 …………最悪の敵だな。

 

 脳内に響き渡る罵詈雑言の嵐の中で、そんなことを考察していると、それがピタリと止む。

 

 リーダーらしきボスが、片手を上げて他の奴等を制したんだ。

 

 そして、俺に鋭い視線を突き刺し、柵から飛び降り、俺の目の前に着地する。

 

《気をつけろ!》

《同胞を摩訶不思議な術で破壊した奴だ!》

《殺せ!》

《壊せ!》

《潰せ!》

《解体しろ!》

 

 ……一対一って、ことか?

 

 いや、コイツらが多対個のアドバンテージを手放すとは思えない。

 

 先鋒?様子見?視察?

 

 だが、とにかくチャンスだ。

 

 一番強いであろうコイツをやり過ごし、その間に一気にこの包囲から脱出する。

 

《おまえを》

 

 ……いや、まて。

 

 そういえば。

 

《解体する》

 

 

 チビ星人(こいつら)って、一体どういった攻撃を――

 

 

 瞬間。

 

 俺の視界を、真っ暗な空が占めた。

 

(――は?)

 

 それが敵のアッパーカットにより、顔を跳ね上げられたのだと悟ったのは、顎に走る激痛が脳に達した直後。

 

 混乱から醒める前に、続いてがら空きのどてっ腹に、チビ星人の渾身のボディブローが入る。

 

「――がはっ!」

 

 俺はたまらずに右手に持つXショットガンを無我夢中で投げつける。

 まさしく苦し紛れ。

 チビ星人は、そんな俺の拙い攻撃ともいえないような反撃にまるで取り合わず、身を最小限だけ屈めるお手本のような回避と共に、俺の懐に潜り込む。

 

 そして、再び右アッパーカットの動作。

 

「――っ!」

 

 俺は反射的に右手のXショットガンも手放して、両手で顔を守る動作をする。

 

 だが、衝撃が走ったのは左横腹だった。

 

「――かっはぁ……」

 

 体内の空気を強制的に排出させられながら、吹き飛ばされる。

 

 俺の目がかろうじて捉えたのは、左膝を突き出すボスチビ星人の姿だった。

 

――コイツ等、肉弾戦に特化しているのか……っ。

 

 網フェンスやコンクリートの地面に叩きつけられながら、俺はそんなことを思う。

 

 ついさっき、チームというものの恐ろしさを考察したばかりだというのに。

 

 チビ星人の本当の恐ろしさは、決して肉弾戦ではなかった。

 

「――あがッ!」

 

 吹き飛ぶ俺の後頭部に衝撃が襲う。

 

 視界にチカチカと火花が走る。

 

 そんな風に視界が真っ白に染まったかと思えば、首の根元――右肩と首の付け根当たりにハンマーのような衝撃が襲い、そのまま下に向かって急降下する。

 

「――ッ!!」

 

 そして、その着地点には、2体のチビ星人。

 

 それぞれ左拳と右足を引き、体を開いている。

 

 次の瞬間、当然のように俺は再び天高く跳ね上げられる。再び俺の視界を占めるのは星が見えない都市部の真っ暗な空だった。

 

 

 もう、体のどこが痛いのかすら分からない。

 

 

 でも、一つだけはっきりしている。

 

 

 チビ星人(こいつら)は、強い。

 

 

 このままでは、俺は殺される。

 

 

 重力に任せて落下する中、ボスチビ星人の冷たい目が、俺を貫き続けていた。

 

 

 

 

 

 ドンッ! と背中から落下する。

 

 その反動で再び浮き上がり、二度目の着地で完全にコンクリートの屋上に倒れ込む。

 

「!!」

 

 そして、すぐさま2体のチビ星人が俺の両腕を掴む。

 

 俺はそのまま投げ飛ばされるのかと思ったが――

 

《解体せよ!》

「な――」

 

 再び、脳内に響くテレパシー。

 

 

《解体せよ。――――我らが同胞のように、ソイツの四肢を引き裂け!!》

 

 

 俺が顔を上げた先には、給水タンクの上から、絶対零度の視線で俺を見下ろす、ボスの姿。

 

 そのリーダーの言葉に従うように。

 

「……や、やめ――」

 

 俺の両腕を掴む2体のチビ星人は、渾身の力でそれぞれ逆方向に俺の体を引いた。

 

 

 

「がぁ――ぁあああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」

 

 

 




 いつだって孤の敵は多による数の暴力だ。


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彼は孤の身で多の力に立ち向かう。

彼のひとりぼっちの戦争は続く。敵を屠り、己の心を殺しながら。


《解体せよ》

《解体せよ》

《解体せよ》

《解体せよ》

 

「ぁぁぁぁあああああああああ!!! くそっ!! やめろっ!! 離せっっ!!」

 

 いつの間にか俺の両腕を引くチビ星人は、両サイドにそれぞれ二体ずつ、計4体に増えていた。

 

 俺はなんとか振りほどこうとスーツの力を極限まで引き上げる。その為スーツはどんどん筋張って膨れ上がる。

 

 だが、チビ星人は物ともせず、西部劇の処刑のように俺の体を引き裂こうとする。

 

 それを見届ける保安官のように、ボスのチビ星人は高みから俺の処刑を冷たい目線で見下す。

 

 味方はいない。誰も助けてくれない。

 

 俺は何も、どうすることも出来ない。

 

 プチ

 

――? 何だ、今の――

 

 プチ ブチ

 

 音。何かが、切れる音。

 

 プチ ブチ ピチャ

 

 っ!? その奇妙な異音と共に、頬に温かい液体が付着した。

 

 俺はその発生源に目を向けると――

 

 

――――スーツから、何か液体が漏れ出していた。

 

 

 いつものようなスーツの限界を知らせる金属部から漏れ出すオイルのようなものではない。

 

 もっとどす黒く、まるで血液のようなそれが。

 

 チビ星人に引き裂かれようとしている、腕と肩の付け根から噴き出している。

 

「あ……ぁあ……うぁぁぁああああああああ!!!!!!」

 

 ウソだろ……嘘だろッ!

 

 引き千切られる。引き裂かれる。

 

 捥がれる……殺されるっ!

 

「や、やめろ!! やめろ!! やめてくれ!!」

 

 ブチチ ブチ ビチャ ビシャァ

 

 音がどんどん大きくなる。音がどんどん致命的になる。

 切断面から吹き出す液体が、みるみるうちにその勢いを増す。

 

 引き千切られる。引き裂かれる。

 

 俺の両腕が。俺の命が。

 

 こんなところで。こんなにも容赦なく。

 

《解体せよ》

《解体せよ》

 

 解体。解体される。バラバラにされる。

 

 こんなところで。

 こんなところで。

 

 こんなところで?

 

 ダメだ。俺には。まだ――

 

 

 ブチャァァアア プッッシャッァァァ

 

 

「うあぁぁあぁあぁぁあああぁぁああっっ!!!!!」

 

 

 完全に、引き千切られた。引き裂かれた。

 

 盛大にその生温かい液体を噴出させ、両サイドのチビ星人はそれぞれ己の戦果を高々と上げる。

 

 

 それは、俺の両腕――――部分のスーツ。

 

 

「――かっはぁッ!!」

 

 俺は、その肌色がむき出しの生身の両腕を、眼前に晒した。

 

 ある。ついている。腕だ。俺の両腕だ。

 

「っ!!」

 

 それを確認した所で、俺はすぐさま左サイドの2体のチビ星人に向かって駆け出す。

 

「――!!」

 

 チビ星人達は呆気にとられた様子で一瞬硬直し、俺はその隙を逃さず、二体まとめて渾身の力で蹴り飛ばした。

 

 ドガンッ!!と勢いよくタンクに叩きつけられる2体のチビ星人。

 その威力は、まさしくスーツの恩恵。

 

 よしっ!!両腕部分を引き千切られても、スーツの力は消えていない。

 

 だが、あの2体のチビ星人も、あれくらいでは死なないだろう。

 

 そして、俺の反撃を受けて、硬直していた残り3体も動き出した。

 

 俺は一目散に逃げ出す。

 スーツの力を存分に発揮し、全速力で走り抜け、屋上の銀柵を踏みしめ、全力で跳躍した。

 

 おそらくは地上20m近くはあるであろう眼下の光景には一切目を向けない。

 

 目標は、俺が跳び立った今のビルよりも、更に高いビルの屋上の避雷針。

 

 俺はそれを掴んで急停止。そのまま回転して、自分が居たビルの屋上に目を向ける。

 

《逃がすな》

《許すな》

《解体するまで》

《絶対に》

 

 テレパシーによる怨念の言葉と共に、先程俺の右腕のスーツを引き千切った2体のチビ星人が、俺と同様にこちらに向かって跳躍してくる。

 

 俺は足のホルスターに着けていたXガンを両手に持った。

 

 どうやらあの翼は飛行用ではないらしい。

 

 なら――

 

「――空中じゃ、身動き取れねぇだろ」

 

 今までも何度か使った方法だ。外しはしない。

 

 二発の銃声と発光。

 そして、後を追うように跳んできた二体のチビ星人は、俺にもうすぐ手が届く――――そんな距離まで肉薄して。

 

 バラバラの肉片に変わり果てて、俺にその身を浴びせるようにすれ違い、絶命した。

 

 ボト ボトボト という音が背後に響く中、今度は俺が、アイツを高みから見下ろした。

 

 フラフラという足取りで、ソイツの背後に集まる、先程俺が蹴り飛ばした二体のチビ星人。

 

 ボスは、そんな仲間達ではなく、高みに陣取る俺を見上げて――それでも、その瞳の冷たさはそのままで、俺の脳内に直接宣言した。

 

《お前を許さない》

 

 

《確実に殺す》

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 敵の数は、残り三体。

 

 

 残り時間は、あと40分くらいだろうか?

 確かめている余裕はない。そんな隙はない。

 

 一瞬たりとも目が離せない。アイツから。あの小さな強敵から。

 

 敵は三体。三体まで減らせた。

 連携攻撃を仕掛けてくるコイツ等を相手取るには、とにかく何が何でも数を減らすこと。

 

 一体でも多く。一刻も早く数を削ること。

 

 そう言った意味では、ここまでは順調と言える。

 

 だが、まだ油断は出来ない。

 

《お前を絶対に許しはしない》

 

 アイツの目は、少しも死んではいない。

 

《必ず追い詰め、破壊する》

 

 俺に対する、冷酷な殺意に満ちている。

 

「……そうか。なら、かかってこいよ。逃げも隠れもしない」

 

《同じ手にはかからない》

 

 そう言って、三体はバラバラに、他のビルを回り込むように、転々と移動する。

 ちっ。さすがに同じ手に引っかかってくれないか。

 

 ……なら、こっちも新しい罠を仕掛けるまでだ。

 

 俺は、給水タンクの裏に隠れるように、姿を消した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その個体は左手から回り込むようにして、ターゲットに急襲を仕掛ける手筈だった。

 

 数を大きく減らされたとはいえ、まだこちらは三体。相手は一体。十分に数の利を使った攻撃は出来る。

 

 そして、リーダーであるボスが立てた作戦は、その定番ともいえる、挟み撃ち。

 

 まずは、自分が不意打ちを仕掛け、一番早く姿を発見され、注意を引き付ける。

 

 その後、時間差で右手から攻めた仲間が本命の攻撃を仕掛ける。

 

 そんな手筈だった。

 

「――!?」

 

 だが、いない。先程まであの男が立っていた給水タンクの上にも。そして、その裏にも。

 

 確かにあの男がタンクの裏に隠れたのは確認した。ならば、どこかに移動したか、隠れたのか?

 だが、このビルはこの辺一体で一番高いビルで、移動したにしても、ここから見えるはず。

 

 そんなことを考えて、その個体は、そのビルの屋上の上から辺りを見渡すようにして歩く。

 

 

――虚空から、眩く光る光線が発射された。

 

 

「!!」

 

 その光線はチビ星人の体に纏わりつき、先端がコンクリートの地面に固定される。

 

「!?」

 

 捕えられた。

 ガッチリと動きを封じられ、チビ星人は自分が誘い込まれたことを悟った。

 

 だが、それまで。

 

 敵の動きを封じた後に当然来るであろう攻撃が、いつまでも来ない。

 

 その事に知能の高いチビ星人は疑問と、形容し難い不安を感じる。

 

「!!」

 

 その時、目に入ったのは自身を助けようと必死の形相で己に向かって走り寄る、仲間の姿。

 

 本来、敵に対する本命の攻撃役を担っていた彼が、予定を繰り上げて姿を現したことで、一つの結論に至った。

 

《来るn》

 

 そのテレパシーをかき消すかのように、甲高い発射音が轟く。

 彼が仲間を止める前に、再び虚空から、今度は青白い発光が瞬いた。

 

 仲間が、自身の立つ屋上に着地したと同時に。

 

 その仲間は木端微塵に吹き飛んだ。

 

 彼は、絶句した。

 

 自分は、仲間を死地に誘き寄せる、(おとり)に使われたのだと。

 

 仲間を殺す一役を、担わされたのだと。

 

 それを察したのと同時に、目の前が真っ暗になる。

 

 自分達の仲間意識の強さ、チームワークの巧みさを、“絆”を、まんまと最悪の形で利用された。

 

 どれくらい経っただろう。ボスはきっと気づいた。あの男の思惑に。自分の無様な現状の意図に。

 

 もう釣れない。利用価値はなくなった。

 

 そして用済みだとばかりに、囚われのチビ星人の頭に、何か固いものが押し付けられる。

 

 ギュオンという発射音と共に、一筋の光が天から降り注ぎ、そのチビ星人は、呆然自失といった状態で、この世から姿を消した。

 

 それと対比的に、バチバチバチといった効果音と共に虚空から姿を現したのは、全身黒スーツの上に学生服を纏った死神。

 

 その瞳は、闇のように暗く腐っていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ……これで、更に二体討伐。

 やはり、こんな思いつきの罠じゃあ、ボスは釣れなかったか。

 

 だが、これで残り一体だ。

 俺が一番警戒していた連携攻撃も、もう使えない。

 

 正真正銘、一対一の――

 

《随分と卑劣な手を使う》

「!!」

 

 唐突に脳内に響くテレパシー。

 俺はそれに動きを一瞬止めるが、すぐに落ち着きを取り戻し、耳を傾ける。テレパシーに効果があるのかは知らないけれど。

 

《我らの結束を利用し、貶めるとは》

「……こっちはぼっちだ。お前らのそういう弱点は知り尽くしている」

 

 嘘だ。実際は、ちょっと感心している。

 

 俺の知っている“多”とは、ああいった場面で無闇矢鱈に突っ込んで来たりしない。

 

 明らかに自分の不利益になると分かっているのに、我が身を顧みず、リスクリターンを度外視で、仲間を助けにくるなんて俺の知っている“多”ではありえない。

 

 彼らの――コイツ等の仲間意識は、少なくとも俺が知っている欺瞞ではないと証明された。

 

 そして、俺はそれを、コイツの言う通り貶めた。

 

《俺はお前を許さない》

 

 チビ星人のボスは、これまで以上に圧倒的な怒りを込めて、俺に呪いのテレパシーを送ってくる。

 これまでのように仲間同士のテレパシーのついでではない。

 

 コイツの仲間は全員、俺が殺した。

 

《同胞たちの命を奪っただけではない。お前は、我らの誇りも貶めた》

 

 ああそうだ。俺は、コイツ等の命だけではなく、最も大事な気高きものも汚したんだろう。

 

《決して許さない。必ず追い詰め、破壊する!!》

 

 コイツ等からすれば、俺は侵略者で、虐殺者。

 

 突然自分たちの前に現れ、自分たちの大事なものを根こそぎ破壊した。

 

 恨まれて当然、憎まれて当然、呪われて当然の――

 

 

「――それが、どうした」

 

 

 俺はXガンを装備する。

 

 それがどうした。

 俺が正義の味方じゃないことなんて、今に始まったことじゃない。

 

 俺は、それだけのことをした。

 

 コイツ等の平和を、誇りを、安寧を、幸福を、台無しにした。

 

 殺されて、当然のことをした。

 

 そんな真似が出来たのは、それでも手に入れたいものがあるからじゃないのか。取り戻したいものがあるからじゃないのか。

 

 コイツ等を殺してでも、自分が生き残りたいからじゃないのか。

 

 生き残らなければならないと、誓ったからじゃないのか。

 

 陽乃さんたちを生き返らせるまで、絶対に死なない。

 

 そう、今度こそ、誓ったんだ。

 

 その願い(エゴ)を遂げるまで――

 

「――俺は、こんなところで死ぬわけにはいかないんだよ」

 

 コイツ等の殺意は、恨みは、憎しみは、怒りは、真っ向から全て受け止めろ。俺はそれをされて当然のことをした。

 

 己の、自分勝手で、自己満足な、圧倒的なエゴの為に、コイツの仲間を残らず虐殺したんだから。

 

 そして、覚悟を決めろ。

 

 それでも、己のエゴを押し通す覚悟を。

 

「来いよ。俺を殺したいんだろう?」

 

 コイツ等の全てを奪い、コイツ等の全てを否定して。

 

 己のエゴを、押し通す。

 

 その確固たる覚悟を。

 

「俺は殺されない。なぜなら、俺がお前を殺すからだ」

 

 俺は、正義の味方じゃない。

 

 圧倒的に悪者(エゴイスト)だ。

 

 それを、受け入れ、受け止めろ。

 

 陽乃さんたち生き返らせる――それを言い訳にして逃げるな。

 

 これは、俺が背負うべき所業(つみ)だ。

 

《……そうか》

 

 そんな、呟くような、押し殺すような、テレパシーが届く。

 

 しばしの、沈黙。ビルの上を吹き荒れる風の音だけが響いた。

 

 

《ならばこちらも一切の情け容赦なく、存分に貴様を破壊しよう》

 

 

「――っ!!」

 

 俺は、背後に感じた殺気に向けて、振り向き様にXガンを向ける。

 

 

 そこには、二丁のXショットガンを構える、ボスがいた。

 

 

「――な!?」

 

 次の瞬間、二発の青白い閃光と甲高い射撃音が、ビルの屋上に響き渡った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 もはや聞き慣れたと言っていいその独特の射撃音。

 

 その音の数秒後にやってきた破壊を、俺は背後で感じた。

 

 俺はボスにXショットガンを向けられた瞬間に、すぐさま自身の射撃を諦め、逃げの一手に走った。

 

 後ろを振り返らず、隣のビルに跳躍する。目標のビルはこのビルよりもかなり低く、必然的に滞空時間が長くなる。

 

 くそっ。さっき、俺が姿を隠した時に、俺が投げ捨てたXショットガンを回収していたのかっ。

 

 知恵。人間の唯一の武器にして最大の武器。

 それが敵に回るとここまで厄介なのか。数の利を失くしただけで勝てるほど甘くな――

 

「――がはぁっ!!」

 

 突然背中に衝撃。

 俺は目標のビルの屋上のタンクに叩きつけられる。

 

 振り返ると、そこには早々にXショットガンを手放し、俺を追走してきたチビ星人がいた。

 

「くそっ!」

 

 俺はダッシュで特攻し、チビ星人に向かって右跳び回し蹴りを放つ。

 

 だが、チビ星人は左腕で確実にガードし、そのまま右ブローを俺にお見舞いした。

 

「がはっぁ!」

 

 再び吹き飛ばされる。

 ダメだ。肉弾戦だと勝ち目はない。だからと言って、相手に俺の姿がバレていると、透明化は出来ない。あれは時間がかかる。ちっ。あの時、解除しなければよかった。コイツに通用するか分かねぇけど。

 

 なら、答えは一つ。

 

 俺はガンツソードを取り出す。

 

 その剣を見て、ボスは一瞬動きを硬直させるが、すぐに臨戦態勢を立て直し、腰を落とす。

 この剣の威力を一目で見抜いたか。さすがだな。

 

 俺もこの剣を上手く扱える自信はない。ただ振り回すことくらいしか出来ない。

 

 けれど、もうこれしかない。

 

 ジリ ジリとお互い一定の距離を保ち、睨み合う。

 

 ただただ、相手の純度の高い殺気を受け続け、精神がゴリゴリ削られる。

 

 無意識の内に、唾を呑みこむ。

 ……こっちから仕掛けるか?

 

 チャキッとガンツソードを持ち直す。

 

「――!!」

 

 その瞬間、ボスの目が見開かれ、般若の形相でこちらに跳びかかかってきた。

 

 だが、俺も反応出来た。

 

「がぁあ!!」

 

 ガンツソードを渾身の力で振るう。

 

 ズシ

 

 ……あれ?ガンツソードってこんなに重く――

 

 

『……ってか重い。生身じゃ無理だ。銃にしよう』

『何で出したんだよ……』

 

 

 そんな中坊とのかつてのやり取りが頭を過ぎる中。

 

 俺の一閃はボスを捉えることは出来ず――捉えるにはあまりにノロ過ぎて――俺の胸の真ん中に、ボスの跳び膝蹴りが吸い込まれ、激痛共に俺の体は吹き飛ばされた。

 

 

 ドガンッ!!

 

 ボキッ

 

 嫌な音がした。生理的に耳を塞ぎたくなるような嫌悪感を抱く音。

 俺が叩きつけられたのは、屋上によくある小屋のような建物の階段の支柱――鉄の柱だった。そこに、俺の左腕のみが叩きつけられた。

 

 これまでにない激痛。強烈な衝撃。

 

「……あがぁっ……」

 

 叫ぶことも出来ない。口から大量の唾が溢れる。

 

 俺の左腕は折れていた。肘が粉砕され、プラプラと揺れている。

 

 なぜだ?いつだ?いつスーツが壊れた?

 少なくとも、スーツを引き千切られたあれ以降も大丈夫だった。でなければ、ビルとビルの間を飛び越えるなんて真似は出来ない。

 ならば、先程の追い討ちか?だが、あの後俺は特攻出来た。あの時もまだスーツは生きていた。

 なら、その時のボディブローか?だが、それならば異常を知らせる音と、金属部からのオイル漏れがあるはずだ。それもなかった。

 

「――!!」

 

 俺は背後の殺気に振り向く。奴は俺を見ていた。その瞳から放たれる殺気は、まるで衰えていない。

 

 ゾクッ と体温が一気に下がった。気がした。

 

 俺は逃げる。俺は逃げた。

 体が勝手に動いていた。このままでは不味い。逃げろ。殺される。逃げろ。逃げろ。逃げろッ!!

 

 俺は一気にビルの屋上を疾走した。転びながら。足を縺れさせながら。

 

 無様に、惨めに、逃げ惑う。

 

 とにかく今は少しでも、アイツから少しでも遠くに!!

 

 

 すたっと、ソイツは現れた。簡単に回り込まれた。

 

 俺の進行方向に、白い死神が待ち受ける。

 

 

 ブワッ と冷や汗が、恐怖が噴き出す。

 

 俺は無我夢中でコースを変更し、真横に飛び出す。屋上のヘリに足をつけ、これまで何度もやったように、隣のビル――

 

 その時、思い出した。

 

 俺のスーツが、今どんな状態か。

 

 その瞬間、膝に込めた力が抜ける。

 

 だが、すでに前方に飛び出そうとする俺の体の慣性は、そのまま俺の体を中途半端に空中へと送り出した。

 

 無造作に宙に投げ出される。

 

 これまでのように勢いもなく、ただ重力と浮遊感だけが、俺の体を支配する。

 

 しだいにその浮遊感もなくなり、一瞬全てがゼロになる。

 

 俺が背後を向くと、ボスが、やはりあの冷たい目で見ていた。

 

 そんな奴にも、一瞬縋りたくなるような、絶望の瀑布が心を襲い。

 

 俺の体は、地球という星体によって地獄へと引っ張られるように、落下を開始した。

 

 

「あああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

 

 

 落ちる。墜ちる。堕ちる。

 

 為す術もなく落下する。

 

 地球という、自然という、そういった格が、ステージが違うものに対する無力感が、そのまま恐怖と絶望に変わって襲い掛かる。

 

 怖い。恐い。死ぬ。死ぬ。このままでは、確実に死ぬ。

 

 だが、人は空を飛べない。

 

 この重力という圧倒的な暴力の前では、あまりにも無力だ。

 

 心の中を占める絶望と恐怖は、次第に穏やかな諦念へと変わる。

 

 ……ゴメン。陽乃さん。

 

 俺、また負けた。

 

 俺……また、約束破っちまったよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、そのまま固い地へと墜落した。




 次回で、このミッションは終わりです。


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その時、比企谷八幡は殺せなかった。

八幡の初ソロミッションも佳境です。


 

 

 

「――がっ、はぁッ!!」

 

 俺は背中から落下し、とんでもない衝撃が俺の体を貫いた――――が、それでも俺は生きていた。

 

 しばらく呼吸が出来なくて、涙が出るほどむせたけれど、俺はまだ死んでなかった。

 

 ……どういうことだ?

 

「!?」

 

 俺は頭上を見上げる。

 この殺気。

 まだアイツは去っていない。

 

 ……とにかく、今はやり過ごさないとな。

 俺は透明化を発動しながら、その場を後にした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 俺は今、どこかの民家の塀の陰に隠れている。

 一般人に俺の姿は見えないが、アイツに見つかって戦闘になったら巻き込むかもなので、電気のついていない民家を選んだが……そんなことより。

 

「…………っ……ぁぁ」

 

 痛ぇ。バッキリと圧し折れた左腕が痛ぇ。どんどん痛みが増してきている。アドレナリンが切れてきたのか。

 

 アドレナリン。

 多分そうなんだろう、カラクリは。

 

 スーツの力は、今もまだ継続している。少なくとも腕以外の防御力と身体強化は。

 

 だが、腕自体に対する効果はとっくに切れていた。あのスーツを引き千切られた時に。

 

 それでもアドレナリンのおかげか、あの時までXガンとかの重さの違いを感じられなかったんだ。しかし、腕力自体は元に戻っていたから、さすがにガンツソードはいつも通り振り回せず、ボロが出た。

 

 くそっ。ぬかった。

 顔とか、いつも剥き出しな部分にも防御力が働いていたから、てっきり大丈夫なもんかと。面倒くさい設計にしてんじゃねぇよ、ガンツ。

 

 …………さらに、もう一つ。絶望的なお知らせだ。

 さっき地面に落ちた時にどうやらXガンを落としたらしい。Xショットガンもアイツに奪われ、もうこちらにはYガンしか残っていない。

 

 ……どうする。どんどん冷静になるにつれて、状況が悪化していく。

 左腕の痛みは増す一方だし、こんな状態じゃ満足に動けない。

 

 けど、諦めるわけにはいかない。

 葉山の奴は、左腕を失くしても、それでも千手に立ち向かった。折れたくらいなんだ。まだ繋がってる分マシじゃねぇか。

 

 アイツを殺して、あの部屋に戻れば、元通り。それまでの辛抱だ。

 

 マップを確認する。……アイツは、そう遠くない位置にいる。やはりまだ俺を倒したとは思ってないか。だが、こちらの正確な位置も掴んではいないようだ。ただ、単純に見失ったのか。それとも透明化が有効なのか。

 

 ……まずは、添え木になるものを。治療という意味では気休めにもならないだろうが、プラプラしている状態のままだと、すごく邪魔だ。かといって、斬り落とす勇気なんて俺にはない。その痛みでショック死なんて笑い話にもならないしな。

 

 残り時間は、後10分。

 

 余裕はない。

 俺の今のこの状況で、真正面から立ち向かって勝てるとは思えない。

 

 チャンスは、不意討ち一回分。

 

 ……この一回に、全てを懸けて――――絶対に、勝つ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 すとっ、と軽やかに着地し、チビ星人のボスは、チカチカと不安定に瞬く街灯のみが夜道を照らす路地裏に降り立った。

 

 ここに来たのは、彼の完全な勘だ。だが、不思議とまだあの人間がどこか遠くに逃げてしまったとは思えなかった。

 

 八幡が、彼の殺気を感じていたように。

 

 彼もまた、八幡の殺気を感じていたから。

 

 アイツは、あんな状態に追い込まれていても、必ず自分を殺しにくる。そう確信していた。

 

 だから彼は、前後左右、全方向に警戒を怠らなかった。

 

 故に、捉えた。どこか遠くから響くキュインキュインという駆動音を。

 

 しかし、その音が聞こえる方向には、何もない。ただ、暗い闇が広がっているだけ。

 

 音だけが聞こえた。かすかな駆動音のみが夜道に響く。街灯の光は何の姿も露わにしない。

 

 だがそれは、まるで弾丸のごとく急速に接近し――

 

「!!」

 

 ドガンッッ!! と、まるで大砲のような衝撃と共に、チビ星人の小さな体躯に直撃した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 俺の渾身の体当たりは、ボスにこれ以上なくクリーンヒットした。

 

 このかくれんぼは、マップというチートがある俺が完全に有利だった。

 つまり、先攻権は俺にあった。

 

 そこで、俺はどうするか?

 一番に思いついたのは、透明化で姿を消しての遠距離射撃。

 

 だが、アイツは始めの俺の遠距離射撃に事前に気づいた。

 ただの偶然だったのかもしれない。それでも、一度失敗している方法をとるのは、どうしても躊躇われた。

 

 次いで、アイツのいる場所が暗い路地裏というのも厄介だった。

 ガンツの銃は発光して目立つ。アイツの反射神経は並みじゃない。躱されたら終わりだ。

 

 そこで俺が選んだのが、スーツの力を存分に発揮しての、全身全霊の体当たり。

 

 アイツは俺が大怪我を負っていることも知っていて、その上俺たちの言語を扱うほどに知能が高い。

 

 そして、なまじ知能が高い故に、固定観念に囚われる。

 

 左腕がポッキリと折れている人間が、まさか肉弾戦など仕掛けてこないだろう、と。

 

《ああ。認めよう。完全に裏をかかれた。まさかこんな手でくるとは思いもよらなかった》

 

 はっ。そうかい。そりゃあよかったよ。

 

《だが、裏をかくことに躍起になり過ぎたな。本質を見誤っては元も子もない》

 

 ……そうだな。この化け物め。

 

 

《いくら裏をかこうが、渾身の一撃を叩き込もうが、今のお前に、肉弾戦で俺を倒すことなど出来ない》

 

 

 ……まさか、吹き飛ばすことも出来ないとはな。

 

 チビ星人は、俺の体当たりを受け切った。数m引きずったが、それでもコイツはビクともしなかった。

 

《終わりだ》

 

 ボスは冷たくそう俺にテレパシーを送ると、俺の圧し折れている左腕に向かって、全力の膝蹴りを食らわせた。

 

 視界が真っ白になる程の激痛が、体中を駆け巡る。

 

「~~~~~~~~~ぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

 俺は民家に叩きつけられる。おいおい二次被害はガンツはカバーしてくれねぇんだぞ。この家の方に申し訳ないと思わねぇのか。

 

《楽には殺さない。同胞の分も、苦しんで死ね》

 

 アイツが近づいてくる。

 俺を殺そうと、壊そうと、近寄ってくる。

 

 

 だが、もう遅い。

 

 

 俺は、ニヤリと口元を歪ます。

 

「……ロックオンは、完了した」

 

 俺は、右手に持ったYガンを必死に突き出し、発射する。

 顔を前にすら向けられず、出鱈目にどうにかこうにか放っただけという攻撃だ。

 

 闇夜を切り裂く光のネットが滑空する。

 その決して高速ではない弾丸を、ボスは当然のように容易く躱した。

 

 だが、無駄だ。

 

 先程も言った通り、ロックオンは完了した。

 

「!!」

 

 ネットはターゲットに向かってその軌道を変え、追跡する。

 ボスは必死に躱し、天高くジャンプするが、それでも光のネットは、どこまでもターゲットを追い詰めた。

 

 さっきの膝蹴りは効いたぜ。だが、どれだけ警戒心が強く、反射神経に優れたお前でも、あの至近距離で、そして攻撃を放つ瞬間は、逆に無防備だ。

 

 情け容赦ないお前が、骨折した左腕という分かりやす過ぎる弱点を狙うのは分かっていた。

 

 だから俺は、右腕にYガンを隠し持ち、あの瞬間、お前をロックオンすることが出来たんだ。

 

 そして光のネットは、ついにボスを捕える。

 

 地面に固定すべく一直線に落下し、捕獲ネットの先端が、舗装された地面を貫き、完全に固定した。

 

 俺はゆっくりと立ち上がる。

 

 目の前には、光の縄に蝕まれ、憤怒の表情で俺を睨み据えるボス。

 

 その瞳からは、燃え盛るような冷たい殺意が放たれていた。

 

 それを真正面から受け止ながら、俺はボスを見下ろすように至近距離に近づいて、告げる。

 

「俺の勝ちだ」

《ふざけるな。こんなので勝ったつもりか》

 

 ボスは、そう吠えながら身じろぎするが、ネットはビクともしない。

 

 それでも、ボスは俺に呪詛を振り撒き続ける。

 

 

《ふざけるな!!絶対に殺す!!殺してやる!!お前も!!お前の同胞たちも!!一人残らず!!破壊してやる!!!》

 

 

 その言葉のナイフは、おそらくは粉砕骨折で粉々であろう左腕よりも、はるかに鋭い痛みを俺の心中に刻んだ。

 

 ……そうだ。

 俺は、それだけのことを、コイツにした。

 

 それだけは、忘れてはならない。

 

 この傷は、この痛みは、俺が生涯背負っていくべき所業(つみ)だ。

 

「……そうか。なら、それを遺言に死んでいけ」

 

 ああ。俺の目は今、いつも以上に腐ってんだろうな。

 

 そう思いながら、俺はコイツを送ろうと、右腕のYガンを突きつけ――

 

 

 

――――右腕が、なかった。

 

 

 

「――――な」

 

 意味が、分からない。

 

 俺の目の前には、確かにもう身動きは取れないけれど、それでも生きて、健在のボスの姿。

 

 だが、俺の右腕は消え――――転送されている。

 

 いつもの、ミッションの終わりのように。

 

 俺の頭の中に、一つの仮説が浮かぶ。

 

 だが、俺はそれを必死で振り払う。馬鹿な。そんなはずはない。それは。違う。あってはならない。

 

 目の前のボスは、俺の突然の奇行に呆気にとられているが、やがて表情を憤激に歪めて、消えゆく俺の脳内にテレパシーを刻む。

 

 

《逃がさない》

 

 

 俺の体の消失は、右腕から肩、首、そして顔へと及ぶ。

 

 そんな中、完全に消えゆくその瞬間まで、ボスの呪詛は続いた。

 

 

《必ず殺す》

 

《どこに逃げようと》

 

《どこに消えようと》

 

《必ず見つけ出し》

 

《そして破壊する》

 

《お前も》

 

《お前の同胞も》

 

《必ず殺す》

 

《一人残らず》

 

 

《お前が俺の同胞に》

 

《そうしたように》

 

《今度は俺が》

 

 

 

《お前に、復讐する》

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 気が付いたら、そこはいつもの部屋だった。

 

 送り出された時と同じように、俺と、黒い球体。

 

 一人と一個だけの、あの2LDK。

 

 ガンツの表面には、すでに【それぢは ちいてんを はじぬる】の文字。

 

 そして、続いて表示されたのは――

 

 

『まけ犬』-50点

 

 Total 0点

 またはぢめからやって下ちい

 

 

 ……まけ犬。

 つまり、やっぱり。

 俺が、あんな場面でガンツに転送されたのは。

 

 ミッションをクリアしたからじゃなくて、その逆。

 

 今まで、ずっと恐れていて、想像するのすら怖かった。

 

 ……タイムアップ。

 

 制限時間の一時間を、俺はオーバーしちまったのか。

 

 だからこその、強制終了。強制退却。

 

 ……そして、そのペナルティは、ポイント全損。0点。一からのやり直し。

 命とかとはまた別の、強制コンティニュー、か。

 

 ……ははっ。まぁ、下手すりゃその場で頭が吹き飛ばされるかもとか考えてたんだ。それに比べれば随分と優しいペナルティだ。

 

 ……だがな。だけど、だ。

 

「……あと5秒くらい、待てなかったのかよ、ガンツ……ッ」

 

 もう詰んでただろ。どう見ても俺の勝ちだったろ。

 あとトリガー1つ。1秒もかからない動作で、俺の勝ちは決まってた。

 

 なのに……どうして……っ。

 

「………………いや、違うな」

 

 あの時の呪詛。死の間際の、あのボスの遺言。

 

 あれで、ビビったんだ。もう一度改めて、俺の罪の重さを突きつけられて、躊躇した。

 

 受け入れると、受け止めると、誓ったはずなのに。

 

 あの一瞬で、俺は負けたんだ。

 

 ……本当に、口ばっか。言葉ばっかだ、俺は。

 

「……ごめん。陽乃さん。……ゴメン」

 

 俺は、弱い。

 

 だからこそ、俺は、また遠ざかった。

 

 陽乃さんを生き返らせる。

 

 陽乃さんを取り戻す。

 

 その日から、その時から。

 

 俺は、また、大きく遠のいた。

 

 

 0点。

 

 

 この、黒い球体に囚われた、あの日から。

 

 

 死ぬような思いで積み重ねた、色々なものを失って手に入れた。

 

 汗と涙なんてものじゃない。血と命の結晶だった、俺の50点は。

 

 あの一瞬の躊躇で、あの一瞬の敗北で、幻のように消え去った。

 

 がっくりと、膝をつく。

 

 気が付くと、俺はスーツのまま転送されていた。

 

 そんなことすらどうでもいいと思えるほど、俺は目の前の現実に打ちのめされていた。

 

 俺は誓った。

 

 陽乃さんを、葉山を、相模を、達海を、折本を、そして中坊を。

 

 必ずこの手で、生き返らせると。

 

 だが、それは一人も蘇らせることも叶わずに、強制的に振り出しに戻された。

 

 

 俺に、本当にみんなを生き返らせることが――そんなことが、本当に出来るのか?

 

 

 その言葉が、グルグルと、俺の胸中に渦巻き続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日、目覚めた時刻は、完全に遅刻だった。

 




 次回、舞台はついに……


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非日常の夜の戦場から飛び出し、昼の日常の学び舎に、奴は現れる。

ついに40話! 40日間連続更新達成!
……いやぁ、俺こんなに書いたんですね。自分でもびっくり。


「やっはろ~」

「おはよう、結衣」

「おはよ。ってか、結衣おせーし」

「はは、ごめんごめん」

 

 由比ヶ浜は今日は少し寝坊してしまい、学校に着いたのは始業時間ギリギリだった。

 

 三浦が少しむすっと不満を漏らし、海老名が苦笑しながら宥める。由比ヶ浜は両手を顔の前で合わせて謝った。

 特に朝に何か特別な約束をしていたわけではないのだが、もう三浦と一年近くの付き合いになる由比ヶ浜は、この三浦の不機嫌の原因の多くが寂しさによるものだと分かっているので、嫌な気分にはならず、むしろちょっと可愛いと思ってしまうのだった。

 三浦は、気分屋で傲岸不遜で傍若無人、と思われがちだ。もちろんそう言った面も(多々)あるが、しかしその実、友達思いで寂しがり屋、好きな人相手には奥手だったりと、女の子らしい面も多い女子だ。

 

 好きな人。そのワードで由比ヶ浜はある男の子の席に目を向ける。

 その席には、こういった騒がしい朝の時間や休み時間にはイヤホンを耳に入れて身を隠すように机に突っ伏している、アホ毛が特徴の目が腐った男がいるはずだ。

 

 だがその席は、もうすぐ登校時間を締めくくるチャイムが鳴ろうかという時間にも関わらず空席だった。彼とこのクラスで一番仲の良い――自分も彼の狭い交友関係の中ではかなり親しい方だという自負があるが、それでも好意の相互関係という意味では“彼”相手では白旗を上げざるを得ない。それこそ同性だとは分かっていても嫉妬せざるを得ないくらいに。……同性、だよね?――戸塚彩加と目が合うも、彼も寂しげに首を振るだけだった。

 確かに彼は遅刻が少ないとは言えなくて、そういった意味では特別大騒ぎをすることではないのかもしれない。

 

 だが、彼はつい一昨日も学校を休んでいた。その詳しい理由は、彼に深い好意を抱いている自分ですらドン引きしてしまうほど彼が溺愛している彼の妹の小町ですら分からないそうなのだ。

 話そうと、しないらしい。

 敵ばかりの痛々しい人生を送ってきた彼にとって、唯一の不変の味方であった、あの小町にさえも。

 

 彼に、一体何が起きているのだろう。

 

 これまで彼には――自分たちには、幾つもの困難が襲った。

 

 そして今も、その困難の真っ最中だ。

 

 だが、それでも、彼ならきっと――

 

 そう思い、彼の言葉を信じて、ずっと待っていた。ずっと待っている。

 

 でも、だけど。

 彼を疑うとか、信じないとかでは決してないけれど。

 

 なぜかすごく、嫌な予感がした。

 

 あの空席が。一人ぼっちの背中がいないことが。

 

 由比ヶ浜の心を、どうしようもなく、ざわめかせた。

 

(……ヒッキー)

 

「――い! 結衣!!」

「ふぁっ! な、なに!?」

「何って……チャイム鳴ったよ。席つこ?」

「あ、うん。そうだね、姫菜」

「大丈夫、結衣?なんかぼーとしてっけど」

「は、はは。今日寝坊しちゃったから、まだ寝ぼけてるのかな?」

 

 そんなわけない。そんなはずがない。

 

 ヒッキーは、絶対に取り戻すって言ってくれた。帰ってくるって、言ってくれた。

 

 他の誰でもない、比企谷八幡の言葉だ。

 他の誰でもない、由比ヶ浜結衣がそれを疑うわけにはいかない。

 

 由比ヶ浜は自身の席に着いて、不安な思いを吹き飛ばそうと両頬を両手でパァンと叩く。

 思ったよりも音が響いて注目を集めしまった為、顔を赤くしながら苦笑いで集まった視線をやり過ごした。

 

 そんな中でも、何度も、何度も。

 

 あの空席に、視線が引き付けられて仕方がなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 総武高校を怪しい人影が見上げていた。

 

 いや、それを人影と評するのは不適切だろう。それは人ではないのだから。

 人型ではあるけれど、それは地球人ではなく、宇宙人なのだから。

 

《……奴の信号はこの街から出ている。……近くまで来ているはずだが》

 

 その影は何かを探すように、しきりに首を動かしている。

 

 そして、その目は、ある人物を捉えた。

 その人物は、不幸にも、その目に捉えられてしまった。

 

「うわ~、やっちまった!完全に遅刻だっての!」

 

 その人物を――“比企谷八幡ではない”、無関係の男子学生の、その服装――制服を見て、その影はあることに気づく。

 

《あの服装……そうか。ここが、奴のコミュニティ――奴の同胞たちが集まる場所、か》

 

 次の瞬間。

 

 その影は唐突に姿を消し。

 

 

 

 ある一人の男子生徒が、悲鳴を上げることすら許されず、その儚い命を散らした。

 

 

 

 そしてその物陰から――鮮血で染められたその物陰から、命を散らしたはずのその男子生徒が、所々を血痕で彩った姿で、何事もなかったかのように現れる。

 

 だが、その表情は、まるで人間ではないかのように無表情で不気味だった。

 

 さらに、その瞳は、まるで人間ではないかのように無感情で薄気味悪かった。

 

 それも当然。

 

 彼はすでに、彼ではないのだから。

 

 人間では、ないのだから。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「ん~!終わったね!」

「結衣、まだ一限だよ」

「いやでもあーしもマジ疲れた。一限から数学とか配分考えろってぇの」

「はは、だよねぇ~」

 

 由比ヶ浜は朝と同じように三浦の席に集まりながら海老名も一緒にいつもの三人でガールズトークに花を咲かせていた。

 

 だが、そんな楽しいお喋りに興じている間も由比ヶ浜の頭には、もしかして大嫌いな――彼曰く捨てている――理系科目の数学が一限目だからわざと遅刻しているのかな、などと考えてしまう。

 

 彼に結び付けて考えてしまう。

 

 我ながら何をやっているのだろうと思うが、それでも考えてしまうのを止められない。

 今も「でも、数学は午前中にやった方が効率がいいらしいよ、漫画で読んだ」「え~それマジ?あーし信じられないわ」などと海老名と三浦が会話をしているのを、まるでBGMのように聞き流してしまっている。

 

 だから、だろうか。

 ついつい扉の方に目をやってしまい、そこに(たむろ)している戸部たちの会話が聞こえた。

 

「お!大岡やっときたんか~!ってかお前、野球部の癖に遅刻とかマジないわ~!朝練バッチリあったべ!」

 

 と、クラス一とも名高い戸部の耳障りもとい元気のいい声が響く。ああ、そういえば“大岡くん”もいなかったな、なんて結構酷いことを思いながら、由比ヶ浜は特別耳を傾けるでもなく、なんとなくその光景を眺めていた。

 もしかしたら彼ももうすぐ来るかも――なんて、性懲りもなく彼のことを考えながら。

 

「…………」

「ちょちょ、お前どこまで行くわけ!?お前のクラスココっしょ!いつからJ組のエリートになったわけ!?遅刻しておいていきなり一発ネタかますとかマジパないわ~!」

「だな」

 

 戸部の大げさなリアクションと大和の淡泊過ぎる相槌。そのやり取りにキャハハと盛り上がる女子たち。

 

 いつも通りの、平和な光景。

 

 由比ヶ浜は何の感慨もなくそれを眺めていて――

 

 ボキッ と酷く耳障りな異音が響いた。

 

「え」

 

 その呟きはいったい誰から漏れたものなのか。

 傍観者だった由比ヶ浜?

 それともすぐ近くに見ていた大和?

 笑い声をあげていた女子たちの誰か?

 それとも全く無関係のクラスメイトの誰か?

 

 それとも大岡の肩に置いた手を軽く振り払われて――――その手の指が在り得ない方向に折れ曲がっている、戸部本人だろうか?

 

「――――ぁ、ぁぁ、あああああああああああああ!!!!!!」

 

 激痛が、痛覚神経を通って戸部の脳に襲いかかった直後――突如狂ったように喚き散らし、尻餅をついて倒れ込みながら、戸部は後ずさる。

 

 その悲鳴に連鎖するように、取り巻きの女子たち、クラスメイト、そして近隣のクラスへと、パニックは連鎖する。

 

 そんな中、由比ヶ浜は見た。

 なんてことのない雑念の海から強制的に覚醒させられた由比ヶ浜は、そのパニックの下手人の大岡を見た。

 

 彼は。大岡は。

 自身が大怪我を負わせた友人の戸部に見向きもせず、まるで視界に入れず、叫び声にすら取り合わず。

 一定の速度で、黙々と、粛々と歩行を続けていた。まるで機械のように。

 

 人間では、ないかのように。

 

「!!」

 

 そして、由比ヶ浜は気づいた。

 

 彼のYシャツ。ブレザーに隠れていないYシャツの襟元。

 

 そこには、少なくとも戸部のものではない誰かの――生々しい血痕が、べっとりと付着していた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

《……いない。どこだ奴は?……徐々に近づいているのは感じる。……こういったことが得意な同胞なら方角や距離まで掴むのだろうが、俺では精々感覚的に存在を感じるのが精一杯だ》

 

 彼は。大岡は。

 

 大岡の姿をした、彼は。

 

 周りの悲鳴を完全に意識からシャットアウトし――そもそも彼にとってはただの雑音でしかなかったが――悠々と校内を徘徊する。

 

 だが、一向に目当ての人物は見つからない。姿を見せない。

 

《……どこだ?どこにいる?》

 

 そして彼は、ある教室に入る。

 

 ……だが、そこにも彼はいなかった。

 

《……ここにもいない》

 

 そこで初めて、彼の動きが止まった。

 そして完全に思考に集中したのか、ドアを開けた体勢のまま硬直したかのように微動だにしなくなる。

 

 それにより教室の中の人達は、ざわざわとざわめきだした。

 

『……何?誰、あの人?』

『……なんでここに来たの?っていうか、いきなり固まっちゃったんだけど?』

 

 

『……普通科の生徒が、“J組”に一体何の用なんだろう?』

 

 

 そう。ここは、国際教養科――2年J組。

 

 別に立ち入り禁止というわけでもないし、侵入を躊躇うような明らかな差別意識などはないのだが、何の用もなく、とりわけ昼休みというわけでもなく、あと数分で二限の授業が始まるというこのタイミングで、普通科F組の生徒である“大岡”が訪れるには、明らかに不自然な場所だった。

 

 だが、そんなことは彼には関係なかった。

 

 普通科の生徒でも、ましてや大岡でもない――宇宙人の彼には、まったくもってそんなことは一切合財どうでもよかった。

 

《……ならば。いっそのことこっちから誘き寄せるか?》

 

 だが、J組の生徒たちにとっては、今の大岡は――こんな不自然なタイミングで現れ、ドアを開けた状態で口を開くどころか何のアクションも起こさない今の大岡は、ただの不審人物でしかなかった。

 

 J組は進学校である総武高の中でもエリートが集まるクラスだ。比較的おとなしい人物が多く女子の割合も大きいので、そんな不気味な男子生徒を、半ば怖がるように遠巻きに見ていたが――

 

――そこに、凛と立ち向かう、一人の女生徒がいた。

 

「あなた。確か、2年F組の大岡君よね。一体何の用があって、こんな迷惑なタイミングにこのクラスに現れたのかしら?いつまでも銅像のように無様に固まってないで、さっさと要件を済ましたらどう?」

 

 彼女――雪ノ下雪乃の、一切物怖じしないその態度に、J組の淑女達から感嘆の声が漏れる。

 

 雪ノ下はそんな彼女たちのリアクションを気にも留めず、背筋を伸ばし、髪をファサと靡かせ、鋭い目つきで大岡を射すくめる。

 

 だが大岡もそんな雪ノ下に一切取り合わず、あくまで自身の中で結論が出たが故に、そのフリーズを解いて――動き出す。

 

 

『ならば、ここにいる奴の同胞を皆殺しにし、奴を誘き出す餌とすることにしよう』

 

 

「――え」

 

 脳内にいきなり響いた何かに、さすがの雪ノ下雪乃も呆気にとられる。

 今度は逆に、雪ノ下がフリーズする番だった。

 

 そのテレパシーは雪ノ下だけでなく、他のクラスメイト達の脳内にも響いたようだった。

 教室内の至る所で戸惑いの声が上がる。

 

 だが彼は、やはりそんな彼らに構うことなく、淡々と行動に移る。

 

 真っ先にターゲットにされたのは、一番近くにいた雪ノ下だった。

 

「!!」

 

 雪ノ下がそれに気づいた時には、すでに大岡は――チビ星人は、雪ノ下に向かって拳を放っていた。

 

 

 平和だった筈の教室に、何の罪もない女生徒の致死量の鮮血が、噴出した。

 

 エリートであるJ組の生徒達ですら、いやそんな彼らだからこそ、一生縁がないはずだった、人間の体が圧倒的な暴力で破壊される音が、響いた。

 

 次の瞬間、か弱き少年少女の魂の絶叫が、絶望の嘆きが、恐怖の悲鳴が、次々と連鎖した。

 

 

 

 そして、2年J組は、地獄絵図となった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ……あ~。完全に寝過ごした。

 今からじゃあちょうど二限が始まるときに潜り込めるか?確か二限は現国……じゃ、ないはずだ。勝つる。でも、あの人担任でもないのに俺の出席情報をなぜか把握しているからな……。何?俺の事好きすぎでしょ。ヤバい。貰われちゃう。早く!早く誰か貰ってあげて!じゃないと俺が貰われちゃう!

 

 ……はぁ。体が重い。そして、それ以上に気が重い。くそ。こんなくだらないことで精神が肉体を凌駕してんじゃねぇよ。

 

 起きた時には、すでに始業のチャイムが鳴った時間だった。リビングのテーブルには小町の怒りの書置きとともに朝食があった。たぶん何回も起こしてくれようとしたんだろうな。悪いことをした。

 

 休んじまおうかとも思ったが、ここで休んだら由比ヶ浜や戸塚にまた心配をかけちまうし一色にも迷惑がかかる。ガンツミッションの度に学校を休んでいたら、確実に怪しまれちまうからな。

 

 ……それまで、俺が生き残れていたら、だが。

 

 あの部屋から持ってきちまったガンツスーツとXガンとYガンを入れた鞄に一瞬目をやり、自転車のペダルを漕ぐ足に力を入れる。

 

 学校まで、もうすぐだ。

 

 

 

 

 

 ……?なぜか校門前が騒がしい。今日は避難訓練でもあったんだろうか。HRはいつも爆睡だからそういった情報には疎いんだよな。情報社会で生き抜く力が足りな過ぎる。

 

 俺はこっそりとその集団の後ろをステルスヒッキーを発動しながら通り過ぎる。チャリを押しながらも気づかれないとか、マジ俺ステルス。エスパニア鉱石みたい。キセキの世代の幻のシックスマンって俺なんじゃねぇの?

 

「……おい聞いたか?なんか、2年J組にテロリストが立て籠もってるらしいぜ」

 

 ピタッ、と、俺の足が止まる。

 

 ……テロリスト?いや、まて。それよりも――

 

 

――2年……J組って、言ったか。今?

 

 

「いや、テロリストじゃなくて、あの野球部の大岡がナイフ持って暴れてるらしいぜ。2年F組の。サッカー部の戸部と喧嘩して右手圧し折って、そのままJ組に乗り込んだらしい」

「はぁ、それおかしくね?さっき先生たちが慌ててたけど。大岡の死体が見つかったって」

「なんだよそれ!?初耳なんだけど!?何それ殺されたの!?」

「らしい。学校の用具入れの倉庫の傍で殺されてたって」

「はぁ!?学校の中!?嘘だろ、まだ犯人が近くにいるかもってこと!?やめろよ!それに大岡が死んでんなら、今J組で暴れてんのは誰なんだよ!?」

「いや、知らねぇけど。……でも、噂話によると――」

 

――今朝、遅刻してきた大岡の後をつけるように、“小さな白い化け物”がこの学校に侵入したって

 

ガシャン

 

 顔を寄せ合って噂話をしていた男子生徒達の、いや、その場にいたほとんどの生徒の目が、俺に集まった。

 

 だが俺はそんな奴等の目も、倒した愛チャリのことにも目を向けず、一直線に走る。

 

「あ、ちょっと君!今は校舎に入ってはいかん!」

 

 見覚えはあるが名前が一切浮かばない教師が叫ぶが知ったことか。

 

 

 アイツだ。アイツが来たんだ。

 

 

 俺を殺しに、アイツが来た。

 

 

 そして、雪ノ下が、危ない。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「ぎゃぁぁぁぁあぁああああああ!!!」

 

 その少女は、腹に荒々しく空洞をこじ開けられ鮮血を振り撒き、その端正な顔をグチャグチャに歪めながら、倒れ込んだ。

 

 また、死んだ。

 

 それを雪ノ下雪乃は、ただ呆然と見上げていた。その雪のような白い肌に浴びた返り血を拭うことも出来ず、何も出来ず、ただ見ていることしか出来なかった。

 

 そんな彼女の目の前で、一人、また一人とクラスメイト達が虐殺されていく。

 

 逃げ惑い、泣き叫び、お願いだから殺さないでくれと、命だけは助けてくれと、目の前の殺人鬼に涙で顔をぐちゃぐちゃに歪めながら懇願する。

 

 それでも大岡は――チビ星人は、一切の表情を変えることなく、システム的に教室から逃げ出そうとする輩を優先的に殺しながら、教室内のJ組の生徒達を一人残さず虐殺していく。殺戮していく。

 

 彼女は、何も出来なかった。雪ノ下雪乃は、ただ見ていることしか出来なかった。

 

 床に座り込む雪ノ下を、抱き締めるように眠る、一人の女生徒。

 その彼女を――背中の肉をごっそりと抉り取られ死亡している彼女を退けることも、雪ノ下は出来なかった。

 

 あの時。

 突如乱心し凶行に走った大岡の、第一のターゲットとして定められた雪ノ下。

 想定外の事態に完全にフリーズし、身動きが取れなかった雪ノ下を救ったのは、大して会話もしたことのない、隣の席という以外は何の接点もない、この勇気ある女生徒だった。

 

 自分は、この子に、命を救われた。

 

 だが、何も出来ない。雪ノ下は、何も出来やしなかった。

 この子の仇を討つべく、下手人に立ち向かうことも。

 この子のような犠牲者を出さないように、今まさに殺され続けているクラスメイト達を救うべく奔走することも。

 

 何も出来ない。何も出来ず、自分を救ってくれた女生徒を隠れ蓑に、ただ自分に番が回ってこないことを――死刑執行の順番が回ってこないことを、ひたすらに祈っている。自分だけは助かるようにと、醜くも心から祈っている。

 

 こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。

 

 なんだ。なんなんだ、この様は。

 

 あれだけ大言壮語を宣っておきながら、世界を変えるなどと吠えておきながら、何も出来ない。

 

 彼を、比企谷八幡を、いつも上から目線で見下しておきながら、いざとなったら何も出来ない。

 

 自分は、何も出来ない。何も分かっちゃいなかった。

 

 彼のことを知っていると言っておきながら、何も知らなかった。何も分からなかった。

 

 私は、何も出来ない。

 

 それなのに、勝手に彼を切り捨てた。自分勝手な幻想を押し付け、勝手に裏切られた気になって、勝手にがっかりした。

 

 勝手に、彼を、見限った。

 

 なんて傲慢。

 

 私は、無力だ。

 

 私は、雪ノ下雪乃は、全然大した存在じゃなかった。

 

 今までの依頼だって、彼が一人で何とかしてきた。私は、理想を語るだけで、結局何も出来ちゃいない。それじゃあ、――と同じじゃないか。……あれ?――とは誰のことだろう。よく思い出せない。

 

 ダメだ。頭が良く働かない。上手く思考が出来ない。

 こんな事態に陥って、思考が混濁しているのだろうか。

 

 ……ああ、ダメだ。こんなんじゃ、私は――のようにはなれない。――なら、きっとこんな状況でも、完璧に乗り切ってしまうのだろう。いつだって、あの人は、私に出来ないことをやってのける。

 

 ………………。どうやら、相当混乱しているらしい。そろそろ、精神的に限界なのかもしれない。

 

 気が付けば、生き残ったのは、どうやら自分だけのようだった。

 

 教室内は、まさしく阿鼻叫喚の地獄絵図。

 

 そこら中に死体が散らばっている。つい先程まではクラスメイトとして同じ教室内で授業を受けていたのに、すでに元は誰であったのかすら曖昧な肉塊へと変わり果てている。

 

 あっちもこっちも血だらけで、室内は鉄の匂いが充満している。

 

「……ぁ……ぁぁ……」

 

 その光景に、あまりの惨状に。

 

 その凄惨過ぎる現実を突き付けられた雪ノ下は、思わず呻き声を漏らした。

 その双眸からは涙が溢れだし、体はガタガタと震えだす。

 

 あまりに欠けていたリアリティを、その生々しい死の存在感が埋め、ついに受け止めざるを得なくなった。

 

 それと同時に押し寄せる、圧倒的な恐怖心。

 

 雪ノ下雪乃は、決壊した。

 

「ああ!!ああああああああああ!!!いやぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」

 

 あるいは、ここで悲鳴を上げなければ、最後まで気づかれずに、このままやり過ごせたのかもしれない。

 

 だが、この状況で。こんな惨状で。

 泣くな、などと。喚くな、などと。

 ましてや怖がるな、などと。言える者がいるだろうか。

 

 16才の女の子に、そんなことを強いることなど、出来るはずがない。

 

 彼女は、か弱い、女の子なのだ。

 

 雪ノ下雪乃は、か弱い、女の子だったのだ。

 

《……まだ生き残りがいたか》

 

 そう言って、大岡は――チビ星人は、雪ノ下に覆いかぶさっていた女生徒を乱雑に掴み、乱暴に投げ飛ばす。

 

 教室の後ろの黒板に叩きつけられた彼女は、そのまま一直線の赤い太線を描きながら、ずるずると倒れ込んだ。

 

 だが、今の雪ノ下に、それを気にする余裕はなかった。命の恩人に対する扱い方に噛みつくことは出来なかった。

 

 今、まさに。一度彼女に救ってもらった命を、奪われようとしているのだから。

 

「いやぁぁあぁぁああああ!!こないで!!こないでぇぇえぇえぇえ!!やめてぇぇぇえええぇぇ!!」

 

 必死に身を捩る雪ノ下。だが、ブルブルと震えた足では逃げ出すことも出来ない。

 ダラダラと垂れ流す涙で、その美しい顔を汚しながら、彼女は泣き叫ぶ。

 あの、雪ノ下雪乃が。惨めに。無様に。ただ、殺さないでくれと、必死に懇願する。

 

 だがチビ星人は、そんな彼女の有り様にも一切の感情を動かさず、これまで通り――彼女のクラスメイト達に施したのと同じ手順を――殺害を、実行しようとする。

 

 雪ノ下は、叫んだ。

 

 一切何も考えず、本能の赴くままに。心が求めるままに。

 

 震える喉で、戦慄く声で。

 

 頭を両手で抱え、必死に目を瞑って。

 

 無意識に、その口から、その言葉を。

 

 

 その人の、その男の名を。

 

 

「助けてぇえええええ!!!比企谷くん!!!」

 

 

 ダンッ!

 

 J組の扉が、勢いよく開かれた。

 

 

「――雪ノ下ぁ!!」

 

 

 その男は――比企谷八幡は。

 

 正義の味方のごとく、事件が発生してから、遅れて参上した。

 




 ちょっと雪ノ下ヘイトみたいになってごめんなさい。
 でも、この作品で追い込まれないメインキャラなんていないです。決して雪ノ下が嫌いというわけではないことをご容赦いただければ。


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血塗られた学び舎で、比企谷八幡は宿敵と相対する。

そういえば今日の分の投稿予約してなかったとさっき気付いて、急いで用意しました。
なので、ちょっと遅れてしまいました。ごめんなさい!!


 俺はかつて、遅刻は悪ではないと宣ったことがある。

 詳しい内容は覚えていないが、確か重役出勤とか、ヒーローは遅れて登場しても称賛されるとかつらつらと並べて、上昇志向の高い俺は今からその予行練習をしているんだとかなんとか言っていた気がする。

 

 俺は今、その時の俺をぶん殴ってやりたい。

 

 そして見せつけてやりたい。

 

 

 これが。この惨状が。

 

 この――無実で無関係な人間の血と死体でいっぱいの、死屍累々の凄惨な教室が、お前が遅刻した結果生まれてしまった悲劇だと。

 

《ようやく来たか》

 

 昨晩、嫌というほど味わった違和感しか覚えないテレパシーが脳内に響く。

 

 返り血で真っ赤な無表情の大岡が振り返り、その無感情の目で俺を見た。

 

「……てめぇ、昨日の奴か」

《そうだ。言ったはずだぞ》

 

 

《逃がさないと》

 

 

《必ず殺すと》

 

 

《どこに逃げようと、どこに消えようと、必ず見つけ出し、破壊すると》

 

 

《お前も》

 

 

《お前の同胞も》

 

 

《一人残らず》

 

 

 

《これが、俺の復讐だ》

 

 

 

 復讐。

 その言葉が、深々とナイフのように心に突き刺さる。

 

 復讐。報復。仕返し。

 

 それは、つまり――

 

 

《忘れるな。正義はこちらにある》

 

 

 チビ星人は、無感情ながら、容赦なく突きつける。

 

 

《これは、お前が始めた戦争だ》

 

 

 俺は拳を握りしめ、歯を喰いしばっていた。

 

 昨日の夜の戦い。

 俺は、後一歩の所で、コイツの呪詛により躊躇し、コイツを殺し損ねた。

 あの時のコイツの言葉は、俺の心を抉り取った。

 反論は、出来なかった。それだけのことをしたと思った。

 

 だが、これは。

 

 こんなものは

 

 

――断じて違う。これは、間違いなく正義じゃないッ!

 

 

「ふざけるな……ッ。これだけ無関係の人間を殺しておいて、何が正義だ。その怒りは全部俺に向けるべきだろうがッ。お前がやったのはただの八つ当たりだッ!」

《こちらは多くの同胞を殺されている。お前一人を殺したところで割に合わない》

 

 チッ。ダメだ。言葉は通じても、根本的な考え方が違う。

 コイツが言っているのは、俺の家族は○○国の人間に殺されたからその国を滅ぼすと言っているのと同じだ。暴論にも程がある。

 

 だが、コイツにとってはそうなのだろう。

 俺に昨日殺したチビ星人一人一人の区別がつかないように、コイツにも俺たちが皆同じ顔に見えるのだ。

 

 ある獣が人間(どうほう)を襲ったから、危ないから一匹残らず駆逐しよう。殺し尽くそう。

 人間が傲慢に、それでも当然のように判断し、実行するように。

 

 コイツ等にとって地球人(おれたち)は、ただの畜生で、ただの害虫なのだろう。

 

 やはり、コイツとは、宇宙人(こいつら)とは相容れない。

 

 ……戦うしか――殺すしかない。

 

 …………だが、どうする?

 俺はスーツを着てはいない。……鞄の中にXガンとYガンと一緒に入っているが。

 

 鞄を開けて、銃を取出し、相手に向けて、撃つ。

 

 それだけの動作をするよりも、間違いなくアイツが俺に跳び蹴りをする方が早い。

 スーツを着ていない俺は、それだけで即死だろう。

 

 だが、このままでは――

 

《待っていろ。すぐに殺してやる》

 

 クソッ、一か八かやるしか――

 

 

 

《この貴様の同胞を殺した後にな》

「ひぃ、いやぁ、たすけ、たすけて」

 

 

 

 チビ星人が髪を乱暴に掴んで吊り上げた、その女を見た瞬間、俺の中の時間が止まった。

 

 

 そして、思い出す。なぜ俺が、この2年J組に一目散に駆け付けたのか。

 

 

 あまりに衝撃的な教室内の状況を前に、不覚にも頭から抜け落ちていたけれど。

 

 

 俺は、その少女を、死なせない為に――

 

 

 

『八幡』

 

 

 

 あの人から託された――陽乃さんの忘れ形見の――

 

 

 

『……雪乃ちゃんのこと、お願いね』

 

 

 

 俺が、今。

 

 

 何よりも守らなくちゃいけない、その存在を――

 

 

 

 

「ひき、がや……くん……たすけ、てぇ……」

 

 

 

 

 ボロボロで、グシャグシャの、縋りつくような懇願だった。

 

 雪ノ下雪乃は、泣いていた。

 瞼は真っ赤に腫れあがり、太ももからも液体を垂れ流している。

 

 その、瞬間。

 

 あの雪ノ下を――――あの美しく、気高い雪ノ下雪乃を。

 

 傷つけ、貶め、穢した、目の前の生物への怒りで、思考が飛んだ。弾け飛んだ。

 

 躊躇はなかった。恐怖もなかった。

 

 ただ、目の前の生物を排除する為に。

 

 沸騰するような激情と共に、鞄の中に手を伸ばす。

 

 

 

「君!! そいつから離れて!!」

 

 

 

 その第三者の叫びに、俺の頭は一気に冷える。

 

 後ろを振り返ると、そこには青い服を着た連中が、拳銃をチビ星人に――いや、チビ星人が擬態する大岡に向けている。

 

 俺は即座にその状況を理解した。

 

 チビ星人は表情こそ無表情なものの、視線を後ろの警官達の方に向けている。

 

 俺は鞄から何も取り出さずに手を抜き――――チビ星人に向かって駆け出す。

 

《ッ!!》

「――な!」

 

 チビ星人の驚愕する気配と、後ろの警官たちの悲鳴にも似ている驚声に構わず、俺は雪ノ下をチビ星人から強引に引き離す。

 

「きゃぁあ!!」

 

 その際、ブチブチと何かを強引に千切るような音が響く。

 雪ノ下の綺麗な髪を傷つけてしまったことに、顔が顰むのを感じる。

 

《貴様ぁ!》

 

 チビ星人は怒りのテレパシーを送りながら、俺ごと雪ノ下を粉砕しようとする。

 

「いやあ!!」

 

 怯える雪ノ下を全身で覆うようにして庇う。

 

 頼む!! 来い!!

 

 

 銃声が、轟いた。

 

 

 ふらつく大岡なチビ星人。

 ギロリと廊下の方に目を向ける。

 

 よしっ! 信じてたぜ、国家権力!

 

 俺は雪ノ下に覆いかぶさりながら、後ろを確認する。

 

 銃を撃ってくれたのは、俺が入った前方の扉の所にいるあの人だ。

 チビ星人の目もそちらに向いている。

 

 ……今しかない。

 

「雪ノ下」

「え!?……な、なに?」

 

 俺は口に人差し指を当てて、声を潜めるように伝えながら、雪ノ下に声を掛ける。

 

「逃げるぞ。走れるか?」

 

 俺は雪ノ下の濡れた瞳を真っ直ぐ見据えながら言う。

 

 雪ノ下の瞳は、不安定に揺れていた。

 

 俺は雪ノ下のここまで弱い姿を見たことがない。

 

 

 …………そして、雪ノ下をこんな目に遭わせたのは、俺だ。

 

 一度、強く目を瞑り、覚悟を決める。

 

 

 俺は雪ノ下の手を引いて、後方の扉に向かって駆け出した。

 

 

《っ!! 貴様、逃げるのか!!》

 

 チビ星人が俺たちの方に向き直る。

 

 それを遮るように二発の銃声が響いた。

 

 先程俺たちを救ってくれた警官が、注意を引き付けるように援護してくれる。

 

「君達! 大丈夫か!!」

 

 そして俺たちは、後方の扉から教室の外に飛び出した。

 

「生徒は皆外に避難している! 君たちも早く!!」

 

 銃を撃ったのとは別の警察官がチビ星人から離れるように指示を送る。

 

 俺は頷いて、そのまま走り去った。

 

 決して振り向かないように。

 

 

 ……おそらく、あの人たちは殺される。

 

 拳銃程度じゃ足止めにはなっても、アイツを殺すことは出来ないだろう。

 

 そうでなくては、ガンツが星人(あいつら)に対してあんなハイテクノロジーな武器を用意しなくてもいいからだ。

 

 だが、俺はそれを言わなかった。

 ガンツの爆弾が頭に仕込まれているという以前に、今は、その足止めが欲しいから。

 

 雪ノ下を逃がす為に。

 

 俺自身が、一旦体勢を整える時間を稼ぐ為に。

 

 

 その為に、俺は、命を救ってくれたあの人たちを――捨て駒にしたんだ。

 

 

 背後から、乱発する銃声と、警察官達の悲鳴と絶叫が木霊する。

 

 

 俺はそれから逃げるように、目を背けるように、階段を降りる。全力で逃避する。

 

 そんな自分を誤魔化すように、雪ノ下の震える手を、力強く握りしめた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 一階に降りると、避難をしている集団に合流することが出来た。

 

 そして運が良かったのか、それとも悪かったのか。

 一番早く目に入ったのは、アイツだった。向こうもこちらに気づく。

 

「あ !ゆきのん! ゆきのん!!!」

 

 由比ヶ浜は瞳いっぱいに涙を溜めて、こちらにダッシュで駆け寄り、雪ノ下を抱き締める。

 

「よかった!……本当に良かった……ゆきのん……ゆきのん」

「……ゆい、がはま、さん……ぅぅ……ぁ……ぁ」

 

 由比ヶ浜の嗚咽交じりの言葉に、由比ヶ浜がどれだけ雪ノ下の身を案じていたのかが窺える。

 そして雪ノ下も由比ヶ浜の言葉と温もりに、再び涙を堪えきれなくなったようだ。

 お互いがお互いの体を全力で抱き締め、肩に顔を埋めている。

 

「……ヒッキー。ゆきのんを助けてくれてありがとう」

 

 そして、由比ヶ浜は顔を上げ、目を真っ赤にした笑顔で俺にそう言った。

 

 

 ……違う。由比ヶ浜。俺は――

 

 

 すると、雪ノ下も振り返り、俺に儚い微笑みと共に言った。

 

 

「……そうね。ありがとう、比企谷くん。……助けに来てくれて、本当に嬉しかったわ」

 

 

 その笑顔は、俺がずっと見たかった、仮面をつけていない、心からの綺麗な笑みだった。

 

 俺は、表情が歪まないように、必死に、必死に堪える。

 

 

 ……違う。違う。違うんだよ、雪ノ下。

 

 これは、俺のせいなんだ。

 

 お前がそんな目に遭ったのも。クラスメイト達が殺されたのも。

 

 全部、俺のせいなんだ。

 

 俺は彼女たちの後ろにいる集団に目を向ける。

 

 恐怖に怯える男。泣き叫ぶ女。戸惑いを隠せない教師。無線で怒号のやり取りをする警官。

 

 みんな、みんな、俺のせいだ。

 

 俺が昨日殺したから。俺が昨日殺せなかったから。

 

 これは、俺のせいで、起きた悲劇だ。俺が引き起こした惨劇だ。

 

 なのに。なのに。それなのに。

 

 頼むよ、雪ノ下。由比ヶ浜。

 

 

 俺を、そんな顔で見ないでくれ。

 

 

「結衣!」

「結衣!!勝手に離れんなし!」

「八幡!!」

「ちょっとアンタ、今までどこ行ってたの!?」

 

 集団の中から、三浦と海老名さん、戸塚、川崎が抜け出してこちらにやってくる。

 

 俺はそれを見て、由比ヶ浜に告げた。

 

 

「―――由比ヶ浜。雪ノ下を頼む」

 

 

 その言葉に由比ヶ浜、そして雪ノ下が驚愕する。

 

「え!?どういうこと!?ヒッキーは!?」

「俺はやらなくちゃいけないことがある。それを済ませたら、すぐに合流する」

 

 こうしている今も、無関係の人間が殺されている。

 

 俺は行かなくちゃいけない。俺は殺さなくちゃいけない。

 

 アイツを殺すのは俺だ。

 

 これは、アイツと俺の戦争なんだ。

 

 俺が始めた戦争なんだ。

 

 

 ギュッッと、俺の腕が凄まじい力で掴まれる。

 雪ノ下だった。

 雪ノ下は、恐怖で震える瞳で、俺を見上げる。

 

「い、嫌っ!行かないで!置いて行かないで!!お願い比企谷くん!!傍に居て!!一人にしないで!!私を、私を――」

 

 由比ヶ浜は「ゆきのん……」と呆然と言葉を漏らす。駆け付けた顔見知り達も目と口を開いたまま固まる。

 俺も驚いていた。前までの雪ノ下ではない。あの雪ノ下が、ここまでなりふり構わず俺に――他人に、縋るなんて。

 

 …………それほどの、恐怖だったんだろう。あのJ組の惨状を見れば、想像がつく。ついてしまう。

 

 俺はアイツに対する殺意を更に高めながら、雪ノ下の肩に両手を置き、雪ノ下の瞳を真っ直ぐ見据え、見つめながら語りかけた。

 

「―――すぐ戻る。……由比ヶ浜と一緒に、待っててくれ」

 

 俺は由比ヶ浜にアイコンタクトを送る。

 由比ヶ浜は悲痛に表情を歪めた。……本当はコイツも、俺を引き留めたいのだろう。

 

 だが由比ヶ浜は直ぐに優しげな微笑みを作り、雪ノ下を背中から抱き締めた。

 

「…………大丈夫だよ、ゆきのん。私が一緒にいる。……ヒッキーを、信じて待とう?」

 

 俺はその言葉を言う由比ヶ浜を直視出来なかった。見れなかった。

 ……彼女は、いつもこうして口だけの俺の言葉を、ずっと信じて待ってくれていたのだろう。待ってくれて、いるのだろう。

 

 本当に、俺は最低だ。

 そんな彼女に、俺はまた、押し付けようとしている。

 

 そんな由比ヶ浜の諭しでも、雪ノ下の瞳から恐怖と不安が消えることはなかった。

 だが彼女の、俺の腕を掴む力は、ゆっくりと緩んだ。

 

 俺は彼女の腕を、優しく、決して振り払わないように、ゆっくりと剥がす。

 

「あ――」

 

 雪ノ下の手が伸びる。縋るように。見捨てないでと、叫ぶように。

 

 だが俺は、あの日の彼女のように、背を向けた。そして、振り返らなかった。

 

「行ってくる」

 

 せめて、こう言い残した。気休め程度の、口約束を告げる。

 

 彼女たちの目を見ずに、一方的に押し付ける。

 

「必ず、戻る」

 

 俺は降りてきた階段に向かって駆け出し、逃げるように、上へ駆け上がった。

 

 俺は、彼女達から、逃げてばかりだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「八幡!」

「ヒキタニくん!」

「ちょっ、ヒキオ何してるんだし!」

「おい!由比ヶ浜!雪ノ下!アイツ行かせていいの!?上にはまだ不審者が――」

 

 突然、校舎の中に走り去っていった八幡を見て、三浦達は戸惑いの声を上げる。

 

 川崎は由比ヶ浜と雪ノ下に呼びかけるが、その光景を見て口を紡がざるを得なかった。

 

「~~~~~~~~~ッッ」

「……………………………っっ」

 

 雪ノ下は、顔を真っ青にしてガタガタと震えながら身を縮こませ、由比ヶ浜の制服をギュッと握りしめている。

 由比ヶ浜は、瞳一杯に涙を浮かべて、唇をこれでもかと噛みしめる。何かを必死で堪えるように、雪ノ下の細い体を力いっぱい抱き締めていた。

 

「……大丈夫」

「――え」

 

 呆気にとられていた川崎は、由比ヶ浜の掠れたようなその呟きに、無意識に問い返した。

 

 由比ヶ浜は、何よりも自分に言い聞かせるように、涙声で言った。

 

「……大丈夫……ヒッキーが……ヒッキーなら……きっと……ぎっど……らい……じょぅ…っ…ぅぁ――」

 

 途中で、堪えきれなくなったのだろう。

 雪ノ下の肩に顔を埋めるようにして、由比ヶ浜は声を押し殺して嗚咽を漏らした。

 

 ついにペタンと、膝の力が抜けて、落ちる。元々雪ノ下も限界だったのだろう。一緒に昇降口前の廊下に座り込んだ。

 

 三浦と海老名はそんな由比ヶ浜に駆け寄り、抱き締める。三浦は、向けられる好奇の視線を、睨み一つで封じ込めた。

 

 そんな中、川崎は、決意する。

 

「――――あたし、やっぱり比企谷を連れ戻すよ」

 

 明らかに分かる。彼女たちは限界だ。

 雪ノ下はもちろん、由比ヶ浜も。

 これまでギリギリの奉仕部を繋ぎ止めようと孤軍奮闘を続けてきたのだ。そこにきて、この惨状。

 

 雪ノ下だけではない。

 由比ヶ浜にとっても、八幡はすでに生命線だった。

 

 もし、八幡が殺されてしまうようなことがあれば、おそらく、彼女たちは――

 

「――サキ、サキ。……で、でも――」

 

 由比ヶ浜は顔を上げて、川崎を見上げる。

 その瞳は、揺れている。

 八幡を助けて欲しいという渇望と、だが彼を信じて待たなければという――もはや強迫観念程のレベルの使命感が、ごちゃ混ぜで激しくせめぎ合ってい、由比ヶ浜を追い詰めている。

 

 そんな複雑な由比ヶ浜の迷いを断ち切るように、三浦が言う。

 

「お願い、川崎さん。ヒキオを引っ張ってきて。……結衣をこんなに泣かせて……引っ叩いてやんなきゃ気が済まない」

 

 そう言って三浦は、由比ヶ浜の頭を自身の胸の中に抱いた。「……優美子」と、由比ヶ浜が呆気にとられた声を出すと、海老名がくすりと笑いながら、川崎に向き直って頷いた。

 

「川崎さん、僕も――」

「いや、あたしだけでいいよ。あんまり多くても、却って危ないから」

 

 戸塚は自分も行くと言おうとしたが、川崎が遮り、しょぼんと肩を落とした。

 

 そのあまりの小動物っぷりに川崎の中の罪悪感がマッハだったが、今はそんな場合じゃないと川崎は八幡の後を追うべく走りだす。

 

「川崎さん!危なくなったら、ヒキオなんか放っておいてすぐに逃げてきていいから!」

 

 そう言って三浦は、自身が焚き付けたことに対するフォローを忘れなかった。

 川崎はそれに手を挙げて答えると、彼女達から川崎の姿が見えなくなる寸前で、由比ヶ浜が声を張り上げる。

 

 

「お願い!サキサキ!――――ヒッキーを、助けて!」

 

 

 その叫びは、確かに川崎に届いた。

 

 川崎は、言うまでもないとばかりにスピードを上げる。

 

 彼女だって、死んでも彼には、死んで欲しくないのだから。

 

(……比企谷……無茶しないでよ!)

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 俺はトイレの個室のドアを開ける。

 

 いつも通り、スーツの上に制服を着こみ、XガンとYガンを腰のホルスターに装着し、それをブレザーで隠す。

 

 ……もしかしたらこの服装のせいで、この学校がバレたのかもな。……もし俺の位置を探知出来たのだとしたら、真っ先に俺を狙――うか、どうかは分からないか。俺の同胞を殺してから、俺を殺すみたいなことを言っていたしな。その場合は小町がおそらく殺されていたから、そっちの方がよかったとは一概にはいえない。

 

 だが、雪ノ下が。そして俺と何の係わりもないJ組の連中が、俺の同胞扱いされたのは、これが原因だ。俺が原因だ。

 

 ……今度から、制服は上に着ない方がいいのかもな。俺のくだらない羞恥心のせいで、あれほどたくさんの無関係の命が奪われたのだから。

 

 だが、少なくとも今は、これを上に着る必要がある。いきなり黒い全身スーツの男が現れたら、今の状況じゃ更に尋常じゃないパニックになってしまう。

 

 俺は、一応トイレの出入口の周囲を観察して、男子トイレを出る。

 

 …………ん、待てよ。そんなことしなくても透明化してしまえばいいんじゃないか。確か、アイツには透明化は有――

 

 

 

『いやぁぁぁぁあああああぁぁあぁあああああああ!!!!!』

 

 

 

 ――――おい。待て。今の悲鳴って……

 

「雪ノ下!?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「サキサキ……行っちゃったね」

「大丈夫かな……これで、川崎さんまで危険な目に遭ったら」

「……」

「それは大丈夫だと思うよ。サキサキは、そんなリスクリターンの計算が出来ないような人じゃないもの。危なくなったら逃げてくれるよ。……だから優美子、そんな顔しないで」

「…………うん」

 

 川崎が二階へ走り去った後、海老名と三浦と戸塚は彼女の安否も気に掛けながらも、学校の外に避難する集団に合流する。

 

「ほら。結衣も、雪ノ下さんもしっかりして。大丈夫。きっとすぐにサキサキがヒキタニくんを連れ戻してくれるって」

「……う、うん。そう、だよね」

「…………」

 

 由比ヶ浜も、まだ元気が戻ったというわけではないが、それでも雪ノ下を抱き締めながら歩けるようにはなった。

 雪ノ下も、相変わらず顔は青く震えているが、由比ヶ浜にしがみつきながらなんとか歩を進めている。

 

 そして学校の外に出ると、すでに粗方避難した後なのか、生徒たちはバラバラと二、三人の塊で、まるで下校時のようにバラつきながら、正門前の大きな集団に向かっていた。

 

 そんな彼らに向かって教師陣は怒鳴り声を上げながら急かすが、この中であの凄惨な現場を見た者はほとんどいない。戸部の件も目撃しているのは二年生の一部だけだ。

 皮肉にも、八幡の妄想通り、彼らにとっては惰性で何となく流されるがままに行っていた避難訓練と意識的にはほとんど変わらなかった。

 

 だが、由比ヶ浜たちは戸部の件を間近で目撃していたし、雪ノ下に至ってはあの凄惨な現場の唯一の生き残りだ。否が応にでも真剣にならざるを得ない。

 

「よし!ここまで来れば大丈夫だよ、雪ノ下さん!急ごう、結衣!」

「ほら、結衣。雪ノ下さんの腕、片方貸せし。アタシも支えるから」

「あ、僕も。一応、僕も男だし。……それに、由比ヶ浜さんもフラフラだよ」

 

 戸塚の言葉通り、雪ノ下を支える由比ヶ浜の足取りも、正直覚束なかった。

 ここ数日の心労もさることながら、戸部の指が砕けるシーンを直視したこともズッシリとダメージになっている。

 それでも一番の心の重荷は、八幡の安否だろうが。

 

 由比ヶ浜は、そんな二人の提案を首を振って拒んだ。

 

「……ううん。ありがとう、二人とも。でも、これは、私がヒッキーに託されたことだから。……やり遂げたい」

 

 そして、由比ヶ浜は、足に力を踏ん張って注入し、前を向く。

 

 

「……ゆきのんは、私が守る」

 

 

 

 その時、彼女たちの頭上で、パリーンという破砕音が響いた。

 

 

 

「きゃぁっ!」

「な、なにこれッ!」

 

 突如、上空からガラスの破片が降り注ぎ、由比ヶ浜達も含めて下界の生徒達はパニックに陥り、悲鳴が飛び交う。

 

 そして、降ってきたのはガラスだけではなかった。

 

 

 ダンッ と軽やかに何かが降り立った。

 

 

 由比ヶ浜達の目の前に、小さな白い化け物が着地する。

 

 由比ヶ浜の腕の中の彼女は、その姿を見るのは初めてだけれど、一発で分かった。一瞬で直感した。

 

 コイツは――

 

《見つけたぞ。お前には、再びアイツを呼び寄せる餌になってもらう》

 

 雪ノ下は、悲鳴を上げることも出来ず、急速にその意識を手放した。

 




 あ、そういえば、さっきランキング見たら4位に入ってました!もうこんな順位になれることはないと思っていたので、すごくうれしいです!

 さすが雪ノ下といったところか……。なのに、辛い思いばかりさせて本当に申し訳ない……。


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由比ヶ浜結衣は、大切なものを守る為、白い化け物に立ち向かう。

少女は、戦う。

何の力も持たず、その身一つで立ち向かう。

大切な人との約束を果たす為に。

大好きな親友を守る為に。

あの場所を、もう一度、取り戻す為に。


 その化け物は青い服の戦士たちを軒並み虐殺した。

 

 彼らの胸の黒い機械の塊からは必死に仲間の応答を求める叫びが響いていたが、すでに彼の興味を引くものではなかった。

 

 彼は思考する。その真っ白な体躯に、真っ赤な返り血を映えさせながら。

 

 すでに逃げ去った八幡は目で追える距離にはいなかった。だが、再び走って闇雲に追いかけるとなると、それはさすがに難しい。いつまた、この青い服の連中に見つかるか分からない。一々殺すのも面倒だ。

 そうなると気配で追うしかない。自分はそういった術に長けていないことはすでに思い知っていたが、何の手がかりもないよりはマシだ。

 

 そんなことを考えながら、彼は何気なく窓から下界を見下ろす。

 

 その時、感じた。感じ取った。

 

 校舎から逃げ出す、人、人、人。

 

 その中に、感じ取った。

 奴ではない。

 だが、これは確か――

 

 そう思った時には、彼はすでに窓ガラスを叩き割っていた。

 

 あちこちから湧く悲鳴の一切を無視し、彼は窓枠に飛び乗る。

 そして、自身が目を付けた集団に向けて、跳んだ。飛ぶように跳んだ。

 

 そして、先程まで擬態で使用した翼を一切使うことなく、軽やかに着地する。

 

《見つけたぞ》

 

 こうして、雪ノ下雪乃に悪夢が再来した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「え?」

「な、何?」

「ど、どうなってんだし!?」

 

 突然、自分達の目の前に落下してきたそれと、突如、自分達の頭の中に響いてきた何かに混乱する三浦達。

 

 だが、由比ヶ浜はいきなり自分の腕の中で気絶した雪ノ下の方に取り乱した。

 

「え? え!? ゆきのん! ゆきのん! しっかりして、ゆきのん!」

 

 錯乱気味に叫び散らす由比ヶ浜。だが、雪ノ下はぐったりとしたまま動かない。

 

 それでも、由比ヶ浜は呼びかけ続ける。

 

「ゆきの「危ない! 結衣!」え」

 

 だから、その存在が肉薄するのに気付けなかった。

 

 三浦の悲鳴が由比ヶ浜の耳に届いた時には、その存在はすでに雪ノ下の腰に手を回していた。

 

「ッ! きゃァ!!」

 

 そして、そのまま信じられない力で雪ノ下を振り回した。

 

 雪ノ下をガッチリと抱き締めていた由比ヶ浜の体が宙に浮く。由比ヶ浜はその凄まじい遠心力に、ついにその手を離してしまった。

 ズザザザ! と由比ヶ浜が地面に引きずられる。

 

「結衣!」

「結衣!!」

「由比ヶ浜さん!!」

 

 チビ星人は、そのまま雪ノ下を抱えて去ろうとする。

 

 が――

 

「――待って!!!」

 

 その、由比ヶ浜の雄叫びに。

 これまで、八幡以外の人間の、どんな言葉にも関心を示さなかったチビ星人の足が、確かに止まった。

 

「ゆきのんを返して!!」

 

 そしてチビ星人が、由比ヶ浜の方を向いた。

 

 その、文字通り虫けらを見るかのような、無機質で、冷酷な視線に。

 三浦も、海老名も、戸塚も。一様に息を呑み、体を硬直させた。

 

 殺される。少しでも反感を買ったら、少しでも関心を持たれたら、確実に殺される。

 この視線を向けられる。それが、それだけでも、一種の凶器だと、そう思い知らされた。

 

 だが由比ヶ浜は一瞬も怯まず、燃えるように爛々とした瞳で叫ぶ。

 

 真っ直ぐに怪物を見据え、魂をそのままぶつけるが如く叫び散らす。

 

「ゆきのんを返して! 返してッ!! ヒッキーに託されたの! ヒッキーに頼まれたの!! ヒッキーは帰ってくるって言った!! 必ず戻るって言った!! だから私がゆきのんを守るの!! また三人で奉仕部やるんだからッッ!!!」

 

 由比ヶ浜は、立ち上がる。

 ゴツゴツの地面に叩きつけられた体は、全身が擦り傷と打撲だらけで、力を入れるだけで激痛が走る。

 

 それでも、由比ヶ浜は立ち上がった。

 

 チビ星人を睨みつける。燃え盛るような敵意を向ける。

 

 目の前の埒外の化け物に、一切臆することなく立ち向かう。

 

 三浦達は、それに目を見開いた。

 だが、動けない。チビ星人のあの瞳を向けられるだけで、恐怖で体が動かない。

 あんな、自分達を路傍の石程度にしか見ていない、圧倒的に生物として格上だという自負のある目。食物連鎖の上から見下ろされる目。そんな目を向けられて、尚且つ敵意を煽るような真似をする由比ヶ浜に戦慄を覚えた。

 

 チビ星人は、動じない。ピクリとも、微動だにしない。

 

 しかし、由比ヶ浜は止まらない。

 

 そして、チビ星人に向かって駆け出した。

 

 傷だらけの体で。それでも、大切なものを取り戻すために。

 

 必死に手を伸ばし、無我夢中で駆け寄る。

 

 

「ゆきのんを……返してよぉぉおお!!!!」

 

 

 その、親友の叫びに。

 大事で、大切な、彼女の声に。

 チビ星人に抱えられていた雪ノ下の、目が開いた。

 

(……ゆいがはま、さん)

 

 ぼんやりと靄がかかる視界の中、涙を瞳いっぱいに浮かべて自分に向かってくる由比ヶ浜がいる。

 

 雪ノ下は口角を緩め、彼女に向かって手を伸ば――

 

 

――だが、雪ノ下の手よりも早く、横手から由比ヶ浜の手を掴んだ手があった。

 

 

 その手は真っ白だった。

 

 筋肉で不気味に膨れ上がった、あの腕。

 

 自分のクラスメイトたちの人体を破壊し尽くし、真っ赤に染まっていた、真っ白なそれが。

 

 今。

 

 彼女を。

 

 雪ノ下の、雪ノ下雪乃の。

 

 唯一無二の親友の。大事な、大切な、友達の。

 

 

 由比ヶ浜結衣の、腕を掴んだ。

 

 

 掴んだ。

 

(……い、いや――)

 

 雪ノ下の脳裏に過ぎる、先程のJ組の惨劇。

 

 由比ヶ浜の表情が、ついに恐怖に歪んだ。

 

 それでも、雪ノ下に向かって、必死に手を開く。だが、何も掴めない。

 

 由比ヶ浜は、必死に、不器用に――――笑った。

 

(……い、いや……いや――)

 

「――ゆき

 

 彼女が、何と言いたかったのかは分からない。

 

 由比ヶ浜は、チビ星人によって投げ飛ばされた。投げ捨てられた。

 

 それは、あまりに呆気なく。

 

 雪ノ下には、由比ヶ浜が突然目の前から消失したように見えた。

 

 

「いやぁぁぁああああああぁぁあぁぁああああぁぁあああああ!!!!!」

 

 

 雪ノ下は断末魔ような悲鳴を轟かせ、再び意識を失った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「今のって……雪ノ下?」

 

 二階の教室前の廊下を駆けていた川崎は、その悲鳴に足を思わず足を止めた。

 あれは外から聞こえた。どこかの教室の外側の窓から確認しようかと思ったその時、昂ぶっていた川崎は冷静になり、前方が赤いことに気づいた。

 

 赤い。緋い。

 血だ。血まみれだ。

 

 これだけ距離があっても鉄の匂いが漂ってくる。その匂いだけで、あの赤が、緋が、紛うことなき人体からの本物の出血だと告げていた。

 

 あれが、血なら。

 なら、そこらじゅうに散らばっている――ほのかに垣間見える青は警官の制服だろうか――“物体”は、ぐちゃぐちゃの、物体は……人の、人間の――

 

「――ッ!!」

 

 川崎はそこまで考えて、考えてしまって、とにかく無我夢中に手近の教室に駆け込んだ。逃げ込んだ。

 

 そして、そのまま窓に駆け寄り、こじ開け、顔を出す。少しでも、血の匂いを感じないように。鉄の匂いを吐き出すように。

 けほっけほっと涙目で咳き込み、ふと横を見る。

 

 

 校舎を垂直に登っている白い生物がいた。

 

 

 川崎は己の目を疑った。間抜けな顔でぼおと眺めてしまった。

 

 ネット上の悪ふざけによる合成画像としか思えなかった。己の両目で得た、なんのフィルターも通していない現実の映像だとは、百も承知にも関わらず。

 

 その物体は、その生物は、何かを無造作に抱えていた。幸い、それを川崎がいる側の腕――左腕で抱えていたので、それが人間で、黒髪の女生徒だということが分かった。

 

 雪ノ下雪乃だった。決してそこまで距離が離れているわけではないにも関わらず、それが雪ノ下だと認識するのに少し時間がかかった。

 

 絶句する。川崎は、顔見知りが未確認生物に拉致されているという状況に、完全についていけなかった。

 これも幸いなのだろう。雪ノ下を抱えている側から顔を出し、そしてすでに彼は自分よりも高い位置にいた。その為、川崎には気づかずに、彼は登る。

 

 するすると。右腕と両足のみで、まるで飛んでいるかのように、壁を這うゴキブリのようによじ登っていく。

 

「雪ノ下!!どこだぁ!!」

 

 川崎の硬直を解いたのは、廊下から響くそんな叫びだった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「雪ノ下!!どこだぁ!!」

 

 俺は階段に向かって走っていた。

 今の雪ノ下の悲鳴は外から聞こえた。ということは、アイツはすでにあの教室にはいない。

 

 警官の足止めは終わったのか。……おそらく全員殺されたのだろう。

 

 ……だが、なぜ俺ではなく雪ノ下を襲う!?……俺が一度、雪ノ下を助けに駆け付けたことで、奴が雪ノ下に利用価値を見出したのか?

 

「――――くっ!!」

 

 だとしたら、奴は雪ノ下をまだ殺さない。アイツは俺の目の前で雪ノ下を殺すことに拘るだろう。そういう奴だ。

 

 だが、雪ノ下はあそこまで恐怖を刻み込まれていた。アイツが雪ノ下の目の前に現れたら、雪ノ下はどれほど追い詰められる?

 

 それに、由比ヶ浜だ。アイツは俺と由比ヶ浜の関係を知らない。ならアイツにとって由比ヶ浜は、アイツが虐殺したJ組の連中、そして警官たちと同類――その他大勢。

 

 殺すことに、何の躊躇もないだろう。手心を加えてくれるとは考えにくい。

 

 そして、同じくらい、いや、それ以上に。

 

 由比ヶ浜が雪ノ下を見捨てるとは考えにくい。考えられない。

 

「――――くそッ!!」

 

 俺は更にスピードを上げようとして――

 

「比企谷!!」

 

 突然、目の前の教室から川上が飛び出してきた。

 俺は急ブレーキを掛ける。こんなところで野生の川越とバトルしている暇はない。ゲット一択だ。

 モンスターボールは持っていないので、俺は川内の膝と背中に手を伸ばし抱えた。スーツを着ている今なら、川相の一人や二人、ノーモーションで流れるように持ち上げられる。

 

「ひゃっ」

「何してんだ、お前!早く逃げるぞ!雪ノ下たちはどこだ!?」

「ちょ、ちょっとアンタ――あ、そうだ、雪ノ下!」

 

 川端は何やら赤い顔で慌てていたが雪ノ下の名前を聞くと、お姫様抱っこの体勢で抱えられたまま真剣な表情を作って、言った。

 

「さっき、白い小さな変な生き物が、雪ノ下を抱えて校舎をよじ登って、屋上に行った」

「!!」

 

 俺は、彼女をゆっくり下ろした。

 彼女は、俯き気味で呟く。

 

「……信じられないかも、しれないけど――――!?」

 

 俺は、彼女の頭にポンと手を乗せながら、言った。

 

 

「ありがとう。愛してるぜ、川崎」

 

 

 彼女――川崎沙希は、大きく目を見開いて――――悲しげに、表情を歪ませた。

 

 俺は、そのまま川崎の隣を横切る。

 

 彼女は、何も言わなかった。

 

 言わないでくれた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 川崎は、彼が去っても、しばらくそのまま棒立ちしたままだった。

 

 そして、ザワザワと警官の増援が増えてきた頃、その中の一人に声を掛けられて、ようやく後ろを振り向く。

 

 当然、そこに彼はいなかった。

 

 川崎は、右手をゆっくりと左胸の位置に持って行く。

 

 痛かった。彼の、あの言葉によるもの――だけではない。

 

 あの言葉を、放った時の、彼のあの表情。

 

 悲愴な決意を秘めた、確固たる決意を抱えた、あの表情が、川崎の胸を締め付ける。

 

 彼は、何も言わなかった。

 

 けれど、分かった。伝わった。伝わってしまった。

 

 止められなかった。止めるべきだったのに。

 

 だけど、きっと、彼は――

 

 

 

「――それで、君、早くここから――ってどうしたんだい!? なんで泣いているんだ!?どこか怪我をしているのか!?」

「~~~っっ~~ッ!」

 

 自分に声を掛けてきた警官が慌てているのが分かる。

 だが、川崎は溢れる嗚咽を止められなかった。

 

(……ああ。由比ヶ浜の気持ちが、少しだけ分かった)

 

 ついに川崎は、その場にしゃがみ込んでしまう。それでも、一向に涙は止まってくれない。

 

 胸の痛みは衰えてくれなかった。

 

 

 その痛みは、川崎の心を、容赦なく、締め付け続けた。

 




 次回、チビ星人編、クライマックスです。
 
 書き溜めの底が見えてきました。


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こうして、日常を侵略した非日常の戦争は終わる。

チビ星人編、最後の戦いです。


 

 総武高校の屋上。

 昨今の学校事情に漏れず基本的には立ち入り禁止のこの場所に、今、一人の女生徒と、一人の宇宙人が立っている。

 いや、女生徒の方は、ここに辿り着いた時点で乱雑に放り出されぐったりと横たわっているので、屹立しているのは宇宙人――チビ星人のみだが。

 

《……やはり分からない。感じない。……予定通り、この個体を使って奴を誘き寄せるか》

 

 屋上の中央で佇んでいたチビ星人は、そう心中で呟いて、壁際に放り投げていた女生徒――雪ノ下雪乃に向かって歩を進める。

 

 

 その時、ダァン!! と、荒々しく屋上の扉が開け放たれ――いや、蹴破られる。

 

 

《!!》

 

 チビ星人は雪ノ下に伸ばしかけた手を止めて、扉の方に勢いよく首を向ける。

 

 

 だが、そこには壊れた扉があるだけで、誰もいなかった。

 

 

《――な

 

 ドガッッ!!!

 

 そして次の瞬間、チビ星人の顔面が強烈な衝撃によって潰れた。

 

 小柄なチビ星人の体は吹き飛ばされ、屋上の地面に叩きつけられる。

 

 その轟音によって、気絶していた雪ノ下が微かに目を開く。

 だが、度重なる莫大なストレスにより彼女の体はすでに限界で、今も目を薄く開けるので精一杯だった。

 

 ぼやける視界には、何も映らない。

 

 だが、微かに、声が聞こえた。

 

 

――……大丈夫だ。

 

 

 よく聞こえない。だが、確かに、そう聞こえた。

 

 聞き慣れた、安心する声が、そう言葉を紡いだ気がした。

 

 

《……そんなに、大切か》

 

 

 脳内に直接響く音声。

 それは、今の雪ノ下の限界な精神ですら恐怖を感じてしまう程に、彼女の心に深く刻まれた絶望の象徴だった。

 

 だが、その時。再び幻聴が聞こえる。

 

 薄く開いた眼に映る、誰も存在しない視界。

 

 そこに居る誰かからの言葉が、雪ノ下の耳に、幻聴として届く。

 

 

――必ず、助ける。

 

 

 その言葉が、その言葉だけで、雪ノ下の心から恐怖が消え失せる。

 

 再び微睡みの世界に引き込まれる彼女は、心中でこう呟き、意識を完全に手放した。

 

 

 

 

 

――ありがとう。比企谷くん。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「……大丈夫だ」

 

 雪ノ下雪乃を背に守るように、首だけで振り向いてそう呟きながら、透明化を自身に施している比企谷八幡は、チビ星人と対峙する。

 

 今度こそ、完全に決着をつける為に。

 

 今度こそ、目の前の宇宙人を殺す為に。

 

 目の前の敵には透明化が有効なのは前回の戦いで証明済みだが、彼は真っ直ぐこちらを見据えていた。おそらく殴られた時におおよその八幡の居場所に当たりを付けているのだろう。

 

《……そんなに、大切か》

 

 口を拭う仕草をしながら、チビ星人は忌々しげに言う。

 

 対して八幡は、チビ星人の言葉を受けて、自身に言い聞かせるような言葉を返す。

 

「必ず、助ける」

 

 

――今度こそ、絶対に。

 

 

『八幡。……雪乃ちゃんのこと、お願いね』

 

 

 ギリッ。

 八幡が歯を喰いしばったのを合図とするように、チビ星人が八幡に向かって突撃する。

 己の直感のみを頼りにしているにも関わらず、チビ星人は一切の躊躇なく、見えない八幡に向かって真っすぐ突っ込んできた。

 

 その丸太のような拳を、先程の意趣返しのごとく八幡の顔面目がけて振るう。

 

 それを八幡は右手一本で受け止めた。

 

 ズザザザッと左足を後ろに引くことで八幡は受けきり、そして――

 

《――ぬぁ!!》

 

 右手でチビ星人の腕を掴んだまま思い切り左肘を振り下ろし、チビ星人の右肘を粉砕する。

 

《……くっ!》

 

 チビ星人は右腕を垂直方向に振り下ろす形で振りほどき、そのまま後方に跳んで距離を取る。

 

 そして、そのまま顔を上げる。

 

《――――ッ!?》

 

 だが、八幡の影も形もなかった。

 

 いや、元々八幡は透明化していてその姿は見えなかった。さっきのも言ってしまえばまぐれ当たりに近かった。

 

 しかし、今はもう当たりすらつけられない。声どころか、気配すら――殺気すら感じない。

 いくら姿を見えなくなるように出来るからと言って、ここまで完璧に“消える”ことなど出来るのか?

 奴は本当にまだここにいるのか――とまで考えて、チビ星人は奴が何度も躍起になって助けようとした女は、まだそこにいる。……なら奴はまだここにいるはずだと思い直す。

 

 そうしてチビ星人は、じりじりと頻りに体の向きを変え、腰を落とし、周囲に細かく視線を動かし、注意を払う。少しでも奴の気配を見逃さないと、感覚を限界まで鋭敏に高める。

 

 

 その時、チビ星人の視界の右端に、光線が走った。

 

 

《!!》

 

 すぐに首を向けると、それは、昨夜の戦いの最後に自身を襲い、敗北一歩手前まで追い込んだ光の網――Yガンの捕獲ネットだった。

 

《何度も同じ手にかかるか馬鹿め!!》

 

 チビ星人はそのネットに向かって駆け出し、激突の瞬間、身を屈むように腰を折り、小さな体を更に小さくして、ネットと屋上の地面の間を潜り抜ける。

 

 そして、勢いを全く殺さず、更にその勢いを増して、そのままネットの射出源に向かって突攻する。

 

 あのネットには追尾機能がある。ならば、それに捕まる前に射手の懐に潜り込む。

 そう考えて、ネットの軌跡を一直線上を駆け抜け、その道中のどこに八幡がいてもいいように自身の体を弾丸にみたてて全力で駆け抜ける。奇しくもそれは、八幡が昨夜の戦いで自身に食らわせた捨て身の体当たりのようだった。

 

――が

 

《――な》

 

 その道中、突如自身の腕を掴まれる感覚。

 

 

 そして、そのまま引っ張られるように前方に勢いを後押しされ、グイッと――――屋上の外、空中に投げ出される。

 

 

 困惑に目を見開くチビ星人の目線の先に、自分が先程まで駆け抜けていた屋上に、バチバチバチバチという火花のような音と共に、一人の男が出現する。

 

 彼は――比企谷八幡は、重力に負け、為す術なく落下するチビ星人のボスを、その腐った双眸で、氷のような冷たい眼差しを向けながら、冷酷に見下ろしていた。

 

 

――右手に持った、Xガンを向けながら。

 

 

「……じゃあな」

 

《貴様ぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!》

 

 ギュイーン と乾いた冬空にXガンの射撃音が無慈悲に響く。

 

 チビ星人の、怨念の篭った断末魔をかき消しながら。

 

 数秒後。

 総武高校の、警察官が密集する中庭に、汚い花火が炸裂した。

 

 ボトボトとチビ星人の肉片が(ひょう)のように降り注ぎ、一挙に大パニックとなる。

 一斉に彼らの目は上空に向くが、すでに八幡はその時には透明化を再構築していて、チビ星人の絶命を確認し次第下を見下ろすのを止めて、壁際で意識を失っている雪ノ下の元に向かった。

 

 すぐにこのまま警官達が屋上に殺到するだろう。このままにしておくわけにはいかない。

 

 八幡は雪ノ下を抱きかかえ、透明化を解除しながら屋上を後にする。

 

 

 

 こうして、八幡とチビ星人の戦争は、八幡がチビ星人を殺し尽くしたことで、幕を閉じた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 俺は雪ノ下を抱えて、奉仕部の部室に来ていた。

 当然ながら、誰もいない。鍵はガンツスーツの力で強引にぶっ壊した。……後で、平塚先生に対する言い訳を考えておかないと。

 

 そのまま外に出ることも考えたけれど、万が一にもガンツスーツを着ていることに気づかれたくなかったし、雪ノ下はあのJ組の唯一の生き残りだ。しばらく警察に事情聴取とかで拘束されることになるだろう。俺も、事件が起こった後に校舎に突っ込んで行ったところをなんとか先生に見られてるし、同じように事情聴取か最低でも説教等は確実に待っているだろう。念のために、スーツを着替える時間が欲しかった。

 

 俺は眠っている雪ノ下を長机の上に寝かせて、高く積み上がった机の山の後ろでスーツを脱ぐ。……意識を失っている超絶美人の同級生と、密室で二人きりで全裸になる目の腐った男。……まずい。完全に110番な画だ。すぐそこに警察官のみなさんがウロウロしているという状況が恐怖に拍車をかける。一刻も早く着替えねば。

 

 そんな焦りが功を奏したのか、数分もかからず着替え終えた俺は、雪ノ下の元に戻る。

 雪ノ下はまだ目が覚めてはいないが、涙の跡以外は変わった様子はない。おそらくは無事だ。

 ……肉体面は、だが。

 

 ……とにかく、雪ノ下を外に運ぼう。いずれここにも警察官が見回りにくる。見つかると言い訳が面倒くさい。

 

 さっきと同じように膝と背中に手を回し、抱きかかえる。スーツを脱いだので、先程までのように軽々とはいかないが、それでも雪ノ下は軽かった。

 

 軽かった。そして、小さかった。俺なんかの腕の中に収まるくらい、華奢な少女だった。

 

 俺は、こんな儚い少女に、いったいどれほど酷な虚像と、身勝手な幻想を押し付けてきたのだろう。

 

 雪ノ下は、雪ノ下雪乃は、こんなにも――

 

「……ん」

「――ッ!! 雪ノ下? 雪ノ下、気が付いたか!?」

 

 俺は覗き込むようにして、腕の中の雪ノ下に呼びかける。

 

「――ひ、きがや、くん?」

「ああ、俺だ。雪ノ下、もうだいじょ――」

「比企谷くん!!」

「おわっ」

 

 徐々に覚醒した雪ノ下は、突然俺の首に腕を回し、その体を押し付けてきた。

 初めはテンパったが、その体からおそらくはJ組の事件の時に染み込んだであろう血の匂いが漂い、俺の頭は急速に冷える。

 

「比企谷くん……比企谷くん! 比企谷くん!! 比企谷くん!!!」

 

 雪ノ下の腕の力がどんどん強くなってくる。

 それと反比例するように、雪ノ下の俺の名を呼ぶ声が、どんどん嗚咽交じりの涙声になっていく。

 

 ……雪ノ下が体験した恐怖が、どれほど雪ノ下の心を追い込んだかが、文字通り痛いほど伝わってきた。

 俺は思わず、雪ノ下を抱きかかえる力を強く――

 

 

「――ああ、比企谷くん。比企谷くん比企谷くん比企谷くん。あなたはいつでも私を守ってくれる。私を救ってくれる。私を助けてくれる。……ありがとう。ありがとうありがとうありがとう」

 

 

 ピクっ と俺の腕の動きが止まった。

 ……なんだ、今のは。今のは、雪ノ下が発した言葉なのか?

 

 背筋に、ひやりとしたものが垂れる。

 

 俺の嫌な予感を余所に、雪ノ下の言葉は止まらなかった。

 震える声で、涙声で、弱弱しく、けれど必死に。必死に。必死に。必死に。

 

「比企谷くん。お願い。ずっと私の傍にいて。私を見てくれなくていい。私を求めてくれなくていい。それでもお願い。あなたの傍にいさせて。それでいいから。それだけでいいから。……私はもう、一人では生きていけない。あなた無しでは生きていけない」

 

 やめろ。やめてくれ。

 ダメだ。ふざけるな。

 こんなことはあってはならない。そんなことがあってはならない。

 

 雪ノ下は。雪ノ下が。雪ノ下――

 

 

「――こわいの」

 

 

 雪ノ下の爪が、俺の首筋に食い込む。

 絶対に、逃がさないというように。

 お願いだから、離さないでというように。

 

 そんな行為とは裏腹に、雪ノ下の体と声はガタガタと震え、その瞳を潤わせていた。

 

「こわいのこわいの! あっちもこっちも血だらけで!! みんなみんな殺されて! いなくなって!! それでも私は……何も出来ない……っ。こわくて何も出来ない。私は、一人じゃ、何も出来ないッ!! もうあんな思いは嫌!! お願い比企谷くん!! 私を守って!! 私を見捨てないで!! 私を救って!!」

 

 

「私を――助けてよぉ!!」

 

 

 雪ノ下は、涙を流しながら、子供のように、俺に縋った。

 

 あの雪ノ下雪乃が、比企谷八幡に。

 

 俺のような、暗く、昏い、腐りきった瞳で。

 

 悪夢のような、冗談だった。

 

 けれど、間違いなく現実だった。

 

 雪ノ下雪乃は、壊れてしまった。

 

 もう雪ノ下は、本人の言う通り、一人では立っていることも出来ないだろう。

 

 あの孤高で、正しく、どんな場面でも決して屈さず、堂々と立ち向かっていた、あの美しい雪ノ下雪乃を。

 

 他でもない、この俺が、ぶち壊した。ぶち殺した。

 

 

 比企谷八幡が、雪ノ下雪乃を壊したんだ。

 

 

「………………すまない。雪ノ下。…………ごめん。ごめん。陽乃さん」

 

 頼まれたのに。託されたのに。俺は、あの人の、あの女性(ひと)の、今わの際の、最期の願いすら、叶えてみせることが出来なかった……ッ!

 

 俺はこれ以上、こんな雪ノ下を見ていられなくて、顔を俯かせる。

 

 だが、雪ノ下は俺の腕の中にいる。どんなに直視したくなくても、顔を俯かせても、雪ノ下の顔はそこにあった。

 

 雪ノ下は、戸惑ったような顔で、その残酷な一言を口にした。

 

 

「――――陽乃って、誰?」

 

 

 その瞬間、俺の中の何かも、壊れてしまった気がした。

 

 

 何かの破砕音が耳の奥に響き、胸の中にどうしようもなく苦しい空虚感が広がる。

 

 ……なんでだ。なんでこうなる。

 

 どうして、こうなっちまうんだ。

 

「――比企――!?」

 

 俺は、雪ノ下の顔を自分の胸に押し付けるように、強く、強く抱きしめた。

 

「――っ――ぁぁ――」

 

 限界だった。

 涙が溢れるのを、堪えきれなかった。

 

 戸惑う雪ノ下に構わず、俺は声を押し殺して、泣き続けた。

 

 奉仕部の部室。

 かつて俺が何が何でも守りたかった、かけがえのない大切なものだったはずの空間には、もうあの紅茶の香りはしない。

 

 ただ、雪ノ下の体に纏わりついた血の匂いと、俺の見苦しい醜態のみが、その空間を満たしていた。

 

 それが、俺が求め続けた、『本物』になれるかもしれなかった、かけがえのないものの有り様だった。

 

 

 一人の男がぶち壊した、自業自得の末路だった。

 

 

 




 次回、第一部のエピローグです。


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それでも、比企谷八幡は戦い続ける。

これにて、第一部は終了です。

次回は、かっぺ星人編が書き終わってから随時更新していきたいと思うので、毎日更新はこれで途切れます。


 後日談というか、今回のオチ。

 

 全く報われないバッドエンドでも、それでも時間は止まらずに、失ったものも取り戻せずに、どこか狂ってしまったまま、前なんか向けなくても、俯いたままでも、それでも舞台から降りることを許されず、悲劇を演じ続けなければならないんだという、世界の残酷さを再実感させられる後語り。

 

 俺という――比企谷八幡という罪人のやらかした行いが、どれほどの悲しみを生み出したのかを突きつけられる、断罪のエピローグ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 もうすぐ冬休みという穏やかで平和だった総武高校を襲った大事件は、同校に通う男子生徒による大量殺人事件という形で報道された。犯人はその場で死亡したということも。

 

 未成年ということで名は放送されなかったが、この学校の奴等の見解は大岡のことだろうと暗黙の了解で一致していた。

 

 つまり俺は、大岡が死んでしまう――殺されてしまう原因を作っただけでなく、大量殺人犯という汚名も押し付けたわけだ。

 大岡だけではない。殺されたJ組の親御さんや友人達のやり場のない怒りや無念さは、亡き彼や、そして彼の家族にも大きな影響を及ぼすだろう。今の時代、テレビが幾ら情報を規制しても、ネットですぐさま拡散してしまうものだ。ただでさえ、今回の事件ではアイツが大岡に擬態した姿でJ組を惨殺したのは事実なのだ。信憑性も高く、広がるのは時間の問題だろう。……その時に、彼の家族がどういった扱いを受けるか、想像に難くない。

 

 チビ星人をあの姿で――元の姿で目撃した者も多かったが、テレビは――というよりもっと大きく“上”な何かは――アレをなかったことにしたいようで、まるで触れていなかった。警察もそのことについては黙秘を貫いている。

 

 実際に目撃した生徒達は、数日は面白おかしく噂話をしていたが、なぜかその際に野次馬が残した記録映像は軒並み破壊されていて、そうなるとただでさえ現実離れしていたあの光景に対する自身の記憶の正しさに自信がなくなったのか、徐々に誰もその話をしなくなった。

 川崎も、俺に何も聞いてこない。

 

 いや、聞くに聞けないというのもあるだろう。

 

 なぜなら学校にいる間、俺の近くには常に、雪ノ下雪乃がいるのだから。

 

 

 

 J組で唯一生き残った雪ノ下は、本人の強い希望もあって、2年F組に編入した。

 そして、これまた本人の強い希望があって、席も俺の隣である。

 

 F組への編入はともかく席順まで指定するのは教師には訝しく思われたけれど、特に問題なく雪ノ下の我儘は通った。あれだけの事件の後ということもあって、彼女に下手な対応をして問題になるのを恐れているのだろう。

 

 だが、周りのクラスメイト達の好奇の視線はどうしようもない。初めはクスクスと、ボソボソと周囲の人間と小声で碌でもない会話をしながら、こちらに向かって嘲笑するような視線を送る者や、俺に嫉妬の目を向けてくる男子、面白おかしく尾ひれをつけてくだらない下卑た噂を流して愉しんでいる奴らもいたようだ。

 

 

 しかし、その内彼らも気づいたのだろう。

 

 今の雪ノ下雪乃の、どうしようもない歪さに。

 

 

 彼女はまさしく四六時中、俺の傍を離れなかった。俺がトイレに行った時は男子トイレの前までついてくる徹底ぶりだ。

 

 徐々に彼ら彼女らが俺と雪ノ下に向ける目が、気味の悪いものを見る目になるのに、そう時間はかからなかった。

 

 まるで孤島のようにぽっかりと俺達の周りに人はいなくなったが、雪ノ下はそんなことにまるで構わずに俺にへばりつくように近くから離れようとしない。

 本当に嬉しそうに、俺に笑顔を向けながら話しかけてくる。俺はそれに合わせるだけだ。

 

「ヒキオ」

 

 そんな時、三浦が俺に話しかけてきた。

 その横には海老名さん、その後ろには川崎と戸塚がいた。

 

「どうかしたの、三浦さん?」

 

 雪ノ下は小首を傾げて、俺の名を呼んだ三浦に問う。

 雪ノ下は別に俺に独占欲を抱いているわけではない。本人があの日言っていたように、ただ俺という存在に依存し、精神を安定できればそれでいいのだ。だから俺に話しかける女子に病的に嫉妬するわけでもない。ただ、俺の傍を離れないだけだ。

 故に、この時の雪ノ下の言葉にはまるで毒も鋭さもなかった。あの雪ノ下が、三浦に放つ言葉なのに。

 

 三浦は一瞬雪ノ下に目線を向け、悲痛に表情を歪めながらも、それでもその言葉を無視する形で、俺に向かってもう一度「……ヒキオ」と言い、眉を顰めたまま不機嫌そうに、こう告げた。

 

「――今日、放課後暇?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 今回の事件の被害者は、何もJ組の生徒たちだけではない。

 死亡者は彼ら、警察官の人達、そして大岡だけだが、重傷者は他にもいる。

 

 いまだに入院しているのは右手の指の骨がグチャグチャに砕けた戸部と、そして――

 

 

 6台のベッドが左右に3台ずつ2列に配置されている6人用の大部屋の、右側の列の窓際のベッド。

 そこに、可愛らしい薄いピンクのパジャマを着て上半身を起こし、こちらに向かって微笑む少女がいた。

 

「――ヒッキー。ゆきのん。来てくれたんだ」

「……当たり前だろ」

 

 そう言うと、由比ヶ浜結衣は、儚げに微笑んだ。

 

 

 

 

 

「結衣の背中の傷は、残るんだって。……お医者さんに、完全に傷跡を消すのは、不可能だって言われたらしいんだ」

 

 ある程度当たり障りのない会話をした後、俺は海老名さんと三浦に病室の外に出るように促され、雪ノ下を病室に残して、大人しくそれに従った。

 ビクッと震え、不安げな眼差しで雪ノ下は俺に縋っていたが、由比ヶ浜が雪ノ下に――

 

「実は、ちょっと汗掻いちゃって、清拭したいの。だから、ヒッキーには少し席をはずしてもらいたいな。……ゆきのん、手伝ってくれないかな?」

 

 と言って、手を握って安心させるように微笑むと、雪ノ下はゆっくりと俯くように頷いた。

 

 そして、その階の待合室のソファーに腰を掛けた途端、海老名さんはこう切り出したのだ。

 

 

 

 

 

「……ゆ、由比ヶ浜さん。これって――」

「……うん。残っちゃう、らしいんだ。……でも! 生きてるだけで万々歳だよね!」

 

 そう言って由比ヶ浜は明るい声を出して快活に振る舞う。

 だが雪ノ下は、目の前でナースがガーゼと包帯を外し傷薬を塗っている、由比ヶ浜の背中に刻まれた目を逸らしたくなるような傷口を見て、絶句していた。

 

 左肩から右脇腹に向かって走っている、その刀で切られたかのような裂傷は、あの時、チビ星人に投げ捨てられた時の傷痕だった。

 

 ものすごい勢いで投擲された由比ヶ浜は、運がよかったのだろう、そのままグラウンドと校舎を隔てる網フェンスに叩きつけられた。

 当然、とんでもない衝撃が由比ヶ浜の体を襲ったが、それでも致命傷は逃れた。

 だが、これは運が悪かったのだろう、そこに飛び出ている金網の先端があった。

 それは落下する由比ヶ浜の背中を切り裂き、由比ヶ浜の体に、17歳の女の子の体に、一生消えることのない傷痕を残してしまったのだ。

 

 

 

 

 

 パァン! と、三浦は瞳一杯の涙を溜めて、俺の右頬を全力で引っ叩いた。

 

 そして、そのまま俺の胸倉を掴んで、血走った目で、俺を睨みながら吠える。

 

「あんたが!! あんたがあの時、わけわかんない行動して結衣を追い詰めなければ!! 結衣があんなに必死になって化け物に向かっていくこともなかった!! なんで!? なんで結衣がこんな目に!!」

「ちょっと! ここは病院ですよ!」「お静かに願います!」

 

 ナースステーションのすぐ傍だった為か、すぐにナースが飛び出してきて、三浦と俺を引き離した。

 

 三浦は獣のように呻りながら、涙目で俺を睨みつけ続ける。

 

 だが、もう暴れる気はないようで、すぐにナースの人たちから解放されて、海老名さんがナースの人たちに頭を下げる。

 

 俺は、一切抵抗せず、一切何も発さず、為す術なく、ただ突っ立っていた。

 

 

 

 

 

 清拭を終えて服を着替え直し、帰っていくナースにお礼を告げる由比ヶ浜に、雪ノ下は泣きながら抱き着く。

 

「ちょ、ゆきのん!?」

「ごめんなさい!! ごめんなさい、由比ヶ浜さん!! ごめんなさいっ!!」

 

 幸い、由比ヶ浜と同室なのは、対角線上のベッドにお年寄りが一人だけで、比較的軽症のこのお祖母ちゃんはこの時間はリハビリ代わりの散歩に行っているので、この時病室には雪ノ下と由比ヶ浜の二人だけだったが、それでも病院なことには変わりないので、大声で泣く雪ノ下を宥めるように、由比ヶ浜は優しく抱きしめる。

 

「いいんだよ、ゆきのん」

「でも! 私を助けようとして、由比ヶ浜さんは――」

「いいの。ゆきのんは全然悪くない。……私こそ、ごめんね。守ってあげられなくて」

 

 由比ヶ浜は、雪ノ下に向かって、慈しむような微笑みと共に言った。

 

「ゆきのんが無事で、本当によかった」

 

 雪ノ下は、そんな由比ヶ浜の笑みを見て、再び強く強く抱き着き、母親に縋る子供のように泣き喚く。

 

 由比ヶ浜は、そんな雪ノ下の泣き声が響かないように、優しく優しく抱きしめ続けた。

 

 

 

 

 

 ナースの人たちがナースステーションに帰っていく背中を見ながら、海老名さんが俺に背中を向けたまま言った。

 

「――結衣ね、ずっと泣いてた」

 

 その声は、あの修学旅行の京都駅で、去り際に残したあのセリフを想起させるような――冷たいものだった。

 

「そりゃそうだよね、女の子だもん。体に傷が残るなんて言われたらショックだよ。……ヒキタニくんに見られたくないって、ずっと泣いてて……」

 

 俺は今日まで由比ヶ浜の見舞いに来ることを、この二人に禁じられていた。

 それだけのことを俺はしたと思っていたから、甘んじて受け入れていたけれど、その理由がなんとなく分かった。

 

 ……俺は――

 

「――なんで?」

 

 俺が思考の中に逃げるのを許さないといわんばかりに、海老名さんは背を向けたまま鋭い声で告げる。

 

「なんであの時、わたしたちと逃げなかったの? 結衣に雪ノ下さんを押しつけて、何処で何をしてたの?――教えて、くれないかな?」

 

 海老名さんは振り返り、俺の目を見据える。

 

 その目は、先程の獄炎の女王の鬼気迫る睨みにも、勝るとも劣らない迫力だった。

 

 だが、俺は――

 

「――言えない。答えられない」

「ッ!? あんた――」

 

 俺の答えに三浦が激昂しかけるが、海老名さんがそれを制し、そしてこちらに向き直って、言った。

 

「――そっか。もういい」

 

 微笑みと共に言われたその言葉は、突き放すような失望で満ちていた。

 

 俺は何も言い返すことなく、逃げるように待合室を後にする。

 

「――あーしは、アンタのこと、絶対許さないから」

 

 去り際、三浦は俺に、押し殺したような怨嗟の呟きを漏らす。

 

 俺はそれに何も言わない。何も返せない。何かを言う資格など、俺にあるはずもない。

 

 俺が、彼女たちの親友を、由比ヶ浜結衣を傷つけたのは――ずっと、ずっと、傷つけてきたのは、紛うことなき事実だ。

 

 言い逃れなど出来る余地もない、俺の罪科だ。

 

 俺は足を止めることなく、彼女たちから逃げるように、由比ヶ浜の病室へ向かった。

 

 

 

 

「ヒッキー。優美子たちとの話は終わったの?」

「……比企谷くん」

「……ああ」

 

 俺は由比ヶ浜のベッドの横にある椅子に腰かける。

 ……雪ノ下の目が、また腫れている。おそらく、由比ヶ浜の傷のことを知ったんだろう。

 

「……退院は、いつ頃になりそうなんだ?」

 

 俺は、その事には触れない。

 由比ヶ浜も触れて欲しくないだろうし、何より触れるには俺の勇気が足りなかった。

 

 由比ヶ浜結衣は、俺のことを決して責めたりはしないだろう。それが何より辛い。いっそ責めてくれた方が、どれだけ楽か。

 

 ……だが、そんな恰好つけて開き直っても、万が一、由比ヶ浜に責められたら、先程の三浦のように呪われたら、先程の海老名さんのように失望されたら――

 

――その時は俺はきっと、今感じている苦しみの比ではない悲しみを味わうだろう。

 

 俺はそれが、怖いだけなのかもしれない。

 

「――うん。今年の学校は無理そうだけど、来年からはまた普通に通えるよ」

 

 優しい由比ヶ浜は、こんな目に遭わされても優しい。

 

 周りの空気を読むことに長けているコイツが、この状況で俺が三浦と海老名さんに呼び出された理由を、分からないはずがないのに。

 

 由比ヶ浜に消えない傷を残した――そんな許されざる罪を、我が身可愛さに見て見ぬ振りをする卑怯者の俺を、糾弾することなく、何も触れないでいてくれる。

 

 その事が、俺の胸中に再び激痛を齎して。

 

 それでも、かつて嘘だと否定した、彼女のそんな優しさに、どうしようもなく救われていることに。

 

 俺は更に、比企谷八幡を嫌いになった。

 

「そうなの。本当によかったわ」

 

 雪ノ下は悲しそうに、それでも嬉しそうに微笑みながら言う。

 

「私も2年F組に転入になったの。比企谷くんの隣の席なのよ。三学期という短い間だけだけど、一緒のクラスで過ごせるわね」

 

 そう由比ヶ浜に話す雪ノ下の左手は、俺の右手に添えられている。

 

 雪ノ下は、由比ヶ浜の俺に対する想いを知っている。

 あんな三人だけの部活動で、あれだけ露骨な反応をされれば、俺のような疑心暗鬼といっていいレベルの人間不信者でなければ気づくだろう。いや、認めざるを得ないだろう。

 

 そんな雪ノ下が、そんな由比ヶ浜に、自分が俺の隣の席だと言い、尚且つ彼女の前でこれ見よがしに手を添えたりなど、本来は有り得ないだろう。

 

「――そっか。よかったね、ゆきのん。あたしも、新学期が楽しみになってきたよ! 早くゆきのんと一緒のクラスで過ごしたいなぁ。休み時間はいっぱいお喋りしようね!」

「ふふ。……ええ。楽しみね」

 

 由比ヶ浜は、当然、雪ノ下の“状態”を知っている。三浦や海老名さんから前以て聞かされているだろうし、雪ノ下の親友のコイツが、ここまで雪ノ下と言葉を交わして気づかないはずがない。

 

 だからこそ、この雪ノ下が俺に恋愛感情を抱いているわけではないことに気づいている。

 

 これはもっと歪で、台無しで、痛々しい何かだ。

 

 そう理屈では分かっているのだろう。だから、由比ヶ浜は何も言わない。そこには触れない。俺が彼女の傷について触れないように。

 

 それでも、俺のもはや習性ともいっていいレベルの観察力は、時折俺と雪ノ下の手が重なり合っているその部分を、由比ヶ浜が悲しそうに見つめるのに気づいてしまう。

 

 だが俺は、由比ヶ浜にフォローを入れることも、雪ノ下の手を振り払うことも出来ない。

 

 何も、出来ない。

 

 もう、どうしたらいいか分からない。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――それじゃあな、雪ノ下。また明日」

「――あ」

 

 同じ病院の、ここは精神病棟。

 

 あの後、由比ヶ浜と雪ノ下の会話に時折俺が相槌を打つという流れで十分程会話した俺達は、長居するのもあれだろうということで由比ヶ浜の病室を後にした。またすぐに来ると約束して。

 由比ヶ浜は微笑んでいた。その笑みがどのような意味なのかの推察を、俺はしなかった。どっちにしても辛いから。

 

 その足で俺たちはここに向かった。

 

 雪ノ下はあの事件の後、こうして定期的に専門医によるカウンセリングを受けている。

 

 PTSD――心的外傷後ストレス障害。その治療の為だ。

 

 そういった具体的な病名を突きつけられて、俺は改めて、自分の行いがいかに罪深いのかを再認識させられる。

 

 ギュッと彼女の手を握った。

 

「また明日の朝、迎えに行くから」

 

 雪ノ下はしばらく動かなかったが、やがて重々しく頷いた。

 

 そんな偽善的なお決まりのやり取りをこなしながら、もはや顔見知りとなったナースに雪ノ下を預ける。

 

 雪ノ下が診察室に入ったのを確認して、俺は今度こそ病院の外に出る。

 

 その際に、駐車場に停めてある一際目立つリムジンの元に寄って――

 

「――後は、よろしくお願いします」

「――かしこまりました」

 

 そのやり取りを終える。

 運転席の彼は気遣わしげに俺のことを見ていたが、俺はそれに対して気付かないふりをした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 こうして俺はようやく雪ノ下から解放され、一人で家路につく。

 

「――ッッッ!!!」

 

 解放。

 そんな言葉が思わず脳裏に過ぎったことで、全身が沸騰したような激情が体中を駆け巡り、俺は思わず近くの電柱を全力で殴った。

 

 すでに病院から離れ、自転車を取りに学校へと通学路を逆行していたので、近くにいたどこかの学校の女生徒が軽く悲鳴を上げて遠ざかる。

 

 だが俺はそんなものに意識を割くのも億劫になるほど自分自身に怒りを覚えていた。

 

 ふざけるな。

 

 雪ノ下があんな風になったのも、由比ヶ浜があんなにも悲しそうに笑うのも、全部貴様のせいだろうが比企谷八幡。

 

 三浦の怒りも、海老名さんの失望も、全部お前が撒いた種だ。

 戸部の骨折も、大岡の冤罪も、警察官達の殉職も、J組の生徒達の虐殺も、全部お前の責任だ。

 

 中坊の死も、葉山の死も、相模の死も、折本の死も、達海の死も、全部。

 

 陽乃さんが死んだのも、全部。

 

 全部、全部、全部、全部、全部!!!

 

 俺のせいだろ!!! 俺の!! 俺の!!! 俺の!!!!

 

 

「何やってるんですか!!!」

 

 

 再び振りかぶった右腕を、誰かが飛びつくようにして止める。

 

 思わず睨みつける――そこにいたのは、一色いろはだった。

 

 今の俺は、ただでさえ腐った目を濁らせ、血走らせ、さぞかし醜悪で恐ろしい目をしているだろう。

 

 一色はビクッと体を震わせたが、離れようとしない。

 

「……離せ」

「いやです。先輩、手から血が出てるじゃないですか」

 

 見ると、すでに無意識に何度も殴っていたのか、右手からは血がダラダラと流れていた。

 

 俺は一色を振り払うと、そのまま一色に背を向けて学校に向かって歩き出す。

 

「どこに行くんですか」

「学校だ。チャリ置きっぱなしなんでな」

「ならわたしも付き合いますよ。クリスマスイベントも中止になったんで、暇なんです」

 

 そう。クリスマスイベントは、結局中止――というより、総武高と海浜総合での合同企画が中止となり、海浜総合は自校だけで、有志による内輪だけのクリスマスパーティーをするのだそうだ。対してこちらは、今はとてもではないがクリスマスパーティーなどというムードではない。よって、確かに一色は暇なのだろう。

 

 俺のせいで。

 俺はあれだけ頑張っていた一色の生徒会長としての初陣を台無しにしたのだ。

 こんなところにも、俺の罪の被害者がいた。

 

「自転車を取りに行くということは、先輩もこの後は暇なんですよね。なら、わたしの暇潰しに付き合ってください」

 

 一色は俺の右腕にしがみつき、上目遣いであざとく言う。

 そう考えると、俺には一色の要求を呑む義務があるのだろう。

 

 だが、今の俺にその役目が全うできるとは思えない。

 

 今の俺といても、不快な時間しか過ごせないだろうからな。

 しがみついている一色の体が震えているのがいい証拠だ。

 

「……悪いな。今日は無理だ」

「ちょっ、先輩! 先輩!」

 

 俺は一色を振り払う。

 背中から聞こえる一色の声を無視して、そのまま歩みを進める。

 

 胸とか頭とか右手とか色んな所が痛くて、もはやどこがどう痛いのかすらよく分からない。

 

 そして、考えるのを止めて、その痛みを許容したら、少し楽になった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 一色は、右手から血を垂らしながら、遠ざかっていくその背中を見つめていた。

 

 せめて、右手の治療をするように促した方がよかっただろうか。

 でも、今の八幡のあの目を向けられるのは、八幡の人間性をそれなりに理解している一色でもかなり辛かった。

 

 学校で八幡と雪ノ下が孤立しているのは、雪ノ下の普通じゃない様子も要因だが、それ以上にあの日以降より不気味さを増した八幡の瞳も原因だった。

 

 だけど、一色はそれでも八幡を放っておくことが出来なかった。

 

 だって――

 

「……先輩。どうして、あの日から――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――笑ってくれないんですか」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「……ただいま」

「あ、おかえりお兄ちゃん」

 

 俺が家に帰ると、小町が駆け寄ってくる。

 そして、俺に真っ直ぐ目を合わせずに、探るように、気遣うように問いかける。

 

「……お兄ちゃん。結衣さんの様子、どうだった?……それから、ゆき――」

「悪い、小町。今日はちょっと疲れた。部屋で寝るわ。飯が出来たら呼んでくれ」

 

 俺は小町の言葉を遮って、リビングに入ることすらせずに、真っ直ぐに自室に向かう。

 本当に申し訳ないが、今日一日で俺の精神は疲弊しきっていた。これ以上、何も考えたくない。

 

「あ、おにい――ちょ、お兄ちゃん! その右手、大丈夫なの!?」

「ああ。保健室で消毒と包帯はしたからな」

 

 それに、どうせあの部屋に送られる時に元通りだ。

 小町の言葉を適当にあしらい、そのまま足を止めることなく階段を上る。

 

「お兄ちゃん!」

 

 だが、小町が一際強く叫び、それにより俺の足が止まる。

 

 俺が振り返ると、小町は――

 

「――どこにも、行かないよね?」

 

 そう言って、不安げな瞳で俺を見上げる。

 

 ……受験生の妹にこんな顔をさせるまで心配をかけるなんて、兄貴失格だな――今更か。

 

 ゴメンな、小町。今の俺には、それに真っ直ぐ答えてやることは出来そうにない。

 

「……受験勉強、頑張れよ」

 

 俺はそのまま、自室に閉じこもった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 けれど、断罪はまだ終わらない。

 

 俺はまだ、この部屋の呪縛から、逃れることは許されていなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ビィィィンという音と共に、俺は再びこの部屋に送られる。

 

 気が付くと、目の前に無機質な黒い球体が鎮座していた。

 

 黒い球体と、俺しか存在しない、この簡素な2LDK。

 

 俺はもう何も感じずに、ただ体に染みついた動きで、ガンツスーツを着用する。

 そして総武高の制服をそこら辺に放り投げ、その時を待つ。

 

 

あーた~~らし~~いあーさがき~~た~~きぼーのあーさーがー

 

 

 その絶望の時間の始まりを知らせる音楽が鳴り響く。

 

 それを聞くのは、俺だけ。

 

 再び新メンバーは現れなかった。

 

 別にいい。これでいい。

 

 

【てめえ達の命はなくなりました。】

【新しい命をどう使おうと私の勝手です。】

【という理屈なわけだす。】

 

 

 ああ、そうだ、ガンツ。

 俺はお前の玩具だ。好きなだけ遊ぶがいい。

 

 お前はそうやって、俺を使えばいい。俺だけを、使い捨てればいい。

 

 

 ドンッ!!!! と球体が三方向に開き、夥しい数の銃器が出現する。

 

 俺はそこから、もはや使い慣れたといっていい武器を見繕う。

 

 

 俺はこれから、戦争に駆り出される。

 

 何十体という宇宙人と、たった一人で戦い続ける。

 

 

 それでいい。それがいい。

 

 いつも通りだ。もう慣れた。とっくの昔に慣れている。

 

 いつだって一人でやってきた。

 

 掛け替えのない『本物』を求めて、手を伸ばしたこともあった。

 

 だが、結局俺は、その宝物を壊し、傷つけることしか出来なかった。

 

 守ることも、救うことも、助けることも出来ない。

 

 何も得ることは出来ず、代わりに全てを失った。

 

 なら、俺は、一人でいい。

 

 今まで通り、一人がいい。

 勝っても負けても、傷つくのは俺一人がいい。犠牲になるのは、俺一人がいい。

 

 

 だから俺は、今日も、これからも、一人ぼっちで戦い続ける。

 

 

 全身が真っ黒のスーツを身に纏い、両手いっぱいに殺戮の兵器を携えて、俺は戦場に向かい、戦争に身を投じる。

 

 

 いつか、俺が死ぬその日まで、俺はこうして戦い続けるのだろう。

 

 

 願うことなら、このまま、この黒い球体の部屋の新たな住人が増えることなく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一人ぼっちで、死ねますように。

 

+++

 

 

 

 

 

【いってくだちい】

 

 

【1:00:00】ピッ

 

 

 

 

 




 次回は、かっぺ星人編が書き終わってから随時更新していきたいと思うので、毎日更新はこれで途切れます。

 三月中にこちらも更新できるように頑張ります。

 pixivとは違い、このまま第二部もタイトルを変えずにこのシリーズで更新していくので、よろしくお願いします。


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かっぺ星人編 ――続――
未だに比企谷八幡は、黒い球体の部屋で孤独に戦い続ける。


 
 お久しぶりです。三月中と明言したのに、守れずにすいません。

 この第二部から多重クロスとなります。他作品のキャラが新メンバーとして加わります。

 彼らの詳しい設定は活動報告にて紹介しています。更新頻度におけるお知らせもあるのでよかったらご覧ください。


『はちまん』12点

 

 Total 73点

 あと27点でおわり

 

 光沢のある真っ黒な球体の表面に浮かび上がった文字列を一瞥し、俺はすぐに背を向けながら、身に付けていた漆黒の全身スーツを脱ぐ。

 

 ここは別に俺の自室というわけではないが、俺の他にはこの黒い球体の中に裸の男が一人いるだけなので、あっさりと全裸になる。一々恥ずかしがるのも馬鹿らしい。

 

 最近はガンツ――その裸体の男込みでこの黒い球体を俺はそう呼んでいる――も気を遣っているのかのように、俺が着替え終えてるのを待ってこちらの準備が整ったら自宅に転送してくれるので、慌てることなく帰り支度を行える。

 

 この部屋に転送されてきたときの寝間着の黒いスウェットに着替え、ガンツスーツとXガンを持ち、準備完了。

 そのタイミングを狙い澄ましたかのように、ガンツによる転送が始まる。

 俺の体が頭の天辺から徐々に消失していく。

 そんな慣れ親しんだ異次元現象を、俺は目を瞑って気負うことなく受け入れる。

 

 

 そして、次に目を開けると、そこは真っ暗な自室だった。

 時刻は午前二時。まだ後五時間は寝れるな。

 

 俺はそんなことを思いながら、ガンツスーツとXガンを通学鞄の中に突っ込んで、ベッドの上に倒れ込んだ。

 そして手探りで布団を被り、眠る。

 

 

 

 

 

 あのチビ星人との戦いから、約半年が過ぎようとしていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 鮮やかな桃色の花を咲き誇らせていた桜の木がすっかり緑に彩られているのを見て、明日奈はあれから時間が進んでいるのだと改めて感じる。

 

 一緒にいた時間は短かったけれど、それでも胸を張って親友といえる、大好きで、心の底から憧れ、尊敬していた、あの最強の剣士の死から。

 

 誰よりも眩しく、奇跡のように煌めき、数多くの人の心に深く、深くその生き様を刻み付けた、あの少女との別れから。

 

 彼女の桜の花のように儚く、息を呑むほど美しい生涯を思い返していると、明日奈の手を優しく取りながら一人の少年が彼女の隣に立ち、明日奈と同じく新緑の木々を細めた目で眺めながら、少なからずの寂寥が篭った声で呟いた。

 

「すっかり散っちゃったな……」

「…………うん。みんなでお花見してから、まだそんなに経ってないのにね」

『でも、この緑もすっごく綺麗です! ねっ! ママ! パパ!』

 

 自身の右肩に乗る通信プローブからの愛娘の嬉しそうな声に、ママと呼ばれた少女――結城明日奈と、パパと呼ばれた少年――桐ケ谷和人は目を合わせて優しく微笑み合った。

 

 

 

 

 

 いつしか二人にとって定番のデートコースとなった皇居――《東御苑》。

 

 その綺麗な遊歩道を和人と明日奈、そしてユイの親子三人で和やかに談笑しながら散策し、そして少し前――まだ桜の花が完全に散り切っていなかった頃、和人と明日奈、ユイと直葉(リーファ)里香(リズベット)珪子(シリカ)詩乃(シノン)、エギル、クラインといったメンバーで花見を行った芝生で腰を下ろしていた。

 

「……平和、だね」

「……ああ」

 

 あの悲劇のデスゲーム――『ソードアート・オンライン』通称SAOに囚われた二年間の奮闘。

 そしてSAOをクリアした二ヶ月後、依然として囚われの身だったアスナを救出すべく単身で乗り込んだ――『アルヴヘイム・オンライン』通称ALOでの激闘。

 さらにSAOクリアからおよそ一年後、つい半年程前の事、総務省《仮想課》菊岡誠二郎の依頼で飛び込んだ――『ガンゲイル・オンライン』通称GGOでの死銃(デスガン)との死闘。

 

 その間にも様々な出来事があったが、二人は今、間違いなく穏やかな、幸せというべき日常を過ごしている。

 

 和人は柔らかい風を感じながら、ふと空を見上げる。

 ここ皇居は、ある種、現実世界とは隔離された空間だ。

 下はどんな地下鉄も通らず、クローズドネットの構築によって情報的にも遮断されている。

 そして当然、どんな航空機も通過しない上空は、今は雲一つない青空だ。

 

 だが、そんな綺麗な空を眺めていても、和人が思い起こすのは、あの仮想空間の人工的な晴天だった。

 

「……今日は、現実世界でも、最高の気象設定だな」

 

 和人はゴロンと芝生の上に寝転びながら、ポツリとそう呟いた。

 

 明日奈はそんな和人の呟きに一瞬ポカンとしながら、すぐに口元に手をやってクスリと笑う。

 

「そうね。思わずお昼寝したくなっちゃう」

「あの時は驚いたよ。まさかあそこまで熟睡するなんてな」

「もう! あの時は本当に恥ずかしかったんだからね!」

 

 頬を軽く染める明日奈に、肩のユイは『むぅ! 二人だけ分かる話をしてずるいです!』と可愛く文句を言い、そんなユイを明日奈は宥める。

 

 和人はそんな二人を優しげな瞳で眺め、ふと思い返す。

 アインクラッドであのやり取りを行ったのは、およそ今から二年前。

 あの後、圏内事件などがあって大変だったなぁと思いながら、和人は思考の海に潜っていく。

 

 あの時、自分は完全に熟睡してしまったアスナを一日中その傍で見守った。いや、見張っていた。

 なぜなら、圏内といえども睡眠中の指を動かして『睡眠PK』を行えることから、確実に安全な空間とは言えなかったからだ。だから、自身はおよそ三十分のうたた寝ですまし、尚且つ熟睡はせず、索敵スキルの警戒アラームをセットまでしていた。

 

 あの時は、それぐらいの用心は半ば無意識のレベルで行っていた。気を張っているなどという感覚すら麻痺していたし、それが生きる為に当たり前の行動だった。

 

 全ての行動の第一原則は『死なないこと』だった。死なない為の確率を上げ、危険性(リスク)を避け、常に考えながら行動した。

 

(……平和、か)

 

 そう。平和だった。

 今はもう、そんな野生の獣のような習性を身に付けている必要はない。

 普通に人間らしい生活を謳歌すればいい。この幸せを享受すればいい。

 

 もう、戦場の最前線で剣を振るわなくてもいい。

 

 もう、桐ケ谷和人は、『黒の剣士(キリト)』である必要はないのだ。

 

 だが、なぜだろう。

 それは、絶対にいい事のはずなのに。

 

 まさしくそれを求めて戦っていたはずなのに。

 

『黒の剣士』から解放される為に、これまで必死に戦ってきた、はずなのに。

 

 

 前述のGGOでの戦いにおいて、キリトはパートナーとなった狙撃手(スナイパー)――シノンとこんな会話を交わした。

 

 

『……奴は、きっとそこまでしても《レッドプレイヤー》でいたかったんだと思う』

 

『俺の中にもまだ、自分は《剣士》なんだって意識があるから』

 

 

 和人は感触を確かめるように、ギュッと手を握り、その掌を見つめる。

 

(……俺は、まだ――)

 

「――リトくん! キリトくん!」

「!」

 

 和人が思考の海から強制的に引っ張り上げられると、頬を膨らませた明日奈と、その右肩の通信プローブから『……む~』というユイの不満げな声が漏れていた。

 

 和人はその後、恋人と娘の機嫌を直す為、奮闘することとなった。

 

 

 胸の奥の、しこりの様なものに、気づかないふりをしながら。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 目が覚める。時刻は午前七時過ぎ。

 少し体が重い。昨日の夜は久々のガンツミッションだったな。敵自体はねぎ星人と田中星人の間くらいの強さの敵が数体と大したことはなかったが、やはりストレスには変わりない。それでも、体が少し重いくらいで済んでいるのは、順応してきた証拠なのだろう。

 

 あの夜が、ガンツミッションという戦争が、俺の生活の一部になってきたという(あかし)なのだろう。

 

「……起きるか」

 

 そう言葉に出して呟いて、俺は体を起こし、制服に着替える。

 今の俺には登校前に寄る所がある。これもすでに、俺の生活の一部になっている。

 

 制服に着替え、ガンツスーツとXガンが底に入った鞄を持ち、リビングへと向かう。

 

 そこではすでに小町が朝食を作っていた。俺とは違い、まだ寝間着だが。

 

「あ、お兄ちゃん、おはよ~」

「おう」

 

 俺はトースターに食パンを突っ込みながら、小町が淹れてくれたコーヒーを啜る。

 朝は目を覚ます為に少し苦めだ。もちろん砂糖と牛乳と練乳が入っているからブラックではないが。うるせえ、それでも俺にとっては苦めなんだよ。

 

「はい、お兄ちゃん」

「ああ。いつもありがとな」

 

 小町がハムエッグの乗った皿を持ってきてくれる。こんな可愛い妹の手料理で一日のエネルギーを摂取できるなんて、俺は日本一の幸せ者だな。

 

「いいんだよ。今はお兄ちゃんが受験生なんだから。去年やってもらった分、これくらいしないとね。あ、これ小町的にポイント高い♪」

 

 小町は無事合格し、この春から総武高の一年生になった。

 正直、あんな事件があったばかりなので、小町にそれとなく志望校を変えたらどうかと話したのだが、小町は何故か断固として変えようとしなかった。まぁ、あの事件があって総武高の倍率は大きく下がったので、逆に狙い目だったのかは分からんが。

 

 それに俺に小町の進路に五月蠅く口を出す権利などない。小町はああ言ってくれるが、去年は俺にも色々あって、正直受験生だった小町のサポートを言う程出来たとは言い難い。むしろ、小町には色々助けてもらった覚えしかない。ならば、せめて小町本人の意見はなるべく尊重してやるべきだろう。だから俺は、小町の合格を心から祝福した。

 

 惜しむべきは、あの害虫改め川崎大師いや違った川崎大志も合格してしまった所か。しかも小町の中学から総武高に進学したのは小町だけで、知り合いが大志しか居らず、さらに二人は同じクラスだと言う。なんだ、そのうらやまシチュエーションは。あの憎き小僧の舞い上がる姿が目に浮かぶようだ。

 だが、小町本人が満面の笑顔で「お友達だよ!」と死刑宣告をしているのと、あのブラコンサキサキが目を光らせているので、今のところは絶対に許さないリスト略してぜつゆる! の星を増やすだけで勘弁してやろう。☆三つです!

 

 そんな風に大志に対する黒い感情を飲み干すように俺的微糖コーヒーでトーストを流し込んで、ハムエッグを完食。席を立つ。

 

「じゃあ小町。先に行くぞ」

「え? ……あ、そっか。雪乃さんの所か」

 

 小町が少し落ちたトーンでそう言うのを背中で聞きながら、俺は食器を流しに置く。

 

「ああ。悪いが戸締りを頼む」

「あ、お兄ちゃん! たまには小町も――」

「小町」

 

 俺は小町の言葉を遮るように少し強めに声を出す。

 小町がビクッと体を震わせるのを背後に感じ、少し心が痛むが、俺は突き放すように、なるべく優しく言った。

 

「――行ってくる」

 

 小町が何かを言う前に、俺はリビングの扉を後ろ手に閉め、家を出た。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「あ、あやせちゃん! さ、さささ、サインください!」

「……え?」

 

 高校へと向かう朝の通学路。

 その道すがら、新垣あやせは、おそらくは中学生と思われる他校の制服を着た女子学生に突然、生徒手帳を突きつけられた。

 

 まさしく登校時間帯な為、周りを行く学生たちの好奇の視線を集めながら、あやせは、ぷるぷると震えながら真っ赤な顔と涙目で腰を折りながら両手で手帳を突きだす彼女に、思わずため息を吐きそうになってしまう。

 

 だが、そこは必死にプロ意識を自身の内から引っ張り上げ、完璧な営業スマイルでそれを受け取る。

 

「わ、わたしのサインでよければ……」

 

 ぱぁぁと、その少女の顔が光り輝く。

 本来、オフではこういった事務所の許可を得ないファンサービスは控えてくれとマネージャーに言われていたが、ズケズケと失礼な態度をとってくるならまだしも、年下の女の子にあんな顔をされて断ることはさすがに出来なかった。

 

 しかし、それでもなるべく早く済ませようと急いでサインを書いて少女に渡す。

 こういった場面を他のファンに見られてしまうと、次から次へと押し寄せてしまうかもしれない。

 今のあやせにとってそれは、決して自意識過剰の杞憂とは言い切れないものだった。

 

 真っ赤な顔と潤んだ瞳で嬉しそうに生徒手帳を抱きかかえながら何度も何度もぺこぺこと頭を下げる少女と笑顔で別れながら、あやせは伊達メガネだけじゃ足りないのかなぁ……と、今度こそ溜息を吐きながら、気持ち速足でこの春から通う高校へと急いだ。

 

 

 

 

 

 あやせが教室に向かう途中、向かい側から桐乃が歩いてきた。

 

「…………ぁ」

「…………」

 

 あやせを見つけた桐乃は小さく息を漏らすも、あやせはキュッと口を引き締めた。

 

 そして、お互いの距離が近づくと、あやせは口元を緩ませ、優しく声を掛ける。

 

「おはよう、桐乃」

「お、おはよう、あやせ」

 

 ぎこちないながらも、桐乃もあやせに挨拶を返す。

 そして――

 

「それじゃあね」

「っ!?」

 

 そのまま立ち止まることなくすれ違う。

 あやせと桐乃は別クラスの為、あやせは自身のクラスに入ろうとすると――

 

「あ、あのさ、あやせ!」

 

 桐乃は振り返り、再びあやせに声を掛ける。

 あやせも首だけ桐乃に向け「なに?」と問う。

 

 桐乃は目を泳がせながら、探るように言葉を紡ぐ。

 

「……あ、あのさぁ……今日、部活が早く終わるらしいんだ。……そ、それでさ。う、ウチに遊びに来ない? 久しぶりに、あやせと遊びたいし」

「ごめん桐乃」

 

 あやせは眉を下げ苦笑しながら――それでも、有無を言わせない断定の口調で言った。

 

「今日、わたし仕事なんだ」

「……そ、そっか。……最近、頑張ってるね、あやせ」

「……うん。だから、ゴメンね」

 

 そう告げると、あやせは自身の教室に入っていった。

 

「…………ぁ」

 

 桐乃の寂しそうな呟きに、気づかないふりをしながら。

 

 

 

 

 

 窓際の列の前から四番目の自席に座ると、今日は珍しく自分よりも早く登校していた加奈子がすでに自分の席に着いていた。彼女はあやせと同じクラスで前の席なのである。

 グルリと体全体を後ろに向け、椅子の背もたれにグテと凭れながら、加奈子はあやせに言った。

 

「……まぁだ、桐乃と仲直りしてねぇの?」

「……別に、喧嘩してるわけじゃないよ」

「…………なら、まだ許してねぇわけ?」

「…………」

 

 

 中学校の卒業式の日。

 あやせと加奈子は桐乃に校舎裏に呼び出され、事の顛末を聞かされた。

 

 桐乃と京介、二人の、兄妹でありながら恋人という関係は、卒業までの期間限定であったこと。

 

 そして、その期間を終えた今、二人は普通の兄妹に戻ったこと。

 

 桐乃は勢いよく頭を下げて謝った。

 

 だが、あやせは激しく混乱し、胸中に様々な感情が渦巻いた。

 少なからず安堵もした。自分が大好きなこの兄妹が、本格的に道を踏み外すことはなかったということに。

 

 だが、それでも。いや、それ以上に。

 

 

『……何、それ』

 

 

 あやせが俯いたまま発した低い声の呟きに、頭を下げたままだった桐乃も、隣にいて喚いていた加奈子も、目を見開いた。

 

 けれど、あやせは納得できなかった。

 

 必死に、必死に考えた。

 桐乃を止めたかった。彼女の気持ちを受け入れて、それでも受け入れられなくて。

 

 大好きな二人を、誤った道に進ませないために。

 

 それでも、そんなことを抜きにしても、ただ大好きな人の恋人になりたくて。

 

 初めてだった。あんなに、一人の男の人を好きになったのは。

 

 その人は大好きな親友のお兄さんで、とってもシスコンで変態で、でもすっごくお人好しでお節介で優しくて。

 

 

――そんなあなたのことが好きです

 

 

 声が震えそうになった。ドキドキして心臓が張り裂けそうだった。

 

 …………心のどこかでは、断られると分かっていた。

 

 それでも、言わずにはいられなくて。心のどこかでは期待して、縋っていて。

 

 勇気を振り絞った告白だった。

 

 ……それなのに。それなのに。

 

 わたしの、そんな一世一代の告白は。

 

 もしかしたら、この人と一生歩んでいけて、桐乃とも本当の家族になれるかもなんて、夢みたいな夢を描いていた、わたしの初恋は。

 

 

 桐乃との――妹との、期間限定の“恋人ごっこ”に負けたんだ。

 

 

『――――っ!!』

 

 あやせはその日、何も言わずに、桐乃たちに背を向けて逃げ出した。

 

 二人が大声で呼び止めるのが聞こえていたけれど、それでも桐乃と顔を合わせているのが辛かった。

 

 分かっている。

 二人の期間限定の恋人計画は、いろんなことを考えて、苦渋の思いで妥協して、必死に頑張って、色々なものを犠牲にした結果の落としどころなんだってことは。

 

 桐乃が、そして京介が、どれだけ重い覚悟を背負った上で選んだ結末かなんてことは、二人をよく知るあやせには痛いほど理解できる。

 

 それでも。それでも。それでもっ!

 

 納得なんて出来なかった。理解だって本当はしたくもなかった。

 

 

 だって、その決断で、切り捨てられたのは、自分の想いだったんだから。

 

 新垣あやせは、高坂京介に、切り捨てられたんだから。

 

 新垣あやせは、“期間限定”の高坂桐乃に負けたんだから。

 

 

 そして、加奈子の言う通りだった。

 あれから数か月経った今でも、あやせは心のしこりを消せずにいる。

 

「いい加減ふっきれよぉ~。ウチらがフラれた男が、別の女にフラれたってだけのこったろ~」

 

 そう言って加奈子は呆れ顔で言う。

 あやせはそんな加奈子を見て、尋ねた。

 

「……加奈子は、もう何とも思ってないの?」

「別に桐乃がどうこうとか、京介がどうこうとかはどうでもいいね」

 

 そして加奈子は体を起こしながら、不敵に笑う。

 

「あたしは決めたからな――すっげぇアイドルになって、ぜってぇ後悔させてやるって! だから、もし京介(あいつ)が加奈子を振ったことを後悔して、土下座してやっぱり付き合ってくれ~って言って来ても、あたしは思いっきり踏んづけてやる!」

 

 そう快活に言う加奈子は、本当にすでに吹っ切っているようだった。

 彼女の言葉通り、加奈子のここ最近の活躍は目覚ましい。あやせ以上に忙しく、あやせ以上に学校に来ることも稀だ。

 

 そして、その気持ちは少なからずあやせにも分かる。

 あやせが高校に入った後、読者モデルという立場から脱却して、プロのモデルとして事務所と契約し、これまで以上に仕事に熱中しているのも、桐乃と顔を合わせづらく、誘いを断る口実が欲しいからというのが一番の理由だが、それでもまるでないとは言い切ることは出来ない。

 

 もっと、もっと、自分の魅力を磨いて。

 

 自分を振ったことを――切り捨てたことを、後悔させてやろう。見返してやろうという、そんな気持ちが。

 

 だけど、あやせは自身のそれが、加奈子ほど吹っ切れたものだとは思えなかった。

 

 むしろ、それは、まるで――

 

「――っていうか、あやせはさぁ」

 

 そんな胸中を鋭く見抜いたかのように、加奈子はあやせの目を覗き込む様な体勢で問う。

 

 

 

「まだ、京介のこと好きなわけ?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 俺は見るからに高級なタワーマンションに足を踏み入れる。

 初めて来たのは、去年の文化祭の時だったか。この習慣を始めた当初は同級生の女子の一人暮らしの部屋ということも相まって、このエントランスに入る度に緊張してキョドりそうになったものだが、さすがに毎日通っていれば慣れてくる。すれ違う人たちも固定化されて、訝しげな目も向けられなくなってきたしな。この視線に慣れるまではキツかった。心臓がいつもドキドキだったよ。主に通報的な意味で。

 

 そんなことを思いながらベルを押し、待ち人が来るのを待つ。

 

 だが、幸いにしてほとんど待ち時間はない。その人物はいつも待ち侘びたといった感じですぐさま現れるからだ。

 

「お待たせ、比企谷くん」

 

 だから、俺はこの言葉をまさしく、意味通りの言葉としてそのまま言える。

 

「俺も、今来たところだ」

 

 

 

 

 

 そして、二人で並んで登校する。

 手こそ繋がないが、その寄り添うような距離感は周りに誤解しか与えないだろう。

 

 念のために言っておくが、俺と彼女――雪ノ下雪乃は、恋人関係などでは決してない。

 

 彼女は本当に楽しそうに、見る者を虜にする可愛らしい笑顔で俺に擦り寄ってくるが、それと反比例するかのように俺の心は冷え切っていく。

 だが俺はそれを必死に封じ込めて、かつて俺が――俺と彼女が忌み嫌った、欺瞞そのものの作られた笑顔を張り付け応対する。

 

 まるで、彼女が憧れ、俺が愛したあの人の様な、作られた仮面(ペルソナ)を。

 

 あの人の完成された強化外骨格とは似ても似つかないお粗末な代物だが、それでも今の雪ノ下は楽しそうに笑う。それが何よりも痛々しい。

 

 俺が憧れた、あの凛々しくも強く、美しかった少女は、もうどこにもいないのだ。

 

 隣を歩く彼女の、暗く腐った双眸が、その事実を俺に常に突きつける。

 

 その彼女の瞳に映る俺の目も、彼女以上に酷い有様となっているのだろう。

 

 

 

 総武高に近づくにつれて、向けられる視線は好奇によるそれから、畏怖や嫌悪に変わる。

 

 すでに総武高では、俺と雪ノ下の歪んだ関係は知れ渡っているようだ。

 俺は文化祭直後のあの時よりもはるかに全校生徒から嫌われるようになった。いや、嫌われるというより、気味悪がられる、怖がられるといった意味合いが強い。だから誰も俺たちには嫌がらせなどはしてこない。近づきたくもないといった感じらしい。

 

 こうして昇降口へと向かう間も、前を行く生徒がまるで恐れるように道を開ける。モーゼもこんな気分だったのかな。ついに大海原にまで嫌われちまったよ……的な。何それ凹む。

 

 まぁ、どれだけ恐れられようと、どれだけ歪んでいる間違った関係だと言われようが、俺に雪ノ下から離れるという選択肢はない。これは俺が背負うべき業だ。雪ノ下のことを思うのならば、俺は雪ノ下の前から姿を消した方がいいのかもしれないが、それでも俺は決めたんだ。

 

 彼女が俺を望む限り、俺はコイツの傍にいると。

 それが、例えどれだけ歪んだ依存でも。例えどれだけ間違った在り方だとしても。

 

「……ふふ」

「ん? どうした、雪ノ下?」

 

 昇降口で靴を履き変えていると、突然雪ノ下が微笑んだ。

 俺が目を向けると、雪ノ下は優しい笑みを俺に返す。

 

「今更だけれど、同じクラスに向かえるというのが嬉しいの。……こんな未来が来るなんて、思いもしなかったから」

 

 それは、あの事件が起こらなかったら、という仮定(イフ)

 

 その時は――その本来迎えるはずだった未来(いま)では、彼女は3年J組へと進学し、俺とも由比ヶ浜とも別のクラスに進級しただろう。それは文理選択などではどうにもならない壁だ。

 確かにその壁はあの惨劇によって破壊され、今では俺と雪ノ下と由比ヶ浜は同じクラスで一日を過ごしている。

 

 彼女はそれを喜んでいる。

 あの惨劇がもたらしたこの状況を。嬉しそうに微笑みながら。

 

 その結果、犠牲になった多くのものを、見ないふりをして。

 いや、無意識に意識から排除して。

 

「…………」

 

 俺の未熟な仮面に罅が入るのを感じる。

 だが、俺はそれを必死に繋ぎ止める。

 

 あの人に理性の化け物だと評された、ありったけの精神力で堪えきる。

 

 雪ノ下に怒りを覚えるのは筋違いだ。

 彼女をこんな風に壊したのは俺なんだから。

 

 そんな彼女の傍にいると決めたのは俺なんだから。

 

 例え、この先、あのような悲劇が何度でも襲い掛かろうとも。

 

 例え、その結果、ありとあらゆるものを犠牲にしたとしても。

 

 

――八幡。……雪乃ちゃんのこと、お願いね

 

 

「――ああ。そうだな」

 

 そう言って、俺は雪ノ下の頭をポンと撫でる。

 雪ノ下は嬉しそうに目を細める。

 そして俺たちは、同じ教室へと並んで歩きながら向かった。

 

 

 例え、何者であろうと、世界中を敵に回そうと。

 

 俺は、雪ノ下雪乃を守り抜かなければならない。

 

 その結果、守るべき雪ノ下を、粉々に破壊してしまうことになったとしても。

 

 俺はコイツの傍にいて――

 

 

 一人ぼっちで、いなければならない。

 

 

 

 あの人に断罪される、その日まで。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 彼は今日も山を登る。

 そこに彼が毎日通うべき“教室”があるからだ。

 

 偏差値66を誇る進学校――私立椚ヶ岡中学校。

 

 3年E組――椚ヶ岡特別強化クラス。

 

 通称“エンドのE組”。

 

 進学校の勉強(レベル)についていけなかった成績不良者たちが送られる、落ちこぼれたちの隔離施設。

 

 ここに配属が決まった生徒(もの)たちは、すなわちエンド――脱落を意味する。

 

 本校舎から距離にして1km。

 学食もなく、トイレも汚い、山の上に建つ木造の古びた旧校舎。

 

 それが、2年度の3月から、潮田渚の通うべき教室だった。

 

 

 

 教室に入ると、そこにはごく普通の光景が広がっている。

 

「あ、おはよう、渚!」

「おはよう、茅野」

 

 普通のクラスメイト。

 普通の友達。

 

「……さぁて。お前ら席に着け。授業始めるぞぉ」

 

 そして、一人の老人先生(・・・・)が教室に入ってきて、号令を促す。

 

「……起立」

 

 日直の渚が小さく号令をかける。

 バラバラに気だるさを隠そうとしない様子で立ち上がる生徒(クラスメイト)達。

 その覇気を失った瞳はほとんどが教師になど向いていない。そんな普通の光景。

 

 当然、誰も武器を構えたりなどしない。ごく普通の、ありふれた光景。

 

「気をつけ……礼」

 

 そしてこれまらバラバラに発せられる、おはようございますの挨拶。

 

 当然、発砲音などしない。かったるげに、バラバラに席に着く。

 

 教師の方もそれを気にした様子もなく、淡々と機械的に出欠をとっていく。

 

 渚は、そんなクラスを冷めた目で見つめる。

 

 これが、今の渚の――“エンドのE組”の日常。

 

 全員、目の中が、どこか諦めで満ちている。

 

 中学三年生にして、未来に希望というものを失った、落ちこぼれ達の惨めな末路だった。

 

 渚は、そんなクラスから目線を逸らすように教室の外に移して、空を眺める。

 そこには昼間ながら、綺麗な“満月”が覗いていた。

 

 いっそのこと、地球を破壊する超生物でも現れて。

 

 何もかも、破壊してくれればいいのに。

 

 

 

 

 

 キーンコーンカーンコーン。

 終業を告げるチャイムが鳴ると同時に、教室の扉側の列の一番後ろの席に座っていた男子生徒が勢いよく立ち上がった。

 

「……けっ。面倒くせぇ。おい、テメーら。ゲーセン行くぞ」

 

 そう言って荒々しい足取りでお供を連れて寺坂は帰宅する。

 このE組は成績不良者の集まりという名目上、当然ながら部活動は禁止だ。

 

 教室の中では、まだお喋りを楽しむ生徒たちがいるが、渚はそこに混ざるような気分ではなかった。

 

 渚は、そっとその場を後にする。

 

 今日も、代わり映えの無いエンドのE組の一日が終わった。

 

 そして、明日も続く。

 

 変わることなく、終わり続ける。

 

 

 

 昨年度末、渚に一枚の紙が突きつけられた。

 

 それは転級通知という名の、赤紙だった。

 

 そして渚がE組行きだと知れ渡るにつれて、潮が引くかのように、クラスメイトや友達だと思っていた人たちは渚から離れて行った。

 

『渚のやつE組行きだってよ』

『うわ……終わったな、アイツ』

『俺あいつのアドレス消すわぁー』

『同じレベルだと思われたくねーし』

 

 そして、それは教師も同じだった。

 

『お前のお陰で担任(オレ)の評価まで落とされたよ。唯一良いことは――』

 

 

『――もう、お前を見ずに済むことだ』

 

 

 ドンッ。

 俯きながら歩いていた渚は、前を行く通行人にぶつかった。

 

「あ、すいませ――」

 

 謝ろうとした渚だったが、その通行人はまるで気にせず歩き去ってしまう。

 

 まるで、渚など見えていないかのように。

 

「………………」

 

 渚がE組に落ちてから、誰も渚を見なくなった。

 

 期待もされない。警戒もされない。認識さえも、されなくなった。

 

 あの生気の抜けたエンドのE組クラスメイト達も、どこかでは思っている。

 

 どこかで見返さなくちゃ。やれば出来ると、認めさせなきゃ。

 

 親を。友達を。教師たちを。

 

 

 でも、どうやって?

 

 

 落ちこぼれだと断じられた僕たちに。

 

 エンドのE組の僕たちに。

 

 

 この底辺の立場から這い上がれるような、才能(なにか)があるのか?

 

 

 それは勉強? 運動? それともそれ以外の何か?

 

 それはどうやって見つければいいのだろう?

 

 先生たちにすら見放された僕たちに、どうやって?

 

 こんな僕たちを正面から見てくれる、そんな異常な先生が、都合よく現れてくれるわけでもあるまいし。

 

 渚は、再び歩き出しながら、天を仰ぐ。

 

 頭上の月は、まるで欠けることなく満月(けんざい)だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 午前の授業が終わり昼休みとなった途端、俺の前と左斜め前の席の生徒が勢いよく立ち上がり、席の離れた友人の元へと向かう。

 ……まぁ、俺から一刻も早く遠ざかりたいのだろうが、そこまでか。一応、毎日風呂に入っているので、別に悪臭がするというわけではないと思うのだが。それとも俺の腐った目を背中に向けられるのが怖気が走るという話か。思い上るな。俺は基本的に真面目に授業を聞いているので視線はちゃんと黒板を向いている。理系の授業は爆睡だ。よってお前の背中を見る余裕などない。……ま、まぁ。夏服になって、たまに派手なブラ紐が透けているときなどは、ちょっと目線を向けてしまう時もあるが、それはお前が悪い。透けると分かっているのに、そんなのを着けてくるお前が悪い。いえ、俺が悪いですね。ごめんなさい。

 

 俺の席は教室の一番通路側の列の一番後ろだ。なので、基本的に教室の出入りは前方の扉から行われるという不思議な状況を作り出してしまっている。ちなみに、左隣は相変わらず雪ノ下だ。

 

 休み時間の度に某テニス部部長のファントム状態のように俺の周りは人気がなくなる。これは人気(ひとけ)と読む。まぁ、別に人気(にんき)でも意味は変わらないんだけどね。どっちも絶望的にないのは変わらないし。

 いつもは突っ伏して過ごすのだが、さすがに俺も腹は減るので、昼休みは飯を食わなくちゃいかん。

 よって俺も立ち上がり、後ろの扉からマイベストプレイスへと向かう。あの女子達も俺がすぐいなくなるのが分かってんだから、ゆっくりと逃げればいいのに。結局逃げられちゃうのかよ。

 

 そして、俺に続いて雪ノ下も立ち上がる。その手にはしっかりと弁当箱がある。コイツは昼飯時も俺から離れようとしないので、今じゃコイツもマイベストプレイスでぼっち飯である。

 

 ……いや、ぼっち飯じゃなかったな。

 

「それじゃあ、行こっか。ヒッキー。ゆきのん」

 

 その手に弁当箱を持ちながら、鉄壁のファントムの中にやってくる少女。

 

 由比ヶ浜結衣。彼女は、あの事件以前のような、輝く笑顔を俺たちに向けた。

 

「ええ。行きましょうか、由比ヶ浜さん」

 

 雪ノ下も微笑みと共に由比ヶ浜を迎える。

 あの事件以降、全校生徒から忌避されるようになった俺達にも、由比ヶ浜だけは変わらずに、あの事件以前のように接してきた。

 

 普段は俺に気を遣っているのか、それとも三浦たちに気を遣っているのか、あまり積極的に関わってこないが、昼食はこれまで通り雪ノ下と一緒に食べることに拘っている。雪ノ下は俺の傍から離れないので、必然的に三人で食べることになるわけだ。

 

「……じゃあ俺、購買でパン買ってくるから。先に行っててくれ」

 

 そうなると別に奉仕部の部室で食ってもいいんだが、俺としてはあそこにいる時間は最小限にしたい。

 そんな気持ちは口に出さずとも伝わったのか、由比ヶ浜からそのことを提案することはなく、三人でベストプレイスで昼休みを過ごすのが常になっていた。

 

「うん、分かった。行こっか、ゆきのん」

「……ええ。あ、あの、比企谷くん。その――」

「分かってる。すぐに行くさ」

 

 そう言って、ポンと雪ノ下の頭を撫でて、由比ヶ浜と目を合わせる。

 由比ヶ浜は少し悲しげな表情を見せたが、すぐに力強く頷いた。

 

 俺は二人よりも先に教室を出る。

 

 ふとその時。教室の窓際にいる三浦と海老名の姿が見えた。

 二人は禍々しく、俺を睨みつけていた。

 

「…………」

 

 俺はその眼差しから黙って目を逸らし、何も言わずに購買へ向かった。

 

 

 

 雪ノ下の俺への依存は、あの惨劇による圧倒的ストレスにより不安定になった精神の安定が目的だ。

 事件直後は、雪ノ下が寝るまで俺が手を繋いで、雪ノ下が寝付いたら帰宅し、また雪ノ下が起きる前に迎えに行くなんて生活をしていたものだが、前述の通り、今では寝起きくらいは一人で出来るようになった。今でもたまに夜中に電話がかかって呼び出されたりするが、大分マシになったと言っていいだろう。

 

 何が言いたいのかと言えば、精神が安定することが出来れば、傍にいるのは別に俺じゃなくてもいいということだ。まぁ、幸か不幸か(おそらくは圧倒的に不幸なのだろうが)、雪ノ下は俺に対して一番心を開いているようで、俺の傍が最も安心できるようだが、俺の次に由比ヶ浜にもかなり心を開いている。

 

 だから昼飯を調達してくる間くらいは安心して任せられるのだが、今の雪ノ下の相手は、生徒会選挙後の仮面を被っていた雪ノ下の相手をするよりもかなり酷だろう。由比ヶ浜には、償っても償いきれないくらいに、甘え、傷つけ、逃げて、負担をかけてきたのだ。返しても返しきれない程の恩がある。もうなるべく、由比ヶ浜の重荷は減らしてやりたい。

 

 なるべく早く戻ろうと、パンを無事調達した俺は、自販機の前に立ち、マッ缶を購入すべくコインを投入した。

 そこでふと思いつく。

 ……別にこんなもので何かを返せたことになるとは微塵も思わないが、それでもジュースを奢るくらいのことはしても罰は当たらないだろう。

 アイツは何が好きなのだろうか? とりあえず女子力高そうなやつでいいかな? 女子力高い飲み物ってなんだよ。まぁ、オレンジジュースなら嫌いってやつはいないだろう。

 

 ボタンを押そうとすると、横合いから突然手が伸びてきて、俺よりも先に飲み物を購入する。おい、俺の金なんだけど。

 

 ジトっとした目を下手人に向けると、ソイツはビクッと体を震わせながらも、必死に、あざとい笑みを作って、小悪魔っぽく告げた。

 

「先輩は、これですよね?」

 

 そう言った一色が押したボタンはマッ缶だった。……まぁ、確かに俺はこれだな。

 更にコインを投入した俺を見て、一色は顎に人差し指をつけながら首を傾げる。うわぁ、あざとい。リアルでやってるやつ初めてみた。……いや、陽乃さんもよくやってたか。つくづく劣化陽乃さんな奴だ。

 

「あれ? 違いました?」

「……いや。これはアイツ等の分だ」

 

 そう言うと一色は少し表情を曇らせたが、すぐにまた小悪魔っぽい表情に戻る。

 

「あ~。パシられたんですか」

「ちげぇよ……」

「わたしミルクティーがいいです」

「なんでお前のも買わなくちゃいけないんだよ……」

 

 ほら、500円玉入れてたから勢いで押しちまったじゃねぇか。

 がしゃがしゃと4つの缶を取り出すと、ニコニコ顔の一色の頬につめた~いミルクティを押し付ける。「ひゃあ!」というあざとい悲鳴を上げる一色から逃げるように俺はその場を後にしようと歩き出す。

 

 だが、一色は「な、何するんですか!」と少し頬を紅潮させながら俺の横につく。

 あ~。今のは素の悲鳴で恥ずかしかったんだな、と思ったが今はそんな場合じゃない。幸い、ここは人通りの少ない場所だからよかったが、これ以上はダメだ。

 俺は立ち止まり、ジッと一色を見下ろす。

 

「な、なんですか?」

「……一色。分かるだろ。さっさと教室に戻れ」

「……なんですか、それ。……分かりませんよ」

 

 そう言う一色だが、顔は俯いて、露骨に目を逸らす。

 

 今のこの学校に俺と雪ノ下に積極的に話しかけてくるのは、由比ヶ浜だけだ。

 だけど、時折コイツや戸塚や小町、それに材木座なんかも話しかけてくる。川崎も、話しかけてはこないが、表情からして俺たちのことを心配してくれていることは分かる。

 それは本当にありがたい話だ。でも、だからこそ、コイツ等を巻き込むわけにはいかない。

 一色は今じゃあすっかり生徒会長として認められている。そんなコイツが、俺なんかとの関係を邪推されたら、悪影響しか及ぼさない。

 

 それに――

 

「せ、先輩! またあの場所でお昼食べてるんですよね! なら、わたしも――」

「一色」

 

 

「ありがとな。でも無理すんな」

 

 

 ビクッと体が震え、一色は硬直する。

 ……無理もないさ。今の俺の目の不気味さは、あの小町ですら時折怯えるくらいなんだ。

 一色も、そして戸塚も材木座も川崎も、みんな怖いのを我慢して、それでも俺なんかに話かけようと無理して頑張る優しい奴等だ。

 

 でも、こんな俺なんかに、無理して“欺瞞”をする必要なんかない。

 

「…………先輩の、馬鹿」

 

 一色は俯いたまま、小さくそう零して走り去って行った。

 

 俺は、そんな背中が見えなくなるまで見送って、あの二人が待つマイベストプレイスへと向かった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「……あ~。まだ海に来んのはちょっと早かったかな~」

 

 海岸沿いの縁石の上。

 一人の男が横になりながら団扇を扇いでいた。

 

 割りのいいバイトでも探そうとこんなところまでやってきたが、よく考えたらまだ初夏だったので海の家も営業しておらず、どうしようかと思っていたら、ポカポカと天気はよかったので昼寝でもしようとこうしてのんびりと黄昏ているというわけだ。

 

 男はガタイがいい男だった。

 逆立った茶髪に、ポロシャツ、ハーフパンツというラフな格好の上からでも分かる鍛えられた肉体。

 鋭い目つきと右目の上の傷から放たれる迫力は、まさしく肉食獣の虎を彷彿とさせた。

 

 だが、本人はまるで縁側で寛ぐ猫のように、大きく欠伸をしながら穏やかな陽気に身を任せている。

 

 そんな男の元に、二人の男が近づいてきた。

 

 一人は丸いサングラスが特徴のニタニタとした表情の男。

 もう一人は真っ黒のボサボサの長髪を後ろで結んだ表情が乏しい男。

 二人とも寝ている男に負けず劣らずの体格の男たちで、三人ともおそらくは180cmを越えているだろう。

 

 サングラスの男は寝ている男の周囲に転がる“もの”たちを見ながら、呆れたように、面白がるように言う。

 

「いやぁ。またずいぶん派手にやらかしましたね。100メートルくらいこんな有り様が続いているんじゃないんでスか?」

 

 ククっと笑う男が眺める先にいるのは、ここから100メートル程の道路――その道中にまるで敷き詰められているかのように転がる、ボロボロの不良の少年達だった。

 

 その風体はバラバラで、いくつものグループが一挙に押し寄せてきたことを意味している。

 彼らはバイクはもちろん、木刀や鎖、金属バットや釘バットなど、不良が持っている得物は残さず持参して丸腰の男に挑みかかったが、男に傷どころか返り血一つ浴びせることは叶わなかった。

 

「あ~あ。ここらへん一体の目ぼしい族どもは片っ端からのしちまったんじゃないんでスか?去年ここでバイトしてた時はしゃぎ過ぎたからっスよ。こういう奴等は何度やられても懲りねぇんすから」

「……バイト、まだ募集してなかった」

「ククッ! そりゃ、まだ夏じゃねぇっスもん!」

 

 サングラスの男が笑いを噛みしめているのを背中で聞きながら、横になっている虎のような男は大きく溜息を吐く。

 すると、ポツリとボサボサの黒髪の男が残念そうに呟いた。

 

「……焼きそば。奢ってもらおうと思ったのに」

「悪いな、かおる。夏になったら食わせてやるよ」

「雇ってもらえますかねぇ。こんなに大暴れして」

 

 虎のような男は体を起こしながら、海を見てつまらなそうに呟いた。

 

「……なぁ、庄次――どっかに、俺とタメ張れるような奴はいねぇのかな」

 

 その自分達が全幅の信頼を寄せる頼れる大きな、けれど少し寂しそうな背中に、サングラスの男――相沢庄次は、そして黒髪の男――陣野かおるも、何も声をかけることは出来なかった。

 

 目の前の男――東条英虎は、二年生にしてすでに、『天下の不良高校』として悪名高い石矢魔高校の頂点に君臨する男――『石矢魔最強の男』である。

 その自由気儘な性格から石矢魔統一などには興味がなく、バイト三昧で碌に登校すらしていないが、この人間的に“デカい”東条という男に、彼らは惚れた。

 

 だが、自分達ではこの男に“楽しさ”を感じさせることすら出来ない。それぐらい、東条という男はあまりにも“強過ぎる”。

 

 それは、強者と“喧嘩”をすることを何よりの生きがいとするこの男には、耐えがたい“退屈”を齎している。

 

「……帰るか」

 

 そう言って、東条は自分達の横を通り過ぎ、去っていく。

 

 東条にとっては、足元に転がる男たちなど有象無象に過ぎない。

 彼は悪人ではない。

 東条は、誰彼構わず喧嘩を売ったりしないし、その圧倒的な力を振りかざして弱者を甚振ったりしない。

 

 そんなことをするほど、他者に興味も関心もないのだ。

 

 東条が求めるのは、ただ自身に匹敵する強者。そして、その強者との胸が熱くなるような“喧嘩(たたかい)”のみ。

 

 そんな男の生き様に魅せられた二人の男は、その寂しげな大きな背中が去ってくのを、ただ眺めていた。

 

 いつか東条に、彼を熱くさせるような強者との出会いが、訪れるのを願って。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その空間には、優しい紅茶の匂いが満ちている。

 

 俺は薄らとしか頭に入ってこない文字列を眺めながら、背後に聞こえる二人の少女の話声に耳を傾ける。

 

 構成している要素だけを考えれば、今の状態はすっかり元通りの奉仕部といえる。

 

 雪ノ下雪乃。

 由比ヶ浜結衣。

 そして、俺――比企谷八幡。

 

 雪ノ下が淹れてくれた紅茶の香りが、この部室内を優しく満たして。

 

 放課後の静かな時間を、ほとんど来ない依頼者を待つという名目で、三人で穏やかな時間を過ごす。

 

 だが、これはあの『本物』への可能性を秘めていたかけがけのない空間ではない。

 

 かけがえのないものは、失ったらもう手に入らない。

 

 だから、これは違う別物なのだ。

 

 長机の一番端の定位置で読書をする俺、のすぐ隣。

 かつて俺の真向かいに陣取っていた、この奉仕部の(あるじ)は、俺に身を寄せばんとする距離感で、かつての定位置にいる由比ヶ浜と楽しくお喋りをしている。

 

 俺に怒涛の勢いで毒を吐いていた彼女の姿はそこになく、時折少女のような笑顔で俺に話を振ってきて、由比ヶ浜と一緒にそれに対処する。

 

 パッと見は完璧な、綺麗に整いすぎているこの時間。

 かつて、俺が目を背け、逃げ出した、あの生徒会選挙後の奉仕部よりも、はるかに優しく、はるかに歪な奉仕部が、ここにあった。

 

 小町は、自分も奉仕部に入りたいと言ってきたが、俺はそれをかなり激しく拒絶した。

 俺たち三人以外が、この歪さに耐えられるとは思わなかったし。

 

 それに何より――こういっては小町に悪いが――この空間に、この奉仕部に、異物を混ぜたくなかったのだ。

 

 もしかしたら、心のどこかで期待しているのかもしれない。

 

 俺と、雪ノ下と、由比ヶ浜。

 この三人で成立する空間を維持していれば、もしかしたら、いつかまた――

 

 もしそうだとするならば、怒りを通り越して呆れる。

 

 そんなことがありえないのは、誰よりも、その可能性を破壊した俺自身が思い知っているというのに。

 

 俺は本を片手で閉じながら、二人に宣言した。

 

「……今日は、これくらいにするか」

「あ、そうだね。もうこんな時間か」

「そうね。そろそろ帰りましょうか」

 

 いつの間にか、部活を終了させるのは俺の役割になっていた。

 

 こうして色々なことが、少しずつ変わっていくのだろう。

 

 どれだけ今のままを望んでも、同じままではいられない。

 

 

 由比ヶ浜は、いつか俺に愛想を尽かせて去っていくのだろう。

 

 雪ノ下は、いつか俺の呪縛から抜け出し一人で歩んでいくのだろう。

 

 

 そうして俺は、この間違っている穏やかな時間すら失くし、本当の意味で独りぼっちになる時が来る。

 

 

 望むところだ。

 

「じゃあ俺は鍵を平塚先生のとこに返してくるわ」

「それじゃあ、由比ヶ浜さん。また明日」

「うん。じゃあね、ゆきのん、ヒッキー。また明日」

 

 そう言って、俺と雪ノ下は由比ヶ浜と別れる。

 

「……行きましょうか。比企谷くん」

「……ああ」

 

 すでに暗くなり始めている校舎の中で、雪ノ下が俺の手を握る。

 

 俺はそれを振り払わず、そのまま職員室へと歩き出した。

 

 いつか、この手を雪ノ下が必要としない日も来るのだろう。来ることを願う。

 

 雪ノ下も、由比ヶ浜も、俺の元から離れ、自由になるときが、きっと来るはずだ。

 

 その時こそ、このどうしようもない物語(バッドエンド)が、少しはましな結末になれた時なのだろう。

 

 

 ならば、いつか訪れるその日まで、俺は戦い続けなければならない。

 

 

 彼女たちに見捨てられるその日を、俺はいつまでも待っている。

 

 




 第一部を気に入ってくれた方は、この展開に不満を覚える方もいるかもしれません。

 なるべく原作を知らない方も楽しめるように頑張りますので、許していただければ嬉しいです。


 原作を読み返していて、大志が小町と同じ中学ではなく、あくまで塾のお友達であることに気付きました。
 本当に申し訳ございません。今更ですが、修正いたしました。
 読み込みが浅いなぁ……俺。


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ついに新たなる住人が、黒い球体の部屋に誘われる。

今回も少し長いです。


 皇居でのデートの後、和人と明日奈は、段々と暗くなり始めた空の下、手を繋いで、結城家の最寄り駅である宮の坂駅からの歩道を歩いていた。

 ユイは『リーファさんとお約束があるんです!』といい、ALOかもしくは直葉の携帯端末へと移動したのか、明日奈の右肩の通信プローブは、今は何も発さない。

 会話もなく、付近の静けさも相まって、二人の間は少し重い空気で満ちていた。

 

 いつもは桐ケ谷家のある川越からはそれなりに遠いので、和人が送っていくと言っても遠慮しているのだが、今日は少し和人の様子がおかしいことを明日奈もそれとなく察していたので、送ってもらうことにした。

 

 和人は何も言わず、ただ明日奈の手をギュッと握っている。まるで明日奈の存在を確かめるように。自分の居場所はココだと言わんばかりに。

 

 明日奈は、和人の手の温かさを感じる。

 和人が――キリトがGGOでの戦いに赴く前、初めて二人で皇居でデートした時、明日奈は呟いた。

 

――現実世界と仮想世界の違いは何だろう、と。

 

 和人は答えた。

 

――情報量の多寡だけだ、と。

 

 それならば、この手の平の接触だけで、これ程までに相手を感じられる今いるこの世界は、まさしく現実なのだろう。

 明日奈はそう感じる。

 

 和人もそれを感じ、実感したいから、こうして手を繋いでいるのだろうか。

 

 明日奈は、今は亡き、掛け替えのない親友の言葉を思い出す。

 

『あの人も、ボクとは違う意味で、現実じゃないところで生きている感じがするから』

 

 明日奈は、ギュッと更に力を込めて握る。

 和人が驚いたように明日奈を見るが、明日奈はニコッと笑ってそれに応えた。

 

(……ならば、私がそれを伝えたい)

 

 私は今、こうして、ココに居ると。

 

 ここが、あなたの居場所(げんじつ)だと。

 

 目を離すと、すぐにどこか危険な場所へ、自分を置いて一人で行ってしまう。

 

 そんな危うい彼を、ずっと隣に引き留めていたい。

 

 やがて呆気にとられていた和人も、優しく明日奈に微笑み返す。

 

(……そうだ。私、やっぱりキリトくんとずっと一緒にいたい。ずっと隣にいて、ずっと守っていきたい。……彼と、ずっと一緒に――)

 

 

 

 数分後、結城宅の近所の公園の前に着いた時、名残惜しそうに二人は手を離した。

 いつも和人が明日奈を送るときは、ここで別れるのが通例なのだ。

 

「……それじゃあな。また学校で」

「うん。あ、そうだ。お母さんがキリトくんに会いたがってたよ。どうせなら、これから寄ってく?」

「うぇ!? ま、まぁ、確かに一度はアスナの両親に挨拶しないととは思っているけど……あ、そうだ。き、期末試験が終わったら、改めて伺うよ!」

 

 もう、と明日奈は苦笑した後、優しく微笑み、和人に一歩、歩み寄る。

 テンパっていた和人は、その明日奈の挙動から彼女の意図を察して、明日奈の肩に手を乗せ――

 

――軽く、唇を重ね合った。

 

 ゆっくりとお互いの顔が離れ、幸せそうに微笑み合い、明日奈は手を振り、帰っていった。

 

 和人は明日奈の背中が見えなくなるまで見送ると―――背後に向かって、鋭く低い声を放った。

 

 

「いい加減出てこいよ。アンタ、皇居からずっと俺たちを付け回してただろう?」

 

 

 和人はポケットに忍ばせた端末をいつでも発信できるようにしながら、相手が姿を現すのを待つ。

 

「ヒュー。さすがだねぇ、『黒の剣士』。その索敵スキルは現実世界でも健在ってか」

 

 そう言いながら暗がりから姿を現したのは、見たこともない小柄な男だった。

 まだらにメッシュの入った長髪、ジャラジャラとつけた金属チェーンなど特徴の多い男だが、何よりも和人は、その長髪の間から覗く厭な光を放つ細い目を不気味に感じた。

 

「……お前は、誰だ?」

「おいおい寂しいことを言うなよ、キリトさん! オレはアンタのことを忘れた日は一日たりともねぇってのに!」

 

 黒の剣士。

 そしてキリトという“プレイヤーネーム”。

 

 桐ケ谷和人をその二つの呼称で呼び、尚且つこんな不気味な雰囲気を醸し出す男。

 

 和人はその雰囲気から、半年前に戦った《ラフィン・コフィン》の残党――『赤眼のザザ』を思い起こした。

 

 だが、ザザはあの死銃事件で逮捕されたはず――そこまで考えて、和人は死銃(デスガン)の残り一人が未だ逃亡中であることを思い出した。

 

 それが、おそらくはこの男。

 ザザと並んで、殺人レッドギルド《笑う棺桶(ラフィンコフィン)》の幹部だった――

 

「――ジョニー・ブラック……ッ」

 

 和人は思わず背中に手を伸ばす――だが、かつてそこにあったはずの剣は存在せず、滑稽にもその手は空を切った。

 

「ヒャーハッハッハ!! ねぇよ!! お前の背中には、もう剣なんかねぇんだよ!!」

 

 そう。すでに和人は《剣士(キリト)》でもなければ、《黒の剣士(えいゆう)》でもない。

 

「じゃあな、“元”《黒の剣士》ぃい!! テメーの首をとったのは、このジョニー・ブラックだぁ!!」

 

 

 何の力もない、ただの桐ケ谷和人(いっぱんじん)なのだ。

 

 

 プシュ。

 短く鋭い圧搾音が、夜の無人の公園に響く。

 

 

 かつて死銃(デスガン)として人々の命を奪った高圧ガスを利用した注射器が、和人の左肩に押し付けられていた。

 

 和人は呆然とその様をまるで他人事のように眺め、そしてゆっくりと倒れ込んだ。

 

 ジョニー・ブラックは口元に泡のようなものを付着させたまま、大きな高笑いを近隣に撒き散らしながら、フラフラとした足取りで去っていく。

 

 そして、真っ暗な公園には、蹲る和人のみが残された。

 

 徐々に狭くなっていく視界。徐々に遠くなっていく意識。

 

 あのデスゲームに囚われた二年間の、その最後の決闘時。

 あれほど一定量を保つのに必死だったHPバーがゼロになり、己の体が飛散する時に似た感覚が近づいているのを感じる。

 

 そんな、自らの死の瞬間まで、あの空間のことを思い出す己を自嘲しながら、それでもやはり最後に思い出すのは彼女のこと。

 

 あの世界が崩れていく、夕焼けの空間。

 二人の影が重なりあい、溶け合った、あの瞬間。

 燃えるような夕日を浴びて、美しく光輝いていた、あの笑顔。

 

「アスナ、ごめん」

 

 掠れた声で、そう呟いた途端、力尽きたかのように、和人は目を瞑った。

 

 誰もいない無人の公園で、一人の少年が、こうしてその生涯に幕を閉じた。

 

 

 

 

 

 はず、だった。

 

 

 

 

 

 ビィィン! という電子音と共に、少年の体にレーザーのような光が照射される。

 そして徐々に、少年の体が姿を消していく。この空間から。この世界から。

 

 やがて、その光は彼の体を完全に消失させた。

 

 

 

 こうして、桐ケ谷和人は、新たな戦いへと送り込まれる。

 

 

 

 ゲームオーバーが、そのまま現実の死に繋がる、新たなデスゲームの舞台へと。

 

 

 

 黒い球体に、誘われて。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「今日はありがとうございました」

「こちらこそだよ、あやせちゃん。最近、メキメキと上達してきたね」

 

 その日の撮影を終え、カメラマンに挨拶をしにきたあやせに、カメラマンの若い男は絶賛の声を上げる。

 

「そうでしょうか?」

「うん。なんていうか、大人の魅力っていうのかなぁ。高校生になってから……こう……色っぽくなった。うん」

「ふふ。ありがとうございます」

 

 中学生の時の自分だったら、きっとセクハラだって大騒ぎだっただろうなっとあやせは思う。

 だが、さすがはプロのカメラマンといったところか。いやらしい気持ちを感じさせず、相手に不快感を与えない言葉調子を身に付けている。思春期の自分にすらそう思わせ、むしろ少しいい気分にさせてくれる。カメラマンには、そういった技術も必須なのだろう。

 

「なんていうか、憂いある表情? っていうのがグッとくるんだよ。次もこの調子で頼むね!」

 

 そう言ってカメラマンの若い男性は去っていったが、あやせの顔は最後の最後で曇ってしまった。

 憂いある表情。それは別に意図して上達したわけではない。

 

 やはり、男性は苦手だ。

 

 

 

 スタジオの外に出ると、外はもう暗くなり始めていた。

 本当はもっと早く終わる予定だったのだが、学校の放課後から撮影スタートというあやせの都合に合わせてもらったので、あやせは文句を言うつもりはない。むしろ申し訳なく思っているくらいだ。撮影自体は非常にスムーズに終わったのがせめてもの救いか。

 

 ここは東京のスタジオなので、千葉まで電車で帰らなくてはならない。

 さすがに終電を気にするような時間でもないが、この暗さだ。なるべく急いで帰ろうとあやせは駅に向かって歩きだす。

 

 そして、しばらく道なりに進んでいると、突然後ろから声を掛けられた。

 

「あ、あの、新垣あやせさんですよねっ!」

 

 あやせは表情を曇らせる。

 撮影ということで私服に着替えてきたので、今は伊達メガネだけでなく帽子も被っているのだが……と思いながら振り返り、さらに表情を強張らせた。

 

 声を掛けてきたのは、若い男だった。

 

 おそらくは高校生か、もしかしたら大学生か。

 

 あやせはファッション誌のモデルをやっているので若い女性のファンが多いが、やはりその美貌から男性ファンも多い。なので、別におかしなことではない――――が。

 

 それでもあやせは一歩思わず後ずさる。

 男の目が、怪しく血走っているように感じたのだ。

 

「え、ええ。そうです」

「やっぱり! よかったぁ~! この近辺のスタジオで撮影をやってるっていうのは本当だったんですね!」

 

 迷った挙句、あやせはつい肯定してしまった。

 すると男は全身を使って喜び、不穏な言葉を口にした。

 

 今日、あやせがこの近辺のスタジオで仕事があったことは、当然あやせとあやせの事務所、カメラマンらスタッフとスタジオの職員など限られた人間しか知らない。

 

「ど、どうして――」

「あの! 僕、あやせちゃんのだいっっっっっファン!!! なんです!!!」

 

 そう言って男はその血走った目と荒い呼吸のままあやせの手をとり、ズイッと顔を近づける。

 

「すっごく可愛いしすっごく綺麗だしもうマジ天使!! 超エンジェル!! やっぱりC○nC○nの撮影ですか! 僕、毎号買ってます!! でもでも!! そろそろグラビアとかにも行ってもいいと思うんですよね!! あ、別に際どい水着姿が見たいとかじゃないですよ! あ、見たいことは見たいですけど(笑)! でもでも! それは別にやましい気持ちとかじゃないですよ! 純粋にあやせちゃんのこれからのステップアップとして、もっと男のファンを増やしていくにはそういう路線も経験すべきだと思うんです! あ、でもダメだな。やっぱダメだ。そこらの男どもの下卑た欲望の捌け口にあやせちゃんがされるのは耐えられない。あやせちゃんも嫌だよね。ゴメンね、あやせちゃんの気持ちを考えてなかった。もしあやせちゃんにそんな視線を送る奴がいたら僕思い切って殺しちゃうかも(笑)! な~んてね(笑)! 大丈夫だよ、あやせちゃん! あやせちゃんにはそんな嫌な思いなんか絶対にさせないから! 僕がずっとずっとずっとずっとずっとずっと守り続けるからね!」

 

 ストーカー。

 そんな言葉があやせの脳裏を過ぎる。

 前にも一度、あやせはストーカー被害を受けていたことがある。その時の犯人は年下の女の子で、京介の助けもあって、今では無事和解している。

 

 でも、この男は違う。あんな可愛いものじゃない。

 怖い。

 気持ち悪いし、不愉快だけれど、怒りを感じる以前に、ただ圧倒的に怖かった。

 

「ち、近づかないで!!」

 

 思わず掴まれた手を叩き落としてしまう。

 すると、先程まで不気味ながらも笑みを浮かべていた男が、唐突に一切の感情を失くした。

 

 それにより、ますますあやせは途轍もない恐怖を感じる。

 携帯や防犯ブザーにも手が伸ばせない。あの人のセクハラなら簡単にあしらうことが出来たのに。

 

「――――なんで?」

 

 それは本当に純粋に疑問に思っている「なんで?」だった。

 だからこそ、途方もなく恐ろしい。

 

 男はあやせに一歩ずつ近づきながらブツブツと呪文のように唱え続ける。

 あやせも恐怖に押されるように、一歩ずつ後ずさる。

 

「なんで? なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで?? 僕は君を守るんだよ? 僕は君の味方だよ? なんでそんな目で見るのさ? なんで僕を拒絶するのさッ!! 僕は君の味方だ! なら! 君は僕の味方だろ! そうじゃなきゃおかしいじゃないか! いつもいつもいつも僕に天使のような笑顔を向けてくれていたじゃないか! あれは嘘だったのか!!」

 

 徐々に男がヒートアップする。

 それに従い、無表情だった彼の表情も般若の仮面のように険しく、そして悲しげに歪んだ。

 

 

「お前も……僕を切り捨てるのかよ!!」

「――――っ!?」

 

 

 その言葉は、決定的だった。

 

 あやせは背を向けて逃げ出した。

 全力で。あの時のように。

 

「ま、待てよ!! 待てよぉ!!!」

 

 男が追いかけてくる。

 

 それでもあやせは必死に逃げた。

 

 あの男も、きっと誰かに切り捨てられたんだ。わたしのように。

 

 今の自分は、あの男のように歪んだ目をしているのだろうか。縋れる誰かを欲しているのだろうか。

 

 あんなにも、今のわたしは惨めで――哀れなのだろうか。

 

(……違うっ! 違う! 違う! 違う!!)

 

 あやせは無我夢中で走る。

 だが、この辺りのスタジオを使うのは初めてで、来るときもスマホのナビ機能を使って辿り着いたほどに土地勘のない場所だ。

 俯きながら、ただ全力で走り続けたあやせは、気が付くと明らかに人気のない裏路地に迷い込んでしまったことに気づいた。

 

「――ッ!!」

 

 細い路地裏を抜けると、前方には用水路があって行き止まりだった。

 左手は真っ暗で街灯すらない道。右手は壁で行き止まりだ。

 

 あやせは歯噛みする。駅からは更に遠ざかってしまうことになるが、背に腹は代えられない。最悪、駅に辿り着けなくても、誰か人がいるところに辿りつければ。

 そう考えられるくらいには、あやせはようやく冷静になれた。

 

「まてよぉぉおお!!!」

 

 だが、自身が通ってきた路地裏から、男が凄まじい勢いで飛び出してきた。

 

 あやせはすぐにでも走り出そうとしたが、形相を狂気的に歪めていた男の目を見てしまって、恐怖で足が竦む。

 

「きゃぁ!!」

 

 その結果、あやせは転倒する。今日、あやせが履いていたのはヒールだった。ここまで全力で走ってきて転ばなかった方が奇跡といえた。

 

 それでも、あやせは急いで立ち上がり少しでも遠くに逃げようとしたが――

 

「あやせちゃん!!」

「ぐっ!」

 

 男はついにあやせを捉え、その華奢な肩を掴み、あやせを柵へと押しつける。

 

「あやせちゃん……なんで逃げるんだよ……なぁ! なぁ!! なぁ!!!」

「ぐっ……離して!! お願い!! 離して!!」

 

 年上の男の腕力で押さえ付けられ、あやせは身動きが取れない。

 恐怖で身が竦み、走った直後ということもあって頬が紅潮し、涙が浮かんできてしまう。

 

 そんなあやせの姿に、狂気的な瞳をしていた男が、ごくっと唾を呑んだ。

 

 あやせは、男の瞳の色が変わったのを感じる。

 熱に浮かされた男の目が、自分の唇、汗ばんだ首筋、そして胸元へと移動するのを感じ、強烈な嫌悪を感じた。

 

「い、いやぁ!! やめて!! 離して!!」

「お、おい動くな!! おとなしくしろ!! さ、さもないと――」

「お願い助けて!! 誰か!!」

 

 あやせは、一瞬息を呑み、意を決したように叫ぶ。

 

「助けて!! おにい――」

 

 その人の名前は、呼べなかった。

 

 相手を必死に拒絶するように伸ばした手は、逆に自分の体を柵の向こう側へと押しやった。

 

「――え?」

 

 そのまま、あやせの体は落下する。

 都市部を流れる浅い水深の用水路に向かって。

 首筋から後頭部にかけての部分を下にして落ちていく。

 

 あやせはそんな自分を客観視しながら、やけに長い宙を漂う数秒を体感していた。

 

 自分を襲った男は、顔面を蒼白させて、逃げるように退散していった。

 

(……ああ。こんな風に、呆気なく終わるんだ)

 

 新垣あやせは、自分でも思った以上に、あっさりと死を受け入れた。

 

 そして、噂通り駆け巡る走馬灯に、あやせはくすりと笑う。

 

 死ぬ瞬間、最後に思い浮かべるのは誰だろう。

 

 やっぱり桐乃かな? それともお母さん? お父さん?……それとも――

 

 そんなことを考えながら、あやせは涙を弾かせながら目を瞑る。

 

 

 

 

 

 真っ暗にフェードアウトする意識の中、ビィィンという、聞いたこともない電子音が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「……ただいま」

 

 渚は自宅の玄関を開けたと同時に、表情を曇らせる。

 

 そして、ゆっくりと扉を閉めて、靴を脱ぐことなく、ただ俯いた。

 

 そこでは、渚の母――潮田広海が、腕を組み、重々しい形相で渚を見下ろしていた。

 

「……こんな時間まで何をしていたの?」

「……ごめんなさい」

「謝罪ではなく、私は理由を聞いているの? もう一度聞くわ。こんな時間まで何をしていたの?」

 

 渚はじっと耐える。

 放課後に早々に帰宅すべく教室を出たにも関わらず、それでもこんな時間になってしまったのは、一重にこれが原因だ。

 母親と同じ空間で過ごす時間を、少しでも減らしたかったのだ。精神的に少し弱っている今の自分だとかなりきついと考えたから。

 このように、母親の逆鱗に触れることは分かっていたのに。

 

 何も言わない渚に対して痺れを切らせたのか、広海は言い含めるように言う。

 

「……いい、渚。あなたはすでに躓いているの。ここで取り戻せないと、あなたは一生負け犬なのよ」

「…………」

 

 ギュッと、渚は鞄を握る力を強める。

 広海は大きく溜め息を吐き「……ご飯は出来ているわ。着替えてらっしゃい」とリビングへと向かった。

 

 思ったよりも短く済んだことに渚はホッとするが、赤くなった手の平を見て、自分が思っていた以上に強く握っていたのだと気づき、今度は感情を抑える為に細く長く息を吐いた。

 

 

 

 そして、夕飯を食べ終えた後、渚は母に呼ばれた。

 

「渚、おいで。髪を整えてあげるわ」

 

 そう言ってブラシを持って、先程とは違い満面の笑みで渚を呼ぶ広海。

 渚は小さく唇を噛みしめたが、今日はすでに広海の癇に障ってしまっている。あまり刺激しすぎるのはよくない、と「……分かったよ」と大人しく姿見の前に座る。

 

 そして、広海は渚の背後に立ち、渚のツインテールのような髪を解く。

 

 すると、その髪は肩にかかる程の長髪で、その姿は元々の中性的な相貌と小柄な体躯も相まって、まるで女の子のようだった。

 

 広海は陶然とした表情で、その滑らかな髪を手櫛しながら感触を楽しむようにして、熱っぽい呟きを漏らす。

 

「……はあ、すごく綺麗よ、渚。私、ずっと女の子が欲しかったのよ。それで、私が出来なかった女の子らしい長髪とかに憧れていたの」

「…………」

 

 はじまった。渚はギュッと拳を握りしめる。

 母は――広海は、渚に口癖のように言う。

 女の子が欲しかった、と。

 そして、様々なことを強要してくるのだ。

 

 昨今の教育事情では、子供に親の理想を押し付けるケースが非常に多い。

 それらの多くは、親自身が、人生を歩んでいく上で感じた後悔などを、子供に味あわせることがないようにという親心からきている。

 だが、それの多くは親の押し付けに変わり、子供を自分の二の舞にはさせまいという、“自分の”失敗を取り戻そうとすることに、目的がすり替わっていく。

 

 渚の母――広海は、その歪んだ極致といえた。

 

 頬を紅潮させながら、渚の髪を一心不乱にブラッシングする広海を、渚は鏡越しに見る。

 

 その姿は、息子の渚ですら明らかに異常と分かる執念を放っている。もはや殺気だ。

 

 前述の、自身の後悔の払拭を自身の子供を使って代替する代償行為は、ある意味で人生の二周目といえる。

 自身が経験した失敗や後悔を避けて、培ったノウハウを最大限に活用して、もっと上手く人生ゲームを進めていく。

 それは、度を越さなければ、自分と同じ過ちを犯して欲しくないという親心ともいえるが、渚の母――広海は明らかに逸脱していた。

 

 男である渚に女の恰好をさせ、満足感に浸る。

 

 自分が落ちた大学へと進学させ、自分が入れなかった会社へと入社させ、自分が就けなかった職業へと就職させる。

 

 そこに、潮田渚という人間はいない。彼女の息子は存在しない。

 

 広海にとって渚は、自身の二度目の人生のアバターなのだ。

 

 

 自身の母親にすら、潮田渚という人間は認識され(みえ)ていなかった。

 

 

 渚は俯き、歯を食いしばる。

 

 広海はそんな渚の様子に気づかず、ブラッシングを終えて、自身の部屋へと向かい、満面の笑みで真っ白なワンピースを持ってくる。

 

「私はね、ずっとおしゃれもさせてもらえなかったわ。やっぱり女の子は若くて綺麗なうちに可愛い恰好をしたいものよ。それでね、昨日こんな素敵なワンピースを見つけたの。さすがに私じゃ着れないけれど、渚にすっごく似合うと思うわ! 早速、着てみてちょうだ「……いやだ」……い?」

 

 ニコニコ顔でやってきた広海の表情が固まる。

 渚はギュッと手を握り、俯いたまま言った。

 

「……もう、嫌だ。僕は男だよ。そんな服着たくない。そんなの着るなんて……変だよ」

 

 ……ああ。ダメだ。こんなことを言ってはいけない。

 渚は何かが告げる危険信号のようなものを感じながらも、その口を閉じることが出来ない。

 

「……僕にだって、やりたいことがある。意思があって、感情があるんだよ」

 

 渚はそれらの言葉に自分自身で疑問を持つ。

 ……本当に僕にやりたいことがあるのか? これまでずっと母の意のままに生きてきたのに?

 ただ、そんな母に文句を言いたいだけなんじゃないのか。

 

 いつもは冷静に制御できる感情が溢れ出す。

 そして、ついに渚は顔を上げて振り返り、広海に向かって決定的な言葉を放つ。

 

「僕は!! 潮田渚だよ!! 潮田渚でしかない!! 潮田広海(かあさん)二周目(かわり)じゃ「ガァァァァァァァアアアアアアア!!!!」

 

 渚は振り向き様に、広海に飛び掛かられ、首を絞められた。

 

 広海は獣のような雄叫びを上げて渚に襲い掛かる。

 

「クソ!! クソ!! ふざけるな!! ふざけるな!! なによその言い草は!! 私はあんたの為に言ってるの!! 全部あんたの為なのよ!! それがどうして分からないんだよぉぉおお!!」

 

 ああ。やってしまった。

 渚は母の性格をよく知っている。

 彼女は自身が気に食わないことがあったり、自身を否定されたりすると、途端にヒステリックになって暴れ出すのだ。

 彼女が夫と――つまり渚の父と別居しているのも、これが原因だ。

 

 当然、渚はこんな母親の性質を理解していて、これまでは広海のストレスを見極めて上手くコントロールしてきた。だが、今日はそれに失敗したらしい。完全に振り切れてしまっている。

 

 いつもはこうして失敗した時、すぐに謝って収めるのだが、今回は髪ではなく首を絞められているので、言葉を発せない。完全に失敗した。

 

 広海はいまだ豹変し、何事かを喚いている。

 

「大体、勝手にE組に落ちやがって!! 早速、狂った!! 何のためにあんな学費の高い私立に行かせたと思ってるのよ!!! 私のプランは完璧だったのに!! あんたのせいで全部台無しよ!!! 挫折の傷は一生癒えないの!! 生涯苦しめられるのよ!! 母さん(わたし)がそうなの!! 親がこんなに言って聞かせてるのに!! あなたの為に!! なのにッ……アンタッ……何様のつもりよ!!!」

 

 E組。

 エンドのE組。

 

 薄れゆく渚の意識に、その言葉がこびり付くように離れない。

 

 あの山の上の旧校舎に追いやられた僕たちは、そこまでダメな存在なのか。

 

 ここまで拒絶される程、落ちこぼれの存在なのか。

 

(…………違う)

 

 違う。

 渚はクラスメイトたちの顔を思い出し、それは違うと断言できた。

 

 確かに覇気はなく、生気を失っているけれど、それでも一人一人の人間としては、そんな軽々しく切り捨てられていい人たちじゃない。

 

 僕が数か月共に過ごしてきた人たちは、決して落ちこぼれなんかじゃない。

 

 みんな一人一人にいいところがあって、個性があって――――才能があった。

 

 見返さなくちゃ。見返さなくちゃ。見返さなくちゃ。

 

 渚が、真っ暗な視界の中に手を伸ばす。

 

「アンタって人間はね!!! 私が全部造り上げてきたのよ!!!」

 

 その言葉は、渚の胸の中の何かを壊した。

 

 僕の全部は、母さんが――潮田広海が二周目として作り出したもの。

 

 その全てが、潮田広海の――一周目の人生のコンティニュー。強くてニューゲーム。

 

 

 なら、潮田渚(ぼく)は?

 

 

 潮田渚とは誰だ? 潮田渚とは何だ? 潮田渚とはどこにいる?

 

 

 潮田広海の二周目にすらなれなかった潮田渚(ぼく)の――才能(かち)とは、何だ?

 

 

(……僕……は)

 

 渚が何かに向かって伸ばしていた手が――ゆっくりと、力無く落ちる。

 

「…………ぁ」

 

 その状態になってようやく、広海は自分のとった行動を理解した。

 

「……ひ! ひぃぃ!! い、いや! 違う! 違うの!! 違うのっ!!」

 

 そう言って広海はガタガタと震えながら、真っ青な顔で家を飛び出す。

 

 

 だが、その時すでに、渚の体はピクリとも動かなかった。

 

 

 こうして、誰からも認識されなかった少年は、呆気なく孤独に息を引き取った。

 

 

 

 それでも、その誰からも認識されなかった一人の少年を、黒い球体は選んだ(みつけた)

 

 

 

 ビィィンという電子音と共に、眩いレーザーが少年に照射される。

 

 そこに、明確な意思はなかったのかもしれない。

 ただ機械的にランダムに選んだ上の偶然だったのかもしれない。

 

 だが、それでも。

 

 少年には、まさしく“二周目”の人生が用意され。

 

 

 自身の“異常”な“才能”を開花させる、新たな“教室”へと送られた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 東条が地元へと戻った頃、辺りはすっかりと暗くなっていた。

 

 彼は家計を援助する為に、数多くのバイトを掛け持ちしている。

 今日もこの後、深夜の工事現場に出向かなくてはならなかった。

 

 大きく欠伸を噛みしめながら、仕事場へと向かっていると。

 

 

「ぎゃぁぁあああああああ!!!! もう嫌だぁ!! お前と一緒にいると碌なことになんねぇよちくしょうぉぉおおお!!!」

 

 

 ん? と、前方の、確か建設中のビル現場から悲鳴が聞こえた。

 この現場は東条もちょくちょく顔を出していて、この時間はもう誰もいないはずだが。

 

 ふと、中を覗き込むと――

 

 

――数百人単位の集団に、二人の男が囲まれていた。

 

 

 一人は尻餅をつき、涙目で悲鳴を上げている銀髪の男。

 

「……うるせぇぞ、古市。この程度で喚いてんじゃねぇ」

 

 そして、その男の隣に立つように、その少年は自身を囲む数百人単位の不良たちに向かって不敵に笑った。

 

 

「こんな奴等に、俺が負けるとでも思ってんのか?」

 

 

 少年の挑戦的な言葉に、周りの不良たちは一斉に罵声を浴びせるが、ただ一人、外から見ていた東条は面白そうに笑った。

 

「おお言ってくれんじゃねぇか!! この数相手にお前がどこまで出来るか、やってもうらおうじゃへぶらだぁ!!!」

 

 少年に一斉に襲い掛かろうとしていた不良達の集団、その外側にいた連中が、突然吹き飛ばされた。

 

 少年と不良達の視線がそこに集結する。

 

 そのポッカリと開いた穴から、一人の虎のような男が現れた。

 

「おう、悪いな。お前たちの喧嘩の邪魔しちまって」

 

 東条は少年の元に歩み寄る。

 そして、少年を背にするように立ち、不良達に言った。

 

「でもな、ここで働いてる身とすりゃあ、ここで暴れられると困るんだわ。それにな――」

 

 口元を緩ませて、挑戦的に言い放つ。

 

 

「――お前たちじゃあ、何百人束になったところで、コイツには勝てねぇよ」

 

 

 背後の少年も含めて呆気にとられる中、徐々に不良たちが怒り狂い、怒声や罵声を喚き散らす。

 

「……お前」

 

 少年が東条を見上げる。

 東条は不敵に笑いながら、言った。

 

「おう、お前。コイツ等を片付けてから、ちょっくら俺と――」

 

 だがその時、東条が開けた穴に向かって、古市と呼ばれた少年が走り出す。

 

「男鹿!! 悪いが俺は抜けさてもらうぜ! アデュ!!」

 

 その堂々とした逃げっぷりに、少年も東条も不良たちも呆気にとられるが――

 

「おい待て古市!! 俺が用があんのはテメェなんだよ!! よくもこの間は騙してくれたな!! 巨乳美女なんざいなかったじゃねぇか!!」

「俺もテメェだロリ市!! 人の妹に色目が使ってんじゃねぇぞ!!」

「待ってください貴之!! 私、この間あなたが私の中に入ってきた時運命を感じて」

「ぎゃぁぁあああ!! 何故!? なんで俺!? っていうか最後の奴誰だよぉぉぉぉおおおおおお!?」

 

 ぎゃぁぁぁぁぁああああと悲鳴を上げながら疾走する古市に、なぜか集団の三割ほど(+ひげのオッサン一名)が追走する。

 いつの間にか結構な数の敵を作っていた古市に、男鹿と呼ばれた少年は「……なにやってんだ、アイツ」と頭を掻きながら呆れる。

 

「……あ~。なんだ。アイツ、強えのか?」

「……いや。たぶん、負ける」

 

 すると、東条は苦笑しながら「……しゃあねぇな」と言って、男鹿を送り出す。

 

「いってやれ。ここは俺がやっとく」

「……棟梁」

「(棟梁?)……まぁ、いつかまた会う時が来るだろう」

 

 そして、東条は虎のように獰猛な、けれど子供の用に無邪気な笑顔で言う。

 

「そん時は、ケンカ、しようぜ」

 

 男鹿は、それに不敵な笑みで答えると、進行方向の不良を蹴散らしながら、後を追う。

 

「おい! テメー、なに勝手に話進めてんだ!!」

「ちょ、ちょっと不味いっすよアニキ!!」

「暗がりでよく分かんなかったっすけど、アイツ――」

 

 不良たちの下っ端が、リーダー格の男に震えながら伝える。

 

 

「――“石矢魔高校最強の男”、あの東条英虎っすよ!!!」

 

 

 それを理解した時、不良達の動きが止まり、表情が青褪める。

 

 対する東条はゴキゴキと首を鳴らし、一歩ずつ踏みしめるように歩き出す。

 

「……さぁて、やるか」

 

 

 

 勝負は、始まる前からついていた。

 結果として、それから数十分と持たずに不良達は撃砕、あっとう言う間に逃走を開始した。

 

 東条は建設中のビルの根元に腰をかけ、大きく欠伸をかく。

 

 つまらない喧嘩だった。

 だが、それとは別に収穫があった。

 

 あの少年。一目で分かった。アイツは強い。強くなる。

 

 あれは、“同類”だ。楽しい“喧嘩”が出来る相手だ。

 

 まさか、身近にあんな奴がいるとは。

 東条は楽しげに笑う。今度はいつ会えるだろうか。アイツと次に会う時が、今から楽しみでたまらない。

 

「……男鹿、か」

 

 東条が念願の人物の登場に心を震わせていると。

 

 

 ガコン、という音が響き。

 

 

 鉄骨が降り注いだ。

 

 

 

 

 途轍もない金属の落下音と、膨大な土煙。

 

 その連鎖する轟音の中。

 

 

 ビィィンという電子音が、微かに紛れ込んでいた。

 

 

 その後、すぐに消防と警察が駆け付ける。

 

 幸いにも、死傷者は0だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 真っ暗な帰り道。

 雪ノ下を自宅まで送り届ける為、必然的にこんな時間になる。まぁ、いつものことだから小町も承知しているだろう。

 

 季節的にはもうすぐ梅雨ということもあってか、しとしとと鬱陶しい雨が降っている。

 雨は別に好きでも嫌いでもなかったが、今は少し苦手だ。

 

 あの日。俺の人生が終わり、大きく変化して生まれ変わったあの日。

 

 黒い球体に誘われたあの日を、思い出してしまうから。

 

 コンビニで購入した真っ黒の傘の中で、頭を小さく振り、思い出したくもないそれを振り払う。ぼっちは思考する生き物だ。言葉を発さない分、代わりにあれこれどうでもいいことを考えている。だから、何も考えない、無心になるというのは俺にとっては案外難しい。

 

 ならば、別のことで思考スペースを埋めようとすると、最初に浮かび上がったのは、先程、俺と雪ノ下が部室の鍵を返しにいったときのことだ。

 

 俺の横にはぴったりと雪ノ下がいたからだろう。

 いつものように、俺に説教や諫言はくれなかったが、雪ノ下が背を向け、俺が立ち去ろうとしたその瞬間、一言、とても寂しそうな、悲しそうな、哀れむような口調で、平塚先生は言った。

 

 

『――比企谷、お前、それでいいのか?』

 

 

 ぱしゃっ。

 不覚にも、大きめの水たまりを踏み抜いてしまった。靴の中にまでぐしょ濡れで気持ち悪い。

 

 気持ち悪い。

 

 あの人は恩人だが、それでも今回のあの一言は腹が立った。思わず睨みつけ、先生が目に見えて怯えたが、それでも謝ろうとは思わなかった。

 理不尽なのは分かっている。だが、それでも吐き捨てるように心中で叫んだ。

 

 そんなわけがないだろう。

 

 

 

 気が付いたら、自宅へ着いていた。

 家の中の光から、小町はもう帰っているようだ。

 

 俺は家に入ると、ただいまも言わずにそのまま自室へと向かう。どうやら小町は夕飯を作ってくれているようで、後ろから声を掛けられたが、無視するような形になってしまった。後で謝ろう。

 

 そして、そのままベッドに横になる。

 疲れた。もう疲れ切った。

 

 平塚先生に言われるまでもなく分かってる。というより、分からない奴なんていないだろう。

 今の俺達が間違っているなんてことは、誰が見ても分かり切っていることだろう。

 

 だが、それを俺にどうにかしろというのは、買い被りだ。

 俺にはどうでも出来ないから、こんなことになっているんだ。

 

 俺にそういうの、期待すんなよ。

 

 頼むから。

 

「……ちっ。本当に、人の嫌がるタイミングってのを狙い澄ますような奴だ」

 

 まさかの連日とは。

 本当に気まぐれな奴だ。

 

 俺は金縛りが始まる前に、重たい体を起こして、鞄を手に取る。

 

 そして、目を瞑る。

 

 今日もまた、あれが始まる。

 

 悪いな、平塚先生。

 

 今の俺は、自分のことで精いっぱいだよ。

 

 

 本当に。

 

 誰か、助けてくれよ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 目を開けると、そこには黒い球体。もはや第二の自宅といってもいいくらい馴染んでしまった2LDK。今度ラノベとか持ち込んじゃおうかな。

 

 一応、グルリと見渡すが、人はいない。

 

 俺が単独でミッションに挑み続けて、もう半年になる。

 ……ガンツの考えが読めない。まさか俺の願いを聞き届けるような奴でもないし。俺が一人でどこまでやれるのか試しているのか? それとも、ここしばらくは俺一人でも問題ないと考えている? ……確かに、千手やチビ星人以降は、大した敵は現れていないが。

 

 そんなことを考えながら、俺はガンツスーツへ着替え終える。

 

 いつもならこのタイミングであの音が鳴り響くはずだ。

 

 

 

 

 

 ビィィィィィン

 

 

 

 

 

「…………は?」

 

 鳴り響いたのは、あの目覚まし時計のような音ではなく、レーザーの電子音だった。

 

 一挙に4本も黒い球体が発しているそれは、四者四様の人型を形どっていく。

 

 ……ついに、来たのか。この黒い球体の部屋に、新たな住人が。

 

 だか、だとすると、これは。

 ……今から送られるミッションの敵は、俺単独では手に余るということか?

 

 それほどの強敵ということか?

 

 

「……な、なんだ?」

 

「……わた、し?」

 

「……あれ? こ、ここは?」

 

「……ん? なんだ?」

 

 

 俺は、ガンツに向けていた視線を、背後に現れた四人の人間に向ける。

 

 

 コイツ等は、そんな強敵に送りこむに相応しいと、ガンツが判断した人間達ってことか?

 

 

 俺が、新たな戦いへの不安を胸中に抱いているのを尻目に、背後の黒い球体ガンツは変わらず悠然と鎮座していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こうして、俺の願いは再びあっさりと裏切られ、黒い球体の部屋に新たな住人が訪れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、それは、比企谷八幡(おれ)黒い球体(ガンツ)の物語の、新たな幕開けでもあった。

 

 




 ついに、合流。第二部はこの五人がメインになると思います。


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だが、彼は新人達に手を差し伸べない。

説明回。


「……ど、どうなってんだ?」

 

「あ、あれ……私、確か……」

 

「……ここは、どこ?」

 

「ん? なんだ?」

 

 

 この部屋に現れたのは、四人の人間。

 

 一人は黒髪で、全身黒い服の男。女顔だが多分男だ。おそらく歳は14~16ってとこだろうか。

 

 一人は綺麗な服を着たこちらも黒髪のロングヘアの女。年はたぶんさっきの男と同じくらい。凄い美人だ。もしかしたら本当にモデルかもしれない。服もそんな感じのオシャレなものだ。

 

 一人は水色髪の……男? だよな。たぶん女顔の。ってか女顔多いな。四人中三人が美人て。四人中三人男なのに。可愛い男は戸塚だけで十分だ。凄く逸れた。たぶん歳は先の二人よりも少し下。おそらく中学生。かなり小柄だ。

 

 ……んで、最後の一人は……なんだ? とにかくデカい。そして強そう。虎みたい。……なんだよぉ。一人見る限り別格なの来ちゃったよぉ。もうこの人だけでよくね? ボブ○ップとかにも真っ向から戦えそうだよ? 歳? 知らないよそんなの。超怖えよ。あと怖い。

 

 ……そんな分析を瞬時に終えた所で、俺は焦っている。まったく表情を変えずに内心では滅茶苦茶パニくっている。

 今はまだ混乱中のようだが、やがて奴等は俺を質問責めにするだろう。こんな訳が分からない状況で、部屋の中に唯一意味ありげに鎮座する黒い球体の前に、なんだがSFチックな漆黒の全身スーツを纏った人間が立ってるんだ。間違いなく関係者だと判断されるだろう。

 

 ……さて、どうするか。これから俺が取り得る選択肢は二つだ。

 

 一つ。洗いざらい俺が知っている情報を懇切丁寧に説明して、状況を理解させる。

 今までなら、それは葉山がやってきたことだ。だが、今は経験者は俺しかいない。よって、その役目は俺が果たさなければならない。初めは彼らも納得しないだろうし、認めようとしないだろうが、それでも諦めずに説得を続けるのだ。そちらの方がはるかにコイツ等のこの後のミッションの生還率は高いだろう。本来取るべき、正しい選択肢だ。

 

 そして、二つ目。間違った選択肢。それは――

 

「――えっと、すいません。……ここってどこなんですか?」

 

 俺はこの先の行動を思案していると、全身黒服の男が、俺に声を掛けてきた。といってもあくまで上下黒い服というだけで、ガンツスーツのような漆黒でも、某酒の名前のコードネームが与えられる組織みたいな真っ黒でもない。てかあれって絶対目立つよね。本当に秘密組織なのかよって思うわ。

 

 その黒い男の目は、この状況、そして俺に対する困惑と疑念で満ちていて、おっかなびっくり話しかけてきたと言った様子だ。見た所、後ろの女子や少年も同じような目だ。デカい金髪はなんか外の様子を見て「うぉぉ。高ぇ!」とか景色を楽しんでる。この人すごいな。

 

 ……まぁ、予想はしていた展開だ。

 だが、俺は男の目を見たまま、何の言葉も返さない。

 

 俺の腐った目に気圧されたのか少し怯み、しばし俺の言葉を待っていた真っ黒だが、やがて業を煮やしたのか何か言葉を続けようとしたところで――

 

 

 背後から、ビィィィンという甲高い音が響いた。

 

 

「「「!?」」」

「ん?」

「…………」

 

 黒い球体(ガンツ)から新たなレーザーが虚空に放たれる。

 そして、それはこの部屋に新たな住人を召喚していく。

 徐々にレーザーが人を創り出すその光景に、三人は顔を青褪めて驚愕する。デカい人は首を傾げていただけだが。この人色んな意味で規格外だな。

 

 そして、その人間が転送し終わるというタイミングで、俺はそっとステルスヒッキーを発動して黒い奴の視界から逃れる。四人の注目は完全に新たにこの部屋に現れた人物に集まっている。その隙に、俺は廊下へと向かった。

 

 

「……え? ちょっと? ここ何処? ねぇ!? ここドコ!? 私、助かったの!?」

「い、いや、俺も何が何だか?……あ、あれ? あの人は?」

「あ、あの!? また誰か出てきます!」

「え、あ、ど、どうなってるの!?」

 

 再び響く電子音。どうやらガンツは随分張り切って新メンバーをスカウトしているらしい。久々で加減を忘れたのか。

 

 俺は扉をそっと閉め、誰もいない廊下で一人佇む。

 やっぱり一人はいい。うるさいのは嫌いだ。

 

 

――俺が選んだ二つ目の、間違った選択肢。

 

 

 俺は彼らに、何もしない。

 

 説明も、指揮も、助言も、徴兵も、支援も、守護も、救出も、保護も、助力も、援護も、共闘も、何もしない。

 

 ガンツが何人新メンバーを増やそうが、俺はもうスタイルを変えない。

 

 ただ、戦うだけだ。この半年間繰り返してきたように。

 

 一人で戦い、一人で殺して、一人で生き残り、一人で還る。

 

 他のメンバーがどうなろうが、俺には関係ない。

 

 ただ、勝ち、稼ぐ。それだけに全身全霊全力を尽くす。俺はもう、絶対に負けない。

 

 ガンツ。お前が何を企んで、突然新メンバーを大量加入させているかは知らない。いつも通りのただの気まぐれなのかもな。だったら、俺が一々それに付き合う義理はないだろう。お前に振り回されるのはもううんざりだ。

 

 ……もしここで、俺が彼らにこのガンツゲームについて教えたら、その先はどうなる?

 大半の連中は信じないだろう。だが、それでもこれから戦場に送られたら、否応なしに信じなければならなくなる。嫌でも信じるしかなくなる。

 

 そうなった時、どうなるか。

 俺は彼らの矢面に立たざる負えなくなるだろう。無理矢理リーダーにさせられ、事あるごとに助言を煽られ、彼らを引っ張っていかなければならなくなる。

 

 彼らに尽くし、彼らの生死に関する責任を負わなくてはならなくなる。彼らの命を背負わされる。

 

 ふざけるな。やってられるか。

 

 どうして俺が見ず知らずの連中の為にそこまでしなければならない。

 

 それで俺が死んだらどうしてくれるんだ。

 

 仮にそこまでしても、死ぬ奴は死ぬさ。生き残る奴は勝手に生き残るだろう。

 

 俺如きが救える命なんざ限られてる。答えは0だ。経験則として思い知ってる。嫌という程に。だったら初めからそんな無駄な労働はしない。

 

 俺は、俺だけを生かすことに全力を尽くす。

 

 俺は一点でも多く稼いで、一刻も早く生き返らせなければならない人達がいるんだ。

 

 

 

 だから悪いな。

 

 

 俺のせいで死んでくれ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

(……一体、何がどうなってるんだ?)

 

 桐ケ谷和人は、目の前の一切の説明がつかない混沌とした状況に困惑しきっていた。

 

 自分は確かにあの時“死銃”によって殺されたはず。そうでなくても目覚めた先は病院か、もしくはあの公園のはずだ。

 

 ビィィィンと、電子音が鳴り響く。

 再びあの黒い球体からレーザーが発射される。それはみるみる内に人体を形どっていき、この不気味な一室の住人を、また一人増やす。

 

 すでにこの部屋には十人以上の人で溢れている。この部屋も決して狭くはないが、すでに息苦しさを感じる人口密度となっていた。

 

 一体何なんだこの状況は?

 自分達は生きているのか? それとも死んでいるのか?

 

 あまりに非現実的な現象だ。もしかすると、これはどこかのVRMMOの中なのか? 治療の際に意識だけをこの空間に避難させているとか――

 

 また新たに現れた人物が、これまでの人たちと同様に半分パニックの状態で近くの人に詰め寄っている。だが、もちろんその彼にも状況は分かるはずもなく、ただお互い何も分からない不安を両者にぶつけあう結果となり、それぞれの胸倉を掴みあげたところで、第三者からの仲裁が入った。

 

 ここいる全ての人物は、誰一人としてこの不可思議な状況を説明する術を持たなかった。

 

 異次元な方法で見知らぬ人たちが集められるのを、黒い球体以外何もないこの部屋の中で佇み、ただ見ていることしか出来なかった。

 

 思考に耽る和人は、そっと自分と同時にこの部屋に運ばれてきたとされる三人の人物にアイコンタクトを送る。……金髪の大柄な男は欠伸をしていて全然受け取ってもらえなかったが。

 

 だが、水色髪の小柄な少年と長い黒髪のお淑やかな少女には彼のアイコンタクトは届き、二人とも不安げな眼差しで、廊下へと繋がる扉に目を移した。

 

 和人も頷く。この何一つ分からない状況の中で、一人、明らかに自分達とは違う立場にいる人間がいる。

 自分達がここに送られてきたとき、あの黒い球体に対峙し、異質なSFチックの漆黒の全身スーツを纏っていた男。

 

 彼はこうなることを見越していたのだろうか。

 まるで人目を避けるように、この大きな部屋から廊下へと出て行ったきり、一向に戻ってこない。

 

 和人は悩んだ。やはり、あの男から少しでも説明を乞うべきだろうか。

 だが、不安がないわけではない。あの男は、この状況と同じくらい得体がしれない。はっきり言えば怪しいのだ。

 もしかしたら自分達をこんな状況に送り込んだ、こんな訳の分からない事態に巻き込んだ、仕掛け人側の人間かもしれない。見るからに、この部屋にどんどん人を連れ込んでいるあの黒い球体のことを、何か知っていそうな雰囲気だった。そうなると、下手に接触するのは危険かもしれない。当然、自衛手段、そしてこちらを問答無用で従わせる手段を用意しているだろう。

 

 それに、何より、あの目。どんよりと、真っ黒よりも更に不気味に腐り切っていた、あの瞳。

 あの瞳にじっと覗きこまれた時、和人はぞっとした恐怖を感じた。あんな瞳をした人間を、自分は見たことがない。

 

(……いや、SAO時代のあの時期は、俺もあんな感じだったかもな)

 

 どん底まで追い込まれ、果てしなく深い絶望に沈んでいる時の瞳。

 あのデスゲームに囚われた時、幾度かそういった精神状態に追い込まれた時があった。

 

 あの男は、あの時の自分以上に深い絶望を抱えているのだろうか。

 

「……あ、あの」

「ん?」

 

 和人は顎に手を当てて思考に熱中していたが、そこに背後から声がかかり、振り向いて声の主を確認する。

 

 声を掛けてきたのは、先程アイコンタクトで会話をした女子だった。

 

「あ、え、えぇと、な、なに?」

 

 和人は内心、しまった! キョドってしまった! と焦っていた。

 今でこそリアルでもそれなりに女子(美少女)と会話をする機会も多い和人だが、三年半前までは半引きこもりの廃人ネットゲーマーだったのだ。当然、かなり残念なコミュニケーション力だった。

 しかも、その三年半の内二年間はSAOのアバタ—“キリト”として過ごしたのもあって、全くのゼロとは言えないが、その十全を現実世界の経験値として蓄積できたわけではない。旧知の仲の人達ならまだしも、こんな風に初対面の美人と面と向かっての会話に緊張しないわけがないのだ。

 だが、それでもあの明日奈と一年以上も恋人関係として、現実世界(リアル)でも接してきたのだ。何とか動揺を必死に表情に出すことなく、しれっと会話を続ける。

 

 その同年代くらいの黒髪の女子はそんな思春期男子の反応など慣れきっているのか、和人の少々(?)不審な態度に訝しげな顔をするわけでもなく、こっそりと和人に囁きかける。

 

「……あの、さっきの人に話を聞いた方がいいんでしょうか?」

「……そうだな……」

 

 案の定というべきか、彼女の懸案もあの男についてだった。

 確かに不安な点も多いが、人が多くなるにつれて徐々にこの場の空気も悪くなっている。この異常な状況によって精神的に不安定な人間達が、何の説明もされずに一つの空間に押し込まれているのだ。何がきっかけで致命的なパニックに陥るか分からない。さっきのような掴み合いも、毎回周りの人間の諫言で拳を下ろすとは限らないのだ。

 

 そう考えて和人は、自分達がどれだけ危うい状況にいるのか気づいた。

 

 この部屋にいるのは、この子や自分のように年若い少年少女ばかりではない。

 自分達と同時に送られてきた金髪の巨漢の他にも、後から送られてきた人たちの中には明らかに不良といった奴等や、黒人の柄の悪い外国人等までいる。

 もし乱闘などが始まったら確実に只では済まない。下手すれば死人が出ることもあり得る。

 

 和人はごくっと唾を呑みこむと、横の黒髪の女子にあの男に話を聞きに行――

 

 

「――あれ? あれって“新垣あやせ”じゃね?」

 

 

 一人の見るからにギャルという金髪茶肌の女子が、和人の傍らにいる女子へと、そのやたら爪が長い指を向けた。

 

 彼女のその言葉は、あちこちで言い争いが起きていたこの人口密度の高い一室を静寂で包み、彼ら全員の視線を一人の少女へと集めた。

 

「……え? 嘘、マジ?」

「へ? 新垣あやせって誰? 有名なの?」

「ばっ!? お前、知らねえの!? 最近、超有名雑誌に出まくってるモデルじゃん!」

「うわっ。実物めっちゃ可愛い~。スタイルやばっ!」

「すっげぇ! ちょ、お前ペン持ってねぇの? サインサイン!」

 

 ザワザワと先程までとは打って変わった喧騒に包まれる。

 一触即発のあの空気を変えられたという面ではよかったのかも知れないが――これだけの状況で、一気に部屋の人間全員に注目された少女――新垣あやせとしてはたまったものではない。

 

 和人もそっとあやせに目を向ける。和人は正直あやせのことは知らなかったが、確かにモデルをやっていてもおかしくないくらいの美人だとは思っていたので違和感はなかった。だが、それよりも彼女のことが心配だったのだ。

 今、彼女に向けられている視線や感情がいいものばかりではないことは、男である和人にも分かる。

 

 

 あやせは、突然自分に集まった視線に戸惑った。

 咄嗟に帽子を深くかぶり直してしまったけれど、これでは当たりですと白状しているようなものだ。

 つい先程まで目を血走らせて言い合いをしていた人たちが、一斉にあやせに注目している。

 

 ひそひそ声で周りと情報を確かめ合うもの。

 芸能人に会えたと無邪気にはしゃぐもの。

 有名人だからって調子に乗りやがってと嫉妬の視線を送るもの。

 

 そして――

 

「――あ、あの! 俺、あやせさんの大ファンで! サインいいすっかね!?」

 

 赤みがかった茶髪のロン毛の少年が、自分の身に付けているTシャツを伸ばしながら近寄ってきた。

 

 あやせは、その目尻の下がった瞳の中に宿る感情を見て、つい先程の“今わの際の”記憶がフラッシュバックする。

 

 

『あの! 僕、あやせちゃんのだいっっっっっファン!!! なんです!!!』

 

『お前も……僕を切り捨てるのかよ!!』

 

『お、おい動くな!! おとなしくしろ!! さ、さもないと――』

 

 

 ゾッッッと。

 あの恐怖が復活し、あやせの体に冷たい恐怖が走る。

 

「――ひっ」

 

 あやせが悲鳴を漏らしかける。

 それを見て、和人が咄嗟に二人に割り込もうとして――

 

 

 ビィィィンと、あの電子音が響いた。

 

 

 再び黒い球体からレーザーが発せられる。

 正直、この部屋にいる人間達はうんざりしていた。またか、と。すでにこれだけでは、完全にあやせに向いた集団の興味の対象を逸らし切れなかった。

 

 だが、徐々にざわめきが広がる。

 そのレーザーが形作る線が、どうにも人型ではないからだ。

 

 やがて、それの正体が明らかになると、注目は完全にそちらに向かう。なぜなら――

 

 

――彼女はパンダだったからだ。

 

 

 突然の上野の動物園の国民的スターの登場に、大人達は呆気にとられる。

 

「……パンダだ」

「……パンダだよな」

「……パンダでしょ」

「……パンダだね」

「……うん。パンダだ」

「Is the Order a Rabbit?」

「No. That is a panda.」

 

 和人とあやせも呆気にとられていたが、これは好機だと、和人はあやせに目配せして、廊下へと向かうように合図を送る。

 あやせは一瞬逡巡するも、こっくりと頷き、注目がパンダに集まっているのを利用して、廊下へと出た。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 あやせは廊下に出て扉を後ろ手に閉め、ほっと息を吐く。

 

 廊下は色々と騒がしかったあの大きな部屋と比べて、痛いくらいの沈黙に満ちていた。

 

 あやせは先程とはまた違った恐怖が一瞬湧き起りそうになるが、ぐっと堪え、足を進める。

 

 ごく普通のマンションの、ごく普通の廊下だった。どうやら玄関へと繋がっているらしい。

 思えば、こんな状況に追い込まれて、まず第一に玄関からの脱出を思いつかなかったのを不思議に思った。あの部屋に集まる人たちは、言い争うばかりで誰もこんな簡単なことも思いつきもしなかったようだ。自分も含めて。

 おそらく、間髪入れずに次々と人が転送されてきたからだろう。あんな現象を見せつけられれば、パニックで落ち着いて思考なんて出来ない。

 

 もちろんあやせも、この状況が異常だということにはとっくに気づいている。先程のフラッシュバックで思い知らされたが、自分は間違いなく死んだはずだ。なのに、こうして無傷で生きている。訳が分からない。

 

 だから、大人しく玄関から帰れるなどとは思っていないが、一応試してみることくらいはしようと、廊下を進んだ。

 

 

 そこに、彼は居た。

 

 

 あの転送直後の光景は、混乱による幻覚や錯覚などではなかった。

 漆黒の全身スーツを身に纏って壁に寄りかかり、険しい目つきで腕を組み、足元を睨みつけている。

 

 その男は、間違いなく自分達がここに転送された時に、黒い球体の前に立っていた、あの男だった。

 

 あやせは彼を見て思わず足が止まってしまい、動けなくなってしまった。

 

 彼はあやせに気づくと顔を上げて、そのどんよりと腐りきった瞳であやせを見る。

 あやせは思わず呑まれかけるが、不思議と悲鳴は出なかった。

 

 しばらくそのままの状態が続いたが、やがて男の方が小さく溜息を吐いて口を開いた。

 

「…………なんだ?」

「え、あ、その、えっと」

 

 あやせはまさか声を掛けられるとは思わなかったので軽くパニックになり、やがて振り絞った言葉が――

 

「……あの、ぱ、パンダが……」

 

「…………はぁ? ……パンダ?」

 

 私は何を言ってるんだろう。

 

 あやせは自分でそう思った。

 

 羞恥と居た堪れなさで顔を真っ赤に紅潮させ、そのまま俯いてしまう。

 逃げ出したい。けれど、さっきの部屋には戻れないし、逃げる場所なんかない。

 あやせに出来ることは、これでもかというくらいに帽子を目深に被り、男の視線から少しでも逃れるだけだった。

 

 どれくらいそうしていただろう。

 やがてあやせは少し顔を上げ、相手の男の反応を窺った。

 

 男はすでにあやせに目を向けておらず、というより視線をあえて外してそっぽを向いているようだった。

 それはあやせが恥ずかしがっていたことに対する気遣いなのか、それとも露骨に興味がないというアピールをしてあやせがいなくなるのを待っているのかは分からない。

 

 けれど、今まで怖くて不気味でよく見ていなかったけれど、思ったよりもその横顔は整っていて。

 

 そして、その濁っているかのように腐った瞳は、何だか少し――悲しく、寂しそうに見えた。

 

 あやせは、再び男になにか話しかけようとして――

 

 

あーた~~らし~~いあーさがき~~た~~きぼーのあーさーがー

 

 

 突然、その曲は鳴り響いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 和人を始め、部屋に集められた大人達は総じて慌てだす。

 

「え? 何これ?」

「ラジオ体操? うわ、なつかし~!」

「どっから流れてんの?」

「あ。これだよ。この――――黒い球?」

 

 そのラジオ体操は、部屋に鎮座する不気味な黒い球体から流れていた。

 

 和人はそれに目を向けながら、どんどんと大きくなる鼓動を抑えるように、心臓の位置の服を握りしめる。

 

「……いったい――」

 

 

 

「――どう、なってるの?」

 

 あやせは不安な表情で、部屋へと続く扉を見る。

 

 そして、壁に凭れかかっていた男は、一度深く目を瞑り、呟く。

 

「…………始まるか」

 

 

 

【てめえ達の命はなくなりました。】

【新しい命をどう使おうと私の勝手です。】

【という理屈なわけだす。】

 

 

 

 突如、黒い球体に浮かび上がってきたその文字列に、大人達は好き勝手に文句を言う。あるいは馬鹿にしたように笑う。

 

 だが、和人はいまだ大きくなり続ける鼓動に、ただ戸惑うばかりだった。

 

(……なんだ。この感じ。……まるで……“あの時”、みたいに――)

 

 その時、きぃと廊下へと繋がる扉が開き。

 

 部屋の中にあやせと――あの漆黒の全身スーツの男が入ってきたことに、和人だけが気づいた。

 

 

【てめえ達はこいつをヤッつけてくだちい】

 

 

《かっぺ星人》

 

 

「なんだこれ?」

「かっぺ……ださっ」

「わけわかんね」

 

 周りの大人達の雑音は、今や全く和人の耳には入ってこなかった。

 

 ただ、その黒い球体を見つめる漆黒のスーツの男の、どんよりと真っ暗な瞳だけが、和人の漠然とした恐怖を増長させていた。

 

 そして、思う。

 

 まるで、あの日、あの時のように。

 

 はじまりの街で、茅場晶彦に、デスゲームの開始を宣言された時のように。

 

 

(――――何か、取り返しのつかないことに、巻き込まれてしまったかのような――)

 

 

 ガシャァァァン! という音が響いた。

 

 その音は、まるで重厚な檻の中に閉じ込められた音のように、和人には聞こえた。

 

 黒い球体が勢いよく三方向に開き、部屋の中は悲鳴とどよめきに包まれる。

 

 そこから現れたのは、漆黒の銃器、兵器、凶器。

 

 和人の戸惑いは、恐慌は、ピークに達した。

 

(……なんだ、これ……何がどうなって――!!)

 

 混乱する和人の横を、漆黒のスーツの男は通り過ぎる。和人はその背中を呆然と見遣る。

 

 すでに大人達の興味は銃器に移っていた。

 そんな中を男は進み、「なんだコイツ?」「コスプレじゃねwwカッコいいww」という嘲笑の声にまるで取り合わず、淡々と三種類の銃を迷わず選択し、手に取る。

 

 その無駄のない行動を見て、和人は確信する。

 コイツは、この状況に“慣れている”。

 

 もう、危険性(リスク)を恐れている場合なんかじゃなかった。

 

 こちらに戻ってきて、再び廊下へと向かう男の腕を掴む。

 

「なぁ! あんた何を知ってる!? これから何が始まる!? 俺達は一体どうなるんだ!?」

「…………」

 

 男は何も答えない。

 ただその底なし沼のように暗く濁っている瞳を向けるだけ。

 

 それでも和人は、一瞬唇を噛みしめ怯えるも、懇願するように尚も問いかける。

 

 

「……頼む……ッ。教えてくれッ!……俺はもう、死ぬわけにはいかないんだ……ッ」

 

 

 和人も気づいている。自分はもう死んでいると。あの時、間違いなく死んだのだと。

 

 それでも、これが夢でも幻でも。

 こうして自らの意思で体を動かし、まだ何か足掻くことが出来るのなら。

 

 再び生きて――明日奈の元へ、帰ることが出来る可能性が僅かでも残されているのなら。

 

 例え、しょうもない悪あがきでも、見るに堪えないくらいみっともなくても、この上なく無様でも。

 

 見ず知らずの赤の他人にだって頭を下げよう。この上なく怪しい目の前の男にも臆面もなく縋ろう。

 

 和人の瞳は、そんなこの上なく貪欲な“生”への執着心で満ちていた。

 

 男は、そんな和人の目を向けられ、眩しそうに目を細める。

 

 そして、その瞳から逃れるように部屋の中の大人達へと目を向け、ポツリと零す。

 

 

「…………すぐに分かる」

 

 

 その言葉に一瞬呆気にとられた和人は、一体どういう意味だと問い返そうとした時――

 

 

「えッ!? うわッ!? なにこれ!? なんだこれッ!?」

 

 

 突然の叫び声。

 和人が勢いよく振り向く。和人の後を追うように目を向けたあやせが小さく鋭い悲鳴を漏らした。

 

 

――頭部が、ない。

 

 

 先程あやせのファンだとはしゃいでいた若者の頭が消え失せていた。

 周りの友人たちが焦りながら話しかけ続けるが、徐々に胸部、腕、腰、足へと消失範囲が広がっていく。

 

「え!? うわッ!? 何!?」

「クソッ! なんだこれ、聞いてねぇよ!!」

「うわぁぁぁん! お母さぁぁん!!」

 

 そして、次々と、次々と消えていく。続々と失われていく。

 

 人が、人間が、消失していく。

 

 その有様は、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。

 和人も、あやせも、呆然と顔面を蒼白して眺めていることしか出来ない。

 

 

 ただ一人、漆黒のスーツの男――比企谷八幡だけが、真っ暗な冷たい瞳でその光景をただ見つめていた。

 

 




 次回は、渚目線を入れたいと思います。三人称ですが。

 基本的に一人称は八幡しか書きません。基本的に。


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敢え無く少年少女達は、地獄のような戦場へと放り込まれる。

説明回②。


 

 潮田渚は混乱していた。

 

 人が、消えていく。跡形もなく、姿形を一切残さず、まるで幽霊のように。

 一度死に命を失った自分達は、幽霊と変わらない存在なのだと、思い知らせるように。

 この部屋に送られた時の逆再生のように、正体不明のレーザーを照射されて、徐々にこの部屋から――この世界から消失する。いなくなる。

 

「お、おいおい……こりゃあ、どうなってんだ、渚」

「ぼ、僕にもさっぱり」

 

 この部屋に同時に送られてきた、隣にいる金髪巨漢の虎の様な男――東条英虎が、シリアスな口調で渚に問いかける。

 

 いつの間にか互いに名前を教え合い、気が付いたら東条に気に入られていた渚は、東条が緊張していることに内心驚いていた。

 

 こんな状況でも「なぁ、渚! すげぇぞ、あの黒い球! いったい中に何人入ってんだ!?」とマイペースを貫いていた彼が困惑が篭った声を出したことに、渚はついにこの人もこの状況の異常さを感じ取ったのか、と目を向ける。

 

「……ああ。俺、あんな手品出来ねぇよ。……みんなすげえ上手いな。これいつ俺の番になるんだ? ヤバい、どうすりゃいい?」

「いや、これそういうオーディションじゃないから!?」

 

 ヤバい。この状況もそうだけど、この人も相当ヤバい。いろんな意味で器がデカ過ぎる。

 

 と、渚がどうにかしてこの人の危機感を煽らないと、と自分も相当に大変な状況であることを棚に上げて頭を抱えて思考する。

 

「あ、あのですね、東条さん」

「あれ? ここどこだ?」

「東条さぁぁぁぁあああああん!!」

 

 チラッと東条の方を見ると、すでに頭部の半分くらいが消えていた。それでも東条はまったく慌てずにへらへらと笑う。

 

「お! なぁ、渚見ろよ。ここって確かまくh――」

「僕、見えないよ!? ちょ!? 東条さん! しっかりしてください東条さん!?」

 

 あっという間に消失範囲が口に達し、東条の声が聞こえなくなる。

 それでも楽しそうに身振り手振りをする東条の体に触ろうとするも、すでに転送された部分はすかすかと空振りし、その空間に何もないことに改めて驚愕する。やはりこれは透明になっているとかじゃなくて、本当に人体が消失しているらしい。しかも、東条の体は元気に動いているので、生きたまま、人間の体を部分部分、いや細胞一つ一つを消している。

 

(……いや、送っている? さっき東条さんは“どこ”って言ってた。……つまり、ここじゃないどこかに移動させられてるのかな?)

 

 あまりにも東条が飄々としていたので少し恐怖がなくなった渚は、先程までの東条の様子から少なくとも死ぬことはないらしいと分かり、冷静になろうと努めて、周りの様子を見渡した。

 

 すでに大分部屋の住人は減っていた。皆どこかに“送られた”らしい。

 

 自分と一緒にこの部屋に来た残り二人と、自分達よりも先にこの部屋に来ていたあの漆黒のボディスーツの人もまだ残っていた。

 二人は顔面蒼白といった感じなのにも関わらず、黒いボディスーツの人は一切動揺することなく平然としている。……やはり、この人はこの状況について何か知っているのかもしれない。

 

 ごくっと唾を呑みこむ。……何かを聞くとしたら、今しかない。

 

 そう思い、勇気を持って立ち上がると――

 

「――ん?」

 

 自分のすぐそばに、扉があることに気づいた。

 

 この大きな部屋には、扉が二つある。

 一つは、先程あやせと八幡がいたあの廊下へと繋がる扉。

 

 そして、もう一つが――

 

 渚は、恐る恐るドアノブに触れる。

 

(……さわ、れる?)

 

 東条が窓の外の景色にはしゃいでいた時、渚はふと窓の鍵に触れようとしたが、すり抜けるように触れなかった。

 だが、このドアノブはしっかりと触ることが出来て、そして――

 

 ぎぃ、と扉を開くことが出来た。

 

 渚は一瞬躊躇する。だが、ゆっくりと中を覗き込み、その部屋に入ることを決意した。

 

 そこには――

 

 

「……なに、これ?」

 

 

――近代SF映画に登場するような、大きなタイヤにエンジンを搭載したようなマシンがあった。

 

 

「……乗り物? ……バイク?」

 

 見ると、巨大なホイールの中に乗り込む形のバイクとなっているようで、内側にシートとハンドルが装備されている。モニタもあり、塞がれた視界をカバーできるようになっているらしい。

 

「……なんで、こんなのが?」

 

 そういった工学技術に特別詳しいわけでもない渚でも分かる。これは、とんでもなく凄まじい技術だ。もし実現できたら、それこそ世界中が大騒ぎするような“発明品”が、今、渚の目の前に存在している。しかも、一台ではなく、この部屋の中だけでもすでに三台もある。

 

 なぜ、こんなものが、この部屋に。

 そんな疑問を感じながら、部屋の中を見渡すと――渚は他に、クローゼットのようなものを発見する。

 

 もうここまできたらと半ばやけくそのような気持ちで、一瞬心の準備をしてから、一気に開け放つ。

 

「わ!」

 

 中の光景に思わず驚愕の声を上げる。

 

 そこにあったのは、お洒落な服飾品ではなく――――様々な武器、武具だった。

 

 機動隊が使うような軽量な盾や特殊警棒のような近代的な武器から、長槍や三節棍やトンファーといった武芸の達人が愛用していそうな特殊な武具まで。

 

 古今東西の様々な武装品が、まるでコレクションルームかのように取り揃えられている。といってもデザイン自体はあのバイクや、球体の中から出てきた銃などと同様にSFチックで、カラーリングも光沢のある黒で統一されているが。

 

(……隠し、アイテム?)

 

 まるでゲームの中に気まぐれに設定する遊び心のような印象を受ける部屋だ、と渚は漠然と思った。

 

「……!」

 

 そして、ふと目に入ったそれを、渚は惹きつけられるかのように、緩慢な動作で手に取る。

 

 恐る恐る、だがしっかりと取り出したそれは、真っ黒で光沢のある刀身が特徴の――サバイバルナイフだった。

 

「……………………」

 

 渚は、まるで見蕩れるように、憑りつかれるかのように、ジッとそれを見つめ続けた。

 

「――あ」

 

 そして、ついに渚は転送される。その漆黒のナイフを、その手に所持したまま――――初めての戦場に。

 

 

 そこで、渚は。

 

 

 

 そのナイフで、初めて“殺し”を経験することとなる。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「おい! なんなんだよ、これ!? いい加減説明しろよ!!」

 

 この部屋に最初に送られてきたうちの一人――全身黒いファッションの男が、俺の肩を掴んでギラギラとした目で俺を睨みつける。

 ……本当は胸倉を掴む場面なんだろうが、ガンツスーツはピッタリフィットで掴めないからな。いや、そんなことどうでもいいか。

 

 すでに転送は粗方終わって、残りは俺とコイツ、あとさっき廊下に出てきた黒髪ロングの女くらいか。

 

 ……くそっ。ガンツも空気読んでさっさと送ってくれりゃあいいのに。

 

 目の前の男は、完全に俺をこの状況の関係者だと断定したようだ。……やはりずっとだんまりは不味かったか。だが、こんな恰好をしておいて都合よく誤魔化せるようなトークスキルは持ち合わせてないから、遅かれ早かれこうなっていたんだろう。

 

 真っ黒は、荒ぶった感情を抑えるように強く目を瞑り、必死に押し殺した低い声で俺に更に問いかける。

 

「……なら、質問を変えるぞ。お前が着ている“ソレ”はなんだ? “アレ”と同じものじゃないのか? ……それにアンタは迷わず銃を選んで手に取った。その後も別に観察するわけでもなく、そのスーツのホルスターにセットして後はただじっと待つだけだ。この“消える現象”が起こることも知っているみたいだったしな。……ここまで条件が揃って、今更何も知らないじゃ済まされないぞ……ッ」

 

 ……限界、か。

 この状況に戸惑うばかりかと思いきや、それなりに観察していたみたいだな。

 誰かが開けたはいいが銃みたいに分かりやすいものじゃないから興味を失って放置したであろうスーツにまで目を付けるとは。思ったよりも、コイツは“センス”がありそうだ。

 

 ……もしかしたら、それなりに働いてくれるかもな。

 

「――ッ!おい――」

「――これから俺達は、命懸けの戦争(ゲーム)に送られる」

 

 俺がそう言うと、目の前の男はビクリと動きを止めた。

 

 それは呆気にとられているような、怯えているような、そんな表情だった。

 

 俺は構わずに続けた。

 

「懸けるものは、“新たな自分の命”――死んだらそこで“死亡(ゲームオーバー)”の、命懸けの“戦争(デスゲーム)”だ」

 

 これは、黒い球体(ガンツ)玩具(おれたち)で無邪気に遊ぶゲーム(ころしあい)

 

「――って、言ったら信じるか?」

 

 俺の言葉に、目の前のコイツは顔面を蒼白させていた。額に不健康な汗を流し、俺の肩を掴む手をガタガタと震わせて。

 

 それは、ついさっきまで人が消えて送られる場面を目撃した時よりも、はるかに重症に。はるかに真っ青に。

 

 まるで、絶対に触れてはいけない心の傷(トラウマ)を抉り返されたかのような――

 

「あ、あの!」

 

 声の方向に目を向けると、黒髪の女がこちらを不安げな眼差しで見上げていた。

 

 ……こいつは苦手だ。さっきも思ったが、コイツの見た目、声は……なぜか“アイツ”を想起させる。

 

「じゃ、じゃあ、私たち……これからどうすればいいんですか……」

 

 ……だから嫌だったんだ。

 こうやって頼られることが。こうやって縋られることが。

 

 どうする? 俺はコイツにどうすればいい?

 

 コイツの面倒をずっと見る気なんて、俺にはない。

 下手に構い過ぎて、向こうに送られてからも付き纏われるのが最も避けるべきことだ。

 

 ……なら、ここは――

 

 俺は黒い球体の、後方に飛び出した部分を指さす。

 

「……あそこにスーツケースがある。こいつが言った通り、俺が着ているのと同じ奴だ。自分の名前が書いてある奴を取れ。そして着ろ。……そうすれば、少なくとも簡単には死なない」

「……わ、わかりました」

 

 黒髪少女はスーツケースを取りに行った。

 

 ……軽率だったか。だが、もう俺がここに詳しいというのはバレていることだし、スーツを着ているのは明らかだ。ここら辺はしょうがないラインだと思おう。

 

「……なぁ」

 

 目の前の男が、掠れた声で言った。

 

 ……コイツ、目が――

 

「これは、何かのVRMMOなのか……? あいつの……茅場晶彦の、模倣犯の仕業なのか……?」

 

 ……あのSAO事件の関係者なのか。

 

 確かに、これはあれと同じ、死んだら“本当に”終わりの、正真正銘のデスゲームだ。だが――

 

「違う」

 

 俺は強く否定した。違う。これは、このゲームは、あんなに“やさしく”ない。

 

 男は顔を上げる。……俺はSAO生還者(サバイバー)じゃない。VRMMOをやったことすらない。だから、あの“中”がどれだけ悲惨な状況だったのかは、想像もつかない。

 

 だが、これは言える。ここは――ここも、“地獄”だと。

 

 そして、SAOと違って、ここは――

 

「確かに、ここに使われるのはとんでもなく非現実的な技術だ。仮想世界とでも思った方が合理的なのかもしれない。だけど違う。これは、間違いなく現実だ――現実で、俺達は戦うんだ。新たに手に入れた本物の体で、新たに手に入れた本物の命を懸けて。……この手で本物の命を奪うんだ。殺すんだ。相手を殺して、自分が生き残る為に。……その為に、殺し合うんだ。……忘れるな――」

 

 

「――ここは“現実(じごく)”だ」

 

 

 男は息を呑んだ。そして、力無く腕を俺の肩から滑り落とした。

 

 ……見込み違い、だったか。

 

「……あ、あの、これどうやって着るんですか?」

 

 黒髪少女がケースからスーツを取り出して戸惑っている。

 俺は思わず反射的に答えた。

 

「全裸だ。裸にならなきゃそれは着れない」

 

 あ、やべ。

 そう思った時には、黒髪少女は顔を真っ赤にしてキッと俺を睨みつけた。

 

「な、なんですかそれッ!? 変態! セクハラです!! ぶち殺しますよっ!!」

「……俺に言うなよ。俺が作ったんじゃねぇよ」

 

 ……なんだよ、この子。美人だと思ってたけど予想外に鋭い殺気出すじゃねぇかよ。思わず反射的に謝っちまいそうになったよ。

 

 そんなビビりまくってる内心を誤魔化すように、俺は飄々と告げた。

 

「……で。着るの? 着ないの?」

 

 黒髪少女はぐぬぬと真っ赤な顔で呻り、涙目で恨みがましく俺を見上げる。……だから俺が作ったんじゃねぇよ。そんな目で見るなよ。何かが目覚めちゃうだろ。

 やがて観念したのか、スーツケースを胸に抱えて廊下へと向かった。

 その時、扉を開けながら――

 

「……言っておきますけど、覗いたらぶち殺しますから」

「……覗かねえよ」

 

 バタン、と扉を閉めた際に、思わず息を吐く。……怖いよ。何、あの笑顔。陽乃さん並みの迫力だよ。なんで俺が出会う美人はあんなんばっかなんだ。

 

 ……さて。残りはコイツか。

 まぁ、これ以上、俺がコイツに何かをしてやる義理はない。むしろ、他の奴らに比べたら大分サービスしたくらいだ。

 

 ……おそらく先に転送していった奴等は……すでにもう何人かは――

 

 

「……俺らは、これからどんな戦争(ゲーム)をやらされるんだ?」

 

 

 俺は、唸るようなその声に、思わず目を向ける。

 

「…………!」

 

 この男は、鋭い目つきで俺を見上げていた。

 顔はまだ少し青いが、それでも目は、その瞳は。

 

 俺に突っかかってきた時と同様に、ゾッとするほどの“生”への渇望に満ちていた。

 

「教えてくれ……ッ。ゲームというくらいなら、それなりの“ルール”があるんだろう?」

 

 ……俺はコイツを見誤っていたのかもな。

 センスとか見所なんて、俺が上から目線で語れる奴じゃない。

 

 コイツは、別格だ。

 

 本物の――この部屋の“適合者”だ。

 

「……とりあえず、スーツを着ろ。話はそれからだ」

 

 俺はそう言って、ガンツの前に立つ。

 

 ……何となく、ガンツが急に再び人数を増やしたのかが分かってきた気がする。

 

「な! おい――!!」

 

 真っ黒が息を呑むのが分かる。

 ……やっと、俺の転送が始まったらしい。

 

 すると、ガンツの表面に何か文字列が浮かび上がる。

 

【こんドは いっぱい強いのも あツメたよ】

 

 ガンツの、俺個人へのメッセージ。

 

 そして、その文字はすぐに消えて、再び別の文字列が浮かぶ。

 

 

【もう ひとりぼっちに されないといいね】

 

 

 …………。

 

 

「大きなお世話だ」

 

 こうして、俺の、新たなメンバーとの、初めてのミッションが幕を開けた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 あの男の背中に隠れて見えなかったが、まるで男はあの黒い球体と会話をしてるかのようだった。

 

 だが、すぐに男も消え、この部屋の中には和人のみが残される。

 

「え!? 何!? きゃ――」

 

 廊下の方から女の子の悲鳴。おそらくあやせも転送されたのだろう。

 

 これで、正真正銘、和人一人が取り残された。

 

 和人は深く息を吐く。この期に及んで、自分だけは助かるかもなどという希望を持つほど、和人は楽観的じゃない。

 すぐに表情を切り替え、スーツケースを取出しに行く――そして、迷ったがせめてと短銃を一つ手に取る。

 

「…………う」

 

 誰もいないとはいえ、見知らぬ一室で全裸になるのは男であっても抵抗はある。

 だが、躊躇している時間はない。すぐに和人は服をせめて豪快に脱ぎ捨て、葛藤を捨てる。

 

「……うわ。キツイな」

 

 確かにこれは全裸でなければ着れそうにないと、少し苦労しながらも、何とか着替えを完了する。

 

 そして、部屋を見渡す。

 先程まではあれほど人がひしめき合っていたのに、もう誰もいない。

 

 途端に恐怖心が湧き起るが、それを誤魔化すように視線を巡らせて—―

 

「――ん? あれは……」

 

 和人は廊下側とはまた別の、半開きの扉に目を付ける。

 

 そして、恐る恐るその中に入ると――

 

「――これは……」

 

 そこにあったのは、渚も見つけた、あの近代的な単輪(モノホイール)バイクだった。

 

 それに和人が手を触れた所で――

 

「――あ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 こうして、この黒い球体の部屋には、誰もいなくなった。

 

 

 星人と黒い球体に導かれた傀儡(せんし)たちの戦いが、今、再び始まる。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

【いってくだちい】

 

 

【1:00:00】ピッ

 

 

 

 

 




 武器クローゼットはこの小説オリジナル設定です。
 威力は初期装備と比べて特別強力なわけではないけれど、使いこなすのには癖のある武器が仕舞い込んであります。100点メニューの二番とはまた別です。
 中に入っている武器は、100点メニューで手に入るZガンやハードスーツのように、標準装備の“上位互換”ではなく、作中の通り、盾とか警棒とか、トンファーとか槍とか、使いこなすのに少し苦労するような“癖のある”武器です。そこまで強力なのはありません。あくまで、隠しアイテムですから。

 このシリーズもそれなりに長くなり、ただ原作をそのままなぞるだけだと、いい加減マンネリ化してくる頃合いかと思ったので、こういったものも入れていくことにしました。まぁ、どうしても渚にナイフとスタンガン警棒を持たせたかっただけなんですけど。

 後、以前の話で、八幡はこの部屋に入って何もなかったっていってたじゃんと言われる方もいると思いますが、その通りで、この部屋は今回初めてガンツがこの部屋にバイクやクローゼットを用意したとお考えください。
 つまり、中坊はこの部屋の(装備の)ことは知りません。

 その辺はまたおいおい作品の中で明かせればと思います。


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そして、問答無用の戦争が幕を開ける。

まずはいつものお約束。脳内爆弾のお時間です。


 八幡や和人が転送される少し前。

 

「……こ、ここは?」

 

 潮田渚が目を開けると、そこは見知らぬ屋外だった。

 

 ぐるりと周りを見渡す。いや、そこは確かに屋外だったし、初めて訪れる場所であったが、知識としては知っている場所だった。

 

「……幕張?」

 

 目の前には全国的に有名な大型展示場――千葉の幕張であることはすぐに分かった。

 

「おう、渚」

「東条さん……」

 

 呆然とする渚に背後から声を掛けてきたのは東条だった。

 

「はは! やっぱり渚も来たか。それにしてもすげぇな。いつの間に瞬間移動できるようになったんだ?」

「別に自力でテレポートしたわけじゃないよ……」

 

 超サイヤ人じゃあるまいし。

 渚が苦笑していると、東条は首を傾げながら、渚が手に持っているそれを指さす。

 

「ん? お前、それどうしたんだ?」

「え……あっ! な、なんでもないよ! ははは……」

 

 渚はサッとその手に持っていたものを背中に隠し、ズボンのベルトにそれを――黒刃のナイフを差し込む。

 誤魔化すように空笑いする渚を東条は不思議そうに見ていたが、ふいに少し遠くからはしゃぎ声が聞こえて、二人ともそちらに目を移す。

 

「おい、ここ幕張じゃね? もしかして千葉じゃね!?」

「もしかしなくても助かった……?」

「なんだ普通に帰るじゃねぇか。なんだったんだよさっきのぉ~」

「どうでもいいって。もう眠ぃし帰ろう~ぜ」

「……帰れる……また家族に会えるんだ!」

 

 そこにいたのは、あの部屋に一緒に集められて、渚よりも早く転送された者達。

 程度の大きさはあれど、皆あの奇妙な部屋から解放され、無事に帰れることに安堵しているようだった。

 

 渚はそれを呆然と眺め、ポツリと呟いた。

 

「……かえ、れる……?」

 

 だが、渚の心は彼らほど爽やかな解放感に満ちているわけではなかった。

 何か胸にしこりの様なものが残っているというのか、何か大事なものを見過ごしている感じが拭えなかった。

 

 ……そう。有体に言って、嫌な予感が。

 

(……本当に、帰れる……? こんなにも、あっさりと?)

 

「……渚? どうかしたか?」

「……ううん。なんでもない」

 

 渚はその言葉と共に首をふるふると振って、自身の中の嫌な予感を吹き飛ばそうとした。

 

 すると、遠くから一際はしゃいだ声が上がる。

 

「おい! すぐそこに駅があるぞ! これで帰れる!」

 

 その若者が指さすのは、確かにそれなりの大きな駅。多くのイベントで利用される施設が近くにある関係上、ここから分かりやすい場所にそれはあった。

 

 あの展示場は全国的にも知名度の高い有名な場所だ。現に今も恐竜関係の展示会をやっているようで――イベント自体はすでに本日は終了しているようだが――公共の交通網は充実していて、乗り継いでいけば各人確実に自分の家に帰れるだろう。

 

 彼らは一様に階段を駆け下りていく。

 階段を降りて少し進めばそこはもう駅だ。近くにはタクシー乗り場もある。時間的にまだ走っているか分からないがバスの停留所もあった。

 

「どうする、渚。俺達も帰るか?」

「…………そう、だね」

 

 普通に考えたら、ここで帰らないという選択肢はないはずだ。

 もしかしたら、先程のあの部屋の光景はただの夢だったのかもしれない。

 

 あの、母親(あのひと)に首を絞められて殺されたことも……もしかしたら――

 

 渚は自分の首に手を当て、考える。

 もしかしたら、自分はまだ家に帰っていなくて、今頃家ではあの母親が鬼のような形相で待ち構えているのかも。それなら一刻も早く帰らねば。また面倒なことに――

 

――苦しい。苦し過ぎる言い訳なのは分かっている。

 だが、これだけ突拍子もない出来事が立て続けに起きたら、その信憑性は“全部夢でした”とどれほど違う? 確率でいったらほぼ同じ――いや、下手すれば後者の方がはるかに高いのでは?

 

(……それともこれは、全部、この胸に渦巻く嫌な予感を否定したい、ただの僕の願望なのかな……)

 

 渚と東条はゆっくりとした足取りで、駅の方角へと歩いた。

 

 東条は両手を頭の上で組みながら「今日は星が綺麗だな」とか言っているが、渚の耳にはほとんど入っていなかった。

 

 やがて、階段を降りていると、唐突にそれは、渚の頭の中に響いた。

 

 

ピンポロパンポン ピンポロパンポン

 

 

「……え?」

「あれ? 風邪か? なんか、着メロみたいな耳鳴りが聞こえるんだが」

「いや、その耳鳴り斬新すぎでしょ。……いや、僕も聞こえるんだけど」

 

 渚が両耳を押さえ、東条が耳に入った水を抜くような動作で不快感を表していると――同じような動作を、前方にいる人達が全員しているのに、渚は気付いた。

 

「……なにこれ?」

「すげぇウザい」

「誰の着メロだよ~」

「なんかデカくなってね?」

 

 その様子を見て、渚はピタッと立ち止まる。

 

「……渚?」

「……ダメだ」

 

 渚の嫌な予感はピークに達した。

 焦りと共にどんどん大きくなる心臓の鼓動に突き動かされるように、唇を細かく震わせながら、渚は、ついに叫んだ。

 

 

「それ以上……ッ! 行っちゃダメだ!!」

 

 

 パァン、と乾いた音が響く。

 

 

 それは、まるで膨らみ過ぎた風船が破裂するような、儚い破裂音だった。

 

「――――え」

 

 誰かがポツリと呟く。

 

 一人の人間の頭部が、バラバラに吹き飛んでいた。

 

「……あ……あ……」

 

 渚は怯えるように後ずさる。

 後ろの階段に足を取られ、座りこむように倒れた。

 

 その動きにまるで合わせるかのように、頭部を失った人体が、ゆっくりと地面に倒れ込んだ。

 

 それを契機に、恐怖が爆発した。

 

「キャァァァァアアアアアアアアア!!!!!」

「お、おい! なんだよ! なんなんだよコレ!!!」

「ぎゃぁぁぁああああ!!! 助けて!! 助けて!!!」

 

 彼らは完全にパニックに陥った。

 

「どうなってんだ、これ……」

 

 さすがの東条もこれには神妙な顔で戸惑う。渚は顔を青くし座り込んだままだった。

 そして他の人達は一刻も早く逃げようと――“駅に向かって”走り出す。

 

「ッ!! だ、ダメだ!! 戻って!!」

 

 そんな渚の声も届かずに、彼らは一目散に走る。

 

 そして、悲劇は連鎖した。

 

 

 バァン!! バァン!! バァン!! と、次々と頭部を炸裂させ、鮮血の華を咲かせていく。

 

 それは、まるで背後から銃撃されているかのようで、一人、また一人と、儚くその命を散らせていった。

 身近な人が死に絶える度、隣を走る人間が弾け飛ぶ度、恐慌はますます途方もなく大きくなり、取り返しがつかなくなっていった。

 

 渚が再び口を開く。が――悔しげに、何も言えずについに俯いてしまう。

 

 

「お前らこっちだ!! 戻って来いッッ!!!」

 

 

 喧騒が、止んだ。

 

 渚の傍らに立つ男――東条英虎の一声で、あれだけ収拾がつかなくなっていたパニックは完全に収まり、みな一様に東条を見上げていた。もちろん、渚も。

 

 対して東条は、それ以上何も言うことはなく、

 

「……渚、戻ろうぜ。……そうしないと不味いんだろ?」

「あ、う、うん」

 

 くるっと振り返り、階段を上って、元居た場所に引き返した。

 

 渚は一度彼らのをことを振り返ったが、恐る恐るといった感じで、みな階段を上ってきていた。

 

 それ以降、誰も頭を吹き飛ばす人間はいなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 転送が終わった時に、その建物を見上げた瞬間、俺は思わず地に膝を着いた。

 

「…………ま、幕張、だと……」

 

 我が心の故郷にして体の故郷でもある愛すべきCHIBAもとい千葉の超有名スポットであり、全国的な知名度を誇る、あの幕張の大型展示場だった。

 

 ……これは、やったぜホームグラウンドだひゃほ~! とテンションを上げるべきなのか、それとも愛すべき千葉が戦争の戦場になってしまったと嘆くべきなのか。

 

 そんなことを考えていると、遠くから悲鳴が轟いた。

 

 

「キャァァァァアアアアアアアアア!!!!!」

 

 

 ……それを聞いて、俺の少し舞い上がった心は一気に冷めた。

 駅方向から聞こえたということは、おそらくは帰ろうとしてエリア外に出て、頭が破裂したんだろう。

 

 悲鳴が連鎖する。……一体、何人が死んだんだろうな。

 

 これは、俺が殺した人間達の断末魔の叫びだ。

 

 俺は自分が余計な重荷を背負うのを疎んだ。それだけの理由で、これだけの人間を見殺しにした。切り捨てたんだ。

 

 少なくとも、エリア外に出る――こんな初歩的なことは前もって諌めておけば、防げた犠牲だったんだから。

 星人に殺されるなら兎も角な。

 

 ……遅かれ早かれ、生き残った連中はこっちに逃げ出してくるだろう。早めに移動しよう。

 またさっきの真っ黒達みたいに、俺のことに気づかれるのは面倒だ。

 

 そうだ。俺が何人もの人間を切り捨てたという事実は、すでに揺るがない。

 

 俺が出来ることは、さっさとこのミッションを終わらせることだ。

 

 ……それまでに、何人生き残るだろうな。

 

 そして、俺がマップを見て星人の居場所を確認していると――

 

 

「お前ら、こっちだ!! 戻って来いッッ!!」

 

 

「――!?」

 

――唐突に、悲鳴が止んだ。

 

 ……なんだ、今の。

 

 俺が思わず駅の方向を振り向くと、さっきまであれだけ轟いていた悲鳴がピタッと止んでいることに気づいた。

 

 確かに、いずれエリアの外――つまり駅などに向かって帰ろうとしたら、頭が破裂することに気づくだろう。

 

 だが、こんなにも唐突に、一気にパニックが収まるものなのか?

 

 ……もしかして、さっきの声で――

 

 そして、見た。

 

 

 一番最初に階段を上がってきたのは、水色髪の少年に、金髪巨躯の虎のような男。

 

 あの部屋に俺と共に最後まで残された、黒髪少女と真っ黒男と共に、あの部屋に一番早く送られてきた二人だった。

 

 

【こんドは いっぱい強いのも あツメたよ】

 

 

「…………」

 

 俺は、彼らがこっちに気付く前に透明化を発動し、逃げるように身を隠す。

 

 そして、マップに示された赤点へと――――目の前の巨大な展示場の中へと向かった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 八幡が展示場内へと足を踏み入れた時、入れ違うように漆黒のスーツに身を包んだあやせと、同様のスーツを身に付けて近代SF風のモノホイールバイクと共に和人が転送されてきた。

 

「あ、あれ?」

「こ、ここは……?」

 

 戸惑う二人は辺りを見渡す。

 あやせは「……ここって、幕張?」と自らの生活圏内であることに驚き、対して和人は――

 

(……なんか、持ってきちゃったけど……大丈夫、だよな……)

 

 と、自分が想定外に持ってきてしまった大きな荷物(モノホイールバイク)にどうしようと思う反面、自らが置かれている状況を冷静に把握しようとする。

 

 まず、ここは屋外だ。それに、目の前の大きな建物からして、場所は千葉――幕張。

 

 確かに、あの男が言うように、VRMMOのようなファンタジーな仮想世界ではなく、現実の実在地のようだ。

 

 とりあえず和人とあやせは近くに寄り合い、意見を交換する。

 

「……これって、どういう状況なんでしょう? ……帰っても大丈夫、なんでしょうか?」

「……いや。詳しいことが分からない以上、迂闊な行動はしない方がいいと思う」

 

 そうして和人はあやせに向き合って答えるが、すぐに顔を背ける。

 あやせは不思議そうに首を傾げていたが、ボディラインをピッタリと表すガンツスーツは、文字通りのモデル体型であるあやせが着ると、思春期男子にとってはかなり目のやり場に困る仕様となっていた。

 

「? ……どうかしたんですか?」

「あ、いや、えっと……こ、この恰好! アイツに言われるがままに着たけど、こうして普通に屋外に出たら目立つなって思って」

「そうですね、なんか恥ずかしいです。……でも……あ、えっと」

「ん? ああ。俺の名前は桐ケ谷和人だ」

「そうですか。わたしの名前は新垣あやせです。……それで、桐ケ谷さんは……確か着替える前も真っ黒でしたよね?」

「…………」

 

 あやせは純粋に疑問を言っただけなのだろうが、和人にとってはモデルに私服をダメだしされたような気持ちになって、これからはこまめに洗濯して上下黒だけはなんとしても避けようと心に誓ったのだった。

 

 和人が自身のアイデンティティを否定されて思った以上のダメージを受ける中、和人とあやせの所にあの二人が合流した。

 

「あ、桐ケ谷さん。あれって――」

「……確か、俺達と一緒にあの部屋に集められた――」

 

 目が合った二人は、こちらに向かって歩み寄ってくる。

 一人は水色の髪の小柄な少年。

 もう一人は、逆立つ金髪で大柄な虎の様な男。

 

 水色髪の少年は、探るように和人に話しかける。

 

「……お二人もここに送られてきたんですね」

「ああ。っと、そういえば、自己紹介してなかったな。俺の名前は桐ケ谷和人。十七歳だ。そして――」

「わたしは、新垣あやせ。十五歳の高校一年生です」

「僕は潮田渚です。中学三年の十四歳です」

「俺は東条英虎だ。十六の高二だ」

「「十六歳!?」」

「年下!?」

「ん? そうだ」

 

 東条の年齢を聞いた瞬間、あやせと渚は大声で驚愕した。特に和人は目の前の巨漢が自分よりも年下ということに絶句している。(後で八幡も同様のリアクションをすることになるのだが、それは後の話である)

 

 見えない。貫録あり過ぎ。三人は無言で意思を疎通した。

 

「と、とにかく、今はこれからどうするか話し合いましょう」

 

 いち早く復帰した渚が、露骨に話を変える。あやせも苦笑しながら頷いた。

 

「……ところで、お二人が着ているのって……あの人が着ていたスーツですよね?」

 

 渚の言葉に、あやせと、そしてようやく衝撃から立ち直った和人が答える。

 

「……ああ。アイツが言ったんだ。これから“俺達は命懸けの戦争(ゲーム)に送られる”、“死にたくなければこれを着ろ”って。……具体的にどういう意味なのかは分からないけど」

「……ええ。ここって、どうみても幕張ですし。……帰る気になれば帰れるんじゃ――」

 

 

「――いえ、それはないです」

 

 

 あやせの言葉を、渚が青く表情を失くした冷たい顔で首を振って否定した。

 あやせはその豹変に少し怖がりながら訝しみ、和人は目を鋭く細めて問い詰めた。

 

「……どういうことだ?」

「……さっき、僕たちみたいにあの部屋からここに送られてきた人達が、帰ろうとして駅に向かって走っていったんです。……そしたら、頭の中に着メロみたいな音楽が流れて……」

「……着メロ? ……それで、どうしたんですか?」

 

「…………頭が、爆発しました……ッ」

 

 渚が俯き、震えながら言ったその言葉に、和人とあやせは困惑する。

 

「ば、爆発?」

「そ、それってどういう意味だ?」

「そのままの意味だ」

 

 震える渚に変わって、東条が答えた。

 

「駅に向かって走ってった奴等の頭が、急にバァンとふっ飛んだんだ。それで、こっちに来れば安全だって渚が気づいて、アイツ等をこっちに呼び戻したんだ」

「……呼び戻したのは東条さんですよ。東条さんのおかげです」

 

 左手で渚の頭をクシャクシャに撫でる東条が右手の親指で後ろ手に示す先には、ウロウロと、駅の方ではなく敷地内中央に向かって伸びる幅の広い階段を彷徨っている大人達がいた。だが、確かにあの部屋にいたけれど見えない顔もちらほらある。

 

「……それって、死んじゃった、ってことですか?」

「…………」

 

 あやせが呆然と呟いた言葉に、渚は痛ましげに顔を俯かせる。

 それを見て悟った和人はギリッと歯噛みし、そして――

 

「――アイツを探そう」

 

 顔を上げて、そう宣言した。

 

「アイツって……」

「あの人、ですか?」

「……僕たちよりも先にあの部屋にいて、初めからスーツを着ていた……」

「ああ」

 

 そう言って、和人は拳を握り、その手を見つめながら呟く。

 

「……アイツはきっと、この後に何が起こるのかを知ってる。その為にも、アイツを見つけて、話を聞き出すことが第一だ」

「……そう、ですね」

「……そういえば、あの人はどこにいるんでしょうか?」

「……少なくとも俺達よりは先にこっちに来てるはずなんだが。……潮田。見なかったか?」

「渚でいいですよ。……いえ。こっちに上がってきたときは、すでにお二人がいましたし」

 

 四人が八幡を探すべくプランを練っていると、不意にあやせがあるものを発見する。

 

 

「――え? あ、あれって……」

 

 

 あやせは驚愕に表情を彩りながら、展示場へと続く通路を指さした。

 

 和人や渚、東条もつられるように目を向けると、そこには――

 

 

――麦わら帽子に袖なしのTシャツを身に纏い、虫取り網を持った少年がいた。

 

 

「あ、あれって――」

「……あの、黒い球体に出てた」

 

 和人は思い出す。黒い球体に示された、あの言葉。

 

【てめえ達はこいつをヤッつけてくだちい】

 

 そして、八幡の、あの言葉。

 

『――これから俺達は、命懸けの戦争(ゲーム)に送られる』

 

「あ、あれって、人間、なんでしょうか?」

「い、いやでも……」

「なんかおかしくねぇか?」

 

 姿形は、まさしく人間――人型。

 

 だがそれは、まるで不気味の谷のように、下手に人間に似ているからこそ、恐怖と生理的嫌悪感を見る者に与える存在だった。

 

 和人は――その《かっぺ星人》が、あの黒い球体に“ターゲット”として指定された存在が、目の前に確かに存在しているのを見て、そして、あの八幡の言葉を思い出して、ある仮説を立てる。

 

(……そういう、こと、なのか)

 

 

『懸けるものは、“新たな自分の命”――死んだらそこで“死亡(ゲームオーバー)”の、命懸けの“戦争(デスゲーム)”だ』

 

 

「……戦争って……殺し合いって……まさか、そういう――」

 

 

キュィィィイイイイン

キュィィィイイイイン

キュィィィイイイイン

 

 

 突如、かっぺ星人を凝視していた四人の背後から、何かの哭き声が響いた。

 

「な、なに!?」

「一体、どうしたの!?」

 

 四人は勢いよく振り返る。そこには――

 

 

「な、なんだよこれ!?」

「どうなってんだよ!!」

「ぐぁぁぁああ!! 痛ぇぇえええ!!!」

 

 

「……恐、竜?」

 

 渚はポツリと呟いた。

 

 

 そこでは、行き場もなく彷徨っていたあの部屋にいた大人達が、無数の恐竜に襲われていた。

 

 その状況は、まるでハリウッドのパニック映画のようで、全く現実感がない。

 

 だが、紛れもなく、現実だった。

 

 現実で、目の前で起きている戦争(ゲーム)だった。

 

 人が、殺されている。

 

 恐竜――ヴェロキラプトルの鋭い牙が、爪が、尾が、人体を次々と破壊する。

 

 獰猛に、貪欲に、飽きることなく人間達に襲い掛かっている。

 

 人間は逃げ惑い、悲鳴を上げ、泣き叫ぶことしか出来ない。

 

 その惨状に、けれど間違いなく自分たちの眼前で繰り広げられている惨劇に、あやせは顔を真っ青にして口を押さえて、悲鳴を堪えている。渚は震えながらも無意識の内に背中のナイフに手を添えて、東条は無表情に、けれど悠然とその一歩を踏み出した。

 

「…………けるな……」

 

 だが、その低く冷たい呟きに、足を止めた。

 

 そして、あやせ、渚と共に、その呟きを発した――和人に目を遣る。

 

 和人はバッと顔を上げ、表情を歪め、そして大声で叫びながら、その戦場へと突っ込んだ。

 

 

「ふざけるなぁぁぁああああああああ!!!!!!」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 同時刻、展示場内。

 

 バチチチチと透明化を解除した八幡は、目の前の敵を“見上げながら”呆れるように苦笑した。

 

「……まったく。出鱈目だな」

 

 そこにいるのは、世界で最も有名な恐竜の一つである、トリケラトプス。

 

 Triceratops(三本の角を持つ顔)の名の通り、特徴的な一本の鼻角と、目の上にある二本の上眼窩角は健在で、現代の生物では出せない禍々しい迫力を放っている。

 

 もう一つの大きな特徴である後頭部から首の上にまで伸びたフリルは、まるで相手を威嚇するかのように、圧倒的な威圧感を見る者に――八幡にビリビリと与えている。

 

 それはいい。それはまだいい。そこまでは、事前に知っていたトリケラトプスとなんら食い違わない。

 

 

 だが、目の前のコイツは二本足で立っていた。

 

 

 つい先程までは典型的なトリケラトプスだったのに、どこで逆鱗に触れたのか、突然二本足で立ち上がり、それに従い、腕や足がより太く逞しくなり、筋骨隆々のファイターへと生まれ変わっていた。

 

「……久しぶりだな。こんなに背筋が凍るのは」

「トリケラサン……グルルルツーテンカクコロロロロ」

「何言ってか分かんねぇよくそ」

 

 ガシャン! と、八幡はXショットガンの装填を行う。

 

 そして、不敵に笑いながら、目の前のトリケラトプスの怪物に向かって突っ込んで行った。

 

 

 

 残り時間――56分。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 残る星人の数――――50体。

 




 次回からはめまぐるしく視点が変わってしまいそうです。まぁ、今回もそうでしたが。
 なるべく混乱しないように、分かりやすく場面描写を書けるように頑張ります。


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比企谷八幡は、奇怪な角竜を討伐する。

視点がころころ変わると前回言いましたが、今回は幸か不幸かそうはなりませんでした。


 時間は少し戻り、八幡が展示場内に足を踏み入れた頃。

 

 

 

 俺は、比企谷八幡。十七歳。高三。ぼっち。童貞。ほっとけ。

 そんな俺だが、まぁ今まで色々とおかしな体験をしてきたが――現在進行形でしている真っ最中だが――それでも言える、俺は普通の人間だ。自分で言うのもなんだが、性格やその他諸々に色々と問題はあると思う。が、それでも胸を張って言えるさ。俺は普通の人間だ。

 

 物語の王子様のようなキラキライケメンでもなければ、世の中をひっくり返すような頭脳を持つわけでもない。どっかの大財閥の御曹司でもなければ、出生に運命的な巡り合わせがあるわけでもない。

 

 どこにでもいて、ありふれた日々を過ごして、出来上がった人間だ。

 

 確かに俺は色々とやらかして黒歴史を積み重ねてはきたけれど、別に俺は自分が特別なんて思わない。どこの学校にでも、どこのクラスにでも俺みたいなのは一人はいるもんだ。全国に一体いくつ学校があると思ってる? そんな数で毎年毎年俺みたいのが生まれるんだぜ? どこが特別だっていうんだ。……え? 俺みたいなのは中々いないって? ばっか言えよ、そんなわけねぇだろ。……え? いるよね?

 

 と、とにかく俺は、漫画やアニメやラノベの主人公の様な特別な背景や設定を持たない、クラスメイトその①だ。……いや、①は無理だな。主人公とかにうぇ~いとか気軽に話しかけられないし、画面映んないし。そういうのは戸部だな。……クラスメイト①にすらなれないのかよ、俺。

 

 ……そんなクラスメイト①にすらなれない俺だが、そんな俺が今まさに、全国でもおそらくはほとんどの奴等がしたことのない経験をしている。長くなったな。さぁ、教えよう。俺は今――

 

 

――パンダ(♀)とデートしてます。

 

 

 …………もう一度言おう。

 

 パンダ(♀)とデートしてます。

 

 いや、本当なんだって。なんか展示場の中に入ったらいたんだよ。ビビったよ。だって入口に恐竜博覧会のポスターが貼ってあって、ああそう言えば今の時期はそんなのをやってたな、なんてことを思いながら中に入ったら、いきなり目の前に恐竜じゃなくてパンダがいたんだから。思わず透明化解いちゃったよ。あれ? このドアがどこでもドアで上野の動物園に飛ばされたのかな? と思っちゃったじゃねぇか。……いや、あながち冗談じゃないから困る。あのガンツのレーザーって、ほぼどこでもドアみたいなもんだからな。

 

 初めは混乱したが落ち着いてくると、あの時、廊下に出てきた黒髪少女が言っていたことを思い出した。

 

『……あの、ぱ、パンダが……』

 

 あの時は何言ってんだコイツ? パニック拗らせちゃったのか? とか失礼なことを思っていたが、そうなるとコイツはあの部屋にいたのか?

 

 ……まさか、な。動物まで蒐集するなんてことはないと思うが、あのガンツならやりかねないとも思う。少なくとも上野から幕張まで脱走してきたって可能性よりは。

 とりあえず、今回のミッションの星人を見つけるまで保留ということにした。別に襲ってくるわけでもなかったしな。野生のパンダってのは『熊猫』って書くくらい気性が荒く獰猛らしいが、この穏やかな様子だと俺が最初に思った通り、上野の動物園で飼われてるパンダなのかねぇ? ……いや、もしガンツに蒐集されたのなら、コイツ死んだのか。……うわぁ。

 

 そんなことを考え、ちょっと切ない気分になりながらも、俺は展示場の中を進んだ。

 

 展示場の中は、動物園というよりはどちらかというとサファリパークのようになっていた。恐竜が生きていた時代の自然をパノラマで再現し、そこに恐竜の原寸大の像を置いて展示する、という形なのだろう。中々面白そうだ。今度プライベートで改めて来ようかな? ……いや、やめておこう。ガンツミッションの二次被害は現実に反映されるから、明日から多分営業停止だ。……色んな人たちが泣くんだろうな。主に赤字的な意味で。なんかごめんなさい。俺悪くないけど。

 

 ……それに、さっきから嫌な予感がする。

 確かに完成度の高い大自然だが――――肝心の恐竜の像が一体もない。

 この建物の入口ホールのような所に全身骨格はあったが、これだけ見事なセットを作ったのだから、当然それっぽい等身大の像があるだろう。このセットに見合うサイズのものを作ったのなら、さすがに毎日倉庫に片付けるなんて手間がかかることはしないだろうし。もしそれで壊したりしたら大損害だ。

 

 俺はそこで、あの千手のミッションを思い出す。

 ……おいおい嘘だろう。そんなわけないよな? さすがにそれはないよな? ……でもそういうのを裏切ってくるのがガンツミッションなんだよなぁ。

 

 そんなどんどん強くなる嫌な予感を押さえながら、俺は展示場内を、マップに表示されている点に向かって進む。

 

 ……ああ。そろそろツッコませてもらうぜ。……なんでだ。なんで――

 

「――なんでお前はついてくるんだよ……っ」

 

 俺は思わず三歩後ろを歩く良妻的なパンダをじとっと睨みつける。……この振る舞いで俺はこのパンダを雌だと勝手に判断してるわけだ。別に股間を見て答え合わせするほどコイツの性別に興味ないからいいんだが。

 

 つぶらな瞳で首を傾げる上野の動物園のアイドル。……くっ、負けねえ。俺は猫派なんだっ! 家で帰りを待ってくれているカマクラの為にも! 俺はパンダ派に鞍替えなんてしねぇからな! ……いや、熊猫って書くくらいだから、もはやパンダは猫の一種として見てもいいんじゃないか? それなら俺は猫派の面目を保ったまま、このパンダを愛で――

 

 ……何やってんだ俺は。

 

 パンダ相手にメンチ切ってもしょうがないので、溜息を吐いて、俺はマップに目を戻す。

 

 この展示場内にある点は、10体。

 ……結構な数だ。だが、殺せない数じゃない。

 

 でも、今回のミッションのエリアはこの展示場だけじゃない。

 俺はマップを拡大表示にすると――

 

「――!?」

 

 そのマップに表示されている夥しい数の真っ赤な点に思わず絶句し――

 

 

――そこを狙い澄ましたかのように、頭上から恐竜に襲われた。

 

 

 反射的だった。

 脳を経由せずに第六感で危機を察してそのまま脊髄の伝達命令で腕を動かしたかのようだった。

 

 迷いもせずに、敵の姿も確認せずに、振り向き様に。

 

 俺は恐竜を殴り飛ばした。

 

 ギャァウス!! という悲鳴と共に何かが吹き飛んでいく先に目を向けて、その時ようやく俺は敵の姿を確認した。

 一言で言えば恐竜だった。具体的な種類を思い浮かべずに、漠然と恐竜とだけ思い描くときの、まさにそんな感じの恐竜だった。

 モンハンでいえばラン○ス的な。確かジュラシック○ークにも出てたやつだ。

 トカゲを何倍増しにも凶暴に凶悪にしたような頭部。

 短い前足。しなやかな後ろ足。鋭い爪。長い尾。背中には少し羽毛が生えている。

 小型、ではあるのだろう。恐竜の世界でいえば。だが、動物園で人間以外の動物の基準点を養っている現代人(おれたち)からすれば、十分に怪物といえる。

 目線の高さは俺よりも高い。2m~3mと言ったところか。その爬虫類特有の細い目は、冷たく感情を感じさせない。こちらを獲物と捉えている、狩人(ハンター)の目だ。

 

 それらを観察した所で、俺は奴が立ち上がってこないことに気づく。

 

 訝しく思い、Xガンを構えながらゆっくりと近づくと――小型の恐竜は死んでいた。

 

 ……ガンツスーツの力でぶん殴ったとはいえ、パンチ一発で? だとしたら史上最弱だぞ? ……たまたま打ち所がよかったのか? 反射的な行動だったからよく覚えていないが、多分右胸を打ち抜いた。……また別の奴が現れたら狙ってみるか。

 

 まぁいい。楽に倒せるのに越したことはない。……さっきマップを見た時うんざりしたが、敵は文字通り山程いるんだ。

 

 展示場の外。あそこはあまりに赤点が集まり過ぎて、そこら一帯が真っ赤に染まっていた。何体いるのかも正確に把握できない。

 ……そして、その赤いエリアに何人もの青点が囲まれていた。正直、ほぼ確実に助からないだろう。

 

 チラッと再びマップを見る。どんどん青い点が消えていく。死んでいく。殺されていく。おそらくは訳も分からぬままに。こんなのはただの虐殺だ。

 だが、今から俺がそっちに行ってもどうにもならない。……どうにもならないんだ。

 こっちにもまだ9体の星人がいる。あっちに行って何体いるか分からない星人の集団に突っ込むより、この9体を迅速に屠るのが先決だ。

 幸い、赤いエリアの外側にいる青い点もいる。4人。……この4人は、目の前の虐殺の光景から逃げ出すだろう。そうすれば、もしかしたら助かるかもしれない。あの二人によってエリア外に出ることの危険性も理解しているだろうから、正しく逃げられるだろう。

 

 ……ん? なんか、俺の近くの赤点がまた消えた。あれ? なんでだ? 展示場の中にいる青点は俺だけの――と、思ったら、俺のすぐ背後にもう一つ青点があった。それは――

 

「――お前か」

 

 見ると、そこには結構な怪我を負った、あのパンダが居た。……そっか。マップを見れば一発だったんだ。ずっと俺一人だと思い込んでた。ぼっち生活が板につきすぎてた。

 

 その後ろを見ると、やはりぐったりとしたあの小型の恐竜が。……コイツ、あの恐竜に勝ったのか。パンダが。この上野の動物園(おんしつそだち)のパンダが。やるじゃねぇか、さすが熊猫。極限に追い詰められて隠された野生の力が目覚めたのか?

 

 だが、致命傷はないようだけれど、かなりの傷を負っている。楽な戦いじゃなかったんだろう。コイツ生身だしな。てか、ガンツはコイツ用のスーツも用意してたのか?

 

「……よくやったな」

 

 俺は、そういってパンダの頭を撫でると、そのまま姫抱きをする。当然、パンダは見た目通りの巨躯なので、体重も100キロ以上だろうが、ガンツスーツを着ていればこんなのは発砲スチロールと変わらない。

 

 そして、そのままセットの草陰に下ろす。見つからなければ、上手くすれば、生き残れるだろう。

 

「ここで大人しくしてろ」

 

 もう一度頭を撫でる。本当に大人しいな。こんな奴でも、殺されかければ恐竜を返り討ちにするんだから、まさに見かけによらない。パンダですらそうなんだから人間なんてもっと当て嵌まるだろう。まぁ、俺は見た目通り、っていうか見た通り目のまんまに性根も腐っているが。

 

 こうしてパンダ相手にフラグを立て、本当に久しぶりに出来たパートナー(パンダ)に別れを告げながら、俺は次のターゲットを探しに行く。案外近い。この草陰の向こうだ。早めにパンダを避難させて正解だったな。

 

 ……にしても、今回のターゲットは恐竜か。やっぱりこの展示会の展示物が星人だったってオチか? 歴史ありそうな寺の仏像が星人だったりしたんだから、もう別に驚きやしないが、そうなってくると、俺みたいな素人はこう考えるんだが。

 

 今回のボスって、やっぱり――

 

 ……いや、あんまり考えるのはよそう。その仏像の時だって、大仏をボスと考えて油断して、散々な目にあった。

 星人を全部ぶっ殺す。そして、そん中のどれかがボス“だった”。それがベストだ。

 

 そして、俺は一呼吸で息を整え、精神を集中する。

 

「――――よし」

 

 そして、バッと草陰から姿を現し、マップの点の位置にいる“それ”にXショットガンを発射する。

 

 それは――――トリケラトプスだった。

 

 不意討ちを優先すべくそのまま速射したので、ロックオンはしていない。だが、確実にヒットすると思った。

 

 が、トリケラトプスは避けた。

 

「――っ!?」

 

 その巨体に見合わない機敏な動きだった。

 くそっ。確かにサイはああ見えて時速50キロ近いスピードで走るっていうけど、実際目の当たりにすると、このサイズでこのスピードは脅威だ。

 

――なんてことを俺は、その巨体がまさしくトラックのごときスピードで自分に向かって突っ込んでくるのを前に、冷静に考えていた。

 

 自分でも驚くくらい、心臓のビートがいつも通りだ。むしろいつもよりも落ち着いているまである。

 

 これまで、色んな星人相手と戦って、何度も何度も死にかけて。

 

 この半年間は大した敵はいなかったにしろ、たった一人で全部の星人を相手し、全て屠ってきた。

 

 そんな経験が、そんなトラウマが、しっかり俺の血となり糧となってるってわけか。

 

 頭脳が、肉体が、精神が、細胞が。

 

 いざ星人を前にすると、戦いにおいてベストの状態になるように、覚え込まされている。刻み付けられている。

 

 ったく、何処の神殺しだ俺は。これも一種の生存本能の賜物なのかね。人間やめてるような気がするが。

 

「――はっ」

 

 俺はそう吐き捨てながら――――突進するトリケラトプスを受け止めた。

 

 トリケラトプスの一番の武器である角――その中の一本、俺を容赦なく串刺しにしようとしたその鼻角を両手でガシッと掴む。

 

 そして、その突進の勢いをいなすように、俺はトリケラトプスを投げ飛ばした。

 

 思った以上に勢いが付き、凄まじい速さで吹き飛んで行った。……ちっ。身動きがとれない空中でXガンによる追撃をしようと思ったが。まぁ、それは贅沢過ぎか。

 

 とにかく今は追い討ちだ。俺はとっさに放り投げたXショットガン拾い上げ、そのまま追う。

 

 このままのペースで行けば、ここの9体はおそらく屠れるな。

 

 ……願わくば、外にウジャウジャといる星人たちが、みなあの小型の恐竜で、ルーキー達が少しでも数を減らしてくれれば――

 

「――――たっく、どの口がほざきやがる」

 

 アイツ等を見捨てたのは他でもない俺なのに、そんな利益だけ期待するのは傲慢で業腹だ。

 それに、スーツを着たのはたったの二人。内、一人は女子だ。普通、恐竜なんて見たら逃げるに決まってる。

 

 

『……俺らは、これからどんな戦争(ゲーム)をやらされるんだ?』

 

 

「…………」

 

 余計なことを考えるのはやめよう。思考を目の前の戦闘に集中しろ。

 

 これはガンツのミッションだ。何が起こるかは、最後まで分からない。

 

 俺は再び透明化を施して向かった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、現在に戻る。

 

 ……ああ、そうだね。何が起こるかは分からないって確かに言ったよ。言ったさ。言いましたともさ。でもね。だけどさ――

 

――吹っ飛ばしたトリケラトプスが、追いついたらマッチョマンになってました。

 

「こんなの予想出来るわけねぇだろっ!!」

「トリケラサンゴロロロロ アベノバシキダタローロロロ」

「うっせぇ!!」

 

 コイツの新フォルムのあまりの衝撃に再び透明化を解除してしまった。アホか、俺は。

 ……まぁ、他にも理由はあるんだが。思いつきだから上手くいくかは置いておくとしよう。

 

 俺は、筋肉の膨れ上がった腕から繰り出される拳を避けながら、Xショットガンを発射する。

 

 猛攻を避けながら――数秒後。

 

 パァン! と敵の皮膚が弾け、トリケラサンは咆哮を上げる。

 

「グロロロロロロ!!」

 

 破壊は確かに小さい。だが、大仏ほど物ともしないわけじゃない。

 確かにダメージはある。しかし、二本足になったことで俊敏性が増して、中々こちらの攻撃が当たらない。

 

「くそっ。面倒くさい」

 

 こういう時、改めて思う。

 

 もっと強い武器が欲しい。

 

 初めの頃は、このXガンやXショットガンがとんでもない兵器に思えたものだけれど、今ではコイツ等のパワー不足に頭を悩ませられる日々だ。自分でもどうかしていると思う。

 

 ……真剣に検討しなくちゃな。これから先、アイツ等全員を生き返らせるなら、俺はこれから何回も100点を取り続けなくちゃならない。それこそ200点でも、300点でも、何度でもずっとずっとずっと。

 

 その為には、今の装備では限界がある。それはつまり――

 

 100点。

 誰かを一人生き返らせる、人一人分の命。

 

 それを使って、それを捨てて。

 

 

 100点メニューの2番。

 より強い武器の“購入”という選択肢の検討を。

 

 

「ボゲェ!! ゴラァ!!」

 

 トリケラサンが荒々しい関西弁と共に、その巨体の威力をふんだんに乗せた踏みつけを振り下ろす。

 

 だが俺は、あの千手ミッションの後に何度も何度もシミュレーションしてきた。コイツのように、デカく、Xガンが効きにくい敵――大仏のような敵を、どうやって打倒するか。

 

 その答えの一つがこれだ。ついに試せる時が来た。

 

 俺はガンツソードを取出し、“地面に”突きつける。

 

「伸びろッ!」

 

 そしてガンツソードを伸ばし、奴の眼前の高さに到達する。

 

「グロッ!?」

 

 奴の戸惑ったような呻き声を無視し、俺はXガンで二ヶ所をロックオンする。

 そして、奴に攻撃される前にガンツソードを後方に向かって倒しながら、俺はトリガーを二回引いた。

 

「グローーーーーーッッッッ!!!」

 

 奴の二つの瞳が破裂したことにより、トリケラサンは得意の関西弁を忘れ絶叫する。

 

「ゴォラァァァァァァァァァ!!!」

 

 怒りが限界まで達したのか、それとも命の危機を感じ取ったのか、まるで鎧を着こむかのように、トリケラサンのマッチョな肉体が膨れ上がる。

 

 それでも遅い。目を失ったことにより文字通り俺を見失ったのか、見当違いの方向に威嚇している。

 

 隙だらけだ。

 

 俺は伸ばしたままのガンツソードを振り回す。

 

 結局いくら経験を積んでも、俺には陽乃さんのような華麗な剣捌きは身につかなかった。

 

 それでも、これだけ隙が大きい巨体の首を刎ね飛ばすことくらいはできる。ただ大きく振るうだけだ。

 

「グロ――」

 

 断末魔を上げることなく、関西弁を話す奇妙なトリケラトプスは絶命し。

 

 その首を失った巨体からは、信じられないほど大量の鮮血を振り撒いた。

 

 ……ドラ○ンボールの丸パクリじゃないかって? 勝てばいいんだよ勝てば。

 




 というわけで、一話丸々八幡回。
 多重クロスにはなったけど、あくまでこの物語の主人公は八幡なので、これからもこういう話をちょくちょく作っていけたらいいな。


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黒の少年と虎のような男は、恐竜の群れの中にその身を投じる。

今度は逆に、和人達のターン。


 

 そこは、まさしく地獄絵図だった。

 

「ぎゃぁぁああああ!!!」

「ママ!! ママ!!」

「ちょっとアンタ!! こんな時くらい父親らしいことしなさいよ!! 子供の為に身代わりになることも出来ないの!?」

「ふざけんな死ぬだろうがッ!! だったらテメェがやれよクソババァ!!」

「ちょっ!? アンタさっきわたしをナンパしてたよね! 助けてよ!!」

「ふざけんな引っ張んな一人で死ねよブスがっ!!」

「あんだよなんだよこれ!! なんで恐竜がこんなとこにいんだよ!!」

「Why is a dinosaur at such!?」

「Run away early! It's killed!!」

「Where I run away!? Was it forgot that the head exploded a short while ago!?」

 

 一人、また一人と容赦なく殺戮されていく人々。

 

 食糧(にんげん)に群がる無数の肉食恐竜(ヴェロキラプトル)たちは、己の牙や爪を血で汚すことを厭わず食事(さつがい)を続ける。

 

 その光景は、幼い少年の理解の外にある、あまりに現実感のない惨状だった。

 

「……う、うわ……まま……ぱぱ……」

 

 少年は縋るように、どんな残酷な世界でも無条件で味方だと、自分を助けてくれる存在だと信じて疑わない両親を見遣る。

 

 だが――

 

「アンタっていっつもそう!! 家族の為に何も出来ない!! 稼ぎも少ないし!! 役に立たないんだからせめて時間稼ぎの囮くらいしなさいよ!!」

「ふざけんなクソアマッ!! てめぇのその無様に太った下腹は俺の稼いだ金で買った栄養で出来てんだぞ!! 今こそ感謝してその旨そうな脂肪でてめぇこそ餌になりやがれ!!」

 

 醜い。

 子供ながらに、いや子供だからこそ、この極限の状況で、本性を曝け出しながら足を引っ張り合う自分の両親を見て、その男の子はそう思ってしまった。

 

「……う……あ……」

 

 少年は、泣いた。

 それは目の前の光景の恐怖故か、それとも自分を助けてくれるはずの両親(ヒーロー)に絶望したからなのか。

 

 色んなことが怖くて、色んなことから逃げたくて。

 

 少年は、一目散に逃げ出した。

 

「うわぁぁぁぁああああああああん!!!!!」

 

 その泣き声で、ようやく両親は自分達の子供の存在を思い出した。

 

「あ! こら、どこ行くのy――」「ったく手間かけさせんじゃn――」

 

 その瞬間、皮肉にも仲良く同時に両親は頭部をバクっと喰われた。

 

 再び迸る絶叫。だが、少年は振り向かない。

 何が何だか分からずに、何もかも分かりたくなくて。

 

 とにかくこんな世界が嫌で、誰も助けてくれないこの怖さから逃げ出したくて。

 

 そんな少年を、影が包み込んだ。

 

 思わず見上げると、そこには――

 

「ヴォオォ!!!」

 

 一体のヴェロキラプトルが、かの少年に向かって襲い掛かっていた。

 

 少年は思わず蹲る。もう何も見たくない。こわい。こわい。こわい。こわい。

 

 心の底から願う。

 

(……………誰か、助けてよッッッ!!!)

 

 

「うぉぉぉおおおおお!!!!」

 

 

 その時、真っ黒な少年が颯爽と駆け付けた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 和人は走り抜けた。

 

 か弱い人間達が無数の恐竜に囲まれ蹂躙される戦場に、その身一つで突っ込んだ。

 後ろからあやせと渚の悲鳴のような制止の声が聞こえるが、一切構わずに突っ込む。止まる気など毛頭なかった。

 

 許せなかった。絶対に許せなかった。

 ゲームと評して、こんな理不尽な戦争を、いや、戦争ですらない。

 

 こんなのは、ただのふざけた処刑じゃないか。

 

 何の説明もないままに勝手に集めて、勝手に送って、獰猛な怪物の前に丸腰で放り出す。それが処刑でなくてなんだというのか。

 

 あのSAO事件の時ですら、茅場はあらかじめルールを説明した。

 

 それとも何か? これは、あのSAO事件の時に、何の説明を受けていない時に、強引にナーブギアを外そうとして死んだ――殺された、デスゲームに対するリアリティを持たせる為に死ぬことを前提とされた、あの二百十三名と同じ――生贄だっていうのか?

 

 ……ふざけるな。ふざけるな! ふざけるなッ!!

 

「ふざけるなぁぁぁあああああああ!!!」

 

 許せるか。見過ごせるか。こんなことがあってたまるか。

 

 あんなことを、もう二度と、繰り返してなるものか!!

 

 死なせるか。助けるんだ。絶対に、もうあんな犠牲者は――

 

 

――どうやって?

 

 

 和人の頭が急激に冷やされる。駆け出している足が、少しもつれそうになった。

 

 目の前で、今まさに和人の目の前で人を食らっているのは、恐竜だぞ?

 本物ではないのかもしれない。よく考えれば、現代の、密林(ジャングル)でもサバンナでも孤島でも、ましてや近未来的なテーマパークの中でもない、こんな街中といっていい場所に、恐竜なんかいるわけがない。

 

 でも、それでも、目の前の怪物は、その鋭い牙で、爪で、人体を抉り、切り裂き、食らっているのは、れっきとした事実で現実だ。

 動物園の猛獣よりもはるかに恐ろしい怪獣が、檻に入れられているわけでも首輪で繋がれているわけでもなく、野放しで、自由の身で、人を襲っているのだ。

 

 ここはSAOじゃない。アルゴリズムで決められた動きをしてくれるような、HPを全損させれば消滅してくれるような、そんな都合のいいモンスターではないのだ。

 

 和人は無意識に背中に手を伸ばす。何も掴めない。そうだ。自分はもう、黒の剣士(キリト)ではない。背中に魔剣(エリュシデータ)を携える最強の剣士ではない。

 

 ただの、無力な、(モブ)だ。

 

「――っ!!」

 

 歯を食いしばる。足が止まりかける。殺される前にさっさと逃げろと、SAO内で散々鍛え上げた危険を知らせる第六感が悲鳴を上げる。

 

 

 それでも、見えてしまった。見つけてしまった。

 

 今、まさに、その怪獣に蹂躙されようとしている、一人の男の子を。

 

 

 彼の両親であろう一組の男女が、和人の目の前で無慈悲に殺戮された。

 手を伸ばしかけ、やめろと叫ぶ前に、容赦なくその頭部を捕食された。

 

「――ッ!! ぁぁあああああああああああああ!!!!」

 

 和人は走る。無我夢中で。怯える心を雄叫びで誤魔化して。

 理屈を無視して。リスクリターンの計算など度外視で。

 とにかく今は、目の前の殺されようとしている命を、ただ一つでも救う為に。

 

 

 そんな和人に応えるように、漆黒のスーツがその駆動音(おたけび)を上げた。

 

 

「――くぁっ!!」

 

 爆発的な加速と共に、和人は男の子を抱きかかえるように、恐竜と少年の間に自らの体を差し入れる。

 

 その時、恐竜の鋭い爪が、和人の背中を切り裂いた――はずだった。

 

「だ、大丈夫か?」

「え……うぁ……」

「どっかに隠れてろ。あ、だけど遠くには行くな」

 

 和人は男の子の頭を撫でて、安心させるように微笑みながら、少年を背中で庇うようにして、ヴェロキラプトルと向き直る。

 

 男の子には、その背中がすごく大きく――まるでヒーローのように見えた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 和人はギュッと、まるで自分の体の感触を確かめるように手を握った。

 

(……このスーツの、力なのか?)

 

 今の爆発的な加速力。そしてあの恐竜の爪の一撃を食らってもビクともしない防御力。

 どちらもただの全身スーツにはありえない、まさしくゲームのアバタ—のごとき超人の力。

 

『少なくとも簡単には死なない』

 

 あの男の言葉を思い出す。いうならば、これは基本装備のようなものなのだろう。この戦争(ゲーム)に参加する上での前提条件。いうならば、これを着て初めて、目の前の怪物と戦う“権利”が与えられる。同じ土俵に立てる。そうでない奴はただ大人しく殺されるのを待つのみ。

 

「……どこまで……ッ」

 

 (ひと)を弄べば気が済むんだ。と、このゲームの主催者(ゲームマスター)に怒りを募らせる。

 

 そして――

 

(――何であいつは、これを聞かれるまで黙っていたんだ……ッ)

 

 この条件(じょうほう)を唯一あらかじめ知っていただろう、あの男にも。一体、あの男が何を考えていたのか、和人には分からない。

 

 だが、自分には、あの男を責める権利も、資格もない。かつて同様の選択をした――同じ穴の貉なのだから。

 

「…………」

 

 ……それに、今は――

 

(……この場で戦えるのは、俺しかいない)

 

 スーツを着ているのは、自分と、あやせと、あの男のみ。

 

 だが、あやせは目の前の状況に恐怖して動けず、あの男は行方が知れない。

 

 ならば自分が、やるしかない。

 

 和人は転送の際に持ち出していた小型の銃――Xガンを取り出す。

 他に武器はない。SAO時代は体術スキルを取得していて初期から最後まで長年愛用していたが、それでもやはりSAO時代の自分は『剣士』だった。それに、さすがにこんな怪物相手に――身体能力が超人的に向上しているとはいえ――丸腰の徒手空拳で向かっていけるような度胸はない。

 だからといって、銃を扱うスキルに自信があるかといえばそうでもないが――

 

 チラッと手に持つXガンを見る。特殊な形だが、紛れもなく銃だ。和人が、いやキリトが、銃の類を扱った経験は、あの半年前のGGOでの死銃事件のみ。しかもこの時もキリトはあろうことか、銃の世界でも光剣――剣を手にし、剣士であろうとした。銃はあくまで牽制用のサイドアームだった。

 

 剣が欲しい。慣れ親しんだ、あの武器が。

 自分を特別にしてくれる、自分を強くしてくれる、あの武器が。

 

 剣を、再びこの手に取って――

 

――強い自分に。

 

 黒の剣士—―キリトに、戻りたい。

 

「ヴォォォオオオ!!」

「――ッ!! うぉぉぉおおお!!!」

 

 ヴェロキラプトルが和人に飛び掛かってくる。

 和人は思考を振り払い、半年前のうろ覚えのフォームでXガンを恐竜に向ける。

 

 

 そのヴェロキラプトルは、吹き飛ばされてきた別のヴェロキラプトルによって弾き飛ばされた。

 

 

「……は?」

「ギャァァァウス!!」

 

 和人はその恐竜が飛ばされた先に目を遣る。というよりも、ほぼ全ての――気のせいかヴェロキラプトル達の目もその男に引きつけられているように感じた――目線が集結している。

 

 その男は、投げ飛ばした体勢をゆっくりと立て直し、ゴキリと盛大に首の音を鳴らして、笑みを浮かべる。

 

「さぁて」

 

 虎の様な。猛獣のような。怪獣の様な。

 

 恐竜よりも獰猛な、野生の狩人の笑みを。

 

「ケンカ、しようか」

 

 呆気にとられていた和人だが、別のヴェロキラプトルがその男に――東条英虎へと奇声を上げながら飛び掛かった時、思わず叫んだ。

 

「ッ! 逃げろぉ!!」

 

 だが東条はその凶暴な笑みを深めただけで、跳び上がった恐竜の鋭い爪の一撃を、その巨体に見合わぬ軽やかな動きで見事に躱す。

 

 そして、その恐竜の尾を掴み――

 

「――ふんっ!!」

 

――振り回した。

 

「……え?」

 

 思わず乾いた声が漏れる和人。

 

 確かにヴェロキラプトルは小型で体重も人間程ではないのだろうが、それでも恐竜をブンブンと容赦なく、スーツも身に付けず生身で、何周も何周も、周囲の恐竜達を吹き飛ばしながら、口角を釣り上げ悪魔のような笑顔で愉しそうに振り回す東条(にんげん)の姿は、和人ら他の人間たちをドン引かせ、恐怖させた。

 

「おらぁっ!!!」

「ギャァァウス!!!」

 

 心なしか泣き声のような啼き声と共に、東条に振り回され続けたヴェロキラプトルは、一際個体数が集まっていた集団に向かって投擲された。

 

 対して東条は、グルグルと肩を回し、そしてあの獰猛な笑みを浮かべ、言い放った。

 

「さぁて……次はどいつだ?」

 

 ザッと、心持ちかヴェロキラプトル達が東条から距離を取った――気がした。

 完全に悪役だった。

 あれ? この人味方だよね? と、ちょっと後ずさりながら和人は思った。

 

「……はは」

 

 いや頼もしいのだろう。

 スーツを着ている自分だけでこの数の恐竜を倒さなくてはと思っていた所で、これは思わぬ援軍だ。……もしかしたら、自分が足手纏いになってしまうかもだが。

 

「――ッ!!」

 

 なんてことを思っていると、ヴェロキラプトル達は東条の周りを囲むように陣形をつくった。

 野生の勘なのか、それとも弱肉強食の世界で生きていた故の本能なのか、和人たち人間(えもの)の中で、東条英虎という個体が自分達にとって最も脅威となる存在だと感じ取り、全力で排除しようというのだろう。

 

 確かに、東条は強い。

 だが、その身は生身だ。あの爪が、牙が、尾が、一度でもその体に食らいついた時、その命は容易く刈り取られるだろう。

 

(……いくら東条でも、あの数は……ッ)

 

 東条は相変わらず、あの獰猛な笑みを崩さない。

 

「……面白ぇ。来いよ」

 

 恐竜達の威嚇の鳴き声が途切れる。逆に、東条英虎に威圧されたかのように。

 だが、そんな自分達を鼓舞するように、恐竜達は一斉に嘶いた。

 

「「「「「ギャァァァアアウス!!!!」」」」」」

「…………っ!」

 

 和人は、覚悟を決めた。

 

 

「うぉぉぉおおおおお!!!!」

 

 

 その甲高い音の中に、一人の少年の雄叫びが割り込んだ。

 

 和人は、恐竜達が作った東条包囲網を、外側から力づくで突き破ろうと突撃する。

 

(俺はこのスーツを着てるんだッ! 東条一人に押し付けるわけにはいかないッ!)

 

 和人は走りながら、一番近い個体にXガンを向ける。

 その個体は、包囲網の中で唯一和人と向き直り、威嚇するように啼いた。

 

「グォォォオオ!!」

「――ッ!」

 

 和人は本能的に感じた恐怖を押さえ込むように、足に更なる力を込める。

 

 あのGGOでの戦いを思い起こす。

 向けられた銃口。自分を貫く弾道予測線。そんな中、自分はハンドガンと光剣のみを手に持ち、飛び交う銃弾の中を突き進んだ。

 

 そうだ。簡単だ。

 当たる距離まで近づき、撃つ。それだけだ。

 

「グルォォォォオオオオオ!!!」

 

 ヴェロキラプトルが、自分に向かってノーステップで飛び掛かる。

 鼓動が跳ね上がりパニックになりかけながらも、和人はしっかりとそのXガンを恐竜に向け、トリガーを力強く引いた。

 

 ギュイーン! という甲高い音。そして銃口から青白い発光。

 

 東条が、渚が、あやせが、そしてその他の生き残っている人達が、和人に向かって注視する。

 

 だが――

 

「――な、に」

 

 ヴェロキラプトルは、全くの無傷で健在だった。

 

「ッ! ぐぁああ!!」

 

 結果、ヴェロキラプトルは和人に激突した。

 その鋭い爪はスーツのお陰で和人の肉を切り裂くことはなかったが、飛び掛かられた衝撃により駆け上がっていた階段を転がり落ちる。

 

 そして、あの少年を助けた場所まで逆戻りとなった。少年は無事逃げたようで、巻き込むことにならなかったのは幸いか。

 

 だが、そんなスーツの効果を知らない渚とあやせは、階段の上の広場から悲鳴を上げる。

 

「そんな!? 桐ケ谷さん!!」

「大丈夫ですか!? 桐ケ谷さん!!」

 

 そんな悲鳴に応えたくとも、自分の体の上にはすでに恐竜が圧し掛かっている。

 爪の攻撃が効かない和人に対して、ヴェロキラプトルはその自慢の牙が生え揃い涎を垂らす大きな口を開け、和人に咬みつこうとする。

 和人はとにかくそんな恐竜を殴り飛ばそうと無我夢中に拳を握って――

 

 

――バンッッ!! と、恐竜が弾け飛んだ。

 

 

 胴体上部の胸の辺りが、爆発するように吹き飛んだ。

 その結果、和人に齧り付こうとしていた頭部はそのまま階段を更に転がり落ちて行き、和人は恐竜の体液や肉片を浴びてドロドロになる。

 

 周りの人達は、その光景に呆気にとられていた。

 渚も、あやせも、あの東条も。

 そして、それは和人も同様だった。気色悪い血液や不気味な肉片が体中に纏わりついているにも関わらず、悲鳴一つ上げなかった。

 

 ただ、ゆっくりと、自分が右手に持つSF風の短銃に目を向ける。

 

(……この銃、なのか?)

 

 時間差はあったけれど、おそらくはこのXガンの効果が現れたのだろうと推察する。

 一発だった。一撃だった。たった一回の攻撃で、恐竜が木端微塵に弾け飛んだ。

 あの黒い球体に、それこそ山のようにあった、これがゲームだというならこのスーツと同様に単なる“初期装備”であろう武器のたった一発がこの威力。

 

 和人は、数多のゲームをやり込んできたからこそ、今改めて自分がプレイさせられているこのゲーム――デスゲームの恐ろしさを感じた。

 

(……考えるのは後だッ!)

 

 和人は湧いた恐怖を振り払い、勢いよく立ち上がって、改めて東条包囲網に突っ込む。

 

「そこをどけぇぇええええ!!!!」

 

 今度はXガンを構えずに、両手を顔を守るように交差させて突っ込む。

 

 進行方向のヴェロキラプトルを吹き飛ばすようにして飛び込んで、東条に背中を預けるような形で、恐竜達と向き合った。

 

「……よぉ。その服と銃、ずいぶんと面白そうだな」

「……生身で恐竜と戦えてるアンタ程じゃないよ」

 

 東条は和人と目を合わすと、お互いふっと笑い、目の前の恐竜達に向き合う。

 

 敵の数は、まだかなり多い。

 実質殺せたのは和人のXガンを浴びた一体だけで、他の個体は和人や東条によってダメージを受けたものの、まだ殺すまでには至っていない。

 

 

 それでも、東条の笑みは衰えない。

 

 これだけの状況に追い込まれても――いや、むしろこんな状況を、こんな逆境を待っていたと。

 

 疼いて、渇いて、退屈で仕方なかったが故に、待望し、渇望していた――自分が、思う存分に喧嘩が出来(たたかえ)る、こんな戦場(ばしょ)を待っていたと。

 

 欲しくて欲しくてたまらなかったものが、今、目の前にある。

 

 そんな獣の笑みを、東条英虎は浮かべていた。

 

 

 和人は、そんな(おとこ)のオーラを背中に感じ、少し恐怖し、そして安堵した。

 

 こんな男がいて、負けるはずがない。そんな風に思わせてくれる頼もしさが、貫録が、東条という男にはあった。

 

 ふと()ぎるのは、SAO時代、攻略組最強ギルドを率いていた、あの男の背中。

 

 剣士キリトが、ずっと追い続け、一度屈服し、最後にはこの手で貫いた、あの男の背中。

 

 和人は表情を引き締め、目の前の恐竜(モンスター)を睨み据える。

 

 そうだ。これはゲーム――デスゲーム。ならば、やることは一つ。あの頃と、何も変わらない。

 

 勝って、クリアし――現実へと還ること。

 

 そのためには、目の前の恐竜(モンスター)を倒し、生き残ることだ。

 

「さて――」

「――行くぞッ!」

 

 東条と和人は、お互い目の前のヴェロキラプトルへと突っ込んでいく。

 

 その表情を、飢えた獣へと、歴戦の剣士へと変えて。

 




 八幡、出番なし(笑)。

 ま、まぁ、こっちは和人と東条の二人回だし。

 次回は渚とあやせ……一話もつかな?もしかしたら和人や東条、八幡も出て、視点がややこしいかもです。なるべく混乱しないように書きたいと思います。


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轟音と共に、恐竜の王が戦場に降臨する。

この話の編集中にキーボードが不調を起こし、いくつかのキーが応答しなくなった為、途中からスマホで編纂したのでおかしなところがあったら、すいません。


 そんな二人とヴェロキラプトル達との戦いを、あやせと渚は階段上の広場から見ていた。ただ眺めていた。

 

 すでにここにいる人間は、和人と東条、そしてあやせ、渚だけだった。

 和人が助けた子供も含めてすでに生き残っている人間達は、どこかへと逃げ去ってしまった。逃げることが出来ていた。

 そして、階段には無残にも食い散らかされた元人間達。現肉塊達。決して少なくない人数が、あのヴェロキラプトル達に虐殺された。

 

 そんな無残な死体を見て、あやせと渚の心は今すぐにも逃げ出したくなるほどの恐怖に支配されそうになる。

 それでも二人がこの場から逃げ出さないのは、あそこで和人と東条が戦っているから。

 

 先程言葉を交わし、名前を教え合い、年齢を確認し合った。それだけの関係。

 同時刻にあの奇妙な部屋に転送させられ、ミッションメンバーの中では一番長い付き合い。たったそれだけの関係。

 

 見捨てて逃げても、もっといえば囮に使って置いて逃げても、誰にも文句は言われないであろう、薄い関係。

 

 だがこの二人は、今のうちに逃げましょう、その言葉がお互いに言い出せず、さらに彼らを、横にいる相手を置いて一人でも逃げ出せない、それくらいには心優しく、言ってしまえば“甘い”人間だった。

 

 そして、あの中に、複数体の恐竜群の中に、人間達を容赦なく食い散らかした怪獣達に四方から襲い掛かられているあの中に割って入れる程には強くなく、か弱い“普通の”人間だった。

 

 だからこそ、今まで気づかなかった。ここまで思い至らなかった。

 

 

 あそこで群がっているのが、全てのヴェロキラプトルではないという可能性に。

 

 

「――――ッ!」

 

 ようやく気づいたのは、渚だった。

 

 渚は咄嗟に隣にいたあやせの手を取り、和人達が戦う階段から右手――展示場へと繋がる通路の方へ、広場の中央へと走る。

 

「え!? 渚君!?」

 

 あやせは、和人達を見捨てるのか、という驚きの声を渚に掛けるが、すぐにその認識を改めた。

 

 

 自分達がいた場所を、背後から一体のヴェロキラプトルが飛び掛かってきたから。

 

 

 見ると、広場にはちらほらと数体のヴェロキラプトルが闊歩していた。

 確かに和人と東条に群がっている集団が一番大きな群体だが、決してそれで全てというわけではなかったのだ。

 

 渚とあやせは、その顔面を蒼白にする。思わず繋いだ手が震える。

 

 それでも、なんとか壁を背にして囲まれないようにとするが、徐々にヴェロキラプトル達は二人へと迫ってくる。

 

 あやせは一瞬叫んでしまおうかとも思うが、助けは呼べない。あの二人は、自分達よりもはるかに危機的状況にいるのだ。これ以上、縋ることなど出来ない。

 渚は、せめてもの男の意地として、あやせの前に出る――が、それだけ。それ以上、何も出来ない。

 

 渚は顔を俯かせる。自分は何も出来ない。あの二人のように、人間を簡単に瞬殺する恐竜相手に立ち向かい、相手取ることなど出来やしない。

 

 こんな状況で、自分に、こんな自分に出来ることなど、何もなかった。

 

 

『渚のやつE組行きだってよ』『うわ……終わったな、アイツ』『俺あいつのアドレス消すわぁー』『同じレベルだと思われたくねーし』

 

『――あなたはすでに躓いているの。ここで取り戻せないと、あなたは一生負け犬なのよ』

 

『お前のお陰で担任(オレ)の評価まで落とされたよ。唯一良いことは――』

 

 

『――もう、お前を見ずに済むことだ』

 

 

(……………………)

 

「――?」

 

 ふと、あやせは戸惑う。

 

 繋いでいた渚の手の、震えが止まったからだ。

 

「あ、あの、渚く――」

「新垣さん」

 

 渚はあやせの言葉を遮るように呟き、そして、手を離した。

 

 

「僕が引き付けます。その隙に逃げてください」

 

 

 そして渚は、一番手近なヴェロキラプトルに向かって――歩きだした。

 

 決して走らず、一定の低速度で。まるで、通い慣れた通学路を進むように。

 

 E組(エンド)へと、向かうように。

 

 

 あやせは絶句する。

 その、あまりにも普通に、あまりも気軽に――死地へと向かう、その歩みに、思わず体が硬直する。

 

 だが、相手は獣だ。相手は恐竜だ。

 一切混乱することなく、一切気圧されることなく、ただ己の攻撃が届く領域(テリトリー)へと足を踏み入れた獲物(なぎさ)を、容赦なくその咢で迎え撃つ。

 

 渚は――その咢に向かって飛び込んだ。

 

 穏やかに、笑いながら。自ら死地へと――“死”へと、身を投げた。

 

「な、渚君ッ!?」

 

 あやせは悲鳴を上げる。

 そして、身体の硬直を無理矢理解いて――力強く地面を蹴り出した。

 

 ガキンッ! と閉じられたヴェロキラプトルの咢は空を食いちぎり――渚は間一髪で助け出された。

 

 凄まじい勢いで飛び掛かってきた――新垣あやせによって。

 

 あやせは渚を庇うように抱きかかえて、地面へと己の背から着地する。

 渚は訳も分からず呆然としていた。

 

「あ、あの、あらが――」

 

 渚が何かを言う前に、今度はあやせが背に庇うように渚の前に立ち――

 

――追撃として飛び掛かってきた先程のヴェロキラプトルを、見事なハイキックで叩き落した。

 

 キュインキュインと駆動したスーツの効力により、数十倍の威力となったあやせのハイキックを頭部に受けた恐竜は、そのまま首の骨を圧し折られ、瞬殺された。

 

「…………」

「――渚君」

「は、はいッ!」

 

 それを青褪めた顔で見ていた渚は、背を向けたままこちらを単調な声で呼びかけたあやせに、思わず背筋を伸ばして答えた。

 

 あやせは振り返る――その表情は、悲しげに歪んでいた。

 

「……わたしの為にしてくれたのは分かります。……だけどもう――あんな簡単に自分の命を投げ出さないでください」

 

――もっと、自分の命を大切にしてください。

 

 渚は、ストンと何が埋まる感触を感じた。

 

 あやせのその言葉に、自分の存在を認識し(みとめ)てくれる言葉に。

 

 自分を失いたくないと、自分の価値を認めてくれる言葉に。

 

「……ごめんなさい」

 

 渚は――憑き物が落ちたかのように、微笑みながら謝罪した。

 

 あやせは渚のそんな顔を見て苦笑する。

 そして、立ち上がって自分の横に来た渚に、あやせは自身の体を――漆黒の全身スーツを纏った体を見つめながら呟く。

 

「このスーツ……どうやら体を凄く強くするみたいです。……だからあの人はこれを着た方がいいって言ったんですね」

「桐ケ谷さんが恐竜に飛び掛かられても平気だったのはそれのお陰だったんですね。……ってことは、さっきのハイキックも――」

「当たり前ですよ。それとも渚君は、わたしが日常的にあんな威力のハイキックを繰り出すとでも思ってるんですか?」

「いえ全く思ってません」

 

 美人の笑顔って怖い。

 中学三年生の思春期である潮田渚少年はまた一つ賢くなった。

 

「……なら、わたしが盾になります。渚君は、わたしの後ろにいてください」

 

 一体倒したからとはいえ、まだ数体の恐竜はこの広場にいる。そして、一体撃破したことで、奴等はあやせ達を脅威対象と認識したようだった。

 

 渚はチラリとあやせの顔色を窺う。そして、彼女がそっと右足に――先程、恐竜にハイキックを叩き込み、その命を刈り取った右足に触れたのを見た。

 

 渚は表情を歪める。

 それはそうだ。例え相手が恐竜とはいえ、自分の命を守る為とはいえ、思わず咄嗟にやってしまったこととはいえ――

 

――命を奪うという“感触”が、気持ちのいいものであるはずがない。

 

 それでも、渚には何も出来ない。

 軽々しく命を捨てるな――そう言ってもらえて嬉しかったとはいえ、今この状況でそれを言われるということは。

 

 お前は何もするな。

 そう言われていることと同義なのだから。

 

 自分は和人やあやせのようにスーツを着ているわけではない。そして、東条のように生身で恐竜と戦えるわけでもない。

 

 目の前で自分を守る為に立ち塞がる女性(あやせ)よりも小さな体、喧嘩一つしたことのない細い腕、勉強についていけずE組行きになってしまう程度の頭脳。

 

 何もない。何の武器もない。何の才能もない。

 

 いくら存在を認められても、自分が何も出来ない無力な存在だという現実は、まるで変わらなかった。

 

 渚は歯を食いしばって、そっと腰に手を伸ばす。

 

 変わりたい。こんな弱い自分を――殺したい。

 

 殺して、もっと、強い自分に――

 

「ギャオウス!!!」

 

 恐竜が威嚇するように啼く。自分の前に立つあやせの肩が震えた。

 

「――――ッ」

 

 渚は息を呑み、そしてそのナイフを掴んで――

 

 

 

「キューーッ!! キューーーッ!!」

 

 

 

 突如、奇声が響く。

 

 渚はさっと後ろを向く。

 それは、この広場から展示場入口へと伸びる通路から響いていた。

 

 確かそこには、あの黒い球体に表示されていた、『かっぺ星人』がいたはずだ。

 

「な、なんですか?」

 

 あやせが不安そうに呟く。

 だが、その言葉に何も返せない程、渚は強烈な嫌な予感に囚われていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 バンッ! と再びヴェロキラプトルが弾け飛ぶ。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 和人は大きく息を吐く。ふと、後ろを見ると――

 

 ドンっ! と重々しい音と共に、東条の強烈な拳が恐竜の胴に叩き込まれる。

 そして、恐竜は断末魔の叫びを上げ、ぐったりと倒れ込んだ。どうやら死亡したらしい。

 東条もふと振り返り、和人に言う。

 

「お前の言う通り、右胸が弱点みたいだな」

 

 和人は戦闘中にXガンを色々と弄くり、レントゲンの様な体を透かして見る効果を見つけた。そして、この恐竜の心臓が右胸にあることを突き止めたのだ。

 SAOの攻略組トップランカーに君臨し続け、潜り抜けた死線の数だけ鍛え抜かれたその対応力は伊達じゃない。

 だが――

 

「……俺が言う前に、なんとなく気づいてたくせに」

 

 和人は苦笑いする。この男は、自分が機械を使ってそれに気づく前に、攻撃を与えた時のリアクションから直感でその弱点に気づきかけていた。まさしく野生の勘と言うべき嗅覚である。

 

 二人の奮闘のお陰で、彼らを取り囲むヴェロキラプトルの数は大分減ってきていた。

 和人はスーツのお陰で無傷であり、東条も所々服が破れ、血がにじんでいるものの、全て掠り傷であり、致命傷は負っていない。

 体力的な消耗は(少なくとも和人は)激しいが、それでもこのまま続けていけば勝てると踏んだ。

 

 そんな時――

 

 

「キューーッ!! キューーーッ!!」

 

 

 突如、上の方からそんな奇声が聞こえた。

 

「ん? なんだ?」

「恐竜の啼き声じゃないな……」

 

 そして当然、人間の悲鳴でもない。和人は眉間に皺を寄せる。

 どこかで聞いたことがある音声だ。まるで、SAO時代、モブモンスターが、追い詰められて仲間を呼ぶ時のような――

 

「――まさかッ!?」

 

 和人はバッと東条の方を向き、叫ぶ。

 

「上へ上がろう!!」

 

 そして、進行方向にいるヴェロキラプトルを突き飛ばして階段を駆け上がる。

 東条もそれに続いた。

 

 そして広場へと辿りつくと、広場には数体のヴェロキラプトルと、あやせと渚がいた。

 

 奇声の方向に目を向けると、そこにはあのかっぺ星人と彼を取り囲む数人の黒人。

 

 かっぺ星人が、倒れながらも黒人達を指さして叫んでいる。それを和人が確認した、その時。

 

 

 その通路奥の展示場入口から、二体の大型恐竜が、建物を突き破って出現した。

 

 

 ドゴオォォン!!! という凄まじい轟音と衝撃が響く。

 

 その姿を現した彼らは、まるで己の存在を誇示するかのように、人間達に吠えた。

 

 

「「ギャァァァォォォオオオオオオオンッ!!!!!!!!」」

 

 

 ビリビリと大気が怯えるように震える中、和人は呆然と呟く。

 

 

「……T・レックス、だと」

 

 

 そして和人達は、思い知ることとなる。

 

 

 ガンツミッションというデスゲームの、本当の恐怖と理不尽と――――絶望を。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ガンツソードを如○棒のように使うという著作権に引っかかりそうな方法でトリケラサンを倒した、その直後。

 

 同様のトリケラトプスが、再び俺の目の前に現れた。

 

 

 それも、二体。

 

 

「…………」

 

 まさかこんなにも簡単に釣れるとは。わざわざ透明化を解除して、ド派手に一戦交えた甲斐があったな。チビ星人程ではないにしても、動物的な仲間意識は持っているらしい。

 

 目の前の、まだ四足歩行のトリケラトプスを前に、俺は自身に透明化を施す。先程の個体の手応えとしては、強さはチビ星人クラスといったところか。千手の足元にも及ばないし、田中星人のような特殊装甲も持っていないだろうから、おそらくは透明化は有効だろう。

 

 透明化が効くなら、二体同時でも十分相手出来る。

 

 俺は姿を消しながら、二体の側面に回ろうとして――

 

「……?」

 

 ふと、トリケラトプス達の様子がおかしいことに気づいた。

 

 ……いくら俺が透明化を施しているとはいえ、注意がまるで俺に向いていない。わざわざ敵意を煽る為に目の前で透明化してやったのに。

 

 さっきまでは俺を見ていたのに……というより、今は“俺以外の何か”に注意が向いている?

 

 

 話は逸れるが、この恐竜展のパノラマは、ざっくり言って大きく三つのエリアに分かれている。

 俺が入ってきた入口側に二つのエリア。そして、その奥にもう一つのエリア。俺は今、その中の入り口側の左のエリアにいて、その三つのエリアは敷居の壁によって分かたれている。その敷居は、もちろんこの恐竜展にのみ使われる期間限定の壁なのでコンクリートなどで出来ているわけではないが、安全性を考慮してそれなりの衝撃に耐えられるくらいには頑丈に出来ている。

 

 そんな壁の向こう――入口側の右エリアの方から、何かが走ってくるような音が聞こえた。

 ……俺とトリケラサンの戦いに引きつけられた、別の恐竜だろうか?同種のトリケラトプスなら兎も角、別の種も呼び寄せたのか?それとも、向こうのエリアにもトリケラトプスがいるのだろうか。

 段々と近づいてくる足音に警戒を強める。そして――

 

 

――巨大な火の玉が、壁を貫き破壊した。

 

 

「――なッ!?」

 

 その火の玉はそのままこちらのエリアのパノラマの森林を破壊した。

 その衝撃に危機感を煽られたのか、二体のトリケラトプスはノーダメージにも関わらず二足歩行のトリケラサンモードとなり、侵入者に対して臨戦態勢を整える。

 

 その侵入者は、火の玉によってこじ開けた穴から悠々と姿を現した。

 

 それは、まさしく恐竜界の王とも言うべき、誰もが知っている強者の象徴だった。

 

「……T・レックスか」

 

 T・レックス。

 ティラノサウルス‐レックス。

 史上最大の肉食獣。最強の恐竜。

 数々の異名と伝説を持つ、まさしく怪獣。

 

 ……恐竜が今回の星人と分かった時点で、トリケラトプスがいた時点で、もちろんこの恐竜も出てくるだろうとは思っていたが。

 目の前にするとかなりの迫力だ。あの大仏にも勝る威圧感。

 

 思わず震える。いきなり真打の登場か。……いや、まだ決めつけるのは早い。とにかく今は、この状況をどうするかだ。

 トリケラサン達は見た所さっき倒した個体とそこまで大差ないように見える。二体相手でも十分勝てる。……だが、問題はT・レックスだ。

 

 ……まさかとは思うが、いや十中八九間違いないだろうが。……さっきの火の玉はこのT・レックスが放ったものか。

 

 いや、ビーム弾やレーザーを使う敵がいたんだ。今更、火の玉くらいじゃ驚かないが。でも凄まじい威力だというのはこの破壊された森林で分かる。

 

 どれくらいのタメが必要なのか? 予備動作は? 弾数制限はあるのか? 連射できるのか? なにか必要な行程はあるのか? どのくらいの頻度で使ってくるのか?

 

 ……そこら辺をしっかりと見極めないとな。

 

 二体のトリケラサンとT・レックスが向かい合う。

 

 やはり、トリケラサン達が警戒していたのはコイツか。

 T・レックスの方も、ギラギラとした肉食獣特有の獰猛な目つきでトリケラサン達を睨みつける。

 

 共に恐竜界を代表するスター恐竜同士。太古の時代にも互いに争い合っていたっていうしな。まさしく宿命のライバル。現代においてもその運命(さだめ)からは逃れられないということか。

 

 

 ……あれ? 俺、いらなくね?

 

 

 二体が凄まじい雄叫びを上げ、激突する。その衝撃の余波はこちらまで届き、俺は思わず目を瞑る。

 トリケラサンがその大木のような腕で殴りつければ、T・レックスは頭突きで対抗する。

 相方をサポートするようにもう一方のトリケラサンがT・レックスの胴を殴りつけると、T・レックスはその最大の武器である咢で反撃する。

 

 ……まさか、恐竜にまで存在を無視されるとは。俺のステルスぼっち力は留まるところを知らないな。まぁ、今はリアルにスケルトン状態なんだが。

 

 どうする? このまま安全圏で二種類の生態を観察するのも手だ。トリケラサンは少なくとも三体いたからな。T・レックスが一体だけとは限らない。手に入れた情報は確実に役に立つ。

 

 だが、それは俺に味方がいる場合の話だ。俺以外が全員初心者な今回のミッション。俺一人でうじゃうじゃいる今回の星人を60分で全て屠ることになる。毎回のことだが、今回の戦いも時間との勝負だ。だからこそ、俺はトリケラサンとの初戦をわざわざ透明化を解除してド派手に戦うことで、仲間を呼び寄せるなんて危険な賭けに出た。

 

 ならば、だ。ここでこうして星人同士が潰し合うのはむしろ好都合だ。この隙に別の星人のところに行き、そちらを屠る方がいいんじゃないか?

 

 俺は数秒逡巡し、後者を選択することにした。

 

 マップを取り出す。T・レックスが現れた隣の右エリア、そこには三体程の星人がいるらしい。俺はそちらに行くことにした。

 

 

 轟音を轟かせながら凄まじい戦いを見せる三頭を置いて、俺は隣のエリアに足を踏み入れる。そこには――

 

「……やっぱりか」

 

 少し遠目には、二頭のT・レックス。グルルルと喉を鳴らしているが、こいつらはわざわざ隣のエリアに乗り込んでまでトリケラサン達を殺しにはいかないようだ。やはり普通の恐竜よりは知能、というか自我があるのだろうか。透明化のお陰か、俺にはまだ気づいていないらしい。

 

 マップによれば、こいつらよりも俺の近くにもう一体いるはずなんだが。……俺はふと周りを見渡す。

 

 このエリアも川や森などの自然が多く、恐竜が映えるようなつくりになっている。

 だが、そんなエリアを大きく見渡しても、やはり目を引くのは二頭のT・レックスで、他にこれといった恐竜の姿は――

 

「――あれは?」

 

 エリアの奥。奥のエリアへとつながる敷居の壁に、ぽっかりと穴が開いている。

 ……あれもT・レックスの仕業だろうか? だが、そんな音は一回しか聞こえなかったから、俺がミッションに来る前にはすでに開いていたのだろうか?

 こちらのエリアには火の玉が通った後のようなものはないから、向こうのエリアに向かって放たれたか――

 

 

『……何……か、無粋な……侵入……者が……い……るな』

 

 

 突如、そんな低い声が響いた。

 チビ星人のテレパシーの声に似ているが、頭に直接響くアレではなく、もっと遠くから、俺が無意識に足を進めていた奥のエリアへと繋がるあの大穴への道中に佇む、あの“岩”から響いた。

 

 否。俺が岩だと思っていたそれは、岩ではなかった。

 

 スッと、首が伸びる。

 ゆっくりと、巨木の様な太い四本の足で、岩のごときその体を持ち上げる。

 そこから伸びる長い長い首の先端、そこにあるその巨体からはあまりにも不釣り合いに小さい頭部が、つぶらな瞳が特徴的なその顔が、こちらの方に向く。

 

『……姿は……見えぬ…………が……感じる……ぞ。……近くに……い……る。……我ら……の……安……寧…を……邪魔する……小さな……侵入……者が』

 

 体が硬直する。気づかれている。

 ……それに、たどたどしいが、言葉を発した。知能がある。少なくともトリケラサンよりは、はるかに巧みに、意味のある言語を操っている。このことから、かなり人に近いそれ。おそらくは千手以上、チビ星人クラスの自我があるんじゃないか。

 

 見た所、こいつはブラキオサウルスか? 史上最大の恐竜と言われていたあの草食動物の。

 ……目の前のこいつは確かにデカいが、サイズ的にはおそらくは子供だ。……こういった展示会は、子供の恐竜だけで展示することはまずない。……おそらくは大人もいるはずだ。……向こうのエリアか?

 

 こいつを刺激しないように棒立ちで思考に耽っていると、子ブラキオは、遠くを眺めるように首を伸ばし、呟くように言った。

 

『……いや……それだけでは……ない…な。どう……やら……外にも……いくら…か……いるよう……だ。……ふっ…愚か……にも……我らの…使い……の……逆鱗に……触れたと…見える』

「……使い? 逆鱗だと?」

 

 子ブラキオの言葉の意味が分からず、思わず口に出して呟いてしまう。

 

 その時――

 

「――キューーッ!! キューーーッ!!!」

 

 建物の外から、奇声のようなものが聞こえた。

 

 俺は思わず振り返る。なんだこれは?

 

 だが、本当に驚愕するのはここからだった。

 同エリアにいた、二頭のT・レックス。彼らの動きがピクリと止まり、突然天に向かって吠えた。

 

「「ギャァァァォォオオオオオオオンッ!!!!!!」」

 

 空気全体が震えているかような衝撃のそれに呑まれていると、二頭のT・レックスはそのままどこかへと駆け出した。

 

 その先は、トリケラサン達がいる隣のエリア――――ではなく、展示場外へと繋がる、出口だった。

 

「なんだとッ!?」

 

 俺の驚愕を余所に、二頭のT・レックスは突進してそのまま扉を突き破り、外に出る。

 

 ドゴオォン!! という破砕音と後に、野太い英語の絶叫が微かに響いた。

 

『いいの……か? ……小さき……者よ』

 

 振り返ると、ブラキオ子がこちらに向かって高みから見下ろしていた。

 

『早く……助けに…行かねば……お前の……同胞は……死に…絶える……ぞ』

 

 俺はすっかり位置がバレているようなので、透明化を解除する。……さっき声に出して叫んだのが不味かったか。

 まぁいい。コイツには話したいことも出来た。

 

「……そうだな。だが、その前にお前を殺してからだ」

 

 俺は上から目線で見下ろしてきやがる子ブラキオに向かって不気味に笑って言い放つ。

 

『笑……止』

 

 子ブラキオは、古臭い言い回しで、それを一刀両断した。

 

 

 次の瞬間、子ブラキオは、その長い首を凄まじい速さで、俺を両断すべく振り下ろした。

 

 




いやぁ、やっぱりスマホは凄いストレス。
・・・ノートPC買い換えの時期なのかな。もうかなり使い込んでるし。


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それぞれの戦場で、それぞれの戦争が加速する。

ちらっと見たらランキングが一位でした。
読んでいただいているすべての方達に最大級の感謝を。本当にありがとう!


 

 その三名の黒人は、命からがらヴェロキラプトルの集団からの逃亡を図っていた。

 三人は、腕にヴェロキラプトルの爪の一撃を食らった男を中央に二人で肩を貸すような体制で逃げており、その胸の内は今の理不尽な状況に対する恐怖と怒りで満ちていた。

 

「Why is it!! Why was it this!?」

「It's complete, in…… truth, what day !!」

「In the one by which I have just come to CHINO to meet in Japan……」

 

 三人は無我夢中にヴェロキラプトルのいない方へと向かっていたが、やがて進行方向――展示場へと向かう道中に、麦わら帽子に袖なしのTシャツを身に纏った虫取り少年が立ち塞がる。

 

「Hey,……what is it, he?」

「Well! It's he! That black sphere is the target which was being talked about!」

「The one…… is filled with……, and is he a ringleader? When kills him, this, does the game which played end?」

 

 自分達をこんな意味の分からない状況に送り込んだ、あの部屋の黒い球体が示していた“ターゲット”が、目の前にいる。

 

 コイツを殺せば終わる。この絶望的な状況が終わる。助かる。生き延びることが出来る。

 

 黒人達はそう思い込むことで自らを律し、三人でかっぺ星人を取り囲んだ。

 

「……お、おらのどこがなまってんだ……いってみろっつうの~」

 

 何やら震えた声で、額に汗を滲ませながら支離滅裂な言葉を呟くかっぺ星人。

 

 だが、三人の黒人には、その日本語は通じなかった。

 

 もはや聞く耳など持たずに、微かに見出した希望に向かって、一心不乱に、ただ暴力を振るった。

 

 殴り、蹴った。かっぺ星人は反撃を試みたが、黒人達は己の体格と三対一という数の利を生かして、一方的に殴り続けた。殴って、殴って、蹴って、殴り続けた。まるで、何かに取り憑かれたかのように。何かから逃げるように。

 

 殺せ。殺せっ! 早く、早く殺せ!! 息の根を止めろ! 早く! 早く!! 早くっ!!

 

 死ねっ! 殺せっ! 死ねっ! 死ねっ! 死ねっ! 殺せっ! 殺せっ! 死にたくないっ! 死にたくないっ! 殺されたくないっ! まだ死にたくないっ!

 

 早くっ! 早くっ! こんな場所から! こんな地獄から! 早くっ!

 

 

 早くっ! 解放してくれ!!

 

 

 そんな祈りの篭った、そんな願いの篭った、怯えながら振るう現実逃避の暴力だった。

 

 

 そして、かっぺ星人は、そんな希望を、あっさりと打ち砕く。

 

 そんな都合のいい理論武装の理不尽な仕打ちを、当然のように許さない。

 

 

「キューーッ!! キューーーッ!!」

 

 

 自らを痛めつける三人の地球人を指差し、怨嗟の念を込めて奇声を上げる。

 文字通り、目の色を変えて。細めていた目を、カッと見開いて。

 

 黒人達はその行為に戸惑って思わず暴力の手を止めると、そこに――

 

 

――二頭の恐竜の王が、更なる絶望と恐怖と共に出現した。

 

 

 豪快にガラス片を撒き散らしながら登場したT・レックスは、真っ直ぐ自分達の元へと進撃し――

 

「「「NOOOOOOOOOOO!!!!!!!」」」

 

 地獄の門を体現するかのように大きく開かれた咢で、彼らを上半身まるごと力強く食い千切った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 現れて早々三人もの人間を殺戮した二頭のT・レックスが、こちらに向かって猛進するのを見て、和人は渚とあやせに向かって叫んだ。

 

「逃げろ!! 早く逃げろっ!!」

 

 二人はこちらを見て頷くが、それでも周りにいるヴェロキラプトルに怯み動くことが出来ない。

 

(くそっ、どうする!? このままだと間違いなく全滅だ……ッ)

 

 スーツを着ていない渚はもちろん、ヴェロキラプトルには勝てた東条、スーツを着ているとはいえ戦闘力は低いあやせも危ない。

 そして和人自身も、T・レックスに勝てるかと言われれば、正直自信がない。

 だが、一番不味いのは、ここで四人一遍に獲物になること。とにかく今は逃げることが最優先。

 

 焦る気持ちを必死に抑える和人は、そこでここに来るときの一緒に転送されてきた、あのモノホイールバイクを見つける。

 

(――あれだッ!!)

 

 和人はそれに向かって一直線に走り、途中振り向きながら東条に叫ぶ。

 

「二人を頼む!!」

 

 東条は不敵に笑いながら答えた。

 

「おう、まかせろ――思いっきりやれ」

 

 その言葉に口元を緩めることで答え、視線を前に戻して駆け抜ける。

 

 そして、バイクの周りに群がっていた数体のヴェロキラプトルの間に体を捻じ込むようにしてバイクに飛び乗り、直感でアクセルを回す。

 

「――よし、行くかッ!!」

 

 和人は一気にギアを上げて、その場でスピンをするようにして群がるヴェロキラプトルを吹き飛ばし、あやせと渚の周りを囲むヴェロキラプトルに向かって突っ込む。

 

「グルォォオオオ!!!!」

 

 ヴェロキラプトル達は逃げ出すか、あるいは跳ね飛ばされ、あやせと渚の目の前にモノホイールバイクに乗った和人が現れる。

 

「「桐ケ谷さんッ!!」」

「二人とも急いであっちに逃げろッ! T・レックスは俺が向こうに引き付ける!!」

 

 そう早口で伝えると、和人は再びスピンするように方向転換し、勢いよく飛び出して行った。

 そのすぐ後に東条が渚とあやせの元に駆け付ける。

 

「大丈夫か、おまえら?」

「東条さん!」

「あ、あの、桐ケ谷さんは――」

「とりあえずアイツに任せようぜ。俺達よりもあのバイクみてーな奴の方が逃げられるだろう?」

「で、でも――」

「いいから行くぞ――ここで突っ立ってると、アイツが体張った意味がなくなるだろうが」

「――ッ!?」

「……そうです、ね」

 

 渚とあやせは東条の鋭い言葉に、顔を俯かせながらも走り出す。

 

 

 その時、和人は二頭のT・レックスが走ってくる通路の出口にいた。

 

 二頭のT・レックスは、近づくたびにその存在感を増し、その巨躯が与える威圧感と、全身から放つ圧倒的な捕食者のオーラが、和人の心拍数をどんどんと上げていった。

 

 その感覚は、あのSAO時代のフロアボスと対面した時の感覚に似ている。

 

 体の奥底から湧き起る、原始的な、生物として当たり前の恐怖心。

 命の危機を知らせる信号が脳内に鳴り響き、一刻も早く、目の前の強者から逃げ出せと当たり前の欲求を促す。

 

 だが、和人は笑う。不敵に笑う。

 

 自分は、俺は、そんな命の危機を、圧倒的強者との修羅場を、それこそ何十回と潜り抜けてきた男だと。

 

 思い出せ。あの、七十四層での青い悪魔との決闘を。あれに比べれば、目の前の怪物など、ただのデカい蜥蜴(とかげ)だ。そうだ。やれる。俺ならいける。

 

「さぁ来い、T・レックス!! お前らの相手は俺だ!!」

 

 T・レックス達が目の前に迫った瞬間、和人は己を叱咤するように叫んだ。

 

「「ギャァオオオオオオオオオオオオオンッ!!!!!」」

 

 それに呼応するように、野太い咆哮を轟かす二頭の恐竜王。

 

 和人はそれを合図に機体をスピンさせ、あやせ達が逃げたのとは逆方向—―つい先程まで自分達がヴェロキラプトルと戦っていたあの階段の方向へと、強烈なスピードで飛び出した。

 

 その挑発は無事和人の思惑通りに働き、二頭とも和人に向かって足を向けた。

 

 和人は一度振り返ってそれを確認すると、そのままスピードを更に上げる。

 

「――ッ!!」

 

 階段を一気に飛び越え、機体が宙に飛び出した。

 

 その時――

 

 

「キューーッ!! キューーーッ!!」

 

 

 再び、その奇声が響いた。

 

「――なにッ!?」

 

 そして、二頭のT・レックスの内の一頭が、突然和人への関心を失ったかのように、その体の向きを変えた。

 

(ヤバいッ! そっちには渚達が――)

 

 ダンッ! と地面に着地した和人は戻るべきかと考えたが、それでも一頭のT・レックスは変わらずに和人に向かって走って向かってくる。

 

「――くそッ!!」

 

 和人は悔しそうに呻いた後、機体を前方に走らせた。

 そのまま道路へと出て、当初の目論み通り一体だけでも遠ざける。

 

(……すまない、みんなッ! 何とか生き延びてくれ……ッ)

 

 和人は自身に強烈な怒りを覚えながら、バイクのアクセルを更に回し、そのスピードを上げた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 和人が階段に向かって飛び出した時、その奇声は再び響いた。

 

「キューーッ!! キューーーッ!!」

「え!?」

「また!?」

 

 渚とあやせはその奇声に戸惑うと、二頭のT・レックスの内、自分達に近い一頭が突然動きを止めたことに気付く。

 

 そして、和人にそのヘイトを向けていたT・レックスが突然あやせ達の方に、その爬虫類特有の細く鋭い目を向けた。

 

「ひいゃッ!?」

「……ッ!」

「ちっ!」

 

 あやせが小さく悲鳴を漏らし、渚も息を呑む。東条が舌打ちをして、二人に向かって怒鳴った。

 

「逃げるぞ! 走れ!」

 

 東条達三人は、そのまま和人達とは逆方向の階段を降りる。

 そこはバスやタクシーを利用する人達のためのロータリーとなっていて、隠れるスペースも多かった為か、数人の生き残りのメンバーがいた。

 彼らは突然現れ、尋常じゃない様子の三人に呆気にとられていたが、更にその後ろから現れた、先程のヴェロキラプトルとは桁違いに強大なT・レックスの登場に、収まりかけていたパニックが再発する。

 

「ぅぁ、ぁぁぁあああああ!!! ああああああああ!!!」

「いや!! いやぁぁあああ!!!」

「お前らなんでこっちくんだよ!! 俺達まで道連れにすんなよ!!」

 

 彼らからのその言葉に、叫びに、怒りに、渚とあやせは顔を俯かせる。

 

 だが、東条はただ一人冷静で、

 

「こっちだ」

 

 と、階段下のスペースに向かって二人の手を引く。

 

 階段を駆け降りたT・レックスは、まず目の前の喚き声を上げる茶髪の少年をターゲットに据えた。

 

「ちょ、こっちくんなって!!! おい、お前ら助け—―」

 

 その少年は渚達に向かって手を伸ばすが、渚とあやせが悲痛に表情を歪めた瞬間、T・レックスの巨大な咢に飲み込まれた。

 

「――ッ!!」

「――ぁ」

 

 その茶髪の少年は、この世に足首から先だけ遺して、命を失う。

 

 渚とあやせは呆然としていた。彼は、自分達がT・レックスをここに引き連れてきたせいで、死んだ。まるで、自分達が殺したかのようだった。間違いなく、自分達のせいで殺された。

 

 顔を真っ青にして、先程までとはまた違う種類の恐怖に囚われる二人。

 

 次に狙われたのは、茶髪の少年と同い年くらいの、高校生のお淑やかな少女だった。

 

「いやぁぁあああああああ!!! こないでぇええ!! たすけてぇぇえええええ!!!!」

 

 少女は必死に逃げ惑う。だが、そのヒールの靴のせいか、勢いよく体を打ち付けるように転んでしまい、あっさりと追い詰められてしまう。

 しかし、少女にとってはそんな痛みなどよりも、目の前に寄せられるそのT・レックスの巨大な頭部に対する恐怖こそが問題のようで、もはや悲鳴すら漏らさず、がたがたと体と膝を震わせ、がちがちと歯を鳴らしながら、必死にあやせ達に助けを求める。

 潤んだ瞳で、じっと、あやせを見つめて、無言の叫びを送り続ける。

 

「や、やめ――ッ!」

 

 思わず身を乗り出したあやせを、東条が力強く引き戻す。

 どうしてと叫びそうになったあやせに、東条は淡々と言った。

 

「俺は桐ケ谷にお前達を任された。それに、お前が行っても何も出来ねぇ」

 

 あやせはその言葉に、何も言い返せなかった。そして、唇を噛み締めながら顔を俯かせる。

 その事に、明確に見捨てられたことに、その女性は絶望したかのように表情を失くし、その直後、表情を憤怒に染め上げ、忌々しげに言い残した。

 

「……この……人殺し――」

 

 喰われた。一口だった。一呑みだった。

 最後まで目を逸らせなかった渚は、その女性の最期の表情が目に焼き付いて離れなかった。

 顔を俯かせていたあやせには、その怨嗟の念の篭った今わ際の遺言が、心に深く突き刺さった。

 今も響く、人体を噛み砕き続ける音が、怖くて、恐ろしくてたまらない。

 

 たまらずに、耳を塞ぐ。

 

「……おねがい……もう……やめて…………」

 

 

 

「キューーッ!! キューーーッ!!!」

 

 

 

 それでも、絶望は止まらない。地獄は、終わらない。

 

 再び聞こえた奇声にあやせはバッと顔を上げる。

 見ると、T・レックスは再びその動きを止め、こちらにその冷酷な瞳を向けた。

 

「……そんな……どうして……」

 

 あやせが双眸に涙を溢れさせる。

 その時、渚がそれを見つけた。

 

「――あれだ。アイツが、僕達の場所を教えてるんだ」

 

 渚が指を差す先には、あの半袖短パンの少年――かっぺ星人がいた。

 

「そ、それじゃあ、わたし達、逃げられないんですか……?」

 

 あやせが、絶望の篭った声で零す。

 渚も、悲痛に顔を歪めて――

 

 

「なら、先にアイツからぶっ倒せばいいんだな?」

 

 

「え?」

 

 渚が顔を上げると、獰猛な笑みを浮かべながら、かっぺ星人を睨みつける東条がいた。

 

「アイツは任せろ。渚、この嬢ちゃんを守ってやれ」

 

 東条はドスンッ! ドスンッ! と足音を響かせてT・レックスが向かって来ていることなどまるで構わずに、渚の頭に手を乗せる。

 

「大丈夫だ。お前なら出来るさ」

 

 渚は呆然と東条を見上げた。

 

 その目は、渚を優しく、真っ直ぐに見据えていた。

 

 こんな目で自分を見てくれる人は、家にも、学校にも、どこにもいなかった。

 

 会ってまだ一時間も経っていないけれど。色々なことがあり過ぎて、まだ碌にお互いのことを何も知らないけれど。

 

 それでも、なぜか、この人の言葉は信頼できた。

 

 信頼に、期待に、応えたいと思った。

 

 この人が信じてくれた自分を信じて、この人が期待してくれた自分に期待したくなった。

 

 渚はあやせと思わず目を見合わせる。

 東条はそんな二人を見ると快活に笑い、階段裏から飛び出して、T・レックスに向かって走り出した。

 

「ちょっ!?」

「と、東条さん!?」

 

 T・レックスは雄叫びを上げると、そのまま東条を食いちぎろうと首を伸ばす。

 

 だが、東条はそれをすれすれで躱し、傍らに佇んでいたかっぺ星人を殴り飛ばした。

 

 T・レックスはそのまま東条を追おうとしたが、途中で渚達に目を止める。

 

 渚はふと東条に目を向けると、渚に向かってあの獰猛な力強い笑みを向けていた。

 

 かっぺ星人は立ち上がりながらその体躯を膨れ上がらせ、あの巨漢の東条よりも一回り巨大になっており、東条はそれに向かい合う。

 

 渚はその背中を見てぐっと息を呑むと、あやせの手を掴んで更に奥へと逃げた。

 

「あ、渚君!?」

「逃げましょう!! こっちなら、T・レックスも大きすぎて追いきれないはずです!」

 

 かっぺ星人は、その両腕両脚を強靭に変貌させ、あの東条を上から見下ろして喚き散らすように吠える。

 

「おでのッ! どこがなばっでんだッ! いっでみろっづの!!」

 

 対して東条は、その威容にまるで臆することなく、むしろその笑みを深める。

 

「ハハハっ。渚たちには悪いが、コイツは楽しいケンカが出来そうだ」

 

 東条英虎は、決して悪人ではないが、断じて善人でもない。

 

 あくまで彼にとっては、最も重要なのは――強者との、より楽しい喧嘩(たたかい)である。

 

 だからこそ、人が死に、血が流れ、自らも殺される恐れのあるこの残酷な戦場でさえ――そんな危険な戦場だからこそ、獣のように獰猛に、楽しそうに無邪気に笑うのだ。

 

 命のやり取りの殺し合いを、楽しむことが出来るのだ。

 

 飢えた虎は、首をゴギっと鳴らしながら、不敵に言い放つ。

 

 

「さぁて、喧嘩、しようぜ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その攻撃は、凄まじさという点から見れば、過去最強の攻撃だっただろう。

 

 だが、俺の体はその攻撃を認識するよりも早く、回避行動に移っていた。

 反射的に、自分でも気が付いたら身を限界まで屈めていた。

 

 ……不思議だ。自分でも引くくらいに落ち着いている。

 コイツが千手程ではないにしても過去最強クラスの敵であることは言われるまでもなく理解出来ているのに、俺の心は、むしろ敵の強さを理解すればするほど落ち着き、目の前の敵をはっきりと認識することが出来る。

 

 まるで、敵に合わせて自分の体の状態を、ベストへと、より強い状態へと近づけているように。

 

 敵に合わせて自分を、造り変えているかのように。

 

 子ブラキオは、ふるふるとその長い首を、まるで調子を確かめるかのように揺らす。

 

 俺は腰を落として、そのじっとその様子を観察した。

 

「………………」

「……その……首……もらい受ける」

 

 その言葉の直後――まさしく俺の首があった高さを、真っ二つにするがごとき一閃が走った。

 

 俺はそれを、頭頂部のアホ毛のみの被害で躱してみせた。

 

「――――な!」

 

 その時の子ブラキオは、それまでの緩慢な口調を崩し、本気で驚いたように感じた。

 まぁ俺も驚きだ。まさかここまで無駄なく避けられるとは。

 

 だが、おかげで体勢をそれほど崩すことがなかったので、この一回の回避で子ブラキオの懐まで潜り込むことが出来た。

 

 確かに、この攻撃は恐ろしい一撃だ。絶対に食らってはいけない一撃だ。

 凄まじい速さ、そして、そのリーチ。優秀で、有効な攻撃だ。

 

 だが、決して弱点がないわけではない。攻略手段がないわけでは決してない。

 

 まず、その攻撃手段が、己の首だということ。

 相手を定めるその頭を振るうのだから、一度攻撃体勢に入ると細かい修正が効かない。その攻撃の速さ故に大きなデメリットにはならなかったのかもしれないが、それは最小限の回避で躱せるということを意味する。

 そして、もう一つは攻撃が終わった後、次の攻撃に移るまでに間があること。これも首を武器にすることで頭を振るうこととなり、対象をもう一度きちんと設定する為に、一度頭の動きを止める必要があるからだ。

 

 そして、最後にして最大の弱点。

 首を武器にする性質上、それが届かない場所がある――その巨体の懐だ。

 

「むぅ……」

 

 呻っているが無駄だ。すでに俺は、透明化を自身に施し直してある。

 

 確かに俺はお前に透明化を見破られたが、それは俺が声を発したから、だと俺は解釈した。それ故に、俺はお前が首を振るったその瞬間に透明化を再び発動した。そして懐に入ったことで、透明化が完全に施されるまでの時間は稼ぎ終えたんだ。

 気配は感じることは出来るのかもしれないが、攻撃を当てる為には正しく場所を確定しなければならないだろう。そんな余裕は与えない。

 Xガンを向ける。動きが速い首や頭、尾などは狙いにくいが、これだけ懐に入れればその巨大な胴体が狙い放題だ。

 

「――ッ!」

 

 これは――

 

「ぬらぁ!」

 

 ッ!? ちっ!

 

 子ブラキオは体をねじるようにしてその尾を振り回した。さすがに自分の弱点くらいは把握しているか。

 俺はその尾に反射的にXガンを発射して、それを躱す。

 

 すると、空中に跳び上がると考えたのか、ノーステップで首の一撃を遮二無二に振るってきた。おそらくは始めから組み込まれていたのだろう。あまりに無駄がないコンボだ。故に、さっきの一撃で発したXガンの音と光の場所を考慮する間もなく、狙いが甘い。首を下げるだけで避けられる。そして、当然俺はその間に移動し、再び居場所を分からなくする。

 

 そして、連続攻撃のどちらも外したとなると、取り得る行動として、考えられるのは二つ。

 

 一つは、そのまま半分パニックとなった状態で、無茶苦茶に暴れ回る。だが、この子ブラキオはそれなりに知能が高い。ならば、おそらくもう一つの方――

 

――一旦、攻撃を中断し、俺の姿を捉えようとその動きを止める。

 

 当たりだ。

 

 子ブラキオが、再びその頭を一番高い場所へと戻し、動きを静止したその瞬間、俺はXガンを発射した。

 

 その音と光で子ブラキオは、今度こそ俺の場所の当たりをつけたようだが、もう遅い。

 

 その時、子ブラキオの尾が弾け飛んだ。

 

「ぬ、ぬお!」

 

 そして、それによりバランスを崩したその隙に、俺は今度は首に一撃を与える。

 

 こうなれば、もう俺の勝ちだ。

 

 続いて、子ブラキオの頭が吹き飛んだ。

 

 その隙に、俺は背後に回り込み、尾にもう一撃加え、もうそれを振るえないようにする。

 

 そして、子ブラキオの首が吹き飛ぶ。その間に、俺は再び前に回り込み、首の根元にもう一撃。

 

 これで、首と尾。子ブラキオの最大の武器である二つを、完全に破壊した。

 

 そして、これだけ攻撃すれば――

 

 バンッ! と、最後の破壊が完了し、その巨体は地面に倒れ込む。

 

「…………」

 

 ……やった、か? 一応、俺は透明化を解かずに警戒を続けるが、これだけXガンを浴びせれば――!?

 

 子ブラキオは、再び立ち上がろうとし、その足で巨体を持ち上げていた。

 

 ……凄い生命力だ。ここまでやって、まだ死なないなんて。……まぁ、再生する千手よりはマシ、か。

 なら、やはりその千手のように核のような部分があるのか? 弱点というか。あの小型の恐竜が右胸に食らった拳一発で死んだように。

 

 ……なら、一番怪しいのは、あそこだよな。

 

 子ブラキオは、豪快な一撃とばかりに二本の前足を高々と振り上げ、後ろ足のみで二本足で立ち上がるような体勢をとる。

 

「……許、さぬ……滅、せよッ!!」

 

 ありがたいな。まさか、わざわざ“狙いやすくしてくれる”とは。

 

 俺は、Xガンをその一点に向ける。

 

 そのレントゲンの様な画面には、先程懐に潜り込んだ時に発見した、今もどくどくと激しく稼働する、恐竜と言えど、生物であるが故に、変わらず生命線で在り続ける――文字通りの、その心臓部に。

 

 甲高い発射音と青白い閃光。俺は、ただゆっくりと三歩程下がる。

 

 強烈な威力が篭っていたであろうその一撃は、俺の眼前に振り下ろされ、ただその風圧だけが届くだけで、俺の体のどこも破壊するに至らなかった。

 

 そして、その轟音が収まった頃、ボコボコという音が聞こえ、子ブラキオの巨体がぐらりと傾き、そして堕ちた。

 

 俺は一応念のため、倒れて剥き出しになった腹にXガンを突きつけて、三、四回程心臓を撃った。が、その度にボコボコと体内で何かが暴れるだけで、子ブラキオはうんともすんとも言わなかった。

 

 どうやら死んだらしい。どうやら勝ったらしい。

 

 ……あ。聞きたいことを聞くのを忘れた。……それだけ戦いに夢中になってた、ってことか?集中できていたともとれるが……体が戦闘に適応し過ぎるのもアレだな。

 

 まぁ、いいか。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 俺はふうと一息ついて、マップを確認する。

 

 青い点は、あと七個。赤い点は、まだちらほらと結構な数だったが、それでも大分減っていた。

 

 俺以外の生き残りは……パンダを除いたら五人か。……大分減ったな。いや、これはまだ五人も生き残っていると考えるべきか。

 展示場がエリアのほぼ中央にあると考えると、西に一人、東に四人。東の四人は二人と一人と一人に分かれていて、うち二人の方が一つ赤い点に追われている。残る一人の片方は一つの赤点と向き合っているが、これは戦闘中か? もう一つの赤点は隠れているようだ。そして、西の一人は同様に一つの赤点に追われていて……かなり速い移動スピードだな。全力で走っているのか? だが、それにしても――

 

――いや、あまり外のことを悠長に考えるな。今は、この展示場内の星人を殲滅する方が先だ。

 

 この展示場内の赤点は、後三個。隣のエリアに二個。これはトリケラサンとT・レックスだろう。一個減ったが、まだ戦っているらしい。

 

 そして、もう一つの赤点は――あの奥のエリア。

 ……こうなると、おそらくは――

 

「……行くか」

 

 俺は、その奥のエリアに向かって歩みを進める。

 

 だが、ご丁寧にも向こうからこっちに来てくれるらしい。

 ドスン、ドスンと、重々しい足音が聞こえてくる。

 

 俺は透明化が施されているのを確認して、破壊されていないパノラマの林の中へと身を潜める。

 

 Xショットガンを構えながら、ソイツが現れるのを待った。

 

 

 そして、そいつは現れた。

 

 開いてあった敷居の巨大な穴を、その大きな首を下げて、(くぐ)るようにして。

 

 

 デカかった。巨大だった。今回のミッションで色々な巨大な恐竜を見てきたけれど、その中の何よりも、これまで見た数々の星人と比べても、間違いなく最大に巨大だった。

 

 体長はおそらく20mを超えているだろう。

 

 そして、その体の大きさも然ることながら、最も目を引くのは、その体と見合わせればあまりにも小さな頭部を強調するかのように生えている、その巨大な刃だった。尖るような顎のそれと、それよりも長大な鋭い鎌のような刃が頭頂部に生えている。

 

 ゾクリとした。身震いした。思わず乾いた笑みが漏れかけた。

 

 ああ、凄い。やはりボスは、格が違う。一目見ただけで分かる。

 

 あれがボスだ。あれが今回のミッションで一番強い個体だ。

 

 親ブラキオ。

 

 ……やってやる。()ってやる。()って、()る。

 

 勝って、殺して、稼いで――あの部屋に還る。

 

 吐息が漏れないように気を配りながら、肺の中の空気を入れ替えるように、大きく深呼吸。

 

 それだけで俺の体は、このミッションが始まって以来、最も落ち着いた最高のコンディションになった。

 




 次回は和人の戦いがメインになるかな?


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少年は、己の才能を示すべく、冷徹な殺意を纏い、恐竜と対峙する。

タイトルは迷った末にこれにしました。少年とは誰を指すのか、本編を読んで確かめてください。


 深夜の路上を一台の近未来風のモノホイールバイクが疾走する。

 そのドライバーはこれまたSF風の漆黒全身スーツを纏った美少年。

 もし彼らの姿が一般人に視認可能ならば、目撃者はハリウッド映画の撮影なのかと誤解したかもしれない。

 

 だが、だとすれば、彼を追いかけるその存在は、あまりにも不似合だった。ジャンル違いだった。

 

 追跡者は、近未来風の彼とは異なり、時代をはるかに逆行した存在――恐竜の王、T・レックスなのだから。

 

「――くッ!?」

 

 和人は初めて乗るその乗り物を巧みに乗りこなしている。これは数々のVRMMOを経験して、色々な乗り物を乗りこなしてきたことが大きいだろう。GGOでも熟練のプレイヤーですら乗りこなせないような三輪バギーを一発で乗りこなしていたし、現実(リアル)でも彼はマニュアル中型免許を持っている。

 

 それでも、初めて動かす乗り物を操縦しながら、自分を食い殺そうと猛追してくるT・レックスから逃げ惑うのは、和人にとっても十分に修羅場だった。

 

 幸い今は深夜で他に走っている車両のいない公道を使わせてもらっているが、いつまでもこのままというわけにもいかない。

 

 恐竜というのは、その化石から元の生態を逆行して推測するので、新たな情報が見つかるとそれまでの仮説が一気に引っ繰り返り、まるで別の生き物のように変わることもある。それはT・レックスという、恐竜の代名詞のような有名な種でも、いやむしろ有名な種だからこそ、色々な説がある。

 

 ゴジラのように尻尾を引き摺っていただとか、一般的な爬虫類のように変温動物だったのではないかだとか、鳥のように羽毛が生えていたに違いないだとか。

 そんな中でもT・レックスはその移動速度、走る速さについても過激に議論されている。そもそも走るのが困難で常に歩いていたのではという説もあるくらいだ。

 

 だが、残念ながらご覧のように、少なくともこのT・レックス型の星人は、およそ時速五十キロ近くの猛スピードで、和人が乗るモノホイールバイクを闘志剥き出しのギラギラとした瞳で追い縋ってくる。

 

 それは、恐怖以外の何物でもない。

 

 しかし、その両者の距離は徐々に広がっていく。

 単純な話として、和人が乗っているこのモノホイールバイクは、時速五十キロよりもはるかに速いスピードが出せるのだ。しかもまだまだ余裕がある。バランスも、和人のように初めて乗るドライバーでも、こんなフォルムにも関わらずまったくぶれずに安全運転が出来ている。

 これは和人の操縦が上手いからなのかもしれないが、それを含めてもやはり和人が一目見て思った通りとんでもないテクノロジーで作られている。まるで仮想世界のアイテムのようだ。現実感を失う。T・レックスに追いかけられている状況で今更だが。

 

 そんなことを考えられる程に心に余裕が生まれた、その瞬間、そんな和人を窘めるように、その音が脳内に鳴り響いた。

 

ピンポロパンポン ピンポロパンポン

 

 奇妙なその音に一瞬困惑する和人だったが、すぐに思い至る。

 

『……さっき、僕達みたいにあの部屋からここに送られてきた人達が、帰ろうとして駅に向かって走っていったんです。……そしたら、頭の中に着メロみたいな音楽が流れて……』

 

(エリア外への警告音かッ!)

 

 和人はすぐにバイクのスピードを落とす。が――

 

「GYYYAAAAAAAAAAAA!!!!!」

「――ッ!!」

 

 後方から轟く咆哮。奴は依然として猛スピードで和人を捕食せんと迫ってきている。

 

 だが、これ以上進めば、いつ頭が吹き飛ぶか分からない。

 

 和人はちょうど交差点へと差し掛かったところで、車体を大きく傾ける。

 

「――っ、ぉぉぉおおおおおお!!!!」

 

 ほとんどUターンのような形で、和人は反対車線へと移動する。膝を擦らんばかりに強引に曲がりきり、この窮地からの脱出を図る。

 が――

 

「ギィャァァァアアア!!!」

「!!」

 

 T・レックスは律儀に交差点など使わず、その巨大な一歩で路側帯を飛び越え、和人の前へと躍り出る。

 

 突如目の前に現れる暴竜。和人の腕程の大きさの牙が何十本も生え揃った咢を、和人を迎えんばかりに大きく開く。

 

 和人は渾身の力でアクセルを回した。

 

 流星のような軌跡を描く加速だった。間一髪でT・レックスの股の間を抜け、再び九死に一生を出る。

 

 T・レックスは再び天に向かって咆哮し、猛スピードで追撃を再開する。

 

 和人は落ち着くために少しスピードを落として、大きく息を吐きながら、思考する。

 

 このままではいつ捕まるか分からない。そして、このまま逃げ続けたとしても、根本的な解決にはならない。

 和人は道を変え、展示場の周りをぐるりと回るようなルートに出る。そこは長い直線になっていて、そこを真っ直ぐに走りながら一旦落ち着いて作戦を考えようとした。

 

(……俺の武器は、今の所これだけ)

 

 和人はハンドルを片手で持ち、もう片方の手でXガンを取り出す。

 

 このバイクを運転しながら出来る攻撃手段としては、射撃だけだ。もとより肉弾戦に自信があるわけでもない。剣もない。ならば、残るは(これだけ)だ。

 

 だが、バイクの運転はまだしも、銃撃はまるっきり専門外だ。はっきり言って苦手といっていい。あのT・レックスから逃げながら、この未知の機体を操縦しながら、果たして撃てるのか?撃てたとしても当たるのか?

 

 和人は後ろを振り向く。速度を落としたと言っても、先程の逃走から探ったT・レックスの走行速度から考えて一定の距離を保つ程度の速度は残しているはずなので、追いつかれてはいないはずだが――

 

「――? なんだ?」

 

 後ろを見ると、T・レックスの足が止まっていた。

 だが、諦めたという様子ではない。和人の背筋には、長年の経験が危険を告げるように冷や汗が流れていた。

 

(……なんだ、一体なに――ッ!?)

 

 T・レックスの口腔内に、眩い黄色の光が灯った。

 

 

 次の瞬間、このモノホイールバイクと同等サイズの燃え盛る弾丸が、和人に向かって一直線に射出された。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 渚とあやせは階段の裏のスペースへと駆けこんだ。

 

「ゴァラァァアアア!!!」

「ひっ!」

「っ!」

 

 間一髪。遮二無二にその空間に飛び込んだことで、なんとかT・レックスの追撃を逃れることが出来た。

 T・レックスはそのスペースに大きな頭部を突っ込み、グルルルと喉を鳴らしながら、ギラギラと血走った肉食獣の瞳で、歯の間から異臭漂う唾液を垂れ流しながら、文字通りの目と鼻の先にいる渚とあやせを睨みつける。

 

「……や……いや……」

「――あ、新垣さん。立てますか、もっと奥に」

 

 渚はパニックで喚きたい衝動を、怯えるあやせを見て必死で抑え込み、なんとか立ち上がる。

 そして、あやせを引っ張り上げながら、T・レックスに背を向ける。

 

 この階段裏のスペースでは、自分達が駆け込んで、今はT・レックスが頭部を突っ込んで塞いでいる左側とは反対の右側から脱出することが出来る。そこは道路へと繋がっていて、ここに出ればもっとT・レックスから離れられる。

 そう思い、ガタガタと震えそうになる膝を必死で動かして向かおうとすると――

 

――その先から、グチャ グチャ という、咀嚼音が聞こえた。

 

 異様な水音に、渚達は思わず足を止める。

 

 そして、その音が止むと、ペタン ペタンというゆったりとした足音と共に、それは姿を現した。

 

「ギャァァウス!!」

 

 T・レックスのそれよりも重みや迫力には欠けるが、か弱い渚達にとっては十分に背筋を凍らすに足る甲高い啼き声だった。

 

「っ!」

「そ、そんな……」

 

 安全なはずの反対の道路側から現れたのは、小型の恐竜――ヴェロキラプトル。その口元を真っ赤に染めた姿が、命を貪り蹂躙した証として、渚達に生々しい恐怖を与えた。

 幸いにも一頭だけだったが、これで完全に逃げ道を塞がれてしまった形だ。

 

 硬直する渚を尻目に、あやせが一歩、前に出る。

 

「新垣さん!」

「だ、大丈夫です。わたし、さっきも倒せましたから。一体くらいなら――」

 

「GYAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!!!!!」

 

 背後から、ブリザードのような咆哮が轟く。

 それは、あやせや渚に対して俺の存在を忘れるなという警告だったのか、それとも突然現れた闖入者(ヴェロキラプトル)に対して渚とあやせ(コイツラ)は俺の獲物だから手を出すなという威嚇だったのか。

 

 少なくとも、前者に対しては効果は覿面だった。

 

「ぁ……ぁぁ……」

 

 あやせの必死の思いで振り絞った闘志(ゆうき)は、完全に恐怖で上書きされた。

 涙を流し、膝を、肩を、ガタガタと震わせて、ペタンと内股に力無く地面に座り込んでしまう。

 

 だが、後者に対しては効果は薄かった。

 渚達を挟んでいたが故か、それとも普通の恐竜よりも知能が高く、T・レックスの現状を把握したのか。

 自分よりも食物連鎖において確実に上位に君臨するであろう王の威嚇にも、目の前のヴェロキラプトルは動じずに、再び嘶く。

 

「ギャァァアアアアウス!!!」

 

 そして、渚達が隠れる階段裏のスペースに侵入する。

 

 その時、渚はそのヴェロキラプトルが、自分達が先程まで戦っていた個体よりも一回り大きいことに気付いた。

 なによりも特徴的なのが、その頭部の大きな鶏冠(とさか)

 もしかしたら、この個体はヴェロキラプトルのリーダー的な存在なのかもしれない。渚は恐怖で混乱する中で、妙に冷静にそう観察した。

 

「……な、渚くん」

 

 あやせが潤んだ瞳で、渚を見上げる。

 彼女は、必死に作った、痛々しい笑顔で、こう言った。

 

「わたしを置いて……逃げてください」

 

 渚は愕然とし、一気に乾いた喉から言葉を絞り出す。

 

「な、なにを――」

「……動ける餌と、動けない餌だったら、きっと後者(わたし)を狙うと思います。……だから—―」

 

 あやせは美しく、悲愴な微笑みと共に、言った。

 

 

「――(わたし)が、殺さ(たべら)れてる間に……渚くんだけでも、逃げてください」

 

 

 それは、その言葉は、その微笑みは。

 

 渚の心を、そして渚の何かを、激しく、静かに――冷たく、揺さぶった。

 

『アイツは任せろ。渚、この嬢ちゃんを守ってやれ』

 

(――あれ。なんだ、この感じ)

 

『大丈夫だ。お前なら出来るさ』

 

(ダメだ、そんなの。そんなの、ダメだ。死んだらダメだ。新垣さんが死ぬなんてダメだ。だから—―)

 

 渚は表情を消し、瞳から感情を失くして――――それを纏った。

 

 

(――()られる前に、()らないと)

 

 

 渚は静かに歩み出す。

 

 目の前の、一際凶暴な怪物(ヴェロキラプトル)に向かって、淀みなく、迷いのない足取りで。

 

 あやせは再び感じる渚の豹変に一瞬呑まれながらも、引き留めようと叫ぶ。

 

「ダメッ! 渚く――」

「大丈夫です」

 

 対して渚は、まるで気負わない、普段よりも普段通りの、静かな口調で。

 

 一瞬だけ振り返り、あやせに微笑みかけた。

 

「僕だってきっと、()れば出来る」

 

 

 E組に落ちてから、誰も見てくれなかった。

 

 親も、教師も、友達だったはずのクラスメイト達も。

 

 期待もされず、信頼も失った。認識さえも、されなくなった。

 

 ずっと思っていた。焦っていて、燻っていた。

 

 いつか、どこかで見返さなくちゃ。やれば出来ると、認めさせなきゃ。

 

 

 それは、きっと、今、この瞬間だ。

 

 

『――あんな簡単に自分の命を投げ出さないでください』

 

 自分を認識し(みつけ)てくれた、この人を助けたい。

 

『大丈夫だ。お前なら出来るさ』

 

 自分を信頼してくれた、あの人の期待に応えたい。

 

 今こそ、自分の才能(かち)を証明する。

 

 やれば、出来ると。

 

 ()れば、出来ると。

 

(――僕でも……違う。……僕なら、()れる)

 

 渚は音もなく、ナイフを腰のベルトから引き抜く。

 

 あやせはその背中に、目を奪われていた。

 

 

 間違いなく、その小さな背中は――鋭い殺気を纏い、放っていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 この展示場は恐竜の模型だけでなく、川や草原など景観の再現にもこだわっていて、恐竜達の大きさがよく分かるようにこれらも実物サイズで作られている。

 

 そして俺は、そんな中の背の高い森の中に隠れていた。

 当然、ステルス機能も作動してある。

 

 その俺の、目の先。

 奥のエリアへと繋がるどデカい穴から現れ、荒野のパノラマの中をゆっくりと歩みを進めているのは、ブラキオサウルス。

 

 俺が先程完膚なきまでに殺害した個体の、おそらくは成体。

 子供の方もそれなりに大きく強かったが、目の前の個体はそれよりも更に一回り大きく――その戦闘力は桁違いであることは容易に見当が付く。

 

 だが、今の俺の思考は極めてクールだった。さっきの子供の時は、会話をしてみたかったこともあったから――結果忘れてたけど――ステルスを解いて真っ向勝負を挑んだ。だが、こいつ相手にはやろうと思わない。

 

 そんな余裕を持てる相手ではない。

 

 俺はXショットガンをリロードし、大樹に身を隠しながら、砲身を奴に向ける。

 

 この距離なら、十分にスナイパー作戦が有効だ。

 この半年間、この作戦で手始めに殺せる相手を殺し尽くして数を減らしてから白兵戦というのが流れだったから、大分狙撃の技術は上がったと思う。剣と違ってこっちはいくらかセンスがあったらしい。まぁ、ぼっちには向いている(ジョブ)だとは思う。

 

 ……まぁ、一撃で殺せるような相手ではないだろう。狙うなら頭だが、さっきの子供は首を吹き飛ばしても死ななかったからな。やはりコイツの弱点も心臓なのか? ……だが、ここからでは狙えないし、無闇に近づくのも――

 

 そんな風に手をこまねいてしまい、なかなか先手が打てないでいると、奴はゆっくりと――俺が殺した、子ブラキオの死体に辿り着いた。

 

 その長い長い首を地面近くまで下ろして、子供の亡骸を至近距離で見つめる。

 奴はしばらく呆然としていると、重く、低い声が響いた。

 

「……許すまじ」

 

 ……やはり親の方も言葉を発するのか。子ブラキオよりも流暢に、すらすらと言葉を発する。

 その憎悪の篭った、暗く、昏く、重い呪詛を吐き出す。

 

「……許すまじ……誰だ……我が子をこんなにも……こんなにもッ! 惨く殺した悪魔は誰だっ!!」

 

 親ブラキオはその長い長い首を伸ばしきり、天井に向かって吠えるように叫ぶ。

 

「許すまじ! 許すまじ! 許すまじ! 許すまじ! 許すまじっ!!!」

 

 ……大事な存在を理不尽に殺された、その叫び。

 

 己の心がズタズタに切り裂かれ、奪った存在への真っ黒な憎悪に魂を侵食されていく、その痛々しい姿。

 

 ()ぎる。これまでのガンツミッションで、幾度となく見せられ、突きつけられてきた、その真っ暗なで真っ黒な感情。

 

 決まって俺が加害者だった。その憎悪のターゲットだった。

 

 この手で、そんな被害者達を、俺は量産してきた。

 

 

 だから、なんだ?

 

 

 甲高い発射音が響く。青白い閃光が瞬く。

 

「ぬうッ!?」

 

 親ブラキオはこちらに向かってその小さな顔を向けるが、その時には俺は移動している。

 ステルスヒッキーを舐めるな。足音を立てずに移動するなど朝飯前だ。存在感溢れるお前には一生かかっても習得出来ないであろう俺の奥義だ。本気で気配を消す気になれば、俺は絶対に見つからない。

 子ブラキオの時は正直あんなとこに敵がいるとは思わず、スーツのステルスも作動していたのもあって油断していたが、スーツのステルス+ステルスヒッキーの併用ならば、俺は本気で幽霊(ファントム)になれる。

 

 そして移動した先で再び俺は奴にXショットガンを向ける。

 

 かつて俺は、そのあまりに生々しい感情の瀑布に呑みこまれてしまったことがあった。怯んでしまったことがあった。

 

 そのせいで、その俺の弱さのせいで、取り返しのつかない事態を招いた。

 

 たくさん傷つけ、たくさん失った。

 

 たくさん、かけがえのないものを奪った。

 

 だから、俺はもう揺るがない。

 

 恨むなら恨め。憎むなら憎め。

 

 その憎悪の全てを甘んじて受け止めよう。そして、その上で、お前も殺してやる。

 

 これも、このミッションへと適応なのか。俺は強くなったのだろうか。

 

 これが強さかどうかは分からない。正しいのかも分からない。

 

 だが、例え間違った強さだろうと、強さに見えた弱さだろうと、このミッションを生き抜く上で使えるのなら、それでいい。

 

 思う存分、使わせてもらおう。

 

 親ブラキオの長すぎる首の表面が破裂する。さすがに一発だとそれほどのダメージにはならないか。

 まぁいい。今のは奴の心を乱すための陽動のようなものだ。

 

「誰だっ!? 姿を現せッ! 卑怯者がッ!」

 

 誰が見せるか。これは殺し合いだ。

 

 お前のその言い分は、真っ向から何者にも立ち向かえる強者の傲慢な言い分だ。

 

 こちとら弱者だ。最弱だ。弱くて弱くてたまらない。

 

 だから逃げる。だから隠れる。

 こそこそ動いて、背中から卑怯に狙い撃つ。そうやって生き残ってきた、無様な敗者だ。

 

 それでいい。

 

 勝負に負けても、相手より弱くても、敵を殺して生き残れば官軍だ。

 

 殺せば、勝ちなんだ。

 

 親ブラキオがその長い首を伸ばして高い視点から俺の姿を探しているその眼下で、俺は姿を消すスーツのステルスと気配を消すステルスヒッキーを併用する幽霊(ファントム)モードを発動しながらロックオンし、移動するを繰り返す。

 

 このレントゲン機能から、やはり奴にも内臓のようなものがあることが分かる。おそらく心臓も。そしてそこを弱点だと仮定する。

 

 だが、心臓は奴の腹の下に潜り込めなくては撃てない。

 奴の攻撃手段――おそらくは子ブラキオと同じように首の鞭、そして頭部の刃による斬撃だろうが、他の攻撃手段、もしくは何か切り札のような奥の手、その存在の有無がはっきりしない以上、文字通りの敵の懐に飛び込むのは、奇策を通り越して、ただの蛮勇というものだろう。

 

 だから、とにかくまずはダメージを蓄積させる。致命傷には至らなくとも、少なくともダメージとなり、動きも少しは鈍るだろう。

 

 ロックオンによる、一斉射撃。普段は複数の敵に対する攻撃方法だが、一体に対する連続攻撃にも使用できる。そし――

 

「ギャァァァォォオオオオオオオンッ!!!!!!」

 

 その時、咆哮と共に、このエリアに満身創痍のT・レックスが乱入した。

 

 俺はマップを確認する。すると、先程まで二体だった隣のエリアの赤点が消えていて、一体がこちらに侵入してきている。……どうやらトリケラサンとT・レックスの決闘はT・レックスに軍配が上がったらしい。

 

 だが、それほどまでに激しい戦いだったのか、こちらに乱入したT・レックスは完全に興奮状態で、周りが見えていない。がむしゃらに吠えて、無茶苦茶に走り回っている。

 

「GYAAAAAAAAAAAAAA!!!!!!!!」

 

 一際大きく吠えると、その口腔内に炎が灯った――ッ、まさか!

 

 俺はすぐに距離を取り、一応刀を準備する。こんにゃくは斬れないけどいつもつまらないものを斬っている剣士みたいに出来るか分からないけれど、それでもXガンやYガンじゃ防げないだろう。こちらに飛んできて避けきれない時はやるしかない。自信ないけど。

 

 そして、T・レックスは、発射した。強烈な火球が、まっすぐに――親ブラキオに向かって飛んでいく。

 

 よっしゃ、ラッキー! さすがティガさん(違う)! と内心拍手を送っていると――

 

 

「邪魔だ」

 

 

 空間が、裂けた。

 

 そう感じてしまったほどに鋭く、真横に一閃が走った。

 俺は反射的に身を伏せた。それでも肩の当たりを持って行かれそうになったので無我夢中でガンツソードを、軌道を少しでもずらす様に差し込んだ。

 

 キィン! 剣がくるくると上空に打ち上げられる。

 

 それを思わず目で追っていると、ズズーンッ! と重たい物体が地面に倒れ伏せる音が響く。

 

 そちらに目を向けると、あの巨大なT・レックスが大きな二つの肉塊に変わり果てていた。

 あのT・レックスが、たったの一撃で。

 

 まるで見えなかった。防げたのも奇跡だった。子ブラキオの首の鞭など、ただの児戯に感じるほどに明確な――レベルの、ステージの差。

 

 これが、ボス。

 

 強い。圧倒的に、恐い。

 

「貴様か、見えなき者よ。……我が息子を、ここまで凄惨な骸へと変えたのは」

 

 奴は、ボスは、親ブラキオは、こちらに向かって、剣がくるくると舞う方向へと目を向け、語りかける。

 

 途轍もない憎悪が見え隠れする口調で、途方もない膨大な殺意を込めて。

 

「逃がさぬ。決して許さぬ。必ず見つけ出し、滅してくれよう。この身が(ほろ)びるまで、我が刃は振るい止まぬ」

 

 親ブラキオは、ゆらゆらとその首を揺らす。

 

 

 そして――

 

 




 今回の戦いはどの戦場も前半戦です。次回、後半戦です。


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少年は、静かに初めての暗殺を決行する。

今回の主役は、和人、そして渚で一話です。特に渚にとってはとても重要なターニングポイントとなります。


 

 火の玉が、擦過する。

 

「――なッ!?」

 

 全力でハンドルを切る。

 車体が大きく傾き転倒しかけるが、和人はすぐさま力づくでバランスをとる。

 

 ドガンッッ!! と、左斜め前方にその隕石のような一撃は落下し、バラバラとアスファルトの破片が降り注ぐ。

 

(か、火球弾ッ!? なんでT・レックスがそんなものを!? これじゃあ、本当にゲームのモンスターじゃないかッ!!)

 

「グォォォオオオオオオオオ!!!!!!!」

 

 T・レックスはそのまま猛スピードで追走を続ける。和人が後ろを振り向くと、再び口内に光が灯っているのが見えた。

 

 和人は歯噛みしながらバイクを発進させる。

 後ろを頻繁に振り返りながら、砲撃が発射した瞬間にハンドルを切りジグザグに進む。

 

 あの大砲はそこまで精度が良くないようで、躱すのは至難というわけではなかった。しかし、問題はその後の二次被害にあった。

 

 ドゴォンッッ!! と和人を狙った火球弾が、近隣のビルに激突する。

 コンクリートの破片が土砂崩れのように和人の乗るモノホイールバイクに降り注ぐ。

 

「――ッ!!」

 

 和人は咄嗟にスピードを上げて間一髪で避ける。T・レックスはそんな硬質な雨をもろともせずに突っ込んできた。

 

(……不味い。万が一、中に人が残されていたりしたら……ッ)

 

 このままでは、いつ無関係な人を巻き込んでしまうか分からない。いや、ここはあくまで現実の地をモデルにしたゲームマップという線も……。

 和人はそこまで考えて、いや、違う、と思い直す。渚は駅に人がいたと言っていた。それもNPCだという線も捨てきれないが、そこまで考えたらキリがない。ここが現実の地、現実の世界という可能性が少しでもある以上、その前提で行動すべきだ。

 

 ……だが、ここが現実世界(リアルワールド)ならば、何故逆に誰もいない? 恐竜が我が物顔で闊歩しているこの現状など、警察を通り越して政府機関が動いてしかるべきなのに。

 

(――ッ!? 不味い!!)

 

 ハンドルを全力で回す。思考に気をとられ、後ろを気に掛けるのを疎かにしていた。

 

 和人のすぐ背後に、火球が落ちる。

 

 その衝撃で跳ね上げられ、数瞬車体が宙を舞う。

 

 身動きがとれないわずかな時間。和人は後ろを振り向いた。どうやらあの大砲は連射出来ないようで、T・レックスはまっすぐこちらを見据えてくるだけだった。

 

 冷徹で、無機質で、だが獰猛な瞳と視線を交わす。

 

 ゾッッと背筋が凍った。

 

(……どうする? このまま逃げ続けるだけじゃ、いつか捕まる……ッ)

 

 T・レックスは目を逸らさない。真っ直ぐに和人を――自分の獲物を、食物連鎖の高みから見下ろしている。

 

 必ず食らうと、必ず殺すと、その捕食者の瞳で。

 

(――どうするッ!? どうすればいいッ!?)

 

 T・レックスは、咆哮する。

 無様に背を向け逃げることしか出来ない和人(にんげん)に、己の立場を知らしめるように。

 

「グォォォォオオオオオオオオオオ!!!!!」

 

 和人は心臓を鷲掴みにされたかのように、息を呑む。

 

 そして、心中で、叫んだ。

 

(あの怪物に勝つには――ッ。“桐ケ谷和人”は、どうすればいいッ!!)

 

――助けてくれ……アスナ。教えてくれ……“キリト”ッ。

 

 

――お前なら、一体どうするッ!?

 

 

 ダンッ! バイクが地面に着地し、再び疾走を再開する。

 

 和人は遮二無二にXガンを構える。バイクを運転しながら、背後で大きく口を開く怪物に向けて。

 

「――ッ!」

 

 揺れる。砲身がぶれる。当たらない。ただでさえ銃の扱いに不得手な自分が、こんな状況で放つそれが当たるわけがない。

 

「グォォォオオオオオオ!!!!」

「――ッ!!」

 

 ギュイーン! ギュイーン! と反射的に引き金を引く。当たらなくてもいい。とにかく撃った。自身に迫る恐竜を、恐怖を、とにかく近づけたくなくて。

 

 だが、その恐怖は、恐竜の王は、五体満足で自身に迫り続ける。一向にその足を止めない。どんどん、どんどん、こちらに向かって近づいてくる。

 

 奴の口内が、再び揺らめく炎で発光する。

 

「――くそッ!!」

 

 ハンドルを切る。ジグザグに進む。

 再び自分を擦過し、すれすれに通り過ぎていく巨大な火球弾。

 

 右斜め前方の建物を破壊し、降りそそぐ破片を左に大きく車体を切って躱しながら、ハンドルを感情に任せて拳で叩く。

 

(――くそッ!! どうすればいい!!)

 

 Xガン。これしか今の自分には武器はない。片手間に後ろに向ける。だが、さすがに後ろを向きながらまったく車体を揺らさずに走行することなど出来ない。砲身がぶれ、狙いが定まらない。

 

 その時、再び目が合う。T・レックスの目と、あの強者の目と、捕食者の目と。

 

 車体の揺れ、だけじゃない。自分の手も震えている。これは……怯え?

 

(……勝てない。桐ケ谷和人が、ただの人間が、戦おうと思う時点で間違いだったのか……)

 

――戦えない人間なんていない! 戦うか、戦わないか、その選択があるだけだ!

 

 ふと脳裏に浮かんだ、その言葉。誰の言葉だったか。

 その言葉には、今の自分にはない、確固とした強さが溢れていた。

 

――選択なら、私は戦わない方を選ぶ。……だって、もう辛い思いはしたくない。

 

 次に過ぎった言葉は、打って変わって弱弱しさで満ちていた。

 その彼女の言葉に、彼は、アイツは――――俺は、なんと答えた?

 

 強い彼は、自分と違って、強さに満ちた自分は――(和人)が憧れた、“(キリト)”は、一体なんと答えた?

 

 

――俺も撃つ! だから、一度でいい。この指を動かしてくれ!

 

 

 その時、黒のレーザーグローブで包まれた手が、Xガンのトリガーにかかった自分の手に添えられた――気がした。

 

 震えが、止まった。

 

 そうだ。俺には、あの『黒の剣士』が、奇跡の英雄がついている。

 

 なぜなら――彼も紛うことなく、俺自身なのだから。彼は常に、自分と共に在る。

 

 桐ケ谷和人の、中にいる。

 

 彼に出来たんだ。彼ならきっと、こんなピンチも軽々と乗り越える。

 

 なら俺にだって、必ず出来る。

 

(もう一度、俺は――黒の剣士(キリト)に、なってみせるッ!)

 

 甲高い発射音と青白い発光が、和人の手のXガンから発たれた。

 

 数秒のタイムラグ。そして――T・レックスの、顔面が抉れた。

 

「グォォオオオオオオ!!!」

 

 その時、ついにT・レックスの足が止まり、苦痛からか、天に向かって大きく咆哮を轟かせた。

 

「――よしっ!」

 

 初めての有効打。和人はバイクを止め、そのままT・レックスに向かって連射した。

 

 T・レックスは、先程よりも更に激情を込めて和人を睨みつける。

 グルルルと唸り、再びこちらに向かって疾走を始めた――その時。

 

 肩が破壊し、胸が破砕し――そして踏み出したその右足が破裂した。

 

「グォォォオオオオ!!!!」

 

 ズズーンッ!! と大きく音を立てて地に倒れ伏せる。

 

 和人は大きく息を吐きながら、それを見た。

 

(……やった、のか?)

 

 T・レックスは悔しそうに力無く呻く。だが、まだ死んではいない。

 

 死んでないのなら――殺さなくては、ダメ、なのか?

 

(…………)

 

 すでに和人は、数体のヴェロキラプトルを殺している。

 奴等はXガン一発で殺せたのでこんなことを思う暇もなかったが、目の前に力無く倒れ伏せるT・レックスを見て、改めて痛感する。

 

 これは命だ。ゲームの中の、自分達プレイヤーの経験値の為にポップするモンスターではない。

 

 生きていて、死ぬ、命だ。

 

 自分が、殺しかけている、命だ。

 

 Xガンを向ける。止めを刺さなくては。

 だが、撃てない。躊躇する。躊躇ってしまう。

 

 今更何を。そう思う。ここで躊躇うのは偽善を通り越して愚昧だ。なぜなら自分は、このゲーム内ですら、すでに数体の恐竜を殺している。複数の命を奪っている。偽善を謳うのすら遅すぎる。

 

 これはただの生理的嫌悪感だ。

 

 虫は殺しても、猫や犬は殺せないといった、心理的ハードル。

 

 より強い命を感じる程に、より生々しい生命の鼓動を奪うことに、抵抗を感じる――人間のエゴだ。

 

 だが、思う。ふと思う。

 

 これは確かに偽善だ。ヴェロキラプトルは殺せても、T・レックスを殺すことには抵抗を覚えるなんて。

 

 自分を殺しにきた恐竜は返り討ちに出来ても、こうして死にかけている恐竜は殺しかねるなんて。

 

 でも、ここで抵抗を覚えない人間は?

 

 自分を殺しにくる命も、こうして死にかけている命も。

 

 全て等しく平等に容赦なく殺せる――そんな人間と。

 

 命に差をつけて対応に差をつける――そんな人間は。

 

 果たしてどちらが正しいのだろう。

 

 果たしてどちらがマシなのだろう。

 

 そんなことを考えて、そんなことを深く考えてしまいそうになって、和人は頭を振って思考を追い出す。

 

 それは、考えてはいけないような議題に思えたからだ。それが逃げだと分かっていても、それは考えてしまったら、これから生きていけないような、これから先を生き延びていけないような、そんな命題に思えた。

 

 だから、気づくのが遅れた。何かが光っていることに。

 

 死にかけのT・レックスを見る。

 

 その口内が、燃えていた。

 

「――ッ!!」

 

 反射的だった。

 Xガンを向け、二つのトリガーを同時に、力強く引いた。

 

 容赦なく、躊躇なく――止めを刺した。止めを刺せた。

 

 殺されそうになったから、殺せた。

 

 そんな自分にハッとしたが、それでもT・レックスの大砲は止まらない。

 Xガンの攻撃には、時間差(タイムラグ)がある。

 

 T・レックスの頭部が吹き飛ぶのと、火球弾が発射されるのは、ほぼ同時だった。

 

 咄嗟にアクセルを回す。が、完全に停止し、射撃しやすいように車体を横に向けていた今の状況では――

 

(――くそッ! 間に合わないッ!?)

 

 和人はバイクから飛び出した。

 

 直後、火球は車体に直撃し、モノホイールバイクはそのまま吹き飛んでいった。

 

「がぁっ!?」

 

 和人はその衝撃でゴロゴロと転がりながらも、なんとか直撃を避けることに成功した。スーツのおかげか、致命傷にはならなかった。

 

 ゆっくりと立ち上がり、遠くのT・レックスを見る。

 生気を感じない。なんとか倒せたようだ。

 

 なんとか殺せたようだ。

 

「…………」

 

 和人は、T・レックスに背を向け、ゆっくりと歩き出す。

 

 ここは、駅とは反対側の展示場の裏だ。大分バイクで走ったので、このまま真っ直ぐ行けば、渚達が逃げたロータリーの方に行ける。

 

 先程の衝撃によりまだ上手く働かない頭でそんなことを思考しながら、足を進める。

 

(……渚達は、大丈夫だろうか。……アイツは……あと、敵は何体なんだ? ……クリア条件は、敵の全個体撃破か? ……制限時間はあるのか? ……これで、この戦いで終わりなのか? ……俺達は死んだ……死んでいる……また、元の日常に帰れるのか? ……明日奈には……それとも、これからずっと、こんな戦いを――)

 

 考える。これがゲームだとしたら、そのクリア条件は何だ? システムは? ルールは?

 

 考える。そして分からないことが分かった。今の自分には、あまりにも情報が足らな過ぎる。

 

(……とにかく生き残るんだ。そして、情報を手に入れなくちゃならない。……そのためには、アイツを――)

 

 そう結論を出して、俯いていた顔を上げる。すると、ロータリーのすぐ近くまで辿り着いていた。

 

「――ん?」

 

 少し先の路上に何かがあった。

 

 それは、グチャグチャで、ぐちゃぐちゃで、無茶苦茶で、滅茶苦茶だった。

 

 元がどういう形状だったのかは分からない。――ただ赤かった。

 真っ赤で、漂ってくる匂いから――それは血だと分かった。

 

 ゲームでは、VRMMOでは感じない、生々しい――死の匂い。

 

 足が止まる。一瞬、それはさっきのT・レックスのように恐竜かと思った。誰かが倒した敵だと。

 

 だが、それは小さい。あまりにも小さい。T・レックスでは勿論なく、ヴェロキラプトルだとしてもあまりに小さい。

 

 ゆっくりと足を近づける。動悸が激しくなる。妙な汗が流れる。それでも、確かめなくてはならない。まさか、そんな――

 

 やがて、それとの距離が2mほどになって、ようやく判別できた。

 

 内臓があまりにも派手に飛び出してグチャグチャで、血だけでなく体液や何やらでぐちゃぐちゃで、無茶苦茶に食い散らかされていて、全身が顔面も含めて血だらけで滅茶苦茶だったので、それほどの至近距離にならなければ分からなかった。

 

 それは、その死体は――その、人間は。

 

「……なん、で……」

 

 和人が助けた――助けたはずの、あの少年だった。

 

 後ずさる。その凄惨な死体から、怯えるように遠ざかる。

 

 どうしてだ。何でこの子が。あの時、助けたはずなのに。

 

 だが、その答えは、あっさりと、当たり前のように出ていた。

 

 自分はこの子を、一時的に助けたかもしれない。救ったかもしれない。ヒーローのように。

 

 だが、その後はどうした? この子の存在を、頭に入れていたか? 助けたことに満足して、それで終わりにしていなかったか?

 

 この子は、自分が助けた後も――その後、自分が放置し、見捨てた後も、この無数の恐竜が闊歩する、危険極まりない、死と隣り合わせどころか、死が常に襲い掛かってくるような地獄を、その小さな体で怯えながら、両親を失い、たったひとりぼっちで、彷徨っていたというのに。

 

 安全な場所に隠れろ?――馬鹿か。

 

 こんな状況に、こんな戦場に――こんな地獄に、安全な場所など、あるはずがないだろう。

 

(……俺は……俺はッッッ!!)

 

 和人が拳を握り、歯噛みし、膝を折ってしまいそうな程に、自らへの怒りに身を震わせていると――

 

 

 

「ギャァァアアアアアアアアアス!!!!」

 

 すぐ近くの階段裏の空間から、甲高い啼き声が響いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 武器。

 それは、ひ弱な肉体しか持たない人間が、効率的に生物を殺傷する為に作られたアイテムである。

 

 初めは石や棍棒だったそれらは、年月による技術の発展と共に、より強力に、よりお手軽に、より簡単に命を奪うことが出来るように進化してきた。

 

 それだけ人間は、命を奪うということを積極的に求めてきたということでもある。

 

 それはさておき、ならば、その武器というアイテムを手に入れれば、手っ取り早く強くなれるのかと言われれば、答えは否だ。そんなものは、ゲームの中でしか在り得ない。

 

 武器も、道具だ。取扱説明書を読むだけで使いこなして力に出来るかと言われれば、それは違う。断じて違う。

 むしろ、使いこなすのに一生を費やす者もいるような、扱い難い代物ばかりだ。

 

 銃にしかり、剣にしかり、槍にしかり――ナイフにしかり。

 

 ナイフ。それは生物の殺傷以外にも幅広い用途で使われる、比較的ポピュラーな武器といえるだろう。だが、これもれっきとした武器だ。命を容易く奪える代物だ。

 

 渚が手に持つそれは、俗にいう軍用(コンバット)ナイフと呼ばれる戦闘用のものだ。

 

 真っ黒な力強い配色の柄に、息を呑むほど深い光沢を持つ密度の濃い黒色の刀身。

 渚はこのナイフが放つ妖しい魅力に憑りつかれ、転送の際に思わず手にとっていた。

 

 だが、渚はナイフどころか包丁すらまともに扱ったことはない。

 

 武器を持った人間が、初めて向かい合わなくてはならない壁は、目の前の敵ではない。

 

 武器、そのものだ。

 その武器が放つ殺意、その武器が纏う――命を奪うという、殺気。

 

 それを受け入れ、乗り越えること。その武器(ちから)を振るうことで発生する、事柄、責任、そして結果。

 

 その全てを受け入れ、乗り越え、覚悟すること。

 

 そうして初めて、武器を己の力に出来る。力を手に入れることが出来る。

 

 それを乗り越えられなければ、その手に持つ武器を持て余し、武器そのものに呑みこまれることとなる。そうなれば強くなるどころか、かえって弱くなってしまうことだろう。

 

 武器を手に入れたものが、強いのではない。

 

 武器を力に出来たものが、強くなれるのだ。

 

 

 

 あやせを背に庇い、恐竜の前に立つ渚は、ナイフをベルトから静かに引き抜いた。

 

 そして、そのナイフを持った手を――だらん、と下ろした。

 

 構えるわけでもなく、切っ先を敵に向けて威嚇するでもなく。

 

 腕の力を抜き、だらんと、自然体に。

 

 命を奪う力を、殺害の為の武器を、無造作に。

 

 渚はゆったりと歩いた。目の前の恐竜に向かって、通学路を歩くかのように一定に。

 

 あやせは、ついさっきのあの光景を思い出す。

 自分を助ける為に、自らの命を投げ出して囮になろうとした、あの時の渚を。

 

 だが、違う。さっきのそれとはまるで違う要点が、一つ。

 

 殺気だ。

 

 渚は、冷たく鋭い殺気を、目の前のヴェロキラプトルに向けて放っている。

 

 何の変哲もない、ただの弱弱しい中学生が、凍えるような殺気を纏っている。

 

 武器を構えるでもなく、ただ力を抜いてゆっくりと歩くだけで、恐竜を怯ませる程の殺気を放っている。

 

 だが、殺気とは、時に自らに危険を招く。

 

「ギャァァァアアアアウス!!!」

 

 ヴェロキラプトルはその鋭い爪を振り上げながら嘶いた。

 

 野生において殺気とは、挑発行為と同義。

 相手よりも圧倒的な殺気は威圧と成り得るが、いくら鋭い殺気といえど、渚のそれは人間が放てる域を脱しない。

 

 目の前の恐竜には、食物連鎖の弱肉強食の世界で生き抜いてきた目の前の強者には、それは射竦めるには至らず、かえって相手の敵意を煽ってしまった。

 

 人間に、一瞬とはいえど、気圧された。

 

 肉食恐竜としてのプライドが傷つけられたのか、ヴェロキラプトルは完全に渚をターゲットとして襲い掛かろうとした。

 

――動けないあやせの存在など、完全に眼中から外して。

 

 当然だ。動けない餌と、動き回る餌。どちらを狙うかといえば、やはり前者だろう。

 

 それでも、自分に殺気を向けてくる敵と、動けない敵。どちらを優先的に排除しなくてはならないか――彼らにとっては迷うまでもなく、本能にインプットされた行動だった。

 

 渚は、その本能を利用した。

 

 

 その時、ヴェロキラプトルの視界から、渚が消えた。

 

 

 ヴェロキラプトルが硬直する。振り上げた爪の行き場を失くす。

 

 とん、と。

 気が付けば、ヴェロキラプトルの右胸にナイフの刀身が全て埋まっていた。

 

 真っ直ぐに、どっぷりと、限界まで突き刺さっていた。まるで、初めからそこにそうしてあったように、自然にそこに存在していた。

 

「――ギャァ」

 

 ヴェロキラプトルも、まだ己の現状が認識できないのか、小さくそんな啼き声を上げた。

 

 渚は止めとばかりに、ぐりっと、ナイフをドアの鍵を開けるように九十度回した。

 

 今度こそ、断末魔の叫びが轟いた。

 

「ギャァァアアアアアアアアアス!!!!」

 

 大きく仰け反るヴェロキラプトル。

 渚はその体を肩でそっと押した。その際に、優しくナイフを引き抜く。

 

 ばしゃぁあ! と血が噴き出して、渚はそれを全身に浴びた。だが、その表情は変わらず――――優しい、冷たい、微笑みだった。

 

 渚がしたことは単純だ。

 

 殺気で威嚇し、敵の目を自分に向けて。

 

 その殺気を、消した。

 

 殺気を消して近づいて、懐に潜り込み、そこにナイフを置いただけ。

 

 置くように、流れるように、突き刺しただけ。

 

 弱点である右胸に刺さったのは、ぶら下げていたナイフを上げたらたまたまそこに刺さっただけだ。

 

 それで殺せた。

 

 暗殺、完了。

 

 強烈な殺気を感じて、その殺気の放つ対象を排除しようとしたヴェロキラプトルは、その殺気が突然消失したことにより、対象(なぎさ)を見失った。

 

 結果、その隙に、殺された。

 

 それはその背中をずっと見つめ続けていたあやせも同様だった。

 

 一瞬あやせも渚の姿を見失った。いや、見失ってはいない。ずっと見ていたのだから。

 

 だが、警戒を解いてしまった。

 渚から殺気を感じた時、少なからずあやせも警戒してしまった。自身に向けられたものではないとしても、殺気を感じたら警戒するのは生物として当たり前の――本能だ。

 

 だが、突然それが消失し、無理矢理警戒が解かれ、混乱した。

 警戒が解かれ、そのことに対して再び警戒する。その間の混乱を、渚は突いた。

 

 これが、潮田渚の才能(ちから)

 

 殺気を放ち、相手を威嚇する才能。

 

 殺気を(かく)し、相手の警戒を逃れる才能。

 

 そして、それらを命が懸った修羅場(ほんばん)で、淡々と物怖じせずにこなす才能。

 

 暗殺の、才能。

 

「……闘って、勝たなくてもいい」

 

 その身に降りかかった血を拭うこともせず、ナイフを再び腰のベルトに戻し、呟いた。

 

 

「――殺せば、勝ちなんだ」

 

 

 渚は微笑む。

 

 その笑みは、優しく、美しく、妖艶ですらあって――なにより、酷薄だった。

 

「……そうですよね、桐ケ谷さん」

 

 その言葉に、呆然としていたあやせは、渚の視線の先を追う。

 

「……渚」

 

 そこには、沈痛な面持ちで、泣きそうな顔で、渚を見つめていた――桐ケ谷和人が立っていた。

 




 渚、覚醒。

 そろそろ、かっぺ星人編も終盤に近付いてきました。
 


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ついに、恐竜達との最終決戦の戦場に、役者は揃う。

今回は少し短いです。ごめんなさい。


 

 和人は目の前の光景が信じられない。

 

 一頭のヴェロキラプトルが絶命している。

 

 そして、その前に立っているのは、血塗れの姿で微笑む――一人の少年。

 

 女の子のように小柄で、恐竜どころか虫も殺せないような、温和な笑みを浮かべる少年。

 

 あやせのようにスーツを着ているわけでもない。

 

 和人のように銃を持っているわけでもない。

 

 東条のように強靭な肉体を持っているわけでもない。 

 

 ただ、真っ黒なナイフ一本で、恐竜を無駄なく数十秒で殺害した――普通の少年。

 

「うん? どうしました、桐ケ谷さん?」

 

 首を傾げ、こちらに向かって一切の邪気のない笑顔を向ける、普通の――

 

 普通、の――

 

「な、なぎ――」

 

 和人が何と声を掛けたらいいか逡巡した、その時――

 

 ゴゴゴゴゴゴゴゴ という、地響きのような音が響いた。

 

「――!!!」

 

 その時、ようやく和人は気付く。渚の姿が衝撃的過ぎて、今まで気づけなかった自分に呆れ果てた。

 

 いくら暗闇の中だったとはいえ、その奥に潜む――T・レックスの頭部に気付かないなんて。

 

 その口内が、眩く灼熱していく。

 

 その光が発せられた時、渚とあやせもそれに気づいた。いや、思い出した。

 いくらそれ以上の侵入が出来なくとも、その大砲には関係ない。

 

「伏せろッ!!」

 

 渚とあやせに覆いかぶさるように、和人は飛びつく。

 

 そして、T・レックスは顎を上に傾けて、それを発射した。

 

 ドガンッ!!! と、その火球は階段を破壊し、その階段裏の限られた閉鎖空間を破壊する。

 

 途端に降り注ぐ瓦礫群。

 

(不味いッ!! このままじゃ生き埋めだ!)

 

 和人はあやせとアイコンタクトし、スーツを着ていない渚を庇うように走り出す。

 

「グォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」

 

 T・レックスはその瓦礫をまるでシャワーを浴びているかのごとく物ともせずに大きく仰け反った。

 

 和人とあやせはその背中にいくつもの瓦礫を食らいながらも、スーツのおかげで無傷で脱出に成功する。

 

「な、渚、無事か?」

「は、はい。……ありがとうございます、お二人とも」

「いえ、渚君にはさっきも助けてもらいましたから。お相子です」

 

 少しでも今のうちにT・レックスから離れようと和人達は走りながらそんな会話をする。

 さっきというのは、やはりあの光景のことだろうか、と和人は考えそうになったが、今はこれ以上深入りするのはやめた方がいいと判断し、そのまま何も言わずに走り続ける。

 

 すると、その先のロータリーでは――

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「おでの……どごが……なまっで……るんだッてのっ!!」

「ハハハ!! ハハハハハハハハハハハハ!!!」

 

 白い3m級の巨人の杭のように太い腕が、東条に向かって勢いよく襲い掛かる。

 だが、東条はそれを楽しそうに笑いながら躱しその腕を掴んで引き込むと、右肘をかっぺ星人の顔面に叩き込んだ。

 

「ガァッ!! ……いっで……いっでみろぉぉおお!!!」

 

 ぐらりとふらつくと、かっぺ星人は吠えながら再び右腕を振り上げ渾身の拳を放つ。

 

「いいなぁ……ちょっとは本気だせそうだ――――いくぞ」

 

 東条は、虎のような獰猛な笑みを浮かべ、それを迎え撃ち――そして。

 

 ゴっ!!! と、かっぺ星人を、拳一つで吹き飛ばした。

 

「――な」

「え、ええ?」

(うわぁ……)

 

 それを目撃した和人達は、三者三様で驚愕する。

 それもそうだろう。確かに東条は巨体だが、それよりも一回りも二回りも巨大な相手を、パンチ一発で十m近く吹き飛ばしたのだ。生身で。スーツなしで。

 

「ん? おう。渚! 桐ケ谷! お前たちも生きてたのか。はは、よかったよかった」

 

 そして振り返りながらにこやかに話しかけてくる。大物過ぎる。

 

「あ、ああ。東条も無事で――――な、なにっ!?」

 

 苦笑いで東条と合流しようとした和人だったが、その奥で、東条に吹き飛ばされたかっぺ星人が、口から血を流しながらも再び立ち上がるのが見えた。

 

「お、おでの、どこが……なまってんだよぉぉぉおおお!!!!! キューーーッ!!! キューーーッ!!!!」

 

 そして、全力で天に向かって、あの奇声を発する。

 

 すると、和人達の背後で咆哮していたT・レックスが再びこちらに向き直った。

 

「く、くそッ――――ッ!!?」

 

 そして、それだけではなかった。

 

「ギャァウス!!」「ギャァアウス!!」「ギャァァアアウス!!」

 

 わらわらと、複数体のヴェロキラプトル達が和人達に向かって殺到する。

 

 エリア内に散らばっていた、残り全ての個体が、このロータリーに集結した。

 

「まだこんなにいたのか……」

「か、囲まれちゃいました」

「……どうしましょう」

「はッ。面白くなってきたな」

 

 見ると、東条が吹き飛ばしたかっぺ星人は、メキメキと奇妙な音を発しながら、さらに巨大化していた。

 その姿は、その威容は、もはやT・レックスと比べても何ら遜色のないほどに圧倒だった。

 

 和人は、息を呑む。

 

(……こんなの、どうすればいいんだッ!?)

 

 

 そして、遠く、展示場から、ここまで届くような、衝撃と轟音が響いた。

 

 

 ズズズズズズーーーーーン!!!!!

 

 

「っ!!!」

「な、なんですか!?」

「あれは――」

 

 和人達が目を向けると、そこには、頭部と顎に刃を携えた――ブラキオサウルスが出現していた。

 

 奴は、姿を現すと同時に、甲高い声で嘶く。自らの到来を知らせるように。

 

「ギャァァァアアアアアアアアアアアア!!!!!」

 

 そして、その長い首を活かした高い視点から、遠く離れているのも関わらず和人達に気付く。

 

「……貴様らか。我らの平穏を脅かす無粋な侵略者どもは」

 

 その声に、その言葉に、和人達は驚愕する。

 

「しゃ――」

「喋っ、た?」

 

 人の形をしているかっぺ星人よりもはるかに流暢に言葉を操るブラキオサウルス。

 それに呆気にとられている間も、その恐竜は言葉を紡ぎ続ける。

 

「見えなき者も、貴様らの同胞か。……我が子を(あや)めた、小さき者どもよ。……許すまじ。……貴様らを、滅ぼし尽くす……覚悟せよ」

 

 そして、ズズーン! と、その重々しい一歩を踏み出す。

 その巨大過ぎる足音は、和人達の元まで衝撃として届いていた。

 

「……ど、どうしましょう、桐ケ谷さん!?」

「このままじゃあ、僕達――」

 

 あやせと渚が和人に詰め寄る。

 だが、和人は顔を俯かせるばかりで何も妙案が浮かばず歯噛みする。

 

 

「とりあえず、あの白いのはオレがやる」

 

 

 そう言って、一歩。東条英虎は、更なる化け物と化したかっぺ星人に向かって歩みを進める。

 

 それを見て、和人達は必死に止めようとする。

 もはや目の前のかっぺ星人は形こそ人型だが、T・レックス並みの巨大さを誇り、スーツを着ていない生身の人間で立ち向かえる相手ではない。例え東条がどれだけ人間離れして強かろうとも。

 

 だが、東条は首だけ振り返り、その野生の虎のような笑みで、和人に言った。

 

「手を出すな。これは、俺の喧嘩だ」

 

 和人は伸ばした手を、そっと下ろした。

 

 何も出来ない。自分は何も出来ない。

 その無力さを噛みしめて、拳を固く握りしめる。

 

「グォォォオオオオオオオ!!!!!」

「ギャァウス!!」「ギャァアウス!!」「ギャァウス!!」

 

 T・レックスとヴェロキラプトルの群れが吠える。

 

 こちらに一歩、一歩、ブラキオサウルスも近づいてくる。

 

 渚も、あやせも、そして和人も。

 

 もうダメだと、絶望に身を委ねかけた。

 

 

 その時――

 

 

 バァン!!! と、T・レックスの頭部が吹き飛んだ。

 

 

「――え?」

 

 その呟きは、誰が漏らしたものだったのだろうか。

 小さな、掠れたような呟きだったが、それが響き渡ってしまうくらい、あれほど激しく嘶いていた恐竜達も静まり返っていた。

 

 破壊は、止まらない。

 T・レックスの体が激しく吹き飛んでいく。

 肩が、顎が、背中が、足が、爪が、尾が、連鎖的に爆発していく。

 

 そして、倒れ伏せる。

 

 肉片と血液が撒き散らかされて――その中の一部が、不自然に宙に張り付いていた。

 

 そのシルエットは、すっと右手を持ち上げて、その手に持つ銃のトリガーを引いた。

 

 殺害は、止まらない。

 次の瞬間、周囲のヴェロキラプトルの頭部が一斉に吹き飛んだ。

 周囲を恐竜達の断末魔が埋め尽くす。

 

 そして、辺り一面を真っ赤な血液と醜悪な肉片が支配する地獄が出来上がる。

 

 その中を、べちゃ、べちゃと、自らも身体を血液と肉片で染め上げる謎の透明人間が闊歩する。

 

 正体不明の殺戮者が、和人達に向かって歩み寄ってくる。

 

 それは、今も響いているブラキオサウルスの足音以上に凄絶な恐怖だった。

 

「だ、誰だッ!? 何者だッ!?」

 

 和人が渚とあやせを庇うように一歩前に出て、透明人間に向かって叫ぶ。

 

 透明人間は歩みを止め、しばらく立ち尽くした後――バチバチバチという火花のような音と共に、徐々にその姿を現していく。

 

 それは――あの黒い球体の部屋で、一人異質な雰囲気を纏っていた、謎の男だった。

 

「お、お前は――」

 

 真っ黒な全身スーツを赤黒い血液で染め上げ、XショットガンとXガンを携えながら、死神のように暗く濁った瞳の男。

 

 

 比企谷八幡が、そこにいた。

 

 

 こうして、最終決戦の舞台に、役者は揃う。

 

 

 

 

 

 残り時間は、あと10分。

 

 

 敵の数は――残り、2体。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 死、というのは嫌なものだ。どうしようもなく気分が悪くなる。

 

 それが例え自分の身内ではなくても。自分が殺したものではなくても。

 

 咽返るような血の匂い、感触まで伝わってきそうな生々しい肉片。いつまでたっても慣れやしない。

 

 けれど、こんな光景を初めて見た時は、十秒もその場にいられなくて、すぐさま離脱し物陰で胃袋の中身がなくなるまで吐き続けていた。

 その頃に比べれば、こうして目を逸らさずに長々と眺められるようになったのだから、なんだかんだいって慣れてきているのだろう。……気分が悪いのには変わりないが。

 

(……夕飯抜いてきてよかった。……姉ちゃんには色々と言われたけれど)

 

 こうして深夜にこっそりと家を抜け出しているのがバレたら、またうるさく追及されるのだろう。去年の今頃は、自分の方が姉の夜遊びに関して悶々としていたというのに、皮肉な話だ。

 

 結局の所、姉は自分達の為に、自身の体と心を追い詰めていたのだった。その事を話してくれなかった事に、自分を頼ってくれなかった事に、あの時はひどく腹が立ち――悲しかったことを覚えているが、いざ逆の立場になってみると、例え口が裂けてもこんなことは言えやしないな、と少年は悲しい顔で自嘲する。

 

 目の前に広がる――臓物を曝け出して絶命するヴェロキラプトルの死体を、昏い瞳で眺めながら。

 

「ったく、なんだコイツ等は。いきなり襲い掛かってきやがって。腕咬まれたじゃねぇかッ!!」

「テメーがコンタクトをしてねぇからだ。ここはもう奴等の狩場だぞ」

「……ってことは、近くにハンターがいるんだな」

「ははっ! 相変わらず飢えてるっすねぇ!」

「……まぁ、おまえなら勝てるだろうがな。あんま一人で突っ走んなよ」

 

 少年の目の前には、三人の男達。

 

 一人は、軽薄な口調の黒髪のドレッドヘアの男。

 一人は、北欧風の顔立ちで金髪の美男子。

 この二人は、ネクタイなしの黒いスーツに中は真っ白なシャツという、いかにもホスト風の恰好をしている。

 そして、残る一人は、革ジャンに中は派手な柄のTシャツ、首にはチェーンネックレス、赤いキャップを逆に被り、真っ黒のシャープなサングラスという屈強な男。

 

 そして、彼らの足元には、一面に十数体のヴェロキラプトルのグチャグチャな惨死体が敷き詰められていた。

 

 少年はその光景を生理的嫌悪感と戦いながらも、なぜか目を逸らせずにじっと眺めていると、彼らの真ん中に立つ金髪の男は少年に向かって呼びかける。

 

「おい、行くぞ新入り」

「……はい」

 

 なぜかこの男には、既に彼らの仲間になって数ヶ月が経つにも関わらず、少年はずっと新入りと呼ばれていた。

 もちろん、まだ自分は彼等の足元にも及ばない。強さも、キャリアも、そして――命を奪った数も。

 

 だから名前で呼んでほしいとは思わない。故に訂正することもなく、淡々と受け流していた。

 もし名前で呼ばれるようになり、本当の意味で仲間だと認められたら――自分は本当の意味で、彼等と同じになってしまう気がするから。

 

 自分が、彼等と同じ化け物で。

 

 人間でないという事実は、どうしたって変わりやしないのに。

 

 少年はそんなことを考えて更に瞳から感情を失くしながら、自分を待たずに先に向かって歩いて進んでいる男達の後ろに小走りで着いて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな彼らの背後を、真っ白なパーカーを着た、謎の少年が尾行していた。

 

 彼は笑う――見るものを残らず不快にさせる、凄惨な微笑みを浮かべて。

 

「……さてさてさぁて。さぁてさて。“僕”の“友達”は、元気にしてるかな♪」

 




 こんな風に、いいところで切って焦らしてみたりw。
 どうでしょうか、続きが気になるような展開にできたでしょうか?


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少女は、己が生にしがみつく理由に気づく。

今回は、ようやくこの子にスポットが少し当たります。
っていうかサブタイ微妙……全然まとめられてない。日本語下手か。


 今回のボスであるブラキオサウルス成体。長いから親ブラキオと呼ぼう。

 それと色々あってバトルとなり、これまた色々あって結局展示場内で収まりきれず外に出ることとなったので外に出てマップを確認すると、都合よく残りの敵が一カ所に固まっていた。

 親ブラキオもその集団に囲まれている残りメンバーに気を取られていたので、透明化したままその集団に近づき、一掃。

 

 これで、敵の星人は残り二体となった。

 

 どうやら返り血や返り肉片などで俺のシルエットはバッチリくっきりだったようなので、このまま透明人間星人とか思われて攻撃されても面倒だったから姿を現した。

 

 残っていたメンバー四人は、都合がいいのか悪いのか、俺をばっちり覚えている奴等だった。

 

 俺もこいつ等のことは覚えている。俺の一人ぼっちの空間を真っ先に脅かした、最初に転送されてきた四人だ。まぁ、コイツ等もガンツに勝手に徴収されたんだから、コイツ等に恨み言を言ってもアレだが。

 

「お前は……ッ!?」

 

 案の定、目の前の三人は呆気にとられている。

 黒髪の美少年に至っては睨みつけていると言ってもいい表情だ。

 

 それもそうだろう。ここまで生き残ってきたということは、少なからず体験したはずだ。思い知ったはずだ。

 

 このガンツミッションという、理不尽極まりないデスゲームの恐ろしさを。

 

 コイツ等は、特に目の前のコイツは、心中では穏やかじゃないだろうな。

 

 なぜ、俺達を見捨てたんだと、怒鳴りちらしたいに違いない。

 

 だが、今はまだコイツ等の相手をしている暇はない。

 

 ボスはまだ、健在なんだから。

 

「おま――!?」

 

 真っ黒が俺に対して何か喚こうとした瞬間に、これまた都合がいいのか悪いのか、新たな侵入者が現れた。

 

 バスロータリーにいくつもの車がサイレンと真っ赤な光と共に集まってくる。

 

「あ、あれって――」

「……警察?」

 

 水色の少年と黒髪少女が言う。

 そうだな。あれは噂に聞く国家権力の正義の味方。みんな大好き警察官だろう。

 

 そういえば途中でT・レックスが二体、展示場から外に飛び出していったっけ。相当な轟音だったろうから、誰かが通報したんだろう。二次被害はそのまま現実にも反映されるからな。

 

 そう、あくまで二次被害は。

 

「あの! すいません、こっちです!!」

 

 真っ黒が警察官に向かって手を振る。だが、当然ながら彼らは一切反応しない。

 水色と黒髪少女が訝しげに首を傾げる。真っ黒は少し苛立ちを込めながら、警官に向かって大声で叫びながら近づく。……ああ、もう、面倒くさい。

 

「あの――」

「おい、やめろ」

 

 俺は真っ黒の腕を掴んで引き留める。真っ黒は眉を寄せながら振り向いて俺に向かって声を荒げる。

 

「どうしてだっ!?」

「アイツ等には俺達は見えないんだよ。俺達だけじゃなくて、星人の恐竜もな」

 

 俺がそう言うと、真っ黒だけでなく水色や黒髪少女も息を呑む。

 

「な、なんで――」

「おかしいと思わなかったのか。こんなに派手に恐竜が暴れているのに、今の今まで警官どころか野次馬すら集まらなかっただろ」

「そ、それは……だけど、今はこうして警察が!」

「展示場が派手に破壊されたから現れただけだ。……それに、見て見ろ」

 

 俺がそう言って顎で指し示すと、そこには恐竜の死体で足の踏み場もない俺達の近くを、警察官達は面倒くさそうな顔のままに迷いもせずに足を踏み入れていく。

 

「――ッ」

「――ぇ」

「そんな……」

 

 当然、恐竜の死体を踏む。だが、彼らには一切の恐怖心は見えない。

 

「うわッ! なんか踏んだ!? 何、ガム?」

「いや、ガムにしてはなんかデカいし柔らかいというか……なんだ、ここらになんかあるのか?」

「いてッ!」

「おい、お前なんで何もないとこで転んでるんだ」

「いや、なんかここにデカい何かが……ないですね」

「お前らふざけてねぇで行くぞ。……あ~あ。一体、なんであんなデカい穴が開いてるんだ? テロか?」

「階段も壊されてますし……ここまで派手なことするんなら、いっそのこと国会議事堂とか都庁狙った方がいんじゃないっすかねぇ。もしくは警視庁」

「おい、警察官が滅多なこというんじゃない。最近はちょっとした発言ですぐさまワイドショー行きだぞ」

 

 彼らは訝しながらもどんどん進んでいく。

 途中、一人の巨漢と一人の巨人の殴り合いの決闘もスルーして。……いや、あれはガチでどうなんだろう。勝てっこねぇだろ、アレ。スーツも着てねぇんだし。でも邪魔したらこっちが殺されそうなんだよな。

 

 チラッと見ると、三人は信じられないといった顔で呆然としている。だが、中でもやはり真っ黒は薄々感づいてはいたのかダメージは軽かったようで、俺に向かって問い詰めてくる。

 

「……俺達は、生きているのか」

「一応はな。正確には、死んで、また生き返ってるって状態だが」

「……元の生活には、戻れるのか?」

「このミッションをクリアして、生き残れば」

「……どうすれば、クリアしたことになるんだ?」

「簡単だ」

 

 俺は二体の星人を指差す。

 

「奴らを殺す。あと十分で――そうすれば、その時点で転送が始まり、あの部屋へと送られる。生きてさえいれば、五体満足でな」

 

 俺がそう言うと、真っ黒は顔を俯かせて「……そうか」と呟くと、顔を上げて眼光鋭く問い詰めた。

 

「どうしてお前は――」

「悪いが」

 

 俺は真っ黒から目を背け、奴に向かって向き直る。

 

「その話は後だ」

 

 次の瞬間、奴は降り立った。

 

 ズズーーンッッ!!!! と巨大な地響きが轟く。

 

 なんか知らないが、このロータリーへと降りる階段は俺が来たときにはすでになかった。

 俺はスーツを着ていたので難なく飛び降り、音もなく着地することは出来たが、奴の場合は迫力が違うな。

 

 数十トンはあるであろう巨体が、たった5、6メートルとはいえど飛び降りるわけだ。

 

 その破壊力は、まさしく兵器だ。

 

 突風のような余波がここまで届く。

 

 さぁ、ボスとの第二ラウンドの始まりだ。

 

 俺は真っ黒に向けて言った。

 

「見ての通りだ。今は奴を殺すのが最優先だ。別にお前らは戦わなくてもいいが――」

「おい! そんなことよりも! あれは!?」

 

 真っ黒は何やら焦った様子で捲くし立てる。なんだっていうんだ?

 

「どうするんだ!? 今ので大勢の警察官が死んだぞ!!」

 

 俺は真っ黒が指さす方向に目を向ける。

 見てみると、確かに親ブラキオが着地した地点には、展示場へと向かう為にこちらとは反対側の階段に向かって進んでいた警察官達が密集していたようで、かなりの人数が踏み潰されたようだ。

 だが――

 

「――それがどうした?」

 

 俺が至極当然にそう言うと、真っ黒は、いや真っ黒だけでなく他の二人も、驚愕と恐怖が入り混じったような表情で俺を見た。

 

「お、おまえ何言ってるんだ? 人が、人が死んでるんだぞ!! 助けないと!!」

「どうやって?」

 

 俺がそう問い返すと、途端に真っ黒は言葉に詰まった。

 

「ど、どうやってって――」

「アイツ等に俺達は見えないんだぞ。声も届かない。それに一つ言っておくが、一般人に俺達のことはバレたら不味いんだ。俺達の頭には爆弾が埋め込まれている。ガンツの情報が洩れたら、容赦なくこれが爆発してガンツに殺されるぞ」

 

 頭が爆発する。その事に心当たりがあったのか、真っ黒と黒髪少女は顔を歪め、水色に至っては表情を真っ青に染めた。

 俺は更に言い募る。

 

「悪いが、今の俺達には――少なくとも俺には、アイツ等を助ける義理も、余裕もない。それでも助けたいというなら好きにしろ。そして勝手に死ね」

 

 俺の言葉に、黒髪も水色も、そして真っ黒も今度こそ何も言えなかった。完全には納得していないみたいだが、まぁいい。別にコイツ等がどうしようと知ったことじゃない。

 そう思って親ブラキオの方を向くと――――奴は小刻みに首を振っていた。

 

「っ! 伏せろッ!!」

 

 俺は反射的に叫んだ。

 すると、真っ黒が黒髪と水色に覆いかぶさるように飛びついた。

 俺も身を屈めると、次の瞬間――

 

 鎌鼬のような横薙ぎの一閃が振るわれた。

 

 まだそれなりに距離があるここまで衝撃が届いた。相変わらず反則的な一撃だな。

 ……この攻撃をどうにかしなければ、コイツには勝てない。だが、透明化してもこの攻撃範囲の広さと速さでは近づくこともままならない。

 

 ……やはりスナイパー作戦で遠距離から少しずつ削っていくしか「……なんだ、これは……」ん?

 

 俺が親ブラキオに対して思考を巡らせていると、いつの間に立ち上がったのか、真っ黒が目の前を呆然と眺めていた。

 

 すると、震える声で、押し殺したように叫ぶ。

 

「……なんなんだよ……これは……ッ!」

「ひどい……」

「……警察官の人達が……みんな」

 

――警察官達は、今の一撃でほぼ全員即死だった。

 

 体や頭が真っ二つに切り裂かれ、恐竜達の死体と混ざり合って、もう何が何やら分からない。

 

「う、うわぁぁぁあああ!!!」

「なんだ!? 鎌鼬か!? 一体、何が起きてる!?」

 

 俺達の背後でまだパトカーから出ていなかった数名の警察官がパニックになりながら叫んでいる。

 

「…………」

 

 これが正常のリアクションなんだろう。もはや何も感じなくなった俺の方が異常なんだろう。

 

 それでも、一々当たり前のことにショックを受け、硬直するコイツ等が、酷く滑稽で面倒くさく思った。煩わしくて仕方ない。

 

 さっさといつも通りソロプレイに戻ろうと透明化を発動して離れようとしたが、ふと気づく。

 

 そういえば展示場の中の戦いで、剣を弾かれて失くしてしまったんだった。

 

 俺は俯いている真っ黒に声を掛ける。

 

「おい、真っ黒」

「……俺の名前は桐ケ谷和人だ」

「そうか、桐ケ谷――お前、剣はまだ持ってるか?」

 

 コイツ等も数体とは戦っただろうし、もしかしたら俺と同じように失くしたかもと思っていったセリフだが、真っ黒――桐ケ谷の反応はこちらが想像していたのとはまるで異なるものだった。

 

 顔をバッと上げ、目を大きく見開きながら、まるで天啓を受けたかのような顔でこちらに向き直る。

 

 

「……剣? ……剣があるのか!?」

 

 

 俺の両肩をガシと掴みながら詰め寄ってくる桐ケ谷。ちょ、近い。

 この分だとガンツソードの存在すら知らなかったみたいだな。まぁ、そうか。俺は言ってないし、初心者が簡単に気づくようなものじゃないしな。俺も中坊に言われるまで知らなかったし。

 

「……ああ。スーツから出せる」

「どうやって!? どこから!?」

「……ここをこうやって」

「こんなとこから!?」

 

 まぁ、驚くよなぁ。っていうかちょっと引くよなぁ。俺も初めて見た時は遊び心で遊び過ぎだと思ったぜ。

 

「これは一着のスーツにい――ッ」

 

 俺は一瞬、ぎょっとした。

 

 桐ケ谷は、笑っていた。嬉しそうに、見惚れていた。

 

 まるで、生き別れの家族と再会したかのような、ずっと恋焦がれていた恋人と再会したかのような。

 

 本当に、心の底から嬉しそうに。

 

 ……ああ。そういえば、コイツ—―

 

「……俺は今から、あのボスを殺しに行く。……それで、その剣を貸してもらえると助かるんだが」

 

 俺の言葉を聞いて、桐ケ谷は目を閉じる。

 そして、感触を確かめるように剣をキンッと握り直すと、目を開いて、俺の目を真っ直ぐに見据えて、言った。

 

「――悪い。俺も戦う。……コイツと一緒に」

 

 そう言って、ガンツソードをじっと見つめる桐ケ谷。だろうな、言ってみただけだ。

 もうガンツソードを手にしてから――剣を取ったその時から、すでにコイツの顔は変わっていた。

 

 完全に、剣士のそれへと生まれ変わっていた。

 SAO生還者(サバイバー)。二年間ものデスゲームを生き残った、歴戦の剣士、か。

 

 ……まぁいい。戦ってくれるというのなら、好きにさせておこう。

 

 俺は振り返り、黒髪の少女と向き直る。

 

「なぁ」

「ひゃいっ!」

 

 ……そこまでビビらなくても。ちょっとキュンとしちまったじゃねぇか。

 まぁ、怖いか。今の俺は血みどろだもんな。

 

 俺は顔を俯かせ耳を真っ赤にしている黒髪に改めて問う。

 

「……えぇと、アンタはまだ剣持ってるか? 貸してくれると助かるんだが」

「え、あ、えぇと……ど、どうぞ」

 

 そういってオズオズとガンツソードを取り出して差し出す黒髪。

 

 それを手渡してもらう時――手が震えていることに気付いた。

 

――その姿が、あの日の、あの時の、俺が壊してしまった、あの少女の面影を想起させて。

 

「……」

 

 何を血迷ったのか、両手で差し出すように剣を渡す黒髪の目を、剣をとったまま覗き込んでいた。

 黒髪の方も訝しげに見返す。だが、そこにはさっきまであった恐怖よりも、純粋に戸惑いで占められているように思えた。

 

「……あ、あの――」

「っ! 悪いな、借りる。……アンタのスーツはまだ生きてる……みたいだな。なら、水色の盾になってやれ。……アイツの攻撃の巻き添えを食らうだけで、下手すりゃ死ぬぞ」

「あ、は……はい」

 

 顔を俯かせる黒髪。俺達だけを戦わせるのが心苦しいのだろう。だが、正直スーツを着ているだけの奴や、ましてやスーツを着ていない奴が来ても足手纏いなだけだ。アイツはそんな状態で勝てる奴じゃない。

 

 ミッション初参加で、あんな化け物に立ち向かえる、桐ケ谷やあの金髪が異常なんだ。

 

 俺は剣を受けとり収納する。……防御手段にはなるだろう。銃よりもはるかに固いガンツソードは俺としてはそっちの方が主用途だ。

 

 桐ケ谷はこちらを向いて、力強く言う。

 

「ここにいれば渚達やあの警察官達も巻き込まれる。場所を移そう。俺があっちに引き付ける」

 

 そう言って桐ケ谷はボスの前へと走り出していった。……さっきまで顔を青くして怯えていた奴とは思えないな。剣を持つとあそこまで変わるのか。

 

 ……どうでもいいな。今は、あのボスを殺すことが最優先だ。

 

 俺は残された黒髪と水色を見遣る。……どっちかが桐ケ谷が言ってた渚って奴なんだろうが、どっちも渚感はあるな。まぁいいか、無理して名前を覚える必要はない。どうせそこまで深く付き合うつもりはない。

 

「……話は聞いたな。お前達はあっちには近づくな。精々遠くまで逃げろ。運が良ければあの部屋に還れる」

 

 だが運が悪ければこれっきりでお別れかもしれないし、そうでなくても次のミッションでは殺されるかもしれない。長居は無用だ。

 

 あんまり深入りしすぎると、うっかり生き返らせたくなっちまう。

 

 

 俺は一人でいい。俺は一人がいい。

 

 ぼっちだからこそ、俺は最強だ。

 

 友達はいらない。人間強度が下がるから。まさしく至言だな。

 

 守るものが増えるほど、大事なものが増えるほど、それは弱点になる。弱点が増えると、弱体化する。

 

 人間として、生物として、弱くなる。

 

 そんなのは御免だ。

 

 繋がりが増えるほど、それが大事でかけがえがなくて、結びつきが強くなって、なくてはならないものになればなるほど、それが千切られ、引き裂かれ、断ち切られるほど、苦しくて、辛くて、悲しくて、寂しくて――死にたくなる。

 

 そんなのは、断固として御免だ。

 

 だから一人がいい。俺はぼっちがいい。

 

 これが正解で、在るべき姿で、比企谷八幡なんだ。

 

 これが、俺なんだ。

 

 

【もう ひとりぼっちに されないといいね】

 

 

 悪いなガンツ。もう手遅れだよ。俺は完成されたんだ。俺は破壊されたんだ。

 

 こんな形で、こんな在り方で、固まっちまった。壊れた状態で、出来上がった。

 

 歪な形で整って、人間強度が最大になった。

 

 もう傷つきたくないから、もう失くしたくないから。

 

 

『一人ぼっちに、しないでくれ』

 

 

 あんなのは、もう御免だから。

 

 だから俺は、最強(ぼっち)で在り続けなくてはならない。

 

 

「――あ、あの!」

 

 二人に背を向け、戦場へ向かおうとする俺の背中に声が掛かる。

 

 俺は振り返ることなく、足だけ止めて続きを促した。

 声からして、たぶん黒髪の少女だろう声の主は、一瞬躊躇した後、振り絞るように声を出した。

 

「わたし……何も出来ないですけど……怖くて、動けない、情けないわたしですけど……でも……どうか……ッ……どうか――」

 

 

「――助けて、ください……ッ」

 

 

 その声は涙声で、自分に対する無力感と、この現状に対する途方もない恐怖に満ちていた。

 

 一瞬声が詰まっていた。おそらく、頑張ってくださいか、死なないでくださいか、そんな言葉を言おうとしたのだろう。

 それでも、やはり堪えきれなかったのだ。

 

 どうしても怖かった。死ぬのが嫌だった。何も出来なくても、助けて欲しかったのだ。

 

 俺はそれに何も思わない。こんな状況だ。助けて欲しくて当然だ。縋って当然だ。

 

 

『こわいのこわいの! あっちもこっちも血だらけで!! みんなみんな殺されて! いなくなって!! それでも私は何も出来ない……っ。私は、一人じゃ、何も出来ないッ!! もうあんな思いは嫌!! お願い比企谷くん!! 私を守って!! 私を救って!! 私を助けてよぉ!!』

 

 

 ああ、ダメだ。やっぱりこの少女の声は、姿は、俺が壊した、あの少女を思い起こさせる。

 

 どうしようもなく俺の罪の証としてあり続ける、あの美しかった、気高かった、俺の憧れだった、雪の様な儚い少女を。

 

 だからだろうか。もう深く関わらないと決めたはずなのに、口が勝手に動いていた。

 

「助けてやるさ。絶対にな」

 

 これは、それは、誰に向けた言葉だったんだろうか。

 

 俺の背後の黒髪少女か? それともあの日壊した雪ノ下か?

 

 それとも――

 

『ねえ、比企谷くん――――――――いつか、私を助けてね』

 

 分からない。

 

 

『…………はち、まん………………かって」

 

 

 分からない。分からない。

 

 分かりたくもなかった。

 

 いずれにせよ、なんにせよ――――どうしようもなく、救えないから。

 

 俺は逃げるように、逃げ出すように、その場から走り出し、桐ケ谷の後に続いて戦場へと向かった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 あの人は走り去っていく。

 

 巨大な恐竜に向かって、己の命を懸けて戦う為に。

 

 寂しそうな目をしている人だった。第一印象から、わたしはあの人にそんな印象を持った。

 その真っ暗な瞳の中に、悲しみと寂しさを抱えて、でもその奥に強さがあった。

 

 弱さと表裏一体の、そんな間違った強さを。

 

 今まで会ったことがないような男の人だった。……わたしが知っている男の人は、仕事場の人か、ファンの人か、あとは――お兄さんくらいしかいないのだけれど。

 

 その誰とも違った人だった。なんというか、あの人は――弱さを知っている人な気がした。

 

 選ばれない者の気持ちを知っている人な気がした。

 

 どうしようもなく弱者で、だからこそ強い、そんな人な気がした。

 

「なぁ」

「ひゃいっ!」

 

 最悪だ……。またやってしまった。さっきのあの部屋でも意味分からない言葉を口走っちゃったし……絶対変な子だって思われてる。なんでこの人相手だと……別に怖くないのに。……まぁ少しは怖いけれど。

 

 わたしはこの人に剣を渡した。

 当然だけれど、わたしに剣を扱う技術なんてないし、それに……怖くて多分、あの恐竜に近づけない。

 

 怖い。本当に怖い。この変なこれに巻き込まれてから、ずっと怖い。

 恐竜に襲われ続けて、ずっと、いつ殺されちゃうんだろうって。怖くて。怖くて。

 

 桐ケ谷さんや東条さんや、年下の渚君ですら必死に戦ってるのに。

 

 わたしは、ただ、怖がってるだけで――

 

「――?」

 

 剣を差し出してから、あの人がじっとわたしを見つめてる。

 なんだろう? 今までファンの人と握手とかする時にたまにこういうのあったけど、でも、違う。そういったいやらしい視線じゃなくて――

 

――やっぱり、すごく、悲しそうな、寂しそうな……

 

「……あ、あの――」

「っ! 悪いな、借りる。……アンタのスーツはまだ生きてる……みたいだな。じゃあ、水色の盾になってやれ。……アイツの攻撃の巻き添えを食らうだけで下手すりゃ死ぬぞ」

「あ、は……はい」

 

 わたしが声を掛けると、我に返ったように事務的に冷たい言葉を掛ける。けれど、その言葉はわたし達を案じてくれているような、どこか優しい言葉だった。

 

 そんなことを考えていると、桐ケ谷さんが恐竜に向かって駆け出して言った。

 剣を片手に駆けていくその姿は、なんだかすごく様になっていて、かっこよかった。

 

 まさしくお伽噺の竜退治に向かう騎士のような、とても勇ましい姿だった。

 

 そんなどこか自信に満ち溢れた、頼もしい背中だった。

 

 続いてあの人が、わたし達に背を向け、戦場に向かおうとする。

 

 その背中は、孤独だった。

 

 桐ケ谷さんと比べて頼りないわけではない。

 でも、この人の背中は、纏う覚悟は、桐ケ谷さんと違ってあまりに悲愴だ。

 

 ただ、殺す。ただ、生き残る。

 

 それだけが全てで、それがやるべきことだからやるだけだという、単純で、だからこそ確固たる決意が。

 

 その為に、惜しげもなく命を使うという、悲し過ぎる覚悟が見えた。

 

 その目的の為なら、死ぬことも厭わないと。

 

 いや、むしろ――

 

「――あ、あの!」

 

 見ていられなかった。思わず引き留めていた。

 

 間違ってる。こんなのは絶対に間違ってる。そう言いたくて。

 

 このままでは、この人は簡単に自分を命を投げ出してしまう。あの時の、渚君のように。

 

 あの人はこちらを振り向いてくれないけれど、足は止めてくれている。

 

 ならばと、わたしは声を張り上げる。

 

「わたし……何も出来ないですけど……怖くて、動けない、情けないわたしですけど……でも……どうか……ッ……どうか――」

 

 でも、その時 ズズーンッ!! という、お腹の中に響くような、恐ろしい足音が轟いた。

 

 息を呑んで、あれほど高ぶった感情が、一気に冷え込むのを感じた。

 

 もし、この人が、この恐竜を倒せなかったら――

 

――次に殺されるのは、わたしなの?

 

 そう思ってしまった瞬間、色んな光景がフラッシュバックした。

 

 

『あやせちゃん……なんで逃げるんだよ……なぁ! なぁ!! なぁ!!!』

 

『僕が引き付けます。その隙に逃げてください』

 

『お前らなんでこっちくんだよ!! 俺達まで道連れにすんなよ!!』

 

『いやぁぁあああああああ!!! こないでぇええ!! たすけてぇぇえええええ!!!!』

 

『――殺せば、勝ちなんだ』

 

 

『……この……人殺し――』

 

 

 

「――助けて、ください……ッ」

 

 

 

 思わず、そう吐き出していた。

 

 言った瞬間、どうしようのない罪悪感に襲われた。

 

 最低だ。

 自分は何もしていないのに。何も出来ないのに。

 

 これから命を懸けて戦おうとしている人に、命を投げ出して戦場に向かおうとしている人に、よりによって……助けてくださいなんて。

 

 自分だけは、殺されたくないなんて。

 

 ……でも、分かる。これはわたしのどうしようもない本心だ。

 

 死にたくないんだ。わたしは。絶対に死にたくないんだ。

 

 なんて、醜い。

 

 なんで死にたくないんだろう。何が未練なんだろう。

 

 まだお兄さんのことを諦めてないのかな。桐乃と仲直りしたいのかな。

 

 それとも―― わたしは――

 

「助けてやるさ。絶対にな」

 

 その声に、返ってきた言葉に、わたしは俯いていた顔を跳ね上げる。

 

 その背中はすでに走り去っていた。

 

 そして、徐々にその姿は透明になって消えていく。

 

「あっ!」

 

 わたしは虚空に手を伸ばすけど、その姿は完全に消えてしまっていた。

 

「――がきさん! 新垣さん!」

「――っ、え?」

 

 しばらく呆然としていたけれど、隣の渚君が声をかけてきて、我に返る。

 

「……あの人の言う通り、少し離れましょう。ここに居ても、邪魔にしかなりません……」

「……そう、ですね」

 

 わたし達は少し離れた、階段があった場所の方まで走る。すでにあの大きな恐竜はそこを通過していたから。

 

 でもわたしは、あの背中が消えた虚空を何度も振り返ってしまっていた。

 

 胸に渦巻いていたグチャグチャの感情は、なぜか少し軽くなっていて。

 

 ……そうか。わたしは、誰かに認めて欲しかったんだ。

 

 誰かに、わたしを選んで欲しかったんだ。

 

 大事だと、失いたくないと、そう思って欲しかったんだ。

 

 そんな、代わりなんかじゃなくて、替えがきかなくて、偽物なんかには決して負けない――本物の価値のある、何かになりたかったんだ。

 




 次回は、おそらくあの男が主役かな?
 にしても、やっぱり八幡の一人称は書いてて楽しい。すいすい筆が進む。


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男は、渇きを癒すべく、己が身一つで巨人に挑む。

……今更ながら、東条を少年と表すのはなんか違和感。むしろ漢と呼びたい。
なので、前に東条を少年と呼称したサブタイは直しておきました。……八幡や和人の方が年上なんだけどなぁ(苦笑)


 その男は、渇いていた。

 

 強さに憧れ、強さを欲した。喧嘩(たたかい)の中でこそ最高の充足感を得られた。

 

 天下の不良高校。県下最強の巣窟。力こそが全て。

 そんな謳い文句に惹かれて、石矢魔高校に入学した。(学力的に他に入れる高校がなかったというのも理由だが)

 

 だが、楽しい日々もすぐに終わりを告げた。

 

 東条英虎は、そこでも圧倒的だった。

 

 あっという間に頂点に上り詰め、石矢魔最強の称号と共に――東条英虎に立ち向かってくる猛者はいなくなった。

 

(……つまらねぇ。……退屈だ)

 

 その男は、渇いていた。

 

 その虎は――どうしようもなく、飢えていた。

 

 

 

「――――か、はっ」

 

 その虎は、今、歓喜している。

 

 全身の細胞が歓びに打ち震えている。

 

 目の前には、巨人がいる。全長はおそらく8~10m。あの東条が見上げなければならない怪物。

 

「――――ははは!」

 

 その怪物が、自分を殺そうと向かってくる。

 

 そんな怪物と自分は今、タイマンを張っている。

 猛烈な勢いで繰り出される攻撃を、紙一重で躱していく。

 

 そして、足元に潜り込み、拳を握り、渾身の力で殴りつけた。

 

 これが人間相手ならば、数十メートルは吹き飛ぶであろう、常人離れした威力の拳。

 

 だが――目の前の怪物は、ビクともしなかった。代わりに自分の体に、痺れるような反動が返る。

 

「――っ」

 

 思わず口元がにやける。

 

 そして怪物は、そのまま東条が殴りかかった足を強引に前に突き出した。

 

「うおっ!」

「な、なんだぁ!?」

 

 ガシャンッ!! と大きく吹き飛ばされた東条は、そのままロータリーに集まっていたパトカーの一台に激突した。

 

 東条は、哄笑する。

 

「――は、ははは、はははははは!!!」

 

 強い。強い。強いッ!

 

 なんだ、なんだこの怪物は! この世界には、こんなにとんでもなく面白い生物がいたのか!

 

「……いいなぁ……やっぱりこうでなくっちゃなぁ……」

 

 東条はゆっくりと身を起こしながら、口元の血を手の甲で拭う。

 

 つぶらな瞳の巨人はこちらに向かって悠々と歩いてくる。

 

 東条はそれに好戦的な笑みを返しながら、地面に転がっていたそれを手にとった。

 

「……これでいいか」

 

 東条が転がっている鉄パイプを拾い上げるような感覚で手を伸ばしたのは――――街灯だった。

 

 この広大なバスロータリーを照らすべく現代的なデザインで周辺に屹立していて、T・レックスが暴れ回った際に破壊されて倒れていた、長さはおよそ4mほどのそれを、迷わず両手で掴み、持ち上げ、抱える。

 

「さぁて、こっからだ」

 

 そして、その街灯を、まるで棍棒のように振り回した。

 

 その人の身に合わぬ巨大な武器を持ってしても、巨人の腹までしか届かない。だが――

 

「――ぬおっ!」

 

 ふら、ふらと、先程まで東条の攻撃をものともしていなかった巨人が、確かにふらついた。

 

 東条は体をぐるりと回転させ、長大な街灯を、今度は巨人の逆サイドの横っ腹に叩き込むべく、遠心力をたっぷりと手に入れながら、振り抜いた。

 

「らぁっ!」

 

 だが、今度は巨人も右腕でその一撃を防ぎ、東条は反動で大きく弾かれる。

 しかし、巨人もノーダメージとはいかず、自身も反動の影響を受ける。

 

 そして東条は、その後ろに弾かれたエネルギーも利用し、袈裟斬りのように街灯を渾身の力で振り抜いた。

 

 ガシャァン!!! と先端の電灯部分が破壊される。

 

「ぬぁぁあああ!!!」

 

 その渾身の一撃は巨人にも大きなダメージを与えたようで、苦悶の絶叫が響いた。

 

 そして東条はその悲鳴を聞いても一切の追撃の手を緩めず、そのまま下から突き上げるように、電灯が破壊されたことでギザギザに尖ったその先端を巨人の下腹に突き刺そうとする。

 

 が、巨人はそれをがっしりと両手で掴み、その突きの勢いを完全に受け止めた。

 

「……ちっ」

「お、おでのッ、どごが、なばってんだぁ……っ」

 

 両者、力比べの様相を呈し、膠着状態に陥る。

 

 ギチ ギチ ギチ と、巨人と人間による、ただ純粋な腕力の比べ合い。

 

 そして、その軍配は――当然のように巨人に上がった。

 

 グググ と、あの東条の体が宙に浮かびかける。

 

「!」

 

 グッ と更なる力を、東条は自身の真下に向かって加えて抵抗するも、巨人の桁違いの腕力がそれを許さない。

 東条の、人間の枠内でいうならば間違いなく最大級に巨漢といえる体を、ついに、完全に持ち上げた。

 

「……ははっ」

 

 これまで、その圧倒的な(パワー)で最強の名を欲しいままにしてきた、東条英虎。

 そんな自分の渾身の力を、真っ向から、真正面から上回る。

 

 これが、星人。

 

 これが、本物の怪物。化け物。

 

 人間という狭い世界を、嘲笑うかのように簡単にぶち壊してくれる枠外。

 

「いっでみろっでのッッ!!!」

 

 巨人は、街灯を渾身の力で振り抜いた。

 

 東条は再び、先程とは桁違いの勢いで吹き飛ばされる。

 

 今度はパトカーの上を跳ね上がるように激突し、そのパトカーの屋根はグチャグチャに凹んだ。

 

「な、一体何が――!!」

 

 そして、その後を追うように吹き飛ばされてきた街灯。

 それはパトカーのガソリンタンクを貫き――――爆発した。

 

 轟音と共に突如炎上したパトカーに、警察官はパニックになり、ついに完全に職務放棄し一目散に逃げだした。

 

 東条はその悲鳴を、額から流れた血が入ったことで真っ赤になった視界の中でぼんやりと聞き流していた。

 

(あぁ、強ぇな。歯がたたねぇ)

 

 これは決して東条英虎が弱いということは意味しない。

 むしろ、スーツ無しの生身であの巨人に、少なくともまともに戦えるのは、全世界の人類を探したとしても、東条を入れてもほとんどいないだろう。

 

 だって、東条英虎は人間で。

 

 目の前の巨人は星人――化け物なのだから。

 

 強い、弱い、以前に。

 

 同じ物差しで測れない。共通の基準点など存在しない。

 

 同じ土俵に上げてはならないどころか、同じ世界に存在してはいけない。

 

 そんな種類の、そんな枠外の、別種なのだから。

 

 けれど、その男は渇いていた。

 

 その虎は、飢えていた。

 

 自分の血液を熱くしてくれるような、圧倒的な強者の存在に。

 

 そして、その強者への――勝利に。

 

 

 

 巨人は、何の感情も窺えないつぶらな瞳で、燃え盛るロータリーを上から見下ろす。

 

 小さい、巨人から見れば等しく矮小なその身で、自分に向かい続けてきた、その人間。

 

 当然、死んだはずだ。人間が、脆弱で、矮小な人間が、さすがにこんな惨状で生き延びるはずがない。

 

 そのはずだ。

 

 そのはず、だった。

 

 

「うぉぉおおおおおおおお!!!!!!」

 

 

 炎の海から、轟く雄叫び。

 

 その猛獣の雄叫びと共に――――パトカーが、飛来した。

 

 爆発したパトカーとは、また別のパトカー。

 すぐ近くに停めてあり、いつ誘爆するか分からない、そんな危険地帯に、大して深く考えず、とりあえずこれでもぶん投げてみるかという軽い気持ちで、東条英虎は車を投げた。

 

 1000キロを超える普通車を、10mの巨人の顔面に向かって、投擲した。

 

 グルグルと横回転をしながら、それでも自分に向かって真っすぐ飛来してくるその物体を、巨人は反射的に殴った。

 

 その拳は、何の因果か、これまたガソリンタンクを貫き――爆発。

 

 巨人の顔面の至近距離で、爆発。

 

「ぬがぁぁああああああ!!!!」

 

 爆炎、破片などをもろに浴びて、巨人は大きく仰け反った。

 

 悶え、苦しみ、両手で顔面を覆った。

 

 

 その無防備になったボディを、一本の街灯が貫いた。

 

 

 胸の真ん中を、真っ直ぐに。

 

「お、で、お――」

 

 巨人は一瞬、何が起こったか分からないといった風に硬直した。

 

 そして、真っ赤に充血したその真っ赤な視界で、最後に捉えたのは――

 

 

――何かを投擲したような体勢で、こちらにむかって獰猛な笑みを浮かべる、一匹の虎だった。

 

 

 一人の、矮小な人間だった。

 

 虎のような、人間(もうじゅう)だった。

 

 巨人は、ゆっくりと倒れ伏せる。胸に一本の街灯を生やして。

 

 東条はそれを見届けると、それまでの獰猛な笑みとは違い、ふと柔らかく微笑み――

 

 ビギッ と、全身に嫌な音が響くのを感じた。

 

「……あれ?」

 

 そして、そのまま激痛と共に為す術なく、仰向けに倒れ伏せる。

 

 

 人間の筋力にはリミッターがかかっており、本来出せる力の数割程度しか発揮していない。

 

 それは、人間離れした(パワー)を持つ東条英虎という個体も同様であり、そのリミッターを外したが故に、パトカーを剛速球で投げ飛ばすなどという(わざ)が出来た。

 

 が、そのリミッターは力を出し惜しみしていて、いざという時は外すとご都合的に強化(パワーアップ)するという切り札の様な、そんな便利なものでは、決してない。

 

 むしろこれは安全装置(セーフティ)であり、絶対に外してはいけないから掛けられているストッパーなのだ。

 

 なぜなら、人間の筋肉は、脳の100%の命令に応えられるような強度ではなく、マックスのスペックを発揮してしまったら、ズタズタに破壊されてダメージを負ってしまうのだ。

 

 それは――いくら人間離れしていようとも、人間であることには変わりない、東条英虎という個体も、やはり例外ではない。

 

「はは……動けねぇ」

 

 だが東条本人は、きっと疲れたんだろうなぁ程度にしか思っておらず、本来なら意識を保つどころか、泣き叫んで絶叫してしかるべき激痛が全身を襲っているのも関わらず、爽やかな笑みを浮かべていた。

 

 すぐそこでパトカーが燃え盛り、自分はまったく動けないにも関わらず、満足気な笑みを浮かべていた。

 

 その昔、憧れた、肩に紋様を刻んでいた、東条にとっての強さの象徴の男。

 

 掃き溜めの様な世界で、力がものをいう弱肉強食の世界で、その大きな背中をもって東条にとっての希望となった男。

 

 あの男に、あの背中に、自分は少しでも近づけただろうか。

 

「東条さん!」

「大丈夫ですか!?」

 

 燃え盛る炎の海の向こうから、二人の少年少女が駆け寄ってくる。

 

 心配そうな顔で、一目散に駆けつけてくる。

 

 

『いいか、トラ? 本当に強いってことはな、誰を倒したかじゃない――何を守ったかだ』

 

 

 あの男の言葉を、なぜかふと思い出した。

 

(……オレは、コイツ等を守れたのか?)

 

 思えば、石矢魔最強となったあの日から、自分は誰かのための喧嘩をしただろうか。

 

 誰かを――仲間を守る為、背に誰かを庇うような、そんな喧嘩をしただろうか。

 

 自分の飢えを満たすため、渇きを潤すため――強い誰かを、強い何かを。

 

 そんな、自分の為の喧嘩しか、していないような気がした。

 

 退屈だった。毎日がつまらなかった。

 

 自分の何かが鈍り、憧れた強さから遠ざかっていくような焦りがあった。

 

 だが、それは、周りが弱くなったからじゃなくて、強者との出会いがなかったからじゃなくて。

 

(……俺が、つまらなくなったから。……俺が弱くなってたから、毎日が退屈だったのか)

 

 今日、自分は何かを――コイツ等を守れたのだろうか。

 

 ならば自分は、ほんの少しでも、あの男に、あの背中に――あの憧れに、近づけたのだろうか。

 

 東条英虎は、そんなことを思いながら、激痛ゆえではなく、満足のいった喧嘩(たたかい)の充実感と心地よい疲れと共に、眠るように意識を手放した。

 

 

 

 

 

「え、東条さん!? 東条さん! 東条さん!!」

「だ、大丈夫だよ、新垣さん。気絶してるだけみたいだから」

 

 突然、意識を失った東条を見て、あやせは慌てて肩を揺するも、渚の言葉によりある程度の落ち着きを取り戻し、息をついた。

 

「それじゃあ、とりあえず安全な所へ運びましょうか。……わたし達でも、わたしはスーツを着ているので、なんとか運べると思います」

「…………」

 

 そう言ってあやせが東条の頭側に回る。だが、渚は眠るように気絶する東条を、ジッと見つめていた。

 

 先程の戦い。あやせと渚は少し離れたところで観戦していた。

 見て見ぬふりをしていたと言われれば聞こえが悪いが、あやせと渚が入れるような戦いではなかったし、もし東条が止めを刺されてしまいそうになった時は、あやせはその身を盾にすることくらいしか出来ないだろうが、割り込むつもりでいた。

 

 だが、例えその時になったとしても、渚は、自分は何も出来ないで、一緒に死ぬことくらいしか出来ないであろうと思っていた。

 そのことに恐怖はない。だが、無力感はあった。そのことを悔しいと思うくらいには、潮田渚は思春期の男子だった。

 

 強さに憧れる、男だった。

 

 目の前の男のように、強くなりたいと思う、獣だった。

 

「…………」

 

 渚は見つめる。獲物を睨みつける蛇のように。

 

 そこにあるのは、冷たいまでの、殺意のような憧れ。

 

 この人のように強くなりたい。

 

 自分と同じ、スーツを着ていない生身という条件下で、あんな怪物を打倒してみせた、圧倒的なまでの強さを見せた――魅せた、この男のように。

 

 この男の強さを、その全てを自分のものにしたい。

 

 ゾクッと、渚の小さな体に何かが駆け巡る。

 

 これは何だろう。渇きのような、飢えのような、本能に限りなく近い、激しく、だが冷たい感情—―欲求?

 

 独占欲にも似た、強烈な――渇望?

 

(……いったい、僕は――?)

 

「……渚君?」

「――!」

 

 あやせに心配げに声を掛けられて、渚はふと我を取り戻す。

 

 今、自分が何を考えていたのかが思い出せない。

 

「あの、足を持ってくれませんか? 持ち上げるだけでいいので。……スーツを着ているので力は問題ないのですが、東条さんは大きくて」

「あ、そうですね。分かりました」

 

 東条の足を持ちながら、先程自分が何を考えていたのかを思考するも、すぐにそれを中断する。

 

 ここから少し先—―和人と八幡が向かった、ボスとの最終決戦が繰り広げられているであろう場所から、轟音が轟いたからだ。

 

 

 

 まだ、地獄は――ガンツミッションは、終わっては、いない。

 

 

 




「お前どこの池袋最強だよ」←八幡に言わせたかった……っ。


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比企谷八幡は、一人の黒い少年と共に、ボスとの最終決戦に挑む。

二話に分けようかとも思いましたが、文字数が中途半端で切り所が難しかったので、一気に行きます!
かっぺ星人ミッション、ラストバトルです!


 

 失敗した。和人はそう思っていた。

 

 警察官や渚達から引き離す為に、ロータリーから少し離れた広場へと親ブラキオを誘導しようとした和人だったが――

 

『ご覧ください! 展示場に空いた巨大な大きな穴! 落とされた階段! 一体何があったのでしょうか!? なにかのテロの始まりなのでしょうか!?』

 

 テレビカメラの前で緊迫した表情と共に実況する女性アナウンサー。その他にも、先程の警察官の人達が呼んだ応援なのか、盾を持った機動隊のような人達が何十人もその広場に集結していて、何やら作戦会議のようなものをしている集団もいた。

 そして、その遠巻きにはこういった事態には道端に落とした飴に群がる蟻のようにどこからか現れる、携帯をカメラモードにして騒ぐ野次馬達。

 

 完全に裏目に出た。関係ない人達の被害を避けようと選んだ選択が、完全に裏目に出た。

 

「くそッ! おい、お前達逃げろ!!」

 

 広場へと降りる短い階段。

 そこを和人が駆け下りていると――

 

――前方の広場に、斬撃が走った。

 

 アナウンサーの、カメラマンの、機動隊の、野次馬の、彼ら彼女らの体が、一瞬で二つの肉塊へと変わり果てる。

 

 後ろを振り向くと、人間達の凄惨な死に様を見下ろすように君臨する親ブラキオ。

 

 すぐ真下の階段にいた分、角度的に和人は奇跡的に助かったのだろうが、それに歓喜できるような和人ではなかった。

 

 まず最初に抱いたのは、目の前の惨状への嫌悪感。

 その醜悪な有り様にも、それを創り出した背後の怪物にも――この状況を引き起こした自分にも。この状況を防げなかった自分にも。そして――

 

――次は、自分がこうなってしまうのではないかと恐怖し、怯えている自分にも。

 

 嫌悪する。嫌悪する。嫌悪する。

 

 舞い上がっていた。念願の剣を手に入れ、剣士に、黒の剣士に戻るためのアイテムを手に入れ、何でも出来る気になっていた。

 

 剣さえあれば、何でも出来ると思っていた。剣さえあれば、剣士になれると思っていた。

 

 剣さえあれば、黒の剣士に――英雄に戻れると思っていた。

 

 自分が今いるのはゲームではなく現実で、自分はアバタ—ではなく現実で。

 

 これが戦争で、ここは地獄だということを、不覚にも、愚かにも、忘却していた。

 

 和人は広場に降り立った。右を見ても、左を見ても、前を見ても、後ろを見ても。

 

 血で、肉で、死体で、屍体で、死、死、死、死、死死死死死死死死死死――

 

「きゃぁぁぁぁあああああああああ!!!!!!」

 

 運よく遠くにいて生き残った野次馬の生き残りが絶叫する。彼女らにとっては、突然致死性の鎌鼬が走ったかのように人体が真っ二つに切り裂かれるシーンを目撃したのだ。

 

 彼女達はすぐにここから走り去っていく。出来れば和人も今すぐに続きたかった。

 

 だが、出来ない。頭の中に微かに鳴り響く音色が、ここがエリア外ギリギリだということを知らせているのもあるが、それ以上に――

 

 ガクッと、膝を折って、座り込む。足に力が入らない。完全に恐怖に呑みこまれていた。

 

 手に持つガンツソードが、急に重くなったように感じる。あれ程頼もしく感じたこの剣が、急に頼りなく感じてきた。

 

 そうだ。剣士キリトは、英雄『黒の剣士』は、決してただ剣を持っただけの少年ではなかった。

 

 どんな強敵にも心を奮い立たせて立ち向かい、不屈の魂を持って剣を振るい、敵を屠る。そんな英傑だった。

 

 こんな風に、敵の一発の攻撃で恐怖に呑みこまれるような、情けない男であるはずがない。

 

 力無く、上を見上げる。

 

 そこには、巨大な、巨大過ぎる敵が、親ブラキオが、強大なボスキャラが、桐ケ谷和人を見下ろしていた。

 

 奴は、首を高速に震わす。デスゲームSAOで鍛え抜いた観察眼を持つ和人には、その挙動があの必殺の一撃の予備動作だととっくに看破していた。

 

 そして、自分が今いるここは、その攻撃の有効範囲だと、和人の周りに無数に転がる凄惨な死体が雄弁に教えてくれている。

 

 だが、動けない。剣を構えることすら出来ない。ついさっきまで、何でも出来るような気がしていたのに。

 

 鍍金を剥がされた気分だった。あの、ALOでの最終決戦の時、目の前で何よりも大切なアスナが凌辱されるのをただ見ていることしか出来なかった、あの時と同じだった。

 

 剣一本で世界を救った勇者だという鍍金に、いまだに縋りついていた、子供のままだった。

 

 あの時と違うのは、今の自分を襲っているのが、GM権限による理不尽な重力ではなく、ただただ己の中から生まれる情けない無力感であるということと――そして。

 

 そんな、情けない鍍金の勇者を叱咤する、屈した英雄をもう一度奮い立たせてくれる、偉大なる魔王が、この世界には存在しないということ。

 

『それは、あの戦いを汚す言葉だ。――――立って、剣をとれ。立ちたまえ、キリト君!!』

 

 

「何やってんだ、伏せろ」

 

 

(え――)

 

 突如、そんな声が聞こえたと思うと、強引に上半身をぐっと地に伏せられた。

 

 次の瞬間、すぐ真上を擦過する衝撃。親ブラキオの必殺の一撃だった。

 

 必殺のはずの一撃を、自分は回避した。いや、助けられた……?

 

 自分はまた、助けられた。あの時のヒースクリフのように、茅場晶彦のように、鍍金の勇者を助けてくれた、魔王(だれか)がいた。

 

 それは――

 

「お、おまえは……」

「どうした、桐ケ谷。戦うんじゃなかったのか」

 

 その男は、和人のことを見てすらいなかった。ただ真っ直ぐに、遥か高みで人間達を見下ろしている恐竜達のボスを見据えていた。

 

 臆さず、まるで屈さず。まるで、本物の勇者のように。

 

 和人の脳裏に、再びあの男が過ぎる。あの男の、大きな、偉大な背中が。

 

 桐ケ谷和人が憧れ続けた、勇者であり、魔王であった、あの男の後ろ姿が。

 

 自分は、桐ケ谷和人は、まだ彼らの背中しか見えない。鍍金の勇者は、彼らと肩を並べることは出来ない。並び立つことが出来ない。

 

 今は、まだ。

 

「……ああ」

 

 そうだ。黒の剣士の幻想に、英雄キリトの鍍金に縋るのは、もうやめよう。

 

 彼の役目は、あの日、あの時に終わったんだ。

 

 アスナを助け出し、結城明日奈と出会った、長い長い冒険が終わった、深夜の病室でのあの瞬間、確かに見たんだ。

 

 背に二本の剣を背負った少年が、銀の細剣を吊った少女の手をとって、穏やかな微笑みと共に、自分達の元からゆっくりと遠ざかっていったのを。

 

 彼らの戦いは終わったんだ。いつまでも、彼に頼り、縋っているわけにはいかない。

 

 彼のようになりたい。奇跡の英雄に、黒の剣士に、キリトになりたい。この想いは変わらない。

 

 なら、強くなろう。強く在ろう。彼のような、不屈の強さを。恐怖などに呑まれない、本物の強さを手に入れよう。

 

“キリト”のように強い、“桐ケ谷和人”に、なるんだッ!

 

「戦う! 俺は……約束したんだッ!」

 

『信じてた……ううん、信じてる。きみは私のヒーロー』

 

(なんの力もない俺に、彼女は――アスナは、そう言ってくれたんだ。……だから、約束したんだ。己に誓ったんだ。――――あの言葉にふさわしい自分で在れるように、頑張るって!!)

 

 和人はジッと八幡に目を向ける。

 

 八幡は、和人を一度振り返って、その目を見て、再び前を向く。

 

「……コイツの子供は、腹の真ん中に心臓があった。おそらくは、コイツもそこが弱点の可能性が高い」

 

 そして、再び自身に透明化を施し始める。

 

「援護はする。……どうにかして、そこまで潜り込め」

 

 その言葉を、和人は剣を持った右手を引いて、溜めを作るような体勢で聞いていた。

 

「――ああ……ッ!」

 

 そして、八幡の姿が完全に消えるのを合図に、一気に親ブラキオに向かって突っ込んで行った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 桐ケ谷は真っ直ぐに親ブラキオに向かって駆けていく。

 それは、本来なら間違いなく自殺行為。愚の骨頂。俺ならば間違っても出来やしないし、俺でなくてもまともな奴ならやりはしないだろう。

 

 俺から言わせれば戦略面として。狙い撃ちしてくださいと言っているようなものだ。

 

 まともなやつからすれば感情面として。あんな巨大な化け物相手に突っ込むなど恐怖以外の何物でもないだろう。

 

 結論として、周りが見えていないか、自分の力を過信している、どちらにせよ馬鹿野郎にしか出来ない行動ということだ。

 

 だが、今の桐ケ谷は。

 瞳に力を取り戻した、今の桐ケ谷の背中は。

 

 まるで、怪物に挑む狩人のようで、邪悪な竜を退治するお伽話の騎士のようで。

 

 奇跡を起こす――英雄のようだった。

 

「うぉぉぉおおおおおおお!!!!!」

 

 桐ケ谷は吠える。

 それを宣戦布告と受け取ったのか、親ブラキオは首をゆらゆらと揺らし始めた。

 

 あの必殺の一撃の、肩慣らしの予備動作。

 

 ……さて、どうするか。ああ言ったからには、何かしらのサポートをしなくてはならないだろう。

 

 本来ならば、別に俺が桐ケ谷と共同戦線を張る意味などない。

 俺はあいつ等を見捨てて、このミッションにおいても一人で戦ってきた。

 

 仮に奴等がこのミッションを生き残り、次からも一緒にミッションをやらされることになったとしても、このスタンスを変えるつもりはない。

 

 だが、だからと言って、こうして同時に同じ敵に立ち向かうとなった時、無駄に意固地になって、わざわざ足の引っ張り合いをすることほど、愚かなことはない。

 

 ならば、利用すべきだ。お互いがお互いを利用し合うべきだ。相互利用という名の共同戦線を張るべきだ。

 

 目の前の怪物を殺し、勝って、生き残る為に。

 

 戦争に、勝利する為に。

 

 このふざけたデスゲームを、クリアする為に。

 

 頼むぞ、SAO生還者(せんぱい)

 

 その力、たっぷりと見せてもらう。

 

 俺は空中にYガンネットを発射する。桐ケ谷の右上方の虚空に向かって。

 

 桐ケ谷は一瞬呆気にとられたが、すぐに意味を察したようだ。やはり只者じゃないな。

 

 親ブラキオの一閃が放たれる。とてもじゃないが速過ぎて、俺ではまともに反応すら出来ない。

 

 だが、Yガンの発光する捕獲ネットが高速に動いたのは見えた。

 

「――くっ!!」

 

――それに、桐ケ谷は反応し、見事にガンツソードでそれを受け流す。

 

 俺はそれを少し離れた場所でしゃがむことで攻撃を回避しながら見届けた。

 

 ……この真夜中の暗闇の中、やはりYガンネットの発光というのは、デメリットであり、使い方次第ではメリットにもなるな。途中であのネットを絡ませることで、あの見えない一撃を視覚的に判別しようという試みだったが、上手くいったようだ。

 

 だが、やはりそれでも俺ではあの攻撃を完璧に防ぐのは無理だな。Yガンネットの動きで攻撃を見極めるのでは遅すぎて防御が成功するかどうかは運の要素が強すぎる。見てから行動することしか出来ない俺では。

 

 しかし桐ケ谷は、その一瞬の予兆で完璧に防いで見せた。さすがに経験値が違うか。SAO生還者(サバイバー)。勝手が違うとはいえ、俺よりもはるかに潜ってきた修羅場(デスゲーム)の数が違うということか。

 

 再び親ブラキオはあの予備動作に戻っている。今の一攻防で大分桐ケ谷は奴に近づいた。

 

 あと一撃、もしくは二撃防げれば、奴の懐に潜り込める。

 

 そして奴の巨体もまた武器であり、弱点でもある。どうしても機動力という面ではT・レックスやトリケラサンには劣るからな。

 

 ……本当は桐ケ谷に注意を引き付ける、有体に言えば囮になってもらって、その隙に俺が懐に潜り込もうと思ってたんだが、さっきのを見て、改めて思った。

 

 あの攻撃を掻い潜って、奴の懐に辿り着くのは、俺には無理だ。

 

 見えない程に速過ぎる一閃を見極め、剣一本で確実に受け流す、桐ケ谷が別格なんだ。

 

 一体、どんな反応速度をしてるんだ。

 

 そして何よりも厄介なのは、このエリアだ。

 入口は一つ。その出口に親ブラキオは待ち構えている。よって、後ろに回り込む、懐に潜り込むには、どうしても真正面から奴に立ち向かわなければならない。今の桐ケ谷のように。

 

 だが、そうなると確実に奴のあの必殺の斬撃の有効範囲内を通過しなくてはならない。奴が透明の俺の姿を認知出来なくとも、ただ無造作に振るうだけで確実に巻き添えを食らっちまう。

 くそっ。桐ケ谷の奴、余計なことをしてくれた。こんなところに誘い込みやがって。まだ、さっきのバスロータリーの方が戦いやすかった。

 

 まぁ、済んだことをごちゃごちゃと言っても仕方がない。あの黒髪に大人しく引き留められた俺にも非があるし、ああして一番危険な役をやってもらってるんだ。よしとしよう。

 

 今、俺がすべきことは、少しでも桐ケ谷をサポートすることだ。

 

 俺は再びYガンを構える。

 ……だが、どうする? 突然、視界内に発光する物体が接近してくれば、反射的にそれを弾き落とそうとするだろうから、斬撃の方向――右薙ぎか左薙ぎかをこっちで確定できると思っての方法だが、奴は知能が高い。言葉を巧みに操れるほどに。ならば、こんな単純な作戦に何度もかかってくれるか?

 

 ……ッ。考えている時間はない、か。

 

 俺はYガンを発射する。今度は桐ケ谷の左上方。同じ場所よりはマシだろうという小細工だ。

 

 そして再び空気を切り裂く衝撃と共に、あの必殺の一閃が襲い掛かる。

 

 キィン!! と、再び桐ケ谷はその鎌鼬のようなそれを、細い刀身で弾き流す――が。

 

「な――ッ」

 

 その呻き声は俺なのか、それとも桐ケ谷のものだったのか。

 

 奴は、親ブラキオは、間髪入れずに再び必殺の一閃を振り抜いた。

 いや、振り抜いてはいない。攻撃範囲を最小限に――桐ケ谷だけに絞り、あの神速の斬撃を桐ケ谷に浴びせ続けている。

 小刻みに、何度も、何度も。

 だが、それは攻撃力の低下を意味しない。あの巨大な刃、そして衰えない太刀筋の鋭さ。おそらくこれまでと同様に一発でも食らえば終わり。例えスーツを着ていようと、そこらへんに散らばる死体のように真っ二つにされるだろう。

 

 つまり、その必殺の攻撃が、たった一人の人間に、何度も、それこそ執拗に何度も振るわれ続けているということは――

 

「――ぉぉぉぉおおおおおおお!!!!!」

 

 桐ケ谷は、暴風雨のように浴びせられ続ける斬撃の嵐を、耐え抜いていた。

 

 その全てに反応し、その全てを防ぎきっている。

 

 奴は……本当に、一体……

 

「剣を!!」

 

 桐ケ谷は、親ブラキオの猛攻に耐えながら、叫ぶ。

 

 姿の見えない、誰か(おれ)に向かって。

 

「もう一本だ!! 剣を!! 俺に寄越せ!!」

 

 俺はその言葉を聞いて、黒髪から受け取ったガンツソードを取り出した。

 

 そして、親ブラキオの攻撃に弾かれないように、低い軌道で桐ケ谷の左手に向けて投擲する。

 

 桐ケ谷は、その剣を、こちらを振り向くことなく片手で掴み取った。

 

 その剣は、まるであるべき持ち主の元に帰るように、自然と桐ケ谷の手の中に収まった。

 

 

「ぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおあああああああああ!!!!!!!!」

 

 

 桐ケ谷は、二刀を振るう。

 

 一刀でも凄まじかった剣技が、二刀になったことでその勢いを更に苛烈に増した。

 

 剣は、一本よりも二本の方が強い、なんて単純なものではないらしい。

 単純にまず、筋力がいる。普通、剣は両手で振るうものを、単純に片手でやらなくてはならないからだ。そうでなくても、例え普段から片手で剣を操っていたとしても、その体捌きは一本の剣用の体捌きになっている。体重移動やら重心の置き方やら、それら全てが一本の剣に集約されるように。

 

 つまり、一刀流と二刀流では、根本からして全く別の技術、別の流派なのだ。ましてや三刀流なんてもっての他だ。あんなの歯を痛めるだけだ。経験者が語るんだから間違いない。やはり億越えのルーキーにもなると歯のエナメル質からして違う。

 

 だが、目の前の桐ケ谷は、完璧に二刀流をマスターしているようだった。いや、むしろこちらが本業――本性なのではないかという程に、洗練さが増している。

 

 それは、まるで美しい舞のようで。

 

 それは、まるで猛々しい獣の狩猟のようで。

 

 過酷な戦闘と、極限の戦場で磨き抜かれた、一つの完成形がそこにはあった。

 

 思わず、目を奪われる。

 

 その姿は、奇妙なSF風の真っ黒な全身スーツという出で立ちでも、まさしく、剣士だった。

 

 黒の、剣士だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 桐ケ谷和人は、ただ一心不乱に剣を振るった。

 

 剣を一太刀振り抜く度に、自分の中に何かが流れ込むのを感じる。

 

 何かが、息を吹き返すのを感じる。

 

 自分の一刀が、二刀が、その太刀筋の鋭さを増し、洗練されていく。

 

 あれほど高速だった敵の攻撃が、よりはっきりと見えてくる。

 

 どこに攻撃が来るのか、どうすれば防げるのか――理屈よりも、感覚で分かるように体が創り変わっていく。

 

 体が、細胞が――みるみる内に、剣士になっていく。

 

『あたし、思うんだ』

 

 その少女は、かつて、どこかの仮想世界において。

 

 幸せそうに暖炉の前で眠る黒髪の少年に、穏やかな微笑みを送りながら、誰にともなく呟いた。

 

『たぶんもう、正常(ノーマル)なゲームの中じゃあ、キリトがほんとの本気で戦うことはないんじゃないかな、てさ。――逆に言えば、キリトが本気になるのは、ゲームがゲームじゃなくなった時。……バーチャルワールドが、リアルワールドになった時だけ。……だから――』

 

 

 

 ザバンッッッ!!!! と、“桐ケ谷和人”の黒剣(ガンツソード)が、獲物(ボス)の首を切り落とした。

 

 

 

『――“キリト(あいつ)”が本気で戦わなきゃならないようなシーンは、もう来ないほうがいいんだよ』

 

 

 

 今、この瞬間。とある心優しき少女の願いは、儚くも崩れ去り。

 

 

 一人の剣士が、新たなる戦場へと降臨した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 これまでのように空間を裂くような衝撃ではない、生々しい、肉体という物質を斬った音が響く。

 

 俺の横を何かが通過する。目で追うと、それは頭部だった。

 巨大な体にはあまりに不釣り合いだと思っていた、だが、こうしてみると俺の身長ほどには大きかった――親ブラキオの、頭部。

 

 桐ケ谷が斬ったようだ。つまり、あの神速の斬撃の猛襲を、桐ケ谷の剣技が上回った。

 

 俺は、恐竜の生々しい頭部よりも、その事実に戦慄を覚える。

 

 あの部屋で感じた、桐ケ谷という男の可能性。

 

 俺よりも、あの陽乃さんや、もしかしたら中坊よりも高いかもしれない、あの部屋の住人としての“適合性”。

 

 コイツは、もしかしたら、本当に。

 

 全てを救う、英雄になれるかもしれない。

 

 あの……『カタストロフィ』を――

 

「――――!!」

 

 その時、こちらから見ていた桐ケ谷の背中から、力が抜けていくのを感じた。

 

 まるで安堵しているかのような、勝って、気が抜けているような。

 

 違う。ダメだ。コイツ等は、首を刎ね飛ばしたくらいじゃ死なない。

 

 

 まだ、戦争(ゲーム)は終わっていないッ!

 

 

 親ブラキオは、その首を高々と振りかぶる。

 

 頭部を失っても、まるで意思があるが如く――殺意が、生きているが如く。

 

 桐ケ谷はそれに気づくが、遅い。完全に緊張感を失っていた体に命令を送って、行動をとるには、あまりに遅い。

 

「跳べッ!!!」

 

 くそっ! 間に合え!!

 

 

 ドガンッッ!!!! と、鉄槌のごときその一撃は、強烈に振り下ろされた。

 

 俺は土煙に目を覆うが、すぐに行動を開始する。

 

 目を細め、先を見据えると――

 

「――な、なんだ、これッ!?」

 

 腰の部分にYガンのネットが巻き付いた桐ケ谷の姿が見えた。

 

 よしっ。なんとか成功したようだ。『カタストロフィ』のことを思い出したのと連鎖的に、中坊が俺にやったアレを思い出すことが出来てよかった。

 俺の跳べという指示に反射的に桐ケ谷が反応してくれて助かったぜ。もし棒立ちのままだったらYガンネットに後押しされるどころか、その場に固定されてなんなら俺とボスの共同で桐ケ谷を殺してたまである。

 

 だが、上手いこといい位置まで後押しできたようだ。そこからなら――

 

「桐ケ谷!!! 上だ!!!」

 

 俺の言葉で桐ケ谷はハッと真上に目を向ける。

 腰を狙ったから身動きは取れなくても両手は自由のはずだ。あの一瞬でダイブしてる人間の腰を狙い撃てるとは俺の射撃センスマジのび太くん。

 

「ダメだ!! 銃が取り出せない!!」

「大丈夫だ!! その剣は伸びる!!!」

 

 そう。ガンツソードは伸びる。そこからなら十分心臓を狙えるはずだ。

 初心者は剣が伸びるということを上手くイメージ出来なくて中々使いこなせないが、桐ケ谷ならそこらへんは問題ないはずだ。だって、さっきの攻防も時折伸ばしてたし。てか無自覚かよ天才かお前。

 

 俺の言葉に半信半疑といった様子の桐ケ谷だが、意を決して右手の剣を引いて狙いをつけると――

 

――奴の腹に、無数の目が現れた。

 

 うわ、気持ち悪ッ。と反射的に顔を顰めた俺だったが、これは不味い。奴に気付かれては、今の桐ケ谷は身動きがとれないッ!(主に俺のせいで)

 

 桐ケ谷も初めはギョッとしていたが、すぐにそれに気づいたようだ。顔色がみるみる青くなる。

 

 そして、親ブラキオは自分の弱点近くにいる侵入者を排除しようと暴れ――

 

「――させるわけねぇだろうが」

 

 俺は暴れそうになる親ブラキオの頭が取れた首をガシッと押さえている。

 

 さすがに自分が身動きを封じた奴のサポートくらいはする。だから、コイツが首を振り下ろして叩きつけた直後、すぐに行動に移ったんだ。さすがに尻尾まで回ってる時間はないからな。

 

 俺はスーツの力を限界まで引き出してゴリマッチョになりながら桐ケ谷に向かって吠える。

 

「早くしろ!! そう長くは持たない!!!」

 

 俺は渾身の力で、数十トンのブラキオサウルスの巨体を押さえ付ける。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「早くしろ!! そう長くは持たない!!!」

 

 和人は必死に拘束から逃れようと体を小刻みに揺らす親ブラキオを見て戸惑っていたが、その声が聞こえた時、あの男がどうにかコイツを押さえ付けてくれていることを悟った。

 

 和人は小さく息を吸い込み、そして止める。

 最小限の間まで精神を集中させ、右腕を引き、狙いを定めた。

 

 イメージするのは、あの鋼鉄の城で、何度も何度も繰り出した、あの突き技。

 

 黒の剣士が最も得意とし、彼を象徴する技である――片手直剣用単発技、《ヴォーパル・ストライク》。

 

 分かっている。あくまでイメージだ。この世界に、この現実に、ソードスキルはない。システムアシストもない。

 

 この手でやるんだ。この手で()るんだ。

 

 この手で――桐ケ谷和人の手で、終わらせるんだ。

 

 ずっと、心の中で燻っていた。どこかで未練を引き摺っていた。

 

 憧れ続けた剣士で在れた、あの時間を。

 

 みんなの憧れの英雄になれた、あの瞬間を。

 

 でも、どこかで忌避していた自分もいた。自分は、そんな称号に、そんな英雄に、ふさわしくないと分かっていたから。

 死銃事件で思い知らされたように、あの世界で散った命、自分が奪ってしまった命への罪悪感は今でも消えずに残っていて、黒の剣士という称号は、英雄であると同時に、自分にとっての罪の証でもあった。

 

 焦がれて、憧れて――でも、忘れたくて、遠ざけたい。

 

 それくらい、あの二年間は――黒の剣士キリトであった時間は、いつまでも和人を戒め続けていた。

 

 いい加減、向き合う時だ。

 

 自分は彼にはなれない。けれど、彼も間違いなく自分だ。

 

 彼に逃げるんじゃなくて、彼から逃げるんじゃなくて、向き合って、受け入れるんだ。

 

 自分は彼にはなれないことを。けれど、自分は間違いなく彼で在ったことを。

 

 そこから始めよう。そこから強くなろう。

 

 そうすることで、桐ケ谷和人の新しい戦いを始めることが出来る気がするから。

 

 黒の剣士から卒業し、桐ケ谷和人が、新しい黒の剣士へと至るための、新たな戦いを。

 

 この技から、始めるんだ。

 

「う……おおおおおおおおああああああああーーーーーーーッッ!!!!!!!」

 

 和人の雄叫びと共に繰り出された渾身の突きに応えるように、漆黒の刀身は撃ち出された。

 

 親ブラキオの胴体を貫き、串刺しにする。

 

 ボスはその苦しみにもがくように首を振り上げ、後ろ足二本で立ち上がった。

 

「う、ぉおお」

 

 首にしがみついていた八幡も、一緒に宙高くに振り上げられる。

 

 和人はその瞬間、必死で離すまいと剣を握りしめ—―

 

「……っぁあああああああ!!!!」

 

 スーツの筋力を膨れ上がらせ、剣を振り抜いた。この時は、Yガンの捕獲ネットによって地面に固定されているのが幸いしたかもしれない。

 

 そのまま剣は胴体から首に向かって切り裂いていき――

 

「ちょ、ま」

 

 八幡は慌てて手を離し、為す術もなく落ちていく。

 その情けない着地音は、親ブラキオの豪快な落下に完全にかき消された。

 

 ドォオオオンッ! という重々しい爆発音のようなそれが合図代わりとなり、桐ケ谷和人はだらんと完全に脱力した。

 

 

 

 親ブラキオは――このミッションのボスは、今度こそ完膚なきまでに死亡し。

 

 比企谷八幡以外に生存者を――それも四名(+一匹)もの新人が生還するという、実に半年以上ぶりの結果を残すという形で、今回のミッションは無事、幕を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かに、見えた。

 




 これで、恐竜達とのバトルは終了です。そして、次は――


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戦争が終わった戦場に、招かれざる侵入者が現れる。

あの部屋に帰るまでがミッションだ。


「……大丈夫かな、新垣さん……」

 

 渚は意識を失っている東条を見遣りながら、地響きのような轟音の詳細を知ろうと、東条を渚に託して駆けていったあやせを思う。

 

 一体、今、状況はどうなっているのだろう? ここからでも見えていたあの巨大な恐竜が凄まじい勢いで倒れた後、この戦場は不気味なくらい静まり返っている。

 

(……どうしよう。僕も行った方がいいのかな?……でも、気を失ってる東条さんをこのままにしておくのも――)

 

 状況が把握できず、為す術もなく立ち尽くすことしか出来ない渚。

 

 

 その時、静寂を切り裂くような電子音が降り注いだ。

 

 それはずっと待ち望んでいた、辛く苦しい戦争の終焉を告げる、一筋の光だった。

 

 

「――!!」

 

 東条の体に、見覚えのあるレーザーが照射されていた。

 地面に横たわる東条の頭部が、消失していく。

 

(……こ、これって――)

 

 

 戸惑いを覚えたその時、渚の視界が一瞬真っ暗に染まり――――次の瞬間には、目の前にまったく別の光景が広がっていた。

 

 千葉の展示場ではなく、あの無機質な2LDKのルームマンションに。

 

 

「……え?」

「おう、渚」

「あ、東条、さぁん!?」

 

 渚は呆然としていた所に後ろから声を掛けられ、その人物が無事意識を取り戻したことが嬉しく振り返ったのだが――そこには、生首が浮いていた。

 かくいう自分もまだ肩口までしかない状態なのだが、目の前の光景がホラーなことには変わらず、女の子のような悲鳴をあげてしまう。

 

 そして、生首は徐々にあの大きく逞しい巨躯を取り戻していき、段々とレーザーは東条英虎という人間をこの部屋に召喚していく。

 あぁ、そういえばこの転送のシステムってこういうのだった、と、時間的にはたった一時間前のことなのだが、おそらくはこれまでの人生で最も密度の濃い一時間を間に挟んだことで、すっかり忘却していた。というより、こんな状況なのに平然としている東条はやはり大物である。つい先程まで全身ズタボロで気を失っていたというのに。

 

 そうこうしている間に、渚自身の転送も終わる。ふう、と思わず息を吐いてしまったが、まだ安心できる状況ではない。この後一体自分達はどうなるのか、まるで不明なのだ。

 

「――あ! そうだ、東条さん!! 体は!? 怪我は大丈夫なんですか!?」

 

 前述の通り、東条の体はボロボロ—―より具体的にいえば、全身の筋肉がズタズタに断裂していた状態だった。気絶するのは当然として、意識が覚醒しても満足に、どころか碌に体を動かすことなど出来ないはずなのだ。

 

 だが東条は、んっと体をほぐして――

 

「ん? まるで問題ないぞ?」

 

 と、(のたま)う。いや、確かに怪我が治っているのに越したことはないのだろうが、普通あれだけの大怪我を負っておいて、目が覚めたら綺麗さっぱり治っているということに、少なからずの気持ち悪さや恐怖を覚えたりしないのだろうか? しないのだろう。目の前の文字通りの大物は。

 

 東条という人間の規格外さを改めて目の当たりにし、乾いた笑いが漏れる渚だったが、ふと自分の体を見回す。

 渚は東条と違って分かりやすい大怪我をしたわけではないが(何気にスーツを着ていないでほぼ無傷で生き残ったのは、渚だけである。それも星人と真正面から戦闘したにも関わらず。そういう意味では、この潮田渚という少年も決して只者ではない)、全身が真っ赤に染まるほど、どっぷりと恐竜の血液を浴びていたはずだ。

 だが、その血は跡どころか匂いすら残っておらず、転送前の、つい一時間前にこの部屋にいた時と同じ、綺麗な服を身に付けている状態だった。

 

 まるで、あの地獄の一時間が、夢か幻であったかのように。

 

(……ッ!! 違う! そんなわけない!!)

 

 渚はぶるぶると頭を振るう。危機察知能力が高いこの少年は、その思想はこの部屋の住人にとって一番抱いてはいけない防衛本能だと察した。それが、自身の精神衛生上、最も優しい逃避であったとしても。

 

 そうだ。あれが夢や幻ではないことは、目の前の、この黒い球体が教えてくれている。その静かに鎮座する有り様が、雄弁に語っている。

 

 僕達は、今日、この黒い球体に、戦争を強いられた。

 

 恐竜と――宇宙人と、殺し合いをさせられた。

 

(……そして僕は、この手で殺した。……命を奪って……生き延びた)

 

 渚はそっと自分の腰に手を回す。硬質の感触。それを手に取り、宝物を扱うように丁寧に優しく取り出し、眼前に晒した。

 

 そうだ。殺したんだ。奪ったんだ。命を。この手で。このナイフで。

 

 綺麗な黒だ。じっと見つめていると、思わず吸い込まれてしまいそうな、美しい漆黒のナイフだ。

 

 これを自分は、(あか)く染めた。恐竜の血液で、真っ赤に染め上げた。

 

 思い出せる。はっきりと感じ取れる。血液の温かさ。肉片の感触。死に際の断末魔。

 

 全てが、はっきりと思い出せる。

 

 渚は、それらを一つ一つ、丁寧に思い出し、それらを一つ一つ、その身に取り戻す度に――心が、血液が、冷えきっていくのを感じる。

 

 渚は目を瞑り、その感触に身を任せた。殺害の余韻に、身を委ねた。

 

 心拍数を、僅かにも乱すことなく。

 

 その業を、その殺害を、余すところなく受け入れた。

 

 

 この日、潮田渚は“殺し”を経験した。

 

 これが、この経験が、この夜が、この戦争が――この、殺害が。

 

 潮田渚という“死神(アサシン)”の誕生の、その始まりの一歩(ころし)だった。

 

 

 ビィィィンと、黒い球体からレーザーが照射される。

 

「っ!」

「なんだ? また手品か?」

「それはもういいから」

 

 東条の言葉をにべもなくあしらいながら、渚は注視する。

 自分以外の誰かが、この部屋に還ってくる。

 

 誰だろう? 和人か? あやせか?――それとも。

 

 

 徐々にその姿が露わになる。

 

 丸々とした体、鮮やかな白と黒のコントラスト、もわっと広がる獣臭――

 

 

 パンダだった。

 

 紛うことなき、ジャイアントパンダだった。

 

 

「…………」

「…………」

 

 

 パンダ(♀)だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 腕をだらんと下げて呆然と下を向いている桐ケ谷の所に、数メートルの高さを頭から落下するという生身の状態だったら地味にヤバかったラストを迎えた俺は、一応この後のことについて色々と質問があるだろうなと、一番ヤバい相手をほぼ丸投げした軽い罪悪感と共に向かった。まぁ、俺が本来罪悪感を感じなければならない所は他にもあるんだろうが、それについては今でも俺は最善の判断だと思っているし、一切謝る気はないが。

 

 その際に一応、マップを確認する。赤点は0。全ての星人を殺すことに成功していた。

 桐ケ谷の最後の一撃はきちんと心臓を貫いていたようだ。いくらガンツソードでも届くとはいえ、Xガンのレントゲン機能なしで目算での攻撃だったから、きちんと心臓に攻撃が当たるかはぶっちゃけ賭けだったんだが。それとも、さすがのアイツも弱点じゃなくてもあれだけバッサリ胴体を斬られれば死ぬのかね。まぁ、どちらにせよ殺せたのなら問題ない。

 

「……っ! あ、ああ、えぇと」

「ちょっと待ってろ」

 

 とりあえずいつまでもこうして拘束しているのもアレなので、Yガンのネットを力づくで引き千切る。この作業も実に半年以上ぶりだ。まさかもう一度することになるとは思わなかった。

 

 別にこのままでもすぐに転送が始まるだろうから別にいいんだが、このままだと変に誤解されて面倒くさそうだと思ったのだ。

 あれだけの轟音が響いたんだ。さっきマップを見た時はまだ全員生き残っていたし、すぐにこちらに駆け付けてもおかしくはない。

 

 そんな俺の予想通りに、俺が桐ケ谷のYガンネットを引き千切った直後、黒髪少女がこちらに姿を現した。

 

「桐ケ谷さん! あ、ええと……大丈夫ですか!」

 

 ……うん、泣いてないよ。別に俺の名前なんか覚えられる方が稀だし。こういうの慣れてるし。八幡理性の化け物だし。あれ、使い方おかしくね?

 

 俺がへっと吐き捨てていると、そんな俺の挙動の意味が伝わったのか、新垣が申し訳なさそうに俯く。

 すると、桐ケ谷が俺に向かって言った。

 

「……ていうかお前、俺達に名前言ってないぞ」

 

 ……え? そうだっけ?

 

 すると黒髪はバッと顔を上げてですよね!? といった表情で桐ケ谷に同意する。

 

 ……そうか。元々、俺はコイツ等と馴れ合うつもりはなかったし――というか今もないが――こういっては何だが、コイツ等が生き残るとも思ってなかった。だから、名前を教えようなんて発想すらなかったんだ。

 

 だが、こうなるとさすがに教えないわけにはいかないだろう。どうせここで逃げてもあの部屋に還った際、質問責めに会うんだ。その時は、俺が知ってる限りのことは言わないとダメだろう。次回以降の新人に対する説明役を押し付ける意味でも。……はぁ。

 

「……比企谷だ」

「下の名前はなんていうんですか?」

 

 何でだよ。別にいいじゃねぇか、苗字だけで。呼ぶのに困んねぇだろ。被らねぇよ、比企谷とか。お前、今までの人生で他に比企谷に会ったことあんのか。この距離感の詰め型、コイツ間違いなくトップカーストだわ。

 

「……八幡」

「八幡さん……ですか。わたし、新垣あやせです。高一です」

「さっきも言ったが、桐ケ谷和人だ。十七歳」

「……高三。十七だ」

 

 なんで年齢まで?

 まぁ、俺達くらいの中高生は一学年、つまりたった一つ年齢が変わるだけで接し方が大分変わるもんだからな。先輩後輩がはっきりしてる方がやりやすいんだろう。友達すらいない俺にはよく分からんが。基本的に誰とも喋らないし。

 

 そんなことを、桐ケ谷と新垣が「ところで渚はどうしたんだ?」「東条さんが気絶しちゃってるので、一緒にいます」などと会話している間に考えていた。あのデカい人は東条というのか。……っていうか、結局あの人、スーツ無しであの巨人に勝ったのか。……マジで? あの人がスーツ着れば俺達いらねぇんじゃねぇの?

 

 そんな情報交換が終わったところで、桐ケ谷がこちらに居直る。

 

「……比企谷には、聞きたいことが山ほどあるけど……とりあえず。――俺達は、この後、どうなる?」

 

 キッと鋭い目つきを俺に向ける桐ケ谷。新垣も心配そうにこちらに目を向ける。

 まぁ、ここは別に嘘を吐いたり、誤魔化したりする場面じゃない。

 

「……来たときと同じように、ガンツ――あの黒い球体に、あの部屋に送られる。そこで採点があって、それが終わったら――自宅に送られる。元の生活に戻れるさ。……基本的には、な」

「本当ですか!? 元の生活に戻れるんですか!!」

 

 新垣が俺の手をとって、潤んだ瞳をずいっと近づけてくる。

 ちょ、近い近い。戦闘中は意識しなかったけど、コイツもスタイルはかなりいいし美人だし手が柔らかいしいい匂いだしちょマジ離れて。死にかけたからなのかそういうのに敏感なんだって。マジ頑張れガンツスーツ。どこがとは言わないけども。

 

「あ、ああ」

「……基本的に、とはどういう意味だ?」

 

 ……さすがだな、コイツ。こんな理不尽なゲームが、そんな甘いわけがないことを、よく分かってる。

 俺達のシリアスな雰囲気を察したのか、新垣が神妙な表情で下がる。

 

 俺は、桐ケ谷に向かい合って――

 

「……ああ、それは――」

 

 

 

「お♪ ハンターはっけ~ん!」

 

 

 

「――ッ!!」

 

 俺はXガンを構えて新垣を俺の背に追いやる。

 俺の挙動で察したのか、桐ケ谷も剣を構えて俺に倣った。

 

 声の方向に目を向けると、四人の黒服の男達がこちらに向かって歩いてきているのが見えた。

 

 まだ少し距離があるからはっきりとは確認できないが――人間。少なくとも人型だ。

 

 その中の、こちらから見て左端の男――ドレッドヘアのそいつは、手を横に敬礼の形で額につけて、いわゆる遠くを見る――こちらを見る所作をしている。さっきの声もコイツのようだ。

 

 間違いない。奴等は、俺達が“見えている”。

 

 向こうからも、見られている。

 

「おい、どういうことだっ! 一般人には俺達は見えないんじゃなかったのかっ!」

「そのはずだ。現に警官達には見えてなかったろ。……これが特例なんだ。こんなことは初めてだ」

 

 小声で桐ケ谷とやり取りをする。こんな現象、俺も知らない。

 

 考えられるのは、二つ。

 

 まず一つは、ガンツ側のトラブル。

 二次被害が現実に反映されることから考えて、俺達の戦争は実際の現地で行われていることは明らかだ。なのに一般人に見えないのは、おそらくはガンツがなんらかの処置を施しているから。スーツを透明化する技術の応用かなんかだろう。

 故に、その処置のトラブルが、この事態の原因である可能性として挙げられる。

 

 そして、もう一つの可能性。それは――目の前の奴等が、一般人ではない。つまり、ガンツの処置の対象外だという、可能性。

 

 ……俺達と同業者か? 別のガンツ、またはそれに類ずるものの関係者で、俺達と同じように星人との戦争を強いられている、もしくは自発的に行っている組織か何かか? ……飛躍し過ぎか? だが、十分に考えられる。むしろ、俺達だけがこんな目に遭ってると考える方が不自然――傲慢な思い上がりというものだ。

 

 ……もしくは。……これはあんまり考えたくないが、これもまた十分に考えられる可能性。

 

 目の前の奴らは――人型、人間のような“星人”で。

 

 俺達は、今からコイツ等と戦わなくては――殺し合わなくてはならない。

 

 つまり、連戦って奴だ。

 

 ……考えてみれば、今までなかったのが不思議なくらいのありがちな設定だ。俺達を絶望させるのが趣味のガンツとしてはな。

 

 どうする? まだスーツは健在だが、コイツ等の強さが未知数だ。

 コイツ等は四人だけなのか? 他に仲間は? 残り時間は?

 どうする? くそっ、焦って考えが纏まらない!

 

 奴等が街灯の下に躍り出る。ついに、はっきりとその姿が見えた。

 

 左から順番に、ドレッドヘアの男、一番巨躯なサングラスの男、金髪イケメンのホスト風の男。そして――

 

 俺は、思わず銃を下ろしてしまった。

 

 そこにいたのは、俺も知っている人間で、人間であるはずの男で。

 

 そいつも俺の姿を認めると、暗く俯いていた顔を上げて、掠れた声を出した。

 

 

 

「……おにい、さん……」

 

 

 

 川崎大志。

 

 俺のクラスの川なんとかさんの弟で、小町の同級生で永遠のお友達で。

 

 こんな場所に、こんな戦場に、まるで似つかわしくない存在で。

 

 なんでこんなところにいるのか、いてしまっているのか、まるで、何も、分からない。皆目見当もつかない。

 

 ただ一つ、確かなのは――

 

 

 俺はXガンを再び構える――――川崎大志に向けて、銃口を向ける。

 

 大志は、ギョッと表情を固めた。

 

 

「――お前にお兄さんと呼ばれる筋合いはねぇ」

 

 

 ただ一つ確かなのは、こんな状況で反射的にこんなことを言ってしまうくらいには、俺のシスコンは末期だということだ。

 

 




 大志、参戦。

 久しぶりの八幡以外のガイルキャラはまさかのこいつでした。


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混沌と化した戦場に、白い少年のような何かが乱入する。

今回を入れて、この章は後二話です。


「お前にお兄さんと言われる筋合いはねぇ」

 

 そのセリフは俺の溢れる妹愛から反射的に出てしまった言葉だが、それでもXガンを――川崎大志に銃口を向けているのは、決してシスコンを拗らせたからではない。

 

 あくまで、理性的に。俺がそうするべきだと、ここはそうしなければならない場面だと判断し、冷静な心で実行している。

 

 目の前のコイツ等は、あまりにも怪し過ぎる。

 

「お、にい、さん……」

「…………」

 

 大志は、悲しそうに、辛そうに、俺を見る。

 だが、その表情には、どこか納得があって。……大志も理解しているのかもしれない。

 

 俺達が、相容れない、敵同士であるということに。

 

「――お兄さん、って。……どういう、こと……ですか?」

 

 俺の背後から、震える声で、新垣が問う。

 その声は、これまでとは違った種類の戸惑いがあるように感じた。

 

「……あの人は、知り合い、なんですか?」

「……今は、関係ない」

「っ! 関係ないって――」

 

 俺の言葉に突然新垣が激昂した、その時――

 

「――おい、新入り。……なんだ? 奴は、お前の知り合いか?」

 

 金髪ホスト風の男が、大志に問う。

 咥えていた煙草を口元から離し、煙を吐き出しながら、大志の方を見ずに。

 

 大志は露骨に肩を震わせて、言葉を濁した。

 

「……え、えっと、その、あの—―」

「……言っておくが」

 

 そして、金髪ホストはその時初めて大志を見て――否、鋭く睨みつけて、言い含めるように言った。

 

「お前はもう“こっち側”だ。どれだけ目を逸らそうが、それは変わらねぇ。……お前は、もうそうなっちまったんだ。これは変えられねぇ。これは揺るがねぇ――」

 

 

「――いい加減、運命を受け入れろ」

 

 

 金髪がそう吐き捨てると、大志はゆっくりと顔を俯かせた。

 

 そして、大志は俺の方を見る。

 

 その顔は、その目は、悲しみと――諦めで、満ちていた。

 

「……大志――」

 

 俺が――Xガンを向けたまま――大志に言葉を投げかけようとした時。

 

 

「なんかよく分かんねぇけど、面倒くさいから()っちゃってイイすか☆?」

「……ああ、さっさと片付けるぞ。いいか、三人とも逃がすな。全員、ここで――」

 

「――皆殺しにしろ」

 

「「「――ッ!!」」」

 

 俺と桐ケ谷は戦闘体勢を取る。新垣もよく分からないなりに恐怖は感じたらしい。

 

 突然――あの大志以外の三人から――鋭い殺気が放たれた。

 

「ひゃっはーー!!!」

 

 ドレッド男が奇声を上げながら手を銃の形にして突き出す。

 

 そして――その手が本物の銃へと変形した。

 

「――な!?」

「――えッ?」

 

 くそっ。やはり、コイツ等――人間じゃないっ!

 

「伏せろっ!」

「きゃっ!」

 

 俺は反射的に新垣に覆いかぶさって地面に伏せさせる。パッと見は普通の銃のように見えたが、もしかしたらスーツが効かないかもしれない。

 

 なんなんだ、奴等の能力は!? 体を武器に変形させるのか!?

 

「死ねやぁぁぁあああああああ!!!!」

 

 ドレッド男が銃を乱射する。

 

「きゃぁあああああ!!!」

 

 新垣が悲鳴を上げて目を瞑る。俺は新垣を庇うように抱き締める。くそっ、避けられ――

 

 

 キィンッ! と、黒い剣閃が銃弾を斬った。

 

 

 ……は? 斬った?

 

「はぁっ!?」

 

 ドレッド男が素っ頓狂な声を上げる。いや、その気持ちすごく分かる。

 さすがに全てではない。それに斬るというよりは弾くと言った方が正しいか。

 出鱈目に放たれる銃弾の中の、俺達に当たりそうなものを瞬時に判別し、その鋭い剣技で弾いて防いでいる。

 

 ……いやいや。お前、マジで石川さん家の五右衛門くんなんじゃねぇの? 反応速度がいいなんてレベルじゃねぇよ。人間技じゃない。スーツ無しで巨人を打倒した東条って奴といい、強い奴を集めたなんてレベルじゃねぇよ、ガンツ。チートや! チーターや!

 

「へぇ。やるな、お前」

「――ッ!!」

 

 気が付くと、桐ケ谷の前にあの金髪ホストが接近していた。その手には、ガンツソードとはまた違った、白銀の刀身の日本刀。

 

 金髪ホストの鋭い一閃を、桐ケ谷はガンツソードで受け止める。

 

 互いに鍔迫り合いになり、至近距離で睨み合った後――金髪ホストはプッと加えていた煙草を桐ケ谷の顔面目がけて吐き出した。

 

「ッ!!」

 

 そして、両者の距離は一瞬空き、瞬時に詰め寄り、凄まじい斬り合いが繰り広げられる。

 

 まさしく、剣士の決闘。素人目には早過ぎて、何がなんだか分からない。だが、それは紛れもない命のやり取りで、もうずいぶん長いことガンツゲームっていう命懸けの戦争をやっているが、ここまでハイレベルの斬り合いは見たことがなかった。

 

 まるで、侍同士の一騎打ちだ。

 

「ぼおっとしてる余裕があるのか?」

「――ちっ!!」

 

 その声は地面に伏せている俺達の頭上から響いた。

 俺は反射的に拳を握って殴り飛ばそうとする――が。

 

「――ッ!!」

「きゃっ!!」

 

 俺は、そいつの姿を見た瞬間に、すぐさま距離をとった。新垣の腰を担いで、とにかく全力で跳んだ。

 そして、着地と同時にXガンとYガンを二丁持ちで構えて向ける。幸いにも、奴はこちらを追ってこなかった。

 

「ほう……」

 

 その四人の中で最も屈強なグラサンの男は、こちらを見てニヤリと笑う。

 吊り上げられたその口から――人間にしては、あまりに鋭すぎる八重歯が覗いていた。

 

「……あ、あの」

 

 新垣が戸惑った声を上げるが、今は構ってやる余裕はない。

 あの男から目を逸らせられない。一瞬でも隙を見せたら()られる。奴はこの中では別格だ。

 

 おそらく、あの千手クラスの怪物だ……っ。

 

「……比企谷さん……体が……震えて……」

 

 ……ああ、分かってる。ビビってるんだよ、悪いか。千手は俺の中でもトップクラスのトラウマなんだ。それを彷彿とさせる怪物を目の前にして、ビビらずにいろっていう方が無理だろう。

 

 だが、屈するわけにはいかない。俺はもう死ぬわけにはいかないんだ。

 

 相手がどれだけ化け物だろうが、桁外れの怪物だろうが、関係ない――全部、殺し尽くす。

 

 それが、あの黒い球体の部屋で生き残り続ける為の、この理不尽で不条理で不合理で不可思議な戦争(デスゲーム)における、唯一無二で絶対不変の(ルール)なんだ。

 

 俺は、こっちを見て笑う奴に、俺に向けて惜しげもなく殺気を放つ怪物に――笑みを返した。

 

 不敵に、不気味に、笑ってみせた。

 

 嘗められるな。屈するな。

 

 心を冷やせ。恐怖を呑みこめ。

 

 例え相手がどれだけ強かろうと、俺は誰よりも“(つよ)い”。

 

 だからこそ、勝てる。殺せる。

 

 こんな最強、恐れるに足らない。

 

 目線を逸らさず、ただ肺を大きく膨らまし、深呼吸を一回。

 

 震えが――止まった。

 

「…………ふっ。面白いな、貴様」

 

 グラサンがそう呟いた時、俺の背後の新垣が悲鳴を上げた。

 

「え!? な、なんですか、これ!?」

 

 それと呼応するように、俺の視界の先の桐ケ谷も戸惑いの声を上げる――その頭部が、徐々に消失し始めていた。

 

「こ、これって!?」

 

 桐ケ谷が大きく剣を振るって金髪との距離を開けると、こちらに目を向けてきた。

 

 俺は頷き、背後の新垣にも聞こえるように声を出す。

 

「大丈夫だ。すぐに還れる」

 

 コイツ等に情報を与えないように、必要最低限の言葉だけを告げる。すると、桐ケ谷は頷き、新垣の悲鳴もなくなった。

 

「……ちっ、逃がしたか」

「……お預けだな」

 

 金髪は吐き捨てるように、グラサンはこちらを見て楽しそうに、告げる。

 ……完全に目を付けられたようだ。しかも一番強い奴に。……はぁ。

 

 ……俺の転送も始まったようだ。

 俺はあいつに目を向ける。

 

「…………」

 

 大志。川崎大志。

 

 俺の同級生の川なんとかさんの弟で、小町の同級生で永遠のお友達で。

 

 こんな戦場に、こんな地獄に相応しくない、ごく普通の人間。

 

 普通の人間だったはずの何か。“あっち側”の何か。普通の人間だと、俺はずっと思っていた。

 

「…………」

 

 大志は何も言わない。

 ただ、悲しげな瞳で、諦めた眼差しで、俺から目を逸らさないだけだった。

 

 俺も何も言わない。

 その物言いたげな瞳を、だが何も話したくなさそうな眼差しを、ただ黙って受け止めるだけだった。

 

 結局、大志は俺達に何もしなかったけれど――どうなんだ?

 

 お前は、人間なのか? それとも――星人(てき)なのか?

 

 ……まぁいい。転送が始まった以上、今ここでどうこう出来る問題じゃない。大志は日常パートでも接触できる。……スーツと銃はいつも通り持って帰らねぇとな。

 

 そういえば、後一人、あのドレッド野郎はどうしたんだ?あんな好戦的な性格をしておきながら、結局最初の攻撃以降何も――

 

「ぎゃぁぁああああああ!!!!」

「――!!」

 

 突然、響く絶叫。

 俺は悲鳴の方角に目を向けると、そこには――

 

 

「――――――な、んだと?」

 

 

 そこには、美しい“鬼”がいた。

 

 白いパーカーを鮮血で染め上げ、奴は微笑んでいた。

 

 あの、見る者を残らず不快にさせる――懐かしい、笑みを浮かべていた。

 

 もう見ることが出来ないはずの、死んだはずの、まだ生き返らせていないはずの、奴が、いた。

 

 

 

「――――中、坊……?」

 

 

 

 中坊だった。

 

 あの、田中星人のミッションの時、俺を庇って、俺のせいで、死んだはずの。

 

 まだ生き返らせていないはずの、大志以上に、ここにいることが、あり得ないはずの。

 

 中坊が、あの中坊が、そこに居た。

 

 真っ白のパーカーを、おそらくはそのドレッド野郎の血で染め上げて。

 

 その右手を――――巨大な刃へと変えて。

 

 

 ……やい、ば?

 

 

「お前……“何”だ?」

 

 金髪ホスト風の男が、その手から銃を創り出して、中坊へと突きつける。

 

 …………なんだ? どうなっている? 中坊は“鬼”だったが、あくまで人間だったはず。だが、目の前の奴は手を刃に変えている。変形している。目の前の男達のように。怪物のように。化け物のように。人間ではありえない。ただの人間じゃない。只者じゃない。なんだ? コイツは“何”だ? 中坊じゃないのか? 違うなにかなのか? なら何故中坊の姿を?

 

 ダメだ、分からない!! そうしている間も俺の転送は進む。この場から消えていく。あの部屋に送られていく。くそっ、待ってくれ! そこに中坊がいるんだよ! やっと会えたんだ! もう少し待ってくれガンツ!!

 

 すると中坊は、中坊のような“何か”は、こちらを見て、にこっと、まるで中坊のように無邪気に無機質に笑って、言った。

 

「期待してるよ――」

 

 

「――早く、■■■■■を、生き返らせてあげてね」

 

 

 その言葉と共に、奴は“裂けた”。

 

 顔面に亀裂が入り、そこから裂けるように“開いた”。

 

 まるで、食虫植物が獲物を迎え入れるかのように、まるで、獲物を捕食する為に口を大きく開けるかのように、顔面が、人体が、バラバラに裂けて、開いた。

 

 その中には――体内には、目が、眼球のような何かが剥き出しでそこにあって、それが生々しく生理的嫌悪感を与える。人体が裂けて開いたにもかかわらず、血は一滴たりとも流れていない。

 バラバラに裂けた顔面の肉片のそれぞれの先端が刃に変わり、それが物凄いスピードで、金髪やグラサン、そして大志に向かって、生き物のように襲い掛かった。

 

 

 その姿は、紛れもなく化け物で、分かりやすく――異形だった。

 

 

 

 そこで、俺は完全に転送された。

 

 

 人間という仮面をつけた化け物同士の戦いがどうなったのか、見届けることは出来なかった。

 




 次回、採点。そしてかっぺ星人編の最終回。


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そして、彼ら彼女らの戦争の採点が始まる。

これにて、かっぺ星人編は終わりです。最後に、pixivにも載せていなかったおまけのようなものがあります。


 

 気が付いたら、俺はあの部屋へと戻っていた。

 

 目の前には、四人の人間と、一匹のパンダ。

 

 そして、変わらずそこにある、無機質な黒い球体。

 

「ひ、比企谷さん……」

「……比企谷」

 

 新垣と桐ケ谷が俺に声を掛けてきて、ようやく意識がはっきりしてきた。

 

――ッ! そうだ、中坊!

 

 俺は、ガンツに近づいて、その黒い球体に怒鳴りつけるように叫んだ。

 

「おい、ガンツ! どうなってる!? アレはなんだ! 中坊は生き返ったのか!? 答えろガンツ!!」

「お、おい、落ち着け、比企谷!」

「そ、そうです! 落ち着いてください!」

 

 俺がいくら叫んでも、ガンツは何も答えない。変わらずただの黒い球体のままだ。

 

 そんなことはいつものことで、ずっと前から思い知っていることなのに、冷静じゃなかった。

 

 俺は、大きく、二度、静かに深呼吸をした。

 

「…………悪かった」

 

 桐ケ谷と新垣にそう言って、俺はガンツから少し距離をとる。

 

 そして――

 

チーン

 

【それぢは ちいてんを はじぬる】

 

――ガンツの表面に浮かび上がっていたタイムリミットを示す数字が全て0になり、採点が始まった。

 

「……採点?」

「これはなんだ、比企谷?」

「……ゲームでよくあるだろ。今回のミッションで、どれだけ好成績を残せたかってあれだ」

 

 俺がそういうと桐ケ谷は露骨に顔を顰めたが、何も言ってこなかった。

 

 俺達は四人(東条って人は興味なさげにパンダと戯れている)とも、黒い球体の前に集まって、そこに浮かび上がる文字に注目している。

 

 

『ラブリーマイエンジェルあやせたん』1点

 

 Total 1点

 あと99点でおわり

 

 

「――なっ……」

「ラブリー、マイ、エンジェル? なんだ、こるっ!?」

 

 ガンツに表示された文字を読もうとしたら、新垣に首の根元を片手でがしっと掴まれた。っていうか締められた。女子に。怖いよ、っていうか超怖いよっ!

 

「あ、あの……ぐえっ!」

「なにも見ませんでした、よね?」

「(コクコク!)」

「渚君と桐ケ谷さんも、ね?」

「((コクコク!コクコク!))」

 

 俺は呼吸が出来ないので必死に頷く。渚君とやらと桐ケ谷も顔を真っ青にして必死に頷いていた。何? 地雷なの? ガンツてめーふざけんなよ。お前の悪ふざけがこっちに被害を齎してるんですけど!

 

 

『性別』1点

 

 Total 1点

 あと99点でおわり

 

 

「…………これは」

「…………僕?」

「……いえ、もしかしたら桐ケ谷さんの可能性も」

「俺かよ!?」

「……いや、桐ケ谷はボスを倒してたから一点ってことはないだろう」

 

 紛らわしいよ。っていうか、お前らが紛らわしいよ! なんで女顔が二人もいんだよ!キャラ被ってんだよ! そして二人とも落ち込むなよ! めんどくさっ、コイツら!

 

「え、えぇと、そういえば比企谷さん! この点数ってどういう基準で付けてるんですか?」

 

 新垣が苦笑いしながら空気を変えようと俺に話を振る。さっきハイライトを消しながら俺の首を片手で締め上げた女とは思えない。

 

「……俺もはっきりとした基準を知ってるわけじゃないが、基本的には強い敵を多く殺せば、それだけ点数を稼げる。……今回で言えば、ヴェロキラプトルよりもT・レックスやトリケラトプスの方が高くて、最後のあのボスはもっと高いといった具合だ」

「……トリケラトプスもいたんですか」

 

 渚がそんなことをぼそりと呟いた。何? お前ら、あの愉快なトリケラトプスに会わなかったの? 一度見たら忘れられないフォルムなのに。

 

 そして再起動した桐ケ谷が、俺に真剣な目でこう問うた。

 

「……それで。この点数は何の意味があるんだ? ……見ると、100点集めるのがゴールみたいだが」

 

 ……さすがに、桐ケ谷は気付くか。まぁ、でも――

 

「――それは、最後に説明してやるよ」

 

 俺がガンツを見たままそう言うと、桐ケ谷もそれ以上突っ込んでこなかった。

 

 

『トラ男』16点

 

 Total 16点

 あと84点でおわり

 

 

「凄い! 東条さん、16点!」

「さすがですね!」

「一発で東条って分かるな……」

「……だが、トラ男って」

 

 なんか知らないけれどオペオペの実とか食べてそう……。なんか巨大過ぎるビックネームに怒られそうだからこれ以上は言わないが。

 

 ってか――

 

「桐ケ谷、お前、東条さんのことを呼び捨てでいいのか?」

「……ああ見えて、東条って16歳らしいぞ」

「はぁっ!? 年下ぁ!?」

「ん? ああ、そうだぞ」

 

 桐ケ谷の信じられない言葉を聞いて、改めて東条を見る。

 デカい。強そう(いや、実際強いのだが)。……これが年下かぁ。

 

 なんかアレだな。甲子園とかテレビとかで、自分よりも年下でバリバリ活躍してる奴等がいるのは知ってるけど、いざこうして目の前で、自分よりも年下で、なんというか“上”な人間を目の当たりにすると……凹むな。リアルに。やめろ桐ケ谷肩に手を乗せるな。

 

 

『リンリン』1点

 

 Total 1点

 あと99点でおわり

 

 

「…………」

「…………」

「……リンリン、って。やっぱり、上野の」

「よせ。何も言うな」

 

 渚と新垣と桐ケ谷と共に、東条と戯れているパンダ(♀)に目を向ける。

 

 だが、深く考えると遣る瀬無い気持ちになるので、桐ケ谷の言葉を遮って何事もなかったかのようにガンツに目を向け直す。

 

 

『くろのけんし』40点

 

 Total 40点

 あと60点でおわり

 

 

「え!? 40点!!」

「凄い!! 凄いですよ!! これ桐ケ谷さんですよね!?」

「ん? 凄ぇのか?」

 

 ……40点。あのボスにはそれだけの価値があったってことか。

 規格外だとは思っていたが……。まさか初ミッションで半分近く稼ぐとは。本当に何者なんだ、コイツ……。

 

「…………」

 

 だが、本人は複雑そうな顔でガンツを――浮かび上がっている文字を見ている。

 ……まぁ、新人のコイツ等には、この点数がどれだけの価値があるのかを知らないから当然といえば当然、か。……それとも、新垣のように、このあだ名(?)に思う所でもあるのか?

 

 

「……えぇと」

「……あとは」

「…………」

 

 渚、新垣、そして桐ケ谷が俺を見る。

 

 ……残るは、俺か。

 

 確か俺の点数は、前回の時点で――73点。

 

 100点まで、残りは――27点。

 

 ……それなりに殺したとは思うが、パンダの点数を見る限り、ヴェロキラプトルは一匹一点だろう。それが基準となると……どうだ? ギリギリ届いたか?

 

 ……心臓が高鳴る。手の平に汗が滲む。もしかして、という希望が湧いてしまう。

 

 ガンツの表面に、桐ケ谷の採点が消え、そして、俺の点数が浮かび上がった。

 

 

 

『はちまん』26点

 

 Total 99点

 あと1点でおわり

 

 

 ……99、点

 

 1点。

 

 あと、たった――1点、届かなかった……っ。

 

「きゅうじゅう、きゅう、てん……!?」

「これって……」

「比企谷……お前……」

 

 1点、か。……あと、ヴェロキラプトル一匹、狩っていれば。

 いや、あの時点で俺が、ボスに勝っていれば。一人で殺せていれば。

 

 そうすれば……今頃――

 

 

 ……いや、よそう。終わった後で、今更ぐちぐちと後悔をしても仕方がない。

 

 もしも、あの時。そんなifに意味はない。

 

 過去に遡って、選択を選び直すことなど出来ない。

 例え、その機会が与えられたとしても、俺は今回と全く同じ行動をしたはずだ。

 

 俺は最善を尽くした。勝つために。殺すために。そして、何よりも生き残る為に。

 

 そして俺は、今回もこうして生き残った。ならば、俺の勝ちだ。

 

 次があるんだから。そして、次こそ、俺は選ばなくてはならない。

 

 100点メニュー。その使い方を。使い道を。

 

 何を手に入れ――取り戻し、そして何を選ばず――切り捨てるのかを。

 

 

 

 そして、ガンツは俺の点数を表示したのを最後に、再びただの真っ黒の球体に戻った。

 

「……それじゃあ、比企谷。教えてくれないか? 聞きたいことが、山ほどあるんだ」

「……悪い。その前にちょっと、やることがある」

 

 俺はガンツの前にしゃがみこんで、ガンツに言った。

 

「……ガンツ。100点メニューを」

 

 すると、ガンツは三つの選択肢を示す画面を表示する。

 

 

【100てんめにゅー】

 

【・きおくをきされてかいほうされる】

【・つよいぶきとこうかんする】

【・めもりーからひとりいきかえらせる】

 

 

「……これは何だ?」

「さっき言ってた、溜めた点数の使い道だ。……100点を集めると、この中から一つ選ぶことが出来る」

 

 そして、俺はまず一番上の選択肢を指さす。

 

「この解放――これはおそらく、このガンツミッションからの解放を意味してると考えている」

「っ! どういうことだ?」

 

 俺は振り返り、桐ケ谷、渚、新垣、と……う条はいいか。興味なさそうだし。

 とにかく三人を見回し、この事実を告げた。

 

「……この後、俺達はガンツによって、おそらくは自宅に送られる。少なくとも毎回俺はそうだ。……そして、これまで通りの日常に戻れる」

 

 そう言うと、渚、新垣はほっとした表情を見せる。……だが、桐ケ谷は鋭く俺を見据え、続きを促す。

 

 そして俺は、一度間を空けて、それを告げた。

 

「……だが、しばらくすると、再びガンツによってこの部屋に転送されて、今日のような戦争に放り込まれる。殺されればゲームオーバーで、本当に死ぬデスゲームに。……そして生き残れば、再び採点されて、家に帰る。この繰り返しだ」

「…………え?」

「……なんですか、それ。……それって、今日みたいなことを、ずっと! ずっとずっとずっと! 延々と繰り返せっていうんですか!!」

 

 渚は呆然とし、新垣は瞳に涙を浮かべて叫んだ。

 

 桐ケ谷は、俺が言った事実を自分の中で反芻するように俯き、やがてポツリと漏らす。

 

「……それで、解放、か」

 

 渚と新垣が、桐ケ谷の言葉に動きを止める。

 

「……ああ。100点を取ることで初めて、俺達はガンツの呪縛から解放される」

「そ、それじゃあ、比企谷さんは、後1点で――」

 

「いいや。俺は解放は選ばない――他に、100点の使い道がある」

 

 俺の言葉に、3人は絶句する。まぁ、信じられないよな。この馬鹿みたいに理不尽な戦争の無限ループを抜けられる権利を捨てようっていうんだから。

 

 俺は彼らに背を向けて、「……ガンツ。メモリーを」と告げた。

 

 100点メニューの文字列がガンツの中へと吸い込まれ、代わりに無数の顔写真が現れる。

 

 俺はそれらの一番下から、順番に確認していく。

 

 その、もはや懐かしいと感じてしまう顔写真を一つ一つ目に入れる度に、心が音を立てて軋む。が、必死に気づかないふりをする。

 

 そして、見つけた。

 

 白いパーカーの、先程見た顔と全く同じ相貌の少年――中坊だ。

 

 ……やはり、間違いなく、中坊は死んでいる。“まだ”死んでいる。

 ここに俺や、桐ケ谷、新垣といった生きているメンバーの写真はない。ただガンツの持っているデータリストというのなら、俺達生存者もリストに入っているはずだ。

 つまり、これは死亡者リスト。この部屋に呼ばれ、そして死んでいった戦士達の遺影。そして、ここにこうして中坊の顔がある以上、中坊は死んでなくてはおかしいんだ。生きていてはおかしいんだ。俺はまだ、アイツを生き返らせてはいないんだから。

 

 

――ならば、奴は一体、誰なんだ? 何者なんだ?

 

 

「――や! 比企谷!!」

「――! ……なんだ?」

「だから、説明してくれ。そのメモリーってのは一体なんなんだ?」

 

 俺が思考に没頭している間に、気が付いたら桐ケ谷から質問があったらしい。

 

 俺は自分の中の混乱を表に出さないように、桐ケ谷の質問に淡々と答える。

 

「……ガンツによって蒐集された死者――つまり、俺達ガンツミッションのメンバーのデータは、このガンツによって、メモリーという形で保存されている。つまり、バックアップデータが残っていて、ガンツミッションで死んだメンバーは、100点メニューによって生き返らせることが可能なんだ」

 

 俺の言葉に、渚と新垣は哀しげに目を伏せ――桐ケ谷は、絶句し、硬直した。

 

「……それじゃあ、比企谷さんは――」

「……死んだ、仲間を、生き返らせる為に?」

 

 ……仲間、か。はっ、ぼっちの俺に世界一縁遠い言葉だな。

 

「……違うな。これは、そんな少年漫画のお涙頂戴のご都合展開のようなもんじゃない――ただの自己満足だ。……俺のせいで死んでいった奴等がいた。それこそ、何人も、何人も、何人も、何人も。……俺を庇って死んだ奴がいた。絶対に助けると誓って死なせてしまった人がいた。……俺は、それを認めたくないだけだ。それで終わりにしたくないだけだ」

 

 死んだ人間を、生き返らせる。失った命を取り戻す。

 

 それは誰もが夢見ることで、決して叶わない願望。

 

 死んでしまった大切な人を、取り戻す。

 

 家族を、恋人を、友人を、仲間を、同僚を、部下を、上司を、親友を、盟友を、戦友を、級友を、悪友を、旧友を、兄弟を、姉妹を、父親を、母親を、祖父を、祖母を、息子を、娘を。

 

 掛け替えのない彼を、二度と取り戻せなくなってしまった彼女を。

 

 死んでしまった命を、生き返らせる。

 

 あぁ、素晴らしいな。そんなことが出来たらまさしく奇跡だ。感動感涙のハッピーエンドだ。

 

 

 だが、それは本当に幸せなのか?

 

 

 毒林檎を食べて死んでしまった白雪姫は、確かに悲劇のヒロインだけれど、それを王子様のキスで生き返らせるのは、果たして正しい行いなのか?

 

 世の中には、悲劇的な死が溢れている。

 事件、事故で、ある日突然、理不尽に、何の前触れもなく、何の落ち度もなく、巻き添えで、流れ弾で、神様の悪ふざけとしか思えないような、たまたまそこに居て、別に他の誰でも全然よかったような配役で死亡させられる、そんなモブキャラ扱いで殺されている人々で溢れかえっている。

 

 なのに、どうして白雪姫だけ生き返ることが許される? その権利は誰が与えた? 誰が決めた? 誰が許した?

 

 他にもこの世に未練がありまくりで、死ぬのが嫌で嫌でしょうがなくて、そのままでは死んでも死にきれなくて、生き返りたくて生き返りたくてしょうがなくて、復活の権利が喉から手が出るほど欲しくて欲しくてたまらない、蜘蛛の糸に縋りたくてたまらない人達が、それこそ無数に溢れかえっているだろうに。

 

 だから俺は思う。

 

 

 人を生き返らせるってことは――人を殺すこと以上に罪深い大罪だ。

 

 だって、誰かを生き返らせるってことは――他の誰かを生き返らせないってことなんだから。

 

 

 かつて俺は相模に、死んだら俺か葉山が生き返らせるなんて軽く言ったけれど、いざこうして、誰かを生き返らせる権利を目前にすると、改めてその行為の重さを思い知らされる。

 

 この無数のメモリーリストの顔写真を見て思う。

 

 たった一人。この無数の戦士達の中から、たった一人を選び、その他全てを切り捨てて選ぶ。

 

 他の誰かの、死にたくなくてしょうがなかった命を、生き返りたくてしょうがなかった命を、そんな無数の尊い命の尊厳を、これ以上なく踏み躙って、傲慢にも、無数の命の価値を、個人的価値観で選別して、命の重さに順番をつけて、取捨選択して、たった一つを選ぶ。その他全てを切り捨てる。

 

 生き返るかもしれなかった、取り戻すことが出来た、その命が持つ全ての可能性を切り捨てる。

 

 人を生き返らせる権利。命を取り戻す権利。それを行使するということは、そういうことだ。

 

 

 そんなもの――生き返らせられる方も、たまったものではない。

 

 

 俺なら罪悪感でその場で死にたくなる。

 

 切り捨てられた命の――その他全ての命の重さに耐えきれない。

 

 俺がしようとしているのは、そういうことだ。

 

 その責任を、他の無数の命を殺した責任を、俺が勝手に選んだその人に、その命に背負わせるということだ。

 

 

 こんな傲慢で、罪深い行いを――仲間を生き返らせる? はっ、くだらない。そんなカッコよく言わないで欲しい。

 

 これは、間違ってもそんな綺麗で美しい行為じゃない。

 

 

「……人を生き返らせる――それは、世界で最も醜く無責任なエゴの押し付けだ。……それを行おうとしている俺は、世界で最も傲慢な人間だ――だから間違っても、そんな目で俺を見るな」

 

 

 しんっ、と室内が静まり返る。

 あの東条も、気が付けば俺の言葉に耳を傾けていた。

 

 ビィィンと、転送が始まる。

 珍しくも、これだけ多くの人間がいる中で、転送は俺が一番早かった。

 ……そうだ。これは言っておかなくちゃな。

 

「――あと、今夜のこと。そしてこの部屋のことは、無関係の人間には誰にも話すな。ここの情報を漏洩した時点で、頭が吹き飛ぶぞ。……俺達は、頭に爆弾が埋め込まれて、ガンツに支配されて、縛られているということを忘れるな」

 

 俺がそう言うと、新垣らは息を呑んで恐怖したのが伝わった。

 

 ……それと――

 

「――これだけは言っておく。……俺はお前らと必要以上に馴れ合うつもりはない。……最低限のことは教えたつもりだ。後は自分達でなんとかしろ。……間違っても、死んでも生き返らせてもらえるなんて考えるな。……だから、精々――」

 

――死なないように、気をつけろ。

 

 その俺の言葉に、奴等がどんな表情をしたのか。

 

 

 それらを見る前に、気が付けば自室のベッドの上だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ガンツスーツを脱ぎ散らかし黒いスウェットに着替え、枕元に銃Xガンを置いて眠る。なんかアメリカン。上裸にジーパンで寝たらもっとアメリカンかしら。我ながらアメリカへと偏見が酷い。

 

 帰ってきたときにはすでに部屋の中は真っ暗で、着替えやら何やらをやっているうちに目も暗順応してきたので、わりとくっきりと見える天井をぼおと眺めながら考える。

 

 今回のミッションは、本当にいろんなことがあった。あり過ぎた。

 

 

 俺以外の約半年ぶりの新メンバー。そして、同じく約半年ぶりの、俺以外の生き残り。

 

 ミッション終了後の、正体不明の乱入者。

 

 その乱入者のメンバーだった、川崎大志。

 

 そして、中坊を騙る謎の男――いや、謎の生物。

 

 99点――ついに、手が届いた、初めての100点へのリーチ。

 

 

 ……いや、色々あり過ぎだ。処理しきれねぇよ、一つずつ来いよ。

 

 半年間、淡々と一人でミッションをこなし、ようやく慣れてきたと思ったらこれだ。退屈させない、どころか弄んでいるとしか思えない。

 

 ……もしや、そういうことなのかね。

 

 調子に乗るな。図に乗るな。

 

 

 お前はまだ、ガンツを何も知らない。

 

 

 と、俺に思い知らしめる為に。相変わらずの鬼畜仕様だ。

 

「……寝れるか」

 

 また明日も雪ノ下を迎えに行かなくちゃならねぇのに。全然寝れる気がしない。考えなくちゃいけないことが多過ぎる。

 

 俺は身を起こし、窓を開けて月を眺めた。

 

 

 ……次のミッションは、一体いつになるのだろう。

 

 これまでのようにはいかないだろう。今回のミッションでいくつも考えなければならないことが出てきた。

 

 新メンバー……は、一先ず置いておこう。別にこれといってこちらがアクションを起こすべきことは何もない。好き勝手にやらせておけばいい。アイツ等に言った通り、こっちから深く関わるつもりはない。

 

 あの黒服集団。……これは、明日大志に聞こう。……正直に話してくれるかどうかは分からないが、大志を入口に調べていくのが一番手っ取り早い。

 

 ……そして、偽中坊。これに関してはどうするべきか分からない。取っ掛かりがない。……奴は俺を知っているようだから、もしかしたらまた接触してくるか?……その場合、俺はどう対処するべきか。

 

 考えることが多すぎて、頭の中がごちゃごちゃしてきた。くそっ。糖分が足りない。

 

 俺は寝ているであろう小町を起こさないように、冷蔵庫の中のマッ缶を取りに向かった。

 

 

 次の日、俺は久しぶりに徹夜で学校に行く羽目になった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ビィィィンという音と共に、この無機質な部屋の中からすべての人間はいなくなった。

 

 命の気配が恐ろしく排除されたこの部屋に残されたのは、材質不明の真っ黒の球体。

 

 

 そして――――一匹のパンダ。

 

 

「比企谷八幡――君の報告通り、面白い人間だな。識別番号(シリアルナンバー)000000080」

 

 

 パンダは――四本足でフローリングに立っているジャイアントパンダの雌は、真っ黒な無機質の球体に向かって、否、その黒い球体を支配し、またはその黒い球体に支配されている部品(おとこ)に向かって、まるで人間のように流暢な言葉で語り掛けた。

 

「……だが、それでもやはり彼はまだ未完成だ。良くも悪くも危うい。……“こちら”に引き込むかの判断は、まだ時期尚早ではないかね?」

 

 そのパンダの言葉に、黒い球体は何の声も発さない。

 

 ただ、いつものようにその光沢ある表面に文字を浮かび上がらせる。

 

 それを見て、パンダは呆れたように溜め息を吐く。その仕草は、まるで人間のようだった。だが、パンダだった。

 

「……確かに、カタストロフィまで残された時間は少ない。だが、すでに我々は“奴等”を打倒しうるに足る、必要十分の戦力の育成と確保に成功している。焦ってあのような不完全な戦力を求める必要はないだろう?」

 

 パンダの言葉に、黒い球体は再び反論するかのように文字を浮かび上がらせた。

 

 その文字列(ことば)に、パンダは一瞬押し黙るが、すぐにその声色を変えて言った。

 

 

「自惚れるなよ、部品風情が」

 

 

 部屋の中を、張り詰めた沈黙が満たした。

 

 そのパンダが――その獣が纏うのは、殺気。

 

 食物連鎖の上位存在が、下位存在に向かってのみ放つことを許される、相手を威圧させる圧倒的な殺気だった。

 

 黒い球体は、何も出来ない。黒い球体を支配し、黒い球体に支配される部品でしかない、死んでもいない代わりに生きてすらいない男は、生きてもいないくせに皮肉にも、その殺気を受けて何の行動も出来なかった。

 

 パンダは言う。部品の男の上位存在は――雌のパンダの身体に人間の男の心をインストールされた存在である自分よりも、明らかに“下位(みじめ)”な存在である、黒い球体の部品に言う。

 

「自分の身分を弁えろ。そのようなことは、貴様の領分ではない。……貴様は優秀な部品(おとこ)だが、いかんせん“戦士(キャラクター)”達に感情移入し過ぎるのが悪癖だ。……特に、比企谷八幡に対しては随分と入れ込んでいるようだが」

 

 パンダの言葉に、もう黒い球体は何も返さなかった。

 

「……まぁいい。確かにカタストロフィに向けて、優秀な戦士(キャラクター)は多いに越したことはない。……だが、くれぐれも自分の本分を忘れるな」

 

 そして、ついにパンダにもレーザーが照射される。

 

 完全に転送され、正真正銘、その部屋に残るのは、たった一つの黒い球体のみとなった。

 

 生命の気配が一切ない、無機質なその2LDKに、その黒い球体は、ぽつんと、ただの黒い球体でしかなかった。

 




 最後のシーンはpixiv版にも追加しておきました。

 これにて在庫はすべて出したので、またしばらくお待ちいただくことになってしまいそうです。

 少し間が空いてしまうと思いますが、必ず戻ってくるので、どうかご容赦いただければ。


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ゆびわ星人編 ――続――
比企谷八幡は、残された大切なものを守る為――決意する。


大変長らくお待たせいたしました。
ゆびわ星人編が完成いたしましたので投稿します。


 

 どこかの国。どこかの場所。

 

 そこは、血と生ゴミと硝煙の香りがそのままスモッグと化して空気を汚しているかのような劣悪な環境のスラム街だった。

 まるで男が生を受け、育ったあの街のように。

 

 男は、誰よりも優しい笑みを浮かべながら、その街に威風堂々と君臨していた。

 

 男の周囲には、この街のあちこちに蔓延る生ゴミの一つとなりかけている、十数人の――“漆黒の全身スーツを纏った”人間達。

 

 無造作に散らかっているそれらは、性別も、年齢も、髪や肌の色も、人種すらバラバラだった。その人間達は、たった一つだけ、とある特殊な共通点を持った者達であった。

 

 男は、自分以外で唯一息がある存在である、その中の一人の首を片手で掴み上げながら、見る者の心を強制的に魅了する笑みのままに唄うような声で告げた。

 

「まったく、あなた方も懲りませんねぇ」

 

 己の首を万力の如き力で締め上げられ、今にも命を刈り取られようとしているのに、その笑みは、その言葉(こえ)は、今わの際の男の心をまるで優しく腐らせるような安心感で包み込んだ。

 

 知っている。自分は知っている。この安心感が、どれほど致命的な猛毒であるかを知っている。

 

 知っている。自分は思い知っている。だが、それでも、そうと知っていても尚、この耽美な快感から逃れることは決して出来ないことを、自分はこの世界で誰よりも深く思い知っている。

 

 何故なら目の前のこの男は、自分の首を怪物の如き力で締め上げるこの男は、自分を魅了し、力を授け、技術を授け、利益を与え、畏怖を植え付けてきた、この男は――

 

『おい、応答しろっ!? 状況はどうなっている《二代目》っ!?』

「――ほう、二代目ですか。今、君はそう呼ばれているんですね。別に構いませんよ、これまで通り『死神』と名乗っても。私はそんな名に拘るつもりはありませんから。独り占めしたかったのでしょう? 『死神』という称号の名声(きょうふ)技術(スキル)を」

「――――っっ……」

 

 二代目と呼ばれた男は、文字通り自らの首を絞めるその男を、ただ睨み付けることしかできない。

 その二代目の相貌は、どんな姿形にでも変装を可能とするために自ら皮を剥いだその顔は、既に目の前の男によってマスクを剥がされ、常人にとっては見るに堪えない醜悪なものとなっていた。

 

 が、それでも、その醜い顔面を前にしても、目の前の男の優しい笑みは崩れない。微塵も揺るがない。見る者に無条件で安心感を与える技術の結晶である男の笑みは、こんな状況に置いても変わらず効果を発揮し続けている。

 

 どれほど相手が自分に対して激情を抱いていたとしても。

 どれほど自分が相手に対して残虐な行いをしていたとしても。

 

 その笑みは――『死神』の微笑みは、相手の心の隙間から安心感を引きずり出し、警戒心を解かせ、そして――晒してしまう。

 

『死神』という殺し屋の前に、無防備な自分を晒してしまう。

 

 目の前の男は――目の前の『死神』は、そんな殺し屋で、そんな怪物だった。

 

 そんな無敵だった。

 

「お久しぶりですね、柳沢。状況は……まぁ、私がこうして応答していることで察してください」

『……ッ!? き、さまぁ……『死神』ぃぃいい!!』

 

 二代目が持っていた通信機を奪い『死神』が応答する。それに対し返ってきたのは、通信相手の歯を食い縛ったような呻き声だった。

 

「君も本当に懲りませんねぇ。たかが“目撃者”一人の口を封じる為に、何人の戦士(キャラクター)を使い捨てるつもりですか。それがあなた達の首を余計に絞めることになっていることなど、君程に聡明な男が理解していないはずがないでしょうに」

『黙れ! 黙れ黙れ黙れ!!』

「情報漏洩を防ぐという事に関しては、明らかに逆効果ですよ。こうして襲撃される度に、私はあなた達に関する情報と、あなた達が保有しているオーバーテクノロジーの武器類を大量に入手することが出来る。これも君程の男なら――」

『黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れぇぇぇぇえええええええええええ!!!!』

 

 そのつんざくような喚き声に思わず『死神』も貼り付けた笑みを一瞬解いてしまう――が、通信機を少し遠くに離すことでやり過ごした。

 

 通信相手の柳沢はそんな彼のぞんざいな対応などいざ知らず、怨念と怨嗟が篭った声で『死神』に対して唾を飛ばしながら吐き捨てた。

 

『待っていろ……貴様は必ず殺す! 絶対に殺す! ……お前程の怪物ならば、“カタストロフィ”すら生き残ってしまうかもしれない』

「…………」

『ふん、どうせ既に知っているのだろう。だが、それでは私の気が済まない』

 

 そして、柳沢は『死神』に宣言する。

 

 その燃えるような憎悪と、凍えるような殺意を以て。

 

 

『お前は俺から全てを奪った……っっ!! よって、必ず死んでもらう!! 首を洗って待っていろ、この『死神(かいぶつ)』がっ!!』

 

 

 ブツッ! と荒々しく通信が切れる。

 

「……やれやれ。君から殺害予告を受けたのは、これで四度目ですね、柳沢」

 

 そして通信機を片手で握り潰した『死神』は、もう片方の手で締め上げている二代目に再び意識を向けた。

 

「――そうなると、君をこうして締め上げるのも四度目になりますかねぇ」

 

『死神』は、未だどうしてこの男が自分を裏切ったのか、理解出来ずにいた。

 

 自分に憧れて弟子入りを志願してきたこの男に、『死神』は望み通りの力を授け、忠誠心を植え付けるため絶対的な力も見せつけてきた。

 

 利益と畏怖を存分に与え、裏切る要素など在り得ないはずだった。だが、それでもあの時、この弟子だった男は裏切った。

 

 

――さよなら、先生。 見えてなかったね、僕の顔。

 

 

 あの後、あの包囲網を抜け出せたのは奇跡だった。

『死神』という殺し屋の生涯において、唯一といっていい絶体絶命のピンチだった。

 

 確かに、人の心理は学問的な計算によって、ある程度は操れる。だが、それは計算である以上、必ずどこかで誤差が生じる。

 

 弟子に対する“教育”において、自分の計算にどんな誤差が生じたのか、それは分からない。

 それを知る為に、こうして“元”弟子だけは、存分に力の差を見せつけて再び逃がしているが、それでも一向に分からなかった。

 

 確かに憎悪はあるだろう。自分に対する蟠りや不満は並々ならぬものがあるはずだ。彼が今、柳沢の手駒になっている経緯には、自分が大きく関わっているのだから。

 

 しかし、それでも、己と『死神(わたし)』との力量差が分からない程、この男は馬鹿ではない。そして勝ち目がない相手に何度も挑み続けるなどという不合理な真似をするほど、この男は愚かではない――はずだ。自分がそういう風に“教育”したのだから。

 

「…………」

「…………ぐ、ぁぁああ!!」

 

 もういいか、と『死神』は思った。

 

 疑問を疑問のまま放置することは、その類まれなる才覚によって全てを身につけてきた『死神』にとって決して気分のいいものではなかったが、これ以上この男を逃がしても、泳がせても、自分の疑問が解消されることはないような気がしてきた。

 

 ならば、敵をみすみす逃がすという行為は、ただの下策でしかない。ここでこの男を逃がすのは、デメリット以外の何物でもないだろう。

 

 どのみち、もう二度と、自分は弟子を取るつもりはない。

 

 これは弟子に裏切られたことに心を痛めたからでは決してなく、裏切られた原因が分からないままである以上、再び育てた弟子に背中を刺される可能性が消えない為である。

 イレギュラーな行動をし兼ねない“分身(パートナー)”など、やはりこれもデメリットでしかない。

 

『死神』は、誰よりも優しい笑みのままに、冷酷に、合理的に計算し、思考して、一気に元弟子の喉を握り潰そうと力を入れ――

 

 

「待て、『死神』」

 

 

 その声は、『死神』の背後から聞こえた。

 

 自分の背後を取れる人間など、この世界にも多くはいない。

 

『死神』は二代目の首を片手で吊り上げながらも決して気道を塞ぎきらない絶妙の力加減と締め方のまま、その声の主の姿を確認した。

 

 その人間は――否、その生物は、四足歩行の雌のジャイアントパンダだった。

 

「これ以上、無駄に優秀な戦士(キャラクター)を殺される訳にはいかない。……ここに無残に転がっている者達も、どれだけ苦労して“育成”したと思っている?」

「……苦情は柳沢に言ってください。私は自分の身を守っているだけですよ?」

「私には君の方もずいぶん楽しんでいるように見えるが?」

「ふっ、そうですね……あなた方の誇る技術は、とても興味深いとだけは言っておきます。このスーツにしかり、武器にしかり……“あなた”にしかり、そして――」

 

 

「――あの黒い球体に然り」

 

 

『死神』が穏やかな笑みのまま、だが不敵に、挑戦的にその言葉を告げると――案の定、パンダの纏う空気が殺気に塗れる。

 

 その反応を見て『死神』は満足げに微笑むと――そのまま二代目をパンダに向かって放り投げる。

 

「――大丈夫ですよ。いくら私でも、何の準備もないままあなたと戦うほど命知らずではありません」

「……入念な準備さえあれば、私を殺せるといった口ぶりだな、『死神』」

「さて、どうでしょうか?」

 

 二代目を背中に乗せるようにして受け止めたパンダは、そのまま『死神』から遠ざかるようにして去っていく。

 

『死神』は、そんなパンダに向かって世間話を振るかのように語り掛けた。

 

 相手の警戒心の隙間を縫うように内側に侵入し、情報を怪盗のように引き出す技術の結晶である、その『死神』の話術と声色で。

 

「大変ですね。あなた程の役職(ポジション)の者にもなると、現場の兵士の尻拭いまでさせられるのですか?」

「……そう思うのならば、私の仕事が減るように少しは手加減してもらいたいものだな、『死神』よ」

「あなた達から仕掛けてきたことでしょう? 私はただ巻き込まれ、身を守っているだけですよ」

「……貴様を巻き込んでしまったことこそが、私達にとって最大の不幸(ミス)だ。まさしく“死神”に目を付けられた気分だよ」

「それはそれは。ご愁傷さまです」

 

 はっ、と吐き捨てるように愚痴を零すパンダのその姿は、愛くるしい見た目により却って悲愴さが増しているようにも見えた。

 

『死神』はそんなパンダの姿に(自分がしていることを棚に上げて)同情しながら、情報を引き出すための会話を引き延ばそうとする。

 

「ならば、あなたから柳沢を止めればいいじゃないですか? そうすればあなた達は貴重な戦士(キャラクター)を失わないで済むし、私は命を狙われる危険性がなくなる。……そもそも――」

 

「――目前に迫った“カタストロフィ”までに、私を殺せると思っているのですか?」

 

 その言葉に、パンダの足が止まり、首だけを後ろの『死神』に向けた。

 

「……忌々しい『死神』だ。一体どれほどこちらの情報を掴んでいることやら。……確かにうちの上層部のほとんどが、最早貴様のことは放置し、戦力の増強、維持に努めろという意見で固まりつつある。強硬なのは柳沢くらいだ」

「ふふっ、でしょうね」

「……故に、こうして私が尻拭いさせられているのだが。……だから安心しろ。こういったことは、今後はほとんどなくなるだろう。貴様の言う通り“カタストロフィ”は目前だ。貴様に構っている時間はない。我々の計画は、次の段階に移る」

「次の段階、ですか」

 

『死神』は笑みの仮面の下で愉悦する。

 

 パンダは気付かない。己がどれほど重大な機密を話しているのか。

 

 パンダは忘却している。今、自分の目の前にいる男が、どのような怪物なのか。

 

「――その為に、少しでも戦力が必要だ。……私はこれから、“現場”に向かう。……君と会うことも、もうないだろう」

「……ほう。貴方が、自らですか」

 

 その時、『死神』の眼光が静かに鋭くなった。

 

『死神』は、目の前の人物――目の前のパンダの事を、殊の外高く評価している。

 

 こうして一部隊の尻拭いをさせられ、そして“()()()()()姿()()()()()()()()()”ことから、決して幹部クラスの地位を獲得しているわけではないが、それでも現場の将クラス――上層部と末端を繋ぐ中間管理職程の地位にはついている。

 

 一体の“実験体”からここまで上り詰めたのは、紛うことなき彼の実力の賜物だった。

 

 そんな彼が、このカタストロフィが間近に迫ったこの時期に、わざわざ送られる程の“現場”――

 

「――最後に、もう一度尋ねたい」

 

 パンダは、気が付けば上半身を捩じるようにして、『死神』と向き合っていた。

 

 そして、ゆっくりと、力強く尋ねる。

 

 

「我々の仲間になって――共に地球を救うつもりはないか?」

 

 

 これは、目の前のパンダからの、通算四度目となる勧誘(スカウト)だった。

 

 いつだって、こうして漆黒のスーツの死体が転がる惨状で、二代目を背中に乗せた彼に、この言葉で口説かれるのが自分達のお決まりの流れだった。

 

 だが、パンダはいつも本気だった。本気で『死神』を仲間にしたいと考えていた。

 

 パンダが知る限り、この世界でこの男ほど強く、優秀で、無敵な存在はいない。

 

 数多くの戦士キャラクター達を見て、育ててきたパンダにとって、この『死神』こそが、世界を――否、地球を救う英雄に相応しい存在だと、心から確信していた。

 

 だからこそ、危険な男だと、この上なく危険な男であると分かっているのに、こうして彼が知りたいであろう機密を話し、『死神』の思惑通りに会話にも乗ってしまうのかもしれない――いや、これも『死神』によって誘導された思考なのか。

 

 しかし少なくとも、この男が味方になれば、“組織”にとって、地球にとって、最強の戦力となることは間違いなかった。

 

 でも、それでも、『死神』の返答も、これまで通りと全く同じ――

 

「――お断りしますよ」

 

 張り付けたような笑みで。だが、この上なく穏やかな笑みで。地面にゴロゴロと自分が殺した死体が転がっているこの惨状では明らかに相応しくないのに、まったく不自然さを感じないことが不自然な笑みで。

 

 奪えるだけ武器類を奪って、引き出せるだけ情報を引き出して、それでも『死神』の返答は、いつもこの一言だけだった。

 

 それでもパンダが目の前のこの『死神』を、忌々しくは思っても憎むことが出来ないのは、『死神』の心理誘導(マインドコントロール)の巧みさ故なのか、それとも、二代目のように、この『死神』という完成された無敵さに、パンダもすっかり憑りつかれているのか。

 

「――そうか」

 

 パンダは今度こそ、『死神』に背を向ける。

 

 ビィィィンという電子音と共に、どこからともなく二筋の光が、パンダと、その背中の二代目に照射される。

 

「ならばせめて、君が私達の――地球の敵にならないことを祈るよ」

 

 そしてパンダと二代目の姿が完全に消え去り、この腐りきったスラム街には、『死神』と無残に殺され尽くした死体群のみが残される。

 

『死神』は彼等が回収される前に、オーバーテクノロジーの武器類を回収するべくすぐさま行動に移しながら、先程のパンダの言葉を思い返していた。

 

 

(……調べてみる価値はありそうですね)

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

『――今朝午前6時頃、上野総合動物園にて飼育されているパンダのリンリンが、自身の檻から抜け出し園内を徘徊しているところを飼育員が発見し、保護しました。リンリンちゃんは先程無事自身の檻の中へと戻されましたが、どのようにして檻から抜け出したのか、原因は依然判明しておらず、昨日の営業時間後の見回りにおいては確かに檻の中にいたと担当飼育員は証言しており、昨晩の深夜から今朝の明け方にかけて、何者かが園内に侵入し脱走させたのではないかと、警察は調査を――』

「…………」

 

 …………うん。今日も平和だな。

 

 俺はそっとチャンネルを変え、ソファにドカッと座り込みながら天井を見上げた。

 

 …………結局、一睡も出来なかった。

 

 昨晩のガンツミッションを終えて、疲れ切った体と頭で自室に帰還した俺は、全身の細胞が休息を求めて怒鳴り散らす中、それでもぼっちの宿命か、目を瞑って横になっても膨大な思考が脳内を駆けずり回り、一向に眠りの世界へと旅立てなかった。

 

 よって、徹夜である。……この感じも久しぶりだ。なんならちょっと懐かしくて絶好調まである。いや、単に寝不足でハイなだけかもしれない。

 

 前までの俺ならそのまま不登校を決め込みベッドと同化するのだが、残念ながらそうはいかない。

 

 今の俺は、というより今日の俺は、一刻も早くやらなくてはならないことがある。

 

 

――……おにい、さん……

 

 

――お前にお兄さんと呼ばれる筋合いはねぇ。

 

 

『――ご覧ください。こちらの幕張展示場では、まるで展示中だった恐竜が飛び出したかの如く大きな穴が開けられています。そして、その前の広場では、数十人の惨殺死体が。その中にはマスコミ関係者や事態の鎮圧にあたっていた警察官の死体も含まれています。生き残った警察官や目撃者の証言に依りますと、犯人らしき者の姿は見ておらず、突然被害者達の身体が吹き飛び死亡したと答えており、警察は目撃者達の精神鑑定を――』

「――ふぁぁ。あ、おはよう、お兄ちゃん。今日は早くない?」

 

 再び思考の泥沼に沈みかけていると、小町がリビングに入ってきた。

 

 ふとテレビの右上を見ると、確かにそれくらいの時間だった。

 ……不味いな。いくら徹夜とはいえ、頭が重過ぎる。これからするべきことを考えたら、万が一の事態もあるかもしれないのに。

 

 だが、今はとにかく小町に朝の挨拶だと、俺はソファの背凭れに凭れ掛かりながら、イナバウアー状態で小町に朝の挨拶を返す。

 

「……ぉぉ、おはよう小町ぃい(地を這うような低い声)」

「ぎゃぁぁああああ!!!」

 

 ……朝から愛する妹に本気で恐怖されてしまった。……確かにちょっとふざけたけどそこまで恐がらなくてもいいじゃんよぉ。っていうか朝から俺は何をやってるんだ。やっぱり徹夜明けでちょっとおかしいのかもしれない。

 

「お、お兄ちゃん!! 本気でどうしたの!? 目が腐ってるなんてもんじゃないよ! ちゃんと見えてるの!? 目の機能果たしてる!?」

 

 ……酷い言い草だった。

 

 そこまで俺の目はヤバいのか……。まぁ、最近の目の濁り具合に徹夜がプラスされたら、どんな状態になるのかは想像がつくか。だが、小町がそこまで言うなんて……ちょっと楽しみになってきた。

 

「そんなにかよ……ちょっと顔洗ってくるわ」

 

「う、うん、そうしてきなよ……」と言う小町の横を通り過ぎて、洗面台へ向かう。その時も、小町は扉にビタッと背中を張り付けて引き攣った苦笑いを浮かべていた。……そこまで怯えられると、さすがにちょっと泣きそう。更に目が濁っちゃう。これ以上濁ったら本気で失明なんじゃないの?

 

 バシャバシャと眠気を少しでも吹き飛ばす――のは無理なので、少しでも誤魔化そうと冷水を顔に叩きつける。そしてタオルで拭って、鏡で自分の顔を確認すると――

 

「…………うわぁ」

 

 引いた。普通にドン引きだった。

 

 もう何かしらの血継限界なんじゃねぇの? 点穴とかチャクラの流れとか見えちゃうんじゃないの? ってくらいの自分の目の濁りっぷりに引きながらも、俺はそのまま自室に戻って制服に着替えて、リビングに戻った。白眼とかリアルで見たら絶対にホラーだよね。まぁ、俺は好きだけど。メインヒロインはヒナタ。異論は認める。

 

「…………」

 

 制服の下にガンツスーツを着ようか……かなり迷ったが、結局着ていかないことにした。

 やはり雪ノ下が絶えず傍にいる今の状態で着ていくのはリスキーすぎる。

 

 その代わりにXガンは鞄の底ではなく、いつでも取り出せるようにしておく。

 

 ミッション後に襲われたんだ。俺の顔はあの黒スーツの奴等に完全に覚えられたことだろう。一番厄介そうな奴に目を付けられたみたいだし、用心は出来るだけするべきだ。

 

 大志は奴等の仲間のようだった。少なくとも一員だった。ということは、ここら一帯も奴等の縄張りである可能性は十分にある。

 

「…………っ」

 

 ゾクッと。昨日から散々思索した上で出した、かなり危険な推論に、俺は背筋が凍るのを感じる。

 ……もしそうならば、このままではあのチビ星人の時の二の舞になりかねない。

 

 ガンツが関与しない中、文字通りのルール無用の殺し合いを、俺の日常の舞台で行われた、あの悲劇を。

 

 関係ない、ガンツにまったく関係のない、罪もなく、たまたまそこに居合わせただけの人達が――たまたま俺という人間と関わってしまったが故に殺され、傷つき、壊されてしまった、あの悲劇を。

 

 繰り返してしまうかもしれない。再び、繰り返してしまうかもしれない。

 

 また雪ノ下を、由比ヶ浜を、あいつ等を巻き込んでしまいかねない。

 

 ……そして、もし、再び……あんなことが起きてしまったら。

 

 今度は――

 

 

「――お兄ちゃ~ん? 朝ご飯出来たよぉ~」

「っ! あ、ああ」

 

 いつの間にか止まっていた歩みを、小町の声によって再開させる。

 

 そしてリビングに入って、いつも通りのパンとマッ缶もどきコーヒーがメインの朝食を貪った。

 

 ……絶対に、あれだけは繰り返してはダメだ。絶対に。絶対に。絶対に。

 

 

 俺は誓った。雪ノ下雪乃を、今度こそ守り抜くと。

 

 俺は誓った。由比ヶ浜結衣を、これ以上絶対に傷つけないと。

 

 そして、俺は誓う。絶対に、小町は――

 

 小町だけは――――

 

――その為にも、今日は絶対に休めない。やらなくてはならないことがある。

 

 いつまでも、やられっぱなしでいられるか。

 

 今度は、今度こそは、俺が必ず先手をとる。

 

 

「――じゃあ、俺、行くわ」

「あ、うん。……雪乃さんのとこだよね」

 

 少し表情に影が差したが、小町は昨日のように自分も行くとは言わなかった。

 

 俺はそれに対しては何も言わず――だが、リビングを出る前に、小町に背を向けたまま、言った。

 

「……なぁ、小町。お前さ、大志とはもう話すな。関わるな――絶対に、近づくな」

「…………………え」

 

 小町は絶句したように息を呑む。

 

 そのまま数秒、張り詰めたような沈黙が俺と小町の間を満たしたが、やがて小町は、空笑いを漏らしながら俺に言った。

 

「……や、やだなぁ、お兄ちゃん? 急にどうしちゃったの? 本当にシスコン過ぎて小町的にポイント――」

「――小町」

「ひっ」

 

 俺は振り返り、小町を思わず睨み付けてしまった。

 

 その際に、目に見えて小町が怯える。

 

 ……今の俺は、俺の目は、相当に恐ろしいのだろう。

 小町の怯え様は、これまで、俺が見たことのない程に酷いものだった。俺が見たことのない小町の姿だった。

 

 俺が小町から向けられる、初めての本気の恐怖だった。

 

「お、お兄ちゃん……?」

 

 瞳に涙を浮かべ、理解できないといった声色で、俺に向かって手を伸ばそうとする小町。

 

 まるで、お前は本当に自分の兄なのか? そんな風に問われているような、小町の恐怖。

 

 ……分からない。自信がない。

 

 本当に、俺は俺なのか? 俺は比企谷八幡なのか? もしや、もう、最早、全く別の存在(なにか)なのか?

 

 あの部屋での戦争を何度も経験し、何度も死に掛け、その度に、一つのミッションを終えてあの部屋に帰還する度に――綺麗な新しい体へとリセットされる。作り、変えられてきた。

 

 そして、色んな星人をこの手で殺しまくった。殺して、殺して、殺し続けてきた。

 

 色んな人間が死ぬところを目撃してきた。

 

 直接この手で殺めたことはないにしろ、俺のせいで、間接的に俺が殺したといっていい人間も、山程いる。

 

 殺人鬼。

 鬼。

 人じゃない、異物な怪物。

 

 あの白いパーカーの少年のように。真っ白なパーカーを真っ赤な鮮血で染め上げた、あの美しい鬼のように。

 

 俺も、人じゃなくなっているのかもしれない。鬼になっているのかもしれない。

 

 本物の、比企谷八幡ではなくなっているのかもしれない。

 

 ……怯えた小町の視線を受け、そんなことを思う。前までの俺では、小町にこんな表情をさせることなど考えもしなかった。出来もしなかった。無意識にでも、そんなことは在り得なかった。

 

 だが、それでいい。小町がそれで助かるなら。傷つかないなら、それでいい。

 

 

 もう、それだけでいい。

 

 

 雪ノ下雪乃を壊してしまった。由比ヶ浜結衣を傷つけてしまった。

 

 あの空間を、この上なく無残に破壊してしまった。

 

 そんな俺が、そんな俺でも、せめて――

 

 そう思う。そう思ってしまう。でも、それくらいは構わないだろう。

 

 

 たった一人の、妹なんだ。

 

 たった一つの、俺に残された、最後の――

 

 

「――頼むよ、小町。お兄ちゃんの、最後の我が儘だ」

 

 

 もう俺は、小町の兄だと、胸を張って名乗れることはないのだろう。俺はもう、既にそんな存在では在り得ないのだろう。

 

 

 いつかきっと。

 

 雪ノ下雪乃が俺から解放される日が来るように、由比ヶ浜結衣が俺を見限り愛想を尽かす日が来るように――小町も俺の元から去っていくのだろう。

 

 独りぼっちになるということは、そういうことだ。

 

 

 いずれ俺は、全てを失う時が来る。全てから解放される時が来る。

 

 小町も俺から、逃れる日が、きっと来る。

 

 

 だから小町。それまでは、俺がお前を守ってやる。

 

 お前だけはきっと、守り切ってみせるから。

 

 その為なら俺は、なんだってしてみせるから。

 

 

 どんなことだって、してみせるから。

 

 

「……お兄ちゃん? お兄ちゃんッ!」

 

 

 俺は、何かを断ち切るように、扉を強く閉めた。

 

 後ろを振り向かず、強く、何かを、断ち切った。

 




一気に毎日更新でいくので、どうか少しの間、お付き合いいただければ。


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桐ケ谷和人は、平和な日常の尊さを痛感する。

長い間を空けていたにも関わらず、温かい感想を本当にありがとうございます!
お待たせした分、面白くなるように全力で書いていきたいと思います!


 

 板張りの床。初夏のこの時期でも、ひんやりと冷たい静謐な空気。

 

 長年愛用している自前の防具を纏い、己の汗が染み込んだ竹刀を真っ直ぐ構える。

 

 そんな彼女の前に立つのは、同じく防具を身に纏い、剣道の定石からかけ離れた、独特――と称するには、あまりに珍妙な構えの剣士。

 

 その構えを見て少女――桐ケ谷直葉は、およそ一年前、義兄があの鋼鉄の城のデスゲームから帰還し、こうして剣を交えた時のことを思い出す。

 

(……あの時、以来だな)

 

 兄が恋人である明日奈とのデートからいつまでも帰ってこず、今までそんなことはなかったがまさか遂に朝帰りなのかと少しそわそわしながらも中々寝付けなかった昨夜。

 

 そんなこんなで寝不足ながらも、いつも通り朝の稽古を始めようと起き上がった直葉の自室に、いつの間にか帰ってきていた兄が、妙に切羽詰った表情で飛び込んできた。

 

 寝ぐせで髪がボサボサの寝起き姿を見られた直葉は頬を赤く染めてあわあわと慌てたが、兄――桐ケ谷和人は、そんな直葉に構うことなく、というよりそんな直葉の様子に気付くことなく、ガシっと彼女の肩を掴み、真っ直ぐに直葉の目を見据えて真剣な表情で告げた。

 

『――スグ。俺と試合してくれないか?』

 

 

(――お兄ちゃん、少し様子がおかしかったけど……)

 

 直葉はいつかのように和人の構えを見て吹き出すようなことはしなかったが、それでも目の前の一戦に集中する、ということは出来ていなかった。

 

 第一に、和人はあの時の試合以降、防具を纏って剣道をやるということはしてこなかった。

 和人はあの時、剣道をまた始めてみようかなどと口にしてはいたが、その直後にALOでの事件に介入し、その後もGGOでの戦いに身を投じたりと忙しかった。

 

 それに直葉自身も、剣道ではなくALOという兄との繋がりが出来た以上、あの時の言葉を蒸し返すつもりも掘り返すつもりもなかったのだが――

 

「ハァッ!!」

「っ!?」

 

 考え事をしていた直葉を叱咤するように、和人が気勢を上げて斬りかかる。

 

 いつかのように滑るように低い姿勢で、片手で持った竹刀を足元から掬い上げるような軌道で振り上げる。

 

「くっ」

 

 リハビリの途中だったあの時よりも、やはり鋭い。

 

 だが、あの頃と違うのは自分も同じ。今の直葉は桐ケ谷和人、否、『キリト』という剣士を知っている。

 その動きに感心はしても、虚を突かれたりはしない。

 

 右足を引くようにして身体を開き、避ける。

 ヒュンという、和人の剣閃の空気を切り裂く音に息を呑みながらも、そのまま剣を振り上げることで隙が出来ている和人の右側を狙う。

 

 胴が空いている。

 竹刀を倒し、左から右に、剣を流した。

 

「ど――っ!?」

 

 直葉は咄嗟に剣を自身の面横に立てた。

 

 バンッ! と竹刀同士がぶつかる音。

 

 和人は斬り上げが躱されると、そのまま剣を戻すように、水中の水を掻くようにして剣を振ったのだ。左から右へ、直葉の面を横から叩くように。

 

「あぶなッ」

 

 それは自身の面を狙われたこともそうだったが、和人の技に対しても向けられた言葉だった。

 

 先程の斬り上げはフェイントではなく、全力で狙っていた威力の剣閃だった。にも関わらず、その勢いを力づくで止め、そのままあんな軌道の振りを、片手で行ったのだ。まだリハビリを終えて一年も経っていない、その治りかけの体で。

 

 なんて無茶を。腕を痛めたりしたらどうするつもりなのだ、と直葉は唇を噛む。

 それに剣道としては、下手すれば後頭部を強打し兼ねない先程のような振りは、決して誉められるような行為ではない。

 

 そんな思いを込めて、面越しに和人を睨み付ける。

 

 すると、向こうの面越しに、和人の瞳が見えた。

 

「――ッ!?」

 

 ゾっと、した。

 

 和人の瞳は、爛々とこちらを鋭く見据えていた。

 

 それは、高貴な剣士などではなく、もっと凶暴で、もっと獰猛な――

 

「……っ……お兄ちゃん!」

 

 和人の剣は激しく直葉を攻めたてる。

 

 その剣閃は鋭い。だが荒々しく、本能に駆り立てられるがままに振るわれるそれは、やはり剣士のものではなかった。

 

 ただがむしゃらに、何かを欲するように、何かを求めるように振るうそれは――

 

「おにいッ、ちゃんッ!」

 

 直葉はそれを必死に防ぐ。

 

 右から、左から、上から、下から襲い掛かるそれは、獣の爪であり、牙のようだった。

 

 だが、その奥から覗く和人の瞳は、対照的に静かに細められ、真っ直ぐに遠い先を見据えていた。

 

 直葉ではなく、もっと遠くの、遠い何かを。その遥か彼方の、遠い何かに向かって――

 

 ぎりっと、直葉は歯を食い縛り――

 

「お兄ちゃん!!!」

 

 大きく叫んだ。

 

 ビクッと、和人の動きが止まる。

 

 直葉は、和人の目を覚ませるがごとく、一年ぶりに強烈な面打ちを兄の頭に叩き込んだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「全く! 何を考えているの、お兄ちゃんは!!」

「……はい。本当にごめんなさい……」

 

 試合後、板張りの床に道着のまま、和人は義妹に正座させられていた。

 

 そしてがみがみと説教を受けている。

 自分でも直葉に危ないことをしてしまったという自覚はあるので、それを甘んじて受けていた。

 

 

 昨晩、和人は再びデスゲームに巻き込まれた。

 

 それは、あのSAOよりも理不尽で、恐ろしい文字通り悪夢の一夜だった。

 

 焦っていたのかもしれない。

 黒の剣士――キリトへと依存を止め、自分自身の力で強くなろうと、『剣士』になろうと決めたのはいいが、まず何をすれば分からず、とにかく何かをしなければと思った。

 

 剣を振りたかった。

 それ故に、直葉に試合を挑んだ。

 

 システムアシストに頼らずに、剣士になる。

 VR世界のアバターとしてではなく、この現実世界の、桐ケ谷和人として強くなる。

 

 だが、結果はあれだ。

 

 遥か彼方にいる、『キリト』という剣士。『黒の剣士』という英雄。

 

 思い描く最強の自分に向かって、とにかく我武者羅に剣を振った。本能のままに。焦りのままに。

 

 その結果、その焦りに身を任せた結果、その全てを直葉に八つ当たりしたような結果になってしまった。

 あのままでは、本当に直葉に大怪我をさせてしまっていたかもしれない。

 

(……なにやってんだ、俺は……っ!)

 

 和人は直葉の説教をBGMに、昨日――昨夜、あの戦争から帰還した後のことを思い返した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――――はッ!?」

 

 和人はガバッと体を起こした。

 咄嗟に自分の顔から何かを外そうとして――自分がナーブギアもアミュスフィアも装着していないことに気付く。

 

 荒くなった呼吸を整えるように何度か深呼吸をした後、辺りを見渡した。

 

 そこは、間違いなく、埼玉県川越市の桐ケ谷和人の家で――自宅で、自室だった。

 

「…………」

 

 頭がぼおっとしている。現状を中々把握出来ない。

 ベッドの上で上半身を起こすような恰好で、二度三度、感触を確かめるように手を握っていると――

 

――死なないように、気をつけろ。

 

「――ッ!」

 

 ふと、去り際のあの男の言葉がリフレインし、冷水を被ったかのように意識が急速に覚醒した。

 

(……そうだ。あれは夢なんかじゃない。ゲームでもない。……間違いなく、あれは現実だった)

 

 現実の、戦争だった。

 

 和人はゴクリと唾を飲み込みながら、ギュッと固く手を握る。

 

 あの後――八幡があの言葉を捨て台詞に転送された後、黒い球体の部屋は重苦しい沈黙に満たされた。

 

 ただ一人、東条英虎のみがパンダと戯れていて重苦しく顔を俯かせる渚に言葉を投げ掛けていたけれど、あやせと、そして和人は、ただ深く項垂れるだけで、やがて自身が転送されるまで終ぞ一言も発さなかった。

 

 本来ならば、あの後、八幡がいなくなった後でも、残ったメンバーだけでも交換できる情報はたくさんあったはずなのに――このデスゲームをこれからも生き残っていくには、戦っていくためには、そうしていくのが最も効率的で、有効的で、正しい行動だったはずなのに。

 

 あの場で、最もそれを理解しているはずの自分は、結局何も出来なかった。

 和人はそれを苦しく思うも、やはり感情が付いていかなかった。

 

 デスゲームの攻略に最も明るいのが和人なら――デスゲームの恐怖を最も痛感しているのも、やはり和人なのだ。

 

 これからも、あんなことが続く。戦争が――デスゲームが続く。

 

 それもSAOのように、難関であれど、クリアされることを前提に――いわば“ゲーム”として作られているものではなく、あれは。

 

 あの戦争は、戦争を前提に成り立っている。殺し合いを、無理矢理ゲームのようにしているだけだ。

 

 つまり、死ぬのが前提。プレイヤーが殺されるのが前提で、その中で、修錬された戦士を育成していくものだ。和人はそれを、たった一回で理解した。

 

 あれは、デスゲームではあっても、断じてゲームではない。

 

 遊びの要素など皆無の、戦争で、殺し合いだ。

 

(……あんなのを、これから何回もやらされるのか……っ)

 

 ゾクッっと強烈な寒気が走る。体があっという間に恐怖に侵される。

 

 デスゲーム。死の恐怖に最も近い場所に、その身を置き続けた少年。

 

 一度終わったと思っていたそれが、再びその身に襲い掛かる。一度それを体験したからこそ、解放されたからこそ、和人は誰よりも、新たなるデスゲーム――ガンツミッションというものの悍ましさを、そして恐ろしさを理解していた。

 

 その時。和人が頭を抱え、絶望に暮れそうになった、その時――

 

『あーーーー!!!! パパいましたぁ!!』

 

 へあっ!? と情けない声を漏らした和人は、先程までの絶望と合わせて若干涙目になりながら、自室のPCモニタに目を向ける。

 

 そこには大きく頬を膨らませご立腹である愛娘――ユイの姿が表示されていた。

 

『もうー!! どこに行っていたのですかパパ! リーファさんがパパの帰りが遅いと心配していて知らせに行こうとしたらなぜかパパの端末に行けませんし! ママに聞いても送ってもらって別れた後は分からないと言ってましたし! 心配してたんですからね!』

「ご、ゴメン、ユイ」

 

 和人は苦笑しながらPC前の椅子に座り、モニタのユイと向き合う。

 

『まだこちらの質問に答えてもらってないです! この数時間どこで何をやっていたのですか! 端末の電源を落としてまで!』

「……ええと」

 

 ちょっとオーバーテクノロジーで拉致されて幕張で恐竜星人と戦争してました。

 

 なんて言えるわけがない。心情的にも、肉体的にも(爆弾的な意味で)。

 

 電源を切った覚えはないが、あれだけ不思議な技術で密室を作っていたのだ。携帯の電波など当然遮断していただろう。それならばユイが来れなかったのも無理はない。

 

 そんなことをしどろもどろになりながら思考していると、なにやらユイが、和人をじとぉとした目で睨みつけている。

 そんなユイも可愛いと思う親馬鹿(?)な和人だが、その愛する娘の口から飛び出した言葉に、和人は昔のコントのようにのけぞるようにして椅子ごと倒れ込みそうになった。

 

『浮気はダメですよ、パパ』

「ぶふぉぁっ!」

 

 別に何も口に含んでいないのにそんな効果音を噴き出した和人。

 

 その後、必死に弁解(というより無実の訴え)をした和人だったが、つーんと完全に拗ねたユイは聞く耳を持ってくれず、『ママもすごく心配してたから連絡してあげてくださいね!』と言い放ちネットの海に消えていった。

 

 和人は「ユイーーー!!!」とどっかのグラサン総司令のように情けなく叫んでモニタに手を伸ばしたが、ユイが戻ってくれることはなくがっくりと頭を垂れた。

 

 これまで和人はユイがいつでも来れるように常に端末の回線をONにしていてユイに黙って電源をOFFになどしたことがなかったから、ユイは少なからずショックだったのだろう。

 机に突っ伏しながら今にも泣きだしそうな声色で「うぅ……ユイ……」と思春期の娘に「パパなんてだいっきらい!」と言われた全国のお父さんくらい心に絶大なダメージを受けている和人はまだ気づいていないが。

 

 と、そこでタイミングがいいのか悪いのか、ゆっくりと顔を上げて目の前のPCで『娘 仲直りの仕方』とググろうとしていた和人の動きを諫めるように、件の端末が鳴り出した。

 やはり電源を切っていたわけではなくあの部屋が電波遮断していたのだろうと思いながら、和人は着信主を見る。

 

 その名を見た瞬間、和人はすぐに応答した。

 

「も、もしもし!」

『もしもし、キリトくん!? 大丈夫なの!?』

 

 あ……と、和人はその声を――その愛する人の声を聞いた瞬間、心の何かが温かく溶けだした気がした。

 

 帰ってきたんだ。俺は、生き残ったんだ。

 

 そう改めて――実感できた。

 

『直葉ちゃんとユイちゃんから、キリトくんがいつまで経っても帰ってこないって……あの別れた公園まで行ってみたんだけど誰もいないし、なんだかうちの近くに奇声を上げて徘徊してる不審人物もいるって噂も流れてるし……なんだかすごく怖くて。キリトくん? 大丈夫なんだよね? もう、ちゃんと家に帰ってるんだよね?』

「…………ああ、大丈夫だ、アスナ。……ちゃんといるよ。――俺は、ここにいる」

 

 和人は明日奈にそう返した。

 

 だが、明日奈はそんな和人の言葉を訝しんだように、心配そうに、こう返した。

 

 

『……キリトくん――――泣いてるの?』

 

 

「―――――っ――――っっ」

 

 和人はそこで、大丈夫、泣いていないと答えることが出来なかった。

 ただ己の服に端末を押し付け、自分の口から止めどなく溢れてくる嗚咽を愛する女性に聞かせないようにするだけで精一杯だった。

 

 端末からは『キリトくん!? どうしたの、大丈夫なのキリトくん!?』と明日奈の焦ったような、切迫した心配する声が聞こえるが、和人はそれに答えることが出来ない。

 

 あの時、自分は、この幸せを諦めた。

 

 死銃に肩を撃たれ、薄れゆく意識の中、この幸せを手放しかけた。

 

『アスナ、ごめん』

 

 嬉しかった。自分はまだ、生きている。こうして明日奈と言葉を交わせる。会える。触れられる。まだ自分は、彼女を失っていないのだと。

 

 そして怖かった。自分はいつか、また彼女を失うかもしれない。彼女を悲しませてしまうかもしれない。もう言葉を交わせないかもしれない。会うことも、触れることも、愛することも。出来なくなるかもしれない。

 

 和人は嗚咽を堪えるように唇を噛み締め――決意を固めた。

 

(……強くなる……ッ! そして、何度でも生き残る! 帰るんだ、何度でも! ……この場所に――アスナの元に!!)

 

 和人は震える声で、電話の向こうの明日奈に、何度も「大丈夫……大丈夫だから」と返す。

 

 そして逃げるように、電話を切った。

 

 再び巻き込まれたデスゲーム。

 

 そのクリアへの決意を、胸に、魂に刻み込みながら。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「聞いてるの、お兄ちゃん!!」

「は、はい!」

 

 そして、今である。

 

 ご大層な決意を固めたのはいいが、人間気合だけでは強くなれない。

 むしろ盛大に空回り、こうして妹に説教を受ける羽目になっている。

 

 やがて散々説教をして満足したのか、直葉は大きく溜め息を吐いた。

 

「……はぁ、もういいよ。これからは気を付けてよ、お兄ちゃん」

「ああ、本当にゴメンな、スグ。……虫がいい話だと思うけど、これからもちょくちょく付き合ってくれないかな? スグにあんな危ない真似は、もう絶対にしないから」

 

 和人は正座の姿勢のまま、直葉を真っ直ぐ見据えながら言った。

 

 妹に対し危険な真似をしたという罪悪感は和人の心に重く圧し掛かっていたけれど、それでも今の和人にとって、剣道の打ち合い以上に強くなる道標はなかった。

 筋力の類はあのスーツを着ればどうとでもなるし、SAOと違ってガンツミッションは情報を集めるということがほとんど出来ない。

 

 そういう意味では、あの場で呆然とせず、せめてあやせや渚達の連絡先くらいは交換しておくべきだったけれど、今、それを悔やんでもしょうがない。次、あの部屋に集められた時には忘れずに実行すればいい。……若干コミュ障の自分がそんな真似を出来るのかと言われたら疑問が残るところだったけれど、背に腹、というより命には代えられない。

 

 だから和人は、例えここで妹に土下座をすることになったとしても、何とかこの稽古を続けてもらうつもりだった。

 

 そういう意味で、和人は真剣な目で直葉を見上げていたのだが――なぜか直葉の顔は、赤らむどころかどんどん険しく、黒いオーラのようなものを纏い始めている。

 

 その時、初めて和人は、あれ? 何かがおかしい? と気付いた。

 

「す、スグ……さん?」

「……お兄ちゃん? 私の話の、何を聞いてたの?」

「……え、あの、その」

 

 正直、思考に耽っていて聞き流してました。とは、さすがに言えない。この状況でそんなことが言えるほど、自分は危険に対し鈍感ではない。これでも二年間、デスゲームの最前線にいたのだ。

 

 実の所、和人は(スグにとって)危険な剣の振り方をしたことに直葉は怒っていて説教しているのだと思っていたが、直葉はほとんど(和人にとって)危険な剣の振り方について怒って――というより心配していたのだ。あんな剣の扱い方をしていたら、VR世界ならともかく、現実世界の、それも碌に鍛えていない和人の体では、確実に怪我をし、下手すれば一生ついて回る故障をしてしまうと。

 

 それなのに、そんなことを一切聞いていなかったかのような和人の口振りに、直葉はちょっとキレそうだった。というか、ちょっとキレていた。

 

 だが生憎和人の方は、ぶっちゃけると直葉のありがたいお言葉を聞いていなかったので、直葉がなんで怒っているのか分からない。だが、自分が何かをしてしまったことは分かるので、小さく縮こまってやり過ごすしかなかった。

 

 なんか俺昨日からこんなんばっかりだと、情けなくも再び涙目になりそうな和人だったが、その時、道場の外から「ごめんくださーい」という声が聞こえた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「ごめんね、直葉ちゃん。いきなり来ちゃって」

「いえ、大丈夫ですよ、明日奈さん。元はと言えば、心配をかけたお兄ちゃんが悪いんですから」

『そうです! 全部パパが悪いです!』

「……あの、俺が悪うございましたから、そろそろ皆さん許してもらえませんかね……?」

 

 平日の早朝という珍しいタイミングで、いつも通り両親不在の桐ケ谷家を訪ねた客人は、結城明日奈だった。

 

 あの後、桐ケ谷兄妹は道着から着替えてシャワーを浴びて、今は三人ともリビングに集まっている。

 

 明日奈は直葉と隣り合って朝食を調理していて、ユイも明日奈の端末にいる。和人は己に対する愚痴で盛り上がる三人娘から少し離れたテーブルで、ネットニュースを開いているタブレットで顔を隠しながら肩身の狭さを体現するように身を縮めている。いつの世も男は女に敵わないのだという不変の真理(かなしいげんじつ)を見事に表現している朝のひと時だ。

 

 やがて朝食がテーブルに並べられ(和人の分もちゃんと他のメンバーと変わらないメニューと量が用意された。和人はちょっと嬉しかった。露骨に減らされるかと少し本気で心配してた)、みんなで手を合わせいただきますと唱和する。

 

 和人もようやく穏やかな空気が流れたことにホッとし、手を合わせ色々なことに感謝した後、おいしそうな味噌汁を口に運――

 

「――ところでキリトくん?」

「ん?」

「浮気したって本当?」

「ぶはっ!!」

 

――べなかった。ええ、吹き出しましたとも、盛大に。

 

 モロに気管支に入ってごほ、ごほ、おえ、とちょっと吐き気まで感じるほどに咽る和人を、明日奈はニコニコ笑顔で、ユイはふんっと拗ねて、そして直葉はゴミを見るような目で眺めていた。

 

「……うそ。お兄ちゃん、昨日帰ってこなかったと思ったら……明日奈さんとのデートの後に違う女の人のとこから朝帰り?」

「違う! 無実だ! 冤罪だ!」

「……相手は誰なの? シノンさん? リズさん? ……ま、まさか、シリカちゃ――」

「だから違うって、妹よ! っていうか、なんでそんなスラスラと名前が出てくるんだ!? え、スグって俺がそんな身近の女の子に手辺り次第に手を出すような男だと思ってたのか!?」

 

 嘘だと言ってよマイシスター! とばかりに和人が縋るような目を向けると、直葉は気まずそうに、何も言わず目を逸らした。

 

 ガーン! と和人は心がポキッと折れそうになるも、まだそこで倒れる訳にはいかなかった。

 

 なぜなら、未だ自分の隣で、何も言わず、表情も変えず、能面のようなニコニコ笑顔で、どす黒い殺気を放ち続けている魔王――否、愛する彼女に弁明をしなくてはならないからだ。

 

「……あ、アスナさん?」

「なぁに?」

 

 甘い。甘い声だった。だが、それが今は何よりも恐ろしい。

 

「……ち、違うんだ。昨日は、俺はアスナと別れた後……」

「別れた後、どうしたの?」

「…………その」

 

 和人は思わず言い淀んだ。この場でこんなことをしてしまえば誤解しか生まないことはよく分かっていたが、それでも和人は何も言うことが出来なかった。

 

 事実など、言えるはずがない。例え、頭に爆弾など埋め込まれていなくとも、言えるはずがない。

 

 

 自分は、昨日、新たなるデスゲームに巻き込まれて。

 

 これから何度も、あんな死と隣り合わせどころか、四方八方を死に囲まれているかのような、過酷で理不尽な戦争を、悲惨で凄惨な殺し合いを、何度も、何度も、潜り抜けなくてはならない――なんてことを、言えるわけがない。

 

 そうでなくとも明日奈には、これまでも、ずっと心配をかけてきたのだ。

 

 今度こそ、死ぬかもしれない。おそらくは――これまでで最も、死ぬ可能性が高い。生き残る方が難しいデスゲームだ。

 

 心配かけたくない。そして、何より、巻き込みたくない。

 

 もう二度と、失いたくない。

 

 それだけは、絶対に――

 

 

「…………っ」

「……お兄ちゃん」

「……パパ」

「…………」

 

 直葉も、そしてユイも。

 

 あまりにも苦々しく、顔を青くして唇を噛み締める和人を、心配そうな表情で見つめる。

 

 そして明日奈は、そんな和人を真剣な表情で見つめ――

 

「――わかった。何も聞かない」

 

 表情を柔らかく、優しい微笑みに変えて、そう言った。

 

「……アスナ」

「キリトくんを信じることにするよ。キリトくんがこういうときに嘘をつけないこと知ってるし」

「……そうですよね。鈍感なお兄ちゃんに、浮気なんてする甲斐性なんてないですよね」

『ですね! さすがパパです!』

「……褒められてる、のか?」

 

 妹と娘の物言いに苦笑する和人だが、直ぐに明日奈が不安そうな顔をしているのを見て、そちらに目を向ける。

 

「……でも、キリトくん。何かあったら、すぐに言ってね。……あんまり心配かけないで。……この間の死銃(デスガン)事件みたいなことは、もうしないでね」

 

 死銃(デスガン)――という言葉に、和人は背筋を少し震わせたが、必死に気取られないように、動揺を押し殺す。

 

「……ああ、約束するよ」

 

 そうして、和人は早速、愛する女性に嘘を吐いた。

 

「――さ! それじゃあ、冷めないうちにご飯食べちゃいましょう! お兄ちゃん! 今日はアスナさんに教えてもらって、私も頑張ったんだからね!」

「ふふ。直葉ちゃん、張り切ってたものね。お兄ちゃんがなんか元気ないからって」

「あ、アスナさん!」

「……ああ、いただくよ。ありがとうな、スグ、アスナ」

 

 和人は楽しそうにはしゃぐ――自分を気遣って、空気を明るくし、そして踏み込んでこないでくれた彼女達を慈しむような眼差しで眺めながら、少し冷たくなった味噌汁を改めて啜った。

 

 すごく美味しかった。

 

「あ、そういえば、アスナさん、お兄ちゃん。昨日、ALOでなんだかすごいプレイヤーがいたんですよ。猫妖精(ケットシー)なんですけど」

「へぇ、強いのか?」

「強いっていうか……いや、すごく強かったんだけど……とにかくすごいの! 色んな意味で!」

「どんな奴なんだ……」

「あ、すごいプレイヤーっていったら、昨日キリトくんを探す為に連絡をとったらシノのんがGGOでね――」

「あ……一応、連絡網は回したんですね、アスナさん……深夜に……」

『ママ……』

「な、なによぉ! だって心配だったんだもん! あ、キリトくん、これなんだけど、GPSでお互いの位置がいつでも――」

 

 穏やかで、でも賑やかで。

 

 色々と大変なことが巻き起こって、でもすごく幸せで。

 

 こんな、たまに突飛だけれど、けれど当たり前な日常が、今の和人には、とても尊く映った。愛しく思った。

 

(――平和、か)

 

 そう。平和だった。

 

 明日奈が、直葉が、ユイが。

 

 とても楽しそうに、穏やかに過ごしているこの日常は、間違いなく平和だった。

 

 鋼鉄の城で剣を振るい続け、妖精の国で囚われの姫を助け出し、銃と硝煙の世界で亡霊を討ち倒して、ようやく手に入れた、この手に取り戻した、尊い平和だった。

 

 昨日の自分は、そんな平和に対し、どこか複雑な気持ちを抱いていたけれど。

 この身になって――再びデスゲームに縛られたこの身になって、胸を張って言える。

 

(俺は、幸せだ)

 

 どこか残っていた胸の中のしこりは、綺麗さっぱり消え去って、代わりに恐怖と、燃えるような決意がそこにあった。

 

 この平和を、絶対に失いたくない。

 

 必ず、守り抜く。

 

 そのために、俺はまた、剣を振るおう――そう、和人は誓う。

 

 剣士キリトのように強くなって、黒の剣士のように強くなって。

 

 そしてまた、ただの桐ケ谷和人に戻る為に。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 目覚めは当然、最悪だった。

 

 睡眠時間が圧倒的に足りないということもあるが、一番の理由は、昨日の、あの邂逅。

 

 いつものように、“先輩”たちの狩りについていき、おこぼれをもらうだけのはずだった。

 

 なのに。それなのに。

 

「…………っぅ!」

 

 ズキっ!と、頭に激痛が走る。

 

 ……結局、昨日は血を一滴も呑めなかった。

 狩れた獲物は十数体の小型恐竜のみで、人間は一人たりとも狩れなかったし――むしろ、こちら側の味方が一人殺された。

 

 あの白いパーカーの怪物。あれは、明らかに人間ではなかった。

 

 人間の仮面を、皮を被っているだけの、尋常ではない正真正銘の怪物だ。

 

 自分達と、同じように。

 

「…………っ」

 

 今度は先程よりも小さく、鈍い痛みが襲った。

 

 自室のカーテンの隙間から入り込む日光を疎むように、川崎大志は両手で顔を覆う。

 

 自分は確かに吸血鬼だけれど、特別日光に弱いとか、そんなお伽噺のような分かりやすい弱点があるわけでもないのに。

 

 お伽噺でも、空想でも、幻想でもなく。

 

 こうして現実で、現実世界で現実に、疑いようがなく、救いようがなく、自分は紛うことなき――化け物なのだ。

 

 

「大志っ! 何やってんの、遅刻するよ!」

 

 ドアの向こうから、姉である沙希の怒鳴り声が聞こえる。

 それに対し、大志はごく自然に、大きくチッと舌打ちをした。

 

「……分かってるよ」

 

 大志はゆっくりと体を起こす。そして今日も、人間のように学校に向かう準備を始めた。

 

 そのまま緩慢な動きで制服に着替え、授業中に形として机の上に広げる以外まったく開いていない教科書類を乱雑に鞄に詰め込み、そのまま直接玄関に向かう。

 

 そして靴を履く為にしゃがみ込んでいる時に、後ろからバタバタと足音が響いた。

 

「ちょ、ちょっと大志! 朝ご飯は!?」

「……いらない」

「いらないってアンタ、昨日の夕ご飯もろくに食べてなかったじゃ――」

 

 大志はそこで一際大きく舌打ちし、振り返って姉を睨み付ける。

 

「――うるさい」

 

 ビクッと、沙希は大きく体を震わし、怯えたように大志を見る。

 

 大志はそんな姉の姿を見て、気まずげに目を逸らし、そのまま靴を履いて立ち上がる。

 

「…………いってきます」

 

 いってらっしゃいという言葉の代わりに、「……あ」と掠れ出たような姉の声が聞こえた。

 

 こちらに腕を伸ばしているのだろうと、十五年の付き合いになる姉の行動を正確に察しながら、だが大志は、その行動を拒絶するように、意図して強くその扉を閉めた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 大志が自分の異変に気付いたのは、今から数か月前。

 年が明け、総武高校への入試が近づき、受験勉強が本格的に追い込みの時期になっていた頃だった気がする。

 

 その少し前、総武高校ではしばらくの間ニュースを騒がせる程の痛ましい殺傷事件が起きており、自分の周りでもバタバタと総武高志望の学生が激減し、在校生であり自分の姉でもある沙希からも真剣な目で志望校を変えたらどうかと諭されていた。

 

 だけど自分は、尊敬する姉が通っている高校であるということと、同級生で友達でそして密か(?)に想い人でもある小町も変わらず総武高校を目指すこと、更に、こちらも密かに憧れの人物である比企谷八幡が通う総武高校に通いたいという思いがあることから、総武高を目指すというその気持ちは微塵も変わらず揺るがなかった。

 

 そういったことを、姉の沙希に包み隠さず、正直に話した。勿論、小町への気持ち云々は隠したけれど(客観的に隠せたかどうかは定かではないが)。

 家族愛が強く、ぶっちゃけて言えばブラコン気味である沙希は、不安そうな顔を最後まで崩さなかったけれど、弟に尊敬してもらえているということが嬉しかったのか、最終的には大志の意思を尊重した。

 

 だけど、自分でも不思議だった。総武高を志望したその動機については、先程姉に話したことで嘘はない。

 でも、それにしても自分は、自分が志望する学校で、しかも在校生による殺傷事件が起きたということに関して、全く持って忌避感を覚えなかった。

 

 正直言えば、どうでもよかった。自分の知らない人間が、どれだけ惨たらしく殺されようが、はっきり言ってどうでもよかった。もっと言うのなら、受験直前であるこの時期に――自分は合格ラインギリギリをウロウロしていたので――倍率が減ってラッキーとすら思っていた。

 

 そのことに気付いた時、大志は絶句した。そんな自分に絶句した。

 

 自分のことを生来の聖人君子だと思っていたわけではない。紛うことなき善人だとも、全ての死に対して平等に涙することが出来る感性の持ち主だと思っていたわけではない。

 

 しかし、自分はここまで命に対して、冷淡な人間だったのか?

 

 だって姉は、自分の姉が、その現場に居たんだぞ?

 

 万が一、いや、そんな遠い可能性じゃない。百が一、十が一、そんな確率で、そんな可能性で、あのテレビのニュース画面にズラッと並んでいた死亡者リストの中に、己の姉が、大事な家族の名が、加わっていたのかもしれないのだ。

 

 なのに、どうして、こんなにも自分は――なんとも思っていないんだ?

 

 ズキッ!! と、頭に強い頭痛が走った。

 

 ……まただ。ここ最近、ずっと痛みが消えない。一日に何度も襲ってくるし、段々とその間隔が短くなってきた気がする。

 

「――ちゃん! ねぇ、たーちゃん! ねぇねぇねぇってば!」

 

 初めは夜遅くまで受験勉強をしているせいでの寝不足、もしくは受験へのストレスかと思っていたけれど、いくらなんでもこんなに酷いものなのか――

 

「――ねぇ、たーちゃん! これみて! ねぇ、たーちゃんってば!」

 

 耳に入ってくるその声が、凄く耳障りで癇に障って、大志は力強く、横の壁を殴りつけた。

 

「うるさいっ!!!」

 

 重々しく響いた衝撃は、壁にビシッと罅を走らせていた。

 

 ひっ、と怯えたその幼女は、ぺたんとお尻から倒れ込み、やがて大きな声で泣き喚く。

 

「うわぁぁぁあああああああああん!! うわぁぁぁあああああああああん!!」

「ちょ、何、今の音!? けーちゃん!? けーちゃん!!」

 

 先程の大志による轟音と京華の泣き声により、居間から沙希が飛び出るように現れる。

 

 ぎゃんぎゃんと大泣きする京華を抱きしめながらあやす沙希は、壁の罅と、茫然と立ち尽くす大志に目を向ける。

 

「……アンタがやったの?」

「…………」

「答えな、大志っ!!」

 

 鋭く怒鳴る沙希。その声に驚き、再び大きな声で泣き喚く京華。

 

 だが大志は、姉の怒鳴り声にも、妹の泣き声にも、まるで反応を示さなかった。

 

 

 驚くほど、何も感じなかった。

 

 

 まだ保育園児の妹を、ただ自分の癇癪で泣かせたのに、まるで罪悪感が生まれなかった。

 

 そのことが、怖かった。恐ろしくて堪らなかった。

 

 少なくとも自分は、その他大勢の死に悲しみを覚えられなくても――家族は大事に思っていた。家族に愛情を持っていた。

 

 それだけは胸を張って言える。己の根幹だ。確かなアイデンティティだ。川崎大志とは、そういう前提で成り立っている人間のはずだ。

 

 大事な妹を、自分が泣かした大事な妹に対して、それを注意し諫めてくれる大事な姉に対して――

 

 

――こんな苛立ちを覚える人間は、間違っても川崎大志(じぶん)ではない……っ。

 

 

「……ごめん」

 

 大志は歯を食い縛るようにして、そのまま風呂場へと駆けこんだ。

 

「大志! 大志っ!」

 

 沙希は逃げるように走っていった大志を心配そうに見送りながらも、自分の腕の中で大泣きしている京華をあやし続けた。

 

「…………大志」

 

 先程の弟の、何かを堪えるような横顔が――あの日から変わってしまった己のクラスメイトの横顔と重なったのを、気のせいだと振り払いながら。

 

 

 

「…………なんなんだ」

 

 大志は何度も何度も顔を洗い、普段はうるさく姉に節水しろと言われている水道の水を勢いよく垂れ流しているのを呆然と見つめる。

 

 気持ち悪い。気分が最悪だ。

 あれほど荒れ狂っていた激情が、この数十秒で嘘のように消えている。代わりに襲ってきたのは、恐ろしいまでの虚無感だった。

 

 なにもかもがどうでもいい。

 誰が泣こうが喚こうが、誰が死のうが殺されようが、一切合財どうでもいい。

 魂が抜け落ちたかのような虚無感だった。

 

 なんだ。なんなんだ、これは。

 

 自分の感情が、感覚が、まるで制御できずに勝手に動いているかのようだ。

 

 まるで自分が自分であって、自分でないような感覚――

 

「…………」

 

 大志はゆっくりと服を脱ぐ。冷たいシャワーでも頭から被りたい気分だった。

 

「…………え」

 

 その時、大志は気付いた。

 

 自分の背中――肩甲骨の当たりに、大きな湿疹ができていた。

 

 まるで、何かの羽のように。

 

 気持ち悪い、異形の羽のように。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――…………」

 

 大志はそんなことを思い返しながら、通学路を俯くようにして歩いていた。

 

 

 そうだ。あの日から、自分の穏やかだった、少なくとも自覚的には穏やかで、平和で――人間的だった生活は終わりを告げた。

 

 そして、気が付けば、自分はすっかり化け物になっている。

 

 

 周りの道行く人間達の、見分けがつかない。

 

 いや、違いは分かる。人間が、道端に落ちている石ころの形の判別は出来るように。野良猫の毛並や色の違いが分かるように。身体的な、外見的な特徴は判別できる。

 

 だが、それを個性だと、各々の違いだと、認識できないだけだ。

 

 人間にとっては、たとえ形や大きさが違っても石ころは石ころだし、猫は猫だ。ただそれだけだ。

 

 いまや大志にとっては、家族や一部の人間を覗いて、個々の人間の判別が出来ない。

 

 己と別種の――別種族の生物の、見分けがつかない。

 

 だからぐったりと俯き、自分の足元を見ながら、そこだけを見ながら歩いている。誰にも話しかけられないように、気配を消す。ぼっちのように。

 

 

 だが、そんな半人前のステルスは、この男にはまるで通用しなかった。

 

 

 自分の前に、誰かが立ち塞がる感覚。

 

 避けようと外側に足を向け――るのを察知したかのように、そんなぼっちの歩行技術は織り込み済みだと言わんばかりに、先行く一歩で行く先を封じ、大志の行く手を足で阻んだ。

 

 大志は諦めて、顔を上げた。

 

 気が付いたら、すでに総武高の正門の前に辿り着いていた。

 

 そんな多くの人間が行き交うその場所で、自分の周りだけぽっかりと大きく空間が開けている。

 

 否、その空間を確保しているのは自分ではなく、今や全校生徒に恐れられ、気味悪がられている、一人の男――一組の男女だった。

 

「……お兄さん」

 

 大志は自分の前に立ち塞がるようにして自分を睨み付けている男を見て、そう呟いた。

 

 対して男は、一切表情を変えず、感情を何も込めていないのではないかという平坦な声で、それに返した。

 

「……お兄さんと呼ぶな」

 

 そして、グっと大志に向かって更に一歩近づき、見下ろすようにして言った。

 

「――殺すぞ」

 

 それは、その言葉は、今や人外の大志にして。人ではなくなり、人の外見や言葉や行動や、人の全てに関心を抱けなくなった大志にして。

 

 思わず息を呑んでしまうほど、呑まれてしまうほど、鋭利な殺気を纏っていた。

 

 そのまま男は――比企谷八幡は、ずいっと顔を至近距離に近づけ、大志がビクッと体を震わせてしまうほどの耳元で、他の誰にも聞こえないように、小さく囁いた。

 

「昼休みに、屋上に来い。……お互い、話があるだろ」

 

 それだけ呟くと八幡は、少し離れたところでこちらのやり取りをただ黙って見ていた雪ノ下の元に戻り、そのまま校舎へと歩いて行った。

 

 しばらくは、あの比企谷八幡に待ち伏せられ声を掛けられたとして大志にも好奇の視線が集まっていたが、やがて大志が一歩足を踏み出すと蜘蛛の子を散らすように彼ら彼女らは一斉に去っていった。例えどのような形でも、今の八幡は関わりたくない存在らしい。

 

 もしかするとこのことにより、大志の学校生活にも少なからずの影響があるかもしれないが、それも今更だった。

 

 今の大志にとっては、そんなものは何の価値もないのだから。

 

 なくしてしまったのだから。

 




今回は少し長めでしたかね……。


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少女は現実から逃避し、仮想世界で銃を握る。

色んなキャラ達をニアミスさせるのにVRMMOって凄い便利。


 ここは、銃と鋼鉄が支配する世界――仮想世界――GGO。

 

 ガンゲイル・オンライン。

 

 その血生臭く、鉄臭い空気が充満するその世界に、一際目を引く見目麗しい美少女が二人、穏やかに談笑しながら歩いていた。

 

 一人は、ペープブルーの髪にサンドカラーのマフラー、そしてこの世界に相応しいミリタリー色の強い恰好だが、所々は大胆に肌が露出している服装の少女。

 彼女はSinon。このGGO世界でもトップクラスの知名度と実力を併せ持つ有名プレイヤーだ。

 普段はあまりチームを組まずソロプレイを好む彼女だが、今、こうして別の美少女プレイヤーと肩を並べて、行動を共にしているのは、ある理由があった。

 

 

 このGGO日本サーバーでは、つい先日まで第四回BoB(バッレド・オブ・バレッツ)が行われていた。

 GGOの№1プレイヤーを決めるこの戦いに、当然の如くシノンも参加していて、彼女は準優勝という結果で終わった。

 

 結果だけ見れば後一歩というところだったが、内容としては明らかに、自分の――自分達の惨敗。優勝者――サトライザーの圧勝だった。

 

 悔しくないと言ったら、大嘘だ。すごく悔しく、忸怩たる思いだった。もっと、もっと強くなり、次こそは必ずリベンジすると心に誓った。

 

 そんなときだ。BoBが終わり、その熱を冷ましてたまるかとばかりのタイミングでGGOの運営団体――ザスカーは、新たなるクエストをアップデートした。

 

 そのクエストの内容は、なんてことはない、お馴染みのモンスター討伐イベントだった。

 

 プレイヤー同士のPKが可能で、BoBやSJ(スクワッド・ジャム)などによる話題の先行により、すっかり対人ゲームとしてのイメージが強いGGOだが、当然その世界にはモンスターも存在していて、それを倒すことでステータスを稼いだりレアアイテムを獲得したりして遊ぶことも出来る。

 

 だからモンスター討伐イベントキャンペーンなどは珍しくもないが、今回のアップデートされたこのクエストのボスは、それはもうえげつないほどに強いらしい。

 

 シノンが知る限り相当な有名どころ――それこそBoB本戦常連者を擁するような――《スコードロン》(ALOでいう“ギルド”のようなものだ)も悉く返り討ちに遭っているらしい。

 

 そのモンスターは、たった一体であるにも関わらず。

 

 もっと強い敵を、そしてさらなる強さを求めていたシノンにとって、このニュースはまさしく渡りに船だった。

 

 だが、今現在、BoBが終わったばかりでシノンは所属のパーティがない。

 

(……どうしよう)

 

 キリトを誘おうか。今回の雪辱を晴らすべく、次回のBoBには参加してもらおうかと思ってたし。

 いや、もういっそのことソロで――

 

「……あ、あの……すいません」

 

 彼女に声を掛けられたのは、まさしくそんな時だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――ありがとね、誘ってくれて」

「いいえ、私もこのモンスターには興味があったので」

 

 彼女の名前キャラクターネームは、有鬼子といった。

 

 このGGOでは珍しい女性プレイヤー――どっかの女顔と違って本当に女性だ。「女の子……だよね?」「え、ええ」と言ったやり取りを交わして初対面の時はちょっと気まずくなった――で、今回の第四回BoBで初の本戦出場を果たした、今GGOで注目のプレイヤーの一人である。

 

 第三回以前は全くその名前を聞かなかったが、本人曰く、GGOどころかVRMMO自体を最近初めたばかりなのだそうだ。

 それでいきなりBoBの本戦に残るのだから、まるでどこかの誰かみたいだとシノンは思った。

 

 だからというわけではないが、シノンはBoBが終わった後、有鬼子とフレンド登録をした。お互い珍しい女性プレイヤーということもあって、偶然同じ時間にダイブしていたら会って話をするくらいの仲にはなった。

 というのも、有鬼子はキリトと違って本当にVRMMO初心者(ビギナー)のようだったし、幸か不幸か、彼女の見た目(アバター)も相当に可愛らしい――というより美人だったのだ。

 よって、女に飢えているGGOプレイヤー達は、BoB本戦での見事な戦いぶりも相まって、有鬼子をアイドルか何かのようにちやほやし、ちょっかいをかけるようになっていた。

 シノンも美人だが、彼女はトッププレイヤーとしてすでに名を馳せている――というより恐れられている(冥界の女神という二つ名も轟いているらしい)――ので、そんなシノンが有鬼子と一緒にいるようになってからは、目に見えて有鬼子にそういったちょっかいをかける輩が減った。

 

 そういった経緯があったからか、有鬼子はシノンを慕うようになり、二人は女子高の先輩後輩のような関係になっていた。

 シノンがこうして世話を焼くのはキリト以来で、あの時もキリトの女にしか見えない見た目アバターのお蔭で美少女二人組として大分注目を集めたものだ。

 

 だが、こうして二人を――キリトと有鬼子を見比べてみると、有鬼子の艶やかな黒い長髪はまさしくキリコ、いやキリト(GGOver)を彷彿とさせたが、なるほど本当の女の子となると一つ一つの所作の上品さがまるで違った。陳腐な表現だが大和撫子とは彼女のような子のことを言うのだろう、とシノンは思った。きっと現実でも真面目な優等生なのだろうな、と。

 

 そして、何故そんな子がこんな物騒なゲームをすることにしたのだろうと、シノンは気になった。

 はっきり言ってしまえば悪いが、有鬼子のその上品な振る舞いと所作は、この淀んだ空気が充満しているGGOでは浮いている。

 

 シノンは、かつてキリトに聞いたように、現実(リアル)の事情に踏み込み過ぎないように気をつけながら尋ねた。

 

「聞いてもいい? なんでこんな野蛮なゲームやろうと思ったの?」

「……え? ……あの、えっと」

「あ、答えたくなければ答えなくてもいいよ。現実(リアル)に関する質問はマナー違反だしね」

 

 露骨に言いにくそうな表情をした有鬼子に、シノンはあっさりと質問を撤回したがー―

 

「――現実逃避です。……ただの」

 

 文字通りの、と、GGOの汚れた空を眺めながら、穏やかな声色で、けれど、どこか吐き捨てるように有鬼子は言った。

 

「もともと、ゲームセンターの射撃ゲームをずっとやってたんです。……でも、それでちょっと……学校の成績が落ちちゃって……親にバレちゃって。ゲームセンターに行くのを禁止されちゃったんです。……さすがに私の部屋にまでは入ってこないので、最近流行ってるVRMMOっていうのを……始めて見ようかなって」

「…………」

「………ごめんなさい。現実(リアル)のことを話し過ぎるのって、マナー違反なんですよね」

「………ううん、大丈夫」

 

 眉尻を下げて申し訳なさそうに笑う有鬼子に、シノンは(かぶり)を振った。

 

 VRMMOは、仮想世界だ。

 ここでなら、簡単に誰でも“別人”に――現実世界とは違う自分になれる。

 

 だからこそ、この世界を――仮想の世界を、偽物の現実を、逃げ場所にする人達は多い。

 心に傷を抱え、大きな悩みに押し潰されそうな人達が、こぞってこの空間に逃げ込んでくる。

 

 かつての自分もそうだった。

 心に消えない――癒えない傷を抱え、苦しんでいた。

 そんな痛みに、そんな記憶に負けない自分になりたくて、もっと強い自分になりたくて、アミュスフィアを被り、この銃と鋼鉄の世界に――GGOに降り立ち、シノンとなった。

 

 だからシノンは、有鬼子の、そんな逃避を否定しない。

 

 誰にだって、逃げ場所は必要だ。

 

 現実に立ち向かわなくてはいけない時は、いつか必ず来るのだろう。逃げきれなくなる時が、必ず来るのだろう。

 

 だが、それでも――

 

 仮想世界では、このGGOの中でくらいは、か弱い女の子じゃなくて、一人のガンマンでいたっていいはずだ。

 

 偽物の強さに、浸っていたっていいはずだ。

 

「――それじゃあ、いこっか」

「あ。……はい!」

 

 シノンは有鬼子の手を引いて、笑顔で彼女を引っ張っていく。

 

 有鬼子は、そんなシノンに笑顔で答える。

 

 例え、現実逃避でも、仮初の名前(キャラクターネーム)身体(アバター)でも。

 

 偽物の、自分でも。

 

 それでも、シノンは朝田詩乃だった。だから、有鬼子も、きっと彼女であるはずだ。

 

 この世界で、有鬼子として強くなって得たものは、きっと現実世界の彼女の力になるから。

 

 本物の力に――勇気になって、強さになるから。

 

 キリトが、それをシノンに――朝田詩乃に教えてくれたように。

 

 今度はシノン(わたし)が、有鬼子(このこ)にそれを教えられたら。

 

 

「ねぇ、お二人さん」

 

 シノンがそんな思いを新たにしていると、後ろから声が掛けられた。

 

 はあ……またナンパかと、シノンが鬱陶しげに、有鬼子が少し怯えながら背後を振り向くと――

 

「――な!?」

「――え!?」

 

 そこには、数人のプレイヤー達がいた。

 

 ただのプレイヤーではない。

 彼等は、彼女等は、ついこの間、同じフィールド内で最強を争った、紛うことなきGGOのトッププレイヤー達だった。

 

《ダイン》、《夏候惇》、《闇風》、そして《銃士X》

 

 普段はまるで別々のパーティで、スコードロンで、別々のテリトリーで活動しているはずのプレイヤー達が、BoBのような大会でもないのにこうして一堂に会する絵を、GGOでは既に古参といっていいベテランプレイヤーであるシノンも見たことがなかった。

 

 そして、そんな彼等を、彼女等を率いるように。

 

 一番前に立ち、シノン達に声を掛けてきた彼は、飄々と言った。

 

「あのさぁ、俺等、これからあのタコを殺しに行くんだけど」

 

 そう言って体をずらし、自分の背後――引き連れたトッププレイヤー達を見せびらかすように、言った。

 

「――アンタ等も、付き合わない?」

 

 その男は――その少年は、フードの奥から鋭い眼光を覗かせて、無邪気な、否、邪気がたっぷりと込められた笑みを浮かべていた。

 

 有鬼子が、少年の醸し出すその独特の雰囲気(オーラ)に、ゴクリと唾を飲み込みながら、そっと隣のシノンを見る。

 

 シノンは、そんな少年に対し、こう言葉を返した。

 

 

「……………………え、タコ?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「……………………うわ、タコだ」

 

 シノンは呆然と呟いた。

 

 荒野――というよりも、もはや砂漠と呼称した方が相応しいほど、辺り一面に岩と砂しか存在しない広大なエリア。

 

 そこに、おそらくはタコをモチーフにしたであろう怪物が、砂漠を大海の代わりにして暴れ狂っていた。

 

 グルルルルルォォォオオオオオオ!!!! と雄叫びのようなものを上げ、タコの癖に明らかに八本以上ある足――いや、もはや触手といった方が近いそれを振り回し、自らの命を狙う狩人(プレイヤー)達に襲い掛かっている。

 

 タコの化け物と初めに聞いた時は正直呆れた気持ちもあったシノンだけれど、こうして目の前で相対すると、なるほど数多の有名スコードロン達を撃退してきただけのことはあると感心した。

 

 ファンタジー世界ならいざ知らず、このGGOでタコの怪物など相応しいのかと思ったが、そのどす黒い体皮と禍々しい容貌の迫力は、この物々しい世界観のGGOにも違和感なく溶け込んでいる。

 

 そして、このボスの一番厄介なところ――それは、この砂漠の砂の中を、まさしく海の中を遊泳するかのように潜り、泳ぎ、移動することだ。そしてプレイヤーの足元から突き上げるように出現し、攻撃する。この必殺技がこのボスの最大の特徴であり、最も手強い特性だった。

 

(……そういえば、こんなモンスターを討伐(ハント)するゲームがあったような、なかったような)

 

 シノンが大丈夫なのかな、色んな意味で、と少し他人事のように思いながらも、狙撃手(スナイパー)の自分と違い、前線でその必殺技の脅威に晒させている彼等を見遣る。

 

 結局、シノンは少年――Karumaの誘い、もとい口車に乗った。少し気に入らない部分もあったけれど、数ある有名スコードロンを退けてきたクエスト――ボスキャラに、二人だけで挑むのはやはり現実的ではなかったし、それに正直に言って、これだけの有名メンバーと一緒のパーティを組んで難題クエストに挑むということに、一人のVRMMOプレイヤーとして、ワクワクしなかったといえば嘘になるからだ。

 

(……上手く乗せられた、思い通りに転がされたって気持ちも、やっぱりあるけど)

 

「気に入らないよね」

 

 そんなことを考えながらスコープを覗いていると、いつの間にか自分の横に、大きなライフルを担いだ銃士(マスケティア)Xがいた。

 

 彼女もGGOには珍しい女性プレイヤーだ。こうして考えると、GGOの女性プレイヤーの割合自体は少なくとも、トッププレイヤーには女性プレイヤーも決して少なくはない――いや、増えてきたのだなぁと感じる。彼女は前回――第三回のBoBでキリトと自分が死銃(デスガン)なのではないかと疑い、キリトに問答無用で斬り伏せられた人だ。今回の第四回BoBで顔を合わせた時、キリトはいないのかと散々問い詰められた思い出がある。余程リベンジしたかったのだろう。

 

 だが、今、彼女が不機嫌そうな顔をしているのはここにキリトがいないからではないらしく、銃士Xは表情を険しく歪めて、シノンと同様に眼下のタコのモンスターと臨時パーティーメンバーが戦っている戦場を見下ろしていた。

 

 シノンは、先程まで自分が考えていたこともあって、ヘカートⅡのスコープを覗いたまま銃士Xに問うた。

 

「……彼のこと?」

「その彼って、あの坊や? それともアンタの彼氏?」

「…………キリトは彼氏じゃないって何度言えば」

「冗談だよ。あの光剣(ライトセイバー)の子じゃない。察しの通り、あの坊や(カルマ)よ」

 

 まぁ光剣の子(キリト)も気に食わないんだけどね。と呟いた銃士Xに、あいつはモテるくせに与える第一印象は最悪なのよね、とシノンがアスナやリズから聞いた体験談(おもいで)や自身の記憶を振り返っていると、銃士Xはふと、平坦な口調で言った。

 

「……今回――私も含めて――全員が、カルマの口車に乗って、このクエストに参加してる。私はともかく、ダインや夏候惇、それに闇風やアナタみたいなレベルのプレイヤーまで。……それも、前もって入念に根回しするならともかく、私もそうだけど、アイツ目についた強そうなメンバーを手あたり次第、その場のアドリブで仲間に引き入れてたのよ」

「…………それは」

 

 なんというか、すごい話だ。何がすごいって、たまたま見かけたトッププレイヤーに、ちょっと今から一緒に激難(げきむず)クエストに行こうよと声を掛ける豪胆さもそうだが、何よりそれを実現させてしまう彼の交渉能力、ひいては人心操作術がすごい。凄まじい程に、凄い。

 

「それも、こっちの神経を逆撫でしてんのかってくらいムカつく言い方で」

「……………」

 

 挑発の上手さ、と言った方がいいのか。どうも自分達と違って、彼女は相当手荒い勧誘を受けたらしい。そう考えてみれば、あの時カルマの背後に控えていた四人のトッププレイヤー達は、決してご機嫌ではなく、荒々しい闘志を纏った、言ってみれば不機嫌な様子だった。おそらく自分達の時は、すでに層々たるメンバーを集めていたので、それを使って威圧した方が効果があると踏んだのだろう。

 

 でも、だとしたらやはり恐ろしい心臓だ。これだけのトッププレイヤー達に対して堂々と立ち向かって――否、立ち振る舞って挑発し、ヘイト値を緻密にギリギリのラインでコントロールし、挙句の果てにはそのトッププレイヤー達自体を交渉のアイテムとして利用する。

 

「――あれで初心者(ニュービー)だってんだから、本当に末恐ろしいよ」

「………」

 

 そう。カルマもここにいるトップメンバー達と同じように今回の第四回BoBの本戦出場者だが、有鬼子と同様に、まだGGO歴は恐ろしく浅い初心者なのだ。

 

 突如現れた大型ルーキーとして、今回のBoBを、前回のBoBで伝説を残した光剣使いキリトの不参加で少し空気が沈んでいたところを、有鬼子と一緒に大いに盛り上げた。

 

 銃士Xは、そんな初心者(ニュービー)にいいように動かされたことが相当悔しかったのだろう。だが、一通り愚痴ってスッキリしたのか――

 

「愚痴ちゃってゴメンね。それじゃあ、私も行ってくるよ。このまま何もしなかったら、またあの小僧に何言われるか分からないからね」

「……OK。こっちは任せて」

 

 銃士Xもシノンの傍から離れ、自分のポジションに戻っていった。

 

 残されたシノンは、ふとスコープから、件の二人の大型新人の姿を覗く。

 

 

 有鬼子。

 

 シノンが可愛がる彼女は、意外にもそのおしとやかな見た目(アバター)性格(キャラ)には似合わず、大胆に敵に向かって突っ込んでいく戦闘スタイルである。

 

 ゲーセンの射撃ゲームから入ったという彼女の言葉を裏付けるように、彼女の主武器(メインウェポン)はゲームセンターの筐体で無数のゾンビを屠ってきたかのようなマシンガン。それを片手持ちフルオートでぶっ放し、逆手には扱いやすいハンドガンでその射撃をサポートする無双スタイル。

 

 その見た目とは裏腹の――だがキャラ名に“鬼”の名を持つ(本人としてはただの変換ミスなのだか)者としては相応しい豪快な戦闘スタイルに、BoBの観客席は沸きに沸いたものだ。

 

(……そして、彼女(あのこ)は戦況、地形、そういったものを嗅ぎ分ける嗅覚(センス)を持っている)

 

 その恐れ知らずな無双スタイルだけでなく、彼女は不意討ちも相当に上手い。

 

 戦況を読んで、敵の行動を予測し、影から狙い撃つ。そんな柔軟な戦法も、時と場合を選んで実行することが出来るのだ。この辺りは初心者らしい柔軟さで、大胆さなのだろう。

 

 VRMMOは初心者でも現実(リアル)では相当腕の立つ“ゲーマー”だったことが伺える。ゲームセンス、そして仮想世界(バーチャル)への適応性。

 

 そういった意味では、有鬼子は“キリト”タイプのプレイヤーなのかもしれない。

 

 

 対して、カルマ。

 

 砂漠の地形に合わせたのか、少し茶色系の迷彩服にフード。仮想世界なのではっきりはしないが、言動などからおそらくは有鬼子と同じようにまだ子供――学生なのだろう。大人に少し怯えているような節のある彼女と違い、こっちは大人を小馬鹿にしている感じだ。まぁ、シノン自身もまだ高校生なのだが。

 

 そんな彼は戦闘スタイルも有鬼子とはまた対照的だ。カルマはその言動通り、相手を煽って(トラップ)にかけるのが異常に上手かった。扱う武器は、持ち運びやすく、騙し討ちも狙いやすいハンドガン。そして、ナイフ。

 

 銃の世界のGGOにも、刃物はある。前回のBoBで派手に暴れまわったキリトのお蔭で光剣は一時期ブームになるほど広まったが、対してナイフ作成スキルによって作られるナイフやその上位派生の銃剣などは、未だ知名度は低い。あの死銃が使用していた刺剣(エストック)によるマイナスイメージがあるのかもしれないが。

 

 もちろん、それらをサブウェポンとして持ち歩くプレイヤーは多いのだが、カルマはこのナイフを実に有効に使用――利用した。時に投げ、時にサイライト・スキャンを掻い潜って背後に忍び寄り喉元を掻っ捌く。中々えげつなくもなったが、銃の世界を刃物で無双するその様は、前回大会のキリトを彷彿とさせた。

 

 そして彼は《光学銃》も使用する。

 エネルギーの光を放つ――いわばレーザー銃であるこれは、対人にはほとんど効果がないが、弾倉が必要ないため嵩張らず、攻撃力は低いが命中精度と射程の長さは抜群だ。

 

 だが、いわゆるガンマニアが集うこのGGOでは、再現されている現実世界の銃を扱いたくてゲームを始める人間が多い為――そして得てして、そういった人種の方がこのゲームにはのめり込む為、トッププレイヤーでも多くの人間が、モンスター相手では光線銃の方がセオリーだと分かっているのに《実弾銃》に拘っている。

 

 だが彼は、何の抵抗もなく、使えるものは何でも使うと言わんばかりに《光線銃》を愛用する。

 

 銃にこだわりがない故に、彼は――彼も非常に柔軟だ。そのゲームの常識に囚われない発想力と、圧倒的な戦闘センス、戦略を練る頭脳、相手を罠にかける話術など、こちらはゲームの上手さというより、やはり現実世界の本人のスペックが相当に高いのだろう。

 

 そういう意味でいうと、彼はキリトよりも“アスナ”に近いタイプなのかもしれない。

 

 

 だが、いずれにせよ、この両者が、相当に優秀なVRMMO――GGOプレイヤーなのは間違いないだろう。

 

 初心者故に、これから更に、みるみる上手く――強くなっていくであろうことも。

 

 

 ガンゲイル・オンライン。

 

 その名の通り、“銃”の世界に“疾風”の如く現れた新星。

 

 

 ゾクッと、シノンの背筋が少しの恐怖と、そして大きな歓喜で震える。シノンは自分の口元が思わず歪んでいるであろうことを自覚した。

 

(…………負けられない)

 

 例え、どれだけ強いプレイヤーが次々と生まれようとも、全員捻じ伏せ、トップに立ってみせる。

 

 勝つのは、私だ――と。

 

 シノンは、第四回BoBを終えてから、どこか消化不良気味に燻っていた敗北のしこりを撃ち抜くように、口元を獰猛に歪めながら、スコープの先で雄叫びを上げるタコの怪物に向かってヘカートⅡの十二・七ミリ弾を発射した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――ふう」

 

 シノン――朝田詩乃は、ゆっくりと起き上がり、アミュスフィアを外して、ん~と伸びをした。

 

 現実世界に帰還した詩乃は、ぼうとした挙動で眼鏡を探し、時計で時間を確認する。

 

(…………もうこんな時間か。思ったより手こずったわね)

 

 時刻は既に明日ではなく今日となっていて、夜もどっぷりと深まった深夜な時間帯だった。

 

 さすがに明日――いや今日か――も学校である平日に潜り過ぎたと反省するも、まぁやってしまったものはしょうがないかと後悔はしないゲーマーらしい精神構造の詩乃は、深夜ということを意識した途端に欠伸が漏れる現金な自分の体に苦笑しながらも、とりあえず水分を補給しようと冷蔵庫に向かう。

 

 確かに少し長時間潜り過ぎたが、その甲斐あってか見事に例のクエストはクリアできたし、その報酬と経験値は苦労に見合ったものだった。

 

 そして、なんだかんだいいながらも、あれだけのトッププレイヤーと同じパーティでプレイできたのは、ステータスには表れない貴重な経験値として充実なものを獲得出来た。

 

 なにより二人の有望な初心者(ニュービー)から得られた刺激。これだけで詩乃は、寝不足で登校することになっても、まるで悔いなしと胸を張ることが出来るのだった。我ながらキリト並みのダメ人間――廃ゲーマーな理屈だとは思うけれど、全力で気づかないふりを敢行することにした。

 

 さて、シャワーでも浴びてさっさと寝ようか、と思ったそんな時だった。

 

 ベッドの上に置いていた自分の携帯が、ぶるぶると着信を知らせている。

 

 誰だろう、こんな時間に、と手に取った端末の画面に表示されているのは――

 

「――アスナ?」

 

 真面目なあの子がこんな時間に電話なんて珍しい、と少し訝しく思いながらも電話に出た。

 

 

 結果、愚痴なのか、泣き言なのか、惚気なのか、理不尽な言いがかりなのか、よく分からないものに長時間付き合わされた詩乃は、しぱしぱとした目と黒い隈で、そして止まらない欠伸を噛み殺しながら登校する羽目になった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ピッと改札に電子定期を押し付け、神崎有希子は椚ヶ丘駅北口を出る。

 

 そしてくぁと小さく欠伸を噛み殺す。普段はこんな仕草はしないが、昨日は思ったよりもクエストが長引いてしまい、寝るのが遅くなってしまった。

 

 

 神崎有希子が有鬼子となったのは、昨年度の終わり――成績不良により、エンドのE組行きが決定した頃だった。

 

 その少し前に、弁護士をしている厳格な父親に、彼に対する反発として、神崎がゲームセンターに通い詰めていることが既に発覚していた。

 派手な色のウィッグを被り、服装も奇抜にし外出を繰り返していて、夏頃からずっと衝突を繰り返していたのだが――その日、夜遅く、ゲームセンターの終業時間間際に店から出てきた現場に父親と出くわしてしまい、その場で無言でビンタされた。

 手を引っ張られながら家に連れ戻され、リビングに入った時に再びビンタされた。

 そして、二度とゲームセンターに行くことを禁じられ、服装も元のお淑やかなもの以外は全て捨てるように命じられた。

 

 元々ファッションに関しては父親に対する反発心で身につけていたもので、自分の本来の趣味とは合っていなかったのこともあり、捨てることに抵抗はなかった――それでも、せめてもの反抗として、一つのウィッグと上下の一式はクローゼットの奥に仕舞いこんでいるのたが。

 

 しかし、ゲームは違った。ゲームセンターは、既に大事な自分の居場所――逃げ場所になっていたし、ゲームに関しては、この時、心から自分が大好きだと言える、唯一のものとなっていた。

 

 あの場所で、ゲームに――別の世界にのめり込む。その間だけが、神崎にとって唯一の充実した時間だった。

 

 ゲームのキャラクター(ほかのだれか)感情移入し(なっ)ている時だけが、本来の自分で居られているような気がした。

 

 だが、当然ながら、そんな趣味は、そんな才能は――椚ヶ丘中学では通用しない。

 

 厳格な父親に、認められるはずがない。

 

 現実の世界では、何の役にも立たない。

 

 ……自分は、三月には、エンドのE組に送られる。

 

 それは既に、自分の人生の落第(エンド)を意味していた。

 

(……何してるんだろ、私)

 

 馬鹿な親への反発心で、肩書生活から逃げ出したくして、遊んで、落ちて、台無しにした。

 

 もう家には居場所がない。学校にもない。ゲームセンターにも行けなくなった。

 

(…………逃げ出したい)

 

 どこでもいいから逃げ出したい。欲しい――居場所が欲しい。

 

 逃げ場所が、欲しい。

 

 

 神崎有希子が、GGO――仮想世界へと降り立ったのは、そのすぐ後だった。

 

 GGOを選んだのは単純だ。数多くのやり倒したゲーセンゲームの中で、一番スカッとしたのが、ゾンビを屠るガンシューティングだったから。

 銃が好きだった。立ち塞がる(ゾンビ)を有無を言わさず薙ぎ倒して、目の前が開ける瞬間が病みつきになるほど快感だった。

 

 こうして神崎は、みるみるうちに仮想世界に嵌り込んでいく。

 

 

 年が明け、E組へと通うようになった後も、日中はお淑やかなお嬢様の仮面を被ってやり過ごしながら、放課後は一刻も早く帰宅しGGOへと逃げ込む生活を続けていた。

 

 GGOでの有鬼子がどんどん強くなり、名を挙げていくにつれ。

 

 E組(現実)での神崎は、更にその成績を落としていき、父から――周りの人間達から見限られていった。

 

 仮想世界から現実世界へと帰還し、アミュスフィアを外して天井を眺める度に、世界のどこからか神崎を責めたてる声が聞こえる。

 

 お前がやっているのは、ただの現実逃避だ。仮想への逃避だ。

 

 お前がGGOで有鬼子として一秒を過ごす度に、現実世界の神崎有希子の人生は取り返しがつかなくなっていく。

 

 落ちていく。奈落の底へ。人生のどん底へ。落ちて、堕ちて、終わっていく。

 

 E組(あそこ)は、そういう場所だ。そういう終わり(エンド)だ。

 

「……………」

 

 それでも、神崎は……逃げ続ける。逃避し続ける。

 

 だって、そんな現実を受け入れるほど、受け入れられるほど、強くないから。

 

 だから神崎有希子は、E組の生徒らしく、この椚ヶ丘駅北口を出た瞬間に表情を消し、山の中のE組(エンド)へと向かう。

 

 俯きながら、歩き出す。現実から、詰んでしまった現実(じんせい)から、目を逸らすように。

 

 現実世界(リアルワールド)から、逃避するように。

 

 

「………え?」

 

 だが、その日は、いつもとは違った光景があった。

 

 北口前の、円柱の陰。

 

 その横を通り過ぎる時、一人の生徒が、二人の男子生徒に詰め寄られているのが神崎の目に入った。

 

 俯いていたはずの神崎がその様を目撃したのは、詰め寄っている方の男子生徒の一人が、ちょうど神崎が擦れ違う間際に甲高い脅し声を上げたからだ。

 

「あぁ、渚ぁ!? テメー、E組の分際でぶつかっておいてなんもなしかぁ!? おぅ!?」

 

 ところどころ声が上擦っていることから、この男がこういった恐喝行為に不慣れなことが分かる。

 

 ちらっと見た神崎からも、絡んでいる二人の男子生徒が、いわゆる不良といった輩ではないことは見分けられた。ゲーセンに通っていた頃、何度もそういった人種は見かけたからよく覚えている。(ちなみに神崎はそんな輩が現われた時は高確率で絡まれる為、そっとプリクラコーナーに逃げこんでいた。その時に磨いた逃亡スキルはGGOで今も活かされている)

 

 だが、絡まれている生徒は、その二人の男子生徒よりもさらに小柄で、無害そうな生徒だった。言ってしまえば悪いが、こういったことのターゲットになりやすそうな――

 

「――――っ!?」

 

 神崎は思わず声を上げそうになった。

 絡まれているその生徒は、神崎のクラスメイト――同じ、E組(エンド)の生徒だった。

 

 潮田渚。

 

 クラスメイトとはあまり交流がない神崎が、穏やかに何気ない会話をしたことがある数少ない存在だった。

 

 彼はこちらの出す少ないサインを的確に汲み取ってくれて、決して触れてほしくない場所には踏み込んでこず、安心できる距離感で関わってくれる。

 女子のテンションの高い会話や、男子の下心が含まれたやり取りが苦手な神崎にとっては、決して嫌いではない――むしろ好感が持てるような、無害な少年だった。

 

 だが神崎は、渚がこちらに気付かないうちにサッと顔を再び俯かせ、足早に立ち去ろうとする。

 

 神崎の今日の登校時間は寝坊気味の為いつもよりもかなり遅めで、時間的に周囲にはあまり生徒がいない。居たとしてもE組の生徒は見えず――山の中にある為この時間では遅刻になってしまう可能性が高いのだ――D組以上の本校舎の生徒達は、にやにやとその様を一瞥するだけだった。

 

 E組がこのように理不尽に絡まれることは、決して珍しくない。

 

 むしろ日常茶飯事といえる。E組は、元々そういった扱いを受けることを――受けさせることを前提に作られた制度なのだから。

 

 ここで下手に口答えをして反抗したりしたら、更にその被害は拡大し、問題は大きくなるだろう。だから――

 

 神崎は、そう自分に言い聞かす。逃げる為に、言い聞かす。

 

(……ごめんなさい)

 

 神崎は目を瞑り、その足取りを進め――

 

「おい! なんとか言えよ、E組! 殺すぞ!」

 

 

「………………殺す?」

 

 

 瞬間、何かが凍った。

 

 首筋に冷たい何かが走り、神崎も、思わずその足を止める。

 

 

 

「“殺した”ことなんて、ないくせに」

 

 

 

 バッと、神崎は振り返った。

 

 見ると、他の登校中の本校舎の生徒達の目は一点に集まっていて、皆、その表情は唖然としていた。

 

 例の二人組は、神崎から見える後ろ姿だけでも情けなく震えていて。

 

 渚は、その二人を押し退けるように、その間からまっすぐ歩き出していた。

 

 他の生徒達も渚に近づこうとせず、E組が、エンドのE組が、本校の生徒に道を開けさせ、俯くことなく、顔を上げて堂々と歩いている。

 

 神崎は、その光景を前に、この場の誰よりも衝撃を受け、固まっていた。

 

「――あれ? 神崎さん? 珍しいね、神崎さんがこんな時間に登校なんて」

 

 顔を上げていた渚は直ぐに神崎に気付き、笑顔で駆け寄ってくる。

 

「う、うん。……おはよう、渚君」

 

 一瞬、体が強張った神崎だったが、近くで見ても渚は昨日までと同じようにごく普通の少年で、ごく普通の少年に見えて、少し抱いた警戒心はすぐさま消え去った。

 

 つい先程、あれだけの光景を作り出した(そんざい)に、まったく恐怖を抱かなかった。抱けなかった。

 

 ゾクっ、と少し寒気がした。自分は何か、とんでもないことを、生物としてとんでもない失策を犯しているのではないかと、そんな奇妙な胸騒ぎがしたが――

 

「ん? どうしたの、神崎さん。……やっぱり具合でも悪いの?」

「え、ううん。大丈夫。……ちょっと、寝不足なだけだから」

 

 神崎はそう言って、心配そうに自分の顔を覗き込む渚に対し首を振った。

 

 そこにいたのは、もはや虫一匹殺せなさそうな、ただの無害な少年だった。

 

 そして二人はそのまま並んで歩き出し、E組へと向かった。

 

 

 その間、自分達の背中を、登校中だった本校の生徒達が、茫然と眺めていたことに気付かずに。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その中に、一人の、E組の生徒がいた。

 

 赤羽(カルマ)

 

 彼もまた、神崎と同じような理由で寝坊し、こんな時間の登校となっていた。いや、彼は最悪遅刻してもいい――というより、間に合ったら一時限から受けてもいいというスタンスなので、神崎とは心持ちが全然違うのだが。

 

 だが、この日、カルマは珍しく、今日、学校に来てよかったと思った。

 

 早起きは、するものだと。

 

 おかげで、とても“いいもの”が見れた。

 

「……へぇ、面白いじゃん。……渚君」

 

 だが、カルマの表情は、言葉ほど楽しそうに緩んではおらず、むしろ冷たく無表情で。

 

 それは、ついに見つけた何かを、見定める瞳で。

 

 ぶるっと、一度、体が大きく震えた。

 

 そして、カルマは、いつもよりも強い足取りで、大きく一歩を踏み出して。

 

 

 山の中腹――あの少年と同じく、椚ヶ丘中学3年E組へと、登校するべく歩き出した。

 




今回もちょっと文字数が多くて、編集が零時に間に合いませんでした……すいません。

……再開三話目にして八幡が出ない……だと……。

つ、次は出します! 次話は一話まるまる俺ガイルです!


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少女達は家族を想い、涙を流す。

ランキング9位! 本当にありがとうございます!


 

 午前の授業の終わりを知らせるチャイムの音。

 それと共に――むしろ若干フライング気味で――俺の前と左斜め前の生徒が立ち上がってそそくさと遠ざかる。……もう何も言うまい。

 

 俺もゆっくりと立ち上がり、ご期待通りにこの教室を後にしようとする。

 

 そして、こちらに向かって嬉しそうに微笑む雪ノ下に、こう告げた。

 

「悪いな、雪ノ下。今日はちょっと用があってな。由比ヶ浜と二人で食べてくれるか?」

「…………え」

 

 雪ノ下はニコニコの笑顔を途端に曇らせて、不安げに俺を見つめる。

 

 担いでいる鞄を見て置いて行かれると思ったのだろうか、俺は雪ノ下のそんな心情を察して、言った。

 

「心配するな。昼休みが終わったら、ちゃんとお前のとこに戻ってくる」

「………………そう。分かったわ」

 

 そう言って、雪ノ下は儚く笑った。

 

 雪ノ下は、こういった時、俺の事情を無理矢理聞き出そうとしない。

 彼女が俺に抱いているのは、求めているのは、不安を和らげる為の安心感であって、決して独占欲ではないからだ。

 

 だから彼女は、今朝、俺が校門前で大志を待ち伏せしていたことに対しても、理由やら何やらを一切聞いてこない。

 もしかしたら、興味も関心もないのかもしれない。どちらにせよ、ありがたい。

 

「…………ヒッキー」

 

 いつの間にか近くにいた由比ヶ浜。彼女もまた、俺の事情を聞き出そうとはしない。

 

 ただ、黙って、何も言わず、何も聞かず、こちらを安心させるために、必死に、無理矢理に、頑張って笑みを作って、こう言うのだ。

 

 俺が、こう言わせるのだ。

 

「……いってらっしゃい」

 

 

『大丈夫だ。これは、俺が何とかすべき問題だ。必ず、俺は――』

 

 

奉仕部(ここ)に、戻ってくるから』

 

 

 そう言い残したのは、果たして一体いつのことだったろうか。

 

 もうはっきりと思い出せない。それくらい、はるか遠い昔の出来事のことのように思う。

 

 まだ、由比ヶ浜は、待ってくれているのだろうか。

 

 そんなボロボロの笑みで。ズタズタの心で。

 

 こんな俺を。こんな俺が、帰ってくるのを。

 

 

 俺は、とっくの昔に、諦めてしまったというのに。

 

 

「――そんな大袈裟なもんじゃねぇよ。言ったろ、昼休みの間だけだって」

「…………そう、だね」

「……ああ。だから……その間、頼む」

「…………うん。任せて」

 

 由比ヶ浜は、雪ノ下の手を引いて、先に教室を出た。

 

 俺はまた、由比ヶ浜に頼っている。いや、強いている。

 

 ボロボロの由比ヶ浜に。ズタズタの由比ヶ浜に。

 

 もう彼女の望みを叶えられないと知っているのに。叶えることを、諦めているのに。何も返せないと、返せやしないと、思い知っているのに。

 

 彼女の頑張りを、信頼を、この上なく最低な形で裏切った――裏切っているというのに。

 

 俺はまだ、この女の子を傷つけ続けている。

 

 

 ふと教室の端から、三浦と海老名が、俺に憎悪の視線を送っているのを、あの日から変わらず、送り続けているのを感じた。

 

 そうだ。お前達の、その感情は正しい。その調子でいつか、俺から由比ヶ浜を解放してやってくれ。

 

 そして由比ヶ浜。

 

 すまない。本当にすまない。

 

 俺は、お前との約束は、守れそうにない。

 

 

 ハニトーは、一緒に食べに行くことは――もう、出来そうにない。

 

 

 由比ヶ浜は、俺のそんな思いを感じたのか、一度こちらを振り向いた。

 

 

 そして、悲しげに、けれど優しく、笑った。

 

 

 俺は、そんな由比ヶ浜の微笑みを見て、目を合わせていることが出来ず、思わず俯いた。

 

 なんて無様なんだ。俺は、あんなに強く、優しい女の子とのささやかな約束すら守ることが出来なかった。

 

 なんて卑怯なんだ。ならばせめて、お前はその思いを受け止めるべきだ。それが怒りであれ、憎しみであれ、そして――優しさであれ。その全てを、俺は逃げずに受け止めるべきだ。受け止めるべきだったのだ。

 

 だが俺は、この期に及んで、また、由比ヶ浜結衣から逃げた。

 

 怯えるように、ゆっくりと、顔を上げる。

 

 当然のように、そこには由比ヶ浜も、雪ノ下の背中もなかった。二人とも昼食の為に、いつものベストプレイスへと向かったのだろう。

 

 俺は唇を噛み締め、踵を返す。

 

 向かわなければならない。もう二度と、あいつ等を巻き込まないためにも。

 

 もう俺は、由比ヶ浜に、雪ノ下に――そして小町に、合わせる顔はないけれど。

 

 それでも、もうあいつ等が傷つかないように。これ以上、あいつ等が、傷つかないで済むように。

 

 大志。川崎大志。

 

 奴の元へ、向かわなければならない。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 屋上へと向かう道。

 元々、この学校で俺に近寄ってくるものはいないが――むしろ俺が近づくと遠ざかるまであるが――それでも段々屋上に向かうにつれ、さらに人はいなくなる。

 

 それでいい。その為に俺は、奴を屋上に呼び出したのだから。

 

 屋上。総武高の屋上は、基本的に立ち入り禁止である。そして、なぜか俺は、この場所に妙に思い出が多い。

 

 相模を罵倒し葉山に止められた。そしてその数か月後に、同じ場所で相模と葉山と協力して作戦会議をした。

 

 あの日、雪ノ下を拉致したチビ星人の親玉を、殺した場所でもあった。

 

 そして――

 

「――比企谷!」

 

 後ろから俺を呼ぶ声。

 

 ……ああ、そうだな。そういえば、お前と出会ったのも、たしか屋上だったな。

 

「黒のレ――じゃなかった。……川崎か」

「……あんた、やっと名前を覚えたと思ったら」

 

 じとっと、走ってきたのか妙に頬を赤く染めた川崎が俺を睨む。いやゴメンね、ちょうどばっちり思い出しちゃったからさ。

 

 思えばあの日、チビ星人が屋上にいると教えてくれたのも彼女だった。

 

 何も言わないで、送り出してくれた彼女だった。

 

「………何の用だ?」

「……っ」

 

 だが、それはもう関係ない。

 

 あの日以降、川崎は俺に話しかけてこなかった。

 

 話しかけないで、いてくれていたんだ。

 

 そんな彼女が、そんな優しい彼女が、今の俺と話しているところなどを見られても、何の得もない。絶大な不利益しかない。

 

 だから俺は、一瞬緩みかけた空気を引き締めるように、冷たい声色で彼女を問い詰めた。

 

 川崎も身を竦ませ、目に見えて怯える――だが、それでも彼女は、立ち去ろうとしなかった。

 

 ……そこまでして、全部承知の上で、それでも俺に、話したいことがあるのか?

 

 川崎は、川崎沙希は、こちらに目を合わせず、それでも振り絞るように、呟くように言った。

 

「…………大志の、ことなんだけど」

 

 ………………ああ、やっぱりか。

 

 昨日の大志の件の、まさに次の日。そして、今まさに、その大志に会いに行こうとしている、このタイミング。

 

 やはりという、その言葉以外、ない。

 

「……………大志が、どうかしたのか?」

 

 川崎は、相変わらず俺の目を見ない。

 

 だから、俺の目が細く睨み付けるようになっていることも――

 

――俺が、右手を鞄の中に入れ、Xガンをいつでも取り出せる状態になっていることにも気づかない。

 

 ……さて、どうだ? 今の状況は“ほとんど黒”だ。

 

 さぁ、川崎。

 

 お前は、“どっち”だ?

 

「……あのさ。最近、大志の様子が、変、なんだよ」

 

 …………。

 

「……変、だと?」

「う、うん。……ここ最近、というか、もっと……年が明けて、少し経ったくらいから……なんか……ちょっと、様子がおかしいんだよ」

 

 ………年が明けてから。

 

 つまり、チビ星人との戦いの後、か。

 

 それは、大志がその頃に“後天的”にああなったのか。

 

 それとも、“先天的”にそういうもので、その頃に化けの皮を剥したのか。

 

 だが、どちらにせよ――

 

「…………どうして、今、それを俺に言うんだ?」

 

 それが分からない。

 

 時期的に大分経っていることもそうだが、そもそも俺は、こいつにそういった相談をされるような人物じゃなかったはずだ。

 

 確かに川崎は、俺が全校生徒に気味悪がられるようになっても、嫌悪的な眼差しを俺に向けなかったが、それはただ単にこいつが優しいからだ。ただ、それだけだ。

 

 それなのに、なぜ、今、よりによって俺に接触するんだ?

 

 接触してまで、そんな話をするんだ?

 

「……………………ゴメン」

「いや、別に責めているわけじゃない。俺はなぜ――」

「ゴメン……本当にゴメンっ」

 

 俺は川崎が謝る意味が分からず戸惑うが、彼女はスカートの裾を握りしめ、俯きながら、涙声で言葉を漏らす。

 

「……アンタが、あの日以来……すごく苦しんでるの、分かってる。……そんなアンタに……こともあろうか、そんなアンタを頼るだなんて、本当に申し訳ないって思ってる……っ」

 

 川崎は、ついにポロポロと涙を零しながら、懇願するように言った。

 

「……それでも、もうダメなんだよ。……あたしじゃあ、大志に何も出来なかった……っ。あの子は、何も言ってくれないけど……苦しんでるのは分かる。……家族だから。…………でも、あたしは、あの子に何も出来ないんだよっ! ……家族……なのに……っ」

 

 川崎は、体を震わせて、涙を流す。

 

 それは、俺が初めて見る川崎の姿で――いや、俺は名前を何度も忘れて間違える程に、川崎のことを何も知らなかった。

 

 故に、俺は今、見せつけられている。

 

 弟を――家族を想う、姉の姿を。

 

「あの子……本当に乾いたように笑うんだ。……あたし達に、そんな張り付けた笑顔を見せて……普段は、息を呑むくらい……無表情で…………そして、たまに……すごく苦しそうに……顔を、歪めるんだ……まるで…………比企谷……みたいに」

 

 ……そうか。

 

 俺は、そんな風に壊れているのか。

 

 そして、大志も。

 

「ゴメン。……最低なことを言ってるって分かってる。そして……これから……もっと最低なこと……言う。……あたしには、大志の気持ちが分からないの。何を聞いても……答えてくれなくて……。……だから……でも……それでもっ、あたしは――っ」

「それで――」

 

 俺は、その先の言葉を言わせまいと遮り、そして言った。

 

「――同じように壊れている俺なら、大志の気持ちが分かって……そして、救えるかもしれないと。……そういうことか?」

 

 川崎は、そこでようやく顔を上げた。

 

 その表情は、悲痛に歪んでいた。

 

 涙で化粧が落ちたのか、目の周りが黒く滲み、それでもその瞳は、涙できらきらと輝いていた。

 

 その悲痛は、大志が壊れていると俺が言い切ったことに対してなのか――――それとも。

 

 だが、川崎は、そのことで俺を責めることなく――ただ。

 

「………………ゴメン」

 

 と、小さく、深く謝った後――

 

 

「――――大志を、助けて……っ」

 

 

 縋るように、懇願した。

 

 こんな俺に、懇願した。

 

 頭を下げて、涙を流して、それでも愛する家族の為に。

 

 大事な、大事な、大志(おとうと)の為に。

 

 その時、俺の脳裏に、今朝の小町の怯えた声が響く。

 

 

『お、お兄ちゃん……?』

 

 

 同じ年下の妹弟(きょうだい)を持つ身同士なのに、なんなんだろうな、この違いは。

 

「………お前は、立派な姉ちゃんだよ、川崎」

 

 俺は、その言葉だけを言い残して――川崎に背を向けて、今度こそ屋上に向かった。

 

「比企谷!」

 

 後ろから、聞いたことがないような川崎の叫び声。

 

 だが俺は、その言葉に足を止めずに、そのまま歩みを進めた。

 

 結局、俺は、川崎の言葉に、具体的には何も答えなかった。

 

 由比ヶ浜結衣だけでなく、川崎沙希からも、俺は逃げ出した。

 

 こうして逃げて。逃げて、逃げて、逃げて。

 

 やがて、いつか。

 

 逃げきれなくなるのだろう。

 

 望むところだった。

 

 望んで、やまない。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 午前最後の授業が終わり、昼休みになった。

 

 教師が教室を後にすると、途端にざわざわと騒がしくなる教室。

 そんな中、川崎大志は誰にも注目されることなく、ゆっくりと立ち上がり、そしてゆっくりと教室を後にする。

 

 今朝の登校時のことは、そこまで話題には登らずに、大志は特に避けられたり、嫌がらせを受けたりなどということはなかった。

 これは一重に、入学してから今までの数か月間、大志が作り上げた教室内のポジションのお蔭だろう。

 

 大志は入学してから徹底的に、人間関係を構築しないことに腐心した。

 遊びや集まりに誘われても断り、部活などのコミュニティにも一切参加しなかった。

 

 そうして大志は、かつての八幡のように、嫌われることもなく、決して目立たず、教室にいるかいないか分からないという存在になることが出来た。

 

 ただ一人、彼女を除いては。

 

「大志君」

 

 教室を出て、一年の教室があるエリアから屋上へと向かうルート。

 

 人がほとんどいなくなる、その場所、そのタイミングで、後ろから彼女に呼び止められた。

 

 総武高へと入学して、自分が人間ではない何かの怪物に成り果てて。

 

 道行く人が、道行く人間が、みんなみんな同じに見えて。

 

 あらゆる関係を断ち切ろうとした自分が、それでも断ち切れなかった、たった二つの関係。たった二つの、川崎大志にとって、どうしても断ち切れなかった――断ち切りたくなかった繋がり。

 

 一つは、家族。

 

 そして、もう一つは――

 

 大志は階段の下から呼びかけたその声に答える為、途中まで階段を上っていたので見下ろすような恰好で、そんな立ち位置で、彼女の方に振り向いた。

 

「……どうしたんすか? 比企谷さん?」

 

 比企谷小町。

 

 川崎大志が、もう一年近く片思いをしている少女。

 

 彼女のことは、大志は、他の有象無象と同じ存在として見たくなかった。

 

 だから彼女と、家族のことは、必死に忘れまいとした。彼女達の特徴を、声を、姿形を、性格を、彼女達という人間を。決して他の人間達と同一視しないように、有象無象に紛れ込ませないように。大志はずっと、そう願ってきた。

 

 そう、己の怪物性と、異形性と、異常性と戦ってきた。

 

 彼女達を、彼女達まで、なくしてしまったら、失ってしまったら、手放してしまったら。

 

 完全に、完璧に、完膚なきまでに、川崎大志という人間は、終わってしまうから。

 

 もう、川崎大志という怪物から、逃げられなくなってしまうから。

 

 だから、まだ、クラス内で唯一、彼女のことは分かる。

 

 判別できる。彼女の顔を見て、声を聴いて、胸の中に、高鳴りを覚えることが出来る。

 

 そんなことが、そんな些細なことが、大志に途轍もない安堵感を齎してくれる。

 

 俺は人間なんだと。まだ、人間なのだと。

 

 かつて、ちゃんと、人間だったのだと。

 

 安心感と、それと同じくらいの――痛みを齎す。

 

「……うん。ちょっと、ね。聞きたいことがあって」

 

 小町は大志に向けられた笑みに、悲しそうに、だけど気丈に笑う。

 

 小町も当然、同じクラスである為、大志の異常には気付いていた。

 だが、それでも大志は、これまで通り小町に対しては優しく“笑顔”で接してくれるし、それに何より。

 

 小町には、八幡がいた。

 

 大志と同じ、いやそれ以上に壊れ、追い詰められている人間がいた。

 

 だから小町は大志の異常に気付きながらも、これまで踏み込んでこなかった。

 

 彼女にとっては、大志は友達だけれど――八幡は兄だから。たった一人の、兄だから。

 

 大志はそれでいいと思っていた。むしろ、それが何よりありがたかった。

 

 だから、こうして小町が大志に聞きたいことがあると言って、わざわざ人気のないところで話かけてくるのは、おそらく入学以来初めてだった。

 

 以前の自分なら、何かしょうもない勘違いをして、期待を抱いて、頬を赤く染め、小町の顔を直視出来ずキョロキョロと挙動不審に目線を逸らしながら、胸をバクバクと高鳴らせるのだろう。

 

 けど、今の自分には、そんな風に人間臭い行動や感情は抱けない。

 

 そんな自分が、そんな情けなくも微笑ましい行動をとれない自分が、何よりも虚しい。

 

 だから早く済ませたかった。想い人との思いがけない時間なのに、一刻も早く終わらせたかった。

 

 今は、こんなことよりも、大事なことがある。

 

「話ってなんすか? 申し訳ないけど、これから行かなきゃいけないところがあるんすよ」

 

 大志は、今の自分に出来得る限りの笑顔と、優しい声色でそう言った。困っているような苦笑混じりというアクセントも加えて。

 

 一つ一つの要素を、意識して、丁寧に作って。

 

 小町は「……そっか、ごめんね」と、相変わらずの悲しげな笑みでそう言って、本題を話した。何も触れなかった。

 

「……大志君、さ。最近、お兄ちゃんと何かあった?」

 

 そんな小細工で作った笑みは、一瞬で崩れ去った。

 

 それでも大志は、硬直が解けた後、すぐに首を振って否定した。

 

「……何にも。何にもないっすよ」

「でも……今日の朝も校門で会ってたみたいだし。それに、なんでか今朝、お兄ちゃんが急に――」

「何にもないっすよ――何にも」

 

 大志は顔に笑みを張り付けたまま、語調だけ強くして否定した。

 

 ああ、ダメだ。これじゃあ、こんなんじゃあ、すぐに容易く剥がれてしまう。

 

 大志はこんな拙い仮面しか作れない自分が情けなくて、そして、そんな仮面を剥して自分の触れられたくない場所に踏み込んで来ようとしてくる小町に――苛立った。

 

 ああ、ヤバい。不味い。一刻も早くこの場を離れないと。

 

 嫌だ。嫌だ。それだけは嫌だ。

 

 この想いだけは、消したくない。この人の、この女の子への想いだけは、なくしたくない。

 

(……比企谷さんのことだけは、“どうでもいいと思いたくない”…………っ)

 

 今の自分は、煩わしいと思ったことは、すぐに手放してしまう。

 

 手放して、関心をなくして――見下してしまう。

 

 今の自分には、怪物になった川崎大志にとっては、人間とはそういう存在だった。

 

 そして、自分は化け物で、小町は人間だった。

 

「……っ。ごめんっす。俺、本当に急いでるんすよ」

 

 大志は、小町に背を向ける。何かから目を逸らすように。

 

 何かから逃げるように。

 

「あ、待って! 大志君!」

 

 小町は焦ったように大志に言葉を投げ掛ける。だが、大志はそのまま足を止めずに階段を上って行った。

 

 そして小町は、一瞬躊躇するように息を呑み、意を決するように声を張り上げる。

 

「お兄ちゃんはっ!」

 

 その叫びに――大志は足を止めてしまい、せめてもの抵抗なのか、背を向けたまま、その言葉を無言で受け止めた。

 

「性格が捻くれてて、ぼっちで、目が腐ってて、性根も腐ってて、面倒くさくて、臆病なのに強がりで、自分のことが大好きだっていうくせに自分のことが大嫌いで、周りの人からの好意を認めようとしなくて、なのにとんでもないシスコンっていうごみいちゃんだけど……っ…………だけどっ!」

 

 小町のその叫びは、何かを堪えるように、何かに耐えるようにして、吐き出される叫びだった。

 

「……小町が寂しいときは……ずっと一緒にいてくれて……小町をずっと……守ってくれてて……小町をずっと……愛して……くれてっ………………とっても純粋で……とっても優しくて……とっても強くて…………とっても……弱い……人なの……」

 

 小町のその叫びは、段々と小さくか細くなっていった。

 

 まるで、言葉を一つ吐き出すごとに、何かを削っているかのようで。

 

 それは、小町の、ずっと溜めこんでいた何かを、吐き出しているようだった。

 

「……だから……だから…………だから…………っ」

 

 小町はもう、大志を見ていない。

 

 人気のない階段の踊り場に膝をつき、しゃがみ込み、何かに祈りを捧げるように、身を丸めた。

 

 そして、小町は、懇願するように、願い請うように。

 

 捧げるように、言った。

 

 

「……小町のお兄ちゃんを…………嫌いにならないで」

 

 

 それは、誰に向けての言葉だったのか。

 

 それは、一体、いつから溜めこまれていた願いだったのか。

 

 大志には分からない。文字通り、人の気持ちが分からなくなってしまった大志には。

 

「…………お願い、だからぁ……」

 

 大志には分からない。

 

 まるで許しを請うように、そう呟く小町の気持ちが分からない。

 

 分からないことが、とても悔しく――とても悲しかった。

 

「…………比企谷さんは、本当にいい妹さんっすね」

 

 だが、それでも、大志は小町を尊敬した。

 

 たった一人の兄の為に。大事な、大事な、家族の為に。

 

 小町は今、自分の心を曝け出したのだ。自分の願いを、剥き出しの願望を、無防備に他人(たいし)に晒したのだ。

 

 それは、とても怖いことで。それは、とても勇気のいる行動で。

 

 小町は間違いなく、比企谷八幡のことを――兄のことを愛していた。

 

 己の身を挺して、最愛の兄を守ろうとしているのだ。

 

 

『うわぁぁぁあああああああああん!! うわぁぁぁあああああああああん!!』

 

 

『…………大志』

 

 

 

『うるさいっ!!!』

 

 

 

 それに引き換え、自分は何度、家族を傷つけてきただろう。

 

 これまでずっと、姉に守ってもらってばかりで。

 

 いつか自分が、姉を、妹を、父を、母を――大事な家族を、この手で守ってみせると。

 

 そう決めていた。そう心に決めていた――そのはず、なのに。

 

 大志はじっと、自分の手を見た。

 

 家族を守ると決めたその手は、もうおそらく、家族の手を握ることすら出来ない。

 

 大志は、自嘲的に笑って、蹲って嗚咽を堪える想い人の方を、振り返りもせずに、そのまま階段を登りきる。

 

「……大志君」

 

 涙声混じりで投げ掛けたその言葉に、大志は足を止めずに、背を向けたまま、淡々と答えた。

 

「……嫌いになんて、ならないっすよ――俺は」

 

 小町がその言葉の意味を問いかけようとする時には、既に大志の姿は、そこにはなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ぎぃ、と、その重い扉を開く。

 

 梅雨時期のこの空は、どんよりと灰色に曇っていた。

 

 自分に、そしてあの人に、この会談に、相応しい空だと思った。

 

 そんな自分の感想を裏付けるように、あの人は、その空の背景に見事に溶け込んでいて。この背景の中でも、呑まれることなく、その異様な存在感を放っていて。どんよりと曇った空よりも、さらに暗く濁った瞳をこちらに向けた。

 

「……よく来たな、大志」

 

 比企谷八幡は、大志の姿を確認すると、すぐに右肩にかけていた鞄を乱雑に落とした。

 

 そして、落ちる鞄を目で追っていた大志は、バッと視線を上に挙げた。

 

 

 その右手には――無骨な黒い機械的な銃が握られていた。

 

 

 そして、それを――その銃口を、真っ直ぐに大志に向ける。

 

 八幡は左手で何かを大志の足元に放り、冷たい声色で命じた。

 

「扉を閉めて、鍵をかけろ。そして、ゆっくりとこっちに歩いてこい。……言うまでもないことだが――」

 

 大志は、心のどこかで、解放感を感じていた。

 

 ああ、この人の前では、大志(おれ)怪物(おれ)でいられる。

 

 そして、大志(おれ)は、人間(おれ)でいられる。

 

 なぜならこの人は、こんなにも当たり前に、俺を怪物のように扱ってくれて――

 

「――余計な行動をしたら……殺すぞ」

 

――あんなにも、悲しげに、俺を見つめてくれている。

 

 この人は、川崎大志を怪物であると受け入れた上で、川崎大志という人間であることも、きっと認めてくれているのだ。

 




ちょっと間延びだったかもだけれど、個人的には気に入ってるシーン。

そして次話は、一話丸々暗殺教室です。

……いや、違うんです。焦らしてるんじゃないんです。
次の次は、また丸々一話俺ガイルですので! 大志と八幡の対話シーンですので! どうかご容赦を!


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少女は、姉の意思を継いでE組《エンド》へと転入する。

※アスナは原作では女子校出身になってますけど、この作品ではちょっと変えています。ご注意ください。

それと、推薦していただきありがとうございます! 感激です!
推薦していただけるに相応しい作品になるように、これからも全力で頑張ります!


 彼女の名前は雪村あかり。芸名、磨瀬榛名。偽名――茅野カエデ。

 

 三つの名前と三つの顔を持つ少女。

 

 そんな彼女がエンドのE組へと潜入したきっかけは、E組の担任であった姉の頼みからだった。

 

 

 元々彼女は天才子役――磨瀬榛名として一世を風靡するほどの役者であったが、事務所の意向として、子役は大人になるまでの間、その姿を世間へと晒さずに休眠する期間を置かせる指針となっており、彼女は芸能界からその姿を消した。

 

 子役としてのイメージを残し過ぎない為か、それとも子供時代に培った役者としての経験に思春期での学生生活の経験の両方をしっかりと糧とした人間として豊かな役者を育てるためか。

 いずれにせよその伝統は、人気絶頂だった当時の磨瀬榛名も例外ではなく、半ば強制的に休業をとらされた。事務所の長年のルールとはいえ、事務所としては収入面では相当な痛手であったはずなのに、思い切った結論を下したものだ。と、あかりは自分のことにも関わらずやけに客観的にそんなことを思う。長い間、大人の世界で戦い抜いてきたあかりは、十四才という年齢の割には妙に達観している少女だった。

 

 もしまた芸能界に復帰することになったら再びあの事務所にお世話になろうなどと思っていた彼女だったが、あれほど我武者羅に生き抜いていた芸能界への復帰に、もし、という前置きがついてしまうくらいには、あかりは今の生活に居心地の良さを感じていた。

 

 学校の方は通信制の教室と家庭教師で賄った。元々人目から離れるという意味もあったし、また磨瀬榛名の知名度はまさしく全国区であった為、急な休業で騒いでいる世間のほとぼりを冷ます意味合いもあった。

 

 そして、それからしばらく。

 段々と街を出歩いても正体がバレることもなくなり、あかりは学業の成績も優秀だった為、このまま中学の単位を取得して、どこか普通科の高校を受験しようかと考えていた時――姉にこんなことを言われたのだ。

 

『お願い、あかり。……みんなのことを、頼まれてくれないかな?』

 

 姉――雪村あぐりは、中学校の先生をしていた。

 

 詳しい事情は聞いてはいないが――ずっとあかりは役者業で忙しかった為――時折、姉は本当に嬉しそうに自分の生徒達との思い出を話すので、先生という仕事が大好きなのだろうと、我が姉ながら微笑ましく思っていた。このまま自分が普通科の高校に――言うなら、普通の学生になってみたいと思ったのも、姉の影響が多分に含まれている。

 このことを言うと姉は「わたしのせいっ!?」と涙目で慌てるだろうから言わないが。

 

 だが、そんな姉が、なぜか大好きな教師を辞めなくてはならないという。

 

 あかりが理由を問いただすと、なんでも婚約者の柳沢が海外転勤になる為、それに同行しなくてはならないというのだ。

 

 それを聞いた時、あかりは露骨に表情を歪ませた。姉の婚約者であるあの男にはあかりも一度だけ顔を合わせたことがあったが、長年大人達の陰謀渦巻く芸能界の荒波を生き残ってきたあかりには、一目で碌でもない男だと分かった。自尊心が高く、支配者気取りで、自分の思い通りにならないことやものに対しては途端に横暴になるタイプだ。得てしてそういった人種は大したことのない小物が多いが、自分達の親が娘を差し出してまで繋がりを保とうとするということは、能力は高いのだろう。それがまた厄介だ。

 

 そんな男のせいで、姉の人生が狂わされる。大好きな教師を辞めさせられる。あかりは怒りが沸々と湧いてきたが、あぐりはそんなあかりを優しく抱き締めて、宥めてくれた。

 

 その際に、姉妹なのにどうしてここまで差がついた……と嘆きたくなる巨乳の柔らかさを感じて少しやるせない気持ちになるも、それ以上に大好きな姉の温かさ、柔らかさ、そして匂いに包まれて、荒んでいたあかりの心もだんだんと落ち着いていく。

 

 姉は、既に自分の運命を受け入れていた。だが、どうしても一つだけ心残りがあると言う。それが、彼女が担任する――椚ヶ丘中等部3年E組のことだった。

 

 そして、あかりは、ここで初めて、そのE組というシステムを知った。

 

 進学校内の効率的なカースト作りの為、底辺扱いを強要される隔離教室。

 

 その凄惨な扱いにあかりは眉を顰めるも、その優秀な頭脳は、確かにそのシステムの有効性を理解した。感情的には決して肯定し難いものだが。

 

 それでもあぐりは、その教室の担任であることに、誇りとやりがいを持っているようだった。彼女は、今年の三月からメンバーが入れ替わったという、まだ出会って間もない今のE組のメンバーの長所を上げていく。

 

 磯貝という少年は思いやりがあってリーダーシップを持ち、片岡という少女はしっかりしていて責任感があり、奥田という少女は人と関わるのが苦手だが理科知識に優れ、菅谷という少年はマイペースだが独特の素晴らしい感性を持っている。

 

 共に過ごした時間がたった二週間とは思えない程に、雪村あぐりという教育者は、生徒一人一人の個性を“見て”いた。

 落ちこぼれだと蔑まれ、あいつらは終わったとE組(エンド)へと送られてきた彼等の、彼女等の長所を――才能を、見つけ、認め、尊重し、尊敬していた。

 

 始めは出会ったばかりで彼等の担任という責務を放棄しなくてはならない罪悪感で悲痛に表情を歪めながら懺悔するように話し出したあぐりだが、段々とまるで自慢するように嬉しそうに、あかりに私の生徒はこんなにも素晴らしいのよと語っていた。

 

『――それでね、赤羽君はまだ何度か家庭訪問に伺っただけなんだけど、彼って素晴らしいのよ! 頭の回転がすっごく速いの! ……まぁ、その能力を、人を驚かすのに全力で使うのは勘弁してほしいんだけど……でも、あれだけのものを作るのは相当に手先の器用さが必要になるわ! 上級生も喧嘩で圧倒したっていうし! ……それは誉められたことじゃないけど。きっと運動神経もすっごくいいのね!』

『へぇ、そうなんだ。会ってみたいなぁ』

 

 深く関わり合いたくはないけど。と心中で付け足すあかり。

 

 今のあぐりは自分の大好きなものを語る人特有の周りが見えていない状態なので、あかりの相槌も適当になりがちだ。だが、あかりはこんな風に目を輝かせて生徒の自慢話をするあぐりの顔が好きだった。

 

 だが、ここであぐりは、途端に表情を曇らせ――否、悲しそうに俯かせた。

 

『ん? どうしたの? お姉ちゃん』

『……それでね、渚君はね…………渚君は……』

 

 ここで姉が出した名前は――おそらくはだが――生徒の下の名前だった。

 

 生徒とは近い距離感で――それこそ姉のような距離感で接しているあぐりだが、そこは教師として必要な一線を自ら引いているのか、みな苗字で呼んでいた。

 

 だが『渚』という生徒は、無意識なのか、意識的なのか、下の名前で呼んでいた。

 

 しかし、ならば他の生徒よりも更に距離感が近いのかといえばそうではなく、むしろ先程話に出ていた数回の家庭訪問のみだという――よく考えれば二週間で数回も家庭訪問に伺っているという姉のバイタリティにも脱帽だが――赤羽という少年よりも、距離感としては遠いように感じた。

 

『ん? その、渚君? がどうかしたの?』

『……その、彼はね…………危うい、の』

 

 あかりはその時、少し目を見開いた。

 なんというか、あぐりが自分の生徒について話す時、否定的なこと言ったのは初めて見たからだ。

 

 深く関わりたくないとあかりに思わせた赤羽君よりも“危うい”と言わしめるとは、その渚とやらは女の子みたいな名前をして一体どれほどの不良なのだろうとあかりが思っていると、そんなあかりの思考を感じたのか、あぐりは焦ったように首と手を振って否定した。

 

『ち、ちがうのよ! 渚君はとても温和で優しい子なの! 大人しくて、あまり目立つ子じゃないけれど、いつも周りのことを見てて、誰からも好かれるような……』

 

 ん? とあかりは再び首を傾げる。話を聞く限り、全くもって問題のない生徒のように思える。どの学校のどのクラスにもいるような、確かに中心ではないけれど、みんなに受け入れられる“無害”な生徒。

 

 それが、どうしてよりにもよって、“危うい”などという評価に繋がるんだろうか。

 

『……これは、あくまで私の直感で……気のせいなら、それが一番いいんだけど……』

 

 あぐりはそういって、ポツリ、ポツリと語り始める。

 

『……E組の生徒達はね……みんな何かしらの傷を抱えているの。……中学生っていう多感で脆い時期に、はっきりと落ちこぼれだってレッテルを、これ以上なく徹底的に貼られるんだから、無理もないんだけど……』

『…………』

 

 それはそうだろう、とあかりは思う。

 

 それに加えて、椚ヶ丘といえば、あかりでも知っているような超有名進学校だ。

 

 当然、幼少期から優秀で、クラスでもトップクラスの――いわばエリートだった生徒が集まっているのだろう。自分の能力にプライドを持っていた者もいるだろうし、親や周りに重大な期待をされていた者も多いはずだ。

 

 そんな状況で、そんな風に残酷にレッテルを貼られ、見世物のように隔離されれば、中学生の心など、容易く――徹底的に折れる。そして、癒えない傷になるだろう。

 

『だけどね……渚君は、そういうのとはまた違うの。……ううん、きっとそういう傷も関わっているんだろうけど……もっと深くて、もっと根本的なところが……危ういの』

『……それって、結局、どういうこと?』

 

 あぐりは、一度、キュッと口を閉じて、両手をギュッと握りしめながら、言った。

 

『……たぶん、渚君は、簡単に自分を捨てて――棄ててしまえる子なの。……自分というものに対する“価値”が――自己評価が、自己価値が……すごく低い。怖いくらいに――低い』

『………………』

 

 ごくりと、あかりは息と唾を呑む。

 

 確かに、話を聞く限りのE組というものの扱い――そんなところに落とされたら、自分に対する自信やプライドなどへし折られるだろう。

 

 どうせ自分なんて――そんな風に自棄(やけ)になり、自分に対する自己評価など底辺に落ちるだろう。

 

 でも、あぐりが言う渚のそれは、そんなE組の中においても、群を抜いているらしい。

 

 あぐりが――あの姉が、そんな風に言ってしまう程に。

 

『……だから、あかり…………お願い。……E組のみんなのことを――渚君のことを、頼まれてくれないかな』

 

 あぐりは、本当に申し訳なさそうに、あかりの手を取って、懇願した。

 

『……本当は、こんなことをあかりに――妹に頼むなんて、間違ってるって思う。……仮にも教師なのに、大事な妹の人生を――大事な一年間を、姉である私が縛り付けるなんて間違ってるって思う』

 

 あぐりの手は、震えていた。

 

 それは、妹に無茶な頼みをする自分に対する怒りなのか、それとも大事な生徒を途中で放り出してしまうことに対する口惜しさなのか――おそらくは、その両方だと、あかりは思った。

 

『……それでも、無茶を承知で――恥知らずなことを承知でお願い! あかりの――休眠期間の最後の……残された一年間……あなたの時間をくれるなら……E組で過ごしてくれないかな?』

『で、でも私、お姉ちゃんと違って教師みたいなこと出来ないよ。精々がクラスメイトとして相談に乗ってあげるくらいで――』

『それでいいの! ううん、無理に相談に乗ってあげなくてもいい! ただ一緒に過ごして、傍で見守ってあげて!』

 

 あぐりは、あかりの手を優しく握り、見つめた。

 

 その顔は、姉で、教師で――子供を見守る、大人だった。

 

『そして、あかりにも知ってほしいの――学校の楽しさを。きっと、E組なら――あの子達と一緒なら、楽しい一年を過ごせるはずだから』

 

 E組。エンドのE組。

 

 進学校の落ちこぼれクラスで、見せしめのように劣悪な環境に隔離された、山の中腹の教室。

 

 誰よりもそれを知っているはずなのに、姉のその顔は、そこで過ごす一年間が、かけがえのないものになることを確信しているようだった。

 

 そんな姉の言葉に、笑顔に対しあかりは、同じく笑顔で(といってもどうしようもなく苦笑気味だったが)頷く以外の返答を用意できるはずもなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そしてあかりは、椚ヶ丘中学の編入試験を受験した。

 

 本名の雪村あかりで受験することも考えたが、椚ヶ丘は全国的に有名な学校だし、どうせなら雪村あぐりの妹としてだけでなく、磨瀬榛名としてでもなく、完全に別人として、先入観なしでE組(かれら)と接してみたいと思い――あかりは『茅野カエデ』となった。

 

 偽の戸籍は姉のあぐりの同僚――正確には、婚約者の柳沢の同僚に用意してもらった。

 

 その協力者曰く――

 

『――椚ヶ丘といえば、確かアスナ君の……なるほど、実に面白い。偽の――茅野カエデの戸籍はこちらで用意しよう』

『……あの、今更ですけど、本当にいいんですか? あくまでちょっと思いつきで言っただけなんですけど……戸籍を偽造って、問題になりませんか?』

『大丈夫。理事長とはこちらから話をつけておくから。……その代わりとは言わないけれど、ちょっと頼まれて欲しいことがあるんだ。それはね――』

 

――なんて一幕があったが、元々成績的には優秀だったあかりは、問題なく全国でも屈指の名門校の編入試験に合格した。

 

『いやぁ、素晴らしいよ、茅野カエデさん! こんなにいきなり椚ヶ丘(うち)の編入試験に合格できたのは、君が初めてだ!』

『……はは。ありがとうございます』

 

 いやぁ、これであの事件で失ったあの生徒()の代わりが――と嬉しそうに呟く教頭の話を聞こえないふりをして、あかりは周りを見渡す。

 

 問題なくA組相当の実力を示したあかり――茅野は、教頭である飯山によって、椚ヶ丘の自慢の学習設備を見学するべく、校舎内――本校舎内を案内されていた。

 その設備は、まさしく全国区の進学校の名に恥じぬ素晴らしいものだったが――

 

(……なんか、牢獄みたい)

 

 何かに追われるように、何かを恐れるように、一心不乱に板書に没頭する生徒達。

 その額には汗が滲み、シャー針が折れて板書が止まり、黒板が消されたことで絶望に表情を染める者もいた。

 

(……これが、学校?)

 

 こんなのは、自分がずっと戦っていた芸能界と何も変わらない。

 

 ただ走る。周りの人間よりも、一歩でも前へ。躓いたものは見捨て、転んだものは飛び越え、必死にふるいから落ちないようにしがみ付き、他者を蹴落とす。

 

 そんな世界(じごく)と、ここは――何も変わらない。

 

『…………』

『ここが理事長室です』

 

 そして、茅野はこの学園の支配者と相対した。

 

 

『ようこそ、雪村あかりさん』

『……茅野カエデです、理事長。……ご存知ですよね?』

 

 悠々と手を広げながら、堂々と挑発してきた男に、茅野は完璧な笑顔を作りながら返した。

 

 性格悪いなこの人、と思いながらも、茅野は笑顔を崩さない。自分よりも圧倒的な力を持つ大人に屈することの恐ろしさを、磨瀬榛名だった茅野カエデは嫌になるほどに理解していた。

 すでに飯山はここにはいない。ここにいるのは、茅野と――そして、この男だけ。

 

 理事長――浅野学峯は、そんな茅野を見て満足げに笑いながら、背もたれにぎぃと凭れつつ、尊大に仰け反りながら返答する。

 

『ええ。仮想課の菊岡さんから話は聞いていますよ。……それにしても、元有名子役とはいえ、随分と面白い繋がり(コネ)を持っているのですね。……いや、この場合、君ではなく雪村先生ですか』

『…………』

 

 茅野は表情を変えない。

 

 内心では、あの菊岡って人はそんなにすごい人なのか、という驚きがあったが、ここで妙なリアクションをしても、自分――そして姉のあぐりに対し、不利益しかないことは分かりきっていた。

 

 茅野は一目で気づいた。柳沢の人間性を一目で看破した、芸能界で鍛え上げた茅野の人物観察眼は、この男の恐ろしさも的確に見抜いていた。

 

 この男は怪物だ。芸能界にも――自分が知る限りでは――これほどの怪物はいなかった。

 

 茅野は、表情は笑顔のまま、体の前で組んだ手をギュッと握った。冷や汗が出るのを必死で抑えた。

 

 理事長はそんな茅野を見据えながら、更に薄い笑みのまま言葉を続ける。

 

『君はE組を志望しているそうだね』

『ええ、それがなにか?』

『残念ながら、それは許可出来ない』

 

 ぴく、と茅野の体が硬直した。表情は変えない。

 

 理事長は、体を起こし、机に両肘をついて、両手の上に顎を乗せながら、茅野の何かを覗き込むように言った。

 

『君の成績はA組のそれと何ら遜色はない。雪村先生から聞いているだろうが、この学校でのE組は成績不良者に対する特別強化クラスだ。君のような優秀な生徒を、そのような場所に送ることは合理的ではない。私の教育理念に反する』

『……菊岡さんからは、私をE組に編入させていただくようにお願いが言っているはずですが』

『私が彼からのお願いで了承したのは、君が偽名で編入すること、ただそれだけだよ。もし君が編入試験に合格しなければ、私は君の編入を認めなかった』

 

 理事長はスッとその目を細める。

 

 その瞬間、茅野はゾッと、強烈な“殺気”を感じた。

 

 

『この学園の支配者(りじちょう)は私だ。例え国であろうと、私の教育の邪魔をすることは許さない』

 

 

 ザッと、一歩。

 

『っ!?』

 

 その時初めて茅野は、自分が後ずさり、そして笑顔を崩していることに気付いた。

 

 そして、理解する。改めて痛感する。

 

 浅野学峯という男の――怪物さを。

 

 この男は、言葉通り、例え国が相手でも、その相手を支配し、屈服させ、自分の教育理念を貫くだろう。

 

(……………っ)

 

 芸能界という場所は、大人という権力者が、何も分からず、何も知らず、ただ夢と希望だけを持った子供達を使って“遊ぶ”場所だ。

 

 報酬も、仕事も、育成も、全てを大人達が決めて、子供達を自分の理想の偶像(キャラクター)へと育て上げる。

 

 それに気づいたのは、一体いつのことだったか――

 

 

『…………っ』

『――? ……ほう』

 

 茅野は、俯きかけた顔を上げ――不敵に笑った。

 

――そして、そんな大人達に屈さないと誓ったのは、そんな怪物達に戦いを挑み続け、生き残ってやると誓ったのは、果たしていつのことだったか。

 

 息が詰まるような殺意(プレッシャー)の中、茅野は理事長に背を向け、歩き出す。

 

 まさしく子供のようだと笑われるかもしれない。でも、嫌だった。絶対に、それだけは嫌だった。

 

 だから抗った。だから、才能(ちから)を磨いた。大人達が自分に強いる理不尽の全てを、その圧倒的な演技力で黙らせた。

 

 勿論、それで何もかもが上手くいったわけではない。割を食った。損をした。自分の知らないところで、自分に味方をしてくれる優しい人達に迷惑をかけてしまっていたのかもしれない――でも――それでも――

 

 ガシャァン!! と、並べてあった黄金のトロフィーを、盾を、茅野は一気に薙ぎ払った。

 

――それでも、強大な大人の言いなりになり、自分を“殺される”のだけは、絶対に嫌だったから。

 

(…………あ~あ。やっちゃったなぁ。今回に限っては、ただの私の我が儘だなぁ)

 

 そう。今回に限っては、茅野はルールを破るよう強制している立場であり、理事長は何も間違ったことは言っていない。

 

 茅野は理事長に不正を見逃してもらう立場であり、この学園にお世話になる以上、茅野は理事長の作ったルールに従うべきである――だが。

 

(……それでも、あんな牢獄で一年間を過ごすよりも、やっぱり私は――E組(エンド)がいい)

 

 姉が――あぐりが、あれだけ楽しそうに語っていた“子供たち”と友達になって、仲間になって、一年(せいしゅん)を過ごしたい。

 

 茅野カエデ――雪村あかりが、長年、大人達と戦い続け、怪物と戦い続けて――大人に対抗する為に、大人として生きることを己に強要してきた、自分で自分にそう強いてきた少女が、生まれて初めて行った――我が儘な反抗だった。

 

 子供らしい、反抗期だった。

 

 茅野はくるっと振り向いて、子供らしく笑う。

 

『確かE組には、素行不良の生徒もお世話になるんですよね?』

 

 こうして茅野カエデは、3年E組の一員になった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「おはよー」

「おはよう、茅野っち」

「おはよう、茅野さん」

 

 登校した茅野にクラスメイトが挨拶を返す。

 なんだかんだあったが、茅野はそれなりに楽しい学校生活を送っていた。

 

 あぐりが言った通り、みんなそれぞれいいところを持った生徒達で、転入して数か月にもなる今は、すでに親しいといえるような友達も出来てきた。

 

(……まぁ、やっぱりみんなどっか暗いけどね)

 

 それでも、やはりE組ということへのコンプレックスは大きいのか、ふとした瞬間や授業中などは、みな俯き、目から光を失わせて、ただ時間が過ぎるのを待っている状態になる。

 

 姉である雪村あぐりの代わりのお爺ちゃん先生は、お世辞にも情熱があるといった風ではなく、むしろこの山の中を毎日登校するので精いっぱいなのか、偶に遅刻することもあるくらいだ。どう考えても人選ミスだと思う。

 

(……そういうところで嫌がらせをする人には見えなかったけどなぁ)

 

 それでも授業は決して分かりにくくはないので、腕はよかったのだろう。若い頃は。

 

 まぁそれでも、今のE組では、どんな先生でもほとんど変わりはないだろうと、茅野は酷いようだがそう思う。

 

 例えば、姉――雪村あぐりか、それとも――あの理事長クラスの、怪物の先生でなければ。

 

 そうこう言っている間に始業の時間。今日も先生は遅刻のようだ。

 

(……って、あれ? 渚は?)

 

 ふと気づくと、隣の席が未だ空白である。

 

 一番後ろのカルマは、まぁよくあることだとして、それに教室を見渡すと、あの神崎もいないようだ。

 

「あれ? 渚、今日は休みなの? 茅野さん、何か聞いてる?」

「ううん。……昨日は、元気はなかったけど、でも病気って感じじゃなかったし」

「神崎さんもいないね」

 

 前の席の片岡、後ろの席の不破とそんなことを話していると、教室の前の扉から神崎、後ろの扉からカルマが登校した。

 

「あ、おはよー、神崎さん。今日はちょっと遅かったね」

「……うん。少し、寝坊しちゃって」

「神崎さんでも、そういうのあるんだね」

 

「よぉ、カルマ。珍しいな、お前が朝から来るなんてよ」

「……まぁ、ちょっと早く目が覚めちゃってね」

 

 前と後ろで正反対のことを言われながら席に着く二人。

 

 その時、茅野は神崎の後ろから、件の人物が入ってくるのに気付いた。

 

「あ、おはよう、なぎ――」

 

 

 ゾクッ。

 

 と、言葉が止まった。

 

 

(――――え、何? …………なぎ、さ?)

 

「よう、渚、遅かったな。……ってかお前、神崎さんと登校してきたの? はっ! ま、まさか、そのために遅れたのかっ!?」

「ち、違うって杉野! 僕もたまたま今日は寝坊しちゃって、神崎さんとは駅を出たとこで偶然会ったから一緒に来たんだよ。あ、茅野、おはよう」

 

 茅野は、いつの間にか自分の席に――茅野の隣の席に座った渚の言葉に、はっと硬直を解く。

 

「――あ、な、渚、おはよう」

「ん? どうかした、茅野?」

「ん、ん~ん! 何でもないよ! それよりよかったね、渚。先生がまだ来てなくて」

 

 うん、助かったよ。と困ったような笑顔で頬を掻く渚。

 

 そうだ。何でもない。()()()()()()()()

 

 なのに、なんでだろう。一瞬、強烈な違和感を覚えた。

 

 違和感………? 否、違和感というよりは、もっと強烈で、もっと恐ろしい――

 

 茅野は、後ろの席の杉野といつも通り話す渚を眺めながら、その感覚の正体を探っていた。

 

 そして、そんな渚を遠くの席から、神崎とカルマが見つめているのを見て――どうしようもなく、嫌な予感がした。

 

 

『渚君はね………すごく、危ういの』

 

 

 かつて聞かされた、姉のそんな言葉が、ふと脳裏を過った。

 




脱線にお付き合いいただき、ありがとうございます。個人的にどうしてもやっておきたかった話なので。

そして、次回はお待ちかねの八幡と大志の対話で丸々一話です!


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ついに、比企谷八幡と川崎大志は対峙する。

お待たせしました。
一つ、注意点として、この作品の吸血鬼設定は、原作GANTZのそれをベースにしながらも色々な改変を加えております。
どうかよろしくお願いします。


 

 異形の羽を確認した、次の日。大志は塾へと向かっていた。

 

 ズキッ……ズキッ……と、頭痛が続く。

 最早それは波のように断続的に、大志の頭に襲い掛かってきた。

 

「……くそッ。……何なんだよ、これ……」

 

 大志は苛立ちをぶつけるように、電柱を殴りつけた。

 ズシンッ! と大きくコンクリート製の柱は揺れ、大志の拳が叩きつけられた箇所はビキキッと罅割れていた。

 

 そして背後から、ひ、ひぃ! と悲鳴が聞こえた。

 大志がバッ! と振り返ると、犬の散歩をしていた老人がその光景を見て――大志を見て、怯えるようにして背を向けて逃げていった。

 

 大志は最初、なぜか不味いと恐怖したが、すぐにそんな感情はなくなった。

 

 老人の、大志を見る目が――得体のしれない何かを見るような目が、ひどく癇に障った。

 

「…………何なんだよぉ。…………何が、どうなってるんだよ……っ」

 

 くそっ! と、再び苛立ちをぶつけるべく電柱を殴ろうとする――が、その罅割れた柱を見て、もしかしたら、もう一度全力で殴ってしまえば、この電柱を倒して、壊してしまうかもしれない、そう思ってしまい拳を止めた。

 

 そして、そんな突拍子もないことを思いつき、そしてそれに真面目に危機感を感じて拳を止めた自分が、どこか滑稽に思い、自嘲気味に吐き捨てた。

 

 もう完全に塾に行く気など失せてしまった。そして激情が収まると再び気になるのは、頭の中で何かが暴れているかのような、この途轍もない激痛だ。

 

 昨日は背中の羽を見た途端、逃げるように布団の中に入り、そのまま寝ようとした。

 が、訳の分からない漠然とした恐怖と、そしてこの頭痛により全く寝付けずに、最後は過度な精神的ストレスに体が耐え切れなくなったのか、気絶するように意識を失った。

 

 おそらくこのままでは今日も同じことの繰り返しだろう。

 この頭痛が寝不足によるものか、それともこの状況に対するストレスによるものか、全く見当もつかないが、どちらにせよ根本的な原因の除去への目途はまるで立たない。

 

 ……自分は、一体どうすればいいのか。

 

 途方に暮れ、自分が罅を入れた電柱に寄りかかるようにして座り込んだ、その時。

 

「…………?」

 

 しゃがみ込んだ自分を見下ろすように、どこからか現れた、端正な顔つきの金髪の男が目の前に立っていた。

 

 煙草を咥えている、スーツ姿の、パッと見はホストのような人だった。肌は白い。白人の血が混じっているのか、日本人の大志からすれば、まるで精巧な作り物めいた顔立ちで、幻想的というよりは怜悧な雰囲気を纏っている人外めいた人のように感じた。

 

 いずれにせよ、平凡な日本人の中学三年生な大志にとって、今までに会ったことも、関わったこともない、別世界の住人のように思えた。

 

「……なぁ、お前」

 

 そして、事実、彼は別の世界の住人だった。別世界の、人外だった。

 

「人間、やめてんだろ」

 

 大志を、人間の世界から、怪物の世界へと誘う男だった。

 

「……………………」

 

 呆然と、その金髪の男を見上げる大志。

 

 その時、ポタッと、何かが垂れる音がした。

 

 大志は雨でも降ってきたのかと思ったが、男はそんな大志の頭上に、何かを掲げるように見せつける。

 

 

 それは、腕だった。

 

 

 生々しい断面から、真っ赤に染まった断面から、氷柱から雫が流れるように、ポタポタと血液が垂れ流れていた。

 

「…………え?」

 

 悲鳴ではなかった。ただ純粋な、疑問の呟きだった。

 

 見知らぬ男が訳の分からないことを言い、生々しい千切れた腕を見せつけるという状況に、昨日からの色々なことが相まって、遂に脳が情報を処理することを放棄したのかもしれない。

 

 だが、大志の目は、まっすぐにその腕に、その何者かの千切れた腕の断面に――そこから垂れる、宝石のように美しい真っ赤な血液に、既に奪われていた。もしかしたら、心も。

 

 ごくっと、唾を呑み込んだ。まるで、喉が、体が、それを欲するように。

 

「欲しいんだろ」

 

 男のそれは問いではなかった。断定の言葉だった。疑問が介在していない、事実を、現実を告げる断定の言葉だった。

 

 大志はそれに答えるように、もう一度、ゴクリと唾を飲み込んだ。無意識の行動だった。体が勝手に反応したような行動だった。大志の喉が、体が、勝手にそれを――その赤い宝石のような雫を求めていた。大志の意思とは、まるで関係なく。

 

 自分が、自分であって、自分でないような感覚。

 

 バウ! バウ! バウ! という、獣の鳴き声。だが、一種の陶酔状態である今の大志には、それが遠い世界のもののように思えた。まるで重厚なフィルターを通しているかのように、現実感がないただの音声。

 

 あれは、犬の鳴き声のようだ。ならば、この腕の“元の”持ち主は、先程怯えて逃げていったあの老人なのかもしれない。

 

 陶酔状態にある大志の意識の中の、妙に冷たく静かな部分が、そんなことを冷静に判断した。

 

 それでも、大志の心は、まるで揺れなかった。震えなかった。恐怖しなかった。

 

 どこまでも、冷酷に無関心だった。

 

「飲め」

 

 人間の、血液を飲め。

 

 男は、大志にそう言った。そう命じた。

 

「そうすれば、お前を襲っている頭痛は消える」

 

 なぜ、そんなことを知っているのか。どうして、そんなことが分かるのか。

 

 疑問に思うべきところは山程あるはずなのに、大志は何も言えなかった。

 

 ただ、ゆっくりと口を開き、体を震わせながら、遭難者が砂漠で雨を欲するように、無様に舌を伸ばす。

 

 乾いて、乾いて、乾いてしょうがなくて、とにかくこの喉を、この体を潤したい。

 

 そんな欲求に、抗えない。

 

 血なのに。あれは、先程まで生きていて、腕を千切られるなどという残酷な殺され方をした、人間の血なのに。

 

 それでも大志は、自分の体の欲求に逆らえない。こんなの、誰がどう考えても普通じゃない。人間のやることじゃない。

 

 

 こんなのは、まるで怪物の所業じゃないか。

 

 

 赤い宝石が垂れる。その生々しい千切れた腕から、真っ赤な雫が垂れ落ちる。

 

 それは、狙い澄ましたかのように、大志の舌に落下した。

 

 そして、ゴクリと、力強く嚥下する。人間の血液を、体内に摂取する。

 

 大志の瞳からは、等価交換のように涙が流れた。それは、遂に長らく苦しめられた頭痛から解放された故なのか、それとも――――

 

 

 そんな大志を、金髪の男は冷たく見下ろしていて。

 

 その腕から伸びた刀は、煩く喚く獣の命を刈り取っていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――こうして俺は、化け物になりました」

 

 大志は、川崎大志は、そう語った。

 

 自らが、怪物になった経緯を。

 

「…………」

 

 俺は大志にXガンを向けながら、今の話を復習する。

 大志が語ったことが事実なら、大志は後天的に、化け物になったことになる。

 

 しかも、今の話を聞く限り、最も俺の、一般的な見解に近いのは――

 

「――大志」

 

 俺は、自分の荒唐無稽な仮説を、恥ずかしげもなく大志に突き付けた。

 

「お前は、吸血鬼なのか?」

 

 大志は俺の言葉を笑わなかった。

 ただ、真っ暗な瞳でそれを受け止め、天を仰いだ。

 

 どんよりと曇った空を眺めながら、自嘲するように、吐き捨てるように言った。

 

「……正確には、あくまでお伽噺の吸血鬼(ヴァンパイア)のモデルになった怪物……だそうですけどね?」

「…………モデルになった?」

「数百年前くらいから、地球上に存在するらしいっすよ。……俺達みたいな――」

 

 怪物(ヴァンパイア)は。大志はそう言った。そう吐き捨てた。

 

 …………まて。まて。まて。

 冷静になれ。順番に情報を処理していくんだ。絶対に大志に狼狽した姿を見せるな。あくまで主導権はこっちが握るんだ。

 

 ……数百年前。吸血鬼のモデル。

 

 そのことから考えて、大志達のような――昨日の黒服集団のような怪物達が、ずっと地球上にいたというのは、おそらく確かなことだろう。

 大志が言っていることがこっちを混乱させる為の大法螺だという可能性も、まだかなりあるが……だとしても、ブラフにしても、話があまりに荒唐無稽過ぎる。

 

 ……まぁ、話している内容が、目の前にしている存在が、そして俺という存在も今や十分荒唐無稽な存在なのは、置いといてだ。

 

 とにかく大事なことは、例えどれだけ不可思議な話だろうとも、冷静に、柔軟に、一つ、一つ、受け入れることだ。

 分析し、情報を仕分けし、重要度を見極め、精査することだ。

 

「……お前達は人間なのか? ――いや、人間“だった”のか? それとも、生まれつきの化け物が、普段は人間に化けているのか?」

 

 これは、絶対に聞いておかなければならない。この情報次第で、これから先の対処がまるで変わってくる。

 

 もしも後者なら――川崎沙希、否、川崎の両親や妹弟も含めて、全員が大志と同じような怪物である可能性が高い。

 

 そして川崎沙希は、先程、俺に接触している。

 あいつも怪物だった場合――大志の、昨日の黒服集団の仲間だった場合、俺の正体は、俺がガンツの兵であることは、既に承知のことだろう。

 

 ……更に川崎は、俺と雪ノ下、由比ヶ浜の関係を知っている。

 

 俺の大切な――弱点を把握している。

 

 それはコイツにも――川崎大志にも、言えることだが。

 

 そして、前者だった場合。

 その時も、相当不味い。否、スケールという意味なら、個人的ではなく、相対的な意味で考えると、こちらの危険度の方が、遥かに高い。

 

 なぜなら――

 

 大志は再び、自嘲するように、何かを嘲笑うかのように言う。

 

「……さすが、お兄さんっすね。……状況を受け入れて――立ち向かうのが、早い。……質問に答えます。答えは、前者っす。……信じてもらえないかもしれないっすけど、俺は、去年までは、人間でした。………少なくとも、俺自身は、人間のつもりでした」

 

 ……大志が、嘘を言っているようには、見えない。

 もちろん一〇〇%信じ切る訳にはいかないが、それでも、信憑性は高いように思える。

 

 ……前者、か。

 

「……それは、人間に、なんらかの処置を施して、怪物にする――という話でいいのか? そんな理解でいいのか? 吸血鬼ならば、血を吸われた人間が吸血鬼になるといった具合に」

「いえ、さっきも言いましたけど、俺達はあくまで吸血鬼(ヴァンパイア)のモデルになっただけで、お伽噺に出てくるような分かりやすい吸血鬼とは、少し違うんすよ。……別にニンニクも十字架(ロザリオ)も平気っす。……人間の血は吸いますけど、それはあくまで栄養分であって、吸った人間も吸血鬼になるってわけじゃないっす」

「……なら、どうやって、人間を怪物にするんだ?」

 

 人間を、吸血鬼にするんだ?

 

 俺の問いかけに、大志は、今度は深く頷き、俯き、屋上の床を見つめながら、言った。

 

「……ナノマシーンウイルス」

「……なに?」

 

 大志がボソッと呟いた言葉が上手く聞き取れずに聞き返すと、大志は、力無く笑いながら顔を上げ、その暗い瞳を、絶望に染まった真っ暗な眼を、俺の腐った双眸に向けて、言った。

 

 自分を、人間から、怪物へと変えた、その元凶を。

 

「ナノマシーンウイルス。そのウイルスが体内に侵入して、全身の細胞を作り変えるんす。……そうして俺等は――俺は、吸血鬼に……怪物に、なったんす」

 

 そう、セミナーで教わりました。

 大志はそう言った。

 

 ……クソ。またか。話の展開が唐突過ぎる。情報量が莫大だ。

 

 ウイルス――そう言ったのか?

 ……突拍子もないというよりかは、完全に想定外だ。これならまだ吸血鬼に血を吸われたら云々っていう方が納得できる。変に科学的な要素を持ってくるなよ。こちとら根っこから文系なんだよ。

 

 人を吸血鬼に変えるウイルス……か。

 

 ……少し考えるだけでも、検討しなければならないことが膨大な新情報だが、あまりに多すぎてすぐには絞れない。

 

 ならば、もう一つの聞き逃せない新情報について掘り下げるべきか。

 

「……セミナー、だと」

「……はい。言いそびれてましたけど、さっきの話の後、俺は塾じゃなく、氷川さんに連れられてどこかのセミナーに連れてかれたんす」

 

 おい。言いそびれんなよ。めちゃくちゃ重要そうな話じゃねぇか。

 

 ……氷川。さっきの話に出てきた金髪――昨日、桐ケ谷と戦ってた奴か? ……まぁいいか。わざわざ話を遮るほどのことじゃない。

 

 昼休みは短いからな。

 

「よくあるじゃないっすか。駅前とかに、見るからに怪しいテナント。そんな中に、俺達みたいな怪物に成り立ての人間に対して、ご丁寧に教習みたいなのをしてくれるところがあるんすよ」

「………………」

 

 だと、したら。

 

 こいつ等は、チビ星人なんてものじゃない。チームなんてものじゃない。

 

 歴とした、一つの大きな組織を作っている。

 

 今までの星人よりも、遥かに人間社会に溶け込みながら。

 

 そして、大志はセミナーでの話を俺に語った。

 

 その内容は――

 

・ナノマシーンウイルスが体内に侵入し、適合した人間は、数週間かけて体内の細胞が全て入れ替わり、吸血鬼(かいぶつ)となる。

 

・細胞が入れ替わっても、普段の見た目は元の人間時と同じ容姿である。

 

・吸血鬼になると、皮膚がとても頑丈になり、筋力も大幅に増す。

 

・自分の身体から刀や銃などの武器を生成できる。

 

・主な栄養源は人間の血液。普通の食事も摂取可能だが、定期的に血液を摂取しなければ、背中に羽のような発疹、慢性的な頭痛などの症状が現れる。その他、甚大な副作用が生じる。

 

 そして――

 

「――ナノマシーンウイルスに適合した人間が吸血鬼になる……って言ったな。これは、どのくらいの確率なんだ? そして適合できなかった人間はどうなる?」

「確率は、相当低いみたいっす。適合できなかった場合は、咳やらくしゃみやらでウイルスは体外に排出されるそうっすよ」

「……そうか」

「……だからこそ、我々は“選ばれた存在”なんだ、ってセミナーの人は言ってたっす」

 

 大志は、今日、一番悲しげな顔で、そう言った。

 

 選ばれた存在。選ばれてしまった存在。

 自分の意思など関係ない。もっと大きな意識によって、もっと大きな存在によって、理不尽に運命を捻じ曲げられてしまった、大志。

 

 それはどこか、俺達に――俺に似ている気がした。

 ガンツという大きな――規格外で、埒外で、枠外な力をもった存在によって、理不尽に、身勝手に、運命を捻じ曲げられてしまった俺達。

 

 だが、俺達の場合は、死の淵より拾われたという事情がある。ガンツによって強いられた運命は、とんでもなく理不尽な地獄だが――それでも。

 ガンツによって選ばれていなかったら、拾われていなかったら、俺達は死んでいた。既に、ここにおらず、死んでいる。

 

 だが、大志は違う。

 選ばれなかったら、変わらなかった。変わらずに、そのまま、あのまま人間で居続けることが出来た。

 

 変わらずに、幸せでいられたんだ。

 

 大志は、ただ、殺されただけだ――人間の、川崎大志を。

 

 そして、望んでもいないのに、無理矢理生まれ変わらせられた――怪物の、吸血鬼の、川崎大志として。

 

 きっと、大志は俺よりも救われず、俺よりも――ずっと不幸だ。

 

 

「――そうか。それで、次の質問だが――」

 

 

 確かに可哀想な話だ。救われない話だ――だが、それがどうした?

 

 だが、それでも、それだからこそ、大志が俺の敵であることには変わらない。

 

 小町を脅かすかもしれない存在であることは揺るぎない。

 

 今俺がすべきことは同情などでは決してなく、目の前のこいつから出来る限りの情報を得ることだ。

 

 吸血鬼が組織を形成していることが分かった以上、調べなくてはならないことは山のようにある。本拠地、組織構成――そして、目的。

 

 奴等は昨日、ミッション直後の俺達を襲った。そして見る限り、俺達の存在――ガンツについて、ある程度知っているようだった。狙って襲ってきたようだった。

 

 つまり奴等は、昨日のような行動を、明確な目的を持って繰り返している。これについては、一刻も早く調べなければならない。いつ再び襲われるか分からないからな。

 

 まだまだこいつには、聞かなければならないことが――

 

 

 だが、その時、昼休みが終わる、予鈴が響いた。

 

 

「……どうしましょっか?」

 

 大志はそう苦笑いを浮かべながら告げる。

 

 ……本来なら、このまま尋問を続けたいところだが、今の俺は悪い意味で目立つ。今までのように授業をサボっても気づかれないということはないだろう。

 

 それに何より、雪ノ下。

 昼休みが終わったら戻ると言ってしまった以上、このまま戻らなければ、大声をあげて校内中を探し回りかねない。

 

――潮時、か。

 

 だが、俺は最後に、これだけは問い詰めなければならなかった。

 

 大志に一歩、一歩、警戒しながら近づく。

 

 武器は持っていないが、こいつ等は体を武器に変形することが出来るらしい。……大志が出来るかは不明だが、出来るという前提で行動すべきだ。

 

 そして、大志の顔に銃を突きつけ、低い声で言う。

 

 

「――最後に問う。……大志。お前は、“どっち側”だ?」

 

 

 俺の問いに、大志は大きく目を見開いた。

 

 その問いは、そんなことを聞くのかというよりは、聞いてくれるのかという思いが現われているかのようだった。

 

 大志は、静かに、泣いているかのように笑いながら答えた。

 

「……俺は、まだ、“こっち側”でいたいっす。……だから、お兄さん――」

 

 大志は、一歩、俺に歩み寄った。

 

 それにより、コツ、と、Xガンの銃口が大志の額に当たる。

 

 そして、それを愛おしそうに、大志の両手が包み込む。

 

 

 

「――俺が、完全にあっち側に行ったら……お兄さんが、殺してくれないっすか?」

 

 

 

 俺は、それに、間髪入れずに答えた。

 

 

 

「安心しろ――死にたくないって言っても殺してやる」

 

 

 

 だから。

 

「その代わり、二度と小町に近づくな」

 

 大志は、……はい、と、噛み締めるように、泣きながら、答えた。

 




次回はつなぎです。
本当に短く、八幡も出ません。

その代わり、ゆびわ星人が始まってようやくあの子が登場します。


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少女は、始まりのあの場所で“闇猫”と再会する。

ネタバレなサブタイ。


 

 どんよりと曇った空を見上げていた。

 

 もう何時間くらい経っただろう。

 新垣あやせは、放課後の学校帰り、家に帰らず制服のまま、こうして児童公園のベンチに座り、ただ空を眺めていた。

 

 平日故か公園内にはあまり人気はなく、静かだった。最近の子供は家でゲームばかりで、公園であまり遊ばなくなったというのは本当なのかもしれない。ただ単純に空模様が芳しくないという理由かもしれないが。

 まぁ、この公園は普段から人気が少なく、物寂しい場所ではあるのだけれど。

 

 

 この児童公園は、かつてあやせが京介によって桐乃と仲直りした場所だった。

 

 

 あの頃――あやせが京介と知り合って間もない、あの頃。

 

 桐乃がオタクであることを知り、ショックを隠し切れず、酷い仲違いをしてしまった。

 思い込みが激しく潔癖症だった自分は、自分の理想の桐乃との違いが許せなくて、受け入れられなくて――そして、京介に救われた。

 

 嘘をついて、騙してくれた。そして桐乃と――大好きな親友と、仲直りさせてくれた。

 

 そして、新垣あやせは、高坂兄妹の物語の一員になって――そして、あの兄妹が大好きになったんだ。

 

 その後も、ことあるごとに人生相談だと称して京介を呼び出して、その度に色んなことが起こって、そして、そして――

 

 

「……………」

 

 不思議だった。

 

 京介に振られてから、桐乃と、再び喧嘩のような、仲違いのようなものをしてから。

 

 自分は、あの二人との――あの兄妹との思い出が深い場所には、近づかないようにしていたのに。逃げるように、避けていたのに。逃避していたのに。

 

 それでも今日は、まるで導かれるように、この場所に来ていた。

 

 こんな、数ある思い出の中でも、一際強く心に残っている――突き刺さっている、この場所に。

 

 自分にとって、ある意味であの物語の、あの初恋の、始まりのような、この場所に。

 

 なぜだろう。やっと踏ん切りがついたのだろうか。それとも未練の表れだろうか。

 

 それとも――

 

「………………」

 

 あやせは、空に向かって手を伸ばした。

 

 どんよりと曇った空に。太陽すら出ていない空に。

 

 何で手を伸ばしたのか、何に手を伸ばしたのか、自分でも分からない。

 

 だが、一つ、確かなのは――

 

 

「あら」

「……え?」

 

 その時、誰かの声がして、あやせはようやく空から視線をゆっくりと下した。

 

 そこいたのは、セーラー服を着た、あやせに負けない程に艶やかで綺麗な黒髪の少女。

 

 真っ白な肌に、目の下には黒子。小柄ながら不思議と大人びた美を感じさせるこの少女の事を、あやせは知っていた。

 

 桐乃との間に距離が出来てから――否、正確には、もっと前。

 

 去年、京介に振られ、そしてその後の年末、あの冬コミで――

 

「お久しぶりね、我がサークル『神聖黒猫騎士団(ブラックナイツ・ノヴァ)』のメンバー、“闇天使(ダークエンジェル)”!」

「わたしのことを二度とその名前で呼ばないでくださいぶち殺しますよ」

 

 彼女の名前は五更瑠璃――通称“黒猫”。

 

 高坂桐乃の“裏”の親友で。高坂京介の“元”彼女で。

 

 新垣あやせと同じ男性(ひと)初恋(こい)をし。

 

 同じように、高坂兄妹に――切り捨てられた少女だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その日の最後の授業が終わり、放課後となる。

 

 真っ先に寺坂グループが教室の後ろから出ていくのを皮切りに、ぞろぞろと皆、帰り支度を始めた。

 

「…………」

「あ、あの神崎さん、一緒に帰りませんか?」

「…………」

「……あ、あのぉ、ご迷惑だったでしょうかぁ?」

「っ! い、いえ、そんなことないですよ! 一緒に帰りましょう、奥田さん!」

 

 勇気を振り絞ったという感じで奥田が神崎を下校に誘う。

 何かに気を取られていた神崎はそれに気づかなかったが、泣きそうな声を聞いて奥田に気付き、慌てて笑顔でそれに応じる。

 

 ぱぁと花が咲いたように笑顔になる奥田とは対照的に、こちらも神崎を下校に誘おうと狙っていたが勇気が出せずに撃沈し、がっくりと肩を落とす杉野。

 それを苦笑しながら見ていた渚に、茅野が声を掛ける。

 

「な~ぎさ。一緒に帰ろう!」

「ん? 茅野?」

 

 確かに渚と茅野は席が隣同士ということもあってそれなりに仲が良く、放課後に雑談をしていた流れで一緒に帰るというのはそう珍しいことではなかったが、こう真っ直ぐに茅野の方から誘ってくるのはあまりなかった。

 

 訝しがるというよりは、珍しいなといった感じで不思議がる渚の背後――神崎を誘えなかったので、いつも通り渚を誘おうとした杉野(そういう決め事や約束をしているわけではないが、渚は杉野と一緒に帰ることが一番多い)に、茅野はそっと目配せする。

 

 その意図を汲み取ってくれたのか、杉野は笑顔でサムズアップして、そのまま一人で帰ってくれた。

 

(……う~ん。もしかしたら、“そういう風”に誤解されたかなぁ?)

 

 中学生が異性と“二人っきりで”一緒に帰りたいという意図を告げれば、そういった方向に勘ぐるなという方が無理があるのだろうが――杉野はそういったことを不用意に吹聴するような人ではないだろうからと、茅野はそのことはもう考えないようにした。

 

「うん、いいよ。じゃあ――って、あれ? 杉野は?」

「なんか急いで出ていったよ。なにか、用事でもあったんじゃない?」

「そっか。……いや、まさかね。さすがにそれはないか」

「ん? 渚?」

「いや、なんでもないよ。それじゃあ、僕達も帰ろうか、茅野」

「うん」

 

 一瞬、杉野は神崎達を追いかけていったんじゃないかと思った渚だったが、杉野にはいい意味でも悪い意味でもそんな行動力はないだろうと即座に断じた。ちょっと酷い渚。

 

 別に約束をしているわけでもないし――そもそも昨日も自分はさっさと一人で帰ったし――と渚は深く考えず、茅野に自分達も帰ろうと促す。

 

 茅野と一緒に帰るのは初めてではないが、いつもは杉野が、雨の日にはたまに岡野もいたりするので、そういえば二人きりって初めてかも、なんてことを考えながら、渚は茅野と雑談しながら教室を出る。

 

 そして、玄関までの廊下を歩いていると――

 

「――ん? あれ? カルマ君?」

「……やぁ、渚君」

 

――廊下の教室側の壁に背をつけて、渚を待ち伏せていたカルマがいた。

 

「………」

 

 茅野は、その二人の様子を見る為に、そっと一歩後ろに――渚の斜め後ろに下がる。

 

「どうしたの、カルマ君?」

「……いや、ね」

 

 カルマはじっと、見下ろすように渚を観察する。

 

「…………?」

 

 渚はそんなカルマの様子を不思議がるように、ただ首を傾げた。

 

 そして、少しの沈黙が二人の間を満たし、渚が居心地の悪さを感じてカルマに問いかけようとした頃、先にカルマが言葉を発した。

 

「今朝さ、渚君、本校舎の連中に絡まれてたよね」

「え!? ……あ~。見てたんだ、カルマ君……」

「ちょうど駅から出たところでさ、目に入って。割り込もうかと思ったんだけど――なんか、渚君、一人で追い払っちゃったからさ」

 

 えっ? と茅野が思わず声を漏らす。

 

 黙って静観しようと思っていたのにまさしく痛恨だが、カルマの視線がこちらを向いたことにも気づかないくらい、茅野は衝撃を受けた。

 

 だって、渚が、あの渚が、絡まれた本校舎の生徒達を――追い払った? それも、自力で?

 

 茅野は渚の方を向くが、渚は気まずげに頬を掻いているだけで、訂正しようとしない。

 

(……まさか、本当に……)

 

 茅野のそんな思考を余所に、渚に視線を戻したカルマが、話を続ける。

 

「今更なんだけど、助けられなくてゴメンね?」

「いや、大丈夫だよ。……もし、カルマ君が入ってきたら、なんていうか、もっと大事になってたかもしれないし」

「ははっ、かもねぇ。瓶で殴りかかったりしてさあ」

「……洒落になってないよ、カルマ君」

 

 カルマが渚の冗談ともいえないような言葉に笑っていると、渚がふと、何でもないように漏らした。

 

 

「大丈夫だよ、僕は――――殺されそうになったわけじゃあるまいし」

 

 

 そう、当たり前のように言った。

 

(……な、ぎさ?)

 

 カルマは思わず表情を固め、茅野は息を呑んだ。

 

「じゃあね、カルマ君」

「………うん。またね、渚君」

 

 そういってカルマの横を通行する渚。

 

 茅野は、カルマとのすれ違い様、カルマの様子をそっと見ると――

 

 

――彼は、額に一筋、冷や汗を流していた。

 

 

「………はは」

 

 そして、乾いたような、笑みを漏らす。

 

 そのまま、微動だにせず、固まったように佇みながら。

 

「…………」

 

 茅野は再び前を向いて、少し前を歩く渚の背中を見つめた。

 

 小さな背中。無害な背中。

 

 昨日までは、その背中を眺めても、こんなに胸がざわついたりしなかったのに――

 

(…………渚)

 

 表面上は、何も変わっていない。

 

 言葉を交わしても、いつも通りの、温和で、優しくて、誰も傷つけない無害な小動物のような渚だ。

 

 なのに、どうして、ふとした瞬間――ゾッとするように、怖くなるんだろう。不安になるんだろう。

 

 茅野は、歩く速度を速め、渚に追いつこうとした。

 

 まるで彼が、どこか遠くへ行ってしまいそうで。

 

 いなくなって、しまいそうで。

 




短くてすいません……。
文字数ではなく内容の区切りの良さで一話を決めているので、めちゃくちゃ長かったり、今回のように短かったりで安定しませんが、本当にごめんなさい。

次回は再びあやせ、そして今回も出番がなかった我らが主人公八幡の話です!


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少女は、聖戦を戦い抜いた同志に包まれ、その初恋を卒業する。

共に戦い抜いた、敗北者達の一幕。


 

 今日は奉仕部を休みにし、雪ノ下を真っ直ぐに自宅に送った後、俺はすぐさま一度帰宅し、ガンツスーツを着て、その上にパーカーとスウェットを纏い、家に書置きを残して外に出た。

 こんな拙いカモフラージュをするよりは、誰も見ていないところでさっさと透明化を発動しちまえばいいんだろうが……やはり、どうしても日常においてガンツ装備を使うのは躊躇いがある。こんな風に常に携帯しておいて今更だろうが、ギリギリまで使わないに越したことはないと思ってしまうのだ。

 

 それは、情報漏洩の回避というよりは、やはり、下らないトラウマに近いものなのだろうが。

 俺のせいで、俺がガンツに関わってるせいで、壊してしまった日常世界への、どうしようもなく自己満足な罪悪感の、表れなんだろうが。

 

 それに、こんなポーズだけの贖罪のようなものを見せていても、きっといざという時は、何の躊躇いもなく俺は引き金を引く。

 こんな風に、表面だけを繕っただけで、中身はしっかりと完全武装しているのが良い証拠だ。

 

 ったく、本当に腐りきっている。何もかも。

 

「…………」

 

 俺はXガンなど必要最小限のもののみが入った軽い鞄を肩にかけ直し、俯きながら目的地へと向かう。

 

 本当は大志が小町に手を出さないか付きっ切りで見張りたいところだが、大志が俺を誘き寄せる囮である可能性は否めない。

 吸血鬼の情報を聞かれるだけ答えたり、小町に手を出さないと約束したり、あまりにも俺に対して都合が良すぎる存在だ、あいつは。

 

 捻くれていると言われるかもしれないが、これはもう俺の習性のようなものだ。物事をネガティブに――批判的に考えるのは。だが、事が事なだけに裏を考えすぎて悪いということはないだろう。

 

 そういう意味では、俺の考えが足りない――もしくは考えすぎてる場合、小町が大志に殺されるということになり、そうなった場合は俺の負けなのだが――惨敗もいいところなのだが。だが、それよりも、小町を生かしておいて俺を引き寄せる囮に使う方が、奴等にとっては有効的だと思える。……これは、奴等が小町を殺す理由はない、と、俺が思いたいが故の、情けない俺らしくもない希望論な考えかもしれないが。俺を誘き寄せるということなら、まさしく小町を殺すことで、俺を挑発するという使い道もある。

 

 しかし、どちらにせよ、小町を生かすにせよ殺すにせよ、俺に対する囮として使うのなら――奴等が俺を一刻も早く排除しようとするのなら、しているのなら、昼休みに大志は俺の誘いに応じる必要なんてなかったはずだ。

 

 俺が誘いをかけたのは朝の登校時だ。

 俺をさっさと処分したいのであれば、昼までの間に他の仲間と連絡を取り、屋上で待機させておけばよかったのだから。

 

 だが、結果は見ての通りだ。俺はまだ、無様にこうしてのうのうと生き延びている。

 ここから考えられるのは、奴等は俺単体にそこまで価値を見出していないということ。

 

 そして、俺に対して価値を見出していなければ――小町に関しても、奴等は、少なくとも大志を除いた奴等は、何の価値も見出していないだろう。

 

 そうならば、今は最大のチャンスだ。

 

 こっちから、打って出る好機だ。

 

 ……大志に、関しては――

 

 

『……俺は、まだ、“こっち側”でいたいっす。……だから、お兄さん――』

 

 

『――俺が、完全にあっち側に行ったら……お兄さんが、殺してくれないっすか?』

 

 

「……………」

 

 ……今、すぐに、小町に手を出すということはしないだろう。

 

 組織の上からの命令というのならばまだしも、俺に対してそこまで価値を――脅威を見出していない現状では、俺を無闇矢鱈に刺激するようなことはしないはずだ。ましてや、さっきの今で。

 

 だから、動くなら今だ。

 

 俺は今、大志が言っていた例のセミナーの教室に向かっている。

 大志の情報が確かなら、奴等の息がかかった――根城の一つ。

 

 そこに、今から、俺は単独で乗り込む。

 

 ガンツミッションに関係なく、俺が、プライベートで仕掛ける星人との戦争。

 

 ……確かにリスクは高い。重傷を負っても転送時に回復したりしないし、武器もXガンとガンツスーツだけだ。敵もどれだけいるか分からない。そして点数も稼げない――一円にもならない労働だ。

 

 だが、奴等は――吸血鬼星人は、一刻も早く処理しなくちゃならない。

 コイツ等は、今までの星人とは危険度が段違いだ。

 

 完璧に人間社会に溶け込む擬態能力。高度な知能。巨大な組織。

 そして、戦闘能力。あの金髪は桐ケ谷と互角に渡り合っていたし、あのデカいグラサンは千手クラスの化け物だと感じた。

 

 あんなのが、あと何体いるのかも分からない。

 

 そして、何体増えるのかも……。

 

 ナノマシーンウイルス。

 大志の話が本当ならば、元凶のそれをどうにか出来ないことには、根本的な解決にはならないのかもしれない――その辺を探る為にも、まずは奴等についての正確な情報収集が必要だ。

 

 今回の潜入ミッションでは、奴等に対して攻撃を行うことが目的じゃない。

 奴等の息のかかった根城を探り、情報を得ることが最優先だ。

 

 生態や、具体的な組織の形態、規模。そしていずれは本拠地。弱点なんかも見つかったら最高だ。

 

 ……ナノマシーンウイルスか。一応マスクはしてきたけどこんなので防げるのか?

 っていうか今更だけど、初夏のこの時期にダボダボのパーカーとスウェットにマスク姿の目が濁りきった男ってかなり怪しいよね? ヤバい。吸血鬼とかガンツとかいう前にお巡りさんに職質されちゃうかも。……いや、冗談じゃねぇよ、荷物検査とかボディチェックとかされたら終わりだよ。頭バーンだよ。くっ、まさかここにきて国家権力が敵に回るなんてっ! いつも通りだね!

 

 なんて恐ろしい可能性(みらい)を考えていて、比喩抜きで恐怖で体が震え出した時――

 

「――ん?」

 

 目の前に、天使が降臨していた。

 

「…………………………………」

「…………………………………」

 

 えっと、こちらも比喩抜きで、例えとかじゃなくて、戸塚でもなくて、言葉通りの意味で天使がいるんだ。目の前に。

 くりっとした瞳で、おかっぱ頭。おそらくは小学校低学年くらいの子が――真っ白なゴスロリ服を着て、背中に羽根を生やして、俺を見上げているんだ。

 

 ………………え? 何? ついにお迎えが来ちゃったの? ネロ的なアレなの? もう疲れたよパトラッシュなソレなの? いや、こんな可愛らしい天使に連れていかれるのならそれは本も――

 

「あの、おにぃちゃん?」

 

 ………………………………………………グァハァァァァァァアア!!!!!

 

 な、なんだ、今の破壊力は………。これはまさか、ガンツが作り出した新しい天使型兵器なのか……っ!?

 

 自他ともに認めるシスコンの俺が、一瞬小町以外の存在を妹と呼び愛でたくなってしまったぞ……っ。いや、シスコンだからこそか……ッ。くっ、なんて恐ろしいものを作りやがる。これに落ちない千葉の兄貴なんているのかっ!

 

 落ち着け……動揺を表に出すな……今の俺のファッションで息を荒げたりなんてしたら110番間違いなしだ。冗談抜きで俺の頭が吹っ飛ぶ。こんな天使にそんなトラウマを植え付けるわけにはいかないっ(使命感)!

 

 そんな俺の葛藤を余所に、相変わらずくりっとした大きな瞳をパチクリさせて可愛らしく首を傾げた天使は、さらに俺にこう語り掛けた。

 

「おにぃちゃんは、じゃあくなまおうさまなのです?」

 

 ………………………んん?

 

「そのくらきしっこくのひとみは、まさしくじゃおうしんが――」

「まてまて、色んな意味で待って」

 

 どうしよう。本当にどうしよう。こんな状況生まれて初めてだ。

 

 ああ、現実を認めよう。俺は、今、天使のコスプレをしたゴスロリ幼女にキラキラとした眼差しで魔王様と呼ばれている。

 

 ……………どんな状況だよっ!!

 

 さすがにここ半年間で色々な修羅場を潜り抜けて突飛な状況に対する適応力は磨き抜かれたと自負する俺だが、この状況は想定外だ。っていうか想定している奴いるのか? そいつ頭おかしいからいますぐレッツホスピタル! 倫太郎先生の診察を受けよう!

 

 俺は小町のお蔭で年下に対する耐性はあるが、ここまで年下だとそれも通じない。っていうか大概の子供は俺の目を見て怖がってぐずりだすまである。そしてママさん連中に鬼のような目で見られるまででワンセットだ。

 

 だが、あろうことがこの幼女はそんな俺の目をいたく気に入ってくれたらしく、それはもうきらっきらの目で見上げてくる。きらっきらだ。俺の腐った眼が浄化されるまである。ま、眩しい! ぐぁぁぁあああ! ってなる。

 

「たまちゃーん! どこ行ったのーー!!」

 

 すると、遠くの方から焦っているような女の子の声が聞こえた。

 

 こちらも幼いが、目の前の幼女と違って舌足らずな感じはないから、おそらくは小学校高学年くらいだろう。

 

「あれ? お姉ちゃん?」

 

 すると天使がくるっと振り返って反応した。この子のお姉ちゃんが探してるのか? ……この子のお姉ちゃんって天使の上位種の大天使とかじゃねぇよな……。

 

「うぅ、どこ行ったのさ、たまちゃん……。あんな恰好で出歩かれると、この辺の友達に見られたら恥ずかしくてもう帰って来れないよぉ」

 

 ですよねー。

 

 曲がり角から姿を現したのは、なるほどお姉ちゃんというだけあって雰囲気はどこか似ているが、着ている服はキャラが薄――いや、ごく普通の、Tシャツにズボンの、予想通り小学校高学年くらいの少女だった。

 

 よかった……。さすがにこんな濃いキャラクターが二人も三人もいたら完全にキャパオーバーだわ。……いくら千葉でもそれは――

 

「完全にルリ姉の影響だよぉ……。着実にルリ姉二世だよぉ……」

「!?」

 

 なん……だと……。

 

 これのさらに師匠的な存在がいるのか!? しかもあの子が姉って呼んでるってことは中学生以上だろ!? 中二病拗らせたってレベルじゃねぇぞ! いったいどれ程の業の者なんだ!? 完全に材木座じゃねぇか!

 

 その時、顔を俯かせてだらーんと両腕を投げ出しながらゾンビのように歩いていた少女が顔を上げ――――ばっちりと、俺と目が合った。

 

「――あ」

「――あ」

「お姉ちゃん♪」

 

 時が止まる俺と少女。そんな俺等とは住んでいる時空が違うとばかりに輝く笑顔で姉に向かって可愛らしく手を振る天使。

 

 俺はこの時、ツッコミに夢中で忘却していた今の状況について、遅まきながら気づいた。

 

 俺は現在、自分で引く程に目が腐りきった双眸で、尚且つこの初夏の時期にダボダボのパーカー(黒)とスウェット(紺)とマスクという風貌。

 

 そんな不審者(おとこ)のすぐ傍に、純白の天使コスプレの愛くるしい(てんし)

 

 さぁ、導き出される結論は!

 

「あ……あ……あ……」

「待て、落ち着け、まずはそのスマホを仕舞うんだ」

 

 少女(姉)は瞳に涙を浮かべながらゆっくりと後ずさっていく。

 

 俺は敵意のないことを示す為に両手を挙げながら説得に当たろうとするが――

 

「お姉ちゃん、このおにぃちゃんはじゃあくなまおうさまなのです♪」

「お願いだからやめてくれこの状況じゃ違う意味にしか聞こえないから」

 

 幼女(妹)がこの張り詰めた修羅場に爆弾を喜々として無自覚に投下する。

 

 その言葉を機に、少女(姉)がダッとダッシュし俺の眼の前まで接近して天使の腕を掴み、21番を背負うアイシールドのランニングバックが如き鋭い光速のカットで、来た道を全力全開全速力で引き返した。

 

「変態だぁぁぁああ!!! ロリコンな魔王さまだぁぁああああ!!!!」

「俺の人生にピリオドを打つようなことを叫びながら逃げるなッ! 待て! 頼むから待って!!」

「ぎゃああああ!!! 魔王様が追いかけてくるぅぅぅ!!! おとぉぉぉぉうさぁぁぁああん!! おとぉぉさん!! まおぉぉぉがぁぁぁくるうううううう!!!!」

 

 久しぶりにガンツミッション以外で生命の危機を感じたひと時でした。まる。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 新垣あやせは、再びどんよりと曇った空を眺めていた。

 

「……お久しぶりですね」

「ええ、聖戦を共に戦い抜いた、あの時以来ね」

「……その聖戦って冬コミとやらのことですか? なら、いい加減にしないとわたしも怒りますよ。あの時のことはもう忘れてくださいって言ってるじゃないですか」

 

 先程までと違うのは、あやせはベンチの端に寄り、反対側の端にセーラー服姿の美少女がちょこんと座り、同様に空を――どんよりと曇った空を見上げているということ。

 

 彼女――五更瑠璃は、あやせのそんなぶすっとした言葉に、大して陽射しも強くないのに――というよりほとんどないのに――目に入る光を遮るように右手を上げながら、「……違うわ」と、呟いて――

 

 

「――私達の、初恋のことよ」

 

 

 瑠璃――黒猫は、そう、はっきりと口にした。

 

 あやせはその言葉に対し、予め覚悟を決めていたように、何も言わなかった。

 

 ただ、キュッと、口を引き締めた。

 

「大体、冬コミは、あなたひどい有様だったじゃない。闇天使(ダークエンジェル)コスのままパイプ椅子に座ってぶつぶつぶつぶつと怨念を撒き散らしてただけじゃない」

「……黒猫さんだって人のこと言えないでしょう。カップルどころか、男の人と女の人が一緒にいるのを見かける度に呪いをかけまくってたじゃないですか」

「黒猫じゃないわ。私は闇猫よ」

 

 あらゆる恋を否定せしもの、闇猫。

 この年上の女性は、相も変わらず訳の分からず、どうしようもなく拗らせていた。

 

 でも、真っ直ぐだった。

 純粋で、綺麗で――とても、強い。

 

「…………黒猫さんは……桐乃や………お兄さんと、サークル活動を、続けていると聞きました」

「…………誰から、なんて、野暮ね」

「どうしてですか?」

「…………」

「どうして、そんなことが出来るんですか?」

 

 あやせは、相も変わらず、空を眺めながら言った。

 

 灰色で覆われた空模様とは異なり、あやせの心は、思いの外すっきりとしていた。

 ドロドロ、していない。きっと、昨日までの自分では、こんなことは聞けなかった。

 

 でも、この、心を綺麗に満たしている、感情の種類は分からない。

 

 これは一体、何なのだろうか。

 

 黒猫は、そんなあやせの心内を知ってか知らずか、こう答えた。

 

「――質問を質問で返すようで悪いけれど、あなたはあれから桐乃や先輩と会っていないそうね」

「……会ってますよ――桐乃とは。同じ学校ですから」

「無様な真似はやめて頂戴」

 

 あやせの濁すような言葉を、空を見上げながら黒猫はバッサリと切り捨てる。

 あやせは何も言わず、表情も変えず、それを受け止めた。

 

「……こちらこそ、聞かせてもらうわ」と、黒猫は前置きをした後、その言葉を斬り込んだ。

 

 

「あなた――あの兄妹のことが、嫌いになったの?」

 

 

 あやせは、その言葉を、何も言わず、表情も変えず――黙って、受け止めた。

 

 それに対し、反射的に否定するでも、肯定するでもなく――思考を選んだ。

 

 あやせは、じっと、目を瞑る。

 もう、いいのかもしれない、と思った。

 

 京介に振られて――およそ、半年。

 桐乃に、期間限定の事実を告げられて――およそ、三か月か。

 

 もう、いいのかもしれない。いい加減、向き合う時だ――――己の、感情と。

 

 

 わたしは、新垣あやせは。

 

 

 高坂桐乃を。高坂京介を。

 

 あの兄妹のことを。

 

 

 今は。

 

 どう、思っているのだろう。

 

 

「……………例え、あなたがあの兄妹を見限っても、しょうがないと私は思うわ。あの二人は、それだけのことをしたんだもの。……それくらい、あの兄妹は――気持ち悪いもの」

 

 そう、気持ち悪い。端的に言って、まずその言葉が浮かんだ。

 

 新垣あやせは、高坂桐乃が大好きだった。尊敬していた。彼女がわたしの一番の親友だと、あやせはとても誇らしかった。

 新垣あやせは、高坂京介が大好きだった。恋をしていた。彼がわたしの初めての恋の相手だと、あやせはとても嬉しかった。

 

 でも、それでも――いや、だからこそ。

 その二人が、その兄妹が――あろうことか、兄妹で、兄と妹で。

 

 恋を、するなんて――社会のルールとか、一般の常識とか、そういうこと以前に、気持ちが悪かった。

 

「……それでも、私達は戦った。桐乃がそんな変態だってことを理解した上で、あなたは、“()()()()()()”と、そう言った――――私達は、それぞれ別の形で、あの兄妹と戦ったはずよ。それは、まさしく聖戦だった」

 

 そうだ。あの兄妹が気持ち悪いことなんて、とっくの昔に気付いていた。

 

 京介に振られる前から、桐乃に負ける前から――気付いていた。

 

 そして、それでもあの時のあやせは、あの兄妹から離れるのではなく――戦うことを選んだ。

 

 そして―― 

 

 でも――

 

 

「わたしは――わたし達は、負けました」

「…………そうね」

 

 あやせは、黒猫は――自分達は、“期間限定”の、桐乃に負けた。

 

 それは、揺るがない、紛れもない、ただそれだけの、残酷な事実だ。

 

「……わたしは、今でも自分が、間違っていたなんて思いません。……桐乃とお兄さんは、間違っています。気持ち悪いです。どう考えても、あんな関係は正すべきでした」

「………………そうね。否定はしないわ――肯定も、出来ないけれど」

 

 黒猫の言葉に反射的に口を開こうとして、あやせはギュッと唇を噛み締める。

 そして、黒猫同様に、ほとんどない陽射しから目を守るように、右腕で顔を覆う。

 

 そのまま、ゆっくりと口を開き、今日、初めて、心から吐き出すように、感情を吐き出すように、言った。

 

「……………それでも、こんなのは、あんまりじゃないですか…………わたしが正すまでもなく、あの二人は自分達の気持ち悪さを理解していて……勝手に付き合って……勝手に別れて………何がしたいんですか? ………何が、したかったんですか?」

 

 そして、その目を覆う腕を伝って、涙がポロポロと零れ落ちる。

 

 涙声だった。振られた女の子が、恋破れ――恋敗れた女の子が、やっと流せた、悔し涙だった。

 

 

「これじゃあ…………わたし、バカみたいじゃないですかぁ」

 

 

 ギュッと、抱き締めた。

 

 いつの間にか立ち上がっていた黒猫は、ベンチの背もたれの後ろから、あやせの頭を胸に抱くようにして、包み込むように抱き締めていた。

 

「………その気持ちは、きっと、世界で一番、私が分かるわ」

 

 あやせの零す言葉は、もう言葉になっていない、ただの嗚咽になっていた。

 

 それでも黒猫は、その一言一言を、真摯に、噛み締めるように受け止める。

 

「………それでもね。私は、あの兄妹の気持ちも……分かるの。………分かりたいと、思ってしまうのよ」

 

 あやせは子供のように泣きじゃくった。

 そして、その涙と共に、嗚咽のような泣き言と共に、徐々に心の中の、正体不明の感情が消えていく。

 

 あの日から、ずっと消えなかった燻りが、なくなっていく。

 それは、きっと、何かを失うということで。それは、きっと、とても大事な何かだったはずで。

 

「それでも、これだけは忘れないで。あなたの恋は、決して誰にも劣ってなんかいない。……その恋を()()()()()()()()()、あなたの想いが、他の誰かのそれよりも()()()()ということでは、()()()()()()。……それは、私が誰よりも知っている。もしも、そんな戯言を抜かす輩がいたら、私が呪い殺してあげるわ」

 

――だから、もういいのよ。

 

 黒猫は、そう優しく囁く。

 その言葉は、よく頑張ったと、我が子を誉める母親のようだった。

 

 あやせは、まるで母親に甘える子供のように、溢れる感情のままに、大声で泣きじゃくった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――ご迷惑を、おかけしました」

「いいのよ。私達は同志なのだから」

 

 黒猫は、優しく微笑みながらそう言った。

 

 その笑みが、本当に大人びて綺麗で、改めてこの人は年上なのだと理解し、あやせは少し頬を染めた。

 

 なんていうか、この人の、こういうところには敵わないし――ずるい。

 

「どうかしたの?」

「い、いいえ、何も。………それよりも、黒猫さん。最初の質問に答えてもらってませんよ」

「ああ、そうだったわね。なんだったかしら?」

 

 あやせは改めて問いかけようとして――口を閉じた。

 

 そして、その質問の内容を、少し変える。

 

「……黒猫さん。あなたは――――」

 

 

 あやせの質問に、黒猫は少し目を見開き、そして――――。

 

 

 

――――あやせは、その答えを受けて、じっと目を瞑り。

 

 

 

「――――黒猫さん。あなたは………なんていうか、すごいです」

「ふふ、いいのよ、気を遣ってもらわなくても。我ながら気持ち悪いと思うもの」

「……いいえ………でも、やっぱり、すごいです」

 

 本当に、この人には敵わない。あやせはそう実感した。

 

 でも、不思議と悔しくはない。

 

 この人と桐乃の関係に嫉妬し、この人と京介の関係に嫉妬してきたあやせだけれど。

 

 それでも今は、不思議と、悔しくなかった。

 

「………私のさっきの言葉、忘れてないでしょうね」

「……ええ、もちろん」

 

 だって、すごく嬉しかったから。

 

 その言葉で、わたしは救われたから。

 

 だから、一生――――忘れるわけがない。

 

「ならば重畳。その言葉は、闇猫たる我の渾身の言霊。その身に――魂に、刻み込まれたと知りなさい」

「ええ……しっかりと」

 

 身体が軽い。まるで呪いが解けたかのようだ。

 

 まるで、生まれ変わったかのようだ。

 

 事実、昨日、一度死んだのだけれど。

 

 だからだろうか――一度、死んだからだろうか。今まで恐くて逃げていたものに、こうして向き合うことが出来たのは。

 自分の弱さと、向き合うことが出来たのは。

 

 あれは――――夢だったのだろうか。

 

 恐竜と戦った一夜。

 現実感を持てというのが無理だというものだけれど、夢だとも思えない、奇妙な記憶だった。

 

 その記憶から逃げるように、今まで逃げてきた問題と否応なしに向き合うことになったけれど――その結果、少し、楽になった気がする。

 少しだけ、軽くなった気がする。

 

 それは、きっと、あの寂しげな背中の男の人のおかげなのだろう。

 

 あの人のお蔭で、自分の中の感情の正体に気付くことが出来て。

 黒猫のお蔭で、その感情と向き合うことが出来た。

 

「桐乃と、きちんと話そうと思います」

 

 だから、あやせはやっと、前に進むことが出来る。

 

「前みたいな関係に戻れるかどうかは、分かりませんけど……もう、逃げるのは、やめにします」

「……それでいいと思うわ。そもそも、あの女と先輩の自業自得の因果応報なのだから。そこまでしてもらえるだけでも、十分過ぎるというものよ」

 

 黒猫は、そう言って優しく、少し悪戯っぽく微笑む。

 

 あやせは、その笑みに――笑みを、返すことが出来た。

 

「あ、そういえば黒猫さん。なんでここにいるんですか? 制服姿ってことは学校帰りですよね? 今日って平日ですし」

「え、ええと、それは――」

 

 あやせの言葉に露骨に慌てて顔を逸らす黒猫。

 

 その挙動不審を絵に描いたようなリアクションに、あやせは眉を顰めて、問い詰めようとすると――

 

「あ、ルリ姉ー!」

「姉さまー!」

 

 公園の外から可愛らしい二種類のボイスが届いた。

 

 その声に黒猫とあやせが反応し、そちらに目を向けると――――天使と、小学生と、不審者がいた。

 

「あ」

「げ」

 

 あやせはその不審者を見ると目を見開き、不審者の方は露骨に嫌そうに表情を歪ませた。

 

「……比企谷さん?」

「人違いです。よし、じゃあな、お前ら。もう千葉で迷子になんてなるなよ」

 

 あやせの言葉をバッサリと切り捨てた不審者は、少女と幼女に別れを告げた後、さっさとそのまま逃げ出した。

 

「ちょ、ちょっと、待ってください! それじゃあ、黒猫さん、色々とありがとうございました! またいつか!」

「あ、ちょ――」

 

 黒猫が何か言う前に、あやせはまっすぐに公園を飛び出して不審者の後を追った。

 

 そんな彼女と入れ違いに、黒猫の愛すべき妹達がひょこひょこと歩いてくる。

 

「姉さま!」

「あっ。……もう、珠希。勝手にどこかに行っては駄目じゃないの。心配したのよ」

「……ごめんなさいです」

「……無事でよかったわ」

 

 そう言って、己にしがみつく珠希を撫でる黒猫。そこに、日向が話しかける。

 

「ルリ姉、ルリ姉」

「――日向。ごめんなさいね、面倒をかけて。珠希を見つけてきてくれてありがとう」

「それはいいんだけど――まぁ、色々とよくはないんだけど、さっきの人ってあれだよね? 高坂くんが一人暮らししてた時に押しかけ女房してた……」

「………そうね。私の、戦友よ」

 

 その言葉を、色々な感情が篭った表情で呟いた黒猫の顔を見て、日向はそれ以上、入り込むのを止めた。

 

「……それよりも、あなた達と一緒に来たあの闇の者は何者なの?」

「闇の者て」

「あのお兄ちゃんはまおうさまです! 姉さま!」

 

 日向が「あ、ちょっ」と慌てている様が目に入っているのかいないのか、珠希は無邪気という言葉を表現するかのような笑顔で、あの不審者についてそう言った。

 

「とってもやさしいまおうさまです!」

「……そう、魔王」

「悪い人じゃないんだよ、ルリ姉! だから、その――」

「分かってるわよ」

 

 そういって黒猫は、珠希を抱き締めながら、優しく答えた。

 

「珠希が懐く人に、悪い人はいないわ」

 

 そして黒猫は、あやせが追いかけていったその件の人物を思い出す。

 

 遠目で、少ししか見えなかったけれど。あやせがあれ程に執着し、珠希や日向がこれほどに懐く男――

 

(――魔王様、ね)

 

 くすっと、黒猫は微笑んだ。

 

 闇猫たるこの身が、まさかこの地で――魔王と出会うことになるなんて。

 




本当はもっと後に、八幡があやせを救うプロットだったのですが、結果としてはこっちの方がよかったかと。
っていうか、今の八幡に誰かを救うことなんてできるのだろうか。おい主人公……。

でも、このシーンは俺妹の最終巻を読んでからずっと書きたかったので、すごく感慨深いです。やっと書けてよかった……。

次回は、あやせと八幡――ではなく再び渚パートで一話。本当に多いな……暗殺教室パート。

次の八幡パートは……次の……次、かな? 本当にすいませんっ!


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潮田渚は、唐突に支配から解放された。

果たして、少年は救われたのか。

それとも――


 山道を下る。

 茅野は少し前を歩く渚の背中を、渚が時折ふと思いついたかのように振ってくる何気ない話に生返事を返しながら見つめていた。

 

 そして、ザッと気合を入れるように音を立てて立ち止まり「――渚っ!」と強めに呼び止める。

 渚は「……茅野?」と、やはり訝しげというよりは不思議そうに振り向いた。

 

 山道を下っているので――どちらも男子と女子でそれぞれクラスで一番小さいが――普段は少し渚を見上げている茅野だが、今は渚が茅野を見上げる形となっている。

 

 見上げてくる渚の視線が、まるでこちらを覗きこんでいるかのように冷たく感じて――それでも、表情や、声の調子はいつもの温和な渚で。

 ただ、目の色だけが――目の奥だけが、冷たい何かを放っているようで、異様な違和感を覚えてしまう。

 

 どうしようもなく、怖い、違和感を。

 

「――っ」

 

 それでも茅野は、グッとお腹に力を入れて、意を決して問い掛けた。

 

「――渚。……昨日、何かあったの?」

 

 その言葉で、その問い掛けで――渚の温和な笑顔が、まるで罅が入ったかのように、ピシッっと固まった。

 

「渚……変、だよ?」

 

 初夏に似つかわしくない肌寒い風が、二人の間を吹き抜けたような気がした。

 

 茅野は、胸の前で右手をギュッと握り、渚の言葉を待つ。

 

 渚は、そっと茅野から目を逸らし、そして――

 

 

「――ねぇ、茅野。茅野にはさ、将来の夢とかってある?」

 

 

 渚のそんな、投げ捨てるように無造作に、そしてどこかすごく寂しそうに呟き掛けられた言葉に、茅野は「……え?」っと、呆気にとられた。

 

 山道から見下ろす町並みを、渚は寂しそうな眼差しで見つめ――眺めながら、尚も続ける。

 

「夢じゃなくても、進みたい進路とか、憧れとか――――そうだね、なりたいもの、とか。茅野にはある?」

「え、えっと、そうだね……。まだ、未定、かな? ……いくら椚ヶ丘(うち)が進学校でも、この時期じゃあ、まだ決まってない人って多いんじゃない?」

 

 渚が少し様子がおかしくなってたのは、進路に悩んでたからなのかな? と茅野はそんな風に、宥めるように言う。

 

 確かに椚ヶ丘のような進学校――そして、そんな中でもE組に落とされたばかりの今のような時期では、そんな悩みを抱えダウナーになってしまう程に落ち込んでしまう者も、決して少なくはないだろう。

 

 だが茅野は、渚はそんなタイプでは――少なくとも表に出すようなタイプではないのではと思っていたので、この答えはおそらくは違うのだろうと感じている。

 

 もちろん、茅野は渚とはまだ数か月の付き合いだし、渚の変化も表に出ているという程に顕著ではない。親友の杉野も気づいていないようだったし、おそらく感じているのは自分とカルマ、神崎くらいのものだろう。

 

 しかし、それでも、渚の変化は――渚の変貌は、そういった類のものではなく、もっと深く、もっと危うい――

 

「――僕はさ、茅野。……ずっと、()()()()()()()()()ものがあったんだ」

 

 渚は、どこか遠くを見据えながら、淡々と語る。

 

「僕は、ずっとそうなることを願われてて、そうなることを強いられてて、そうなることを決められてた」

 

 まるで、遠くに行ってしまった何かに、失ってしまった何かに、思いを馳せるように、遥か彼方を見据えながら、滔々と語る。

 

「…………渚?」

「だから僕は、言われるがままに、されるがままに、動かされるがままに操作(うごか)されてきた。僕の人生はあの人のもので。あの人が主役の物語だった」

「渚っ!」

 

 きっと、今、渚が語っているのは、潮田渚という人間の根幹に関わる伏線(エピソード)で。

 

 これを最後までじっくりと聞いて、“それ”に渚と一緒に立ち向かえば、渚と一緒に乗り越えることが出来たら、きっと自分は、渚に対して特別な人間になれるのだろう。

 

 渚にとってのかけがえのない友達になれて、親友になれて、もっと深い存在になれるかもしれない。

 

 そして、潮田渚という人間を、救うことが出来るのかもしれない。

 

 でも、茅野はそれを止めようとした。話半分で止めようとした。

 

 だって、それほどの伏線(エピソード)を、己の根幹に関わる(トラウマ)を。

 

 

 こんなにも淡々と、易々と、冷たい瞳で、穏やかな笑顔で、流れるように語っている今の状態が、正常であるはずがない。

 

 

 危うい。今の渚は、見ていて痛々しくなるくらい危うかった。

 

「――でもね、今日、母さんに言われたんだ」

 

 それでも尚、渚は語る。

 

 己の基盤の歯車(なにか)を失ってしまったかのように、壊れてしまった機械のように、冷たく語る。

 

 

「“ごめんなさい。許してください”って。……ずっと、何度も、そう言うんだよ、茅野」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 昨夜。

 渚がガンツミッションを終え、自室に帰還した時、家の中は恐ろしく静かだった。

 

 当然のように真っ暗で、渚はとりあえずリビングへと降りた。

 

 人気がない。人の気配が、まるでなかった。

 

『……母さん?』

 

 何やら不気味に思い、家中を探索しても、どこにも母――広海はいなかった。

 

 

 結局、渚はミッションの疲れから、直ぐに泥のように眠ってしまい、起きたらいつもの起床時間よりも少し遅いくらいの時刻となっていた。

 

 そのまま体に染み込んだ動きにされるがままの状態で、制服に着替え、登校の準備をする。

 

 リビングに降りても、やはり広海の姿はなかった。

 

(……どうしたのかな、母さん)

 

 昨日、あんな戦争(こと)があったばかりだからか、妙に胸騒ぎがする。

 

 広海は仕事柄、急な出張や夜勤も珍しくない。だから、いつものことと言えばいつものことなのだが――

 

 とりあえず渚は、自分で朝食の準備をすることにした。

 前述の通り、広海は家を空けることが多いので、渚も自分の食事の準備をすることには慣れている。渚自身は料理が得意――というより好きというわけではないので、コンビニやスーパーの惣菜などで済ますことも多いのだが。

 

 今日も時間に余裕もないので、お手軽にシリアルで済まそうかとも思ったが、もしかしたら何か用事があってどこかに出掛けているだけで、朝食だけでも食べに帰ってくるかもしれない。と渚は考えた。

 

『………………』

 

 渚は、昨日は怒らせてしまったし、とフライパンでベーコンエッグを作り始めた。さすがにこれくらいは出来る。時間がないので味噌汁はインスタントでいいかなと考え、帰ってこなかったら今日の夕食にしようと思いながら手を動かしていると――――ぎぃ、と玄関の扉が開いたような気配を感じた。

 

 渚はピタッと手を止める。じゅぅぅっというベーコンエッグの焼ける音がリビングを満たす中、渚は背後に意識を集中させた。

 

 こんな朝から泥棒? でも、玄関には鍵がかかっていたはず……と思考しながらも、いつでも動けるように集中する渚。

 そして、リビングの扉が、ゆっくりと、恐る恐る開き、渚はバッと、咄嗟に持っていたフライ返しを向け――

 

『きゃぁぁぁぁぁああああああああああ!!!!!』

 

 え? と渚は呆気にとられた。

 

 泥棒のように身を縮ませながら、ゆっくりとリビングに入ってきたのは――渚の母、潮田広海その人だった。

 

『……母、さん?』

 

 渚は緊張させていた全身から力を抜く。

 そして、そのままエプロンで手を拭きながら、広海に近づいた。

 

『……えぇと、母さん。昨日は――』

『ごめんなさいっ!!』

 

 気まずげに広海に話し掛けた渚の言葉は、広海の絶叫のような謝罪の言葉に掻き消された。

 

 渚の頭が真っ白になる。広海が、自分(むすこ)に謝罪するなど――それも一方的に謝罪するなど、初めてのことだった。

 

 意味が分からず、茫然とする渚を余所に、広海は頭を下げながら――土下座しながら、何度も何度も床に額を叩きつけながら、狂ったように謝り続ける。

 

『ごめんなさい許してくださいごめんなさい許してくださいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!! 何でもします!! 何でもします何でもします!! どうか、どうかどうかどうかどうかっ!!』

 

 ギュッと身を縮ませ、ぶるぶると震えたように許しを請う。

 

 何が何だか分からなかった渚だが、ここで、ようやく、思い至った。

 

 

 そうだ。僕は、この人に――

 

 

 

――殺されたんだった。

 

 

 

 おそらく家にいなかったのは、自分が犯した罪に恐ろしくなったから。

 

 今、自分に謝っているのは、自分が手に掛けたくせに何もせずに逃げ出したことに対してなのか、それとも目の前にいる渚を自分に恨みを晴らしにきた幽霊だとでも思っているのか。

 

 どちらにせよ、渚の心は音を立てて軋んでいった。

 

 

 なんだ、これ?

 

 

『ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!! 許してください!! 許してください許してください!! 許して許してお願いします!!』

 

 渚にとって母親とは、絶対者であり、創造主であり――物語(じんせい)主役(プレイヤー)だった。

 

『もうしません何もしません! 何もしません何もしません! だから……どうかっ……ごめんなさい……許してください……どうか……どうか……どうかっ』

 

 なのに、その主役(プレイヤー)が、二周目(アバター)に必死に許しを請うている。

 

 もう、何もしないと、教育(コントローラー)を手放している。

 

 これは、解放なのか? 僕は――潮田渚は、潮田広海(はは)二周目(じゅばく)から、解放されたのか?

 

 理解が追いつかない。現実に対応できない。

 

 渚は、土下座したまま一向に頭を挙げず、ただ許しを請い続ける広海の横を、鞄を肩に背負って、何も言わずに通り抜けた。

 

 玄関で靴を履く。背後からは、壊れたレコードのように広海の謝罪の声が響き続けていた。

 

 渚は無表情のまま、それを聞き流す。

 

 分からない。

 

 広海に殺されたことは、悲しいことのはずだ。

 

 二周目(はは)から解放されたことは、嬉しいことのはずだ。

 

 なのに、自分の心の、色が分からない。

 

 他人の顔を見れば、それが明るいか暗いか、危険かそれとも安全か、なんとなく分かるのに。

 

 自分の表情が――顔色が、心の色が、分からない。

 

 靴紐を結び終え、立ち上がる。

 

 ぐらりと、地面が歪んだ気がした。

 

(………え?)

 

 歪んでいない。沈んでいない。ちゃんと、固い、しっかりとした地面だ。

 

 今の感覚は、何だったのだろう。

 

『……………』

 

 渚は、しっかりと踏みしめるように、玄関を開け――エンドのE組へと登校した。

 

 残されたその部屋では、自身へのお経のように、広海の謝罪の呟きがいつまでも響き続けていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――茅野。僕は、解放されたのかな?」

 

 

――僕は、幸せになったのかな?

 

 

 渚は、茅野の方を向かず、ただ遠い目で町並みを眺めながら、そう語り終えた。

 

 茅野は、何も言えなかった。

 渚の、自分が知らなかった事情(やみ)に対しても、そして、その今朝の一幕についても、言いたいことや、言葉に出来ない気持ちはあるけれど――それよりも、何よりも。

 

 語っている時の、語り終えた今の、渚の顔が、表情が、ずっと笑顔だったから。

 

 悲しそうな、寂しそうな、それでも嬉しそうな、そんな笑顔だったから。

 

「………………渚」

 

 茅野は、自身の表情を辛そうに歪めながら、自分の胸を右手で掻き抱く。

 

 もどかしい。渚に何の言葉も掛けてあげられないことが、もどかしい。

 そして、渚の表情から、渚自身が突然の解放(こと)で、色々な感情を持て余していることが伝わって、辛かった。

 

 なにか言わなければ。

 

 渚の、こんな表情を、引き出したのは自分だ。

 渚に、こんな事情(エピソード)を、語らせたのは自分だ。

 

 ただ教室の席が隣同士で、たまに一緒に帰って、ときたま教室でお喋りする。

 

 友達ではあるけれど、親友ではなく、ましてや恋人でもない。

 

 そんな身分で、そんな分際で、渚の闇に――抱えているものに、踏み込んだのは自分だ。

 

 だから、何か――

 

 茅野がそんな葛藤をしているのを余所に、しばらく口を閉ざしていた渚が、再び語り始める。

 

 

「…………茅野。僕は、これから……どんな風に、生きていけばいいんだろう?」

 

 

 茅野は、開きかけた口を――――噛み締めるように閉じた。

 

 渚は渚らしく生きればいいんだよ、とか。

 そのうちやりたいこととか、なりたい職業とか、きっと見つかるよ、とか。

 

 そんなことを言えばいいのだろうか。そんなことを言って、何になるというのだろうか。

 

 ここで、自分が今まで演じてきた人物(キャラクター)達ならば、あんな風に悲しそうな顔をする主役(しゅじんこう)の闇を、一発で吹き飛ばして、笑顔に変えるような、そんな心に響く一言(セリフ)を言えるのだろう。

 

 そして、こんな場面で、こんなふうに踏み込むならば、自分はきっと、そんな登場人物(ヒロイン)であるべきだった。そうでなくては、いけなかった。

 

 でも、出てこなかった。何の言葉も、セリフも、出てこなかった。

 

 だって、ここには台本なんてなくて。これは決められた筋道(シナリオ)がある物語(ドラマ)なんかじゃなくて。

 

 ただの、普通の、ありふれた、友達との学校帰りの一幕で。

 

 とても重要な、青春の一幕で。

 

 絶対に、間違ってはいけない分岐点(シーン)だった。

 

 

「………帰ろうか、茅野」

 

 答えを待つことを諦めたのか、それとも初めから答えは求めていなかったのか。

 

 渚は再び前を向き、俯きながら下を向き、山道を下り――下校を再開する。

 

「………ぁ」

 

 茅野はそんなか細い声を漏らしながら、その小さな背中に向かって手を伸ばす。

 

 でも、相変わらず喉から言葉は出てこない。誰かの言葉ではなく、自分の言葉として届けるのが、こんなに怖いことだとは思わなかった。

 

 それでも、何か言わなくちゃ。だって、渚は、あんなにも辛そうで――――あんなにも、危うい。

 

 きっと、ここで何かを言わないと、何かを届けないと、何かを伝えないと。

 

 何か、取り返しのつかないことになってしまう。渚が、取り返しのつかない方向へ――――変わってしまう。

 

 進んではいけない路へ、足を踏み入れてしまう。

 

「……………………っ」

 

 茅野は、一歩を――――踏み出せなかった。

 

 渚の背中が、完全に視界から消えた。

 

 茅野は、瞳から涙を溢れさせ、その場にしゃがみ込んでしまう。

 

「…………なぎさぁ」

 

 ……ごめん、なさい。

 

 その少女の、演じることに全てを捧げた少女の、偽りなき台詞(ざんげ)は、掠れた呟きは、水色の少年には、届かなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 気が付いたら下山していて、人が混み合う駅前だった。

 

「…………あれ?」

 

 ふと俯いていた顔を上げると、周りは忙しなく帰宅ラッシュする大人達で、一緒に帰っていたはずの緑髪の少女はいなかった。

 

(…………歩くの早すぎたかな。…………悪いことしちゃったな)

 

 携帯で連絡を取り合えば合流できるかもしれないけれど、既に椚ヶ丘駅はすぐそこだし、いつも茅野とは駅前で別れるので、わざわざ合流することもないだろう。

 

 はぐれてしまった謝罪と先に帰る旨をメッセージアプリで送信する。

 そして、一時的に前を見ずに携帯画面に注視していた渚は、対向者とぶつかってしまった。

 

「あっ、ごめんなさ――」

 

 その瞬間、渚は昨日、同じようなことがあり――その時にぶつかった人は、まるで渚を認識し(みえ)ていないかのように無反応で去っていったことを思い出し、表情を消した。

 

 だが、今回ぶつかった人は、そのように去っていくこともなく、むしろ立ち止まって、よろけた渚を支えてくれた。

 

「いえいえ、こちらこそ注意が足りずに申し訳ありません」

 

 声は大分上の方から聞こえた。

 渚が男としては小柄なことを差し引いても、背が高い男のようだった。身体もがっしりしているが、決して鍛え過ぎてはおらず、他者に威圧感や警戒心を与えない体つきだった。

 

 そして、優しい声の持ち主だった。聞くだけで荒んだ心を癒してくれるような声色。

 

 渚はその男を見上げる。

 黒い髪に、整った顔立ち。だが、日本人ではないような印象を受けた。

 

 その男は、渚と目が合うとピクリと動きを止め――――そして、慈しむように微笑んで、こう言った。

 

 

「――すばらしい才能をお持ちですね」

 

 

 

 そして、渚は――――『死神』と出会った。




というわけで渚回でした。

次回は、ちょっとした幕間的なお話し。

そして、その後には再び八幡の登場です。


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少年達のまだ知らぬ闇の中で、大人達は暗躍する。

この期に及んで、まだまだ新キャラ登場。


 

「くそっ!! くそっくそっくそっ!!!」

 

 柳沢誇太郎は会議が終わった後、自分の研究室に戻るや否や、自身の机の上に積み上げられた書類を薙ぎ払い何度も何度も机を叩きながら、荒れ狂う感情に突き動かされるように暴れていた。

 

「あ、あの、誇太郎さ――」

 

 婚約者である雪村あぐりが、そんな彼を宥めようと恐怖に震えた手を伸ばすが――

 

「うるさい!! 役立たずがッッ!!!」

「きゃあ!?」

 

 そんなあぐりを一顧だにせず、殴りつけるようにして吹き飛ばすと、柳沢はふーっ、ふーっと、食い縛った歯の間から息を吐き出し、肩を大きく上下させながら立ち尽くす。

 

 その時、ヒュンとその部屋の自動ドアが開き、一人の男が姿を現す。

 

「――おやおや。随分と荒れているね?」

 

 柳沢はその男――菊岡誠二郎を爛々と怪しく光った眼で睨み付けながら問うた。

 

「……何の用だ、貴様」

「相変わらず能力は素晴らしいのに性格が最悪だな、君は。なぁに、先の会議で随分こっぴどく怒られていたから、慰めに来てあげたのさ。友人としてね」

「余計なお世話だ!! それに貴様を友人と認めた覚えはない!!」

 

 菊岡はそんな柳沢の態度を飄々と受け流し、倒れ込んでいるあぐりに笑顔で手を貸した。

 あぐりはその手を恐る恐る取りながら、二人のやり取りを遠巻きで見守る。

 

 あぐりは、自身の婚約者が身を置くこの組織のことを、未だによく分かっていない。

 分かっているのは、その勢力範囲は全世界に広がっていて、柳沢はそこの研究部門の長であり、組織全体を取り仕切る幹部の一人であるということだけだ。

 そして、同じくこの菊岡という男も、その幹部の一人であるらしい。

 

 だが、菊岡がどんな分野を取り仕切っているのかは、あぐりは知らない。ただ本人曰く、彼は柳沢とは同じ日本人で同性でそして年齢も近いということで親近感を感じているらしい。柳沢の側からは見ての通りだが、我が婚約者のことながらあの柳沢とここまで付き合えているという時点で、この菊岡という男もかなりの曲者だと、あぐりは思う。

 

 そんなあぐりがやらされていることは、もっぱら書類整理だけだ。だが、なぜか柳沢は自分の近くにあぐりを置きたがるので、むしろあぐりの一番の役目はその柳沢の癇癪の宥め役と言ってよかった。

 

 あぐりはここに来た頃、すぐに自分の婚約者は何かに対し異常に執念を燃やしていることを察した。そして、それが上手くいっていないことも。

 

 事あるごとに柳沢は荒れ狂い、暴れ散らす。

 それを宥めようとするあぐりは、いつも凄まじい力で殴られ、吹き飛ばされる。ひどい時にはそれだけに飽き足らず、興奮が収まるまで地に倒れ伏せるあぐりを何度も何度も足蹴にする時もあった。あぐりは、ただ、じっと耐えていた。それしかできなかった。

 

 不幸中の幸いとしては、柳沢がその標的に執着するあまり、あぐりにそれ以上の興味を――もっと言えば、女として興味をもっていないことだろうか。あぐりはここに来てから、婚約者でありながら、柳沢とは一緒に寝るどころかまともな会話すら交わしていない。

 

 あぐりとしてもそれは歓迎するところだったが、一日の激務を終え、狭い一室のユニットバスでシャワーを浴びて、鏡の前に立つ度に、思う。

 毎日、体のどこかに痣を作り、どんどん醜くなっていく己の身体を見る度に、思う。

 

 わたしは、一体、何をしているのだろう?

 

 大好きな教師の仕事を取り上げられ、愛する妹とも離れ離れになって、それでも、自分の家の会社を救ってくれた婚約者が私を必要としているならと、こんなどこか分からない国の――行く先も聞かされずアイマスクをつけた状態で飛行機に乗せられた――どこか分からない地の、日の当たらない研究室で。

 

『……………っ』

 

 わたしは、一体、何をしているのだろう。

 

 あぐりは裸のまま、痣だらけの醜い体を隠すように、その場でしゃがみ込み、誰にも聞こえないように嗚咽を漏らす。

 

 そんな、日々だった。そんな、地獄の牢獄で過ごすような、痛みと苦しみの毎日だった。

 

 

 そして、この日、柳沢はいつも以上に荒れ狂っていた。

 

 会議から戻るや否や、まるで発狂したかのように書類や机、挙句の果てには会社どころか一国が傾きかねない価値のある精密機械にまで拳を振り上げる始末だ。それはあぐりが体を張って止めたが。

 

 そんなときに乱入してきたのが菊岡だ。この時ばかりはあぐりは菊岡に感謝した。このままでは、冗談抜きであぐりは柳沢に殺されていたかもしれない。いつもは、菊岡が来ると柳沢は、機嫌が悪くなかった時でもすこぶる最悪になるので、あまり歓迎したい客人ではないのだが。

 

 だが、彼が来てくれたことで今、柳沢は、機嫌は最悪だが、我を忘れて暴れる状態ではなくなった。

 そして、興味関心は完全に菊岡に向いている。あぐりはなるべく己の存在感を消して、二人の会話の背景の一部となることを心掛けた。

 

「それにあの決定は当然だろう。最早“彼”に執着していたのは君だけだったんだ。それに君は、彼に対して戦士(キャラクター)武器(アイテム)を無駄遣いし過ぎた。取り上げられて当然だろう」

「うるさいッ! 貴様に俺の何が分かる!! 奴は――『死神』だけは、この手で必ず殺すと誓ったんだ!!」

 

(……………『死神』?)

 

 あぐりはその単語が、妙に心に残った。

 

『死神』。それは、柳沢が何度も怨念を込めて呟き、憎悪を込めて叫び散らしていた言葉だ。

 

「くそっくそっくそっくそっくそぉぉぉおおおおおお!!!!」

 

 柳沢は再び机に突っ伏して頭を抱え、叫び始めた。

 

 あぐりはその様を見て顔を青くして怯えているが、菊岡はそんな柳沢を見てもやれやれと頭を振るだけだった。

 そして、呆れたように言う。

 

「まぁ、君がそんな有様では、これは伝えない方がいいのかもねぇ」

 

 菊岡はそんなことを口走りながらも、頭を抱えうめき声をあげる柳沢の背中に、更に続けてこう告げる。

 

「『死神』は、どうやら日本に向かっているらしい」

 

 その言葉を聞いて、柳沢はブツブツと呟くのをやめ、バッと振り返る。あぐりも呆然と菊岡を見上げた。

 

「……それは本当か?」

「ああ。どうやら、ついこの間“あの人”と接触したらしくてね――おそらくは、あの人を追って識別番号(シリアルナンバー)000000080の元へと向かったのではないか、という話だ」

 

 それを聞くと、柳沢は菊岡から視線を外し、机の上に両手を突いて静かにぶつぶつと何かを考え始めた。

 

 そして、そんな彼を、笑みを浮かべて眺めている菊岡に、あぐりはそっと小声で尋ねる。

 

「……何を、考えているんですか?」

 

 どうしてわざわざ狂気に憑りつかれている柳沢の背中を押すようなことをしたのか。

 そう尋ねるあぐりに、菊岡はただにこやかな笑顔と共に答える。

 

「ただの保険ですよ」

「……保険?」

「ええ――識別番号(シリアルナンバー)000000080………そこには、僕がファンの戦士(キャラクター)もいるので」

 

――万が一にも、『死神』の“毒牙”にかからないように、ですよ。

 

 そう言った菊岡の横顔を、あぐりはじっと眺め――唇を噛み締めた。

 

 分からない。読めない。

 

 この人は――“見えない”。

 

 あぐりが菊岡に対する警戒を新たにしていると、柳沢が突然立ち上がった。

 

「………そうか。自前の戦士(キャラクター)が使えないのなら、外注で雇えばいい――本職の殺し屋を、奴に差し向ける。目には目を、歯には歯を――殺し屋(クズ)には、殺し屋(クズ)をだ!」

「………大丈夫なのかい? 確か『死神』とは、世界一の殺し屋なんだろう。どんな殺し屋を雇っても、『死神』にとっては格下ってことなんじゃないのかい?」

 

 そう諫める菊岡だが、その時の笑みは、これまでのものよりも少しだけ深かった。

 

 少しだけ邪悪だった。

 

 柳沢はそんなことには気づかず――気にも留めず、自分に酔っているかのように続けた。

 

「時間稼ぎになればいい。少しでも多く、奴のデータを収集する――もはや一度の襲撃で殺し尽くそうなどとは思わん」

 

 それに、もう一つ手は打っておく。

 そう言った柳沢は、そこで一度表情を引き締め、厳かに言う。

 

「………癪だが認めよう。奴は、強い」

 

 あぐりは驚いた。菊岡は更に笑みを深めた。

 

 柳沢が――あのプライドが高い柳沢が、己の怨敵を、自分の全てを奪った仇敵を、言葉上だけでも認めるような発言をしたのだ。

 

「故に、時間が必要だ。こちらの力を蓄える時間が。奴を探る時間が。……思えば、元々俺が育て(つくっ)たわけでもない戦士(ゴミ)共を使ったのが間違いだった。それでは俺が殺したことにはならない」

 

 そして、柳沢は机の上のPCモニタを起動させる。

 

 そこにあるのは、ある一人の戦士(キャラクター)のデータ。

 

 柳沢が手に入れ、教育し、改造し、手塩にかけて“育成”してきた――元・殺し屋。

 

 二代目『死神』の、ステータス。

 

「我々に残された、わずかな時間。……その期間を、こいつの育成に充てる。……“奴”がいたな。菊岡、奴を俺のラボへと回せ。カタストロフィまでの間、奴は俺の研究室(ラボ)で使い尽させてもらう」

「……彼は一応、僕が連れてきたんだけどねぇ。あの『ALO事件』の後、彼を海外逃亡したことに偽造するのは、相当骨が折れたんだよぉ。しつこく追求してきた“友達”もいたし」

「知るか。奴の茅場昌彦への劣等感から手を出したその幼稚な研究を、【黒い球体】に活用したのはこの俺だ。文句は言わせん」

「……はいはい。須郷君には、私から連絡しておくよ。大層嫌がるだろうけれどね」

 

 そう言いながらも、菊岡の口元には笑みが浮かび、そして柳沢の表情も、見る見るうちに狂気の笑みに染まっていった。

 

「――俺の才能と技術の粋を結集させ、こいつを対『死神』用の最強の戦士(キャラクター)に育て上げる……ちょうど、丈夫な実験体(モルモット)が欲しかったところだ」

 

 本来は――かの『死神』に対して行う予定だった、柳沢の研究者としての集大成。文字通りの意味で人類の常識を破壊し、歴史を動かす、世紀の研究。

 

 柳沢の手の下には、【生体内での反物質の生成】という題名のプリントアウトした論文があった

 

(奴によって全てが壊されたこの研究……この研究(ちから)で奴を殺すのも……中々面白そうじゃないかっ!)

 

 そして柳沢は、ゲームのコントローラーを握るプレイヤーのように、一人の人間のデータを弄くり回すことを愉悦と共に宣言する。

 

 

「勝負は、カタストロフィ――“破滅”が奴を殺す前に、“俺”が奴を殺す」

 

 

 これが、科学者で、これでこその柳沢誇太郎。

 

 雪村あぐりの――自分の婚約者だった。

 

「――――ッッ!!?」

 

 あぐりは両手で胸に抱く書類を、更にギュッと己の体に押し付ける。

 

 望んだ婚約ではなかった。心を奪われた男性ではなかった。

 

 それでも、好きになろうと努力した。その科学者としての才能は尊敬していた。

 

 でも、今、この瞬間、雪村あぐりは、柳沢誇太郎を嫌悪した。

 

 恐怖した。完全に、見限った。

 

 

 この人は――――怪物だ。

 

 

 あぐりはちらっと、菊岡を見上げる。

 

 

 そして、きっと、この人も――

 

 

「おい」

「は、はいっ!」

 

 柳沢が――本当に珍しく――自分からあぐりに声を掛けた。

 

 あぐりが彼を見る目は、もはや恐怖と嫌悪しか込められていない。

 

 だが柳沢は、それに気づいているのかいないのか、ただニヤニヤと醜悪な笑みを浮かべて、あぐりを嘲笑うかのように言った。

 

 

 

「貴様――――教師の仕事に、戻りたくはないか?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 東京の、霞が関。

 警視庁――警視総監室。

 

 日本の治安と平和を守る組織――文字通り、その頂点の椅子に座る男の前に、一人の元自衛官が屹立していた。

 

 第一空挺団で他者を寄せ付けない圧倒的な成績を収め、その後は教官となり更なる才能を発揮。

 軍服を脱いだ後も、統合諜報部にて目覚ましい活躍を現在進行形で遂げ続けている。

 

 経歴に傷はなく、能力も桁外れ。名実共に兼ね揃えた、正真正銘のエリート超人。

 

「烏間惟臣」

「はっ!」

 

 警視総監は、その荘厳な机の上に両肘をついて、細めた瞳でその男を見つめ、言った。

 

 

「君に、全世界指名手配中の殺し屋――通称『死神』の確保を命じる」

 

 

 烏丸はその言葉に何も返さず、ただ続きの言葉を待つ。

 

「……先日、この日本に『死神』が潜入したと、“とある筋”から情報があった」

「………………」

 

 とある筋、という言葉に眉を顰めた烏間だが、この状況で明言しないことの意味を理解出来ない男ではなかった。

 

「本来は諜報活動を主とする君にこんなことを頼むのはお門違いであるとは自覚しているが、この日本という国家において、あの『死神』と対等に渡り合える可能性があるのは、烏間君、君しかいないと判断された。……諸外国を渡り歩いてきた君だ。『死神』の恐ろしさは、私などよりも遥かに理解しているだろう」

「……私は、こと捜査においてはずぶの素人ですが」

「無論、捜査においては我々警視庁も手を貸す。だが、『死神』は人海戦術(かず)が有効な相手ではあるまい。三桁の捜査員よりも、一人の手練れの方が効果的かつ効率的だと、我々は判断した」

「…………」

「『死神』の標的になりそうな各種VIPにおいては、こちらが万全な警備を約束しよう。君に求めるのは、防御ではなく、攻撃。世界一の殺し屋――『死神』の検挙だ」

 

 そして、その時、警視総監室にノックの音が響く。「入りたまえ」という総監の言葉に、「……失礼します」と、少し気だるげな返事が届き、ゆっくりと扉が開いて、その人物は烏間達の元へと向かってきた。

 

「――彼を、これから君につける。警視庁(われわれ)との連携は、彼を通じてとればいいだろう。……こう見えても、かなり優秀な人材だ。………能力はな」

 

 ぼそっと不安な言葉をつぎ足した総監に、烏間は蟀谷(こめかみ)を引き攣らせたが、とりあえず、その暫定的にパートナーとなる男と握手を交わすことにした。

 

「………防衛省、統合諜報部の、烏間惟臣です」

 

 その男は、一切やる気を感じさせない態度と、一切生気を感じさない瞳で、その握手に気だるげに応じた。

 

 

「………警視庁、笹塚衛士です。………よろしく」




まさかの笹塚さん登場。

本当にすいません……警察官ポジが欲しかったんです。

詳しいことは【魔人探偵脳噛ネウロ】を読もう!
勿論、読んでいない方にも大丈夫なように書くことを心掛けるので、どうかよろしくお願いします!


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少女は、少年の逆鱗に触れ、『本物』を見出す。

前回説明すべきことでしたが、この作品では須郷は逮捕される前に菊岡が秘密裏に回収し『組織』に流したということになっています。説明不足で申し訳ありませんでした。

それと、笹塚は出しましたがネウロは出しません。魔人やべるぜの悪魔などは出しませんのでご安心を。


 

 俺は天使姉妹を姉(ルリ姉?)に送り届けた後、すぐに逃げるように立ち去った。

 

 ……おいおい、半年ぶりの新メンバーで、半年ぶりの生き残りに、なんで昨日の今日でばったり街で遭遇してんだよ。どんな超展開だ。ガンツメンバーの千葉民率高すぎだろ。 ガンツは千葉に恨みでもあんのか? それとも千葉が大好き過ぎるのか! 俺かよっ!

 

「あっ、ちょ、ちょっと、待ってください、比企谷さん!!」

 

 後ろから美少女ボイスが聞こえるが気のせい気のせい。きっと俺じゃない別の比企谷さんだ。残念だったな、ここで振り向いたら、あれ……? お前じゃないんだけど……呼んでないんだけど……って気まずくなるパターンだろ。もしくは、はぁ? お前じゃねぇよ、お呼びじゃねぇんだよ、あぁん? ってメンチ切られるやつだろ? 知ってる、知ってる、とっくの昔に学習済みだ。ところでなんであれ、メンチっていうんだろうね? メンチカツにでも恨みがあったのかな? ったく、うるせーな。おい、比企谷呼んでっぞ。

 

「比企谷さんっ!!」

 

 って現実逃避してる間に追いつかれちゃったよ。俺は新垣に腕を掴まれた。

 ……くそ。こんなところで関係者に出くわすなんて想定外もいいところだ。出来るならこいつらとは一生関わり合いになりたくなかったのに。

 

 本当はスーツの力で逃げようかとも思ったが、曇りとはいえまだ周囲は暗くなってないし、人通りもまったくないというわけじゃない。……見つかる危険性は、低いとはいえない。

 

 もう一つの要因はコイツだ。

 昨日も思ったが、こいつはかなりの美人だ。少なくとも、道行く人間が一瞬でも目を奪われないというのは在り得ないくらい。男でも、女でも、大人でも、子供でも、こいつのことが目に入らないという奴はいないだろう。

 

 そんな奴が必死に走りながら俺のことを何度も大声で呼んでいる。そんな状態では、いくら俺がステルスヒッキーで気配を消そうとしても、俺自身にも注目は集まるだろう。

 

 ……くそ。どうしてこうなった? あの天使姉妹に出くわしたからか。さっさとあの姉妹から離れればよかったのかもしれないが、なぜか俺が逃げようとするとたまちゃんは涙目で俺を見上げるし、たまちゃんにそんな顔をさせれば日向さんがハイライト消えなたさんになっちゃうし。俺にどうしろっていうんだ。っていうか、ハイライト消えなたって我ながらセンスなさすぎだろ。

 

 ……こうなれば、人目がなくなるまでやり過ごして、さっさと脅して脱出するか。

 

 ……最悪、今日は吸血鬼のセミナーへの潜入は諦め――

 

 その時、俺の腕を掴んだまま上がった息を整えていた新垣は、バッと顔を上げ、顔に汗を滲ませ、紅潮した頬で言葉を発した。不覚にも一瞬ドキッとしたが、次の瞬間、別の意味で俺の心臓は止まりそうになった。

 

「あの、昨日のあれって――――っ!?」

 

 俺は咄嗟に新垣の口を塞ぎ、睨み付け、言った。

 

 

「ふざけんな。お前、死にたいのか」

 

 

 俺がそう言うと、新垣の体は分かりやすく震え、赤かった顔は一瞬で青くなった。

 

 コイツは何を考えている。分かってるのか?

 今のお前は――俺達は、注目を集めているんだぞ?

 そんな状況で、こいつは何を口走ろうとした?

 

 ……ちっ。甘かった。俺が甘かった。正直、ぼっち生活が長すぎて、こんなところまで頭が回らなかった。

 

 まさか、新人達の危機意識が――ここまで低いとは思わなかった。

 

 別にこいつらが自業自得で頭を破裂させようがどうでもいいが、今ここでそんなことをやられると、間違いなく俺にとばっちりがくる。

 

「…………ちっ。こっちだ」

「え、あ、あの」

 

 俺は新垣から離れ、足早に路地裏に入った。

 

 今のこの状況は、見るからに怪しい不審者が、いきなり美少女に襲い掛かり口を塞いでいるという状態だ。いつ警察を呼ばれてもおかしくない。

 

 長年のステルスヒッキー生活で、俺は人の意識の撒き方のようなものを熟知している。

 どういう風に動けば、人の視界から外れることが出来るか、そんな歩き方を身に付けている。

 

 なんてことはない。単純な技術だ。ミスディレクションの一種だと思えばいい。

 

 それなりの人目は集めていたとはいえ、この空模様のお蔭でそもそも外を出歩いている人が少ないのか、そこまで人数としては多くはなかった。それに、先に新垣があれだけ呼びかけていたお蔭で、俺が一方的に襲い掛かったというよりは知り合い同士の諍いのように思ってくれたのかもしれない。わざわざ追いかけてくるような人間はいないようだ。

 

 それでも念のため、いくつかの路地を曲がる。そして、ようやく人影が見えなくなったのを確認すると、俺は振り向いた。

 

 新垣は、俺が人を撒く為にそれなりに早いペースで歩行していたからか、少し息を切らしているが、それでもしっかりと俺に付いてきていた。

 ……ちっ。帰ってくれたなら、それに越したことはなかったんだがな。

 

 だがまぁ、ついてきたものは仕方ない。言いたいことを言わせてもらおう。

 

「……なぁ、もう一回言わせてもらうが、お前、死にたいのか?」

「……いったい、どうしてそうなるんですか? わたしは、ただ――」

「俺は昨日、言ったはずだよな――無関係の一般人に、あの部屋の情報を漏洩させると、頭が吹き飛ぶって。……お前は、あんな公衆の面前で、一体何を言おうとした?」

「――っ!? ……で、でも、わたしは、そんなはっきりとは――」

「――知らねぇよ」

 

 ダメだ、こいつは。こいつは何も分かってない。

 

 ガンツの理不尽さを、全く持って分かってない。

 

「“それ”を決めるのは、俺達じゃない、ガンツなんだよ――どこまでがOKで、どこまでがダメなのか、その裁量権を持ってるのは全部ガンツだ。アイツの気分次第だ。……アイツの匙加減一つで、俺達の命なんて簡単に吹き飛ぶんだよ」

 

 新垣の顔が、分かりやすく恐怖に染まる。

 その表情には、露骨に戸惑いと猜疑心があって。

 

 俺は何故だが、それが無性に腹が立った。

 

「――まさかお前、昨日のあれを夢だが何かだと思ってるのか?」

 

 そうであって欲しいと、無意識で祈っていたのか? 

 

 新垣は、分かりやすく身を震わせる。

 

 ……それは、確かに優しい受け入れ方だ。あんな現実を――あんな戦争を、あんな理不尽を、逃げずに受け止められる方がどうかしているのだろう。

 

 きっと、昨日生き残ったメンバーで、それが出来るのは、桐ケ谷だけだ。

 

 潮田もおそらくは無理だ。夢ではないことは受け入れるかもしれないが、ここまで深く絶望を掘り下げはしないだろう。

 

 ………まぁ東条は、そもそもガンツに囚われているという状況すらどうでもいいと思っているかもしれないが。アイツはそもそも俺如きがどうこう言える種類の人間ではないから除外だ。本当に人間なのかすら疑わしい。

 

 俺達の、今現在囚われているこの状況は、突き詰めれば突き詰めるだけ、自分達にとって理不尽な事実が、不都合な絶望的事実が、ゴロゴロと笑えるくらい発掘されていく。

 

 その一つ一つを、新垣や潮田は探そうとはしないだろう。見ようとはしないだろう。

 

 それは、一種の防衛本能だ。

 自分の周りが如何に致死性の地雷だらけなのかなど、知っておいた方が危険を回避できるとは――生き残る可能性が上がるということは、薄々理解出来はしても、それでもそれに向き合える人間など、ほとんどいない。

 

 桐ケ谷は、おそらくはそれを、見て見ぬふりは出来ない。逃げることは、きっと出来ない。

 その恐怖に耐えながら、己の絶体絶命な状況に対しての、狂ってしまいそうになるくらいの恐怖と戦いながら、それでも自分の置かれている状況に対しての、思考を止めない。止めることなど、出来やしない。

 

 それが、デスゲームを――デスゲームと戦っていくということだと。

 

 デスゲームを生き残っていく上で、それは必須の戦いだと、死にたくなるくらい理解しているから。

 ここから目を逸らしたら、この恐怖から目を逸らして――逃げたら、待っているのは死だと、理解しているから。

 

 これは、このガンツゲームに置いて、一つの分水嶺だ。

 ここで、生き残っていくメンバーか、いずれ脱落するメンバーかが決まると言っていい。

 

 そういう意味では、この新垣は――まだ足りない。

 

 俺を見つけて必死に食い下がってくるということは、少なくとも、昨日の出来事を、現実だとは認めてはいるのだろう。

 

 だが、それでも、受け入れてはいない。

 

 立ち向かっては、いない。

 

 それは、確かに正常な人間の反応で、対応だ。

 

 だが、正常な人間では――ガンツの遊び(ゲーム)には、耐えられない。

 

「俺達は既にガンツの傀儡(おもちゃ)だということを常に自覚しろ。俺達の一挙手一投足が、ガンツの監視下だということを常に自覚しろ。そして、俺達の口から出た言の葉一つ一つが、この頭の中の爆弾の起爆スイッチに成り得るということを常に自覚しろ」

 

 これは、しろと言われてできるものではない。

 

 現に葉山は、このガンツゲームに囚われているという状況に耐え切れず、ミッションの度に弱っていき――壊れていった。

 

 だが、そんなことは知らない。新垣(こいつ)がどうなろうと知ったことか。

 

 こいつがここ近辺に住んでいるということは、これからもコイツと接触する可能性はゼロじゃない。

 ならば、せめて俺がコイツの巻き添えで死なないためにも、こいつには“最低限”のことは自覚してもらわなくてはならない。

 

 文字通り、俺達は爆弾を抱えているのだと――埋め込まれているのだと、理解してもらなくてはならない。

 

「…………」

 

 新垣は、ぶるぶると震える体を抱き締めて、顔を俯かせている。

 

 俺はそんな新垣に背を向けて、そのままこの場から離脱するべく歩く。

 

 ………ここまで言えば、もう俺に関わろうとしないだろう。

 不確定要素(リスク)は少しでも減らし、遠ざけておくに越したことはない。

 

 俺はぼっちだ。ぼっちとして戦い、ぼっちとして生き残ってきた。

 そんな状況で、自分が自由に動かせず、その行動を把握できない他人など、ただの危険要素でしかない。

 

 危険には近づかない。危険そのものを近づけない。

 それは、生存確率を上げる上で欠かせない行程で、行動だ。

 

 だから、俺は新垣がここで潰れようが、離脱しようが、全く持ってどうでもいい。

 

 故に、俺は新垣の心が圧し折れようが構わないという思いで、手加減せずに新垣を“教育”した――――はずだった。

 

 

「……待って、ください」

 

 くいっと、後ろ袖を引かれた。

 

 見ると、顔を俯かせたまま、新垣が俺の手を引いていた。

 

 未だ、ぶるぶると体を震わせている。声も泣いているかのように震えている。

 

「……わたしが、軽率でした。……ごめんなさい。……わたしは、また……嫌なことから、逃げてました。……見て見ぬふりで、誤魔化そうとしました」

 

 だが、それでも新垣は、俺の手を取り、顔を上げて――瞼を腫らした、痛々しい顔で言った。

 

「……もう、逃げません。…………わたしは、まだ、死にたくないから」

 

 

『助けて、ください……ッ』

 

 

 こいつは、昨日のミッションでも、こうして恐怖していた。

 

 死に、恐怖していた。死にたくないと、生にしがみついていた。

 

 こいつが何を抱えているのかは知らない。こいつに何があったかなどどうでもいい。

 

 

『お願い比企谷くん!! 私を守って!! 私を救って!!』

 

 

 ……ああ、ダメだ。本当に、こいつは腹が立つ。

 

 こいつの声は、姿は――新垣あやせという、この少女は。

 

 

「だから、どうか――わたしを助けてください」

 

 

 

『私を――助けてよぉ!!』

 

 

 

 やめろ。やめろやめろやめろ。

 

 

 そんな目で――俺を見るな。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 結局、新垣は何度言っても、何を言っても、帰ろうとはしなかった。

 

 ……一体、何がこいつをそこまでさせるんだ。

 

 交渉の結果、俺は新垣に俺が知る限りのガンツの情報を、“聞かれる限り”、知っていることを答える。そして今後、新垣は俺に日常生活では接触しない。相互不干渉とする。そして、ガンツミッションにおいても、基本的に干渉しない。俺は俺のやりたいように戦う。俺が新垣を守る、救うといった義務はない。負わない。

 

 ……ったく、何をしているんだ、俺は。

 

 どうして新垣と雪ノ下が重なる? ……声は多少、似ているかもしれない。だが、容姿はそれほどそっくりというわけではない。確かに黒髪の長髪で、二人とも息を呑むほどの美人だが、それだけだ。性格はまるで似ていないし、纏う雰囲気も違う。

 

 それに、第一、万が一、雪ノ下と新垣が似ているとしても――だから、どうした?

 雪ノ下を救えなかった後悔を、雪ノ下を壊してしまったことに対する償いを、赤の他人の新垣相手に重ねるのか?

 

 ふざけるな。そんなことは雪ノ下にも、新垣に対してもとんでもない侮辱だ。

 

 最低の代償行為だ。それだけはない。絶対にありえない。最悪の所業だ。

 

 ……ちっ。まあいい。もういい。さっさと終わらせるんだ。

 

 条件としては、そこまで悪くない。

 元々、こいつ等新人に俺がレクチャーをしなかったのは、それ以降も寄生されることを恐れてだ。

 なし崩し的にリーダーに推され、こいつ等の命の責任を負わされるのを恐れてだ。

 

 ならば、それ以降の干渉をしないという盟約の元なら、こいつ等に情報を渡しても俺に損はない。

 こいつ等がより強くなれば、俺の生き残る可能性も上がることは事実なんだから。

 一回当たりのミッションの点数が、こいつ等と分け合うことで減少することになっても、命には代えられない。生きて帰る方が遥かに重大だ。

 

 生きて帰れば――次があるんだから。

 

 死んでしまえば次なんてなくて――そこで終わりなんだから。

 

 命が終わり、全てが終わるんだから。

 

 この条件なら、俺に損はない。

 だから、これで終わるんだ。さっさとこんなことは終わらせるんだ。

 

 俺は一人でいい。俺は一人がいい。

 

 ぼっちだからこそ、俺は最強だ。

 

 それを忘れるな。

 

 絶対に、忘れるな。

 

「――それじゃあ、比企谷さん、早速聞かせてもらいますね」

「……好きにしろよ。だが、俺にはやることがある。だから質疑応答は歩きながらだ。周りに気を配り、声のボリュームにはくれぐれも注意しろ」

「分かりました。それでは――」

 

 俺は、新垣の方を見ずに、さっさと歩き出しながら、粗雑に言った。

 

 

「昨日の最後……比企谷さんのことを、『お兄さん』と呼んでいた――あの人は、誰なんですか?」

 

 

 だが、新垣のその質問に、俺は歩き出したばかりの足を、ピタリと止めて、立ち止まった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 俺は首から振り返り、新垣を睨み付ける。

 

 新垣はびくりと目に見えて怯えたが、それでもぐっと堪え、俺から目を逸らさなかった。

 

 逃げなかった。

 

 ……すでに全校生徒が気味悪がるほどに腐りきった俺の眼。

 それに加えて今の俺は相当に機嫌が悪い。かなり醜悪で、不気味で、恐ろしい目の色に変わって、変わり果てていることだろう。

 

 改めて思う。どうして、こいつは――新垣は、そこまでするんだ?

 そうまでして、俺に付き纏うんだ。俺から何を聞きたいんだ?

 

 正直言って、俺の方がこいつのことを気味悪がってきている。気持ち悪い。

 

 こいつは、一体――何が欲しいんだ?

 

 俺はもう一度、前を向いて歩き出す。その後ろに、新垣はぴったりとくっついてきた。

 

 ……このままだんまりを通してやり過ごそうかとも考えたが、正直言って面倒くさい。こんなどうでもいいことで貴重なメンタルを消費したくない。ただでさえ、これから行こうとしている場所は――行おうとしていることは、恐ろしく過酷な行事だというのに。

 

 過酷で、残酷な、戦争だというのに。

 

 ……まぁいい。さすがに、こいつが大志の知り合い、ということは……ないだろう。

 例えそうだとしても、その場合は、こいつと大志の問題だ。俺はそれに巻き込まれないように離れればいい、見捨てればいい――いつも通り、変わらない。

 

「……妹の、同級生。……ただ、それだけだ」

 

 そうだ。それだけだ。

 

 それだけの――敵だ。それだけで――殺すべき、敵だ。

 

 だが、俺のそのそれだけの言葉に、新垣は呆然と立ち止まっていた。

 

「……妹の……同級生……」

 

 思わず俺も立ち止まって振り返ると、新垣は、瞳から光を失くして立ち尽くしていた。

 

 ……なんだ?

 

 一体、何が、こいつの何に触れたんだ?

 

 新垣は、感情を失くしたような声で、俺に――何かに向かって、呟く。

 

「……妹さんが、いらっしゃるんですか」

「……だから、どうした?」

「……昨日の、あの人は……比企谷さんにとって……妹さんの、友達だったんですか?」

「お友達な。だから、どうした? お前に何か、関係があるのか?」

 

 新垣はそこで顔を俯かせ、声に感情を取り戻し――堪えるように、何かに苦しむように、こう言った。

 

「……比企谷さんは……昨日のあの人を……あなたを『お兄さん』と呼んだ、彼を……どうする、つもりなんですか?」

「殺すに決まってんだろ」

 

 俺はその呟きに間髪入れずに答えた。

 

 新垣はバッと顔を上げ、信じられないと言った表情で、俺を見る。

 

 俺は、その表情に、その驚愕に、淡々と、こう続けた。

 

「妹を守る為なら、何だってやるさ――俺は、小町の兄なんだから」

 

 新垣は、しばし呆然として――その表情を、憤怒に染めた。

 

 その怒りは、透き通るような美人といった彼女の整った顔を、般若よりも恐ろしく歪める程の憤怒だった。

 

「……あなたも……なんですか……っ」

 

 新垣は両の拳を握りしめ、呪詛を漏らすかのように、忌々しげに吐き捨てる。

 

「あなたも……そうやって切り捨てるんですかっ」

 

――妹の為に、他人を平気で切り捨てるんですかっ。

 

 新垣は、そう言って、俺を憎悪の篭った眼で睨んだ。

 

 ……俺は、新垣が何を抱えた人間なのか知らない。

 

 どんな傷を持って、どんな風に裏切られて――切り捨てられたのかなんて、全く知らない。

 

 微塵の興味もない。

 

 だから、こう言った。

 

「当たり前だ」

 

 新垣は一瞬、その憤怒に染まった表情を、愕然とした驚愕に変えた。

 

 そして俺は、新垣に当然のことを、当然のことのように言う。

 

「妹は家族だ。他の有象無象を切り捨ててでも守るのは、当たり前だ」

 

 これは、俺がシスコンだということとは関係ない。

 

 妹は家族だ。そして家族とは、この世界で唯一――無条件で与えられた『本物』だ。

 

 何も言わなくても、分かってくれる存在。知ってくれている存在。そんな安心を、無条件でくれる存在。

 

 そんな存在は、きっと、この世界で、家族以外在り得ない。

 

 全ての人間にとって、そうというわけではないんだろう。

 家族だからこそ、苦しんでいる人もいる。家族だからこそ、抱えている問題を持つ者も、きっといるだろう。

 

 だが、俺にとって小町は、少なくとも、小町だけは、きっと俺にとっては本物だった。

 

 本物の、家族だった。

 

 俺は、本物が欲しい。ずっと、そう願って、無様に手を伸ばし続けていた。

 

 それが醜いエゴの押し付けで、酸っぱい葡萄だと知っていながら、それでもその存在を求めていたのは、欲していたのは。

 

 碌なことのない俺の人生において、小町という本物が、ずっとそばにいてくれていたから。

 

 本物がいる。その温かさを、優しさを、心地よさを、教えてくれていたから。

 

 だから、そんな関係性があると、そんな繋がりがあると、知ってしまっていたから――赤の他人にも、俺はそんな関係性を求めた。

 

 こんな偽物(レプリカ)なんていらない。本物と呼べるものだけでいいと。

 

 そんな本物を、与えられるんじゃない――自分で見つけて、自分で手に入れたくなったんだ。

 

 はっ、と嘲笑う。そんなかつての己を嘲笑う。

 

 その結果が、その未来(けっか)が――――こんな俺だということに、嘲笑を抑えきれなかった。

 

 無様というのなら、今の俺の有様に、それ以上相応しい言葉はない。

 

 求めた結果、分不相応な高望みに手を伸ばした結果――全てを失ってしまったのだから。

 

 そして、全てを失っても、尚、失うことを恐れている。

 

 無様という以外、何と言えばいいのか。

 

 そんな思考を読み取ったわけでもあるまいが、新垣は俺を――そんな俺を、呆れたように笑う。侮蔑するように笑う。

 

「……そうですか。あなたもシスコンなんですね」

「千葉の兄にとっては誉め言葉でしかないな」

「……そうですね。本当に、千葉のお兄さんは……変態ばかりです」

 

 そして、新垣は、吐き捨てるように、嘲笑するように――

 

 

 

「――それで、妹と付き合うんですか。妹相手に恋をして、他の全てを切り捨てるんですか?」

 

 

 

 かっこいいですね。そう、言う、新垣に――

 

 

 

 

 

「…………お前、ふざけてんのか」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ザッ、と。

 

 気が付いたら、すぐ傍に立たれ――接近され、見下ろされていた。

 

 

 その、どんよりと腐った瞳に、濁りきって淀みきった瞳に。

 

 

 混じりっ気なしの、いっそ美しい程に純度100%の――殺意を、宿らせながら。迸らせながら。

 

 

 わたしを、見下ろす。

 

 殺意を持って、見下す。

 

 

「俺が、妹を、恋人にする? ――――なんだ、それは。ふざけてんのか」

 

 

 殺されてぇのか。

 

 

 彼は――比企谷さんは、わたしをそう威圧する。

 

 

「………ぁ………ぁ……ぁ」

 

 

 わたしは、何も言えない。ただ、怖くて怖くて堪らなかった。

 

 

 殺されそうで、怖かった。

 

 

 今までは、ただ怖いだけだから頑張れた。耐えられた。

 

 比企谷さんの眼は不気味だったし、纏う雰囲気も異様だったし、紡ぐ言の葉は鋭利だったけれど、それでもなんとか耐えられた。ただ、怖いだけだったから。

 

 

 この人は、わたしに、何の興味も持っていなかったから。

 

 興味も、関心も、なかったから。それは、敵意も、害意も――殺意も、ないということだったから。

 

 ただ、わたしが、比企谷さんが放つニュートラルな恐怖に、耐えればよかっただけだった。

 

 

 でも、この人が、あの兄妹と――わたしが大好きだったあの兄妹と同じ、お互いのことが結局のところ一番大事で、その為なら周りの人間を切り捨てる人間だと分かって。

 

 

 失望した。憤怒した。そして――激昂、させてしまった。

 

 

 感心を買った。怒りを買った。殺意を、抱かれた。

 

 

 殺される。

 

 そう、思った。

 

 

 昨日の戦争――わたしが、半ば以上受け入れることが出来ず、今日一日逃避していた、昨夜の恐竜との戦争。

 

 何度も死んじゃうと思った。殺されると思った。怖くて怖くて、でも、それでも。

 

 

 今の方が、怖い。

 

 

 この人に睨まれる方が、遥かに、圧倒的に怖い。

 

 

 殺意が鋭い。命の、危機だ。

 

 

 極論だった。イライラ、していた。

 

 

 妹を大事にする。そのことは、当たり前だ。

 

 わたしは一人っ子で、妹も――兄も、いないけれど、家族と言い換えてくれれば、よく分かる。

 

 わたしはそこまでスパッと割り切れる程に大人にはなりきれてない子供だけれど、家族と、そうでない人を分けて――分けて考えて、どちらの方が大切かと言われれば、それは、やっぱり家族を選ぶ。

 

 一緒に過ごした期間が長くて、より身近な存在の方を、大切に思う――大切にしたいと考えるのは、確かに当たり前だ。

 

 

 でも、それでも、と、思ってしまった。

 

 だって、それじゃあ、わたしはずっと勝てないの?

 

 家族じゃなかったわたしは、生まれた時から――生まれた時点で、他人なわたしは、一番に、なれないの? ずっと、わたしは、切り捨てられる側なの?

 

 

 分かってる。極論だ。わたしの、勝手な、八つ当たりだ。

 

 比企谷さんの妹の友達だという、昨日の戦争の最後に遭遇した――あの大志という男の子に、過剰に感情移入しているだけだ。

 

 

 自分を重ねて、勝手に怒って、勝手に傷ついているだけだ。

 

 

 それでも、あの時、比企谷さんに『お兄さん』と言って縋る姿が、まるでどこかのわたしのようで。

 

 あの時、比企谷さんに銃を向けられて、悲しそうに――それでも、やっぱりといった表情をしていた彼が、本当にいつかのわたしのようで。

 

 

 だから、気が付いたら、口が勝手に動いて、体が勝手に何かを吐き出して、そして――

 

 

 

――この人の、逆鱗に触れた。

 

 

 

 わたしは、ただ震えて、ガチガチと歯の根を鳴らして、その瞳を――この人の、恐ろしくて不気味で異様な瞳を、ただ見上げていた。

 

 

 逃げないんじゃない。逃げられないんだ。

 

 怖くて、体が動かないから。

 

 

「……っ……ぅ……」

 

 

 涙が溢れる。嗚咽が漏れる。今日だけで、わたしは何回泣いたか分からない。もうきっと、瞼は真っ赤に腫れぼったくなって、ひどいことになっている。

 

 

 それでも、この人は逃がしてくれない。泣いても、喚いても、許してくれない。

 

 

「お前に、当たり前のことを、もう一度言ってやる。兄にとって、妹は家族だ。断じて、恋愛対象なんかじゃ、ありえない。妹に恋するような奴は――」

 

 

 

「――ただの異常者(キチガイ)だ」

 

 

 

 比企谷さんは、そう言った。殺意を持って、そう言い切った。

 

 

 この言葉に対し、わたしはどんな感情を抱くのだろう。

 

 今は、分からない。ただ、怖くて。

 

 怖くて、それどころじゃ、ない。

 

 

「……家族ってのは――妹っていうのは、それだけで『本物』なんだ。俺にとって、小町は唯一の『本物』なんだ。それを何が面白くて、恋人なんかにしなくちゃいけない? 恋人なんて、不安定で、不確定で、不明瞭な関係に貶めなくちゃいけない? 折角持っている『本物』を――与えられた、唯一無二の『本物』を、そんな偽物にして、台無しにして、手放さなくちゃいけないんだ?」

 

 

 ふざけてんのか……っ。

 

 比企谷さんは、もう一度、唸るように、そう言った。

 

 

「――妹に恋するような野郎(あにき)は、ただの異常者(キチガイ)だ。妹を恋人にするような(あにき)は、ただの大馬鹿野郎だ。殺したくなるくらい、ムカつく糞野郎だ」

 

 

 そして、三白眼なんてものじゃない、瞳全てが濁った灰色に染まったような双眼で、わたしを睨み付けて、比企谷さんは言う。

 

 

「二度と、俺を、そんな奴等と――一緒にするな」

 

 

――そんな本物の価値すら理解出来ないような奴等とは、一緒にするな。

 

 

 比企谷さんの、そんな言葉が、わたしを打ちのめしたような気がした。

 

 

 とん、と。いつの間にか民家の塀際に追いつめられていたわたしは、そのまま背をつき、ずるずるとしゃがみこんだ。

 

 

 比企谷、八幡さん。

 

 昨日、わたしが紛れ込んだ戦場で、あんな、地獄で――ただ一人、ずっと、戦い続けていた人。

 

 

 誰かを生き返らせるために、あんな戦場を何度も経験し、あんな戦争を何度も生き残り続けていた人。

 

 孤独な背中の人。悲愴な覚悟を、纏う人。寂しそうな目をする人。弱いけど、強い人。

 

 間違っている、物語を歩む人。

 

 

 わたしは、この人のことを、何も知らない。

 

 けれど、今日、一つ――たった一つ、分かった。

 

 

 この人は、きっとそれが欲しいんだ。

 

 

 それは正体不明で、荒唐無稽で、支離滅裂で、きっと自分でも、それが何なのかは分からなくて、でも、それが欲しくて、欲しくて欲しくて、堪らないんだ。

 

 

 いいな、って思った。

 

 殺されるかもしれない。いや、本当に殺されるって本気で思って、だからこそ、怖くて怖くて堪らなかったのに。

 

 

「…………はは」

 

 

 気が付いたら、笑ってた。小さく、本当に微かにだけど、こんな状況なのに笑いが漏れた。

 

 恐怖で気が触れたのかもしれない。でも、今のわたしの身体は、ぶるぶると震えてた。――――恐怖じゃなくて、歓喜で。

 

 

 すごくいいって、思った。

 

 だって、比企谷さんから放たれる殺気は、ぶつけられる殺意は――本当に綺麗な怒りで満ちてた。

 

 

 本物を馬鹿にされた、憤怒で満ち満ちていた。

 

 

 そんなにも、大事にされる本物。そんなにも、素晴らしい本物。

 

 

 それはきっと、かけがえのない、代えのきかない、替わりなんてない、唯一無二で。

 

 

 なりたい。そんな存在になりたい。

 

 

 もう二度と、誰にも切り捨てられない。軽んじられない。

 

 

 他の何を犠牲にしても、何が相手でも選ばれ続ける。

 

 

 そんな存在――

 

 

――そんな『本物』に、わたしはなりたい。

 

 




もう開き直って、出したいキャラはバンバン出していくことにします。

日常世界ではバラバラに生きていて、出会うはずなどなかった人種たちが、ランダムに無慈悲に作為なく強制的に徴収され、同じ戦争へと繰り出され、同じ物語を歩まされる。そのカオスさもGANTZの面白さだと思うので。

敵キャラも味方キャラも、色んな作品から出していくと思うので、ついていけないという方はそっと閉じていただければ……。
本当にごめんなさい。申し訳ありません。
需要はないと分かっていても、やっぱり書きたいように書きたいので。


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そして、再び日常を侵すべく、化物たちが動き出す。

やっと東条の登場です。いや、ダジャレとかじゃないですよ。マジでマジで。


「ようし! 今日の作業はここまでだ! ここは、これから立ち入り禁止になっから、テメェら早く帰れよ!」

 

 この現場の責任者である壮年の男が、屈強な男達に号令をかける。

 

 東条英虎は、タンクトップに工事用の作業服という風体で、その男達の中に混じり、汗を流していた。

 

 昨日のミッションを終えても――あれだけの戦争を経験してもこの男は、一切自分のルーティーンを変えず、あろうことか、昨夜、自分が死亡したこの工事現場にて、学校をサボって一日中汗を掻いていた。

 

「ったく、昨日、ここにガキどもが入り込んで大暴れして、鉄骨が落ちたらしい。幸いに怪我人はいなかったらしいが、それでも大迷惑だ。後始末に一日かかっちまった」

「あ~そっすね。俺も死ぬかと思いましたよ」

「あ? トラ、テメェ、そこにいたのか? よく無事だったな」

「……あぁ、んん? なんで俺、無事なんスかね?」

「は? いや、知らねぇよ」

 

 そんなことを東条は自分に負けず劣らずの体格の先輩従業員と話していると、そんな彼らの後ろから二人の男が近寄ってきた。

 

「ったく、お前は相変わらずだな、トラ。お前に敵う奴など滅多にいない程に、お前の力は同年代じゃ桁外れなんだ。あんまり暴れすぎるなよ」

「……………………」

 

 一人は、この現場の人間には珍しく、百七十五センチ程の一般的な成人男性の体格のロイド眼鏡に灰色のフードの男。名前は篤。

 

 そして、もう一人は、その男とは対照的に、大柄な逞しい男達が集まるこの現場においても東条すら遥かに超える巨漢――おそらくは二メートルを優に超える身長と、その身長に相応しい浅黒い鋼鉄のように鍛えられた筋肉、そして、一際目を引く禍々しい黒山羊の被り物が特徴の男。名前は斧神。

 

「おっす、篤さん、斧さん。お疲れっス」

「お疲れ。にしても、トラ。お前、普通にここにいるけど大丈夫なのか? 今日は平日だぞ。学校はどうした?」

「………………」

「うち馬鹿高なんで、そういうの全然大丈夫なんスよ。それに、もう学校には歯ごたえのある奴いねぇし」

「お前は何のために高校に行ってるんだ………」

「………………」

 

 東条が篤の言葉におかしなこと言ったか? とばかりに首を傾げると、篤は苦笑する。斧神は何も言わず、ただ篤の横にずっと突っ立っていた。

 その様相は斧神の見た目の異様さもあって、かなりの威圧感を振り撒いていたが、本人にはそんな意識はなく、そして周りの人間も気にしない。

 

 当然ながらこの職場の最年少は東条だが、東条はそんなことに怯むような可愛らしい心臓をしていないし、他の従業員も同様だ。

 彼等は皆若い頃に色々な波乱万丈な経験と修羅場を乗り越えてきた猛者共であり、採用担当が敢えてそういう連中を集めたとしか思えない程に一癖も二癖もある連中ばかりである。

 

 こんな職場だからこそ斧神は受け入れられているし重宝されている。彼は一言も喋らないが、腕力が物を言う男臭いこんな仕事場では、斧神は一番の戦力だ。

 

 そして篤は、そんな彼のサポートをこなすかのように、高い社交性と、個性が強すぎる益荒男共を纏め上げるリーダーシップを発揮している。更に東条を始めとして碌な学校も(碌に学校も?)出ていないこの脳筋集団の中で、唯一といっていい明晰な頭脳の持ち主でもある。

 

 言うならば、この二人はこの職場でも中心的な存在で、二年生にして県下最強の不良高校である石矢魔のトップとしてリーダーのようなポジションに(勝手に)置かれている東条も頼りにしている男達である。

 

 勿論、篤も年齢的には若造なので、名目上の責任者は別の――先程作業の締めを知らせたあの壮年の――男だが、その男も、こうしている今も篤に明日の作業スケジュールについての相談をしていることが、この職場における篤という男のポジションを如実に表しているようだった。

 

 東条は、そんな光景を眺めながらも、ふと笑みを浮かべている。

 

 彼は、この職場が好きだった。

 

 良くも悪くも規格外で、器の大きな人間が集まったこの職場では、東条のような男も浮くことなく溶け込んでいた。

 

 昼休憩にたまに行う腕相撲では、東条すら勝てないような男達も幾人かいるし、偶に喧嘩のようなことになってもボコボコにされることも間々あった。

 

 

 世界は広い。自分よりも強い男は、まだまだたくさん存在している。

 

 

 だから東条は、そんなことを実感させてくれるこの職場での仕事を、いつも楽しみにしていた。

 

 昨日の戦争で強さというものと再び向き直ることが出来た東条は、そんなことを素直に思うことが出来ていた。

 

「あ、トラ。明日はちゃんと学校に行けよ。来ても帰らせるからな」

「………うす」

「がはは、トラも篤にかかれば形無しだな!」

 

 ……良くも悪くもこうして子供扱いするので、平日は滅多に来れないのが偶に傷だが。

 

「ほら! 早く怖ぇ女房がいる家に帰りやがれ、クズ共!! 今からガキ用に鍵閉めなきゃいけねぇんだからよ!!」

 

 責任者の壮年の男が怒鳴り散らす。

 

 そして汗が染み込んだ作業服のままの男達は、一日の仕事をやり終えた充足感からかその泥だらけの顔を笑顔に緩めながら、ある者は愛する家族の元へ、ある者は空腹を満たすべく酒と飯を求めて定食屋や飲み屋へと繰り出す。

 

「それじゃあ、俺は次の仕事があるんで」

「……おいおい、お前いくつバイト掛け持ちしてるんだ。若いからって体壊すぞ」

「………………」

「大丈夫っスよ、体だけは丈夫なんで。それじゃあ、お先っス、篤さん、斧さん」

 

 おうまたなとその背中を見送る篤。斧神はいつも通りただ黙って突っ立っていた。

 

 作業場を一歩出ると、斧神の風貌は途端に注目を集め、夕飯の買い物帰りの主婦や、幼稚園などの送り迎え帰りの親子に無自覚にとんでもない恐怖を与えている。

 

 そして、その場に残ったのは、篤と斧神の二人だけ。

 

 すると今まで置物のように無言だった斧神が、背後から唐突に篤に言った。

 

 

「――どうやら、氷川と黒金が単独行動を起こしたようだ」

 

 

 篤はその表情から笑顔を消し、斧神に問いかける。

 

「………それは、どういうことだ」

「なんでも昨夜に殺し損ねたハンターを狙いに行ったらしい。時間帯から考えて、“日常(おもて)”で(やみ)討ちする気だろう」

「……なぜ、誰も止めなかった」

「分かるだろう。あの二人に進言出来るのは、俺達“幹部”だけだ。そして、幹部同士は対等――意見は出来るが、命令は下せない。そして――」

「――あの二人は、他人の意見を聞くようなタイプじゃない、か……」

 

 篤は溜め息を吐きながら、右手で顔を覆う。

 

 そして、嘆くように吐き捨てた。

 

「……ったく、あの二人は何を考えてるんだ。こんなことを続けても、敵を増やすだけだ……っ。いずれ手痛いしっぺ返しを喰らう時がくるぞ」

「だが、あいつ等の言う事にも、一理ある。我々は、いつハンターのターゲットになってもおかしくない存在なのだから」

「……俺には、あいつ等はそれを口実にして、ただ強い奴と戦いたいだけに思えるがな」

 

 そして篤は、東条が去ったのとは逆方向に向かって歩き出す。その後ろに斧神が続いた。

 

「我々はどうする?」

「……とりあえず、残った者達で会議だ。出来得る限り招集してくれ。“日常(おもて)”で外せない用がある奴は、そっちを優先していい。俺達が大事にすべきはそっちなんだから」

 

 そうして篤は、徐々に暗くなり――夜を知らせ始めている、どんよりと曇った空を眺め、ポツリと言った。

 

「……嫌な空だ」

 

――忙しくなりそうだ。

 

 そう言ってロイド眼鏡にフードの男は、黒山羊の悪魔のような怪物を引き連れ、闇の中へと帰っていく。

 

 もうすぐ、夜が来る。

 

戦争(うら)”の時間が始まる。

 

 

 化け物共が、動き出す。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

『もう! アンタ、自分の彼女くらいきちんと手綱握っときなさいよ!』

 

 どんよりと曇った空を一望できる、校舎の屋上。

 こんな色の空を見上げながら昼食を食べる物好きはいないのか、そこには桐ケ谷和人一人しかいなかった。

 

 話したいことがあると、午前中に詩乃からメールをもらっていた和人は、頬を膨らませる明日奈を宥めながら、この屋上に移動していた。

 

 メールの内容からして長い話になりそうだったので、購買で調達していたサンドイッチを頬張りながら、まずは自分の恋人である明日奈の深夜の奇行についての愚痴を聞かされた。

 

 あ~、今日は明日奈の弁当が食えないなと、これを作ってくれた人には申し訳ないが、和人比で明日奈のものには数段劣るそれをもさもさと食べながら、詩乃の言葉に苦笑と謝罪を返す。

 

「……あ~、悪かったな、シノン。明日奈には俺から言っておくから」

『そもそもアンタがアスナに黙って外泊とかするからこういうことになんのよ』

「うぐっ……いや、外泊はしてないぞ。……ちゃんと深夜には家に帰ったし」

 

 正確には、気が付いたら帰っていた、というのが正しいのだが。

 

 案の定、詩乃は和人の物言いに納得できずチクチクと責め立てるのだが、やがて諦めたように溜め息を吐き『まぁ、アンタに浮気出来るような甲斐性があるとは思わないけど』と、直葉と同じ結論に至る。

 

 和人は少し男として馬鹿にされるようで複雑だったが、個人的には避けたい話題が終わりそうな雰囲気なのをわざわざ蒸し返すのをおかしいので、ここで明確に区切りをつける意味も兼ねて「それよりも――」と話を変える。

 

「――本題に入ろうぜ。俺のGGOへの再コンバートのことだろう? でも、次のBoBは年末じゃなかったか?」

『まぁ、すぐにとは言わないわよ。でも、出来るだけ早い凱旋をお願いしたいわ。あ、ちなみに、来ないという選択肢はあなたにはないわ――伝説武器(エクスキャリバー)(かり)、忘れたとは言わせないわよ』

「うっ。も、もちろん、感謝してるし、GGOが嫌いになったわけでもないけどさぁ……、そもそも前の戦いで俺がそこそこ戦えたのは、不意討ちというか、ビギナーズラックというか……ばっちり研究されてどっしり腰を据えて迎え撃たれたら、やっぱりGGOのプロプレイヤー相手には相当分が悪いぞ……ましてや、シノンを含めたJP(にほん)サーバープレイヤー全員を圧倒して、圧勝するような奴相手に、俺なんかが通用するかな?」

 

 前回のBoB本戦は、ALO内でキリトも観戦していた。

 

 その前のBoBではシノンと共に優勝したとはいえ、GGOそのものは初心者といっていいキリトから見ても、優勝者――サトライザーの強さは圧倒的だった。シノンがこんなにも再戦(リベンジ)に燃えているのも分かる気がする。

 

 シノンからもらったメールにも、その強さがいかに規格外なものかということが、つらつらと書き連ねてあった。

 

 軍隊格闘術(アーミー・コンバット)による近接戦闘力。

 ほぼデータがない状態で相手の行動を完璧に先読みする戦況予測能力。

 

 結果としてサテライザーは、装備無しの状態で本戦に挑み、相手から奪った弾の補充(リロード)が出来ない銃と、あとはその戦況予測能力での完璧な不意打ち(スニークアタック)で近接戦闘に持ち込み、その近接戦闘能力で敵が銃を構える間も与えず、勝利。

 

 そうして、シノンを含めたGGOJPサーバーのトッププレイヤー達を全員屠り、圧倒的な強さを見せつけて優勝したのだ。

 

『なによ、アンタにしては弱気じゃない』

 

 シノン曰く、そんな相手に対抗できるのは、同じく規格外の存在で、光剣使いなどという、サテライザーとはまた種類が違うが、同じく近接戦闘でBoBの常識を打ち破ったキリトだけだという。

 

 今回の大会でも、サトライザー相手に数合渡り合えたのは、ナイフを多用したカルマだけだった――もっともカルマも完璧な形で不意打ち(スニークアタック)を喰らったので、結局一太刀も浴びせられずに敗退(リタイア)したのだが――。

 

 GGOはやはり銃の世界。銃に憧れ、銃に惹かれ、銃に取り憑かれ、銃に囚われた人間達が集まる仮想世界。

 

 そんな世界で、あのサトライザーと渡り合えるのは、この光剣使い(キリト)しかありえない。シノンはそう思っていた。

 

 だが、当のキリトはシノンのその誘いに、はっきり言って乗り気ではなかった。

 

 元々、キリトとしては今()()()()()()()()()ので、メールの件名――GGOに来なさい!――を見た瞬間から、やる気が皆無だった。

 なので、そのメールの本文を淡々とスクロールして読み進めながら、どうやってシノンを宥めつつ断ろうかとそればかり考えていたので、シノンの文面(いいぶん)を正直に言って真面目に読んで(きいて)はいなかったのだが、ふと、キリトは思った。

 

 こいつは、本当に素人なのか、と。

 

 それはGGOのプロプレイヤーでは、という意味ではなく、現実(リアル)でのコイツは、本当に一般人(しろうと)の、単なる銃好き(ガンマニア)なのか、と、そんな疑問を覚えた。

 

 和人は、それを詩乃に伝えた。

 

 こいつは――サトライザーは、日常的に銃を扱っている人間で。

 

 

 戦場に身を置いている軍人で。兵士で。兵隊なのではないか、と。

 

 

『――それは、さすがに……』

 

 詩乃は露骨に困惑したように声を震わせた。

 

 だが、――ない、と、断言はしなかった。

 

 あの強さは、規格外の最強さは、むしろそう言った背景(バックボーン)があると言った方が、納得のいく強さだったからだ。

 

 そうでなければ、納得できない最強さだったからだ。

 

 和人は、そんな詩乃の困惑を余所に、更にポツリ、ポツリと続けた。

 どこかで聞いたことが有る程度の話だけれど――と、前置きをして、その聞きかじりの知識を、己の中でも纏めるように、声に出して整理するように、電話の向こうの詩乃に呟いた。

 

 フルダイブ技術。つまりは、仮想世界に降り立つ技術。

 

 それは、現在、“ゲーム”という娯楽以外の分野でも、様々な形で応用されている。

 かつて、キリトが剣を交え、アスナが友情を育んだ彼女――ユウキも、メディキュボイドという、フルダイブ技術を臨床に応用した試験の被験者だった。

 

 フルダイブ技術は、視覚や聴覚に障害を持つ方達にとっては本物の光景と音を贈り、麻酔薬を使わずとも手術を実現させ、歩けない子供達も仮想世界ならば勇者のように冒険をすることだって出来る。

 

 まさしく、夢の機械。人々に夢と希望を与えることが出来る可能性を持つ技術。

 

 だが、世の中の全ての技術は、同時に二つの可能性を持っている。

 

 夢や希望を与えることが出来る技術は――同時に、死と絶望を与える可能性(ちから)も持っている。

 

 仮想世界は、今では――軍事教練で使用されている、と、和人は告げる。

 死なない世界。SAO事件を通じて――SAO世界を除いて、その大前提は仮想世界では確実に守られるようになった。

 

 故にそこでは、何の気兼ねなく、人を殺せる。人を殺す、技術を学べる。

 死なない世界で、より安全に、より確実に、より効率的に――人を殺す、訓練が出来る。

 

 和人はそこまで語って、少し重い空気になってしまったことを謝罪して、電話を切った。

 

 そして、直ぐには立ち上がらず、空気循環用のパイプに凭れ掛かったまま、空一面を覆う雲を見上げながら、考えた。

 

 訓練。教練。育成。ゲーム。

 

 兵士を育てる、ゲーム。

 

 強い兵士を、戦士を育てる――戦争(ゲーム)

 

 

『これから俺達は、命懸けの戦争(ゲーム)に送られる』

 

『死んだらそこで“死亡(ゲームオーバー)”の、命懸けの“戦争(デスゲーム)”だ』

 

 

(……黒い球体(ガンツ)が、玩具(おれたち)で無邪気に遊ぶ――ゲーム(ころしあい)

 

 あの男は、そう言った。

 

 黒い球体が、強い戦士(キャラクター)を育成する――戦争(ゲーム)

 

「…………これは、偶然なのか?」

 

 ただのこじつけなのか。昨日の今日だから、今の自分を最も追い込む元凶だから、ナイーブに反応してしまうだけなのか。

 

 怖い、だけなのか。

 

 結局、和人は、昼休みが終わるまで、そこから立ち上がることはできなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――もう、キリトくん! どうしたの、今日ずっとぼうっとしてるよ!」

「――あ、ごめんごめん、アスナ」

 

 そんな昼休みの回想に思いを巡らせていた和人は、腕を組み合って下校している明日奈の呼びかけで思考から抜け出した。

 

 既に、時刻は放課後。

 昨日心配を掛けたことと、今日の昼休みに折角作ってくれたお弁当を食べられなかったことから――お弁当は里香(リズ)珪子(シリカ)と一緒に明日奈が美味しくいただきました。ちなみに明日奈さんは終始ニコニコしていて里香と珪子は冷や汗だらだらだった――和人が帰りに何か甘いものでも奢るということになって、放課後デートと繰り出すことになったのだ。

 

 だが、そんなお詫びのデートのはずなのに、当の和人はずっと考え事をしていて、明日奈はじとっと和人を見上げるように睨み付けた。

 

「……やっぱりキリトくん、シノのんと何かあるの? ……ずいぶん長い時間、話し事してたみたいだけど」

「な、なんでもないって! それより、早く行こう! 菊岡さんに教えてもらった美味いケーキ屋があるんだよ!」

 

 そういって誤魔化すように(事実として誤魔化しているのだが)――それでいて腕を組んでいる明日奈が転ばないくらいに――歩くペースを上げる和人。

 

 もう! っと言う明日奈だが、すぐにその表情はしょうがないなぁと言った風に緩む。これから連れていかれるケーキがおいしい高級喫茶店には、明日奈よりも先に詩乃を(バイク二人乗りで)連れて行った場所だと知れば、そろそろ明日奈も本気で怒るのではないだろうか。この男の天然で墓穴を掘る癖は、いい加減に早くなんとかしないと背後からバッサリ斬られてしまうかもしれない。

 

 ちなみに今日の和人は、朝に明日奈が桐ケ谷家まで来た為、二人で道中会話できるようにバイクで登校はしていない。休日や詩乃の時のように自分のことを誰も知らないような場所ならまだしも、ほぼ公認で自分と明日奈の関係性が明らかになっているあの学校に二人乗りで登校するような度胸は和人にはなかった。それに――

 

(――さすがに、まだバイクはちょっと、な………)

 

 昨夜のTレックスと追いかけっこをした思い出が露骨に蘇る為、愛車に跨るのは少しの間だけ遠慮したい和人だった。

 バイクを使わないと駅まで少し歩くことになるが、二人にとって腕を組んで語り合いながら過ごすこの時間も、また至福なのだった。

 

 ここは閑静な住宅街の外れにある坂道で、ゆっくりと下りながら、その色とりどりの屋根が作る景色を眺めつつ、穏やかな時間を過ごす。

 空がどんよりと曇っているのは残念だったが、こればっかりはなと和人は視線を明日奈に移しながら、これ以上愛する恋人の機嫌を損ねないように彼女が嬉しそうに語る次のデートで行ってみたい場所の話に耳を傾ける。和人からしたら、こうして今もデートしているようなものなのに気が早いなと苦笑してしまうのだが、それでもここでそんなことを口にして、この彼女の笑顔をふくれっ面に変えるような野暮なことは、さすがの和人も自重した。

 

 だが、そんな和人達の幸せは、ここで強制的に終了となった。

 

 

 二人の目の前に、一人の金髪の男が立っていた。

 

 その男は、桐ケ谷和人に、昨夜の悪夢を――昨夜の戦争を、昨夜の地獄を思い出させるかのように、現実へと逃げるのを許さないかのように、和人達の行く先を妨げるべく立ち塞がっていた。

 

 

「よう」

 

 和人はその声に、ふと前を向いて――

 

「――――な、に………」

 

 呆然と、立ち尽くした。

 

 和人の様子に、明日奈は「……え?」と警戒心を露わにして――

 

「――き、キリトくんッ!」

「――ッッ!?」

 

――自分達が、黒いホストのようなスーツの集団に囲まれているのに、遅まきながら気づいた。

 

 彼等は清潔感溢れるその黒スーツを自分流に着崩しており、また揃って端正な顔立ちで洒落た髪色や髪形をしていている、まさしくホストの集団のようだった。

 

 そして、そんな集団の中でも、一際美しい顔立ちで、女のようにサラサラとした金髪で、咥え煙草の、その男が。

 

 明日奈を抱くようにして庇う和人を、真っ直ぐ見据え、その口元に笑みを浮かべて、宣戦布告のように、言った、それは――

 

「――昨日ぶりだな、ハンター」

 

 煙草を投げ捨てながら、金髪が言った、それは――

 

「今度こそ、殺しにきたぜ」

 

――紛うことなき、殺害予告だった。

 

 戦争を始める、合図だった。

 

 金髪が投げ捨てた煙草が、地面に落ちた、その瞬間――

 

 

――和人達を取り囲んでいた黒服の集団達が、一斉に和人と明日奈に向かって襲い掛かった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「…………」

「…………」

 

 あれから、どれくらい経ったか。

 

 俺は大志から聞かされたセミナーの場所に向かって、黙々と歩いていた。

 

 そして、その後ろを、幽霊のように、幽鬼のようについてくる、憑いてくる新垣。

 

 こいつは、あれからずっとこのように俯いたままだった。

 時折思い出したかのようにあの部屋に関する質問をし、そして俺がそれに答える。あの盟約通りのやり取りを行い、そして、また沈黙。

 

 ……鬱陶しい。さっさと消えてくんねぇかな、こいつ。

 

 先程ついカッとなって、年下の美少女に本気の殺意をぶつけてしまったけれど――まぁ、後悔はしていない。

 だが、あれだけの殺意をぶつけても、尚、それでも尚、俺から離れないというのなら、もうコイツは放置でいいだろう。剥す方法は見つからない。……まぁ、この様子だと害はないだろう。この上なくウザったいが。

 

 盟約通り、今日一日だけ付き合う。それ以降も付き纏ってくるようならば、仕方ない。

 

 放っておいても死ぬだろう。

 

 俺と行動するということは、そういうことだ。

 

 ……だが、それよりも、今現在、問題なのは――

 

「――おい、新垣」

「……………」

 

 ……ちっ。面倒くさい。

 

 これだから、他人は。

 

 ……どうする? こいつが付いてくる限り、やはりセミナーの潜入は諦めるか?

 

 こいつはスーツを着ていない。足手纏いにしかならない。

 新垣が勝手に自滅するのは構わないが、かなりの確率で俺にもとばっちりが来るだろう。

 事は一刻を争うが、だからといって無闇矢鱈に突っ込んでも意味がない。

 

 ……ならやはりここは、こいつを家に送り届けて、その後、そのまま単独で奴等のセミナーに潜入するのが得策、か。

 

 人間社会に溶け込んでいる以上、日中はそれぞれ――大志のように――人間として過ごしているはず。つまり、夜になればそれだけセミナー――奴等のアジトにも、人が――吸血鬼が増えて、危険はそれだけ増すだろうが、その分得られる情報も多くなるだろう。

 

 普段の俺は、ハイリターンよりローリスクを取るが――――今回は、止む無し、か。

 

「おい、新垣、家はどこだ?」

「……はい?」

 

 新垣はやっと顔を上げ、俺を呆然と見上げる。

 …………大分、瞼が腫れてるな。酷い顔だ。

 このまま送り届けたら、なんだか面倒なことになりそうだが、家の前まで送ってその後は透明化でやり過ごせばいいだろう。こいつの家などもう二度と近づくこともないだろうしな。

 

「送ってやるって言ってんだ。もう暗くなる。帰った方がいい」

「…………でも」

「でも、じゃねぇ。辺りが暗くなる程に、俺みたいな奴がお前みたいな美少女を連れ回してるのを見つかったら、危ないだろうが。俺が。主に通報的な意味で」

 

 だからさっさと帰んぞ。と、俺は新垣の手を引いて、引き返す。

 多少強引だが、今は一分一秒が惜しい。

 

 新垣は俺に引かれるがままだったが、再び顔を俯かせていた。

 辺りは段々と暗くなっており、街灯も灯っていない中途半端な時間である今は、手を引く距離でも新垣の表情は窺えなかった。

 

 だが、気のせいか、新垣の手から伝わる体温は熱くて、耳も赤くなっているように――見えた。

 

 そして、ボソッと――

 

「――ありがとう、ございます」

 

 ……意味が分からない。

 なんでついさっき、本気の殺意で恫喝された相手に、お礼なんて言えるんだ?

 

 ……どうでもいいか。どうでもいいな。

 

「いいから、お前の家の場所を言え」

 

 ……なんか台詞と状況だけみたら、完全に変態な犯罪者だな、俺。

 

「あ、はい。……その――――ッ!?」

 

 俺は、咄嗟に新垣の手を引き、背に隠した。

 

 新垣は突然の俺の挙動に身を竦ませ、固まった。悲鳴を上げないようにその口を塞ぎ――――俺は後ろに振り向き、その先の闇を睨み付ける。

 

 後ろ。背後。つまり、先程まで、俺が向かっていた――セミナーの、ある方向。

 

 ……馬鹿な。まだ、セミナーまでは相当な距離があるはずだ……っ。

 

 けど、分かる。否が応にも、分かる。

 

 隠す気がない。隠れる気がない。

 

 堂々と。威風堂々と。

 

 来る。前から、真正面から、現れる。

 

「ひ、比企谷……さん」

 

 ……はっ。そういえば、昨日もこんな感じだったな。

 

 俺は、震えていた。

 新垣を背に庇う形で、俺は無様に震えていた。

 

 ……俺のトラウマを刺激しやがる、この殺気。

 殺気だけで、思い知らされる、圧倒的な強さ。

 

 アイツだ。

 

 俺は鞄を放り投げ、Xガンを取り出した。

 ここまで殺気を振り撒くんだ。とっくにこっちの存在はバレてるんだろう。

 

 だったら、ここでやることは、逃げることじゃない。

 

 臆するな。屈するな。殺意に呑まれるな――殺意を返せ。

 

 震えが邪魔だ――――消えろ。

 

 弱みを見せるな。不敵に、笑え。

 

 瞬きながら、街灯が、光を灯した。暗闇が、暴かれる。

 

 

 そこに――――怪物がいた。

 

 

 この距離でも見上げなければならないほどの長身。

 サイズの合わない革ジャン。逆さ帽に、真っ黒なグラサン。

 そして、凶暴な笑みから覗く――牙。

 

 吸血鬼の、牙。

 

「よう、また……会ったな」

「……できれば、一生、会いたくなかったな」

 

 俺の言葉に、笑みを深めるグラサン。

 

 そして、その男の背後から――そして、俺達の背後から、現れる、黒い影。

 

「ひっ! 比企谷さん!?」

 

 新垣の悲鳴。ギュッと俺の背中にしがみつく感触。

 

 ……ああ、分かってる。不覚にも、目の前のグラサンの殺気が凄まじ過ぎたせいで、この俺としたことが気付くのが遅れたが、事ここに至れば、気づく。見るまでもない。

 

 

 俺達は――――囲まれた。

 

 

 ……グラサンが殺気を振りまきながら近づいてきたのは、こいつ等の気配を隠す為か?

 

 それとも結果としてそうなっただけか?……だが、どっちにしろ、逃げられなかっただろうな。

 

 どいつもこいつも柄の悪そうな、ヤンキーとヤクザの間みたいな風貌の連中。

 

 昨日の奴等とは――あの金髪(……氷川、だっけか?)と大志とは、また別の連中。別のグループ。

 

 別の星人――吸血鬼。

 

 このグラサンの、部下か?

 

「お前等、手ぇ出すなよ」

 

 そして、一歩、俺達に向かって近づく、グラサン。

 そして、一歩、俺達から遠ざかるように離れる、取り巻き。

 

 がっぽりと、空間が開ける。

 

 まるで、決闘場のように。

 

 戦場の、ように。

 

「さぁ、楽しませろ、ハンター」

 

 グラサンは、楽しそうに、笑う。

 

 化け物が、牙を剥く。

 

 そして俺は――不敵に、不気味に――笑ってみせた。

 

 殺し合いの、火蓋が切られる。

 

 

 戦争が――始まる。

 




ようやく、ゆびわ星人で初の戦闘です。ミッションじゃないけど。
いやぁ、思ったより長かった。まだミッションに辿り着いてないけど。

今回登場した【篤】と【斧神】は、【彼岸島】という作品のキャラクターです。
【彼岸島】からは一部設定と彼等だけをお借りする形で、雅や彼岸島の話はおそらく出ないと思います。


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三つの戦場で繰り広げられる、三つの戦争が加熱する。

ふっ。だんだんサブタイに困ってきたぜ。いつも通りだ。


「才能? ――――僕が?」

 

(この、E組の――エンドのE組の、潮田渚(このぼく)が?)

 

 渚は、そう心の中で付け加え、目の前の男を見上げながら呆然と呟いた。

 

「ええ」

 

 男――『死神』は、そう端的に返した。だが、その声色は柔らかく、そしてその笑顔は慈愛に満ちているかのように――迷える子羊を誘うかのように、優しかった。

 

 渚はその笑顔と声色に、思わずその言葉に全てを委ねたくなってしまう。無条件で、信じ込んでしまいたくなってしまう。――だが、渚は、唇をキュッと噛み締め、顔を逸らすように斜め下に目を向けて俯き、己を掻き抱くように右手を左肘にそっと添える。

 

 エンドのE組として過ごした、三か月。

 そして、広海(ははおや)の二周目として生きてきた――十五年間。

 

 潮田渚という少年の心に刻まれた「自棄」――自己評価の低さ、自己価値の最低さ。

 

 それは『死神』の言葉と笑顔を以ってしても、一言では崩しきれない程に堅牢な城壁だった。

 

 だが、『死神』は、むしろその様を見て、更にその笑顔(かめん)の中の愉悦を深める。

 

 

 だからこそ、それでこそ――素晴らしいと。

 

 

 

 ガバッ!! と、『死神』の腕が、“その手”を()()()()()

 

 

 

「――――ッ!?」

 

 渚は驚愕に目を見開く。

 

 目の前の『死神』は、一切、その穏やかな笑みを崩していない。

 

 ただ、その左腕だけが、別の生き物のように――触手かなにかのようにうねりをあげて、滑らかに――不気味なほどに滑らかに、その手を一瞬で捻り上げた。

 

 

――『死神』の横を、ただ()()()()()()()()()()()()()()()を。

 

 

「――――くッ!?」

 

 その男は、『死神』に自身の手を掴まれると、そのまま捻り上げられそうになった瞬間、咄嗟に身を捻ることで『死神』の腕から脱出することに成功した。

 

「……ほう」

 

『死神』は自分から飛び退くようにして距離を空けたその男を――片手とはいえ、自分の拘束から逃れたその男を、興味深げに眺める。

 

 渚は状況についていけず、茫然としていた。

 

『死神』に襲い掛かられたその男は、身長も大きくガタイもいい西洋人だった。

 渚は今思えばどうしてあれ程接近するまで気づかなかったのかと自らを訝しむ程に、この帰宅時の人混みの中でも、頭一つ大きく異彩な雰囲気を纏う男だった。

 髪は癖毛で、彫りも深い端正な顔立ち――だが、『死神』が全ての者の警戒心を強制的に解き解す笑顔を張り付けているのに対して、この男の表情は険しく、見る者の警戒心を強制的に呼び起こすものだった。

 

 いや、それは、男自身が警戒心を最大限に高めているが故の表情なのかもしれない。

 

 ただ、目の前の――『死神』に対して。

 

「…………」

「なるほど。あなたは素晴らしい殺し屋ですね」

 

 男が向けてくる殺気に――殺し屋が、放つ殺気に。

 

『死神』はまるで動じず、歯牙にもかけず、ただ男のその技量を賞賛する。

 

 遥か上の高みから、見下ろして語る。

 

『死神』は、両手を広げて――

 

「――素手。それが貴方の暗殺道具ですね」

「…………」

 

 男――殺し屋グリップは、死神の解答に何も言わない。何も答えない。

 

『死神』は、構わず笑みを浮かべたまま――嘲笑ではなく、同じく自らの商売道具のその笑みを、殺し屋としての暗殺道具のその笑みを――『死神』の笑みを浮かべたまま続ける。

 

「面白い発想です。金属探知機や身体検査を無条件で通過出来る、そのメリットは大きい。証拠も残さず、不意討ちにも対応でき、警戒心も与えない。――先程のように、ただすれ違い様に頚椎を破壊するだけで殺せる。お手軽で、尚且つ無駄のない。美しい暗殺だ」

 

 渚は、ただ死神の話を呆然と聞いていた。

 突然に、今までまるで触れてこなかった世界の――世界の裏側に巻き込まれて、茫然としていた。

 

 そんな渚を巻き込んで、『死神』と、殺し屋の、やり取りは続く。

 

「そして、その暗殺が失敗しても、君は逃げようとしない。おそらくは真正面から戦えるだけの戦闘力も持ち合わせているのでしょう。……だが、それは殺し屋としてはあまりいい選択ではない。君程の殺し屋なら当然それは熟知しているでしょうし、仕事に私情を入れるようなタイプにも思えません。――おそらくは仲間がいますね。……一人……いや、二人、ですか?」

「「「――――ッッ!!?」」」

 

 その言葉に、これまで『死神』のどんな言葉にも、その険しい表情を崩さなかったグリップが、遂に驚愕に表情を染めた。

 

 そして『死神』が一瞬辺りを見回した時、二カ所だけ、その目線が止まっていた。

 

 その時、確かに目が合った二人――グリップと共に『死神』暗殺の仕事を請け負った二人の仲間――人混みの中で隙を伺っていた毒使いのスモッグと、少し離れた場所で銃をしゃぶっていたガンマンのガストロ――は、自分が『死神(ターゲット)』に発見されたことを悟った。

 

「……マジかよ」

「……どうなってやがんだ」

 

 スモッグとガストロは、そのあまりの“嗅覚”に――『死神』の嗅覚に、思わず冷や汗を流しながら苦笑する。

 

 対して『死神』は、グリップに相変わらずのその笑顔を向けながら、まるで授業をするかのように、種を明かした。

 

「単純なことです。第一陣(あなた)が暗殺に成功すれば、それでよし。万が一失敗した場合でも、戦闘能力にも優れた貴方が私を足止めし、隙を見て前以て待ち伏せしていた残りの二人が私を殺す。――本命(メインプラン)の他に、第二、第三の刃を研いで(よういして)置くのが、優れた暗殺者(アサシン)の、定石(セオリー)常識(マナー)ですからね」

 

 そして、『死神』が、その笑顔を変えた。

 

 相手の警戒心を解す“無害”過ぎる笑顔から――――好戦的な、捕食者の笑みへ。

 

「そして――その上で、貴方達の配置は完璧すぎる。この場所で標的(わたし)を狙うのにあまりにも最適なポジションを選び過ぎている。いつも貴方達が相手をしているような標的(ターゲット)ならば、確かにそれが模範解答(ベスト)でしょう。しかし、“同業者(わたし)”にとっては、そこは常に警戒している場所(ポジション)だ。もう少し遊び心が欲しいですねぇ。覚えておくといいでしょう」

 

 グリップはその圧倒的な殺気を受けて――――笑った。

 

 冷や汗を流しながら、それでも、伝説に誤りなどなかった、と。

 

「――『死神』の看板に、偽りなしというわけかぬ」

 

 そういってグリップは、その手を――商売道具で暗殺道具であるその素手を、調子を確かめるようにバキバキと鳴らした。

 

「………………ぬ?」

 

 渚がポツリと呟く横で、死神は面白そうに呟いた。

 

「ほう、貴方達のプランは崩れたというのに、まだ続けるおつもりですか?」

「ここで引いても、俺達にはお前の不意を突けるような(プラン)は用意できないぬ。しかし、だからといって、はいそうですかと納得するような依頼主(クライアント)でもないぬ」

「……なるほど。やはり柳沢ですか。貴方達も大変ですねぇ」

「ふっ。依頼主(クライアント)を選ぶ目も殺し屋が長生きするのに必要な能力だぬ。俺達にはそれが足りなかったというだけのことぬ。同情はいらないぬ」

「…………………………ぬ、多くない?」

 

 渚の豪胆なのか混乱しているのか分からない呟きなどまるで聞こえていないかの如く、二人の殺し屋は、徐々にその殺気を膨らませていく。

 

「もはや私に残された唯一の道は、ここで仕事を完遂させること、それだけだぬ」

 

 そしてグリップは、何故か好戦的な、楽しそうな笑みを浮かべながら――目の前の無敵と戦えることに喜びを覚えているかのように――『死神』に向かって襲い掛かる。

 

「故に――死んでもらうぬ! 『死神』!」

 

『死神』は、その殺害予告に――殺害宣言に、両手を広げることで答えた。

 

「そういえば、まだあなたの名前を聞いていませんでしたね?」

 

 普通に考えれば、この場面で、この言葉は、彼を殺そうと襲い掛かってくる目の前の殺し屋に向けたものであると考えるだろう。

 

 だが渚は、気が付いたら、その質問に自然と答えていた。

 

「……………潮田、渚です」

 

 その言葉に、死神は穏やかな声色と背中で答えた。

 

「渚君。これは、こんなことに巻き込んでしまった、せめてものお詫びです」

 

 優しげな笑みを浮かべながら。

 

「君に、ささやかな“刃”を授けましょう」

 

 先生が、生徒に授業す(おしえ)るように。

 

 その、“必殺技”を伝授した。

 

 

 

 パァン! ――と、その音は鳴り響いた。

 

 

 

 それは、死神の背後にいた渚には、拍手と対して変わらない程度の音量だった。

 

 だが、それは、その音は――その両手は。

 

 

 

 潮田渚という少年の――――世界を変えた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 前から、そして後ろから。

 挟み込むように、押し潰すように、黒服の集団が和人達に襲い掛かる。

 

「キリトくんッ!」

 

 明日奈がギュッと和人にしがみ付く。彼女を力いっぱい腕の中に抱き締めながら、和人は金髪の男――氷川を睨み付けるように見据えた後、自分達に向かって猛スピードで距離を詰めてくる黒服達を見渡す。

 

(クソッ!? どうする!? 俺は今スーツも剣も持っていない!! そもそもあの戦争(ゲーム)は、こんな日常世界(リアルワールド)でも狙われるようなシステム(もの)だったのかッ!?)

 

 アイツは知っていたのか? ――と和人は一瞬、何処にいるとも知れない八幡へと思いを馳せるが、今はそれどころじゃないと瞬時に頭から追い出す。

 

 だが、悠長に思考を巡らせている時間はない。

 自分を見下すように新たな煙草を取り出している氷川を睨み付け、歯を食い縛り――――和人は駆けた。

 

 身を伏せるようにして屈み、乱雑に振り抜かれた黒服の一閃を全力で躱す。

 

 そして、そのまま明日奈を抱えて、唯一、黒服の男達がいない方向――

 

 

――右手のガードレールを越えて、“下”へと跳んだ。

 

 

「なっ!?」

 

 一人の黒服が驚愕の声を上げる。氷川は面白そうに口角を吊り上げていた。

 

「キリトくんッ!」

「アスナッ!!」

 

 和人は明日奈を庇うように、己の背中を下に――地面に向けるように空中で回転する。

 

 そして――

 

「が、ハッ………ッ!?」

 

 ドンっっ!! と、下に駐車していた車の屋根に落下した。

 

 肺の空気が強制的に吐き出され、視界が一瞬真っ白に染まりながらも、和人はツイていると歓喜していた。

 

 元々坂道の勾配からしてそこまで高さがあるとは――精々建物の二階程の高さだろうと踏んでいた――思っていなかったが、それでも住宅街ということもあって漫画やアニメのように木々の枝によって落下の衝撃が和らげられるといったことは期待出来なかった。

 

 故にそのまま地面に叩きつけられることを覚悟をしていたので、落下地点に車が停めてあったのは――車の持ち主には申し訳ないが――考え得る限り最高の結果と言えた。

 

「き、キリトくん!」

「……だ、大丈夫か、アスナ……」

「……わたしは大丈夫。キリトくんが守ってくれたから。……そ、それよりもキリトくんが――」

「俺のことはいい」

 

 そう言って和人は、落下の衝撃によって未だ痛みが引かない体を無理矢理起こし、アスナの手を引いて車から飛び降りる。

 

 目の前にあるのはどうやら小さな倉庫のようだった。それなりに大きいが、木造の古びた蔵に近い倉庫。

 

 和人はアスナの手を引いてその建物の中に逃げ込んだ。

 

 自分達が飛び降りることが出来たのだ。奴等が――星人が、最短ルートで追撃に来ないはずがない。

 

「待てやぁ!!」

「逃がすかよ!!」

「「――――ッッッ!?」」

 

 案の定、和人達が身を隠す前に、次々とガードレールを踏み台に飛び降りてくる黒服の星人達。

 

 明日奈はその光景に目に見えて怯えていて、和人は忌々しげに、その場所から一歩たりとも動かず、必死に逃げ惑う自分達の奮闘を嘲笑うかのように笑みを浮かべながら、高い所から見下ろしている氷川を睨み付ける。

 

(……クソッッ!!)

 

 何とか倉庫内に飛び込んだ明日奈は思わずその場に座り込んでしまうが、和人は明日奈から手を放すと、すぐにその扉を閉めるべく動く。

 

「アスナは他に出入り口がないか調べてくれ!! あったらそこをすぐに閉めて鍵を掛けろ!!」

「う、うん!」

 

 この状況にも冷静に――ではないかもしれないが――対応出来ている和人に、明日奈は頼もしさと同時に戸惑いも覚えるが、それでも彼の足を引っ張るわけにはいかないと、恐怖で竦みそうになる足を必死に動かして、立ち上がり、行動する。

 

 この倉庫は相当に古いもので、全体的に木で出来ているが、後に一部を作り変えたのか、正面の扉だけは頑丈な金属製で、内側か外側に鉄製の閂を嵌めることで鍵を閉めるタイプのようだった。それはつまり、内側からだけでも閉めたら扉は開かなくなるということ。

 

 和人は急いで鍵を閉め、閂を差し込む――と、ほぼ同時に、扉にドォン!! という衝撃が轟いた。

 

「ッッ!?」

「ヒっ!?」

 

 和人は思わず目を瞑り、明日奈も恐怖で硬直するが――幸いにも扉は完全には破壊されていなかった。

 

 だが、頑丈であるはずの金属製の扉は大きく内側に凹み、扉が破られるのも時間の問題のように思えた。

 

「………ッッ」

 

 和人は、気休めだとは分かっていても、必死に扉を外側に押す。

 

 その間も「開けろッ!!」という怒声と、ダァン!! ダァン!! という轟音が続き、その度に扉は突起のように内側に凹んでいく。

 

 明日奈は、最早立っていることは出来なかった。

 恐怖で膝の力が抜け、瞳が徐々に涙で潤んでいく。

 

 対して和人も、ただ両手で扉を押しているだけで、現状を打破する考えが思い浮かばない。

 顔が下を向き、歯を食い縛る。ポタッと一滴、汗が土の床に垂れた。

 

 もしかしたら、このまま扉が変形していけば開かなくなるのでは――と淡い考えを抱いたが、これだけの怪力の攻撃を受け続けていたら、例えそうなったとしても突き破って侵入されるだろうと、否定的な考えだけはすぐさま思い浮かぶ。

 

(どうする!? どうしたらいい!?)

 

 誰か助けは来ないのか? ユイは今日は直葉が預かっているし……そもそも、こいつ等は一般人に見つかることを恐れていないのか? と和人が必死に思いを巡らせていると――気が付いたら、外の轟音が止んでいることに気付く。

 

「………………なんだ?」

「………諦めた、の?」

 

 いや、違う。そんなはずはない。と、和人は明日奈の呟きを脳内で即時に否定した。

 

 わざわざガンツミッション中ではなく、こんな昼間に――それも昨日の今日というタイミングで――待ち伏せしてまで、あれだけの仲間を引き連れた上で襲い掛かってきたのだ。この程度で奴等が引くはずがないと、和人は確信する。

 

 だが、ならばなぜ? 奴等の怪力(パワー)ならばこんな扉はすぐに破れるだろうし、そもそもこの扉を突き破らなくとも、木造の残る三辺など一撃で――と、思い巡らす和人の耳に、微かに、その音が聞こえた。

 

 チャキ、と。

 

 微かに、本当に微かに、扉の向こうから、そんな音を聞いた――気がした。

 

 それだけで一瞬フリーズした和人の体は、次の瞬間には遮二無二に駆け出していた。

 

「――アスナッッ!!!」

 

 明日奈の、元へ。

 

「え――」

「伏せろッッ!!」

 

 和人は跳び、明日奈の上に暗がりの倉庫内で押し倒すように圧し掛かる。

 

「きゃっ」

 

 そんな明日奈の可愛らしい悲鳴を――掻き消すように。

 

 小さな倉庫を蜂の巣に変えんばかりの銃弾の豪雨が、横殴りに一斉に降り注いだ。

 

 ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ、と。

 

 黒服の吸血鬼の集団が、己の指先を銃へと変え、横一列に並びながら、その倉庫を狙い撃ちした。

 その指揮を執るのは、当然のように氷川だった。

 

「攻撃を続けろ。奴を炙り出せ」

 

 そして、再び、右手を振り下ろす。

 

 その合図により、銃弾の豪雨の第二陣が、すでに虫食いだらけのボロボロの倉庫に襲い掛かった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 俺は一歩、目の前のグラサンに向かって、その一歩を踏み出した。

 

 そして、俺のパーカーを掴んでいた新垣の手が離れる。

 

 グラサンの笑みが――殺気が、更に濃くなった、その瞬間――

 

 

「――――え?」

 

 

 

――コントローラーを取り出し、透明化を施した。

 

 

 

「な――ッ!?」

「野郎ッ!?」

 

 突如、姿を消した俺に対し、周囲の取り巻き共が喚きたてる。

 新垣は小さな困惑の呟きを発しながらも、何も言わない。

 

 

「狼狽えるなッ! クズ共!!」

 

 

 その時、グラサンがまるで大気が震えんばかりの怒声を放ち、混乱を一発で沈める。

 

 ……もう少し混乱してくれれば助かったんだが、そう上手くはいかないか。

 

「銃を構えろ!」

 

 そして、グラサンは右手を挙げると共に指示を出す。

 

 ……さっきはタイマンをやるかのような口ぶりだったが、透明化によって俺が逃亡することを恐れての牽制か?

 

 取り巻き共は、先程の混乱が嘘のように統一の取れた動きで、己の右手から銃を作り出し――

 

「――そして、狙えッ!!」

 

 

――その銃口を、“新垣”へと向けた。

 

 

「――――ッ!?」

 

 新垣は突然、周囲の黒服達が己を標的としたことに困惑し、混乱してるようだった。

 顔を青くし、叫び声すら上げられない程に恐怖している。

 

 そして、グラサンは声を張り上げて言った。

 

「聞けッ! もし貴様が逃げ出した場合、女は殺す!! そして、例え地の果てまで逃げようとも、必ずお前も殺す!!」

 

 ……はっ。実に下らない脅しだ。

 

 まず第一に、俺に新垣を助けるメリットがない。

 そして第二に、ここで俺が新垣を助けようと助けまいと、結局やられることは何も変わらない。

 

 例え逃げずにグラサンと戦ったとしても、奴は俺を殺す気で来るだろう。殺す為に戦うだろう。

 そして俺が負けたら、奴は新垣も躊躇なく殺すだろう。殺さない理由がない。ならば、間違いなく奴は殺す。

 

 ……なんだ、それは。取引としても、脅迫としても、まるで成り立っていないじゃないか。

 

 だが、それでも、事態は落ち着いた。

 味方の困惑を一瞬で沈め――――勝負でも、先手を取った。

 

 ……やはり、強い。場慣れしている。

 これだけの集団を率いていることといい、グラサンは吸血鬼の組織の中でも相当に“上”の人間なのだろう。

 

「ひ、比企谷さん!!」

 

 その時、何十もの銃口を向けられている新垣が、悲鳴を上げるように叫ぶ。

 

 ……まぁ、そうだろうな。自分の命運が――命の運命(さだめ)が、俺なんかに係ってるんだから。

 

 恐怖して当然――

 

 

「――勝ってください! それが無理なら――逃げてください!!」

 

 

 …………へぇ。

 

 

『……どうか……ッ……どうか――』

 

 

――助けてください、じゃ、ないのか。

 

 

「さぁ、どうした! この女がどうなっても――っ!」

 

 バァン!! と、破裂音。

 

 グラサンの言葉を遮るように、一体の吸血鬼の頭部が吹き飛んだ。

 

 奴の一番近くにいた名も知らない吸血鬼の体は、ぐらりと揺れ、そのまま倒れ伏せる。

 

 騒めく黒服達。目を見開く新垣。そして――――凶悪に笑う、グラサン。

 

「……なるほどな」

 

 ……どうやら、吸血鬼っていっても身体は再生しないようだ。

 これは死んだ奴が格下だったからなのか、それとも――

 

 ……まぁいい。

 別に新垣の言葉に心を動かされた訳じゃない。アイツの言う通り、負けそうになったら――殺されそうになったら全力で尻尾を巻いて逃亡させてもらう。

 

 だが、この状況は、言ってみればチャンスだ。

 

 どうせ、吸血鬼(こいつら)とはいずれは戦うことになっていただろう。遅いか早いかの違いであり、それにここでこいつ等を全員殲滅しても、他に吸血鬼のグループが残っていたら、やはり戦うことになるだろう。――あの部屋のミッションで、戦うことになるのだろう。俺が知っているだけで、他に少なくとも氷川とかいう金髪と、大志がいるのだから。残っているのだから。

 

 その時の為に、今、ここで、得られるだけの情報は獲得するべきだ。

 元々その為に俺はセミナーへと向かっていたのだから。向こうから来てくれてラッキーなくらいだぜ。……まぁ、強がりが多分に含まれているのは認めるが。

 

 それに、嬉しい、大誤算が、一つ。思わず泣いてしまいそうな、サプライズが一つ。

 

 こいつだ。このグラサン。千手クラスの、化け物星人。

 この怪物は、間違いなく吸血鬼星人の中でも最強クラスの化け物で――そして、吸血鬼組織の幹部クラスの存在だろう。

 

 証拠はないが、確信はしている。むしろ、こいつクラスの化け物が単なる部隊長レベルだったら、その時は間違いなく俺達は――ガンツは、そして地球人は終わりだ。

 

 だからこそ、ここで殺せるメリットは大きい。

 もちろん、それと同等以上に、俺自身が殺されるかもしれないというデメリットも大きいが。

 

 ……はぁ。ハイリスクハイリターンなんか、俺の主義じゃないんだが。

 

 それでも、ここはやるしかない場面だ。

 

 

 ()ってみせるさ。

 

 

「いくぞ」

「来い」

 

 俺の呟きがまるで聞こえたかのようなタイミングで、グラサンがそう言い――足を引き、重心を落として、構える。

 

 俺はグラサンにXガンを向けた。

 

 必ず――勝つ。

 

 九十九点。――やっと、ここまで辿り着いたんだ。

 

 こんな、ガンツと関係ない――一円にも、一点にもならないくだらない戦争で、死んでたまるか。

 

 だから、さっさと死ね。グラサン野郎。

 

 

 お前には――一点の価値もありやしない。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 パリィン!! と、街灯が割れた。

 

「っっ!?」

「な、なんだ!」

「どうなってやがる!?」

 

 突然、明かりが失われ、既にすっかりと暗くなっていた夜の闇が暴力的に広がる。

 

 そして、続いて地面のアスファルトが爆発した。

 ドガンッ!! ドガンッ!! ドガンッ!! と、連続するその爆発が、黒服集団を再びパニックに落とし込む。

 

 答え(タネ)は単純だ。

 

 俺はまず街灯にXガンを放ち、タイムラグによって効果が発現する前に、地面を連射した。

 

 いわゆるポルターガイスト現象。それを俺は再現した。

 

 攻撃とは、何も身体的外傷を与えるものだけじゃない。

 心理的、精神的に相手を揺さぶり、隙を作る。そして、決定的な一撃を与える――これも立派な攻撃だ。

 

 爆発の連鎖は、そのままグラサンに向かって突き進む。

 アスファルトの瓦礫の波が、グラサンに向かって襲いかかる。

 

 これが俺の戦い方――弱者が強者を屠る為の――

 

「小細工だな」

 

 グラサンはそう断じる。俺の口元が思わず醜悪に歪む。

 

 ああ、その通りだ。そんなことは百も承知、誰よりも俺が認知している。

 

 前述の通り、これは精神的揺さぶりを狙った戦術だ。

 スーツの力で透明人間になり、その姿が見えなくなったことを利用したポルターガイスト現象の再現によって、相手の混乱を(いざな)い、動揺を誘う為の、まさしく小細工。

 

 だが、例え小細工だと分かっていても、お前等は俺が起こすその現象に注目せざるを得ない。俺の意図を探る意味でも、この児戯のような小細工から探らざるを得ない。俺の姿が見えない以上、俺の行動を知る手掛かりは、この小細工しかないんだから。

 

 だからこそ、隙が生まれる。

 

 俺はガンツソードを取り出し――

 

 

――グラサンの背後から、ガンツソードの柄の尻に右の掌を添え、押し出すように突き出すっ!

 

 

 

――それを、グラサンは、振り返ることすらせず、右の掌だけで受け止めた。

 

 

 

 ……俺の渾身の力の一撃を、駆動音を出さない為に最大限の力を発揮したわけではないが、それでも十分に超人といえるだけのスーツのパワーをふんだんに乗せた一撃を、あんな体勢で受け止めた――――否、重要なのはそこではない。それよりも、もっと重要なことがある。

 

 それは――

 

「――お前、やはり、認識出来(みえ)てるな?」

「……ほう、もう気付いたか?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そもそもが、最初の一撃。

 

 俺はあの時、グラサンに一番近い星人――――などではなく、グラサン本人を狙った。

 

 当然だ。これだけうじょうじょいる取り巻き共を一人減らしたところでたかが知れている。それよりも、不意討ちでもなんでも、これから戦うことが確定しているグラサンに――倒せるとは思っていなかったが――少しでもダメージを与えることの方がよほど合理的だ。

 

 だが、結果として、その攻撃は目論見ごと外れ、関係ない吸血鬼が一人頭を吹き飛ばすこととなったが、それはつまり――

 

――グラサンは、透明化して見えないはずの俺の攻撃を避けた、ということだ。

 

 しかし、これだけでは判断出来ない。

 街灯の光を背負っていたとはいえ、Xガンは発射時に発光する。音も発する。例え俺の姿が見えなくても、回避するのは十分に可能だ。

 

 よって次の手では、あえてその光と音を利用した。

 無意味に乱発し、精神的動揺を誘うのと同時に、ブラフを立てた。

 

 自分の動きの線を描くように、爆発をグラサンに向かって徐々に近づける。

 そして、Xガンを十分に意識させ――止めにはもう一つの武器、ガンツソードを選択した。

 

 音もせず、光も発しない、刃物による攻撃。

 

 そして、そこにもうワンアクション加える。

 本来、透明化して姿を消している状態ならば意味を生まない――背後への回り込み。

 

 部分的にブーツの力を強くして、一歩でグラサンの背後に回り込み――突き刺し。

 

 Xガンがブラフだと気づいても、背後からの奇襲までは、おそらくは察すことは出来ないはずだった。

 

 だがグラサンは、俺が背後へと移動する為、長距離を瞬間的に移動した最後の一歩、その瞬間――――僅かに、首を動かした。

 見えないはずの俺の姿を追うように、目線を動かした。

 

 それまでは俺に見えているということを気づかせないためか、俺の方を露骨に見ようとしていなかったが、あの一瞬、(おれ)の急な動きに本能的に反応していた。

 

 間違いなく、こいつに俺の姿は見えている。――――ガンツスーツの透明化は、通用していない。

 

 俺はすぐにグラサンと距離を置き、剣を仕舞う。

 

 グラサンは、もう隠す必要はないとばかりに露骨に透明な俺と向き合い、周りの取り巻き達に言った。

 

「お前等、もういいぞ。コンタクトかグラサン、好きな方を装着しろ」

 

 そう言うと、黒服達は一斉にサングラスを付け始めた。

 

 ……まさか、そんな対策まで用意しているなんてな。

 

「このサングラスは、お前等ハンターが周波数を変えて姿を消しても、それに対応出来るように開発されたものだ。お前等の姑息な小細工は――俺達には通用しない」

 

 ……周波数。この透明化や、ミッション中に一般人に姿が見えなくなるのも、そんな原理だったのか。初めて知った。

 

 俺ですら――半年以上もガンツの所で傀儡(おもちゃ)をやっている俺ですら知らないようなことを、こいつ等は当然のように知っていて、対策している。

 

 俺よりも、ガンツを熟知している――敵。

 

 ……こいつ等は――吸血鬼は、一体、どれほどの年月、ガンツと戦ってきたんだ?

 

 どれだけの年月、ガンツに狙われて、生き残り続けてきたんだ?

 

 こんな奴等に、俺は勝てるのか?

 

「……知らなかったな。そのグラサンは中二病で掛けてたわけじゃなかったのか」

 

 そして、驚くべきは――グラサン野郎の、取り巻きの連中。

 正直言って、あまりにもあっさり一人殺せたから、甘く見ていた。侮っていた。

 

 こいつ等は、透明になった俺の姿を見つけることなど、本当は容易かった。

 

 だが、それでも、奴等は自分達のリーダーと俺の一騎打ちの為に、リーダーの策が、俺に露見するのを避けるために――それを使わなかった。

 

 使わなかったが故に、あっさりと、俺に一人殺されているというのに。

 俺の気まぐれで、自分も同じように、いつ殺されてもおかしくなかったのに。

 

 それでも、誰一人として、我が身可愛さに、我が命惜しさに――逃げなかった。懐に手を伸ばすことすらしなかった。

 

 恐ろしい忠誠心だ。その見た目に反して、こいつ等は見事に育てられた兵隊だ。

 

 そして、グラサン。

 こいつも、ただの戦闘狂じゃなかった。

 

 相手を騙し、罠を張る――そんな狡猾さも、持ち合わせている狩人だった。

 

「今度は、こっちから行くぞ」

「――っ!?」

 

 ちっ、思考に耽っている場合じゃないッ!

 

 俺は、半身を引いたグラサンを注視して、その挙動に目をくば――――

 

 

「――――ッ!!??」

 

 

 な――――に?

 

 

 気が付いたら、その真っ黒なグラサンが視界を占める程の至近距離に接近されていて――

 

 

――それにより頭が真っ白になっている間に、強烈な衝撃が俺のどてっ腹を貫いていた。

 

 

 ドガンッッ!!! と吹き飛ばされた俺の身体は、民家の塀をぶち破り、ガシャアン!!と民家の窓ガラスを破壊し、家屋の中に叩き込まれた。

 

 

「比企谷さん!!」

 

 新垣の叫びが遠くから聞こえる中、俺は見ず知らずの他人の家のフローリングを盛大に転げ回り、胃液が逆流しているかのような体内を暴れまわる苦しさにのたうち回る。

 

 す、スーツは……生きているのか? 生きていて、この威力(ダメージ)……なのか?

 

 あまりに速すぎて、あまりに痛すぎる。

 

 腹を襲ったのが拳なのか蹴りなのか肘なのか膝なのかも分からない。

 

 単純な速さだけなら、昨日のブラキオ親子の首一閃に匹敵する。

 

 だが、グラサンは奴等のそれよりも遥かに恐ろしい。

 攻撃の規模が小さい分、モーションが小さく、予備動作もない。そして、何より、避けられない。

 

 ……これだけの戦闘力に加えて、人間相手に策謀で互角に渡り合える頭脳――か。はは、さすが“選ばれし存在”。大志の言ってたセミナー講師がドヤ顔するのも頷ける。

 

 クソッタレが。

 

 ……こんな攻撃、何発も喰らえない。

 スーツの耐久度の問題もそうだが、それ以前に、俺の身体がもたない。下手すりゃ、スーツが生きていても死んじまうかもしれない。……もしかしたら、“そういう”攻撃なのか? アイツ等の“ガンツ”対策の周到さから考えたら、あながち間違いじゃないかもな。

 

 とにかく、だ。

 

 俺はゆっくりと立ち上がりながら、思考を巡らす。

 

 弱者が強者に――最弱(おれ)最強(あいつ)に勝つ方法に、思考を巡らせる。

 

 ……奴等に俺の戦闘スタイルの生命線である『透明化』は通用しない。

 

 俺の戦法は、基本的に不意討ちだ。

 

 姿を隠して、背後に回って、騙し討ち。

 卑怯に――卑屈に、最低に、陰湿に――殺す。

 

 戦闘になる前に、敵が強さを発揮する前に、俺の弱さが露呈する前に――殺す。

 真正面からは決して向き合わず、真後ろに回って背中から刺し殺す。

 

 だが、それは、今、この場面では通じない。

 

 お先が真っ暗だった。辺り一面に広がる夕闇のように。

 

 一寸先すら闇だ。一筋の光明もない。――いや、俺が街灯をぶち壊して自分から消したのか。

 

 闇の中に、逃げたのか。

 

 それでこうして追い詰められているのだから、まるでいつもの俺のようだ。

 

 ……ああ、なんだ。

 

 いつもの俺じゃないか。

 

 勝ち目がないなど、今に始まったことではない。俺が負けることなど、いつも通りのお約束じゃねぇか。

 

 辺り一面真っ暗で、一寸先すら見えなくて――奴等はきっと吸血鬼だから、こんな闇の中でも、いや闇の中でこそはっきりくっきり見えているんだろう。

 

 いいだろう。ならば精々、その夜目が効くお目目にしっかりと焼き付ければいい。

 

 相手は千手クラスの最強の怪物。

 そして俺は、真正面からの戦闘力は、陽乃さんや桐ケ谷には到底及ばない最弱の人間。

 

 そんな俺が、社会的最弱者のぼっちが、陽乃さんですら敵わなかった千手級の怪物を――見事に殺すところをお見せしよう。

 

 戦いにもならないだろうって? 勝率なんて絶無だろうって?

 

 知ってるさ。だから、何だ?

 

 

 

 結局、殺せばいいんだろう?




次回は渚と和人の戦争で一話。
八幡の戦争はその次の話で丸々一話なのでご容赦を。


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潮田渚は進路を得て、桐ケ谷和人は誓いを刻む。

今回は渚と和人の日常の戦争で一話です。


 音が見えた。衝撃が見えた。渚には――――その色が見えた。

 

 その波は、全てを塗り替えて、全てを侵食しながら、渚の視界を駆け抜けた。

 

『死神』の打ち合わせた掌を起点に、渚を庇うように目の前に立つ『死神』が放った音色が、渚の世界を壊し、新たな世界を創り出した。

 

 渚には、それがどういったものなのかは分からないだろう。

 

 何をしたのかも分からず、何が起こったのかも分からず、どうしてグリップという殺し屋が顎を殴られたかのように膝を折って崩れていくのかも、全く分からず、訳が分からないだろう。

 

 

 だが、この時、渚は――――魅了された。

 

 

 たった一発で、あれだけの殺意を放つ強者を、一部の無駄なく無力化した、その手技に。

 

 

『死神』の技術(スキル)に、美しすぎる暗殺に、渚の心は奪われた。

 

 かつての『死神』の弟子で――今は「二代目」と呼ばれる、彼と同じように。

 

 

 今、この瞬間、渚の「進路」は、確定した。

 

 

 一人の『死神』によって誘われ、引きずり込まれていく。

 

 

 世界の、裏側へ。

 

 

 鮮血と、裏切りと、陰謀と、策謀と、淫欲と、富と、名声と、力と、恐怖と、死と、薬と、酒と、悪と、独り善がりな正義が渦巻き、「才能」が物を言う――――殺しの世界へ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ガクリと『死神』の前で跪くように気絶(スタン)するグリップにまるで介抱するように近づいて、彼は周りを行く人達に対して「どうやら具合が悪いようです」と、その笑顔と声色で安心させて、注目が集まらないようにする。

 

 それにより、二人の戦いの余波の殺気を感じて警戒心を僅かに持っていた人達も、安心したように去っていった。

 

『死神』は肩を貸すようなそぶりでグリップを抱え上げながら、瞬時に盗んだ携帯で、迷わず番号を手打ちし、電話を掛ける。

 

「どうも、狙撃手(スナイパー)さん。私です」

『――どうして俺の番号が………って、「死神」相手に野暮ってもんか』

「話が早くて助かります。早速ですが、この方を引き取ってもらえませんか?」

『ほう、自分を狙った殺し屋を見逃すのか?』

「まぁ殺しても良いのですが、この国では死体を処理するのも面倒なので。なので、取引をしましょう」

『……取引だと?』

「ええ、ここでこの方を回収してくれるのであれば、貴方達に柳沢の手から確実に逃れられるルートを用意しましょう。その間、貴方達は私を殺す新しい計画(プラン)を練っているとでも言って、柳沢が新しい殺し屋を雇うのを妨げていただいたら助かります」

『……もし、それを断ったら?』

「仕方がありません。面倒ですが、このままこの方を殺して、順番にあなた達を殺していきます。この取引は、柳沢が雇う次の殺し屋にお願いしましょう」

『……はっ、了解だ。殺し屋としての実績に傷がついて信用を失うのはこの業界としては痛いが、背に腹は代えられねぇ――』

 

――『死神』に噛みついた報いと思って、甘んじて受けるさ。

 

 そう言って嘆くガストロに、『死神』はふっと笑いかけるようにして言った。

 

「――大丈夫ですよ。そういったあれやこれは、もう幾ばくも無い間に、全てがリセットされますから」

 

『――はぁ?』と返したガストロに、『死神』は「それでは、今から指定する公園に回収に来てください」と話をすり替えるようにして誤魔化した。

 

 そして、電話を切った『死神』は、渚に向き直って、言う。

 

「――すいません。怖い目に遭わせてしまいましたね。それでは――「あ、あのっ!」…………どうしました、渚君?」

 

 と、返した死神だったが、半ば、この後の渚の台詞は既に予想出来ていた。

 

 なぜなら、その時の渚の表情が――

 

 

――『あ、あの! 僕を! あなたの弟子にしてください!』

 

「僕を、あなたのようにしてくれませんか?」

 

 

 

――『なりたいんです! あなたのように!』

 

「僕は……なりたい! あなたのように!」

 

 

 

――『「たとえ、死ぬほど努力しても!!」』

 

 

 

 なぜなら、その時の渚の表情が――

 

 

――かつての誰かに、そっくりだったから。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 それから、しばらくして。

 辺り一帯が暗くなり、公園の街灯が白い明かりを灯す頃。

 

 渚と『死神』は、とある公園の中心にある噴水の縁に並んで腰かけていた。

 

 つい先程、ガストロが気絶していたグリップ――クラップスタナーによる気絶(スタン)が解けそうになる度に『死神』の手が触手のようにうなり再度気絶させていた――を回収して、渚と『死神』は二人きりになったところだった。

 

 この公園は駅前から少し歩いたところにある寂れた公園なので、噴水といってもその水は苔だらけで、長い間手入れが行われていないことが分かる。異臭はしないが、決して人気のスポットというわけではなく、虫が集っている街灯が照らす圏内では、渚と『死神』しか存在していなかった。

 

「――君には、才能がある。私は先程、そう言いました」

 

『死神』は、渚の方を見ず、そう言った。

 

 渚もその言葉を、ただ前を見ながら受け取る。

 

「先程の戦いを見て、私と彼等の会話を聞いて、薄々理解出来ているかもしれませんが――」

 

 そして、『死神』は渚の方を向く。渚も、ゆっくりと『死神』の方を向き、目が合った、その瞬間――

 

 

「――私は……『死神』と呼ばれる殺し屋です」

 

 

 そして、尚、渚の瞳を、あの笑みを浮かべながら真っ直ぐに見据え、こう言った。

 

 

「私のようになるということは――殺し屋になるということです」

 

 

――それでもあなたは、私のようになりたいと望みますか?

 

 

『死神』は、責めるでも、問い詰めるでもなく、優しく、穏やかな笑みと言葉で――突き放す。

 渚を真っ直ぐに見据えながら――何も「見ていない」瞳で。

 

『死神』は、もう二度と、弟子は取らないと決めていた。

 未だ彼には、なぜ「二代目」が裏切ったのか、自分に足らなかったものは何なのか、その答えが出せていないからだ。

 

 自分の思い通りに動かない道具(じぶん)はいらない。不確定要素は『死神(じぶん)』にとって不利益しか生まない。

 

「………………」

 

 だが、『死神』は、渚の紺碧の瞳に引き込まれそうになっていた。

 相手を取り込むのではなく、あろうことか『死神』である自分が、渚に――潮田渚という、目の前の少年に。

 

 この少年は、まさしく自分が求めていた逸材かもしれない。

 この少年に、暗殺の才能があることは、揺るぎない。『死神』は、そのことに関しては、一目見た瞬間に見抜いて、気付いていた。

 

 そして、もう一つ。この少年は大きな才能を持っている。

 それは『死神』にとってあまりに都合が良く、求めているもので――あの「二代目」にはなかった才能。

 

『死神』の笑みが、一瞬揺れた。己が歓喜で崩れそうになった。

 

『死神』は、正体不明のその欲求に戸惑っていた。

 

 一体、何なのだろう。この湧き起こる感情は。

 

 だが『死神』は、それを一切表に出さず、張り付けた仮面のような笑みのまま、渚の答えを待つ。

 

 渚は、その澄んだ瞳で、清流の水のように美しい瞳で、『死神』を真っ直ぐに見据えながら、彼の問いに解答すべく口を開いた。

 

「僕は――――」

 

 

 

 

 

 ビィィィィン、と。

 

 空から一筋の光が照射された。

 

 

「――――ッ!????」

 

 

 渚は突然のそれに混乱して叫ぼうとするも、頭のてっぺんに照射されたそれは、既に渚の視界を奪おうとしていた。

 

 最後に目に焼き付いたのは、一瞬驚愕の表情を浮かべるも、すぐに不敵な笑みに変えた――『死神』の顔。

 

「……ほう」

 

 渚は再び叫ぼうとする。それは、この正体不明の怪奇現象にではなく、目の前の、やっと出会えた存在との、別離への絶叫だった。

 

(――嫌だ! このまま別れたくない!!)

 

 この人と一緒にいたい。この人のようになりたい。

 

 

――この人から、教わりたい!!

 

 

 その時『死神』が、その触手のような美しい手を、渚の頬に添えようとする――だが、ほんの僅か、隙間を空けている為に、渚はその手の感触も、温度も何も感じ取れない。

 

「大丈夫。また会えますよ」

 

 その言葉を最後に、渚の視界は完全に消え、『死神』は手を離して、その現象を最後まで見届けた。

 潮田渚という少年が、謎の電子光線によって侵食され――――消失し、“転送”される光景を、微笑みと共に見送った。

 

 そして、『死神』はベンチから立ち上がり、興味深そうに呟く。

 

「………なるほど。“彼”が。………やはり、この国に来て正解でした」

 

――面白い夜になりそうです。

 

 そう言って『死神』は、少し先の茂みに目を遣り、そのままそこから背を向けるようにしてその公園を後にした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして――

 

 

「っっっっっっっっっっっっっっ!!!!!」

 

 

 その茂みでは、ポロポロと涙を溢れさせ、ガタガタガタと激しく震え、ガチガチガチガチと激しく歯の根を鳴らし、その細い腕で小柄な己の体を強く強く抱き締めている少女がいた。

 

 緑髪の少女――茅野カエデは、己が見た光景を未だに信じられなかった。

 

 激しく後悔し、必死に探して、どうにか見つけた、その少年。

 だが、その少年は見知らぬ大人の男と話していて、とっさに茂みの中に隠れて、その様子を見守った。

 

(……とりあえず、あの男の人との会話が終わったら声を掛けよう。そして、今度こそ、何か言葉を届けなくちゃ。…………でも、一体、何て……)

 

 一発で、たった一言で渚を救えるような、そんな魔法のような、ご都合主義のような言葉は、物語のヒーローやヒロインならばきっと意識すらせずにスラスラとその場面になったら出てくるような言葉は、この期に及んでもさっぱり思いつかない。

 

 茂みの中で、茅野はうんうんと唸ってその言葉を必死で考えていると――

 

 

 

 突然、何処からともなく、電子音が響いた。

 

 

 

 その音によって思考は中断し、茅野は茂みから顔を覗かせると――

 

 すると、そこには―――――そこでは――――

 

 

「ッッッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!」

 

 

 茅野は、己が見たものを確認するように、その非現実的な光景を、己が言葉で再確認するかのように、ゆっくりと、吐き出すように、呟く。

 

 

「な…………ぎ、さ……が…………なぎさ………が――」

 

 

 

 

 

――消え……た?

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 和人は、ただ明日奈を出来得る限り銃弾から遠ざける為、己の体全体を使って明日奈の体を地面に押し付けるしかなかった。

 

 暗い倉庫の中、その体勢は色々と誤解を招きそうで、平和な日常物語なら、この場面を突然倉庫に訪れた別の女の子が発見して一悶着あって笑いどころになるかもしれないが。

 そんな微笑ましくも賑やかなシーンとなるには、彼等の頭上を飛び交う銃弾はあまりにも異質だった。

 

 あまりにも非日常で、あまりにも殺伐で恐ろしくて――――あまりにも戦場だった。

 

 あまりにも、戦争だった。

 

「……き、キリトくん……」

 

 お互いの吐息がかかるような距離で、明日奈は和人を見上げる。見つめる。

 その瞳は涙で潤んでいて、頬は紅潮し、恋人の名を呼ぶその声は、縋るように湿っていた。

 

 和人は、そんな明日奈を見て、そんな明日奈の瞳を受けて、辛そうに目を細める。

 

 もう二度と、彼女にこんな表情を、こんな思いをさせないと誓ったはずなのに。

 

 一体、何を間違えたのだろう。何が足りなかったのだろう。何が、悪かったのだろうか。

 

(……俺は……また、死ぬのか……? ……今度は、俺だけじゃない……明日奈も、一緒に――)

 

 いや、違う。自分と、明日奈は、絶対に違う。

 

 自分がここで殺されるのは、ある種、きっと必然だった。

 

 昨日のあの時、あの場面で氷川を殺していれば、きっとこんなことにはならなかった。

 それが無理でも、昨日、あんなことがあったのだから、呑気に学校になど行ったりせず、例え明日奈や直葉に訝しがられても、すぐに行動を起こすべきだった。

 

 例えば、幕張。八幡や渚達がどこにいるのかは分からなくても、自分達は昨日、間違いなく幕張にいたのだ。そこから手掛かりを探すことも出来たのかもしれない。

 それが無理だったとしても――そこで何も見つけられなかったとしても、何か身を守る術を用意しておくべきだった。

 

 八幡は、昨日の氷川達の乱入は、イレギュラーだったと言っていた。

 デスゲームでの、イレギュラー。それがどれほど恐ろしく、とんでもない悲劇に繋がりかねない緊急事態であることは、自分は誰よりも知っていたはずなのに。

 

 それだけじゃない。思えば自分は、あのガンツミッションで、新たに巻き込まれたデスゲームに対して、あまりにも動かな過ぎた。

 

 自分よりも状況に詳しい八幡(プレイヤー)がいたからか? 強い奴がいたからか? それとも今までと違ってゲームじゃなかったから? キリトではなく桐ケ谷和人だったから?

 

 どれでもいい。どうでもいい。そんなものは、ここに来て言い訳にもなりやしない。

 

 八幡に無理矢理情報を聞き出すという手もあった。そのチャンスはいくらでもあった。

 

 最低限、あの部屋のアイテムは持ち帰るべきだった。こんな事態を想定できなくとも、八幡は、あのデスゲームに“次”があると、そう明言していたのだ。その時、あれらのアイテムの使い方を知っているだけと、使いこなしているのでは、次回の生存確率はきっと天と地の差だ。

 

 そんなことにさえ、自分は思い至らなかった。

 

 デスゲームに対して、生き残る為に、最善を尽くさなかった。

 

 アインクラッドにいた頃の自分なら――『キリト』なら、そんなことはきっと在り得なかった。

 あのはじまりの日――唯一出来た友人さえ見捨てて、生きるための“効率”を選んだ『キリト』なら。

 

 全ての行動原理が“死なないため”。死の危険性(リスク)を避け、常に安全を得る為に――“生”を確保する為に行動する。行動し続けることが当たり前だった――習性だった、あの頃の自分なら――『キリト』なら、こんなことは絶対に在り得なかった。

 

 そして自分は、そうであるべきだった。そう戻るべきだった。

 

『キリト』を目指すというのなら、きっとそこから始めるべきだった。

 

 その結果が、これだ。

 

 生きるために人事を尽くさなかった結果が、これだ。

 天命は、待つだけの者には、決して訪れない。

 

 桐ケ谷和人は死亡する。呆気なく絶命する。三度目の死を、三度目の正直――正真正銘の死を迎える。

 

 

 愛する人を――――結城明日奈を、道連れにして。

 

 

「―――――ッッッッッ!!!!」

 

 出来得ることなら叫び散らしたかった。

 

 己の無力を――己の愚かさを呪いたかった。

 

 桐ケ谷和人を、呪い殺したかった。

 

(何を……一体、何をしているんだ、俺は……ッッ)

 

 これだけは駄目だ。これだけは、絶対に駄目だったはずだ。決して許してはならなかったはずだ。

 

 自分一人が死ぬのなら――桐ケ谷和人という愚か者が死ぬなら、それは自業自得だ。

 

 けれど、明日奈は関係ない。彼女は、絶対に死んではいけないはずだ。

 

 もう二度と――彼女を失わないと、心に誓った。

 

 けれど――――――けれど。

 

 

 ドガッッ!!! と、何かが崩壊する音が聞こえる。

 銃弾の雨あられを受けて、この倉庫そのものが倒壊しようとしているのかもしれない。

 

 最早、自分達に残された道は、銃弾を受けて死ぬか――屋根に押し潰されて死ぬか。

 

 ここで和人一人が建物の外に飛び出そうとしても、何も変わらない。運命は変わらない。身を少し持ち上げただけでも銃弾は体を貫通し、何も起こせず――何一つ出来ずに、為す術もなく死亡するだろう。

 

 そして、ちらっと後ろを見ても、扉は見事に変形していて、自分の貧弱な腕力ではきっと開けられない。見る範囲でこの倉庫には、足元と天井近くに換気用の窓があるだけで、和人が出られるような場所はない。桐ケ谷和人のリハビリ明けの細腕では、木造とはいえ壁を壊すことなども出来ない――そして、和人が出られないということは、明日奈も出られないということであり、彼女だけを逃がすということも、おそらくは不可能だった。

 

 命乞いをするにしても、降参するにしても、銃声によってその叫びも掻き消されてしまうだろう。

 

 完全に――詰んでいた。

 

(……出て来いっていうなら、出口くらい用意してくれよッ!)

 

 だが、ここに逃げ込んだのは自分達だし、扉を歪めたのは氷川の部下達だ。今更そんな恨み言を氷川に向かって呟いてもどうにもならないことは、和人も理解していた。

 

 和人が最後に望みを託したのは、これだけ派手に撃ち鳴らしている銃声を誰かが聞きつけて、警察なりなんなりの助けを呼んでくれるのを、このままの体勢のまま、跳弾が当たらないことを祈り続けながら待つというものだった――――が。

 

 それも、この建物自体が倒壊するという可能性が出てきた以上――――潰えた、と言ってよかった。

 

 ミシッ――と、何かが軋む音。

 

 銃弾の他にも、天井からパラパラと土煙が降り注いできた。

 

 もう、時間がない。

 

「…………キリトくん」

 

 絶望に暮れる和人の頬に、そっと、愛する人の手が添えられる。

 

 先程までの恐怖に染まっていた顔はそこにはなく、明日奈の表情は――最愛の男性への慈愛で満ちていた。

 

 彼女は、既にその運命を受け入れていた。

 

 その上で、彼女は――――笑ってみせた。

 

 幸せそうに、微笑んでみせた。

 

(…………ああ、俺は、また――)

 

 何度、彼女に救われたことだろう。この強い女性に、自分は何度、救われ続けてきたことだろう。

 

「――ゴメン。…………俺は、また、君を――」

「――ううん。わたしこそ、ゴメンね。……君をずっと、永遠に守り続けるって約束……また、守れなかった」

 

 和人は、自分の頬に添えられた明日奈の手を取り――そっと、彼女の胸の上へ。

 

 そして、その手を名残惜しそうに離し――彼女の頭を抱えるように、抱き締めた。

 

「……キリト、くん?」

「………それでも、もう一つの約束だけは――絶対に守る」

 

 和人は、明日奈の顔を、自分の胸に力強く押し付けて――――絶対に、離さないと、手放さないと、抱き締めて。

 

 

「俺の命は君のものだ、アスナ。だから君のために使う」

 

 

――最後の一瞬まで、一緒にいよう

 

 

 明日奈は、その言葉を聞いて、ゆっくりと目を閉じて――――一筋の、涙を流した。

 

 

 

 そして、倉庫が、倒壊する。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ドゴォォンッッ!! と、限界を迎えた倉庫は、屋根が中に沈み込むようにして壊れた。

 

「うおっ! やばっ、ぶっ壊れちまいましたよ!」

「どうします? 警察が来る前に逃げますか。正直、いつ来てもおかしくないと思うんですけど」

「……そうだな。まぁ、パトカーが来てからでもいいだろう。もう夜だ。十分に逃げ切れる」

 

 氷川は呆気なく死んだ和人に対し、露骨に興味を失ったかのように投げやりに答えていた。

 

(……もう少し面白い奴だと思ったんだが。……やっぱ“夜”を待つべきだったか?)

「あ、氷川さん! あれ!」

 

 土煙がもうもうと立ち込める中――倉庫の中。

 

 一筋の光が、天から降り注ぐように伸びていた。

 

(……死んだのか? それともギリギリで呼ばれたのか? ――それとも、女の方なのか……)

 

 氷川は表情をにやぁという満面の笑みに変え――踵を返し、倉庫に背を向ける。

 

「帰るぞ」

「え、いいんですか?」

「ああ。死んでいるにしろ、生きているにしろ、あの光が現われたってことは、どっかで“狩り”が始まるってことだ」

 

 だとすれば、こんな場所にはもう用はない。

 

 和人が生きているのか、それとも死んでいるのか――――はたまた、死んで、生き返っているのか。

 

 それは、狩り場で――――戦場で、この目で確かめればいい。

 

「――あまり俺を、がっかりさせてくれるなよ」

 

 氷川はそう呟き、遠くから響いてきたパトカーのサイレンの音をBGMに、日常(おもて)の戦場を後にし――――より苛烈で、より残酷な、本番へ。

 

 (うら)の世界の戦場へと――自分達の住処へと、溶け込んでいった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 パトカーの音が、今更ながらに鳴り響く。

 

 ポツン、ポツンと、雨が降ってきた。

 今日は終日どんよりと曇っていたが、ついに降り出したらしい。

 

 そして、本来屋内であるはずの倉庫の中に、こうして雨が侵入しているということは、その屋根が役割を放棄し――ただの瓦礫群と成り果て、倒壊したことを示していた。

 

 ポタッ、ポタッと、滴り落ちる。

 気を失っている結城明日奈の美しい頬に落ちたそれは、だが――雨ではなかった。

 

 その身に幾つもの瓦礫を受け、頭部に思わず目を背けたくなるような傷を負いながらも。

 

 最後まで――最期まで、決して明日奈から退かず、その身で愛する人を守り続けた男――

 

 

――桐ケ谷和人の、命の血だった。

 

 

「……アスナ」

 

 和人は、無傷の明日奈を見て、微笑む。

 

 もはや意識が朦朧とし、彼女の頬に落ちた血を拭おうとしても――ピクリともその腕は動かなかった。

 

 自分が死ぬのか、もう死んでいるのかも分からない。

 

 ただ、どこからか辛うじて届くパトカーのサイレンの音と共に、ビィィィンという、いつかどこかで聞いたことがあるような音が紛れているような、気がした。

 

「アスナ――――」

 

 和人は、呟いているのか、それとも声になっていないのか、それすらも判別できずに、ただ――――誓う。

 

 既に何度も諦めそうになってしまったけれど、その度に再度、己の心に強く、深く刻み直してきた、そんな薄っぺらい騎士の――否、剣士の誓いだけれど、それでも何度でも、何度でも何度でも、何度でも何度でも何度でも、誓う。

 

 この世で最も遵守すべき誓いを、例え肉体は作り直されても、消えない魂へと刻み込んで。

 

 

 

「――――必ず、君の元へ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「おい、大丈夫か!」

「……こりゃあ、ひでぇな」

 

 倒壊した倉庫内に、二人の男が突入した。

 

 二人ともスーツ姿で、一人ガタイがよく目つきが鋭い男、もう一人は無精髭に生気のない瞳の男。

 

「――警察だ。もう大丈夫だ。救急車はすぐに来る。どこが一番いた――」

「………………」

 

 目つきが鋭い男――烏間は、何と名乗るべきか一瞬迷ったが、この場で彼女を最も安心させる言葉は「警察」だろうと判断し、現時点(いま)の立場を言い表すならそう名乗っても問題ないだろうと考え、そう名乗った。そして彼女の怪我の具合を診ようと――救急車が来るまでの応急処置程度なら自衛隊にいた烏間は熟知している――彼女の体を見渡すと、ほとんど目立った外傷はなかった。

 

 同じく、その状況の不自然さに気付いた生気のない男――笹塚も思わず目を細める。

 

 ぽかりと、彼女がいた周囲にだけ、瓦礫が少なかった。

 

 まるで何かに――守られたかのように。

 

「………ぅ……ん」

「……目が覚めたか」

「――ああ、石垣。とりあえず、他の人員は周りの現場保存と検証に充てろ。それからそのプラモは後で壊すからな」

 

 笹塚の部下の石垣が悲鳴と共にどこかへと駆けだす。その間、烏間は少女に対しケアを行っていた。

 

「大丈夫か? 眩暈などはないか? ……見たところ目立った外傷はないが、それでも少しでも違和感があるのなら無理をするな」

「………………くん、は?」

「……………?」

 

 烏間の問いかけが届いているのか、それともいないのか、その少女――明日奈は呆然と、雨を降らし始めた真っ黒な空を見上げ、なくなった天井から覗く空に向かって、ゆっくりと、手を伸ばしながら呟いた。

 

 

 

 

 

「……………キリトくんは――――どこ?」

 




次回、八幡vs黒金です。


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比企谷八幡は、無様な弱者として最強の殺害に挑む。

今日は色々とやらなくてはならないことがあり、更新が遅れてしまいました。申し訳ないっ!


「……ふん、やっと来たか」

 

 グラサンの吸血鬼――黒金(くろがね)は、見渡す限り真っ直ぐに続く灰色のコンクリート製の塀の一か所にどデカくぽっかりと開いた穴から、一人の男が歩いてくるのを見て凶悪な笑みを浮かべた

 

 吸血鬼の牙を見せつけるように、笑った。

 

 その男は――比企谷八幡は、ガンツスーツの上に身に着けていたパーカーやスウェットをボロボロにしながらも、真っ直ぐに、堂々と、この夜の闇の中でも腐敗したその双眸から不気味な異彩を放っていた。

 

「――――……っっ!」

 

 その放つ雰囲気(オーラ)は、人外の吸血鬼でさえ幾人かが息を呑み、思わず後ずさりしてしまう程の、異様だった。

 

「比企谷さんッッ!!」

 

 あやせがその姿を見て、思わず駆け寄ろうと動き出すが――

 

――ジャキジャキジャキ!!! と一斉に銃口が向けられ、その場で足を止めてしまう。

 

「…………っ!」

 

 恐怖で顔を青褪めながら、膝をぶるぶると震えさせながら、それでもあやせは八幡を縋るような瞳で見据える。

 

 八幡は、そちらを一瞬見据え――

 

「下がってろ」

 

 と、すげなく言い放ち――

 

「邪魔だ」

 

――の、一言だけを冷たく告げ、あやせを視界から外す。

 

 あやせは思わず顔を俯かせるが――

 

 

「――俺が死んだら、周りを囲んでいる不審者から、大声で叫びながら逃げるんだ――いいな」

 

 

 と、八幡はあやせの横を遠り過ぎながら、一瞬どこかを見て、そのまま足を止めずに素通りした。

 

(…………え?)

 

 あやせは――昨日と今日しか関わっていないけれど――八幡らしくない物言いに違和感を覚えながらも、その遠ざかっていく背中を見送る。

 

 

 そして、比企谷八幡は、吸血鬼組織の幹部の一角――黒金と再び対峙した。

 

 

「ふん、三途の川は見えたか?」

「ああ。残念なことにやっぱり俺は地獄行きみたいでな。見るからに向こう側がヤバそうだったから、ダッシュで逃げ帰ってきちまったよ」

 

 両者とも、不敵に笑う。

 

 凶暴で、凶悪な笑みを交わし合う。

 

 八幡は既に透明化は解除している。Xガンも――持っていない。

 

 その手に握るのは、漆黒の剣――ガンツソード。

 

 対するは、相対するは――吸血鬼、黒金。

 

 正真正銘の、オニ――鬼。

 

 その構図は、まるで昔話のオニ退治のようで、だが、その両者の浮かべる笑みは、退治されるオニのようなやられ役としては余りにも傲岸不遜で、化け物を退治する桃太郎のような正義役としては余りにも極悪非道だった。

 

 両者とも、既にその目は相手にしか向いていない。

 両者とも、既にその頭は相手を殺すことにしか向いていない。

 

 殺意と殺意。殺気と殺気。

 

 どす黒い空気が、充満する。

 

 あやせも、そして取り巻きの黒服達も、何を言われたわけでもなく、誰の命令でもなく、自らの命の(りょう)に従い――生存本能に従い、目の前の怪物達から、一歩、遠ざかる。

 

 ザッ、と。

 

 それが合図となった。

 

 

「「死ね」」

 

 

 両者が同時にそう呟くと――先に動いたのは黒金だった。

 

 これは黒金が先手必勝を狙ったわけでも、八幡が後の先を取ろうと目論んだわけでもない。単純に、能力の差だった。違いだった。

 

 性能の――戦士としてのスペックの違いだった。

 

 才能の違いだった。

 

 黒金が強く、八幡が弱い――ただそれだけが齎した結果だった。

 

 両者の距離間は、たったの数メートル。黒金にとって、それは一瞬――一つの瞬きの間に零にすることが容易な世界。

 

 そんな一瞬で、八幡が出来るのは、たったの一歩だった。

 

 スーツの力を最大限に高め、己の能力を、機械の力でチートを使って強化しても、目の前の怪物の性能(つよさ)に対して、出来るのはたったの一歩――移動するだけだった。

 

 当然、この弾丸のような突進を、躱すことなど出来ない。

 右にも、左にも、ましてや後ろにも、たったの一歩を移動したところで、黒金の“ただの”突進を避けることなど出来やしない。

 

「――ッ!!?」

 

 故に、八幡は、その一歩を――前に使った。前に、進んだ。

 

 前進した。

 

 常に真正面を避け続け、真っ直ぐに向かい合うことから逃げ続け、相手の視界から消え、背後を取り、背中を狙い続けてきた、あの八幡が。

 

 真っ直ぐに、真正面から、小細工など弄さず、ただ己の才能(つよさ)に物を言わせた――全てを凌駕し、全てを黙らせる、その弾丸のような攻撃(とっしん)に対して。

 

 一歩――迎え撃つように、自分からその距離を縮めた。

 

 黙っていても一瞬で、一つの瞬きの間に零になるその距離を、自分から、さらに縮めた。

 

 己の寿命を、自分から――――否。

 

 ザシュッッ!!! と、肉を裂く音。

 

 血が噴き出る。人体が抉られる。

 

 だが、それでも――八幡は笑った。

 

 その黒金の真っ直ぐに伸びた右手が――自身の“脇腹”を抉ったにも関わらず、不敵に、素敵に、笑ってみせた。

 

「――き、さ」

 

 対して、黒金は苦々しく、ここに来て初めて、その表情を苦渋に染める。

 

 本来その右手は、八幡の心臓を貫くはずだった。

 だが、一歩、八幡が前進したことで、自分から距離を詰め、自分から“死”へと身を投げることで――結果として、“死”から、必至の死から、逃れることに成功した。

 

 あれだけのスピード。たったの一瞬で零になる距離。

 さすがの黒金でも、一度“発射”したら、細かい調整など不可能だと、八幡は踏んだ。

 

 同じスピードでも、もっと長距離だったら話は違っただろう。修正することも可能だっただろう。だからこそ八幡は、のこのこと、堂々と登場し、距離を詰めた。

 

 そして、一歩。その一歩で八幡は、決まったルート、必定のレールに自分から乗ることで、そのインパクトポイントをずらした。

 

 完全な回避は出来ない。ならば、より被害が軽い部位を抉らせることで――即死を回避する。

 

 攻撃を喰らっても、大ダメージを負っても――少しの間、動けるように。

 

 バチチッと電気のようなものを纏った黒金の手刀は、タラタラと八幡の血を滴らせているが、肝心の心臓は、その手にはない。

 

 

 そして、その手を黒金が引き戻す前に――――八幡はガンツソードを、がら空きのどてっ腹に突き刺していた。

 

 ザクッッ!! と、再び――そして、より重い、肉体を抉る音が、夜の路地裏に響いた。

 

 

 取り巻きは、何も言わない。あやせも、ただ両手で口を覆うばかりで、何も言えない。

 

 一瞬の戦闘。

 あまりにも速過ぎて、あやせには突然血が噴き出し、気が付いたら大男の身体を黒い剣が貫いただけにしか見えなかった。

 

 静寂――沈黙。

 あやせが、その硬直を解き、その口から歓喜の声を上げようとした――その瞬間。

 

「――――グッ」

 

 と、呻き声。

 

 あやせが「…………え?」と掠れた呟きを漏らし、八幡がチッと、笑みのまま大きな舌打ちを漏らした。

 

「……ふっ………ここまでの傷を負ったのは、本当に久しぶりだ」

 

 八幡は笑みを浮かべたまま、吐き捨てるように呟く。

 

「……化け物め」

 

 黒金は、自分の腹の位置にいる八幡を見下ろしながら――抱き締めるように、刈り取るように、勢いよく両手を掻き抱く。

 

「お互い――様だッ、ハンター!!」

「チッ!」

 

 八幡はそれを回避する為、剣を引き抜きながらとにかく後ろに飛ぶ。

 

「嘗めるなぁッ!!」

 

 そして黒金は、八幡が着地するのと同時に――――地面を強く踏み抜いた。

 

 瞬間――地面が、アスファルトの地面が揺れる。

 

「なっ!?」

 

 ただの踏みつけで、文字通り地面が震える。地震を人為的に――鬼為的に起こす、震脚。

 

 八幡は瞬間的に逃避した宙から、慣れ親しんだ地へと降りたその瞬間、その地面から拒絶された。八幡の着地を拒むように揺れた足場により、八幡はバランスを崩し、そして――

 

「終わりだ」

 

 その瞬間には、黒金は、八幡の元に当たり前のように接近して――一つの瞬きの間に、既に移動し終えていて。終わっていて。

 

「まあまあ楽しかったぜ」

 

 両手を組んで作った凶器(こぶし)を、容赦なく振り下ろす。

 

 バガンッッ!! と八幡は、自分を拒んだ地面へと強制的に叩きつけられた。

 

 その痛烈な攻撃による衝撃音と重なるように響いたボギッ!! という効果音は、八幡の肩の骨が砕かれたことを示していた。

 

 そして、再びの沈黙。

 

 黒金の全力の攻撃を受けた八幡は、倒れたままピクリとも動かなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「……ぉ、ぉぉ、うぉぉおおおおお!!! 勝ったぁぁあああ!!!」

「さすが黒金さん!! マジぱねぇ!! 超強ぇええ!!!」

「これで、あのムカつく篤グループの連中に一泡吹かせられますぜ!!」

「この調子でハンター連中を皆殺しにしましょう!! 黒金さん!!」

 

 黒金の取り巻き連中は、自分達のリーダーの勝利に歓喜に沸く。

 

 当の黒金は、その取り巻き連中の騒ぎに構わず、ただじっと八幡を見下ろしていた。

 

「……比企、谷、さん?」

 

 そして、あやせは、一向に起き上がらない――まるで、死んでしまったかのようにビクともしない八幡を、呆然と見つめる。

 

「…………比企、谷……さん」

 

 あやせは、もう一度、八幡を呼ぶ。

 

 だが、八幡はまるで動かない。ピクリとも微動だにしない。

 

 地面にうつ伏せに叩きつけられた状態で、だらんと両手を伸ばしたまま――右手が剣を未だに握り締めているのは、いっそ狂気すら感じる執念を思わせたが―――それでも、まるで、現実は変わらない。

 

 比企谷八幡は動かない。死んでしまったかのように――敗北していた。

 

「ひき――ッ!?」

「さぁて、黒金さん。こいつ、どうします?」

「さっさと殺します? それとも――殺す前に、ちょっと愉しみますか?」

「――っっ!!? いやぁ!!」

 

 現実を否定するように――嘘であってくれと願うように、八幡の名前を叫ぼうとしたあやせの肩に、これまで常に一定の距離で銃口を向けていた黒金の取り巻きの黒スーツが近づき、そのうち一人があやせの肩に手を乗せた。

 

 そして耳元で囁かれるその悍ましい言葉に、あやせは反射的に身を捩り、足元に落ちていた自分の鞄を拾い上げ、胸を守るようにして抱きかかえる。

 

 だが、そのまま逃げようにも、前も後ろも黒服の連中に道を塞がれて、逃げ場はない。

 

 あやせの瞳に、じっと涙が浮かぶ。

 

「――はぁ。好きにしろ。……ただし、少し派手に暴れ遊び過ぎた。ヤんなら場所変えとけ」

「ヤッフぅぅぅうううう!!! さすが黒金さんだぜぇ!!」

「弱ぇ奴にはとことん淡泊!! 性欲よりも戦闘欲で生きてる!! そこに痺れる憧れるぅ!!」

「じゃあ、テメェの番はナシな。性欲なくすために滝にでも打たれて来いよ」

「ば、ばっか、おめぇ、こんな上玉ヤり逃す訳ねぇだろ!! 少なくとも三回は射すわ!!」

「オメェは一生黒金さんにはなれねぇなwww」

 

 自分を餌に盛り上がる周囲。さすがに彼等の言葉から、これから自分がどんな目に遭わされるのかを想像できないほど、あやせは子供ではなかった。

 

 そして、八幡にはああ言ったが、いざこの状況で、たった一人取り残されて、恐怖に負けずに気丈でいられる程――あやせはまだ、強くなかった。大人ではなかった。

 

(……怖い。怖い。怖い。嫌。嫌。嫌嫌嫌嫌!!! そんなの嫌!!!)

 

 こんな連中に犯される。玩具にされ、嬲られる。殺されるより余程怖く、恐ろしく、現実感のある地獄だった。

 嫌悪感が体中を駆け巡り、膨れ上がる。そして、それに対する恐怖が混ざり合い、いっそ発狂してしまいそうになる程に、莫大な感情が駆け巡る。

 

 

――『本物』という言葉が、その感情の瀑布の中で、ぽっかりと悠然と存在し、台風の目のようにそこだけは無風だった。

 

 

 まるで、それだけは傷つけては駄目だというように。それだけは、失くしては駄目だというように。

 

 あやせの目が、再び八幡に向かう。

 

 比企谷八幡。あやせに――『本物』というものの素晴らしさを、教えてくれた人。

 

 それが、一体、どういうものかは分からない。

 

 だけど、それは、きっとこの世の何よりも素晴らしくて、それがあれば他には何もいらない程に美しくて――

 

(……わたしも、『本物』が欲しくなった)

 

 憧れた。心を、奪われた。

 

 その綺麗で、美しくて、きっと何よりも甘い――その果実を、手に入れたい。

 

 でも、それは、ここで、こんな奴等に犯され、穢されたら、きっと二度と、辿り着けなくなる。

 

『本物』は、二度と、手に入れられなくなる。

 

 綺麗で、美しくて――とっても甘い、その果実に、触れられなくなる。

 

(―――――嫌っ!!!!)

 

 見つけたのに。やっと見つけたのに。

 

 それを、もう失うの? やっと、やっと見つけた――新しい――なのに!!!

 

 それならば、また失うのならば――いっそ――いっそ、ここで――――ッッ!!!

 

 

『俺が死んだら、周りを囲んでいる不審者から、大声で叫びながら逃げろ――いいな』

 

 

 あやせは、その言葉を思い出す。

 

 バッと、倒れ伏せる八幡に目を向ける。

 

(……死んだら………不審者……そして、あの時――)

 

 八幡は、一瞬、視線を逸らした。

 

 あやせの足元――正確には、その鞄。

 

「ッ!?」

 

 あやせはそれに気づく。

 

 そして、下品に騒ぐ己の取り巻き達を一顧だにせず、そのまま天を仰いでいる、奴を見る。

 

 あやせはそれを確認し――必要な条件が揃っていることを確認すると。

 

 腹に力を込め――思い切り、それを“引き抜いた”。

 

 ピリリリリリリリリリリリ!!!!! という電子音が、夜になりたての路地裏に響き渡る。

 

 それに取り巻き達は、そして黒金は驚愕し――一斉に、その一点を見る。

 

 

 新垣あやせは、防犯ブザーを握り締めていた。

 

 

 昨夜、新垣あやせは不審者のストーカーの手によって――正確にはストーカーによって追い詰められて、死んだ。殺されたと言ってもいい。

 そんなことがあって、あやせは今朝、自分の部屋で目覚め、母親によって早く起きなさいと急かされている時、妙にそれが気になった。

 

 自分の机の引き出しの奥に、押し込むようにして仕舞っていた――防犯ブザー。

 かつて、京介と二人きりで会う時に――自分の身を守るためと言い、身に着けていたものだった。

 

 初恋の人との、思い出の品だった。

 

 防犯ブザーやら手錠やら恋愛ゲームやらが初恋の思い出という自分に苦笑したが――いわば、苦笑出来る程に、出来るようになっている程に、昨夜の経験は強烈だったらしい。

 

 昨夜の戦争は、あやせに影響を及ぼしたらしい。

 

 戦争と、戦場と、そして――彼は。

 

 あやせは今日、その防犯ブザーを、昨日のようにすぐに取り出せない鞄の奥深くではなく、分かりやすい外面に、見せつけるように付けて登校した。

 

 それにどんな意味があったのかは、あやせ自身にもよく分からない。

 純粋に身を守る為だったのか、それとも何かへの決別の意味もあったのか。

 

 だが、少なくとも、今、この瞬間――そのブザーは、この戦況を大きく変え、決定付けた。

 

 

 

 その男は、音を立てず、気配も立てず――ゆっくりと立ち上がった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 死んだふり。即ち、擬死。

 弱者が強者に抗う為、騙す為――生き残る為。

 

 全ての誇りを捨て、尊厳を捨て――――逃避する。

 

 強者から――捕食者から、逃避する為の、小細工。

 

 知恵。

 か弱き弱者の、誇り高き弱者の、強者を屠る為の、小賢しき策。

 

 

 そして、八幡は、この時、遂に――背中を()った。

 

 

「――ッッ!!??」

 

 卑怯に――卑屈に、最低に、陰湿に。

 

 真正面から立ち向かわず、真っ向から相対せず、逃げ回り、隠れ、潜み――――殺す。

 

 例え、脇腹を抉られようと、肩を砕かれようと、死にざまを無様に晒そうと。

 

 試合に負けようと、勝負でも敗北しようと。

 

 それでも――殺す。

 

 殺せば――

 

 

「――勝ちだッ!!」

「嘗めるなぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 

 

 完全に後ろを取られた黒金だが、まさしく鬼のような形相で、殺意を剥き出しにして、強引に身体を捻り、拳を振り上げる。

 

 だが、八幡は、それに構うことなく、それに一切ひるむことなく、己も全開の殺意を放ちながら、突き上げるように――最期まで決して離さなかったガンツソードを突き出す。弾丸のように刀身を伸ばし――

 

 

 

 

 

 その時、暗闇の黒を裂くように――――白い少年が両者の間に降り立った。

 

 

 

 

 

「――――ッ!? 貴様……っ!?」

 

 思わず黒金は拳を止め、忌々しげに歯を食い縛りながら睨み付ける。

 

 だが、その白い少年は、黒金のことなど見ておらず、見下ろすように、その男を、優しい笑みで見つめていた。

 

 

「…………中、坊?」

 

 

 八幡も、思わず剣を止めていた。

 

「きゃっ!?」

 

 その時、再び二人の邂逅を妨げるように、天から二筋の光が注ぐ。

 

 八幡はあやせが転送されるのを見て、中坊の姿をした謎の目の前の少年に向かって捲くし立てる。

 

「おいッ! お前は何者なんだ!! なんで中坊の姿をしてる!? 答えろ!! 教えてくれ!!」

 

 だが、白い少年は、八幡の質問には答えず、こう言った。

 

 

「――きっと、もうすぐ分かるよ」

 

 

 そして、八幡が更に言葉を続けようとして、それを遮るように、こう続けた。

 

 八幡の視界が、上からどんどん減っていく中、白い少年の言葉は、八幡の耳にこう届けられた。

 

 

 

「カタストロフィは近い。それまでに“彼”を生き返らせて。必ず、彼はあの終焉(クライマックス)に必要になる――――」

 

 

 

――――ブツンッと、途切れる。

 

 

 

 そして、比企谷八幡は、一つの戦争を終え――新たな戦争へと送られた。

 

 

 

 これで、八幡は三日連続の戦争(ミッション)――終わりが始まっている証拠だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 八幡が転送されるのを見届けると、白い少年の背後から、低い声が響いた。

 

「――おい。昨日に続いて……随分と嘗めた真似してくれるじゃねぇか」

 

 その言葉に、白い少年がゆっくりと振り向くと、そこには――見るからに激昂している最強の姿があった。

 

「……白いパーカーのガキ……ま、まさか、コイツ! 昨日、黒金さんと氷川さんの二人がかりでも殺せずに逃げられたっていうパラサイ――ひぃぃ!!」

 

 取り巻きの一人が白い少年を指さしてそう喚くが、言葉の途中で黒金が尋常ではない殺気をぶつけて黙らせる。

 

 だが、白い少年は、そんな黒金にも全く恐怖を見せず、瞬きすらせず一定の微笑みで、黒金に向かって不敵に言う。

 

「そうだね。全く持ってその通りだ。さて、どうする? 今日はお仲間もいないけど、君一人で僕を捕まえられるのかい?」

「黙れ」

 

 これだけの取り巻きに囲まれているにも関わらず、それでも仲間がいないと言い放つ白い少年。

 それは彼等の繋がりを否定するものではなく、彼等程度の戦闘力ではいないのと同義だと断じたのだ。

 

 そして、その意味を正確に汲み取って、それでも黒金は、問題など無いと殺気で応えた。

 

 メキ、メキメキメキ、と、身体から異音を発し――――その姿を、“異形”に変えながら。

 

「貴様など、俺一人で十分だ。――昨日の戦いも、お前は終始逃げ惑うばかりだったが、お前は俺より強ぇのか?」

「……………………」

 

 白い少年は、何も言わない。

 

 ただ、その張り付けられたような微笑みで、黒金が怪物へと変わるのを――戻るのを、その場でじっと見上げているだ。

 

 取り巻き達は黒金が“()()()()()”するのと同時に、一目散に逃げだした。

 

 正真正銘の一対一となったこの状況で、黒金は言う。

 

「それに、一つ言っておくぞ。――俺は、お前を捕まえるんじゃねぇ」

 

 弱者を嘲笑するように上から目線で――圧倒的な強者の自負を持って。

 

 

 

「殺すんだ」

 

 

 

 瞬間、白い少年の頭部が、花開くようにバッと裂けた。

 

 そして、その戦いの号砲の如く――――落雷が、降り注ぐ。

 

 

 

 怪物と、怪物の戦いは――――まだ、終わらない。

 




次回、ようやくあの部屋へと帰還です(笑)。

やっと主人公たちが合流です。


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そして、彼ら彼女らは黒い球体の部屋に呼び戻される。

集合回。


 うっ、と。

 強烈な人工光の明かりが眼球を襲い、思わず呻く。

 

 すると、その声に気付いたのか、覗き込むように蛍光灯と和人の間に(たてがみ)のような金髪に傷の入った眉が特徴的な顔が現われた。

 

「お、目が覚めたか?」

 

 徐々に覚醒してきた頭が、その顔に関する記憶を引っ張り出す。

 

 この男は、昨日、真夜中の戦場で――幕張で、共に恐竜と戦争をした――

 

「――東、条……?」

 

 恐る恐る口にしたその名前はどうやら当たっていたようで、東条はふっと笑いながら、しゃがみ込んでいた膝を伸ばして立ち上がる。

 

 再び目を襲う人工光――蛍光灯の光。今度は呻き声を上げることなく、ただ目を細めるだけで耐え抜き、徐々に慣れていくにつれ目を開いて――“その部屋”の中を見渡した。

 

 そこに居たのは、五人の人間と――一匹のパンダ。

 

 肥満体系の中年の男。

 

 迷彩のバンダナを巻いた金髪の若い男。

 

 気弱そうな高校生か大学生ほどの少年。

 

 部屋の隅で怯える明るい髪色のまだ真新しい制服を着た中学生くらいの少女。

 

 飄々と君臨する、東条英虎。

 

 そして、パンダ。ジャイアントパンダ。

 

「…………」

 

 桐ケ谷和人は、ゆっくりと上体を起こし――それに目を向けた。

 

 五人の人間達と、一匹の獣――――その中心に座する、一つの、黒い球体。

 

(……ガンツ)

 

 片膝を立て、鋭く睨み据えるように、和人はガンツを見据える。

 

(まだ、俺に………チャンスをくれるのか?)

 

 そして、力強く立ち上がる。

 

 和人はまず、一番近くにいた東条に声を掛けた。

 

「……渚達は、まだ来てないのか?」

「ああ。俺も気が付いたらここにいて、そん時にはこいつ等はもうここに居た」

 

 東条はそう言って辺りを見渡す。そして真っ先にパンダと遊び出した。

 和人も追従するようにもう一度改めて見渡す。パンダと遊ぶ東条はスルーした。

 

 自分を入れて、六人――と一頭。

 その内、東条とパンダは知っているが、残る四人の人間は初めて見る。

 

 皆、一様に浮かべる怯えと戸惑いに満ちた表情。前回の自分達と同様に、新たにガンツに誘われた――新メンバーだろう。

 

 新たに、ガンツによって運命を捻じ曲げられ、玩具(キャラクター)にされる哀れな死人達。

 

 死んだ後にも地獄を見ることを宿命づけられた、この戦争(デスゲーム)の新たな被害者達。

 

(………………なるほど。こういうことか)

 

 和人はこの時、何故八幡が前回の時のこの時点で、自分達新メンバーに知っている限りの情報を開示しなかったのか、その理由と心情を朧気ながら理解した。

 

 この瞳を向けられるだけで分かる。彼等がいかに、頼れる何かを欲しているのか。

 

 死という、おそらくは生物として最大級の窮地から、訳も分からない内に拉致されて、何の情報も与えられず、こうして無機質なワンルームに放置されているのだ。

 

 混乱するに決まっている。誰かに導いて欲しいに決まっているのだ。

 

 右も左も前も後ろも今も昔も何もかもが意味不明。

 

 そんな状態で、そんな状況で――颯爽と、まるで救いの神が如く、この摩訶不思議な状況の謎を訳知り顔で説明していく存在が現われたら、どうなるか? そいつは一体どうなるか?

 

 SAOというデスゲームにおいて、似たような状況を、酷似している状況を、何度も経験している和人には、嫌になるほどはっきりと想像できる。

 

(……俺は、アイツに何も言えないな)

 

 何故なら自分も同類だから。

 

 和人も――『キリト』もかつて、その重荷から逃げ出した。

 たった一人の友人を見捨てて、その責任から逃避した。

 

 命を背負うことから、逃亡した。

 

 言うならば、和人はβテスターだったあの頃と、再び同じような岐路に立っている訳だ。

 

 あのはじまりの日の、はじまりの街。

 茅場昌彦のアバターが、デスゲームSAOのチュートリアルを終えた直後、一目散にはじまりの街の出口へと走った、あの時。

 クラインを見捨てて、切り捨てて、単身、次の街へと――慟哭しながら駆け出した、あの時と。

 

 中年の男が、バンダナの男が、気弱そうな少年が、涙目で震える少女が――――和人を見ている。

 

 彼等はすでに、東条と和人が、この異常な空間について――何か知っていると悟っている。

 

 自分達を導いてくれる存在だと――期待を寄せて、縋っている。

 

「……………………」

 

 ギュッと、拳を握る。

 

 さぁ、どうする? ――桐ケ谷和人。

 

 かつての(キリト)と同じように、彼等を見捨てるのか?

 

 それとも――

 

 和人は、一度、深く瞑目する。

 

(………もう……俺は、間違えない。間違えられない。……俺は、生き残る為に、最善を尽くし――死力を尽くす)

 

 戻るんだ。成るんだ。黒の剣士キリトに。

 

 デスゲームを生き抜いた――英雄に。

 

 その為にも、最適な選択肢を。最善の方法を。

 

 全ては、生き残る為に。危険性(リスク)を排し、生存確率を少しでも高める為に。

 

 和人は、ゆっくりと、目を開いた。

 

 新メンバー全員の視線が、自分に向かって集まっている。

 

 和人は、そんな彼等に――――

 

 

 

 その時、ガンツから、新たな光線が発射された。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

――大丈夫。また会えますよ。

 

 

(――『死神』さんッッ!!)

 

 渚が絶叫するように手を伸ばした先にあるのは――――明るい蛍光灯の光だった。

 

「………………え?」

 

 呆然とする渚。

 

 気が付いたらそこは、あの寂れた公園ではなく、無機質な清潔感しかないワンルームだった。

 

「お、来たか、渚!」

 

 渚が声の方向に振り向くと、泥だらけの汗が染み込んだ作業着の東条と、どこかの高校の制服を着た和人がいた。

 

「…………東条さん…………桐ケ谷さん…………えぇと、これは――ッ!?」

 

 渚はぼんやりとした言葉でそう問いかけるが、薄々と、状況はゆっくりだが掴めてきた。

 

 そして、その残酷な答えに消沈しかけたその時、その“見えた”ものに息を呑んで驚愕する。

 

「…………ああ、たぶん昨日と同じだ」

「また恐竜とかあの海坊主みたいなのと喧嘩すんのか?」

 

 和人が神妙な顔で、東条が飄々とした様子でそんなことを言ってくるが、渚はそれどころではなかった。

 

(………………なに、これ?)

 

 これまで渚は、母親の――文字通りの“顔色”を窺って生きてきた。

 

 その色が暗かったら危険――機嫌が悪かったり、ストレスを抱えていたり、精神的に追い詰められていて、憤怒や発狂に繋がりやすい状態。

 逆に明るければ安全――機嫌が良かったり、油断していたり、精神的に余裕があって、こちらの意見が通りやすい状態。

 

 それはいつしか母親以外の人間のそれも“見える”ことが出来るようになっていて、これまでは無意識で感じていた程度のものだったけれど、この才能は渚にとって生命線と言えるものだった。

 

 か弱く、貧弱で、無害で、草食な潮田渚という生物にとって、己の身を――命を守る、習性のようなものだった。

 

 だが、今は、それがはっきりと分かる。意識して“見える”。

 

 

 その人間の――“意識の波長”が。

 

 

 本能で感じる。

 呼吸、視線、表情――刻一刻と、そんな僅かな要因で少しずつ変化するそれらが、その人にとってどれだけの生命線(じゃくてん)か。

 

 今なら、分かる。

 たった一発の柏手が、強力無比な殺し屋を、無傷で、尚且つ完膚なきまでに無力化出来た、そのカラクリが。

 

(……たぶん、出来る)

 

 貧弱な自分でも、E組(エンド)の自分でも、たぶん“あれ”と、同じことが出来る。

 

 

 あの美しい――暗殺が出来る。

 

 

 

――すばらしい才能をお持ちですね

 

 

 

(…………才能)

 

 これが、そうなのか?

 

 大した長所もなく、ただ潮田広海の二周目として育って、そしてその“期待”にも応えられなくて、解放されて――捨てられて……見捨てられて。

 

 そんな自分には、きっとこの先、これ以上、望めないような――才能。

 

 潮田広海の分身(アバター)ではなく。

 

 正真正銘、潮田渚としての――才能(かち)

 

 

――私のようになるということは

 

 

――殺し屋になるということです

 

 

 

――それでもあなたは、私のようになりたいと望みますか?

 

 

 

(…………僕は――)

 

 その時、渚を現実に引き戻すかのように、ガッとその肩を揺さぶられた。

 

「おい、渚! 大丈夫か!?」

 

 はっと意識を引きもどすと、自分の肩を掴んでいるのは和人のようだった。

 どうやら渚が再びガンツゲームに挑まなければならないという状況に絶望したのだと思い、心配したらしい。

 

 渚は和人にそんな心配をかけてしまったことを申し訳なく思い謝ろうとしたが、その時、和人の顔を見て――“顔色”を見て、思わずポツリと呟いてしまった。

 

「……桐ケ谷さん…………“大丈夫”ですか?」

 

 和人は、励まそうとした相手に逆に気遣われたことに呆然とし――そして。

 

「…………」

「…………」

 

 まるで、こちらの心の中まで見通しているかのような、澄み切った清水のような渚の瞳を受けて、和人は思わずキュッと唇を引き締めるが――

 

「――んっ」

 

 ポンっ、と。渚の頭に手を乗せ、微笑みながら立ち上がる。

 

「大丈夫だよ。……お前は、まず自分の心配をしろ」

 

 そう言って、転送されてからずっと座りっぱなしだった渚を立ち上がらせようと手を差し出す。

 

「……………はい」

 

 渚は、それ以上は何も言わず、ただその手を取って、立ち上がった。

 

 

 その時、ビィィィィンと、再び電子音。

 

 光線は二筋。もちろん新メンバーの可能性はあるが、残るメンバーから考えて、おそらくはあの二人だと、渚と和人は察した。

 案の定、召喚されたのは、和人と渚が想定した通りの、知っている顔ぶれだった。

 

「――えっ? あ、こ、ここは――?」

「………………」

 

 現れたのは、制服姿の黒髪の美少女と――スウェットとパーカーの不審者。

 

 少女の方は突然の転送に困惑しているが、男の方は一切動揺することなくゆっくりと室内を見渡している。

 

 その様が――有様が、男の、この異常な状況に対する積み重ねた経験値――経験した地獄の数を如実に示していた。

 

 そして、男――比企谷八幡は、こちらを真っ直ぐに見据え――睨み据えていた、桐ケ谷和人と目が合った。

 

 八幡も、その視線に応える。まるで動じることなく和人と目を合わせる。

 和人の傍にいた渚は目に見えて身体を震わせ、そして明らかに只者ではない八幡と、この状況に対しての事情を知っていることを匂わせていた和人の対面に注目していた新メンバー達も、その八幡の異様な眼光を見て――身を竦ませる。

 

 この異常な状況に対する――恐怖を忘れた。比企谷八幡という男に対する畏怖が、それを容易く上塗りした。

 

 それが、歪んだ形で完成された、今の比企谷八幡という男だった。

 

 だが――和人は、そんな八幡に対し一切後ずさることなく、その濁った双眸に己の眼光を飛ばして問い詰める。

 

「……どういうことだ?」

 

 和人は八幡の至近距離に近づきそう言った。

 

 それに対して八幡は、ただ淡々とこう返す。

 

「何がだ? 俺は言ったはずだぞ。100点を取るまで、こうして何回も強制的に徴収されると」

「そうじゃない!! 俺が言いたいのは、そんなことじゃない!!」

 

 和人は激昂しながら、八幡の右肩を掴む。

 それでも一切八幡は表情を――無表情を変えないが、渚をはじめとする東条以外の周りの人間達は、突如始まったこの緊迫したやり取りに恐怖と困惑を込めた表情を浮かべていた。

 

 だがそんな中、八幡が肩を掴まれた瞬間に黒髪の少女――新垣あやせはハッとし、そのまま八幡に駆け寄る。

 

「ひ、比企谷さん! 肩は!? 肩の怪我は大丈夫なんですか!?」

 

 そしてあやせはそのまま脇腹にも目を遣る。だが、そこには傷など全くなく、それどころか擦り切れてボロボロだったパーカーやスウェットもまるで無傷のままだった。

 

 八幡はあやせを振り払うようにあしらいながら、乱雑に投げ捨てるような言葉で言った。

 

「――ガンツに転送された時は、どんなにボロボロだろうと新品状態になる。怪我も汚れも綺麗さっぱり元通りだ。回復というよりは――やっぱり“新品”って言った方がいいんだろうけどな」

 

 八幡がそう言うと、和人は自分の身体も見回した後、俯いたまま、ポツリと言った。

 

「――お前達も、襲撃に遭ったのか?」

 

 その呟きに八幡はピクリと眉を動かし、あやせは驚愕の表情で和人に尋ねた。

 

「………もしかして、桐ケ谷さんも――」

「………………」

 

 八幡は何も言わずに、ただじっと和人を観察していた。

 

 和人は顔を上げると、再び八幡を睨み据えながらパーカーの胸元を掴み上げ、言った。

 

「……なぁ、教えてくれ。この戦争(デスゲーム)は、日常世界(リアルワールド)でも襲撃されるような、そんな仕様だったのか? ――だとしたら、どうして教えてくれなかったんだ!?」

 

 和人は、己の言い分が無様な我が儘だということを理解している。

 あの悲劇は、己の努力不足で起きたことだということを、理解している。

 

 だが、それでも、やはり思ってしまうのだ。

 あの時、目の前のこの男が、もう少しでも、自分達に手を差し伸べてくれていたら、と。

 

 明日奈を、あんな目に遭わせてしまうことは、なかったのではないか、と。

 

 つい先程、八幡の置かれていた状況を、あの時に八幡が抱いていた心情を、ほんの少しでも理解し――己に、かつて同じ選択をした自分に、同じ所業を犯していた自分に、この男を責める資格などないことは痛感している。

 

 だが、それでも――パーカーとスウェットの下にガンツスーツを身につけているこの男は、やはり今回の襲撃を想定していたのではないかと。

 

 つまり、あの悲劇は、防げる事態だったのではないかと。

 

 そう悟ってしまい、沸騰した己の感情を、和人は抑えることが出来なかった。

 

 そんな和人を腐った双眸で冷たく見下ろしていた八幡は、静かに、呟くような音量で言った。

 

「――俺が、今までで……現実で星人の襲撃を受けたのは、一回だけだ」

 

 そしてスーツの力で超人と化している八幡の腕力は、己を掴み上げている和人の腕を容易く引き剥がした。

 

「――っっ!」

 

 振り払うようにして八幡から距離を取った和人は、八幡の話に耳を傾ける。

 

 あやせも、渚も、神妙な顔で傾聴した。

 

「――その星人は、前夜のミッションで、俺が殺しきれなかった個体だった。……その日、俺はそれまで稼いだ全ての点数を失い、そのまま自室に帰らされた。……そして、寝坊して、学校に遅刻して登校すると――」

 

 八幡は、腐りきった瞳を、更にどんよりと濁らせながら、淡々と――だが、静かに拳を握り締めながら、語る。

 

 

「――学校に星人が乗り込んでいて……一つのクラスの全ての人間を虐殺していた」

 

 

 その、あまりにも救いようのない悲劇に、和人と、あやせと、渚は、息を呑んで瞠目した。

 

 八幡は、そんな彼等のリアクションなど気にも留めず、ただ無感情な声色でこう述べる。

 

「――だが、これは俺が取り逃がした個体が、同胞を殺した俺に対する復讐の一環で行ったことだ。……奴はそれなりに知能が高い個体だったからな。……だが、今回の襲撃は、ガンツのミッションとは関係ない。……いや、関係はあるのかもしれないが、それでも俺等は奴等に対して、直接何かしたわけじゃなかった。……桐ケ谷。一応聞くが、お前を襲ったのは昨日の黒服の連中か?」

「……ああ。あの、金髪の男だった」

「そうか。俺達はあのグラサン野郎の集団だった。……おそらくは、いつかあの黒服の奴等とはミッションで戦うことになっていたとは思うが、正直言って昨夜の時点では情報が少なすぎた。星人かどうかすらも確かじゃなかったからな。……まさか、ここまで動きが早いとは――予想外だった」

 

 和人は八幡の言葉を聞き、改めて己の愚かさを痛感していた。

 

 今回の襲撃――八幡は、知識として予測していたのではない。

 あのイレギュラーな事態に対して、思考を放棄せず考察を進め、あらゆる事態を想定し、それに対する準備を――防衛準備を整えていただけだった。

 

 つまり、今、八幡が身につけているガンツスーツこそが、この戦争(デスゲーム)に対する、八幡と和人の、意識の――覚悟の、差だった。

 

“生”に対する執着。“死”に対する防衛。

 その全てが、桐ケ谷和人は、比企谷八幡に劣っていた。

 

 和人はそんな悔しさをグッと己の中に押し込みながら、八幡の言葉に返す。

 

「……つまり、奴等を全滅させなければ、俺達はいつ……また現実世界(リアルワールド)で襲われるか……分からないってことだな」

「ああ。おそらくは近い内――もしかしたら、今回にもガンツから奴等の討伐指令(ミッション)が出るかもしれないが、出なければ常に身を守るか――」

 

 八幡は、滔々と、流れるように無感情に言った。

 

「――自主的に殺すしかないな」

 

 その言葉に、今度こそ、あやせと和人は絶句した。

 

 渚はその件の黒服集団を見ていないからピンときていないようだが、直接彼等と相対し、戦った和人とあやせには、この言葉の異常さが分かる。

 

 人間なのだ。彼等は。奴等は。パッと見は普通の人間で、姿形も人間で、操る言葉も人間で、あまりにも人間なのだ。

 

 そして、あやせと和人すら知らないが、八幡はこの時、既に吸血鬼が“元”人間だということも、しっかりと理解し、認識している。

 

 彼等は自分達よりも悲劇的な運命を背負い、理不尽な宿命によって、強引に、無理矢理に、自分達の意思とは関係なく化け物になってしまった集団で、星人なのだということを知っている。

 

 それでも尚、八幡は、当たり前のように言う。――殺すのだと。

 

 まるで台所に出現したゴキブリを駆除するが如く当然に、己にとって不利益なのだという理由で、あっさりと殺害を決定する。

 

 それも、ガンツのミッションだからという大義名分――免罪符すら無しで、言い訳すらしないで、完全なるプライベートで、己の身と精神の安寧の為という、完璧に己のエゴのみの動機で。

 

 人型の、人間にしか見えない生命体を――殺すのだと、そう言うのだ。

 

 例え、その星人が自分達の命を狙っているのだとしても、今まさに剣を振り下ろされ、銃口を向けられているのならまだしも、その脅威から表面上は一旦逃れ、安全な室内にいるこの状況で、あっさりと、何の葛藤も迷いも逡巡もなく――殺し尽くすのだと、そう言えてしまえるのだ。

 

 それ程に――比企谷八幡は、終わっているのだ。

 

 それを、和人とあやせは理解する。そして恐怖する。

 

 この部屋に、ガンツという黒い球体に支配された人間は――ここまで壊れてしまうのかと。

 

 自分も、いずれ、こんな戦士(キャラクター)になってしまうのかと――育てられてしまうのかと。

 

 そんな八幡を、部屋の隅にいるジャイアントパンダが真っ直ぐに見据えていた、その時――

 

「なぁ! あんさんら、ええ加減に――」

 

 新メンバーの一人である肥満体系の中年の男が、訳知り顔で語り合う和人達についに痺れを切らした、その時。

 

 

 再び電子音と共に、ガンツから光線が発射された。

 

 

 その数は、なんと五筋。

 光線は瞬く間に人形(ひとがた)を創り出し、五人の人間をこの部屋に新たに召喚する。

 それは揃いの学ランを纏った――だが、それぞれ独特に着崩した、見るからに不良生徒といった風の集団だった。

 

 突然、見知らぬ一室に転送され、混乱した彼等が――その中心核であろう黒髪にオールバックの顔に大きな傷を持った少年が、ヒステリックに叫ぶ。

 

「なんだこりゃ……一体、何がどうなってやがんだッッ!!!」

 

 

 そして、始業のチャイムを鳴らすかのように――その歌が響いた。

 

 

 

 

 

あーた~~らし~~いあーさがき~~た~~きぼーのあーさーがー

 

 

 

 

 

 そして、黒い球体に浮かび上がる、不気味な文字列。

 

 

【てめえ達の命はなくなりました。】

【新しい命をどう使おうと私の勝手です。】

【という理屈なわけだす。】

 

 

 

 そして、今夜も――

 

 

 

【てめえ達はこいつをヤッつけてくだちい】

 

 

 

 

――黒い球体が、死人を玩具に遊びだす。

 

 

 

 

 

《ゆびわ星人》

 

 

 

 

 




次回は武器選びなど転送されるまで。だけど文字数はかなりパないよ! 今回の二倍だよ! ……本当、何やってるんでしょうかね。展開遅すぎて引くなっ!


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桐ケ谷和人は正道を進み、比企谷八幡は邪道を貫く。

……再びすいません。今、リアルが凄まじく忙しくて……
これからももしかしたら零時過ぎちゃうかもですが、毎日更新は続けていきたいと思っているので、どうかご容赦を。


 

 ラジオ体操が流れ、ガンツの光沢のある表面に、今回の標的(ターゲット)が表示される。

 

 ……ゆびわ星人。画像を見る限り、どこら辺がゆびわなのかさっぱり分からないが、まあそれはそれとして、少し予想外だった。

 

 桐ケ谷にはああ言ったが、今回のミッション……俺はあの黒服達が標的(ターゲット)になる可能性は、かなり高いと踏んでいた。

 奴等は相当ガンツについて深く知り尽くしていたし、俺等や桐ケ谷のように現実世界で狙われている――言うならば、“この”ガンツにもかなり近いところまで踏み込まれているということだ。

 

 直接的に命を狙われている俺達にとってはもちろんだが、ガンツ自身にとっても奴等はすでに一刻も早く排除したいレベルの敵だと思ったのだが……。

 俺達じゃ、まだ勝てないとでも? ――いや、ガンツはそんなことを考慮してくれる奴じゃない。

 

 ……まぁいい。俺如きがガンツについて全てを理解できるはずがない。元々コレは規格外の存在なんだから。

 

 玩具は黙って、言われた通りに――殺すだけだ。

 

 ドガンッ!!!! と、ガンツが三方向に飛び出し、俺等に武器を提供する。

 

 さぁ、戦争をしてこい、と。俺等を地獄に送り出す。

 

 望むところだ。

 

 待ち望んでいた。

 

「あ、比企谷さん!」

 

 新垣の声が後ろから掛かるが、俺は取り合わずに左部に飛び出したラックへと向かう。

 

 スーツとXガンは既に身につけているから必要なのはYガンとXショットガン――と、俺が武器を物色していると、ガンツが突然開いたことに驚き恐怖しているのか、すぐ傍にガタガタと震えている涙目の……制服を着ているからおそらくは中学生の女児がいるのに気付いた。

 

 ……先程、俺は天使姉妹と会ったばかりだが、それでも、なぜかこの女児を見て、真っ先に思い出したのは、俺が追い込んだあのぼっちの小学生だった。

 

 少女(姉)と違ってこの少女が髪を染めていたりしていることから、どこか大人っぽいアイツを連想したのかもしれない。

 

 ……そういえば、あいつも今頃は中学生なんだよな……。

 

 と、そんなことを思っていると、その時、その中一(おそらくは)少女は顔を上げ、俺と目が合った。

 すると少女は――驚愕し、恐怖で染まっていた顔を更に絶望に染め、ついには涙を浮かべて叫び出した。

 

「い、いやぁッ!! いやぁぁあああ!!」

 

 少女の絶叫に、部屋の人間達の目は一斉に俺に集まった。……何もしてねぇよ。強いて言うなら目か? 腐った眼で徘徊してごめんなさいね。

 

「比企谷さん、どうしたんですか!?」

「……こいつと目が合っただけだ」

「……あ~」

 

 あ~って、なんだ、あ~って。ですよねぇ~みたいな顔してんじゃねぇよ。

 新垣はそのまま少女をあやそうと膝を折ってしゃがみ込んだので、俺はさっさと退散しようと武器を調達する――が。

 

「……あ、あやせ、ちゃん?」

 

 座り込んだ新垣は、その声を聞いて体を硬直させ、視線の先――部屋の隅で膝を抱えて座り込んでいた高校生か大学生くらいの男を見て、瞠目する。

 

「……な、なんで……どうして……あなたが、ここにいるんですか?」

 

 冷たく、乾いた声色。

 今日一日、新垣という女と行動していて、時々に垣間見えていた――新垣が抱えている何か。

 その暗く、昏い、何かを込めた、ゾッとするような呟き。

 

 明らかに新垣は、この男に対して好意的ではない何か――もっと恐ろしい何かを抱いていた。

 

 だが、男は新垣を見て、露骨に安心感を露わにする。

 

「……よかった……よかった! 生きてたんだね、あやせちゃん!」

 

 その言葉と共に、男は新垣に向かって立ち上がろうとするが――

 

「――生きて、いた?」

 

――反対に、新垣は、その男の言葉に対し、何かが切れたような反応を見せた。

 

 そして――

 

「――ひ、ひぃッ!?」

 

 男が立ち上がるよりも先に、新垣は男を見下ろすようにして立ち上がった。

 俺からは新垣の背中しか見えないが、新垣に見下ろされている男は、相手は女子高生にも関わらず、心の底から恐怖し、怯えているようだった。

 

 新垣が一歩距離を詰めるごとに、男は尻餅を着きながら必死に後ろへと下がってく。

 その間も新垣は、冷たく、無感情な声色で、男に淡々と言葉をぶつける。

 

「――ふざけないでください。逃げないでください。誤魔化さないでください。……あの日、わたしは、確かにあなたに殺されたんです。あなたは……わたしを殺したんですよ」

 

 そして、ついに壁際まで追い詰められた男に対し、新垣は、バンッ!! と壁を殴りつけるようにして距離を零にし、男を見下ろす。

 

「ひぃぃ!! ひぃぃいいいいい!!!」と、先程の少女よりも情けない悲鳴を漏らす男に、新垣は、最後に一言、吐き捨てるように、こう告げた。

 

「――わたしは、あなたを切り捨てます。見捨てます。嫌悪して、拒絶します。わたしは、あなたの味方ではありません。……この、ストーカーっ!!」

 

 そして、新垣はゆっくりと壁から離れ、男に背を向ける。

 

 こちらを向いた新垣の表情は、恐ろしい程に無感情だった。元々、美人で整った顔立ちなので、それはまるで血の通わぬ人形のようだった。

 

 ……なるほど。なんとなく、新垣の“死因”が見えてきたが、そんな相手とこの部屋で再会させるなんて、ガンツも中々えげつないことをする。

 

 すると男は、まるで現実から逃避するように、狂ったように新垣の背中に向かって喚き散らした。

 

「な、なんでだ!! どうして僕を拒絶するんだ!! ふ、ふざけるな! ふざけるな、偽物め!! あやせちゃんは!! 僕の天使はこんなことを言わな――」

「――わたしが偽物だというのなら」

 

 男の絶叫に、新垣は一切動揺することなく、冷たく、淡々と――まるで、俺がかつて憧れた少女のように容赦なく、氷の女王たる風格で、ただ細めた瞳だけをストーカーに向けて、こう言った。

 

「あなたが愛した――縋って、創った、『新垣あやせ(げんそう)』は――あなたが殺したんですよ、ストーカー」

 

――もう二度と、わたしに近寄らないでください――この変態。

 

 そう、宣言通り男を切り捨てた新垣は、そのまま少女に向かって再びしゃがみ込み、男を視界から完全に外した。

 

 男はわなわなと口元を戦慄かせ、ぷるぷると腕を新垣に向かって伸ばしていたが、やがてこと切れたかのように、がっくりと頭を落とした。

 

 ……それを見て、俺は、新垣あやせという人間について思考していた。

 これは、新垣という人間が、元々持っていた一面だったのだろう。だが、それをこんな場面で、堂々と表に出すような、出せるような、そんな人間だったのか?

 

『助けて、ください……ッ』

 

 前回のミッションの時、俺の目から見た新垣という少女は、異常な戦場に恐怖し、死に対して怯える、ごく普通の少女だった。

 そんな少女が、普通の少女が、かつて己を殺したストーカーと相対し、ここまで容赦なく打ちのめせるような、そんな所業が出来るだろうか。

 

 ならば、誰が、何が、新垣をここまで変えたのか?

 

――それは、この部屋か、あの戦争か。

 

『勝ってください! それが無理なら――逃げてください!!』

 

 それとも――

 

「――新垣さん。……その子の“着替え”、お願いしてもいいか?」

 

 桐ケ谷が、ふとそんなことを新垣に言った。

 新垣は首を傾げていたが、俺の服装を見て気付いたらしく、「分かりました」と頷いた。

 

 ……始めるのか。

 

 俺は武器類を身につけて、そのまま部屋の端へと――ガンツから遠ざかるように移動する。

 その際に、すれ違い様に桐ケ谷と目が合う。桐ケ谷は、一瞬俺の方を向くと、すぐに目線を外し、俺とは逆に、ガンツの方へと一歩、踏み出した。

 

 そして、俺が壁に背をつけてガンツの方を――桐ケ谷の方を向くと、桐ケ谷はガンツを背に、そして部屋の中を見渡すようにして、声を張り上げた。

 

 

「――今から、状況が分からずに混乱している人達にも、ここがどういう場所か、俺達が今、どんな事態に巻き込まれているのか。それを説明したいと思う!」

 

 

 俺は「……ほう」と、呟いた。

 

 ……そうか、桐ケ谷。

 

 

 お前は、“そっち”を選ぶのか。

 

 

「今から言うことは、信じられないだろうが全部事実だ! 全員、生きて帰る為にも、俺達に協力して欲しい!」

 

 桐ケ谷の言葉に、中年の男が、バンダナの男が、ストーカーの男が、怯える少女が、五人の不良達が傾聴し、注目する。

 

 この意味不明な状況で、自分達を導いてくれるリーダーの言葉に、耳を傾ける。

 

 ……だが、お前等は、桐ケ谷が語る荒唐無稽な絶望に対し、信じて強く立ち向かえるか?

 

 そして、桐ケ谷。お前は、そんな奴等を根気強く説得し、導き――その命を背負えるか?

 

 俺は逃げ出した。その重荷を放棄した。

 だからこそ、お前のその行動を邪魔するつもりも、笑うつもりもない――間違っているとも思わない。実に正しい行動だ。

 

 だが俺は、俺の選択を後悔していない。間違った選択肢を選んだことを、間違っていないと確信している。

 

 かつて、お前と同じ行動した――選択をした人間を、俺は知っている。

 その男は――その重荷に耐え切れず、自らの在り方を歪め、押し潰された。

 

 俺は止めない。桐ケ谷が新人達を引き受け、纏めてくれるなら、俺は思う存分単独行動に専念できる。奴等が――お前等が、一体でも多く星人を倒してくれたら儲けものだ。

 

 桐ケ谷和人。SAO生還者(サバイバー)で、初ミッションでボスを撃破した男。

 

 アイツはきっと、葉山や雪ノ下、そして陽乃さんといった、選ばれた側の“強者”なんだろう。

 

 だが、この部屋は、ガンツミッションという戦争は、ただ強い奴が生き残れるほど易しいものじゃない。

 

 このデスゲームは、強い者に、優しくない。弱者にはもっと優しくないんだが。

 

 葉山は死んだ。雪ノ下は壊された。そして――陽乃さんも、殺された。

 

 桐ケ谷。お前が選んだ選択は正しいよ。

 

 だが、その選択は、いつかお前を殺すかもな。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 和人は、そんな八幡の腐った眼差しを受けながら――決意していた。

 

(……分かってるさ。この行為が愚かなことくらい。……本当に生き残ることを最優先に考えるのなら、全てのリソースを自己の強化に費やすべきだってことくらい)

 

 現に、三年半前――デスゲームSAOの開始時、和人は――『キリト』はそれを選択し、開幕スタートダッシュに成功して、攻略組のトッププレイヤーとしての地位をゲームクリアまでの二年間確保し続けた。

 

 その手に入れた力は、獲得したステータスは、キリトの命を守り続けた。

 ソロプレイヤーとして活動し続けたキリトにとって、そのステータスは文字通りの生命線であり、身を守る術であり、鎧であり、剣だった。

 結果として、あの日の選択はキリトの命を守り通したことから、間違ってはおらず、正しかったのだろう。

 

 だが、それでも――生きるために死力を尽くすことを誓った和人は、このデスゲームガンツに真摯に向き合い最善を尽くすと誓った和人は、八幡と、そして『キリト』と、異なった選択をすることに決めた。

 

 己の時間と労力を他人に費やし、新人(ニュービー)を教え導き、彼等の命を背負う選択をした。

 

 SAO時代――終ぞ、一度も担うことのなかったリーダーの役割を、和人は自ら背負うことを決めた。

 

 理由は、ただ一つ。

 

(――これが、俺が出した、ガンツというデスゲームの……最も効率のいい攻略法の答えだからだ)

 

 和人はこのゲームの――デスゲームの目的が、ガンツが優れた戦士を育てることであると判断した。

 一〇〇点メニューの二番――前回の時、このメニューについては話題には上らなかったが、和人はその選択肢を見逃さなかった。

 

 強い武器の購入。本来なら、とても選ぶ者など皆無だと思われる、その選択肢。

 だが、このメニューこそが、ガンツの一番の狙いだと、和人は理解した。

 

 SAOという前例を経験している和人には分かる。

 

 デスゲームとは、人を変える。

 自分が強くなることに酔い、力に溺れ――変貌する人間が、必ず出てくる。

 

 この部屋に――ガンツという存在に、憑りつかれる者が、必ず出てくる。

 そして、そんな者達は、一番の解放ではなく――二番の強化を選ぶだろう。

 

 更なる強さを、求めるのだろう。

 

 そうして、強い戦士を育てることが、おそらくはこのガンツの目的だ。

 

 その理由までは、まだ分からない。

 

“星人”を狩り尽したいのか、それとも単純に強い兵隊を作ることが望みなのか、その目的までは分からない。これも全てただの深読みで、単純に自分達のような死人を使ってその命を弄びたいだけなのかもしれない。

 

 だが、それでも、こんな仕様にしているのだから、ガンツは少しでも多くの強い戦士(キャラクター)の誕生を望んでいるはずだ。

 

 もし、たった一人の最強を育てたいのなら、見込みがある人間を一人確保し、そいつを重点的に育てればいいのだから。――例えば、八幡のような戦士(キャラクター)を。

 

 それでも、毎回このように新たな新人を蒐集(スカウト)してくるということは、ガンツは質と共に量も――数も求めていることになる。

 

 ならば、その意図に乗っかることが――支配者(ゲームマスター)の意図に沿うことが、このゲームの正しい攻略法の筈だ。

 

 

 それに第一、単純に考えて、一人よりも多数の方が、強いに決まっている。

 

 

 前回のミッションで、思い知っている。

 

 敵は強大だ。決して楽に勝てる相手ではない。

 SAOでのフロアボスのような化け物と、毎回、殺し合わなくてはいけないのだ。

 

 ソロプレイでは、いつか必ず限界が来る。

 SAOでも、単独でボスを撃破したことなど、数えるほどしかない。――それも毎度のように、生き残れたことが奇跡のような綱渡りのギリギリの戦いだった。

 

 だからこそ、安定した力を持つ攻略ギルドを作る。

 それが、このガンツミッションという戦争において、最も勝率の高い攻略法だと信じて。

 

(……俺は、もう、死ぬ訳にはいかない。……生きる為に、最善の方法を尽くす)

 

 

 

――そして、ここまでは、八幡も同様の結論に達している。

 

 だが、それでも八幡は、新人を見捨て、ソロプレイに拘ることを選択した。

 

 理由は、単純。

 その方法は、言う程簡単なものではないからだ。

 

 その正解を――その理想論をクリアするには、数々の問題点が、山程の乗り越えなければいけない壁がある。

 

 例え、この部屋のルールを一から丁寧に教授して、武器やスーツの使い方をレクチャーして、出来得る限り自分が前に出て敵星人を引き受けても――――それでも、生き残る新人は、ほんの一握り。零ということも十二分に在り得るだろう。

 

 そして、その死んだ新人の命の責任を、リーダーは背負わなくてはならない。

 

 死んだ奴が弱かったんだ、俺は出来る限りのことした――そんな風に開き直ることが出来る人間など、いやしない。

 

 お前のせいで死んだ――それはリーダーとして率いても、ソロプレイに従事し見捨てても、等しく浴びせられる怨嗟だろうが、ソロプレイと違い、リーダーは、明確に彼等の期待を受けている。

 

 この人についていけば助かる――そんな無責任な期待を引き受け、希望を与え、その上で刈り取るのだ。

 

 その違いは――致命的に大きい。

 

 正しいのは前者だ。人として、戦士(キャラクター)として、戦争(ゲーム)として、正しいのは明確に前者だ。

 

 だが、正しさを貫くのは、正義の味方を気取るのは――間違いを享受し、悪役に堕ちるよりも、はるかに厳しく、辛い。

 

 そして八幡は、その道のりを歩むことを放棄し、間違いを選んだ。

 そして和人は、その道のりを歩むことを決意し、正しさを選んだ。

 

 和人の脳裏に過るのは、一人の、あの青髪の騎士――

 

(――ディアベル。俺は、あんたのように出来るかは分からない。……それでも、まだ一つの階層も突破出来ていなかったあの状況で、初めての攻略ギルドのリーダーを買って出たアンタは、間違いなく英雄だった)

 

 確かにあの騎士は心の中に策略を抱え――そして結果として、攻略組の初めての犠牲者になってしまったけれど、それでも。

 

 彼が動いた行動が、踏み出した第一歩が――あのデスゲームSAOのクリアへと繋がったのは、確かだから。

 

(……俺はあの時、同じβテスターなのに、その重荷を背負うことなど、考えもしなかった)

 

 誰かがやってくれるのを待っていた。

 

 だが、ここには――それを出来るのは、自分しかいない。

 

(俺はアンタのようになるよ、ディアベル。そして、アンタのようにはならない。アンタがやりたかったことを……できなかったことを、実現させる。――必ず俺は、生き残ってみせる)

 

 全ては生き残る為。

 

 同じ目的の為に、同様に全てを費やす二人の戦士は、全く異なる道のりを選択した。

 

 

 比企谷八幡と桐ケ谷和人。

 

 

 この二人を、一匹のパンダと、一つの黒い球体が、ただ静かに見つめていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「ふざけんなッッ!! そんなこと信じるわけねぇだろ!!」

「堪忍や……ほんま堪忍してくれや……なんやねんそれ……なんやねんこれ……なんでワシがこないな目に……」

 

 案の定、桐ケ谷は新人育成に苦労しているようだった。

 まぁ、今回は中々相手が悪いな。経験上、ああいった不良連中や、社会的地位をそれなりに持っていそうなおっさんは、こんなふざけた絶望的状況を中々受け止めようとしない。

 

 ……というより、こんな状況を受け止められる方が異常なんだ。

 

 ミッションに送り込んで嫌でも現実を――地獄を突きつければ信じざるを得ないが、この時点である程度受け止めてもらわないとスーツを着てもらえない。そしてスーツを着なくては、ほぼ一〇〇%生き残るのは不可能だ。

 

 俺は既にスーツを着ているので、武器を確保した今は、ほぼ転送を待つだけの状態だ。

 

 なので、桐ケ谷のお手並みを、自分のことを棚に上げて腕を組んで背を壁につけ上から目線で拝見しているのだが――

 

「――ん?」

 

 その時、あの水色髪の少年――確かガンツのニックネームは『性別』だった。あの称号は本来、戸塚にこそ相応しい。なぜなら戸塚の性別は戸塚なのだから――確か、渚だったか? アイツが俺の横を通り、奥の部屋に入っていった。……確か、そこは何もないはずだが。

 

「…………」

 

 俺は桐ケ谷のお手並みよりも、そっちの方が気になり、渚に続いてその部屋に侵入した。

 

 

 

 ………………なんだ、これは?

 

 部屋に入って真っ先に目についたのは、二台の……おそらくは乗り物だった。

 

 近未来SFものの映画とかに出てきそうな……バイク、か?

 巨大なタイヤの中にシートがあり、中にはハンドルとモニター……前が見えるように、ってか。新しいのは不便なのか分からねぇな。

 

 ……だが、確かなのは、今までこんなのはなかったってことだ。少なくとも俺が一人で戦っていた頃には。あったなら、俺がこんなのを見逃すはずがない。

 

 ガンツが追加したのか? 一体、どういう意図で?

 

 ……………分からない。ガンツの考えていることは、何一つ俺には理解できない。

 

 案外、何も考えていないのかもしれない。思いついたことを、思いついたときに実行しているのかも。――そう考えてしまえれば楽だが、それは思考放棄と一緒だ。頭を使うことを止めた弱者の末路は、速やかな死だけだ。……分からないなりに考え続けるしかないんだろう。あぁ、面倒くせぇな、ガンツ。なんだよ、俺かよ。

 

 そういえば、渚はどこだ? バイクの所にはいない。なら、まだ別の何かが、この部屋にはあるのか?

 

 そして俺は部屋の中を進む。この部屋は電気が点いていなくて妙に薄暗い。まぁ、電気を点ける気になれば点けることは出来るんだろうが、なんとなく暗いままで進む。いや、ほら、急に部屋に明かりが点いたら、こっちに注目が集まって桐ケ谷の邪魔になるかもだし。別に後ろから渚に近づいて脅かしてやろうとか、そんないたずら心は湧き起こってない。いや、マジでマジで。

 

 そんな男の子の憧れの未来マシーンを見て内心で訳の分からないテンションになっている俺は、割と近くにいた渚の姿を発見した。

 

 ………クローゼット、か? どうやらその中のものを物色しているらしい。

 クローゼット……と、なると、服飾品か何か、か? このガンツスーツ以外にも、特別なパワードスーツが用意されているとか――

 

 僅かにそんな期待をしながら渚の背後に回り込み、その開かれたクローゼットの中を覗き込むと――その中身は俺の予想と当たらずとも遠からずだった。

 

 そこにあったのは、漆黒のカラーリングで統一された武具の数々だった。

 槍やトンファーや三節根、棍棒や特殊警棒、果ては盾や斧に至るまで。

 

 特殊武具――そんな扱いに技術がいるような武器群が、クローゼットの中に所狭しと並んでいた。

 

「………隠しアイテム、か」

「うわあッ!?」

 

 突然後ろから聞こえた声に驚いたのか、渚はその小さな体で飛び上るようにして俺の方を向いた。

 

 そして俺の顔を(いや、目か?)を見て、びくりと体を再び震わす。……いや、驚かすと言っても、ここまでする――というか、そこまで驚くとは思ってなかったんですけどね? 一応、初対面ってわけでもないですし?

 

 ふと見ると、既に渚は漆黒のナイフと特殊警棒のようなものを腰のベルトに差し込んでいた。……やはり渚はここのことを知っていた。つまり、この装備が用意されたのは、前回のミッション時――こいつ等が加入した時、か。

 

 そして渚は更に手にケースのようなものを持っていた。中には、様々な形の金属の塊が――八種類。まるで宝石のように仕舞われていた。……これも、何かの武具なのか?

 ……じっくり見てみたいが、いつまでも目の前でビクビクされるのも鬱陶しいというか心が痛むので、俺は渚にこう言った。

 

「……武器を確保するのもいいが、それよりもスーツに着替える方が先決なんじゃないか? 既にいつ転送されてもおかしくないはずだ」

「――ッ!! は、はい!!」

 

 そう言って渚はケースを胸に抱えるようにしてリビングへと戻っていった。

 ……別にそんな急いで逃げなくても食ったりしねぇよ。草食動物かお前は。

 

 そして俺は、そのままこの謎のクローゼットに向き直る。

 確かに、ここの武具はより取り見取りだが、こうして“無料”で手に入る以上、性能(スペック)上の強さではXガンやYガンとそう変わらないのだろう。

 

 だが、何物も使いようだ。使えないものを使えるようにするのが、弱者の腕の――知恵の見せ所だ。

 さっき渚が持って行った金属塊のように、まだまだ未知数のものはあるはずだ。

 

 面白い、ガンツ。お前からのプレゼント、喜んで使わせてもらう。

 

 さぁ、宝探しだ。

 

 掘り出し物を掘り出してやるぜ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 渚は息を切らせながら、隠し部屋からリビングへと戻った。

 

 思わず膝に手を突いて、呼吸を整える。

 喉に唾がへばり付き、息苦しさが中々消えなかった。

 

(……なに、あの人? ……………あんな、“顔色”……見たことない)

 

 ヒステリックを体現するような感情の振れ幅が大きい母親と十四年間暮らしてきた渚は、人の感情というものについては、それがある程度に突飛なものでも、それなりの理解はあるつもりだった。

 

 大抵の悪感情や憤怒や殺意にも怯まない。もちろん恐怖も感じるし、それに対し好悪な感情も抱きはするけれど、それでも大抵の感情に対し、それと向き合う耐性のようなものは持っているつもりだった。

 

 だが、それでも、意識の波長が見えるようになった今、あの感情と相対して、渚は冷静な状態でいられなかった。

 

(…………見えなかった。一瞬、あまりに暗くて、真っ暗で、真っ黒で――比企谷さんの顔が、一瞬、まるで見えなかった………ッ)

 

 和人のそれも相当だった。あやせも、真っ直ぐ見たわけではないが、かなり深い暗さだった。

 

 でも―――それでも、比企谷八幡のそれは、深度が違う。密度が違う。濃度が違う。

 

 あんなにも恐ろしい“顔色”を、あんなにも壊滅的な精神状態を、渚は見たことも感じたこともなかった。

 

 一体、どうして――

 

(――あんな状態で、あんな意識状態で、あんな精神状態で………“まとも”でいられるんだろう?)

 

 そんなのは、どう考えても――“まとも”じゃないのに。

 

 渚は一度、隠し部屋の方を振り返る。

 薄暗いその室内で、彼は一体何をしているのだろう?

 

「……………」

 

 渚は唇を噛み締め、そのまま八幡に言われた通り、スーツに着替えるべく和人の元へと向かった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ……さて、と。いつ転送されるか分からなかったから隅から隅まで物色出来たとは言い難いが、それなりに収穫はあった。まぁ、あんまり持ち出し過ぎても動きづらいだろうからこんなもんだろう。

 

 バイクに関しては、少し迷ったが持ち出さないことにした。たぶん転送時に触れていれば持ち出せるんだろうが、あいにく俺は乗り物の類はチャリしか運転経験がないので、使いこなせる気がしなかったからだ。星人の前で二輪車教習なんてやっていればその場でぶち殺されるだろう。

 

 ……星人か。あの画像は当てにならないことで有名だが(特にかっぺ星人はひどかった。ブラキオとは言わないがせめて恐竜の画像を表示しろよと思った)、今回は特に意味が分からないな。何なんだ、あの無駄に格好いい画像は。……そこは現場で臨機応変に対応するしかないか。

 

 そんなことを考えながらリビングに戻ると、みんな仲良くお着替えしていた。

 

 ……桐ケ谷の奴、説得出来たのか。第一関門クリアってとこか。やはり葉山等と同様に、人を惹きつけ引っ張る主人公タイプの男なんだろうな。

 

 まぁ、いい。別に俺は桐ケ谷の失敗を願っているわけじゃない。それが正しい道である以上、成功するに越したことはない。べ、別に劣等感なんて感じてないんだからねっ! 勘違いしないでよね! どうでもいいけど、ツンデレもそろそろ食傷気味だよね? お淑やかな心優しいヒロインの時代が来ることを願う。え? 俺ガイル(おまえ)が言うな? はは、ちょっと何言ってるか分からないですね。

 

 そんな桐ケ谷は既にスーツに着替え終えて、今は東条をスーツに着替えさせている。……おう。ついにスーツ東条の降臨か。……もう、全部あいつ一人でいいんじゃないかな? まぁ、一応は味方である以上、心強い限りだ。

 

 周りを見渡すと他のメンバーも――渚も含め――着替え終わっている。ここに居ないのは新垣と、そしてあの中一か。おそらくは廊下側で着替えているんだろうな。

 

 不良達の「ぎゃははは!! なんだ、お前ら超カッコいいぞ! いい具合に色々と台無しだ!」「ちょ、リュウキだって真っ黒ボディじゃねぇか!」と下卑た笑い声でじゃれ合っているのをウザったく聞き流していると(いや、ホントうるさい。なんでお前等服だけでそこまで盛り上がれる訳? 生きてて疲れないの?)、ふと一人、挙動不審な男を見つけてしまった。

 

「……はぁぁ……はぁぁ……あやせちゃぁん……ラブリーマイエンジェルあやせたぁん……」

 

 …………え~。まだ懲りてないのぉ。そして、それどっか聞いたことあるぅ。めっちゃ地雷じゃぁん。俺、それで首根っこを片手で掴まれて吊り上げられたの、まだ根に持ってるからね。

 

 先程、新垣に滅茶苦茶冷たく切り捨てられたストーカー君が、あまりにショックでトチ狂ってしまったのか、息を気持ち悪く荒げつつ(でもちゃっかりガンツスーツは着てる)ゆっくりと四つん這いに歩きながら、玄関前の廊下――つまり新垣達が着替えているであろう場所に繋がる扉に向かって進んでいた。

 

 いやはや、ここまでくれば最早逆に天晴というクズっぷりである。俺が言うんだから相当に終わってるぜ、お前。こんなことをお前が言うなと言われることは承知の上で言わせてもらうが、死んで当然というレベルの性根の腐敗っぷりである。

 

 …………面倒くさいなぁ。

 

 ここで止めてもいいし、別に止めなくても新垣はスーツを着ているだろうから今度こそ殺されて終わりな気がする。アイツの本性は思っていたよりも攻撃的なようなので、案外躊躇なく――そうでなくてもカッとなって殺してしまうような気がする。

 

 別にこんなクズ野郎は遅かれ早かれ死ぬだろうから、俺としては本気でどうでもいいのだが、この場合の影響が桐ケ谷や新垣といった割と今後も生き残りそうなメンバーにどんな風に及ぶのか……ああ、ウザッ。なんであんなストーカー野郎の行動に一々頭を使わなくちゃいけないんだ。心からウザッ。

 

 もういいや、(ころ)すか。じゃなくて止めるか。――と、俺が動き出す前に、地面を這いつくばるストーカー野郎の進行を妨げる奴がいた。

 

 ダンっ! と壁を蹴り、その大して長くもない脚を見せびらかすように、不良A(確かリュウキ君だったか。クソっ。覚えたくもないのにバカみたいに声がでかいから覚えちまったぜ。国語学年三位の頭脳が今ばかりは恨めしい)が壁ドンを行い、ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべながら、ストーカーを見下ろした。

 

「おいおい、何をやってるのかなぁ? イケないな~。これはれっきとした犯罪だよう?」

「ギャハハハ、さすがリュウキ! 優しさの塊ぃ!」

「正義感で生きてるぅ!」

「wwwwwww惚wwwれwwwるwwww」

 

 草、多!

 あまりにも耳障りなので顔を顰めてしまったが、不良B(名前は意地でも覚える気はない。リュウキ君すら脳内から消したいくらいだ。脳細胞の無駄遣いとはこのことだぜ)の言う通り、行動自体は優しい正義感に溢れていると言えよう。

 

 まぁ、古今東西、こんな不良な俺マジアウトローとか思っていそうな奴等がそんな行動をただ起こすわけもなく――

 

「まぁ聞け、キモオタ。俺は何もお前を責めようってわけじゃないんだ。綺麗な女の裸を覗きたい。それは男が抱いて当然の欲望だ。だろう?」

「は、はぁ……」

「なら。そんな美味しいサービスシーンを独り占めしようとなんてしちゃあいけねぇよ。楽しみはみんなで分け合おうぜ。俺達――仲間、だろ?」

 

 そう言ってリュウキ君は、ストーカーの首に腕を回し、そんなことを耳元で下卑た笑いを浮かべながら言った。

 ……へぇ。あのリュウキって奴、見た目ほどバカじゃなさそうだな。いや、バカはバカなんだろうが、思ったよりもセンスはある。

 

 桐ケ谷にどんなことを言われたのかは知らないが、仲間という言葉を使った以上、まぁ、そんなことを言われたんだろう。

 

 そして、その中で、このガンツミッションに挑むチームの中で、自分のグループの勢力を確保する為に、ストーカー野郎を懐柔するべく動いたのだ。自分達の――そして自分の、この部屋における確固たる地位を獲得する為に。

 

 まぁ、それが実を結ぶか、この期に及んでも有効な行動かというのはさておき、いきなりこんな状況に巻き込まれて、それでも後ろ向きだろうと前を向けるのは、それなりに見所はある才覚だ。てっきりモブキャラだと思ってたぜ。仮面ライダーの名を持つだけのことはある。平成で一番面白いよな、龍騎。

 

 まぁ、見所があろうとなかろうと、ひとまず名前を与えられて上位モブキャラの位置に上り詰めようと、残念ながら、それでもモブキャラはモブキャラだ。

 

「――おい。お前等、何してるんだ?」

 

 本当の主人公クラスのキャラクターには、残念ながら手も足も出ないって相場は決まってる。

 モブは、主人公のカッコよさの引立て役にしかなれないって、現実は決まってるんだぜ、リュウキ君。

 

 お前は、仮面ライダーにはなれねぇよ。

 

「――あぁ? テメェ、さっきから調子こいてんじゃねぇよ! 俺が! いつ! テメェの下に着いたんだ? あぁ!」

 

 リュウキ君は桐ケ谷を威圧するように、そのよく分からない不良独特の恫喝方法である顎を限界まで上に挙げて私あなたを見下していますぜなポーズで睨み付ける。首疲れるでしょ、それ。

 

 そして、案の定といえば案の定、桐ケ谷は一切動じずに、廊下へと繋がる扉の前に立ち、逆に無言で睨み付けることで、リュウキ君達を威圧する。更に一瞬鋭く下を見下ろし、滑稽にもゆっくりと懲りずに前進していたストーカー野郎を牽制するように威圧する。

 

「ひいっ!」

 

 決まったな。やはり役者が――登場人物(キャラクター)としての、格が違う。

 

 人間は皆、平等である。――なんてのは、この世の誰もが欺瞞だと知っている詭弁だ。

 

 なんせ、生物としての基礎であり根幹であるDNAからして違うんだから。個々人で異なり、千差万別なんだから。犯罪捜査で決定的証拠になっちまうくらい、決定的に違うんだから。

 

 それが無限に集まって構成された完成形に、違いを無限に集めて出来上がった完成体に、個々体によって致命的に差が出て至極当然だ。

 

 そして、差が出るということはイコールで優劣が出るということであり、格が生まれるということである。

 

 優れたものと、劣ったもの。選ばれしものと、選ばれないもの。

 

 勝者と、敗者。主役と、脇役。

 

 

 人間は、皆が皆、不平等だ。

 

 

 いるんだよ、リュウキ君。世の中には、この世界では、物語の中心を歩く為に生まれてくるような、そんな役割を生まれながらに背負うような、世界がそいつの為に存在しているかのような、そんな劇的なキャラクター性を持った、カリスマ性を持った選ばれし人間って奴がさ。

 

 

 特別な人間は、存在する。

 

 

 リュウキ君は、桐ケ谷の眼光に気圧されたかのように、チッと舌打ちをしてずこずこと引っ込んだ。これでお前の出番は終了だ。お前は、主人公の引立て役という自らの役割を立派に果たした。

 

 桐ケ谷和人。おそらくこいつの『特別』さは、葉山隼人をも凌駕する。

 ……こいつなら、葉山よりも優れたリーダーになれるかもしれないな。

 

 それくらい、こいつは『特別』な人間だ。

 

 それが幸せなことだとは、全く思わないが。

 

 なぜなら、特別だということは――常人が太刀打ち出来ないような苦境を打破しなければならないという、重過ぎる役目を背負わされているんだから。

 常人よりも遥かに困難で、理不尽で、尋常ではない状況をひっくり返すことを、宿命づけられているんだから。

 

 ご愁傷さまだ。主人公(ヒーロー)ってのは大変だな、桐ケ谷。

 

 今、俺は、おそらくは、それこそ桐ケ谷とは真逆の、悪役のように腹の立つ、性格の悪い笑みを浮かべているのだろう。

 

 物語の主軸はお前に任せるさ。精々、頑張ってストーリーを進めてくれ。そんで最終的には世界とか地球とか救えばいいさ。

 その傍らで、隅っこの端っこの方で、俺はちまちまと、やりたいようにやりたいことをやらせてもらう。

 

 大きな野望とか壮大なストーリーとか知ったことか。そういうのは主人公(おまえら)が好きなようにやればいい。

 

 俺みたいな弱者は、俺みたいな脇役は、精一杯に自分の人生(ストーリー)を、自分の為だけに生きるさ。

 

 そうだろう、ガンツ。

 このキャスティングだけは、たぶん、お前の意図を理解できたぜ。

 

 ……なるほど、ね。

 

 あの白いのが言っていたことも、そう言うことか。

 

 

 近いんだな。

 

 

 

 終焉が。

 

 

 

 ガチャッと扉が開き、新垣達が姿を現した。

 

「……あれ? どうしたんですか、皆さん」

 

 扉を開けた途端に自分達に注目が集まった故か、困惑した様子を見せる新垣。

 桐ケ谷はそんな新垣に苦笑しながら「なんでもない」と首を振る。

 

 そんな二人の足元から、一人の少女が現われる。

 そして俺と目が合うと、ビクッと体を震わせ、新垣の足にしがみ付いた。

 

 ……子供には好かれないとは分かっているが、ここまで露骨だとやはり凹むな。

 留美やら天使姉妹らがやはり特殊例なのか。おい、新垣、桐ケ谷、苦笑顔を俺に向けるな。

 

 

 そして、そんなほのぼのとしたやり取りを最後に――――平和な時間は終わりを告げた。

 

 

「な、なんなんだよ、これぇ!!」

 

 まず転送されたのは、黒い全身スーツ状態は恥ずかしかったのか、ガンツスーツの上から元々身につけていた衣服を纏い、こだわりなのかやっぱり頭にバンダナを巻いていた若い男。まぁ、俺も心の中でバンダナ君と呼んでいたから助かるのだが。

 

「大丈夫だ! 外に転送されるだけだ! さっき説明した通り、転送されてもその場をあまり動くな! 星人がいた場合は、頭の中のアラームが鳴らない方向に逃げろ! 大丈夫だ! すぐに俺達も向かう!」

 

 混乱するバンダナに向かってすかさず桐ケ谷の檄が飛ぶ。

 

 人体消失現象に恐怖する新メンバー達を落ち着かせようと幾度となく声を張り上げる桐ケ谷。

 これからの展開を理解しているからこそ、また違った種類の恐怖に表情を硬くする渚、新垣。

 獰猛な笑みを浮かべ、拳を鳴らして闘争心剥き出しの東条。

 

 経験者たちが四者四様のリアクションを見せる中――ふと、新垣がこちらを見て、強張った、笑みを向けた。

 

「…………」

 

 そして、新垣も消えていく。

 

 一人、また一人と、姿を消していくガンツの玩具達。

 

 

 俺は、一つ、大きな呼吸をして――心を冷たく、落ち着かせた。

 

 

 一呼吸で、戦闘において最適な精神状態になる。この特技を身につけたのは、果たして何回目の戦争の時だったか。

 それが、今回、ついに一つ、実を結ぶ。

 

 

 九十九点――それが俺の、これまでの戦争で稼いだ点数。俺が今まで殺してきた星人の分だけ積み重ねてきた点数。

 

 一体でいい。今回、たった一体殺すだけで、遂に――俺は届く。

 

 

 案の定、部屋の中に最後に取り残されたのは俺だった。

 

 俺に光線が照射され、頭のてっぺんから消失していく中、俺は真っ直ぐ黒い球体を――ガンツを睨み据えていた。

 

 待っていろ、ガンツ。俺は必ず、一〇〇点を手に入れてこの部屋に帰還する。

 

 その時はお前の番だ。散々、今までお前の我が儘(ミッション)をこなしてきてやったんだ。

 

 今度はお前に――俺の願いを叶えてもらうぞ、黒い球体。ドラゴンボールのようにな。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

【いってくだちい】

 

 

【1:00:00】ピッ

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 転送されて、最初に耳に入ったのは――悲鳴と、絶叫だった。

 

 

「くそぉおおおお!!! どうなってんだよぉぉぉおおお!!!」

「ひぃぃぃいいい!! ひぃい!! ひぃい!! ひぃいいいいいい!!!」

「なんでやぁぁああああ!! なんでワシがこないな目に遭うんやぁぁあああ!!!」

 

 リュウキ君と、ストーカーと、おっさんが叫びながら逃げ惑っている。

 

 

 そして、彼等を追い回すのは――十メートル級の、巨大な騎士。

 

 禍々しい漆黒の巨馬に跨り、殺傷力の高そうな斧を振り回す騎馬軍団。

 

 

 これが、ゆびわ星人か。

 

 

「落ち着けッ!! 新人達はとにかく殺されないように逃げろ!! 渚と新垣さんは新人達のガードを頼む!!」

 

 そして、そんな中、桐ケ谷が声を張り上げて指示を出す。

 

「俺と東条――そして比企谷は、あいつ等と戦う!! 行くぞ!!」

 

 言われるまでもない。

 

 ここは戦場で、これは戦争だ。

 

 

 戦う為に――俺はここにいるんだよ。

 

 




次回からミッション――の前に、一話、閑話を挟みたいと思います。

その後、主要メンバーそれぞれの視点のゆびわ星人との戦いをお送りします。


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川崎大志は化物のように雄々しく、人間のように悲しく咆哮する。

今日は意地でも零時投稿。


 

 夜になり、徐々に不健康な色合いのネオンが照らし出すその街道に、怪物の口のようにぽっかりと、地下の暗闇へと繋がる階段があった。

 そこをかつかつと下り、地下通路のような廊下を進んだ先にある重厚な扉の向こうには、普段はライブハウスとしての仮面を被っている――とある怪物達の根城の一つが存在する。

 

 金髪のホスト風の男――氷川は、勝手知ったるその場所に向かって悠然と進み、扉の前にいる黒服の男に話しかけた。

 

「おい、篤はいるか?」

「……いえ、篤さんは斧神さんを連れて、どこかで会合を開いているようで――」

「はっ。十中八九、俺達の単独行動の件だな」

 

 そう言って笑う氷川だが、内心ではそれを見越しての来訪だった。

 篤は常々、自分と黒金のハンターを挑発するような奇襲行動を良く思っていなかったし、そもそも真面目なあの男はこのような場所のアジトにはあまり足を運ばない。なので、このアジトは基本的に自分や黒金のグループのみが使用している。

 

 そもそも、“日常(おもて)”の生活を重んじる篤達と、“戦争(うら)”の生活に愉しみを見出す自分達とでは、基本的に反りが合わないのだ。

 それでも表面上は同じ組織に属しているのは、自分達が数の少ない同種族であるからに他ならない。

 

 だが、こんなことを続けていれば、いつか本格的に奴等と敵対する日も近いのだろう――と氷川は思う。それでも、このスタンスを変えるつもりは氷川にはないが。

 

 この氷のように冷たいアイスブルーの瞳の青年の目的は、(ひとえ)に強い敵との血が沸くような熱い殺し合い――その相手は、何もハンターではなく、同種の強者でも、氷川は一向に構わないのだから。

 

「そうか。なら邪魔するぜ」

「あ、でも、氷川さん!」

「ああん?」

 

 扉を開けようとした氷川に、門番のような役目を果たしていた黒服の男が慌てて詰め寄る。

 訝しげに問い返した氷川だが、既にその手は扉を開けていて――

 

「中で、今……黒金さんが――」

 

 そんな男の声を背中で聞いた、氷川がその部屋の中で見た光景は――

 

 

 

――一体の吸血鬼による、拷問のような凄惨なる調教現場だった。

 

 

 

「――おう、氷川か」

 

 氷川の目にまず入ったのは、巨大な背中だった。

 振り向いたその顔には、いつものトレードマークのサングラスは装着しておらず――その代わりに、片目を潰す生々しい縦一文字の傷を負っていた。

 

 自分と同格の最高幹部の吸血鬼――黒金は、爛々と片目を文字通り血走らせ、口元を醜悪に歪ませながら、氷川の来訪を獰猛な笑みと共に歓迎した。

 

 そして黒金がこちらを振り向いた為、奴の大きな背中に隠れていたその少年が露わになる。

 

 それは、両腕に鎖を繋がれ、上半身の衣服を剥かれて、その若々しい肌に無数の蚯蚓腫れを描かれ、屈服させるように跪かされていた、自分達と同じ――同種族の、吸血鬼の――

 

 

「……ひ、かわ……さん」

 

 

 

――川崎大志だった。

 

 

 

「……これはどういうことだ? 黒金」

 

 氷川は煙草を取り出し、咥えて火を着けながら、黒金の元へと歩み寄る。

 

 対して黒金は、その狂気の笑みのまま、大志の頭を乱雑に掴み上げて言った。

 

「……う、ぐっぁ!」

「コイツはな……敵のハンターに、“ここ”の情報を漏らしやがったのさ……そんで、ちょっとお仕置きをな」

 

 このライブハウスは、大志が八幡に情報として話した、あのセミナーの地下に当たる場所だった。

 

 今日の学校帰り。

 塾へ行くと家族に嘘を吐いてこのアジトへと足を運んでいた大志は、黒金が負傷して帰還した途端、彼のグループの吸血鬼に問答無用で縛り上げられ――今に至るまで、こうして拷問を受けている。

 

「……本当か、大志?」

 

 氷川は無表情で大志に目を向ける。

 昨日の狩りの時間――敵のハンターの中に、大志の知り合いの人間がいたことは、氷川も知っている。

 そして、その知り合いのハンターを黒金が気に入り、今日、日常(おもて)の時間に襲撃を行ったことも。

 

 そんな黒金の負傷は、その片目の傷は――こちらの襲撃を予測したハンターに返り討ちに遭ったが故のものならば、幹部に怪我を負わせた原因であると、殺されても何も文句は言えない。

 

 黒金グループの、黒金へのその忠誠心は、それほどまでに――危険な意味で、篤い。

 

 だが、大志は黒金グループではなく、氷川グループの人間だ。

 氷川が見つけ、保護した同種だ。

 

 だから、ここで大志がそれを否定すれば、氷川は大志を庇うことが出来る。

 その時は氷川と黒金が対立することになるが――氷川は黒金を論破する自信があった。

 

 なぜなら、この黒金の行為は、完全に八つ当たりであり憂さ晴らしでしかない。

 例え襲撃が予測されていようとも、それを含めて圧倒出来なかった黒金の力不足であり、そんな黒金が弱かったというだけなのだ。

 

 黒金も、そして氷川自身も、戦闘狂を自負する人種――吸血鬼だ。

 

 それ故にこと戦闘において、そんなみっともない真似をすることは許されない。

 

 リーダーとして――そして、一人の――一体の化け物、吸血鬼として。

 

 強さを純粋に追い求め――人間ではなく、吸血鬼として生きることを選んだその姿勢に、その生き様に、彼等の部下達は惚れたのだから。だからこそ彼等は、自ら選んだリーダーに尽くし、付いてきているのだから。

 

 だが、大志は、氷川の冷たい眼差しから目を逸らすように俯きながら、こう小さく返答した。

 

「……はい。……事実っす」

 

 それに対し、氷川は――

 

「――そうか」

 

 とだけ言い、そのまま壁際まで向かい、背を着け――その拷問を見学する姿勢を見せた。

 

 その行為に――返答に対し、黒金は笑みを深め、大志は表情を変えなかった。

 

 元々氷川がそういう吸血鬼であるということは、黒金も、そして大志も理解していた。

 

 氷川は決してリーダー向きの性格では――性質ではない。

 どこまでの一人の戦士であり、強さを、強い敵との戦闘を追い求める戦闘種族だった。

 

 こうして幹部の位置にいるのも、自分のやりたいように行動する為に唯我独尊を謳うことが出来る程の強さを追い求めた結果として手に入れた戦闘力と、そんな氷川の姿勢や持ち合わせていたカリスマ性に惹かれて彼の元に吸血鬼が集まったが故である。結果として、一大勢力を築き上げてしまっただけだ。

 

 つまり、自ら求めた権力ではなく、気が付いたら手に入れてしまっていた肩書きなのだ。

 

 故に氷川には、部下というものにほとんど執着はしない。

 今回の大志の行動を責めはしないし、その代わり過剰に庇いもしない。

 黒金の情けない行動には気に食わないが――言うならばそれだけで、大志に対して思うところは――ほとんどない。

 

 だから黒金と大志は、むしろこうして氷川が見学の姿勢をとったことにこそ微かに疑問を持った。

 普段の氷川ならば、さっさと素通りして興味すら失くすと思っていたからだ。

 

 黒金が大志を殺すのを阻止する為だろうか。痛めつけるのは許可するが、殺すまでは許さないと――“あの”氷川が。

 

 まさかな、と思う黒金だが、思い返せば、納得できなくもない要素も、なくもない。

 

 何故なら大志は、“あの”氷川が自分から引き連れてきた同種であり、自分の狩りにも時折同行させ、“血”を分けてやるほどに面倒を見ていた部下だ。部下で、仲間だ。

 そんな吸血鬼は、四大勢力に数えられている氷川グループの中にも、例がない。それは氷川に心酔する氷川グループの同胞達の嫉妬の対象となるほどに、まさしく異例のことだった。

 

 大志に対し氷川が何か特別に感情移入するような理由でもあるのかと思ったが、それ以上は別派閥の事情だ、自分には関係ないと、黒金は断じた。それに、元より殺すつもりはない。

 

(殺すつもりは、な)

 

 黒金は歪んだ笑みを浮かべながら、大志への調教を続行する。

 

「なぁ、大志。俺自身は、お前のチクリを特別とやかく言うつもりはない。氷川の“目”が言う通り、この片目をやられたのは俺が弱いからだ――だがなぁ、それじゃあ俺の部下が納得しねぇ。それで、だ――」

 

 よく言う。と、氷川は思った。

 本当に止める気になれば、黒金自身が一言いえば誰しも納得するだろうに。納得は出来なくても、言葉や行動で不満を現す者は皆無だろう。

 

 氷川グループとは違った意味で、良くも悪くも黒金グループも、リーダー第一主義なのだから。

 リーダーである黒金に“魅了”され、集まった吸血鬼集団なのだから。

 

 だが、氷川はそれでも、黒金の前半の言葉に嘘はないようにも思えた。

 大志の密告を、この吸血鬼(おとこ)はまるで何とも思っていない。微塵も恨みを持っておらず、気にも、歯牙にも留めていない。

 

(……ならば一体、何が目的だ?)

 

 そして黒金は大志に、傍らに控える自身の部下から受け取った――一本の注射器を見せつけた。

 

「……それ、は……っ?」

「なぁ、大志――」

 

 黒金は、大志の頭を引っ張り上げ、顔を近づけながら――牙を見せつけながら言う。

 

 

「“擬態解除”――って、知っているよな」

 

 

 その言葉を聞き、大志は身を震わせ、氷川はぴくっと硬直した。

 

「俺達のこの状態(すがた)は、いわば人間に“擬態”している状態だ。ナノマシーンウイルスによって体が吸血鬼に創り変えられ、その状態に適合していくと、徐々に吸血鬼としての“本来”の力を目覚めさせていく。――そして、個々に異なった“能力”を手に入れる。異形の身体と引き換えにな」

 

 それは擬態を解除し――化け物としての“本来の姿”でのみ振るえる力。

 

 化け物としての、本来の力。

 

「俺が“雷”の力を使えるように……氷川が“氷”の力を使えるように……その力は千差万別だ。“炎”の力、“変身”の力、“岩石”の力、“察知”の力。それぞれが、それぞれの異能を手に入れ――俺達は本当の意味で吸血鬼となる」

 

 異形の体。異能の力。

 

 そして――取り返しのつかない、異常な化け物になる。

 

 もう、どこにも、引き返せなくなる。

 

「――だが、この異能の力は、発現するまでどんな能力が目覚めるか分からんのが悩みの種だ」

 

 黒金は大志の頭を乱雑に放しながら立ち上がる。

 そして上から見下ろすような恰好で、相変わらずの歪んだ笑みのまま大志に語り続ける。

 

「誰だって自分が一番欲しい能力を発現させたいよなぁ。だが、こればっかりは宝くじみてぇなもんだ。そもそも能力が発現するタイミングすらバラバラだ。吸血鬼になった瞬間にもう持ってる奴もいれば、何年経っても発現しねぇ奴もいる。――だが、伊達に吸血鬼も歴史があるわけじゃない。ふふ、いるんだよ。代々、この“異能”を研究してる、物好きなインテリ吸血鬼共が。……そして、これが――」

 

――その、研究成果って奴だ。

 

 そう言って黒金は、蛍光灯の光で、その注射器を照らす。

 

 ここまで説明されてやっと氷川は黒金の意図を察し、同じく答えに辿り着いた大志も――顔を青褪めて、ぶるぶると震え出した。

 

「……い……いやだ…………」

「これは“ある”異能が発現し易いように体内のなんちゃらっとかいう何かを調整するっていう“魔”薬(ヤク)だ。まぁ、小難しいことは知らねぇが」

「……いやだ……いやです……やめて……やめてください……っっ」

「心配するな。遅かれ早かれ発現するものを、ちょっと早めて、ちょこぉっと欲しい能力に“誘導”するだけだ。死にやしない。まぁ実際に使うのは初めてらしいが。大丈夫だ、頭いい奴等を信じろ」

「いやだぁぁぁぁぁあああああ!!!!!! やめて!! やめろ!! やめてくれぇぇえええええ!!!!」

 

 大志は必死に抵抗し暴れ狂った。だが、そんな抵抗も両手に繋がれた鎖をガシャンガシャンと鳴らすだけで、何の効果も生まなかった。何も変えることは出来なかった。

 

 結局、大志の末路は、不変だった。川崎大志は、どこまでも不幸だった。

 

 大志は、黒金の腕力で頭を掴み上げられ、そのまま地面に叩き伏せられる。

 

 その衝撃と激痛で視界が火花を散らしたかのように真っ白になった時、自分の腕に注射器が突き刺さっているのが垣間見えた。

 

(――いやだ! いやだ! いやだいやだ! 俺はまだ“あっち側”にいたい! ――人間でいたい!)

 

 大志の脳裏に、沙希の顔が、京華の顔が、愛すべき家族の顔が――笑顔が()ぎる。

 

 そして、小町の笑いかけてくれる顔が、八幡の不機嫌そうな仏頂面が――遠ざかっていく。

 

 過ぎ去って、遠ざかって、いなくなって――

 

(いやだ!! いやだいやだいやだいやだいやだッッッ!!)

 

 

――俺を………置いていかない

 

 

 

 ドクン! と、大志の身体の奥で、何かが脈動した。

 

 

 

「――――ぐ、ぅぅぅうううううううう!!!!」

 

 大志が呻く。歯を食い縛り――吸血鬼の牙を、剥き出しにして。

 

 黒金はほくそ笑み、氷川はただ無表情で眺めていた。

 

 そして、一際強く、ドクンッ! と、再度脈打つ。

 

 大志の中の何かが暴れ狂う。大志は大きく仰け反り――化け物のように絶叫した。

 

 

「ぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」

 

 

 その咆哮は、地下の防音のライブハウスの中に、雄々しく――そして、悲しく轟いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 赤いサイレンが暗闇を切り裂き、白と黒のカラーリングの車が行き交う路地裏。

 

 突如、何者かに破壊された住宅と塀と街灯。

 その原因を調査すべく遅まきながら現れた国家権力から隠れるように、更に細い細い路地裏をひっそりと進む――白い少年。

 

 否、その白い少年の白さを際立たせていた白いパーカーは、少年の失った右手から零れ落ちる血液によって血痕の道筋を作ることを防ぐべくグルグルに包帯代のように巻かれていた。

 

 白かった少年は、この暗い夜の闇に紛れ込むように、黒いインナーを外界に晒して壁に凭れるようにして歩いていく。

 

「あっはは、こりゃあダメかな~」

 

 死んじゃうかな~と、少年は、脂汗を流しながら呟く。

 右手に巻かれた白かったパーカーは、見る見るうちに赤く染まっていき、それと反比例するように少年の視界は霞み、顔から色素が抜けていき青白くなっていった。

 

 その時、ザッと。

 少年の行く手を遮るように、街灯すらないこの路地裏――というより抜け道の前方に、何者かが立ち塞がっていることに気付いた。

 

 警察官だったら面倒くさいな、と思いながら、少年は顔を上げる。

 

「あらあら、随分やんちゃしてきたのね。気を付けなくては駄目じゃないの。私達はあの方達と違って、弱くて、弱くて、弱弱しいのだから」

 

 その暗闇に佇む女性は、着物姿の艶やかな黒髪の美女だった。

 高貴な雰囲気を身に纏い、明らかにこのような裏路地に相応しくない身なりであるにもかかわらず、むしろその闇すらも支配するような、圧倒的で絶対的な存在感の持ち主だった。

 

「……ごめんね、はしゃいじゃったよ。あまりにも彼が頑張っているからさ」

「ふふ、本当にあなたは彼が好きですねぇ」

 

 大ファンなんだよ、今度会ったらサインもらうって決めてるんだ。

 あらあら、その時は私の分もよろしくお願いしますね。

 

 と、そんなことをクスクスと言い合いながら、少年は婦人の元に辿り着く。「それでは、行きましょうか」と、婦人は少年に手を貸すことなく、ただ迎えに来た母親のように前を歩き出した。

 

「――そういえば、彼は“どっち”を選ぶと思う」

「私としては、あの子を選んでもらわなくては困りますよ」

「……僕としては、彼を選んで欲しいんだけどねぇ」

 

 ふふ、ならば賭けますか?

 ……止めとくよ。僕は彼と違って、あらゆることで勝てた試しがないからね。

 

 そんな風に、まるで親子のように言葉を交わし合う両者は、真っ暗な裏路地を真っ直ぐに歩いて行った。

 

「そういえば、行くってどこへ?」

「決まっているでしょう」

 

 そうして、婦人は気品を感じさせる笑みで言った。

 

 

「お仕事ですよ」

 




次回からゆびわ星人ミッションを、各主要メンバー視点でお送りします。

そして、六本木のガンツミッションの裏で、動き出す各陣営の不穏な空気をお楽しみください。


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桐ケ谷和人は、愛する者の元へ帰る為に剣を振るう。

和人サイド。


 

 ゆびわ星人は、全部で八体だった。

 十メートル級の、もはや巨人と呼ぶべき怪物が、八体。それに相応しい巨躯なる巨馬が八頭。

 

 その八組の騎馬軍団に和人と東条と八幡が突っ込み、残りのメンバーは一斉に逃げ出したが、やはり三人で八組を抑えるのは不可能だった。

 

 結果として、あっという間にそれぞれチリジリとなり、既に初めに和人が叫んだ作戦は続行不可能となっていた。

 

 更に各陣営とは和人がどれだけ大声で叫んでも声が届かない程に距離が離れてしまっていて、和人が全員に指揮を送ることも出来ない。

 

 ミッションが始まって数分で、チームプレイは不可能な状況に陥ってしまった。

 

 これが、桐ケ谷和人のリーダーとしてのデビュー戦だった。

 

「………」

 

 だが、和人は、そんな窮地に速攻で追い込まれても、一切動揺せずに目の前の敵を見据えていた。

 

 始めから、全員の状況を完璧にコントロール出来ると思っていたわけではない。そんな状況を夢見て、リーダーの役割を買って出たわけではない。

 

 桐ケ谷和人は、そこまでこのガンツミッションという戦争(デスゲーム)を甘く見ていたわけではない。

 

 既に和人の頭の中は――目の前に君臨する“二体”のゆびわ星人をどうやって打倒するかということに使われていた。

 

「お、おい! 大丈夫なのかよ!」

 

 和人の後ろから聞こえるバンダナ男の声。

 どうやら逃げ遅れてしまったらしく、物陰から和人に安否を問う声を飛ばしている。その問うた安否は、自分のものか、和人のものかは分からないが。

 

 バンダナがここに取り残されているということは、新人達もそれぞれバラバラにばらけてしまっているのだろう、と和人は頭の隅で思考するが、()()()()()今は敵だと、思考を切り替える。

 

 リーダーを目指すことを決意しようとも、やはり和人の適正は『剣士』――断じて指揮官ではない。

 敵を前にすれば、それを屠ることに全てを懸ける――孤高のソロプレイヤーとしての『キリト』が露わになる。

 

「――ああ。だから、アンタはそこにいてくれ」

 

 和人の手には、既にガンツソードが携えられていた。

 

 目指すべきは安定した力を持つ攻略ギルドの育成――その為に、一人でも多くの生存者を残す為に、今、自身が考慮すべきことは。

 

 一秒でも勝利。そして、仲間と――何よりも()()()命。ただ、それだけだ。

 

 それだけがすべての、戦争(デスゲーム)だ。

 

 脳裏に浮かぶは、倒れ伏せる愛する女性の顔。

 

 彼女は、果たしてあの後、無事に警察に保護されたのだろうか――それとも、奴等に――

 

「――――ッッ」

 

 ギリッ、と和人は歯を強く、強く食い縛る。

 彼女の安否を確かめることも、助けに向かうことも、今の自分では何も出来ない。黒い球体に戒められている、囚われの傀儡(おもちゃ)である自分には。

 

 今、自分がすべきことは、為すべきことは、目指すべきことは。

 

 一刻も早いミッションのクリア。一秒でも早く、この目の前の星人(ターゲット)の撃破――殲滅。

 

 仮初だろうと、一時的だろうと、何でもいい。

 

 帰らなければ――アスナの元へ。

 

「うぉおおおおおおおおおおおお!!!!」

 

 そして、『黒の剣士』は、二頭の巨大な騎士へと挑む。

 

 ブンッ! と調子を確かめるように、剣を一振り――そして、そのまま、雄々しい気勢と共に地面を踏みしめ、駆け出した。

 

 それが合図だったかのように、ゆびわ星人達も和人に向かって猛進する。

 

 ブォォォオオン!!!! と、右のゆびわ星人が手にもった斧を和人目がげて斜めに振り下ろした。

 

 その巨躯から繰り出される一撃は、風切り音だけでも人を殺傷できるかのような迫力に満ちている――が。

 

 

 ザバンッッッ!!!! と、漆黒の剣が閃いた。

 

 

 ガランッ!! と、()()()()()()()()()斧の先端――刃が和人の後方に吹き飛ばされ、バンダナの横を物凄い勢いで通り過ぎていった。

 

 うわあ! というバンダナの悲鳴を背中に、和人は足を止めず、そのまま二頭のゆびわ星人に向かって駆けていく。

 

「ぉぉぉぉぉぉおおおおおおおお!!!!!!」

 

 二頭の漆黒の騎士と黒の剣士が、夜の六本木の街で轟音と共に激突する。

 

 桐ケ谷和人の――剣士の雄叫びと共に、黒の剣閃が流星のように戦場を縦横無尽に駆け巡り続けた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 病院の清潔感溢れるリノリウムの床を、走らないように、だが全速力で進む。

 受付で聞いた部屋番号はもう目と鼻の先だ。

 そして辿り着くと、扉の前で逡巡することすらせずに、足すら止めずにすぐさまスライドさせて中に入る。

 

「アスナ! いる!?」

 

 よく考えればいるに決まっているのだが、勇ましく病室――一応明記すれば個室だ――に乱入した少女、篠崎里香、通称リズベットは、そんな自分の言葉の真偽を一刻も早く確かめるべく、部屋に入った後も一切スピードを緩めることなくカーテンに隠れたベッドの方へと向かう。

 

 そして目的地に辿り着くと、ベッドの上の目的の人物――だけでなく、その周りに珪子(シリカ)詩乃(シノン)、そして直葉(リーファ)も既に揃っていた。

 

 ベッドの上で上半身を起こす少女――明日奈(アスナ)は、親友が息を荒げて来てくれたことを嬉しく思うと同時に申し訳なさも感じているような表情で、彼女を迎えた。

 

「リズ……来てくれたんだ。ただの検査入院だから、そんな大袈裟にしなくてもいいのに」

 

 だが、その表情は無理矢理作っているようなことが丸わかりで、リズベットは唇を噛み締めながら、シリカがいる窓際のベッドサイドへと歩みを進める。

 

「……っ。バカ言ってんじゃないわよ! アンタ大丈夫なの!? なんかヤバい事件に巻き込まれたって聞いたけど!」

 

 今日も普通に学校から帰宅して自宅でのんびりしていたリズベットの携帯に連絡が入ったのは、夕食を食べ終えた直後くらいの頃だった。

 

 お風呂に入る前に少しALOで何かのクエストでもこなそうかと思っていたまさにその時のシリカからの連絡だったので、ちょうどいいシリカも暇なら誘ってみようかなんて気軽な思いで電話に出たら――

 

『大変です、里香さん! 今、直葉ちゃんから連絡があって……アスナさんが――』

 

 自分がショートパンツとTシャツというラフな家着だったことも忘れて、ただ財布だけを持って携帯を耳に当てながら家から飛び出した。

 

 アスナが何者かに襲われ、病院に運ばれた。

 

 その衝撃的なニュースは激情家な面もあるリズベットを突発的な行動に移させるには十分すぎる程の発火剤だった。

 

 親友のアスナの一大事。それだけでも彼女の心を掻き乱して余りある悲報だが、ここにいるメンバーの顔がこれほどまでに暗いのは、そして被害者であるアスナ本人がここまで憔悴しているのには、他にも理由があった。

 

 リズベットの言葉に何も答えず俯くアスナから、彼女はそっと直葉に目線をずらす。

 

 直葉は顔を落としながら、そっと手に持つ携帯端末を覗き込んだ。

 

『――ごめんなさい……。()だ、パパの端末に入り込むことが出来ないんです』

 

 そう、アスナの彼氏であり、ここにいる全員の想い人――桐ケ谷和人の消息の不明である。

 

 

 アスナ曰く、自分が謎の黒服の集団に下校中突然襲われた時、一緒に和人がそこにいた――というよりも、黒服の集団は明らかに和人を狙っていたそうなのだ。

 そして倉庫内に逃げ込み、銃を乱射され、遂に逃げきれないことを覚悟した時――その倉庫の天井が倒壊したという。

 

 アスナはそこで気を失い、目が覚めた時には警察の人に保護されていたが――その時には黒服の集団は影も形もなく、キリトも姿を消していた。

 

「……わたしが警察の人に助け起こされた時、わたしの周りだけぽっかりと瓦礫が落ちてなかったの。……たぶん、キリトくんが助けてくれたんだと思う」

 

 そして、黒服の集団、更に黒服の集団に()()()()()()キリトが現場からいなくなっていた。そんな状況で、真っ先に思いつく結論(こたえ)といえば――

 

(――キリトが、アスナを守る為に、一人でその黒服の集団を引き付けて逃亡している……)

 

 シノンも、リズベットも、そしてシリカや直葉も、何よりアスナ自身も、その可能性には思い至っていた。

 

 特にアスナは、あんな瓦礫群を自分を庇って受けたのなら相当な大怪我をしているのではないかと気が気ではない。

 しかも、あんな拳銃を容赦なく乱射してくるような恐ろしい集団と、今も彼は、たった一人で立ち向かっているかもしれないのだ。

 

 ……ギュッ、と。布団を力強く握りしめる。

 涙を浮かべて唇を噛み締めるアスナに、直葉がそっと申し訳なさそうに告げる。

 

「……ごめんなさい、アスナさん。私がユイちゃんを借りていなければ……もしかしたら、もっと早く助けを呼べたかもしれないのに……」

『ごめんなさい、ママ……』

 

 直葉がユイを預かったのは、本来アスナを怒らせ不安にさせたということに対する兄――和人プレゼンツの埋め合わせデートへと出掛ける予定だった二人を気遣って、二人きりにしてあげようというユイと直葉、娘と妹の優しい心遣いだった。

 

 それが、まさかこんな事態になるなんて……と、二人は責任と罪悪感を覚えて俯いていたのだが、アスナがそれを眉尻を落とした笑みを浮かべながら力無く首を振って否定する。

 

 これは心情的な問題ではなく実際的な問題として、あの場でユイがアスナやキリトの端末にいても、どうしようも出来なかっただろうと思う。

 それほどまでに戦力差は絶望的で、状況は悲劇的だった。

 

 奴等は周辺に民家があるあの立地条件で、容赦なく、躊躇なく銃を乱射していた。

 それは、最悪――かどうかは分からないが――警察が駆けつけて来ようとも構わないという、一種の潔さのようなものを感じさせた。

 

 そんな相手に対し自分達は完全に詰んでいて、こうして生き残れたのは間違いなく奇跡だった。

 

――否。やはり、そのような想像は、楽観的というか、妄想的だろう。

 

 なぜなら、奴等の狙いは間違いなくキリトだったのだから。

 こうしてキリトの無事――どころか消息すら不明な以上、奴等は未だにキリトを追っていて、場所を移動しただけか、もしくは――

 

――既に和人は奴等に捕えられていて、黒服の集団はその目的を達成しているか、だ。

 

「――――ッッ!!」

 

 アスナは何故その答えにすぐに辿り着けなかったのかと思う程に、その想像は的を射ているような気がした。

 

 キリトは少なくとも落下する瓦礫をその身に受けた程のダメージを負っていて、周囲には逃げ場などないように黒服の集団が待ち構えていたのだ。――逃げ切れたと思う方が難しい。

 

 己が無事なのは黒服達にとって自分が全く持って価値を持っていないからで、既に想い人(キリト)は、あの狂気的な集団の手に落ちてしまったというのが、この状況から推測できる最も可能性の高い答えだ。

 

 その場で殺さなかった理由は不明だが、裏を返せば、キリトはいつ殺されてもおかしくない、そんな連中に拉致された――ということになる。

 

 ……なぜ、キリトがあんな集団に追われていたのかは分からない。

 

 だが、ただ一つ言える、確かなことは――

 

「――直葉(リーファ)と、ユイちゃんのせいじゃないよ……」

 

 想い人が、最愛の男性が、大好きな恋人が命を懸けて自分を守ってくれていた――その時。

 

「……わたしは、キリトくんに……何もしてあげられなかった……キリトくんの……足を、引っ張ることしか……できなかった」

 

 ポタ……ポタ……と、涙が布団に落ちる。

 

 VRMMOの世界とは、何もかもが違った。

 

 実際に、真正面から、生身で受ける――殺意。

 銃声。怒声。命を狙われるという体験。命を狙われているという空気。

 

 足が竦んだ。悲鳴が零れた。涙が溢れて、頭がおかしくなりそうだった。

 

 怖かった。恐ろしかった。怖くて、恐くて――でも、それでも。

 

 

――それでもキリトは、そんな中でも必死に、自分を守ってくれていた。

 

 

 本当に命を狙われていたのはキリトだ。こうして自分の身体は無事なのだから、奴等は徹頭徹尾、キリトだけを狙い、キリトは常に狙われていた。

 

 それでも、キリトは、自分の身ではなく、最後までアスナを守ることに終始していた。

 

 

『俺の命は君のものだ、アスナ。だから君のために使う』

 

 

(……あの時と……一緒だ……っ)

 

 クラディールを殺せなかったあの時と、自分は何一つ変わっていない。変われていない。

 

 キリトに助けてもらうばかりで、守ってもらうばかりで、自分は、全然、彼の隣に立てていない……。

 

「で、でも、警察の人達も、キリトさんを探してくれているんですよね!」

「そんなにど派手なことをやらかした連中なら、きっとすぐに見つかるわよ」

『わたしも! パパやその黒い服の人達の目撃情報がないか、もう一度探してきます!』

「……大丈夫です。お兄ちゃんなんですから。……絶対に、生きてます!」

 

 シリカが、シノンが、ユイが、直葉が、アスナに声を掛ける。

 

 リズも、アスナの布団を力強く握りしめている手を、上から、そっと握った。

 

 涙目で顔を上げるアスナに、リズはそっと笑みを返しながら、心中で憎たらしいあの男に語り掛ける。

 

(……なにやってるのよ、バカキリト。……どこで道草食ってるのか知らないけど、さっさと戻ってきなさい。……これ以上アスナやあたし達に……心配、かけんじゃないわよ)

 

 

 

――だからさ、アイツが本気で戦わなくちゃならないようなシーンは、もう来ない方がいいんだよ。

 

 

 

 ……ギュッ、と。

 

 なぜか、急に沸いた妙な不安を誤魔化すように、リズはアスナの手を、更に強く握った。

 




次回は渚サイドへ。


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潮田渚は、守られるべき弱者から脱する為に殺意を固める。

渚サイド


 

「なんなんだよ! なんだってんだよ! ふざけてんのかよ! ふざけてんじゃねぇよ! アイツあんだけ偉そうなこと言ってたくせに全然守れてねぇじゃねぇか!!」

 

 もっと全力で俺を守れよ!! ――と更に情けないことを叫ぼうとしたリュウキの口を、取り巻きの四人が全力で塞ぎにかかった。

 

 その様を、肥満体系の中年男は手を咥えながらハラハラと見守り、渚はそっと物陰から外の様子を伺った。

 

 

――そこには、何かを探すように、ズシン! ズシン! と強烈な足音を響かせて徘徊する、一体のゆびわ星人。

 

 

 このグループは、和人が転送と同時に叫んだ『新人を護衛する』という趣旨のグループだった。

 だが、見ての通り数人の新人は合流することも出来ず、あやせとすらはぐれてしまい、渚一人で彼等を守らなくてはならない状況に陥っていた。

 

 そして、本来ならば和人と東条と八幡がその全てを引き受けるはずだった標的――ゆびわ星人は、今、渚達の目と鼻の先にいる。

 

 渚としては本来八体もいる敵を七体も引き受けてくれたことに感謝こそすれ恨みがましく思う気持ちなど皆無なのだが、リュウキ達新人からするとあんなことを言っておいて約束が違うじゃないかという心情なのだろう。

 

 だが、よく考えてみれば、和人はあの部屋でも確かに力強い言葉でみんなを纏め、前を向かせていたが、その言葉のほとんどがガンツミッションに対する基本的な知識で(スーツは絶対に着ろだとか、頭のアラームが鳴ったらすぐに移動しろ、だとか)――絶対に誰も死なせない、だとか、どんなことがあっても俺がお前達を守ってやる、などという安請け合いは、断じて口にしていなかった。

 

 まぁ、あれだけ知ったような口ぶりで扇動――誘導といってもいいかもしれない――しておいて、それじゃあまるで詐欺じゃないかと言われれば何も言えないようなグレーゾーンだけれど、今、こうして死ぬかもしれない恐怖を、あんな怪物に狙われるという理不尽を前にすれば、それこそ、そんなことは知ったことかという気持ちなんだろう。

 

 誰でもいいから俺を助けろ。俺よりも強いならとっとと俺を守れ。

 

 それが彼等の偽らざる本音――心の底からの魂の叫びだ。

 

「ど、どうするんや、あんさん! あの黒い人は、いつ助けに来てくれるんや!」

「…………」

 

 中年男が渚に必死に語り掛けるが、渚は苦々しい顔をするばかりで何も答えられない。

 

 渚の考えを口に出してしまうなら、そんなものは来ない、だ。

 いや、それは正確ではない。

 

 正しくは、そんなものは“いつ来るか分からない”。ならば、そんなものは当てにせず――

 

「――倒します」

「……へ? 今……なんて?」

 

 渚は背後の中年男を振り返ることすらせず、腰のホルスターから(専用のものがクローゼットに用意されていた)ガンツナイフ(命名)を取り出し、囁くように言う。

 

 

「――僕が……アレを倒します」

 

――自分の手で、やるしかない。

 

 

 このガンツのミッションにおいて、他人を宛てにするというのは、実はかなり分が悪い賭けだ。

 

 制限時間が明確に設定されている上、敵の強さは実際に転送されて相対するまで全く分からないし――その上。

 渚には目の前のゆびわ星人がどれほどの強さなのか、まるで見当がつかないが――もし。

 

 この星人が――和人よりも強かったら? その場合、和人はこちらの救援に来るような余裕はないだろう。

 

 だが、だからと言って――

 

「――あんさん、強いんか? あの化け物に勝てるんか!?」

 

 中年男が希望を得たとばかりに渚の肩を掴み、強引に自分と向き直らせる。

 だが、それとは対照的にリュウキを始めとする不良少年達は、渚を胡散臭そうなものを見る目で見ている――信じられないという顔だ。

 

 そして渚は、中年男の期待に満ちる眼差しから目を逸らすように俯きながら、呟くように答える。

 

「……いえ。僕は、桐ケ谷さんや比企谷さん――そして、東条さんのように……強くないです」

 

 彼等のように――勇敢な戦士達のように、あんな怪物に立ち向かうことなど、出来ない。

 

 自分は、前回の戦争の時――彼等が戦っている時、何も出来なかった。

 

 何も、しなかった――逃げていた。

 

 守られていた、弱者だ。

 

 そう正直に言うと、ありのままの事実を告げると、中年男は表情を絶望で彩り、渚の肩に乗せていた両手をそのまま己の頭に移動させる。彼が「なんやそれ……どないすればええんや……」と悲嘆にくれる後ろで、リュウキが「ほらみろ! テメェみたいなチビに何が出来るってんだよ!」と不満をここぞとばかりにぶつけ、彼の周りの四人の不良も渚を侮蔑するように睨み付けた。

 

 渚はグッと気圧される。

 だが前述の通り、この戦争というデスゲームの場において、ただ仲間の救援を待つばかりという選択は正しくない。

 

 前回の戦争では、“たまたま”和人達が勝利したからよかったものの、もし和人達が負けていたら、自分達は為す術もなく殺されていた。

 

 和人が勝てないような敵に、自分が勝てる道理など皆無だ。――正しい。

 

 ならば余計なことはせずに、敵に見つからないようにひっそりと身を潜め、強い仲間が敵を屠ってくれる可能性に賭けて、自分の分も戦ってもらって、弱い自分等は助けてもらって、守ってもらう方がいい。その方がいい。――きっと、正しい。

 

 

――でも、それじゃあ、ダメだ。

 

 

 この戦争は、スコア制だ。

 ただ生き残るだけでは、戦ってもらっているだけでは、守ってもらうだけでは――いつまで経っても終わらない。何も、変わらない。

 

 おこぼれなどない、確固たる戦果を。

 口を開けて突っ立っているだけでは、雨水一滴も得られない。

 

 覚悟を持たなければ。自分から、一歩を踏み出さなくては。

 

 自分の小さな身を隠してくれる、この壁の向こう側へと――本当の意味での戦場へと、その身を晒さなければ。

 

 冒険をしなくては――経験値は得られない。

 

 強くなれず、弱いままだ。

 

 例えこのまま壁のこちら側で震え続けていても、いつかこの壁は壊され、死から逃げきれなくなる日が来る。

 

 自立しなくてはならない。弱くても、無理矢理にでも、強くならなくてはならない。――戦場では、誰しも子供ではいられない。

 

 動かなくては。戦わなくては。――――あの時のように、殺さなくては。

 

 

「――それでも、()らなくちゃ、()られる」

 

――殺さなくちゃ、殺されるんだ。

 

 

 それが、戦争だ。

 

 ゾクッ!! と、五人の不良と一人の中年は、小柄な中学生の少年が放つ殺気に――硬直した。

 

 閉口し、冷や汗を流し、本能的に恐怖を抱いた。

 

「で、でも、実際問題として、どないするんや。あんなでっかい敵に、そないなナイフじゃどうにもならんやろ!」

 

 確かにそうだ。

 

 渚は前回、このナイフで恐竜の心臓を貫いたけれど、あれほど巨大な敵にはこんなナイフでは太刀打ちできないだろう。つまようじがいくら鋭くても人は殺せないのと同じように。

 眼球や首筋なら違うかとも思うが、ゆびわ星人は頭部の甲冑の中はまるで闇の如く深淵になっていて眼球はおろか頭部そのものがあるのかすら怪しいし、首は強靭な筋肉でコーティングされている。そもそも巨馬に跨っている上、そこまで辿り着ける方法すら分からない。

 こうなると興味を惹かれて持ってきたもう一方の武器すらも役に立たない。

 

 そもそも、なぜ自分はこうも近接戦闘用の武器ばかり持ってきたのだろう。クローゼットの方にはあまりなかったが、ガンツから飛び出たラックにはあんなにもじゃらじゃらと銃があったというのに。スーツを取りに行ったときに一つくらい持って来ればよかったと、渚は思った。

 

 一応ちらっと目線を向けてみたけれど、不良達(かれら)は絶対に貸してくれないだろうな――こんな状況で彼等のような人種が武器を手放すわけがない。例え自分で使うつもりも勇気もなくてもだ――と思いながら、何か使えそうなものはと探していると、ナイフ用のホルスターのベルトに強引に差し込むように持ってきたケースの存在に気付く。

 

 渚はそれを取り出して、パカッと開いた。

 

 中には八種類の金属塊。

 球形のもの、立方体のもの、平べったいフリスビーのような形態のもの、缶のような形のもの――種々それぞれだったが、全て光沢のある漆黒のカラーリングだった。

 

 独特のデザインだけれど、その武器自体は渚でも知っているような物が宝石箱の如く詰め込まれていたあのクローゼットの中で、格別に正体不明だったこの品を、渚は思わず持ち出してしまったけれど――

 

(――これも、何かの武器なのだろうか?)

 

 だがこれ何なのか皆目見当もつかない渚に、中年男が驚愕に目を見開きながら、小さな音量で、掠れたような声で叫んだ。

 

「こ、これはBTOOOM!のBIMやないか! なんでこれがここにあるんや!?」

 

 渚は中年男の言葉に驚愕し、詰め寄るようにして聞き出す。

 

「え!? これを知ってるんですか!? 一体、これは何なんですか!?」

「………いや……でも、そないなわけ……でも、これはどうみても……」

「いいから教えてください! そのBTOOOM!とは何ですか!?」

 

 自分の思考の中に潜る中年男の肩を今度は渚が揺さぶって問い詰める。

 中年男はまだ信じられないと言った面持だったが、ポツリポツリと呟くようにして語った。

 

 BTOOOM!とは、ここ最近で一気に人気を伸ばしてきた最新のVRMMOらしい。

 ついこの間、第一回が行われたという世界大会では、登録選手に運営が一人につき一〇〇ドルを全員に分配し、その金を、敵を殺すことで奪い合うというシステムが導入された。

 様々な施設がある孤島フィールドでそのバトルロワイヤルは行われ、参加者の証であるチップを相手から殺して奪うことで賞金を獲得していき、ラスト一〇人になるまで、その戦い――戦争は続く。

 そして、一〇人になった時点で手に入れていた獲得賞金で順位付けされ、生き残った者達は世界ランカーとなる。更に何よりも世間の注目を集めたのは、その獲得賞金が、そのまま現実世界へ通貨還元されることだ。

 

 GGOのように普段のゲーム内通貨も現金に還元できるわけでなく、この大会の賞金のみの話だが、その賞金はGGOのそれとは比べ物にならない程に莫大な金額で、しかもその性質上、参加人数が多ければ多い程に最終的な獲得賞金は膨れ上がる方式となっている。

 

 全世界で、たったの一〇人。

 宝くじよりも遥かに低い確率だが、それに勝てば――生き残り、勝ち残れば、まさしく億万長者となれるそのシステムは賛否両論を呼び、色々と問題になったけれど、余程大きな後ろ盾を得ているのか、未だサービス中止になっておらず、既に四年後の第二回世界大会の開催が発表されたばかりだ。

 しかも第二回には四人一チームの団体戦の開催も加えて発表されていて、ただでさえ賞金システムの関係上、白熱していたユーザーの布教活動に更なる熱が加えられて――今、色々な意味で最も注目されているVRMMOの一つであるといっても過言ではない。

 

 そして、BTOOOM!はそういった理由だけでなく、その肝心なゲームシステムでも大きな特徴がある。

 

 それが――

 

 

「――――爆弾や」

 

 

 中年男は、渚にそう言った。

 

「…………爆弾」

 

 ケースに入れられた、八種類の金属塊――爆弾を見て、渚はそう呟く。

 

 BTOOOM!というゲームには、これまでのVRMMOのバトルゲームにありがちだった、剣や銃、魔法といったシステムは一切なく――存在する武器は、八種類の爆弾のみである。

 どれだけゲームをやり込んだとしても、それ以上の武器は手に入ることはなく、もっと言えばレベルも、キャラクターのステータスも、上級な防御装備も存在しない。

 バトルの勝敗を左右するのは、プレイヤーの戦闘技術――ただそれだけである。当然、このシビア過ぎる設定も賛否両論を生み、実の所、世界大会が行われるまではあまり人気があるゲームとは言えなかった。VRMMO――もっと言えばゲームそのものの醍醐味である“やり込み要素”が皆無なのだから、無理もないが。

 逆に言えば、初心者と上級者を分かりやすく分かつ“差”がない以上、莫大な懸賞金目当てで“気軽”に始めてしまう者達が後を絶たないのだが――

 

 話が逸れたが、つまり中年男曰く、この金属塊は、そのBTOOOM!というVRMMOで使われる武器で――爆弾だということだ。

 

 ……確かに、そんなことを聞かされれば、まず最初に思うのは『そんなものが、何故、こんなところに』――だ。

 ガンツとそのBTOOOM!の運営がどこかで繋がっているのか――それとも単純に、どこからかそのゲームの存在を知ったガンツが、面白半分でこのBIMを実現――作ったのか。

 

(……いや、そんなことは今、考えることじゃない)

 

 この場で考えるべきことは、これが本当にそのBIM――つまり爆弾だとするならば、上手くすればあの星人を打倒出来るかもしれない、ということ。

 

 ゆびわ星人を殺せるかもしれない、ということで――

 

「あの――――ッ!?」

 

 渚が更に中年男に問い詰めようとした時――リュウキが突然、渚の前に立ち、そのケースから一つの金属塊をひったくって――

 

「なにをごちゃごちゃやってやがんだ――」

 

――そのまま物陰から一歩飛び出して――

 

「――これが爆弾だってんなら、さっさとあの化け物をぶっ殺せばいいだろうが!!」

 

――巨大すぎるその的に向かって、川に石を放り投げるようなフォームで、その爆弾を投げつけた。

 

 渚が、中年男が、そして不良達が呆然と見送る中、その球形のBIMはふらりと孤を描くような軌道で――

 

 バァァァン!!! と爆炎を散らした。

 

「ひぃぃぃいいい!!」

 

 怯える中年男の横で、爆風を物陰の壁を使ってやり過ごす渚。「うわぁっ!」と尻餅をつくリュウキを余所に、渚は真っ直ぐゆびわ星人の方を向く。

 

(……()った……?)

 

 これで殺せたのなら、間違いなくそれに越したことはないのだが――

 

 ……タラっと、一筋の汗を流す。

 渚には、なんとなくわかった。

 

 この暗殺は――()った手応えがない。

 

「――――ッ!? こっちですっ!!」

「――は?」

 

 爆煙の隙間から、()()が垣間見えた――その瞬間。

 渚は隣にいた中年男を引っ張り――階段に向かって一気に飛んだ。

 

 そして、更に次の瞬間――

 

「ぐぁぁぁああああああ!!!」

 

 逃げ遅れた四人の不良――そして何よりリュウキが、リュウキが投げ込んだ爆弾によってこちらの位置を知ったゆびわ星人の、その巨大で強大な斧の横薙ぎの一撃により渚達の頭上を飛んでいった。

 

 それはアンパンマンのアンパンチによって吹き飛ばされるバイキンマンのようでいっそ滑稽ですらあったが、吹き飛ばされているのが大柄といっていい体格の男子高校生達で、次は自分がああなるのかもしれないと思うと別の意味で笑いが込み上げそうになってくる。

 

 ドカン!! ドガン!! バリィン!! と、どこかへ打ち付けられるような鈍い音や、窓ガラスを破壊して建物の中に突っ込んでいったような音が響くが、スーツを着ているので死んではいないだろうと、渚は思う。そう、思うことにした。

 

 渚も初めて身に着けるが、このスーツのお蔭で遮二無二に階段へと飛び降り、そして受け身も取らず――取れず――にゴロゴロと転がり落ちても怪我どころか痛みすらなかった。

 内心では目の前の中年男のように感動すら覚えていたが、それに浸るのをグッと我慢して、渚は中年男の手を取って立ち上がらせる。

 

「ど、どないするんや!」

「とりあえず、また一旦隠れましょう。そしてそこで残りの爆弾――BIM、でしたか――のそれぞれの特性と使い方を教えてください」

 

 そして、渚は一度、ゆびわ星人を見る。爆弾の衝撃で片腕を失っているが、それで却って禍々しさが増し、更なる迫力を振り撒いている――怪物。

 

 たった一発で、一撃で、一振りで、五人もの人間を容易く吹き飛ばす敵――化け物。

 

 ヒュッと、息を呑んで恐怖に呑まれかける。

 

 だが、それでもグッと腹に力を入れ――力強く、地面を蹴った。

 

 キュイイン! というスーツの駆動音を鳴らしながら、渚は回想する。

 

 

――それでもあなたは、私のようになりたいと望みますか?

 

 

(――こんなところで、僕は死ねないッ!)

 

 渚は猛スピードで移動しながら、手を引く中年男に振り向き、問い掛ける。

 

「僕は、潮田渚と言います。……あなたのお名前は?」

 

 中年男は、その渚の笑みを見て、一瞬表情を引き攣らせると――覚悟を決めたように頷き、答えた。

 

 

「――ワシは、(たいら)(きよし)いうもんや。……渚はん。ワシの命、あんさんに預けるで」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「……ただいま」

 

 神崎有希子は、小さな声でそう呟きながら、玄関の扉を開けて自家へと帰宅した。

 

「…………」

 

 神崎のただいまに対する、返答はない。鍵を開けたのは神崎自身なので、誰も――父親も、まだ帰っていないことは玄関を開けるまでもなく分かっていたが、神崎はまるで何かを待つように――期待するように、あるいは恐れるように、俯きながら棒立ちしていたが、やがてゆっくりと靴を脱ぎ出し、そのままリビングへと向かう。

 

 そして当然ながら、その部屋にも誰もいない。この家には、誰もいない。

 

 弁護士という、社会的地位が高く、そしてそれに見合う高収入を得ている父親の財産によって購入した――自身の“箔”を付ける為という意味も大きいのだろうが――この高級住宅の広々としたリビングは、徐々に日が落ちてきたことで下がってきた気温以上に、寒々しい空気に満たされているようだった。一つ一つの家具が目を見張るような高級で高価な品々だが、それらにはほとんど傷がない。リビングという本来最も家族が過ごす場所であるにも関わらず人の温かみがないこの空間は、まるで博物館のような居心地の悪さだった。

 

 気が置けない。息が詰まる。――この家に、人心地つけるような場所など、どこにもないのだが。

 

 あるのは、自室にあるアミュスフィアによって旅立つ――向こう側だけだ。

 

 逃避先で、逃亡先の――仮想世界だけだ。

 

「…………」

 

 神崎は電灯すら点けずにその空間をじっと見据えていたが、それ故か、固定電話の留守電メッセージを知らせるランプが点灯していることに気付いた。

 ゆっくりとした足取りで近づき、数秒間逡巡したのちに、そのメッセージを再生する。

 

 一分――否、三十秒に満たないそのメッセージは、やはり父親からのものだった。

 

 内容は、要約すれば、たった二つの事柄。

 今日は遅くなるという知らせと――余計なことはするな、ということ。

 

 この空間のように寒々しく、乾ききったそのメッセージは、父親の自分に対する失望と――そして諦念が込められているようだった。

 

 昔は、このメッセージの最後に――頑張れ、と、言ってくれていたような、気がする。

 かつての自分にはそれが重荷で、その重さからの解放を、何よりも夢見る少女だったように思う。

 

 だが、その重圧からの解放は、決して神崎の心を幸福感で満たしたりはしなかった。

 

 待っていたのは、どうしようもない虚無感と――自身への、失望だけ。

 

 諦念、だけ。

 

「………」

 

 神崎は、そして逃げるように、逃亡し、逃避した。

 

 現実から。父親から。そして、自分から。

 

 その父親からのメッセージから、目を背け、背を向けて――自室へと向かった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 自室へと――自らを守る檻のような空間へと帰還を果たした神崎は、制服を脱ぐことすらせずに、そのまま背中からベッドへと身を沈めた。

 

 そして、ただ、天井を見上げる。自らを守る檻の天井を。限られた自分の居場所の限界を明確に示す境界を。

 

「………」

 

 なんとなく、その天井にすら責められているような気がした神崎は、それすらからも逃げるように、そっと視線を落とし――アミュスフィアを見つめる。

 

 アミュスフィア。自分を逃がしてくれる――このどうしようもなく終わってしまった、詰んでしまった、投了の、チェックメイトの状況から、現実から逃げしてくれて、仮想世界へと連れて行ってくれる、その機械(マシン)を、縋るように見つめた。

 

「………」

 

 また、GGOへと潜ろうか。神崎有希子から――有鬼子へと変わり、逃亡し、どこかのモンスターでもその手で殺せば、自分を追い詰めている漠然とした何かを、どうしようもなく強大で逃れられない何かを、殺したような気になれるから。

 

 逃れられて――解放されたような気になって、逃げられるから。

 

 現実から、逃避できるから。

 

 神崎は立ち上がり、ベッド横に置いてあるそれを手に取ろうと――

 

 

『“殺した”ことなんて、ないくせに』

 

 

 そう、見下す声が、聞こえた――気がした。

 

「…………」

 

 神崎の伸ばした手が、逃げようとした手が、ピタリと止まる。

 

 殺したことがない――殺せた、試しがない。

 

 仮想世界(バーチャル)で何度も、何度も何度も、強大な超生物(ばけもの)を、その手で、その銃で殺しても、現実の得体のしれない何かは、漠然とした自分に纏わりつく何かは――一度も消えてはくれなかった。

 

 殺せたことなど、一度もなかった。

 

 殺したことなんて、ないくせに。

 

 まるで、私が言われているみたいだった――そう、神崎は思った。

 

「…………」

 

 その嘲笑した声は、今朝の登校時、同じE組である渚が――同じように敗北者で、同じ穴の狢であるはずの潮田渚が、明確に自分達よりも格上の存在で、膝を折って屈服するべき本校舎生徒(きょうしゃ)に向かって放った言葉だった。

 

 強者を押し退けた――弱者の言葉だった。

 

 逃げずに、退かせた、彼の言葉だった。

 

「………………」

 

 神崎の手は、アミュスフィアではなく――クローゼットへと、伸ばされた。

 

 そして――

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 再び、誰もいない、寒々しいリビング。

 玄関へと向かっていた神崎の足は、なぜかその場所へと赴き、アミュスフィアではなくクローゼットを選択した神崎の手は、なぜかその扉を開けさせた。

 

 案の定、その場所には、誰もいない。

 

 かつて父親に捨てるように命じられたそれら――派手な色のウィッグに、肩や太腿を露出した服。

 

 捨てたはずの服を、棄てたはずの過去を身に纏った神崎を、止める者は、止めてくれる人は――親は、そこにはやはりいなかった。誰もいなかった。

 

「………」

 

 その空間があまりにも冷たくて――あまりにも、自分に無関心なように冷たくて、神崎は縋るようにテレビを点けた。

 人の声が聞きたかったのか、まるで時間を稼ぐかのように、何かを待つように点けたテレビは、ちょうどワイドショーを放送していた。

 

『見てください! この大勢の人! 今日、この池袋では、あの人気映画の大ヒット御礼イベントが行われ、な、なな、なんと! 来春公開のその続編映画の冒頭シーンを、今日、この場所で! 池袋駅前で撮影することなっており、そのエキストラをその場で現地募集する試みがなされることが先日公式ホームページで発表されました! その為か、今この池袋駅前は、たくさんの人達で溢れかえっております! 更にサンライト六十においてはあの人気アニメのイベントも控えており、様々な――』

 

 テレビの向こう側の世界は、この寒々しい空間とは大違いの明るさで満ちていた。

 

 神崎は、まるで光に導かれるように、人の温もりを求めるように、テレビを消し、そして玄関へと向かった。

 

(……私、また逃げてる。……ううん、もっとひどい。……仮想世界からも逃げて……元に戻っただけだ)

 

 同じ過ちを、繰り返しているだけだ。

 

 成長していない。むしろ退化している。

 

 寂しくて、辛くて、逃げて、逃げて、逃げて。

 

「……私は、弱いよ……渚君」

 

 私には――――殺せないよ。

 

 そうして神崎有希子は、まるで泣いているような表情で、どんよりと曇った空を見上げてながら、現実の世界での更なる逃亡を図った。

 

 誰に見送られることも、引き留められることもなく――ひとりぼっちで。

 




と、いうわけで、平さん参戦。
BTOOOM!はこの世界ではVRMMOという設定です。

次回は、あやせサイドです。


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新垣あやせは、甘美な『本物』を手に入れる為に戦場を舞う。

あやせサイド


 

 わたしが殺しますよ――そう今にも言い出しそうな程、冷たい瞳であやせはその男を見つめる――見下す。ゴミを見るかのように、見下す。

 

「――あなた、まだ死んでないんですか?」

 

 その眼差しには、最早その男が心酔した『新垣あやせ』の面影などまるで残っていなかった。

 

 だが、そんなことにも男は気付かないのか――否、気付ける程の余裕がないのか、ただ物陰に隠れながら、戦場にも持参したリュックをガンツスーツの上から前抱きするという滑稽な格好で、ヒステリックに掠れた声で絶叫していた。

 

「あ、あやせたん! 逃げよう! 僕と一緒に逃げよう! ぼ、僕が、君を守るから! さあ!」

「………………」

 

 その、あまりにも言葉と行動が一致しない言動に、あやせは男の方を見ることすらやめた。

 

 そして、真っ直ぐに、前を見据える。

 

 睨み付けるは、遥か頭上、十メートル――ゆびわ星人の、真っ暗な双眸。

 

 和人の指揮の後、あやせは指示通りに渚と合流し新人達を護衛しようとしたが、何の因果か、運命の嫌がらせか、気が付けばこのストーカーと二人ではぐれ、こうして一体のゆびわ星人と相対する結果となっていた。

 

「何をやってるんだ、あやせたん!? 早く逃げないと殺されちゃうよ!!」

「あやせたんとか言わないでください。気持ち悪いです。ぶち殺しますよ」

 

 ストーカー男の絶叫を、あやせは平坦な口調で淡々と切り落とす。

 だが、男は諦めず、否、何もかも諦めたかのように、更にあやせに向かってこう叫んだ。

 

「どうするんだよ!! こんなの僕達にはどうしようもないだろうぉ!!」

 

 先程自分が守ってやると言ったことなど忘れたかのように――実際忘れているのだろうが――ストーカー男は泣き喚く。

 

「決まってるじゃないですか」

 

 だが、あやせはそんなストーカー男の喚きを心底うっとうしいとばかりに、その漆黒の髪を靡かせながら、男に向かって最後にもう一度だけ振り向いて――極寒の目線で、だが、揺るぎない、迷いなど微塵もない眼差しで、ただ、こう宣言した。

 

 

「ぶち殺すんですよ――あの怪物を」

 

 

 ストーカー男は「……え?」と乾いた呟きを漏らすと、呆然とその背中をただ見送ることした出来なかった。

 

 あやせが、ゆびわ星人に向かって一歩を踏み出す。そして、それを迎え撃つかのように、ゆびわ星人も一歩、その巨体に相応しい足音を響かせながら前進する。

 

 その衝撃にストーカー男はあっさりと悲鳴を上げながら物陰に素早く避難するが、その時には既にあやせの頭の中には男に関する配慮は綺麗さっぱり消えていた。

 否、配慮どころか、怒り、恨み、憎しみ、そういった男に関する感情の全てが消え失せていた。

 

 頭にあるのは、ゆびわ星人へと敵意と、戦意、そしてそれでも消えない心に巣食う目の前の怪物に対する恐怖心。

 

 そして、何より、生きることへの渇望。

 

 綺麗で、美しくて、きっと何よりも甘い――その果実への、果てしない渇望。

 

 その『本物』を教えてくれた――あの背中への憧れ。

 

(……わたしは、強くならなくちゃ)

 

 守られているだけじゃ、きっと駄目だ。

 後ろで怯えるだけじゃ、きっと駄目だ。

 

 足手纏いじゃ駄目だ。それじゃあ、あの人には、きっと振り向いてもらえない。

 見てもらえない。気づいてもらえない。それじゃあ――その果実は、きっと手に入らない。

 

 それは、とても優しくて――とても、甘い。きっと、途轍もなく甘く、途方もなく甘い。

 

 誰にも見えなくて、簡単には手に入らなくて、でも、きっと、だからこそ、誰もがそれを求めている。

 

 それは、きっと揺るぎなくて、絶対に断ち切れない――切り捨てられない、盤石の絆だ。

 

 ああ、欲しい。欲しくて、欲しくてたまらない。憧れずにはいられない。

 

 欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲し。欲し。欲し。欲し。欲し。欲し。欲し。欲。欲。欲。欲。欲。欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲――

 

 

「だから、勝たなきゃ」

 

 

 だから、殺さなきゃ。

 あの人は、戦っている。きっと、殺してる。

 

 ならば、自分も同じことが出来なきゃ。あの人の隣には立てない。

 

 あの人と、絆を繋げない。

 

『本物』に、なれないじゃないか。

 

 Xショットガンを携え、新垣あやせは戦場を舞う。

 

 途中、そういえばこの銃の撃ち方を知らなかったと気付くが、すぐにどうでもいいと再びゆびわ星人を睨み付けるように見上げた。

 

 銃なんてものは、銃口を向けて、引き金を引けば撃てる。いまどき、幼稚園児でも知っている常識だ。

 なんだか引き金が二つもあるが、どうでもいい。両方引けばどっちかがトリガーだろう。それでもダメなら、こんなものは使わず、この脚で蹴り飛ばせばいいだけのことだ。

 

 殺せばいいのだ。だから殺す。だから殺す。だから殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺。殺。殺。殺。殺。殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺――

 

「――殺します。殺します。ぶっ殺します。わたしの為にさっさと死んでください。――この怪物」

 

 わたしは――あの人の元へ、行かなくてはいけなんですから。

 

 そう淡々と呟きながら、新垣あやせは戦場を駆ける。

 真っ黒な瞳から極寒の眼差しを振り撒き、漆黒の髪を靡かせながら、漆黒の騎士へと突攻する。

 

「グォォォォォオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」

 

 ゆびわ星人が巨斧を振り抜く。

 

 その刃先には、既に一体の恐竜(ヴェロキラプトル)に恐怖して身を震わせていた女の子はいない。

 

 いるのは、極寒の目線で、冷たく、揺るぎなく怪物を睨み付ける戦姫のみ。

 

 あやせは真っ直ぐゆびわ星人に銃口を向け、乱雑に力強く二つのトリガーを同時に引きながら、青白い光と瞬かせる。

 

 それが、一人の少女が戦士となったこの戦争の、何かが始まり、何かが終わった号砲だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「あ、五更さ~ん! 五更さん、五更さん、五更さ~ん! こっち、こっちです、こっちですよ~!」

「……聞こえているわ。あまり一般人の前で囀るのはお止めなさい」

「これが張り切らずにはいられますか! ここはあたしたちのホームグラウンドであり! これから行くイベントのアニメの聖地ですよ、聖地! 五更さんとしては好きなカプは何です? やっぱり王道のイザシズですか? それとも正帝? 青帝ですか? それとも帝人様はーれもごっ!??」

「……まったく。少しは時と場合を選びなさいな」

 

 黒猫が目的に着くと、既に先着していた赤城瀬菜が大きく手を振ってこちらに向かって呼びかけてきた。そして挨拶代わりに早速暴走する瀬菜の口に道中購入したコンビニパンを突っ込むと、黒猫は大きく嘆息する。

 顔立ちは美少女といってもいいほど愛くるしいルックスの瀬菜だが、その出で立ちはTシャツにジーンズというラフというには女子高生としてはあまりに気が抜けている格好で、いつもの地元ならばまだしもこの都会の街では少しばかり浮いていた。

 

 だが、これから向かう先は、彼女のような人間にとってはまさしくホームグラウンドといってもいい聖地(ばしょ)の為、瀬菜はまるで気負いを感じている様子もなく、眼鏡のレンズを光らせながら今にもぐへへとか言っちゃいそうなくらいテンションが振り切れていた。

 

「……アイツは相変わらずだな」

「……せなちー」

「あ、高坂せんぱいも、桐乃ちゃんも、お久しぶりです!」

 

 黒猫の少し後ろには、今回の集まりに参加することになっている、高坂京介と高坂桐乃、二人の兄妹がいた。

 

 京介はいつも通り――大学生活は私服の為、入学前にはある程度気合を入れてレパートリーを増やしてみたが、三か月もすると元々服に特別興味がある訳でもないため組合せを考えるのが面倒くさくなり、結果いつも通りと言ってもいいほどに使い回している――インナーの上にシャツを羽織って下はチノパンという、ごく普通の、地味で手堅い服装だった。色合いも地味だ。

 

 対して桐乃は、やはりこの都会の街でも――いや、むしろこの都会の街だからこそ浮かないオシャレレベルの高い服装である。周りが瀬菜と京介、そして学校帰りの制服の黒猫という組合せなのでやっぱり浮いているのかもしれないが。それに今から行く場所を考えると、おかしいのは桐乃の方かもしれない。

 だが、女子高生にオシャレをするなという方が酷だし、それにこれだからこその桐乃ともいえる。

 

 案の定、誰もそれぞれの服装に文句を言うこともなく(京介の服装に関しては桐乃が電車の中でいつも通りとばかりにグチグチとディスっていた)、まずは無事に合流出来たことを喜んだ。

 

「ありがとうございます、五更さん! 平日なのに、わざわざ松戸から学校帰りに来てくれて!」

「いいのよ。下々の者達は、宴の準備に邁進していたようだし。御蔭でこの身は自由だったから」

「なにこれ? 蘭子語?」

「おい、桐乃。今更、黒猫の言葉に突っ込みを入れるなよ。……っていうか黒猫。お前、文化祭の準備で浮いてるのか?」

「この闇猫たる私が、あんなリア充のリア充によるリア充の為の催しなんかに手を貸す筈がないじゃない」

「まだ闇猫だったんだ、アンタ……」

 

 黒猫もとい闇猫の根深いリア充への怨念に高坂兄妹はちょっと引き気味だったが、その元凶は間違いなく自分達なので深くツッコミ辛かった。黒猫はそれを承知で楽しんでいるところがあるが。

 

 瀬菜もそこら辺の事情はきちんと聞かされたわけではないがなんとなく察してはいるので、はははと乾いた苦笑いで流すと「では、さっそく行きましょうか!」と空気を変えるべく、くるりと踵を返して歩み出した。

 

「帰り道のことを考えると、あたしたちはともかく五更さんには余裕はないですからね」

「あら、別にいいのよ。妹達の学校は創立記念日とやらで明日は休みだし、私も今日は高坂家に泊まらせてもらうつもりだもの」

「いやいや、今の話を聞いたらお前だけでも帰れよ。文化祭の準備があんだろう? あれって休んだら単位とかに響かねぇのか?」

「何を言っているの? こんな妹キチガイがいる家に、愛する妹だけを置いて帰るわけにはいかないでしょう?」

「…………チッ」

「狙ってたのかよ!?」

「……相変わらず、妹のことになると恐ろしいビッチね」

 

 そんな会話を聞いていた瀬菜は「まぁ、五更さんは制服ですから、あんまり遅くなりすぎると補導されちゃうかもですし、気を付けるに越したことはないですよ」と結論をまとめる。それには黒猫も大人しく頷いた。

 

 赤城瀬菜という女の子は、ある一定の分野のことになると途端にリミッターが外れ、ここに居る個性豊かな女性陣の中でも頭一つ飛び抜けたキチガイとなるのだが、それ以外の場面では立派に仮面を被れる優等生委員長タイプなのだ。

 

 黒猫としても、あんな強面のお父さんがいる家に――好意で預かってもらっているとはいえ――妹達だけを待たせておくのも忍びない。珠希は物怖じしなさそうだが、普通に一般人並みの心臓しか持っていない日向は慣れない怖い大人には弱そうだ。

 

 そんなことを考えていると、珍しくも瀬菜と京介が前で話し込んでいて、自分と桐乃が後ろに続くという編隊になっている。

 瀬菜は桐乃と仲がいいし、言っては何だが自分と桐乃はすぐに口論に発展するので、こういった形に無意識になることはあまりなかった。

 

(……いえ、違うわね)

 

 ここまでくる道中の間にも気づいていたことだが、どうにも桐乃の元気がない。

 故に、ここで自分に桐乃を元気づけろということだろう。確かにこのメンバーの中では、自分が一番桐乃に遠慮のない言葉で発破をかけるのに向いている。

 

 妹のメンタルケアを妹の友達に丸投げなんて情けない兄だとは思うが、京介もきっと――おそらく、ずっと、桐乃を励まし続けていたのだろう。しかし、この問題に関しては、兄も紛れもなく当事者で、加害者だ――この妹と同じように。

 

 そんな妹を、あろうことか傷つけて振った相手である自分に投げるとはと溜め息を吐くが、溜め息こそ吐くものの、しょうがないわねと思いぞすれ、嫌悪も失望もしない――出来ないのだから、全くどうしようもないと黒猫は自嘲する。

 

 どうしようもなく救えなくて、取り返しがつかなくて、そして愚かだ。

 

 あの子とは違って――どこまでも。と、黒猫は、自分に対して呆れ、笑う。

 

 黒猫は、瀬菜とどうしようもない言い合いをしているようで、時折こちらに悔しそうに、そして申し訳なさそうに目線を送る京介に気付かないふりをしながら、桐乃に対していつものように挑発するように話しかける。

 

「全く、似合わない腑抜け面をしているわね。いつかの威勢はどこに消え失せたのかしら?」

「……うっさいわね」

「……あなたは、こうなることを覚悟して、あの道を選んだのではなかったの?」

「…………だけど」

「少なくても先輩は、あの時、他の全てを捨てる覚悟があったわよ。……それでも、私達を捨てて――あなたを選んだの」

「………分かってる。分かってるわよ! ……それでも、それでもあやせなら――」

「――受け入れてくれる、とでも思った?」

 

 ヒュっ、と。桐乃が息を呑み、黒猫の方を振り向いた。

 黒猫はそんな桐乃を冷たく、容赦なく見据え、畳みかけるようにして言い募る。

 

「その認識を改めなさい。あなたのそれは、勝者の言い分よ。私達を踏み潰して、叩き潰して、全てを得ておきながら、それを放棄したの。――だから許して、が、そんな簡単に通るはずないじゃない」

「……それでも、わたしはっ!」

「他に道がなかった。苦渋の決断だった。そんなことは、私達には関係ないことよ。……あなたがどれだけ苦しんで、悩んで、諦めて、出した結論かは知らない。知ったことじゃないわ。……それでもね。私達は負けたのよ。……高坂桐乃、あなたに負けたの。あなたは、私達を負かして、京介を――先輩を手に入れたのよ。それを、あなたは手放した。それだけは揺るぎないわ。そのことで、あなたは私達に、恨まれるべきなのよ。憎まれるべきなの。嫉妬されてしかるべきなの。――それが、敗者に対する、勝者の負うべき、責務よ」

「………………っ」

 

 黒猫の、その容赦のない言葉に、桐乃は閉口し、唇を噛み締め、俯いていく。

 桐乃のそんな姿を一瞥すると、黒猫は再び前を向き、前を歩く京介と瀬菜を見据えながら歩く。

 

 そして、ポツリと、語調を落としながらも更に続けた。

 

「……少なくとも、私達はその覚悟で戦ったわ」

「……覚悟?」

「……あなたに、嫌われる覚悟、よ」

 

 ピタと、足を止める桐乃。

 そんな桐乃の数歩先で止まり、振り返った黒猫は、声を失って驚愕している桐乃を、やはり真っ直ぐに見据えながら告げる。

 

「あなたが大好きな兄を――プロポーズを受け入れて、付き合って、恋人になるくらい大好きな兄を、横から掻っ攫って、あなたの前でイチャイチャして、あなたに嫌われてしまうことも覚悟で、それでもあの時、私達は京介を――先輩を求めた。求めて、あなたと戦った」

 

 結果で見れば、惨敗だけれどね。と、一度瞑目する黒猫は、だが次の瞬間、鋭く桐乃を見据え、射貫くように言った。

 

「――でも、私達は、あなたを切り捨てるつもりなんて、毛頭なかったわ。例え、どれだけ嫌われても、恨まれて、憎まれても……私達は自分と京介の仲を、あなたに認めてもらうつもりだったわ。そして、あなたの親友という繋がりも、手放すつもりもなかった。皆無だった」

 

 黒猫は逃がさない。絶対に逃がさないと、桐乃を見据える。

 瞳に若干の怯えをみせる桐乃を、その髪と同じくらい美しい黒い瞳で、真っ直ぐに。

 

 

「――私達は、何度でも、何度でも……あなたと戦うつもりだったわ。高坂桐乃」

 

 

 それが、黒猫と――そしてあやせの覚悟だった。

 

 高坂京介に恋をし、高坂桐乃に惚れ込んだ、高坂兄妹が大好きだった、二人の女の子の初恋の物語。

 

 

 一人の男を懸けて、一番の親友と戦って――そして敗れた、二人の女の子の、壮絶な覚悟。

 

 

「――あなたは、どうなの? 桐乃」

「……え? ……どうなの、って――」

 

 その想いの丈をぶつけられ、圧倒されていた桐乃に、黒猫は、諭すように静かに、けれど射貫くように苛烈に告げる。

 

 

「あなたはあやせを――切り捨てるの?」

 

 

 間は、一瞬だった。

 

 その問いに、一瞬呆然とした桐乃は――すぐに表情を憤怒に変え、黒猫を睨み付けるように見据え返して叫んだ。

 

「そんなわけないっ!」

 

 桐乃は顔を真っ赤にして、瞳に涙を浮かべながら、更に叫ぶ。

 

「絶対に――絶対に、仲直りしてみせる! 例えどれだけ憎まれてても、どんだけ恨まれてても! 許してくれるまで何度だって話す! 何度だって謝る! 絶対に諦めない! ……例え、どれだけ嫌われてても――」

 

 そして、真っ赤な頬で、真っ赤な瞳で、けれど黒猫の目を真っ直ぐに捉えながら。

 

 

「あやせは――――わたしの親友なんだから!」

 

 

 そう、叫び終えた桐乃の瞳には、かつての決意の炎が再び宿っていた。

 

 それを見て、黒猫は――

 

「――ふっ。それでこそ、あなたよ」

 

 そう言って、くるりとあっさり踵を返す。

 

「ちょ、どうしたのよ、あんた――」

「どうしたもこうしたも。どこかのビッチがこんな公衆の面前で叫び散らすから、他人のふりをしてるんじゃない。半径十メートル以内に近づかないでちょうだい」

「ちょ! あ、アンタ、そういうのは早く言いなさいよ! っていうか歩くの早っ! ま、待ちなさいよ!」

 

 そんな二人の親友同士のはしゃぎあいを、少し先で立ち止まって待っていた京介と瀬菜は苦笑しながら見つめる。

 

「……はっ」

 

 瀬菜は、京介のそのふと漏らした笑いは、これまでの苦笑と違い、どこか悲しげに見えて。

 

「……? ……どうかしたんですか、高坂せんぱい?」

 

 京介は、瀬菜の方には振り向かず、ただ桐乃と黒猫の方を見つめたまま、そのどこか悲しげな笑みのまま、呟いた。

 

「……なんでもねぇよ。……なんでもな」

 




次回は東条サイドです。


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湯河由香は、その男に巻き込まれてしまった為に涙を流す。

前半東条サイド。
そして後半は、あの大人たちサイド。


「グォォォオオオオオオオオオオオオ!!!!!!」

「グゥゥゥゥォォォオオオオオオオオ!!!!!!」

「はははははははははは!!!! はははははははははははは!!!!」

(なにこれなにこれなにこれこれなに意味わかんない意味わかんない意味わかんない意味わかんない!!!)

 

 その少女は自身が隠れる壁の向こう側から響き続ける、コンクリートを破壊する轟音と、怪物の咆哮――そして、無邪気な男の笑い声を、必死に両手で耳を塞いで体を丸めながら否定し続けた。

 

(これは夢これは夢これは夢これは夢これは夢これは夢――)

 

 ドゴォン!! と少女が身を隠す壁が荒々しく切断された。

 

「ひぃぃぃいいいいいいいいい!!!!!!」

 

 少女はビクッッ!! と身を震わすも、少女故の体躯の小ささが幸いし、少女の頭上をゆびわ星人の巨斧が通過しただけで、なんとか無傷だった。

 

 が、心はそうはいかない。

 少女は訳も分からない内にこんな戦場に放り込まれ、戦争が始まった瞬間からあの怪物と遭遇してしまった為か、足が竦んで上手く走れず、結果として他の新人達とはぐれてしまったのだ。

 

「…………っ」

 

 ぐっと歯を食い縛り、少女は恐怖で震える体を必死に動かして、切断されたが故に背丈が自分の座高よりも少し高いくらいにまで縮んでしまったその壁から、そっと向こう側の景色を覗く。

 

 結果として、少女は――湯河由香は、戦争に巻き込まれてしまった。

 

 そして、そんな由香の少し先では、一人の戦士と二体のゆびわ星人の激戦が繰り広げられていた。

 

「グォォォオ!!! グォォオオオ!!! グォォォオオオオ!!!!」

「グォォォォォォオオオオオオオオオ!!!!」

「ははははははははははははははははははは!!!!!」

 

 否、それは戦闘といえるのか。

 十メートルの巨騎士が二体がかりで襲い掛かるも、由香のような何の戦闘知識もない、戦争どこか格闘技すら見識がない素人からみても、明らかに――

 

――圧倒しているのは、一人の小さな人間だった。

 

 いや、十メートル級のゆびわ星人と比べたら矮小というだけで、中学一年生の由香から見ればその男も巨人と称するに相応しい体躯だったが、このやや離れた場所から見れば、やはり巨人と小人の戦争だった。

 

 だが、その小人は、楽しげに笑みを浮かべながら、騎士が跨る巨馬の足を掴み上げ、力任せに放り投げる。

 放り投げた巨馬は別の騎士への弾丸となり――激突。その巨体が馬上から地に堕とされ、重々しい轟音が響く。

 

 この距離まで轟き渡る戦闘音だけでも、由香は恐怖する。

 目の前の光景との間に、何のディスプレイも介在していないことが、まるで信じられなかった。

 

(……なに、これ……何なの……一体、何だっていうのよ?)

 

 訳が分からず、意味が分からない。

 目の前の戦争も、自分が着せられたこのスーツも、あの変な黒い球体がある部屋も、そして自分が置かれている状況も。

 

 何も分からず、ただ目の前の戦争を眺めていた。

 あの金髪の虎のような男は、本当に楽しそうに漆黒の騎士達を蹂躙している。

 

 巨騎士が巨斧を振り回しても、巨馬の蹄で踏み潰そうとしても、その男――東条英虎はものともしない。

 

 真正面から受け止め、元々超人的だったパワーをスーツによって更に強化したその腕力で、圧倒的な力で圧倒する。

 

 通じない。格が違った。

 星人を、怪物を、たった一人の地球人が圧倒していた。

 

 

 明らかにこの戦場に置いて、東条こそが狩る者で、ゆびわ星人が狩られる者だった。

 

 東条英虎こそが強者で、ゆびわ星人こそが弱者だった。

 

 

 力。強さ。

 この一つのパラメータで、ここまで明確に差が出来てしまう。役割が、位置付けが、格付けが決定づけられてしまう。

 

 それが戦場で、それこそが戦争だった。

 

「…………」

 

 何も分からず、訳が分からない由香だったが、分からないなりに、その非情を、その理不尽を――その真理を、何となく察し、何となく学び、何とも言えない気分にさせられた。

 

 断じてゆびわ星人に同情したわけではない。

 東条の、由香から見ても分かるほどに並外れた強さや、その獰猛な笑み、そして容赦ない戦いぶりには恐怖してはいるが、かといって、それ以上何も思わなかった。

 

 ただ、強さというものに。生物としての――人間としての、立ち位置のようなものを、考えさせられただけだ。

 

 これが、強さなのだろうか。

 

 他者を圧倒する、圧倒的な力。

 

 渚とは違い男ではない由香は、それに憧れもしないし羨ましいとも思わなかったが、何も思わないわけではなかった。

 

 

――が、次の瞬間、そんなことを思っていられる余裕は、由香から(たちま)ち消え失せた。

 

 

「――え?」

 

 いつの間にか、東条の戦いを見るのに夢中になっていた少女は、一体のゆびわ星人――もう何度目かは分からないが――東条によって吹き飛ばされた、一体のゆびわ星人と、目が合った、気がした。

 

 その兜の中の、漆黒の暗闇が、由香の姿を捉えた、気がした。

 目は見えない。それは視力という意味ではなく、文字通り目という器官があるかどうか見えない、目を視認できないという意味だが、少女は気配で察した。殺気を感じた。

 

 殺される――そう思った。

 

 

「………ひっ」

 

 悲鳴が漏れかけたが、叫べなかった。声が出ない。発声器官が働かない。

 生まれて初めて向けられる殺気は、中学一年生――ほんの数か月前まで小学生だった女の子の身体を硬直させるには、十分すぎる程に圧倒的だった。

 

 そうだ。例え、東条英虎がゆびわ星人よりも圧倒的で、強者だったとしても、それは由香には通じない格付けだ。

 

 上には上がいるように、強者よりも強者がいるように。

 下には下がいて、弱者よりも弱者がいる。

 

 ピラミッドのような構造の食物連鎖では、強者よりも遥かに多くの弱者が踏み潰されている。

 

 一握りの強者に、有象無象の弱者。

 

 中学一年の女子の自分は、か弱く儚い女児の自分は――やはりここでも弱者だった。

 虐げられる――弱者だった。

 

 突飛な状況に追いやられても、目まぐるしく奇想天外に変異する戦場に放り込まれても、そんなところは不変だった。変わっては、くれなかった。

 

 ああ、こんなにも強者とは、強さとは移り変わる。

 先程までいい様にやられていた、弱者だったはずの怪物が、意気揚々とこちら向かって襲い掛かってくる。

 

 自分よりも弱者の人間を見つけて、救われたと言わんばかりに、由香を殺しにやってくる。

 馬を失ったその巨騎士は、まるで東条から――強者から逃げるように、ドカドカと足音を響かせてこちらに向かって走ってくる。

 

 その姿は、自分を殺そうとやってくる恐ろしい怪物なのに、由香にはどこか滑稽に見えた。

 

 あの頃の自分も、あの子には――そしてあの高校生達には、そんな風に見えていたのだろうか。

 

 自分も弱者なのに、自分よりも弱者を虐げて、強い気になっていた、選ばれた気になっていた――いい気になっていた、滑稽な愚者。

 

 救いようのない、救われない、愚か者。

 

 

 こんな私を――誰が救ってくれるというのだろう。

 

 

 巨騎士は由香の目の前に到達すると、その斧をまるで見せつけるように――自分の強さを、自分が強者だと固辞するように、言い張るように大きく振り上げた。

 

 殺される。こんなにもみっともない強者に――弱者に。それよりも圧倒的に弱者で、圧倒的に愚かな自分は、為す術もなくあっさりと殺される。

 

 向けられる殺気は、未だ由香の身体を石の如く硬直させていて、全身を駆け巡る恐怖は、断末魔の叫び声を上げさせることすら許さなかった。

 せめてもの抵抗で、最後に勝ち取った自由は、ただ目を瞑ることのみ。

 

 黒騎士を外界に追いやった視界で――世界で、最後に由香が思ったのは、願ったのは――許しだった。

 

(………ごめん、なさ――)

 

 それが誰に向けられた謝罪(もの)だったのかは、由香自身にもよく分からない。

 

 だが、そんな思いを誰かが聞き届けたのか、そんな由香を、少しは許してくれたのか――

 

 

――救いは、あった。

 

 由香を救ってくれる、強者(ヒーロー)が駆けつけた。

 

 

「よお、大丈夫か?」

 

 その言葉に、由香は恐る恐る目を開ける。

 

 すると、そこでは、ヒーローが――

 

「そんなとこにいたなら早く言えって。危うく巻き添えで殺しちまうとこだったよ。ははは」

 

 

――ゆびわ星人が渾身の力で振り下ろした巨斧を受け止め、はははと笑いながら、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「ぎゃああああああああああああああああああ!!!!!」

 

 その怖すぎる映像に由香は絶叫する。

 

 え? 恐怖による体の硬直? そんなもの知るかと言わんばかりに、由香は涙を滝のように流しながらぶるぶると頭を振った。

 さっきまで色々考えていたのがどうでもよくなるほど、東条英虎(このおとこ)は色々と規格外だった。

 

 そんな由香の様子をどう勘違いしたのか分からないが、東条は「ああ、ちょっと待ってろ」と言い、その巨斧を(心なしかゆびわ星人の方もパニくっているように見えた)、ゆびわ星人を持ち上げたまま肩に担ぎ、腕力にモノを言わせて――

 

「――そいっ」

 

――ぶん投げた。

 

「ぐぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおん!!!!!!!」

 

 気のせいだとは分かっているがなんか悲鳴のように聞こえたそんな咆哮と共に、ゆびわ星人は高々と宙を舞う。まるで戦場のどこかで仲間(どうほう)がリュウキ達を吹き飛ばしたのと、ちょうど同じような軌道で。

 

「グっ!? グォ! グォォォオオオオオオオオオオオオン!!!!」

 

 そして着地地点には、先程東条に叩きのめされた別の個体がいた。

 

 だが、未だダメージが抜け切れず、身動きがとれないその個体は、気のせいに決まっているがオロオロと挙動不審に悲鳴のような絶叫をあげ――

 

「「グぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおん!!!!!」」

 

 激突し、墜落した。

 

「…………」

 

 むごい。そう、由香は思った。

 

 きっと他の戦場ではもっとシリアスなバトルが繰り広げられているに違いないのに、本当にこんなのでいいのだろうかと、由香は訳も分からずそんなことを思ったような思っていないような。

 

「はは、飛んだな~。にしても、すげぇな、この服。メチャクチャ軽かったぞ」

「…………メチャクチャ軽かったんだ」

 

 東条のことも、そしてこのスーツがどれだけすごいかも、由香はよくは知らないが、きっとこれを着てもあんな奇天烈な真似が出来るのはこの人くらいだろうと思った。

 

 が、そんなことが思えるくらい、言い方を変えれば気が楽になった由香だが、戦場において東条と二人きりにされるという、ある意味ではストーカーと二人きりにされたあやせ以上に不幸なこの少女の災難は、まだ終わってなんかいなかった。

 

 ドゴォォォォン!!!! と、凄まじい轟音が響く。

 

「っ!?」

 

 由香が慌ててその方向に目を向けると、瓦礫を吹き飛ばしながら立ち上がった二体のゆびわ星人が、怒りの咆哮を上げながら、禍々しく復活を遂げていた。

 

「「グォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」」

 

 その迫力は、先程まで東条にいい様にやられていた面影はなく、ただ圧倒的な怒りに身を震わせ、兜の中の漆黒にも淡い真紅が混ざり込んでいた。

 

「―――――ッッ!!」

 

 由香の緩みかけた恐怖も再燃し、いや、前以上に膨らみ上がり、思わず反射的に一歩下がり掛けた。

 一歩は動けたのは、身体が硬直しなかったのは、無意識に求めたからかもしれない。近くにいた、この男を。

 

 下がった先に、とんっと、東条の太い脚が、由香の背中を支えるように存在していた。

 

 思わず見上げる少女。先程、結果的に、由香をヒーローのように助けてくれた、その男は――

 

「――はっ。そうこなくっちゃな……」

 

 バキバキと指の骨を鳴らし、野生の虎のような笑みを浮かべ、臨戦態勢を整えていた。

 

「――ッ!」

 

 ゾクッ! と、その肉食猛獣のような迫力に恐怖する由香。だが、同時に途方もない頼もしさも覚えていた。

 

 きっと、この人なら、あの怪物を倒してくれる。

 

 これまでの東条の戦いぶりと、あのヒーローのように自分を助けてくれた一幕は、由香にそんな無意識の信頼を抱かせる程には感銘を与えていた。

 

 が――

 

「――え?」

 

――そんな由香の信頼がどう捩子曲がって伝わったのか、東条は工事現場で荷物を担ぐかのように、由香をひょいと肩に乗せた。

 

「…………あ、あの……」

「よし、しっかり掴まってろ。今からアレをブッ飛ばすからな」

「いやあの! それはいいんだけど、なんで? なんで担ぐの?」

「んぁ? だって、これが(守りながら戦うには)一番手っ取り早いだろ?」

 

 何言ってんの? みたいな顔を由香に向ける東条。

 

(いやいやいやいやっ!? アンタこそ何言ってんの!?)

 

 さぁーと顔面から血の気が引いていく由香。

 だが、既にゆびわ星人達も東条も()る気満々で、最早どこにも逃げられない。たぶん東条から離れたら、きっとまた動けなくなる気がするし。

 

(もう、やだ)

 

 ぐすんと自分の背中で涙ぐんでいる由香のことなど露知らず、東条は楽し気に呟いた。

 

「さぁ。ケンカしよーぜ」

(なんでこうなったのぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!)

 

 不幸な少女――湯河由香の災難は、まだまだ続く。

 

 とりあえず今は、もう既に担いでいる自分のことなどまるで忘れたように戦いを楽しんでいるこの猛虎に、スーツの力を無意識に発動しながら死ぬ気でしがみ付くことに全力を注ぐのだった。

 

「うぇぇぇええええええええええええええええん!!!」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――ああ、分かった。何かわかったら、直ぐに連絡してくれ」

 

 烏間は通話を終えて携帯を懐に仕舞う。同じように別の相手と通話していた運転席の笹塚も、携帯を懐に仕舞い煙草を咥えるところだった。

 

 だが、烏間が無表情ながら眉を顰めたところで、そっとその煙草も懐に戻し「……出しますか?」と言って、烏間が頷き、笹塚は方向指示器を点灯させて、覆面パトカーを発進させて車線へと戻った。

 

「――そちらさんは、どんな報告だった?」

「……何者かによって、その界隈ではそれなりに名が通った殺し屋が三名、日本に入国を果たしているという情報が入った。……が、見事に追跡を躱され、足取りが掴めなくなったらしい」

「……例の『死神』関連なのかね?」

「断定は出来んが……結びつけない方が難しいな、この時期では」

 

 という会話をしながら、烏間は考える。

 

 優れた殺し屋というのは、それだけ敵も多くなる。

 当然、自分が狙われたらどうしようと考えるからだ。殺し屋を雇うような連中は、同じくらい狙われる心当たりを持っている者達ばかりだ。

 故に、殺し屋を殺す殺し屋を雇い、殺される前に殺してやると企む者達も大勢いる。

 

 つまり今回の殺し屋も、『死神』が来日したという情報を聞いた狙われる心当たりがあるVIP達が、防衛省(くに)とは別口で身を守る為に、勝手に日本に招待した可能性も十二分にあるということだ。

 

 案の定、その殺し屋達の足取りを本格的に探ることは、烏間には指示されていない。『死神』に専念しろ、とのことだ。この殺し屋達も『死神』へと繋がる手がかりである可能性は十分に高いにも関わらず。

 

(……その殺し屋達には別の捜査部隊が動くらしいが……どこまで信用できたものか)

 

 動きにくい。烏間はそう思った。

 

 防衛省という職場に勤める以上、烏間は常に国家レベルの陰謀と戦ってきた。そして相手が強大であればあるほど、国というものの深部――仄暗い場所に密接に関わる戦場で戦わなくてはならなくなることも、また日常茶飯事だ。

 

 それは時に日本の暗部であり、トップ達の隠し通してきた暗黒の部分であったり――それらを見て見ぬふりをして、足を引っ張られながらも、それでも正義ではなく国家の為に戦い、か弱き者ではなく日本という国家を守るのが、烏間達防衛省の仕事で、職務で、責務だった。

 

 触れてはならない場所。知らされていない情報。恣意的に操作された戦場。

 

 そういったものを嗅ぎ分け、受け入れ、清濁を併せ持って立ち回る。

 

 いつものことだった。いつも通りの仕事で、戦場で、戦争だった。

 

 だが、それでも――

 

「――今回は、なんか面倒くさい仕事になりそうだな……」

「……お前もか」

「……まあ。先程の発砲事件の被害者の女の子の証言なんだけど……」

「確か、結城明日奈くん、だったか。恋人である桐ケ谷和人という少年と一緒にいたところを襲われたが、少年だけ消息が不明だという」

「そ。まぁ、それなんだが――なかったんだよ」

「……なかった?」

「……鑑識の捜査の結果――あの事件現場に、桐ケ谷和人の指紋が。……それどころか、毛髪などの一切の痕跡すら、全く、何も発見されなかったんだ」

 

 そう言った笹塚に対し、烏間が訝しげに問い返す。

 

「……俺には、とてもではないが、あの少女が嘘を言っていたようには思えなかったが」

「……俺もそう思う。……あの子が言っていたように……あの状況はあまりにも不自然に瓦礫があの子を避けてた。……一応、念の為、少年の実家にいた義妹(いもうと)さんや、帰りがいつも遅いという義両親、果ては学校の教師や友人達まで片っ端から当たらせてるが……やっぱ、今日の放課後以降の桐ケ谷少年の足取りを知っている者は見つかってない。結城明日奈と一緒に下校しているのを見たっていう裏付けだけは取れたらしいが……」

「……それでは、まるで――」

「ああ。まるで――」

 

――消えちまったみたいだ……。

 

 まるで、神隠しみたいに。

 そういつも通りの低いテンションで言った笹塚の言葉を、烏間は険しい顔で聞いていた。

 

 その後、しばし二人は無言で車を走らせていたが、ふと笹塚が思い出したかのように付け加えた。

 

「……そういえば、桐ケ谷和人についての部下からの報告で……一個、気になることがあった」

「なんだそれは?」

「これは結城明日奈もなんだが……桐ケ谷少年はSAO生還者(サバイバー)で、通っていた学校もSAO生還者(サバイバー)達を集めた学校だったそうで……。そんで、その中でも桐ケ谷和人は、『黒の剣士』と呼ばれた事件解決の立役者――英雄だったとか」

 

 だからどうしたってわけでもないんだけど……。と笹塚は前を向きながら、運転に支障が出るのではと心配になる程のローテンションで報告する。

 もちろん、いくら仮想世界の英雄だからといって、テレポートのように仮想世界に瞬時にいつでもどこでも移動できるわけではないのだから、この消失現象には何ら関わりはないのだろう。

 

 だが、SAO生還者(サバイバー)と聞いて、烏間はある一人の同僚を思い出した。

 

(……SAO……仮想課……)

 

 烏間が務める防衛省が設立した、対SAO特別対策組織。

 外交が主戦場だった烏間はこれにはあまり関わってはいないが、当然ながら同僚の何人かはそれに所属し、数人だが顔見知りも参加していた。

 

 その一人である、あの男。

 常に飄々としていて、本心を見せず、だが他者のことは鋭く内心を観察していた、一言で言うなら“見えない”男。

 

(……思えば『死神』が日本に来るという情報をリークしたのも、奴――菊岡だった。……これは、偶然なのか?)

 

 普通に考えれば、偶然に決まっている。

 あまりにも突拍子もない状況が続き、情報が足りない現状で、無理矢理見つけた共通点を突破口にしたいという気持ちが因果を繋げたがっているだけだ。

 

 だが、それを考えすぎだと一笑に伏せるには、菊岡誠二郎という男に対する烏間の評価は、穏やかではないものだった。

 

「そういえば、今はどこに向かっているんだ?」

「……ついさっき、うちの管轄ではないんだけど……なんか気になる情報が入ってきて」

 

 考えを変えるべく、笹塚にそう話を振った烏間の問いに、笹塚はやはり気だるげに答える。

 こいつもこいつで何を考えているが分かりにくい奴だと思う烏間だが、警視総監の言う通り笹塚の能力の高さは今日一日共に行動しただけでも十二分に理解したので、その言葉をしっかり聞こうと耳を傾ける。

 

「何でも、千葉で住宅街の路地裏が破壊されるような事件が起きたらしい。……向こうの県警曰く、最近珍しくもないことらしいんだが……」

「……千葉は、そんなにも治安が悪化しているのか?」

「治安というよりは、怪奇現象に近いそうだ。……ここ半年ほどは特にひどいらしい。……どれもこれも“気が付いたら建物や塀やらが破壊されていた”って事件で。……ここ最近で一番顕著なのは、昨日の幕張の奴だ」

「……ああ。それは俺も知っている」

 

 あれほどの事件が、今まで表沙汰になっていないだけで、ずっと水面下で頻発していた事件だというのか。そう思った烏間は、笹塚にこう問いかけた。

 

「何か組織的なテロ行為なのか?」

「……それが、分からないんだそうで」

「分からない? そこまで捜査が進んでいないということか?」

「いいや、捜査自体させてもらえないんだと」

「……何?」

 

 烏間が低い声で問い詰めると、笹塚はそれに対しても一切臆さずに言った。

 

「……上の連中が、この一連の事件に対し……捜査を認めず、揉み消してるんだよ」

 

 きぃ、と。赤信号により、車を止める。

 再び懐に煙草を求めて手を伸ばした笹塚だが、すぐに先程の烏間の顔を思い出し、はぁと溜め息を吐いて座席に凭れ込んだ。

 

 烏間は、笹塚が思い返していた渋面よりもさらに表情を険しくて、声に少なからずの怒気を込めて、唸った。

 

「……そんなことが、許されるのか?」

 

 いいはずがない。そこまで行くと、ここまで来ると、清濁併せ呑むという言葉では許されない。

 ただの恥の上塗りだ。濁りきった泥を塗りたくり、無理矢理覆い隠しているだけだ。

 

 笹塚の話によると、それらの事件は死者が出ていないというのが上層部の苦しい言い訳だったそうだが、昨日の幕張では、遂に何十人という死者が出た。

 あれほどの大事件だ。捜査は出来ないというのは普通ならば最早通らないだろう。それでも上層部は、強引にその事件すらも揉み消そうとしている。

 

 ……そこまで露骨ならば、答えは一つだ。

 

「……上層部が、その事件に関与しているのか?」

 

 笹塚は目の前の信号が青に代わり車を発進させるその瞬間、ちらりと烏間を横目で一瞥した。

 今の発言は、もし笹塚が上層部の回し者――首輪だったとしたら、完全に致命的な一言だ。

 上層部の意向で相棒(パートナー)に選出された笹塚を前に、そのような言葉を口走ったことは、烏間が笹塚をそれだけ信頼しているということに他ならなかった。

 

「……俺の大学の同期のキャリア組も、これに対してはブチ切れてた。……下手すりゃ、感情に任せて暴走しかねない奴だから、見ていて冷や冷やする」

「……とてもそうは思えないがな」

 

 冷たいというよりも無温な声の温度でそう呟く笹塚を、烏間は白けた目で見遣る。

 

 だが、そうなるとおかしいのは――

 

「――だが、君は先程、その事件を県警が捜査していると言っていなかったか?」

「……まぁ、器物が損壊している以上、一般人からの通報があったら、現場処理くらいには動かなくちゃならないってことだろ……体面上は。……だから、形上の聞き取り調査くらいは行ったらしいんだが……その時の証言が、ちょっと気になったんだ」

「……証言?」

 

 笹塚は、やはり熱を感じさせない声色で、淡々と言った。

 

「――塀を壊した現場には、ホストのような黒いスーツの集団が目撃されてたそうだ」

「っ!?」

 

 その証言を聞き、烏間は瞠目した後「……なるほどな」と呟き、思案しながら笹塚に問いかけた。

 

「……関係性は、あると思うか」

「……同じような特徴の連中が、同日に異なる事件現場で目撃されている。……確証は薄いけど、とっかかりとして狙うには悪くないとは思う」

「そうか」

 

 わざわざ問い詰めるような真似をしてしまったが、烏間の了承を得る前に車を走らせていることから、笹塚としても何か感じるところはあるのだろう。もしくは、烏間が引っかかりを覚えることを確信していたのか。

 

 何はともあれ、とりあえずの目的地は決まった。

 

 自分達の本来の任務である『死神』検挙とは関わりがなさそうに思える事件だが、笹塚の話が本当ならば、既にこれは国家レベルの危機である。防衛省所属の人間として、見過ごすことは出来なかった。

 

(……いや、もしや……『死神』もこの事件に関係しているのか?)

 

 突拍子もない仮説だが、そもそもの大前提として、『死神』の来日理由は全くの不明だ。

 

 世界一の殺し屋である『死神』は、その卓越した能力だけでなく、その超人的な頭脳も知れ渡っている。奴の行動は、一秒一瞬たりとも無駄がない。

 

 そんなことを謳われる存在が、いったいなぜ、今このタイミングで日本などという島国にやってきたのか。

 

「…………」

 

『死神』の来日。

 

 招き入れられた三人の殺し屋。

 

 消えた少年。

 

 暗躍する黒服の集団。

 

 揉み消される原因不明の器物損壊事件。

 

「……一体、今この国で、何が起こっているんだ?」

 

 起ころうと、しているんだ。

 

 窓の外の流れる景色を眺めながら、眉に皺を寄せ思考していた烏間。

 

 そして、そんな烏間の胸中に渦巻く不安を掻き乱すように、笹塚の懐の携帯が更なる混乱を知らせるべく振動した。

 




お待たせしました。
次回は八幡サイドです。

ちなみに由香は半オリキャラです。気付く人は気付くかな?


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比企谷八幡は、戦争の先の戦争の為に戦争を戦う。

八幡サイド。


 

 そこは、まさに戦場で、惨状で、地獄だった。

 

 

 その地獄に、この地獄絵図を作りだした、一人の少年は君臨する。

 

 

 そこは大きな広場だった。たまたま使用されていなかったのか、そこをガンツが狙ったのか、イベントなどに使われた際には大勢の人間が敷き詰められるだろうその場所は、今やゆびわ星人の肉片しか存在しない。

 

 腕が、脚が、腰が、肩が、腹が、頭が、バラバラに、滅茶苦茶に、ぐちゃぐちゃに敷き詰められている。

 

 きっちり二体分。馬を合わせて四体分。それぞれのゆびわ星人が持っていた巨斧すらもバラバラに。

 まるで狙ったかのように、目指して目論んだかのように、この上なく惨殺だった。

 

 圧倒的に勝利し、圧倒的に敗北していた。

 

 最早、この惨状を作り出せるということが、技術的にではなく精神的に、生物として敗北していた。

 

 バチバチバチバチ、と火花が瞬くような電子音と共に、その処刑人が姿を現す。

 

「……まだ生きてるのか」

 

 男は――比企谷八幡は、そう無感情に呟いた。

 

 この地獄絵図に君臨する、たった一人の男は、ひとりぼっちの男は、たった一人でこの惨状を作り出し、この二体のゆびわ星人との戦争に容赦なく勝利していた。

 

 手に持っていたケースを放り投げる。グチャ、と屍体の上に落ちた。八幡はそれに見向きもしない。

 既にその中身は空だった。全てのBIMを使い果たし、その全ての使用方法を勉強した。その為の教材として、この上なく二体のゆびわ星人の命を使い果たし、絶命させることを八幡は試みて――成功していた。

 

 これまでに九十九点を獲得し、今回の戦争で二体のゆびわ星人を殺し尽くしたこの男は、それでもまだその先を見据えている。

 

 この先の戦争を、見据えている。

 

 戦争の為に戦い、次なる戦争の為に生き残る。

 

 そんな狂った男の――狂い果てた男の足元に転がるのは、ゆびわ星人の頭部だった。

 

 八幡が呟いた通り、まだ生きている――否、死に損なっている、と表した方が正確か。

 分を待たずとも、残り数秒で、僅か数瞬で、微かに灯っているこの個体の命の灯火も尽きるだろう。

 

 だが、比企谷八幡という壊れたままで完成した戦士(キャラクター)は、その数瞬すらも許さない。

 

 この命に、八幡にとっての利用価値は既にない。そんなものは使い果たした。

 

 ならば、殺すだけだ。

 いつも通り、殺すだけだ。

 

 奪い取っていたゆびわ星人の巨斧――その破壊した刃の先端を、八幡は地面に向かって叩きつけるように突き刺す。

 その先には、転がっていた死に損ないのゆびわ星人の兜――頭部。

 

 ザッシュッッ!!!! と、不気味な色の血液を噴き出し、それを全身に浴びながらも、八幡は瞬き一つせず、脈拍一つ乱さずに止めを刺した。

 

 今度こそ、自分の取り分である二体のゆびわ星人の絶命を確認した八幡は、血を拭うこともせずにコントローラを取り出す。

 

「――終わりだな」

 

 そのマップはエリア内にバラバラに散ったガンツメンバーとゆびわ星人達が相対している図を映し出していて、一つ、また一つと、星人(ターゲット)を示す赤点が消えていく。

 

 桐ケ谷和人が。

 

 潮田渚が。

 

 新垣あやせが。

 

 東条英虎が。

 

 次々と、続々とゆびわ星人に勝利していく。

 

 そして最後の赤点が消えた時――それは始まった。

 

「……来たか」

 

 比企谷八幡の頭上に電子線が注がれ、徐々に頭部から消失していく――転送されていく。

 

 八幡は、鋭い目線を周囲に向け、あの黒服集団の乱入がないかを警戒したが、何事もなく、平和に、地獄の中から黒い球体の部屋への帰還を果たした。

 

 

 

 

 

 その様を、少し離れた場所で――パンダは見ていた。

 

「……」

 

 そして、そのパンダも、やはり何事もなく、平和に転送されていった。

 

 こうして、ゆびわ星人との戦争は幕を閉じ――

 

 

――運命の、採点が始まる。

 

 

 

 比企谷八幡の、選択の時は来た。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 比企谷小町は、HRが終了した後も、なぜか直ぐに帰ろうとは思えなかった。

 

 昼休み――大志が屋上へと向かってしまった後、小町はトイレに篭って濡れたハンカチを目に当てて、泣いてしまって腫れた瞼を押さえながら過ごし、昼休みが終わる直前に教室の自分の席に戻った。

 心配そうに声を掛けてくる友人をやり過ごしていると、そんな小町よりも更に遅く、チャイムが鳴り終わり、先生がやってくる直前に、大志はひっそりと戻ってきた。

 

 小町は、そんな彼をちらちらと見遣りながら午後の授業を乗り切った。大志はこちらに一切関心を向けていなかったが。むしろ小町の方が、彼はこんなにも“無”表情で日常を過ごしていたのかと、今更ながらに気が付いて目が離せなくなる程だった。

 

 そして、帰りのHR。

 小町は大志が帰る前に――確か彼は自分と同様に帰宅部だったはずだ――もう一度声を掛けようかと目論んでいたが、小町が午後の授業をそっちのけでずっと大志をちらちらとみていたことを目敏く発見した小町の友人に捕まり、小町がよく分からない釈明をしている間に、大志はさっさと帰ってしまった。

 

 小町は、直ぐに追いかけようかとも思ったが、昼の大志と、そして今朝の兄――八幡の様子を思い出し、身体がうまく動いてくれなかった。

 

 なんなのだろう。この漠然とした、莫大な不安は。

 

 ……一体、今、自分の周りで――兄の周辺で、何が起こっているのだろう。

 

 いつから、こんなことになってしまったのだろうか。

 

 そんな風に思い悩んでいると、HRが終わってからまだそれほど経っていないが――十分程だろうか――既に部活や即時帰宅の生徒達はほとんど教室からいなくなっていて、いるのは意味もない楽しそうな雑談に青春の価値を見出している一部の生徒だけだ。

 

 ……こんなところで、こんなことをしていても、しょうがない。何も変わらない。

 

 とりあえず意を決して帰ろうかと教室を出ると――

 

「………………」

 

 キュッ、と。足が止まる。

 ……なぜだかは分からない。それでも真っ直ぐ家に帰ることは気が進まず、足も進まなかった。

 

 一体、どうしたというのだろう?

 

「……………よし」

 

 ならば、逆転の発想だ。

 よく分からないけれど、家に帰ることは気が進まないのであれば、学校に残って、抱えている問題の解決に向かって行動を起こせばいい。

 

 大志は帰ってしまったけれど、この時間ならば、まだいるはずだ。

 

 兄は、あの部屋に。あの空間に。

 

 あの兄を変えてくれた、小町も大好きな、あの二人と一緒に。

 

 奉仕部の、部室に。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 一歩、一歩。

 踏み出す足が、重くなる。ずっしりと、何かが圧し掛かるように。

 

 ……なんなのだろうか。

 先程、家に帰ろうとしたときの拒否感よりも、遥かに強い拒絶反応を身体が訴えている。

 

 兄に黙って奉仕部に行こうとしていることへの罪悪感だろうか。

 

 

 小町の脳裏に、あの時の情景が過る。

 

 四月――奉仕部に入部したいと言った自分を、兄は強く止めた。

 

 いや、あれこそまさしく拒絶といっていい。

 いつもは自分の言う我が儘は、面倒くさそうな顔をしても最後にはなんだかんだ言って叶えてくれる、妹の自分から見てもシスコンな兄が、あの時は最後まで許してくれなかった。

 

 あの時の兄も怖かったけれど、それでも悲しそうと言った様子が大きかった。

 もしかして、あの修学旅行後の時のように、三人が擦れ違っているのかもしれないと思ったのを覚えている。

 

 自分に相談してくれないのは寂しかったけれど、この時の兄は、修学旅行後の時よりも遥かに深刻に追い詰められているように見えた。

 ……それよりも前から少し様子はおかしかったけれど、決定的に様子が変わったのは――あの総武高の虐殺事件の時だ。

 

 その時から、兄は決定的に何かを失くした。雪ノ下雪乃も壊れてしまい、由比ヶ浜結衣は置いて行かれていた。

 

 奉仕部が、決定的に――終わってしまった、あの事件。

 

 それでも、まるで崩壊してしまったシナリオを、選択肢を間違ってしまった物語(バッドエンド)を、それでも何かに取り憑かれたかのように、失敗から目を逸らし続けるかのように――演じ続けるが如く、三人は奉仕部の部室に足を運び続ていた。

 

 比企谷八幡は、まるで壊れたロボットのように義務的に。

 雪ノ下雪乃は、ただ己を保つための安心感を求めて。

 由比ヶ浜結衣は、それでも何かを待ち続けるかのように。

 

 

 

「……………………」

 

――その様を、まさしくこの場所から、奉仕部へと続く最後の廊下の曲がり角から、細めた瞳に涙を浮かばせた平塚静と共に、小町は一度だけ眺めたことがあった。

 

 兄に強く奉仕部への入部を拒絶された、その日から数日後のこと。

 

 八幡にはああ言われたが、その時の兄の様子から小町は、これ以上ただ見ていることなど我慢できなくなった。限界だった。

 感情任せに職員室の平塚を訪ね、自分を奉仕部に入れてくれと直訴した。

 

 だが平塚はその要望を、ただ悲しげに首を振って否認するだけだった。

 それでも納得できず、憤慨するように食い下がる小町を説得する為に、平塚は――その様を、その光景を、小町に見せたのだ。

 

 あの時も、この場所だった。この場所から、顔だけを覗かせて――その光景を目撃した。

 

 奉仕部の部室へと、まるで吸い寄せられるように足を運ぶ彼と彼女と彼女を、廊下の曲がり角に隠れて、小町は平塚と垣間見た。

 

 それで十分だった。それだけで、全てを小町は理解した。

 

 涙が止まらなかった。こんなことがあっていいのかと思った。

 

 あの美しかった三人が、小町が憧れてやまなかった奉仕部が、兄を救ってくれた――ずっと傷ついて、ずっと裏切られ続けてきた兄が、やっと、やっと見つけた居場所。小町以外に見つけた、大切な、大切だった繋がり。

 

 何度もすれ違い、傷つけあってきたけれど、その度に強くなり、絆を深め――『本物』へと、近づいていた、いつか兄の、本当の『本物』になるはずだった、あの場所が。

 

(これじゃ……こんなのって……)

 

 小町は静かに泣き崩れ、その場でしゃがみこんで、平塚の煙草の匂いが染みついた白衣に顔を押し付けながら、涙を流した。

 

(………こんなのってないっ! ………こんなのってないよぉっ!!)

 

 小町は泣いた。泣いて、泣いて、泣いた。

 

(どうしてっ! どうしていつもお兄ちゃんばっかりこんな目に遭うの!?)

 

 これも兄が悪いというのか。こんな仕打ちを受けるほど、受け続けるほど、兄は罪深い人間だというのか。

 

 だとすれば、そんな世界は間違っている。間違っているのは、兄ではなく世界の方だ。

 

 小町はこの日、兄のことを――兄が幸せになることを、決して認めようとしないこの世界のことを、また更に嫌いになった。

 

 

 

 そのことを――あの日のことを思い出すごとに、小町の足の体感重量は増していく。

 

 ……このままあの部屋を訪れても、あの日と同じ思いをするだけなんじゃないのか。

 

 家で顔を合わせる兄の様子を見るに、あれから事態が良い方向に動いているとは思えない。むしろ、あの日よりも更に悪化しているのではないか。……あの状態よりも更に悪い状態というのは、小町には思いもよらないが。あそこまで壊れてしまったのなら、いっそ木端微塵になって、全てを忘れてリセットした方がマシなのではと思ったこともある――そんなことになったら、あの三人はどうなってしまうのか、これもまた想像もつかないので、絶対に口には出したりしないが。

 

 けれど確実に、事態は今、動いているはずだ。

 

 今朝、兄は小町に本気の殺意を向け、小町は生まれて初めて、心から兄に対し本気の恐怖心を抱いた。

 あんなのことは初めてで、絶対に信じられなくて、この人は本当に兄なのか、疑うような目を、探るような瞳を向けてしまった。

 

 すると兄は、寂しそうな、儚げな笑みを、小町に向けた。

 まるで触れると崩れてしまいそうな、そよ風が吹くと煙や幽霊のように消えてしまいそうな、そんな危うく、頼りない笑み。

 

 そのことに、更に小町は恐怖心を抱いた――焦燥感、と言っていいかもしれない。

 

 あの最悪の事態から、更に何か、兄を追い詰めるようなことが起こったのか。これ以上、一体どんな惨劇が、兄を襲うというのだろうか。

 

 もし、そんなことが起こったら、起こっているのだとしたら。

 

 今度こそ……兄は――

 

(――お兄ちゃんは…………っ)

 

 ………行かなくては。

 

 小町は一歩、前に進む。

 

 ……兄が一体、どんな地獄に迷い込んでいるのかは分からない。

 何故、兄があんなことを言ったのか。大志が一体、兄の何に関わっているのか――それは分からない。

 

 それをまっすぐに聞く勇気も、相談してくれる程の兄からの信頼も、小町は持ち合わせていないのかもしれない。

 

 それでも――例え、そうだとしても。

 

(………お兄ちゃんを、失うのだけは――嫌。……ぜったいに、いやっ)

 

 小町はいつの間にか浮かんでいた涙を拭いながら、奉仕部を目指す。

 

 このことで、兄から決定的に嫌われてしまったとしても構わない。

 無力な自分では、あの空間に飛び込んだとしても、何一つ変えることは出来ないのかもしれない。

 

 それでも、今の自分は、高校生――兄と、そして兄が守りたかったあの空間と、同じ敷地内に、堂々と足を踏み入れることが出来る立場なのだから。

 

 もう部外者じゃない。兄と同じ場所で、共に悩み、戦うことが出来るはずなんだから。

 

 必要なのは、勇気。そう信じて、小町は、あの曲がり角を曲がり、奉仕部の扉を目に捉えた。

 

 

――否、その扉の前には、誰か一人立っていて、その扉を見据えることはできなかった。

 

 

 その背中は、小町がよく知っている背中だった。

 

 可愛らしいリュックに、トレードマークのお団子頭。

 後ろ姿だけでも愛らしい彼女は、その部屋の中にいるべき――その部屋の中の、特別な空間のかけがえのない存在。奉仕部の物語の、大事な登場人物の――主役の一人だった筈の少女だった。

 

 小町は、掠れた声で、その背中に声を掛ける。

 

「……結衣、さん?」

 

 呆然と、扉の前で身動きもせず立ち尽くしていた彼女は、小町のその声に対しビクリと肩を震わせて、ゆっくりと振り向く。

 

「……やっはろ、小町ちゃん」

 

 彼女の定番のその挨拶は、かつてない程の悲壮感に満ちていて。

 

「……ゴメンね。今日は――奉仕部、やってないんだ」

 

 その笑顔は、向けられた小町の瞳から、再び涙が溢れてしまう程に――痛々しかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 小町は、その涙を袖で乱暴に一息に拭うと、「やっはろです! 結衣さん!」と笑顔を無理矢理作り、先程まで鉄球でも引き摺っているのではと思う程に重かった足取りを忘れ、強引に忘れ、小走りで由比ヶ浜の元へと近寄った。

 

 そして、由比ヶ浜の背中に隠れていた扉に目をやって「およ? ということは、お兄ちゃんと雪乃さんはもう帰っちゃったんですか?」と尋ねた。なるべく由比ヶ浜の顔を見ないように。……この質問をすれば、由比ヶ浜はきっと、また痛々しい笑顔で答えると分かっていたから。

 

 それでも、自分も重々しい雰囲気を出すよりも、いつもの比企谷小町で居た方が、きっと由比ヶ浜も楽だと思ったから。そうして欲しいと、触れてほしくないと、由比ヶ浜も心で叫んでいるはずだと思ったから。

 

 それが、自分の勇気が足りないせいだとは思いたくなくて、小町はそう自分に言い聞かせた。

 

「……うん、そうなんだ。……ヒッキー、今日も、用事があるって言ってたから」

 

 ……ゆきのんも、ヒッキーと一緒に帰っちゃった。

 そう、由比ヶ浜は言った。

 

 兄の用事――とは、小町も覚えがなく「――そうですか。せっかく、お兄ちゃんに内緒で驚かそうと思ったのに。小町的にポイント低いよ、お兄ちゃん」と唇をすぼめて言ってみるも、由比ヶ浜にもきっとこれが嘘だと気づかれただろうと小町は思う。

 

 だって、四月から今日に至るまで、小町がこの部室をサプライズで訪れたことなど、一度もないのだから。それどころか一度も足を踏み入れたこともない。

 

 だから由比ヶ浜は、その小町の言葉に苦笑いで返すことしかできなかった。とても痛々しい、ズタズタでボロボロな、それでも気丈に必死に作ったと分かる笑顔で。

 

「…………っ」

 

 小町は、もうそんな由比ヶ浜のことを見ていることが出来ず、そっと俯く。

 

 ……それなのに。あの二人は来ないと――戻ってこないと知っているのに、もう、戻ってこないと、分かっているはずなのに――それなのに。

 

 どうしてここに居るんですかとは、どうしてここで待ち続けているのですかとは――聞けなかった。そんなことは、言えるわけがなかった。

 

 こうして小町が由比ヶ浜と二人きりで相対するのは、奉仕部が壊れてしまったあの日以来、初めてだった。

 小町の受験が佳境になった時に奉仕部が崩壊を迎えたので、必然的に会う機会がなくなってしまっていた。

 

 メールのやりとりは少しあったけれど、由比ヶ浜は決してメールであろうと弱音は吐かず、そこでも気丈であり続けたし、小町も踏み込むことは出来なかったので、やがて繋がりは途絶えてしまった。

 

 それでも小町にとっては、由比ヶ浜も、そして雪ノ下も、兄の恩人で、そして大事な友達だ。

 

 だから、こんなふうに笑う由比ヶ浜を見ていられず、バッと顔を上げ、そして思いつくがままに言った。

 

「結衣さん! 遊びに行きましょう!」

「………え?」

 

 呆然とする由比ヶ浜に、小町は精一杯の無邪気な笑みを向け続けた。

 

 

 

 

 

 そして、小町は一度家に帰り、兄がいないことを確認した。

 

 そのことに少しほっと息を吐き――今朝のことで、自分はまだ、少し兄が怖いのだと自覚した。

 それ故に、自分は自宅に帰ることを避けていたのだろうか。奉仕部に向かったのも、今朝と、そして昼休みの大志の様子から、きっと今日は奉仕部に行かないだろうと、無意識に判断していたからかもしれない。

 

 だとすれば、兄が由比ヶ浜に言った用事というのも、案外、大志関連かもしれないと考える。

 ……ならば、事態の解決の道を探るにはこのまま川崎家へと向かうのもありなのかもしれないが、自分は川崎家の場所を良く知らないし、今はそれよりも由比ヶ浜との約束だ。

 

 もしかしたら兄は今は雪ノ下を彼女の家まで送っていて一度こちらに戻ってくるかもしれないので、机の上に置手紙を残しながら、制服から適当な私服に着替えて、小町は駅へと向かった。

 

 

 

 

 

「結衣さーん!」

「小町ちゃん」

 

 すみません、待ちましたか?

 ん~ん、今来たとこだよ。

 という定番のやり取りを終えた後、由比ヶ浜は学校帰りなので制服のままだったので、とりあえず着替える為に由比ヶ浜の家に行こうという話になり、電車に乗る。

 

「小町ちゃん、どこに行くの?」

「ふふ、なんでも今日、某所で映画の撮影イベントをやっているみたいなんです! きっと楽しいですよ!」

 

 と言って、小町は笑顔を作る。

 その笑顔を見て、由比ヶ浜は相変わらずの苦笑いを返したが、さっきよりは痛々しさが和らいでいる――そんな気がした。

 

 そうだ。この人は、誰よりも笑顔が似合う、すごく素敵な女の子だった。

 

 ……これは、現実逃避かもしれない。兄が苦しんでいるのを、誰よりもずっと近くで見てきて、そして見ているだけしか出来なかった自分の、ただの自己満足な罪滅ぼしなのかもしれない。

 

 それでも、この人の傷を、ほんの少しでも癒せたら。

 

 それが不可能でも、この人がずっと耐えている痛みを、ほんの少しでも和らげることが出来たなら――誤魔化せることが、出来るのならば。

 

 この人の笑顔に――少しでも輝きを取り戻すことが出来たなら。

 

 それがきっと、兄の抱えている苦しみを、和らげることが出来ると信じて。

 

 奉仕部に、自分が憧れたあの美しい空間に、ほんの少しでも――温もりを。

 

 紅茶の香りのような、暖かい――温もりを。

 

 小町はそう信じて、ぐっと決意を固めるように、電車の揺れを利用して由比ヶ浜の腕に思い切って抱き付いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 既に、その場に残っているのは、一人の黒金グループの末端の吸血鬼と、不動の体勢を崩さない氷川、そして――

 

「……ぅ……ぅぅ……うっ! …………ぁぁ…………ぅ……ぁ……」

 

 ダランと両腕の鎖に吊り下げられるようにして呻き、時折ビクンッ! と体を震わす――かつて、川崎大志という人間だった者。

 

 川崎大志という、異形の化け物だけだった。

 

「…………」

 

 氷川は、そんな大志を変わらずの無表情で眺めながら、先程の黒金との会話を思い返す。

 

 

 

『俺は今日、奴等に戦争を仕掛ける』

 

 絶叫しながら悶え苦しむ大志を背に、黒金はそう狂気の笑みを浮かべながら、氷川に言った。

 

『奴等は、俺の目の前で“転送”されていった。つまり、奴等は今日“狩り”をしている。オメーも見たんだろう? だから、ここに来た――違うか?』

 

 その通りだった。

 氷川は、まさしく黒金同様に、狩りの途中の奴等を――最大限に武装した最高(さいきょう)状態(コンディション)の和人と戦う為に、ここに“あるもの”を取りに帰ってきたのだった。

 

 だが、氷川は黒金のその戦争宣言に対し、冷たくこう答えた。

 

『……その片目の復讐か?』

『はっ、こんなのはどうでもいい――まぁ、この傷でスイッチが入っちまったのは確かだな』

 

 黒金はそう吐き捨てて、その笑みを極限に歪めながら、獰猛に吠えた。

 

『あんな中途半端な状態でお預けされてぐっすり眠れる程、俺は行儀よく躾けられてねぇんだよ……。まずはあのハンター共を皆殺しにする。……その後は“奴”だ。のこのこと現われたところを、今度こそ確実に食い殺すっ!』

『……奴?』

『ははっ! はははっ! いいな、いいな、最高だ!!』

 

 氷川の呟きなど全く耳に入らず、黒金は大きく両手を開いて、残った片目の瞳孔も開いて、その危険な狂気にどっぷりと浸かって、高らかに謳うように吠えた。

 

『もうちまちまちまちま不意討ちで楽しむなんてのじゃ我慢出来ねぇ!! 戦争だ!! 真正面から堂々と招待してやる!! 見てろ!! 今日!! 俺は!! この世界に喧嘩を売る!! この腐った世界をぶっ壊す!! 腐りきって狂いきったこの世界を!! 徹底的にぶっ殺す!!』

 

 氷川はこんな黒金を見て思う。

 

 こいつは狂ったわけでは決してない。

 

 文字通り、化けの皮が剥がれただけだ。

 

 人間のような擬態(かわ)が剥がれたら、そこに残るのは狂気(ばけもの)だけだ。

 

 これは、奴が――そして自分達が、元から持っている正体(なかみ)なんだ。

 

『俺を止めることが出来るというのなら、止めて見ろハンター!! 止めてみろ人間共!!』

 

 ああ、確かにこいつの言う通り、きっと、今日――何かが変わり、何かが終わる。

 

 この一体の化け物によって。

 

 

『俺は、例え全人類が相手でも勝ってみせるッッ!!! 俺が、最強だッッ!!!』

 

 

 そして黒金は、自身のグループを引き連れ、このアジトを出ていった。

 

 今日、これから、どこかの街で――戦争を引き起こす為に。

 

 奴は、徐々にその身体を異形の怪物へと変えていく大志を見て、一人の仲間を残し、こう言った。

 

『こいつを借りるぞ、氷川』

『……どうするつもりだ』

『大志は、今日の俺の戦争で、最大の目玉商品になる。――地下の“アレ”を使うぞ。かつてない程に最高な人間共の醜態を拝めることが出来る』

 

 黒金はそう言った。

 そう、これが、氷川と黒金の最大の違いだった。

 

 氷川は求道者。

 強さを求める理由は、ただ、誰よりも強くなりたいが為。強者と戦い、最高の興奮を、血が沸くその感覚を、冷え切った己の身体に注ぎ込んで、どこまでもその感覚を味わいたいが為。

 

 黒金は復讐者。

 強さを求める理由は、全てのハンターを、そして人間達を駆逐したいが為。強者と戦い、その者を討ち滅ぼし、自分がどんな人間よりも強く、優れた存在であることを証明する為。

 

 いずれは、こうなることは目に見えていた。

 それが今日だったという、ただそれだけの話だ。

 

 篤の最大の失敗は、黒金という爆弾の爆破期限(タイムリミット)を見抜けず――その前に処分するという決断を下せなかったこと。

 

 だが、所詮は同じ穴の狢。黒金も、氷川も、殺される人間達からすれば、ハンター達からすれば、そんなものは何の違いもない。ただの命の簒奪者だ。

 

 氷川はそれを理解していて、だからこそ、黒金の発言の倫理観ではなく、別の事柄に対する疑問をぶつけた。

 

『地下……だが、それは――』

『――その為の、大志の“能力”だ』

 

 だが、黒金は氷川の発言を遮りながら、答えを言った。

 それだけで理解した氷川は――それでも尚、質問を重ねる。

 

 らしくないと、自覚するほどに、しつこく。

 

『……もし、望みの能力が発現しなかったら、どうするつもりだ』

『そん時は、そん時だ。別の愉しみ方をするさ。――大志がいる。それだけで、()()()()()()はそれなりに面白いリアクションをするだろうからな』

 

 氷川はその言葉を最後に――遂に、何も言えなくなった。

 

『もう、満足か?』

 

 対して黒金は、氷川に獰猛な笑みを浮かべながら言った。

 

『なんなら、お前も参加するか? 大歓迎だぜ。お前も、目当てのハンターがいるんだろう? ならば、来ればいい。そんで大志を守ればいいさ。――そんなに、そいつが大切ならな』

 

 その言葉に、氷川はカッ! と目を見開いた。

 

 そして、その手の平から刀を作り出し、そのまま黒金に向かって容赦なく振り抜く。

 

 黒金の失った左目の死角から振り抜かれたその一撃を、黒金は笑みを全く崩さぬまま――素手で掴み取った。

 

 たらり、と。人間と同じ真っ赤な血が、その刀を滑り落ちる。

 周りを囲むそれぞれのグループの連中は、シンと静まり返って、額に汗を浮かばせながら、ただ固唾を呑んで見ていることしか出来なかった。

 

『好きにすればいい』

 

 氷川は黒金を細めた目で睨みつけながら、吐き捨てるように言い――そのまま殺気を仕舞って、再び壁に背を付けて呟いた。

 

『さっさと行けよ――俺はパスだ』

 

――なんか、冷めちまった。

 

 そして氷川グループは、その戦争に不参加を表明した。

 

 

 

 その後、『そうか』と嘲笑するような笑みと共に黒金はアジトを後にして、去り際に数人自分のグループの人間を残し、大志が“完成”したら、地下の“アレ”と共に大志を連れてくるように命令していた。

 

 氷川グループは皆、何か言いたげな表情だったが、リーダーの決定に大人しく従い、今日の所は解散となった。氷川は彼等を見送ることすらせず、ただ冷めた瞳で大志を見つめ続けていた。

 

 残った黒金グループのメンバーも、悶え苦しむ大志を見張る役目は一人で十分だと(正確には氷川と同じ場所に残る役目を押し付け合って)、残りのメンバーは地下に向かった。この役目も相当に命懸けなのだが。

 

 そして今、大志の“擬態解除”は完遂し、準備は完了となった。

 

 川崎大志という化け物は、“完成”した。

 

 見張りの男が地下の連中と連絡を取りに向かい、この空間に残されているのは、氷川と大志のみ。

 

 その時、これまで不動の体勢で大志を眺め続けていた氷川が、壁から背を離し、大志の近くまで歩み寄ると、膝を折ることすらせず、見下ろすような体勢で、こう言葉を投げ掛けた。

 

「無様だな」

「…………」

「これも全て、お前がいつまでも女々しく“元の世界”にしがみ付いていた結果だ」

 

 

『お前はもう“こっち側”だ。どれだけ目を逸らそうが、それは変わらねぇ。……お前は、もうそうなっちまったんだ。これは変えられねぇ。これは揺るがねぇ――』

 

 

「お前が――運命を、受け入れなかった結果だ」

 

 氷川は、その名の通り氷のように、冷たく鋭い言葉を大志に突き刺し続ける。

 

「…………」

 

 大志は何も答えない。苦しみでそれどころではないのか、または返す言葉が見つからないのか。

 

 氷川は、そんな大志に対し――手の平から刀を作り出し、大志の喉元に、刃を横向きに、真っ直ぐ突きつける。

 

「――化け物になるのが嫌だったんだろう。ずっと人間で居たかったんだろう。残念ながら、それはもう叶わない。永遠に叶わない。それが――お前の大嫌いな、お前を大嫌いな運命の選択だ」

 

 その刃は、まさしく鏡の如き光沢を放っていた。

 うっすらと、異形の怪物となった己の姿がその刃に映る。容赦なく、現実を――運命を、白刃と共に突きつける。

 

「そんなに嫌なら、ここで死ぬか、大志?」

 

 氷川は無感情に、氷のような無表情で告げる。

 

 大志は、プルプルと震えた手で、がっしりと、その刃を掴み――己の首から、退かした。

 

「…………」

「……ありがた、い……すっけど……先約が……いるんす」

 

 大志は、異形の怪物となったその顔で、人間のような笑みを浮かべながら、氷川に――己をこの世界に引き込んだ、吸血鬼に告げる。

 

 あの日、あの時――己を救ってくれた、化け物の恩人に、告げる。

 

 

――俺が、完全にあっち側に行ったら……お兄さんが、殺してくれないっすか?

 

 

「俺は………あの人に………殺されたい」

 

 

 そして、ガシャンッ! と、力尽きたかのように意識を失い、刃を手放す大志。

 

「………」

 

 氷川はその刃を、もう一度大志の首元に向けようとして――

 

「――すいませんっす、氷川さん……あの……ソイツを連れて行っても――」

 

 いつの間にか戻ってきた見張りの男の、恐る恐る探るような言葉を断ち切るように――氷川は刃を水平に振った。

 

「ひっ!」

 

 慄く見張りの男だったが、その刃が切り裂いたのは、男でも、大志の首でもなく――

 

 

――ガシャァン!! ガシャァン!! と音を立てて落ちた、大志の両腕の戒めていた鎖だった。

 

 

「……こいつは、俺が運ぶ」

「え?」

 

 呆然とする見張りの男に、氷川は淡々と告げ、大志を肩に担いだ。

 

「気が変わった。……この馬鹿の死に様を、特等席から眺めてやる」

 




これでゆびわ星人編のミッションは終了――次回、運命の採点です。

やっと……ここまで来た。


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遂に――比企谷八幡は、辿り着いた。

ゆびわ星人編、採点回。


 俺がガンツルームに帰還を果たした時、まだその部屋には誰もいなかった。

 だが、最後にマップを見た時、プレイヤーを示す青い点は全て健在だったから、おそらく――

 

 そんなことを考えている間にも――俺の身体が全て転送されるよりも早く――ガンツから一筋、また一筋と光線が室内の虚空に照射され、次々と玩具(せんし)達が凱旋する。

 

 黒い球体が、玩具箱のようなこの(へや)に、律儀に御片付けをするように、回収し、収納していく。

 

「な、なんだ、ここは!?」

「……一番、初めの……あの部屋か?」

 

 桐ケ谷や東条はもちろんの事、ストーカー野郎やバンダナ男までもが帰還していく。

 

 ……それほどに、今回のミッションは簡単だったのか? まぁ、昨日の親ブラキオや千手程ではなかったが、それでもトリケラさんレベルくらいの敵だったとは思うけどな。

 

 そして、次に転送されてきたのは渚達。ほう……あの変なおっさんまでも生き残ったのか。

 

「こ、これは! あの部屋か! 戻って来れたんか!?」

「はい、平さん。これで、元の生活に戻れますよ」

「おお……おお!! 渚はん!! おおきに!! ほんまにおおきに!!!」

 

 おっさん(平さんというらしい)は、渚の手を両手がガシっと掴みながら、涙をボロボロと流して感謝していた。……渚が助けたのか。運が良かったか、それとも――

 

「比企谷さん!」

 

 その声に目を向けると、既に帰還を果たしていた新垣が、満面の笑みで俺の元へと歩み寄って(気持ち小走りで)やってくるところだった。

 

「比企谷さんも、生き残ったんですね……よかった」

 

 うっかり惚れちゃうところだったじゃないですか、やだー(棒)。

 なんてな。

 

 そんなことを天使のような笑顔で胸の所で手を握りながら言うもんだから勘違いしちまいそうになったが、こいつは俺が死ぬなんてことは全く思っていなかっただろうな。

 まぁ、だからと言って、俺が生きていて残念って感じじゃない。……やっぱり? ……いや、それでこそ、か?

 

 ……分かんねぇな。一体、こいつは何を考えている?

 

 ……それと後ろのストーカー君の顔が気持ち悪いことになってるからさっさとどっか行ってくんないですかね?

 

「テメー! ふざけんなよ!!」

 

 大きな怒声が響いた方を向いてみると、桐ケ谷があの不良グループ五人に囲まれていた。

 

「お、おまえ、話が違げぇじゃねぇか! 何が守るだ! 何が一番、生き残る確率が高ぇ方法だ! ふざけんな! 思いっきり死に掛けたじゃねぇか!! 俺のナックルパンチをお見舞いしてやろうか!」

 

 リュウキ君、腰がっくがくじゃねえか。面白いな。

 

「そうだ! そうだ!」

 

 お前等みたいなモブ集団には一人はいるよな。そうだ、そうだ係。

 

「お、俺なんかな……ぴゅーって空を舞って、き、気が付いたら……六本木ヒルズに突っ込んでたんだぞ! とんだセレブ体験じゃねぇか! どうしてくれる!」

 

 よかったじゃねぇか。たぶん、もう一生中に入れねぇぞ。素敵な思い出だな。

 

「この全身真っ黒スーツもなんか変なところからドロドロしたオイルみてぇのも漏れるしよぉ! 欠陥品じゃねぇかっ!」

 

 おい。お前ギリギリじゃねぇか。そのスーツがなかったら一〇〇%死んでたぞ。

 

「あばばばばばばばばばばばばば!!!!」

 

 うんうん、怖かったねぇ。

 

 さて、そんな風に罵詈雑言をここぞとばかりに飛ばす彼等五人だが――俺からしたら今回のミッションは奇跡といっていい。

 

 いくら前回経験者が五人(パンダを入れれば六人、か)居たからといって、あんなモブキャラ野郎共も含めて――そして今、東条と一緒に、あんな小さな少女までもが生きて帰還した。それは、つまり――

 

 

――一人の死亡者を出すことなく、ガンツミッションを乗り越えた、ということだ。

 

 

 これは、まさしく偉業だ。

 少なくとも、半年間もの間、ガンツミッションを戦い続けてきた俺から見ても、前代未聞の偉業。

 

 まぁ半年の間の俺のソロミッションは除いたとして、俺が加入する以前の中坊の時代にはそういうこともあったかもだが、少なくとも、俺や中坊みたいなリーダーでは、この結果は、この成果は在り得なかっただろうな。

 

 まず、最大の前提条件として、ミッション参加者全員がスーツを着ていること――これが、この奇跡を起こす為には必要不可欠な下準備だ。

 

 さっきの不良Dのように、スーツを着ていなければ、例え戦闘になんてなりやしなくとも、参加せずに逃げ回り続けたとしても、巻き添えや流れ弾であっさりと死亡(ゲームオーバー)になるのが、このガンツミッションだ。あそこで東条にしがみついて泣きじゃくっている女児も、渚の両手を握りしめて何度も何度も頭を下げている平も、そしてバンダナやストーカーも、スーツを着ていなければおそらく今ここにはいることはなかっただろう。っていうか、誰がパンダにスーツを着せたんだ? まさかパンダ用のスーツすら用意しているとは品揃えパないなガンツ。

 

 つまり、だ。初めっから新人達へのレクチャーなど放棄する、責任から逃れて間違った道を意気揚々と選択する俺や中坊みたいな先達(リーダー)では、この奇跡は起こせない。こんな偉業は成し遂げられない。

 

 あの葉山ですら、終ぞ全員にスーツを着させることは出来なかった。

 よって、この状況を作り出したのは、この百点満点の結果を導いたのは、間違いなく桐ケ谷和人の功績であり――偉業だ。

 

「おい! テメェ、なんとか言ってみろよ!!」

 

 だが、それは俺達のような、こんな天国みたいな戦果(けっか)の価値を知っている者だけが思えることだ。

 

 彼等のような新人達にとっては、つい数時間前までは普通の日本人だった彼等にとっては――死に掛けるという、そんな気持ち悪いくらい温い、遊園地のアトラクション程度の恐怖(スリル)だけでも、十二分に地獄体験なのだ。

 

 こうして命を救ってもらっても、あんなトラウマものの恐怖を味わされただけで、守ってなんてもらえていなくて――契約不履行で、約束と違うのだ。

 今のこの状況が、この部屋の人口密度が、どれだけ出来過ぎで、奇跡的なのか、理解出来ない。

 

 ……まぁ、事実、あのマップが全てだ。

 俺が桐ケ谷の指示(こえ)を聞いたのは、ミッションの開始直後の、あれだけ。

 

『落ち着けッ!! 新人達はとにかく殺されないように逃げろ!! 渚と新垣さんは新人達のガードを頼む!!』

 

『俺と東条――そして比企谷は、あいつ等と戦う!! 行くぞ!!』

 

 俺はその指示に従って――指示がなくてもそうするつもりだったんだが――直ぐにゆびわ星人の討伐に向かったので、あの後のことは一切知らない。

 

 だが、あのマップの青点の散布具合から見て、新人達を一か所にまとめることは出来なかったんだろう。

 よって、ルーキーの中には前回経験者に守ってもらえなかった奴がいたわけだ。それが、今回はあの不良共だった。

 

 そして、そんな彼等は言われるまでもなく、理解しているのだろう。

 自分達が生き残ったのは、ただの幸運で、下手をしなくても、“本来”自分達は死んでいた、と。

 

 俺からすれば幸運を拾っただけでも身の丈に合わない程に贅沢だとは思うが、本人達からすればたまったものではないのだろう。

 

 さて。どうする、桐ケ谷? これは、お前が選んだ道だ。

 お前だって、あのガンツミッションの戦場を、自由自在にコントロール出来るとは思ってなかっただろ?

 こうして割を食って、危険に陥り、そしてその責任をお前に押し付けようとする輩が出てくることなど、想定の範囲内だったはずだ。

 

 責任者は、責任を取ることが仕事だ。全く、労働なんてするもんじゃねぇな。あ~嫌だ嫌だ、働きたくねぇ。

 

 さあ、お前は――どうやってこの理不尽な責任をとるつもりだ?

 

「…………」

 

 桐ケ谷は、その罵詈雑言の嵐の中、瞑目し、ただじっと佇んでいた。

 

 そして、不良達が息切れしたのか、それとも言いたいことを全て言い終えたのか、言葉が途切れたその時、ゆっくりと目を開け、口を開いた。

 

「――すまなかった」

 

 一言。たった、それだけだった。

 

 余計な言い訳も、余分な弁明もなく、ただ奴等の言い分を全て受け止め、その上で、謝罪した。

 

 一言の謝罪で、その全てを済ませそうとした。

 

「――ふっ」

 

 不良達はしばし呆然と佇んでいたが、やがてリュウキは、その顔を真っ赤に染め上げ、頬を膨らまし、一気に爆発し――

 

「ふっざけんじゃ――」

 

 

 チーン

 

 

 と、リュウキ君を諫めるように、気の抜けたタイマーの音が鳴り――

 

 

【それぢは ちいてんを はじぬる】

 

 

――採点が、始まった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「あ、比企谷さん――」

 

 ずっと俺の傍らに居た新垣を押し退けるようにして、俺は壁から背を離し、ガンツが見える所まで進む。

 

「あ? 採点? なんだそ――」

「邪魔だ」

 

 途中、目の前で群がっていた不良共がウザかったので、思わず睨み付けてしまった。

 

 

「――失せろ」

 

 

 すると、リュウキだけでなく、周りの不良共、更には部屋中の他のメンバー達も、ギョッとした目で俺を見てくる。

 

 どうでもいい。今はただ、俺はガンツだけを真っ直ぐ見据えた。

 

 ぞろぞろと不良達は俺に道を開け、そして遠ざかるように離れていった。桐ケ谷は変わらず動かなかったが。

 

「な、渚はん……この採点ってのは、何なんや……」

「……なんでも、今回の戦争のスコアみたいなのを……審査されるみたいです。そして、合計100点集めるまで、何度もまた集められて……」

「っ! あ、あないなことを、何度もやらされるんか!! そ、そないなことあんまり――」

 

 ああ、ウザい。うるさい。うっとうしい。

 

「――黙ってろ」

「ひぃぃ!」

 

 平とかいうおっさんの声があまりに耳障りで、こちらも反射的に睨み付けてしまった。

 おっさんはまるで悪魔を見たが如く腰を抜かしていたが、もうそんなことはどうでもいい。

 

 ……まだか。……ガンツ。

 

 俺の採点はまだか……っ。

 

「比企谷、やめろ」

「……比企谷さん」

 

 桐ケ谷が鋭い目で俺を制し、新垣が腕に触れて俺を諫める。

 

 ……分かってる。分かっているが、落ち着かない。落ち着くはずがない。

 

 もう目の前なんだ。待ち望んだ瞬間が、もう、目の前まで来ている。

 

 気が付けば、あの女児(あだ名は湯河原温泉だった。「私の名前は湯河由香(ゆかわゆか)よ……」とボソッとキレていた。実に面白い)やバンダナ(あだ名は燃え~だった。なんでだよ)、そしてストーカー野郎(あだ名はストーカー。まんまですね。本人はブツブツ文句を言っていたが)の採点が終わり、全員0点だった。

 やはり他のゆびわ星人を倒したのは、前回経験者達か。確かに、ゆびわ星人はヴェロキュラプトルやねぎ星人子のように新人でも頑張れば倒せるといったもんじゃない。初実戦であれを殺すには、それこそ東条や――この桐ケ谷のような戦闘センスが必要だ。

 

 ガンツの表面に、今度はパンダの採点が浮かび上がる。

 

 

『リンリン』0点

 

 かんさつしすぎ。

 

 Total 1点

 あと99点でおわり

 

 

 ……観察? 俺はちらりと後ろのパンダを見るが、既に東条と女児(湯河?)と戯れていた。いや湯河さん。恐る恐る手を伸ばしてますけど、パンダってあなたが思っている以上に凶暴ですよ。そいつ、前回恐竜をぶっ殺してますよ。……ってか、そういえばこのパンダ、今回はどこにいたんだ? 最後にマップを見た時に俺の近くに青点があったから、それが今回もこのパンダだったのか?

 

 ……まぁいい。なんか知らないが、黒い球体(こいつ)は今回も俺の採点をギリギリまで引き延ばすらしい。お楽しみは最後に、ってか。クソが。

 

 ……ダメだ。胸中の感情がぐちゃぐちゃで、思考がいつも以上に支離滅裂だ。テンションがおかしい。……落ち着ける筈もないが、少しでも頭を落ち着かせなければ。

 

 俺は感情と思考の整理も込めて、何となく隣で固い顔で採点を見ている桐ケ谷に声を掛けた。

 

「……さっき、随分と潔く謝罪したな」

「…………まぁ、な」

 

 俺と桐ケ谷は、お互い真っ直ぐにガンツを見据えながら言葉を交わす。

 

 採点は、続いて件の不良グループのメンバーの番となった。

 

 

『なんなんだよ、《不良あ~あ》って! Aとか1とかですらねぇのか! 何をガッカリしてんだ! っていうか0点かよ!』

 

 

「初めから、これを目指していたのか?」

「……いや、出来過ぎだ。まさか、一人も死なずに済むとは……正直、思ってもみなかった」

 

 

『《不良いっ!?》ってなんだ! どんな擬音だ! 嫌な奴にでもあったのか! そして0点かよ!!』

 

 

「……それは、つまり犠牲が出ることを承知で――リーダーになることを、こいつらの命を背負うことを、決めたってことか?」

「……ああ」

 

 

『《不良……うっ!?》ってなんだよ! 吐き気でも堪えてんのか! そんなに俺が気持ち悪いのか! やっぱり0点なのかよ!』

 

 

「はっ、大した偽善者だな。耳障りのいい素敵な言葉で先導して、扇動して、洗脳か。希望を見せるだけ見せて、あんな地獄の戦場に送り込むんだからな」

「……ああ。俺はきっと、お前よりもずっとずっと悪党なんだろうな。……まぁ、いいさ。別に、恨まれるのも、憎まれるのも……俺は、慣れてる」

 

 

『《不良え~》ってなんだよ、ちくしょう!? 何が不満なんだ!! イジメか! 0点だと思ったよ、コンチクショー!』

 

 

「……それが分かってて、全員を救えないことも、犠牲が出ることも、その結果、恨まれて、憎まれて、理不尽な責任を追及されるのを分かってて――」

 

――死んでいった人数の分の十字架がその背に圧し掛かって、それをずっと背負っていかなくてはならないと分かっていてて。

 

――その十字架は次から次へと容赦なく降り注いできて、それでも途方もない道を、先行きが見えない地獄を、進んでいなくてはならないと、分かっていて。

 

「――どうしてお前は、その道を選んだ?」

「……決まってるさ――」

 

 

『台無しの伝道師☆(後の修学旅行の神)』0点

 

 楽しもうぜ……台無しをよぉ(ドヤッw)

 

「なんで俺のだけ妙に気合入ってんだ!! 不良お、とかじゃねぇのか!? いや、それはそれで腹立つけども!! ドヤッw、じゃねぇよ、ふざけやがって!! そんでなんでお前俺の黒歴史を知ってんだ!! そしてやっぱり結局0点じゃねぇかよぉぉぉぉおおおおお!!!!」

 

 

 不良達の(うるさい)採点は終わり――残るメンバーは、今回ゆびわ星人を倒したであろう、前回経験者のみ。

 

 桐ケ谷は、更に一歩、前に踏み出しながら、俺の問いに、こう答えた。

 

 

「……俺は、多くの人に認められて、称賛されたくて戦っているわけじゃない。これが――この道が、自分と、自分が守りたいものを守る為に……最も正しいと思った(ほうほう)だったからだ。他の事なんて……俺はどうだっていい――」

 

 

――全ては、守りたいものを、守る為に。俺は……ただ、それだけの為に戦ってるんだよ。

 

 

――お前と、同じだ。……比企谷。

 

 

 桐ケ谷和人は、そう言い捨てて俺に背を見せながら黒い球体へと向かっていく。

 

 その背中に――その、大人と比べたら、頼りなく小さな、少年の背中に。

 

 

 俺は――英雄を見た。

 

 

 こいつは、ただ綺麗ごとを並べるだけの理想主義者じゃない。それどころか、俺なんかよりも遥かに冷酷な現実主義者(リアリスト)だ。

 

 桐ケ谷は――切り捨てられる人間だ。

 自分が正しいと信じた道ならば、例え犠牲が生まれようとも、選び取れる人間だ。

 

 自分の大切なものを救う為に、その他大勢を、切り捨てることが出来る人間だ。

 

 その上で、こいつは感情を失わない。

 決して壊れず、悲しみ、罪悪感を覚え、思い悩み、その責任を苦痛と共に受け止め、それでいて尚――切り捨てることが出来る、人間だ。

 

 俺とは違う。逃げてばかりで、壊れてばかりな、俺とは違う。

 

 強者だ。紛れもない、強者。

 

 何も捨て去ることが出来ないものは――理想にしがみ付き、現実的な犠牲を許容できないものには、何も変えられない。

 

 こいつは、変えられる人間だ。

 それでいて、鬼にはならず――人間で居続けることが出来る、人間だ。

 

 こいつのような存在を――人は、英雄と呼ぶのだろう。

 

 綺麗ごとを世迷言で終わらせず――現実にしてしまう、することが出来る、物語をハッピーエンドに導くことが出来る存在。

 

 この時、俺は、再び思った。

 

 コイツがきっと、ガンツが選んだ逸材だ。

 

 あのカタストロフィの主役。

 

 世界を救う、英雄の役を担う主人公。

 

 

 

『くろのけんし』20点

 

 Total 60点

 あと40点でおわり

 

 

 

 その点数が表示された瞬間、室内はどよめきで溢れた。

 

 初めて点数を獲得した存在を見て新人達は目を見開き、東条は口角を好戦的に吊り上げ、新垣と渚は桐ケ谷を褒め称えた。

 それを受け、桐ケ谷は口元を少し緩ませる。

 

 アイツが主役だった。アイツが中心だった。

 

 その光景を見て――俺は、笑った。

 

 コイツなら……きっと――

 

 

「比企谷さん! 見てください!」

 

 そう言って、俺の思考を途切れさせ、新垣は俺の腕を引っ張った。

 

 

 

『闇天使~ダークエンジェル~』10点

 

 Total 11点

 あと89点でおわり

 

 

 

 ……え~と。

 

「わたし、自分の手で、あの星人をぶっ殺しましたよ!」

「お、おう、そうか」

 

 美少女が笑顔で「ぶっ殺しましたよ☆」と嬉しそうに言うのは中々アレな光景だな。

 

 っていうか、なんかあだ名変わってるんですけど。それについてはいいんですかね? 前のアレとどっちもどっちって感じがするが、確かに、今のこいつは闇天使って感じだな。いずれダークネスなトラブルとか始まんないよね? そんで、なんでこいつはわざわざ嬉しそうに俺に報告に来るんだ。頭とか撫でて欲しいのん?

 

 ストーカー野郎が発狂してるのが邪魔で(ガンツに浮かび上がってる闇天使verの新垣イラストに興奮してるのか? いやドット絵なんだが。レベル高ぇなおい)それを強引に蹴り飛ばして退かすと(「何するん――ひぃぇええ」とか言ってたので、新垣が「――キモ」って言ったら灰になった)、次の採点は渚だった。

 

 

 

『性別』10点

 

 Total 11点

 あと89点でおわり

 

 

 

「おお、やったやないか、渚はん!」

「……いえ、BIMの使い方を教えてくれた平さんのお蔭です」

 

 ……BIM? あの爆弾のことか?

 教えてもらった――ということは、平はBIMの使い方をあらかじめ知っていたのか?

 

 ……また一つ、謎が増えたな。

 平とガンツには、何か関係があるのか?

 

 ……とりあえずは、今は採点か。

 

 残されたのは、俺と東条の二人。そして、俺が二体殺し、ここまで桐ケ谷が二体、渚が一体、新垣が一体、そしてミッションの初めにマップを確認した時に八体だったから、必然的に――

 

 

 

『トラ男』20点

 

 Total 36点

 あと64点でおわり

 

 

 

 ……だよな。

 

 そして、やっと、俺の番だ。

 

 

「……比企谷」

「……比企谷さん」

「……比企谷さん」

 

 桐ケ谷と新垣、渚の目が俺に集まる。

 

 それにつられるように、部屋中の人間の、そしてパンダの視線が俺に集まった。

 

 東条の画面が吸い込まれるようにして、黒い球体の中に消える。

 

 室内は、重苦しい沈黙で満たされた。

 

 ……これまでの採点傾向的に、ゆびわ星人は一体十点なのだろう。それを俺は二体撃破した。故に、絶対にクリアしたはずだ。

 

 

 そして――そして、そして、そして。

 

 ついに――ついに、ついに、ついに。

 

 

 俺は……目を瞑る。

 

 

「……あ」

 

 誰かの、そんな呟きが聞こえて、ゆっくりと目を開けると――

 

 

 

『はちまん』20点

 

 Total 119点

 

 

 

 ……119点。

 

 そして、その下に――

 

 

 

 

 100てんめにゅ~から 選んでください

 

 

 

 

 部屋の中が、先程よりも遥かに大きいどよめきが溢れる。

 

 

「え、ええええええええええええ!!!」

「なんだよ! 119点って、どうなんってんだよ!!」

「あ、あんさん、終わるんか! もう終われるんか!!?」

「なに……それ……なんなの、この人……」

 

 

 新人達が絶叫する傍ら、桐ケ谷は、渚は――

 

「――比企谷、おめでとう」

「おめでとうございます……比企谷さん」

 

 そして新垣は、そっと俺の右手を掴んで、瞳を潤わせながら言った。

 

「……おめでとうございます……比企谷さん」

 

 俺は、なんで会ったばっかのお前等がそんなに嬉しそうなんだよ――とは、言えなかった。

 

 それどころじゃ、なかった。

 

「あ、画面から変わってく」

 

 誰かのそんな言葉の通り、俺の採点画面は薄れるようにして消えていき――代わりに現われたのは、あの100点メニュー。

 

 

 

【100てんめにゅー】

 

【・きおくをきされてかいほうされる】

【・つよいぶきとこうかんする】

【・めもりーからひとりいきかえらせる】

 

 

 

 それを見て――俺は限界だった。

 

 ダァン!!!! と、気が付いたら床に膝をついていた俺は、そのまま両拳を振り上げ、何もない床に力一杯叩きつけていた。

 

 

「「「「「ッ!!!!」」」」」

 

 

 ビクッ!! と他の奴等の驚愕が伝わるが、知ったことじゃない。

 

 お前等なんかには、絶対に分からない。分かってたまるものか。これは、これは――俺だけの、感情だった。

 

 

 …………やっと。やっと、やっと、やっと。

 

 

 やっと――

 

 

 

 

 

――中ぅぅぅぅ坊ぉぉぉぉぉぉぉ!!!!

 

 

 

――………………すまない。雪ノ下。…………ごめん。ごめん。陽乃さん。

 

 

 

――あんたが!! あんたがあの時、わけわかんない行動して結衣を追い詰めなければ!! 結衣があんなに必死になって化け物に向かっていくこともなかった!! なんで!! なんで結衣がこんな目に!!

 

 

 

――比企谷、お前、それでいいのか?

 

 

 

――お、にい、さん……

 

 

 

 

――早く、■■■■■を、生き返らせてあげてね。

 

 

 

 

 

――八幡。……雪乃ちゃんのこと、お願いね。

 

 

 

 

 

 

――……俺を、一人ぼっちに、しないでくれ。

 

 

 

 

 

 

「――――やっと……やっと……」

 

 

 俺は、瞳から涙が溢れだすのを感じた。

 

 そして、何もない床に叩きつけた拳を握り締めて……俺は、吐き出す。

 

 

 あの日から……いや、この黒い球体の部屋に閉じ込められてから、ずっと溜めこんでいた、この何かを。

 

 

 

「やっと………辿り着いた……っ」

 

 

 

 俺は、しばし、その体勢から動けなかった。

 

 だが、誰も何も言わず、一歩も動かず、ただ、俺と――比企谷八幡と、黒い球体の対峙に注目していた。

 

 そして俺は、ゆっくりと立ち上がり、掠れた声でも届くように、至近距離までその球体に歩み寄って、その言葉を投げ掛ける。

 

 

 

「……ガンツ…………三番だ」

 

 

 

 その呟きを聞き届けたガンツは、100点メニューを仕舞い、代わりに無数の顔写真を表示する。

 

 今回は誰も死ななかった為、昨日見た時と同じ状態のそれらを、俺は凝視する。

 

 そして、俺は、今、再び――瞑目した。

 

 

 

――……だが、もし万が一、お前が死んだら。絶対に生き返らせてやるよ。………俺か…………葉山が。

 

――何それ!! だから、カッコつけるなら最後までカッコつけなよ! 最後ので台無し!

 

 

 

――惚気話は後にしろ!! いい加減にしねぇとマジで死ぬぞお前!!

 

――……だから、わたしはじゅうぶん。……ひきがや……たつみくんを……たすけ

 

 

 

 

 

――……違うな。これは、そんな少年漫画のお涙頂戴のご都合展開のようなもんじゃない。

 

 

 

――ただの自己満足だ。……俺のせいで死んでいった奴等がいた。それこそ、何人も、何人も、何人も、何人も。……俺を庇って死んだ奴がいた。絶対に助けると誓って死なせてしまった人がいた。……俺は、それを認めたくないだけだ。それで終わりにしたくないだけだ。

 

 

 

――人を生き返らせるってことは、人を殺すこと以上に罪深い大罪だ。

 

 

――だって、誰かを生き返らせるってことは、他の誰かを生き返らせないってことなんだから。

 

 

――……人を生き返らせる……それは、世界で最も醜く無責任なエゴの押し付けだ。……それを行おうとしている俺は、世界で最も傲慢な人間だ。

 

 

 

 

 

――何をしてるんだ、比企谷。君にはやるべきことがあるだろう。

 

 

 

 

――ゴメンね。アンタなら辿り着けるよ。カタストロフィまで。

 

 

 

 

 

――カタストロフィは近い。それまでに“彼”を生き返らせて。必ず、彼はあの終焉(クライマックス)に必要になる。

 

 

 

 

 

 

――八幡。わたし、絶対帰ってくる。アイツを倒して、全部終わらせて。

 

 

 

 

 

 

――そしたら……

 

 

 

 

 

 目を、開ける。

 

 覚悟なんて、とっくの昔に決まっていた。

 

 

 このために、今日まで――ここまで、俺は生き残ってきたんだから。

 

 今、この瞬間の為に――無様に死に損なってきたんだから。

 

 

「……ガンツ。俺が……俺が、生き返らせてほしいのは――」

 

 

 俺は、背負う。

 

 ずっと逃げ続けていた、命の責任を。

 

 

 他の全てを殺してでも、生き返ってほしい――その人を取り戻す為に。

 

 

 

 そして、この時、初めてガンツは――この黒い球体は、俺の願いを聞き届けた。

 

 

 俺の願いを、叶えてくれた。

 

 

 

 そして、黒い球体から、眩い光線が照射され――

 

 

 

 

 その人は――あの人は、帰ってきた。





次回――あの人が帰ってくる。

ゆびわ星人編――あと、二話です。


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――そして。 比企谷八幡は、取り戻した。

――復活回。


 

 

 

 

 

『あなたは……一体、誰? ――いいえ、一体、“何”?』

 

『――さすがですね、陽乃。気づくのは、きっと貴女だろうと思っていました』

 

 

 

『……っ、なんなの!! 一体あなた達は、雪ノ下家をどうするつもりッ!?』

 

『大丈夫ですよ。遠からず未来、あなたも知ることになることです』

 

 

 

 

『それでは、よい戦争を。――黒い球体に、よろしくお伝えくださいね』

 

 

 

 

 

『…………え? 何? ここ、どこ?』

 

『――極楽浄土? ……冗談じゃないわ』

 

 

 

『わたしは、まだ、死ぬ訳にはいかない。――こんな所で、終わるわけにはいかないの』

 

 

 

 

『……比企谷くん。……ううん、八幡。……彼なら……彼となら……きっと――』

 

 

 

 

『…………ゴメンね、雪乃ちゃん』

 

 

 

 

 

――ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~~~~~~~~~~~

 

――……雪ノ下さん。そろそろ立ってください。ね?

 

 

 

 

 わたしは

 

 

 

 

――大丈夫です。あなたは絶対に帰してみせます。

 

――わたしも。わたしも、必ず、君を守る。

 

 

 

 

 比企谷君に

 

 

 

 

――……どうか、死なないでくれ。

 

――わたしを誰だと思ってるの? 八幡が考えるべきことは、わたしへのあつ~い告白文句だけよ♪

 

 

 

 

 

 狂って、しまった。

 

 

 

 

 

【失いたくない。わたしのものだ。誰にも渡さない。神様にだって、奪わせやしない】

 

 

 

 

(――――罰が、当たったのかな?)

 

 

 

 

【たとえ、雪乃ちゃんに、一生恨まれることになろうとも】

 

 

 

 

(――……救えないなぁ)

 

 

 

 

 

――……八幡。……雪乃ちゃんのこと、お願いね。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そこにいたのは、八幡と雪乃と、そして自分――――雪ノ下陽乃。

 

 陽乃が世界で一番大好きで、大切な二人と、自分だけ。

 

 三人きりの、不思議な空間。

 

 

 そんな、幸せな、夢のような光景。

 

 

 

(……………これで、よかった。………これが、一番、良かったのよ)

 

 

 

 だが、八幡と雪乃はぎこちなく手をつなぎながら、頬を染めながら幸せそうに微笑み合い、どこか遠くへと離れていく。

 

 

 自分の元から、自分を置いて、どこかへ行ってしまう。

 

 

 

(………これが………これで……………一番………きっと……)

 

 

 

 その後ろ姿を、ただ眺めるしかない陽乃は、苦笑しながら、それでも温かく見送った。

 

 

 

(…………嫌)

 

 

 

 胸に走る、激痛に、気づかないふりをしながら。

 

 

 

『………………い、や』

 

 

 

 胸に渦巻く、鈍痛に、必死に、気づかないふりをしながら。

 

 

 

『……………………いや、よ』

 

 

 

 唇を噛みしめ、溢れる涙に、こぼれ落ちる雫に、必死に、必死に、気づかないふりを、しながら。

 

 

 

『…………………………いや、だぁ』

 

 

 

 幸せそうな二人の背中を、見えなくなるまで、ずっと、ただ、見ていた。

 

 

 

『~~~~~~っっっ!!!! イヤっ! 嫌っ! 嫌っ!! 嫌ぁ!!! こんなの嫌よ!!! こんなの嫌だぁ!!!』

 

 

 

 

 でも。

 

 

 

 

 それでも。

 

 

 

 

 

 もう、わたしには、見ていることしか、出来ない。

 

 

 

 

 

 

 

『……………………誰か…………………助けてぇ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――例え、あなたがあなたを救わなくても、俺が勝手に救いますよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 声が、聞こえた。

 

 

 

 不敵な、だけど、とても、愛おしい――その声。

 

 

 

 陽乃はバッと顔を上げる。

 

 

 

 

 

 

 

「…………………八、幡?」

 

 

 

 

 

 

 

 空間が、割れて。世界が、壊れて。

 

 

 

 手を差し伸べるように――救い上げるように。

 

 

 

 

 一筋の、光が――陽乃の元へ、差し込んだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 黒い球体が照射した光は、その部屋に、十六人目の住人を召喚していく。

 

 それは、まさしく絶世の美女と呼ぶべき女性だった。

 

 艶やかなセミロングの髪に、端正で可憐な顔立ち。全ての女性が羨望し、全ての男性が魅了されるスタイルを、漆黒の光沢のあるスーツが更に煽情的に際立たせる。

 

 登場の仕方もさることながら、部屋にいる住人の誰もが、その女性の美しさに目を奪われていた。

 

 その中で、一人の男は、その女性を見て――蘇る彼女を見て、腐りきった双眸に涙を溢れさせていく。

 

 漏れそうになる嗚咽を、唇を噛み締めて、拳を握りしめることで、必死に堪える。

 

 胸の中で――既に壊れ尽したと思っていた、その心の中で、熱く、苦しく、凄まじい感情の瀑布が荒れ狂っていた。

 

 そして、その美女が、ゆっくりと目を開ける。

 

 

 最初にその目に映したのは、彼女が愛し、彼女を愛した男だった。

 

 

 

 

 

「……八、幡……?」

 

 

 

 

 

 忘れたことはなかった。

 

 彼と、妹のことだけを思って死んでいった彼女は、目の前の男のことを忘れたことはなかった。

 

 纏う雰囲気が劇的に変わり、見る影もなく眼の色が変貌していたとしても、彼女が彼を見紛うことはありえなかった。

 

 そして、対照的に、まるで変わらない彼女に。

 

 彼の心に刻まれ、常にその心に描き続けた、彼女の死に様と、生き様と――あの時と、まるで変わらない、彼女の姿。

 

 そんな彼女を――雪ノ下陽乃を、比企谷八幡は――

 

「わっ!」

 

 ガバッ!! と、力強く、強く、強く、抱き締める。

 

 呆気にとられる他の住人達に、そして戸惑う雪ノ下陽乃に構わず、強く、強く、強く。

 

「は、八幡! はち――」

 

 陽乃は、気づく。

 

 震えている。彼は、怯えるように震えている。

 

 強く、強く、強く――抱き締められる。

 

 まるで、その存在を確かめるように。もう、絶対に手放さないと、手放してたまるかと、その温もりを、彼女が生きている――生き返った証である、その温もりを、己の身体に染み込ませるように、強く。

 

 強く、強く――強く。

 

「……………ぁ」

 

 思わず、艶やかな吐息が漏れる。

 

 少し、苦しい。

 

 でも、その苦しさが――すごく、すっごく、愛おしい。

 

 陽乃も、そっと、八幡の背中に手を回し――強く、強く、抱き締める。

 

「……陽乃さん」

 

 八幡は、そんな陽乃の行動に心を震わせたかのように、震える涙声で、陽乃の耳元で囁く。

 

「……なぁに?」

 

 陽乃も、そんな八幡の吐息を心地よく感じているかのように、八幡の肩に顔を埋め、くぐもった声で問い返す。

 

 八幡は更に陽乃を抱き締める力を強くする――怯えを消すように。何かを、決断するように。

 

 そして、陽乃の頭の後ろに手を回し、更に己の身体に強く押し付けるようにして、言った。

 

 

 

「あなたを、愛しています」

 

 

 

 強く、強く――言った。

 

 

 

 

「俺の、『本物』になってください」

 

 

 

 

 陽乃は、静かに涙を流し、その告白を受け入れる。

 

 

 その願いを叶える――決意を込めて。

 

 

「…………はい………………はいっ」

 

 

 

 こうして、比企谷八幡は、雪ノ下陽乃を――取り戻した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「はぁ……はぁ……」

 

 茅野は、無我夢中で走った。

 真っ暗な夜道を、微かな街灯が照らすのみの夜道を、息を荒げ、呼吸を乱しながら、とにかく走り抜けた。

 

 そして、バタンッ! と自宅に飛び込み、後ろ手でガチャンッ! と扉を閉める。

 

「はぁー………はぁー…………んっ……はぁー」

 

 喉に唾が絡まり、息が詰まる。

 それでも少しずつ息を整えながら、真っ暗な、姉がいない今、中学三年生の身分で一人で使用しているその家の、自分の部屋へと、フラフラの足取りで進む。

 

 心なしか力強く閉めた自室の扉の前で、少し俯く。

 段々と全力疾走によって活発に動いていた心臓のリズムが落ち着くにつれ、先程の光景が脳裏に蘇ってきた。

 

「~~~~~~~~っっっ!!」

 

 吹き上がった恐怖から逃げるように、茅野はベッドの上へと飛び込み、クッションを力強く抱き締めた。

 

 天から一筋の光が降り注ぎ、自分が探していた少年――潮田渚へと照射される。

 

 そして、そして――まるで宇宙船へと拉致されるが如く、その身体が、頭のてっぺんから、徐々に、少しずつ――

 

「――消え……た…………消え……た?」

 

 遂に、口に出して再認識したその事実に、その異常事態に、茅野は激しい混乱と恐怖に襲われ、頭がおかしくなりそうだった。

 

(……何が起きてるの? 渚はどうなるの? どうなってるの? あの渚と一緒にいた男の人は? ……分かんない。分かんない分かんない分かんないっ!)

 

 分からない。何がなんだか全く分からず、とにかく無性に怖かった。

 

 誰もいない家。両親には言えない。こんなこと、同級生の友達にも話せるはずがない。

 そんな時、茅野カエデが――雪村あかりが、一番に思いつき、頼れる人など、明確に決まっていた。

 

 誰よりも頼りにしていて、信頼でき、尊敬している人物など、あの人しかいない。

 

「…………お姉ちゃん」

 

 茅野は、震える手でスマートフォンを取り出し――

 

「………………っ!」

 

――数十秒の逡巡の末、通話ボタンを示すディスプレイを、震えるその指でしっかりと押した。

 

 画面が呼び出しを示すそれに、変わり――

 

 

 そして――

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 八幡が少し身を引いて、陽乃と見つめ合うような体勢を取る。

 陽乃は頬を赤く染め、幸せそうに微笑みながら、八幡の首の後ろに両手を妖艶に回す。

 

 そして、二人の顔がゆっくりと近づいた時――桐ケ谷和人は、必死に勇気を振り絞って、その言葉を紡ぎ出した。

 

「あ、あの……お二人、さん?」

 

 よくぞ言ったっ!!! と、他の住人達の心の声がハモったような気がした。

 

 その声に、少し目がとろんとしかけていた陽乃は、鬱陶しげに和人の方を向き――

 

 

「――誰?」

 

 

 と、言った。

 

 その凍えるような声色に、和人はビクンっ! と肩を震わせる。

 とても陶然と幸せそうに八幡と抱き合っていた美女と同一人物とは思えなかった。

 

 和人は少し涙目になりながら、八幡に視線で救いを求める。陽乃も二人の幸せな時間を邪魔したこの不敬な輩は何者だと八幡に問うように、彼の首に手を回したまま目を向ける。

 

 八幡は――ゆっくりと、陽乃から身を離し、そのまま開かない窓へと歩み寄って――

 

 

 ガンっ!! と、全力でヘッドバッドした。

 

 

「~~~~~~~~~~~」

 

 そして、そのまま身悶える。

 

(……俺は、なんていう恥ずかしいことを言ってしまったんだ。しかも、こんな他人が見てる前で。パンダやよく分かんない黒い球体の前で)

 

 

――俺の、『本物』になってください。

 

 

(うわぁぁぁぁあああああ! 死にたい! 死にたいよおおおお!! 馬鹿じゃねえの! ばっかじゃねぇの!! はちまんのバーカ! バーカ! このナル谷ヒキガエル野郎ぉぉおおおおお!!!)

 

「は、八幡!! どうしたの! 何してるの!!」

「ひ、比企谷!! 今すぐヘッドバッドを止めるんだ!!」

 

 ガンッ! ガンッ! ガンッ! と無言でリズムを刻むように全力で窓ガラスに頭突きを続ける八幡を見て、陽乃も桐ケ谷も双方への怒りや恐怖といった感情を吹き飛ばし、八幡への戸惑いでいっぱいになる。

 

 そして、八幡はピタっ、と動きを止め、ボソッと呟く。

 

「…………昆布になりたい」

「どうした、比企谷!?」

 

 ハイテンションな破壊衝動と、ローテンションな破滅願望。

 八幡の一世一代の告白は、ばっちりと彼の膨大なトラウマフラッシュバックメモリーに記録されたようだ。

 

 やがて陽乃が抱き付いて八幡を慰めたことにより、彼は頬を紅潮させながらも彼女を引き剥がしながら立ち上がる。

 

 そして、ようやく陽乃からの質問に答え始めた。

 

 八幡は真剣な表情を取り戻し、陽乃の方を向きながら、だが和人に聞かせる意味も込めて、大きめな声で語り始めた。

 

「……陽乃さん。あの日――あの、千手観音と戦ったあの日…………生き残ったのは……俺だけ……だった。葉山も……相模も、折本も、達海も。……そして、陽乃さんも……みんな、あそこで死んだ。……俺は……陽乃さんを――助け、られなかった……っ」

 

 八幡は、歯を食い縛り、拳を握り締めて俯きながら、自分を呪いながら言った。

 

 陽乃は、その言葉を聞いて「……そっか」と瞑目しながら、穏やかに頷き――

 

 

「わたし……やっぱり、死んじゃったんだね」

 

 

 その言葉に打ちのめされたかのように、八幡は唇をより一層力強く、噛みちぎらんばかりに噛み締める。

 

 陽乃は穏やかな笑みを浮かべながら、瞳を潤わせ、そっと、八幡の頬に自身の手を添えて――

 

 

「――ごめんね」

 

 

 と、言った。

 

 それがどんな意味を持つのか、きっと、八幡にも全ては分からない。

 

 八幡はただ、そんなことを言って欲しくないと思った。言われる資格は、自分にはないと思った。

 

 故に、反射的に、その言葉を否定しようとして――

 

「ちがっ! 俺は――」

「……そして、八幡――」

 

 それよりも早く、陽乃は女神のような美しい笑みで、こう八幡に告げた。

 

 

「ありがとう――わたしを生き返らせてくれて」

 

 

 わたしの為に、戦ってくれて。

 

 

「――あ」

「……八幡が、わたしを生き返らせてくれたんでしょう」

 

 自分は、あの日――あの時、死んだ。

 

 陽乃は、それだけで全てを理解した。

 

 八幡の変貌の理由も。彼が、どれだけの地獄を見てきたのかも。どれだけ孤独に、戦い続けてきたのかも。

 

 そして、その結果、自分は彼の手で、こうして蘇ることが出来たのだということも。

 

 彼をそんな目に遭わせてしまったことは、辛い。

 罪悪感を覚え、無力感に苛まれる。

 

 彼を守ると誓ったのに、絶対に死なないと誓ったのに。

 誰にも渡さないと、彼の隣は譲らないと、誓ったはずなのに。

 

 

 自分は彼を、孤独に――ひとりぼっちに、してしまった。

 

 

 だから、思わずごめんねと言ってしまった。彼がそんな言葉を求めていないことは分かっていたのに。それが彼を更に苦しめることは分かっているのに、言わずにはいられなかった。

 

 でも、これだけにしよう。自分が楽になりたいだけの言葉は、もう絶対に言わない。そんなことを、言う資格はない。

 

 だから、伝えよう。彼に言わなくちゃいけない言葉を、本当に言うべき言葉を。

 

 心の底から、捧げたい言葉を。

 

 

 わたしの為に頑張ってくれた――世界で一番、愛しい男の子に。

 

 

 

「――ありがとう、大好きだよっ! 八幡!」

 

 

 

 八幡は、再び涙を流した。

 

 俯き、嗚咽を堪えることしか、出来ない。

 

(――ダメだ。……報われては、ダメだ。俺は……まだ、この人に言わなくてはならないことが、山ほどある。……この人の願いに応えられず、この人の笑顔に顔向けできないことが……山ほど……)

 

 

――……八幡。……雪乃ちゃんのこと、お願いね。

 

 

 八幡は、グッと拳を握り締める。

 

 きっと、雪ノ下雪乃の現状を知れば、比企谷八幡が彼女にしてしまった罪状を知れば、きっと陽乃は、八幡を許さないだろう。

 

 それでいい。それがいい。――ずっとそれを、比企谷八幡は望んでいた。

 

 待ち望んでいた。――雪ノ下陽乃によって、断罪される、その瞬間を。

 

 だから自分は、この笑顔には――顔向け出来ない。

 

「……俺も、ですよ。……陽乃さん」

 

 八幡は、俯きながら答える。

 ああ、そうだ。その気持ちだけは、終ぞ変わらなかった。

 

 あの日、あの時、あの瞬間から――

 

 

――比企谷八幡は、雪ノ下陽乃を、愛し続けている。

 

 

 雪ノ下陽乃に、溺れたままだ。

 

 このまま溺れ続けて、溺死したい程に。

 

 それだけが、今の比企谷八幡の、唯一の願望で、残された希望だった。

 

「…………」

 

 八幡は瞑目し、顔を上げる。

 

 黒い球体には、100点メニューが消え、新たな表示が浮かび上がっていた。

 

 

 

『はちまん』19点

 

 Total 19点

 あと81点でおわり。

 

 

 

 119点から100点を失い、残った19点が八幡の点数となったことが表示され、そして――

 

 

 

『魔王』0点

 

 Total 0点

 あと100点でおわり

 

 

 

 それを見て、八幡は陽乃にアイコンタクトをする。

 陽乃はその表示を見て、神妙に頷いた。

 

 比企谷八幡は、雪ノ下陽乃を取り戻し、生き返らせた。

 雪ノ下陽乃は、比企谷八幡によって救われ、蘇った。

 

 だが、それでハッピーエンドを迎えられたわけではない。

 

 比企谷八幡は解放の権利を捨て、再びこの部屋で戦い続けることを選択し――

 

 雪ノ下陽乃は復活を許されたことと引き換えに、再びこの部屋で戦い続けることを強制される。

 

 

 二人とも、ガンツの戦士(キャラクター)として、戦うことから逃れられたわけではない。

 

 

 彼等の戦いは――戦争は、終わらない。

 

 

 今、再び、悪夢のデスゲームに、ガンツミッションに、二人は挑まなくてはならない。

 

 

 今度こそ、二人とも生き残り、この部屋から解放される為に。

 

 

 存在するのか分からない、本物のハッピーエンドを目指さなくてはならないのだ。

 

 

 比企谷八幡と、雪ノ下陽乃。

 

 

 二人の戦いは――これからだ。

 





ご愛読ありがとうございました。副会長の次回作にご期待くだ――――って違う。

次回、ゆびわ星人編の最終回です。

その後はオニ星人編、大阪編と、まだまだ続いていきますよ! ええ、この作品はまだまだ終わりません!

今、八十七話か。…………三百話くらい行っちゃうんじゃないかなぁ(遠い目)。


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黒い球体に異変が起こる時、終わりの始まりの戦争が幕を開ける。

ゆびわ星人編、最終回です。

次のオニ星人編の投稿は、おそらく四月か五月になるかと。
またお待たせして申し訳ありませんが、たっぷり書き溜めを作ってくるので、待っていてくれたら嬉しいです。

あとがきに、pixivにも載せていない、オニ星人編の予告編を載せたいと思います。
どうか楽しみにしていただければ!


「――陽乃さん。今は、あの日からおよそ半年が経過しています。……その日から、俺は殆ど一人でミッションに挑んでいましたが、昨日――前回のミッションから、突然、新メンバーが加わるようになりました」

 

 そして八幡は、再び、生き残る為の行動を開始する。再開する。

 

 そこには、陽乃と再会し、普通の男子高校生のように喜び、笑い、泣き、恥ずかしがっていた面影はなく、ただ淡々と、粛々と、生き残る為の最善策を実行し続ける機械のような戦士へと戻った比企谷八幡がいた。

 

「……分かった。それが、この子たち?」

 

 陽乃も、そんな八幡の変化を敏感に感じ取り、追従する。

 

 今度こそ、八幡に置いて行かれる訳にはいかない。

 

 八幡の“強さ”に追いつき、その隣に立てる存在であらなくてはならない。

 

 

 彼の――『本物』になると、誓ったのだから。

 

 

「……ええ。そこの真っ黒と、水色髪の女みたいな男、黒髪の女と、その虎みたいな大男です。後は今回のミッションの新メンバーで――今回は、全員が生き残って、今はその採点が終わったところです」

「紹介がひどいな」

「はは……」

 

 八幡の雑な紹介に和人はジト目で抗議し、渚は悲しげに苦笑する。

 

 東条は何も言わず、あやせは――

 

「………………」

 

 ただ真っ直ぐに、陽乃を睨み据えていた。

 

 陽乃は、それに当然気付いており――

 

「…………へぇ」

 

 と、笑うだけ。あの、全てを見透かし、全てを壊すような――魔王の笑みで。

 

 この両者の極寒のアイコンタクトは、和人や渚、そして湯河も気づいた。そして冷や汗を流して戦慄した。

 

 だが、それに気づいているのはいないのか「詳しいことは、また話しましょう。……今日は、もうミッションが終わったので、直ぐに自宅に転送されるはずです」と、八幡は事務的な会話をする。

 

 その八幡の言葉に、これまで訳も分からず傍観しているだけだった新人達が喚き出す。

 

「お、おい! 俺たちはいつまでこうしてりゃあいいんだよ!! いつになったら帰られるんだ!!」

「せ、せや! 渚はん! ワシたち、生き残ったんやから家に帰れるんやろ! どないなってんねん!」

「ええと……昨日は、採点が終わったら、みんな各自、自宅に転送されたんですけど……」

 

 平に詰め寄られた渚は、困ったように八幡を見る。

 そのまま部屋中の人間の視線が八幡に集まるが、八幡は動じずに、ガンツへと目を移した。

 

 そこには既に何も表示されていない。

 

 自分が一人の時は着替えが終わるのを待ってくれたりしていた、気が利くんだが傲慢なんだがよく分からない黒い球体だが、さすがに何のアクションも起こさないのは不自然な程の時間が経過していた。

 

「……ガンツ?」

 

 八幡はそう問いかけるが、やはり何も起こらない。

 

 中の人間に刺激を与えるか? と八幡が一歩を踏み出した、その時――

 

 

 

 

 

 

 

あーた~~らし~~いあーさがき~~た~~きぼーのあーさーがー

 

 

 

 

 

 

 

「…………え?」

 

 渚が、呆然と呟く。

 

「何!?」

「……うそ」

 

 和人が、あやせが戸惑いの声を上げる。

 

「……八幡」

「……確かに、俺たちは、さっき一つのミッションを終えました。……こんなことは初めてですけど、恐らくは――」

 

 八幡は、いつかこんなことが起こるのではないかと危惧していた。言い方を変えれば、想定していた。

 

 故に、他の住人達よりも早く、冷静に、その音楽を受け止めた。

 

「……連続、ミッション」

 

 

 

 

 

【てめえ達はこいつをヤッつけてくだちい】

 

 

 

 

 

 いつもの前置きはなく、いきなり現れたそのメッセージは、八幡のその予想を肯定するものだった。

 

 

「な、なんなんだよ!! また、あんなことをやらされんのかよ!!」

「帰れるんやなかったんか!? は、話が違うやないか、渚はん!!」

「ぼ、僕も、何がなんだ――」

 

 狂ったように喚き散らす新人達。

 

 涙と鼻水を垂れ流し縋ってくる平を相手に、自身も混乱している渚は何と言っていいか分からず戸惑っていると――

 

 

――黒い球体に表示された、その名に――その顔に――自身の中の、時を止める。

 

 

 

 

《雪村あかり》

 

 

 

 

 知らない名前だった。だが、知っている顔だった。

 

 今日も一緒に机を並べ、言葉を交わして、笑い合い、一緒に下校もした、渚のE組(エンド)のクラスメイト。

 

「……茅野?」

 

 茅野カエデ。

 

 そう名乗り、今日まで一緒に学校(エンド)生活を共にしていた友人が――黒い球体が示す、次なる標的(ターゲット)だった。

 

 和人は、あやせは、ただ戸惑う。

 

「……人間? 女の子?」

 

 表示されている画像は、紛れもなく人間の女の子の顔写真。

 自分達の採点で使われるイラストですらなく、あのメモリー画面のような、履歴書で使われるかのような鮮明な人間の顔写真だった。

 

「……殺すんですか? ――人間を?」

 

 あやせは顔を青くしながら呟く。

 

 対して、八幡と陽乃は、冷静だった。

 壊れているかのように、冷たく、静かだった。

 

「……八幡。これまでにも、こんなミッションはあったの?」

「……いいえ。人型の星人はたくさんいましたが、ここまで人間に近い星人はいませんでした。……ただ――」

 

 八幡は、既に知っている。

 

 見た目にはまったく人間と同一な、けれど紛れもなく化け物な存在を。

 

 

――こうして俺は、化け物になりました。

 

 

「…………」

 

 人間が、化け物になることを――なってしまうことを、知っている。

 

 和人もあやせも、風貌が人間そのものの化け物の存在を知っているはずだが、こうしてはっきりと、討伐対象として表示されることで混乱しているのだろう。

 

 八幡も、疑問は持っていた。

 これまでガンツは、標的を○○星人と称することに拘っていた。

 今回も、見た目はどうであれ、正体が星人ならば、そう呼称すればいいのに――《雪村あかり》とは、明らかに“人間としての”名前だ。

 

(そう限定したということは、標的はこの女子一人だけなのか? ガンツがこうして初めに提示する画像は、当てにならずに他にもっと強力なボスがいることも多いが…………連続ミッションだからといってそんな配慮をするガンツだとも思えない)

 

 疑問ばかりが浮かび上がる。あまりのも異例だ。前例がない、特例だ。

 

 とにかく準備をしましょうと、久しぶりのミッションの陽乃をフォローすべく呼びかけようとした八幡の耳に――

 

 

「……どうして?」

 

 ゾっっっ!!! と、胸の中心を背後から刃が貫くような――殺気が襲った。

 

 

「っっっ?!」

 

 それは新人達だけでなく、和人やあやせ、果ては東条、陽乃、そして八幡までにも目を見開かせるような、極寒の殺気。

 

(……コイツッ!?)

 

 ずんずんと黒い球体に向かって歩き出す渚。その道を、和人や八幡はゆっくりと開ける。

 

 普段の草食で無害な雰囲気を吹き飛ばして豹変した様子の――潮田渚が、その小さな体からは想像できないような、先程の小さな呟きではなく、ナイフの刺突のごとく鋭い大声で叫んだ。

 

「どうして茅野なんだ!!? なんで!!? どうして!!?」

 

 その尋常ではない様子を、和人達は――東条と、和人と、あやせは、呆然と、そして痛々しく見遣る。

 

「…………」

「……渚」

「……渚くん」

 

 そして八幡は、そんな渚の背中を一人冷たく見つめていた。

 

(……こいつも、あのガンツが選んだ逸材ってことか……)

 

 桐ケ谷和人や、東条英虎と、同じように。

 

「……………………」

 

 八幡がそっとあやせに向かって視線を送る中、渚は黒い球体を何度も平手で叩きながら叫ぶ。

 

 

「なんで!! なんでなんだ!! 茅野が一体、何をしたっていうんだ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その時――

 

 

 

 じ、じじ。

 

 

 じ、じじじ、じじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじ――と。

 

 

 黒い球体が表示する画像が――《雪村あかり》の顔写真が、揺ぎ始めた。

 

 

「――え?」

 

 渚は呆然とし、一歩後ろに下がりながら、それを見下ろす。

 

「な、なんだ?」

「どうしたの?」

 

 和人とあやせが目を見開いて、黒い球体の前に集結する。

 

「……一体、何が起こってんだ……?」

 

 次々と起こるイレギュラーな事態に、あの八幡も表情を歪めて吐き捨てる。

 

「………………」

 

 そんな中――一体のパンダが、黒い球体の前に集まる集団の後ろで、ただじっと動かなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 プルルルル、プルルルルと呼び出し音は鳴るが、一向に姉――あぐりは電話に出ない。

 

「……お姉ちゃん……お姉ちゃん……っ」

 

 呼び出し音を聞き続けていくうちに、茅野――あかりの中の恐怖は焦燥と共に増していき、心臓の音が大きくなっていく。

 ひとりぼっちの室内で堪らなくなったあかりは、リビングへと足を運び、とにかく自分以外の話し声が聞きたいとテレビを点けた――

 

「…………え?」

 

 

――そして、あかりは思わず耳から携帯を離して、呆然と立ち尽くした。

 

 

 ツー、ツーと通話が途切れていることにも気づかず、あかりはテレビの画面に釘付けになる。

 

 それはニュース番組だった。否、ニュース特番と言った方が正確か。元々予定していた企画を放り出し、視聴者へと生中継で届けられているその映像は、とても今、現実で起こっている光景とは思い難い凄惨なものだった。

 

 あかりも、初めはそれが映画かドラマなのかと思った。だが、長年子役として――役者として、テレビ画面の向こう側で生きてきたあかりには、それが作り物の映像ではないことが分かった。分かってしまった。

 

 それは、作り物ではない、本物の悲鳴だった。

 それは、作り物ではない、本物の鮮血だった。

 

 本物の悲劇で、本物の惨劇で――

 

 

――本物の、地獄だった。

 

 

 あかりの手から、ストンとスマートフォンがフローリングの固い床に落ちた。

 

「……な……なんなの……これ?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 とある病院の一室。

 

 目立った外傷はないが、念の為に一日検査入院をすることになったアスナと、彼女を見舞いに来ていたリズ、シリカ、シノン、直葉。

 

 気が付いたらとっくに外は真っ暗で、看護師の方に面会時間はとっくに終わってますと怒られてしまった彼女達は、それじゃあ帰るね、と立ち上がりかけていた――その時。

 

 

『ママ! ママ! 大変です! テレビをつけてください!』

 

 

 直葉の携帯端末から、ユイが切羽詰った声で絶叫した。

 その愛娘のただならぬ様子に、アスナはベッドサイドのテレビを点け、そしてリズ達も神妙な様子で、その画面をのぞき込む。

 

 そして、全員纏めて――絶句した。

 

 

「な……なにが……起こってる……の……?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 再び鳴り響いた携帯に、笹塚は車を路肩に寄せ停車させた後、応答した。

 

「――そうか、分かった」

 

 そして通話を切った後、笹塚は助手席のアタッシュケースからある物を取り出し、窓から外に手を出して、車の天井にそれを付ける。

 

「……どうした?」

「……申し訳ないけど、どうやらかなりヤバいことになってるらしい。千葉じゃなく、池袋に向かう」

「――池袋だと?」

 

 その詳細を問う前に、笹塚はサイレンを鳴り響かせ、強引なUターンを決め、猛スピードで車を飛ばす。

 

 そして「もうニュースになってるってよ」と、車内のカーナビモニターをテレビモードに操作し、そのニュースを見せる。

 

「こ、これはッ!?」

「……どうやら、千葉まで行く手間が省けたよーで」

 

 そこに映っているのは、自分達がまさに今、追っている連中の特徴を兼ね備えている者達が――

 

 

――地獄を、作り出している光景だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 数十分前―――

 

 八幡達が、六本木でゆびわ星人と戦争をしている、その同時刻。

 

 場所は、同じく東京――池袋。

 

 この地は今日、とある映画の撮影イベントと、とあるアニメのイベントが同時に開催されていることもあって、平日にも関わらず大勢の様々なタイプの人間達で賑わっていた。

 

 

 

 

 

 バッ、と、男と女がぶつかった。

 

「あ、悪い、大丈夫か?」

「い、いえ……こちらこそ」

 

 高坂京介とぶつかったその少女は、帽子を落として長い派手な色の髪を振り乱した。

 

「……っ」

 

 その髪の隙間から覗いた顔立ちは、派手な服装や髪色からは似つかわしくない程に上品な日本人形のように整っていた。

 

 少女はついと目線を動かし、京介を見上げるように見つめる。

 その潤んだ瞳に京介の心臓が高鳴るのと、ぶつかったのが年上の男だと分かって急いで目線を落とし「ご、ごめんなさい!」と逃げるように少女が立ち去るのはほぼ同時だった。

 

 京介は呆然と、人混みの間を器用に駆け抜けていく少女の背中を見送る。

 

 さすが池袋(とかい)だと。何がとは言わないが。

 

 言わないが――背後の少女達には、京介の思っていることなどバレバレだった。

 

「ふんっ!」

「ぐあっ!」

 

 京介の尻が蹴り上げられ、痛みと共に飛び上り――

 

「……」

「ぐぉっ!」

 

――着地点を狙い澄ましたかのような正確さで、京介の足が踏み抜かれた。

 

「な、なにしや……がーる?」

 

 京介が見上げた先で、腕を組みながら冷たい眼差しで京介を睨み付けていた少女(ガール)達は、ゴミを見るような目つきで京介を侮蔑し吐き捨てる。

 

「――キモッ!」

「全く、節操という日本語を思わず脳髄に叩き込みたくなるような雄ね」

 

 あまりに理不尽だと叫びたくなった京介だが、今までの経験上ここから自分にとっていい展開になったことがないので、項垂れて謝ることにした。ただし、腐女子(ガール)、テメーはダメだと、その後ろで爆笑している瀬菜には必ず復讐することを心に誓いながら。

 

 

 

 

 

 ある程度、離れた場所で足を止めた神崎有希子は「はぁ……はぁ……」と息を荒げながら後ろを振り向く。

 

 年上の男にいい印象など皆無な(父親には最早確執しかないし、昔ゲームセンターにたむろしていた頃は男子高校生や時には大学生にまでも下心満載な目でナンパされたものだ。神崎が大人っぽいのも原因の一つだが)神崎は、思わず逃げ出してしまった。見た感じでは悪い人ではなさそうだったので、少し失礼だったかな? と心を痛めていたが――

 

(――でも、あれはしょうがないよね……)

 

 背後の二人の女の子(おそらく自分よりは年上)が放つ殺気のようなオーラは、神崎のようにゲーム世界(バーチャル)でしか喧嘩の経験もない温室育ちの少女には、あまりにも怖すぎた。なんか恋愛関係な(あまずっぱい)匂いがしたし。神崎はそういった方面も苦手だった。今の自分には胸を張って得意だと言えるものなど、ゲームしかないのだが。

 

 ふう、と息を吐き、どうしようかと考える。

 ここは池袋駅の東口前だ。激安の殿堂や大きなカメラの電気店が見え、ここから少し先に行けばサンライト通りに出ることが出来る。

 

 どうやらワイドショーでみた新作映画の冒頭シーン撮影イベントはまさしく直ぐそこで行われるらしく、ただでさえ普段から人通りが多いこの場所が、まるで千葉のディスティニーランドのショーやパレード程に人で溢れかえっていた。交通規制の為、警察官が巡回している程だ。

 

 いくら人恋しかったとはいえ少し安易だったろうかと神崎は軽く後悔していたが、これくらい賑やかな方が暗いことを考えずに済むのかもしれない。

 

(……とりあえずサンライト通りまで行って、ゲームセンターにでも行こうかな。屋内ならそんなに人がいないかもしれないし――)

 

 と、考えていた神崎の後ろから、可愛らしい女の子の声が聞こえた。

 

 

 

 

 

「到着です! お~、すごい人ですね、結衣さん!」

「そうだね。……もうちょっと、ちゃんとした服を着てくればよかったかな?」

 

 駅を出た小町と由比ヶ浜の目に飛び込んできたのは、人、人、人だった。

 

 その光景に無邪気に興奮を露わにする小町とは対照的に、ふと目に入ったテレビカメラから、もう少し自信のあるファッションをしてくればよかったと苦笑する由比ヶ浜。

 

 家の前に小町を待たせていたので、簡単に着替えられて動きやすいパーカーにハーフパンツというラフな格好を選んだのだ。確かに気合が入ったファッションとは言い難いが、それが由比ヶ浜結衣という女の子の魅力を損なっているかと言われれば当然そんなことはなく、小町は笑顔で「そんなことないです。似合ってて、とってもかわいいですよ!」と本音を送った。

 

 そういう小町も、由比ヶ浜以上にラフで、異性の目など欠片も意識していない、自分の内側の人間のみに対する服装だった。

 それでも無邪気に笑う小町は、由比ヶ浜の目から見てもとても愛らしく「……ありがと。小町ちゃんも、すっごくかわいいよ」と言い、小町はまた楽しそうに笑うのだった。

 

 そして小町はくるりと、後ろの由比ヶ浜から前の人混みに目を向けて――

 

「――さて。これからどうしましょっか?」

「ノープランなのっ!?」

 

 わざわざ千葉から池袋まで来て、まさかの発言に由比ヶ浜は驚愕したが、小町は「いや、なんだか今朝のニュースで楽しそうだったんでっ」と、悪びれることなくテヘペロした。

 

 由比ヶ浜は、はぁとため息を吐いたが、すぐにしょうがないなぁとばかりに苦笑して「じゃあ、とりあえず、その映画撮影でも見に行こうか。もしかしたら俳優さん見れるかもだしっ!」と、年上らしく場を仕切り出した。

 

 そんな由比ヶ浜に小町は嬉しそうに「……そうですね! それじゃあ――」

 

 

――行きましょうか、と小町が言い切る前に。

 

 

 小町達の前方――明治通りを走る二つの道路に挟れた横断歩道の中間地ような場所から――

 

 

 

 パァンッ!! と、乾いた音が響いた。

 

 

 

「……え?」

 

 

 その呟きの主は、小町か、それとも由比ヶ浜か。

 

 

 左前方にいた――神崎有希子か。それとも、少し離れたところにいる高坂兄妹一行の誰かか。

 

 

 はたまた、この平日の、日が沈んだ池袋の、二つのイベントが重なりいつもよりも数段賑わっているこの人混みの中の誰かか。

 

 その小さな呟きは、一瞬にして静まり返ったこの空間に、嘘のように響いた。

 

 

 人々の、大勢の人達の視線は、ある一点に集まる。

 

 注目を集めるように、周囲の人々よりも頭数個分は高い上背の、帽子を逆さに被り、漆黒のサングラスをかけた男は、その長い腕を天へと伸ばし、手には――拳銃が握られていた。

 

 

 その銃と、先程の銃声。

 

 あまりにも明確なその因果関係に、衝撃によって麻痺した人々の脳が辿り着く――その前に。

 

 

 あの銃声が合図であったかのように、駅の出口の前にいた男が、女が、大人が、子供が――ごりっ、ゴリッ、と、音を立てて――

 

 

「ひぃぃ!!!」

 

 

――バキュァ!! と、体内から何かが突き破るように、変形する。

 

 擬態を、解除する。

 

 そして、銃を天に向かって突きつける男は、告げる。

 

「テメェら――」

 

 その男の周囲を取り囲むように、ホストのような黒い服の集団が円を作り――

 

 

「――始めろ」

 

 

――男の口元が凶悪に歪むのと同時に、その黒い服の集団は手に拳銃を作りだし、三百六十度に向かって連続で発砲した。

 

 撃って、撃って、撃って、撃って、撃って、撃って――撃ち続けた。

 

 

 黒いサングラスの男の哄笑を掻き消すように、夜の池袋に鮮血が舞い、悲鳴が轟く。

 

 楽しいはずのイベントは、その瞬間、吸血鬼達による狂乱の宴へと変わり果てた。

 

 

 

【池袋大虐殺】。

 

 

 

 後に、そう名付けられたこの夜の地獄は、地球人と星人の戦いの――ひいては、ガンツという黒い球体が紡ぐ物語の、大きな変革となる戦争となった。

 

 

 

 そして。

 

 

 

 桐ケ谷和人の。

 

 

 新垣あやせの。

 

 

 潮田渚の

 

 

 東条英虎の。

 

 

 雪ノ下陽乃の。

 

 

 そして、比企谷八幡の。

 

 

 

 物語を、人生を――そして、運命を。

 

 大きく変える、一夜となり。

 

 

 

 全ては――終焉(カタストロフィ)へと、向かい始める。

 

 

 

 

 

 そして、その始まりを――終わりへと向かう戦争の始まりを。

 

 

 黒い球体は、冷酷に告げた。

 

 

「……な――」

「……これって――」

 

 和人とあやせが絶句する中、《雪村あかり》の画像が揺れるようにして消え、変わりに黒い球体が映し出したのは、別の標的。

 

 まるで、より緊急性が高く危険度が高い敵を、速やかに殺せと焦るかのように告げた、その標的は――

 

 

「……来たか」

 

 

 八幡は目を細め、冷たく呟く。

 

 

 

【てめえ達はこいつをヤッつけてくだちい】

 

 

 

《オニ星人》

 

 

 

 オニ星人と、そう称されたその星人は――。

 

 その画像は紛れもなく、昨夜のミッション乱入し、つい先程、日常(おもて)の世界で八幡達を強襲した――あのサングラスの怪物。

 

 

 黒金と呼ばれた、あの最強の吸血鬼だった。

 




【池袋大虐殺】

 その日――一体の吸血鬼によって引き起こされたその革命は、全てを変える一夜となった。



「ははは……お前等の弱点は分かりやすいなぁ、ハンター……」

「どうして俺等が、こんな目に遭わなくちゃいけねぇんだ!!!」

「助けるって言ったじゃない! この嘘つきぃぃぃいいいいい!!!!!」

「殺してやる……絶対に殺してやるからなぁあああああああああああ!!」


「勝ってもらわねば困るのだ――地球の為にもな」





「あなたは家族を守る父親なんでしょうっ!! 絶対に息子さんを助けるんだって、そう言ってたじゃないですかっ!! 平さん!!」

「……彼と同じ“不可思議な漆黒の全身スーツを着ている”君なら、なにか知ってんじゃないかって思ってね」

「――わたしは、比企谷さんの『本物』になることを、絶対に諦めません。……絶対に」

「……黒い球体の部屋。……宇宙人との、戦争……」

「……くろ……がね………さま………ァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアア」

「あれが……黒の、剣士……」



「お前は、ただ悔しかっただけだろ。世界から弾かれて、嫌われて――ひとりぼっちが寂しかっただけだろ?」


「俺は、世界中の全てを敵に回しても、この野望を果たしてみせる――お前に、この傲慢を止めるだけの、覚悟はあるか?」


「俺が生きていくのに、お前は邪魔だ――だから、殺す。……そうだろう? 化け物」



「黙ってください喋らないでくださいぶち殺しますよ、あ、近づかないで、いやぁ!」

「あの男は……ヤバいよ。……狂ってる」

「……黒金の覇道の第一幕にケチをつけやがって……万死に値する。万回分、苦しんで死ね」

「背中は任せたぜ」
「――はいっ!!」

「なんで叔父さんは生きているのにいつまでもこんな地獄に居るんだ!? どうして逃げないで、こんな場所に居続けることが出来るんだよ!?」

「――人を、斬り殺したことがあるな」

「――化け物め……っ」
「ああ、お前よりもな。だから、俺はお前よりも強いんだ。ハンター」

「残念ながら、お断りだ――俺には、ひとりぼっちにしないと、誓った人がいるからな」

「――剣士だよ。……お前と同じ、な」

「………ありがとう、ございました………俺を……見つけてくれて………俺を……助けてくれて」

「っ!? ほう、パンダと戦うのは初めてだ。面白いっ!」

「さあて、ハンター。大志は今――どこにいると思う?」

「――例え、世界を滅ぼしてでも、他の人類全てと引き換えにしてでも……死んでも生き返らせますから」

「お前の大事なこの女の屍をプレゼントしてやるからよ」

「わたしの顔でッ! わたしの身体でッ!! そんな真似をするなぁッッ!!!」

「黙れ!! 黙れ黙れ黙れッッ!! この偽物が!!!」

「君は、自分よりも圧倒的な強者に対し、その貧弱な武器で、一体どのように立ち向かい――そして、どのように殺すのでしょう?」

「――ダチを守れて、初めて楽しいケンカなんだろうが」

「守って――くれるんでしょ?」

「――まぁ、ちょっと……それよりも、どうしたんっすか、その丸太?」
「何言ってんだ。丸太くらいどこにでも落ちてるだろう」

「逃がすわけねぇだろ!! 全員、纏めて台無しにしてやらぁぁあああああああ!!! どいつもこいつも死にやがれクソガァァアアアアアアアアアアアア!!!!」

「彼らを吸血鬼にしたのは、僕だよ。彼らだけじゃなく、この世界の全部の吸血鬼は、僕のせいでそうなってしまったみたいなものだね」





「……どうして、こうなっちまったんだろうな?」





「一度殺しをやった人間が、平穏な日常なんて送れると思ってんな」


「アイツに――最強に勝ちたいんだよ!!」


「………本物なんて、あるのかなぁ?」


「――絵に描いたような、英雄になればいい」


「……………………おかあ、さん?」


「いいや、違う。最強の剣士になるのは俺だ――桐ケ谷、和人だ」


「次はお前の番だ。楽しもうぜ――台無しをよ」


「あの人は――人を殺してたんです!!」


「だからこそ――彼女を救えるのは、渚君、君しかいません」


「……何を企んでいる……貴様がどうしてここにいるんだっ! 『死神』!」


「決まってるじゃないですか? わたしが、もう――死んでるからですよ」





「……帰って、きて。……ずっと、待ってるから。……いつまでだって、ずっと、ずっと……あたし、待ってるから!」





「約束だ。死にたくないって言っても殺してやる」


「人を喰う前に――殺してもらえて、本当によかった」


「……頼む。点数が必要なら、100点でも1000点でも、いくらでも稼いでみせるっ! だから――」


「死にたくない……逝きたくない……っ」





「――雪ノ下を、よろしくお願いします」





「――――ッッ!! お兄ちゃん!! お兄ちゃぁぁぁあああん!!!」


「ヒッキーを……あたしから奪わないでっ! ヒッキーを……返してっ! 返してよぉ!! やめてっっ!! ヒッキーぃぃぃいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!」


「いや……やめて……やめてよ……八幡」

「お願いだから……」





「……『本物(わたし)』を……あきらめないで……」





【比企谷八幡と黒い球体の部屋】――オニ星人編――


――to be continued


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オニ星人編 ――続――
もう、俺は――絶対にあなたを死なせはしない。


 

 次から次へと異常に変わる状況に、黒い球体の部屋の混乱は極地に達していた。

 

「何がどうなってんだよ、ちくしょうッッ!! おい!! お前ら、誰か説明しろよッッ!!」

「もう訳が分からん……ワシらは帰れるんとちゃうかったんか!! 一体、何がどうなってるんや!!」

 

 リュウキ君が、平というおっさんが、そして果てはバンダナボーイやストーカー野郎までもが喚き散らす中、桐ケ谷と新垣は顔面を蒼白させ、背後の俺に向かって振り向き、ゆっくりと尋ねてくる。

 

「……ひ、比企谷……これって……」

「今日の……夕方の、あの人……ですよね?」

 

 ……新人達のように喚き散らしてはいないが、桐ケ谷と新垣の内心の混乱具合も似たり寄ったりなんだろうな。故に、この状況を、異常なこの状況を、解明して解説してくれる可能性が最も高いであろう、この部屋の一番の古株である俺に、縋るように問うてくる。

 

「……ああ。そうだな」

「一体、どうなってるんだ? ……なんで急に連戦に……というより、さっきの女の子の指令は何だったんだ?」

「……これから、わたしたち……どうなるんでしょう? ……もしかして、このままずっと帰らせてもらえなくて……いつまでも戦争をやらなくちゃいけないんですか?」

 

 対して俺は、こいつ等と違って混乱はしていなかった。いや、混乱は多少なりともしているが、それだけだ。こいつ等のように、顔面を蒼白させる程じゃない。たぶん、いつもと大して変わらない顔色で――故にこいつ等は、もしかしたらと、俺に縋っているんだろう。

 

 陽乃さんも混乱してはいないようだったが、つい今しがた蘇ったばかりで、状況の不明さ具合でいったら新人達と同レベル――桐ケ谷達以下だからだろう、同様に俺の言葉を待ち、俺の方を向いている。

 

 だが、残念ながら、その期待には応えられない。だから、俺は端的にこう言った。

 

「分からん」

 

 その言葉を受けて、分かりやすく桐ケ谷と新垣は、表情を絶望に染めた。

 

 ……こいつ等にとって、俺は最後の砦であり、頼みの綱なんだろう。

 

 俺がどれだけその役目を放棄しても、その重荷から逃げても――心のどっかでは、自分達よりもガンツ歴が長く、この部屋で長い時間を過ごしている俺ならば、自分達よりも異常な状況に慣れている経験豊富な俺ならば、自分達では手に負えない、理解出来ない事態でも、解決策を知っているのではないか、と。どうにか出来て、どうにかしてくれるんじゃないか――そんな希望を、希望的観測を、どれだけ棄てろと言われても、どうしても捨てきることが出来ないのだろう。

 

 だが悪いが、俺はそんな期待に応えられるような器じゃない。

 

 そんな頼りになる先輩じゃ――有り得ねえよ。

 

「わ、分からないって――」

「言葉の通りだ。俺だって、お前達と同じ、ある日突然この部屋に招集された身分だ。この部屋の創成期から名を連ねていたってわけじゃない。何でもは知らねえよ。知ってることだけだ」

 

 だから――甘えるな。俺にそういうのを、期待すんな。

 

 言った筈だ。俺は宣言したは筈だ。

 

 俺はお前等と必要以上に馴れ合うつもりはない。

 

 だから――自分のことは、自分でなんとかしろ。

 

 こっちだって、自分のことで精一杯なんだよ。

 

「…………」

 

 ……だが、陽乃さんは蘇ったばかりで、今のこの状況がどれだけの異常事態か、さすがに理解が及ばないだろう。

 

 陽乃さんは一回目のミッションで命を落とした――故に、通常のガンツミッションがどのようなものかという理解すら、あやふやのはずだ。だが、今はそれを一からレクチャーしている余裕はない。

 

 よって俺は、桐ケ谷達に、自分なりの見解を告げる形で、陽乃さんに俺達とオニ星人との因縁を軽く教えるように、必要以上に説明口調で話した。もちろん、時間があれば陽乃さんには出来る限り詳しく話すつもりはあるが、とりあえず触りだけだ。

 

「――おそらくは、昨日のこいつ等の乱入と同じような、ガンツにとっても予想外のイレギュラーなんだろう。こいつ等は――あの化け物達は、俺達以上にガンツに詳しく、言うならば踏み込んでいた。だから、こうなることは、遅かれ早かれだったんだ」

 

 俺はこんな感じで分かっている風に宣ってみるが、内心では言う程、達観してはいない。

 

 確かに吸血鬼達――オニ星人達は、遅かれ早かれガンツの標的になっていただろう。

 

 だが、そんな危険分子を、あのガンツが、あんなにも深く踏み込まれるまで標的にしていなかったことも、また事実だ。

 

 オニ星人達は、俺達のことをハンターと呼び、何度も戦ったような口ぶりで話していた。

 

 それはつまり、ガンツ側も何度か戦士(キャラクター)を送り込んだことはあるが、返り討ちに遭った――ということか。そのことで、奴等の強さを警戒していたということか。それで、下手にミッションの標的に出来なかったという――ガンツがそんな気遣いのようなことをするとは、俺にはとても思えないが。むしろ戦士(キャラクター)を使い潰すように、倒せるまで何人でも送り込みそうな気がするが。

 

 だが、もし、そんな風にオニ星人を標的に出来なかった理由のようなものがあるとして――ここに来て急に、予定外のように急遽、オニ星人を標的にした今回のこの事態は、ガンツにとって、あのガンツにとって、やはり不測の事態であるということではないか?

 

 あのガンツにとっても、異常事態ということではないのか?

 

 ……そうならば、もしそうであるならば、これは明らかに放っておいていい事態ではない。

 

 原因の究明が急務だ。このまま流され、何の対策も施さなければ、絶対に俺達にとって――俺と陽乃さんにとっての、命取りになりかねない。それほどまでに、これはヤバい状況だ。

 

 色々な意味でガンツに縛られている俺達は、言うならばガンツと一蓮托生、一心同体だ――文字通りの意味で。俺達はガンツによって生かされ、ガンツに命を握られているのだから。

 

 ……だが、さっき桐ケ谷達に言った通り、俺は今、ガンツにどのような異常事態が襲っているのか、まるで見当がつかない。ガンツ程の規格外を、それほどまでに追い詰めている要因が、まるで思いつかない。

 

 オニ星人が、ガンツにとってそれほどまでに致命的な領域(エリア)にまで踏み込んだのか?

 

 ……それとも――

 

 ………クソ。……こんな時、アイツがいてくれたら……

 

 途中参加者の俺よりも、ガンツ歴半年の俺なんかよりも、それよりもずっと前から、この部屋の住人だった古株の、アイツが。

 

 俺如きよりも遥かに強く、遥かにこの部屋に適応し、そしてきっと、遥かに黒い球体ガンツについて知り尽くしていただろう、アイツが。

 

 カタストロフィという言葉を教えてくれた、俺を庇って死んだ、俺の為に死んで、俺のせいで殺された――あの、生意気で、ぶっ壊れている、〝鬼”の中学生が。

 

 

 中坊が、いてくれたら。

 

 

『カタストロフィは近い。それまでに“彼”を生き返らせて。必ず、彼はあの終焉(クライマックス)に必要になる』

 

 

 ……あの言葉。

 

 正体不明の、真っ白の、中坊と瓜二つの、〝アイツ”の言葉。

 

 アイツのあの言葉は、まるでこの状況を、ガンツの異常を、ガンツが異常に陥る程の異常事態を、予期していたかのような言葉だった。

 

 もし、俺があの100点で、陽乃さんではなく中坊を生き返らせたら――そんな想像(イフ)が過らないわけでもないが、文言は過っても、後悔の気持ちはまるで湧いてこない。

 

 過去に対して思うことがあるとするなら、それは陽乃さんを生き返らせたことではなく、今日、この異常が起こるまでに、陽乃さんと中坊、その両方を、両者共を生き返らせることが出来なかった――200点を稼ぐことが出来なかった、俺の弱さに対してだけだった。

 

 俺は、選択肢を持たない。

 

 例え今、再び、100点メニューの選択の瞬間に戻ったとしても、俺は同じ選択をするのだろう。陽乃さんを選ぶのだろう。

 

 それが、俺にとっての最善で、選び得るたった一つの選択肢だから。

 

 ……ならば、俺がやることは一つだ。

 

 過去に選択肢はない。――向かうなら、未来だ。

 

 

 再び、100点を取る。

 

 ガンツの異常による影響が、致命的になる前に、一刻も早く、再び100点を取る。

 

 

 そして――中坊を生き返らせる。

 

 

 それが、俺の新たな戦う理由で、生きる理由――死に損ない続ける理由付けだ。

 

 

 

「え!? ちょ、なん――」

「!?」

 

 その時、ごちゃごちゃと喚く俺達を黙らせるかのように、新人の一人――バンダナの頭に電子線が降り注ぎ、その頭のてっぺんを消失させていた。

 

 この現象が指し示す事態を理解出来ない者は、最早、ここには誰もいない。

 

「――八幡」

「ええ。ごちゃごちゃ考えている時間はないみたいですね」

 

 これで明確に、完膚なきまでに言い逃れの余地なく、一夜に二度目の戦争――連戦という地獄を、ガンツが俺達に強いるつもりなのは明らかになった。

 

 ならば、やはりやることは、やるべきことは、こんな異常な事態に陥った原因を過去に探るのではなく、更なる地獄を、次なる戦争を、再び生き残る為の準備を整えることだ。

 

 この異常な地獄を、ガンツの無茶振りを、大人しく受け入れることだ。

 

 

 そうすれば、きっと――アイツのようになれる。

 

 アイツならきっと、へらへら笑って受け入れることだろう。

 

 俺と陽乃さんは、黒い球体が仕舞うことなく飛び出したままで放置していた側面のラックから、XガンとYガンを脚のホルスターに差し込み、Xショットガンを取り出す。

 

 流石は陽乃さんだ。迷いがなく、切替えが早い。

 

 やはり俺なんかよりもずっとこの部屋に対する適正――いや、いつでも、どこでも、強者になれて、強者で在れる人だ。

 

 ……だが、油断は出来ない。

 

 相手はあの吸血鬼共だ。そして、ガンツが示す画像が確かなら、間違いなく、あの男はいる。

 

 陽乃さんを倒し――殺した、あの千手観音と、おそらくは同等以上の化け物が。

 

 ……あの男が標的となったということは、やはり、あの男は生きているということだ。

 

 あの時、偽中坊の真っ白野郎が、俺と奴の間に割り込み――俺を、助けてくれた。

 ……あいつは、一体どうなったんだ……?

 

 そんなことがふと頭を過ぎると、その時、反対側のラックの陰にいたあの女子――湯河が、転送の光筋を頭に受けて、恐怖に染まった絶叫を迸らせていた。

 

「い、いやぁぁ!!! やだ! やだやだやだよぉ!! 死んじゃう!! あんなのわたしムリ! ムリだよぉ! ぜったいぜったい死んじゃうよぉおお!!!」

 

 ……恐らく、あんな子供でも――いや、子供だからこそ、先程のゆびわ星人との戦争を生き残れたのは、ただ運が良かったからだということを分かっているのだろう。

 

 それは何もアイツだけではない。ぶっちゃけて言うなら、東条や桐ケ谷のような余程の規格外でもない限り、一回目のミッションを生き残るのは、殆ど運の要因が全てだ。

 

 だから、今回の新人達は、総じて運が良かったとも言える。

 

 だが、運はそうそう自分達の味方で在り続けてくれるものではない。簡単に見放すし、恐ろしく残酷に気まぐれだ。まるで神様のように。

 

“幸運”が続く可能性など、何処にも保障されていない。それを、湯河は、きっと理解している。

 

 二回目のミッションから生存率が上がるのは、心の準備が出来るというのが大きい。だが、こんな突発的な連戦では、それも殆ど働かない。

 

 加えて湯河は、ガンツアイテムの使い方も殆ど理解していないのだろう。今も何も持たず、ただ震えながら、東条の足にしがみ付いているだけなのだから。

 

 まさしく今、湯河由香というあの少女は、地獄へ送られている。その小さな体で、怪物が跋扈する地獄に、たった一人で放り投げられ、放り捨てられようとしている。

 

「………」

 

 だが、だからといって、俺達に出来ることなど、何もない。精々、自分の視界に入った星人を、一生懸命殺すだけだ。

 

 このガンツミッションという戦争は、子守をしながら生き残れるようなものではない。少なくとも、俺にとっては。

 

 そんな邪魔な荷物を、そんな邪魔な命を背負うことなど、まっぴらごめんだ。

 

 俺と同様に、陽乃さんも湯河の叫びに対し何も思わないようだった。ちらっと一瞥した後、すぐに銃の使い方を思い出す為にか観察する作業に移っている。

 

 他の住人達も同様だった。

 平ら他の新人達は、自分よりも遥かに幼い少女の絶叫の御蔭か叫ぶのを止めたが、だからといって何もせずに、そっと目を逸らして気まずげに俯いている。

 

 桐ケ谷と新垣は自身も恐怖を覚えながらも、気丈に湯河に声を掛けようとした――が、渚がそれを手で制し、真っ直ぐにある男に目を向けた。

 

 その目には、信頼と――確かな憧れがそこにあった。

 

「大丈夫だ」

 

 そいつは、そう軽々しく口にした。何の気負いもなく、何も考えていないかのように。

 

 既に消失した湯河の頭を撫でるような手つきで、転んで泣いている子をあやすような言葉で、東条英虎は笑顔と共に言う。

 

 その笑顔は、自分の言葉が描く未来図が脅かされることを、全く考えていない者の笑みだった。

 

 当たり前にそうなるのだという、そう出来るのだという、別次元の頼もしさを、自信ですらない、確信すら及ばない、ある種の傲慢さすら感じさせる、そんな傲慢すら許されている――強者が放つ笑顔だった。

 

「ちゃんと助けてやっからよ」

 

 ぶっきらぼうで、何の根拠もなくて、もしかしたら湯河以上に、この状況を理解していないのではないかと思う程に、それはお気楽な笑みだったけれど――

 

「――嘘吐いたら……許さないから」

 

 そんな言葉を、あれ程に怯えていた、恐怖していた湯河が、震えずに、生意気な中学生のように言えるようになるくらいには、それは力のある強い言葉だった。

 

 強者の、言葉だった。

 

「…………」

 

 そんな東条英虎という男を、俺は半ば、睨み付けるように見ている。

 

 こいつはきっと、ずっと勝ち続けてきた男なのだろう。

 

 その強者の思考が、当たり前のように染み込むまで、当然のように勝ち続けてきた男なのだろう。

 それが傲慢ですらなくなるまで勝ち続けて――それに見合う、その王者のような習性に見合う強さを手に入れて、きっと強者となったのだろう。

 

 渚がその目に憧れを宿すのも分かる。男の子なら誰もが夢見る生き方だ。

 

 だが、渚の目には、それだけではない。

 その圧倒的な強さへの憧れと一緒に、黒い、靄のような感情も、しっかりと宿っている。

 

 それは嫉妬。それは渇望。

 弱者故に、強者を妬む――欲望。

 

 ああ、そうだよな。ずりぃよな。羨ましいよな。

 

 どうして、あの人はあんなにも強いのに、自分はこんなにも弱いんだろう。

 強くなりたい。……“あの人”のように、強く。

 

 まあ、分かる。その気持ちは。そんな気持ちは。

 

 だがな、渚。俺は、そんなお前すら羨ましい。そんな風に、強者に憧れることが出来る――強者を見て、その高みを見て、自分もそこへと足を踏み出せるお前が、この上なく妬ましい。

 

 俺はそんな、綺麗な黒い感情すら、抱くことは出来ないだろう。

 

 俺が抱けるのは、俺の中に巣食うのは、この眼のように、腐って、濁った、ドロドロの真っ黒だけだ。

 

「ぁぁ、ぁぁ、あああああああああああああ!!!!」

「ちくしょう!! ちくしょう、ちくしょう!!!」

 

 そうこうしている間に、ストーカー野郎が、不良野郎共が次々と送られていく。

 

 そんな中、渚は部屋の隅で頭を抱えながら、ガタガタと震え続ける平に向かって歩き、その肩を叩いた。

 平はぶるっと一際大きく体を震わせ、恐る恐る、渚を見上げた。

 

 渚は、そんな平に、強い口調で凛々しく言った。

 

「平さん。立ってください」

「……渚はん。かんにんや……かんにんや……もう無理や……ワシはもう……ワシはもう……」

「平さんッッ!!」

 

 渚は涙を流しながら泣き言を垂れ流す平を叱責するように大声を放ち、そして開けた意識の隙間に叩き込むように、そっと優しく言う。

 

「ご家族の元に……帰るんでしょう」

「ッ!?」

 

 息を呑んで、目を見開く平。

 渚は、そんな平の心に叩き込むように、今度は鋭い目で、両肩を掴んで、目を合わせながら、勇気づけるように言う。

 

「さっきは二人で生き残ることが出来たじゃないですか。だから、きっと今度も、生き残れます。やりましょう、平さん。一緒に生き残りましょう」

「渚はん……ッ!」

「平さん……一緒に――勝ちましょう」

「……せや。せやな! おおきに! おおきにや! 渚はん!」

「…………」

 

 俺は、思わず呆然と見入ってしまった。

 

 ……なんて、巧みに、()()()()()()()()

 

 否、人の心に入り込む、という方が正しいか。

 

 あの無害な草食の雰囲気で相手の敵意を失くし、心に隙間を開け、その殺気でその穴を的確にこじ開け、相手に警戒される前に、相手が欲しい言葉を囁いて、信頼を獲得する。相手の内側に潜り込む。

 

 これは、無意識でやっているのか? それとも意識した技術なのか?

 ……いや、どちらにせよ、恐ろしいことには変わりない。

 

 警戒できない――それは対人において最も恐ろしい才能(スキル)

 陽乃さんの強化外骨格も見事だが、これはまた違ったベクトルで――怖い。

 タイプで言うと、めぐり先輩に近いか……。もし、こいつが、この才能を自覚し、“武器”として使うようになったら……。

 

 果ては詐欺師か――殺し屋、か。

 

 ……いや、今はそんなことを考えている時間はない。

 俺は少し逡巡した末、陽乃さんにあれを案内しようと後ろを向きかけた。

 

「BIMやて!?」

「ええ。こちらの部屋のクローゼットにあるんです。あれなら平さんも使いやすいでしょう?」

 

 その時、後ろからそんな声が聞こえた。

 ……そういえば、平はあの爆弾について知っているんだったか。

 

「……クローゼット? それは何なんだ、渚?」

「あ、桐ケ谷さん。あの部屋にクローゼットのようなものがあって、中にはいろいろな武器があるんですよ」

「へぇ。バイクは気付いたけど、他にそんなものもあったのか」

 

 俺も行っていいか?

 はい、行きましょう。

 

 と、渚は平と桐ケ谷を連れて、その奥の部屋に行こうとした。

 

 俺は目で陽乃さんを呼ぶと、陽乃さんも頷いてついてきてくれた。もう銃は持ったしスーツも着ているので、いつでも転送は可能だ。それならば、ただ黙って待つよりも、あの癖の強いクローゼット武具の中から掘り出し物を探す方がまだ有意義だろう。

 

 ガンツの転送は、殆ど死刑台への連行と一緒だ。そんなのを何もせずじっと待つなんてのは、精神衛生上あんまよろしくないからな。陽乃さんといえど。

 

「何があるの? バイクとか言ってたけど」

「……これも、おそらくは最近になって増えた設備だと思います。前に一度、この部屋に入った時はなかったですから。まぁ、おそらくはガンツの遊び心のようなものだとは思いますが。使いこなすのに心得とかいりそうな、古今東西の武具が収められてるんです」

「……ふーん」

 

 陽乃さんはそう言って妖しく笑う。なんかガンツのラックから銃を取り出した新垣が、俺達の行動に興味を示したかのようにちょこちょことついてきた。少し遠目では東条が一言も叫び声を発さず、猛獣のような笑みを浮かべながら転送されていくのが見えた。

 

「うわ、これはすごいねえ」

 

 そして、あの部屋に入る。

 

 陽乃さんは、やはりというか、まずはあの近未来型デザインのモノホイールバイクに目を奪われていた。後ろからひょこっと顔を出した新垣も同様だ。まぁその気持ちは分かる。確かにこれは、黒い球体やこのスーツや銃よりも、一般的なSFのイメージに近く、そして分かりやすい“未来の技術”だろう。

 

 だが、恐らくは使いこなせないであろう――陽乃さんは一発で乗りこなすかもだが――そのマシーンよりも、俺の用があるのはクローゼットの方だ。

 

 見ると、既に平はあのケースを大事そうに胸に抱えていて、頭のてっぺんにはレーザが照射されていた。

 

「な、渚はん! すぐに来てくれや! 待ってるで!」

 

 ……明らかに中学生くらいの年齢である渚にここまで依存するおっさんの姿は、呆れればいいのか、それともそこまで()()()()()渚を恐れればいいのか、迷う所だな。

 

 まぁ、それはどうでもいい。俺には一切関係ない。それよりも俺に必要なのは、これだ。

 

 俺も同様に――BIMだったか――八種類の爆弾が入ったケースを手に入れる。BIMケースは、人数分とはいかないが、それでも複数個用意してあったようで、俺と渚、そして平が持って行っても、まだ数個残っていた。

 

 本当はもっと持って行ってもいいが、八種類の爆弾が一個ずつの計八個が入っているため、重さはスーツを着ているので問題ないが、やはり嵩張る。機能性を考えると一つで十分だろう。……ゆびわ星人の時に試してみたが、中にはかなり使用状況が限られている奴もあったから、本当は種類別に用意してくれる方が使いやすいんだが。もしくは、自分なりに八個の中身をカスタム出来るとか。

 

 ……そう考えると、ガンツの武器で初めて、弾数制限のようなものも考えなくてはならないのか。XガンもYガンも、そんなものとは無縁の武器だったからな。

 

 それでも爆弾なだけはあって、一気に戦況を変えることが出来るような破壊力はある。応用の利く武器だ。小細工が生命線の俺としては、かなり使い勝手がいい。重宝すべき代物だろう。

 

「へえ~、なるほど、これは面白いね」

 

 すると、バイク鑑賞が終わったのか、俺の左肩に両手を乗せて乗り出すようにして、陽乃さんがクローゼットの中を覗き込む。

 

「ええ。まあ、武術の心得も武器の知識もない俺にとっては、無用の長物も多いですが」

「それでも、なんかいいもの見つけたみたいじゃな~い」

 

 不敵な笑いを向けてくる陽乃さんに、こちらも不敵な笑いを返す。

 

 陽乃さんにBIMを教えようかとも思ったが、八種類もの爆弾の特性を一つ一つ教える時間はないだろうし、なんとなく陽乃さんにはBIMは合わないような気がしている。もちろん容易く使いこなすのだろうが、それでもこの人はこそこそと爆弾で不意討ちするよりは、もっと――

 

「――あ、これなんか、わたし好きだな」

 

 そう言って陽乃さんが興味をもったのは、漆黒の美しい長槍だった。

 

 光沢のある真っ黒な柄に、その先端には黒曜石のような鏃。

 

 それを手に取る陽乃さんは、すごく絵になっていて――

 

「八幡! どうかな?」

 

 振り返って笑顔で問うてくる陽乃さんに、俺は素直に思ったことを伝えた。

 

 この人には……こんなにも簡単に素直になれるんだな、俺は。

 

「綺麗です……すごく」

「え? あ、その、えっと……あり、がと。…………うん。わたし、これにする」

 

 そういって「……ふふ」と頬を染めてはにかむ陽乃さんは、やはり可愛い。

 ……駄目だな。可愛い陽乃さんに癒されている場合じゃない。

 

 すぐにこれから地獄(せんじょう)に送られるんだ。いつも通り――生き残る為に、最善の方法を選択し続けるんだ。

 

 ふと横を見ると、どうやら桐ケ谷が渚にXガンの使い方をレクチャーしているようだった。……というより、これまでXガンの撃ち方を知らなかったのか。桐ケ谷も呆れたような、驚いたような顔をしている。Xガンの撃ち方も知らないで、これまで二度のミッションでどちらでも点数を獲得したのか……。

 

「…………」

 

 そして、転送直前になぜか()()()のナイフを腰のベルトに差し込んだ渚も転送され始めて、残るは俺と陽乃さんと新垣と桐ケ谷。

 

 各々が真剣にクローゼットの中を観察している。

 その間、俺は陽乃さんに、自分が知る限りの吸血鬼――オニ星人の戦闘能力と、そしてあの黒金について話した。

 

 そして、渚が転送されてから二十秒後ほど――

 

「――来たか」

 

 ……俺が、転送され始めた。

 

 ……全部話すことは出来なかったが、今ここでは、吸血鬼がナノマシーンウイルスによって化け物になった元人間だとか、そんな説明はするべきではない。陽乃さんはまだしも、桐ケ谷や新垣は、それを聞いてどうするかは予想できない。碌なことになる気がしない。

 

 桐ケ谷は主力だ。新垣も一体や二体なら問題なく殺せるだろう。働いてもらわなくては困る。俺の――俺達の生存確率向上の為に。

 

 まぁ最低限、話すべきことは話せた。後は――

 

「――陽乃さん。先に行きます」

「……うん。すぐに行くから、待ってて」

 

 俺は転送され尽くすその時まで、陽乃さんと見つめ合い続けた。

 

「もう、俺は――絶対にあなたを死なせはしない」

「八幡。……あなたにもらった、この新しい命は――まるごと全部あなたのものだよ。だから、あなたの為に使うわ」

 

 なぜか、誰かが息を呑んだような気がしたが、そんなことは、次の陽乃の言葉で消し飛んでしまった。

 

 

――もう、絶対に、あなたの許可なく死んだりしない……だから、八幡。

 

 

 

 わたしを、ひとりぼっちにしないで。

 

 

 

 ……ああ、誓うよ。

 

 死んでも守る。絶対に死なない。

 

 

 死なせない――絶対に。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「…………ぅぅ」

「………………」

「…………ふふ」

 

 八幡が転送された瞬間から、この部屋の中には重苦しい雰囲気が充満していた。

 

 極寒の眼差しで陽乃を睨み付けるあやせ。それに対し、まるで何も気づいていないかのように、幸せそうに鼻歌を歌いながらショッピングを楽しむが如くクローゼットの武具を漁る陽乃。そして、そんな二人の黒髪美人の間に挟まれた和人。

 

 時間にして数秒だろうか(和人にはその何倍にも感じられたが)、「……あの」とあやせが呻るように低い声で、陽乃に向かって言い放った。

 

「陽乃さん……と仰いましたか?」

「雪ノ下って呼んで♪ あなたは――」

「………新垣あやせです」

「あやせちゃんか~可愛い名前だね」

「新垣と呼んでください。雪ノ下さん」

「……それで? 何が聞きたいのかな? 新垣ちゃん♪」

(誰か助けてくれぇええええええええ!!!!)

 

 怖すぎる会話の――位置的に――板挟みになってしまった和人は、クローゼットの中に仕舞われている数々の剣――ガンツソードは日本刀のような形だったが、ここには両手持ちの大剣や小太刀、渚が持って行ったようなナイフまで、数多くの刃物がある――を物色していたが、さっさとリビングに戻って大人しく転送を待とうかと思ってしまう程に、居るのが辛すぎる空間だった。

 

「単刀直入に問います。――あなたは、比企谷さんとはどういう関係ですか?」

「『本物』の関係」

 

 あやせの問いに、端的に返した陽乃。

 

 その言葉の衝撃を表すかのように、二人の美少女の頭上に光線が降り注ぐ。

 

 目を見開き叫びかけたあやせに、陽乃はここで初めてあやせの方を向いて、妖しく笑う。

 

「――って、言ったらどうする?」

 

 黒い球体によって、戦場へと転送されてゆく中――

 

――強化外骨格に覆われた中でも隠し切れない何かを放ちながら恐ろしく笑う陽乃を、あやせは憎々しげに、この世の何よりも憎悪するように睨み付け続けていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「……はぁぁ」

 

 こんな安堵は本来不謹慎なのだろうが、たった一人残された和人は、あの二人が転送され終わったことで、ようやく息を吐き出すことが出来た。文字通り、息が詰まる時間だった。

 

 そして和人は、たった一人取り残されたことで、本当にもう時間がないと、再び息を止めて集中し、剣を探す。

 

 こんな場所を見つけたからには、どうしても何か剣を探したい。毎回他の誰かにガンツソードを借りるのは無理がある。ここでもう一本の剣を手に入れて、いつでも二刀流になれるような、万全の状態で臨みたい。

 

 この形も大きさもバラバラな、千差万別の刀剣類の中から、桐ケ谷和人がキリトとなれる剣と、出会いたい。

 

 ALOで使ったような大剣もある。GGOで使った光剣のようなものも先程見つけた。

 とりあえず大剣は背負い、光剣は腰に下げたけれど、やはり今一つ、しっくりこない。

 

 和人が思い描く最強のキリトは、やはりあの鋼鉄の城の呪縛を斬り裂いた、英雄『黒の剣士』――エリュシデータとダークリパルサー、魔剣クラスの二振りの片手直剣を操る姿だった。

 

 ……そういう意味では、日本刀を模したガンツソードは、実のところ理想に近い。

 

 だが、この無数の刀剣類の中にも似たものは幾つもあるが、いまいちどれもしっくりこない。

 選り好みしている余裕などない。それは分かっている。もうこの瞬間に転送されてもおかしくはない。

 

 こうなれば、同じような形状なものを適当に――

 

「――っ! これは……」

 

 乱雑に一つの黒い樽のようなものの中に無数に立て掛けられていた刀剣類の中、偶々目についたそれに、和人の手は引き寄せられた。

 

 それを手に取り詳しく観察したわけではない。クローゼットの中は薄暗く、武具類は総じて真っ黒なカラーリングである為、パッと見では詳しい形状も分からなかった。

 

 だが、和人は吸い寄せられるように、それを手に取った。

 

 色は例に漏れず黒い。だが、他の武具類のようなSF調のシンプルな形状のそれとは違い、その剣は――まるで宝物のように、まるで宝剣のように、荘厳な装飾がされた直剣だった。

 日本刀のように片刃ではなく、両刃刀。だが、刀身は大剣のように巨大ではなく、すらりと伸びたロングソード。これなら問題なく片手で扱えるだろう。

 

 ゾクゾクっ、と、何かが走った。

 キリトが数々の激戦を潜り抜けてきた、数多のVR世界において、常にその戦いで、剣士キリトの相棒として戦ってくれた、歴代の相棒達。

 

 ダークリパルサーや、エリュシデータ、そして聖剣エクスキャリバー。

 

 それらを初めて掴んだ時と同様に、和人の中で、何かが嵌るような感覚がした。

 

 欠けていた何かが埋まるような、剣士として、必要な部品を嵌めこんだような。

 この剣を手にすることで、己が完成されたかのような、そんな、思わず口元が緩んでしまうような感覚。

 

 持ち上げる。

 重い。

 ガンツスーツを着ているのに、ズッシリと剣の重さが伝わってきた。だが、だからこそ――いい。重い剣が好みの自分にとっては、とても心地よい重さだ。

 

 柄と一体構造の刀身。深い、深い、黒。まるで光を取り込む影の如き――全ての光を映えさせる夜空の闇の如き、美しい黒。

 

 光すらも、斬り裂いてしまうような、鋭い――黒。

 

「…………」

 

 和人は、その黒に魅せられ――呑まれていた。

 

 終ぞ、和人は己がその剣を手に取った瞬間に、頭上に転送の光線が降り注いだことに気付かなかった。

 

 ただただその剣を見つめ、見蕩れ、見惚れ、そして――

 

 そして――

 

 

 

 

 

 そして――誰も、いなくなった。

 

 

 

 

 

 黒い球体に、ゆっくりと、文字列が浮かび上がる。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

【いってくだちい】

 

 

 

【1:00:00】ピッ

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

【0:59:59】ピッ

 

 

 

 

 

【0:59:58】ピッ

 

 

 

 

 

【0:59:57】ピッ……

 

 

 

 

 

 ピッ……じ……じじ…………じじじ………

 

 

 

 じじじじっじじじじじじじじじっじじじじっじじじっじじっじじじっじじじじじじじじじじじじっじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじっじじじじじじじじじじじっじじじじじっじじじじじじじじじじじじじじじじじじ――

 

 

 

 ピッ。

 

 

 

 文字列が、球体の中に、吸い込まれる。

 

 

 

 

 

 そして、黒の球体は――――時を数えることを止めた。




比企谷八幡は二度と失わないことを誓い、刻み――戦場に向かう。


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どうせお前は――俺達は、ロクな死に方なんて、出来っこないんだから

Side渚――とあるふくろうの像がある公園

 

 

 渚が目を開けると、そこは――地獄だった。

 地獄のような戦場ではなく、地獄という名の惨状だった。

 

「な……なに……これ……?」

 

 渚が転送されたのは、周りをビルに囲まれた公園のような場所だった。

 ふくろうの像が目印のその公園は、閉塞感で息が詰まりそうな都会の中で、ささやかな解放感を提供する場所だったのだろう――が。

 

 静か――あまりにも静か。

 

 はっきりとは分からないが、これだけ背の高いビルが乱立しているのならば、それなりに都会であることが察せられた。生活の気配はそこら中にあるのに――

 

――人の気配が、ない。

 

 死体の気配しか、しない。

 

 その公園には、ぐちゃぐちゃの物体が散乱していた。

 

 渚は思わず口を覆う。

 それは死体だった。

 

 人間の、死体だった。

 

 渚にとって、今回で三度目のガンツミッションだった。

 

 これまでに二体の星人を殺した。二種類の戦争を――戦場を経験した。

 一度目のミッションでは、人が殺されるのもたくさん見た。

 

 けど、だけど、だけれど。

 

 まだ戦争が始まったばかりなのに、こんな、こんなにも、初めから取り返しがつかなくなっている状態の戦場は――

 

「な、渚はん……」

「っ! た、平さん」

 

 渚はその声の方向に目を向ける。

 そこには、涙を流し、瞳を不安定に揺らしながら、覚束ない足取りでこちらに向かってくる、平がいた。

 

 渚はハッとし、嘔吐感と生理的嫌悪感を堪えながら、死体だらけの公園を見回す。

 

 居た。

 平の他にも死体の海にいきなり召喚され、恐怖で動けなくなり、立っていることすらいられなくなり、死んだように天を仰いでいる――漆黒のスーツの男。

 

 バンダナだ。

 彼もまた、この地獄に転送されていた。

 

 更に見回す。他には、他の人達は――

 

 自分が転送されたのはかなり後の方だった。彼等の他にも、自分よりも先に転送された人たちがいる筈――なのに。

 

「……いない」

 

 渚は表情を歪める。少なくともこれまで自分が経験した二つのミッションでは、時差はあっても、召喚ポイントは割と一か所に固められていたが……毎回、そういうわけではないのか?

 

 渚は分からないことが多すぎる現状によって莫大な不安に呑まれそうになるが、とにかく今は平とバンダナと合流することが大切だと、近寄ってくる平に手を挙げて、呆然と立ち尽くす、いや、座り尽くすバンダナに向かって声を掛けようと――

 

 

「み~つけた♡」

 

 

 公園の外から、そんな声が聞こえた。

 

「――え?」

 

 渚は即座に声の方向に顔を向ける。

 

 そこには、黒いホスト風のスーツを着崩し、この夜の闇の中でも不愉快に輝く下品な金色の長髪を靡かせる、首にはドクロのネックレスを身に着けた――人間の男がいた。

 

 渚は混乱する。

 

 人間だ。普通の、日常生活で見かける、何の変哲もない人間。

 

 

『アイツ等には俺達は見えないんだよ。俺達だけじゃなくて、星人の恐竜もな』

 

 

 初めてのミッションの時、八幡に言われた言葉を思い出す。

 

 そうだ。自分達は、普通の人には見えない筈。

 

 だが渚の足は、背の低い金髪ロン毛の笑みを受けて、無意識に一歩、後ずさる。

 

 グチャ、と、転がる死体のどこか、柔らかい何かを踏んでしまった。思わず表情が歪む。だが、それでも足を戻そうとは思えない。

 

 ……あれは、本当に普通の人間か?

 

 ……あれは――本当に、人間なのか?

 

「おい! 来たぞ野郎共! 待ちかねたお客さんだぁ!」

 

 そう言ってロン毛は、何処かに向かってそう吠えた。

 

「――ッ!!」

「な、なんやぁっ!?」

 

 すると、彼の後ろから――いや、渚達を取り囲むように、死体だらけの公園を取り囲むように、次々に、次から次へと、黒いスーツの人間達が姿を現す。

 

 彼等は一様に口元を、目元を歪ませ、凶悪な笑みを浮かべ、渚を、平を、バンダナを――漆黒のガンツスーツを纏った、黒い球体の部屋の住人達に向けて、殺意をぶつけてくる。

 

 楽しそうで、悦の篭った、紛れもない殺意を。

 

「……あ、あなたたちは――何、ですか?」

 

 何だ。何なんだ。

 

 こいつ等は――何者、なんだ?

 

 渚は目の前の、金髪ロン毛の背の低い男に向かって言う。

 

 ロン毛はくつくつと笑いを漏らしながら「何、ときたか」と呟いて、バッと両手を広げながら「答えは単純明快だ!」と叫び、天に向かって言い放つ。

 

 

「俺達は、お前等の敵だ!」

 

 

 その言葉と共に、黒いスーツの男達が、一斉に“変態”する。

 

 めきめきと、ごきごきと歪な音を立てて、綺麗な形で人間だったその身体を変形させて――正体を現す。

 

 擬態を解除し、本性を表す。

 

 渚は唾を飲み込む。それは、ごくりと、重々しく喉をへばりつくように食道を落下していく。

 冷や汗を流し、顔面を蒼白させる。唾を飲み込んだ筈なのに、口の中が一気に乾いていった。

 

 渚は、もう一歩、更に後ずさる。平は「嫌や……嫌や……」とぶるぶると顔を振り――

 

「もう嫌やぁぁああああああああああ!!!」

 

 公園の中央に向かって走り出した。

 だが、死体だらけの公園の、どこかの誰かのぬるぬるの臓物に足を滑らせて、また別の誰かの死体に向かって顔を突っ込むようにして転倒してしまう。

 

 滑り込んできた平の近くにはバンダナが座りこんでいた。

 平の転倒の音と衝撃によって、ようやく現実に帰還した彼の意識が、改めて捉えたのは――

 

 

――自分達を取り囲む、異形の怪物集団だった。

 

 

「――う」

 

 そんな彼等に向かって、金髪ロン毛の背の低い男は言う。

 

「さぁ、始めようぜ、狩人(ハンター)……お前達が餌の――」

 

 バンダナは、再び白目を向き、天を仰ぐ。

 ロン毛は、その表情を恍惚に歪め、同様に天を仰いだ。

 

「――狩りの時間だ!」

 

 その瞬間、バンダナは絶叫した。

 

「わぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」

 

 その叫びが号砲となり――怪物達が、渚達に向かって一斉に襲い掛かる。

 

 渚は更に一歩、更に後ずさり――その金髪ロン毛の背の低い男を睨み付けた。

 

「――――っ!」

 

 何かを決意し、奥歯を噛み締め――足に力を入れる。

 

 膝を曲げ、溜めを作り、一気に駆け出す。

 

 夜の池袋の公園の街灯が、渚が腰のホルスターから引き抜いた――漆黒のナイフを輝かせる。

 

 それを、金髪のロン毛は歪んだ笑みを浮かべて醜悪に歓迎した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side??? ――どこかのビルの屋上

 

 

 その光景を、池袋の戦場を一望できるビルの屋上から、その獣は眺めていた。

 

 いつの間にか着用していた漆黒のガンツスーツを、まるでペット煩悩な若奥様が愛犬に無理矢理着せるような形で身に纏っているその獣は、その愛くるしい姿から想像できない程に流暢に日本語を話し出した。

 

「…………全く、一体どのようなルートで、このミッションの情報を掴んだのだ?」

 

 その獣――ジャイアントパンダは、これまでずっと獣のように無口だったのが嘘のように、ペラペラと流暢な発音と渋い低音のボイスで言葉を紡ぎ出す。

 

 彼のその言葉に応えたのは、戦場を見下ろし続ける彼の背後にいつの間にか姿を現していた、黒髪の美男子だった。

 

「企業秘密とさせていただきましょう」

「……まぁ、貴様のやることに一々驚いていたらこの獣の身体でも保たんな。マッハ20で空を飛んだとしても納得してしまいそうだ、この『死神』め」

「ふふふ、流石の私でも、そこまでの怪物ではありませんよ」

 

 穏やかに笑うその『死神』は、ゆっくりとそのパンダの横に並び立つ。

 

「……何故、貴様がここにいる? ――いや、何故、貴様が此処に来た?」

「始めは貴方程の人物――いや、パンダが、ですか? ――が現場に駆り出されるということを聞いて、その戦士(キャラクター)に興味を持ったのですが――今は少し、興味の対象が変わりましてね」

「……ほう。そいつは、此処に居るのか?」

「ええ、案の定でした」

 

 そう言って『死神』は、一つの公園に注目する。

 

 そこでは、虫一匹殺せなさそうな小柄な少年が、その場の誰よりも鋭い殺気を撒き散らし、怪物達と殺し合いを演じている。

 

「……ほう」

「その様子では、私のお気に入りは貴方の(もの)とは異なるようですね」

「……正確に言えば、私の、ではないがね」

 

 そしてパンダは、そして『死神』は、目線を上げて池袋中を見渡し、この街の至る所で繰り広げられている戦争を、星人と人間が殺し合う戦場を見遣る。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side和人――とある駅の近くの大通り

 

 

 桐ケ谷和人が転送されたのは、駅からほど近くの大通りだった。

 

 近くには大きな書店やカラオケ店があって、和人はどこかで見たことがある場所だと既視感を覚えたが、それらよりも今は遥かに和人の目を奪うものが――光景が広がっていた。

 

「きゃぁぁぁあああああ!!!!」

「助けて!! 助けてぇぇええええええ!!!」

「うわぁぁぁあああああああ!!!!!」

 

 まるで大波のように和人に向かってくる人、人、人。

 正確には、和人に向かっているわけではなく、その先へ、少しでも遠くへ逃げようとしているのだろう。

 

 一体――何から?

 

「な、なんだこ――ッ!?」

 

 呆然と立ち尽くす和人の肩を吹き飛ばすように、大柄な男が息を切らせながらぶつかってきた。

 

 そして、ギロリと()()()()()()()()、吐き捨てる。

 

「ふざけんな!! ぼおと突っ立ってんじゃねぇ! 死にてぇのか!!」

 

 和人は目を見開いて驚愕し何も言えなかったが、男の方も和人にそれ以上構うことなく、そのまま走り去った――否、逃げ去った。

 

(……俺のことが、見えている?)

 

 和人は、ふらつきはしたものの、倒れ込みはしなかった。

 

 だが、人波に乗ってその場から走り去ることも出来ず、相も変わらずの棒立ちのまま立ち尽くし、気が付けば、人波の最後尾が和人の横を通過していて、周囲から人がいなくっていた。

 

 そして、そうなって、ようやく――それを目視することが出来た。

 

「――――ッッ!!!」

 

 大きな道の横幅いっぱいに集結した怪物達が、人間を追い立てるように行脚していた。

 

 恐らくは逃げきれずに怪物に捕まってしまった者達であろう人間の死体に、その鋭い牙で豪快に噛り付き、または道の外側に乱雑に投げ捨てながら、その怪物達は決して速度を速めることなく、ゆっくりと、人々の恐怖を掻き立て、煽り立てるような歩みで、和人がいる方向に進行してくる。

 

(……あれが、オニ星人……? 前回のミッション終わりと、今日の夕方に俺を――俺達を襲った、あの氷川とかいう金髪の男の仲間なのか……!?)

 

 だが、和人が知識として知っている奴等は、良くも悪くも人間のようだった。

 銃を使い、刀を使い、見た目も人間で言葉も日本語を話す、そんな奴等だった――そんな敵で、そんな星人だった。

 

 それなのに、今、和人の目の前にいる怪物達は――どこからどう見ても怪物だ。

 

 異形だ。異常だ。――化け物だ。

 

 和人はマップを見る。

 先程のゆびわ星人との戦いで、早々に二体の個体を屠った和人は、残り時間で他のメンバーを探しながら、色々とガンツ装備の機能を学習していた。

 

 そんな中で見つけたのが、このコントローラ。エリアを示すマップに、仲間と敵の居場所を示す赤と青の点、透明化機能、そして残り時間を示す――

 

「――?」

 

 和人は訝しんだ。残り時間を示す筈の画面は、何も表示しなかった。

 

 これも何かの異常かと思ったその時――怪物達の行進の中の誰かが叫んだ。

 

「おい! いたぞ! ハンターだ!」

「やっとお出ましかよ、ヒャハハ!!」

「待ちくたびれたぜぇ! やっと歯応えがある戦いが出来らぁ!」

「人間共は脆くって仕方がねぇ! カルシウム摂れってんだよ、カルシウム!」

 

 ギャハハハハハハハ!!!! と、声を揃えて、言葉を揃えて哄笑する怪物達。

 

 紛れもない怪物なのに、人間のように言葉を当たり前のように話す化け物共。

 

「…………」

 

 和人は奴等を冷たく一瞥し、何も示さない画面から、マップ画面へと操作する。

 

 その画面が示す青い点は、奴等が正真正銘、今回の戦争(ミッション)標的(ターゲット)であることを示していた。

 

(………なら、やることは一つだ)

 

 和人は未だに下卑た笑い声を飛ばしてくる怪物達の大群と向き合い――背中に、手を伸ばす。

 

「………ん?」

 

 笑い声を止め、和人の挙動を不審に見遣る怪物達。

 

 そして和人は――大剣をそのまま両手で構え、その切っ先を怪物の集団に向けた。

 

「……ほう、兄ちゃん。これだけの人数を相手にやろうってのかい? 頑張るねぇ、若人」

「熱いねぇ~。カッコイイね~」

 

 ギャハハハハハハハ!!! と、再び声を揃えて嘲笑する怪物――オニ星人達。

 

 和人はそれを受けて――不敵に、笑ってみせた。

 

 光剣の鞘は右腰に吊るし、あの黒い宝剣は左腰の剣帯に吊るしてある。

 VRMMOのようにコマンド操作で虚空から出現させられるわけではない。いつでも自分と共にいる、その相棒の重みに、和人は思わず口元が緩むのを感じた。

 

 大剣を選択したのは、この場面ではこの剣の一振りの破壊力が最も有効と考えたから。

 

 恐怖はない――負ける気はしない。

 

 和人の意識が、剣に、そして目の前の敵に集中する。

 

 道の外――この横幅の広い道路の外側には、逃げ遅れ、怪物達が暴れ回ったことによって負傷し動けなくなった者達も、少なからず居た。

 

 彼等は、その漆黒の全身スーツを身に纏い、巨大な黒い大剣を構えて、あの怪物の軍勢と真っ向から相対している一人の少年を見つめている。

 

 和人も気づいていた。そして、何も考えないことに、決めた。

 

 少なくとも頭の爆弾は起動していない。ならば問題ないと判断することにした。

 

 そういったことは、全て後回しにすることにした。後で考えることにした。

 

 今は、ただ――目の前の敵を、斬るだけだ。

 

「来いよ……怪物……ッ!」

 

 獰猛な笑みを浮かべた和人のその言葉に対し、怪物の中の、おそらくはリーダー格の誰かが呟いた。

 

「……上等だ……人間ッ!」

 

 おぉぉぉおおおおおおおおおおお!!!!! という雄叫びと共に、怪物の軍勢が和人に向かって走り出した。

 

 うぉぉぉあああああああああああ!!!!! という雄叫びと共に、和人は怪物達に向かって一直線に駆け出した。

 

 そして――激突。

 

 戦争の幕開けだった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side??? ――とある怪物の群集の後方

 

 

「う……うわ……うわぁ……」

 

 そんな戦争を、その男は後ろから見ていた。

 

 正確には、怪物の軍勢の後ろから。

 

 耳を塞いで、頭を振って、尻餅をついて、涙を浮かべながら。

 

 もう、何も考えたくない。分からない。分からない。分からない。

 

 男はふと、横を見る。周りを見る。

 あの軍勢程ではないが、そこでもやはり、怪物は人を襲っていた。

 

 逃げる人間。仕留める怪物。あちらで、こちらで、絶叫と、哄笑と、鮮血が噴き出す。

 

「おい、逃げんじゃねぇよ、テレビ屋さんよぉ」

「ひぃっ、ひぃいいいいいいいい!!!!」

「アンタ達をぶっ殺すのは最後だ。精々綺麗にこの光景を撮影してあげてくれよぉ。死に様ってのは、その命の最後の見せ場なんだからよ! ぎゃははは!!」

 

 男は限界だった。

 

 白目を剥いて、頭を、頬を、掻き毟る、掻き毟る、掻き毟る。

 爪の間に肉片が入り込み、血液がだらだらと流れ出しても、掻き毟る、掻き毟る、掻き毟る、掻き毟る。

 

「ぁぁ……ぁぁ……ぁぁああああああああああああああああ!!!!!!」

 

 男は走る。

 なんでだ。どうして一体こうなった。

 

 何もかもが上手くいかない人生だった。虐げられる人生だった。負けてばかりの人生だった。切り捨てられる人生だった。必要とされない人生だった。仲間外れの人生だった。いいことなんてなんにもない人生だった。

 

 だけど、だけど、だけど、だけど、だけど。

 

 どうしてこうなった。どうしてこんなことになったんだ。

 

 どうして、どうして、どうして、どうして、どうして。

 

「どうして!!! どうして!!!」

 

 男は叫ぶ。

 走って、走って、走って、叫ぶ。

 

 漆黒のガンツスーツがその願いを聞き届け、人間離れした脚力を提供するが、それでも何も変わらない。

 

 走っても、走っても、走って。

 逃げても、逃げても、逃げても、逃げても――何も変わらない。

 

 地獄で地獄が地獄な地獄を地獄。

 

 地獄地獄地獄地獄地獄地獄地獄地獄地獄地獄地獄地獄地獄地獄。

 

「誰かぁッ!!! 誰か誰か助けてぇぇええええええええええ!!!!!!」

 

 男は、叫ぶ。

 

 己の人生において、只一人。

 

 自分の心に入り込み、笑顔をくれた、かの人外の天使に。

 

 

「あやせたぁぁああああああああああああああああああああああああん!!!!」

 

 

 そのストーカーは叫ぶ。

 泣いて、喚いて、狂って、叫ぶ。

 

 

 地獄の中で、救いようもなく、救いを求めて。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side??? ――とある湿った道外れ

 

 

 そして、ここにも地獄の中で藻掻く男達がいた。

 

 ズボッ!!! と、どろりとした液体を垂れ流すスーツを貫かれたその男は、遅れるように口から黒ずんだ赤い血液を吐き出した。

 

「マコトォォォォォ!!!!!」

 

 遠からず同じ運命を辿ることになるであろう、同様に捕えられ、スーツの制御装置にその鋭すぎる爪が当てられている男が叫んだ。

 

 そして怪物は、凶悪な笑みを浮かべながら、ゆっくりとその指を件の制御装置に押し込んでいく。

 

「ははは……お前等の弱点は分かりやすいなぁ、ハンター……」

「ひっ、やめ、やめれ、やめろ、やめろ、やめろぉぉお!! 俺達はハンターとかじゃない! たすけ、たすけて、助けてくれ!! 助けてくれよ、リュウキ!!」

「フハハハハハハ! 死にそうなハンターはみんなそう言うんだよ!」

 

 その黒いスーツを着た頬がこけたくすんだ金髪の男は、自分達のグループのリーダー格で、なんだかんだ言ってずっと自分達を引っ張ってきた男に向かって、ぷるぷると手を伸ばす。救いを求めた、その手を伸ばす。

 

 だが、リュウキは動けない。あの二人のように捕えられてはいないが、自分達は今、三百六十度を敵に――怪物に、囲まれている。

 

「……なんでだぁ……っ!」

 

 ……なんでだ。……どうしてこんなことになった。

 

「どうして俺等が、こんな目に遭わなくちゃいけねぇんだ!!!」

 

 リュウキは絶叫する。

 

 そして、また一人、仲間が貫かれる。

 耳を塞ぎたくなるような今わ際の絶叫を上げ、呆気なく無残に絶命する。

 

 その絶望を味わい尽くした後、周囲を囲む怪物達は、残った自分達三人の内の一人を新たに連行する。

 

 こうして、一人、一人、たっぷりと同胞なかまの苦しむ死に様を見せつけられて、最大限に恐怖を煽ってから、リュウキ達は死んでいった者達と同等以上の絶望を味わうことになる。

 

(……もう、いやだ……やめてくれ……いっそ…………いっそ……)

 

 

「殺してくれぇえええええええええええええ!!!!」

 

 

 恐怖に呑まれた、仲間の叫び。今日の昼まで、一緒に楽しく青春を謳歌していたはずの、同胞の魂の――死の叫び。

 

 ズボッ!! と、あっけない音が響く。

 

 

 そして、また、一人――殺された。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side由香――とある高速道路の高架下。

 

 

 60階通り近くの、首都高速の高架下。

 そこには盾を持った特殊装備の警察官達が続々と集結していた。

 

(……な、なんなの……なんであんなに警察の人が……)

 

 ここまではまだ怪物達の進行は及んでいないのか星人の姿は見えないが、駅方面から逃げ出してきた人達で溢れかえっていて、人口密度は凄まじいものがあった。

 

 そんな中にひっそりと転送されたガンツスーツを纏った中学一年生女子――湯河由香は、その面妖な格好で周りの人物からひそひそと注目を浴びており、周りの目が気になる――というより周りからの自分の評価を恐れている年頃である由香は、頬を赤く染め、深く項垂れて、両手で自分の姿を必死に隠した。

 

(こんなことなら、何か上に着てくるんだったッ!)

 

 前回のゆびわ星人戦の時は、結局あの部屋の住人と星人しかいなかった為、由香はじろじろと一般人に見られているというこの状況が、ガンツミッションとしてどれほど異常なことか気付くことが出来ない。

 

 それよりも不思議に思うことは、こんなおかしな恰好をしているのに、ひそひそと小声で内緒話をされるだけで、他に何もされないことである。

 

 今の時代、交通事故などの人の命に関わるような非常事態でも、119番するよりも先に写真撮影が開始されることも珍しくない。

 だが、今の由香は多少注目されてはいるものの、一向に好奇の視線を向けられたりはしない。

 

 なんというか、余裕がないというか、そんな場合ではないというか――そのような空気を感じる。

 中には大声で泣いている人達もいるし、警察官の人達も無線に向かって大声で怒鳴るといった焦燥の様子を見せている。

 

(……何か、起きているの?)

 

――何が、起きてるの?

 

 そんなことを考えていると、不意に人混みの向こうから、つんざくような悲鳴が轟いた。

 

 

「ひぃぃぃぃいいいい!!!! 来た!! 来たぁぁ!!! 化け物だぁぁぁあああああ!!!!」

 

 

 その叫びに、途端に人混み全体がパニックに陥る。

 

 警察官の人達も盾を持った者達が一斉に一列に並んで、その後ろに銃を持った人達で隊列を組み始めた。

 

「あ、ちょっ……いや……あッ!」

 

 元々警察官達の陣形が良く見えるくらい、人混みの最外端にいた由香。

 突然に人混みが大きく蠢いたことで、背中から押されるようにして倒れ込んでしまう。

 

 そして、ゆっくりと起き上がる時――見えた。

 

 自分の視界から見て、右側――高架下にいるのが、警察官達。

 盾部隊十名、銃部隊十名の、およそ二十名程だろうか。これが多いのか少ないのかは、由香には分からない。これからもっと大勢の応援が来るのかもしれないし、これが今回繰り出された警察官の最大人数なのかもしれない。

 

 だが、おそらくは足りないと思った。全然、足りてないって思った。

 

 だって、由香の視界左側――街側からやってきたのは、総勢三十人は、三十体は下らない――

 

 

――異形の怪物達だったのだから。

 

 

「――ヒっ!?」

 

 由香は足に力が入らず立ち上がれなかったものの、それでも必死に悲鳴は堪えた。両手で口元を押さえて、とにかく力づくでそれを抑え込んだ。

 

 ゆびわ星人は、大きかった。見上げても、なお足りない威容。それが怖かった。

 もちろん、あの黒い体も、手に持っていた巨大な鋭い斧も、靄がかった兜の中も不気味だったけれど、何よりも怖かったのは、その大きさ。その巨大さ。

 

 だからだろうか。怖かったけれど、恐ろしかったけれど――どこか、現実味がなかった。

 

 でも、向かってくるあの怪物達は――気持ち悪かった。

 

 化け物というのなら、まさしくこちらが、こちらの方が化け物だ。

 

 醜悪――その一言に尽きる。

 醜い、悪しきもの。あんなものが、良いものであるはずがない。

 

 最悪に――災厄に、決まっている。

 

 そんな存在が、そんな悍しい存在が、数十人一斉に、こちらに向かって歩いてくる。

 

「う、撃て、撃て、撃てぇぇぇえええええ!!!!」

 

 さすがの日本警察も、悍ましき化け物達に怯んだのか、数秒の間は固まっていたけれど、それでもやがて指揮官らしき人物が我を取り戻し、合図と共に一斉に発砲した。

 

 その発砲に合わせ、化け物達はそれまでゆったりだった歩みを一気に速め、一気呵成に突っ込んでいった。

 

 化け物vs日本警察。

 その行く末は、すぐに化け物達が警察官達を覆い尽くして分からなくなった。

 

 銃声が轟き、マズルフラッシュが煌めく。

 それでも、化け物達の苦悶の声よりも、警察官達の悲鳴の方が大きいように、由香は感じた。

 

 そして由香は思った。

 

――今のうちに、逃げなければ。

 

 人が襲われているのに、正義の味方がピンチなのに、そんなことを真っ先に思ってしまったことに、現実というものを大人が思っている以上に理解している現代っ子とはいえど、まだ純粋な部分が死滅していなかった中学校入学したての由香の心は、思いの外ショックを受けていた。自分が凄く汚く、汚れていて、非道い人間のように思えて、少し涙が出た。これは恐怖によるものかもしれないけれど。

 

 それでも身体は正直だった。膝が笑っているけれど、全然力が入らないけれど、それでも必死に、必死にあの化け物達から遠ざかろうとした――が。

 

「どうしたの? お嬢ちゃん」

 

 そんな由香の頭上から、そのような声が聞こえた。

 

 由香は見上げる。

 

 その人は女性だった。なにかのパーティの帰りか、それともそういうお店に勤めているのだろうか、ひらひらのドレスを身に纏った煽情的な女性だった。あの部屋で見た新垣あやせや雪ノ下陽乃程ではないが、中々の美人。おそらくは二十代後半といったところか。

 

 由香はほっとし、笑みを漏らした。女性はしゃがみ込み「あらあらどうしたの、そんなに泣いちゃって。美人が台無しじゃない」と言って、由香の頬の涙を指で拭うようにしてその流れで――

 

――がしっ、と肩を掴んだ。

 

「………………え?」

「もしかして――」

 

 その女性は、表情を途端に醜く歪め――その吸血鬼のような牙を見せつけるように、口角を吊り上げながら、嗤って、言った。

 

「――恐ろしい化け物にでも、遭ったのかしら?」

 

 由香は、絶叫した。異形ではなくとも、容姿は人間のそれでも、由香にはその笑みが――化け物の笑みに見えた。

 

「きゃぁぁああああああああああああああああ!!!!!」

 

 叫び散らす由香を、その女は――女吸血鬼は片手で高々と持ち上げ、警察官達と戦う同胞達に向かって、力強く言い放った。

 

「いたわよ! ハンターだわ! 私達の敵! この宴の供物よ!」

 

 その言葉に、警察官達を蹂躙していた怪物達は歓喜の声を上げた。

 

 戦場の注目が、由香に集中する。

 化け物達はもちろん、体中を負傷している警察官達も、逃げ遅れて化け物に蹂躙されている一般人達も。

 

 由香は途轍もない恐怖に襲われ、何も考えられなくなる。失神しない自分が不思議だった。

 

 そして次の瞬間、女吸血鬼は由香を自分の元に引き寄せ、耳元で囁く。

 

「――じゃあね、可愛いハンターさん」

 

 そう言って、女吸血鬼は、高く、高く――由香を、化け物共が蠢くあの集団の中へと投擲した。

 

「……………………え?」

 

 瞬間、由香の中の音が消えて、叫ぶのも忘れて呆然とした。

 

 地上から、女吸血鬼の言葉が、どこか他人事のように聞こえてくる。

 

「早いもの勝ちよ!! その小さなハンターさんと遊んであげなさい!!」

「「「「うぉぉぉぉおおおおおおお!!!! しゃぁぁぁあああああああああ!!!!!」」」」

 

 化け物達の叫びが、由香には地獄へと(いざな)いにしか聞こえなかった。

 

 由香はそっと、下を見る。

 見渡す限りの魑魅魍魎。見るだけで眼球が潰れてしまいそうな化け物達が、頬を裂く不気味な笑いを浮かべて自分に向かって手を伸ばす。

 

(いやっ! いやっ!! いやッッッ!!)

 

 由香は、遂に泣き叫ぶ。

 

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああ!!!!!!」

 

 それでも、この超人スーツでも重力には敵わない。空までは飛べない。

 ゆっくりと最高点まで上がると、速度が一瞬零になり、やがてゆっくりと降下する他ない。

 

 由香は、天を仰ぎ――雲だらけの真っ暗な空に向かって叫んだ。

 

「助けるって言ったじゃない! この嘘つきぃぃぃいいいいい!!!!!」

 

 

 その瞬間、由香の叫びに応えるように――天から一筋の光が差し込んだ。

 

 

「――な」

 

 女吸血鬼が絶句する。

 

 だが、そんな焦りを嘲笑うかのように、その光は一人の人間を形づくっていく。

 

「あなた達! 新しいハンターよ!! 殺しなさい!!」

 

 その指示に合わせて、由香の落下地点で待ち構えていた化け物の幾体かが、新たにこの戦場へと送られてきた戦士(キャラクター)に向かって駆け出す。

 

 だが、それよりも早く、その男は完全に転送され、召喚され――真っ直ぐに、由香と目が合った。

 

 由香は涙を溢れさせ、その男に向かって両腕を伸ばす。

 

「――たすけて」

「任せろ」

 

 その男――東条英虎は、襲い掛かってきた一体の化け物の顔面を躊躇なく殴り飛ばす。

 

 ガシャァン!! と一瞬で通り沿いの建物の中に突っ込んだ。

 

「…………え?」

 

 女吸血鬼の呆然とした呟きを余所に、東条はその場でそのまま回転し、飛び込んできたもう一体の化け物の顔面を掴むと、回転を止めることなく振り回し――

 

「おらよっ!!」

 

 周りにいた他の数体の怪物を薙ぎ倒す武器として使用し、その後そのまま容赦なく投げ飛ばした。

 

「ぐぺっ!」

 

 その個体は女吸血鬼のすぐ傍の街灯に激突する。彼女はその個体を一瞥もすることなく、只々己の余興をぶち壊した乱入者を忌々しげに蔑視ていた。

 

 そして東条は、由香の落下地点に群がっていた数体の化け物に向かって突っ込んでいき――

 

「うぉ――ラァッ!!!」

 

 ゴォッッ!! と唸りを上げる一発の拳で、纏めて吹き飛ばした。

 

「……………」

「……………」

「……………」

 

 呆然とする。

 

 警察官の相手に残っていた化け物達も、その化け物に数十秒で壊滅寸前まで追い込まれていた警察官達も、周りで見ていた逃げ遅れた一般人達も。

 

「………………ッ」

 

 ぎりっ、と女吸血鬼は歯を食い縛って睨み付ける。

 

「……あ」

 

 そして、落ちてきた由香は、無事、東条の腕の中に収まった。

 

「よう、助けたぜ」

「……うん。知ってた」

 

 由香は、東条の言葉を受けて、生意気な言葉と共にはにかんだ。

 

 そして東条は由香を下ろす。由香は隠れるように東条の足にしがみついた。

 

「……さぁて」

 

 東条は首をゴキリと鳴らす。今や、この戦場の全ての視線を、その男は一身に受けていた。

 

 だが、微塵も臆することなく、気にすら留めない。傲慢なる圧倒的強者は、首をグルグル回しながら視線を巡らせ、見下ろすように不敵に言い放つ。

 

 

「オレとケンカする奴は、どいつだ?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 Side陽乃&あやせ――とある路線の出口近くの吹き抜け空間

 

 

 池袋駅南口。

 二人の女性の裸婦像がある空間の、とあるエスカレーター。

 

「…………」

「…………」

 

 それに乗り、ゆっくりと優雅に下っていく、漆黒の全身スーツを纏った二人の美女。

 

「にしても、わたし達を同じ場所に転送するとか、ガンツも空気読めないよねぇ~。いや、逆に読んでるのかな?」

「どうでもいいです。いずれにせよ、腹立たしいだけですから」

 

 陽乃とあやせはそんな風に、言葉の鉾を相手の急所を狙って殺意満点で、ある種穏やかに交わし合うが、それでもこの二人の周囲のみが平和なわけでは決してなかった。

 

 他の池袋各所と同様に、この場所も、紛れもない地獄の戦場だった。

 

「い、いやぁぁああああ!!! やだぁぁあああああ!!!」

「助け、たす、たすけ――ぎゃぁぁああああああ!!!」

「なに! なに!? もう、なんだっていうのよ、わけわかんないわよッ!! や、やめて、離してぇ!!」

 

 ゆっくりとエスカレーターで下りながら、下の地下鉄乗り場へと繋がるスペースで、化け物達が一般人達を追いかけ回しているのを、二人は観察しながら下っている。機械のペースに合わせながら、一切慌てることも、焦ることも――恐れることも、なく。

 

 あやせの方はどこか恐怖を堪えている様子もあるが、それでも必死に動揺を見せまいとしているのは、陽乃に対しての対抗心故か。

 

 陽乃はそんなあやせを少し微笑ましく感じながら、彼女に尋ねる。

 

「ねぇ、八幡の話だと、新垣ちゃんもその――オニ星人? っていうのと戦ったことがあるみたいだけど、あんな気持ち悪い怪物だったの?」

「……いえ、わたし達が夕方に戦ったのも、昨日のミッションの終わりに乱入してきたのも、見かけは普通の人間のようでした。……あんな……怪物では――」

 

 そう呟くあやせの目の前で、また一人、怪物に襲われる。

 その人間は殺される間際、陽乃とあやせと目が合い、必死にその手を伸ばすが――

 

「た、たすけ――」

 

 グチャ、と、潰される。怪物は既にこちらに気付いていて、まるで見せつけているかのような容赦ない虐殺だった。

 

 あやせはキュッと唇を噛み締めるも、動揺を決して表に出さず――陽乃に通用しているかは別だが――それとは異なる気付いたことを、自分よりも少し上の段にいる陽乃に尋ねる。

 

「……今のって……もしかして――」

「……見えてる、みたいだね。……敵だけじゃなくて、普通の一般の人まで、わたし達のことを……」

 

 陽乃は覚えている。

 

 あの千手観音のミッションの時、大仏と戦っている時にエリアに迷い込んだ一人の壮年の男。彼は、大仏の足が自身を踏み潰そうとした時でさえも、大仏にも、陽乃達にも気づく様子などまるでなかった。

 

「どういうことでしょうか……」

「……八幡の言ってたような、ガンツのイレギュラーって奴なんじゃないのかな? それより――お待ちかね、みたいだよ」

 

 既に一般人を狩り尽し終えたのか、ニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべて、化け物達はエスカレーター出口に集結する。

 

「さっさと片付けちゃおうか。早く八幡と合流しなくちゃいけないしね」

 

 そう言って、陽乃はその漆黒の長槍を構える。

 文字通りの高みから見下ろし、化け物の集団に微塵も臆することなく、不敵に、凶悪に微笑んでみせる。

 

「………………雪ノ下さん、これだけは言っておきます」

 

 あやせはそんな陽乃を下から見上げ、その美しい顔立ちだからこそ恐ろしく映える形相で睨み付けながら、宣言する。

 

「――わたしは、比企谷さんの『本物』になることを、絶対に諦めません。……絶対に」

 

 陽乃はああ言っていたが、肝心の八幡が、あの時、ああ言っていた。

 

――俺の、『本物』になってください

 

 あの告白こそが、()()()()()()()()()、雪ノ下陽乃が比企谷八幡の『()()()()()()という――何よりの証拠。

 

 ならば、諦める道理など、ない。有り得ない。

 

 とても甘く、何よりも綺麗な――『本物』という繋がり。

 

 絶対に、逃すものか。絶対に、渡すものか。

 

 例え、今はこの女性の方が上に立っていようとも、前に立っていようとも、必ず押し退け、排除し、引きずり下ろす。

 

「その席は――わたしのものです」

 

 雪ノ下陽乃は、その宣言を威風堂々と受け止める。

 嘲笑うのではなく、不敵に笑う。やれるものなら、やってみろと――女王のように。

 

「やれるものなら、やってみなさい」

 

 酷薄に笑う――魔王のように。

 

 しばし眼差しを交わし合う二人。

 

 そのことに痺れを切らした、下で待つ化け物の一人が――

 

「テメェら、ナメてんの――」

 

 その先の言葉は、言えなかった。

 

 突如、雪ノ下陽乃と新垣あやせは、手すりに乗り上げ――それぞれ別方向に跳んだ。

 

 陽乃は右へ。あやせは左へ。

 

 それにより、エスカレーター出口付近に固まっていた化け物の集団は、左右から挟撃される憂き目に遭った。

 

「このや――」

 

 あやせのハイキックが、化け物の顎を抉り飛ばす。

 

「ふっ!」

 

 見上げるような体躯の化け物を、陽乃は槍を下から突き上げるようにして、的確に顎を貫いた。

 

「て、テメェら!! ()れ! ()れ!!」

 

 混乱に陥る化け物集団。一方的に狩る者側だった捕食者達が、漆黒の髪を靡かせる二人の美しい狩人(ハンター)によって狩られていく。

 

 殺す者と、殺される者が、目まぐるしく入れ替わる。

 

 これが戦場。これが戦争。

 

 地獄に相応しい殺し合いだった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side八幡――とある飲食店が立ち並ぶ裏通り

 

 

 

 殺して、殺して、殺した。

 

 殺して、殺して、殺し回り、殺して、殺して、殺しまくった。

 

「ぐ、ぁあッ!!」

「まてや――がぁアァッ!?」

「ちょ、ちょっと待てよ……な……はは……ぐぁぁっ!!」

 

 タネさえ分かれば、大したことじゃない。

 周波数とやらを弄って透明化していて、それを修正して見えるようになるコンタクトを付けてるってんなら――またこちら側で再度、周波数を弄ればいい。

 

 周波数はコントローラのこのスティックで変えることが出来る。

 今まではこのゲージみたいなのを最大にして透明化していたが、奴等はそれに対応している。なら、最大とは言わず、四分の三くらいのゲージで透明化すれば、奴等にも通用するんじゃないかと思っていたが、案の定だった。

 

 この周波数の状態が、奴等の最大ゲージ対応のコンタクトによる視界でどのように見えているのかは分からないが、まるっきり効果がないってわけじゃないみたいだ。

 それでも、いつものように透明人間になれているわけではないだろうが――それでいい。認識しづら(みえにく)くなる。それで十分だ。

 

 俺が転送されたのは、この複雑に入り組んだサンライト通り近くの路地裏――何度かメイトに来た事があるから分かる。アキバのよりも少し広いからたまに来たくなるのよね。ブクロにはなりたけもあるし。少し遠いが。

 

 まぁ、そんな場所で、そんな戦場。しかも、今は夜。

 

 その条件下で、認識しづら(みえにく)くなった状態で、俺のステルスヒッキースキルを駆使すれば――

 

「ッ!? て、テメェ、どっから――」

 

 ギュイーン、という甲高い音と、青白い発光。完璧に入ったな。

 

――ここまで俺にとっての好条件が揃えば、“元”人間の怪物共なんざ、いくらでも狩れる。

 

 下手に奴等についての前知識があったからか、初めは怪物共が跋扈する池袋に転送されたことで戸惑ったが、マップを見てすぐに奴等が標的だと分かった。

 

 ……この怪物と黒金達は何か明確な違いがある品種のようなものなのか、それとも奴等がこの怪物に変身できるのか。または――してしまうのか。……この情報は、大志からは聞かされてなかったな。

 

 

『俺が、完全にあっち側に行ったら……お兄さんが、殺してくれないっすか?』

 

 

 ……これが、あっち側、なのか?

 

 バンッ!! と頭部を破裂させ、倒れ込む怪物。

 

 ……見た目はいくら怪物でも、所詮、人間上がりだ。どうしたって“目”で標的を追っちまう。だから比較的に御しやすく、苦戦もしなかったが……。

 

「……………」

 

 油断は禁物だ。

 

 こんな小細工は、確実に黒金には通用しない。そして、アイツは必ず、この戦場に――池袋にいる。

 

 ……それに、少し気になることも出来たしな。

 

 俺が殺したこの五体の怪物達――どれも一様に人間の姿から変わり果てた怪物だったが、一人として同じ形態のものはいなかった。

 

 それに――

 

「………………チッ」

 

 もし、この仮説が正しければ、吸血鬼共は――オニ星人共は、ただでさえとんでもない強敵だとは思ってはいたが、その予想以上に厄介極まりない難敵だ。

 

 紛れもなく、俺が出会った中で、史上最強の星人。

 

 ……これは早く、陽乃さんと合流した方がよさそうだな。

 

 俺はマップを起動する。今回は池袋駅を挟んで、東口側に四分の三、西口側に四分の一くらいの割合のエリアのようだ。……まぁ、だが――

 

「――この頭の爆弾が爆発するか、怪しいもんだけどな」

 

 さっきの戦い――路地裏とはいえ、俺と星人の戦いに居合わせちまう人間も何人かいた。

 そこら中に転がる人間の――一般人の死体。そして、居合わせた奴等は星人を見て、そして()()()()、一目散に逃げ出した。

 

 つまり俺等と星人の、一般人に対する周波数ステルスが機能していない。

 そして、どういうわけだが分からないが、制限時間まで設定されていない。

 

 これは……急な連戦でガンツの前準備が整わなかったということなのかとも思うことが出来るが――これだけ異常事態が重なれば、ガンツ自身の異常――もしくは思惑と考えた方が正しいのだろう。

 

 イレギュラー尽くしのミッションだ。だが、だからこそ――ここで、この戦争で、奴等を屠る。

 

 奴等を――奴を。

 

「…………」

 

 俺は、マップを仕舞う。

 

 そして、俺に近づく赤点の方向――背後に向かって、ゆっくりと振り向く。

 

「よお、縁があるな。運命感じちまうぜ、死ねよ、お前」

「相変わらずダサいグラサンしてるな。見飽きたんだよ、死んでくれよ、お前」

 

 全く、どんなエンカウント率だ。

 ボスキャラはボスキャラらしく、魔王の城とかで偉そうにふんぞり返っておけばいいものを。

 

 見上げるような長身に、革ジャン。逆さ帽子に、そして真っ黒な濃い色のサングラス。

 

「ふん、ご不評とあれば、外してやるさ。どうやら相変わらず狡こすい小細工をしているようだしな」

 

 俺の今のステルスは、不完全な周波数に敢えて設定してある。

 つまり、肉眼でみれば、俺は四分の三透明人間ってことだ。確かに見え辛いが、見えないわけじゃない。そして、こいつの五感ならば、それで十分なんだろう。そんな風に思考していた俺だったが――

 

「――ッ!」

 

 思わず息を呑んで、跳び下がって距離を取り、Xガンを奴に向けた。

 

 奴は、黒金は――隻眼だった。

 左目に縦一文字に裂傷を負っている。間違いなく、眼球を破壊されている深さの傷だ。

 

 だが、それだけなら恐怖を感じる程じゃない。これ以上に醜悪な怪物を、俺はついさっき殺しまくったばかりだ。

 

 しかし、奴の目は、無事な右目は――

 

「……おい、どうした? お前のリクエストに応じて、恥ずかしいのを堪えてコンプレックスの糸目を晒してやったんだぜ。感想の一つでも言ってくれてもいいんじゃねぇか?」

「……そうだな。いや、恥ずかしがることなんかない。素敵な目だよ」

 

 俺は、さぞかし下手糞な、引き攣った笑いを浮かべているんだろう。

 それでも俺は、不敵に言う。格好つけて、見栄を張る。

 

 だがこれは、紛れもなく、俺の本心だった。

 

「怪物らしい、悍しい目だ」

 

 奴は俺の言葉に対し、楽しげに笑みを浮かべる。

 

 自分で糸目だと言った、その目を――右目を――

 

――真っ赤な満月の如く不気味に赤いその目を、いっぱいに――目一杯に見開いて、凶悪に笑う。

 

 ……おいおい、なんでコイツ化け物度が上がっちゃってんの? 本当に勘弁してくれよ。

 

「そうかそうか、誉めてくれてありがとよ」

「なぁに、本心だよ。言わせんな恥ずかしい」

 

 だが――やるしか……()るしか、ないか。

 

「さぁて、楽しいトークはこれくらいにして――そろそろ始めようか。そして終わりにしようぜ」

「……せっかちな奴だな。だが、まぁ――同感だ」

 

 俺はゆっくりとガンツソードを引き抜く。

 

 流石に心の準備は出来てないが、戦場にいる以上、覚悟はしてたさ。

 ……逆に考えれば、コイツが陽乃さんと合流する前に会えてよかったと言える。コイツとエンカウントしたのは、恐らくは俺が最初だろう。

 

 最初で、最後だろう。最後にする。今なら俺で、最後に出来る。

 

 なら、ここで決める。ここで――

 

 

「「――殺してやる。さっさと死ね、化け物が!!」」

 

 さあ、オニ退治を始めよう。

 

 生憎、俺は桃太郎みたいな勇者じゃなく――お前と同じ、“鬼”だけれど。

 

 お前には――俺には、それくらいの方が相応しいだろ。

 

 勇者(しゅじんこう)様の手を煩わせるまでもない。

 

 ここで死ね。ひっそりと、薄暗い路地裏で、嫌悪する同属(おれ)の手にかかりながら、無様に、不幸に死ね。

 

 

 どうせお前は――俺達は、ロクな死に方なんて、出来っこないんだから。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Sideパンダ&『死神』――とあるどこかのビルの屋上

 

 

 そんな光景を、そんな戦場を、そんな戦争を。

 

 ジャイアントパンダと『死神』は、文字通りの高みから眺めている。

 

「……中々、素晴らしい光景ですね。まさか平和国日本で、これほど悍ましい戦争を見学することが出来るとは」

「…………」

 

『死神』の言葉に、パンダは何も答えない。

 だが、そんなことを、この『死神』は許してはくれない。

 

「後悔、しているんですか?」

 

『死神』は、戦場に向けていた視線を、まっすぐ横にいるパンダに向ける。

 

「あなたが大人しく、今日のミッションの標的(ターゲット)を始めからオニ星人にしていたら、少なくともここまでの取り返しのつかない事態にはならなかったでしょう。――あなたらしくないミスだ」

 

 そう、元々の予定では、今日のガンツミッションは、彼等――オニ星人のアジト周辺をエリアに設定し、始めからオニ星人を標的に行われる筈だった。

 

 当然といえば当然だ。ミッション終わりに唐突に乱入され、日中に戦士(キャラクター)を、自身の管理外で襲われた。

 

 そこまでされて、ガンツのオニ星人に対する脅威認定が、優先順位が上がらないわけがない。

 

 ガンツのミッションの標的は、通常――何か組織の“上”の恣意的な思惑がない限り――その黒い球体がランダムで、言うならば適当に設定する。

 

 だが、それでも、何事にも例外はあり、特別危険度の高い星人がいた場合、そして一般人に多数に目撃されて存在の隠蔽が難しくなった場合、その星人は優先的に標的にされ、排除される。

 

 ガンツにとって、何よりも優先されるのは情報の隠蔽だ。

 それ故に、それに応じて優先順位が決定づけられるのは当然と言える。

 

 そういう意味では、オニ星人のとった行動は、確実にアウトな行為だった。

 

 だが、それを直前になって変更し、大して脅威判定の高くないゆびわ星人へと変更したのは、このパンダによる独断の判断と、上司としての強権の発動だった。

 

 しかし、結果として、その判断は致命的なミスとなり――オニ星人は、黒金は、取り返しのつかない革命を起こした。

 

「……今の彼等では、オニ星人(やつら)には勝てない。……もはや、カタストロフィは目前なのだ。ここに来て、優秀な戦士(キャラクター)をこれ以上失う前には――」

「――その結果が、これですよ」

 

 地球を守る。

 

 それが、パンダの、そして彼が属する〝組織”の理念。

 その言葉の下に、世界中の人材が集結した、平和の為の世界組織だった筈だ。

 

 だが、目の前の、眼下に広がっているこの光景は――広がっているこの地獄は、明らかにその素晴らしく耳に優しい言葉とはかけ離れていた。

 

「それとも、これもあなたの計画の内ですか?」

 

『死神』は、尚も囁く。

 その心の中に入り込むように、鋭く、深く、切り込んでいく。

 

 優しい笑顔と、優しい言葉で、容赦なく切り込んでいく。

 

「結果として、今回の標的としてのオニ星人の戦力は、大幅に削ることが出来ました。最大派閥が丸ごととはいえ、吸血鬼組織としての幹部は一人――そして何より“始祖”と“懐刀”がいないのだから。ミッション難易度は大幅に下がったといっていいでしょう」

「…………」

「まぁ、それでも私の見込みでは、勝てる確率は良くて五分五分、といったところでしょうが」

 

 パンダは何も答えない。話さない。

 言葉を解さない獣のように。動物園の檻の中の愛玩動物のように。

 

 それでも『死神』は続ける。優しい笑顔と、優しい言葉で。

 

「そして、この地獄も、ある意味ではきっかけとすることが出来る。――あなたの言う通り、カタストロフィはもう目前なのですから。……ここのところ、二次被害もさすがに甚大になってきて、各国政府の揉み消しが限界に来ているようですし」

 

 と、死神は語り終えて、口を閉じた。

 

 パンダはやはり何も語らず、『死神』もそれ以上、言葉を投げ掛けることはなかった。

 

 言葉が返ってくることを諦めたのか、それとも無言のパンダから、何か答えを得ることが出来たのか。

 

「――まぁ、それも全て、ここで彼等が勝利すれば、の話です」

 

 だからこれは、返答を期待しない、ただの明確な会話の終了を示す結びの言葉だった。

 

「ここで彼等の獅子奮迅の健闘を願いながら見守るとしましょう」

「彼等は勝つ」

 

 故に、ここでパンダがこう口を開くのは、流石の『死神』も予想外だった。

 

「勝ってもらわねば困るのだ――地球の為にもな」

 

『死神』は、そんなパンダをしばし呆然と眺めながら――

 

「……そうですか」

 

 と、だけ返す。

 

 それ以上に切り込むのは無粋であると、『死神』は引き下がった。

 

 

 その声は、優しく、その笑顔は、優しかった。

 




戦争は、初心者であろうと玄人であろうと、誰に対しても平等に無慈悲である


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あなたは家族を守る父親なんでしょうっ!! 絶対に息子さんを助けるんだって、そう言ってたじゃないですかっ!!

Side渚――とあるふくろうの像がある公園

 

 

 瞳から青白い殺気を滲ませる水色の少年は、有象無象の怪物達の中で、只一人、人間の姿形をしたその存在だけを冷たく見据えていた。

 

 下品な程の金ぴかの髪を、無駄にサラサラのキューティクルのロングヘアを靡かせ、短い脚に相応な低い身長から精一杯顎を上げてこちらを見下そうとしている、醜悪な笑みを浮かべた一人の男。人間の姿と形をした、人間のような男。

 

 だが、水色の少年――潮田渚は見抜いていた。感じていて、察していた。

 

 あの男こそが――あの人間のような奴こそが、この怪物の集団の中で、誰よりも、何よりも醜悪な化け物だと。

 

 奴こそが、この集団の頭で――要。つまり急所。

 狙うべき――殺すべき、敵。奪うべき命。

 

 この場を切り抜ける、この窮地を生き抜ける、最も可能性の高い選択肢だと。

 

(僕には、桐ケ谷さんや比企谷さん――東条さんのように、何体も何十体も一度に相手をして切り抜けられるような戦闘力はない。……だったら、この場で最も影響力の高い敵を狙い撃って――狙い、討って、その混乱に乗じて此処から脱出するっ!)

 

 既に三度目のミッションということもあり、突発的な突飛な状況の変化に対しての対応力のようなものが身に付いてきた渚。

 この時、彼が即座に下したこの判断も、恐らくはかなり正解に近かっただろう。

 

 だが、正しい未来予想図を描くことは出来ても、それを実現させることは、また別の問題で、難易度が段違いの難題だった。

 

 ロン毛は真っ直ぐ自分に向かって駆けてくる渚を見て、更に醜く口角を吊り上げる。

 

――そして、そんなロン毛の“背後”から、何かが〝射ち”出された。

 

「っ!?」

 

 真正面の渚からは、突然黒い何かが自分に向かって突き出されたように見え、咄嗟に左に避ける。

 

 避けながら確認すると――それは触手だった。

 

 正確には、木の蔓のような触手――触手のような、木の蔓。人間の腕のような太さのそれが、渚に向かって射ち込まれた。

 

 そして、それは触手故に、一度躱した程度で逃れられるような簡単な脅威ではない。まるで意思を持っているが如く、己を躱した渚を追撃しようと、横から叩きつけるようにして、うねるように再び襲い掛かる。

 

「――――!」

 

 黒く――閃く。

 

 渚が手に持つ漆黒のナイフが、闇夜に鋭い剣閃を描いた。

 ガンツナイフは一切の抵抗を感じることもなく、滑らかにその触手のような蔓を切り裂く。

 

 反射的な行動だった為、渚自身も一瞬呆気に取られたが、すぐに再び前傾姿勢になり、膝に力を溜めてロン毛に向かって走り出した。

 

 その時、渚はようやくロン毛の後ろに立つ――男(?)の存在に気付いた。

 

 おそらくは“変態”前は男だったのだろう、周りの怪物達よりも一回りだけ大きな怪物が、金髪ロン毛の背後に佇んでいた。このチームのリーダー格の金髪ロン毛を守る側近――というよりは、SPやガードマンのような役割なのだろうか。だが――

 

「やれ」

「わ、が……ったぁ……」

 

 ロン毛の指示により、男はぶよぶよと苔に覆われた体から先程と同じように腕のような太さの蔓のような触手を“発射”させる。

 

 本性を現し、人間の姿から変態した怪物達は、確かに直視するのも憚れるような化け物へと変容していた。

 

 だが、それでも皆、どこか人間だった頃の面影を残している。

 

 触覚や角が生えたり、体色が変色したり、腕が増えたり、不気味な出来損ないの翼が生えていたりしているが、それでも人間らしさは残っている。残っているからこそ気持ち悪いというのもあるのだが。

 

 だが、そんな中でも、金髪ロン毛の背後に控えているあの緑色の巨体の怪物は、どこかおかしかった。

 

 腕は二本。脚も二本。

 全身が苔と葉で覆われていてその下は一切窺えないが、形状として頭もあることが分かる。人間らしいシルエットはしている。

 

 だが、それでも――怪物相手にこんなことを言うのはおかしいのかもしれないが――あまりにも、人間らしくない。

 

 あまりにも、怪物過ぎる。行き過ぎて――手遅れ過ぎる。

 

 渚は、ここまで明確に言葉には出来ていないが、あの緑の怪物を見て、そんな奇妙な、背筋が冷たくなるような嫌な違和感を覚えていた――が。

 

(――っ! 今は、余計なことを考えている場合じゃ――「がっ!?」

 

 そんな違和感を切り捨てるように、渚は再び蔓をナイフで切り裂いた――が、しかし、そんな思考に囚われながら片手間に戦闘が出来る程の域に、渚はまだ達していない。

 

 自分の顔面に向かってきた蔓は反射的に切り裂いたが、蔓はもう一本別角度から射ち出されて、その攻撃は、見事に渚のどてっ腹に命中した。

 

 渚の小さな身体は、その一撃によって容易く吹き飛ばされる。

 

 そして、そんな渚を追撃すべく、緑の巨体以外のロン毛の横に控えていた怪物達が、一斉に渚に向かって襲い掛かった。

 

「ふふ、よくやった」

「おで……で、きた……?」

「ああ……上出来だ」

 

 ロン毛は背後の緑の巨体に向かって、醜悪に微笑む。

 

「どうせお前は手遅れで、遅かれ早かれ俺達に多大な面倒を懸けるんだ。……それまでたっぷり働いてもらうぞ、なぁ“()()()”」

 

 その男の侮蔑するような言葉に、緑の巨体の怪物は、苔や葉によってくぐもった声で答える。

 

「う゛ん……おで……がんば、る……みん……なの……やく……に……」

 

 金髪のロン毛は笑う。

 

 嘲笑うように、笑う。〝かつて仲間だった存在”に向けて。

 

「いい子だ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 バンダナは、三百六十度を怪物に囲まれて、狂ったように笑い声を漏らした。

 

「は、はは、ははは、はははははは」

 

 そして、(おもむろ)に両手を上げて、引き攣った笑いで命乞いをする。

 

「こ、降参だよ、助けてくれ、な! な! ほ、ほら! 俺は何も武器なんざ持ってない! 丸腰だ!」

 

 彼の周囲を囲む怪物達は、そんな彼をニヤニヤと笑うだけで、一向に彼との距離を詰めるのを止めない。

 

 焦らすように、甚振るように、一歩、一歩、ゆっくりと距離を詰める。

 それと比例するように、バンダナの顔を流れる汗の量が増し、声が引き攣り、顔面が強張る。

 

「お、俺はお前たちに対して何かするつもりはねぇんだ! こ、ここにいるのも、なんかわけわかんねぇことに巻き込まれただけなんだ! 本当なんだよ! 気が付いたらここにいたんだ! 俺はなんも知らねぇ! なんもわかんねぇんだよ! 信じてくれよ!」

 

 ニヤニヤと、ニヤニヤと、化け物達は嘲笑うのを止めない。

 

 ゆっくりと、ゆっくりと、近づくのを止めない。

 

 バンダナを、追い詰めるのを止めない。

 

「知らねぇよ! わっかんねぇんだよ! ふざけんじゃねぇよ!!! なんだ!? なんでだ!? これは一体なんなんだよ!! お前ら一体何なんだよ!! 何がしてぇんだ!? 知るかよ勝手にやれよ! 頼むから俺を巻き込むなよ!! 死にたくねぇんだよ、許してくれよぉぉぉぉぉおお!!!」

 

 いつからか、それは命乞いから魂の叫びへと変わっていた。

 

 涙を溢れさせながら、目の前にいる顔面が上下逆さまの相貌の怪物に向かって、バンダナは絶叫した。

 

 その無様な姿に満足したのか、その怪物は既に崩れ切った顔面を更に歪めながら、腕が変形したことで獲得した肘から先が鎌の刃のようになったそれを振り上げて――

 

「ダメだな、死ね」

 

 と、容赦なく振り下ろそうとした時――

 

 

 ギュイーン――と、甲高い音が、公園内に響いた。

 

 

「は」

 

 鎌の怪物が表情を無に変えた、その数瞬後――体を急激に膨張させ、風船のような破裂音と共に吹き飛んだ。

 

 噴水の如く真っ赤な鮮血が降り注ぐ。

 バンダナは、それが鎌の怪物の血だと分かり、怪物も血は赤いのかと、そんなことを呆然と思った。

 

「だ、誰だッ!?」

 

 バンダナを取り囲んでいた怪物達が、仲間を殺した存在を探すべく周囲に目線を走らせる。

 

 そこにいたのは、水色の少年だった。

 

「戦って!」

 

 その少年は、水色の髪を血で汚しながら、数多の怪物に追われ、襲われながら、寸胴な銃と漆黒のナイフを手に――戦っていた。

 

 そしてバンダナに向かって、その真っ直ぐな目を向けながら――青白い殺気を滲ませる瞳を向けながら、叫ぶ。

 

 お前も、戦えと。

 

 立ち上がって、戦えと。

 

「っ!?」

 

 渚は一瞬の隙を突き、その短銃をバンダナに向かって、鎌の怪物を殺したことで空いた包囲網の穴から投げつけた。

 

 そして、そのまま目の前にいる怪物に向かって、その胸に飛び込み――人間の頃の心臓の位置に、ナイフを深々と差し込む。

 

「が、ぁぁああああああああああああ!!!」

 

 まるで人間のような断末魔の叫びを轟かせる怪物。

 

 バンダナが、渚のまるで踊っているかのような、鮮やかなその手つきに目を奪われていると、渚は再び叫んだ。

 

 その瞬間、バンダナも、バンダナを囲んでいる怪物達も、渚を襲っている怪物達も、その小さな少年が放つ――殺気に呑まれた。

 

 

「戦ってください。――()らなきゃ、()られます。戦わなければ、生き残れないッ! 死にたくないなら、戦ってください!!」

 

 

 天命は、人事を尽くさないものには決して訪れない。ただ待っているだけでは、現実は何も変わらない。

 

 ここは地獄だ。待っているだけで救われるはずはない。

 足元は死で溢れていて、動かなくてはそれに呑み込まれるだけだ。

 

 バンダナは、周囲を見渡す。

 

 死体だ。死んでいる。殺されている。

 死で溢れかえっている。まるでそれが当然であるかのように蔓延っている。ここは、そういう場所なのだ。そういう地獄なのだ。

 

 待っているだけじゃ駄目だ。願っているだけじゃ駄目だ。嘆いているだけじゃ駄目なんだ。

 

 動くのを止めたら――生きるのを止めたら、放棄したら、すぐに自分もこうなってしまう。死体に、なってしまう。

 

「~~~~~~っ!」

 

 バンダナは、その銃を胸に抱えて飛び出した。

 

「ちっ! 貴様ぁ!」

「待ちやがれ!!」

 

 鎌の怪物が死んだことで空いた包囲網の穴から逃げ出した。

 

 怖い。涙が浮かぶ。気を抜くとすぐに膝から力が抜けて、今にも転んでしまいそうだった。

 

 だけど、だけど、だけど。

 

 公園を走り回っていると、まるで浅い川を走っているかのように、びちゃびちゃと水音がする。けれど、正しい川では決してしない、ぐちゃぐちゃという何かを踏み潰す音もする。

 

 死体だ。この公園に敷き詰められた死体を、文字通り踏みにじった追いかけっこをしている。

 

 物言わぬ死体は、物言えぬ死体は、これ以上なく踏みにじられ、蹂躙されている。惨めだ。惨い。残酷で、冷酷で、そして呆気ない。

 

 人は、死んでしまえばこんなものだ。これが死体で、これこそが死だった。

 

 なんて怖い。本当に怖すぎる。

 

 何よりも、こんなふうに死んでしまうことが、こんな死体になってしまうことが――

 

「嫌だぁぁぁぁアアアアアアアアアア!!!!」

 

 バンダナは振り返り、無我夢中に撃った。撃った。撃った。

 

 正しい撃ち方なんて知らない。自分を殺そうと追いかけてくる怪物を目に捉えることすら怖い。

 

 だから目を瞑って、涙が零れないように目を全力で瞑って、二つあるトリガーを両方とも全力で引き絞り、撃って、撃って、撃った。

 

「これでいいんだろおぉぉおおおお!!! 文句ねぇだろ、ちくしょぉぉぉおおおおお!!!!」

 

 バンダナは誰かに向かって叫びながら、とにかく撃って、撃って、撃ちまくって、恐怖が限界に達したら再び全力で逃げてを繰り返す。

 

 これが、この男の戦いで、死からの逃避だった。

 

 それを渚は一瞥し、今度はもう一人の男へと叫ぶ。

 

「平さんもっ! 戦ってください!!」

 

 敵の長すぎる爪の攻撃をナイフで受け止め、弾き、渚は背後からの別の個体の攻撃を躱した。

 

 渚も決して余裕がある訳ではない。いくら三回目のミッションとはいえ、決して戦闘経験が豊富というわけではない。

 必死だった。渚も必死だった。死から逃れるのに必死だった。

 

 だが、そんな渚の叫びは、平には届いていなかった。

 

 平は、公園内を縦横無尽に動き回る渚やバンダナと違い、一か所でずっと蹲っていた。

 

 この戦いの開始直後、逃げるように公園の中心部に向かって走り、バンダナの近くで死体に顔を突っ込む形で転倒した、あの場所から、一歩たりとも動いていなかった。顔すら上げていなかった。

 地面に――否、死体に突っ伏し、身体を丸め、甲羅に潜った亀のように、微動だにしなかった。

 

 そんな存在を、この怪物達が見逃す筈がない。

 

 あっという間に囲い込まれ、リンチに遭っている。

 まさしく昔話の浦島太郎の冒頭の亀のように、数人がかりで足蹴にされ、痛めつけられている。ガンツスーツを着ていなかったらとっくに殺されていただろう。

 

 それでも平は動けなかった。ガタガタと震えながら、死体に顔を突っ込んでいた。

 

「平さん! 戦ってください、平さん!」

 

 渚の声はまるで届かない。

 

 平の心は、完全に恐怖に屈していた。

 

(無理や! こんなんどう考えても無理やぁ! なんでやっ! なんで渚はんは戦えてるや! こんなの、どっからどう考えてもおかしいやないかっ!)

 

 辺り一面の地面には、敷き詰めんばかりのぐちゃぐちゃの惨殺死体。

 

 辺り一面を取り囲むのは、人間が唐突に変形した異形の怪物達。

 

 そんな状況で、見ず知らずの死体の上を踏みにじりながら、その姿を目に入れるだけで莫大な嫌悪感を催す怪物達と――あろうことか、戦え?

 

 正気の沙汰じゃない。狂気の沙汰だ。どいつもこいつも狂っている。

 

(ワシが悪いんやないっ! こいつ等がおかしいんや! どいつもこいつもイカレとるんやッ!!)

 

 オェェエエエ!! と、平は嘔吐する。

 顔を死体にくっつけたままの、零距離で。それでも、平は顔を挙げようとしなかった。

 

 平を囲い込む怪物の一人が、にやりと笑い、平の後頭部を踏みつける。

 既に原型を留めずにグチャグチャの死体と自身の吐瀉物に顔面から押し付けられる形になる。それでも、平は顔を挙げられない。

 

 そこにあるのは、圧倒的な、理不尽への嘆き。

 

(……なんでや……なんで、ワシがこないな目に遭うんや……)

 

 ここまでの罰を受けるようなことを、自分はしたのか。

 

 確かに自分は、これまで数多くの人間の恨みを買うような仕事をしてきた。決して万人に胸を張れるような職業ではない。

 

 だが、少なくとも自分は、家族を守ってきた、一人の父親であったという自負はある。家族を愛し、家族に尽くしてきた。

 

 誇れぬ仕事の言い訳に家族を使うつもりは毛頭ないが、それでも自分の人生が無価値だと、ここまでの罰を受けるような罪深いものだとは、絶対に認めるつもりはない。

 

 例え、どれほど偉大で恐ろしい存在に、刃を首元に当てられながら罪状を突きつけられようとも、これだけは屈するつもりはない。

 

 平清は、家族を愛し、家族を守るために生きた、一人の父親(おとこ)である。――これは、揺るがない。これだけは、譲れない。

 

 だから、絶対に――

 

「――家族の元に、帰るんじゃなかったんですかっ! 平さんっ!」

「っ!?」

 

 渚の、その言葉に、平はハッと目を見開き、ほんの少し顔を挙げる。

 

 そして、そこを狙い澄ましたかのように、正面に立つ化け物の爪先が、平の顎を掬い上げた――亀をひっくり返すかのように。

 

「ぐ、ぐふぁっ!」

 

 ひっくり返す程度では収まらず、平は大きく吹き飛ばされ、死体の海を跳ねるようにして飛んでいく。

 キュイン、キュインと、スーツが悲鳴を上げる。既に限界が近い。

 

 化け物達が平の醜態を嘲笑いながら、再びゆっくりと近づいてくる。その様は、彼等の容貌が怪物でなければ、さながらオヤジ狩りのようだった。

 

 だが、平は彼等の方を一切、向いていない。あれほどに恐ろしかった怪物のことすら、今の彼の視界には入っていなかった。

 彼の胸中に渦巻くのは、先程の渚のあの言葉。

 

 そして、畳みかけるように渚は、尚もこう叫び掛けた。

 

「あなたは家族を守る父親なんでしょうっ!! 絶対に息子さんを助けるんだって、そう言ってたじゃないですかっ!! 平さん!!」

 

 渚の父親は、争いを好まない男だった。

 故に、ヒステリックで何かと好戦的な渚の母――広海の傍にいることが出来ず、別居することになってしまった。

 

 父は渚を気遣って、時折は渚と会って、申し訳ない、心苦しいと謝罪を繰り返した。渚も彼を責めはしないが――それでも。

 

 あの母親の元に、(ぼく)を一人置き去りにして、自分は逃げ出した――そう思ったことが全くないかと言われれば、嘘になる。

 

 憎んだことはないが、どうして自分だけ逃げたと恨んだ日はないかと言われれば、それは――嘘に、なる。

 

 だから渚は、平のことを気に掛けるようになったのかもしれない。このオニ星人のミッションが始まる前、そして今。

 

 自分も決して余裕がある立場ではないにもかかわらず、必要以上に肩入れし――応援、したくなってしまう。助けたくなってしまう。救いたくなってしまう。

 

 死んで欲しくないと、生きていて欲しいと、そう思ってしまう。

 

『息子がな……いじめられてるんや』

 

 ゆびわ星人のミッションの時、渚と共にゆびわ星人と戦っている時、平はこう、渚に漏らした。

 

『気ぃ弱い子でな……ワシは負けるな、絶対に屈するな、立ち向かえって……そんなことしか言えへんかった……ダメな父親や……』

 

 平はそう、自嘲するように漏らした。

 渚は、そんな平を、複雑な瞳で見つめた。

 

――ゴメンな……渚。

 

 会う時は、決まって回転寿司のカウンターだった。

 せめて息子に好きなものを腹いっぱいに食わせてやりたいという心遣いなのか、それとも寿司(それ)しか、渚の好物を覚えていないのか。

 ある程度お互いの皿が積み重なり、お茶の量が減って新たに注ぐくらいのタイミングで、父はそう、渚に漏らすのだ。

 

――気にしないでっ! 父さんもたくさん食べなよ!

 

 自分は決まって、こう笑顔で返すのだ。

 

『せやけど……せめて傍に、居てやりたいんや』

 

 平は、そう言った。ここにいない、息子(だれか)に向かって。

 

『ワシはあの子の、なんの力にもなれへん、ロクでもない父親や……せやけど、せめて……あの子が強うなって……父ちゃんなんかいらんっ! って……そう言えるくらい、強うなるまで……せめて傍に居てやりたいんや』

 

――ワシには、それしかできひんから。

 

 渚は、そう呟く平に、泣きそうな笑みで、こう答えた。

 

『……息子さんも……きっと……そうして欲しいんだと、思います。……それだけで、いいから……』

 

――傍にいて欲しいんだと……そう思ってると……思います。

 

 渚は、その時、誓った。

 

 この人を――この父親(ひと)を、絶対に、帰してみせると。

 

 父親(このひと)の帰りを待っている、息子(だれか)の元へ、生きて帰して――返してみせると。

 

 だから――だから――

 

「戦ってくださいっ! 平さぁぁあああんっ!!」

 

 ザッ、と。

 

 父親(おとこ)は、立ち上がった。

 

 無意識に腹へと移動させていた――何かを抱えるような、守るような体勢を無意識にとっていたらしい――そのケースを取り出し、開封する。

 

 そこに仕舞われているのは、八種類の金属塊――爆弾だ。

 

――父ちゃん! これ一緒にやろう! すげぇ面白いんだ!

 

 家に居る時間が長くなった息子が、そう強請(ねだ)ってきたために、自分も始めたVRMMO。

 

 息子が少しでも笑顔でいてくれればと、慣れないゲームというものに戸惑いながらも、少しずつやり方を覚えていった。

 

 だから、これらの使い方は、既に体に染み込んでいる――息子が自分に与えてくれた力だ。

 

「っ!? ちっ、あのオッサン、何しようとしてやがる!」

 

 その時、ずっとニヤニヤとした笑いを浮かべていた怪物達の表情が変わった。

 

 一斉に平に向かって駆け出し、襲い掛かる――が、平は、手を、膝を震わせながらも、一つの爆弾をしっかりと握って、そして――スイッチを入れる。

 

(柚彦――父ちゃんに、力をくれっ!)

 

 平は全力で腕を振り、向かってくる怪物達に、それを投げつけた。

 

 球型のその爆弾は、先頭の怪物にぶつかり――

 

 

 ドガァンッッ!!! と、爆発した。

 

 

 それは、クラッカータイプのBIM。

 比較的使いやすいオーソドックスなBIMで、破壊力が低いのが難点だが、それでも――あのゆびわ星人の片腕を吹き飛ばす程の、ガンツスーツを一発で破壊する程の威力を持つ。

 

 つまり、一般的なオニ星人程度なら――

 

 

「はぁ……はぁ……どうや! ……みたかぁぁああああ!!!」

 

 

――複数体を、まとめて吹き飛ばすことが可能である。

 

「な――」

「なんだとっ!?」

「どうなってやがるッッ!!」

 

 バンダナを追っていた奴等も、渚を襲っていた奴等も――そして。

 

「ば、馬鹿な……」

 

 金髪のロン毛の背の低い男も、その光景に呆気に取られていた。

 

「爆弾だと……奴等の装備のデータに、そんなものはなかったはずだッッ!!」

 

 渚は、その一瞬を見逃さなかった。

 

 ダッ! と自分を囲んでいた個体を置き去りに、一気にロン毛に向かって走り出す。

 

「な――お、おい、お前ら! そいつを止めろ! 全員がかりで近づけさせるな!!」

 

 ロン毛の指示に、渚を襲っていた怪物、そして近くにいたバンダナを追っていた怪物達も咄嗟に渚を追った。

 

 渚がそういった動揺を最も生じやすい“顔色”の時を狙ったとはいえ、これは一つの集団を預かる者として、あまりにも下策だっただろう。

 それがこの男の器と言えばそれまでだが、平が自分達の想定になかった武器を所持していたことが明らかになったとはいえ、まだまだ状況は彼等の方が遥かに有利だったのだ。

 

 バンダナが逃げ回るのも、渚が抵抗するにも限界はあり、そう時間は立たない内に、この二人は数の力によって追い詰めることが出来ていた。

 平に限っても、油断せずに連携をしっかりとって追い詰めていけば、無力化するのはそう難しいことではなかっただろう――多少の犠牲を考慮すれば。

 詰将棋のように、一手、一手をしっかり打っていれば、負ける方が難しい勝負――戦争だったはずなのだ。

 

 だが、このロン毛は、あろうことか、一人の標的に戦力を集中させてしまった。

 確かに、これまでの戦況を見れば、渚が最もこの三人の中では戦士であり、脅威であることは明確だろう。

 

 本人に自覚はないが、間違いなくこの場の司令塔であり、リーダーである。バンダナが息を吹き返し、平が立ち上がれたのは、渚が居たからだ。

 

 コイツさえ殺せば――混乱に陥ってしまった一瞬で、そう咄嗟に思考してしまうのは、有り得ないことではないのかもしれない。

 

 だが、結果としてこの判断は、致命的な敗因になる。

 

(――二秒にセット……)

 

 渚はちらりと、手元のそれを見て、背後を一瞥する。

 

 そして、自身を追う怪物達の密集具合を確認して、その立方体の金属塊のグラスモニターの数字を「02」にセットし――転がすように、後ろに投擲した。

 

「な、なんだ!?」

 

 薄暗い闇の中で突如、自分達に向かって放り投げられたそれに対し、ピタッと足を止めてしまう怪物達。

 

 咄嗟に身構えるが、一回、二回と地面に落ちても、何も起こらない。

 

 そして、それは集団の中心位置に転がり――モニタの数字が「00」になった。

 

 

 ドガァァンッッッ!!! と、爆炎を撒き散らす。

 

 

 先程のクラッカータイプよりも明らかに数段上の威力の爆発を起こしたのは、タイマータイプのBIM。トラップや待ち伏せなどに使い勝手のいい、戦略的なBIMだ。

 

「く、くそッ! なんなんだ――なッ!?」

 

 その凄まじい威力の爆発に、思わず腕で目を守る体勢を取るロン毛。

 

 だが、すぐに目を見開く。

 奴が来る。近づいて来る。

 

 爆炎を背後に背負いながら、一目散にこちらに向かって駆けてくる――瞳に青白い殺気を滲ませる少年が。

 

 一度に十体近い仲間を屠った狩人が――死神が、向かってくる。

 

 ロン毛は、思わず叫んだ。

 

「こ、殺せ! “化け物”ぉ! あのハンターを僕に絶対に近づけるなぁ!!」

「……ぐ……お……お……」

 

 ロン毛は全力で緑の巨体の背後に隠れる。

 

 そして、歯噛みしながら、決意した。

 

 このロン毛は、こんな見た目の通り、自意識が高いナルシストだ。故に、擬態を解除した後の、醜い自分の容貌を嫌う――だが、最早、出し惜しみをしている場合ではなかった。

 

(くそっ、くそっ、くそっ、くそぉぉおおおおおおお!!!)

 

 本当は、この人間の姿のまま、ハンターが狩られる姿を見て愉しむだけの予定だった。

 

 負けるつもりなど皆無だった。苦戦することなど有り得なかった。――こんなことになるなんて、思いもしなかった。

 

 計画は全て崩れた。たった一人の戦士(ハンター)――あの小さな、水色の少年によって。

 

「殺してやる……絶対に殺してやるからなぁあああああああ!!」

 

 そして、金髪のロン毛は擬態を解除し――怪物となった。

 

 渚の前に、緑の大きな怪物と、自慢の金髪の髪を上に向かって伸びる一本の角に変えた醜悪な小さい怪物が立ち塞がる。

 

 その姿を確認し、渚はナイフを持ち変える。

 

(敵は……後、二体!)




家族のために戦う父親の姿に、潮田渚は決意する。


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なんか、陰惨ッッ!!?

Side和人――とある駅の近くの大通り

 

 

(敵は……残り、二体!)

 

 和人は既に何体の敵を斬ったかなど数えていない。覚えていない。だが、気が付けば――敵は二体まで減っていた。

 

 とにかく斬り続けた。斬り裂き続けた。自らに襲い掛かる敵を、視界に捉えた怪物を、その漆黒の大剣を持って一刀に斬り伏せた。

 

 あれほど道路を埋め尽くしていた怪物達の軍勢は、その殆どが無残な骸へと変貌している。

 

 その光景を作り出した下手人である和人は、尚も剣を引き、地を蹴る。

 

 大剣に敵血を滴らせ、顔に刺青(タトゥー)のように返り血で模様を描きながらも、和人は黒色の瞳から鮮血のような真紅の闘志を放ち続け、ただ真っ直ぐに眼前の怪物のみを見据えていた。

 

「ち、ちくしょう……ッ! なんなんだよ……こんな……こんな奴がいたのかよッ!?」

 

 既に片腕を斬り落とされている、和人と宣戦布告の名乗りを挙げた、この集団の纏め役のような役割を担っていた怪物が、擬態を解除し青白く変色した肌と二本の角を生やした醜い相貌を恐怖に歪めて嘆く。

 

「う、うわぁぁぁああああ!!!」

「ば、バカ野郎! 早まるな!!」

 

 自分以外の最後の生き残りである、傍らに控えていた若造の怪物が、恐怖に耐え切れなくなったのか、拳を変化させ作り出した巨大な斧を振りかぶり、和人に向かって駆け出した。

 

 そして、両者が交錯する、その瞬間――

 

 

 カァンッ! と、和人の大剣が、怪物の斧を吹き飛ばした――その腕ごと、斬り飛ばした。

 

 

「――あ……ぁ……ッ」

 

 怪物の表情が、絶望に染まる。

 

 そして、和人はそのまま回転し、遠心力を手に入れたその一振りで、怪物の顔面をその絶望の表情のまま永遠に固定した。

 

 断末魔の表情の怪物の首が、高々と宙を舞う。

 

 それが地に落ちるまでの僅かな間、和人は背筋を伸ばし、大剣を一振りして、ようやくその刃が浴びた返り血を吹き飛ばした。

 

 そして、そのまま大剣を、背に仕舞う。

 

 カァン! と、池袋の道路のアスファルトに怪物の頭蓋が落下し、気の抜けたような音が響いた。

 

 残された最後の怪物は、得物を仕舞った和人の挙動を見ても、一切恐怖が消えなかった。

 

 和人の瞳からは、その真紅の炎のような鋭い闘志は、全く消えていなかったから。

 

 そして、そんな怪物の絶望を裏付けるように、和人は右腰の鞘の剣に手を伸ばし――その柄を掴んだ。

 

「お前が最後だな」

 

 和人はそう呟きながら、ゆっくりと、その漆黒の宝剣を引き抜いていく。

 

 怪物は、思わず一歩、後ずさる。

 

 その瞳は、完全に恐怖に染まっていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その光景を彼等は――人間達は、一般人達は、呆然と眺めていた。

 

 陶然と、見惚れていた。

 

 戦場となった大通りの、道の外側。

 傷を負い、逃げ遅れ、怪物達の恐怖を脳髄にまで叩き込まれ、死を覚悟し絶望に暮れていた、その人間達は、この光景に目を奪われていた。

 

 突如、どこからともなく現れた漆黒のスーツを身に纏った一人の少年が、あの恐怖の怪物達を、たった一本の大剣でその悉くを打ち破り、無双していく様に、心を奪われていた。

 

 そして、その少年は、とうとう残り一体まで追い詰め、ゆっくりと新たな剣を引き抜き、この戦いに終止符を打とうとしている。

 

 颯爽と現れた一人の戦士が、絶体絶命の我等の窮地を覆し、か弱き民を救い出してくれる――それは、まさに。

 

 自分達が見ているこの光景は――まさに、物語のような英雄譚だった。

 

 今、目の前で怪物達を殺し尽くし、自分達を守ってくれているあの少年は、まさしく――物語の英雄のようだった。

 

「……ヒーローだ」

 

 誰かがポツリと、呟いた。

 

 テレビの中だけだと思っていた。そんな都合のいい存在は、虚構(フィクション)の中にしか存在しないのだと分かっていた。

 

 誰もが憧れ、その実在を願い、それでもゆっくりと諦めていった存在が――今、目の前にいる。

 

 映画のような怪物に襲われ、訳も分からず殺されようとしていた、そんな理不尽な地獄の中で、やっと出会えた。

 

 ヒーローは、来てくれたんだ。

 

「黒の……剣士」

 

 誰かが、ふと呟いた。

 

 漆黒のスーツを身に纏い、漆黒の剣を操る、漆黒の剣士。

 

 彼こそが、黒の剣士。

 

 英雄――黒の剣士。

 

「く……そ……がッ! ああああああああああああ!!!!」

 

 怪物が和人に向かって特攻する。

 

 和人は漆黒の宝剣を一振りし、それを迎え撃つ。

 

 

 こうして桐ケ谷和人は、再び英雄となっていく。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side東条――とある高速道路の高架下

 

 

 そして、そこから少し離れた、けれど同様に地獄となっている池袋の中のとある場所――とある戦場。

 

 ここでも、一人の規格外が、同様に人間達の注目を集め、怪物達に絶望を植え付けていた。

 

 突如として現われ、人が溢れかえる程に賑わっていた池袋で虐殺を開始し、瞬く間に都会を地獄へと変えた、謎の怪物集団。

 

 とにかく無我夢中で逃げ回り、だが頼みの綱の警察官達でさえ蹂躙され、もう駄目だと誰もが諦めかけた――その瞬間(とき)

 

 一筋の光と共に登場し、その怪物達を瞬く間に圧倒した、まるで某光の巨人のような救いのヒーローは――

 

 

――今、二体の怪物の顔面を掴み上げ、凶悪な笑顔と共に、両腕でそのまま吊り上げていたっ!

 

 

「「「「「なんか、陰惨ッッ!!?」」」」」

 

 その戦いを固唾を呑んで見守っていた一般人達が思わずそんなことを叫んでしまうくらい、その様は正義のヒーロー像からはかけ離れていた。

 

 由香はそんな東条の足元で、思わず引き攣った苦笑いを浮かべる。

 

 確かに東条も和人に匹敵する――いや、こと戦闘力だけを見れば、東条は和人を上回っているだろう。

 

 だが、それでも東条はヒーローにはなれない。もっと言うのなら、民衆が求める、英雄にはなれない。

 

 強さを求める兵団の大将にはなれても、人々の期待を背負える勇者にはなれない。

 

 敵に絶望を与えることは出来ても、味方に希望を与えることは出来ない。

 

 だって、そりゃあ――

 

 

「ははははははははははははは!!!!」

「ぎゃぁぁぁああああああああ!!!!」

「いやぁぁあああああああああ!!!!」

 

 東条はそのままグルグルとその二体の怪物を振り回し――

 

「ぐぶふぁッ!!」

「ごでゅふぁ!!」

 

――二体の頭部をアスファルトの地面に叩きつけて埋め込んだ。

 

「………………」

 

 そんな様を見て、一般人と由香は言葉を失う。

 

(…………引くなッ!!)

 

 由香は心の中で突っ込んだ。

 

 そりゃあ、こんな怖すぎる戦いを喜々として行い、あんな残虐な行為の後、満足げに爽やかに額の汗を拭っているこんな男を、誰もヒーローだとは思いたくない。

 

 だが、それでも、今まさに命を脅かされていた一般人の彼等にとって、怪物達を物ともせずに圧倒し続ける東条は、怖いけど、ぶっちゃけ引くけど、この状況を打破してくれるかもしれない存在であることには変わりない。

 

 民衆は、東条に畏怖の念を抱きながら、それを押し殺して、仄かな期待を抱いて、見守る。

 

 突如現れた規格外と、怪物達の戦争を。

 

「――おい、もういねぇのか? オレとケンカしてくれる奴はよぉ?」

 

 東条英虎は、首を鳴らしながら不敵に言い放つ。

 

 だが、化け物達はその男に近づけない。

 登場と共に数秒で、自分達の同胞数体をあっという間に吹き飛ばした男に、軽はずみに近づくことが出来ない。

 

 女吸血鬼も、その他の化け物も、警察官も、ギャラリーの一般人達も、誰もが言葉を発せず呑まれる中、どこからかサイレンの音が近づいてくる。

 

 人混みが割れ、そこから一台の覆面パトカーが乱入し、そこから二人の男達が姿を現した。

 

「悪い、遅くなった」

「……何だ、これは?」

「さ、笹塚さん!!」

 

 盾を持ち額から血を流している一人の若い警察官が、新たに現れた男の一人を見て、そう感激したように言葉を発する。

 

 それを見て、東条はあっけらかんと言った。

 

「なんだ、お巡りがいたのか」

 

 え? 気づいてなかったの!? という由香の言葉を余所に、東条は由香を肩に、いつもの工事現場のバイトで荷物を運ぶ時のように担いで――「ちょ、雑過ぎない!?」という由香の叫びは笑って流した――警察の元へと向かった。

 

 化け物達は東条が近づくと、途端に恐れをなしたように道を開け、遠ざかっていく。そして、そのまま女吸血鬼の元へと向かった。

 

 そして傷ついた警察官と、新たに現れた笹塚、烏間の元に歩み寄った東条は、担いでいた由香を下して――

 

「なぁ、お巡りさんよぉ。コイツ、頼むわ」

「――ん?」

「……何?」

「えぇ!?」

 

 もちろん再びあれをやりたいわけではないが、てっきり前回のゆびわ星人の時のようにそのまま背中にしがみつく羽目になると半ば覚悟していたので、複雑な気分になる由香。

 あうあうと手を東条に向かって伸ばしては引っ込めてという挙動の由香に直ぐに背を向けて、そのまま東条は「じゃあ、よろしくな」といってオニ星人の元へと向かおうとする。

 

「待て」

 

 が、そんな東条を烏間が引き留める。

 首だけ振り向く東条に、烏間は鋭く問いかけた。

 

「君達は何者なんだ? ――あの怪物達のことを、何か知っているのか?」

 

 東条はその言葉を受けて、ふっと微笑み、そのまま背を向けて手をひらひらと振りながら、オニ星人の元へと再び歩み始める。

 

「さぁな。オレは強え奴とケンカしてぇだけだからな。よく分からん。――だけど、まぁ、アイツ等は、オレがなんとかしてやるよ」

 

 烏間は尚も食い下がろうとするが、笹塚がそれを止める。

 そして烏間が笹塚に向かって口を開きかけるのを制するように、笹塚は自分の名を呼んだ警察官に向かって目線で尋ねた。そして彼は二人に状況の説明を始める。

 

 由香はそれを聞き流しながら、東条の背中だけを見つめていた。

 

「ま、待って!」

 

 気が付いたら、思わずそう叫んでいた。

 東条はきょとんとした顔で振り向く。由香は、一瞬大きく口を開けたが、何かを呑み込むように口を閉じ、そして、改めて――

 

「が、ガンバレ!」

 

 そう、顔を真っ赤にして、言った。

 

 東条は、その激励を受けて、無邪気に笑い――

 

「おう」

 

 と、だけ、答えた。

 

「――――っ」

 

 その笑みに、由香は顔を真っ赤にしたまま、呆然と佇む。

 

(……あ、あれ……なに……これ……)

 

 心臓がバクバクと全身に血流を送る。鼓動音がうるさいくらい耳に響く。

 

 思わずキュッと唇を噛み締め、胸の前で――心臓の前で、手を握った。

 

 これって……と由香が東条の大きな背中に見蕩れていると――

 

「――つまり、これだけの警察官を圧倒したあの怪物達を、あの漆黒の全身スーツを着た男が単独で撃破し続けていると……にわかには信じがたいな」

「……それでも、現状はそれを物語ってる。今は、彼の戦いを見守るしかないだろ。何せ、今の俺達には、この貧相な拳銃しかない。機動隊のライフルが通用しなかった相手には……残念だが太刀打ちできない」

「……彼が窮地に陥ったら、助けに向かうしかない……か。大人達が何人も雁首を揃えて……情けない話だ」

「全く。……だから、今は――」

「――ああ、そうだな」

 

 がしっ、がしっ――と、由香の両肩に、大の大人の男の人の手が、本庁の刑事と防衛省のエリートの大きな逞しい手が、優しく、それでも絶対に逃がさないとばかりに乗せられた。

 

(…………あれ? なにこれ?)

 

 さっきまで乙女モードだった由香だったが、今はだらだらと冷や汗を流している。

 由香くらいの年頃の女の子なら、烏間や笹塚のような男にこんな行動をされれば恐怖を感じるかもだが、由香は別の意味で嫌な予感がしてたまらなかった。

 

「あの……なんでしょうか?」

 

 由香は勇気を出して、引き攣った笑顔で二人を見上げた。

 笹塚と烏間は、一切の笑みを浮かべず、やる気のない無表情と堅物な真面目顔で言った。

 

「すまないが、こちらとしては、少しでも有用な情報が欲しい」

「……彼と同じ“不可思議な漆黒の全身スーツを着ている”君なら、何か知ってんじゃないかって思ってね」

「ですよねー」

 

 由香は心の中で泣いた。

 

(なんでわたしがこんな目にぃぃぃぃいいいいいいいいいい!!!!)

 

 湯河由香。十二才。生まれて初めての職務質問(?)だった。

 

 彼女の悲運は、まだまだ続く。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 一方、中学一年生女子が心の中で号泣している時、そんなことは露知らず、女吸血鬼を中心に固まっているオニ星人達に向かって、獰猛な笑みを浮かべながら東条が近づいていく中、オニ星人達は恐怖と困惑と共にこの集団の指揮官である女吸血鬼に向かって問うていた。

 

「……どうします、姐さん。奴の強さ、尋常じゃないですぜ」

「まさか、あの目が腐ったガキの他にも、あんな奴がいるなんて……」

「……いっそのこと、全員で取り囲んで――」

「――無駄さね。今の私たちが何十人束になろうが、コイツは止められない。……それこそ時間稼ぎしか出来ないだろうね」

 

 オニ星人は、元々が人間だった者達だ。

 故に知能は当然、人間並みに高い。少なくとも彼等は、東条英虎という目の前のハンターが、オニ星人の中でも下っ端な自分達よりも、遥かに強い存在であることを明確に理解していた。

 

「けれど、私はそんなみっともない真似をしたくない。これ以上、あの人達に貸しを作っちゃあ、いつまで経っても私は黒金様のお傍には置いてもらえないじゃないか」

 

 だが、女吸血鬼はそんな彼等の泣きごとを一蹴し――決断した。

 

「――私も、擬態を解除するよ。……あの怪物ハンターは、私達の手で倒すのさ」

 

 その言葉に、彼女の部下達がどよめく。

 

「で、でも、姐さん!! 姐さんの“能力”はかなり危ない状態なんでしょう!? 篤さんに使用は控えるように言われてる筈――」

「私が仕えてるのは、篤さんじゃなく黒金様さぁ! あの人に見限られちゃあ、私にとっては死ぬのと同じなのよ!!」

 

 そう言って、彼女は一歩前に出る。

 

 自分達の部下である彼等に向かって、儚い笑みを持ってこう言いながら。

 

「……もちろん、そんなことであの怪物を倒せるとは思い上がってない。――アンタたち、私の馬鹿に付き合ってくれるかい?」

 

 返答は、決まっていた。

 

 彼等は一歩、彼女に並ぶように、力強く踏み出す。

 

 それを見て、ふっと満足気に笑い、小さく「……愛してるよ、馬鹿野郎共」と呟きながら、女吸血鬼は東条と向き直る。

 

「――待たせたね、アンタの喧嘩……私たち全員でお相手するよ」

「……ふっ、面白え。全力でかかってきな」

 

 もはやどちらが悪者なのかが分からない様相だったが、東条英虎にとってはいつものことだった。

 

 女吸血鬼は、一度目を瞑り、そして――カッと見開いた。

 

 メキ、メキメキメキと音を立て、その身体を異形へと変えていく。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 烏間と笹塚は、由香が拙く話すその信じがたい情報を精査していた。

 

「――黒い球体の部屋。宇宙人との……戦争……」

「……つまり、君達はその黒い球体によって、この池袋に送られて……あの怪物――オニ星人、だったか――を討伐する為にやってきた……そういうことでいいのか?」

「た、たぶん……わたしは、今日がはじめてで……よく分からない……です。も、もっと、詳しい……たぶん、何回もこんなことをやっているような人達が、何人かいて……その人たちも、たぶんどっかに来てる……はず……です……たぶん」

 

 大人の人――それも怖げな男相手だからか、たぶんを連呼して恐る恐る語る由香だったが、本人が言う通り、由香はまだ二回目のミッション――ガンツ歴数時間の初心者も初心者だ。語れと言われたから語ったが、まだ何も分からない彼女は、そう手探りで喋るしかなかった。

 

 だが、笹塚は本職の刑事である。要領を得ない、情報量の少ない説明から要点を掴む技術は職業柄身に着けていたし、烏間も外国で何度も尋問を(する側もされる側も)経験したことがある。由香の説明からも、ある程度の知りたい情報は得ていた。

 

 確かに、信じがたい話だ――だが、こうして目の前で、超人スーツを着た人間と、異形の怪物の戦争が行われているのを、この目で、今もはっきりと見ている。

 

 故に、今、自分達が考えるべきことは――

 

(――この戦争が、今、池袋の至る場所で行われていること……そして、オニ星人という怪物によって、命を追われている人々が大勢いるということ)

 

 烏間はそう思考する。

 今、自分達が一刻も早く行うべきことは、早急に池袋中に人材を派遣し、命の危機に瀕している人々を救出することだ。

 

 だが、その為にはオニ星人を討伐しなくてはならない。――奇しくも、この少女や彼のような漆黒のスーツの戦士達と、同様の目的。

 

 そして、彼等は自分達よりも、オニ星人を討伐するのに相応しい力を有しているという。

 今、笹塚が連絡している為、警察の応援の増援もそう遠くない内に駆けつけるだろう。自分も防衛省の方に連絡する。そうすれば自衛隊も動く。これだけの事件だ。最早、隠蔽は不可能だろう。

 

 だが、事態は一刻を争う。その為には、池袋の何処かにいるという、他の漆黒のスーツを纏った者達の協力を仰ぎたい。

 そして、少女が言う、こういった星人討伐を何度もこなしているという、彼女よりも正確で、より多くの情報を知り得る“ベテラン戦士”から詳しく情報を、事情を聞きたい。

 

 これは、間違いなく国家の危機だ――いや、下手をすれば世界の――つまりは、地球の――

 

「さ、笹塚さん!! なんですか、アレ!!」

 

 あの警察官が、涙声でそう笹塚に叫んだ。

 

 その声に顔を上げた烏間は、由香と、そして咥えていた煙草をポトリと落とした笹塚と共に、呆気に取られた。

 

 そこには、大きな角を生やした、一体の巨大な芋虫のような生物が出現していた。いや、芋虫というよりは、女の下半身が芋虫のようになった化け物、という方が正しいか。

 

 頭は電灯程の高さにあり、全長はおよそ十メートルは下らない。胸部は乳房が剥き出しで、瞳は真っ黒に染まり、目から真っ赤な血を流している。その豊満な胸と、牙と角を生やしながらも崩れていない顔のみが、人間だった頃の名残を残りしていた。

 

 その顔に、由香は見覚えがあった。自分を天高く放り投げた、あの女吸血鬼。

 

 あの美人だった女性が、こんなにも醜悪な化け物になってしまうことに、由香は深い恐怖に襲われた。

 

 既に一般人のギャラリーは恐慌に陥り、少しでもあの怪物から遠くにと逃げ出している。化け物達は全てあの大蛇の傍に寄り添っているので、彼等の行く手を阻む者はいなかった。

 

 残されたのは、その化け物連中と相対する東条と、遠目でその戦いを見ることしか出来ない警察官達、烏間と笹塚、そして――

 

「……お嬢さんも逃げるか? ……というより逃げた方がいい」

 

 そう、告げる笹塚に――

 

「――ううん、逃げない。邪魔になるといけないから、近くにはいけないけど……それでも、ちゃんと見る。……ちゃんと見てる」

 

 と言い、警察官達の後ろに隠れながらも、真っ直ぐとその戦いを見つめるべく、湯河由香は戦場に残った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「あ……あぁ…………ァァ…………」

 

 その芋虫の怪物は、最早、人の言葉を発さなかった。発せなかった。

 瞳を両眼とも真っ赤に染め、胸を突き出し、天を仰ぎながら、悶え苦しむように荒い息を吐き出す。

 

「……くろ……がね………さま………ァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」

 

 だが、それでも彼女は、戦うのを止めなかった。

 あの男に、あの最強の吸血鬼に、尽くすのを止めなかった。

 

 大きな体を不気味にくねらせ、東条に向かって襲い掛かる。

 そんな彼女に続くように――死地だろうと、地獄だろうと、何処までも共に行くとばかりに、寄り添う化け物達も一斉に続いた。

 

 東条は、そんな彼等を、そんな怪物達を、指を鳴らし、片足を引いて体を開きながら、真っ向から迎え撃つ。

 

「来い。――気が済むまで、相手してやるよ」

 

 そして、怪物達が――衝突する。

 




桐ヶ谷和人は英雄を求道し、東条英虎は闘士を求道する。


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俺の部下を、舐めんじゃねぇ

Side陽乃&あやせ――とある路線の出口近くの吹き抜け空間

 

 

 その二人の狩人(ハンター)は、漆黒の髪を闇夜に靡かせながら、まるで踊るように戦場を舞った。

 

「ふっ!」

 

 陽乃は敵の大振りの攻撃を躱し、そのがら空きの胴体に槍を突き刺しながら、その個体を盾にするようにして前方の他の個体にYガンを発射する。

 

 光を纏う捕獲ネットが、暗闇を滑空しながら件の個体を捉えた。

 

「な、おま――」

 

 そして、その個体の隣にいた別の個体が、同胞の窮地に動揺し、一瞬視線がそちらを向いたその瞬間、既に盾から引き抜いていた漆黒の槍がその個体の頭部を貫く。

 

「――な」

「バイバイ」

 

 驚愕するYガンで捕えられた個体は、いつの間にか自身に接近していた陽乃に気付くことなく、もう一度Yガンで撃たれ、そのまま天に向かって転送される。

 

(……大体、片付いたかな?)

 

 辺りを見回すと、怪物達はその数を大幅に減らしていた。

 

 奴等は人間のような知性を持っていても、格別に頭が切れるわけでも、特別に集団としての戦闘訓練を受けていたわけではないらしい。

 いいとこチンピラやヤンキーの喧嘩集団といったところか。近くに居る敵に手当たり次第に殴りかかるといった単純な行動パターンだったので、陽乃にとっては対応に苦労しない敵だった。

 

 一体一体もそれほど群を抜いて強いわけではない。千手ミッションの時の終盤の仏像程だろうか。

 あの千手観音とは比べものにならない。この程度の敵ならば何十体集まろうが、雪ノ下陽乃の敵ではない。

 

 ふと、とある方向に目を向ける。自分と少し離れた場所――三体程の敵に囲まれているのは、新垣あやせ。

 

 陽乃とは、つい先程自己紹介を交わし合ったばかりの――おそらくは、比企谷八幡に並々ならぬ感情を抱き始めている少女。

 

 気に食わない――だけど、どこか憎めない。

 

 そして、“あの少女”と、少し面影が重なる少女。

 

 ……なんか、似てる。

 陽乃は、あの少女と言葉を交わす内に、そんな思いを抱き始めている。

 

 声や、黒髪だけじゃない。いや、むしろ、そこ以外は、二人は外見上はあまり似てはいない。

 

 けれど――どこか、重なる。

 

 愚直なくらい、愚かで真っ直ぐで、純粋なところ。

 

 我が強いところ。自分の考えを曲げず、それが正しいと思い込むところ。

 

 けれど、芯は少し脆くて、他人に依存しがちなところ。

 

 陽乃はあやせのそんな性質を、この短時間で直ぐに見破った。

 

 それは、多分、どこか〝雪乃”に――〝妹”に、似ていたから。

 

 けれど――やはり、異なる。

 新垣あやせは、雪ノ下雪乃とは、違う。

 

 決定的に、違う。

 

 決定的な、違いが、ある。

 

 それは――

 

「――あぁ、うっとうしい」

 

 低く、冷たい、呟きが聞こえた。

 

「……そろそろ、かな?」

 

 陽乃は目の前の怪物(ざこ)を斬り伏せながら、再び、その少女の方を向いた。

 

「あぁん? ガキが、テメェ、何かほざきや――がふぁッ!!??」

 

 あやせは俯いた顔を上げると、修羅のように目の前の怪物を睨み付けながら、大きく膝を曲げ、飛び上り、右膝で敵の顎を蹴り砕いた。

 

「――な!」

「こ、こい――」

 

 ギュイーン! と、着地と同時に左側の敵にXガンの攻撃を浴びせる。

 

 ギュイーン! ギュイーン! と続けざまに連射する。「て、てめ――」と撃たれた敵があやせに向かって手を伸ばすも、それが届く前に呆気なく破裂した。

 

「このアマ――ぐふぁっ!!」

 

 そして、残る一人が背を向けるあやせに飛び掛かろうとするも――後ろを向いたまま、あやせは、半歩横に移動し、鋭く足を上げて、その後頭部に踵を振り下ろした。

 

 ガンッッ!! と地面に叩きつけられる怪物。

 そのまま、あやせは顎を蹴り砕いた星人と共に、その個体にXガンの連射を浴びせ、確実に止めを刺す。

 

 バン!! と屍が破裂すると共に、吹き出した返り血を浴びるあやせ。

 

 だが、あやせは苦々しい表情でそれを拭うと――そのまま残存する標的に、殺意の篭った眼差しを振り撒いた。

 

「次は――誰です?」

 

 ゾっ!! と、一歩、怪物達は後ずさる。

 

(……やっぱり)

 

 陽乃は〝それ”を冷たい眼差しで見遣る。

 

 これが――雪ノ下雪乃と新垣あやせの違い。

 

 雪乃は、普段は苛烈で孤高。他者に対して厳しく攻撃的に振る舞うが、その内面は打たれ弱く、支えを求める。

 

 だがあやせは、普段は明るく心優しい。他者に対して礼節と尊敬を持って接する――が、その内面は――自分が価値を見出さないもの、自分の目的を邪魔するもの、認めないもの、許せないもの――つまり、敵。

 

 敵に対し、恐ろしく冷淡で、容赦なく――非情。

 

 どこまでも、どこまでも、どこまでも――攻撃的になれる。

 

 正反対の、二面性。

 

 内に秘めるものの違い。

 

 新垣あやせ。

 

 心優しく、純粋で、正義感が強く、自分の好きなものに対しては、どこまでも理想を――理想的を、求める少女。

 

 そんな彼女が、内に、心に、秘めるものは――

 

「………………」

 

 陽乃は、そんなあやせを細めた瞳で眺めた後、彼女に恐怖し動きを止めている怪物に向かって駆け出す。

 

(……まぁ、今は静観かなー。こういうタイプは、壊れる時は勝手に壊れるものだからねぇ。……それはもう、悲惨なくらい、盛大に)

 

 陽乃は冷めた瞳のまま、一体、また一体と串刺しにしていく。

 

 あやせも淡々と、敵の頸を蹴り砕き、Xガンで吹き飛ばしながら狩っていく。

 

 この後は、狩る側と狩られる側が入れ替わることは、終ぞなく。

 

 戦争ではなく、まさしく一方的な狩りとなった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side八幡――とある飲食店が立ち並ぶ裏通り

 

 

 こんなのは戦争じゃない。殺し合いでもなければ、戦いですらない。

 

 ただの、一方的な――狩りだ。

 

「いい加減、ちょこまかと逃げてんじゃねぇよ、獲物がぁッッ!!」

「――ッ!?」

 

 俺は無我夢中に、その扉が開いていた店舗に向かって飛び込む。

 

 が――その扉は背後の追跡者によって、ガシャァンッ!! と軽々と盛大に破壊され、回転寿司屋の店内に破片が降り注がれる。

 

「――チッ!!」

 

 俺はそのごたごたに紛れ、再び周波数を弄り、透明度を変化させる。

 こんなのは小細工の中の小細工だが、相手が一瞬訝しむ――それくらいの、その程度の、違和感のようなそれでも、作れる隙はほんの少しでも欲しい。

 

 案の定、奴は一瞬、俺を見失ったようで、盛大に舌打ちをしながら、片腕だけ変化させた怪物の右腕を大きく引き、吠える。

 

「……人間(ゴミ)がぁっ! そんなに一瞬の寿命が欲しいかッ!!」

 

 俺は入ってきたのとは別の出口――をスーツの力で壁をぶん殴って強引に作り出し、脱出する。

 

 その一瞬後に――その店舗は吹き飛んだ。

 

 黒金の、たった一発の拳によって。

 

「くっ――」

 

 俺は、その衝撃に背中を押されながら、とにかく物陰に身を隠す。

 

 黒金は、ゆっくりと砂塵を纏いながら、表情を険しく歪めながら、倒壊した店舗から姿を現す。

 

「……おい、いい加減ヘイト値はマックスだぜ、腐れハンター。……テメェ、やる気あんのか?」

 

 奴は低い迫力の篭った声で、そう呟く。……だが、見当違いの方向を向いているので、一応、姿を隠すことには成功したらしい。

 

 悪いな。お前にとっては相当苛立つ戦い方だろうが、俺にとっては正攻法なんだよ。

 

 ていうか、お前みたいな化け物と、真正面から真っ向勝負なんざ、出来るわけねぇだろ。夕方のあれは、相当な奇跡の集大成なんだ。一歩間違えたら死亡みたいな綱渡りを何回渡ったと思ってやがる。

 

 それでも――殺せなかったんだ。全く、届かなかったんだ。

 

 俺と黒金には、それくらいの歴然とした差が――戦力差が――戦闘力差が、明確に存在する。

 

 その上……あの腕だ。人間みたいな容姿とは、明らかに異なる形の――異形の右腕。

 

 この池袋のあちらこちらを跋扈する怪物達と同様の、化け物の右腕。……ってことは、おそらく……あいつも――黒金も、変身するんだろう。

 私はまだ二つ変身を残しています。その意味が、分かりますね? ってか。戦闘力は53万ですってか。冗談じゃねぇんだよ。ふざけんな、このフリーザ様め。俺はサイヤ人じゃねぇんだよ。あんな戦闘大好きドM集団じゃねぇんだ。死の淵から生還する度に強くなるみたいな便利機能(チート)は持ち合わせていませんごめんなさい。……いや、まさか実際に二回は変身したりしないよね? 一回だけだよね? なんかすっきりとしたフォルムになったりしないよね? ゴールデン黒金とか勘弁してよ。やだっ、名前的に金が二つもあってお洒落! 勘弁してくださいお願いします。

 

 ……はぁ。でも、実際の所、一回は変身したりするんだろうな。そんで変身したら戦闘力が跳ね上がったりするんだろうなぁ。はは、死にてー。これなんてバトル漫画?

 

――だが、死ぬ訳にはいかない、しな。……なら、律儀に変身シーンを待ったりする必要なんかない。むしろ積極的に邪魔してやる。俺にお約束は通用しねぇ。どやぁ。

 

 奴が今の所右腕だけしか変身してないのは、何かリミッター的なものがあるのか、それとも単純に出し渋っているだけか――どちらにせよ、チャンスでしかない。

 

 これまでのアイツの行動からして、あんまりヘイト値を上げすぎると、後先考えずにむしゃくしゃしたからやったみたいな思春期な理由で完全に変身して、ここら一帯を吹き飛ばしかねない。マックスとか言ってるが、後先考えずに大暴れしていないだけまだ奴の頭には血が上りきってはいない。まぁ、相当頭に来ているのは本当だろうが。

 

 だが、完全に頭を冷やされ、落ち着いて冷静に戦われたら――万全なコンディションで真っ向勝負に持ち込まれたら、俺に勝ち目はない。

 

 コントロールするんだ。戦況を――戦場を。奴の俺に対するヘイト値を。

 

 場は何も強者だけが――狩る側だけが支配するもんじゃない。

 

 追われる弱者も、狩られる側の獲物も、調子に乗って追いかけてくる肉食動物を、知らず知らずの内に崖際まで追い詰めることだって出来る。

 

「…………」

 

 夕方の戦いの時にはなかった、この小細工道具達。あのクローゼットから持ってきたアイテム類。――何も、奥の手があるのはアイツだけじゃない。

 

 やってやる――()ってやる。

 

 圧倒的な力を持つ、一方的に狩る側の強者。上から目線で弱者を見下す強者。

 そいつを、俺の支配する戦場に引っ張り込み――引きずり込み、引きずり下ろし、殺し合いの戦争に縺れ込ませてやる。

 

 焦るな。アイツはボスだ。

 制限時間もなくなったんだ。どれだけ時間をかけてもいい。

 

 コイツさえ、殺せば――

 

「――俺さえ殺せば、あとはどうとでもなる。……そう考えているな、ハンター」

 

 ピクリ、と、Xガンの引き金にかけていた指が動きかける――が、そこはさすがにガンツミッション歴の長いベテラン選手の俺、余裕で動揺を押し殺す。……嘘です、すげぇビビってました。なんだよアイツ、読心まで出来るの? ここにきて更にインテリキャラまで上乗せサクサクされたら絶望を通り越して引くわ、と思いながら、俺は声を押し殺し、黒金の言葉に耳を澄ます。

 

 ちらっと物陰から外を見たら、奴は相変わらず見当違いの方向を向いていて、だが、それでも俺が近くにいることは確信しているのか、顔を上げて、声を張り上げて、その強者の言葉を続けた。

 

「確かに、今回のこの事件を引き起こした吸血鬼は俺の配下達だ。――つまり、俺がリーダーで、俺が最強だ。お前らが言うボスって奴だ。そういう意味では、俺を殺せば、後はどうにかなるかもな」

 

 ペラペラと重要っぽい情報を提供してくれる黒金。

 

 まぁ、黒金をボスだと考えていた俺なので、そこには驚きはない。……だが、当てにならないと評判なガンツのサンプル画像が黒金だったので、ひょっとしたら黒金よりもヤバい隠しボスがいるんじゃねぇかと危惧はしていただけに、少しほっとした。……まぁ、黒金も把握していない隠しボスがいる可能性や、黒金が嘘を吐いている可能性も否定しきれないが、今はそこまで考えていてもしょうがないのは確かだ。……そういったことは、どっちにせよ黒金を殺してから考えるべきことだ。

 

 それよりも俺が気になったのは、“今回”、そして“黒金の配下”、という言葉。

 

 そこから、以前にも――今回ほど大規模ではないにしても――事件を、戦争を起こしたことがあるという前科や、そして黒金が従えていない別のグループの存在……そんなものを感じ取ってしまうのは、俺の性格が捻くれているからか?

 

 ……いや、桐ケ谷はあの氷川とかいう金髪に襲われていたといっていたし、夕方の事件の時に“篤グループ”の奴等に一泡吹かせられるとか言っていた奴もいた。……つまり、全ての吸血鬼がここに来ているわけではないということか?

 

 だが、それはあくまで今回に限れば――今後再び厄介事として降りかかってくる可能性は否めないが――それは朗報のはずだ。一つのグループのリーダー格――つまり、黒金と同等クラスの化け物は、今この戦場にいないということなんだから。

 

「だがな、俺は割と今回のこの戦争に賭けているんだ。全力全開で戦争(こと)に当たらせてもらっている。――ウチの組の、総力を挙げてって奴だ。……つまり、何が言いたいのかって言えばな――」

 

 そこで、黒金は、一際低く、恐ろしく――冷たい一言を告げた。

 

 

「俺の部下を、舐めんじゃねぇ」




美しき狩人たちは舞踊し、醜き狩人は蹂躙する。


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この怪物は………なんて――辛そうに、哭くんだろう……

Side渚――とあるふくろうの像がある公園

 

 

 渚が再び漆黒のナイフを閃かせ、二体の大小の化け物に向かって、臨戦態勢で突っ込んでいった――――その時。

 

「ぐ……お……」

 

 緑の巨体の化け物が、突然、そんな呻き声を上げた。

 

「…………?」

 

 その異様な様子に、渚は思わず足を止めてしまう。

 

 きょとんとする渚とは対照的に、ロン毛(だった)低身の怪物は、途端に狼狽し、苦々しげに舌打ちをする。

 

「――ッ!? くそっ! こんなタイミングで“限界(リミット)”かよッ!?」

 

 緑の巨体の怪物は、己の身体を掻き抱くようにして悶え苦しみ出し、そして、両腕を開いて、天に向かって咆哮する。

 

「ぐっ、おぉぉぉおおおおおおおおおおオオオオオオオオオオオ!!!!」

 

 その咆哮の威力と迫力に、思わず渚と後ろのバンダナと平は、腕で顔を覆ってしまう。

 

 緑の巨体は咆哮と共に、メキ、メキメキメキ、メキメキメキメキと、巨大な体を更に大きく“変形”させる。

 

 それは、苔や葉を大量に纏うその身体そのものがさながら大樹であるかのように、大樹が更に大きく生長するかのように、みるみる膨れ上がり、ぐんぐんと伸びていく。バキバキ、バキバキバキと、その幹のような図太い体躯から、太い枝が一本、また一本と、まるで槍を突き刺されているかのように痛々しく飛び出していく。

 

 それは、一人の人間が――一体の化け物が、不気味な大樹へと変貌していくかのようで。

 

 木の怪物に、大樹の化け物に、成り果ててしまうかのようで。

 

「ご、ぉ、ぉおおおおおおおおおおおおおおオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」

 

 みるみる内に成長する化け物は――生長する大樹は、既に街灯の背を越していた。

 

 人間だった頃の面影は、最早、大樹の幹から、大樹に呑み込まれているかのように飛び出ている人間の身体のようなシルエットしか存在しない。それも苔や葉に覆われていて、肌色はどこにも存在しないが。

 

 渚は、一歩、顔を青褪めて後ずさる。

 

 昨夜は恐竜と戦った。

 今夜は巨大な黒衣の騎士とも戦った。

 この公園では人間のように擬態していた角を生やした異形の化け物とも戦った。

 

 でも、これは――違う。今までのそれとは、まるで違う。

 

 怖い。本当に、悍ましい。見た目もさることながら、その叫び声が――

 

「ぁぁぁぁぁぁ!!! ォォォォォォォ!! うわぁぁぁぁぁぁああああああ!!!!」

 

――その咆哮が、まるで人間のようで。

 

 怪物の放つ人間のような叫びが、何よりも恐ろしい。

 

 まるで、人間が――怪物へと、変貌しているようで。

 

 変貌して――変えられて、成り果てて、しまっているかのようで。

 

 目を背けたくなる。逃げ出したい。こんなものを、見ていたくない。直視なんて出来る訳がない。

 

「………っ!」

 

 渚は、気が付いたら唇を噛み締め、瞳から涙を流していた。

 

(この怪物は………なんて――辛そうに、()くんだろう……)

 

 対して、低身のオニは、“限界(リミット)”を起こして、どんどん“化け物”になっていく彼を見て、内心パニックになりながら思考していた。

 

(くそっ、どうするッ!? このまま完全に“堕ちたら”、俺には完璧に手に負えねぇ! 下手すればこいつ等を殺すどころか、俺まで巻き添えで殺されちまうっ! ……こう……なったら――)

 

 ザッ!! と、低身のオニは素早いスピードで駆け出し、緑の巨体――大樹の化け物の背後から渚の前に唐突に姿を現す。

 

「――ッ!?」

 

 思わず渚はナイフを構えて腰を落とすが、低身のオニは渚に背を向けていて、その目は大樹の化け物へと向けられていた。

 

 そして、低身のオニは右腕を挙げて――その腕を中世騎士の馬上槍の穂先のように変形させる。

 

「――死ねッ! “化け物が”ッ!!」

 

 そして――味方である筈の、同胞である筈の、かつて仲間だった筈の大樹の化け物に向かって、真っ直ぐに突進した。

 

「な――ッ!?」

 

 渚は絶句するが、低身のオニは委細構わず全力で巨大な大樹に突っ込んでいく。そのスピードは、これまで渚が戦った――そして殺したオニ星人とは、一線を画す段違いのもので、渚の目でははっきりとは追えず、ただ呆然とそれを眺めることしかできなかった。

 

 このスピードこそが、低身のオニの最大の武器であり、己の小さな体躯故のパワー不足を補っている、彼の生命線でもある。

 

 だからこそ、あえて直ぐ傍にいたものの――背後を取っていたものの、一度距離を取ったのだ――助走距離を得る為に。真正面に出たのも、おそらくは弱点であろう露出した人間部分を真っ直ぐに貫く為。

 

 この突進攻撃による一撃必殺――低身のオニは、この技で、この技一つで、一つの部隊を任せられるに相応しい戦闘力だと認められた。今のポジションを手に入れた。故に彼は、この技に――この異能に、ある種、絶対の自信を持っていた――が。

 

「うぉぉおおおおお!!! グォォォオオオオオオオオオオオオ!!!!」

 

 大樹の化け物は、一際強くそう吠えると――低身のオニが自分へと向かってくる、真っ直ぐのその一本道に――無数の木々を一斉に生やした。まるで、下から突き上げる杭のように、勢いよく生長させた。

 

「な――」

 

 それは、絶対の自信を誇った低身のオニのスピードを捉え得るものだった。

 

「ぐあぁぁあぁああああああああああ!!!」

 

 低身のオニは、上空に高々と打ち上げられる。血飛沫(ちしぶき)を振り撒きながら、くるくると哀れに宙を舞う。

 

 バキバキバキと、瞬間的に突き上げるように生えた木々の枝を折りながら――フィクションによくあるようなクッションの役割は果たしているとはまるで思えず、むしろ更に痛めつけているかのようだった――低身のオニは地面に落下する。鋭く尖った無数の枝に身体のどの部分も貫かれなかったのは奇跡と言えた。

 

「ぁぁ…………ぐぁ………ぁぁ……」

「グォォオオオオオ!!! うわぁぁぁああああああ!!!」

「……………………っ」

 

 低身のオニは体中から血を噴き出していて、今もぴくぴくと体を震わせながら仰向けに倒れている。

 

 渚は、怪物のような咆哮と、人間のような叫び声を、交互に繰り返す大樹の化け物の哭き声を聞きながら、その凄惨な一部始終を顔面蒼白で見ていた。突如仲間割れを始めた彼等の戦いを見て、恐怖に心を支配されながら呆然と眺めていた。

 

 低身のオニはもう戦えないであろうことは誰が見ても明らかだったが、まだ死んではいないようだった。

 今ならあっさりと殺せるだろう。勝手に仲間割れを起こして、こうして致命的なダメージを負って倒れ伏せているのだから、本来ならチャンス以外の何物でもない。

 

 だが――渚の身体は動かなかった。

 

 今にも死にそうな奴に止めを刺すことが忍びないから――ではない。そういった心もないわけではないが、しかし、それ以上に――

 

――あの大樹の化け物への、恐怖が全く消えなかった。

 

 今まで渚が相対してきた星人の中で、最も恐ろしい怪物だった。

 

 この足を一歩でも踏み出したら、地面に虫の息で倒れ伏せるあの低身のオニのように、瞬く間に全身を串刺しにされるのではないか。今にも足元から、あの木々の杭が突き上げてくるのではないか――そんな思いが消えなかった。

 

 それほどまでに、この大樹の化け物は、圧倒的に強かった。

 

(……どうする? どうすればいい?)

 

 渚は更に一歩、震える足で後ずさる。

 

 あの大樹の化け物緑が、未だ化け物に()り続けているのは――目の前の化け物が成長し、大樹として生長しているのは、渚も気付いていた。低身のオニもその辺りを危惧して、突如の仲間割れを引き起こしたことも、なんとなく察しがついていた――見事に返り討ちに遭ったが。

 

 それでも、渚は動かない。動けない――こうしている一秒が、事態をどんどん取り返しがつかない方向に動かしていることは、分かっているのに、動けない。

 

 怖い――殺されるのが、怖い。

 

「……ころせ」

「――っ!?」

 

 その時、そんな声が動けない渚の耳に届いた。

 

 ゆっくりと目を向けると、その声の主は、つい先程大樹の化け物に戦闘不能にまで返り討ちを受けた、あの低身のオニだった。

 

 奴は、仰向けのまま、血だらけのまま、満身創痍で、目だけをこちらに向けて――渚に向けて、ごふっと血を吐き出しながら、虫の息で言った。

 

「……殺せ……はやく、殺せ……」

 

 それは、自分に止めを刺せという意味だろうか――それとも、あの大樹の化け物を、殺せという、意味だろうか。

 

「……っ!」

 

 渚はそれを受けて――更に、一歩、後ずさる。

 

「――ッッ!! 殺せ!! ごろぜ!! ばやぐごろぜよぉぉおお!!!」

 

 その血まみれの叫びに、渚は思わず、強く強く目を瞑った。

 

(~~~ッ!! どうするっ! どうすればいいッッ!! 僕は――)

 

 その時――

 

 

 真っ暗な闇夜の公園が、強烈に明るくなった。

 

 

「――っ!?」

 

 これまで頼りない街灯の光のみで照らされていた公園が、突然、まるで閃光弾を撃ち込まれたかのように明るくなった。

 

 光だけではない。それ以上に目を覆いたくなるような、強烈な――苛烈な熱波が、渚を襲った。

 

「…………え?」

 

 否、それは渚を襲ったわけではない。確かに渚にも強烈な光や苛烈な熱は届いていたけれど、そんなものは単なる余波でしかなかった。

 

 その尋常ではない光と熱を発していたのは、一本の巨大な火柱だった。

 

 大樹の化け物は突如として唐突に炎を纏わされ、巨大な光源と熱源にさせられていた。

 

 燃やされていた。まるでゴミのように。

 

 ゴミのように、用済みだと言わんばかりに――殺されていた。

 

「グォォオオオオオオオ!!!!! ああああああああああああ!!!」

 

 大樹の化け物は、相も変わらず、怪物のような咆哮と、人間のような悲鳴を繰り返していた。

 

 だが、その叫びは段々と、人間のような叫び声が大きくなり――多くなり、まるで、怪物が、人間に、戻っているかのように錯覚させられた。

 

「ガァァァァァアアアアア!!!!! ああああああああああああ!!!! うあぁぁぁぁあああああああ!!!」

 

 たった一本の巨大な大樹でもまるで山火事の如く燃え盛る怪物は、どこからどう見ても怪物で、死に様まで怪物で、この期に及んでも人間なんかには見えやしなかったけれど、怪物の成れの果てでしかないけれど。

 

「……………………」

 

 渚は、その死に様から――化け物の末路から、末期から、全く目を離せなかった。

 

 恐怖は、消えていた。

 

「……ぁ」

 

 思わず、一歩、前へと踏み出す。ふらふらと、ゆっくりと、燃え盛る大樹の光に引かれるようにその手を伸ばして――

 

 

「邪魔だ」

 

 

 その言葉と共に、ドカンッ!! と、火柱に穴が開いた。

 

「っ!!?」

 

 渚は、その足を止めて、背後に飛び去る。

 

 その少し前を、巨大な火の玉が擦過した。

 

「ひ、ひぇぇえええええ!!!」

 

 渚から少し離れた位置にいた平が情けない悲鳴と共に逃げ出す。

 

 直径でも渚の身長を上回るような、巨大な火の玉。

 

 それにより貫かれた火柱は――燃え盛る大樹の化け物は、バキバキと音を鳴らしながら、ゆっくりと倒壊した。

 

「ああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――」

 

 悲鳴が、ゆっくりと消えていく。

 

 それはまるで、炎の中から地獄へと、地獄から、更なる地獄へと、引きずり込まれていくかのように。

 

「…………」

 

 渚がそれに唖然と目を奪われていると――その炎の中から、一人の長身の男が悠然と歩いてくる。

 

 裸の上から纏ったジャンバーに黒のジーパン、逆立つ硬質な黒髪に、薄い赤色のレンズのサングラス、口周りの髭――

 

 

――そして、額から生える長さの違う二本一対の、角。

 

 

「っ!?」

 

 渚は思わず目を見開く。

 

 そして、地面に仰向けに倒れ伏せる低身のオニが、切れ切れに言葉を発した。

 

「……火、口……さん」

 

 火口と呼ばれた新たなる“オニ”は、低身のオニの近くまで歩み寄り、見下すように一瞥すると、顔を上げ、渚と、バンダナと、平を見渡しながら吐き捨てる言った。

 

「……何やってやがる……使えねぇゴミだな」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side和人――とある駅の近くの大通り

 

 

 そして、最後の敵の処刑も、つつがなく完了した。

 

「が……はぁ……ッ」

 

 左肩口から右脇腹にかけて斜めに袈裟斬りに伏せられたその怪物は、鮮血を和人に浴びせかけながら、がっくりと膝をつき、路面にうつ伏せに倒れ伏せる。

 

「……ふう」

 

 和人がそう息を吐き、その漆黒の宝剣に着いた敵血を剣を一振りすることで飛ばしながら、右腰の鞘にゆっくりと仕舞おうとする。

 

 それに合わせ、和人の戦いを見ていた一般人のギャラリー達が、口を揃えて歓声を上げようとした――その時。

 

 

「あ、いたいたー。あー、なんか、みんなもう殺されてるじゃねぇか。マジかよ、やるなー、お前」

 

 

 その一般人のギャラリーの中から、上裸に黒のジャケットを羽織った坊主頭の男が、和人に向かってゆっくりと近づいていく。

 

 和人はその声に驚き、思わず剣を仕舞う手を止めてしまった。

 

 坊主頭は体格のいい男だった。おそらくは180センチ程の身長。

 

 和人は、自分の目の前に立つその男を呆然と見上げる。

 その男の異様な雰囲気に、その他の一般人のギャラリーも、開きかけたを閉じて息を呑んだ。

 

 和人は思わず一歩下がるが、男はそんな和人に構わず言葉を投げ掛け続ける。

 

「お前、一人?」

 

 男はそう問いかけた。まるで街の女の子を口説いているかのような気安さだった。

 和人は唐突過ぎるその質問の意味が分からず、戸惑いながら問い返す。

 

「――は? ど、どういう意味だ?」

「あー、だからよぉ。――うわぁ、バッサリやられてんなぁ、一撃かよ。……あぁ、つまりな――」

 

 坊主の男はしゃがみ込み、うつ伏せに倒れた怪物を裏返す。男は怪物の凄惨な死に様を見ても飄々としていた。

 

 そして、ゆっくりと立ち上がり――

 

 

「これを()ったハンターは、お前一人かって聞いてんだよ」

 

 

――和人の首筋に噛みつこうとした。

 

 

「ッ!!」

 

 和人は反射的に宝剣を振るう。

 

 それを、坊主頭の男はいつの間にか手の平から取り出した日本刀で受け止めた。

 

「おっと――相当鋭い剣筋だなぁ。さては名のある剣客と見たぜ」

「……お前、オニ星人か」

「ほう、あの黒い球は、俺達をそう名付けたのか。悪くないセンスだが、それよりも吸血鬼と呼んでくれ。そっちの方がカッコいいから好きだ。ヴァンパイアでも可」

 

 坊主頭と和人は鍔迫り合いの様相を呈する。

 和人はスーツの力を全開にして押し返そうとするが、坊主頭は全く体勢を崩さない――それどころか、微塵も揺らぐことすらしなかった。

 

(……コイツ、強い……ッ!?)

 

 和人が歯を食い縛る眼前で、坊主頭のオニ星人は不敵に口元を歪めながら言った。

 

 

「――さて、自己紹介と行こうか。俺は黒金組の若き幹部、剣崎という吸血鬼だ。以後、お見知りおきを」

 




獄炎の悪鬼と鮮烈の剣鬼、出陣す。


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いつか絶対にあの女は殺してやる……っ

 Side??? ――とある60階建てビルの通り

 

 

 その女吸血鬼は、オニ星人――吸血鬼の中でも、比較的優れた“才能”の持ち主だった。

 

 人間がナノマシーンウイルスによって身体を作り変えられ、その細胞に馴染んでくると、吸血鬼達は異能の能力に目覚める。人間のような容姿を捨て、異形の怪物の身体と引き換えにして、本格的に怪物として覚醒するのだ。

 

 だが、その能力は千差万別――個々の吸血鬼によって、各々異なる能力を手に入れる。

 

 異なる、異能を、手に入れる。

 

 そして当然、その能力にも、当たりの能力、外れの能力が存在する。

 

 当たりの能力には、雷や氷、炎といった自然そのものの強力な力を操る――まさしく“異能”の力を手に入れることが出来る。

 

 対して外れの能力は、いわゆる身体能力の強化系といったもので、そしてこれが最も吸血鬼達のポピュラーな異能となっている。

 

 通常の人間の容姿の状態でも吸血鬼となった者の身体能力は普通の人間のそれを軽く凌駕する、文字通りの人外のそれであるが――異能として目覚めた身体能力は、それに加えてある特定の能力のスペックが跳ね上がるのだ。

 例えば、スピード。例えば、パワー。例えば、打たれ強さ。例えば、回復力。

 

 勿論それぞれの異能でも、例えばスピードで言えば、自動車レベルのそれから限りなく瞬間移動に近いそれまで、差はある。回復力で言っても、傷の治りが早い程度のものから失った四肢を再生できるものまで――同ジャンルでいってもレベルの違いは、各々の個体で差があり、言うならばそれも一種の才能と言える。

 

 だが、この女吸血鬼は、正真正銘の選ばれた才能の持ち主――希少な異能、当たりの能力に目覚めた個体だった。

 

 彼女のそれは――“毒”。毒使い。

 

 体中の肌から毒液を出すことが出来るという、吸血鬼の同胞達の中でも彼女しか目覚めていないジャンルの強力な能力だった。選ばれし異能だった。

 

 この異能に目覚めた時、彼女は歓喜した。

 

 当たりの能力者は当然ながら個体数からして少なく、そのどれもが規格外な戦闘力へと繋がる。発現した誰もが、吸血鬼組織の主力と成り得る。

 部隊を任されるのは勿論、下手をすれば幹部――もしかすれば側女として、黒金に寄り添うことも叶うかもしれない。

 

 彼によって救われ、吸血鬼として同胞と出会うことの出来た彼女にとって、それは何よりの願いであり喜びだった――が。

 

『ごほっ!! ごほっ!! ……ぁぁぁ……ぁぁぁ……ぁぁあああああああああああああ!!!!!』

 

 その毒の能力は、文字通り彼女にとっても毒として、その身体を蝕んだ。

 

 そもそもが当たりの能力者の個体数が少ない理由として、目覚める個体数が少ないことも勿論だが、何よりもその能力を使いこなす――否、“使えるようになる”まで辿り着ける者が滅多に生まれないということが挙げられた。

 

 異能の能力は、例外を除いて、ある日、突然、唐突に目覚める。

 

 よって吸血鬼達は、能力が目覚めてからしばらくの間は、その異能によって振り回されることも――異能を暴走させてしまうことも少なくない。徐々にその能力に慣れていき、慣らしていき、制御方法を体で覚えていき、己の武器として、己の生態として、受け入れて、使いこなせるようになっていく。会得していく。

 

 身体能力強化系の外れの能力なら多少戸惑うことはあっても、大きな危険なく体に慣らしていくことが出来るだろう。

 

 だが、当たりの能力者達のそれは、文字通りの異能だ。

 そんな力の制御不能とは、暴走とは、只の自然災害と同義。

 

 体に慣れさせる前に、使いこなす前に、自分の能力によって誰よりも先に自分が殺されてしまう。

 

 故に、当たりの能力者――異能の能力者は、今現在吸血鬼の全てのグループを合わせても、吸血鬼組織全体としても、黒金や氷川といった最高幹部達を含めても、両手で足りる程度の人数しかいない。

 

 だからこそ希少で、貴重で、最強。

 

 当たりの異能に目覚めた者は、当たりの異能を会得した者は、無条件で幹部クラスへの出世の道も開かれるのだが――それも全ては使いこなしたらの話。

 

 自分の異能に、殺されなければ――の話。

 

 女吸血鬼は、能力に愛されはしたけれど、その異能を使いこなす程の器では、残念ながらなかった。

 

 必死に努力した。何度も自身の毒の苦しみで悶え苦しむことになろうとも、絶対に使いこなし、強くなると誓った。

 この能力さえ使いこなせれば、自分は必ず幹部になれる――黒金の傍に寄り添うことが出来る。

 

 黒金組は吸血鬼集団の中でも最大人数を誇る最大派閥。

 その中の下っ端の一人では、あの至高の御方に顔と名前を覚えていただくことすら叶わない。

 

 この想いが成就することなど、そんな恐れ多いことは、最早望むまい。

 

 それでも、少しでも近くに、少しでも傍に――少しでも、あの方の覇道を、近くで――

 

 だから――

 

『――残念だけれど、君はもう、擬態を解除しない方がいい』

『……え』

 

 ロイド眼鏡のその男は、女吸血鬼の身体を診断した後、残酷にこう告げた。

 

『君の身体は、もう限界だ。……度重なる“暴走”で……最早、いつ“堕ちても”……おかしくない』

 

 その瞬間だけは、体中を蝕む毒の苦しみも忘れた。何も感じず、目の前が真っ暗になるような錯覚を覚えた。

 

 女吸血鬼は、表情が抜け落ちた顔で俯き、呆然と、呟く。

 

 

――それでも……それでも、私は……

 

 

――私……は……

 

 

 

「もういい」

 

 

 

 たった、一度。

 

 手を差し伸べられ、その手を取った――たったそれだけの繋がりだった、一人の男の為に、一人の吸血鬼の為に。

 

 体中を毒で蝕まれ、自分の身に合わない異能を、身の丈に合わない力を、それでも必死に使い続け――結果、こんな醜い化け物にまで身を落とした――身を、堕とした、一人の馬鹿な女――哀れな女吸血鬼。

 

 そんな彼女の目の前に、全てを終わらせる拳が迫っていた。

 

(…………あぁ)

 

 彼女の周りには、十数体の倒れ伏せる怪物達。

 

 こんな馬鹿な女に、最後の最後までついてきた――きっと死地だろうと、地獄だろうとお供し続けるであろう、どうしようもない、馬鹿な男の吸血鬼達。

 

 一人の女の命を、生き様を、そして死に様を――最期まで守る為に戦い散った者達の、無様な、そして勇敢な末路だった。

 

「これで終わりだ――カッコよかったぜ、おめーら」

 

 この男は――東条英虎というこの男は、きっと彼女の歩んできた道のりなど知らないだろう。

 

 あくまでこの戦場において、東条はハンターで、女吸血鬼はモンスターだ。

 

 だが、それでも、東条は彼女の、そして彼女達の戦いぶりを見て、何かを感じ取った。

 

 そしてそれを、その様を――カッコいいと、認めたのだ。

 

 これが、東条英虎。

 

 万人にとっての英雄とはなれなくとも、強者を、そして強敵を惹きつけてやまない――大将の器。

 

「あなたもね――もっと早く出会っていれば、惚れてたかも」

 

 取り返しがつかない程に怪物と成り果てた女は、最後の最期で、そう微笑んだ。人間の言葉で、そう言い遺した。

 

 東条はそれに不敵な笑みで応えて――彼女の剥き出しのどてっ腹に、芋虫の下半身と人間の上半身の境目のどてっ腹に、渾身の拳を叩き込んだ。

 

 十メートルを超える出来損ないのラミアのような姿となった彼女の巨体が、60階通りの宙を舞う。

 

 ガシャァァン!! と、どこかのテナントに突っ込んだ女吸血鬼は、最早その醜悪な異形の身体を動かすことすら出来なかった。美しい笑みを浮かべたまま――静かに息を引き取った。

 

「まあまあ楽しかったぜ」

 

 東条は、そんな言葉を、ずっと、ずっと戦い続けた一体の怪物に――一人の莫迦な女に送った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「……勝った? 勝った、勝った! やった、勝った!」

 

 そんな風に無邪気にはしゃぐ由香とは対照的に、烏間と笹塚は、目の前で行われた目を疑うような戦争を、ただ呆然と眺めることしか出来なかった。

 

「…………」

 

 戦争は終始、東条英虎の圧勝だった。

 

 あのラミアのような怪物は、その巨大な体中から毒液を振り撒きながら暴れ狂った。

 その様はまさしく怪物で、同胞である仲間の怪物も、少なくない数がその毒の巻き添えを喰らった。

 

 だが、東条はそれらをまったく寄せ付けなかった。

 取り巻きの怪物達を拳や蹴りで弾丸のように吹き飛ばし道路にテナントに叩きつけて叩き込んで圧倒する。

 

 そしてラミアに対しても臆することなく凶暴な笑みを浮かべながら戦った。街灯を引っこ抜き、まるで棍棒のように粗雑に振り回して、力任せに叩きのめした。そして最後は毒を垂れ流している懐に飛び込んで拳で(とど)め。

 

 まさしく圧勝。圧倒的圧勝。規格外の力に任せた、だからこそ有無を言わせない強者の戦争だった。

 

(強い……まさしく、規格外だ)

 

 まるで密林の猛虎のような――己の強さを疑っていない、強者であることの自覚すらない、自身が捕食者であることが当然とばかりの、一種の傲慢さすら感じる強さを持つ戦士。

 

「…………」

 

 だからこそ烏間には、東条英虎に幾ばくかの不安も感じた。

 

 その強さは――己の強さに、ある種の裏付けや誇り、積み重ねたものがない強さは、ひどく危うい。

 

 己以上の強さに出会った時――東条英虎は、今のままの自分でいられるのか。

 

(……だが、今の戦いを若者にだけ任せて、何もせずにただ見ていただけの自分に……何かを言う資格などないな)

 

 それに烏間が教官だった時代(ころ)の経験上、彼のような生まれ持った強者には、大きく分けて二つのパターンが存在することを知っていた。

 

 一つは、挫折を知らず、自分の強さに確固たる誇りや裏打ちされた努力がない為に、それ以上の強さに出会った時、身も心もぽっきりと折れてしまう者。

 

 そして、もう一つは――

 

(……これ以上は、俺が考えることではない。……それに、彼程の男を、俺のような人間に計りきれるとは思えない)

 

 そう考え、烏間はその思考を断ち切り、足元ではしゃぐ由香に尋ねた。

 

「――すまない。いいだろうか?」

「へぁっ!? な、なんですか……?」

 

 烏間は端正な顔立ちをしているが、それでもやはり歩んできた人生(みちのり)故か、常に無自覚に放っている迫力が凄かった。

 ついこの間まで小学生だった由香からすれば、例えこの人が警察(だと由香は思っている)の人でも――いやだからこそか――少し怖いと思ってしまうことは否めない。

 

 烏間はそんなウルトラマンみたいな奇声を上げた由香の様子を見て、なるべく手早く要件を済ませてあげようと――怖がられているのが分かっても安心させてあげられるような笑顔が自分に作れるとは思えないので、これが烏間の出来る精一杯の心遣いなのだ――淡々と尋ねる。

 

「君達の他にも、この池袋に仲間が来ていると言っていたな? その彼等が今どこにいるか、場所を知る手段――または連絡手段のようなものはあるか? それが無理なら敵の場所を知る手段でもいい。あの怪物達を討伐しにきたというのなら、せめて後者の手段はあるはずだ」

「え、ええと、ですね。あの、その、え、ええと……え、えぇ」

 

 由香は烏間の言葉に慌てて己の身体のあちこちを触る。

 

 ……む、問い詰めるような言い方になってしまったか、と烏間は自分が思っていたよりも精神的に焦っていたことを自覚する。

 笹塚が呆れたような冷たい目でこちらを見ていることに気付かない振りをしながら、由香に分からないならそれでいいと告げようとすると――

 

「え、ええと、あの、……ああ、もう! ――――あれ?」

 

 由香が思わず頭を抱えたその時、スーツの手首の部分からカシャンと音を立てて何かが現れた。

 

「ん? それはなんだ?」

「えぇと、分からないです。今、初めて気づきました」

 

 烏間は由香に「すまない、見せてくれ」と言い、彼女の腕を引いて覗き込む。

 由香が少し顔を赤くしてあうあう言っているのにまるで気づかず、烏間はそれを慎重に操作していく。

 

(……何かの端末か? ……っ!? これは――)

 

 烏間が見つけたのは、地図のようなものを表示し、その上に赤い点と青い点が光っている画面。

 

「……これは……池袋のマップか?」

「おそらくはそうだろう。ならば、この赤い点と青い点は、それぞれ仲間と標的ターゲットの位置……と考えるのが妥当だ」

 

 位置関係的に、おそらくは赤い点が由香や東条達――黒い服を纏った戦士達(なかま)の位置、そして青い点が怪物(てき)の位置であると考えていいだろう。

 

 そして烏間は比較的近い位置に――かなり近い場所に、三つの赤点と二つの青点がある場所を見つけた。

 

「……笹塚君。君はここに残って、このマップを使って俺達を指揮してくれ。――俺はこれから、この場所に向かいたいと思う」

「……指揮というのなら、アンタの方が適役じゃないか?」

「――いや、君の実力を疑うわけではないが、こういった事態では、元自衛官で現防衛省の俺の方が向いている。……それに君には、この子を守ってやってほしい」

「ふえ?」

 

 烏間はそう言って、由香を見下ろす。

 そして笹塚と一緒に東条に向かって視線を動かした。

 

「……彼は、恐らくは子供を守るということは、向いていない」

「……あ~」

「…………」

 

 そんなことないよ! ――とは、由香には言えなかった。

 

「……お願い、します」

「…………ああ」

 

 由香はそう言って、笹塚に頭を下げた。

 どちらかといえば笹塚の方が怖くはなかった。

 

 烏間は少し複雑な気持ちになりながらも、そのまま由香を笹塚に託す。

 

「――それでは、行ってくる。防衛省の方の応援はこちらで要請しておく。場合によってはそちらに連絡が行くことがあると思うが、よろしく頼む」

「……はいよ。こっちも、もうすぐ俺よりもよっぽど指揮向きの同期やつが出張ってくると思うんで、そしたら俺も現場(そっち)に向かう」

「ああ、よろしく頼む」

 

 そして、烏間は拳銃を構えながら、そのまま別の戦場へと向かって駆け出した。

 

「…………」

 

 最後にちらりと、この戦場に堂々と佇む東条の背中に目を遣る。

 

 だが、何も言葉を投げ掛けることなく目を切り、そのまま大通りから折れて暗い別の道へと駆けて行った。

 

 

 その直後――

 

 

「……ほう」

 

 烏間とちょうど入れ違いになるように、この場所に猛スピードで向かってくるその気配を、東条は感じた。

 

 

 

「あ、あの、笹塚さん!」

「……ああ。なんだ――――この青い点は?」

 

 一つの青い点が、物凄いスピードでこちらに迫ってくる。

 

 マップの点は有り得ない移動の仕方をしていた。これでは、まるで――

 

「――ビルとビルを……跳び渡っているみたいな――」

 

 そんな由香の呟きを掻き消すように――轟音と共に、それは降ってきた。

 

 

 ドゴンッッ!!!――と、落石の如く、その敵は現れた。

 

 

 その男――岩倉は、東条英虎の前に豪快に参上した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Sideあやせ――とある路線の出口近くの吹き抜け空間

 

 

 あやせが最後の一体の顔面を踏み抜くようにして上段蹴りで蹴り飛ばし、吹き飛ばす。

 

「――ふう……もう、いないみたいですね、雪ノ下さん」

 

 あの後、瞬く間に残存星人を狩り尽したあやせは、数時間前まではお洒落で清潔感のある広場だった場所――現在では星人と人間の屍で埋め尽くされている紛れもない地獄へと変貌したその場所で、顔を流れる返り血と混ざり合い赤みがかった汗を色気すら感じる仕草で拭いながら、もう一人の狩人(ハンター)に向かってそう呟いた。

 

「……あれ? 雪ノ下さん?」

 

 だが、その呟きに対する返答はなく――例えお互いが気に食わない存在だとしても無視などという器の小さい真似をするような人ではないことは既にあやせも理解していた。むしろそういった相手の発言の揚げ足を強引に取ってニタニタと笑いながら主導権を強奪し虐め抜くような人だ――きょとんと首を傾げながら辺りを見回す。

 

 そして、見つけた。

 

 あやせから随分と離れた――凄惨な地獄と化した広場から池袋駅の地下へと繋がっている、その場所に。

 

「…………何してるんですか?」

 

 無表情で呟くあやせに、陽乃はあっけらかんと、きゃはっ☆みたいな効果音が付きそうな仕草で言った。

 

「ごっめ~ん! ほら、わたしったら半年近く死んでたから、もう一刻でも早く一分一秒でも長く八幡の傍に行って八幡の元に駆けつけて八幡のフェロモンを浴びて八幡の匂いを嗅いで八幡のボイスで蕩けて八幡の温もりに溺れて八幡の腐った双眸で射貫かれて八幡の耳元で愛を囁いたり囁かれたりしちゃって八幡の八幡で八幡が八幡に八幡だからわたしもう行くね! この瞬間から別行動にしましょう! それじゃあ、新垣ちゃん! あなたの命運を愛する八幡と一緒に心のどっかで祈ってるよ! あなたのことは忘れるまで忘れないね! それじゃあ大変だと思うけど、頑張って生き残ってね~! ばいば~い!」

 

 そう言って、早口だけど見事に一言一句聞き取れる見事な滑舌で言い残して、これ以上ないムカつく笑顔と共に雪ノ下陽乃は去っていった。

 

「………………」

 

 あやせは唖然と、それを見送った。

 

 確かにあやせと陽乃は、抱えている想いが想いである以上仲良く協力プレイなんて出来っこないし、見渡す限りの敵を倒し終えた以上、この後直ぐにでも別行動となったかもしれないが――まさか、ここまであっさり華麗に去っていくとは。

 

 半年ぶりの戦争とはいえ、ガンツミッションにおいて単独行動がどれだけ危険か、例え気に食わない相手とでも“経験者”と共に行動するということがどれだけ生存確率を上げるか――ましてや、一度ガンツミッションで命を落としている者が、知らない筈があるまいに。

 

(……まぁ、いいでしょう。遅かれ早かれ、こうなっていたでしょうし)

 

 あやせはそう結論づけて、深々と溜め息を吐く。

 

 別に好き好んで一緒に行動したい相手では絶対にないし、下手をすれば決定的な場面で裏切るどころか背中を押して平気で崖下に突き落としてきそうな人だ。早々に別れられて、ある意味では助かったとも言える。そう思うことにしよう。そう思うことにした。

 

 さて、これから自分はどうしようか。なんとなくムカつくから、あの人が去っていたのとは別方向に進んで八幡(あのひと)を探そうか――なんてことを考えていた、あやせの前に。

 

 

「あれま、みんな死んじゃってるよ。これって、お嬢ちゃんが()ったの? だとしたら許せないなぁ~。激オコだな~。おじさん、殺意湧いちゃうな~。いくら美少女でも許せない所業だよ~これ」

 

 ぴく、と体を震わせたあやせは、ゆっくりと顔を向ける。

 

 

 そこには、全裸で額から角を生やした男が立っていた。

 

 

 全裸だ。

 

 オレンジ色の短髪で顎と鼻の下に髭を生やし、左耳にピアスのダンディーな顔立ち。

 

 

 そして、全裸だ。

 

 そんな男が、角が生えている以外は人間と同じ裸体を披露し、腰を曲げて無駄にポーズを決めながら、あやせをドヤ顔で見据えていた。

 

 

 やっぱり、全裸だ。

 

 あ、なんかウインクしてきた。

 

 

「…………………」

 

 

 あやせはその男から目を逸らすでも、頬を染めるでもなく、ただただ苦々しく表情を歪めた。

 

 気持ちが悪い。生理的に受け付けない。まさかここまで不快な気持ちになる存在がこの世にいたなんて。

 

 そして思い返す。陽乃の去り際の言葉を。

 

 

――それじゃあ大変だと思うけど、頑張って生き残ってね~! ばいば~い!

 

 

 陽乃はそのムカつく言葉とムカつくテヘペロと共に、まるで携帯を振るように――コントローラーを見せつけるようにして去っていった。

 

(……あぁ、そういうこと。そういえば、さっきのミッションの時、そんな機能を見つけたような――)

 

 つまり、陽乃は。

 

 この戦場にもう一体、敵が近づいてきていることを察して、早々にこの戦場から離脱を図ったというわけだ。

 

 

 その星人の相手を、あやせに押し付けて。

 

 

 自分はさっさと、八幡を探しに、八幡の元に――

 

 

「――あの女ぁ」

 

 

 両親の厳かな教育によって心掛けるまでもなく自然に話せるようになった丁寧で美しい言葉を使うあやせが、思わず物騒な汚い言葉遣いで呪詛を吐いてしまった。ぎちぎちとガンツスーツを纏った拳が音をたてる。

 

 まぁ、無理もないだろう。

 陽乃はさすがに近づいていた星人がこんなキャラだとは知らなかっただろうが、結果としてあやせは、かなり高レベルの変態の相手を押し付けられてしまったのだから。

 

 不快。不快だ。気持ち悪い。

 何が不快って、無駄にいい身体をしているのが何より不快だ。弾ければいいのに。

 

「おいおい、お嬢ちゃん。いくら俺の腹筋が美しいからって、そこまで熱い視線を向けられるとさすがに恥ずかしいぜ――まぁ、名前だけなら、教えてやってもいい。化野(あだしの)だ。あ、連絡先は勘弁してくれ。拡散されるの怖いから」

「黙ってください喋らないでくださいぶち殺しますよ、あ、近づかないで、いやぁ!」

 

 そんなこんなで。一つの戦争が終わり、一息吐く暇もなく、次なる化け物が現れる。

 

 黒髪の美少女と、全裸のダンディーな男。

 

 異色すぎる組合せの戦争が、無慈悲にこうして幕を開けた。

 

(いつか絶対にあの女は殺してやる……っ)

 

 陽乃への復讐を誓いながら、あやせは涙目で渾身のハイキックを放つのだった。

 




岩石の剛鬼と変幻の妖鬼、参上す。


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きっと全部が終わった後は、誰一人残らず、ちゃんと不幸になってるだろうから。

 Side八幡――とある飲食店が立ち並ぶ裏通り

 

 

「――俺のグループには、我が黒金組には、四人の幹部がいる。……まぁ、四天王って奴だな。カッコいいだろ」

 

 はっ、いまどき四天王とか流行んねぇんだよ。四獣とかと並んで打ち切りフラグだバーカ――って、言えたら、よかったんだがな。強がれたら、よかったんだが。

 

 なるほど――舐めるな、か。

 

 ……まぁ正直、舐めていたところがあるのは否めない。下手に黒金の強さを知っていただけに、他の強者――中ボスの存在の有無にまで頭が回らなかったのは、俺のミスだな。

 

 そして、この黒金が――少ない邂逅ですらひしひしと伝わってくる程に、バトルジャンキーな戦闘力至上主義で、戦闘民族っていうならコイツこそサイヤ人なんじゃねぇの? って思うバトル大好き野郎で、己の強さに圧倒的な自信を持つ、この男が。

 

『俺の部下を、舐めんじゃねぇ』

 

 ……それほどまでに、信頼する。誇りに、思う。

 

 その中ボス達も――四天王とかいう、その幹部達も、一筋縄ではいかない強者で、えげつないくらい化け物なんだろう。

 

 もし俺がソロでこのミッションに挑んでいたのなら、点数を全て失う覚悟で、徹底的に逃げに徹していたかもしれない。死にもの狂いで、生き残ることに終始していたのかもしれない。生に執着して、執念を燃やしていたのかもしれない。

 

「…………」

 

 だが、それでも――俺が今、やることは変わらないな。何も変わらない。

 

 何人中ボスがいようが、俺にとっては関係ない。

 

 黒金を殺すだけ。目の前の、ボスを殺すだけだ。

 

 例え黒金を殺すことに執心し過ぎた結果、他の中ボスを殺しきれず、ミッションがクリアできなかったとしても――それでも、黒金を殺したということは、たったそれだけの戦果でも、下手をすれば100点を取ること以上に価値がある。

 

 こいつ等の脅威は――オニ星人の脅威は、最早、ミッションだけの問題に収まらない。

 

 ミッション外で襲撃されたこともそうだし、ここまで盛大に凄惨な事件を引き起こした以上、こいつ等はもう、逃げも隠れもしないだろう。

 

 昼だとか夜だとかお構いなしに、人間を襲い、狩り尽くしていくだろう。

 

 おそらくは、もうガンツの部屋の住人だとかも関係なく、無関係な一般人でも容赦なく――今、こうして殺しているように。狩り殺しているように。

 

 ただ、人間だというだけで。

 

 自分達が人間であったことすら忘れて――いや、だからこそ、か。

 

 選ばれた存在――変えられた存在。

 

 人間から、化け物へ、進化した存在。

 

 人間から、化け物へ、堕落した存在。

 

「……下らねぇ」

 

 俺は、思わず呟いていた。呟いて――しまった。

 

「……ああ?」

 

 黒金がそんな声を出す。俺の場所に勘付いたか。……何やってんだ、俺は。

 

 まぁいい。だったらこの際、少し揺さぶってみよう。探りを入れてみよう。

 

 俺は例の武器を用意しながら、物陰越しに黒金に語り掛けた。

 

「――なぁ。今更なんだが、どうしてこんなことをした?」

「……あぁん?」

「今までお前等は、人間達の中で紛れ込んで、こっそりと、ひっそりと生きてたんじゃなかったのか? それなのに、どうしてそんな日常を全部ぶち壊すような、こんなトチ狂った真似をしたんだ?」

「はっ、下らねぇ」

 

 今度は、黒金がそう吐き捨ててきた。

 

「今までは、ただ機会を窺っていただけだ。前々からウザったくて仕方がなかったぜ、人間共(テメェラ)は。我慢してやってたんだよ。……せっかくこんな、ウザったくて鬱陶しいものを全部纏めて吹き飛ばせる力を手に入れたってのに、息を潜めてお行儀よくしなくちゃならなかったあの日々は、ストレスが溜まって仕方がなかった」

 

 黒金は一歩ずつ、こちらに向かって近づきながら語る。

 

「俺等を脅かす黒いスーツのハンター……こいつ等を殺す分なら、俺等の存在が公にならねぇと分かった日からは、ストレス解消の為に片っ端から殺しまくった。こん時だけは楽しかったぜ。この力を、思う存分振るえるからなぁ」

 

 見なくても分かる。背を向けていても、隠れていても分かる。

 今の黒金は、吸血鬼の牙を剥きだしにして、怪物のように笑っているんだろう。

 

 化け物に相応しい――化け物に成り下がった、醜悪で、凶悪な、人間を捨てた笑みを、浮かべているんだろう。

 

「そして、俺は今日! 全てをぶっ壊せる記念すべき日を迎えた! ムカつく穏健派共を黙らせる程の勢力を――力を掻き集めたのはこの日の為だ! もう誰にも邪魔させねぇ! 俺を止めるもんなら止めて見ろ! 脆弱な人間共でも、同族でも、同属でも構わねぇ! 俺は片っ端からぶっ殺して! ぶっ壊して! 前に進む! 下らねぇ雑魚を踏み潰して、俺は今日! 革命を始めるんだよ、ハンター!」

「……革命、だと?」

 

 俺は手を止めて、その言葉に反応を示してしまった。

 黒金は声に愉悦を込めて「そうだ、革命だ」と答える。

 

「この世界は檻だ。窮屈で息苦しくて仕方がねぇ。生き辛くってしょうがねぇ。昔から……それが我慢ならなかった。いつかぶっ壊してぇと思い続けて、我武者羅に暴れ続けた。……だが、何も変わらなかった。変えられなかった――俺は雑魚だった。無力で、非力な、人間(ザコ)でしか、なかった」

 

 だが――俺は、“選ばれた”。

 

 黒金は、そう、歓喜が滲み出て――狂気が溢れだした声を漏らす。言葉を紡ぐ。

 

「俺は、人間(ザコ)じゃなくなった。俺は選ばれた。力に選ばれた。異能に選ばれた。――全てをぶっ壊す力を手に入れた。最強になれる才能を秘めていた。それが、選ばれた以外の、何だ? 選ばれた存在じゃなくてなんだっていうんだ? 野望を果たせと、革命を起こせと、そう言われてるに決まってる! そう選ばれたに決まってんだろ! ――俺を選ばなかった人間共を、皆殺しにして滅ぼせと! そう――」

 

 

「――なんだ、結局、ただの八つ当たりかよ、下らねぇ」

 

 

 俺の言葉に、あれほどに喚いていた、黒金の言葉が――止まった。

 

「――なんだと?」

 

 低く、低く、昏い一言だった。

 

 途方もなく膨大な、怪物の憤怒を、その一言に凝縮しかのような呟き。

 

 だが、もうまるで恐ろしさを感じなかった。

 

 ご高説頂いたこれまでのスピーチで――コイツの程度は知れた。

 

 こいつは只、八つ当たりをしているだけだ。

 

「お前は、ただ悔しかっただけだろ。世界から弾かれて、嫌われて――ひとりぼっちが寂しかっただけだろ?」

 

 自分を認めなかった世界。自分を受け入れない世界。

 

 それは息苦しいだろう。肩身が狭いだろう。窮屈で、さぞかし生き辛いだろうさ。

 

 だが――それがなんだ?

 

 まさかお前、自分だけがそんな可哀想な目に遭ってるとでも言うつもりか。

 

「――ふざけんなよ。そんなものは、世界に溢れてる。この世界に無数に存在してる、只のぼっちだ。特別でもなんでもない――選ばれた存在なんかじゃあり得ない。その逆だ。誰にも選ばれないから、何にも選ばれなかったから、選ばれてないから、ぼっちはぼっちなんだよ」

「…………黙れ」

 

 この世界は多数派で構成されている。

 正義は数によって決められ、少数は悪役の汚名を着せられる。そういう風に回っていて、そういう風に出来ていて、そういう風に決まっている。

 

 そして、この世界の上手いところは、決して少数派がゼロにならないことだ。

 

 共通の敵を作ることで、少数の敵を多数の味方で攻め立てることで、結束を高め、平和を生み出す。

 

 その為に悪が必要で、必要悪が生まれる。

 

 必ず、悪役の配役を任せられる者が生まれる。

 

 多数から弾かれるぼっちが生まれる。

 

 人がいるところに、必ずぼっちは生まれる。

 

 世界にぼっちは有り触れていて、ぼっちで世界は溢れてる。

 

 特別でもなんでもない。選ばれた存在? ――笑止だ。

 

 仲間に選ばれず、仲間に入れてもらえず、仲間外れにされる――そんな存在は、特別なんかじゃない。

 

 誰にも、何にも、選ばれてなんか――いない。

 

「だから、仲間を集めたんだろう。寂しかったから。一人が嫌だったから。誰にも選ばれないのは嫌だから、だから選ぶ側に回ったんだ――化け物同士の傷の舐め合いは楽しかったか?」

「……………………黙れ」

 

 そして、一通り傷を舐め終えて、寂しさを満たし終えたから――次にやることは、かつて自分を弾いた人間達への、幼稚な八つ当たり。

 

 復讐ですらない。こんなものは、ただの――

 

「――勘違い野郎の、ただの厨二病だ」

 

 化け物になったくらいで、世界を変えられるなんて、思い上がるな。

 

 この世界は、お前なんかよりも、もっと醜悪で、もっと悍ましく――もっと怪物だ。

 

「――黙れ。黙れ! 獲物(じゃくしゃ)の戯言をこれ以上聞いている暇はない!! 人間(ザコ)はそれらしく呆気なく迅速に死亡しろ!!」

 

 バチチチチチチチチチと、火花が瞬くような、電気が弾けるような音と共に、黒金は俺に突っ込んでくる。

 

 そして瞬きの間に肉薄した奴は、俺が背を預けていた物陰ごと、その怪物の右手で俺を破壊す――

 

「――そう簡単にさせるわけがないだろ」

 

 俺はスイッチを押す。

 

 お前の弱点は、その強者故の傲慢さだ。

 その手に入れた強さに――お前曰く、選ばれた証に、お前は縋り過ぎなんだよ。

 

 全てが強さで圧倒できると思ってるお前は、真っ直ぐここに突っ込んでると分かっていた――だから、容易に罠を用意できる。

 

 そこには、遠隔操作できるリモコン式BIMをセットしておいた。

 

「ぐッ!!」

 

 まぁ、流石に威力が低めのこのBIMで決められるとは思っていない。

 爆炎で一瞬視界が封じられれば十分だ――次の手を打てる。畳み掛けることが出来る。

 

「くっそがっ! 小賢しい! こんな花火でこの俺をどうにか出来ると――」

「――思ってねぇよ」

 

 トレードマークのサングラスを外したのは失敗だったな。

 カッコいい隻眼の傷を見せたかったのかは知らねぇが、そういうのが案外フラグになったりするんだぜ。

 

 俺は上空にそれを投げる。真っ黒の缶。これはBIMじゃない。

 爆弾があるんだったらもしかしてと思って探してみたが、案の定だった。ガンツの戦場は決まって夜――闇。なら、これはかなり使い勝手がいい。

 

「なん――――!?」

 

 閃光弾――フラッシュバン。

 

 マンガとかでお馴染み、スタングレネードって奴だ。

 

 例え身体がどれだけ頑丈でも、目を抉られたってことは眼球まではそう人間と変わらない――いや、身体能力なんかが強化され、五感が鋭いお前達ならば、テメェ等怪物ならば、より効果があるだろう。

 

「――終わりだ」

 

 俺はXガンを向ける。

 

 

「身の程を知れ、虫ケラがぁぁああああああアアアアア!!!!!」

 

 

 その瞬間、奴に雷柱が降り注いだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「グッ――!!」

 

 俺はその衝撃に吹き飛ばされる。

 

 転がりながら必死にその雷の中を見据えた。俺の閃光弾よりも遥かに眩しく、暴力的で、圧倒的な――人間だとか化け物だとかを超越した、大自然の猛威が奴を包み込んでいた。

 

 だが、それでも奴は、全く悶え苦しむことなく、そこに君臨していた。

 

 まるで、大自然が奴に味方しているかのように――選ばれた存在であるかのように。

 

 真っ黒なシルエットが、青白い雷光の中で威風堂々と屹立していた。

 

 そして、唐突に、雷が晴れる。

 

 

 鬼が、現れた。

 

 

 黒金が立っていた場所には、まさしく一体の鬼がいた。

 

 膨れ上がった筋肉。金棒のような両腕。肘や背中から、そして顔の外周を覆うように、不気味な角が生え揃っている。

 

 そして、口を開く。

 一瞬、角と見紛う程の、太く凶悪な吸血鬼の牙。

 

 角の後ろ側にオールバックに生える黒髪と、なぜか着用したままのジーパンだけが、奴の人間としての名残を残し、逆に途轍もなく面妖だった。

 

 ……これが、鬼。

 

 黒金の、変身状態。本当の姿。化け物としての――真の姿。

 

「……まさか、一人目からこの状態にさせられるとはな。……だが、俺をこの状態(すがた)にするのなら、やはりお前だろうと思っていた。小賢しい、だがそれ以上に、面白い人間(ハンター)

 

 そう言って、その化け物は俺の方を向く。

 

 その瞬間、鳴りを潜めていた恐怖がぶり返す。

 

 

――怖い。とんでもなく、怖い。

 

 

 ……あの時、昨日のミッションの終わり、初めてコイツと出会った時、感じた俺の恐怖は、間違いじゃなかった。

 

 いや、ある意味、間違い――か。

 コイツは、きっと、あの千手よりも強い。遥かに、強い。

 

 世界を敵に回してしまえる程に、とんでもなく、強い。

 

「――さて、じゃあ殺し合おうか。お前が厨二病だと言った、俺の野望を叶える為に」

 

 化け物は言う。俺に向かって、先程の激昂が嘘のように穏やかに。

 

「例え俺の戦争がお前の言う通り、幼稚な八つ当たりだとしても、勘違い野郎の妄想だとしても、それでも俺は止まらない。俺は人間が嫌いだ。ウザくて、鬱陶しくて、仕方がない。だから殺す。それだけが殺害理由で、俺の革命動機だ」

「……随分と傲慢だな」

「その通り、俺は傲慢だ。何故なら、強いからな。傲慢は強者の特権だ。だからこそ全てが許される。俺よりも弱い人間(おまえら)に、何をしようと俺は許される」

 

 黒金は言う。

 その高みから俺を見下ろしながら宣う。

 

 上り詰め、変わり果てたその姿で。成り下がり、堕ち果てた末に手に入れたその強さで。

 

 未だ弱者の俺に、敗者の俺に、強者の傲慢さを振りかざしながら、威風堂々と人間に言う。

 

「止めてみせろ。俺の傲慢が許せないというのなら、俺よりも強者だと、俺に認めさせてみせろ。俺の野望を止めるという傲慢が、俺に対して許されることを証明してみせろ。俺を食い止めたくば、それしかないぞ――人間」

 

 化け物は言う。

 全身にバチバチと雷を纏いながら、己の言葉を傲慢だと認め、それでも何も臆することなく、恥じることもなく、自分はそれが許される強者だと、誇りと自負を持って、堂々と言い放つ。

 

「俺は、世界中の全てを敵に回しても、この野望を果たしてみせる――お前に、この傲慢を止めるだけの、覚悟はあるか?」

 

 俺はその言葉を、唇を噛み締めて受け止め――笑みを、浮かべた。

 

 そうだ、笑え、笑え。

 

 強大な敵の強さを笑え。誇り高い敵のプライドを笑え。

 

 自分よりも強い敵のオーラに屈するな。自分よりも大きな敵のカリスマに呑まれるな。

 

 相手がどれだけ重たい過去を抱えているかなんて知るか。

 

 敵がどれだけ悲壮な覚悟を抱えているとか、壮大な野望を抱えているとか、そんなことはどうでもいい。どうでもいいんだ。

 

 初心を忘れるな。最も重要な根幹を見逃すな。

 

 世界を敵に回してでも戦い続ける? ああ、カッコいいな、男の子なら誰もが憧れるストーリーだ。ここで更に愛する女の為になんて裏設定があったら痺れちゃうね。不覚にも応援したくなっちまうかもだ。

 

「はっ……知らねぇよ、そんなの。ジャンプとか電撃文庫とかでやれよ、そういうの。俺はガガガと講談社BOX派なんだよ。男は黙ってジャンプSQ.だ」

 

 大体からして、敵を打倒する時に、その相手の動機とかを論破しなくちゃいけないみたいな風潮からして間違ってるんだ。

 

 どっちの言い分も正しいし、どっちの言い分も間違っているに決まってるんだから。結局は好き嫌いの問題になる。多数決になる。

 

 そんで少数派は間違っていることになって、封殺される。めでたしめでだし。正義は必ず勝つんだぜエンド。

 

 はっ。

 

「――下らない。下らない。下らない。人間(おれら)星人(おまえら)の戦争に、俺とお前の殺し合いに、そんな大層な理由とか、覚悟とか、全く持って必要ないだろ?」

 

 そうだ。

 

 いつの世も変わらない。人間も化け物も大差ない。

 

 殺し合う理由なんて、太古の昔から決まりきってる。

 

 

「俺が生きていくのに、お前は邪魔だ――だから、殺す。……そうだろう? 化け物」

 

 

 黒金は、俺の言葉を受けて――凶悪に笑った。

 

「くくっ、そうだな。実に単純で分かりやすい。――俺はお前が気に食わない。俺が気持ち良く生きるのに、人間(おまえら)は邪魔だ。だから殺す。いいなこれ。これからの俺の野望のスローガンにしよう」

「気に入ってもらって幸いだ。だけどあんま言い触らさないでね。スローガンとか絶対にやめろよ恥ずか死ぬから」

 

 くっくっくと黄色い曹長なケロン人みたいな性格の悪い笑みを漏らしながら――俺達は戦争をする。

 

 傲慢で、幼稚で、身勝手で、自己中で、厨二病で、ガキで、馬鹿で、愚かな理由で、俺達は殺し合う。

 

 誰かを守る為とか、愛する人々を助ける為とか、アイツの無念を晴らす為とか、誰よりも強くなる為とか、平和な世の中を作る為とか、世界を危機から救う為とか、そんな大層でカッコよく、誰もが納得して応援してくれるような動機など――存在しない。

 

 だって、俺達は人間で、俺達は化け物だから。

 

 救いようがないくらい終わっていて、気持ち悪いくらい狂っている。

 

 そりゃあこんな奴等、仲間に入れたくないに決まってる。ぼっちになるのも自明の理だ。

 

 だからこそ、多数の納得を得る必要なんかない。最初に俺達を弾いたのはそっちだ。慮る理由がない。

 

 他人が納得する理屈なんてねぇよ。ねぇし、いらない。

 

 殺すことに値する動機なんてない。死に相応しい理由なんて皆無だ。

 

 ああだこうだ言おうと、あっちにこっちに責任を押し付けようと、命を奪う理由なんて、たった一つだ。

 

 だから――

 

「――俺の為に死ね、化け物」

「――俺の為に死ね、人間」

 

 誰に恥じることもない戦争をしよう。

 

 安心してくれ。きっと全部が終わった後は、誰一人残らず、ちゃんと不幸になってるだろうから。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side??? ――とある海の上空

 

 

「はっ、これは見事な特等席だな。まさしく絶景だぜ」

「ひひひひひ氷川さん!! なんでこの状況でそんな風にカッコよく仁王立ちなんて出来るんですかぁ!!」

 

 場所は池袋から少し離れて――東京湾。

 

 上空。

 

「ああ? そりゃあお前、足元を凍らせて固定して腹筋でバランスを取ってるに決まってるだろうが。面倒くせえがお前達も凍らせてやっただろう? っていうかお前等、俺が行くって言わなければどうするつもりだったんだ?」

「いや、それは本当にありがとうございますですけど! そういうことじゃなくてですね!?」

 

 場所は――海のように真っ暗な夜空を泳ぐように飛ぶ、“化け物”の背中。

 

 それが池袋の戦場へと向かう氷川とその一行の“現在地”だった。

 

 大志の“擬態解除”を終え、“異能覚醒”を終え、いざ戦場へと向かうとなった時、当然ながら彼等は全速全開で先に行った黒金達を追わなくてはならなかった。

 

 場所は東京の池袋(なんでも映画のイベントがあるとかで、間違いなく人間達が大勢集まり、テレビカメラも確実に来るとあって、黒金が面白そうだという理由で即決した)だということは聞かされていたが、ここは千葉である。

 

 通常の交通機関を使っても相当に時間がかかるし、それに――

 

 

――こうして“三頭もの化け物”を同行させている以上、通常の交通機関など使えるわけがなかった。

 

 

 そうなったら。最短距離で――直線距離で一直線に向かうことになるのは、至極当然の結論だった。

 

 つまり、海と――空を、突っ切って。

 

「グルルルルルルルルルァァァァァァァ!!!!!」

 

 氷川と大志、そして黒金の部下(×5)を背に乗せ飛んでいるその個体――その化け物。

 

 鳥というよりは翼竜に近い。鋭い嘴に小さな頭部を持ち、そこには鋭く細い二本の角が生えている。だが、それとはまた別に腹部に人間のような顔があり、その周辺には夥しい数の腕が――滑らかな白い肌の人間の女の腕が、昆虫の足のように突き出ていた。

 

 そして、その中の何本かの腕で、一本の太くて巨大な鎖を持ち、別の怪物を吊り下げている。

 

「グォォォオオオ!!! グォォォオオオ!! グォォオオオオオオ!!!!」

 

 その化け物は牛のような頭を持っていた。当然のように頭に角を生やしているが、これは鬼の角というよりはまさしく牛の角ような形状だった。

 

 だが、その身体は牛のそれとは似ても似つかない、異様なものだ。

 

 まるで筋肉組織が剥き出しであるかのようなそれは、理科室の人体模型の半身を想起させるが、それだとすればあまりにも手と足が長過ぎた。二足歩行ではなく四足歩行を前提としているかのようなそれの体躯は、胴体が余りにも小さくやせ細っているが、その全身の真っ赤な筋組織はしなやか且つ強靭であると見るだけでも十二分に伝わり、か弱さやひ弱さといった言葉とは無縁の恐しさだった。

 

 そして、怪物の嘶きを上げながら空の旅を続ける二頭の怪物とは異なり、その個体は黙々と東京湾を泳いでいた。

 

 空を行く二頭の化け物の、ちょうど真下。

 

 4メートル程の牛人と、10メートル程の(翼を広げた横ではなく頭から足までのサイズ)翼竜とは違い、全長20メートルは下らない、まさしく怪物。

 

 魚のような頭をしたその化け物は、しかし人間のような形の身体を持っているが故か、頭部には似つかわしくない豪快なバタフライ泳法で海を進んでいた。

 

 魚特有の感情を示さない眼で、魚の鱗をびっしりと全身に纏いながらも、首から下の造形が人間である巨大な魚人が全力のバタフライで東京湾を泳ぐその姿は、傍から見ればシュールな光景にも映ったかもしれない。だが、それは上空から眺めているが故の、まさしく上から目線で言える戯言だろうと黒金の部下――氷川と共に大志の見張りに残っていたその男は思った。

 

 現にちらりと背後を見れば、下半身を凍らされて怪物の背中に固定されている、同じようにあのアジトに残って大志と共に戦場へ来るように命じられた黒金組の同胞達は――ピりついていた氷川と同じ空間にいることが耐え切れずに地下の檻に閉じ込めていたこの三頭の化け物達を解放する任についた彼等は、一様に目を覆いたくなるような大怪我を負っていた。

 

 それでも当然のように戦場へと向かう彼等は流石は黒金組の一員だとも言えるかもしれないが、こうして大怪我を負っているということは、やはり油断もあったのだろう。

 

 長い間、ずっと真っ暗な檻の中に大人しく閉じ込められていたこの化け物達を、舐めていた部分もあったのだろう。

 

 そんな化け物達を、定期的に痛めつけることで大人しくさせていた幹部のメンバー達に畏敬の念を覚えるのと同時に――ゾッとする。

 

 この、正真正銘の手に余る化け物達を、ここまで従順に“操作”する――その“異能”に。

 

「――大志。間違ってもこんな所で気絶なんかすんなよ。このスーツは一張羅なんだ。海水の匂いが付いたりすんのは冗談じゃない」

 

 氷川は相変わらず、飛行機クラスのスピードで空を飛ぶ翼竜の背中で仁王立ちのまま、なんと優雅に煙草に火をつけて煙を味わいつつ絶景を楽しむという空の旅を満喫していたが、不意に背後の大志に向けて、ふとそう呟いた。

 

 その声を受けた大志は、他のメンバーと同様に下半身を凍らされる形で固定されつつ、その異形の身体をパキパキと鳴らしながら息を荒げて呻いていた。

 

「…………はぁ………ぁぁ……がぁ………が、がんばるっす……けど……あと………どれくらい……っすか」

「情けねぇ奴だな。夜景を楽しむ余裕くらい見せらんねぇのか」

「は………はは………ちょ、っと………きつい……っす」

「ったく」

 

 氷川はそう言って再び前を向いて煙草の紫煙を吐き出すが、黒金組で唯一五体満足のその男は、大志から目を離すことが出来なかった。

 

 大志は擬態解除した、異形な怪物の姿のままだ――つまりこの空の旅は、この化け物達の大移動は、大志の異能によって支えられているものだ。

 

 この異様な光景は、この壊れかけている少年によって、作り出されているものなのだ。

 

 大志の身体は、真っ白な外殻に覆われ、その頭部に突き出るように二本の角が生えている。

 そして荒い息を吐く毎に、その外殻が罅割れ、剥がれ落ち、そして修復するように――パキパキと新たな外殻が再生する。

 

 どう見ても不安定で、誰が見ても危うくて、それでも、この少年は――

 

「おい、大志。朗報だぜ」

 

 その言葉に、男は顔を上げてやっと前を見る。

 

「上陸だ」

 

 氷川のその言葉と共に――遂に、化け物共が、上陸した。

 

「グルルルルルルルルルルルォォォォォォォオオオオオオオオ!!!!!」

 

 翼竜が雄叫びと共に、人間達を威嚇する。

 

 そして魚人は勢いよく跳ね上がり、その身体をまるで魚のようにくねらせながら、滑らかに陸を泳いでいった。

 

 車を、建物を、全てを薙ぎ倒し、魚人は進む。

 やがて、その勢いがなくなった時、魚人は――――その腕と足を使い、不恰好な四足歩行で高速に陸を走り出した。

 

 阿鼻叫喚の、混乱が爆発する。

 

 人間達の悲鳴が吹き上がり、港は未曽有のパニックに陥った。

 

 それは、遥か上空の翼竜の背中の、大志にも届く。

 

「………………」

 

 大志は、荒い息を吐きながら、己の身体を抱き締めるように、ギュッと腕を握りしめる。

 

 パキッ! と、化け物の証である外殻罅割れ――そして直ぐに、より強固に修復された。




轟雷の豪鬼が降臨し――哀れな白鬼は、己を掻き抱く。


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……これが、強さ。……本当の……本物の……絶対に、揺らがない強さ

 Side東条――とある60階建てビルの通り

 

 

 それは岩のように硬い雰囲気を持つ男だった。

 

 服装自体は、この池袋の街に相応しいラフなスタイル。

 スタンダードなジーパンとTシャツにジャケット。左手には手甲を覆うミリタリー柄のグローブ。そして髪をすっぽりと覆い隠す帽子を被り、更に顎髭を生やしている。

 

 だが、その表情は、まるで岩石のように硬い。

 

 見た目は完全に人間だ。

 だが、登場の仕方があまりにも異様だった。

 

 故に、由香は怯え、笹塚は銃を構えている。

 

 明らかに、この男は、異様で、異常で――異形な、何かだ。

 

 故に、東条は笑い、目の前の男を獰猛に見据えている。

 

 岩のような男は、ちらっと目線を女吸血鬼に向けると、硬く引き締められたその表情に初めて小さく笑みを浮かべた。

 

「……ほう、この女に勝ったのか」

「いいケンカだったぜ――そんで」

 

 東条はバキバキと指を鳴らし、猛獣のような笑みと共に挑戦的な目を男に向けて、闘気を放ちながら言った。

 

「次は、オメーがオレとケンカしてくれんのか」

 

 その言葉に、男は――

 

「――ふっ」

 

 と笑い、とん、と小さく跳ねて――ドンっ!! と加速する。

 

 瞬時に肉薄する。

 その唐突な開戦に対し、東条は既に拳を振りかぶっていた。

 

 そして両者の顔面に、それぞれの渾身の一撃が炸裂する。

 

 東条と男は、頬にお互いの拳が突き刺さった状態で、それでも尚、獣のような――化け物のような、獰猛で、好戦的で、野生的な笑みを浮かべていた。

 

 黒い球体の部屋の戦士――東条英虎と、黒金組幹部――岩倉の、壮絶な殴り合いが、この瞬間、幕を開けた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 強さとは何だろうと、あの日から由香はよく思考する。

 

 日がな一日中――登下校中、授業中、休み時間、就寝前――時間を持つ度に、時間を持て余す度に、自問自答を繰り返す。

 

 一人の時間が増えたからか、会話相手がいなくなり、自分の中に閉じ篭っての思考に耽る時間が長くなったからか、由香はいつからか、こんなことばかり考えるようになっていた。

 

 それは思春期だからといってしまえばそれまでだし、我ながら恥ずかしいことを考えているという自覚はあるけれど、それでも由香はこの一年間、夢中でそれを考え続けた。同年代の女の子達が恋やらお洒落やらに興味を示し出す中、由香は強さとは何かという少年漫画の主人公のような哲学について考えを巡らせていた。

 

 自分は、かつて強かった――というよりは、強がっていたのだろう、と思う。

 

 見栄を張っていた。というよりは、弱く見られたくなかった。弱く在りたくなかった。

 

 惨めなのが、嫌だったのだろう、と思う。

 

 弱い存在だと思われるのが嫌だった。下につきたくなかった。一番下になるのが嫌だった。

 

 だから、自分より弱い誰かを、下に置いて上に立とうとした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ドガンッッ!!! と、お互いの拳の威力によって、東条と岩倉の顔が後ろに仰け反った。

 

 だが、それでも二人は、にやりと凶暴な笑みを浮かべる。

 

「ふんッ!」

 

 東条はすぐさま体勢を立て直し、豪快にそのパンチを岩倉に向かって再度、放つ。

 

 そして、それを岩倉は――最小限の動きで躱してみせた。

 

 由香には、この二人の動きは速過ぎて、やはり良く見えなかった。

 

 だが、東条の攻撃が躱されたのと――その隙に懐に潜り込んで、東条のどてっ腹に岩倉が一撃を入れたのは分かった。

 

「――え?」

 

 由香は思わず呟く。

 

 これまで圧倒的な強さで敵を倒してきた東条が、まともに一撃を喰らうのを見るのはこれが初めてだったから。

 

 岩倉はそのまま東条の顎に向かってアッパーカットを打ち出す。

 由香は思わず叫びかけた。

 

 だが――そのパンチを、東条はヘッドバッドで受け止めた。

 

「――マジか……」

 

 拳銃を構えながら、笹塚が呟くのを由香は聞いた。

 

 東条の変わらぬ凶悪な笑みを受けて、岩倉は額に一筋の汗を流しながらも、自身も笑みを浮かべて一歩下がる。

 

 そして――間髪入れずに再び距離を詰めた。

 

 この時、傍から見ていた笹塚は、岩倉の構えを見てこう思っていた。

 

(……ボクシング、か?)

 

 両拳を顔の近くに置き肘を立てるような構えと、とん、とんと細かく小さくリズムをとるようにジャンプしているそのスタイルを見て、笹塚はそう考えていた――故に、この後の岩倉の挙動に虚を突かれることとなった。

 

 この岩倉という男もまた、東条英虎と同じく、小奇麗なルールなど持たない、喧嘩を生業とする男だった。

 

「っ!?」

 

 突如岩倉は跳躍のリズムをずらし、フェイント気味にハイキックを放った。

 

 しかし、東条はそれをまったく動じずに受け止める――逆に虚を突かれたのは岩倉の方だった。

 

「おらっ!!」

 

 東条はそのまま岩倉を片手で強引に投げ飛ばした。

 

 岩倉は為す術なく、どこかのテナントの中に吹き飛ばされ、内装を豪快に破壊しながら叩き込まれる。

 

 東条は相変わらず野性的な笑みを浮かべながら、コキリと軽く首を鳴らした。

 

(…………すごい、すごいっ! やっぱり、この人は“強い”っ!)

 

 由香はその光景に、頬を染めて陶然としながら、ごくと唾を飲み込んだ。

 

「……………………」

 

 笹塚は、そんな由香を無感情のような無表情で見下ろしていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 誰かを下に置けば、相対的に自分が強くなると思っていた。

 

 そして、現に強くなったように感じた。

 誰かを一方的に貶めることが出来る。それは強さの証だと思った。

 

 だって、どう考えても間違っている行為が、正しい行いであるかのようにまかり通った。

 

 誰も何も言わなかった。同意して、同調してくれた。

 

 傲慢な理不尽が、その世界では適応された。

 

 由香(じぶん)はその王国の支配者で、由香(じぶん)が作り出した腐りきった政治(ルール)が、当たり前の正義であるかのように執行され続けた。

 

 間違いなく湯河由香の天下だった。自分はこの王国での絶対なる強者。これこそが、強さの証だと思った。

 

――半分は見逃してやる。あとの半分はここに残れ。誰が残るのか、自分たちで決めていいぞ

 

 だが、その王政は、ある日、唐突に終わりを迎えた。

 

――……由香がさっきあんなことを言わなければ

――由香のせいじゃん

――そうだよね……

 

 由香は革命を起こされ、由香の王国は崩れ去り、最下層へと都落ちした。

 

 由香の作りだした強者の位置は、由香の手にしたその強さは、その日を境に無意味になって、無価値になった。

 

 轟々と燃えるキャンプファイヤーが、まるで燃え堕ちた王国の成れの果てのようで。

 

 その炎の隙間から覗いた、自分とはキャンプファイヤーを挟んで反対側の、人混みから離れた位置から同じように炎を見ていた――一人の腐った男子高校生の双眸と目が合った時。

 

 由香は恐怖で息を呑み、一目散に何処かへ逃げ出した。

 

 

 ひとりぼっちで、人混みから逃げた。

 

 

 絶対であるはずの強さが覆り、由香はその日から弱者になった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 岩倉がその服を埃や血で汚しながら、ゆっくりと破壊されたテナントから姿を現す。

 

 既にその表情から笑みは消えていて、岩石のようにこの戦場に落下してきた時と同様に――いや、その時以上に硬い無表情で、再び東条と相対する。

 

 対して東条は、更に深くその猛虎のような獰猛な笑みを深め、片足を引き、構えを取る。

 

 岩倉もボクシングのような構えを取って、ゆっくりとお互いの拳が届く間合いまで近づき――

 

「――ふっ!」

 

 鋭く拳を放つ。対して東条は、それを――避けずに、食らった。

 

 小手調べのジャブだったのか、まさか避けないとは思わなかったのか目を見開く岩倉だったが、東条はその獰猛な笑みを崩しておらず――

 

――強烈な拳を岩倉の腹に叩き込む。

 

「っ!?」

 

 岩倉は思わず腹を押さえてよろめいた。そして、ここで初めて、岩倉は険しい表情で東条を見上げた。

 

 東条はその敵意すらも堂々と受け止めて、強者の笑みを浮かべて岩倉を見下ろしている。

 

(……ああ、強い。……あの人は――東条さんは、本当に強い……)

 

 由香はその戦いを見て、陶然と見惚れ、胸の鼓動の高鳴りを覚えていく。

 

 負けじと岩倉は渾身の拳を東条に叩き込む――が、東条はそれを真っ向から堂々と食らい、そしてお返しとばかりに一発のパンチを返す。

 

 岩倉は大きくよろめき、東条は揺るがなかった。

 

(……これが、強さ。……本当の……本物の……絶対に、揺らがない強さ)

 

 これが、強さなのだと、由香は思った。

 

 紛い物の強さとは、偽物の強さとは、簡単に揺らいでしまう――由香は己の転落から、そう痛感していた。

 

 誰かを下に置いても、自分が上に立ったことにはならない。強くなったわけで、決してない。

 

 自力で上に立ったわけではない者は、同じように誰かに引きずり降ろされ、下に置かれた時、上に這い上がることが出来ない。自力で登ったことがないから。登れるだけの、強さがないから。

 

 強さを持たない、弱者だから。

 

 だが、だからといって、自分の上に立つ者が、皆本当に強いのかと言えば、由香はそう思えなかった。

 

 かつての自分のようにあの日から自分に理不尽を強いるクラスの者達は担任の先生にはへこへこするし、その担任の先生だって学年主任や教頭や校長にはへこへこする。

 

 なら、強さとは年齢なのか? 立場なのか? 権力なのか?

 

 それも違う――と由香は思う。

 

 テレビを点ければ、その偉い権力を持った大人達が、大勢のカメラの前で頭を下げている姿など連日のように放送されている。

 

 強者の転落など、世界には溢れている――かつての自分がそうだったように。

 

 ならば、強さとは何だ? 決して転落しない、転覆しない、本物の強さとは何だ?

 

 どんな理不尽も通用しない程の、圧倒的な理不尽(つよさ)とは――何だ?

 

(……分かった……遂に……やっと……見つけた)

 

 あの時、由香は、目の前が絶望で真っ暗になった。

 

 かつて王国の支配者の座を追われ、己の偽物の強さを暴かれた時でさえ――破壊された時でさえ、これほど目の前が真っ暗にはならなかったと思う。

 

 いきなり放り込まれた、無機質で不気味なワンルーム――黒い球体の部屋。

 

 そして有無を言わさず送り込まれた、放り込まれた、漆黒の巨大な騎士との戦争。

 

 理不尽――およそ考え得る限り、中学一年生の貧困な想像力で辿り着ける限りで最大で最悪の理不尽な一夜。

 

 分からなかった。何も分からなかった。分かるのは、今、自分が遭わされているこの現状が、とにかく、とんでもなく理不尽なものであるというだけ。

 

 自分よりも遥かに年上な男達も、悲鳴を上げ、恐怖に怯え、理不尽を嘆いていた。

 

 そして何か訳知り顔で、他の連中よりは比較的に落ち着いている数人の経験者達も、経験者故か、一様にその表情は硬く、一つ一つの不測の事態に――イレギュラーに慌て、混乱しているようだった。

 

 そんな中で、この男だけが悠然としていた。堂々としていた。

 

 揺らいでいなかった――本物の強者だった。

 

 東条英虎。

 

 これが強さだと思った。彼こそが――この人こそが強者だと思った。

 

 

 本当の、本物の、強さだと思った。

 

 

(……きれい)

 

 その在り様は、この世界の、この下らない世界の、どんなものよりも美しいように思えた。

 

 由香は、一筋の涙を流した。

 

 敵の拳を食らいつつも、一切その笑みを崩さず尚も深め、全く揺るがず、一瞬も怯まず、その大砲のような拳を敵に叩き込み続ける、その男の戦い様に――強さに、由香は目を、心を奪われた。

 

 本当の強さは、絶対に揺るがない。絶対の強さは、此処にあったんだと。

 

「――あああああッッッ!!!」

 

 岩倉が初めて大きく吠え、渾身の拳を東条の腹に叩き込む。

 

 そして、東条はそれを受け――その岩倉の右腕を、右手で掴んだ。

 

「っっ!?」

 

 岩倉は思わず見上げる。

 

 東条は、不敵に――猛者の笑みを、浮かべていた。

 

「ふんっ!!!」

 

 東条の強烈な左肘の一撃が、岩倉の首裏に叩き込まれた。

 

「が、はっ――」

 

 そして、遂に――岩倉が、膝を着く。

 

 地面に向かって喀血し、苦痛に悶える。

 東条は岩倉の腕を離して、その様を上から見下ろした。

 

 悠然と佇む強者と、屈服する弱者。

 

 由香はその光景を見て、自身の想いを確信する。

 

「っ!! おおおおおおおぉぉぉぉぉぉ!!!」

 

 そして、弱者はその構図の転覆を図る。

 

 残された力を振り絞り、革命(ジャイアントキリング)を果たそうと逆転を試みる。

 

 だが、本物の強者には通じない――本当の強さとは、決して揺るがない。

 

 起き上がり、立ち上がった岩倉の顔面を、東条の拳は捉えた。

 

 まるで弱者の希望を容赦なく打ち砕くように、弱者が強者に屈する――そんな当たり前の現実を、不変の摂理を、愚かな弱者に思い知らせるように。

 

 東条のその一撃は、これまでで最強の一撃は、岩倉を遠く、遠くまで吹き飛ばした。

 

 何度も地面を転げ回り、街灯やテナントを吹き飛ばしながら、岩倉は視界の外に消えていった。

 

「…………」

 

 その、余りにも圧倒的な戦闘の結末に、笹塚は拳銃を下して、口を開けて、煙草を落として佇んでいた。

 

 東条は威風堂々と立ち、そして、由香は――

 

「…………ぁ――」

 

 

――その時、突然、地面が盛り上がった。

 

 

「っ!?」

「な、何!?」

 

 陶然としていた由香は、その唐突な災害に対し何も出来ず、笹塚に抱きすくめられるように庇われた。

 

 その発生源は由香から――そして東条からも少し離れていたようで、由香や笹塚の元へは衝撃しか届かなかったが、逆に言えば、それだけ離れているのに衝撃が届く程に、その災害は凄まじいものだった。

 

(い、いったい、何が――――っ!?)

 

 由香は笹塚越しの視界に、それを捉えた。

 

 

 盛り上がった地柱が弾け飛び――中から“怪物”が生まれた。

 

 

 ズン、ズン、と重々しい足音が響く。

 

 舗装されたアスファルトを破壊しながら、あの東条よりも巨体となったその怪物は、道のど真ん中を悠然と歩き、向かってくる。

 

「…………ほう」

 

 東条はそれに対し、到着を堂々と待ち構え、ゴキゴキと指を鳴らし、戦意を露わにする。

 

 その怪物は、岩の巨人だった。

 

 全身をまるで外骨格のように岩で覆われた巨人。

 

 頭に二本の角を生やし、膨れ上がった筋肉の様相まで岩で表現している。まるで一種の彫像のような怪物であった。

 

「…………何………あれ………?」

 

 由香は、ガタガタと震えながら呟く。

 ただ単純に姿形が恐ろしくなったというだけではない。造形で言うなら、先程の女吸血鬼の不気味なラミアのようなそれの方が何倍も悍しかった。

 

 だが、違う。

 この怪物は――違う。

 

 あのラミアのような危うさはない。不安定さがない。

 

 この怪物は完成している。綺麗な形で――怪物として。

 

 揺るぎない――確固たる自身を持っている。

 

 己の強さに対する、揺るがない自信を。

 

 怪物は嗤う。見下すように、顎を上げて、東条を嗤う。

 

 対して東条も、その怪物に対し、不敵な笑みで応えた。

 

(………そ、そうよっ! 負けるわけないっ! あんな怪物に、東条さんは負けないっ!)

 

――本当の、本物の強さは、絶対に揺るがないっ!

 

 そんな由香の葛藤を余所に、東条と岩石の巨人は激突した。

 

 岩の巨人――擬態を解除し、本来の姿を、怪物の本性を露わにした岩倉の拳と、東条の拳がぶつかり合う。

 

 びし、と何かが、罅割れる音。

 

「やっ――」

 

 由香が歓声を上げかけた――その瞬間。

 

 

 東条の巨体が、宙を舞った。

 

 

(――――――え)

 

 ガシャァァンッッ!!! と、これまで何体ものオニ星人に対して、東条が行ってきたのと同じように、東条の身体がどこかのテナントの中に吹き飛ばされた。

 

 轟音と共に、何もかもを破壊して、紙切れのように吹き飛ばされた。

 

 有象無象の弱者のように――東条英虎が、敗北した。

 

(………………うそ)

 

 キャァァァァアアアアアアアア!!!!! という、一般人のギャラリーの叫び声が響く。

 

 これまで圧倒的な力で未知なる怪物を圧倒してきた戦士の敗北に、民衆の恐怖は最高潮に達した。

 

(……………うそ、うそようそようそようそようそようそようそようそようそよ)

 

 逃げ惑う一般人と避難を促す笹塚の声を聞き流しながら、由香は目の前の現実を受け止められずに、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side??? ――とあるアミューズメント施設の中のゲームセンター

 

 

 神崎有希子は、あの池袋大虐殺の号砲が放たれた瞬間に湧き起こった混乱の中、必死に、必死に逃げ回って、気が付いたら、かつて通い慣れたこのゲームセンターに逃げ込んでいた。

 

 駅から大分離れてしまったと初めは絶望的な気分になったが、思い返せばあの時、駅の出口を封鎖するように怪物達が陣取っていたし、そもそもこんな状況では既にまともに電車など動いていないだろう。これが計画的な犯行だとしたら、そこは真っ先に潰されるはずだ――と、こんな場所まで逃げてきてしまった自分の行動を、無理矢理にでも正当化するように、神崎はそう己の中の焦燥に結論を出した。

 

 だから逃げた。逃げて、逃げて、逃げた。

 

 色んなものを見た。色んなものが聞こえた。

 吹き出す鮮血。声帯を引き千切っているのではないかと思う程の痛々しい絶叫。そして、化け物の不気味な笑い声。

 

 そのどれもが怖くて。何もかもが恐ろしくて。だから逃げて逃げて逃げて。

 

 途中、ヒールによってバランスを崩して、アスファルトに思い切り倒れ込んだ。

 

 その瞬間――化け物の鋭過ぎる爪が、神崎の帽子を引き裂いた。

 

『――――ッッ!!??』

 

 もし、転ばなかったら――その想像を思い巡らしてしまい、神崎はぶわっと涙を溢れさせた。

 

 歯がガチガチと音を鳴らし、膝がガクガクと無様に震えていた。

 

 それでも、とにかく逃げたくて逃げて逃げて怖くて怖くて嫌で嫌で嫌で。

 

 神崎は必死にヒールの靴を脱ごうと地面を這いながら、その趣味じゃない派手でお洒落な服を汚し痛めながら足掻く。

 

 その時――神崎の横を逃げ去ろうと横切った名も知らぬ誰かが殺された。

 

 自分を殺すかもしれなかったその鋭過ぎる爪で、背中をバッサリと切り裂かれた。

 

 この数分で、何度聞かされたか分からない、何度聞いても頭がおかしくなりそうな――殺される者の断末魔。

 

 失われる命の理不尽に対する怒りが、嘆きが、満ち満ちている、恐怖の叫び。この恐怖への、叫び。

 

『~~~~~~っっっっ!!!』

 

 神崎は、唇をこれでもかと噛み締める。必死に必死に悲鳴だけは堪えて。

 

 逃げる為に。逃げる為に逃げる為に逃げる為に生きる為に逃げる為に逃げる為に。

 

(逃げなきゃ……逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ)

 

 神崎有希子は逃げ続ける。

 

 恐怖から。理不尽から。化物から。父親から。堕落から。失敗から。過去から。未来から。

 

 逃げる逃げる逃げる逃げる逃げる逃げる。

 

 それが、神崎有希子という少女。

 

 世界が変わっても、地獄へと変わっても、何も変われない少女だった。

 

 神崎は、背後から轟き続ける断末魔から背を向ける。

 

 ようやく足から外せたヒールを何処かへと投げ飛ばして。擦り剥いた膝の痛みなど都合よく度外視して。

 

 足をもつれさせながら立ち上がり、そして逃げた。

 

 背後で人が死ぬ音。殺される叫び。断末魔の絶叫。化け物の高笑い。

 

 それらの全てから、神崎有希子は逃げて逃げて逃げた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、神崎有希子はこのアミューズメント施設に辿り着いた。

 

 自分と同じように都合よく考えたのか、それとも自分と同じように怪物のいない方へいない方へとただ逃げてきたのかは分からないが、この建物内には一緒に逃げて来た数人の人間達と一緒に突入した。

 

 そして、そこには――自分達以上の人数の死体が転がっていた。

 

『ひっ――』

 

 誰かが思わず悲鳴を漏らす。神崎は悲鳴を漏らすことはなかったが、顔面を蒼白させ、こみ上げる吐き気を堪えるように口を手で塞いだ。

 

 咄嗟に建物の外に出ようと足が動いたが、そんな時――

 

『ギャァァァァアアアアアアアアアア!!!!』

 

 外から誰かが襲われる声が聞こえ、再び足が止まった。

 

『う、上だ! とにかく上へ上がろう!』

 

 誰かがそんなことを宣う。それは全く根拠がない発言で、もし上に怪物が待ち構えていたら、自分達は逃げ場のない場所に追い詰められてしまうことになるのだが――このとき彼等は、すぐ外にいる今まさに殺されようとしている人間と、確実にその人間の傍にいて人間を殺しているであろう怪物から、少しでも離れたい、逃げたいという気持ちでいっぱいだった。

 

 彼等は上へ上へと止まったエスカレーターを駆け上がり、神崎もその一行に続いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、現在に至る。

 

 幸いというべきか、この建物内には既に、怪物はいないようだった。

 代わりに見つかるのは、人間の死体、死体、死体。

 

 当然ながら、神崎は池袋駅東口からこのゲームセンターに歩き慣れた最短ルートで辿り着いたわけではない。

 

 行く先々で怪物が人間を襲う殺害現場に出くわして、必死に叫び声を堪えながら、少しでも遠くにという一心で、まさしく奇跡的に到達した場所だった。同行者も逃亡しながら少しずつ増えていった。

 

 おそらく怪物達は虐殺を始めた後、真っ先にこのゲームセンターのように人が多く集まっているであろう場所を狙ったのだろう。

 

 そんなことを、同行者の誰か――上に逃げようと進言した男――が言った。

 

『だ、だから、ここはきっと、奴等にとって“用済み”の場所なんだ! まさか奴等も一度人間を殺し尽くした場所に、まだ人間がいるだなんて思わない! だから、この場所に隠れて、た、助けを待とう! き、きっと、警察とか、自衛隊とかが動いてる! 逃げ回るより安全な場所で待っていた方が、奴等と遭遇する可能性は低い筈だ! 生き残れる可能性は高い筈だ!』

 

 それは、まさしく薄氷の上を渡るかのように、危うい賭けに思えた――が、誰も異論は挟まず、そのフロアの隅の隅に固まり、じっと息を潜めて隠れることとなったのだ

 

 もっと言うなら、ここは三階で、まだまだ建物内を全て見回ったわけではなかった。安全確認を済ませていたわけではなかった――が、既に、神崎達は限界だった。

 

 ここまで命からがらの逃走が続き――逃避行が続いた。この建物内の探索も、徐々にもしここで怪物と遭遇したらという可能性にようやく気付いたのか、新しい階に顔を出すだけでも戦々恐々だった。

 

 そして、あちらこちらに転がる、凄惨な人間の虐殺死体。

 

 もう完全に、心が限界だった。そんな状態で出されたその男の希望論は、彼等の足を止めるには十分すぎる威力を持っていた。

 

「……………………」

 

 だが、当然のことながら、助けは来なかった。いつまで経っても来なかった。

 

 時間とすればまだ十分も経っていないのだが、惨殺死体に囲まれ、いつ怪物が現れるか分からないというこの状況で、ただじっと待つということが、つい数十分前まで平和な日本の一般市民だった彼等にとっては、耐え難い苦痛だった。

 

 まさしく、地獄だった。

 

 そして――

 

 

 ガシャァァンッッ!!! と、再び轟音が響く。

 

 

「ひぃっ!!」

「馬鹿ッ!! 大声を出すなッ!! 外で起こっている音だ!! この建物には踏み込んでこない!!」

 

 そう男が大声で怒鳴る。

 

 少し前から、建物の外で、このような轟音が鳴り響くようになっていた。

 

 男の言うように建物の外の出来事なのだが、こう頻繁に、そしてこれほどの轟音が続く為、既に精神的に限界な神崎達にとっては、一回一回がかなり大きなダメージとなる。

 

 結果としてお互いで不満をぶつけあい、ぎすぎすしていく。そして、そのことが再び多大なストレスとなる――という悪循環。

 

(……もう……どうすればいいの? ……どうして……こんなことに――)

 

 神崎は、そんな集団の端で体育座りをしていた。

 

 ショートパンツによって剥き出しの、膝小僧から血が流れている鉄臭い脚に顔を埋め、涙を堪える。そして周囲から漂ってくる、自分のそれとは少し違う嗅ぎ慣れない血の匂いに、現実(リアル)の戦争というのはこんなにも悲壮なものだと思い知った。

 

 これはもう、二度とGGOにログインすることはないかも、と力なく笑った時――

 

「――あー、おじちゃん、もう限界だわ」

 

 と、神崎の横に座っていた、穴が複数個空いた黒いキャップを被った目つきの悪い男が立ち上がった。

 

「……え――」

 

 神崎が顔を上げ、呆然とその男を見遣ると、男は苦笑しながら――

 

「ああ、いやね。煙草(ヤニ)が切れちまったもんで、ちょっくらお外に行ってくるわ」

「え、あ、その――」

 

 神崎は訳が分からない。

 

 今外に行くなど、正気の沙汰ではない。トイレに立つことすら不可能な状況なのに、ただ煙草を買うというだけで、平然と、それこそ近所のコンビニでも出かけるかのように気軽に、怪物が跋扈する外界へと向かう男に、神崎は何と声を掛けていいのか分からず、とりあえず立ち上がろうとして――

 

「や、やめときなさい」

 

 その男の後ろ――神崎の斜め後ろに座っていた派手な眼鏡とぐしゃぐしゃのわかめのような髪のおばさんは、神崎の服の裾を掴んだ。

 

「で、でも――」

「あの男は……ヤバいわよ。……狂ってる」

 

 おばさんはそう言った。

 

 確かに、この状況であんな理由で外に出るのは、前述の通り正気の沙汰ではない。

 現に彼が出て行ったことに気付いた他の連中達も「恐怖で頭がおかしくなったんだろう……ほっとけ」と、冷たく投げやりに送り出す。

 

 このおばさんもそう言いたいのかと思ったが、彼女の口から出た言葉は、神崎の思ったそれとは少し違った。

 

「……あの男……笑ってたのよ」

「……笑って――た?」

 

 神崎は気付かなかった。ずっと何も見ないように、何も聞こえないようにお得意の現実逃避をしていたからだろうか――だが、こんな状況で笑うということは、やはり気が触れていたということではないのか?

 

「ずっと、煙草を咥えながら――小さく、鼻歌を歌ってた」

「……鼻……歌?」

 

 神崎は、その情景を脳裏に描いて――ゾッとした。

 

「それって……まるで――」

 

 この状況を。この――戦争を。

 

(……楽しんでる、みたい――)

 

 ぶるりと背筋を駆け上がる恐怖を覚える神崎に、そのおばさんはこう繰り返した。

 

「アイツは、ヤバいよ……」

 

 外を跋扈する怪物よりも。辺り一面に転がる死体を作り出した怪物よりも。

 

「……狂ってる」

 

 今、出ていった“人間”の方が、余程、よっぽど恐ろしいと、そう言わんばかりに。

 

「…………」

 

 神崎は、最後にもう一度、帽子の男が出ていった先を見ながら――ゆっくりと、腰を下ろした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 建物から出たその帽子の男は、ふうと息を吐いてズボンのポケットに手を入れる。

 

「ありゃ?」

 

 すると何か手ごたえがあり、それを取り出してみると――

 

「お、なんだ、あんじゃねぇか。いつも上着の内ポケットに入れてるもんで気づかなかったぜ」

 

 ご機嫌な様子で中身を一本取り出し、火をつける。

 

 男が愛煙するその煙草の銘柄は「じOker」という絶版銘柄で、自宅には二万個程もの在庫が冷蔵庫の中で保管されているが、それ故に外出先では入手不可能である為、これは予期せぬラッキーだった。

 

 そして文字通り一息ついたところで、男は顔を上げる。

 

 ここは大きな通りから左に曲がった道であり、右手にはその大きな通り――60階通りがある。そこでは先程から大きな轟音が響いていて、ちらっと――身長3m近い岩石の巨人が見えた。

 

「おうおう化け物だねぇ。いかにも強そうだ」

 

 そんなことを飄々と呟きながら煙草を吹かす男は、さてこれからどうするかと帽子の位置を調整するかのように被り直して――

 

 

――左方向の少し先で立ち昇っている、大きな火柱に目を向けた。

 

 

「俺様好みの馬鹿がはしゃいでるじゃねぇの」

 

 火火火(ヒヒヒ)

 

 そう笑い――そう嗤い、その男は、天高く伸びるその火柱を、闇夜を焦がすかのようなその火柱を、まるで花火を鑑賞するが如く楽しんでいた。

 




湯川由香は本物の強さを見出し、神崎有希子は化け物よりも恐ろしい犯罪者を見遣る。


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背中は任せたぜ

 Side渚――とあるふくろうの像がある公園

 

 

 火口と呼ばれたその男は――そのオニは、燃え盛る大樹を背景に、渚達の方に歩み寄ってくる。

 

 ゆっくりと、威圧するように――鬼気迫るように、悪鬼が、迫る。

 

「ひ……ぐち……さ――」

「口を開くんじゃねぇ」

 

 地面に仰向けで倒れ伏せる低身のオニの言葉を遮る火口。

 だがそれは、重傷を負った仲間の身体を気遣うというよりは、バッサリと切り捨てるような意味合いが強かった。

 

 それを裏付けるように、渚達の少し前で倒れ伏せる低身のオニの元まで辿り着くと、彼を見下ろすように無表情で睨み付け、吐き捨てるように言った。

 

「……さんざん大口を叩いて、この様か。わざわざ“堕ち前”の個体まで貸してやったのによ……。アイツは自我が薄れても扱いやすかった希少な個体だったんだぜ。調教方法(そだてかた)次第じゃあ、誰でも扱えるような便利な切り札になったかもしれねぇのによ……がっかりだよ、テメェには」

「……すい……ませ――」

「ああ、謝らなくていい――」

 

 そう言って火口は、額に手を当て頭を振ると――

 

「――テメェの顔は、二度と見たくねぇ。だから死ね」

 

 

 バッ! と、手品のように、低身のオニを“発火”させた。

 

 

「「「――ッ!?」」」

 

 渚達がその現象に、その所業に驚愕し、目を見開く。

 

 そして先程の大樹の化け物の時のように、化け物による人間のような悲鳴が轟いた。

 

「ああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」

 

 火口は低身のオニが苦しみで転げ回ろうとするのをその人間のような足で踏みつけて固定し、焚火を眺めるような穏やかな瞳で見下ろして、こう呟く。

 

「……黒金(アイツ)の覇道の第一幕にケチをつけやがって……万死に値する。万回分、苦しんで死ね」

 

 その言葉と共に――一体どのように火を操っているのか想像もつかないが――低身のオニの目から、鼻から、耳から、口から、身体の内側から炎が噴き出した。

 

「がぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」

 

 余りにも――余りにも、凄惨な処刑。

 

 殺される低身のオニの絶叫と、その処刑を無表情で淡々と執行する火口に、渚達の恐怖が膨れ上がり、膝が笑う。

 

 黒金組の中で唯一リーダーの黒金を呼び捨てにするこの男は、幹部の中でも、四天王の中でもリーダー格に当たり、事実上黒金の側近――右腕のような男だった。

 

 故に他のメンバー程彼に心酔している訳ではなく、むしろグループ内では諫め役、リーダーに対する反対意見を出してグループとしての進路を修正するような、そんな調整役のようなものを担っていたが、こと今回の革命においては、火口のモチベーションは恐ろしく高かった――高過ぎる程に。

 

 誰よりも黒金の傍にいた――人間時代から黒金という男の右腕だった、親友で盟友であるこの男は、この反逆にかける、この革命にかける黒金の想いを、誰よりも、誰よりも理解していた。

 

 だからこそ、この戦いを穢すものは、誰であろうと許せなかった。

 

 それが敵でも――味方でも、殺し尽くしてみせると、燃やし尽くしてみせると火口は決めていた。

 

 黒金と共に、世界を敵に回す――その覚悟を持って、何処までもあの男についていくと、火口は誓っていた。

 

 故に――低身のオニを燃やし尽くし、殺し尽くした彼の視線は、次なる標的に――黒い球体の部屋の戦士へと間髪入れず向けられる。

 

「――次はお前等だ。相手をしてやる」

 

 ダンっ!! と、真っ黒な炭と成り果てた元同胞を、目さえ向けずに容赦なく踏み潰した火口は、その無表情な瞳を渚達に向ける。

 

「来い、ハンター」

 

 火口は右の掌を上に向け――特大の火の玉を作り出す。

 

 そして、ゆっくりと、口角を上げ、笑った。

 

 その吸血鬼の牙を、鋭い化け物の牙を見せつけ、威嚇するように、宣戦布告をした。

 

 渚は、その宣言を受け、ごくりと唾を呑み、唇を引き締め、ギンッ! と目つきを鋭くして、言った。

 

 

 

「逃げましょう。僕達の勝てる相手じゃない」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 渚のその迷いない闘争ならぬ逃走宣言に、戦闘――戦争放棄宣言に、バンダナと平は驚愕し、渚に反射的に顔を向けた。

 

 いや彼等も好き好んで銃やナイフなどよりも余程恐ろしい火の玉を向ける化け物と戦いたいわけではないだろうが、それでもきっぱりと、この上なく潔く尻尾を巻いて逃げることを宣言した渚に対し、虚を突かれたことは否めない。

 

 だが、戦争に置いて、戦闘に置いて、退き時を見失わないということは、時に勝機を見逃さず畳み掛ける以上に、敵に立ち向かい進軍する以上に大切なことである。大切な才能である。

 

 自分の弱さを自覚することと、相手の強さを正確に見極めること――そして、その二つを掛け合わせ、己の手に負える範囲内であるかを判断すること。これは、こと戦争に出る戦士としては、必要最低限の素養といえる。

 

 そういう意味では、渚のこの判断は素晴らしかった。

 

 目の前に君臨する敵――怪物は、今この池袋に跋扈する怪物達の中で、黒金に次いで二番目に強い敵であり、四体いる幹部――四天王の中で、最も強い怪物である。

 

 渚達三人が束になっても勝てる相手ではなく、決死の覚悟で特攻したとしても傷を負わせることも難しい――そんな格上であり、戦争においては、相手に勝つことよりも己が死なないことを優先することが第一であることを考えれば、ここは逃げるという選択肢しかありえない。

 

 黒い球体の戦士達は己の命の為に戦争をしているのであり、本来ならば命を懸けてまで星人を倒し――地球を守る義務など、そこまでして戦う義務などないのだから。

 

 だが、それでもやはり、これは戦争で、ここは戦場だった。

 

 RPGのように、にげるコマンドを選択すれば逃げることが出来るような、危機を回避できるような、そんな親切なシステムは存在しない。

 

 死なない為の逃走にも、当然リスクは伴う――死亡の危険性が付き纏う。

 

 逃げる為に、命だけでも守る為に、命を懸けて戦わなくてはならないのだ。

 

「面白い戯言が聞こえたな」

 

 火口は低い声で言った。

 渚達はその言葉と共に膨れ上がった殺気を感じ、思わず後ろ足に重心を掛ける。

 

「ここまで俺達の仲間を無残に殺しておいて、黙って逃がすとでも思っているのか?」

 

 己の同胞にこの上なく残酷に止めを刺した男は――怪物はそう嘯く。

 

 そして、まるで野球のボールを全力で投擲する投手のように――巨大な火の玉を振りかぶって渚達に投げつけた。

 

 火の玉が巨大過ぎて、それは最早炎の壁が己に向かって突っ込んでいるようだった。視界がみるみる橙色に染まり、熱波により空気すらも燃えていると錯覚してしまう。

 

「――ッッ!!? 避けてッ!! 跳んでッ!!」

 

 渚はそう叫び、とにかく我武者羅に右手に跳んだ。

 同じように平も右手に、バンダナは左手に、頭を抱え――庇いながら、全力で回避を試みる。

 

 そして火の玉は、彼等三人の中間の地面に着弾した。

 

 ドガンッッ!!! と、爆裂する。

 

 地面が弾け飛び、大爆発を起こした。

 

「くぅぁッ!?」

 

 渚達は直撃を避けることは成功したものの、余波でも吹き飛ぶには十分過ぎる程の威力が苛烈に撒き散らされた。

 

 ふわりと身体が宙に浮き、受け身を取ることすら出来ずゴロゴロと転げ回る。

 

 だが渚は、衝撃により混乱する頭が正常に戻るよりも先に、反射的にナイフを取り出した。

 

 そして、火口の姿を探す。

 火口はゆっくりとした足取りで、こちらに向かって悠々と歩いていた。

 

「――――ッッ!! みなさん、早く立って――ッ!?」

 

 背後を振り返った渚は、よろよろと立ち上がる平とバンダナを見てそう叫ぼうとするが――

 

「――え?」

 

 

――そこに、自分よりも前にいた筈の、振り返った背後には存在しない筈の男が――怪物が――火口が、いた。

 

 

 バンダナの、背後に、いた。

 

 

「俺が炎でしか戦えないとでも思ったのか?」

 

 それは、あの低身のオニが見せたスピードよりも速い――まさしく瞬間移動が如きスピードだった。

 これは異能ではなく、通常の吸血鬼としての、化け物としての基本性能(スペック)としての、只の運動能力。

 

 火口が、黒金に続くナンバーツーの地位を不動のものとしている、数ある理由の一つだった。

 

 彼は――火口という化け物は、異能に頼らなくても、十分に強い。生身でも、非武装でも、戦える(つわもの)――戦士。

 

「こんなもんに頼らなくては戦えない、貴様ら人間(ザコ)とは生物としての出来が違うんだ」

 

 火口の指は、バンダナのスーツに添えられていた。

 

 正確には、スーツの首元の金属部分――制御部分に、その鋭い化け物の爪をあてがうように。

 

「終わりだ」

 

 そして、指が食い込むように、制御部分に突っ込む。

 

 キュインキュインキュインキュインキュインと、スーツが激しく悲鳴を上げる。

 

「うわ――うわ――うわぁぁぁぁぁあああああああああああああああああ!!!!!!」

 

 バンダナも悲鳴を上げる。必死に脱出しようと身を捩るが、怪物の握力はそれを許さない。

 

 むしろ、より深く、その爪がスーツの致命的な部分まで食い込んでいく。

 

 そして呆気なく、制御部からドロッとした液体が溢れ出した。

 

 キュィィィィンと、音が消えていく。何かが終わる音が、悲しく消えゆく。

 

(……まさか――――スーツが、壊された?」

 

 渚が、脳内で導き出したその絶望的な答えを、思わず口に出して呟く。

 

「大人しく、炭になれ」

 

 そして火口の呟きに、平は、渚は――そして、バンダナは、先程の低身のオニの、無残な処刑を脳裏にはっきりと思い起こす。

 

「や、やめ――」

「――助けてくれぇぇぇぇええええええええええええええ!!!!」

 

 渚が思わず駆け出し、バンダナは絶叫する。

 

 だが、火口は淡々と無表情に、その処刑の炎を上げようと、バンダナの肩に手を添え――

 

 

 

――バキューンッ!! と、銃声が響いた。

 

 

 

 それはXガンの甲高い未来的な音ではなく――現代的な銃声音だった。

 

「ぐっ、ぁぁあああああああああああああああ!!!!」

 

 そして、苦悶の叫びを上げたのは、処刑されようとしていた死刑囚のバンダナではなく――執行人の火口だった。

 

 火口は血がとめどなく溢れてくる片目を押さえ、思わず後ろによろめく。

 

 その光景に一瞬呆然としていた渚達だったが、そんな彼等に向かって公園の外から男の声が響いた。

 

「こっちだ!」

 

 その声に目を向けると、そこにはスーツの男が立っていた。

 猛禽類のような鋭い目に、がっしりとした体格――そして、その手に構える、無骨な、銃口から煙を吐く、明らかに堅気の人間では持てない拳銃。

 

 烏間惟臣。

 

 現防衛省の元自衛隊員が、渚達に向かって避難を呼び掛けていた。

 

 

「っ! 行きましょう、平さん! あなたも! 早く!」

「せ、せやけど、あの兄ちゃんも化け物やったら――」

「それでも火口(あのひと)を相手にするよりマシです!」

 

 そう言って渚は一目散にバンダナの元へと駆け寄った。

 

 その時、バンダナは無我夢中に足元に落ちていたXガンを拾い上げていた。咄嗟に自分の身を守る術をとにかく求めたのだろうか――そして、その時のバンダナの様子を、渚の観察眼は捉えていた。

 

「――うっ」

「っ!」

 

 渚は冷たく目を細める。

 

(Xガンの重さに戸惑った? ……やっぱり、スーツが――)

 

「――こっちです!」

「――うわっ!?」

 

 渚はバンダナを立つように促すのではなく、そのまま腕を掴んで引っ張ることにした。

 ちらりと横を見ると、平も既に自分の横に並走している。

 

 そして、渚は走った。未だバチバチと燻る大樹の化け物の死体があるのとは別方向。

 

 援護射撃で自分達を救ってくれた烏間がいる方向へ。

 

「逃がすかぁッ!!」

 

 片目を押さえて膝を着いていた火口だったが、咆哮と共に左腕を振るい、炎を地面に走らせていく。

 

「ッッ!?」

 

 その炎のアーチは瞬く間に渚達の前を通り過ぎ――烏間との間に炎の壁を出現させる。

 

(不味いッ! でも、これは火口さんから逃げられる最大のチャンス! 逃したら確実に僕達は殺されるッ!)

 

「止まらないでッ!!」

「ッ!? せ、せやけど、どないするんや!!」

 

 足が止まりかけた平を、渚は怒鳴る。

 

 そして渚は、バンダナの手を引きながら、必死に頭の中で考えを巡らせて――

 

「――ッ! 平さん!! 爆縮のBIMを!」

「っ!? わ、分かった!!」

 

 片方の手にナイフ、もう片方の手はバンダナの手を引いている渚は、平にそう命じる。

 

 平は焦った手つきで言われたBIMを取り出していて、渚は全力で走りながら、炎の壁の向こう側にいる烏間に叫んだ。

 

「離れて!! 離れてください!!」

「ッ!」

 

 烏間はその言葉に従い、とにかく距離を取るべく頭を抱えて跳ぶ。

 

 そして平はその金属塊を、スイッチを入れて炎の壁に向かって投げた。

 

 このBIMは本来、裏側が吸盤状態になっていることからも分かる通り、壁や天井に接着させて、硬い障害物を破壊する為のBIMである。

 スイッチを入れて数秒後、スライドカバーが開いてBIMの中にあらゆるものが吸い込まれる真空モードへと突入する。

 

「す、すげ――」

 

 バンダナは思わず、そう呟く。

 

 そしてBIMは臨界点に達すると一気に爆縮し、あらゆるものを削り取る真空の爆発を起こす。

 

 ドガッッッ!!!! と強烈な衝撃が轟き、炎の壁は一瞬で吹き飛んだ。

 

 これが、破壊力だけで言えば八つのBIMの中でも最強の爆弾――爆縮タイプ。

 

 (まさ)しく切り札に相応しい、窮地を覆す可能性を秘めたBIMだった。

 

「今ですッ!!」

 

 そして渚達は、公園の外へと脱出することに成功した。

 

 烏間はBIMの威力に呆然としていたが、渚と目が合うと、そのままコクリと頷く。

 

「とにかく逃げましょう!」

「ああ。あちらの大通りに向かおう。あそこにも敵がいたが、君の仲間が全て倒していた」

「仲間? それはどんな人ですか?」

「規格外の強さを持った大きな男と、中学生くらいの女の子だ」

 

 それを聞いて、渚は力強く頷いた。

 

(――東条さんだ! あの人と合流すれば、もしかしたら……勝てるかも!)

 

 平とバンダナにも頷きかけ、すぐさま逃走を再開する。

 

 そして渚は、ちらりと後ろを見た。

 

(…………早まった、かもしれない……)

 

 前述の通り爆縮式BIMは最大の威力を持つ切り札となり得るBIMだ。

 

 炎の壁は確かに脅威だったが、言ってみれば只の炎でしかない。

 火口によって炎に対する恐怖を植え付けられていたが故に、思わずその切り札を平に切らせてしまったが、よく考えれば渚と平のスーツは未だ健在なのだ。勇気を持ってただ飛び込むだけでも、問題なく抜けられたかもしれない。バンダナには自分達が開けた穴から飛び込んできてもらえば――

 

「……っ」

 

 焦っていた。冷静じゃなかった。

 こんな所で早々に切ってしまった切り札――これが、この後のミッションにどう影響を及ぼしてしまうのか。

 

 そんなことを思考していると――ドガンッッ!! と背後で轟音が響いた。

 

「っ!?」

 

 思わず振り返る。

 

 公園の向かいのビル――その一階が燃えていた。火災が発生していた。

 

 いや、燃えていたというよりは、まるで火の玉でも撃ち込まれたかのような――

 

 

――そして、その時、炎の壁から、一体の化け物が姿を現す。

 

 

 片目から血を流し、自らの(リーダー)と同様に隻眼となったオニ――火口が、残った片目で、自分に背を向けて逃走する渚達(えもの)を捉え、低い声で言った。

 

「――許さねぇ。一匹残らず灰にしてやる」

 

 獄炎の悪鬼は右の掌を上に向け、そこから再び巨大な、これまでで最も大きい灼熱の炎弾を作り出した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side由香――とある60階建てビルの通り

 

 

 由香は、呆然と立ち尽くす。

 

「おい。何やってる、さっさと逃げるぞ」

 

 笹塚が由香の腕を掴んで、グイッと引っ張ろうとする――が、由香はそれに対して足を動かそうとせずに、ぶつぶつと誰かに言い聞かせるように呟くだけだった。

 

「な、なんで? なんで逃げなくちゃいけないの? だ、だって、東条さんが負けるわけないじゃない。――強いんだから。あの人は、“本物の強い人”なんだからっ! ど――」

「例え、あの少年がどれだけ強かろうと」

 

 笹塚は由香の目を真っ直ぐ見ながら言う。――その生気のない瞳を向けながら。

 

「絶対に負けない最強なんていない。――そんな存在は、もう人間じゃない。もっと、悍ましい、何かだ」

 

 悍ましい――恐ろしい、何か。

 

 人間じゃない、何か。

 

「……………」

 

 由香は、その揺れる瞳を、あの怪物に向ける。

 

 悍ましくて、恐しくて――美しくない、化け物。

 

 東条を、あの東条を吹き飛ばした、人間じゃない、化け物。

 

(……それじゃあ、あれが、強さ? 揺るがない、本物の、強さ?)

 

 違う。

 由香の心は、そう断ずる。

 

 東条をも打倒した、揺るがない強さを揺るがした、岩の怪物。

 

 あの東条よりも、強かった存在。

 東条よりも、揺るがなかった、強さ。

 

 ならば、あれが――あんなものが、由香が追い求めていた、探し求めていた、本当の、本物の、強さ?

 

(違うッッ!!)

 

 由香は瞳に涙を浮かべて否定する。違う。あんなのじゃない。あんな悍ましくて、恐しくて、醜くて、不気味で――

 

(“強さ”はそんなものじゃない! もっと美しくて! もっとカッコよくて! もっと、もっと――)

 

 

――本当に?

 

 

 ピタッと、由香の身体が硬直する。

 

 ここにきて生まれた、そんな疑問。そもそも、強さとは、本物の、本当の強さとは――

 

 

――そんなにも、素晴らしいものなの?

 

 

「……………ばか」

 

 由香はぶるぶると震える口で、そう呟く。

 

 あの日から、ずっと追い求めていたもの。探し求めていたもの。

 

 知りたかった。ずっと知りたかった。

 手に入れたかったわけではない。偽物の強さにすら振り回された自分では、例えその答えが見つかっても、相応しくないと分かっていたから。

 

 でも、せめて知りたかった。

 あれほど固執し、翻弄され、振り回され――遂には順風満帆だった自分の人生に泥を塗られた、強さというものの正体を。

 

 自分には、終ぞ本当のそれは手に入れられなかったけれど。本物のそれには選ばれはしなかったけれど。

 

 せめて、それがどんなものだったのかは知りたい。

 

 それはどれほど素晴らしいものなのか。自分が縋っていた偽物のそれとはどれほど異なるものなのか。

 

 そして、そして。

 

 本物の強さを手にしている人物とは、一体、どのような、素晴らしい人間なのか。

 

 知りたくて、知りたくて、知りたくて。

 

 それが、それが。

 

 それが――

 

「――っ! なに負けてるのよっ! しっかりしなさいよ! あんた強いんでしょ!! だったらちゃんと勝ちなさいよ、バカーーーーーー!!」

 

 その、か弱き少女の、弱者な少女の悲痛な叫びが引き起こしたのは――ヒーローの奇跡の復活、ではなく。

 

「……ほう。まだハンターがいたのか。矮小(ちいさ)過ぎて、見えなかった」

 

 更なる、最悪の、悲惨な、悲劇だった。

 

「……………え?」

 

 そして、その声に真っ先に反応したのは、目を付けられた漆黒のスーツの少女ではなく、彼女の傍にいた笹塚衛士。

 

「――チッ!」

 

 彼女を背に庇い、拳銃の銃口を岩の巨人に向ける。

 

 だが、その表情は苦々しく、額に汗が流れている。

 笹塚はこの事態を危惧し、何度も由香に逃げるように促していたのだが。

 

(……くそっ)

 

 それでも、その行動を徹底しなかったのは、少女の我が儘を聞き届け、こうしてのうのうと戦場に放置し続けたのは、由香達の得体が知れなかったというのもあるが、やはり、慢心していたのだろう。

 

 東条の、圧倒的に規格外のその強さに、あんな風に偉そうなことを言っておきながら、大人の自分も、どこかで思ってしまっていたのだ――あの(かいぶつ)なら、大丈夫だと。

 

 カチリと、拳銃の撃鉄を起こす。

 ならば大人として、その責任は取らなくてはならない。この少女は、何があっても守り通さなくてはならない。

 

 笹塚の拳銃の腕なら、あれほど大きな的を当てることなど容易い――が、あの岩石の身体に、日本の一刑事に支給される程度の量産拳銃で、ダメージなど与えられるものなのか?

 

(……狙うなら……瞳か――)

 

 笹塚は真っ直ぐに怪物を見据えながら、その銃口を敵の小さな瞳に向ける。

 

 対して岩倉は、そんな笹塚を嘲笑いながら、ニタニタとした笑いで見下ろすだけだ。

 

 チャンスはおそらく一度――一発。

 

 岩の巨人だからといって、ゆったりとした歩みの登場だったからとはいって、この怪物が鈍足であるとは限らない。変身前はあれほど超スピードで東条と殴り合っていたのだ。

 

 初弾を外せば、次弾を装填する前に、距離を詰められ、殴り飛ばされるだろう。

 

 あの東条をも易々と吹き飛ばした、あの怪物の拳で。

 

 しばし睨み合う、怪物と刑事。

 

 由香は笹塚をただ不安げな涙目で見上げるだけだった。

 

 そして、笹塚が流す汗が、頬を通り、顎に到達し、そして地面へとゆっくりと滴り落ちた――――その、時。

 

「ははっ!!」

「っ!?」

 

 怪物が動き出し、笹塚が引き金を――

 

 

 

――ドゴォォォン!!!! と、橙色の大爆発の轟音が響いた。

 

 

 

「うわぁぁぁぁあああああああ!!!!」

 

 そして爆風に押し出されるように、宙を舞いながら乱入した――新たな漆黒のスーツの戦士。

 

 小柄な、水色髪の少年。

 

「あぁん?」

(――ッ!?)

 

 その突発的なアクシデントに、岩の巨人の目がそちらに向いた。

 

「きゃ――ん!?」

 

 笹塚はその隙に由香を担ぎ上げ(悲鳴を上げられないように口を塞いだ)物陰に向かって走り出す。

 

「ッ! ふっ、逃がすも――」

 

 だが、その一瞬の悲鳴が聞こえてしまったのか、岩倉は再び振り向き、地面に向かって拳を振り下ろそうとする。

 

 笹塚は走りながら岩倉に向かって再び銃を向け――

 

 

 

――岩の巨人の背後に、悪魔の笑みを浮かべた虎が立っていた。

 

 

 

「っ!?」

 

 ドゴォッ!! と、重々しい拳が岩の巨人を襲う。

 

 岩の巨人の――身体が浮いた。

 

 吹き飛ばされた岩の巨人は、銃の弾丸のように、東条が吹き飛ばされたのとは反対側の通りのテナントに向かって撃ち込まれる。

 

 笹塚と由香が目を見開く中、「イタタタタ」と本当に痛みを感じているのか、それとも余りにど派手な登場の着地を失敗したことで反射的にそう言っているのか、そんな声を漏らしながらも立ち上がった水色髪の少年が、その復活した戦士を見つけて、喜色満面で声を掛ける。

 

「東条さん! やっぱり東条さんだったんですね!」

「おっ、渚か。元気そうだな」

「……まあ、元気といえば元気ですが……」

 

 戦場には似つかわしくないが、東条らしいその言葉に思わず渚が苦笑する。

 

 そして、再会を喜んだのは一瞬だった。

 

「「――――ッ!」」

 

 渚と東条は、何を言うわけでもなく、60階通りの大きな道、ちょうど二本の道の交差部分に当たるその場所で――背中合わせに立った。

 

「……よう、渚。中々面白そうな奴とケンカしてんじゃねぇか。こっちが終わったら代わってくれよ」

「僕としては飛びつきたい程の嬉しい申し出なんですけど……そっちも中々大変そうですから……なるべく一人で頑張ってみますね」

 

 二人の黒い球体の部屋の戦士がそんな会話を繰り広げていると、渚の正面に伸びる、火の玉が現れた一本の脇道から、ジャンパーとジーパンを着た殆ど人間と変わらない外見の大柄な男が歩いてくる。

 

 だが、その額から伸びる長さの違う二本一対の角が、そして――――

 

――その右の掌の上で、みるみるうちに大きくなっていく火の玉が、奴が怪物であるということを如実に表していた。

 

「あ――」

「――ッ!?」

 

 そして由香が漏らしたそんな呟きにより、笹塚は由香を物陰に避難させる役目を思い出し実行した。

 

 その呟きは、復活した東条の拳によって吹き飛ばされた怪物の再起動を見つけた故に零れてしまった、心の声だった。

 

 岩の巨人は、ゴキリ、ゴキリと首を鳴らしながら、ゆっくりと戦場に戻ってくる。

 

 一歩一歩に大きな音を立てながら、真っ直ぐと、自身を待ち構えるハンターの元へ――東条英虎の元へ。

 

「岩倉」

「……うす」

「お前はそっちのデカいのをやれ。チビのハンターは俺が殺す」

「……了解」

 

 最小限のやり取りで、怪物の幹部達は己の標的に視線を戻す。

 

 東条と渚は――笑っていた。

 

 その笑みを見て、由香は、先程までの完璧な強さを誇っていた東条とは、何かが少し変わったように見えた。

 

「背中は任せたぜ」

「――はいっ!!」

 

 一人の真実の強さを追い求める少女が、戦況を物陰から見つめる中――

 

――二体の怪物と、二人のハンターの激闘の火蓋が、巨大な火球弾によって荒々しく切られた。

 




潮田渚と東条英虎は、互いに背中を合わせて、笑う。


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そして急に――全部、燃やしたくなったんだ。

 Side渚&烏間――とある公園から大通りまでの一本道

 

 

 その激突の、少し前。

 

 ふくろうの像の公園から60階通りまでの一本道を、炎を操る怪物が背後から追いかけてくる中、渚達はこんな会話を交わしていた。

 

「……あの――」

「烏間だ。防衛省に勤めている元自衛官だ。君達に聞きたいことは山程あるが……それはとりあえず後にしよう」

「……助かります。……それで、なんですが烏間さん――」

「どうした?」

 

 ただ真っ直ぐ前を向いて走っていた渚は、その瞬間、横にいる烏間に(彼が普通にスーツの走行速度についてきていることに若干恐れを抱きながら。ちなみにスーツが壊れたバンダナは平に担がれている)向き直り、見上げながら言った。

 

「僕が、あの敵を引きつけます。――烏間さんは、平さんと一緒に、あの人を匿ってくれませんか?」

 

 渚はそう言って、一瞬少し後ろを――何度も背後から追いかけてくる火口を振り返りながら逃げている平達と、そして少し前にある大型の全国チェーンアパレル店舗を見遣る。

 

 それだけで、烏間は渚の言うことを、言いたいことを理解した。

 

 短時間というには余りに短いこの逃亡の中で、烏間は、この三人の漆黒のスーツを纏った戦士の中で、渚だけが“別格”であることを早々に見抜いていた。おそらくは、この少年こそ、由香が言っていた、より詳しい事情を知っている上級戦士なのだと。

 

 だから、ここでこの二人を切り離すのは、彼等の身を案じる以上に、足手纏いを遠ざけるという意味合いもあるのだろう――本人に自覚があるかどうかは分からないが。そして、その足手纏いには、自分も含まれているのだろうと、烏間は思考する。

 

 それに対し、不満に思うようなことは、烏間にはない。

 

 子供達に――一般人かどうかは分からないが、少なくとも烏間にとっては渚も、そして東条も子供だ――全てを押し付けることを、歯痒く、悔しく、情けなくは思うが、それでもあの摩訶不思議な怪物達に対抗するような術を持っていない自分は、自分達は、確かに足手纏いと言われてもしょうがないことは理解している。

 

 だから、烏間が思うことは――問うことは一つだ。

 

「――勝てるのか?」

 

 烏間は問い掛ける。大人として問い掛ける。もし、この問いに答えられないようなら、何と言われようとこの少年も避難させるつもりだった。自分達――警察や防衛省の応援が来るまで、問答無用で戦場から引き離すつもりだった。

 

 だが、渚は、その問いに一瞬グッと呑まれながらも、顎を下げ――冷たい殺気の篭った瞳で、はっきりと言った。

 

「――勝ちます」

 

 今度は烏間が息を呑む番だった。

 

 そして、前に向き直り、渚に言う。

 

「――分かった。彼等のことは任せろ」

 

 その言葉に、渚は静かに笑い「――ありがとうございます」と言うと、一人、急ブレーキし、その足を止める。

 

「っ!? 渚はん!?」

 

 驚愕する平に、渚は安心させるように微笑みかける。――そして、彼等と交錯際、バンダナが持っていたXガンを拝借した。

 

「あッ!?」

「すいません、お借りします」

 

 元々は渚が持ってきたものなので借りるという表現はおかしいのかもしれないが、渚はその掻っ攫ったXガンを、自分達に向かって走ってくる火口に向けた。

 

「こっちだっ! 足を止めるなッ!!」

 

 烏間がそう平達に吠えて、避難を誘導する。

 

 その声を背中に聞き、渚はふっと笑みを浮かべると、火口は渚がXガンを発射するよりも先に――

 

「嘗めるなぁッ!!」

 

――その右の掌に作り出していた、火の玉を投げつける。

 

「っ!?」

 

 渚は反射的にXガンを発射して、そのまま再び振り返り、大通りに向かって走り始めた。

 

 そして、ちらっと、アパレル店舗の入り口に目を向ける。

 

 そこでは、バンダナが店の奥へと投げ捨てられ、その近くで平が泣きそうな顔を浮かべ――烏間が、神妙な面持ちでこちらを見ていた。

 

 渚は、安心させるように笑みを浮かべて――

 

――火の玉が、爆裂した。

 

「――ッ!? うわぁぁぁぁあああああああ!!!!」

 

 渚はそのまま、その爆風に持ち上げられるように吹き飛ばされる。

 

 烏間達は、その衝撃を店舗内の床に伏せてやり過ごした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「な、渚はんは!?」

「大丈夫だ。……彼を信じよう。それよりも、大声を出さず、そっと息を潜めるんだ」

 

 慌てて立ち上がろうとする平を、烏間が押さえつける。

 そして物陰に隠れて、爆発の影響でグチャグチャに吹き飛ばされた店舗の入り口を、じっと見据えた。

 

「――――っっ!!?」

 

 平が声にならない悲鳴を漏らす。

 

 火口が、その姿を現した。――そして、こちらには目を向けず、右の掌に新たな火の玉を生み出しながら、店舗の前を通り過ぎていく。

 

 平は、ぶはっと息を吐き出しながら、烏間に言った。

 

「こ、こっちには気づかへんかった、みたいやな……」

「……彼が奴に銃を向けたことによって、奴はあの巨大な火の玉を投げつけた。それにより、奴の視界から俺達の姿が消えて、この店舗に逃げ込んだことに気付かなったんだろう」

 

 烏間は「そういうことかっ!」と感嘆している平を余所に――

 

(もしくは……そもそも俺達のことなど眼中にないのか……)

 

 と、思考する。自分にすら直ぐにあの少年が別格だと分かったのだから、奴が気付かないはずもない。――まぁ、片目を吹き飛ばした烏間は、奴の復讐対象にばっちり入っているだろうが。

 

 そもそも、これだけ無差別に虐殺を行っている連中だ。あの黒いスーツを纏った戦士達は特別敵視しているようだが、彼等を討伐した後には、遅かれ早かれ、目についた人間は皆殺しだという行動に移るだろう。――それまでに、あの怪物達を討伐しなくてはならない。……例え、既に状況がどうしようもなく手遅れな地獄であろうと、一つでも多くの命を救う為に。

 

 その為に、まず自分がすべきことは、渚に託されたように、ここで平達の命を守りながら、防衛省にこの事態の状況を報告し、一刻も早く応援を到着させること――そう思い、烏間は、由香と同様に支給されているであろうマップを平に見せてもらおうとして、ふと気づいた。

 

「……もう一人の、あの頭にバンダナを巻いていた彼は、何処に行った?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side??? ――とある大型アパレル店舗内

 

 

 バンダナはとにかく夢中で止まっていたエスカレータを駆け上がった。

 

 そこに怪物が待ち構えているかもしれないといった考えは全く浮かばずに、急激に重くなってしまった体を必死に動かして、そこら中に転がる死体を見かけては悲鳴を上げながら、一心不乱にあの炎の怪物からの逃亡を試みた。

 

(怖ぇ! こえぇ! こえぇ、こえぇ、こえぇ! なんでどうしてなにがどうなって俺がどういうわけかこんな目にちくしょう! ちくしょうちくしょうちくしょう!!)

 

 涙を流して心中で理不尽を嘆きながら、何階かは分からないが男性物の服を売っていたであろうフロアに倒れ込むように辿り着いた時、遂に体力の限界を迎えて、ぜいぜいと息を切らしながらフロアを四つん這いで徘徊する。

 

 既に転がる死体を見ても恐怖というよりも怒りが湧くようになった。勿論それはこの地獄を作り出したであろう怪物達ではなく、こんな理不尽な状況に己を巻き込んだ運命やら何やらに向けられていたが。

 

 そして、バンダナが唇を噛み締めながら、がっくりと膝を折ると――

 

 

火火火(ヒヒヒ)。馬鹿と何やらは高い所が好きって言うが、こんな面白ぇことが起こるなら偶には馬鹿になって高いところにでも登ってみるもんだな」

 

 

 バンダナは「え――」と、その声に、“聞き覚えがある”その声にバッと顔を上げる。

 

 そして、その男はゆっくりと姿を現した。

 

「お、おじさん!」

「久しぶりだな、()っちゃん。いやぁ、偶にはオジサンもお洒落な若者スポットにでも足を運んでみようかなぁ~なんて無駄な行動力を発揮しちまったら、案の定とんでもねぇ事態ことに巻き込まれちまったよ。いやはや、まいっちゃうね」

 

 そう言って、帽子の男――葛西善二郎は、甥っ子であるバンダナ――穂村徹行に向かって歩み寄る。

 

 葛西は甥が着ている漆黒のスーツを見て、その不敵な笑みを深めて「……おいおい、最近の若い子にはそんなピチピチの全身スーツが流行ってんのかい。美女が着る分にはオジサン大歓迎だが、野郎が着てるのは見るに耐えないねぇ」と嘯きながら、火火火と煙草に火を点ける。

 

 その火を見てぼおと一瞬呆けるも、徹行は「――はっ!」叔父に向かって這い寄り、喚き散らす。

 

「そ、そんなことより、どうしてオジサンがここにいるのさ!」

「あぁ? だから言ったろ。ちょっと若者の文化に触れようと――」

「そうじゃなくて!」

 

 徹行は遂には葛西の脚に縋りつきながら、信じられないといった眼色で叔父に問い掛ける。問い詰める。

 

「なんで叔父さんは! ()()()()()()()、いつまでもこんな地獄に居るんだ!? どうして逃げないで、こんな場所(じごく)に! こんな理不尽に! 居続けることが出来るんだよ!?」

 

 葛西が生きていることについては、徹行は特に疑問は持たない。

 

 なにせ自分の叔父――葛西善二郎は、前科1342犯のギネス級の伝説の犯罪者だ。

 全国の警察官がこの人の手配書を常に持ち歩いているにもかかわらず、一度もその両手に手錠を嵌められたことのない、史上最悪の放火魔。

 

 そんな男が、そんな犯罪者が、例えこれだけの地獄を作り出すことが出来る怪物達相手でも易々と殺されることは――理屈では全くの別問題だとは分かっていても――徹行には思えなかった。この人が殺される姿など、この人が逮捕されることと同じように、自分にはまるで想像できない。

 

 それでも徹行にとっては、例えどれほど前科を重ねていようと、やはり叔父は叔父だった。

 

 幼い頃、自分に色んなことを教えてくれた、優しい親戚の叔父さんでしかなかった。

 

 だからこそ、理解出来なかった。

 自分は――穂村徹行は、葛西善二郎という叔父を、葛西善二郎という犯罪者を、まるで理解していなかったのだと思い知らされる。

 

 何故だ? なんでどうしてなにがどうなって――こんな地獄で、そんな風に君臨することが出来る?

 

 そんな風に、いつもと同じジャケットにチノパンに帽子で、自分のように――自分達のように特殊な装備など何も持っていない無防備なのに、こんな死体をゴミのように量産している惨状を作り出せる怪物達が跋扈する地獄で、どうしてどうしてどうしてなんでどうしてなにがどうしてどうなってどうして――

 

「徹ちゃんよ」

 

 葛西はしゃがみ込みながら、己にしがみ付く甥に目を合わせるようにして、語り掛ける。

 

 徹行は叔父のその目を、呆然として見つめ続けた。

 

「火火火。いい感じに理性(ふた)が外れかけてるじゃねぇの。まぁ、こんな状況で正気を保てって方が酷な話だわな」

「……何? 叔父さん……一体、何を言って――」

「なぁ徹ちゃんよ、覚えてるか?」

 

 葛西は、叔父が甥をあやすように、徹行の頭に手を乗せ、そしてじっと、その目を見つめる。

 

 その目の奥を、ずっと奥を、見透かすようにまっすぐに見据える。

 

「ガキの頃、俺はお前に一から教えたよな――火の魅力を」

 

 そう言って葛西は、徹行の頭に乗せたのとは別の手で――左手一本でボッとマッチの火を点け、徹行の眼前に持ってくる。

 

「全ての歴史は、神話に始まる。――そして、全ての神話は、火に始まるのさ」

 

 そして、ゆっくりと語り掛ける。かつて徹行の脳裏に、脳細胞(ニューロン)一つ一つに刷り込み、潜ませ、眠らせていた――火の魅力を。

 

「人類の創成期――火を畏れず、使いこなしたものが神になった。火を味方につければ、人間は神にだってなれるのさ」

 

 理性という蓋が外れかかっている徹行の中から、呼び起こし、引っ張り起こし――開花させるように。

 

「…………神、に?」

「ああそうだ。火は武器だ。火は力だ。火は、人間の――お前の味方だ」

 

 導火線に火を点けるように。開花させるように――開火させる。

 

「火さえ操れば――人間は何だって殺せる。化け物にだって、勝てるのさ」

 

 徹行の心に――火を、起こす。

 

「……勝てる……死なない……殺せる……」

「ああそうだ。お前なら出来る。お前なら殺せる。お前なら、何だって燃やせるさ」

 

 葛西は嗤う。

 

 これで、堕ちたと。

 

 完全に――火が着いたと。

 

(これで――着火だ)

 

 徹行は最早葛西を見ていなかった。叔父の言葉を聞いていなかった。

 

 網膜に焼き付いたマッチの火に、完全に取り憑かれていた。

 

 徹行は、呆然と、陶然と呟く。

 

「燃える……燃やせる……火は――萌えるんだ」

「ああ、お前だったら何だって――」

 

 

 ……ん? 

 

 

 と。葛西はゆっくりと、徹行の頭から手を退かす。

 

 すると徹行は、バンッ! と、まるで蓋が外れたかのようにバネの如く立ち上がり、急に店内を叫びながら走り回り出した。

 

 

「急に!! メガネをかけてみたくなった!!」

 

 

「急に!! シャツをズボンに入れてみたくなった!!」

 

 

「急に!! バンダナの巻き方を変えてみたくなった!!」

 

 

「急に!! ニキビを生やしてみたくなった!!」

 

 

 あれほど嫌悪していた、無残に殺された死体が転がっている店内を、徹行はぐるぐるとぐるぐると走り回った。

 

 死体を踏み潰すことも委細構うことなく、まるで何かに取り憑かれたかのように、まるで何かでトチ狂ったかのように、解放されたかのようにはしゃぎまわった。

 

 そして再び、葛西の前に帰ってくる頃には――甥は生まれ変わったかのように変貌していた。

 

 

「そして急に――全部、燃やしたくなったんだ」

 

 

 瓶底のようなグルグル眼鏡をかけ、トレードマークだったバンダナはまるで鉢巻のように巻いて、唐突にニキビを生やし、わざわざガンツスーツの上からだるだるのズボンを腰の位置で履いて、更にTシャツを中に入れ(inし)ている。

 

 

「燃え燃えしてぇぇぇええええええええ!!!! 炎に囲まれてハアハアしてぇぇえええよぉぉぉおおおお!!!!」

 

 

 葛西は甥のそんな姿を見て、新たに煙草を咥え、マッチで火を点け、煙を吐き出す。

 

(……やり過ぎたかな)

 

 そんなことを思っても、後の祭り――後の火祭りだった。

 

「叔父さん……びっくりだよ。あれだけ怖かったのに、今じゃあどいつもこいつも燃えキャラにしたくて仕方がないんだ」

「……そうか。俺はお前のズボンの位置にびっくりだよ」

 

 っていうかこのフロアの何処に瓶底メガネがあったんだよ。アパレルショップだろ此処は。

 

 なんてことを葛西は思ったりしなくもなかったが、それでも甥の解放っぷりを見て、再び凶悪に、火火火と嗤った。

 

 怪物達が此処を襲った時に割ったのか、窓ガラスが割れて、眼下の様子が見れるようになっている場所まで歩みを進め、その戦場を見下ろす。

 

 そこでは、二人の漆黒のスーツを纏った戦士と、二体の怪物が、化け物のように異次元の殺し合いを演じていた。

 

 

「ようこそおいでませ、怪物達。犯罪者(にんげん)達のワンダーランドへ!」

 

 

――人間(おれたち)が、もっと、もっと面白いものを見せてやる……。

 

 

 葛西善二郎という人間は、イカれた叫びを轟かせる背後の甥を無視して、火火火と、犯罪者(かいぶつ)のように嗤った。

 




穂村徹行は火に魅せられ、炎に狂わされる。


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――人を、斬り殺したことがあるな。

 Sideあやせ――とある路線の出口近くの吹き抜け空間

 

 

 

 しっかりと明確な理由がある暴力が化野(へんたい)を襲う。

 

 唐突な平手でもなく予想外な肘でもなく、涙目の美少女が二つの意味で己を守る為に繰り出した渾身のハイキックが、一分の躊躇も手加減もなく、近づいてきた化野の蟀谷(こめかみ)を目掛けて勢い良く放たれた。

 

 あやせとしては反射的な行動とはいえこれが間違った対処だとは欠片も考えていないし、むしろわたしの防衛本能グッジョブとか叫びたいくらいのファインプレイだと感じていて、そのまま敵を錐揉み回転させながら地面に叩きつけてやろうと、彼女としてもこれまでの人生の中でもトップクラスの出来のハイキックだったのだが――

 

「おっと」

「――!?」

 

 化野はその空気を切り裂くようなハイキックを仰け反ることで躱して――――そのままブリッジのような体勢になった。

 

 全裸で。

 

「!?!?!?!?!?!?!?!?!?」

「はっはー」

 

 さすがにここまでされるとあやせも顔を真っ赤にしてしまう。

 全裸ブリッジの化野を見下ろして「な……な……な……」と慄くように、一歩、二歩と距離を取る。物理的にも、精神的にも。

 

 だが、化野はそのままの体勢のまま、あやせに向かってにじり寄る。

 

「元気がいいなぁ。何かいいことでもあったのかい? あ、俺に出会えたことかな?」

「きゃぁぁぁああああああああ!!! 来ないで変態ぃぃぃぃいいいいいいい!!!」

 

 ストレートに叫んでみたあやせだった。

 

 だが、ここで顔を両手で覆い隠しながら逃げ出すような可愛げのある美少女では残念ながらあやせは既になく、その怒りやら羞恥やら屈辱やらを殺意ある殺害行動へと傾けることが出来るのが、今の新垣あやせという美少女だった。

 

「殺すッ!! ぶっ殺しますッ!!」

 

 これまたどストレートに叫んだあやせは、全裸ブリッジで局部を晒し上げるようにして向かってくる化野に向かって、飛び上るようにジャンプし、突き上げられている腹筋に向かって飛び蹴りを敢行した。

 

 あれほど堂々と晒されている弱点を狙うことはさすがに抵抗があったのか、それともガンツスーツ越しとはいえ触れたくもなかったのか(おそらく圧倒的に後者だが)、結果的に一番分かりやすい急所を避けたあやせだったが、だからといって手加減した攻撃を決行したわけでは勿論なかった。

 

 あやせはただ化野の上に着地するだけでは満足できなかったのか、そのまま右足を空中で振り上げ、そのまま化野に向かって全力で踵を落とす。

 

 落下の重力加速度に加え、スーツの筋力をふんだんに乗せた踵落としにより、変態の早急な殺害を試みるあやせ。

 

 だが化野は落下するあやせをブリッジの体勢で見遣りながら、にやと不敵な笑みを漏らし――ゴキ、ギキギキ、と、不気味な異音を漏らし――

 

「はっはー。はぁぁあああああ!!!」

 

 

――己の腹に、巨大な口を出現させた。

 

 

「なッ!?」

 

 突如、落下予定地だった全裸ブリッジ男が自慢気に突き上げていた腹筋が、大きな口に変わった。変貌した。

 

 化け物の口に、化けた――変化した。

 

 その口は鋭い牙が生え揃い、ガキンガキンと噛み合わせを確かめるように、歯を慣らすように――刃を慣らすように、素振りをするようにして、バガッ、と、口を開く。

 

 落下してくるあやせを、迎え入れるように、化け物の口を開く。

 

「っ!!」

 

 あやせはその狙いを悟るが――何も出来ない。

 この超人スーツでも、一度跳び上がった空中では、ただ重力によって落下することしかできない。

 

(どうしたらっ!? このままじゃあ――)

 

 あやせは表情を歪ませて思考し――そして、何かを閃く。

 

 重力に囚われ落下しながらも、そのスーツから未だ取り出していなかった、ガンツソードを抜刀した。

 

 そして、その切っ先を下に向け、その口ごと、化野を貫いて串刺しにしようとする。

 

「ッ!? うわッ! そいつはマズイッ!」

 

 化野はブリッジの体勢のまま、ぴょんと左に飛び去る。

 

「な、なんですか、それ!?」

 

 その異様な挙動に、ガキンッ! と、そのまま地面を突き刺すこととなったあやせは、驚愕と共にバッと目を向けると――

 

「――うっ!」

 

――両手両足を異常に伸ばし、四つん這いになった化野がいた。

 

「……身体を、変形させる能力?」

「当たってはいる。だけれど、それじゃあ花丸はあげらんねぇ――な、ジョーチャン!!」

「っ!?」

 

 四つん這いの化野は、ぐわっ! と、どこぞの麦わら帽子の船長のように、豪快に右腕を伸ばして襲い掛かってくる。

 

 だが、その際にゴキゴキゴキという異音が鳴り響いていたので、余りにもグロテスクで子供が泣き出しそうな光景だったが。

 

 あやせも例外ではなく、その音に不快そうに表情を歪め、思わず耳を塞ぎたくなったが、なんとか身体を動かし、ジャンプして躱そうとする――が。

 

「――っ! やぁッ!」

 

 先程のピンチが頭に過り、鞭のようなその腕を、ジャンプすることなく地に左足を付けて、右足による空気を切り裂くハイキックで弾き飛ばした。

 

「いい判断だッ! だが、まだまだ行くぜぃ!!」

 

 しかし化野は、その弾き飛ばされた右腕を、そのまま振り下ろすようにして叩きつける。

 

 あやせはその軌道では弾くことも出来ず、地を這うようにして右に跳ぶことでなんとか躱した。

 

「そんで次だッ!」

 

 化野は、そのまま躱された右腕を、あやせを追いかけるようにして左に低い軌道で振るい――

 

「――あ!」

 

――左腕も右腕と同様に伸ばして、鋏のように挟撃を敢行した。

 

 あやせは歯噛みする。

 これでは、もう躱すには上に跳ぶしかない。

 

 陽乃や和人ならばどちらも切り落とすといったことも出来るだろう。東条なら掴んで逆に本体を引っ張ってくるかもしれない。

 

 渚なら殺気で敵の動きを止めて、そして、八幡なら――きっと、相手の予想外を突いての攻撃で、怯ませると同時に敵を後手に回らせる。

 

 あやせはギンっ! と化野を睨み付けて、身体を起こすのと同時に、左右から迫りくる両腕を無視して――ガンツソードを化野本体に向かって投擲した。

 

「っ!!? そう、来るかよ!!」

 

 化野はあやせに向かって挟み込むように振るっていた両腕を、そのまま地面に叩きつける。

 

 そして、その反動を使って、くるくると前回転するように――宙に跳んだ。

 

 逆に化野を、身動きの取れない空中に追いやることに成功した。

 

(――よし、いける!!)

 

 あやせはそのまま、空中の化野に向かってXガンを向ける。

 

 が、化野は、にやりと醜悪な笑みを浮かべると、再びゴギ、ゴギギギと異音をたてて、その身体を変形させる――否。

 

 その身体は、徐々に小さく縮み、人間の原型を失くしていく。

 

 昆虫のような真っ赤の複眼、何本もの細い足、そして羽――

 

「――っっっ!!??」

 

 あやせは驚愕し、ゾッッ!! とするような恐怖を感じながらも、Xガンを連射する。

 

 敵はある程度の姿形を手に入れると、落下するのを止めて高速で空を飛び回り、やがて化野は、その姿を完全な蠅に変えた。

 

 それは、本物の蠅と比べると目を張るような巨大さで、それがまた気持ち悪さと恐怖を引き起こすのだが、それでも少し前のすらりとしたスタイルの高身長の人間だった頃と比べると、有り得ない程に小さいサイズだった。ちょうどバスケットボール程の大きさ――人間の頭と同じくらいのサイズか。

 

(――身体を変形ではなく、変身させる能力ってことですか。人間以外の生物にもなれる……なんて能力)

 

 あやせは頭上を飛び回る巨大な蠅を睨み付けながら、苦々しく歯噛みする。

 

 が――必死にXガンを握り締めて、心を落ち着かせようとなんとか試みる。

 

(――そう。例え、姿形が変わったとしても、星人には変わりないはず。この銃の攻撃は、確かに当たったはずです)

 

 確かに、心に焦りと怯えがあり、途中から高速で空中を移動し始めた化野に対し、大半の攻撃は外してしまったが、数発――最低でも一、二発は、確実にヒットした手応えはあった。

 

 あやせは襲い掛かる蠅の突撃を躱しながら(――そろそろのはず!)と、Xガンのタイムラグをカウントして――

 

 

――ボン、と鈍い音と共に、蠅の身体が一か所、膨れ上がった。

 

 

「……え?」

 

 続いて再びボン、と、くぐもった音と共に、また別の箇所が膨れ上がり、そして萎む。

 

 破裂することも、爆発することもなく、蠅は――化野は、五体満足で空を自由に飛び回っていた。

 

(銃が、効かない……っ?)

 

 あやせは呆然と立ち尽くし、手に持つXガンに視線を落とす。

 

「っ! きゃぁッ!!」

 

 そして、あやせが動きを止めたのを狙い澄ますように、蠅があやせの顔に襲い掛かる。

 

 あやせは必死に顔を振り、手で振り払いながら、そのまま蠅からなんとか距離を取った。

 

(っ!? ダメ、落ち着なさいわたし! ……銃が効かなくても、倒す方法がないわけじゃない。だって、どんな攻撃も効かないんだったら、初めのハイキックだって避けなくてよかったし、剣にだってあんな風に反応しなくてもよかったはずなんだからっ!)

 

 そうだ。少なくとも化野は、あやせが剣を取り出した時、それはマズイと声に出して反応し、即座に迎撃から回避へと行動を変更させていた。初めのハイキックを避けたのは挑発なのかもしれないけれど(だとしたらこれ以上なく効果的だった。方法は最低だったが)、少なくとも剣の攻撃は効くのだと考えていい――とあやせは思考する。

 

 蠅の攻撃を避けながら、あやせはちらりと、先程自分が投擲したガンツソードに向ける。

 

 ガンツソードは大きな一本の柱に突き刺さっていた。

 あの時は思い付きに任せた咄嗟の行動で、もうこれで使い捨てるような心持ちで投げた剣だけれど、こうなるとどうしても回収の必要が出てくる。

 

「っ! くっ! あぁ、もう!」

 

 あやせは旋回しながら時折突っ込んでくる蠅を迎撃しようとハイキックを繰り出すが、こちらを小馬鹿にするような飛び方で躱される。

 

 この蠅は、本物の蠅と同じように、サイズは多少(?)大きくても、やはり攻撃は非常に当て辛い。

 

(……けどその分、攻撃力自体はそれほど大きくない。致命的じゃない。少なくとも一発食らったら終わりなんていうものじゃない)

 

 この分ならば、多少狙い撃たれるのも覚悟で一目散に剣を回収すべく動くべきか――そんなことをあやせが考えていると、その思考に囚われ動きが鈍ったのか、蠅を耳元にまで接近を許してしまった。

 

「っ! しま――」

 

 

――ゾワリ、と、全身を貫くような悪寒が走った。

 

 

「っっっ!!??」

 

 あやせは身体を抱きすくめ、一気に両膝を折ってしゃがみ込んだ。

 黒い長髪が縦に伸びる程の勢いで、過剰とも言える程に回避したあやせは、あの一瞬で身体中を駆け巡った恐怖と嫌悪に、自分でも動揺する。

 

 そして、あやせはそのまま一気に、折った膝を前方にダッシュする力に変えて、柱に突き刺さったガンツソードの回収に向かう。

 

(な、なに、今の!? ……まるで、身体の中に入り込まれるような……体の中まで隅々まで犯されるような……っ)

 

 訳が分からない――けれど、確かに感じた身の危険に、あの蠅は自分の想像よりも遥かに危険な存在なのではないかと、嫌な予感を感じる――嫌な、確信を覚える。

 

 もうなりふり構わず一刻でも早くこの戦いを終わらせて、あの蠅を駆除しなければ。

 

 あやせはそう考えて、ガンツソードに向かって遮二無二に走った。

 

 そして無事に辿り着き、一息にガンツソードを抜き取る。

 

「よし! これで――」

 

 あやせは思わず笑顔を浮かべて振り向いた。

 

 素早いあの蠅を、自分の拙い剣捌きで斬ることが出来るのか(確かどこかの剣豪の逸話で蠅を箸で掴むみたいなエピソードがあったような、とあやせは思い返す。つまり蠅は、それぐらい捉えるのが難しいということだろう)は分からない――というよりはっきり言ってノープランだったが、とにかく対抗手段を手に入れた、取り戻したことであやせは少し舞い上がってしまった。

 

 が――

 

「……え?」

 

 いざ意気込んで振り返ると、蠅は何処にもいなかった。

 てっきり自分を追い回しているのだと思ったが、あやせの視界の中の何処にもいない。

 

 ふと、あやせは上を見上げる。

 

 あれだけ空を飛び回っていたし、ここは吹き抜けのような構造になっていて上に空間が開けているので、思わず真っ先に上を確認してしまったあやせだが、これは大当たりだった。

 

 そこに、化野はいた。

 

 だが、奴は既に蠅の姿ではなく、次なる変身が間もなく完了する所だったが。

 

 上空で――あやせの真上で、化野が次に変身した、その姿は。

 

「……うそ」

 

 あやせは思わず後ずさり、柱に背中がぶつかる。

 

 逃げられない。そう――既に、あやせは逃げられない。

 

 

「パォォォォォォオオオオオオオオオオオン!!!!!」

 

 

 その身体に――巨体に相応しい、大きな鳴き声を上げて。

 

 象――この地球上の陸地で、最も大きなその巨躯が、あやせに向かって真っ直ぐに落下してきているのだから。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side和人――とある駅の近くの大通り

 

 

 和人と剣崎は至近距離から睨み合う――その間に二本の剣を挟んで、鍔迫り合いを演じながら。

 何やら重要そうなことを滔々と語ってくれた――自ら堂々と幹部だと名乗った目の前の男に、和人は笑みを浮かべて、こう挑発した。

 

「ペラペラと情報を漏らしていいのか?」

「構わねぇよ。どうせ、お前は此処で死ぬんだからな」

「以後、お見知りおきをって言ったのは、お前だ――ろうッ!!」

 

 和人は強引に剣を振り抜き、無理矢理力づくで、坊主頭――剣崎から距離を取る。

 剣崎はそのままひょいと後ろに跳んで軽々と着地し、正眼に剣を――その日本刀のような刀を構えた。

 

 和人も黒の宝剣の切っ先を剣崎に向けて、左足を一歩下げて対峙する。

 そして、剣崎の隙の無い構えを見て、目を細くし思考した。

 

(……綺麗な構えだ。おそらく我流じゃない。誰かにちゃんとした師事を受けているのか……?)

 

 和人はこれまで数多の剣士と斬り合いを演じてきているが、その大半がVRMMOの世界――つまりはゲームの世界だ。

 

 実を言うと、剣道を途中でドロップアウトした和人は、ちゃんとした剣術――流派のようなものを相手にした経験は、殆どない。全中ベスト8とはいえ、年下の中学生女子(いもうと)に負けてしまうような有様だった。

 

 マンガやアニメなどでは、流派は決まった動き(パターン)があって動き読みやすく、それが弱点になる――といった展開になりやすいが、普通に考えて、長い年月をかけて研鑽し、動きに無駄を失くして効率化させ、あらゆる状況に対して最適な動きを導き出した“技術”を、自分よりも強い剣士から師事を受けて、人生の少なくない時間を剣を振ることに費やしてきた、努力をしてきた人間の剣術が、ただ己の勘とセンスだけで剣を振ってきた人間のそれよりも、劣ることなど本来は有り得ない。普通に強いに決まっている。

 

 それこそ、その現実を覆せるのは、まさしく天賦の才を持った――生まれ持った、本物の剣士だけ。

 

 積み上げた努力を越えるのは、いつの時代も才能と決まっている。

 

 問題は――その才能が、本物の剣士の才が、桐ケ谷和人に備わっているかということ。

 

 VR(バーチャル)の英雄ではなく、キリトとしてではなく、桐ケ谷和人としての英雄の素質が――今、試される。

 

「さて、覚悟は整ったか?」

「……何の覚悟だ?」

「へっ。そりゃあもちろん――」

 

 剣崎は、チャキッ、と日本刀を顔横に水平に構え、切っ先を和人に向けて、凶悪な笑みを浮かべ――

 

「――死ぬ覚悟だ」

 

 ダッ! と、一直線に駆け出した。

 

 小細工無しの突き。それは、純粋で単純な剣技であるが故に、剣崎の剣士としての技量が透けて見える程に冴え渡っていた。

 

「ッ!」

 

 和人は思わず見惚れかける。自分に向かって真っ直ぐに伸びる銀閃が美しいと、目を奪われてしまう。

 

 だが、和人はその陶酔感を強引に押し込めると、無理矢理に両手に脳から信号を送る。

 

 ギィィィン!! と、鈴が鳴るような音が響く。

 

 剣崎の真っ直ぐな突きを、和人は立てた剣で滑らせるように受け流した。

 

「――ほう!」

「くっ!」

 

 キィン! と、両者の距離が再び少し開く。

 和人は半回転して体勢を整えると、すぐさま一歩後ろに足を引き――そして、剣崎に向かって突っ込んだ。

 

(受け身に回ったらマズイ! こっちから攻めて、ペースを作る!)

 

 だが、その時――スルッ、と。

 滑らかに、滑るように、あるべき場所に置かれたかのように――和人の首元に刃が迫っていた。

 

「――ッ!」

 

 和人はそれを間一髪で弾く。

 

 攻勢に出られない。剣崎の洗練された剣術が、和人の最大の武器である反応速度を一瞬遅らせる。鈍らせる。

 

 だが、それでも和人は、間一髪を繰り返しながらも、懸命に剣崎に向かって足を進め、剣を振るい、必死に主導権を手繰り寄せようとした。

 

 剣崎はそれを余裕を持って弾き、時折狙い澄ましたように的確な一撃を放つ――が、それでも自身の刃が血に塗れないことに、和人が自分の太刀を浴びないことに、ますますその笑みを深めていく。

 

「ハンター達は、あの黒い球体が元は普通の一般人の中から招集するらしいな。だからか、戦士によって手応えがまちまちなんだわ。ただ泣き叫んで命乞いをしてくる奴もいれば、お前みたいにたった一人でこっちの仲間を何十人と屠る野郎もいる」

 

 和人はその言葉に何も言わず、ただ歯噛みする。

 こっちは一発一撃を受けるのも綱渡りの連続なのに、こいつはまだ口を開く余裕があるのか――

 

 和人はそれに焦りと――ある種の強烈な怒りを覚えながら、片手で振るう宝剣に更なる力を込める。

 

 ガギンッ! とお互いの強烈な一閃が衝突し、反発する。

 その僅かなタイムラグを利用して、再び剣崎は言葉を続けた。

 

「そして、そんな熟練者の中でも、やっぱりランクはある――そんで、上位ランカーの殆どが、実はあのヘンテコな銃じゃなくて、真っ黒な伸びる剣を愛用してるんだな。……まぁ、お前のその剣は、また別みたいだけど――なッ!」

「ッ!!」

 

 剣崎が一際鋭く振った一閃により、大きく弾かれた和人は、思わずズザザザッ! と距離を取らされる。

 

 だが、再びギンッ! と剣崎を強く見据えると、雄叫びを上げながら身を低くして駆け出していった。

 

「ぉぉぉぉぉおおおおおおお!!!!」

「だが、それはあくまで剣“が”一番使えるからであって、剣“を”一番使えるわけじゃねぇ――剣士じゃねぇ。まぁ、お前等は“星人(おれたち)”を狩れればそれでいいんだろうし? 剣士になる必要なんて皆無なんだろうから、一番使える武器を使うのは当然だ。そんな奴等は剣なんて只の武器で、使いやすい装備としか思ってないんだろうが……お前は違うな、英雄君」

 

 ガキィン!! と甲高い音を響かせて――再び両者は、鍔迫り合いの様相を見せ、至近距離で睨み合う。

 

「――お前は剣士だ。いや、剣士で在ろうとしている」

「…………」

「いいな、その目だ。剣に取り憑かれている者の目。剣に捕らわれ――囚われている者の目だ。昔剣道かじってましたってレベルじゃあ、ここまで致命的に“堕ちない”。………お前、さては――」

 

 剣崎は和人に顔をじっと近づけ、吸血鬼の牙を見せながら、囁くように言った。

 

 

「――人を、斬り殺したことがあるな」

 

 

 瞬間、和人は目を見開いて、次の瞬間――氷のような、無表情に変わった。

 

「――お前……もう黙れ」

「ッ!!」

 

 和人はギィンッ! と剣崎を身体ごと押すと、そのまま高速に一回転し、遠心力を乗せた鋭い剣閃を放つ。

 

 その攻撃は剣崎に防がれるが、剣崎は身体ごとふらりと後ろによろめいてしまう。

 

 和人はグッと地面を踏み抜いて、そのまま一足で剣崎の懐に――

 

「――らっ!!」

 

 だが、剣崎は自身右側に飛び込んでくる和人を狙い、掬い上げるように片手で剣を振り抜く。

 

「!?」

 

 だが、和人は右手で持っていた剣を左手に持ち替え、それを防ぎ――――右手で自身の腰に備え付けていた、光剣の柄を手に取った。

 

「ッッッ!!」

 

 剣崎に向かって、至近距離から薄紫の刀身が襲い掛かる。

 

「うぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおああああああああああああ!!!」

 

 剣崎は雄叫びを上げながら、右手に持っていた剣を手放し、なりふり構わず身体を落とし、転げ回ることで九死に一生を得た。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 剣崎は地面に膝と手を突き、荒い息を吐きながら生を実感するが、和人はシャキンッ! と、ガンツソードを取り出し、己に目を向けさせる。

 

 そして和人は、冷たい表情のまま、顔に黒い影を差したまま、己を見上げる剣崎に告げた。

 

「――逆に聞こうか。……お前こそ、剣士なんだろう? 剣士だったら、へらへら笑いながらごちゃごちゃ言わずに――」

 

 既に、光剣は刀身を仕舞って、再び腰に柄が吊るされている。

 

 そして、左手にガンツソードを携えながら、右手に持つその漆黒の宝剣の切っ先を、地面に跪く剣崎に向けながら、言う。

 

 

「――(これ)で、語れ」

 

 

 和人は思う――ああ、その通りだと。

 

 自分は人殺しで、剣に取り憑かれていて、それ故に、どうしようもなく剣士に憧れている。

 

 何度乗り越えたと思っても、受け入れられたと思い込んでも、きっとこんな風に図星を突かれれば、容易く頭の中は真っ白になってしまうのだろう。

 

 それでいいのかもしれない。そうでなくてはいけないのだろう。

 

 だって、自分は人を殺しているのだから。

 

 乗り越えることなど許されない。受け入れることなどしてはいけない。それは只、自分の悲劇に酔っているだけだ――殺された人間の方が、遥かに悲劇であることから目を逸らして。

 

 だから和人は剣を振るうのだ。

 

 自分が人斬りであることを忘れない為にか、それとも剣を振っている時だけは何もかもを忘れて剣士であることに全てを注ぐことが出来るからなのかは、分からないが。

 

 一つ言えることは、きっと自分は、もう二度と、剣を手放すことは出来ないということ。

 

 自分にとっての罪の象徴であり、栄華の象徴でもある剣――剣士という在り方。

 

 どうしようもなく剣に縋り、全てを注ぎ、己を委ね、その魅力に取り憑かれてしまった愚かな男。

 

 最早、それは剣を振っているのか、それとも自分こそ剣に振り回され――操られているのか、判別できない有様で、在り様だ。

 

 まぁ――それならそれで、剣士というものの一つの在り方というものだろう。

 

 和人は、自嘲するように、口角を吊り上げた。

 

「は、はは、ははははははははははは!!!」

 

 剣崎は、哄笑しながら立ち上がる。

 

「――ああ、そうだな。俺としたことが愚かしい程に無粋だった。悪い悪い、俺が悪かった。久しぶりに美味(うま)そうな剣士に出会えて、どうしようもなくテンションが上がっちまったんだ」

 

 剣崎は立ち上がりながら、ゴキ、ゴキキ、ゴキゴキと異音をたてながら、その額から二本一対の角を出現させる。そして、その吸血鬼の牙も、みるみる鋭く大きくなっていった。

 

 和人はそれを見て、ちらりと辺りを見渡す。

 

 夥しいほどの怪物の屍。これを作り上げたのは、剣崎の言う通り、全て自分だ。自分の所業だ。自分の――剣が、これだけの死体を積み上げた。

 

 だが、最早何の忌避感もない。既に何の罪悪感も感じない。

 

 怪物の返り血を浴びて赤く染まることも、肉を裂いて命を断ち切る感触も、既に身体が、剣が覚え込んでしまった。

 

 それは人として、慣れてはいけないものだったのだろう。自分は何かを失い、決定的に歯車がずれてしまった。

 

「…………」

 

 和人は、ギュッと、強く両手の二刀を握り締める。

 

 それでも剣士で在り続けることが出来るのならば、自分はいくらでも血に染まろう。肉を裂き、命を断ち切ろう。

 

 この戦場で生き抜くには、一つでも多くの命を救うには――一つでも多く、敵の命を奪わなくてはならない。

 

 それが、黒い球体が自分達に求める、この化け物達との戦争なのだから。

 

 辿り着きたい場所がある。帰りを待ってくれている人がいる。

 

 その為に少年は、剣士は――英雄は、血に濡れることを覚悟した。

 

 あの世界に――彼女の元に、帰る為に。

 

 無数の屍を積み上げる修羅の道――その地獄への道を、桐ケ谷和人は己の剣で切り開くことを決意した。

 

 そして、剣崎が擬態を解除し、化け物としてのその本性を現す。

 

「お望み通り、これから先は言葉はいらない――思う存分、剣で語り合うとしよう」

 

 既に先程剣崎が手放した剣は、灰となって何処かへと流されていった。

 

 剣崎が両手で構えるのは、自分の掌から取り出した、新たなる一振りの日本刀。

 

 それを構える剣崎は、二本の角を生やし――そして瞳を黄金色に輝かせ、鋭い牙を覗かせながら、剣を水平に顔横に構え、その切っ先を和人に向けていた。

 

「決闘だ。悪いが、全力(チート)を尽くして行かせてもらう」

 

 和人はその言葉に、鋭く二刀を振るうことで答えた。

 




新垣あやせは妖鬼に翻弄され、桐ケ谷和人は剣鬼と刃を交わし合う。


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死なせるわけには、いかないじゃないか。

 Side八幡――とある飲食店が立ち並ぶ裏通り

 

 

 俺と黒金の距離は、およそ20mと言ったところか。ちょうど西部劇のガンマンが、背中合わせで十歩逆方向に向かって歩き、バッと振り返って銃口を向けた時程の距離感だ。いや、西部のガンマンじゃないんで詳しいことは知らんが。

 

 まぁとにかく、お互いの手が届かない、言うならば中距離戦の距離感といったところだろう。

 

 だが、人間形態の時ですら、あの男は、あの怪物は、一瞬で、一つの瞬きの間に、これくらいの距離なら詰めてくる。俺からは色々な攻撃が届かないが、アイツにとってはむしろベストな距離感なのかもしれない。

 

 俺が攻撃を届かせるには、XガンやYガンによる射撃しかないだろう。だが、黒金にはおそらく通用しない。Xガンはタイムラグの間に殺され、Yガンのネットは易々と避けられるだろう。

 

 爆弾である以上、投擲する必要があるBIMも論外。振りかぶっている間に殺される。

 

 かといってスーツの力を駆使しての接近戦を挑むのも無謀だ。奴の身体能力の高さは、人間の姿の時ですらずば抜けていた。まともにやり合える相手ではない。

 

 ここまでを、俺は一瞬で思考した。

 

「――俺の為に死ね、化け物」

「――俺の為に死ね、人間」

 

 だから、俺はこの宣言の次の瞬間――ガンツソードを取り出した。

 

 当然20mの距離が開いている為、その刃は届かない。黒金も俺の行動に驚愕し、動きを止めていた。

 

――よし、先手は取ったっ!

 

 俺はバッと前に剣を突き出し――そのまま刀身を伸ばして射出した。

 

「っ!?」

 

 今更だが、ガンツソードは伸びる。

 

 普通は巨大な敵や距離のある敵を“斬る”為に使うんだろうが、俺がそんなモーションの大きな攻撃をしても避けられるだけだ。

 

 だから、意表を突く為に使う――突きで意表を突く。それこそ西部劇の早撃ちのガンマンのように――俺は剣を“撃つ”。

 

「はっ――遅い! 止まって見えるぞ!」

 

 だが所詮、意表は突いても、速度まで西部劇のガンマンの銃というわけにはいかない。Yガンのネットよりは速いだろうが、それでも黒金が、意表を突かれても、十分に対処できる程度のそれでしかなかった。

 

 狙い通りだ。始めからこれが当たるとは思っていない。

 

 対処できる――そう思わせ、こちらの攻撃を待ち構えてくれる、その状態に――黒金を後手に回すことが出来れば十分だった。

 

 俺は伸びている剣を振り下ろす。

 

 まだ黒金の元まで辿り着いていないガンツソードは、伸びきっていない剣は、そのまま地面に突き刺さる。

 

 そして――俺は跳んだ。

 

「なっ!?」

 

 トリケラサンにも使った、如意棒的ガンツソード使用法だ。

 

 俺のトリッキーな動きに黒金は驚愕し、一瞬俺を見失う――そして、俺は『それ』を、先程まで俺がいた方向に投擲すると、そのまま道路の右側のビルディングの窓に着地する――真横の足場に着地する。アメコミの某蜘蛛男のように。

 

「くっ! ちょこまかとッ!!」

 

 黒金はそう吠えながら、右手に電気の塊を作り出し――え? 嘘だろ? マジかよそんなことも出来んのかよ! 体に纏うだけじゃないの!?

 

 俺はそのまま剣を戻して、窓ガラスに罅を入れながら足場を全力で蹴り出す。

 

 パリーン!! という音は、俺が蹴り破った音なのか、それとも黒金の投げつけた雷による破壊音なのか、とにかく俺は間一髪でそれを躱すことに成功した。

 

 ……こんなことまで出来るなんて、本当に近中遠距離どこをとっても弱点がない。なんだよ、無敵かよコイツ。ってか、もうこれ戦争とかじゃなくてただの異能バトルになってない? なんなの? テコ入れなの? そういうのは学園都市でやれよ。

 

 俺はそんな悪態を脳内で喚き散らして必死に心を落ち着かせながら、黒金の背後に着地する。

 

 そして、奴が振り向くよりも先に、クラッカー式BIMを投擲した。

 

 それは奴の顔面近くまで迫って――

 

「喰らうかっ!!」

 

 だが、奴はそれを超人的な――化け物的な反射神経で避ける。

 

「……くっ、マジかよ……」

 

 俺は歯噛みし、奴は俺の表情を見て怪物の相貌に笑みを浮かべる。……それだけ醜い怪物になっても、愉悦の感情が隠し切れないってとこに、人間の醜悪さみたいなのを感じるな。

 

 だが、それは俺も同じことか――笑みが、隠し切れない。

 

「……なんだ?」

 

 黒金が表情を訝しく変えるのと同時に――奴はそれに気づいた。

 

 奴の背後から近づいてくる――小さなプロペラ音に。

 

「ッ!?」

 

 だが、遅い。

 

 黒金が振り向いたその瞬間――奴の顔面にホーミング式BIMが炸裂した。

 

「ッッ!! グァァァアア!!!」

 

 曲芸を披露し、奴の視界から外れたあの瞬間、敢えて黒金から逆方向に『これ』を投げ、クラッカー式と挟撃するように企てた成果が出た。

 

 ホーミング式は、撮影してロックオンした相手に向かってプロペラ飛行しながら追尾するBIM。飛行装置を備えているからか威力は低いが、奴が振り向いたことが幸いして、タイミングよく顔面にぶち当てることが出来た。上々だ。

 

 ドガンッ!! と躱されたクラッカー式が少し離れた場所で爆発する中――黒金は、がくっと片膝をついた。

 

「――っ!?」

 

 これは……効いてる?

 ……いや、裏を考えている暇はない。とにかく、今は畳み掛ける時だ。

 

 俺は再びガンツソードを取り出し、全力で斬りかかる。

 この距離なら、銃で撃つよりも剣の方が速いッ!

 

 距離は数m。俺は刀身を少し伸ばしながら、斜めに剣を振り抜いて――

 

 

――ガキンッ!! とガンツソードが圧し折られた。

 

 

「…………な………に……?」

 

 ガンツ装備の中でも最強のそれを砕いたのは、片膝を着いたまま、ただ横に振った怪物の腕――雷光を纏った、金棒のような強靭な腕。

 

 強いとは思っていた。最強であることは覚悟していた。

 

 だが、それでも――こちらの方を見向きもせずに、背中を向けて片膝を着いたまま、大きく振るうでもなく、まるで蚊を追い払うかのように無造作な挙動で……ガンツソードを……最強の装備を、いとも……容易く――

 

「おい――」

 

 そして黒金は、未だ片膝を着いたまま、無様に剣を振った体勢のまま硬直する俺に、その怪物の相貌を――鬼の形相を向け、冷酷に言った。

 

「――得意の小細工は、もう終わりか?」

 

 俺は反射的にXガンを向けていた。

 

「――ッッッ!?」

 

 コイツにはXガンが通用しない――威力の面ではなく(いや威力面でも正直言って自信がないが)命中的な意味で、そもそも当たらないという意味で、俺は既に対黒金戦においてXガンとYガンの活躍を期待してはいなかった。

 

 だが、そんなことはこの期に及んではどうでもよかった。反射的にXガンを選択していた。

 

 ガンツソードが折られ、使い慣れていないBIMは反射的には取り出せない。

 

 ここで俺が選択したのは、ずっと半年以上共に戦場を駆け抜け――生き抜き、なんだかんだで、ずっと愛用している無骨な短銃だった。

 

 殺される――と思った。

 

 俺が黒金と問答しながら練っていた戦闘スケジュールは、既に完全に破綻していて、何度も言うようにこの行動は完全に反射的なものだったけれど、決して間違っていない、むしろ半年間のガンツ生活によって磨かれた俺の生存本能が全力で仕事をした瞬間であった。

 

 俺のターンが終わってしまう。戦闘の主導権を握られる。ここでなんとかしなくてはならない。――そんな思いが脳で考えるまでもなく身体を動かし、見事行動に移すことが出来た、俺のような弱者としては、出来過ぎとも言っていい反射だった。

 

 けれど――黒金には、強者には、そんな百点満点も通用しない。

 

「カッッッ!!!!」

 

 黒金は、相手を威嚇する野生の猛獣のように、吸血鬼の八重歯を剥き出しにして吠えた。

 

 ビリビリビリッッッと、比喩ではなくそう音を立てて大気が震えた。

 

 それは黒金が纏い、無意識に放っていた雷電の効果だろうか。だが、捕食者の、強者の威嚇に、弱者の俺は、被食者の俺は、本能的に身体が恐怖し、硬直してしまう。

 

 結果として、俺はXガンの引き金を引けず、硬直してしまう。

 

 だが、脳内は全力で危険警報を鳴らしていた。

 

 ダメだ、動け、動け、動け、動け、動け――ッ!!

 

 来る………奴が、動くッ!!

 

 その予感に――危機感に応えるように。

 

 

 目の前で片膝を着いていた黒金が、次の瞬間――消失した。

 

 

「動けッッ!!!」

 

 俺は遂にそう声に出して叫びながら、全力で膝を折った。

 

 バチィィィッ!! と、頭上を雷電が通過する。背後に回った黒金による雷を纏った手刀だと判断するよりも先に、俺は前に向かってダイブするように飛び出す。

 

 ドゴォォンン!! と、文字通り雷が落ちたかのように、雷電を纏う奴の拳が、数瞬前まで俺がいた場所のアスファルトに叩き込まれていた。

 

 俺はそれらに構わず、とにかく逃げる逃げる逃げる。

 ゴロゴロと転がり、ジャンプし、後ろを振り返ることも、横を見ることも、前すら見ずにとにかく無茶苦茶に逃げ回った。

 

 この回避行動を止めたら――否、背後を振り向くとか、自分は今何処にいてどういうルートに逃げるとか、コントローラを弄って周波数を変化させるとか、そんな回避プランに思考を向けることすらしても、その瞬間、黒金によって文字通りの消し炭にされてしまうと、本能が叫んでいた。悲鳴を上げて、俺に全力で泣き叫んでいた。

 

 全てのリソースをこの回避に捧げろっ! 考える前に感じる前に全身全霊全力全開で逃げろっ! 生きろッ!

 

 逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ!!! 

 生きろ、生きろ、生きろ、生きろ、生きろ!!!

 

 じゃないと殺されるぞッッ!!!!

 

 走ったらダメだ。その瞬間に追いつかれる。

 立ち上がったらダメだ。その瞬間に貫かれる。

 

 とにかく一発一発を転がりながら跳び回りながら這いずり回りながら回避するんだ。奴にモーションの大きな一撃を撃たせろ。そのアクションの隙を突いて、とにかく一瞬でも生き残れッッ!!

 

 だが、俺の中の冷静な部分が、冷たく告げる。

 

 そんなことでは、この怪物からは逃げられない。確実に死に追いつかれる。

 

 でも、どうすればいい!? 完全に攻守は逆転した。主導権を握られた。あのパワーもスピードも、攻め手に回られた時点で俺に打倒する手段などありはしない!

 

 ガンツソードは折れ、XガンもYガンも照準を定めている余裕も時間もない。

 

 ならば――賭けるしかない。

 

 俺は腰のケースに手を突っ込む。

 そして、取り出したそれのスイッチを入れ、振り向かずに後ろに向かって、我武者羅に放り投げた。

 

「っ、むう!!」

 

 投げたのはフレイム式のBIM。

 目の前に――黒金と俺の間に炎の壁を作り出し、一瞬だけ自由の時間を手に入れる。

 

 そして俺は立ち上がることすらせずに、その時間を新たなBIMを取り出すことに使用する。

 

 本来なら、黒金はこんなことをされたら持ち前の超スピードで背後に周りこめばいい。咄嗟の行動故に、俺は別に自身の周り三百六十度を炎で囲ったりしている訳ではない。背後に回られたら俺は剥き出しで、そちらの方が確実に俺を殺せる。

 

 だが――それでも、コイツはこんなことをされたら、確実に炎の壁を突き破ってくる。

 

 自身の強さに自負を持ち、自分の弱さに憎悪を持つ、この男は――この怪物は、挑発に対して真っ向から捻じ伏せることを、咄嗟に選んでしまう生物の筈だ。

 

「嘗めるなぁッ!!」

 

 案の定、黒金は雷電を纏った腕で一薙ぎすることで、フレイム式BIMの炎を吹き飛ばした。

 

 まったく、絶望したくなるほどの規格外だが、それでこそお前だ。だからこその怪物だ。

 それだからこそ、俺はここで、これを用意することが出来た。

 

 俺は、炎の壁を吹き飛ばして突っ込んできた奴の眼前に――タイマー式BIMを投げつけていた。

 

「――な」

 

 黒金は目を見開いて俺を見る。

 

 ああ、そうだな。この位置だと、俺も爆発の衝撃を受けざるを得ない。

 

 だな――それが、どうした?

 

「くらえ」

 

 そして、爆発する。

 俺と黒金の間の至近距離で、その立方体の金属塊は爆発した。

 

 タイマー式は、()()BIMの次に破壊力がある強烈なBIMだ。

 

 この距離で食らったのならば、いくら黒金でも膝を着くくらいじゃすまないだろう。

 

 

――俺のように、()()()で防いだなら、まだしもな。

 

 

 バリア式BIM。

 八つのBIMの中で、唯一の防御BIMだ。

 スイッチを入れた瞬間、自身の四方を電磁的なバリアで囲い、爆風を含めた衝撃を全て無効にする。

 

 ある意味、これも切り札のBIMだったが、とにかくこれで――

 

 

 バチチチチチチチ!!!! と、轟音。

 

 

 ……待て、これは爆炎だけでじゃなくて――

 

「――ッ!!?」

 

 

 次の瞬間、バリアの中に、雷の鉄槌が降り注いだ。

 

 

「―――――――が…………は…………っっ!!」

 

 俺はその衝撃で大きくバリアの外に吹き飛ばされる。

 

 そして、その落下地点には、待ち構えているかのように、雷の柱を鎧のように纏い――五体満足の黒金がいた。

 

「――化け物め……っ」

「ああ、お前よりもな。だから俺は、お前よりも強いんだ。ハンター」

 

 黒金はそう笑みを浮かべ、俺を渾身の力で殴り飛ばした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「きゃ、きゃぁっ!!」

「な、なんだ、人!? 人が降ってきたぞ!!?」

「さっきからすごい近くに何発も雷は落ちるし! もう何が起こってるの!?」

「いやだぁぁぁああああ!!! もうイヤダァァァアア!!! 誰か………誰か助けてくれよぉぉおお!!!」

 

 長い滞空時間の末、俺は大きな通りに落ちた――墜落した。

 

 身体は起こせないが、あの場所からあの方角に飛ばされたというのはなんとなく分かるので、おそらくここは池袋駅の東口から進んだ五叉路の辺りだろう。60階通りに続く、池袋でもかなり大きな通り。その為か、ちらほらと辺りから人の声が聞こえた。逃げ遅れたのか、俺と同じようにダメージを負って動けないのか……叫んでいられる分、元気は有り余っているようだが。

 

 どちらにせよ、構ってあげられるような余裕などあるはずがない。ど派手な登場で随分と注目を浴びてしまったみたいだが、ぼっちがそんなものへと上手い対処など出来るわけがないし、する気もない。それどころじゃないのは見て分かるだろ、察しろ。

 

 俺はなんとか身体を起こそうとするも、スーツがキュインキュインキュインキュインと悲鳴を上げている。だが、恐る恐る制御部分に手を当てるも、まだオイルみたいなのは出ていない……根性あるじゃねぇか、今回のスーツは。とても俺専用にオーダーメイドされたものとは思えないぜ。

 

 対して、肝心な俺自身といえば、ちょっと泣きそうだった。全身が物凄く痛いというのもあるが――全然、思いつかない。

 奴を、黒金を――今回のミッションのボスを、打倒する方法が、まるで思いつかない。

 

 まいった。強過ぎる。なんだよあれ。あんなのどうしろっていうんだ。

 ガンツソードは折られた。ステルスは通用しない。XガンもYガンも当たらない。BIMも八個中六個使っちまった。

 

 ……やべぇな。お先が真っ暗過ぎる。いっそ消えてしまいたい。

 

 

――消える?

 

 

 俺はゆっくりと立ち上がりながら、考えを巡らせた。

 

 ……待てよ。本当に、ステルスは通用しないのか?

 

 奴等に――オニ星人にステルスが通用しないのは、こちらがステルス状態になる周波数に、あのサングラスやコンタクトで対応することが出来るからだ。

 

 だが、今の化け物モードの黒金はサングラスをしていない。普段サングラスの奴が、コンタクトも併用しているということもないだろう。

 

 池袋での初遭遇の時、俺は中途半端なステルス状態で、それはやっぱり通じなかった。夕方の一件ですっかり黒金にはステルスは意味がないと思い込んでいたが――今は、奴は何のステルス対策も出来ていない筈だ。なら、周波数マックスの正常ステルスなら通用する可能性がなきにしもあらずか……。

 

 それなら、黒金から都合よく引き離されている今がチャンスだ。例え結果としてやっぱり通用しなくても、現状がこれ以上悪くなるわけじゃない。試すだけならタダだ。タダで勝機が買えるのならば、そんなに素晴らしいことはないだろう。

 

「――なぁッ! アンタ、聞いてんのか!! お前、何なんだよ!! 自衛隊か!? 警察か!?」

 

 なんだか歩道から俺にうるさくなんか言ってくるチャラ男をガン無視してそんなことを考えていると、痺れを切らしたのか、チャラ男は道路に飛び出してきて、俺に向かって駆け出してきた。うわー、めんどくせぇ。――――――っ!?

 

「おい、テメー、いいかげんに――」

 

 

 ドゴォォォォォオン!!!! と、俺とチャラ男の間に――否、俺の至近距離に、チャラ男を巻き込んで、雷が落ちた。

 

 

「――――――――――!!!」

 

 俺は、間一髪、こちらに向かって歩いてくる黒金を事前に見つけることが出来たおかげで何とか回避できたが、チャラ男は悲鳴すら上げることが出来ず、それを全身に浴びて――雷が消えたそこには、真っ黒な人型の炭しかなかった。

 

「キャァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」

「うわぁ、うわぁぁぁああ!! 雷が……雷が落ちたぁ!?」

「ひ、避雷針は!? そういうのあんじゃねぇの!? っていうか雨も降ってねぇのに……異常気象!?」

 

 ギャラリーがピーチクパーチクやかましいが、俺はそんな奴等に全く目を向けずに、ただその怪物の歩みだけを見つめていた。

 

「どうした? 膝が震えているぞ。ブルッてるのか?」

「……馬鹿言え、武者震いだ」

 

 嘘です。本当はダメージが残ってて、まだ上手く体を動かせないんだよ。さっきの雷を避けられたのも、反射的な行動だ。俺の生存本能マジ優秀。

 

 正直、立ち上がれたのも奇跡だ。……せめて、後一分、待ってほしかったぜ。空気が読めないなぁ。だからお前ぼっちなんだよ。俺が言うんだから間違いない。

 

 腕も震えていて、コントローラを操作できない。これじゃあ、透明化も試せない。

 

「ははっ、そうか。なら、まだ楽しめそうだな」

「――で? 俺を殺したら他の奴の所か? 案外、お前のご自慢の幹部達も殺されて、今度こそひとりぼっちになってるかもな?」

 

 稼げ。時間を稼ぐんだ。

 挑発でも、懇願でも、世間話でも何でもいい。

 

 せめて、この身体の震えが止まるまで。

 

「……ふっ。だとすれば、アイツ等を殺した奴を殺して、次の街に一人で行くさ。そして、そこの人間を皆殺しにする。それが終わったらまた次の街だ」

「……そうして、全人類を滅ぼすか。素敵な計画だな」

「最高の世界だろ」

「違いない。理想郷だな」

 

 そして地獄だ。

 

 今の、この池袋と同じ――な。

 

「ふ、ふざけるな!! そんなこと、許されると思ってるのか、化け物めっっ!!」

 

 野次馬の中の、誰かが叫んだ。

 

 俺と黒金は、その声の方向に目を向ける。

 

 五叉路の、60階通りとは別方向――なりたけに向かう方向――の、喫煙スペースの近くにいた、一人の二十代くらいの男。

 その男が、震えながら、涙を流しながら、黒金に向かって叫んでいた。

 

 俺は、きっとソイツを、恐ろしく冷めた目で見ている。

 

 コイツは、何を考えているのだろう。

 

「黙れ」

 

 

 黒金はソイツ諸共、周囲の人間を巻き込む程の太さの雷を落とし、一瞬で炭にした。

 

 俺は、それに対し、その惨劇に対し、何も思わなかった。

 

 あの男は、一体、何を持って、黒金の言葉を否定したのだろうか。

 正義感か? それとも理不尽に戦争を起こされた怒りか? それとも恐怖を誤魔化す為か?

 

 そのどれも正論で、きっと正しくて、まさしくお前達には、黒金や、そんな黒金達と殺し合いをして惨劇を延長させ、肥大化させている俺達に対し、それをぶつける権利を持っているんだろうが――

 

――何故、自分が殺されないと思うことが出来たんだ? さっきのチャラ男を見てなかったのか?

 

 こんな、何もかもが狂った戦場で――地獄で。

 

 道理なんてものが、通るとでも思ったのか?

 

「聞けっ! 人間達よ!!」

 

 黒金は、続けて生き残っているギャラリーに向かって、吠えるように叫び始めた。

 

「俺とコイツ等の戦いの邪魔をするな!! 動いた者から殺す!! 口を開いても殺す!! ――今日、此処に来たことを、この戦場に迷い込んだことを、呪いながら死ね!!」

 

 そう言って、黒金はギャラリー達を力づくで、圧倒的力で黙らせた。

 一般人達は涙を流しながら啜り泣き、次々に膝を折って屈服していく。

 

 ……結局、大した――

 

「――時間稼ぎにはならなかったか?」

 

 黒金は、そう俺に問いかけた。――醜悪な、性格の悪い笑みを浮かべながら。

 

「……何の事だ?」

 

 ……ちっ、気づかれてたか。だから、あんなアクションまで起こして、一般人の邪魔が入ることを阻止したのか。……忘れかけてたが、こいつ等は元人間――策謀は人間の十八番か。

 

 人間と化け物――その優秀な面と最悪な面、どちらも備えた選ばれし存在、ってか。

 

 嫌になるくらい、絶望するな。

 

「――さて、戦争の続きと行こうか。それとも苦しまないように殺してやろうか」

「……何だ? 案外優しいとこもあるんだな」

 

 まぁコイツのことだから、絶対に苦しむように殺すんだろうけど。即死しないくらいの、皮膚が段々と焼けるくらいの電圧の雷を浴びせ続けるとか。やだっ、こんなグロいこと直ぐに思いつくなんて八幡天才! 鬼畜! オニだけに!

 

 はっ、とにもかくにも――

 

「残念ながら、お断りだ――俺には、ひとりぼっちにしないと、誓った人がいるからな」

 

 

――わたしを、ひとりぼっちにしないで。

 

 

「俺は死んでも死ねないんだ。だから――お前を殺して、俺は生き延びさせてもらう」

 

 そして俺は、震える両手を上げて、構えたXガンの銃口を向ける。

 

 笑みを浮かべて、殺意を込めて、黒金に向かって、銃を向ける。

 

 そんな俺を見て黒金は、怪物の相貌に俺と同じように笑みを浮かべながら――スッと、その雷を降らす手を、右手を無造作に上げる。

 

 ……死なない。絶対に、死ねない。

 

 俺は、あの人を……ひとりには――

 

 

 

「――ありがとう、八幡。わたしも、あなたを孤独(ひとり)にはしないよ」

 

 

 

 その時、バチバチバチバチという火花が散るような音と共に、俺の背後に一人の漆黒のガンツスーツを纏った女性が現れた。

 

 その人は、Xガンを握る俺の震える両手に、優しくその手を添えた。

 

 温かく柔らかいその手で、俺を護るように包み込んでくれた。

 

 そして、俺に優しく微笑みかけながら、その笑みを獰猛なそれに変え、真っ直ぐ黒金を力強く見据えた。

 

「――で? 八幡を虐めたのは、あの醜い怪物かな? あれを一緒に殺せばいいの?」

 

 雪ノ下陽乃は、まさしく雪ノ下陽乃のように、雪ノ下陽乃に相応しい気品と迫力を持って、そう言った。

 

 陽乃さん程の人が、あの怪物の恐ろしさを、悍ましさを、凄じさを、まさか一目で看破できないことはあるまいに。

 

 それでも、この人は、そう宣ってくれた。

 

 俺が傷つけられたという理由で怒ってくれた。俺と一緒に戦ってくれると言ってくれた。

 

 

 俺を、孤独(ひとり)にしないと、そう言ってくれた。

 

 

 ……まったく、この人は。どれだけ俺を虜にすれば気が済むんだ。

 

 こんなの、絶対に死ぬわけにはいかないじゃないか。

 

 死なせるわけには、いかないじゃないか。

 




比企谷八幡は最強の雷鬼に銃口を向け――そして、雪ノ下陽乃は彼の両手を包み込む。


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――どっちが“本物”だと思います?

 Sideあやせ――とある路線の出口近くの吹き抜け空間

 

 

 象が、落下してくる。

 

 それを認識した時、あやせの心に、恐怖よりも余程恐ろしい――諦念が襲った。

 

 死ぬのだと、ここで死んでしまうのだと理解して、死を――受け入れかけた。

 

 いや、その瞬間は、確かに受け入れてしまった。そして、次の瞬間、そんな自分に憤怒した。

 

(――――ッッッッッ!!!! 死ねないっっ!! 死ぬ訳にはいかないのッッ!!)

 

 あやせの脳裏に、比企谷八幡の後ろ姿が過ぎる。

 

 そして、そんな彼の背中と一緒に、本物というキーワードが、あやせの心に活力を与える。

 

 恐怖を消し、諦念を塗り替え、生への莫大な渇望と執着を手に入れる。

 

 睨み付ける。こちらに向かって隕石の如く落下してくる巨大な象を。

 

 絶対に打倒する。この状況を、覆す。

 

 具体的な方法など何も思い浮かばないが、その決意だけは魂で燃やして――

 

 

――ダンッッ!!! と、歯を食い縛り、渾身の力で柱を殴りつけた。

 

 

 自分が背を着け、そしてガンツソードが突き刺さっていた、その大きな柱を。

 

 ビギッッ!! と、稲妻のように、その柱に罅が入った。

 

(――あ)

 

 そして、崩壊する。その柱が砕ける。

 

 あやせは、それを見て――

 

(これしか――ないッッ!!)

 

 新垣あやせは、逃げなかった。

 

 本来ならば、少しでも遠くへ避難して、象の落下の直撃を避けることが正しいのかもしれない。

 そして次の形態に変身する前に、サイズが大きい分スピードは蠅よりも遅いだろうことを期待し、ガンツソードで一撃を入れることを目論むべきなのかもしれない。

 

 だが、あやせの頭の中には、既に落下する象を打倒することしかなかった。

 

 己に死を覚悟させた象を、死を受け入れさせた象を――本物への道を、塞ぎかけた象を。

 

 打倒し、打破し、打ち砕くこと――新垣あやせの頭の中を満たすのは、それだけだった。

 

 あやせは砕けた柱の中の欠片の中で、最も大きな塊を、全力で蹴りつけた。

 

「ああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!!」

 

 あやせは咆哮する。

 

 その目に宿るは、ただ圧倒的な殺意。

 

 その胸に宿るは、ただ妄執的な――本物への憧れ。

 

「邪魔――するなぁぁぁぁぁああああああああああああ!!!!!」

 

 あやせのすらりと長い脚は、この瞬間は弩となり、矢の如き一撃としてその塊を落下する象に放った。

 それが象の顔面へと命中したのは、あやせの執念の為せる業か。

 

「パォォォォォォオオオオオオオオオオン!!!」

 

 象はその鳴き声と共に、あやせをその太い足で踏み潰さんばかりだったその落下の軌道をずらされた。

 大きく仰け反り、あやせと少し離れた場所に、その背中から盛大に落下する。

 

 ドドォォォォォン!! と轟音を立て、土煙が豪快に舞った。

 

 あやせは、大きく息を切らしながらも、その落下地点をギラギラとした瞳で睨み付ける。

 

(……あんなので、銃も効かなかったあの男が殺せたわけない。……絶対に、まだ生きてる)

 

 チャキと慣れない手つきでガンツソードを握る拙い構えで、次は一体何に変身してくるのか、それともまだ象のままなのかと警戒しながら、化野の登場を待つ。何に変身しているのか分からないにも関わらず、この視界不良の状況で突っ込むわけにはいかない。

 

 

「まったく、案外しぶといですね――人間の癖に」

 

 

 すると、煙の中から、そんな“女性の”声が響いた。

 

(……え? 今のって……まさか――)

 

 いや――否、女性というよりも――少女。

 

 それも、ずっと、生まれてからこのかた、ずっと、ずっと聞き続けた、聞き飽きた――

 

「まぁ、いいでしょう。わたしも、蠅や象なんかになるより、もっと美しいものになりたいですからね。次は少し、趣向を変えて遊びましょうか」

 

――自分の、声。

 

 新垣あやせの――声。

 

 バッ! と、その存在が手を横に振るうと、土煙が晴れてゆく。

 

 

 そして、それは姿を現した。

 

 

 その存在は、己の目の前に立つ、顔面を蒼白させて不健康な汗を流すあやせとは対照的に、不敵な笑みを浮かべていた。

 

 艶やかな堕天使の翼の如き漆黒の長い髪を、見せつけるように――魅せつけるように、優雅に靡かせる。

 

 そして腰に手を当て、目の前の人間を――新垣あやせを見据えた。

 

 

「……わ……わたし?」

 

 

 あやせは、震える唇から、そんな言葉を紡ぎ出した。

 

 その言葉に――現れた怪物は、一糸纏わぬ美貌を晒した、全裸の姿の新垣あやせ(ばけもの)は、新垣あやせ(にんげん)の言葉に、こう返した。

 

「ええ、そうですよ。……自分と同じ存在が、目の前にいる気分はどうですか? ……ところで――」

 

 

――どっちが“本物”だと思います?

 

 

 ()()()()()は、新垣あやせに、そういたずらっぽく問いかけた。

 

「――――ッッッ!!!」

 

 その問いに、その言葉に、あやせは沸騰したかのような怒りを覚え、チャキッ! と強くガンツソードを握り直して――

 

 

 ばきっ、と、あやせ背後で何かが砕ける音がした。

 

 バッと振り返ると、そこにいたのは――

 

 

「あ、あなたは――」

 

 その男は――そのストーカーは、あやせの呟きがまったく聞こえていないかのように、砕けた柱の破片を踏み潰しながら、ゆっくりと歩み寄って来た。

 

 二人のあやせを――いや、全裸のあやせを、偽物のあやせを、化け物が化けているあやせを見ていた。見詰め、見惚れ――

 

 そして、呆然と、呟く。

 

「あやせたん……あやせたんが……二人?」

 

 その言葉を聞いて、あやせは目を見開き――化野(あやせ)は、妖艶に微笑み――化物のような真っ赤な瞳で、血のように赤い真っ赤な舌で、唇を舐めた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side和人――とある駅の近くの大通り

 

 

 剣士とは――そう問われて、あなたはまず何を思い浮かべるだろうか。

 

 RPGのようなファンタジー世界で魔王を倒す冒険の旅に出る勇者だろうか。それとも豪奢な鎧を身に纏う西洋の騎士だろうか。それとも着流し姿で腰に日本刀を携える侍だろうか。

 

 ザッと上げるだけでもこれだけ様々なイメージが浮かぶ通り、剣士とは、実は実に曖昧な言葉である。

 究極的な意味で言うのならば、刀剣を持ち、それを扱う技術さえ持っていれば、剣士を名乗ることは出来るのだろう。

 

 だが、剣崎という男は、その剣士という言葉に特別な意味を見出す男だった――化け物になる前から、そんな人間で、そんな男の子だった。

 

 ずっと幼い頃から――周りの皆が五色の戦隊や光の巨人や昆虫の覆面ライダーに憧れている頃から、彼は剣士に憧れていた。

 

 某粉砕兄弟ゲームでは真っ赤な配管工や電気ネズミなどには目もくれずひたすら緑の剣士でプレイしていたし、某モンスターをハントするゲームでも弓やボウガンなどはガン無視で刀剣類を軒並み極めていた。

 

 周囲の友達も、お前は本当に剣が好きだなと始めは苦笑気味だったけれど、ある日、学校の帰り道――老人が一人で経営している刀剣屋の窓ガラスにへばり付き、展示されている日本刀を、陶然とした笑みで何時間もずっと眺めているのをクラスメイトが目撃した時、一気に彼の周りから人はいなくなった。

 

 その時、彼等は初めて、剣崎が刀剣に向ける感情が、単なる憧れや興味関心などではないことを悟った。

 

 きっかけは、始まりという始まりは、今では本人も覚えていない。

 

 剣崎という己の苗字(なまえ)からだったのか、それとも家宝として和室に飾られていた日本刀を両親に黙ってこっそり鞘から抜き出した時だったか――

 

 

――おそらくは、ある日、気が付いたら、その日本刀で両親を斬り殺していた時には、剣崎はもう手遅れだったのだろう。

 

 

 剣崎は、その両親の死体を貪るようにして――血を吸った。

 

 両親を殺してしまったというショックはもちろんあったが、それ以上に流れる血が、和室の畳に染み込んでいく赤い血が美味しそうで堪らなくて、救急車を呼ぶことに考えが及ぶよりも先に、畳に這いつくばるようにして血を吸い上げることを優先していたのだから、その時には既に、剣崎は取り返しがつかない程に化け物であったのだろう。

 

 吸血鬼となったことで、剣崎が歓喜したことは、刀を自由自在に生成できるようになったことだった。

 

 剣崎は刀剣は大好きだが、名刀などに特別興味や執着心があるわけではない。

 

 美しい銀色の刀身を流麗に振るい、敵の命を華麗に奪う――そんな剣士になれれば、そんな剣士で在れれば、それでよかった。ずっと幼少の頃から、そんな自分を思い描いては夢想していた。刀で、剣で、無双する剣士たる自分を。

 

 だから、自分の身体から刀を作り出せると分かると、剣崎は言われるがままに実家の家宝の日本刀を、剣崎を見つけて、この吸血鬼のコミュニティに連れて来てくれた恩人の吸血鬼にさっさと渡してしまった――その際に、自分に刀の振るい方を教えてくれと条件をつけたが。

 

 剣崎は刀を振るう剣士になりたかったので、竹刀しか使えない学校剣道や街の道場などには興味も湧かず無関心であった為、これが、この吸血鬼から教わった剣術が、剣崎の流派となった。

 

 吸血鬼の狩りに出る度に、剣崎は決して銃などを生成せず、ただ日本刀だけを振るった。なぜ日本刀なのかと言われれば、剣崎の師匠が日本の剣術を身につけていて、それを教わっているからという理由だけだったが。前述の通り、剣崎に特にそこに拘りはない。

 

 斬れればいい。刀剣を振るい、敵を殺す――剣士で在れれば、それでよかった。

 

 剣崎が、剣士という言葉に見出す、特別な意味――それは、剣に取り憑かれているということ。剣の魅力に、囚われていること。

 

 故に剣崎は、この条件を満たさない者は、剣士とは認めない。

 

 剣士とは、剣を持ち、それを振るうだけの人間には――化け物には、決して名乗ることは許されないものだと、彼はそう思い、感じ、考える。

 

 そして今日も、剣崎は剣を振るう。振るう。振るう。

 剣崎という剣士は、それこそ何かに取り憑かれているかのように――まさしく剣に囚われているかのように、毎日楽しそうに剣を振るった。

 

 それにより、こと剣術だけならば、あの最高幹部の一人であり、誰もが認める戦闘の天才である氷川にすら匹敵するレベルにまで上り詰めた。

 

 あの“懐刀”の唯一の弟子にして、氷川と同等レベルの剣術使い。

 

 そしていつしか、師匠にもう教えることはないと言われ、基本的に部下を持たない懐刀から卒業宣言を言い渡された時――火口と黒金は、剣崎の元を訪ね、自らのグループに勧誘した。

 

 新たなる、黒金組の幹部として。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 和人にとって二刀流とは、奥の手や切り札ということ以上に、ある種、自分にとって特別な暗示の意味も兼ねていた。

 

 そもそも、和人にとって二刀流は一度、完全に封印したスキルだった。

 

 あの日――ALOからアスナを助け出し、病室で目覚めたアスナと再会して、結城明日奈と出会ったあの瞬間。

 鋼鉄の城に閉じ込められた――デスゲームSAOが本当の意味で終わった、あの瞬間。

 

 黒の英雄『キリト』のデータと共に、魔王を打倒する勇者の役割を果たす『二刀流』のスキルも、一緒に封印しようと心に決めていた。

 

 まぁそれからもエクスキャリバーを獲得するクエストの時などに使ってしまったり、やはり自分の中の最強モードという感覚は抜け切れず、中々手放すことは出来なかったけれど――それほどに和人(キリト)にとっての二刀流は己の代名詞と言える程に体に染み込んでいた――それでも、桐ケ谷和人にとっての、己にとっての二刀流は、どうしてもあの世界の記憶と深く結び付きすぎてしまっている。

 

 二本の剣を両手に携えると、どうしても、己の中の何かが切り替わってしまう。

 

 楽しいゲームではなく、死ぬか生きるかの殺し合いになってしまう。

 

 74層のボス《The Gleameyes》との激闘。

 聖騎士ヒースクリフとの死闘。

 世界樹での無数の守護騎士との乱闘。

 

 どれも壮絶で、己の全てを懸けた戦いだった。

 その時ばかりは、遊びではなく、まさしくVR世界が、現実世界そのものとなっていた。

 

 だから――和人は二刀流を封印しようと、心に決めた。

 

 もう、あんな戦いは終わったから。

 これからは、かけがえのない仲間達と共に、楽しくゲームとして遊ぶ日々が続いていくのだから。

 

 もう、二刀流は――勇者は必要ない。

 英雄も、戦争が終われば、平和な世界では、只の人だ――只の人でなければならない。

 

 そんな思いで、彼は背中に二本の剣を背負うことを止めた。

 

 自身が憧れる黒の剣士キリトの代名詞である二刀流。

 それは最強の証であり、勇者の資格であり、英雄の象徴。

 

 そんな二刀流を、満を持して解放し、今、目の前のこの現実を、戦争を、殺し合いを、己の最強を以て打破すべき地獄だと判断して、和人は全力で剣崎との決闘に応じた。

 

 

 しかし、目の前の怪物――剣崎には、その二刀流の剣技の、悉くが届かなかった。

 

 

 ガキィンッッ!! と、右手に持つ宝剣の袈裟切りが弾かれる。

 

「ふはっ! 凄まじいな!」

「――くッッ!!」

 

 和人はそのまま左のガンツソードで突きを繰り出すが、剣崎はそれを軽々と避けてしまう。

 

 当たらない。攻めているのはこっちなのに、一向に決定的な攻撃を決め込むことは出来ない。

 

 だが、それに焦って深追いをすると、狙い澄ましたかのように剣崎の滑らかな剣筋が己の喉元に置かれている。

 やはり剣崎は、カウンタータイプの剣士らしい。手数で攻める二刀流とは、決して相性が悪くない相手だとは思うのだが。

 

 キィン! と再び剣がぶつかり合い、距離が開く。

 和人は一度、大きく息を吐いた。

 

 これはゲームではない。超人スーツを着ているとはいえ、生身の身体だ。当然、スタミナの問題もある。VR世界のようにHPが尽きぬ限り暴れ狂うというわけにもいかない。二刀流の強みはその手数だが、それはつまりそれだけの数の攻撃を繰り出している、それだけの回数だけ剣を振っているということ。スタミナの消費は片手剣の比ではない。

 

 更に大きいのは、致命的なまでに大きいのは、システムアシストが無いということ。

 決まった体勢を取れば、あとはシステムが身体を動かしてくれるソードスキルがない為、最後の一振りまで、その一閃の末期まで、己の脳で命令を送り、身体を動かさなくてはならない――そんな状態で、こんな状態で《スターバースト・ストリーム》や《ジ・イクリプス》を繰り出せるような技量は、未だ和人にはない。

 

 技量。すなわち――剣に捧げた、努力の時間。

 やはり――この勝負の明暗を分けるのはこれなのか、と和人は歯噛みする。

 

 それは、ある意味で至極当然の事実。

 努力をより積み重ねたものが、勝利という結果を得て、報われる。それは酷く正しく、美しい結末。

 

 だが――と、思う。

 ならば、自分があの二年間、鋼鉄の城で剣を振るい続けた時間は何だったのかと。無駄だったのかと。

 

 ……そんなことはないと、本当は分かっている。

 アスナ達との出会いはもちろん、今のこの殺し合いだって、あの時の経験がなければ、生き抜いた時間がなければ、こんな風に目の前の達人と互角の勝負など演じることは出来ないだろう。あの二年間は、しっかりと和人の力となっている。

 

 しかし、それでも、まだ足りない――届かない。只、それだけの話だ。

 この目の前の男は、二年間と言わず、もっともっと長い時間、剣を振ってきたのだろう。剣に命を、人生を、化け物としての時間さえも、捧げてきたのだろう。

 

 それは、剣崎の剣技を見れば、和人には分かる。分かってしまう。

 

 同じ――剣に生きる者として。

 

 だが、認めたくない。認めるわけにはいかない。

 

 目の前の敵の、怪物の、化け物の――剣崎の剣技に見惚れ、憧れたなど、認めるわけにはいかない。

 

 ギリッと歯を食い縛り、ギチッと二刀を強く握る。

 

(……諦めるな。勝機を探せっ! 恐怖に呑まれるな! 勝つための糸口は、必ずある筈だっ!)

 

 あの時も――二刀を持っての、二刀流の勇者としての、システムアシストに頼らない戦闘を強いられた。

 

 75層での、唐突に訪れた、魔王――ヒースクリフとの決戦。

 その世界の創造主であり、システムを全て知り尽くしたその男を下す為に、己のちっぽけな力のみで、キリトは――和人は、魔王(ラスボス)に挑まなくてはならなくなった。

 

(……そうだ。あの時に比べれば、この状況は恐れるに値しない――剣崎は強敵だが、あの男程の、全能感は感じない。奴は――ヒースクリフは……茅場昌彦は、もっと、もっと高かった!)

 

 もっと、もっと、固かった。もっと、もっと、絶対だった。

 奴は最強で、最悪で――誰よりも純粋な人間でありながら、目の前の剣崎(ばけもの)など、及びもつかない程に――怪物だった。

 

(……あの時、俺は負けた)

 

 最後の最後で己の力ではなく、奴の作った力――システムの力に頼ってしまった。

 魔王の力に縋った勇者――キリトに待っていたのは、己の死よりもずっと重い罰――アスナの死だった。

 

 いつだって、過去を悔いてばかりの、同じ失敗を繰り返してばかりの、愚かな鍍金の勇者だけれど。

 

(――今度こそ勝ってみせる! 己の力で、目の前の怪物を打倒するんだ!)

 

 動かない和人に痺れを切らしたのか、剣崎が珍しく自分から大きく剣を振り下ろしてきた。

 

「来ないなら――こっちから行くぜっ!」

 

 それを和人は二刀で受け止める。

 

「悪いな――オニ退治の方法を考えてたんだ」

「はっ、桃太郎気取りか――やってみろよ、英雄君」

 

 英雄。かつては忌避し、かつては縋った、その重過ぎる称号。

 

 今もこのカラオケビルや大型書店に囲まれた大きな五叉路の端の歩道には、身体中に怪我を負いながらも、瞳に希望の色を浮かべて、和人と剣崎の決闘を見守っている民衆がいる。

 

 こんな状況を揶揄して、剣崎は和人を英雄と呼ぶのだろう。

 

 和人は、そんな剣崎の言葉に――不敵な、笑みを浮かべた。

 

「お前に――怪物(おまえら)に勝てるならっ! 英雄にでも、なんにでもなってやるさっ!」

 

 和人は二刀に更なる力を込め――スーツの筋肉を膨れ上がらせた。

 

「っ!」

 

 剣崎は、己の体重を上から乗せていたにも関わらず、大きく吹き飛ばされたことに驚愕の表情を浮かべる。

 

(――行くぞッッ!!)

 

 和人は体勢を崩している剣崎に向かって怒涛の勢いで突撃する。

 

「うぉぉぉおおおおおおおおおおお!!!!」

 

 右の宝剣を振りかぶり――振り下ろす。

 それを剣崎はただ防ぐだけではなく、崩れた体勢で、腕の力だけで流すように弾く。

 

 だが、和人はそのまま身体を回転させ、左のガンツソードを横薙ぎに振るう。

 それを剣崎は、崩れた体勢を突如背筋の力で固定させ、仰け反るような体勢で躱してみせた。

 

(――っ! なら――)

 

 和人はそのまま動きを止めず、右の宝剣で掬い上げるように斬りかかる――が。

 

 剣崎は、その黄金色の瞳で和人を見据え――和人の剣筋に目を向けることなく、左手に新たな日本刀を作り出し、それを防いだ。

 

「――なッ!」

「お前だけが剣を二本持てるってわけじゃねぇんだよ!」

 

 和人は思わず距離を取るが、剣崎はそのまま左の剣を投げ捨てるように和人に投擲し、和人はそれを一刀に斬り伏せるように弾く。

 

「……まぁ、俺は二刀流なんて習得してねぇから、二本もいらねぇけどな。使い辛くって仕方ねぇぜ」

「……」

 

 和人は剣を向けながら、今の斬り合い――否、剣崎が擬態を解除してから今までの斬り合いを頭の中で振り返っていた。

 

(……おかしい。いくら何でも対処が的確過ぎる)

 

 自分が言うのもなんだが、左手に剣を作り出して防ぐなど、咄嗟の思いつきで出来るものなのか――と和人は考える。 今の言葉が本当だとすると、剣崎は二刀流を使う剣士ではない(事実、早々に二本目の剣を、特に有効に活用するわけでもなく、捨てるかのように乱雑に投げつけてきた)にも関わらず、咄嗟に二本目の剣で防ごうなどという発想が出てくるものなのか。

 

 それだけではない。奴のカウンターは、あまりにも綺麗すぎる程に、こちらの隙を的確に突いてくる。擬態を解除する前も奴のその技術は卓越していたが、それでも変身後のそれは異常だ。手数が多い二刀流の乱撃の隙間を、まるで何かにナビゲーションされているかのように縫うように潜り抜けてくる。既に和人は何発か剣崎の斬撃を食らっている。ガンツスーツを着ていなければとうに殺されているだろう。

 

(……昨夜のブラキオサウルスのような派手さはないが、負けず劣らずこの男も厄介だ。目にも止まらない速さなら反応出来ればなんとかなるけど……意識の外から繰り出される攻撃は、反応出来ないからどうしようもない)

 

 喉元や首などの致命的な急所ならそれでもなんとかギリギリで察知できるが、脇腹や足など脳から遠い場所を狙われたらどうしようもない。

 

 剣崎のカウンターの恐ろしさは嫌という程に理解出来ていて、斬りかかっている時も最大限に警戒はしているが、それでも集中力は弛まずに常に最高の状態で持続できるわけではない――剣崎は、その隙を、その波間を、恐ろしい程に的確に突いてくる。

 

(……全力(チート)。奴はそう言っていた。それは化け物としての身体能力を駆使するという意味だと思っていたけれど……まさか、そういうことなのか――)

 

 和人は探りを入れる意味で、剣崎に笑みを浮かべながらこう言った。

 

「……それにしても、随分と目がいいんだな」

 

 これは賭けだった。

 目について触れたのは、奴の目が分かりやすく黄金色に輝いていたから。

 

 これまで倒した化け物達の姿形も――異形も千差万別だったけれど、瞳が黄金色になっているのは、剣崎だけだった。

 

 確信があったわけではない。ただ、嫌な予感がしていた。和人が磨き上げていた、反応速度と並んで和人の命をこれまで繋ぎ続けきた、もう一つの要素――第六感が、危機を察する剣士の直感が、そう告げていた。

 

 そして剣崎は「気付いたか。流石だな」と言い、親指で自身の目を指しながら言う。

 

「俺の異能は『察知』。ちょっとばっかし勘がいいだけの、使えない能力だ――俺は気に入ってるけどな」

 




妖艶なる堕天使は舌なめずりをして“己”を見下ろし、鍍金の勇者は黄金の眼の剣士と仕合う。


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――剣士だよ。……お前と同じ、な。

 Side和人――とある駅の近くの大通り

 

 

 剣崎の言葉は謙遜でも嫌味でもなく、純然たる事実だった。

 火口や岩倉のような当たりの能力、大自然の如き異能の力――通称『災害者』のように、選ばれた才能の持ち主では、剣崎は決してない。

 

 それどころか剣崎の『察知』は、化野の『変身』のように、身体能力強化系の中でも『希少(レア)』というわけでもない、有り触れた――それどころか、外れの中でもかなり“使えない”能力に位置する外れである。

 

 本来ならば、黒金組の四天王に選ばれるどころか、部隊長になることすら難しい。一兵卒の最前線に送り込まれる、捨て駒扱いが相応しい才能――無才である。事実、剣崎は一兵卒から結果を積み上げ、のし上がり、黒金直々にスカウトされるまでに至った現場上がりである。剣崎は思う存分剣が振るえるので思い悩むどころか楽しそうですらあったが。

 

 異能の話に戻ると、剣崎の『察知』は、相対する目の前の敵の、数瞬先の動きを映像として予測できる、という能力である。

 敵の動きがコマ送りのようにイメージすることが出来て、相手がそのイメージ通りの動きをそのコマに段々と追いつくかのように動くように見える――敵の動きの先を“視る”ことが出来るのだ。

 

 これは未来予知というよりは、やはり察知というのに近い。

 何故なら、これは敵の動きを見て、先の動きを予測するという、ある程度の戦士ならば誰もが無意識に行っている行為が、より高度に出来るというだけのものなのだから。

 

 この異能は、分類上は身体能力の中でも、動体視力と観察力、そして脳の情報処理速度の強化に当たる。敵の動きを観察して、それを通常時よりも瞬間的に遥かに高速かつ高度に情報処理し、まるで未来視の如く、敵の数瞬先の動きを察知するというものだ。

 

 だが、この異能はまず相手の動きの観察が必要となる為、戦闘中の相手に対してにしか使用できず、それも数瞬先の動きを察知するのが限度。しかも、その能力の特性上、連続使用での長時間の未来視は不可能であり、一瞬の攻防でしか効果を発揮しない。

 

 恐ろしく使い勝手が悪い、まさしく外れの能力。発現したものは漏れなく己の才能のなさを呪い、悲嘆に暮れるであろう異能。

 

 しかし、一瞬の命のやり取りを生業とする剣士である剣崎にとっては、これ以上ない相応しい異能だった。気に入っているという言葉も、決して強がりではない本心である。

 

 何故なら、剣崎はこうして、誰よりも外れの能力を発現しておきながら、火口や岩倉といった『災害者』、化野のような『希少種』と並んで、黒金組四天王の一角に名を連ねているのだから。

 

 ゲームのようにHPなどない現実世界において、殺傷を目的とする武器を持って殺し合う剣士の決闘は、基本的に一瞬――一撃で決まる。

 自らが持つ剣の刃を、相手の身体に先に斬りつけた者が勝つ――斬り裂いた剣士が勝つ、一瞬の攻防。

 

 その世界において、数瞬先の未来を察知できるということは、まさしくチートの言葉に相応しい反則的な強さを有することとなる。

 

 強靭な腕力よりも、目にも留まらぬ脚力よりも、巨躯なる身体よりも、遥かに優れた才能となるのだ。

 

 事実、和人は剣崎の言葉を聞いて、その恐ろしさを余すところなく理解した。

 

(……確かに、これが生身の剣士の決闘ならば、俺はもう何度死んだか分からない。……いや、既に何回か俺は斬られている。このスーツもいつまで持つのか――)

 

 和人の最大の武器である反応速度、そして第六感。そんなあの鋼鉄の城で得た財産を――積み上げた努力を、一笑に伏せるが如き残酷な才能。

 

 努力を、覆す――剣士としての才能。

 

 いつだって、積み上げた努力を覆すのは、理不尽なまでの圧倒的な才能だ。

 

(……俺は、努力を積み重ねるこの天才に……勝てるのか?)

 

 だが剣崎は、そんな和人の絶望など意に介さず、その切っ先を闘志と共に突きつける。

 

「さぁ、決闘の続きと行こうぜ」

 

 その顔は、まさしくこの一瞬の命のやり取りを、剣士の決闘を、心の底から楽しんでいる表情だった。

 

 剣に取り憑かれ、剣に全てを捧げた――紛うことなき剣士の表情。

 

「安心しろ――ちゃんと殺してやるから」

 

――俺の剣でなッ!!

 

 剣崎は和人に斬りかかる。

 和人はそれを二刀で受けた。

 

 そして、再び鍔迫り合いに持ち込まれる。

 

 片や、オニのような愉悦の笑顔で。

 片や、人間のように苦々しい表情で。

 

(……どうするッ!? 技量で劣り、才能で劣り、剣への執着ですら劣る。……そんな怪物に、そんな剣士に、鍍金の勇者は、どう立ち向かえばいいっ!?)

 

 自分には、何が足りない?

 

 努力か? 研鑽か? 剣に費やした時間か?

 全てだ。剣士として、桐ケ谷和人は、この剣崎という男に対し、その全てが足りていない。

 

 ならば、どうする?

 諦めるのか? 屈服するのか? その膝を折り、頭を垂れて、助けてくれと懇願するのか?

 

 この――二刀から、手を離すのか?

 

(――否だ。……断じて否だッッ!)

 

 ガキンッ! と両者の距離が離れ、和人も、そして剣崎も、同時に前へ――目の前の剣士へ、襲い掛かる。

 

 現実は、ゲームのように残酷だ。

 レベルやステータスといった数字は、目に見えないだけで、この世界にも明確に存在する。

 

 その数字が、たかが数字が増えるだけで、それは明確な格差となる。

 

 剣崎という男は、和人よりも確実に高いステージにいる。それは、この殺し合いにおいて、勝敗を決定づけるに決定的要因に容易になり得る現実だろう。

 

 心が悲鳴を上げて、折れかける。

 こうして剣を振るいながら足掻き続けるよりも、頭を下げて命乞いをする方が生存確率は高いのではないかと、冷静に、けれどこれ以上ない程に後ろ向きな計算をしている自分もいる。

 

 だけど、だけど――だけど。

 

(負けたくないっ! 負けたくないっ!! この男に――なんとしても……ッ! 目の前の、この剣士(おとこ)には負けたくないっ!)

 

 誰よりも強い剣士で在りたい。

 

 その欲求は、その渇望は、まだ未熟者の半人前の剣士である和人の心の炉の中でも、轟々と熱く燃え盛っていた。

 

 あの仮想世界で、危険を承知で、死を覚悟しながらも、攻略の最前線に立ち、剣を振るい続けたのは、数字を積み重ね続けたのは、様々な理由はあったけれど、やはり根幹には、この欲求があったのだと思う。

 

 好きなことで負けたくない――大好きな剣において、誰よりも強い者で在りたい。

 

 だから、だから――だから。

 

「うぉぉぉぉおおおおおおおおおおお!!!!」

 

 桐ケ谷和人は、剣を振るう。

 

 息が上がり酸素不足で視界に火花を幻視しながらも、和人は剣崎に向かって二刀を振るい続けた。

 

 その高みへ、自分よりも上のステージに居る者へ、懸命に手を伸ばすように。

 

「は、ははは、はははははははは!!! いいぞ!! そうだ!! 来い!! お前の剣を!! この俺に届かせて見せろ!!」

 

 剣崎の剣閃の速度が上がる。和人も、それに引っ張られるように回転を上げた。

 

 時折、ゾッとするようなカウンターを仕掛けられながらも、敵の剣と己の身体の間に必死に剣を挟み込む、その間一髪のやり取りが続く。

 

(奴の察知は、決して未来視じゃない! 限りなくそれに近くとも、観察と予測から導き出した結果の極致に過ぎないんだっ!)

 

 そうでなければ、とっくにこのスーツは壊され、首と胴体は離れている。

 

 つまり――

 

(奴は、俺という剣士――桐ケ谷和人という剣士の動きを予測しているに過ぎない!)

 

 ならば――と思う。和人の頭の中に、一つの可能性――光明が見えた。

 

 だが――とも思う。

 

 果たして通用するのかという不安と、その可能性に縋っていいのかという不安。

 

 それは、果たして桐ケ谷和人の剣術といえるのか?

 桐ケ谷和人の力のみで、怪物を打倒すると決めた筈ではないのか?

 

 桐ケ谷和人は、また、再び、どうしようもなく――決意を、誓いを、貫き通すことが出来ないのか?

 

 また、諦めるのか?

 

(――――ッ)

 

 これは、どうしようもなく愚かな拘りだろう。

 可能性が生まれたなら、光明が見えたら、己のプライドなどかなぐり捨てて、それに縋りつくべきなのだ。

 

 あの男なら――比企谷八幡ならば、間違いなくそうするだろう。それによりどのような誹りを受けようも、恥ずかしげもなく堂々と『誇り? プライド? なんだそれは。命を守ることよりもカッコいいのか?』と言ってのけるだろう。

 

 そして、こうも言ってのけるだろう。和人は、まだ出会って一日しか経っていない、あの目が腐りきった男を幻視し、こう脳裏で誹りを受けた。

 

『こんな所で負けるような奴が――お前みたいな鍍金(にせもの)の勇者が、自分の剣術なんて大層なもんを持っているわけねぇだろ。自惚れるな。目の前の強者だって、師匠がいるんだろう。……お前は一人で強くなったのか? 始めっから何をするでもなく強かったのか? ――』

 

――お前の剣術とやらを、お前に授けたのは、一体誰だ?

 

 和人は目を見開く。

 

 桐ケ谷和人にとっての――剣の原点。剣士としての、原点。

 

 それは、間違いなく――SAO――ソードアート・オンライン。

 

 あの、鋼鉄の城での二年間だ。

 

 自分にとっての剣術の師匠というものがいるとするのなら、それは、あの浮遊城に他ならない。

 

(……そうだ。俺は、何を自惚れていたんだ。俺は――俺の技は、何一つとして、自分で編み出したものなどではないというのに。その全てが、あの浮遊城で身に付け、磨いたものだっていうのに)

 

 心は、決まった。

 

 和人の心に、あの真紅の聖騎士の背中が浮かぶ。

 

 もう、この世界にシステムアシストはない。あの空間は、あの世界は、和人のことを支えてはくれない。

 

 いい加減、独り立ちの時だ。

 

 いつまでも師匠に頼りきりでは、あの世界で剣士にしてもらった弟子として、あまりにも情けなさすぎる。

 

 和人は二刀を交差させ、剣崎の振り下ろしを受け止めた。

 

「っ!?」

 

 この動きは《察知》出来ていなかったのか、驚愕の表情を浮かべる剣崎。

 

(だが、今更、《察知》を使ったところでもう遅いっ! この戦いでの桐ケ谷和人しか知らないお前では、この技を予測することなど出来るわけがないっ!)

 

 この技は、あの世界において、何度も手取り足取り支援(アシスト)してもらって、身体に動きを染み込ませた技だ。

 

 あの浮遊城が――師匠が自分に授けてくれた、数多くの奥義の一つ。

 

 和人が下らない意地で、この戦いで使うのを避けてきた――ソードスキル。

 

「……スターバースト――」

 

 自分ではない――和人が今でも思い描く最強が作り上げた、魔王の技で。

 

 今、再び、魔王に縋る偽物の勇者として、その汚名を背負う覚悟を持って、和人は剣崎の剣を押し返す。

 

(俺の全てを、この剣に捧げる! 俺の命をくれてやっても構わない! それでも――アスナだけは、もう絶対に死なせないっ!)

 

 魔王の力に頼ることに罰が伴うというのなら、己の全てを捧げよう。

 そして魔王の力すら、己の剣に取り込んで、己の剣術としてみせる。

 

 あの男が作り上げたソードスキルの全てを習得し、あの騎士の全てを超えてみせる。

 

(あの男よりも――ヒースクリフをも超える、最強の剣士になってみせるっ!)

 

 そして和人は、剣士としての独り立ちの第一歩として、その二刀流の上位剣技に、あの世界の支援(アシスト)なしで挑む。

 

 何処からか、あの聖騎士の優しい声が聞こえた気がした。

 

「――ストリームッ!!」

 

 和人の二振りの黒剣は、文字通りの星屑の流れを描くことはなかったが、まるで黒い流星のような十六もの剣閃を、剣崎に向かって浴びせかけた。

 

(な、なんだこれは――察知が働かない!? この俺が、敵の剣筋を見誤るなんてことは――)

 

 その怒涛の、数を重ねる毎に鋭さと重さを増していく連撃に、剣崎は追い詰められていく。

 バシュ! バシュ! と腕や腹、頬に刀傷が刻まれていく。

 

 そして、十五撃目――右の宝剣の上段突きが、剣崎の両腕ごと剣を弾き飛ばした。

 

(――はっ。これが、お前の本当の剣術か。いい……太刀筋だ)

 

 剣崎は、ふと笑みを浮かべ、瞳の黄金色を元の黒に戻していく。

 

 ドスッ!! と、重々しい音と共に、《スターバースト・ストリーム》の十六撃目――左のガンツソードの一突きが、剣崎の胴体を深々と貫いた。

 

 和人はぶはっ、と大きく息を吐き出す。かつての青い悪魔との戦いの時のように、意識が暗転しかけ倒れ込みそうになるが、自分に向かってトスっと剣崎が倒れ込んできたことで、必死に膝を折るのを堪える。

 

 そうだ。かつてのように、敵はポリゴン片になって消えるモンスターではない。

 

 ずっしりと、重さを感じる剣崎の身体を、和人は歯を食い縛って支えた。

 

 自分以上に荒い息だ。ごふっ、と吐いた血をこの身に浴びせかけられる。その血も、身体と同様に、まだ温かい。

 

 生きている。だが――もう間もなく、死ぬ。

 

 和人は、左手のガンツソードを、剣崎の胴体を貫いている剣を握る。

 

 既に剣崎は、角を失くし、瞳の色も元通り――人間のような姿に戻っている。

 

 

――この……人殺し野郎が

 

 

 あの世界で命を奪ったクラディールの声が頭の中に響いた。

 

 そうだ。俺が殺すんだ――俺が、殺したんだ。

 

 この人間のような男を、剣士だった怪物を――自分のこの剣で、殺したんだ。

 

「……すっかり、騙されたぜ。てっきり、我流剣術の使い手だと……思い込んでいた。……お前も、誰かの師事を……受けていたんだな。剣筋で……見抜くことの出来なかった……俺の……未熟だ」

 

 和人は《スターバースト・ストリーム》を一度見ただけで、あれが和人の編み出した技ではないことを見抜いたこの男に――この剣士に感服する。

 

 それと同時に、安堵もした。

 例えソードスキルを使わなかったとしても、和人の剣術は、あの浮遊城で磨き上げた剣術は、全てがソードスキルありきで研鑽した剣術である。その為、それまでの我流剣術からでも、隠していたソードスキルすらも見抜かれているのではないかと。そうでなくても、十六連撃の間に対処されてしまうのではないかと、そういった危惧も感じていた――結果として杞憂だったが、それでも、この男は見抜けなかったことを、未熟と言った。

 

 つまり、自分ならば見抜けた可能性もあったと、もっと高みに上れた筈だと、そうこの剣士は言っている。

 

 そんな剣士の可能性を、和人は自らの剣で断ち切った――断ち、斬ったのだ。

 

「……全く、やってくれるぜ……お前、人間だよな?」

「いや、違う」

 

 和人はグッと、剣崎の頭を自身の肩に押し付ける。

 そして、剣崎の言葉に、こう答えた。

 

 

「――剣士だよ。……お前と同じ、な」

 

 

 和人の言葉に、剣崎は息を呑む。

 

 そして、力無く、「へへ……嬉しいこと、言ってくれんじゃねぇか」と笑う。

 

「……最後に……冥土の土産として……一つ、聞かせてくれ」

「……ああ」

「お前の、剣術……なんて……流派なんだ? ……色んな剣士と……やり合ってきたが……あんな剣筋は、初めて見たぜ」

 

 和人は一瞬その言葉に硬直したが、自分でも驚く程に、すんなりとその問いに答えていた。

 

 

「《アインクラッド流》――それが、俺の剣術の名前だ」

 

 

 剣崎は、その言葉を聞いて、満足気に、眠るように目を閉じる。

 

 

「…………次は、負けねぇ」

 

――地獄で、待ってるぜ

 

 

 そして剣崎は、ガクリと、力尽きるように死亡した。

 

 力が抜けたことにより、剣崎の巨体の体重が、余すことなく、立っているのがやっとである和人の身体に圧し掛かる。

 

 だが、和人はその剣崎の重みを、しばらくの間、そのまましっかりと受け止めた。

 

 自分が奪った命の重さを――剣士の偉大さを、その身体に覚え込ませるように。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side八幡――とある大きな五叉路の交差点

 

 

「――ほう。お仲間か、ハンター」

「ああ。まさか、二対一が卑怯、なんて言わないよな」

「好きにしろ。ボスキャラは、パーティ総出を相手にすることになると相場は決まっている」

 

 好きなだけ袋叩きにするがいいさ。

 そう言いながら黒金は、振り下ろそうとしていた右手を、掌を上にするようにして掲げ――

 

「もっとも――」

 

 バチチッィ!!! と、雷電を、見せびらかすようにして――威嚇するようにして、掌に生み出し、弄んだ。

 

「――何十人、何百人、何千人、何万人、何億人が束になって襲い掛かってきた所で……俺は勝つがな」

 

 陽乃さんは、俺の両手からそっと手を放し、俺もXガンを下ろす。

 そして、俺も陽乃さんも黒金を真っ直ぐに見据えながら、小声で言葉を交わし合う。

 

「……やっぱり雷を使うんだね」

「やっぱり? もしかして、他の似たような能力の敵と戦ったんですか?」

「ん~ん。わたしがここまで戦ったのは、みんなそこまで強くない雑魚キャラだったよ。……そうじゃなくて、何度も不自然に起こる落雷を目安に、ここまで来たから。たぶん、八幡は一番厄介な敵と戦っているんだろうなって」

「……嫌な発見方法ですね」

「あら? 愛する八幡のことは離れてても全部お見通し! とか言って欲しかった?」

「まさか。寒気がします」

「だよね。知ってた」

 

 本物でも“()だ”ないのに、そんな俺にとって都合のいいことを言われたら確実に裏を読む。陽乃さんみたいな美人から言われたら尚更だ。これは陽乃さんどうこうではなく、俺という人間の面倒くさい習性みたいなもんだから、もうどうしようもない。

 

 だが、陽乃さんはこんな俺のことを、半年間も会っていなかったのに、あっさりと理解してくれる。……失いたくないな。もう二度と。

 

 だから、ここで、俺達は黒金に勝つ。コイツを殺す。

 

 ……まさか、俺がこんなことを思う日が来るなんてな。

 

 孤独(ひとり)なら、どうしようもないくらい勝機が無くても――二人なら。

 

 

 この人と、雪ノ下陽乃と一緒なら――

 

 

 そんなことを思っていると――ふと、黒金が空を仰いでいた。

 

 真っ暗な、真っ黒な、月すら出てない、曇天の空を。

 

「ふは」

 

 黒金は笑う。怪物のように、嗤う。

 

 そして俺達に、吸血鬼の牙を見せつけながら、こう言った。

 

「それに、こっちにも――援軍が駆けつけてくれたらしい。持つべきものは仲間だな、ハンター」

 

 ……なんだ? コイツは何を言って――

 

 

 

「グルルルルルルルルルルルルルルルルルァァァァァァァァァァァ!!!!!」

 

 

 

 佳境へと、クライマックスへと突入しつつあった、池袋の地獄の戦場に。

 

 その時、新たな乱入者が――怪物達への援軍が参上した。戦争に参戦すべく、昨夜と同様に唐突に侵入した。

 

 それは黒い服の集団ではなく――遥か、上空。

 

 

 そこに、腹部に昆虫の足のように――大量に人間の腕を生やした、不気味な翼竜のような、化け物がいた。

 

 

「………………何だ、あれは?」

 

 その恐ろしい怪物は、悍ましき化け物は、旋回するように池袋上空を飛び回っていて――

 

 

「グルルルルルルルルルルルルルルルルルァァァァァァァァァァァァ!!!!!」

 

 

 再び、己の遅まきながらの参戦を、俺達に知らしめるように、正真正銘の怪物の嘶き声を、池袋中に響き渡たらせた。

 




鮮烈の剣鬼、鍍金の勇者が剣に穿たれ――池袋にて討ち死にす。


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………ありがとう、ございました………俺を……見つけてくれて………俺を……助けてくれて。

 Side??? ――とある60階建てビルの通り

 

 

 笹塚と烏間は、異なる場所で異なる人物から同様の報告を受けていた。

 

「……応援が、送れない? それは、一体――」

 

「――どういうことですかっ!! 本部長!?」

 

 笹塚は、60階通りの高架下に近い物陰から、由香が聞き耳を立てる横で。

 

 烏間は、同じく60階通りの某全国チェーンアパレル店舗の一階の奥で、平が後ろではわわと言っている傍で(バンダナ――徹行を探しに行こうとした時に、携帯が鳴り、連絡が届いた)。

 

 両者のその言葉に、それぞれの電話の相手は、やはり同内容の言葉を届けた。

 

『……すまない。応援部隊を配備している内に、政府から連絡が入ったんだ』

 

『東京湾から上陸を果たした、未確認巨大生物の討伐に迎え、とね』

 

 

 

 

 

 笛吹直大は、笹塚へと連絡をしている傍ら、その光景を忌々しく見据えていた。

 

 彼の目の先では、警視庁の特殊部隊と自衛隊が、共同である化け物と対決している。

 

 全長20mは下らない、魚のような頭と、人間のような身体の――紛うことなき、異形の怪物。

 

 その光景は、まるで昭和の怪獣映画のようで、笛吹はこの距離感で、自らの肉眼で捉えていても、未だ現実だとは受け止めきれていなかった。

 

「早く一般人を避難させるんだっ!! 絶対に市街地へは侵入させるな!!」

「う、撃てぇ! 撃ち殺せぇ!!」

「馬鹿野郎!! 早まるな!!」

 

 どこかの部隊が、仁王立ちのその不気味な魚人に向かって、手に持つマシンガンを発砲する。

 

 だが魚人は、魚特有の感情を示さない眼のまま、その鱗で銃弾の全てを受け止めている。

 そして、唐突に四つん這いになり、その気持ち悪い挙動に呆気に取られていた警察隊・自衛隊の者達に向かって、ぱかっと口を開け――大砲のような水流を吐き出した。

 

「ぐぁぁぁぁぁああああああああああああああ!!!」

「ひ、怯むな!! 後陣隊は救出に向かえ!!」

「くそっ! 戦車の使用許可はまだ下りないのか!?」

「銃が効かない!! もっと火力のある武器を寄越せ!!」

 

 笛吹は離れた場所で警察隊の指揮官の一人として呼ばれていたが、その悪夢のような光景に、思わず携帯を握り締める。

 

「……笹塚。そちらにも、正体不明の化け物がいるそうだな」

『……ああ。サイズは人間と同じくらいだが、全身を岩に変えたり、炎を出したり……既に、先発で送られた部隊は全滅してる』

 

 

 

 

 

「――それでもっ! こちらの戦力だけでは、最早対処不可能です! 大軍でなくても構わない! せめて一個小隊――私の部下だった者達だけでも――」

『烏間君。落ち着きたまえ。何も、君達だけで対処しろと言ったわけではない』

 

 烏間は、本部長の淡々とした、だがどこか感情を押し殺しているような声に対し――裏を感じる。

 

 本部長ではない。彼に何かを言った――もっと上が、動いている。

 

(……この期に及んで、一体何を企んでいるんだっ!?)

 

 烏間は携帯を握り締めるが、本部長は更に淡々と続ける。

 

『既に池袋周辺は封鎖してある――そして、更なる情報として、その包囲網を、“中から外へ”突破しようとする怪物は、未だ現れていない』

「……現れていない? それは、一体――」

『烏間君――いるのではないかね? 今、その池袋には、怪物に対する抑止力――対抗策となり得る、“何者か”が?』

 

 烏間はその言葉に、この建物の外で炎と岩石の怪物と戦う、二人の少年戦士の姿を見遣る。

 

「……本部長。あなたは何を知っているのですか? ――いえ、どこまで、知らされているのですか?」

『……とにかく、私達は、池袋の戦況は現在膠着状態にあると判断した。勿論、応援は必ず送る――だがそれは、今、現在、その池袋に向かって進行している魚人型怪物(モンスター)の討伐が完了してからだ』

 

 

 

 

 

「……つまり、そっちが片付くまでは、現存戦力で――こっちで何とかしなくちゃいけないってわけか」

『……すまない』

「……気にするなよ。まぁ、こっちはこっちでなんとかして――」

『一時間だ』

 

 笛吹は、そう力強く言ってのけた。

 

『――いや、三十分。三十分であの魚もどきを片付け、そちらに駆けつけてみせる。……だからお前は、余計なことはせずに、大人しく残された一般人の命を守ることだけを考えろ。くれぐれも余計なことはするなよ!』

「……ああ。善処する」

 

 ぶつっ! と荒々しく、電話はそこで切られた。

 笹塚はその携帯を無表情で眺めていると――

 

「――大丈夫?」

 

 由香が、心配げに笹塚を見上げていた。

 

「……ああ。なんとかする」

 

 笹塚はそんな由香の頭をぽんと撫で――再び、怪物と戦士が殺し合う、大通りの戦場に目を向けた。

 

 

 

 

 

 笛吹は、笹塚との通話を終え、再び戦場を険しい表情で見据える。

 

「――笛吹さん。自衛隊の方から戦車と戦闘機と使用許可が下りたとの報告が。今すぐ指揮車に来てほしいとのことです」

「――了解した」

 

 彼の背後から一人の大柄で無表情の刑事――筑紫候平が、笛吹にそう呼びかけた。

 笛吹はその筑紫の後に続こうとして、最後にもう一度――足元の警察隊や自衛隊を物ともせずに蹴散らしていく巨大な魚人を見て、忌々しげに吐き散らす。

 

「……一体、何が起こっているのだ」

 

 

 

 

 

『――烏間君。故に、君は事態の解決に動かなくても構わない。人命救助を最優先に行動するんだ』

「……事態の解決は……彼等に任せるということ――ですか」

『……とにかく、そういうことだ。それでは、健闘を祈っている――』

 

 本部長は電話を切る間際、烏間にこう言い残した。

 

 

『――あまり、深入りするなよ、烏間。……戻って来れなくなるぞ』

 

 

 今度こそぶつりと、通話は切れた。

 

 平が「ど、どないしたんや」と問いかけてきて、それに答えようとした、その瞬間――

 

 

 

 

 

「グルルルルルルルルルルルルルルルァァァァァァァァァァァ!!!!!」

 

 

 

 

 

――と、突如、60階通りに怪物の嘶き声が響き渡った。

 

 

「な、何? 何なの!?」

 

 由香は驚愕し、思わず笹塚にしがみ付く。

 

 笹塚は、そんな由香の背中に反射的に手を回して、声の方向――上空を見上げる。

 

「…………な――」

 

 

 

 

 

 その嘶き声は、殺し合いを演じる渚と火口、東条と岩倉の動きを、思わず止めてしまう程の迫力だった。

 

「――え!? な、何、あれ……」

「ん? ……なんだ、ありゃ?」

 

 渚は驚愕し、東条は頭に疑問符を浮かべていたが、岩倉と火口は、それを見ても全くの無表情だった。

 

 ただ、火口は、ゆっくりと静かに――

 

「――来たか」

 

 と、呟いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side??? ――とある池袋上空の怪物の背中

 

 

 そして、上空。

 昆虫の足のように――ダンゴムシの足の如く、人間の腕を腹から生やしている不気味な翼竜の背に、氷川は立っていた。

 

 三人の黒金グループのメンバーは、この池袋の街の何処かにとっくに放り捨てられている。正確に言えば、氷川に懇願して氷を溶かしてもらい、着地のことなど考えずに一目散に飛び降りて行った。

 

 一刻も早く黒金の革命の一助に――という思いもあったのだろうが、それ以上に、アクロバット飛行とばかりにグチャグチャの運転を続けるこの翼竜に、これ以上乗っていたくないという思いが大きかったのだろう。

 

 端的に言えば――大志は限界だった。

 

「……まぁ、よく持った方だな」

 

 既に大志は、翼竜と同じ真っ白の外殻に体中を覆われている。その外殻が時折パキ、パキパキと罅割れて、そして更なる外殻が生み出され、罅を修復するするように、更なる強固な外殻を纏い直しながら――翼竜と同化しかけている。

 そんな大志を見て、上下左右無軌道な高速旋回飛行の中、氷川はそう淡々と告げた。

 

 大志の異能は、分類上は化野と同様に『希少種』に当たる。だが、特殊な能力を操るということで言えば『災害者』でもありうる。

 

 異能名は――『操作』。

 特殊な電磁波を発信することで、対象の駆動系に干渉し、意のままに操ることを目的とした、目標として開発された能力。

 

 相手の頭脳に直接命令を下す電気刺激を送り込むので、催眠術や洗脳などとは違い、強制的に己の支配下に置く。また電磁波を発しているので、究極的には機械などの無機物すらも支配することが、理論上は可能。

 

 元々この能力は、吸血鬼としては避けては通れない副作用――『邪鬼化』に対する制御装置として研究されていた。

 

 吸血鬼の持つ異能は、その強過ぎる力によって、制御できなかった者は異能に呑み込まれ、自我を失い、醜悪な正真正銘の怪物と成り果てる。

 それを、その末路を――吸血鬼達は『邪鬼』に堕ちると呼び、本人の支配下すら脱した邪鬼は――自我を失った邪鬼は、例え同族(なかま)だろうと問答無用で襲い掛かる。まさしく吸血鬼達の永遠の悩みの種だった。

 

 これまでは、邪鬼化した者達は地下牢に閉じ込めるか、返り討ちにして殺してきたのだが、それでも長年の間異能の研究をしていた者達の中には、こう考える者がいた。

 

 どうにか、異能で邪鬼達を抑え込むことが出来ないか――と。

 

 それは例え邪鬼に堕ちようと同族であることには変わりないのだから殺すのは忍びないという考えだったのか、それとも黒金のようにいつか表舞台へと進出を考えていてその時の切り札としての戦力とすることを目論んでのことだったのか、それは分からない。

 

 だが結果として、それは燃え滾る野望を抱えていた黒金の目に留まり――長年の研究の末、遂に完成した試作品の能力発現薬を、大志は強制投与させられた。

 

 そして、その試作品は見事に効果を発揮し、大志はその『操作』の異能によって、千葉からこの池袋の地まで、三体の邪鬼を連行することに成功した。

 

 だが――あの毒使いの女吸血鬼ですら、何年も反復使用しても――練習しても、修行しても、終ぞ使いこなすことは出来なかったのが、その“異能”という力である。

 

 無理矢理それを覚醒させられた大志が、身の丈に合わぬ――自分の化け物の身体に合わぬ異能を、研究段階の試作品によって強引に引き出された異能を、身体に馴染む間もなくそんな風に乱暴に使って、乱用して、身体に負担がない筈がなかった。

 

「ぁぁ……ぁぁぁぁ………ぁぁあああああああああああアアアア!!!!」

 

 大志は最早翼竜の背中に突っ伏すようにして唸りながら、その口からだらだらと唾液を垂らしながら、意識を保つのが精一杯になってしまっていた。

 頭が割れるように痛い。まるで、吸血鬼として目覚めた頃のように。今にも気絶してしまいそうだった。

 

 事実、何とか池袋に着いたものの、来て早々に翼竜に持たせていた牛人の邪鬼を落としてしまっていた。

 魚人の邪鬼も、池袋に来いという命令を擦り込みのように命じているだけで、細かい動きなどは操作出来ていない。

 翼竜に対しても、旋回させているというよりは、池袋から出るなという命令を何度も送り込んで制御しているだけで、細かい操作など出来ていない。それ故のこの滅茶苦茶なアクロバット飛行である。

 

 大志は、もう限界だった。

 翼竜に取り込まれそうになっているのも、それが原因である。

 

 翼竜は、大志を自らの体内に取り込もうとしている。

 己を意のままに操ろうなどという不届き者を成敗してやろうとしているのか、ただ単純に大志を栄養源として摂取しようとしているのか、それは分からない。

 

 だが、大志にはもう既に、それに抵抗する力すら、残されていなかった。

 

 氷川はそんな大志に対して、ポツリと無表情で冷たく告げる。

 

「血が足りてねぇな、大志」

 

 大志は、それが聞こえているのかいないのか、ただ荒い息で悶えるだけだった。

 氷川は尚も告げる。氷のように、冷たく。

 

「能力の変化に、身体の変化に、エネルギーが付いて行ってねぇ。……お前、最後に血を飲んだのはいつだ? そういえば、昨日も飲んでなかったよな。……本当は、今日、あのアジトに、血を飲みに来たんじゃねぇのか?」

 

 おかしいとは思っていた。

 いくら大志でも、表の世界の知り合いと狩り場で遭遇して、その知り合いに吸血鬼(じぶんたち)の情報を密告しておいて、その当日にのこのことアジトに足を運ぶなど、正気の沙汰ではない。

 

 裏切り者として罰を受ける危険性も理解して――事実その可能性は現実になってしまったが――それでも尚、あのアジトに行かなくてはならなかった理由があるとすれば。

 

「……はぁ……はぁ……ぁぁ……ぁぁぁぁあああ……アアア」

 

 大志は、何も答えない。ただ無様に無残に苦しむだけだ。

 

 例えそうだったとしても、氷川は何も出来ないし、しない。

 野生の動物と同じだ。自分の(えさ)は、自分で確保する。それが吸血鬼の基本的なルールだ。確かに、氷川は大志に狩りに同行させたりして、何もしていない大志にも血を分けたりはしたが、所詮は気まぐれな行為でしかない。ただの人数合わせだ。氷川はそう言う。そうに決まっていると。

 

 だからこれは、自業自得だ。いつまでも自分の怪物性から――運命から目を背け、抗おうともしなかった、ただ流された、愚か者に相応しい末路だ。

 

 氷川は、ここで自分の腕を差し出したりしない。吸血鬼が吸血鬼の血を飲むという行為には恐ろしい危険性が付き纏うというのもあるが、それ以上に、もうそんな義理はないからだ。

 

 コイツは、殺される為に、此処に来たのだから。池袋まで、飛んで来たのだから。

 

 だから化け物として、取り返しのつかない化け物として死ぬのも――最期に、そんな人間らしい意地を張って死ぬのも、一興というものだろう。

 

 氷川はそう断じて、眼下の景色に、池袋の地獄と化した街並みに目を移す。

 

「……いい感じに、戦場がばらけているじゃねぇか」

 

 幹部達と黒金、そしてハンター達は、それぞれが一対一か二対二で相対し、バラバラの戦場で白熱の殺し合いをしている――が。

 

 そんな中、とあるビルの屋上で、誰とも戦っていない漆黒のスーツを発見した。

 

「……いただけねぇな」

 

 大志の死に様を見に、この池袋までやってきた氷川だったが、いつまでもここに自分がいては、大志の最後の――最期の戦いの邪魔になるだろう。

 

 ならば、それまでいっそ、クライマックスまでちょっとだけ、自分も楽しんでも罰は当たるまい。

 今まで少し興が削がれていたが、それでも夕方の和人との戦いが中途半端に終わり、消化不良だったのも確かだ。

 

 一人くらい、つまみ食いをしてもいいだろう。

 

「…………」

 

 氷川は、そう脳内で結論づけて、足元の氷を溶かしていく。

 

「……ひ、かわ………さ………ん」

 

 それを感じ取ったのか、身体の半分以上が翼竜に取り込まれた、大志が呻く。

 

 氷川は、振り返ることも、言葉を返すこともしなかった。

 

「………ありがとう、ございました………俺を……見つけてくれて………俺を……助けてくれて」

 

 

――飲め

 

 

 あの日、そう言って、千切った人間の腕を大志に差し出してくれた氷川に、確かに大志は()()()()

 

 人間ではないこと、怪物であること、それを冷たく、氷のように冷たく己に突き付けた氷川に、大志は最後に感謝を告げた。

 

「…………」

 

 そして大志は、翼竜の体内に取り込まれていく。

 

 氷川は、振り返ることなく、暴れ狂う翼竜の背から、地上に向かって飛び降りた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Sideパンダ&『死神』――とあるどこかのビルの屋上

 

 

 相も変わらずこのビルの屋上の上に佇んでいた彼等は、この戦争の初めから最後まで文字通りの高みの見物を決め込む気でいたパンダと死神は、自分達に向かって落下してくる一人の金髪の吸血鬼を見て、表情を変えず淡々と呟いた。

 

「……はぁ。これは参りましたね。まさか『邪鬼』だけでは飽き足らず、最高幹部まで援軍とは。……それも篤ならばともかく氷川ですか。これはさすがに予想外ですね」

「それで、お前はどうするのだ?」

「逃げますよ。当たり前でしょう。ここで彼等と敵対するメリットがありませんし、恐らく彼はあなたの着ているスーツに引き寄せられたのでしょうからね」

 

 そう言って『死神』は、闇夜に紛れて逃亡を図った。

 

「それでは、ご武運を。――“組織”の技術の集大成である『機獣』と、若き戦闘の天才である吸血鬼の最高幹部である氷川、どちらが強いのか、安全圏から楽しませていただきます」

 

 背後を振り向かずとも、パンダには『死神』が姿を消したことを理解した。

 

「……まったく、自由な『死神』だ。奴に言われるのは癪だが、確かに氷川は、生かしておくには危険な才能だ」

 

 パンダは溜め息のようなものを吐きながら、ゆっくりと夜空を見上げる。

 

 そして、パンダの纏うガンツスーツが変形し、そこから大きな二本のロボットアームが飛び出してきた。

 

「っ!? ほう、パンダと戦うのは初めてだ。面白いっ!」

 

 落下する氷川は、相手の姿を捉えると、それが武装したパンダだと気づき、一瞬驚愕するもすぐにその表情を笑みに変えた。

 瞳の色を灼眼に変え、掌から日本刀を作り出し、その刀身に氷の冷気を纏わせる。

 

 対してパンダは、背中に二本のロボットアームを背負いながら、ゆっくりと、ビルの外壁に二本脚で立ち上がった。

 そして、こちらに向かって墜落してくる氷川を見据え、ぱかっと口を開き――そこから砲身を出現させる。

 

「――何だ、それは?」

『ビームは男の浪漫だ。感性を磨くがいい、若人』

 

 口から砲身を突き出しているからか、急に機械的な音声をどこからか発したパンダは、その言葉通り、砲身に何かしらのエネルギーを収束し――――カッ!!!! と破壊光線を発射した。

 

「―――――ッッッ!!!!」

 

 氷川は、急速に氷の鎧を纏い――擬態を完全解除する。

 全力の吹雪の一閃で、そのビームを斬り裂くべく、渾身の一撃を繰り出した。

 

 

 

 そして、轟音と共に、両者の激突によって、周辺のビルが球形に抉り取られた。

 

 

 

 次々と役者が揃い始める、加速する戦場――池袋。

 

 その片隅で、今、新たな二つの最強が決戦する。

 




凄惨極まる戦場たる池袋に、更なる災厄を撒き散らす邪なる鬼共が来訪する。


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――例え、世界を滅ぼしてでも、他の人類全てと引き換えにしてでも……死んでも生き返らせますから。

 Side八幡――とある五叉路の大きな交差点

 

 

 黒金は得意げに語った。

 

「どうだ? 俺達の切り札は」

 

 切り札――あの気持ちの悪い翼竜が、黒金達の切り札か。援軍といっても、仲間のピンチに万難を排して駆けつけたというよりは、予定調和の演出だったらしい。

 

 確かに憎い演出だ。文字通りの意味で。憎悪する演出だな。ああ殺したい。

 

 ……さて、この場合はどういうことになるのだろう。

 あれだけ五月蠅く喚く化け物だ。まさか、ミッションの間、ずっと何処かで隠れていたというわけでもないだろうな。言葉通り、今、まさに今到着した援軍なのだろう。

 

 つまりミッション開始時、奴はガンツが指定した範囲には居なかった――標的(ターゲット)に指定されていない、ということになる。

 

「…………」

 

 俺は一応マップを見て確認するが――やはり、あの翼竜は赤点で描かれない。故に、このミッションで倒さなくてはならないノルマではないということだ。

 

 もちろん奴は黒金達が用意した切り札で、つまり敵で、こちらを容赦なく襲ってきて、俺等が躊躇なく殺すべき化け物なのだろうが――

 

「――どうでもいいな。今はあんななんちゃって翼竜よりも、お前を殺す方が先決だ」

 

 そうだ。

 あんな点数にならない敵よりも、今は優先すべきことがある。

 

 黒金を――このミッションのボスを、殺すことだ。

 コイツは明確に殺さなくてはならないノルマに含まれていて、尚且つ、このミッション最強のボスだ。

 

 俺は満身創痍とはいえ、陽乃さんはまだ雑魚としか戦っていないという、ほぼ万全な状態。二対一のこの状況を、逃すことなど有り得ない。

 

 ちらっと陽乃さんを見ると、こちらにコクリと頷いてくれた。

 

 そうだ――そうだ。

 奴が用意した切り札だろうが、クライマックスの演出だろうが、俺等がそれに律儀に付き合ってやる必要なんてない。

 

 対処を間違うな。対応を間違えるな。俺等は正義の為に此処にいるんじゃない。あの怪物に一般人が、他のメンバーが何人やられようが知ったことか。

 

 俺の第一目標は、まず生き残ること。そして、第二にミッションをクリアすること。その他は二の次、三の次だ。

 

「くっくっくっ、そうかいそうかい、残念だな」

 

 だが、黒金はそれに対し、激昂するでも、落胆するでもなく、くつくつと笑みを漏らす。

 

 ……なんだ? こいつ、まだ、何か企んでるのか?

 

 俺が訝しんでいると、黒金は「ところで、話しは変わるんだが――」と俺の方を三日月形に歪めた瞳で見据え、こう問いかけた。

 

「――お前、うちの大志から、随分と色んなことを教えてもらったみたいじゃねぇか?」

 

 ピク、と。Xガンを持つ指が震えかけるが、俺は声色を変えずに答える。

 

「……何のことだ?」

「ほう、動揺を見せないか。流石だな。――だが、裏切りはいけねぇよな。いただけねぇよなぁ。うちの部下達もブチ切れてよぉ。だが、安心しろ。俺は寛大だから、殺しはしてねぇ」

 

 ……殺しは、か。上手い言い方だ。

 

 陽乃さんは、ちらりと俺を見て、小声で問う。

 

「……大志、って?」

「……俺のクラスメイトの弟で、小町のお友達です」

「それって――ううん、そうか。分かった」

 

 陽乃さんなら今の俺の言葉で、おそらく俺が得ているのと同等以上のことを理解するんだろう。

 

 吸血鬼というものがどういうものなのか。それがどれほどの危険性を秘めているのか。

 そして、大志が俺に情報を漏らしたということが、どういうことなのか――そして、何も聞かないでくれた。

 

 ……だが、コイツは何故今、ここで大志の話を持ち出す? 俺の動揺を誘う為か? いや、コイツはこと戦闘において、そんな俺みたいな小細工はしない。

 

 だと、すれば――

 

「――まさ、か……」

 

 俺がその答えに行きつき、絶句する中、黒金はにぃいと、笑みを深めながら、上空を激しく飛び交う翼竜を指さす。

 

 

「その通り――あの邪鬼をこの池袋(せんじょう)に連れてきたのは、他ならぬ大志だ」

 

 

 っっ! やはりか、そういうことか……っ!

 

 つまりこいつは、大志が此処に来ているということで、動揺する俺の“様”を見たかっただけなのだ。

 

 ただ、それだけの為に、あんな怪物を、この戦場に連れてきた。

 

「…………ッッ」

 

 ふざけ――やがって……ッ。

 

「さぁて、どうする、ハンター?」

 

 ……どうする? どうするだと?

 決まってる。何も変わらない。――お前を殺す。只、それだけだ。

 

「このままだと、大志は他のハンターに殺されてしまうかもしれないぞ?」

 

 はっ、それがどうした。

 

 俺はハンターで、アイツは吸血鬼だ。遅かれ早かれ、こうなっていた。

 

 それが俺の――アイツの、運命だ。

 

 此処で死ぬとしたら、それがアイツの――

 

 

 

『……俺は、まだ、“こっち側”でいたいっす。……だから、お兄さん――』

 

 

 

「ふっ、それとな。これは、大志にも言ってなかったんだが――」

 

 黒金は、更にそう、にやにやとした笑みのまま、俺を嘲笑するように言う。

 

「――あの翼竜型の邪鬼は、捕食型なんだ。同族を食うんだよ。いや、取り込むと言った方が正しいか」

「……取り、込む……だと?」

 

 俺は、黒金のその言葉の意味が分からず、呆然と問い返す。

 

 何故か俺の頭の中には、今日、昼間に大志と交わした言葉が、何度も何度もリフレインしていた。

 

 

 

『――俺が、完全にあっち側に行ったら……』

 

 

 

「本来、吸血鬼ってのは“共食い”はご法度なんだ。基本、俺達はどんな生物の血液でも――個人的な好みはあるにせよ――飲み干せるんだが、同族の、吸血鬼の血だけは、身体が拒絶反応を起こし、最悪の場合は死んじまう。だが、あの邪鬼はちょっと変わった特性を持っていてな――体内で生殺しにして飼うんだよ。同族をな。あの腹から飛び出てる腕が、その取り込まれた連中の成れの果てだ」

「――――ッッッ!?」

 

 俺は反射的に、バッと上空のその個体を見上げる。

 

 あの、ダンゴムシの足のように飛び出す――無数の人間の腕。

 

 あれが、全部、元吸血鬼で――元人間だっていうのか?

 

 奴に取り込まれた者達の、末路だって、いうのか?

 

「…………結局、お前は何を言いたいんだ?」

「なぁに、ちょっとした情報漏洩だよ。全く、今日は口が滑っていけねえ、大志のことをとやかく言えねぇな。――おっと、また口が滑るが、大志は千葉からここまで奴等を連行してもらう役割だった。ってことは、当然、奴の背中に乗ってくるよな?」

「――――ッッッッ!!!」

 

 ……落ち着け。落ち着けっ。落ち着けッ! 奴の言葉に耳を貸すな。これは奴の、俺に対する――

 

「さあて、ハンター。大志は今――何処にいると思う?」

 

 

 その瞬間、怪物の嘶き声が響いた。

 

 

「っ!? 八幡っ!!」

「ッッ!!」

 

 陽乃さんは俺に飛びつき、地面に伏せる。

 

 俺達の背後――この大通りを滑空するように、件の翼竜が超低空飛行で通過した。

 

 ただ闇雲に飛び回っているだけで、俺達を襲おうとしたわけではなく、たまたまアクロバット飛行の一環として通りすがっただけなのだろうが――

 

 

――その時、俺は、見た。

 

 

 黒金の言う通り、奴の背中に――翼竜の背中に、大志はいた。俺は()()が、その成れの果てが、何故か大志だと、瞬間的に理解した。

 

 大志は、全身が真っ白の外殻に覆われ、変わり果てていた。

 

 

 そして――肩から下の全てが、翼竜の中に埋まっていた。

 

 

 取り込まれていた。

 

 

「ッッ!! たい――」

 

 その瞳は虚ろで、最早、何も映っていないようだったけれど、何故か、どうしてか、大志はこちらを向いていた。

 

 俺を、見ていたかのようだった。

 

 そして――その瞳は――まるで――

 

 

 

『俺が、完全にあっち側に行ったら……』

 

 

 

――お兄さんが、殺してくれないっすか?

 

 

 

「――――っ!!??」

 

 翼竜は、再び天高く飛び上がっていく。

 

 俺はそれを、ただ見上げることしか出来なかった。

 

 Xガンを握る右手を、何も掴んでいない左手を、ただ、強く、強く握った。

 

「―――――ッッッ…………っっっ!!」

 

 俺は――俺は――

 

 

「八幡。行ってあげて。……そして、あの子を――」

 

 

――殺してあげて。

 

 

 陽乃さんは、漆黒の槍を黒金に向けて、俺の方を全く見ずに、そう言った。

 

 黒金の口元が、更に醜悪に歪んだ気がした。

 

「……………………」

 

 俺は、無様に口を開けたまま、ゆっくりと陽乃さんの方を向いて――

 

「で、でも――」

「例えミッションに関係なくても、アレは邪魔。あれだけの怪物だよ? 何をしてくるか分からないし、早めに殺しておいた方がいい。誰か一人はアレの対処に向かうべきなんだよ。分かるでしょ」

 

 陽乃さんは淡々と、聞き分けのない子供に言い聞かせるように言う。

 

 …………その通りだ。

 確かに、点数にならないのだとしても、俺達が殺すノルマではないのだとしても。

 

 あんな怪物が滅茶苦茶に縦横無尽に暴れ狂う中、そんなコンディションの中、例え二対一だとしても、黒金とまともな戦争が出来る訳がない。まともに戦うことすら……そんな状況で、あの最強を、殺せる筈がない。

 

 二人とも、無残に、残酷に――殺される。

 

「……………………ッ!」

 

 だが――それでも――

 

 俺がうだうだと情けなく葛藤し続ける中、陽乃さんは凛々しく、微塵の迷いも葛藤も見せず、黒金を冷たく、真っ直ぐに見据えて――

 

「――コイツは、わたしが殺すから。徹底的に」

 

 いや、徹底的にって怖いな。なんて言ってる場合じゃない。

 

 俺は陽乃さんのに向かって――陽乃さんはこちらを全く見てくれないが――焦ったように情けなく言い募る。

 

「は、陽乃さん! ……でも………でもッ! それは――」

「分かってる」

 

 陽乃さんはそう短く断じて、続けて言った

 

「こいつはきっと、あの千手観音より強いんだよね。千手観音に負けたわたしが――殺されたわたしが、一人で挑むなんて、無謀。八幡は、そう思ってるんだよね」

「…………………………はい……ッ」

 

 ここで誤魔化す意味はない。

 

 ………そうだ。……………………そうだ。

 

 陽乃さんが死んでから、一人で半年間ミッションに挑み、そして黒金と何度も一対一で戦った俺だから分かる。

 

 ……………無理だ。

 

 

 陽乃さんでは、黒金には勝てない。

 

 

 だから、一対一で戦うことなど許容できない。此処に――この戦場に、陽乃さんを一人で置いていくことなど、出来る筈が――ない。

 

「……………ッ………………ッッ」

 

 俺は誓ったんだ。もう二度と、絶対に死なせないと。

 俺は失いたくないんだ。もう二度と、絶対にこの女性(ひと)を。

 

 だから、俺は、何も出来ない。

 銃を黒金に向けることも、あの翼竜を追いかけることも、何も出来ず、ただ糞餓鬼のように見苦しく――

 

 だが、陽乃さんは小さく笑って「まぁ、死んじゃったわたしが言っても説得力がないんだけど」と言い、冷たく、鋭く、俺に言った。

 

「今のボロボロの八幡じゃ、今のグラグラの八幡じゃ、はっきり言って、足手纏いよ。わたしが一人で戦った方が、マシ」

 

 陽乃さんの厳しい言葉に、俺は思わず表情が歪み、胸に激痛を覚える。

 鼓動が早くなり、嫌な汗が出てくる。

 

 あの時も、俺はこうして拒絶された。

 

 

『今の八幡が一緒に戦っても、私は八幡に気を取られてまともに戦えない』

 

『私を死なせたくないなら、ここでじっとしてて』

 

 

 その言葉と共に、彼女は無様に動けない俺を置いて、たった一人で千手との戦いに臨み――

 

 そして――

 

「――ッッ!! ………俺はッ! 陽乃さ――っ!?」

 

 いつの間にか、こちらを向いていた陽乃さんは、人差し指一つで俺の口を封じると、俺が見たことがない、あの雪ノ下陽乃の、泣きそうな、今にも壊れてしまいそうな顔で、こう言った。

 

「――お願い。わたし、あなたに置いて行かれたくないの。あなたの足手纏いだけには――守られるだけの女には、絶対になりたくないの」

 

 その言葉に、その表情に、俺は――

 

「……………………………っ」

 

――唇を噛み締め、胸の中に荒れ狂う葛藤を抱え込んで、陽乃さんの手を優しく退かしながら、震えた声で、絞り出すように言った。

 

「――絶対に、死なないでください。死んだら、俺は何度でも生き返らせます。あなたが嫌だと言っても、もう死なせてくれと泣いて喚いても、例え俺がどれだけ死にそうな目に遭ったとしても、絶対に、何度でも」

 

 俺は――俺も、きっと、泣きそうな顔をしていた。

 

 無様に、情けなく、子供のように――それでも、陽乃さんを、真っ直ぐに、縋るように、見つめて。

 

「――例え、世界を滅ぼしてでも、他の人類全てと引き換えにしてでも……死んでも生き返らせますから」

 

 ……言葉にしてみて、なんと俺は女々しく、陽乃さんに依存しているのだろうと思った。

 俺は、黒金のことを、何も言えやしない。

 

 きっと、孤独(ひとり)が怖いんだ。だから俺は、他の何を犠牲にしてでも、この人を守りたいと思ってしまう。

 

 そんな彼女を、あんな怪物と二人っきりで残して、背を向けて逃げ出さなくてはならないことに――俺がそうしたいと思っていることに、また俺は、比企谷八幡のことが嫌いになった。俺は、何処まで俺を失望させれば気が済むんだ。

 

 陽乃さんは、そんな俺に苦笑するようにして微笑みながら、そっと抱き締めてくれる。

 

「ありがとう――でも、いらないよ。死ぬ気なんてさらさらないから。もう、二度と、あなたを孤独(ひとり)にしないって言ったでしょ」

 

 泣きじゃくる子供をあやすように、そんなことを言われる。

 とんでもない羞恥を感じるが、客観的に見て、今の俺は駄々っ子と大差ないだろう。

 

 全く、情けない。

 

 陽乃さんは、身体を離し、いつもの小悪魔を通り越して魔王な笑みで、明るく言う。

 

「それに、八幡の方こそ大丈夫なの? そんなボロボロで、あのデッカイ怪物に勝てるの? 八幡こそ、死んだらわたしは世界を滅ぼしちゃうぞ☆」

 

 ははは――やりかねない。この人なら、本当に。

 

 ……はぁ。全く、絶対に死ねないじゃねぇか。嬉しすぎるぜ。

 

 俺は、陽乃さんの腰に手を回し――

 

「!」

「………」

 

 驚く陽乃さんの頭をギュッと抱き締めて、そっと囁く。

 

「ふはは、ラブラブだな。殺したくなるぜ」

「ああ、お前と違ってイケメンリア充なんでな」

「戯言は生まれ変わってその目を治してからほざけ」

 

 うるせえ。なんで化け物にまで目をディスられなきゃいけねぇんだ。

 

 俺は、翼竜が飛んでいった方向――南池袋公園の方角に目を向ける。

 

 そして、最後に振り向き、陽乃さんと目線を交わす。

 陽乃さんはパチッとウインクをして、俺はそれに苦笑で答えた。

 

「あの邪鬼に勝てたら、また此処に戻ってこい、ハンター。最終決戦と行こうぜ」

 

 黒金はそう言って、駆け出そうとした俺に向かって言葉を掛けた。

 

 俺は首だけ振り向くと、奴はこれまでで最高に――最低に腹の立つ嘲笑で、こう言った。

 

 

「お前の大事なこの女の屍をプレゼントしてやるからよ」

 

 

 その言葉に――俺の頭は真っ白に染まった。

 

 足を止め、身体を反転させ、そのまま奴に向かって突撃しようした――その瞬間に。

 

 

 

 空間を斬り裂くような、漆黒の半月を描く剣閃が、黒金を襲った。

 

 

 

 奴はそれを間一髪で仰け反ることで躱すが――ヴォン!!! と、音が数瞬遅れて聞こえる程に、それは鋭い一閃だった。

 

 

「これ以上――わたしの八幡を虐めないでくれる?」

 

 

 陽乃さんは、そう笑顔で言う。

 

 

「殺すわよ」

 

 

 笑顔だからこそ、少し離れたこの場所からも分かる程に――それは恐ろしく冷たかった。

 

 ……俺は、また思い上がっていたようだ。勘違いも甚だしい。

 

 たった半年――陽乃さんよりもガンツミッションを経験した程度で、俺はどれほど強くなった気でいたのだろう。

 

 

 当たり前のことだろうが。

 

 

 雪ノ下陽乃が、比企谷八幡よりも、遥かに強いことなんて。

 

 

 俺が勝てないから、陽乃さんも勝てない――全く持って恥ずかしい。なんて愚か者なんだ、俺は。

 

「――ほう。アイツの他にも、こんなハンターがいたのか。……どうやら、結構楽しめそうだな」

 

 黒金が、バチバチバチと雷電を纏う。

 どうやら陽乃さんを本気で戦うべき相手だと認めたらしい。

 

「悪いけど、楽しむ間もなく殺すよ。――こんなところで、あなたなんかと遊んでいる暇、わたしにはないの。早く八幡とイチャイチャしたいのよ」

 

 そして陽乃さんは、ガンツソードを仕舞い、その漆黒の槍を華麗に振り回して、構える。

 

「…………………」

 

 俺は、その頂上戦争に背を向け、己のやるべきことを果たしに向かう。

 

 一刻も早く、アイツを解放する為に。

 

 

 

『安心しろ――死にたくないって言っても殺してやる』

 

 

 

 川崎大志との、約束を果たす為に。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side和人――とある駅の近くの大通り

 

 

 和人は、ゆっくりと、剣崎の屍を路面に横たわらせる。

 

 道路の上に直接寝かせることには少し抵抗があった和人だが、それでも歩道には一般人がいるので、つい先程まであれだけの剣劇を演じていた怪物の屍を近づけたらパニックになってしまうと思い、そのまま寝かせた。

 

 いつまでも此処にいるわけにはいかない。あの部屋に転送されない以上、まだ敵は残っていて――戦争は、続いているのだ。

 

「……………………」

 

 和人は目を瞑り、眠るように死んでいる剣崎の顔を見る。

 

 既に角は引っ込んでいて、瞼を下しているので瞳の色は分からないが、剣崎は死ぬ前には普通の黒い眼に戻っていた――おそらくは、擬態を解除する前に戻ったというだけで、人間に戻ったわけではないのだろうけれど。

 

 こうしていると、只の人間の死体のようだった。

 

 人間のようだった。

 

「………………行かないと、な」

 

 きっと、他のメンバーも戦っている。

 

 和人はそう心中で呟き、立ち上がる。早く此処を去らないと、さっきから歩道の一般人が声を掛けたそうにこちらを見ている。話しかけられたら厄介だ。どこまで事情を話していいのか、和人には判別がつかない。

 

 そして、とりあえず駅の方に行ってみようかと、五叉路の内、和人から見てカラオケビルの左の道――池袋駅東口へと繋がる道に向かって歩き出そうとした時――

 

 

 

――ドゴォォォオン!!! と、和人の背後に何かが落下した。

 

 

 

「なっ!!?」

 

 和人が驚愕し振り向くと――ビュオオオン!!! と、和人の頭上を何かが通過する。

 

 再び首を激しく動かして見上げると、それは巨大な翼を広げてビルのほんの少し上を滑空する、異形の怪物。

 

(翼竜!? い、いや、違う! なんだ、あの化け物は!!?)

 

 そして、和人が空を飛ぶその化け物に目を奪われ、気を取られていると――

 

「う、うわぁぁぁぁあああああああああああああああああ!!!!」

「ば、ば、ばばばばばばばばばば化け物ぉぉぉぉおおおおお!!!」

 

 先程までしんと静まり返っていた歩道の一般人がそう叫び散らした。

 

 そして、ズシンッ!――と、重々しい、足音。

 

 和人はその足音に硬直し、ゆっくりと、ゆっくりと――振り返る。

 振り返るのならば、こんな風にゆっくりではなく、素早く、今すぐにでも振り返り、その背後の足音の正体を確認すべきだと分かっているのに、身体が思うように動かない。

 

 そして、そんな和人を急かすように、もう一度、ズシンッッ!! と、より、重々しくその音は響いた。

 

 和人が遂に振り返り、確認したその足音の正体は――

 

 

「グォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」

 

 

――およそ4m程の、牛頭の怪物だった。

 

 和人は、そんな怪物を、かつて見たことがある。

 あの鋼鉄の城の、第二層。ファンタジーゲームではお馴染みの、だからこそ、現実世界に居る訳がない、居てはいけない、お伽噺の怪物――

 

「――ミノ、タウロス……」

「グォォォォオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」

 

 そのミノタウロスのような、牛のような頭と、牛のような角と、筋肉組織が剥き出しの人体模型のようなやせ細った強靭な体と、四足歩行を前提としているかのような細長い手足の怪物は、頭を振り乱し、遮二無二に無茶苦茶に暴れながら、何かに苦しむように、何かから解放されたかのように身体を捩りながら――

 

「グゥゥゥゥゥゥォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」

 

――突如、四つん這いに、四足動物のように走り出した。

 

 牛としてはまさに正しい走行法なのだろうが、人間のような見かけの身体が四足歩行――四足走行で、けれど頭部は牛そのものな怪物が走る様は、まさに異様という言葉以外に見つからなかった。

 

 進行方向にいた和人は、反射的に横に飛び退いて躱す。

 

 だが、おそらくはスペインの闘牛のように再びこちらに突っ込んでくるのだろうと二刀を構えたら――

 

「――え? あれ?」

 

 牛人はそのまま、和人には目もくれず、駅の方向に走っていった。

 

(……俺が、見えてなかった? 眼中になかった? ……まるで、何かに苦しんでいたかのような……それで、とにかく我武者羅に暴れているだけなのか?)

 

 いや、だとしても。

 あんな怪物が、問答無用で前後不覚で暴れ尽くしたら、それこそ惨劇しか生まれない。

 

 とにかく追いかけなくては――と、駆け出そうとして。

 

 

 

 バタ、バタバタバタ――と、一般人のギャラリーが次々と倒れ伏せていった。

 

 

 

(――――え?)

 

 次々に驚愕の展開が訪れることに、和人の頭はとっくに真っ白だったが、この現象はあまりに奇異過ぎる。

 

 あの牛人の叫び声で、遂に精神的負荷が限界だったのだろうか。

 いや、確かにあれは気絶するに値する迫力と恐怖だったけれど、だからといってこんな風に全員が全員、同じタイミングで気を失うだろうか。

 

 和人は、とりあえず駆け寄った方がいいかと、一番近くの人間に向かって駆け出そうとして――

 

 

「――心配はいらないよ。寝ているだけだからね」

 

 

 和人は、その声を聞いた瞬間、思わず臨戦態勢をとっていた。

 

 その声は、五叉路の、和人がいる道の先――南方面の道から聞こえてきた。

 

 

 それは、二人の人間のようなシルエット――一組の男女だった。

 

 

 男女と言っても、その両者はかなりの身長差と年齢差がある。

 

 男の方は、着流しの地味な色の着物。腰に真っ白の鞘――恐らくは日本刀を差している。

 身長はおよそ180センチ程度。無造作に一つに纏めて垂らしている墨色の黒髪。顔は端正に整っていて、年齢は和人には十代後半から少なくとも二十代前半のように見えた。息を呑むほどの美男子だった。瞳は、これだけの距離が離れているにも関わらず、和人にもはっきりと見える程、澄んだ蒼色だった。

 

 女の方は、男の肩にちょこんと座っていた、少女よりも幼女と表するのが相応しい外見年齢。

 何よりも目を引くのが、その紅蓮のようで鮮血のような真紅の紅髪。瞳の色は黄金。そして、荘厳な、豪奢な、気品溢れるオーラを放っていた。

 男の肩に座っているのも、まるで妹が兄に甘えるようでもあるが、それでいて姫が従者を従えているようでもあった。人間の物とは思えない程に整った――美しく整い過ぎている容姿が、その夜のように真っ黒の豪奢なドレスが、幼女の、姫のような、女王のようなオーラに拍車をかけているようであった。

 

 そう――女王。そして、騎士。

 

 かたや和風の武士のような恰好の青年と、かたや西洋の姫のような恰好の幼女。

 黒髪と、紅髪。蒼眼と、金眼。

 

 何もかもちぐはぐで、決して同じ世界観ではないのに、まるでそれがあるべき姿のように違和感がなくて、一緒に居るのが当然のようで――まるで。

 

 女王と、その傍に侍る騎士のようだった。

 

 和人は思わず二刀を構えるが――その切っ先を、彼女等に向けられない。

 

 それは、幼女の放つオーラ故か、それとも、青年が秘める得体のしれなさ故か。

 

 だから和人は、動かない身体の代わりに口を動かし、恐る恐る、探るように問い掛ける。

 

「寝ているだけって――じゃあ、彼等を眠らせたのは、お前なのか?」

「そうだけど、お前っていうのは無礼だな。頭を下げろとは言わないけれど、せめて敬意は示してほしいね」

 

 幼女は、青年の肩の上で不敵に微笑みながら、和人に向かって身分を明かした。

 

 

「僕は、リオン――吸血鬼リオン・ルージュ。この子は、家族の狂死郎。吸血鬼の【始祖】と、その【懐刀】だよ。よろしくだね、ハンターくん」

 

 

 




比企谷八幡は哀れな白鬼を追い掛け、雪ノ下陽乃は最強の雷鬼の前に立ち塞がる。


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君は、自分よりも圧倒的な強者に対し、その貧弱な武器で、一体どのように立ち向かい――そして、どのように殺すのでしょう?

 Side渚――とある60階建てビルの通り

 

 

 合流を果たしたことにより、この60階通りの十字路において、二人の戦士と、二体の吸血鬼、二つの戦争が勃発することとなった。

 

 潮田渚と、東条英虎。

 獄炎の悪鬼――火口と、岩石の剛鬼――岩倉。

 

 だが、その四人の中の誰一人として、二対二のタッグマッチに持ち込もうという思惑を抱えている者などいなかった。

 

 結果として合流し、同じ地で決戦となっただけで、全員が全員、コイツだけは自分が殺す、倒すと決めた明確なターゲットがおり、早い話がソイツしか目に入っていなかった。

 

 それは、単独ではそのターゲットに勝てないと直感した、潮田渚も同じだった。

 始めは東条が此処にいると聞いた時は、東条はその場にいた全ての星人を倒していたという話を聞いていたので、あわよくば助けてもらおうという心積りはあったけれど、合流を果たすと彼も自分のターゲットに匹敵するであろう程の怪物と相対していたので、さすがに救援は頼めないと諦めた。

 

 ただ、東条が負けるとは、まったく思っていない。あの人なら、あんな怪物相手だろうと、必ずや勝利してみせるだろう。

 

 一対一ならば。

 

「…………」

 

 シュルと渚は右腰のガンツナイフを取り出し、逆手で構える。

 

 つまり、自分は此処から逃げるわけにはいかない。

 

 なんとか火口の注意を引きつけ、平達を逃がすことは出来たけれど、あんなことは二度も三度も上手くいかない。

 こんな怪物相手に背を向けて、早々生き残れるはずもない――自分はもう、この戦場から逃げられない。

 

 それに今、自分が逃げれば、火口は片手間に東条を襲うかもしれない。

 

 それはダメだ。それだけは阻止しなければ。

 

(だって、僕は――東条さんに、背中を預けてもらったんだから)

 

 あの人の戦いの邪魔はしない。

 

 だから――

 

(この怪物は――僕が殺すんだっ!)

 

 勝てないかもしれない。でも――殺す。

 

 いつもと同じだ。殺せば――勝ちだ。

 

「違うな。ガキの分際で、大人を嘗めんじゃねぇ」

 

 ボォォォォン!!!! と、火口が右と左――両の掌に、巨大な火の玉を作り出す。

 

「――っ!?」

 

 それは、この夜の世界でも不条理に輝く太陽のようで。

 

 人間が手も足も出ない、母なる大自然の猛威のようで。

 

「自然の摂理を教えてやる――ガキは大人に勝てねぇし、人間は化け物にも、炎にも勝てねぇ」

 

 お前じゃ俺には、確実に勝てねぇんだよ。

 

 火口は灼熱を両手に携えながら、そう、冷たく、告げる。

 

 

 

 

 

 そんな渚の戦いを、近くのビルから――神崎が隠れるアミューズメント施設の屋上から、見守るように見下ろす視線があった。

 

「――ふふ。クライマックスですね。渚君」

 

 闇夜に溶け込むその『死神』は、絶対の窮地に追い込まれる渚を見て、それでも笑みを崩さなかった。

 

「君は、自分よりも圧倒的な強者に対し、その貧弱な武器で、一体どのように立ち向かい――そして、どのように殺すのでしょう?」

 

 そして、『死神』が見守る中、遂に――激突が、始まる。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 二つの大きな火の玉が、余りにも小さな少年へと放たれて、轟音の号砲が響き渡るのと同時に、こちらの戦争も動き出す。

 

 自身の背中から渚が駆け出すのを感じ、東条がその口角を優しく上げたところを狙い澄ましたかのように、岩倉が火口の火の玉と遜色ない巨大さの岩の弾丸を放った。

 正確には、足元の地面を砕き、そこから数発の巨大な岩の弾丸を発射したのだ。

 

 それを見て、東条英虎は――獰猛に、笑う。

 

 獣のように笑う。虎のように笑う。

 

 先程の渚へと優しい笑みとは、がらりと色を――毛色を変えて。

 

 戦争を、殺し合いを、戦いを、強者を、強撃を――ケンカを、歓迎するように、笑う。

 

「らあぁ!!!」

 

 拳を振るう。岩を砕く。

 襲い掛かる岩石の砲撃の、その悉くを己の身体一つで突破する。

 

 そして、その弾丸の中を自ら突っ込んできた岩の巨人を見て、やはり笑う。

 

 歯を剥き出しにする笑顔で、猛獣のオーラを放ちながら、東条英虎は拳を握る。

 

 岩の巨人も、やはり笑っていた。

 

 ドゴッッッッッ!!! と、衝撃は、その両者の拳の激突地点を中心に伝播した。

 

 そして、東条と岩倉の戦争は、やはり壮絶な殴り合いで幕を開け――殴り合って、殴り合って、殴り合って――殴り合った末に、幕を閉じることになる。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 自らに迫る二つの巨大な火の玉に対し、渚がしたことは迷わずに逃避だった。

 

 一目散に、左に跳ぶ。

 

 間違っても二つの火の玉の間を潜り抜けて火口に特攻などしない。あの火球がどれほどの威力なのか皆目見当もつかない以上、スーツが全く意味を為さないことも十分にあり得る。未知の攻撃を食らわない――ガンツミッションにおける鉄則を、渚は忠実に守る行動を取った。

 

 だが、その逃げた先には、火口が更なる攻撃を仕掛けている。

 

 地を這うように、炎の(ロード)が渚の回避地点に向かって伸びていた。

 

「――ッ!?」

 

 読まれた――と心臓が跳ね上がった渚だったが、恐らくは右と左、そのどちらにも伸ばしていたのだろう。真ん中を突っ込んで来れば、そのまま迎え撃つだけだと判断して(おそらくはその場合では真っ向から打ち勝つことに微塵も疑いを持っていないのだろう)、回避先に手を打ったのだ。

 

 渚はそのまま炎の壁の前に手を突いて、腕のスーツの筋力を膨れ上がらせる。

 

「――ッ!! いっけぇ!!」

 

 そして、そのまま両腕の力で跳び上ってその火の道を躱す。

 生まれて初めての挙動だったけれど、力任せで無理矢理それっぽく、少なくとも回避することには成功した。

 

「はっ! なら次はこれだ!」

 

 だが、その派手な挙動は火口からもはっきりと見えていて、火口は次に、渚に向かって右手を突き出して、小さな火球弾を発射――連射する。

 

「――っっ!!?」

 

 一つ一つは先程まで火口が好んで使っていた火球弾と比べると格段に小さいが、小さい分速度が段違いだった。火球弾が大砲だとすると、これはまるでマシンガンのような。

 

 渚は着地と同時に、飛び込み前転のように転がり続けることで回避しようとするが――火口が続いて左手を向けて銃口とし、渚を追い続けることで、まるで掃射するように火球弾を撃ち続けていく。

 

(――っ! こ、このままじゃ――)

 

「ははっ! 終わりだァ!!」

 

 そして火口は更に右手を振るい、大砲の火の玉とマシンガンの火球弾の中間――バランスボール程の火の塊を複数個、渚に向かって放った。

 

 それは、まるで標的に引き寄せられるようにカーブし、渚に向かって襲い掛かる。

 

「――ッッ!!」

 

 完全に挟撃された渚は、目を見開き、歯を食い縛って――

 

(――――)

 

 そのまま、炎の海の中に沈んだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――まずは、一匹だ……」

 

 火口は渚が沈んだ燃え盛る火の海を見て、両手を下しながらそう呟いた。

 

 これで一歩、革命への障害を落とした。

 

 火口は、失った片目を押さえ、垂れ流れる血を拭いながら、これまでの道のりを回顧する。

 

 

 

 

 

 火口は、かつて人間だった頃、街の裏側で暗躍する金貸しを営んでいた。

 

 それは人の裏側を見ては利用し、肉体的にも精神的にも追い詰められた人間達の命のギリギリを弄ぶ職業だった。

 望んでそうなったわけでは、もちろんない。こんな職業を夢見て志す人間などいないだろう。

 

 闇金(ここ)に金を借りに来る人間と同じ――他にどうすることも出来ないから、火口はこの事務所の扉を叩いたのだ。

 

 自分でも、どうしてここまで落ちぶれたのかは分からない。幼少期――少年期、自分は他の子どもよりも、優れた能力を持っていたように思う。

 この大きな体躯もそうだ。少なくとも子供時代は、身体が大きいというだけで他の子達から一目置かれるヒーローだった。成長が早い分、勉強の方も苦労した覚えはない。

 

 ただ、そうだ。自分は他の子よりも、喧嘩は多い子供だった。

 

 しかし、誰彼構わず暴力を振るっていたわけではないとは断言する。自分が拳を振るうのは、いつだって他の誰かを貶めている者達に対してだけだった。

 同級生を虐める同級生。友達を脅す上級生。子供達に理不尽を強いる大人。

 

 悪。

 幼い火口が、幼いながらも純真で、真っ直ぐな正義感に基づいた正義を、ただ執行していただけだった。

 

 けれど――中学、高校へと進むにつれ、火口は“不良”と呼ばれるようになった。

 周りの同い年の子供達と比べ、一回りも二回りも大きな体躯。許せない者を見過ぎて険しくなった顔つきと目つき。そして、理不尽を理不尽のままにしておけず、振るい続けたその拳。

 

 いつの間にか、間違っているのは、恐れられていたのは――悪なのは、火口(じぶん)となっていた。

 

 許せなかった。自分は何も間違ってなどいない。

 何度も何度もそんな火口に向かって、暴力は止めろと、優しく真面目に生きろと言ってくる親や教師や警官達に向かって、火口はそう言って暴れ続けた。

 

 いつしか火口の拳は、自分の周り全てに振るわれるようになった。

 

 そして世界は、火口を拒絶した。弾き、拒絶し、仲間外れにした。

 

 火口は孤独となり、腐ったこの世の暗部へと堕ちていった。

 

 

 

 そこは、世界の濁りを凝縮したかのような場所だった。

 

 どいつもこいつも一人の例外なくクズ野郎しかいない――自分も含めて。

 

 そんな場所で営む金貸し業は、当然のように、生と死の境を行ったり来たりする職業だった。

 恨みを買うことはもちろんの事、殺意を抱かれ、命を狙われることなど日常茶飯事だった。何故なら、金貸しとは相手の命を握る職業なのだから。

 

 金は命より重い。そんなふざけた格言が、どんな法律よりも幅を利かす、クズの街だった。

 

 そんな場所で必要となるのは、相手の(かね)を握るということを、その相手(クズ)に承服させるだけの圧倒的な力だった。

 理不尽を強いる為の、圧倒的な暴力(りふじん)――かつて、火口少年が悪だと断じ、決して許せなかったクズ野郎に、火口自身が成り下がっていた。

 

 心が死んでいく毎日だった。だが、それでも生きるために誰かを殺し続けた。

 

 この世界はクソだ――それが、火口が事務所で煙草をふかしながら、ふと呟く口癖になっていた。

 

 

――ああ、そうだな。この世界はクソだ。クソッタレだ。

 

 

 その男は、事務所の扉を蹴り破りながら、入るや否やそう口にしていた。

 

 火口は気だるげに、けれど反射的に銃口をその男に向け――その瞬間、目を見開いた。

 

 男は、自分と同様にサングラスを――目つきを隠すサングラスをしながらも、楽しそうに口元を緩めていた。

 逆さ帽に、Tシャツの上に革ジャン、下は血だらけのジーパンで、いかにもクズだという恰好だった。

 

 自分と同じ――人間のような気がした。

 

 その男は、火口(じぶん)を見て、更にその笑みを深めて『お前が火口って奴か?』と言うと、銃口を向けられたまま、来客用ソファーにふんぞり返っている火口の元へ、悠然と歩みを進める。

 

 

――なぁ、ふざけてると思わねぇか。どう考えても歪み切ってるのに、それでもムカつく澄ました顔で問題なく動いてるこの世界が。

 

――なぁ、殺してぇと思わねぇか。そんな世界で、さも正しく正義ぶってる人間共を。一人残らずぶっ殺してぇと思わねぇか。

 

 

 その男は言う。

 

 今は確かに自分達は世界の底辺で、この腐った世界の濁りきった底辺で、沈んでるのがお似合いの弾かれた嫌われ者だけれど。

 

 

――……なぁ、強くなりてぇと思わねぇか。こんな理不尽を、どんな理不尽でもぶっ飛ばして、どいつもこいつも見返して、今度は俺達が、この世界を否定してやりてぇと思わねぇか。

 

 

 男は、自分に銃を向け続ける火口に向かって手を差し出す。

 ボロボロの手だった。今まで、何人もの人間を殴り続けてきた手だった――自分と同じように、理不尽と戦い続けてきた者の手だった。

 

 火口という男は、確かに悪に堕ちた――いや、元々、悪だったのかもしれない。

 

 どんな大義名分を掲げようとも、選んだ手段は暴力で、しかも判断基準は己の正義感でしかなく、結果として多くの人間を傷つけ、貶め、殺してきたのだから。

 そして、そんな自分の中の正義感すら、大人になった今では曲げてしまって、ただ淡々と、日々を生き抜くために、かつて己が忌み嫌った悪の行為に身を落としていたのだから。

 

 きっと、目の前の男も、負けず劣らずの、下らない人生を送ってきたクズ野郎なのだろう。

 

 ただ一つ、己と異なるのは――こいつはまだ、諦めていないということだった。

 

 自分が思い描く理想の世界を作ることを――否、そんな大それたことではない。

 

 ただ、己が世界に屈することを、良しとしないことを。誰よりも傲慢に我を通すことを。

 気に入らないという理由で、世界を否定することを、この男はまだ、諦めていない。

 

 それは只の現実逃避で、只の荒唐無稽で、只の愚かな、救いようのない足掻きだけれど――悪に堕ちた者に相応しい悪足掻きだけれど。

 

 それでも火口は、銃を落とし、その男の手を取っていた。

 

 だってそれは、ずっと、火口の心に燻っていたものだから。

 消えずに燃えていた、火種そのものだったから。

 

 こんなのは紛れもない逆ギレで、間違っても正義じゃなくて、いい年こいて抜けきれない反抗期で、どうしようもなく愚かな八つ当たりだけれど。

 

 それでも――

 

 

 

――なぁ、俺と一緒に、この世界に革命を起こさねぇか? 一緒に、この下らねぇ世界をぶっ壊そうぜ!

 

 

 

――このふざけた革命宣言に、心震わされた時点で、火口の心は燃えていた。

 

 これは、火口がまだ人間だった頃、吸血鬼の力が目覚めていない、ただのゴロツキだった頃の物語――その序章。

 

 後にこの時に出会った男――黒金と共に、全ての理不尽を覆す力が覚醒し、彼等はこの日に宣言した、革命を起こすに余りある力を手に入れる。

 

 この世の全てを、この世界全てを敵に回す、気に食わない理不尽を覆す圧倒的に理不尽な、その選ばれし異能(ちから)を。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 正しくないことなど、火口は自分で誰よりも理解出来ている。

 

 これは只の幼稚な、復讐ですらない八つ当たりなのだと理解している。

 

(だが、()()()()()()()()()()()()

 

 それでもこの革命は、この戦争は、火口にとっては野望を超えた悲願だった。

 

(――こんな所で、止まるわけにはいかねぇんだよ)

 

 ドゴォォォオン!!! という轟音が、少し離れた場所で響いた。

 

 それは、東条英虎と、同胞の幹部――岩倉の戦争の音。

 

(次は岩倉が遊んでるハンターを()るか。岩倉(アイツ)はごちゃごちゃ言うだろうが、さっさと済ませるのに越したことはない。――その次は、この片目を潰した野郎だ。必ず見つけ出して炭にしてやる)

 

 そして、火口が岩倉達の方に参戦しようとした時――

 

 

――ブウウウウウウウン、という、機械音が聞こえた。

 

 

(――ん?)

 

 そして、火口がそちらを向くと――

 

「――なッ!?」

 

 小さなプロペラの付いた金属塊が、火口に向かって飛んで来ていた。

 

(さっきのあの爆弾の一種か!?)

 

 火口はそのまま少し大きめの火球弾をその金属塊に向かって放つ。

 

 ドガァァン!!! と強大な衝撃と共に、爆弾は火口の少し前で爆発した。

 

(っ!? だが、どういうことだ! あの火の海で奴が生きているはずが――)

 

 その時、その火の玉の右側――火口が走らせた火の壁が、少し揺らめいた。

 

「――ッ!?」

 

 だが、火口にはそれが〝何も見えなかった”。

 

 ただ炎を纏った透明な何かが、こちらに向かって突っ込んで来ている。

 

「な、なんだ――ッ!!?」

 

 そして混乱も冷めぬまま、その虚空から新たな金属塊が現われ――放われ、自身に向かって投擲される。

 

 それは球形の――クラッカー式のBIM。

 衝撃によって爆発するそのBIMを、火口は反射的に腕で叩き落そうとした。

 

「しま――ッ!!?」

 

 そして、爆発。

 

 ガンツスーツを吹き飛ばす威力を持つそのBIMは、火口の右腕を軽々と吹き飛ばした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 時は少し遡る。

 

 左右から火球弾の挟撃を食らった渚は、咄嗟にそのBIMを発動した。

 

(――お願いッ!!)

 

 それはバリア式のBIM。四方を電磁の壁で覆うそのBIMは、何とか渚の身体を守ってくれた――が。

 

(た、たすか――――ってない!? 火が……火が壁の中に入ってくる!?)

 

 バリア式BIMは、衝撃を持つ物理攻撃は防げても、衝撃を持たない炎自体は防げない。

 火球弾の衝撃は防いでも、火の海の火はそのまま渚に襲い掛かってくる。

 

(だ、ダメだ!? このままじゃあ、すぐにスーツが――どうする!?)

 

 渚は火の海の中で考える。

 そして、頭の中を過ったのは、昨日の、あの恐竜達との戦争。

 

 あの最終決戦の戦場に現れた、血と肉片で己の身体を染め上げた、透明の――

 

「――ッ!」

 

 そして、渚は作戦を決行した。

 

 

 

 まず渚が行ったのは、ホーミング式BIMによる威嚇だった。

 

 正確には、その爆風によって火の海を掻き乱すこと。

 

 恐らく透明になっても、八幡が血や肉片を纏っていたように、現実的な影響は無視できない。せっかく透明になっても、火の海にどでかい穴が開いてしまっては、直ぐにバレてしまう。

 

 ホーミング式BIMなら、分かりやすく火口の目の前に現れ、速度もそれほど早くない為、炎で叩き落そうとするだろう。

 

 そして、その爆風に乗じて、渚は火口への突撃を試みた。

 

 既にその身体に炎を纏ってしまっている。これがスーツにどれほどのダメージなのかは分からないが、一刻も早く決着を付けなければならない。

 

 そして、火口の目がこちらを向いた時――クラッカー式を投げつける。

 

 炎を纏ってしまっている以上、冷静になられればこちらの正体がバレる。だからこそ、ホーミング式BIMの混乱が治まらない内に、次なる混乱の材料を――燃料を投下し、投擲する。

 

 そしてこの距離なら、炎で破壊するよりも、反射的に身体が動く。

 

 案の定、火口は右腕でそれを叩き落そうとした。

 

「しま――ッ!!?」

 

 ドゴォォォオン!! と、火口の右腕が吹き飛び、火口は絶叫を上げる。

 

「ぐぁぁぁぁぁあああああああああ!!!」

 

 渚は、持っていたナイフを構えて、火口に向かって突っ込んでいく。

 

(今だ――ッ!)

 

 そのまま右腕を失った火口の右側を交錯するように――そのナイフで脇腹を切り裂いた。

 

「がぁぁぁぁあああああああああああああ!!!!」

 

 再び絶叫を上げる火口。だが、渚は――

 

(――浅いッ!?)

 

 殺せた手応えがなかった。千載一遇のチャンスを――掴めなかった。

 渚はそのまま振り返り、もう一撃与えようと試みるも――

 

「この、ガキがぁッ!!」

 

 火口は既にこちらに向き直り、その“両腕”を振りかぶっていた。

 健在の左腕は炎の鎧を纏い、右腕を失った肩口からも――轟々と炎が禍々しい怪物の腕を作り出している。

 

(――お、鬼っ!?)

 

 その様は、まさしく怒り狂う鬼。

 

 足元からも炎を迸らせ、悪鬼は渚に向かって襲い掛かろうとする。

 

 渚は表情を一瞬悲愴に染め、けれど、そのまま唇を噛み締め、ナイフを構え直す。

 

(――逃げちゃ、ダメだ!!)

 

 そして、そのまま激突し――

 

 

――渚のナイフが、火口の胴体を切り裂いた。

 

 

(――え……?)

 

 今度は脇腹ではなく、胴体の中心に切っ先が入った一閃。

 

 だが、先程のそれよりも、遥かに軽い――情けない手応え。

 

 そして、火口の身体が――ぼわっと炎に変わった。

 

(ッッ!? 炎の、分身!?)

 

 勢い余った渚の身体は、火口が足元に作っていた炎の海に飛び込んでいく。

 

 そして、その火の海の中から、渚の背後から――新たな火口(オニ)が復活を果たした。

 

「終わりだ、ガキ」

 

 両腕を広げ、その長い爪で、渚のスーツの制御部を狙う火口に対し――

 

(――――っっ!)

 

 今度こそ、渚は強く、その目を瞑って――

 

 

 

「――渚ぁ!!」

 

 

 

 その声は、突然、火の海の外から聞こえた。

 

 

――そして、渚を襲いかけていた火口の身体が、巨大な岩塊によって吹き飛ばされる。

 

 

「ごぁぁぁぁあああああああああああああああああああ!!!!」

 

 強制的に火の海から打ち上げられた火口。

 

 渚は一瞬、岩塊が打ち込まれ、穴が開いた火の海のそこから――こちらに向けて、その力強い笑みを浮かべていた東条を見た。

 

(――東条さん!!)

 

 渚は、自身も激しい死闘を繰り広げている中、こちらを助けてくれた東条に表情を歓喜で歪ませ、そして、何も言わずにそのまま火口の追撃に向かう。

 

(――ありがとうございますっ!!)

 

 あの強者への、自分より遥か高みの強さへの、憧れをより一層強くして。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 火口は、まるで陸へ打ち上げられた魚のように、火の海の外で倒れ伏せていた。

 

 片腕を失い、脇腹から血を流して悶え苦しむその化け物に――

 

「………………」

「――うぐっぁ!!」

 

 渚は、無言で、無表情で跨った。

 

「……あなたは、おそらくは繋がった炎の間しか移動できない。だからあの時、逆上しながらも、足元で火の海と自分を繋げることを忘れなかった……違いますか?」

 

 上に乗る渚を、まさしく鬼のような目で睨みつけてくる火口の視線を、殺意を受けても、渚は冷たい顔を崩さない。無表情を崩さない。

 

 ただ静かに、殺気を研ぎ澄まし、見据え続ける。

 

「そして、あなたは只の実体のない炎の塊というわけじゃない。あの炎の分身は、火の中を移動する能力を応用しただけ……だって、実体がないなら烏間さんに片目を撃ち抜かれないし、右腕も失わないはず。つまり、人間としての“部品”も、ちゃんとあるってことですよね」

 

 静かに、冷たく、淡々と言い放つ。

 自身も炎を纏いながら、キュインキュインとスーツが悲鳴を上げる中で。

 

 穏やかな――『死神』の笑顔で、その箇所を、とんと指さす。

 

「例えば――心臓も」

 

 その笑顔に――その殺気に、火口は、思わず炎を沈めた。

 

 殺意が沈下し、沈火した。

 

 十四才の少年の殺気に、歴戦の火口が、敗北を認めかけた。

 

「――っっ!!! ふ、ふざけるな!! ふざけるな!!! 俺の炎は消えない!! こんな所で、俺達の革命が終わってたまるか!! こんな所で、こんなところでぇぇえええええええ!!!!」

 

 火口は、その全身を発火させ、噴火させ、その炎で全てを燃やそうとする。

 目から、口から火を噴き出し、その全身のありとあらゆるものを燃やし、己の殺意を、闘志を、爆発させ、燃やし尽くそうと――

 

「さようなら」

 

 ザクッッ!!! と、渚はガンツナイフを火口の心臓に突き刺した。

 

 両手でしっかりと持って、大きく振りかぶり、全体重をかけて、全力で――ナイフを差し出した。

 

 火口の態度と、最後の行動から、己の行動に確信を持って。

 

 実の所、渚はまだ火口が奥の手を隠しているかもしれないという可能性を精査していた。

 

 だから問答無用で殺さずに、相手に跨るという危険性を冒して、至近距離で火口の反応を――()()を見ながら言葉をぶつけていた。

 

 徹底的に、可能性を殺し尽くす為に。

 

 渚は、火口という吸血鬼を徹底的に殺し尽くした。

 

 その上で、最後は冷静(クール)に。

 

 震えを押し殺し、感情を押し殺し、全ての気持ちを――刃から消して。

 

 落ち着いて――表情も殺して。

 

 何も思わずに、何の思いも込めずに、悪鬼を殺した。

 

「――――ぁぁぁぁぁ」

 

 火口は燃え尽きるように死んでいき、断末魔はその炎の中に消えた。

 

 渚は、ゆっくりと身体の力を抜き、炎が徐々に静まっていくと、そのまますくりと立ち上がった。

 

「…………」

 

 念の為、脳を潰すべくXガンで頭を撃った。

 

 そして悲鳴を上げるスーツに応えて、炎が燃えていない地面で何度も何度も転がり、火を落とす。

 

 バンと火口の頭が吹き飛ぶ中、渚は既にそちらには目も向けず、ただ自身の消火活動に勤しんでいた。

 

 

 

 

 

 そして、その様を見ていた『死神』は――

 

「――素晴らしい。やはり、彼ですかね」

 

 ふふふふふふ、と『死神』は楽しそうに、本当に楽しそうに微笑んでいた。

 

 そして、そのままアミューズメント施設の中へと、その姿を眩ました。

 




獄炎の悪鬼、幼蛇の死神が暗殺に貫かれ――池袋にて燃え尽きる。


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――ダチを守れて、初めて楽しいケンカなんだろうが

 Side由香――とある60階建てビルの通り

 

 

 岩倉が殴る。東条が笑う。

 東条が殴る。岩倉が笑う。

 

 岩倉が殴って、東条が殴って、岩倉が殴り、東条が殴り、岩倉が、東条が、東条が、岩倉が、殴って、殴られて、殴り、殴って、殴る、殴る、殴る殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴――

 

「はははははははははははははははははははははははは――」

「――はははははははははははははははははははははははは」

 

 笑い合い、まるで旧知の友のように友情を確かめ合うが如く殴り続ける、岩の怪物と、金髪の男。

 

「…………………………………」

 

 その理解できない光景に――中一女子の自分では、恐らくは一生かかっても理解の埒外であろうその光景に、湯河由香は、口を何度も開閉させ、所在なさげに手を虚空でウロウロさせ、その場で何度も足踏みしながらも、結局何も言わず、目も逸らさず、その殴り合いをただじっと見ていた。

 

 途中、何度か近くにいる笹塚を見上げた。どうして欲しいのか自分でも分からないが、おそらくはどうにかして欲しかった。あの壮絶な、けれど明らかに常軌を逸しているその戦いを、大人の力でどうにかして欲しかった。

 

 だが笹塚は、その視線に気づいていながら、何もしない。何も出来ない。

 大人だ子供だという話では、既にない。あの二人は――あの戦士と、あの化け物の殴り合いは、最早そんな領域にはない戦争(ケンカ)だ。

 

 誰も手出しは出来ない。

 

 どちらかが倒れるまで――死ぬまで終わらない。そういう馬鹿な、男の戦争(ケンカ)だ。

 

「うらぁっっ!!」

 

 東条の良いパンチが岩倉の胴体に突き刺さり、岩倉は少しよろめき、距離が出来る。

 

 だが、岩倉はにぃと笑みを漏らし――地面を殴る。

 

「ふんッッ!!」

「!?」

 

 その瞬間、突き上げるように東条の足元の地面が局所的に盛り上がった。

 ちょうど東条が立っていた位置を、正方形で切り取るような形で、柱のように地面が高く突き上がる。

 

 だが、東条は動じず、笑みのまま、その土柱を思い切りお返しだとばかりに殴りつけた。

 

 ビシィッ!! と、一撃でその柱に稲妻型に罅が走り、そして砕ける。

 

 そして岩倉は、それを見て――空中で無防備な状態で漂う東条を見て、これまた笑みを漏らしながら、足元の地面を両掌で強く叩く。

 

「ッッ!! 危ない、逃げてぇ!!」

 

 由香の叫声。

 

 だが、その叫び虚しく、空中の東条に――突然、東条(じぶん)を挟み込むように左右から、地面から捲り上げられるように出現した土壁から、逃れる術はなかった。

 

 ドダァン!!! という轟音と共に、東条はその攻撃の直撃を食らう。本を閉じられるような形で、二枚の土壁からの圧殺の餌食になる。

 

「東条さぁんっ!!」

 

 少女の叫びに悦を覚えたかのように、化け物の笑みが醜悪に歪む――が、直ぐに、その笑みが剥がれ、驚愕に変わる。

 

「……びっくりしたぜ」

 

 東条はそんな言葉を漏らしながら、依然としてその笑みを崩してはいなかった。

 

 左右から迫った土壁を、その両手だけで受け止めながら、潰されずにその均衡を保っている。

 

 東条は更にぐぐぐと力を込めて――

 

「うおらあッ!」

 

 と、土壁を腕力で弾くように押し返した。

 

「ッ!! マジかよ!!」

 

 岩倉は驚愕と共に、再び地面を両掌で叩き、渾身の力で東条を押し潰そうとする。

 

 だが東条は、戻ってきたその土壁を――

 

「ふんッ!!」

 

――両手の拳を叩きつけ、力づくで粉砕した。

 

(…………うそ)

 

 由香は、そんな東条の暴挙を、目を見開いて呆然と眺める。

 

 東条は再び落下を開始し、着地地点の岩倉に笑顔を向け、両手を組み合わせて拳を作り、それをハンマーのように振り下ろした。

 岩倉は急いで立ち上がり、それに渾身の拳で対抗する。

 

 ドゴォォォオン!!! という轟音が響く。

 

 その轟音に、直ぐ近くで戦争を行っている火口の目が向けられる中――吹き飛ばされたのは、火口の同胞の岩石の吸血鬼だった。

 

「ガハァッ!!」

 

 そして着地を果たした東条は、不敵な笑みで倒れ伏せる岩倉を見下ろす。

 

「ぎぃ……しゃぁぁあぁぁああぁあ!!!」

 

 岩倉は歯を食い縛り、地面を何度も連発で殴打した。

 

 それによって作り出されるのは、速く、(おおき)く、鋭い、岩の連弾。

 

「ふっ――はぁっ!!」

 

 それでも、東条英虎は動じない。その強さは、揺るがない。

 

 裏拳、肘撃、蹴り上げ、頭突き、片手で掴み別の岩にぶつける――何一つとして、東条に有効打を与えることは出来なかった。

 

「ぐぅぅぅぅ――ぁぁぁああああああああ!!!」

 

 そして岩倉は、歯を食い縛って、化け物の咆哮を迸らせながら、最後の岩砲を、己の渾身で後押しした。

 地面から掘り出すようして手に入れたその岩塊を、その岩の剛腕で殴りつけるようにして発射した。

 

 これまでで最速最強の弾丸は、そのまま東条英虎に襲い掛かり――

 

 

 

「――渚ぁ!!」

 

 

 

――東条は、それを彼方へ弾き飛ばした。

 

 

「――――な」

 

 

 岩倉も、そして由香も目を見開いて驚愕する。

 

 

「ごぁぁぁぁああああああああああ!!!!」

 

 

 この叫び声に、岩倉が声の方向に目を向けると――岩倉が放ち、東条が弾いて方向転換させた岩塊により、岩倉の仲間であり、上司である火口が吹き飛ばされていた。

 

 その火口に今にも殺されそうだった小さな水色の少年は、東条に向かって歓喜に表情を滲ませ、そして東条も――そんな渚に向かって力強い笑みを浮かべていた。

 

(――ッッッ!!!)

 

 岩倉は屈辱に身を震わせて、足踏み、地面を砕く。

 それにより由香は身を震わせ、笹塚は由香を庇い、東条は再び岩倉に目線を戻した。

 

「………はっ………随分、余裕だな………俺との戦いなど、余所見しながらで十分ってことか………? あぁ? ………あれか? ………強者の余裕って奴か? ………俺より強いって自慢か? ……俺との戦いなんて退屈ってことか? あァっ!!?」

 

 岩倉がぷるぷると、その硬い岩の身体を震わせ叫ぶのを、東条は首に手を添えながらぽけっとした顔で――

 

「ん? いや、テメーは強ぇよ。たぶん、俺が今までケンカしてきた中でもトップクラスだ。だから、おまえとのケンカはすげぇ楽しいぜ?」

「はぁ!? だったら――」

「でもよ、ケンカは確かにタイマンでやるもんだが――」

 

 東条は首をこきっと鳴らしながら、本物の、強者の笑みを浮かべて言う。

 

 

『いいか、トラ? 本当に強いってことはな、誰を倒したかじゃない――何を守ったかだ』

 

 

 あの男の言葉を回顧し、あの男の顔を思い浮かべながら。

 

 

「――ダチを守れて、初めて楽しいケンカなんだろうが」

 

 

(――――――っっっ!!!)

 

 その言葉が真に響いたのは、岩倉ではなく、端で、安全圏でその戦争(ケンカ)を眺めていた由香だった。

 

 ダチを――友達を、仲間を守る強さ。

 

 たった一人の孤高の強さではなく、誰かに背中を預ける強さ。

 

 一人では成り立たない――支える、支え合う強さ。

 

(……それが、本物の、強さ?)

 

 群れることなど、集団の強さなど、本物ではない偽物を誤魔化す為のものだと思っていた――他ならぬ、自分がそうだったから。

 

 だから、本当の強さとは、たった一人でも、誰にも負けない孤高の強さだと思っていた。

 

「……………………」

 

 あの日以来、ずっと消えない姿がある。

 

 自分と同様に孤独の中にいて――いや、自分よりも、自分なんかよりも、ずっと、ずっと前から、孤独に、孤高に居る少女。

 

 他でもない自分が、湯河由香が、彼女を孤独に追いやっていて。ずっと理不尽に虐げ続けていて。

 

 それでも――あの日。全てが終わり、そして始まった、あの夏の日。

 

 真っ暗な闇を、真っ黒な恐怖を、彼女は、眩い光で鋭く切り裂いてくれた――

 

 

『――走れる? こっち。急いで』

 

――たった一人でも、強く、美しく、輝いていた彼女の姿が、ずっと由香の中から、消えない。

 

(――――あ。……なんだ。わたし……ずっと、前から――)

 

「彼は……本当に強いな。……彼は、本物の強者だ」

 

 笹塚は、ずっと銃口を岩倉に向け続けながらも、そんなことをポツリと呟いた。

 

 由香は、そんな笹塚の呟きを聞いて、一度笹塚を見上げて、再び東条を見た。

 

 誰かを守る強さ。誰かを救う強さ。

 

 そんな彼の背中は、由香の心を――人を、無条件で惹き付ける。

 

(わたしは……ずっと前から……あの日から……あの子に……憧れてたんだ)

 

 あの日、自分を救ってくれた、あの綺麗な孤高の少女。

 どんなに自分が辛くても、例えそれが、自分を虐げ、貶めてきた者達だったとしても、その手を差し伸べ、誰でも救ってしまう――“本物”の彼女に、あの“本物の強さ”に、由香はずっと憧れていた。

 

 本物の強さが欲しかった。本物の強者に憧れていた。

 

 だから、ずっと由香は――――鶴見留美に、なりたかった。

 

 彼女みたいに、なりたかった。そして――

 

(――わたしは……ずっと……あの子と……)

 

 由香は、涙を溢れさせながら、顔を上げる。

 

 この戦いを、目に、心に焼き付けようと決意する。

 

 再び岩倉と東条は、激しく殴り合っていた。

 だが、既に岩倉の拳は東条に届いていない。

 

 東条英虎の前に、本物の強さの前に、その埋まらない差を見せつけられているかのように。

 

「ぐっ、ぞおおおおおおおおおおおお!!!!!!」

 

 岩倉は、思い切り地面を踏みつけた。

 ビシシとその足元に罅が入るのと同時に――再び東条の足元の地面が突き上がる。

 

 一度破られた技を破れかぶれで繰り出したのは、少しでも東条を――本物の強者を遠ざけたかった心の表れか。

 

「お前も来い」

 

 だが――東条は、岩倉の笑みと共に突き上げられる岩柱の上に、岩倉自身も強引に引っ張り上げた。

 

「――な……っんだと!?」

 

 岩倉が地面から離れ、制御を失った岩柱は、東条が殴るまでもなく、ビシッィ!! と罅が入り、瓦解する。

 

 東条は、そんな壊れかけの岩柱を足場に使い、それを蹴り飛ばして勢いよく落下する――

 

 

――岩倉の腰に、両手を回して。

 

 

「ッッ!!? や、やめ――」

「これで、シメーだ」

 

 ドガァァァン!!! という、落下音。

 

 東条はそのまま岩倉の腰を抱いたまま、脳天から地面に叩きつけた。

 

 岩倉の岩の身体は、バラバラに砕け散るように破壊される。

 

「…………………」

 

 由香はその決着を、唇を噛み締め、涙を流しながら見届ける。

 

 これが、本物の強さ。

 

 由香が目指す、強者の背中。

 

 

 そして、決意する。心に、憧れを刻み込む。

 

 

 自分は、どうしようもない弱者だ。

 愚かな罪を犯し、当然の報いを受け、王国を崩壊させられ、野に投げ捨てられた、本物の弱者だ。

 

 それでも――いつか。

 

 鶴見留美のように。東条英虎のように。

 

 彼女のように美しく、彼のように偉大な、本物の強者に。

 

 あの日、自分の手を引いてくれた、あの少女の背中に。

 この日、自分の命を守ってくれた、あの男の背中に。

 

 少しでも、ほんの少しずつでも、あの背中に――あの憧れに、近づけるように。

 

 湯河由香は、涙を流し、鼻を啜りながら、強く、強く、魂に誓った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Sideあやせ――とある路線の出口近くの吹き抜け空間

 

 

 そのストーカーは、まさしく天使か、あるいは女神を見るような、崇めるような瞳で、その化け物に見蕩れていた。

 

 一糸纏わぬ美しき裸体を、惜しげもなく、誇るように披露し、妖艶な仕草で唇を舐め、ストーカー男を見下す新垣あやせに――新垣あやせに変身した、化野という化け物に、目を奪われ、心を掌握されていた。

 

 たった一目見ただけで、その全てを奪われていた。

 

 既にそのストーカーの視界にすら入っていない、漆黒のガンツスーツを身に纏い拙い構えでガンツソードを化野に向けていたあやせは、そんなストーカーに苛立ちを覚え、化野を見据えながらも声を荒げて叫ぶ。

 

「何してるんですか! 早く逃げてください! あれは星人です! わたしの偽物です! あの化け物達の仲間ですよ!」

「違いますよ」

 

 だが、そんなあやせの怒声も、裸体のあやせの静かな――けれど不思議な自信の篭った、それこそ女神の神託であるかと思わせるような不思議な響きの篭った言葉に掻き消される。

 

「わたしこそが本物です――本当の、あなたのあやせです」

「ほ、本当に……? 本当に、本物の、あやせたんなの……? 僕の天使……僕の女神……僕の……僕だけの……」

「ええ、そうです。あなたの、あなただけのあやせです。もう大丈夫ですよ。怖かったですよね。安心してください。……わたしは、ここにいます」

「あ、あやせたんッッ!!」

「なッ!? な、なにを――」

 

 ストーカーは、裸体のあやせの天使のように優しいその言葉と、女神のように慈愛溢れるその微笑みに、引き寄せられるように、引きずり込まれるように、彼女の――化野の元へと駆け出していく。

 

 そして化野は――裸体の新垣あやせは、その露出した胸で、ストーカーの顔を受け止めた。

 

「―――ッッ!!」

「ああ……あやせたん……あやせたんッ! あやせたんッ!!」

「ふふ。可愛いですね。大丈夫ですよ。あなたは決して一人ではありません」

「本当に? 本当だよね? あやせたんは僕の傍にいるよね? ずっと一緒にいるよね? ……僕を切り捨てたりしないよね? 僕を裏切ったりしないよね? ずっと! 何があっても! 僕の僕の僕の味方だよね!?」

「もちろんですよ。当たり前じゃないですか。わたしはあなたの天使で、女神ですもの。あなたをずぅっと守ってあげます。ずっと、ずっと、あなただけのあやせですよ」

「~~~~~~っっっ!!! あやせたん!! あやせたんあやせたんあやせたぁぁぁあああん!!!」

 

 ストーカーは、全裸のあやせの身体を力一杯抱き締め、その剥き出しの胸部に顔を(うず)める。

 

 そのあやせに変身した化野は、あやせの姿で強く抱き締められた際に色っぽく「あ……」と吐息を零したが、その少し赤く染まった頬の顔で、漆黒のスーツを纏ってその光景を少し離れた場所で眺めていたあやせに――本物のあやせに向かって、ふふと挑発的に笑った。

 

 あやせは、思わずガンツソードを握る手に、力が篭められていくのを感じる。

 

「…………やめて」

 

 あそこにいるのは、あそこで自分の姿をしているのは、只の自分の偽物だとは分かっている。

 

 本性は――正体はあの不気味な変態の男で、そう考えれば今のあの状態のストーカーは滑稽ですらあるけれど、そうと分かっていても、自分と全く同じの姿形の存在が、あんな無防備に裸体を晒して、そしてあろうことか、あのストーカーを抱き締め、胸に顔を埋めているなど、嫌悪以外の何物でもなかった。

 

「………………やめて………っ」

 

 そして、偽あやせの――化野の、その色っぽい吐息に刺激されたのか、ストーカーは更に深く胸に顔を埋めて、その顔を左右に振り、擦り付け始める。あやせたんあやせたんと声をくぐもらせながら、徐々に雄の欲望を露わにし始める。

 

 ついさっきまでは、この地獄のような戦場に(それ以前のあやせの拒絶も大いに関係しているだろうが)追い詰められた中で遂に見つけた希望に縋りついたという面も見えたが、そんな悲愴感もこの僅かな時間で消え失せ、今では只の興奮した愚かな男でしかなかった。

 

 だが偽あやせは――化野は、そんなストーカーの愚かさも面白く思っているのか、そんな男の顔を自身の(変身した)胸に、強く、強く押し付ける。ストーカーの声が一オクターブ高くなった気がした。

 

 あやせはそれを見て――見せられて、歯を剥き出しにして噛み締めた。

 

「………………やめて……………やめろ……………っっ」

 

 まるで、それは自分があの男を受け入れているかのようで。

 まるで、それは自分が汚れていくようで。穢されていくようで。犯されていくかのようで。

 

 全身に嫌悪感が走り、強烈な吐き気を催す。

 体中に名状しがたい何かが蝕んでいくかのようで、そして、そして――

 

 そんな感覚を覚える度に、自分が『本物』から遠ざかっていくかのようで――

 

 あの尊き、神聖で、この世の何よりも素晴らしい存在へと至る資格を、剥奪されていくような気がして――

 

「やめろッ!!!」

 

 あやせは叫ぶ。

 剣を落とし、全力で己の身体を守るように抱いて、感情の昂ぶりのままに叫び散らす。

 

「わたしの顔でッ! わたしの身体でッ!! そんな真似をするなぁッッ!!!」

 

 ヒステリックに叫ぶ――事実、この時のあやせは、相当にヒステリーな状態であった。

 

 これまで覚醒したかのように戦争をしてきたあやせだったが、それでもあやせは――新垣あやせという少女は、ほんの昨日まで、一日前まで、バトルや殺し合いなどとは無縁の、恋と友情に思い悩む、一般的な女子高生でしかなかった。

 

 そんな彼女が、これまで必死に敵を殺して、己を殺されるのを回避してきたのは、一重に、彼女が意識的にも、そして無意識的にも、己の精神状態を安定させようとしていたからだ。

 

 このイカれた環境に、適応しようとしていたからだ。

 自分が常に命を狙われ、命を奪わなくてはならないというこの地獄の戦場に、生物として、適応しようとしていたからだ。

 

 その為に、生きたい理由を作った。生き残りたい理由を。死にたくない理由を。死ぬ訳には、いかない理由を。

 生へと執着する、理由付けを行った。

 

 それが――『本物』。

 

 高坂京介に振られて、高坂桐乃へ複雑な感情を抱いていた新垣あやせという少女にとって、内に抱えていた希望と欲望、そして願望に合致した、それはまさに、奇跡のようにして出会えたうってつけの目標。

 

 それをみるみるうちに美化させて、高く高く掲げて、まさしく崇めるようにして、その偶像に向かってひたすら邁進した。邁進しようと決めた。

 そこへ辿り着くことを、それを手に入れることを、己の生きる理由にした。死ねない理由にした。生への執着とした。

 

 だが、それが崩れてしまう。

 余りにも綺麗にし過ぎてしまったその理想が、目の前の悍ましい光景によって汚れ――犯されていく。

 

 穢れていく。穢されていく。

 

 綺麗な『本物』へと、辿り着けなくなる。

 

 その事への恐怖と嫌悪が、新垣あやせを急速に侵食していく。

 

 あやせは瞳に涙を浮かべて、不健康な汗を流しながら、自分の偽物の胸に埋まり悦を感じているストーカーに向かって、嫌悪と侮蔑を込めて心から叫ぶ。

 

「あなたも何をしてるんですか!! そんな真似をして恥ずかしくないんですか!! 汚らわしい汚らわしい汚らわしいッッッ!!! 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いッッ!! 分かってるんですか!? 何度言ったら分かるんですかッ!! そいつはわたしではなく、ただの化けも――」

 

 

 

「黙れ!! 黙れ黙れ黙れッッ!! この偽物が!!!」

 

 

 

 そのストーカーの言葉に、あやせの、あれほどに荒れ狂っていた全てが、雲散霧消に消え失せた。

 

 代わりに鈍く響くのは、ストーカーが叫んだ、その二文字。

 

 本物という言葉の、真逆で、対極な――最も遠い、その二文字が。

 

 響く、響く――鈍く、重く、響く。

 

「……………偽、物…………? …………わたし、が……………?」

 

 呆然と呟くあやせに、ストーカーは畳みかけるように、唾を撒き散らしながら喚く。

 

「偽物だ! お前なんか偽物で、お前こそが偽物だ!! 本物のあやせたんはここにいる!! 僕を見捨てない天使がここにいる!! 僕を切り捨てない女神はここにいた!! お前は偽物だ!! 偽物!! 偽物!! 偽物めッッ!!! お前なんかもう必要ない!! お前なんか……お前なんか……いらないんだよこの偽物めがぁっっ!!」

 

 そう喚き散らしたストーカーは、裸体の『あやせ』の胸に再びギュッと顔を埋める。

 

 だが、既にあやせはそのストーカーに目を向けていなかった。

 ただがっくりと俯き、ぶつぶつと何かを呟き続ける。

 

 ストーカーは、お前なんかもう必要ないと言った。

 

 それはつまりストーカー自身も、この状況で、漆黒のスーツを着たあやせと、全裸で威風堂々と立つあやせ――どちらが“本当の”新垣あやせなのかは、さすがに分かっていたのだろう。

 

 それでも、漆黒のスーツのあやせは、己のことごとくを否定し、自分を切り捨てた。

 対して、全裸の『あやせ』は、己を優しく包み込む、自分の理想の天使で女神だった。

 

 故に、間違っている方が本物で、本当の存在が偽物になった――ストーカーにとってはそうなった。ストーカー自身が、そう仕組んだのだ。己の中で、完結した。

 

 真実で――本物になった。

 

 結局の所、ストーカーにとっての()()()()()とは、己にとっての都合のいい――最高に都合のいい、幻想で、空想で、理想だったのだ。

 

 己の縋れる理想だった――理想であれば、よかったのだ。

 

 誰でもよかった。何でもよかった。

 

 化け物でも、よかったのだ。

 

 そんな存在相手ですら――新垣あやせは、切り捨てられた。

 

 

「……………ふふ」

 

 

 あやせは微笑む。

 これまで必死に取り繕ってきた何かが、繋ぎ留めていた何かが、終わっていくのを感じる。

 

 新垣あやせの、内に秘めた、内に閉じ込めていた、仕舞いこんでいた、何かが、露わになっていく。

 

「あやせたぁぁぁぁあああああん!!! あやせたんあやせたんあやせたん!!!」

「うふふ。そんなにわたしのおっぱいが好きなんですか?」

「好きだよぉぉぉぉ!!! 好きに決まってるよぉぉおおおお!! ふわふわのフカフカで最高だよぉぉぉおおおお!!!」

 

 対して、あやせに好きなだけ気が済むまで意趣返しが出来たことに満足したのか、ストーカーは己の理想に、薄々、自分が顔を埋めているそのふわふわでフカフカの胸が、何か得体の知れない何かだということに気付いていながら、その厳しい現実から目を逸らして――逃避して、既に散々に限界だった精神を少しでも癒そうと自分に最高に都合のいい理想に浸っていた。

 

「ふふ、そうですか。なら――――好きなだけ味わえよ変態野郎」

 

 だが――そんな理想は、いつまでも不用意に浸れるほどに、無害ではなかった。

 ましてや、ストーカーのような救いようない男を、救ってくれるような理想など、この残酷な世界には存在しない。

 

 そんな当たり前のことに、このストーカーは最後の最期まで気づけなかった。

 

「――え?」

 

 ストーカーがそんな呆けた声を出したのは、突然、自身の腰が、何者かにロックされたからだった。

 

 その感触は、その感覚は、まるで人間の腕に抱き締められたかのようだったけれど、『あやせ』の両腕は、自分の頭の後ろに回されている――有り得ない。そんなこと、有り得る筈がない。

 

 だが、そんな現実逃避も、厳しい現実の猛追には、とても逃げきれなかった。

 

 次の瞬間には、『あやせ』の胴体が伸び、そこから無数の乳房が現れた。

 

 先程までストーカーが喜々として顔を埋めていた、『あやせ』の美しい胸が、好きなだけ味わえの言葉通りに、とても味わいきれない程に溢れ出していた。

 

「――う――ぷ」

 

 ストーカーはその中に無理矢理に顔を埋めさせられ――溺れさせられ、腰から現れた両腕によって固定され、完全に捕えられていた。

 

 自分の理想に抱かれて溺れていた。囚われていた。

 それはそれで相応しい末路とも言えなくもなかったが、『あやせ』の変身はまだ終わっていなかった。

 

 そのまま胴体を伸ばし、足を伸ばし、手を伸ばし――増やした。

 顔は『あやせ』のままだったが、胸部から胴体にかけて無数の乳房を持ち、最終的には手足がすらりと不気味な程に長い、四本腕の、まさしく化け物という異形に変形――変身した。

 

 胴体に、ストーカーをへばり付けるような形で――恰好で。

 

「はっはー。まさか、ここまで上手く行くとは思わなかったな。男というのは、やはりどんな種族においても、下半身で生きる愚かな生き物だねぇ」

 

 人のことは言えないがな、と、化野は、『あやせ』の声で、面白げに語る。

 

「はっはっはー。で、どうするよ、愚かではないレディハンター。月並みなセリフだが言わせてもらおう――俺を殺せば、漏れなくお仲間のコイツは死ぬぜ? 散々な言われようだったが、こんなクズ野郎でも、同じ衣を――黒衣を纏ったお仲間だろ? この哀れな姿を見て、思わず助けたくなるくらい同情しちまうだろう?」

 

 それが、人間ってやつだろう?

 

 化野は――化け物は、あやせにそう、愉快に言った。

 

「さぁ、ジョーチャン。お前は、俺を攻撃できるのかい?」

 

 化野は――化け物は、あやせに向かって、『あやせ』の声で、『あやせ』の顔で。

 

 化け物の姿で、言った。

 

 そして、あやせは――

 

 

 

「――――――あはっ」

 

 

 

 と、天使のように笑った。

 

 堕天使のように、嗤った。

 




岩石の剛鬼――本物の強者が強さに落とされ、池袋にて砕け散る。


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お久しぶりです! お元気でしたか?

 

 

 Side??? ――???

 

 

 その男は――化け物になる前の、化け物に堕ちる前のその男は、夜の街の暗躍者だった。

 

 夜の街――快楽の街――淫欲の街。

 称される言葉は数々だったが、その街が、その常夜の――ある者達によっては楽園で、ある者達によっては地獄のようなその街が、とある男のたった一つの居場所で、たった一つの世界で、そして――男にとって、この世の何よりも嫌悪する空間だった。

 

 男は、酒と煙草と女の匂いが支配する、その歓楽街で生まれた。

 障子一つ隔てた向こう側から、男の誕生の産声を掻き消すように、女の情事の嬌声が響いていたというのだから、その街の“色”が伺えるだろう。

 

 彼の母親は、歓楽街に無数にある特に有名でもない有り触れた娼館の、特別売れっ子でもない掃いて捨てる程に溢れ返る中の一人の娼婦だった。

 父親は、当然顔も名前も知らない。母親である女も、心当たりが有り過ぎて特定出来ない有様だった。

 

 男は望まれない子供だった。子供を孕み、商売が出来なくなった母親は店を追われ、けれど行く宛がなかった。

 この街には、そういった娼婦達も有り触れている。数多くの過去から、この街に縛られ、この常夜の街から出ることが叶わない――

 

――もう二度と、太陽を仰ぐことが、叶わない者達が。

 

 男は、太陽を見ることなく育った。

 常夜の街に売り飛ばされて来た母親から生まれた男にとって、世界とはこの街であり、空は黒いものであり――人とは、汚いものだった。

 

 醜いものだった。恐ろしいものだった。嫌悪すべき――敵だった。

 

 男は女の――母親の嬌声を聞きながら育った。

 日中はひたすら街中の娼館へと出向き、地面に頭を擦り付けながら仕事を請い、情事後の部屋の後片付けをして回っていた。

 男女が交わった後の布団を直し、男の精臭で咽返るようなゴミ箱を片付け、女の身体に付けられた傷口を拭った。

 

 娼婦達の痛々しい笑顔と、微々たる賃金だけを得て、男は街の奥の我が家へと帰宅する。

 

 

 母親が、見知らぬ男と交わっていた。

 

 

 否――それは、まさしく襲われる、犯されるといった言葉が相応しい程に、見るも耐えない痛々しいものだった。

 

 そこにいたのは、獣だった――そして、人間だった。

 

 この常夜の街に売り払われ、行く宛もなく、頼る先もない。

 右も左も分からない時分の内にこの街に辿り着いた、人に誇れるようなものや教養もない母にとって、金を稼ぐ為には、出来ることは一つだった。使えるものは、たった一つだった。

 

 男は、そんな母と見知らぬ男の情事の横を無表情で通り過ぎて、薄い障子の向こう側――この小さな家の、たった一つの閉鎖空間というには、余りにも頼りない隔たりが存在する、この醜い光景を見なくてすむ場所へと閉じ篭る。

 

 幼い男は吐き捨てる。

 醜い。醜い。醜い。醜い。醜い。

 

 どいつもこいつも醜い。この街は、何処(どこ)彼処(かしこ)も汚れていて、どいつもこいつも腐っている。

 

 この街は汚い。

 眼球が潰れそうになるピンクのネオンが不健康に輝き、無駄に露出の多い服を纏った女と、鼻の下を伸ばすか醜悪な笑みを浮かべている男しかいない。

 

 この街は臭い。

 鼻が曲がりそうになる強烈な香水と、胃の中の水を戻しそうになる精臭、そしてそれが混ざり合う淫臭が空気を満たしている。

 

 この街は五月蠅い。

 どいつもこいつも無様に喘ぐか、痴情の縺れか借金の取り立てやれで喚き散らす声しか響かない。

 

 この街は糞だ。この街は汚く、臭く、五月蠅く、醜く、穢れていて、本当に本当に本当に――

 

――嫌いだ。

 

 この街が――人間が、嫌いだ。

 

 男は知っていた。

 

 自分が地面に額を擦り付けて仕事を請うのと、ちょうど同じ時分――母親も、路上で土下座し男に同衾を請うていることを。

 

 それで得る金は、幼い男が一日で稼ぐそれと大差ないか、それよりも少ない日もあるということを。そして――

 

――男が眠ったであろう頃を見計らって、母親の声が、女の色を帯びることを。

 

 痛々しい嬌声が甘く変わり、悦びが混じり始めることを。産声を掻き消すように生まれたての耳に嬌声を叩き込まれ、子守歌代わりに母親の情事の声を聞いて育った男には、それは嫌になる程、理解出来てしまった。

 

 この街は糞だ。糞溜めだ。この街は醜い――人間は醜い。

 

 男も――女もだ。

 

 この腐った常夜の街で育った、この男は理解していた。

 

 この街は、全てを腐らせる。

 

 来訪者の男は、閉じ込めた女達によって。女達は、訪ね来る男達によって。

 

 そして、この街を満たす、媚薬のような、麻薬のような――空気に、よって。

 

 例え、どれほど悲壮な過去を背負っていようと、敵意や殺意に塗れた覚悟を背負っていようと。

 

 この常夜の街の空気は、肺に取り込んだ全ての者達を、快楽の坩堝(るつぼ)に落とす。

 

 人間が作り出した、人間の本性を露わにする、人間の為の閉鎖都市。

 

 男が後に手に入れた真実によると、とある昔の腐った事業家が、己の欲望の限りを尽くして作った街であり、それが代々権力者達に受け継がれていく内に、このような腐りきった街になったらしい。

 

 始めは、只の歓楽街だった。

 

 だが、女が集められ、引き寄せられる様に男が集まり。

 金が集まり、権力が集まり、薬が蔓延り、性欲に狂った。

 

 いつの間にか塀に囲まれ、屋根が空を覆い、真っ黒な夜が満たした。

 そして、徐々に、徐々に、空気が濁っていった。

 

 酒に、薬に、女に、博打に、欲に、欲に、欲に欲に欲に欲に――満たされ、狂わされ、乗っ取られ、濁り、汚れ、腐っていった。

 空気が腐ると街が腐り、そして人間が腐っていった。

 

 そうして出来上がったのが、既に人間(じぶん)達にすら手の付けられない、化け物のような街。

 

 人間が作りしものが、化け物へと変化する。

 

 はっ、まるで俺のようだ――男は、そう吐き捨てた。

 

 そのふざけた真実を手に入れ、この街を後にするその時――見るも無残に崩壊したその生まれ故郷を、自分が徹底的に破壊し尽くしたその常夜の街を、背後に佇む四名の同胞と、自分を迎えに来た化け物の仲間達と共に眺めていた。

 

 成長した男は、この街の暗躍者だった。

 

 幾つもの顔を持ち、その巧みな話術と、相手の心の傷――抱える醜さを見抜く眼で、女を弄び、男を騙し、数えきれない程の人間の本性を暴いて回っていた。

 

 それは、男の復讐だった。男の戦争だった。

 

 自分にとって唯一の世界を――この腐りきった常夜の街を、敵に回すという意思表示だった。

 

 俺は認めないッ! お前等のような醜い存在を! 汚らしい存在をッッ! 俺は絶対に認めねぇ!!

 

 男は、そんな激情を胸に抱え、偽りの笑顔を貼り付け、相手の欲する言葉を、相手の喜ぶ囁き声で突き刺し、相手の心の壁をこじ開け、その傷を一番無残なやり方で曝け出す。

 全てがこの街の空気によって身に付けた技術だった。この街の空気を吸い続けることで、得た力だった。

 

 いっそ、自分もこいつ等と同じように腐らせてくれたら――そう願ってしまうこともあった。

 こんな醜い人間(そんざい)になってしまうことを考えるだけで悍ましい嫌悪感に包まれたが、狂いそうだったが、いっそ狂ってしまえば楽になれると思う時もあった。

 

 だが、男は狂えなかった。化物のように――その男は、強かった。

 

 だからこそ、男は復讐者になった。世界を敵に回すことを選んでしまった。

 

 身に付いてしまった変装術、話術、性行為の技術、観察力、戦闘力、逃走技術、その全てを駆使して、常夜の街に戦いを挑んだ。

 

 考え得る限りで、最も奴等に相応しい方法で。醜い人間達が、最も醜く、最も傷つき、最もその本性を露わにし――最も弱くなる、その瞬間。

 

 己の抱える、最も刻み込まれた、その心の傷を、最も触れられたくない場所を、最も晒したくないその場所を、容赦なく抉り取った――その、最高の瞬間。

 

 人間達が絶叫し、激昂し、表情をぐちゃぐちゃに歪めて、様々な体液で顔をぐちゃぐちゃに汚して、見るも堪えない血走った目で、聞くも堪えない罵詈雑言を喚き、最も醜い状態で、ただ獣のように衝動に突き動かされて自分を殺しに来て――

 

――最も醜い状態で、返り討ちにし、最も醜い死に様で殺す。

 

 それこそが、この世で最も醜い人間という生物に最も相応しい死に様であり、男が求める最高の復讐だった。

 

 

 そして、そんな復讐の日々のある日。

 

 黒いサングラスのオニのように恐ろしい男が率いる一味が彼の元を訪れ、常夜の街の檻をこじ開け、この男を別の夜の世界へと連れ出すのは、また別の話。

 

 ただ、この己に様々の“化”粧を施し、幾つもの姿で幾人もの人間の本性を暴き続けてきた男は、己が人間ではない正真正銘の化け物であるという真実に歓喜し、そして、己を腐ったこの常夜の街から救い出してくれた、そのサングラスの黒鬼に忠誠を誓った。

 

 吸血鬼の――オニ星人としての異能を覚醒させ、男が生まれ故郷を滅ぼすまで、後――

 

 

 

 そして、幾ばくかの時が更に流れ、遂に組織の悲願たる革命の夜に。

 

 男がとある少女の心の傷を、これ以上なく無残に抉り取るまで、後――

 

 

 そして――男が――

 

 

 後――

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side??? ――とある駅の構内某所

 

 

 時間を少し遡って――場所は、池袋駅構内。

 地面の下のこの空間に、高坂京介、高坂桐乃、五更瑠璃、赤城瀬菜の四名は、命からがら逃げ延び、生き延びていた。

 

 当初は駅の入り口を謎の化け物に封鎖されていて、その時はこの四人も池袋の街中を逃げ回っていたが、やがて化け物が立ち塞がっていない入り口を見つけ、光明を見つけたような気持ちで駆け込んだが――その時、地下の駅構内で見たのは、全路線の車両が破壊されているという、垣間見えた光明を掻き消し、再び絶望の暗闇へと叩き落とす知らせだった。

 

 そして何よりの凶報は、駅の中にも、うじゃうじゃと謎の化け物の群生が跋扈していたことである。

 不幸中の幸いと言うべきか、駅の中は様々な店舗があり通路も入り組んでいるので、隠れる場所には事欠かなかった。だが、それと同時に逃げ場所も思いつかなかった。

 

 千葉から来ているこの四人にとって、この池袋からの脱出ルートとなると、真っ先に思いつくのは電車であり、この池袋駅だった。

 だが、この場所を破壊されては、咄嗟に次なる逃走ルートが思いつかない。

 

 バス? タクシー? そんなものが、この異常事態に正常に動いているわけがない。

 そうなると徒歩での逃走となるのか? ――あの化け物達が跋扈するこの池袋の街を、遮二無二に駆けずり回りながら?

 

 ならばいっそ助けが来るまで、この場所で逃げ隠れ続けるか――目の前が真っ暗になるくらい絶望的な案だが、それが最も生き延びる確率が高いように、京介には思えた。

 

 そして、池袋の駅の中のとある場所で、何度も何度も化け物とニアミスを繰り返しながら逃げて、なんとか逃れたその場所で、京介は三人の少女達を壁際に追いやり背で守りながら、その案を告げた。

 

「はぁ!? あ、あんた、正気なの!?」

「せんぱい……それって、大丈夫なんですか?」

 

 桐乃と瀬菜からは、涙目混じりでそんな否定的なニュアンスが返ってきた。

 

 無理もない、と京介は思う。

 既に何度も化け物に襲われかけて――つまり死に掛けて、まさしく地獄を見続けてきた。

 

 そんな逃亡を、命懸けの逃避行を、どれだけ時間がかかるか分からない、来るかどうかも分からない助けが来るまで続けよう――なんて提案に、二つ返事で頷けるようなメンタルが、普通の女子高生に備わっているはずがない。

 

 だが、それでも、桐乃と瀬菜が、感情的にヒステリックに否定しないのは、叫び散らさないのは、一重に――

 

「――その案が、私も最も可能性があるとは思うけれど……」

 

 黒猫は神妙な顔で、心配そうに眉を寄せながら問い掛ける。

 

「あなた、それまで持つのかしら?」

 

 京介は――ボロボロの身体で、衣服のあちこちを切り裂かれ、所々に血を滲ませた格好で、それでも、気丈に笑ってみせた。

 

「――へへっ。これくらい、どってことねぇよ。……それよりも、さすがにこんな事態になったんだ。国の方も、警察の特殊部隊とか、自衛隊とかを送り出す準備をしてるんじゃないか?」

「もしかしたらこれが新種のバイオ兵器か何かで、感染拡大を防ぐために池袋全域を封鎖しているかもしれないわね」

「ははっ……黒猫さん、生きる気力が根元から圧し折られちゃうんで勘弁してくれませんかね。……まぁ、だとしても、俺がやるべきことは一つだ」

 

 そう言って、京介は背後の彼女達に向かって振り返り、そのボロボロだが、力ある笑みを浮かべた。

 

「お前達は――ぜってぇ、俺が守ってやる。……死んでもな」

 

 少女達は、それぞれ、その笑みに、その言葉に息を呑んだ。

 それは、その勇ましい様に見蕩れて、その言葉に心を揺さぶられた――から、だけではなく。

 

 その、覚悟の深さが、伝わったから。伝わって、しまったから。

 

 京介は、何も言葉だけの決意ではなくて、言葉にして確固たる覚悟を決めようとしているわけでもなくて――冷静に、事の重大さを察し、事態の深刻さを実感し、その上で、己の命と、少女達の命を天秤に計り、己が命を賭してでも、己が命を捨ててでも、少女達を守ると決めたのだ。

 

 そういう決意を、決断を、下せる男に、下せてしまう男に、高坂京介という男は成っていた。

 

 これを成長と呼ぶのか、それとももっと危うい何かなのかは、分からない。

 だが、京介の言葉を受けて、瀬菜は頬を紅潮させていたが、桐乃は悲し気に表情を歪ませた。

 

 既に前を向いている京介には、その最愛の実妹の感情が読み取れない。

 

「…………………………」

 

 黒猫は、そんな京介の背中を無表情で見つめ、そっと、手を伸ばそうとして――

 

「――ッ!? 隠れろ!!」

 

 京介が突然叫び、物陰へと押し込んだ。

 そして、京介が一番外側となり、外の様子を観察する。

 

 京介達から見て前方――東口方面から、数体の化け物がこちらに向かってくる。

 だが、あくまで方向だけで、奴等の明確な目標はこっちではないらしい。

 

 自分達よりも、更に後方――西口、南口方面か? ――へと、その化け物達は一目散に突っ込んでいく。明確な、敵意を持って。

 

 これまで京介達が遭遇したような、人間達を愉悦混じりに道楽のように追いかけ回していた――殺すことよりも甚振ることを目的としていた(だからこそ京介達は何とか生き延びることが出来た)狩りではなく、敵意というよりは殺意を持った、獲物ではなく確かな敵に襲い掛かるような苛烈さだった。

 

(……なんだ? アイツ等、なんかさっきまでとは――)

 

 京介がそれに疑問を覚えた時――

 

 

 

「――あぁ、もう、面倒くさいなぁ。さっきから全然進まないじゃない。来るならいっぺんに来なさいよ。早く八幡の所に行きたいのに~!」

 

 

 

 そんな女性の声が、後ろから聞こえてきて――

 

 

――続いて構内に響いたのは、化け物の悲鳴だった。

 

「「ぐぎゃぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああ!!!!!」」

 

 その声に、轟く悲鳴に、三人の少女と京介は目を見開く。

 

(な、何が――)

 

 起こってる? と身を乗り出しかけた京介の袖を、黒猫が引いた。

 振り向く京介に、黒猫は無言で首を振る――今、出ていくのは自殺行為だと。

 

 京介もそれは分かっている為、ぐっと思い留まるが、それでも響き続ける化け物の絶叫と、何かの切断音のような音に、後ろ髪を引かれるように気を取られ続けた。

 

(化け物を――殺してる? あの、化け物をか? 一体、どんな化け物が……まさか、さっきの女の声ってわけじゃ――)

 

 そんな思考を巡らせながらも、徐々にその戦闘音は近づいてくる。

 

 近づくにつれ、化け物の爪と何かがぶつかり合う金属音のようなものも聞こえるようになったが、それよりも圧倒的に響き渡るのは、化け物の死に際の怨嗟の哭き声と、鋭く振られる刃物による破壊音だった。

 

 そして、それが自分達の横を――自分達が息を潜め、隠れ潜んでいる物陰を通過する瞬間。

 

 京介達は、確かに見た。

 

 

 漆黒のボディスーツを身に纏い、漆黒の槍を気だるげに振るいながらも、瞳だけは冷たい殺意を放ちながら、化け物達を無双する、絶世の美女を。

 

 

(――――ッッ!!)

 

 京介は、動けなかった。

 

 その光景が余りに現実離れしていて、意識が彼方に飛ばされていたのかもしれない。

 だが、黒猫も、桐乃も、瀬菜も、そんな京介に何を言うわけでもなく、同様に心を何か不思議な感情に占められていた。

 

 やがてその戦闘音は、遥か先まで遠ざかっていき――そして、何も聞こえなくなった。

 

 そうなることで、ようやく京介達は、身体から力を抜くことが出来て――

 

「――はっ! な、なんだったんだ、あれ? 警察、とか、自衛隊ってわけじゃあ、ねぇよな?」

「いえ、あれは魔の物と戦うことが義務付けられている討魔の一族の者に違いないわ。禍々しいオーラを放っていたもの……」

「厨二乙――って、言いきれないのが……もうわけわかんない……なんなの、これ……」

「……これからどうします、高坂せんぱい? ……またあの化け物が通りかからない内に、別の場所に移動しますか?」

 

 京介は壁に背を着け凭れ掛かりながら、瀬菜の言葉を受けて考える。

 

 確かに、いつまでも同じ場所に留まり続けるのは危険だろう。あの怪物達によって、ここは奴等が通りすがる場所だということが分かった。次も同じように先程の漆黒の狩人が駆けつけてくれるとは限らない。

 

 だが、これも当然のリスクとして、隠れ場所を変える道中で、別の化け物達と遭遇することも十分にあり得る。

 絶対的な安全の保障がない以上、どちらのリスクを選ぶか、どちらのリスクの方が低いかを見極めるということなのだが――

 

「――ちょっと待っててくれ。外の様子を見てくる。辺りに化け物がいないか確認してくるから、そっと息を潜めていてくれ」

 

 そう言って京介は、物陰から顔を出して、身を乗り出し、通路に姿を現わす。

 後ろから心配げに見守る少女達に安心させる意味を込めて苦笑を送って、さあいざと目を走らせてみた結果――

 

「――うっ!?」

 

 真っ先に感じたのは、嘔吐感だった。

 

 目の前に、真っ直ぐに一歩道に、化け物の屍骸のルートが出来ている。

 血飛沫や肉片、タイルを削った爪痕や刃傷など、戦い――というよりは、やはり一方的な蹂躙のような痕跡が、まるで一つの作品の如く、池袋駅構内に作り出されていた。

 

(……これを、さっきの女の人がやった――()った、のか?)

 

 見た目では、完全に普通の女性にしか見えなかった。

 

 だが、こんな惨状を、こんな地獄を、いくら化け物相手とはいえ――相手が化け物であったとはいえ、あんな気だるげな表情で、一歩も足を止めることなく、まるで降りかかった火の粉を振り払っただけといわんばかりに、作り出せてしまう存在を。

 

 普通の女性――普通の人間と、呼んでいいのか?

 

 それこそ――化け物、なのでは?

 

(――ッッ!! 仮にも助けてもらった人だぞ!! そんなことを思っていいわけあるか!!)

 

 だが、いくら頭を振っても、既に京介の心の中では、何度も殺されかけた化け物達と同列か、あるいはそれ以上に、あの漆黒の狩人に対する恐怖心が明確に芽生えていた。

 

 そのことに京介は舌打ちし、誤魔化すように辺りの観察を続け、そして――

 

「――ッ!」

 

 一つのことに、思い至った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――なるほど。それは、一理あるわね」

「で、でも、危険じゃないですか!? 逆に、それに引き寄せられて、あの化け物の仲間が寄ってくるかも……」

「……確かに、その可能性もある。だが、何の手掛かりも無しに走り回るより、確率は高いと思うんだ」

 

 京介が示した考えとは、あの化け物の屍の道を――逆に辿ることだった。

 

 あの化け物の道は、つまりはあの漆黒の狩人が、寄ってきた化け物を、片っ端から殺してきたことで作り出された道。

 よって、あの道の先にいた化け物達は、軒並み殺されているのではないか――という、命を懸けるには、あまりにも甘い公算だったが、現状のように、他に頼るべき可能性もなく、右も左も死の可能性で埋め尽くされている地獄では、思わず縋りたくなるような筋道が、か細くとも通っている可能性(みち)でもあった。

 

 ここで誰も、今からでもあの漆黒の狩人を追いかけ、助けを求めるという案を出さなかったのは、三人の少女達にも少なからず京介と同様の気持ちがあるからだろう。

 

 確かに、あの漆黒の狩人の、優雅で、美麗で、可憐な、まるで舞いのような戦いぶりに、心奪われた部分もあるけれど、それでもそれ以上に、やはり恐ろしかった。

 化け物を引き寄せる化け物の如き強さを誇る彼女の元へ行けば、それはすなわち、更なる化け物との殺し合いに巻き込まれるということを、予感させられるから。

 

 だから、進むとしたら逆方向――屍の道の逆行。

 

「……どうする、桐乃?」

 

 京介は未だ自身の案に対する賛否を示していない妹に向かって問いかける。

 桐乃は、そのどこか自身に縋るような声色で問いかけてきた京介に対し、笑顔で、罵る。

 

「今更ビビってんじゃないわよ! こうなったら、どこまでもアンタについて行ってやるわよ!」

 

 びしっと京介の鼻頭に指を突きつけ、そして、いたずらっぽく、甘えるように笑う。

 

「守って――くれるんでしょ?」

 

 その言葉に、妹の我が儘に、表情に活力を取り戻さないシスコンはいない。

 

「――ああ! 任せろ!」

 

 そして、京介は立ち上がり、難色を示していた瀬菜に手を伸ばし「なるべく見通しのいい通路を進む。化け物を見かけたら、すぐに最寄りの物陰に避難する――絶対に、守る。だから……いいか?」と、問い掛ける。

 

 瀬菜は「……もう。これじゃあ嫌だって言えないじゃないですか。絶対守ってくださいね! じゃないと真壁さんに○○○(ピー)してもらいま――」「命がけで護衛させていただきますッ!」と言った会話を、京介と交わした。

 

 そんな中、黒猫は――

 

「……………………」

「……ん? どうしたの、アンタ?」

「…………いえ――なんでも、ないわ」

「……大丈夫? 後で具合悪くなって動けなくなった、なんてことになったら洒落にならないわよ。………まぁ、こんな状況じゃあ、無理もないけど」

「……いいえ、本当に大丈夫よ。ごめんなさいね、心配かけて」

 

 そうだ。こんな状況で、碌に根拠もなく――ただ、嫌な予感がした、などと、言える筈もない。無駄に不安を煽るだけだ、と黒猫はふるふると首を振る。

 

 ……京介の案は、確かに幾つも不安要素はあるが、それなりに筋は通っている。

 こうして後ろからあの漆黒の狩人を追いかけている化け物がいない以上、あの狩人が殺し尽くしたか、あの狩人に恐れをなして逃げたか――そのどちらかの公算が大きく、そのどちらでも、化け物はいない、または少ないという可能性が高い。

 

 だから、その屍の道とやらを逆行することを、自分も賛成したのだ。

 

 それなのに、なんだろう――この、漠然とした……嫌な、予感は。

 

「それじゃあ、行こう。……あらかじめ言っておくが、外の光景は相当にグロテスクだ。あんまり直視するな。吐き気を催したら我慢せずに吐け。だが、絶対に悲鳴を上げるな。三人でそれぞれの様子を確認して、フォローしあってくれ――黒猫? 大丈夫か?」

「……ええ、平気よ。行きましょう」

 

 京介は少し黒猫の様子がおかしいことに気付いたが、こんな状況だしおかしいのは当たり前で、本人が大丈夫というのならその気持ちを尊重しようと、何も聞かなかった。

 

 黒猫本人も、こんな状況で、何の根拠もない嫌な予感などを告げても、いたずらに不安を煽るだけであり、それは容易く致命傷に繋がるとして、何も言わなかった。

 

 それをこの後、どうしようもなく、後悔することになるとも知らずに。

 

 そして、その後悔を味わっても、尚もこう思うのだ。

 

 

 あれは、遅かれ早かれ、訪れていた悲劇なのではないかと。

 

 

 

 そして彼女達は、屍の道を辿っていった、その先で――変わり果てた“彼女”と再会する。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 Side??? ――とある路線の出口近くの吹き抜け空間

 

 

 京介と、桐乃と、瀬菜と、黒猫は、その場所に辿り着いた時、誰一人、言葉を発せなかった。

 

 身動きが取れなかった。瞬き一つ出来なかった。

 

 それほどに、その光景は、あの黒金の革命の号砲から目を塞ぎたくなるような地獄を見続けてきた、見させられ続けてきて、見せつけられ続けてきた彼等でさえも、言葉を失うような、時間を忘れるような、現実を忘れてしまうような――現実であることを忘れたくなってしまうような、衝撃的で、幻想的な光景だった。

 

 そして、何よりも、どんな地獄よりも――彼等にとっては、最も痛々しい、目を塞ぎたくなるような、悲劇的な光景だった。

 

「はは――――ははは――――はははは――はは―――ははは――」

 

 そこには、文字通りの血の雨が降っていた。

 

 赤い、赤い、雫の雨。

 

 真っ赤な、真っ赤な、涙の雨。

 

 暗い、暗い、闇夜の戦場に、その血の雨は、残虐に、凄惨に、狂った彩りを与えている。

 

「ははははは――はは―――――はははは―――ははは―――はははは―――は――はは」

 

 そして、その禍々しいステージの中を、一人の堕天使が踊っていた。

 

 降り注ぐ血の雨を浴びて、その漆黒の衣装に緋色を溶け込ましていく彼女は、それでも尚足りないと言わんばかりに、その雨を全身で受け止めようと、真上を向いて、両手を広げて、くるくると回る。()()ると狂う。

 

 足元に転がるグチャグチャの死体に――人間のような死体を踏み潰し、踏みにじりながら、まったくバランスを崩すことなく、心から楽しそうに堕天使は笑う。

 

 その様は、まさしく、天から堕ちた――堕天使。

 

 天上の楽園から追放されても、尚も幸せそうに笑い続ける――壊れた堕天使。

 

 

「ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」

 

 

 彼女は笑う。堕天使は嗤う。

 

 幸せそうに笑う。壊れたように嗤う。

 

 そんな彼女を見て、瀬菜は顔面を蒼白させ一歩後ろに後ずさり、桐乃は涙を零れさせ両手で口を塞ぎ、黒猫はそっと瞳を細めて唇を噛み締めた。

 

 そして京介は、拳を渾身の力で握り、歯をごりごりと食い縛り。

 

「…………なんでだよぉ」

 

 泣きそうな、そんな情けない呟きを漏らして。

 

 

「なんでっ!! こんなことに、なってんだよ――――〝あやせ”っ!!」

 

 

 かつて、自分に想いを伝えてくれた少女に。

 

 かつて、自分が想いに応えてやれなかった少女に。

 

 京介は、そう全力で、危険度など度外視で叫んだ。

 

 すると少女は――新垣あやせは、くるくると舞うのを止めて、踊るのを止めて、くるっと首だけを京介の方に向けて、京介や桐乃や黒猫や瀬菜の方に向けて、ニコッと、天使のように笑った。

 

 

「あ、お兄さん。お久しぶりです! お元気でしたか?」

 

 

 彼女は――笑う。

 

 恐ろしく――美しく。

 

 

 みんなが思った。

 

 

 あれは――ダレダ?




変幻の妖鬼、緋色の堕天使が狂気に沈められ、池袋にて――


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吸血鬼という化け物で、お前達の敵なんだよ

 Side渚&東条――とある60階建てビルの通り

 

 

 岩倉の死体がボロボロに崩れていく中、東条は腰に手を当ててグググと伸びをする。

 

 そこに、一通り炎を落とした渚が近寄ってきた。

 

「東条さん、勝ったんですね」

「おう。渚もやったじゃねぇか」

「ははは……まあでもスーツが大分悲鳴を上げて――って、東条さんも、みたいですね」

「ん? そうなのか?」

「ええ、キュインキュイン言ってます」

 

 まだ渚もよく把握してはいないが、バンダナの破壊されたスーツは制御部からオイルが流れていたし、火口は執拗にその場所を狙っていたので、おそらくはそのオイルがスーツの死亡の基準になるのだろうと、渚は推察していた。

 

「それで――どうしましょうかこれから? 桐ケ谷さん達を探しましょうか? ……そもそも、後どれくらいいるんですかね? オニ星人って」

「さぁ? 分からん?」

「……まぁ、東条さんですしね」

 

 この人はそんなことは深く考えていないだろう。目の前に敵がいたら殴るって思考回路の人だ。

 そんな風に渚が苦笑していると、東条は物陰に隠れている由香を指さす。

 

「アイツに聞いてみるか? お巡りの人もいるしよ」

「お巡り……さん? ――警察?」

 

 渚は東条の示す方向を見ると、そこには、あの部屋にいた少女――と、よれよれのスーツの大人がいた。

 

 由香は渚と目が合うととりあえず反射的に頭を下げる。渚はにこやかに笑顔で手を振った。

 女顔ではあるが端正な顔立ちの渚に微笑まれて頬を染めてドキッとし、控えめに手を振り返した由香だったが、よく考えて見ればこの人も――由香が東条の戦いに気を取られて注目していなかっただけで――あの岩の巨人と負けず劣らずの恐ろしく悍ましい化け物である、あの炎の吸血鬼を殺しているのだと気付き、笑顔を引き攣らせて手の位置が下がってしまった。

 

「……とりあえず、話を聞こっか」

 

 と、笹塚は物陰から由香を連れて出てきた。

 恐らくあの水色の少年は、由香が言っていた“経験者(ベテラン)”の一人だろうと、そして東条よりはちゃんとした話を聞けそうだと、そう踏んで。

 

 渚はその時、ふとマップの存在に気付いた。

 桐ケ谷達と合流するにせよ、残りの星人の場所と数を把握するにせよ、このマップのデータが頼りになるだろうと。

 

 そして、渚がマップを取り出そうとした時――

 

 

 

――ボウン! と、一瞬でビルが燃えた。

 

 

 

「!?」

「な、――」

「なんだ?」

「――――え?」

 

 渚達四人の目が、瞬間的に一棟まるごと唐突に炎上したその建物に集中した。

 

 それは、平達が逃げ込んだアパレルショップの、ちょうど通路を挟んで反対側にあるビル。

 

 そこはゲームセンターやボウリング場などを備えたアミューズメント施設の筈で――

 

(――いや、問題はそんなところじゃないっ!)

 

 余りにも綺麗に燃え上がるものだからスルーしかけていたが、こんなのはおかしい。

 例え火事だとしても、こんな風に、建物全体が一斉に燃え上がるかのように火に包まれることなど有り得ない。火事というのは火元があって、そこから徐々に燃え広がるものなのに――

 

(――こんなのは……火事じゃないっ。意図的に誰かがやったとしか……でも、そうだとしても…………人間技じゃない)

 

 人間の仕業じゃない。

 そう思った時、渚はバッと、火口の死体に目をやった。

 

 でも火口の死体は、渚が殺した時のまま、微動だにせずに死んでいた。既に只の無力な何も出来ない死体だった。

 

 ならば、一体誰が――と、そう考えた時、由香がポツリと呟いた。

 

「これって……中に人は居るの?」

「――――ッ!」

 

 その言葉を聞いて、渚は取り出していたマップに目を移した。このマップはガンツのハンターと敵ターゲットの位置しか表示しないので、もし一般人がいたとしても分からないのだが、この場合は杞憂だった。

 

 マップ画面は、はっきりと、燃え上がる建物の中に――二つの青点を表示していたのだから。

 

「平さん……っ!?」

 

 渚はその瞬間、燃えるビルに向かって駆け出していた。

 

「東条さん! 僕行ってきます! その子達のことをお願いします!」

「え、あ、えっと、な、渚さん!?」

 

 由香は突然走って行った渚に戸惑って手を伸ばすが、水色の少年はあっという間に見えなくなった。

 

「ちょ、ちょっと! いいの!?」

 

 そして何も言わない東条を見上げる――が。

 

 

 東条は、そのビルとはまったく違う方向――高架下の向こう側を、無表情で見ていた。

 

 

「え、と、東条さ――」

「……どうか、したのか?」

 

 渚に続こう踏み出していたが、不審な様子の東条に気付き、由香の言葉を遮り尋ねる笹塚。

 東条は、そんな彼等の方をまるで見ずに、ただ高架下の向こうを睨み付けたまま――獰猛な笑みを浮かべて、こう言った。

 

「……ああ。どうやら、かなり楽しそうな奴のお出ましみてぇだ」

 

 その言葉の意味を問い返そうとした時――笹塚の意識が、ぐらっと揺れた。

 

(っ!? …………な、んだ…………これは…………)

 

 笹塚が頭を押さえふらりとよろめくと、そんな笹塚の傍で――由香が意識を失い、前のめりに倒れそうになっていた。

 咄嗟に笹塚は彼女を受け止める。そして、そのまま東条の視線の先を追い――

 

「!?」

 

 笹塚が見たものは、バタ、バタバタ、バタバタと、一人、また一人と倒れていく、警察官や逃げ遅れた一般人達だった。

 

 まるで、何かに道を開けるように、何かに屈服するように、意識を失っていく彼等の間を――二つの影が歩いてくる。

 

 

 前を歩く一人は、笹塚とほぼ同じくらいの身長で、フードにロイドメガネとマスクという出で立ちの丸太を担ぐ男。

 

 そしてその少し後ろを歩くのは、2mを遥かに超える巨躯に、山羊の頭を被った、巨大な鉄球を引きずる怪物。

 

 

 笹塚は薄れそうになる意識を必死に保って、フラフラとふらつき、近くのテナントの壁に手を添えて、思う。

 

(……………何だ………あの怪物は………? あの岩の巨人よりも、あの炎を操る怪物よりも……遥かに………明らかに……放つ………威圧感が……違う)

 

 見る見る内に人間達が意識を失って姿を消すのは、あの怪物が放つ覇気によるものなのか。

 生半可な人間では、あの怪物を前に、意識を保つことすら出来ないのか。

 

 

 だが――ザッ、と、その男は一歩を踏み出し、堂々と歩み寄っていく。

 

 

 こちらに向かってくる、一人の人間のような男と、一人の化け物であろう怪物に向かって、悠然と、微塵も揺らぎのない、その強靭な足取りで。

 

「よう、トラ。ったくお前、さっさと家に帰れって言っただろう。何やってんだ、全く」

 

 ロイド眼鏡の男が、東条に向かってそう話しかける。

 

 笹塚は知り合いなのかと驚愕し東条に目を向けるが、東条はロイド眼鏡の男に対し、()()()()()()()()()、平然と、言葉を返した。

 

「――まぁ、ちょっと……それよりも篤さん、どうしたんっすか、その丸太?」

「何言ってんだ。丸太くらい何処にでも落ちてるだろう」

 

 いや、池袋の街に丸太はそうそう落ちていない。それにまず真っ先に指摘する所はそこなのか。隣の怪物は巨大鉄球を引きずっているんだが。と、笹塚は慣れないツッコミフレーズが頭に浮かぶが、そんなことを口に出して言うほど余裕のあるコンディションでもないしそんなキャラの血圧の持ち主でもなかった。

 

 そして突っ込む側の人間(由香)が倒れているので、東条は「それもそっすね」と何故か納得して、そして――

 

 

「それで――どういうことっすか、篤さん? 斧さん?」

 

 

――瞬間、東条英虎の放つオーラが変わった。

 

 

 岩の巨人と戦っていた時の、獰猛で、殺気立った――猛獣のオーラを纏った。

 

 そして、それに応えるように、篤と呼ばれた男の纏う雰囲気も変わる。

 

「………………」

 

 篤は一度、岩倉の砕け散った死体に目を向け、続いて、仰向けに倒れ伏せる火口の死体に目を遣る。

 

 そして、目を伏せ、ポツリと言葉を呟いた。

 

「――やっぱり、強いな、トラは。………そのスーツを着ているとはいえ、岩倉と……まさか火口までがやられるとは思わなかった」

「……ん? その岩みてぇな奴やったのは確かに俺っすけど、その後ろの奴は――」

「――俺は……いや、そうじゃないな…………俺等は、な、トラ」

 

 ギンッッッ!! と、篤の放つ殺気が、突如、突風のように鋭くなった。

 

「ッッ! ―――!!??」

 

 その殺気に、笹塚は思わず膝を着きそうになって咄嗟に足を引いて堪え、東条は思わず後ろに下がった。

 

 そして、そのことに、東条は自分で混乱した。

 

 あの東条英虎が、敵の殺気を受けて――()()()()()()()

 

 篤は、そんな東条達を見て複雑に苦笑し、静かに――だが、はっきりと、言った。

 

 

「吸血鬼という化け物で、お前達の敵なんだよ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side??? ――???

 

 

 ボウン!! と突然アミューズメント施設ビルが燃え上がったことで、烏間は驚愕し、後ろを振り返る。

 

「な、なんだ、あれは――」

「火火火。始まったな……」

 

 そしてその烏間に追われていた葛西は、帽子を押さえて煙草を咥えながら不敵に笑う。

 

「――ッ! あれはお前の仕業かッ、葛西!」

「おいおい、馬鹿言っちゃいけねぇよ。確かに、あれは俺の技術(トリック)だが、可愛い甥っ子のはじめての放火(おつかい)を自分の手柄にするほど、おじさんは大人気なくねぇよ」

「甥……だと?」

「それよりもいいのかい? 俺ァ、化け物達から逃げる為に、あの綺麗に燃えてるビルの中で息を潜めてたんだが――」

 

 葛西は新たな煙草を取り出し、マッチで火を起こしながら言う。

 

 

「――あそこ、一般人(にんげん)でいっぱいだぜ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そのビルの中は、文字通りの阿鼻叫喚に陥っていた。

 

「きゃぁぁぁああああああああああああああああ!!!!」

「なんだ!? 何がどうなってる!?」

「火元は何処だ!? 化け物の仕業か!!」

「早く逃げなきゃ! 死んじゃう! 死んじゃう!」

「逃げるって何処へだ! 右も左も天井も足元も火塗れなんだよ! 燃えてんだよ!」

 

 まさしく、一瞬だった。

 余りの恐怖に意識を失って、夢の世界に迷い込んでしまったかと錯覚する程に。

 あるいは、いつの間にか死んでいて、知らぬ間に地獄へと落ちてしまったのかと、錯覚する程に。

 

 気が付いたら、周りが橙色の炎で満ち満ちていた。

 

「助けろよ!! 何とかしろよ!! お前が此処に逃げれば安全だって言ったんだろ!!」

「ふざけるな!! こんなことになるなんて誰も予想出来るわけねぇだろ!! てめぇで何とかしろ! むしろ俺を助けろ!!」

「黙れ! お前のせいだ! 俺達の命の責任を取れ!! この偽善者がぁ!!」

 

 そう言って口論の末にお互いを掴み合う二人の大の男。周囲の人間達に一気に緊張が走る――が、その時。

 

「……だ、誰だ!? お前は!!」

 

 神崎達が入ってきたのとはまた別の入り口――おそらくはカラオケやボウリング場の方から、このゲームセンターのコーナーへと、一人の血塗れの男が入ってきた。

 

 その男は、奇妙な真っ黒の全身スーツを着ていた。そのスーツは真っ赤な血や、ドロドロのオイルのようなもので汚れきっていて、男は俯きながら何かをブツブツと呟いている。

 クックックと不気味な笑い声を漏らし、口論していた二人の男の元へと歩み寄る。

 

 既に二人は、否、あれだけのパニックに陥っていた他の人間達も、燃え盛る炎の中にも関わらず、全員が口を閉じて、その男を注視していた。

 

「な、なんだ、きみ――」

 

 瞬間、汚れきった男は声を掛けたきた男とその男と口論していた男の頭を両手で掴んで、そのままメダルゲームの筐体に突っ込んだ。

 

 バリーンッ!! という音と共に、弾け飛ぶガラス片。

 

 そして――再び響き渡る悲鳴。

 

「ギャハハハハハッハハハハハハハハハ!!!! どいつもこいつも台無しになろうぜぇぇえええええええ!!! 楽しいぞぉ!! 楽しくて堪らねぇぞヒャッハァァァァァアアアアアアアアアア!!!!!」

 

 男は――リュウキは、その汚れきったガンツスーツに返り血を更に上塗りしながら哄笑する。

 

「……うわ……うわぁ……うわぁぁぁぁぁああああああああああああああ!!!」

 

 他の人間達は、そして神崎は、口を手で押さえて混乱し、その男から全力で――命懸けで逃げ出した。

 

「ハハハハハハッハハハハハハ逃がすわけねぇええええええええだろぉぉおおおおおお!! 全員纏めて台無しにしてやらぁぁああああああああああ!!! どいつもこいつも死にやがれクソガァァアアアアアアアアアアアアア!!!!」

 

 炎の中、なりふり構わず、ただ一目散に走る神崎有希子。

 

(どうして……ッ。一体、何が起きてるの!?)

 

 そして炎の間を潜り抜け――比較的に火が少ない、下に降りるエスカレーターを見つけた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「な――」

 

 烏間は驚愕する。それに対し、葛西は不気味に火火火と嗤う。

 

「助けなくていいのかい? あの燃え具合じゃあ、いつまで持つか分かんねぇぜ。建物も――人もな」

「――き、さまぁッ!!」

 

 そして、烏間がもう一度、燃えるビルを振り向いた瞬間――

 

「火ァ!!」

「っ!?」

 

 葛西が手の中に炎を作りだし、瞬時に膨れ上がらせる。

 

「――くッ!」

 

 そして、その炎が手品のように瞬時に消え去ると、葛西の姿は既にそこにはなかった。

 

(……前科1000犯を超える、ギネス級の伝説の犯罪者……逃亡技術も『死神』並みかッ)

 

 烏間は葛西を取り逃がしたことに歯噛みするも、すぐさま燃えるビルディングに向かって走り出す。

 

 人命救助――現時点で命じられた、己の最優先任務を全うする為に。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、少し時間を遡り――数分前。

 

 烏間がバンダナ――徹行を探す為、アパレルショップの上の階を回っていた時、徹行よりも先に全国指名手配犯の葛西を発見した。

 混乱する烏間だったが、葛西は烏間を挑発するかのように火火火と嗤いながら逃亡し、烏間は反射的に彼を追って、そのまま店の外へと走って行った。

 

 その一部始終を、平は呆然と眺めていた。

 絶対に店から出るなと厳命されていた平は、ただ扉から顔を出して烏間その背中を目で追うだけで、まさかその命令を無視して危険な外へと出ることなど思いもせず、只管に早く戻ってきてくれと願うばかりだった。

 

 ふと左を向くと、渚と火口の戦いが繰り広げられていて、その恐ろしい戦いから目を逸らすように、平は店の中に再び戻ろうとすると――その平の横を、何かが通過した。

 

「ひぅ!? ……な、なんだ、あんさ――いや、アンタ誰や!? 何やその奇天烈な格好は!?」

 

 だが、そんな平の驚愕を余所に、徹行はあっさりと外に出て、まるで陸上選手のように無駄のないフォームで駆け出していく。

 

「な、ちょ、あんさん何処行くんや! や、やめえや! 見つかるで! 殺されるで!」

 

 徹行はそのまま平の言葉など聞こえていないかのように、直ぐ傍で渚が火口と死闘を繰り広げている横を気づかれずに通過し、向かいのビルの中に入っていった。

 

「あ……あ……」

 

 平はしばし呆然としていたが、やがて、再びゆっくりと扉から顔を出し、左を、右を、渚と火口の戦いを、烏間が葛西を追っていった先を、何度も首を振って見回す。

 

 だが、それでも平は、危険だと分かっていても、こんな戦場で、こんな地獄で、たった一人でいることに耐えられなかった。孤独に耐えられなかった。

 

「――もう、なんやねんッ!!」

 

 そして平は、徹行を連れ戻すという大義名分で彼の後を追い、向かいのビルに足を踏み入れる。

 

 

 

 これが、平の運命の決断――平清という人間の、命を分けた決断だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ビルに足を踏み入れた平がまず見たのは、床に転がる無数の死体だった。

 

 思わず悲鳴を上げかけた平だったが、それでも後ろで渚と火口の戦闘音が響いている以上、後戻りという選択肢はなかった。少なくとも、徹行を連れ戻すまでは。このような地獄で、明確に、自分の行動を縛る目的を作らなければ、平のような男は、彼のような大人は、足を動かすことなど出来なかった。

 

 平はフレイム式のBIMを手に持って、その先を恐る恐る恐れながら進む。既にクラッカー式は使用してしまっていて、咄嗟に使用できるBIMはこれだけだった。

 だが、目に入るのは死体ばかりで、何処にも――少なくとも一階には――人の気配がしない。ここから更に移動したのか、それとも上の階に上ったのか。

 

 しかし、その時、何処からともなく、鼻歌が聞こえた。

 

「…………な、なんや?」

 

 平は、その歌に導かれるように、更に恐る恐る足を進める。

 

 しばらく進むと、何やら破壊されたようなドアがあった。普通に考えると化け物が壊したのだろうが、しかし、中から聞こえてくる鼻歌は――人間のそれだった。

 

 ゆっくりと、平はその中を覗きこむと――そこには変わり果てた姿の徹行がいて、鼻歌混じりに配電盤を弄っていた。

 

「な、何してるんや、あんさん?」

「ん~? 決まってるじゃんか。燃えキャラを作るんだよ」

「も、もえ、キャラ?」

「うん。叔父さんが、この建物にはもうほぼ仕掛けを作ってあるから、あとは僕が好きにしていいんだって。ええと、あとは~、これと~これを~カップリング~♡」

 

 そして徹行は、最後のスイッチを入れる。

 

「さぁ、燃え燃えタイムのスタートですっ!」

 

 徹行がそれを繋げた途端――ボウン!! と、ビル全体が一瞬で燃え上がった。

 

「――っっ!!! な、なんや、なんなんやこれはっ!!?」

「FOOOOOOOOOOO!!!! ビルたんエロかわいいぃぃぃぃぃぃいいいいいい!!!! 燃えぇぇえええええええええええええええええ!!!!」

 

 徹行は平を押し退けてフロアに姿を現し、一瞬で火の海になったそれを見て、歓喜に震えあがった。

 

 萌えに燃え上がった。

 

「ちょ、アンタ何したんや!? 何がしたいんや!!??」

「はぁぁぁぁああああ!!? 決まってんでしょぉぉ!! これを見たら分かるでしょうよぉぉおおお!!」

 

 徹行は自身の肩を掴んでくる平の肩を逆に両手で掴んで、その瓶底メガネで至近距離で見詰めながら、舌なめずりをして平に語る。暑苦しく――炎のように熱く、語る。

 

「燃え燃えするんだよぉぉぉぉおおおおおおおおおおお!!!! 炎に囲まれてハアハアする為に決まってんでしょぉぉぉぉよおおおおおおおお!!!!」

 

 呆気に取られる平をドンと突き飛ばして尻餅を着かせ、いつの間にか背負っていた消火器を取り出し、その噴射口を平に向ける。

 

「ハァ……ハァ……まずはアンタから――燃えキャラになれぇぇえええええええええええ!!!!」

 

 そして、火を消す為の消火器の噴射口から、何故か噴き出した熱い炎が、平を燃えキャラにすべく襲い掛かった。

 




鬼退治を果たした戦場で、人間達は狂い、狂い――殺し合う。


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彼等を吸血鬼にしたのは、僕だよ

 Side和人――とある駅の近くの大通り

 

 

 吸血鬼――目の前の紅蓮の幼女は、自らのことをそう称した。

 

 吸血鬼の始祖――そして、その懐刀の青年。

 

 和人はそれを聞いて、つい先程まで己と殺し合い、そして自らの剣で殺した男の――否、吸血鬼の言葉を思い出す。

 

「……吸血、鬼……じゃあ、お前達は……剣崎の――」

「そう。彼の仲間――というより」

 

 幼女――リオンは、青年――狂死郎の肩の上で、足をぷらぷらと振りながら言う。

 

 

「彼等を吸血鬼にしたのは、僕だよ。彼等だけじゃなく、この世界の全部の吸血鬼は、僕のせいでそうなってしまったみたいなものだね」

 

 

 和人はその言葉に「……え?」と呆然とする。

 

 今の言葉には看過することなど出来ない幾つもの衝撃的な言葉が含まれていたような気がしたが、余りにも衝撃的過ぎて、和人の頭の中は瞬間真っ白になり、上手く情報を処理できない。

 

 和人は、ゆっくりと「……ちょ、ちょっと、待ってくれ」と言って頭を押さえ、リオンに食って掛かるように問い詰める。

 

「――そう、なってしまった、っていうのはどういうことだ……? そ、それじゃあ、まるで、あいつ等がそうじゃなかったみたいな言い方じゃないか?」

「……ん? あれ? そこから知らなかったのかい? 情報が漏れたみたいなことを聞いたから、てっきり知っていたのかと思ったけど……まぁいいか。こんなことになった以上、遅かれ早かれ暴かれる事実だ」

 

 と言って、リオンはあっさりと、和人にとっては余りにも衝撃の真実を伝える。

 

 

「“始祖”である僕以外の吸血鬼は、みんな元々は人間だよ。――まぁ、黒い球体から言わせれば、地球人というべきかな」

 

 

 人間――地球人。

 

 和人はそれを聞いた瞬間、目の前が真っ暗になるのを感じた。

 

 人間のようだ、とは、何度も思った。

 昨夜のミッション終わりに乱入した時も、夕方に襲われた時も、そして、あの剣崎と剣を交わした時も。

 

 だが、それでも、奴等は化け物に変身したし、人間離れした――化け物染みた力も持っていた。ガンツも、奴等をオニ星人だと言って、星人として標的にしていた。

 

 だから、奴等は化け物だって、殺すべき敵だって――

 

(――アイツは……比企谷は、知っていたのか?)

 

 こじつけかもしれない。いや、こじつけというより、やはり八つ当たり、逆恨みなのだろう。自分達よりは色々なことを知っていて、それをこちらに隠す秘密主義めいたあの男でも、こんな情報を知り得たとは思えない――が。

 

 それは、今は考えるべきことじゃない。そんなことを考えている場合じゃない。

 

 大事なのは、化け物になっていたとはいえ、元人間の命を、幾つも和人が、この手で奪ったということ――そして。

 

「……化物に……剣崎や……人間達を……吸血鬼に、変えたと言ってたな?」

「ああ。僕が、彼等を吸血鬼にした。人間を吸血鬼にした。まぁ、始祖の――純然たる吸血鬼である僕からすれば、それでも只の吸血鬼もどきなんだが。君達からすれば等しく化け物だよね」

「…………それは、お前が、彼等の血を吸って――吸血鬼に、したのか?」

 

 和人はどこかで聞いたような、多くのゲームによって身に付けたVR産の吸血鬼知識からそう尋ねた。

 

 だと、すれば。もし、そうだとすれば。

 

 ここで、この幼女を――始祖を、殺せば。

 

 もう、吸血鬼は――化け物になる人間は、いなくなるのか?

 

 衝撃による混乱が治まらず、上手く働かない頭で、和人はそう考える。

 リオンを睨み付け、二刀を持つ手に力が入る。

 

「……………………」

 

 そんな和人の殺気を受けて、狂死郎が腰の日本刀に手を添える。

 リオンは、そんな狂死郎の頭に、その小さな手をポンと乗せ、にこっと微笑む。それを受けて、狂死郎はあっさり刀から手を放した。

 

「残念ながら、それは違うよ。僕が血を吸って眷属に――家族にしたのは、この狂死郎だけだ。信じるも信じないも、君の自由だけどね?」

「………は、はぁ? だ、だって、お前……お前が! お前が奴等を、吸血鬼にしたって!」

「ゴメンゴメン、僕の説明が足りなかったね」

 

 癇癪を起こした情緒不安定気味の子供のように喚く和人を、まるで大人のように幼女のリオンは諫める。

 

 そしてリオンは――1000年以上生きる始祖の吸血鬼は、まさしくその年齢に似合う大人な語り口で、幼女の舌足らずの声で、その物語を語り始めた。

 

「彼等を吸血鬼にしたのは僕――正確には、僕の“灰”だ。だいたい1000年くらい前かな。僕が自殺して、死に損なった時の遺灰だよ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Sideリオン――とある吸血鬼の一人語り

 

 

「それじゃあ、少し長い話になるけど、聞きたいかい? 僕は話すことは嫌いじゃないから、というより大好きだから、聞いてくれるなら話すこともやぶさかじゃあないよ。――ん、そうかい。ありがとうね。歳を取ると、君みたいな若い子と話すのが、何よりの楽しみなのさ。そうだね、まずはそんな切り口から話し始めるとするかな。

 

「僕はこう見えても凄く長生きなのさ。吸血鬼だからね。詳しい年齢は覚えてない。1000から先は数えるのを止めちゃった。歳を取ると一年経つのがあっという間というけれど、それはまさしく本当の話でね。途中から『あれ? 今ってもう年越したっけ?』ってのが何回もあって。数えるのを止めたというよりは、自分を――自分の年齢を見失ったという方が正しいけれど、まぁどっちにしろ、1000を超えたら2000でも3000でも一緒だよね。とにかく僕はめちゃくちゃお婆ちゃんってことさ。実際にお婆ちゃんとかいったらブチギレるけどね。オコなんかじゃ済まないし、済ませないけどね。女の子はいくつになってもレディだし、レディに年齢の話はご法度ってことさ。

 

「……ん? 見た目? なんで可愛い幼女なのかって? ああ、これには理由があるんだよ。純然な吸血鬼がみんながみんなロリッ子やショタっ子って訳じゃない。そんな一部のマニアしか喜ばないような設定じゃないさ。確かに吸血鬼は不老不死だけれど、不老不死だからこそ、最も肉体的にスペックの高い十代後半から二十代前半の肉体年齢で固定してるのが普通だよ。だからといって、別に僕がロリボディを好き好んで選んでいる訳でも、狂死郎の趣味に合わせてるわけでもない。まぁ、狂死郎の趣味は否定しな――あ、痛い、ごめんて、ちょっとしたジョークじゃないか、こんなことで主に手を挙げるなよ。ったく、忠誠心のない眷属だなぁ。

 

「ああ、ごめんイチャつかないで話を進めろって。そうだね、こんだけ話してまだ何も進んでないね。歳を取ると話すのが楽し過ぎてすぐに脱線していけない。ええと、どこまで話したっけ? ああ、なぜ僕がロリボディなのかって話だっけ。哲学的だなぁ。まあ、真相は哲学的でもなんでもないんだけどね。

 

 

「ただ一人の馬鹿な吸血鬼が、カッコつけた自殺に失敗して、死に損なって、無様に今日まで生き長らえている――ただそれだけの物語に過ぎない。

 

 

「それじゃあ、前置きが長くなってしまったけれど、語り始めるとしようか。いつの間にか、こんな星に流れ着いた、たった一人のろくでもない鬼の物語を。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「既に分かっているとは思うけど、僕は宇宙人だ。

 

 

「君達が言うところの“星人”って奴だね。黒い球体は彼等のことを――僕達のことをオニ星人と称したようだけれど、正確には僕こそが、僕だけが正真正銘のオニ星人なのさ。

 

「どんな星からどうやってこの地球に辿り着いた、とかの話は省略するよ。気になるだろうけれど、今回の、どうして元々地球人だった彼等がオニ星人に――吸血鬼もどきになってしまったのかという話とは何ら関係がないからね。まぁどうしても気になるなら、後でググってくれよ。正直の所、僕自身すら記憶は曖昧なんだけどね。なんせ1000年以上も前のことだからさ。ホームシックとかはとうの昔に通り過ぎたよ。

 

「まぁなんだかんだあって、無事、この地球という美しくも愚かしい星に辿り着いた愚かな吸血鬼であるところのこの僕は、とりあえず途方に暮れたのさ。着いて早々することがなくなった。いきなり未開の地にひとりぼっちで放り出されて、ぽけーと空を眺めていたのさ。

 

「ん? なんか目的があって地球に来たんじゃないのかって? そんなこと言われてもなぁ。別の惑星に飛び出すくらいだから、当時の僕はそれなりに熱いモチベーションとかなんか高尚な使命とかを持っていたのかもしれないけど、いざ辿り着いてみると、びっくりするくらいやる気が起きなかったんだ。いやぁ、あの時の僕は若かったねぇ。具体的に何歳だったかは覚えてないけれど。

 

「世界征服とか、人類滅亡とか、そんな感じの命を受けてたんだと思うけど、たぶん僕のことだから、その辺は建前だね。

 

「自由が欲しかったのさ。誰も同族のいない遠い地で、遥かなる青き惑星で、自由気ままに吸血鬼生を謳歌したかった。うん、おそらくこんな感じ。こっちの方がよっぽど僕らしい。これで行こう。

 

「でも、余りにも自由過ぎたんだろうね。右も左も分からず、どうしたらいいか分からず、途方に暮れた。これまた実に僕らしい。どれだけ実家で甘やかされていたか分かろうというものだ。こう見えても、僕はいいところの箱入り吸血鬼だったからね。だからこそ自由に憧れたんだろうが、得てしてどんな綺麗な夢や理想も、厳しく辛い現実に打ち砕かれるものだ。現実なんてこんなもんだ。なぁ、愚かだろう? でも、僕の愚かはここからなんだ。僕という吸血鬼はどこまでも愚かなんだよ。

 

「そんな風に、どれだけ無気力に無鉄砲に過ごしただろうか。偶にお腹が空いたら擦れ違った誰かさんに(かぶ)り付いて殺すまで血を吸った。選り好みはしなかったよ。片っ端だった。人間、獣、化物――なんでもござれだ。偶に自分に似た、吸血鬼に似た化物さんとも出会ったけれど、まぁ、本当の同族でもなければ問題なく血を吸えるから吸い殺して、そんで人間って生き物の血が一番美味いなぁ~なんて気づいた頃、一人の人間に出会ったんだ。

 

「それが、こいつ――狂死郎。出会った頃のこいつは、とにかく生意気で、生まれて初めて出会う、僕の思い通りにならない奴だった。まぁ、その時の僕は、その時の狂死郎以上に生意気で、未だに箱入りクイーン気取りが抜け切れてない愚か者だったから、それはもうコイツの事が気に入らなくてねぇ。

 

「殺してやろうかと思ったくらいさ。あの時の僕は若かった。具体的にいくつかはやっぱり覚えてないけどね。

 

 

「そこから先は、狂死郎とつるむようになった。祝・ぼっち脱却だ。

 

 

「え? 殺すとか言ってたじゃんって? やだなぁ。気に食わない相手を手当り次第にぶっ殺すほど、僕は狭量な吸血鬼じゃないぜぇ。さっきと言ってることが違う? まぁ細かいことを言うなよ美少年。物語に脚色は付き物だぜ。

 

「普通にありのままにあっさりと暴露すると、殺さなかったんじゃなく、殺せなかった。うん、殺そうとはした。そこは認めよう。若気の至りだ。許せ。

 

「そう、殺せなかった。全盛期の僕が。吸血鬼の能力を十全に使えた僕が。当然ながら剣崎達みたいな吸血鬼もどきよりも数段も数十段も数百段も強い――強かった当時のあの僕が。これまた当然ながら当時は人間だった狂死郎を、殺せなかったんだ。全く我が眷属ながらとんでもない奴だよ。まぁ僕に傷一つつけることは出来なかったけれど、どれだけ傷を負っても僕に殺されなかったというのだから賞賛に値する。絶賛に値したね。

 

「だから誉めたんだ。やるぅーって。一目置いた。見直した。こいつ只の生意気な人間(やろう)じゃねぇぞって。そっから僕は狂死郎に付き纏ったんだ。狂死郎は露骨に嫌な顔してたけどね。変なのに絡まれたって。やっぱり殺してやろうかと思ったよ。まぁ狂死郎にとってはその時の僕って、いきなり唐突に殺そうとしてきた上に、なんかやるぅーとか言ってきて、そのまま付き纏ってくる訳分かんない奴なんだから、そんな塩対応も当然だよね。っていうか、今から考えたら露骨に嫌な顔をした後は平然と背中を見せてガン無視してたんだから、やっぱり狂死郎は只者じゃない。僕の目に狂いはなかったっていうか、コイツ普通にやべぇんじゃねぇのって感じたね。色んな意味で。

 

「まぁ狂死郎がやべぇのは今に始まったことじゃないって再確認したところで、物語を進めよう。狂死郎のことは気に入ったけれど、この時はまださっきも言った通り眷属にしてないし、する気もなかったんだ。精々が、なんか面白い人間がいるからどうせ僕は不老不死だし偶には一人の人間の人生をじっくり観察するのも面白そうだから見て見よう! って感じで、なんかマンガとか映画とかを見る感覚で、狂死郎という人間を観てたんだ。娯楽として。物語として。まさしくヒューマンドラマだね。

 

「そもそもが、この星の人間――というより生き物を、吸血鬼の眷属に出来るのかどうかも、当時は知らなかった。分からなかった。軽く眷属を作るなんていうけれど、僕達吸血鬼にとって、実は眷属作りってかなり重要で重大なんだぜ。なんせ一人の、一体の新たな吸血鬼――生命(いのち)を作るんだから。ノーリスクなんて有り得ないさ。

 

「まず第一に、生粋の、純然の、混じりっ気のない正真正銘の吸血鬼でなければ、眷属は作れない。こんなものがいるかどうかも知らないけれど、ハーフヴァンパイアとかじゃダメだ。吸血鬼性を帯びただけの人間なら――剣崎達みたいな吸血鬼もどきなら、普通の生殖行動で子供産むことは出来るかもだけど、子供にも吸血鬼性が宿るかもだけど、それはやっぱり吸血鬼もどきであって、吸血鬼じゃない。眷属作りは、まさしく純然な正真正銘の吸血鬼を作るものだから、そんなのとは似ても似つかないものだ。どこかの戦闘民族みたいに混血の方が強いなんてことは有り得ないんだぜ。

 

「そして第二に、その元となる、主となる、親となる吸血鬼が、強力で、高位で、凄まじい程、その眷属作りの難易度も上がる。これは意外な事実かな。でも考えて見れば単純だよ。その親の吸血鬼力に、子供の素体の方が耐えられないんだ。

 

「受け入れきれない。受け止めきれない。器が、耐えられない。

 

「吸血鬼の眷属作りに置いてはね、鷹は鷹を生むことが確定なんだ。絶対に鳶は生まないし、生まれない。

 

「優秀な吸血鬼の眷属は主に匹敵するくらい優秀で、最強の吸血鬼の眷属は負けず劣らずに最強の吸血鬼になるんだよ。

 

「逆に言えば、その最強の吸血鬼になれるくらいの素体でなければ、その吸血鬼の眷属足りえない。眷属になれずに、そのまま血を吸われて死ぬんだ。死ぬだけなんだ。灰になってね。

 

「黒灰になってね。死に様だけは、吸血鬼と同じように死ぬんだ。

 

「だからこそ、意外に吸血鬼はあまり眷属を持たないんだ。弱い吸血鬼はたくさん眷属を作れるけれど、あんまり作ると眷属同士が結託して主を殺したりするからね。弱い吸血鬼の眷属はやっぱり弱いけれど、それでも数は力だ。それに、眷属の方は吸血鬼に()()()()()身分なんだ。恨みに思われても、殺意を抱かれても、まあしょうがないとは思わないかい?

 

「もどきとはいえ、結果としてたくさんの吸血鬼を生み出した僕が言うべきことではないかもだけどね。そうだね、話をそちらに戻そうか。また脱線しかけたね。

 

「どこまで話したっけ……そうだ。僕は最強だという話だね。そうだね、僕は最強――最強クラスの吸血鬼だったんだ。

 

「こう見えても、僕はエリートなんだぜ。なんたってお姫様だからさ。王家の長い歴史でも類を見ない天才児とか持て囃されちゃって。だからこその箱入りクイーンだったのかもね。

 

「あんまり好かれる子供じゃなかったよ。強かったからね――最強すぎる程に。

 

「だからこそ、僕は一生眷属なんて作らないだろうと思ってた。こんな最強の僕の眷属になれるような最強なんて、宇宙の何処を探しても見つかるとは思えなかったし。

 

「だがまぁ結果として、僕は狂死郎を眷属にすることになるんだけれど――そこには聞くも涙、語るも涙も壮絶な物語があるんだけれど、それはまぁいいだろう。語るとしたら別の機会だ。あればだけどね。

 

「とにかく大事なのは、その物語の中で、その物語の結末で、僕は――

 

 

「――死にたくなった、ということさ。バッドエンドを迎えたんだ。みんなが不幸になって終わりを迎えた。そうだ、自殺しようと、思い立つ程にね。思い詰める程にね。

 

 

「さて、ここで君に突然だが、吸血鬼の死因ランキングを発表しよう。デデン。

 

「ドゥルルルルルル、バン。一位はなんと――自殺だ。ダントツでね。他にはさっき言った、眷属に殺されたりとかを含めた同士討ち、同族殺し。または他種族に殺されたり。とまぁそんな事例もあるが、先程も言った通り、吸血鬼は基本、不老不死だ。

 

「不死身だ。死なない身体を持つ種族だ。滅多なことでは殺されないし、死のうと思っても死ねる身分じゃあ、ない。死ねる身体じゃあ、ない。

 

「それでもどうしても死にたい。死にたくて死にたくて堪らない。生きているのが辛くて恥ずかしくて堪らない。

 

「そんな時、吸血鬼はどんな風に自殺するか――決まってる。

 

「自分よりも、最強の吸血鬼でも、及びもつかない程に圧倒的な存在。

 

「太陽に――殺してもらうのさ。お天道様に焼き殺してもらうのさ。こんがりとね。

 

「現代の吸血鬼伝説と言ったら、色んなフィクションの情報がごちゃごちゃしてて、なんだか弱点だらけの笑える存在になってはいるけれど、それでもこれは正しい情報だ――吸血鬼は、太陽に弱い。太陽には敵わない。

 

「僕達吸血鬼は夜行性なんだよ。太陽を避けるんだ。太陽から逃げるんだ。弱い吸血鬼なら、それこそ一瞬で灰になるからね。

 

「だからこそ、彼等吸血鬼もどき達も昼間は“擬態”して身を守ってるわけだが――おっと、これは喋り過ぎだね。いくらなんでも彼等に申し訳なさすぎる。っていうか篤に怒られちゃう。

 

「まぁそういうわけで、自殺を決意した僕は、太陽の下に身を投げ出したのさ。けど、さっきも言ったけど、僕は最強の吸血鬼だったからね。その不死身力も半端じゃあなかった。

 

「焼身自殺に失敗したんだ。死ねなかった。いや、正確には死にきれなかった。

 

「体は焼けた。当時は十代後半の、まさしく絶世の美女の姿だった僕――いや、嘘じゃないよ。ボン、キュ、ボンを体現したかのような美女だったんだ。まぁそんな僕の魅惑の身体を、小麦色どころじゃなく、皮膚が爛れるまで焼いたんだ。

 

「でも、そこから健康的な白い肌が再生した――炎の中でね。焼けるそばから再生し、再生するそばから焼かれたんだ。その繰り返し。地獄の繰り返しだった。

 

「さすがに死ぬかと思った。いや、死のうとしたんだけど。死んだ方がマシだと思える苦しみだった。いや、だから自殺してたんだけどね。それが、何日も、何日も続いた。

 

「そして、どれだけ経ったか分からない。そんな自殺の日々が、唐突に終わりを告げた。

 

 

「僕の身体を包んでいた紅蓮の炎が、真っ黒の炎に包まれて――焼かれたんだ。

 

 

「炎が、別の炎によって、焼かれた。燃えた。これ以上ないくらい、荒っぽい消火方法だった。

 

「そして、その炎の中を、一人の男が突っ込んで来て――僕を抱き締めた。

 

「その時には既に僕の自殺は殆ど完了していて、強引に自殺を中断された僕の身体は、みっともない幼女になってたけれど、それでもその男は、構わず僕を抱き締め続けた。

 

「そして、言ったんだ。『勝手に人を吸血鬼にして救っておいて、自分だけ死んで楽になろうなんて許さない。責任取って、俺と一緒に永遠を生きろ』って……中々、熱いプロポーズだよね。炎の中だけに」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「こんな形で、愚かな吸血鬼の愚かな自殺騒動は幕を閉じたわけだが、めでたしめでたしとは、残念ながらいかなかった。

 

「ここで、話は最初に戻る――灰だ。僕が幼女になったのは、僕の身体の殆どが灰となって、黒灰になって、世界中に、この地球中に散っていったからなんだ。

 

「僕の灰が――死に損なった遺灰が、燃え上がって、煙となって、大空を舞ったんだ。僕の――正真正銘の吸血鬼の黒灰が、風に舞って、風に乗って、全世界へと広がった。

 

「だからこそ、僕は“始祖”なんだ。全ての吸血鬼の、母であり、元であり、主であり、始まりの祖先。

 

 

「君が戦った吸血鬼もどきも含めて、全ての吸血鬼は、僕の灰を体内に取り込んだことで、吸血鬼となったんだ。彼等は――ナノマシーンウイルスと呼んでいるみたいだけどね。

 




紅蓮髪の吸血鬼は、朗々と悲劇の起源を一人語る。


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長生きは、するもんだな

 Side和人――とある駅の近くの大通り

 

 

「――僕の語れる物語はこんなところかな。所々豪快に飛ばしたけれど、だいぶ長くなっちゃったね。何か質問はあるかい?」

 

 吸血鬼の語る鬼の物語を聞いて、和人は愕然としながらも、必死に事態を呑み込もうと努力した。

 

「……その、ナノマシーンウイルスとかいう……お前の灰は、どんな人間も吸血鬼にしてしまうのか?」

「いいや? どうやら適応する人間とそうでない人間がいるみたいでね。適応する人間は、本当に数%さ。まぁ人間っていうのはうじゃうじゃいるから――というより増えたから、数%って言っても相当な人数になるんだけどね。その適応率も個人差があるみたいだし」

 

 適応率――それは、剣崎が言っていた幹部という奴だろうか。

 

 同じ灰を取り込んで吸血鬼もどきとなった彼等でも、その吸血鬼度に差があるのだろう。

 

 そして、その適応率が高いほど、よりリオンの灰に――細胞に適合し、よりオリジナルの吸血鬼に近づける。より、化け物の力を引き出した、化け物となれる。

 

「…………お前達は――何が、目的なんだ?」

「ん? 目的?」

 

 和人が俯きながら発した問いに、リオンが首を傾げる。

 顔を上げ、蒼白した顔を向けながら、和人は始祖の吸血鬼に噛み付くように言った。

 

「意図してなかったとはいえ、結果的に――もどきといえ、お前はたくさんの吸血鬼(どうほう)を手に入れた。これから……どうするんだ? 何をするつもりなんだ? やっぱり、気を入れ替えて、世界征服とか、人類滅亡とか、そんなことを目論んでるのか?」

「いいや、全然」

 

 リオンは訳が分からないというきょとん顔で、和人の問いを否定した。

 

「――え?」

「いや、こっちがえ? だよ。そんなことして今更どうしようっていうのさ。暮らしにくくなるだけじゃん。あ! もしかして、この戦争は僕が命じたって思ってる? 違う、違うよ、全然違う。酷い冤罪だ。これは黒金の独断。僕は基本的に放任主義で、難しいこと全部篤に任せてるから、そういうのは興味ないよ」

 

 まぁ殺されそうになったら殺すけどさ~と、リオンは首を振る。

 

「じゃ、じゃあ! お前達は、此処に――池袋に何しにきたんだ? まさか、俺にさっきの話を聞かせにきたんじゃないんだろう?」

「そりゃあそうだよ。ぶっちゃけ、もうハンターはみんな死んでると思ってたからね。それでもここに来たのは、何体かは殺されてるかもと思ったから、その回収に来たんだよ」

「……回収、だと?」

 

 そこでリオンは、初めてよっと狂死郎の肩から飛び降りて、地面に立つ。

 そして、てててと和人の横を走っていき、地面に倒れる剣崎の傍に寄った。

 

「吸血鬼もどきは元が人間だから、結構あっさり死んじゃうし、その引き出した吸血鬼性によってそれなりに寿命も延びるけど、不老不死には程遠い――でも、それでも吸血鬼ではあるから、死んだら吸血鬼の黒灰を出すんだよ」

 

 生粋の吸血鬼のようにすぐに灰になる訳ではないが、死体が腐敗していくにつれ、徐々にその黒灰を屍が発していく。

 

 それが、吸血鬼もどきの――本物の吸血鬼に成りそこなった、それでも人間ではなくなってしまった、化け物の、成れの果て。

 

 そして――

 

「――その灰が、また風に乗って世界の何処かへ運ばれ、新たな吸血鬼を生み出すんだ」

「っ!!? そ、それじゃあ、何体殺したところで――」

 

 吸血鬼は、生まれ続け、絶滅しない。滅び、絶えない。

 

 その明かされた真実に絶望しかけ、俯いた和人を余所に、リオンは軽く、可愛く告げる。

 

 

「だから――いただきます♪」

 

 ガブチャァ!! と、生々しい――捕食音が響いた。

 

 

「え……………」

 

 和人は、その音にゆっくりと振り返る。

 

 そこでは、紅蓮の髪の幼女が、獣のように四足を着いて――剣崎の死体を貪っていた。

 

 死肉を、屍を、食い散らしていた。

 

「な――な、何を――ッ!!」

 

 和人は止めさせようとして駆け出すが、その肩を狂死郎に掴まれる。

 

「――ッ! 何で止めるんだ!?」

「言っただろ。回収だ」

 

 狂死郎の言葉は余りに言葉が足らない。

 ぎんっ! と睨み付ける和人の表情から、それを狂死郎も悟ったのか、更にこう言葉を続けた。

 

「リオンがああして死体を体内に戻すことで、黒灰を放つ前に回収する。言うならば、元々は“自分”だった黒灰を、ああやってリオンは自分の身体に戻しているんだ」

 

 まさしく、回収。

 リオンという【始祖】から世界に撒き散らされた黒灰を、リオンが自ら回収して回っている。

 

 これが、このアフターケアが、基本的に世俗と係わらずに傍観主義を通している始祖と懐刀が、こんな都会の戦場に現れた理由。

 

「だ、だからって!! アイツは……あの体は……元々は人間なんだぞ! それを食うなんて――」

「何を言ってる?」

 

 狂死郎は、ただ淡々と冷たく、その氷のような蒼眼で和人に告げる。

 

「剣崎を殺したのは、お前だろう?」

「――ッッ!!」

 

 和人は狂死郎の言葉に、肩を掴まれた腕を思い切り振り払い、拳を握り締めて、歯を食い縛る。

 

(………その通りだッ!)

 

 決して後悔しているわけではない。殺さなければ、こちらが殺されていた。それが決闘で――それが戦争なのだから。

 

 それでも、化け物として――化け物相手として、ある種割り切っていた自分の行いが、剣崎が元は人間だったという事実で、揺らいでいる。揺らいでしまっている。

 

 和人のそんな姿をどう捉えたのか、狂死郎は淡々とした言葉で、和人を慰めるようなことを言った。

 

「気にすることはない。アイツに剣を教えた、俺が保障する。お前は強い。負けた――殺されたアイツが、未熟だっただけだ」

 

 確かに、剣崎もそう言って死んでいった。

 剣崎を殺したことを後悔するということは、あの戦いを、剣崎の死に様を否定することになる――だが。

 

(……これは……そんな風に、カッコつけた言い分で……自分に都合よく受け入れていいものなのか……ッ!?)

 

 和人は、か細い声で、背後から咀嚼音が響く中、狂死郎に言った。

 

「……お前は……剣崎の師匠なんだろう? ……そんな風に、弟子の死を……簡単に受け入れられるものなのか?」

 

 その言葉を聞いて狂死郎は、和人の若さと青さを微笑むように、小さく笑みを作りながら。

 

「…………1000年近く生きてきて、初めて取った弟子だったからな。何も思わなくもない――と、思っていたんだが」

 

 その男は、そのまま優しい笑みで、けれど、まったく感情を感じさせない微笑みで、和人に言った。

 

「弱い奴が死んだ――やっぱり、ただ、それだけのことだな。……随分、俺も吸血鬼に染まった」

 

 その笑みは、弟子の死に何も感じない自分に苦笑しているようで、けれど、そんな自分を悪くないと思っている。そんな笑みだった。

 

「…………っっ!!」

 

 和人は、そんな狂死郎から一歩、ザッと後ろに後ずさる。

 

(……ダメだ。こいつは……やっぱり、こいつ等は………化け物だ)

 

 人間とは相容れない、根本から違う異生物。

 

 既に、この男は、元人間ですらない。完全に――只の、最強の、吸血鬼。

 

「…………そうだな。ちょっと、やろうか?」

「……なに言って――ッ!?」

 

 完全に警戒心を露わにした和人を見て、狂死郎は髭も生えていない顎に手を当て、そうポツリと呟くと――

 

 

――ゾッッ!! と、凄まじい殺気を唐突に撒き散らした。

 

 

 和人は大きく飛び去るようにして距離を取り――着地の際に膝の力が抜けかけ、頭がぐらりと揺れた感覚を覚えた。

 

(――ッ!? な、なんだ、これ――!?)

 

 それでも和人は、歯を食い縛ってガッ! と、強く一歩を踏み出し、倒れるのを堪える。

 

 それを見て狂死郎は更に笑みを深め、剣崎の腸に顔を突っ込んでいだリオンは口周りを真っ赤に血で汚した顔を上げ、はーと感嘆の声を漏らす。

 

「凄いね、狂死郎の覇気に耐えられるなんて。まぁ狂死郎も全力じゃないんだろうけど」

「……ああ。剣崎を倒したというのは、間違いなさそうだ」

 

 少なくとも剣崎クラスなら膝を着くレベルの覇気を放ったつもりだった狂死郎だが、それに見事に堪えきった和人に、狂死郎は鷹揚に頷くと、ゆっくりと白鞘からその日本刀を抜き出していく。

 

「お前、名前は?」

「……桐ケ谷だ」

「そうか、桐ケ谷。悪いけど、君がかなりの数のもどきを倒したおかげで、リオンの食事が結構長引きそうだ」

 

 そして、シャリン! と美しい鈴の音のような音を響かせながら、その刀身を露わにした。

 

 その刀身は、美しい鞘の白とは対照的の、自身の髪のように墨のような黒。

 

 自身のそれとはまた別の美しい黒刀に、和人は目を奪われながら、その狂死郎の言葉を聞いた。

 

 

「少し、手合わせ願えるか? ――大丈夫だ、殺しはしない」

 

 

 和人は二刀を構えはするものの、その表情は険しい。

 

 剣を交えるまでもなく分かる。この男は――

 

(――俺よりも、遥かに強い………っ)

 

 和人は内心の恐れを隠して、狂死郎に向かって言う。

 

「どういう……ことだ? 死体回収のついでに、俺達を殺して回るのか?」

「まさか。そんな面倒なことするわけないだろう。お前達は殺しても。殺しても殺しても。あの黒い球体が無限に補充するのだから」

「…………だったら、どうして?」

 

 狂死郎の、これまで何度も黒い球体の部屋の戦士と戦った経験を匂わせる発言に少し引っかかりを覚えるも、和人はそこには触れず、ただ動機を問い返す。

 それに対し狂死郎は、黒刀を片手に構えながら「言っただろう。只の手合わせだ」と言い、更にこう続けた。

 

「お前が剣崎を()ったことで、もう歯ごたえのある剣戟相手がいないんだ。氷川は俺のことを目の敵にしているから、滅多に付き合ってくれないしな。だから、やれる時に、実のある修行をやっておきたいんだ」

「…………修行、だと?」

 

 和人は狂死郎の言葉に眉を険しく顰める。

 リオンは「まったく、この剣術馬鹿め」と笑顔で言い、そのままはぐはぐと死体喰いに戻った。

 

(――――くそッ! やるしかないのかッ!!)

 

 本来なら自分達を狙っているのではないという言質を得ている以上――それを信じるとして――このまま狂死郎達に背中を向け、一目散に逃げ出し、ある程度逃げたところでマップを開き、生き残っている仲間の位置を探して合流に向かうべきだ。

 

 だが、和人はこの男に背中を向けられない。

 

 それは、剣士としての矜持というより――恐怖。

 

 本能として――剣士としてか、生物としてのかは分からないが、とにかく本能的に。

 

 この男に――この剣士に、この化け物に。

 

 隙を見せたら、背中を見せたら、その時点で――

 

(――ころ、される…………っ)

 

 こんな怖い相手は、今まで出会ったことはなかった。

 

 SAOでのヒースクリフよりも、この男は絶対だ。

 GGOでの死銃デスガンよりも、この男は恐怖だ。

 

 二刀を持つ手が震える。

 歯がカチカチと音を立てそうになるのを、鍍金の勇者は必死に噛み締めて誤魔化した。

 

「じゃあ、始めるぞ」

「――ッ!!」

 

 和人はその言葉と共に、反射的に腰を落とし、片足を引いて、二刀をハの字に力強く構える。

 

(――ッ!! 目を見開け! 動きを捉えろ! 恐怖を消せ! 絶対に――)

 

 

 

 

 気が付いたら、宙を舞っていた。

 

 

 

 

(――――え?)

 

 そして、その時に、ようやく轟音が耳に――そして、脳に激痛の信号が届いた。

 

「――――が――――はッ!?」

 

 ガシャァァン!!! という音と共に、ガンツソードと、黒の宝剣が砕け散る。

 

 そして、地面に叩き着けられた。

 

 グシャと落下した和人を見て、狂死郎は思わず呟く。

 

「……あ」

「あ、じゃないよ、狂死郎。あれは明らかにやり過ぎだろう。君らしくもない」

 

 先程まで和人がいた位置で、振った黒刀を肩に担ぐ狂死郎。

 呆れるリオンの言葉に、だが彼は、全く反省の色を見せない笑顔で答えた。

 

「いや、リオン。……アイツ、俺の剣を――“剣”で受け止めていた」

 

 それはつまり、狂死郎の攻撃に、それでも反応してみせたということ。

 結果として二刀を失い、大きく吹き飛ばされはしたけれど、それでも和人は反応してみせたのだ。

 

 狂死郎は、それだけでもいい修行になったと満足して、リオンの方を向いて問いかける。

 

「……どうだ、リオン。食べ終わったか?」

「けぷ。とりあえず、剣崎はね。まだ、名前も知らない同胞(もどき)達がちらほらと残ってるけど、こっちは剣崎よりは時間はかからないと思うよ」

「……そうか」

 

 なら、あとは剣でも振って待っていようかと思った狂死郎は――

 

「…………」

 

 気配を感じ、その方向に目を向ける。

 

 

 

 桐ケ谷和人が、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。

 

 

 

 ぐらりと揺れる膝を必死で立て直して、二刀で支えようとするも、刀身を失っているそれにバランスを崩し、前のめりに倒れ伏せる。

 キュインキュインと悲鳴を上げるスーツは、その金属部からドロドロとした液体を垂れ流していた。

 

「……もういいぞ。俺は満足した」

 

 一応狂死郎はそう声を掛けるが、その目と口元は、彼が再び瞬時に臨戦態勢に入っていることを示していた。

 

 今までの経験上、分かる。

 こうなった奴等は、剣士という生き物は、意識を失うまで、その剣を振るい続けると。

 

 死ぬまで諦めるのを止めず、瞳から殺意を流し続け、剣から手を離さない――剣士とは、そんな馬鹿で愚かな生物だと。

 

「…………ま、だ…………だぁ……」

 

 和人の意識は、既に朦朧としていた。

 訳も分からず叩き込まれ、吹き飛ばされた謎の一撃。これだけで、和人の心身共に深く刻み込まれた。

 

 今の自分では、この剣士には、遥か遠く及ばない。

 どれほど遠いのかも分からない。どれほど高い頂なのかも想像もつかない。

 

 それほどに、剣士として、この男は――強い。強すぎる程に――最強だ。

 

 だが、それでも――勝ちたい。

 

 スーツの力が死んでいく。スーツの魔法が解けていく。

 もう、完全に、鍍金の勇者は只の桐ケ谷和人に戻っていた。

 

 力の入らない足を、力を入れただけで激痛が走る身体を、それでも必死に奮起させる。

 前すらはっきり見えない。今にもプツンと切れてしまいそうな意識を、唇を噛み締めて――噛み千切って必死に保ち続ける。

 

 勝ちたい――負けたくない。

 

 誰よりも強い剣士で在りたい――(これ)でだけは、誰にも……死んでも、負けたくない。

 

 この男が今回のミッションに何の関係もないとか、ここで万が一この二人を殺したら今後も吸血鬼が増え続けるとか、そんなことは最早、頭の片隅にも無くなっていた。

 

 ただ、勝ちたかった。負けたくなかった。やられっぱなしは――悔しかった。

 

 意識が混濁して理性がなくなると、表に出てきたのは、そんな理論を吹きとばした超理論だった。

 

 恐怖が消えて、迷いが消えて、ただ欲望だけが表に溢れ出てきた。

 

 例え勝てなくても、相手が最強でも――いや、勝てないからこそ、最強が相手だからこそ。

 

 

「――勝ちたいんだ」

 

 

 そう呟く和人に、狂死郎は薄い笑みを浮かべた。

 

 木造の柄を握り締めて、墨色の刀身を肩に担いだまま、ゆっくりと、足を引き擦って向かって来る和人を待つ。

 

 和人はぐらりと前のめりに倒れ込みそうになり、そして、ガッ! と強く地面を踏み締め、吠えながら駆け出した。

 

 

「…………にッッ!! 勝ちたいんだよ!!」

 

 

 和人は腰にぶら下げた――光剣の柄を取って、横に一振りし、紫色の刀身で闇夜を切り裂く。

 

「うぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおお!!!」

 

 これまでの動きと比べて、明らかに精彩さに欠け、動きも鈍重なその特攻。

 

 だが狂死郎は、一切心に油断を持たず、その愚かな剣士の闘志を受け止めた。

 

 

 それが、1000年もの間、最強の剣士として君臨してきた侍の、最強としての在り方だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「げぷ。うぅん、食べた食べた。こんなに死体が一度に出るのは久しぶりだな。この分だとまだまだ死んでるだろうし……こりゃあ、しばらくダイエットかな。女の子として。っていうか幼女として」

 

 でも、これだけ回収すれば童女くらいには戻れるかな?

 

 と、ルンルン気分で狂死郎の元に戻ると、そこでは――

 

 

 

――ドガッッ!! と和人の腹に木造の柄を叩き込む狂死郎の姿があった。

 

 

 

 和人はカランと光剣を落としながら、ガクリと体から力を抜かし、今度こそ完全に意識を手放した。

 

「……まぁ、そうだよね」

 

 順当な結果だ。当然の結末だ。

 だが、リオンには和人を哀れむ気持ちも、ましてや嘲笑する気持ちなどなく、ただいつも通りの狂死郎の勝利に、いつも通りの感想を持つだけだった。

 

「お疲れ、狂死郎。どうだった、彼は?」

「ん。中々だった」

 

 まぁ、そうだよね。と思いながら、そのままぴょんと狂死郎の肩に乗って――

 

「――っ! ……狂死郎……それ」

 

 リオンが手を伸ばすと、どろりとした感触の液体が指に付着する。

 

 狂死郎の頬には、一筋の刀傷が出来ていた。

 

「……ああ」

 

 狂死郎は、その傷を親指でぐっと拭う。

 傷はすぐさま何もなかったかのように塞がるが、狂死郎の笑みは変わらず浮かんだままだった。

 

「――リオン」

「なんだい?」

「長生きは、するもんだな」

 

 そして、その飢えた狼のような笑みのままで、地面に倒れ伏せる和人を見遣り、こう語り掛ける。

 

「――お前は、強くなる。いつかまた仕合おう」

 

 その、久しぶりに見る狂死郎の本当に楽しそうな顔に、リオンも思わず頬を綻ばせる。

 

「次は何処に行く、リオン?」

「うん。まだ化野は死んでないみたいだしね。火口と岩倉がやられちゃってるみたいだから、そっちに行こうか」

「了解」

 

 そう言って、リオンが手を翳すと、無数の蝙蝠が出現し、二人の身体を包み込む。

 

 

 そして、その蝙蝠が何処かへと飛んでいくと――そこには既に二人の姿はなく、この五叉路には、意識を失った一般人達と、うつ伏せに倒れ伏せる敗北者だけが残された。

 

 




鍍金の勇者――最強の“剣”に、敗北を刻まれる。


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……どうして、こうなっちまったんだろうな?

 Side??? ――とある池袋の南の公園

 

 

 南池袋公園には、大勢の人間達が集められていた。

 それは、主に若い女子供。

 一か所に固められた彼女等を、複数の異形の化け物達が囲むようにして言葉を交わし合っている。

 

 少し前までは、彼等は下卑た顔で彼女達を見て舌なめずりし、実際に頬を舐めて彼女達が流す涙を味わっていたような輩もいたが、彼女達は悲鳴を上げることも出来ず、ただじっと耐えることしか出来なかった。

 

 駅前から此処に移動させられるまでの間、彼女達の親や恋人達だろうか、彼女達を化け物から救い出そうと勇敢にも立ち向かった者達がいたが――呆気なく、そしてこの上なく無残にあっさりと惨殺された。

 心臓を貫かれ、頭をもがれ、両足を持って真っ二つに引き裂かれた者達もいた。

 その光景を目の前で見せつけられた彼女達は、事此処に至る前に、既にこの化け物達に逆らう気力を失っていた。

 

 彼等は自分達の牙を自慢げに披露して我等は吸血鬼だと自称し、彼女達に自分達の血液確保(しょくじ)の為に役立ってもらうと言っていたが、それならば、それだけならば、これだけ若い女の子だけを集められた理由にはならない。

 

 つまりは、そういうことだろう。そう言う目的も兼ねて、そういう愉しみも兼ねての人選で、誘拐なのだろう。

 

 それを彼女達も良く分かっている。理解して、理解させられて、その上で、絶望している。

 

 だが、そんな彼女達の中にも、一人――たった一人、こんな絶望的な状況でも、瞳から光を、目に力を失っていない少女がいた。

 

「…………結衣さん。ごめんなさい……ごめんなさい……っ。小町が……小町が無理矢理連れてきたせいで……本当に……ごめんなさい……」

 

 女の子の集団の真ん中で、体育座りで揃えた膝に顔を埋め、涙声で――比企谷小町は、もう何度目かも分からない謝罪を、隣に座り、己の肩を抱いてくれている少女に告げる。

 

「ううん、大丈夫だよ。小町ちゃんのせいじゃない。小町ちゃんがあたしを元気づけようと誘ってくれて、本当に嬉しかったんだから。……だから、もう泣かないで」

 

 小町の顔を無理矢理起こし、その真っ赤に染まった顔に流れる涙を拭いながら、由比ヶ浜結衣は笑いかける。

 

 その笑みは、この絶望に、この地獄に、決して屈していない、未だ強い力で満ちていた。

 

「……結衣さん」

 

 小町は由比ヶ浜に縋りついて、彼女の顔を見上げる。

 どうしてこの人は、こんな状況でも恐怖に屈さずに、強く在れるのだろう。

 

 いや、でも、これは――本当に、強さなのだろうか。

 

「――あたしは……こんな所で、死ぬ訳にはいかない……」

 

 だから、絶対に、負けない。

 

 そう呟く由比ヶ浜を見て、何故か小町は無性に怖くなり、更にギュッと、由比ヶ浜に縋りついた。

 

(…………お兄ちゃん……っ)

 

 その時、再び、ドゴォォォォン!!! と轟音が響く。

 

 小町を含めて、由比ヶ浜を除いて、一か所に固められた女の子達が揃って恐怖で身を固めている。

 

 これまでも幾度となくこれと同じような轟音が、何処からか断続的に響き続けていた。

 

「……なぁ、本当に大丈夫なのか? いくらなんでも、あまりに――」

「おい、テメー! 黒金さん達がハンターなんかに負けるとでも思ってんのか!」

「だ、だってよぉ……相手は、あの黒金さんが一目置いてた目の腐ったハンターがいるチームなんだろう? も、もしかしたら――」

「はぁ……オメーラいい加減にしろ。俺達が仲間割れしててもしょうがねぇだろ」

「だってよ! コイツが――」

「大丈夫だ。あの黒金さんだぞ? 火口さんや岩倉さん達幹部も総出で、黒金組の総力を結集した革命なんだ。失敗なんざ有り得ない。俺達はここで気長に待とうぜ。そんなに不安なら――」

「ッ!! きゃ、きゃあ!!」

 

 喧嘩を始めた二人を諫めていた男が、唐突に女の子達の中の一人を、その異形の腕で掴み上げる。

 

「――(これ)でも飲んで落ち着け。なんなら、ここで〝別の味”も味わえばいい」

「……え? いいのか?」

「お前……」

「別に問題ないだろう。黒金さんを含め、幹部の方々は奴隷になんか興味ない。吸血鬼なのに、血なんて飲めればそれでいいって人達だ」

「化野さんは違うだろう。あの人、女も大好きだろう」

「あの人は変態だから、女に潔癖性なんて求めちゃいないさ。あの人の()()()()は異常だからな……。そんなわけで、ここで一人や二人、俺等が好きにしても、好き勝手にしても、誰にも文句は言われないさ」

 

 だから――と言って、その化け物は掴み上げた女の首筋を舐める。

 ひゃあっ! と恐怖で身を震わせた女が悲鳴を漏らす中、化け物の男は異形の相貌でも分かる程に醜悪に顔を歪める。

 

「お前達も、好みの女を選んで愉しめよ。どうせ戦闘班から外されたんだ。これくらいの役得くらい、あってしかるべきだろうが」

 

 そう言ってその化け物は、女の服を異様に伸びた自身の爪で器用に豪快に引き裂いた。

 

「ッッッ!! きゃぁぁぁあああああああああああああああああ!!!」

「はははははははは!! いい声で啼くじゃねぇか!! 奴隷を犯すのはこうでなきゃな!!」

 

 途端に愉しそうに高笑う同胞に、先程まで喧嘩していた二人の化け物は呆れたように首を振るう。だが、それを止めようとはしない。なんだかんだ言ってコイツ自身ストレスが溜まってたんだろうなという感想を持つ以外、特に何も思わない。

 

 こんなことは吸血鬼達(かれら)にとっては日常茶飯事で、特に精力的に人間を狩ってきた黒金組のメンバーは、行く先々の戦場で、このようなことは盛んに行っている。むしろ、それを楽しみにしている吸血鬼もいるくらいだ。

 

 そして当然、女の子達の中にも、この暴挙に抗議の声を上げる者など、いる筈がない。

 

 恐れていた危惧がこうして現実として突きつけられて、次は自分かと、いつか自分もこうなってしまうという恐怖が湧き起こり、皆、身体を寄せ合って身を縮こませ、顔を俯かせて耳を塞ぎ、現実から目を逸らすことしかできない。

 

 小町はがたがたと体を震わせ、由比ヶ浜はそんな小町を抱き締めながら、目の前の怪物達を睨み付ける。

 

(――助けて!! 助けてお兄ちゃん!! お兄ちゃん!! ………………誰か――)

 

 

 

 その時、上空に何かが通り過ぎた。

 

 

 

「――――ッッ!!!? な、何だ!?」

 

 吸血鬼達は一斉にその正体不明の何かに目を向ける。

 掴まれていた女も乱雑に落とされ、友人と思われる女性の元へ駆けていき抱き締められていた。

 

 だが、混乱していたのは吸血鬼達だけではない。

 拉致された女の子達も、その正体不明の何かに目を奪われていた。

 

「………何………あれ?」

 

 由比ヶ浜はポツリと呟く。

 その上空を物凄い勢いで通り過ぎたその何かは、ぐるりと大きく旋回し、こちらに向かって再び近づいてくる。

 

「あ、あれって、黒金さんが言ってた『邪鬼』じゃねぇのか!?」

「そ、そうか! なら、この革命はもう俺達が勝ったも同然――」

 

 そんな言葉を聞いて、邪鬼の元へと走っていった吸血鬼の一人は「おう! すげぇ! 俺、初めて見た! うはー、気持ち悪ぃ!」と言いながらはしゃいでいたが―

 

「――ッ!! おい! 馬鹿! あぶねぇぞ、戻ってこい!!」

 

 何かに気付いたような同胞の声を聞いて「――は?」とそいつは首だけで振り返る。

 

 ドンッッッ!! と、次の瞬間、その吸血鬼は、海面の餌を捕食すべく狙い澄ましたかのように、急に高度を下げて滑空してきた翼竜型邪鬼に――喰われた。

 

 正確には、その頭部だけを嘴のようなそれで噛み千切られ、一瞬で絶命させられた。

 胴体はその突撃の煽りを受けた衝撃で大きく――正確には女の子達とそれを囲むように配置していた吸血鬼達の目の前に、まるで見せつけるように吹き飛ばされて来た。

 

 きゃあぁあああああぁぁぁああああああ! という女の子達の当然の悲鳴と共に、他の吸血鬼達の混乱の声が響き渡る。

 

「ど、どうなってる!? あれは切り札として連れてきたんじゃねぇのか!! 全然俺達の味方じゃねぇじゃねぇか!!」

「結局、制御することには失敗したってことだろう!! ったく、使えねぇ野郎だ! 俺達を裏切った挙句、役にすら立たねぇとは大志の野郎ふざけやがって!!」

 

 小町は他の女の子達同様に恐慌しながらも、その言葉だけは何故か聞き留めることが出来ていた。

 

(………え? “大志”、って……?)

 

 小町は再びその翼竜を見上げる。

 そして、恐怖と嫌悪感で身体を震わし、バッ! と顔を俯かせた。

 

(……違う………そんなわけ、ない……よね?)

 

 偶々、今日は大志について考えることが多かったから、そう思ってしまうだけだ。

 偶々、自分の知っている名前が聞こえたから、過剰に反応してしまっただけだ。

 

 あんな化け物に、あんな醜悪な恐ろしい化け物に、自分の知っている大志が――川崎大志が、関わっている筈がない。

 

 そんな風に小町が必死に己の嫌な予感を吹き飛ばそうとしている時――上空の翼竜型邪鬼が大きく啼いた。

 

 

「グルァァァァァァァアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!」

 

 

 その余りにも恐ろしい啼き声に、小町も、由比ヶ浜も、他の女の子達も、そして吸血鬼達も恐怖で硬直する。

 

 翼竜は――再び彼等彼女等に向かって突っ込んできた。

 

「な、なんだってんだ!!」

「いいからお前等逃げろ!! 殺されるぞ!!」

 

 そう言って、化け物達は一斉に逃げ出す。

 だが、一般人の女の子達は、パニックになり恐怖で動けなかった。

 

「みんな! 伏せて!! とにかく出来るだけ地面に伏せて!!」

 

 そう大きな声で指示を出したのは、由比ヶ浜だった。

 

 女の子達がその声に従って一斉に伏せ始め、由比ヶ浜も「小町ちゃん!」と小町の上に覆い被さるようにした。

 

「ギャァァァァァァアアアアアアアアアアアア!!!!」

 

 ビュオンッッ!! という風切り音と共に、翼竜が再び自分達のすぐ上を通り過ぎた後、そんな悲鳴が翼竜と一緒に通り過ぎて行った。

 

 翼竜は、その嘴に一体の吸血鬼を咥えていた。

 その吸血鬼は、つい先程、この戦争に対する不安を吐露していた吸血鬼だった。

 

 余りにその吸血鬼の抵抗が激しかったのか、それとも咥えたのは只の気まぐれだったのか、翼竜は再び高度を上げていく途中で、その吸血鬼をあっさりと地面に落とした。

 

「あ、うわ、ぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああ!!!!」

 

 そして、ぐちゃっ! と果実が潰れるような音と共に、その吸血鬼は絶命した。

 

 その死がきっかけになったのか、女を犯そうとしていた吸血鬼が、ぽつりと言葉を漏らした。

 

「……逃げるぞ」

「――何?」

 

 つい先程、たった今絶命した吸血鬼と喧嘩を起こしかけた好戦的な吸血鬼が、その震える言葉に対し怒気と共に問い返すと、そんな怒りなどものともせずに、切羽詰った表情で好色の吸血鬼は喚き散らした。

 

「このままだと全員あの邪鬼に殺される!! だから逃げるんだよ!! それぞれ連れていけるだけの女を連れて、さっさとこの場から離れるんだ! 急げ!!」

 

 そう言ってその吸血鬼は女の集団に向かって駆け出す。

 もう一人の吸血鬼も、上空で旋回している邪鬼を見て、舌打ちしてその提案に従った。

 

 残った吸血鬼達がそれぞれ見繕った女を強引に引っ張り上げ、連れ去ろうとする。

 そして、つい先程女を犯そうとしていた好色の吸血鬼が目を付けたのは――由比ヶ浜結衣だった。

 

「おい! 立て、女!」

 

 ギラギラと血走った眼で由比ヶ浜を見下ろすその吸血鬼に対し、小町は由比ヶ浜にしがみ付いて、そして由比ヶ浜は――伸ばされたその手を力強く弾いた。

 

「――やだ。絶対、いや」

 

 そう言って、その血走った目を強く睨み返す。

 

 吸血鬼は、そんな由比ヶ浜の態度に額に青筋を浮かべ、強引に襟元を掴み上げて、無理矢理に立たせる。

 

「ッ!! 人間がぁ!! さっさと俺に従え! ぶっ殺すぞ!!」

「っ! いやぁ! やめて! 結衣さんを放して!!」

 

 由比ヶ浜はそれでも吸血鬼を睨み続け、決して屈さなかった。

 小町は由比ヶ浜にしがみ付きながら、必死に離せと懇願する。

 

「ッッ!! クソが!! 離れろ、ガキがッ!!」

 

 吸血鬼は苛立ち紛れに、小町を足蹴にしようとする。

 由比ヶ浜が庇うように手を伸ばして、小町はギュッと目を瞑り力の限り叫んだ。

 

「ッ!! 助けてぇぇええええ!! お兄ちゃぁぁぁん!!!!!」

 

 

 ドゴッ!! と、突然、由比ヶ浜を掴み上げていた吸血鬼が吹き飛ばされた。

 

 

「……え?」

 

 その呟きは、果たして由比ヶ浜のものだったのか、それとも小町が発したものなのか。

 

 呆然とする由比ヶ浜の肩を、突然現れた漆黒の全身スーツの男が、優しく抱き締める。

 

 由比ヶ浜にしがみ付く小町は、その存在を見上げて――目を見開いた。

 

 

 

「……お兄……ちゃん?」

 

 

 

 その声に、バッと由比ヶ浜も振り返り、己に寄り添うその男を確認する。

 

 

 

「……ヒッ…………キー?」

 

 

 

 漆黒の全身スーツの男――比企谷八幡は、二人に対し向き合う前に、ガッ! と力強く由比ヶ浜を己の胸に抱きしめると――

 

「小町!! 俺にしがみ付け!!」

 

 と、鋭く叫ぶ。

 

 小町は兄の迫力の篭った声に反射的に従い、兄の腰に強く抱き付いた。そして、小町が兄が身に着けている謎の光沢のスーツの感触に戸惑っている間に、八幡に殴られた男がゆっくりと身を起こす。

 

「き、貴様、ハンタ――」

 

 だが、最後まで言葉を言い切る前に、ギュイーンッ! という甲高い発射音が響いた。

 

「な――」

 

 吸血鬼が絶句している間に、八幡は他の吸血鬼にXガンの銃口を向ける。

 

「目を瞑って伏せろッ!!」

 

 八幡のその指示は誰に向かって放たれたものかは不明だったが、吸血鬼に捕まっていない女の子達は、全員が反射的にそれに従った。

 

 吸血鬼は突然現れたハンターに混乱し、次々と仕留められていく。

 

 中には八幡に向かって襲い掛かってきたり、捕まえた女の子を盾にするものもいたが、八幡は的確に対処し、距離が近い者を優先的に、盾にする者はそれよりも先に頭部を撃ち抜き、瞬く間に全ての吸血鬼を殺し尽くした。

 

 由比ヶ浜は、そして小町は、激しく体の向きを変えながら、それでも一歩も動かずに敵を屠り続ける八幡の顔を呆然と見上げていた。

 

 その顔は硬く、その表情は冷たかった。それは、自分達が知らない比企谷八幡であり、ずっと、この半年間、見続けてきた比企谷八幡のようでもあった。

 

「……ヒッキー」

「……お兄ちゃん」

 

 そして、全ての吸血鬼が破裂し、絶命すると、八幡はゆっくりと由比ヶ浜と小町を引き離した。

 

 複雑な表情で八幡を見る小町と由比ヶ浜に、八幡は俯いていた顔を上げて、ゆっくりと言葉を掛ける。

 

「……小町……由比ヶ浜」

 

 その顔は、笑っているようでもあり、泣いているようでもあった。

 

 

 

 

「……どうして、こうなっちまったんだろうな?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side八幡――とある池袋の南の公園

 

 

 小町。そして、由比ヶ浜。

 俺が絶対に巻き込みたくなくて、これ以上傷つけたくなかった存在が、今、こうして、俺の目の前にいる。

 

 この戦場に――こんな地獄に、居る。

 

「……………」

 

 俺はゆっくりと宙を見上げる。

 

 どうしてこうなっちまったんだろう。

 

 こんなことにだけは、絶対になってほしくなかったのに。

 

「……ヒッキー」

 

 由比ヶ浜が瞳に涙を浮かべて、両手を不安そうに握り締めながら、俺を見る。

 

 俺は、再び――この女の子を、傷つけた。

 

「……悪かったな、由比ヶ浜。……また、お前を巻き込んだ」

「ヒッキー…………ッ」

 

 きっと、由比ヶ浜は気付いている。こいつはアホの子だが、大事なことには俺達の中の誰よりも敏感な奴だ。

 

 そう。いつも、由比ヶ浜は正しかった。いつだって、由比ヶ浜は誰よりも強かった。

 

 だからきっと、誰よりも痛みを抱えて、誰よりも傷ついていた。

 

 俺はもう、逃げられない。

 

 こいつに与えた傷と痛みから、俺はもう逃げられないんだ。

 

「あ、あの、あなたは――」

「おい」

 

 それでも俺は、由比ヶ浜から、小町から、その全てから背を向ける。

 

 この期に及んで、正々堂々と向き合わない。もう逃げられないと、分かっているのに。

 

 それでも俺は、彼女達に背を向けて――化け物と向き合い、銃を構える。

 

 俺は、背後の女達に向かって、感情を込めない声で言った。

 

「俺は今から、あの化け物を殺す――巻き込まれて死にたくなければ、さっさとこの場から消えろ。邪魔だ」

 

 そして、先程、吸血鬼達を屠ったXガンを見せつける。

 彼女達は分かりやすく身を震わせたが、逃げ場所など心当たりがないのか動き出すのに躊躇する。

 

 俺は、Xガンの銃口を女達に向けた。

 女達だけでなく、小町も恐怖で身を震わす。由比ヶ浜は動じずに俺を見詰め続けていた。

 

「聞こえなかったのか? ――邪魔だから、消えろ」

 

 そして、ようやく女達は、悲鳴を上げてこの場から逃げていった。

 

 残ったのは、由比ヶ浜と、そして――

 

「……お兄、ちゃん」

 

 小町は今朝と同じように、俺に対して本気の恐怖の目を向けていた。

 

 今の俺は、完全にガンツミッションにおける戦闘モード――戦争モードになっている。

 

 そんな俺は、そんな鬼は、さぞかし小町には恐ろしく映っているだろう。先程の吸血鬼と同じように。

 

「……由比ヶ浜」

 

 だから俺は……俺は。

 

 俺は、俺は、俺は。

 

 あの時と同じ、罪を犯す。

 

 

『――――由比ヶ浜。雪ノ下を頼む』

 

 

 あの時と同じように、この優しい女の子を傷つける。

 

 こんな時ばかり都合よく、俺は由比ヶ浜結衣を利用する。

 

 前を向いた。背中を向けた。決して真っ直ぐ向き合わない。この極悪非道な卑怯者は――――俺は……俺は…………俺は……………っっ。

 

 俺は、必死に荒れ狂う感情を押し殺して、その残酷な言葉を由比ヶ浜に告げた。

 

 

 

「――――由比ヶ浜……小町を……………頼む」

 

 

 

 頭は下げない。振り向きすらしない。

 

 最低で、最悪な所業だった。下衆の、下劣の極みだった。唇を噛み千切らんばかりに噛み締めても、身体の震えが止まらなかった。

 

 由比ヶ浜は、どんな表情をしているだろうか。

 

 ここまで下衆かと蔑んでいるだろうか。呆れているのだろうか。

 

 それとも、ここまでしても、ここまでされても、まだ――あの時のように、微笑んでくれているのだろうか。

 

 痛みを堪えて、涙を堪えて、俺を――――許してくれるのだろうか。

 

 そのどれであっても、どんな顔であっても、俺は見たくない。

 

 だから俺は、こうして無様にも、卑怯にも、決して許されないと知っていても、そんな資格は俺にはありはしないと思い知っていても、彼女の方を振り向けない。

 

 こんな格好悪い姿、由比ヶ浜にだけは、見られたくなかった筈なのに。

 

「――分かった。任せて、ヒッキー」

 

 その言葉を聞いて、その声色を聞いて、安堵した自分を、俺は呪う。

 

 ふざけるな。由比ヶ浜がこう言うなんて、分かっていたことだ。

 

 由比ヶ浜にこう言わせたのは、いつだって、いつだって――俺なんだから。

 

「……だからっ! ヒッキー……」

 

 だが、由比ヶ浜は、力強く俺の傲慢な押し付けを受け入れてくれた後、途端に声色を濡らし、湿った声で、こう言った。

 

 

 

「……帰って、きて。……ずっと、待ってるから。……いつまでだって、ずっと、ずっと……あたし、待ってるから!」

 

 

 

 由比ヶ浜は、俺に、そう、言って――

 

 

「――――――――――ッッッッ!!!!」

 

 

 俺は、反射的に叫びそうになった。

 

 今すぐに振り返って、とにかく無心に由比ヶ浜を抱き締めたくなった。

 

 だが、ダメだ。そんなことは、許されない。そんな資格は、俺にはありはしないッ!

 

 ……すまない。…………すまない、由比ヶ浜。

 

 その約束は、俺にはもう、叶えられないんだよ……由比ヶ浜。

 

 俺はもう……戻れないんだ。後戻り、出来ないんだよ。

 

 何処にも逃げられない。戻る場所なんて、俺にはない。

 

 

 あの黒い球体の部屋から、俺はもう出られないんだ。

 

 

「――行こう! 小町ちゃん、逃げよう!」

「あ、ゆいさ――ッ! お兄ちゃん! お兄ちゃん!」

 

 由比ヶ浜は、小町を連れて行こうとしているんだろう。

 

 ……そうだ。それでいい。

 

 小町……。

 

 お前だけは、絶対にこっちに来ないでくれ。

 

「お兄ちゃん!!」

 

 その小町の、何かが篭った悲痛な叫びに、俺は――思わず振り向いてしまった。

 由比ヶ浜は既にこちらを向いておらず、俺に向かって手を伸ばす小町の手を引いていた。

 

 ……大丈夫だ。大丈夫だよ、小町。

 

 お前だけはきっと、守り切ってみせるから。

 

 

 小町。お前は、今から行う俺の所業を、たぶん許してはくれないだろう。

 

 ずっと一生、俺を憎く思うかもしれない。殺したいと思うかもしれない。

 

 

 それでも俺は――大志を殺す。

 

 きっとお前は、二度と俺のことをお兄ちゃんと呼んでくれないだろうな。

 

 

 それでも――お前を守る為なら俺は、なんだってしてみせると決めたんだ。

 

 どんな罪でも背負うと決めた。だから俺は、どんなことだって、してみせる。

 

 

「――――ッッ!! お兄ちゃん!! お兄ちゃぁぁぁあああああん!!!」

 

 

 だから――さよならだ、小町。

 

 

 大好きだった。いつまでも愛してるぜ。世界一可愛い、俺のたった一人の妹よ。

 

 

 ゴメンな。こんなごみいちゃんで。

 

 

 ありがとう。こんな俺を、お兄ちゃんと呼んでくれて。

 

 

 お前が妹で、俺は本当に幸せだった。

 




理性の化け物は、醜悪なる己を呪い――ただ、妹の幸せを願う。


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次はお前の番だ。楽しもうぜ――台無しをよ

 Sideリュウキ――とある湿った道外れ

 

 

「……ハハ…………ハハハ………ギャハハ」

 

 その男は、路地裏の地面にどかっと座り込みながら、この目の前の状況に対する滑稽さに堪えきれなくなったように、断続的に笑いをこみ上げる。

 

「ギャハハ、ギャハハ、なんだコレきったね! ハハハ、何だよコレ超ウケるわマジで」

 

 ビシャンビシャンとリュウキが地面を叩く度に、濁りきった血液と肉片が跳び撥ねる。その滑稽な光景に対し、リュウキが再び爆笑する。

 

「ハハハハハアハッハハハハハハ!! や、止めろ……死ぬ………笑い死ぬ……ヤバいマジで死ぬわこれ俺終わったわギャハハハハハ!!!」

 

 リュウキはくるんと仰向けになりながら、ゴロゴロとゴロゴロと転げ回る。

 

 

 湿った路地裏の一面に敷き詰められた、最早ただの肉片の絨毯と変わり果てた()()の上で。

 

 

「ハハハハハッハ!! 死ぬ! 死ぬ! 死ぬ! いやマジで死ぬって面白過ぎるだろ! 死んだ後も笑わせてくれるとか親友かよマジで!!」

 

 それは、今日の午後まで、いつも通りに馬鹿なことをやっていた愛すべきクズ共の成れの果てだった。

 

 いきなり目の前に現われた正体不明の怪物。

 その怪物達にこの上なく理不尽に惨めに殺され、哀れ肉片の絨毯と成り果てた彼等の成れの果てに、哀れ極まる滑稽な末路に、リュウキは笑わずにはいられなかった。

 

 笑うしかない。だって、こんなことってあるのか? 自分達が一体何をしたというのか。

 

 どうして自分達が、自分達だけがこんな目に遭わなくちゃいけないのだ。

 

「ハハハハハッハハハハハハ!!! ハァーッ、ハァーッ、あヤベウケ過ぎて涙出て来た。ハハハッハハ泣けるわマジで。お前やっぱセンスの塊だわー」

 

 なぁ――と、肩を叩くように地面の肉片を叩く。バチャと水溜まりを踏み抜いたような音がするのみで、何の応答もなかった。

 

「あれ? そういえばお前誰? イメチェン?」

 

 正体不明だった。

 

 リュウキの仲間達の漏れなく全員がぐちゃぐちゃに混ぜ込まれ――その上、自分達を見世物にしながら処刑していた化け物達も混ざり込んでいるのだから、最早どの肉片が、元は誰のどの部位だったのかも判別不能だった。

 

「ハハハハハッハハハハハハ!! 何なんだよお前訳が分かんねぇよ死ねよオラァッッ!!!!」

 

 突如そう叫びながらリュウキが、顔半分が辛うじて肉片の絨毯の底に残っていた化け物の残滓に、そこらへんで拾った誰かの何処かの尖った骨の先端を突き刺した。

 

 リュウキのスーツは既に死んでいる。それどころか全身のあちこちが破けていて、深刻なレベルの深さの裂傷も負っている。

 

 こうして化け物の彼等が肉片になっていて、リュウキは生きているのだから、彼は勝ったのだろうか。

 

 そしてこれが、化け物達との戦争に一戦とはいえ勝利した男の勝利の姿だった。

 

 

「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねやオラァァァァァァ!!!!! ギャハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!! 台無しだぁぁぁあああああああああああああああああああ!!!! 死ねよ死ねよ死ねよ死ねよ死ねよ殺せよ殺せよ殺せよ殺せよ殺せよぉぉおおおおおお!!! てめぇ何で死んでんだよぉぉぉぉおおおおお!!!!」

 

 何度も何度も何度も何度も何者かの骨を突き刺していたリュウキは唐突に立ち上がり、真っ暗な路地裏から覗く夜空に向かって叫び、そして何度も何度も何度も何度も肉片の絨毯を踏み荒らす。

 

「殺してくれぇぇぇぇええええ!!!! 殺してくれぇぇぇえええええええ!!!」

 

 ただ無我夢中だった。

 恐怖に完全に支配されていた。

 

 脳内を自身の叫びのみがリフレインし、目の前が真っ白になり、何もかもが真っ黒になった。

 

 水中の奥深くに潜ったかのように、息苦しく、何も聞こえなかった。

 分厚いフィルターを何枚も通したかのように鈍くくぐもって届く泣き声、怒声、そして絶叫。

 

 早く連れてってくれ。ここではない遠い何処かへ。

 もう何でもいい。誰でもいい。助けてくれ何だってするから。だからこいつ等のいない何処へ。頼むから頼むから頼むから――

 

「アアアアアアアアアアア!!!! アアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

 

 気が付いたら一人だった。汚い赤で染まりきった空間に、たった一人。

 

 全身が痛い。満身創痍とはこのことだ。

 髪もぐしゃぐしゃで歯も折れて。この後、どっかの優等生ぶってる箱入り娘気取りの女でも探しにゲーセンにでも行こうと思ってたのに――

 

「台無しじゃねぇか………」

 

 リュウキは吐き捨てるように呟く。なんだかまた笑えてきた。

 

 何だ。何なんだこれは。どうして自分達ばかりが、こんな目に遭わなくてはならない。

 

「全部……全部……台無しだ」

 

 最悪だ。最悪過ぎて笑えてくる。

 

 何だ。何だこれは。ぐちゃぐちゃで元が人間なんか化け物なのかそれすら分からない。原型を留めていないどころか、原型があったのかすら疑わしいこの死に様は。

 

 まさしく、無様だった。

 憐憫すら出来ない。こんな肉片を見たところで吐き気しか催さない。只の汚物だ。汚物として死んだ。

 

「ハハハハハハギャハハハハハハハハッハ!!!」

 

 リュウキは腹を押さえて仰け反りながら哄笑した後――

 

 

 

「―――――――――――――ッッッッッ!!!!!!」

 

 

 

 文字通り――声にならない、慟哭を迸らせた。

 

 

「―――――――――――――ッッッ!!!!!!   ―――――――――――――ッッッッッ!!!!!!!!」

 

 喉を叫ぶすかのような絶叫。

 

 リュウキは涙を流しながら、声にならない何かを吐き出しながら走った。

 

 ただ、真っ直ぐに走る。壁に何度となくぶつかりながら、それでも走る。逃げるように逃げるように逃げるように逃げるように。

 

 何処か遠くへ行きたった。此処ではない何処かへ。地獄ではない何処かへ。

 

 何だ。何なんだ。

 どうして自分達ばかりが、こんな目に遭わなくちゃいけない。

 

 どうして自分達ばかりが、最悪で最悪で最悪で最悪なんだ。

 

「クソッタレがぁぁぁあああああああああ!!!!」

 

 リュウキは、何処かの大きな通りに出ると、再び真っ暗な夜空に向かって吠えた。

 

 そこでも多くの死体が転がっていた。だが、今のリュウキの目には入らない。

 

 叫び散らし、慟哭を撒き散らした結果、激情が一旦は消化したリュウキの目に入ったのは――

 

――投げ捨てられたかのように、無造作に転がっている女物のヒールだった。

 

「………………」

 

 リュウキはそれを一瞥すると、真っ先にある一つの施設に目を付ける。

 

 かつて、幾度となく訪れたこの街で、自分達の行きつけとなっていたあのアミューズメント施設。

 

 あぁ。あの時は楽しかった。馬鹿言って、馬鹿やって、馬鹿みたいに楽しかった。

 

 貴重な青春の時間を台無しにして、お利口そうな奴等を見つけては台無しの楽しさを教えて――――あぁ。あぁ。あぁ。

 

「……ギャハハハ、ギャハハハアハハハハ」

 

 リュウキは込み上げてくる滑稽さに対する笑いを漏らしながら、フラフラと引き寄せられる様にその場所へと向かう。

 

「おいおい、俺も混ぜろや。お前等ばっか楽しんでんじゃねぇよ。何なんだよ哀れんでんじゃねぇよ馬鹿高だからって馬鹿にしやがってよぉぉおおおおおおおお!!!!」

 

 ぎゃはははっはっはははっはっはは   はははっははははははは  ぐひゃははははははは ははは はっははははははは ひゃーーはははははははっはは

 

 狂った男の、狂った笑い声が響き渡る。

 

 理解不能な被害妄想を最後の原動力に、リュウキという名前の少年だった何かは、傷だらけの真っ赤な身体を引きずるように池袋の街を跋扈する。

 

 何もかもを失い――人としての理性すら失った世界に逃げ込んだリュウキは、涙を流しながら、ただ笑い、笑い、笑う。

 

 

 

 そして、彼が這入って数分後。

 そのビルディングは、瞬く間に豪快に燃え上がった。

 

 

 

 

 

 +++

 

 

 

 

 

 Side陽乃――とある五叉路の大きな交差点

 

 

 比企谷八幡がこの戦場を去った後――僅か、数十秒。

 

 分にも満たないこの僅かな時間で、東口五叉路周辺一帯は、見るも無残に荒廃していた。

 

 路面は抉れ、辺りに転がっていた車はひっくり返って燃え上がり、最早舗装されている場所を探す方が難しい程に、荒れ果てていた。

 

 二本の足で立っているのは――もしかしたら生きているのは、かもしれないが――その荒れ果てた戦場で、ただ二人。たった二つの、影。

 

 巨大な角を(たてがみ)のように生やして黄電を纏う雷鬼――黒金。

 漆黒の長槍の切っ先を足元に向けるように構えて微笑を浮かべる魔王――雪ノ下陽乃。

 

 この二人の最強の数十秒の戦闘により、この見るも無残に死に絶えた戦場は生み出された。

 

「――くはは。驚いたぞ。まさか、これほどまでにこの俺と真正面からやり合える人間がいたとはな。歓喜だ」

「――ふふふ。確かに八幡は真っ向勝負なんて言葉から嫌いそうだよね。わたしはそんな八幡が大好きだけど♪」

 

 そして、再び激突する。

 

 ドォン!! という落雷のような轟音と共に、黒金は瞬時に陽乃に肉薄する。

 

 だが陽乃は、その閃光の如きスピードを見切ったかのように、その漆黒の槍をその肉薄のタイミングに合わせて強烈に突き出した。

 

 ガキンッッ!! と黒金は、その突きを――顔の横から生えている角で弾いた。

 

 不敵な笑いを交わし合う両者。

 陽乃はそのまま槍を支点に黒金の突進を回転するように受け流す。

 

 ズザザザッ、と突進の勢いを殺した黒金は、Uターンするようにして「ガァァァアアアアア!!!」と両手を広げ、怪物に相応しい形相で再び襲い掛かる。

 陽乃は槍を斜めに構え、その猛襲に相対する。

 

 ガキンッ! ガキンガキンガキンッ!! と、黒金の金棒のように太く雄々しい両腕の強撃を、それでいて雷光の如き瞬きの速さで襲い掛かるその連撃を、陽乃は黒槍のみで華麗に受け流す。

 

 否、受け流すだけではない。時折鋭い一撃を、喉元を突き破るかのように差し込むように――刺し込むように放ち、黒金を怯ませた。

 

 まさしく、蝶のように舞い、蜂のように刺す。

 その華憐且つ妖艶な姿は、敵に凶兆を運ぶ黒蝶のようであり、また敵を死に至らしめる女王蜂のようであった。

 

 黒金は思わず頬を緩むのを感じ、「かはっ!」と笑い声が漏れた。

 

「やるな、女ぁ! ならば――」

「――ッ!?」

 

 黒金は左腕で陽乃を弾き――右腕を上げる。

 陽乃はそれを瞬時に感じ、すぐさま黒金と距離を取る。

 

「――これはッ! どう凌ぐ!!」

 

 そして、黒金が右腕を振り下ろすと――ピカッ! と雷光が瞬いた。

 

 陽乃は地面に転がっている破壊された道路――コンクリートの塊を槍で頭上に打ち上げる。

 

 ドゴォォォォォン!! と、そのコンクリートを容易く破壊した雷は、そのまま陽乃の目の前に落ちるが、なんとか直撃は避けられた。

 

(――ッ!! やっぱり、あんなものじゃ防げないか……本当に厄介だなぁ。たぶん直撃すれば――下手すれば一発でスーツが……いや、もしかしたら普通に即死かも。………それにしても――)

 

 ここまで数発、黒金は雷を落としているが、連発はしない。して、いない。

 そして雷を纏うことはあっても、電撃そのものを放ったりもしない。決まって攻撃方法は落雷だ。

 

(……この辺りが制限なのかな? 後、雷を落とす時は、いつも右腕を振り上げて、振り下してる……これも必要動作……? いや、これは決まった動きをすることでどんな風に雷を落とすか、自分でイメージし易くしているのかな? つまりはルーティンってこと?)

 

 陽乃は分析する。

 そして、この凄まじい強敵との戦争の――勝機を探る。

 

 対して黒金は、戦闘が――戦争が壮絶に、ハイレベルになっていくにつれ、その笑みを凶悪に深めていく。

 

「見誤ったか……てっきり、お前達のチームの最強は、あの目が腐った男だと踏んでたんだが」

「スコアで言うなら、間違いなくわたしの八幡が一番だろうね。……それに、強さにもいろいろあるでしょ」

「はっ、違いない。まあ、俺としてはどっちが最強でも構わん。全員、漏れなく隈なく殺すからな」

 

 そう言って黒金は、両拳を作り、肘を引いて、顔を俯かせ――

 

「――ハァッ!」

 

 と、気合のようなものを込めて――突如、全身を発光させた。

 そして、その中でも両腕の光は一際強く、バチチチチチチと。雷電が強く瞬いていた。

 

 それを見て陽乃は、額から一筋の汗を流しながらも微笑し、黒金は腰を落として獰猛に狂笑した。

 

「――行くぞッ!!」

 

 そして、次の瞬間――黒金が立っていた場所の地面が粉砕し、その巨躯が消えた。

 

(――速いッッ!!?)

 

 これまでよりも遥かに――そう頭が考える時には、陽乃は黒金の突進を受け流す体勢に入っていた。

 完全には防ぎきれない。おそらくは大きく弾かれることになるだろうが、それでも直撃は――

 

(――ッッ!! ダメっ!)

 

 陽乃は強引に膝の力を“抜いて”無理矢理体勢を崩し、そして次の瞬間には再び膝の力を入れて外側に跳ぶように避けた。

 

「――ッッ!!」

 

 スーツを着ていなければ膝の靭帯に甚大なダメージを残しかねない挙動だったが、それ故になんとか不格好ながらも黒金の突進を受けることなく躱すことが出来た。

 雪ノ下陽乃でなければ出来なかったであろう回避だったが、それでも恰好としてはやはり無様で、通常ならば陽乃がこのような姿を見せることは有り得ない。

 

 これが陽乃と八幡の違いで、どちらも目的の為ならば清濁も好悪も併せ持ち、利用し実行するが、それでも陽乃は、八幡と違い形振(なりふ)りは、構う。

 

 常に覇道。どんな手段を使ってでも、敵を完膚なきまでに叩きのめす。

 その為に陽乃は、その勝利までの過程で決して自分が低く見られたりすることは許さず、愚かで無様な姿を見せたりはしない。例え最後には逆転し、覆すのだとしても――その為の振りで、布石だったとしても、敵に見くびられたり、他者に侮られたりすることを、決して自分に――雪ノ下陽乃に許さない。

 

 八幡ならば、むしろ敢えて自分を低く見せ、愚かに見せて、油断させ、慢心させ、足元を掬うだろうが――その過程で敵にどう見られようが、むしろ最終的評価として自分が相手にどう思われようが委細構わず、目的を遂げられればそれでいいと歯牙にもかけないだろうが、陽乃はその体面には拘るのだ。

 

 これは、決して比企谷八幡に雪ノ下陽乃が劣っているというわけではなく、陽乃が驕っているとか、誇りを捨てきれていないということでもなく――むしろ、その逆である。

 

 誇り。比企谷八幡が決して持ちえないその強さを、雪ノ下陽乃は持っている。誇りを持てるだけの強さを、プライドを持つのに相応しいだけの強さを、雪ノ下陽乃は持ち得ている。

 

 陽乃はその体面を守り、誇りを守りきれるだけの、それに相応しい力と才能が――強さが、備わっている。そしてその誇りが――女王であり、魔王であり、強者であるという誇り誇り(プライド)が、自負が、雪ノ下陽乃の強さに繋がっている。

 

 つまりそれは、雪ノ下陽乃は、比企谷八幡が持ちえない強さを持ち、八幡が捨てることで手に入れた強みを以てしても、尚、届かぬ遥かなる高みに、彼女が君臨していることの証左でもある。

 

 だが、この時、陽乃はその誇りを捨て、敵に無様を、何より己に自身の無様を晒すことになることを承知で、ただあの手刀から逃れる為に形振りを構わなかった。

 

「――うッ!」

 

 地面に転げながら陽乃は、その突撃の先を見た。

 

 黒金の強烈な突進は陽乃というターゲットを外しても止まらず、そのまま盛り上がっている地面、そしてその先に転がっていた反転した車までも貫いた――否、切り裂いていた。

 

「――ッ!!」

 

 派手に粉砕するのではなく、その障害物に綺麗な軌跡を残して、まさしく刀のように道中の障害物をその手で――その手刀で貫いていた。突破していた。それは、先程までの(パワー)任せの攻撃ではなく――

 

(――雷を腕に纏わせることで、貫通力、切断力を段違いに…………ッ!? あれじゃあ攻撃を受け止めることも、受け流すことも出来ない……ッ!)

 

 おそらく受け止めようとした時点で、この槍は――おそらくはスーツも、その下の柔肌も、肉も骨も臓物も血管も、容易く切り裂かれ、貫かれるだろう。

 

 そして、電気を薄く全身に纏うことで、その化け物の中でも群を抜いて化け物なその肉体性能も、更に異端に跳ね上げている。

 

「――ふん。上手く避けたな。だが、いつまで奇跡は続くかな?」

 

 両腕を黄金の雷で光らせた黒金が、再び陽乃に襲い掛かる。

 その金棒の如き腕を豪快に右斜めに振るい、左腕で掬い上げ、そして右腕を地面に叩きつける。

 

 陽乃はそれをただ一心不乱に避けた。陽乃程の能力――動体視力や動きの先読みを持ってしても、黒金の攻撃は只の閃光にしか見えなかった。無理に動きを目で追おうとすれば、却ってその雷光の閃きで網膜を焼かれかねない程の高速――否、雷速の攻撃。

 

 最早、陽乃は己の戦闘センス――直感のみを頼りに、その攻撃を回避し続けていた。

 

 しかし、そんな奇跡は長くは続かない。ここまで避けられただけでも、数瞬の寿命を獲得出来ただけでも、雪ノ下陽乃が傑物であることの証明になる程に、その黒金の攻撃は常軌を逸していた。

 

「――ッ!!」

 

 陽乃は片膝を折って、その攻撃を躱した。そして己の僅か上を、黒金の雷電の左の手刀が擦過する。

 

 だが、陽乃がその体勢に至る前に、既に黒金の右拳がしゃがみ込む陽乃に照準を合わせていた。

 陽乃はそれに対し、反射的に槍の柄を盾のように構える。黒金はそれを見て――笑みを深めた。

 

 黒金の雷電を纏った両腕は、どんな障害物も貫いて切り裂く、ガード無効の一撃必殺。

 黒槍を掲げたところで、それは陽乃の命を守る盾とは成り得ない。

 

 陽乃は歯噛みし、黒金はその笑みのまま黒槍に向かって――その先の陽乃の頭部に向かって、雷光の右拳を振るう。

 

 その瞬間、陽乃は無邪気な魔王の笑みを浮かべ――槍を分解した。

 

「――――ッ!!」

 

 黒金は、な、という形で口を開ける。雷速の拳はそのまま真ん中で、まるで門が開くように二つに分かれた槍の間を通り過ぎる。

 

 陽乃は槍を意識させ――掲げた槍を意識させ、己の頭を撃ち抜くような軌道だった黒金の拳を上方に向け、更にグッと頭を下げて、しゃがみかけていた膝のばねを前方に向かって射ち出すようにして加速することで、ギリギリで躱した。

 

 ジッ、という擦過音。靡いた髪が雷電によって焼かれたのかもしれない。例えそれでも、この絶好のチャンスを逃すわけにはいかない。女の命が傷んだとしても、最強の怪物の命を狙うことの方が遥かに優先事だ。

 

 全力で、大きなモーションで拳を放った黒金は、その陽乃に追撃することは出来ない。

 

 両手に二本の短槍を携えた陽乃は、交錯際に、右の短槍で黒金の脇腹を切り裂く。

 

「ッッ!! がぁっ!?」

 

 更に陽乃は急ブレーキを掛け、地面に手を突いて反転し、そのまま強く地面を蹴り出す。

 そして無防備に晒す背びれのように複数の角のような突起が生えている背中に――その不気味な背中とジーパンの間の腰に、左の短槍を突き刺した。

 

「ぐぉぉぉっ!! きさ、まぁああ!!」

 

 黒金が憤怒の形相で振り向く――と、陽乃は既に、その右の短槍を振り上げていた。

 

 ザバッッ!! と。

 

 豪快な音を立てて、雷光を纏っている腕部分を避けるようにして、腕と肩の付け根を断ち切るように――

 

 

――陽乃の垂直に振り上げた短槍が、黒金の左腕を吹き飛ばした。

 

 

 そして、黒金は――

 

 

「――――ッッ……ぉぉぉぉおおおおおおおおおお!!!!!」

 

 と、雄叫びを上げ、己の全身から全方位に向けて、膨大な雷電を放出した。

 

 

「――――――――っっ」

 

 それは、まるで大きな爆発の如き一撃。

 

 全力の一撃を放ったことで咄嗟の動きが取れなかった陽乃は、その雷電の大波に為す術もなく呑み込まれた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side神崎――とある燃え盛るアミューズメント施設

 

 

 神崎は無我夢中に駆けて、止まっていたエスカレーターを自力で下り、一階へと降りてきた。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 そして、その階段の途中、一階のフロアの一面を眺めることが出来る場所で――叫声は轟いた。

 

 

「燃ええええええええええええええええええええええええええええええええ」

 

 

 その声に、神崎は足を止め、恐る恐る、その悲鳴の方向に目を向けた。

 

 

 叫びは――悲鳴だった

 

 

「てるぅぅぅうううううううううううううう!!!! 僕がぁっ!! 僕が燃えてるぅぅうううううううううううう!!! 燃えキャラになってしまうぅぅぅうううううう!!!」

 

 

 そこでは、一人の男が文字通りの意味で燃えていた。火達磨になって、燃え盛っていた。

 

「――――ッッッ!!!」

 

 男はゴロゴロと転がり、必死に炎を消そうとするが、自らが作り出した火の海に突っ込むばかりでまるで消火出来る気配はなかった。

 

「うわぁぁぁあああああああああ!!! 熱っちィィイイイイイイイイイ!!!」

 

 そして、やがて男は、その場から――火の海から動かなくなった。時折、身体をびくんと動かしながら、ただ悲鳴を上げるだけの火達磨になった。

 

「っ!?」

 

 だが、最後の力を振り絞ったとばかりに突然、唐突に、炎を纏った状態で異様な挙動で起き上がる。

 

 

「ウワァァァアアアアアアアアアアアア!!!! シニタクナイ!! ジニダグナイィィイイイイイイイイイ!!!」

 

 

 その光景を見て、思わず神崎は、決して小さくない悲鳴を漏らしてしまった。

 

「ひッ、ひぃいい!!!」

 

 そして動揺し、恐怖し、エスカレーターの段差を踏み外してしまう。

 

「――ッ!?」

 

 ガタタタ!! と転げ落ちる。それほど高さはなく、そして落ちた先が奇跡的に炎がなかったこともなって、神崎は身体中に激痛を覚えるも、なんとか命は助かった――この、時点では。

 

「――な」

「……え?」

 

 神崎は余程混乱していたのか、それともあの場所からは死角だったのか、その男の存在にまるで気付いていなかった。

 

 そして、気付かれた。神崎(じぶん)が、この現場に、居合わせてしまったことを。

 

 この事件の、目撃者に、なってしまったことを。

 

 目の前の漆黒の全身スーツを纏った中年の男――平清は言う。

 

「ち、違うんや!」

 

 神崎の姿を確認したその中年は、絶望したような顔で、こちらに向かってフラフラと近寄ってくる。

 

「わ、ワシは……ただ……身を守っただけなんや! こ、これは、あのボンがやったことで……ワシは……そんなつもりはなかったんやっ!!」

 

 神崎は、平が何を言っているのか、さっぱり分からなかった。

 だが、その中年が着ているスーツが、そして、その不安定に揺れる瞳が――あの、上の階で、二人の人間を哄笑と共に殺害した、あの狂った男と重なって。

 

 痛む身体を必死に起こして、神崎はエスカレーターをもう一度上がろうとする。この男から――逃げようとする。

 その様子を見て、平は焦ったように、その歩みのスピードを上げながら「違う……違う……違うんやっ!」と、両手をうろうろと彷徨わせながら、神崎に向かって叫ぶ。

 

 

「殺すつもりなんて――ワシはなかったんや!!」

 

 

 その言葉で、神崎は全てを理解した。

 

 あの火達磨になった男は――この人が、()ったんだと。

 

「――――い、いやぁぁああああああッッッ!!!」

 

 神崎は、全力でエスカレーターを駆け上がった。

 

「ま、待つんや!! ま、待って、待ってくれやっ!! 後生や!!」

 

 この燃え盛る煉獄のような戦場で、明らかに人間を殺している者の言葉を大人しく聞くような一般人はいない。そんな女子中学生などいるわけがない。

 神崎は瞳から涙を流し、嗚咽を必死に堪えながら、二階へと到達し――

 

(――ッ! どうしよう……上には、あの人が――)

 

 上には、また別の殺人者が――あの狂ったもう一人の黒スーツが待ち構えているかもしれない。

 そう考えて、そう考えてしまって、神崎は三階へと上ることは出来なかった。

 

「……………………っっ!!」

 

 そして、必死に恐怖を堪えて、そのまま二階のなるべく奥に、炎がない場所を、まるで導かれるように走る。

 

「…………ぁ」

 

 そして、当然、行き止まりにぶつかり立ち止まる。

 神崎はぶるぶると震えながら、その場所で必死に身を小さくして隠れた。

 

(…………私、何やっているんだろう。…………逃げたって、どうせ死んじゃうのに)

 

 例え、殺人鬼達から逃げおうせても、こんな燃え盛る火事現場にいたら、数分で死に至るだろう。

 

 どんなに逃げたって、死からは逃げられない。それでも神崎有希子は、この期に及んでも、逃げて、逃げて、逃げている。

 

(……どうして、こんなことになっちゃったんだろう。……逃げてばっかりいるから、神様が怒ったのかな……)

 

 罰が、当たったのだろうか。

 逃げて、逃げて、堕ちて、逃げて。

 

 逃げてばかりで、不貞腐れてばかりで、終ぞ、一度も何かに立ち向かい、戦うことをしなかった――神崎有希子という少女(エンド)に対する、これは罰なのだろうか。

 

「……けほ、けほ、けほ」

 

 その結果が、その結末が火刑というのが、何とも洒落が効いている。

 マドンナだと持て囃されていた神崎有希子の正体が、実は只の魔女だったと、まるで暴かれたかのようではないか。

 

 清廉潔白な聖女などではなく、自分はまさしく魔女だ。自分のことしか考えていない。

 

 自分ばかりを守って、痛みから逃げて、重みから逃げて、辛さから逃げて、逃げて、逃げて、逃げて――

 

 

「――見つけたぜぇ、お嬢ちゃん」

 

 

 神崎は、座り込む自分の目の前に現れた人物を見て、最早、悲鳴すら上げられなかった。

 

(…………ああ。私、死ぬんだ)

 

 平ではなく、この男――リュウキが現われたということは、平は更に上の階に上って、この男と入れ違いになったのだろうか。

 

 どっちにしろ神崎にとっては、どちらに殺されるのかという違いでしかないのだが。

 

「ひっひっひ。あそこにいた連中は、お前以外は全員ぶっ殺してやったぜぇええええ! アイツ等の人生は、俺のお蔭でめでたく盛大に台無しだぁぁぁあああああ!!! ヒャーハッハツハッハ!!!!」

 

 リュウキは座り込む神崎の髪をウィッグごと掴み上げて、無理矢理引っ張って立ち上がらせる。

 

「…………っっ!!」

「次はお前の番だ。楽しもうぜ――台無しをよ」

 

 そう言って、リュウキは神崎を舐めようと、その舌を彼女の顔に伸ばして――

 

「――――ッッッ!!!」

 

 神崎は、リュウキの頬を全力で引っ叩いた。

 

「……ああ?」

 

 その拍子にリュウキの拘束から、ウィッグを犠牲にすることで逃れ、派手な色のそれから、服装と合わない――だが、だからこそ彼女本来の色を表す艶やかな黒髪を露わにしながら、リュウキからふらりと少し距離を取った。

 

 リュウキは一瞬呆然としていたが、すぐにその表情を狂気に染める。

 

「ッッッ!! ああああああああああああ!!! アァどいつもこいつも……バカ高校だからって見下しやがってクソがッ!! 全員纏めて俺等レベルまで台無しに突き堕としてやんよぉおおおおおおおおおおおおお!!」

「――――ッッッ!!」

 

 神崎は――逃げ出した。

 

 この期に及んでも、絶体絶命に追い詰められても、それでも、神崎は逃げた。

 

 死から――逃げた。

 生きることから――逃げなかった。

 

 神崎有希子は、確かにこれまでずっとずっと逃げ続けてきたのかもしれない。

 親から逃げて、勉強から逃げて、期待から逃げて、嘲笑からも逃げ続けてきた。

 

 必死に必死に必死に、現実から逃避してきた。

 

 けれど、それでも――死にたくなかった。生きたかった。

 

(…………こんなところで、死にたくないっ! 惨めなままで逝きたくない!! ――エンドのままで、終わりたくないっ!!!)

 

 ずっと、心のどこかで常に思っていた。その火種が、心の中で燻っていた。

 

 どこかで見返さなくちゃ。やれば出来ると、認めさせなきゃ。

 

 自分達は、エンドなんかじゃないと――証明しなくては。

 

 だから、神崎は逃げた。逃げて、逃げて、必死に逃げた。

 逃げてばかりの神崎だったけれど、この時の逃避は、死からの逃走は――戦いだった。

 

 神崎有希子という少女が、初めて現実に立ち向かった瞬間で――戦争だった。

 

「ああああぁぁぁぁぁぁああああぁぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁあああああああ!!!!」

 

 その神崎の背中に、地獄へと引きずり込む悪魔のようにリュウキの魔の手が迫る。

 例えリュウキのスーツが既に死んでいたとしても、リュウキは男子高校生で、神崎は女子中学生、身体能力の差によって、追い詰められるのは自明の理だった。

 

 そのプレッシャーに耐え切れず、神崎が転倒する。

 この時点で、神崎の逃走の失敗は確定したも同然だった。

 

 リュウキの顔に愉悦が滲む。神崎は思わず目を瞑った。

 

 だが、一人の少女の勇敢な逃避は、神崎有希子が必死に必定の死から逃れようと奮起したこの小さな戦争は――結果として、一人の少女の寿命を延ばすという莫大な戦果を獲得した。

 

 神崎がエスカレーター前まで辿り着いたことで――水色の少年が間に合うことが出来たのだから。

 

「ごふぁっらぁ!!!」

 

 神崎に迫った魔の手ごと、リュウキが軽々と吹き飛んだ。

 その身体がリズムゲームの筐体に激突した轟音により、神崎は恐る恐るその目を開ける。

 

 そして、目に映ったその光景に、瞠目した。

 

 

「……な、ぎさ……くん?」

 

 

 神崎の目に映ったのは、リュウキや平と同じ、漆黒の全身スーツを纏った、水色髪の小柄な少年の背中だった。

 




逃亡者の少女は、死からの逃走の末――エンドの同胞と燃え盛る戦場で邂逅する。


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――たった一人でも、味方が欲しい。

 Side神崎――とある燃え盛るアミューズメント施設

 

 

 呆然と呟いた神崎の声に、渚はゆっくりと神崎の方を向き、目を見開く。

 

「……やっぱり……やっぱり…………渚、君」

「神崎さん……どうして、ここに?」

 

 こんな場所で、こんな地獄で、まさかの同級生との――同じエンドの仲間との邂逅に、渚は頭の中を真っ白にさせて混乱する。

 

 そして、神崎は思わず、先程とは別の意味で、瞳の中に涙が溜まるのを感じた。

 

 心の中が、安堵で包まれる。状況はまだ何も解決していないのに、見知った人間が現れるというのが、こんなにも嬉しいことだなんて。渚が彼等と同じ格好をしていることを差し引いても、歓喜と表現できる程に――とにかく、嬉しかった。

 

 地獄のようなこの状況で、煉獄のように燃え盛るこの惨状で、絶体絶命のこの危機(ピンチ)に、今まさに自分の命を奪おうとしていた男を吹き飛ばして、己の背に庇ってくれた。

 

 神崎の胸の中に、感じたことのない感情の瀑布が荒れ狂う。

 

 何かが――燃え盛る。

 

「えぇと……とりあえず、立てる? 神崎さん? 一体、どうしてこん――ッ!?」

 

 神崎は、渚の小さな体に思わず抱き付いた。

 

 自分がこんな性格(キャラ)じゃないことは分かっているが、それでも、溢れる感情を抑えきれなかった。

 女子である自分と殆ど――というより全く変わらない身長の彼の身体は、身に着けているスーツの恩恵かは分からないが、思ったよりも力強くて、それがまた胸を高鳴らせた。

 

「……ありがとう、渚君」

「……神崎さん」

 

 渚は、普段はお淑やかで物静かなクラスのマドンナが、自分の腕の中で震えていることに少し動揺したが、こんな状況ではこれが普通の反応なのだと理解する。

 

「…………神崎さん。とりあえず、一刻も早くここから――」

 

 逃げよう、と、そう伝えようとすると、その神崎の背中越しに、上の階へと繋がる止まったエスカレーターから、渚が探していた男が現れた。

 

「――っ! 平さん! 無事だったんですね!」

 

 嬉しそうにそう告げる渚。神崎はゆっくりと背後を向き、その人物を確認して息を呑む。

 

 それは、一階で、一人の男を凄惨に燃やし尽くした中年男性――平清だった。

 

「……渚はん。その子、どないしたんや?」

「はい、僕の同級生なんです。どうやら偶然、巻き込まれてしまったらし――「――渚、君」――? 神崎さん?」

 

 神崎が渚の言葉を遮って、真正面から水色の少年に告げる。

 そんな神崎の背後では、平が瞳孔の開いた瞳で渚達を見ていた。

 

 すっ、と、平が手の中で何かを操作しているのにも気付かず、渚と神崎は至近距離で会話を続けた。

 

「逃げましょう、渚君!」

「う、うん、そうだよね。大丈夫、神崎さんはすぐに安全なところに――」

「違うんです! そうじゃなくて! あの人です! あの人からです!」

「…………え?」

 

 そう言って神崎は、渚に強く引っ付いたまま、平に向かって振り返る。

 

(………なんで? どうして? どうして仲間から――それも平さんから、逃げなくちゃいけないんだ?)

 

 渚は呆然とする。

 神崎は、そんな渚の表情には気付かず、泣き叫ぶように言った。

 

 

「あの人は――人を殺してたんです!!」

 

 

 その神崎の言葉と同時に、平は無表情で、それを渚達に向かって放ってきた。

 

「……ごめんな、渚はん」

 

 その四角の金属塊は――タイマー式BIM。

 

 敵を屠る為の兵器――紛うことなき爆弾だった。

 

(――――ッッ!!?)

 

 渚は反射的に、神崎を胸に抱えて跳んだ。

 

 ドガァァン!!! という轟音と共に、フロアのゲーム筐体を一気に吹き飛ばす威力の爆発が巻き起こる。

 

「………………」

 

 平は、その一面に広がっていた炎すら吹き飛ばす爆発の中、ゆっくりと渚達の死体を確認するべく動き出し――

 

「――っ!?」

 

 そして、平が動き出した、その背中(いっしゅん)を突くように、渚達は上の階へと駆け上っていった。

 

 咄嗟に腰に手を伸ばしたが、既に平の手元に咄嗟に使えるBIMはなかった。

 歯噛みする平に向かって、せせら笑うような声が響く。

 

 そちらに目を向けると、致命傷を負い火の海に溺れていたリュウキがいた。

 スーツがとっくの昔に死んでいて、その上渚のタックルを食らっていた彼は、タイマー式BIMの攻撃を避けることは出来なかった。

 

 だが、リュウキはそんな状態でも、そんな末期でも、平を見て、血反吐を吐きながら嘲笑するように笑う。

 

「……はは。どうしたオッサン? トチ狂ってんな? こんなクソ見てぇな戦場で、頭ぶっ飛ぶくらいにふざけたことがあったか? 俺みてぇによぉ。ぎゃははははごほぉ! あごぉ! ごべぇええ! ……はぁーっ……ハァーッ……は、はは、ぎゃはは」

「……………」

 

 平はそんなリュウキの言葉に対して何も言わなかったが、そこから立ち去りもしなかった。

 今にも死にそうなこの男の、最後の言葉くらいは聞こうと思ったのだ――殺してしまった、せめてもの責任として。だが――

 

「――悪いな、あんさん。あんさんを殺した罰は、ワシは受けるつもりはない。……ワシは、あの子の為にも、捕まるわけにはいかへんのや」

「……はっ。ぎゃはは。なんだ? あんた……口封じとか……そんなんの為に……アイツ等殺そうとしてんのか?」

「そうや」

 

 リュウキの馬鹿にするような言葉に、平は無表情で大真面目に答えた。

 

「こんなイカれた戦場や。死体が一つや二つ増えたところで、みんな化物のせいになるわ。……けどな、一般人に見られた以上、ワシはあの子の口を塞がなくちゃならへん。……例え1%でも、殺人者になる可能性は、詰み取らなくちゃならへん」

 

 ただでさえ虐められている息子の父親が、殺人者などと知られたら、息子は――柚彦は、確実に終わる。

 

 自分のせいで。自分という、ろくでなしの父親のせいで。

 

 それだけは――それだけは絶対にダメだ。

 

「――だから、目撃者は残らず殺すんや。息子の為に。それが父親の仕事や。ワシの責務や。――これが、ワシの戦争なんや」

 

 平は瞳孔の開いた瞳で、脂汗を額に滲ませ、ふうふうと荒い息を吐き、ぶつぶつと、ぶつぶつと、必死に、必死に自分に言い聞かせるように唱える。

 

 人間を殺す理由を、無関係な一般人を殺す道理を、殺人を隠す為に殺人を行う大義名分を、呪文のように唱え続ける。

 

 リュウキは、そんな平に、ごふっと血溜まりを吐きながら、壊れたように哄笑する。

 

「ハハ――ハ――ハハハ――ハハ――ハハハハ――ハハ! いいぜ! いい感じに最高に台無しだ! 最悪に狂ってやがる! そうでなくちゃいけねぇ! そうでなくちゃなぁ!」

 

 リュウキは最後に、瞳から光を失くしながら、ボソッと呟く。

 

「……そうだ。………俺達だけが、最悪だったんじゃねぇ。……どいつもこいつも………台無しになって……俺達みたいに……無様に……死にやがれ……」

 

――あばよ……クソッタレの……腐った世界…………清々……するぜ。

 

 そう言い残して、リュウキは笑みを浮かべたまま、清々しく、完全に息を引き取った。

 

「…………」

 

 平は、その死体を持ち上げて、スーツの力で、より一層勢い良く燃える火の海の奥に投げ込んだ。

 

 それはせめてもの供養だったのか、それとも自分が殺した死体の証拠隠滅だったのか。

 

 荒々しく火葬したリュウキの死体に背を向けた平は、そのまま何も言わず、振り返ることなく、上の階へと向かった。

 

 己の殺人の目撃者――神崎有希子と、己の罪を知ってしまった――潮田渚を殺す為に。

 

 息子を殺人者の息子にしないために戦う――父親としての正義を執行する為に。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side陽乃――とある五叉路の大きな交差点

 

 

 全身を貫く激痛により目を開けた陽乃は、(かぶり)を振って立ち上がる。

 果たして意識を失っていたのは、数瞬か、それとも数十秒か――とにかく、自分はまだ生きている。

 

「――――っ!?」

 

 そして、立ち上がろうとしたその時――陽乃の身体にズシンと何かが圧し掛かるような重量感が襲った。まるで無重力の宇宙から、有重力の地球へと帰還した直後かのように。

 陽乃はゆっくりと首元の制御部に手を当て、ぬめりとした感触を確認する。

 

(…………やっぱり“死んじゃったか”。命が助かっただけマシかな)

 

 そう心中で呟やいて陽乃は力無く苦笑する。

 

 彼女の視線の先には――片眼に続いて片腕を失いつつも、それでも圧倒的な存在感を持って莫大な恐怖を振り撒いている、鬼の姿があったからだ。

 

「……………………うわぁ、引くなぁ」

 

 陽乃は力の入らない膝を、それでも手を着くような無様を見せずに意思の力のみですっと伸ばし、へらへら笑って背筋を反らして胸を張りながら、君臨する鬼に向かってそう呟いた。

 

「痛くないの?」

「滅茶苦茶痛いさ。今日一日で俺は、片目を裂かれて、どてっ腹に穴を開けられて、脇腹を抉られて、片腕を切り飛ばされたんだぞ。そりゃあ痛いさ。痛くて痛くてぶっちゃけ泣きそうだ」

 

 そう言って、黒金は一歩踏み出そうとするも――ガクン、と、バランスを崩して左膝を着いた。

 急に失くした左腕によりバランスを崩したのか――金棒の如き逞しさを誇っていた腕を失くせば、それはバランスも崩れるだろうが――と、陽乃は思ったが、すぐにそれ以外の原因もあると気付いた。

 

「……ボロボロだね。聞いたよ。八幡とはさっきだけじゃなくて、夕方にも一戦交えたんだってね。それに、なんか乱入して助けてくれた人もいたっていうから、その人とも戦ったんでしょ。そりゃあダメージも蓄積されるよね――どうかな? ボスキャラらしく寄って集ってフルボッコにされる気持ちは」

 

 黒金は片膝を着いたまま、胸を張って黒金を見下す陽乃に向かって、化け物の相貌を不敵に歪ませながら答える。

 

「――最高だ。快感でしかない。何故ならばこれは、この痛みこそが、この苦境こそが、俺が求めた強者でしか味わえない環境で、強者でしか味わえない興奮で、俺が強者になれたことを実感できる、至福のひと時なのだから」

「……………強者、ねぇ。そんな風に跪いて、女の子に見下されてるアナタが?」

「もちろんだとも。俺が強者でなくて、一体、誰が強者なんだ?」

 

 黒金がズドンッ!! と、大きく、強く、一歩を踏み出し、立ち上がる。

 

 そして、その巨躯から更に顎を上げて、高みから陽乃を見下し返した。

 

「俺は、世界中の人間から恐れられるだろう。嫌われ、憎まれ、襲われるだろう。それは、奴等が――世界が、俺を強者だと認めた何よりの証拠だ。だから俺は、復讐を歓迎する。更なる強者を歓迎する。戦いを歓迎する。戦争を歓迎する。趣味が殺し合いで、特技が殺人だ。そして、俺は――その全てに勝つ」

 

 黒金は、再び全身に電気を纏いながら、一本になった腕に――右腕に、一際強く、バチチチチチと雷電を纏わせる。

 

「…………………………」

 

 陽乃はその言葉を、ただ黙って受け止めた。

 

 彼女は――雪ノ下陽乃という少女は、恥のない人生を送ってきた。

 恥もなければ、汚点もない。およそ理想的な、理想的過ぎて――波乱万丈がなさ過ぎて、逆に教科書に載らないような人生だった。

 

 その人生の大きな特徴に、敵がいなかったということが挙げられる。

 陽乃という少女は恐れられなかった。嫌われなかったし、憎まれなかったし、襲われもしなかった。

 

 それでも――雪ノ下陽乃は強者だった。

 

 だからこそ、陽乃には黒金の言葉は理解出来ない。

 

 生まれつきの、“本物の”強者である陽乃には、弱者だったからこそ、強さを渇望し、強者に憧れ、死に物狂いで、化け物になって、ようやく強さを手に入れ強者となった、養殖の強者である黒金の気持ちは、まるで理解出来なかった。

 

 もちろん、雪ノ下陽乃も万人に好かれた訳ではない。

 

 中には陽乃の強化外骨格を見抜いて、その“中身”に恐れを抱いた者や、劣等感を抱き嫉妬した者もいた。

 それでも、そんな奴等は陽乃の敵には成り得なかった。敵足り得なかった。彼女の掌の上からは逃れられなかった。

 

 全てが、雪ノ下陽乃よりも格下だった。

 

 陽乃にとって、自分の中で敵と成り得た可能性を持つのは、ただ一人――陽乃の母親だけだった。

 父は既に陽乃の敵ではなかった。いつでも自由自在に動かせる自信はあった。

 だが、ただ一人、母だけは、“現時点”では、まだ支配下に置けていないと感じていた――が、既に、現時点で自分は、母との戦いで自分の負けはないと確信している。

 

 母は確かに自分と同じ“強者”だが、その周辺人物まで強者とは限らない。

 既に大学生という自由な身分と、次期雪ノ下家の後継者という確固たる肩書きにより、母の知り得ない内に、彼女の手足を確実に奪っている。

 

 母との戦いは、直接対決ではなく、そういった支配力を競う戦争だった。

 

 故に、母親も既に、自分の――雪ノ下陽乃の敵ではない。

 よって雪ノ下陽乃の人生には、敵は存在しなかった。

 

 だから、黒金の気持ちは、言っていることはまるで理解出来ない。

 分からない。分からない。分からない。

 

 だって、そんな状況の、()()()()()の――どこが、そんなに素晴らしいの?

 

(……分からない。わたしは、何億人の敵よりも、普通に――)

 

 

――たった一人でも、味方が欲しい。

 

 

 こんな悍ましい自分を受け入れてくれる、『本物』の繋がりを持つ、味方が欲しい。

 

「――だから、貴様にも勝たせてもらう。俺は戦う。目を裂かれようと、腹に穴が開こうと、脇腹を抉られようと、腕を切り飛ばされようと。この体が動く限り、この心が折れぬ限り、俺は戦い続ける! ――例え、世界中全てが相手だろうと、俺は勝つッ!!」

 

 そして、黒金は残った右腕を天に向かって振り上げる。この俺に、従えと傲慢に命ずるように。

 

 頂点の拳に、雷電が集中していく。黄金の光が拳を包み、その周囲の空間を、バチバチバチと雷が瞬く。

 

「……言ってることは、ボスキャラどころか、少年漫画の主人公みたいだね~。その技も必殺技っぽくってかっこいいよー(棒)」

 

 残された全ての力を、この拳に込めるっ! って展開は王道だよね。

 

 と、その技を向けられている、まさしく魔王ポジションの陽乃は、けれど、この土壇場で、このクライマックスで、目の前の強敵ではなく愛する八幡のことを思い浮かべていた。

 

 比企谷八幡。

 

 思えば陽乃の中であの少年が、これほどまでに大きな、まさしく自分よりも遥かに大事な存在となったのは、一体いつのことだろうか。

 

 決定的な出来事は、当然、あの黒い球体の部屋での、互いの傷を文字通り舐め合ったキスなのだろうけれど、それでも陽乃は、雪ノ下陽乃という少女は、我が身可愛さに、寂しさを紛らわせ、辛さを誤魔化す為に、例え唇だけでも許すような安く愚かな少女ではない。

 

 雪ノ下家に生まれた長女である陽乃。その人生に置いて、そして母との支配戦争に置いて、生まれ持ったこの美貌は勿論大きな武器だったし、それを使うことに躊躇いを覚えるような可愛げのある少女では陽乃はないけれど、それでも、女として身体を道具にすることはなかった。

 

 時折それをちらつかせ、下卑た欲望を引き出して、罠に嵌めて弱みを握ることはあったけれど、そういう使い方をしたことはあるけれど、結果として誰一人、陽乃の身体を汚すどころか、唇を奪うことすら出来た人間はいなかった。陽乃が守り抜いたとも言える。

 

 それは雪ノ下陽乃が、自分が人間である前に強者であるという自覚を持つ少女が、最後に残したかった人間らしさ、女の子らしさの表れなのかもしれない。自分でもこればかりは良く理解していない。分からない。もしかすると、例え武器だとしても、道具として見せびらかしていても、自分よりも遥かに格下の弱者に己の身体を触れさせたくないという強者の誇り――プライドだったのかもしれないが。

 

 それでも陽乃は、八幡に己の唇を捧げた。そして、そのキスで、陽乃の心の中に、これまで庇護者である雪乃しか入れることのなかった心の中に、比企谷八幡という少年の侵入を許してしまった。

 

 只の恋する少女に、男に溺れる馬鹿な女に、成り下がってしまった。

 

 もちろん陽乃としては、結果として、雪ノ下陽乃ともあろう者が、一度無様にも死を迎えてしまうことになってしまった今でも、八幡に溺れてしまったことに後悔はないし、むしろ死んでしまったことを差し引いても、只の強者として生きてきた己の二十一年間の中でも、今が一番、最も幸せだと断言できる。

 

 だが、ふと思うのだ。何故、自分は八幡を選んだのだろう。八幡に縋って、八幡を受け入れたのだろう。

 

 雪ノ下陽乃は、比企谷八幡のどんなところを、唯一無二だと感じ、愛おしく感じたのだろうか。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ……初めて出会った時は、八幡がどうこうというよりも、あの雪乃が同い年くらいの男の子とデートしているという驚きが大きかった。

 

 やだっ! ツインテール雪乃ちゃん可愛い! とか思って近づいた。ぶっちゃけ八幡のことなんて眼中になかった。だから八幡に話しかけ、ちょっかいをかけたのは、八幡がどうこうじゃなくて、完全に雪乃目当てだった。

 

 雪乃のデート相手に言い寄ってどぎまぎさせたら、可愛い雪乃ちゃんはどんな可愛いリアクションをとってくれてどれだけ可愛いのかということを実験もとい実証をする為だった。……それと後は、可愛い可愛い可愛い(大事なことだから三回言った)雪乃の彼氏(仮)が、どんな奴なのかを探る意味も込めて。まぁ自分で言うのもなんだが、嫌っている姉に、自分とのデートの最中にデレデレするような男を、雪乃は許さないだろうから、そんな意味も込めた挑発だったのだけれど――

 

『はぁ、比企谷です』

 

 ……あれ? という違和感は感じた。

 でも、その時は、さすが雪乃の傍に居ることが出来るだけのことはあるのかな? くらいの違和感で、それほど興味を持ったわけではなかった。

 

 

 

 爆笑したのは文化祭の時。

 これまた雪乃をちょうは――もとい、激励する為に、ちょくちょく文化祭の実行委員に顔を出して、面白おかしく引っ掻き回して遊んでいた、その時のこと。

 

『人 ~よく見たら片方楽してる文化祭~』

 

 八幡が出したスローガンを聞いて、陽乃は腹を抱えて爆笑した。

 

 馬鹿だ! 馬鹿がいる! もう楽しくて仕方がなかった。

 こんな男は、雪ノ下家の時期後継者として、少女の頃から百戦錬磨の大人達と渡り合った陽乃ですら見たことはない。

 

 人間というものの弱さを、汚さを見抜き、個人的心理、集団的心理を知り尽くし、何より群体としての人間の在り方を利用し尽くして、一発逆転の一手を見事に打った。

 

 自分には出来ない――否、する必要がないというべきか。

 陽乃(じぶん)ならあの程度の集団を言葉一つで纏め上げるのも容易いし、自分が上に立って、なんなら全てを自分の功績にして事態を動かすことも可能だ。

 

 だからこそ、あんな風に全ての責を一身に受けて、誤解されたまま、侮られたまま、それでも得たい結果は確実に獲得する。そんな戦い方を、雪ノ下陽乃は知らなかった。

 

 更に、文化祭当日。

 彼はまたしても、雪ノ下陽乃の想定の外を行った。

 

 上ではなく、外。むしろ、方向としては斜め下を抜かれるような。

 

 その日、雪ノ下陽乃にとって、比企谷八幡という少年は、雪ノ下雪乃という存在を抜きにしても、興味を引く存在になった。

 

 

 

『比企谷くんは何でもわかっちゃうんだねぇ』

 

 そして――この日。

 

 雪ノ下陽乃は、比企谷八幡という人間を垣間見た。

 

 この子は、凄く臆病で、とても弱い存在だ。

 誰よりも純粋で、傷つきやすいが故に、相手の裏を読み、好意を疑い、悪意に怯える。

 

 自分とは真逆の人間だ。

 それでも、自分と、似ている人間だ。

 

 紛れもない弱者。強者になんて、どんなに血反吐を吐いたところで、辿り着けない生まれついての弱者。

 

 でも、この子は化け物だ。

 

 全てを理屈に押し込んで、感情を排して取捨選択する――心の中では、誰よりも純粋な感情が荒れ狂っているのに。

 

 まるで理性の化け物だ。そして、自意識の化け物。

 

 人間に怯える、か弱き化け物。

 

 それを理解した時、陽乃は無性に、この少年のことが愛おしくなった。

 

 自分が失くしたものを全部持っている、この臆病な化け物が。

 

 ずっと自分が憧れて、欲しくて手を伸ばして、結局届かず、諦めたものを――この子は傷つきながら、色んなものを捨てながら、それでも愚かに求めている。

 

 無様に、哀れに、求め続けている。

 

 それを理解した時、自分は確かに、この少年に嫉妬した。侮蔑して、嘲笑して――

 

 

 でも――

 

 

 

 それでも――

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――そっか。そうだよねぇ。我ながら面倒くさいなぁ」

 

 

 陽乃のような人間は、きっと八幡も同様だが、恋愛などという、不確かで、不気味で、不定形な感情を、はいそうですかとそのままありのままで受け入れられない。理解出来ないし、理解して欲しくもない。

 

 理由付けが必要だった。

 

 自分が彼を好きな理由。彼が自分を好きな理由。

 

 弱ったところを優しくされたから依存した。――それならそれでいい。

 彼の考え方が好き。彼の弱さが好き。彼の在り方が好き。――なるほど、納得出来る。

 

 でも、それを繰り返していくと、理由を探して、辿っていくと、辿り着くのは、自分と彼が嫌う、なんとも愚かな、恋愛脳な答え。

 

(わたしは――彼の全部が好きなんだ。比企谷八幡という人間の全てを、わたしは――雪ノ下陽乃は、愛おしく思っている)

 

 彼となら、ずっと諦めていた、“あれ”に辿り着けるかもしれない。もしかしたら、手に入れることが、出来るのかもしれない。

 

 陽乃が諦め、八幡が追い求め続けていた――それは、醜悪で、浅ましくて、悍ましい、手の届かない、遥か高くに存在する、酸っぱい葡萄。

 

「………本物なんて、あるのかなぁ?」

 

 陽乃は今この時、初めて自分を弱いと感じた。

 

 八幡を、強いと思った。

 

 こんな不安な気持ちのまま、それでも八幡は、傷ついて、傷つけられて、失って――それでも、それでもずっと、追い求め続けていたのだ。

 

 バチチチチチチチチチ!!! と、轟音が響く。

 

 黒金は一歩も動いておらず、その手を動かしてもいない。

 

 しかし、その右拳を覆う光球は、まるで太陽のように凄まじい光を――雷光を放っていて、その纏う電撃の余波で、荒廃した戦場が、更に凄まじく破壊されていく。

 

 陽乃はそれを真っ直ぐ見据えて――ガンツソードを取り出した。

 

 既に陽乃のスーツは完全に死んでいて、これを先程のように空気を切り裂くように鋭く振るうことは、もう出来ないだろう。陽乃(じょし)の素の筋力では、このガンツソードはかなり重い。残酷な程に容赦なく、ずしっと、手に、心に圧し掛かるような重量だ。

 

 それでも――陽乃は、優しく微笑む。

 

 

――俺の、本物になってください。

 

 

「…………約束、したものね」

 

 だから、自分も追い求める。追い続ける。

 

 それがどれだけ困難な人生(みちのり)か、かつて同じものに憧れた陽乃が、誰よりも良く知っている。辛く、思い知っている。

 

 本物なんて、シンジツなんて、あるかどうかも分からない。

 それを追い求めるということは、それ以外を切り捨てるということ。

 

 全てを失うことになるかもしれない。誰よりも無残で、愚かで、無様な負け犬の人生を歩むことになるかもしれない。

 

 それでも、陽乃(わたし)は、あの少年と共に生きると決めたから。

 

 同じものを、酸っぱい葡萄を、探し求めると約束したから。

 

 例え全てを失ったとしても、隣で歩みたいと思う程に溺れてしまったから。

 

 だから――

 

 

「――勝つよ。八幡」

 

 

 陽乃は慈しむように、腰のそれに手を当てて――

 

 

 

 そして、雷鳴が轟いた。

 




仮面の魔王は、恋する少女の素顔を浮かべて、想い人との誓いを胸に抱く。


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――絵に描いたような、英雄になればいい。

Side和人――とある駅の近くの大通り

 

 

 和人が目を覚ました時、既にあの二体の吸血鬼は――“始祖”と“懐刀”はいなかった。

 

 ぽつんと、ただ一人、その身体に一太刀も浴びせられることもなく――浴びせるまでもないといわんばかりに無傷で――和人は決闘を行った相手に見逃されていた。

 

 和人は、ゆっくりとうつ伏せから仰向けに体勢を変える。

 そこには真っ暗な夜空が広がっていて、何故か、“懐刀”に――狂死郎に叩き折られたあの黒い宝剣を思い出した。

 

 あの時から、あの“懐刀”の一撃を食らってから、正直、記憶が曖昧だった。

 だが、それでも、あれほどの力の差を見せつけられても尚、愚直に、愚かに、和人は己があの最強の剣士に向かって行ったことを覚えている。

 

 そして、自分が我武者羅に振るった剣の悉くが、あの最強にまるで届かなかったことも。

 

「……………………」

 

 和人は左腕で視界を覆い、ぎりっと歯が軋む程に噛み締めて、だんっ! と力一杯、路面を殴った。

 

 だが、既にスーツが死んでいる身では、只の桐ケ谷和人の腕力では、その地面に罅どころか傷一つ作ることが出来なかった。

 

「……弱い」

 

 俺は、弱い。

 

 和人は、そう、力無く呟いた。

 

 その時、いつまでも横たわったままの和人を叱咤するかのように、遠くから、化け物の雄叫びが轟いた。

 

 

「グォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」

 

 

 和人は、ゆっくりとその身を起こし、思い起こす。

 

「……あの、ミノタウロス、か」

 

 和人などまるで眼中にないと言わんばかりに、己の横を通り過ぎていった、暴れ牛のような牛頭の怪物。

 

「………………」

 

 身体に力を入れただけで軋む全身を無理矢理に動かして、歯を食い縛り、呻き声を堪えながら、ふらふらと和人は立ち上がる。

 

 そして、その声の方向――池袋駅東口へと続く道に向かって、歩き出した。

 

 新たなる戦場へと繋がる一本道。

 その道を、大剣を放り捨てて、ただ光剣の柄だけを腰に携えながら、一歩、一歩、フラフラと踏み出すようにして歩く。

 

 その時、そんな和人の進む先に、何かが落下した。

 

 ドズンと落ちたそれは、一つの大きな氷塊だった。

 

 唐突に、池袋の荒廃した街に落下してきたそれに対し、だが和人は、最早何のリアクションも示さなかった。

 既に、この池袋の戦争に置いては、醜悪な吸血鬼もどきから、ミノタウロスもどき、翼竜もどき、遂には本物の吸血鬼とまで相対したのだ。今更氷塊の一つや二つ、驚くに値しない。

 

 そんな氷のように冷たい思考を巡らせながら氷のように冷たい眼差しを氷塊に注いでいると、その氷塊がパリーンと勢いよく()()()破壊され、そこから全身ボロボロのスーツを纏い、額や口端から血を流している、金髪碧眼の欧米風の顔立ちの美男子が現れた。

 

 男のその顔を見た時、氷塊が落下してきたことには何の反応も示さなかった和人も、大きく目を見開いて一歩、足を下げて睨み付けた。

 

「……お前は……っ!?」

 

 その男は、昨夜のミッション終わり、そして、今日の夕方に明日奈と下校していた時、自分を、そして何よりも大切な明日奈を襲った、和人にとっては決してこのまま見逃すことが出来ない人物だった――吸血鬼だった。

 

 和人のその声に、頭を押さえて「っつ~、あのクソパンダ、絶対にいつかぶっ殺してやる……っ」と呟いていた氷川も「……ん?」と、和人のことに気付き、途端に凶悪な笑みを浮かべた。

 

「……ほう。生き残ってたのか、お前」

 

 そう言って、吸血鬼の鋭い牙を覗かせた氷川に、和人は反射的に腰の柄に手を伸ばそうとする。

 

「――ッ!」

「あ~、止めとけ。俺はこの戦争は途中参加だから、お前等のミッションのターゲットじゃねぇ筈だ。ほら、あれだ。地図みたいなの持ってんだろが。それで確認してみろよ」

 

 氷川は臨戦態勢を取ろうとする和人に対し、座り込んだまま面倒くさそうに手を振ると、そのまま両手を後ろに突き、空を――夜空を見上げるような体勢を取った。

 

「…………」

 

 和人は未だ氷川を睨み付けたまま、左手を光剣の柄に添えたままで、素早く右手でマップを取り出す。

 

 すると、既に赤点は殆どなく、目の前の氷川は当然のこと、この先にいる牛頭の怪物すら、ターゲットではないことが確認出来た。

 

「理解したか? 俺としても、そんなボロボロのお前と戦うつもりはない。万全の体勢で戦いてぇから、俺はあの時、お前を見逃したんだぜ」

「……だったら、どうしてあの時、ミッション外で俺達を襲ったりしたんだっ! 無関係の人間まで巻き込んで!!」

「ははは、悪かった。まさか外で装備を持ち歩かない程の初心者だとは思わなかったんだよ――だがまぁ、あれで学んだろ?」

 

 氷川はそう言って笑いながら立ち上がり、パンパンとズボンの埃を落としながら、和人に言う。

 

「一度殺しをやった人間が、平穏な日常なんて送れると思ってんな」

「――――ッ!」

 

 言葉に詰まる和人に対し、氷川は氷のように冷たい表情を向ける。

 

「テメェの運命を受け入れろ。……じゃねぇと、只々惨めに、死に行くだけだ」

 

 そして、何も言えない和人の方に、氷川はゆっくりと向かって歩いて行く。

 

「それに、だ。俺も確かに結構ボロボロだが――もう今日はおそらく擬態解除は使えないが、それでも――」

「――――ッッ!!」

 

 氷川は一気に距離を詰め、その細長い指を和人の首筋に添える。

 

「……こんな様じゃあ、俺とやってもただ死ぬだけだぜ。スーツが死んだ人間(おめえら)なんざ、吸血鬼(おれら)からしたら――只のドリンクバーだ。血液のな」

 

 氷川がさっと手を放すと、和人は勢いよく距離を取り、光剣を手に取ろうとする――が、ぐらりとふらつき、倒れかけ、何とか強く一歩を踏む込むことで堪えた。

 

 それを見て、氷川が表情を消し、神妙に問いかける。

 

「……そんな状態で、今度はあの邪鬼とやろうってのか? ……悪いことは言わねぇ。止めとけ」

「……邪鬼?」

 

 初めて聞く言葉に対しそう呟く和人に、氷川は「あのミノタウロスみてぇな化け物のことだ」と説明すると、その邪鬼が暴れる戦場の方向――池袋の東口の方向に目を向ける。

 

「邪鬼は異能(ちから)に呑み込まれ、人間はおろか吸血鬼ですらなくなった――成り下がった、堕ちた化け物だ。理性を失い、ただ異能(ちから)に振り回されるがまま暴れ狂う。こと戦闘力だけなら、まぁ最高幹部(おれら)には届かないにしても、この戦争を起こした黒金グループの幹部クラスはある」

 

 個体にもよるけどな。

 そう呟いて、氷川は再び和人の方を向いた。

 

「スーツが壊れて、ロクに真っ直ぐ歩けもしない今のテメーが行ったところで、瞬殺されるのがオチだ。さっきマップを見たんなら、あの化け物がテメーらのノルマ外だってことも分かっただろう。後はそこらへんで寝っ転がって、お仲間が残りのノルマをこなすのをしおらしく祈ってろ」

 

 煙草に火を点けながら笑みを浮かべて言う氷川を、和人は一瞥し、そして――そのまま、池袋駅の方に向かう。

 

「…………待てよ。話し聞いてたか?」

「ああ。だけど、関係ない。俺は行く」

「……なんだ? お前、誰かが傷つくのは黙って見てられない、とかほざくタイプか? 例え見ず知らずの人間でも、その命が失われようとしているのなら、この身に変えても僕は戦う、とか宣う輩か?」

 

 氷川は先程までの笑みを完全に消して、むしろ侮蔑するように、その名にふさわしい冷ややかな、極寒零度の視線を送る。

 

 和人は、氷川の方を振り向かないまま、歩みを止め、その心中を吐露した。

 

「……これは、戦争だ。ゲームでもなければ、遊びでもないんだ。……それに、俺達とお前等の戦争に、一般人は関係ない。……なら……出来る限り……救いたい」

「嘘だな」

 

 氷川は和人のその言葉をたった一言で否定した。

 何も言い返さない和人の背中に、氷川が冷たい刃のような言葉をぶつける。

 

「それだけじゃねぇだろ。お前は、そんな絵に描いたような英雄になれるタイプの男じゃねぇだろ。綺麗ごとで化粧すんなよ。お前はそんな潔癖症じゃねぇだろ。確かに、それも本心だろうさ。それがお前の正義なんだろうよ。けど、お前、そんな正義の為に――死ねるような男じゃねぇだろう?」

 

 氷川の言葉に、和人は何も言わない。背を向けたまま、ただ氷川の容赦ない言葉の刃を受け止める。

 そんな和人に向かって、氷川は尚も言葉をぶつけた。

 

「あるだろう? ある筈だ。お前が幽鬼みてぇに戦場に引き寄せられる理由が。十中八九死ぬと分かっている戦争に、何の合理性もない強制もされてないレギュレーションみてぇな殺し合いに、どうしようもなく引き付けられる理由が。何の理由もなく、ただ我武者羅にその剣を振るいたくて堪らない理由が」

 

 和人は何も言わない。ただ、強く、強く、拳を握る。

 

 氷川は冷たい目で、冷たい言葉を投げ掛ける。和人が必死に目を逸らしていることを、氷の(ことば)で暴き出す。

 

「さあ、言えよ、人間。格好つけて誤魔化すな。お前は、一体、何がしたいんだ?」

 

 和人は燃えるような瞳で、バッと氷川の方を振り返り、拳を握り締め、歯を食い縛りながら、吐き出すように叫び散らした。

 

 

「アイツに――最強に勝ちたいんだよ!!」

 

 

 和人は吠えた。

 

 そして氷川は、その言葉だけで全てを察した。

 

「分かってる!! こんなことが何にもならないくらい!! 綺麗ごとで誤魔化している愚行だってことくらい!! 無駄死にするだけだってくらい!! 分かってる!! 分かってるんだ!! 分かってるんだよ!! それでも、俺は……何もせずにはいられないんだ!! 剣を振るわずには……いられない……っっ!!」

 

 氷川は笑みを深める。

 

 ああ、こいつは同じだと。

 

 こいつもきっと、あの最強に全てを狂わされた。

 

 剣士という生き物だからこそ、あの“剣”を見せられたら、魅せられずにはいられない。

 

 取り憑かれるに、決まっている。

 

 あの剣の魅力に。あの剣の魔力に。

 

 いつか、自分もあんな剣を振るってみたいという誘惑に。

 

 そして、あの剣を超えて――最強になりたいという、どす黒い欲望に。

 

「分かってる!! 分かってる!! 分かってる!! 俺は帰らなくちゃいけないんだ!! 俺は死ぬ訳にはいかないんだよ!! なのに……なのに、なのに、なのに!! どうしようもなく溢れてくるんだ。……強くなりたい。強くなりたい。強くなりたい。強くなりたいっ!! アイツに勝ちたい……っ! あの剣を超えたいっっ!! このままで、終わってたまるかッ!!! 弱いままで、終わってたまるかよッ!!」

「なら、勝てばいい」

 

 和人は顔を上げる。

 氷川は再び、その凶悪な笑みを、目の前の和人(けんし)に向けていた。

 

「勝って、強くなればいい。そんで生き残って、死なずに帰ればいい。そうすれば全てがクリアできる。そうして――」

 

 氷川は、一段とその凶悪な笑みを深めて、(いざな)うように、こう言った。

 

「――絵に描いたような、英雄になればいい」

 

 呆気に取られる和人に、氷川は笑みを浮かべたままで言った。

 

英雄(それ)くらいにならきゃ、あの最強(ばけもの)には辿り着けない」

 

 氷川はそう言って、和人に向かって背中を向けた。

 

「お、おい――」

「……言っておくが――」

 

 氷川はもう一度、首だけ振り返り、和人に向かって――氷のように、冷酷に告げる。

 

「次に会った時は、問答無用で殺させてもらう。斬らせてもらう。昼だろうと、夜だろうとだ。忘れるな、これを覚えとけ」

 

 酷薄な、極寒の夜のように冷たい――吸血鬼の笑みで宣言する。

 

「“懐刀(やつ)”を超え、最強の剣士になるのは――このオレ、氷川だ」

 

 和人はその言葉を受けて、宣戦布告を受けて、表情を剣士のそれに変え、光剣の柄を掴み取り――引き抜き、刀身を突きつけ、負けじと宣言する。

 

「いいや、違う。最強の剣士になるのは俺だ――桐ケ谷、和人だ」

 

 氷川は不敵に笑い、和人は睨眼で答える。そして氷川は、そのまま和人から遠ざかるように歩み去って行き、何処かへと消えた。

 

 和人は氷川が見えなくなるまで睨み付けると、氷川とは逆方向に、予定通り、池袋駅東口前へと向かう。

 

 一体の化物が荒れ狂う、戦場へと歩みを進める。

 

 

 それは、誰にも何にも強制されていない、ただ己の意思のみで向かう、最後の決戦。

 

 

 無力な一般人を救う為、一本の剣のみを携え、満身創痍の身体を引き擦り向かう、最後の戦場。

 

 

 まるで英雄の如きその姿は、ただ一人の、剣に取り憑かれた哀れな剣士の愚行。

 

 

 そして今、再び――桐ケ谷和人は、怪物に挑む。

 

 

 

 今宵、人々は、一人の英雄の誕生を目撃する。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 Side八幡――とある池袋の南の公園

 

 

「グルルルルルルルァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!!!」

 

 

 俺は顔を上げる。

 

 旋回を終えた翼竜は、この南池袋公園に、たった一人残されたぼっちの俺に向かって、嘶き声を轟かせながら一目散に突っ込んでくる。

 

 凄まじい、まさしく怪獣の如き巨体が、入学時に俺が撥ねられた雪ノ下家のリムジンとは比べ物にならない程の速度で突き進んで来る。リムジンというよりはダンプカーだな、最早。まぁ、ダンプカーはあんな鋭い嘴を持ってないだろうけど。

 

 さて、どうするか。

 

 BIMは既に――残り二つ。そして、小町と由比ヶ浜が近くに居ることが確定である以上、万が一を考えて烈火ガスは使えない。あれは広範囲攻撃用のBIMだから、中々使い辛いんだよな。屋内は論外だし、屋外だと風の影響とかも考えなきゃだし。それに、そもそも…………まぁ、とにかく、今は除いて考えよう。

 

 ガンツソードはどうだ? 折れてはいるが、伸ばせば突き刺すくらいのことは出来るか……? だが、100%の性能を引き出せないことは確かだろう。切れ味も悪そうだし。

 

 となると、信用して使えるのは、爆縮式のBIMと、Xガン、Yガン、そして何とか生き残っているスーツ、か。

 

「十分だな」

 

 俺は透明化を施して、余裕を持って奴の進路から外れた。

 

「グルルルルルルルルァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアア!!!」

 

 翼竜は、そのまま俺がいた場所に突っ込んでいき、再び上空へと昇っていった。

 

 ……どうなんだ? これは、アイツが目で標的を認識しているということでいいのか?

 

 見た目は翼竜でも、あれはあくまで吸血鬼の成れの果て――人間の成れの果てだ。吸血鬼連中は人間の時よりも優れた感覚器官を持っているようだが、それでも人間時代の習性が抜けず、視覚を一番に頼っているような節があった。……あんな化け物でも、それは適応されるのか?

 

「……だが、いつまでもこれじゃあ不味いか」

 

 俺は再び透明化を解除する。もし、奴が視覚に頼ってターゲットを見つけているのだとして、俺を見失ってしまったら、翼竜が標的を変更して、小町や由比ヶ浜の方に向かって行ってしまうかもしれない。それはダメだ。

 

 ならば、と、俺はそこら辺に生えていた木を引っこ抜き、そして、そのまま上空の翼竜に向かって投げつける。

 

「――ふッ!」

 

 スーツの力によってそれなりの鋭さで襲い掛かったそれを、翼竜は直前で察知し、ギリギリで避けた。

 

「グ、ッルルァァァ!? ルァァァァァァァァッッ!!!」

 

 ちっ。田中星人のようにはいかないか。

 それでも、ターゲットを俺に戻すだけのヘイト値を稼げただけでも成功だ。

 

 しかし、これで俺は透明化も使えないわけか。まぁ元々透明化は、あんな風に理性を失い本能で行動する奴にはいまいち効果は薄い。精々が詰めの時に一瞬の混乱を作るくらいだ。

 

「――でも、これは使えるな」

 

 俺は、奴が再びこちらに突っ込んでくるのを確認して、もう一本、木を引っこ抜く。ごめんなさい何とか自治体。でも、これだけ既に池袋の街を破壊されてるんだから、この自然(?)破壊も吸血鬼のせいになるだろう。八幡気にしない。

 

 どうにも俺の手持ち武器だと――今回に限った話じゃないが――ああいう巨体系の敵に対してスケールに欠ける。

 

 決め技にならなくてもいい。とにかく、今は有効打を与えることだ。

 

「来い、化物」

「グルルルルルルァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアア!!!!」

 

 こちらに向かってその鋭く巨大な嘴を突き刺すかのように、真っ直ぐ突っ込んでくる翼竜を見て思う。

 

 ……なんか、コイツこればっかりだな。空を飛べるっていうのが、コイツの一番の武器なのは分かるが、それにしてもワンパターンだ。飛び道具はないのか……? それとも本能に従って襲い掛かっているだけなのか。

 

 まぁ、いいか。知性もなければ理性もない、まさしく獣のような星人と戦ったこともないわけじゃない。っていうか結構ある。

 

 千手や黒金、そして昨日の親ブラキオなんかと比べれば、コイツの攻撃は――

 

「――遅え」

「ッッッ!!! ――グルァッッ!!」

 

 俺は突撃の瞬間、一歩横に出て突撃を避けながら、そのまま翼竜の首筋に“木”の槌を振り下ろした。

 

 翼竜はそのまま地に叩きつけられ、ズザザザザザザザッッと地面を滑る。

 空を飛ぶ系の敵は、地に堕とすのが定番(セオリー)だよな。

 

「ぐ……るぉぉぉぉおおお!!」

 

 翼竜は呻きながらも立ち上がろうとする。っていうか、腹から出てるうじゃうじゃの腕で体勢を立て直すの気持ち悪ッ!

 

 だが、折角地面に落としたのに、そんなことをむざむざとさせる訳がない。

 俺は地に堕ちた翼竜に向かって、間髪入れずにYガンを発射した。

 

「ぐ、ルォォっ!?」

 

 光る捕獲ネットはそのままぐるりと翼竜の身体に巻きつき、そしてそのネットの端を地面に固定しようとする。

 俺はその隙にXガンも抜いて攻撃を畳みかけようとする――が。

 

「グ――ルォォォオオオオオオオオオオッ!!!」

 

 さすがに本能で恐怖を感じたのか、翼竜は腹の腕で突っ張るようにして強引に身体を宙に浮かし、その巨大な翼で強烈に一振りし、揚力を手に入れる。

 

「――ッ!!」

 

 翼竜はYガンネットが地面に固定されるよりも前に、空に逃げることに成功した。

 

 だが――俺は、完全に届かなくなる前に、翼竜に向かって駆け出し、跳んで――翼竜の身体に巻き付いたYガンネットに掴みかかった。

 

「……一々、空に逃がす訳、ねぇだろ」

 

 空を飛べるってのがコイツのアドバンテージなら、俺も空まで食らいつくまでだ。

 

 こいつが俺の手の届くところに来るのを待ってのカウンターだけじゃあ、殺すまでどれだけ時間がかかるか分からない。

 お前なんかに長々と構っている時間はない。

 

 陽乃さんは、こうしている今も黒金と一対一で戦ってるんだ。早くお前を殺して、俺は加勢に向かわなくちゃいけないんだよ。

 

 だから――

 

「――空中戦。付き合ってやるよ、邪鬼」

 

 お前の得意分野(テリトリー)で戦ってやる。

 

 

 そして、その上で、最短時間でお前を殺す。

 




剣に取り憑かれた少年は、最強の輝きに魅せられ、何の強制力もない最後の戦場へと向かう。


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――お前との約束は、きちんと守ってやるよ。

 Side八幡――とある池袋の上空

 

 

 ……なんて恰好をつけたのはいいが、今の俺はギリギリで不気味な翼竜にしがみ付いている滑稽な男でしかない。

 

 思わず下を――遥か遠くの池袋の街を見てしまって、ぶるりと震える。高っ!? 怖っ!?

 

 ……これだけの高さから堕ちたら、まだ機能は生きているとはいっても、既にかなりのダメージを食らっているこのスーツじゃ耐えられないかもしれない。その場合、俺は間違いなく即死だ。

 

「…………っ!」

 

 ギュッとYガンネットを持つ手に力が入る。今の俺は、これだけでしがみ付いている状態だ。足場はない。鯉のぼりのように風に吹かれ――翼竜の高速飛行による激風に煽られている。

 

 …………さて。どうしたものか。

 

「――ん?」

 

 ……何だ、あれは?

 

 翼竜が飛んでいる高度よりは少し低いが、ビルの屋上を華麗に飛び回っている氷のようなものを纏っている何かを、漆黒の物体が追いかけ回している。

 

「…………………はぁ?」

 

 っていうかパンダだった。ジャイアントパンダだった。

 

 ………………………アイツ、何してんの?

 

 パンダが何やらロケットエンジンのようなものを搭載したスーツで、某鉄男のように池袋の空を華麗に飛び回っている。なにこれ? 珍百景?

 

 氷の物体がなんか凄まじい衝撃波というか風の刃みたいなのをパンダに向かって発射すると、パンダのスーツから飛び出したロボットアームのようなものが夜の彼方にそれを吹き飛ばし、そしてパンダの口から砲身のようなものが飛び出してその砲口が煌々と輝き――

 

 あ、なんかビーム出した。

 

 かめはめ波みたいなエネルギー砲が、氷の物体諸共池袋の街を凄まじい勢いで破壊している。

 

 建物が倒壊する轟音と、人々と化け物の悲鳴。そして彼等は異次元の戦闘音を響かせながら更に彼方へと飛び去って――

 

「………………………………………」

 

 ……………………見なかったことにしよう。

 

 自分の事に話を戻す。俺は何も見なかった。見なかったんだ。アイア○パンダなんていなかったんだ。

 

 閑話休題。

 

 この翼竜は、基本的に人間の身体が巨大化し、肥大化したものだ。

 どでかい胴体は腹に無数の手を生やして、両腕は巨大な翼に変化していて、頭は人間サイズ(もしかしたら縮小しているかもしれない。それほどに小さい)で二本の角を生やし、更にまさしく太古の翼竜のような巨大で鋭い嘴が生えている。ここだけ見るとまさしく翼竜で、昨夜の恐竜星人のメンバーにいなかったのが不思議なくらいだ。いや、こんな面倒くさい敵ほんとマジ面倒くさいのでいなかったことに関しては全然こちらとしては助かったのだが。

 

 まぁ、何が言いたいのかといえば、いくら翼竜といっても元が吸血鬼――元が人間なので、やはり基本的には人間の身体のパーツが変形したものとなっている。これは、こいつが特別なだけかもしれないが、少なくとも今はコイツに関しての事実のみを考えればいい。吸血鬼のスタンダードな生態なんて今は関係ない。

 

 そして、この翼竜には――足が生えている。

 

 鳥のようではなく、人間のような足が、二本、残っている。

 

 勿論、この巨体を支える為か、太く巨大ではあるのだが、それでも見た目は、形は完全に人間の足だ。色もきちんと人間らしい肌色で、それが却って恐ろしく不気味で気持ち悪い。気色悪い。目を向けているだけで吐き気がしそうな程、全体的に悍ましいフォルムだ。

 

 だが、今は何としてもあれを掴みたい。いや、本当は手を伸ばしたくもないが、今はとにかく、奴の背中に乗ることが先決だ。

 腹の方は生えている無数の手によってガードが堅いだろうが、背中の方はそちらに比べれば比較的大丈夫だろう。

 

 それに――あの背中には、大志の身体が飛び出ている筈だ。

 

 大志を殺す為にも、あそこに辿り着けば勝ちだ。

 

「――――ッッ!!!」

 

 ――っ、クソッ! 翼竜は俺に気付いているのかいないのか、これまで以上にアクロバットな飛行を続けている。これじゃあ、いつYガンネットがこいつの身体から外れるか分からない。

 

 ……いや、それが狙いか? 体に纏わりつくネットを振り解く為の、この訳分からんジェットコースターみたいなアクロバットなのか? 面白動画撮ってんじゃねぇんだぞ、少しは自重しろ。

 

 だが、それなら一刻も早く背中に移らなくては。

 このままじゃあ、俺に残された末路は無様な落下しかしない。

 

 ……いっそのこと、Xガンを撃ってみるか。いくらアクロバット飛行中でも、この距離で、この巨体なら外す方が難しい。当然、この巨体を一撃で殺すのは不可能で、コイツは更に暴れるんだろうが、それでもいざという時はそれも手だ。ただ落ちるだけよりは、遥かにマシな悪足掻きだろう。

 

「…………いや」

 

 それでも、ここはまずはチャレンジしてみよう。

 奴の背中に辿り着けば、折れたガンツソードを突き刺して固定し、その後にいくらでもXガンを撃ち放題だ。

 

 そして再びコイツを地面に落とす――堕とす。そこからはYガンで再度固定するのでも、Xガンでそのまま撃ち続けるのでもいい――俺の勝ちだ。

 

「……さて」

 

 ここから、奴の不気味逞しい足まで、およそ2mか。

 届きそうで届かない距離だ。向こう側に移るには、このネットから手を放して、このネットを手放して――跳ぶしかないんだろう。数瞬とはいえ、飛ぶしかないんだろう。翼がない人間としては、中々の恐怖体験だ。

 

 ……はぁ、何だこれ。俺はなんで池袋の上空で、こんなSASU○Eみたいな真似をしなくちゃいけないんだ。しかも失敗したら固いコンクリートなんだぜ。泥水の方が何百倍もマシだ。

 

「――ハッ、今更だな」

 

 よく考えて見れば、こんなのはいつものことだ。死線を潜り抜ける所か、越えちゃいけない最後の一線的なアレの向こう側に何度も渡って、それでも執念深く毎回しぶとく戻ってきた身の上だ。

 

 今更こんなクリ○ハンガーくらいビビるかよ。はい、嘘です。超怖いです。ダレカタスケテー。

 

「――あ。普通にもう一回Yガン撃てばいいんじゃね?」

 

 俺はYガンを取り出し、2m先の奴の両足に向かって発射した。

 

「グルッ、ルォォォォオオオオッ!!!?」

 

 ネットは翼竜の両足を括るように巻き付いた。

 そして、その端は俺の目の前まで、手を伸ばせば届く位置まで靡いていて、俺はすぐさまそちらに移った。

 

「ルォォォオオオオオオオ!!!」

 

 翼竜は暴れ狂うが、俺はそのままネットをよじ登る。なんかSASUK○のファイナルステージみたいだ。何だ今日はSA○UKEデーか。此処は緑山じゃなくて池袋だっての。

 ネットはがっしりと足を縛り付けていて、コイツがいくら暴れようとビクともしない。

 

 俺はそのまま奴の両足まで辿り着き、そして両足を括るように纏わりついたネットのお蔭で出来た足場に自分の足を掛け、奴の腰の辺りにガンツソードを突き刺した。

 

 っ! やっぱり折れた剣だと上手く刺さらねぇな。グッと無理矢理に押し込むようにしないといけない。今度から渚が持っていたナイフでも持ち歩くか。あれは手軽で便利そうだ。

 

「グルォォォオオオオオオオッッ!!!!!」

 

 翼竜の癖に大きく海老反りする邪鬼。

 俺はその期を逃さず、そのままグイッと体を上げ、剣を抜き取って跳び、背中の上の方に再び剣を一気に突き刺した。

 

「ルァァァァァァァァァァアア!!!!! グルォォオオオオオオオオ!!!」

「ッッ!! ちぃ!!」

 

 翼竜は尚一層激しく暴れ狂うが――もう遅い。

 

 俺は、この背中まで辿り着いた。

 

 必死に突き刺した剣にしがみ付き、辺りを見渡すと――見つけた。

 

 

 アイツはそこに――此処にいた。

 

 

 もう既に、首の半分ほどまで取り込まれ、頭のみしか露出していない。

 その頭部も不気味な白殻に覆われ、白骨のような外骨格を身に纏い、瞳は真っ赤に染まって呆然としている。アイツは――コイツは、変わり果てた化け物に成り果てていた。

 

 哀れな白鬼は、俺に気付いたようで、掠れたような呻き声を上げた。

 

「…………ぁ…………ぅぁ…………ぁぁぁ」

 

 否――化け物のような、呻き声しか、既に発することが出来ないようだった。

 

 コイツは――川崎大志は、もう、只の、化け物だった。

 

「……ぁ…………ぅ……ぁ……」

「……少し見ない間に、カッコよくなったじゃねぇか、大志」

 

 俺はそんな大志に向かって、ポツリと告げる。

 

「すっかり、“あっち側”だな。……安心しろ」

 

 

 

――お前との約束は、きちんと守ってやるよ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 何処からか、稲光が閃き、轟音が轟く。

 

「……………………」

 

 俺はしばし、変わり果てた大志を、怪物に成り果て、成り下がった大志を見ていたが、こんな所で、これ以上の時間を食うわけにもいかない。

 

 既に、時間は何も解決してくれない。何も救ってくれない。

 取り返しのつかないことが、ますます取り返しがつかなくなっていくだけだ。

 

 一刻も早く、約束を守ろう。

 一刻も早く、責任を果たそう。

 

 そして、一刻も早く――あの人の元へ。

 

 俺は体勢を崩さないように片膝を着いていた姿勢だったが、そのままXガンを大志に向けようとして――

 

 

――ガシッ、と、手を掴まれた。

 

 

「ッ! 何っ!?」

 

 右手に目を向けると、Xガンを掴んだ俺の右手の手首を――翼竜の背中から出現した白い手ががっしりと掴み上げていた。

 そして、俺の周りに、翼竜の背中一面に、ホラー映画のように白い腕がズバババババと生えてくる。いや、ホラー映画よりも数段こええええええよ!

 

 ちっ、見誤った! なんで()()()()()()()()()()()()と思い込んだっ!?

 大志が背中から取り込まれてる以上、こっちからも“出し入れ可能”だってことは、十分に考えられたじゃねぇかっ!!

 

「っ!!」

 

 更に足首をも掴まれる。そして、ずずっ! と、ガンツソードが“沈む”感覚。

 取り込まれる。なんてことだ。背中が弱点だなんてとんでもない。此処は、只の化け物の大口で――胃袋じゃねぇか。

 

 俺は大志の首を一瞥し――

 

「――――ちっ!」

 

 舌打ちをする。迷ってる時間はない。コイツの中がどうなってるか分からねぇ以上、本当にこん中は胃袋で、取り込まれた途端に一瞬で溶かされるってこともあり得る。そうでなくても、こんな化け物の中で生殺しなんて御免だ。VS巨大生物でよくある――達海もしていたが――体内に入って中から攻撃、なんてのは、本当に最終手段だ。普通に危険性(リスク)が高過ぎる。

 

 それよりは――俺は此処からのスカイダイビングを選ぶっ!

 

 さあ、もう一回、根性見せてくれよ、俺のガンツスーツ!

 

「ぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおお!!!」

 

 俺は無理矢理Xガンを握られている腕を引き剥がし、そして足元、俺の両足を掴んでいる腕を狙撃した。

 スーツの力で引き剥がすことが出来た。つまり、この腕はあくまで人間並みの――吸血鬼並みの力しかない、文字通りの腕なのか。ならば、行けるか――?

 

 バンバンッ!! と俺の足を掴んでいた腕が破裂する。

 

「グルッルルルウッルルルルルルウウウッォォォオォォオオオオオ!!!」

 

 再び悶え苦しむ翼竜に構わず、俺はその場でジャンプした。

 

 すると、高速で飛行し続けていた翼竜は俺を置いてそのまま飛び去っていく。背中に、大志を残して。

 

 あの無数の腕達は俺を逃がすまいと、縋るようにこちらに向かって手を伸ばしていたが、やはり通常の長さ以上は伸ばせないらしい。

 

「……………………」

 

 ……とにかく一旦は逃げることが出来た。相変わらず、俺は逃げることには定評がある。反吐が出る。

 

「――さて。どうする?」

 

 取り込まれることは避けることは出来たが――次の問題は、どうやって着地するか?

 

 下を見ると、やはりかなりの高さだ。周辺ビルの屋上が一望できる。

 

 このまま体勢を変えれば上手く何処かの屋上に着地出来ないか……? 真下は街路樹さえない路面だ。着地の仕方で衝撃を殺しきることなど出来ないだろう。……その時はスーツのダメージが耐えられるかどうか、危う過ぎる賭けだな。

 

 俺がそんなことを思考していると、怒り狂った翼竜は、こちらに向かって旋回して、突っ込んできた。

 

 だが、その途中で急停止し、空中でその動きを、一瞬、止める。

 

「…………何だ?」

 

 俺はXガンを構えながらそれを見る。

 ……正直、こんなものでどうにかなるとは思えないが。折れたガンツソードとどちらがマシだろうか。

 

 翼竜は、右翼を上げ、左翼を下げるような構えを見せて、そして――

 

「――ッ!!」

 

――強烈な勢いで横回転し、弾丸の如き超スピードで突っ込んできた。

 

「ドリルくちばしってか………ッ!?」

 

 ふざけんなよ、お前どっちかっていうとプテラだろ!? お前覚えねぇじゃん! 何、オニドリルみたいな真似してんだッ!? 唯一の特技奪ってんじゃねぇよ、やめて差し上げろ!

 

 くそっ! 不味い! 避けられねぇ! どうする!?

 

「――――っ!?」

 

 そして、まさしくドリルのような嘴が俺を襲い――

 

「――――ッッッ!!!?」

 

 俺は、凄まじい勢いでどこかのビルに叩きつけられ、そしてそのビルを貫いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side由比ヶ浜&小町――とある駅へと向かう路地裏

 

 

 由比ヶ浜と小町は南池袋公園を出て、再び駅の方面へと駆けていた。

 

 そこが無事な保障など、どこにもない。

 だが、今の由比ヶ浜にとって、一番大事なことは小町を守ること、そして八幡の邪魔をしないことだった。

 

 だから、とにかく南池袋公園から離れなければと、曲がり角を曲がる度に、その先に化け物がいないことを確認して、慎重に、だがなるべく急いで、先を進む。

 

「――――っ!?」

「ゆ、結衣さん、大丈夫ですか」

「……大丈夫だよ、小町ちゃん」

 

 戦争が始まって初期で敵に捕まり、捕虜となった由比ヶ浜は、戦争自体は少し落ち着いてきているのに、徐々に終焉へと向かっているのに――いや、だからこそか――生きている人間も化け物も殆どおらず、道のあちこちに無残な死体が転げまわっているこの池袋の街に、この地獄のような惨状に、心がずっしりとダメージを負っていくのを感じる。

 

 けれど、だからこそ、あまりこの光景を小町に見せたくない。

 

(……ヒッキーから、託されたんだもん。お願いされたんだもん。……だから、なんとしてもやり遂げないと)

 

 約束したんだから、ヒッキーは絶対に帰ってくるっ!

 

 由比ヶ浜はそれだけを胸に、それだけを支えに、ギュッと小町の手を握って自分を奮起させる。

 

「…………」

 

 小町はそんな由比ヶ浜の横顔を見上げて、そしてそっと後ろを振り向くが――転がっている死体が目に入ったのでバッと視線を戻し、俯く。

 

(…………お兄ちゃん)

 

 そして、由比ヶ浜は再び進む先に生きている吸血鬼がいないことを確認する為に「それじゃあ、ちょっと待ってて、小町ちゃん」とほんの少し先、数m、小町から離れてしまう。

 

 

 そして、狙い澄ましたかのように、その悲劇は起こった。

 

 

 ドガァァァァァァアアアン!!! と、頭上を何かが、ビルを破壊しながら通過していった。

 

 

(――――――――え?)

 

 小町は、己に瓦礫が降り注ぐのを、どこか現実離れした光景として認識する。

 

「ッッッ!!!! 小町ちゃん!!!」

 

 由比ヶ浜が小町に向かって叫びながら手を伸ばす。

 

 

 だが、容赦なく、救いなく、禍々しい轟音と共に、倒壊したビルが二人を引き裂いた。

 

 




戦場を一望する上空で、比企谷八幡は邪鬼なる翼竜と殺し合う。


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世界になんて嫌われたって、幸せになることは出来るってね!

Side陽乃――とある五叉路の大きな交差点

 

 

『――例え、世界を滅ぼしてでも、他の人類全てと引き換えにしてでも……死んでも生き返らせますから』

 

 

 八幡は、この戦いが始まる前、まるで母親に置いて行かれそうな子供のように、不安げに、女々しく、縋りつくようにして陽乃に言った。

 

 陽乃はそれを見て、彼をとても愛おしく感じた。

 ああ、やっぱり、この子は弱い。どこまでも、妹と――雪乃とそっくりだ。

 

 この子をここまで弱くしたのは、きっと自分なんだろう。

 

 孤独に愛され、孤独に侵され続けた身の上でありながらも、だからこそ、孤独を恐れる八幡を、この子の負っていた傷に入り込んで、失ったものの代替になっておいて、それでも、傷に塩を塗り込むように、負っていた傷を更に深く抉るように、この子の前からいなくなり――孤独(ひとり)にしたのは、陽乃だ。

 

 八幡はきっと、もう陽乃の代替を見つけられない。それほどまでに溺れ、狂ってしまっている。

 

 妹の――雪乃のように、八幡を見つけた雪乃のように、別の大切な何かを見つけるようなことはきっと出来ず、いつまでも、どこまでも自分を追い続け、傍に置き続けるだろう。傍に居続けるだろう。

 

 それは、信頼なんてものよりもずっと酷い何か。依存なんてものが生温い何か。妄執なんて言葉を以てしても、尚足らない、より悍ましい――何か。

 

 それは、きっと自分が――自分達が、かつて何よりも嫌っていたもので――自分でそうなるように仕向けておいて、そんな妹を可愛がっておいて、それでも気に入らなかった、そんな何か。

 

 これは、『本物』という何かから、きっと、一番、遠い何かで――

 

 

――それでも、陽乃は、そんな八幡を、そっと優しく慈しむように抱き締めた。

 

 

『ありがとう――でも、いらないよ。死ぬ気なんてさらさらないから。もう、二度と、あなたを孤独(ひとり)にしないって言ったでしょ』

 

 それでも、きっともう、八幡も、そして陽乃も――後戻りできない。何処にも帰れないし、いつまでもどこまでもこのままだ。この様だ。

 

 だって、そんな八幡の悍ましい何かを――そんな浅ましくて、気持ち悪い何かを向けられることを、陽乃はこの上なく嬉しく思っているのだから。

 

 狂いそうになる程に、このまま溺れていたいと思う程に、歓喜しているのだから。

 

 ああ、きっと、自分達は何かが終わり、何かが狂ってしまったのだろう。

 

 自分達は、あの甘酸っぱくも痛々しい、けれどどこか微笑ましい青春の日々には、もう二度と戻れない。

 

 八幡と陽乃の青春ラブコメは、きっと決定的にまちがってしまった。

 

 それでも、狂ったもの同士なら、壊れたもの同士なら、それがどうしうようもなくまちがった想いでも、まちがった関係でも、代替品(レプリカ)でも、どうしようもないバッドエンドの産物でも――『本物』に、なれるかもしれない。

 

 八幡と陽乃、化け物と化け物、壊れ物と壊れ物――そんな二人だからこその、『本物』になれるかもしれない。

 

 だって、元々『本物』なんてものは、浅ましくて、悍ましくて、気持ち悪い、毒でしかない酸っぱい葡萄なんだから。

 

 相手のことが分かりたくて、知っていたくて、完全に隅から隅まで理解したい。

 そんな独善的で、独裁的で、傲慢な想いを、お互いが押し付け合い、そしてそれをも、許容できる関係。

 

 そんな関係が、そんな繋がりが、そんな二人が――狂っていないわけがないんだから。壊れていないわけがないんだから。まちがっていないわけが、ないんだから。

 

 だから、きっと、今のまちがった二人だからこそ、この世の誰からも理解されなくても、お互いだけは、お互いを理解し合える。許容し合える。

 

 壊れ、狂い、まちがった二人だからこそ、きっと、いつか――『本物』になれる。

 

 だから陽乃は、雪ノ下陽乃という少女は、思う存分、どこまでも狂い続ける。溺れ続ける。

 

 何故なら、こんな自分を、こんな雪ノ下陽乃を、きっと八幡は、比企谷八幡という少年は、苦笑しながらも理解し、眉尻を下げながらも許容してくれる筈だから。

 

『それに、八幡の方こそ大丈夫なの? そんなボロボロで、あのデッカイ怪物に勝てるの? 八幡こそ、死んだらわたしは世界を滅ぼしちゃうぞ☆』

 

 案の定、八幡は、この人ならきっとやりかねないと言った顔で苦笑し、そして――

 

『!』

 

 グッと陽乃を腰に手を回して、自分の方に引き寄せた。

 

 その行為に、呆気に取られたのは陽乃の方で、思いがけない八幡の行動にドキッと胸を高鳴らせて――カチッ、と腰のホルスターに何かをセットされる。

 

 そして、八幡はこう囁いた。

 

『――いざという時、これを使ってください。……これは――』

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 陽乃は、雷鳴が轟く数瞬前、腰に手を回し、八幡がセットした金属製の缶のようなそれのスイッチを入れ――黒金の前に放った。

 

 そして轟音と閃光とほぼ同時に、右拳に雷光と雷電を集中させた雷速の突撃を敢行した黒金の前に――高温の霧のようなガスが広がり――

 

「――――ッッ!!」

 

 

――黒金はその灼熱の霧の中に突っ込む。

 

 

 そして――

 

 

「――――っっっっ、ガァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!!!!」

 

 

 陽乃は、その黒金の絶叫を聞いて、八幡の言葉を思い出していた。

 

『――これは、烈火ガスというBIM……爆弾です。スイッチを押して放ることで、高温のガスを撒き散らします。……これは、おそらくガンツスーツすら溶かすので、投げたらすぐに逆方向に逃げてください。……俺には、これくらいのことしかできませんが――』

 

 

――どうか、死なないで。

 

 

「…………」

 

 その八幡の言葉以上に、この烈火ガスは凄まじい威力を誇っていた。

 

 前一面の視界が、まるで濃霧のようなガスで覆われている。

 

「ぐ、ぁぁぁあああああああああああああああああ!!!」

「いやだぁぁあああああああ!! 死ぬ、死ぬぅぅううううううう!!!」

 

 どうやら生き残っていた一般人がいたようだが、そして烈火ガスに巻き込まれたようだが、彼等も纏めて軒並みガスの餌食になっていた。

 

 ……黒金は、出てこない。あの雷速の突進ならば、本来ならば既にとっくにこのガスを抜けているだろうから、あの霧の中で――息絶えているのだろうか。

 

 だが、その時、唐突に、雷撃が濃霧を吹き飛ばした。

 

 

「が、ぁぁ、ぁぁぁああああああああああああああああああああああああ!!!」

 

 

 霧が晴れたそこには、満身創痍の鬼がいた。

 

 雷撃の柱をその身に受ける、雷鬼が二本の足で立っていた。

 

 隻眼で隻腕、腰からは短槍を生やし、脇腹からはドクドクと血と臓物を垂れ流し、ただでさえ醜悪だった風貌を、灼熱のガスによって更にドロドロに溶かして――かつての威容は面影もなかった。

 

 だが、それでも、黒金は最強だった。未だ獲得した強さを手放さなかった。

 

 鬼のように雄叫びを上げ、恐怖を振り撒き、雷を浴びながらも君臨するその様は、見る者に畏れを抱かせた。

 

 

「俺は……俺は……俺はぁぁぁああああああああああああああアアアア!!!」

 

 

 最早、残った片目も爛れて見えていないのだろうか。

 ただひたすらに天に向かって咆哮し、まるで世界に己の存在を誇示し、喧嘩を売っているかのようだった。

 

 この世界に、このふざけたクソッタレな世界に、戦いを――戦争を、挑み続けているかのようだった。

 

 これが、黒金という、最強の――強者の革命。

 

 世界に弾かれた弱者が、化け物になってまで手に入れたかった強さを以て、成し遂げたかった、貫き通したかった――黒金という、男の生き様。

 

 そして――――

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 

「……惨めだな、ガキ。……はっ、その餓えた鬼みてぇなギラギラの瞳……正しく()()だな」

 

「……ッ! カッ! 生憎、俺の腕は歯も生え変わっちゃいねぇガキに食い千切られる程、まだまだ衰えちゃあいねぇさ。――だが、気に入った。例え、胃袋ん中全部吐き出しても、理不尽への反抗心を失わねぇ……それでこそ、(きょうしゃ)だ」

 

 

「――(ウチ)に来い。テメーに、世界への戦い方を教えてやる。俺の息子になれ」

 

 

 

 

 

 

「――黒金(くろがね)。それがお前の名だ。鉄のように固え意思を持つ、オメエにぴったりだな」

 

「拾った時に真っ黒に薄汚れてたからだなんて親父は言うが……みんな知ってる。親父はお前のことを滅茶苦茶可愛がってるよ。じゃなきゃ、こんな名前は付けやしない」

 

 

 

「見えるか? あの御方が、お前がその身命を賭して守るべき御方だ」

 

「白銀の髪と黄金の瞳を持つ、親父の一人娘――いずれ、この組を継ぐ、俺等の姐さんとなる方だ。……まだ、お前と年の変わらん子供だがな」

 

「あの方の名は――白金(しろがね)。……分かったか? お前は、あの方の白を穢す者から、全てを守る(くろがね)の盾となれ」

 

「それが、あの方に拾われ、俺達のような薄汚え、世界から弾かれた糞餓鬼共を、息子と呼び、家族としてくれた――あの方の恩に報いる、唯一の方法だ」

 

「親父と息子として出来る、最高の親孝行だろ」

 

 

 

 

 

「はぁ、黒金。お前、何度言ったら分かるんだ。ただ殴ればいいってもんじゃねぇ」

 

「確かに、お前は強くなった。喧嘩なら勿論、拳銃(チャカ)に頼っても、お前を殺せる奴なんざ、そうはいないだろうさ。でもな――」

 

「――強えってのは、本当の強さってのは、そんなんじゃねぇ。……世界ってのは、そんなちんけな腕力(ちから)でどうにか出来るもんじゃあ、ねぇよ」

 

 

 

 

 

「黒金……落ち着いて聞いてくれ」

 

 

 

「親父が……倒れた」

 

 

 

 

 

「……何で、こんなことになるまで放って置いたんだ!」

 

「俺達は、デカくなり過ぎた。……それでも、曲がりなりにも組織(かぞく)として回って来れたのは――親父が居たからだ。あの人が父親として、俺達を息子として守ってくれてたから……俺達は一つで居られたんだろうな」

 

「でも、いい加減、一人立ちの時だ。……ですよね。お嬢」

 

 

「――ええ。私も、ファザコンを卒業しなくてはね。お父様には、私の手を取ってヴァージンロードを歩いてもらわなくてはならないもの。これ以上、布団の上で心労を掛ける訳にはいかないわ」

 

 

「黒金……隣に、居てくれる? あなたが守ってくれると、信じているわ」

 

 

 

 

 

「ふざけんな! お前等、親父やお嬢から受けた恩を忘れたのか!? 誰に誑かされた!? どうして、こんなことをする! 今、バラバラになってどうする!! 俺達は――家族だろう!?」

 

「……俺は、親父の息子にはなったが――お前等と兄弟になったつもりはない。……お前等こそ、あの女にどんな風に誑かされた? 呪われた女でも、その穴はきちんと男を掴む機能くらいはあったらしい」

 

「――ッッ!? 貴様ぁッ――っ!? ま、待て! 黒金! やめろ!! ここで殺せば――家族で殺し合えば、“奴等”の思う壺――」

 

「はっ。重傷だな、“鬼”め。化け物は化け物同士通じ合うのか。傷の舐め合いは大変美しいが、お前のような薄汚れた鬼風情に、この組は渡さない」

 

「とある親切な方が教えてくれてな。あの“雪女”の使い道を。あんなんでも、親父の実の娘だ。アイツを俺の女にし、大義名分を以て、俺は――ごふぁぁつ!!???」

 

 

 

 

 

「……ああ。奴等を裏で操ってるのは、どうやらかなりやり手の弁護士らしい。……それも、札束の匂いを嗅いでトリップするくらいの相当な変態だ。……だが、だからこそ、俺達みたいなクズには強い。事実、あいつ等は自分が操られている自覚などなく、只々お嬢の身体の味わい方を焼酎片手に会議してるらしい」

 

「……分かってる。そんなことはさせねぇ。……ああ、失言だったな。俺も大分疲れてるみてぇだ。……いや、お前のせいじゃない。お前が殴らなけりゃ、たぶん俺が殴っていたさ」

 

「――だが、もう何があっても、手は出すな。それは奴等に付け入る隙を晒すのと同じだ。そういうのが、弁護士(やつら)の大好きな好物だからな」

 

「……それでも……最後にお嬢を守れるのは、お前だけだ。……ああ、慣れないことはするもんじゃねぇな。お前等のせいだからな、俺が頭脳労働(こんなこと)をする羽目になってんのは。蕁麻疹が出そうだぜ。いい加減、九九くらいは覚えやがれ」

 

「…………最近は、こんなことを言うのはフラグっていうんだっけか。……それでも、言わせてくれ。俺は目立ち過ぎた。……そして、お前もな」

 

「もし……俺に、何かあったら――」

 

 

『お嬢を――』

 

 

 

 

 

「ひゃっはぁーーー!!! 何だ、これ極上品だぜ! こんなもんをアイツ等ずっと味わってたのかよ! そりゃあ、“鬼”にもなれるわけだぜ! うっ――はっは! これで俺も鬼に仲間入りってかぁ!」

「おいおいてめぇ、まだ何人もつかえてんだよ、勝手に中に出してんじゃねぇぞ! 次は俺の番だ、その汚えケツを退けろ!」

「でも、コイツ処女だったよな。泣きながら抵抗してたしよ。そんなもんは(おれら)を興奮させるだけだって…………の…………に…………い? い、いいいいいいいやぁあああああああああああああああああ!!!!」

 

 

 

「お、おにぃぃぃぃいいいいいいい!!!! “鬼”だぁぁあああああああああ!!?????」

 

 

 

 

『お嬢を――頼む』

 

 

「――遅かったな。ウスラトンカチ(やくたたず)。テメェは、この綺麗な白銀を守るにゃあ、余りに――薄過(よわす)ぎた」

 

 

 

「…………くろ…………がね…………。………………ごめ……………ごめんなさ――」

 

 

 

 

「グアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!」

「止め、止めてッ! たのぐあぁぁ!!?」

「く、くそばぁぐぅぁ!!?」

「ななななんだこいだぁ!!」

「な、なんでだ!? なんでこの人数で――」

 

「ハハハハハハハハ!! ハハハハハハハハ!! そうこなくっちゃなぁあああ!!」

 

「くそッ! くそくそくそぉぉおおお!! この――」

 

 

 

「――“鬼”めッ!!」

 

 

 

「……止めて。………やめてッ! 私を――私を置いて、“行かないで”! 黒金!」

 

 

 

 

 

「……………黒金。私、弱かったのかしら?」

 

 

「私は汚れてしまった。私は穢れてしまった。こんな私でも、こんな汚れた白でも、あなたは私を守ってくれるかしら? 私を誇ってくれるかしら?」

 

 

「…………ううん。あなたは悪くないわ。私が弱いのが悪いのよ。…………ねぇ、黒金。覚えてる?」

 

 

「あの日、私達は誓ったわね。……この世界は、認めない者に、酷く冷たいわ。私達は、いつだって寒い思いをしてた。凍えそうだった。――お父様は、そんな私達を暖めてくれた」

 

 

「……黒金。あなたもよ。あなたも、私の世界を暖めてくれた、大切な温もりだった。あの日、あなたに握り締められた手は、とても暖かくて――とても、力強かった」

 

 

「あなたは強いわ。でも、とても弱い。……そんな顔をしないで。私はそんなあなただから、そんなあなたとだから、一緒に強くなりたいと思ったの」

 

 

「一緒に、最強に。この世界に負けないくらいに最強に。どんな理不尽にも屈さない程に最強に。そう、誓ったわね。だから、だからね……黒金」

 

 

 

「……………………ごめん……なさい……………っ」

 

 

 

「うわっ!? 何? 何? え、飛び降り?」

「おい、誰か跳ん――」

 

 

 

 私は――あなた程、強くなれなかった。

 

 

 この世界に……私は……………耐えられない。

 

 

 ……………本当に、ごめんなさい。……………あんなこと、言ったのに………あなたを、この世界に、置き去りにすることを……………どうか、許して。

 

 

 そして……どうか――

 

 

――あなたは、世界に負けないで。

 

 

 あなたならきっと、誰にも、何にも――世界にだって、屈さない………素敵な、無敵の、最強に。

 

 

「…………………××××わ。私の……………くろ――」

 

 

 

「キャァァアアアアアアアア!!!」

「すっげ。えげつね。っていうかグロイ」

「マジでこれリアル? はー、初めて見たわ俺。この路線ホント人死にまくりな」

 

 

『ねぇ! いつか、一緒に結婚式を挙げましょう! そして、神様にこう言ってやるの! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()! ()()()()()()()()()()()()! ()()()()()! ってね!』

 

 

『そうよ。例え神様相手でも、負けないくらい、私達は強くなるの! 最強になるのよ!』

 

 

『ねぇ、クロ! 証明しましょうよ。私達の手で!』

 

 

『世界になんて嫌われたって、幸せになることは出来るってね!』

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 渇きが、癒えねえ。

 

 

 あの後――お嬢の死体を面白おかしく写真を撮り始めたクズ共、電車が遅れて遅刻する死ぬなら迷惑がかからないように死ねとかほざきやがったクズ共を、俺は片っ端から殴りまくった。殴り続けた。

 

 

 そして、そんな俺の姿を安全圏から撮影していた弁護士のクズ共が、組の家に乗り込み、病床の親父を叩き起こして脅し始めたのは、俺が数日間の間、街を彷徨い続けて戻ったその日のことだった。

 

 全てを弁護士がつらつらと、俺を嘲笑うような顔で言い終えた後、親父は、ゆっくりと立ち上がり、俺に背中を見せながら、言った。

 

 

 ………ったく。こんな所ばっかり、俺に似やがって糞餓鬼共が。――そう、呟いて。

 

 

『好きにしろ。好きに生きろ。この――どうしようもない、馬鹿息子め』

 

 

 俺は――俺は。

 

 

 俺は――

 

 

『…………すまねぇ…………親父』

 

 

 親父の背中に向かって拳を振り抜き――親父の前に立っていた、弁護士の顔面を思い切りぶち抜いた。

 

 途端に眩しい太陽のようなフラッシュが焚かれ、俺はそのまま――家を、出た。

 

 逃げた。逃げ出した。

 

 親父に拾われたあの家を、お嬢と過ごしたあの家を、俺は――逃げ出した。

 

 弁護士が泣き叫ぶように俺を追うように言うが――その時。

 

 

『この俺を、この家をどうしようが好きにしろ。だが、アイツは――俺の息子だ』

 

 

 俺は、その言葉を聞くことしか出来なかった。

 

 見なくても分かる。この言葉を聞くだけで――いや、あの日、あの時。

 

 クソみてえな路地裏で、雨に打たれながら無様に飢えて転がっていた薄汚え餓鬼に、腕を噛まれながらも笑みを崩さず、俺に手を差し伸べ続けてくれた――あの時から、分かっていた。

 

 俺は――俺達は、アンタみてぇになりたかった。

 

 親父みてえに、なりたかったんだ。

 

 世界を敵に回しても、どんな理不尽な目に遭おうとも、あったかけぇ笑顔で――――俺達を、守ってくれてた。

 

 そんな、最強(おやじ)に、憧れていた。

 

 

 

 

 

 俺は、あの後、汚ねえ路地裏に蹲りながら、無様に泣いていた。

 

 あの頃と違って、ただ無駄にデカくなった図体を丸めて、無様に泣いていた。

 

 無様。無様。無様だった。ただただ弱く、無力だった。

 

 俺の弱さのせいで、全部ぶっ壊れた。この世界に、理不尽に全部奪われた。

 

 家も、家族も、兄妹も――親父も――――お嬢も。

 

 

「………親父………………すまねぇ……ッ」

 

 

 すまねぇ……俺は、結局、アンタに何も出来なかった。何も返せなかった。

 

 何一つ、親孝行出来なかった。アンタに、息子と、言ってもらえたことに、俺は、仇しか返すことが出来なかった。

 

 

 そして――

 

 

「――――すまねぇ……お嬢………………ごめんな……………シロ……」

 

 

 お嬢。俺は、強くなんてねぇよ。

 

 

「弱え……俺は……なんて雑魚なんだ」

 

 

 何一つ、守れねぇ。何一つ、救えねえ。

 

 大事なもんを、何一つ守れず、こうして無様に泣き崩れている。

 

 こんな俺の、何処が強者だ? 只の、何処にでもいる、敗者だろうが。

 

 

 渇きが、癒えねえ。喉が疼く。拳が疼く。頭が痛くて、どうにかなりそうだ。

 

 

「――世界(テメェ)だけは……理不尽(テメェ)だけは……絶対に、許さねぇ……ッ」

 

 

『例え、胃袋ん中全部吐き出しても、理不尽への反抗心を失わねぇ……それでこそ、(きょうしゃ)だ』

 

 親父……俺は、アンタに褒めてもらえる程、強くなんてなかった。

 

 でも、アンタの言葉を、嘘にしたくねぇ。……この渇きが、餓えだってんなら、俺はこんなもんを捻じ伏せてでも、この憎しみを忘れねぇ。

 

 

『――強えってのは、本当の強さってのは、そんなんじゃねぇ。……世界ってのは、そんなちんけな腕力(ちから)でどうにか出来るもんじゃあ、ねぇよ』

 

 兄貴……でも、俺は、これしか知らねぇ。

 

 俺は、兄貴と違って馬鹿だからよ。……だから俺は、例え偽物(にせもん)の強さでいい、この恨みを込めてやる。

 

 

『そうよ。例え神様相手でも、負けないくらい、私達は強くなるの! 最強になるのよ!』

 

 

 ああ、そうだな、お嬢。俺はなる。

 

 

「――最強に、なるぞ」

 

 

『ねぇ、クロ! 証明しましょうよ。私達の手で!』

 

 

 ああ、証明する。力づくで証明してやる。

 

 

 例え世界から選ばれなかった弱者でも、例え世界から弾かれた孤独者でも、例え世界から認められない偽者でも。

 

 

 例え――

 

 

『世界になんて嫌われたって、幸せになることは出来るってね!』

 

 

 ああ、そうだ。証明してやる。俺の生き様で証明してやる。

 

 

「見とけよ、神様。覚えてろよ、世界」

 

 

 親父。兄貴。――お嬢。

 

 アンタ達に、俺は貰うばかりで、何も返せなかった。

 

 でも、せめて――仇は、討たせてもらう。

 

 敵は、神、世界、理不尽の全て。

 

 そして――

 

「首を洗って待ってろ――()()。俺は、必ず、お前達に復讐する」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 渇きが、癒えねえ。

 

 

 殺しても、殺しても、殺しても、俺の復讐は終わらねぇ。

 

 

 吸血鬼となり、人間共の血液をどれだけ飲み干しても、俺の渇きは癒えねぇ。

 

 吸血鬼となり、人間共の肉塊をどれだけ積み上げても、俺の疼きは消えねえ。

 

 吸血鬼となり、人間共の悲鳴をどれだけ生み出しても、俺の痛みは無くならねぇ。

 

 

 あの日が、消えねえ。

 

 あの光景が、消えねえ。

 

 

 あの、お嬢の、最後の笑顔が、消えねえ。

 

 

 あの、お嬢の、最後の言葉が――聞こえねえ。

 

 

 

『…………………××××わ。私の……………くろ――』

 

 

 ………まだだ。まだ、俺の復讐は終わらねぇ。俺の革命は――終わらねぇ!!

 

 

 俺の憎しみは消えねえ! 俺の恨みは消えねえ!

 

 

 

「俺は……俺は……俺はぁぁぁああああああああああああああアアアア!!!」

 

 

 

 俺を見ろ、神ッ!! 俺を知れ、世界ッッ!!

 

 

 俺を恐れろッ! 平伏せッ! 人間共ッッ!!!

 

 

 

 

 

『…………………()()()()()。私の……………くろ――』

 

 

 

 

 

――――ありがとう。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ザンッッ!!! と、漆黒の剣閃が――その鬼の革命に――

 

 

――長い、長い、世界への復讐に――

 

 

――終止符を、打った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 雷を斬り、雷柱ごと斬り裂き、戦い続けたその鬼の首を、陽乃のガンツソードが一太刀で跳ね飛ばした。

 

「……だろうね。アナタなら、このガスもきっと耐えきるって思った。だから、ガスが届かないギリギリの場所で、剣を伸ばして待ってたよ」

 

 これは、陽乃にとっても賭けだった。

 

 もし、黒金がガスをものともせずに雷速のまま突っ込んで来たら、その時点で陽乃の死亡は確定していた――が、スーツが死んでいる今、多少距離をとってもそれは変わらないと割り切った。

 

 よって、スーツの力が足りない分を、モーションの大きい、遠心力をふんだんに乗せた回転斬りで補い、空気を――雷を斬る一閃を放つことが出来た。

 

 フラフラで、グラグラで、剣に振り回されて、思わず無様に尻餅を着いてしまったけれど、それでも剣を振り抜くことが出来た。

 

 黒金の敗因は、最後の最期で、己の力を一撃に集中させたことだ。

 

 それは本来、自力では到底打倒不可能な敵に対して、一縷の望みを賭けて選び取るべき最終手段であり、ダメージが蓄積し、片腕を失ったとはいえ、戦闘能力(スペック)で陽乃を大きく上回っている最強の吸血鬼である黒金は、むしろ拳ではなく脚力を強化し、確実に一撃を当てるべきだった。それだけでよかった。もし、そうされていたら、スーツを破壊され機動力を失っていた陽乃は、為す術もなくあっさりと殺されていた。

 

 

 だからこそ、実力差で劣る陽乃の――全てを込めた一撃による、奇跡の逆転劇(ジャイアントキリング)を成し遂げられる可能性を生んでしまったのだ。

 

 雪ノ下陽乃は、そんな奇跡を起こす可能性を掴み取れる――本物の、生まれ持った強者なのだから。

 

 黒金と違い、世界に選ばれた――数少ない、本物の選ばれし者なのだから。

 

(……結局、あなたを最後に死に至らしめたのは……その強さへの、力への執着だったんだね)

 

 どこまでも力を求めた。全てを打倒し、全てを捻じ伏せる、圧倒的な力。

 その力の追及は、最強になっても尚、飽き足らず、餓えを満たせず、渇きを癒せず、哀しい程に貪欲で――終ぞ、己の命までも奪った。

 

 己の覇道に、己の革命に、己の戦争に終止符を打ったのは、皮肉なことに、強くなり過ぎた己の強さだった。

 

 力を求め、力に縋り、力に振り回された――己の弱さだった。

 

 

「さようなら……最強さん」

 

 

 頭部を失った黒金の巨体は、死して尚、何に向かって拳を振りかぶっていた。

 

 見えない何かに、世界という何かに、絶対に屈しないと、戦いを挑み続けるかのように。

 

 それが、黒金という、最強に成り過ぎた哀れな吸血鬼(おとこ)の、生き様で――死に様だった。

 

 

 ズズーンッと、黒金の屍が荒廃した戦場に沈んだ。

 

 ごろごろと転がってきた頭部を、陽乃はただ無表情で見つめて――

 

「……………………」

 

 ザク、と。ガンツソードで真っ直ぐに、まるで墓標を立てるように突き刺した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side陽乃――とある五叉路の大きな交差点

 

 

 陽乃は、黒金の頭部にガンツソードで墓標を作った後、(あ、でも吸血鬼とか言ってたから、こんなんじゃ再生とかするかも。それは面倒くさいなぁ)と思って剣を引き抜き、そのままXガンでギュイーンギュイーンと連射して、身体の方も頭とかが生えて来たら気持ち悪いのでギュイーンギュイーンギュイーンと完膚なきまでに破壊しておいた。

 

(まぁ、片目とか片腕とか治せなかったみたいだから、ないと思うけど一応ね)

 

 そして後処理を終えた陽乃は、災害の如き殺害ガスの霧が晴れてきたのを眺めながら、この後の行動をマップを見ながら考察する。

 

(……もう殆ど敵は残ってない。おそらく、この最強さんが今回のボスだったろうから、この場合はどうなんだろう? 最後の一匹まで狩らなくちゃいけないのか、それともボスを倒したからしばらくしたら転送が始まるのか……八幡はいつもボスが最後に残ったって言ってたからなぁ。……それでもこの分で行けば、そう時間もかからない内に全滅出来るかな?)

 

 陽乃も既に、今回のミッションは相当にイレギュラーであることを察している。

 最悪、ガンツの転送が機能しない事態も考えて、この場から脱出する術も考えなくては――と直ぐに思考する。

 

(はぁ……絶対警察だの自衛隊だのが動いてるしね~。事情聴取とか勘弁してもらいたいし。……頭の中の爆弾がいつ機能復帰するか分かったもんじゃないんだから)

 

 そこまで考えて、陽乃は霧の先を見遣る。

 

 南池袋公園――あちらに向かった、八幡の所へ向かうべきか否か。

 

 思案していると――その時。

 

 霧が左右に晴れていったその真ん中を、向こうから、その殺人霧に挟まれた道を、まるで赤い絨毯の道を歩いているかのように、優雅に、堂々と、粛々と――陽乃に向かって歩み寄ってくる影があった。

 

「………………? ――――――ッッ!!!?」

 

 陽乃は、その姿を見て、言葉を失い絶句した。

 

 汗が吹き出し、顔面から血の気が引いていく。

 

 喉が一気に乾き上がるのを感じるが、陽乃は、何度も口をパクパクと開けた後、一歩思わず後ずさりながらも、掠れ、粘りついた言葉を絞り出すように――その“人物”を呼んだ。

 

 

 

「……………………おかあ、さん?」

 

 

 

 この荒廃した戦場にまるで染まらない上品な着物を纏った女傑は、“娘”のその言葉に可憐に表情を綻ばせる。

 

 雪ノ下陽光(ひかり)――雪ノ下雪乃の、そして雪ノ下陽乃の、正真正銘の母親の“姿”だった。

 

 陽光は、淑やかに微笑みながら、首を僅かに可愛らしく傾げ、口元に手をやりながら鈴の鳴るような声で言う。

 

 

「――お帰りなさい、陽乃。無事に生き返ったようですね。ふふっ、お元気そうでなによりだわ」

 

 




轟雷の豪鬼、己が“最強”に呑み込まれ――池袋にて、復讐を終える。


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あなたは“誰”? いいえ――“何星人”?

 Side??? ――とある駅の出口付近

 

 

 池袋駅の東口。

 

 黒金に依るこの凄惨な革命の始まりの場所となったこの場所は、何の因果か、歴戦のハンターの誰にも目を付けられなかったことから(陽乃は透明化をしたまま全速でスルーして八幡の所に向かった)、比較的大勢の黒金組のオニ星人達が集っていた。

 

 それは奴等が、今日この場所で本来行われる手筈だった新作映画の撮影イベントの為に集まっていた各局のテレビカメラを押さえて、この吸血鬼による人間への、そして世界への宣戦布告となる革命の様子を全国にお届けしろという黒金の命を遂行する為でもあった。

 

 よって、彼等カメラマン達は、自分達の仲間のテレビクルーが、このイベントの為に集まったファンの人達が、または映画撮影の為に訪れていた俳優女優の人達が、遂には無関係の一般市民達が、吸血鬼の奴等に蹂躙され、凌辱され、殺害されていくその様子を、その凄惨な惨状を、震える手で、嗚咽混じりで撮影し続け、平和なお茶の間に届け続けなければならなかった。

 

 当然、テレビ局本局はそんな見るも耐えない凄惨な処刑映像など即刻放送を中止しようとしたのだが、何故か、どういう訳か、“上”の人間はその映像を放送し続けろと現場の者達に命を下した。彼等は抗議するもそれが聞き届けられることはなく、()()が終われば全て明らかにするの一点張りで、詳しい理由を説明しようとはしなかった。

 

 よって革命が始まって一時間近くが経った今も、電話線がパンクする程の勢いで抗議がテレビ局に殺到し続ける中、全国のテレビ画面には、この禍々しい残酷な映像が流れ続けている。

 

 そして、現在。その眼球が潰れそうな恐ろしい映像に、ある変化が生まれていた。

 

 それは――

 

 

――テレビカメラが映しているのが、吸血鬼による人間達の凄惨な処刑映像ではなく、一体の化け物による、人間も吸血鬼も関係ない、ただただ無残な虐殺映像になっているということだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 結城明日奈は、自分の見舞いに来てくれた里香、珪子、詩乃、直葉、そして娘のユイと共に、その映像を呆然と眺めていた。

 

「……なん……なの……これ」

 

 そう呟いたのは、里香か、直葉か、それとも明日奈か。

 

 革命が始まった当初、ユイに言われてテレビを点けた彼女達。そこに映っていたのは、余りに現実感のない凄惨な処刑映像。

 

 一様に言葉を失い、ショックを受けた彼女達だったが(特に人間の死にトラウマがある詩乃は顔面を蒼白させて苦しみ席を外していた)、それでもその映像を見続けたのは、その革命を起こした者達が、今日の夕方、明日奈と、そして現在行方不明の和人を襲った黒いスーツの集団と明らかに同じ組織と思われる一味だったからだ。

 

 今や彼等はその姿を醜い鬼へと変貌させていたが、それでも明日奈達にとって、奴等は消息不明の和人に繋がる残された唯一の手掛かりだった。

 

 それに、この人間の処刑映像の中で、和人の死体が唐突に晒されたらどうしよう――そんな懸念がどうしても消えなかった。和人は現在その生死すら不明で、この怪物達は、昼間にどう考えても和人の命を狙っていたとしか思えない行動を取っている。全く有り得ない可能性ではない以上、明日奈にこの映像から目を逸らすという選択肢はなかった。

 

 だが、それでも、延々と続く、この世の地獄としか思えない光景。それを見続けるということは、明日奈達のような少女達にとって、気が狂わんばかりの拷問と同義であった。事実詩乃は何度も退席したし、ずっと映像を見続けているのは、ユイと、そして明日奈だけだ。その明日奈にしたって、既に顔色は余りにも悪く、涙の跡がくっきりとその美しい顔に残っている。

 

 唯一、彼女達にとって救いだったのは、これがテレビの向こう側の映像ということか。それ故に、どこか現実感に欠けていて、こういう言い方はあれだが、他人事として見れたのかもしれない。

 

 そして、そんな映像に変化が生まれたのは、今から数分前のことだった。

 

 

『グルルルルルルォォォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオッッッ!!!!!』

 

 

 突如、吸血鬼が支配していた地獄に現われたのは、まるでゲームの世界のモンスターのような、牛頭の怪物。

 

『な――!? おい、どうなってる! 話が違うぞ!!』

『邪鬼はコントロールする術を手に入れたんじゃなかったのか!! だから、人間達に見せつける為に連れてくるって――』

『あ、おい、やめろ!! やめろやめろやめろぉっ!! あ――がぁぁぁぁぁあああああああ!!!』

 

 その邪鬼と呼ばれたミノタウロスのような怪物は、文字通り戦場を蹂躙した。

 吸血鬼も、人間も――敵も味方も関係なく、目に付く者を手当たり次第に破壊し尽くしていった。

 

 テレビ画面に映るその光景は、現実感のなかったその地獄の映像から、更に現実感を失くしてしまって――それでも、誰も、何も言えなかった。

 

 どう考えても現実とは思えない光景なのに、事実、現実感は途方もなく欠けているのに。

 

 それでもそれは、心を、感情を侵す。

 

「……怖い」

 

 珪子は、声を震わせ、ぽつりと呟く。

 

 怖い。怖い。恐ろしい程に――恐ろしかった。

 それまでの処刑の映像も、目を逸らしたくなるような恐ろしさで満ちていたけれど、これは、また別の、生物としての根源的な恐ろしさだ。

 

 人間として殺人を恐れるのではなく、生物として天敵を恐れるような恐ろしさ。

 

「……なんで……なんで、あんなモンスターが……現実にいるのよ……」

 

 里香は呟く。そうだ。これは現実だ。

 SAOではない。ゲームではない。こんなことは、あってはならない。

 

 これまでの時間、何度となく思った。

 

 これはテレビ局が作った悪ふざけで、この映像は、それこそイベントを行っていた映画の新作映像か何かで、きっと、すぐにお詫びのテロップが流れて、他メディアから批判の嵐が来て、明日はまた別のくだらない騒動が起きて――そんな風に、いつも通りの、やっと手に入れた、取り戻した筈の日常が、帰ってくるのだと。

 

 それでも、この地獄は終わらない。

 

 いつまでも、いつまでも、終わってくれない。

 

 化け物が殺される。人が死に続ける。血が流れ続ける。

 

 終わらない。終わらない。お願いだから、終わって欲しいのに。

 

『ひぃ――い、いやだ、来るな! 来るなぁぁぁぁあ――』

 

 グシャァッ!! という生々しい音と共に、明日奈達が見ていた映像が途切れる。

 彼女達は目を覆い、小さく悲鳴を漏らしたまま、その画面越しの光景を無言で見送った。

 

 既に、何度目だろう。

 このミノタウロスもどきの怪物は、吸血鬼達と違ってテレビカメラにまで容赦なく、当然そのカメラマンまで無差別に破壊する。虐殺する。

 

 その度に映像が途切れ、そして――

 

『――ぁぁああああああああああああああ!!! 助けてくれ!! 助けてぇぇえええ!! おい! 誰でもいい! あの化け物を止めろぉぉおおおおおおおお!!!』

『ふざけんな!! あんな奴に勝てるわけねぇだろうが!!』

『誰か!! 幹部の人達を呼んでくれ!! 剣崎さんでも岩倉さんでも化野さんでも火口さんでもいい!! 誰か!! 誰か助けてくれよぉおおおおおおおお!!! 黒金さぁぁぁああああん!!!』

 

――再び、映像を送り続ける。

 

 これはどうやら、生き残っている別の局の映像を、無理矢理シェアして放送しているらしい。

 

 そこまでして、国民(じぶんたち)に、この凄惨な映像を見せつけたいのだろうか。

 

(……一体、何の目的があって――)

 

 詩乃が蒼白の顔を険しく歪めながらそう考えていると、その時、切り替わった映像を撮影しているカメラマンに、再び牛頭の怪物が迫っていた。

 

『あ、あああああ、わぁぁぁああああああああああああああ!!!!』

『テメェふざけんな!! 逃げんじゃねぇ!!』

 

 どうやらカメラを捨てて逃げようとするカメラマンを、近くにいた吸血鬼が抑え込んでいるらしい。

 

『な、なに言ってるんだ!! 分からないのか!? お前も一緒に殺されるんだぞ!!!』

『――はっ。別に構わねぇさ。この命が黒金さんの革命の一助になるなら、俺はその役目を全うするまでだっ! さぁ!! カメラを向けろ!! 職務を全うしろ日本のサラリーマン!! そして、この邪鬼の恐ろしさを! 愚かな人間共に見せつけるんだ!! この力は、いずれ全て黒金さんの力になる!! お前達は、全員纏めて黒金さんに平伏すことになるんだ!! はっはっははははははははははははははははは!!!』

 

 黒金は、こんなこともあろうかと、初めからテレビカメラを押さえる役目はグループの中でも危険な程に黒金に対する忠誠心が篤い者達に任命していた。どんな状況でも、己の死の瞬間まで、その役目を全うする者達を。これは火口が黒金に進言したことだったが。

 

 よって結果として、彼等カメラマンは、この無法地帯となった戦場でさえ、そのテレビカメラを捨てることを、職務を放棄することを許されなかった。

 

 そして牛頭の怪物が、猪突猛進の勢いで迫り来る。

 

『あぁ、あぁ、わぁぁぁぁあああああああああああああああああ!!!!』

『はははははははははははははははははははははははははははは!!!!』

 

 そして、その激突の瞬間、明日奈達だけでなく、この映像を見ている日本国民の殆どが、無意識に思わず目を瞑った。目を逸らした。

 

 

『グルルルルォォォォォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!』

 

 

 だが、次の瞬間に轟いたのは、人体が蹂躙される音ではなく、怪物の悲鳴だった。

 

 

『――――え?』

『な――ッ!?』

 

 カメラマンと、そしてカメラマンを抑え込んでいる吸血鬼の声。

 

 明日奈達も、目を開き、そしてその映像に目を奪われた。

 

 

 そこにいたのは、立っていたのは、現われたのは――紫光を放つ未来的な剣を携えた、漆黒の少年だった。

 

 

 ライダースーツのような光沢のある黒衣を身に纏う、黒髪の美少年が、ふとカメラの方を振り向く。

 

『き、みは――』

 

 カメラマンが呆然と呟くと、その横を吸血鬼が飛び出していく。

 

『――ハンタァァァァァァァアアアアアアアアアアアアッッ!!!!』

 

 だが、その吸血鬼は黒衣の少年の一刀の元に斬り伏せられた。

 

 闇夜を切り裂く紫の剣閃が真横に引かれ、吸血鬼の身体が二つに裂かれる。

 

 起動し続けているカメラは、その一部始終を確実に捉えていた。カメラマンは何も言えず、ただ座り込むながらその少年を映し続け――

 

『――早く逃げろ。アレは……俺が倒すから』

 

 その冷たい眼差しで、カメラを見下ろすように言い放った少年は、そのままフラフラの、今にも倒れてしまいそうな足取りで、仰け反っていた牛頭の怪物の元へと向かう。

 

 カメラマンは、ただその光景を呆然と眺めていた。

 

 少年の言う通りに逃げることも出来ず、ただ、それが使命であるかのように、先程放棄しようとした職務を全うするかのように、その黒い小さな背中にカメラを向け続けていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、その病室は沈黙が満たしていた。

 

 あれほど目を背けたかった凄惨な戦場の映像に、全員が食い入るように、口を開いて呆然としながら、ただその目を奪われていた。

 

 明日奈は身を乗り出し、掠れた声で、恐る恐る、呟く。

 

 

「………………きり、と……くん?」

 

 

 その様々な種類の、莫大な量の感情が篭った声は、無意識の内にテレビ画面へと伸ばされたその手は、当然のように、その黒衣の少年の元には届かなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

Side八幡――とあるビルのオフィスフロア内

 

 

「…………ぐ、ぁ……」

 

 ……はぁ。さすがに……スーツの力は限界に来てるな。

 

 キュインキュインと激しく音を立てて、少しオイルが漏れている。もう長くは持たないだろう。

 

 ここは一体、何処のビルだ? 幾つビルを突き破ったのかは……覚えていない。

 

 なんとかあの時、嘴の直撃を避け、そしてその嘴を脇に抱え込むような形でしがみ付けたのは、本当に出来過ぎの奇跡だった。狙ったとはいえ、まさかここまで上手く行くとはな。

 

 御蔭でビルに叩きつけられる時も嘴の先端が激突して先に当たるから直撃は避けられたし、ドリルくちばしの衝撃も、一緒に回転することで最小限で済ますことが出来た。……それでも、スーツは限界だったみたいだが、それでもいい。

 

 俺のスーツは死にかけだが――まだ、辛うじて生きている。

 

 こうしている今も、どんどん力は落ちているが――

 

 

――この嘴を圧し折るなんて、一秒あれば十分だ。

 

 

「…………なぁ、鳥公……ッ!」

 

 みしッ、と翼竜の嘴を締め付ける脇に力を咥え、一気に――圧し折る。

 

「グルゥゥゥ!!? ラララララァァァァァァアアアアアアアアアアア!!!!!」

 

 嘴を圧し折られた翼竜は大きく仰け反り、人の手が大量に飛び出しているその腹を俺に威嚇するように見せつけ、痛みで滅茶苦茶に暴れ回る。

 

 ここは自由な大空ではなく、何処かのビルのフロア内だ。

 そんな密閉空間で暴れ狂えば大変な惨事だが、俺はなんとかそれをやり過ごすことは出来た。こんな命の末火の悪足掻き――この半年で、どれだけ経験したと思ってる。

 

「――ッ!」

 

 ……スーツの効力が切れる。だが、その前に――この翼竜を仕留める。

 

 俺は暴れ狂う翼竜にXガンの乱射を浴びせた。

 青白い光を浴びた翼竜は時間差でバンバンと肉片が弾け飛ぶが、それでも致命傷には至らない。

 

 だが、それでも翼竜をこのフロアから追い出すことには成功したようだ。

 

 翼竜は俺を放置したまま俺に背を向け、血だらけのまま再び大空へ羽ばたこうとする。だが――

 

「俺を置いていくなよ。小学校の時の遠足のバスか、テメーは」

 

 空に飛び立つ瞬間、俺は再び翼竜の背中に飛び掛かった――当然、ガンツソードを、折れた刀剣を、無理矢理に突き刺すように突き立てて。

 

 

「グルゥゥゥラララララァァァァァァアアアアアアアアアアア!!!!??」

 

 

 翼竜は最早ふらふらで、なんとか飛んでいるといった情けない有様だった。

 高度もそれほどではない。さっきに比べたら文字通りの雲泥の差だ。それは言い過ぎか。

 

「――だが、これならいけるな」

 

 俺は路地を抜けて比較的大きな道路に出たところを見計らい、そのBIMを取り出した。

 

 爆縮式BIM。それを俺は――翼竜の背中に張り付けた。

 

 そして、スイッチを入れて、大志を見る。

 

「………………」

 

 背中から伸びる腕は、俺の足や膝に纏わり付いていたが、俺はガンツソードを左手で握り、キュインキュインと悲鳴を上げるスーツの、消え行くなけなしの力を込めて、渾身で殴り飛ばした。

 

 ダァンッ!! と、弱っていた翼竜は、驚く程にあっさりと地面に叩き着けられる。

 

「グルルルルルルァァァァァァァァァアアア――――――」

 

 

 そして、爆縮のBIMは真空を作り出し、翼竜の身体の四分の三程を、その断末魔の悲鳴と共に消失させた。

 

 

 俺はそれを見届けると共に、刀身が折れたガンツソードを無理矢理伸ばして道路に突き刺し、それを徐々に縮めながら、無事に着地する。このガンツソード、折れてからの方が大活躍だな。酷使するなぁ俺。ブラック企業かよ。あぁ、働きたくねぇ。

 

「……………………」

 

 体の上四分の三を失った翼竜型の邪鬼は文句なしに絶命していたが、運よく(?)後ろ四分の一の方に取り込まれていたであろう数体の生殺しの吸血鬼は、ぐったりと地面に倒れ込んでいた。

 

 

 そして、その中には――川崎大志も含まれていた。

 

 

「……………」

 

 俺は、その“吸血鬼共”に向かって、無言でXガンの銃口を向けた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side陽乃――とある五叉路の大きな交差点

 

 

 陽乃は、“母”のその言葉を聞いて――表情を険しく歪ませた。

 

「……………ッッ!!」

 

 そして、その手に持つガンツソードの切っ先を、鋭く真っ直ぐに母親に向ける。

 

「――――いい加減、“母親”ぶるのをやめてもらえないかしら。〝化け物さん”?」

「………」

 

 陽乃の鋭い眼差しを――殺意を受けても、その“母親”は美麗な微笑みを崩さなかった。

 

 そして陽乃は「……“二回目”だけど、もう一度……言うわ」と俯きながら呟き、顔を上げて、冷淡な表情で、“母親”に――“母親”の姿をした“何か”に向けて、苛烈に言い放つ。

 

 

「あなたは“誰”? いいえ――“何星人”?」

 

 

 ガラガラガラと、何処かの瓦礫が崩れた音がした。

 

「…………………………」

 

 母親は――雪ノ下陽光は、変わらず能面のような、精巧な作り物めいた微笑みを絶やさず崩さない。

 

 陽乃は、()()()姿()()()()()()を真っ直ぐに見据えて、ガンツソードの切っ先を銃口のように向け続けながら、尋ねる。

 

「……此処に現れたということは、あなたも吸血鬼のお仲間?」

「ふふ。いいえ、『私達』は違うわ。もっと弱くて、もっとか弱い種族よ」

「じゃあ、どうして此処に……こんな戦場(ところ)にいるの?」

「愛する娘の帰還を迎える為。それと、そうね……“貸し”を、作る為――かしらね?」

 

 前半の部分(ざれごと)には取り合わず、陽乃は後半の言葉に対してのみ問い返す。

 

「…………貸し?」

「ええ。こういう時に、一方的に恩を売って、貸しを作る。そういう小さな積み重ねが、やがて“組織運営”においてどれほどに重要な意味を持つことになるか。――陽乃。貴女もよく分かっているでしょう?」

「…………」

 

 陽光の言葉に、陽乃が口を閉じて押し黙る。

 

 二人のよく似た面影を持つ美女が対照的な表情で向かい合っていると――サンライト中央通りの路地裏から、一人の巨躯なる男が現れる。

 

 漆黒の短髪に、鍛え上げられた体に、彫りの深い端正な顔立ち。

 その人物も、陽乃が良く知る、見知っていた筈の人物だった。

 

 

 雪ノ下豪雪(ごうせつ)――雪ノ下雪乃の、そして雪ノ下陽乃の、()()の姿をした、その男が――

 

 

――裸の上半身から、その両腕をスピアのように鋭く硬質に変化させ、数体の吸血鬼を串刺しにして抱えていた。

 

 

「おい、愛する妻よ。吸血鬼の回収を手伝うということだったが、これでいいのか?」

「はあ、愛する夫よ。ダメに決まっているでしょう。私達は彼等に恩を売る為に来たのですよ。だったら最低限のマナーくらいは守りなさい。具体的には串刺しにするのは止めなさいな。私以外をお姫様抱っこするのは許しませんが、せめて肩に担ぐくらいの根性は見せて頂戴。男の子でしょう?」

 

 そう言われると豪雪は、吸血鬼の身体からスピアの両腕を引っこ抜いて、そのままぐるりと人間の腕に戻して五人分纏めて抱える為に()()()()。伸長させた。そして、陽光の言葉通りに両肩に重ねて抱える。

 

 その異様な光景に――父親の姿をした“何か”が、そのような異様な何かをしている目の前の光景に唖然として、陽乃は瞠目して豪雪を見遣る。

 

「……おとう……さ……ん?」

「……………………」

 

 豪雪は、そんな呟きを漏らす“娘”を一瞥すると、そのまま陽光に視線を戻し「……それじゃあ、届けて来る。いってらっしゃいのキスは――」「我慢してください。空気を読んでください。娘が見てます。その分、おかえりのキスはサービスしてあげますから」「……分かった」としょんぼり頭を垂れて、そのまま何処かへと跳んで行った。

 

「…………………っっ!!」

「あら? どうしたの、そんなにむくれて? なんなら頬にならば貴女にも夫におかえりのキスをさせて――」

「あなた達はっ!!」

 

 陽乃は陽光の戯言の一切を無視して、激昂したまま陽光を問い詰める。

 

「あなた達は! 一体! どこまで!! 雪ノ下家を侵してるの!! 一体……いつから……入れ替わっていたのよ!!?」

 

 陽乃は肩を上下させ、その美しい顔を鬼のように歪めて叫ぶ。

 

 それに対し、陽光はくすりと、妖艶に笑い――

 

「――さぁ? もしかしたら、“()()()()”、とか?」

「――――ッッッ!!!」

 

 と、舐め上げるような笑みで、はぐらかす。

 

 陽乃は歯を食い縛るように俯いて、ガンツソードをカタカタと揺らしながら――その懸念を、口にする。

 

 

「……………雪乃、ちゃんは?」

 

 

 本当にか細く、消え入りそうなその呟きに、陽光は首を傾げて――

 

「ん? なんですか? 声が小さくてよく――」

「雪乃ちゃんは!!」

 

 陽乃は、そこで初めて、泣きそうな表情で、縋るように陽光に問い詰めた。

 

 

「雪乃ちゃんは……無事、なの? 雪乃ちゃんに……手を出したなら……わたしは……あなた達を、絶対に許さない…………ッッ」

 

 

 チャキ、と。ガンツソードを力強く、震える程強く握り直し、まさしく苛烈な太陽のように燃え上がる殺意を込めて、陽乃は陽光を睨み据える。

 

 陽光はくすりと笑い、その殺意に答えた。

 

「大丈夫ですよ。この半年間、私達は雪乃と接触していません。――貴女の、今わの際の願いでしたからね」

「……………」

 

 陽乃は、半年前――自分が、目の前の“母親”に殺された時のことを思い出す。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

『あなたは……一体、誰? ――いいえ、“何”?』

『――流石ですね、陽乃。気付くのは、きっと貴女だろうと思っていました』

 

 あの日、自分は前々から感じていた漠然とした違和感に対しての確固たる確証を得て、自宅の母親の自室に殴り込み、単刀直入に問い詰めた。

 

 それは雪ノ下という家の財金が、どこか見知らぬ用途で使用されている痕跡。

 これに対し陽乃は徹底的に調べ上げ、そして辿り着いた先が、自分の母親――雪ノ下陽光の不審な行動だった。

 

 陽乃は確信する。――この人は、人間じゃないと。

 陽乃は疑惑する。――こいつは、何“物”なんだと。

 

 そして、陽乃は徹底的に糾弾する。

 本物の母親は何処か? この金は一体、何に使っているのか?

 

 だが陽光は――“母親”の姿をした、母親の皮を被った何かは、微笑みを携えたまま、のらりくらりと何も答えない。

 

 そして、遂に痺れを切らした陽乃が、母の執務机を両手で強く叩く。

 

『……っ、なんなの!! 一体、あなたは――お前は、雪ノ下家をどうするつもりッ!?』

 

 それに対し、陽光はくすりと笑いながら――

 

『大丈夫ですよ。いずれ、あなたも知ることになることです』

 

 

――頭部が裂けて、その肉片の先端を刃へと変形させた。

 

 

『――――え』

 

 ザクリ、と。刃が陽乃の胸の中心を貫く。

 

 そして陽乃は後ろ向きに倒れ込む。薄れゆく意識の中で、自分を見下ろすように近づいてきた母親の姿をした何かの、こんな声を最後に聞いた。

 

 

『それでは、よい戦争を。――黒い球体に、よろしくお伝えくださいね』

 

 

 その言葉の意味はまるで不明だったが、襲い来る冷たい圧倒的な虚無感に陽乃は、目尻から涙を流しながら、粘りつくような喉を必死に、必死に、せめてこれだけは、自分を殺した何者かに――何物かに言い残さねばと、必死に唇を動かし、言の葉を紡いだ。

 

 

『……雪乃ちゃん、には……お願いだから……手を……ださ……ない……で……』

 

 

 その遺言を遺して、瞳から光を失くした陽乃に――天から一筋の光が注がれた。

 

 

 こうして、雪ノ下陽乃は死亡し――あの黒い球体の部屋へと、送り込まれることになる。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 陽乃は瞑っていた目を開けて、その今わ際のことを思い出して、母親の姿をした何かに、自分を殺した何かに向かって、気丈に問い掛ける。

 

「……あなた達は、一体、何が目的なの?」

 

 陽光はくすりと笑い、逆に陽乃に問い返す。

 

「目的、とは何についての、ですか?」

「全部」

 

 陽乃はガンツソードをもう一度しっかりと掴み直し、その鈍重な剣を持ち上げ続ける辛さを一切表情に出さず、目の前の正体不明の化け物に向けて、雪ノ下陽乃に相応しい立ち姿で問い質す。

 

「わたしを黒い球体の部屋に送った理由も。どうしてその部屋の存在を知っていたのかという理由も。雪ノ下家を乗っ取った理由も――その目的も合わせて、全部、包み隠さず話しなさい」

 

 陽乃は、一度口を閉じて、何かを決意したように鋭い眼光で、言った。

 

 

「私は――娘、なんでしょう?」

 

 

 陽乃のその力強い問い詰めに対し、陽光は上品に瞠目して――

 

「――そうですね。その話は、帰ったらじっくりしましょうか?」

「……え?」

 

 そのあっさりとした了承に陽乃は思わず呆然とする。

 

「え、帰ったら、って――」

「この戦争は、おそらく貴女達の勝利で幕を閉じるでしょう。そうしたら、採点が終わった後は自宅に――つまり我が家に帰ってくるということでしょう?」

「ええと……たぶん」

「それならば、半年振りの娘の帰還を祝うご馳走を用意しなくては。話は家族水入らずのお茶の間で致しましょう。雪乃は事情を知らないので呼べないのは残念ですが。そうね、そうと決まったら早く仕事を終えて家に帰らなくては。ふふ、久しぶりに楽しい食事になりそうね」

 

 そう言って陽光は、くるりと背中を向けて何処かへと歩き出そうとする。

 

「ちょ、ちょっと――」

「それではね、陽乃。久しぶりの現世(うつしよ)とはいえ、あまり寄り道せずに真っ直ぐ帰ってくるのよ」

 

 と、そんな母親らしいことを言う。化け物の分際で、それが当然のことであるかのように慈愛を込めて。

 

 そして、またしても何処からか豪雪が陽光の傍に跳んで来て、陽光をさらりとお姫様抱っこして「あ、そうそう」と、そんな体勢のまま最後に嬉しそうな笑顔で、豪雪の逞しい首に腕を回しながら陽光が告げた。

 

「比企谷くんに感謝しなさい。初めての大事な友達よりも、他の何よりも優先して、貴女を生き返らせてくれたんだから。ふふ、賭けはやっぱり私の勝ちね」

「あ、待って――」

 

 そして、今度こそ雪ノ下陽光は、夫の雪ノ下豪雪に抱えられたまま、夜の池袋の何処かへと()()()行った。

 

「…………」

 

 陽乃はカランカランと、既に握力の限界だったこともあってガンツソードを落とすと共に路上にぺたんと座り込み、両親の姿をした何かがいなくなった方向を呆然と眺めていた。

 

「…………なん、なのよ……」

 

 この雪ノ下陽乃が、最初から最後まで振り回されっぱなしだったと悔しい気持ちも湧き起こるが、それ以上に考えなければならないことが多過ぎた。八幡の元に行かなければと思う気持ちも胸にあるが、足が全く動かない。

 

 

 その時――わぁぁぁぁああああああああああああ!! と、歓声が、陽乃の背後――遠く後方から上がった。

 

 

「………今度は、何なの?」

 

 それは池袋駅の方面から轟いて来るもので、そこでは――

 

 

――一人の黒衣の少年剣士が、牛頭の怪物と戦っていた。




雪ノ下陽乃は、母親の化けの皮を被った何かと対峙する。


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本当に――恐ろしいね、お前は。

 Side東条――とある60階建てビルの通り

 

 

 笹塚衛士は、一歩たりとも、その足を動かすことは出来なかった。

 

 否――斧神の覇気を受けて、意識を失っていないだけでも、笹塚が只者ではないことの証明には十分だった。

 

 しかし、笹塚は歯を食い縛り、その光景をただ見ていることしかできない自分を無言で恥じていた。

 

 突如現れた二人の新たな吸血鬼――いや、その山羊の頭を被った巨大な怪物は、その形容からもまさしく悪魔と呼ぶに相応しく、そしてロイドメガネにフードとマスクの男、姿形は人間そのもののもう一人の男でさえ、今の笹塚からは恐ろしい悪魔にしか見えなかった。

 

 何故なら、あの東条英虎が、これまで圧倒的な強さで怪物を圧倒してきたあの強者が、只の一撃も与えることが出来ず、そして一撃も防ぐことが出来ず、一方的に蹂躙されているのだから。

 

「……はぁ……はぁ……は、はは、ははは!! つえぇ……やっぱ、つえぇな! 篤さん!!」

「…………お前もな」

 

 篤はそう言うが、傍目から見て、東条は篤にまるで届いていないように見えた。

 

 攻撃も、そして――強さの、格のようなものも。

 

 東条が強く地面を蹴り出し、篤に向かって猛獣の如く突っ込んでいく。

 

 だが、その硬く握り込まれた右拳は、篤の左手によって容易く叩き落されてしまう。

 

「――――ッ! ――――ッッ!!!?」

 

 そして、篤は右手に持つ丸太をぐるりと右回りに回転させ、東条の後頭部に強烈に叩き込んだ。

 

 ドガンッッ!! と、吹き飛ばされる東条。

 

 笹塚は、丸太などという鈍重な武器を、あそこまで軽々と使いこなす篤という男に、途轍もない底知れなさを見た。

 

 そしてその時、篤と斧神の傍に、突然、無数の蝙蝠が飛来し、通りのある一か所に集結した。

 

(……な……なんだ……?)

 

 笹塚がそれを注視していると、やがて蝙蝠達は再び何処かへと飛んでいき、その場所から、紅蓮の髪を持つ幼女と、その幼女を肩に乗せる墨色の髪の浪人のような男がいた。

 

「おうおう、やってるねぇ。お前がバトるなんて珍しいじゃないか、篤」

「……リオンか。剣崎は――」

「死んでたよ。美味しく頂いてきた」

「……そうか」

 

 そう言うと篤は、視線を辺りで息絶えている岩倉と火口に移した。

 

「……アイツ等も、回収してやってくれ」

「了解。まったく、僕も女の子なんだから、っていうか幼女なんだから、スイーツならともかく、こんな胃に重たい吸血鬼ばっかり食べたくないんだけど。まぁ、しょうがないよね。僕が発端なんだし」

 

 リオンが岩倉の方にてててと走っていくと、弾丸のように突っ込んだテナントから、再び東条が立ち上がった。

 

「……もう止めろ、トラ。お前は十分に戦った。俺達はお前等のミッションのターゲットじゃない。だから――今ここで、俺とお前がこれ以上戦う理由なんてないんだ」

「――理由? そんなものは……俺にはどうでもいいんっすよ、篤さん」

 

 東条英虎は、スーツの制御部からだらだらとオイルを流しながら、それでも獰猛な笑みで、篤を、斧神を、狂死郎を、リオンを、そのギラギラと輝く瞳に捉えて、楽しげに笑う。

 

「――篤さん達が吸血鬼だとか、化け物だとか、敵だとか味方だとか、そんなのはどうでもいい。んなこたぁ、どうだっていい」

 

 東条は拳を握る。牙を見せつけるような笑みのままに、ただ沸騰する己の血潮の衝動に任せて。

 

「こんなに強そうな奴がいるんだ。だからケンカしてぇ。そんだけだ」

 

 金髪を闘志で逆立たせる獣は、グッと力を溜め、再び篤に向かって突っ込んでいく。

 

 その時、篤の肩を掴んで、前に出る一体の怪物がいた。

 

「――下がれ、篤。……あの馬鹿は、俺が止める」

 

 野生の笑みを浮かべて、猛獣のオーラを放ちながら突っ込んでくる東条を、その怪物は――斧神という鬼は、片手でその顔面を掴み、そして――

 

 

「――――ッッッ!!!!!」

 

 

――地面に、強烈に叩きつけた。

 

 

「……好きなだけ、付き合ってやろう、トラ。……これが、俺達がお前に吹かすことの出来る、最後の先輩風だ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 殴り合いの鈍い音が響き続ける戦場に、再び新たな怪物が飛来した。

 

「――貴方(あなた)か。……頼んでいたことは?」

「……これで……満足か?」

 

 黒髪の短髪に彫りの深い端正な顔立ち――雪ノ下豪雪は、己の変形させた――スピアではなくピンク色の帯のように――両腕で纏めて運んでいた吸血鬼達を、どさっと乱雑に地面に落とす。

 

「…………」

「……とりあえず……見つけた限りの……吸血鬼だ。……原型を留めてないものや……人間と区別がつかなかったもの……既に燃えて灰になってたものは……回収していないが……」

「……いや、十分ですよ。ありがとうございます。……どうやら、間もなく警察や自衛隊によって魚人型の邪鬼が討伐されるという知らせを部下から受けていまして。全ての戦場を回収して回るのは不可能だと思っていた所ですから、大変助かりました」

 

 その時、既に岩倉と女吸血鬼に対する“食事”を終えて口元を血で真っ赤に汚したリオンが、とてとてと豪雪に向かって問い掛けてきた。

 

「そうだそうだ、黒金はどうだった? 君も何回か会議であったことがあるだろう? まぁアイツは篤と違って出席率は著しく悪かったから覚えてないかもしれないけど」

 

 リオンの問いに、篤が、そして狂死郎も豪雪の答えを傾聴する。

 

 豪雪は、無表情のまま、淡々と――だが、どこか、誇らしげに答えた。

 

「既に死んでいた……私の娘が勝利したようだ。……さすがに……これらに加えて……回収は出来なかったが」

 

 その言葉に対して、篤は神妙な顔をし、狂死郎は無表情のまま揺るがず、リオンは怪しげな笑みを漏らした。

 

「……そうか。ううん、いいよ。黒金に関しては、後で僕が直接死に場所に出向こう。なんだかんだで、彼は頑張ってたからね。だから君は奥さんだけを回収してきなよ。もうお仕事は終わりでいいから。ありがとう、助かったよ」

「分かった」

 

 そう端的に告げて、シュバッ! と豪雪は姿を消した。

 リオンは「はやっ!? 相変わらず、奥さんのことになると凄いねぇ、彼は」と呟くと、篤を振り向く。

 

「……まぁ、気配でなんとなく察してたけど、まさか本当に黒金を倒すハンターがいるだなんてね。うん、素直に驚きだ」

「……そうだな。……アイツは、敵を作り過ぎた」

「なんせ世界そのものを敵だと思ってた節があったからねぇ。……まぁ、それはそれとして、だ」

 

 リオンは黒金の死の話題を早々と切り上げ、篤に不敵な笑みを浮かべながら問う。

 

「――いいのかい? こんな所で、“彼女達”に借りを作っちゃって。……それが向こうの狙いだということに、君なら気付いているんだろう?」

「……貸し借りを作りたいということは、俺達と関わりを持ちたいということさ。どんな思惑があるにせよ、繋がりを作るということは重要だ。そこから信頼できる仲間になっていけばいい」

「ふふ、まったく、君は口にする言葉はいつも美しいのに、その実しっかりと腹黒いんだから性質が悪いよ」

「……俺達も、必死なのさ。なまじ知能が高い故に、分かってしまう。……人間というものの、地球人というものの――恐ろしさが。……彼女達も同じだ。……必死なんだよ。生き抜く為に。このどうしようもなく生き辛い人間達の世界で、生き残り続けることに……必死なのさ」

 

 東条と斧神の戦いを――否、薙ぎ倒し続ける斧神に対し、それでも笑みのままに立ち上がり続ける東条を眺めながら、ロイドメガネの奥の目を細める篤に、リオンは言う。

 

「――もう、すっかり、吸血鬼側の台詞だねぇ、篤」

「…………」

「まあ、そこら辺は責任を感じてはいるよ。だから出来る限りの協力はするさ。でも、人間のことはよく分からないから、難しいことはこれからも、篤! 君に任せた!」

「……ご協力、痛み入りますよ姫君」

 

 ビシッ! と指を突きつけて屈託なく笑う始祖に、篤はそう素っ気なく応える。 

 

 そして、そのまま火口の死体を貪るべく走っていったリオンの小さな身体を、篤は無言で見遣る。その表情は、マスクとメガネとフードで誰にも分からなかった。

 

「…………」

 

 その篤の背中を、狂死郎が無言で眺めていると――

 

 

――ドゴォォォォン!! と、一際凄まじい音が響いた。

 

 

 斧神の容赦ない両手を組んだ拳での一撃に、東条が地面に沈んだ効果音だった。

 

 既に、これで何度目のノックアウトだろう。

 スーツは壊れ、顔は無残に腫れ上がり、血だらけで碌に前も見えていない。

 

 それでも、東条英虎は立ち上がる。何度でも、何度でも、何度でも。

 

 脆弱な人の身で、強靭で、強大な、絶対の吸血鬼に。

 

 斧神――氷川、黒金、篤と並んで、吸血鬼組織の最高幹部の一人であり、こと戦闘力に置いては、最強の黒金よりも、天才の氷川よりも、そして実質的なリーダーである篤よりも、強い。

 

 絶対の力を誇る無敵の吸血鬼――斧神。

 

 その、余りにも強過ぎる、絶対過ぎる強者に向かって、東条英虎は挑み続ける。

 

 東条英虎は屈さない。

 

 例え、誰かを守る為の、本物の強さを身に付けても、その根本は変わらない。

 

 彼の中に眠る単純明快な本能は、それを常に欲し続ける。飢えた猛獣のように、喉を鳴らし、唾を垂らす。

 

 勝ちたい。強い奴に勝ちたい。

 

 それが楽しいから、東条は拳を握り、そして笑うのだ。

 

「…………勝つのは………」

 

 だから、東条英虎は、どこまでも――強くなれるのだ。

 

「俺だぁぁああああああああああ!!!」

 

 再び、己の全てを振り絞り、斧神に向かって東条は襲い掛かる。

 

 背中に猛虎を幻視させる程に、剥き出しの殺意を迸らせる東条英虎の特攻に、斧神は――

 

「……見事だ、トラ。……そんな強きお前に、俺も俺の最強を以て答えよう」

 

――じゃらと音を鳴らす巨大な鎖を握り締め、そして、それを豪快に引っ張った。

 

 

「――俺の元へ辿り着け、トラ。……お前が殺しに来るその日を、俺は心から待ち望む」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 シュタ、と着物の美女を姫抱きで抱えた短髪上裸の美男子が、篤と狂死郎の元に静かに着地した。

 

「あらあら、皆さんお揃いで。首尾の方は順調ですか?」

「……ええ。今――」

 

 ドゴォォォン!! と轟音を立て、鉄球の一撃を正面から食らった東条が、喀血しながら吹き飛ばされる。

 

「――…………終わりました」

 

 何度もバウンドしながら荒れ果てた路上を転がった東条は、がくっと、今度こそ遂に完全に意識を失った。

 

 普通の人間ならば、間違いなく死んでいるだろう。東条英虎だとしても、このままでは数分もしない内に息絶えてしまうかもしれない。

 

 それまでに、ガンツの転送が始まるのか――東条英虎という男の天運が試されるだろう。そして、もし、生きていた時は――

 

「………………」

 

 篤は倒れ伏せる東条を一瞥すると、そのまま視線を雪ノ下陽光へと移した。

 

「そちらはどうでしたか?」

「ええ、無事に生き返っていました。それで、どうやらうちの娘がそちらの黒金さんを殺してしまったようで。申し訳ありませんね」

「……いえ、いつかは、こうなっていたでしょうから」

 

 黒金が危険な思想を抱いていたのは、篤も当然、知っていたことだ。

 

 だが、それでも、今の――大きな戦いを控えているこの時期に、最大派閥である黒金組と明確に対立してしまうことは、篤はどうしても避けたかった。

 

 結果として、その黒金組を丸々失うことになってしまったが、それでも、一組織を預かる者として、篤はいつまでもこの失敗に囚われているわけにはいかない。

 

 もし、黒金組と本格的に拳を交えるようなことになっていたとしたら、自分のグループのメンバーも無事では済まなかっただろう。そうなっていては、これよりも更に甚大な被害になっていたに違いない。

 

 ならば、この事態を、()()()()()()()()()組織から危険分子を排除出来たと考える。そして、黒金が抜けた穴を埋め、組織をより強固にするチャンスだと考えるのだ。

 

 黒金組が消えたことにより、穏健派の自分達のグループが最大派閥だ。よって、まずはこの黒金組の失態を理由に、氷川グループの単独行動を制限する。困難な仕事だろうが、もう同じ失敗は繰り返さない。

 

 氷川は当然納得しないだろうが、奴は黒金のように革命思想の持ち主ではなく、強い敵――つまり狂死郎を超える為に全てを懸ける求道者だ。その辺りの欲を上手く満たしてやれば、野心がない分、黒金よりも制御し易いだろう。

 

 そして、陽光達のような別星人組織と同盟を結んでいく。知能が高く、人間達と――地球人達との“共生”を望む星人同士で、より大きな組織を作り、管理するのだ。

 

 更に、奴の死が齎す効果は、奴の死の使い道は――

 

「………………」

 

 篤はちらりと、あの女吸血鬼の死体があった場所、リオンが食い散らかし、血の跡しか残っていない、その場所を見遣る。

 

 自分が救えなかった同胞。見殺しにした同族。自分は一体、どれほどの犠牲を、防ぐことが出来ず、この手で生み出してきただろう。

 

 だが、篤はそこから目を逸らし、前を向く。

 

 失敗から目を逸らすことも、背を向けることも、過去を切り捨てることも――リーダーに求められる重要な役割で、資質だ。

 

 進むしかない。例えどれだけ屍を積み上げたとしても、己はそれを踏みしめて進まなくてはならない。失敗を利用し、そこから利益を見出して、仲間の死を有効活用しなくてはならない。

 

 自分は、一つの種族の存亡を担っているのだ。

 

 ここで、止まるわけには、いかない。もう自分は――自分達は、後戻り出来ないのだから。

 

 そこにてててとててと、この種族の始祖であり、広義的には主でもある、リオン・ルージュが口周りを血で真っ赤に染め直してやってきた。

 

 陽光がそれに気づき、どこからか真っ白なハンカチのようなものを取り出して口元を拭いた。

 

「あらあら、リオンさん。お口が汚れていますよ」

「ふふふ、僕って本当は1000才超えてるから、こんなことをやられても屈辱なだけなんだけど、僕はそんなことで一々目くじらを立てない器の大きな吸血鬼だから大目に見てあげよう~」

「ありがとうございます。流石は始祖様ですね」

 

 そう言ってリオンの口を拭き、真っ赤に染まったハンカチを、そのまま懐に入れようとして――篤が手を差し伸べた。

 

「…………」

「ウチの始祖がご迷惑を。そのハンカチはこちらに。次の機会までに、新しいのを買っておきます」

「……そうですか? ふふ、なんだか悪いわね。若い男の子からプレゼントだなんて、年甲斐もなくときめいちゃうわ」

 

 そう言って陽光は、微笑みのまま大人しく篤にそのハンカチを渡す。

 

 こんなところで仲間の“血”を、いずれは同盟相手にと思っている相手とはいえ渡すつもりなど篤にはなかった。

 陽光もこんなところで無駄に食い下がり、疑いを持たれるようなことになることは避けたかった。

 

 篤はハンカチを握りつぶしてズボンのポケットに乱雑にツッコミ、それを陽光はふふふと微笑みながら見詰める。

 

 お互いが、一つの星人組織を預かる主導者(リーダー)である。

 

 全ては、()()()の安寧の為に。それだけが、篤の、陽光の、互いに譲れない確固たる根幹であった。

 

「それにしても、まさか最後まで生き残るのは化野だとはね。流石の僕でも、これは予想外だったよ」

「……それでも――」

「うん、死ぬだろうね。確実に負けるだろうね」

 

 篤の小さく呟いた言葉に、リオンは冷たく酷薄に告げる。

 

「この戦争は、完膚なきまでに黒金達の負けだよ。だから、篤達はもう帰っていいよ。もう、そうかからない内に、国家権力がこの街に踏み込んでくる。僕と狂死郎はギリギリまで粘って回収してみるけど、たぶん全部は無理だと思う。火口が燃やしちゃった分もあるだろうしね。まぁ最悪でも、黒金と化野は回収するよ」

 

 邪鬼はいけるかな~。あれ、重いんだよね。胃袋的に。

 と、幼女である自らのお腹をぽんぽんと叩きながら呟くリオンに、篤は言う。

 

「……そうだな。俺達はリオン達のように、蝙蝠を使って瞬間移動なんて出来ない。どうしても目立ってしまう。……この辺りが潮時だな」

 

 黒金達の革命の顛末は、この眼で確認することが出来た。

 

 彼等は負けたが、黒金が勃発させたこの戦争は、吸血鬼と人間の――否、星人と地球人の関係を、大きく変える、まさしく革命の一夜となっただろう。

 

 最早、【星人(じぶんたち)】の存在を、一般人に隠し通せるとは思えない。

 

 この夜が明けてから、世界はどのように変革されるのか。

 

 どちらにせよ、自分達が出来ることは――生き残ること。死に物狂いで、生き延びること。ただ、それだけだ。

 

「――ああ、リオン。……最後に一つ、頼まれて欲しいことがある」

 

 そう言うと篤は、リオンの元へと歩み寄って、片膝を着き、幼女である彼女と視線を合わせて、ロイドメガネとマスクで窺えない表情で、何かを語り掛けた。

 

 リオンは、彼の言葉を聞いていく内に徐々にその表情を、無邪気な幼女から、凄惨な吸血鬼の笑みへと変えていく。

 

 彼女は笑う。幼女は凄惨に笑う。

 

 己のせいで吸血鬼と――化け物になった人間を見て。

 

 その化け物を見て、その化け物を聞いて、誰よりも化け物だった始祖は――嗤い。

 

「本当に――恐ろしいね、お前は」

 

――この、化け物め。

 

 リオンの裂いたような笑いを受けて、篤は何も答えない。

 

 狂死郎は、こちらに向かう為に篤に背を向けた彼女の、小さな幼女の背中を見る、ロイドメガネとマスクとフードによって一切その中身を窺えない篤の表情を、無表情でじっとその中を覗き込むようにして見ていた。

 

「それじゃ、皆様どうかお元気で。また今度――とか」

 

 そしてリオン達が再び自分達の周りに蝙蝠を呼び出し何処かへと瞬間移動すると、篤は陽光と豪雪を見渡して言った。

 

「……それでは、行きましょうか。――帰るぞ、斧神」

「……ああ」

「それでは、私達も帰りましょうか。陽乃さんの為に腕によりをかけたご馳走を用意しなくては」

「帰ろう。今すぐに。全力で」

 

 それでは、また。と言って、陽光を抱えたまま超スピードでいなくなった豪雪に、そんなに妻の手料理が食いたいのかと呆れながら、篤はそのまま来た道を戻ろうとする。

 

 だが、そこに掠れた声で、それでも、必死に縋りつく声が聞こえた。

 

「…………ま……て」

 

 その声は、笹塚衛士の発したものだった。斧神の覇気に耐えながら、座り込んでも、その銃口だけは篤達に向け続けていた刑事が、静かな声で彼等に問い掛ける。

 

「…………お前達……は…………何……なんだ?」

 

 その言葉に、篤は静かに答える。

 

「……すぐに分かります。……けど、一つだけ。……こんなことになってしまい、全く説得力はないと思いますが――」

 

 篤は、笹塚に背を向け、遠ざかりながら答える。斧神も篤の横に続いた。

 

「――俺達は、人間(あなたたち)の敵じゃない。……敵でありたくないと……いつも、そう願いながら……生きてます」

 

 笹塚は、その背中が見えなくなるまで、遂に、その引き金を引くことは出来ず――ドサリと、意識を手放し、倒れ込んだ。

 




垂涎の猛虎――最強の“力”の前に、敗北を叩き込まれる。


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だから、きっと………人は、人を殺すんだ。

 Side渚――とある燃え盛るアミューズメント施設

 

 

 渚と神崎は、三階のフロアまで逃げていた。

 

「ひっ――」

 

 そこにはリュウキが作り出したと思える、死んで間もない新鮮な死体達が転がっており、その内の幾つかは火の海で早くも火葬とばかりに轟々と燃え盛っていた。

 

 神崎は悲鳴を漏らしかけたが、渚は咄嗟にその口を塞ぐ。

 渚はその光景を見て眉を顰めながらも、頭の中は平の豹変について考えていた。

 

(……どうしてなんだ……っ。どうして、平さんは急に……僕達を……殺そうと――)

 

 信じられなかった。

 

 確かに、平とは今日あの黒い球体の部屋で初めて会ったばかりで、付き合いも数時間ばかりの浅い関係でしかない。だが、渚にとって平は、既に絶対に死なせたくない人になっていた。

 

 あの人は弱く、臆病で、決して頼りがいのある人ではなかったけれど、この地獄のような境遇においても、常に家族のことを考え、家族の為に生き残るのだと絶望に立ち向かえる――渚にとっては理想の父親像だった。

 

 憧れだった。自分の憧れを、理想を平に重ねていた。

 

 平も、自分のことは憎からず思ってくれているように感じていた。頼ってくれて、信頼してくれて、自分に命も預けてくれた。一緒に、死線を潜り抜けてきた――のに。

 

(……なのに……どうしてですかっ……平さん……っ)

 

 渚は自分の瞳に涙が溢れるのを感じる。

 

 そして、その時――自分の腕の中の神崎ががくっと倒れ込んだ。

 

「――ッ! か、神崎さん!?」

 

 渚は神崎を抱きかかえる。

 その時、渚は自分が神崎の口をずっと塞いだまま、考えに集中してしまっていたことに気付いた。

 

 十秒に満たない時間だったろうが、この火事の現場では致命的な――殺人的な時間になり得る。

 

「けほっ、けほっ、けほっ……だ……だいじょうぶ……けほっ……けほっ」

「神崎さん! ごめん、もういいから。喋らないで、無理しないでいいから」

 

 渚は自分の愚かさに歯噛みしながら、自分も息苦しさを感じていることに気付いた。

 一刻も早くこの燃え盛るビルから脱出しないと、炎を避けても酸欠で死んでしまう。

 

 渚は、既に立っていることも出来なくなってしまった、荒い息と酷い咳を繰り返す神崎を肩に腕を回して支えながら、必死に火の海からの出口を探す。

 

(上ってきたエスカレーターは下に平さんが……くそっ! 僕はどうして上に……いや、それよりも、これ程に大きな建物なんだから、上り下りの手段がエスカレーターだけなんて有り得ない。エレベーターは動いていなくても……せめてどっかに非常階段が――)

 

 非常階段を文字通りの非常時に使うのは初めてだが、本来はまさにこういった事態の為に用意されている設備の筈だ。

 渚は非常階段を探してフロア内を炎を避けながら徘徊していると、別の建物と繋がっている扉であろうを見つけた。

 

 何者かによって開けられた痕跡がある自動ドア。これは、葛西がバックドラフトなどを起こさない為に予め制御室から開かせていたドアであり、リュウキがこの建物内に侵入した際に使用したドアでもあった。

 

(――ッ! あそこなら――)

 

 渚はこのビルが燃え上がった時、余りにも綺麗に、この建物だけがボっ! と、魔法のように、異能のように燃え上がったことを思い出していた。余りにも鮮烈だった為、脳裏に、瞼の裏に文字通り焼き付いたその光景。少なくとも、周辺のビルは、あの時はまだ無事だった。

 もしかしたら既に隣接したビルにも燃え広がっているかもだが、少なくともこの建物よりも遥かにマシな筈だ。

 

 渚は神崎を担いだまま、そのドアに向かって足を進める。

 

 既に腰の辺りまで、炎がハードルのように行く手を塞いでいるが、通れなくはない。スーツはギリギリ生きているのだ。本当にギリギリで。

 悲鳴を上げ続けるこの頼みの綱はいつ切れるか、いつ壊れるか分からない。故に今は実行に移せないが、あの扉を通る時は瞬間的に神崎を両手で持ち上げ――そんなことを思いながら進んでいると。

 

 背後から――ビィィィイインという、プロペラ音が聞こえた。

 

「っ!?」

 

 渚はバッと振り返り、そのまま急いで身を屈めた。

 

 後ろには――険しく、青白い表情でこちらを見据える平がいた。

 

(ホーミング式BIM……っ!?)

 

 渚は屈んだことでホーミング式BIMを一旦回避するも、BIMは直ぐに方向転換する。

 くそっと、渚は自動ドアを見て歯噛みしながら、燃え盛るフロアへの退却を余儀なくされた。

 

 ホーミング式は、直接接触しなくとも、BIMを中心とした有効範囲内にターゲットを捉えたら爆発する。

 

 そして神崎を背負った状態ならば、スピードはBIMの方が速い。直線での逃走は無理だ。

 残ったスーツの力で神崎を担いで逃走するという手もあるが、スーツは本当に限界ギリギリで、今も少しでもより力を出そうとすると激しくキュインキュインと警告音のようなものを発する。

 

(――ッッ!! せめて、あと、もう少し扉に近づいていたら……っ)

 

 イチかバチかにかけてスーツの力で逃走も出来ただろう。今になって、あの十秒の思考時間が悔やまれる。

 

(――くそッッ!!)

 

 渚は、そのまま上階のエスカレーターへと向かう。

 このフロアのあの扉は使えなかったが、おそらくは同じような間取りで、上の階にも隣のビルへと繋がるドアがある筈だと踏んで。

 

 だが、一度は方向転換で躱したけれど、ホーミング式BIMはその名の通り、自身もぐるりと何度でも方向転換して、渚達を何処までも追跡(ホーミング)してくる。

 明確に目的地を定めた渚達は、もう方向転換も出来ず、速度で優っているBIMに追いつかれかけ――

 

「――ッ!」

 

――渚は、バッ! とXガンを取り出し、ホーミング式BIMを射撃した。

 

 そして、そのまま前方に飛び込む。

 尚もホーミング式BIMは渚達に向かって進撃するが――その有効範囲に渚達が入る前に、ドガンッッ!! とXガンの攻撃によって爆発した。

 

 渚は地面に伏せている神崎に覆い被さるようにしてそれをやり過ごし、そして――

 

「――っ!!」

 

 それを――見つけた。

 

 上の階へと繋がるエスカレーター付近に、つまり、今、渚達が伏せている場所の、すぐ、目の前に――――リモコン式のBIMが、待ち伏せるようにセットされているのを、発見した。

 

 渚は、起き上がるよりも先に、そのBIMの爆破スイッチを持っている平の方をバッ! と振り向いた。

 

「……………………ッ!?」

 

 渚は、それを見て、ピクリとも動けなくなった。

 

 動かなくてはいけないのに、逃げなくてはいけないのに、守らなくてはいけないのに、助けなくてはいけないのに――まるで固まってしまったかのように、身体を、思考を、まるで動かすことが出来なかった。

 

 平の瞳は――ゾッとする程に冷たかった。

 

 あれが、優しい瞳で、強い決意の篭った瞳で、息子のことを、家族のことを語っていた、渚が理想の父親だと憧れた、あの平清と、同一人物なのだろうか。

 

 人は、あれほど冷たく変貌してしまうのか――それとも、あれも、平が初めから持っていた、秘めていた一面なのだろうか。

 

 平清は、ただ無表情で渚達に目を向けたまま、手首のリモコンに向かって手を伸ばし――爆破させた。

 

 ドゴンッッ!!! と、瞬時に凄まじい爆風が渚の目の前に広がり――

 

 

――グイッ、と、渚は何者かによって身体を持ち上げられた感覚がした。

 

 

 渚は呆然とその感覚に身を任せていると、爆風が届かない物陰で、その何者かは渚に向かって、その笑みと共に、優しい声色の言葉を掛けた。

 

「大丈夫ですか? 渚君」

 

 渚は、その男の顔を見て、再び瞠目し、言葉を失った。

 

 それは、今日の夕方、渚の世界を塗り替えて、作り変えてくれた人であり、渚がこの人のようになりたいと、自身の存在の意味を失った渚に、新たな指標をくれた人でもあった。

 

「あ……な……たは……」

 

 

『死神』――そう、あの殺し屋達に呼称されていた謎の男は、この煉獄の地獄で、渚達を死の魔の手から救い出してくれた。

 

 

「ど、どうして……あなたが、ここに――」

「それよりも、今は真っ先にやるべきことがあります」

 

 そう言って『死神』は、どこからかガスマスクのようなものを取り出し、神崎に被せた。

 

「これで一先ず酸欠での死は防げるでしょうが、それでも彼女は危ない状態です。火災による火傷、体温の上昇、脱水症状、そして体力の低下。更には足の裂傷、そして打撲。これまでの極限状態でのストレスも加味すると、一刻も早く病院へと連れて行かなくてはなりません」

「――っ! そ、そんな……」

 

 渚は愕然と神崎を見遣る。

 

「……………」

「……はぁ……はぁ……」

 

 神崎はマスク越しに、酷く苦しそうな息を漏らす。

 渚は、そんな彼女の様子に辛そうに表情を歪めると、自分が知る限り最も“()()”人である目の前の『死神』に頼み込む。

 

「……お願いします。神崎さんを……助けてくれませんか? 神崎さんを連れて、病院に――」

「残念ですが――それは出来ません」

 

 渚の訴えに、『死神』は神妙に首を振って断る。

 

「ど、どうしてですかっ!」

「渚君も知っての通り、私は殺し屋です。これほどの大事件だ。警察も動くでしょう。いえ、動いているでしょう。私一人ならまだしも、無関係の人を連れて歩く訳にはいきません。最悪、私の関係者というだけで、警察や、いえ警察ならまだしも、昼間のような別の殺し屋に狙われかねない」

「……っ」

 

 渚は――先程、このビルのすぐ外で出会った“警察”の顔を思い出し、俯かせる。

 そして苦しむ神崎を見て、渚は何も出来ない自身への無力感に苛まれた。

 

「…………」

 

 そんな渚に、笑みを浮かべる『死神』は優しく語り掛ける。

 

「だからこそ――彼女を救えるのは、渚君、君しかいません」

 

 渚は、『死神』のその言葉に、呆然と顔を上げた。

 

「――え?」

「渚君は、まだ彼女を担いで動けるでしょう? 上の階へと上がれば、隣のビルへと移る階段があります。その階段は、一番下まで降りれば直接外へと繋がっているので、それで彼女をビルの外まで連れ出してください。既に、外には怪物は一体もいません。そこまで連れ出せば、もうこの池袋のすぐ傍まで来ている警察や自衛隊が保護してくれるでしょう」

「で、でも、それには――」

 

 それを実行し、遂行するには、どうしても排除しなくてはならない障害がある。

 

 あの人は、例えこの煉獄のビルディングから脱出しても、神崎が生きている限り、何処までもその背中を追いかけてくるだろう。

 

 息の根を止めようと、殺そうと、付き纏ってくるだろう。

 

「――そうです。ならば、君がやらなくてはならないことは分かりますね?」

 

 渚が――潮田渚が、やらなくてはならないこと。

 

「君がやるんです、渚君」

 

 他の誰でもない、潮田渚が、()らなくては、いけない――標的(ひと)

 

「……僕……が」

「ええ、渚君。君が――」

 

 

――あの人を、殺すのです。

 

 

「――――ッッ!!??」

 

 ドクンッ! と、一際大きく、心臓が鳴った。

 

 急激に息苦しさが増し、はーッ、はーッ、と、息が酸欠と相まって荒くなり、震え出す自身の両手を見詰める。

 

「僕が…………平さんを…………でも…………でも……………でも……ッ」

 

 渚は遂に、両手を額につけて、歯を食い縛って蹲る。

 

(――出来ないッ! 星人じゃない……命を奪うなんてッ! 人間を――平さんを…………殺す……なんてッ!)

 

 これは、動物は殺して何故人間は殺してはダメなのか、どんな命の価値も平等なのではないのか、などという下らない哲学の問題ではない。抱えるべき、当然の葛藤だ。

 

 人を殺してはいけない――それは、誰しもが幼い頃から、常識として、当然の前提として、深く、深く人の脳に刷り込まれている、人間社会で生きていく為の至極当然のシステムだ。

 

 それは、本来は決して踏み込んではならない一線。

 

 踏み込んでしまったら、踏み越えてしまったら、強制的に自らにエラーを発生させ、自分という存在を変質してしまう、別の自分になってしまう、そんな禁断の果実。

 

 だが、『死神』は誘う。アダムとイヴを誑かした蛇のように、渚の耳元にその小さな舌を這わせる蛇のように――別世界へと誘う――『死神』のように。渚の目を真っ直ぐに見て、その優しい蕩けるような声と、笑顔で、囁く。

 

 

「――渚君。君は、私のように、なりたくないのですか?」

 

 

 渚は、その瞬間、全ての葛藤が消え、再び世界が広がるのを感じた。

 

 

「…………え?」

 

 

 燃える炎の熱さも、煙が肺に入る息苦しさも、全てが真っ白の世界に染まり、何も感じなくなった。

 

 そして男は――『死神』は、無垢なる白い世界を自分色に染めていく。潮田渚を塗り替え、作り変えていく。

 

「私は殺し屋です。私のようになるということは……どういうことか、分かりますね?」

 

 生きる指標を失い、アイデンティティを失い、操り人形の役目を失い、母の二周目(アバター)の役割を失っていた、何者でもなくなっていた哀れな水のように白い少年を、『死神』は自分色に染め、自分好みの“生徒”として、教え、導き――誘う。

 

「その上で、もう一度、言いましょう――君には、才能がある。殺し屋の才能が。つまり――人を、殺す才能が」

 

 裏の世界へ、暗闇の世界へ――殺しの、世界へ。

 

「そして、最後にもう一度、問いましょう。それでもあなたは――」

 

 

――私のようになりたいと望みますか?

 

 

『死神』は、いつの間に抜き取ったのか、渚が腰に差していた、漆黒の光沢のあるガンツナイフの刀身を持ち、渚の前に吊り下げた。

 

 これが、潮田渚という少年の、最後の分岐点だった。

 

(……平さんは、一体、どうしてあんな風になってしまったのだろう?)

 

 ここで、それでも神崎を抱え、上階のドアから隣のビルに逃げ出し、己と――平が、ガンツによって転送されるまでやり過ごせば、きっと渚は、この後も、只のエンドの、それでも普通の、真っ当な中学生でいられたのだろう。

 

(神崎さんは、平さんが人を殺したのを見たと言っていた。そして、平さんはそれを否定せず、ただ冷たい表情で、神崎さんを、そして僕を殺そうとした――殺そうとしている。さっきのリモコン式BIMを作動させる、あの冷たい目……あの目を見て感じた……冷たさ……あれこそが、きっと……殺意……だったんだと、思う)

 

 そして、それはそう難しいことでは、実はなかった。

 後、ほんの数分も逃げきれば、渚はその可能性(ルート)を歩むことが出来たのだ。

 

(……人を、殺す。……それは、間違いなくいけないことで、許されないことだ。……それでも、平さんは、その道を選んだ。その方法を選んだ。……それは……きっと――)

 

 それでも渚は、まるで、引き寄せられるように、操り人形の糸に手繰り寄せられるように。

 

(――きっと、その方法でしか………守れないものが、あったからなんだろうと、思う)

 

 

――だから、きっと………人は、人を殺すんだ。

 

 

 潮田渚は、そのナイフを手に取り――人を殺す、進路(みち)を選択した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 平は、リモコン式BIMによる爆煙が晴れた後も、「ごほっ、ごほっ」と息苦しさを感じながら、その場で周囲に目を配らせていた。

 

(……やったんか? でも、あの二人の死体があらへん。……ちゅうことは、逃げたんか? ……あの状況で、どないして――)

 

 その時、カンッという音が、フロアの奥から響いた。

 

「ッ!! なんやッ!!」

 

 平はその音の方向に目を向ける。

 

 渚達か、とそちらに向かって進もうとすると――

 

 カンカンカン、とエスカレーターを駆け上がる音が聞こえた。

 

 そこには、神崎を背中におぶり、平を見下ろすようにして目を合わせ、上階へと上がっていく――潮田渚がいた。

 

(渚はんっ!)

 

 平は険しく表情を歪めながら、ゆっくりと歩き出し、水色の少年の後に続いて、上階へと上る。

 

(……恨むなら、恨んでくれや。……それでもワシは、殺人者になるわけにはいかへんのやっ!)

 

 そして、平も、決戦の舞台へと上がる。

 自分をこの地獄のような戦場で、何度も守り、何度も救ってくれた少年を殺す為に。

 

 殺人を隠す為に、殺人を犯す、殺人者として。

 

 全ては愛する家族の為に。

 

 平清という父親は、この言葉と共に、命の恩人の殺害に挑戦する。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 平が上階へと上がっていったのを確認すると、物音の方向から一人の美男子が姿を現す。

 

 彼は――『死神』は、教え子を受験へと送り出す教師のように優しい顔を浮かべていた。死神のような、優しい笑みを。

 

(――さて。どうなりますかね?)

 

 本来は気配を消して、自身も上に上がり、その行く末をこっそりと、その目で直接見届けたい所だったが、さすがに足止めも限界だった。

 

『死神』は、そっと神崎に渡したものと同様のガスマスクを被る。

 当然『死神』にはそんなものは本来不要だったが、これは文字通りの“仮面(マスク)”として着用したものだった。

 

 バキューンッ! という発砲音と共に、銃弾が『死神』の頭部目掛けて発射される。

『死神』はそっと顔を後ろに反らしてそれを躱し、エスカレーターからこのフロアへと上がってきたその男に、仮面(ガスマスク)の中から優しい『死神』の笑みを向ける。

 

『流石ですね。もう突破してきましたか?』

「……このビルに仕掛けられていた障害は、貴様の仕業だったのか」

 

 烏間惟臣は、その稚拙な拳銃の銃口を向けながら、撃鉄を上げ、次弾を装填し、謎の男に向かって言う。

 

 その男はガスマスクで顔を隠しており、そのマスクに仕掛けが施されているのか、声も機械的に変声されていた。

 

 だが、烏間は確信する。一目見ただけで、それを肌で感じ取った。

 

 この男が――この男こそが。

 

 

「……何を企んでいる……貴様がどうしてここにいるんだっ! 『死神』!」

 

 

 烏間は、己が追っていた悲願の標的に向かって問い詰める。

『死神』は顎に手を当て「ふふふふ」と笑う。

 

 この謎の男は――『死神』は、烏間の言葉を否定しなかった。

 

 己の正体を、否定しなかった。

 

『異なことを言いますねぇ。防衛省――否、日本国の対『死神(わたし)』専門エージェントに任命された烏間惟臣特務官殿。『死神(わたし)』を追う任務を受けているあなたがここにいるということは、当然私がここにいるということを察していたのではありませんか?』

「……認めるんだな。自分が、『死神』であるということを」

『ええ。この燃え盛る炎の中、生存者を救うべく勇敢に駆けつけたあなたに敬意を表して、それは真実だと認めましょう。……まあ、“一般人”の方の生存者は、残念ながら――』

 

 そう言って『死神』は、天井を見る。

 

 既にこの煉獄に残された一般人の生存者は、渚に守られ、平に狙われている――神崎有希子しかいない。

 

 だが、烏間はそうは受け取らず、怒りの篭った声で『死神』に問う。

 

「……貴様……っ、この火災は――」

『ご存知の通り、私ではありませんよ。私はこんな殺しはしません――まぁ、必要があるのならば辞さないですが。あの障害物は、あくまであなたの進行を遅らせる為の、只の足止めに過ぎませんよ。……それでも、予想していたよりも遥かに速かったので、素直に驚いています。これも認めましょう。私は、あなたの力を見誤っていた。申し訳ありませんでした、烏間特務官』

「――もう、御託はいい。ならば、どうしてここにいるかは問わん。最初の質問に答えてもらおう」

 

 烏間は、ゆっくりと『死神』との距離を詰め、対峙する。

 

『死神』は、拳銃を突きつけられても、距離を縮められても、一切動じず、悠然と炎に囲まれながら佇んでいた。

 

「――お前は此処で、何を企んでいるんだ、『死神』?」

『……答えるつもりはないと、そう言ったらどうします』

「決まっている。……俺は本来防衛省の人間で、こんなことを言える立場ではないのだが、今は警視庁に出向中の身だ。つまり、これが――俺の任務だ」

 

 こうして、日本最強の人類が、世界最高の殺し屋に向かって、堂々と宣戦布告する。

 

「――逮捕だ。『死神』」

 

 その言葉を受けて『死神』は、優しい笑みではなく、不敵な微笑みを浮かべた。

 

 やれるものならやってみろと言わんばかりの、彼には珍しい、好戦的な、生物として原初の意味を持つ笑みだった。

 




こうして、哀れな無垢なる少年は、『死神』が手招く真っ赤な進路を選択する。


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――っざけんなッ!!

 Side??? ――とある千葉の人気のない公園。

 

 

――…………わたし、バカみたいじゃないですかぁ。

 

 新垣あやせは、そう自嘲するように、曇天を仰ぎながら、覆った腕の間から涙を流した。

 

 それを、誰よりも近くで、彼女は聞き届けた。彼女だけが聞いた、彼女だけに見せた――

 

『………その気持ちは、きっと、世界で一番、私が分かるわ』

 

 彼女だけが、理解出来る涙だった。

 

 抱き締める。包み込む。

 

 彼女は、涙と共に、初恋を卒業していく新垣あやせを、守るように包み込んだ。

 

 ああ、この子は弱い。

 彼女――五更瑠璃は、己の胸の中に抱く、年下のか弱い少女を思う。

 

 危ない子だとは思っていた。危うい子だとも、分かっていた。

 

 だけど、きっと、それだけじゃない。この子はそんなものじゃない。

 

 新垣あやせという少女。

 

 生真面目で、堅物で、初心(うぶ)で、ちょっと病んでいて、思い込みが激しくて、京介好みの美人で、そして、そして――

 

『……………………』

 

 ………あの兄妹は、知っているのだろうか? 分かっているのだろうか? 気付いているのだろうか? ――見ていて、いたんだろうか?

 

 黒猫(じぶん)ですら気付くようなことを。

 

 五更瑠璃というコミュ障の少女ですら、気付いていないと、気付けるようなことを。

 

 この――新垣あやせという少女を。

 

『………それでもね。私は、あの兄妹の気持ちも……分かるの。………分かりたいと、思ってしまうのよ』

 

 分かりたいと願うこと。それは、向き合うということ。逃げないということ。相手を――見るということ。

 

 あの人の素敵なところを。その人の駄目なところを。

 

 理想のあの人じゃない。自分の中の、その人じゃない。

 ありのままの彼を。どうしようもない彼女を。

 

 見る――ということ。見つける――ということ。

 

(……………先輩…………桐乃……………あなた達は、知っているのかしら? 知っていたのかしら? ………この子は………………新垣あやせという少女は、こんなにも――)

 

 黒猫は、自身の胸の中で、子供のように泣きじゃくるあやせの髪を撫でる。

 

 涙と共に、嗚咽と共に、その心の中の何かを溶かしていく少女を――卒業していくこの子を、優しく、慈しむように撫でる。

 

 黒猫は、目を瞑りながら、ゆっくりと語り掛ける。

 

 せめて彼女が、頑張ったこの子が、安らかに――解放(そつぎょう)してくれることを祈って。

 

『それでも、これだけは忘れないで。あなたの恋は、決して誰にも劣ってなんかいない。……その恋を()()()()()()()()()、あなたの想いが、他の誰かのそれよりも()()()()ということでは、()()()()()()。……それは、私が誰よりも知っている。もしも、そんな戯言を抜かす輩がいたら、私が呪い殺してあげるわ』

 

 

――だから、もういいのよ。

 

 

 この言葉に、あやせは更に強く泣きじゃくった。

 

 黒猫は、そんなあやせの髪を撫でながら――

 

『…………』

 

 ただ、祈った。

 

 どうか、この子に――この優しく、真面目で、純粋で……とても脆く、危うい愛しき戦友に。

 

 精一杯の、幸あれと。

 

(………この子は、私と違って……………まだ、抜け出せるのだから)

 

 黒猫は、微笑む――自嘲するように。

 

 彼女は知っている。

 

 

 恋とは麻薬だ。

 

 その味を知ってしまったら、そう容易くは抜け出せない。

 

 

 巣食う。棲み付くのだ。

 

 どれだけ洗い流そうとしても、吐き出そうとしても、心の何処かに――誰にも触れさせない、触れさせたくない、致命的な傷として。

 

 

 残るのだ。刻まれるのだ。

 

 いつまでも、過去として、遺るのだ。

 

 

 それは、まるで呪いのようで。

 

 

『……………………』

 

 だから、せめて渾身の言霊を贈ろう。

 

 この愛しき戦友が――自分とは違い、まだあの兄妹から抜け出せるこの子が、どんな呪いにも負けないように。

 

 

 新垣あやせという少女が、今度こそ――

 

 

――恋なんかに、負けないように。

 

 

 そう、あらゆる恋を否定せし闇猫が、聖戦を戦い抜いた戦友に言霊を贈った――――

 

 

 

 

 

――――その、数時間後。

 

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

「はは――――ははは――――はははは――はは―――ははは――」

 

 

 

                「ははは――――――はは――ははははははは――ははは」

 

 

 

  「ははははは――はは―――――はははは―――ははは―――はははは―――は――はは」

 

 

 

           「ははははははははははは――――はは―――ははははは――――は―はははは―――ははははははははは――――ははははははははは――――ははは―――はははは――はは――はははは――は」

 

 

 

 彼女は――思った。

 

 

 アレは――あの子だ。

 

 

 彼女は――思った。

 

 

 これは――――呪いだ。

 

 

 

「ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」

 

 

 

 

 笑う。堕天使は嗤う。

 

 くるくると笑う。緋色に己を染め上げて。

 

 

 笑う。笑う。真っ赤な堕天使は嗤う。

 

 

 幸せそうに笑う。壊れたように嗤う。

 

 

 恐ろしく――美しく。 

 

 

 ()()ると。()()ると。

 

 

 泣いているように――わらう。

 

 

 ()()ると。()()ると。

 

 

 ()()ると。()()ると。

 

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Sideあやせ――路線の出口近くの吹き抜け空間

 

「なんでっ!! こんなことに、なってんだよ――――〝あやせ”っ!!」

 

 かつて、自分に想いを伝えてくれた少女に。

 かつて、自分が想いに応えてやれなかった少女に。

 

 叫び放った京介の声は、緋色の堕天使に微笑みを向けさせた。

 

 天使のような、真っ赤な笑みを――向けられる。

 

「あ、お兄さん。お久しぶりです! お元気でしたか?」

 

 あやせは、これまで京介が見たこともないような、輝く満面の笑顔でそう言った。

 

 だが、かつて京介が天使(エンジェル)と称したその端正な美しい顔に、まるで血化粧のように返り血を付着させ、それを拭おうともしていない状態での笑顔は、京介達に凍えるような恐怖と、そしてどうしようもない程の悲しみしか与えなかった。

 

「…………あやせぇ」

 

 真っ赤なあやせに、桐乃は泣きながらそう呟く。

 その声が聞こえたのか、あやせは桐乃に目を移し、再びにこっ! と輝く笑顔で言った。

 

「桐乃! なんだか凄く久し振りに会ったみたいな気がするよ! ふふ、毎日学校で会ってるのにね!」

 

 その笑顔を見て、緋色の笑顔を突き付けられて、桐乃は何も言えず、ただ悲しそうに顔を伏せた。

 

 あれほど見たかった、あやせの心からの笑顔。あの日から、ずっと自分には、あの困ったような、悲しそうな苦笑しか、見せてくれなかったから。

 

(……でも、これは…………こんなのって……)

 

 遂に桐乃は、両手で顔を覆ってしまう。

 

 京介はそんな桐乃を見て、険しく、そして悲しそうな顔であやせを睨み付けた。

 

「ん? 桐乃? どうかしたの?」

「――ッ!」 

 

 だが、あやせはそんな桐乃を見て、純粋な疑問顔で首を傾げる。

 

 京介は、あやせにこれ以上桐乃に言葉を掛けさせないとばかりに問い詰めた。

 

「おい、あやせ! お前、どうしてこんなところにいる!?」

 

 この問いは、本来、京介が一番ぶつけたかった質問ではない。

 しかし、京介には言えなかった。

 

――お前が……()ったのか?

 

 これは、あやせが()ったのか? この地獄は、あやせが創り出したのか?

 

 その、人間の死体は、あやせが――

 

「決まってるじゃないですか? わたしが、もう死んでるからですよ」

 

 しかし、そんな葛藤は、そんな疑問は、あやせのその言葉に吹き飛んだ。

 

「――――え?」

 

 ただ衝撃だけが伝わる台詞に、顔を両手で覆っていた桐乃もあやせを見上げる。

 黒猫も、瀬菜も、呆然と言葉を失った。

 

 京介は震える声で、あやせに問い返す。

 

「――な、なに、言ってんだ? あやせは……お前は……今、ここに――」

「いいえ、死にましたよ。もう、死んでますよ。だから、わたしは、ここにいるんです。正確には、わたしはこの人に殺されました」

 

 そう言ってあやせは長い右脚を振り上げ、容赦なく真下に振り下ろす。

 自分の足元に転がる死体を踏み潰す――桐乃達に、真っ赤な笑顔を向けながら。

 

 グチャッ! と生々しく響くその音に、思わず京介達は顔を泣きそうに顰める。

 

 状況的に、明らかにあやせが殺したであろう、死体。

 その死体の人物に、あやせは殺された――だから、此処にいる。

 

 戦場にいる――地獄にいる。

 

 訳が分からない。だが、訳が分からないからこそ、あやせが嘘を吐いているとは思えない。

 

 勿論、理解することも、信じることも出来ない。それでも、この何もかもが荒唐無稽な、ぐちゃぐちゃでめちゃくちゃな地獄で、それは有り得ない事実ではないように思えた。思えてしまった。

 

 そして、何より、こちらを純真な、まるで何かから解放されたかのように綺麗な笑顔で語るあやせの言葉は、何一つ間違っていないように思えてしまう。

 

 全てを正直に、全てを曝け出しているかのような、そんなあやせの、禍々しい言葉に――

 

「――ちげぇ……っ」

 

 京介は苦々しく、そう呟いた。そう吐き捨てた。

 

 違う。違う。違うっ!

 こんなのが、こんなのがあやせなはずがない。あの新垣あやせが、こんなに間違っているわけがない。

 

 京介は、そして桐乃は、俯き、歯を食い縛り、頭を振りながら、必死に目の前の現実を、目の前の新垣あやせを受け入れまいとしているようだった。

 

 対して、黒猫は、そんなあやせを見て、あんなあやせを見て――

 

「……………………」

 

――ただ哀れむように、ただただ悲しむように、唇を噛み締めて、それでも、何も言わずに、何も言えずに、目の前の新垣あやせを見つめ続けていた。

 

 あやせは、京介の呟きに、きょとんとした顔で問い返す。

 

「違う? 何がです?」

 

 京介は顔を上げて、願うように、そうなんだろうと縋るように、そんなあやせに向かって怒声を浴びせる。

 

「こんなの――こんなの違うだろう!! お前は優しくて! 真面目で! 潔癖症で融通が利かなくて!! それでも誰より友達想いで!! こんなこと……絶対にこんなこと、出来る奴じゃなかっただろうが!!」

 

 京介の魂を吐き出すような言葉に勇気づけられたかのように、桐乃も京介の言葉に続く。

 

「そうよ! あやせは――あの子は絶対にこんなことはしない! 絶対に出来ない!! あたしの親友は、アンタみたいに気持ち悪い奴じゃない! アンタは別人! あやせの偽物よ! 返して! あたしの親友を返しなさいよ!!」

 

 それは、かつて、いつか誰かが言った言葉に酷似していて、そして――

 

 

 

「――っざけんなッ!!」

 

 

 

――かつて親友にぶつけた言葉に、桐乃は今、その親友からぶつけ返された。

 

 ひっ、と桐乃が息を呑む。黒猫も、瀬菜も、そして京介も恐怖に呑み込まれた。

 

 天使のようにニコニコと笑っていた、堕天使のように不気味に微笑んでいたあやせの形相が、阿修羅の面が入れ替わったかのようにがらりと憤怒に変わり、それに応じて噴き出した莫大な殺意の瀑布が、委細容赦なく桐乃達を呑み込んだ。

 

 鬼のような形相のあやせは、桐乃に、京介に向けて、狂ったように全開で吐き出す。

 

 何かを――己の中の、ずっとずっと奥から引っ張り出すかのように、今はもう壊れてしまった魂を、今はもう失くしてしまった命を、削りながら吐き出しているかのように、何かを、痛々しく。

 

「それを……それをよりにもよって、あなたたちが言うの? わたしを切り捨てたくせに! わたしを捨てたくせに!! あなたたちが言う新垣あやせを!! あなたたちが見てた新垣あやせを!! あなたは選ばなかったじゃないですか!! あなたたちは切り捨てたじゃないですか!! それなのに……それなのにそれなのにそれなのに!! あなたたちが……あなたたちがそれを言うのか!!! っざけんなッッ!!!」

 

 あやせはあの日以来、初めて京介達に心の叫びをぶつけた。

 

 フラれた女の恨み言を、嫉妬を、憤怒を、殺意に乗せて京介達にぶつけた。

 

 醜く、痛々しく、全身全霊で喚く。

 

「……………ッッ!!」

 

 京介は強く、強く唇を噛み締めるも、それでもあやせに言葉を返そうと口を開く。

 

 あの日、誓ったから。自分は、あやせを振って、黒猫を振って、加奈子を振って、櫻井を振って、麻奈美を振って――桐乃を、妹を、実妹を選んだ、あの日から。

 

 この選択の業――その全てを、受け止めると、誓ったから。

 

 当然の罵倒を、当然の嫉妬を、当然の恨み言を、当然の憎まれ言を――だったら、殺意だって、受け止めてみせる。

 

「――っ! あやせ!! 俺は――」

「お兄さん、あの日、言いましたよね?」

 

 だが、あやせは京介の言葉を待たず、冷たい瞳で、殺意の篭った眼差しで、見下すように睨み付けながら、更に言い募る。

 

「――桐乃のオタク趣味を、わたしがどうしても受け入れられなかった時、桐乃がわたしにオタク趣味を隠してたことに対して、それはわたしと仲違いしたくないからだって。どうして親友なのに、そんなことも分かってやれないんだって」

「…………ああ」

「じゃあ、桐乃は? お兄さんは? わたしのことを、本当に分かっていたんですか?」

 

 そう言ってあやせは、その殺意の篭った視線をぐるんっ! と桐乃に向ける。

 桐乃はビクッと肩を震わせ、怯える瞳で、そのあやせの視線を――逸らさずに、受け止めた。

 

「桐乃。あなた、あの時、わたしに言ったよね。桐乃に色んな理想を押し付けて、オタク趣味なんて持ってるわけないって、そんなのありえないって言うわたしに、はっきりと――それは、勘違いだって。それでも、そんなわたしを認めろって、そう言ったよね。……なら、桐乃は?」

「…………え?」

 

 あやせは、そこで憤怒の形相を再び一変させて、慈愛の籠った、女神のような優しい表情で言う。

 

「桐乃は、こんなわたしの“一面”を、受け入れてくれないの?」

 

 桐乃は、絶句する。京介も、そのあやせの言葉に何も言えない。

 

 それでも、あやせは尚も、優しく言った。

 

 

「それとも――こんなわたしは、桐乃にとって、“偽物”?」

 

 

 その時、あやせの背後で、ゆっくりと何かが起き上がった。

 

 それはグチャグチャに蹂躙され、人間としての面影を残していない、只の無残な死体だった。

 

 その死体が、何故か一人でに起き上がり、そして――

 

「あ――「危ないッ! 逃げなさいッ!!」

 

 京介が声を発するよりも早く、あやせに危機を知らせたのは黒猫だった。

 

 だが、その黒猫が叫ぶのとほぼ同時に、あやせは動き出していた。

 

 背後に向かって振り向きざまに、死体の頭部に向かってハイキックを放つ。

 

 その蹴りは容易く奴の頭部を破壊して、一撃の元に瞬時に撃破した。

 

 ドボォッ!! という、耳に、脳にこびりつくその異音に、そしてあやせが人型のそれを何の躊躇もなく蹴り殺したことにショックを受け、立ち尽くす京介達。

 

 あやせはそんな彼等に背を向け、その突然動き出して、そして再び動かなくなった死体の背中を――突き破るようにして現れた、“巨大な蠅”を見て忌々しげに舌打ちをする。

 

「………本当に、ゴミみたいにしぶとい変態ですね」

 

 一体、いつの間に入り込んでいたのか。あの蠅は人体の中に侵入できるらしい。

 通りで、あの時、必要以上に悪寒がした筈だと、あやせは遅まきながら納得し、そしてあんなものに体内に入り込まれていたらと考えるだけでと、再び大きく舌打ちをする。

 

 その蠅は、一目散に京介達に向かって飛んで行こうとした。

 体の乗っ取りを図るのか、それとも再び人質に取ろうというのか。しばらくあのストーカー男の死体内に隠れていたのは、あやせと京介達の関係を探っていたが故らしい。

 

「浅はかですね。死んでください」

 

 だが、あやせはそれを許さなかった。

 

 あやせはガンツソードを伸ばして、空飛ぶ蠅に斬りかかった。

 その太刀筋は、迷いが全くなかった分、これまでのそれよりも遥かに鋭い一閃だった。

 

 その一刀は、蠅を斬り殺すには至らなかったが、蠅の羽を切断することには成功したようで、蠅は惨めに地面に落下し、バウンドする。

 

 京介達は、あやせのその苛烈な戦いぶりに、やはり呆けて見入ることしか出来なかった。

 

「………あ……………や……せ……」

 

 その時、ようやく京介は、あやせの身に纏っている漆黒の全身スーツが、あの時、自分達を結果的には救ってくれた、化け物の如き強さを誇る槍を持った美女のそれと同じものだと気が付いた。

 

 一体、あやせは、自分が――自分達が知らない間に、どんなことに巻き込まれてしまっていたのだろう。

 

 新垣あやせは、一体どうなってしまって、これからどうなってしまうのだろうか。

 

 彼女は、目の前の戦士は、本当に、自分達の知っている新垣あやせなのだろうか。

 

 自分達は、新垣あやせの、何を知っていて、何を――知らなかったのだろうか。

 

 あやせは地面に転がる蠅に向かって悠然と歩み寄る。

 蠅は、必死になって、その姿をゴキ、ゴキゴキと変形させた。

 

 それをあやせは冷たい眼差しで眺め、むしろうろちょろしないのならば好都合とばかりに剣をゆっくりと振り上げると――

 

「――あ!」

 

 誰かが、そんな声を上げる。

 

 化野という吸血鬼が、この窮地で選択した変身は、蠅でも、象でもなく――あやせが見知った姿だった。

 

「……お、俺?」

 

 その姿は、紛れもなく、高坂京介――そのものだった。

 

「は、はっは! どうだ!? これでお前は――」

 

 ザバッッ!! と、あやせは剣を振り下ろした。

 

「………え?」

 

 そして再び、誰かが呟く。

 

 だが、あやせはそれらに全く取り合うこともなく、躊躇うこともなく、振り上げた剣をそのまま全力で振り下ろしたのだった。一度も動きを止めることもせず、何の葛藤もなく、初恋の人の、大好きだった人の姿をした化野に対し、迷うことも、怒ることも、動揺することもなかった。

 

 ただ粛々と、冷酷に殺害しようとした。殺害を実行した。

 

「ま、待て――お願い! 待って! あやせ!」

 

 化野は必死にあやせから逃げながら、地面を這うように無様に逃げながら、再び、必死に身体を変形させる――変身する。

 

 まず、真っ先に顔を変形させた。京介のそれから――あやせの親友、桐乃の顔に。

 

 化野は、桐乃の顔で、桐乃の声で、あやせに向かって懇願する。命乞いをする。

 

「お願い、あやせ! あたしをたす――」

 

 あやせは、その顔を、親友の顔を、縦一文字で一刀両断した。

 

 高坂桐乃の可愛らしい顔が真ん中から裂け、勢いよく鮮血が噴き出す。

 

 そのまま続いて胴体を切り裂き、今度こそ確実な絶命を図った。

 

「――な、んで……」

「黙れ」

 

 あやせはその首――桐乃の顔の首を、剣を横に振って跳ね飛ばす。

 

「この変態。死ね」

 

 そして、噴水のように血を噴き出す死体を一瞥して、その新鮮な返り血を浴びた姿で、京介達の方を振り返る。

 

 目に見えて怯えて絶句する彼等に、恐怖に染まった眼差しを向けてくる彼女等に、あやせは笑い、そして言った。

 

「お兄さん……わたしは、あの時、お兄さんに告白しました」

 

 あやせは、フラれた彼に、その男に選ばれた実妹で親友の彼女に、恋敵だった戦友の彼女に、殆ど関わりがない彼女に、自分がフラれた、あの日、あの時のことを、血に塗れながら微笑みと共に語る。

 

「生まれて初めての恋でした。生まれて初めての告白でした。そして――生まれて初めての、失恋でした」

「…………ああ」

 

 京介は、神妙に、重く、しっかりと頷いた。

 

「初めて会った時から気になってました。あなたはシスコンで、変態で、ロリコンで、その上ドMで……会う度にセクハラばかりして……わたしを怒らせましたね」

「…………ああ」

 

 京介は頷く。桐乃も、黒猫も、何も言わない。

 

 あやせの静かな独白は――愛ではない、何かの告白は、まだ続いているから。

 

「それでもあなたは……いつだってお人好しで、お節介で……鈍くて理不尽で優しくて、いつもいつもわたしを惑わせました……優しい嘘で、わたしを守ってくれたお兄さん……何度も何度も幻滅したけど、その度に見直して……わたしは――」

 

 

「――そんなあなたのことが、大好きになりました」

 

 

 そのあやせの言葉に、桐乃も、黒猫も、何も言えなかった。

 

 そして、京介も――

 

 

「――――ああ」

 

 

 逃げずに、受け止める――たった、それだけのことしか、出来なかった。

 

 

 そしてあやせは、つぅ、と。

 

 一筋の、涙を流す。

 

 

「――――っっ!!」

 

 京介達が驚いたその時、あやせは、声を震わせながら、必死に笑みを作ろうとしている表情で、言う。

 

「……でも、今ではもう……分かりません……っ」

 

 あやせは口元を笑みの形のままで、瞳から、壊れたダムのように涙を滔々と溢れさせながら、京介に言う。

 

「……わたしは、本当にあなたのことが好きだったんでしょうか? ……本当のあなたを、わたしは見ていたんでしょうか? 見ることが出来ていたんでしょうか? ……わたしは、本当のあなたを……好きになれていたのかな? ……お兄さん…………桐乃ぉ……」

 

 京介は、桐乃は、そのあやせの言葉に対し、口を小さく開き、あやせの名前を呟くことしか出来ない。何も、言えない。

 

 気が付いたら、二人とも、瞳から涙を溢れさせていた。

 

 そして、あやせは、更に言い募る。

 声を震わせ、涙を流し、大好きだった筈の二人に――縋るように、問い掛ける。

 

「お兄さん……あなたは……本当のわたしを……本物のわたしを……見てくれてましたか? 見抜いて、くれていましたか? ……本当のわたしを見て……本物のわたしを見て……わたしのことを…………フッてくれましたか?」

「――――ッッ! …………あやせッ! ……俺は……ッ」

 

 何か言わなくてはならない。京介はそう強く感じる。

 

 この子の想いを受け止めなければ。それがどんなものであれ、自分はあの日、何があってもそうすると、こんな自分を想ってくれた彼女達に、そして自分に誓ったんだ。

 

 でも、言葉が出てこない。何も出てこない。そんな自分が――心の底から許せなかった。

 

「……お兄さん……桐乃」

 

 あやせは、儚く――まるで自嘲するように。

 

 両手を広げ、真っ赤な自分を見せつけるように――真っ赤に笑って、言った。

 

 

「……どうして……こうなっちゃたのかな?」

 

 

 京介と桐乃が息を呑み、何かを叫ぼうと口を開いた――その時。

 

 

 

 あやせの頭頂部に、空から、高い屋根を貫いて降り注いだ光線が照射された。

 

 

 

「――――ッッ!!」

 

 絶句する京介達に、あやせは何かを理解したように俯き、そして――この地獄で初めて出会ってしまった時の、邂逅した時の、あの恐ろしい天使のように可憐で、あの堕天使のように酷薄な笑みを浮かべる。

 

「それじゃあ、皆さん、お先に失礼しますね!」

 

 何が何だか分からない京介に、彼女は目を合わせ、ニコッと言った。

 

 

「さよなら、お兄さん。あなたのことなんか、大嫌いです」

 

 

 京介は息を呑み、目を見開き「――あやせッ! あやせ! あやせ!!」と叫ぶ。

 桐乃も瞳に涙を浮かべて「あやせ! あやせ!!」と絶叫するが、既に決別するかのように背中を向けているあやせは、まるで反応を示さなかった。

 

 やがて、光線はあやせの身体を消失させ始めた。

 

 そこで遂に、高坂兄妹はあやせに向かって駆け出す。

 

 そんな中、黒猫は、ポツリと、何かを押し殺しながら呟いた。

 

「……あなた……それで――」

 

 

――幸せに、なれるの?

 

 

 その呟きが聞こえたかどうかは分からないが、彼女に背中を向けていたあやせは、口元を笑みに変え――再び、涙を一筋、静かに流した。

 

 そして、京介と桐乃の手が届く前に――あやせの姿は、完全に消えた。

 

 桐乃はその場にしゃがみ込み、「……あやせぇ……っ」と何かを抱き締めるように、声を押し殺すようにして泣いた。

 

 京介は、そんな桐乃を見て、あんなあやせを見て、歯を食い縛り、拳を握り締め、あやせを何処かへと連れ去った光線が降り注いだ天井を仰いで、激昂するように叫んだ。

 

 

「ちくしょうぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」

 

 

 その叫びは、地獄に染み入るように響き渡るが、誰にも届かず、何も起こせなかった。

 




新垣あやせは、真っ赤な呪いにその身を染める。
狂る狂ると、狂る狂ると。狂る狂ると、狂る狂ると……


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――ありがとうございました。

 Side渚――とある燃え盛るアミューズメント施設

 

 

 平が四階に辿り着くと、辺りは只々火の海で、渚達の姿は何処にもなかった。

 

「……ごほっ……ごほっ、ごほっ、ごほっ」

 

 平は座り込み、大きく咳込みながら、己の意識が薄れているのを感じる。

 

 このビルが燃え盛り始めてから、一体どれほどの時間が経ったろうか。

 

 炎が燃える為には酸素が必要。それはつまり、燃えれば燃える程に、大気中の酸素がみるみる使われているということである。

 そして炎が燃えるのに必要な空気中の酸素濃度は、約17%。よって、炎が燃えれば燃える程、その値に近づいていく――消費し、減少していく。

 通常の大気中での酸素の割合は約21%なので、当然それよりは少なく、頭痛や吐き気など体調に影響を及ぼす数値。

 

 平は、既に限界に近かった。

 

 意識が朦朧とし、真っ直ぐに歩くことすら満足に出来ない。

 

 それでも覚束ない手つきで、腰に手をやり、残ったBIMを取り出そうとして――愕然とした。

 

(……そ……そんな……)

 

 平が持つ残りのBIMは、たったの二つだった。

 

 バリア式BIMと、烈火ガス式BIM。

 攻撃力が皆無の防御専用BIMと、こんな密閉空間では己ごと巻き込みかねない広域殲滅用BIM。

 

 とても、渚とのこの決戦には、使えそうもないBIMのみだった。

 

(………ど……ない……すれば……)

 

 ただでさえ薄れゆく意識が落ちかけるのを感じる。がっくりと両手を床に突き、膝も落として、項垂れる。

 

 そんな時、平は足元に何かが落ちているのを見つけた。

 

(…………BIMや)

 

 平はそれを見つけ、這うようにして向かう。

 それはフレイム式のBIMだった。自分が徹行(バンダナ)を殺した時に使用した、一人の人間を一方的に殺すには十分過ぎる程の決戦兵器。

 

 あれは、おそらくは渚のBIMだろう。必死になって逃げる時に、思わず落としてしまったのだ。そうに違いない。平はそう思い込んだ。

 

 平は知っている。

 BIMは、基本的にはケースを開けた人間のみにしか使えないようになっているが、頭頂部のスイッチを長押しすると、所有権が移り変わる仕組みになっていると。

 

 これはゆびわ星人との戦いのときに、平が渚と検証した事実だ。

 

 だからこれを拾えば、このBIMは平の武器になる。渚を殺せる武器になる。家族を守れる武器になるのだ。

 

「柚彦……昭子……やる……お父ちゃんは……()るで……っ」

 

 殺意と酸欠で目が眩む中、平がガシッと、フレイム式BIMを掴んだその瞬間――

 

 

 

――ピッ、と。何処かでリモコンを押す音が鳴った。

 

 

 

(………へ――)

 

 ドゴォォン!! と、フレイム式BIM近くのゲーム機の筐体の下に隠していた――リモコン式のBIMが爆発した。

 

「が……が……がぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

 吹き飛ばされる平。

 

 悶え苦しむ彼の元に、爆煙の中から、一人の水色の少年が、ゆっくりとその姿を現した。

 

「………………」

 

 その瞳に、煉獄の戦場に似合わぬ、冷たい殺意を携えながら。

 

 その背に、中性な容姿に似合わぬ、冷たい毒蛇を纏いながら。

 

 

 平の元へと、哀れな男を全てから解放する、幼い『死神』がやって来る。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 この階へと逃げている最中、神崎がその意識を微かに取り戻した。

 

 そして渚は神崎を気遣いながらも、問い掛けた。平さんは、どんな風に人を殺していた、と。

 神崎は、人を殺した瞬間は見ていない、だが、火達磨になった人の前に平がいて、平自身が、殺すつもりはなかったと言って、逃げる私を追ってきたと言った。

 

 渚はそれを聞いて、平は反射的に、フレイム式BIMでその何者かを殺したのではと考えた。

 

 そこまで分かれば後は単純だった。

 平は、あの公園での戦いで、クラッカー式と爆縮式BIMを使っている。

 そして、このビルでの戦いで、タイマー式とホーミング式とリモコン式を使っている。

 その上で更にフレイム式も使用しているとなれば、平は八種類のBIMの内、六種類を既に使用していることになる。

 

 そうなると、残るは、バリア式と、烈火ガス式。とてもこの環境(せんじょう)での殺人に使えるとは思えない。

 

 更に、渚は知っていた。平清とは、人を一人殺しておいて耐えられる程、まともで居られ続ける程の強い精神力を、持っている大人ではないことを。

 

 この火事による低酸素の環境。これまでの極限の戦争経験。そして、人を殺してしまったという紛れもない事実。

 

 これだけ重なって、平清という弱く臆病な男が、正常な精神状態である筈がない、と、渚は確信する。

 

 そして、罠を張った。

 フレイム式のBIMをこれ見よがしに置き、餌とする。やったことは、子供騙しという批評も甘んじて受けなければならない程に単純な、作戦とも言えないような作戦。

 一応、念の為、拾われなくても最悪注意さえ惹ければいいと思い、離れた所でXガンを構えていた渚だったが、想定以上に、平は見事に食いついてくれた。

 

 地面を四足で這い、文字通り餌に喰いつく動物のように。見ていて哀れに思ってしまいそうな有様だった。

 

 そして渚は、平に仕掛けられた意趣返しをするように、リモコン式BIMで平を吹き飛ばした。

 

 あの時懸念した、平に爆縮式BIMを――最強の切り札を早々に使わせてしまった後悔が、まさかこんな形で自分に、益として返ってくるなんて、と。渚は皮肉めいた、宿命じみた何かを感じる。

 

 だが、それを一切表に出さず、感情に出さず、ただ殺意だけを纏い、標的(たいら)に向けて放ったまま、渚は――

 

「……それじゃあ、神崎さんはここにいて――大丈夫。すぐに戻るから」

 

――そう言って、神崎を物陰に隠したまま、平に向かって歩み寄っていった。

 

 神崎は、朦朧とする意識の中、それでも、その背中から、潮田渚から、その目を離すことが出来なかった。

 

 今から行われるのが、同級生の――今から執行されるのが、エンドの仲間による、一人の人間の命を奪う殺人行為だと、理解していても、尚。

 

 見届けずには、いられなかった。

 

「ぐぅぅ………ふーッ……ふーッ………」

 

 渚は平が痛みに悶える様子を上から眺めて、平のガンツスーツからオイルが漏れていることを確認した。

 

 そして、念の為に左手に持っていたXガンを躊躇なく振り下す。

 

「――――ッ!! うがぁぁああああああああ!!!」

 

 そして、その瞬間を狙い澄ましたかのように、残った力を振り絞って、平が渚に襲い掛かった。

 猛然と立ち上がり、自分が渚に対して唯一勝る、体格というその武器で最後の勝負を仕掛けた。

 

 渚は、そんな平を冷たく見据えて――Xガンを、見当違いの方向に(ほう)った。

 

「っ!!?」

 

 平は、思わずそのXガンに目を奪われる――そして、渚は、その瞬間を逃さなかった。

 

 暗殺者は――その数瞬を逃さない。

 

 左腰に下げていた、そのバトン型の漆黒のスタンガンを右手で抜いて、居合斬りのように、平の右脇に叩き込んだ。

 

 

「ギッ――ぁ――」

 

 

 平は、ゆっくりと、崩れ込む。

 膝を着き、そして前にゆっくりと、倒れ込んでいく。

 

 その時、脳裏に過るのは、愛する息子と、妻の姿。

 

 

――お父ちゃん

 

 

(……ゆず、ひこ…………あき……「こふッ!!」

 

 平がそんな回想に沈みゆくのを、渚は冷酷に阻害する。

 

 倒れ込む平の喉元に突き刺すように、漆黒のスタンガンを突きつけた。

 

「……………」

 

 渚は、スタンガンでぐいっと、平の顔を上に向かせる。

 

 白目を剥き、口を無様に半開きにさせた平を見て、渚は思った。

 

 この人は、自分の理想の父親だった。

 

 例え、何も出来なくとも、具体的な解決案を出せなくても、この人は、ずっと息子の傍に居ると言った。

 

 一緒に苦難に立ち向かうと言った。嫌われるのを承知で叱咤し激励してくれると言った。

 

 渚はずっと、そんな父親が欲しかった。父親に、父さんに、そんな風に一緒に苦難に――母親に立ち向かって欲しかった。

 

 それが叶わなくとも、母に敵わなくとも、せめて傍に居て欲しかった。

 

 一緒に、戦って欲しかった。

 

 だから渚は、この人に理想の父親を見た。

 

 そんな“父親”は、最後に渚に教えてくれた。

 

 

 渚は、この人から――殺意を、教わった。

 

 

 この人は、きっと渚達のことを憎くて殺そうとしたんじゃない。

 

 殺すことで、何かを――家族を、きっと、守ろうとした。この人の行動原理は、全てが家族だから。

 

 そんな殺意が、あることを知った。

 

 大事な人を守る為の殺意を、守る為に殺すという殺意を、渚はこの父親(ひと)に教わった。

 

 だから、渚はこの人に返す。教わったことを、実践する。

 

 

 大事な友達を守る為に、この父親(ひと)を殺そう。

 

 

 渚はちらりと神崎を見て――そして、笑う。

 

「っ!!」

 

 神崎は、その笑顔を見て、ドキッと息を呑んだ。

 

 その笑顔は、とても綺麗で――とても、恐ろしかった。

 

 素敵な、殺意に、満ちていた。

 

 神崎がその笑顔に心を奪われているその間に、渚は視線を平に戻す。

 

 聞こえているかは分からないが、渚はその笑顔のまま、平にそっと呟いた。

 

 

「平さん――ありがとうございました」

 

 

 バチチィ!! と、首に突き付けたスタンガンから、電流が平の身体を突き抜ける。

 

 がくっと、今度こそ倒れ伏せたが、所詮はスタンガンだ。ガンツ製とはいえ、確実に死に至るかは分からない。

 

 だから渚は、痙攣する平の身体を引き擦って、仰向けにし、その腹に爆縮式BIMを張り付けて、そして――

 

 

「さようなら」

 

 

 

――笑顔で、階段から突き落とした。

 

 

 

()りましたよ、“()()”」

 

 そうどこか晴れやかに、誇らしげに呟く渚の姿を、神崎はずっと見つめていた。

 

(……これが…………渚君……)

 

 自分が絶望した煉獄の地獄で、それでも彼は、不気味に、けれど美しく輝いていた。

 

 恐ろしい、けれど美しい。

 

 怖い、けれど――

 

「綺麗……」

 

 神崎は、そんな渚の姿を心に焼き付けながら、炎に囲まれて意識を落とした。

 

 渚は神崎の元に駆け寄ると、首筋に指を触れ、ほっと一息を吐くと、そのまま神崎の背中と膝裏に手を回し、隣のビルへと繋がるドアへと向かった。

 

 スーツの力は途中で切れてしまうかもしれないけれど、そうなったとしても、ゆっくりでいいから、運びきってみせようと渚は決意した。

 

 同級生のマドンナを抱える機会などもうないだろうから、カッコつけても罰は当たらないだろうと、そんなことを思いながら。

 

 渚は一度振り返り、誰も居なくなった、燃え盛る処刑場を眺めて――

 

「…………………」

 

 背を向けて、静かに、戦場を後にした。

 

 

 こうして潮田渚は、生まれて初めての殺人を経験した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 烏間惟臣と『死神』は、燃え盛る地獄で、見事な戦争を繰り広げていた。

 

 途中まで拳銃を向けていた烏間は、だがすぐに自分の射撃の腕では例えこの距離でも――否、この距離だからこそ容易く避けられてしまうと、決して銃弾を当てることは出来ないと悟った。

 

笹塚(かれ)程の腕前ならば分からないが――)

 

 そして即座に己の得意分野――格闘戦へと切り替えた。

 

『死神』は、その猛攻を上手くやり過ごしながらも、内心ではその格闘技術に舌を巻く。

 

(素晴らしい人材だとは認識していましたが、ここまでとは……。世界を見ても、彼程の戦闘力を持つものはおそらくは一握りでしょう)

 

 さて、どうしましょうか、と『死神』はガスマスクの中で額から汗を流しながら笑みを作っていると――

 

 

――ドゴ、ドガ、ドゴン、と、上階から何か重い物体が転がり落ちてきた。

 

 

『っ!』

「何だッ!?」

 

 烏間と『死神』は、戦闘を中断してそちらに目を向けると――その物体の正体は、気絶した平清だった。

 

「なっ!?」

 

 それを見て烏間は目を見開き駆け寄ろうとするが、その腹に何か接着されているのを見つけて――それが、唐突に爆発した。

 

 一気にBIMが爆縮し、真空状態を作り上げ、平の大きな身体が顔の上半分や手足の先のみをこの世に残し、この上なく無残に惨殺された。

 

 烏間はその爆発の衝撃と、その余りの死に様に呆然としかけるも、すぐに意識を取り戻し、辺りを素早く見渡す。

 

 

 だが、既に『死神』の姿は何処にもなく、烏間はただ一人、燃え盛るビルの中に取り残されていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

『死神』は、その時、既に隣接するビルの階段に移動しており、先程の光景を脳内で振り返っていた。

 

 あれは、間違いなく渚がやったもの――渚が()った死体(もの)だろう。

 

 彼は見事に、殺し屋としての――『死神』としての、その第一歩を踏み出した。

 

(まさか、あそこまで見事にやり遂げるとは……やはり、彼は面白い)

 

 その時、ビィィィイインという電子音が何処からか聞こえた。

 

 そちらの方へと向かってみると、既に肩の辺りまで転送されている――潮田渚の姿があった。

 

 神崎有希子は、すぐ傍で壁に寄りかかるような体勢で座らされている。どうやら咄嗟に転送が始まる前に手放したらしい。

 

『死神』はくすりと笑みを浮かべる。彼はどうやら姫君を最後まで、ビルの外までエスコートすることは出来なかったらしい。だが、今の『死神』はそこまでケチをつけるような気分ではなかった。

 

「――頑張りましたね」

 

 そう言って、『死神』は王子様の代わりに姫のエスコートを引き継いであげることにした。

 

 ビルの外に横たわらせておけば、烏間が見つけて保護してくれるだろうと。

 

 転送されていく渚に背を向けた『死神』の笑顔は、これまでの彼の戦略的な笑みと比べて、幾分か柔らかいようにも見えた。

 




そして潮田渚は、父親を殺し、殺意を学び――その身を『死神』へと変えていく。


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彼こそ英雄――黒の剣士です!!

 

 Side??? ――とある剣士の独白

 

 

 始まりは、只のありきたりな現実逃避だったのかもしれない。

 

 ある日、俺が勝手に踏み込んだせいで、知りたくもなかった事実を知った。

 

 

 この家の家族の中で、俺だけが本当の家族でないことを。

 

 

 迫害されていたわけではない。虐待など微塵も受けたことはない。

 義妹はその時は何も知らなかったし、義父も、義母も、実娘と――直葉と同じように、本当の息子のように、俺にもたくさんの愛情を注いでくれた。

 

 ただ、俺が逃げただけだ。勝手な疎外感を感じ、勝手な孤独感を感じ――VR(バーチャル)世界に逃げ込んだんだ。

 

 

 そして、俺はSAO――ソードアート・オンライン――に取り込まれた。

 

 

 そして、その世界で俺は、アスナと出会った。

 

 

 アスナだけじゃない。あの世界は、俺に多くの出会いをくれた。

 クライン、エギル、リズベット、シリカ、ユイ――そして、ヒースクリフ。

 

 あの世界で俺は、多くの掛け替えのない仲間と出会って、圧倒的な強敵に出会って、そして――剣士になった。

 

 剣士に、なれた。剣士で、いることが出来た。

 

 誰よりも、強く在りたかった。

 あの残酷な世界で、たった一人で生き残るには、強くなるしかなかったから。

 

 安全な街の中で平穏に暮らすという選択肢はなかった。

 

 ビーターという悪名が、何よりも俺自身が、そんなことは許さなかった。

 

 はじまりの街で見捨てたクライン。そして多くの初心者(ニュービー)達。

 ゲーム開始直後にこの世界に絶望し、自ら命を絶った二千人の人々。

 そして、第一層攻略パーティのリーダー――ディアベル。

 

 その時、既に俺は、死ねない理由を、戦わなくてはならない理由を――強くならなくてはならない理由を持っていた。

 

 強さを求めた。たった一人で、あの死と隣り合わせの鋼鉄の城を生き抜き、その頂上に辿り着く為の強さを。

 

 二年間の戦いの中で、死ねない理由が増えていった。戦う理由が増えていった。

 

 俺のせいで壊滅した月夜の黒猫団――必ず守ると誓ったのに、死なせてしまった幸せの名を持つ少女。

 迷いの森で出会った、どこか義妹(すぐは)を思い起こさせる、竜使いの年若い少女。

 豪雪の雪山で共に遭難した、闇を払う剣を託してくれた気風の良い鍛冶師の少女。

 

 俺達の前に現れた朝露の少女――俺と彼女の、かけがえのない娘。

 

 そして、生まれて初めて出会った、己の全てを明け渡し、命を捧げたいと思う程に恋し愛した閃光の少女。

 

 

 アスナ――彼女の為に生きたいと思った。彼女を必ず帰すと誓った。

 

 

 戦わなくてはならない。強くならなくちゃいけない。

 

 今度こそ、絶対にこの誓いを守り抜くと、アスナだけは、どんな魔の手からも守り抜き、愛し抜くと、俺は――

 

 

 ご め ん ね

 

 

 さ よ な ら

 

 

――…………俺は………………俺は、俺は、俺は俺は俺は――ッッッ!!!

 

 

『ああ……甘い、甘いッ! ほら、もっと僕のために泣いておくれよ!!』

 

 強くなりたい。

 

 誰よりも強く、強く、強く、強く。

 

 この世の何からもアスナを守れるように。どんな魔の手からもアスナを救えるように。

 

 どれほど絶望的な窮地だろうと、深淵の暗闇だろうと切り裂いて祓えるような、そんな強い剣士になりたい。

 

 

『……キリト。お前は、あとで、ちゃんと殺す』

 

 強くなりたい。

 

 何よりも強く、強く、強く、強く。

 

 過去は消えない。罪は消せない。俺は人を殺した――その事実はなくならないし、決して忘れてはならないことだ。

 

 だから、強くなりたい。罪科の十字架に押し潰されない程に――それを背負い、受け止めながらも、倒すべき敵に立ち向かい、そして屠れるような、そんな剣閃を振るうことが出来る、そんな強い剣士になりたい。

 

 

『ヒャーハッハッハ!! ねぇよ!! お前の背中には、もう剣なんかねぇんだよ!!』

 

 ……弱い。俺は弱い。

 

 どれほどアバターのレベルを上げても、VR世界で華麗に剣を振るうことが出来ても、所詮は仮想(バーチャル)強さ(ステータス)に過ぎない。

 

 現実世界の桐ケ谷和人は、注射器一本で死んでしまうような、何の力もない、只の貧弱なガキでしかなかった……っ。

 

 

『私こそ、ゴメンね。……君をずっと、永遠に守り続けるって約束……また、守れなかった』

 

 だから俺は、あれほど守ると誓った明日奈を、あんな風に危険に晒した。

 

 俺が弱いから。どうしようもなく弱いから――結城明日奈を守れなかった。

 

 こんな情けない存在が、【黒の剣士】? 【英雄キリト】? 笑わせる。

 

 

 桐ケ谷和人は、たった一人、この世の何よりも大切な愛する人を守れない程度の弱者じゃないか。

 

 

 強くなりたい。

 

 

 強くなりたい。強くなりたい。強くなりたい。

 

 

 この世の何からもアスナを守れるように。どんな魔の手からもアスナを救えるように。

 

 どれほど絶望的な窮地だろうと、深淵の暗闇だろうと切り裂いて祓えるような、そんな強い剣士に――なりたい。

 

 

『ヒャーハッハッハ!! ねぇよ!! お前の背中には、もう剣なんかねぇんだよ!!』

 

 ……そうだ。

 

 この手に剣を持たない俺など、只の弱者だ。剣を持たない俺になど意味はない。剣士でない俺になど何の価値もない。

 

 剣だ。俺は、剣士になりたい。

 

 どんな世界の誰よりも強い剣士に。どんな絶望すらも斬り祓える剣士に。

 

 

 最強の剣士に、俺はなりたい。

 

 

 全てを剣に捧げ、剣に生き、剣に死ぬ。

 

 愛する人を守る為、愛する人の為に生きる為、愛する人の為に死ぬ為に。

 

 

 万人を救う英雄キリトなんかじゃなくていい。奇跡を起こす黒の剣士じゃなくてもいい。

 

 

 俺は。

 

 

 剣士に、なりたい。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side和人――とある駅の出口付近

 

 

 陽乃は遠巻きに、歓声を上げる人達の外側からそれを眺めていた。

 

 既に、吸血鬼共は此処にはいない。

 邪鬼と和人の戦いに恐れをなして逃げるか、あるいは巻き込まれて、またある者は和人(ハンター)を殺そうと向かって行って返り討ちに遭っていた。

 

 陽乃もこっそりと、こちらに向かってきた数体をXガンで仕留めている。

 

 故に今、あの戦いを見守っているのは、吸血鬼達に凌辱され、蹂躙されて、身も心もズタズタに踏み躙られ、絶望していたか弱い人間達だけだ。

 

 そんな彼等に囲まれるように、池袋駅東口――この地獄の革命の号砲が放たれたその場所で、絶望と恐怖の象徴たる牛頭の怪物を相手に、一人の黒衣の少年が紫光の剣で立ち向かっている。

 

 件の少年の、民衆の儚い希望を背負うその一身は、余りにも小さかった。

 

 強者の雄叫びを轟かす、己の倍以上の体躯の牛人に向かって、それでも少年は戦い続ける。

 

 ふらふらと、今にも倒れ込みそうな有様で、紙一重で攻撃を避け続けて、その小さな身躯に裂傷をみるみる増やしながら、それでも少年は、目の前の怪物に立ち向かい続ける。

 

「グルォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」

「おおぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」

 

 怪物が咆哮する。少年が吠える。

 

 誰もが恐怖する異形の怪物に向かって、たった一本の剣だけを携え、小さな少年が勇敢に立ち向かって行く。

 

 その姿に、民衆は熱狂し、目を奪われ、心を掴まれる。

 

 この光景は、まさに英雄譚の一(ページ)

 

 誰かが、ポツリと呟く。

 

「……黒の、剣士だ」

 

 そう呟いた人間は、元SAO生還者(サバイバー)だったのか、それとも、今、この戦争を見て、その言葉が心に浮かんだのかは分からない。

 

 だが、陽乃はその言葉を聞いて、不敵に口角を吊り上げた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

『……黒の、剣士だ』

 

 誰かが呟いたこの言葉は、明日奈達の見ているテレビ画面にこの戦争の映像を届けているカメラも拾っていた。

 

 その呟きを聞いて明日奈達は、その心の騒めきを大きくする。

 

「な、なんで! どうしてキリトさんが、あそこにいるんですか!?」

「何やってんのよ、アイツ……どれだけ、わたしたちに心配かけたら気が済むのよっ!」

 

 珪子が、里香が、震える声でそう叫ぶと、直葉は涙を浮かべながら、ユイがいる携帯端末をギュッと握り締める。

 

「こ、これって、ゲームじゃないんですよね……GGOの時みたいに、どこかのVR世界の映像を、映してるわけじゃ、ないんだよね……」

『……はい。調査の結果、この映像は……まさしく今、現在の池袋の映像を、ライブ放送していることが分かりました』

 

 そしてユイは、AIながら、辛そうに、泣きそうに、父親の暴挙に心を痛めている娘のように、言った。

 

 

『パパは……今、戦っています。……現実世界の池袋(せんじょう)で……あの……怪物と――』

 

 

――命を、懸けて。

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、直葉は泣きながら端末を抱き締める。

 そんな直葉の肩を、詩乃は優しく抱き締めて――

 

――明日奈はバッ! と、パジャマ姿のままベッドから降りようとした。

 

「ちょ、ちょっとアスナ! 何してるのよ!」

「決まってるじゃない!!」

 

 明日奈を止めようと肩を掴んだ里香の手を振り払い、明日奈は叫ぶ。

 

「池袋に行くのよ! キリトくんが戦ってる! 命懸けで! あんなにボロボロになって! だったらわたしは!! キリトくんの! キリトくんの傍に――」

 

 パァン! と、詩乃が明日奈の頬を叩いた。

 

 呆然とする明日奈と里香達だったが、明日奈はすぐに表情を険しく歪め、詩乃を問い詰める。

 

「何するのよシノのん! どうして――」

「……池袋に行ったって、あの中に侵入れるわけないでしょう」

 

 だが詩乃は、激昂する明日奈に対して、淡々と冷たく事実を、現実を告げる。

 

「警察だって馬鹿じゃない。今頃はあの化け物達を抑え込む為に、あの周囲は封鎖している筈よ。それに、此処から池袋までどれだけかかると思ってるの。あなたがあそこに着く頃には、もう全部が終わってるかもしれない」

「――ッ! でも――」

「今! わたしたちがするべきことは!」

 

 詩乃は、明日奈以上の大声を上げて、明日奈の両肩を掴んで、俯きながら病室の床に向かって叫び、そして、顔を上げて、瞳に涙を浮かべながら、掠れるような声で、明日奈に言う。

 

「あそこで、あんなに一生懸命に戦ってる馬鹿を……あの馬鹿の、命懸けの戦いから……目を逸らさないで……応援してあげることでしょう? あの馬鹿が――キリトが、生きて帰ってくることを……祈ることしか……できないでしょう?」

 

 詩乃のその言葉を聞いて、珪子も、里香も、直葉も、顔を俯かせる。

 何も出来ない自分が悔しいのは明日奈だけではない。居ても立っても居られないのは明日奈だけではない。

 

 ここにいる誰もが、自分達が大好きな桐ケ谷和人の無事を祈り、心中に渦巻く恐怖と戦っている女の子達なのだ。

 

 明日奈はそれを理解し、「……ごめん、シノのん。リズ。シリカちゃん。直葉(リーファ)ちゃん。ユイちゃん」と、俯きながら謝罪し、みな瞳に涙を浮かべながら首を振る。

 テレビの真ん前に戻って、ベッドに腰を下ろした明日奈の肩を、後ろからリズが支える。

 

 そして明日奈は、テレビカメラマンも目を奪われているのだろうか、臨場感あふれるカメラアングルで撮影されているその映像を、愛する人と怪物の戦争を、ギュッと両手を握り締めながら見守った。

 

(………頑張って………死なないでっ! キリトくん!!)

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 身体の重さを感じなかった。

 否、既に身体という縛り、制約を感じず、ただ無心に剣を振るっていた。

 

 まるで幽体離脱を行い、天の目線から身体を動かしているかのように――それこそまさに、自分が異空間でコントローラを握り、自分というアバターを自由自在に動かしているかのように。

 

 こんな時も、こんな極限でもゲームかと、和人は思わず笑みを浮かべる。

 

「……笑っ……てる?」

 

 左肩をだらりと下げ、額から流れる血で右目を塞がれている民衆の一人が呟く。

 だが、和人には既にそんな声も、いや、これだけ大気を震わせている民衆の歓声すら聞こえない。

 

 今の和人の世界にあるのは、己と、怪物。それだけで完結していた。

 

 この怪物を殺す。和人の頭には、身体には、魂には、それだけだった。それだけが全てだった。

 

 魂が燃え盛る。殺せ! 殺せっ! 殺せッ!!

 

 勝つんだ。倒すんだ。強く、なるんだッッ!!

 

「うぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」

「グルォォオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」

 

 牛人の不気味な程に長い腕が、大薙ぎに振るわれ和人を襲う。

 和人は身を屈めることで己の黒髪を擦過したそれを避け、そのまま懐に入り込み、光剣を振るう。

 

 紫閃は牛人の胸の皮膚の表面のみを切り裂き、吹き出た血液によって、和人の視界が一瞬、汚い赤に染まる。

 

 だが、和人は目を閉じない。一瞬でもこの怪物から目を逸らしたら、目視することから逃げたら、その瞬間に自分の敗北は――死は、確定する。

 

「ガァァアアアアァァアアアアアアァァァァアアアアアアア!!!」

 

 雄叫びを上げた牛人は、そのまま左腕で懐に潜り込んだ和人を刈ろうと――狩ろうとするが、和人はその足が長い分大きな隙間となっている股下から滑り込み、再び距離を取る。

 

「カァッ! ……ハァ! ……ハァ! ……ハァ! ……」

 

 和人の体力はとっくに底を突いていた。

 体力だけではない。ギリギリの攻防を何度も潜り抜けたことによる精神力も、幾多の戦いを終え無数に負った傷によるダメージも、とっくの昔に限界だった。

 

 膝は震え、腕は垂れ下がり、意識が薄れ、油断すればすぐにでも瞼も落ちてしまいそうだった。

 これほどの緊張の場面なのに、眠気すらも感じる。

 

「…………………………………」

 

 最早、これ以上、戦闘を引き延ばす余力など和人にはなかった。

 

(…………やるしか――ないッ!)

 

 和人はブンッ! と紫光の刀身を後ろに下げ、残った力の全てを引き絞り、雄叫びを上げながら牛人に向かって特攻する。

 

「うぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」

 

 それに対し牛人も、その長い手足に似つかわしくない四足の体勢をとり、がすっ、がすっと闘牛のように何度か後ろ足を蹴り出しながら、たった一歩でトップスピードに乗り、突進した。

 

 

「………バカだね」

 

 

 陽乃は、その激突の瞬間、冷たい眼差しでそう呟いた。

 

 

 

 そして和人は――錐揉み回転しながら、天高く吹き飛ばされた。

 

 

 

 その瞬間、病室は絶望に包まれる。

 

「――――ッッ!! キリトくん!!」

 

 

 陽乃は、和人が最後に、残った全ての力を振り絞って一撃に賭けるという選択をした瞬間、この勝負の勝敗は決したと悟った。

 

 それはあの最強の黒金が、自分に対して行ったのと同じ選択。

 

 もちろん、その意味合いはまるで違う。

 

 黒金は己の美学の為に。そして和人は最後の希望に賭ける為に。

 

 陽乃は、その強者の慢心に漬け込むことで、実力で敵わない相手にジャイアントキリングを起こした。

 だが、そんな奇跡は、そう何度も起こるものではない。

 

 一騎打ちは、基本的に、その実力差がそのまま(けっか)として現れる。

 

 確かに、既に和人は限界だったのだろう。だが、易々と一撃勝負に出たのは、恐らくは心の中に邪念があったはずだ。

 

 この死ぬほど辛い戦争から、早く解放されたい――そんな気持ちが。そんな弱音が。

 

 本来敗北する予定の弱者が、生き残る為の思考を止めた末の選択に、勝利の女神が微笑む筈がない。

 

 世界は、この冷酷で冷徹な世界というものは、そんなに易しく――優しく、ない。

 

 陽乃はその瞳を、スッと細めた。

 

(……ここまで、かな?)

 

 そして、牛人はくるくると回転しながら落下してきた和人の左腕に、その凶悪な顎で喰らいついた。

 

 民衆からどよめきが漏れる。病室の明日奈達も悲鳴を漏らした。

 

 そして、牛人はそのまま地面に叩きつけようとすると――

 

 

 

――ザバッ! と、桐ケ谷和人は己の左腕を斬り落とした。

 

 

 

 瞬間、あれほど荒れ狂っていた民衆が、そしてテレビの向こう側の明日奈達も、息を呑んだ。

 

「――――!」

 

 あの陽乃も、細めていた瞳を大きく見開く。

 

 そして和人は、そのまま空中で光剣を横薙ぎに振るい――

 

 

――牛人型邪鬼の首を、紫光の一閃で斬り飛ばした。

 

 

 まるで時間が止まったような静寂。

 

 ドガッ! と、和人が受け身すら取れず地面に倒れ込み、牛人邪鬼が、首が落ち、首を失った巨躯が、ズズズーンッ! と倒れ込んだ所で、ようやく――

 

 

 ワッ!! と、民衆の歓喜が膨れ上がった。

 

 

『や、やりましたッ! やりましたッ!! やってくれましたッッ!!! 謎の黒い服を纏い、ライトセイバーのような武器を持った謎の少年が! あの! ミノタウロスのような恐ろしい怪物に勇敢に立ち向かい! そして! 遂に奇跡を起こしてくれました! 我々を! 我々を助けてくれました! 英雄! 彼こそまさしく英雄です! 黒の剣士! 彼こそ英雄――黒の剣士です!!』

 

 カメラマンが興奮冷めきらないとばかりに歓喜と賞賛の声を送り続ける。

 

 病室では、明日奈達が歓喜と混乱で慌てふためいていた。

 

「か、勝った! お兄ちゃん勝った!! すごい! やった! あ、で、でも、腕が! お兄ちゃん左腕が! あ、あれ!? どうしよう、どうしたらいいの!? 救急車!? お医者さん! あ、でも、ここ病院だし! あ、あの! すいません!! 誰か! いませんか! お兄ちゃんが! お兄ちゃんがぁ!」

「すごい! すごい! 勝ったやったやったぁ! さすがキリトさん! キリトさんやったぁ! あ、で、でも腕が! 左手がどうしよう! どうしようズバってどうしよう! 大変! どうしようどうしよう! り、リズさん! キリトさんが! キリトさんがぁ!」

「あー! もうー! 直葉もシリカも落ち着きなさい!」

 

 直葉と珪子を落ち着かせようとする里香も、だが、その表情はとても落ち着いているとは言えない。

 詩乃も、ほっとはしたが、それでもその表情は険しいままだ。

 

 怪物との死闘に勝利したとはいえ、あそこまでバッサリと腕を斬ったりしたら、恐らくは封鎖されているであろうあの場所に救急車が駆けつけるまで、果たして人は――キリトは持つのだろうか。

 

 ユイが『一刻も早く救急車が駆けつけるように手配します! お願い! パパ、死なないで!』と涙声で叫んでいるのを聞きながら、不安を誤魔化すように、詩乃は明日奈に目を向ける。

 

 すると、テレビから更なる声が届いた。

 

『怪物を倒した英雄の少年は、未だ立ち上がりません! 大丈夫でしょうか!? あ、今、彼に救われた民衆が彼の介抱に向かいます! お願いします! この放送を見ている警察の皆さん! 自衛隊の方々! 一刻も早い助けを求めます! 彼を! 我々を救ってくれた英雄を助ける為に! どうか――――うわぁッ!!』

「――――ッ!!」

「え、何ッ!?」

 

 テレビから突然、空気を切り裂くような音が響き、和人に駆け寄ろうとしていた民衆がザッ! とその道を開けた。

 

『な、なにやら物凄い音が響いた後、人々が突然何者かに道を開け始めました。……あっ! そこから何やら女性が――あの英雄の少年と、おそらくは同じものであろう黒い全身スーツを着た、恐ろしく美しい女性が、少年の元へと歩み寄っています! 彼の仲間なのでしょうか?』

 

 明日奈は、その光景を食い入るように見ている。

 

(……キリトくんの、仲間?)

 

 

 自分が知らない、全く見たこともない、遠目だけれど、それでも物凄い美人だと分かる女性が、自分の知らない事情を和人と共有しているであろう女性が、和人に歩み寄っていく。

 

 陽乃は、左腕を斬り落とした場所を押さえ込みながら、粘つきのある唾液を口から悶えるように吐き出す和人を、見下ろすように傍に立つ。

 

「桐ケ谷君、まだ生きてる?」

「……陽、乃さん……無事、だったん……ですね……よかっ……た」

「少なくとも君よりはね。立てる?」

「は、はは。……少し、厳しい、ですかね」

「全くしょうがないなぁ。今回だけだよ」

 

 そう言って、陽乃は和人の残った右腕を自分の肩に回し、起き上がらせる。

 

「――ッ!」

 

 それを見て、明日奈は思わず唇を噛み締めているのを自覚した。

 

 嫉妬をする場面ではないことは分かっている。和人は今、とんでもない重傷を負っていて、彼女はその介抱をしてくれているのだということは。こんなテレビの向こう側で歯噛みすることしか出来ない自分よりも、今は彼女が彼にああしてあげるべきだということが。

 

 それでも、妬ましかった。

 

 自分が知らない彼の何かを知っている彼女が。自分と違って彼と同じ場所で戦っていただろう彼女が。何か小声で、自分が理解できないであろうことを共有している彼女が。傷ついた彼を支え、密着しているのが、自分ではない、別の美しい女性の彼女だということが。

 

 悔しくて、悔しくて――途轍もなく、悔しかった。

 

「さて、どうしよっか。このままじゃあ、文字通りの意味の英雄(ヒーロー)インタビューが始まっちゃいそうだね」

「……どう……しましょう……か…………ガンツの……ことは……まだ……話すべきじゃ……ないと……思うん……ですけど」

「そうだねぇ。でも、さすがにそろそろだと思うよ」

 

 そう言って、陽乃はマップを彼に見せる。

 差し出されたそれを見て和人は、声に出さず、ただ静かに瞠目した。

 

 画面には、青点は全て消え、赤点が戦場に点々と表示されている画が表示されていた。

 

「………」

 

 陽乃も、おそらくは八幡であろう赤点が残っているのを確信して、内心でほっと一息を吐つく。

 

 つまりこれは、全てのノルマのターゲットを殺し終えていることを意味していて――

 

「っ!」

「来たね。何気にこれ初だよ、わたし」

 

 陽乃と和人の頭上に、天から光が照射された。

 

『な、これは一体どういうことでしょうか!? あ……ありのまま、今、起こっている事を話します! 天から突然、二筋の光が降り注いだと思いきや、英雄の少年と、その仲間だと思われる女性の頭上に照射され……そして……そして、その身体が――消えていきます! 頭のてっぺんから、徐々に、徐々に……消失していきます! な……何を言っているのか、分からないとは思いますが、私も何が何だからさっぱり分かりませんっ! もう頭がどうにかなりそうですっ! 一体、今日は何て日だッッ!! 催眠術だとかそんなちゃちなものじゃ決して――』

 

 テレビカメラマンが混乱しながら喚き散らす言葉も、明日奈達にはさっぱり耳に届いていなかった。

 

 彼女達も、同じくらい衝撃を受け、そして混乱していた。

 

「……何が、起こったんでしょう? ……いえ、何が起こってるんでしょうか?」

「………お兄ちゃんが……お兄ちゃんは、助かったんでしょうか?」

「分かんない……もう、訳が分かんないわよ……」

 

 珪子と直葉と里香が困惑する中、詩乃は明日奈の後ろ姿を見ていた。

 

「………………」

 

 明日奈は、何も言わず、ただテレビ画面を睨み付けるようにして見入っていた。

 

 ギュッと強く、強くベッドのシーツを握りしめているその手が、何故か詩乃には、とても不安に思えた。

 




桐ケ谷和人は、こうして――現実世界で、取り返しのつかない英雄譚の一頁目を紡ぐ。


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人を喰う前に――殺してもらえて、本当によかった

Side大志――とある哀れな怪物の回顧

 

 

 ……頭が………痛い。

 

 痛い……っ。痛い……痛い……っ。

 

 

 この頭痛が、川崎大志という、普通の、平凡な、何処にでも居て、何処にでも溢れていて――だからこそ。

 

 普通の、ごく普通の、ごくごく普通の()()を。

 

 普通に幸せで、適度に不幸で、成功もあれば失敗もして、出会いもあれば別れも経験して、色んなことを糧にして、それなりに悟って大人になって。

 

 好ましい人と恋に落ちて、結ばれて、喧嘩もすれども愛し合って、未来を託す子供を作って、彼等が独り立ちをしたら後は夫婦二人、時折旅行に出かけたりしながら、己の生涯を捧げた職業で世間に尽くした証として手に入れた我が家(マイホーム)で、猫でも飼いながら余生を過ごす。

 

 そんな、何処にでも有り触れた、だからこそ、何よりも光り輝く素晴らしい物語を――人生を、送ることが出来た筈の少年を。

 

 

「……ぁぁ…………ぁぁぁああ……………ああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」

 

 

 こんなにも恐ろしく、こんなにも悍ましく――こんなにも哀れな、化け物へと()えた。

 

「ぁぁぁあああああ!!! ぁぁぁぁぁあああああ!!! ああああああああああああああ!!!」

 

 小さな白鬼が、世にも悍ましい翼竜の背中に沈み込みながら、池袋の上空で慟哭する。

 

 涙を流し、己の外殻を軋ませ、剥し落としながら――そして、新たな外殻を生み出し、より強固な鎧を纏い、より醜悪な化け物へと堕ちながら。

 

「――――ぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」

 

 川崎大志の慟哭は、ただ寂しく虚空に消える。

 

 彼の孤独を、化け物の孤独を、川崎大志に知らしめるように。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

『飲め』

 

――人間の、血液を飲め。

 

 大志はこの日、恐ろしく冷たく、悍ましくも美しい金髪の吸血鬼に救われた。

 

 既に絶え間なく襲い掛かるようになっていた頭痛。そして、みるみる内に変わっていく()()()()()()()()()

 

 頭がどうにかなりそうだった。心がどうにかなってしまいそうだった。

 

 でも、この日、この時、この美しい化け物に、お前は()()()()()()()()だと教えられて。

 

 自分の確固たる正体を暴いてもらって、大志は――確かに、何かを救われた。

 

 それは、絶望の始まりだったのかもしれない。平凡の終わりだったのかもしれない。不幸の序章で、幸福の終章だったのかもしれない。

 

 それでも、大志は――舌の上に人間の血液を乗せ、瞳の端から怪物の涙を流した、あの時。

 

 確かに――川崎大志は、救われた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 色々な死を見た。たくさんの死体を見た。

 咽返りそうな血液の匂いにも、感触まで伝わってきそうな肉片にも、動じることがなくなった。

 

 そんなことを一つ実感する度に、自分は人間ではなくなったことも実感し、そして――そこから先を、考えるのを止める。

 

 大志は何も受け入れらない。受け入れない。それが只の逃避であるということは、分かっているのに。

 

 目の前の美しい金髪美男子の吸血鬼は、そんな彼をアイスブルーの瞳で一瞥するだけで、直ぐに背中を向ける。

 大志は、そんなこの人に救われ続けている自覚はあるものの、面と向かって感謝を伝えることも、感情のままに当たり散らすことも出来ず、ただ彼の後ろに付いていき、肉片を拾い上げて、それを震える舌で舐め上げることしか出来なかった。

 

 限界ギリギリまで我慢するものの、いつもこの頭痛に負けていた。

 

 会合の参加をサボり、人間社会に溶け込み、ごく普通の高校生を、いつも通りの家族を演じ、縋り、周囲や己を騙し続けるも――最後には、いつもこの人に、この吸血鬼に泣きついた。

 

 彼の後ろに付いていき、彼の背中だけを眺めて。

 耳を塞ぎ、目を瞑って、そして、()()()()()()()()その肉片が出来上がるまで、大志はただ震えて隠れ潜んでいる。

 

 周りの吸血鬼(どうほう)達の蔑むような目線を感じながら、大志は恐る恐るとその肉片に向かい、おこぼれを頂く。

 その血を舐め取り、舌の上に乗せて嚥下し――頭痛が消える瞬間、大志はいつも号泣する。

 

『………………ぁぁ………ぁぁぁぁああああああああああああああああ!!!』

 

 そして、実感する。したくないのに、それでも川崎大志に突き付ける。

 

 自分は化け物だ。この場にいる、誰よりも卑怯な悍ましい化け物だ。

 

 命を張らず、責任も持たず、ただ命だけを享受する卑怯者(ばけもの)だ。

 

 運命を受け入れず、化け物を受け入れず、それでいて、命を捨てることも出来ない。

 

 生きようとする汚さを捨てきれない。悍ましい。悍ましい。悍ましい。悍ましいッ!!

 

『…………ぁぁ………ぁぁ………ごめんなさい………ごめん………なさい………っっ』

 

 大志は泣きながら、謝り続けながら、それでも両手いっぱいの肉片を舐める。そこから溢れる命の泉に――命の証だった真っ赤な泉を啜り続ける。

 

 美味しい――と、感じてしまう自分を罰するように、瞳から涙を流しながら。

 

『………………』

 

 そして、そんな少年の哀れな背中を、金髪の吸血鬼は、冷たい瞳で眺めていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ある日、大志は、アジトの奥深くの巨大な空間に氷川と共に訪れた。

 

 それは幹部の力を示し、知らしめる為に、黒金組と氷川グループが定期的に行っている行事だった。

 

 元々は火口の提案で始まり、黒金と氷川などの他のメンバー達は歯ごたえのある修行の為にと協力していることだったが、大志がこれを見るのはこの日が初めてだった。

 

 それは――

 

『……………な…………ん……なん……すか……………これ……………ッッ』

 

 巨大な地下牢の中に閉じ込められているのは、何体もの――悍ましい化け物達。

 

 醜悪。その一言に尽きる、見るも無残な、子供の下手糞な落書きのように無秩序な造形の姿形。

 

 そんな怪物達が、それぞれ別個の特別製の檻の中に閉じ込められ、怨嗟の叫びを上げている。

 

――グギャァァァァアアアォォォォオオオオオ!!!!!

――ガァァァァアギャァァァァアアアァァァァ!!!!!

――ザシャァァァァシャァァァァァルルルルル!!!!!

 

 聴覚を破壊せんばかりに地下空間に轟く咆哮。

 

 どいつもこいつも人間離れした体躯。巨大なものは広大なこの空間に収まる為に背を曲げているような出鱈目なサイズ感だった。

 

 翼や嘴を持つ個体。牛のような角を生やす個体。魚の頭を持つ個体。

 皆、一様に不気味で、怪獣映画や特撮ヒーローで正義の味方に爆破されるような分かりやすい化け物だったが、何よりも大志が恐ろしいと感じたのは、それらが全員――

 

――人間の、特徴を持っていたことだった。

 

 翼竜の腹からは何本もの人の手が生えていて、そして足は気味悪く太く巨大だったが、明らかに人間の足だった。

 牛人の手足は気色悪い程に長く、筋繊維が剥き出しで人体模型のように不気味だったが、それは明らかに人間の躰だった。

 魚人は頭部こそまさしく魚だったが、その巨大な体は、肌色も、腹筋も、まさしく人間の色をしていた。

 

 その他の醜悪な怪物達も、明らかに怪物で、何処からどう見ても怪物なのに――まるで。

 

『奴等を――良く、見ておけ』

 

 氷川は、顔面を蒼白させ立ち尽くす大志の肩を叩いて、そう耳元で囁いた。

 

『受け入れろ。……さもなくば、あれが――お前の、末路だ』

 

 そう言って氷川は、黒金達と同様にそれぞれ別の檻の中へと、たった一人で侵入(はい)っていく。

 

 それと同時に、怪物達の咆哮と、彼等の部下の歓声が沸き起こり――幹部達による、邪鬼の調教が始まった。

 

 大志はそれのどちらにも属することなく、ただ震えながら、氷川の言葉を脳内で反芻し続けていた。

 

 

――受け入れろ。……さもなくば、あれが――お前の、末路だ。

 

 

 あの夜に大志が初めて見た怪物達。それが、【邪鬼】という、己の“異能”に敗北した者達の成れの果てであるということを、大志が聞かされたのは、調教という名のショーが終わり、その夜が明けようとしていた頃だった。

 

『……………』

 

 帰り道。

 姉に対する夜遊びの言い訳を考えながら、大志は、今にも死にそうな顔をして朝日を――太陽を見上げる。

 

 吸血鬼となった者達は、遅かれ早かれ異能という力を()()することになる。

 それを制御するには、吸血鬼としての己の力を高める必要がある。

 

 そして、それに置いて必要不可欠なものが、吸血鬼としてのエネルギー源であり、文字通りの力の源である――血液だ。

 

 吸血鬼としての、化け物としての、己が摂取すべき燃料であり――食糧。

 

 大志は、未だ、この食糧を――血液を、己の独力で確保したことがない。

 

 いつも氷川の後にくっついて、他人の収穫のおこぼれを頂いているだけだ。

 限界ギリギリまで我慢して。まるで、血液を飲むという怪物の所業に対する言い訳作りに勤しむように。

 

 そんな大志の行動に対する、同胞達の目線は冷たい。

 きっと、遠からずの内に不満が爆発し、氷川の背中に隠れることも出来なくなるだろう。

 

 そうなった時、化け物としての一人立ちを強要された時、自分は――人間を狩ることが出来るのだろうか。

 

 言い訳のしようもなく血液を摂取することが、果たして出来るのだろうか。

 

 化け物であるという、己の運命を受け入れることが――運命と、向き合うことが。

 

『……………』

 

 

――受け入れろ。……さもなくば、あれが――お前の、末路だ。

 

 

 ズキン、と、頭が痛む。

 

 血液を取り込まないということは、己の異能に取り込まれるということを意味する。

 

 そうなった時、自分は、あんな怪物へと成り果ててしまうのだろう。

 

 そして、きっと、多くの人間を――そう、まるで、怪物のように。

 

 大志は表情を泣きそうに歪める。そして、何かを求めるようにして太陽に手を伸ばし――

 

 ズキンッッ!! と、立て続けに頭痛が大志を襲った。

 

 まるで、太陽が――世界が、大志(ばけもの)を拒絶するかのように。

 

『――っ!!』

 

 思わず電柱に寄りかかり、ゆっくりと地べたに膝を着ける。

 

 考えて見れば、もうしばらく、血液を舐めていないことに気付く。

 

『……………は、はは。……………ははははは』

 

 大志は泣きながら呪った。そして、願った。

 

 

 どうか――どうか。

 

 

(……………誰か……………俺を――)

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side八幡――とある池袋の無人の路地

 

 

 俺が粗方吸血鬼共を掃除し終えた時、川崎大志は意識を取り戻した。

 

「………おにい……さん?」

「お兄さんと呼ぶな」

 

 そして、俺はXガンの銃口を大志に向ける。

 

「――殺すぞ」

 

 そう言うと大志は、ぺたんと地面に座り込んだ状態で――全身を、真っ白な外殻に覆われている状態で、苦笑いするように見上げる。

 

 そして性懲りもなく「……お兄さん」と、俺のことを呼び、おうし分かった喧嘩売ってんだな戦争だと俺が蟀谷に米マークを作ると――

 

「……約束、覚えてますか?」

 

 と、まるで自分の死期を悟っているかのうように、そのすっかり化け物に変わった相貌で柔らかな表情を浮かべる。

 

「……ああ。さすがに今日の今日だからな」

 

 まさか交わしたその日に実行することにはなるとは思わなかったという意味で皮肉を言うと、大志も情けなく苦笑した。

 

 俺は無表情に、淡々とそれを告げる。

 

「――大志。お前はもう、確実に“あっち側”だ。後戻りできない程に化け物だ。どっからどう見ても、頭のてっぺんから爪先まで、どうしようもない程に怪物だ」

 

 お前はもう――人間じゃない。

 

 俺がそう告げると、大志は穏やかに、笑った。

 

「約束だ。死にたくないって言っても殺してやる」

 

 化け物になった自分を――

 

「――呪いながら、死ね」

 

 そして俺は、夕方の約束の時のように、Xガンを大志の頭に突き付ける。

 

 大志も、あの時のように、Xガンにその両手を伸ばした。

 

 だが、既に全身を白い外殻に覆われている大志の身体は、少しでも腕を上げるだけで、パキ、パキパキと歪な音を立てる。その度に外殻は剥がれ落ち、そして、再びそれを塞ぐように新たな外殻が再生する。

 

 より強固に化け物になり、より取り返しのつかない怪物になっていく。

 

「……俺は、遅かれ早かれ、こうなってたんす」

 

 大志は、己の額に突き付けられたXガンを愛おしそうに撫でながら、穏やかに語る。

 

「……今まで俺は……人間を殺すことが出来なくて……血を飲むときも、氷川さん達について行って……そのおこぼれをもらうばっかりでした……」

 

 ……昨日のあのミッションの乱入時、黒金や氷川って程の奴等と大志が一緒にいたのは、そういう理由なのか? 同等の戦力ではなく、あくまで付き添いというか、パシリというか。

 

「そんなんだから、こんな風に異能が暴走して……このままだと……俺が邪鬼になっちゃうところでしたけど……お兄さんが、この戦場にいてくれて……本当によかった」

 

 こんなこと、おこぼれとはいえ、今までたくさん人の血を飲んできた俺が言うなんて、許されないかもしれないっすけど――大志はそう言って、真っ白な、不気味な、異形な化け物の姿で、瞳に涙を溢れさせた。

 

 

「人を喰う前に――殺してもらえて、本当によかった」

 

 

 大志はそう言って、俺を見上げた。

 

 変わり果てた――化け物に成り果てた、その姿で。

 

 救われた人間のように、晴れやかな表情で。

 

「…………………」

 

 俺は、その表情に、目を奪われる。

 

 焼き付ける。脳裏に、そして心に焼き付ける。

 

 これまで俺は、多くの星人を屠ってきた。

 色んな星人を――化け物を、この手で殺しまくってきた。殺して、殺して、殺し続けてきた。

 

 そして、人間が死ぬ所も、たくさん目撃してきた。

 直接この手で殺めたことはないにしろ、俺のせいで、間接的に俺が殺したといっていい人間も、山程いる。

 

 そして、俺は今日、初めて、直接この手で――“人間”を殺す。

 

 刻み込む。脳に、そして魂に。

 

 この男の死に様を、そして――生き様を。

 

 

 川崎大志という男を殺したことを、俺は生涯、忘れない。

 

 

 何処かで歓声が沸く声が聞こえ――俺は、それをシャットアウトした。

 

 今は、この瞬間だけは、俺はコイツと向き合わなくてはならない。

 

 この一つの命に、向き合わなくてはいけない。

 

「――お願いします、お兄さん」

「…………ああ。じゃあな、“川崎大志”」

 

 俺は、最後にそう、名前で呼んだ。

 

 この男が、最後まで守り抜こうとした、人間としての、その名前を。

 

 大志は、一度大きく目を見開き、そして、瞳に再び涙を溢れさせながら、笑顔で――目を閉じた。

 

 俺は、しっかりとそれを見届けて、Xガンの、引き金を引い――

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「やめてぇ! お兄ちゃん!!」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 それは、此処にいる筈のない者の声だった。

 

 だけど、此処に来るかも知れないことを、忘れてはならなかった筈の者の声だった。

 

 

 ギュイーン、と、甲高い発射音と、青白い閃光が瞬く。

 

 

 

「――――――え?」

 

 

 

 それは、俺の呟きだったのか、それとも大志のものだったのか。

 

 

 俺が大志の死に様を注視することに気を取られて接近に気づかなかったのか。それとも、由比ヶ浜が、小町から目を離す筈がないと思い込んでいたのか。

 

 

 

 それとも、戦争に没頭し、小町達の存在を、今の今まで忘れる程に、俺は――――終わってしまっていたのか。

 

 

 

 可能性など無限に思いつく。そのどれもが本当で、そのどれもが間違っているかもしれない。

 

 

 そんな現実逃避など、まるで無意味で、まるで無価値だった。

 

 

 結果は、変わらない。結末は――変わらない。

 

 

 大志を庇うように突き飛ばし、Xガンの銃口との間に無理矢理割り込んで――

 

 

 

――ギュイーン、という甲高い発射音と共に、小町はその閃光を、背中に浴びた。

 

 

 

 事実は変わらない。何も変わらない。

 

 

 俺が、小町を撃った。

 

 

 これだけが、揺るぎない、真実だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 完全に道を塞いだ瓦礫を、由比ヶ浜は必死で排除しようとしていた。

 

「小町ちゃん……小町ちゃん……小町ちゃん……小町ちゃん……」

 

 由比ヶ浜には、小町がこの瓦礫に呑まれたかのように見えていた。

 

 彼女は、その現実を決して認めない。

 

「小町ちゃん、小町ちゃん、小町ちゃん、小町ちゃん、小町ちゃん」

 

 それだけはダメだ。それだけはダメだ。それだけはダメだ。それだけはダメだ。

 

(ヒッキーに頼まれたんだ! ヒッキーに託されたんだ! 守らなきゃ! 助けなきゃ! だってヒッキーは言ったんだから。戻ってくるって! 帰ってくるって! 約束したんだから! また三人で奉仕部やるんだ! あの時みたいに三人で! あの場所で! あの場所で! 三人で! あたしとヒッキーとゆきのんで! また! みんな! あの時みたいに! だからやり遂げなきゃ、絶対に絶対に絶対に! ……だから……だから……)

 

 由比ヶ浜は必死で瓦礫を動かそうとする。

 

 その綺麗な手がボロボロになり、爪が剥がれそうになって血が滲んでも、それでも由比ヶ浜は諦めない。諦められない。

 

 由比ヶ浜は、現実を、決して認めない。

 

 由比ヶ浜は、希望を、決して捨てない。

 

 いつまでも、いつまでも、由比ヶ浜は、由比ヶ浜結衣は――

 

 

「――ッッ!! 小町ちゃん!! 小町ちゃん!! 小町ちゃぁぁぁぁああああああああん!!!」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 何処かの、心優しき少女の叫びが届いたかのように、小町はふっと優しく笑う。

 

 それは、その儚い笑みは、自分に向けられたものではないと分かっていても、化け物と成り果てた大志の心を揺さぶった。

 

 そして小町は、顔だけで振り返り、真っ黒な絶望で染まった表情の兄を見つめて――こう、呟いた。

 

 

「お兄ちゃん。大好きだよ――」

 

 

――幸せになって。

 

 

 この最後の言葉は――最愛の兄には届かなかった。

 

 

 届く前に、届ける前に、小町の背中は無残にも弾け飛び――比企谷小町は、即死した。




そして――――比企谷八幡は――――そして――――


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小町は、お兄ちゃんが大好きだよ

 たった一人の、妹だった。

 

 たった一つの、こんな俺に残された、最後の、守り抜きたい、大切な存在だった。

 

 雪ノ下雪乃を壊し、由比ヶ浜結衣を傷つけた。陽乃さんだって、俺は一度――死なせてしまった。

 

 そんな俺でも、そんな俺だからこそ、小町だけは、絶対に守り抜きたかった。巻き込みたくなかった。けれど――結果として、やはり小町も巻き込んでしまった。

 

 

 だから俺は、今回のミッションを終えたら、あの家から出ていくつもりだった。少なくとも、カタストロフィが片付くまでは。もう二度と、小町と会うつもりはなかった。

 

 大志を殺す俺は――これからも、多くの命を奪うだろうこんな俺は、もう小町の兄だと、名乗る資格はないと思っていた。

 

 だけど、それでも、小町が兄だと思ってくれなくても、俺にとっての小町は、掛け替えのない、たった一人の妹だから。

 

 胸を張って名乗れることはないのだろう。金輪際、有り得ないのだろう。俺はもう、既にそんな存在では在り得ないのだろう。

 

 

 それでも俺は、小町の兄だから。たった一人の妹で、たった一人の兄だから。

 

 

 絶対に、守り抜くと誓っていた。

 

 この誓いだけは、この決意だけは、何があっても、何があろうとも、自分の命などいくらでも懸けて――世界を敵に回しても、守り抜く覚悟だった。

 

 その為なら、なんだってして見せると――小町が俺の元から去っても、小町が俺から逃れる日が来ても、俺は小町を守ると、俺は、きっと、小町を、守り切って、守り抜いて、絶対に、俺は、どんなことでも、どうなったとしても、何からも、全てから、世界から、俺は、俺は。

 

 なのに――なんだこれは? どういうことなんだこれは?

 

 

 

――やめてぇ! お兄ちゃん!!

 

 

 

 どうして――何が――一体――――これは――どうして――

 

 

 

 ギュイーン

 

 

 

 

      と

 

 

 

 甲高い    発射音と

 

 

 

 

   青白い        閃光     

 

 

 

 

         が

 

 

 

 

 

 

 どうして……   

 

 

 

 

 

        どうして、俺は――

 

 

 

 

 

 俺――は――

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

――お兄ちゃん。大好きだよ

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 バン――――と。

 

 

 

 鮮血と――肉片が――俺の顔に、飛び散った。

 

 

 俺は、小町の屍体に、塗れた。

 

 

 

 …………………………なんだ?

 

 

 

 

 

 なんだ、これは?

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「うわぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!」

 

 

 小町の亡骸を、白い外殻を纏った怪物が抱き締めて吠える。

 

 怪物は――大志は、俺に向かって、先程までは人間と同じ色だった瞳を真っ赤に染めて、血の涙を流して、俺に向かって、俺に向けて、吠えた。

 

 

「どうしてだッ!! どうして彼女を撃った!?」

 

 

 大志は、怪物は、その白い外殻をみるみる内に変化(へんか)させ、禍々しく変化(へんげ)させ、俺に牙を剥けて咆哮する。

 

 

「どうして比企谷さんを撃ったッ!! 妹だろう!? あなたの妹じゃないか!! どうしてっ……なんで小町さんを殺したんだッッ!!!」

 

 

 ……ころ、した?

 

 

 俺が……小町を……殺した?

 

 

 大志に抱かれている小町は、背中が吹き飛んでいて血塗れで、あれほど強く抱き締められても、ぐったりとして死んでいるかのように動かなかった。

 

 

 死んでいる……死んでいる?

 

 

 なんでだ? どうして……小町が死んでいる?

 

 

 

 ああ、殺したんだ。

 

 

 俺が――殺したんだ。

 

 

 殺した――俺が殺したんだ。このXガンで。小町を撃った。妹を撃った。殺した。死んだ。俺が。小町を。嘘だ。真実だ。殺した。守ると。誰が。小町を。誓った。俺が。死んだ。小町が。俺が。俺が。俺が俺が俺が俺が俺が俺が 俺が  俺が俺が 俺が 俺が俺が俺が俺が 俺が 俺が  俺が  俺が俺が    俺が俺が 俺が俺が 俺が 俺が 俺が 俺がががががががががががががががががががががががががが

 

 

 

 

 小町を――――――コロシタ。

 

 

 

 

「ウワアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!」

 

 立ち上がった大志が、化け物の力で俺を殴り飛ばした。

 

 スーツは既に死んでいる。身体に激痛は走っている筈だ。

 

 だが、何も感じない。痛みを感じない。こんなにも痛い筈なのに。

 

 頭の中では、未だに小町を殺したというその事実だけが、グルグルとぐるぐるとぐちゃぐちゃにグチャグチャに渦巻いている。

 

 立ち上がれない。体に力が入らない。変な形で痙攣している。ごふっ、と血を吐き出した。

 

 真っ白な外殻に覆われ、涙を流す大志が、俺の上に跨り、拳を握って――俺を殴りつけた。

 

 大志は、何度も、何度も、何度も俺を殴りつける。泣きながら、喚きながら、人間のように、駄々をこねるように――悲しみながら、殴り、殴り、殴りつけ、殴り続ける。

 

「どうして! どうしてだよ!! 俺を殺してくれるんじゃなかったのか!! なんで比企谷さんなんだよ!! なんで、なんで、なんでなんでなんでぇッ!! なんでぇぇぇえええええ!!! 化け物は俺だ!! 俺だろうがッ!! 比企谷さんは関係ない!! 彼女は……関係ないッ!! 絶対にッ!! 彼女は絶対にッッ!! 幸せに――ならなくちゃいけなかったのに!!」

 

 そうだ。小町は関係ない。小町はこんな、無残な戦争にはまるで無関係な筈だった。

 

 笑顔が似合って、天使で、可愛くて、天使で、生意気で、でも天使で、要領が良くて、小悪魔で、時々俺のことをごみいちゃんと呼んでくるけど、けどやっぱり天使だった。

 

 幸せにならなくちゃいけなかった。幸せになるのが当然で、不幸になるなんてあってはならなくて、まして――

 

 

――死んでしまうなんて、有り得ない。有り得てはならなかった。

 

 

 殺されるなんて、絶対に有り得ない。有り得ない。有り得るか。有り得てたまるものか。

 

 ふざけるな。そんなことは認められるか。

 

 

 誰だ? 小町を殺した奴は誰だ? 

 

 そんな奴は許されてはならない。誰が許しても、世界中が擁護しても、俺だけはソイツを絶対に許さない。

 

 

 死ぬべきだ。殺されるべきだ。この世で最も惨たらしく死ぬべきだ。この世で最も惨めに死ぬべきだ。この世で最も悲惨に惨憺に凄惨に惨烈に死ぬべきだ。

 苦しめて、痛めつけて、殺して、殺して、殺すべきだ。殺して、壊して、殺害して、蹂躙して、凌辱して、破壊して、虐殺すべきだ。

 

 

 

 

 そうか――俺は、死ぬべきだ。

 

 

 

 

「――なんで! なんで、ナンデッッ!!! ナンデダァァァアアアアア!!」

 

 

 大志が一際強く、渾身の一撃を俺に叩き込む。

 

 

 だが、足りない。まるで足りない。こんなもので――許されてたまるものか。

 

 

「……ころ……せ……」

 

 

 俺は、腫れ上がった顔の筋肉を無理矢理動かす。ズタズタに頬が切れて、血が喉に詰まって上手く言葉を発せない。

 

 駄目だ。早く発しろ。早くしなくては。早く、早く、早く――

 

 

「……ころせ……俺を――」

 

 

 

――殺してくれ

 

 

 

 その言葉と共に、俺の目から、何かが流れた気がした。

 

 

 そして、俺の意識が、ゆっくりと薄れていく。

 

 

 

 

 ……ごめん。

 

 

 

 

 

 ごめんな、小町。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――ちゃん! お兄ちゃん!」

 

 

 ……ん~。誰だ。俺の愛する布団との愛の語らいを邪魔する奴は。

 この温もりを手放すなど考えられん。布団……俺のことを分かってくれるのは、やはりお前だけのようだ。これからも存分に俺のことを甘やかしてくれ。

 

「お兄ちゃん! いい加減にしなさい! 炬燵で寝ると風邪引いちゃうよ! つい数十分前にお兄ちゃんが小町にそう言ったんでしょ!」

 

 小町がゲシゲシと炬燵の中で俺の足を蹴り飛ばしながら言った。

 

 ……そうか。この温もりは炬燵だったのか。俺の布団への愛を揺るがすとはやるなこやつめ。だが、駄目人間製造機とも名高い炬燵と、駄目人間としての完成度が著しく高い俺の相性は案外最高なのかもしれない。ゴメン炬燵、俺、本当の愛にやっと気づいたよ。これからも末永くよろしくな。え? 布団? ああいい奴だったな。今頃は冷たい部屋の中で冷えきってるんじゃないの? 俺達の愛のように。……我ながらキモいな。

 

「……ふっ」

「うわ、お兄ちゃん、何、急に笑って。キモいよ。あ、キモいよ」

「二回言わないで、大事なことじゃないから」

「そうだね。分かりきったことだもんね。繰り返すほどのことじゃなかったよね」

「小町ちゃんも冷たい……」

「も?」

 

 そんな風に兄妹の軽いスキンシップを取ると、炬燵で寝たからか、俺はちょっと喉が渇いていてマッ缶が飲みたくなったが、愛する炬燵の元から離れるなど考えられないので、そのままもぞもぞと炬燵の中に両手を突っ込む。

 

 すると小町がそんな俺の挙動不審な様子を見て、眉を顰めながらじとっと睨み付ける。あらやだ可愛い。うちの妹か~わ~うぃ~うぃ~。

 

「もう、どうしたのさ、今日のお兄ちゃん。小町が帰ってきたらソファでバタバタバタ足してるし、いきなり『放っておいてくれ。お兄ちゃん、今ちょっとアイデンティティクライシスだから』とか言ってくるし。本当に大丈夫? 頭」

 

 なんだソイツきもっ。そして面倒くさっ。え? 俺、そんなこと言ってたの? そして小町ちゃん、さりげなくお兄ちゃんの頭をディスらないで。

 

 ……まぁ、記憶にはないが、小町が言うにはそうなんだろう。ちょっと釈然としないが。

 

 そう思っていると、小町は急に、さっきまでの不機嫌な顔が嘘のように、にししと笑い出す。ここでおいキモいぞ、なんて言うと百倍返しされて、更に親父と母にチクられてお年玉を落とされなくなる可能性が微レ存なので、ここは素直に問うてみる。

 

「おい、何笑ってんだ?」

「ん~? いやぁ、それでも、そんな風にいつも通りキモいお兄ちゃんを見るのは久しぶりだなぁって。生徒会選挙が終わってからも、お兄ちゃんなんか元気なかったし」

「…………」

 

 小町はそんな風にいたずらっぽく笑ってから、しゅっと炬燵の呪縛から抜け出して、未だ炬燵に捕らわれ続ける俺の背中に回って、ひょいっと抱き付いてくる。

 

「ん? なんだ? 随分珍しいな。こんな風に甘えてくるなんて」

「んふふ~。べ~つに♪」

 

 そう言って小町は、猫のように俺に擦り寄って、俺に優しく語り掛けてくる。

 

「……結衣さんと雪乃さんと、仲直り出来た?」

「……別に喧嘩してたわけじゃねぇよ」

「そっか~♪ そっか~♪」

 

 小町は俺の言葉などまるで無視して、ご機嫌にぐいぐいと俺に体重を掛けてくる。こら、やめなさい、嫁入り前の娘がはしたない。小町は嫁には絶対に出さないがな!

 

 そして小町は、きゅっと俺に抱き付く力を強くして、慈しむような声で囁く。

 

「……よかったね、お兄ちゃん」

「…………」

「……お兄ちゃん。小町は、お兄ちゃんが大好きだよ」

 

 小町は、静かに、俺の中に染み渡らせるように言った。

 

「お兄ちゃんは捻くれてるし、面倒くさいし、格好つけだし。……それでも、いつも小町の傍に居てくれて、大事な人の為なら頑張れて、誰よりも優しい、小町の自慢のお兄ちゃんなのです!」

「お、おい、本当にどうしたんだ? 小町?」

 

 いや嬉しいけど。泣いちゃいそうだけど。急にどうしたんだ? え、死んじゃうのん? そしたら俺、号泣するよ。そして神的なものに喧嘩を売るまである。

 

「いつかきっと、そんなお兄ちゃんのことを好きになってくれる人が出来るよ。ううん、もう現れてるかも! お兄ちゃんが気付かないふりをしてるだけでね」

「……おいおい、ブラコンが過ぎるぞ小町。そんな奴がいるわけ――」

「だから」

 

 小町は静かに、けれど強くそう言うと、自分の温もりを俺に伝えようとするように、優しく、更に強く、抱き付く。

 

 あるいは、残そうと――何かを、遺そうと、するように。

 

「そんな人を見つけたら……お兄ちゃん――幸せになって。……小町のこと、忘れても構わないから。あ、今の小町的にポイント高い!」

「……小町?」

「幸せにならないで死んじゃったら、絶対に許さないよ! 小町的に超ポイント低いんだからね!」

「小町! 小町!」

 

 何故か、後ろが振り向けない。小町の顔を、見ることが出来ない。

 

 背中に感じてた小町の重みが、温もりが――ゆっくりと消えていく。

 

 

 ……いやだ。いやだ。いやだっ! 待ってくれ! 逝くな! まだ逝かないでくれ、小町!

 

 

「ありがとう――お兄ちゃん。小町ね……」

 

 

 

 お兄ちゃんの妹で、すっごく幸せだったよ!

 

 

 

「――――ッッ!! 待ってくれ! 逝くなぁぁあああああ!! 小町ぃぃいいい!!」

 

 

 俺は、虚空に向かって手を伸ばし――()()()()()

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ビィィイイイイイイイン、という電子音と、見慣れた――黒い球体の部屋。

 

 

「………………八、幡」

 

 

 こちらを呆然と見つめる陽乃さん。

 

 そして、桐ケ谷、新垣、渚、東条、パンダ――そして、湯河とかいう少女。

 

 

 チーン、と、気が抜けるような音が鳴って――

 

 

 

【それぢは ちいてんを はじぬる】

 

 

 

――戦争は、終わった。

 

 

 

 俺から、掛け替えのない、大切なものを――またしても奪って。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 八幡が転送され、それと同時に近くのビルの屋上から何かが転送されていった後――大志は、八幡が転送されていった地面を、何度も何度も殴り倒していた。

 

 小町の死体に背を向け、何もない何の罪もない地面を、只管に殴り続ける。

 

 

 分かっていた。理解していた。

 

 

 八幡に、小町を殺すつもりなど、まるでなかったということを。

 

 

 小町は自分を庇ったことを。そのせいで死んだということを。己のせいで――殺されたということを。

 

 

 分かっていた。分かりきっていた。否が応でも、分からずにはいられなかった。

 

 それでも、大志の心は、既にとっくに限界だった。この上で、この有様の上で、小町の死など、とても受け入れられるものではなかった。

 

 別の誰かのせいにしたかった。別の何かに押し付けたかった。

 

 

 でも、それでも――

 

 

『……ころ……せ……』

「――ッッ!!」

 

 

 浮かび上がる。あの顔が。あの言葉が。

 

 

 絶望に彩られ、暗闇に支配された――鏡を見ているかのような、あの男が。

 

 

 

『……ころせ……俺を――』

 

 

 

 

――殺してくれ

 

 

 

 

 その時、ドグンッ!! と、一際強く、何かが胎動する。

 

 

「――ッッ!!! ぁぁ……ぁぁ……ァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

 

 

 バキバキバキ、と外殻が剥がれ、そして再生する。

 より強固な皮膚に。より強固な鎧に――生まれ変わっていく。

 

 化け物になっていく。怪物に成り下がっていく。

 

 

(……このままじゃ……本当に……邪鬼に……ッッ)

 

 

 嫌だ。それだけは嫌だ。

 

 それだけは、それだけは――人間だけは、殺したくない。

 

 この手を汚したくない。この手で殺したくない。

 

 

 分かっている。こんなのはただの汚い自己擁護だ。我が身可愛さだ。

 

 今日、この戦場で、自分の異能によって連れてきた怪物が、何人の罪のない人間を虐殺した? これまで自分は、何人の人の血を飲んだ? 今日、小町は、一体、誰のせいで、その命を落としたんだ?

 

 

「――――ッッ!!」

 

 

 大志は思い切り、地面に頭を打ち付ける。外殻は罅割れ、そして再生した。

 

 最もらしい理屈をつけて、ただ、自分は、己が操っていたあの邪鬼達のように、醜悪な化け物に、世にも悍ましい化け物に、なりたくないだけではないのか。堕ちたくないだけではないのか。

 

 

(…………この期に及んで………こんなことになっても……………俺って……奴は…………俺は……俺は――――ッッ)

 

 

 大志は天を仰ぎ、ごくりと強く――唾を飲み込む。

 

 

(血が……血が、飲みたい……ッ! 血が飲みだいッッ!!)

 

 

 自分が人間でないことを、化け物であるということを如実に理解させられる、吸血鬼の吸血衝動。

 

 大志は、これが、川崎大志という存在を破壊するかのようなこの衝動が、己の身体が告げる――最後通告なのだと、直感で理解した。

 

 

 今、ここで血を飲まなければ、大志(じぶん)は間違いなく理性を失う。

 

 そして、あの牛人や、翼竜や、魚人と同じ、悍ましく醜悪な、この上ない程の怪物へと成り下がるのだろう。

 

 

 それだけは……それだけは――嫌だ。

 

 

 そして、何より――

 

 

 

「――()にだく……ない……ッ」

 

 

 

 大志は無様に啜り泣きながら、地面に顔を(こす)りつけて、何かに土下座するように嘆いた。

 

 

「死にたくない……逝きたくない……っ」

 

 

 八幡に殺される時には、まるで感じなかった恐怖が湧き起こる。

 

 嫌だ。死にたくない。化け物として死にたくない。あんな怪物の姿で逝きたくない。

 

 なんて傲慢。なんて無様。

 

 大志は今こそ、己が化け物だと思ったことはない。

 

 

 あれだけの犠牲を生み出しておいて、邪鬼として死ぬのなら――化け物になってでも、生きたいと願うなんて。

 

 もう、八幡は此処には居ない。自分を人間として見て、化け物として殺してくれる男は存在しない。

 

 

 大志にとって、選べるのは二つだ。

 

 

 一つは、このまま吸血衝動を堪え、最後通告を無視して、その身を邪鬼へと変えて、理性を失い、異能が暴れ狂うままに、人間を殺し、化け物を殺して、きっと、氷川辺りが、自分を殺す。いや、邪鬼を操るという異能が暴走する以上、己が邪鬼になった際、その危険度は計り知れない。もしかしたら、最高幹部が総勢で殺しにくるかもしれない。そうなれば、どれだけの被害をもたらすのか分からない。

 

 あらゆる者達から恨まれ、あらゆる人達に憎悪されながら、きっと死に物狂いで殺されるのだろう。

 

 

(――――嫌だッ!! 嫌だッッ!! それだけは嫌だっっっ!!!)

 

 

 大志は泣きながら、その姿をより異形に、禍々しく変化させながら――――小町を見る。

 

 

 後ろを振り向き、無残な姿で転がる、小町の亡骸を、見る。

 

 大志の表情が歪む。涙が溢れ出す。だが、それでも――喉が、ごくりと、それを欲する。

 

 

 大志が選べる、もう一つの選択肢。

 

 

 それは――

 

 

「~~~~~~~~ぁぁぁぁぁぁっっ!!!」

 

 

 大志は、ゆっくりと、ゆっくりと地面を這っていく。

 

 大好きだった少女の死体の元へ。憧れていた少女の亡骸の元へ。

 

 泣きながら、泣きながら、それでも身体は、小町を求める。

 

 

 小町の――血液を、求める。

 

 

 大志は今まで、自分の手で、自分の牙で、人間(えもの)を仕留めたことがなかった。

 

 だから、いつも与えられるのは誰かが千切った腕や指で、転がり落ちていた肉片で、首元にかぶりつき、太い血管からごくごくと喉を鳴らしながら血液を摂取したことは、なかった。したいとも、思わなかった。

 

 

 だが、大志は、小町の亡骸を改めて抱きかかえた時、自分の中の吸血衝動が更にドクンと膨れ上がるのを感じた。

 

 小町は背中を吹き飛ばされたので、こうして向かい合うように抱きかかえた小町の死体は、まるで眠っているだけであるかのように穏やかで――そして、綺麗だった。

 

 

「――――――ッッッ!!!」

 

 

 大志は震えながら、泣きながら、それでも顔は――牙は、ゆっくりと小町の、白くて綺麗な首筋へと近づいていく。

 

 

 人間の血など飲みたくなかった。ましてや、小町や家族の血だけは、絶対に飲んでなるものかと誓っていた。決意していた。そんなものを飲むくらいなら、舌を噛み切って死んでやると。

 

 

 だが、ここまで邪鬼に近づき、吸血鬼性が高まっている自分は、舌を噛み切ったくらいでは死なない。死ねない。

 

 

 もう、大志は、自分では死ねない――死にたくない。

 

 

 京華の顔が――沙希の顔が()ぎる。

 

 

 そして、そして――自分に笑いかける、小町の顔が、脳裏に()ぎった。

 

 

 それは、途端に、泣き顔に変わる。

 

 

 

――……小町のお兄ちゃんを…………嫌いにならないで。

 

 

 

「――――っっッッ!!!!!!」

 

 

 大志はグッと一度、口を閉じて、何かを吐き出すのを堪えるように噛み締めて――

 

 

 

――ガブリッ! と、深く、深く、小町の首筋に、牙を突き立てた。

 

 

 

「~~~~~~~~~~~~~~っっっっ!!!!」

 

 

 大志は涙を流しながら、ごくごくと喉を鳴らして、小町の血液を飲み干していく。

 

 

 どうしてこんなことになったんだと呪いながら、身体が欲する衝動に任せて、小町の血液を味わっていく。

 

 

 それは悲しくなるくらい、呪いたくなるくらい――途轍もなく、美味しかった。

 

 

 きっと、これから先、何百年生き続けたとしても、これ以上の血液(あじ)に、出会うことはないと確信する。そんな確信、絶対に抱きたくなかったと嘆きながら、それでも大志は、小町を飲み干す。

 

 

 大志の身体を覆っていた外殻が、ボロ、ボロボロと剥がれていく。

 

 再生は――しない。小町の血液を摂取することで、吸血鬼として、異能を支配する力を手に入れていく。

 

 

 そして、それと反比例するかのように、小町の身体は干からびていった。

 

 あの綺麗だった死に顔は、どんどん老婆のように醜くなっていく。ミイラのように、見るに堪えなくなっていく。

 

 

 それでも、大志は吸血を続けた。涙を流しながら、鼻水を垂らしながら、それでも吸血を、小町を殺すのを、止めることが出来ない。

 

 

 

 こうして――川崎大志は、完全に人間を止め、化け物となった。

 

 

 

 サァぁ! と、血を、生命を絞り尽された小町は、灰になって夜の池袋へと舞い上がっていく。

 

 

 吸血鬼のように、黒灰ではない。ただの灰色の、正真正銘の遺灰だった。

 

 吸血鬼という化け物に、その生命を()われ尽くした、哀れな食糧(エサ)の成れの果てだった。

 

 この特性故に、吸血鬼は証拠を残さず、今日も殺人(しょくじ)を続けることが出来る。

 

 

 大志は、その灰を抱き締めるようにして、地面に蹲り続けた。啜り泣き、嘆き苦しみながら、想い人を絞り殺し、化け物として生き長らえた自分を呪うように。

 

 人間の姿に完全に戻った大志の髪は、色素を失い真っ白になっていた。

 

 川崎大志という人間(ばけもの)を、表すかのように。

 

 

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」

 

 

 戦争が終わった池袋に、哀れな白鬼の慟哭が響く。

 

 その咆哮によって、怪物の腕の中の白灰が、真っ黒な空をふわりと舞い、怪物を包み込んだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その光景を、氷川はビルの屋上で見届けていた。

 

「…………」

 

 そして、一度、道を挟んで反対側の、忌々しい獣が転送されていった屋上を一瞥した後、ビルを飛び降り、大志の元へと歩み寄って行った。

 

 

 己の運命に殺されて誕生した、新たな同胞を、自分の手で迎える為に。

 

 

 氷川は真っ暗な夜空を、白灰が舞う黒空を見上げながら、冷たく、誰にともなく呟いた。

 

 

 

「……ようこそ――このクソッタレな世界へ」

 




こうして、色々なものを奪った、池袋の戦争は――幕を閉じた。


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ふ~ん。これが噂の100点メニューか。

 

 

 

 

 

 長く、長く、長い――夜が明ける。

 

 

 鮮血を撒き散らし、絶叫が木霊し、圧倒的な死が振り撒かれた、一人の鬼の革命が幕を閉じる。

 

 

 そこに、笑顔はない。歓喜もない。

 

 何も達せず。何も叶わず。

 

 

 理不尽な絶望だけが、池袋を満たした。

 

 

 勝者は居ない。

 

 

 この戦争にあったのは、そして、残ったのは。齎したのは。

 

 

 哀れな程に。憐れな程に。

 

 

 

 ただ、純粋な――

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

【それぢは ちいてんを はじぬる】

 

 

 黒い球体にそう文字列が表示されても、口を開く者は誰一人としていなかった。

 

「……………」

 

 湯河由香は部屋の中を満たすこの重苦しい雰囲気に、何も言葉を発することは出来ない。

 自分の最後の記憶は、突然目の前のビルディングがボっと手品のように燃え上がり、それに混乱していたら――視界が、意識がぐらりと揺れ……そこで、途切れている。

 

 そして、気が付いたら、誰もいないこの部屋に転送されていた。

 

 少しして東条が送られてきてほっとしたが、東条の顔はいつになく険しかった――険しいというよりは、意識此処に在らずといった様子か。

 

 その次に送られてきたのはあやせだった。

 彼女は、この部屋に転送されて来た時、やはり少し雰囲気がおかしかったが、由香の姿を見つけると瞳に涙を浮かべ、「よかったね……っ」と万感を込めて生還を喜んでくれた。

 面映ゆい気持ちになった由香だったが、自分は彼女に此処まで生還を喜んでもらえる程に仲を深めていたかと疑問にも思った。精々が一緒にガンツスーツに着替えたくらいだが………まぁ、それくらい()()()()なのだろう――自分と違って。由香はそう思うことにした。

 

 次に転送されてきたのは渚だった。渚は転送されてきた途端、一瞬ぼうとしたが、直ぐに現状を理解すると、苦笑しながら「大丈夫かな……助けが間に合えばいいんだけれど」と呟いた。その顔には、悪いことしたなぁと書いてあるようであり――まるで、自分がやり残したことを、誰かがやってくれると確信しているかのようでもあった。

 由香は、この人はあのビルの中で救助活動でもやってたのかな? と、首を傾げた。

 

 次に転送されてきたのは和人と陽乃。二人は肩を寄せ合うようにして転送されてきたが、転送が終わると同時にすぐに離れ、陽乃は「へぇ。こんなんなんだ。本当に新品みたいに戻るんだねぇ」と呟き、他のメンバーをゾッとさせた。

 確かにその通りだが、そう言われると今こうしている自分達が只のバックアップのようで――まさしくそうなのかもしれないが――気分の良いものではなかった。実際、片腕を失うなどという大怪我をしたにも関わらず、綺麗な五体満足に戻っている和人は苦笑していた。陽乃は全然気にしていないようだったが。

 

 そして、ここまで順調に転送されて――だがここに来て、ここまで来て、改めて部屋の中に緊張が走った。

 

 皆――陽乃も、和人も、あやせも、渚も、じっと黒い球体を見る。由香も、その視線の意味を理解出来た。

 

 まだ、あの男が転送されてきていない。まさかとは思うが、この嫌な間が、もしかしてという疑念を沸かせる。

 

 誰かが額に汗を滲ませると、その瞬間、黒い球体から一筋の光が、東条の背後に照射される。

 

 一斉にその一点に視線が集まる――が、転送されてきたのは、紛うことなきジャイアントパンダだった。

 

 そして、まるでそのパンダをミスディレクションに使ったかのようなタイミングで、さりげなく陽乃の背後に電子線が伸びる。

 

 

 今度こそ、現れた男は――比企谷八幡だった。

 

 

「「「「――――ッッッッ!!!」」」」

 

 

 途端、東条とパンダ以外のメンバーは、総じて息を呑んだ。あの東条でさえも、大きく目を見開いた。

 

 今回のミッションは、過去最大の戦争となり、生き残ったメンバーのそれぞれが、己の物語(じんせい)(いびつ)で大きな影響を及ぼした、まさしくターニングポイントと呼べる戦争となった。

 

「………………」

 

 だが、それでも、この男――比企谷八幡程に、悲痛で、悲惨で、悲愴な何かを、背負って帰還した人間はいなかった。

 

 陽乃ですら、目の前のこの八幡には、何も言葉を掛けることは出来なかった。

 

 

 

 そして、今に至る。

 

 他の住人達も、黒い球体の採点に注目している素振りを見せているが、どうしても、部屋の一番後ろの壁に凭れ掛かり、黒い球体を真っ暗に淀んだ深淵のような瞳で注視している比企谷八幡を、意識せずにはいられないようだった。

 

 だが、そんなことには委細構わず、黒い球体はいつも通りに、機械的に無機質に、じじじ、と最初の採点を表示した。

 

 

 

『はちまん』15点

 

 Total 34点

 あと66点でおわり。

 

 

 

 その点数に、更に沈黙が重くなる。

 

 いつもは高得点を連発する八幡のその点数に、一同が何も言えずに、ちらりと八幡の方を見るだけだった。

 

 

「…………」

 

 

 八幡も、何も言わず、何も発さず、壁に背を付けたまま、ただ静かに瞠目していた。

 

 

 

『リンリン』0点

 

 びーむだしすぎ。

 

 Total 1点

 あと99点でおわり。

 

 

 

 ……ビーム? と由香だけでなく殆どの人間が思い、その件のパンダに目を向けたけれど、パンダはかわいこぶって見えない何かと戯れていたので、皆釈然としない思いを抱えながらも黒い球体に視線を戻した。

 

 

 

『ゆがわら』0点

 

 まもってもらいすぎ。

 

 Total 0点

 あと100点でおわり

 

 

 

 私は湯河よ! と再びツッコミを入れそうになったが、その後の文字列を見て、由香はグッと息を呑んだ。

 

 由香はゆびわ星人編、そしてオニ星人編と二つのミッションで生き残ったが、実は一体も敵を倒しておらず、当然一点も点数を稼いでいない。もっと言えば、武器を持ったことすら、無い。

 

 ただ、守ってもらっていただけだ。

 

 強い人に――強者の背中に、隠れていただけだ。

 

 虎の威を借りた、只の卑怯な狐だ。

 

「…………」

 

 由香は、ちらりと東条を見て、そして部屋全体を見渡す。

 

 あれだけぎゅうぎゅう詰めだった部屋は、随分と広くなっていた。

 

 きっと、たくさんの人間が死んだのだろう。殺されて、生還することが叶わなかったのだろう。中にはきっと、敵の星人に、勇敢に立ち向かった人も、きっと居たのだ――自分と違って、戦った人が。そして、死んだ、戦士(ひと)が。

 

「………っ」

 

 由香は、ギュッと唇を噛み締めて、黒い球体の採点の続きに注視した。

 

 

 

『闇天使~ダークエンジェル~』50点

 

 Total 61点

 あと39点でおわり。

 

 

 

 ざわっ、と沈黙で満ちていた室内が騒めいた。

 

 

「五十点……っ」

「凄いですね、新垣さん!」

 

 和人と渚がその点数に瞠目し、陽乃はあやせに笑顔でにじり寄る。

 

「やるじゃない、新垣ちゃん! もしかしてあの後、幹部クラスの敵と遭遇したりしたの?」

「……ええ。あなたがわたしに押し付けた敵は、とんでもない変態でしたよ」

 

 あやせは笑顔の陽乃に、これまた綺麗な笑顔で返した。

 

 その笑顔は、近くで見ていた和人と渚がゾッとし、バッと顔を逸らすくらい綺麗だった。怖すぎる程に。

 

 ふふふ、ふふふ、と言ったお上品な笑い声が背後から聞こえる中、和人と渚と由香は黒い球体にかぶりつくように採点を見る。

 

 

 

『性別』60点

 

 Total 71点

 あと29点でおわり

 

 

 

 再び、室内に感嘆の声が漏れる。

 

「六十点か! 凄いな、渚!」

「凄いです、渚君!」

 

 和人とあやせがまるで自分のことのように喜び、祝福する。

 渚は二人に褒められ照れくさそうにしながら、そっと東条の方を見る。

 

 東条は、渚を見てにやりと笑って――

 

「あの炎の奴を倒したんだ。お前がすげぇのは当たり前だろ」

 

 渚はその言葉に、「ありがとうございます!」と笑った。

 

 そして、次の採点は、その東条だった。

 

 

 

『トラ男』62点

 

 Total 98点

 あと2点でおわり

 

 

 

「ろくじゅ――いや、それより!」

「九十八点……ですか。おしいですね」

「後、二点……」

 

 東条の点数には、歓声というよりも感嘆の息が漏れた。

 解放まで、あと二点という僅差。六十二点という点数よりも、あと二点だったのにという気持ちになってしまうスコア。

 だが東条本人は特に気にした様子もなく、本人がそんな調子なので由香は溜め息をもらし、他のメンバーは苦笑しながら、次の採点へと進んだ。

 

 

 

『魔王』120点

 

 Total 120点

 

 

 

 100てんめにゅ~から 選んでください

 

 

 

「――――な」

「――――え」

「うそ……」

 

 和人と渚とあやせが絶句する。由香も呆然として、東条ですらその戦士に目を向ける。

 

 その視線を一身に受けた美女――雪ノ下陽乃は、その瞳は魔王に相応しい自信と迫力を放ちながら、威風堂々とまるで動じることなく屹立していた。

 

 だが、和人達には信じられない。

 

 何故なら、彼等はつい一時間ほど前、この部屋で見ているのだ。

 

 彼女が、雪ノ下陽乃という()()が、半年振りに生き返った場面を。彼女がつい一時間ほど前まで死人であったという証拠を。

 

 そして――点数が0からの再スタートとなった場面を。

 

 それなのに、彼女は、()()()()()()()()()()()で、ノルマの100点を大きく超える120点を叩き出した。

 

 

 これを――偉業と呼ばずに、何だというのか?

 

 

 これが――異常と呼ばずに、何だというのか?

 

 

 そして、黒い球体の表面には、本日二度目の100点メニューが表示される。

 

 

 

【100てんめにゅー】

 

【・きおくをきされてかいほうされる】

【・つよいぶきとこうかんする】

【・めもりーからひとりいきかえらせる】

 

 

 

「ふ~ん。これが噂の100点メニューか」

 

 そう言って陽乃は、まるでウィンドウショッピングをするかのように黒い球体の前でふんふんと鼻歌を歌いながら、楽しげにメニューを吟味すると――

 

「う~ん、そうだね。本当なら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――」

 

 と陽乃は、由香にとっては瞠目するようなことをあっさりと言った。

 

 え?

 

 本来ならば、ここで真っ先に選ぶのは一番の解放ではないのか? 皆、それを目指して戦っているのではないのか?

 

 だが、陽乃のその言葉に、由香以外にそんな反応を示す者はいなかった。

 一様に冷たく、静かに、異論を挟むことなく陽乃の選択を待っている。

 

 由香はその空気に戸惑っていると、陽乃は「よし、決めた」と言って――後ろの壁に、ずっと凭れ掛かったままの、八幡を明るく呼びかけた。

 

「ねぇ、八幡――八幡は、誰か生き返らせたい人はいない? ――八幡が、選んでいいよ?」

 

 その行為には、さすがに由香以外のメンバーも大きくどよめいた。

 

 八幡は陽乃と目を合わせる。その目は、その(まなこ)は、これまで以上に、八幡のどんよりと濁った瞳に慣れてきていた和人達ですら、改めて恐怖を覚える程に、最早腐敗と言うのも言葉が足りない程に不気味だったが、恐怖だったが、陽乃は一切嫌悪感を見せずに、ただいつも通りに、魔王の笑みを向け続ける。

 

 そして、八幡は、ゆっくりと、この部屋に転送し(かえっ)て来てから一度も開いていなかった口を開いた。

 

「……解放は、選ばなくていいんですか?」

「当たり前だよ。分かってるくせに」

 

 そう言って、陽乃はくすくすと笑ってみせる。

 

黒い球体の部屋(ここ)での記憶を消されたら、八幡へのこの想いも忘れちゃうじゃない。そんなことになったら意味ないよ。生きてても。八幡も、何百回100点をとっても、解放だけは選ばないでしょう?」

「……ですね」

 

 その時、八幡がこの部屋に来て、初めて笑った。

 それは苦笑、といった感じの小さなものだったが、それでも陽乃にとっては嬉しかったらしく、ふふと少女のようにはにかんだ。

 

 八幡はようやく壁から背を離し「……メモリーを、見せてもらえますか?」と言いながら、黒い球体の前に躍り出た。

 陽乃はその横に寄り添い、「見せて♪」とまるで♪マークが付いていそうな軽い調子で、黒い球体に命令した。

 

 そして黒い球体は魔王の命に従い、粛々とメモリーを表示する。

 

 そこには、今回のミッションで亡くなった、ストーカー、リュウキ、平といった面々もあり、渚やあやせがピクリと反応したが、表情に変化は起こさなかった。

 

 そして、やはり、そのメモリーの何処にも――比企谷小町の顔写真は無かった。

 

「……………………」

 

 ガンツのメモリーに記録されているのは、あくまでガンツが生命に関与したもの――この部屋の住人として登録されたものだけだ。

 

 小町は、只の巻き添えで死んだ。八幡が殺した。

 

 今回の『池袋大虐殺』で亡くなった、無関係に死んで、無意味に死んで、無価値に死んだ、大勢の一般人の中の一人に過ぎない。

 

 ガンツには何も関係ない。ガンツですらどうすることも出来ない。

 

 小町は死んだのだ。死んだ者は、生き返らない。――黒い球体が、手を差し伸べない限り。

 

(……俺みたいな人間は助けておいて、小町には興味を示さないんだな、お前は)

 

 八幡はガンツを冷たく見据えるが、黒い球体は何の反応も示さない。

 

 只の黒い球体でしかなかった。

 

 八幡は、再びそのメモリーに目を落とす。

 

 そして八幡は、ポソリと――何かを黒い球体に囁いた。

 

「……………」

 

 その囁きにも黒い球体は何の反応も示さなかったが、八幡はしばし、その腐りきって濁りきった瞳で黒い球体を見つめ続けて――そして、しばしの黙考の末、陽乃に振り向き、ポツリと、言った。

 

「……陽乃さん。生き返らせたい奴ですが――」

 

 陽乃は、八幡の言葉に首を傾げて、それでも「まぁ、八幡が言うなら」と、あっさりそれを選択した。自分が命懸けで稼いだ100点の使い道を、あっさりと簡単に決定した。

 

 そして、黒い球体から再び電子線が照射される。

 

 部屋の住人達の注目が――和人が、あやせが、渚が、東条が、由香が、パンダが。

 

 比企谷八幡が、雪ノ下陽乃が、その瞬間を目撃する。

 

 

 

 今、此処に、この黒い球体の部屋に、一人の戦士が――一体の、美しき“鬼”が“生還”した。生きて――生き返って、還ってきた。

 

 

 




大勢の命が無価値に死んだ、一人の鬼によるこの革命の夜に――――あの“鬼”が、還って来る。


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なんで僕を生き返らせたの?

 

 生まれた時から異質だった。

 

 周囲の大人達は、そして子供達は、彼をいつも畏れの篭った瞳で嫌い続けた。

 

 彼という人間の手を怯える様に弾き、彼という人間から一目散に逃げ出し、彼という人間を己から切り離した。

 

 自分の身を護る為に彼という存在を迫害した。彼は、自分達とは()()だと、同じ人間である筈の少年に対し、まるで天敵を畏れるかのように。

 

 

 誰からも死を願われた少年だった。この世の全てを敵に回してしまう少年だった。

 

 何かを犯したわけではない。何かを誤ったわけではない。ただ――少年は異質だった。

 

 少年の何かが異質で、少年の全てが異質だった。異なっていた――人間とは。それでも、少年は人間で、だからこそ誰よりも何よりも異質だった。

 

 化け物ではない何か。人間の姿をした人間である何か。人の道から外れている何か。生まれたその時から堕ちている何か。

 

 

 古来より、人間達は、そんな、理解出来ない、けれど途方もない程に恐ろしい何かを――“鬼”と、呼んだ。

 

 

 ただ、漠然と、恐怖の対象として、悪い物の権化として、人の身では叶わぬ厄災として――自分達とは違う、化け物と貶めた。

 

 

 徹底的に弾き、徹底的に逃げ出し、徹底的に嫌い、徹底的に切り離す。

 

 そして、願う。願う。願う。

 

 鬼の滅びを。鬼の死を。鬼が、その所業の――化け物である、報いを受けることを。

 

 

 少年は、ただ、異質だっただけなのに。

 

 

 

――こんなとこで、つまんなく死ぬな。

 

 

 

 だから――初めてだった。

 

 死ぬな、と言われたのは。

 

 異質な自分を、“鬼”であるこの存在を、受け入れられたのは。

 

 

 

――世界の全てが君を認めない。この世の全てが君の敵だ。

 

 

――クソッタレなこの世界は、“神”のクソ野郎が()()()()この世界は、異質なものを決して受け入れない。あの野郎と同じく器の小さい箱庭だ。

 

 

――でも大丈夫。安心して歓喜するといい。それでも僕は、君の“同種”だ。全宇宙でただ一人、僕だけは君を受け入れる。

 

 

――故に、安心して記憶を喪失するといい。君の存在も、君の名前も、君の記憶も。ぜーんぶ、僕が預かって置いてあげるから。

 

 

――再会の時は、僕のちゅー(ファーストキス)と一緒にお返しするぜ。

 

 

――だから、それまで、つまんなく死ぬなよ。“少年”。

 

 

 

『……………』

 

 死の、間際。

 

 美しい“鬼”の少年は、倒壊したアパートの廃材の中、身体の中心を太い木材に貫かれながら、真っ暗な夜空を見上げながら、この夜空のように真っ暗に笑う“少女”の幻影を見る。

 

 この少女は誰なのだろう。夜空のように笑い、けれど、夜空の中に浮かぶ星のように輝く、この“異質”な少女は、何者だろう。

 

 

 自分は、この少女を知っているのだろうか? 居たのだろうか? “彼”以外にも、こんな自分を、鬼であるこんな自分を、受け入れてくれた存在が。

 

 

 僕は、彼女を、裏切ってしまったのだろうか。

 

 

 

『死にたくないなぁ……』

 

 

 

 生きたい。

 

 

 改めて、異質な少年は、鬼の少年は、そう思った。そう思えた。こんな自分でも、そう思うことが出来るのだと、少年は薄れゆく意識の中で、そう笑った。

 

 つくづく、()()()と。取り返しがつかなく、どうしようもなくなってから、こんな未練を抱えることになる辺りが、特に。

 

 負けたことなど殆どない。

 誰にも選ばれないくせに、選ばれし者であるかのように。

 世界からこの上なく嫌われている分際で、世界から選ばれたかのように――能力だけは、卓越したチートの持ち主だった自分は、敗北を知らずに生きてきた。

 

 けれど、最後の最期には、圧倒的な敗北の中で、後悔と未練に浸りながら死ぬ。

 

 本当に()()()末路だと。少年は、笑う。

 

 

『……………また、会いたいなぁ』

 

 

 異質な少年は、鬼の少年は、友達になれるかもしれなかった少年と――顔も名前も思い出せない、夜空の星のような少女の面影を脳裏に描く。

 

 こんな気持ちで、こんな後悔と未練の中で逝ける、最高の末路を与えてくれた、黒い球体に感謝しながら。

 

『いつか……また会えたら…………今度こそ………僕は――』

 

 

 少年は、名もなき鬼の少年は。

 

 夜空に輝く星に向かって手を伸ばし、()()()のことを言い、笑いながら死に絶える。

 

 

 その時――ザッ、と。

 

 誰かが、何かが、少年を見下ろすように目の前に立っていた。

 

 

『……………だ――』

 

 

 ザクッ――と。

 

 鋭い刃が、木材に貫かれていた少年の躰を突き刺した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 夜空の星とは全く違う、暴力的な人工の光が網膜を焼く。

 

 異質な何かを抱える美しい“鬼”が、ゆっくりとその目を開けた。

 

 

 黒い球体が新たに――再び、この部屋に召喚したのは、白いパーカーを纏った少年だった。

 

 

 顔つきは端正というよりは可愛らしい顔立ち。だが、その放つ雰囲気は、八幡や陽乃といった人種と同類のような、底知れない過負荷な色を持っていた。

 

 少年は、目の前の光景に目を瞠っていた。

 この部屋で、この少年のことを知っているのは、八幡と黒い球体しかいない。

 生き返らせた陽乃ですら、この少年のことは全く知らなかった。

 

「――あ」

 

 少年は八幡の姿を見つけ――そして、その変わり果てた姿を見て、全てを察したようだった。

 

「……そっか。僕はやっぱり死んだんだね」

「ああ。よくも俺に全てを擦すり付けて死にやがったな、この野郎」

「まったく、命の恩人で大親友の僕に対して酷い言い草だね」

「重いんだよ、色々と。何だよ、あの置き土産。おかげで夜しか眠れやしない」

「健康的じゃないか。……それで――」

 

 復活した鬼は、生き還って舞い戻った異質は、八幡以外誰も知っている人間がいないこの黒い球体の部屋で、臆することなく、堂々と中心に立って見渡しながら、その面々の顔を見遣りながら「……ふ~ん」と呟き、八幡に問い掛ける。

 

「――あの日から、どれくらい経ってる?」

「半年以上。……まぁ、もう時間がない」

「だろうね。これだけの人材を集めたんだ。ガンツもまとめに入ってるね」

「お、おい! ちょっと待ってくれ!」

 

 八幡と白いパーカーの少年が二人にしか分からない話をしていると、和人が間に入り、会話を強引に中断させた。

 

「――誰?」

「……それはこっちの台詞なんだが、まぁいい。ちょうどいい。俺の名前は桐ケ谷和人だ。アンタは?」

「ん? ……あ~、ええと、ゴメンね。僕、自分の名前、覚えてないんだ」

「はぁ!?」

 

 少年の驚愕発言に、和人だけでなく渚達も呆気に取られる。ただ一人、八幡は呆れた口調で――

 

「お前、マジかよ。それは俺も知らなかったわ」

「へへ。驚いた?」

「引いたよ。ドン引きだ。まぁ、お前だからな」

「まぁ、僕だからね。そんなわけで、僕のことは――」

 

 そうして、黒い球体にその名前が再び表示される。

 

 

 

『厨房』0点

 

 Total 0点

 あと0点でおわり。

 

 

 

「――うん。『中坊』って呼んでね。あ、漢字はこの失礼な奴じゃなくて、“中”学生の“坊”主で、中坊だからね!」

「……いや、その中坊も蔑称な気が――」

 

 あやせが疲れたような顔をしていたが、それ以上は口を噤んだ。

 中坊には何を言っても無駄だと、この短時間で悟ったらしい。

 

 

 

『魔王』20点

 

 Total 20点

 あと80点でおわり。

 

 

 

「――あれ? アンタ、いつの間に魔王なんてカッコいいニックネームになったの?」

「……俺じゃねぇ。お前を生き返らせてくれたのは、俺じゃなくてこの人だ」

 

 そう言って八幡は、陽乃を目で示した。

 中坊は、陽乃を見て「……へぇ」と目を妖しく光らせ、顎に手を当てながらこれ見よがしに意味ありげな笑みを作った。

 

「……お姉さん、只者じゃないね?」

「ふふ、まぁね!」

「おっぱい触っていい?」

「手首圧し折るぞ♪」

 

 何やら一瞬で意気投合したようだった。

 この二人を生き返らせたのは結果として八幡だったが、なんだか厄介なコンビが出来たなぁと少し遠い目をしていた。

 

「――それで? なんで僕を生き返らせたの?」

 

 中坊がそうニコニコ顔で問いかけると、陽乃は八幡と腕を組んで、その豊満な胸を彼の腕に押し付けながら言った。

 

「決まってるじゃない。八幡がそうして欲しいって言ったからよ」

「……陽乃さん。離れてください」

 

 中坊は、その光景に一瞬、中坊にしては珍しくぽかんと呆然とすると、すぐにお腹を抱えて笑う。

 

「――は、ははははははははっはっはっはははははっはっはっはははははっははっはははは!! な、なるほど、納得したよ。万事了解! なるほどなるほど、これは面白い!」

 

 そう言って、中坊は二人を見て、うんうんと理解する。

 

(……なるほどね。確かに予想外だったけど、そういう風にみると、これ以上ないくらいぴったり嵌る。……二人とも形が歪過ぎて、お互い以外じゃあ全く嵌らないだろうねぇ。いやぁ、すごい組合せだ)

 

 中坊にしては珍しくその考えを口に出さなかったのは、腕を組む二人を、複雑な、だがとても黒い感情を込めて睨み付けている少女がいることに、中坊が気付いていたからだった。

 

 勿論、それはその少女を慮ったというわけでは全然なく、そっちの方が面白そうという理由が100%だったが。

 

(――ふふ。随分と面白いメンバーが集まってるな~。カタストロフィまでに残された時間でも、かなり楽しめそうだ。生き返らせてくれたことに感謝しなくっちゃね)

 

 そして、中坊という強烈なキャラの帰還により忘れかけられたが――まだ一人、ガンツに採点されていない少年が残されていた。

 

 じ、じじという音と共に、ガンツが最後の採点を開始する。

 

 

 その結果は――

 

 

 

『くろのけんし』70点

 

 Total 130点

 

 

 

 100てんめにゅ~から 選んでください

 

 

【100てんめにゅー】

 

【・きおくをきされてかいほうされる】

【・つよいぶきとこうかんする】

【・めもりーからひとりいきかえらせる】

 

 

 再び、どよめきに沸く室内。

 

 一度の採点で二度目の100点メニュー。

 

 その事態に、渚とあやせは本人よりも困惑した。

 

「き、桐ケ谷さん! やりました! 100点ですよ!」

「……すごいですね。お疲れ様です。桐ケ谷さん」

 

 渚とあやせの言葉に、和人は苦笑で答える。

 

 そして、和人は表情を険しく変え、八幡の元へと歩み寄り、言った。

 

 

「比企谷……お前、他にも生き返らせたい奴はいるか?」

 

 

 その言葉に、渚、あやせ、由香は困惑する。

 

「……………」

 

 陽乃が目を細め、中坊が口元を歪める中、八幡も、その鋭い目つきで、和人に問う。

 

「……どういうことだ? 解放を選ばなくていいのか?」

「……ああ。俺は残る。この部屋から――このデスゲームから、俺はまだ、解放されるわけにはいかない」

 

 和人は自分の右手を――剣を持っていない右手を見つめて、ゆっくりと語る。

 

「……今回の戦争の終わり間際……俺は、あの男と会った。あの吸血鬼に遭った。今日の昼間、ミッションではない現実世界(リアルワールド)の日常で、俺と……大切な人を襲った吸血鬼。アイツは言った。今度会った時は、昼であれ、夜であれ――日常であれ、戦争であれ……殺すと、必ず殺すと言ってきた。宣戦布告してきた。……だから、俺は逃げられない。今、記憶を失って解放される訳にはいかない。……この部屋から、この戦争から――このデスゲームから、俺は逃げるわけにはいかないんだ」

 

 和人は、ギュッと、覚悟を固めるように拳を握り締め、決意を露わにする。決死の覚悟を、露わにする。

 

 渚は、あやせは、心配そうな表情で和人を見つめ、由香はただ戸惑っている。東条は、真剣な眼差しで和人を見据えていた。

 

 陽乃と中坊は感情の読めない瞳で佇み、そして八幡は――

 

「なら、武器は?」

 

 と、抑揚のない言葉で問い詰める。

 

「――そんな因縁の相手がいるなら、尚更、強い武器を手に入れるべきなんじゃないのか? 二番を選ぶべきなんじゃないのか?」

 

 和人は、そんな八幡の言葉に対し、端的に、真っ直ぐに告げた。

 

「俺は剣でいい。剣があれば――それでいい」

 

 剣士で在れれば、それでいい。

 

 和人は、八幡のおどろおどろしい双眸から目を逸らさず、決して逃げずにそう答えた。

 

「…………」

 

 八幡には、そんな和人の瞳にも何かが孕んでいるような気がしたが、己には関係のないことだとスルーした。

 

 そもそもが八幡にとって、和人がどう100点を使おうが、特に関与する必要はない。間違っていると分かっていても、誰が考えても愚かな選択をしているとしても、八幡が親身になって説得してやる必要など皆無なのだ。

 

 だから八幡は、最後にこれだけを言っておくことにした。これを聞いても尚、その決意が揺るがないというのなら、コイツの好きにさせようと思った。自分が好きなように、コイツの100点を使ってやろうと思った。

 

 誰が使おうと、誰のを使おうと、100点は100点で、蘇る生命は等価なのだから。

 

「桐ケ谷……お前、昨日の恐竜の時のミッションの終わりに――俺が言ったことを覚えているか?」

「――っ!」

 

 そう八幡が言った時、和人だけでなく、渚とあやせも身体を強張らせた。

 

 そんな彼等に構うことなく、八幡は告げる。容赦なく告げる。

 

「人を生き返らせるという行為は、世界で最も醜く無責任なエゴの押し付けだ。それを行おうとしている人間は、世界で最も傲慢な人間だ」

 

 前回のミッション、己の100点の使い道を語る上で、和人達に突き付けた比企谷八幡の生命観。

 

 死んだ人間を生き返らせる。失った命を取り戻す。

 

 そんな、誰もが一度は夢見て、だが、決して誰にも叶えることの出来ない願望――悲願。

 

 死んでしまった大切な人を取り戻し、もう二度と会えなくなってしまった彼と彼女と再会する。

 

 まさしく奇跡の、神の所業が如き超常の現象。

 

 それを、己の勝手な願いで――願望で、欲望で。

 

 無数の死者の中から、たった一人を選択し、醜悪な己のエゴで黄泉から引き擦り戻した大切な人に、その他大勢の死者の蘇りの権利を掠め取ったという大罪と、そんな無数の命の可能性を背負って、二度目の、蘇った元死者としての人生を歩ませる――そんな罪悪感を背負わせながら生き長らえさせる行為。

 

 そんな大罪で――傲慢で、無責任な罪科。

 

 それが、比企谷八幡の、死者蘇生に対する考察。考え方。

 

「人を生き返らせるってことは――人を殺すこと以上に罪深い大罪だ」

 

 奇跡を起こす権利を行使するということは、奇跡を起こす責任を負うということだ。

 

 超常の力を振るうということは、超常の責任を負うということだ。

 

「死者蘇生――これは、間違ってもそんな綺麗で美しい行為じゃない。……桐ケ谷、お前にその重さを背負えるのか?」

 

 八幡は、桐ケ谷にそう淡々と問い掛ける。

 桐ケ谷は何も言わない。あやせも、渚も、陽乃も、中坊も、誰も、何も言わなかった。

 

「俺は背負う。その覚悟を持って、俺は戦い続け、点数を稼ぎ続け――陽乃さんを生き返らせた。これから先、陽乃さんがどれほどの大罪を犯そうと、俺は共にその罪を背負う。陽乃さんが命を奪ったら、誰かを不幸にしたら、その罪は丸々俺が背負おう。それが、死人を蘇らせるということであり、生命を取り戻すということであり、己の所業に対しての責任だと、俺は思っている」

 

 八幡はそう言い切り、静かに、当然のように言い切り、更に続ける。

 

「だから俺は、陽乃さんが蘇らせた中坊に対しても、同様の責任を背負うつもりだ。もし陽乃さんが、中坊が、世界を滅ぼすというのなら、俺は喜んでその片棒を担ぐ」

「……そこは、責任を持って止めるべきなんじゃないのか?」

「見解の相違だな。俺は、陽乃さんも、中坊も、そういうことをし出しかねない生命(そんざい)だと分かっていて、それでも蘇らせることを選んだんだ。だから俺は、二人の全てに対し、責任を背負う。同罪を背負う。俺は、蘇らせたからと言って、二人に恩を着せて、自分の思い通りに操りたいわけじゃない。二人の意思を尊重する。二人という生命を尊重する。そして、その上で、全てを背負うって決めてるんだ。――その覚悟の元で、俺は生命(いのち)を蘇らせた」

 

 そして八幡は、和人を見据え「さて、桐ケ谷。これが最後だ。もう一度、問う」と前置きし、言った。

 

「そこまで踏まえて、それでもお前は――三番を、死者蘇生を選ぶのか?」

 

 和人は、ゆっくりと目を瞑る。渚も、あやせも、東条も、由香も――皆、和人を注視した。

 

「……ちなみに、一応、念の為に言っておくが、俺はお前が三番を選んだとして、蘇った生命に対し責任は持たない。そいつの行動に一切責任は持たないし、関与しない。お前が俺に権利を放り投げるのは勝手だが、責任はきちんと負ってもらう」

 

 そんな、ある種無責任なことを言う八幡に対し、由香が細めた目を向けるが――逆に見返され、そのあまりに不気味な双眸と目が合ってしまい、「ひぃっ!」と怯え、東条の背中に隠れた。

 

 だが、他の人間で八幡を責めるような目を送るものはいない。

 

 無責任というのなら、自分が溜めた100点の行使を八幡に丸投げする和人や、そして陽乃の方が、遥かに無責任というものなのだろう。先に責任を放り投げたのは彼等なのだから。

 

 それでも、陽乃はその投げた選択でどれほどの不利益を被ろうが、決して八幡に責任を追及するようなことはしないし、ましてや恨みや憎しみを抱くようなことは皆無だろう。

 

 そして、和人も「――ああ。それはもちろん分かってる」と承知した上で、目を開け、八幡を真っ直ぐに見据えて、言う。

 

「――それでも、俺の答えは変わらない。比企谷……お前が、生き返らせる人間を選んでくれ」

「…………………」

 

 和人の言葉に、八幡は何も言わず、その先を促す。

 それに応じ、和人は己の考えを続けた。

 

「比企谷……俺は言ったよな。黒い球体が俺達に強いるあのデスゲームに対し、一番有効なのは数――チームを作ることだって。攻略ギルドを作り、組織的にミッションに当たることが、最も効率的で、有効的な攻略法だって」

「……ああ。だが、その理想論は、今日の二つのミッションで、どちらでも機能しなかったな?」

「そうかもしれない。だがな、比企谷。今日の二度目のミッション――あの吸血鬼のミッション。お前だけで、クリアできたか? お前一人で、奴等を全員、殲滅出来たか?」

「…………」

 

 八幡は答えられなかった。

 

 今回、八幡は黒金ただ一人すら単独で打倒できず、結果として、一人の幹部も倒していない。

 そして、和人達の点数を見る限り、彼等も相当な強さの敵と戦い、そして勝利したのだろう。

 

 そう考えれば、例え時間制限がなかったとしても、八幡が単独で奴等を全滅させることは出来なかった――という結論を、出さざるを得ない。

 

「だから、俺は思う。この部屋のミッションにおいて、このデスゲームにおいて、最も重要なのは装備じゃない――人材だ。強い、仲間だ。……確かに、今回のように、組織的な動きを実現するのは難しいのかもしれない。だが、今回のように、例え連携は出来なくても、それぞれが単独で各個撃破するだけでも、ミッション成功率は大きく違う。だから、必要なんだよ、俺達には。この、人が死ぬのが前提の、多くの犠牲の上で一人の卓越した戦士を生み出す方式の、経験値を溜めるのすら命がけのふざけた戦争(ゲーム)には、一人でも多くの強い味方が、頼もしい戦士が必要なんだ!」

 

 和人は両手を広げて、八幡に示すように言う。

 渚を、あやせを、東条を、そして自分を示すように言う。

 

 八幡に、もうお前は孤独(ソロ)ではないと伝えるように。

 

「――だから、一人でも多くの仲間を増やすんだ! 一人でも多くの……強い仲間を! 心強い仲間を! そして、ここにいる全員の、生き残る可能性を引き上げる! それが、俺の100点の使い道だ!」

 

 和人は、八幡と睨み合うように見つめ合いながら言う。

 

「教えてくれ、比企谷。お前が知る限り、最も生き残る力に長けている死人を。今、再び、俺達と一緒に戦ってくれる脱落者(ルーザー)を」

 

 俺が、ソイツを生き返らせる。

 

 和人はそう言って、八幡の前から、道を譲るように退いた。

 

 黒い球体への道を、示すように言った。

 

 八幡は小さく息を吐いて、その道を歩き「……ガンツ。メモリーだ」と言って、再び死亡者リストを表示する。

 

 そして、八幡は数十秒の熟考の末――その者の名前を口にした。

 

 その名前に対し、陽乃は「……ふ~ん」と無表情で言い、対して中坊は「……本気?」と露骨に顔を顰めた。

 

 和人は、そんな二人の反応を一瞥したが、すぐに八幡の方に向き直り――

 

「――分かった。じゃあ、それでいこう」

「……少しは疑わねぇのか。俺がどうしようもない奴をお前に生き返らせて、それでお前に十字架を背負わせようとしているとか」

「そんなことをしても、お前に何の得もないだろう。……お前は極端だけど、それでもミッションに対しては合理的だ。比企谷は善人じゃないし、むしろ悪人で卑怯者なんだろうけど……腐った奴じゃない」

「……俺の目は腐っているけどな」

「はは、まぁそれは置いといて」

「否定しねぇのかよ」

「とにかく、俺は……まだ、会って二日だけど――お前のことは、仲間だと思ってる」

 

 このふざけた地獄(せかい)で共に戦う、仲間だと思っている。

 

 和人のその言葉に、八幡は、和人の方を向くことすら出来なかった。

 

「…………」

「だからさ――俺は、お前を信じるよ、比企谷」

 

 和人は凛々しい真顔で、八幡ではなく、黒い球体を見据えながら言った。

 

 そして、和人は静かに「……三番」と呟いた後、力強く、八幡から推挙された、その名前を口にした。

 

 会ったこともない、見たこともない、そんな者の名前を。ただ八幡が推薦したからという理由で、己が命懸けで、片腕を斬り落としてまで獲得したその100点を使って、生き返らせた。

 

 この世で最も傲慢な大罪を背負う覚悟で、その生命に対しての全ての責任を背負う覚悟で、見ず知らずの他人を蘇らせた。

 

 ガンツから電子線が部屋の中の虚空に照射され、人体を(かたど)っていく。

 

 こうして、今、再び死者が蘇り、ガンツミッションへと挑む仲間が、新たに一人、黄泉の国から帰還した。

 

 この黒い球体の部屋に――“生還”した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 あの後、新たに蘇った者達も含め、生き残った者達で――次回からもこの黒い球体の部屋に集結し、戦争(デスゲーム)に挑む者達で、桐ケ谷を中心に出来る限りのメンバーで連絡先を交換した。

 

 痛恨にも俺の暇潰し機能付き目覚まし時計のメモリーがまた増えてしまった。……確かに、ここまで来れば深く関わらないなんて下らない意地を張るよりも、こいつ等と有用な情報を交換できる方がメリットになる。こいつ等は、もう必要最低限の知識も能力もあるからな。

 

 そして、全ての採点が終了し、一人、また一人と転送されていった。

 

 既に、この部屋に残っているのは、俺と、陽乃さん、中坊、そして――

 

「……それにしても、意外だったね。八幡があの子を生き返らせるなんて。まぁ確かに、性能(スペック)でいったら、あの子が一番高いか」

「……僕はどうかと思うけどねぇ。僕が死んでからどれだけ強くなったのかは知らないけど、僕が知る限りじゃあ居ても居なくても同じ――いや、色々とうっとうしかったから、居ない方がいいってレベルの奴だったな。本当に大丈夫な訳? 僕がもうちょっとマシな奴を紹介してもよかったけど」

 

 陽乃さんも中坊も、俺がアイツを生き返らせたことに対して、どこか思うところがあるようだった。

 ……確かに、あいつの戦闘力は、ミッションの難易度(レベル)が上がってきた今の戦争(デスゲーム)において、戦力になり得るのかと言われれば疑問符がつくだろう。

 

 勿論、俺もそれは考慮した。

 奴を生き返らせることは当初から頭の片隅にはあったが、それはかなり実現が難しい絵空事だという自覚は確かにあった。

 

 陽乃さんと中坊――この二人は、カタストロフィまでに必ず生き返らせるという確固たる決意があったけれど、それは陽乃さんの協力もあって、思っていたよりも大分早くクリアすることが出来た。

 

 だから、俺は正直、もう誰も生き返らせるつもりはなかった。

 もしカタストロフィまでに100点を稼ぐことは出来ても、それは二番を選んでより強力な装備に使うつもりだった。

 

 今回のオニ星人は、まさしく歴代最強の敵だった。

 これからカタストロフィへと近づくにつれ、奴等と同等がそれ以上の敵と戦うことになるのは避けられないだろう。それに向けて、強い武器はあるに越したことはない。というより戦力増強は必須だ。

 

 そんな意味も兼ねての100点の使い方――三番を選ばないという選択だった。

 

 これからの戦いでは、あいつ等では到底ついていけないだろう。蘇ったところで、すぐに殺されるのがオチだ。

 そんな免罪符という名の言い訳から、俺は、あいつ等のことは見捨てるつもりだった。

 

 無数の命から、たった一つの命を選択して、生き返らせる――他の全ての命を切り捨てて。それは間違いなくこの世で最も傲慢な大罪だろう。

 そして俺は、奴等を切り捨てるつもりだった。陽乃さんと中坊、二人だけを生き返らせて、他の命は切り捨てるつもりだった。

 

 相模に口にした口だけの口約束を、俺は反故にするつもりだった。

 はっ、我ながらクソ野郎だな。ド屑で、下衆だ。

 

 しかし、自分を正当化するつもりなどまるでないが、今、このガンツミッションも佳境を迎えたこの状況で生き返らせても、相模(あいつ)はとてもではないが生き残れないだろう。

 

 時間いっぱい逃げ回れば生き残れるなんて、そんな甘いものでは、最早なくなっているのだ。

 

 ……あの中学生も、いつまで持つか。東条に寄生するというのは良い判断だが、それでもいずれ限界が来るということも、あの顔を見れば本人も分かっているようだったが。……目が合った瞬間、涙目で怯えられたけど、もう悲しいというよりゾクッとしたぜ。不味い、涙目の女子中学生を見てゾクッとするとか、全力で引き返さねば。戻って来れなくなる。

 

 まぁ、つまり、奴を生き返らせることになったのは、俺としてもある意味、予想外な事態だったのだ。

 

 それでも何故、無理矢理に桐ケ谷に武器を選ばせることも、中坊に聞いて過去の猛者を蘇らせることも選ばず、あいつを蘇らせたのか――それは、これから俺がすることに、利用しようと思ったからだ。

 

 それは――

 

「……あれ? わたしたちの転送は?」

 

 陽乃さんが、そんな風に首を傾げる。

 

 既に最後に例の奴が転送されてから数分が経過していたが、まだ、この部屋に残っている三人と、――――は、転送されていない。

 

 中坊はにやりと笑って俺を見る。はっ、気付いたか。

 

「――俺が頼んだんですよ。……ガンツに」

 

 俺の言葉に驚きを見せる陽乃さんと、その歪んだ笑いを更に濃くする中坊。おい、性格の悪さが滲み出てるぞ。

 

 俺は、そんな二人に背を向けて、部屋の隅にいるソイツの元に向かう。

 

 この部屋に残されている、俺、陽乃さん、中坊、黒い球体(ガンツ)――――そして。

 

「…………」

「……なぁ、お前、何者だ? 答えろよ、“()()()”。……いや――」

 

 そいつは、己の目前に迫り、自身を見下ろす俺の方を見ようともしなかった。

 

 この期に及んで、()()()()()()()()()()()()を、俺は嘲笑するように嗤う。

 

 

「――主催者(ゲームマスター)の回し者、って言った方がいいか? このスパイ(ダブルフェイス)野郎」

 

 

 俺の言葉に、パンダは――ゆっくりと顔を上げた。

 




採点が終了した黒い球体の部屋で、比企谷八幡はその獣の本性を暴き始める。


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……頼む。点数が必要なら、100点でも1000点でも、いくらでも稼いでみせるっ! だから――

――このスパイ(ダブルフェイス)野郎

 

 

 この言葉に、ようやくその正体不明の獣の姿をした何かは――獣の姿をした誰かは、顔を上げた。

 

 ……さて。ここからだ。ここからが、ようやくスタートラインだ。

 

 忘れるな。コイツは、ガンツの裏の――()()ガンツの上に立つ、何者かの刺客だ。

 

 一言一言に全霊で気を配れ。一瞬一瞬に全てを懸けろ。――この会話も、この会談も、やはり戦争だ。

 

 何故なら、コイツ等は、文字通り――

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「……スパイ? この……パンダが? どういうこと、八幡?」

「パンダ――だからこそ、ですよ。陽乃さん」

 

 俺はパンダを見下ろしたままで、背後の陽乃さんの疑問に答える。

 

「このパンダは、前回の――いえ、昨日のミッションの時、桐ケ谷達と一緒に、ずっとソロでミッションに挑んでいた俺以外の半年振りの新メンバーとして、この部屋にやってきました。あの時は、桐ケ谷達以外にも、うじゃうじゃと人がいましたからね。まぁ、俺は廊下にすぐさま避難したので、よく覚えてはいませんが――老若男女……子供を連れた家族やヤンキーやギャルやサラリーマン、そして果ては外国人までいました。とにかくバラエティ豊かで、手当たり次第といった感じで……そんな中に桐ケ谷達もいて、初めはアイツ等の強さを際立たせる為にそうしたのかと思いましたが――」

「――それは、そこのパンダを紛れ込ませる為だった、って訳かい?」

 

 俺の言葉に、中坊がドヤ顔で言い放つ。

 ……ウザかったが、話を進める相槌としてはいい返球だったので、何とか平静を保って返す。

 

「……こいつはこんなんだから、どうしたって目立つ。だから、少しでもインパクトを薄れさせる為に、って小細工だったんだろう。俺がソロでやっているところに、いきなりパンダが一頭だけ追加されたら、それは当然警戒するからな。もちろん桐ケ谷達のような強い戦士(キャラクター)を追加するという名目もあったんだろうが……いや、むしろ、だからこそ、俺だけでなくあいつ等も監視対象だったからこそ、あのタイミングで潜入したのかもな」

 

 そう言って、俺は中坊の疑問に答えつつ、更にパンダを見下ろしながら続ける。

 

「……そういう意味では、パンダってのもかなりよく考えられている。潜入を続けるには、どうしたって生き残り続けなければならない。主催者(ゲームマスター)側ならば、戦わなくても生き残れる方法みたいのを持っているのかもしれないが、ずっと死ななければ、いつまでも脱落しなければ、当然部屋のメンバーの目に留まり、注目を集める。それでもパンダなら、誰も深く関わろうなんて思わない。声を掛けようなんて発想は生まれず、正体も探られない。精々が東条のようにペット扱いして戯れるくらいだ。……パンダをペット扱いして戯れるアイツもパないと思うが」

「……それで、八幡はどうして、そのパンダが主催者(ゲームマスター)側のスパイだって、確信を持ったの? まさか、パンダなのに何回も生き残っているからってだけじゃ、ないよね?」

 

 勿論、それだけでもかなり不可解な状況だが、それでも物事に絶対はない以上、そういうこともあるだろうという可能性は捨てられない。パンダが主催者(ゲームマスター)側のスパイだ、なんて可能性よりは、余程現実味がある“偶然”だろう。

 

 だが、それでも――

 

「――俺は元々、ずっと考えていました。この戦争(デスゲーム)を俺達にやらせて、黒い球体(ガンツ)に、そしてその()()()()()()()()()()に、どんな()()()()があるのだろうと」

 

 それは、半年間、ずっと一人(ソロ)で戦争をし続けている間――否、この黒い球体の部屋という地獄に引き擦り込まれてから、ずっと考え続けていたこと。

 

 ガンツの、そしてガンツの裏にいる主催者(ゲームマスター)の目的――思惑。

 

「始めは、星人をこの世界から――地球から排除することなのだと思っていました。その為に、俺達を利用しているのだと。……でも、それならわざわざゲーム形式になんてせずに、その為の専門のチームを――俺達のような素人を使ったりせずに――プロの戦闘集団を雇って、敵の領域(テリトリー)を侵略すればいい。こんなとんでもないテクノロジーを生み出す奴等なんだ。そんな自家用軍隊を作る金や権力なんていくらでも持っているだろうし、手に入りもするでしょう」

 

 これは世の中のことを分かっていない漫画脳なガキの戯言なのかもしれないが、こんな風に不特定多数の死人を玩具にするよりも、よっぽどリスクも低く、効率もいい話のように思えた。

 

「……そんな風に考えて、俺が辿り着いたのは、桐ケ谷と同じ結論でした。主催者(ゲームマスター)は、ただ星人を駆逐するだけでなく、強い戦士(キャラクター)を育成したいのではないかと。その為のゲーム方式で、その為の厳選方式。死んでもそこまで社会的に影響の少ない死人を使い、その中で生き残り、強くなっていく戦士を作成し、育成する。その為のガンツミッションなのではないかと」

 

 それでもまぁ色々と腑に落ちない点はあるが、そこはやはり、製作者の歪んだ思考と――歪んだ嗜好が出ているのかもしれない。効率よりもゲーム性、面白さを重視している点が。こんなふざけたシステムを作る奴なんだ。それくらい頭がぶっ壊れていた方が、却って安心する。もしかしたら、この戦争を全世界の大富豪とかに見せて、何人生き残るのか、誰がボスを倒すのかとかを賭けの対象にして資金を稼いでいるのか――これこそ漫画脳か。

 

 まぁ、その辺はどうでもいい。とにかく重要なことは、奴等が俺達を、育成ゲームの戦士(キャラクター)としていること。

 

 そして――

 

「――()()()()()()()

「っ!」

 

 その単語を口にすると、初めてパンダは反応を示した。

 

 

 俺はそれに気づいたことが相手に伝わるように、だが敢えて触れずに、間を空けて、言葉調子を変えて、そのまま話を――推理を続行する。

 

「……おそらくは、その為の、それに向けての戦士(キャラクター)の育成なんだろう。戦力の整備で、増強なんだろう。――だからこそ、俺はその育成ゲームのプレイヤーがいると思った。戦士(キャラクター)の育成方針を決め、それを随時調整するプレイヤーが存在するのだろうと考えた。そして、俺は当然、それは黒い球体(ガンツ)なのだろうと思っていた」

 

 俺は黒い球体を一瞥し、再び視線をパンダへと戻す。

 

「だが、黒い球体(ガンツ)はどうやらアレ一つだけじゃないことも分かってきた。考えれば当然の話だ。星人が日本の関東だけに生息している筈がない。勿論、ガンツのスペックなら、世界中の何処にでも転送することは出来るのかもしれないが、俺は半年間、一度もそんなエリアに飛ばされたことはない。ならば、この黒い球体が――ガンツが、もしくはそれに類ずるものが、世界中に存在し、それぞれの担当エリアがあるのだと考える方が自然だ」

 

 パンダは何の反応も示さない。だが、俺は構わず持論を展開し続ける。

 

「そうなれば、そんなプレイヤー達を纏める、そんなガンツ達を統括する、もしくは監視する、更なる上位機関が必要になってくる。お目付け役という奴か。それはガンツの製作者か、もしくは専門にそんな仕事をする組織、またはそんな役割の部署の人間――まぁ実際は、人間ではなくパンダだったが」

「…………」

 

 俺は何も言わないパンダに対し「話を戻そうか。どうして、俺がお前を主催者(ゲームマスター)側のスパイとして断定したか、だったな」と、言いながら、パンダのスーツを触る。

 

「……俺は、今日の戦争中、お前のスーツがロケットエンジンを搭載して空を飛んでいるところを見た。それからビーム」

「ええっ!?」

「なにそれ見たい」

 

 俺の言葉に陽乃さんと中坊が食いつく。まぁ驚きだろうが、少し待ってほしい。締めに入ってるんだから。

 

「……あれがガンツのテクノロジーだか、それともお前に何か特殊な改造を施されてるが故の機能なのかは知らない。だが、ビームはともかく飛行ユニットは、完全にスーツの上位装備だった。これは紛れもなく、お前がガンツに “()()()()”を受けている証拠だ。お前がこの部屋に来たのは昨日で、まだ1点しか稼いでいない。100点メニュー二番の、上位装備は持てない筈だ。持つ権利はない筈だ。」

 

 俺は、パンダを見下ろしながら、尚も執拗に問い詰める。傍から見れば、さぞかし腐った目をしていることだろう。

 

 パンダのスーツを触る腕に、思わず力が入るのを感じる。

 

 俺の人生を狂わせた、俺の物語を歪ませた、元凶の――元凶。

 

 さぁ――

 

「――聞かせろよ、パンダ。ガンツがお前を特別扱いする理由を。VIP待遇でお前が迎えられる理由を。……お前は、あのガンツの育成ゲームの現状を把握する為に、俺達を監視し、観察していた主催者(ゲームマスター)側のスパイだ。……それが俺の推察だ。間違っているなら言ってくれ」

 

 俺はそう言い終えると、パンダを冷たく黙って見下ろし、返答を――パンダからの返事を待つ。

 

 中坊も、陽乃さんも、俺達のやり取りをじっと後から見守り、黒い球体(ガンツ)は只の黒い球体のように無機質に鎮座していた。

 

 そして――

 

 

「……ふっ。特別扱いか」

 

 

 そう、低い声で、パンダは呟いた。

 

 陽乃さんは少なからず驚きを示し、中坊は口笛を吹く。相変わらずナチュラルに人をイラッとさせる仕草をする野郎だ。

 

 俺も半ば確信していたとはいえ、見事に日本語を喋るパンダに吃驚し、何とかゆっくりと口を開く。

 

「……渋い声だな。イケボだ」

「お褒めに頂き光栄の至りだ。さて、比企谷八幡よ。色々と好き勝手に言ってくれたが、特別扱いというのなら、君もかなり奴に特別扱いされているのではないかね?」

「……俺が? 黒い球体(コイツ)に? 笑えない冗談だな」

 

 俺がこの黒い球体に今までどんな目に遭わされたのか逐一説明してご覧に入れようかこのモノクロ野郎とパンダを睨み付けると、だがパンダは、パンダ故に表情は変えないが、そのまま黒い球体に視線を移して、言う。

 

「そもそも、面白い戦士(キャラクター)がいるから直接見てスカウトに値するか確かめてくれと言って、私をこの部屋に呼んだのは、あの識別番号(シリアルナンバー)000000080本体だ」

 

 俺はその言葉に、思わずあの黒い球体を見る。……こいつが、俺を?

 

 

 

――【もう ひとりぼっちに されないといいね】

 

 

 

 ……確かにコイツは、俺を他のメンバーとはまた別の括りで見ていたような気もするが、それは単純に俺がこの部屋に最も長く居るからじゃないのか? 事実、中坊はカタストロフィのことを知っていた。それは、きっと黒い球体(ガンツ)から聞いた情報だろう。あんなのネットをいくら漁っても出てくる筈がない。俺もカタストロフィというものを前提に知らなければ、そう分からないような書き方をしている情報(もの)しか、半年経っても集められなかった。

 

 ということは、少なくとも中坊も、奴の言うところの特別扱いを受けていたことになる。

 

 だが、パンダは尚も、俺に言う。

 

「それに奴は、直接の上司である俺の意向よりも、お前の言葉を――言うことを聞いて、こうしてこの状況を作った。それを、これを、特別扱いではなく、何と言うのかね?」

「…………」

 

 確かに、それはそうだ。

 

 このパンダが本当に黒い球体の上司――上の人間、上のパンダだというのなら、只の一戦士(キャラクター)に過ぎない俺の言葉など聞く必要もない。そのまま自室に転送すればよかった。それが本来、黒い球体(ガンツ)が、この部屋の装置として取るべき行動だったのだ。

 

 だが奴は、それを破って、自分達にとって不利にしかない、不利益にしかならない、この会談の――尋問の場を設けた。

 

「全く、本当に戦士(キャラクター)に感情移入し過ぎる部品(おとこ)だ。……まぁいい。それで、比企谷八幡。君は、私に――我々に何を求める? 我々の正体を見破り、明らかにして、そして何を求めるのだ? 比企谷八幡」

 

 俺はそのパンダの言葉に、改めて己の中で思考する。

 

 そうだ。例え、パンダがこのデスゲームの主催者(ゲームマスター)側のスパイでも、いや、回し者だからこそ、こんな場面で正体を見破り、白日の下に晒すことになど、何の意味もない。

 

 こいつ等は、文字通りの俺達の命を握っている。一度死んだ死人である俺達は、こいつ等によって生かされているのも同然なのだ。

 

 だから、俺達はこいつ等を脅すことなど出来ない。

 正体をバラされたくなくば――などというお決まりの展開に持っていくことなど出来ない。

 

 今、ここで、パンダが黒い球体に上司としての強権を発動し、俺のデータを消し去れば、それで俺という人間は本当の意味で死去(デリート)するのだから。

 

 だからここで、俺がこいつ等に求めること――要求すべきこと。

 

 俺は、一度小さく息を止め、そして小さく吐き――静かに、重々しく、ゆっくりと、告げる。

 

「――お前達は、カタストロフィに対して戦力を求めている。……それも、かなり大きな組織として。そうだな」

「ああ、そうだ。我々は、地球を守るための組織として動いている」

 

 その御大層な言葉を、大真面目にパンダが語ることに、少し滑稽さを感じたが、それを俺は表に出さない。

 

 何故なら、俺は今から、そんな彼等の、そんな奴等の――

 

「パンダ」

「なんだ?」

 

 

「俺を、お前達の仲間にしてくれ」

 

 

 俺があっさりとそう言うと、陽乃さんも、中坊も、そしてパンダも息を呑んだ。

 

「この俺を、幾らでも好きなように使ってもらって構わない。地球防衛軍(仮)にでも、何にでもなってやるよ」

 

 しばし、室内は呆然とした沈黙で満たされると、やがて陽乃さんの焦った声や、中坊の笑い声が響き出した。

 

「え、ちょ、ちょっと八幡! 本気なの!?」

「ええ、本気です。どうせ俺はもう、この部屋からの解放なんて望まないんですから。それならば、より色々な事情に詳しい立場になりたいでしょう。だったら、こいつ等の懐に入るのが一番です」

「ははははっははっはっはははっはっはっはっははっははははははわっはははは!!」

中坊(コイツ)、うっせぇ」

 

 俺はそのままパンダに向き直り、改めて言う。

 

「いいだろう? 元々優秀な人材をお前等は欲しがってたんだ。願ってもない話だろうが。俺は使える男だぜ。使われることに関して俺の右に出る者はいないと言っていい。なんせ社畜と社畜の間に生まれた社畜の純血サラブレットだからな。DNAレベルで社畜だ」

「……そうだな。確かに、私は比企谷八幡という戦士(キャラクター)を見誤っていたようだ。単独で私の正体に気付く洞察力。そして自ら組織へ入り込むことを決断する果断さ。……認めよう、比企谷八幡。君は、確かに、私達が求めるに値する、優秀な戦士(キャラクター)だ」

「なら――」

「だが――」

 

 俺の言葉をパンダは遮り、鋭く切り込みながら言う。

 

 

 

「――君のそれは、妹を自ら殺したことからの、自暴自棄な破滅行動ではないかね?」

 

 

 

 パンダの…………その言葉に。

 

 中坊と、そして……陽乃さんが、息を、呑んだ。

 

 

「………はち、…………まん?」

 

 

 俺は、陽乃さんの方を向けなかった。

 

 喉が急激に、干上がるように乾く。指先が痙攣するように震え、視界の景色がぐらりと揺れた。

 

「………………ッ」

 

 そして、唇を小さく噛み締め、胸の辺りを右手で掻き毟るように掴んで、か細い掠れたような声で、パンダに、そして黒い球体に――請う。

 

 そう……俺は………俺が………………求める、ことは――

 

「…………それに、ついて…………俺から、頼みたいことが………ある」

「……なんだ?」

 

 願い、請う。(こいねが)う。

 

 

「ガンツは……メモリーにない人間を……この部屋とは関係ない……無関係な死亡者を――生き返らせることは、出来ないのか?」

 

 

 俺はかつて、思考したことがあった。

 

 いつどこで死ぬか分からない、そんな前日まで、いや、死亡するその瞬間まで、無関係だった人間を、無理矢理転送して、この部屋に引き擦りこんで、関係者にすることが出来たガンツなら、メモリーの一葉にすることが出来たガンツなら――

 

 

――世界中の人類全てを関係者に出来る。つまり、ガンツは全人類を支配下に置いているのではないのか?

 

 

 そんなふざけた、けれど、ガンツという規格外のオーバーテクノロジーならば、どんな人間が、いつ、どこで死んでも、いつでも関係者に――この部屋に引き擦りこめるような、そんな仕掛けを施しているのではないかって。支配に置いているのではないかって。

 

 ならば――それならば。

 

 例えこの部屋の住人ではなくとも、ガンツの中にはデータがあって、バックアップがあって。

 

 

 それで、小町を――俺が、殺した、殺してしまった小町を、妹を、たった一人の妹を、死んだ妹を、もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら。

 

 だから俺は、それは、きっと俺が、求めて、それを、それだけを求めて、もし、きっと、俺は必ず、どんな、どんなことだって、絶対に絶対に絶対に絶対に。

 

「……頼む。点数が必要なら、100点でも1000点でも、いくらでも稼いでみせるっ! だから――」

「――残念だが」

 

 パンダは、冷たく、そんな俺の無様な足掻きを切り捨てる。

 

「奴が――黒い球体が生き返らせるのは、戦士(キャラクター)だけだ。それも、厳密には生き返らせているわけではない。複製(バックアップ)したデータを基に取り出しているだけだ。故に、データが残っていない無関係な人間を生き返らせることは出来ない。黒い球体が戦士を回収するのは死亡時だけで、その時、初めて、人間(ひと)は黒い球体の支配下に置かれる。戦士(キャラクター)となるのだ」

 

 パンダは、淡々と、獣故の無感情な瞳のまま言った。

 

 

 

「お前の妹は、決して取り戻すことは出来ない――これは真理だ」

 

 

 

 俺は、その言葉に――パンダが語る、世界の残酷さに、だらんと腕を垂らして、がっくりと項垂れる。

 

 

 はっ……だよなぁ。そんなに甘くねぇよな。世界が俺に、優しい筈がねぇよなぁ。

 

 ……初めっから、そこまで期待していたわけではなかった。それでも、僅かでも希望があるなら、それに縋らずにはいられなかった。

 

 

 ……小町。小町。小町。小町。

 

 

 

――幸せにならないで死んじゃったら、絶対に許さないよ! 小町的に超ポイント低いんだからね!

 

 

 

 ……………お前を失って。お前を殺しておいて。

 

 

 俺にどうやって、幸せになれっていうんだよ。お兄ちゃんを、買い被り過ぎだ。

 

 

 憎たらしい……小憎たらしい、妹め。

 

 

「……それで、どうする? 残念ながら、私達は君の願いを叶えることは出来ない。それでも、君は私達の仲間になるか?」

 

 パンダはそう問いかける。

 

 俺は、左目から涙を流しながら、顔を上げ、パンダを見据え「……もう一つ、頼みたいことがある」と、言った。

 

「……言ってみろ」

「……ガンツは、このミッションで死亡者が生まれた時、脱落者が生まれた時、そいつの周囲の人間に、その存在に対しての記憶処理を行うよな。それは、ガンツの支配下などは関係ない。それこそ、全世界の人間に対して行える処理の筈だ」

「……ああ。それがどうした?」

 

 俺は、顔を上げ――何処か遠くを見据えながら、言った。

 

 

 

「俺がお前等の仲間になる――それと引き換えに、一般人から俺に対する記憶を消してくれ」

 

 

 

 俺のその言葉に、再び陽乃さんが息を呑む。

 

 だが、俺はそちらを向かず、真っ直ぐにパンダを見据えながら言った。

 

「――可能か?」

「……それは、もちろん可能だが、出来るのは死亡者に対してと同じ程度の強度の記憶操作だ。事実関係は消えず、万が一、君が対象と接触したら、直ぐに揺らぐ程のものでしかない。それでも構わないか?」

「ああ。大丈夫だ。それで……十分だ――」

 

 俺は、きっと、穏やかな笑みを浮かべながら――その言葉を……言えたと思う。

 

 

「――俺は、もうあいつ等の元へは戻らない。お前達の組織の為、そして地球の為に、この身を、残りの生を、精一杯――“生”一杯、尽くしてやるよ」

 

 

 俺がそう言うと、パンダはただ静かに冷たく俺を見据え「……了承した」と呟く。

 

 その時、陽乃さんが俺の両肩を掴み、自らの方へ向き直らせた。

 

「どういうことっ!? なんで……なんで八幡がっ! どうして……なんで! どうして! なんでっ!!」

 

 陽乃さんは、俺が初めて見る程に動揺し、困惑していた。

 

 何かを聞こうと口を開いて、けれど、瞳に涙を溢れさせて、ぐったりと俯く。

 

 そして、その状態で、ぽつりと、吐き出すように言った。

 

 

「………雪乃ちゃんは? 雪乃ちゃんは……どうするつもり……?」

 

 

 陽乃さんは、唇を噛み締め、何かを堪えるように言った。

 

 俺は、そんな陽乃さんに、懺悔するように――やっと、告げる。

 

 ようやく告げる。遂に、俺は――この罪科を、陽乃さんに晒す時が来た。

 

「………雪ノ下にとって、最早、俺は害でしかありません。俺は、雪ノ下を傷つけ――この上なく、無残に……壊してしまった」

 

 俺の言葉に、陽乃さんはバッと顔を上げる。

 

 驚愕と、瞳一杯に困惑を浮かべる、そんな陽乃さんに、俺は静かに告げた。

 

「……明日、陽乃さんに、この半年間にあったことを――俺が、雪ノ下にした所業の、全てをお話します。……その上で、あなたが俺を殺すというのなら、望む所です。望んで、止みません。……あなたが俺から離れるというのなら、それも受け入れます。……だから、陽乃さん。こんなこと、俺に言う資格などありませんが――」

 

 ああ、救えない。どうしようもなく救いようがない。

 

 やっぱり俺は、性根の芯から腐り果てている。

 

 こんな時に、こんな場面で、こんなことをしておいて、こんな感情を抱くなんて。

 

 俺は、やっと、やっと――

 

 

「――雪ノ下を、よろしくお願いします」

 

 

 陽乃さんは、そんな俺の言葉に、そして、きっと、そんな感情を隠すことなく表している、俺の腐った目と表情に――泣き崩れ、俺にしがみ付きながら座り込んだ。

 

 ……俺は、こんな陽乃さんを初めて見た。

 

 俺が、陽乃さんをこんな姿にして、陽乃さんにこんな思いをさせた。

 

 託されたのに。今わの際に、託された願いを、俺が踏み躙った結果だ。報いだ。

 

 ああ、やっと。やっと。俺は――やっと。

 

「…………………………」

 

 だから、全てを終わらそう。

 

 俺という存在から、みんな、みんな、解放の時だ。

 

 俺は、陽乃さんを振り切るようにしながら、黒い球体の元に歩み寄り、そして、そっと撫でる。

 

 

「……由比ヶ浜」

 

 

 由比ヶ浜。お前はきっと、自分を責めるだろう。

 

 俺が小町を託したことで、それを成し遂げることが出来なかったと、己を責め続けるだろう。

 

 狂う程に、壊れる程に、己を責め続けるだろう。

 

 小町を、そして俺を、探し続けるだろう。

 

 俺は、そんなお前を見たくない。

 

 

 だから――

 

 

「――ガンツ。……やってくれ」

 

 

 

――さよならだ、由比ヶ浜。

 

 

 

 そして、黒い球体に【でりーとちゅう】の文字列が浮かんだ。

 




そして、遂に――やっと。比企谷八幡は、“彼女”を――解放する。


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どうか、幸せになってほしい。

 怪物が、そして黒い球体の戦士達がいなくなった池袋。

 

 

 その崩壊した街のとある路地裏で、その綺麗な手をズタズタに傷つけ、血で真っ赤に染めながら、由比ヶ浜結衣は瓦礫と格闘し続けていた。

 

 

「小町ちゃん……小町ちゃん……小町ちゃん……」

 

 

 既に手の感覚はない。

 

 疲労と恐怖で意識が朦朧としだし、目の焦点すら合っていない。

 

 

 それでも由比ヶ浜は、手を休めようとしなかった。

 

 

 それは、全て、比企谷八幡に託されたから。彼から頼まれたから。

 

 

 あの奉仕部(ばしょ)を、取り戻す為に。あの三人の、特別な空間を、掛け替えのない時間を。取り戻す為に。

 

 

「………小町ちゃん………小町ちゃん……っ…………………ヒッキー…………………ひっきぃ…………」

 

 

 だから――だから、由比ヶ浜結衣は――

 

 

 

 

 

――――じ、じじ。

 

 

 

 

 

「――――え?」

 

 

 今、一瞬、頭の中に何かが入り込んだような気がした。

 

 

 脳裏に描いた、比企谷八幡、雪ノ下雪乃、そして自分――由比ヶ浜結衣が、柔らかく微笑み、和やかに会話し、温かい空気が流れる、幸せな放課後の掛け替えのない時間。

 

 

 その映像が――その記憶が、ノイズが走ったように、揺らいだ、気がした。

 

 

 由比ヶ浜は、思わず瓦礫から手を放し、血で染まった両手で頭を抱える。

 

 

「……なんで……なんで?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ごめんな、由比ヶ浜。

 

 

 すまない。本当にすまない。

 

 

 俺は、お前との約束は、結局、何一つ守れなかった。

 

 

 ハニトーを食べに行くことも。奉仕部(あのばしょ)に帰ることも。

 

 

 

 お前の想いに応えることも、何一つ。

 

 

 

 ただ逃げ続け、ただ傷つけ続けるばかりだった。

 

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

――――じ、じじ、じじじ。

 

 

 

 

 

 揺らぐ。揺らぐ。揺らぐ。

 

 消える。消える。消える。

 

 

 由比ヶ浜の頭の中の綺麗な映像(きおく)にノイズが走り、何かプロテクトのようなものを張られ、頭の奥深く――手の届かない、決して引き出せない程に深く、深く、奥深くに、大切な記憶が消えていく。沈んでいく。

 

 

 由比ヶ浜の大切な、取り戻すと誓った、いつかきっと、戻ってくると縋っていた、大好きな二人との、掛け替えのない思い出が、積み重ねた時間が、絆が――

 

 

 

――比企谷八幡との、記憶が、消えていく。

 

 

 

「いやぁああああ!!! いやぁあ!! いやぁぁぁあああああ!!! 消さないで!! やめて!! お願い!! いかないでぇぇぇえええええええええ!!!!」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 だから――もう俺のことは待たないでくれ。

 

 

 一刻も早く、こんな男のことは忘れてくれ。

 

 

 由比ヶ浜結衣――お前は素敵な女の子だ。

 

 

 俺のせいで、俺なんかのせいで、心にも、体にも、消えない傷を残してしまったけれど。

 

 

 そんな傷ついた心を癒して、そんな消えない背中の傷ごと、お前を愛し、幸せにしてくれる。

 

 

 そんな男が、お前の元にきっと現れる。

 

 

 そんな素敵なお前に惹かれる、そんなカッコいい男が、必ずきっと現れる。

 

 

 

 だから――だから。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

――――じ、じじ、じじじ、じじじじじじ。

 

 

 

 

 

 あの日――飼い犬(サブレ)を、身を挺して守ってくれた。

 

『いちおーお礼の気持ち? ヒッキーも手伝ってくれたし』

 

 

 あの日――職場見学の時、冷たく突き放された。

 

『……気にして優しくしてんなら、そういうのはやめろ』

 

 

 あの日――誕生日プレゼントにもらった犬の首輪を、自分の首に嵌めて恥ずかしい思いをした。

 

『――っ! さ、先に言ってよ! バカっ!』

 

 

 あの日――花火大会の帰り道、少し距離が縮まった気がした。

 

『ううん、そんなことない。だって、ヒッキー言ってたじゃん。事故がなくても一人だったって。事故は関係ないんだって。……あたしも、こんな性格だからさ。いつか悩んで奉仕部連れてかれてた。で、ヒッキーに会うの』

 

 

 あの日――文化祭のクラスの出し物の受け付けで、一緒にハニトーを食べようと約束した。

 

『違うよ。待たないで、……こっちから行くの』

 

 

 あの日――修学旅行での竹林で、自分ではない別の女の子へと告白を聞いて……胸を痛めた。

 

『ああいうの、やだ』

 

 

 あの日――生徒会選挙の依頼を解決し……何かを間違えてしまった、あの日。

 

『ヒッキーも頑張ったよね』

 

 

 

 消える。

 

 

 

『あたしの大切な場所、ちゃんと守ってくれた』

 

 

 

 消えてしまう。揺らいでしまう。なくなって――しまう。

 

 

 

『全部、ヒッキーのおかげ』

 

 

 

 思い出が、記憶が――彼が、消えてしまう。

 

 

 

『……罪悪感って消えないよ』

 

 

 

「……いやっ。……やめて、消さないで……」

 

 

 由比ヶ浜は、涙を溢れさせ、血で染まった両手で顔を覆いながら、叫ぶ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 もう、俺のことはいいから。

 

 

 俺のことなんか、待たなくていいから。

 

 

 俺なんかの為に――その優しい心を、傷つけなくていいから。

 

 

 だから――だから――だから。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

――――じじ、じじじじ、じじじじじじ、じじじじじじじじじじじじじ。

 

 

 

 

 

「……いやっ! いやっっ!! いやぁぁああああああああああああ!!!」

 

 

 

 

 

『……あたしたち、間違えてないよね』

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 どうか――幸せになってくれ。

 

 

 

 お前には、誰よりも笑顔と、幸せがきっと似合うから。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

――――じじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじ

 

 

 

 

 

 由比ヶ浜は泣き叫ぶ。顔を涙と血で汚し、力無く座り込み、何かに向かって手を伸ばしながら。

 

 

 

『これで、ちゃんと元通りになるよね』

 

 

 

「ヒッキーを……あたしから奪わないでっ! ヒッキーを……返してっ! 返してよぉ!! やめてっっ!! ヒッキーぃぃぃいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!」

 

 

 

 

『大丈夫だ。必ず、俺は――奉仕部(ここ)に、戻ってくるから』

 

 

 

 

 比企谷八幡が、いってしまう。

 

 

 由比ヶ浜に背を向け、何処かへと、いなくなってしまう。

 

 

 手を伸ばす。必死に、必死に、手を伸ばす。遠ざかっていく(せなか)に向かって。

 

 

 だけど、届かない。いってしまう。消えてしまう。

 

 

 そして、その遠ざかる映像(きおく)さえ、ノイズで揺らぎ、乱れ、壊れ――深い、深い、場所(どこか)へと消えていった。

 

 

(………………ひっき――)

 

 

 

 

 

――――ブツン。

 

 

 

 

 

 やがて、由比ヶ浜は、その血で塗れた手を下し――意識を失う。

 

 

 

 彼女を発見した警察官達が、彼女を無事に救助したのは、それから間もなくのことだった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 由比ヶ浜。

 

 この上浅ましく、お前に対し、何かを願うことが許されるなら――きっと、許されないのだろうけれど、これだけは、どうか、祈らせてくれ。

 

 

 

 願わくば――どうか、雪ノ下の傍には、居てやってくれ。

 

 俺には救えなかった彼女を、どうか救ってやってほしい。

 

 

 

 

 

 どうか、幸せになってほしい。

 

 

 

 

 

 そんな八幡の、最後の願いが彼女に届いたのか――それは、比企谷八幡が、二度と知る由もないことだった。

 

 

 知る資格の、ないことだった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 千葉県――某所。某マンション。

 

 

 一人の雪の如く儚い少女は、真っ暗な自室で、自分のベッドの上で、携帯電話の待ち受け画面を眺めていた。

 

 

 ただ、ただ、眺めていた。そこに映る、一人の腐った双眸の男の写真を。

 

 

 その男を眺め、その男を想い、己の傷が開かないように、必死に、必死に逃避する。

 

 

 彼女という存在は、最早、そうしていなければ耐えられない程に壊れてしまっていた。

 

 

 

 

 

――じ、じじ、と、ノイズのようなものが走る。

 

 

 

 

 

「――――っ」

 

 

 雪ノ下雪乃は、何故か急に立ち上がり、リビングに出て、あの日以来、ずっと閉め切っていた分厚いカーテンを開け、窓の外の、空を見上げた。

 

 

 雨が上がった夜空の雲の切れ間からは、眩い輝きを放つ月が神々しく昇っている。

 

 

 

「………比企、谷………くん?」

 

 

 

 雪ノ下の手から、携帯電話が滑り落ちる。

 

 

 フローリングに落ちた衝撃により、待ち受け画面の男に罅が入り――真っ暗に、消えた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「………………」

 

 部屋の中を沈黙が満たす中、チーンというレンジのような音が鳴って、ガンツの表面に【でりーと かんりょう】の文字列が浮かんだ。

 

 そして、黒い球体と向き合っていた俺の背中に、陽乃さんの小さな声が届く。

 

「…………だから、あの子を生き返らせたんだね。……自分が、もう総武高に戻らないから。……雪乃ちゃん達のフォローと……護衛の意味も兼ねて」

「……ええ」

 

 俺は、陽乃さんの言葉を肯定しながら、彼女に背中を向けたまま立ち上がる。

 

 

 

「俺は――その為に、()()()()を生き返らせました」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ガンツが虚空に照射する電子線。

 

 その光が、この部屋に新たな人間を蘇らせていく。

 

 

「……こ、ここは……?」

 

 

 まさしく少女漫画に出てきそうな学園の王子様という言葉が相応しいイケメン野郎――葉山隼人が、今、ここに復活を果たした。

 

 葉山は辺りを見渡し、そして、俺の姿を見つける。

 

「……比企谷」

「…………」

 

 俺は、葉山に何も言わなかった。

 

 葉山は俺から目を逸らすと、再び部屋全体を見渡す。

 

 陽乃さん、中坊、そして何故かあの女子中学生(彼女の方も、葉山を見ると顔を青褪めさせ、東条の背中に再び隠れた)を見て反応を示したが、ゆっくりと視線を周囲に巡らせていくと、どんどんその表情を困惑に染めていった。

 

「……比企谷。これは一体、どういうことなんだ? 俺は、あの千手観音に――」

「殺された。ああ、お前は殺された。そして――今は、あれから、半年以上経っている」

 

 そう言うと、葉山は表情を青く染め、がっくりと俯き歯を食い縛った。

 

「…………」

 

 その、陽乃さんとも中坊とも違う、ある意味普通のリアクションに、桐ケ谷はちらりと俺の方を見るが、俺は顔を合わせず、更に畳みかけるように葉山に告げる。

 

「あのミッションで、俺以外の全員が死んだ。そして、陽乃さんは俺が、中坊は陽乃さんが生き返らせた。そして、お前を生き返らせたのは、ソイツだ」

 

 俺がそう言って桐ケ谷を指さすと、葉山は緩慢な動きで桐ケ谷と目を合わせる。

 

「……き、君が?」

「……ああ。俺は、桐ケ谷和人だ」

「あ、えっと、俺は葉山隼人だ。……ええと、どうして、俺を生き返らせてくれたんだ?」

 

 あの葉山を持ってしても、桐ケ谷の行動の理由は訳が分からないだろう。葉山が生きていた時、100点を取るなんてことは、遥か遠い幻想のような目標だった。ある意味、此処にいる誰よりも、100点というものの重みを知っている男だろう。

 

 にも関わらず、そんな100点を使って、見ず知らずの自分を生き返らせる。そのことの意味が、まるで分からないんだろうな。

 

 桐ケ谷は頬をぽりぽりと掻きながら、苦笑して俺の方に向き直り、言った。

 

「――比企谷の勧めだよ。生き返らせるなら、葉山隼人がいいって、そう言ったんだ」

「…………ひき……がや、が?」

 

 葉山が信じられないと言った表情で俺を見る。まぁ、当然だな。

 

 だが、ここで葉山を生き返らせる俺の思惑を、本人に言うつもりはない。別に言ったところで不利益が生じるわけではないのだが、どうせコイツは納得しないし、俺にしつこく食いついてくるだろう。ぶっちゃけ面倒くさい。こいつとそういう論議になって、平行線にならなかったことがない。

 

 だから俺は、話を露骨に反らした。

 

「……そんなことよりも、葉山。お前、桐ケ谷に言うべきことがあるんじゃないのか?」

 

 そう言うと、葉山はハッと表情を戻し、そして、一度瞑目し、普段通りの凛々しい顔つきに戻って、桐ケ谷と向き直る。

 

「――ありがとう。君の御蔭で、俺は、再び生きることが出来る。……本当にありがとう。俺を生き返らせてくれて」

「……ああ。俺のことは、和人でいい。これから、一緒に頑張ろう」

「…………ああっ! 俺のことも隼人でいい。……みんなも。生き返らせてもらった分、精一杯頑張るから、これからよろしく頼むっ!」

 

 葉山は、まるで部活動のキャプテン就任式のような爽やかさで言った。

 

 反応はまちまちだったが、葉山のコミュ力なら、その内すぐにでも馴染むだろう。

 

 そして、葉山は再び俺に向き直り、真剣な顔で問う。

 

「……それで、比企谷。一体、どうして俺を生き返らせたんだ?」

「……理由がいるか?」

「ああ。お前は何の理由もなく、何の理由付けもなく、俺を生き返らせるようなことはしないだろう。例え無償でも、何かしらの理由をこじつける筈だ」

 

 相変わらず、他人(おれ)のことを分かってる風に言いやがる。まぁ、実際、そうなのだろう。

 

 俺とコイツの間に、友情などは存在しない。利用し、利用し合う、お互いを嫌い合う、そんな関係だ。だからこそ、お互いが相手に干渉する時、そこには何らかの思惑が付随する。

 

 だが、だからといって、こんなところでそれを説明する義務などない。するつもりもない。

 

「……それは、また今度な。もう採点が終わって、転送が始まる。込み入った話をする時間はねぇよ」

 

 

 そう言って俺は――

 

 

 

『イケメン(笑)』0点

 

 Total0点

 あと100点で終わり。

 

 

 

 という文字列を最後に、再び何も表示しなくなった黒い球体に目を移して、葉山を黙らせる。

 

「……分かった。なら、詳しい話は、明日、学校で聞かせてもらう」

「…………」

 

 俺はその言葉に何も言わず、葉山から離れていった。

 

「…………………」

 

 背中から、葉山の俺を見据える視線を感じていたが、完全に無視した。

 

 

 どうせコイツとも、もう二度と、会うことなどないのだから。

 

 

 じゃあな。葉山隼人。

 

 最後に再びその面を拝めて――特に何とも思わないな。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その後、桐ケ谷発案で番号交換が始まり、各自の転送が始まって、終わって、今に至る。

 

 

「………」

 

 陽乃さんは、俺の言葉の後、フローリングに座り込んだまま何も言わなかったが、まるで動かなかったが、やがて中坊がヘラヘラと言葉を発した。

 

「それじゃあ、僕もアンタ達の組織に入れてもらおうかな? あ、僕は特に何も条件とはいらないよ。強いて言うなら、そこの人と同じチームにして欲しいかな? 面白そうだし」

「――っ! はぁ!?」

 

 俺は吃驚し、中坊の方を振り向く。中坊は、相変わらずあの邪気しかない子供のような笑顔を浮かべていた。

 

「……ほう。お前は――あの霧ヶ峰霧緒(きりがみねきりお)か。この識別番号(シリアルナンバー)0000000080の担当戦士(キャラクター)の中で、最多の13回クリアの記録保持者(レコードホルダー)。死んだと聞いた時は肩を落としたものだが……そうだな。確かに一度死亡(ゲームオーバー)を経験したとはいえ、君の実績と実力なら十分資格を持つだろう」

 

 なんか色んな情報がいきなり明らかになったぞ。

 

 俺はとりあえず中坊を問い詰める。

 

「……お前、いいのかよ。っていうか名前カッコいいな」

「はは、だって明らかにそっちの方が面白そうじゃないか。名前の件は確かにね。僕ってそんな名前だったんだねぇ。……あまりにも呼ばれなかったから忘れてたよ。()()()()()?」

 

 さらっと悲しい事実を聞いた気がする。中坊はぐるんと背後の黒い球体をイナバウアーのような体勢で見遣るが、ガンツは何の反応も示さなかった。

 

 ……………。

 

「――だったら、俺が呼んでやるよ。せっかく俺と違っていい名前で生まれたんだ。使わなきゃ損だろ……霧ヶ峰」

 

 俺がそう言うと、中坊――改め霧ヶ峰は、ぽかんとした表情を浮かべると、すぐににししとした笑いを作り、俺に言い返してきた。

 

「そうだね。じゃあ、僕もアンタのダサい名前を存分に使わせてもらうよ。八幡」

「おい、ダサいって言いながら使うんじゃねぇよ。せめて比企谷の方にしろ。そっちの方がまだマシな気がする」

「えぇ八幡の方がダサいじゃ――じゃなくて面白いじゃん」

「いや言い直してもどっちにしろ失礼だからね。……はぁ、まあいいや。好きに呼べよ」

「うん! 八幡! にしし!」

 

 今度の霧ヶ峰の笑みは、まさしく無邪気といったものだった。

 

 そして、その時、唐突に――中坊と、そしてパンダの転送が始まった。

 

「あれ? まだ雇用条件とか聞いてないんだけど?」

「マジメか。……まぁ、そうだな。パンダ。俺達は一体、今後どうすればいい? そっちから連絡があるのか?」

「――まったく、本当に扱いづらい部品(ぶか)だ。……次のミッションまでに迎えを寄越す。……それまでは、最後の日常を謳歌するがいい」

 

 ……日常、ね。既に、俺に帰るべき日常なんて存在しない。ないし、いらない。

 

 

 俺にとっては、最早、この黒い球体の部屋こそが、帰るべき場所だ。

 

 戻ってくるべき、牢獄だ。

 

 ……恐らく、俺は、この部屋で死ぬことになるんだろう。

 

 

 きっと、それは、とても素晴らしい末路に違いない。

 

 

 そう思っていると、パンダが去り際に、ぽつりと呟くように言った。

 

 

「比企谷八幡……そして、霧ヶ峰霧緒。……君達の勇敢さに――感謝する」

 

 

――共に、地球を守るために戦おう。

 

 

 そう言って、パンダは転送されていった。

 

「…………」

 

 

 そして、転送間際の霧ヶ峰と苦笑を交わし、霧ヶ峰も転送されていく。

 

 

 ……悪いな、パンダ。俺達に、地球の為になんて、殊勝な気持ちはない。

 

 

 全てが己の為だ。だから俺達は、いざという時が来たら、あっさり地球を裏切るだろう。

 

 

 だがまぁ、それまでは、お前等の戦士(キャラクター)で居てやるよ。

 

 

「………………」

 

 

 そして、残されたのは、俺と、フローリングに座り込む陽乃さんの二人。

 

 

 もし、これが陽乃さんと話せという俺に対する黒い球体の気遣いという名のお節介なのだとすれば、なるほど、俺は確かに特別扱いされているようだ。もっと別の面で気遣ってくれとも思うが。

 

 しかし、それなら、この気遣いを活かさないわけにはないだろう。

 

 

 いつまでも、逃げることは出来ない。……陽乃さんが生き返って、陽乃さんに対する愛情と、陽乃さんからの愛情を改めて理解して、どうしようもなく狂いたくなってしまうけれど、しまったけれど、それは、そんなことは――俺には許されない。

 

 それだけのことを、俺は陽乃さんにした。

 

 

 陽乃さんの、この世で最も大事なものを、俺は壊したんだ。

 

 その報いは受けなくてはならない。

 

 

 俺は――陽乃さんに断罪されるこの時を、ずっと待ち望んでいた筈だ。

 

 だから、もう、逃げることは許されない。

 

 

 陽乃さんが俺にくれた、耽美な夢から――醒める時間(とき)だ。

 

 

 終わる時間だ。終わりの、時間だ。

 

 

 待ち侘びた、待ち望んだ、瞬間だ。

 

 

 やっと………やっと――俺は――

 

 

「……陽乃さん。俺の話を聞いてくれますか?」

 

 

 俺は、俯く陽乃さんの前に座り、そして、語り始めた。

 

 

 天井を向いて、床に向かって俯いて、時折そっぽを向きながら――この期に及んで無様にも、陽乃さんの顔を見ないようにしながら。

 

 

 陽乃さんが死に、俺だけが生き残った、あの千手観音との戦いから――今日に、至るまで。

 

 

 雪ノ下雪乃を守れず、壊してしまった、比企谷八幡という罪人の話を。

 

 

 由比ヶ浜結衣を傷つけ、逃げ続けてきた、比企谷八幡という卑怯者の話を。

 

 

 比企谷小町を泣かせ、殺してしまった、比企谷八幡という――人でなしの、鬼の話を。

 

 

 ゆっくりと、自供するように、俺は語る。

 

 

 これまでの、比企谷八幡と黒い球体の部屋の物語を。

 

 




そして、彼は語る。【比企谷八幡と黒い球体の部屋】の物語を。


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……『本物』を……あきらめないで……

 そして、その救いのない俺の物語(じきょう)を語り終えて、俺は陽乃さんを、ようやく真っ直ぐに見据える。

 

 

 中坊達がいなくなってから、少なくとも一時間以上は経っている。

 

 ここまで来れば、黒い球体の配慮であることは確実だろう。俺は存外、随分と気に入られていたらしい。

 

 

 陽乃さんは、ずっと俯いたまま、一言も口を挟まず、ただ黙って俺の話を聞いていた。

 

 

 呆れているのか、怒りを堪えているのか――それとも、見下げ果てているのか。

 

 失望は、確実にしているだろう。比企谷八幡という男に、見切りはつけているだろう。

 

 

「……………」

 

 

 ……きっと、俺は、もう二度と、誰かを好きになることはない。

 

 

 陽乃さんが俺に対して憎悪の感情を抱いたとしても、俺にとっては、陽乃さんよりも愛する女性(ひと)が現れることは、きっとないだろう。

 

 

 それまでに、俺は確実に死ぬだろうから。

 

 

 だから、これがきっと、最初で最後の――『本物』の恋だ。

 

 

 ああ……きっと、これが、『本物』の愛だ――こんな俺でも、誰かを心から、愛することが出来た。

 

 

 こんな感情を生みだしてくれただけで、こんな感情を見つけてくれただけで、俺は陽乃さんと本当に出会えて良かった――心から、そう想うことが出来る。

 

 

「――――」

 

 

 俺は目を瞑って、その時を――断罪の、その瞬間を待った。

 

 

 例え、この場で陽乃さんがXガンやガンツソードで俺を殺そうとしても、甘んじてそれを受け入れよう。

 

 

 ……いや、むしろ、俺はそれを望んでいるのかもしれない。

 

 

 人は案外、あっさりと死ぬ。

 

 突然死ぬ。唐突に死ぬ。理不尽に死ぬ。

 

 何のストーリーも素敵なドラマもなく、巻き添えで流れ弾で見せしめで、善人だって悪人だって。

 

 

 例え――それが誰かにとっての掛け替えのない大切な人だろうと、何の救いもなく、やはり死ぬ。

 

 

 それを、俺はこれまでのガンツミッションで、そして、今回のガンツミッションで、知った。身を以て知った。この手で――小町を殺したこの手で、思い知った。

 

 

 そんな中、俺はしぶとく、図太く、図々しくも、ぐだぐだと生き延び続けてしまったけれど。そのせいで、多くの人間を不幸にし、挙句の果てに、小町まで殺してしまったけれど――そんな中、遂に死ねる。やっと死ねる。ようやく、死ねる

 

 

 愛する人の手で、殺される。

 

 

 それは――こんな俺の身の丈には合わない程に、身の程知らずな程に、とても幸せなことなんじゃないか?

 

 

 願って止まない程に、望んで止まない程に、とてもとても幸せなことなんじゃないのか?

 

 

 俺なんかがこんな幸せに死んでもいいのかとも思うが、罪悪感も湧いてくるが、それでも――小町は、幸せにならずに死んだら許さないと、そう言ってくれた。そう、言い遺してくれた。

 

 

 あれは、小町を殺したショックで、俺が自分の中に都合良く作った幻想かもしれないけれど、それでも――俺は、陽乃さんの今わの際の願いを、叶えてあげることは出来なかった。

 

 

 ならば、せめて――小町の、今わの際の願いは、叶えてやりたい。

 

 

 だから、俺は――幸せに、死にたい。

 

 

「――――っ!」

 

 ぐいっと、その時、陽乃さんに胸倉を掴まれ、強制的に立たされた。

 

「…………きて」

 

 陽乃さんはそう言って、黒い球体が鎮座するリビングから出て、廊下に――俺と陽乃さんの物語の大きな変換となった、ある意味では始まりの場所である、この廊下に移動してきた。

 

 ……なるほど。始まりの場所で終わるというのも、中々収まりがいいかもしれない。

 

 そして陽乃さんは、ドンッと、俺を背中から壁に押し付ける。

 

 両手を俺の顔の横に叩き付け、じっと顔を俯かせている。

 

 

「………………陽乃さ――」

 

 

 唇を、奪われた。

 

 

 陽乃さんはバッと顔を唐突に上げると、そのまま荒々しく、噛みつくように俺の唇を奪った。

 

 俺は、為す術もなく流される。その唇を、受け入れてしまった。

 

「――――っ!!」

 

 そして、息継ぎをする為に一瞬唇が離れた隙に離れようとすると、跳ね退けようとすると、陽乃さんは俺の頭の後ろに乱雑に腕を回し、力強く、己と俺の唇を、力づくで重ね続ける。

 

 やがて、長い、長い接吻が終わり、やっと陽乃さんは、その顔を俺から離した。

 

「……陽乃さ――っ!?」

 

 

 俺は、言葉を失った。

 

 陽乃さんは、泣いていた。

 

 顔を涙でぐしゃぐしゃにし、真っ赤に染め上げ、表情をぐちゃぐちゃにして、嗚咽を漏らしていた。

 

 いつも美しく、強く、不敵だった彼女が、ここまで子供のように、弱く、情けない姿を見せるのは……これが、初めてだった。

 

 此処で、この場所で初めてキスをした時も、今わ際の時も、生き返った時も、ここまでこの人が弱さを見せたことがなかった。

 

 

「…………ごめんね」

 

 

 陽乃さんは、そうぽつりと呟く。

 

 俺の胸にしがみ付き、その柔らかく温かい身体を押し付けながら、嗚咽混じりの、涙声で言う。

 

「…………ごめん。…………ごめんね、八幡」

「…………どうして、陽乃さんが謝るんですか。悪いのは、罪深いのは、全部、全部、俺で――」

「――ううん。違う。違う。違うよ!」

 

 陽乃さんは、俺の身体に顔を(こす)り付けるように頭を横に振って否定する。

 

 そして、俺の背中に手を回して、更に身体を密着させるようにして言った。

 

「……わたし、疑った。……八幡のことを、信じられなかった。……八幡が、小町ちゃんを……殺したって聞いた時、信じられなかった。……そんなわけないって思った。……でも、動揺した。うそって思った。…………だから、わたし……八幡が、雪乃ちゃんを壊したって言った時………わたし………………わたし………ッ」

「……当然ですよ。だって、本当のことなんですから。全部本当のことなんですから。俺が小町を殺したことも。俺が雪ノ下を壊したことも。全部、全部本当です。揺るぎない真実で、俺の罪状です。……だから、疑って当然です。信じられなくて当然です。……あなたは、何も悪くない。悪いのは、俺です。他には、誰も悪くない」

「違う! 違うのっ!!」

 

 陽乃さんは強く頭を振って、そのぐしゃぐしゃの顔で、俺を見上げる。

 

 そして、震える涙声で、顔をこれでもかってくらい歪ませて、くしゃくしゃにして、俺に言った。

 

「……八幡は、わたしの罪も全部背負ってくれるって言ってくれた。……わたしが世界を滅ぼしても、その片棒を担いで、共犯者になってくれるって。一緒に背負ってくれるって。……でも……でも、わたしは違ったっ! 八幡を見捨てかけたっ! 八幡を信じられなくって、失望しかけたっ! 見限りかけたっ! ……これまで、ずっとそうしてきたみたいに……色んな人のことを、そうやって見下し続けてきたみたいに……八幡のことも……わたしは捨てかけたっ! 『本物』になるって……八幡の『本物』になるって、約束したのにっ!!」

 

 ギュッと、痛いくらいに陽乃さんがしがみ付く。

 

 陽乃さんは、あの時の俺の告白のことを、ずっと想ってくれているようだった。

 

「――っ!」

 

 無条件で、嬉しかった。無性に歓喜してしまい、不覚にも、その言葉だけで、俺は更に幸せになれた。

 

 この人の綺麗な背中に手を回して、ぐっと更に強く俺の身体に押し付けたい。

 

 今度は俺から、その美しい顎を持ち上げて、優しく、強く唇を奪いたい。

 

 

 そう、思った。

 

 

 ……でも、ダメだ。そんなことは許されない。そんな資格は、俺にはない。

 

 

 自分の妹を殺しておいて、この人の大事な妹を壊しておいて、そんな真似が、許される筈がない。

 

 

――生きたいなんて、望むことは、許されない。

 

 

 俺は、陽乃さんの肩に手を乗せる。陽乃さんの瞳が見開かれた。

 

「……いいんですよ、陽乃さん。……あの言葉のことは、忘れてください。あの時の俺は、血迷ってました。身の程知らずでした。……俺には、陽乃さんは、眩し過ぎます」

「…………はち……まん?」

 

 その名が示す通り、その名を体現するかのように、太陽のような、太陽のように輝くこの美しい女性は――日陰者の俺には、眩し過ぎる。

 

 文字通りの意味で住む世界が、住んでいい世界が違うのだ。

 

 そんなことに、そんな当たり前のことすら、俺は愚かにも気付けなかった。

 

 

「どうか、俺のことは――」

 

 

――忘れてください。憎んでください。許さないでください。

 

 

 どうか――俺を――

 

 

 殺して、ください。

 

 

「嫌っ!!」

 

 

 ドンっ! と、陽乃さんの身体を引き離そうとした俺の手に逆らうように、陽乃さんは勢いよく俺の身体に飛び付いてきた。

 

 その勢いを支えられず、俺の身体は無様に廊下に仰向けに倒れ伏せる。

 

 そして、その上に馬乗りのなるように、涙目の、涙を流し続ける陽乃さんが乗った。

 

 

「嫌ッッ!!」

 

 

 陽乃さんは、真っ赤な目で俺を睨みつけながら、尚も言う。

 

 

 駄々を捏ねる子供のようなその仕草は、普段の陽乃さんからは想像がつかないものだった。

 

 だが、だからこそ、これは素の、等身大の、ずっと内に秘め続けていた陽乃さんなのだろうと思った。

 

 

 震える陽乃さんは、更にぐしゃりと表情を歪ませ、嗚咽と共に、俺の顔に、ぽたりぽたりと涙を落としながら、言った。

 

 

「いや……やめて……やめてよ。……あの告白を、撤回なんかしないで。……なかったことなんかにはしないで……。………お願いだから……わたし……もっと、もっと頑張るから……だから……だから……」

 

 

 陽乃さんは、身体を丸め、俺の胸に縋りつくようにして、俺の中に染み込ませるように。

 

 

 

「……『本物(わたし)』を……あきらめないで……」

 

 

 

 陽乃さんは、縋るように言った。陽乃さんは、祈るように囁いた。

 

 

 俺は、その言葉に、その祈りに――

 

 

「……捨てないで…………手放さないで…………逃げ……ないでぇ……」

 

 

 陽乃さんは、別れを切り出された恋人のような言葉を、俺に言う。

 

 

 俺は、俺の胸で泣く陽乃さんではなく、腐った目を見開いて、口を馬鹿みたいに開いて、呆然と廊下の天井を眺めていた。

 

 

 ……俺は、陽乃さんを捨てようとしたのか?

 

 

 ……俺は、この人を捨てて、自分だけ、全てを手放そうとしたのか? 楽になろうとしたのか?

 

 

 この人の全てを背負うと、あれだけ豪語しておきながら、俺は……陽乃さんからも、逃げ出そうと――

 

 

 陽乃さんは、絞り出すように、震える身体で、震える涙声で、言った。

 

 

「お願いだから……」

 

 

 

――死なないでよぉ……。

 

 

 

 その、言葉を聞いて。その、言葉が届いて。その、言葉が、どうしようもなく――響いて。

 

 

 俺は……自分の瞳から、涙が溢れ出すのを感じる。

 

 

 散々無様を晒したくせに、この期に及んで泣き顔を見られたくなくて、俺は腕で瞼を覆う。

 

 

 そして、それでも、堪えきれなくて。どうしようもなく、溢れ出して。

 

 

 遂に、俺は――決壊し、吐き出した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「……死にたい」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 一度、吐き出したら、もう、止まらなかった。

 

 

「……死にたい……死にたい……もう、死にたいんだよ…………陽乃さん」

「…………うん……うん」

 

 

 文字通りの泣き言を、吐く資格のない恨み言を、俺は、とめどなく溢れてくるそれを、陽乃さんにぶつけ続けた。

 

 

「……もう……嫌なんだよ……どうして……こんなことになっちまうんだ……どうして……こんなことに……なっちまんったんだよ……俺が…………俺達が……いったい…………何をしたっていうんですか……どうして……なんで……なんで…………こんなことに……っ」

「………………うん……うん……………うんっ」

 

 

 一度溢れだした弱音は、いくら涙を流しても、全然止まってくれなくて。

 

 世界で一番カッコ悪いところを見せたくない女性に、俺は甘えて、無様を晒し続けた。

 

 

 陽乃さんは、強く、強く、俺を抱き締めてくれて。そして、その柔らかさと、その温かさが、闇弱な俺を、更に、弱く、弱くする。

 

 

「……俺は……雪ノ下と……由比ヶ浜がいる……あの場所を取り戻したかっただけなんだ……………雪ノ下を壊したくなかった……由比ヶ浜を傷つけたくなんてなかった…………守りたかった……そのために…………俺は……………俺は……………小町…………小町…………小町ぃ!」

「うん……っ……………うん……っ」

 

 俺の言葉は、最早、只の嗚咽になっていた。

 

 

 無様に泣きじゃくった。初めて、此処で陽乃さんと唇を重ねた、あの時以上に、俺は泣きじゃくった。

 

 

 およそこの世で最も無様で、醜い男の、哀れな姿だった。

 

 

「――俺は…………じにだい……っ!」

 

 

 これが、これこそが、俺の偽らざる本音だった。

 

 

 もう、嫌だった。もう、俺は限界だった。否、とっくの昔に、俺は限界などとうに通り過ぎてぶっ壊れていた。

 

 

 

 戦っても、戦っても、戦っても。

 

 

 俺の周りの大切な人は、守りたい人達は、壊れ、傷つき、死んでいった。

 

 

 

 もう嫌だった。もう限界だった。もう――死にたかった。

 

 

 

 嫌だ。戦うのは嫌だ。

 

 嫌だ。壊すのは嫌だ。

 

 

 嫌だ。傷つけるのは、もう嫌だ。

 

 

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だっ!!

 

 

「嫌だ……もう殺すのは嫌だっ! ……殺したくない……殺したくなかったっ!! 俺は! 小町を!! 殺すつもりなんてながっだんだよぉ!!」

 

 

 小町…………小町小町小町小町小町っ!!

 

 

 俺は、何もない天井に向かって手を伸ばして、ゆっくりと――笑みを浮かべながら、陽乃さんに言った。

 

 

「……お願いです、陽乃さん。……俺を――殺してください。……あなたの手で、殺してください。それが俺の願いです」

 

 

 そうすれば、そうしてくれれば……俺は何よりも――幸せに逝けます。

 

 

「――俺は、あなたに、仇を討たれて死にたい」

 

 

 雪ノ下を、陽乃さんがずっとずっとずっと大事に守ってきた妹を――壊した。この上なく、無残に。

 

 

 俺は、その仇を、今、ここで討たれて死にたい。

 

 

 その大罪を、断罪されて死にたい。

 

 

 ……この期に及んで、末期にまで及んで俺は、雪ノ下を己が楽になる為に利用するような男だと再確認して、再認識して、更にまた一段と死にたくなった。

 

 

 だからこそ、陽乃さん。

 

 

 こんな俺を殺してください。こんな俺を断罪してください。今こそ、仇を討ってください。

 

 

 俺を――死なせてください。楽に、させてください。

 

 

 今こそ、復讐の時です。

 

 

「……はち……まん……はち、まん……っ!!」

 

 

 陽乃さんは顔を上げて、その真っ赤に染まって、涙でぐしょぐしょで、表情も歪んでくしゃくしゃな、その顔で、俺を見下ろした。

 

 

 それでも陽乃さんは、そんな有様でも雪ノ下陽乃は、本当にすごく綺麗だった。すごく、可愛かった。

 

 

 ああ、やっぱり。俺は陽乃さんが好きだなぁ。

 

 

 こんな人に殺される自分は、最高に幸せな男だ。

 

 

 小町――最期に俺、幸せになれたよ。

 

 

 だから、もういいよな。

 

 

 

 俺、死んでいいよな。

 

 

 

 陽乃さんの綺麗な指が、俺の首に回される。

 

 

 俺もスーツを着ているが、陽乃さんもスーツを着ている。

 

 

 このまま俺が無抵抗でいれば、その内きっと――死ねる筈だ。

 

 

 やっと、終わる筈だ。

 

 

「……っ…………ぅぅ…………ぁぁ! ぁぁぁああああああああああああああああああ!!!」

 

 

 陽乃さんは、まるで抱き締めるように、俺の首を抱き絞めてくれた。

 

 

 ボロボロと泣きながら、ボロボロに喚きながら、首を絞められている俺よりも、遥かに苦しそうに叫びながら――俺の首を絞め続け、俺を殺し続けてくれた。

 

 

 対して俺は、きっと笑っていただろう。愛する女性がこんなに苦しむ様を見上げながら、そんな笑みを浮かべる俺は、きっと死んだ方がいいに違いない。

 

 

 だから、死ぬのだ。ああ、やっと死ぬのだ。遂に俺は――死ぬことが、出来るのだ。

 

 

 これこそまさに、今こそまさに、俺がずっと待ちわび、ずっと待ち望んだいた、望んで止まない瞬間だった。

 

 

 陽乃さんの涙が、俺の目元に落ちる。そして、つうとそれが眦から滑り落ちる――それと一緒に、俺の意識も、ゆっくりと落ち始めた。

 

 

 そして俺は、最後に彼女に、こんな幸せな(おわり)をくれた彼女に、感謝の気持ちを込めて、礼を遺した。

 

 

 

「…………あ………りが……とう」

 

 

 

 そして――俺は――

 

 

 

 

 ゆっくりと――意識を――命を――

 

 

 

 

 

 落とし――た――

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

――――筈、だった、のに……。

 

 

 

 俺は、ゆっくりと、()()()()()

 

 

 女の子の、啜り泣く声で、()()()()()

 

 

 

 そこは、まだ、あの黒い球体の部屋の廊下だった。

 

 

 

 俺は相変わらず仰向けで、陽乃さんが馬乗りになっていた。

 

 

 陽乃さんの手は、まだ俺の首に回されていて――でも、その力は、弱弱しく、最早、添えているとしか言えない程に、力が入っていなかった。

 

 

 命を奪う、俺を殺してくれる――力など、入っていなかった。

 

 

 俺は愕然とした表情で、陽乃さんを見上げる。

 

 

 

「………………でき…………ない…………っ」

 

 

 

 陽乃さんは、泣いていた。

 

 

 遂には、その手を離し、俺の首から離し、その手で溢れだす涙を拭っていた。

 

 

「……出来ない……わたしには……八幡を……好きな人を…………殺すなんて……出来ないよぉ」

 

 

 陽乃さんは、そう言って、完全に――殺意を失った。

 

 

 俺を殺してくれる、意力を失っていた。

 

 

「…………なんで……? どうして……ですか? 陽乃さん……」

「………………」

 

 

 陽乃さんは、何も言わない。

 

 

 ただ、悲しそうな顔で、辛そうな顔で、情けない俺を見下ろすだけ。

 

 

「……俺は……俺は死にたいんですっ! 死にたいんですよっ! もう嫌なんです! 生きたくない! 生きていたくないんですよ! 逝きたくて堪らないんです! 俺が生きれば! 生きていれば! みんなみんな不幸になる! 壊れて、傷ついて、殺されるんですよ! やっと死ねると……やっと終わると思ったのに!! あなたに……やっと、殺してもらえると思ったのに!! なのになんでッ!? どうしてっッ!?」

「………………」

 

 

 陽乃さんは、何も言わない。言ってくれない。

 

 

 俺に対して、何も言ってくれない。

 

 

 無様な俺に、陽乃さんの信頼を裏切った――裏切者の俺に、妹を壊した憎き仇に。

 

 

 何の、殺意も、抱いて、くれない。

 

 

「……お願いです……陽乃さん。もう死にたい。辛くて、苦しくて、生きているのが申し訳なくて堪らない! 罪悪感で死にたくて堪らない! だからどうか! どうか俺を殺してください! 死にたいんです! 死にたいんですッ! 死にたいんですよッッ!! どうか俺を、助けると思って――」

「それでも、わたしは――」

 

 

 

「――あなたに、生きていて欲しいの」

 

 

 

 陽乃さんは、告げる。

 

 

 悲しそうな顔で、辛そうな顔で、情けない俺に、そっと、その涙に濡れた、美しい顔を近づけながら。

 

 

 俺に対する――死刑宣告に等しい、その言葉を告げる。

 

 

 

「わたしはあなたを、助けない。わたしはあなたを、死なせないと――ここに誓うわ」

 

 

 

 そして、陽乃さんは、俺に誓いの口づけをした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 それから、果たしてどれだけ経っただろう。

 

 

 俺は、壁に背中を着け、座り込むような体勢で、ぼおと天井を眺めていた。

 

 そして陽乃さんは、そんな俺の胸に両手を付けて、ぴたりと寄りかかるように密着していた。

 

 

 俺と陽乃さんは、生まれたままの姿だった。

 

 

 漆黒のガンツスーツを脱ぎ、情事を終えた俺達は、身も心も繋がった俺達は、何も言わず、ただ静かに、お互いの体温だけを感じるように寄り添っていた。

 

 

「……俺は、雪ノ下を壊しました」

「……うん」

 

 

「……俺は、由比ヶ浜を傷つけました」

「……うん」

 

 

「……俺は……小町を、殺しました」

「…………うん」

 

 

「…………俺は……一生、許されない。誰も俺を許してくれないし、俺も俺を、一生許さない。……罪人です。罪塗れです。……死ぬことだけが、幸せです。…………俺に生きろというのなら、俺は、きっと、ずっと不幸のままでしょう」

「……だったら、それが、わたしの復讐だよ」

 

 陽乃さんは、のそりと裸のままで、俺の上で体勢を変えて、俺を見上げて、優しく笑う。

 

「わたしの大事な雪乃ちゃんを、壊した仇を、わたしはそうやって討つよ。……だから、生きて。ずっと不幸に生きて。ずっと無様に生きて。ずっと生き地獄で生き続けて。だから――逃げちゃダメ。わたしはもう、絶対にあなたを、逃がしてなんかあげない」

 

 そう言って、陽乃さんは俺の身体をよじ登り、再び、優しく、唇を奪う。

 

「――あなたの罪を、わたしも背負うよ。……今度こそ、全部背負う。わたしはあなたに、生き返させられたんだから。あなたの罪は、わたしの罪。あなたの所業の、片棒を担ぐ。……だから、あなたの不幸は、わたしの不幸。そして――」

 

 陽乃さんは、にこっと、不敵に笑う。快活に笑う。

 

 

「――わたしの幸せは、あなたの幸せ。……だから、あなたの不幸を補って余るくらい、わたしは幸せになるわ。……だから、ずっと、わたしの隣で生きてね」

 

 

 その笑みは、まさしく雪ノ下陽乃の笑みで、狂った俺を、更に狂わせる――暴力的な、暴虐的な魅力で溢れていた。

 

 

 俺は、今、再び、雪ノ下陽乃に溺れ、狂ってしまった。

 

 

「……………………ぁ」

 

 

 陽乃さんの顎を持ち上げて、ゆっくりと、再び唇を重ね合わせる。

 

 

 優しく、強く、俺から彼女に、口づけを贈る。

 

 

 そして俺は、ゆっくりと、一筋の涙を流した。

 

 

 

 

 

 俺は、死ねなかった。俺は、生きなくてはならなくなった。

 

 

 それは、きっと、ずっと苦しんで、ずっと辛くて、ずっと哀れで、ずっと無様で、ずっと、ずっと、ずっと不幸なんだろう。

 

 

 

 それでも、俺を幸せにすると言ってくれた、彼女の為にも。

 

 

 俺が幸せにならないと許さないと言ってくれた、彼女の為にも。

 

 

 俺が壊してしまった、傷つけてしまった、彼女達の為にも。

 

 

 

 幸せを求めることは、止めてはならないのだろう。

 

 

 諦めてはならないし、逃げてはならないのだろう。

 

 

 

 例え、手が届かなくても、俺の身の丈に合わなくても、身の程知らずでも、相応しくなくても、資格がなくとも、それでも――幸せを追い求めることだけは、止めてはならないのだろう。

 

 

 だから俺は、俺の『本物』になると言ってくれた、この女性(ひと)の為に、今日を生きよう。

 

 

 ずっと、ずっと不幸なままでも、傷を舐め合うようにして、無様に生きていこう。

 

 

 幸せな死ではなく、格好いい死でもなく――遠い、遠い、遥かなる幸せを求めて。

 

 

 いつか、無様に死ぬ、その時まで。

 

 

 

 

 

――唇を離す。

 

 

 向かい合った陽乃さんは、見つめ合った陽乃さんは、俺と同じく涙を流していて、それでも、嬉しそうに――幸せそうに微笑んだ。

 

 

 綺麗な笑顔だった。

 

 見ているだけで、幸せになってしまいそうな、眩しい太陽のような笑顔だった。

 





比企谷八幡は、幸せなる復讐によって討たれ――『本物』に溺れて、今日を生きる。










次章予告

【英雄会見】

 全てを変えた未曽有の大虐殺から一夜明け、開かれる日本政府の記者会見。
 一人の英雄の誕生を全世界へと知らせる発表会となるべく、それは世界中の注目の中で開かれる。



 そして――その同時刻。
 遥か離れた千葉の地で、とあるひとりぼっちの戦士が。
 世界の誰も知らない戦争の中で、真っ当なる復讐によって討たれようとしていた。





「――今回の議題は、日本の池袋で発生した、オニ星人による一般人大量虐殺。そして、それによる星人存在の表世界への暴露だ」



「……ごめん、アスナ――まだ、終われないんだ」

「こんばんは、英雄君」

「――この黒い球体について、GANTZについて、僕の知る限りのことを話そう」


「――やめなさい。今度こそ、本当に消されてしまうかもしれませんよ」

「……私は、負けないよ………渚」

「殺してでも、救ってみせる」


「あなたが好きなのは天使の私? ――それとも、堕天使?」

「ううん、何にも――ただの最悪な一日でしたよ♪」

「あなたにも――お兄ちゃんがいるんでしょう?」


「久しぶりの学校だぜ」

「――ヨーグルッチの刑に処すッッ!!」

「誰が、誰に、勝てるって?」


「………さて、逃げるか」

「――似合ってるじゃないか、そのパーカー。中々に決まってるぜ」

「初めまして、ようこそ我が家へ。雪ノ下家は貴方を歓迎しますよ、比企谷八幡さん」



「――あら? 珍しいお客さんね。どうしたの?」

「おおッ! 救いの神よ! いや、救いのパンダよ! いいところに来た、俺を助け――ん?」

「……君達の――」


――娘が、死んだ。




「僕達は綺麗じゃない。僕達は正義じゃない。だけど、僕は、君の味方だ――キリト君」

「……それとも、まだどうしようもなく、この世界に――未練があるのか?」

「私に彼をお任せ下さい。必ずや、人類の勝利に貢献する殺し屋に育て上げてみせましょう」

「……私は……警察は……人間は。昨夜――怪物に……化物に……負けたのだ……っ」

「おはよう、桐乃! いい朝だね!」

「偽善者と呼んでくれ。ずっと、そう呼ばれ続けてきた――僕の誇りだ」

「認めろ。そして楽になれ。野良猫では――虎には勝てん」

「――確かに、まだまだどうして、捨てたもんじゃないな。……人間は」

「…………笑顔が引き攣ってるよ、八幡」

「私達は、弱くて、弱くて、弱弱しいので――あんまり、イジメないでくださいね?」


「――地球に仇なすというのなら、この獣を敵に回すと知れ」

「その役目を果たせなかった報いは当然、現実世界のテメェらの命で支払ってもらう」

「――それ程の逸材なのか。君が、そこまで入れ込む程に」

「帰ってきた……生き返ってきたんだ」

「悪魔とは、まさしく人間のことであると」

「――知らねぇよ。知ったこっちゃねぇんだよ、んなこたぁ」

「ああ、姉さん。姉さん、姉さんだわ。どうして忘れていたのかしら。こんなにも頼りになる人を。私を守ってくれる人を。ああ姉さん。姉さん姉さん姉さん姉さん!」

「……あ、あのね……あのね……たーちゃんが……かえってこないの」

「……綺麗ですね……本物は」

「東条英虎――私は、あなたを許さない。あなたの暴挙は、この私が止めるわ」

「――悪いな。レディの食事中だ」

「これが――敗北ではなく、なんだというのだッッ!!」

「次の目的地は椚ヶ丘学園だ。法定速度を遵守しつつ――最大速度で向かうぞ」

「大切な人の、あったかい笑顔です♪」

「……お前は、今の今まで、何処で何をしていたんだ――愚息が」

「……どうして……どうしていつも……結衣ばっかり……っっ!」

「……小町ちゃんがね。……まだ、見つかってないんだって」

「――死んでんじゃん。私」

「………ここは、地獄なのか」



「繋がる生命。繋がる想い。それが、繁栄。それが……生きるということ」

「この地に住まう、この海に住まう、この空に住まう――この宇宙に住まう、全ての生命が持っている本能。想い。それが――これが、生きるということ」

「人間の、生命の、何と美しいことか」

「化物の、私達の、何と浅ましく、醜いことか」



「……大事なものの……はずなのに…………ないの…………分かんないの……思い出せないよぉ……ゆきのん……ゆきのん」

「俺らは、選択したんだ。この結果を――そして、ここから繋がる未来を」

「――そうだ。忘れるな。折れるな。潰れるな。そうすれば、お前は、きっと見返せる」

「悪いが、一兵たりとも逃がすつもりはない。貴様らは――やり過ぎた」

「――ようやった。最後にワイのかっちょええ雄姿を、その目に焼き付けて死に」

「分かってる? 今、君はその程度の価値しかない戦士なんだよ」

「…………やだ………やだよ……キリトくん……こんなの……やだよ――ッ!?」

「……撤回しなさい。あなた如きに、先輩の何が分かるの?」

「俺はお前を愛さない。お前が俺のことを愛していないように」

「彼はE組だ。例外はない。国であろうと、私の教育方針に口を挟むことは許さない」

「あなたは、私に幸せをくれた。あなたは、私の全てなのよ」

「私は、この服を脱ぐつもりはありません。この役目を、放棄することは有り得ません」

「あの人は――ただの変態です」

「どうしていつも!!! こんなやり方しか出来ないんだッッッ!!!」

「……京介さー。いつまでお兄ちゃんやってんの?」

「話をしよう。アナタの抱える全部の『謎』を預かるよ」

「…………もう……死にたく、ないんだよぉ……ッッ」

「やっぱり私――貴方が、嫌い」

「――『死神教室』、か。……世界最強の殺し屋の授業を受ける生徒は、色々な意味で不幸だな」

「俺は、お前に――負けたくない」

「友達と、仲直りしに来たんだ」

「神様とかいうものに嫌われて、世界とかいうのにも嫌われている。だけど、理不尽にはとことん愛されている。そんな生命が、この世界にはいるのよ」


「そもそもの話――比企谷八幡という男がいなければ、霧ヶ峰霧緒も、そして陽乃も死ななかったのではないか、とな」

「全ては、比企谷八幡が黒い球体の部屋へと招かれてから動き出している」


「――――だが、もう……後戻りは出来ない」

「……幸せにならなくちゃ、俺は死ねない」


「彼こそが――人間よ。私は、そう思うわ」



「――ようやくだ。……ようやく、ここまで来た」

「――もうすぐだ。……もうすぐ、あそこまで行ける」



「さあ、会見の時間だ」

「国民へ伝えよう。星人という存在を。漆黒の戦争の存在を。そして、我が英雄の存在を」

「今日は、世界が変わる一日となる」



「君こそが、世界を救う英雄になると信じている。だからこそ僕は、これから君に真実を話そう」

「答えは単純明快です。我々は――『星人』を知っていた」

「我々は――世界を救う為に戦っている」

「世界を支配する組織の支配者――まさしく、世界の支配者だ」

「……戦争は、人を変える。なら、星人だって、変えたっておかしくないだろう?」

「……だったら、どうして、未だに俺達は戦争をしているんだ?」

「地球に危機が迫っている。このままだと地球は、今年の終わりと共に、終焉を迎える――これは、紛れもない、予言された真実なんだ」


――我々は、それをカタストロフィと呼んでいる。


「部隊名は――GANTZ」


「――行こう。世界を守る為に」

「俺は――世界を救うんだ」


「我々には――『GANTZ』が必要なのです」





「彼女は、あの子は――我が子は、人間でした」

「我が子なのに、人間でした」


「――私は、娘を殺したのです」


「ハッピーエンドは訪れません。この物語はバッドエンドです。どうしようもなく後味が悪く、胸糞が悪い、そんな最低な結末で幕を閉じます」

「化物の、化物による、化物に相応しい物語ですから」



「――比企谷八幡……という男を、覚えているか?」



「小町をぶっ殺しておいて、なに幸せになろうとしてんだ? アァ?」

「あたし達の仲間になりたくば――まずはあたしを倒してから行け!!」

「で? 俺はこれからどんな酷い目に遭わされるんだ?」

「どうせ仇を討たれて死にてぇんだろ。好きなだけ殺してやるよ」

「お前たちのような悪は、あたしが許さない!」

「……正直、がっかりした」

「僕のようになりたかったら、まずは平気な顔をして嘘を吐けるようになる所から始めようか」

「俺達は――大人だからな」

「この初恋を――わたしは忘れない」

「――何、泣きながら、笑ってやがる」

「クズだクズだとは思ってはいたけれど……まさか、ここまでのクズだったとはね」

「それを――ッ!! この私に向かって言うのかッ!! 他でもない、お前達がッッ!!」

「ずっと……何もせずに、ただ見捨てていたわよね」

「アンタを殺して、俺は生きる」


「……運命、だと。ハッ、お前らしい、おめでたい言葉だな」

「……認めねぇよ。例え、お前が認めても……『真理』が、『神』が認めても! 俺だけは認めねぇ!! 死んでも殺されようと認めねぇ!!」

「俺って、こんな目……してたんだな」

「――きっと、初めから間違ってたのよ」

「――ああ。もういい、ガンツ。十分だ」



「今まで、一緒に背負ってくれて。今日まで、一緒に生きてくれて」

「………約束、したよね?」


「一緒に、死のう?」

「…………ああ。そうだな」



――理解不能。正しく、理解不能だ。

――汝、何を望む。


――お前は、何の為に死んでいくのだ。




【いってらっしゃい】

「――行ってくる」




「俺は――合格か?」



「君のような英雄を、我々はずっと待っていた」





――【これが――『真理』だ】





 その部屋には黒い球体だけが残った。


 誰もいない――誰もいなくなった。



 この『黒い球体の部屋』には、もう――比企谷八幡は、いない。





【比企谷八幡と黒い球体の部屋】――〇〇星人編――


――to be continued


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設定資料集 ①
設定資料集――ねぎ星人編―― ※ネタバレ注意


※これは最新話までのネタバレを多分に含みます。本編を全て読んだ上で目を通すことを推奨します。

※これはあくまでこの小説における設定の為、原作での設定と相違点が生じる場合がございます。ご注意下さい。

※その他の注意点に置かれましては、活動報告にてご確認の上、読んでいただきますようよろしくお願いします。


・比企谷八幡【ひきがや・はちまん】

 

 種族:人間・戦士(キャラクター)

 

 死亡:なし

 

 あだ名(ニックネーム):ぼっち(笑) はちまん

 

 初登場:ねぎ星人編

 

 愛用武器:透明化(ステルス)

 

 原作:やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(生徒会選挙編のラストから分離)

 

 知力:A

 戦闘力:B

 生存力:AA

 運:D

 指揮力:C

 情報力:A

 本物への想い:AAA

 

 

 そもそもの話として、僕は彼を書きたくて、この小説を書き始めた。比企谷八幡を主人公にした小説を、僕もどうしても書いてみたくなった。

 

 始めは当時一番楽しく読んでいた八幡が無条件にモテまくるハーレムssを書こうと思っていたのだけれど、何故か、八幡と葉山――正反対のこの二人の関係ってGANTZの玄野と加藤のポジションがハマるんじゃないか? なんて妄想が無性に膨らんだ。そして当時は八幡が色んな作品とコラボするssが流行っていたのもあって、だけどまだGANTZとのコラボは見かけず、なら誰かにやられる前にやってみようかという感じで、とりあえずねぎ星人編を書いてみた。

 

 当時はコミックと俺ガイル原作本を膝に置いて、なるべく原作に忠実にと夢中で書き殴って、それが面白いように筆が進んだ(原作に忠実に書いているので当たり前といえば当たり前だが)。当時から僕は何本もの長編を並行して書いていたのだが、この作品が当然のように一番速く(執筆スピード的に)書き上がって、そして、一番大きな反響をいただいた。

 それはこの作品が面白いというよりは、やっぱり旬の俺ガイルものを書いたというのが大きかったと思う。だけど凄く嬉しかった。

 

 そんなこんなで、気が付いたら一番長いシリーズになっていて、そして大分原作のGANTZともかけ離れてしまった。

 まぁ、それはこれだけ長くやっているのだから、ただ原作の玄野を八幡に置き換えただけの小説では、書いている方はそれなりに楽しくても、読んでいただいている読者の方達はつまらないだろうと思ったから、これでよかったのだと思う。たぶん、僕も読者だったらそんなのはつまらないし。途中で切るし、そんな小説。

 それに、登場人物が変われば当然行動も変わるし、行動原理も変わるし、行動動機も変わる。なら、当然物語が変わって当たり前だと、途中で開き直った。

 

 開き直った末に、こうなったら好きなように面白おかしくやりまくってやれとなった結果、とんでもなくカオスな小説になってしまったけれど、後悔はしていない。たぶん、こうならなかったら、ここまで書けていないと思うし。逆に。

 

 けれど、だからこそ――小説自体がここまでカオスになってしまったからこそ、初志だけは貫徹しなければならないと、それは今でも強く、こうなってしまった今だからこそ強く思っている。戒めている。

 

 それは、この物語は比企谷八幡の物語だということ――比企谷八幡の物語を、書きたくて始めた物語だということだ。

 

 どれだけ主役級キャラが増えても、物語のスケールが大きくなっても、彼のパートの文字数が減っても、それでも主軸は比企谷八幡であるということだけは、いつも心掛けている。つもりだ。つもりです。はい。

 

 主要キャラにはそれぞれテーマを決めていて、八幡のそれはやはり【本物】――そして、オニ星人編で遂に表に出た【幸せ】。

 

 実は、この小説を書き始めた当初は、まだ原作俺ガイルは生徒会選挙編が終わったばかりで、あの神巻であるクリスマスイベント編は発売しておらず(この小説での千手編を書く前くらいに発売された)、本物というテーマを背負わせたのはその後からなのだけれど(八幡というキャラクターを書く以上この言葉(ワード)は根幹になると思った)、この幸せというテーマも、この小説を書いている内に、段々と彼に背負わせたくなったテーマだ。

 

 これは僕の悪癖なのだが、この小説は、いつも重く、苦しく、辛く、悲しい展開ばかりだ。

 僕が好きで書いているのは置いておいて、僕のそんな悪癖にいつも付き合わされるのは、僕の小説の中を生きるキャラクター達で、そして、その中の主人公である八幡は、その被害を最も受けて来たと言っていい。

 

 いつも彼には痛みばっかりを与えて来た。傷ばかりを与え、苦しみばかりを与え、絶望ばかりを与えて来た。

 だからこそ、それはオニ星人編のラストシーンに繋がったのだと思う。もう彼は限界で、今にも壊れてしまいそうで、いや、とっくに致命的に壊れていて、それでも、彼はずっとそのまま罅だらけの心と身体で戦い続けてきた。

 

 死にたい――それは、決して主人公が言ってはいけない台詞で、でも、紛れもなく彼の心の叫びだったと思う。

 そして気が付いたら、僕は小町や陽乃にあんな台詞を言わせていた。いや、彼女達が勝手に動いて、八幡にそう願わずにはいられないかったのかもしれない。

 

 幸せになって欲しい。

 だからこそ――彼には、幸せになってもらいたい。彼には、幸せを見つけてほしい。幸せを掴み取って欲しい。

 

 きっと、彼はこれから幸せというものを探し続けるのだと思う。小町の為に。陽乃の為に。死にたい気持ちを抱え続けながら、それでも自罰的に幸せを探し続けるのだと思う。

 そして――戦い続けるのだと思う。

 

 それが彼にとっての幸せなのか。ここまで壊れ、傷ついた彼が、本当に幸せになれるのか。

 

 彼にとっての幸せとは、何なのか。

 

 作者にとっても、それは分からない。だからこそ、八幡と一緒に探し続けたいと思う。

 

 

 

 

 

 

・雪ノ下雪乃【ゆきのした・ゆきの】

 

 種族:人間

 

 死亡:なし

 

 初登場:ねぎ星人編

 

 原作:やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(生徒会選挙編のラストから分離)

 

 

 彼女の本格的な出番は田中星人編からだったけれど、一応登場はねぎ星人編の時にしているので、この章に。

 

 雪ノ下のこの小説のポジションは、書き始めた当初は未定だった。

 なんとなくの思いつきでGANTZとクロスして、書き始めた当初の原作は生徒会選挙編の一番奉仕部がギスギスしていた時だったこともあってか(例えもっと後に書き始めていても八幡の現実世界への帰還のモチベーションの為にここからの分離になっていたと思うが)、なんだか彼女のポジティブな面を全く書くことが出来ていない。毒舌もないし。まぁ僕自身があまり雪ノ下の毒舌が好きではない(それが彼女の持ち味でキャラクターだとは分かっていても)ので書きたくないというのもあるのだが。それでも、この作品の雪ノ下は、彼女の良さというのがあまりにも出せていないような気がする。

 結果的にタエちゃんポジになったのに、姉にメインヒロインの座を奪われた悲運のヒロイン。ただトラウマを負っただけじゃないか……。雪乃ちゃんはまた選ばれないんだね……。

 

 もしこの小説で小島多恵編を描いていたら、もしかしたら再び彼女がターゲットに選ばれていたかもしれない。そっちのプロットも考えてはいたのだけれど、その場合、何の躊躇もなく八幡が和人達を虐殺して、とんでもない地獄絵図になったので止めた。万が一、八幡が和人達に敗北していたとしても、その場合は和人達に致命的な傷を残したと思う。それに和人達なら八幡と一緒に雪乃の護衛側にあっさりと回ることも考えられて、そしてそんなドリームチームを相手取れるモブキャラなどいるわけがないので、何もしない一時間が過ぎるだけでどうしても面白く出来なかったし、作者としてもあの状態の雪乃をターゲットにするのは抵抗があった。ので、やめた。僕は物語としてシリアス展開を面白いと感じるだけであって、ただただ闇雲にキャラクターを傷つけたいわけではない。説得力皆無だが。

 

 このことからも、僕は雪ノ下雪乃という少女を、どこか“弱い”と思っているのかもしれない。決めつけているのかもしれない。弱いというよりは、脆い――雪の結晶のように、美しいけれど、だからこそ儚い、そんな少女だと。

 だからだろうか。GANTZミッションと並行して奉仕部の復活を目指すという八幡の物語の初期構成の為もあったけれど、僕は雪ノ下をガンツメンバーにするという発想は全くなかった。それは他のヒロインもそうだけれど、特に彼女の場合は、何故か、幼い女の子を虐めているような、弱い者虐めをしているような、そんな罪悪感が凄かった。結果としては負けず劣らずの酷い目に遭わせているのだけれど、なんというか、彼女は僕の中では最初から最後まで、ピンチを助けられるお姫様のような少女だった。

 

 それでもこの世界では、この小説では、この物語では――比企谷八幡は、彼女にとっての王子様にはなれなかった。

 王子様が到着した時には、お姫様の心は壊されていた――白馬の王子様は間に合わなかった。

 チビ星人の来襲によって雪乃の心は破壊された。これは、奉仕部が壊れかけ、雪乃の心にも大きな負担がかかっていたことも一因である。結果として彼女は、八幡に依存するようになった。八幡はそれを恋愛感情ではないと断じたが、それはおそらく雪乃自身も理解していないだろう。そんなことを考えることも出来なくなったといっていい。彼女にとって八幡は暗く恐ろしい世界の中で自分の心を助けてくれる温かい光であり、ずっと傍に居て欲しい、居てくれなければ怖くてたまらない、そんな存在になった。なってしまった。

 

 八幡にとっても、雪ノ下雪乃を壊してしまったことは、己の心に刻まれた最大級の傷である。永遠に自責の念でその傷を癒える間もなく痛め続けるだろう。

 おそらくは、この世界の八幡は、雪乃を恋愛対象と見ることは、見れることは、一生ないのだろうと思う。八幡にとっては由比ヶ浜と並んで、彼にとっては、守りたい、けれど守り切れなかった、失ってしまった、帰れなくなってしまった、そんな光の日常の象徴であり、己の犯した罪の象徴でもある。

 八幡は雪ノ下の為ならば命を投げ捨てることが出来るだろう。だが、それは懺悔の気持ちであり、贖罪の気持ちであり、決して恋愛感情ではない。

 

 かつて比企谷八幡が憧れ、もしかしたら本物になれるかもしれなかった、正しい世界ではきっと正しい形で隣にいることが出来た筈の少女。

 八幡は、そんな彼女を守れなかったことを悔やみ、傷つけてしまったことを嘆き――彼女から逃げるように、彼女を解放する道を選んだ。

 それは雪ノ下雪乃という壊れてしまった儚い少女にとって、どんな未来を齎すのだろうか。

 

 正しい世界では、平塚静は、こう、比企谷八幡に言葉を贈る筈だった。

 

 雪ノ下雪乃を救うのは、比企谷八幡でなくても構わない。それでも、それが君だったらいいと思う――と。

 

 この世界で、比企谷八幡は雪ノ下雪乃を救うことを諦め、それを由比ヶ浜結衣が成し遂げてくれることを願った。

 果たして、この世界で雪乃を救うのは、やはり由比ヶ浜か。それとも――。

 

 ちなみに時間が跳んだ無印と続の間の半年間、八幡とは半同棲みたいな感じでかなりの時間を一緒に引っ付いて過ごしていた。

 そこの絵だけを見ればかなり真面目にラブコメしているのに……。

 

 

 

 

 

・由比ヶ浜結衣【ゆいがはま・ゆい】

 

 種族:人間

 

 死亡:なし

 

 初登場:ねぎ星人編

 

 原作:やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(生徒会選挙編のラストから分離)

 

 

 彼女も雪ノ下同様に、初登場はねぎ星人編の冒頭なので、この章に。

 

 由比ヶ浜も雪ノ下同様に、この小説のポジションは当初は未定だった。

 考えて見れば、僕は由比ヶ浜を岸本ポジションに置こうなどとは、まるで考えなかった。巨乳繋がりで思いつきはしてもいい筈なのに、その可能性すら浮かばなかった。

 僕が岸本で一番強烈に思い浮かぶのはやっぱりあの全裸転送シーンだからかもしれない。由比ヶ浜のそんな姿を不特定多数の男に見せるのが嫌だったのかも。結果的には相模もそんな目には遭わなかったけれど。それに、僕は初めから岸本ポジの子を考えるときに、加藤――つまり葉山に惚れる、もしくは惚れているという条件で考えたので、だからかもしれない。それが彼女にとってそれは幸だったのか不幸だったのか……。

 

 それでも僕の中では、由比ヶ浜も雪ノ下同様にガンツミッションに参加させる予定はなかった。だけど、それは雪ノ下とはまた別の理由だと思う。なぜだろうか。色々と可能性は思い浮かぶけど、明確な理由は自分でも分からない。

 

 少なくとも、僕には由比ヶ浜は弱いという印象はない。むしろ雪ノ下よりも、そして八幡よりも、遥かに強い人間だと思っている。

 だが、結果として、強過ぎる彼女は、強過ぎた彼女は、誰よりも辛い役回りになってしまった。

 

 ただただ耐えた。ただただ待った。耐えて耐えて耐えて、待って待って待って。

 

 それでも、彼女は――切り捨てられた。比企谷八幡に、切り捨てられた。

 

 八幡にとって由比ヶ浜は、雪ノ下とは違う意味で罪の象徴であり、そして二度と戻れない、光の日常の象徴でもある。

 八幡は彼女に甘え続けた。苛烈な罪悪感を感じながら、強い彼女に甘え続けた。

 いつしか八幡は彼女との約束を果たすことを諦め、それでも彼女に甘え続けた。

 もしかしたら、雪乃が八幡に依存していたように、八幡も由比ヶ浜に依存していたのかもしれない。そして由比ヶ浜は、きっとそんな雪乃と八幡に依存していた。

 

 共依存。歪んで、狂って、それでも崩れない不気味な空間――それが、小町が見て、泣くことしか出来なかった悲劇の奉仕部。

 由比ヶ浜結衣という少女は、奉仕部という何かに依存していた。奉仕部という場所に、奉仕部という空間に、奉仕部という時間に、恐らくは八幡以上に何かを求めていて、求めるようになってしまって、そして誰よりも縋り諦めきれなかったのは、きっと由比ヶ浜だ。

 

 あの場所を求め、あの時間を求め続けていた。あの空間が帰って来ることを、誰よりも誰よりも待ち望み続けた。

 だからこそ耐えられて、だからこそ強く在れて――けれど、それも、遂に終わった。

 

 八幡は、由比ヶ浜を自分という重荷から解放した――それが彼女にとって、どんな意味を持つ重みだったか、それを理解していたのかは分からない。

 もしかしたら、雪乃以上に強く悍ましく八幡に依存していた彼女は、その八幡から解放され、その八幡から切り捨てられた今、彼女は何を支えに生きているのだろう。

 

 自分ではない誰かと由比ヶ浜が幸せになることを、八幡は望んだ。祈った。

 彼女を救うのは、八幡ではない別の男なのだろうか。それとも――。

 

 なんていうか、雪ノ下も含めてだが、奉仕部の三人は、その三人の関係が特別過ぎて、どうしても一人を選ばなくてはならない恋愛という分野では語れない気がするのだ。だからこそ、あの三人の青春ラブコメはまちがっているのだと。

 そんなことを言っておきながら、八幡以外とくっつく由比ヶ浜も雪ノ下も見たくないのだから、僕も相当にアレだけれど。

 

 この作品での三人の関係はこれ以上ないくらい悲惨に壊れ、歪み切っている。

 結果としてそこを目指したわけではないけれど、それでも僕は初めから、この三人の結末は恋愛というものを超越した、人によっては異様に感じてしまう程に特別な何かという形で表現したかったのだと思う。

 

 由比ヶ浜結衣、雪ノ下雪乃、そして比企谷八幡。

 この三人の関係。この三人を繋いでいるもの。この三人だからこその世界。

 

 奉仕部。

 この言葉は、あの空間は、きっといつまでも三人を縛り付けて、三人はいつまでも囚われ続けるのだろう。

 彼女達が、この小説で、この世界で、どんな結末を迎えるのか。

 

 どんな結末だとしても、大切に描いていきたいと思う。

 

 

 

 

 

・平塚静【ひらつか・しずか】

 

 種族:人間

 

 死亡:なし

 

 初登場:ねぎ星人編

 

 原作:やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(生徒会選挙編のラストから分離)

 

 

 出番は殆どないけれど、一応名前の初登場はねぎ星人編なので、一応ここに。

 殆ど出番がない――というよりは、僕はこの人を書くことを避けている自覚はあった。

 

 彼女はこと俺ガイル二次創作においては駄目人間で教師失格で結婚したいが持ちネタのネタキャラみたいになっているけれど、勿論そんな平塚先生も僕は好きだ。

 駄目人間で教師失格な面もあるけれど、それでもやっぱり僕の中で彼女のイメージは【教師】で、【大人】だった。

 

 だからこそ、書きにくかった。なんていうか、間違っちゃいけない、みたいな感じがして。

 気軽に書けるキャラじゃなかった。本当はチビ星人戦のときとかに八幡を諫めるシーンとかを入れたり、またはどんどん堕ちていく八幡や奉仕部に対して、何かしら対処に動く彼女を書こうかなとも思ったけれど、それでも結局書くことは出来なかった。

 

 それでも、いつまでも僕も、大人から逃げていてはいけないのだろう。この小説も話のスケールがどんどん大きくなって、大人のキャラも増えてきた。そして、得てして大人のキャラは立場や力を持っているので、物語に対するマンパワーが大きい。それが書くのを躊躇する理由でもあるのだけれど。

 

 状況に振り回されるのではなく、そんな状況から導くキャラ。それは、彼女の言葉を間違えれば、物語の舵取りが致命的に取り返しがつかなくなる可能性も抱えている。ああ怖い。気軽に書けない。

 

 まぁこんなことを言ってきたが、それでも平塚先生は今後もあんまり出番はないと思う。

 それでも、いつかあの神巻の神シーンのような、あんなカッコいい平塚先生を書いてみたいという気持ちはある。

 いつかこの人をカッコよく書けるような、そんな立派な大人になりたいものだ。

 

 

 

 

 

・葉山隼人【はやま・はやと】

 

 種族:人間・戦士(キャラクター)

 

 死亡:あばれんぼう星人・おこりんぼう星人編

 

 復活:オニ星人編

 

 あだ名(ニックネーム):イケメン☆

 

 初登場:ねぎ星人編

 

 愛用武器:Yガン

 

 原作:やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(生徒会選挙編のラストから分離)

 

 知力:A

 戦闘力:C

 生存力:B

 運:E

 指揮力:B

 情報力:C

 八幡への憧憬:A

 

 

 この作品におけるはじまりの一人。なんかこんな風に言うとカッコいい。

 

 事実、カッコいい男だと思う。八幡よりもよっぽど主人公な男だ。正しい男だ。だけれどそんな、正しいのにそれでも正しさが通用しない――そんな所が加藤と重なり、この作品を書いてみたくなったのだと思う。

 

 だけど、僕の持つ葉山のイメージは、加藤程にその正しさを貫けるような強者ではなかった。

 正しいけど、正しく在りたいけど、正しさを貫きたいけど――正義のヒーローを背負い続ける程の強さを持っていない、ヒーローになれないヒーロー。

 そんな彼のテーマ――というか、僕が意識して書いたのは、【八幡(アンチヒーロー)との対比】。

 

 正しいヒーロー、本来の主人公の気質の男が通用せず、アンチヒーローが無双していく。そんな昨今ブーム(?)の俺TUEEEな感じのことを書きたかった。

 でも、僕はそれは別に、クラスのイケメンリア充をアンチして貶めるといったことを書きたいわけではなかった。それは、信じてもらえないかもしれないけれど、僕の本音だ。

 それよりも、そんなことが成り立ってしまうくらい、平時の強弱関係が簡単に意味を失くしてしまうくらい、GANTZという戦場は理不尽なもので、平時では輝かない才能を八幡が持っている。そんなことが伝わればと思っていた。

 

 言うならば、書きたいカッコよさが違った。八幡は理不尽を間違った強さで打倒していく邪道のカッコよさを。葉山はそんな理不尽な地獄の中でも藻掻き続けるクラスの王子様の凡庸なカッコ悪いカッコよさを、書きたかったのだと思う。

 それでも、この作品の主人公は八幡だし、それと対比するように書いているので、結果的に葉山アンチのようになってしまったことは、結構悔しかった。

 

 葉山のあばれんぼう星人編での慟哭はかなり初期の頃から書いてみたかったし、書けて嬉しかったシーンの一つだ。そして、葉山が八幡を救う。これまで数多くの尻拭いを、己の力ではどうしようもなかった状況を八幡に押し付けてきた葉山が、八幡にそれを押し付けられる。それに満足げに笑う葉山。葉山の死ぬシーンはそうしようとずっと決めていた。

 

 相模とくっついたのは僕としてもちょっと予想外だったけれど、結果的にはよかったと思っている。相模は原作でも一応(クラス一のイケメンにキャーキャーくらいのそれだとしても)葉山に惚れている設定だけど、三浦と違ってほとんど葉山とくっついている作品は見かけないので目新しいというのもあったし、GANTZの方でも岸本は加藤と最終的に結ばれることが出来なかった。両想いではあったのだろうけれど。

 この作品でも二人の想いが通じ合ったのはほんの僅かな間だったけれど、それでも八幡の凄さを知った上で、それでも相模は葉山を選んでくれた。そんな彼女の告白は、これまで数多くの告白を受けて来た葉山にとっても特別な意味を持っているのだと思う。

 

 そんなこんなで、個人的には葉山はかなり思いが強いキャラクターだ。だからこそ、彼は復活させることは決まっていた。僕が葉山で書きたいシーンは、まだ一番大きいものが残っている。

 加藤の一番の見せ場である大阪編。それをどうしても葉山ありで書きたかった。

 

 葉山がこの小説で死んだのは、原作のマラソン大会編の発売前。あの巻を読んでより深く知れた葉山隼人という人間を、大阪編でよりカッコよく描きたい。今度こそしっかりと描いてやりたいとずっと思っていて、やっとここまで辿り着けた。

 

 葉山が戦っていた時のそれとは、遥かに絶望のレベルが上がった戦場に、葉山隼人はどう立ち向かうのか。

 そして、葉山は、彼女を取り戻すことが出来るのか。

 

 葉山隼人という凡庸だけれどカッコいい男の本当の戦いはこれからだ。

 そして、この男が立ち向かうべき本当の絶望も――。

 

 

 

 

 

・相模南【さがみ・みなみ】

 

 種族:人間・戦士(キャラクター)

 

 死亡:あばれんぼう星人・おこりんぼう星人編

 

 あだ名(ニックネーム):うちぃ~

 

 初登場:ねぎ星人編

 

 愛用武器:特になし

 

 原作:やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(生徒会選挙編のラストから分離)

 

 知力:C

 戦闘力:D

 生存力:B

 運:D

 指揮力:C

 情報力:C

 葉山への想い:A

 

 

 まさかの序盤のヒロイン枠。

 八幡、葉山、相模という組合せがメインだった俺ガイル小説など中々なかったのではなかろうか。作者もビックリだ。

 故に、相模がメインヒロインで嬉しいみたいな感想を頂いた時、ひどくドキッとしたことを覚えている。ああ、そうか。普通に読めばそういう風に読めちゃうよなって。

 

 前述の通り、僕は彼女を岸本ポジに置いたのは、葉山に惚れるという前提の元で決めたので、八幡のヒロインにするつもりはまるでなかった。それに、誤解を恐れずに言えば、僕は多くの原作読者の一人として、始めは――少なくとも、この小説に登場させたときは、僕は相模のことはあまり好きなキャラではなかった。後述の折本もそうだが。

 

 これも前述の通りだが、僕はシリアスな展開ばかり書いてしまうが、キャラクターを虐めて悦に浸っているわけではない。当然ながら、好きなキャラがひどい目に遭うのは心が痛いし、いつかこれを伏線にスカッと無双して欲しいと読者側ならばそんな展開を期待する。

 八幡は理不尽な状況をそれでも切り抜いていくといった主人公の立場なので書けたが、それを引き立てる存在として、そんな理不尽な状況に屈服してしまう――ようは酷い目に遭って絶望する立場のキャラはやはり物語上、必要不可欠なわけで。そんな立場に、好きなキャラを好き好んで配置などしたくないわけで。

 

 つまり、当初はそんなヒドイ理由で、相模は雪ノ下や由比ヶ浜を退けて初期ヒロインの座を勝ち取ったわけだ。……そんなわけだから、相模がヒロインで嬉しい、中々相模好きの同志がいなくて、みたいな感想を頂いた時は、申し訳なさで心苦しかったのを、今でも覚えている。……本当にすいません。性格がゴミなクズ野郎で……。

 

 けれど、書いていく内にキャラクターは成長するし、愛着も湧いてくる。

 結果的に彼女は、葉山隼人を救う程にまで強くなってくれた。

 

 原作者の渡航先生もいつだかのあとがきに書いていたが、彼女は本当に人間らしいキャラクターです。

 間違いも犯すし、気に入らないものは気に入らないし、イケメンにキャーキャー言うし、チヤホヤされたいし、嫌なことからは逃げたい――とても弱い人間だけど。

 

 きっと、だからこそ、そんな自分が嫌いで、そんな自分を直したいっていう自分も、きっと持っていて。

 

 一人の男の子をじっと見つめて、いいところもわるいところも受け入れて――一人の男の子に恋をする。

 

 そんな強い女の子の部分も、きっと持っているのだと、そう思った。

 

 この小説の相模南には、そんな普通の、だけどとても尊く、強い女の子になって欲しかった。

 

 葉山隼人という普通の男の子を救うのは、きっとこんな女の子なのだろうと。

 

 原作の岸本恵という少女は、終ぞ悲しい終わりのままだったけれど――この小説での相模南という初期ヒロインは、果たして報われるのだろうか。

 

 それは、一人の、カッコ悪くてカッコいい男の子に懸かっている。

 

 

 

 

 

・山田太郎【やまだ・たろう】

 

 モブキャラ①。

 眼鏡の男。

 教師風の男。

 

 こんなキャラまで肉付けしようか迷ったけれど、こんなモブキャラにもそれなりに裏設定が合ったら面白いなと思ったので、簡素ながら設定を。

 

 八幡の予想通り、千葉県内の小学校で教師をやっている。教師歴は五年以上十年未満くらい。仕事に慣れてきたがベテランという程には熟成していない。

 

 教える教科は小学校なので全般的だが、思考は理系寄り。理屈で考えたがり、理屈を繋げたがる。故に、理解の範疇外の事態に弱く、テンパりがち。いざという時に頼りにならないタイプ。

 

 死因は原作と同じく仕事帰りにスクーターで事故った。一応、原作とはちょっと名前を変えてある。

 

 

・稲森孝之【いなもり・たかゆき】

 

 モブキャラ②。

 不良風のチャラ男。

 

 バイトを転々とするフリーター。根気はなく、根性もないが、人にすり寄るのが上手く、世渡りは得意。どのバイト場でもすぐに上司に気に入られるが、単純に根性の問題ですぐに仕事に嫌気が差して辞める。だからといって、単純にどうにかなんだろと開き直れるほどに馬鹿にはなれないので、すぐに次のバイトを探し、持ち前の世渡り術で面接は割とすんなり通る。

 このままじゃやべぇなーとはなんとなくわかってはいるが、どうしても根性が足りないので、いまいち奮起できず、駄目人間を卒業できない。

 

 死因は、そんなことをぼうと考えていたら、突然歩道に乗り込んできたトラックに轢かれた。神様のミスかな。

 もし、彼に何らかの可能性があったら異世界転生とかしていたかもしれない。

 

 事実、ガンツに見つけられて、第二の人生を獲得できるかもしれないという境遇を得ることはできたが、小説みたいなことはそう簡単には起こらなかった。小説だけれども。

 

 

・鈴野重蔵【すずの・じゅうぞう】

 

 モブキャラ③。

 おじいさんとおじさんの中間くらいのおっさん。

 風格がある、どっかの重役っぽい男。重役さん。

 

 死因は病死。それもかなり長い闘病生活の末の死だった。

 故に死を比較的に冷静に受け止めていたが、実際に久方ぶりに外に出て、歩いていることを実感した時、もう一度家族に会いたいという当然の欲求を覚えた。

 

 中小企業の社長をしており、比較的に順調な業績を上げていたが、昨今の情勢により、少し経営が傾き出し、ここが頑張り所と気合を入れたところで病を発症し、苦境な状態で会社をバトンタッチしなくてはならなかった息子に負い目を感じていた。

 

 

・畠中宏【はたなか・ひろむ】

 

 モブキャラ④。ヤクザ①。

 武闘派。とある暴力団の戦闘要員。

 

 いつの間にかドロップアウトし、ふとある時に喧嘩を売った相手が本物のヤクザで、ボコボコにされた後に半ば強制的に組合の一員にされた男。

 

 体格の良さ、気性の荒さ、肝の太さなどを買われ、次々の手柄を上げ、気が付けば幹部の吉井とつるむほどの位置に。

 

 だが、それ故に他の組合からも恨みを買っており、死因は闇討ち。

 余談だが、趣味は組合がバックに付いている風俗店通い。特別料金で通してもらえたらしい。

 

 

・吉井聖【よしい・さとし】

 

 モブキャラ④。ヤクザ②。

 幹部。腕っぷしよりも、政治力で幹部まで伸び詰めた男。

 

 学はなかったが、地頭はよく、策謀に長けていた。

 関西出身の外様だったが、畠中の有用性に気付き、駒としては使い勝手がよかった畠中を上手く運用して、敵組合や同じ組合の邪魔な存在を次々と退けていき、出世を重ねた。

 

 が――それによって敵を作り過ぎ、最後は同じ組合の蹴落とした男の策略により、敵組合の闇討ちにあって死亡。

 だが、只では死なず、畠中が殺された後、残り一名まで道ずれにした。

 

 

 

 

 

・霧ヶ峰霧緒【きりがみね・きりお】

 

 種族:人間・戦士(キャラクター)

 

 死亡:田中星人編

 

 復活:オニ星人編

 

 あだ名(ニックネーム):厨房

 

 初登場:ねぎ星人編

 

 愛用武器:透明化(ステルス)

 

 原作:なし(オリキャラ)

 

 知力:SS

 戦闘力:SS

 生存力:S

 運:E

 指揮力:E

 情報力:A

 異質度:SSS

 

 

 

 オリキャラ①。

 中坊。

 言われるまでもなく、原作の西君ポジ。

 

 霧ヶ峰霧緒というのは、俺ガイルっぽい名前にしたいなと思って色々と地名を探してみたがしっくりこず、CMを見てなんか霧ヶ峰って文字としてカッコいいなってふと思い、そっから霧ヶ峰キリオになって、文字を当てて霧緒になった。緒にしたのは、男や雄はイメージに合わないし、霧生も面白いかと思ったのだけれど、緒という字には魂を繋げるという意味があるそうなので、霧緒にした。何気に命名にはかなり時間を掛けた。俺、コイツのこと好き過ぎだろ。

 

 始めは只の説明キャラで、原作西くん同様に田中星人編であっさりと死亡して、その後復活させないでそのままフェードアウトのかませ犬キャラの予定だったのですが、ねぎ星人編で何故かあんなキャラになってしまい、トップクラスのお気に入りキャラに……(笑)。

 

 キャラクターのイメージとしては、『めだかボックス』という漫画の『球磨川禊』というキャラクター。僕はまだ、このキャラクター以上に好きなキャラに出会ったことがない。未だに個人的ナンバーワンのキャラ。

 

 相当危ないイカれた奴だけど、日常世界では実はそこまで大きな問題を起こしていない。

 例の同級生をバットで殴打した暴力事件も、いじめに対する正当防衛ということになっている。学校側が問題を隠すために退学ではなく不登校扱いになっている。

 

 一応、こいつも千葉県在住。けれど、基本的に家には帰らない。

 なので、基本的に消息不明。ミッションがない日常世界で彼を見つけるのは擬態している星人を見つけるよりも難しいかもしれない。

 

 さらっとパンダがレコードホルダーであることをバラしたが、能力値が表す通り、本当は天地がひっくり返るようなことがあっても田中星人如きに殺される存在ではないのだが――それでも、いざという時はあっさりと絶命するところも彼らしい。

 

 スペックで言えば、彼は作中でも最強クラスの“人間”である。恐らくは陽乃以上に、まさしく異質な、異常種。

 その辺りも含めて、未だ彼は謎めいていて、書きたいことがいっぱいある。

 

 田中星人編で死んでしまったが、コイツの過去は未だに謎に包まれていて、これから先、かなり重要なキャラクターになってくるので、どうかお楽しみに。

 

 いつかその辺りのエピソードも、前日譚の外伝として彼を主人公に書いてみたいと思っている。

 

 あと、復活シーンの過去回想でのキャラは、『雪ノ下陽光』ではないとだけ、明言しておく。これは、――繫――で明らかになるかと。

 

 

 

 

 

・比企谷小町【ひきがや・こまち】

 

 種族:人間

 

 死亡:オニ星人編

 

 初登場:ねぎ星人編

 

 原作:やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(生徒会選挙編のラストから分離)

 

 

 比企谷八幡の愛妹。天使。

 絶対に守り抜きたかった存在で、八幡が自らの手で殺めた――【本物】。

 

 比企谷八幡にとって、きっと生涯で最も深い心の致命傷となっただろう。

 

 八幡が黒い球体の部屋に引き摺り込まれていくにつれて、日常が侵食されていくにつれて、小町が追い込まれていくのは、多分確定的だった。

 

 初めに考えたのは、やっぱり原作でのタエちゃんポジへの配置。

 それも雪乃と同様に八幡が躊躇なく全てを虐殺する未来が見えたので、白紙に。でも、あのシーンはどうしてもこの小説でも何らかの形で出したかったし、雪乃が既に壊れている以上、それと同等以上に八幡の心を破壊するには、やはり小町だろうと思っていた。いうならば、雪乃と小町の二人で多恵ちゃんポジといったところか。

 

 だからこそ、オニ星人編のラストは、一番最初に決まっていた。個人的には、原作の小島多恵編とオニ星人編とゆびわ星人編を一気に一つの章として書こうと思ってプロットを作った。結果として長すぎたので二つに分けたが。

 

 図らずとも大志が重要キャラとなったので、小町の作中重要度も上がったが、個人的にはやはり小町にとって大志はお友達なので、大事ではないということでは決してないだろうが、一番は八幡だったのだろうと思う。八幡がおかしな原因に、大志も関わっているのでは、といった感じで。

 

 八幡のいう、本物。

 相手の全てを知って安心したい。完全に理解したい。

 そんな醜い自己満足を、そんな傲慢を、お互い許容できる関係。

 

 そんな関係を、作ろうとするまでもなく、当たり前のようにそうであった存在――八幡にとって、小町は無条件でそうだった。

 

 小町だけは、まるで神に与えられていたかのように。

 

 そんな本物を、八幡は自らの手で撃ち抜き、破裂させ、破壊した。

 

 小町はガンツのリストに入っていない。よって、ガンツでは彼女を蘇らせることは出来ない。

 八幡がどれだけ頑張っても、何を犠牲にしても、この手で取り戻すことの出来ない死。

 

 この死は間違いなく八幡のターニングポイントとなる。

 

 妹を殺した――本物を壊した。

 それは、これからの比企谷八幡の物語に、どのような致命的な影響を及ぼすのだろうか。

 

 ただ一つ、明言したいのは。

 小町は笑顔で、兄が大好きで――ただ、幸せを願って、死んでいったということだ。

 

 

 

 

〔ねぎ星人〕

 

 住宅街にそっと紛れ込む父子の星人。

 基本的に家の中でひっそりと隠れ潜み、たまに食糧のネギを調達に街を徘徊する。

 

 その名の通りにネギのみで生存に必要な栄養を全て獲得することが出来るが、光合成は出来ない。また、他の食物を食べることは可能だが、栄養とはならずに排泄される。

 

 戦闘能力は高いわけではないが、人間よりは遥かに高い身体能力と、武器となる爪、刺激臭を放つねぎ汁分泌能力を備えている。

 

 争いは基本的に好まない温和な性格で、命の危機を感じると、命の次に大事なねぎを差し出して命乞いをする。

 だが、友人や仲間を傷つけられた時は、個体によっては血の涙を流す程に激昂し、命を懸けてでも復讐を成し遂げようとする。

 

 

 

・ねぎ星人子 1点

 

 ねぎ星人の子供。

 父と二人、人間から隠れてひっそりと暮らしていた。

 

 父から人間には絶対に見つかるな、人間は恐ろしい生き物だということを強く教えられながら育った。

 故に、父が帰って来たとドアを開けたら人間が現われた時、彼はただ一目散に逃げだした――だが、結果は。

 

 

・ねぎ星人父 3点

 

 ねぎ星人の雄の成体。

 ねぎ星人は、彼と息子が最後の生き残りで、既に絶滅がほぼ確定している種族だった。

 

 ネギがあればおよそ生きるのに必要な全ての栄養が手に入るので、場所を転々としながらなんとかここまで生き延びてきたが、遂に今回のミッションにて絶滅した。

 

 人間に対して並々ならぬ復讐心を抱えていたが、己の力を理解していたために――同族最後の生き残りである自分達が生き残る為に、ただ只管に堪え、息子の為に耐え忍んでいた。

 

 だが、遂にその日、ネギ畑が見つからず、止むをえず一か八かの覚悟でコンビニに赴きネギを購入したが、ガンツに危険行為だとみなされ、標的にされた。

 



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設定資料集――田中星人編―― ※ネタバレ注意

※これは最新話までのネタバレを多分に含みます。本編を全て読んだ上で目を通すことを推奨します。

※これはあくまでこの小説における設定の為、原作での設定と相違点が生じる場合がございます。ご注意下さい。

※その他の注意点に置かれましては、活動報告にてご確認の上、読んでいただきますようよろしくお願いします。


・川崎大志【かわさき・たいし】

 

 種族:人間→オニ星人

 

 死亡:なし

 

 初登場:田中星人編

 

 愛用武器:特になし

 

 原作:やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(生徒会選挙編のラストから分離)

 

 知力:C→?

 戦闘力:D→?

 生存力:C→?

 運:D→?

 指揮力:D(AAA)→?

 情報力:D→?

 人間への執着:A→?

 

 

 

 読み返したら名前だけなら田中星人編に出て来ていたから、この章に。

 

 この小説に置いて、書いていく内に当初の予定とは大きく扱いやポジションが変わるキャラクターは多いけれど、大志はまさしくその筆頭だった。

 

 原作で言うならば、玄野の弟のアキラポジ。GANTZ原作を読んでいた時は、いずれ兄弟対決とかやるのかなぁなって思っていたら、まさかあんな感じになるとは……。

 

 八幡とはまた違った意味で、日常が崩壊した少年。

 それも、八幡よりも、もっと致命的に、もっと悲劇的に。

 

 ある日、突然、人間から化物になってしまった、普通の少年。

 

 だからこそ、運命を受け入れられず、立ち向かうことも出来ず、ただただ嘆き続けて、逃げ続けた少年。

 

 そして、だからこそ、きっとどこまでも堕ちていくだろう、哀れな白鬼。

 

 当初の予定では、このオニ星人編で死ぬ筈だった。八幡に殺されて、そしてそこを小町に目撃されて、八幡が全てを失うといったプロットだったのだけれど、そうなるとその後の展開としては、原作で和泉が多恵にやったように、氷川が小町をバッサリと斬る予定だった。だけど、そうするとそのまま氷川vs八幡になって、キリトと氷川の因縁に加えて八幡との因縁も生まれてしまって、収集がつかなくなると思った。

 なので、結果としては、大志を小町が庇い、八幡が撃ち殺してしまうと言ったあのシーンになった。……当初はこれは中々無理があるのではと思ったが、その情景が思い浮かべた瞬間、どうしてもこのシーンを書きたくなってしまい、後はなるべくモノローグで無理を失くそうと必死になった。大変だったが、個人的にはどうしてもこのシーンは書きたかった。

 

 結果として、小町は死んで、大志は生き残った。

 中々皮肉的な結末になったが、だからこそ小説は書いていて本当に面白いと思った。

 

 中坊と同じく、物語の転がり方によって、かなり重要度が上がったキャラクターになった。

 これからは、八幡とはまた違ったサイド――化物サイド、星人サイドに堕ちた、いわば敵方の主人公として、八幡とはまた違ったダークヒーロー、アンチヒーローになってくれるかもしれない。

 とにかく、これからまだまだ書いてみたいキャラクターだ。まさか大志がこんなことになるとは。

 

 彼の進化はこれからで、彼の堕落はこれからで、彼の真価はこれからで、彼の悲劇はこれからで、彼の地獄は――まだまだこれからだ。

 

 初恋の少女の血を啜ってまで、生き延びてしまった哀れな白鬼は、これからどんな色で、その白を染めていくのだろうか。

 

 ちなみに、大志を書いていく中で、自分の中で明確にモデルというかイメージしているキャラクターがいるのだが――まぁ、これは気付いている人は気付いているだろう。でもなるべく内緒に頼むね。ネタバレを防ぐという意味で。

 

 

 

 

 

・海老名姫菜【えびな・ひな】

 

 種族:人間

 

 死亡:なし

 

 初登場:田中星人編

 

 原作:やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(生徒会選挙編のラストから分離)

 

 

 

 この作品での海老名さんの見せ場といえば、第一部ラストの「もういい」なのだけれど、名前自体は田中星人編で出てきたので、とりあえずはここに。……なんかそんなんばっかりだな。

 

 まず最初に言わせてもらうと、僕は海老名さんは嫌いじゃない。むしろ好きなヒロインだ。

 腐女子キャラはあんまり好きではないけれどギャグパートキャラとしては便利だろうし、何よりも陰のある本性めいたあの顔の海老名さんはトップクラスに好きなヒロインだ。八幡との相性もいいだろうし、いつか平和な世界線で、この二人の組合せを書いてみたく思う。

 

 だが、この世界では、海老名と八幡は決定的に決裂した。

 この世界の八幡は余りにも由比ヶ浜に依存し過ぎた。それに対し、由比ヶ浜の友人である海老名と三浦が思うところがない筈がない。

 

 それでも、三浦よりは、海老名はきっと八幡を認めていて、期待していて、だからこそ失望も大きかったのだろうと思う。

 

 日常を完全に切り捨てた八幡とは、もう会うこともないのかもしれない。もし邂逅するとすれば、それはカタストロフィ編だろうか。

 海老名というキャラが決して嫌いではない自分の中には、彼女をこのまま終わらせたくないという思いもあるけれど――それは、物語の転がり方次第だと思う。

 

 

 

 

 

・戸部翔【とべ・かける】

 

 種族:人間

 

 死亡:なし

 

 初登場:田中星人編

 

 原作:やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(生徒会選挙編のラストから分離)

 

 

 

 葉山グループ。サッカー部。ウザい。ウェイ。っべー。

 戸部を簡潔に表すとしたらこんな感じだが(ひどい)、僕は海老名さん同様に、この男があまり嫌いではない。

 

 単純に悪い奴じゃない。むしろいい奴だ。実際にいたら個人的にはあまり友達になりたい奴じゃないが。クラスに一人はこういう奴がいないと寂しいとは思う。積極的に関わりたくはないが。

 

 まぁそんな個人的な好悪がキャラの幸せに繋がらないのが僕という作者なわけで、案の定、戸部は何も悪くないのに指の骨を圧し折られた。彼の骨折から、この小説に置いて日常世界が侵食され始めたのだと思う。正確にいえば大岡からだが。そういう意味では、ある意味で物語のターニングポイントとなった骨折と言える。

 

 再登場はするのかなぁ。あるとすれば、やっぱり海老名さん関係だろうか。

 個人的に海老名さんと戸部の恋愛カップリングは余りしっくりこないので、恋愛的なアレではないのだろうが。

 っべー。まじないわー。

 

 

 

 

 

・三浦優美子【みうら・ゆみこ】

 

 種族:人間

 

 死亡:なし

 

 初登場:田中星人編

 

 原作:やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(生徒会選挙編のラストから分離)

 

 

 

 彼女もやっぱりいい奴なのだと思う。まぁ、海老名と違って、僕は彼女はあまり好きではないけれど。こういうことを、この資料集ではバンバン言っていこう。なんせ好きなキャラが優遇され、嫌いなキャラが不遇されるとは限らないのがこの小説だ。なんせ好きなキャラがほとんど出て来なくて、嫌いなキャラがメインに昇格するなんてことが普通に起こっている。まぁその逆も当然ながらありきなのだが。

 

 それに、好きなキャラ、嫌いなキャラなんてものは、個人的な好みによるもので、キャラクターの味のようなものは変わらない。同じ味でも、好きな人間と嫌いな人間がいるのと同じものだ。どのキャラも魅力があるし、同時にダメな面も持っているだろう。

 

 今の所この小説における三浦は、由比ヶ浜の友達で、八幡を糾弾するといった立場にあるが、他にも彼女には大事な要素がある。

 それは、葉山隼人に惚れているということだ。

 

 あまり彼女が好きではない僕にとって三浦は、八幡よりもやっぱり葉山のヒロインだ。

 他の二次創作においても、葉山のヒロインはやはり三浦であり、相模はむしろ亜種である。っていうかここ以外に見たことがない。

 

 よって、海老名と違って彼女には、明確にこれから先の展開において見せ場を用意している。

 

 オニ星人編にて遂に葉山が復活し、これから先、彼の物語が再び紡がれていくが、そこにはやはり、三浦優美子という、彼をずっと思い慕ってきた少女が関わることは間違いないだろう。

 

 葉山隼人という少年は、果たしてどんな選択をするのだろうか。

 

 それもこれから先の見所の一つになると思う。

 

 

 

 

 

・川崎沙希【かわさき・さき】

 

 種族:人間

 

 死亡:なし

 

 初登場:田中星人編

 

 原作:やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(生徒会選挙編のラストから分離)

 

 

 

 愛してるぜ川崎! マジでマジで。

 

 いやホントヒロインとしては欠点らしい欠点がないのが欠点みたいなこの子。使い勝手が良すぎるのが逆に使い勝手が悪くてどうしようって感じだった。

 

 この小説が始まった頃は、まだあの大天使けーちゃんが出ていなかったので、中々八幡とのイベントの作り方が難しかったのもあるが、どうしてもこの子は蚊帳の外ヒロイン感が強過ぎて困った。いなくても物語がどんどん進んで行っちゃう感じが。

 

 初めは、僕はこの子を美人さんポジで考えていた。まぁ、割かし好きなヒロインだったので、ガンツメンバーにするのが忍びなくてやめたのだけれど。それなのに一番好きなヒロインであるはるのんが代わりに収まるんだから自分でも訳が分からない。僕が本当のサキサキ推しだったのならば、この時点で川崎が美人さんポジになって、奉仕部の件で傷心だった八幡を包み込み、メインヒロインになったのだろう。サキサキならばそれが出来たと思う。

 

 そんなメインヒロインになるチャンスを逃して、というよりは僕が個人的一存で潰して、彼女は再び物語の蚊帳の外に。本当にごめんなさい……。サキサキはまた選ばれないんだね……。

 

 それでも、そんな川崎にも、物語がこんな形で転がった結果、重要な役割が出来た。

 当然、大志の姉としての役割である。

 これから先、彼女は八幡のヒロインというよりは、大志の姉としての活躍が期待されている。主に僕に。それも川崎沙希という少女の大きな魅力だ。勿論、八幡と関わることもあるだろう。

 

 三浦と同じく、川崎もまだこれからのキャラクター。

 大志も僕の中では主人公クラスの登場人物になっているので、そのパートのメインキャラとして、彼女も活躍することだろう。……たぶん。きっと。

 

 二度と、川なんとかさんなんて呼ばせない! ……このネタも、彼女を不遇ヒロインにした一因だと思うんだよなぁ。使うんだけどね。

 

 

 

 

 

・戸塚彩加【とつか・さいか】

 

 種族:人間

 

 死亡:なし

 

 初登場:田中星人編

 

 原作:やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(生徒会選挙編のラストから分岐)

 

 

 

 いわずと知れた、俺ガイル界の最強ヒロイン(?)。

 性別戸塚の天使。彼が彼女だったら、その時点で八幡の青春ラブコメはまちがうことはなかっただろう。彼が彼であるために、八幡の青春ラブコメはことあるごとにまちがえそうになっているが。いや、戸塚は戸塚だからこそ戸塚であり、それ以上でもそれ以下でもないのだろう。無粋だった。

 

 さて、そんな大天使トツカエルであるが、え? 田中星人編に出てたの? とお思いの方は正しい。僕も読み返すまでは気付かなったが、一応名前だけは出てたので、こちらに記載する。

 

 と、いっても書くことは殆どない。一応、チビ星人編でちょろっと出てはいるけれど、僕は戸塚に関しては、この小説で何も書けそうにはない気がする。天使過ぎて。そしてこの小説が地獄過ぎて。天使をお呼びするには、あまりにもこの小説は暗すぎる。闇落ちトツカエルも嫌いではないが。

 そもそも僕如き作者が描写するには、戸塚はあまりにも天使過ぎて、どう頑張っても、『ッ、違う……戸塚はもっと天使なんだ……っ』と無力感に打ちひしがれる未来しか見えない。

 

 まぁ、真面目なことを言うと、戸塚と材木座は、八幡にとって、友達というよりも味方といったイメージが僕にはある。たとえ、全校生徒から嫌われようとも、この二人は八幡の味方でいてくれる、といった感じの。後、川崎もそうかな。

 だからこそ、全ての繋がりを断ち切ろうとする今の八幡を主人公としたこの小説には、なかなか出し難いというのが本音だ。八幡は、そんな味方を拒絶するだろうから。

 

 いつか、全てが終わった時、この天使が笑顔で八幡を迎えてくれるような、そんなラストになったらハッピーエンドだろう。きっと、そんな未来はこないのだろうけれど。

 

 

 

・達海龍也【たつみ・たつや】

 

 

 種族:人間・戦士(キャラクター)

 

 死亡:あばれんぼう星人・おこりんぼう星人編

 

 あだ名(ニックネーム):タッツミー

 

 初登場:田中星人編

 

 愛用武器:Xショットガン

 

 原作:なし(オリキャラ)

 

 知力:C

 戦闘力:A

 生存力:B

 運:C

 指揮力:B

 情報力:D

 戦闘狂:A

 

 オリキャラ②。

 ワイルドイケメン。リア充。

 原作でのホモくんポジ。

 

 この頃はまだあまりオリキャラを入れたくなったため、彼を出すのはかなり苦渋の決断だったが、ラノベの宿命か、俺ガイルは男キャラが致命的に少なかったため(この頃はまだ玉縄も出てなかった。出てても出さなかったが)、結果としてオリキャラになってしまった。

 

 葉山とは違ったタイプのイケメンリア充にしたが、ホモには出来なかった。いや、僕が個人的にホモ設定を受け付けなかった……。せめてものと女子に興味ない系イケメンにしたが。

 

 とにかく八幡とは違った意味で葉山との対比を、と思ったので、割とガンツミッションにはすんなりと順応。元々高スペックではある為、生き残ればかなりの主力となったのではないだろうか。

 

 そんな風に順調に染まってくれたため、ならばと、八幡を玄野ポジにしたために描けなった、ガンツミッションに“ハマって”しまう役割を与えた。ガンツを描く上では、どうしてもこの辺りを書きたくてしょうがなかったのだ。

 

 だが、彼はあくまでも北条ポジで、主人公ではなかった。もし、彼が玄野のように生き残っていれば、また違った未来があったかもとは思う。

 

 復活の可能性は未定。

 だが、復活は余り多用したくはないというのが本音で(ガンツミッションでの死の意味が薄れてしまうので。どうせ生き返るじゃんって思われたら終わりだと思っている)、正直迷っている。

 達海が生き返るなら折本も、いやいやだったらつなぎさんも優秀でしたよってなったらキリがない。

 でも正直、もっとやれたかもっていう思いが燻っているキャラではあるので、可能性はゼロではないかな。

 

 

 

 

 

・一色いろは【いっしき・いろは】

 

 種族:人間

 

 死亡:なし

 

 初登場:田中星人編

 

 原作:やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(生徒会選挙編のラストから分離)

 

 

 

 思えば、遠くまで来たものです……。このキャラのことを考えると、本当にそう思いますね。

 

 この小説を書き始めた頃は、ちょうど一色が登場した生徒会選挙編の頃で、その頃の一色はまだ相模や留美みたいな一巻限りのヒロインかなと思っていたのだが、あれよあれよという間に大人気になり、今や不動の第三ヒロイン。いやぁ、すげぇな。

 

 なので、田中星人編の初めの頃の一色を描く時には、少しは葉山狙いな感じを出しとこっかな、まぁ興味の対象は既に八幡に移っている感じで、と、思ってサッカー部のマネージャー業務に顔を出しているが、今じゃあ原作本編でも全然マネージャーやってない。あざといさすがいろはすあざとい。

 

 まぁご多分に漏れず、僕もいろはすは大好きになり、どうにかこの作品でも見せ場を上げたいなぁとは思ってはいる……が……中々に難しい。好きなキャラが優遇されるわけではないというこの作品の特徴を如実に現している。

 

 第一部でズタズタに傷ついた八幡を、一色がいつも通りのあざとい優しさで気遣ったシーンは、とても書いていて楽しかった。

 

 だが、一方で、あの原作の神シーンであるディスティニーでの告白後の責任取ってくださいねがこの作品では行われていないため、一色が八幡を特別に思う理由付けが弱いなとも感じ、何か別のきっかけのシーンが欲しいと思っている。

 

 そんなこんなで一色は、正直かなり扱いに困っているキャラクターだ。

 雪ノ下、由比ヶ浜、そして小町という、八幡が失った日常世界においての、新たな大切なモノに――とも考えたが、いや、だが、今の八幡にそんなものが必要なのか、とも思っている。第一、彼女も記憶を失っているわけで。

 

 が、ご安心を全国数万のいろはすファンの皆様。

 試行錯誤の結果――何とかこの先、いろはすにスポットを当てることが出来そうな予感です。……このひたすらに色んなキャラ達がひどい目に遭うこの小説に置いて出番が増えるというのが幸福なことであるかは、深く考えてはいけない。

 

 それは――繫――で、少し匂わせることが出来そうです。鋭意執筆中の本編続きをお待ちいただければ。

 

 

 

 

 

・城廻めぐり【しろめぐり・めぐり】

 

 種族:人間

 

 死亡:なし

 

 初登場:田中星人編

 

 原作:やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(生徒会選挙編のラストから分離)

 

 

 

 この人に関しては本当に名前しか出て来ていない。

 出すタイミングを逃したというよりは、元々こんなジャンルの作品に根本から相容れない天使のように思える。あ、少女のように思える。

 だって、ぽわぽわ感ゼロじゃん。この小説。

 

 この人も好きなキャラなので出したいは出したいのだが、いかんせん世界観が強過ぎてまるでイメージが出来ない。それこそ、女の子を虐めてるみたいな後ろめたい気持ちになる。

 

 まぁ、陽乃さんも復活したことだし、その辺りで絡む……のかな?

 それこそ、平和な日常の象徴としては、この人ほどに相応しい人もいないのかもしれない。

 

 

 

 

 

・折本かおり【おりもと・かおり】

 

 種族:人間・戦士(キャラクター)

 

 死亡:あばれんぼう星人・おこりんぼう星人編

 

 あだ名(ニックネーム):びっちw

 

 初登場:田中星人編

 

 愛用武器:特になし

 

 原作:やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(生徒会選挙編のラストから分離)

 

 知力:C

 戦闘力:C

 生存力:C

 運:C

 指揮力:C

 情報力:D

 誰だコイツ度:A

 

 

 

 正直、後悔の塊。

 何度も言うが、この田中星人編を書いていた時は、生徒会選挙編までしか原作が出ておらず、つまりは折本のキャラは、八幡が昔フラれた黒歴史少女だった。まさかそれが僕の黒歴史にもなるとは。ウケる。いや、ウケねーから。

 

 僕の読み込みが浅かったとしか言えない。彼女を、相模タイプのプライドが高くて八幡を見下す、いわゆる嫌な女なキャラだと思い込み、あんなキャラになってしまった。あだ名がひでぇな。次巻のクリスマスイベント編を読んで、まず折本のキャラに愕然とした。誰だコイツと。いや、お前だから。

 

 彼女を原作のストーカーポジにしたのも、ほぼ相模と同等の、酷い目に遭わせても心が痛まないからという最低な理由なのだから、もう救えない。

 

 そっから、書き直す度に、なんとか少しでもキャラを近づけようとしたのだが、大本のストーリーを変えることは出来ず、フォローにも限界があり――クリスマスイベント編以降の折本を知っている新規読者の方々は、まず折本のキャラに戸惑ったことだろう。本当に申し訳ない。

 

 なので、ぜひとももう一度、今度こそちゃんとした折本で書きたいという思いはあるのだが、既にこの作品の折本はこんな感じなので、そこをブレさせるわけにはいかないので……本当にどうしようって感じ。

 

 それでも、スタートはまちがってしまったが、だからこそ全力で彼女の生き様を、死に様を書いたつもりだ。

 折本と達海は、僕にとって、苦い思いや後悔を感じると同時に、だからこそ特別な二人だ。

 もっとやれた。そんな思いが燻っている。だからこそ、いつかその思いを晴らすことが出来る日が来ればいいと思っている。

 

 

 

 

・材木座義輝【ざいもくざ・よしてる】

 

 種族:人間

 

 死亡:なし

 

 初登場:田中星人編

 

 原作:やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(生徒会選挙編のラストから分岐)

 

 

 

 え? お前、いたの?

 

 本気でガチで忘れていて、最終確認で田中星人編を読み返していたら見つけたので、慌ててこの項を付け足した。いや、マジでごめんて。

 

 といっても、お前、この先も出番ないんだけどね(「うぉぉおおおおい!!?」)。

 だってお前、この作品に出るには存在が面白すぎるもん。シリアスが足りないよ、シリアスが。

 

 まぁ、真面目にいうと、戸塚の項で言ったことが全てなのだが。だが、コイツの場合、戸塚よりは気軽に動かしやすそうではあるし、一皮剥ければカッコよくなる未来図も想像できる。声も素晴らしいしね。

 

 いつかどこかで戸塚と二人で、見せ場を作ってあげたいとも考えているけれど、やっぱりあるとしてもカタストロフィ編かな、と思う。

 

 たとえどんな結末であったとしても、彼は八幡を裏切らないのだと思う。俺もこんな友達が欲しいぜ。……いや、やっぱりウザいからいいか。夏とか暑苦しそうだし(「うぉぉおおおおおい!!?」)。

 

 

 

 

 

・根岸鉄也【ねぎし・てつや】

 

 

 田中星人編のモブキャラ①。

 ヤンキー①。

 

 原作ではヤンキー四人組の内、西に殺されるのは一人だけで、ミッションを終えてもリーダーポジの一人は生き残るのだが、ここではあっさりと四人全員、部屋の中で中坊に殺された。容赦がねぇ。ちなみに中坊を撃ったのはコイツ。他の三人は完全に巻き添えだった。

 つまり、ある意味ではあの中坊の死亡要因の大きな一つになれたわけだ。

 

 四人全員死亡という演出にしたのは、中坊の異常性を際立たせたかったというのもあるが、モブキャラが多すぎても描写しきれないということをねぎ星人編で学んだので、減らせるとこで減らしたかったという作者の事情もある。

 

 現実世界での死因は自分達のチームよりも大規模の暴走族に目を付けられ、リンチに遭い死亡というもの。

 ちなみに子持ち。彼女と同棲しているが、結婚はおろか籍も入れていない。

 

 

 

・中島耕平【なかじま・こうへい】

・西野晋太郎【にしの・しんたろう】

・沼田晴市【ぬまた・はるいち】

 

 

 モブキャラ②。モブキャラ③。モブキャラ④。

 ヤンキー②。ヤンキー③。ヤンキー④。

 すんませんが、流石にまったく属性が一緒な奴等をそれぞれ設定考えるのは不毛なので許して。

 

 絶対に二度と出てこないし。ヤンキーキャラはかませ犬キャラとしては優秀なのでついつい使っちゃうけど、あんまり使い過ぎもよくないよね。

 

 ちなみに死因は根岸と同じリンチ。ちなみにこれも根岸が調子こいてやり過ぎたことが原因。根岸のとばっちりしか受けてねぇ。ちなみに三人とも彼女なし。根岸嫁と裏でチョメチョメしてたとかどうとか。同じ穴の狢って奴だ。

 

 

 

・杉田遼平【すぎた・りょうへい】

 

 

 モブキャラ⑤。

 孫。男の子。お婆ちゃん子。

 

 両親が共働きな為、一人暮らしのお婆ちゃんに甘やかされながら育った。

 その為、両親とは小学校に入学してから段々と話が合わなくなり、その分お婆ちゃんにべったりに。

 

 この日も遼平が○○が食べたいと夕食をごねだして、少し遠くに外食に行った帰りだった。

 ファミレスのレジ横のおもちゃをお婆ちゃんに強請って、これをお土産にしたらお母さん喜ぶかな、またお父さんと一緒にどこかに遊びに連れてってくれるかな、なんてことを言って、お婆ちゃんがその頭を撫でて、店員さんが微笑む――

 

――そんな当たり前の幸せの、ほんの数時間後、見知らぬガレージの中で少年はぐちゃぐちゃに飛散した。

 

 大本の死因は居眠りトラックによる交通事故。

 

 大好きなお婆ちゃんの頭部が破裂するのを目撃し、不気味なロボットの青白いビームを集中的に浴びせかけられるという、あまりにも悲惨な最期だった少年。

 

 その死は、葉山隼人という一人の少年に、多大な影響を及ぼすことになった。

 

 

 

・中田キクノ【なかた・きくの】

 

 

 モブキャラ⑥。

 お婆ちゃん。

 

 早くに夫を亡くし、一人暮らしをしている。

 子供は娘が一人で、その娘も嫁に行った。そして、その娘の息子――つまりは孫を、共働きの娘夫婦の仕事が終わるまで面倒を見るという余生を送っていた。

 

 孫が小学校が終わって夕ご飯を食べるくらいまでの面倒を見る。そのことが、唯一の楽しみだった。それ故に溺愛して甘やかしすぎてしまい、孫はすっかりわがままで泣き虫になってしまったため、このままではいけないと娘に言われて反省しつつも、ついつい懲りずに甘やかしてしまう。

 

 近頃忙しくて中々話が合わない両親に対して寂しさを覚えている孫を、なんとか元気付けたいと、この日も孫の我が儘に答え、少し遠くのファミレスに外食に来ていた。

 

 そして少し元気のなかった孫に笑顔が戻ったため、ほっとしながら娘に連絡をし、いつもは娘夫婦に迎えにきてもらうところを、外食帰りということで車に乗ってきていたので、自分の運転で孫の自宅まで送るという段取りになっていた。

 

 夫に先立たれ、いずれこの子も大きくなれば寄り付かなくなるのだろう、昨今流行りの孤独死というのが現実味を帯びてきているが、それでも今、この時は間違いなく幸せだ――と、そんな風に思いながら、助手席ではしゃぐ孫を見つめていると――。

 

 死因は、居眠りトラックによる交通事故。そして、頭部の爆弾による破裂。

 

 孤独ではなかったが、とても痛ましい最期だった。

 

 

 

 

 

〔田中星人〕

 

 

 トイレ共同風呂無し木造ボロアパートを貸し切って棲息する鳥人。

 

 獣の体を持つ星人というは数多存在するが、彼らは宇宙服を着用しなくては地球で活動出来ないという意味では、下級に分類される。

 それ故に、他の獣型の星人のコミュニティに属することが出来ず、こうして郊外のアパートに隠れ住むといった環境に追いやられている。

 

 生身での戦闘能力は大したことはなく、稀に屈強な体を持つ個体も生まれるが、それらはそろって、巣に残って繁殖に専念するのが習性である女王鳥となるため、あまり意味がない。

 だが、その女王鳥は自力で空を飛べるほか頭脳にも秀で科学力をも持つが、通常個体は独力では空も飛べない為、女王がそれぞれに飛行機能を持った戦闘スーツを作って与えている。

 

 しかし、所詮は女王頼りの集団であるため、母星においても他の種族との生存競争に敗北しかけた為、戦闘スーツに宇宙服機能を付属して、やむなく種族揃って別の星に移り住むことを決意した。

 

 だが、辿り着いた惑星――地球は、空気は毒であり、食べ物も受け付けないという、彼らにとっては限りなく死の星に近い場所だった。

 

 唯一栄養となるのはチョコレートだけであり、そのことに気付いた時には既に絶滅危機にまで数を減らしてしまった後だった。

 宇宙服を地球人の外見に作り直した後は、唯一残った雌の個体である女王鳥を繁殖に集中させる為にアパートに引き籠らせ、残った雄達が田中スーツで買い出しに出かけるといった生活を続けていた。

 

 しかし、地球人に似せた筈の田中スーツがあまりにも機械的である為、ロボットが出現するらしいと行きつけのコンビニがネット上で騒めき始めたが故に、ガンツに標的にされてしまった。

 

 

 

・田中星人(おす) 5点

 

 田中星人の通常個体。

 生き残っていた通常個体は総じて雄だが、元々田中星人は雄がほぼ九割を占め、雌はほんの一割である。

 だが、やはり総じて一割の雌の方が体も大きく屈強であり、自力で空を飛べる個体が生まれるのも雌のみである。雄の方は体も小さくひ弱で、戦闘スーツがなければ地球人の成人男性と互角程度の戦闘力しか持たない。

 そんな有様でなぜ、いまだに鳥形の姿をしているのかは不明。

 

 田中スーツは元々そんな雄の戦闘力を補うために女王によって創り出された戦闘スーツであり、母星を飛び立つ際に宇宙服機能を追加した生命維持装置でもある。ちなみに、繁殖用に戦闘機能を排除したマスクタイプの装置もあるが、毎回付け替える度に雄は死にかけている。

 田中スーツの機能は、筋力・防御力の向上、ロケットエンジンによる飛行、そして口からのビーム砲がある。

 また、怒りの仮面に変わることによるブースト機能があり、呼び掛けに反応しない、雛を殺害される、スーツが壊されかけるといった行為などにより、敵を危険個体と認識した場合、発動するモードとなっている。だが、このモードはエネルギー消費が激しいため、逆に言えば、そういった行為をされなければ敵と認識し攻撃したりすることはない。彼らにとって田中スーツのエネルギー切れは、文字通りの死に繋がるからである。

 

 ちなみに裕三君とは、田中スーツのモデルとなった少年の名前である。

 田中星人にとっては既に仲間と敵を区別するための合言葉のようなものとなっている。

 余談だが、田中星人が住処とする木造アパートの近所では、かつて少年の行方不明事件が起きている。

 

 

・田中星人(ひな) 0点

 

 生まれて間もない田中星人の雛。

 木造アパートの女王の部屋には夥しい数の卵があり、ここで日夜、孵化している。

 

 なぜか、雛の内はスーツなしでも地球で呼吸が可能であり、逆に呼吸が出来なくて苦しみ始めたら一人前の証であり、スーツを与えられてチョコレート買い出し係を命じられるようになる。

 

 サイズは通常個体の肩に乗る程度であり、およそ一か月で一人前に成長する。

 だが、雛の時は自由に出歩きできる上に、好奇心旺盛で怖いもの知らずであるため、勝手に外を出歩いて烏などに殺されてしまうことも多い。空も飛べない為、車などにも頻繁に轢かれる。そのため、かなりのハイペースで女王が卵を産んでも、なかなか個体数が増えることがない。

 

 しかし、自由に外を出歩きできるということと、小さな体を生かして、自分達の住処に怪しい存在が近づいた場合の監視役の役割も担っている。異常を感知した場合は、すぐさま成体を呼ぶ。

 

 田中星人にとって雛は未来への希望であり、自分達が生きる意味そのものである。

 それ故に、雛が害された場合、無条件で憤怒のトリガーとなる。

 

 

・田中星人女王 8点

 

 ボスキャラ。

 現存する田中星人唯一の雌であり、田中スーツの生みの親であり、生き残っている田中星人達全個体の産みの親でもある。

 

 田中星人には稀にこのように別格のスペックを持つ女王が生まれ、その群れを率いることになる。

 屈強な肉体と鋭利な嘴、自力での飛行能力と、スーツを身に着けなくとも、ビームは撃てないものの、他の通常個体を上回る戦闘力を持つ。呼吸だけは女王も出来ない為、小型の酸素ボンベのようなものを身に着けている。

 

 しかし、女王の本来の役割は戦闘ではなく、たった一体の雌の個体としての責務である繁殖と、言葉は操れないものの別格の知能を持つが故の技術力による生産である。

 

 つまりは、田中星人は全て、この女王がいてこそ成り立つコミュニティであり、彼らにとって女王は、まさしく王将の駒が如き存在である。

 



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○○星人編 ――繋――
Side××××――①


――娘が、死んだ。



 

 某国――某所。

 

 部屋の全容すら掴めない、どれ程の広さなのかも把握できない程に、真っ黒な闇の中。

 

 ぼんやりと淡い光を放つ六角形(ヘキサゴン)のテーブルの一辺に、一人の仮面の存在が着席していた。

 

 まるで騎士の甲冑のようだが、顔面部分はスクリーンとなっている近未来的なデザインの漆黒のマスク。そして、自らを闇と同化させて覆い隠しているかのような漆黒のマント。

 

 ただスクリーンの紫色のみが、真っ暗な室内で不気味な存在感を放っている中――マントの中から、やはり漆黒であるユニフォームと手袋によって隠された、男なのか女なのかも不明な細い手を伸ばし、その長い指を、パチンと小気味よく鳴らした。

 

 途端――六角形の残る五辺に、眩い電子線が照射される。

 

 仮面の男の右隣の辺には二本、残る四辺にはそれぞれ一本ずつの電子線。

 

 その電子線は、この真っ暗な会議室に、六人の人間を――六体の戦士(キャラクター)達を召喚した。

 

「――やはり、か。呼び出されるのは分かっていたが、事前にアポくらいは取って欲しいものだ。俺はこれでも一国の重鎮にいるんだがな……」

 

 仮面の男の左隣に召喚された、金髪白人の壮年の男は言う。

 

 すると、その更に左隣から、ガラの悪い女の声が届く。

 

「――ハッ。笑わせるな、アメリカさんよぉ。この趣味悪ぃ、真っ暗ルームに呼び出された時点で、お偉いさんじゃねぇ奴なんざいねぇんだよ。ここは、文字通り世界のトップが集まる会議室だぜ。国連なんざ鼻で笑えるくらいになぁ」

 

 金髪白人の隣の辺に現れたのは、文字通り召喚されて、即座に用意された椅子に座り込み、その美しい脚を淡く光る六角形のテーブルに叩き落した、雪のような肌と黒髪のボブカットの婦人。

 

「――そう言った意味合いで言えば、私だけは当て嵌まらないがね。本来、この場所に呼ばれるべき正当な代表者でも副官でもないのだから。だが、それでも私が呼び出されたということは、それだけ緊急の議題ということかな?」

 

 ガラの悪い婦人の更に左隣の辺、仮面の男の対辺に召喚されたのは、真っ黒な修道服を身に纏い、十字架を首から下げ、片手に聖書を持つ厳粛な神父。

 

「――恐らくは、彼等に関することだろう。海を隔てた大陸の我が国にも、既に混乱は伝わっている。こちらは分かりやすく、代表者と副官が揃って呼び出されているようだしな」

 

 神父の隣、金髪白人の対辺に召喚されたのは、未だ年若い、女と見紛うような艶やかな黒の長髪の美少年だった。

 

 眼光鋭い美少年は、自身と仮面の男に挟まれる辺に召喚された、二人の壮年の男に問うた。

 

「――心当たりはあるだろう。日出ずる国の代表者よ」

 

 年若い少年の言葉に、残る各支部の代表者達は、思い思いの表情で、だが眼光だけは鋭く真っ直ぐに、その二人の男達を見た。

 

 世界の代表者達の視線を集められた彼等は――鍛え上げられた肉体と顎鬚が特徴の背の高い男と、背が低く肥満体のように見える身体と決して端正とは言えない相貌の男は、何も言わずに、神妙に目を瞑り、口を閉じていた。

 

「……日が昇るその時までに、何か言い分を聞きたい所だな。彼が言う通り、我々はそれぞれ祖国の要職を担う身だ。一国の尻拭いに費やせる時間は少ない」

「言うねぇ、中国の。やっぱり君も日本のことは嫌いな口かな?」

 

 未だ成人すらしていないであろう少年の鋭い言葉を茶化すように、ガラの悪い婦人は言う。

 少年は婦人を睨み付けるが、女はそれを呑み込むような凶悪な笑みを浮かべて返した。

 

 思わず息を呑み掛ける少年は、だが、己が立場を思い出し、再び口を開こうとして――。

 

『――止めろ。下らない小競り合いをさせる為に、君達を呼び出したわけではない』

 

 空気を鎮めるように、仮面の存在が口を開いた。

 

 否、口を開いたかどうかは定かではない。

 頭部を完全に覆い尽すヘルメットのようなマスクは、顔を完全に紫紺色のスクリーンで隠していたし、聞こえた声も、まるでボイスチェンジャーで加工したかのような、機械仕掛けの声色だった。

 

 だが、世界の代表者達は、それに何の疑問も持つことなく、静かに自らの支部に与えられた席に座る。

 各辺に二席用意されたそれは、文字通り世界の代表者として用意された席であり、この仮面の存在と向かい合うことを許された証でもある。

 

 本来その席に座る立場にない神父の男も仮面の男が「君も座り給え」と促されたことで静かに着席する。彼も、ここに座ることは初めてではない。こうして緊急時に代表の代行者となるのは、転送招集の可能な戦士(キャラクター)である自分の役目だからだ。

 

 そう言った意味で言えば、JP(日本)支部のみが正式な代表者と副官で招集されたのも不思議ではない。彼等のみは元々、代表者・副官ともに戦士(キャラクター)なのだから。

 

 だが、CN(中国)支部の副官の少年が言ったことも間違いではないのだろう。流石に地球の反対側である神父の祖国には詳しい情報は入ってはいないが、この組織のEU(ヨーロッパ)支部としては、当然ながら詳細なる情報が入ってきている。

 

 それは、勿論その他の支部も、そしてその代表たる彼等も同じこと。

 US(アメリカ)支部も、RU(ロシア)支部も、今回の緊急会議の議題が何なのかは想像がついている。

 

 そして、それを裏付けるように、仮面の存在は再び加工された音声を発した。

 

『――今回の議題は、日本の池袋で発生した、オニ星人による一般人大量虐殺。そして、それによる星人存在の表世界への暴露だ』

 

 各国首脳代行達は、一様に口を開かない。

 

 脳内でどんな思考が渦巻いているかは分からず、またそれを他国に悟らせるような愚昧は、ここにはいない。

 それぞれが、それぞれの仮面の表情で、仮面の存在の言葉の続きを待つ。

 

『想定外の時期だったが、想定内の事態だ。いずれこうなることは分かっていた。故に、昨夜のうちにJPの二人のみを個別で呼び出し、この事態への対処方法を決定した。他支部の君達には申し訳ないが、故に今回のこの会合は、会議というよりは報告会になる』

 

 だが、続く仮面の男の言葉には、JPの二人の代表者を除く他のメンバーの仮面が僅かに崩れる。JPの二人は、未だ無表情を貫いていた。

 

「……おいおい、そりゃあないんじゃないかねぇ。それじゃあ、この《六角形(ヘキサゴン)》の意味がないじゃないのさ」

「……その二人が貴方がたの盟友なのは知っているが、あまり露骨な特別扱いは、組織全体に亀裂を生むぞ。もう少し、ご自身の力というものを自覚してもらいたい」

 

 はっきりと言葉として遺憾の意を表したのは、RU支部の副官の婦人と、CN支部の副官の青年。

 それに対し仮面の存在は、淡く光るテーブルに両肘をついてマスクの前で手を組む姿勢を崩さぬまま、彼等の方に向くことすらせずに、こう機械的に続ける。

 

『重ねて謝罪する。今回は事態収束へのスピードを優先した。何の草案もないままにヘキサゴンに臨んだ場合、時間がかかり過ぎると判断したのだ。君達の国では未だそこまで至っていないのかもしれないが、既に日本では大混乱に陥っている。一刻も早い対処が必要だった』

 

 仮面の存在は有無を言わせない口調で、全体に向かって言い募る。

 

『君達の仕事は、この《CION》という組織を、自身の支部、ひいては自国に利するように方向性を誘導することだろう。それについては一向に構わない。だが、今回に限っては、各国に益した落とし所を模索している時間的猶予はないと判断した』

「……それは理解したが、我々にも立場というものがある」

「そうだ。貴方にそこまで言われたのならば、我々も妥協せざるを得ないが、それでも譲れない一線はあることを理解して頂きたい」

 

 USの副官の白人と、CNの副官の少年がそう苦言を呈すと――ハッ、と。

 

 妖艶さの中に苛烈さを滲ませながら、RUの副官の美女が長い脚に注目を集めるかのように――六角形のテーブルに再び強く叩きつける。

 

「――アタシは、自国の利益だの、世界の平和だのはどうでもいい。けどまぁ、いいたいことは、コイツ等と一緒さ。アンタ等が勝手に決めたその結論とやらが、()()()()に不利益を齎すかどうか、アタシが聞きたいのはそこだけさね」

 

 ロシアの氷河が如き鋭い視線を、妖艶なる美女は仮面の存在に向ける。

 

 だが、仮面の存在は動じない。彼女の方を向きもせず、まるで全てが機械であるかのように。

 

『――当然、そこは留意している。その為の、この緊急報告会だ』

 

 仮面の存在は、再びマントから腕を出し、軽快に指を鳴らす。

 

 その瞬間――仮面の存在の隣の席に用意されていたモニタが点灯し、虹と羽を組み合わせたマークを浮かべる。

 

『これから、JPと私とで作り上げた草案(プラン)を説明する。もし、そのプランが著しく自国に不利益を被ると判断した場合は、修正案を提示して欲しい。だが――」

 

 仮面の存在は、最後まで機械的な口調を崩さずに、こう言った。

 

『――本日、日本時刻で18時00分に、我らがCIONを代表して、JPの代表者と副官である彼等が一般市民に向けて公共の電波にて説明会見を行う。故に、それまでが制限時間(タイムリミット)だということを忘れるな』

 

 その仮面の存在の言い分に、CNが、RUが、EUが、USが口を開こうとした、その瞬間を制するように、仮面の存在は言う。

 

『――これは、既に《天子様》も了承された、決定事項だ』

 

 そう、言って。

 

 仮面の存在は、虹と羽を組み合わせたマークを浮かび上がらせる、モニタを示した。

 

【――遅れてすまない。じゃあ、会議(ヘキサゴン)を始めようか】

 

 こうして、世界を動かす会議が、真っ黒な闇の中で静かに始まった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 

 

 某国――某所。

 

 部屋の全容すら掴めない、どれ程の広さなのかも把握できない程に、真っ黒な闇の中。

 

 ぼんやりと淡い光を放つ長方形(スクエア)のノートPCモニタの明かりに照らされるように、一人の濁眼の社畜が着席していた。

 

 まるで風邪の病人のように、額部分には清潔なデザインの純白の冷えピタ。そして、PCの周りには自らを闇に呑み込まれんとばかりに覚醒させるような不健康な色の栄養ドリンクの数々。その中に紛れ込む警戒色の缶コーヒー。そして兵糧(食パン)

 

 ただ時折漏れる「ふへへ」という笑い声のみが、真っ暗な室内で不気味な存在感を放つ中――暗闇の中から、スクッと立ち上がった何者かが、細い手を伸ばし、その長い指で、バンッと勢いよくカーテンを開け放った!

 

「ぐっどもーにん」

「ぎゃぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」

 

 突如、真っ暗な室内に強烈な日光という名の暴虐的な刺激が差し込み、それを五徹明けの瀕死の身体に叩き込まれて絶叫する社畜。

 

 そのまま椅子の背凭れをきしませ、やがてキャスターが宙に浮き、そして背中から床に転がしておいた書類の海にダイブする。

 

 なふぁっ、とかいう聞いたこともない悲鳴を漏らしながら、社畜は自らの五日間の成果の中をクロールし、一枚(ビリ)、二枚(ビリッ)と勤労の結晶を紙屑へと変えていく。

 

「……楽しい?」

「なわけあるかぁぁぁあああああッッッッッ!!!!」

 

 社畜に大自然の力でダイレクトアタックを決めた眼鏡の女性は、ボサボサの髪を掻き毟りながら、奇行を続ける自らの夫を冷めた目で見詰める。

 

 愛する妻の()(がた)すぎる愛に、夫は涙ながらに立ち上がって、書類の束を両手で引き裂くことで喜びを表現した。

 

「ちっげーよっ!! 只の徹夜明けのおかしなテンションだよッ!」

「誰に向かって何を言ってるの?」

「わっかんねーよッ! あぁぁぁぁぁもぉぉおおおおおおお!!! 働きたくねぇぇぇぇええええええええええ!!!」

 

 社畜は濁りきった瞳のまま頭を両手で押えて、そのまま再び書類の海に沈み込む。

 眼鏡の女性は、そんな夫の奇行に溜め息一つだけを返して、くぁと欠伸をしつつ、窓の外を見た。

 

「……今、何時だ?」

「……八時」

「何だよ、真夜中じゃねぇか。後、十二時間は働けるぜ」

「しっかりして。一周してまた八時になるわよ」

 

 不気味な手つきで再びノートPCに向かおうとする夫を、平坦な口調で諫める妻。

 

 夫の頭をグイッと押し退けて、ずれていた眼鏡を直しながら妻はデータをチェックする。

 

「それよりも、ちゃんと寝ぼけずに処理したんでしょうね。今日も家に帰れなかったらあなたを殺すわよ」

「これが瀕死の夫に残りを全て押し付けて自分だけ寝落ちした嫁の言葉かゾクゾクするな。……ちゃんとやったよ。まぁ、変なテンションになっていくつか破り捨てたが、バックアップはとってある。これでやっと愛する娘に会えるさ」

「息子は?」

「やめろ。アイツの目を見たらただでさえ赤信号のHPが底を尽きる」

「鏡を見なさい。顔を洗う前に、ちゃんと目の前が真っ白になるから」

 

 ケッと言いながら、不貞腐れたように背を向けて立ち上がり、恐らくはタオルを取りにロッカーに向かった夫に、妻は優しい微笑みを向けて、倒れていた椅子を起こして座り、夫の飲み掛けの練乳入り缶コーヒーを呷り、データの最終チェックを行う。

 

 ここに来て、元からふざけていた仕事量が更に殺人的になってきたことに、妻はいい加減辟易してきたが、自分の――正確には夫の――仕事量が増えてきたということは、それだけ“事”が佳境に向かってきているということだ、と、眼鏡の奥の眦を鋭くする。

 

 天井を見上げ、これからこの組織が向かう先、自分達――家族が向かう先、そして地球が向かう先に思いを馳せかけて、ほふっと息を吐く。

 

 グッと腕を伸ばして、背中のストレッチをする。

 何はともあれ――休暇だ。暦上では目前と迫った“終焉”よりも、今はこの後の家族団欒が先だ。

 

 ここの所、本当に碌に家に帰れていなかった。

 帰れても着替えの補充と睡眠だけで、子供達と殆ど顔を合わせていない。

 

 やっと心を癒すことが出来る。今でさえこんな有様なのだから、これから先はもっと仕事も過酷を極めるだろう。もしかしたら、正式な任務として再び現場に出ることも増えるかもしれない。

 

「………………」

 

 会える時に――会ってあげたい。

 もう子供達も母親に甘える歳でもないだろうが――いや。

 

(……甘えたいのは、もしかして私の方なのかな)

 

 そんなことを思っていると――ふと、タオルを取りに行った筈の夫が、いつまで経っても部屋から出て行っていないことに気付いた。

 目を向けると、夫は安っぽいタオルを首に掛けて、隈が濃すぎて落ち窪んで見える濁りきった眼で、優しげに、けれどどこか悪戯っぽく、伸びをする妻を厭らしい目つきで眺めていた。

 

「……何よ」

「いやぁ――」

 

 欲求不満(さびしい)なら、一緒にシャワーでも浴びてスッキリするか? と、徹夜明けのテンションで自殺紛いのセクハラをした夫に向かって、妻がそこら辺に転がっていたZ型の巨大な銃を向けるのと同時に社畜がジャンピング土下座を敢行した、その時。

 

 部屋の自動ドアが開いた。そこには、黒い衣を纏ったジャイアントパンダがいた。

 

「――あら? 珍しいお客さんね。どうしたの?」

「おおッ! 救いの神よ! いや、救いのパンダよ! いいところに来た、俺を助け――ん?」

 

 来客の登場にもZ型の巨銃を下さない妻に戦慄しながらも、恥も外聞もなしにパンダに助けを求めた夫は、けれど、こんな状況に一切ツッコミを入れない旧知のパンダの様子に疑問を抱く。

 

 どうした――と、濁り眼の男が、眼鏡の女が尋ねる前に、ジャイアントパンダは、重い声で告げた。

 

「……君達の――」

 

 

――娘が、死んだ。

 




世界の最も黒い場所で――再び、物語が動き出す。


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Side和人――①

……ごめん、アスナ――まだ、終われないんだ



 

 とある病室に、爽やかな風が吹き込んでいた。

 

 既に消灯時間となり、開け放った窓から差し込む月明りのみが光源の空間で、そっと少女はカーテンと共に揺れる己の髪を掻き分ける。

 

 この病室の今宵限りの住人である少女――結城明日奈は、そっと窓の外を見た。

 

 つい先程までの喧騒が嘘のように穏やかで、季節外れの大きな月が、まるであの城のようだとぼんやりと思いながら。

 

 そっと、手を伸ばす。当然ながら、届かない。

 

 あの城にいた二年間はもはや過去の事で、手の届かない遠い彼方のことだ。

 

 デスゲームは終わり、穏やかな日常へと帰還した――あの日。

 

 今と同じように、ベッドに座り込みながら――この手に、頭部から外した、ナーブギアを持って、待っていた、あの日。

 

 あの少年が、迎えに来てくれた――あの日に。全ては終わった筈だった。

 

「…………っ」

 

 でも――彼は、戦っていた。

 

 明日奈は、ナーブギアを持っていない、細剣も持っていない、空っぽの綺麗な手を握り締める。

 

 彼は戦っていた。ずっと戦っていた。

 

 いつからだろう。

 死銃(デスガン)と戦った――あの頃からか。OS(オーディナル・スケール)での事件があった――あの頃からか。

 

 ごくごく最近のことなのだろうか。それとも――明日奈が、終わったと思った、あの時すらも、彼は戦い続けていた最中であっのだろうか。

 

 自分だけが、終わったと思っていただけなのか。彼だけを、ずっと、戦わせ続けていたのだろうか。

 

 分からない。分からない。だから――すごく、怖かった。

 

 本当は、今すぐここから抜け出して、直葉達と一緒に池袋へ行きたかった。

 

 面会時間が終了した後、自分達ほどではないが、混乱気味だったこの病院のスタッフ達は、けれども業務に忠実に、直葉達に帰宅を促した。十分に気を付けて、まっすぐ家に帰るように、と。

 

 けれど、直葉達は、あのテレビ画面に映っていた――映り込むどころか、紛れもなく主役だった、主人公だった、英雄だった少年の安否を確かめずにはいられなかった。

 

 よって、会える可能性は薄いが、取り敢えず池袋に向かうことにした。

 危険は大きいが、それでも池袋にまで行けば、国家権力が動いているだろう。

 警察か、自衛隊か――とにかくそれ程の大きな存在に会えれば、そして、直葉があの『黒の剣士』の義妹であると伝えれば、彼等が知っている限りの安否情報は教えてくれるかもしれない。

 

 後日になれば、黙っていても向こうから訪ねて来るだろうが、自分達は一刻も早く、彼の安否が知りたかった。

 

 しかし、当然の事ながら、入院中の明日奈はこの病室から出ることは許されなかった。

 鬼気迫る勢いで看護師に迫ったが、それは逆効果でしかなく、より強くこの病室に拘束されるだけの結果しか生まなかった。

 

 そして明日奈は、消灯時間をとうに過ぎた今現在も、詩乃に隠し渡された携帯端末を忍ばせながら、友人達からの連絡を待っている。

 

 己の恋人の安否情報を――生きているのだと、ただ、それだけの連絡を。

 

「…………キリトくん」

 

 明日奈は、今度はその携帯端末を隠すことなく握り締めて、窓の外の大きな月を見上げた。

 

 雪は降っていない。あの日とはまるで違う空だが、それでも――同じくらい、美しい夜空。

 

 彼のように、美しい――黒の、世界。

 

 その中に、燦然と輝く満月。あの浮遊城のように、それは空の中に――彼の中に、悠然と佇み続けている。

 

「…………ぁ」

 

 背中に二刀を背負う黒い少年――そして、その横に寄り添い、少年の手を取る、白地に赤の騎士装の少女。

 

 銀の細剣を吊るし、満面の笑みで、少年の隣に立つ少女。

 

 彼を支え、彼の横で――彼と共に、戦い続けた少女。

 

 二人の背中が、二人の剣士が、あの浮遊城(まんげつ)に向かって――遠ざかっていく。

 

「…………待って」

 

 旅は終わった。戦いは終わった。『キリト』と『アスナ』(かれら)の役目は、もう終わったとばかりに。

 

 結城明日奈は、日常に帰還した剣士は、ただの女の子に戻った少女は、その綺麗な手を伸ばす。

 

「…………置いて、行かないで」

 

 

 その時、病室のドアが開いた。

 

 

「…………え」

 

 面会時間はとっくに終わり、消灯時間も過ぎている筈。

 

 看護師の巡回だろうか――だけど、明日奈は、浮かべていた涙を、みるみる内に溢れさせていた。

 

 混乱が収まらないが――だが、分かる。

 

 この私が、結城明日奈が、この足音を、この気配の主を、感じ間違えることなど、ありえない。

 

 そして、彼が、最後のカーテンを引いて、その姿を現した。

 

「……ああ」

 

 少女の喉から、掠れた声が漏れた。

 

 最後に見た制服姿ではない。

 

 まるであの時のような、黒い上着にラフなズボン――そして、見慣れない、光沢のあるインナー。

 

 だが、紛れもなく、そこに立っていたのは。

 

「キリトくん」

 

 少女の、涙に濡れた、震えるような音にならない呼び掛けに――少年は、小さく、微笑みと共に答えた。

 

「アスナ」

 

 少年の――桐ケ谷和人の声を聞いた途端、結城明日奈は動き出した。

 

 我慢出来ないとばかりに、ベッドの布団を弾き飛ばしながら、和人の元へと向かおうとした。

 

 和人は、そんな恋人を迎え入れるように、彼女の元へと寄って、彼女がベッドから落ちないようにと抱き締めた。

 

 そして、明日奈は、ほうっと、大きく息を吐き出す。

 

 生きている。生きている。彼は、ここにいる。ここで、自分の腕の中で生きている。

 

 自分を包み込む彼の温かさを感じる。どくどくと脈打つ心臓の音が聞こえる。

 

 己を抱き締める彼の腕を感じる。あの切り裂かれた左腕がどうして無事なのかなどどうでもいい。

 

 彼がいる。キリトくんはここにいる。桐ケ谷和人は、こうして結城明日奈の元へと帰ってきてくれた。

 

「――ただいま、アスナ」

 

 明日奈は、その言葉を聞いて、まるであの日のようだと思い出す。

 

 立場は逆だけれど、言葉は逆だけれど、それでも確かに同じだと思い出す。

 

 ああ――終ったんだ。今度こそ、今度こそ――ちゃんと。

 

「――おかえり、キリトくん」

 

 だから明日奈は、あの時と同じように――目を閉じる。

 

 彼の頬に手を添えて、少し顔を傾けて、そっと唇を彼に差し出す。

 

 

 だけど――その唇を受け止めたのは、彼の唇ではなく――無機質な、黒い何かだった。

 

 

「――――え」

 

 驚いて目を開けると、そこには黒い手があった。

 

 それが彼の手だと気付いた時。彼が身に付けている何かなのだと気付いた時――明日奈は再び混乱に叩き落された。

 

「……ごめん、アスナ――まだ、終われないんだ」

 

 そう言って、和人は再び、明日奈に微笑みを向けた。

 

 綺麗な微笑み。

 けれどそれは、明日奈が愛した彼の笑顔ではなく、どこか悲しい、見たくない笑顔。

 

 和人はゆっくりと、まるで壊れ物を扱うかのように、明日奈の身体を引き離す。

 その手つきがあまりにも繊細で、明日奈は彼の身体を引き留めることは出来なかった。

 

「……朝には、また来る。だから、今はゆっくり休んで欲しい」

「き、キリトく――」

 

 和人は、慌てる明日奈の頭に手を乗せて――真っ黒な、無機質な、手を乗せて。

 

「大丈夫だ、アスナ。俺はずっと、君の傍にいるから」

 

 そして、再び、繊細に――そっと、抱き締める。

 

「君は、絶対に俺が守る。絶対に――絶対に。俺は、君に誓うよ」

 

 和人は、そう力強く言い、今度は彼が、彼女の頬に手を当て、見詰める。

 

「…………」

 

 が、強く、口を閉じて――彼女を、引き剥がす。

 

 そのまま和人は立ち上がり、そして、彼女に背を向けた。

 

「――行ってくる」

 

 明日奈は、いってらっしゃいとは、言えなかった。

 

 桐ケ谷和人は、再び、闇の中へと消えていった。

 

 結城明日奈は、ドアが閉まる音と共に、自分が闇に向かって手を伸ばしていたことに気付いた。

 

 

 

+++

 

 

 

 まるで、仮想世界から帰還したかのようだった。

 

 真っ暗な自室の、ベッドの上。

 

 目を開けて真っ先に認識したのは見慣れた天井で、周囲を見渡すまでもなく、そこが埼玉県川越市の自宅の自室であることを確信させた。

 

 身体を起こす。身に付けているのは――真っ黒の光沢のあるスーツ。腰には光剣。左手にはあの部屋に送られた時に身に付けていた帰還学校の制服。

 

 そう――今更突き付けられずとも、明確だった。

 

 自分がいたのが、平和なVR世界ではなく、現実の戦場だったということが。

 

 あの、黒い球体の部屋だったということが。

 

「……………」

 

 絶叫も、恐怖も、混乱もしない。

 

 僅か三回のミッションで、たった二度目の戦争からの帰還で、己の心は、この異常事態を受けて入れているのか。

 

 それとも――今回の、池袋の戦争が、桐ケ谷和人の何かを変えたのか。

 

(……やるべきことは山ほどあるけど……まずは、アスナの安否の確認だ)

 

 深夜だからと言って寝ている暇はない。

 自分は、その為にあの戦争を生き抜き、そして、これから先も戦い続けると誓ったのだから。

 

 行くべき場所は、警察か、それとも明日奈の自宅か。

 直葉に連絡は言っているだろうか。ならば、まずはそこから――と、和人がベッドから立ち上がるタイミングを見透かしていたかのように、彼の携帯端末に連絡が入る。

 

 そのメールの、送信者の名前は――。

 

 

 

+++

 

 

 

 桐ケ谷和人は、明日奈の病室を出た後、まだ夜も深い内に――いや、夜が深いからこそ、その夜が明けぬ内にとバイクを飛ばして、別の異なる病院を訪れていた。

 

 当然ながらこの病院でも、面会時間も消灯時間も過ぎている時分にも関わらず、予め話が通っているのか、スムーズに救急車用の入口を通過し、和人はそのまま救急口から院内へと入る。

 

 そして、そこに一人の看護師が待ち構えていた。

 

「こんばんは、英雄君」

 

 ナースキャップに薄いピンクのユニフォーム。

 長い髪を一本の太い三つ編みに纏めた、女性にしてはかなりの長身の美女――安岐ナツキ。

 

 この東京都千代田区お茶の水の病院で、SAO帰還後の和人のリハビリテーションや、GGOでのフルダイブ中のモニタリングなど、数々の場面でお世話になった、和人にとっても恩ある人物。

 

 だが、深夜にも関わらず満面の笑みで迎えた彼女を見る、和人の目は険しかった。

 

「……随分と怖い顔だね。戦争帰りでお疲れかな?」

「ここに来て、ここまで来てなお、あなたが普通の看護師だと思える程、楽観的にはなれませんよ。アナタの言う通り、殺し合いをしてきたところですから」

 

 和人は上着のポケットに手を入れながら、腰に吊るした光剣の柄に目を向ける――そして、分かりやすく、再び安岐に視線を戻した。

 

 安岐は、そんな和人を悲しく思ったのか、それとも頼もしく思ったのか、判別が難しい曖昧な笑みを浮かべると「案内するわ。一応、一般の入院患者さんもぐっすり寝ているから、ここで戦争はしないでね」と言って、和人に分かりやすく背を向ける。自分に敵対意思はないと示すように。

 

 和人はそれでも険しい表情を崩さないが、ポケットから手を出して安岐の後に続こうとすると、安岐は自身のトレードマークである洒落たデザインの眼鏡を、くいっと挙げて、笑った。

 

「――眼鏡のお役人さんが待ってるわ」

 

 

 

+++

 

 

 

 安岐が和人を案内した先は、やはり――例の病室だった。

 

 GGOでの事件時において、『眼鏡のお役人』の依頼により用意されたモニタリングルーム。

 

「――ここだよ」

 

 そう言って、安岐は自らドアは開けず、そのまま和人を促す。

 和人は、安岐の表情を一度見てから、慎重にドアを開けた。

 

 中を開けると、そこには密度調整型ジェルベッドと――アミュスフィアのみが用意されていた。

 あの時のように心電図モニタはなく、部屋の電気すらも点いていない。

 

「じゃあ、私は中には入らないから。……今はその方が、桐ケ谷君は安心でしょ?」

 

 そう言って、扉に手を掛ける安岐。

 

 確かに、今の和人にとって、安岐は――そして、ここに来るようにメールを寄越したあの男は、信頼を置ける相手とは言えない。少なくとも、フルダイブ中の身体を任せたい相手では有り得ない。

 

 万が一、ドアを閉められて密室に閉じ込められたとしても、ガンツスーツならばこじ開けられるだろう。

 

 だが、それをいうならば、フルダイブ中は全ての感覚が遮断される。

 それはつまり、和人がVR世界へと旅立った後、安岐が部屋に入り込み、ガンツスーツを脱がし、和人を何処か知らない場所へと拉致し監禁することも――もっというならば、殺害しても、和人は気付かないということだ。

 

 それはつまり、今、この状況でのフルダイブは、とてもではないが安全ではない、危険行為だということ――だが。

 

「――桐ケ谷君」

 

 安岐は、扉を閉め切る前、アミュスフィアを手に取り佇む和人に向かって、複雑な微笑みで、こう語り掛けた。

 

「あなたが警戒するのも無理はない。むしろ、正解。……だけどね。これだけは、信じて欲しい。私は看護師として、あなたに危害は加えないし、誰かに手出しさせるつもりもない」

 

 そして、かつて、和人のリハビリを時に優しく、時に厳しく見守っていた、あの頃のような笑顔で言った。

 

「私は――私達は、あなたの敵じゃないわ。……そして、味方になれたら、とても嬉しい」

 

 ぱたん、と。安岐は、その笑顔のように優しく、静かに扉を閉め切った。

 

「……………」

 

 和人は、しばしアミュスフィアを手に黙考を続けていたが――やがて、心を決めたように、ジェルベッドに横になった。

 

 元々、リスクは考慮の上だった。

 奴に教えられた明日奈の病室、そしてそこからこの病院までの道中、幾度となく思考を重ねた。

 

 そして、リスクを考慮してでも、奴とのこの会談に臨むメリットを選択したのだ。

 

(……アイツなら、絶対にこんな選択はしないだろうな)

 

 そうと分かっていても、和人は最後には信じてしまった。

 

 安岐も、そして――あの男も。

 怪しくは感じても、胡散臭くは思っていても、信頼も信用もまるで出来なくとも。

 

 それでも、言われるまでもなく、彼等が敵だとは、どうしても思えなかった。

 

(だが――味方とまでは、やはり今は思えない)

 

 だから、和人は潜ることを決めた。

 

 慣れ親しんだ、あの世界へ。

 様々な冒険をした、英雄『黒の剣士』を生み出した世界へ。

 

 自分が、今まで知らなかった世界を、知る為に。

 

 和人は銀色の円冠を被り、幾度となく口ずさんできた、己を剣士とする呪文(コマンド)を唱えた。

 

「――リンク・スタート!」

 

 そして、視界を見慣れた白い放射光が塗り潰す。

 

 

 

+++

 

 

 

 和人が、このVR世界へ――VRMMO-RPG『アルヴヘイム・オンライン(ALO)』へと降り立って、キリトとなってから数分後。

 

 キリトはALOに実装された新生“浮遊城アインクラッド”の第二十二層のログハウスから飛び立ち、指定された場所へと辿り着いていた。

 

 短くない移動の最中に、キリトは例の人物のアバターに向かってメッセージを送り、間髪入れずに返ってきたその返信から、呼び出し人がきちんとALOにいることを確認している。フレンドリストも、彼がここにいることを示している。

 

 久しぶり――否。

 

 ほんの数日前まで当たり前に入り浸っていたVR(この)世界に、アバター(このすがた)に――『キリト』に、どこか不思議な気持ちを味わいながら。

 

「……………」

 

 和人は、その部屋の、ドアを開けた。

 

 あの浮遊城のログハウスを手に入れるまで、キリトとアスナが共同で借りていた部屋。

 広大なこの世界の中心に聳える空中都市『イグドラシル・シティ』の一角。

 

 かつてキリトが参戦し、死銃との決戦となったGGOでのBoBを、仲間達が応援すべく集まったこの場所で。

 新たな住居が手に入った後も、何となくで契約を続けていた、最早、契約者である自分すらも滅多に使用しなくなった、この部屋で。

 

 キリトの許可を得て前もって先にこの部屋に入り、少年の来訪を待っていた呼び出し人は、大きく手を広げて――歓待した。

 

「やあ。よく来てくれたね、キリト君。まずは、こうして来てくれたことに礼を言いたい。ありがとう」

「堅苦しいのはなしにしようぜ――菊岡さん」

 

 そう言ってキリトは――否、桐ケ谷和人は。

 

 かつてクラインの定位置だった、部屋の隅のバーカウンターに腰かけ、南向きの一面ガラス張りとなっている壁を背に立つ、マリンブルーの長髪の水妖精族(ウンディーネ)の魔法使いに言った。

 

 この世界の彼女に似たその容姿に、この時は少しイラつきながら、和人は荒々しく、この『クリスハイト』の事を――菊岡と呼んだ。

 

 そのネットリテラシーに反したマナー違反は、和人の分かりやすいメッセージだった。

 

 さっさと本題に入れ、と。下らない気遣いは無用だ、と。

 

 俺は、()()()()話を、しにきたんだ、と。

 

「――分かったよ、キリト君。いや、今ばかりは、桐ケ谷君と呼ばせてもらうことにしよう」

 

 それは、クリスハイトの――否、菊岡誠二郎の、了承の意だった。

 

 仮想(VR)世界の、仮想の(アバター)姿の会談を。

 

 スプリガンのキリトでも、ウンディーネのクリスハイトでもなく。

 

 池袋大虐殺の生還者であり、英雄黒の剣士である、桐ケ谷和人と。

 

 総務省仮想課であり、秘密結社CION幹部の一人である、菊岡誠二郎とすると。

 

「じゃあ、さっそく――」

 

 菊岡は、暗い部屋の隅にいる和人に向き直り、美しい景色を覗かせるガラスをスクリーンとして、プレゼンテーションをするように画像を映し出す。

 

「――この黒い球体について、GANTZについて、僕の知る限りのことを話そう」

 

 それは、たった数日で桐ケ谷和人の全てを狂わせた――無機質な黒い球体だった。

 




妖精の国にて、大人から子供へ、黒い現実についての種明かしが始まる。


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Side和人――②

僕達は綺麗じゃない。僕達は正義じゃない。だけど、僕は、君の味方だ。



 

「――この黒い球体は、GANTZとは、何なのか。それはたった一つの言葉で言い表すことが出来る」

 

 マリンブルーの髪を鋭く尖った耳の上に掻き分けながら、その水妖精族(ウンディーネ)は眼鏡を片手で押し上げた。

 

 ALO――アルヴヘイム・オンライン。

 妖精の国の名の通り、多種多様な妖精達が暮らす、まるで夢のような世界の中で。

 

 一羽の水妖精族(ウンディーネ)と、一羽の影妖精族(スプリガン)は、一人の大人と、一人の英雄として向かい合っている。

 

 水妖精族のクリスハイトは――菊岡誠二郎として。

 影妖精族のキリトは――桐ケ谷和人として。

 

 夢のような世界の中で、悪夢のような地獄の話を始める。

 この世の全ての悪夢を凝縮したかのような、地獄を生み出し続ける――とある黒い球体の正体を端に。

 

 菊岡は言う。

 

 黒い球体――GANTZとは、すなわち。

 

 

「――謎だ」

 

 

 その男は、まるでこの世の真理を告げるかのように言った。

 

 

 

+++

 

 

 

「GANTZ――あれは、正しく謎そのものだ。それ以外では言い表せない程に。文字通りのブラックボックス、いや、ブラックボールと呼ぶべきかな。黒い球体だからね」

「……菊岡さん。俺は哲学の授業を受けにきたわけでも、ブラックジョークを聞きにきたわけでもないんだぜ」

 

 飄々と語る菊岡に対し、和人は文字通り闇のように昏い瞳で睨み付け、低く重い声色で言う。

 

「伝わらなかったのか――俺は、そういう話をしに来たんじゃないんだ。……その為に、俺をここに呼んだんだろ」

「……分かっているよ。別に、ここまで来て何かを誤魔化すつもりなんてないよ。ちゃんと真面目な、真剣な話さ」

 

 菊岡は肩を竦めながら、大人が子供を労わるような目で和人を見つめて――己の蟀谷(こめかみ)に細い指を当てる。

 

「まず、これだけは言っておこう。ここでは頭の爆弾のことは心配しなくてもいい。“上”にも、君の担当黒球にも話は通してあるし、ALO(ここ)での会話は記録(ログ)に残らないように『レクト』側に手を回して設定してある。更に念の為、その部分の記録はこちらが回収、管理する手筈になっているから。だから、発言に気を遣う必要はない。全てを話し、全てを尋ねてくれ」

「………」

 

 和人は菊岡のその言葉に何も返さなかったが、ゆっくりと体を菊岡の方に向けた。

 

 正直言えば、今の今まで、頭部の爆弾のことなど頭から消えていた。物理的に消えてなくなったわけではないというのに。今もしっかりと埋め込まれているというのに。

 こうして菊岡と今まさに黒い球体の秘密について話そうとしている時点で、情報隠蔽に対しての強制協力などとっくに意味を失くしていると――そう、無意識に思い込んでいたのか。

 

 だが、わざわざこうして念を押してくることを考えると、今が特別なだけで、平常時ではこれまで通りということで――つまり、ガンツはこの期に及んで、一般人に対して少しでも情報を隠すことを諦めていないと、その義務を自分達に課し続けることを止めるつもりはないと、そういうことなのか。

 

(……だとすれば、そんなシステムの操作権限を、少なくとも一時的には預かることが出来る菊岡さんは、やはり――)

 

 菊岡誠二郎という目の前のこの男が、自分が巻き込まれた荒唐無稽な黒い球体の物語に、自分よりも遥かに深い場所で関わっている――それも黒い球体(ゲームマスター)側として――そのことに、和人は今一度、強い確信を得ると共に、形容しがたい感情が湧き起こってくる。

 

 自然と視線が鋭くなる。水妖精族(ウンディーネ)のアバターも相まって、目の前の男が人外のような謎めいた不気味な存在に思えてくる――そう、まるで、ここ数日に殺し合った星人のように。

 

「それと、もう一度言わせてもらうけれど、僕は何も誤魔化すつもりはない。黒い球体を、GANTZを謎と称したのも、偽りない僕の本心だ。桐ケ谷君が今思っているように、僕はアレについてそれなりに詳しい立場にいるけれど、桐ケ谷君が今思っている程には、知っていることは少ない。何も知らないに等しい。それほどまでに――あれは異質な物体なんだよ」

 

 異常な球体なんだよ――菊岡は、和人の鋭利な視線に、そして、そこに少なからず含まれた殺意に、表面上はまるで動じずに説明を続ける。

 

「――そもそもの話、だ。桐ケ谷君は、GANTZについてどこまで分かっているのかな。憶測を含めてで構わない。現時点での、桐ケ谷君から見たGANTZというものを教えてくれ」

 

 まるで授業中に生徒にあてる教師のように、子供を試す大人のように、柔和な笑みで菊岡は、険しく表情を固める和人に尋ねる。

 

 和人はしばし睨み付けるように沈黙しながら、ゆっくりと固く閉じた口を開いた。

 

「――現代の技術では考えられない……オーバーテクノロジーによって作られた……死人を利用した……厳選式、兵士育成システム」

 

 探るように紡いだ和人の言葉に、菊岡は目つきを変える。

 和人は、俯きながら記憶を辿るように、話しながら自分の考えを纏めるように語っていく。

 

「……一体、どんな目的があって、こんなことをしているのかは分からない。星人――宇宙人を撲滅する為の戦力作りだというのなら、それこそあのシステムを、そのまま軍隊やら兵隊やらといった、所謂プロの連中に使った方が、遥かに効率的で効果的だと思う。……だが、あの黒い球体を作った連中が、俺達のようなずぶの素人の一般人を、より強い兵士に……ゲームのように、育成することを目的としていることは明らかだ」

 

 和人は顔を上げて、再び鋭く菊岡を見据える。

 腕を組んだ手が、ギュッと強く、自らのアバターの二の腕を握り締めていた。

 

「――なぁ、菊岡さん。まずはそこから教えてくれ。GANTZは、あの黒い球体は何処の誰が作った? 何の為に作ったんだ? どうして一般人の、それも死人なんかを使う? どうして星人と戦わせる? ……どうして――俺達なんだ?」

 

 星人という化物が、この地球に存在するのは分かった。

 平和に暮らす日常の裏で、見たこともない怪物達が隠れ潜んでいることは、理解した。

 

 そんな存在に対抗する為に、誰がやったかは知らないが、どうやってかは分からないが、黒い球体――GANTZが生み出された、というところまでは、まぁ理解出来る。

 

 だが、どうしてそれに、自分達が巻き込まれなくてはならない?

 

 この世界には、戦うことを生業とする者達がいる。

 戦闘を職業とする戦士達がいる。戦争を使命する兵士達がいる。

 

 未確認生物との戦闘――宇宙人との、戦争。

 

 もし、本当にそんなものに対する戦力を整備する必要があるのだとしたら――星人に対する戦士を、兵士を育成する必要があるのだとしたら。

 

 あの黒いスーツを纏うのは、あの黒い武器を手に取るのは――あの黒い球体の部屋に集められるべきなのは、絶対に自分達ではない筈だ。

 

 もっと相応しい人達がいる筈だ。

 

 もっと、強い人達がいる筈だ。

 もっと覚悟を持った人達がいる筈だ。

 もっと使命に燃える人達がいる筈だ。

 

 なのに、どうして――俺達なんだ。

 

「――全て答えよう、桐ケ谷和人君」

 

 菊岡は、柔和な笑みを消し、鋭い視線を向けて来る和人を真っ向から見据え、言う。

 

「これから話すのは、君達が送り込まれた、あの黒い球体の部屋の外の話――黒い球体の背後の、真っ黒な黒幕の話だ。そこは決して綺麗な世界じゃない。むしろ黒く、醜く、悍ましい陰謀と策謀が渦巻く、大人の世界だ」

 

 人間離れした容姿の水妖精族(ウンディーネ)は、まるで異世界へ誘うように少年に語り掛ける。

 

「君は激怒するだろう。憎悪、殺意を抱くかもしれない。君は愚かな大人に巻き込まれた子供だ。それは正当な感情だろう。……だけど、これだけは、信じて欲しい」

 

 妖精が言葉に何かの色を込める――少なくとも、黒色ではないと、黒の剣士と呼ばれる少年は感じた。

 それは、いつもどこか本心を隠し、底の見えない瞳を向ける菊岡が見せた、剥き出しの感情であるように、和人は思った。

 

 菊岡は頭を下げなかった。ただ、真っ直ぐに、眼鏡の中の、水色の瞳を――彼女と同じ、水妖精族(ウンディーネ)の瞳を、桐ケ谷和人に向けて、言った。

 

「地球に危機が迫っている。このままだと地球は、今年の終わりと共に、終焉を迎える――これは、紛れもない、予言された真実なんだ」

 

 

――我々は、それをカタストロフィと呼んでいる。

 

 

 妖精は――菊岡誠二郎は、微塵の揺らぎない表情と瞳で、桐ケ谷和人に終焉を告げた。

 

 英雄が――桐ケ谷和人が瞠目し、口を開いて硬直する中で、菊岡は尚も和人に告げる。

 

「僕達は綺麗じゃない。僕達は正義じゃない。だけど、僕は、君の味方だ——キリト君」

 

 そして目の前の大人は、手を差し伸べながら、数多くの伝説を残してきた、ごく普通の少年に言う。

 

「君こそが、世界を救う英雄になると信じている。だからこそ僕は、これから君に真実を話そう」

 

 菊岡は再びモニタに目を向け、手を振って操作し、とある文字列を表示させた。

 

 

「僕達は、Cosmopolitan Integration OrganizatioN――通称、CION(シオン)

 

 

 終焉(カタストロフィ)から世界を救い、地球を守る為に結成された、秘密組織だ——菊岡は、呆然とする和人に、そう厳かに告げた。

 

 

 

+++

 

 

 

「ちょ、ま、待ってくれ、菊岡さん! 確かに俺は答えを求めたけど、ちょっと話が急展開過ぎる!」

 

 和人は菊岡を手で制止し、額に手を当てて思考する。

 

 いきなり世界が終わるとか言われても、地球を守る組織だとか言われても、話のスケールが大きすぎてついていけない。

 

(……いや、それは今更か。そもそもが宇宙人との戦争、死者の蘇生とかいうところから始まってるんだ。世界が終わる、地球を守る——むしろ、それくらいのスケールの話が出て来て当然なのか……)

 

 偶々、これまで自分の身に起こっていた戦争(こと)が、日本の関東圏内に収まっていただけで、むしろ相手が宇宙人なのだから、そんな地域限定で事が収まる筈がないという考えの方が道理だろう。

 

「……現時点で、既に聞きたいことは山のようにあるけれど、それをいちいち納得できるまで聞いてたらキリがない。……質問は最後に纏めてするから、取り敢えず菊岡さんは、出来る限り順序立てて分かりやすく説明してくれると助かる」

「はは、そうだね。ちょっと性急過ぎた。時間は限られているとはいえ、そう余裕がないわけでもない。ちゃんと分かりやすく説明していくよ」

 

 和人が困り切った様子でそう言うと、菊岡はいつも通りの笑顔に戻る。

 だが、せっかく話が仕切り直された所だとは理解していたが、菊岡の言葉に流石に看過できないワードがあった。

 

「え? 時間制限があるのか? 具体的にはどれくらいがリミットなんだ?」

「出来ることなら、昼前には終わらせたい。桐ケ谷君には、その後に少しやってもらいたいことがあるんだ。まぁそれとは別に——いつ、ユイ君に見つかってしまうか分からないということがある」

 

 菊岡の言葉には幾つもの気になるポイントが新たに見え隠れしていたが、それらを差し置いてでも、和人は最後の言葉に食いつかずにはいられなかった。

 

「……ユイ? ユイが、一体、何に関わっているっていうんだ」

「ユイ君がこの事態に関わっているというわけじゃない。ただ単純に――知られなくないだろう? 彼女達を、桐ケ谷君は巻き込みたくはないだろう?」

 

 だから信用の置けない僕達の誘いに乗って、こうして仮想(VR)世界にフルダイブしてくれたんじゃないのかい——と、菊岡は言った。

 

 それに対し、和人は何も言えずに口を閉じる。

 

 紛れもない事実だったからだ。

 

「こうしてALOで会談をすることにしたのは、偏にそれが理由だ。まず先に伝えておいてしまうけど、昨夜の――ほんの数時間前の、池袋での戦争。あれは、一部始終がテレビ放送されていた。桐ケ谷君、君とあの牛人の怪物の、最終決戦もね」

「っ!?」

 

 和人は菊岡の言葉に息が詰まる。菊岡は、そんな和人に言い聞かせるように告げた。

 

「故に、今、日本中の報道機関、調査機関が、君を――桐ケ谷和人を捜索している。自宅から連れ出し、あの病院に来てもらったのはその為だ。一応、あの病室は総務省権限と、それからCION権限で秘匿されている。恐らくは誰も立ち入り出来ないだろう。念の為に、僕自身がそこに行くわけにはいかなかった。ここ最近の付き合いで、僕と桐ケ谷君の関係を知っている者も少なくないからね」

 

 更に加えて念の為に、君がこの部屋に入った時点で、この部屋の中はシステム的に隔離しているんだけど――と、そこまで言って菊岡は、笑みを消して和人に向き直った。

 

「――それでも、この隔離されたエリアに、侵入出来るかもしれない可能性を持つのが、ユイ君だ」

「ッ! ……確かに、ユイなら……」

 

 運営側がログの消去などの方策を取っているだろうこの仮想(VR)世界の一室に、それでもユイならば、もしかすれば侵入してくるかもしれない。

 

 あの戦いがテレビ放送されていたというならば、間違いなくユイは、和人の無事を確認すべく、今、ありとあらゆるデータベースを捜索していることだろう。

 つい数時間前まで現実世界の池袋で戦争をしていた和人が、まさか数時間後にALOにログインしているとは思わないだろうが、それでも此処は――この世界は、間違いなくユイの領域(テリトリー)だ。

 

 もし、この可能性に行き着いた時、ユイがその気になれば、もしかするということも十分にあり得る。

 

「だからこそ、要点をかいつまんでの説明になる。君が望むなら、後日再びこのような場を設けることを確約しよう」

「…………その前に、これだけは聞いておきたい」

 

 和人は、本題に入る前に、菊岡に鋭い目つきで単刀直入に問うた。

 

「――アンタは俺に、何を求めるんだ? 菊岡さん」

 

 この男は、これまで何度も桐ケ谷和人に接触してきた。

 

 その全てにおいて、この男には思惑があり、何かしらの目的を持って動いていた。

 

 今回の事件においても、それは変わらないだろう。

 

 偶々、和人が巻き込まれた事件の、偶々、その黒幕となる組織に菊岡が在籍していて。

 偶々、和人の存在が世間に露見したタイミングで、偶々、菊岡が和人の知らなかった機密情報を説明する機会を設ける。

 

 そんな偶々の奇跡的な重なりを信じる程、桐ケ谷和人は菊岡誠二郎の人間性を信用してはいない。

 

「アンタは、俺に、何をさせたい?」

 

 菊岡は、いつも通りの、あの笑みで答える。

 

「言っただろう、桐ケ谷君――否、キリト君」

 

 僕は君に、英雄になって欲しいんだよ。

 

 そう言って、菊岡は、黒い球体の背後に広がる、真っ黒な闇について語り出した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 桐ケ谷直葉は、その扉の前で微かに身体を震わせながらも――意を決して、一度ノックをし、ドアノブに手を掛けてゆっくりと開けた。

 

「……おにい、ちゃん?」

 

 開けた扉の先に広がっていたのは、カーテンを閉め切っているが故に真っ暗で、ベッドとPC机くらいしかないシンプルな部屋模様。

 

 夏も近いというのに、熱の無いひんやりとした空気を感じる。

 

 直葉は主のいない部屋に――義兄の自室に、一歩、また一歩と恐る恐る足を踏み入れる。

 

「…………お兄ちゃん」

 

 ベッドの上に広がるのは、乱れてはいないが誰かが寝ていた形跡がある布団、伸びた携帯端末の充電コード、そして丁寧に置かれたアミュスフィア。

 

 直葉は――開かれたままになっているクローゼットを見て、痛ましげに表情を歪めた後、ぼすんと兄のベッドに腰掛け、僅かに乱れていた布団を握り締める。

 

「……どうして……お兄ちゃん……ッ」

 

 ギュッと握り締めた布団は――兄の温度をまるで残していない、ただの冷たい布団だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 顔を俯かせながら桐ケ谷家一階のリビングへと降りてきた直葉を迎えたのは、四人の少女達だった。

 

 篠崎里香(リズベット)

 綾野珪子(シリカ)

 朝田詩乃(シノン)

 

 そして――結城明日奈(アスナ)

 

「………………」

 

 顔を俯かせていた直葉は、手を組みながら冷たい眼差しでテーブルを見詰める明日奈を見て、更に小さく唇を噛み締める。

 

 そんな明日奈を一瞥した後に詩乃は、戻ってきた直葉へと顔を向けて「……どうだった?」と尋ねた。

 

 直葉はリビングの椅子に腰を掛けながら、ポツリポツリと呟くように答えた。

 

「……兄の部屋には、書置きとかメッセージとか……そういったものは何も残されていませんでした。……悪いとは思ったんですが、兄のPCも立ち上げて、ユイちゃんに中を探してもらったりもしたんですが……」

『…………手掛かりになりそうなメールとか、それらしい記録(ログ)などもまるで残されていませんでした。……パパの携帯端末も、未だ電源が切られているのか、繋がらなくて……』

 

 テーブルの上に画面が見えるように立て掛ける立てられた携帯端末のモニタから、妖精姿のAI――ユイが、申し訳なさそうにしょげながら言う。

 そんな『ごめんなさい……』と謝るユイに、「ユイちゃんが謝ることじゃないわよ」と返した里香は、力無い笑みをユイに向けた後、彼女らしかぬ沈痛な面持ちで言う。

 

「……こっちも、結局は何の情報も得ることは出来なかったんだから」

「池袋に居た警察の方も、自衛隊の方も、テレビ局の方も……誰も、何も分からないみたいでしたね」

 

 あたしたちと、同じで――そう呟いた珪子の言葉に、桐ケ谷家のリビングは重苦しい沈黙に満たされた。

 

 

 夜明け前に病院を出た、ここにいる明日奈以外のメンバー達は、その後、真っすぐに、昨夜の戦場となった――虐殺現場となった池袋へと向かった。

 

 まともな公共機関は既に麻痺していたが、ある程度の時間を掛けて何とか辿り着いた直葉達は、その場に居た人達に手当たり次第に声を掛けて情報収集していたが――テレビ画面越しではなく、自分の目で、耳で感じた池袋は、正しく本物の地獄だった。

 

 無論、直接の戦場となった池袋駅周辺には立ち入ることは出来なかったが、直葉達が辿り着くことの出来た、警察や自衛隊によって形成された包囲網の外側ですら――見るも無残な光景が広がっていた。

 

 自分達と同じく、恐らくはテレビ画面に映った自分達の家族、恋人の安否を確かるべくやってきた者達。

 包囲網の中から運び出されてくる、目を背けたくなるような怪我を負った被害者達。

 

 ある意味では、包囲網の中よりも混乱してるかもしれない場所で、少女達は息を吞み、唾を呑み込んで――それでも、必死に己を奮い立たせて戦った。

 

 全ては、自分達の英雄(ヒーロー)たる少年の安否を――不明な行方を知る為に。

 

 時にはそんなもの知るかと罵声を浴びせかけられ、時には逆に相手の家族や恋人の行方を縋りつかれながら尋ねられ、時には恐怖で震えていて言葉が通じない者を目の当たりにもした。

 

 心に冷たく重い何かが積み重なっていき、それでも探してる少年の手掛かりはまるで掴めず――遂には。

 

 池袋を救ってくれたあの『黒の剣士』の関係者がいるらしいという噂が先行し、自衛隊や警察関係者の方から、直葉達に接触し、こう尋ねてきた。

 

 彼の少年は、今、何処にいるのだ――と。

 

(…………そんなことは、私達の方が知りたいわよ……っ)

 

 詩乃が、今朝の情報収集の――国や警察ですら何も知らないという情報しか得られなかった聞き取り調査の結果を反芻しながら、直葉が淹れてくれたコーヒーの入ったマグカップを思わず両手で握り締めている、と。

 

(……でも、それにはあくまで、あそこにいた――失礼な言い方を承知で言えば、現場レベルの人達は、って注意点がつく)

 

 ちらっと詩乃は、一縷の望みを掛けて、自分達の望む情報が流されるのではと点けっぱなしにしてあるテレビを観る。

 答えの出ない疑問と不安を煽る大人達の混乱する様を朝からずっとお届けするばかりで、お世辞にも有用な情報を齎しているとはいえないメディアだが、ただ一つ、今の状況を少しでも明るくする可能性を持つのは、全局が揃って画面右上にテロップとして表示してある知らせ――本日、午後六時から開かれるとされる、内閣政府による此度の池袋大虐殺に関する、()()会見。

 

(………………説明、ね。一体、何を説明してくれるっていうのかしら)

 

 ふうと溜息を吐きながら詩乃は、このままでは首相官邸に乗り込んで直接説明を求めかねない様相の少女に向かって「……そうなると、今の所、手掛かりらしい手掛かりといえば、やっぱりあれだけね」と呟きながら、問い掛ける。

 

「――ねぇ、アスナ。本当なの? あの戦争の後に、キリトが、あなたの病室に訪れたって」

 

 隣に座る詩乃の言葉に、明日奈は冷たい眼差しのまま、直葉や里香や珪子、そしてユイの注目が集まる中、ゆっくりと頷いた。

 

「…………うん。昨日、まだ夜が明ける前に。……シノのん達が病室を出て、しばらくしてから。……あれは、間違いなくキリトくんだった」

 

 明日奈は己の組んだ手を唇に当てて――あの漆黒の手袋の無機質な感触を思い出しながら――目を細める。

 

 詩乃はそんな明日奈の表情に何かを言い掛けるも、口を閉じる。

 代わりに、未だ俯いたままの直葉が「……それは、間違いないと思います」と、口を開いた。

 

「さっき、兄の部屋には何もメッセージは残ってなかったと言いましたが……兄が居たと……恐らくはあの戦場の後に、自室に寄ったのだと思われる痕跡は残ってました。……アスナさんが見たと思われる私服も、クローゼットからなくなっていましたし」

 

 直葉のその言葉に、珪子が意識して発しているのであろう明るい口調で言う。

 

「そ、それじゃあ、キリトさんは生きてるってことですよね!」

 

 勿論、それは喜ばしいことだ。

 何よりも求めていた朗報だ。

 少年の左腕の切断シーンをテレビ越しに目撃していた少女達にとって、それは何度も危惧していた可能性だったのだから。

 

 だが、それは同時に、少女達にとって、別の嫌な可能性を、否定したい可能性を、どうしても思い起こさせる。

 

「……そうね。だけどつまりそれって、あの馬鹿は生きているのに……()()()()()で、あたし達に何も連絡してこない、ってことよね」

 

 里香の言葉に、再び少女達は沈黙する。

 表情を曇らせながら珪子が座り込むのを痛ましげに見詰めながらも、詩乃はその可能性は高いと見ていた。

 

 直葉曰く、和人(キリト)の自室に彼が帰宅した痕跡は残されていた。

 明日奈の病室に現れた彼は、戦争の時に着ていた不可思議な漆黒の全身スーツではなく――否、それも着用していたがその上に、いつも彼が好んで着るような黒の私服を纏っていたと聞いた時、少なからず期待した。

 

 携帯端末は――何らかの事情で電源が切られているのだとしても、恐らくは着替えに戻ったのであろう彼の自室には、何らかのメッセージが残されているのではないか、と。

 だが、結果として、それは何も残されていなかった。それが意味する所とは――。

 

(……キリトは、また何かとんでもないことに巻き込まれている。……だけど、少なくとも彼は――私達に、助けを求めては、いないということ)

 

 むしろ、積極的に、自分達を遠ざけようとしている。

 自分が巻き込まれていることに、巻き込むまいとしている――ということ。

 

 詩乃は、恐らくは少年のそんな意思を、最も直接的に受け取ったであろう少女を見詰める。

 

――『……ごめん、アスナ――まだ、終われないんだ』

 

 明日奈は、細めた瞳で、テレビ画面の左上の表示を見る。

 時刻は――『10:25』。

 

――『――行ってくる』

 

 朝までに戻るといった少年は、いってらっしゃいと言えなかった少女の元に、未だ――帰ってこない。

 

「…………………っ」

 

 明日奈は、何も掴めなかった手を、唇を噛み締めて歪めた表情で見詰める。

 

「クラインとかには、何も連絡が言ってないの?」

「……クラインさんにも、エギルさんにも、電話してみたんですけど……何も知らないみたいです。あの人達からの電話もメッセージにも、返信はないみたいで」

 

 里香の問い掛けに、直葉は首を横に振る。

 和人は数少ない男友達にすら、何も告げずに行方を(くら)ましているらしい。

 

「キリトさんが何処に行ったのか……探す方法はないんでしょうか?」

『……ママが入院していた病院周辺の監視カメラ映像から、パパがバイクで移動したことは分かっているのですが……途中で痕跡が消えて――いいえ、()()()()()()

「消されている?」

 

 珪子の問いに、ユイが答える。

 そして、そのユイの回答に、今度は詩乃が疑問を呈した。

 

「それってどういうこと?」

『何者かが、途中で映像を書き換えている――というより、すり抜いている痕跡があったんです。逆ハッキングを試みたのですが……途中で……弾かれてしまって』

「ユイちゃんでも無理なんて……只者じゃないよね」

 

 そして、その只者ではない誰かは、今現在、行方不明中の英雄――キリトの関係者である可能性が高い。

 

 英雄を匿っている、あるいは隠している誰か、あるいは――何か。

 だが、そんな何かが、SAOの英雄であり池袋の英雄となった『黒の剣士』キリトを、そして電脳世界の妖精たるユイの追跡すらも弾く只者ではない何者かを、匿い、隠し、抱えている何かが、普通である筈がない。

 

 何処にでも隠れられるような、小さい何かである筈がない。

 

 それ相応の大きさが必要になる。

 力か、地位か、規模か――それ相応の、大きい何かだ。

 

 あれだけの大災害、大虐殺を、終結に導ける何か。

 それこそ国家レベルの大事件の中心に関われるような――国家レベルの、巨大さ。

 

 結城明日奈が知る、桐ケ谷和人の関係者の中で、そんな位置で動けるのは――ただ、一人。

 

「――ねぇ、直葉ちゃん。クラインさんとエギルさんには連絡をしたけど……あの人にはまだ、だよね?」

 

 直葉の向かい側に座る少女が、組んでいた手を解き、その美貌を露わにし、鋭く細めた瞳を彼女に向けた。

 

 思わず息を吞む直葉。迫力に満ちたその表情は、彼女のことを良く見知った直葉にすら、僅かに恐怖を感じさせるものだった。

 

 詩乃が僅かに目を細めたことにも、直葉の一瞬の怯えにも気付くことなく、少女は――結城明日奈は、言う。

 

「――総務省仮想課、菊岡誠二郎。あの男は、今、何処で何をしているのか――調べてもらえる?」

 

 ユイちゃん――と、少女は、探し人の少年との愛娘の名前を呼んだ。

 




黒の少年は、この世の何よりも黒い組織の、その真っ黒な真名を知る。



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Side和人――③

…………だったら、どうして、未だに俺達は戦争をしているんだ?



 菊岡誠二郎。

 

 総務省総合通信基盤局高度通信網振興課第二分室、通信ネットワーク内仮想空間管理課――通称『仮想課』の職員。

 

 名目上は国家公務員であり、トバされたキャリア組を自称するこの男が、自分達の――和人達の前に現れたのは、桐ケ谷和人が、つまりは『キリト』が、かの始まりのデスゲーム『ソードアート・オンライン(SAO)』をクリアし、現実世界へと目覚めた、その病室だった。

 

 鋼鉄の城を攻略し、魔王を打倒した勇者を、誰よりも早く出迎えた菊岡は、史上最大のネットワーク犯罪となった『SAO事件』の攻略の立役者となった和人(キリト)と関係を築き上げ、その後、GGO事件を始めとする事件に和人を巻き込み、時にサポートし、いつの間にか、明日奈達を含む仲間達と顔合わせするまでに至るのだが――和人を含め、明日奈達の彼に対する印象は、一言に尽きる。

 

 信用ならない男――と。

 それは、この飄々とした大人が、自ら誘導しているようにすら感じられる節もあるけれど、短くない付き合いとなった今でさえ、和人とその仲間達は、このクリスハイトという水妖精族(ウンディーネ)として、共にALOのクエストすらこなすようになったこの男に、心を開いているとは言えなかった。

 

 確かに、怪しい男だ。混じりけのない友情を築いたとはとても言えない、只の善意で接触してきているとは感じられない、ただならぬ含みを持つ男だけれど――それでも。

 

「……それだけで、疑ってかかるのはどうなの? アスナ」

 

 朝田詩乃――シノンは、直葉すら息を吞む程の、大袈裟な表現だと承知で言わせてもらうならば、殺気のようなものすら放っているのではと思える形相の明日奈に物申す。

 すると、間髪入れずに、その形相が詩乃に向けられる。

 

 思わず自分に向けられたわけではない里香や珪子も肩を強張らせるが、詩乃は組んでいた手を組み替えるだけで、そのまま明日奈から目を逸らさずに言った。

 

「……確かに、キリトの現状には、何か大きな、とんでもなく巨大な何かが動いているとは思う。それでも、それだけであの菊岡って人に疑いをぶつけるのは、あまりにも性急じゃない?」

 

 警察や自衛隊すら出動する程の大事件を、解決に導いた『黒い服の戦士』。

 恐らくは、何らかの理由でその一員となっている和人。

 

 そして、それらについて何かを知っていて、今晩の午後六時から会見をすると発表している日本政府。

 

 ならば一応は省庁勤めということになっている、総務省役員である菊岡ならば、何かを知っているかもしれない――そういう意味では、彼に連絡を取るというのは悪い手ではないだろう。

 むしろ、現状取れる唯一の有効手であると言ってもいいかもしれない。

 

 だが、今の明日奈からは、そういったものを通り越して、まるで自分から和人を引き離した存在に対する怒りのようなもので動いている気がする。

 そうならば――それは、間違いなく、暴走といっていい状態だ。

 

「……分かってる、アスナ?」

 

 詩乃は、明日奈に端的に問い掛ける――自覚は、あるかと。

 それに対し、明日奈は冷たい眼差しのままで頷き返す。

 

「……分かってるよ、シノのん。私も、菊岡さんが《敵》で決まりだとは、まだ思ってない」

 

 明日奈はそう言って、そのままグッと腕を伸ばすようにして身体を解す仕草をする。

 それによって室内の空気もまた弛緩するが、詩乃は、明日奈の言葉に小さく眉根を寄せた。

 

(…………《敵》、か)

 

 恐らくは本人も無意識だろう、つまりは自覚するまでもなく出た言葉に、詩乃は改めて危うさを感じる。

 明日奈は、そんな詩乃の視線に気付くことなく続ける。

 

「それでも……この状況で一番有効なのは、菊岡さんからのアプローチ。あの人の立場なら、大きな何かに対する情報は得やすい筈。……でも、クラインさんやエギルさんと違って、クリスハイトには彼自身にも連絡がつかないの」

 

 総務省にも直接連絡をしてみたけど、海外出張中ですって返答しかなかったから――明日奈は事もなげに言う。

 自分達が池袋へ行っている間、そして和人との邂逅を終えた後から今に至るまでに、総務省に直接電話を掛けるアプローチまでしていることにも瞠目だが、明日奈はそんな詩乃達の驚きに構うことなく、その視線はただユイだけに向いている。

 

「……本当に菊岡さんが海外にいるなら、それでいいの。でも、もし国内にいるならば……キリトくんは、まずあの男の所に行くと思う」

「……分かりました、ママ。探ってみます」

 

 お願い――と、電子の海に消える娘に、明日奈はそう呟いた。

 

 それは、推理とすらいえない、只の直感。

 

 もし和人が、それこそ国レベルの大きな何かに巻き込まれているのなら――それでも、ただ流されるままで使われたりはしないだろう。

 必ず、情報を得ようとする筈だ。客観的に、多角的に己が置かれている状況を把握すべく、使える手は使おうとする筈だ。

 

 しかし、それでも、桐ケ谷和人は一般的には只の高校生。

 使える手は、人脈は限られている。それこそ、今回のように、親しい仲間は巻き込みたくないという状況に置いて――和人が選べる選択肢は、それこそ、ただ一つ。ただ一人。

 

(……それに――)

 

 思い起こすのは、今朝の、深夜の病室。

 明日奈は和人に聞いていた。あの時も、彼に、自分の病室の情報を与えたのは、自分と彼の再会を導いたのは、あの男だったと聞いていた。

 

 数時間前まで池袋で死闘を演じていた桐ケ谷和人へ、その数時間後に結城明日奈の病室を訪れることが出来るように手配することが出来る人物。

 それはつまり――自分と彼の、桐ケ谷和人と結城明日奈の関係を知っている人物の関与があったからではないか――。

 

 明日奈は歯噛む。

 分かっている。これは、推理というよりこじつけだ。

 もっと言えば――自分の推測出来る範囲で、自分の手の届く場所へ、彼が居て欲しいという願望。

 

 自分の知らない場所で、自分の知らない仲間と、自分の知らない戦争をしていた和人をテレビ越しに観た時から、胸の中で騒めく焦燥を否定したいがばかりの、願望。

 

 桐ケ谷和人が、キリトが、まだ―――自分の知る世界から、結城明日奈が居る世界から、いなくなってはいないのだと、そう思いたい、自分の、願望。

 

 まだ間に合うのだと、まだ届くのだと、まだ――まだ――まだ。

 

(――――お願い……ッ)

 

 美麗な相貌を歪め、何かにしがみ付く様にテーブルの上で手を握る明日奈。

 そんな明日奈を、直葉が、里香が、珪子が――そして詩乃が見詰める中で。

 

「――ただいま戻りました、ママ」

 

 どれだけの時間が経ったのか、数分にも数十分にも思えたが、明日奈は間髪入れずに「ありがとう、ユイちゃん、それで――」と調査の成果を待ちきれないとばかりに、端末のモニタに顔を近づける。

 

「はい。……結論から言えば、菊岡誠二郎氏の渡航記録は、どの航空会社にも記録されていませんでした」

「――――ッ! それじゃあ――」

 

 やはりあの男は、日本国内に居るのか――と、ほんの僅かだが、光明が見えたと表情を明るくし掛けた少女達に――「――ですが」、と。

 

 妖精姿のAIは、その表情を曇らせたまま、彼女達に言い淀みながら、己の調査結果を告げた。

 

「…………見つからなかったんです」

「――え?」

 

 どういうことと、言葉ではなく表情で返した明日奈に、ユイは――重く、告げた。

 

「――日本国内にも……何処にも、菊岡誠二郎という男性の現在地を、特定することが出来なかったんです」

 

 まるで――真っ暗な闇の中にいるかのように。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「まず初めに断っておくと、僕も全てを知るわけじゃない。それくらい、GANTZに関わるこの物語は、とんでもなくスケールが大きい。それこそ世界、宇宙に広がる程にね。

 

「僕も一応CIONという組織の幹部に名を連ねてはいるけれど、それこそ規模が大き過ぎる組織だから、幹部の一人といってもたかが知れているんだ。滅茶苦茶に広い会議室の末席に座れる程度で、発言権も大したことはない。でも、一応は会議に出席できるくらいは偉いから、それなりに情報を持っている。今日はそれを、君に話せる限り話したいと思う。

 

 

「まず話すのは全ての始まりからだ。CIONという組織の誕生――創成期の話だ。

 

「秘密組織CIONは、ほんの数十年前、とある二人の天才が出会ったことで始まった。そして、たった数十年間で――世界を征服した。

 

「そう、文字通りの世界征服だ。CIONという組織は、この世界を掌握し、支配している。各国の首脳も、ありとあらゆる大企業も、CIONはその手に収め、治めている。

 

「といっても、CIONが国やら企業やらを掌握して(おこな)ったのは、あくまでも黒い球体と武器の量産と配置であって、GANTZを生み出したのは、始まりの天才の一人である、《天子様》と呼ばれる、とある人外だ。

 

「もう一人の天才であり創設者である男は既に死亡している為、今の組織はこの《天子》が支配していると言ってもいい。

 

「世界を支配する組織の支配者――まさしく、世界の支配者だ。

 

「といっても、僕はかの人物を、かの人外を見たことはない。本名不明。男なのか女なのか、大人なのか子供なのか老人なのか、人間なのかも闇の中だ。黒い闇の中だ。

 

「会議にもモニタのみの参加で、《天子》の兄であるらしい、《CEO》と呼ばれる仮面の男が実質全てを取り仕切っている。

 

「CIONという組織の体制としては、《天子》が不動のトップとして君臨し、その脇に六人の『主要幹部』がいる形だ。CEOはこの主要幹部一人で、実質的な組織の№2だ。まぁCEO以外の五名は正確にはCIONの一員といえるかも怪しいVIPなのだが――この辺りの話はややこしくなるから、また後日にしよう。

 

「彼等を別格、別枠として考えると、《天子》や《CEO》の下には、CION主要国支部を治めるリーダー枠の幹部が、五名いる。

 

US(アメリカ)EU(ヨーロッパ)CN(中国)RU(ロシア)、そしてJP(日本)。それぞれの『支部』の戦士(キャラクター)ランキングトップの者が『最上位幹部』として名を連ねる。

 

戦士(キャラクター)ランキングとは、CIONが各支部に所有する『部隊』と呼ばれる戦士達の格付けを行ったものだ。これは、来きたる終焉――カタストロフィにて、CIONがそれぞれの戦士の有用性を把握しやすくする為の制度で、上位であるほどに組織に必要とされている戦士であることの証明となり、より大きな特典と権威を得られる。

 

「事実、先程言った通り、各支部の戦士ランキングにてトップとなれば、戦士(キャラクター)の頂点として支部を治めることが出来るわけだしね。ちなみに、それぞれのランキングのトップ10までが『上位幹部』として、CION組織内での幹部としての資格を得ることが出来るんだ。

 

「桐ケ谷君がここまで辿り着くには、流石に時間が足りないかなぁ。君はまだ『部屋』の住人だから、まずは『部隊』に勧誘(スカウト)されなくちゃいけないからね。『部隊』にスカウトされる為には、各『部屋』で格別の成績を収めるか、偶に『住人』の中に紛れ込んでいる本部の視察メンバーから個人的に勧誘を受けるしか――って、流石に脱線が過ぎたか。この辺りの話はまた後で話すよ。

 

 

「さて、少しごちゃごちゃしたので纏めさせてもらう。

 

「CIONという組織のトップである《天子》の側近として、別格の権威を持つのが《CEO》を筆頭とする六名の『主要幹部』。彼等は色々な意味でVIPな立ち位置なのだけれど、カ-ストとしては最上位に位置するのは間違いない。

 

「その下のカーストが戦士(キャラクター)ランキングの上位陣が位置する『上位幹部』。その中でもトップに立つのが、ランキング一位の『最上位幹部』だ。彼等は五つの『支部』のそれぞれのリーダーとして、各支部が保有する『部隊』の指揮権を持っている。カタストロフィの時は、彼等が司令塔として、主力として敵を迎え撃つことになるだろうね。

 

「更にその下に位置するのが、CIONという組織のそれぞれの部門を取り纏める役職リーダーとしての『下位幹部』達。一応、幹部という名を貰ってはいるが、会議での発言権は、己が治める分野以外の議題ではないに等しい。僕はこの位置だ。

 

 

「さて、少し長くなってしまったけれど、これがCIONという組織の簡単なピラミッドだ。

 

「そして、CIONの組織としての主目的は、《天子》が予言した、終焉――カタストロフィへの対策。

 

 

「数百年先の文明の技術でGANTZを作り上げ、数十年で世界を征服した人外が予言した――カタストロフィ。

 

「それは、一度、この世界を滅ぼすものだ。

 

「詳しいことは、今はまだ明かせない。……そんな顔をしないでくれ。時が来れば、必ず君にも話す。今は、もっと他に話すことがあるんだよ。

 

「話を戻すと、CIONの目的は、そのカタストロフィから、人類の絶滅を回避させ、滅びた世界を――今度こそ、()()()()()()()だ。

 

「地球を一つの国にする。全ての主義を、統一の政府で纏め上げ、崩壊した秩序を再建する。

 

「それこそが、CION――Cosmopolitan Integration OrganizatioN。世界主義統合機構。

 

「我々が所属する、世界を救い、地球を守る秘密結社なんだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 菊岡はそこまで語ると、「さて、桐ケ谷君もいつまでもそんな端っこにいないで、こっちに来たらどうかな」と、和人を手招きする。

 

 和人は、険しい顔をしながらゆっくりと立ち上がり、ソファの菊岡から最も離れた位置に腰を下ろした。

 

(……未だにスケールが大き過ぎて理解が追いついたとは言えないが、菊岡さんの言うCION――GANTZの背後の組織の規模が世界的であるいうことは……理解した)

 

 世界規模どころか、文字通り世界を支配しているらしいのだが、そこまではまだ実感できない。それこそ、正しく漫画やアニメの世界だ。宇宙人と戦っている身分で、今更だが。

 

「……アンタ達が、何かとんでもなく大きな目的の元で動いているというのは分かったけど――」

 

 和人は、必死で頭の中を整理しながら、菊岡に問い掛ける。

 

「――それが、俺達が戦わされる理由と、どう繋がるんだ? CIONとやらがそれほどまでに大きな組織なら、俺が最初に言った通り、何も俺達じゃなくていい筈なんじゃないのか。軍隊やら特殊部隊やら、星人との戦争にうってつけの人材なんて、いくらでも用意出来るし、育成出来るんじゃないのか」

「ああ、その辺りも、これから説明していくよ。ここまではCIONという組織の簡単な基本情報を紹介してきた。次はCIONが、その設立理由であるカタストロフィに対して、どのような対策を、これまで具体的にどのような手段で行ってきたかについて、だ」

 

 そう言って菊岡は、CIONについての説明資料を表示していたモニタの画像を、手を振り上げて操作する。

 

 次に表示されたのは――恐竜。

 幕張を蹂躙する、火球弾を発射するT・レックスだった。

 

「っ!?」

 

 和人の脳裏に、あの始まりの戦争が過ぎる。

 だが、そんな和人の混乱醒めぬ内に、モニタは次々と怪物を表示し始めた。

 

 六本木で暴走する漆黒の巨大騎士。

 池袋に君臨する黒服の男達――そして、駅前で決闘する牛人と少年。

 

「………………」

 

 更に幾つものウインドウが開く。

 

 小さな白い羽のようなものを持つ天使のような悪魔。

 不気味な人型ロボットの中から飛び出す鳥人。

 深夜の寺院を破壊しながら飛び出す大仏。

 買い物袋を携える緑色の怪人。

 

「だけど、次の議題に入る前に、和人君に聞いておきたいことがあるんだけど――」

 

 和人が見たことのない化物の画像を次々と映し出すモニタを示しながら、菊岡は冷たい汗を流す和人に問い掛ける。

 

「――君は、そもそも星人について、どれくらい知っている?」

 

 この仮想世界でも、真っ黒な黒衣を纏う影妖精族(スプリガン)の少年は、ただ手をギュッと握るだけで、何も答えることが出来なかった。

 

「オーケー。ならば、まずは簡単に星人についてレクチャーしよう」

 

 菊岡はモニタの画面を操作しながら、まるで授業をする教師のように話し始める。

 

「星人――これは文字通り、宇宙から来た地球外生命体を指す上で我々が用いている表現だけれど、それがフィクションで描かれてきた、いわゆるエイリアンのような生物ばかりではないのは、桐ケ谷君も理解しているよね」

「……最初に戦ったのが、そもそも恐竜だったわけだしな」

 

 桐ケ谷和人にとって、初めてのガンツミッション。

 生まれて初めて死んで、生まれて初めて再生した——あの始まりの夜。

 T・レックスに追われながら単輪(モノホイール)バイクで深夜の幕張を疾走した夜のことを、和人は生涯忘れることは出来ないだろう。

 

 その他に和人が知っている星人――出会い、出遭い、殺し合った星人は、たったの二種類。

 六本木に出没した漆黒の黒騎士と、池袋を地獄に変えた吸血鬼もどきの化物達。

 

 そう――化物。

 和人にとって――たった三種の星人しか知らない和人にとっては、星人とは、宇宙人という言葉よりも、化物という言葉の方が余程しっくりきていた。

 

「いや、その認識は正しいよ。さっきも言った通り、あくまで星人は地球外生命体のことを指す。人、という字を使ってはいるが、別の惑星の人間達――そんな星人もいるだろうが――という言葉を指すわけではない。それよりも、やはり化物――宇宙原産の、地球外産の、正体不明の怪物。そういう理解の方が正しいと思う」

「……そんな化物が、地球の何処かに潜んでいる――それを見つけ出し、見つけ次第に排除する……ゲームってことか。ガンツがやっていることは。俺達がやらされていることは」

「……君の現時点での見解がそうなるのは致し方ないことだ。けれど、そんな君の見解を正しく直すのが、今の僕の仕事だから、訂正すべきところは訂正させてもらうよ。まず――」

 

 菊岡は眼鏡を直しながら、まるでテストの答案を添削するかのように言った。

 

「何処か、ではなく――何処にでも、だよ。桐ケ谷君」

「…………は?」

 

 目の前の大人は、何も知らない子供を、ただただ無表情で諭すように告げる。

 

「星人は、何処かに潜んでいるものではなく、何処にでも隠れている化物だということだ。星人は何処にでもいる。この地球上の何処にでも――人間達が、気付いていないだけでね」

「ど……どういうことだ! 星人ていうのは、地球の外から、宇宙から来た――化物なんだろう! 恐竜が、黒騎士が、あんな化物が、そこら中にいてたまるわけ――」

「でも――吸血鬼はいただろう?」

 

 猛然と反論する和人に、あくまで菊岡は冷静に――冷たく、静かに、容赦なく返す。

 

「桐ケ谷君――君は見た筈だ。君は知っている筈だ。吸血鬼が普段は人間に化ける性質を持った化物だったことを。彼等のように、普段は化けの皮を被っている化物というのは、この地球上の至る所に存在しているんだよ」

 

 和人は浮かしかけた腰を、ボスンと落としながら絶句する。

 

 吸血鬼もどきの化物。吸血鬼もどきの――元、人間。

 昨夜、池袋をこの世の地獄に変え、日常を混乱の坩堝へと落とし込み――そして、和人に殺された怪物達。

 

 恐竜や黒騎士のように、見るからに怪物な存在ではなく――見た限りでは、人間とまるで変わらない化物。

 

 怯えることも、恐れることも、違和感を覚えることすら出来ない程に――人間に、擬態している、星人。

 

(……あんなのが……まだ、他にもいるのか? 俺達が暮らす世界の、至る所に?)

 

 己の暮らす街。毎日のように歩く道。

 

 溢れる人――人――人。

 

 前を歩くサラリーマンが――実は化物かもしれない。

 転びそうになる男の子が、それをあやす母親が――本性は怪物かもしれない。

 

 楽しそうに会話する女の子達が――道に迷う老人が――肩で風を切って歩く不良が――志望校合格を目指す受験生が――アルバイトに精を出すフリーターが――夢を追って上京する田舎人が――都会の汚い空気に嫌気が差して退職願を突き出す都会人が――星人かもしれない。

 

 どいつもこいつもあの子もその子も化物かもしれない。

 あいつもそいつもこの子もどの子も怪物かもしれない。

 

 極端な話――隣を歩く人が、自分の家族や恋人が、あるいは自分自身が。

 

 そんな可能性を、和人は笑い飛ばすことが出来ない。

 

 何故なら、自分は、そんな化物を――そんな可能性を。

 

 

――地獄で、待ってるぜ

 

 

 そんな剣士を――そんな、人間だった生命を。

 

 この手で、斬り殺したばかりなのだから。

 

「すまない、僕の言い方が悪かったね。確かに、人間に擬態する術を持つ星人も大勢いる。でも、ちゃんと組織は、人間と化物を見分ける装置を――GANTZを持っているから大丈夫だ。あの黒い球体は、そういった機能も持っているんだ」

 

 だから、青い顔をしないでほしい――そう、青い髪の水妖精族(ウンディーネ)は言った。

 

 この仮想世界において顔色など分からないだろうにと、ゲーマー思考が病巣のように根付いている和人は反射的に思ったが、もしVRMMOに現実(リアル)の顔色まで反映される機能があったら、確かに今の自分は間違いなく青い顔しているだろうと確信できる。

 

 和人は何も言わず、ただ目を合わせることで、菊岡に続きを促した。

 

「……あくまで、星人はありとあらゆる方法で隠れ、この人間の世界に紛れ込んでいると言いたかったのさ。例えば、君が先程言った恐竜。奴らは幕張で開催される予定だった恐竜博の展示品として隠れていた。黒騎士は商店街の骨董品店で埃を被っていた人形として世界に紛れていた。オニ星人は特殊な例だが、人間などの地球生物の体を乗っ取るといった性質を持つ星人は、他にも確かに存在する」

 

 君も考えていたんじゃないのかい? ――と、菊岡は恐らくは笑みとして分類されるであろう表情で尋ねる。

 

「自分だけが、自分達だけが、あんな戦争(ゲーム)を強いられているわけではないだろうと。その通りだ。化物は――星人は、世界中の至る所に棲息している。そして、黒い球体の部屋は世界中に存在する。星人と人間は、今も昔も戦い続けているんだ」

 

 どれだけ突飛な事件に巻き込まれたとしても、それは別の世界の物語だと思っていた。

 

 鋼鉄の城を登り続けていた時も、妖精の国で囚われの姫を助け出した時も、銃と疾風の世界で決闘した時も――そして、黒い球体によって戦争に送り出された時も。

 これは非常事態で、異常事態で――異世界の物語なのだと。

 

 戦い続ければ、戦いが終われば、いつか元の世界に帰れるのだと――穏やかで、平和な、日常という楽園に帰れるのだと、そう思って戦い続けてきた。

 

 そんな日常は――あくまで化けの皮であり。

 戦いが終わっても、戦争から帰還しても――自宅への帰路ですれ違う普通の人は、実は化物かもしれない。

 

 安息の地なんて存在しない。

 この世界は――どこもかしこも、戦場なのだと。

 

 奇しくも、オニ星人が日常と戦場の境界線をぶち壊した、その直後に。

 奇しくも、穏やかな日常の最中に、ごく普通の住宅街で殺された経験を持つ、桐ケ谷和人は――そう突き付けられた。

 

「――――ッ」

 

 だが――和人は。

 己の心が拠り所を失いかけ、漠然とした強烈な恐怖に飲み込まれそうになるのを――必死で、堪える。

 

 今更だ――と。

 

――『一度殺しをやった人間が、平穏な日常なんて送れると思ってんな』

 

 和人の中で、金髪の氷鬼が耳元で囁く。

 

(……あんな化物が……人間を化物に変える化物がいるって知った時点で、今更だ。日常が保証される世界なんて、とっくの昔に終わってた。今すべきことは、その上で、どうやって、立ち向かっていくか。そんな世界で、アスナを――俺の大切な人達を、守る為に俺が何をすべきかだ……ッ)

 

 戦うと決めたのだ。剣士になると――誓ったのだ。

 

 この世が化物で溢れているというのなら、その全てからアスナを守ればいいだけだ。

 

「…………菊岡さん。今も昔も、って言ったか?」

 

 和人は目の前の水妖精族(ウンディーネ)を、冷たい眼差しで見詰めながら問う。

 

 そうだ――今は、恐怖に囚われている暇などありはしない。

 

 この男が語る言葉は、あの残酷な戦争(デスゲーム)に囚われてから、自分が知りたくてたまらなかった真実の一端だ。

 一言一句、聞き逃してはならない。世界を暴き、世界を知るんだ。

 

 仮想(VR)世界に逃げ込んでいた自分が、目を背け続けた――現実の世界と、向き合い、立ち向かう時なんだ。

 

「……そんな規模で、そんな深度で、星人が人間の世界に紛れ込んでいるってことは、星人が地球に来訪したのは、昨日今日って話じゃないんだろ? アンタは、CIONはたった数十年で世界を征服したっていったが――星人が地球に来たのは、そんな最近の話なのか?」

 

 例えSF映画のように巨大な未確認飛行物体(UFO)に乗って現れたというわけではないにしても。

 

 人知れずにこっそりと地球に降り立ったのだとしても、ここまで見事に、世界に、人間達に紛れ込むことが出来るというのか。

 もし、初めからそんな擬態能力を、全ての星人が揃って身に着けていたというのならば、とっくにこの世界は――地球は星人に征服されているだろう。

 

 だが――それが、長い年月をかけて、身に着けていった能力なのだとすれば。

 動物が、昆虫が、周囲に溶け込む為に、環境に適応する為に、効率よく狩りをする為に――生き残る為に。

 

 様々な特殊能力を身に付けていったように――進化していったように。

 星人達も、地球というこの惑星に、人間という天敵に対応する為に――進化していったのだとすれば。

 

 果たして――星人は、どれほどの年月、この惑星と戦い続けているのか。

 人間は、地球は――果たして、どれほど昔から、星人という外敵と、戦い続けているのだろうか。

 

 そもそも、自分は知っているだろう。昨夜、聞かされていただろう。

 あの剣士を、池袋を地獄に変えた化物達を――化物にした、元凶たる始祖によって。

 

 彼女は――千年前に、世界中に撒き散らされた己が灰によって、彼等は吸血鬼もどきとなった、と、そう言っていた。そう独白し、そう自供していた。

 ならば、数十年なんてちゃちな話じゃない――少なくとも、千年前には、この地球(ほし)には、宇宙からの侵略者が、星人が地に降り立っていたことになる。

 

「その通りだ、桐ケ谷君。CIONが設立したのは、確かにほんの数十年前だが――人間と星人は、星人と地球は、それよりも遥か昔から、ずっとずっと昔から、現代に至るまで戦い続けているんだ」

 

 和人は、菊岡が大きく頷いて首肯した答えに、ゴクリと強く唾を飲み込む。

 

 自分がたった三回――経験しただけでも、間違いなく地獄だったと表することが出来る凄惨な戦争。

 それは、自分が知らないだけで、世界が知らないだけで――遥か昔から繰り広げられてきた悲劇の記録の、ほんの一行にも満たないのか。

 

「いつから星人は地球にいるのか、その正確な記録は残されていない――残されていないという事実が、それほどに太古の昔から、星人が地球にいたという証拠ともいえる」

 

 菊岡は、モニタに様々な映像を映し出しながら、その戦争の歴史を語る。

 

「もしかしたら星人は、人間が誕生するよりも昔から、この地球にいたのかもしれない。あの恐竜の件もあるしね。あれが恐竜そのものだったのか、それとも恐竜の体を乗っ取った星人なのかは分からないけれど――とにかく、星人と人間、宇宙産の外来生物と地球産の在来生物は、この地球そのものを舞台にして、縄張り争いという名の戦争を、何万年という月日を掛けて、ずっと繰り広げ続けてきた」

 

 和人は、手を組みながら神妙な面持ちで、菊岡の語る言葉に耳を傾ける。

 

 自分達がここ数日に巻き込まれた深夜の星人との戦争は、それこそ人間が誕生する遥か昔から、人知れずに起こり続けていたものだった。

 何も知らなかっただけで――自分達が知らなかっただけで、夜の真っ暗な闇の中では、ずっとあんな地獄が生み出され続けていた。

 

「人間が生態系の頂点に立ち、陸地を支配し、地球人の座を獲得したその時から、人間は地球人として、地球代表として、地球外生命体と戦い続けていた――」

 

 自分が想像するよりも遥かに大きいスケールの物語に。

 

 世界よりも、宇宙よりも、あるいは想像がつかない――過去の、太古の、歴史の話に。

 

 和人は呆然としかけていたが、続く菊岡の言葉に、一気に意識を現代に、現実に引き戻された。

 

 

「――そして、人間は勝利した」

 

 

 え――と、小さな呟きを漏らす和人に、菊岡はいく時かぶりの、優しい笑顔を見せる。

 

「勝ったんだ。人間は、一度、星人達に勝利しているんだよ。まあ、君がこれまで戦ってきている事実から分かるように、全ての星人を駆逐しつくした完全勝利とはいかないまでも、少なくともこうして、世界が人間達の天下になるくらいには――星人を地球の表舞台から、昼の世界から駆逐することには、成功しているんだよ」

 

 これまで星人を日常の世界で目撃したことがなかったのは――無意識に、常識的に、地球が人間達のものだと思い込んで生活することが出来ていたのは。

 

 かつて、人間達が――明確に、星人達に勝利した、その証だというのか。

 

「だけど――夜の世界では、未だに人間は、星人と小規模ながらも小競り合いを続けていた。彼等は息を潜め、爪を研ぎながら反撃の機会を伺っていたんだ」

 

 まるで悪いのは懲りもしない奴等の方だと言いたげなこの言葉は、たった三種とはいえ星人と戦争をしてきた和人には否定しきれなかったが――菊岡という男への決してゼロとはいえない不信感からか、いまいち心の底から納得出来たとは言えなかった。

 

 只の少年特有の信用できない大人への漠然とした不信感か――それとも、あの男の影響なのか。

 

「人間が勝利した後の現代では、星人という存在は、表舞台からは、表の歴史からは完全に消去されて、伝説やお伽話の中の、空想上の存在とされていた。つまり、現代にまで伝わっているお伽話、神話、伝承等の多くは、実在した真実(ノンフィクション)の英雄譚なんだよ」

 

 さて、前置きが予想以上に長くなってしまったけれど、ここでようやく君の質問に答えることが出来そうだよ――と、菊岡は、文字通りの水色髪の水妖精族(ウンディーネ)の大人は、再びモニタの画面を変えながら言う。

 

「何故、世界の危機に対して、カタストロフィという終焉に対して立ち向かう戦士に、君達のような一般人が選ばれたのか――その答えを述べる前に、かつて、世界の危機に立ち向かい、世界を救い続けてきた、先達の英雄達について語ろう」

 

 哀れなる民衆を、美しい姫を、愛する家族を守る為に――立ち上がり。

 恐ろしい怪物に、醜悪なる化物に、跋扈する魑魅魍魎に――立ち向かい。

 

 奇跡を起こし、勝利を齎し、平和を取り戻してくれた――物語の、主人公のような英雄達。

 

「星人狩り――GANTZ(黒い球体)が、CION(秘密結社)が、誕生する遥か昔から、星人達と戦い、勝利し、地球を守り続けてきた戦士達。星人と戦う術を生み出し、磨き、受け継いできた、紛うことなき英雄達。そんな人間達が、確かに存在していたのさ」

 

 漆黒のスーツも、オーバーテクノロジーの武器も、黒い球体による回復(バックアップ)復活(コンティニュー)もなく。

 

 磨き上げた技術で、築き上げた歴史で、たった一つの生命で。

 

 世にも恐ろしい怪物と、世にも悍ましい化物と――戦い続けた、戦士達。

 

 地球を守り、世界を救い、平和を齎し続けた――英雄達。

 

「………そんな人達が、いたのか?」

「陰陽師、祓魔師(エクソシスト)といった星人と戦う術を受け継いだもの達もいれば、武器や鎧、魔力なんて代物を受け継いできた者達もいる。人間達が、星人という強大なる脅威に立ち向かう為、長い年月を掛けて磨き抜いてきた――力だ」

 

 人間の――力。

 

 例え、その怪物が、見上げる程に巨大な体躯を持っていたとしても。

 例え、その化物が、岩をも砕きそうな牙を持っていたとしても。

 炎を吐いたとしても。空を飛んだとしても。海を操ったとしても。嵐を呼んだとしても。

 

 たった二本の腕で。たった二本の足で。

 小さくて、弱くて、脆くて、非力で、何も出来ないくせに弱点だけは豊富な――そんな、分際で。

 

 それでも――人間は、戦った。

 

 考えて考えて考えて、頑張って頑張って頑張って――殺した。

 

 山のように巨大な鬼を。海のように雄大な蛇を。

 炎を吐く竜を。空を飛ぶ馬を。海を操る魚を。嵐を呼ぶ魔を。

 

 数えきれない程の奇跡を生み出して。

 殺した以上に殺されて――長い長い、年月を掛けて。

 

 人間は星人に勝利した。

 そして――英雄達は、姿を消した。

 

 自分達の存在を物語へと隠し、星人と共に――世界から消えた。

 

「星人狩り達は、その技術を、能力を、武器を、世界に広めるようなことは決してせず、文字通りの一子相伝として、本当にごくごく限られた弟子や家族に、極秘に継承させてきた。星人の存在と共にね。そして、現代に至るまで、誰にも知られずに星人を夜の世界へ押さえつけ続けてきたってわけだ」

「……どうして、彼等は……星人の存在まで隠したんだ?」

 

 英雄達が、自分達の存在を隠す――それは、理解出来なくもない。

 

 賞賛や栄光を求めて戦った者達もいるだろう――だが、彼等の多くは、平和の為に戦った筈だ。

 穏やかな日常を、愛する人との安らかな時間を、守る為に戦った筈だ。

 

 そんな彼等が、歴史の表舞台から消えようと思った理由は、理解できる。

 

 だが――。

 

「――いくら一度、星人に勝利したとはいえ、奴らが再び世界の表舞台を狙うことは、予想出来ていたんだろう? だから、英雄達も星人狩りを絶やそうとはしなかった。一子相伝とはいえ、現代に至るまで脈々と技術と力を受け継がせてきた。だったら、どうして、もっとはっきりと脅威を知らしめて、堂々と対策を準備しなかったんだ」

 

 星人存在の隠匿。

 あの黒い球体の部屋で、頭部の爆弾について聞かされた時から、それはずっと疑問だった。

 

 GANTZ程のオーバーテクノロジーを大量生産出来る組織――CION。

 世界を征服しているというこの組織は、どうして星人の存在を、今の今までずっと、人の頭に爆弾を埋め込んでまで、隠し通しているのか。

 

 社会の混乱を防ぐ為――というのが、大義名分ではあるのだろう。

 だが、今の話を聞けば、星人――少なくとも、お伽話の怪物が、実在の脅威として周知されていた時代はあった筈なのだ。

 

 にも関わらず、星人狩り達は、自分達の怪物討伐の英雄譚をお伽話にし、全てを空想のものとした。

 

 そのまま怪物との戦いを歴史として残してくれていれば、自分達が、日常世界とは隔離された真夜中の戦場で、こそこそと人知れずに星人狩りに――ガンツミッションに送られることなどなかったのではないか。

 

 もっと堂々と、民衆の支持を受けながら、胸を張って、誇りを持って、怪物打倒を使命とする戦士達が――自分達よりも、もっとずっと相応しい戦士達が、剣を取っていたのではないか。

 

 菊岡は、和人のそんな内心を知ってか知らずか、両の手の平を上に向けて、首を横に振りながら言った。

 

「さあ。そこまでは知らない。英雄の方々の心持なんて、僕みたいな平凡な人間には想像もつかないよ」

 

 和人は菊岡の言葉に目を伏せる――が。

 菊岡は、ただ――と、言葉を更に続けた。

 

「残された記録だと、星人を隠匿しようと尽力したのは、件の英雄達ではなく、その時代の世界を牛耳っていた権力者達だったらしい。英雄達は、星人狩り達は、何もしなかっただけだ」

 

 時代に身を任せただけだ――と、目の前の水妖精族(ウンディーネ)は言う。

 

「ど、どういうことだ? 一体、どういう目的で――」

「目的――という程、大した理由はなかったと思うけれどね。単純に、忘れたかったんじゃないかな」

 

 忘れたかった。なかったことに――したかった。

 

 そんな、壮大でもなく、深謀でもなく、けれど、ある意味ではとても――共感できる、有り触れた理由。

 

 人間らしい――弱さ。

 

「戦いが終わって、恐怖が去った。怪物に、化物に、怯える日々から、解放された」

 

 だから――忘れることにした。

 

 都合が悪いことからは目を逸らし、背を向け、忘却した――ふりをした。

 

 馬鹿になったふりをした。平和を愛するふりをした。

 真に平穏を守り続けたいなら、戦い続けるしかないことを知っているのに――それに気付かないふりをした。

 

「そ、そんなことを、そんな暴挙を、英雄達は黙って見ていただけだったのか!」

「いつだって、いつの世だって、英雄も戦争が終われば只の人だ。そう、英雄もまた、人間なんだよ」

 

 星人に勝利した、生き残った戦士達は、一様にその後、消息不明になっている。

 故郷に帰った者もいれば、世界を放浪する旅に出た者もいたけれど――共通的に、俗世から自分を切り離した者達が殆どだった。

 

 僅かに表舞台に居残り、平和な世界の権力に椅子にしがみ付いて、政治で人を動かす立場を手に入れようと、権力を求めた戦士もいたはいたけれど――戦争しか知らない戦士に、政争を生き残れる筈もなく、排除された。元英雄だろうと、容赦なく、人間は人間に残酷になれる。

 

 怪物は殺せても、人間に殺されるのが英雄というものだ。

 

 そして、星人狩りとは全く無関係の、戦争を知らない政争人達が、平和な世界を運営するようになり――世界は、人間は、星人を必死に忘れていった。

 

 やがて科学が発達し、夜の世界すらも人間の住処となっていった頃。

 

「誰も信じなくなったんじゃないかな。星人も、星人狩りも、全部お伽話になった。科学が発達し、何でも理論的に成し遂げられるようになって、説明不可能なオカルトを、空想として貶めたんだ」

 

 魔法使いの妖精族の姿のクリスハイトは――科学の力でその姿を得ている菊岡誠二郎は、そう人間の愚かさを語った。

 

 黒い球体の——GANTZの記憶操作のように、理不尽で巨大な力が働いたわけでもなく。

 

 世界中の人間が、自発的に、自己防衛的に、星人の存在を忘れようとした。

 

 自らを脅かし続けた、常識外れの怪物達の存在を――否、常識()()()天敵の存在を、戦争の勝利と共に忘却しようとした。

 

 流れた血と共に、積み上げた屍と共に、夜の闇の中に棄て去った。

 

 そして、背を向け、目を閉じ、耳を塞ぎ――昼の世界に逃げた。

 

「……けれど、星人は、今も生きている」

「ああ。勝者は忘れることが出来ても、敗者は決して忘れない」

 

 戦争の凄惨を忘れない。敗戦の屈辱を忘れない。

 同胞の痛みを忘れない。戦友を悼むことを忘れない。

 

 人間への、復讐を、決して忘れない。

 

「――勿論、それだけじゃあ、ないんだろうけれどね」

「……え?」

 

 ポツリと呟いた菊岡の言葉に、和人はきょとんと問い返す。

 

「…………戦争は、人を変える。ならば、星人だって、変えたっておかしくないだろう?」

 

 そんな和人に向かって、暗闇の中で菊岡は笑みと共に言った。

 

「僕も仕事柄、色んな星人を見て来たけれど、本当に様々だったよ。言葉を解すことも出来ない獣のような星人もいれば、人間よりも遥かに優れた知能を持った星人だっている」

 

 和人は菊岡のそんな言葉に、自分が知る数少ない星人のことを思い出す。

 

 初めて出遭った星人は恐竜だった。

 

 かつて地球の支配者だった恐竜。

 それは、奴等のような星人だったのか――それとも、()()()()()()()()()恐竜を、乗っ取った星人がいたのだろうか。星人へと変えた存在が、いたのだろうか。

 

 昨夜、池袋で戦った――星人にされた、人間だった、あの吸血鬼達のように。

 

「………っ」

 

 和人が唇を噛み締めていることに、気付いているのかいないのか、菊岡は和人の方を見ながら話し続ける。

 

「同じように、かつて人間との戦争を経験した星人達にも、色んなタイプがいるんだ。人間への復讐心に取り憑かれている星人もいれば、戦争に絶望し平和を望む星人もいる。人間との戦争に初めから関心を寄せずに世界の端で引き籠っている星人もいれば、そもそも人間との戦争を知らずに最近になって地球に来訪した星人もいる。一概には言えない。人間だって、国籍が違えば考え方が変わる。星人も一緒さ」

「…………だったら、どうして、未だに俺達は戦争をしているんだ?」

 

 切っ先を向けるように、和人は答えをくれない菊岡を睨み付ける。

 

 モニタの光が反射しているのか、菊岡の眼鏡の下の瞳の色を窺うことは出来なかった。

 

「人間と星人の戦争は終わった。完全に終戦とまではいかなくても、少なくとも昼の世界にまで影響を及ぼすようなものではなくなっていた。そうだな?」

「……ああ」

「なら、どうして俺達は巻き込まれた?」

 

 和人は立ち上がる。菊岡は和人をただ見つめた。

 

「俺はさっきこうアンタに言ったな――俺達じゃなくていいんじゃないのかと。星人との戦争にうってつけの人材なんて、アンタ等ならいくらでも用意出来るんじゃないかって、俺は言ったな。そしてアンタは言った。この世界には、星人狩りという英雄を受け継いだ戦士達がいると。彼等こそ正しく適任だ。その上で、アンタにもう一度問わせてもらう」

 

 和人は菊岡に向かって、一歩を踏み出しながら吠えるように言う。

 

「聞かせてくれ、菊岡さん。伝統の技術と伝説の武器を受け継いだ、対星人のスペシャリスト達を差し置いて、どうして、俺達が戦場に駆り出されているんだ。戦場の最前線に放り出されなくちゃならないんだ。一般人の死人をあんな形で蒐集して、その上であんなゲームみたいな形で、どうして戦争をさせるなんてことになってるんだよ! 英雄の後継者達は! 現代の星人狩り達は! 一体何処で何をしている――」

「――もう、いないんだ」

 

 和人の、言葉が止まる。

 仮想世界のアバターなのに、流れもしない冷たい汗が、頬を伝った錯覚がした。

 

 菊岡は、そんな和人を感情の見えない無表情で見詰めて、見下ろして、無味乾燥な口調で言う。

 

 英雄を受け継ぎし戦士達の――末路を、語る。

 

「滅ぼされたんだよ。地球各地に現存していた――秘密裏に、世界の裏側で、平和な日常を守るべく怪物と戦い続けていた、伝説の英雄の伝統を受け継いできた者達は、本職の星人狩り達は、星人よりも早く、絶滅したんだ」

「滅ぼ、されたって……星人に、負けた……のか?」

「……いいや――」

 

 菊岡誠二郎は、クリスハイトという水妖精族(ウンディーネ)は、静かに言う。

 

 世界を救った英雄を。世界を守り続けてきた戦士を。

 

 滅ぼし、駆逐した、その正体を――自供する。

 

 

「彼等を滅ぼしたのは、人間だ。正確には僕ら、秘密結社――CIONだよ」

 

 

 正確には、GANTZ(黒い球体)とその黒衣の戦士(なかま)達だがね――菊岡は、ずれてもいない眼鏡を押し上げながら、まるで何の感情も見せずにそう淡々と言い切った。

 




水妖精族の大人は、ただ冷たく残酷な世界を、無垢なる黒い少年に語る。


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Side和人――④

――僕達の、英雄になって欲しい。



 

 桐ケ谷家の敷地面積は、一般的なそれと比べてかなり大きい。

 敷地内に池や剣道場をも備える一軒家は、門から家屋までそれなりの距離を稼ぐ。

 

 故に、門扉の前に群がる――無数の記録媒体を持ってこちらを狙う記者達を、安全圏から遠目で眺めることが出来た。

 

 しかし、そんな思い上がりが伝わったのか、安全圏かと思えた二階の一室の窓から、ほんの少しカーテンを開けただけなのに、彼等は瞬時に、それなりの距離を開けている筈の門扉の前で、それぞれ己の得物である、銃口のように大きなレンズのカメラを向ける。

 

「――――っ!?」

 

 GGOの歴戦のプレイヤーが如きその挙動に―――結城明日奈は、思わず反射的にカーテンを強く閉めた。

 

 そして、再び――この一室は薄暗い闇に包まれる。

 明日奈は、ただ一人、桐ケ谷和人の自室にて呆然と佇んでいた。

 

 和人捜索の手掛かりは途絶え、唯一の望みとなりそうな菊岡誠二郎の行方は杳としてしれない。

 しばし単発的にアイデアを各自持ち寄ったが、いずれも現実味がなく、結果――午後六時からの政府からの会見を待つ他ないという結論に落ち着いた。

 

 少女達の会議の落着を見計らっていたかのようなタイミングで、リビングへと姿を現した、直葉の母にして和人の叔母にして義母――桐ケ谷翠は、そんな少女達に今日は泊っていくといいと促した。

 家の前へと陣取っているマスコミ達が退く気配を見せない為、翠は警察への連絡をも視野に入れた対応に追われていて、その決着が中々着きそうにないからと、疲れた顔に苦笑を浮かべながらの提案だった。

 

 翠も、内心では平静で入られる筈がない。

 甥――義息が不可思議なスーツを纏い、ファンタジー世界のような牛頭の怪物と殺し合っていた映像を、己が左腕を切断したシーンも、目撃していない筈がないのだ。

 

 だが、それでも、直葉の前では、少女達の前では気丈であろうとしている大人の姿に、母の姿に、少女達は何も言えず、ただ好意に甘えることにした。

 

 各自家族に連絡を入れようと三々五々に少女達がリビングから散っていく中で――明日奈は。

 

 直葉と翠に許可を取って、こうして和人の自室へとやってきた。

 

 

 

 カーテンを閉めた明日奈は、薄暗い闇に満たされた部屋の中で、しばらく何も発さずに佇んでいると―――やがて、ボスっと、力無く和人のベッドへと腰を掛けた。

 

 直葉の言った通り、ベッドは乱れてはいなかったが、誰かが横になっていた痕跡があって、そこから見えるクローゼットは無造作に開け放たれて、つい先程まで――彼がここに居たであろうことが伺える。

 

 あの戦場の後、この部屋に寄って、自分の病室へとやって来てくれたのだろうか。

 そして、その後は――彼は、何処で、何をしているのだろう。

 

 まだ一日も経っていない筈なのに、もう何年も、彼に会っていないような気がする。

 

 もう――ずっと、彼に、会えないかのような気すら――。

 

「………………ッ」

 

 明日奈は、その先の思考を拒否するように、勢いよくベッドに背中から身を投げ出した。

 ブラウンの艶やかな長い髪が広がり、ほんの僅かに埃が舞う。

 

 けれど、明日奈の鼻腔を満たしたのは、紛れもない――桐ケ谷和人の香りだった。

 

「………………キリトくん」

 

 仮想世界よりも、ずっと濃密な、彼の匂い。

 それは一瞬、明日奈の心の寂寞を埋めてくれたが――ぶり返すように、膨れ上がるように大きな、締め付けるような切なさに襲われる。

 

「…………………会いたいよぉ」

 

 明日奈は、彼のベッドの上で小さく己の身体を丸まらせる。

 ぶるぶると震えながら嗚咽を漏らす様は、まるで母猫を求める子猫のようで。

 

 潤んだ瞳でベッドの上を見詰める。

 王冠のようなそれは、例え遠く離れていても、会いたくなかったらいつでも彼と出会わせてくれた、魔法のようなアイテムで。

 

 明日奈は自嘲気味に笑いながら、ヘッドホンのような形状のデバイスを左耳に装着し、薄暗い天井を見上げながら――独り言のように呟いた。

 

「…………ねぇ、ユイちゃん。このまま、22階層のログハウスに行ったら――キリトくんは待っててくれるかな?」

 

 すると、ARデバイス――オーグマーによって、現実世界に仮想情報として投影された――妖精姿の朝露の少女が、母を見下ろしながら叱咤する。

 

「元気を出してください、ママ。アルヴヘイムでママを探していた時のパパは、只の一度も諦めたりしませんでしたよ!」

「………………でも――」

 

 自分だって――もし、和人の居場所が分かるのならば。

 

 そこが世界樹の頂上でも、鋼鉄の浮遊城の第100層でも、万難を排して辿り着いてみせる――でも、と。

 

 握り締めた手が、再び力無く広げられ、柔らかいベッドの上に沈む。

 妖精は、手を触れられないと分かっていても、そんな母の手に己の手を添えて、AIとは思えぬ笑みを持って言う。

 

「今度はママが、パパを探す番です。今度はママが、パパを――助ける番です」

 

 そこにいる筈のない娘の、仮想でしかない筈の温かさを――明日奈は、確かに感じた。

 

 愛する少年との、愛すべき娘。

 明日奈は、涙が溢れて潤んだ瞳で、その妖精の言葉を受け止める。

 

「パパへと繋がる糸は、絶対に残っています。パパとママの絆は、誰にも――何にも、断ち切ることなんて出来ません」

 

 例え、どんな怪物が相手でも。例え、どれほど巨大な敵が相手でも。

 例え、どれだけ過酷な地獄からでも。例え、どれだけ遠く離れていようとも。

 

 妖精は、かつて囚われの妖精だった少女に――鳥籠から抜け出した少女に向かって。

 

 地獄から救い出された少女に向かって、微笑みと共に、断言する。

 

「パパは、ママの元に、きっと帰ってきます」

 

 だから――迎えに行きましょう。

 

 明日奈は、ここが仮想世界だったらいいのにと、思った。

 この身が仮想のアバターならば、この愛しくてたまらない娘を、思い切り抱き締めて上げることが出来るのに、と。

 

 そう思って明日奈は――アミュスフィアを、そっとベッドの上に置いた。

 

「……うん、ありがとう、ユイちゃん。大丈夫、諦めたりはしないから」

 

 そうだ――例え、どんな怪物が相手でも、どれほど巨大な敵が相手でも。

 例え、どんな地獄でも、どれだけ遠く離れていても――そんなものは、彼を諦める理由にはならない。

 

「絶対に……迎えに行くから。例え――」

 

 死んでも。

 

 桐ケ谷和人(わたしの英雄)を、取り戻す。

 

 明日奈は、そう決意を固めて、涙を拭って、瞳に炎を燃やして――薄暗い部屋を後にした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「ふざけるなッ! 何なんだよ、それはッ!」

 

 和人は目の前の大人の胸倉を掴み上げる。菊岡は、それに対して一切の抵抗を見せず、ただ静かに和人を見据えるだけだった。

 

「――お前達は! CIONは! 地球を守る組織なんじゃなかったのかッ!」

「地球を守る為だ。その為に――まずは世界を征服する必要があったんだ」

 

 菊岡は、和人の手を振り払うのではなく、そっと手を添えた。

 それに対し、和人は少しの冷静さを取り戻して、ゆっくりと菊岡の身体を下す。

 

「……同じ人間を殺すことが、必要だったっていうのか」

「そこは、僕がちょっと強い言葉を使い過ぎたね。すまない。確かに、僕はCIONが星人狩りを滅ぼしたとはいったが、それは彼等を殺したというわけじゃない。正確には、吸収したんだ」

「……吸収?」

 

 菊岡は、乱れた服を直しながら「まぁ、僕は当時まだ組織に属していなかったから、これはそもそも人伝(ひとづて)に聞いた話なんだけど」と言いながら、再び居住まいを直して和人に言う。

 

「CIONは、元々、二人の天才が、カタストロフィに対抗する為に作り上げた組織だという説明は既にしたね。つまり、設立時点で、CIONの目的は世界ではなく――宇宙だったのさ」

 

 その為には、世界を仮初であろうと一つにする必要があった。

 

 例え、それが暴力的な恐怖政治であろうと。

 例え、それが戦争の為の戦争になろうとも。

 

「当時の星人狩りは、既に自衛の為の専守装置となっていた。自ら討って出ることはなく、来た敵を叩く。暴走した標的だけを討ち取り、時には殺さず帰すことすらあった。それはある意味では完成されたシステムで、一つの戦争の終わり方としては、一つの平和の守り方としては、一つの世界の運営の仕方といえば、決して悪くない形だったのかもしれない」

 

 だが、それはCIONの目的とは決定的にそぐわなかった。

 

 CIONは、来るべきカタストロフィの日に向けて――迫り来る、明確なタイムリミットの日に備えて、後顧の憂いを断つ必要があった。

 

 宇宙から襲来する、最強最悪の星人の侵攻に備えて、最低でも、背中の不安を排除する必要があった。

 一つでも多くの種族を、一つでも多くの外来種を――地球に住まう星人を、滅ぼす必要があったのだ。

 

 かの《天子》の予言は、地球を滅ぼし得る程の強大な敵が侵攻するということと、そのXデーの日付しか示していない。

 

 もしかすると、その終焉を齎す星人が、今、地球にいる星人と協力関係にあるかもしれない。

 もしかすると、その終末を運ぶ星人と、今、地球にいる星人が協力関係となるかもしれない。

 

 だとすると、その可能性を、その危険性を、少しでも多く排除する為に――CIONは、駆逐しなければならなかった。

 

 自衛でもなく、専守でもなく、討伐しなくてはならなかった。

 

 人間側から、星人側へ――侵攻する必要があったのだ。

 

「――だから、まずCIONは、人間側の星人狩りを征服することにした」

 

 平和に浸かりきった、かつての英雄の末裔達を。

 伝説を引き継ぎ、伝統を受け継いできた、歴史ある先達者達を。

 

 吸収し、支配下に置く為に――人間達の戦力を、一つの色に集結させる為に。

 

 真っ黒に、塗り潰す為に。

 

 数百年先のオーバーテクノロジーで武装した黒衣の戦士達を引き連れて、黒い球体を――GANTZを世界中に送り込み、黒い球体の部屋を世界中に配置した。

 

「……だけど、伝統を長く受け継ぐということは、誇りと使命を受け継いでいくということでもある。当然ながら、殆どの星人狩りが、首を縦に振らなかったらしい」

 

 門前払いした者もあれば、屈辱の表情で襲い掛かって来た者達もいた。

 

 だが、その全てを――GANTZは力で支配した。

 

「…………結局、殺したんだろう」

 

 和人は拳を握り締める。菊岡は、和人からそっと目を逸らす。

 

「……確かに、少なくない数の、生命は奪われた――」

「ッッ!!」

 

 和人の手が、激情と共に反射的に剣に向かった――が。

 

「――その瞬間、はね」

 

 菊岡のその言葉に、和人の手が止まり、絶句する。

 

「…………その、瞬間……?」

 

 頭の中で、和人の思考は駆け巡る――そして、その終着点に、辿り着いた時。

 

「…………っっ!?」

 

 再び、絶句する。仮想世界の身体が、感じもしない口渇を覚えた気がした。

 

「……まさか……アンタ等は――」

 

 和人の目に、菊岡を見る目に、微かに、だが確かに――()()が、走った。

 

 菊岡は、いつもと同じ、笑みで言う。

 

「そう――殺した星人狩り達は、皆、GANTZの戦士(キャラクター)として蒐集した。言っただろう? 殺したんじゃない、吸収したんだって。世界征服と、戦力整備の、二つ課題を同時に進行する合理的な作せ」

「黙れッッ!!」

 

 和人は一歩後ずさりながら、部屋中に響き渡る絶叫を上げた。

 

「…………狂ってる……ッ」

 

 そう言って唇をこれでもかと噛み締める和人に、菊岡は、子供を見る大人の目で言った。

 

「……世界を征服する。そんなことを、至極真面目に実行に移す大人なんて、狂っているに決まっているだろう」

「…………」

 

 何も言い返すことの出来ない和人に「……だけど、慣れない環境と圧し折れた誇りが災いしたのか、その吸収された元英雄の殆どが、今日に至るまでにガンツミッションで脱落しているけどね」と、続け、本題に戻す。

 

「さて、どうして本職の星人狩りに任せないのかという疑問にはこれで答えたね。次に、どうして軍隊を始めとする表舞台での戦闘のプロを使わないのか、そして、どうしてCIONが独自に固有の兵隊を育てないのか、何故一般人の死人を使うのか――その順に、それぞれの疑問に答えて行こう」

 

 最早、菊岡は和人の混乱が治まるのを待とうとしない。

 一々回復を待つよりも、一気に説明して後にメンタル回復作業に移ると決めたらしい。

 

 和人は相槌を打つことすらせず、崩れ込むようにソファに戻り、菊岡の声に耳を傾けた。

 

 どれほど悍ましく、恐ろしい真実なのだとしても、ここで耳を——心を閉じてはいけないと、必死に奮い立たせる。

 自分は、これからこの醜い黒色の闇の中に、飛び込んでいかなくてはならないのだから。

 

 光の当たらない夜の世界で、戦い続けなくてはならないのだから。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「まず、何故CIONが、世界を征服しているCIONが、表舞台の軍隊を動かさないのか――その疑問に答えよう。その答えは単純、星人の存在を、表舞台に晒したくなかったからだ。

 

「君の言う通り、星人を――怪物を、化物を、お伽話の存在と貶める以前ならば、常識の天敵のままだったならば、こんなことは考えなくてもよかったのだけれどね。

 

「それでも、世界は星人を忘れている――忘却の彼方に、恐怖の記憶を押しやっている。ならば、今更それを思い出させても、人類が思い出しても、生まれるのは圧倒的な混乱だけだ。

 

「世界を裏から支配するのと、表だって支配するのでは、意味合いがまるで違う。

 

「裏から支配するのであれば、世界を動かしている、世界を牛耳っている数百人を支配すればそれで済むが、表立って世界を支配するには、数十億の人間を相手取る必要がある。

 

「CIONが設立してから、カタストロフィまでに、残されていた時間はたった数十年――とてもではないが、時間が足りなかった。

 

「勿論、力づくで支配するならば――星人狩りを相手にしたように、力でもって支配するならば、やって出来ないことはなかっただろうけれど、それをやると、今度は人間側の戦力を大きく浪費することになる。人口を目減りさせることになる。人間同士で力を喰い潰す結果となってしまう。

 

「下手をすれば、人間への復讐の時を虎視眈々と狙っている星人に、漁夫の利をとられかねない。

 

「カタストロフィを乗り切るならば、人間側の、地球人側の戦力を出来る限り万全の状態で残して、終焉を迎え撃たなければならなかった。

 

「その為に、表世界への星人の存在の露見は、ギリギリまで避けようということになったらしい。出来ることなら、カタストロフィのその日までね。

 

「だからこそ、CIONは表世界の軍事力の増強を、ミスディレクションにすることにした。

 

「和人君もニュースなんかで見たことはあるんじゃないかな。近年、世界各国の首脳達が、続々と交代しているのを。そして、決まって好戦的な、挑戦的な人物が当選しているのを。

 

「これにはCIONの手が少なからず回っている。軍事力を強化し、革命的な政策を掲げて、マスメディアの注目を必要以上に集めるようにね。

 

「そんな彼等に世界の目線を逸らして、僕達は漆黒の武器を量産しているのさ。

 

「いくら転送機能があるとは言え、何もGANTZは天から授かっているものじゃない。《天子》という人外の理論を元に、きちんと工場で生産、製造しているものだ。あのオーバーテクノロジーの武具もね。

 

「あれだけのものなんだ。製造に、簡単には揉み消せない程度の金も物も人も動く。

 

「製造場所は周波数調整によってガンツミッションエリアのように見えなくしているとはいえ、ミッション経験者の君なら分かるだろうが、何も本当に世界から消えているわけじゃない。だからこそ、隠蔽工作が必要なのさ。

 

「つまり、世界中の政府公認の軍事組織達を、マスメディアに対する目(くら)ましに使っているわけだ。そちらの旧時代の――現時代の兵器開発に注目が集まるように。目線を釘付けにしているんだ。

 

「次に、CIONが固有の軍隊勢力を持たないのかという疑問についてだが、これは勿論持っているというのが正解だ。

 

「プロの傭兵も雇っているし、表社会では知られていない戦争のプロのような人間も、可能な限りスカウトを進めている。

 

「が――それでも圧倒的に、戦力が不足しているんだよ。

 

「なにせ世界規模の戦争だ。宇宙規模の大戦だ。極論を言えば、世界中の人間が武器を持っても、足りるかどうか分からない。本音を言うとね、地球上の全人類を、戦士(キャラクター)にしたいくらいなんだよ、CION(ぼくたち)は。

 

「勿論、そんなことは不可能だということも分かっている。そんなことをすれば間違いなく人間同士の世界大戦が繰り返される。

 

「だからこそ、僕らは死人を使うんだ。

 

「まぁ、これにはGANTZがそもそもそういう仕様だからということもあるんだけどね。

 

「いついなくなってもおかしくない存在。本来、いることがおかしな存在。そんな彼等を、僕等は戦士とするんだ。

 

「世界から脱落した人間を、黄泉へと送られる前に、こっそりと横取りしているというわけだ。

 

「出来る限り、穏やかな日常を守りつつ、秘密裏に戦力を確保していく為にね。

 

戦士(キャラクター)――僕達は、黒い球体によって選別された、蒐集された死人達を、そう呼んでいる。

 

「どうしてそんな名前で呼ばれているのか――君ならば、分かるんじゃないかな、キリト君。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ブツン――と、モニタに表示されていた映像が消え、室内は真っ暗になる。

 

 真っ黒な――闇に包まれる。

 

 それが和人には酷く不快だったが――だからと言って、目の前の水妖精族(ウンディーネ)の男の姿を、顔を、明るい中ではっきりと見たい心境でもなかった。

 もし、しっかりとその存在を認識してしまえば、和人は背中の剣を振るわないでいる自信がない。

 

 余りにも黒く、余りにも怖い――闇の世界の、裏話。

 知りたくて、聞きたくて堪らなかった筈の答えを――自分が、自分達が、あの黒い球体の部屋から戦争(デスゲーム)に駆り出される理由を、遂に知ることが出来たというのに。

 

 心の中に生まれる感情は、恐怖、憤怒、嫌悪――真っ暗な、真っ黒な感情ばかりだった。

 

 戦士(キャラクター)――自分達は、キャラクター。

 

 つまり、和人の想像は正しかった。

 紛れもなく――何の救いもなく。

 

 自分達は、只の戦争(ゲーム)(キャラクター)だったわけだ。

 

 選択されて、武器を持たされて、装備させられて――戦わさせられて。

 成長(レベルアップ)させて、強化(ランクアップ)させて、死んだらまた再生(コンティニュー)させる。

 

 ハッ——廃人ゲーマーだった自分が、まさかキャラクターになる日が来るとは、と、吐き捨てる。

 だが、そう考えて(……あの世界でも、キャラクターといえばキャラクターだったのかもな)と回顧した。

 

 一人の男が、一人の天才が、己が理想とする世界として作り上げた――あの鋼鉄の浮遊城。

 その世界の住人として生きていたあの二年間に置いて、自分は正しく、あの男にとってはキャラクターだったのかもしれない。

 

 だとすれば、自分は何も変わっていない。

 支配者が、天才から、人外へと変わっただけ。

 

 絶対的な存在の掌の上で、ただ剣を振っているだけ。

 

「…………ッッ」

 

 和人は拳を握りながら、喉からゆっくりと重い息と共に言葉を発する。

 

「……死人を使うのは、表の世界への影響を最小限にする為。いなくなっても、世界が変わらない……いてもいなくても変わらない存在を、駒にする為か」

「……確かに、そういう理由もある。だが、一番の理由は、さっきも言った通り、GANTZのシステム的な理由なんだ」

 

 菊岡は、和人の隣に腰を下ろしながら、俯く和人とは対照的にどこか虚空を見上げるようにして、呟くように言う。

 

「GANTZは、一人の人外――《天子》が作り上げた、現代技術など及びもつかないオーバーテクノロジーで作られた未来装置だ。けれど、桐ケ谷君は感じなかったかい? 超常的なスペックの割には、余りにも不合理な点が多いと」

 

 和人はその言葉に何も答えなかった――だが、事実だった。

 GANTZは、奇跡としか表することが出来ないような超常現象をいとも容易く実現させるけれど、その力の使い方は余りにも非合理的だ。

 

 これまでの話を総合すると、GANTZはカタストロフィに向けて戦士を集め、育てる為の装置らしい。

 だとすれば、あの力の使い方は、余りにも――勿体無い。

 

 例えば、GANTZはミッションをクリアすると、どれだけ死に瀕した状態であろうと、戦士を五体満足の状態で回収することが出来る。

 それはつまり、GANTZがその気になれば、戦士が死亡する直前に回収し、回復させた所でもう一度送り込むということも可能だ。

 GANTZの役割が戦士の育成にあるのならば、CIONの目的が一人でも多くの優秀な戦士の獲得にあるのならば、戦士をむざむざ死なせるというのは、どちらにとっても不利益でしかない筈なのに。

 

 100点メニューに関してもそうだ。

 記憶を失っての解放はともかく、メモリーからの戦士の再生、そしてより強力の武器の獲得などは、それこそGANTZ側にとってはメリットでしかない。にもかかわらず、何故、百点を取ってからなどと出し惜しみをするのか。

 

 制限時間(タイムリミット)に関してもそうだ。

 何故、一時間などと区切りを設ける必要があるのか。GANTZの目的の一つは、在来星人の一体でも多くの駆除である筈なのに。

 あの男――比企谷八幡は、かつて制限時間内に星人を殺しきることが出来ず、日常世界に踏み込まれたと言っていた。それこそGANTZが最も回避したい事態ではなかったのか。

 

 上げていけばキリがない程、GANTZの運用の仕方には粗が目立つ。

 まるで、合理性よりもゲーム性を優先しているかのような――。

 

「――ゲーム………?」

 

 その言葉を呟いて、不意に思いついた言葉を口に出してみて――和人は絶句する。

 

 いや、まさか、違う、そんな筈はない――脳裏に反射抵抗のように否定語が飛び交う、が、和人の首は、まるで現実を見せつけるように、隣に座る菊岡へと顔を向けさせる。

 

 それでも、和人は願っていた――否定して欲しいと。

 自分がこれまでゲームの世界で、ゲーム性がルールだった世界で戦い続けてきたが故に考えてしまった戯言だと。遊びではなかったがゲームだった世界で、生き続けてきたが故のゲーム脳な思考なのだと。

 

 だって――それだけは、ダメだろ。

 

 どれだけ理不尽で、どれだけ不条理なのだとしても。

 実感できない程のスケールだけれど、納得できないような大義名分だけれど。

 

 それでも――曲がりなりにも、狂っていても、歪んでいても。

 

 これは――正義の、戦いである筈だ。

 世界を救う、地球を守る――そんな子供じみた、だけれど――だからこそ、命を懸けて戦わなくちゃいけない類の戦いである筈だ。

 

 だから――言わないでくれ。どうか否定してくれ。違うと、そんなことは有り得ないと。

 

 激昂してもいい。馬鹿にしないでくれと罵ってくれても構わない。

 

 どうか――これ以上、世界に、大人に。

 

「………………ッ」

 

 絶望させるのは――やめてくれ。

 

 そんな和人の願いは、きっと届いていたのだろう。

 

 だからこそ菊岡は、水妖精族(ウンディーネ)の人間離れした美貌を――歪ませ。

 和人の視線から逃れるように――顔を、逸らした。

 

 それが――子供に顔向けできない、大人からの答えだった。

 

「…………君の、想像通りだよ、和人君。GANTZの不合理なまでのゲーム性――勿論、その大部分は、システム上の不具合によるものだ。………けれど、我々が、それを――利用しているという、事実は隠せない」

 

 菊岡は、真っ暗な虚空に逸らした顔を、子供に見せないように噛み締めるように歪ませ、そして、ゆっくりと、迸るような黒い殺気を放つ和人と――逃げずに、向き合った。

 

「GANTZは、戦士育成施設であると同時に、現代版のコロッセオでもある。君達が送り込まれるガンツミッション――あの様子は、世界の大富豪が集まる、とあるVIPルームに生中継されているんだ」

 

 娯楽の為にね――という言葉は、幸か不幸か口に出されることはなかった。どちらにとっての幸で、どちらにとっての不幸かは、分からないが。

 

 瞬間――黒い拳が、水妖精族(ウンディーネ)の顔面を捉えたからだ。

 

 剣も使わず、魔法も唱えず、ただ激情のままに振るわれた、人間の――子供の拳。

 汚いものが嫌いで、卑怯な奴が許せなくて、間違っているのが看過できない――そんな、大人が忘れてしまったことが、ふんだんに込められているかのような幼き激情。

 

 大人は、ただ黙ってそれを受けた。

 

「……………………」

 

 眼鏡を直しながら、菊岡はゆっくりと立ち上がる。

 未だに目を見開いて、息を荒々しく乱れさせたまま、拳を強く強く握り締めて立ち尽くす和人に向かって、菊岡は言い訳のような言葉を、何の感情も込めずに淡々と言う。

 

「……確かに、CIONは世界を征服している。主だった有力な権力者達は、大抵が支配下か、もしくは協力関係を築いている。……でもね、桐ケ谷君。世界にはいるんだよ。カタストロフィという間近に迫った絶望からは目を逸らしながらも、立場を死守する術だけは一流で、暗殺しようにも持っている影響力はバカに出来ないという権力者が」

 

 圧倒的な力で押さえつけようとしても、殺すなら殺せと開き直れる程度には胆力があり、また、自分が死んだ際の世界に与える影響力は理解できる程度には頭が回り――けれど、自分に都合の悪い絶望からは目を逸らす程度には愚鈍な、中途半端な権力者。

 

 世界を回すそれなりの大きな歯車であるが故に無視も出来ず、かといってそれを無理矢理に外そうとすると世界に隠し切れない程度の影響を与えてしまう。

 

 挿げ替えようにもそれなりに時間が掛かり、労力も掛かる。

 そんな典型的な有害権力者に対して――CIONは、鞭ではなく、飴を与えてコントロールすることにした。

 

「それがコロッセオなんだ。普段の日常生活では決して見ることの出来ない、怪物との戦争。それを安全圏から眺めて、興奮を得る――貴族の遊び。ガンツミッションにおいて、誰が生き残るのか、最もスコアを稼ぐ戦士は誰か、ボスを倒すのは誰か、そもそもクリア出来るのか。そんなことを、国が動くような頭の悪い金額を賭けて、遊ぶんだ」

 

 正しく楽しいゲームなんだよ、彼等にとってはね――そう吐き捨てるように言った途端、大人は再び子供に殴られた。

 

 仮想の激痛が走ったが、菊岡は何も言わずに、再びモニタに映像を映し出す。

 

「……覚えているかい、桐ケ谷君。といっても、君はあの時も、見られる側だったよね」

 

 殴られたまま、床に倒れたまま語る菊岡の言葉に、和人は何も答えない。

 けれど、菊岡は何も答えないのは聞いてくれている証とばかりに、自分が映し出したモニタではなく、真っ暗な天井を見上げて言う。

 

「ここで僕は、アスナさんやクラインくんらと一緒に、君がGGOでBoBを戦っているのを観戦していたんだ。あの戦いは、あらゆるVRMMOで、文字通り世界を超えて観戦することが出来た。……誰も、君が本当の生命を懸けて、戦っているとは思いもせずにね」

 

 それと同じことだ――と、菊岡は言う。

 

 ガンツミッションの観戦ルームは、とあるVRMMOの中にある。

 それこそ彼等は、BoBを観戦するような感覚で、星人と戦士の戦争に興奮するのだ。

 

 ただ一つ違うのは――圧倒的に異なるのは。

 

 彼等は、星人と戦士が実際に殺し合っているという事実を承知の上で――その事実に興奮を覚えているということ。

 星人の迫力に、戦士の奮闘に――流血に、絶叫に、死に、興奮しているということ。

 

「勿論、非合法だ。こちらのことも明るみには出せないが、それでも奴等の弱みであることは違いない。お互いの弱みを握り合うことで協力関係を築き、あちらが落としてくれる莫大な資金は、世界を守る為に使われる」

「世界を救う? おいおい、菊岡さん、それまだ本気で言ってるのか?」

 

 和人はまるで泣いているように笑いながら、無様に倒れこむ大人を嘲笑するように言う。

 

「人が死んでるんだぞ! 何人も何人も殺されてるんだぞ! そんな様を笑って眺めて、あろうことがギャンブルとして楽しんで! そんな奴らの金を使って――アンタは今、世界を守るって言ったのか!?」

「ああ、言った。そして、最初に言っただろ、桐ケ谷君。そして、何度でも言おうか、桐ケ谷君」

 

 僕達は綺麗じゃない――むしろ、真っ黒に汚れている。

 僕達は正義じゃない――むしろ、この世界で最も邪悪だ。

 生命を戦士(キャラクター)にし、戦争を遊戯(デスゲーム)にし、世界を黒色(シンボルカラー)に染め上げようとしている。

 

 それでも、立ち上がり、胸を張って、菊岡誠二郎という大人は、未来ある若者に向かって言った。

 

「我々は――世界を救う為に戦っている」

 

 例え、真っ黒に汚れようとも、邪悪に身を落とそうとも。

 綺麗じゃなくても、正義じゃなくても――それでも、大人は、胸を張れる。

 

 世界の為に戦っていると、地球を救う崇高な仕事だと、誇りを持つことが出来るのだ。

 

「…………なんだよ……それ……ッ」

 

 桐ケ谷和人には理解出来ない。

 

 目の前の大人が、彼と同じ大人達が、どうしてそこまで恥ずかしげもなく胸を張れるのか――さっぱり理解出来ない。

 

 子供にとって、大人というのは――それだけで、化物のようなものだった。

 

「GANTZは、システム上に数々の欠点を抱えている。死人しか戦士に出来ないのも、解放や再生に100点分の点数が必要なのも、一度エリアに送り込んだらミッションがクリアするまで回収は不可能なことも、逆にミッションを設定したら一時間以上は次の戦士達を送り続けることが出来ないことも、GANTZの初期設定としてそうなっているからなんだ。これは、例え生体コンピューターでも、現場レベルではどうすることも出来ないらしい」

 

 怯える子供をあやすように、菊岡は再びモニタの前に立った。

 和人は反射的に菊岡から距離を取った。それに菊岡は気付かない振りをして、そのまま授業を再開した。

 

「CIONはその不具合の幾つかを『遊戯(デスゲーム)』として()()()()した。勿論、VIPの方々には、君達と同じ口封じ用の脳内爆弾を埋め込ませてもらったけれど――そこまでしてスリルを欲するというのだから、権力というのも立派な病気だよね」

 

 菊岡はジョークのように言った。和人はピクリとも笑わなかった。

 

「あとは……さっき言った『部屋』の戦士(キャラクター)から、CION側の固有戦力の『部隊』の戦士になる為には『まんてんメニュー』って言って、100点クリアを十回行えば、選択肢の④として出てきて、それを選べば可能となる。いや、点数的には万点じゃなくて千点なんだけど、CIONも戦士(キャラクター)には可能な限り救済措置を――いや、流石に、もう無理かな」

 

 黒板に板書をしていて振り返ったら、誰も授業を聞いていなかったかのような苦笑いで、菊岡はモニタを閉じた。

 

 そこには、胸を押さえながら荒い呼吸を繰り返す、桐ケ谷和人が俯いてた。

 

「……はぁ…………はぁ……………はぁ…………はぁ」

 

 和人は最早、授業を受けられるような精神状態ではなかった。

 

 夕方に氷川に襲われ、明日奈を身を挺して庇い。

 六本木、池袋と連続でミッションに送り出され、元人間だった吸血鬼を殺し、元人間だった吸血鬼に敗北し。

 民衆に囲まれた駅前で、牛人の怪物と決闘し。

 そのまま一睡もしないままで、明日奈の病室を見舞い、こうしてALOに飛び込んできた。

 

 身体は今、病院のベッドで寝ているとは言え、心の方はとっくの昔に限界だった。

 

 黒い球体の背後に広がる、真っ黒な闇の真実。

 それは少年の身と心で、一度に受け入れられる程に薄い闇ではなかった。

 

 和人はふらふらと後ろに下がり、そのまま椅子に倒れるように腰を掛ける。

 

 動いてもいないのに息が上がって、心拍数が上昇する。このままでは強制切断されかねない状態だった。

 

「――今日は、ここまでにしようか。僕が君に教えたいことは粗方教えた。また聞きたいことがあったら、いつでも連絡してほしい」

 

 菊岡は、最後にいつものように笑顔を見せた。

 

 どんな時でも、いつも同じに笑えるのが大人なのだと、和人は知った。

 

 けれど、そんな大人の笑みを、菊岡は瞬時に消して、再び和人の隣に腰かけた。

 

「……それじゃあ、桐ケ谷君。いや、ここからは、再びキリト君と呼ばせて欲しい。ここまでは君に教えたいことだったが、ここからは――君に頼みたいことだ」

 

 リラックスして聞いて欲しい――と、菊岡は、先ほどまでよりも余程緊張しているような、固い口調で言った。

 

 和人は、そんな菊岡の方を目線だけで見詰めながら、このALO会談の始まりを、ぼんやりと思い返す。

 

――アンタは、俺に……何をさせたい

 

「さっき言った通り、CIONは、星人の存在を終焉(カタストロフィ)のその日まで隠し通したかった。……けれど、池袋の一件は、日常世界と――表の世界と裏の世界の境界を破壊し、一般人は化物の、星人の存在を知ってしまった」

 

 案の定、世間は――世界は、徐々に混乱し始めている、と菊岡は静かに語る。

 

「今はまだ日本の一都市のみで発生した事件としてだが、直にあっという間に世界中に知れ渡る――正直、オニ星人のことだけに関して言えば、誤魔化すことは可能だろう。彼等が人間の姿から怪物へと変身したシーンも、映像として記録していたからね」

 

 未知のウイルス、人体実験の果ての生物兵器――宇宙人と同じくらいフィクションで使い古された設定だけれど、だからこそ、信じる人も一定数はいるだろう。

 宇宙人説とどっこいどっこいの胡散臭さ――だからこそ、宇宙人説とすり替えて発表しても、民衆の反応はどっこいどっこいだと予想出来る。

 

「でも、他に大きな問題が二つある。一つは、オニ星人ではない別の星人だ」

 

 オニ星人が今回、こうして表の世界と裏の世界に亀裂を入れたことで、これまで小競り合い程度だった星人と人間の戦争の――均衡が崩れた。

 今回の一件は必死に誤魔化せば何とか凌げるかもしれないが、この池袋大虐殺を皮切りに、第二、第三のオニ星人のような好戦派の星人達が――表の世界で、日常を壊す戦争を仕掛けてくるかもしれない。

 

「カタストロフィまで一年を切っているとはいえ、世界が混乱し、無視できない程の恐慌が起きるには十分過ぎる程の時間が残されている。今、ここで対応をしくじれば、カタストロフィに対して致命的なダメージになりかねないんだ」

 

 だからこそ、ここで我々は、スケジュールを早めることにした――と、菊岡は立ち上がりながら言う。

 和人はゆっくりと顔を上げながら、菊岡の言葉に耳を傾ける。

 

「今日の午後六時、日本政府からという形をとって、我々CIONは会見を行うと発表した」

「っ!?」

 

 この言葉に、和人は瞠目する――それはつまり、秘密結社だったCIONが、表舞台に立つということか。

 

(……いや、日本政府からという形なら、それは違うのか? だが、これで日本政府がCIONの支配下にあるというのが……明確になった)

 

 世界を征服しているのだから日本を征服しているのは当たり前のことのように思えるが、改めて、漠然とこの国のトップとして理解していた内閣政府を簡単に操る彼等を見て、CIONという組織の巨大さを痛感する。

 

 和人のそんな心情をさておいて、菊岡は更に言葉を続けた。

 

「政府から何らかの説明がなされるというニュースを朝一番に放送したお蔭か、今は少し混乱を抑えられている。けれど、会見でこちらが何らかの説明を――真実を話すかどうかは抜きにして――何らかの納得と安心を提供できなければ、間違いなく我々が恐れる事態となるだろう」

 

 原因を追究していきたい――目下調査中――誠に遺憾――厳重に抗議を――我々は決してテロには屈さない――等と言った聞き慣れた無回答だった場合、確かに、間違いなく国民は納得しない。

 それに、あれほどまでにはっきりと凄惨な地獄を見せられた以上、安心も出来ないだろう。そして、その焦燥の矛先は――国家に向く。

 

 混乱と、恐慌――人間同士の内輪揉めの始まりだ。

 

「更にここで、もう一つの問題――それは、君だ、キリト君。桐ケ谷和人君」

 

 君だ――と、菊岡は、モニタの映像を、あの池袋駅東口での最終決戦の映像に変えた。

 

「な――ッ!?」

 

 和人は突然に自分に矛先が向いたことに驚愕するが、その開いた口は映像を見るなりに閉ざされた。

 

 それは、あまりにも鮮明に映し出された、自分の修羅の表情だった。

 血に塗れた黒衣を纏い、紫光の剣を振り回し、牛頭人体の怪物に向かって咆哮と共に斬り掛かる――自分の姿が、この上なく、はっきりと。

 

「……これが……全国中継されていたのか」

「全チャンネル、強制ジャックというおまけ付きでね。恐らくは日本国民の大多数が、君のこの姿を視聴している。つまり――君の正体を、全国民が知りたがっているってことだ」

 

 ズシン、と、真っ黒な何かが圧し掛かる。

 これまで余りにスケールが大きく、現実感が乏しかった物語が、急激に我が身に降りかかってきた。

 

「俺の……正体……? そんなの――」

「ああ。一部ではとっくにバレている。君がSAO事件の英雄で、黒の剣士キリトであることも。そして、だからこそ、みんなが君を求めている。君の言葉を聞きたがっているんだ」

 

 そこまで言われて、皆まで言われなくても、和人は菊岡が頼みたいことというのを理解させられた。

 

――言っただろう、桐ケ谷君――否、キリト君

 

「……菊岡さん。アンタ――」

「こんなこと君に頼める筋合いではないことは分かっている。けれど、本当に残念なことに、僕はこんなことを君に命じることが出来る、立場ではあるんだよ」

 

 大人の事情で大変申し訳ないんだが――そう前置きし、菊岡はモニタに映し出される、和人が牛人を打倒した映像を背負って、和人に向かってこう言った。

 

「桐ケ谷和人君――キリト君。君には、今日の午後六時に開かれる、我々CIONの記者会見に出席して欲しい。そして――」

 

 

――僕達の、英雄になって欲しい。

 

 

 水妖精族(ウンディーネ)の背後のモニタ映像から、歓喜に爆発する民衆の声が、呆然とする一人の影妖精族(スプリガン)の少年の耳に届いた。

 

 モニタの中の片腕を切り落とした少年は、這いつくばるように地面に倒れ伏せていた。

 




大人に弄ばれる子供は、真っ黒な英雄として、世界の裏側へと誘われる。


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Sideあやせ――①

あなたが好きなのは天使の私? ――それとも、堕天使?



 

 朝――ベーコンとエッグを焼くフライパンの音がキッチンから響く中、リビングのテレビの中では、純白の羽衣を纏った羽の生えた美少女が、可愛らしく弾けるようなウインクを向けていた。

 

――『あなたが好きなのは天使の私? ――それとも、堕天使?』

 

 そして、その純白の衣装の美少女と入れ替わるように、同一人物の美少女が、今度はダークな黒い衣装に身を包み、妖しげに色っぽいウインクを視聴者に贈る。

 

 新垣家のテレビから流れているのは、とある化粧品会社が、今年の春から推しているアイシャドウのCMだった。

 天使の衣装と堕天使の衣装を着た同一の美少女が、目元の化粧の違いによって変わるイメージをアピールしたもので、このCMの効果か、もしくは抜擢されたモデルの人気かは分からないが、その商品の売り上げはこれを機に爆発的に伸びたらしい。

 

 そして、何を隠そう、このCMで天使と堕天使を演じたのが、この平和な家の一人娘。

 

「――おはよう。お父さん、お母さん」

「あら、おはよう、あやせ。今日は少しお寝坊さんなのね」

「お、おはよう、あやせ。……ごほん、夜更かしでもしていたのか? 関心せんな。期末テストも近いのだろう」

 

 既に寝間着から高校のセーラー服へと着替えを済ませ、登校準備を整えた格好でリビングへと入って来たのは、現役モデルにして、このたびCMデビューも果たした新鋭――新垣あやせだった。

 

 あやせは母親にごめんなさいと笑顔で謝ると、テレビ画面に映っていた自分の映像と、新聞を広げながらも少し挙動不審な己の父親の姿を見て、少し眉に皺を寄せながら溜め息を吐く。

 その様子に、母親はクスクスと笑いながら、己の夫を窘めた。

 

「ふふふ。あなた、娘に偉そうなことを言う前に、娘のCMに見蕩れるのを止めたらどうかしら? いい加減に慣れなさいな。思春期の娘からしたら、父親のそんな姿は気持ち悪いだけですよ」

「き、気持ち悪――わ、私は、ただ、年頃の娘が、あまりはしたない恰好を世間様に晒すのはいかがなものかと――」

「はぁ。別に、そんなに露出が多い衣装というわけではないでしょう。それにお父さんは、わざわざこのCMの撮影現場に押しかけてきて、さんざん目を光らせていたじゃないですが。現役の議員なんですから、少しは自分の立場を自覚して下さい」

「わ、わかっとる。……だが、それとこれとは話が別だぞ。昨日は遅くまで何を――」

「お父さんの言う通り、テスト勉強ですよ。期末テストが近いですし、御心配なさらずとも、しばらくモデルの方は控えていきます――それに、当分はそれどころではなさそうですしね」

 

 あやせがテーブルに着いて、自分で淹れたコーヒーを一口含みながら、目を細めて呟いた言葉に、両親は揃って神妙な顔つきになり、口を噤む。

 

 その様子を少し訝しんだあやせだが、CMが終わり、再び緊急特番が流れ始めて、ああなるほど、と納得した。

 

『――ご覧ください。昨夜、池袋東口での凄惨な映像は、リアルタイムで強制的に流されていましたが、悲劇はそれだけではありませんでした……。サンライト通り、明治通りといった東口周辺エリアだけでなく、ここ南口エリアも、御覧の通り、破壊の限りを尽くされています』

 

 まるで巨大な何が落下したかのような――豪快な墜落現場。

 

 そこは、ほんの数時間前――新垣あやせが、一体のオニと戦争をした現場だった。

 

 怪物と戦い、殺し合い――そして、再会を、果たした場所だった。

 

 終わった恋との、初恋の相手との、半年ぶりの再会現場だった。

 

「…………………」

 

 あやせはその映像を冷めた目で見詰めながら、熱々のコーヒーを啜る。

 

「――悪いが、もう出掛けなければならない。この件で、今、日本中が混乱しているといっても過言ではないのだ。非番などとは言っていられない」

「…………あなた、せめて朝食だけでも――」

「すまない。このトーストだけ頂くとするよ。……帰りは何時になるかは分からない。お前も、なるべく家から出ないようにな。あやせも、なんならほとぼりが冷めるまで学校は――」

「いいえ。休校の連絡も来てないし。テスト前だから、一応行ってみることにします。……それにしても、こんなことが起きてたんですね。ずっと机に向かってたから、知らなかった」

 

 娘のそんな言葉に、父は苦笑する。

 

 確かに、昨夜の池袋大虐殺は日本中を混乱の渦へと叩き込んだ。

 だがそれは、一見特撮やCGとしか思えない怪物達が、人間達を虐殺していく様を、テレビ放送されてしまい、何を思ったか、そのまま何者かが電波ジャックして強制的に放送し続けたことによるものだ。

 

 ネット全盛期の今、情報を封鎖することなど出来る筈もなく、瞬く間に情報は広がっていったが――その大多数が、己とは関係ない、それこそまるで海の向こう側の出来事のように感じているだろう。

 あの完全無修正の殺人映像を見た者達はそうではないのかもしれないが、実際の放送を見ていないネット情報のみを受け取った者や、少数だろうが、あやせが言うようにテレビやネットに触れず一晩を過ごした者達にとっては、何か大変なことがあったらしいといった程度のものでしかない。

 

 朝起きて、登校する――そんな当たり前の日常のルーティンを崩す要因にすら、なり得ない悲劇でしかないのだ。

 

 議員という立場の人間からすれば、それはとても危ういことのようにも思えるが――だが逆に、その方が今はいいのかもしれないとも考える。

 

 なにせ、状況が異常過ぎて、自分達のような上の立場の人間ですら、状況を計りかねているのだ。

 混乱しているとはいえ、ある程度の地位にいる筈の自分にすら、連絡が来たのは全てが終わった後だった。自宅ではネットやテレビなどに触れない生活を心掛けているとはいえ(議員という立場上の心労から、仕事とプライベートは完全に切り離すのがあやせ父のスタンスだった)、この醜態は議員として痛恨の極みだが、それは一重に、今、自分が職場に行っても何も出来ることはないということを意味している。

 

 つまりは、それほどの異常事態。

 この一件は、自分よりも遥かに上の人間達――それこそ、現内閣クラスのトップ達が、対処に動いているということだろう。

 彼等がこの件を収束させる――このニュースの冒頭で、そして、画面右上のテロップで伝えている通り、今晩午後六時の会見まで、自分達のような地方議員には何もすることがないのかもしれない。

 

 それでも――せめて、この愛する千葉県の混乱だけでも、治める努力をしなくてはならない。

 

(――だが、昨夜から雪ノ下と全く連絡が取れない。………一体、奴は何をやっているんだ)

 

 この千葉において、最も強い影響力を持つあの男――否、あの夫婦の力は、こんな時こそ必須だというのに。

 

 あの――千葉高波大災害の時のように。

 

「…………とにかく、くれぐれも気を付けろ。何かあったら、すぐに私に連絡するんだぞ」

 

 あやせ父は、そう言って迎えの車に乗り――千葉県庁へと向かった。

 

 確かに異常事態だが、異常事態過ぎて、今は何の対策も練られていない。

 つまりは、今の千葉において、池袋大虐殺は、都心で起こった大量殺人事件に過ぎない。

 

 ニュースになり、クラスの話題の的だろうが――日常を崩すには至らない程度の、革命に過ぎない。

 

 今は――まだ。

 

「……あやせ。本当に行くの? なんだか、お母さん嫌な予感がするわ。……あんなお父さん、久しぶりに見たもの」

「大丈夫ですよ。学校に行って、休校だって知らせがあったら、真っ直ぐ家に帰って来ますから。それに、家にいてこんなニュースをずっと見てる方が参っちゃう。だったら、学校で友達と喋ってた方が、気も紛れますし」

 

 それに、やらなきゃいけないこともありますしね――そう、ぽつりと呟いた。

 

「………え? あやせ、なにか言った?」

「いいえ、何でも! それじゃあ、私も行ってきます!」

「ちょ、ちょっと、あなた朝ごはんは!?」

「ごめんなさい、帰ってから食べます!」

「それじゃあ、朝ごはんにならないでしょう……もう、お行儀悪いわね。なにかいいことでもあったのかしら?」

 

 いつもよりも機嫌がよさそうな娘に対し、呆れるようにあやせ母は言う。

 

 母親のその言葉に、昨晩の変態オニを思い起こさせるような台詞に対し、あやせは振り返り、天使のような笑顔でこう答えた。

 

「ううん、何にも――ただの最悪な一日でしたよ♪」

 

 そしてくるりと、そのまま母親に背を向ける。

 

(本当に、最悪でした)

 

 帰り道に、昔の恋敵に会って。

 

 そして目の腐った、不審者に会って。

 

 さらに、唐突に、オニの集団に襲われて。

 

 再び、あの黒い球体の部屋に送られて。

 

 自分を殺した、ストーカーと再会して。

 

 巨大な黒騎士と戦って。そしてまた部屋に戻って。

 

 忌々しくも美しい、新たな恋敵が、復活して。

 

 その女に、変態の相手を押し付けられて。

 

 変態が、変態で、変態して、変態になって。

 

 新たなストーカー属性の変態が合流して、救いようもなく――壊されて。

 

 そして、仲違いした親友と、自分を振った初恋の男と。

 

 真っ赤な戦場で、真っ赤な自分で、再会した。

 

(はは。思い返せば、まるで絵に描いたような最悪の一日ですね)

 

 あやせは笑う。あやせは微笑む。

 

 天使のように綺麗で、可愛く――そして、堕天使のように、妖しく、美しく。

 

 ガチャッと扉を開け、眩しい太陽の光に目を細める。

 

 最悪の夜が終わり、新しい朝が始まる。

 

「さて、今日はどんな一日になるのでしょうか」

 

 まるで生まれ変わったかのように、清々しい気分だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 透き通った青空が気持ちいい、いつも通りの朝だった。

 

 いつも通りの通学路を、いつも通りの時間に、いつも通りに歩く少女。

 

 強いて昨日までとの相違点を上げるとするのなら、その少女が昨日までよりも遥かに美しい笑顔を浮かべていることと、周りを歩く同じように学生服を纏った少年少女達が、そんな美少女の満面の笑みよりも、己が携帯端末のディスプレイに釘付けであることだろう。

 

 満面の笑みの黒髪美少女――新垣あやせだけが、ただ一人、歩きスマホも、同級生と顔を寄せ合ってお喋りもすることなく、まるでピクニックにでも出かけそうな雰囲気で鼻歌を歌っている。

 

 周りを歩くティーンエージャー達は、そんなあやせを訝しそうに一瞥するものの、直ぐに情報収集へと行動を戻す。

 こんな風に呑気に通い慣れた通学路に繰り出してはいるものの、彼等の中には誰一人としていつも通りに日常を享受しているものなどいやしない。

 

 幼少期から浴びるように創作物に触れ、インターネットの世界にどっぷりと浸かり続けてきた現代っ子だからこそ、昨日の池袋大虐殺を、もしかしたら、彼等は大人以上に異常に感じていた。

 

 あの虐殺映像がテレビ画面に映し出されたその瞬間から、そして、何者かによって電波ジャックされて、地獄の強制視聴が行われていたその時も、そして、画面が砂嵐に変わって、今朝のニュース速報が始まるまでのその間も、そして、今も。

 

 ネットの世界で、SNSの網の中で、彼等は、彼女等は、会議やら形式やらで大人達が机を指で叩きながらまごついていた間も、燃えるように加熱した議論を交わしていた。

 

 合成映像やCG論で一笑に伏せた者や、宇宙人襲来説、政府が秘密裏に開発していた生物兵器の暴走説、UMA説やら壮大なドッキリ説まで、ありとあらゆる仮説や推理が手当たり次第に溢れ返り――やがて、こうして登校時間を迎える頃には、掲示板から草が消えていた。

 

 え……うそ、マジで……どうなってんの? ――そんな書き込みが、呟きが、次第に増えていった。

 もしかしたら――そんな言葉を打ち込んで、そこで、手が止まった。

 

 ありとあらゆる情報に触れ、その真偽問わず、したり顔で知ったかぶっていた悟り世代は――だからこそ、感じ取り始めていた。

 今回の事態が、今まで自分達が鼻で笑ってきた、世間を騒がせはしても、世界の片隅で生きる自分達の日常を脅かすには至らなかった、世紀の大事件とは、何かが違うことを。

 

 見つからないのだ。

 誰よりもその世界にどっぷりと浸かり、下手をすれば給料を貰ってそのことを職業としている専門家よりも早く、事件の真相や事の粗筋や全ての元凶といったそれらを――所謂、黒幕のようなものを発見し、掲示板にアップする、自称正義の味方達が、一向に現れないのだ。

 

 こんなにも――面白そうな、ネタなのに。

 いかにも皆の大好物なのに。明らかにツッコミどころ満載なのに。

 

 なのに、どうして――誰も、何も、言わないんだ?

 

 ネタを暴かないんだ? 種を明かさないんだ? 

 注目を集められるのに。世界に存在を認められるチャンスなのに。皆に褒められる、絶好の機会なのに。主役に――なれるのに。

 

 漠然とした違和感は、漠然とした焦燥感に変わり、漠然とした恐怖感に変わる。

 誰に言われずとも、こうして操られたかのように学校に向かうのは、無意識の内に必死でいつも通りを守ろうとしているからだろう。

 

 崩されていない。まだ、壊されてなどいない。

 自分達には関係ない。あれは遠い世界の出来事で、ここは世界の片隅なんだ。

 

 物語には、関わらない。戦争だって、起こらない。

 自分は、どこにでもいる、普通の学生なんだから。

 

 だから――自分には、関係ない。

 

 そう、必死で言い聞かせる為に、それを裏付けてくれる情報を待ち望む。

 探して、探して、隣の友達と言い聞かせ合う。

 

 この行為こそが、昨夜の鬼の革命が、世界の片隅にまで罅を入れたのだという、何よりも証拠だということから、目を逸らして。

 

「ん~~。今日も、平和ですね!」

 

 そんな罅の入ったいつも通りの通学路を、新垣あやせは顔を上げて歩く。

 

 だからこそ、他の誰も気付かなかった、路地裏で蹲る幼女と童女に気付いた。

 

「あら?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――うん――そうなの――っ――た――たーちゃんがね――それで――さーちゃんが――」

 

 近づいていくにつれ、そんな嗚咽混じりの涙声が漏れ聞こえてくる。

 

 どうやら、青みがかった黒髪を二つに纏めた、恐らくはパジャマであろう薄着のままの幼女を、こちらはまるで染料で黒く染めたかのような作り物めいた真っ黒な黒髪のおかっぱ頭で、そして着物というよりは時代劇の庶民が着ているような質素な和装の童女が慰めている、といった光景らしい。

 

 初めは泣いている幼女の方に目を取られるが、やはり直ぐに慰めている傍らの童女に目を向けてしまう。

 

 朝といっても、既に中高生がいつも通りの登校時間を迎えるような時間帯に、パジャマ姿の幼女がこんな路地裏で蹲って泣いているのも訝しさを覚える事態だが、それ以上に、その童女は奇妙な違和感を覚えずにはいられない存在だった。

 

 作り物めいている程に真っ黒な黒髪。そして時代錯誤なみすぼらしい和装。

 そして、何よりも違和感を覚えたのは、そんな恰好が恐ろしく相応しいと思える程に――人形めいた、その顔立ちだ。

 

 日本人形――人形のようだ、とは、容姿の整った女の子、もしくは無表情で感情を感じさせない女の子によく使用される例えだが、この童女は、まさしく人形、それも日本人形のような印象を真っ先に覚える女の子だった。

 

 可愛らしい顔立ちだが、人形と称する程に整い過ぎているわけではない。

 目まぐるしく表情が変わるわけではないけれど、泣いている幼女を見る目は、分かりやすく心配げな感情を表している。

 

 なのに、あやせはこの童女から、日本人形のような第一印象を受けた。

 この可愛らしい童女から、作り物めいた黒髪で、みすぼらしい和装の、時代錯誤な、明らかに、この時代から、この世界から、浮いているような童女から――日本人形のような、()()()()を、感じた。

 

 あやせは、ギュッと――黒いスーツに包まれた拳を胸の前で握り締めた。

 

「ッ!?」

 

 その瞬間、誰かが――何かが、息を呑んだ。

 

「どうしましたか? 迷子、ですか?」

 

 あやせはある程度の距離まで近づいた所で、出来る限りの優しい笑顔で声を掛ける。

 

 すると、ビクッと分かりやすく肩を震わせて――パジャマ姿の青みがかった黒髪の幼女が、涙で顔を濡らしたままで顔を上げた。

 

(………おや?)

 

 隣に目を向けると――確かに、先程までいた筈の、日本人形のような童女の姿は消えていた。

 

(……………………)

 

 あやせは一瞬表情を消すものの、直ぐに再び笑顔を作って、嗚咽を漏らす幼女に声を掛ける。

 

「ほら、泣かないでください。こんな所で、どうしたんですか? よかったら、わたしに話してみてください」

 

 あやせは幼女に目線を合わせるようにしゃがみ込み、持っていたハンカチで彼女の涙を拭う。

 幼女は洟を啜りながら俯き、しゃくりあげながら、ゆっくりと口を開いていった。

 

「……あ、あのね……あのね……たーちゃんが……かえってこないの」

「たーちゃん?」

「………きのう、たーちゃん……さーちゃんと、けんかしちゃったの……それで……がっこういって……ずっと……かえってこないから………だから……けーか……ぅぅ」

 

 そこまで言うと、幼女は再び瞳に涙を溢れさせ、顔を隠すように蹲る。

 

 あやせは、この幼女はその「さーちゃん」と喧嘩して帰ってこなくなった「たーちゃん」を探して迷子になったということなのだろうか、と噛み砕く。

 

 だが、流石にこれでは情報が少なすぎる。学校に行った、ということからペットなどではないだろう。帰ってこない、という言葉から判断すると――

 

「あなた、お名前は?」

「……かわさき……けーか」

「けーかちゃん。たーちゃんというのは、お友達? それとも――」

「ううん」

 

 けーか――川崎京華と名乗った幼女は、顔を腕で隠したまま首を振り、そのままポツリと呟いた。

 

「――お兄ちゃん。たーちゃんは、けーかのお兄ちゃんなの……」

 

 その言葉に、新垣あやせは――小さく、美しく、笑った。

 

(……また、お兄ちゃん、か)

 

 あやせは、そのままゆっくりと、お兄ちゃんを探す妹に、泣きじゃくる幼女の頭に手を乗せる。

 ビクッと体を震わせる彼女を宥めるように、文字通りあやすように、綺麗な青みがかった黒髪を優しく撫でる。

 

「――大丈夫です。何でも、千葉のお兄ちゃんは、すべからず例外なくシスコンだそうですから。必ず妹の元へ、あなたの元に帰ってきますよ」

「……しす……こん?」

「ええ、シスコンです。それこそ、結婚を申し込むくらい。殺人も厭わないくらい」

 

 新垣あやせは、ゆっくり、ゆっくり、その美しい笑みのまま、千葉の妹の頭を撫でながら、綺麗な声色で呟いた。

 

「なにせ、(あなた)は、(あのひとたち)の――【本物】……らしいですから」

 

 だから、泣かないで――そんな言葉に、京華は、ゆっくりと、顔を上げて。

 

 絶句――した。

 

「あなたにも――お兄ちゃんがいるんでしょう?」

 

 綺麗だった。

 

 子供ながらに、その笑顔は、とても美しいものだと理解出来た。

 

 まるで――天使のように。真っ暗な、堕天使のように。

 

 昏く、妖しく――恐ろしい。

 

 初めてだった。川崎京華という幼女にとって、それは生まれて初めての感情だった。

 

 綺麗で、美しくて、可愛い――笑顔が。

 

 こんなにも――怖いと、思うことは。

 

 こわい。

 

 このひとは――こわい。

 

 このひとは――きっと、こわいひとだ。

 

「ヒッ――」

 

 京華が、何も考えず、ただ反射的に、目の前にいる恐ろしい何かに向かって身を守るべく叫び声を上げようとした――その瞬間。

 

「けーちゃんッ!!」

 

 あやせが入って来たのとは向かい側の、この路地裏の出口から、切羽詰った――女の声が聞こえた。

 

 その声の元へと、あやせと京華が顔を向ける。そして、京華が涙に濡れた顔を綻ばせた。

 

「さーちゃん!」

 

 一目散に立ち上がり、彼女の元へと駆け抜けて飛び付いた京華を抱き留めたのは、彼女と同じ青みがかった黒髪を腿の辺りまで長く伸ばし、それを束ねることすらせず、簡素なTシャツと綺麗な脚を太腿から惜しげもなく露わにするパンツといったラフな、それこそ寝起きのままといった格好の少女。

 

 川崎京華の姉である、千葉の姉、川崎沙希だった。

 




微笑みを浮かべる天使で堕天使な少女は、新たな千葉の妹と、新たな千葉の姉と出会う。


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Sideあやせ――②

あの人は……あの女の人は――僕達の敵です。……天敵、です。


 

 川崎沙希は、Tシャツがぴったりと張り付き、己の豊満な胸部を強調するかのように身体のラインが露わになるほどびっしょりと汗を搔いていた。

 

 ちらりとあやせが、モデルという職業柄か、無意識に目が吸い寄せられてしまった、剥き出しの長く綺麗な脚の先を見ると、何と裸足だった。

 カランという音が無造作に響く。どうやらサンダルを手で持ってらしい。恐らくはそれを反射的に履いて飛び出してきたのだろう。だが、全力で駆け回るうちに邪魔になったのだろうか。

 

 たった一目見ただけで、見た瞬間に、この人がこの泣きじゃくる幼女をどれだけ心配して探していたのかが分かる。

 

 あやせはゆっくりと、スカートの埃を落としながら立ち上がりつつ、そんなことを考えていた。

 

 一方の沙希は、やっと見つけた京華に言いたいことはたくさんあるけれど、それよりも先に、乱れた息を整えて、飛び込んできた京華をギュッと抱き締めながら、妹が怯えていた原因であろう元凶を――鋭く、見据える。

 

「……何? アンタ」

 

 普通に考えれば、迷子の幼女を保護してくれた女子高生である。

 当然、ここに第三者がいればそう判断したに違いないし、事実、そうであろう。

 

 だが、沙希は京華の姉で、京華は沙希の妹だ。

 あの瞬間――沙希が声を掛け、京華が一目散に飛び付いていった、あの瞬間の顔を見て、それが、迷子の幼女が家族を発見した時の安心感なのか、それとも、恐ろしい何かから守ってくれる存在を見つけた時の安堵感なのか、沙希に分からない筈がない。姉に気付けない筈がない。

 

 故に沙希は、迷子の妹を保護してくれば女子高生に、鋭い眼差しで威圧的に問い詰める。

 対してあやせは、そんな威圧に対し、妹を守ろうとする姉に対し――にこっと、笑顔で応えた。

 

「いえ、どうやらこの子、迷子みたいで、泣いていたので。これから交番に向かおうと思っていた所なんです。でも、お迎えが来たようで安心しました。よかったね、けーかちゃん」

 

 あやせはそう言って、笑顔で、幼女を覗き込むように腰を曲げて、沙希を盾のようにする京華に言う。

 京華は、悲鳴はあげなかったものの、そのまま逃げるように京華の背中に隠れた。

 

 あやせは「あらら」と言って、そのまま苦笑するようにして、沙希に向き合う。

 

「嫌われちゃったみたいです」

 

 それは、文字通りの意味なのか、それとも照れてるだけだと思っていながらの冗談なのか――ただ、背中に伝わる京華の怯えを感じ続ける沙希は、あやせに向かって簡潔に、表情を変えずにこう言った。

 

「……そっか。ありがとうね、京華を助けようとしてくれて」

「いえ、たまたま見かけただけですから。……あなたは、けーかちゃんの――」

「姉だよ。だから、もう大丈夫。学校行く途中なんでしょ。後は、こっちでやるから」

 

 沙希はそう言って、京華をあやせから隠すようにしてしゃがみ込む。

 あやせは内心で(お姉さんなんだ……もしかしたらお母さんかもとか思っちゃった……)と呟きながら――沙希の外見やら態度やら、染めたかのような青みがかったお揃いの黒髪からはそう思われても仕方ないが――まあ、無事に家族の方に会えたようだしと、そのまま来た道を引き返そうとする。

 

(…………)

 

 沙希は、あやせが後ろを向いたことを確認して、京華と向き直る。

 

 京華は怯えているが、実際はあやせが何をしたというわけではなさそうなことは感じていた。

 あやせの方に、嘘を吐いている様子や、こちらに対しての害意のようなものは感じられなかったからだ。

 

 だが、それでも沙希は、京華が怯えるのも無理はないとも感じていた。

 それ程までに、恐らくは彼女よりも年上である沙希から見ても――あの子の笑顔は、恐ろしかった。

 

 綺麗で、可愛くて、妖しくて――けれど、どこか致命的に壊れている。

 

 似ても似つかないけれど、それでも何処か――アイツに、似ている。

 

 似通った、壊れ方。似通った、壊され方。

 

「――――っ!」

 

 沙希は、ギュッと目を瞑って、過り掛けた背中と、腐った双眸を打ち消す。

 

 そして真っ直ぐ前を向き、泣き腫らした――自分と同様に、腫れ上がった瞼の妹と向き直って、小さく、ぺちんと、柔らかい幼女の頬を叩いた。

 

「………心配、かけさせないで」

 

 大好きな姉に叩かれたこと、そして、その姉が、とても悲しそうな顔をしていたことに、泣き止みかけていた幼女の両目に、再び涙が溢れ出す。

 

「……っ……で、でも……たーちゃんが……たーちゃんがぁ」

「…………大志なら……大丈夫。あたしが……なんとかするから。絶対に――なんとかして、みせるから」

 

 沙希は、そう言って、そう言い聞かせて――妹に、そして自分に、言い聞かせるように、抱き締める。

 

 心優しい妹の、幼く儚い妹の、大粒の涙と、心の叫びを、しっかりと己の胸で受け止めるように。

 

 そして、背中を向けていたあやせは、とある言葉に――足を止めた。

 

(……大志?)

 

 どこかで聞いたことがあるような、そんな違和感だった。だけど、遥か昔のことのようで、パッとは思い出せない。

 

 あやせはくるりと振り返った。

 その大志という兄で弟な少年の特徴を教えてもらえれば、何か思い出せるかもしれない。

 

 あれほどまでに一生懸命探しているのだ。どんな小さな情報でも、きっと求めているだろう。

 

 見れば、既にしゃがんでいた沙希は立ち上がり、未だ泣きべそをかいている京華の手をしっかりと繋いで、元来た道へ――あやせから背を向けるように、帰ろうとしているようだった。

 

「あの!」

「……何?」

 

 あやせは朗らかに声を掛けたが、対する沙希は、本当に嫌そうに、ゆっくりと顔だけで振り返った。

 

 しかし、あやせはそんな沙希の態度など気にも留めていないかのように、笑顔で、首を傾げながら言う。

 

「お姉さんの弟さんって、大志君っていうんですか?」

「……だったら?」

「よかったら、特徴か何か教えてくれませんか? もしかしたら、わたし知ってるかも――」

「――あのさ」

 

 沙希は京華を背に庇うようにして、再びあやせと真っ向から向かい合った。

 そして、あやせの言葉を遮って、鋭く、目を細めて睨み付け、低い声で言う。

 

「アンタは善意で言ってるのかもしれないけど、あたしにとってアンタは、路地裏で妹を怯えさせていた初対面の女なんだ。アンタに害意がないのだとしても、ここでほいほいと弟の情報なんて、教えると思ってんの?」

「え? でも、弟さんの――」

「あー、もうはっきり言わせてもらうけどさ――」

 

 沙希は、そこで京華をギュッと抱き寄せて、苛立ちと、それ以上の、何かを込めて、言う。

 

「――これは、家族の問題なの。部外者が、余計な口を挟まないで」

 

 瞼は腫れぼったく、無論メイクなどもしていない。

 恐らくは碌に寝ていない――眠れていないのだろう。目の下には隈が出来ていて、疲れが滲み出ている。

 

 それでも、その眼光は鋭く、その目は死んでいなかった――腐っては、いなかった。

 

「…………」

 

 あやせは、そんな沙希の瞳を受けて、呆然と挙げていた手を下していく。

 

「……京華を保護しようとしてくれたことには、改めて、ありがと。だから、これは――忠告」

 

 そう言って、今度こそ、背中を向けて歩き出す沙希は、首だけ向けて、冷たい眼差しで、こんな捨て台詞をあやせに送った。

 

他人様(ひとさま)の家のことに、首を突っ込んでも碌なことにはならないよ。その殆どが、こっちにとっては余計なお世話。馬鹿を見るのは、そっちだから」

 

 この言葉を言った直後、あやせの視線を背中に感じながら沙希が思い浮かべたのは、およそ一年前の、とある男の言葉だった。

 

――川崎。お前さ、スカラシップって知ってる?

 

 あの日――川崎沙希にとって、とある男の存在を、明確に意識するようになった日のことだった。

 名前すらお互いにはっきりと覚えていなかった存在が、ズカズカと他所の家の事情に首を突っ込んできて、余計なお世話を焼いて――救ってくれた、一夜だった。

 

 そのことを、忘れられないあの日のことを再び思い出して、沙希は、だからこそ歯を食い縛る。

 時に、余計なお世話が本当に救いを齎すということを、誰よりも知っている少女は、だからこそ新垣あやせの手を叩き落す。

 

 あんな壊れかけの恐ろしい少女が、とてもではないけれど、あの時のぶっきらぼうな言葉のように、あたしを――あたしたち姉弟妹(きょうだい)を、家族を、救ってくれるとは思えない。思える筈がない。

 

 彼女は――あの少女は、そんな瞳だ。

 

――――大志を、助けて……っ

 

 川崎沙希は、そんな瞳をした、壊れかけの男に、ほんの昨日、そう懇願した己を棚に上げて、そう思った。

 

「――――ッッ!!」

 

 そして、昨日の懇願を思い返したのと同時に――昨夜の、ほんの一瞬、見えたかもしれない映像が、脳裏を過ぎる。

 

 

 突如、リビングのテレビが映し出し始めた、謎の映像。

 その時、まるで帰ってこない大志を待って、ラップを巻いた夕食をテーブルに並べて、京華と共に待っていた沙希は、その映像を見て絶句した。

 

 直ぐに再起動して動き出し、とにかく京華を寝室に押し込んで無理矢理に寝るように命じて、再び自分だけでリビングに恐る恐る戻っていった。

 全てのチャンネルが同様にジャックされていて、主電源も落とせないことを悟ると、とにかく無我夢中に大志の携帯に電話を掛け続けた。

 

 そして、テレビをコンセントから引っこ抜くことを検討し始めた頃、池袋東口前の虐殺を映し続けていたテレビカメラが、突如、上空を映し出した。

 

 怪鳥の如く、池袋上空を縦横無尽に飛び回る、醜悪な翼竜――その、背中に。

 

『………………え?』

 

 一瞬、だった。

 

 猛スピードで滑空するその翼竜が画面に映ったのは、ほんの一瞬。勿論、録画などをしている筈もなく、巨大な怪鳥とはいえ、遠目、それも背中の影など、輪郭すらも朧気で。

 

 でも、何故か、どうしてか――思ってしまった。

 

 化物の背中に、怪物の背中に、向かい合っていた影が――頭部だけ突き出ていた何かと、真っ黒な衣を纏って、その頭部に向かって、銃のようなものを向けようとしていた、誰かが。

 

『……………大志? …………比企、谷?』

 

 バッ、と。テレビに張り付いた。

 見間違えかもしれない。見間違えに違いない。

 

 そう思っても、そう思い込んでも、跳ね上がった心拍数は落ち着かなかった。

 

 再び映像が只々残虐な戦争映像に戻っても、沙希はテレビから離れることは出来なかった。

 吐気を催し、涙を浮かべて、脂汗を流しても、唇を食い縛って、目を充血させながら、答え合わせを求めた。

 

 終ぞ、テレビが砂嵐になるまで、大志と八幡はおろか、翼竜の姿さえ碌に映らなかった。

 

 本当に見間違えだったのか、いや、そうに違いない。

 そもそもあんな猛スピードで動く中で、人の姿など確認出来るはずもない。ましてや片方は頭部のみだったのだ。たまたま、今、自分の頭の中の大部分を占めるのが、あの二人だから、あの二人に見えただけだ。

 

 そう、何度も自分に言い聞かせても、沙希の心は騒めき続けた。

 

 夜が明けて、朝になったことにも、気付かない程に。

 

 家の扉が開き、幼い妹が家を抜け出したことにも、気付かない程に。

 

 

「……大志……比企谷……ッ」

 

 そして今も、沙希は、無意識に、妹の手を強く握り締めていることにも、気付かない。

 

「…………………」

 

 京華は、少し顔を顰めて沙希を見上げるも――姉の表情を見て、何も言わずに、そのまま少し早い姉のペースに合わせて歩き続けた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 新垣あやせは、呆然と、川崎姉妹が路地裏を出て行く背中を見送った。

 

――これは、家族の問題なの。部外者が、余計な口を挟まないで

 

――他人様(ひとさま)の家のことに、首を突っ込んでも碌なことにはならないよ。その殆どが、こっちにとっては余計なお世話。馬鹿を見るのは、そっちだから

 

 そして、沙希が去り際に残していった捨て台詞に、シスコンでブラコンな家族想いな少女の忠告に――苦笑を漏らす。

 

「……まったく、ですね」

 

 

――…………わたし、バカみたいじゃないですかぁ

 

 

 かつて、とある他所の家の兄妹の関係に――他人様の家の事情に、決死の覚悟で首を突っ込み、そして、これ以上なく馬鹿を見た、何処かの誰かのことを思い返し、笑う。

 

 そしてあやせは、薄暗い路地裏から、首を上げて、空を見上げる。

 

 あの時のような曇り空でもなく、あの時のような血の雨でもない。

 

 まるで、これまでの地獄が嘘のように、青く綺麗に澄み渡っていた。

 

 あやせは、比企谷八幡の背中を、川崎沙希の背中を、五更瑠璃の背中を、高坂京介の背中を、思い浮かべる。

 

 この世の何よりも大切な――家族の為に、戦うことが出来る者達を、切り捨てることが出来る者達を、生きることが出来る者達の背中を、思い浮かべる。

 

 自分は、彼等の、彼女等の、背中しか――知らない。

 

「……綺麗ですね……本物は」

 

 あやせは、新垣あやせという少女は、綺麗な青空を見て――笑う。

 

 とても綺麗に、美しく――儚く、泣きそうに、笑う。

 

 まるで、二度と手に入らない、かけがえのない何かを、失ってしまったかのように。

 

 

「――あやせっ!」

 

 

 その時――背後から、沙希が去って行ったのとは反対側の路地裏の出口、つまりあやせが入って来た側の入口から、甲高い叫び声が聞こえた。

 

 あやせは、表情を消して、ゆっくりと振り返る――この声を、新垣あやせが聞き間違えることなど有り得なかった。

 

 そして、身体が半回転し、声の主と相向かう時には、あやせの顔には美しい微笑みが見事なまでに作り出されていた。

 

「おはよう、桐乃! いい朝だね!」

 

 昨日は、よく眠れた? ――そんな風に問いかけると、高坂桐乃は、笑顔のあやせと対照的に、青い顔を更に弱弱しく歪めた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 路地裏を出て、早足で自宅へと帰っていく川崎姉妹。

 

 と、その時、京華は、路地裏の出口のすぐ傍に、自分を励まし続けてくれていた、あの和装の童女の姿があったことに気付いた。

 

 パッと顔を明るくして呼び掛けようとしたが、童女は微笑みながら、指を一本立てて、口に当てる。

 そのことに気付いた京華は、姉に引かれていないもう一方の小さな手を己の口に当てて、そして、その手をふりふりと小さく振って、笑顔で口パクをする。

 

 あ・り・が・と――童女は、幼女のそんな可愛らしい言葉に微笑みを深くし、己も小さく顔の前で手を振った。

 

「――よかったですね、詩希(しき)

「……うん」

 

 そして、川崎姉妹が見えなくなった頃、いつの間にか和装の童女の隣に立っていた、これまた時代錯誤のみすぼらしい和装を見に纏った、大きな眼鏡を掛けた小学生くらいの少年が、童女を詩希と呼びながら声を掛けた。

 

「詩希――座敷童の、シキ。見た者に幸運を齎し、居着いた――居憑いた家庭に繁栄をもたらす精霊。否――『妖怪』か。なるほど、見事なもんだな」

 

 舗装された道、整えられた街の中、余りに不似合いな二人の子供の――真上から。

 

 電線の上に、これまたいつの間にか止まっていた、一羽の烏が――人間達が、人間達の為に作り上げた世界で、どんな生物よりも貪欲に生き抜く真っ黒な獣が。

 

 黒い羽根を撒き散らしながら飛び上がり――真っ黒な着物を纏った人のような何かとして着地した。

 

 烏の濡れ羽のように真っ黒な髪で片目を隠し、下駄でアスファルトを踏み締め、片手を黒い着物の中に突っ込みながら、烏のように黒い男は言う。

 

「流石は運命操作の能力を持つという稀少種だ。あの男が率いることになる、次代百鬼夜行の幹部候補というのも頷ける話だな」

百目鬼(どうめき)さん……」

 

 和装の少年は、烏の羽を撒き散らしながら現れた男を、百目鬼と呼びながら迎えた。

 対して、詩希と呼ばれた童女は――座敷童と呼ばれた妖怪は、そんな百目鬼から目を逸らしつつ、和装の少年の背中に隠れつつ、ぼそりぼそりと小声で呟く。

 

「……別に……わたしに……そんな大したことは出来ない。……あの子は……お姉ちゃんが必死になって探してたし……もう……すぐ傍まで来てた。……わたしがしたのは……ほんのちょっと……()()()()()()だけ」

 

 詩希は――座敷童のシキは、そうこともなげに言うと、ふいっと顔を完全に百目鬼から背ける。

 百目鬼はそんな彼女に苦笑すると「――まぁ、それは置いといて、だ」と言って表情を引き締め、彼女の盾になる少年を見下ろす。

 

「それで、平太――分かったか?」

「……はい」

 

 平太――と呼ばれた和装の少年は、百目鬼の問いに、顔を俯かせ、静かに答えを返す。

 

「あの人は……あの女の人は――僕達の敵です。……天敵、です」

 

 百目鬼は、平太の言葉に「……そうだ」と返し、塀に背を付けながら続ける。

 

「黒衣――今は、ハンターと言うんだったか。上の連中は戦士(キャラクター)と呼んでいるけどな。黒はどちらかというと好きな色だが、あんなに真っ黒だと背筋が震えるぜ。しかも、あれで末端も末端だってんだから、震えるを通り越してもう凍える」

「百目鬼さんはいいでしょう。どちらかというと、()()()()なんですから。僕らと違って、狩る側なんですから」

「それでも、僕が化物だということには変わりないさ。人間じゃないということは、変わらないさ。それに狩る側っつても、こうしてお前らみたいな()()()()のスパイ行為をアシストするような、グレーな上司に仕える身だ。せめて白か黒か、どっちかにしっかり染まりたいもんだが――」

 

 まぁ、僕に、黒以外の色は似合わないか――そう嘯いて、烏色の男は、煙草に火を点けて、真っ青な空に紫煙を吐き出す。

 

 そうして大きく息を吐きながら、とある一点を真っ直ぐに見据えていた。

 

「……いいんですか、煙草なんて吸って。肉体年齢は僕と一緒で未成年でしょう」

「1000年近く生き残ってきた特権だ。たかだか100年やそこらで決められた人間達の法律なんか、律儀に守る必要性は感じないね」

「悪ですね」

「偽善者と呼んでくれ。ずっと、そう呼ばれ続けてきた――僕の誇りだ」

 

 百目鬼は、そのまま煙草を握り潰して、塀から背を離す。

 そして、平太と詩希を見下ろして、新たな煙草を取り出しながら言った。

 

「さて――俺の上司とお前等の上司が結んだ契約の有効期限は今日一日だ。しっかりと、お前等の関東観光、もといスパイ行為をエスコートしてやるぜ。今度は何処に行きたい? 今度こそ池袋に行くか?」

「……いいえ。今回のオニ星人の一件を、黒い球体がどのように判断しているのかを把握するという、目的の一つは達したので、それは結構です」

 

 百目鬼は一瞬目を見開いて、そして小さく笑みを浮かべる。

 平太は、詩希を背中に庇いながら、まっすぐに百目鬼を見上げていた。

 

「……あの末端の戦士(キャラクター)の仕上がり具合を見ただけで、それを判断出来るとは驚きだ。流石は、百鬼夜行の若頭の一の家来と呼ばれることはある」

「……それが褒められているかどうかは置いておくとして、まあ大体は。それに、奴等も隠す気はないようですしね。はっきりとした答え合わせは、今日の夕方の会見ですればいいことです」

「それで――他の目的とは何だ? 他の戦士でも見に行くか? それとも、生き残った別のオニ星人に会いに行くか?」

「ある意味で正解です。僕が鴨桜(オウヨウ)さんに頼んで、こうして百目鬼さんに関東に連れて来てもらった目的は、後二つ」

 

 そして、眼鏡の少年は、決して大柄とはいえないが、自分にとっては見上げる程の背丈の烏色の化物に向かって、人差し指を立てて言う。

 

「一つは――つい最近、百目鬼さん達が支配下に治めたという、『都市伝説星人』についての調査」

「!」

「もう一つは――」

 

 都市伝説星人――この言葉に、露骨に百目鬼の表情は鋭く変わるが、平太は畳み掛けるように、三つ目の目的を彼に告げる。

 

「――『妖怪星人』であり、そして『オニ星人』でもある者。かつては人間であり、そして妖怪によって“憑霊(ひょうれい)”となり、真なる吸血鬼の“血属(けつぞく)”となり、そして世界最強の陰陽師の“式神”となった化物であるアナタが……今回の、池袋大虐殺――オニ星人の同胞である“雷鬼”黒金が起こした革命に対して……アナタがどう動くのかを知りたかったんです」

 

 烏が鳴く。風が騒めく。

 

 雲が太陽を遮ったのか、途端に薄暗くなる中、詩希はギュッと平太の背を掴み、平太はゴクッと唾を呑み込む。

 

 それでも平太は、震える拳をギュッと握って、目の前の男に尋ねた。

 

「聞かせてください。“烏鬼”――百目鬼黒羽(クロバネ)さん」

 

 あなたは敵ですか? それとも味方ですか? それとも――両者ですか?

 

 小さな眼鏡の少年の、意を決した問い掛けに。

 

 百目鬼黒羽という化物は、小さく笑い――牙を覗かせ、大きく黒翼を広げて、言った。

 

「いい度胸だ。この僕を尋問するつもりか。いいぜ、気が済むまで付き合ってやる」

 

 ただしその頃には、お前は八つ裂きになってるかもな。

 

 鬼のようなその表情に、少年と童女は、ちょっと涙目で後悔した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 大気が震えた――ような、錯覚を覚えた。

 

「っ!? ……ったく、相変わらず、冗談で冗談じゃないレベルの“気”を放ちやがる奴だ」

 

 冷たい汗を流しながら、咥えていた煙草を電柱の上から投げ捨てる、金髪碧眼のホスト風の美青年――氷川は、見下ろすように、先程まで睨み合っていた眼下の烏色の“鬼”を見据えた。

 

「……それにしても、なんで“烏鬼”が『京』からわざわざこんな場所まで出張って――いやまぁ、十中八九昨日の黒金のアレ関連だろうが……だが、アイツはわざわざそんなことで顔を出す程、俺達に仲間意識なんて持っていない筈だがな。俺等がアイツのことを同胞だなんて思ってないのと同じように」

 

 まぁ、篤の奴は往生際悪く諦めてないようだが――とまで考えて、どっちにしろこっちから関わらないに越したことはないと判断し、目を切った。どうやらこの遊びの“気”も、自分達に向けたものではないようだし、と。

 

 そして、その外した目線を、今度は少し離れた電柱の上にいる白い少年に――否、白い鬼に向ける。

 

「………………」

 

 烏鬼の気に委細構うことなく、ただ真っ直ぐに街を見つめる、元少年、現白鬼。

 

 真っ白な目で、真っ白な髪を靡かせて、そのまま風に吹かれて消えてしまいそうな程に――真っ白に、灰のような残滓。

 

「……おい、いつまでそうしているつもりなんだ。お前の目的の人間共は、とっくにおうちに帰ったぞ」

 

 氷川は灰のような白鬼に言う。

 学生服のズボンに、真っ白なYシャツ。眼下の街を歩いている少年達同様、何処にでもいそうな学生の装いだが――口元を覆うグロテスクなマスクが、それらの印象を容易く打ち消していた。

 

 まるで何も食べられないようにと、牙を持った己の口を封じるような、禍々しいマスク。

 

 それはまるで、化物である己を隠そうとしているような――否。

 

「……それとも、まだどうしようもなく、この世界に――未練があるのか?」

 

 いつの間にか、白鬼の背後に立っていた金髪の美青年は、しゃがみ込んで街を見下ろす白鬼に、そう冷たく言い放つ。

 

 白鬼は、そんな氷のような鬼に対し、真っ白な灰のような言葉を返す。

 

「……いいえ。ないっすよ……何にも。ここは――人間の世界っすから」

 

 そう言って、白鬼は――川崎大志という人間だった、残り滓の化物は呟く。

 禍々しくグロテスクなマスクをそっと撫でで、自分の有様を受け入れるように。

 

「…………」

「……ありがとうございます、氷川さん。散々迷惑かけたのに、こんな我が儘まで聞いてもらって」

 

 そして、大志は立ち上がりながら言った。

 

 最後に一度、川崎沙希が、川崎京華が、帰っていった方角を見詰めて――目を瞑った。

 

「――大志。これから、俺等は地下に潜る。ちょっと黒金が派手にやり過ぎたからな。ハンターだけじゃなく、今の世界をあんまり崩したくない大御所星人共も、オニ星人(おれたち)を潰すべく狙うだろう。そっち方面の緩衝役は篤に任せて、ほとぼりが冷めるまで潜伏するってわけだ」

 

 氷川は新たな煙草に火を付けながら、大志に向かって、淡々と告げる。

 

「下手すりゃあ、これがお天道さんの下で眺める最後の景色になる。最後にもう一度聞くぞ――いいんだな?」

 

 大志は振り返り、氷川に向かって、微笑んだ。

 

 それは、何もかもを失った、真っ白な灰のような笑顔だった。

 




再会する少女達の背後で、新たな化物達が動き出す。


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Sideあやせ――③

――次は、あなたが、死んでしまうかもしれませんよ?


 

 赤い雨が、降っていた。

 

 ざあざあと、緋色の雨が――涙のように、降り注ぐ。

 

 くるくると、()()ると、踊る少女を彩るように。

 

 

 彼女は真っ赤だった。彼女は真っ黒だった。

 

 赤い雨を黒い衣に溶かして、砂漠に降る雫を歓ぶが如く――血の雨を浴びる。

 

 

 その綺麗な顔に血化粧を施しながら、ぐちゃぐちゃの惨死体を踏み躙りながら、踊る少女は。

 

 

 背筋が凍る程に――美しかった。

 

 

 天使? 堕天使? ――いいや、違う。

 

 

 あれは、あの子は――ただの、きっと。

 

 

 みんなが思った。

 

 あれは――ダレダ?

 

 

 彼女は――思った。

 

 あれは――末路だ。

 

 

 彼女は――思った。

 

 

 あたしは――馬鹿だ。

 

 

 

「…………ごめんね……あやせ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 

 切れた息を整えようと、膝に手を着きながら荒い息を吐く少女――高坂桐乃は、朝ながらも塀に囲まれている為に薄暗い路地に佇む少女――新垣あやせを、じっと見詰めていた。

 

 昨夜のように、真っ赤ではない。昨夜のように、真っ黒ではない。

 見慣れた、自分と同じ高校の制服――だが、まるでカモフラージュのように身に着けている黒い手袋が、襟元を隠すような季節に合わぬ黒いインナーが、桐乃の表情を弱弱しく歪める。

 

 何よりも――その笑顔が。

 完璧に作られた仮面のような、美しいその笑顔が――桐乃の脳裏に、昨夜の光景を否が応でも思い起こさせる。

 

――『ん? 桐乃? どうかしたの?』

 

「あれ? 桐乃? どうしたの? お腹でも痛い?」

「っ!」

 

 昨夜と同じように――昨夜とは違い緋色に塗れてはいないが――純粋な疑問顔で首を傾げながら、桐乃へと問い掛けてくるあやせ。

 桐乃は反射的に顔を仰け反らせ、一歩下がりかけてしまう――が、歯を食い縛り、この少女から一歩でも遠くへと逃げたい己を堪えた。

 

 今、ここには割って入って盾になってくれる兄はいない。何があっても自分を守ってくれる――兄は、いない。

 

 自分と、彼女。

 高坂桐乃と、新垣あやせ――親友同士の、二人しかいない。

 

 逃げちゃダメだ。避けちゃダメだ。逸らしては、ダメだ。

 

(……何の為に、来たの? ちゃんと――ちゃんとするためでしょっ!)

 

 桐乃は己を叱咤する。

 何の為に、夜が明けて真っ先に、たった一人で、彼女の元へと来たのかと。

 

 ちゃんとする為だ。

 ずっと逃げていたことから。ずっと避けてきたことから。ずっと逸らしてきたことから。

 

 ちゃんと――向き合って、戦う為だ。

 

「――大丈夫。ちょっと、気合入れてただけだから」

 

 桐乃は、ごくりと唾を呑み込んで、膝から手を離して、背筋を伸ばして、両拳を握って――まっすぐに、あやせを見詰める。

 

「あやせ――話したいことがあるの」

 

 新垣あやせは、心拍一つ乱さず、美しい笑顔で――その宣戦布告を、歓待した。

 

「何でも話して! わたしたち、親友じゃない!」

 

 桐乃の表情は弱弱しく歪んだ。

 

 あやせの表情は、変わらず美しい笑顔で――瞳だけが、冷たく真っ直ぐに細められていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 あぁ、可愛いなぁ――新垣あやせは、見るからに怯えながらも、瞳に涙を浮かべながらも、それでも懸命に勇気を奮い、意地を張り、新垣あやせと向き合おうとしている()親友を、高坂桐乃を細めた瞳で見詰めていた。

 

 髪型も真似した。職業も後を追った。

 いつだって背中を見てきた親友を、あやせは改めて、真正面から見つめて――高坂桐乃は、こんなにも()()()少女なのだと、改めて気付いたのだ。

 

 

――『……わたしは、本当にあなたのことが好きだったんでしょうか?』

 

――『……本当のあなたを、わたしは見ていたんでしょうか? 見ることが出来ていたんでしょうか?』

 

 

 あやせは一度だけ、その細めた瞳を瞑り、昨夜、自分が彼女達へと放った言葉を思い返す。

 

――『……わたしは、本当のあなたを……好きになれていたのかな?』

 

(……何も分かっていなかったのは、何も見えていなかったのは――わたしの方でも、あったのかもしれませんね)

 

 少なくとも、新垣あやせは知らなかった。

 思い込みがなくなっていなかった。勝手に、分かった気になっていた。

 

 一番の理解者だと胸を張っていたかつての自分を、掘った穴に突き落としたい程に恥ずかしい。

 

 高坂桐乃という少女が、こんなにも可愛く――情けなく震える少女だということに、全く気付かなかった分際で。

 

 理想の、憧憬の、完璧な少女などでは――決してない。

 エロゲーをするし、メルルに愛を囁くし、妹となれば見境はないし――血の繋がった兄にも、恋をする。

 

 そして、新垣あやせという、昨夜、緋色の血に塗れ、死体の上で踊り、自分と兄の姿をした化物を容赦なく虐殺した存在に――恐怖する。

 

 高坂桐乃とは、そんな当たり前に可愛く、当たり前に情けない、当たり前に少女な少女だった。

 

 そんな当たり前のことに、きっと新垣あやせは、気付いているようで気付いていなかった。

 

(……本当に、情けない)

 

 新垣あやせは、そんな自分に失望するように、小さく冷たい溜息を洩らした。

 

「っ!」

 

 あやせの嘆息に、桐乃の肩が分かり易く跳ね上がったが、あやせはそれを指摘することなく、微笑みを作って桐乃を促す。

 

「それで? 話とは何ですか、桐乃。学校では出来ないような話なんですか?」

 

 桐乃は、震えそうになる唇を一度噛み締めて、喉から意識して声を出す。

 無意識に、握り込んだ拳に力が強く入っていた。

 

「――あやせ。昨日のは、何なの? ……あやせは、何かに巻き込まれているの?」

「それは桐乃には関係のないことです」

 

 探るように、恐る恐るとか細い声で、辛うじて絞り出したという桐乃の問い掛けを、あやせは間髪入れずに両断する。

 

 思わず、桐乃は呆然とあやせを見る。

 あやせは、そんな桐乃を微笑みながら見返した。

 

「で、でも、あやせ――」

「桐乃は運が悪かったんです。昨日、あんな場所にいなければ、桐乃は何も知らずにいられた。でもね、桐乃。あなたは運が良かったんです。今日、こうして()()()()()()()()()()

 

 わたしと違って、死んでいないんですから――そう言ってあやせは、自分の胸に手を置いて、桐乃を優しい瞳で見詰める。

 

「あ、あやせ。昨日も言ってたけど、その死んでるって何なの? あやせは、一体どうなっちゃったの!?」

「ごめんなさい。これでもかなりグレーゾーンなんです。これ以上は話せません。わたしは、無関係な桐乃を、これ以上巻き込みたくないんです」

 

 それに――と、あやせは両手を広げながら、真っ黒に美しい笑顔で言う。

 

「わたしはどうもなっていませんよ。死んだだけです。生き返っただけです――生まれ変わっただけの、ただの、新垣あやせです」

 

 あやせは――美しく、微笑む。

 

 桐乃は、思わず、一歩、後ずさった。

 

「偽物でも、本物でも、桐乃の好きに呼んでください。わたしにはもう関係のないことです」

 

 あやせは――優しく、微笑む。

 

 桐乃は、がちがちと歯を鳴らしながら、涙を浮かべて――あやせを見た。

 

 更に、一歩、後ずさる。

 だけど、手は、震えながらも、ゆっくりと、あやせの方へと伸ばされていた。

 

「……あやせ……あやせ――」

 

 桐乃は、真っ黒に微笑む親友に、真っ赤な殺意を自覚なく放つ親友に。

 

 真っ白な天使のようだった親友に、真っ直ぐな親愛を向けてくれていた親友に。

 

 震える声で、俯きながら、手を伸ばしながら――言った。

 

 

「あたしの――せい、なの?」

 

 

 桐乃は、遂に嗚咽を漏らしながら、昨夜の、戦場になる前の池袋での、黒猫の言葉を思い出す。

 

――『――受け入れてくれる、とでも思った?』

 

 それは、目の前の少女と同じく、高坂兄妹が傷つけてしまった少女の言葉。

 

 高坂桐乃が、完膚なきまでに勝利した、彼女に――妹に負けた、少女の言葉。

 

――『私達を踏み潰して、叩き潰して、全てを得ておきながら、それを放棄したの。――だから許して、が、そんな簡単に通るはずないじゃない』

 

 そんなつもりはなかった。

 

 新垣あやせも、五更瑠璃も、高坂桐乃にとっては、かけがえのない親友で。失うことなんて考えられない存在で。

 

 でも――知っていた。

 

 二人の思いも。二人の想いも。

 

 二人の親友が、どんな思いで、どんな想いで、自分に――自分達兄妹に、向き合おうとしてくれていたのかも。

 

 結果――それを最悪の形で踏み躙ってしまったことも、桐乃は、ちゃんと、知っていた。 

 

――『あなたは私達に、恨まれるべきなのよ。憎まれるべきなの。嫉妬されてしかるべきなの』

 

 でも、それから向き合うことは、避けていた。

 

 逃げていた。目を逸らしていた。

 

 黒猫はそれでもずっと自分達の傍に居てくれたし、沙織もいつもと変わらない三人の時間を作ってくれていた。

 

 それが――彼女達の優しさだと分かっていても、それに甘え続けて、向き合うことから避けていたのは――自分だ。

 

 今回ばかりは、いつもは何とかしてくれる兄も、(じぶん)と同じ――加害者だから。

 

 だからこそ、自分で何とかしなくちゃいけなかった。

 

 高坂桐乃が高坂桐乃として、新垣あやせと向き合わなくちゃ――いけなかったのに。

 

 逃げて、避けて、逸らした――結果。

 逃げ続けて、避け続けて、逸らし続けた――その結果。

 

――『それが、敗者に対する、勝者の負うべき、責務よ』

 

 

 その――せいで。

 

 

――『……どうして……こうなっちゃたのかな?』

 

 

 こんなことに――なって、しまったのだとしたら。

 

 

「――――ッッ!!」

 

 桐乃は俯いたままだった顔を上げて、そのまま、あやせに向かって、涙交じりに叫ぼうとする。

 

「あやせ……ごめ――」

「関係ないですよ」

 

 だが、それをあやせは――両断した。

 

 美しい笑顔で。真っ黒な笑顔で。

 

 真っ赤な殺意で――封殺した。

 

「桐乃。あなたは無関係です。わたしの死に。わたしの生き返りに。わたしの生まれ変わりに。分かりますか、桐乃?」

「あ……あ…………あ……」

 

 あやせが、一歩を踏み出した。

 桐乃は、一歩、後退した。

 

 二人の距離は縮まらない。

 桐乃の伸ばした手はゆっくりと下ろされ、あやせの冷たい微笑みが――拒絶する。

 

「……桐乃。あなたは運悪く巻き込まれましたが、運良く生き残ることが出来ました。だから、もう、いいんです」

 

 あやせは、ゆっくりと手を上げる。

 そして襟元のインナーを少しだけずらし、機械的なスーツの制御部を露出させ、言った。

 

「わたしはもう、こうなりました。だからもう、わたしのことは忘れてください」

 

 混乱と恐怖で占められる、桐乃の頭の中に。

 

 ただ、一言――黒猫のあの言葉が過ぎる。

 

 

――『あなたはあやせを――切り捨てるの?』

 

 

 桐乃は「イヤ……イヤ……」とうわ言のように呟くが――あやせは。

 

 まるで、止めを刺すように「さもなくば――」と、冷たく美しい声色で言う。

 

 

「――次は、あなたが、死んでしまうかもしれませんよ?」

 

 

 薄暗い路地で、天使のように微笑む少女は。

 

 美しく、恐ろしく――堕天使のように。

 

 親友だった少女に、優しい、優しい――殺意を、贈った。

 

「――――ッッッ!!!」

 

 高坂桐乃は、走り出す。

 

 新垣あやせから背を向けて、来た道を引き返すように、一歩でも遠くへと逃げ出すように。

 

「……さようなら、桐乃」

 

 真っ黒な少女は。真っ赤な少女は。

 

「……あなたのことなんか――」

 

 小さく、微笑みながら呟く。

 

「――大好きでしたよ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 朝――いつも通りに起床した高坂京介は、ジャムもマーガリンも付けていない、ただ焼いただけのトーストを齧り、砂糖もミルクも入れていないブラックコーヒーで流し込みながら、テレビに映る天使を見詰めていた。

 

――『あなたが好きなのは天使の私? ――それとも、堕天使?』

 

 昨日までの自分なら、画面の向こうの少女に向かって、複雑な感情を押さえつつ、それでも笑みを浮かべていたのかもしれない。

 

 だが、今は、喉を通過する苦みに、顔を歪めてしまう。

 

 そんな京介の近くに、いつも通りの朝には似つかわしくない、小さな来客の少女達が近寄ってきた。

 

「高坂くん。そんなに苦いなら、無理してブラックで飲まなくてもいいんじゃない? そりゃあ、大学生にもなってブラックコーヒーも飲めないのはどうかと思うけどさぁ」

「おにぃちゃん。こっちの方が、甘くておいしいですよ?」

 

 テーブルからひょこっと顔を出して京介の顔を見上げてくる美少女姉妹の頭を、京介は苦笑しながら撫でつつ言う。

 

「ありがとうな、珠希ちゃん。でも、今はココアよりもこっちの方が飲みたい気分なんだ。それと日向ちゃん、俺は別にブラックが飲めないわけじゃないから。こう見えて毎朝ブラック派だから」

 

 ブラックコーヒーなど課題やら試験やらで徹夜確定コースの時の眠気覚ましにしか飲まない京介だが、愛くるしい姉妹に見栄も込めてそんなことを言いつつ、話を逸らす意味も兼ねて「そういえば、二人とも学校はいいのか?」と言うと、彼女達の後ろから、ゴスロリ服姿の彼女達の姉が近寄ってきた。

 

「まだ寝ぼけているのかしら? 妹達は、今日は創立記念日と言ったでしょう」

 

 呆れたような表情を浮かべながらこちらを見る黒猫に――そして、彼女の綺麗な頬に貼られたガーゼに目を奪われ、京介は一瞬目を見開いて、目を逸らして、ポツリと「……そうだったな」と呟いた。

 

 俯いて目線を落とすと、そこには――この時期に寝間着にしている短パンから剥き出しになっている己の素足に痛々しく処置された包帯やガーゼが幾つも目に入る。

 

 そして、CMが終わり、画面が早朝からずっと全局が流し続けている緊急特番へと変わった。

 

『――引き続き、『池袋大虐殺』が発生した現場であります、豊島区池袋からお送りしています。……ご覧ください、こちら、東武東上線改札前である池袋駅南口です。まるで巨大な何かが落下したかのように、瓦礫群が積み上がっていて至る場所に血痕が――』

 

 まるで大地震が発生したかのような、凄惨な災害現場――否、虐殺現場。

 

 夜が明け、太陽の日に照らされようとも――怪物が消えた跡地を、画面越しに眺めようとも。

 

 京介は、黒猫は、険しく、悲しく、冷たい眼差しを――その戦場跡の光景に向けざるを得なかった。

 

 そんな二人を痛ましげに見詰める日向と珠希の目線にも気付かず、京介と黒猫はただ一言ずつを交わし合う。

 

「……目は覚めた?」

「……あぁ」

 

 

――さよなら、お兄さん。

 

 

 黒猫の言葉に、京介は画面から目を逸らし、冷め切ったブラックコーヒーを一気に煽る。

 

 

――あなたのことなんか、大嫌いです

 

 

 ゴクリと嚥下して、そのままテーブルにマグカップを置き――噛み締める様に、吐き出す。

 

 

「――苦ぇ……っ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

――ちくしょうぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!

 

 

 とある何も出来なかった男の、負け惜しみのような咆哮が轟いた後の戦場において。

 

 高坂京介は――特に、何もしなかった。

 

 彼は何も出来なかった。彼に出来ることなど、何もなかった。

 

 ただ――ただ。

 

 化物や化物や化物や化物や人間や化物や化物の――死骸やら肉塊やら鮮血やらで満ち満ちていた地獄にて、ただ、呆然と突っ立っていただけだった。

 

 京介が拳を握って歯噛みして、桐乃が嗚咽を漏らして啜り泣いて、瀬菜が自身の肩にしがみ付くようにして震えて、黒猫が――降り注いだ一筋の光の残滓を焼き付ける様に、どこか遠くを見上げる様にして見詰めて。

 

 いた――だけ、だった。

 

 ただ――何も、出来なかった。

 

 誰も何も発さず、まるで死んだように突っ立っている所を、しばらくしてやってきた救助隊に保護された。

 

 少女達三人は、掠り傷はそれなりに負っていたものの大きな傷はなかったが――救助隊はすぐさま救急車を手配し、病院に送り届けようとした。

 全身の服が赤く染まる程の傷を負い、見るからにボロボロだった京介を、一刻も早く入院させる為に。

 

 だが、それを京介は拒んだ。

 このまま千葉の家に帰らせて欲しいと、そう要求した。

 

 救急隊の人達は当然のように彼の説得を試みたが――京介は妹を一刻も早く家に帰してやりたい、傍にいてやりたいと言って譲らなかった。

 

 普段ならばこんなことを言われたら顔を真っ赤にして足蹴にする桐乃だが、この時の桐乃はそんなリアクションを取れるような状態では全くなく、京介の服をギュッと握り締めて離さなかった。

 

 救助隊の人達も、そんな兄妹の様子を見て、京介の意見を呑むことにした。

 

 今回の池袋大虐殺において、身体に大きな怪我を負った者も多いが、それと同等以上に、心に大きな傷を残した者も、やはり多い。

 そんな人達にとっては、この池袋を少しでも離れたいと願う者も少なくなかった――それに、彼等には言えないが、池袋周辺の病院にはこの時既に負傷者が溢れ返っていたのも、また事実である。

 

 京介の怪我は恐らく完治までは数か月かかる程の大怪我だが、歩けない、身動きが取れないといったレベルではない。通院治療も可能ではあるだろう。ならば、池袋周囲の病院ではなく、彼等の地元という千葉で治療を受けてもらえれば、こちらとしても助かるのは確かだ。

 

 そのような打算もあり、救助隊の人達は京介達の、その日の内の千葉への帰郷を許可した。

 京介の怪我に最優先の応急処置をしてもらった後に、全員纏めて千葉の病院へと送り届けられた。

 

 その後、病院内で救助隊の人達と担当医師の双方から絶対に定期的に来院することを固く誓わされた後、瀬菜を赤城家に送り届け、高坂家へと宿泊する予定だった黒猫も伴って、京介と桐乃は自宅へと帰還を果たした。

 

 両親は涙ながらに子供達を迎えた。

 母は桐乃を、日向と珠希は黒猫を――そして父は、京介を力強く抱擁した。

 

 娘煩悩な父――大介は、真っ先に桐乃の安否を心配すると思っていたので京介は面を食らったが、抱き締められた際、小さな声で「……よくやったな」と、息子にそう言ってくれた。

 

 そんな父の言葉に、京介は――何も言えなかった。

 

 

――あなたのことなんか、大嫌いです

 

 

 何も出来なかった。何もしてあげられなかった少女の。

 

 あまりにも綺麗な笑顔が、こびりついて離れなかったから。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「…………」

 

 ごくり、と。相変わらず痛いくらいに苦いブラックコーヒーを喉に流すと、京介は黒猫に話し掛けた。

 

「そういえば、お前んとこの両親には、連絡はしたのか?」

「ええ。私があの池袋にいたと知った時は大層慌てふためいていたものだったけれど、この身は何の掠り傷も負っていないと言って、納得させたわ。仕事を終わらせ次第、こちらに迎えに来ると言って聞かなかったから、それはしょうがなく許可してあげたけれどね」

 

 仕事を放り出して今すぐ向かうと言い出しかねない勢いだったもの――そう言ってテーブルから離れ、ぼすりとソファに腰降ろす黒猫。

 京介は、そんな彼女の横顔の頬、そして綺麗な太腿に貼られた痛々しいガーゼを見て、眉を顰める。

 

「……どこが掠り傷一つねぇ、だ。明らかに怪我してんじゃねぇか。親に嘘ついてんじゃねぇよ」

「……嘘じゃないわ。こんなもの、怪我の内に入らないもの。……あなたの全身に刻まれたそれや――」

 

――あの子の、傷に比べたらね。

 

 そう、細めた目で、憂いの瞳で。

 テレビから流れる凄惨な戦場跡を見詰めながら、呟いた言葉は。

 

 果たして、()()()()()()に、向けられたものなのか。

 

(…………いいや、どっちにも、か)

 

 京介はそんな黒猫から、窓の外へと目を移す。

 

 綺麗な青空。見事な快晴。

 絶好の登校日和な今日――今朝。

 

 目が覚めたら、桐乃は既にいなかった。

 

(親父は俺らが帰ってきたら入れ違いで署に向かって――お袋は、ようやく眠ったらしいしな)

 

 京介よりも、黒猫よりも、明らかに精神的に深い傷を負っていた桐乃。

 愛娘の痛々しい姿に、母――佳乃は、付きっきりで寄り添った。

 

 一晩かけて桐乃のメンタルケアに努めた佳乃は、娘が何とか寝息を立てたことに安堵し、自らも倒れるようにして眠りについた。

 

 昨夜、自室に戻ったのと同時に気絶するようにして眠ってしまった京介は(何故、寝間着を着ていたのかは記憶に無いが深く考えないことにした)、今朝――目が覚めて真っ先に妹の部屋を覗き込んだ時、娘のベッドに突っ伏すようにして眠る母と、空っぽのベッドを見た時に、後ろから現れた黒猫にそんなようなことがあったのだと聞いた。

 

(……てことは、コイツも碌に寝てないんだろうな)

 

 一瞬だけ黒猫の方を見た京介は、小さく溜息を吐いて、再び真っ青に晴れた空を見た。

 

 大学生である自分の、本日の授業予定は午後からだ。

 だがしかし、怪我がある程度治るまでは休めと両親から言われている。それ故、休講だろうと通常営業だろうと向かうつもりはないが――。

 

「……なぁ、黒猫」

「……何かしら」

「…………いや」

 

 ちゃんと寝ろよ――と、初めに言おうとした言葉を飲み込んで、そんなことを顔も見ずに言った。

 黒猫は、そんな京介を一瞬流し見た後、ポツリと「言われなくても、眠くなれば寝るわよ」とぶっきらぼうに返す。

 

 京介は、そんなやり取りの裏で、自分自身に――憤怒していた。

 

 この期に及んで、黒猫に向かって、『……大丈夫だと思うか?』などと、愚問にも程があることを尋ねようとした自分に。

 

 分かり切っている。

 桐乃が何故、昨日の今日で誰よりも早く登校しようとしたか、など。

 誰に会いに行って、何をしに行ったから、など。

 

 そして、その結果――どうなるか、など。

 

 大丈夫でないことなど――分かり切っているというのに。

 

「…………ッ」

 

 ブラックコーヒーを飲み干し、京介はそのまま立ち上がる。

 リビングを出て、扉を閉め、そのまま二階へと上がっていく音が聞こえた。

 

 そして、そんな京介を一瞥もせず、只管にテレビを見続けている黒猫に、ずっと二人のやり取りを、珠希の相手をしながら見守っていた日向が、姉に言った。

 

「…………ルリ姉」

 

 日向の瞳に、黒猫はゆっくりと目を合わせ――小さく、苦い、微笑みを向ける。

 

 そんな姉の表情に何かを言いかけた日向の口は――バンッ! と、勢いよく開かれた扉の音で閉じられた。

 

 開いたのはリビングの扉ではない。

 その奥――玄関からの音だ。

 

 誰よりも早く反応したのは――やはり黒猫だった。

 

 一瞬の瞑目――そして、立ち上がり、リビングの扉を開ける。日向もその後に続いて、廊下を覗き込んだ。

 

 

 そこには――抱き合う千葉の兄妹の姿があった。

 

 

 高校の制服姿の妹が、いつの間にか寝間着から普段着へと着替えていた兄の腕の中で――震えている。

 

「…………っ……京……介……京……介ぇ……っ!」

 

 兄の胸に顔を押し付け、兄の着替えたばかりの私服に――涙を、そして何かを、染み込ませていく妹。

 

「……あた、し…………ごめ………あやせ……あやせぇ……っ」

 

 京介は、そんな妹の頭を押さえて、更に強く――己の胸に押し付ける。

 

 全てを受け止めるように。全てを受け入れるように。そして、何かを、貰うように。

 

「――頑張った。頑張ったな、桐乃」

 

 兄は、まるで兄のように告げる。

 

 妹を守るように。妹を助けるように。妹から――貰うように。

 

 力強く抱き締めて、小さく妹の耳元で――覚悟を持って、呟く。

 

「後は――任せろ」

 

 高坂京介は、前を向く。

 

 傷だらけの身体に活力を漲らせ、目に光を取り戻していく。

 

 妹に頼られたシスコンは、どんなことだって、してみせる。

 

「あやせのことは、俺に任せろ」

 

 

 そんな兄妹を、誰よりも近くで、ずっと――黒猫は見ていた。

 




兄は、妹の涙を胸に染み込ませ――黒猫は、それを見ていた。誰よりも近くで。


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Sideあやせ――④

友達と、仲直りしに来たんだ。


 

 本日最後の授業のチャイムが鳴り、下校の時間が訪れる。

 山奥の隔離学級でも、遠く離れた千葉のとある高校でも、等しく放課後は訪れる。

 

 人によっては今日という日はこれからだという者もいるだろう。

 来栖加奈子にとっては、正しく今日という日はこれからだった。

 

「今日はこれから新曲のレコーディングなんだぜぇ~。いやぁ~、人気者は辛い! どう? うらやましい? 人生絶好調すぎる加奈子がうらやましい?」

 

 小学生といっても素直に納得できてしまいそうなほどに小柄なツインテールの少女が、同じ制服を身に纏って隣を歩く少女に向かってムカつく顔で言う。

 隣を歩く少女は加奈子とは打って変わり、すらりとした体躯に艶やかな黒髪、まるで女子大生と言われても素直に納得できてしまいそうな淑やかな雰囲気を放つ少女だった。

 

 どちらも思わず目を奪われてしまう程の美少女だが、加奈子がアイドルめいた美少女なのに対し、こちらは現役のモデルだった。

 見蕩れてしまい、見惚れてしまう。何の変哲もないごく普通の下校風景なのに、同じように周りを歩く同校生達も、揃って彼女を見つめてしまっていた。

 

 当の少女はそんな周りの目も慣れているのか意に介さず、微笑みを浮かべながら隣を歩く親友に対して言う。

 

「……そうだねぇ。確かに、ちょっと羨ましいなぁ。少し憧れるよ、加奈子に」

 

 加奈子の方を見ずにそう言った少女は、何処か遠くを見つめていた。

 

 何の変哲もない下校風景。

 だが、確かに何かが、少しずつ変わり始めていた。

 

 今日もいつも通りの時間割で授業は行われていたが、授業をする教師も、授業を受ける生徒達も、皆どこか何かを不安がっている。

 

 肌で感じている。本能で察しているのだ。

 この何の変哲もない日常に、世界に――罅が入り始めていることに。

 

 当然、少女も感じていた。

 何かが変わってしまったことを。何かが終わってしまったことを。

 

 そして、何かが――始まろうとしていることを。

 

(……本当の意味でいつも通りだったのは、加奈子だけだったわけですし)

 

 ふと少女は、今度は目を向けて自分の親友を見つめる。

 この子は、なんだかんだでいつも色んな意味で凄かった。

 

 頭が弱くて、性格は最悪。

 だけど、その小さな体にはふんだんに才能が詰まっていて、生き方が何より豪快だ。

 

(わたし達の中で、実は加奈子が一番の大物なのかもしれませんね)

 

 そんな意味で、確かに自分はこの親友を羨ましがっているのかもしれない――と、ふとそんな思いで加奈子の方を見たら。

 

「…………なんでそんなに離れてるんです?」

「…………お前、さては偽物だな?」

 

 かちんブチンッ、と。

 

 出来立てほやほやの禁句にして禁忌なワードを端的に踏み抜いた憧れ(笑)の親友の言葉が、少女の勘に触るのとほぼ同時に堪忍袋の緒も豪快にぶち切った。

 

 少女はとても素敵な笑顔でこれまた端的に自らの心を言い表した。

 

「――はぁ?」

 

 大物な加奈子様は親友から噴き出した真っ黒なオーラに怯えながらも地雷原でタップダンスすることを止めない。

 

「い、いやだって、間違っても本物なら加奈子に憧れてるなんて言わねーし! ていうかあたしに対して素直なんて気持ちわりぃていうか不気味っつーか! 実はあやせのフリしたニセモンなんじゃねぇかってイタタタタタタタタタ! なにこれ!? 新技ッ!?」

 

 ガシっ、と。あるいは、ワシっ、と。

 

 すらりとした文字通りのモデル体型の少女は、その小さな手で加奈子の顔面を掴み、そのまま片手で吊り上げた。

 

 加奈子からすればいつもは威圧的な笑顔でハイキックを匂わせる親友の新たなる攻撃方法に戦慄するばかりだったが、小学生体型とはいえ片手で同い年の少女を持ち上げていることに周囲からのツッコミはない。理由はこの光景と少女が怖すぎるからだ。

 

 少女は、親友の情けを請う訴えを聞き流しながら、親友の顔面を覆う己の黒い手を見る。

 

 昨日、少女はとある少年から、己の認識の甘さを問い質された。

 黒い球体による秘密保持、機密漏洩に対する徹底さと、己の現実認識の甘さを。

 

 そして、それと同時に、日常というもの脆さ、世界というものの容赦の無さのようなものも思い知っていた。

 

 昨日の下校中、少女はオニに襲われた。

 幸いにも、その時は守ってくれる人が傍にいてくれたが、いつでもそうとは限らない。下校途中に遭遇したのだからあの人は案外近所に住んでいるのかもしれないが、それはオニに対しても同様だし、何よりあの少年はオフの日に連絡をしても会ってくれるような人とはとてもではないが思えなかった。

 

 だから、自分の身は自分で守らなくてはならない。

 

 その折衷案としてあやせが考えたのが、あの近未来的なコスプレスーツを上からカモフラージュすることだった。

 

 スカートから露出する部分はストッキングで、手はこうして黒い手袋で隠した。

 所詮は付け焼刃だが、周囲の友達に聞かれたならモデルの仕事で頼まれた新商品のモニターとでも言って誤魔化すつもりだった。

 

 日常は安全ではない。世界は何が起こるか分からない。

 そう痛感したからこその、これは少女なりの現実との向き合い方だった。

 

(……これも、変わったことの一つなのでしょうか?)

 

 日常が変わり始め、世界が変わり始めた。

 そして、何より、最も変わったのは自分――なのだろうか。

 

(それとも、変わってないのかな。元からわたしはこうで、こんなのがわたしで……何なのかな。よく分かりません)

 

 思考に耽り、そろそろ少女の手の中から助けを求める声が聞こえなくなってきた頃――校門の方から、聞き覚えのある男の声が聞こえてきた。

 

 

 

「――あやせぇぇぇぇえええええええええええええ!」

 

 

 

 その声に、右手がパッと開き、一人の少女の命が救われる。

 

 己の頭部を両手で持って「あれ? 大丈夫? 加奈子のカワイイ顔歪んでない?」と何かを確かめる親友の方に見向きもせずに、あやせと呼ばれた少女は、ゆっくりと声の主の方に目を向けた。

 

 そこには、校門の前で女子高生を待ち伏せるシスコンと、制服高校生の集団の中で浮きまくっているゴスロリ美少女がいた。

 

 なるほど確かに今や日常の下校中ですら、何が起こるか分からない。

 

 分かっているのは、目の前の厄介な事態には、この制服の中に着込んでいるスーパースーツは役に立ちそうもないということだった。

 

「…………はぁ」

 

 溜息しか、出なかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 女子高生の、男子高校生の、異様なものを見る目が一組の少年少女に注がれる。

 

 そんな視線の圧力を物ともせずに、ゴスロリ美少女は、放課後の高校の前で現役モデルの女子高生の名前を絶叫したシスコンに向かって囁いた。

 

「……またもやまぁ盛大にやらかしたわね。貴方、事あるごとに絶叫しなくては気が済まないの?」

「……生憎、馬鹿なもんでな。これしかやり方知らねぇんだよ」

 

 二人の目線の先には、お目当ての現役モデルが――昨夜の池袋で、異様な再会を果たした旧知の少女が、こちらを見て露骨に溜息を吐いていた。

 

「……で、どうするの? あの子やあなたの妹が通っている高校だけあって、対応が早いわよ。もう何人かが職員室に向かって走っているけれど、何かプランはあるの?」

「分かってて聞いてるだろ――いつも通りだ」

 

 その場の勢いのノープラン。

 行き当たりばったりで、後は流れで。

 

 こちらの気持ちを、思いを、考えを――全力で、押し付けるだけだ。

 

「全く。酷い負け戦に同行してしまったわ」

「何言ってんだ。それを承知で付いてきてくれたんだろ。わざわざ“戦装束”にまで着替えてくれてよ」

 

 シスコンは、隣に立つ少女と目を合わせて、へっと笑う。

 ゴスロリも、隣に立つ少年と目を合わせて、ふっと笑った。

 

 現役モデルの美少女――新垣あやせは、その肩書に恥じない美しい歩調で、こちらに向かって悠々とやってくる。

 

 シスコンは――高坂京介は、ゴスロリは――五更瑠璃は、そんな世界一恐ろしいモデルを前に、お互いに向かって手を伸ばした。

 

「……それによ、俺達は別に戦争をしに来たわけじゃねぇ」

「あら? それなら私達は何をしに来たのかしら?」

 

 決まってんだろ――そう言わんばかりに、京介は黒猫の手を握る。

 決まっているわね――そう答えんばかりに、黒猫は京介の手を握り返した。

 

「友達と、仲直りしに来たんだ」

 

 それは高坂京介にとって、避けては通れない――あの日に背負った宿命だった。

 

「………………そう」

 

 黒猫は、そんな京介の横顔をちらりと見上げて。

 

 こちらを無表情で見詰める、新垣あやせの表情を見遣った。

 

「なら……負けられないわね」

 

 黒猫は、ぎちぎちと感じる痛みに何も言わず、ただそこに立っていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 新垣あやせは、そんな二人の不審者を――嘲るような瞳で見ていた。

 

 正確には、そんな一人を――そんな男を、侮蔑するように。

 

(……あなたは、この期に及んで、そんな真似が出来るんですね)

 

 寄り添うように立つ二人に。妹ではない――別の女の子の手を握り、別の女の子を前に戦おうとしている姿に。

 

 新垣あやせは、いっそ哀れむような瞳を向ける。

 

(……あなたは、分からないでしょうね。ここまで行くと、鈍感という言葉を使うことすら生温いような鈍さで、愚かさです)

 

 かつて好きだった、初恋の人に見せつけられる愚鈍さに、目が眩まされたかのように、あやせは目を細める。

 

(……あなたには、分からないでしょうね。……あなたの隣に立つ女の子が、どんな気持ちでその手を握っているのか)

 

 高坂京介には分からない。高坂桐乃には分からない。あの兄妹は、きっと分からない。

 

 そして、新垣あやせには、この少女の気持ちも――分からない。

 

(……黒猫さん。……どうしてあなたは――)

 

 あやせは黒猫に向かって――哀れむような、問うような目線を向ける。

 黒猫はあやせに対して――ふっと、微笑みを返した。眉尻を下げた、複雑な笑みを。

 

 そんな少女達の一瞬のやり取りを余所に、一人の少女があやせを追い越し、京介に向かってズビシッと指を突き付けた。

 

「あぁー! どっかで見た地味顔だと思ったら京介じゃん! どのツラ下げて加奈子に会いに来てんのぉ?」

 

 過去の因縁だとか(わだかま)りだとか気まずさだとか。

 そういうことを一切感じさせない様子のフラれた女が、フッた男に向かってムカつく笑顔ですり寄ってくる。

 

 器が大きいのか単にアレなのか反応に困る加奈子の様に、京介は一瞬頬を引き攣らせながらも言葉を返す。

 

「お、おお。……久しぶりだな、加奈子」

「おう! あたしがフラれて以来だな、京介!」

「…………」

 

 触れにくい地雷(わだい)を自分から積極的に踏み抜いていくスタイル。

 思わず停止する京介を、下からのアングルでこれ以上ないくらいにムカつく笑顔で加奈子は煽る。

 

「あれあれ~? なぁ~に固まっちゃってんのぉ? あんだけ威勢よく振っておいて、もう加奈子が恋しくなったわけぇ? ざぁんねぇん! もう加奈子の隣にお前の席ねぇから! 加奈子に会いたかったら必死こいてチケット買うか、あたしらのマネになってこき使われるか、嫌な方を選びな!」

「うるせえよクソガキ! お前、俺にフラれてからウザ度増してね!?」

 

 JKになってからクソガキっぷりに磨きがかかった加奈子に、色々あって大学生になってから更に牙の抜けた感のある京介は押されっぱなしだった。

 

 少しの間、それを黙って見ていたあやせと黒猫だったが、段々と周囲の高校生達の目が無視できないものになっていき、そろそろ職員室から教師がやってくる頃合いだと判断して、ある種の兄妹喧嘩のようなそれを止めるべく口を挟んだ。

 

「そこまでにしなさい、メルルもどき」

「あぁ? なんだ、頭いっちゃってる京介の愛人じゃん」

「黙りなさいスイーツ3号」

「あぁぁ?」

「――ふっ」

 

 京介と楽しそうにじゃれ合っていたのを邪魔されたからなのかそれとも単に致命的に相性が悪いのか(恐らくは圧倒的に後者だが)、僅か二ターンの会話で険悪な雰囲気になる黒猫と加奈子。

 

 加奈子は京介に向かって黒猫を指さしながら言う。

 

「え? 何? 桐乃と別れたってのは聞いていたけど、今度はこのヤミネコと付き合ったわけ? ……お前、そんな奴だったの? 流石にセッソーなくね?」

「違う! っていうか、何でお前、黒猫が闇猫になったの知って――」

「――あら? 来栖加奈子。あなた、先輩のことなんてもうどうでもいいんでしょう? なら先輩が誰と付き合おうと関係ないのではなくて?」

「はぁ? お前、何言っちゃってんの? 確かにあたしはもう京介なんてどうでもいいけどよぉ。仮にも加奈子が告った男が、フッた女にさっさと乗り換えるようなクズになるなんて、ムカついて当たり前じゃね?」

 

 加奈子が軽蔑の視線を京介に向けて放った言葉に、京介はこれまでのような口調で反論することが出来ず、気圧される。

 

 だが、その横から、冷たく怒る少女の言霊が加奈子に向かって放たれた。

 

「……撤回しなさい。あなた如きに、先輩の何が分かるの?」

 

 黒猫の久しく聞いていない本気の怒りに――否。

 恐らくは京介が初めて見る黒猫の表情に、京介は先程の加奈子以上に気圧される。己に向けられたものではないにも関わらず。

 

 だが、正しくそれを向けられている加奈子は、そんな黒猫に向かって細めた目で、とてもつまらなさそうに端的に言った。

 

「……そういうアンタは分かんのかよ?」

 

 ()()()()してるだけじゃね?

 

 瞬間、その言葉に沸騰したように、黒猫の右手が加奈子の頬に向かって振るわれる。

 

 が――黒い小さな手が、それを優しく掴んで止めた。

 

「――ダメですよ。黒猫さん」

 

 黒猫はあやせを睨み付けるが、あやせは無表情でそれを受け止める。

 しばし一方的に黒猫が睨み付ける形になるが――やがて黒猫が俯き、呟く。

 

「……ごめんなさい」

「……いいえ」

 

 そして、あやせが黒猫の手を放すと、あやせは京介を見て言った。

 

「あなた達は、わたしに話があるんですよね」

「……あぁ」

 

 京介はそのまま加奈子に目線を移すと、加奈子に向かって言った。

 

「悪い、加奈子。俺達はあやせに会いに来たんだ。席、外してくれねぇか?」

「はー? ヤミネコに続いてあやせともヨリを戻そうってわけ? っていうか、どのツラ下げて加奈子さまに命れ――」

「――加奈子」

 

 京介は、真っ直ぐに頭を下げた。

 

 周りを見ず知らずの高校生に囲まれた中、隣で自分がフッた女の子達が見遣る中、真っ直ぐに、深々と。

 

「……いつか、お前にも謝りに行く。……謝って済むようなもんでもねぇし、そもそも謝るようなもんでもないが……それでも――俺は、必ずお前らと向き合いに行く」

 

 でも、それは今ではない。

 

 今、京介が向き合わなくてはならない少女は、来栖加奈子ではなく。

 

「……だから、悪い、加奈子。……俺は――」

「あぁ。あぁー。もういいよ、めんどくせー。好きにすれば? 加奈子さまには関係ねぇし~」

 

 じゃあな、あやせ。またね、加奈子。

 親友同士が自分達だけに再会前提の別れの挨拶を交わし、加奈子は京介達に背を向ける。

 

 そして加奈子は黒猫を一瞥し睨み合うと、京介に向かって捨て台詞を残した。

 

「……京介さー」

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 その言葉に、京介は何も答えない。

 

 加奈子もまた、どうせ京介は何も答えないと分かっていたかのように、返事を待たずにそのまま帰っていった。

 

 京介が、黒猫が、あやせが、そんな彼女の小さな背中を見送っていると、あやせが空気を変えるように提案した。

 

「場所を変えましょうか」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そしてやってきたのは――やはり、いつもの公園だった。

 

「好きですねぇ、ホント」

 

 幾度となく、新垣あやせが高坂京介を呼び出した公園。

 人生相談と称した無茶ブリを、無茶苦茶な理論で並べ立てて付き合わせた――思い出の公園。

 

「……そういえば、わたし達は昨日も来ましたよね、この公園」

「……そうね」

 

 あやせのくるりと振り向きながらの言葉に、黒猫は微笑を返す。

 

 慟哭と、号泣。

 曇天の空の下で行われた初恋の卒業式。

 

 それは、たった一日前のことだった。

 

 黒猫はとてもではないが信じられない。

 自分と違って()()()()()()()()()()筈の少女が、忘れられた筈の少女が。

 

「不思議ですね。あの日から半年近く会ってなかったのに、二日続けてこうして会うなんて」

 

 天敵であった筈の自分に天使のような微笑みを向け。

 

 初恋の相手だった筈の男を一切見ずに、存在すら無視するように一瞥もしない。

 

「…………そうね」

 

 黒猫は、目の前の少女を見て、今再び現実を呪う。

 

 どうして――この子が、こんな目に遭うのだろう。

 

 自分と違って戻れた筈の少女は――誰よりも幸せにならなくては、ダメなのに。

 

「――あやせ。話をしようぜ」

 

 そして、ここまでの道中も、今日も誰もいないこの公園の中に入った後も、一切目も向けられず声も掛けられなった京介が、無理矢理に自分を認知させるべく話を切り出す。

 

 あやせは、そこで初めて京介に目を向けて――何の憎まれ口を叩くこともなく、淡々とベンチに座った。

 

「そうですね。手早く済ませましょう。あ、黒猫さん達も座りますか?」

「…………いいえ、大丈夫。貴女の言うように、手早く済ませるから」

 

 黒猫は、あやせの言葉に答えた後、隣に立つ京介に目を向けた。

 京介は黒猫と目を合わせ、頷く――理解しているからだ。思い知っているからだ。

 

 ここまでの道中、黒猫が京介に同行したのは、あくまで黒猫もあやせとしたい話があったからに過ぎない。京介は黒猫が共にこうして立ってくれていることに力強さを覚え、感謝しているけれど、それでも、これだけでも本来は固辞すべき増援なのだ。

 

 今からすべきことは、高坂京介が、高坂京介自身で行わなければならない――贖罪だ。

 

 目の前のベンチに座る少女に対しての、向き合わなくてはならない京介の罪科だ。

 天使のような微笑みで――堕天使のように昏い瞳で、少年を見上げる少女が、京介の罪だ。

 

 真っ暗な瞳に、まるで鏡のように自分が映る――己の罪を突き付けるように。

 

「……あやせ」

 

 京介は喉から言葉を搾り出す。その時、初めて自分の声が震えていることに気が付いた。

 

「はい、何ですか?」

 

 あやせは微笑む。まるで、緊張しなくてもいいんだよと、初対面のファンにするように。

 

「―――ッ!」

 

 京介は、その微笑みに歯を食い縛った。

 

 そして――勢いよく、頭を下げて、謝罪する。

 

 己が罪を――謝った。

 

 

「あやせ――俺が、悪かった」

 

 

 その姿を見た、二人の少女の表情を。

 

 

 高坂京介は、見ることが出来なかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 すっかり日が暮れた路地を、新垣あやせは一人で歩いていた。

 

「…………」

 

 既に、高坂京介とも、五更瑠璃とも別れた彼女は、真っ直ぐに家に帰ることもせず、かといって明確に目的地を決めるわけでもなく――宛てもなく、彷徨い歩く。

 

 まるで、何かを待っているかのように。まるで、誰かを待っているかのように。

 

 または――何かに、迷い込んでいるかのように。

 

(……何をしているんでしょうか。わたしは)

 

 もしかして――待っているのだろうか。もしかして――迷っているのだろうか。

 

 だとしたら――どちらにせよ、正気ではない。

 

「……いえ、それは、今更ですね」

 

 あやせは歩きながら己の手を見つめる――黒い手を。

 

 緋く染まった手を。真っ赤に(よご)れた手を。いつでも戦争に行けるように、準備されている手を。

 

 天を仰ぐ。よく晴れた日に相応しい――美しい茜色に染まった空を。

 

 徐々にこの美しい茜を、真っ黒な夜が塗り潰していくのだろう。

 (キャンバス)はいつも同じなのに、その色を青に、茜に、灰に、白に、そして黒に変えていく。

 

 それでも空は空だ。変わっていない。不変だ。

 

 なら――新垣あやせは?

 

 白い新垣あやせも。黒い新垣あやせも。赤い新垣あやせも。

 どれも新垣あやせ(わたし)なのだろうか。新垣あやせを名乗れるのだろうか。

 

 偽物ではない――本物なのだろうか。

 

 例え――どれだけ変わり果てようとも。

 

 変わっていない――只の、一面なのだろうか。

 

「……会いたいな」

 

 無性に会いたかった。無性に戦いたかった。無性に浴びたかった。

 

 手を伸ばす――黒い手を、(あか)い空に。

 だが、新垣あやせを地獄へと誘う電子線は、一向に降り注がない。

 

 例え――壊れた天使が、どれだけ堕天を望もうとも。

 

「…………ふう」

 

 あやせが息を吐き、手を下すのと同時に目線も落とす。

 

 すると、いつの間にか普段自分が殆どうろつかないエリアへと迷い込んでいることに気付いた。

 

(……といっても、徒歩で来れる範囲ですし。最悪、駅に辿り着くことが出来れば、数駅分の電車で問題なく帰れるでしょう)

 

 日がだいぶ暮れてきていることだし、そろそろ帰宅に向かおうかと、あやせがスマートフォンのナビ機能を使おうと再び目線を周囲の風景から外した所で――ふと通りすがった定食屋から怒号と共に人間が飛び出してきた。

 

「テメェいつまで居座ってやがる!! もうとっくにチャレンジはクリアしてんだよッ!! そんなに食べたきゃどっかのバイキングにでも行きやがれ!!」

「い、いや、あの、この辺りのバイキングはもう滞在三日目にして行き尽くしてて……今朝も寄ったらもう既に出禁になってて……」

「文字通りの海賊(バイキング)かテメェは!! オタクのせいでうちはしばらくカキフライは出せねぇんだ! 漏れなくウチもテメェは指名手配(出禁)にさせてもらう!」

「そ、そんな! もう大食いチャレンジをやってる店はこの辺に他にないのに! あ、だったら生で! 生でいいから! たぶん私ならパック詰めのカキでも問題なく消化出来る――」

「二度と来るなバケモノがぁッ!!」

 

 恐らくは店主と思われる壮年の男性が塩代わりとばかりに加熱用と書かれたパック詰めのカキを店から投げ出された謎の少女に向かって投げつけた。

 

「…………」

 

 あやせはそんな一部始終を見ながら、その視線を店外の壁に貼り付けていた『巨大カキフライチャレンジ! 一個食べ切る毎に賞金一万円! けれど食べ切れなかった場合、チャレンジ代金五千円をいただきます!』と書かれたポスターを涙ながらに引き裂くように剥がす店主の背中に向けた。

 

 やがて剥がしたポスターで涙を拭った店主は、そのまま荒々しく店内へと戻り――そして札束を持って再び現れ、加熱処理用生ガキを地面に頭をつけながら犬のように食らっていた少女に投げつけ、そのまま泣きながら店内へと戻っていた。

 

 暖簾をひったくり営業中の看板を裏返しガチャと鍵を閉めるまでの一連の動作を流れるように行った店主を呆然と見つめながら、その視線を、札束には目もくれずに生ガキを野犬のようにかっ食らう少女へと向ける。

 

(……あの札束……ポスターに書かれてたラグビーボールみたいなカキフライを……この人いくつ食べたんだろ)

 

 しかも、ポスターには制限時間は一時間と書いてあった。

 あの店主の態度はどうかと思うが、断片的に得られる情報だけでも、この人の胃袋は化物呼ばわりされてもおかしくないのかもしれない。

 

「あぁ……やっぱりカキって最高……カキフライの弾丸になら撃たれてもいいって思ってたけど、生ガキに溺れるのも悪くないかも……ちょっとジャリジャリしてるけど」

「…………」

 

 訂正。胃袋とか抜きにしてこの人は化物かもしれない。

 

 しかし、人通りは少ないというか今のところ周囲にいるのはあやせだけとはいえ、この姿は同じ女性として余りにも見るに堪えない。

 

 そう。この化物染みた色々とヤバい人は――女性なのだ。

 しかも、年は見るからに若く、女子高生の自分と比べてもそう離れていない。下手をすれば十代。

 

 怪物染みた胃袋を持つとは到底思えないようなスリムな人で、髪は少しクセのある金髪ショート、動きやすさ重視なのかラフだけれどそれがかえって活発な印象を抱かせるコーデ。

 

 少なくとも先程の店主との一部始終を聞いていなければ、このようなあんまりな有様を見せてはいけないような人に思える。下手をすれば何かの事件があったかのように見えてしまう。

 

「……あ、あの、大丈夫ですか?」

 

 あやせは勇気を出して声を掛けた。少なくとも、地面に落ちた生ガキを舌で掬い取ろうとする年上女性に声を掛けるのは、あやせをしても勇気のいる所業だった。

 

 ごくんと最後の生ガキを丸呑み(!?)してから、謎の女性はあやせに向かって微笑みながら答えた。

 

「ありがとう。大丈夫。ちゃんと全部食べたから」

 

 あやせが大丈夫と聞いたのはそこではない。少なくとも地面に落ちた加熱用生ガキを食い尽くすのは大丈夫ではない。

 

 そんなことをあやせは思っていたが、必死に顔には出さず、社交辞令だけを言ってその場を後にしようとする。

 数々の変態に巡り合ってきたあやせだったが、そんなあやせを以てしても、目の前の女性は関わり合いになりたい人種ではなかった。第一印象がアレ過ぎた。

 

「そ、そうですか。それはよかったです(何もよくはないけれど)。えっと……それじゃあ、わたしはこれで」

 

 あやせはそのまま女性に背中を向けて早々に立ち去ろうとする。

 

 が――女性はゆっくりと立ち上がり、あやせに向かって、こう言った。

 

 

「――そんなに焦って帰らなくても、今日は戦争(ガンツミッション)はないよ。新垣あやせちゃん」

 

 

 あやせは足を止め、バッと振り返る。

 

 そこには布に包まれた何段もの重箱を持って、こちらに向かって笑顔を向ける赤い髪飾りが特徴の女性がいた。

 

「……あなたは――」

「心配しなくても星人じゃないよ。警察でもなければ、マスコミでもない。だから安心して。敵じゃないから」

 

 本当は重箱(コレ)を食べながらお話したかったんだけど……我慢しきれずに食べちゃったから――と言いながら、女性は笑う。

 

「まぁ色々と摘まみ食い(よりみち)しちゃったせいで時間もないし、ある意味ちょうどいいのかもね」

「……話が見えないのですが。改めて聞きますけど――」

 

 あなたは――何者ですか?

 

 片足を引き、腰を落として、睨み付けながらあやせは問うた。

 

 誰一人として通行人はおらず、幾つもある店からも誰も顔も見せない、そんな通りで、一人の少女と一人の女性が向かい合う。

 

 女性は、少女の殺気を笑顔で受け止めながら――ポケットからバッジを取り出した。

 

 それを襟元へと装着しながら、謎の美女は言う。

 

 

「桂木弥子――探偵だよ」

 

 

 謎の探偵の襟元に光る――地球の上に『CION』という文字が浮かぶバッジに、あやせの目が一瞬奪われる。

 

「話をしよう。アナタの抱える全部の『謎』を預かるよ。だからと言ってはなんだけどさ」

 

 

 あなたに私から『依頼』があるの。

 

 

 そう――目の前の『探偵』は言った。

 




シスコンは黒猫と共に堕天使との聖戦に挑む――そして、探偵は、堕天使を更なる深淵へと誘う。


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Side渚――①

――殺してでも、救ってみせる。


 

 砂嵐が吹き荒れる画面を、いつまでも呆然と眺めていた。

 

(……………あれは、何だったんだろう?)

 

 今日――否、昨日の放課後、茅野カエデ――磨瀬榛名――雪村あかりは、同級生が消失する現場を目撃した。

 

 危うい彼に、壊れてしまいそうな彼に、何も言ってあげられなかったことが苦しくて、先に帰った彼を必死に探した末に、人気のない公園で、件の少年が見知らぬ大人と話し込んでいる場面に遭遇した。

 

 思わず姿を隠し、茂みの中でしゃがみ込みながら、彼にどんな言葉を掛ければいいのかを思案していく。

 あの大人と別れた後で、今度こそ彼と向き合い、そして言葉を届けねば、と。

 

 必死に浮かび上がらせては、消えていく。

 そのどれもが相応しくないような気がして、真っ暗な闇の中を模索していく感覚に陥っていく内に――光が降り注いだ。

 

 光は、彼女の心ではなく、背後を照らし出していて――その先には、彼がいた。

 

 

 潮田渚という少年に、真っ直ぐに降り注いでいた。

 

 

 呆然とし、目を疑った。だが、本当に目を疑ったのは、そのほんの数瞬後。

 

 消えたのだ。

 

 頭の先から、ゆっくりと、まるで天に還るかのように。

 

 

 そう――テレビ画面の向こう側の、あの地獄の池袋で、正体不明の黒い衣を纏った謎の少年と美女と、同じように。

 

 

(………………渚)

 

 茅野は、部屋の隅で小さな体を更にキュッと縮こませながら、瞼の裏にあの壊れかけの少年を思い浮かべる。

 

 人が消える。まるで神に隠されたように。

 

 そんな現場を目撃してしまった混乱は、時間と共に少しずつ落ち着いていった。

 

 池袋大虐殺という、同じようにこの世のものとは思えないショッキングな映像を見せられたことも一つの要因だろうが、幸か不幸か、その映像の最後で()()()()()()()を確認できた彼女は、ようやく現実と向き合う覚悟を固めつつあった。

 

 渚の身に、何かが起きている。

 

 昨朝――唐突に、より危うく、より恐ろしくなった渚。

 

 昨夕――渚を消し去った、天から降り注ぐ謎の光。

 

 昨晩――その謎の光によって同様に消失した、黒い衣を纏う怪物を屠った戦士達。

 

 何かが起こっている。渚の周りで、そして、この日本で。

 

(……………お姉ちゃん……っ)

 

 漠然とした、それでいて強烈な恐怖が茅野を襲う。

 何が起こっているかは分からない。それでも、きっと何か起こり始めている。

 

 茅野は反射的に己の最も頼れる安心源に救いを求めるが、先程から何度も、何度も掛けても、その番号に電話が繋がることはなかった。

 

 愛する姉と連絡がつかない。父親とは既に向こうから連絡が入ってきていてお互いの無事は確認している――が、父親も、姉とは連絡がつかないらしい。

 

 姉――雪村あぐりの安否。それも、あかりの胸を掻き乱す一因だった。

 苦渋の思いで連絡を試みた、姉の婚約者の柳沢の番号も、同じように音信不通であったことも色々な不安を搔き立たせる。

 

 だが、このまま部屋の隅っこで染みになっている場合ではない。

 本来の――雪村あかりとしての明晰な頭脳が、先程から恐ろしい推理を、けれど、決して無視できない可能性を、潮田渚の同級生である茅野カエデとしての自分に突き付け続けている。

 

 地獄という言葉以外では形容出来ない程の地獄だった、怪物の怪物による怪物の為の処刑場と化した池袋。

 やがて、そんな怪物達ですら、更なる怪物により処刑され始め、混沌の極みとなった戦争の終盤。

 

 それはまるで、お伽話の英雄のようだった。

 

 怪物を退治して、戦争に終止符を打った、返り血を染み込ませた漆黒の衣を纏う剣士。

 そして、そんな少年の仲間と思われる、同じように全身に黒衣を纏った美女。

 

(………………怪物は……あの真っ黒の剣士を………“ハンター”と呼んだ)

 

――ハンタァァァァァァァアアアアアアアアアアアアッッ!!!!

 

 まるで積年の恨みを晴らすかのような、宿命の天敵を憎むような、そんな怨嗟の咆哮と共に、黒衣の少年に襲い掛かっていった。

 

 そして、少年は、そんな怪物を一刀に伏せて、こう言ったのだ。

 

――早く逃げろ。アレは……俺が倒すから

 

 黒の少年はボロボロだった。

 

 牛頭の怪物と戦う前から、まるで、ずっと戦い続けてきたかのように。

 

 それでも、怪物へと向かっていった。まるでそれが使命であるかのように。

 怪物と戦うことが、まるで自分達の役目であるかのように。

 

 ただ――その為に、そこにいるのだと言わんばかりに。

 

「………………ッ」

 

 思ってしまう。どうしても、考えてしまう。

 

 あの黒衣の戦士達が、あの怪物達を駆除する為に、あの地獄の池袋に参上したのだとしたら。

 

 あの池袋が、黒衣の戦士達と、鬼のような怪物達の、戦争の、戦場だったのだとしたら。

 

 あの黒い少年と、あの黒い美女と同じように――あの謎の光によって消失した渚は。

 

 あの謎の光の関係者である渚は――もしかしたら――

 

 

――あの“黒衣”の、関係者でもあるのか?

 

 

「………………ちがう、よね?」

 

 そうではないと、思い過ごしだと、考え過ぎだと、そう言って欲しい。

 

 でも、消えない。

 一度思い浮かべてしまったら、一度辿り着いてしまったら、その想像は消えなかった。

 

 危うい渚が、あの冷たい眼差しの渚が、壊れてしまったかのような笑顔の渚が。

 

 あの近未来的な黒衣を纏って、返り血を浴びて――地獄の池袋で佇む姿が。

 

 脳の裏に、こびり付いて消えなかった。

 

「――――ッ!!」

 

 違う。関係ない。渚は、あの黒衣達とは関係ない。

 

 ただ続けて目撃してしまった、似たような超常現象を強引に――繋げてしまっただけだ。

 同級生の神隠しと、あの黒衣の二人の消失は、きっと似て非なるものに違いない。

 

 渚の変貌も、夕方に渚本人が語ったように、母親とのいざこざが原因だ。それだけだ。そうに違いない。だから、これはきっと思い過ごしなのだ。

 

 あの穏やかな少年が、あの危うい少年が、あんな、地獄の、地獄の、地獄の地獄の地獄の池袋に――いたかも――なんて――

 

「………ちがう………よね………………」

 

 声が聞きたい。

 寝惚けた声でも、不機嫌な声でもいい。

 

 どうか、こんな時間に無理矢理起こされた――そんな対応であって欲しい。

 

 そうじゃなくても、ただ声を聞くだけで。

 

 何処にも行っていないのだと。消えてなどいないのだと――死んでなどいないのだと、そう言って欲しい。そう聞かせて欲しい。

 

 ただ――あなたの声が、聞きたい。

 

「渚――」

 

 茅野の指が、携帯端末の、潮田渚の電話帳のページを呼び出す。

 

 そして、そのまま、縋るように電話を掛けようとして――

 

 

「――やめなさい。今度こそ、本当に消されてしまうかもしれませんよ。彼ではなく、あなたがね」

 

 

 パシッ、と。携帯端末の画面を覆い隠すように、綺麗な手が置かれた。

 

 傷どころか染みすらもない。穢れ一つないように見える――殺し屋の手が、置かれた。

 

 少女はハッと顔を上げる。そこには、満月の光を浴びて輝く――

 

 

――『死神』の、笑顔があった。

 

 

 茅野カエデ――雪村あかり――磨瀬榛名。

 三つの顔と、三つの名前を持つ少女は、この日、名も無き『死神』に、微笑みかけられた。

 

 呆然の顔を崩せない天才子役と、無色の笑顔を崩さない殺し屋。

 

 そんな二人の背後で、音もなく開けられた窓ガラスから吹き込む初夏の風が、ゆらゆらと静かにカーテンを揺らしていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 静かだった。

 

 深夜の暗室。窓から差し込む月光。カーテンを揺らす涼風。

 

 そんな世界で、その『死神』は静かに微笑んでいた。

 

 まるでそこにいるのが当たり前であるかのように、溶け込んでいた。

 こうして面と向かっても、一切の恐怖心が湧いてこない。

 

 そんな感覚を――茅野カエデは知っている。

 雪村あかりも、磨瀬榛名も知らなくても、茅野カエデだけは知っている。

 

 どれほど異常でも、ただそこにいるだけで、あらゆる警戒心を解かされてしまう。

 

 受け入れてしまう――隙を、無防備を、晒してしまう。

 

 そんな存在を、そんな才能を――少女は、知っている。

 

「初めまして、茅野カエデさん。初めまして、磨瀬榛名さん。初めまして、雪村あかりさん」

 

 闇のように黒く、雲のように白く、海のように青く、血のように赤い男は。

 

 どんな色にでも染まり、どんな色にも見えない何かは、微笑みながら言う。

 

「私は、『死神』と呼ばれる殺し屋です」

 

 謎の男は――『死神』は――殺し屋は。

 

 そっと、茅野の手の中の携帯端末の電源を落とし――外部との連絡手段を遮断して。

 

 立ち上がり、窓を閉め、カーテンを閉めた――部屋を閉め切り、密室に閉じ込めた。

 

 唯一の光源である満月の月光が途絶える瞬間、『死神』はこう微笑む。

 

「――今からあなたに、授業をしましょう」

 

 それは――とある黒い球体と、一人の少年の物語です――と、男は語り始める。

 

 見知らぬ殺し屋と、真っ暗な閉鎖空間に二人きり。

 

 そんな異常な教室で行われた『死神』の個人授業は、茅野カエデという少女を、容赦なく――この暗室よりも暗い、満月の光すら届かない夜の世界へと引きずり込む。

 

 怪物が跋扈する戦場を、闇のような黒衣を纏った狩人達が、殺意を迸せながら駆け回る。

 

 涙を流しながら、恐怖に怯えながら、それでも戦士達は怪物と戦う。

 

 見たこともない(スーツ)と、見たこともない武器だけを頼りに、見たこともない怪物へと立ち向かう。

 

 殺して、死んで、生き返って――ただ、戦い、戦い、戦い続ける、傀儡(おもちゃ)達の物語。

 

 そんな真っ暗な夜の物語を、少女はこの時――知ってしまった。

  

 

 

 

 

 空が黒から、段々と青を取り戻し始めた頃。

 

 授業は終わり、チャイム代わりにカーテンが大きく開かれた。

 

 続けて窓を開け、密室を破る男に、項垂れた少女はぽつりと言った。

 

「………………あなたは、誰なの?」

「私は『死神』です」

 

 少女から平和と平穏を奪い去り、殺意と絶望に満ちた世界へと誘った男は言う。

 

「………………あなたは、何が……したいのッ?」

「私は、ただ教えたかっただけです」

 

 とある一人の壊れかけの少年が、どんな物語に巻き込まれているのかを。

 

 小さな体で、小さな生命で――どのような地獄で、微笑んでいるのかを。

 

「……あなたはッ! 私に――何をさせたいのよッ!」

 

 少年と同じくらい小さな体の、小さな生命の、小さな少女は、壊れそうな程に大きく叫ぶ。

 

 涙を浮かべながらも、燃えるような瞳で、世界一恐ろしい殺し屋を睨み付ける。

 

 美しい殺し屋は、美しい笑顔で、美しい声で――『死神』のように、冷たく告げた。

 

「それはあなたが決めることです」

 

 何処からともなく、花びらが舞った。

 

 手品のように唐突に花束を取り出した『死神』は、それを勢いよく放り上げ、部屋中を美しい花で満たした。

 

「っ!?」

 

 そして、茅野が目を開けた時には――『死神』の姿は消えていた。

 

 夜が明けるまで同じ部屋で、それも密室で対話していたのに、去って行くこの瞬間まで、花束の存在どころか、花の香りにすら気付かなかった。

 

 全てが手中だった。あの男の、あの殺し屋の――あの『死神』の。

 

 そして、これから先、茅野がどういった行動に出るのか――この思いも、この想いも、きっと奴の、思惑通りだ。

 

「………悔しいなぁ」

 

 屈さないと、誓った筈だった。

 

 子供を思うがままに操り、自分の理想の偶像として育て上げ、悦に浸る大人達に、絶対に屈さないと、そう誓ってきた筈だった。

 

 例え、それが自分の我が儘なのだとしても、自分を殺されたくないと、戦い続けてきた筈だった。

 

 けれど――今日、茅野カエデは、雪村あかりは、磨瀬榛名は、徹底的に敗北した。

 

(…………でも………死なないッ! 私は、まだ――殺されてなんかいないッッ!!)

 

 少女は唇を噛み締め、嗚咽を堪えながらも、心の中で炎を燃やす。

 世界一の殺し屋だろうと、この決意だけは殺させやしない。

 

 あの『死神』が自分の元を訪れた理由。目的。それは理解出来る。

 そして、自分がその『死神』の、思惑通りに動かなくてはならないのだということも。

 

 これから先、きっと自分は何度となく、あの『死神』と戦わなくてはならないのだろう。そして、幾度となく殺される。

 

 でも――死なない。何度殺されようと、絶対に死なない。

 

「……私は、負けないよ………渚」

 

 あの『死神』が、渚を真っ暗な闇の世界に引き擦り込むというのなら。

 この私が、渚を明るい光の下の世界に何度だって引き戻してみせる。

 

(……それが……あの時、何も言えなかった……出来損ないのヒロインの……私の、責任だから)

 

 雪村あかりは、磨瀬榛名は、この日――茅野カエデとして、心を、固めた。

 あの時に踏み出せなかった一歩を、踏み出す為に、立ち上がった。

 

 目を瞑り、思いを馳せる。

 

 その脳裏には、壊れかけの背中が見える。

 

 返り血で染まった黒衣を纏った、潮田渚の姿が見える。

 

 真っ暗な世界で、怪物達の亡骸の中で、血が滴る黒いナイフを手に、綺麗な笑顔で佇む――(殺し屋)が。

 

「待ってて。渚」

 

 茅野は、その幻影に手を伸ばす。

 今は何も掴めない。ただ空を切るだけだ。

 

 それでも少女は、涙を拭い、立ち上がる。

 

「ごめんなさい」

 

 私は、あなたから逃げた。

 私は、あなたから目を背けた。

 私は、あなたを――殺して、しまった。

 

 あの分岐点(シーン)は、茅野カエデが何も出来なかったあの場面(シーン)は、きっとそれほどまでに重かった。

 

 私は、あなたを、正しく導くことが出来なかった。

 

 私は、きっと、間違えた。

 

「ごめんなさい」

 

 取り返しはつかないのかもしれない。

 もう元には戻せないのかもしれない。

 

 だけど――私は、あなたを救いたいと思ってしまったから。

 

 罪悪感かもしれない。責任感かもしれない。

 贖罪かもしれない。懺悔かもしれない。

 

 それとも――それでも――

 

「――そうと決めたら、私は一直線だから」

 

 誰にも文句は言わせない。あの『死神』にだって、渚にだって、言わせない。

 

――渚君のことを、頼まれてくれないかな

 

 初めは姉の頼みだった。

 だけど、ほんの数ヶ月だったけれど、E組で、茅野カエデとして過ごした日々は、確かに雪村あかりの中に生きている。

 

 失くしたくない――壊されたくない――殺されたくない。

 

 例え、世界一の殺し屋が相手でも、未知なる黒い球体が相手でも、私は只のクラスメイトの潮田渚を取り戻す。

 

 

『――君が、潮田渚くん?』

『えっ? そうだけど……あ、もしかして君が――』

『そう、今日から転入なの。……ていうか、髪長いね』

『あー……個人的には短くしたいんだけど……色々あって、切れないんだよね』

『そうなんだ。じゃあ――こういうのは、どう?』

 

 

「……私は、あなたを――」

 

 茅野カエデは、その手に二つのヘアゴムを持って――己の髪を、二つに括る。

 

 両サイドの側頭部。長い髪を、持ち上げるように。

 

 あの日――彼に初めて会った時――彼の髪を、そうしてあげたように。

 

 

『――あ。……これ』

『どう? 私と一緒! 何なら予備のヘアゴムもあげるから』

『えっと……ありがとう。君は――』

 

『私の名前は――茅野カエデ。よろしくね、潮田渚くん!』

 

 パチンっ、と、髪を結う。

 あの場所へと――E組へと入る為に染め上げた緑色の髪を、あの少年とお揃いの形に。

 

 そして、言う。

 はっきりと、力強く。

 

 演じることに全てを捧げた少女が、偽りなき台詞(さつい)を口にする。

 

「――殺してでも、救ってみせる」

 

 そして少女は――手の中の、小さな黒い球体を握り締めた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 夜が終わり、朝が始まる。

 

 そんな狭間の世界の、とある住宅街の屋根の上で、二人の男――否。

 

 一人の優男と、一匹の雌のジャイアントパンダが対話していた。

 

「――いいのですか? もうすぐ夜が明けますよ。急いで檻の中に戻らないと、この間のようにニュースになってしまうのでは?」

「もはや日中を動物園のマスコットとして過ごすようなフェーズではないだろう。それに心配せずとも、もうすぐ復旧する公共の電波は、今日一日は昨夜の池袋の件でもちきりだ」

 

 パンダの妊娠がワイドショーで取り上げられるような、平和な時代は終わりを告げたのだよ。……残念ながらな――そう、近未来的なスーツを装着した、ジャイアントパンダは渋い声で告げる。

 

「……私と接触する時間はあるのですか?」

「はぐらかすな。お前の言う通り夜明けが近い。檻に戻らずとも、やるべき仕事は山積みなのだ。これから直ぐに本部へと戻らねばならん」

「ふっ。私からすれば、そこも檻と変わらないように思えますが」

「残念ながら職場の愚痴を零す時間も惜しい。単刀直入に問うぞ、『死神』よ」

 

 男よりも高い屋根の上から、見下ろすようにパンダは言う。

 

 

「我々の――CIONの、仲間になりたいというのは本当か?」

 

 

 静かに問い掛けたその言葉と共に――パンダのスーツから()が飛び出す。

 

 メタリックなロボットアームは掌部分に水晶のような球体が埋め込まれていて、それはまるで瞳のように不思議な引力を持っていた。

 

「…………」

 

 男は――『死神』は、ただスッと背筋を伸ばして、いつも通りの微笑みを向けるだけ。

 

 パンダは続いて口を開く――そして、同時に、スーツから大砲を出現させた。

 

「……今まで、都合四度。私の誘いを拒み、柳沢の追っ手を退け続け、組織から放置認定を獲得した男が、どうして今になって、我々の元に馳せ参じる心持になった? 貴様は殺し屋だ。貴様は悪だ。当然、心からの忠誠など求めていない。正義の味方も求めてはいない。思惑もあるだろう。策謀を巡らすのだろう。それでも、私はお前の『無敵』が欲しかった。……だがな、『死神』よ――」

 

 ロボットアーム。大砲。ドリル。サーベル。銛。レーザー。ミサイル――。

 動物園のアイドルの愛くるしい全身を、禍々しい武器、兵器、凶器で彩り、七色に武装するジャイアントパンダ。

 

 かつてCIONは、人間並みの知能を持つ動物兵器を生み出すという目的の元――動物の身体に人間の脳を移植するという狂気の実験(プロジェクト)に挑んだことがあった。

 

 人間が唯一、他の動物よりも勝るもの。

 現地球人類の座を獲得する勝因にまでに至った武器――知能。

 即ち、頭脳――脳。

 

 それを、CIONは動物に授けようとした。

 人間の唯一最大の武器を、鋭い爪を持ち、恐ろしい牙を持ち、強靭な筋肉を持つ猛獣達に授け、人間よりも凶悪な『戦士』を量産しようと試みた。

 

 それは人間の脳の移植から、動物の脳を人間のように作り変えようといったものへと変位して――やがて、人間の思考回路(メモリー)を、猛獣へとインプットするといったものへと変わった。

 

 狂気の実験は、無数の犠牲を生んだ。

 

 実験に使用された身寄りのない子供、人権を剥奪された落伍者達を試験体(モルモット)にして、日夜悲鳴と失敗だけを生み出し続ける実験(プロジェクト)は、やがて数%の動物人間――否、人間動物兵器だけを残して凍結された。

 

 その、悪夢の【改造猛獣兵器計画(モンスターウェポンプロジェクト)】の最高傑作。

 

 一体の実験体(モルモット)から『部隊長』の地位まで上り詰め、カタストロフィまでに『下位幹部』の位も狙えるのではと称される程の――あの『死神』が一目を置く戦士(キャラクター)

 

 全てを失い手に入れた猛獣の身体。唯一残された人間としての知能(おもかげ)

 

 そして、CIONの科学技術班の失敗作(くろれきし)である己に、装備することを実力で認めさせた成功作――【怪物兵装(エイリアンテクノロジー)】という軍事力(ちから)

 

 その人間に、名前はない。そんなものは、とうの昔に失った。

 その獣に、名前はない。リンリンというのは動物園のアイドルの名前だ。

 

 鋭利な爪を持ち、多くの敵を切り裂いてきた。

 凶悪な牙を持ち、数々の星人を噛み砕いてきた。

 強靭な筋を持ち、数多の人間達を吹き飛ばしてきた。

 

 殺して、殺して、殺して――生き残ってきた。

 獣の身体で、化物の装備で、人間の心を、守り続けてきた。

 

 全ての同胞達の失敗(しかばね)の上を乗り越え、ただ一人、たった一匹、生き残り続けてきた。

 

 傷だらけの身体を、継ぎ接ぎだらけの心を――無数の兵器で武装して、戦場を闊歩し、跋扈する怪物達を屠り続けるそのパンダは。

 

要塞(フォートレス)】の二つ名で呼ばれる、一頭で一国を相手取れるとすら言われた、『地球防衛秘密組織CION』の『最終兵器』の一つ。

 

「――地球に仇なすというのなら、この獣を敵に回すと知れ」

 

 彼程の戦士(キャラクター)ならば、このように幾つもの兵器をこれ見よがしに突き付けるなど、愚行と呼ぶに相応しい行動だと理解していない筈がない。

 

 ある程度距離が離れた群体が相手ならば有効かもしれないが、相手は一人、そしてこの至近距離、加えてあの『死神』である。

 この物騒極まりない超最新兵器が真価を発揮する前に、己の首と胴体を切り離されるだろう。

 

 例えそんな暗殺を試みられたとしても只では死なない自信が彼にはあるが、それ以上に、これはパフォーマンスに近かった。

 彼という人獣兵器が、『死神』という底知れないイレギュラーを見極める為の儀式――若しくは、『死神』という男と、ロマンを求めた会話と言える。

 

 己を曝け出し、心を曝け出せという、利益も立場も放り投げた対話。

 獣の身に堕ちても、人間の心を摩耗させ続けても、それでも、こんな男臭いロマンを忘れない。

 

 そんな獣を見て、そんな心を見て――『死神』という殺し屋は、小さく笑みを零した。

 

「……私は、あなた程に人間らしい獣を知りませんね」

 

 男は、どこか眩しいものを見るように俯く――もうすぐ、日が昇ろうとしていた。

 

「――ご安心を。少なくとも、カタストロフィが発生するその時まで、私はCIONに、あなたに、そして地球に害を為さないと約束しましょう。ですから、そのカッコいい武器は仕舞って下さって結構です。流石にニュースになりますよ」

「………では、お前は大人しく、我々の『戦士』となるというのかね」

 

 パンダは兵装を特別製GANTZスーツへと仕舞いこみながら、パンダは問う。

 だが、その問いに対し、『死神』は笑顔で首を振った。

 

「――いいえ。私は、あなた方に協力するとは言いましたが、戦士(キャラクター)になると言ったつもりはありませんよ」

 

 この『死神』は、そこまでCIONという組織を信用してはいなかった。

 自分を呪い殺さんばかりに憎悪している柳沢誇太郎という男が『下位幹部』として名を連ねているし、そもそも目の前の獣を見るだけで、どんな組織か想像がつくというものだ。

 

 そして大前提として彼には、地球という惑星に愛着など、全くをもって存在しない。

 

 彼が信じるものは、生まれたその時から、たった一つの概念のみなのだから。

 

「………何?」

「ですから、私はまずあなたにコンタクトを取ったのです。それ故に、あんなお使いのような真似をしたのですよ?」

 

 彼が言うお使いとは、茅野カエデ――本名を雪村あかりという少女に対する事後処理のことだろう。

 

 本来は念のために口封じをという依頼だったが、先程のあんな事件の後に、池袋からこれほど近い場所に黒衣の戦士を派遣することも出来ようもなく、下手な殺し屋に依頼しようものなら、池袋の件で殺気立っている、()()()()の事情を知らない末端の警察組織に露見する恐れもある。

 

「………あの少女を、抹殺ではなく説得という形で治めたのも、貴様のその目的故なのか?」

 

 パンダは、兵装は出さずとも、冷たい警戒心の篭った口調で告げる。

 

 そう――抹殺指令が出ていた雪村あかりを、生かしたまま、記憶処理すら施さないままに放置するという決断を下したのは、『死神』の独断だった。

 己がCIONに投降する――それを材料に、この『死神』は、雪村あかりに対する処理と、そして、ある権利をCIONから譲渡してもらう契約だった。

 

「――それ程の逸材なのか。君が、そこまで入れ込む程に」

 

 目の前のパンダは、既にその目的について、大凡の検討がついているようだが。

 つくづく目の前の戦士(キャラクター)は、この『死神』を楽しませてくれる――そんな心を隠すように、男は恭しく頭を下げた。

 

「私に『彼』をお任せ下さい。必ずや、カタストロフィにおいて人類の勝利に貢献する殺し屋に育て上げてみせましょう」

 

 朝日が顔を出し、満月が姿を隠す。

 

 狭間の世界の終わりと共に、パンダがゆっくりと、『死神』に背を向けた。

 

「――まあいい。『死神』を手元に置けるなら、こちらとしても歓迎すべきことだ。一応、監視の者は派遣するが、構わないか?」

「ええ。邪魔をするならば殺しますが」

「……ほどほどにしておけ。首輪を付けられない分は自重しろ。……それと、やるからには結果を残してもらうぞ。環境と建前はこちらで用意する。だから、我々の目の届く範囲で、やりたいことをやり給え。そして、どうせならば殺し屋(アサシン)だけでなく、特殊部隊(チーム)をその手で育てるくらいの気概を見せろ」

「……ふっ。そんなことを、上層部は許すのですか? 首輪も付けていない犬に、無駄な力を持たせるようなことを?」

「言っただろう。建前はこちらで用意すると。それに、地球を守る為に、無駄な力などない」

 

 パンダの言葉に、『死神』は笑う。パンダも、笑える機能が残されていたのならば、もしかしたら笑顔を浮かべていたのかもしれなかった。

 

 パンダも例の戦士についての情報は、あの黒い球体の部屋に忍び込むことが決まった時に、最低限の情報を集めている。

 雪村あかりの放置を許容したのは、彼女が組織CIONの下位幹部の柳沢の婚約者の妹であることを知っていたからだ。彼女を“こちら”に引き込むことを条件に、それを黙認することにしたのだ。

 

 故に、()の少年戦士の置かれた環境も知っている。

 根回しが面倒だが、あの『死神』ならば、もしかすると面白いことになるかもしれない――掛ける手間に、盛大な釣りが出る程の。

 

 既に今回の池袋の革命により、当初の青写真は大幅な修正を余儀なくされている。

 あの『会議室』のメンバーがどのように舵を切るのかは分からないが、この程度の遊びならば許容してくれるだろう。

 

 全世界規模、全宇宙規模へと広がるこれからの戦争に置いては、全体的に見れば何の影響も及ぼさないであろう、小さな島国の小さな校舎で行う、ほんの些細な箱庭実験なのだから。

 

 何の影響も及ぼさないのならば、それでいい。考慮するような危険性(リスク)は、ここまで混乱してしまった世界ならば、ほぼないに等しい。

 

 だが、この実験で――英雄を育てることが出来たのならば。

 それは、世界を――地球を救う大きな希望となることが出来るだろう。

 

 英雄の育成を、よりにもよって『死神』に担わせるなど、我ながら何と滑稽だ。

 

 だが――それでこそ、ロマンというものだ。

 

 パンダに光が降り注ぐ。これから嫌な仕事が待っている。その前に面白い仕事が出来たことが、せめてもの気休めだったかと息を吐いた。

 

「――『死神教室』、か。……世界最強の殺し屋の授業を受ける生徒は、色々な意味で不幸だな」

 

 獣に堕とされた男は、そうして、未来があった筈の子供達を嘆いた。

 

 そして、決意する。そんな子供達の、ある筈の未来を守ることが、戦士である己の役目だと。

 

 戦士であり、兵器であり――怪物である己には、もうそれしか、残されていないのだから。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 天へと還っていくパンダの背中を見詰めながら、『死神』は顔を上げて言った。

 

「………あなたは、本当に人間ですね、【要塞(フォートレス)】」

 

 恐らくは、自分と同じように、この世の掃き溜めのような醜い場所で生まれた筈なのに。

 

 そして、自分のように己の才覚のみで独力で生き延びることも出来ず、CIONという巨大すぎる組織に拾われ、囚われ、実験体(モルモット)として人権を剥奪され――獣の身へと堕とされて。

 

 人間の時の名前すら忘れて、心を摩耗させ、文字通りの兵器としてしか生きることの出来ない生命にさせられて、尚――世界の平和を祈っている。

 

 地球を守ること――その為に、生きている。

 

 例え、そう生きることでしか、生きられないのだとしても――それでも、彼は、あるいは彼女は、()()()()を選んだ。守る為に、生きることを選んだ。

 

「………私は――あなたのようには、生きられなかった」

 

 殺すことでしか、生きられなかった。

 

 死だけを、「死」という概念だけを信じて生きてきた。

 

 人は死ぬ為に生まれてきて、殺せば死ぬということだけが信頼できる真実だと。

 

 だから、名も無き少年は殺し屋になり――『死神』という破壊者になった。

 

「私は、あなたのようにはなれない」

 

 誰かを守る為に戦うことも、ましてや地球を守る為に――戦士になることなど出来やしない。

 

 人間は死ぬ為に生まれた生物だ――それは自分も同様。

 否、夥しい数の人間を葬った殺し屋である己は、常人よりも遥かに凄惨な、呪われた死を迎えるのが当然の義務だろう。

 

 よって半年後――地球と共に死に行くのも、いっそ悪くないとも思えてしまう。

 

 そんな人間が、そんな『死神』が、カタストロフィに立ち向かう戦士となれる筈もない。

 

「私に出来るのは、破壊だけだ。私に出来るのは、殺人だけだ」

 

 だから、こんな人間が、こんな『死神』が、残された時間に出来るのは、相も変わらぬ破壊と殺人だけ。

 

 壊す為の頭脳。殺す為の技術。壊す為の肉体。殺す為の――生命。

 残された時間も、きっと『死神』は破壊と殺人に費やすのだろう。今までずっとそうしてきたように。

 

 この汚く、醜い、穢れきった世界を――ああ、そうか。

 

(……私はきっと、この世界が好きではないのでしょうね。……ああ、きっと憎んでさえいる)

 

 故に、『死神』は世界を救う、地球を守る英雄にはなれない。

 彼になれるのは、殺し屋だけだ。きっと、他には、何にもなれない。

 

「……彼は、どうなのでしょうね」

 

――僕を、あなたのようにしてくれませんか?

 

――僕は……なりたい! あなたのように!

 

 自分のようになりたいと言った、あの少年には。

 殺し屋になりたいと言った、あの少年には。

 

 この世界は、果たしてどのように映っているのだろうか。

 

 彼は、自分のように殺し屋になるのか。それとも、あの獣が望むように――英雄と、なるのだろうか。

 

「終焉の時まで、それを見守るのも一興ですか」

 

 英雄になるなら、それでもいい。初めての弟子のように、いつか殺し合う時も来るだろう。

 殺し屋になるのなら、それでもいい。同業者として滅んだ世界を、共に破壊して回るのも面白い。

 

 いずれにせよ――

 

「――退屈せずに、すみそうですね」

 

 そして、『死神』は、とある方角を眺めて微笑みながら――何の光も使わずに、まるで影のように姿を消した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 真っ暗な部屋の中で、真っ黒なナイフを、少年はいつまでも眺めていた。

 

「……………」

 

 初めてナイフを持ったその時を、少年は昨日のことのように覚えている。

 実際、それは昨日のこと――いや、一昨日のことなのだが。

 

 吸い込まれるような、光沢のある漆黒のナイフ。

 これを手にして、見蕩れるように、憑かれるように呆然と眺めていたら――気が付いたら、戦場に立っていた。

 

 そして、このナイフで、初めて生命を奪った。

 恐竜の心臓を一刺し――そして、止めにナイフを九十度に回転して、抉り殺した。

 

 あれが、ほんの一昨日のこと。

 そして昨日――ほんの数時間前。

 

 潮田渚は――生まれて初めて、人を殺した。

 

 殺害した。殺人をした。この手で、人の、生命を奪った。

 

「…………………」

 

 真っ暗な空間で微笑む少年は、ナイフと同じようにあの部屋から持ち帰り、ベッドの上に無造作に放り投げていた警棒(バトン)を手に取る。

 

 ナイフと同じように、漆黒のデザイン。

 まるで平和を守る警察官が身に付けているようなそれの正体は――高電圧スタンガンだった。

 

 渚はこれを、父親のような人間の喉元に突き付け、電流を流した。

 そして、お腹に爆弾を張り付けて、階段から突き落として――殺したのだ。

 

 笑顔で。

 

――『平さん――ありがとうございました』

 

 今のような、美しい笑顔で。

 

「――――ふふ」

 

――『さようなら』

 

「先生、褒めてくれるかな」

 

 その笑顔は無邪気で。

 

「あ、昨日先に帰っちゃったことを、茅野に謝らなきゃ。許してくれるかな」

 

 その笑顔は綺麗で。

 

「神崎さん、大丈夫かな。烏間さん、見つけてくれるといいけど」

 

 その笑顔は透明で。

 

「――さあ。今日もきちんと、学校に行かなきゃ」

 

 まるで――『死神』のような、笑顔で。

 

 渚は、手の中で弄んでいたナイフをケースに仕舞い、腰のベルトに装着して――窓を開けた。

 

 既に朝日が昇り、夜が明けていた。

 

 初めて人を殺した、真っ暗な夜が明け、渚はグッと伸びをした。

 

 そして、いつも通り、制服に袖を通す。

 

 今日もE組(エンド)へ、登校の時間だ。

 

「いってきます」

 

 いってらっしゃい――潮田広海は、手に持ったリカちゃん人形にそう語り掛けた

 




殺人を経験した少年は、いつも通りの笑顔でE組(エンド)へと登校する。


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Side渚――②

――ただの、『エンド』ですよ。


 

 東京都豊島区――池袋。

 

 来良総合医科大学病院。

 

 ここには、昨夜の未曽有の大事件――池袋大虐殺の被害者達の多くが搬送されていた。

 

 事件が集結してから半日にも満たない現在では、何とか患者の収容と別施設への移送がようやくひと段落ついたといった様相だった。

 

 未だ意識を覚醒させない患者への対処や、手を尽くしたものの死亡してしまった方達の処理、そして怪我自体は命に別条がないものの混乱から立ち直れず周囲に当たり散らす者を宥めたり、家族と連絡がつかない者を警察に連絡したりと、やることは全く減らず、むしろ時間と共に増え続けている。

 

 およそ呼べる限りのスタッフ全てを休日出勤させ、夜勤の者を居残らせる。

 段々、スタッフの方も疲労とストレスで限界を迎え始める中――とある男が、未だ地獄を抜け出せない戦場のような病院に足を踏み入れた。

 

「……ひどい混乱状態ですね」

「……この近辺の病院は、まだ全てこんな有様だ」

 

 もはや、これは災害時に近い。

 だが、例え犯人が化物だったとはいえ、これは大量虐殺事件だ。

 

 人の身で防げた、刑事事件だ。

 この惨状は、偏に国の防衛機関の力不足の結果に他ならない。

 

「…………あの」

「……行こう。この場で棒立ちしていても、邪魔になるだけだ」

 

 相方の女性の気遣う雰囲気を遮って、がっしりとした体躯の目つきの鋭い男は、人が押し寄せる中を強引に割って入り、受付の女性に己の身分証を見せる。

 

「――こういう者です。事前にアポイントメントしていた件ですが」

「……電話でも仰いました通り、今、ここは非常に混乱しています。あなた方の捜査に協力は惜しみませんが、時をもう少し考えてもらえませんか。後日、改めて来ていただけましたら、何でも言うことを聞きますから」

 

 迷惑だから帰れと、そんな心情が少なからず声と言葉に出てしまっている受付担当の女性。

 

 少し頭に血が上りかけるが、今も列の横から乱入してきた自分達を恐ろしい形相で睨み付ける患者達、そして周囲にいる溢れんばかりの怪我人やその家族を見て、グッと言葉を飲み込むのは、男と共にやってきた防衛相統合情報部員――園川雀。

 

 だが、こちらも国家の為に動いている(正確には、今は国からの命令ではなく、隣にいる上司の為だが)――それに、交渉事は、自分の専門分野だ。

 良心の呵責に耐えながらも、園川はこちらの要望を通そうと――する前に、隣にいる園川の上司が、ダンと手を着きながら、まっすぐに言う。

 

「手間は取らせません。彼女の病室だけ教えていただけませんか。後は、こちらがやります」

 

 そう言って、その鋭い目つきで頼み込むのは――烏間惟臣。

 対『死神』用の戦力として、防衛省から一時的に警視庁に出向しているエリート軍人である。

 

 そんな彼が、背中で一般人から隠すようにして受付の女性に差し出したのは――とある一人の女子中学生のプロフィール。

 

 名を、神崎有希子。昨夜の地獄の池袋において、他ならぬ彼が救出した一般人である。

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

 そして、こちらは、来良総合医科大学病院の、とある一室。

 

 いわゆる大部屋であり、左右に三台ずつの計六台のベッドがあり、その全てが埋まっている。

 ここは女性患者に宛がわれた部屋のようで、様々な年代の少女――下は中学生くらいの少女から、上は高齢の老人まで、いっしょくたに詰め込まれている。恐らくは空いているベッドに手当たり次第といった様なのだろう。怪我の酷さもまちまちだが、皆一様に身体のどこかに痛々しい処置の跡があった。

 

 そして、そんな大部屋の、左側の列の、一番ドアに近い手前のベッド。

 

 体の幾つかの場所に火傷の跡はあるが、目立つような大きな傷もなく、一応の検査入院といった様相の少女。

 本来ならば、今のようにベッドが幾つあっても足りないような状況では入院することはないのだろうが、発見された場所が場所なだけに、呼吸器官などにも問題はないかどうかを確認する必要があるのだろう。今も、ケホッと時々、苦しそうに咳き込んでいる。

 

 彼女こそ、神崎有希子。

 

 大和撫子という言葉が相応しい艶やかな黒髪に、清楚な雰囲気。

 身に着けていた彼女に似つかわしくない服やウィッグは焦げていたりダメージが大きかったので、今は入院着を身に着けている。

 

 昨夜、燃え盛るアミューズメント施設の中から、何者かによって外に出され、そこを烏間惟臣が発見した女子中学生である。

 

「――大丈夫、有希子ちゃん? まだ苦しい?」

 

 そんな彼女のベッドの傍の椅子に、一人の女性が座っている。

 

 自分と同じ入院着に、そんな薄手の服によって強調される豊満な体つき。

 同じ女子である自分ですら目を奪われそうになるが、同時に目に入ってしまう、そんな邪な思いを搔き消すような――凄惨な、両手を覆う包帯が痛々しい。

 

「……けほ。……私は大丈夫です。……それよりも――」

 

 自分なんかよりも、遥かに重傷で、遥かに――大丈夫じゃない。

 

 肉体的にも――精神的にも。

 そう確信を持って言える目の前の女性を、有希子は痛ましげに見詰めた。

 

「あはは。あたしは大丈夫だよ。……もうすぐパパとママも来てくれるみたいだから、あたしも自分のベッドに戻るね」

「…………はい。………あの――」

 

 お大事に――そう言ってしまいそうになって、有希子は口を閉じた。

 

 同じ入院患者である自分が言うのも変な気がしたし、何より――それは、今の彼女には、余りにも残酷な言葉のように思えたのだ。

 

 大事なものを、何もかも失くしてしまったかのような――目の前の、この人には。

 

「――うん。お大事にね。……って、なんか変か。へへ」

 

 そう言って、彼女は自分でその言葉を言って、自分のベッドに戻った。

 

 自分の言葉に、誰よりも自分が傷ついたような、痛々しい笑顔を見せて。

 

 

 由比ヶ浜結衣――昨夜の池袋の戦争で、ぽっかりと胸に穴を開けられた彼女は。

 

 窓際の、最も日当たりのいいベッドを与えられた彼女は――まるで何かを堪えるように、窓から差し込む朝日を、目を細めながら浴びた。

 

 そんな彼女の後姿を眺めていると、部屋の扉をノックする音が聞こえた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 どうしてこんなことになっているのか――神崎有希子には理解出来なかった。

 

「…………えっと」

「…………はは」

「………………」

 

 下半身を布団で覆い、ベッドを起き上がらせて座るような体勢で、有希子は目の前の来客を戸惑いと共に見つめる。

 

 一人は、短い髪にスーツの若い女性。OLというよりは、もっと公的な職業の方のように感じる印象を受ける人。

 

 もう一人は、同じくスーツで鋭い眼光のがたいのいい男性。隣の女性よりは年上だろうが、それでも十分に若いと感じる、本人が意識しているのかいないのか、異様な威圧感を覚える人——大人。

 

 そう、大人。

 年齢といい、服装といい、雰囲気といい――覇気といい――紛れもなく大人が、それも公的な仕事としての来訪だという色の空気を纏う二名の大人が、しかも初対面の大人が、唐突に自分を目的としてやってくる。

 

 有希子はこの現状に、中学生として当然の戸惑いと、僅かではない量の恐怖を感じていた。

 

 そんな狼狽える有希子を見て、スーツの女性――園川雀は、まぁそうだろうなという自身の感情としてと、そんな有希子の緊張を少しでも和らげようという二つの意味を兼ねて意図的に苦笑する。

 

 普通の中学生が、明らかに只事ではない目的で、拒否権を発動できない強制的な面会であるということが一目で分かる状況に、それも片方は熊でも平気で殺しそうな(実際に可能そうな)眼光と迫力を放つ男が己と相対するという――恐怖を覚えて当然だ。気の弱い子なら思わず泣き出してしまうかもしれない。

 

 隣の上司も普段ならばもう少しその辺りを(鈍感なりに)気を配ってくれるのだが、昨日の今日だからか、目的が目的だからか、意図的に強めてはいなくても、自身のニュートラルな威圧感を押さえようとはしてくれていない。

 

 だが、昨日と今日といえば、彼女こそ正しくそうだ。

 こうして面会の場が病室となったのも、彼女が布団の中に半身を埋めているのも――その布団の下の足がズタズタに傷ついているのも。頬や腕にガーゼが当てられているのも。すぐ近くに酸素ボンベが備えられているのも。簡素な入院着を纏っているのも。全て、彼女が被害者だからだ。

 

 昨日の、未曽有の大事件である――『池袋大虐殺』。

 彼女はその渦中にいたのだ――文字通りの、火中にいたのだ。

 

 一人の少女の中に、まるで消えない火傷のように、永劫に残る形で刻まれたであろう、その生々しい恐怖(トラウマ)の記憶を。

 自分達大人は、固まってもいない瘡蓋を抉り、強引に思い起こさせ、問い質す為に――ここに来たのだ。

 

「…………あの、私に何か用ですか?」

 

 あろうことか――そんな彼女に、更に勇気を振り絞らせてしまった。

 本来ならば、戸惑い、恐れている彼女の心情を出来る限り慮り、こちらからその当然の警戒心と恐怖心を解きほぐしながら場をリードしなくてはならないのに。

 

 園川はそんな焦りと申し訳なさと、そして目の前の少女の強さに対する尊敬の意を内心で示しながら「――あぁ、ごめんなさい。大の大人がじっと見つめていては戸惑ってしまうわよね」と、威圧感を与える上司の一歩前に出ながら、出来る限りの笑顔で有希子に答える。

 

「こんにちは、神崎有希子さん。私は園川雀。防衛省に勤めているわ」

「防衛省……?」

「ええ。昨日あんなことがあったのに、こんな時間からこんな場所にまで押しかけてごめんなさい。今日は――」

「――昨夜、君が巻き込まれた事件についての話を伺いに来たんだ」

 

 だが、その時、精一杯の笑顔を作る園川の前に、いつも通りの仏頂面の男が出る。

 

 同性ということもあって少し警戒心を緩めていた有希子の身体が強張り、園川も非難めいた目で男を見るが――男は、有希子の一挙手一投足を観察するような目のまま、形式ばった自己紹介をする。

 

「驚かせてしまってすまない。俺は烏間惟臣という。園川君と同じく防衛省に所属しているが、今はとある任務の為、警視庁に出向中の身だ」

「……とある任務? …………警視庁?」

「ああ――だから、今日は警察として昨日の話を君に聞きに来たんだ」

 

 座ってもいいかしら――と、再び烏間と有希子の間に入るようにしながら、園川が尋ねる。

 思わずどうぞと言ってしまった有希子だったが、これで文字通り腰を据えて話をすることを了承してしまったことになった。

 

 これを狙ってのことだったのかは分からないが、どんどんと状況が進んでいくことに戸惑いが止まらない神崎は、ただそれに流される。

 

 さっきの烏間の言い分も、考えてみればおかしな所ばかりだ。

 何故、警視庁の仕事に出向中でもない園川が同行しているのか。どうして、出向中の身であるという烏間が真っ先に自分の元にやって来るのか。とある任務とは何なのか。

 

 烏間はそれらの疑問にもっともらしく答える準備をしているのだろうが、少なくとも有希子はそれらのことを彼等に問い返してもよかった筈なのだ。答えが返ってくるかどうかは別にして。

 

 だが、今まで職務質問すらもされたことのない優等生(だった)神崎有希子にとって(ゲームセンター通いしていた頃も、警官のような人を見掛けたらすぐに見つからないようにして家に帰っていた)、大人、警察というのは、それだけで学校の先生や親と同じくらい、とにかく従わなくてはならない人――というカテゴリーの存在だった。

 

「………………」

 

 それと同時に――従いたくない人種、でもあるけれど。

 

 別に、警察に不信感があるわけでもない。教師にも、恨みを覚えたこともない。親にも――殺意を抱いたことも、ない。

 

 それでも――大人という存在に、理不尽を感じたことは、ある。

 彼等を前にすると、自分という存在が酷く無力で、恐ろしく無価値で――そして、そんな自分が、どうしようもなく嫌いに思えてしまう。

 

 どこにでもある話なのかもしれない。思春期ならば、誰もが抱く感覚なのかもしれない。

 

 でも――彼女の場合は、いや。

 

 彼女()の場合は、それが特別に顕著だった。

 

「……それで、何でしょうか? 私は何を話せばいいんでしょうか?」

 

 有希子は淑やかに微笑む。

 それは大人に向ける子供の笑顔としては百点満点のお手本のような笑顔で――だからこそ、園川と烏間は、それに影を見たような気がした。

 

(…………思っていた以上、聞いていた以上ね。……それとも、この子が特別なのかしら)

 

 前以って、園川も神崎有希子のプロフィールについては道中に烏間から聞いていた。

 

 彼女が――彼女達が属する、椚ヶ丘中学校3年E組についても。

 

 全国有数の名門校にして進学校。

 その中でも有数の、一定数の――落ちこぼれ達が集められ、隔離され、差別される特別学級。

 

 聞いた時はその恐ろしいまでの合理性に耳を疑ったものだったけれど、所詮それは人聞きで得られる程度の情報に過ぎない。その現場を生で見たのならばまだしも、園川の中では、とはいっても名門私立の一クラスという固定観念が消えず、それほどまで劣悪なものであるとは思えなかった。

 

 それがクラスどころか校舎すら違う、差別というのも生温い見せしめのような学級ということを目の当たりにすれば、彼女のその認識も覆るだろうが――ともかく。

 

 園川雀にとっては、神崎有希子が初めて相対するE組生徒であり、そして、E組生徒の歪みのようなものを突き付けられるのも、これが初めてのことだった。

 

「……そうね。それじゃあ、いくつか質問させてもらうわね。これはあくまで任意で行っている聴取だから、答えたくないことは答えなくてもいいからね」

 

 そこから、園川主導で神崎有希子に対する事情聴取が始まった。

 

 少女はすらすらと、聞かれたことに淀みなく答えていった。

 

 有希子が目撃し、相対した怪物について。

 事件が発生した時に何処にいたのか。そしてどのように逃げたのか。

 共に逃げた人達について。そして――殺された人々について。

 あのアミューズメント施設で起きた悲劇について。

 果ては、その日、どうして池袋に居たのかといったプライベートと言ってもいい範囲まで。

 

 神崎有希子は、初対面の大人達に、警察手帳すら見せていない彼等に、赤裸々に余すところなく打ち明けて言った。

 この事情聴取を始めた園川の方が戸惑ってしまう程に。

 烏間はそんな園川に事情聴取を任せ、有希子を鋭い眼差しで見据え続けていた。

 

 園川は、この年頃の少女に対していつも行うように、心を開いてもらえるよう、目線を合わせて、声色を柔らかくし、かといって子供扱いしていると思われないように――と、培ったノウハウを駆使して事情聴取に挑む、が。

 

(……はっきり言って、そんな小細工が通じているようには……思えないのよね)

 

 有希子は基本的に目線を下にし、俯くように聞かれたことに答えている。

 心を開いてもらえているようにはまるで思えず、かといって、大人に対する敵愾心のようなものも感じられない。

 

 しかし、こちらが聞いたことには答えている。隠しているようにも、誤魔化しているようにも感じない。園川は奇妙な感覚を覚えていた。

 

 こちらのテクニックが通じていないのに、何の支障も生じていない。

 そんな気持ち悪い感覚に耐えながら、園川は、段々と問いに対する答えより、目の前の少女が気になっていった。

 

 交渉を専門とし、これまで数多の人間と対話を通じて探り合ってきた園川だからこそ、分かる。こうして僅かに会話を交わしただけで、分かる。

 

 神崎有希子――この少女は聡明だ。とても中学生とは思えない程に優秀だ。

 

 この年頃の少年少女は、基本的に自分達のような国家権力の大人と相対した時、大抵が萎縮するか、反発をする。

 そんな時、前者ならば緊張を解きほぐし、後者ならば対等に立っていると思わせ自尊心を尊重する――が、この少女は、そのどちらでもない。

 

 僅かな言葉のニュアンスや間の取り方から、こちらの意図を正確に察し、まるでこちらが引き出したかのように望んだ答えを返す。

 ずっと俯いているようで、時折、こちらの表情を伺っている証拠だ。

 

 言葉の遣い方も、出てくる単語も、そして呑み込みの早さも、とても会話しやすく、対話として心地いい。交渉を専門とする自分だからこそ、これが目の前の少女が作り上げようとしている空気なのだと、言われるまでもなく理解した。

 

 そして、目の前の少女は容姿端麗だ。

 同じ女性として、十も年下の少女に思う感想としては恥ずかしいものだろうが――正直、憧れる。男にも女にも憧憬を抱かれる、そんな種類の美貌を持つ美少女だ。

 

 中学生というのならば、間違いなくクラスのマドンナとなれる――あるいはされる――少女だろう。運動神経に対しては病床の様子からは分からないが、この見た目の美少女が運動能力で見下されるとは思えない。

 

 なのに――この少女は、落ちこぼれなのだ。

 

(……本当に信じられない。……だけど、それが事実だということは、この聴取の中でも否が応でも伝わってくる)

 

 容姿端麗。頭脳明晰。

 そんな有り触れた四字熟語が相応しい少女にも関わらず、この子は間違いなく落ちこぼれだ。

 

 まず、この子は目を合わせようとしない。

 その上で、こちらの表情を読むことには長けていて、こちらの心情を読み取ることも上手い――日常的に目上の者の顔色を、機嫌を伺う生活を送っていることが伝わってくる。

 

 そして、これだけ質問をしているのに、彼女の方から質問を返されることがない――見返りを求めない。いや、自分が見返りを与えられるという発想がない。日常的に虐げられる、もしくは下に見られる生活を送っていることが伝わってくる。

 

「……他に、何か聞きたいことはありませんか?」

 

 俯いていた少女は、最低限の礼儀の為と言わんばかりに事務的に、園川に目を合わせる――その目に、園川は閉口した。

 

 神崎有希子の目は、諦念と自棄で満ちていた。

 そして、それは、真っ直ぐに――()()に、向けられていた。

 

(……一体、どんな教育を施せば……これほど才気溢れる少女に、こんな目をさせることが出来るの?)

 

 園川も、大人だ。

 どんなに豊かな才能を持っていたとしても、どれほど恵まれた環境に生まれたとしても、全てが正しく芽吹き、育まれ、花開くわけではないということは理解している――とっくの昔に、理解させられている。

 

 それでも、こうして目の前に突き付けられると、思ってしまう。考えてしまう。

 

 E組――合理的の極致とされる、意図的に切り離された隔離差別学級。

 強制的に一握りの弱者を作り上げることで、最大多数の強者を育て上げる教育理念。

 

 椚ヶ丘学園は、現理事長が就任して僅か十年余りで、数多くの優秀な人間を輩出している。

 防衛省の同僚の中にも彼の教え子がいる。能力が高く、合理的で、まさしく強者と呼ばれるに相応しいエリートだった。

 

 結果が物語っている。彼の教育理念の正しさを――だが。

 

(……こんな目をする女の子を生み出すような……こんな目をする子供達を踏み台にすることで成り立っているような教育が、本当に――)

 

 E組――エンドのE組。

 数多のエリートの、文字通りの礎として重荷を背負わされている少年少女達。

 教師からも親からも見放され、自分すらも自分を諦めてしまった子供達。

 

 園川は、目の前の少女を通じて、彼女と同じ境遇を共有している、まだ見ぬ子供達に思いを馳せてしまった。

 

 願わくば、この子達に本当の教育を施してくれる教師が――。

 

「――ああ。申し訳ないが、後二つ程、君には聞きたいことがある」

 

 そんな時、園川雀の頭上から、真っ直ぐに硬質な声が目の前の少女に向かって届いた。

 

 園川は思わず見上げる。そこにいるのは、自らが尊敬し忠誠を誓う上司。

 これまでの事情聴取を全て園川に任せていた烏間が、ここにきて少女と直接会話をしようとしていた。

 

 自分が少女の瞳に気圧されてしまい硬直してしまったからかと、園川は忸怩たる思いを噛み締めかけたが、烏間はそんな部下ではなく、ただ真っ直ぐに神崎有希子と向き直る。

 

 有希子は、園川に向けていた瞳を、そのまま烏間の方へと向ける。

 

「…………ええ。私に答えられることでしたら、何で――」

 

 そこで、有希子は硬直した。

 

 園川はそんな有希子の様子に怪訝な表情を浮かべたが、有希子の方がそんな彼女よりも遥かに戸惑いの様子を見せていた。

 

(……この人――)

 

 E組に落ちて、神崎有希子の人生は変わった――否、終わった。

 十四才にして希望を失い、未来を失い、何もかもを失った。

 

 単なる子供の、誰もが経験する些細な挫折と、大人は笑うかもしれない。

 けれど、子供だからこそ、それは全てを失うに等しい地獄だった。

 

 教師からの信頼も、両親からの期待も、友人も、将来も、居場所も、夢も、誇りも、自信も――何も、かも。

 

 世界が自分を拒絶しているように感じた。

 己に向けられる全ての目が、自分を嘲笑しているような気がしてならなかった。

 

 失望と、侮蔑――真っ暗に染まったその瞳を、あの日からずっと向けられ続けてきた。

 

 同じ境遇のE組の仲間達の目にはそれはなかったけれど、彼等の瞳は――諦念と自棄に満ちていた。

 己の価値を見失い、希望と未来を失った者の瞳――別の意味で、真っ暗な瞳。自分とそっくりな、真っ黒な瞳。

 

 だから――本当に久しぶりだった。だからこそ、こんなにも目が合っているのに、自分を見ているとすぐには理解出来なかった。

 

 烏間惟臣は――神崎有希子を見ていた。

 真っ直ぐに、目を合わせて、()()()()()を見ていた。

 

 こんな目を向けてくる人は――教師にも、両親も、友人にもいない。

 もう、こんな目を向けてくれる人なんて、出会う筈はないと思っていた。

 

「ありがとう」

 

 烏間は、神崎を見下ろしたまま、決して見下さずに真っ直ぐに礼を言う。

 

 E組の自分にも、エンドの自分にも、嘲笑も、侮蔑も――哀憫も、同情もなく。

 

 まるで――教師のように、向き合う。

 

「それでは手短にいこう。君は、あの火災が発生したアミューズメント施設の外で気絶している所を俺が発見したんだが」

 

 園川が場所を変わるかと目線で問うてきたが、間に女性を挟んだ方がいいだろうと判断したのか、小さく彼女に首を振って、再び有希子と目を合わせながら問う。

 

「先程の話だと、君は燃え盛るビルの四階のフロアで気絶したとのことだが――自力で脱出した記憶はないのか?」

 

 烏間の真っ直ぐな問いに、有希子は戸惑いながらもはっきりと答えた。

 

「は、はい……炎の中で気を失って……気が付いたら、もう既にこの病院で――あ!」

 

 その時、何かを思い出したような声を上げた有希子に、思わず園川と烏間が身を乗り出しかけるが、有希子は「あ、いえ!」と慌てたように制して、少し恥ずかしげにこう言った。

 

「わ、わたし、そういえば、まだしっかりと……お礼を言っていなかったって思って」

 

 ここまでに何度か、自分を助けてくれたのは目の前のこの人だと教えられていたのに。それどころか、先に頭を下げさせてしまったことに思い至り、有希子は長い黒髪がたなびく程に勢いよく頭を下げる。

 

「あの! ありがとうございました! その……助けて、いただいて」

 

 有希子は慌て戸惑いながらも、精一杯の感謝を込める。

 

 神崎有希子は逃亡者だった。

 親から逃げて、勉強から逃げて、期待から逃げて、嘲笑から逃げて――そんな自分からも逃げ続けていた。

 

 辛く、苦しい、終わってしまった現実(エンド)から逃げて、ありとあらゆるものから逃げ出して――でも。

 

 

――…………こんなところで、死にたくないっ! 惨めなままで逝きたくない!! 

 

 

 生きることからは、逃げなかった。生きることだけは――諦められなかった。

 

 毎日が地獄で、いいことなんて一つもなくて、生きる希望も将来の展望も、何もかもを失ったE組生だけれど。

 

 

――エンドのままで、終わりたくないっ!!!

 

 

 あの煉獄の火災現場で、そんな自分の中に燻っていた火種を見つけることが出来た。

 

 だから、有希子は感謝した。

 目の前の、自分の瞳を真っ直ぐに見てくれる命の恩人に。

 

(……そうだ。私は、生きてるんだ。助かったんだ。……だったら、今度こそ……戦わなきゃ)

 

 有希子はギュッと、胸の前で手を握る――そこにある、小さな灯を感じるように。

 

 ずっと――小さく燃えていたんだ。

 

 真っ暗な世界の中で、諦念と自棄と失望で溢れて燃え尽きた灰色のような世界で。

 それでも何処かで、小さく、燻る火種があった。

 

 どこかで見返さなくちゃ。やれば出来ると、認めさせなきゃ。

 自分達は、エンドなんかじゃないと――証明しなくては。

 

 折角、死に掛けて、繋いでもらった生命だ――生まれ変わらなくてどうするというのか。

 

「……俺は、ビルの前で倒れていた君を病院まで運んだだけだ。大したことはしていない。顔を上げてくれ」

 

 烏間の言葉に、有希子はゆっくりと顔を上げる。

 

 そして、大人と――まっすぐ、有希子は向き直った。

 

(――っ! この子……目が……)

 

 園川が瞠目する。

 

 未だ昏い――諦念と自棄で暗く黒い瞳だが、その奥に、微かに。

 小さく温かい、種火のような光が生まれたような、そんな何かを、僅かに感じた。

 

 自分が彼女に同情的な気持ちを感じるが故の錯覚だろうか――戸惑う園川を余所に、烏間は、やはり真っ直ぐに問う。

 

「君は、ビルを脱出した記憶はなく、燃え盛るビルの中で気を失い、気が付いたらこの病院にいた。これに間違いはないか」

「――はい。……よく覚えていないですけど……とても怖い何かから逃げていたような……」

 

 これは嘘ではない。

 家でテレビを見て、たまたま特集されていた池袋へと気まぐれで訪れ。

 池袋駅東口でのあの革命の号砲現場に居合わせ、押し寄せる怪物から只管に逃げ回り、命からがらあのアミューズメント施設に乗り込んで――そして。

 

 ()()()()()()()があって、いつの間にか火災が発生した。

 

(……肝心な記憶が……思い出せない……。忘れられるわけないのに……っ!)

 

 余りに凄惨な記憶であるが故に、無意識の内に思い出さないようにしているのだろうか。

 

 しかし、それを言うなら、あの始まりの号砲から一連の、人間だった何かが醜悪な怪物に変貌するシーンや、隣を走っていた逃亡者が虐殺されるシーン等を鮮明に思い出せるのはどういうことだろうか。奥底に仕舞い込むなら、いっそ昨夜の全てを一緒くたに思い出せなくする方が手っ取り早いではないか――そこまで都合よく整理出来ないからこそ、人間の記憶というものなのだろうが。

 

 だが、何だろう――この異様な違和感は。

 

 まるで、()()()()()()()()()()()()かのように、その部分に勝手に鍵を掛けられたかのように――気持ち悪い。

 

 園川は眉根を寄せて頭を押さえた有希子を宥めようとするが、烏間がそれを手で制し――。

 

「――神崎さん。これに見覚えはあるか?」

 

 そう言って烏間が取り出したのは、密閉された袋の中に入った――ガスマスクだった。

 

「っ!?」

 

 自分のこれまでの人生において、およそ仮想世界(GGO)以外では関わることなどなかった物々しいアイテムを突き付けられた有希子は、奇妙な感覚を覚えながら息を呑む。

 

 見覚えは――ない、筈。

 少なくとも有希子はこんな斬新極まりないアイテムを被って池袋を徘徊などしていない。

 

 が、この奇妙なガスマスクを見て、真っ先に感じたのは――胸を刺すような既視感だった。

 

 燃え盛るビルディングのフロア。

 脳裏に響く己の呼吸音。

 そして、極端に狭まった視界の中で佇む――小さな背中。

 

 何も言わず、何も言えず、ただ瞠目のままにガスマスクを見つめる有希子の顔を真っ直ぐに見詰めながら、烏間は補足するように言った。

 

「……俺がビルの前で気を失っている君を発見した時、君はこのガスマスクを装着していたんだ。君に見覚えがない、つまりこれが君の私物ではないというのなら、君は昨夜の池袋で、これを何者かから受け取ったことになる」

 

 烏間はまっすぐに狼狽える女子中学生を見詰める――否、それは余りに眼光が鋭過ぎて、いっそ睨み付けるといった表現の方が相応しいように、園川には思えた。

 止めるべきか――だが、この問いこそが、この緊急事情聴取において、烏間が神崎有希子に問いたかった、最も重要な事柄であることを、園川は前以って知らされていた。

 

 何故ならこの問いは、全世界の警察機関が欲してやまない危険人物への、重要な手掛かりになるかもしれないのだから。

 

 

――……答えるつもりはないと、そう言ったらどうします? 

 

 

「………………」

 

 烏間は生真面目に固められた無表情のまま、少女に見えない位置で固く、固く、拳を握る。

 

 昨夜、炎に囲まれた戦場において、この手の届く位置にまで近づいた、世界一の殺し屋。

 これには変声機能は付いていなかったが、昨日の今日で見間違える筈もない――否、烏間惟臣は、恐らく生涯忘れることはない。

 

 眼球に文字通り焼き付いている――これは、奴と同じガスマスクだ。

 

 たまたまの偶然として彼女と奴が同じデザインのガスマスクを所持していたという推理が成立する可能性も皆無ではないが、こんな装備には無縁に生きていたような少女がその日に限って同じガスマスクと巡り合った可能性よりは――昨夜、同じビルディングにいたのが確定的なあの男が、少女に与えたという説の方がずっと説得力があるだろう。

 

 故に、烏間は、一刻も早く、この少女から聴取することを選択したのだ。

 あの男が――『死神』が、世界で最も人を殺すことに長けた男が、こんな重大な手掛かりを与えてまで救った、この神崎有希子という少女から。

 

「――どうか、思い出して欲しい。このガスマスクを君に与えた男について。どんな些細なことでも構わない」

 

 園川は、その上司の姿に少なからずの驚きを感じていた。

 

 真面目な男だとは知っていた。実直で、堅苦しい程に職務に忠実。

 与えられた任務はどんな難題だろうと平然とこなす――誇張ではなく、この人のお陰で日本という国が救われたケースも、片手では数えきれないだろう。

 

 しかし、それは裏を返せば、どんな難題だろうと任務としてこなしてきたということだ。

 国を救う――そんな偉業には、決まって綺麗ごとでは済まされない相応の闇が伴っている。

 

 誰かを救う為に、誰かを死に追いやったこともあっただろう。

 何かを守る為に、何かを犠牲にせざるを得なかったこともあっただろう。

 悪を滅ぼす為に、自らの正義を裏切ったこともあっただろう。

 

 それが大人の職務であり、責務であり――仕事だ。

 誰よりも真面目なこの人は、その鉄仮面の裏で、どれほどの重荷を背負い続けてきたのか――彼の直属の部下である自分ですら、それを知る由もない。

 

 この超人とも呼ぶべき日本最強の軍人は、それでもいつだって冷静沈着を崩さなかった。

 園川雀は、黙々と、平然と、良く言えば迷いなく、悪く言えば機械的に――任務として任務を遂行し続ける、烏間惟臣しか知らなかった。

 

 故に――こんな烏間の姿を、園川雀は見たことがない。

 

(……この人が……こんなにも感情を露わにするなんて……)

 

 表情は変わらない。声色もいつも通りだ。

 だが、園川には見える――烏間が放つ、押さえようともしていないオーラが。

 

 確かに標的は、全世界の警察や諜報機関が眼から血を流すようにして追っている特S級の犯罪者――世界一の殺し屋『死神』。

 

 こんな怪物の相手を、日本国を代表してたった一人で請け負っているのが、この烏間惟臣だ。

 その重圧たるや、凡人である自分では想像がつかない――が、この横にいる超人は、そんな難易度(レベル)の任務を幾つも淡々とこなしてきたからこそ、対『死神』用エージェントに選出されたのだ。

 

 これまで、どんな任務を与えられた時も、彼がここまで何かを剥き出しにしたことはない。

 

 烏間が放つこのオーラは、闘志なのか、憤怒なのか、それとも――殺意、なのか。

 

「…………ごめん、なさい」

 

 彼の部下として短くない期間を過ごしてきている園川ですら額から汗を流してしまうような烏間のオーラだったが、有希子はそんな烏間に気付いているのかいないのか、俯きながら謝罪の言葉を紡ぐ。

 

「……確かに、これは私を助けてくれた、誰かがくれたものなんだと、思います。………でも、それをくれた人が……あまりよく、思い出せない……っ」

 

 これは鍵を掛けられた記憶ではない。

 確かに、沈み込んでしまいそうな苦しさの中で、それを自分に被せてくれた、何者かの存在は思い出しかけている。

 

 だが、それがまるで暗い影のように朧気で、その正体が掴めない。

 

「……大人……だった、気がします。すらりとした、大人の……綺麗な……男の、人。……優しくて……穏やかで……でも……朧気で。……顔は……思い出せない。……黒い髪の……黒い、人でした」

「……黒? それは日焼けをしていたという意味か?」

「いえ……いえ。……そうではなくて……なんというか――真っ黒な、人でした。何も見えない、見通せない……そんな――」

 

――闇の、ような。

 

 そこまで言って、有希子は頭を押さえながら、沈痛な表情で――遂に、口を閉じた。

 

 有用な証言とは言い難かった。

 しいて言うならば、年齢も国籍も性別も不明だった『死神』が、比較的若い男であるということが分かった以上、成果だと思ってもいいのかもしれない。

 

「…………」

 

 だが、烏間は、この有希子の証言を聞いて、今、改めて確信した。

 

(……そうだ。『闇』――正しく奴は、闇のような男だった)

 

 あの煉獄の戦場で、この手に掴み掛けた正体不明のガスマスクの男――奴は、奴こそは、間違いなく。

 何も見えず、何も見通せず――だが、覗き込もうとすると即座に喉元に鎌を突き付けられるような――そんな恐怖そのものを内包した、正しく『死神』の異名に相応しい男だった。

 

(……何の目的かは未だ不明――だが、何らかの目的をもって、奴は今、この日本にいる)

 

 池袋。

 吸血鬼。

 黒衣の戦士。

 戦争。

 燃えたアミューズメント施設。

 葛西善二郎。

 神崎有希子。

 

 どのキーワードが『奴』に繋がるのか、今はまだ分からない――だが、その糸を、必ずやこの手で――手繰り寄せて見せる。

 

 

――逮捕だ。『死神』。

 

 

 そうだ――必ずこの手で、奴の両手に手錠を嵌める。

 

 烏間は、もう一度そう決意するように、烏間は開いた掌を、再び渾身の力で握り締めた。

 

(……キーワード……そうだ、後一つ、彼女に聞かなくてはならないことが残っていたな)

 

 烏間は一度瞑目して意識を切り替え、有希子と向き直る。

 

 自らにガスマスクを授けた何者かについて思いを巡らせていた有希子に「――すまない。思い出せないのならば、いつか思い出せた時にいつでも知らせてくれ。……では、これが最後の質問だ。入院中の身体に負担を掛けて本当に申し訳ないが、あと少しだけ協力してくれると助かる」と声を掛け、園川も有希子を気遣うように肩に触れる。

 

 有希子は「……ごめんなさい。お役に立てなくて」と申し訳なさそうに言うと、再び烏間と目を合わせた。

 

 烏間は、そんな彼女の目を見て言った。

 

「――君の同級生である『潮田渚』君について。知っていることを聞かせて欲しい」

 

 瞬間――神崎有希子の瞳が、業火に染まった。

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

 全身が発火したかのようだった。

 

 

(………………………………あぁ)

 

 

 E組であることの燻りだとか、大人への不信感だとか、命の恩人への感謝だとか。

 

 死への拒否感だとか生へと執着だとか記憶の違和感だとかトラウマだとか心の傷だとか裂傷の痛みだとか火傷の苦しみだとか父親への反発だとか元同級生への劣等感だとか教師への失望だとか自棄だとか諦念だとか嘲笑だとか侮蔑だとか哀憫だとか同情だとか何もかもが燃えた。

 

 溢れ出した炎に、生まれて初めて感じる激情に――否。

 

 これは今初めての感情ではない。昨夜、あの胸に刻み込まれたものだ。

 

 火傷のように――この胸を、焦がした業火だ。

 

 

――神崎さん……どうして、ここに?

 

 

(……………………あぁ! ………………………あぁ!)

 

 

 地獄の奥底で死に掛けていた自分を、救ってくれた命の恩人。

 そうだ、自分は目の前の大人に助けられる前に、思い出せない闇の男にガスマスクを手渡される前に、あの小さな身体に救われていた。

 

 炎の海の中で、絶体絶命の危機に、まるでヒーローのように現れた。

 恐ろしい何かを吹き飛ばして、背に庇って――抱き締めてくれた。

 

 これは、まさしくあの瞬間に――燃え盛った炎だ。

 

 綺麗な紅蓮に染まった美しい感情に、神崎有希子は生まれて初めて、身を焼かれた。

 

 

――大丈夫。すぐに戻るから。

 

 

(…………あぁ! ………あぁ! あぁ! あぁ! あぁ!)

 

 

 それは、余りにも美しい、小さな死神の暗殺劇。

 

 毎日同じ教室で机を並べる同級生は、見蕩れる程に流麗に凶器を振るい。

 

 自分と同じ背丈の同い年の少年は、一瞬の躊躇もなく、一人の大人を死に至らしめた。

 

 

 命を奪う、正にその時――神崎有希子の心を奪う、全てを染める真っ黒な笑顔を贈って。

 

 

(あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!! そうだ。そうだ。どうして忘れていたんだろう? どうしてこんな業火(おもい)を思い出せずにいられたの!)

 

 思い出せば、もう今までの自分でいられる筈がないと思っていたからか。

 

 それこそ無意味だ――あの笑顔を見た後で、今までの自分に価値を感じることなど出来る筈がないのだから。

 

 生も死もどうでもいい。諦念も自棄も劣等感も自尊心も下らない。

 

 親も教師も大人も元同級生も――友達も仲間も自分すらも。

 

 

 あの笑顔に――比べたら。

 

 

 綺麗で、恐ろしくて、そして美しい――素敵な、あの殺意に比べたら。

 

 

(……渚君。……渚君! 渚君!! 渚君!!! 渚君!!!! 渚君!!!!!)

 

 

 あの背中を、あの瞳を、あの笑顔を、あの殺意を。

 

 思い出す度に、燃えるような業火が全身を灼く。

 

 恐ろしい――けれど、美しい。

 

 怖い――けれど、この世の何よりも、ずっと綺麗。

 

 

「……潮田、渚君」

 

 有希子は、恐怖も羨望も畏怖も憧憬も忌避も愛執も、何もかも詰まったかのような声色で、その名前を呟いた。

 

 そんな有希子に園川は呆然とした表情を、烏間は引き締まった無表情を――共に額から汗を流しながら、向ける。

 

 神崎有希子は、そんな二様の表情の大人達に、虫も殺せないような笑顔を向けて、言った。

 

「……渚君。彼は、私と同じ――」

 

 まるで、どこかの死神のように――殺意に彩られた、美しい笑顔で言った。

 

 

 

――ただの、『エンド』ですよ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 烏間と園川は、ボタンを押して一階から呼び出したエレベーターを待つ間、ポツリと囁くような音量で言葉を交わした。

 

「……よろしかったのですか?」

 

 園川はそれだけを言った。

 主語のない言葉は様々な対象を指しているようだったが、烏間は小さく、だがはっきりと言った。

 

「……ああ。あの場ではあれ以上何を問うても、彼女は答えてくれなかっただろう」

 

 上司のその言葉に、園川は何も言わなかった。

 だが、無言であるということが何よりも雄弁に、烏間の言葉に同意していることを表していた。

 

 神崎有希子。

 第一印象は、大人に対して恐れを抱いていた少女。

 第二印象は、年並み外れて聡明な少女。

 第三印象は、凄惨な環境に置かれた可哀そうな少女。

 

 良くも悪くも――彼女は、少女だった。

 完成されていないが故に脆く傷つきやすく、自分の世界に籠りがちで、自分の身を守りがちで、失望されるのを恐れて、同情されるのに屈辱を感じて――不安定で、不確定で。

 

 危うい――少女。

 

「……本当に、いいのでしょうか……?」

 

 園川はもう一度呟いた。

 

 彼女は仕事柄、今まで様々な人間と向き合ってきた。

 

 交渉事を専門とし、ありとあらゆる人種と目を合わしてきた。

 そんな彼女から見れば、正しく一目瞭然だった。

 

 あの目――まるで業火に取り憑かれているような、燃え盛るような感情に囚われた瞳。

 

 危うい――危ない。

 あの少女は、正しく今、とても危険な域にいる。

 

(……けれど、私達は、彼女に何が出来るの?)

 

 これが刑事ドラマなら、彼女の闇を取り除く為に、仕事をサボってしつこく関わり続け、彼女の闇と戦うことが出来るだろう。

 だが、これはドラマではなく、自分達は刑事ですらない。

 

 仕事をサボることも出来ない――大人だから。

 それは自分の――自分達の、仕事ではないから。

 

 あくまで園川達は彼女に昨夜の『池袋大虐殺』、そして『死神』について聴きに来ただけの、ただそれだけの関係だ。

 

 彼女と膝を折って向き合うことも、悩みや苦しみに寄り添うことも、彼女を取り巻く環境を壊すことも出来ない。

 

「……我々は、彼女にとっては、只の大人だ。今日会ったばかりで、今後会う機会など殆どないであろう、赤の他人だ。そんな人間の言葉が、彼女に届く筈もない」

 

 そんな大人が、そんな他人が、そんな人間が――誰かを救うことなど出来る筈がない。

 

 烏間は言う。そんな烏間に、園川は何も言えない。

 

 間違った(みち)を進もうとしている少女に――何も言ってあげることが出来ない。

 

「我々は――教師ではない」

 

 子供を教え導くことの出来る存在ではない。

 

 出来ることは、ただ国を守ることのみ。

 

 だが、そこまで考えて、やはり園川は考えてしまう。

 

(……子供を見捨てるような大人が――)

 

 国を守る資格など、あるのだろうか――と。

 

 そんな懊悩する園川の前で、ゆっくりと扉が開く。

 

 目的の階に辿り着いたエレベーターの中には、震える少女が一人居るだけだった。

 余りの震えぶりに患者なのかと思ったが(身に着けている服も外出着とは思えないぶかぶかのスウェットだった)、パッと見る限りにおいては怪我などをしている様子は見られない。

 

 少女は烏間達を見ると恐怖の余りか硬直していたが、まるで何かに押されるようにしてエレベーターを足早に降りる。

 そして園川達の前を通り過ぎた少女は、そのまま園川達がいた病室の方へと向かって行った。

 

 何とはなしにそんな少女を目で追っていた園川だったが、その時、自身の隣の男の様子がおかしいことに気付く。

 

「………………」

 

 烏間は、じっと、スウェット少女の背中を訝しげに見ていた。

 

「……どうかしましたか?」

「……いや――」

 

 何かを言いかけた烏間だったが、その時、既に少女と入れ違いにエレベーターに乗っていた看護師が二人に声を掛ける。

 

「……乗られますか?」

「は、はい。ありがとうございます。……烏間さん」

「……ああ。分かった」

 

 園川と烏間はそのまま頭を下げて、エレベーターに乗り込む。

 

 

 そして――扉が閉まった瞬間、人気の無い廊下に火花が散るような音が発生した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 病院を出た園川は、駐車場に停めていた覆面パトカーに乗車していた。

 現在警察に出向中ではある烏間もパトランプまで借り受けているわけではないので、正確には覆面パトカーではなく只の公用車だが、兎にも角にも、彼女達は病院を出て車へと戻っていた。

 

 助手席で所在なさげにする彼女の隣の運転席では、烏間が笛吹へと事情聴取の報告を行っている。

 

 神崎有希子への事情聴取の成果としては、可もなく不可もなくといったところだろうか。

 新たな衝撃事実が発覚したわけではないが、聴取前に予想していた事実関係の目ぼしいものに対する裏付け――というよりは心象的な確証を得ることは出来た。

 

 だが、園川の心にはやはり、神崎有希子の危うさだけが心に残っていた。

 

 公的機関の職員ではなく、一人の女性、一人の大人として。

 不安定な子供の、未熟な少女の行末に――心を痛めずにはいられなかった。

 

「――ああ。報告は以上だ。では、これより次の目的地へと向かう。……よし。では行くぞ、園川。シートベルトを締めろ」

「え、あ! はい!」

 

 沈痛な面持ちで俯いていると、いつの間にか烏間が通話を終えていた。

 電話を切ってから一秒に満たない早さで次なる行動へと移る上司の言葉に、園川は慌てて指示に従う。

 

 だが、そんなことをしても、自分があろうことか上司が重要な報告をしている隣で物思いに耽っていたという失態を犯したことを隠せないことは分かっていた。

 

 この尊敬すべき上司が、他の子飼いの部下達を差し置いて、今回の事態に置いて真っ先に自分に同行を要請したのは――園川雀が、こと一つの机を挟んだ戦場ならば、面と向かい、目と目を合わせ、言葉を交わして戦う戦争ならば、正しくスペシャリストだと太鼓判を押してくれたからということは知っていた。

 

 相手が女子中学生だということもあるだろう。だが、それでも、一番長い付き合いというわけでもなく、ましてや共に戦場を渡り歩いたわけでもない若輩者の自分を、例え一日限りだとしても相棒(パートナー)に選出してくれたのは事実だ。

 

 あの伝説の男が、日本最強の人間が――にも、関わらず、自分は何も出来なかった。

 

 神崎有希子の心を開くことも、有用な証言を引き出すことも――何も。

 

(……むしろ、彼女は烏間さんにこそ、心を開きかけていた。途中からは烏間さんと彼女が話すのを横で聞いているだけ……私は、一体、何の為に――)

 

 有希子の、あの危うい表情――園川の心を暗くする、彼女に生まれつつある闇を垣間見させたのも、やはり烏間の言葉だった。

 確かに、あれは生まれてはいけなかった闇なのかもしれないが――そんな闇が生まれつつあるということを明らかにさせたのは、もしかしたらどんな証言よりも有用だったのかもしれない。

 

 しかし、それも自分の手柄ではない。園川雀の戦果ではない。

 自分は――私は、この伝説の男の助手席に座るには余りに相応しくないと、そんな自責の念すら抱き始めていた園川に、烏間惟臣は真っすぐ進行方向を見ながら告げた。

 

「悪いが、君をまだ降ろすわけにはいかない。この車からも、そしてこの捜査からもな」

 

 そんな時間はない。今日の午後六時まで、刻一刻とタイムリミットは近づいている――そう言いながら、静かな安全運転で赤信号の前で余裕を持って公用車を停車させる。

 

「……え?」

 

 園川が運転席の男の方を向く。

 運転手である伝説の男は、やはり真っ直ぐ前を見ながら淡々と言った。

 

「これから、もう一人の重要人物の聴取に向かう——君の仕事だ。君の力が必要だ」

 

 そう言って烏間は、ダッシュボードの中から資料を取り出し、園川に事務的に手渡した。

 呆然とする園川に構わず、青信号を確認した烏間は静かに公用車を発進させる。

 

「我々の……いや、俺の認識が間違っていたのかもしれない。確かに神崎有希子は重要な登場人物だった。……だが、彼女の話を聞いて、俄然――彼の重要度は、跳ね上がったと言っていい」

 

 昨夜の戦場で、烏間はこの少年と、ほんの僅かだが邂逅している。

 

 烏間が見たあの少年は、烏間が感じたあの少年は――強く、鋭かった。

 

 だが――。

 

「……神崎有希子を嘆くなとは言わない。しかし、我々の仕事は、まだ終わっていない」

 

 彼と向き合うことが、彼女を救うことにも繋がる筈だ――烏間はそう言った。

 

 安全運転を続ける烏間が、一瞬だけ目線を前から切り、園川に手渡した資料に添付されている写真へと移す。

 

 恐らくは彼の入学式の写真であろう、何の変哲もないクラス集合写真のアップ。

 だが、間違いなく、昨夜にあの地獄の池袋で邂逅した少年と同一人物であることを明確に示しているその写真を見て、烏間は眉間に深く皺を刻む。

 

 この少年の名前を聞いただけで、あれ程までに神崎有希子は変貌した。

 

 そして、『死神』のメッセージカードに残されていた――【とある少年】というキーワード。

 

 神崎有希子と繋がり、『死神』とも繋がり、そしてこの両者を繋ぐ少年。

 

 そして、オニ星人――更には、謎の黒衣へも繋がっているだろう、小さな少年。

 

(……彼こそが、この闇のように黒い謎だらけの事件の――最も真実に近い存在なのかもしれない)

 

 潮田渚。

 

 真っ黒な黒衣を纏った、美しくも恐ろしい戦士の元へ赴くべく、烏間はゆっくりとアクセルを更に深く踏む。

 

「次の目的地は椚ヶ丘学園だ。法定速度を遵守しつつ――最大速度で向かうぞ」

 

 




業火に灼かれた少女の闇を垣間見た大人達は、椚ヶ丘学園3年E組へと向かう。


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Side渚――③

渚。私は、ずっと傍に居るから。


 

 山の中に忘れ去られたように佇む、木造の旧校舎。

 椚ヶ丘学園3年E組――通称エンドのE組での一日は、今日も(つつが)なく、何の不穏もなく過ぎていた。

 

 今は午前と午後の狭間である昼休み。

 全ての学生が授業からの解放感に身を伸ばし、仲の良い友達と共に昼食を楽しむであろう時間帯。

 

 落ちこぼれ底辺クラスであるE組にも流石にこの時間は平等に提供されていて、すっかり置いていかれてしまった授業のことは忘れて、生徒達は束の間の安らぎと共に午後の授業への英気を養っている。

 

 そんな同級生達の余所で――よく晴れた空の下、二人の少年がキャッチボールをしていた。

 

「いくぞ! 渚!」

 

 爽やかな短髪に両手首に巻いているリストバンドが特徴的な少年が、足を高々と上げて背筋を曲げるクセのあるフォームでボールを投げる。

 

 そして、そのボールを、キャッチャーの姿勢で腰を落としていた小柄な少年の構えるキャッチャーミットが見事に捕球した。

 

 パァン、と、小気味いい音が響く。

 それによりボールを投げた少年――杉野友人が、花が咲くような笑顔を浮かべた。

 

「――ぉぉ……おお! ナイスキャッチ、渚! 本当に捕れてんじゃねぇか俺の球!」

「……はは。でも、やっぱり手が痛いけどね。用具室にキャッチャーミットがあってよかったよ」

 

 杉野がはしゃぐ様子に苦笑しながら、小柄の少年――潮田渚は立ち上がってボールを投げ返す。

 

 そのボールをパシッと受け取りながら「よし、次はもう少し速く投げるぞ!」と言いながら再び投球動作に入る。

 渚は親友に優しく微笑みながら「流石にマスクはしてないから、お手柔らかにね」と呟くと、再び腰を下ろして捕球体勢に入る。

 

 そんな二人の様子を、一人の少年と一人の少女が見ていた。

 

「…………」

 

 木造平屋の旧校舎から、渚達がキャッチボールをしている運動場へと降りる階段に腰を下ろしている緑髪の小柄な少女――茅野カエデは、膝に両肘を立てて両手で顎を支えるような姿勢で、渚と杉野を無表情で眺めている。

 

 この二人が昼休みにキャッチボールをするのは、そう珍しいことではない。

 親友同士で席も前後な二人は、昼食も共にすることが多く、食べ終えたその足で食後の運動とばかりに運動場へと繰り出すこともしょっちゅうだった。

 

 小学校ならばともかく、中学校ともなると、昼休みに校庭で体を動かして遊ぶという生徒達は少ない。運動部の自主練習をする者達くらいだろう。

 その上、この隔離校舎のE組の運動場は、お世辞にも綺麗とは言えない。

 雑草がそこら中に生え、砂利も多く、一応は置かれているサッカーゴールもネットすら張っておらず錆び付いているといった有様だ。

 カリキュラムに申し訳程度に用意されている体育の時間も、体を思い切り動かすことよりも怪我をしないようにすることに神経を使わなくてはいけないような始末。好き好んで自由時間を過ごしたい場所ではないだろう。

 

 そんな場所で、何故、杉野と渚はキャッチボールをするのが日課なのか。

 偏にそれは、杉野が元野球部で、渚がそんな杉野に付き合っているからだ。

 

 かつて野球部のレギュラーだった杉野。

 しかしレギュラー落ちしてから自身の野球の才能に悩み、勉強にすら身が入らなくなり、そしてE組へと落ちることになった。

 

 学業成績不振者に対する特別強化クラスであるE組生徒は、全ての部活動への参加が禁止され、強制退部が言い渡される。

 故に杉野は野球部を追われ、それでも野球への想いを断ち切れず、今は市のクラブチームでプレイをしているといった状況だ。

 

 だが、杉野の根底からは野球部での落伍、そして自身の(ボール)に対する不信感が消えていない。

 先日に行われた球技大会のエキシビションにおいても、E組対野球部という晒し者に近い催いだったとはいえ、杉野のボールはかつて共に練習に励んだメンバーに打たれに打たれた。

 

 それでも杉野は、今でも暇さえあればボールに触れようとし、野球に縋ろうとする。あの日、聞こえてしまった心の折れる音を、必死に耳から消し去ろうとするように。

 渚はそんな杉野の気持ちを察して積極的に付き合い、一人では出来ない練習を手伝うようになっていた。

 

 しかし、野球未経験者であり、それどころか碌に運動部経験もない渚に出来ることなどたかが知れていて(球技大会の時も、キャッチャーマスクにプロテクターを着けていても杉野の球をまともに捕球することは出来なかった)、時間も限られている昼休みに出来ることなど精々が軽いキャッチボール程度だったのだが――。

 

「……今日のは随分と本格的じゃん」

 

 二人の様子を無言で眺めていた茅野の後ろに、一人の赤髪の少年が立っていた。

 彼も校舎の方からこのキャッチボールを眺めていたのは茅野も気付いていた。はっきりと話し掛けられたので、茅野は渚達から目を離さないまま言葉を返す。

 

「初めはいつもよりも少し速い程度だったんだけど。……でも、今はもう――杉野ほとんど本気だよね」

 

 パァン! という捕球音が、明らかに初めとは違っていた。

 

「…………」

 

 無邪気な笑顔が消えて、完全に真剣な表情になっている杉野を、赤髪の少年――赤羽業は、冷たく見据える。

 

 そして、その目線はすぐに、その表情を引き出している元凶たる捕手――潮田渚へと向けられる。

 

 完璧に受けられているわけではない。

 変化球には完璧に対応出来ずに弾いてしまうので、どうやら直球(ストレート)だけでやろうということになったようだ。

 

 だが、それでも、ストライクコースの直球だけならば、渚は見事に捕球していた。

 

「……杉野ってさ。ボールが遅くて打たれまくったから、レギュラーから落ちたって言ってたっけ」

「……確か、そんなこと言ってた」

「……けどさ――」

 

 カルマは冷たく、見下すような声色で――吐き捨てるように言う。

 

「いくら遅いって言ってもさ。野球部のレギュラーに――それもピッチャーになれるような奴の全力に近い球を、何でど素人の渚君が、()()()()()()()()()()()()()?」

 

 パァン、と、渚は瞬き一つせずに捕球する。

 

 額に汗が滲み始めたからなのか、それとも別の要因なのか。

 笑顔から無表情へ変わった顔に苦りが混じり始めた杉野には一瞥もせず、ただ渚だけを見据え続けている茅野は、ポツリとカルマに言葉を返す。

 

「――怖くないからだよ」

「……ん?」

 

 茅野の言葉の意味が分からず問い返すカルマに、やはり茅野は淡々と答える。

 

「渚……杉野のボールを、瞬きせずに完全に目で追ってる。だから捕れるんだよ。野球部のストレートを、全く怖がってない」

「…………」

 

 ちう、と、手に持っていた紙パックのいちごオレを吸いながら、カルマは渚へと目を向ける。

 

 動体視力――というよりは、茅野の言う通り、これは恐怖心の問題だろう。

 

 杉野のボールは、およそ100km/hに満たないくらいだろうか。

 野球部のエースのストレートとしては確かに物足りないかもしれないが、それでも、野球未経験者の人間にとっては、そんな速度で軟式といえど野球ボールのような硬い物質が迫ってくれば、当然、恐怖する。本能的に臆するだろう。

 

 目を瞑ってしまう。反射的に回避、あるいは防御しようとしてしまう。

 だが、時速100km/h程度であれば、一般人でもバッティングセンターで打てる速度だ。つまり、慣れれば目で追うことも十分に可能である。

 

 無論、機械が機械的に放るそれと、人間のピッチャーが投げるそれとでは、球質にまったくの違いが生じるのであろうが、それでも、捕れない球ではない。

 

 本能的な恐怖心を殺し、冷たいまでの冷静な平常心で、しっかりとボールを目で追うことが出来れば――だが。

 

「………」

 

 パァン、と。先程までは小気味よく聞こえていた音を聞き流しながら、カルマは思考する。

 別に神業という技術でもない。自分でも難なくこなすことも出来るだろう。自分ならば変化球も問題なく捕球出来るかもしれない。

 

 だから、異常なのは――やはり、心だ。

 ほんの少し前まで出来なかった少年が、たった数日で殺してしまった恐怖心の問題だ。

 

 同級生の野球部が投げる全力のストレートを、まるで近所の子供が投げる石ころを見るような冷たい眼差しで見据えるようになった――あの水色の少年の、心の問題だ。

 

「…………」

 

 先日から感じる、変異した同級生を見ると何故か胸の中に渦巻く正体不明の不愉快な感情を押さえながら――ふと、目の前に座る別の同級生を見遣る。

 

(……変わったと言えば、茅野ちゃんもだ)

 

 渚は気付いていない。恐らくは誰も気付いていない。

 けれど、先日から変異した渚をずっと意識していたカルマだからこそ、僅かに覚えた違和感だった。

 

 茅野カエデ。

 暴力行為による停学により、このE組に誰よりも遅れて参加したカルマが、このE組で初めて出会った同級生。

 

 他校から編入してきたにも関わらず、何故かこんなE組にやってきた女子生徒。

 元々気になる経歴の持ち主だったけれど、それでも、昨日までは普通の中学生のように見えた。

 

 だが、今は――。

 

「…………」

 

 渚を――ひたすらに渚を真っ直ぐに見据える彼女を、細めた目線で見据えるカルマ。

 

 だが、その時、断続的に続いていたパァンという捕球音が途絶えた。

 

「…………杉野?」

 

 これまで渚からボールを受け取ったらすぐに投球動作に入っていた杉野が、手首のリストバンドで汗を拭きつつも――顔を上げない。

 

 それを見て不思議がり、立ち上がって杉野の元へ向かう渚。

 

 カルマは、そんな二人を上から見下ろしつつ、(……まぁ、そうなるよね)と冷めた目で見据えていた。

 

 杉野は自身の球の威力の無さにコンプレックスを抱いていた。

 中学生となり、成長期で体が大きくなっていくにつれて、周囲の同級生の球速はどんどん速くなり、エースを争うライバルだった進藤は140㎞/hにまで達して、文字通り力づくでレギュラーを奪われた。

 

 生まれ持った才能の差――それを球技大会で嫌という程に見せつけられた傷も全く塞がっていない内に、()()()だ。

 

 自分以上に背が小さく、体も細く、特殊な訓練どころか運動部にすら所属したことのないような少年に。

 ああも容易く、ああも淡々と、瞬き一つしないで――己の全力投球を捕球される。

 

 それは、仮にもエースを目指して何年間も練習に打ち込んできた野球少年にとって、屈辱以外の何物でもないだろう。

 折れた心を、完全に圧し折って余りある――闘争心を、反骨精神を、情熱を、夢を、殺されて余りある光景だったことだろう。

 

「……悪い、渚。今日はもう、いいや」

「え、でも、昼休みはまだ残ってるよ」

「いいんだ――渚、もういいんだ」

 

 ちょっと、疲れたよ――そう言って、杉野はリストバンドで汗を拭きながら、一度、瞳を拭って、グローブを外す。

 

「ありがとうな、渚。付き合ってくれて。ミット貸してくれ。用具室に仕舞ってくるから」

 

 そう言って杉野は渚からキャッチャーミットを預かると、「渚は先に教室に戻っててくれ」と言い残すと、そのまま用具室へと向かった。

 

 渚は自身も手伝うと言って続こうとしたが、杉野の()()を見て、同行するのを止めた。今は一人にして欲しいと、杉野が思っているように感じたから。

 

「……杉野」

 

 自分は何かしてしまっただろうかと、渚は眉を下げながらも、とりあえず言われた通り教室に戻ろうと階段を上がる。

 

 そして、渚はその時に始めて、茅野が自分達を見ていたのだと気付いた。

 

「あれ? 茅野」

「お疲れ様、渚」

 

 渚は、自分を見下ろすように立ち上がりニコリと明るく笑う茅野を見上げる。

 彼女と同じ段にまで辿り着くと、今度は茅野が渚を見上げながら、すっと手に持っていた水を渚に差し出した。

 

「はい、水分」

「大丈夫だよ、喉が渇くほど長い時間やってたわけじゃないし」

「いいからいいから」

 

 遠慮する渚に茅野はどうぞどうぞとばかりに両手を出して返却を断る。

 これ以上遠慮するのも悪い気がして、渚は一口だけ飲んで茅野へとペットボトルを返した。

 

「間接キスとは、やるねぇ渚君」

「からかわないでよ、カルマ君。あ、でも、ごめん、茅野イヤだった?」

 

 渚がカルマの言葉に苦笑しながら返すと、茅野の方を申し訳なさそうな顔で振り向いた。

 茅野は「大丈夫だよ」と笑顔で首を振ったが、茅野も、そしてカルマも一瞬だけ目を細めた。

 

 確かに渚は草食男子といったタイプで、エロネタにも同級生の岡島程に熱心だったわけではないが、それでも中学生の思春期少年らしく、異性関係の話題には照れる程度の反応を見せる少年だった筈だ。

 

 先程のキャッチボールといい、まるでここ数日で感情というものが希薄になってしまったかのようだ。

 いや、希薄というよりは――悟りに近いか。

 

 まるで自分の人生観を、一変させるような体験をしたかのように。

 

「……渚君。インドでも行った?」

「なに、カルマ君、急に。行ってないけど」

「……いや、よく俺の両親が、インド行ってそんな風になって帰ってくるからさ」

 

 そんな風? と言って首を傾げる渚。

 カルマはそんな渚をへらへらとした口元で、けれどまったく笑っていない目で答える。

 

 こんなことを言ったが、カルマはそんなものではないということを理解している。

 海外旅行程度で、こんな風に変わるわけがないだろう。

 

 それにこれは、そんなにも平和的な変異ではない。

 

 もっと恐ろしく、もっと致命的な何かだ。

 

(……そんなことには、きっと、俺よりも茅野ちゃんの方が気付いているよね)

 

 茅野は笑顔だった。完璧な、仲の良い同級生に対して向ける笑顔。

 

「…………」

 

 それをカルマは細めた瞳で見ていると、渚が「そもそも――」と、茅野とカルマに対して尋ねてきた。

 

「――なんで二人は、ここにいるの? いつも昼休みは教室にいなかったっけ?」

 

 前述の通り、渚と杉野が昼休みに校庭でキャッチボールをするのは日課といっていい。

 しかし、そんな二人を校舎の外に出てまで、この二人が見ていたのは今日が初めてだった。

 

 カルマは「別に、ちょっと外でいちごオレ飲みたくて出てきただけだよ。ていうか、俺は今来たとこだし。鞄だけ置いて出てきた」と言って手に持っている紙パックを振る。

 渚の目は茅野に向くが、茅野はそんな渚にニコっと微笑んで――。

 

「――私はね、ちょっと渚に話があるの」

 

 そう言って、一歩前に出た。

 

「……話?」

「そう――()()()()、その続き」

 

 茅野は、そこで初めて笑顔を消して――自分の胸に手を当てて、言った。

 

 手遅れなのかもしれない。

 今更、何を言ったって変わらないのかもしれない――茅野カエデが、何も出来なかったという事実は、何も変わらないのかもしれない。

 

 あの日、あの時、あの瞬間に言うことに意味のあった言葉なのかもしれない。

 

 それでも――茅野は、言うと決めたから。

 

 戦うと決めたから。

 殺してでも、救ってみせると誓ったから。

 

 これは――その為の、誓いの暗殺だ。

 

 

「渚――貴方は、自分の好きなように生きていいんだよ」

 

 

 昨日の夕暮れの下校道。

 渚は、茅野に対し、己が呪縛からの解放を告白した。

 

 

――茅野。僕は、解放されたのかな?

 

 

 唐突に支配から解放されて、実母の教育(コントロール)から解放されて。

 潮田渚という少年は、淡々と、壊れたように、己が根幹の秘密を語った。

 

 その様が余りに異様で。

 その表情が、余りにも悲しそうで、余りにも寂しそうで、余りにも嬉しそうで。

 

 茅野は、渚からのこの問いに、何も答えることが出来なかった。

 

 

――…………茅野。僕は、これから……どんな風に、生きていけばいいんだろう?

 

 

 あの時は何も言えなかった。何もすることが出来なかった。

 

 何かをしなければ、何かを言わなければ――何をしてでも、少年を救うような何かを言わなくてはならなかった分岐点(シーン)であった筈なのに。

 

 あんなにも辛そうで、あんなにも危うい少年を、救えるヒロインでなければならなかった筈なのに。

 

「なりたいものになっていい。やりたいことをやっていい。渚――あなたは、自由になったんだよ」

 

 だからきっと、こんな言葉には何の意味もない。

 

 一晩経って、きっと何かに完成してしまった、今の渚には――こんな言葉は、きっと響かない。

 

 何も救えないし、誰も救われない。

 

 渚はこれからも『あの男』を追いかけるのだろうし、茅野の後悔だって、きっと消えない。

 

 それでも、茅野は言葉を続けた。

 正しいかどうかも分からない。意味があるとも思えない。

 

 それでも――少女は、ヒロインを演じることを止めない。

 

 茅野は踏み出す――あの時、踏み出せなかった一歩を。

 その為の、これは暗殺だった。

 

 標的(ターゲット)への、宣戦布告だった。

 

(渚……私は――)

 

 茅野は、隣でカルマが呆気に取られているのにも構わず、目の前で呆然としている少年に向かって語り掛ける。

 

「もし不安なら、何だって相談してよ。一緒に考えるから。一緒に悩むから。渚がもし間違えそうなら――私が全力で止めるから」

 

 例え、殺してでも――救うから。

 

 茅野は、こればかりは言葉に出さず、心中で刻み込むように呟くと。

 

 再び――笑顔で。

 

 主人公を救うヒロインのように――標的(ターゲット)の少年に、殺意(おもい)を贈った。

 

 

「渚。私は、ずっと傍に居るから」

 

 

 演じることに全てを捧げた少女の、偽りなき台詞(さつい)は。

 

 水色の少年に――果たして、届いたのか。

 

「……そっか。ありがとう、茅野」

 

 渚は、ただ一言、そう言って微笑んだ。

 

 その笑顔に――茅野は、苦笑する。

 

「……ううん」

 

 後ろ手に組んだ指に、ギュッと力が入る。

 それにカルマは気付いたが、渚はその笑顔のまま頭の後ろに手を当てて言った。

 

「ずっと考えてくれてたの? ごめんね、昨日は変なこと言って。お陰様で――何とか心の整理がついたよ。昨日、あの後に色々あってさ」

「……そっか。ううん、こっちこそゴメンね。あんなに真剣な悩みを打ち明けてもらったのに、その場で何も言えなくって」

 

 本当、ゴメン――と、茅野は笑みのまま、目線だけは俯いて呟いた。

 渚は「ううん、こっちこそ。いい年して恥ずかしいんだけど、僕もいい加減親離れすることにするよ」と言って頭を掻いた。

 

 カルマは茅野を一瞥すると、渚の首に腕を回して「何? 渚君がマザコンって話?」と言いながらニヤニヤした顔を向ける。

 渚は「はは、違うって。まぁ、でも、ざっくり言うとそんな感じ、かな?」と言って苦笑する。

 

 すると、その時、昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴った。

 

「あれ? もうこんな時間なんだ。二人とも、教室戻ろっか」

「そうだねぇ。流石に午後からは授業出よっかな。……ほら、茅野ちゃんも行こ」

 

 渚がチャイムの音に一番に反応して先頭を行く。

 カルマがそれに続こうとした時、茅野がただ一人、足を止めていたことに気付く。

 

 茅野はカルマの言葉に「……うん。今行くよ」と言って、校舎の方へと振り返り――その背中を見る。

 

 小さい背中――遠い背中。

 

 昨日は、この背中が消えるまで、ただ立ち尽くすことしか出来なかった。

 

「…………っ」

 

 自分が届けた言葉は、果たして届いたのだろうか。

 

 自分が届けたかった思いは――想いは――果たして。

 

「――ねぇ、さっきのって告白?」

 

 茅野が無意識の間に唇を噛み締めていると、見詰めていた背中との間にカルマが顔を出してきた。

 ニヤニヤとした顔の彼に、茅野は一瞬呆然として――そのまま一歩を踏み出して、カルマを追い抜く。

 

「……違うよっ。さっきも言った通り、昨日答えられなかった人生相談に答えただけ」

「ふーん」

 

 明らかに含みのあるカルマのリアクションに、茅野の足が早まる。

 

 すると、前を歩く渚の背中が、先程よりも近いことに気付いた。

 

「…………!」

 

 昨日と違う景色に、昨日よりも近い背中に――茅野は自分が踏み出せたことに気付く。

 

 思わずを後ろ振り返るが、そこには未だニヤニヤ顔のカルマが居て、その長い指で己の耳を指差していた。

 

 初めはそのジェスチャーの意味が分からなかった茅野だが――やがて、その意味が分かると。

 

「~~~~ッ!」

 

 バッと――()()()()()()を隠し、そのまま歩く速度を上げて、遂には渚と並んだ。

 

 先を歩く二人の「ど、どうしたの茅野? 顔赤いよ?」「な、何でもない! 何でもないから!」というやり取りをニヤニヤした顔で聞いていたカルマは――歩みを止めて、表情を消して。

 

「………………昨日、色々あった……ね」

 

 そして、ふと振り返り、誰もいなくなった運動場を眺めながら――紙パックのいちごオレを吸う。

 

「……一体、どんなことがあったら……あんな風に――人は変わるんだろうね」

 

 ズズ――と、何も吸えず、喉を潤せなかった音。

 

 カルマは――変異した渚の、あるいは()()()()()()()()()渚の。

 冷たい瞳を思い浮かべながら、空になった紙パックを握り潰し、既にいなくなった二人を追って、E組へと登校した。

 




天才子役は、標的たる同級生に、宣戦布告の暗殺を贈る。


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Side渚――④

……これって、私、誘われてるの?


 

 園川雀は、その光景に言葉を失った。

 

 E組生徒達が毎日登っている通学路を歩き、この時代に取り残されたような、俗世から排除されたかのようにぽつんと佇む木造古校舎を目の当たりにした時、彼女は思わず足を止める。

 ちょうど本校舎からは見せしめのような位置にあるこの校舎こそが、椚ヶ丘学園3年E組――成績不良の劣等生を、進学校の過酷な順位競争の敗者達を、一ヶ所に集めて管理する特別学級。

 

 エンドの、『E組』。

 

 立ち尽くす園川を置いて、烏間は一度目を細めた後、そのまま歩み出して校舎内へと入る。

 園川は慌てて烏間の後に続くと、教室の外の窓から彼等の――E組の授業風景を見学して。

 

 そして、言葉を、失った。

 

「――――ッ」

 

 そこでは、二十六人もの中学生が机を並べていた。

 

 特別珍しい風景でもない。

 マンガやゲーム機を手に持っている者もいない。スマホすら開いていない。

 むしろ却って今時珍しい程に、真面目に授業を受けている優秀なクラスといえるだろう――表面上は。

 

 だが、この光景を一目でも直接見た者ならば、口を揃えて言うだろう。

 

 この学級(クラス)は、崩壊し(終わっ)ていると。

 

 園川は、絶句しながら、とある少女の言葉を思い出していた。

 

 

――ただの、『エンド』ですよ。

 

 

 E組――エンドの、E組。

 

(…………これが……E組)

 

 そこは、池袋の病室で見た、『目』で溢れていた。

 

 あれほどの才気煥発の少女の瞳を占めていた、自棄と、諦念、失望と、侮蔑。

 それを真っ直ぐに己へと向ける少年少女が、二十六人、この教室には詰め込まれている。

 

 老教師が淡々と行う授業を、まるでお経のように聞き流しながら、中学三年生にして未来を絶望している子供達。

 

 園川雀は、そんな異常な教室に対し、ただ絶句するばかりだった。

 

「――さあ、行くぞ、園川」

 

 烏間惟臣は、そんな教室に背を向けて、真っ直ぐに職員室へと向かう。

 

「もうすぐ授業も終わる。その後、担任教師に事情を説明し、彼を呼び出してもらわなくてはならない」

 

 烏間は、教室の外からその生徒を――真っ暗な瞳が犇めく教室で、ただ一人、冷たい瞳で窓の外を眺める少年を。

 

 潮田渚を見詰めた後、そのまま目を切り、歩き出す。

 

「彼の相手は、一筋縄ではいかない。気を引き締めて臨め」

 

 決して呑まれるな――烏間のその言葉に、園川は生唾を呑み込み、彼に続いて職員室へと向かった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、その日のE組も、何も変わらず一日が終わった。

 

 終わった教室の一日が終わる。

 たった一日――後、何日、こんな終わった日常が続くのだろう。

 

 生徒達は僅かばかりの解放感に表情を綻ばせながらも、決して心からの笑みは浮かべられない中、彼等近所の席のクラスメイト達とぽつりぽつりと雑談をしながら、担任が帰りのHRへと戻ってくるのを待っていた。

 

 どうせ一人しか教師がいないのだから、最後の授業の終わりの後にそのままHRも済ませてしまえばいいのにと思うが、あの老教師は授業が終わる度に職員室へと戻り、きっちり次の授業の開始時間に教室に戻ってくるという習性を持っていた。

 

 そのことに関して何人かが笑いながらネタにする中、老教師が今日もいつも通り、きっちり時間通りに教室に戻ってきた。

 

 だが、HRといっても大した議題がE組にあるわけでもない。

 直近に迫った行事もないので、各授業で出した課題を期日までにしっかり提出するようにといった形式だけの連絡事項だけを告げて解散となるのだろうと誰もが思っていたが、今日だけは、少しばかり予想外の事柄が追加された。

 

「後、渚君。君はこの後、職員室へと来なさい」

 

 え? と、名前を呼ばれた張本人がぽかんとする中、他の生徒も疑問顔を浮かべている中で、当の老教師はその後はいつも通りに淡々と進行し、あっさりと解散を告げて教室を出て行った。

 

「お、おいおい、渚? お前、なんかしたのか?」

「いや、特に何も心当たりはないけど……」

 

 杉野が真っ先に渚へと問い掛けて、渚はそれに本気の疑問を返す。

 それに続いて磯貝や前原といったクラスの中心存在も渚へと問い掛けてくるが、寺坂らはそれをじろりと睨むだけでさっさと帰宅を決め込み、他のクラスメイトも渚が本当に心当たりがなさそうだと分かると、大事ではないと判断したのか、一人、また一人と教室を後にしていった。

 

「それじゃあ、杉野。悪いけど……」

「ああ、気にすんな。今日は先に帰ってるよ」

 

 杉野は申し訳なさそうに謝ってくる渚に苦笑しながらも、渚が教室を出て行った瞬間、少しほっとしたような表情になった。昼休みのキャッチボールのことは、彼の中で完全に修復出来てはいないらしい。

 

 そんな杉野も教室を出て、そのまま校舎を出て行くと――教室の中には、茅野カエデと、赤羽(カルマ)だけが残った。

 

「……カルマくん、まだ帰らないの?」

「うーん、このまま帰っても暇だしねぇ。……それに――」

 

 気になることもあるし――と、カルマは空っぽの鞄を肩に担ぐと、そのままニヤニヤと茅野を見詰める。

 茅野はそんなカルマを無表情で一瞥すると、そのまま帰り支度をして教室の出口へと向かった。

 

「茅野ちゃんはどうするの?」

「……どうするのって?」

「いやいや、誤魔化さなくてもいいって。茅野ちゃんも気付いてたでしょ?」

 

 あの、()()()()()()()()()――と、カルマは茅野の背中に向けて言う。

 

「俺には、アレが渚君の呼び出しと無関係とは思えないんだけど、茅野ちゃんはどう思う?」

 

 茅野は足を止めて、カルマの方を振り向いた。

 

「……これって、私、誘われてるの?」

 

 その表情は――カルマの知らない、茅野カエデの顔だった。

 

 まるで()()()()()()笑顔(さつい)だった。

 

 カルマはそれに、嘘のような笑顔で答えた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 山の中の古校舎から、生徒が一人、また一人と下校すべく下山する。

 一様に授業からの解放感から顔を綻ばせ、けれど、やはり何処かに影を落とした表情で。

 

 また一日が終わる。だけど、再び明日にはこの山を登る。

 下界から遠ざかるように、十三階段を上るように、自分達を隔離する牢屋のようなこの学級へ。

 

 そんな現実から、そんな終わってしまった現実から目を逸らしつつ、一時の仮釈放を享受すべく、今だけは普通の中学生に戻ろうと。

 

 一人、また一人と下校すべく下山する中――とある小柄な男子生徒が職員室へと呼び出されていた。

 

 この隔離教室では、問題児が見せしめのように集められるにも関わらず、実は生徒が教師に呼び出されるということは殆どない。

 

 E組は揃いも揃って――既に見放された生徒だからだ。

 教師からも、親からも、友達からも。

 

 故に、だからこそ、どれだけ成績不良でも、どれだけ素行不良でも、ここに落とされた時点で、彼等彼女等は再指導を受けることはない――筈だった。

 

 件の小柄な男子生徒は、大半のクラスメイトが下校しているであろう放課後に、職員室の前に立った。

 

 本校舎時代では、最後通牒を突き付けられた、己にとっての裁判場だった職員室。

 このE組では日直の時に授業道具を取りに来る時くらいにした訪れたことのなかった場所。

 

 少年は礼儀として形式的にノックして、扉を開けた。

 

「――失礼します」

 

 ゆっくりと(ひら)けた扉から、まずは顔だけを覗かせる。

 

 本校舎のそれとは違い、このE組の職員室はとても狭い。

 机によって形成される島も一つしかなく、校舎と同様にそれらの机も木造だ。

 

 一応、島を形成できる程度には数脚用意してある机も、実質一つしか使われていない。

 このE組では全教科を一人の教師が教える為、一人の教師しか派遣されないからだ。

 

 だが、扉を開けた先に待っていたのは、己を呼び出した、見慣れたE組担当の老教師ではなかった。

 

 もっと言えば一人でもなかった。教師でもなかった。

 見慣れない、かっちりとした服装の大人。まるでビジネスマン――いや、もっと公的で、もっと法的な誰か。

 

「――潮田、渚君だね?」

 

 二人の大人の男の方が言った。

 スーツの上からでも分かる鍛え上げられた身体。猛禽類のように鋭い目つき。そして放たれる気配。

 

 問われた男子生徒――潮田渚は、己の中に冷たい血液が流れるのを感じる。

 察したからだ。この男が、只者ではないことを。

 

 もっと言えば、知っていたからだ。

 この男が只者ではないことを――昨夜の戦場で、潮田渚はそれを知っていた。

 

 だから渚は――小さく、笑った。

 

「――はい。僕が、潮田渚です」

 

 そして笑顔のまま逡巡し――そのまま笑顔で、言った。

 

「昨日ぶりです――烏間さん」

 

 男は――烏間惟臣は。そして、その横に立つ女――園川雀は。

 

 目の前に現れた小さな少年が放つ――()()に、グッと心を引き締める。

 

 放課後のE組の職員室にて。

 

 二人の軍人と、一人の中学生による、奇妙な三者面談が始まった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 普段、E組担任が使用している席に烏間が座り、その横に園川が座る。

 そして、机二つ分のスペースを挟んで、向かい側の机の椅子に渚が座った。

 

 渚は指示されたその席に座る間も思考する。

 何故、烏間惟臣が――此処に現れたのか。

 

 椚ヶ丘学園3年E組に、やってきたのか。

 

(わざわざ僕のことを指名してこういう場を用意したってことは、間違いなく烏間さんは昨日のことを覚えている。僕の顔も知っていたし、名前も……昨日のあの戦場で、平さんからでも聞いたんだろうな。……一瞬考えたけど、そうなると知らないふりをするっていうのも意味ない。……分かんないな。ガンツの秘密保持の爆弾って、もう大丈夫なのか、それともまだ――)

 

 渚はそっと頭を触る。

 あの『部屋』において、潮田渚は決して真相というものに近い立場にはいない。まだまだ知らないことが山のようにあるのだろう。

 

 だが、今も機能しているかどうかはさておいて、この頭の中の爆弾は、こういう時の為に埋め込まれたものなのだろうということくらいは分かる。

 ならば、これから自分がすべきことは――爆弾のスイッチがONであろうとOFFであろうと――余計なことを言わないということだ。

 

 余計なことを言わず、余計なことをせずに、この三者面談を乗り切ることだ。

 

 そう己の中で結論付けて、渚は――笑顔で武装した。

 

 

 

 園川雀は目の前の存在が信じられなかった。

 

 神崎有希子――彼女を前にして感じた闇のようなもの。それを初めて突き付けられた時も絶句したものだ。そして、先ほどの授業参観を経て、彼女は己の愚かさというものを痛感させられた。

 

 書類上の情報だけでは、決して理解出来ない教育の闇が――E組(そこ)にはあった。

 

 ほんの一年前まで、日本でも有数の進学校のエリート中学生として、順風満帆だった筈の、成功が約束されていた筈のレールが――突如として消失し。

 身体を突き抜けるような突風によって大舟は転覆し、成功の約束手形は破り捨てられ、真っ暗な海の中へ、凍えるような奈落の底へ、真っ逆さまに落とされた十四才達。

 

 必死に手を伸ばしても、親にも、教師にも、友達にも、誰にも彼にも侮蔑の表情で背を向けられた――そんな絶望に飲み込まれた一クラス分もの少年少女達の抱える闇は、まるで、その教室だけ真っ暗な夜であるかのように、澱んでそこに存在した。

 

 E組(ここ)いる彼も、彼女も、皆きっと神崎有希子に負けず劣らずの才能を持った原石だったのだろう。

 そんな子供達が真っ暗な部屋の中、真っ暗な瞳で、ただ一日が過ぎるのを俯きながら待っているその光景は、思わず園川自身が俯き、涙してしまいそうな程に、見るに堪えないものだった。

 

 けれど――この子は、違うと、そう思った。

 

 闇は抱えている。それもとびっきりの闇を。

 だが、この子の抱える闇は――この子が放つ闇は、違う。

 

 闇の――危うさの、種類が、純度が、違う。

 

(……いや、この子はもう――)

 

 神崎有希子とも、また違う。

 あの少女が境界(ボーダー)を跨ぎ掛けているのならば、この少年は――きっと。

 

「…………っ」

 

 だから、この少年は――こんなにも穏やかに笑うのか。

 

 こんなにも、穏やかで、美しい――殺気を、人に向けるのか。

 

「………………ッッ」

 

 冷や汗が流れる。机の下で掌をスーツで拭う。

 

 どうして。

 神崎有希子と同い年の、こんなにも小さく見るからに非力な、()()()()()()()が。

 

 こんなにも――怖いの?

 

 

 

 烏間惟臣は己が目を疑った。

 

(…………これが……潮田、渚か……?)

 

 男子三日会わざれば刮目してみよとは言うが、たった一日で――いや、正確にはたった一晩で、ここまで変わるものなのか。

 

 烏間が知っている渚は、確かに中学生とは思えない程に戦場に適応していた戦士だったが、それでもあの時の彼は、もっと――澄んだ少年だった。

 仲間を守る為に自ら囮となり、初対面の自分を信用して、ほんの僅かな間だったが共に怪物と戦った。

 

 その時の彼と、今目の前にいる潮田渚が――重ならない。

 

 まるで一皮剥けたような――まるで一段、落ちたような。

 

 とても大事な何かを――踏み外してしまったかのような。

 

「……渚君。昨日も会ったが、改めて名乗ろう。烏間惟臣だ。元自衛官で現防衛省勤務。今はとある事情で警視庁に出向している。こちらは園川雀、私の部下だ」

「……! よ、よろしくね、渚君」

 

 二人の大人が名乗ると、渚は「潮田渚です。よろしくお願いします」と礼儀正しく頭を下げる。

 

(警視庁に出向……よく分からないけど、よくあることなのかな? ということは、今日来たのは警察として?)

 

 渚が頭を下げて上げる間も思考を続けながら――微笑みを絶やさないのを見て、烏間は「……それで、本題に入る前になんだが、渚君」と前置きながら、渚を真っ直ぐ見据えて、射竦めた。

 

「――不用意に殺気は向けない方がいい。耐性がない者には怯えを、耐性がある者には警戒心を与える。どちらにせよ、良いことは何もない」

 

 表の世界での日本最強の男が放つ殺気に――渚の手が、腰に伸びる。

 

「っ!?」

 

 そして、ふと我に返ったように停止し、渚はきょとんとした顔で烏間に問い掛けた。

 

「……殺気、ですか? 僕が……出してましたか?」

「…………ああ。あんな戦場で戦っているんだ。殺気の一つも身に付いてしまうだろう。だが、普通の一般人には縁がない代物だ。普段は押さえておくに越したことはない」

 

 烏間は机の上に肘を着くように――左手で右手を押さえるようにしながら言う。

 

 こうは言ったが、渚の放つ殺気は、所謂戦士のものではないような気がしていた。

 軍人とはいえ、非戦国家を宣言している日本の軍隊の一員だった烏間は、現役時代は殆ど戦場に赴いたことはない。

 

 本物の戦場を、本当の地獄を知ったのは、むしろ防衛省に勤め始めた頃だろう。

 真っ暗な闇の中で一つの情報を奪い合ったこともあれば、秘密裏に日本という国家に対しての潜在的害悪を消したこともあった。

 そこには多種多様の殺気が入り交じっていて、そこには種々雑多な戦場に生きる者達がいた。

 

 誇りを胸に戦う者。

 金銭を稼ぐ為に闘う者。

 家族の為に生きる者。

 愛する人の為に死ぬ者。

 

 そこには戦士もいれば、傭兵もいた。軍人もいれば、諜報員(スパイ)もいた。

 

 昨夜で言えば、あの東条英虎は戦士だろう。葛西善二郎は犯罪者だ。しかし、渚は違う。

 

 潮田渚の放つ殺気は、己から湧き起こる闘志でも、他者を弄ぶ愉悦でもない。

 

 もっと澄んだ黒で、もっと鋭く冷たい黒だ。

 

「……そっか。ごめんなさい。少し緊張していたみたいです」

 

 緊張――というよりは、警戒だろう。

 無意識の内に高まっていた警戒心により、知らずの内に殺気が漏れた……?

 

(……まだ殺気を制御出来ていない? 確かに、普通は制御するようなものではなく、知らず知らずの内に漏れてしまうものだろう。しかし『プロ』ならば、殺気の制御法など呼吸のように心得ていて当たり前だ)

 

 彼等は――『黒衣の戦士達』は、対怪物用に訓練された部隊というわけでは、プロとしての訓練を受けた戦士ではないのか。

 

 だとすれば――()()()()

 

「…………」

 

 元々、心から納得していた訳ではない――が、それでも、命令は命令だ。

 

 ()()命令だ。

 

(……本当に、何を考えているんだ…………)

 

 烏間は組んだ手を思わず額にぶつける――その時、目の前から、()()()()()

 

「っッ!?」

「なっ!?」

 

 烏間だけではなく園川も瞠目する。

 一体いつの間にいなくなったのかと腰を浮かせかける――が。

 

 渚は、()()()()()()()()()()()()

 

「――さて。僕に聞きたいことって何ですか? 烏間さん」

 

 目の前の少年は、とても穏やかに笑っていた。

 

 今度の笑顔は殺意の欠片もない――虫も殺せなさそうな微笑み。

 

 思わず腰を下ろす。そして、烏間は己の右手が拳を解いていることに気付いた。

 

(……どういうこと? さっきまで、私はこの子を怖がっていたのに――今はいっそ安堵すらしている……。同一人物なのに、()()()()()()()()()()()()()()のにッ!)

 

 園川はごくりと唾を飲み込む。

 そして――烏間は。

 

(……やはり、そうか。あの殺気の鋭さ。そして、この殺気の消し方。……紛れもない。これは――)

 

――殺し屋の、才能。

 

「…………」

 

 烏間の脳裏に、昨夜の業火の戦場が蘇る。

 

 潮田渚。

 

 確信を得た。この少年は、きっと烏間が求める真実へと繋がっている。

 

 黒い近未来的スーツの戦士について。

 人間からオニへと変貌する怪物について。

 

 そして――『死神』に、ついて。

 

「…………昨夜も君に言ったな。俺は、君に聞きたいことが、山ほどある」

 

 烏間は、瞑目する。

 彼は自分が知りたいことを知っている。渇望した真実が、目の前にいる。

 

 だが、烏間の瞼の裏に響くのは、この椚ヶ丘学園に辿り着いた車内で受け取った――電話からの言葉。

 それは、烏間が最も信頼する上司からの、信用出来ない言葉だった。

 

『――烏間。椚ヶ丘学園に向かってるって? ……だったらよ……ちょっと一つ、頼まれちゃくれねぇか?』

 

 元自衛官で現防衛官――日本という国に尽くす戦士は、目を開ける。

 

「――だが、それらを聞くよりも前に……我々は、君に頼みたいことがある。今日は、それを伝えに来たんだ」

 

 隣で園川が息を呑む。

 烏間はそれに何も言わず、渚は烏間に問い返した。

 

「……頼みたい、ことですか?」

「……ああ。昨夜の池袋大虐殺事件、その終戦の立役者の一人である君に――防衛大臣から直属の依頼だ」

 

 防衛大臣? と、渚は繰り返す。

 余りにも大きい役職名故に現実感がなかったのか、渚はただ訝しむばかりだ。

 

 その様子はどこからどう見ても普通の中学生で、自分が聞いた情報と、先程までの異様な雰囲気からもかけ離れていて、烏間はその言葉を思わず一度飲み込んでしまう。

 

 だが――これは、国家命令だ。

 

 日本という国に尽くし、日本という国を守り、日本という国の為に戦う。

 それが――烏間惟臣の使命であり、職務だ。

 

 これは大人の仕事なのだ――その為に、子供の人生を利用するのだ。

 

 烏間は言う。覚悟を以って、告げる。

 

「……今夜、午後六時より。総理大臣と防衛大臣による、昨夜の池袋大虐殺の説明会見が行われる」

 

 

 潮田渚君――君も出席して欲しい。

 

 

「…………え?」

 

 

 その言葉に、真っ直ぐ見据えられた潮田渚も。

 

 

 窓の外で聞いていた、茅野カエデも赤羽業も、絶句するしかなかった。

 

 




潮田渚は、奇妙な三者面談を終え、新たな戦場への招集を受ける。


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Side東条――①

……平和だねぇ


 

 乾いた風が、乾いた大地を更に痛めつけるように吹き抜ける――荒野のような砂漠。

 

 そんな場所で、見るからに荒くれ者といった柄の悪い男達が、小高い丘の上から獲物を冷たい眼差しで見下ろしていた。

 

「……あれが、今回の獲物か」

「ええ。尋常じゃなく強えってもっぱらの噂っす」

 

 ここは、銃と鋼鉄が支配する世界――仮想世界――GGO。

 

 ガンゲイル・オンライン。

 

 血生臭く、鉄臭い空気が充満するその世界に、特に目を引かない、この世界では有り触れた、男だらけのむさ苦しい集団が(たむろ)していた。

 

「……タコだな」

「……タコっすね」

「……タコ以外の何物でもねぇっすね」

 

 人数はおよそ十人程だろうか。

 現実世界のプレイヤーの性根の曲がり具合が伝わってきそうな程に、揃いも揃って個性を出そうとして却って個性を失っているかのようなチャラい装いの輩達。

 

 だが、だからこそ、彼等の目には一切の怯えも恐怖もなく、眼下の怪物を歪んだ表情で嘲笑っていた。

 

「どうします?」

「コイツ、めっちゃレベル高いって噂だよぉ~」

 

 中でも、その他のモブキャラとは一線を画すように、集団から飛び出て先頭の男の横に立つ二人の男は――大きな体にガスマスクの男と、異様に軽装なロングヘアの男は、伺いを立てるように自らのリーダーに向かって語り掛ける。

 

「……ハッ。決まってんだろ」

 

 つい最近この世界でも見つけたヨーグルト風味ドリンクを飲み干し、その空容器を投げ捨てながら(そのままエフェクトとなって消えた)、男だらけの集団を率いる男は吐き捨て。

 

 フード付きの外套に色付きゴーグル、そして重課金(リアルマネー)で購入した大きなロケットランチャーを構えながら。

 

 キャラクター名――〈first〉は、その豪快な号砲を打ち放った。

 

「この神崎(はじめ)に! 倒せねぇ敵はねぇ! 行くぞテメぇらぁぁぁああああああ!」

 

 仮想世界(ネットゲーム)で元気よく現実世界の名前(リアルネーム)を叫びながら、神崎一と愉快な仲間たち(スコードロン名は【神崎一派】)は、雄叫びと共に怪物に向かって一斉に丘を駆け下りていく。

 

 ドゴーンッッ、というロケットランチャーの轟音と共に、タコの怪物の怒りの咆哮が響き渡る中、誰よりも早く飛び出していったガスマスクの男(キャラクター名は〈キャッスルマウンテン〉)と対照的に、集団でただ一人、一切微動だにすることなく丘の上で佇み続ける軽装の男は、真っ赤な空を見上げながら――笑う。

 

「……平和だねぇ」

 

 血と硝煙が支配する仮想世界で、男達の絶叫が響き渡る中、少年は呟いた。

 

 日時は――池袋大虐殺から一夜明けた、平日の午前中。

 

 爽やかな笑みと共にロングヘアを掻き上げる男――キャラクター名〈Natsu〉。

 現実世界の名前(リアルネーム)を夏目慎太郎というこの男は、仲間達が愉快に宙を舞いながら絶叫する姿を尻目に、一人さっさとログアウトするのであった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 喧嘩最強――県下最凶。

 

 不良率――驚異の120%。偏差値――色んな意味で測定不能。

 

 今時珍しい、ヤンキー高校を絵に描いたように荒れ狂うこの学校は――県立石矢魔高校学校。

 

「ひゃっはー!」

「ヒャッハー!」

「アァン? コラ」

「やんのかコラゴラ」

 

 毎日気持ちいい程に窓ガラスが割れ、壁という壁にスプレーが吹きかけられ、朝礼よりも早く殴り合いにより一日が始まるという――天下の不良高校と呼ばれる、全国随一のクズの巣窟である。

 

 そんな石矢魔高校の、一・二年校舎の、とある一室。

 

 今日も愉快に不良達の気勢やら奇声やらが響き渡る校内において、不気味なまでに静けさに満ちたその部屋に――十人程の男子高校生達が横たわっていた。

 

 ただ一人、ロングヘアを掻き上げながら、窓ガラスを開けて爽やかな風を浴びる端正な顔立ちの少年が微笑む中で――もさり、と。

 

 まるで墓の中からゾンビが目覚めたかのように、その十人程の男達が、無言で、無表情で、上半身のみを起き上がらせ、全員が揃って身に着けていた円環状の機械――アミュスフィアを、静かに外して、静かに置いて、ゆっくりと立ち上がり、元気よく発狂した。

 

「「「「勝てるかぁぁああああ、あんな化物(もん)ッッッ!!!!!!」」」」

 

 バキッ、ドガッ、バリっ、へぶらぁっ――と、静寂に包まれていた教室が、一斉に馬鹿共の八つ当たりの被害やら悲鳴やらの効果音で溢れ返る。

 

 そんな中で、一人だけ黒板でも机でも窓ガラスでもなく、近くにいた自分の舎弟をむしゃくしゃしたからという理由だけで何の反省もなく殴り飛ばしたのは、くすんだ金色に染め上げた短髪に、左耳と左口端を繋ぐピアス、そして顔に大きく残った切り傷が特徴の男。

 

 今現在、この天下の不良高校において、二年生ながら最大勢力を率いる男――神崎一である。

 

 石矢魔高校統一に最も近いとされる男は今、ゲームのモンスターにボコボコに打ちのめされた鬱憤を、これ以上なく大人げない方法で晴らしていた。

 

「クソがッッ!! なんだよあのタコはよぉぉおおお!!! 男だったらいちいち隠れてねぇで真正面からぶつかってこいやぁぁあああ!! そんなに砂が好きかっ! 大好物かッ! タコだったらタコらしく墨の一つでも吐いたらどうなんだああん!!」

「いやでも神崎さん。アイツ墨の代わりに最後に破壊光線みたいの吐いてましたぜ。えらくカッコいいヤツ」

「なにそれ俺見てねぇんだどぉおおお!!?」

「ぐえええええええ!! いやだってそん時にはもう神崎さん既に死んでたから――」

「テメェェええええええええ!! なんで俺より長く生き残ってんだぁぁああああ!! 誰の金でその素敵王冠買ってやったと思ってんだぁあああああ!!!」

「ぎゃああああああああああああああ!!!」

 

 パリーン、と、何の罪もない、ただ神崎よりもゲームが上手かったという理由で窓を突き破ってスカイダイブする羽目になった名もなきモブキャラの悲鳴が(物理的距離によって)少しずつ儚く遠ざかっていく中で、そんな神崎の背中をドン引きしながら見つめていた神崎一派の舎弟達は「……おい」という神崎の低い呟きに肩を震わせ、ゆっくりと振り返ってきたその表情によって続いて膝を震わせた。

 

「……他に、この俺様よりも長生きした不届き者はいるか? 正直に手を挙げろ今なら怒らないから」

(絶対に嘘だッ! っていうかもう無茶苦茶キレてるしッ!)

 

 イベントモンスターの理不尽な強さに楽しくキレていたのは、舎弟達(かれら)にとっては既に過去のことだった。

 今はただ、この現実(リアル)の喧嘩は強いけど仮想世界では滅茶苦茶ザコだった自分達の大将の逆鱗にいかに触れないかという、楽しくないにも程がある、ある意味デスゲームな時間を如何にして乗り切るかが全てだった。

 

「誰も名乗り出なかった場合、とりあえず十秒に一人その窓から飛び降りてもらおっかな」

(理不尽ッ! 圧倒的理不尽ッ!)

 

 神崎一の自分暴君です発言に、舎弟達は全力のおべっかで応える。

 

「な、なに言ってんすか神崎さん。神崎さんよりも長生きした奴なんて、さっきのアイツだけに決まってんじゃないっすか。ははは」

「そ、そうっすよ。俺たちは神崎さんを守る為に全力で戦ったんすから。へへへ」

「実際に装備だって、俺たちは神崎さんの足元にも及ばねえっすよ。ひひひ」

 

 嘘だ。

 実を言うと、この中の実に半数が神崎よりも長く生き残っていた。

 

 まあ、さっきの窓ダイブ君が言っていたタコモンスターの切り札である破壊光線によって彼等は残らず全滅したし、その破壊光線が放たれたのは神崎――〈first〉が死亡した直後ではあったので、ほぼログアウト時間は変わらなかったのだが、それでも神崎がログアウトした時ここにいる半数以上のメンバーのHPは半分以上残っていたのは確かだった。

 

 ぶっちゃけ――〈first〉くんは弱かった。

 なんせ身動きが制限されるようなとにかく派手でデカい武器を携えて、真っ向から何の策もなく怪物に向かって走り出していくのだ。

 

 舎弟達は、神崎は自分があっさり負けると露骨に機嫌が悪くなる為、頑張って盾になろうとはするのだが、それにもやはり限界がある。

 それに今回のイベントモンスターは、とんでもなく強いという情報と共に、その分撃破報酬もとんでもねえという噂が聞こえていたので、こっそり〈first〉くんを囮に本気でクリアを狙った連中も、半分くらいはいた。

 

 その結果が、今の暴君タイムである。

 仮想世界ではっちゃけたツケが、こうして現実世界で回ってきたというわけだ。

 

「――いいか。俺が、(いえ)の金を使ってまで、てめーらに素敵王冠を与えてやった理由は、ただ一つ。テメェらを俺の盾に使う為だ」

(ナチュラルに酷ぇ……)

「その役目を果たせなかった報いは当然、現実世界のテメェらの命で支払ってもらう」

(けじめとかいうレベルじゃねぇ! 牛〇くんも真っ青の鬼取り立てなんですけど!)

 

 拳を鳴らしながら素敵な笑顔で近づいてくる神崎に、引き攣った笑みを浮かべながら一歩下がる舎弟達の中で――ザッ、と、前に出る巨漢が一人。

 

 体の大きさだけならば、神崎よりも夏目よりもデカい、身長206cmの大男。

 がっしりとした体躯、顔に走る二本傷――そして、頭に揺れる二房の三つ編み。

 

「城山さん!(今日も三つ編みだ……)」

「ダメっす、城山さん!(いかつい顔なのに今日もリボン付きの三つ編みだ……)」

 

 城山と呼ばれた男は、まっすぐに神崎の前に躍り出て――そして、勢いよく頭を下げる。

 

「自分はッ! 神崎さんを守る立場にありながら、不覚にも神崎さんを目の前で見殺しにしてしまいましたッ!」

(あー、そういえば〈キャッスルマウンテン〉さん、〈first〉くんが地面からの突き上げ攻撃で死んだとき絶叫してたな。っていうかダサいな〈キャッスルマウンテン〉)

(『神崎さぁぁぁあああん!!!』ってリアルネームを絶叫してたな。しかしダサいな〈キャッスルマウンテン〉)

 

 ただし〈キャッスルマウンテン〉の名誉の為に補足しておくと、彼は自分の手柄目当てではなく、全身全霊を懸けて〈first〉を守る為に戦った。ただ、件のタコモンスターが、そんな彼を避けるように、後ろの〈first〉を狙い討っただけである。その直後、〈first〉くんの後を追うように〈キャッスルマウンテン〉はタコモンスターに向かって涙と共に特攻した。そしてあっさりと死んだ。

 

「城山……よくぞ言った」

「神崎さん……」

「俺は……そんなお前を――」

 

 そんな、ただ一人、まっすぐ正直に名乗り出て、自らの責務を果たせなかったことを心の底から悔いる忠臣に、己の右腕に対し、神崎一は――ゆっくりと片足を振り上げた。

 

「――ヨーグルッチの刑に処すッッ!!」

「…………っ!?」

(ヨーグルッチの刑って何だぁぁぁぁああああ!!?)

 

 振り上げた片足を、いつの間にか放っていたヨーグルッチという謎飲料の紙パックを相手の額に叩きつけるように勢いよく振り下ろし、全身をヨーグルッチ塗れにするという恐怖の踵落としを叩き込まれた城山は、その2m越えの巨体を教室のど真ん中に倒れこませた。

 

 息を呑む他の舎弟達に、神崎は笑顔のまま「今なら正直に名乗った奴はヨーグルッチの刑(これ)で済ませてやる。黙って逃げようとする奴はスカイダイブだ」と言い、ドカッと当たり前のように教室に用意されている専用ソファーに座り込む。

 

「――好きな方を選びな」

(帰りてぇぇぇええええええええ!!!)

 

 登校直後に一狩りに失敗した男子高校生達は、早くも学校からのエスケープの方法を心の中で模索していた。

 

(神崎君も、普通のゲームは下手じゃないんだから、変に見栄を張んなきゃいいのになぁ)

 

 夏目はそんなことを思いながら、神崎一と愉快な仲間たちのいつも通りの騒々しい日常を眺める。

 

 そう――いつも通り。

 

 天下の不良高校――石矢魔高校は、まるで変わらない愉快な朝を迎えていた。

 

 夏目はスマホを取り出し、窓からの風を感じながら手慣れた手つきで操作する。

 ネットニュースアプリから呼び出したページは――『池袋大虐殺』の記事。

 

「……………………」

 

 表情から笑みを消した夏目は、再び教室の馬鹿騒ぎに目を向ける。

 

 日本が、いや世界が大きく揺れ動く最中で、この教室は何も変わらない。

 少なくとも、この石矢魔高校は、どの教室もこんな光景が繰り広げられているだろう。

 

(……馬鹿ってのも、案外、強い武器なのかもねぇ)

 

 スマホをスリープモードにし、夏目が再び表情に笑みを浮かべた――その時。

 

 窓の外――校門の方から、どよめきが届いた。

 

 釣られるように、夏目が眼下を見下ろすと。

 

 

「久しぶりの学校だぜ」

 

 

 そこに――“最強”が登校していた。

 

 




罅割れた世界でも揺るがないクズの巣窟に、今、最強が帰還する。


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Side東条――②

見下してんじゃねぇよ。俺が頂上(トップ)だ。


 

 一年前、とある男が、工事現場の作業服という恰好で石矢魔高校に入学した。

 

 入学式――開始数分で開会の言葉を口にするまでもなく教頭先生の心が折れ、分かりやすく無法地帯となったこの式典に、その男は初日から遅れて姿を現した。

 

 これは、そんな男の伝説の始まり――たった一日で、とある新入生が伝説になった話だ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 石矢魔高校の入学式には、新入生と、教職員しか出席しない。

 だが、意外なことに、入学式の新入生の出席率は、およそ100%に近いのである。

 

 いや、新入生が入学式に参加するのは当たり前のことだとお思いかもしれないが、石矢魔高校は前述の通り、絵に描いたような不良高校、全国随一のクズの巣窟である。

 

 これは、周辺の一般高校は勿論のこと、不良界隈では全国的に知名度の高い事実だ。

 とどのつまり、こんな高校に入学するような奴は、他のどんな高校にも受からなかったどうしようもないバカか、自ら進んで同類の巣窟に飛び込もうというどうしようもないクズの二択である。

 

 前者はともかくとして、後者の方は、当然、お上品に学校側の組んだスケジュール通りに、朝早くから堅苦しい式典に参加するような学校生活は送ってきていないのだ――これまでは。

 

 だが、そんなクズでも――いや、そんなクズだからこそ、石矢魔高校の入学式は決して欠席することはない。

 

 全国随一のクズの巣窟――それ即ち、全国でもトップクラスの同類(ヤンキー)達が集まる場所。

 

 そんな魔窟に、自ら好き好んで飛び込もうという、どうしようもない馬鹿野郎達の(ツラ)を、一刻も早く拝む為――そして。

 自信と、野心と、下らない自惚れ(プライド)で、さぞかし気に食わない目をしているであろう輩共に、一秒でも早く思い知らせてやる為。

 

 テメェが、この石矢魔高校で過ごす楽しい楽しい三年間を――誰の下で過ごすことになるかを、骨の髄まで叩き込んでやる為。

 

 そんな待ちわびた式典が満を持して始まり、今年度の石矢魔高校新入生が勢揃いした体育館で、今か今かと開戦を待つ空間で――明らかに、別格の風格を纏う男がいた。

 

「――おい、アイツって……」「ああ……やっぱり、アイツも石矢魔に」「じゃ、じゃあ、アイツやっぱ本物の……」「なんでアイツ高校来てんだよ……継ぐならさっさと継げよ……」「それじゃあ、アイツがヤクザの組長の息子っていう――」

 

 一人、また一人と。その男から距離を取るように、文字通り席を空ける。

 そんな周囲の反応を嘲笑うように、足を大きく組みながら、何もかもを見下すように――その男は笑った。

 

(……ハッ。石矢魔ってもこの程度か。どいつもこいつも俺と()り合うまでもなく負けを認めてやがる。……これじゃあ中学と変わんねぇな)

 

 くすんだ金色の短い髪。左耳と口端を繋ぐピアス。そして――頬に走る、大きな傷。

 そんじょそこらの不良少年とは一線を画す――本物のヤバさを放つ男。

 

 名を――神崎一。

 後に東邦神姫の一角に名を連ね、石矢魔高校統一に最も近い男として校内最大勢力を率い、全国にまで名を轟かせることになる不良(クズ)の入学であった。

 

「なんでこんなヤツが同学年にいんだよ……」「俺達の代のトップはアイツに決まりじゃねぇか……」「ば、馬鹿野郎ビビってんじゃねぇよ! 所詮、親の七光り野郎だ。タイマンならどうせ大したことねぇに決まって――ッッ!!」

 

 神崎を囲むようにして出来上がった集団の中で、そんなことをコソコソと呟いていると、その中の一人に――唐突にパイプ椅子が飛来した。

 

 悲鳴を上げることもなく、ただ骨に硬い物が激突する嫌な音が響き、鼻が潰れたことで噴き出す血液が散る中、絶句する周囲の人間を掻き分け、ゆっくりとその男――神崎が近づいていく。

 

「…………」

「…………」

 

 今や大多数の新入生が、席から立ち上がり、神崎から距離を取る中――ただ二人。

 制服を着崩したロングヘアの男と、巨漢で三つ編みの男のみが、自らの席に座り続けて状況を見守る。

 

 そして、神崎は自らがパイプ椅子を投げつけて倒した男を見下ろすように立った。

 

「なんか面白そうな話してんじゃねぇか。俺も混ぜろよ」

「……ひっ……ごふ……っ!」

「――で」

 

 血が噴き出す顔面を押さえながら、涙を流しながら必死に距離を取ろうとする少年に――まるで虫を踏みつけるように、右足をゆっくりと上げながら、神崎は――笑う。

 

「誰が、誰に、勝てるって?」

 

 ぐちゅ――という、嫌な音が響いた。

 

 とてもとても、嫌な音。

 

 学校の喧嘩程度しか知らない、本物のヤバさを知らない、学校の不良(ヤンキー)程度ならば。

 クラスの気弱ないじめられっ子をパシリにしていた程度の不良(いじめっこ)程度ならば。

 

 きっと聞いたことすらないような――ヤバい音。

 一線を越えている音。一線を画した――ヤバい者にしか、出せない音。

 

 血を噴き出している顔面を、容赦なく全力で踏み潰すそんな音が、ほぼこの空間にいる全ての者に聞こえる程に、体育館は静寂に包まれていた。

 

 心は弱くとも、これまで伝説の不良高校で過ごし続けてきた教職員達も、絶句していた。

 石矢魔高校の入学式は荒れ狂うのが伝統だった。スケジュール通りに事が進んだ年などここにいる誰もが記憶になかった。すぐに乱戦、乱闘が始まり、それに巻き込まれないようにへこへこと体育館から逃げ出すまでが、彼等にとっての入学式だった。

 

 だが、こんな光景は初めてだった。

 乱戦も、乱闘も――それどころか、分かりやすい喧嘩が始まるまでもなく。

 

 たった一人の男が、たった二撃の攻撃で、自信と野心を持って石矢魔高校に入学してきた名立たる不良達を、恐怖を持って黙らせた。

 

 あの嫌な音で、この男は見極めたのだ。

 本当の不良を――本当の不良品を。

 

 頭がイカれ、螺子が外れた奴等を。こんな音に聞き覚えがある、一線を越えたことのある経験者を。

 

 自分と同じく、一線を画した――本当の、不良を。

 自分と同じく、一線を越えた――人間としての、本当の、不良品を。

 

 神崎は見渡す。

 自分を取り囲むように――自分から離れるように、波のように引いていく有象無象の少年達の向こう側に、二人。

 

 神崎の凶行にまるで動じることなく、未だに入学式が始まるのを待っているかのように、目だけをこちらに向けて、堂々と椅子に座り続ける――不良が、不良品が、二人。

 

 ロングヘアの男と、三つ編みの男。

 彼等は、まるで自分達こそが、神崎という男を見極めているのだというかのように、真っ直ぐに神崎を見据え続けていた。

 

(――はっ。なんだよ、いるじゃねぇか。……面白そうな奴等がよ)

 

 凶悪に笑い始める神崎に、周囲の少年達は怯え、震える。

 

 ロングヘアの男――夏目慎太郎と、三つ編みの男――城山猛は、そんな神崎の笑みを見ても動じず、夏目は更に深く背凭れにもたれかかり、城山はゆっくりと立ち上がろうと――した所で。

 

 大きく、堂々と、体育館の扉が開かれる。

 

 体育館の全ての人間の視線が集中する。そこには――この場にまるで相応しくない、工事現場の作業服姿の男がいた。

 

「いやぁ、遅れた遅れた。あれ? 今日って石矢魔の入学式だったよな?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 夏目慎太郎。

 彼にとって世界は、「面白い」か「つまらない」かが全てだった。

 

 彼は優れた容姿を持って生まれた。彼は優れた体躯を持って生まれた。

 彼は優れた頭脳を持って生まれた。彼は優れた才能を持って生まれた。

 

 故に――彼は不良になった。故に――彼は人間として不良品だった。

 

 生まれた時から成功が約束されていて、誕生した瞬間に勝利が確約されていて。

 何の努力も必要なしに栄光に辿り着いていて、およそ人が望みうる全てがその手中にあった。

 

 一般家庭の、善良そのものの両親から生まれた。

 

 笑顔を絶やさない少年だった。近所のアイドルとして扱われ、かけっこもテストもいつも一番だった。

 女の子から貰ったラブレターの数など数えきれない。男の子の友達も多く、放課後のサッカーやドッジボールでは彼の取り合いをしている間に日が暮れてしまったこともある。

 

 そんなとある日、母親にただいまといって二階の自室に帰宅した少年は――ランドセルを床に叩きつけた。

 

 つまらない――そう、夏目慎太郎は、呟いた。

 

 まるで正解の選択肢が光るクソゲーを延々とプレイしているかのような気分だった。

 真っ暗な部屋で、只管にディスプレイに向かいながら、コントローラーの〇ボタンを押し続けるような毎日。

 

 感情が死んでいく。ただ作り笑顔だけが上手くなる。このままじゃ、僕は只の成功者になってしまう。

 

 只の勝者になってしまう。空っぽな栄光を手にしてしまう。

 勝手に動くベルトコンベアに乗せられ、よく分からない何かにされてしまう。

 

 降りなくては――この動く歩道から。

 失敗しなくては。堕落しなくては。ドロップアウトしなくては。

 

 とにかく、一刻も早く、このコントローラーを手放して、真っ暗な部屋を飛び出さなくては。

 

 例え、この部屋の外が何もない闇でも、一歩踏み出せば落下する断崖絶壁でも、奈落の底でも――構わない。

 ただ閉じこもるだけで成功者になれる――こんな楽園のような檻から、どうか僕を出してくれ。

 

 つまんねぇよ――そう、夏目慎太郎は、吐き捨てた。

 

 

 

 そして――その夜。

 

 夏目慎太郎は――生まれ変わった。

 

 

 

 翌日。

 夏目慎太郎は、登校中に見かけたコンビニの前で屯していた不良(ヤンキー)を病院送りにするという暴力事件を起こした。

 

 彼を知る関係者達は、一様に口を揃えて言った。

 そんなことをする子には思えなかった。礼儀正しい、優しい子だった、と。

 

 彼を慕う同級生の女子達が。彼を奪い合っていた同級生の男子達が。

 彼をアイドル扱いしていた近所の人達が。彼を誇りに思っていた家族達が。

 

 一様に、現実を受け入れられないといった様相で絶句する中――ただ、夏目慎太郎だけが、笑顔だった。

 

 その日、彼は、真っ暗な自分の部屋の中で、ベッドに横たわり、天井を眺めながら、救われたように微笑んでいた――ああ、よかった、と。

 

 俺は、()()()()()()()()()()()()()()――と。

 

 

 

 その日から、夏目慎太郎は変わった。

 

 動く歩道を降りて、真っ暗な部屋を抜け出して、面白いものを求めるようになった。

 

 成功よりも破綻を好み、勝利よりも緊迫を欲して、栄光よりも堕落を選び、偉業よりも異形を望んだ。

 

 作り笑顔ではなく心の底から笑うことを覚えた。

 生きることが楽しくなった。食べ物が美味しく感じるようになった。

 

 そして――夏目慎太郎は、不良になった。

 

 人間として、不良品であることを自覚した。

 

 テストで百点を取るよりも、野球でホームランを打つよりも、サッカーでハットトリックを決めるよりも、クラスで一番かわいい女の子に告白されるよりも、先生に褒められるよりも、両親に愛されるよりも――面白いものを求めるようになった。

 

 堕ちるところまで堕ちていき――そして、今日、この日。

 

 夏目慎太郎は、石矢魔高校へと入学し。

 

 

 

 生まれて初めて、敗北を知った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 気が付いたら、初めて見る天井を見上げていた。

 高い、高い、天井。冷たい床。独特の匂い。

 

 そこまで思って、頭部に強い激痛が走り、思い出した。

 

 自分が、石矢魔高校の体育館で、倒れ伏せていることを。

 

(……何が……起こったんだ?)

 

 頭を押さえながら、ゆっくりと体を起こす。

 

 そして、回想する。

 今日、この日、ことここに至るまで、一体何があったのか。

 

 何があれば、この俺が――夏目慎太郎が、無様に倒れ伏せるといった異常事態に至るのか。

 

 全国随一のクズの巣窟、悪名高い不良高校――石矢魔高校。

 恐らくは自分が知る限り最も面白い奴等が集まるであろうこの高校の入学式に、自分は新入生として参列していた。

 

 その多くは期待外れの有象無象だったが、ほんの数人、夏目の興味を引く面白そうな不良がいた。

 

 くすんだ金髪のピアスの男と、三つ編み頭の巨躯なる男。

 自分と同様に、その二人も自分に目を向けていることも分かった。

 

 そして、金髪ピアスの男が凄惨に笑い、三つ編みの男が立ち上がるのを見て――夏目は更にパイプ椅子に凭れ掛かり、傍観の姿勢を取ったのだ。

 

(――まだいいでしょ。俺は別にトップなんて興味ない。面白いヤツを見つけにきただけだしね)

 

 それに――どうせ、()り合うことになったら、自分が勝つ。

 別に、強い相手を求めて、石矢魔に来たわけではない。その辺りは、特にここには求めていない。

 

 だからこそ、やりたければお好きにどうぞ、といったスタンスを取った。

 自分はそれを高みの見物させてもらうと――上から目線で、見下しながら。

 

 そして、その時だった。

 

 本物が――現れたのは。

 

 

 

「いやぁ、遅れた遅れた。あれ? 今日って石矢魔の入学式だったよな?」

 

 随分と静かじゃねぇの――工事現場の作業服姿の大柄な男は、そう朗らかに言った。

 

 明らかに冷たく、凍り付いていると言っていい程に張りつめている空間で、まるで別世界に住んでいるかのように。

 

「――は? 誰だ、おっさん」

 

 くすんだ金髪の男――神崎一は、そうドスを利かせながら唸る。

 この空間を支配し、己の空気で満たした場を崩されたことを、心底気に食わないといった迫力で。

 

 そんな神崎の怒りに、再び体育館内がピリつく中――作業服を纏った、神崎のそれとは違う、(たてがみ)のような金髪の男は、自身を指さし、キョトンとした表情で言う。

 

「――え? 俺、お前らと同い年なんだけど。あ、今日から同級生だな。よろしく」

『――は?』

 

 はぁぁぁぁああああああ????? ――いきなり高校の入学式会場に現れた、明らかに使い込まれているであろう草臥(くたび)れた作業服を身に纏った男の十五歳宣言に、あれほど凍り付いていた空間がリアクションとツッコミで溢れ返った。

 

「ありえねぇ!」「どうみても二十代後半だろ」「いや三十路越えてるって言われても違和感ねぇぞ」「っていうかどうして作業服?」などなど。

 完全に――色々と台無しな形だが――注目と空気が、神崎から謎の工事マンに奪われかけているのを、自身も呆気に取られていた神崎が感じ始めて舌打ちをした所で――作業服の男の後ろから、更に二人の男が現れた。

 

「ぷはっ! ははははははは! そりゃそうっすよ! そうなるっすよ! 俺も初めて見た時はそう思いましたもん! どう見ても先月まで中坊だったとは思えないっすよ東条さん!」

「……はぁ。だから、せめて着替えろと言ったんだ、虎。せっかく(しずか)が持たせてくれたんだから、今からでも制服を着たらどうだ」

 

 頭頂部が金色で横髪が黒髪のオールバックに丸いサングラス姿の、腹を押さえながら爆笑する男――相沢庄次。

 癖のある長い髪を後ろで纏めている髪型に眼鏡、更に恐らくは作業服の男の分と思われる石矢魔高校の制服を手に持っている男――陣野かおる。

 

 いずれも真ん中に立つ男に負けず劣らずの体格の持ち主だが――ギンッ、と。

 

 先程までの、神崎一が創り出していた空気とは――違う。

 

 冷たくもないのに、背筋が凍る。

 張り詰めてもいないのに、息が詰まる。

 

 重く、苦しく、圧し掛かるような――迫力。

 

「なに言ってんだ、かおる――」

 

 二人の大柄な男の中心に立つ、汚れ(まみ)れの――赤い返り血がこびりついている作業服を纏った、猛獣の鬣のように逆立つ金髪の男が。

 

 一歩、大きく、前に出る――たったそれだけで、体育館全体が、揺れ動いた錯覚を覚えた。

 

「――っ!?」

 

 気が付いたら、夏目慎太郎も、パイプ椅子から立ち上がっていた――反射的に、後ろを振り返り、臨戦態勢を取らずにはいられなかった。

 

(…………なんだ、あの男は――!?)

 

 猛獣のような男は、飢えた獣のように瞳を爛々と輝かせて、己の首筋に手を伸ばす。

 

「ここは石矢魔だぜ。制服だの、校則だの、そんなもんどうだっていいだろう。ここは、()()()()()()じゃねぇだろうが」

 

 そして、ゴギッ――と。大きく音を鳴らす。

 

「さあ、お前ら。遅れちまったが、俺も混ぜてくれよ。石矢魔高校の入学式によ」

 

 気付けば、全員が、その男に呑まれていた。

 

 神崎一も、城山猛も――そして、夏目慎太郎も。

 

 他の新入生も、教師陣も。

 相沢庄次は楽しげに笑いながら背筋を震わせ、陣野かおるは溜息を吐きながら眼鏡を外した。

 

 そして、この場の中心になった男は――たった一言、こう告げた。

 

「さあ――喧嘩、しようぜ」

 

 瞬間――入学式が始まった。

 

 体育館内が、怒号と雄叫びで包まれる。

 

 殴り、蹴り、喧嘩する。

 手当たり次第に戦い、倒れ、立ち上がる。

 

 それは正しく、石矢魔高校という学校を象徴するに相応しい入学式だった。

 

 これが、少し先の未来にて、石矢魔高校最強の男として名を上げ。

 

 やがて――世界を救った英雄の一角に名を連ねることになる男。

 

 東条英虎の、鮮烈なる高校デビューだった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 回想出来たのはそこまでだった。

 

 ふらつきながらも、よろめきながらも、立ち上がることの出来た夏目慎太郎は、そこから先の記憶がないことに絶句する。

 

(……なんだ、それ。まさか、この俺が、開戦早々に敗退したっていうのか。……この、俺が……っ!)

 

 確かに今はプライベート故に、制服の下は普段着とはいえ、それでも――こんなことは今までなかった。一度だって、なかった筈だ。

 

「――っ!?」

 

 その時、突然襲った頭痛、そして、それによって押し出されたかのように噴き出す――これは――。

 

(――鼻血……だと。まさか、まさかまさかまさか。この俺が、無様に、顔面に攻撃を受けて……気絶してたっていうのか……っ!)

 

 絶句が止まらない。自分の身に受けた現実が信じられない。

 そして――段々と現実を受け入れなくてはならなくなるにつれて、マグマのように怒りが湧き起こってくる。

 

(……っ! なめやがってッ! ふざけやがってッ! 調子に乗るんじゃ――)

 

 顔を上げて、これをやった奴を殺そうと思って――今、再び、絶句した。

 

 

 体育館の床一面に、新入生が敷き詰められていた。

 

 

「……っ!」

 

 一学年、優に百人は超えているであろう、色とりどりの髪色を持つ自称不良生徒達が、まるでお花畑を作るかのように、ぐったりと倒れ伏せていた。

 

 夏目の背後の、体育館のステージ上に垂れ下がっている『石矢魔高校 入学式』の文字が、こうなってくると異様でしかなかった。

 

 いくら、天下の不良高校とはいえ、最初の一日目から、こんな地獄絵図が生まれるものなのか。

 

 

 

 

 

「――こんなのは、我が校といっても前代未聞ですよ!」

 

 体育館から職員室へ向かう道中、今年、石矢魔高校に配属されて十二年目を迎えるベテラン教師である教頭先生が叫んだ。

 

 荒れ狂いに荒れ狂った石矢魔高校において、勤続十年を越える教師は、どれだけ進学実績が悪くてもそれだけで教師仲間に(ある意味)尊敬される偉業であるが、そんな(ある意味)伝説の教師である教頭先生を以ってしても、今年の入学式は異常であるようだった。

 

「一昨年の彼女も相当なものでしたが……今年はそれに負けず劣らずの問題児が、それも複数いるようですな」

「まぁ、問題児ではない生徒の方が希少な学校ではありますが……この分だと、彼等が卒業するまでに、もしかしたら校舎が持たないかもしれませんな」

「冗談ではない! 更に今年の新入生には――あの鑑別所帰りの鬼束みさおがいるんですよ! 今日は彼は来ていないようですが、この上、奴まで登校するようになったら――」

 

「――大丈夫です。アイツはしばらく登校してきませんよ」

 

 教師達の嘆きの連鎖を止めたのは、彼等を職員室まで送り届ける役目を買って出た、陣野かおるだった。

 

 だが、どうやら入学式ということで校内には在校生は誰もおらず、新入生のお友達も校内に待ち伏せのようなことはしていないようだった。陣野の懸念は杞憂に終わり、教師達を送り届けたら体育館に戻ろうと画策した。

 

(――まぁ、どうせもう終わってるだろうが)

 

 懐から取り出した単語帳を眺めるも、そういえば眼鏡を外していたんだと気づき、再び懐に仕舞おうとしたところで、絶句していた教師の一人が、恐る恐る陣野に尋ねる。

 

「あ、あの……陣野、くん、だったか?」

「……ええ。陣野かおるです」

「き、君が入試できちんと点数が取れていた数少ない……そ、それはそうと、さっきのはどういう意味なんだい?」

「……さっきの?」

「ほ、ほら。鬼束くんが、しばらく登校してこないっていう――」

「――ああ」

 

 陣野は、単語帳を懐にしまったところで、足を止めていた教師を追い抜きながら、先頭に立って、何気なしに言う。

 

 

「アイツは、ここに来る途中、虎が潰しましたから」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 不良達が敷き詰められるお花畑な地獄絵図の中に、立っていたのは夏目慎太郎だけではなかった。

 

 当然ながら当然として、それを作り出した男がいる。

 

 そして、その男は、今も威風堂々と立っている。

 

 鬼束ちひろの返り血で汚れていた作業服を、更に赤く汚しながらも。

 己の血は一滴たりとも流さず、背中は真っ白なTシャツのままに。

 

 一歩も逃げず、一歩も退かず、百人以上の男達を殴り飛ばした――最強の姿。

 

 その背中を眺めて、ボロボロになりながらも両膝に手を着きながら、何とか立ち続ける丸いサングラスの男――相沢庄次は、憧れずにはいられなかった。

 

(……ああ。やっぱり、かっけーな)

 

 

 

 

 

 今朝、この石矢魔高校の入学式へと向かう途中、相沢庄次はドレッドヘアの巨漢に絡まれた。

 

 彼こそは、鬼束ちひろ――中学時代、前代未聞の暴力事件を起こし、一年間を鑑別所で過ごすことになった、この地区の不良達にとっては知らないものはいない程のビッグネームである。

 

(……はっ。ついてねーな。まさか、初日からこんなヤツに目を付けられることになるなんて――ね)

 

 鬼束は、地面に倒れ伏せた相沢の髪を掴んで持ち上げると、楽しそうに笑いながら言う。

 

「――カッ、なかなか楽しかったぜ! 中学ん時には、お前くらい歯ごたえのあるヤツはいなかった」

「……そりゃあ、どーも」

「ああ。お陰で、しばらくは楽しめそうだ。やっぱ石矢魔を選んで正解だったぜ」

 

 そしてドレッドヘアの男は、そのまま拳を握り、腕を引く。

 

「まずは、一人目――ッ!」

 

 が――引いた腕を、握った拳を、前に突き出せない。

 

 鬼束が、ゆっくりと振り向いた。

 

 そこには――虎がいた。

 

「――あぁ? なんだ、テメェは」

「わりぃな。お前の喧嘩の邪魔しちまって。けどよ、そこ通してくんねぇか。遅刻なんだよ」

 

 相沢は、突如として割り込んできた乱入者の姿を見る。

 汗臭そうな工事現場の作業服。鬣のように逆立つ金髪。そして――肩に掛ける、石矢魔高校の制服。

 

「……テメェ、まさか――石矢魔か?」

「ん? そうだぜ。これから入学式なんだよ。だから通し――ッ!」

 

 鬼束は乱雑にパッと相沢を離すと、その拳をそのまま乱入者に向けて放った。

 

 ドガッ、と、拳が男の顔面を捉える――正確には、乱入者の額にヒットした。

 

 たらりと、流れる赤い血――それは、鬼束ちひろの拳から流れたものだった。

 

「……ほう」

「…………」

 

 拳を下し、己のパンチを頭突きで相殺した乱入者を睨み付ける鬼束。

 そして、その眼光を真っ向から受け止め、そして笑う、獣のような男。

 

「――かおる。これ持ってろ」

「……はあ。もう入学式は始まる時間だ。手早く済ませろ」

 

 乱入者は、肩に掛けていた石矢魔の制服を、一緒にいた眼鏡の大男に預ける。

 

「ハッ、そうこなくちゃな」

 

 鬼束も乱雑に手放した相沢から目を切り、作業服の乱入者と向き合う。

 

「……大丈夫か?」

「……あんたら、一体――」

「大丈夫だ」

 

 鬼束と乱入者が顔をくっつけるかのような至近距離で楽し気に睨み合う中、相沢は己に近付いてきた眼鏡の男を見上げる。

 

「お前がそれなりにやることも、そんなお前をそんなにしたアイツがそれ以上にやることも、分かる。その上で言ってる――大丈夫だ」

「……どうして、そんなこと簡単に言えんだ?」

「簡単だ。単純だ。明快だ」

 

 眼鏡の男――陣野かおるは、何の感慨もなく、ただ当たり前の事実だけを告げた。

 

 

「虎は――東条英虎は、それ以上に強い」

 

 

 次の瞬間――凶悪な笑みを浮かべた大男同士が、巨大な拳を交わし合った。

 

 相沢庄次は、己の世界が壊れる音を聞いた。

 

 

 

 その男は――強かった。己の拳が小さく見える程に。

 

 

「……やるじゃねえか。根性あったぜ、お前」

 

 倒れ伏せる鬼束を前に、口元の血を拭いながら、それでも楽しそうに笑う東条。

 そんな東条に、喧嘩が始まる前とまるで変わらぬトーンで話しかける陣野。

 

「……思ったよりも手こずったな」

「ああ、たぶんお前よりつえーぞ、コイツ」

「だろうな。虎に対して一歩も退かない奴を、久しぶりに見た」

 

 そう言って、二人は登校を再開する。

 まるで何もなかったかのように。まるで、これがいつもと変わらぬ日常であるかのように。

 

 

 

 その男は――大きかった。己の心がちっぽけに感じる程に。

 

 

 自分とそれほど身長も、恐らくは体重も変わらない筈なのに。

 その真っ白な背中が、見上げる程に大きく、高く――遠く感じた。

 

(……いや、見上げているのは、俺がまだ――座り込んでいるからだろ)

 

 そこでようやく、自分が一歩も動いていないことに気付いた。

 立ち上がってすらいなかった。それほどまでに――自分は、この男に、見惚れていた。

 

 だが――今だ。今しかない。今を逃せば、自分はずっとこの男を、見上げたままだ。

 

 見えなくなるまで見送ってしまったら、きっともう届かない。

 

 世界が壊れて――この男が壊して、もっと広い世界を知った。

 

(なら――踏み出さなきゃ、嘘だろッ!)

 

 その時――きっと相沢は、笑っていた。

 

「あのッ!」

 

 膝にこれ以上なく力を入れて立ち上がり、相沢は、その背中に向かって声を張り上げた。

 

「俺を……アンタの――」

 

 

 

 

 

(――とは、言ったものの……いやぁー、遠いねぇ)

 

 目の前に広がるのは、自称不良生徒達の凄惨な花畑。

 その前に立つのは、未だ真っ白な背中を見せ続ける――最強の姿。

 

 己もすぐ傍に立っているのに、座り込むことなく耐えているのに、まるで届きそうもない――海や空のようだ。

 

(でけぇ……だけど…………だからこそ、だ)

 

 今にも座り込みそうになるのを、相沢はへらへら笑いながら耐え続ける。

 

 そして――まっすぐに、背筋を伸ばす。このデカい男の隣に、堂々と立ち続ける為に。

 

(俺は……この人についていく。この人となら、なんかきっとデカいことが出来る気がするんだ)

 

 入学式の主役たる新入生に相応しい心持ちで、相沢がこれから始まる高校生活に胸を膨らませる中――彼の背後の扉が開き、陣野かおるが体育館に帰還するのと、同時に。

 

 不良生徒の花畑から、二人の男がゆっくりと立ち上がった。

 

 その男は、顔面以外を綺麗な格好のままで倒れ伏せていた、夏目慎太郎と。

 

 見るも無残に自身の血で汚れた満身創痍の男――神崎一だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 夏目は、その男の姿に瞠目した。

 

(アイツは……だが、どうして――)

 

 確かに、この体育館の床に転がっている新入生の中では別格ではあると思っていた。

 それでも、あくまで、面白そう――程度。やり合うことになったら100%勝てると思っていたし、こんな事態に至った今では、正直、眼中になかった。

 

 だが、あの満身創痍の姿を見れば、一目瞭然だ。

 

 あの男は、自分よりも――遥かに、あの最強に立ち向かっていた。

 

 恐らくは、たった一発で沈んでいただろう、この夏目慎太郎よりも。

 

 何発も、何発も。そして、何度も、何度も――立ち上がっていた。

 

「……おいおい、アンタまだやるのかい。流石にもう死んじまうぜ」

 

 いや、本当にいい加減にしとけよ、マジで――相沢は、へらへら笑いながらも、内心で冷や汗を搔きながら言った。

 

 くすんだ金髪を乾いた黒い血で染め上げ、なおもだくだくと流れ続ける額の傷からの新鮮な赤い血で視界を奪われ、真新しかった制服は無残にボロボロとなり、もはやまっすぐに立つことすら出来ずにフラフラで。

 

 それでも――神崎一は、己の負けを認めようとしなかった。

 

 初めは典型的な咬ませ犬だと思った。

 真っ先に東条に向かって特攻し、挨拶代わりの拳で簡単に吹き飛ばされた。

 

 入学式用に並べられた椅子をまるでボウリングのように薙ぎ倒しながら、有象無象のモブキャラの海へと沈められた筈だ。

 

(……そうだ。そこまでは……何とか、思い出せた。正直、俺の中ではそこでコイツに対する見切りはつけたんだ)

 

 夏目の興味はそこで完全に東条へと切り替わっていた。神崎はこの時点で、夏目の中ではモブキャラになった。

 

 自分はこの後、東条へと不意打ち気味に背後から一撃を加えようとしたが――恐らくは、その時、返り討ちにあったのだろう。

 神崎を一撃でKO(ノックアウト)した一幕を見て、警戒して臨んだつもりだったが――それでも、消えない驕りがあった。所詮、高校生の不良気取りだと――只の人間だと、高を括っていた。

 

(違う……コイツは、怪物だ……っ。俺が、今まで出会ったことのない――本当の、)

 

 最強――その言葉が脳裏を過ぎりかけた時、夏目は自分の額を殴りつけた。

 

「…………ッ! 違う…………っ!」

 

 違う。違う。違う。

 そんなわけがない。そんな筈がない。()()()()()()()()()()()()()()()

 もし、そんなものが実在するとしたら、間違いなくその中には自分がいる筈だ。夏目慎太郎にはその資格がある筈だ。

 

 夏目は鼻からだけでなく額からも血を流しながら、己の足を取るように足元まで転がっている新入生を睨み付ける。

 

 違う――俺は、違う。

 

 目を逸らすように、夏目は二人の男を睨み付ける。

 

 威風堂々と君臨する最強――東条英虎。

 そして、そんな男の前に立つボロボロの弱者――神崎一。

 

 夏目の目は、やがて――神崎一に、固定された。

 

(……なんなんだ、アイツは…………ッ)

 

 東条英虎――あの男の異常さは、既にここにいる全員が思い知らされた。

 たった一発の拳で、ここに転がる全員が思い知らされたはずだ。

 

 この男は、怪物だ。この男は――最強だ。

 どれだけ認めたくないことでも、頭では何度も否定し続けていても――それでも、理解、させられた筈だ。

 

 夏目慎太郎は、決して認めないけれど、それでも認めさせられていた。

 

 この男は――違う。

 棲息するステージが違う。見えている景色が違う。住む世界が――違うのだ。

 

 夏目は、相沢は、気付いている。

 既にこの敗北者の海の中でも、意識を取り戻している奴等は、数人だがいる。

 

 それでも、立ち上がっているのは、夏目と、神崎だけだ。

 顔を上げているのを含めても、あの三つ編みの男――城山を加えて、三人だけ。

 

 夏目と城山は――それでも、拳を握れない。

 あの男の一撃を受けて、体よりも先に心が折れてしまった。

 

(……ふざけるな。俺は、こんなにもダサい男だったのか。神に愛されてはいなくても……俺は……俺は……僕は――ッ)

 

 こんな思いをするために、あの真っ暗なゲーム部屋を出たわけではない。

 生まれ変わった筈だ。あの夜に――あの部屋で。

 

 神に愛されていなくても――選ばれた存在ではある筈だ。

 

 なのに――こんな、高校生の不良の喧嘩で、ここまで無様な醜態を晒すような。

 

 そんな程度の、存在なのか。

 

 あの――ボロボロで、ズタズタで、フラフラな、敗者よりも。

 

 夏目慎太郎は――つまらない、存在なのか。

 

「――――ッッ!! 違うっっ!!」

 

 足元に転がる敗者を足蹴に、夏目は駆けた。

 

 住む世界が違う怪物に、格の違いを思い知らされた最強に、無策に愚直に突っ込んでいく。

 

 この時初めて東条は、夏目を一瞥して――そして。

 

「お前――強えが、つまんねえよ」

 

 獰猛な笑みを――神崎に、向けた。

 

「――ッ! ふ――」

 

 その行為に、夏目の頭は沸騰し――。

 

 

「――邪魔だ」

 

 

 神崎一に、叩き落された。

 

(――――な)

 

 全く予想外の角度から打ち込まれた一撃に、夏目は再び体育館の床に倒れ伏せる。

 

 その光景には、夏目だけでなく、相沢も、そして未だ立ち上がることすら出来ない城山すらも瞠目した。

 

 神崎は、ふらりと大きくバランスを崩しながらも、決して倒れずに――胸を張る。

 

 夏目は肉体的ダメージではなく、精神的ショックによって立ち上がることが出来なかった。

 攻撃の重さとしては、東条のそれとはまるで比べ物にならない。

 たまたま全くの無警戒の角度とタイミングから叩き込まれた故に衝撃としては大きかったが、すぐに反撃も可能であった筈の――その程度の攻撃。

 

 だが、この踵落としは、夏目にとっては今までに受けたことのない――そんな一撃だった。

 

 夏目は見上げる。

 

 最強の怪物と――凡庸な弱者を。

 

「……やめておけ。どれだけ足掻こうと結果は変わらない」

 

 冷たく、静かな声で――陣野かおるは、そんな弱者に現実を告げる。

 

「認めろ。そして楽になれ。野良猫では――虎には勝てん」

 

 そんな慈悲深い救いの言葉を――不良は、鼻で笑った。

 

「――知らねぇよ。知ったこっちゃねぇんだよ、んなこたぁ」

 

 不良品は、正しい言葉では動かせない。

 

 間違っていようが関係ない。誰かが決めたルールなどに縛られない。

 

「どうして、そこまで意地になる」

「分かってねぇな。お利口さんは黙ってろ」

 

 従うのは、どこまでも阿呆らしい、単純な感情。

 

「意地は通してなんぼだろうーが」

 

 神崎一は馬鹿だ。神崎一は弱者だ。

 

 神崎一は愚かで――だから。

 

「見下してんじゃねぇよ。俺が頂上(トップ)だ」

 

 神崎一は――折れない。

 

(――――コイツ)

 

 いつの間にか、夏目はボロボロの背中を見ていた。

 

 夏目だけではない。きっと、立ち上がれない城山も、何度でも立ち上がる馬鹿な男の小さな背中を見上げていた。

 

 相沢は笑い、陣野は瞑目する。それでも――誰も、嘲笑(わら)う者はいなかった。

 

 何故なら、ここは――そんな選りすぐりの馬鹿達が集まる、天下随一のクズの巣窟。

 

 県立石矢魔高校なのだから。

 

「――はっ。いいな。楽しい高校生活になりそうだ」

 

 次の瞬間――決着はついた。

 

 東条により神崎が石矢魔高校の()()()()まで吹き飛ばされて――石矢魔高校史上、最も凄惨な入学式は幕を閉じた。

 




こうして、クズ達の青春は、馬鹿な喧嘩に彩られる阿呆らしい入学式によって幕を開ける。


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Side東条――③

いずれ、アンタも出会えるよ。本当にアンタが求める相手に。


 

(――まぁ、あれから色んなことがあったけれど)

 

 東条が入学二日目にして当時の石矢魔最強の元へ殴り込みにいったり、神崎が集団リンチに遭ったり、それを裏から手を引いていたのが夏目だったり。

 

 城山が神崎に忠誠を誓って神崎一派の栄えある一人目になったり、ことあるごとに鬼束が東条に挑んで返り討ちに遭い続けたり、けれど肝心な東条がバイトに精を出すようになって学校に碌に来なくなったり、夏目が神崎とタイマンを張ってボコボコにしたり――神崎の仲間になったり、そして瞬く間に神崎一派が石矢魔の最大勢力となったり。

 

 石矢魔高校の歴史から見ても、そして夏目慎太郎自身にとっても、恐ろしく濃かった一年を経て――今。

 

(…………最近は割と平和だったんだけどなぁ。嫌なタイミングで掻き乱しに来るよ、本当。本人に自覚はないんだろうけどさ)

 

 夏目は冷ややかな目で、校門の前で屹立する男を見下ろす。

 

 服装は、一見あの日と同じような工事現場の作業服

 およそ高校生には見えない風格を纏いながら、石矢魔高校のボロボロな校舎を笑みと共に見上げている。

 

 彼を見つけて騒めく声は、やがて大声で彼の名前を叫び上げた。

 

「と、ととと――東条だぁぁぁぁぁあああああ!!」

「石矢魔最強の男――東条英虎が登校してきたぁぁああああ!?」

 

 その叫び声は、石矢魔高校を物理的に揺るがすかのように響き渡り、次々と教室の窓ガラスから首が飛び出してくる。

 

「東条!?」「東条だと!?」「アイツまだ退学してなかったのか!?」「俺は欠席多すぎて留年したって聞いたぞ?」「でもこの学校ってテストさえ受ければ自動的に進級だろ?」「いやそれでもヤバすぎてギリギリだったらしいぞ」「それに出席日数もギリギリだったみたいだ」「そんなに馬鹿なのか?」「ああ、えげつないほどの馬鹿だ」――と、瞬く間に石矢魔高校全ての注目が彼に集まる。

 

 夏目のクラスでもすぐに窓際の夏目の周りに人が集まり、窓から東条を見下ろしにかかる。

 それに同調しなかったのは、ソファに座り込んだままの神崎と、鼻血を出しながら立ち上がり彼の横に立つ城山のみ。

 

「……東条だと?」

「…………」

 

 神崎は露骨に不愉快そうに顔を歪め、城山は固い無表情を崩さない。

 

 夏目の顔もまた険しかった。

 

 今の二年生、そして三年生にとって彼は、ある意味――恐怖の象徴でもある。

 入学してから瞬く間に、この学校の全てを相手取り、そして文句なしに勝利した彼は、強さが全てのこの学校において、紛れもなく――この学校の頂点(トップ)だった。

 

 夏目自身も、あの屈辱の入学式の後、数回に渡ってあの男に挑んだ。

 入学式のように瞬殺されることはなかった。あの男に膝をつかせ、その後頭部を見下ろしたことすらある。

 

 だが――それでも、あの男に勝てたことは、終ぞ一度もなかった。

 

 策を弄したこともあった。搦手を使ったこともあった。数の暴力で挑んだこともあった。

 だが――それでも、あの男が倒れたことすら、終ぞ一度たりとも有り得なかった。

 

 強敵を歓び、窮地に燃え上がり、追い込まれては強くなり、何度でも拳を握る。

 そして――笑う。楽しそうに笑いながら、全てを打ち砕き、そして勝利する。

 

 まるで物語の登場人物であるかのように、逆境から生還し続ける、ドラマチックに運命が味方するあの男に――夏目は。

 

 夏目慎太郎は――いつも――今でも。

 

「…………………」

 

 そんな夏目の横で、最近になって神崎一派に加わった一年生達が、どこか浮ついたように言う。

 

「うわ、うわ! 俺、東条英虎って初めて見ましたよ! あれが今の石矢魔最強の男なんすね! うわ、デケェ! うわ、コエェ!」

「………………」

 

 夏目はそんな少年を冷ややかに見つめながら、再び東条に視線を戻す。

 

 そう。二、三年生にとっては、恐怖の象徴であり、最強の座を搔っ攫った存在であり、己に敗北を刻み込んだ男でもある東条英虎だけれど、入学して数か月の一年生にとっては、碌に登校もしてこない彼は――只の伝説だった。

 

 入学初日から目についた者を片っ端から沈めていった狂獣。教師は勿論女子供にすら容赦をしない悪魔。熊とか虎とかと戦って修行してる野人。あまり登校してこないのは山籠もりを日課にしているからだ。実は人間じゃなくてサ〇ヤ人――等々。

 

 中には当たらずとも遠からずなものもあるが、後半は明らかに面白がっている節のある噂話だ。

 だが、東条自身の現実離れした最強さや、滅多に姿を見せない神秘性も相まって、それは留まる所を知らず膨れ上がっていき、やがて校外にまで広がっていって、最早、誰にも手をつけられなくなった――皮肉にも、まるで東条英虎その人の如く。

 

 結果として、今年の春に入学してきた新入生の、東条に対する印象は様々だ。

 

 その最強伝説に憧れる者。あるいはその最強伝説を超えるべく打倒に燃える者。

 ただ純粋にその伝説を確かめたい者。彼の下につきたいと考える者。

 極悪非道と称される強者の恐怖に怯える者。興味のない者。実在を疑う者。ドラゴンボー〇が欲しい者――様々。

 

(つい昨日、池袋に本物の化物が出たっていうのに……この学校の生徒にとっては、まるで東条の方が珍しい怪物みたいな扱いだねぇ)

 

 まぁ、それに関しては、夏目は半分くらいは同意なのだが。

 そんじょそこらの宇宙人よりも、東条の方がよっぽど化物なのだから――あれ?

 

(……どうして俺は、昨日の池袋の化物を――宇宙人だと当たり前のように思ったんだ?)

 

 夏目がそんな思考に囚われかけた時――再び、校舎の騒めきが大きくなる。

 

 校庭に東条が足を踏み入れたのを制するように、校舎の中から、とある集団がぞろぞろと出てきた。

 

「………ん?」

 

 東条がきょとんと見据える先にいるのは、この石矢魔高校で異彩を放つ異色の派閥。

 数はおよそ十人程だろうか。それくらいの勢力ならばこの石矢魔では珍しくもないが(神崎一派は神崎に近くない舎弟を含めればその五倍はいる)、この集団の特色といえば――その全員が、女であるということ。

 

 女のみで構成されるにも関わらず、かつて――この石矢魔高校の頂点(トップ)に君臨した時代を持つ、伝説のレディース。

 

烈怒帝留(レッドテイル)……ッ!?」

「じゃ、じゃあ、あれが……中学卒業と同時に入学前の時点で、烈怒帝留の三代目総長になった……新たな女王(クイーン)

 

 特攻服を纏った女子のみで構成されたその集団の中から、中心の少女が更に一歩、東条に向かって前に出る。

 

 真っ白なズボンに、さらしのみの上半身。

 そして、その上から纏う――「烈怒帝留」の文字が書かれた特攻服。

 癖一つない艶やかな黒髪のロングヘアを靡かせる――その風を、断ち切るように振るう、一振りの木刀。

 

 細身の体からは想像もつかない風切り音で、校舎から届く耳障りな雑音を沈めた少女の名は――邦枝(くにえだ)葵。

 

 かつて石矢魔どころか、全国の不良少女達全ての憧れの的となり、全国の不良少年達を恐怖の底に叩き落していた、伝説のレディースの後継者にして。

 たった一年でその名声を地に落とした堕ちた伝説を、入学後僅か三か月で取り戻しつつある救世主でもある新星。

 

 新たな女王として、今、石矢魔で最も注目を集めるスーパールーキーが――伝説の石矢魔最強の男に。

 

 烈怒帝留失墜の一因となった男に、その木刀の切っ先を向ける。

 

「東条英虎――私は、あなたを許さない。あなたの暴挙は、この私が止めるわ」

 

 数瞬の沈黙の後、一気に沸き立つ石矢魔高校。

 

「……ほう」

 

 東条が――笑う。

 

「おいおい、マジかよ……」

「ああ。ルーキー女王(クイーン)が、石矢魔最強の東条英虎に――」

 

――宣戦布告した。

 

「………」

 

 夏目慎太郎は、ポケットの中に手を入れながら、その光景を、相も変わらず冷たい眼差しで見据えていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 己を、まるで親の仇のように睨み付けてくる少女。

 

 噂や伝説だけが独り歩きをし、身に覚えのない恨みを買ったり、恐怖や羨望の眼差しで見られたりすることが日常の東条にとって、また、東条自身もそんなことに対して何かを思うような繊細さとは対極にいるような人間であるが故に、本来であればこんな少女の敵意には何も頓着しない筈だった。

 

 東条にとって、そんな視線や感情に対する常のアクションは、そいつが強いか、強くないかの判別である。前者なら喧嘩しようぜ、後者ならばじゃあな――と、対応は決まっていた(後者であっても逆上して殴りかかってくる相手を殴り返すので結果としては喧嘩になるのだが)。

 

 だが、この時、東条英虎にとっては本当に珍しいことに――己の過去を、回想していた。

 

 それは、目の前の少女と同じ、真っ白な特攻服を身に纏った、黒髪の女と相対した時の記憶だった。

 

 

 

 

 

 一年と少し前――東条英虎が、石矢魔高校に入学して、二日目のこと。

 あの衝撃の入学式から僅か一日後、東条は手当たり次第に先輩方を殴り飛ばしながら――頂上を目指して突き進んでいった。

 

 石矢魔高校最強の男に――否。

 当時、石矢魔高校最強の名を欲しいままにしていた――最強の女に、会いにいったのだ。

 

 彼女は、今の目の前の少女と同じ、「烈怒帝留」と書かれた真っ白な特攻服を身に纏っていた。

 

 名を――男鹿美咲。

 

 伝説のレディース「烈怒帝留」の初代総長にして、創設者。

 女王(クイーン)と呼ばれた最初の人物であり――そして。

 

 東条英虎が、石矢魔高校で、唯一倒せなかった人物でもある。

 

 

 

「――へぇ。アンタが、昨日の入学式で大暴れしたっていう新入生かぁ」

 

 デカいねぇ――と、その女はどっかりと窓際の席で椅子に凭れ掛かりながら言った。

 

(……コイツが、石矢魔最強?)

 

 登校して一番先に喧嘩を売ってきた先輩をボコし、それからわらわらと群がってきた先輩達を天井に床にと突き刺していきながら、一番強いヤツをインタビューして回っていった東条。

 

 一番強い男は何処にいる? ――こんな問い詰めに対し、皆、一様に同じことを言った。

 屈辱を堪えるように、そして、それでも認めざるを得ないと、思い知らされているかのように。

 

 今、この学校で一番強いのは――()()()()()

 

 石矢魔最強は――とある、女だと。

 

 それが――。

 

「アンタが……石矢魔最強か?」

 

 その言葉に、教室中にいる女達が、一斉に立ち上がって東条を睨み付けた。

 

 だが、教室の一番窓際にいる女と、その横にいる長い黒髪の特攻服の女と、着物の女は動じない。

 そして、一番窓際にいた女が、椅子に掛けていた特攻服を大きく翻しながら肩に掛ける。

 

 一瞬見えた背中の文字――東条英虎の動体視力は、「烈怒帝留」の四文字をしっかりと捉えていた。

 

「名乗ったことはないけれど、そうね……少なくとも、この学校のケダモノみたいな男共よりも――アタシの方が一兆倍強いわよ」

 

 そして、まるで号令を掛けられたかのように、彼女の部下達が東条と彼女の間に道を作った。

 

 真正面から向かい合う――東条と女王。

 

 男鹿美咲は、不敵に笑いながら、東条に向かって気安く笑い掛けた。

 

「どうする? ――やる?」

 

 瞬間――ぞわっ、と。東条の中を何かが突き抜けた。

 

 今までに感じたことのない感覚。直感で思い知った――ああ、最強だ。

 

 この女は、この学校の誰よりも強い――いや。

 

 もしかしたら――――よりも――――だが。

 

「……おい、何か言ったらどうなんだ?」

「ハッ、もしかしてリーダーにビビったんじゃ――ッ!?」

 

 取り巻き達が挑発する中――少女達が、息を呑む。

 

 それほどまでに、東条が浮かべる笑みは、纏う殺気は、男鹿美咲の近くに侍る彼女達ですら、恐れを感じずにはいられないものだった。

 とてもではないが、ついこないだまで中学生だったヤツが出せる雰囲気(オーラ)とは思えない。

 

 美咲の傍にいるロングヘアの少女と着物の少女――糸井雫と春香と呼ばれる少女達も、表情から笑みを消す。

 東条を、女がトップに君臨するのが気に食わないという理由で乗り込んでくるいつもの輩とは違うと判断し、臨戦態勢を整える。

 

 そんな中、美咲はより楽しそうに――そして。

 

「どうしたの? まさか、女は殴れないとかいうタイプじゃないわよね」

「進んで殴りたいわけじゃねぇが、楽しい喧嘩が出来るなら別だ。強けりゃいい。そして、分かるぜ。アンタは強え」

「そりゃ結構。見境なく女を殴るクズでも、女ってだけで下に見るクズでも、弱いくせにフェミニスト気取って逃げるクズでもなくて、お姉さん安心。じゃあ、早速始める? それとも――」

 

 どこか――優しい瞳で、語り掛ける

 

「――()()()()()()()()をする為に、今はやめとく?」

 

 その言葉に、東条よりも彼女の周りを固める烈怒帝留のメンバー達の方が呆気に取られた。

 

 東条は、表情から笑みを消しながらも、彼女の言葉に耳を傾ける。

 

 美咲は腰に手を当てながら、東条を見つめつつ続けて言った。

 

「アンタは、どうして入学二日目で、アタシ達のところに乗り込んできたの? 石矢魔のトップってのが欲しいの? この学校を支配したいの?」

 

 問い掛けに見せかけた、決め付けだった。

 美咲の言葉には、美咲の表情には――そうじゃないでしょ、と、それ以外の返答を許さない、優しさがあった。

 

「強いヤツと喧嘩したい。それだけなんでしょ。ずっと――それ以外、してこなかったんでしょ? そういう風にしか生きてこなかったんでしょ? だから、あなたは真っすぐに頂上(ココ)に来た。違う?」

 

 美咲は有無を言わせなかった。東条が何も言い返さないことを確信しているかのように。

 

 事実――東条英虎は、何も言わなかった。ただ、目の前の女性を見据えることしかしなかった。

 

 男鹿美咲は一歩を踏み出す。ゆっくりと、まるで帰宅するかのように。

 

 周囲のメンバーは緊張に固唾を呑んだが、美咲は尚も優し気に――東条の肩を、ポンと叩いた。

 

「――あげるよ。好きに使いな。アタシは別に、いらないから。頂上(こんなの)

 

 美咲は東条の横を通り過ぎながら、あっけらかんという。

 

「元々、石矢魔の女の子達を、ケダモノ男子から守る為に始めた烈怒帝留だしねぇ。もう十分、格の違いは見せつけたし。基本的にアタシ達は根城のゲーセンにいるから、学校にも碌に来ないしね。欲しけりゃあげる。でも――」

 

 美咲は一度振り返り、こちらを振り向かない東条に、いたずらっぽく言う。

 

「――あなたも、どうせすぐに飽きるよ。頂上(ココ)にはアンタの求めるもんなんてない。だって、他に誰もいないから頂上(てっぺん)なんだから。アンタもすぐに、興味を失くす」

 

 だけど、安心しな――男鹿美咲は、再び前を向きながら、東条に背中を向けながら、誰かに向かって語り掛ける。

 

「いずれ、アンタも出会えるよ。本当にアンタが求める相手に。頂上(ここ)にいれば、最強であれば、いつかきっと、向こうからアンタの前に現れるよ」

 

 そいつが来たら、思いっきり喧嘩してあげてよ。きっと楽しいと思うからさ。

 まるで――弟に語り掛けるように、男鹿美咲はそう言い残して、石矢魔最強を東条英虎に明け渡した。

 

 伝説の女王が、東条英虎に敗北した――そんな噂話が石矢魔を掛け廻ったのは、東条英虎が石矢魔に入学して三日目のことだった。

 

 入学してたった二日で、電光石火の如く石矢魔の頂点に登り詰めた新入生。

 そんな衝撃は石矢魔高校を大いに混迷させたが、当の東条英虎と男鹿美咲は、まるで意に介さなかった。

 

 男鹿美咲の方には、今まで無敗の女王の黒星に、今がチャンスとばかりに挑みかかる者が一時は現れたものの、それら全てを彼女は揚々と退け、関東中を舞台に好き勝手に暴れ回り、友人達とゲーセンを占拠して遊びながら卒業まで青春を謳歌した。

 

 東条英虎の方も、伝説の女王に勝利した実感などまるでなく、むしろ敗北感すら感じていた。

 清々しくも気持ちよく、リベンジなどまるで思いもつかない程に――完敗した。

 

「ったく、負けたぜ。アイツが――石矢魔最強だ」

 

 男鹿美咲が卒業するまで、東条英虎が石矢魔最強を自称することは、一度もなかった。

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

 そして――今。

 

 彼女と同じ特攻服を着た、彼女とは違って長い黒髪の少女が、己に切っ先を向けている。

 

 瞳に籠っているのは、迸るような、強い敵意。

 

「……拳を握りなさい、東条英虎。私とあなたの、一対一の勝負よ」

 

 久しぶりに登校したら、後輩らしき女子生徒に木刀を突き付けられる東条。

 いや、喧嘩を売りつけられるのが日常とはいえ(むしろ嬉々として買うまである)、そのこと自体には何も思わないとは言え、東条は頭に?マークを浮かべながら、とりあえず再び「……ほう」と言っておくことにした。

 

(……あの女とはあれからもちょくちょく話はしたが、別に喧嘩したことはなかった筈だけどな)

 

 それは美咲の仲間――つまりは烈怒帝留のメンバーともしかりだ。

 あそこはリーダーの言うことは絶対。リーダーが敵対しない以上、彼女達に東条と喧嘩する理由はなかった。

 

 つまりは、東条は別に烈怒帝留(コイツら)に恨みを買うようなことはしていない筈だった。身に覚えがない恨みを買うのが習性みたいな東条でも、流石にこんな目で見られるようなことはない――と思ったが。

 

(まぁいいか)

 

 と、思えてしまうのも、また東条だった。

 

「――いいぜ。かかってこいよ」

 

 東条は首筋に手を当て――ゴキリ、と鳴らす。

 

 それだけで、東条を初めてまともに見た新入生、そして邦枝の後ろに控える烈怒帝留達も、息を呑む。

 

 最も間近でその覇気を受けた邦枝の表情にも強張りが生まれる――が。

 

「――っ! ハッ!」

 

 腹から息を吐き出しながら、気勢を張る。

 それにより、東条という男の空気に呑まれかけた己を一喝し、瞳に闘志を取り戻した。

 

「………ほう」

 

 今度の東条の言葉には、はっきりとした感心の色があった。

 

 それは、教室の窓から見下ろしている、夏目慎太郎も同様だった。

 

(……東条の覇気を初見で跳ね返す――噂通りのスーパールーキーだね、邦枝葵。一年に一人は、ああいう子がいるのか。……果たして来年はどんな怪物が入ってくることやら)

 

 邦枝に感心しつつも、やはり視線は東条に吸い寄せられる。

 まだまだ本気というわけではないが、それでも段々と東条の気分が乗っているのが分かる。

 

 例え規格外のスーパールーキーだとしても、邦枝葵が東条英虎に勝てるとは思えない。

 だから、夏目が注目しているのは、二人の果たしてどちらが強いのか、ということではなかった。

 

「………………」

 

 夏目は再びネットニュースを開き、何かを確かめた後――カメラモードを起動した。

 

 そして、邦枝葵が、大きく呼吸して、己の中に気を巡らせる。

 

(…………集中。全身全霊で全力を尽くさないと、この男とは勝負にならない)

 

 あの覇気で思い知った。この男は強い。

 入学してから屠り続けてきた、今まで出会ったこの学校のどんな男よりも――段違いに。

 

 覚悟はしていた。

 だが――どこかで見(くび)っていた。所詮――伝説は伝説だと。

 

 天下の石矢魔高校とはどんなものだと思いながら入学してから数か月、邦枝を苦戦させるような奴とは出会わなかったから。

 

 そんな奴等が言う最強などたかが知れていると。

 思い上がっていたのだと、邦枝は歯噛みする。

 

 あの伝説の女王を下したとされる男が、そんな偽物である筈がないのに。

 

 勿論、その伝説を鵜呑みにしているわけではない。

 東条に負けたとされる時期にも、烈怒帝留の初代総長である彼女は数々の伝説を残しているのだから。

 

 だが、あの男鹿美咲が、東条英虎に一目置いている――そんな噂話があったことも、邦枝は知っている。

 

 しかし、それを邦枝は認めるわけにはいかなかった。

 そんな噂話が、前者の伝説によって捻じ曲げられ――烈怒帝留失墜の大きな原因になったことは確かなのだから。

 

 男鹿美咲は偉大な女王だった。

 ケダモノ同然の不良男子高校生の巣窟である石矢魔高校において、烈怒帝留という女子生徒の居場所を作り、安心な高校生活を提供した。

 

 だが、それは彼女の威光が輝いてこその王国であり、そのことに彼女という女王(クイーン)は余りにも無頓着であった。

 大前提の話、自尊心が強く理性が弱い石矢魔高校のクズ共にとって、女の下につくという構図が屈辱以外の何物である筈もなかった。

 

 それでも誰も彼女達に手を出せなかったのは、偏に男鹿美咲が強すぎたというだけのことである。

 事実、彼女が東条に負けたという噂話が流れた時、彼女に挑みかかる、または彼女の手下に手を出そうとするという不届き者はそれなりに現れた。全て返り討ちにあったが。

 

 だからこそ、女王男鹿美咲の東条英虎による敗北の噂話は、それまで絶対だった烈怒帝留の地位に対する罅になったことは確かだった。

 どれだけ粋がろうと所詮は女、負ける時は負ける、俺らでも勝てるかもしれない――そんな思いを生んでしまったことは――確かだった。

 

 そして烈怒帝留は、男鹿美咲の卒業後、世代交代に決定的に失敗する。

 

 男鹿美咲が大学受験の為に烈怒帝留総長を引退し、中学卒業と同時に邦枝葵が烈怒帝留を引き継ぐまで、烈怒帝留は二代目総長――鳳城林檎によって率いられていた。

 

 留年を重ねることでメンバーの誰よりも年上だった彼女は、その野心と狡猾さによって、「じゃ、後は好きにやっていいから」という言葉だけを残して後継者を指名することすらしなった美咲の後釜の地位を力づくで手に入れた。

 

 それから、烈怒帝留は混乱の極みに陥った。

 暴君ながらもまっすぐな心によって治められていた美咲時代とは違い、鳳城は絶対的な独裁政治を強いた。

 

 喧嘩の戦法も、美咲のような真っ向勝負ではなく、搦手を重ねる卑怯な戦法。時には女の武器や、人質や囮を使うことも厭わなかった。

 

 結果、彼女についていけない者や反発するものが続出し、烈怒帝留はバラバラになった。

 自分の身を守る国を失い、学校に通えず家に引き籠るような女子生徒も生まれ始めた。

 

 そして――伝説は、地に堕ちた。

 

 邦枝が高校入学を前に春休みの時点で烈怒帝留の総長となったのは、そんな事情も多分に含まれている。

 彼女は入学前に鳳城率いる現政権メンバーを潰し、鳳城を退学へと追いやった。

 

 そして、入学後――右腕となる大塚寧々を初めとする新入生を纏め上げ。

 

 売られた喧嘩は片っ端から買い、男子生徒を次々と撃破していった。

 己の力を見せつけ――背中の烈怒帝留の文字を見せつける為に。

 

 伝説の復活を、烈怒帝留の復権を――石矢魔高校に見せつける為に。

 

 その途中で、この石矢魔高校という魔窟の凄惨さを知った。

 

 力こそ全て――なるほど聞こえはいい。

 腕に覚えがある者、確かな力を持っている者からすれば、さぞかし楽しい学校だろう。

 

 だが、力がない者にとっては、ただ搾取されるだけの地獄でしかない。

 

 正しく無法地帯だった。

 誰もが好き勝手に振る舞い、欲望のままに悪行の限りを尽くす。

 

 そんな中で、東条英虎という名前を知った。

 かつて、烈怒帝留の伝説の初代を最強の座から引きずり下ろした男。

 そして今もなお石矢魔のトップに君臨し――この無法地帯を、支配する男。

 

 教師はおろか、女子供にも容赦をしないという、悪魔のような男の存在を。

 

 烈怒帝留を復活させるには、この学校の男達が手を出せないと思い知るまでの絶対的な強さを示す必要がある。

 

 その為に――。

 

「さて――喧嘩、しようか」

「――――ッっ!!」

 

 東条のその言葉を皮切りに――邦枝が飛び出した。

 

(――私はっ! あなたに勝たなくちゃいけないのよッ!! 東条英虎ッッ!!)

 

 初代を下したというこの男を。石矢魔という地獄の頂点に君臨するこの男を。

 

 伝説を超えなくては、邦枝葵は新たな女王(でんせつ)になることが出来ない。

 

 もう二度と、怯える女子生徒を生まない為にも。彼女達に安心して学校生活を送ってもらう為にも。

 邦枝葵という看板を――盾にしなくてはならない。この学校のクズ共が手を出そうと思えないような、絶対の盾に。

 

 それを――この戦いで、証明する。

 

「――ッッ!!」

 

 高速で東条の間合いに入り込んだ邦枝が、容赦なく顔面に向かって突きを繰り出す。

 それは命中すればコンクリートすらも穿つ一撃――だが、それを、東条は笑みのままに紙一重で躱して見せた。

 

「――ッ! くっ――」

 

 だが、邦枝は動きを一瞬たりとも止めない。そのまま一歩分距離を取り――木刀を逆手でもって垂直に構える。

 

「っ! でる! 葵姐さん……っ!」

 

 後ろで寧々が察する。邦枝が決めにかかる――と。

 

 元々、短期決戦しか邦枝に勝機はない。

 東条の拳に、自分は一撃たりとも耐えられないことを彼女は自覚していた。

 

 勝負を長引かせても意味はない。故に――邦枝は躊躇なく奥義を繰り出す。

 

「――――っ!」

 

 東条の視界から、邦枝が消える。

 

 そして、次の瞬間には――眼前に木刀が迫っていた。

 

 揺れ動くような緩急をつけた動きによって、相手の認識を狂わせる歩行術。

 幻惑と共に居合抜きのように抜刀し、全てを薙ぎ払う神速の斬撃。

 

 心月流抜刀術弐式――『百花乱れ桜』。

 

 現在の彼女の持つ最高の技。それは校庭に乱れる軌跡を刻み込み――叩き折られた。

 

(――――え?)

 

 軽い――余りにも軽い。

 今まで何千何万と振りぬいてきた木刀が、余りにも軽い。

 

 手応えがない――そして、刀身が、ない。

 

 今まで数多の敵を打倒してきた邦枝の木刀が、一発の拳によって吹き飛ばされていた。

 

(嘘――でしょ)

 

 木刀が折られたのに少し遅れて、ピシッ、と、罅が入るのを感じた。

 

 これまで東条に沈められた連中と同様に、邦枝葵にも圧し掛かっていた。

 

 東条という男の、余りにも別格である――強さという重さが。最強という重圧が。

 

 彼女の心を、彼女の強さを、()し折ろうとしていた。

 

 何かが終わってしまったかのように、キュィィインという機械音が小さくなっていくのが聞こえる。

 

(……って、何? ()()()? エンジンみたいな……どこから?)

 

 余りにも異質な音に邦枝はバッと振り返る。

 

 その音は、拳を振り抜いた体勢で固まっていた――()()()()から聞こえていた。

 

「………………」

「……………あ、やべ」

 

 邦枝は固まり、絶句し、心の中で絶叫する。

 

(……え? え? えぇぇぇぇええええええ!? 何? やべって何? 聞こえちゃいけない音だったの? 東条英虎ってサイボーグとか何かだったのぉぉぉおお!?)

 

 いっそそうならば、むしろそういうことでもなければ納得出来ない強さだったが――と、冷や汗をだらだら搔きながらも、刀身がなくなった木刀を東条に向ける。

 

 対して東条は、ギュギュと拳を握りしめて――溜息を吐いた。

 

「……あぁ、悪りぃな。脱ぐのを忘れてた」

「ぬ、脱ぐ!? え、それどういうこと? 脱いだり出来るものなの? ていうか何を脱ぐの!?」

「そういうわけで、喧嘩はまた今度な。今度は脱いだ状態でやろーぜ」

「よく分からないけどその言い方はセクハラに聞こえない!? いや、そういう意味で言ったんじゃないって分かってるけど! っていうかもう何が何なの!」

 

 混乱する邦枝を他所に、東条は校舎ではなく再び校門に向かって歩いていく。

 

 邦枝はその東条の背中に向かって、表情を引き締めて強く言い放つ。

 

「ッ! 待ちなさい! 東条英虎!」

 

 焦りのままに東条を呼び止めた邦枝は、一度口を開きかけながらも、ゆっくりと言葉を探るように言う。

 

「――あなたは、一体……」

「お前、名前は?」

 

 だが、邦枝の言葉を遮り、立ち止まり、振り返った東条が逆に邦枝に問い掛ける。

 

「え、私は――」

 

 戸惑う彼女は、やがて表情を引き締め、まっすぐに東条を見据えながら言う。

 

「――邦枝葵。石矢魔高校一年。烈怒帝留三代目総長よ」

 

 白い特攻服と黒い長髪をたなびかせ、後ろに守るべき部下達を並べながら、少女は最強に言う。

 

 己が名を。背負うべき称号を。闘志迸る瞳で、堂々と。

 

 東条は、そんな彼女に向かって――獰猛に笑いながら。

 

「強かったぜ、邦枝。また、喧嘩しような」

 

 そう言って――大きな背中を向けて。

 

 ひらひらと手を振りながら、東条英虎は去っていった。

 

 しばらく沈黙に包まれていた石矢魔高校だったが――やがて、ワッと湧き起こる。

 

「新女王が、東条を追い返したぁぁああ!!!」「すげぇぇぇ!!」「え? なにこれ、女王(クイーン)の勝ちなの?」「いや東条の勝ちだろ、木刀折ったんだぞ」「でも邦枝も強くね? 校庭の土が抉れてるぜ」「そもそも東条自身が強えって言ってんだぞ、本物だろ」「ああ、アイツは喧嘩に関しては嘘を吐かねぇからな」――止まらない騒めきに呆ける邦枝の元に、寧々達がやってくる。

 

「やりましたね、葵姐さん! あの東条を相手に! 流石です!」

 

 次々に邦枝を褒め囃す寧々達だが、邦枝の表情は晴れなかった。

 

「……でも、私の完敗よ。今日はたまたま、東条――先輩が、見逃してくれただけ」

「………それでも、葵姐さんの戦いぶりは、きちんと――私達を守ってくれましたよ」

 

 そう言って、寧々達は校舎の方を仰ぎ見る。

 

 東条と邦枝の対決を見下ろしていた彼等の目には、最早、邦枝は只の一年生女子とは映っていなかった。

 

 あの伝説の最強に認められ、あまつさえ追い返した――それだけの偉業で、彼女はこの学校で確かな評価を手に入れた。

 

「やりましょう、葵姐さん。この学校の女子全員を、葵姐さんが纏め上げるんです。そうすれば、今も学校に来れない女子達も、必ず恐れずに登校出来るようになります」

「葵姐さんならなれます、新しい女王に。葵姐さんなら出来ますよ、伝説の烈怒帝留の復権も」

 

 私たちは、どこまでもあなたについていきます――そう言って、彼女達は笑いかける。

 

 誰よりも優しく、誰よりも美しく、誰よりも強い、自分達の新しい女王に。

 

 邦枝はそんな彼女達に――可愛らしい、笑顔で答えた。

 

「よろしくっ!」

 

 そして彼女は、東条が去っていった方向を見つめる。

 

(……いろいろと変な人だったけれど……悪い人じゃなかった。あの人はきっと、強い人と戦いたいだけってタイプなんだろうな。……それはそれで迷惑な話だけど)

 

 けれど、少なくとも、これから校内の勢力争いに挑まなくてはいけない烈怒帝留にとっては朗報ではあるのだろう。彼は少なくとも支配とか権力とかには興味を見せないタイプだ。

 

(三年生には目ぼしい勢力はないって話だから……そうなると二年生で最大勢力の神崎一派――次に挑まなくちゃならないのはコイツ等ね)

 

 別に烈怒帝留も石矢魔統一なんてものを狙っているわけではない。だが、校内の安全を確保するためには、少なくともどんな勢力にも狙われないようにする必要がある――そのために、この学校で一番手っ取り早いのは、自分達の強さを思い知らせることだ。

 

(……強さ。あの人は、あれほどまでに強い。……そして、その上で、更に強い人との喧嘩を求めているのだとしたら……最強になったあの人は、今、何を求めているのかしら?)

 

 邦枝は、悠々と去っていく、大きすぎる最強の背中を思い返しながらも、寧々に呼ばれて校舎に戻る。

 

 また喧嘩をしようと言われたけれど、正直、もう二度と戦いたくない。それに、自分では彼を満足させることが出来るとは思えない。

 

 彼に対抗できるのは――それこそ、悪魔や宇宙人くらいだろう、と、邦枝はそんなことを思った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 東条vs邦枝の一騎打ちが終わり、それぞれに勝手な感想を言い合いながら首を引っ込めていく石矢魔生徒の中で――ただ一人。

 

 夏目慎太郎は、校舎に向かっていく邦枝ではなく、校門に向かって歩いていく東条を見ていた。

 

 パシャ――と携帯のカメラで撮影した画像を、先程のバトルシーンに連写したものも含めて見る。

 

 工事現場の作業服――その中に東条が着ていた何か。あの入学式の日には来てなかった――漆黒のインナー。

 邦枝との戦いの最中、まるで東条自身の闘志を具現化したかのように光り輝いた、見たこともない近未来的なSFスーツ。

 

「……間違いなく、同じヤツだよねぇ」

 

 東条の画像を最小化し、代わりにタップして拡大するのは――昨夜の池袋大虐殺のニュース。

 

 正確には、その地獄の一夜を終結させた――特徴的な漆黒の全身スーツを身に纏う、英雄『黒の剣士』のニュースだった。

 

「……さて、どうなることやら」

 

 例え、どれだけ世界が混乱の渦に叩き落されようとも、石矢魔高校(ここ)だけは何も変わらないと思っていた――が、案外、そうでもないらしい。

 

(……まぁ、取り敢えずは、()()()が何なのかを突き止める方が先かな)

 

 夏目はポケットから、手の平サイズの無機質な黒い球体を取り出し、眺める。

 

 久しぶりに、面白くなりそうだ――夏目慎太郎は、手に持つ黒い球体のように、真っ暗に笑った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 東条英虎は、石矢魔高校の校門を一歩出た後、ふと振り返り、一年以上(期間としては)通った校舎を見上げる。

 

 

――あ、トラ。明日はちゃんと学校に行けよ。来ても帰らせるからな

 

 

(すいません、篤さん。まあ、一応学校には来たんで)

 

 そう心の中で呟いて、東条は今度こそ校舎に背中を向ける。

 

(さて、この後は何処に行こうかね)

 

 工事現場のバイトは、昨日の篤の言葉を聞いていた彼等が、真っ昼間から東条が行っても追い返してしまうだろう。今のところ他にバイトも入れていないし、陣野(かおる)は真面目に勉強中だろう。

 

(庄次でも誘って、何かすっかねぇ)

 

 とはいえ、携帯電話を持っていない東条は、適当に街をぶらついて相沢に見つけてもらうしかコンタクトを取る手段はないのだが。

 だとすると、取り敢えず一度家に帰って、このなんかすごいスーツを脱いだ方がいいかもしれない。

 

 篤と斧神を探す――という選択肢は、東条の中には存在しなかった。

 

(……そうだな。山にでも行くか。そんで熊とかをぶっ倒せば――もっと強くなれんだろ)

 

 リアル山籠もりを本気で検討しつつ――東条英虎は獰猛に笑う。

 

 昨夜の敗北は、東条に更なる飢えを与えた。

 この燃え滾るような渇望がある限り――東条英虎は、どこまでも強くなる。

 

 そういう意味では、あの邦枝葵もいい線はいっていたが――。

 

 

――いずれ、アンタも出会えるよ。本当にアンタが求める相手に。頂上(ここ)にいれば、いつかきっと、向こうからアンタの前に現れるよ

 

 

「……アイツじゃ、ねぇよな」

 

 東条はそう、真っ青な空を眺めながら呟く。

 

 どうしようもなく渇いていて、どうしようもなく飢えていた東条の日常は、ほんの少し前に劇的に変わった。

 

 あの黒い球体のある部屋に迷い込み、この真っ黒なスーツを身に着けて戦うようになって、確かにある意味――満たされた。

 

 思う存分殴り合える強敵と喧嘩したり――圧倒的な強さに、完膚なきまでに敗北もした。

 

 この上、まだ出会えるのだろうか。あの日、あの女が言っていた、自分が本当に求める相手に。

 

 自分と同じ、己の本気を思う存分にぶつけ、そして同じように全力をぶつけ返してくれる存在を求める――喧嘩好きに。

 

 

――そいつが来たら、思いっきり喧嘩してあげてよ。きっと楽しいと思うからさ。

 

 

「……はは。早く来い」

 

 俺は、どんどんどんどん強くなって――テメェを待ってるんだからよ。

 

 

――こんな奴等に、俺が負けるとでも思ってんのか?

 

 

 東条は、自分が生まれ変わったあの日、ほんの僅かに邂逅した少年の背中を思う。

 

(……早く、来い)

 

 徹底的に敗北し、生死の境を彷徨った翌日に、東条がこの上ない充実感を感じている最中――。

 

「――ああ、ちょっといいかな。俺、こういうものなんだけど」

 

 真っ昼間から高校のすぐそばで、工事現場の作業服の下に不気味な漆黒の全身スーツを身に纏い、凶悪な顔でニヤニヤしている男が、警察手帳を取り出した男に呼び止められた。

 

 なんていうか、明らかに職務質問だった。

 

「ん? なんだ、おっさん」

 

 だが、そこは東条英虎。

 一切悪びれることも動揺することもなく、むしろ警察手帳を見せつける相手を堂々のおっさん呼ばわりである。

 

 補導待ったなしの状況ではあるが、この時は少し状況が特殊だった。

 相手の顔や名前をあまり覚えない男ではあるが、流石に昨日の今日である。

 

 名前は思い出せなくても、その顔は何とか覚えていた。

 

「あんた……昨日のお巡りか?」

 

 その言葉に、警察手帳を取り出していた草臥れたスーツに無精ひげの低体温そうな男は、淡々と言う。

 

「……そう。覚えていてくれて助かったよ、東条英虎くん。俺の名前は、笹塚だ」

 

 ついてきてもらえると助かる――そう言って笹塚は、すぐ傍に停めてあった車を指さした。

 

(……しかし、まさか普段から身に着ているとは。そういうものなのか?)

 

 たぶんそうではないと思いつつも、笹塚は東条の黒いスーツを見ながら、とりあえず彼と接触することに成功したことを、まずは安堵した。

 

 そして、警察手帳を開き、次なる目的地を確認する。

 

「…………」

 

 そこには、対象の写真と住所――そして、湯河由香という名前が記されていた。

 




石矢魔最強は、新たなる女王(でんせつ)の到来に笑みを浮かべ、未だ来ぬ待ち人への渇望に牙を磨く。


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Side東条――④ & Side由香――①

――見てろ。


 

 小さなバイブ音が、メールの着信を告げた。

 

 From:桂木 弥子

 件名:会見の件について

 

 先程、『新垣あやせ』と接触出来ました。

 何とか了承を得ることが出来たので、ご報告です。

 

 追伸

 会見が終わったらご飯でも食べに行きませんか?

 三十万円ほど臨時収入があったのでおごりますよ♪

 

「……何があったら三十万も手に入るんだ?」

 

 笹塚衛士は、顔馴染みの少女からのある意味いつも通りなメールに溜息を吐く。

 そして、この子と食事に行ったらきっとこの三十万も紙切れのように意味を失くすだろう光景が目に浮かんで、もう一度溜息をより深く吐く。自分もクレジットカードを持参しなくてはなるまい。

 

 もう彼女も女子高生ではない為、本来ならばこちらが一方的に奢ることもないのだろうが、それでも笹塚にとって彼女は子供であり、庇護対象だった。だから、きっと自分が奢ることになるのだろう。それで何か月分の給料が吹き飛ぶことになったとしても。

 

 それに、それだけの価値が彼女との夕食(ディナー)にはあると、笹塚は思った。

 あの食いっぷりを見ることもそうだし、それに――。

 

「今のメール、『探偵』からですかい? 先輩」

「……まぁ今じゃあ探偵っていうよりもすっかり『交渉人』みたいな仕事をしてるらしいけどな」

 

 彼女は()()()()()()()()()()()()()()()()()けれど、警察関係者や軍事関係者、そして政府関係者の間ではかなりの知名度を誇る、文字通り知る人ぞ知る『名探偵』だった。

 

 数年前、数々の難事件を解決し、そして今ではありとあらゆる場所に丸腰で乗り込み、重箱一つでどんな犯人も交渉してみせる請負人。

 

(…………まぁヤコちゃんらしいといえばヤコちゃんらしいと思っていた……けど)

 

 正直、予想外だった。

 今回のこの池袋大虐殺という事件に、あの『探偵』が関わってくるなんて。

 

(……それも、こちらが把握していなかった『新垣あやせ』という情報を持ち込んだ上で、だ。……ヤコちゃんは確かにとんでもないが、今はあの『助手』もいないんだ。……誰かヤコちゃんに『依頼』をした人物がいる。……いや、それは()じゃないかもしれないが)

 

 少なくとも、この()はあの『探偵』の助力を受け入れている。

 重要人物の一人である『新垣あやせ』への交渉を一手に任せる程に――そして、それは目論見通り成功したわけだが。

 

「……ヤコちゃんは成功したみたいだ。烏間さんからも『潮田渚』を説得出来たという連絡が入っている」

「じゃあ、上からの指令はクリアですね! こっちはとっくに『東条英虎』の了承を得てますし! ファーストクリア報酬とかないんすかね」

「公務員なめんな。てことで、お前はここで待ってろ」

 

 え!? ちょっと先輩!? ――と、石垣が運転席で戸惑いの声を上げるのをガン無視し、笹塚は後部座席に座る少年に目を向ける。

 

「……悪いが、来てくれるか? きっと、君の力が必要だ」

 

 ん――と、爆睡していた少年は、そのまま車外へと出て伸びをする。

 

「ぁぁああ。んあ? ここ何処だ?」

「千葉だ」

 

 笹塚は端的に答えた。

 

 ここは千葉の――とある住宅地。

 

 一軒家が転々と立ち並ぶ中、覆面パトカーが停まっていた家の前の表札には、こう書かれていた。

 

 湯河――と。

 

「……招集リストには入っていないが、彼女も重要な人物には変わりない」

 

 刑事と不良という異色の組み合わせによる、一人の少女への家庭訪問が始まった。

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

 自分がどうして死んだのか、その少女はよく覚えていない。

 思い出せない。記憶がない――というよりは、思い出すのを怖がっているという方が正しいかもしれない。

 

 魔が差す――という。

 

 まるで何かが心に入り込んだかのように。ぽっかりと空いた隙間に、入り込まれたかのように。

 何かに操られたかのように。何かに突き動かされたかのように――突き落とされたかのように。

 

 覚えているのは――思い出せるのは。

 

 最期の記憶として、焼き付いているのは。

 

 燃えるように綺麗な――逢魔が時の、空。

 

 あの日は一日中曇っていたのに、最後の最期に見せてくれた光景は――涙が出る程に綺麗な、夕焼けだった。

 

 

 

 そして――気が付いたら、真っ黒な部屋に閉じ込められていたのだ。

 

 

 

 

 

「……なに、これ?」

 

 目が覚めたら、自分は見たこともないコスプレのようなテカテカの全身スーツを身に纏っていた。

 

 バッと体を勢いよく起き上がらせる。

 カーテンすら開けていない部屋は真っ暗で、そんな中でも分かる真っ黒なスーツ。

 

 ギチギチする程のサイズ感なのに、全く動き(にく)くない。

 まるでオーダーメイドされたかのように由香の身体にこの上なくフィットしていて、それが余計に不気味で気持ち悪くて。

 

 カーテンを開けようとするも、自分の恰好を思い出して躊躇した。

 

「…………」

 

 何か分からないことがある時、現代人である由香は咄嗟に調べようとする。

 この時は偶々カーテンを開けようとベッドから降りていた為に、スマホよりもテレビのリモコンの方が近かった。

 

 昔から部屋に友達を呼ぶ機会が多かった由香は、自分の部屋にテレビを持っていた。

 残念ながら、正確には“昔から”はなく“昔は”と過去形になってしまったので、最近は視聴者は(もっぱ)ら自分だけとなってしまった代物だが、それでも得られる情報には変わりない。

 

 自分が何故身に覚えのない間にコスプレスーツを着用しているのか等という疑問にまさか地上デジタル放送が答えてくれるとは思わないが、それでも今はこの無音の空間が怖かった。だからこそスマホよりも無意識にテレビを選んだのかもしれない。

 

 だが、ここ最近の湯河由香という少女の孤独を紛らわしてくれていたこのテレビは、こんな時も由香の悩みをしっかり解消してくれた。

 

 あるいは、遂に現実を突き付けただけかもしれないけれど。とびっきりに残酷な現実を。

 

 テレビによって音と光が提供された室内。

 けれど、由香の耳に真っ先に響いた音は、スピーカーから流れる音声ではなく、己が落としたリモコンがテーブルと衝突し、そのままフローリングに落ちる音だった。

 

 それ以外の音は聞こえない。まるで両手で耳を塞いでいるかのように。

 

 だが、耳は逃げられても、目は――テレビ画面から逸らすことは出来なかった。

 

 その地獄から――見覚えのある地獄から、逃げることは出来なかった。

 

「……ぁ……ぁ……」

 

 思い出す。思い出す。思い出す。

 蘇る。蘇る。蘇る。

 

 死んだ記憶が――蘇る。死んでいく光景が――蘇る。

 

 恐怖が――蘇る。絶叫が――蘇る。叫喚が――蘇る。

 

 流血が蘇る。戦闘が蘇る。殺気が蘇る。

 戦争が蘇る。黒球が蘇る。業火が蘇る。

 

 化物が――蘇る。怪物が――蘇る。

 

 地獄が――――蘇る。

 

「……ぁぁ……あぁ……そっか……私は――」

 

 ぐしゃぐしゃと。ぐしゃぐしゃと。

 寝起きでぼさぼさの髪を乱雑に掻き毟る。

 

 まるで次々と蘇っていく記憶を拒絶するように。

 だが、テレビ画面から突き付けられるニュース映像は、由香に現実を突きつける手を緩めない。

 

 それでも、由香はその映像から目を逸らせない。

 息が荒くなり、心拍が乱れても、由香は地獄を蘇らせることを止められなかった。

 

 そして、ニュース映像は、由香にとって忘れられない戦場を映し出す。

 

『――こちらです。……まるで、局所的に燃え上がったかのような……異様な光景です。破壊箇所はあれど周辺ビルには一切火災跡はないにも関わらず、このアミューズメント施設のみが、上から下まで見るも無残に焼失しています。一切の、延焼なく。……ここは、普段は若者達で賑わう、池袋でも有数の人の多い通りでした』

 

 カメラが燃え果てたアミューズメント施設から、サンライト通りへと向けられる。

 

 そこは――この地獄で、地獄と化した池袋で、湯河由香がとある男に守られ続けていた戦場。

 

 人々の絶叫が木霊する中、威風堂々としたその背中を見つめ続けた場所。

 

 本物の強さを。本当の強者を。

 

「……はは……なんだ――」

 

 

 『ゆがわら』0点

 

 

 まもってもらいすぎ。

 

 

 由香は、自分の部屋の中で膝を折る。

 

 テレビの中から流れ続ける地獄の前で。

 

 犠牲者の数が刻一刻と更新されていく中で。

 

 己の顔を隠すように俯き、涙を流しながら――嘲笑う。

 

 

「――死んでんじゃん。私」

 

 

 ガシャン――と。

 

 由香は、鍵を閉めた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 馬鹿は死ななくては治らないという。

 

 でも――。

 

(――弱さは……死んでも治らないんだなぁ)

 

 由香は薄暗い部屋の中で、ベッドの上で体育座りをしながら――そう思った。

 

 既に、時刻は逢魔が時。

 

 ちょうど昨日、自分が死んだ時間帯だ。

 

(死後一日……か。まぁ、今も死んでるようなもんよね)

 

 由香は再び嘲笑う。今日何度目かも数えきれない自嘲。

 

 朝に目が覚めて、己が死んだことを自覚して――丸一日。

 由香は己の部屋の中から一歩も外に出ず、閉め切られた部屋の中で、己の中に閉じ篭っていた。

 

(……不思議と空腹感も……トイレにも行きたくならない。死んだから? それとも……そんなことも、感じなくなってるだけかしら?)

 

 朝の内は扉の前で由香の母親が必死に呼び掛けはしたものの、今ではうんともすんとも言わない。

諦めたのか、それともあんまり無理強いするのも良くないと思ったのか。

 

(……もしかしたら、ママも覚悟してたのかも。……私がどんな学校生活を送ってるのか……全く察していないってことはないだろうし)

 

 いつかこんな日が来るのかもとは、予感していたのかもしれない。

 由香がこうして閉じ篭っているのは何も学校生活が理由というわけではないのだが、それも当たらずとも遠からずかもしれない。

 

 こうして一日学校をサボってしまったら――逃げてしまったから。

 

 自分はもう、どんな顔をして、あの子に会えばいいのか分からない。

 

 恥ずかし過ぎて。合わせる顔がなさ過ぎて。惨め過ぎて。

 

(……昨日の……あの時は――確かに誓った筈なのに)

 

 憧れを、刻み込んだ筈なのに。

 確かに力と、勇気を、その背中から受け取った筈なのに。

 

 真っ暗な部屋で、ひとりぼっちになったら、途端に弱い自分に押し負けた。

 

(……情けないなぁ。……恥ずかしいなぁ。……惨め、だなぁ)

 

 私は――本当に弱いなぁ。

 

(……やっぱり……私には……無理なのかなぁ)

 

 彼女のように美しくなれない。彼のように偉大にはなれない。

 

 あの背中が――遠い。あの憧れが――遠い。

 

 湯河由香は涙を流し、鼻を啜りながら、強く、強く――胸を掻いた。

 強く、強く、誓った筈の魂が――ズキン、ズキンと、痛み続けたから。

 

 その時、コンコンと、由香の部屋の扉がノックされる。

 

「……由香ちゃん。起きてる?」

 

 母の声だった。

 そろそろ何も口にしない自分を心配しに来たのだろうか。そう思ったのだが、全く空腹感は感じず、返事をすることも億劫なので何も言わずにいると。

 

 由香母は、震える声で言った。

 

 何かに、恐怖する声で、言った。

 

 

「――警察の方が、来ているのだけれど」

 

 

 その言葉に、由香は思わず顔を上げた。

 

「っ!?」

 

 頭の中が真っ白になる。

 

(警察? なんで警察が――?)

 

 確かに褒められた人生を送ってきたわけではないが、警察の厄介になる程に道を外していたつもりはない。

 なのに、今、警察が、自宅の、それも自室という世界で最もパーソナルな空間の、すぐ傍にいる。

 

 そんな現実が、中学一年生の湯河由香という少女を恐怖と共に混乱させる。

 

 だが、そんな自分と同じく、あるいはそれ以上に、恐怖と共に混乱しているのが――自分の、母親だった。

 

「由香ちゃん、起きてるんでしょう? テレビの音が聞こえるわよ。お願い、出てきて。お願いだから説明して!」

 

 テレビは今朝に点けてから惰性でずっと点けっぱなしにしているだけだ。

 それに、説明しろと言われても、由香には全く心当たりがない。警察なんて、これまで全く関わったことも――。

 

(――ちょっと待って。……警察? ……そういえば、あの時のあの人達が、たしか警察って)

 

 由香が跳ね上がった心拍を押さえるように、混乱を治めて思考を纏めようとする。

 だが、それと反比例するように、由香の母は徐々に声を荒げ、扉を叩いて由香に叫んだ。

 

「お願い! 説明してよ! 何があったのよ! 学校で何かあったの? あなた何をしたの! ……分からないのよ、言ってくれなきゃ分からないの! 嫌なことがあったの? 嫌なことをされたの? 嫌な子がいるの? 言ってくれればママが何とかするから! 学校にも行くし先生にも話すし教育委員会にでも訴えるから! だからお願いここを開けて説明して! 由香ちゃん由香ちゃん!」

「――お母さん。落ち着いて下さい。我々は、ただ話を聞きたいだけです」

 

 徐々に我を失う母親。扉越しながら、由香は段々と警察よりも己の母親に恐怖心を感じ始めた。

 

 こんな母親は見たことはない。

 いや、見えてはいないが、見えてないからこそ却って気味が悪く現実感がなかった。

 

 由香にとって母は、とてもいい母親だった。

 可愛がってくれて甘やかしてくれて、欲しいものは大抵与えてくれて、やりたいことは大抵やらしてくれて、行きたい所には大抵連れて行ってくれた。

 

 この広い自室も。大きなテレビも。クローゼットに入りきらない程の服も。

 中一どころか小学生の頃から染めたりパーマを当てたりしていた髪も、みんなママがやってくれたことだ。

 海外にだって行ったこともある。同級生が持っているもので由香が持っていないものはなかったし、同級生が行ったことのある観光地で由香が行ったことのない場所はなかった。

 

 とてもいい母親。ある意味では由香をこんな弱者にしたのは母だとも言えなくもなかったし、そういった意味ではいい母親ではなかったのかもしれないが、都合のいい母親であったことは確かだ。

 

 だから、由香はこんな母は見たことがない。聞いたこともないし――覚えがない。

 

 下手な化物よりも、警察よりも、由香は扉の向こうの母親が怖かった。

 

 この時点で由香に扉を開けるという選択肢はない。

 ベッドの上で蹲り、布団を被り、更なる現実逃避を試みる。

 

 そんな由香に、何よりも恐ろしい、母親の叫びが突き刺さった。

 

 

「由香――アナタ、一体()()()()()のよ!!」

 

 

 殺されたような気分だった。鋭い切っ先で、胸の真ん中を貫かれたかのような。

 

 実の母親に――止めを刺された心情だった。

 

(何を――してる?)

 

 何もしてない。私は、何もしていない。

 

 警察の御厄介になるようなことも。母親にここまで言われるようなことも。

 

 何も――してない。

 

(何も――してない。……そうだ。私は、()()()()()()()

 

 何もしなかった。何も出来なかった。

 

 恐怖で震えるばかりで。状況に流されるばかりで。

 

 守られる――ばかりで。

 

 救われる――ばかりで。

 

(……何も、しなかった――ッッ!!)

 

 人が殺されているのに。化物が暴れているのに。

 

 黒いスーツを着ているのに――何もしなかった。

 

 守ることもしなかった。救うこともしなかった。

 

 戦うことすら――しなかった。

 

 0点。

 無得点――無価値の、戦争。

 

「――――ッっ!! ……ぁぁ…………ぁぁ!!」

 

 しょうがないじゃないか。しょうがないじゃないか。しょうがないじゃないか。

 だって私は死んでたんだよ。死んだんだよ。思いっきり死んだはずなんだよ。

 なのにいきなり生き返ってていうか死んでなくていきなり気が付いたらしらない男の人がいっぱいいる知らない部屋に閉じ込められてそんなのこわいよ混乱だよ当たり前でしょ!

 あれよあれよという間になんか知ってそうな人たちが知らない会話していて歌が鳴ってなんか変なの着ろとか言われて気が付いたら六本木で化物がいるし殺されそうになるし!

 こわいでしょわかんないでしょ意味不明でしょ! そりゃ怯えるよ竦むよ何も出来ないよ!!

 やっと終わると思ったら終わんなくて!? またいきなり変な光で消されて!? そして次は池袋で!?

 なんかいっぱい人がいるし! 化物はもっといっぱいいるし!

 なんか蛇みたいなのとか岩みたいなのとか火みたいなのとかわかんない分かんないわかんない!

 しょうがないじゃない! しょうがいないじゃない! しょうがいない!

 だって――怖いんだもの怖いんだもの怖いんだもの怖いんだもの怖いんだもの!!!

 

「……よわいん、だもの……」

 

 由香は、ポツリと、漏らす。

 

「…………もう…………死にたく、ないんだよぉ……ッッ」

 

 何度、謝っただろう。何度、懺悔しただろう。

 

 ごめんなさいと。ごめんなさいと。

 死んでしまった誰かに。守れなかった誰かに。救えなかった誰かに。

 

 戦わなかった自分を、何度、謝っただろう。

 

 未だ脱げていない――漆黒のスーツに涙を染み込ませて、由香はずっと懺悔した。

 

 これが戦う為の兵器だと、由香は理解している。

 あの部屋に送り込まれたということが、あの化物と戦えということだと、この聡い少女は理解しているのだ。

 

 だからこそ、ずっと罪悪感に苛まれていた。

 部屋から一歩も出れない程に。ニュースから目を逸らせない程に。

 

 由香はずっと、戦えない自分と戦っていた。

 

 それでも――それは、この小さな体には、余りにも、重かった。

 

 強さに憧れる少女は。弱さを恥じる少女は。

 

 真っ暗な中、手を差し伸ばすことも出来ず。

 

 部屋に籠って。布団を被って。

 

 目を閉じて。耳を塞いで。

 

「――――」

 

 鍵を――掛けた。

 

 

「いいから出て来い。とっくに――朝だ」

 

 

 パリーンッッ――と。

 

 由香が閉じ籠った世界を、ぶっ壊す音が響いた。

 

「っっ!? ――え?」

 

 きらきらと、飛散するガラスが夕暮れの光を反射する。

 

 伸びてきた腕は、そんな光景に相応しくない程に太く、ごつくて。

 

 白馬の王子様の要素なんて欠片もない。囚われの姫を助け出しに来た勇者でもない。

 

 只の歴とした不法侵入で。ルールもモラルも何もかもを無視して。

 

 凶悪な笑顔で。自分と同じ――真っ黒な腕を伸ばして。

 

 湯河由香の、何もかもを吹き飛ばした。

 

「よう。迎えに来たぜ」

 

 その男は、湯河由香にとって、王子様でも、勇者でも、ましてやヒーローでもない。

 

 ただただ野蛮な破壊者で。大きくて果てしない憧憬で。

 

 弱者の気持ちなんて微塵も考えない――圧倒的な強者だった。

 

「……東条……さん」

 

 逆立つ鬣のような金髪の男が、ガラスを踏みしめて己の元へとやってくる。

 

 ガンツスーツを着ているとはいえ起きてから顔も洗っていないボサボサ髪の女子中学生の前に立つと、東条がずいっと顔を覗き込んでくる。

 

「なんだお前? 今起きたのか? いくらなんでも寝過ぎだろ」

「ばっ、そんなわけないでしょ! っていうか近い! こっち見んな!」

 

 由香は途端に顔を赤くして東条の顔を押し退ける。

 そのまま布団をバサッと引き寄せ何故か体を隠すと、そのまま東条に向かってきゃんきゃんと吠えたてた。

 

「だ、だいたい何してんのよアンタ! なんで窓から入ってきたの!? っていうか突き破ってきたの!?」

「ん? いや、お巡りの兄ちゃんが時間がねぇって言ってたからよ。なのにお前、母ちゃんがいくら呼んでも出てこねぇし。寝てんじゃねかって思ったからよ」

「……思ったから?」

(こっち)の方が早えかと思って突き破ってきた」

「ばっっっかじゃないのッッ!!!」

 

 当然の怒りだった。

 由香はベッドの上に立ち、めちゃくちゃになった室内を指さす。

 

「どうしてくれんのよ! 窓が滅茶苦茶じゃない!」

「大丈夫だ。バイトでいくらでも張ったことあっから。俺がピカピカに直してやる」

「そういう問題じゃないでしょッ!? 完全に完璧に不法侵入&器物損壊だからね!!」

 

 女子中学生に常識について説教される最強戦士。

 由香は思い切り溜息を吐き――いつの間にか、完全にいつもの自分を取り戻していることに気付いた。

 

「あ――」

 

 壊れた窓は、閉め切ったカーテンも全開にさせ、涼やかな風と共に夕陽を室内に齎していた。

 

 閉め切っていた世界が、閉じ篭っていた空気が、見るも美しく完膚なきまでに壊されている。

 

 由香は少し涙を流した。そして、ハハと、久しぶりに自嘲ではない笑いを漏らす。

 

 むちゃくちゃだ。めちゃくちゃだ。だけど、また私は――この人に救われた。

 

 由香は東条に笑いかける。東条は訳も分からず首を傾げた。

 

(――だけど)

 

 絶対に死んでも礼は言わない。

 由香は、背後から聞こえるドアを叩く轟音と、その向こう側から聞こえる母の絶叫を背に、そう思った。

 

「由香ちゃん!? 由香ちゃん!? 何!? 今のガラス割れる音は何!? 十五の夜なの!? あなた十二才でしょ! それにまだ夕方よ!?」

 

 母よ。そういう問題じゃなくない?

 

「大丈夫です、お母さん。たぶん、きっと、我々が連れてきた奴の仕業ですから」

「何なの、あなた達!? 新手の強盗なの!? 警察を呼ぶわよ!」

「我々が警察です。(サッと警察手帳を出す)」

「世も末だなコンチクショウがッッ!!」

 

 今日は今まで知らなかったママをたくさん知れる日だなぁ。

 由香は涙ながらにそう思った。

 

「母ちゃん随分元気出たみてぇだな」

「アンタのお陰でね」

「お、そうなのか。照れるな」

「皮肉だよ、死ねよ」

 

 おっといけない。JCにあるまじき言葉を使ってしまった。反省反省(てへぺろっ)。

 由香は思い切り溜息を吐き、ぼさぼさの髪を掻き上げながら東条に言う。

 

「――で。アンタはなんで私んちに来たの?」

 

 色々と面倒くさくなって、っていうか主に東条相手に敬語とか使うのが馬鹿らしくなって、由香は殆ど素の口調で言う。

 

 ここが自宅で、自分がほとんどすっぴんで、そしてそれ以上に東条が色々と常識が通用しない奴だからという理由だろうが、東条はそんな小さいことを気にするような器ではない為――あっさりと重大事項を暴露する。

 

 

「ん? 記者会見とかいうのに呼ばれたからだろ? その迎えに来たんじゃねぇか」

 

 

 え――と、由香は呆然と東条を見上げる。

 

 ここまでメチャクチャなことをされて、もうこの人のやることで驚くことなんてないんじゃないかと思っていた由香は、自分の想像がとんでもなく甘かったことを知る。

 

 だが、この東条の発言は、いくら何でも理解外の範疇すらも超えていた。

 

(記者会見って……あのニュースでしつこいくらいに言ってた、池袋大虐殺に関する政府の見解発表とかいう……あの? それに呼ばれたの? 私が? は? 何それ意味わかんない)

 

 理解出来ない。それ以上に、理解したくない。

 

 湯河由香という少女がその会見に呼ばれるということは、考えられる要因はただ一つ――由香は、自分が身に纏っている、漆黒の近代的スーツを見下ろす。

 

「――――ッッ」

 

 由香はゾッとする程の恐怖に晒される。

 

 晒される――こんな姿を? カメラの前で? 全国民の前で?

 

 それはつまり、自分が、あの戦場で何をしたか――何もしなかったということを、晒すということで。

 

「――ぃ――」

 

 由香が思わず叫び出しそうになった瞬間――由香の自室の扉の方が開いた。

 

「――違う。湯河由香、君は招集されていない。君のお宅をお邪魔したのは、まったくの別件だから安心して欲しい」

 

 扉から姿を現したのは――やはりというべきか、昨夜に自分が池袋で遭遇した、あの低体温の刑事だった。

 

 その刑事を押し退けるようにして室内に入ってきたのは、自分と同じようにボサボサ髪の母親。

 

「由香ちゃん、大丈――ってなんじゃあこりゃあ!?」

 

 お腹から流血したのかな? と思うような聞いたことのない声を吐き出す母親の後ろから、くるくると針金のようなものを振り回す見たことのない若い男が現れる。

 

「いやあ、どうです? 先輩? 俺のプラモで鍛えた手先の器用さも捨てたもんじゃないでしょ?」

「ああ、そうだな石垣。だが、それとは関係無しにお前が勤務中に作ってたそれと勤務中に持ち込んでたこれは後でぶっ壊すからな」

 

 手始めに石垣と呼ばれた男が持っていたブラモデル作成キットが片手間に破壊され、彼が由香の部屋(JCの自室)で号泣を始めるのを完全に無視して、昨夜も行き会った刑事――笹塚は由香に向き合って言う。

 

「……なんていうか、とんでもない感じになって申し訳ない」

「……ええと」

 

 いいえ――とは、社交辞令でも言えなかった。まだまだ大人になれない十二才の由香である。

 

「どうやら石垣(このバカ)の入れ知恵だったみたいなんだが……まぁそれでも何の疑問も持たずに実行に移す東条君も東条君なんだが……窓ガラスその他諸々はちゃんと警察(こっち)で弁償するから」

「いや、あの、それはお願いしますなんですけど……えっと、それより――」

 

 聞きたいことが、あり過ぎる。

 どうして湯河家(うち)に来たのか、どうして私を訪ねてきたのか――とか。

 

 こうして、この漆黒のスーツを着ている私を、じっと何の感情も見せない瞳で見つめてくるこの刑事は――湯河由香が、あの化物退治のチームに属していると知っているこの警察官は、私をどうするつもりなのか、とか。

 

 だけど、今、一番聞きたいのは、午後六時に行われる会見について。

 

 湯河由香は――招集対象ではないと、この人は言った。

 

 だと、すれば――由香の目は、東条英虎に向いた。

 

 笹塚はその視線の動きに合わせて、自分も東条の方を向く。

 

「……東条君。そろそろ時間だ」

「ん? そうか――で?」

 

 俺は何をすればいい? とばかりに、東条は不敵な笑みを笹塚に向ける。

 笹塚は、そんな東条に近づいて――手の平サイズの黒球を手渡した。

 

「恐らく何人かもう集まっている頃だと思う。コイツを持って誰にも見られない場所に行ってくれ。そうすれば、お前さんらを呼んでるお偉いさんの元に行ける――らしい」

「――了解だ」

 

 じゃあ、俺は行くぜ――そう言って何故か割れた窓から帰ろうとする東条の背中を由香が慌てて止める。

 

「ちょちょちょっと待って!?」

「ん? なんだ?」

「いやなんでそっちから――ってか、そうじゃなくて!」

 

 由香は一度息を落ち着けてから――東条を、潤んだ瞳で見上げる。

 

「――なんで?」

 

 それは、きっと色々な意味が込められていた。

 

 何で――わざわざ、矢面に立つような真似をするのか。

 何で――わざわざ、大人達に利用されようとするのか。

 

 贖罪も、懺悔も、庇護も、取引も、交換条件も、何もいらないだろう。

 

 東条英虎という本物の強者には、そんなものは必要ないだろう。

 

 間違ってもこの人は、そんな難しいことは微塵も考えちゃいない、

 

 

 なら――なんで?

 

 

 由香のぐちゃぐちゃの疑問の嵐を――東条は、ぽんと、ただその小さな頭に手を乗せるだけで吹き飛ばした。

 

 そんなことが出来るくらい、このゴツゴツの大きな手は、偉大な力を持っていた。

 

 

「――見てろ」

 

 

 東条英虎は、ただそれだけを言い残し――由香に強者の背中を向けた。

 

「……ぁ」

 

 由香は、今更ながらにぼさぼさの髪を手櫛で直す。東条は、そのまま窓から飛び降りていなくなった。

 

「……さて。じゃあ、湯河さん。色々と聞きたいことがあるんだけど、いいか?」

「……その前に、私の部屋の隅で泣いているあの人をどっかやってもらっても。……流石にちょっと気持ち悪いです」

「それよりも由香ちゃん!? なんかあの大きい人窓からひょいって気軽に飛んで行ったけどいいの!? ここ二階よ!?」

 

 あ、復活したんだねママ。でもそんなことで一々動揺してたら持たないんです、あの人の場合。たぶんスーツ着てなくても普通にそれくらいやるし、あの人。

 

「由香ちゃん、友達は選びなさい!」

「友達じゃないし」

「じゃあ彼氏!? ママは認められないわよ流石にいろいろな意味で!!」

「彼氏じゃないから! もうママは黙ってて!」

 

 無茶言わないでよ! こんな状況で黙ってられるわけないでしょ!

 ですよねー。

 

 そんな母娘のラリーが行われる間、石垣を窓から放り投げた笹塚は、溜息を吐きながらベランダからとある部下に電話を掛ける。

 

「……あー俺だ。……えっと、今どこにいる? ……雪ノ下陽乃の件で千葉に? そっか、ちょうどよかった。……出来ればでいいんだが、こっちに来れないか? 石垣が使えなくて……少し助けてほし――」

 

 了解です今すぐ行きます!! ――と、可愛らしい返事と同時に通話が切れる。

 

 そして、至極当然の母娘喧嘩が行われている室内に入り、笹塚は言った。

 

「……えっとですね、お母さん」

「あなたにお母さんと呼ばれる筋合いは有りません!」

「分かりました、落ち着いて下さい湯河さん。これよりもう一人、うちの部下が来ます。ソイツが来るまで窓の修理をしていますので、詳しい話はその後と――いや、あれだな」

 

 笹塚はちらりと、テレビ画面に映っている時刻表示に目を向けた。

 そして、しばし黙考し、そのまま湯河親子に告げる。

 

「もうすぐ六時です。この池袋大虐殺に関する国の会見――これを見てからにしましょう。我々が由香さんに聞きたいことにも、大きく関わってくる会見になりますから」

 

 その言葉に、由香母――湯河由紀は娘に戸惑いの視線を向け。

 

 笹塚に真っ直ぐ見据えられる湯河由香は、ごくりと強く唾を飲み込んだ。

 




強さに憧れる弱き少女に、最強の憧憬は、その背中を見せて新たな戦場へと向かう。


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Side警察――①

まだまだどうして、捨てたもんじゃないな。……人間は。


 

 日本国――警視庁。

 

 まだ夜が明けてそれほど時間は経っていないが、既に太陽は昇っているにも関わらず、全ての窓にブラインドが下ろされ、電灯も消され、意図的に暗室が作られたこの空間の正面の壁に、とある映像が照射されている。

 

 映像の横に立つのは、がっしりとした体つきでオールバックの無表情な男。

 

 そして、その映像を見るのは、真正面の椅子に腰かけ肘を着いた姿勢の険しい顔をした眼鏡の男と、直立不動で腕を組んだ姿勢の鋭い目つきの精悍な男と、少し離れた場所で壁に背を着けている草臥れた雰囲気の無精髭の男。

 

 大会議室程ではないが、それなりの広さの部屋に――たった四人の男達。

 

 全員が碌に寝ていないが、誰一人として疲労の様子を見せないまま、誰に命じられたわけでもない、独断行動の会議を始める。

 

「――これが、記録として残っている、始まりの映像です」

 

 白い壁に照射される映像の横に立つ男――筑紫候平が、手元の端末を操作しながら言う。

 

 それは、公共の電波に乗せられ生放送されていた為に、既に世界中に流されている――始まりの号砲。

 

 

 

 とある映画のワンシーンの撮影の為にカメラチェックを行っているような様子が流れる。時折スタッフの打ち合わせのような声が聞こえるが、特に何の変哲もない普通のメイキング映像だ。

 

 そんな時、不意に、 パァンッ!! と、乾いた銃声が響いた。

 

 誰かの戸惑いの呟きが漏れた後、まるで水を打ったかのように、辺り一面を静寂が支配する。

 その場にいる全員が、そしてこの映像を撮影していたテレビカメラが、とある一人に視点を向けた。

 

 注目を集めるように、拳銃を天に向かって突き付け、見せ付けているのは、周囲の人々よりも頭数個分は高い上背の――漆黒のサングラスを掛けた逆さ帽の男。

 

 そして、池袋東口前のこの空間を囲い込むように、カメラに映っていない人混みの向こう側から、ごりっ、ゴリッ、と、異音が聞こえる。

 

 轟く悲鳴。響き続ける変形音。

 徐々にパニックが起こり始める中、天に銃を突き付ける男の声を、そのカメラは確かに収めていた。

 

 

――テメェら

 

 

 男の言葉と、そして、凶悪に歪む――化物の、顔を。

 

 

――始めろ

 

 

 直後――断続的に響き渡る銃声。

 

 それと呼応するように爆発する人々の悲鳴と狂騒が湧き起こった所で――その始まりの映像は終わった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――ここまでが、昨夜、都内で発生した大量殺人事件、通称『池袋大虐殺』の、始まりの映像、その一部始終です」

 

 未だ暗い室内にしばし沈黙が満ちるが、やがて映像の真ん前の特等席に座していた眼鏡の男――笛吹直大は、映像に目を向けたまま、椅子の肘掛けに肘を立てたまま、背後の二人の男に向かって言う。

 

「……お前達は、この黒スーツの男達について、何らかの情報を得ていたのか?」

 

 笛吹のこの問い掛けに、少し離れた場所にいて壁に背を着けていた男――笹塚衛士は、低い声で小さく言った。

 

「……その日の午後、とある高校生男女が住宅街で襲われるという事件があった。そして、千葉の方でも、黒スーツの集団が住宅街で暴れたという情報があった。都内の方は、金髪の男が率いるホスト風の集団ということだから、この映像の奴等と同一グループとは断言できないが――」

「少なくとも、予兆はあった、ということだな」

「……ああ。俺達は、それらの情報を元に、黒いスーツの集団について調査を始めるつもりだった」

「ならば何故! すぐ俺に報告を上げなかった!」

 

 笛吹は会議椅子のちゃちな肘掛けに拳を落としながら立ち上がり、笹塚に向かって怒声を浴びせる。

 

「私が幕張の器物損壊事件について腹を立てていたのをお前は知っていた筈だ! その事件に関してどんな小さな情報も求めていたのもお前は知っていた筈だ! それなのに何故、私に一切の連絡もなく独断で行動に走った!」

 

 笛吹の言葉は、只の苛立ち任せの八つ当たりに過ぎない。

 確かに笛吹は階級上の笹塚の上司だが、笹塚も、そして笛吹も、千葉の連続器物損壊事件について正式な職務として調査に当たっているわけではない。上層部が件の一連の事件そのものを揉み消そうとしているからだ。

 

「……すまない」

「――――ッッ!! きさ――」

 

 それが気に食わない笛吹が不満を溜め込んでいた所を、筑紫が気を利かせて笹塚に吐き出させる場を作り、笹塚が何か分かったことがあったら知らせると、そう口約束しただけに過ぎない。

 

 何より、笹塚が今、正式に受けている勅命は――。

 

「――そこまでにしてくれるか、笛吹君。今はそんなことを言っている場合ではないだろう」

「ッ!」

 

 笹塚に向かって牙を剝いていた笛吹を諫めるように、背後から目つきの鋭い屈強な男――烏間惟臣が彼の肩を掴んだ。

 

 思わず振り返って、小柄な自分よりも遥かに背が高い、筑紫のように己を見下ろす形となる烏間を睨むが、烏間は表情を変えずに笛吹に向かって淡々と告げる。

 

「そもそも黒スーツの男達についての情報を得たのは、池袋大虐殺が起こる直前のことだった。池袋で事件を起こすという情報を得ていたのならともかく、黒いスーツの集団が怪しいといった程度の情報を得ていたに過ぎない状況で、今回の事件を防ぐのは難しかっただろう」

 

 笛吹は尚もまだ何か言いたげに眉を顰めるが、己の肩を掴む烏間の手に力が込められるのを感じて、口を閉じる。

 

「今は、責任の在り処を追求する時ではない。これから先、どのように動くかだ」

「……分かっているッ! この手を離せ! その為の会議だ! 筑紫、進めろ!」

 

 笛吹は烏間の手を払い退けながら、ドカッと肘掛け付きの椅子に座る。その際にちょっと肩を触れた。相当に痛かったらしい。

 烏間はチラッと笹塚を見たが、笹塚は無表情のまま、そっと片手を挙げた。

 

「……それでは、続けたいと思います」

 

 筑紫はそんな三人を見た後、再び手元の端末を操作する。

 

 続いて映し出されたのは動画ではなく、静止画――つまり画像だった。

 

「――これらは、池袋大虐殺後に回収された携帯端末に保存されていた、恐らくは現場にいたであろう被害者達が撮影した画像です」

「今まさに殺されかかっているという状況でもカメラを起動するか。現代人の悍ましい業だな。警察(われわれ)にとってはありがたい市民の協力というわけだが」

 

 笛吹は険しい表情のまま言う。笹塚と烏間は何も言わず、ただ画像に目を向けていた。

 

「――池袋東口にて文字通りの号砲を放った黒スーツの集団は、そのまま一部が禍々しい姿の怪物へと変貌し、主要な道路を封鎖しました。封鎖と言いましても、あくまで人間大の怪物が立ち塞がったというだけなので、逃げられた者達もいたでしょうが……大多数の人達は、池袋駅周辺エリアに監禁されたことになります」

「…………怪物、か」

 

 笛吹は、人間が怪物へと変貌する様を写した画像、そしてその怪物が人間を襲う様子を写した画像を見ながら、呟く。

 

「――テレビカメラからは東口での凄惨な殺害映像のみが流れ続けていましたが、虐殺範囲は怪物によって封鎖された池袋駅周辺のかなり広いエリアに拡大していったと思われます。主犯格とされるこのサングラスの男も、早々に東口から姿を消していました。黒いスーツの集団はこの段階で、東口に残ってテレビカメラに向かって見せつけるように虐殺をする者達と、逃げ去っていった人達を追い掛けていった者達に別れます。被害者達は、道路だけでなく電車や地下鉄といった交通機関を頼ろうとしましたが、そこにも既に黒いスーツの集団……いえ、怪物集団が先回りしていたようです」

「……大体、この時点で俺達に連絡が入ったわけだ」

 

 筑紫の説明が途切れた所で、笹塚が呟くように言う。

 それに合わせて、烏間が顎に手をやりながら考え込むように言った。

 

「確か、サンライト通りに警官隊を派遣するから、そこに合流してくれと言った要求だったな。……疑問なのだが、どうして他のポイントからは、警官隊を派遣しなかった? 当然、怪物達の包囲網を、更に外側から包囲していたのだろうが、結局そこから中への侵入を試みた部隊はいなかったのだろう」

「……正体不明のテロリスト集団だったからな。東口での虐殺映像を見る限り、敵はかなりの人数の人質を抱えていた。その上で、奴等は謎の怪物へと変貌を遂げた。……当時、本庁は混乱の渦だった。正直な所、正確な事態を把握するまで動きたくなかったというのが、組織としての本音だろう。だが、現在進行形で人が殺され続けている中、何も動かないというわけにはいかない。……よって、先遣隊という名目で彼らのみが捨て駒のように派遣された。その結果が、あの様だ!」

 

 目的も正体も不明の、悍ましい怪物へと変態するテロリスト集団。

 一切の要求もなく、ただ人々を見せつけるように虐殺する彼等に対し、日本警察が採った対抗策は、策とも言えぬ実にお粗末なものだった。

 

 人が殺されているというのに何もしないわけにはいかないからとりあえずと言った、まるで言い訳のように派遣された警官隊。

 並行して、怪物を包囲するというよりは、これ以上一般市民を池袋に入れない為に敷かれた包囲網の配置。

 

 その間に、大会議室では凄まじい怒号が飛び交う会議を行っていたらしい。

 下手に犯人を刺激するわけにはいかない――人質の安全が第一だ――その人質がこうしている今も殺され続けて――自衛隊との協力は――犯人の要求はないのか――あの黒いスーツの集団の情報は――等々。

 纏める者もおらず、ただ焦燥に突き動かされて開かれた大会議室での会議は混迷を極めていき、次第に、お決まりに、責任の在り処を追求する押し付け合いへと変わっていった。

 

 ブチ切れた笛吹が机に両手を叩き着けマイクを握った所で――警官隊の敗北と。

 

 

 謎の戦士の出現が報告された。

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 笛吹は、険しい表情を隠そうともせず、まるで睨み付けるように映し出された画像を見る。

 

 提示されたのは、とある五名の、近未来的な光沢のある漆黒の全身スーツを身に纏う少年少女達。

 

 一際大きく表示されたのは、鬣のように逆立つ金髪に、巨躯なる身体、傷のある眉の男。

 その横に水色髪の中性的な少年。怯えながら笹塚の後ろに隠れる小柄な少女。

 斜め下に、片腕を失った黒髪の剣士と、彼を支える豊満な体つきの絶世の美女。

 

「――以上が、我々が記録として確認出来た、謎の黒衣の戦士達です。内三名が、笹塚さんと烏間さんがコンタクトに成功した者達。そして残る二名が、東口の映像に姿を現した戦士です。中でも、この黒髪の剣士は、現在インターネット上では英雄と呼ばれています」

「…………英雄、か」

 

 笛吹は吐き捨てるように言う。

 そして、忌々しげにこう告げた。

 

「……この黒衣の存在が報告された後だ。会議は、ほぼ強制的に終了となった」

「……どういうことだ?」

「決まっている! 上層部の圧力だ! 犯人を刺激し過ぎないよう、現場警察官達は池袋周囲の隔離に努めろ、そして、その黒衣に関しては手出し無用だとのことだ!」

 

 笛吹は怒声を上げながら立ち上がる。

 そして、黒衣の少年少女達の画像を指さしながら、忌々しげにこう吠えた。

 

「上層部は! ――この場合の上層部とは、警察関係だけを意味しない! 間違いなく、()()()の上層部は! この正体不明の黒衣達について、何を知っている! 以前から何かを知っていた! 恐らくは黒衣の存在だけでなく、あの怪物達についてもだ!」

 

 笛吹が感情を剥き出しにして吠えた後、こちらはまるで感情を失っているかのような淡々とした口調で笹塚は言う。

 

「……あの女の子の黒衣が言うには、彼等は宇宙人と戦争をしていると言っていた。黒い球体が指示を出し、瞬時に何処かへと転送させて、戦場へ放り込むのだと」

「ふざけた話だ! SF映画の主人公にでもなったつもりなのか!」

「だが、まるで映画のような怪物が出現したのも、そして、彼等がまるで主人公のように、その怪物達を打倒したのも、また事実だ」

 

 笹塚の言葉を笛吹は嘲笑うかのように吐き捨てるが、烏間は冷静にこう告げる。

 

「彼等は、身体機能を大幅に上昇させる特殊なスーツを揃って身に付けていた。その他にも銃や爆弾など、我々警察や自衛隊すら装備していないような、現代科学では到底不可能であろう、正しくSF映画のようなオーバーテクノロジーの武器達もな」

「……そうだな。彼等が未来からやってきたと言われても、却って納得してしまいそうだ。なにせ、東条と呼ばれていたあの大柄な彼は、空から降り注いできた電子線によって召喚されたかのように現れたんだから」

「くそッ! どいつもこいつも! 我々を馬鹿にしているのかッ!」

 

 笛吹は再び、荒々しく席に着く。

 この怒りを笹塚にぶつけないのは、それが笹塚の言葉だけでなく、池袋駅東口での最終決戦の映像に、しっかりと記録として残っているからだろう。

 

 謎の黒衣達は、光と共に現れ、そして光と共に、忽然と池袋から姿を消したのだ。

 

「……彼等の正体は、まるで皆目見当もつかない。あの少女が言っていたことが本当のことかも分からない。だが確かなのは、彼等がいなければもっと被害は甚大だったということだ。彼等がいなければ、あの地獄の夜が、一夜で終わることはなかっただろう」

 

 烏間は言う。

 その言葉に、笹塚も、筑紫も、そして笛吹すらも何も言わなかった。

 

「……通常――という言葉が当て嵌まるのか、この場合は分からないが、あの怪物集団の中には数体、通常の個体には見られない特殊な能力を持つ、別格の戦闘力を持つ個体が存在した。恐らく、あのテロリスト集団の幹部だったのだろう」

「……俺等があの現場に着いた時に化物へと姿を変えた毒蛇のような個体はともかく、あの炎を使う化物と、岩に変化する化物、あの二体は間違いなくそうだった。……確かに、アレ等を逃がしていたら、間違いなく今も戦争の真っ最中だろうな」

「……我々警察や、自衛隊だけでは抑えきれなかったというつもりか?」

 

 笛吹が睨み付けるように笹塚に言うと、笹塚は気だるげながらも笛吹の目をはっきりと見据えて言う。

 

「そうは言わない。が、少なくとも今日明日の解決はキツイ。奴等には、ちゃんとした知能があった。人間並みのな。そして姿も人間に化けられる。……奴等を討伐するには、それこそ綿密な作戦と、それ相応の纏まった戦力の用意が必要だと、俺は思う。そして、それを用意する頃には――奴等は幾つもの街を滅ぼしている」

「……そうだな。情けない話だが、彼等がもし負けていたら、奴等は我々が用意した包囲網など容易く突破し、より多くの化物が、再び一般人の雑踏の中に紛れ込んでいただろう」

「――随分と、奴等の肩を持つじゃないか、笹塚、烏間。それにその言い方だと、まるで昨日の怪物達の何体かは、今も何処かに紛れ込んでいるかもしれないと言った風にも聞こえるぞ」

 

 笛吹の目を細めた表情から放たれた言葉に、烏間も、笹塚も口を噤む。

 だが、それは一瞬のことで、笹塚は再び静かに言葉を続けた。

 

「……そうだ。昨日の化物達は――奴等は自分達のことを吸血鬼と呼んでいたが――吸血鬼は、根絶してはいない。少なくとも、俺は奴等以外の他の吸血鬼と会っている」

「貴様が昨夜、真っ先に指名手配を要求した、フードに眼鏡の男か」

「……ああ。その他に、悪魔のような山羊の被り物をした……怪物がいた。そいつは、幹部クラスであろう岩の吸血鬼を圧倒した東条君を、全く寄せ付けずに圧勝していたよ」

 

 つまり、少なくとも昨夜のテロを引き起こした怪物よりも、遥かに強い怪物が二体、今も何処かで息を潜めているということ。

 

「――そして、そんな奴等を貴様はのこのこと逃がしたわけだ。それも、当時は意識が朦朧としていて、その者達と合流してきた他の数名の何者かの存在については、顔も覚えていないときている。……これだけでも警察手帳を辞表と共に差し出すことを要求されても何も言えんレベルの失態だな」

「……そうだな。そうしろと言われたら、そうするよ」

 

 筑紫が「しかし、その場にいた他の警察官達は皆、恐らくはその者達が放ったと思われる術のような何かで気絶させられています。ただ一人、意識を保ち、その中の二名の人相をも把握した笹塚さんは、むしろ――」と笹塚をフォローしようとするが、「黙っていろ、筑紫」と笛吹が一喝する。

 

「――笹塚(コイツ)が、市民の安全を著しく脅かしかねない怪物を野に放ったのは、紛れもない事実だ」

「…………」

 

 そう言い切られ、筑紫も、笹塚も何も言えずに口を閉じる。

 笛吹は「まぁ、警察の包囲網を()()()無傷で突破した時点で、今すぐに何かをどうこうするといった思惑は、向こうにもないようだが」と言い、今度は烏間の方を睨み付ける。

 

「それに、怪物を取り逃がしたといったことに関しては、お前も同罪だな、烏間」

「……ああ」

 

 笛吹は烏間を睨み付けたまま、筑紫から端末を奪い、二枚の画像を表示する。

 

「世界最悪(さいこう)の殺し屋――通称『死神』。そして前科1000犯を超えるギネス級の犯罪者――葛西善二郎」

 

 一枚は、とある空港での隠し撮り写真で、全世界で唯一存在し、全世界の警察機関が共有している、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()が見切れている写真。

 もう一枚は、全国各地の大小問わず全ての警察機関に張り出されている、葛西善二郎の指名手配写真。

 

「――この二人が、昨夜の池袋に姿を現した。そして、この二人を前にして、あろうことか両者とも取り逃がした。これは事実だな?」

「……ああ。俺はこの二人と会話までした。だが、何も出来ずに取り逃がしてしまった」

 

――火火火。始まったな……。

 

――……答えるつもりはないと、そう言ったらどうします?

 

 あの夜、確かに二名の伝説の犯罪者は、地獄と化した池袋に存在したのだ。

 

「奴等の目的は?」

「……分からない。奴等が吸血鬼達と協力関係にあったのか、それとも別の目的があったのか、それともたまたま居合わせただけなのか……俺は何も掴むことが出来なかった」

「――ッ!! 全くッ! どいつもこいつもッ! これでは只の敗北者の集まりではないか!」

「っ! 先ぱ――」

 

 筑紫は、あまりの笛吹の言い草に思わず口を挟もうとして――バンッと、机を全力で叩く音と、続く叫びに身体を止める。

 

「――私も含めてだッッ!!!」

 

 笹塚、烏間、筑紫が、震える笛吹の背中を見遣る。

 笛吹は、既に何度も至る所に八つ当たりでぶつけた拳と、心を、赤く腫れ上がらせながら、血を吐くように言った。

 

「……昨日、私は魚人の怪物を早々に片付け、貴様らに預けた池袋へと一刻も早く向かうつもりだった」

 

 謎の黒衣の出現と共に強制閉鎖された対策会議。

 だが、当然ながらあのような言い分で誰も納得できる筈もなく、会議の閉鎖を告げに現れた上層部の連中に一斉に詰め寄っていた頃から――間もなく。

 

 とある港から、謎の巨大生物が上陸したとの知らせが届いた。

 

 これ幸いとばかりに、上層部はこの未確認生物の討伐を命じる。

 そして、それを最もらしく、池袋へ救援を送れない理由へとすり替えた。

 

 だが、笛吹はそれを好機と取った。

 上層部(やつら)は、曲がりなりにもそれを池袋へ救援を送れない理由へと位置付けた。ならば、魚人を討伐後、今度はこちらがそれを理由に、その部隊をそのまま池袋へと送ればいい。

 

 当然、上層部は何かと再び理由を付けてそれを阻止しようとするだろうが、その時には既に()()()()()()()()()()。理由はいくらでも後でこじつけられる。どう考えても、一般的に見れば正しいのはこちらなのだから。

 

 どれほど巨大な権力(ちから)が動いていようが、警察官として、あのような惨劇を黙って見ていることなど出来るわけがない。

 奴等の企みを打ち砕き、そして夜が明けたら必ず白日の下に晒す。

 

 己の心にそう決意を刻み、笛吹は巨大未確認生物討伐部隊指揮官として名乗りを上げた。

 

 

 そして――戦争開始から、およそ一時間後。

 

 

 人間は、怪物に勝利した。

 

 

 

 筈――だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 時は遡り、昨日――深夜。

 

 場所は、池袋から遠く離れた、とある港町。

 

 そこでは、もう一つの――怪物と人間の戦争が、今まさに終結しようとしていた。

 

 

 

 

 

 全長二十メートルは下らない、魚頭人体の怪物。

 

 銃弾も効かず、戦車すらも薙ぎ倒すこの怪物を、人間達は僅か一時間で討伐した。

 

「――よし! そこまでだ! 攻撃終了!」

 

 地に倒れ伏せ、身体に何本もの鋼鉄のロープを巻き付けたまま、絶命しているように見える魚人。

 両眼は真っ先に潰され、銃弾を弾き返した鱗には巨大な銛のようなものが何本も突き刺さっている――それはまるで、漁師に獲られた魚のように。

 

 紛れもなく、人間の勝利だった。

 正体不明の怪物を、人間の力で打倒した光景だった。

 

 だが、人間達の被害も、また甚大だった。

 

「………………」

 

 先遣隊として派遣された警官隊、援軍として駆け付けた自衛隊――双方ともに大勢の死傷者を出した。

 

 笛吹直大は小高い場所から、辺り一面に広がる、負傷し疲労した戦士達の姿を見て、拳を握り締めて歯噛みする。

 

 これほどの怪物を、たったの一時間で討伐した偉業には、この笛吹の力も大いに貢献している。

 見たこともない異形の怪物を前にし、少なからず混乱していた部隊を一喝し、警察と軍隊という異なる色の組織力を完璧に纏め上げ、魚人の戦闘を観察し、有効な作戦を次々と提示した。

 

 無論、彼一人の力で勝利したわけではない。だが、少なくとも、この戦いを短期決戦とするべく、戦局を誘導したのは笛吹だった。

 

 その結果が、この偉業と――この惨状。

 

 陸地に打ち上げられた魚のような怪物の死体の前に、砂浜のように広がる、負傷者、死傷者達の群れ。

 

(………もっと、危険性(リスク)よりも安全性を優先すれば……これを半分に減らせたのだろうか)

 

 それは、あくまで結果論だろう。

 時間を掛けて追い込めば、それだけ死傷者が増えたかもしれない。この怪物を市街地へと侵入させ、もっと被害を増やしたかもしれない。

 

 だが、笛吹が安全性を犠牲にして、危険性が大きくとも、戦士達に特攻を命じたのも、また事実だった。

 

「………先輩」

「――何をしている、筑紫。早く、あの怪物の絶命を確認するように通達しろ」

 

 立ち尽くす笛吹の背中に気遣うような筑紫の声が届くが、笛吹は振り返ることなく筑紫に命ずる。

 筑紫は「……はい」と答えると、そのまま指揮車の中へと戻っていった。

 

「……………」

 

 笛吹は、目の前の地獄絵図を、目に焼き付ける。

 

 笛吹直大は、エリート街道を足並み止めることなく突き進み、瞬く間に()()使()()ポジションを手に入れた。

 だが、当然ながらそれは捜査を指揮するといった仕事で、今回のように軍隊を指揮し、命を奪う指示を下すのも――死ねと命ずるのも、初めての経験だった。

 

「――――ッ」

 

 心が軋む。

 後悔はしていない。だが、懺悔の気持ちが、無いといえば嘘になる。

 

 自分の指示に納得しなかった者もいるだろう。門外漢の警察官が指揮するということに不満を持った者も、不安を抱えながら戦い――散った者も、いるだろう。

 

 それでも笛吹は、胸を掻き抱きながらも――痛みと共に、決意を固める。

 

 疲労し、傷つき倒れている者達に。勝利に安堵し、涙を流して生還を喜ぶ者達に。

 

 再び立ち上がり、銃を持ち――新たな戦場へ向かってくれ、と。

 もう一度、地獄で戦い――死んでくれ、と、命じることを。

 

 向かわなければならない。一刻も早く――新たな戦場へ、未だ怪物がのさばる、池袋へ。

 

「…………」

 

 そう決意し、己も指揮車に戻ろうとした――その時。

 

「な、なんだアレは!?」

 

 笛吹の眼下――怪物の死体の周囲から、そんな叫びが聞こえる。

 

「ッ、何だ――!?」

 

 直ぐに笛吹は振り返り、丘から戦場を見下ろすと――魚人の死体の上に、無数の蝙蝠が集結していた。

 まるで死肉を貪りにきたかのような不気味な光景だったが、やがて蝙蝠はバラバラに散り出し――その場所から、謎の二人組が姿を現した。

 

 着流しの和服姿の漆黒の青年と、豪奢なドレスを見に纏う紅蓮の幼女。

 

「おやおや。まさかこんなに早く邪鬼を倒すなんてねぇ~。人間も捨てたもんじゃないなぁ」

「……いいからさっさと済ませろよ。幾ら人間から隠れるのをやめたからって、目立つのは好きじゃねぇんだ」

 

 まったくレディをあんまりせかすもんじゃないぜ――と言いながら、幼女は青年の肩から降りる。

 

 その時、近くにいた自衛隊が、銃を向けながら警告を発した。

 

「お、お前達は何者だ! 今すぐそこから――」

 

 だが、次の瞬間、キンッ、という甲高い音と共に――その銃身だけが、ぽろっと地面に落下する。

 

「な――」

 

 人間が絶句する中、腰に下げた白鞘に、そこに収められている黒刀の鍔に手を添えながら、漆黒の青年は言う。

 

「――悪いな。レディの食事中だ」

 

 その言葉と共に――静かに青年は覇気を放つ。

 

「ッ!?」

 

 まるで波が伝播するように、一人、また一人と、バタバタと怪物を打倒した英雄達が倒れ伏せていく。

 

「な、なんだこれは――ッ!?」

 

 摩訶不思議な現象に、歴戦の人間達は銃を構え、通信機器に手を掛けようとするが、それを行動に移す前に、まるで妖術のような何かに頭を揺さぶられ、心を掻き乱されて倒れ伏せていく。

 

 それは、己よりも圧倒的に上位の生物に睨まれたことによる、根源的な、純粋な――恐怖。

 

 たった一体の怪物に対する勝利など何の慰めにもならない――屈辱的なまでの、蹂躙だった。

 

「……さっさと済ませろ、リオン。直に夜が明ける。そしたら燃えるぞ、お前」

「だから急かさないでくれよ、狂死郎。今日だけでどれだけ食べてると思ってるんだ。僕はグルメではあるけど大食いキャラではないんだぜ」

 

 まったく狂四郎はもうまったく――と言いながら、むしゃむしゃと四つん這いで魚人を食らう幼女。

 だが、本人の言う通り、そのペースは決して早いとは言えず、結構時間がかかりそうだなと、狂死郎は欠伸をした――その時。

 

 キンッ、という甲高い音が聞こえた。

 

 その音に、口を真っ赤にしたリオンが「ん?」と顔を向ける。

 

「どうしたんだい? 狂死郎」

「…………いや」

 

 狂死郎はリオンの方に目を向けず、ただとある一点を見つめて――口元を緩める。

 

「…………何でもない。口よりも……やっぱり口を動かせ。ただし会話じゃなくて、食事方面で」

「むう。今日の狂死郎は冷たいぜ。明日からダイエットに付き合ってもらうからね」

 

 バクバクと素直に食事に戻った幼女に目を向けず、青年は立ち上がり、嬉しそうに笑う。

 

「――確かに、まだまだどうして、捨てたもんじゃないな。……人間は」

 

 

 

 

 

 薄れゆく意識の中、必死に柵にしがみ付いていた笛吹は、ただその姿を目に焼き付けようとした。

 

「……はぁ……はぁ…………クソ…………クソォッ!」

 

 震える手は、遂にその拳銃を落とす。

 

 それは、笛吹の最後の意地だった。人間の、只の哀れな悪足掻きだった。

 

 こんな小さな拳銃では、到底あの二人組には届かないだろう。

 それでも笛吹は、ただ現実を認められなくて、この警察官の証である拳銃で奴等を狙った。

 

 結果、その拳銃は奴等に届くよりも遥か前で、見えない何かで弾き返された――届く筈もない銃弾が。

 それが意味するのは、奴等にはこちらが見えているということ。そして、例え届く距離から放っても、容易く弾き返されるだけということ。

 

「くそ……おのれ……化物め……ッ」

 

 笛吹は拳を握り締め、唇を噛み締めて、必死に昏睡を防ごうとする――が、心を揺さぶるこの恐怖が、そんな人間のささやかな意地すらも嘲笑う。

 

 ただこうして笛吹だけが、気絶を僅かながらも耐えていられるのも、単なる物理的距離が要因だろう。奴は波状的に広がる何かを放った。故に、離れた位置にいる笛吹は数秒だけでも耐えられたのだ。

 

 だが、奴にとっては挨拶代わりに放ったのであろうこの覇気だけで――奴等が人間ではない何かなのだという証明には十分だった。

 魚人を食らっているように見えたことから、あの怪物とは別の何かなのか――そんなことを思考することすら、笛吹の薄れゆく意識では許されない。

 

 ただ、この残された僅かな時間に、笛吹はこの屈辱を目一杯に刻み込む。

 

「……お前等の……好き勝手にさせると思うなよ……ッ」

 

 人間の、その執念の言葉が聞こえたかのように、化物の青年は、静かに口元を緩ませた。

 

 そして――笛吹直大は倒れ伏せ、この戦場にいる全ての人間達が、たった二体の化物に屈服するかのように地に伏せた。

 

 しばらくの間、全てが終わった戦場では、幼女の咀嚼音だけが響き続け。

 

 夜が明け、太陽が昇り始める頃――人間達は目を覚ました。

 

 そこには魚人の肉片一つ残っておらず、青年と幼女の影の形すらも残っていなかった。

 




無力な人間は、怪物の恐怖をその身に刻み、屈辱を噛み締めリベンジを誓う。


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Side警察――②

これが――敗北ではなく、なんだというのだッッ!!


 

 昨夜の、池袋から離れた地で行われていた、もう一つの人間と怪物の戦争。

 

 その顛末を語り終えた笛吹は、もう一度、震える拳を、机の上に叩きつける。

 ダァン! という音が会議室に響き、その拳が己を痛めつけているかのように表情を歪ませ、怪物を打倒し勝利した人間は、化物に手も足も出ずに敗北した人間は――誇り高き日本の警察官は、血を吐くように呻く。

 

「――屈辱だ……ッ」

 

 震える男の小さな背中を、笹塚衛士は、烏間惟臣は、何も言わずに無表情で見詰める。

 燃えるような憤怒に染められる男の醜い顔から、筑紫公平は、一度口を開きながらも、俯くように閉口し目を逸らした。

 

 そして、再び、口を開いたのは、笛吹直大だった。

 

「……私は……警察は……人間は。昨夜――怪物に……化物に……負けたのだ……っ」

 

 だらりと、何度も怒りをぶつけて赤くなった手を垂らし、小さな男は、小さく呟く。

 

「昨夜……池袋では、街を赤く染め上げるような夥しい程の血が流れ、未だ正確な人数が把握できない程に無数の罪なき一般人が死んだ。そして、私の指示で、見上げる程の巨大な未確認生物に立ち向かった勇敢な者達が、虫けらのように命を散らした。……にも関わらず――今もなお、確認できるだけでも四体の怪物が! 化物が! のうのうと人間(われわれ)のふりをして! 化けの皮を被り直して生きている! 何の罰も受けずにだッッ!!」

 

 笛吹は、再び声を張り上げ、真っ赤な手を、再び痛めつけるかのように、大きく振り上げ、叫ぶ。

 

「これが――敗北ではなく、なんだというのだッッ!!」

 

 そして、その振り上げた手を――笹塚衛士が、無言で止めた。

 

「…………なら、これからどうする?」

 

 笛吹は、笹塚の行動に目を見開いたが、すぐに荒々しく振り払うと「――決まっているッ!」と吐き捨て、笹塚を、烏間を、筑紫を見据え――宣言した。

 

「捕まえるのだ。一刻も早く逮捕し、然るべき罰を受けさせる。それが、あのような脅威を取り逃がし、野に放ってしまった我々の贖罪であり……この国に住まう全ての一般人を守る――」

 

 小さな男は、その赤い小さな拳を、赤く、赤く、燃え上がらせるように――強く握る。

 

「――我々、警察の仕事だ」

 

 その言葉に、笹塚は、烏間は、無言で、無表情で答える。

 筑紫は、そんな男達を遠巻きで眺め、小さく笑みを浮かべた。

 

「――笹塚」

 

 笛吹は笹塚の名を呼ぶと、笹塚が口を開く前に、目の前の机にダンっと手を着いた。

 笹塚がその手を見下ろすと――小さく、瞠目する。

 

 そこには――笛吹直大の警察手帳があった。

 

「……貴様は言ったな。化物を野に放ったが故に、私が警察手帳を差し出せと言ったら差し出すと。……これが、私の答えだ」

 

 笛吹直大は、目の前の同い年の後輩に向かって、旧知の同僚に向かって、忌々しい部下に向かって言う。

 

「貴様の失態は、貴様自身で取り返せ。私も、どんな手段を取ろうとも――誰と、何と戦うことになろうとも、必ずこの屈辱を晴らしてみせる。これが、私の答えだ。これが、私の覚悟だ」

「……そうか。なら、俺もそうしよう」

 

 笹塚は、まるで煙草を取り出すかのような気安さで懐に手を伸ばし、そしてそのまま、取り出したものを机の上に置く。言わずもがな、それは笹塚衛士の警察手帳だった。

 

「……付き合うよ。個人的に、調べたいことも出来たしな」

「相変わらず気に食わん答え方しか出来ん奴だ。――やるからには、私の指揮下で動いてもらうぞ」

「了解」

 

 続いて笛吹は、筑紫に、そして烏間に目を向ける。

 

 筑紫の答えは決まっていた。

 

「当然、私も付いていきます。お二人になら、この命だって預けられる」

 

 そういって筑紫は、警察手帳を差し出しながら、笑顔で言う。

 

「……私は警察手帳を持っていないが、このままここで降りるわけにはいかないだろうな。覚悟を決めよう。これは国の一大事だ。それに――」

 

 烏間の脳裏に、昨夜の燃えるビルディングの中での光景が過ぎる。

 

 すらりとした体躯。まるで意図的に揃えたかのように真っ黒な衣装。そして、無機質なガスマスク。

 

「――奴を逮捕するのが、今の俺の任務だからな」

 

 烏間の鋭い視線を受けて、笛吹は注目を集めるように、会議室の前方のスペース――映像が照射される壁の前に立ち、「では――纏めるぞ」と言いながら、再び会議を再開させる。

 

「――奴等は、自らを吸血鬼と名乗った怪物だ。人間の姿の時は好んで黒いビジネススーツのような衣装を身に纏い、恐らくは集団で行動している。そして、化物のような醜悪な姿に変貌し――人間を襲う」

 

 奴等は、夜の池袋に突如として現れ、虐殺の限りを尽くし――人間の輝きに満ちた繁華街を、世にも無残な地獄へと変えた。

 

「……そして、そんな地獄に、謎の黒衣の戦士達が現れた」

 

 筑紫公平は言った。

 

 流血と悲鳴と死体と絶望で満ち溢れた池袋に、天から降り注いだ光と共に現れた、機械的な漆黒のスーツの人間達。

 

 そして、池袋は、怪物と黒衣の戦場と化した。

 

「……怪物と、黒衣。そこに、放火魔と、死神が加わり……しまいには、新たな化物まで現れた」

 

 笹塚衛士は言った。

 

 吸血鬼と名乗るオニ達に、近代的な未来兵器を携え立ち向かう黒衣の少年少女達。

 

 そんな戦場に、伝説の犯罪者と、世界最悪の殺し屋まで現れ――そして。

 

 戦争のクライマックスに、新たな巨大な化物が、突如として空から現れた。

 

「現在、確認されている巨大怪物は、『翼竜』と『牛人』、そして『魚人』の三種。うち『魚人』は笛吹君らが死亡を確認し、『牛人』は【英雄】によって打倒された映像が残っている。『翼竜』は池袋のとあるビルに激突した映像は残っているが……それ以上は記録としては残されていなかった」

「警官隊が現地のポイントに向かった結果、そのビルの前の通りに夥しい量の血痕が残っていましたが……死体は確認できませんでした」

「恐らくは、例の『紅蓮』が食ったのだろう。証拠隠滅のつもりか……わざわざ、遠く離れた地にまで瞬間移動し、『魚人』を食いに来た程だからな」

 

 烏間惟臣の言葉に、筑紫と笛吹は言う。

 

 吸血鬼による虐殺が行われていた戦場に、突如として飛来してきた別格の化物達。

 人の言葉を解さず、ただ怪物のように縦横無尽に暴れ狂う――『牛人』、『翼竜』、『魚人』。

 

 この三体の化物は、果たして吸血鬼の仲間だったのか。それとも別の――別種の、何かだったのか。

 

「真相は不明です。笹塚さんは、怪物の――吸血鬼の幹部達が、この化物達の登場を予期していたかのような呟きを漏らしたのを聞いていたそうですが、東口での映像では『牛人』が無数の一般吸血鬼達を蹂躙している様子を残しています」

「その映像にも、この力がやがて『黒金』の力になると、吸血鬼が叫んでいる様子が残されている。その『黒金』とやらは奴らのリーダー格だったようだが、生存は不明だ。『牛人』、『翼竜』、『魚人』も恐らくは死亡している。問題は――生き残った化物達だ」

 

 笛吹は筑紫の言葉を補足し、そして再び眦を鋭くして言う。

 

 笹塚は、そんな笛吹に言った。

 

「……俺は、岩の吸血鬼と炎の吸血鬼、そして『渚』と呼ばれていた少年と『東条』と呼ばれていた少年が戦っていた、サンライト通りにいた。……結果として、二人の少年が吸血鬼達を打倒したが……その直後、通りに面したアミューズメント施設が燃え上がり、そこに『渚』少年が飛び込んでいった。そして、入れ違うように――そいつらは現れた」

 

 それは、堂々と、道の真ん中をゆっくり歩いてやってきた。

 まるで道を譲るように、茫然と立ち塞がっていた人間達が、意識を失いバタバタと倒れ伏せていったからだ。

 

 笹塚は、奴らが現れた瞬間から、突如として昨夜の、一生忘れることも出来ないであろう地獄の記憶が曖昧模糊になっている。

 

 だが、その二人の怪物と、奴らが言った言葉だけは、決して忘れまいと脳裏に刻み込んでいた。

 

「フードにロイドメガネとマスク。背丈はほぼ俺と同じくらいの、見た目はまるで人間のような姿の――丸太を担いでいた『篤』と呼ばれていた男。そして、2mを遥かに超える身長に、悪魔のような山羊の頭を被った、人間とは思えない体格の――『斧』と呼ばれていた、巨大な鉄球を引きずる怪物」

 

 岩の吸血鬼――『岩倉』と、炎の吸血鬼――『火口』。

 恐らくは幹部クラスであろう、二体の怪物を打倒した二人の少年――黒衣の戦士達。

 

 中でも笹塚が目を奪われるほどの強者であった『東条』を、赤子の手を捻るように圧倒した、別格の怪物。

 

 それが――『篤』、そして『斧』。

 

「……そいつらが、自分達を吸血鬼だと、化物だと、そう言っていたのだったな。自分達は、人間の敵なのだと」

「……ああ。『渚』くん達は、奴等を【オニ星人】と、そう呼んでいた」

 

 吸血鬼。化物。人間の、敵。

 あの人間のようにしか見えない姿形の、けれど怪物だとしか言えない強さの男は、自分達のことをそう嘯いた。

 

 そして、こうも、言い残した。

 

――俺達は、人間(あなたたち)の敵じゃない。……敵でありたくないと……いつも、そう願いながら……生きてます。

 

「…………………」

 

 笹塚は、朧げな記憶の映像を脳裏に蘇らせながら、何も言わずに笛吹に目を向けた。

 

「………そして、『東条』くんが『篤』と戦っている時に、通りの向こう側に何かがやってきた。姿形は曖昧だが、蝙蝠が無数に飛来してきたことは覚えている。……状況から察するに――」

「――ああ。恐らくは『紅蓮』と『浪人』だろうな」

 

 紅蓮の髪を持つ幼女と、その幼女に付き従う墨色の髪の浪人。

 笛吹も目撃したこの二体の正体不明を、笛吹はそう名付けて呼称した。

 

「つまり、やはりその者達もまた、吸血鬼の関係者だということだ。奴らもまた吸血鬼なのか、それとも協力者なのか、はたまた敵対者なのかまでは分からんがな」

「分かっているのは『紅蓮』が怪物を捕食する性質を持っていること、そして蝙蝠を使って離れた地まで瞬間的に移動できるということですね。笛吹さんが目撃した時間と、笹塚さんが目撃した時間を考えると、そう考えなければ辻褄が合いません」

 

 笹塚ははっきりと覚えているわけではない為、同じ性質を持つ別個体という可能性もあるが、笹塚も『浪人』はともかく『紅蓮』のような紅い髪の存在がいたことは覚えている。恐らくは同じ存在である可能性が高いだろう。だが――。

 

「――すまない。『東条』くんが『斧』と戦い始めた後、『篤』と『紅蓮』、そして他に……恐らくは二体、別の『何か』が合流したことは覚えているのだが……その姿形までは、思い出すことが出来ない」

 

 未だかつて感じたことのない圧倒的な覇気の中、意識が沈み込んでしまいそうな中を必死で堪え、『東条』を痛めつける『斧』に向かって銃口を向け続けていた笹塚衛士。

 そんな中で、その両者を挟んで向かい側に、続々と集結し続ける、恐らくは首領クラスの化物会談の様子まで、事細かに観察し続けるだけの余裕は、残念ながらあの時の笹塚にはなかった。

 

 だが、それでも、敵の容姿程度は把握しなくてはならない最低限の情報だった。

 無表情で悔恨する笹塚に、笛吹は「もういい。奴らを何の首輪も付けることなく取り逃がした時点で、我々はとっくに最低レベルの失態を犯しているのだ」と吐き捨て、笹塚に言う。

 

「烏間が言っただろう。これからどうすると。既にこれはその為の会議なのだ。そして、何の生産性もない無駄な謝罪は、するべきことではない。そんなことも分からんのか」

「……そうだな。もう言わない。進めてくれ」

 

 先程まで散々八つ当たりをしていたことを棚に上げて上から目線で諭す笛吹と、何も言わずにただ受け入れる笹塚。

 そんな二人のやり取りを、どこか微笑ましげに筑紫が見守る中、烏間がゆっくりとその口を開く。

 

「……それでは、俺も謝罪をすることなく、報告に移らせてもらう。現在確認できる明確な化物の生き残りは、『篤』、『斧』、『紅蓮』、『浪人』の四体でいいだろう。そこに笹塚君が目撃した『何か』が二体。……他にも、警察の包囲網を()()()姿()ですり抜けた吸血鬼達もいるかもしれんが……あの戦場で、我々が――俺が、取り逃がした他の怪物で、絶対に忘れてはいけないのが、この二人だ」

 

 烏間が示したのは、葛西善二郎、そして『死神』の画像。

 怪物と黒衣の戦場に突如として現れ、地獄を掻き回し、そして忽然と姿を消した伝説の犯罪者達。

 

「……コイツ等に至っては目的すら不明だな。いや、吸血鬼達の目的も不明といえば不明だが、奴等からは人間への殺意といったものは嫌という程に伝わってきた……が、この二人は殺意すら不明だ。それこそ、地獄を掻き回す愉快犯といった方が、よほど納得できる」

「……確かにな。葛西も、『死神』も、俺は相対したとはいえ、接触出来た時間はほんの僅かだった。だが、あのアミューズメント施設の放火は、間違いなく葛西が関わっている」

「ええ。残された記録映像から確認されるあの燃え方は葛西善二郎の手口と余りに類似しています」

「奴自身は、あれは甥のはじめての放火だと、そう嘯いていたがな」

 

 葛西善二郎の甥。

 本当かどうかは分からないが、奴が残したこの情報は、既に笛吹が己の手の者に捜査させている。

 奴が言ったこの言葉が本当なら、葛西は甥の犯行を見守りにきたという推論が成り立たないわけではないが――しっくりこない。

 

 情報が少なすぎる。それは、この池袋大虐殺の全てに言えることだが、この二人の犯罪者については、余りにもそれが顕著だった。

 

「もう一方――『死神』の方はどうだ? 何か手がかりとなるような情報はあるのか?」

「…………そのことに、ついてだが。先に、彼等についての考察を行ってから話したいと思う」

 

 彼等? ――と、笛吹と筑紫が訝しむ中、笹塚は「……そうだな。いつまでも、先延ばしには出来ないか」と同調する。

 

 烏間は頷き、厳めしい無表情で口を開いた。

 

「池袋を救った英雄であり、間違いなく、今回の事件の鍵となる人物達――通称『黒衣』の戦士達についてだ」

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

 黒衣の戦士達。

 

 このワードは、池袋の大虐殺から一夜明けても尚、とある場所において未だ日本中を掻き回し続けている。

 

 それは――インターネット。

 既にもう一つの世界といって過言ではなくなる程に肥大した電脳空間では、とある一人の英雄について、白熱した議論が行われ続けていた。

 CG説、映画の撮影説も根強いが、国の特殊部隊説、イタイ勘違いSFオタク説、果ては宇宙人説まで飛び出している。

 

 だが、そんな中でも、やはり最も大きい声は――彼を、『英雄』と呼ぶ声だった。

 

 英雄。池袋を救ったヒーロー。

 そんな彼の姿が急速に広まっていく中で、当然と言えば当然の結果として、彼の現実世界の正体は、あっという間に看破されていた。

 

「――桐ケ谷和人。日本中に配信されていた東口の映像に姿を現した、一般にも広く認知された、現在最も知名度の高い『黒衣』です。『牛人』を打倒し、謎の光によって天に昇るように姿を消した、池袋の英雄」

「……その正体は、かのSAO事件を解決に導いた英雄でもあったというわけか」

 

 そう――池袋を救った英雄は、かつて仮想世界から人々を解放した英雄でもあった。

 御伽噺の勇者のように、怪物の首を両断してみせた謎の黒衣の剣士は、伝説の浮遊城で最強を誇った英雄『黒の剣士』――キリトだった。

 

 その余りにも物語めいた真実に、ネットの世界が湧き起こらない筈がない。

 すぐにその情報は日本中――否、世界中へと拡散し、その勢いは留まる所を知らなかった。

 

「その桐ケ谷和人は、昨夜、貴様らが追っていた黒スーツの集団による襲撃事件により行方不明だったな」

「……ああ。その彼が、こうして黒衣の戦士として池袋に姿を現した。間違いなく、この一連の事件の重要なキーパーソンだろう」

 

 烏間は重々しく答えると、そのまま筑紫へと目を向ける――が。

 

「……昨夜、彼が謎の光によって連れ去られた直後から、池袋周辺はもちろん、埼玉県川越市の彼の自宅、彼の通う帰還学校の交友関係まで当たりましたが、彼の行方を知る者はいませんでした」

「……入院中の、彼の恋人の少女には話は聞いたのか?」

 

 烏間が筑紫に尋ねるが、筑紫は――ゆっくりと頭を振る。

 

「面会時間前に、病院に無理を言って彼女――結城明日奈さんの元を部下が訪ねましたが、彼女の方も知らないとのことでした。桐ケ谷和人の義妹の直葉さんや彼の両親、彼と結城さんのSAO事件来の共通の友人達も当たっていますが……目ぼしい手がかりは得られていません」

「まるで神に隠されたよう、か。笑えんな」

 

 筑紫の報告に笛吹は吐き捨てるように言うが、その目は笑っておらず、次の報告を促していた。筑紫は笛吹に頷きながら進める。

 

「桐ケ谷和人に関しては、引き続き調査を進めます。続いては、その桐ケ谷和人が『牛人』との戦いの後に倒れ伏せた後、彼の元へと現れ、共に光によって消えた人物」

 

 筑紫が出した画像は、あの夜の世界でも太陽のように光り輝く少女。

 

「桐ケ谷和人程に映像での登場時間は長くありませんでしたが、これほどの目立つ容姿の少女であったため――思ったより何故か時間がかかりましたが――特定することが出来ました。彼女の名前は、雪ノ下陽乃。国立千葉大学に通う大学生です」

「千葉、か……」

 

 千葉。

 黒いスーツの集団が革命前に引き起こした、二つの事件のもう一つの現場。

 

 そのことに烏間は気付くが、何も言わずに筑紫の報告を聞き続ける。

 

「彼女は千葉の県議会議員であり地元の有力者でもある雪ノ下豪雪の長女です。ですが、桐ケ谷和人のように、何かの事件を解決したなどといった実績はありません」

「……つまり、過去に何らかの英雄的な行動をとった少年少女が作為的に選ばれているわけではない、ということか?」

「分かりません。少し調べた限りですが、周囲の同年代の生徒達と比べて、飛び抜けて優秀であったことは間違いないようです」

 

 桐ケ谷和人と雪ノ下陽乃。

 年齢も、性別も、住む地域も、まるで共通点のない両者の関連性を探るが、これだけではやはり情報が足りない。

 

「接触は出来たのか?」

「千葉県警に要請はしていますが……」

「……上からの圧力で動けないか」

「……正式な辞令が下りないことには、と。東京都内ならば、まだ私の部下を動かすことも出来るのですが」

「私の部下も貸す。すぐに千葉に送れ。動きの遅い上を待つ時間的余裕はない」

 

 責任は全て私が持つ――そう言い放つ笛吹に、筑紫は口を開きかけたが、ゆっくりと閉じて「……了解しました」と言った。

 そして、筑紫は「……そして、雪ノ下陽乃に関してですが、少し気になる情報が」と、探るように切り出す。

 

「どうした?」

「それが……雪ノ下陽乃について調査を進めていた部下からの報告によると、雪ノ下陽乃の――」

 

――ここ半年程の、一切の行動記録が残っていないようなのです。

 

 筑紫の言葉に、会議室は静寂に包まれた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 雪ノ下陽乃の半年間の行方不明記録。

 

 それは、会議に一時、混迷を齎した。

 

 この事実を材料に千葉県警に捜査を促すべきだという意見を笛吹が出せば、今は池袋大虐殺の混乱を治めることを優先するだろうという冷静な意見を笹塚が出す。

 

 烏間は黒衣の共通点として『行方不明』をキーワードとして推理しようとしたが、その為には、他の黒衣に関する考察が必要不可欠だった。

 

 四人とも、雪ノ下陽乃の空白の半年間は、『黒衣』という謎に包まれた集団に関する重要な何かに触れていると感じていたが、これ以上掘り進めることは出来ず、漠然とした手応えと恐怖感を抱えたまま、次なる黒衣について考察することにした。

 

 そして、会議は進み――。

 

「『渚』、『東条』、『湯河由香』。そして、『桐ケ谷和人』と『雪ノ下陽乃』。我々が現在把握し出来たのは、この五名です」

「……そして、衛星カメラによって『翼竜』の背中に乗っていることが確認出来た、この()()()()()()()()……か。だが、『湯河由香』の証言によれば、彼等は、その『黒い球体の部屋』には、十五人はいた筈だ」

「……あれだけの怪物だ。黒衣が、どれだけ未来的な装備を持っていたとしても、怪物を殺す為に派遣されてきたのだとしても……全勝というわけにはいかなかっただろう。あの池袋で散っていった黒衣も、やはりいた筈だ。……そしてそれは、何も出来ずに戦争を彼等任せにしてしまった、我々の責任でもあるだろう」

 

 そう思考して、烏間はハッと目を見開く。

 

 黒衣が負ける。黒衣が死亡する。黒衣が――殺される。

 

 考えてみれば何の不思議もなく想定出来る事態だが、自分でも驚くほどにすんなりとその事態を想定出来ることに驚いたのだ。いや、想定というよりも、限りなく現実的な実感を伴っているような感覚だったのだ。

 

 自分は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()というのに。

 

 思い返すのは、あの時の『死神』の奇妙な気配。

 それを感じて自分は――そうだ。自分は、あの炎のビルディングの中で、一体何を見て、あの『死神』から()()()()()()のだ? 相手はあの『死神』だ。相対している最中、気を抜くことも、まさか目を逸らすことなど、一瞬たりともある筈がないのに。

 

 自分が『死神』を取り逃すことになった、その決定的要因となった、それは一体何だった?

 

「……十五名いたという黒衣の、どれほどが生き残っているのか分からない。が、重傷を負っていた桐ケ谷和人はともかく、雪ノ下陽乃は間違いなく生きているだろう。それに、未だ池袋を捜索している部隊の報告によれば、黒衣の死体どころか、あの装備の破片やスーツの切れ端すら見つかっていないらしいが、あの謎の光によって、それらも回収可能だというのならば、見つからない理由付けにもなる。つまり、生き残っている黒衣がいて、包囲網の中から脱出した者も、やはりいる筈だ。『渚』や『東条』、『湯河由香』もな」

「ならば――直近の行動指針は決まりだ」

 

 そう言って、笹塚は筑紫によって机の上に並べられた書類の中から、とある二枚を手に取る。

 

「彼等をそれぞれ分担して当たろう。黒衣としてならともかく、一般人としてなら、きっと日常世界に存在している筈だ。つまり、行けば会える筈だ」

 

 あの夜――『湯河由香』は、言っていた。

 

 自分は訳の分からぬ内に、こんな戦争に巻き込まれたのだと。

 その日の夕方まで、自分はただの中学一年生だったのに――と。

 

 彼女のあの言い分を信じるのなら、あの黒衣の戦士達は、電子世界を駆け巡っている噂の一つのように、政府やら何やらが秘密裏に組織していた特殊部隊なのではない――と、いうことになる。

 

(……色々な事情を考えれば、こっちの線の方が有力ではあるんだがな)

 

 国の上層部が、黒衣について何らかの情報を得ていたこと。

 現代科学を遥かに上回る特殊装備を所持していたこと。

 

 これらの疑問には、国の秘密特殊部隊説ならば一応の説明がつく。

 

 だが、少女の悲痛な声を直接聞かされた笹塚と烏間には、あの少女の言葉が嘘だとも、とても思えない。

 

「……桐ケ谷和人のように、行方不明になっているかもしれんぞ」

「もしそうならば、行方不明だという事実が手掛かりになる。その時は、行方不明になる前までの経緯を洗って、どんな人間が黒衣として選ばれ、行方不明になるのかを推理する材料になるだろう」

 

 なら、少女の言葉と、特殊部隊説――その()()()()()()()()()()()()()

 

「…………」

 

 笹塚は、そのまま会議室の出口に向かって足を進める。

 烏間は机の上に目を向けると――彼もまた、一枚の書類を手に取った。

 

「笹塚! 勝手な行動はするな! どんな小さなことでも確実に私の耳に届くように報告しろ! いいな!」

 

 分かってるよ――と振り向くことなくひらひらと手を振って、笹塚衛士は会議室を後にする。

 

 笹塚が手に持った書類に書かれた名前は、『東条英虎』、そして『湯河由香』。

 

 顔写真と名前と住所、家族構成と通っている学校のみの情報だが、昨夜の笹塚と烏間の目撃証言と画像のみで、たった一晩で調べ上げたのだから、日本の警察の能力の高さが伺える。それも、最大の力である組織力を用いず、笛吹と筑紫の子飼いの部下のみで行ったというのだから、偏にこれは二人の人望の厚さの賜物だろう。笹塚(じぶん)の部下は、未だ現実逃避してプラモ作りに精を出しているというのに。

 

 笹塚は、烏間に少しの間別行動になる旨のメールと、石垣に緊急強制招集の旨のメールを送る。十中八九自慢してくるであろう新たな自信作のプラモデルをどのように破壊するかを思考する傍らで、笹塚は昨日の池袋を思い返す。

 

「…………化物、か」

 

 そして、無意識に懐に伸ばして取り出した煙草に、一瞬躊躇しながらも、再び懐に戻して、笹塚は駐車場へと向かった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――全く、あの男は!」

「大丈夫です。結果は残す人ですよ、あの人は」

「知っている! その結果が、私の気に食わん形で齎されることもな!」

 

 笹塚が出ていった後の会議室では、荒ぶる笛吹を筑紫が宥めていたが、そこに、烏間がヒラリと書類を見せた。

 

「それでは、私が『彼』に当たろう。『雪ノ下陽乃』は君達に任せる。全体の指揮もお願いしたい。新たな情報が入り次第、我々を使ってくれると助かる」

 

 笛吹は烏間の方を見ると、ガシガシと頭を掻きながら「――勝手にしろ!」と吠えると、真っ直ぐに人差し指を突き付けながら命じる。

 

「――タイムリミットは午後六時だ。昨夜の池袋大虐殺に関する会見を、()()が行う。この意味が分からん貴様ではあるまい」

「…………」

「必ず、それまでに戻ってこい。永田町だ。方向は皆目見当がつかんが――この事件はそこで、間違いなく大きく動く」

 

 その会見で語られるのは、果たして何かしらの真実なのだろうか。

 

 いつもの国会議員お得意の形式だけの遺憾表明だろうか。

 

 それとも、あの怪物に関する、または黒衣に関する、我々が知らなかった何かなのだろうか。

 

(……本来、その国に仕える身の上としては、無礼に値する思いなのかもしれんが)

 

 此度の事件で流された血、失われた命――それらに、少しでも報いるような、誠意ある会見であることを祈るしかない。

 

(――だが、それに関しては心配あるまい。他の官僚ならばいざ知らず、会見を開くのが()()()()であるらば。あの方は間違いなく矢面に立つ)

 

 国というのは黒いもので、政治家の仕事が嘘を吐かずに隠し事をすることだと、仕事柄嫌という程に思い知っている烏間ではあるが――だからこそ、本物の政治家というものも知っている。

 

 烏間が、例えこの身がどれほど汚れ、どれほど傷つくことになろうとも、この人の下で働きたいと――そう思うことが出来る程の最高の上司が、身を粉にして尽くす男。

 

 たった一度だけ、烏間もその上司に連れられて会ったことがある。

 世間では決していい評判だけを聞くわけではない。彼を揶揄する声、非難する言葉も、日々各メディアから流れている。

 

 だが、烏間は、その一度の邂逅で知った――彼ほど、この国のトップに相応しい人間はいないと。

 

 烏間惟臣は確信している。

 今日、午後六時、あの方は必ずマイクの前に座るだろう。

 

 そして、国民の前で、語ってくれる――()()()()()()として。

 

「――分かっている。六時に、永田町に集合しよう」

 

 烏間は笛吹達にそう言って、そのまま笹塚の後に続くように会議室を出た。

 

 携帯を取り出して確認すると、笹塚から別行動を知らせるメールが届いていた。

 これに関しては予想通りというか、自分も別行動を取るつもりであったが故に、迷わずに返信する。

 

 先程の会議で別行動をしようと自分の口で提案していたにも関わらず、こうしてわざわざメールも寄越したのは、昨日、正式に職務として下された『死神』の案件に対して、自分はしばらく戦力になれないと、改めて伝える為だろう。

 

 律儀な男だ――そう思いながら、笹塚への返信を打ったそのまま流れで、防衛省の自らの部下に連絡を送ろうとした。

 

 単独行動をするよりもやはり仲間と行動した方が効率的だと判断し、人員を増やすことにしたのだ。だが、今現在では自分達の行動は組織とは別枠の独断行動に近いので、本当に信頼できる数名にだけだが。

 

「………」

 

 しかし、メールを打っている途中で、烏間の手が止まる。

 

 タイムリミットまでは限られている。

 午後六時に永田町へ戻らなくてはならない以上、行動範囲も決まってくる。

 

 初めは真っすぐに『潮田渚』の元へ向かうつもりだった――が。

 

 彼のプロフィールが書かれた書類を見る。

 とある一文が烏間の脳裏にこびりついた。

 

(……これは、本当に只の偶然なのか)

 

 それは、昨夜の戦争でたった一つ、烏間が手に入れたあの男に関する手掛かり――正確には、あの男が残した、たった一つの置き土産。

 まるで怪盗が事前に警察を挑発するように、殺し屋が軍人に一つのメッセージカードを残したのだ――とある美しい少女に添えて。

 

 燃え盛るアミューズメント施設の前に、ズタズタに傷ついた足と火傷だらけの肌を労わるように丁寧に座らされた状態で、まるで眠らされるように気絶していた少女。

 烏間が施設を抜け出して真っ先に見つけた彼女の手には、白い印刷用紙に血のように赤いボールペンで、新聞を切り抜いたかのように筆跡を感じさせない文字で、こう書かれていた。

 

【烏間惟臣殿。勇敢なる戦士である貴方に、美しい少女をエスコートする権利をお譲りします。とある少年が頑張って守った命です。どうか最高の治療を施してあげてください。】

 

 送り主の名前はなかった。

 だが、奴しかいない。こんなことをするのは、こんな戦場でこんなことが出来るのは――『死神』以外にあり得ない。

 

 このメッセージカードを調べても、少女の衣服や肌のどこにも、指紋一つ残していないだろう。筆跡は勿論、髪の毛一本たりとも、奴は痕跡を残さない。

 それが「芸術」とまで称された、世界最悪の殺し屋『死神』の手口だ――たとえ殺人でなく救命であったとしても、それは揺るがないだろう。

 

 だが、それでもあの少女が、『死神』の残した手掛かりであることは事実――故に、彼女についての情報は、最優先で調べるように部下に伝えてあった。

 

(……それに、あのメッセージカードに残された……『少年』という言葉――)

 

 あの少女は状況と負傷具合から考えて、あのアミューズメント施設の中にいたのは間違いないだろう。

 

 そんな少女を命懸けで救った――その少年の後を引き継ぐように、あの『死神』があんなお膳立てをした――その謎の、『少年』とは。

 あの燃え盛るビルディングに居た、そんな英雄のような少年の正体は――。

 

 烏間はメールを打つ手を止め、直に番号を打ち込み電話を掛けた。

 電話の相手はワンコールで呼び出しに応じ、烏間は「――私だ」という言葉の後に、簡潔に用件を伝えた。

 

「詳細はメールで伝える。今すぐに警視庁に車で来てくれ――来良総合医科大学病院に向かう」

 

 それだけ伝えて通話を切ると、烏間は再び『潮田渚』の資料を見る――それと並行し、昨夜のうちに部下に調べさせた、『死神』の置き土産である少女のデータを見比べる。

 

 潮田渚――神崎有希子。

 

 二人の略歴には、共に――椚ヶ丘中学校3年E組と記されていた。

 




こうして人間は――警察は、真っ黒な闇へと挑むべく、動き出す。大人として、戦う為に。


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Side葉山――①

……お前は、今の今まで、何処で何をしていたんだ。


 

 

 

 

『ひゃっほぉぉぉぉぉおおおおおおお!!!!』

『うぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおお!!!!』

 

 

 葉山隼人(おれ)は、比企谷八幡(あいつ)に――なれたのだろうか。

 

 

 

 

 

 戦い、戦い、戦い抜いた――その果てに。

 

 葉山隼人の戦いは、今――終わろうとしていた。

 

『はっはー。呆気なかったね。綺麗な顔が台無しじゃないか。哀れで惨めで滑稽だね』

 

 真夜中の、とある寺院。

 

 葉山隼人にとっては三度目の戦争――大切なものをたくさん失い、傷つき、壊れ、疲れ果てた戦争が、今、終わる。

 

 この生命の、終わりによって――葉山隼人の、死によって。

 

『…………』

 

 両腕を失い、血を垂れ流し、意識は薄れ、痛みすらもしばらく前から感じない。

 顔面は面影を消し失せる程に腫れ上がり、片手で掴まれている首は容赦なく呼吸を封じられている。

 

 間違いなく――葉山隼人は死亡する。

 

 目の前の醜悪極まる怪物によって、理不尽に殺され――敗北する。

 

 それでも、その心は穏やかだった。

 自分が守れなかった少女の元へ逝ける。もうこんな戦争から解放される――それに。

 

 末期にして、ようやく、妬み、憎み、嫌い――そして、憧れた、あの男のように、少し、なれた気がした。

 たったそれだけのことで、目の前に迫った逃れられない死が、こんなにも愛おしく感じられた。

 

『ふふふ。さあて。実を言うと、僕は君みたいなイケメン好青年が大嫌いなんだ。生まれ持った容姿だけで勝ち組気取りで気に食わない。だから出来るだけ無様に殺して――』

 

 その時、怪物に食われ、その体に乗り移った男――間藤の声が途切れた。

 怪物の体に悍ましくも似つかわしかった醜悪な笑みを消し去り、仏像のような無表情になって、まるで()()()()()()()()()()()()を発した。

 

 

――理解不能。正しく、理解不能だ。

 

 

 葉山の体は既に、そんな異常に対して反応することすら出来ない。

 目を見開くことも、唾を飲み込むことも、恐怖を覚えることすらも出来ない。

 

 だから、まるで空洞のように真っ暗な瞳で、同じく感情を感じさせない黒い目を覗くことしかできなかった。

 

 

――既にこの星には無数の星人が棲み着いている。人間など遥か及ばない程の範囲で。人間など立ち入ることの出来ない領域にすらも。終焉も近い。それなのに、何故、貴様ら黒衣は戦い続ける? 貴様ら人間は足掻き続ける?

 

 

 葉山の目には、最早、何も映っていない。

 葉山の耳には、この無機質な言葉の半分も届いていない。

 

 確実に死へと向かう中、何処か遠い所から、こちらの都合など知らぬとばかりに、傲岸不遜に詰問されている――ように、漠然と感じた。

 

 

――このような小さな寺の、たがだか数体を殺した所で何になる? こうして我が端末如きに全滅させられるようなお前らに、何が出来る? そこまでして何を得た? こんな所で呆気なく意味もなく無駄死にするお前は、一体何がしたいのだ?

 

 

 理解出来ぬ。理解出来ぬ。理解出来ぬ。

 

 間藤は――いや、間藤ではない誰かは。間藤ではない何かは。

 

 死にかけの葉山に。今にも死にそうな戦士に。

 

 無感情で、無機質で、無表情な、血の通わぬ仏像のような声色で。

 

 執拗に、容赦なく、ただそれだけを問い続ける。

 

 

――我等と因縁深き黒き衣を纏う男児よ。若くして無駄死にする哀れなる戦士よ。

 

 

――あの美しき女戦士よりも、あの昏き眼の狂戦士でもない。

 

 

――彼女よりも遥かに弱く、彼よりも遥かに脆い。こんな戦場に誰よりも相応しくない、貴様にこそ問いたい。

 

 

 感情を感じさせない仏像のような声は、遥か深淵の底から問い掛けるように。

 

 誰よりも戦場を嫌い、誰よりも戦場に嫌われ。

 

 戦争を恐れ、戦争に壊され、戦争に奪われた戦士に――葉山隼人に、問い掛けた。

 

 

――汝、何を望む。

 

 

――お前は、何の為に死んでいくのだ。

 

 

 その言葉は、その言葉だけは、死にゆく葉山の耳に、しっかりと届いた。

 

 何を望む――何を望んでいた?

 

 死にゆく自分は、死んでしまう自分は、一体何の為に死んでいく?

 

(………………俺は――)

 

 争いが嫌いだ。それがどんなものだとしても、平和が乱されるのは絶対に嫌だった。

 

 例えそれが欺瞞だとしても。仮面を被り合った仮初だとしても。

 一時的でも先延ばしでもぬるま湯でも、水面下で憎み合っても机の下で蹴り合っているのだとしても、今日が平和ならばそれでいいと思っていた。

 

 そういう風に、諦めながらも、どこかで諦めきれないでいた。

 

 戦争は嫌いだった。戦場が恐ろしくてたまらなかった。

 

 たくさんの人が死んだ。たくさんのものを失った。

 いいことなんて一つもなかった。得たことなんて一個もなかった。

 

 戦争は何も生まない。争いは大切なものを奪っていく。

 そんな当たり前のことを――ずっと痛感させられ続けていた。

 

 こんなことが、いつまで続くんだろう。

 

 こんなことが、どうしていつまでも終わらないのだろう。

 

 何を望む――何を望んだ?

 

 葉山隼人は、一体、何の為に死んでいくのか――。

 

『………………俺は――』

 

 声になったかは分からなかった。誰に答えたのかも分かっていなかった。

 

 真っ暗な深淵に向かって、こちらを覗き込んでいるかのような深淵に向かって――あるいは、自分自身に向かって。

 

 葉山隼人は答えた。

 死にゆく末に理解した、どうしても叶えたいたった一つの願いを。

 

 そして――深淵は答える。

 

 

――理解、不能だ。その答えは矛盾している。お前の望みは、願いは、破綻している。

 

 

 葉山は笑う。死にゆく中で、小さく笑う。

 

 理解していた。己の願いが誰にも理解されないことを。

 矛盾し、破綻し、崩壊していることも。

 

 それでも――葉山隼人は、もう揺るがない。

 

 こんな自分のまま、死んでいけることを歓喜しながら逝ける。

 

 

――やはり、終焉の前に、貴様らとは決着をつけねばならないようだ。黒衣は、人間は、いつだって我々の宿敵であるということを、改めて思い知らされた。

 

 

 怪物の体を使って葉山と今わの際の会話をしていた何かは、最期に葉山に――黒衣に、そして人間に、こう告げる。

 

 

――この端末(からだ)はくれてやる。精々同士で殺し合え。

 

 

――その悍ましい願いを抱いて死ぬがいい。そしてそのまま、二度と生き返ってこないことを祈っている。

 

 

 

――それでは、サラバだ。

 

 

 

 深淵から聞こえてくるかのような、無感情な仏像のような声は、最期の言葉だけは、どこか嘲るように、どこか哀れんでいるかのように――葉山には聞こえた。

 

『――やるよ。安心しろよ、すぐには殺さないさ。お仲間が戻ってくるまではギリギリの寸止めだ。お前の頭が柘榴(ザクロ)みたいに吹き飛ぶところを見たら、あの腐った目がどんな風になるか楽しみだとは思わないか?』

 

 そして再び、間藤の表情が醜悪に歪む。

 

 先程までの問答をまるで覚えていないかのように――だからこそ、その変化は顕著で。

 死に瀕した葉山の既に殆ど何も見えない視界の中ですらはっきりと判別出来てしまう程に分かりやすく――悍ましくて。

 

 人間味溢れるその表情が、葉山には――先程までの無表情よりも、よっぽど化物に見えた。

 

 

『葉山ぁ!!』

 

 その時、どこからかそんな声が聞こえる。

 葉山隼人が聞き間違うことのない、妬み続け、嫌い続け、憧れ続けた男の声が。

 

 瞬間、目の前の化物の表情が、更に醜くぐちゃぐちゃに歪む。

 そして丸太の如く太い腕を見せつけるように振りかぶる――葉山は一切の恐怖も感じなかった。

 

『――ッ! やめ』

 

 あの男の聞いたこともないような焦った声が聞こえる。少なくとも、自分に対してこんな声を発したことはなかった筈だ。

 葉山は化物(間藤)の醜い笑顔よりはマシだと思い、彼の方を向く。

 

 比企谷八幡――葉山隼人の人生において、あるいは最も影響を齎した男。

 最期まで妬み、最期まで嫌い、最期まで憧れ続けた男。

 

 葉山には、こんな哀れな醜い化物に、この男が負けることなど想像もつかなかった。

 

 だからこそ、きっとこの男は、また新たな戦争に身を投じることになる。

 

(…………)

 

 死にゆく自分に向かって手を伸ばす比企谷八幡を見て、葉山隼人は何を思ったのだろう。

 

 これからも戦い続けなければならないであろう八幡に対する哀れみだろうか。

 それとも、先に解放されることになる申し訳なさだろうか。それとも、自分よりも長く生き残ることに対する妬みだろうか。

 

 そのどれでもなく、またその全てでもあるのだろう。

 

 でも、きっと――この死の瞬間、葉山隼人は笑っていた。

 

 自分が願った、悍ましく、矛盾していて破綻していて崩壊している願い――どうしても叶えたかった、たった一つの、愚かな願い。

 自分は死にゆくこの時まで気付くことすら出来なくて、何も出来ずにただ縋るように抱いたまま死んでいくことしか出来なかったけれど――もしかしたら。

 

 葉山隼人に出来ないことを、ずっと成し遂げ続けてきた、比企谷八幡ならば。

 

(……最期の最期まで……君に押し付けてばかりだな、俺は)

 

 でも――だからこそ。

 

 葉山隼人には出来なかったことを、比企谷八幡には成し遂げてほしい。

 

 もう誰も、こんな風に死ななくていい世界を――

 

 

 

 

 

――グチャッと水風船が割れるような音が響いた。

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

「――――ッッッ!!!! うわぁぁああああああああああ!!!!」

 

 自分が殺される悪夢で目が覚めた。

 

「はぁ! はぁ! はぁ! ………ゆ、夢? 夢………?」

 

 自分の顔に手を当てる――ある。きちんと頭部は存在している。

 両手を握る――ある。右手も、左手も、きちんと肩からついている。

 

 ギュ、ギュと、黒いスーツに包まれた自分自身の体――そこで、気付いた。

 

「……夢じゃ………ない」

 

 夢だけれど、夢じゃなかった。

 

 あれは実際に体験した出来事で――死だった。

 

 葉山隼人はあそこで殺され、死んだ。そして――生き返ったのだ。

 

「……俺の、部屋」

 

 体感的には一日ぶり――実際には、半年以上ぶりとなる自室。

 物の配置はまるで変わっていないが、うっすらと埃が積もっている。

 

「帰ってきた……生き返ってきたんだ」

 

 死んで――生き返る。

 当然ながら初めての体験で、何をどうすればいいのか分からず混乱するけれど――まずは。

 

「……このスーツを着替えて………とにかく、会わないと」

 

 真っ先にやるべきことは――きっと、家族にただいまを言うことだ。

 

 半年ぶりの――ただいまを。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 無粋なことを言わせてもらえれば、ここで葉山が第一声に選ぶ言葉として、ただいまは決して相応しくはない。

 

 葉山隼人は一度死亡した。

 正確には二度なのだが、兎にも角にも彼は死んだ――ガンツミッションに失敗し、死亡し、敗退した。

 

 ミッションの落伍者に対してガンツはアフターケアという名の記憶操作を行う。

 それは全世界の人間――ガンツに関わらない一般人に対して、対象の落伍者に対する記憶に防壁(プロテクト)を張るというもの。

 

 つまりは、その対象の人物を思い出せなくなる。

 記憶は消去されているわけではなく、記録も改竄されてはいない。

 

 ただ、その人物に対して考えなくなり、考えないことが自然なこととなる――それが例え、親友でも、恋人でも、家族でも。

 

 その人物がいない場合において、最も自然な形へと思考が誘導される。

 例え、それが昨日までの日常からは有り得ない状態であったとしても、何の違和感も覚えず、それが新しい日常へと変わり、当たり前に笑顔で受け入れられるのだ。

 

 だからこそ――この息子との半年ぶりの再会も、彼にとっては久方振りの邂逅とは、ならない。

 

「…………隼人」

「…………父さん」

 

 彼――葉山鷹仁(たかひと)にとっても、葉山隼人は今まで何故か意識の外にいた息子に過ぎず、どうして忘れていたのかまでは疑問に思っても、どうして今までいなかったのかまでは疑問に思うことは出来ない。また、そのどうして忘れていたのかという疑問も深く追求することは出来ず、そういうこともあるかとすぐにその状況を受け入れてしまう。

 

 ここまでがガンツの記憶操作(アフターケア)

 故に、ここで仮に隼人がただいまと言っても、それは只の帰宅の挨拶であり、もしかしたらコイツは朝までどこかで遊んできたのではないかと思い込み怒り始めるかもしれない。

 

 だが、隼人はここでただいまという言葉を口に出来なかった。

 彼がそんな半年ぶりの万感の思いを以って伝えようとした生還の言葉は、父親の拳によって吹き飛ばされたからだ。

 

 端的に言えば――葉山鷹仁は、今まさに存在を思い出した我が息子を、全力で殴り飛ばしたのだ。

 

 ただいまという言葉を言わせるまでもなく、鷹仁は隼人に激怒していた――今の今まで、忘れていた息子に。

 

 息子を忘れていた自分を省みるよりも前に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――――ッッッッ!!!!」

 

 まさか生還早々に実の父親に殴られることなど想像もしていなかった隼人は、何の心の準備もすることが出来ずに拳をまともに受け、そのままテーブルに激突する。

 

 そして口元を拭いながら立ち上がると、口端から血が流れていることに気付く。

 この威力から、父が本当の本気で殴ったのだと知り、衝撃を受ける。

 

「………………なんで」

 

 優しい父ではなかった。

 厳しく、冷たい、子供ながらに怖い父親ではあった。

 

 だが、理不尽でも、不条理でもなかった筈だ。少なくとも、何の理由もなく唐突に暴力に訴えるような、父親では決して――。

 

「隼人……貴様、一体何をしている?」

「父……さん?」

「こんな時に、こんな所で、一体何をしているのかと聞いているんだ……ッ」

 

 未だ座り込み呆然と己を見上げる息子に対して、そんな姿すらも腹立たしいと言わんばかりに、睨み付けながら低い声で隼人を問い詰める鷹仁。

 

「……最早、俺はお前が雪ノ下の娘達と懇意になることなど期待すらもしていない。だが、少なくとも抱かれている悪印象を少しでも失くす努力はするべきではないのか。お前がいくら失望されようと勝手だが、我々は雪ノ下と――彼等と仕事の付き合いをしていかなくてはならんのだ。お前らが成人した後も、ずっと、ずっとな」

 

 そう吐き捨てるようにして鷹仁は、戸惑いの表情を一向に変えようとしない隼人を、見限るように背を向けた。

 ハンガーに掛けていた弁護士バッジが付いているスーツを着ると、尻餅をついたままの息子を放置し、そのまま玄関へと向かおうとする。

 

「っ! 父さん――」

「私はともかく事務所へ向かう。先程から一向に彼等とは連絡が取れないが、このまま音信不通であるなら自宅までお邪魔させてもらうつもりだ。こんな時こそ、力にならなければ。肝心な時に手を貸さない者をこれからも重用してくれる程、あの人達は優しくも甘くもないからな」

「一体何の話を……そうだ。母さんは? 母さんは何処にいるんだ、父さん?」

 

 時刻を見ると、まだ早朝といった時間帯だ。

 仕事柄、母の勤務時間は毎日バラバラだが、日勤ならばまだ家にいる筈の時間だ。

 

 それに対し、鷹仁の答えは――。

 

「アイツはもう池袋にいる。非番だったようだからな。応援に行かせた。アイツが勤める病院の系列もあるし、医者はいくらいても足りないくらいだろう。こういう時こそ、迅速な行動が必要だ」

 

 当たり前のことを聞くな――そう突き放すような語調だったが、隼人は。

 

「……池、袋? 東京の? どうして? 池袋で何かあったのか?」

 

 生き返ったばかりの葉山隼人には、何が何だか分からない。

 

 久しぶりに会った父親からは殴られ、母親は家にすら居ない。

 まるで何も分からない――浦島太郎のようだった。

 

 ここは本当に俺の自宅なのか? この人は本当に俺の父親なのか? ここは――本当に、現実の、日常なのか?

 

 最早、そんな当たり前の事実にすら確信を持てない。

 何もかもが不安定で、不確定で――生き返った歓喜が、段々と恐怖に変わっていった。

 

 そんな葉山隼人に、確かなものが欲しくて、縋るように見つめてくる息子に――葉山鷹仁は。

 

「…………」

 

 心の底から失望したような瞳を向けて、メタルフレームの眼鏡の奥から、侮蔑するように言い放つ。

 

「……お前は、今の今まで、何処で何をしていたんだ――愚息が」

 

 バタン、と。勢いよくリビングの扉が閉まる。

 

 そのまま廊下を駆けるように歩く音と、玄関の扉が強く閉められる音を聞き――隼人は、誰もいなくなったリビングで、ポツリと呟く。

 

「……俺は、今の今まで……死んでいたんだよ……父さん」

 

 そう言って、葉山隼人は、生まれてからずっと暮らしている我が家の、けれど、見上げるのは随分と久しぶりのように思える天井を見つめながら――冷静になった。

 

(……ガンツの――黒い球体の、記憶操作。……アイツが言っていた……ミッションに失敗した、敗北者への……仕打ち、か)

 

 真夜中の戦場――ガンツミッションという名の戦争で散った戦士達の死は、何事のなかったかのように隠蔽される。

 

 誰も悲しまない――誰も涙を流さない。

 死を嘆かれず、消失に気付かれず――世界を何も動かさない。

 

 何事もなかったかのように日常は続く――まるで、お前など初めからいなくても同じだと、そう死者に突き付けるように。

 

(……それはつまり、生還も、復活も――世界に何の影響を及ぼさないってことだ。いなくても同じなら、いても同じ。……全く、一体、何を期待していたんだ、俺は)

 

 生き返ったらそこには、自分が望む素晴らしい世界が待っているとでも思っていたのだろうか。

 あれほど苦しみ、あれほど壊れて――いっそ、死の瞬間に安堵まで覚えた場所に、自分はただ、再び戻ってきただけだというのに。

 

 ここは――現実だ。

 

 厳しくて、辛くて、悲しくて、苦しい――現実だ。

 

 痛みがあれば――癒しがあって。苦しみがあったら――楽しみもあって。

 悲しくなれば――嬉しくもなって。絶望があれば――希望もある。

 

 そんな素晴らしい世界に――葉山隼人は、帰ってきた。

 

(……そうだ。生き返ったら終わりじゃない。むしろ、また始まったんだ。……今度こそ、俺は――)

 

 葉山は一度瞑目し、たっぷり数分かけて――この現実を受け入れた。

 

 自分が再び生きていかなくてはいけない現実を――自分が、再び、戦い続けなくてはならない、現実を。

 

 その出迎えは強烈だったが、あれも自分を目覚めさせてくれる一撃だったと思えば、父親の拳というのは中々相応しいように思えた。どこかの主人公のように、別に親父に殴られるのは初めてというわけでもない。

 

 だが、何の理由もなしに拳を振るうような父親ではないことは確かだ。

 あの人は息子に厳しいのは勿論だが、妻にも部下にも上司にも――そして何より、自分に一番厳しい人だ。

 

 そんな父親があんな剣幕で怒るのだから、自分は余程的外れな言動をしていたのだろう。そう思える程には、葉山隼人は葉山鷹仁という父親を尊敬していた。

 

(……雪ノ下……池袋……医者……緊急事態――愚息。一体、何が起きてるんだ?)

 

 葉山はゆっくりと立ち上がり、テレビを点ける。

 

 まずは知らなくてはいけない。

 自分が死んでいる間、世界はどう変わったのか。

 

 葉山隼人という人間の死とは、一切関係のない要素で変化したであろう、今現在の現実世界に、まずはしっかりと向き合わなければならない。

 

 これから生きていく、これから戦っていく、己が死んでから半年経過した――この、素晴らしき――。

 

 ガシャン――と。

 

 葉山はリモコンを落とし、絶句した。

 

「……なんだ、これは……」

 

 そこには、葉山の知らない世界が映し出されていた。

 

 いや、葉山は知っていた。葉山隼人は思い知っていた。

 

 自分が嫌い、自分が恐れ、自分が憎み――逃げ出した、真っ暗な世界。

 絶望と恐怖と激痛と、絶叫と落涙と死体で、真っ暗な――地獄。

 

 それが――あろうことか、テレビの画面の向こう側に、明るくなっても存在している。

 

 紛れもない――戦場跡で、戦争後だった。

 

 葉山隼人が死んだ地獄だった――それが、日の下で、日常世界に侵食している。

 自分が知っている世界が、自分の知らない世界として、確かに現実に存在している。

 

「………ここは、地獄なのか」

 

 まるで浦島太郎のようだと思った。

 

 自分が少し死んでいる間に、世界は地獄に変わっていた。

 

 地獄が――世界を、日常を、明るい世界をも侵食していた。

 

 戻ってきた日常が、帰ってきた筈の現実が、知らない世界へと変貌し――葉山隼人は、一人取り残されている。

 

 いてもいなくても変わらない――まるで死んでいても、生き返っても、どうでもいいと世界に突き放されているように感じた。

 

 そして、まるで逃げるように、葉山は自室へと駆け上がった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 既に何十回目かの呼び出し音――だが、出ない。只の一度たりとも、相手と連絡が繋がらない。

 

「――クソっ。何をしているんだ、比企谷っ!」

 

 自室に駆け込んだ葉山が真っ先に行ったことは――比企谷八幡への連絡だった。

 

 あの怪物に彩られた池袋は、間違いなくガンツに関する何かだ。

 そう確信した葉山は、ならば自分の死んでいる間も戦い続け、生き残り続けてきたあの男が知らない筈がないと考えた。

 

(……昨夜の、あの部屋。あれは、あの池袋での戦争後の採点会場だったんだ。だとすれば、あの部屋にいたメンバーは、あの池袋大虐殺の生き残り――陽乃さんも、比企谷も)

 

 だが、何度も携帯に電話を掛けても、八幡が応答することはなかった。

 ならば――と、陽乃や、昨夜に連絡先を交換した和人達に聞くということも考えたが、葉山が知りたいのは、昨夜のミッションのことだけではない。

 

 ここまで自分が知る世界から変貌することになってしまった――その過程も知りたくなった。

 そして、この世界が、自分の知る世界と同一であるという、自分の知る世界から繋がっている同一世界なのだという、その確証を得たかったのだ。

 

 当然ながら、知らなかった。

 死んで、生き返る――そんな経験が、ここまで自己をあやふやにするものだったなんて。

 

(……自分が自分だということに確信を持てない。……今更だ。思えば、あの部屋に初めて送られた時だって、こんな気持ちを抱いてもおかしくはないのに)

 

 死んで、生き返るということならば、あの時だってそうだと言えばそうだ。

 

 自分達は一度死んでいる――それが二度になっただけなのに。

 

 だが、あの時と大きく違うのは――今、自分が一人だということ。

 

(あの時は、比企谷と――相模さんが、いた。お互いがお互いの存在を認めて、無意識に慰めあっていた。けど、今は――)

 

 半年という空白の時間。そして、同じ境遇の存在の不在。

 強いて言うなら雪ノ下陽乃がそうだが、あの人と自分が同じなどとは、葉山はたとえ死んで生き返っても思うことは出来ない。

 

 世界の変貌。そして自己への不安。

 それらが相まって膨れ上がる異様な恐怖感に突き動かされるように――葉山隼人は制服を着用した。

 

 総武高校の制服。

 まるで無理矢理アイデンティティを身に着けるようにそれを身に纏った葉山は、八幡に電話を掛け続けながら、自宅を飛び出し登校を開始した。

 

(電話が繋がらないなら直接会って話す! 説明してもらうぞ比企谷!)

 

 無我夢中で走り出した葉山は、高校が休校になっているかもなどとはまるで考えていなかったが、幸いにも池袋から離れた千葉の学校はすべからず通常通りに門を開いているようだった――国の上層部すらバタバタしているにも関わらず県市町村が素早い対応を取れるわけもないという言い方も出来るが。

 

 一様に隣を歩く同級生との会話に夢中な同じ制服を身に纏っている少年少女に、真っ青な顔で通学路を走り続ける葉山の姿は全く目に入らない。

 そのまま、まるでマラソンを走っているかのように最後まで止まることなく走り続けた葉山は、そのまま下駄箱に靴を突っ込み、取り出した上履きを素早く履いて――2年F組へと向かった。

 

「っ! 比企谷はいるか!?」

 

 扉を開け、その場で、大声で葉山は叫ぶ。

 ギョッとした表情で一斉に葉山の方を振り向く、既に教室にいた十数名の()()()()()()()

 

 呆気に取られていた彼等だが、その中の一人が小さな声で「……いませんけど」というと、葉山は舌打ちを堪えるような表情をし、そのまま「ありがとう!」と言いながら再び廊下を駆け出した。

 

「……びっくりしたー」

 

 葉山が去った後の2年F組は、初めは静寂に包まれていたが、段々にぽつりぽつりと呟きが交わされるようになった。

 

「え? なに今の? 三年?」「すごいイケメンだったよねぇ」「確か……そう! 葉山先輩! サッカー部のキャプテンの!」「え? キャプテンて戸部さんじゃなかったの?」「いや、たしか葉山さんだったよ。そういえば。なんで忘れてたんだろう。てか最近、あの人見なかったよな?」「そういえばファンクラブとかあったよねぇ」「なにそれ? 休学? サボり?」「知らねぇ。てか比企谷って誰? 女子?」「そういえば一年に比企谷ってかわいい子がいるって」「えぇ。ショックぅ。わたしファンだったのにぃ」「忘れてたくせにw」「あれ? 葉山先輩って三浦先輩と噂なかったっけ?」「いや、たしかあの人彼女いたんじゃ……あれ? 誰だっけ? 名前出てこない」「てか超必死だったよね。なんかウケる」「私もイケメンに探してもらいたーい! ほら! わたしはここにいるよー!」「あんた誰よw」「てかさー、こないだ――」「そういえば昨日ね――」「てかアレだ。俺、今日の現国の課題さ――」「とりま聞いてくれよ。俺さぁ、マジで国立狙ってて――」

 

 初めは突如現れた上級生の話題で埋め尽くされていたが、気が付けば既にいつもの雑談に戻っている。

 かつて総武高で最も有名だった男の半年ぶりの登校は、()()()()クラスに数分間話題を提供したのみで、あっという間に日常にされた。

 

 学校――葉山隼人にとって、大事な日常の一部だったこの場所も、彼の知らない間に半年の時間が経過している。

 例え記憶操作されていても、そしてそれが解かれたとしても――変化は変わらず変化であり、既にそれが日常であるということを。

 

 葉山隼人の知らない総武高校になっているということを――彼自身は、まだ理解していない。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、何も知らない少年は、ただ只管に校内を駆ける。

 まるで奥へ奥へと、自分の知っている景色を無意識に求めるように。

 

 だが、葉山には明確に次なる目的地があった。 

 

 決してその場所は、葉山隼人にとって縁深き場所ではない。

 訪れたのは、ほんの数度。それも決まって(たち)の悪い依頼を持ち込むだけのことで、いい思い出の詰まった場所とは口が裂けても言えない。

 

 むしろ、彼にとっては近づきたくない場所だった――恐らく、この総武高校の中で、最も。

 その場所の存在は知っていた。きっと、『彼』よりも、ずっと前から。

 

 けれど、訪れることは出来なかった。行っても拒絶されるのは目に見えていたし、どんな言葉を掛けていいかも分からず、どんな言葉を掛けられるのか分かり切っていたから。

 

 あの場所は、葉山隼人にとって、まるで自分の無力の象徴だった。

 

 自分が何も出来ないことを、『彼』に、『彼女』に、自白しにいくかのような。

 そして、自分に出来なかったことを、あの男が成し遂げる様を見せつけられにいくかのような。

 

 あの温かい紅茶の香りに満たされた光景に、葉山隼人はいつも――嫉妬と、そして。

 

 そして――。

 

 

 

 

 

 葉山は、その扉を勢いよく開けた。

 

 奉仕部――かつて、彼が、彼女が、彼女が、特別な空間を作り上げていたこの部室の扉を。

 

 

 だが、そこには、当然ながら、彼も、彼女も、彼女もいなかった。

 

 葉山隼人は知らない。

 既に、この部屋から温もりが失われて久しいことを。紅茶の香りが消えて久しいことを。

 

 奉仕部という空間は、壊れてしまったことを。

 

 

 そして、誰も知らなかった。

 

 

 早朝――始業前。

 

 放課後にはまるで機械のように、彼と彼女と彼女が未だに足を運び、冷たい部屋で冷たい物語を演じ続けていたこの部屋に――毎朝、誰も来ない時間帯を見計らって、とある人物が閉め切られた扉を開けていたことを。

 

 それを知らないふりをしていたのは、この学校でただ一人――奉仕部の鍵が無断で借り出されているのを、黙認していた平塚静だけ。

 彼女も、その犯人の正体は――想像はついていたが――はっきりとは知らなかった。知ろうとしなかった。

 

 他は誰一人として知らず、彼も、彼女も、彼女すらも知らなかった。

 

 まるで、もう二度と訪れることのない正しい物語の再開を、ずっとずっと待ち続けるかのように。

 

 冷たい部屋で、電気すら点けずに、ただ一人――依頼人の位置の椅子に座り続ける、彼女の名は。

 

 

「……いろは?」

 

 

 その言葉に、亜麻色の髪を靡かせながら少女は首だけで振り返る。

 

 一色いろは。

 

 かつて比企谷八幡によって生徒会長へと祭り上げられた、二年生にしてこの学校で最も有名な存在となった少女。

 

 彼女は、この部室のように冷たい瞳で、望んでいない闖入者に向かって言った。

 

「……なぁ~んだ。葉山先輩ですか」

 

 お久しぶりです――葉山は、そんな後輩の言葉に、何も返すことが出来ずに絶句するばかりだった。

 




蘇った落伍者は、知らない変わった日常(せかい)にて、知らない瞳をした後輩と再会する。


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Side葉山――②

………これが……ガンツの……やり方か………ッッ。


 

 特別棟の一階。保健室横。購買の斜め後ろ。

 テニスコートを眺めるには特等席であるこの場所は、二年前からとある男子生徒が『ベストプレイス』などと呼称し愛用していた隠れスポットだった。

 

 風向きが変わる。

 朝方より海から吹き付けるようにして向かってきていた風が、まるで元いた場所に帰るようにして吹き抜けていく。

 

 その風を肌で感じながら、呆然と空を眺めるのは、在校三年目にしてこの場所を初めて訪れた少年だった。

 あの男のお気に入りスポットだとは露知らず、学校内で一人になれる場所などというものを生まれて初めて探し求めた結果、辿り着いたのがこの場所だったのだ。

 

 葉山隼人は、その金髪を風に揺らしながら、簡素な菓子パンを片手に黄昏れていた。

 

「………………………」

 

 昼休み。

 校内が授業中の静寂から打って変わって、ざわざわとした喧騒で満ちる中。

 

 みんなの中心であった筈の男は、目の前のテニスコートで、一人の少年が何かを振り払うように一心不乱に、玉のような汗を吹き飛ばしながら、壁に向かってボールを叩きつける音のみを耳に入れながら。

 

 ひとりぼっちで。

 

 今朝から今までの――生まれ変わってから初めての登校日を振り返っていた。

 

(…………始まりは………()()、いろはか)

 

 登校直後――奉仕部の部室にて。

 

 葉山隼人は、知らない一色いろはと邂逅した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 柔らかいものが潰れる音と、固いもの同士がぶつかる音が響いていた。

 

 目を疑った。耳を疑った。

 喉を初めて感じる味の唾が通過して、思わず一歩、後ずさった。

 

 一色いろはは、目の前の光景が、この世のものとはとても認識できなかった。

 

 

「……せん……ぱい?」

 

 

 総武高校を震撼させ、戦慄させ、豹変させ、絶望させた――あの日から。

 一クラスのほぼ全員が、駆け付けた警察官を含めて、同校生徒によって大量に虐殺された――あの事件から。

 

 学校内の空気は明らかに一変した。未だほとぼりどころか混乱も衝撃も収まったとはいえないけれど、それでも、まるで自らを守るように、誰もが出来る限りの日常に意識的に回帰しようとしている空間の中で――誰よりも。

 

 あの日から変わった少年がいる。あの日から終わった少年がいる。

 あの日のことを忘れようとしている総武高校の中で――誰とも繋がらず、誰もが繋がりを求めず、特異点のように孤立する異常存在となった男子生徒がいる。

 

 

 比企谷八幡――彼は、一色いろはの目の前で、その身を自ら痛め続けていた。

 

 

 まるで世界で最も許せないものに怒りをぶつけるように。

 あるいは、世界で最も悍ましい悪に、当然の罰を与え続けるように。

 

 殴り、殴り、殴り、殴り、殴り、殴り、殴り、殴り、殴り、殴り、殴り、殴り、殴る。

 

 自分の横を名も知らぬ女子生徒が悲鳴を上げながら通り過ぎるのを、一色は横目で見つけながら、思わず自分も彼女の後に続こうと本能的に判断し――

 

「――――ッ」

 

――出来なかった。

 

 怖かった。恐ろしかった。

 

 無表情で自らの右手を痛め続けている、あの顔が。

 一切の容赦なく全力で電柱に向かって放たれ続ける、あの拳が。

 

 そして――あの日から、総武高校中を恐怖で包み込み続ける、あの瞳が。

 

 この世の闇を全て凝縮したかのような、あの瞳が。

 

 絶望と憤怒と怨嗟と失意と恐怖と自罰と悪夢と喚叫で出来ているような、あの瞳が。

 

「……………………」

 

 比企谷八幡が、あのまま壊れてしまうのが怖かった。

 

 比企谷八幡が、あのまま完成してしまうのが、恐ろしかった。

 

 だから――だから――だから、だから、だから。

 

「何やってるんですか!!!」

 

 一色は、勇気を振り絞って、その腕に飛びかかった。

 

 比企谷八幡を壊し続ける、その右手を。

 

 まるで泣いているように、血を流し続ける、その右手を。

 

「――――ッ!」

 

 それを拒むかのように、黒闇そのものが如き瞳が、一色に向けられる。

 

 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。

 生物として根源的な恐怖を引き出す瞳に、一色の身体が震えだす。

 

 やめて。お願い。そんな目をしないで。

 だって、そのままじゃあ、あなたはきっと壊れてしまう。

 

 取り返しがつかない。後戻りが出来ない。

 誰もいない闇の中に、手の届かない暗闇の中に、あなたはきっと行ってしまう。

 

(……先……輩……っ)

 

 本来なら、こんなことをする理由はないのかもしれない。

 一色いろはにとっては、比企谷八幡は自分を生徒会長にした人、口車に乗ってあげた人、お互いのメリットの為に利用し合った人、ただそれだけだ。

 

 猫を被らなくていい人、本性を見破る人、素を見せられる人――ただ、それだけだ。

 

 自分と喋るのを面倒くさがる人、可愛い仕草をしてもあざといと言って一蹴する失礼な人――ほら、大したことはない。むしろ不愉快と言っていい。

 

 ありのままの一色いろはを見てくれる人。なんだかんだいいながら自分を手伝ってくれる人。支えてくれる人――…………本当に、それだけの。

 

 辛い時に傍にいてくれる人――扱いやすい人。

 コンビニの袋を持ってくれる人――あざといって言う方があざとい人。

 一緒に隣を歩いてくれる人――……お人好しで……優しい人。

 

 

『……なぁ、一色』

 

『何ですか? っていうか、何やってるんですか? ……先輩、なんか変ですよ。まぁいつも変ですけど……最近は、本当に。……こんな時間に……こんな場所で何を――』

 

『…………』

 

『……先輩?』

 

 

『………………。一色、お前さ――』

 

 

 あの日――から。

 

 一色いろはにとって――比企谷八幡は。

 

「――ッ! 先輩!」

 

 八幡は、一色の腕を振り払い、右手から血をポタポタと垂らしながら、その背中を遠ざけていく。

 

 一色は、その背中を、呆然と立ち尽くしながら見つめていた。

 

 左手の爪を食い込ませて、()()()()()()()()()()()()、呟く。

 

「…………どうして。………先輩。どうして――あの日から」

 

 血を流すように、涙を流しながら、吐き出すように、呻く。

 

 

 

 

 

「――――笑って、くれないんですかぁ……っ」

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

 依頼人の席から立ち上がり、こちらを冷たい――この部室の空気のように冷たい眼差しで見据えてくる一色に、葉山は言いようのない感覚を覚えながら、探るようにして声を掛ける。

 

「……いろは? こんな所で、何を――」

「――別にいいじゃないですか。葉山先輩には関係のないことです」

 

 そう言って一色は、そのまま立ち上がって葉山の方へと歩いてくる。

 だが、それは葉山ではなく葉山が立ち尽くす扉目当てなのだということは明らかで、葉山は何故か焦りを覚えて、一色に向かって何かを話そうとする。

 

 何か――何を?

 

(俺は何をこんなに焦ってるんだ? 俺は――何を、恐れてるんだ?)

 

 あの目――あの瞳か?

 葉山隼人が、一色いろはに、あんな瞳を向けることに、違和感を覚えているのか。

 

 何かを恐れている。何かを忘れている。

 その何かを知らなくてはならない。思い出さなくてはならない。

 

 目の前の、自分が知らない目をする一色いろはの、謎を解かなくてはならない。

 

 自分が生き返ったこの世界の、自分が知らないこの世界の、正体に少しでも近づく為に。

 

「――いろは」

 

 近づく一色の進行方向を塞ぐように、葉山が足を広げた。

 露骨に嫌そうな顔をする一色だったが、葉山の表情を見て溜息を吐きながらも足を止める。

 

「……はぁ。さっきも言いましたけど、わたしが朝からこの部屋に居ようと、葉山先輩には関係ないでしょう。っていうか、葉山先輩にはもっと行かなくちゃいけない所があるんじゃないんですか? 最近見ないから休学してたんじゃないかって専らの噂ですよ」

 

 最早、猫を被るどころか刺々しくすらある一色の対応に、葉山は眉根を寄せるものの真剣な表情を崩さず、少し息を吸って、一色に問うた。

 

「――待ってるのか?」

 

 その言葉に、一色はピタリと動きを止めた。

 

 何の具体性もない、対象も明らかにしていない、葉山の言葉。

 

 だが、葉山はそう見えたのだ。

 この奉仕部の部室を開けて、真っ先に目に飛び込んできたその姿が。

 

 電気すら点けず、物寒しい広々とした空間に――たった一人。

 誰もいない部屋の、それでも律儀に依頼人(お客さん)席に座って。

 

 ずっと、誰かを、何かを――待ち続けているような、そんな小さな女の子の姿に。

 

 一色は小さく俯き、小さく息を吐いて、葉山ではなく、背後のテーブルに目を向けながら、言った。

 

「………そう、かもしれませんね」

 

 葉山は、一色の言葉に問い返す。

 

「……かもしれない?」

「覚えてないんですよ。今朝、起きたらそう感じて。どうしてもそうしなくちゃいけないように思えて。日課だったんです。だけど、今朝、目が覚めたら――」

 

――どうしてそうしなくちゃいけないのか、全く思い出せないんですよ。

 

 一色は、寒々しい声色で言った。

 

 葉山は絶句し、彼女を見詰める。

 だが、彼女は葉山ではなく、ずっと、冷たく、そのテーブルだけを――その席だけを見詰めていた。

 

「関係ないんですよ――そんなの」

 

 一色は葉山ではなく、葉山ではない誰かに向かって言う。

 

「そうしなくちゃいけないんです。こうしなくちゃいけない気がするんです。……馬鹿みたいでしょ。でもいいんです。わたしがそうしたいんですから。わたしが見たいだけなんんですから」

 

 だから、わたしは――奉仕部(ここ)に来るんです。

 

 そう言って、一色は葉山の前に立つ。

 冷たい表情で、冷たい眼差しで――彼ではない、何かを真っ直ぐに見据えながら。

 

 葉山は、慄くようにして後ずさり、道を空ける。

 その横を何の感慨もなく通り過ぎると、葉山隼人に一瞥もせずに一色いろはは立ち去っていく。

 

 口を開けたが、声が出なかった。

 それでも振り絞って小さな背中に向かって放った問いは、葉山にとって意図せず飛び出した疑問だった。

 

「……いろは。お前は、何が見たいんだ?」

 

 一色は、その問いにピタリと足を止める。

 

 そして思い起こすのは、真っ黒に塗り潰された――誰かの言葉。

 

 

――『……一■、■前さ――』

 

 

「…………」

 

 思い出せない誰かを。思い出せない何かを。

 

 思い出せない何処かを。思い出せない何時かを。

 

 思い起こして、一色いろはは、くるりと振り返って――あざとく、告げる。

 

 

「大切な人の、あったかい笑顔です♪」

 

 

 それは――葉山隼人が、知らない一色いろはの笑顔だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 バンッ! ――と、荒々しく壁にテニスボールが叩きつけられる。

 

 その力に応じた勢いで跳ね返ってくるボールを、華奢な美少女と見紛う美少年は、懸命に走ることで何とか追いつき、きつい体勢ながらも再び全力でラケットを振り抜いた。

 

「…………」

 

 遠くからその光景を眺めながら、葉山は美味くもないパサパサの菓子パンを齧る。

 

(……あの後……いろはの背中を見送った後、俺は……始業のチャイムで、我に返って――)

 

 パンを半分以上残し、袋に入れ直したまま放置して、葉山は再び空を見上げた。

 

 その綺麗な青色を見上げながら、葉山は再び黒色のような、灰色のような、違和感だらけの一日を振り返る。

 

(……そうだ。俺は、いろはの言う通り、職員室に向かった。……自分が行くべき教室(ばしょ)も……分からなかったから)

 

 足元が突然、ずぶずぶの底なし沼に変わったかのような錯覚をした。

 誰もいない特別棟の、朝なのに薄暗い廊下が、急激に広がったような錯覚をした。

 

 葉山隼人は、そこでようやく気付いたのだ。

 

 自分の行くべき教室が――既に2年F組ではないことを。

 

 

 この学校に、既に自分の席は――居場所は、もう何処にもないことを。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「葉山。お前は3年F組だ」

 

 

 そう、平塚静は、葉山に数学のテストを突き付けながら言った。

 

「…………は?」

 

 既に始業のチャイムが鳴り、生徒達は自分達が所属する教室で一時限目の授業を受けているであろう時間帯。

 

 そして、一時限目の担当となった教師陣が後にし、人口密度がだいぶ減少した職員室の一角で、昨年と同じく生活指導を担当する国語教師――平塚静は、額に手を当てながら溜息を吐いている。

 

「――全く。まさか君にここまで面倒を掛けられる日が来るとは思わなかったよ。突発的な暴走は確かに君達くらいの年齢でしかできない青春かもしれないが、あんまり大人を困らせない範囲にしてくれ。これでも教師は忙しいんだ」

 

 だが、葉山は、そんな平塚がひらひらと見せびらかすようにして揺らす数学のテストの意味が分からない。いや、この先生の言っていることの全てが分からない。

 

 3年F組? 面倒? 暴走? ――青春?

 

 なんだ? この教師は――この大人は、何を言っている?

 

「……な、なにを言っているんですか? ……先生?」

 

 引き攣った笑顔を浮かべている自覚があった――いや、笑顔であったならば、まだマシだ。

 

 不気味。違和感。——恐怖。

 ざわざわとした冷たさが、額を伝う汗として具現化されているような気がした。

 

 そんな葉山に気付いているのかいないのか――あるいは、気付いていても、()()()()()()()()()()()()()()()()のか。

 平塚は面倒くさいという感情を隠そうともせずに大きな溜息を吐いて、早々に葉山にネタばらしをする。

 

「――決まっているだろ。昨年度の三学期分の埋め合わせのテストだ。貴様が休校届も出さず、丸々纏めて無断欠席した分のな」

 

 平塚は数学のテストを机の上に置いた後、それに重ねる様に次々と問題用紙と答案用紙を積み上げていく。

 

「今日一日で主要五科目は受けてもらう。全て昨年度三学期の期末テスト問題だ。基本的に点数のボーダーは設けないが、白紙で出すのだけは却下だ。色々と調()()が面倒くさい。他の科目に対しては、それぞれの担当教諭から適当にレポート課題でも設けてもらって提出しておけ。以上」

 

 分かったらさっさとこれを埋めて来い――と言って、平塚は立ち上がりながらテストを葉山の胸に押し付ける。

 そして、そのまま白衣を翻して自らの席を後にし、パーテンションで区切られた一角に向かって足を進め始める。

 

 葉山は慌てて平塚を呼び止めた。

 

「ちょ、ちょっと待ってください! な、これは……いや、どうして!?」

 

 頭の中が混乱で満ちて上手く言語化できなかった。

 

 葉山とて留年したいわけではない。

 だが、今のこの状況が、己に都合が良すぎる展開が――不気味で、違和感で、恐怖でしかなかった。

 

 記憶操作――()()

 

「――――ッ!?」

 

 その言葉が、改めて葉山の全身を貫く。

 

 昨夜――生き返ったあの夜。

 葉山隼人が、比企谷八幡に聞かされた、黒い球体による衝撃の犯行隠蔽方法。

 

(……ガンツミッションで散った戦士達に対する記憶は、世界中の人間から消える。誰もその人物に対して考えなくなり、それが自然になる。いないことが当然になり……そうやって、世界から消される)

 

 正確には、黒い球体(ガンツ)が行っているのは記憶(メモリー)消去(デリート)ではなく防護(プロテクト)なのだが、そこまでは八幡も正確には把握してない。

 

 そして、八幡が把握していなかったのは――その記憶操作の、復活後の復元(バックアップ)もだ。

 

 比企谷八幡は、これまで数多くの同胞を失ってきた。

 葉山隼人に対して、相模南に対して、そして、雪ノ下陽乃に対して――黒い球体が行った歪んだ処理を見せつけられて、ガンツミッションの落伍者に対する、末路を思い知らされた。

 

 だが、一方で彼は、この半年間――誰一人として、戦士(キャラクター)を復活させることは叶わなかった。

 

 その悲願を初めて達成したのは、ほんの昨夜のこと――雪ノ下陽乃が初の復活者である。

 脱落からの復活。消去からの復元。

 一度、世界からいなくなった者の――いなかったことにされた者の、帰還。

 

 故に――知らなかった。あの比企谷八幡も把握していなかった。

 だからこそ、葉山隼人も誰からも教えられず――無知だった。

 

 黒い球体が、どれほど乱雑に、復活した人間を歪んだ世界へ放り出すのかを。

 

「……いい、んですか? 問題じゃないんですか? 単位が足りていない自分が……ルールを破った生徒が……こんな簡単に……許されて――」

 

 簡単に受け入れられて。いてもいいことになって。

 

 自分がいなかったことが――なかったことになって。

 

 平塚は、俯く葉山に、適当に言った。

 

「ん? いいんじゃないか、別に」

 

 本当にどうでもよさそうだった。

 

「…………」

 

 それよりもニコチンの摂取の方がよほど大事だと言わんばかりに、平塚は葉山の方をもう向くことはなかった。

 

 白衣をはためかせ、パーティションの向こう側へと消え、そこにはぽつんと佇む葉山隼人だけが残った。

 

 いくら授業中とはいえ、職員室には他にも幾人かの教師がいる。今の平塚との会話を聞いていた、もしくは聞こえていた者達が殆どの筈だ。

 

 だが、誰も何も言わない。

 期末テストの使い回しとはいえ、こうして主要五科目のテストが出揃っている以上、ことは平塚の独断ではない。

 

 この職員室が、この学校の教師全てが、このとんでもない待遇処置を認めている。

 しかも、元々態度、成績共に優秀だった生徒を何とか進級させてあげようといった温情ですらなく――温かみなど欠片もない、本当に無味乾燥な手続きと共に。

 

 葉山隼人という生徒の復学に、そしてこれまでの半年間の失踪に、何の興味関心もないかのように。

 

(――いや、本当に、何の興味も関心もないんだ。どうしていなくなったのか、どうして急に現れたのか……疑問すらも、抱かれない)

 

 正しく、その為の記憶操作。

 該当戦士の消失も、そして唐突なる復活も、世界に何の影響を及ぼさない為の処置――処理。

 

 世界は、葉山隼人という存在によって、何の影響も受けない。

 いなくても同じ――いても同じ。

 

 何の波風も立たず、何も動かず、何も起きない。

 異分子でも、特異点でもない――無理矢理NPCにされてしまうかのような、強引で、適当な処理。

 

(………これが……ガンツの……やり方か………ッッ)

 

 葉山隼人という存在が、何の不気味さも、違和感も、恐怖も与えない世界。

 それはつまり、葉山隼人にとっては、不気味で、違和感で、恐怖しか覚えない――歪んだ世界。

 

 葉山隼人の、知らない世界。

 

「……………………」

 

 そして葉山は、何も言わずに職員室を後にし、使われていない誰もいない空き教室を偶然見つけて、そこで数学のテストを解いた。

 

 チャイムが鳴る度に少し時間を置いて、次の授業が始まったであろうタイミングを見計らって職員室に行き、解いたテストを平塚に渡し、再び次のテストを適当に空き教室で解いた――それを繰り返した。

 

 あのテストが本当に採点されるのかは分からない。

 だが、もし点数をつけられるのであれば、きっと葉山が知らない点数になっていることだけは分かった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 バンッ!! と、これまでで最も強い音が響いたのとほぼ同時に、昼休みの終了を知らせる予鈴が鳴った。

 

 葉山は結局半分近く残した菓子パンを乱雑に掴みながら腰を上げようとする。まるで鉛のように重たい腰を。

 

(……残る教科は、国語……か)

 

 現国と古典を国語として纏めて渡されたテストは、今日一日根城にしていた空き教室にある。

 奉仕部の部室ではない。あそこならば日中は恐らく誰も来ないだろうが、あの場所を己が使ってはいけないような気がしたのだ。

 

(……間違いなく、雪乃ちゃ――雪ノ下さんに怒られるだろうからな。そういえば結衣は、昼休みはあの場所で二人で昼食を食べている筈だし。選ばなくてせいか)

 

 そこまで――考えて。考えてしまって――逃げられなくなった。

 

 浮きかけた腰が、再びズシンと落下する。

 

「……………」

 

 考えなかった訳ではない。考えなかった筈がない。

 

 死んで――生き返って、思わなかった筈がない。

 

 まだ――生きれる。帰れる――会える。

 

 もう一度、彼らに、彼女らに。そう感激しなかったといえば、嘘になる。

 

 だが――。

 

(……あのいろはを見て、あの平塚先生と向き合って……それでも希望を持つには……俺はガンツに……絶望を見せつけられ過ぎたよな)

 

 この期に及んで、それでも、生前に自分と親しかった人間ならば、少しは――と思える程、葉山は鈍くも、そして強くもなかった。

 

 故に、葉山は未だ、3年F組を訪れていない。

 遠くない未来にどうせ放り込まれるにもかかわらず――平塚の机の上にあった名簿に、葉山が会いたいと思っていた人物達がまるでご都合主義のように一ヶ所に、そして何故か『彼女』も、そして当然のように『彼』の名前もあったというのに。

 

(……どうして彼女がF組にいるのかは分からない。そして、ここまでずっと電話に出ないアイツが登校しているのかも……だが、それでも、戸部や大和、優美子に姫菜、そして結衣がいるのは間違いない)

 

 ここで葉山はもう一人の友がいないことには当然気づいていた。

 だが、学年が上がってクラスが変わったにも関わらずグループ全員が同じクラスになれる方が珍しいことだと思い、別クラスに配属になったのだろうと考えた。だから、ここで彼はこのことに対して疑問を持たなかった。

 

 今の彼の心にあるのは、圧し掛かっているのは――ただ、漠然とした恐怖。

 

 2年F組の一年間を、決して順風満帆とはいえなかったけれど、空気という世界を大前提とした上のロールプレイだった一面もあったけれど、それでも。

 確かに共に築き上げた、何かを犠牲にしてでも守り抜く価値があると信じた、葉山グループという繋がりで成り立っていた――友達に。

 

 憧れの目線を向けていた後輩のように。優等生として己を認めていた教師のように。

 彼女達のように、興味も、関心も、好意も敵意もなく、ただ――まるで空気を見るような目で。

 

 そんな目を、あろうことか彼らに――向けられるのではという、恐怖。

 

 葉山はそっと、今朝、出会うや否や実の父親に殴り飛ばされた頬を撫でる。

 

(……今思えば、種類はどうあれ、俺に関心らしい関心を持って相対してくれたのは――父さんだけだったな)

 

 そうして自らを嘲る笑いを思わず漏らすと、そんな立ち上がれない葉山の頭上から、天使のような声が聞こえた。

 

「――あれ? もしかして、葉山くん?」

 

 顔を上げる。そこに居たのは――ただのクラスメイトの天使だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 考えなかったと言えば嘘になる。

 

 ここまで至ってしまうと、楽観的やら悲観的やらという前に、いっそ卑屈ですらあるけれど――まるであの男のようだけれど。

 

 けれど、あの男に対してだけは、葉山隼人はそう考えてしまう――これは死んでも治らなかった。

 

(……………俺だから、なのか?)

 

 そう、考えてしまった。

 

 黒い球体による、余りにも杜撰な記憶操作に対して、思考誘導に対して、世界歪曲に対して。

 

 これは、どんな復活者に対しても平等に行われる処理なのだろうか――と。

 

 例えば、相模南なら。折本かおりなら。達海達也なら、どうだろうか。

 

 昨夜、同じように蘇ったあの中学生は――霧ケ峰霧緒は。そして、雪ノ下陽乃は。

 今、現在、自分と同じような目に遭い、同じような思いを抱いているのだろうか。

 

 そして、もし、死んだのが。

 

 そして、もし、生き返ったのが。

 

 自分ではなく――葉山隼人ではなく。

 

 あの男――ならば。

 

(…………俺ではなく、アイツならば)

 

 世界は――この世界は。

 

 この学校は、そして、この学校の人達は。

 

 一体、どのように――変わったのだろうか。

 

 それは、きっと――葉山隼人の知らない顔なのだろうと思った。

 

 

 

 

 

 その天使は、滝のように流れ落ちる汗を拭いながら言った。

 

「久しぶりだね。ここのところ見かけなかったけど、今日から学校?」

 

 葉山は呆然とその天使のような――少年を見上げる。

 

 戸塚彩加。

 少女と見紛う、というよりは、おそらく殆どの人が第一印象として男子だとは看破することは難しいであろう程に整った中性的な顔立ち。仕草。雰囲気を持つ少年。

 

 葉山とは2年の時に同じクラスで、彼はテニス部の部長であるため、サッカー部の部長だった自分とはそのような縁もあったが、決して親交が深い存在でもなかった。

 

 戸塚はその雰囲気からか、男子とも女子とも特別仲のいいグループに属してはおらず、だからといって蔑ろにされているわけでもない独特の立ち位置を確保していて――そう、だが、唯一。

 

(――彼とだけは……仲が良さそうにしていたな)

 

 自他ともに認めるぼっちでありながら、この少年だけは、彼にとっても特別であったようだった。

 そして、それは――恐らくはこの少年にとっても、彼は。

 

「葉山くん、大丈夫? もう予鈴もなったけど……具合悪いなら、すぐそこに保健室あるし、先生呼んでこようか?」

「…………いや、平気だよ。悪いな」

 

 こちらを心配そうに覗き込んでくる戸塚を制して、少なからず高鳴った胸の鼓動にいろんな意味で危機感を覚えつつ、葉山は膝を立てて立ち上がる。

 

 そのとき、ポタポタとコンクリートに垂れている汗の跡に気付いた。

 

「……あ、ごめんね。さっきまで練習してたから……」

「い、いや。すごいな、そんなになるまで」

 

 葉山は頬を紅潮させながら胸元を扇ぐ戸塚の扇情的な姿に一瞬自らの頬も赤く染めかけるが、すぐに違和感を覚える。

 

 戸塚の汗の量が尋常ではない。まるで炎天下の中、ハードな走り込みを行った直後のようだった。

 息も荒く乱れ、持っているタオルで拭っても拭っても汗が噴き出してくる。

 春が終わり夏を迎えようという季節とはいえ、まだ気温も上がっていない。むしろ涼しい風が吹いているくらいだ。

 

 確かに、彼は昼休みも練習に打ち込む勤勉な生徒だった。いつだったか、決して褒められない理由で三浦優美子がコートに乗り込んだ時も、彼はあの雪ノ下雪乃の特訓を受けていて、しかも根を上げなかったという。

 

 だが、それでも、同じ運動部から見ても、今の戸塚の姿は、昼休みの自主練習後とは思えないほどに疲弊しているように見えた。

 

「戸塚は、いつもそんなになるまで練習しているのか? 昼休みだろう?」

「…………僕も、いつもは昼休みはこんなに打ち込まないんだけどね」

 

 なんか、今日は無性に体を動かしたくて堪らなくて、さ――と、美少女と見紛う美少年は、そのルックスに似合い過ぎる、儚げな憂いある表情を浮かべる。

 

 それが余りにも絵になっていた為、葉山は見蕩れかけるが、葉山の記憶にある戸塚彩加という少年と結びつかない表情であった為に、葉山は問い掛けた。

 

「………何か、あったのか?」

 

 戸塚は葉山の方を向かず、汗を拭いながら、どこか遠くを見つめていた。

 それは、空なのか。海なのか。それよりも遠い――誰かなのか。

 

 既に予鈴が鳴っているというのに、戸塚は動かず、なかなか口も開かなかった。

 葉山も、そんな戸塚の言葉を、急かさずにじっと待っていた。

 

 やがて、戸塚は、小さく呟く。

 

「――怖かったんだ。無性に」

 

 涼しい風が吹いた。だけど、葉山は、ぶるりと背筋を震わせた。

 

 寒く感じた。風か、それとも――ゾッとする程に整った、戸塚の横顔かは、分からなかったけれど。

 

「……僕は、何も出来なかった。あの時も、これまでも。……そんな焦燥感というか、無力感というか……そういうものが、渦巻いてて。……だけど、今朝――目が覚めたら、何かがぽっかりなくなってた」

 

 だけど、焦燥感と無力感は、消えずに僕を蝕んでた――戸塚は、胸の当たりを掻き毟るように呟く。

 

 あれほど美しかった横顔が――歪んでいく。

 

 抱えきれない、全く似合わない――激情で、歪まされる。

 

「……本当に、よく分からないんだ。どうしてそんな感情を抱くのか、理由も原因も思い出せないのに。何かを失ったのに……いや、失ったからこそ、かな」

 

 戸塚は、儚く、綺麗な、憂いに染まった表情で呟く。

 

「きっと、もう手遅れなんだよ。何も出来なかった。だから、僕は、それを失ったんだ。……それがわかっているから、僕は何かをせずにはいられなかった。体を動かさずにはいられなかった。……テニスにぶつけるなんて、部長失格だね、僕は」

 

 葉山隼人は、こんな戸塚彩加は見たことがなかった。

 

 彼はいつも優しく、穏やかで、人を傷つけず、独特の立ち位置にいて、誰からも嫌われず、人を差別せず、真摯で、ひた向きで。

 

 勿論、戸塚彩加も人間だ。純粋無垢で清廉潔白な天使ではない。

 感情があり、欲望もあっただろう。許せないことも、怒りを覚えることも、きっとあっただろう。

 醜さも持ち合わせて、人並みに好き嫌いもあって、ストレスも悩みも抱えていただろう。

 

 葉山隼人にとって、戸塚彩加は知っていることの方が少ない、友達とも言えない距離感の――他人だ。

 

 だが、間違いなく、紛れもなく――目の前の憂いある戸塚彩加は、葉山隼人の知らない戸塚彩加だった。

 

 

――………そう、かもしれませんね

 

 

 その時、葉山は、自分の知らない表情を見せた、とある少女を思い出した。

 

 

――覚えてないんですよ。今朝、起きたらそう感じて。どうしてもそうしなくちゃいけないように思えて。日課だったんです。

 

 

 これは、葉山隼人が原因で生み出された歪みではない。

 

 きっと自分の復活によって生み出された歪みも何処かにはあるのだろう。

 けれど、この少年と、あの少女の歪みの原因は、少なくとも自分ではない筈だ。

 

 葉山隼人では、ここまで世界は変わらない。

 いても、いなくても――自分は同じなのだから。

 

 

――だけど、今朝、目が覚めたら

 

 

 それならば、誰だ?

 一色いろはに、あんな顔をさせたのは。

 戸塚彩加に、こんな顔をさせているのは。

 

 復活ではなく――消失。

 彼女から、彼から、何かを奪い、失わせたのは。

 

 

――どうしてそうしなくちゃいけないのか、全く思い出せないんですよ。

 

――どうしてそんな感情を抱くのか、理由も原因も思い出せないのに

 

 

 みんなの、記憶から――消えたのは。

 

 葉山隼人の復活よりも、遥かに世界に影響を与える――消失をしたのは。

 

「…………戸塚」

 

 掠れた声が、ほんの小さく、絞り出された。

 水分を摂らず菓子パンを食べていたからだろうか。喉がカラカラで、口の中がパサパサで、上手く言葉が――声にならない。

 

 けれど、自分が呼び掛けられたことは理解出来たようで、戸塚はゆっくりと葉山の方を向いた。

 

 葉山隼人は、戸塚彩加ではなく、ここではない誰かを――睨めつけながら問うた。

 

 

「――比企谷八幡……という男を、覚えているか?」

 

 

 戸塚の表情を見ることは出来なかった。

 

「…………ごめん――」

 

 

――思い出せない。

 

 

 葉山隼人は、一目散に駆け出した。

 

 




葉山隼人は、己が復活よりも世界を歪める、その男の消失を知る。


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Side葉山――③

どうして――お前は。


 

 

 バンッ――と、勢いよく開け放つ。

 

 見上げるのは、抜けるように青い空だった。

 

 皮肉なことに――本当に綺麗な青空だった。

 

「――――っっ!!」

 

 葉山隼人は――屋上に来ていた。

 

「――――何で――――っ」

 

 歯を食い縛り、拳を握り締める。

 

 思い返すのは、ほんの少し前に駆け込んだ――3年F組の光景。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 勢い良く扉を開けた葉山隼人を迎えたのは、昼休みが終わり、その殆どが席に着いていた3年F組の生徒達だった。

 

 着席せずにいたのは、ちょうど扉を開けた葉山の目の前――つまり教室後方にたむろしていた四人の男女のみ。

 

 その内の二人は、彼も見知った顔だった。

 

「――あれ? 隼人くん? 隼人君じゃね、マジなついわー!」

「だな」

 

 戸部(かける)。そして大和。

 共に2年F組時代のクラスメイトで、自分と同じグループに属していた二人。

 

 葉山にとっても少なくない友情を感じていた友達であり、彼らが自分に向かって再会の笑顔を向けてくれたことは嘘偽り無しに嬉しかったのだが――彼らもまた、自分が半年もの間、どうしていなかったのかという理由は尋ねてこなかった。

 

 そのことに少なくない失望のようなものも感じ――そして戸部の左手のサポーターのようなものも気になったが――葉山はそれらを振り払い、目的の人物を探すために教室を見渡す。

 

 いない。当然ながら、彼は登校してはいない。

 ぎちっ――と、ここまで来る間にもダメ元で掛け続けていた携帯を握り締める。

 

 そんな不穏な様子の彼に、戸部が「ど、どうしたん? 隼人く――」と声を掛けようとすると――。

 

 

「…………はや……と?」

 

 

 がたっ、と。

 窓際の席に座っていた一人の少女が、突如として現れた想い人を呆然と見詰めていた。

 

 その時、葉山はようやく、戸部と大和と一緒にいた女子達が、自分の見知らぬ少女達だと気付いた。

 いや、正確には知らなかったわけではない。だが、自分と近い存在であるわけでもない、名前と顔だけ知っている程度の存在だった。

 

 自分が再会を願った少女は、戸部達と遠く離れた、教室の端から、真っ直ぐに自分を見てくれていた。

 

「…………優美子」

 

 三浦優美子。

 2年F組において自分と同じグループに属していた少女で、自分達のグループの纏め役のようなポジションを担っていた少女。

 

 そして、きっと――葉山隼人に、特別な想いを、寄せていたであろう、女の子。

 

 葉山は三浦との再会に思わず優しい微笑みを浮かべる。

 想い人に名前を呼ばれたこと、優しい微笑みを見れたこと、そして何より――半年ぶりの再会なのだと、心が急速に理解を始めて。

 

「…………はやと………隼人ぉ……」

 

 三浦は――その瞳にみるみる内に涙を浮かべていった。

 

「――――っッ」

 

 その涙が――葉山隼人の心に突き刺さる。

 ガンツの記憶操作が働いているとはいえ、自分の半年ぶりの復活に、これほどまでに感情を見せてくれた人物はいなかった。

 

 やっと出会えた――葉山隼人を、待ち望んでくれていた少女。

 

 そのことに途方もない歓喜を覚えるも――途端に、脳裏に(よぎ)る地獄が鎮める。

 

 

――好きなんだから。気づいてたでしょ?

 

 

 致命傷の激痛の中、間近に迫る死の中で、葉山隼人に向かって微笑む少女が、過る。

 

 葉山は停止し、罅だらけの仮面を被って――笑顔を作った。

 

「――久しぶりだね、優美子」

「もう! 今までずっと何処行ってたの! あーしにくらい前もって言えし!」

「ごめんな、ホント。……姫菜も、久しぶり」

 

 おかえり、隼人君――三浦の前の席に座り、三浦の机に向かうようにしていた海老名は片手を挙げてそう言うに収めた。

 彼女らしいといえば彼女らしい淡泊さ。しかし、三浦の反応を見た後だからか、そこまで心は暗くならなかった。

 

 だが――と、思う。そこにもいない。三浦優美子と海老名姫菜、彼女達の傍にもいない。

 

 比企谷八幡が此処にいないのは覚悟していた。

 だが、それでも、此処には、あの二人はいる筈だった。

 

 二人とも3年F組に所属しているのは、平塚に名簿を見せられた時に確認している。

 内一人はどうしてJ組ではなくF組にいるのか不明だが、このクラスに名を連ねているのは間違いないのだ。

 

 葉山はもう一度見渡す。

 空席が思ったよりも多い。自分の目の前、廊下側の最後尾は二つ並んで空席だし、自分が置き去りにしてきた戸塚を含めても、まだ数人いないようだ。

 

 何らかの理由で欠席しているのか――それとも。

 

 葉山は、三浦と海老名の方を見ながら、ゆっくりと、笑顔を作って探るように言う。

 

「……結衣は……今日は、休みなのか? 雪ノ下さんも一緒なのか?」

 

 その言葉で、空気が凍った。

 

 え――と、葉山が不信感を覚えるも、教室の視線は一人の少女に向けられる。

 

 三浦優美子は――まるで幼い少女のように、泣き崩れた。

 

「~~~~~~~~~~~~~~っっ!! ぁぁ……ぁぁ……っ!」

 

 葉山は反射的に三浦の元へと駆けつけようとする――が。

 

「来ないでっ!!」

 

 騒めき始めた教室を一喝するように、鋭い叫び声が反響する。

 

「……姫菜……?」

 

 葉山は足を止めて、呆然と見つめる。

 涙をボロボロと流す三浦を宥めるように頭を撫でながら――こちらを睨み付ける、海老名姫菜を。

 

「……どうして……どうしていつも……結衣ばっかり……っっ!」

「…………そうだね。……今日、学校終わったら、お見舞い行こ。……ちょっとごめん。そこ退いてくれる?」

 

 海老名は三浦を立たせて、教室中の注目を視線だけで威圧して、彼女を守るようにして教室から連れ出そうとする。

 

「ひ、姫菜、ちょっと待ってく――」

「こんなことを無神経に聞いてくるってことは、隼人君は何も知らないんだよね。昨日のことだけじゃなくて、きっと半年前のことも」

 

 知ってたら、結衣と雪ノ下さんのことを、そんなへらへらと聞いてこれる筈ないもんね――と、薄い笑顔で、けれど、今まで見たこともないほどに冷たく恐ろしい顔で、葉山の方を見ずに言う。

 

 そして、その笑顔すら消して、葉山の方を向いて、三浦を守るようにして――告げた。

 

「やっぱり私――貴方が、嫌い」

 

 仄暗い――敵意。

 

 葉山は初めて――海老名姫菜が、怖いと、感じた。

 

 いつの間にか道を開けていた葉山のことを、海老名はつまらなげに見つめると、そのまま振り向きもせずに、背後に向かって小さく言った。

 

「――戸部くん。よかったら、隼人君に色々と教えてあげてくれないかな。何も知らないみたいだし。だけど、何も知らずにはいられないことだと思うから」

「……分かった。了解っしょ!」

 

 戸部は何も聞かず、何も言わず、ただ笑顔を作って親指を挙げた。

 

 海老名は、一度だけ彼の方を振り向き、そしてそのまま前を向いて「……ありがとう、とべっち」と呟いた。

 

 そのまま三浦を連れて教室を出ると、真っ直ぐに女子トイレの方へと向かおうとする。

 

 葉山は、廊下に出て彼女達の背中を見遣るが――何も、言えない。

 

 そんな葉山に、海老名は一度だけ振り向き、こう言った。

 

「……あの時、隼人君がいたら――ううん」

 

 何も変わらないよね――そう言って、再び葉山に背中を向けた。

 

 そのまま前を向いたままで、葉山隼人を視界から外したままで呟いた海老名が最後に言った言葉が、葉山の中にずっしりと響いた。

 

 

「だって、アナタは何もしないもんね」

 

 

 海老名が前を向くのに呼応するように、隣の三浦が葉山の方を向いた。

 

 涙を浮かべ、震え、まるで助けを求めるような瞳で。

 

「ゆ――っ!」

 

 葉山は名前を呼び――かける。

 手を伸ばして、足を踏み出して――だけど、そこから動けなかった。

 

 何を言えばいいのか、何をすればいいのか――何も、葉山は分からなかった。

 

 葉山は俯く。

 ゆっくりと目を上げると、もう彼女達は目の届く所にはいなかった。

 

 三浦優美子が、いつまで葉山隼人を見ていたのか――待っていたのか、彼は分からなかった。

 

 その事実が、葉山隼人の心を、鋭い爪で切り裂いたかのように痛めた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 だから――葉山隼人は、屋上に来ている。

 

「――――っっ!! 何で――――っっ」

 

 歯を食い縛り、拳を握り締め――壁を殴りつける。

 

 痛い――だが、血は流れず、心も晴れなかった。

 

 だから葉山隼人は、晴れ渡った空に向かって叫ぶ為に、屋上へとやってきたのだ。

 

「――何でっ! 何でだよっ!!」

 

 空は当然、何も答えない。

 

 葉山は血の代わりに涙を流しながら、戸部翔から聞かされた――己のいない空白の半年間への激情を吐き出した。

 

 

 

 半年前の――総武高校大量虐殺事件。

 

 半年間の、総武高校の、歪んだ、まちがった日常。

 

 そして、昨日の、池袋大虐殺――それに伴った、悲劇。

 

「何でだ……っっ。……どうして……何で……どうして…………ッッ」

 

 

 戸部翔は、こう語った――半年前の、総武高校大量虐殺事件を。

 

『……正直、さ。今でも偶に夢に見るんだわ。……あの日のこと』

 

 その凄惨な事件において、戸部は左手の指を砕かれた。

 サポーターを装着した左手を見つめながら、彼は力無い笑みをもって語った。

 

『俺は、大岡が何を思ってあんなことをしたのかは、今でも分かんねー。話を聞こうにも……大岡も、もう死んじまったし』

 

 加害者とされる大岡は、事件後に遺体で発見された。

 だが、J組で虐殺を働いた筈の大岡は、なぜか体育倉庫で物言わぬ死体となっていて、生徒間では一時期その矛盾について様々な憶測が飛び交ったが、やがてそれは七十五日と持たずに風化した。

 

『……正直、半年経った今でも、大岡の名前はタブー扱いなんだわ。たぶん、俺らが卒業するまでずっと。……アイツのことを今でも怖がってる奴らもいるし、J組に彼女とかいた奴はすっげぇ憎んでる。……けどさ、俺は何でか憎めないんだ。こんな手にされたのに……でも――』

 

 あの日のアイツ、おかしかったからさ――戸部は、どこかを見つめるような目で、左手を見つめながら言った。

 

『いや、それに気づいたのは、正直殴られる寸前で、それまでは俺も馬鹿みたいにはしゃいでたんだけど――今、思い返してみても……あんな目をする奴じゃなかったなーって。……まぁ、そうなるまで気づけなかったんだから……ほんと、うっすい友情だったんだけどさー』

 

 その時の戸部もまた、葉山の知らない表情をしていた。

 だけど、この表情は――きっと、葉山の知っている、知ることの出来た筈の戸部翔なのだと感じた。

 

 戸部は『……あぁ、わりぃ。で、結衣の話だっけ』と、葉山がよく知る笑顔で笑う。でも、それも見たこともない――見たくない、笑顔だった。

 

『さっきも言った通り、俺は開幕早々に退場くらったからさ。ひたすらいてーいてーつって救急車で運ばれたもんで……詳しいことは、あんま知らねー』

 

 だから、これは後から聞いた話なんだけど――と、戸部は、笑顔を消した顔で、少しの間、口を閉じて逡巡し、努めて感情の篭らない声で言った。

 

『――結衣は、そこで消えないくらいの大怪我を負ったらしい』

 

 雪ノ下さんを庇って。

 

 葉山は、再び、もう一度勢いよく壁を殴った。

 

 

「…………………何でっッ!!」

 

 浮かび上がるようだった。

 

 豹変した大岡。

 そして、その時に目撃されたという――()()()()()()()()()()()()()()()

 

 今では、総武高内でも世間的にも、極限状態の非日常で見た幻覚のような扱いになっているらしいが――葉山隼人には分かる。

 

 あの部屋を知っている、あの黒い球体を知っている――あの戦争を知っている、葉山隼人には。

 星人――そんな化物を知っている、葉山隼人には、分かってしまう。

 

 半年前、この高校で起こった悲劇が、どんな地獄だったのか――そして。

 

 その地獄の中で、あの男が、どんな思いで戦っていたのか。

 

 結果――大岡を、2年J組を、駆けつけた大勢の警察官を犠牲にしたことに。

 

 由比ヶ浜結衣を、雪ノ下雪乃を守れなかったことに。

 

 どれほど絶望し、どれほど絶叫したか――その光景が、浮かび上がるかのようだった。

 

 

『そっからの半年間は……なんていうか……みんな日常ってやつを取り戻そうと必死だった……ってかんじかなー』

 

 くだらねぇことで笑って、無言の間を無くして――空気を読んで、空気を作る。

 

 じゃないと、息が詰まって、苦しかったと。

 

『なんでか分かんないけど、優美子とも海老名さんとも話しづらくてさ。っていうか、気軽に話し掛けられるような感じじゃないっていうか……まぁよく分かんねぇんだけど。だから、俺は遠くから見てたんだけなんだが――』

 

 歪だった――と、戸部は言った。

 

 とにかく、そこだけ――まるで、別の世界だったようだと。

 

『雪ノ下さんは、誰が見ても分かるくらいに壊れてて。みんな近づこうとしなかった。だけど、結衣だけはいつも通り――ていうか前みたいに近づいてって……そんなとき、いつも優美子と海老名さんは……睨め付けてた』

『……睨め付けてた? 雪ノ下さんを?』

 

 戸部は違うと言った。

 

 雪ノ下雪乃ではなく、その隣にいた人物だと。

 

 何かが変わってしまった総武高の中で、殊更に変質した、異世界のような特異点。

 

 周囲に恐怖と異質を振り撒き、日常を取り戻そうとする世界を地獄のような瞳で睨眼し続けた――。

 

 

『――誰、だっけ?』

 

 

 ガンッ――葉山は再び、殴りつけた。

 

 ここにはいない誰かを。ここから逃げ出した誰かを。

 

 

「――――なん――で――っっ」

 

 

『昨日の池袋の事件さ……あれに巻き込まれたらしい……結衣が』

「なんで――」

 

 

『優美子さ……朝来た時から、泣いてたんだ。結衣から連絡もらったみたいで』

「――なんで――なんで――」

 

 

『海老名さんも言ってたよ。……なんで、って』

「なんでッ! どうしてッ!!」

 

 

『どうして――結衣ばっかりが――』

 

 どうして――彼ばかりが。

 

 どうして――お前は。

 

 

 

「どうしていつも!!! こんなやり方しか出来ないんだッッッ!!!」

 

 

 

 葉山隼人は――殴った。

 

 ただの壁を、全力で殴って、吠えた。

 

 つう――と、赤い何かが、涙のように流れる。

 

 分かっている。分かっている。葉山隼人には、分かってしまう。

 

 アイツが、由比ヶ浜結衣に、そして雪ノ下雪乃に、どのような思いを抱いていたのか。

 アイツが、由比ヶ浜結衣と、そして雪ノ下雪乃を、どのような思いで――解放したのか。

 

 そう――解放。

 アイツはきっとそんなことを思って、こんな馬鹿なことをしたのだ。

 彼女達をこれ以上傷つけない為に。彼女達をこれ以上苦しめない為に。

 

 合理的だと思って。最善策だと図って。アイツは彼女達の前から、そしてこの学校から消えたのだ。

 

 その結果、どんな光景がこの学校に広がっているのか、考えもしないで逃げ出した。

 

 

「――ッッ!!! 比企谷ぁぁぁあああああああああああ!!!!!」

 

 

 葉山隼人は、恐らくは二度と、この場所に戻らないであろう男の名を叫ぶ。

 

 澄み切った青空の、何処かにすらいるかも分からない男に向かって叫ぶ。

 

 比企谷八幡は死んでいない。だが、記憶操作はされている。

 その答えを葉山隼人は知らない。しかし、これがあの男の意図したものなのだと理解していた。

 

(アイツは、“これ”を俺に託した。いや、押し付けた。……自分がもう二度と戻るつもりはない場所を……その為に、アイツは俺を生き返らせた)

 

 葉山隼人は空を見上げる。

 

 変わってしまった世界。知らない世界。歪な世界。

 

 こんな世界で、あの男は、これまでどんな風に生きて――戦い続けていたのだろうか。

 

「俺はお前が嫌いだ」

 

 誰かに向かって呟く。

 

 そして、心の中で言う――俺は、比企谷八幡のようには、ならないと。

 

「だからお前の言う通りにはしない」

 

 アイツの思う通りには動かない――アイツの期待にだけは、絶対に応えない。

 

「俺は、お前に――負けたくない」

 

 葉山はそのまま、空に向かって背を向ける。

 

 そして彼は、誰かに挑むように、何かと戦う決意を固めたように――血を垂らす拳を握り、校舎の中へと戻っていった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、この場所にも――放課後は訪れる。

 

 総武高校。

 千葉県某所の海風が強い場所に位置するこの高校は、県内でも有数の進学校ではあるものの、それなりの部活動がそれなりに活動している。

 

 こうして夕暮れの時間になろうとも、未だグラウンドからは幾つかの運動部の掛け声が聞こえてくる。

 

 葉山隼人は、そんな光景を制服姿で複雑に見詰めていた。

 

「…………」

 

 既に新体制となり、三年生最後の大会へ向けてラストスパートを掛けている頃だろう。

 

 サッカー部も例外ではなく、一際大きく戸部翔の声が練習が始まってから今まで途絶えることなく響き続けていた。

 

 葉山の名前も、一応まだ残っているらしい――キャプテンとして。

 だが、ここ半年間、およそキャプテンらしい仕事は戸部が代わりに行っていたと、他の三年部員からは聞いていた。

 

 今から混ざりこんでも、戸部は笑って受け入れてくれるだろう。半年間のブランクがあれど、体は半年前のままなのだから鈍ってもいない。本人的にはタイムラグもないのだから、すぐにあそこに混ざっても、以前通りのエースの働きも出来るだろう。

 

 だが、葉山は――曲がりなりにも、それなりに真剣にサッカーという競技に高校生活を捧げてきたという自負のある自分は、それをよしとすることが出来なかった。

 それに――。

 

(――俺は…………またいつ、消えるかも分からない身の上だしな)

 

 文字通りの意味で。残酷なまでに、字義通りの意味合いで。

 

 消失と隣り合わせの再生。

 黒球に握られた命運。

 

 そんな状態で、まさか爽やかにスポーツで青春する資格など、ある筈もなかった。

 

(…………頑張れよ、戸部)

 

 葉山は、案の定グラウンドにいない一色を、グラウンドの奥のテニスコートで異常なまでにストイックにボールを追いかける戸塚を確認した後、そのままようやく帰宅を始める。

 

 このまま帰っていいのか。何か出来ることはないのか。やり残したことは。

 そう考える葉山だが、この状況を打開する方角すら見えない。

 

 一色、平塚。

 この辺りの面々はまだ校内にいるだろうが、彼女等から聞き出せることはもうそう多くないだろう。

 

 ならば、もっと比企谷八幡に近い人間は。

 川崎、材木座は余りにも自分と接点がない。その上、共に既に帰宅しているだろう。川崎に至っては今日登校すらしていなかった。

 

 三浦や海老名と共に由比ヶ浜の見舞いに――いや、三浦はともかく海老名には何故か自分は警戒されている。それに、十中八九、由比ヶ浜と一緒にいるであろう雪ノ下雪乃に、自分はどんな顔をすればいいのだろうか。

 

 雪ノ下陽乃――日常と戦場、両方の八幡を知っていて、今、最も八幡に近いであろう彼女と接触すれば、おのずと八幡本人にも近付けるだろう、が。

 

(……あの人が、俺をアイツに近づけるとは思えない)

 

 この状況が八幡の思惑である以上、あの人が八幡よりも葉山に利するとは、まったく思えない。

 

 あの人が――俺を許してくれているとは、思えない。

 

 なら――もう。

 

(――待つ……しか、ないのか?)

 

 葉山は己の首筋を(さす)る。

 後はもう、待つしかないのか?

 

 この状況が、比企谷八幡の消失が、黒い球体(ガンツ)による記憶操作によるものであることは明らかだ。

 陽乃も、そして八幡も、あの部屋に囚われた黒い球体(ガンツ)戦士(キャラクター)であることは揺るがない。

 

 そして黒い球体の傀儡である限り、何処に居ようとも、どれだけ逃げようとも、あの部屋に招集されることになる。

 あの男と会うには、話し、ぶつけるには――それしかない、のか?

 

 ならば――待つしかないのか? 待ち望むしかないのか?

 黒い球体(ガンツ)の招集を。黒い球体の部屋への招待を。

 

 あの戦争が、再び起こるのを――まさか……期待して、待てと。

 

「…………なんだ、それは……ッ」

 

 葉山は思わず下校の足を止めて立ち止まる。

 受験勉強でもしていたのだろうか、未だちらほらといる周りを歩く総武生に追い抜かれながらも、葉山は顔を上げることが出来なかった。

 

 そんな葉山を――突風が襲った。

 

「――っ!? な、なん――!?」

 

 だが、その風は、葉山だけが感じていた。

 

 周りを歩く少年少女は、突然に妙な挙動を見せている葉山を一瞥するものの、直に目を逸らして下校を再開させる。

 

 葉山はそんな彼等を困惑した目で見ながら――それ以上に信じられないものを見る目で、それを見る。腕で庇いながら凝視する。

 

 

 ゆっくりと着陸してくる、ロケットエンジンを装備したジャイアントパンダを。

 

 

(……パン……ダ?)

 

 パンダが空から飛来してくる。

 

 そんな超常的な光景を目の前にし、混乱の極致に陥る葉山だが、すぐに強制的に理解させられた。

 どんなに信じられない光景でも、それを目にすれば、直に現実だと思い知らされる。

 

 逃げようがない程に――パンダが着用している漆黒のスーツは、葉山にとって見覚えがありすぎるものだった。

 

(……今度は、何なんだ……ガンツ――ッ!)

 

 葉山が歯を食いしばりながら臨戦態勢を整えるのと、パンダの着陸が完了し、ロケットエンジンを消失させるのはほぼ同時だった。

 

 そして、この世界で最も派手に千葉に来訪したパンダを同校生が一切注目することなく――むしろ見えない何かを警戒する葉山を訝し気な目で見詰めているくらいだ――通り過ぎる中、ただ一人、葉山隼人はそのパンダから目を離さない。

 

「……何の用だ? 俺が死んでいる間に、パンダが迎えに来るシステムにでも変わったのか?」

 

 葉山隼人には珍しい、刺々しい皮肉めいた物言いに対し――パンダは。

 

「――葉山隼人。今夜は空いているか?」

 

 渋い声で、まるでデートの誘いのような口説き文句を告げる。

 

 

「俺と一緒に、首相官邸に行かないか?」

 

 




葉山隼人は、蒼穹に向かって絶叫しながら、この世で最も嫌いな男に対して叛逆を誓う。


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Side陽乃――①

………すごく、いい香りがする。………安心する、私の大好きな匂い。


 

 時間は少し遡り、オニ星人との戦争(ミッション)――池袋大虐殺の後、黒い球体(ガンツ)による採点が終わり、黒い球体の部屋に、比企谷八幡と雪ノ下陽乃だけが残された後の話。

 

 壊れきり、弱りきり、全てを失った少年に、太陽のような笑顔を持った美女が復讐の口付けをした――その後の、黒い球体(ガンツ)しか知らない、ちょっとした小話(ピロートーク)

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――というわけなので陽乃さん。陽乃さんは自室へと転送された後、可及的速やかに自宅から脱出してください。スーツは着たままでもいいでしょう。今から転送されるとしたら恐らくは夜明け前くらいでしょうし、その時間なら第三者に見られる可能性も低いと思います。念の為に透明化は施した方がいいでしょうが」

「……なにが、というわけなのかな?」

 

 あの後――あの情事の後、ガンツスーツを再び着直して廊下から黒い球体の部屋に戻ったと同時に唐突に切り出した俺の言葉に、陽乃さんは苦笑しながら首を傾げた。

 

 ……ああ、陽乃さんの顔が見られなくて早口になったのは認めよう。俺みたいな奴がやる照れ隠しなど誰にも需要がないという声も受け止めようじゃないか。だが、これは言わなくてはならないこと、陽乃さんに絶対にやってもらわなければならないことだ。

 

 ガンツスーツに再び着替える間、陽乃さんに聞かされたその話が確かなら、まだまだ俺達は気を緩めることなど出来やしない。

 

「今日は色々なイレギュラーがありましたが、従来通りならこの後、俺達は自室へと転送されると思います。ですが、陽乃さんの話の通りなら、今の雪ノ下家は怪物の巣窟でしょう。しかも――陽乃さんを一度、殺したような星人」

「…………」

「放置は当然出来ませんが、陽乃さん一人で相手をするのは危険すぎます。明日の朝一で俺と中坊――霧ヶ峰が乗り込んで、敵のトップ――話を聞く限りでは恐らくは陽乃さんの両親に()()()()()奴等でしょう――と、会って話をしようと思います」

「……へぇ、意外。今の八幡なら、星人は問答無用で即時殲滅! とか言い出すのかと思った」

 

 ……まぁ、たしかに、今の俺ならそう言うだろう。普通ならば。

 だが、陽乃さんの話が確かなら、その星人達はオニ星人のように、人間社会に深く溶け込んでいる。擬態して、紛れ込んでいる。

 そして、()()雪ノ下家を乗っ取る程に、社会的な地位を得ている知能が高い星人だ。もしかしたら、雪ノ下家の両親に化けている奴等ですら、その星人全体でみればトップでない可能性も――もっと“上”の社会的地位を得ている存在がいる可能性もある。

 

 そんな星人が形成している組織の全容を明らかにする為には、この繋がりを、出来れば潰すのではなく、突破口にしたい。

 

 ……それに――。

 

「――そいつ等には、万が一即座に戦争になったとしても、絶対に聞かなくてはならないことがあります」

「……本物のお母さんたちが、どうなったかだね。……それに――」

 

――雪乃ちゃんのことも。

 

 陽乃さんが、その名前を口にした時――俺の中に、どすんと重々しい何かが圧し掛かるような感覚が襲った。

 

 ……そうだ。

 陽乃さんは、奴等に殺された。一体、いつから“そう”なっていたかは分からないが、最低でもその時には、少なくとも雪ノ下の母親は、謎の星人にすり替わっていたことになる。

 

 そして、その日から、既に半年が経過している。

 俺は――そんなことには、全く気付かなかった。

 

 雪ノ下の母親に会う機会は終ぞなかったが、俺は雪ノ下と二十四時間一緒にいたわけではない。

 休日もかなりの時間を一人暮らしのアイツの家で過ごしたが、それでもアイツの症状がいくらかマシになってからは、夜は自宅に帰ったし、当然ながらガンツミッションの時は一緒にはいられなかった。

 

 つまり、雪ノ下の母親に化けている化物が、その謎の星人が、雪ノ下に接触するチャンスがなかったとはいえないのだ。

 なんせ母親だ。周りの人間はおろか、雪ノ下本人すら警戒心を抱かないだろう。……いや、もしかしたら()()雪ノ下なら、母親にすら警戒心を覚えるかもしれないが。それでも、そいつ等が雪ノ下に“何か”をするチャンスが有り余っていたのも確かだ。

 通院中送り迎えをしていた都築さんすら、こうなると信用できない。

 

 …………俺は、しばしの黙考後、陽乃さんの方を、意を決して向いて告げる。

 

「…………その事なんですが、陽乃さん」

「ん? なあに?」

 

 情事後、俺は初めて真っ直ぐ陽乃さんの方を向いたので、心なしか頬を染めて嬉しそうにする陽乃さんだったが、俺の告げた言葉に、その笑顔でぴしっと表情を固めた。

 

 

「俺と霧ヶ峰が雪ノ下家へ乗り込んでいる間――陽乃さんは、雪ノ下の元へ行ってもらえませんか?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「……………………」

 

 陽乃は、そんな昨夜の会話を思い出しながら、その機械の前に立っていた。

 

 昨日の今日なので、やはり体に少し違和感を覚え――生き返ったのとはまた別の要因だ――誰に気付かれている訳でもないのに妙に恥ずかしく、同時に物凄く嬉しくて偶に頬が緩みそうになったが、ここに到着する頃には流石に頭も冷え、そして気を引き締めていた。

 

 夜明け前、八幡の言う通りに自室に転送された後、陽乃は初めてのガンツミッションからの帰還に何の混乱も抱くことなく、即座にクローゼットへと駆け寄り、最低限の着替えと財布と携帯だけを持って、スーツの透明化を発動させながら窓から外に飛び降りた。

 

 一応、追っ手などが来ないか確認しながら、一目散に広大な雪ノ下家の敷地から脱出し、最寄りの公園の公衆トイレの中でスーツの上からジーンズとパーカーを着用する。

 雪ノ下陽乃としては相応しくない凡庸な服装だったが、それでも彼女が着れば最先端の流行ファッションのように様になるのだから不思議だ。

 

 そして、平日故に登校の学生が賑わう時間帯になる前に彼女の住むマンションに着くように計算しながら移動し――

 

――今、雪ノ下陽乃は、雪ノ下雪乃が一人暮らしをしているタワーマンションのエントランスにいる。

 

 時刻は、午前八時。

 規則正しい生活を送っているであろう雪乃ならば、おそらくはとっくに起床して登校準備を済まし、彼が迎えに来るのを待っているのだろう。

 

 と、そこまで考えて、そんなことは有り得ないのだと悟る。

 

 何故なら、彼女はもう――。

 

 陽乃は、何故、自分だけ別行動なのだと八幡を問い詰めた時、彼が目を逸らしながら――黒い球体を見つめながら呟いた言葉を思い出す。

 

『……もう俺は、雪ノ下と会うことは出来ません。……アイツはもう――』

 

――俺から、解放されているでしょうから。

 

「――――ッッ」

 

 陽乃は、ぐっと何かを堪えるように胸の上で右手を握り締めた後、突き動かされるようにエントランスから雪乃の部屋に呼び出しを掛ける。

 

 …………出ない。陽乃はもう一度呼び出す。

 出ない。三度、四度、五度――ベルは鳴るが、それでも雪乃は応答しない。

 

 陽乃は表情を歪める。

 ……八幡の話から覚悟はしていたが、呼び鈴に反応出来ない程に――これだけの距離を開け、高級タワーマンションのセキュリティに守られている状態ですら、他人との接触が出来ない程に――それほどまでに、雪ノ下雪乃は、陽乃の、自分の妹は――。

 

 こうなれば、身内ということを理由にマンションの管理人に部屋を開けてもらうしか……と、陽乃が最後の強硬手段を検討していると――。

 

 十度目――これが最後と陽乃が気持ち強く押したベルに対し、初めてスピーカーから反応があった。

 

『………………だ……だれ……?』

 

 消え入りそうな、か細い声。

 だが、それは半年振りに聞く――生き返ってから初めて聞く、愛する妹の声だった。

 陽乃はスピーカーに食いつくようにして応える。

 

「雪乃ちゃん!? わたし! 陽乃よ! お姉ちゃんだよ、雪乃ちゃん!」

 

 そう反応した後に、陽乃は八幡から聞かされたあのことに気付く。

 

 この世界で――自分はこの半年もの間、いなくなっていたことを。

 

 いないことに、なっていたことを。

 

 それはガンツミッションで死亡した、脱落した敗北者達の末路。ガンツによる犯行の、存在の隠蔽工作。

 

 自分も、葉山も、この世界の――おそらくは全ての人達の記憶から、存在が抹消されていた。

 いないことに、何も思われない存在。いないことが自然な存在。

 

 それを聞いた時、流石の陽乃も背筋が凍ったが、その後、八幡はこう言った。

 

『――俺に対する記憶工作は、ガンツミッションの脱落者に対するものと同じものだと、パンダはそう言っていました。直接関係者に会えば、崩れてしまうような強度の改変だと。……これは俺の予想ですが、きっと生き返った後、顔を合わせればそいつは、陽乃さんや葉山のことを思い出すんじゃないですかね? 出来事や思い出まで()()()()()()にはなっていないのは確認済みですから。あくまで思い出さないようにされているだけで……記憶(メモリー)防壁(プロテクト)が掛けられているだけで、抹消(デリート)まではされているわけではないと思います。……きっと、カタストロフィまで持てばいいと考えているんでしょう。……終焉が来たら、全部なにもかもごっちゃになりますから。なにもかもが――終わりますから』

 

 そう言った時の八幡は、自嘲めいた冷たい笑みを漏らしていたけれど、そのことに胸を痛めていた為に、雪ノ下陽乃ともあろうものがこんなことにまで思考が回らなかった。こんなことに、この事態になってようやく思い至った。

 

 この状態は――果たして()()()と言えるのか?

 

『…………おねえ、ちゃん?』

 

 雪乃の、訝しむような声。雪乃が、自分のことを、()()()()()()と、そう言った。

 

 陽乃の背中に、あの時とは違う種類の冷たい汗が流れる。

 不味い。雪乃は、陽乃のことを()()()()()()()()

 

 あの記憶操作は、顔を合わせなくては解除されないのか? 声だけの――機械越しの再会では、その防壁(プロテクト)は解けないのか?

 陽乃が焦りと共に――最愛の妹に忘られていたという胸の痛みを精神力で押し込めながら――この状況に対する打開策を瞬時に模索し始める。が――

 

『…………ねえ、さん? …………ねえさん! ねえさん! 姉さん! 姉さん!』

 

 突如、スピーカーから聞こえる雪乃の声色が変わる。

 陽乃はふうと息を吐く。よかった。どうやら防壁(プロテクト)は解けたらしい。

 

 と、陽乃が雪乃の声に答えようとすると――。

 

『ああ、姉さん! 姉さん姉さん姉さん! 姉さん! 姉さん! 姉さん!』

 

 ピクリと、その動きが止まる。

 スピーカーが壊れているのか、と、先にそんな可能性を陽乃は疑ってしまう。

 

 だが、雪乃は止まらない。まるで壊れたラジオのように、ただただ姉を呼び続ける。

 

「…………雪乃、ちゃん?」

 

 陽乃は、食い入るようにしていた体勢から、一歩、遠ざかる。スピーカーから、愛する妹の声から距離を置く。

 

 半信半疑だった。信じたくなんてなかった。けれど――逃げられない。もう、逃げられない。逃げる訳にはいかない。

 陽乃の脳裏に、昨日の、あの八幡の罪の告白が、何度も何度も懺悔していた、あの言葉が過る。自分は――。

 

――雪ノ下雪乃を、()()()()()()()、と。

 

『姉さん! 姉さん姉さん! ああ、姉さん! そこにいるのね姉さん! 姉さんがそこにいるのね! ああ姉さん、来てくれたのね! よかった……本当に………姉さん……姉さん姉さん……ねえさん……ねえさんねえさんねえさん』

 

 陽乃が唇を噛み締めながら、残酷な現実に涙を堪えていると、スピーカーから響く雪乃の声に、徐々に嗚咽が混じり込んでいく。

 

 途端、陽乃は焦りながらスピーカーへと再びへばり付き、その妹の涙に反応する。

 

「どうしたの、雪乃ちゃん!? 何かあったの!?」

『ああ姉さん。心配してくれるのね? 姉さんはそこにいるのね? 来てくれたのね? 来てくれるのね?』

「雪乃ちゃん! お姉ちゃんはここにいるよ! 雪乃ちゃんに会いに来たの! だから開けて!」

『開けるわ。直ぐに開けるわ。今すぐ開けるわ。だからお願い。来て。すぐに来て。お願い、姉さんお願い――』

 

 陽乃は開いた自動ドアに向かって駆け出す瞬間、スピーカーから聞こえた最後の言葉に――思わず、その足が止まった。

 

『――今すぐ……私を……助けて』

 

 その言葉は――重かった。

 

 妹を溺愛し、雪乃の為ならば何だって出来ると、何だってしてみせると、そんな思いをずっと抱いてきた――今でもそれは、こうして生き返った今でもそれは、いや一度死んだからこそこの思いは、変わらず、むしろあの頃以上に強く抱いていると言える、誓える……その筈、なのに。

 

(…………八幡は、ずっとこれを背負ってたんだね。…………自分が、雪乃ちゃんを()()()にしたっていう……自責と、一緒に…………半年も……そして、これからも……ずっと)

 

 陽乃は、思わず泣きそうになった。

 上を向いて、唇を噛み締めて、拳を強く握って。

 

「――――ッッッ」

 

 そして、再び、今度こそ――愛する妹の元へと向かう。

 

 愛する妹を――そして、愛する男を、傷つけ続けるこの世界を呪いながら。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして雪ノ下陽乃は、タワーマンションの十五階――表札のないその部屋の前に立つ。

 はっきり言って嫌われていたが故に、陽乃は殆ど訪れたことのなかった、愛する妹の暮らす部屋だ。

 

「……………」

 

 一度、その扉を前に足を止めると、次の瞬間には陽乃の指は真っ直ぐインターホンへと伸ばされていた。

 上等な楽器の音のようなものが響く――と、同時に、ガチャガチャガチャと複数個の鍵が乱雑に焦ったように開いていく音がする。

 

 それに対し、陽乃は扉の前から少し距離を取りつつ、けれど唇を軽く噛み締めて、待つ。

 

 時間にしては数秒――その扉は内側から勢いよく開かれた。

 

「姉さん!」

 

 そう叫びながら、その少女は勢いよく目の前に立っていた女性に向かって飛びついた。

 

「――――っっ!!?」

 

 対して陽乃は、その一瞬――扉が開いて中から飛び出してきた少女が自らの胸の中に収まるまでの、その一瞬、垣間見えたそれに、目に飛び込んできて、目を奪われたそれに――()()()に、絶句する。

 

「……………ゆき、の………ちゃん………」

 

 掠れた声を漏らす陽乃に対し、雪乃は姉の豊満な胸に顔を埋めながら、その存在を確かめるように何度も何度も顔を擦り付ける。

 

「ああ、姉さん。姉さん、姉さんだわ。どうして忘れていたのかしら。こんなにも頼りになる人を。私を守ってくれる人を。ああ姉さん。姉さん姉さん姉さん姉さん!」

 

 雪乃は気付かない。自分が抱き付いている姉の身体が――小刻みに震えていることに。

 

「………ぁぁ」

 

 陽乃は、震える己を掻き抱くように、自分の胸の中の雪乃を、優しく、愛しく、包み込むように抱き締めた。

 それに感激したように、雪乃は悩ましい声を漏らしながら、姉さん姉さんと姉の温かさに身を溺れさせていく――自分を守ってくれる存在に、依存していく。

 

 失った何かを、失くしてしまった誰かを、補うように。

 

 陽乃は、そんな雪乃を抱き締めながら、垣間見えたそれに、見てしまった現実に、涙を流す。

 

(………雪乃ちゃん………こんなのって………こんなことって………)

 

 扉を開け、一目散に自分に抱き付いてきた、満面の笑みを、救われたかのような笑みを浮かべていた、雪乃の、妹の、その瞳は――。

 

「……………ッッ!」

 

――いつかの誰かのように、どんよりと………腐っていた。

 

 

 

 

 

 雪ノ下雪乃は、陽乃の知る彼女では有り得ない、ダボダボのトレーナーとスウェットという恰好だった。

 平日の朝だというのに登校準備どころか、おそらくは寝間着のままであるという感じだった。

 

 まぁ、こんな様子だととてもではないが登校など無理だろうという、陽乃の、この雪ノ下雪乃を受け入れようとする心の整備は、部屋へと上がった所で、再び悪い意味で――この最悪の状況から更に悪い意味で裏切られた。

 

「――――っ!?」

 

 調度品の少なさ――最低限さは、陽乃の知る雪乃らしさを辛うじて残していたが、高校生の少女の一人暮らしのリビングとしては広過ぎる室内に散乱する服やら本やらが、その機能的な家具達を覆い隠していた。

 

 否――覆い隠せてはいなかった。元々雪乃は無駄遣いをせず、物欲も乏しい少女だった。精々が猫関係やパンさんグッズくらいだろう。だが、その数少ない私物や私服が、辺り一面に投げ捨てられ、放り出されていた。全てを覆い隠せてはいないことが、却ってこの惨状をいやに現実的にし、彼女の行動を思い起こさせた。

 

 見えるようだ。彼女の姿が。おそらくは陽乃がここに来るまでの、今日、目覚めてからの彼女の、悲痛な行動が。

 

 まるで、何かに縋りつくように。置いていかないでと、縋りつくように。

 遮二無二に、一心不乱に、狂ったように、家中の至るところを引っ繰り返して、探し、探し、探す。求めて、求めて、探し求める。

 

 引き出しは一つ残らず開けられ、リビングに来るまでの廊下から見えた残り二つの部屋、バスルームやトイレに至るまで、全てのドアが開けられ、そして全ての中は此処と同じ有様だった。

 

 それでも――結局、見つからず。

 

 そして――。

 

 雪乃は「座って」と、デッキから出したのであろう『パンダのパンさん』のディスクをざぁっと乱雑に払い、スペースを作ったクリーム色のカウチソファを陽乃に勧める。

 言われる通り座った陽乃は、その部屋の惨状を見て、眉尻を落とす。

 

 この部屋は、まるで泣き叫んでいるようだった。

 突然、放り出され、捨てられ――切り捨てられ、泣き叫ぶ幼子の嘆きのようだった。

 

 お願い! 捨てないで! 行かないで! 私を守って! ――そんな、雪乃の、失った何かへの、失くしてしまった誰かへの、悲痛な――。

 

「――――」

 

 ふぁさっ、と、ソファに座った陽乃に、彼女の背中側に回り込んで、雪乃がしがみ付いた。

 そして、陽乃の、自分と同じ艶やかな黒髪に顔を埋め、すぅと深く息を吸い、身体の中に取り込むように香りを嗅ぐ。

 

「ゆ、雪乃ちゃん?」

 

 陽乃はくすぐったいような感覚を感じて身を捩るが、雪乃はそれでも陽乃にしがみ付いて香りを嗅ぎ続け――。

 

「――あぁ、やっぱり。姉さん………すごく、いい香りがする。………安心する、私の大好きな匂い」

 

 陽乃はその雪乃の言葉に、少し照れくさそうに頬を染めるが、次の言葉に、表情と共に身を固まらせた。

 

「――【彼】の、匂い」

 

 陽乃はバッと振り向き、目を見開いて雪乃を見つめる。

 雪乃は、同じく頬を染めて、けれど壊れそうな、泣きそうな微笑みを浮かべて、座る陽乃を見下ろしていた。

 

「ゆ、雪乃ちゃん! 覚えてるの!? はちま――比企谷くんのこと!?」

 

 その言葉に、雪乃は、壊れそうな微笑みを更に深めて――ゾッと、陽乃ですら息を呑むような、美しい雪の結晶のような儚い笑みを浮かべた。

 

「――いいえ。覚えていないわ。………でも、姉さんの口振りから確信したわ。…………そう、いたのね。私が忘れてしまっただけで……【彼】は、この匂いの人は、やっぱり、ここにいたのね」

 

 そう言って雪乃は、自らが身に纏うトレーナーの袖口を、そっと愛おしそうに口元に寄せる。

 陽乃は、それによってようやく気付いた。雪乃が着ている、彼女の趣味に合わないダボダボの地味な上下の部屋着――それは、きっと――。

 

「……今朝、目が覚めた時……なぜだかは分からないけれど、物凄く不安で怖くなったの。……【彼】が来てくれれば大丈夫って思ったのだけれど――その【彼】が……誰なのか……思い出せなくて……【彼】の顔が、名前が、声が……何も、思い出せなくて……そこで、もう…………耐えられなくなった」

 

 雪乃はそう言いながら、ゆっくりとソファの前へと回り込んで、陽乃の横に座った。

 

 そして、儚く微笑みながら、今朝の自らの恐慌について自嘲するように語る。

 

「とにかくこの怖さを消したくて……ぽっかりと空いた何かを埋めたくて……必死に必死に探した。家中を探し回って……恥ずかしながら、随分と散らかしてしまってね。……それでも見つからなくて……やっとみつけたのが、これなの」

 

 そういって雪乃は、サイズの合っていない大きな寝間着を陽乃に見せるように袖口を握りながら広げる。そして、そのまま袖口を口元へと運び、大きく深呼吸した。

 

「……この匂いを嗅いだ時、なぜだか少し、恐怖が薄らいだ気がしたの。……守ってもらえるような、誰かが傍にしてくれるような、そんな気が。……【彼】の……顔も、名前も、声も思い出せないけれど……きっと、これが、【彼】の匂いなんだって、そう思うの。……ふふ、変よね。【彼】が誰なのか……そんな人がいたのかどうかすらも確信が持てないのに……よく考えたら【彼】が男性か女性なのかすらも不確かなのに……それでも――」

 

 雪乃は、雪の結晶のように儚く、今にも壊れてしまそうな美しい笑みを浮かべながら――【彼】のことを思いながら、呟く。

 

「――この匂いを嗅いでいるだけで……【彼】が傍にいて、守ってくれるような……そんな気がするのよ」

 

 陽乃は、その雪乃の言葉に――何も言えなかった。

 

 ただ、悲痛に表情を歪め、雪乃から目を逸らすことしか出来なかった。

 何も言ってあげることが出来なかった。八幡のことを事細かに教えようとしても、記憶操作が解けた自分のことならばまだしも、未だ記憶操作が継続している八幡のことを、【彼】に会って記憶を引き出すことでその防壁(プロテクト)を内側から破壊するならともかく、第三者の自分が強引にその防壁(プロテクト)を破壊しようとしたら、雪乃にどんなダメージが残るか分からない。

 

 それに――こんな妹に対し、こんな状況で……それでも。

 八幡のことを、これほど美しい笑みで語るその姿に。彼の匂いが染みついた服がこの部屋にあるということに。それを別の女が身に付け、その匂いを嗅いでいるということに――どうしようもなく、嫉妬している自分がいた。

 

 燃えるように嫉妬している自分がいて、こんな状態の、儚い妹に対して攻撃的な気持ちを抱いている自分がいて――陽乃はどうしようもなく自分に怒りを覚えた。

 

 このままいっそ、永久的に、八幡のことを忘れていて欲しいとまで思った。

 

 そんな自分が許せなくて、そんな自分では、こんな自分は、いつか、この儚い少女を、美しい妹を――。

 

「――――っ!」

 

――壊してしまうのではないかと、恐ろしくなった。

 

『――俺は……雪ノ下雪乃を……壊して、しまいました……』

 

 陽乃はギリッと歯を食い縛る――何かを堪えるように。こんな自分を、戒めるように。

 

 自分はそれほどまでに八幡に狂っているのだと自覚し、自嘲的な笑みが漏れた。しかも、そのことに恐怖と同時に、どうしようもなく歓喜している自分もいて。

 

(……これも、あの部屋の影響なのかな……八幡)

 

 いいや、きっとこれは、自分が元々持っていた一面が浮彫になっただけだろう。自分が元々抱えていた歪みから、逃げきれなくなっただけだろう。

 

 好きなものを構い過ぎて殺すか、興味のないもの徹底的に殺す。

 

 自分の外側にはどこまでも非情になれて、自分の内側にはどこまでも貪欲であり続ける。

 

 愛して、愛して、愛して、愛して、愛して。

 そして――愛して欲しい。

 

 自分だけを見て欲しい。自分だけを聴いて欲しい。自分だけを嗅いで欲しい。自分だけを触って欲しい。自分だけを味わって欲しい。

 

 そして、【彼】にも、そうであって欲しい。

 

 そう――【彼】を見るのは自分だけがいい。【彼】を聴くのは自分だけがいい。【彼】を嗅ぐのは自分だけがいい。【彼】を触るのは自分だけがいい。【彼】を味わうのは自分だけがいい。

 

 そして、それを邪魔するものに対しては、自分はきっとどこまでも残酷になれる。

 

 雪ノ下陽乃は、今、この瞬間、それを徹底的に自覚した。

 

 なぜなら、今、自分は――。

 

(――こんな状態の雪乃ちゃんに対してまで……わたしは……殺意を抱いちゃったんだから)

 

 陽乃は、そっと雪乃を抱きしめる。

 

「…………姉さん?」

 

 ぽかんと首を傾げる雪乃の呟きを聞きながら、陽乃は気付いていた。

 

 あの時、機械越しの自分の声だけで、雪乃は雪ノ下陽乃に対する記憶を取り戻した。

 いくら防壁(プロテクト)が解けているとはいえ、機械越しの声だけで思い出したのは、恐らくは、雪乃が頼れる何かを、自分を守り、助けてくれる誰かを、強く、強く求めていたからだ。

 

 この部屋の惨状が、その何よりの証拠だ。匂いだけでは足らなかったのだ。堪らなかったのだ。怖くて、怖くて、怖くて。失くしてしまった、いなくなってしまった【彼】の残り香だけを拠り所に、この電気すら点いていない広過ぎる家の中、きっと、ずっと、ずっと震えていた。

 

 雪乃は、ギュッと携帯電話をずっと握り締めている。おそらくは【彼女】に助けを求めていたのだろう。そこには【彼】の番号も残されているだろうが、雪乃にはもう【彼】の名前も思い出せないのだから、呼び出すことは出来ない。それに、彼はもう、携帯電話など処分しているだろう。

 

 そして、そんな状況で、そんな暗闇で、唐突にやってきた雪ノ下陽乃という存在に、雪乃は縋った。

 

 彼女にとって自分は、雪ノ下雪乃にとって雪ノ下陽乃という姉は、それほどに頼れる存在だと、守ってくれる存在だと、彼女はどこかで認めてくれていた。声だけで、黒い球体(ガンツ)防壁(プロテクト)を破り、存在を思い出してくれる程に。

 

 そんな妹に、そんな雪乃に対し、自分は――あろうことか、殺意を向けた。

 

 愛しの【彼】の匂いを嗅ぐ雪乃に嫉妬した。こんな服を部屋に残す程に【彼】に日常的に守られていた妹に嫉妬した。【彼】と、記憶を失った今でも、解放された今でも、壊れていても、歪んでいても――絆を持つ、儚い少女に嫉妬した。

 

(……本当に……救えないなぁ。……お姉ちゃん、失格だよ)

 

 陽乃は、雪乃を優しく、愛しく強く、抱き締める。

 

「……姉さん――泣いているの?」

 

 陽乃は、雪乃を優しく、愛しく強く、強く強く抱き締める。

 

 彼女の首筋に顔を埋め、彼女の身に着けるトレーナーから香る【彼】の残り香を嗅ぎながら――そのトレーナーに、自らの涙を染み込ませる。

 

 抱き締める。強く、強く――懺悔するように、泣きながら。

 

 雪乃は、そんな姉の温かさと、【彼】の香りを纏う姉の髪に、そっと幸せそうに顔を綻ばせた。

 




妹は、姉の髪から香る【彼】に安堵を覚え――姉は、妹の服から香る【彼】に殺意を覚える。


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Side陽乃――②

……本当、私って歪んでるなぁ。


 

 

 初めて“雪”を見た日のことを、陽乃は今でも鮮明に覚えている。

 

 

 それは、確か母の実家へと帰省した日のことだ。

 

 母は自分のことを語りたがらない。

 千葉の出身ではないことは知っているが、そこは果たして何県だったのか――何しろ、母の地元へと帰省したのは、それが最初で最後のことだった。

 

 確か、まだ雪乃は生まれたばかりで、自分もまだ二才だった。

 人の記憶が鮮明に残り出すのは二才から三才頃と言われているので、むしろ、この雪の記憶こそが、雪ノ下陽乃の原初の記憶といえるのかもしれない。

 

 その息を吞む程に美しかった雪景色こそが、雪ノ下陽乃の原風景なのかもしれない。

 

 覚えている。

 父が運転する車の後部座席で眠っていた自分は、起きたらそこは一面の雪景色で、まるで世界が変わったような、見知らぬ異世界に迷い込んだかのような、そんな衝撃と感動を覚えたことを、陽乃はよく覚えている。

 

 覚えている。

 木造平屋の見たこともない家に住んでいた、綺麗な白い着物の女性が迎えてくれたこと。

 雪乃を抱いた母と父が、その女性と何やら話し始めたことを尻目に、初めて見る世界を探検すべく、何かに惹かれるように、自分は白い世界へと飛び込んでいったことを、陽乃ははっきりと覚えている。

 

 覚えている。

 

 今もはっきりと、まるで細胞に刻み込まれているかのように覚えている。

 

 初めて見た白色を。

 初めて聞いた雪踏音を。

 初めて触った、何かを奪うような冷たさを。

 

 その風景の全てを――雪ノ下陽乃は覚えている。

 

 そこは全てが白で、全てが冷たく、全てが恐ろしく。

 

 そして、この世のどんな場所よりも、その雪の世界は――何よりも、美しかった。

 

 

――どう? 綺麗でしょう? 人間達で溢れ返る“外”の世界より、ずっとずっと美しいでしょう?

 

 

 声を掛けられた気がする。

 両親から離れ、どこまでも白い世界で呆然と佇んでいた自分に、その人は声を掛けてくれた気がする。

 

 白い着物の女性だった。

 白い着物に、白い肌、黒い髪の、ぞっとする程に――美しい女性。

 

 両親と話していた人よりは幼い容姿の、見たこともない誰かは、陽乃の傍に立ちながらも、その目はどこまでも広がる雪原へと向いていた。

 

 

――ここの雪は、全てを覆い隠してくれるの。ここの白は、全てを塗り潰してくれるの。汚さも、傷も。痛みも、穢れも。全部、全部ね。

 

 

 白く、美しい女性は、脆く、儚い目をしていた。

 

 陽乃は後に、この美しい白い世界を作り出している雪とは、美しく儚い結晶なのだと知った。

 

 その時、陽乃は思った。

 

 この時、この美しい女性が浮かべていた笑みは――まるで雪のようなそれだったと。

 

 美しく、冷たく――脆く、儚い。

 

 

――この場所は好き。この雪を見ていると、私も綺麗になった気がするから。穢れた私でも、嫌われた私でも、まだ美しいと、言ってもらえるような気にさせてくれるから。

 

 

 だから、私は――大嫌い。

 

 

 幼い陽乃には、その女性の言葉の意味は何一つ分からなかった。

 

 それでも、何故か、その雪と、その世界と共に、彼女の言葉の全てを一つ一つ記憶している。まるで、刻み込まれたかのように。

 

 彼女の雪のような笑顔と、雪のような美しさと共に――覚えている。

 

 

 不思議ね――と、雪のような女性は言った。

 

 

――こんなにも白い世界なのに、ここは、外の世界と違って寒くない。凍えもしない。……だけど、ここには、何もないわ。

 

 

 ここには温かい――“黒”が、ないの。

 

 

 そう呟いた彼女は、この時、初めて、小さな陽乃に向かって目を合わせて微笑んだ。

 

 

――あなた、お名前は?

 

 

 陽乃! ――と、二人の背後から、娘の名前を呼ぶ両親の声が届いた。

 

 雪のように白い女性は、そんな陽乃の両親の方を一度向いて、再び陽乃に向かって微笑みかける。

 

 

――あたたかそうな、いい名前ね。

 

 

 そう言って、陽乃の頭を撫でる。

 その美しい手は、まるで――雪のように冷たかった。

 

 

――その名前に負けないくらい……誰にも、何にも……世界にだって負けないくらい、強くなりなさい。ハルノ。

 

 

 そうすればきっと、誰よりもあなたは、幸せになれるわ。

 

 

 雪のように、美しく、儚い――脆く、切ない笑みと共に――白い女性は、そう言って。

 

「―――!」

 

 その時、白い世界に、温かい一筋の光が差し込んだ。

 

 陽乃は眩しそうに目を瞑り――目を開けると。

 

 白い女性は、まるで雪が溶けたかのように、辺り一面の雪景色に溶け込んだかのように、雪の下へと消えていったかのように、どこにもいなくなっていた。

 

 その後、両親に勝手にいなくなったことをしこたま怒られたような気もするが、そっちの方は陽乃はよく覚えていたかった。

 

 ただ、まるで何かを探すように、より深くどこまでも刻み込むかのように、全てを覆い隠す雪景色を、全てを塗り潰す白い世界を、父親に手を引かれながらも、眺め続けていたことは覚えている。

 

 

 

 そして、気が付くと、陽乃は車の後部座席に居て、窓の外には見慣れた千葉の街が広がっていた。

 

 それ以降、現在に至るまで、雪ノ下家は母の――雪ノ下陽光(ひかり)の実家を訪れたことはない。

 何度かそれとなく陽乃は帰らないのかと打診をしてみたが、それが実現したことはなく、ならばと陽乃は単独で訪れようかとも思ったが、しかし、公式上の記録では、雪ノ下陽光は()()()()()()()で、()()()()()()()であった。

 父である雪ノ下豪雪(ごうせつ)こそが婿養子であるが、豪雪の方も千葉生まれの千葉育ちであり、雪国の出身という記録は何処にもなかった。

 

 両親も口を揃えて言うのだ。母の実家というのならば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と。

 

 そうはっきりと言われた時には、何せ二才の時の記憶である、雪ノ下陽乃といえど自らの記憶を疑い、小さな子供にありがちな人聞きの話をまるで自分の思い出のように刷り込んでしまっただけなのかと思おうともしたが――それでも、未だ、はっきりと覚えているのだ。

 

 あの、何もかもを覆い隠すような雪を、何もかもを塗り潰すような白を。

 

 あの、雪のように美しく、冷たく、脆く、儚い笑みを浮かべる白い女性を。

 

 だからだろうか。

 

 雪ノ下陽乃が、雪ノ下雪乃を何よりも愛するようになったのは。

 

 この美しく、冷たく、脆く、儚い――妹を。

 

 まるで雪の結晶のような、雪ノ下雪乃という存在を。

 

 

 自らの腕の中で、微笑む妹を見て――陽乃は。

 

 己の中に刻み込まれた、あの白い女性の笑顔を。

 

 雪のような笑みを、はっきりと覚えているその笑みを、今、再び、はっきりと思い出していた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 壊れた妹と再会し、そんな妹に殺意を抱いた邂逅から――数時間後。

 

 雪ノ下陽乃は雪ノ下雪乃を連れて、昨夜の戦場――東京都豊島区、池袋へと凱旋していた。

 

「……もうすぐね、姉さん」

「……ええ。着いたら起こしてあげるから。無理せずに寝ちゃいなさい」

 

 そう言って陽乃は、己にしがみ付く雪乃の髪を撫でながら、後部座席の窓から見える東京の景色に目を細める。

 

 流石に昨日の今日で、池袋駅は機能を復活させていない。

 なので、陽乃は適当にタクシーを借りて、駅周辺の戦場跡ではなく、とある病院まで車で向かっていた。

 

 目的地は――来良総合医科大学病院。

 

 この病院に――彼女は。

 

 由比ヶ浜結衣は、昨夜の地獄のような戦場から搬送されていた。

 

 

 

 

 

 由比ヶ浜結衣に会いに行く。

 

 雪ノ下雪乃の惨状を見て、雪ノ下陽乃はそう決断した。

 

 これほどまでに壊れ切ってしまった妹を救えるのは――【彼】と――【彼女】しかいないと、そう分かり切っていたから。

 そして【彼】と会わせることは出来ない以上、残る選択肢は、残る救いの手は――由比ヶ浜結衣しか、有り得ない。

 

 けれど、陽乃は由比ヶ浜とそこまで深い親交はない。というよりも殆どない。

 したがって、由比ヶ浜との連絡は雪乃の携帯を使うしかなかった。

 

 が、目覚めてから何度となく掛けたであろう履歴が証明するかのように、由比ヶ浜とは連絡がつかなかった。

 そのことに陽乃は疑問を覚えることはなく、むしろ納得のようなものを覚える。

 

 続いて陽乃は、昨夜に八幡から教えてもらっていた、とあるジャイアントパンダへのメールアドレスにメールを送った。

 昨夜の池袋大虐殺――その被害者の中から、由比ヶ浜結衣という少女の行方を捜して欲しい、と。

 

 その結果は、数分後には陽乃の携帯に届いた。

 

 内容は――陽乃の想像通りだった。

 

(………本当に、神様は八幡のことが嫌いなんだね)

 

 陽乃が手の中に握るのは、画面に罅が入った雪乃の携帯電話。

 かろうじてタッチ機能が生きているディスプレイには、まるで顔面を引き裂くような構図で、とある男子生徒の写真が待ち受け画像にされていた。

 

「………………」

 

 画像のみでは記憶を蘇らせることは出来ないのか、それとも人相に罅が入っていたことが原因なのか――ただ確かなのは、この画像情報では雪乃の【彼】の記憶に対する防護(プロテクト)を破壊することは出来なかったということ。

 

 機械越しの、嫌っていた筈の姉の音声ですら防護(プロテクト)を破壊して見せる程に、支えを求めていた雪乃。

 それでも、最も欲しかった筈の支えを、取り戻すことが出来なかった――儚き、妹。

 

 陽乃は、まるで気絶するように眠る雪乃の髪を撫でながら――()()()()()()()()()

 

「……………」

 

 ずっと、思っていた。

 この子は、まるで雪の結晶のような女の子だと。

 

 あの原初の記憶の中の白い女性が、どうしても重なった。

 白く、美しく――脆く、儚い。

 

 それはまるで芸術品のように綺麗で、だけど、人肌ほどの温もりに触れただけで、それは儚く溶けてしまう。

 

 誰も寄せ付けず、何にも縋らず――それでも、たった一粒では何も出来なくて、寄り合わなければ積もることも出来ない。

 

 温かくないと、原初の風景に佇む、白い女性が言っていた。

 誰かに触れると消えてしまいそうな程に儚いのに、傷つきやすく脆いのに――それでも、縋るように遠くを見てしまう。

 

 その姿に、きっと陽乃は――。

 

 そんな美しい姿に、雪を溶かしてしまう名前を持つ自分は――だからこそ、きっと。

 

「…………………」

 

 感情が読み取れない表情のまま、陽乃は雪乃の携帯を置くと、続いて自分の携帯を取り出す。

 パンダから届いたメール——パンダの絵文字がふんだんに盛り込まれたそのメール、その内容は、予想通りだった。

 

 由比ヶ浜結衣という少女は、昨夜の池袋大虐殺に巻き込まれ、来良総合医科大学病院に入院しているというものだった。

 

 

――……由比ヶ浜。

 

 

 昨夜、黒い球体を撫でながら、全てを消去することを決断した、愛する男の漏らした呟きが蘇る。

 

 彼は――きっとこれを知っていた。だからこそ――雪乃のように、【彼女】も解放することを決めたのだ。

 

 彼の目を、彼の声を、彼の手を、彼の痛みを、彼の表情を、彼の、気持ちを——彼の、あの時の彼の、その全てを詳細に思い出して。

 

「………………ッ」

 

 陽乃は、静かに唇を噛み締める。

 

 その胸に渦巻く感情の種類は、きっと言葉に出来なくて、口にしたくもない色だった。

 

 ああ、本当に。

 

 この世界は――寒く、凍えそうに冷たい。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 千葉を出立してから数時間――陽乃と雪乃を乗せたタクシーは、来良総合医科大学病院に到着した。

 

 マンションを出たのが午前中の早い時間であった為、まだ面会時間には余裕があるだろう――そう思っていた陽乃だったが、病院の入口前を見て、その考えは少し甘かったかもしれないと思い始めていた。

 

 病院の前は、負傷した被害者や、その家族で溢れ返っている。

 あの地獄のような惨状を生み出した戦争から、まだ一日も経っていない――その傷はおろか混乱すらも収まっている筈もなく、治療どころか見舞いに、それも家族でもない者がやってきたと言っても、果たして通してくれるかどうか不明だった。

 

(……それに、厄介なのもうろついているしね)

 

 我先にと押しかけている負傷者や患者の家族の中に紛れて、別種の人間が混在していることに、陽乃は気付いていた。

 

 悲愴でもなく、恐慌でもなく――好奇に目の色を変えている人間共。

 カメラやICレコーダーなどをぶら下げている者は分かり易い。そうでなくても、手帳や帽子、ゲームをするふりをして撮影モードを起動しているであろう携帯端末を持って――取材という名の狩猟をしにきた、喉を鳴らして色を変えた目を光らせている獣共。

 

(……本当に、こういう時は異常にフットワークが軽いなぁ。人の不幸が蜜どころかマックスコーヒーよりも甘いんだろうね――マスコミって)

 

 知る権利を絶対の盾と矛として、どんな時だろうと、どんな場所にだって、記録機器と共に国家権力よりも素早くやってくる——現代の怪物。

 マスメディア――当然と言えば当然の登場に、陽乃は大きく溜息を吐く。

 

 昨日の最後の戦場――桐ケ谷和人と牛人の邪鬼との戦場であった池袋東口前にて、自分と和人を映していたテレビカメラの存在に、雪ノ下陽乃は当然として気付いていた。

 地元の有力者であり政治家でもある男の後継者最有力候補たる長女として、公の場に付き添う経験も豊富だった陽乃は、情報を食糧とする獣の気配に自然と敏感になっている。

 

 だからこそ、ここまでの移動中、陽乃はサングラスを一度たりとも外していない。

 幸いなことに陽乃はそんな自意識過剰な行動をとっていてもなんら不自然のないオーラを身に着けていたし、その格好が実に様になっていた。タクシーの運転手も、陽乃のこのような振る舞いに違和感を覚えている様子もない。むしろ、そんな陽乃にぴったりと引っ付いている、部屋着姿のままの雪乃の方に意識を向けているようだった。それはそれで陽乃にとっては不愉快なのだが。

 

 そんな感情が思わず出てしまったのか、病院正面入口から少し距離を置いた場所で、思った以上に威圧感のある声色で「ここでいいです」と、運転手へ言ってしまう。

 運転手は「は、はい」と声を上ずらせながら会計を済ませた。

 

 その間、陽乃は頭の中で考えを纏める。

 

 ここまで来る間に、陽乃は自身のスマートフォンで手に入る限りの情報を集めていた。

 テレビやネットニュースを始めとし、ツイッター等のSNS、果ては信憑性が極めて怪しい掲示板まで、時間の許す限り、電子の海を潜り廻った――結果。

 

(……桐ケ谷くんが、まさかSAO事件の英雄だったなんてねぇ。でも、そのお陰か彼の方にだいぶ注目は集まっている。……でも、ここまでばっちり顔が映っちゃうと、警察なんかはもう私を特定しているかもね)

 

 それに、テレビカメラが捉えたのは自分と和人だけだが――他の黒い球体の部屋のメンバー達の存在も、いつまでも安全とは限らないだろう。

 

 自分達が今から会いに行こうとしている少女のように、あの凄惨極まりない地獄を、『池袋大虐殺』を生き延びた一般人達は――殺された人数とどちらが多いかは定かではないが――それなりの数として存在している筈だ。生存している筈だ。

 そんな彼等のスマートフォンの中に、命懸けの野次馬根性で撮影された写真が存在している可能性は、そして、その中に他のガンツメンバーが映っている危険性は、決してゼロではない筈だ。

 

 あれほどまでにはっきりとテレビ映像として流れているのだ。ガンツが今更、個人レベルの携帯端末のメモリーにまで気を回してくれるとは思えない。

 

(……さて、そうなると、これもそろそろ処分しなきゃね)

 

 陽乃は自分の携帯端末を()()()()()()()、雪乃を連れて車外に出る。

 まだ知らない人間が大勢いるところは怖いのか、雪乃は少し怯えたような目をしていたが、陽乃はそっと微笑みながら手を差し出して――もう片方の手で排水溝に元携帯の残骸を捨てながら――彼女を優しくエスコートした。

 

 そして、再び正面入口前の報道陣を見遣る。

 何はともあれ眼前に迫った問題としては、確実に顔が割れているであろう自分が、恐らくは確実に昨夜の『池袋大虐殺』の情報を求めて群がっているであろう報道陣の中を突破し、病院の中に入らなくてはならないということだ。

 

(私一人なら簡単なんだけどね)

 

 なにせ今の自分はお手軽に透明人間になれるスーツを着ているのだ。

 その上、身体能力も大幅上昇のおまけ付きなので、いっそのこと屋上まで壁伝いにジャンプして、そこから階段を下って病室を目指すなんてことも可能――だが、それでは何の意味もない。

 

 何故なら、ここに来た目的は、雪乃を【彼女】に会わせることなのだから。

 自分の役目は、怯えてしがみ付いてくるこのか弱き少女を、【彼女】の元まで送り届けることなのだから。

 

 このか弱く、弱弱しく、弱り切っている少女を――と、そこまで考えて。

 

 雪ノ下陽乃は、軽蔑しきったかのような冷たい眼差しを――己に向けた。

 

(……本当、私って歪んでるなぁ)

 

 今更か――と、無言で吐き捨てて、陽乃はまっすぐに正面入口に向かって歩き始めた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 結果として――雪ノ下姉妹は問題なく報道陣の群れを突破し、来良総合医科大学病院に足を踏み入れることに成功した。

 

 元々、診療時間中の病院なので、その入り口をあからさまに封鎖することなどメディアには出来ない。

 そして、その上で、ここは病院だった。

 

 見知らぬ他人が群がる中、【彼】を失った影響で未だかなり不安定な状態である雪乃は、顔を青くし、妙な汗も流しながら、必死に陽乃にしがみ付きながら歩く。

 そんな状態の姉妹に、もちろんかなりの注目は集まったが、それはあくまで病弱な妹を支える姉――只の美人姉妹という意味合いでだった。よって、マイクを向けられることもなく、そのまま真ん中を通り過ぎることが出来た。

 

 もしやどこかの芸能人では――といった色の注目も熱かったが、それはそれで陽乃にとっては好都合だった。

 昨夜の黒いスーツを着ていた美女――という方向性とは別方向のベクトルで注目されれば、下手にコソコソと隠れて忍び込もうとするよりも却って看破されにくいものだ。

 

 それが、陽乃が生を受けて二十年以上かけて磨き抜いてきた――大人の目を欺く技術だった。

 勿論、後々になって、もしかしたらさっきのあの美人は――と思い至る人もいるだろうということは、陽乃も確信している。

 

(…………長居は無用だね)

 

 そう考えながら、陽乃は忙しなく行き交う看護師の中でも、一際慌てふためいている新人らしき女性に目を付け――笑顔で、雪ノ下陽乃の笑顔で、こう尋ねた。

 

「すいません。昨夜の事件でこちらに運び込まれた、由比ヶ浜結衣さんの友人なのですが――」

 

 病室に案内してもらえませんか――Noと言わせるつもりなど、さらさらなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 エレベーターの、扉が開く。

 扉の前には、びっしりとしたスーツを着用した、一組の男女が立っていた。

 

 公的な職業であることを思わせる、見るからに役人といった男女だった。

 雪乃は彼等を見るとぶるりと身体を震わせて、体を硬直させていたが、そのままグイッと何かに押されるように、彼等の前を通り過ぎるようにエレベーターを出る。

 

 女の方はスウェット姿の雪乃を訝しむように、男の方は、雪乃自身というよりは、何かに押されるように進んでいく雪乃の背中を、訝しむように見ていたようだったが――確信は得られなかったのか、後についてくることも、声を掛けてくることもなく、そのままエレベーターへと乗り込んでいった。

 

 

 そして――扉が閉まった瞬間、人気の無い廊下に火花が散るような音が発生した。

 

 

(……ふう。間一髪だったね。あの女の方はともかく、男の人の方は明らかに只者じゃなかったな)

 

 エレベーターの中にいた自分達以外の人間が途中で全員降りてくれたのは本当に幸いだった。今、この廊下に人がいないのも。

 突如としてスウェットの少女――雪ノ下雪乃の背後に現れた美女は、鋭い眼差しで自身の背後を見遣る。

 

(……何となく嫌な予感がしたってだけだったけど、こういう勘みたいなのも馬鹿に出来ないね。八幡もガンツミッションを重ねる毎に、そういう第六感みたいなのが研ぎ澄まされてく感覚がしたって言ってたし)

 

 ラフな格好の美女――雪ノ下陽乃は、そのまま目線を自分の前で震えながらゆっくりと進む雪乃に戻し、彼女の身体を支えるようにして言う。

 

「雪乃ちゃん。ごめんね。もうこっち向いていいよ」

「……いいの?」

「うん、ありがとう。それじゃあ、いこっか」

 

 咄嗟のことだったので、雪乃には突然、しばらくの間だけ自分の方を向かないでいて欲しいと伝えることしか出来なかったが、この妹はそれに何の疑問も抱かず、不安と恐怖に震えながらも姉の命令を必死に実行した。

 

 そんな歪に他者に依存しきっている妹の姿に、震えるような恐怖に耐えながらもそれ以上に見捨てられることを恐れて命令に忠実に従うこの壊れた有様に、陽乃は何かを噛み締めるような表情を一瞬だけ()ぎらせながらも、柔らかく雪乃を抱き締めた。

 

 腕の中に愛しい妹の温かさを感じながら、陽乃は目的の病室まで向かう。

 

 この儚く歪に壊れた雪乃にとって、今、最も『支え』になってくれるだろう、【彼女】の元へ。

 

 実家である雪ノ下家は信用出来ない。【八幡】はもう、雪乃を手放し、解放してしまった。

 そして、姉である自分は――こんな状態の妹に、あろうことか殺意を向けてしまう始末だ。

 

 情けないことこの上ない。救われないことこの上ない。

 

 だが、雪ノ下雪乃(この子)には――もう、【あの子】しかいない。

 

「……ここだね」

 

 陽乃は、いつの間にか己の腕にしがみ付くような体勢になっていた雪乃の頭を撫でながら言う。

 

 意を決し扉をスライドさせる。すると、入口近くのベッドにいた女子中学生と目が合い、陽乃は会釈し、雪乃は隠れた。

 

 病室は大部屋で、左右二列に三台ずつのベッドの六人部屋のようだった。

 その全てが埋まっていて、全員が女性。

 下は先程の中学生くらいの少女から上は高齢の老人まで、一緒くたに詰め込まれている。おそらくは空いているベッドに手当たり次第といった様子なのだろう。怪我の様相もまちまちだが、一様に身体のどこかに痛々しい処置後があった。

 

 そして、そんな大部屋の、右側の列の、一番奥の、窓際のベッド。

 いつかのように――半年前のように、可愛らしい薄いピンクのパジャマを着て、上半身を起こしている少女がいる。

 

 おそらくは両親だろう一組の男女の背中越しに、来客に気付いた彼女は、いつかのように、そして誰かのように、儚げに、陽乃の印象には無い淑やかな声色で言葉を紡いだ。

 

「――ゆきのん……来てくれたんだ」

 

 由比ヶ浜結衣が、親友の見舞いを、美しく大人びた微笑みと共に静かに歓迎した。

 




壊れきった雪の結晶は、かつてと同じく、窓際のベッドで美しい微笑みを浮かべる親友を見舞う。


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Side陽乃――③

――いつか一緒に、地獄に堕ちようね。


 

 雪ノ下陽乃は、雪ノ下雪乃を愛している。

 

 臆面もなくそう言えた――仮面を被りながら、そう笑って言えていた。

 そうだ。生まれてから――雪乃という妹が生まれてから、陽乃は姉として、家族として、この莫大な愛を枯らしたことは一度だってないと誓うことが出来る。

 

 だけど、いつからだろう。

 そんな妹の前でさえ、化物のような仮面を外せなくなったのは。

 

 いつからだろう。この愛情が、一方通行となったのは。

 いつからだろう。あの愛妹が、笑顔を向けなくなったのは。

 

 でも、それでも、これだけは――いつだって、胸を張れていた。

 

 仮面の笑顔でしか向き合えなくても。苦々しい顔で睨まれても。どれだけ歪んでいると言われようとも。

 嫌われても。報われなくても。――粘つくように、妬ましくても。

 

 雪ノ下陽乃は、雪ノ下雪乃を愛している。今でもずっと。これからもずっと。

 

 それが誇りであり、生き甲斐であり――言い訳でもあった。

 自分は妹を愛する姉なのだと。妹を愛することが出来る――人間なのだと。

 

 だが、それが今日、はっきりと、揺らいでしまった。

 妹を哀れみ、妹に嫉妬し、妹に殺意を抱いてしまった――こんな姉は、こんな自分は、本当に人間なのかと。

 

 そして、我が妹は、我が愛する妹は、我が愛すべき妹は。

 

 いや――この子()は。

 

 本当に――人間なのかと。

 

 人間とは、ここまで――。

 

 

 

 本当に、怖かった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「由比ヶ浜さん!」

 

 雪乃は由比ヶ浜の姿を見つけた途端、陽乃の腕から離れて、一目散に彼女の元へと駆け寄っていった。

 

 そのことに陽乃は僅かに胸が痛んだが、そんな資格が自分に無いことに気付いて、自嘲的に一瞬俯き、他の入院患者の見舞客に向かって頭を下げながら後に続く。

 

 ベッドに腰掛ける由比ヶ浜の傍には、彼女の両親と思われる二人の大人の男女がいたが、雪乃が来たことで気を遣ってくれたのか、彼等はカーテンを広げて敷居を作りながら、自分達は席を外そうとしてくれた。

 陽乃は二人に頭を下げながら――由比ヶ浜夫妻は笑顔で結衣のお見舞いに来てくれてありがとうと言った。どうして娘が来良総合医科大学病院(ここ)に入院していることを知っているのかなどを聞いてこない限り、人がいいのか頭が弱いのか器が大きいのか――カーテンを少し開けて中に入る。

 

「…………」

 

 真っ先に目に入ったのは、由比ヶ浜結衣の両手をグルグル巻きに覆う、痛々しい包帯だった。

 雪乃は泣きそうな顔で由比ヶ浜のその手を見つめていて、由比ヶ浜は大丈夫だよと優しく微笑む。

 

 そして由比ヶ浜は、カーテンの中に入ってきた陽乃と目が合い――しばし呆然とした後――小さく息を呑んで、目を見開いて、口を開いた。

 

「……陽……乃さん、ですよね? ゆきのんの、お姉さんの。来て、くれたんですか?」

「――ええ。たまたま知人の伝手で、ガハマちゃんがあの池袋の事件に巻き込まれて入院してるって聞いてね。それを雪乃ちゃんに話したら、今すぐ行くって聞かなくて。……手、痛そうだね」

「あはは……ありがとうございます。わざわざ東京まで。……少し不便ですけど、でも、あたしは運がよかったんだと思います。……もっと、酷い目に遭った人は、いっぱいいるから」

 

 そう言って由比ヶ浜は、窓の外を遠い目で見つめた。

 憂いを帯びた表情で、ぽつり、ぽつりと語り出す。

 

 由比ヶ浜の掌は、血が噴き出て、肉が抉れて、とても酷い状態だったらしい。

 幸い瓦礫片などは問題なく取り出せたらしいのだが――。

 

「――少なからず、痕は残っちゃうらしいんだ。……はは、なんか、去年からそんなんばっかりだね。……どんどん、傷だらけの女の子になっちゃうな」

「……由比ヶ浜さん」

「……………………」

 

 陽乃は、この病院に来る途中に、タクシーの車内で雪乃から半年前の事件のことを聞いていた。

 J組の虐殺の下りは雪乃が過呼吸に陥る為に深くは聞けなかったが、由比ヶ浜については、少しは聞くことが出来た。

 

 彼女の背中には――半年経った今でも癒えない、まるで刀で切られたかのような傷痕が残っている。

 そして此度、再び戦争に巻き込まれたこの少女は、その身に癒えない傷を、新たに残した。

 

 身にも――心にも。

 

「……小町ちゃんがね。……まだ、見つかってないんだって」

 

 そう、ぽそりと、由比ヶ浜は言った。

 雪乃は「…………小町、さん?」と首を傾げ、陽乃は悟られないように奥歯を噛み締め、自身の肘をギュッと握った。

 

「……昨日……あたしは小町ちゃんと一緒に、池袋に居たの。……そして……巻き込まれて…………託されたの」

「………託……された?」

「……うん。小町ちゃんを…………頼むって」

 

 陽乃は、分かりきっていることなのに――返ってくる結果も、返ってこないという結果も、分かりきっていることなのに、反射的に問うた。

 

「……………誰に?」

 

 その、何よりも残酷な問いを、問うてしまった。

 

 自分で自分が、分からなかった。

 一体、どんな答えを――期待していたのだろう。

 

 由比ヶ浜が返した答えは、陽乃の予想通りだった。

 期待通りだったかは――結局、分からなかった。

 

 分かりたくなかった。

 

「…………………分かり……ません……っ」

 

 由比ヶ浜は、泣いていた。

 半年前のあの日、終ぞ雪乃の前では泣かなかった由比ヶ浜が、雪乃の前で、陽乃の前で、ぼろぼろと涙を流し始める。

 

「…………分かんない……分かんないよぉ……っ」

「由比ヶ浜さん! 由比ヶ浜さん!」

 

 雪乃が必死に肩を抱き、その雪乃の切羽詰った声に病室の他の患者達やスタッフが騒めくが、陽乃はそっと顔を出して大丈夫だと告げた。

 

 そうだ。これは、彼女達だけの、悲しみだ。

 かけがえのない“彼”を失った、彼女達だけの――。

 

「……大事なものの……はずなのに…………ないの…………分かんないの……思い出せないよぉ……ゆきのん……ゆきのん」

「……由比ヶ浜さん」

「……あれ……あれぇ…………どうしてぇ……どうしてなのぉ……ずっと……ずっと……あたし…………どう……してぇ」

「――っっ! 由比ヶ浜さん!」

 

 飛びつくように、雪乃は由比ヶ浜に抱き付いた。

 

 雪乃も、泣いていた。あの日のように、泣きながら、由比ヶ浜に抱き付いた。

 

 あの日と違うのは、由比ヶ浜も、止まらない涙を流していること――そして。

 

「――由比ヶ浜さんが………………無事で、本当によかった」

 

 あの日、自分が彼女に言った言葉を、今度は彼女に言ってもらえて、由比ヶ浜は少し口元が緩む――相変わらず、瞳からは涙が溢れ続けているが。

 

「……あなたまで……失ってしまったら……私……私……」

「……そっか。ゆきのんも……なんだね。……やっぱり……居たんだね」

 

 由比ヶ浜は、病室の天井を――ここではない、遥か遠くに行ってしまった“誰か”を思いながら、呟く。

 

 

「………………どうして、こうなっちゃったのかなぁ」

 

 

 その、悲痛な、泣き笑いの呟きは――陽乃の心を、鋭く抉った。

 

「……あたしたち……どうして……こうなっちゃったんだろう……ゆきのん……なにがダメだったのかなぁ……どうすれば……よかったんだろう」

「私には、……わからないわ」

「……うん、そうだよね。……あたしも……あたしも、全然わかんないよぉ……」

 

 陽乃は、もう見ていられなかった。

 表情を歪め、目を瞑り、俯いていく。出来れば、両手で耳も塞ぎたかった。

 

 だが、耳を塞ぎきる前に――その少女の、その言葉が、響く。

 

 

「――でも、わかんないで、終わらせちゃ……ダメ、だよね」

 

 

 その言葉に、バッと陽乃が顔を上げる。

 

 由比ヶ浜結衣は、目を真っ赤に腫らしながら、それでも――微笑んでいた。

 強く、強く、微笑んでいた。

 

 雪乃は、ゆっくりと顔を上げて、そんな由比ヶ浜と向き合った。

 

「……ゆい、がはま……さん?」

「ゆきのん……あたし、このままじゃやだよ。……わかんないけど……全然わかんなくて……何にも、思い出せないけど……でも、やだよ。分かんないけど……でも、すっごく、大切だった気がするの。……大好きだった……気がするの」

 

 由比ヶ浜は、強く、強く、強い眼差しで――決意する。

 

 その瞳に――雪ノ下陽乃は、己の肘を、爪が食い込む程に、強く握り締め、生唾を飲み込んだ。

 

「あたし、このまま、分かんないで終わらせたくない。終わらせちゃ……いけない。……だから、行かなきゃ」

「……行くって、どこへ?」

「分かんない。でも、とにかく行かなきゃいけない。……どっかへ行っちゃったんなら、あたしはそれを追いかける。……ずっと……ずっと、探すよ」

 

 雪乃と由比ヶ浜が、相手と、己と、そして"彼"だけを見据えて交わしている会話に、陽乃は、声を震わせないことに最大限の注意を払いながら、割り込んだ。

 

「……ガハマちゃん。本気?」

 

 陽乃は、何かに突き動かされるように、鋭い眼差しで由比ヶ浜に問う。

 

「何も分かんないんでしょ? それが何かも分かんないんでしょ? 顔も、名前も、声も、匂いも。その人の性別も、年齢も。生きているのか、死んでいるのかすらも分からないんでしょ? どんな関係だったのかとか、今どこにいるのかとか、どこかにいるのかすらも、何も、全く分からないんでしょ? 何が分かんないのかも分かんなくて……そんな状態で、何処に、何をしにいくの?」

 

 先程まで感じていた痛み、罪悪感が、今は焦りと怒り、恐怖に変わっていた。

 何故だかは分からない。でも、陽乃は、目の前のこの少女が怖かった。

 

 ……雪乃だけではない。この少女も、由比ヶ浜結衣という少女も、雪乃に負けず劣らず……いや、もしかしたら、雪乃以上に――。

 

「……分かんないです。……でも――」

 

 由比ヶ浜結衣は、笑みを――今にも壊れそうな、否、何かが壊れてしまった笑みのままに、つぅと一雫の涙を流す。

 

 血のような、涙を流して、壊れたように言う。

 

「――あたし、今のままじゃやだから……」

 

 そして、胸の中の、己にしがみつく雪乃を見下ろして、言う。

 

「……ゆきのんも……そうだよね? だから、お願い、ゆきのん……」

 

 聖母のように慈愛の籠った微笑みで、包帯だらけの手で、雪乃の髪を撫でながら、言う。

 

「……あたしを、助けて」

 

 雪乃は、大きく目を見開き――そして、微笑む。

 いつかのように。長らく見てこなかった、強い笑み。

 

 雪乃の瞳が、氷が解けていくように、輝きを取り戻していく。

 

「……それを、あなたが言うのね。……あなた()、卑怯だわ」

 

 そして、雪ノ下雪乃は立ち上がる。

 由比ヶ浜の頭を抱え込むように、ギュッと抱き締める。

 

「……ずっと、あなたに助けてもらってきたんだもの。……断れるわけ、ないじゃない」

 

 そして、由比ヶ浜の耳元で、囁くように答える。

 

「――あなたの依頼、受けるわ」

 

 由比ヶ浜は、その言葉に、身を震わし――。

 

「……え、へへ」

 

――雪が溶けるような、熱い、涙を流した。

 

「……ゆきのん。いい匂いがするね」

「……私のではないわ。……きっと、“彼”のよ」

 

――ここにいない、“彼”の証よ。

 

 そんな言葉と共に、雪乃は、家からずっと着ていた、“彼”のトレーナーに由比ヶ浜の顔を押し付けていく。

 

 自分と、彼女と、“彼”。――この三人だから、三人だからこそ、この穴は、自分と彼女の心に、ぽっかりと空いたこの穴は埋められるのだと、そう確信するように。

 

「……まずは、小町さんを探しましょうか」

「……そうだね。……小町ちゃん……探さなきゃ。託されたんだから」

 

 雪乃がゆっくりと由比ヶ浜を離すと、由比ヶ浜はずっと洟を啜りながら――雪乃がそっとトレーナーに鼻水が付いていないか確認していた――雪乃の言葉に強く首を縦に振る。

 

「――姉さん。頼みがある……の……?」

 

 服に汚れがないことを確認して、雪乃が陽乃の方を振り向くと――

 

 

――そこには、窓から入り込んだ風によってたなびくカーテンがあるのみで。

 

 

 雪ノ下陽乃の姿は、既にそこには、影も形もなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 あの場にそれ以上いることに耐え切れなくなった陽乃は、雪乃と由比ヶ浜に何も言わずに病室を出た。

 

 忙しなくスタッフが行き交う廊下に出て、大きく息を吐く。

 無理だった。これ以上は無理だった。見ていられなかった。耐えることが出来なかった。

 

 彼女達が――美しすぎて。目が潰れそうだった。眩し過ぎた。

 

 そして。

 

 そして、そして、そして――。

 

「――――――っっっ」

 

 これ以上なく――哀れ過ぎて。

 

 あそこまでだとは思わなかった。聞いていた話以上だった。

 そうだ。そもそも、その話をした“彼”が、主観となる彼自身が、どうしようもなく既に壊れ切っていたというのに。

 

 その“彼”が、壊れ切っていた彼を以てしても“壊れている”と、言わしめた彼女が、自分の妹が、愛する妹が、愛すべき妹が――雪ノ下雪乃が、そんじょそこらの壊れ具合でないことは、容易に想像出来た筈なのに。

 

 記憶にない、思い出せない、誰かを探す。諦めない。諦めるという、発想がない。

 顔も、名前も、声も、匂いも、姿形も、年齢も、関係も、性別も、生存すらも――何もかもが思い出せない。

 

 そんな誰かを、探してみせると、昨日の今日で、すぐさま再起動するかのように決意する。動き出すことが出来る。出来てしまう。

 

 思い出の彼を求めるとか、幼い頃に結婚の約束をした許嫁を探すだとか、そんな可愛いものじゃない。

 思い出すらないのだ。あるのは只の――喪失感だけ。大事だった“筈”という、余りにも不確かな、心の穴だけ。

 

 それなのに。それなのに。それなのに。

 

 迷わず一歩を踏み出せる彼女達を。

 

 自分達にはそれしかないと。自分達にはもう、それしかないのだと。

 解放されても、記憶を消されても、切り捨てられても――例え“幻影”でさえ、"残り香"でさえ、“彼”に縋り、“彼”を求め、“彼”に依存し続ける彼女達を。

 

 異常――ではなくて、なんだというのが。

 

 壊れていなくて、歪んでいなくて、なんだというのか。

 

(…………八幡、ダメだよ。……"解放"なんかじゃ………全然足りないくらい……あの子達はもう、取り返しがつかないよ――)

 

――どうしようもなく、壊れてるよ……。

 

 重い。重い。なんという重さか。

 なんという重さで、なんという想いなのだろう。

 

 ここまでいくと、恋とか、愛とか、そんなもんじゃないだろう。

 

 もっと歪で、もっと痛々しくて、もっと台無しで。

 

 もっと重くて、もっと悍ましくて、もっと、もっと――哀れな、何かだ。

 

「………あら。もういいの?」

 

 気が付いたら、待合室へと辿り着いていた。

 

 由比ヶ浜の母から声を掛けられ、陽乃はそちらに目を向ける。

 

 待合室にいるのは由比ヶ浜夫妻と――女性が一人。

 初めて見る女性だが、由比ヶ浜の母とよく面影が似ているので、彼女の姉妹――由比ヶ浜の叔母だろうか。

 

 その辺りを追及する余裕は陽乃には無かったが、その彼女の方から、恐らくは由比ヶ浜叔母であるだろう方から、陽乃の方に声を掛けてきた。

 

「……大丈夫? 顔色が悪そうだけど?」

 

 陽乃はそれに、弱弱しい笑みを浮かべながら答える。

 

「……ええ、大丈夫です。……でも、少し急用が出来てしまって……私は、これで。……雪乃ちゃ――妹は、もう少し残りますが……」

 

 陽乃がそう言うと、由比ヶ浜夫妻と由比ヶ浜の叔母と思しき女性は会釈と共に陽乃と交錯するように病室に向かおうとする。

 夫妻は陽乃を気遣うような表情を、叔母は口角を上げるような笑顔を、それぞれ浮かべて去っていく。

 

 陽乃はそれを見送り――とある場所へと、足を向けた。

 

 そして、頭の中を巡るのは、自身が愛するとある少年への言葉。

 

(――八幡。………わたしも、同罪。……正真正銘の……共犯者、だよ)

 

 雪ノ下雪乃。由比ヶ浜結衣。

 

 きっと、自分は、彼女達を壊す。――壊れ切っている彼女達を、いつか、きっと、もっと決定的に、もっと致命的に破壊する。

 

 彼女達は、これからも絶望し続けるだろう。

 

 比企谷小町は――もうこの世にいない。彼女達が救おうとしている彼女は、既に何処にも居らず、灰になって死んでいる。

 比企谷八幡は――もう戻ってこない。彼女達を解放した彼は、きっと二度と、彼女達の元に帰らないだろう。

 

 そして、自分が――雪ノ下陽乃が、そんな"彼"の隣にいることを、自分達が座れるかもしれなかった椅子を占拠していることを、いつか彼女達は知ることになる。

 彼女達が欲し、求め、縋る“彼”を――比企谷八幡を、雪ノ下陽乃は独占し続ける。

 

 彼女達にとって――雪ノ下雪乃と、由比ヶ浜結衣にとって、比企谷八幡がどんな存在か、どんな存在に成り果てているか、嫌になる程に、あの雪ノ下陽乃が、恐れ慄く程に理解した。

 だが、それでも陽乃には、八幡を譲るつもりなど――微塵もない。

 

 彼女達を、壊れ切った彼女達を、ぎりぎりのところで繋ぎ留めているのは、間違いなく八幡だ。

 解放した今でも、失った今でも――だからこそ、その微かな残り香に、残りカスで搾りカスのような幻影に縋ることで、彼女達は己を保っている。

 

 きっと、比企谷八幡を本当の本当に失う時――自分達の元に戻らないと、彼女達が理解してしまった時。

 彼女達は、今度こそ決定的に終わる。決定的に壊れ、致命的に破壊される。

 

 その鍵を握っているのが――爆破スイッチを握っているのが、最後の引き金(トリガー)となり得るのが――きっと、雪ノ下陽乃だ。

 

 だが、陽乃は――そこまで理解して尚、迷いなく躊躇なく八幡を選ぶ。

 あんな怖過ぎる、恐ろし過ぎる恋敵達を、救う道など選ばない。

 

 切り捨てる。愛する妹を――切り捨てる。

 

 そう、きっと自分は、そうしてしまう――そんな姉になってしまった。

 

 きっと、自分は、ずっとそんな人間だった。

 

 きっと、ずっと、そんな――化物だった。

 

 陽乃は、全身を小刻みに震えさせて、唇を震えさせて、八幡を呼ぶ。

 

「………は……はち……まん……」

 

 

――雪ノ下のこと、よろしくお願いします。

 

 

 昨夜、彼が自分に託した言葉。かつて、自分が彼に託した言葉。

 

 自分は――自分も、この約束を――果たすことが出来ない。

 

(……また…………雪乃ちゃんを……選んであげることが……出来なかった……ッ)

 

 陽乃は涙を流しながら、掠れた声で――懺悔する。

 

「……ごめんね……ごめん……なさい……っ」

 

 まるで、何かに背を向けるように。何かから逃げるように。

 

 雪ノ下陽乃は一目散に、その病室から離れるべく、リノリウムの廊下を歩き続けた。

 

 

 そして、一歩、また一歩と、歩き続けながら、遠ざかりながら――逃げ出しながら。

 

 

 雪ノ下陽乃は、悟っていた。

 

 妹離れの、時が来たと。

 

 

 八幡が小町を失ったように、自分も雪乃を失う時が来たのだと。

 

 自業自得で、失う時が来たのだと、理解した。

 

 シスコンを――卒業する瞬間(とき)が訪れたのだ。

 

 

 もう、雪ノ下陽乃には――雪ノ下雪乃の姉を名乗る資格など、ないのだから。

 

 愛しているなどと、口が裂けても、何が裂けても、(のたま)うことなど、許されないのだから。

 

 

(…………雪乃ちゃん……雪乃ちゃん……ッッ)

 

 

 人間のふりをする言い訳は、もう出来ない。

 

 化物の血を引く化物――いざとなれば躊躇なく妹を切り捨てる怪物。

 

 

 それが、きっとずっと前から気付いていた、雪ノ下陽乃という私の正体なのだと。

 

 

(……八幡。――いつか一緒に、地獄に堕ちようね)

 

 

 どこまでも、一緒に付いて行くから。

 

 

 通りすがりの患者が、思わず見惚れ、振り返った。

 

 

 その女の顔には――綺麗な、美し過ぎる笑顔が浮かんでいた。

 

 

 何処かの化物に、そっくりな笑顔だった。

 

 




壊れた少女達は、幻影たる"彼"を追い求めて依頼を交わし――妹を選ばなかった姉は、化物として罪を背負い、美しき笑顔を浮かべる。


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Side陽乃――④

……ごめんね、雪乃ちゃん。


 

 屋上という空間が、雪ノ下陽乃は嫌いではない。

 

 昨今では学生ドラマのように生徒が自由に出入りすることが出来る空間ではないけれど、陽乃は割と当時から好き勝手に使用していた。

 

 陽乃は学生時代から王者だった。

 いや、それよりも支配者、操縦者といった呼称の方が近いかもしれないが――兎も角、陽乃の傍には常に人が群がっていた。

 

 明らかに常人離れした存在感、華、カリスマ性を持つ少女。

 容姿端麗、頭脳明晰、才色兼備、天真爛漫、唯我独尊、天衣無縫。

 その上で地元の有力者の長女であり、名家のお嬢様という作り物めいたステータス。

 

 物語の主人公であるかのようなキャラクターな彼女と、花の学生生活を共にする。青春時代を共に送る。

 そんな時間は何の変哲もない只の高校生である有象無象の者達にとって、一生に二度とない、まるで物語の登場人物になれたかのような幻想に浸れる甘美な時間であったことだろう。

 

 無論、陽乃はそんなことは百も承知で、彼等彼女等に意図的にそんな気分を与えて楽しんでいたのだけれど、それでも――何よりも退屈を嫌う彼女は、そんな遊びに飽きを感じた時、ふと一人で屋上へと訪れていた。

 

 密閉空間から解放される感覚。それが陽乃には快感だった。

 

 この時だけは、世界が綺麗に感じられた。

 誰もいない屋上で、突き抜けるような空を仰ぐ瞬間だけは、まるで自分が自由であるかのように思えたから。

 

 そんな学生時代を思い出し――己が青春を回顧し。

 導かれるようにその場所を訪れた陽乃だったが――今日に限っては先客がいた。

 

 

 来良総合医科大学病院の屋上には、一匹のジャイアントパンダがいた。

 

 

「……ちぇ」

 

 陽乃はフェンスからひょいと降りる。

 世にも珍しい漆黒の全身スーツを身に纏ったパンダは、やってきた陽乃に向かってこう言った。

 

「扉から入ってくるという発想はないのかね」

「いくら透明人間になれても扉をすり抜けられるわけじゃないでしょ。鍵やら何やらの後処理が面倒だし、こっちの方が楽よ」

 

 何故だかこちらの姿が見えているようなので、陽乃は透明化を解除しながらパンダに言った。

 世にも珍しい渋い声で流暢に喋るパンダは、まだまだこちらが知らない特技を隠し持っているらしい。もうこのパンダが何をしても驚かない。ロケットみたいに飛んでビームまで出していたらしいし。

 

 露骨にそっけない態度を見せる陽乃に、パンダは構わず渋い声で端的に言った。

 

「それで、お別れは済んだかね?」

 

 パンダの言葉に、陽乃は表情を消して――青い空に消えるような呟きを漏らす。

 

「…………ええ」

 

 もう、この綺麗な世界に、思い残すことは何もない。

 

「――それでは、大歓迎しよう。雪ノ下陽乃。今から君は、我々の仲間だ」

 

 パンダは告げる。

 

「ようこそ、CIONへ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 雪ノ下陽乃(その女)に――迷いはなかった。

 

 比企谷八幡が『黒い球体の部屋』を卒業(だつごく)し、更にその奥の、更にその裏の、黒い球体を支配する真っ黒な組織へと足を踏み入れるというのならば、更なる深淵へ堕ちていくというのならば。

 

 共にその奥へ、共にその裏へ、共にその深淵へと――心中することを選択することに迷いなどなかった。

 

 即断だった。即決だった。

 故に、夜が明け、朝日が昇った頃には既に、雪ノ下陽乃はパンダのメールアドレスに、自分も『本部』へ行くという希望の旨を綴った履歴書(メール)を送った。そして、パンダは、それを絵文字付きのメールで即行で了承した。

 

 これは、いわゆる特例措置の待遇だった。

 本来ならば、黒い球体の部屋を卒業することは――部屋から抜け出し、脱獄し、『本部』という更なる地獄へと堕ちるのは、こんなメール一つで行えるような気軽な転職ではありえない。

 

 通常、『部屋』の戦士から『部隊』の戦士へと昇格を果たすには、厳選たる審査を通過しなくてはならない。

 

 その入口は、大きく二つ。

 

 一つは、『まんてんメニュー』。

 ガンツ戦士の目標である『ひゃくてんメニュー』を十回通過すること、つまりは通算10回の100点クリアを果たし、通算1000点の得点(スコア)を稼ぐことによって初めて表示される特別画面――『まんてんメニュー』から、『ぶたいににゅーたいする』を選択することにより、初めて『本部』へと転送されることが可能になる。

 

 もう一つは、『勧誘(スカウト)』。

 目の前のパンダのように、時折『部屋』の中に紛れ込んでいる『本部』からの『監視員』により評価され、直接『本部』へと勧誘を受けることだ。今回の八幡や霧ヶ峰はこちらに当たる。

 

 だが、前者はともかく後者の方は、所謂『裏口入学』だ。そこには様々なリスクが存在する。

 

 一つは、単純に実力の問題だ。

 

 来きたる終焉(カタストロフィ)の日に向けて、星人討伐と戦力増強の意味合いを兼ねて、世界中へと配備されている『黒い球体(GANTZ)』。

 一人でも戦士が欲しいCIONが、わざわざ貴重な人材をふるいに掛けてまで厳選することで育て上げている軍隊――それが、『部隊』の戦士。

 

 何故、その栄えある資格を得るまでに、100点クリア×10回などという余りにも高い登竜門を設けているのか――それは偏に。

 

 それほどまでに強い戦士でなければ、数合わせにもならない戦争(ミッション)が存在するからだ。

 それほどまでに強い戦士でなければ、相手にもならない星人(ターゲット)が、数多に、無数に、存在するからだ。

 

 この星には――地球には。

 

 ただ適当に集めた死人では時間稼ぎにすらならない戦争――地獄(レベル)が違う、上級ミッション。

 そんな地獄の中の地獄から生還し続けることで腕を磨き、終焉(カタストロフィ)において明確に『戦力』として活躍することを期待され、使命とした――終焉を齎す災厄(カタストロフィ)を滅ぼす“英雄”となる素質を認められたエリート戦士達。

 

 それが――『部隊』の戦士。

 

 本部に招かれ『部隊』の一員となった者達が受けるミッションは、送り込まれる戦場は、『部屋』時代のそれとは訳が違うのだ。格が違うのだ。何もかもが違うのだ。

 そして『部隊』の戦士は、それに対応できるだけの戦士でなければならない。

 

 地獄の中の地獄に適応し、化物の中の化物に対抗できる、戦士の中の戦士でなければならない。

 

 それを見分ける分かり易い条件(ボーダー)として『本部(CION)』側が設けたのが『まんてんメニュー』――100点クリア×10、通算獲得点数1000点であるというわけである。

 

 つまり――『監視員』が『部隊』の戦士として『勧誘(スカウト)』する『部屋』の戦士は、いずれはその条件(ボーダー)を超えるであろうと想定される資質を認める戦士か、または、それに値する特異な能力を持つ戦士でなければならない。

 

 ある程度戦える――その程度では存在自体が邪魔になる。

 そんなレベルの戦争(ミッション)が、『部隊』の戦士には課せられるのだ。下手をすれば、その中途半端な不適合者(スカウト組)のせいで、地球を救うかもしれなかった英雄が死ぬかもしれない。それはすなわち、地球を滅ぼす戦犯になるということに他ならない。

 

 故に――『監視員』は己が『勧誘(スカウト)』してきた戦士に責任をもたなくてはならない。

 具体的に言うならば、本部側が『戦犯』だと――戦士にすら値しない不適合者だと、己が勧誘してきた戦士が認定されれば、その戦士を連れてきた『監視員』諸共、『部屋』へと送り返されるという(ペナルティ)が与えられる。記憶操作を施されるというおまけ付きで。

 

 故に、『監視員』は余程に才能を認めた戦士以外は基本的に『勧誘』しない。

 勧誘してきた『戦士』が上位幹部(ランキング)入りを果たそうものなら、その『戦士』を連れてきた『監視員』も大幅に評価を上げることになるが、それ以上に余りにも危険性(リスク)が大きい

 

 だからこそ、今回のように、一度に三名の戦士(キャラクター)勧誘(スカウト)するなど、正に前代未聞と言っていい。

 

 それも、その三名の戦士というのも色物揃い。

 13回クリアの実績があるとはいえたかだか5点の星人に一度殺されている戦士――《霧ヶ峰霧緒》――と。

 黒い球体に格別に目を掛けられているとはいえ半年間もの間でたった一度しかクリア出来ていない戦士――《比企谷八幡》――と。

 ワンミッションで100点獲得を成し遂げたとはいえ僅か二回の戦争経験しかない上に脱落経験もある戦士――《雪ノ下陽乃》――だ。

 

 余りにも――不確定なる、不透明な、不穏分子。

 とてもではないが普通の『監視員』ならばドラフト候補にすらリストアップしないであろう――逸材ばかりだ。

 

 だが――と、パンダは思う。

 

(……既に『まんてんメニュー』を当てにする段階(フェイズ)は過ぎている。残る終焉(カタストロフィ)までの期間を思うと――新たに1000点を稼ぐ戦士は、最早現れないだろう)

 

 現れるとしても、それは既に『黒い球体の部屋』の一員となっている既存戦士の内の誰かであろうと、パンダは考える。

 新たな登場人物はもう現れない。カードは全て配られている。ならば、遅かれ早かれだ。

 

(『部屋』の戦争しか経験のない戦士と、『部隊』の戦争を体験した戦士では、その力量に雲泥の差が生まれる。『入隊』は一日でも早いに越したことはない)

 

 カタストロフィでの活躍を望むのならば。カタストロフィに戦力として臨むのならば。

 

 パンダはそう考える。ならば後の問題は、戦士を見抜く『監視員』の目だけであると。

 これまで最も多くの戦士を『入隊』させた名スカウトは、遂に幹部に手が届く地位にまで上り詰めた一体の実験体(パンダ)は、そう考える。

 

 霧ヶ峰霧緒。比企谷八幡。そして、この――雪ノ下陽乃。

 

 誰一人として真っ当な戦力になるとは思えない。

 エースにも、キングにも、クイーンにもなれないだろう。

 

 だが、コイツ等は、とびっきりのジョーカーになれる可能性を秘めている。

 

道化師(ババ)となるか、はたまた状況を引っ繰り返す切り札(ジョーカー)になるか――そこは文字通りの賭け(ギャンブル)だが)

 

 賭ける価値はある――勝ちを狙うには、時に博打に出なければならない。それを獣は知っていた。

 そして、生命を懸けた賭け(ギャンブル)に勝ち続けたからこそ――男は、雌の獣の身体で、こうして未だ無様に生き永らえている。

 

(……そして、可能性(ジョーカー)といえば……もう一人)

 

 あの黒い球体の部屋で、数々の英雄候補を導き出してきた獣が目を付けた――とある最後の戦士がいる。

 

 識別番号(シリアルナンバー)000000080――あの黒い球体が運営する、その黒い球体の部屋には、まるで運命に導かれたかのように、独特の光を放つ可能性が満ちていた。

 

 その中でも一際に昏く、妖しく、獣好みの黒色の光を放つ三名。

 

 黒い球体から魅入られた闇眼の戦士。

 太陽の名を持つ魔王の資質を持った戦士。

 人の身でありながら異形の才能を持って生まれた戦士。

 

 更に、(パンダ)の目には留まらなかったものの、恐らくは他の『目』を持つ者達によって見出されるだろう四名。

 

 英雄の素質を持つ鍍金の戦士。

 小さな身体に蛇を棲まわす死神の戦士。

 二つの本性を持つ美しき堕天の戦士。

 闘争を愛し強者に貪欲な破壊の戦士。

 

 そして、己自身は無力ながらも、不可思議な色を持つ運命に絡め取られる小人。

 

(随分と面白い『部屋』を作ったものだ)

 

 これまで数多くの『部屋』を訪れたパンダは、あの黒い球体の部屋をそう評価する。

 

 誰よりも強い戦士がいるわけではない。何処よりも華々しい活躍をしているわけでもない。

 だが、まるで物語を描く力を持つような、物語を動かす運命を持っているような、そんな不思議な光を持つ戦士達が集結している()()()『部屋』。

 

 しかし、そんな部屋の中で、光輝く可能性の中で、たった一人――異色の輝きを持つ戦士がいた。

 

 否――()()()()()()()()()戦士がいた。

 

 その戦士が放つ光は、余りにも小さく頼りない。

 

 どいつもこいつも個性派揃いの、あの眩い可能性に満ちた部屋において。

 まるで迷い込んでしまったかのような小人さえ、自ら輝いていないまでも、不思議な光の運命を纏っていたというのに――その男には、それさえもなかった。

 

 まだまだ粗削りだが、状況を引っ繰り返す力を持つ、あるいは物語を揺り動かす運命(ジョーカー)の素質を持つ戦士(キャラクター)達が犇めくあの『部屋』で――場違いなまでに、不似合いな存在がいた。

 

 黒い球体(GANTZ)に対する適正。戦争(MISSION)に対する適正。そういったものを、まるで感じさせない戦士。

 

 なのに、案の定無様に死に絶えたのに、誰にも期待されていないのに――それでも。

 

 この局面で――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()戦士(キャラクター)

 

 そこに――このパンダは。

 

 奇妙な、運命(伏線)を、感じた。

 

(――ギャンブルは、賭け(BETし)ないことには始まらない)

 

 圧倒的に確率が低い馬券。

 だが、当たれば――最高に、面白い万馬券。

 

(――それも、またロマンか)

 

 獣は――笑うように、二本足で屹立した。

 

「――雪ノ下陽乃」

 

 急に立ち上がった獣にギョッとし、あ、やっぱりパンダって立ち上がると思ったよりデカいしなんか怖いな、とか思って軽く引いていた陽乃に向かって、ジャイアントパンダは渋い声で告げる。

 

「今日がこの『表の世界』での最後の一日だ。愛する男と過ごすなり、愛する妹の傍にいるなり、好きに過ごせ。夜にはまた迎えに来る」

「……一応聞くけど、あなたはどうするの?」

 

 黒いスーツから物々しいロケットエンジンが飛び出してくるのを冷めた目で見詰めながら、陽乃は本当に一応聞いてやるかといった口調で言う。

 

 パンダはそんな女に、恰好を付けて、返す。

 

「少し――つまらない男に会ってくる」

 

 六時の会見だけは見逃すな――そう言って、まるで流れ星のように、パンダは空の星になって消えた。

 

 飛行機雲すら残らない、音速なのか超速なのか分からない速度で飛んで行った――目で追うことなど当然できなかったので恐らくは飛んで行ったであろうという――方向を、まるで馬鹿な男子を見るような目で眺めながら、陽乃は呟く。

 

「……普通に転送していけばいいのに」

 

 恐らく透明化処置は当然に施しているのだろうが、わざわざあんな大掛かりな装置を使って飛んでいく必要があるのだろうか。体にも負担がかかっているだろうに。

 それとも転送工程にも何らかの条件がいるのだろうか、とまで考えて、陽乃はどうでもいっかとばかりに溜息を吐く。

 

 そして、そのまま屋上の給水塔に背中を付けて座り込む。

 八幡の元に行こうかと思うも、まだあの『母親』と対峙するには心の準備が追い付いていない。

 だが、かといって――妹の元になど行けるわけがなかった。

 

 妹に会わせる仮面(かお)など、雪ノ下陽乃に残されている筈もなかった。

 

(…………雪乃ちゃん)

 

 自分がこのままいなくなれば、雪乃は探してくれるのだろうか。

 

 生き返って、会いに行って、経緯はどうあれ、原因は如何であれ、雪乃はあんなにも感激して、半年ぶりに会った陽乃を迎えてくれた。

 頼りにしてくれて、縋ってくれて、支えにしてくれて――そして、再び、切り捨てられた。

 

 葉山隼人から切り捨てられ、比企谷八幡から切り捨てられ、雪ノ下陽乃からも切り捨てられた。

 

 雪ノ下雪乃は、また、いつまでも――選ばれない。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「ちょ、や、止めなさい姉さん! 揺らさないで!」

「ははは。だってぇ~。雪乃ちゃんのリアクションが面白いから~」

 

 そう言ってゴンドラを揺らしていた陽乃は、雪乃の対面の席へと戻る。

 窓際のパイプにしがみ付いてた雪乃は、そんな陽乃を見て分かり易く溜息を吐いた。

 

「もう……姉さんはいつもそう……」

「雪乃ちゃんが可愛いのが悪い!」

「姉さんはもう少し悪びれなさいな……」

 

 雪乃は額にその綺麗な指を当てながら再び息を吐く。

 しかし、もう片方の手は未だにパイプから離せないでいるのを陽乃が細めた眼でにやけながら見詰めると、雪乃はむっとしながらその手をバッと放した。

 

(……本当に、可愛いなぁ……)

 

 陽乃は、そんな雪乃を今度は慈愛の篭った瞳で見詰める。

 膝に肘を置いて、右手を己の頬に当てながら、真正面に座る――己と目を合わせようとしない妹を見詰める。

 

 姉妹揃って、姉妹だけでの遊園地など何年ぶりのことだろう。

 昔は引っ込み思案だった妹の手を引いて、あちこちへとよく連れ回していた。

 

 可愛い反応をする妹が可愛くて、構い過ぎて揶揄い過ぎた結果、今ではあまり付き合ってくれないというか、露骨に嫌な顔をされるようになってしまったけれど(そんな雪乃もまた最高に可愛いので良しとしているが)、今回は珍しく、素直に了承してくれた。

 

 雪乃にとって姉と来る遊園地など、コースターでバーを放させたり、コーヒーカップで回転数の限界に挑戦したり、彼女にとってはトラウマに近い(勿論、陽乃が植え付けたものだ)場所の筈なのに――事実、今日もそれはもうはしゃぎまくった陽乃に振り回され続けた一日だったというのに、雪乃はちゃんと付き合ってくれた。帰ろうとは一度もしなかった。

 

 雪乃は、どんどんと高度を上げる観覧車のゴンドラの窓から――眩しい夕陽を眺めている。

 陽乃は、そんな夕陽に照らされる雪乃の横顔を眺めながら、優しい声音で問い掛けた。

 

「……雪乃ちゃん。今日は楽しかった?」

「……姉さんは楽しそうだったわね」

「うん! 可愛い雪乃ちゃんがいっぱい見れたからね!」

「…………そう。私はもう、姉さんとは二度と来たくないわ」

 

 つれないなー、雪乃ちゃんは――と、妹のいつもの(自業自得の)塩対応に、そんな言葉を返そうとした陽乃の言葉は、しかし、遮られた。

 

 夕陽を横顔に浴びながら、陽乃の方を向いた雪乃が、姉に向かって――美しく、微笑んでいたからだ。

 

「――でも、楽しかった。ありがとう、姉さん」

 

 最後に、いい思い出が出来たわ――そう言った雪乃を、陽乃は、直視することが出来なかった。

 そのまま顔を俯かせて「……やだなー、雪乃ちゃん。まるで今生の別れみたいだよ」と、声色だけは、いつもの飄々とした感じを繕って――仮面を被って。

 

 外骨格を――強化して。

 けれど、未熟なその鎧は綻びだらけで。隙間からポロポロと――弱さが、零れて。

 

「……雪乃ちゃん。――後悔は、ない?」

 

 陽乃は、やはり、顔を上げることは出来なかった。

 それが酷く今更な、卑怯な問い掛けであることを自覚していたから。その上、どんな言葉であろうと、どんな答えであろうと、その言葉を、答えを出すという行為自体が雪乃を傷つけることも理解した上で――その上で、まるで縋るように、雪乃に投げ掛けてしまったからだ。

 

 恥ずかしい。浅ましい。向ける顔など、あるわけがない。

 それでも、陽乃は問い掛けを撤回することは出来なかった。期待を――捨てることが出来なかった。

 

 もし、期待通りの答えが帰って来たところで――陽乃に出来ることなど、何かをする資格など、ある筈もないのに。

 

「……そうね。これが正解なのかは分からない。……逃げなのだという、自覚もある。…………それでも――私は、弱いから」

 

 雪乃は、陽乃(わたし)を見ているのだと、そう感じた。

 

 顔を上げられない陽乃を。妹に顔向け出来ない姉を。

 きっと、眩しいくらい――温かい、憧れで。

 

「私は――なりたいの。強く、正しく。だから、きっと……後悔しないと信じてる」

 

 その言葉は真っ直ぐで、その思いは真っ直ぐで、その瞳は――真っ直ぐだった。

 

 真っ直ぐ――雪ノ下陽乃に、向いていた。

 

 陽乃は眩しくて、真っ直ぐ妹を見れなかった。

 

 見たらきっと、眩しくて潰れてしまうから。

 

「……そっかぁ。羨ましいな、海外生活。私も、いつか行ってみたいんだよね、アメリカ」

「海外生活というか、留学よ。遊びに行くんじゃないわ。学びに行くのよ」

 

 強くなりに行くのだと、雪乃は言った。

 陽乃は、「そっか」とだけ返した。

 

 俯くままに、陽乃の化物としての脳は、その残酷な答えを弾き出している。

 

 きっと、雪乃のその思いは――叶うことはないのだろう。

 日本の千葉という小さな世界から逃げ出すこの妹が――小さく、美しく、脆い少女が、逃げ出した先の大きな世界で、強く生まれ変わることが出来るとは思えない。

 

 彼女を変えることが出来るのは、世界ではなく――人だ。

 雪ノ下雪乃という、脆くも美しい少女に、壊すことを恐れずに優しく触れることが出来る存在との出会いだけが、彼女を救うことが出来るのだと。

 

 好きな物を構い過ぎて殺してしまう、問答無用で雪の結晶を溶かしてしまう太陽のような自分の手では、決して不可能な偉業を成し遂げてくれる者との出会いだと――陽乃は思う。

 

「……頑張れ、雪乃ちゃん」

 

 陽乃は、今、未熟なりに作れる最高傑作の強化外骨格を身に纏いながら、顔を上げて、旅立つ妹へと微笑みかける。

 

 きっと――此度の海外留学は、この儚き妹を救わない。

 そんな確信を抱きながらも姉は、それでも妹の背中を押す。

 

 今は、この千葉の街を離れることが、妹には必要なのだと。これは必要な逃避なのだと、そう己に言い聞かせて。

 妹に手を伸ばすことすらせず――ただ、突き放すように、突き飛ばすように背中を押すことしか出来ない自分に、しない自分に、そう、言い聞かせて。

 

「……ええ、姉さんも。高校に入ったら、更に母さんの教育も厳しくなるし、父さんの得意先に顔を出すことも増えると聞いているわ」

「適材適所だよ。私はそういうのを上手くやる自信もあるし――ちゃんと、全部、上手くやるから」

 

 それは嘘でも、強がりでもなかった。

 陽乃は事実、母の英才教育の全てを己の血肉とし、父によって連れ出される大人達との会合も己の力とするように動いてきた。

 

 敵のいない己の人生。

 ただ一人、今の己が敵わない相手――己が母親である、雪ノ下陽光。

 

 彼女を打倒する上で、母が施す教育と、父が連れ出す会合は、己が支配力を広げる絶好の狩場だった。

 だからこそ、雪乃のいないこの三年間は、陽乃にとっては絶好の機会だ。

 

 両親の目が全て己に向く。

 それは陽乃にとっては地獄であろうが、それと同時に――戦争でもある。

 

 両親の喉元に手が届くかもしれない好機にもなり得る――陽乃はそちらを選んだ。

 雪乃を救えるかもしれない好機よりも、両親を殺せるかもしれない好機の方を選んだ。

 

 それを自覚した時、陽乃は――生まれて初めて、自分のことを、化物だと認めかけた。

 

「……ごめんね、雪乃ちゃん」

 

 気が付いたら、己の口からそんな言葉が零れ落ちていた。

 強化外骨格を身に纏ったままで、いつもの飄々としたそれと変わらない口調で。

 

 雪乃は、そんな陽乃に――温かい憧れを、向けたままで。

 

「……どうして、姉さんが謝るの?」

 

 雪乃のその目には、今の陽乃はどう映っているのだろう。

 

 自分が逃げ出した戦場で戦い続ける戦士だろうか。

 自分が出来なかったことを成し遂げ続ける女傑だろうか。

 

 強くて、美して、たくましくて――そんな完璧で、眩しい、(あこがれ)なのだろうか。

 

「…………雪乃ちゃんは、可愛いね」

 

 陽乃は、そう呟いて、再び俯いた。

 

 窓から差し込む夕陽が眩しくて――夕陽を浴びる雪乃の横顔を、ちらりと見上げて。

 

 もう一度、心の中で呟いた――ごめんね、雪乃ちゃん、と。

 

 そして、もう一度、心の中で、願った。

 

 可愛い妹に向けて、救いの手すら差し伸べることが出来ない、化物な姉だけれど。

 

 どうか、この美しくて儚い雪の結晶に、優しく触れてくれる理解者が。

 

 他の何を差し置いてでも、彼女に手を伸ばしてくれる、彼女を選んでくれる、彼女を助けてくれる――そんな本物が。

 

 どうか、どうか、現れますように――と。

 

 そして、その時は――。

 

 そんな妹の救済を祝福出来る、そんな姉で、ありますようにと。

 

 

 確かに願った――その筈、なのに。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――――っ。……ごめんね、雪乃ちゃん……」

 

 いつの間にか陽乃は、まるで少女のように、膝を抱え込んで丸まっていた。

 

 ごめんね、ごめんねと。

 誰もいない屋上で、いつまでもいつまでも心の中で謝り続けた。

 

 それでも、陽乃を赦すものはいない。ここには雪ノ下陽乃しかいない。

 

 自分はもう、雪乃と会うことはないだろう。

 八幡のように記憶操作されているわけではないので、もう二度と会えないというわけではないだろうが――それでも。

 

 自分はもう、雪ノ下雪乃の姉を名乗ることは出来ない。

 陽乃が、あんな状態の妹よりも、愛する男の傍にいることを選んだ罪科は――揺るがない。

 

 ごめんね、ごめんねと、少女は泣いた。

 ズキン、ズキンと、心が痛んだ。

 

 いつまでも、いつまでも彼女はそうしていた。

 この世界で過ごす最後の一日を、彼女はそうして妹への懺悔に費やした。

 

 ごめんね、ごめんねと、少女は泣いた。

 ズキン、ズキンと、心が痛んだ。

 

 その痛みが涙を呼び込み、その涙が誰かに許しを請うた。

 

 だけど、誰も彼女を赦さない。

 

 この場所には、雪ノ下陽乃しかいないから。

 

 雪ノ下陽乃は、どんなに泣いても、雪ノ下陽乃を赦すことはなかった。

 

 雪ノ下陽乃は、雪ノ下雪乃を、愛していたから。

 

 きっと――ずっと。これからも――ずっと。

 




誰もいない屋上で、自分しかいない空間で、姉は妹に懺悔する。――彼女を赦す者は、いない。


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Side八幡――①

弱くて、弱くて、弱弱しいので――あんまり、イジメないでくださいね?


 何度も――何度も、振り返った。

 

 何度も何度も。何度も何度も何度も――戦争をした。

 

 どうしてこうなったのか。どうしてこうなってしまったのか。

 

 その理由を知りたくて、その原因を知りたくて、その元凶を――知りたくて。

 

 何度も何度も何度も何度も――昨夜の戦争を、振り返っていた。

 

 地獄の池袋を。

 何度も何度も何度も何度も何度も――壊れたように、繰り返す。

 

 眠れないベッドの上で。俺の他には誰もいない我が家で。

 

 俺からまたしても大事なものを奪った――かけがえのない本物を殺した、夜が明けて。

 

 何もかもが変わったくせに、何も変わらないかのように、再び朝が来るまでの間――何度も。

 

 壊れたように――繰り返して。

 何度も、何度も、繰り返し、繰り返し――突き刺すように、突き付ける。

 

 理由は明確だ。原因は明解だ。元凶は明瞭だ。

 こうなったのは、こうなってしまったのは――全部、全部、全部。

 

 まちがってしまったのは――明確に、明解に、明瞭に。

 

「――――俺は……」

 

 朝が来た。

 新しい朝が来た――ひとりぼっちの、朝が来た。

 希望を奪った夜が明けて、絶望しか残っていない朝が来た。

 

 この家には、もう、俺を起こしてくれる天使はいない。

 

 

 天使がいない世界で――妹を殺した世界で。

 

 比企谷八幡という大罪人は、何食わぬ顔でいつも通りの朝を迎える。

 

 

 きっと――俺は地獄に堕ちるのだろう。

 

 だけど、まだ、死ぬわけにはいかない――幸せになるまで、俺は死ねなくなってしまった。

 

 

 間違えて、間違えて、間違え続けてきた。

 

 何度も何度も何度も。どれだけ振り返ろうとも、どれだけ繰り返そうとも。

 昨夜の戦争は、地獄の池袋の回想は、それを俺に突き付けるばかりで。

 

 殺すべき対象は、憎むべき対象は、何度探しても、何処を探しても、たった一人しか見つからない。

 

 

 今度こそ、間違えたくない。過ちを、まちがいを、赦したくない。

 

 だからこそ――俺は。願わくば――どうか。

 

 

 正しく、幸せに、無様に――死にたい。

 

 

 それがどうしようもなく、矛盾に満ちた、醜悪なる願望なのだと理解しながら――俺は。

 

「……いい加減、起きるか」

 

 逃避していた現実へと戻る覚悟を固め、この世で最も居心地のいい空間だった自室を後にする。

 

 今日もきっと俺は――まちがえたまま、不幸に、無様に生きるのだろう。

 

 それでもいつか、正しく、幸せに、無様に死ぬ為に。

 

 けして正解ではないと分かっているのに、これが今の俺が出せる最適解だと――そう、ふてぶてしく、俺は今日も、呼吸をする。

 

 

 そして俺は――振り返るのを止めた。

 

 

 

+++

 

 

 

『――ご覧ください。……とてもではありませんが、信じられません。……こうして目に捉えている光景が、本当に現実なのか……心からの確信が、持てません』

 

 アナウンサーとしてあるまじき、具体性に欠け、主体性に満ちたコメントを、そしてこちらもアナウンサーとしてあるまじき、カメラに背を向けたままの体勢で、呆然と呟く女性。

 

 彼女は、呆然とした口調で、ゆっくりと、慎重に言葉を選びながら語った。

 

『……未だ、一般人の立ち入りは解禁されてはいない、封鎖中の池袋から、特別な許可を得て放送しています。……こちら、池袋駅の、東口前……昨夜、何者かに電波ジャックされたことにより、日本の全てのテレビ画面に強制的に映し出され、放送された……目を覆いたくなるような……目を覆わずにはいられないような……虐殺映像――その舞台と、なった場所です。……犠牲者の方々や、怪物の死体などは……警察や自衛隊の方々により、夜明け前までに処理されました。そして、ようやく一般放送局の立ち入りが許されましたが……ご覧ください。未だ拭いきれていない、夥しい量の血痕……破壊された建物、アスファルト……昨夜の凄惨な映像が、合成や捏造ではない、紛れもなく現実に起こった惨劇だということを……はっきりと……突き付けてきます』

 

 女性は、時折言葉を詰まらせながら、瞳に大量の涙を溜めながら、そして、こみ上げてくるのだろう、吐気を堪えながら、逃げずに――この国の一般人達に、ただ事実を伝える為に、あそこに立っている。

 

 ……アナウンサーにあるまじき、とか偉そうなことを思ったが、それは失言だったな。彼女は、紛れもない、正真正銘、プロフェッショナルのアナウンサーだ。

 

 逃げない――それだけでも、尊敬に値する、強い人間だ。

 

 広々としたリビング。

 寒々としたリビング。

 

 いつもならば、温かいコーヒーとパンの香りが立ち込めて、口元をジャムらせたアイツが恥ずかしげもなく兄に下着姿を披露して、俺が溜め息を吐きながらマックスコーヒーもどきを作成して一日の活力を得た後、玄関を出れば憎たらしい笑顔でアイツがチャリの後部座席に乗って――。

 

「――ハッ」

 

 スチール缶を握り潰す音が響く。

 黄色と黒の警戒色の缶が原形を失くす中、俺は誰もいない、俺だけの我が家で失笑する。

 

 ほら、言ってるそばから、また逃げた。

 

 見ろ――見ろよ。

 

 あのアナウンサーを見習って――現実から逃げるな。この期に及んで、目を逸らすな。嫌になるほど振り返って――刻み込んだろう。

 

 まるで自然災害が局所的に起こったかのような、現実離れした破壊痕を映す画面の――右上。

 強調された文字色でテロップされた――『池袋大虐殺』の文字。

 

 それは、昨夜――たった一体の黒い鬼によって引き起こされた、革命の名称。

 

 俺は、そのど真ん中にいた。

 真っ黒なスーツを着て、真っ黒な武器を振るい、真っ黒な殺意を以て戦い――妹を殺した。

 

 妹を――殺したんだ。

 

 ああ、そこだ。まさしくそこだ。

 アナウンサーがテレビカメラに向かって何かを話しながら徘徊し、ちょうど入り込んだ、その路地裏。

 

 俺は、そこで――小町を殺した。

 

 一夜明けても。目が醒めても。世界は変わらず、現実は変わらない。

 

「……………………」

 

 この家には小町はいない。この家には、もう何もない。

 

 帰る場所じゃない。守るべきものもない。

 

 俺は全てを失った。それが、只の逃げようもない現実だ。

 

「………さて、逃げるか」

 

 そう言って俺は立ち上がった。

 

 いつものように、登校するように。

 ゴミを片付け、テレビを消して、戸締りをして、家を出る。

 

 誰もいなくなった家を出る。もう二度と帰らない我が家を出る。

 それは、間違いなく逃亡だった。それは、間違いなく逃避だった。

 

 小町を殺したことからか。両親に合わせる顔がないからか。

 そのどちらでもあるし、そのどちらでもないのだろう。

 

 ただ、一つ確かなのは。

 

 生まれてからずっと我が家だった場所を、最後に見渡した時の、この時の心は、まるで――死んでいるかのように、静かだったということ。

 

「…………じゃあな」

 

 それは、誰に言った言葉なのだろうか。

 

 殺してしまった小町だろうか。忘れられてしまった両親だろうか。

 それとも、二度と帰らないだろう、この家に、だろうか。

 

 いずれにせよ、言葉が足りない。だけど、何故かもう口を開くことが出来ず。

 

 背を向けて、扉を閉めて、心の中で――告げた。

 

 

――ありがとう。

 

 

――ごめんな。

 

 

 そして、俺は、そっと――鍵を掛けた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

『池袋大虐殺』――各種メディアは、昨日の凄惨な池袋でのオニ星人との戦争を、黒金という鬼による革命を、そう名付けて盛大に報じた。

 

 これまでのガンツミッションを、俺達の頭の中に爆弾を埋め込んでまで秘そうとしていたのが嘘のように、朝から全チャンネル、各社新聞が大々的に報じている。

 

 そして、本日の午後六時――かの“組織”とやらが、全世界同時配信で、何やら大々的な会見をやるらしい。

 

「たぶん、そこで星人の存在をお知らせするんだろうね。そして僕達――ガンツの傀儡(おもちゃ)達のことも。カタストロフィのことは、この期に及んで隠そうとするかもだけど。いやぁ、大人っていうのは汚いねぇ」

「政治なんてもんは、いかに巧妙に隠し事をするかみてぇなもんだからな。しかしなんだかなぁ。これまで散々情報の隠蔽に付き合わされていた身としては、なんだかなぁって感じが拭えないな」

 

 今は、ミッション翌日の午前九時。ちなみにばりばりの平日だ。

 

 昨日はなんだかんだで家に転送されたのは夜明け前。そこから散々に現実逃避を試みて――何度も、何度も、刻み込み。

 俺は、最低限の荷物を纏め、携帯を机の中に仕舞い――比企谷家を後にした。

 

 そんなわけで俺は、鞄を片手にラフな私服で、平日の昼間を霧ヶ峰と隣あって歩いている。

 

 霧ヶ峰のファッションは、ラフなチノパンにスニーカー。そしてファスナーを全開にしている――白いパーカー。その中には十字で青いラインが入っている黒地のTシャツ。

 ……そのファッションを見て、正確にはパーカーを見て、“奴”のことが頭を過ったけれど、それは今考えてもしょうがないことだ。いずれ、きっと避けられない問題として直面するのだろうけれどな。

 

 霧ヶ峰がいる理由は、俺が今朝、公衆電話でコイツを呼び出したからだ。

 携帯電話は置いてきたが、最低限、必要な番号と連絡先はメモ帳にメモしてきた。新しい携帯電話――誰も番号を知らない電話を手に入れたら、改めて登録してこのメモは燃やさなくちゃな。公的記録には俺のことが残っている可能性がある以上、携帯のメモリにも番号と名前が残っているかもしれない。……いや、いっそこれを機に携帯を持つことは止めるか。どうせ友達なんていないんだし、何より足がつかない。これから俺等が行く所は、なんか秘密組織っぽいしな。秘密じゃなくなりつつあるけど。

 

 そして、なぜ霧ヶ峰を呼び出したかというと、今朝、会見の連絡と同時にパンダが連絡してきてくれたメール(執拗にパンダの絵文字を使ってきてウザいメールだった)によると、今日の夜に組織から迎えの者が来るというのだが――俺にはそれまでに寄る所が出来たからだ。

 

 今から行く所――たった今から、乗り込む場所。

 その魔境に挑むに当たって、少しでも戦力が欲しかった。今の俺に集められる戦力はコイツだけだからな。

 

 昨日の別れ際、陽乃さんから聞かされた情報――それを、俺はどうしても、一刻も早く、確かめなければならない。

 

「――で? アンタの彼女の家はまだなの?」

「……うっせぇ。俺も初めて行くんだよ」

 

 携帯を置いてきた為、昨日教えてもらった住所をサラサラとメモってきたのだが、よく分からない。……これが今やアプリで何でもできる時代に慣れ切った現代っ子のアナログへの弱さか……。どうせ豪邸だろうから楽勝楽勝、近くまで行けば分かるっしょと高を括っていたのが間違いだった。

 

「……ん? もしかしてアレじゃない?」

「ばっかお前、俺ですら分かんねぇのに、住所すら知らないお前が先に見つけられるわけ――」

 

 ほんまや。あった。見つけた。いや、見つけられた。ちくせう。

 

 中坊が指差したのは、豪邸というよりは、いや豪邸ではあるのだが、どちらかというと洋館という言葉が似合う、それでもやはり周囲の家と比べて一際大きな家だった。いや、大きすぎて、周囲の家と逆に比べられないのだが。

 

 庭が広い。流石はリムジンを持っているような家だ。ダンスパーティとか夜な夜な開いていそうだ。殺人事件とか起こらないよな。

 

――いや、殺人事件は起こったんだ。半年前、ここで、陽乃さんは、一度殺された。

 

 自分の母親に殺された。いや――正確には、母親の姿形をした、謎の星人に殺された。

 

 そして、そんな広大な庭の、洋館の傍に。

 真っ白な傘の下にテーブルが置かれていた。そこには絵画のように、正しく絵になる貴婦人がいる。

 

「――お待ちしておりました、比企谷様」

 

 遠目ながらもそんな彼女を門越しに眺め、目を奪われていると、いつの間にか門の前で立ち尽くしていた俺等の前に執事が現われる。

 

「うお! 執事だ、執事! 初めて見た! テンション上がる~! ふぅ~!」

 

 はしゃいでいる霧ヶ峰を余所に、俺は恭しく頭を下げ続ける彼を見遣る。

 

「……どうも。都築さん」

 

 その男――都築さんは、俺が以前から知る、数少ない雪ノ下家の関係者だった。

 高一の入学式の日に俺を轢いたリムジンの運転手だった人も彼だし、雪ノ下が通院していた時は何度となく車のミラー越しに言葉を交わした。

 

 だが、そんな知った顔の彼であっても、俺は警戒心を解くことは出来ない。

 一応私服は着ているが、その下にはばっちりガンツスーツも着用しているし、手を突っ込んだ鞄の中ではXガンをいつでも取り出せる状態にしてある。

 

 はしゃいでいるように見える(いや、実際にはしゃいでいるが)霧ヶ峰も、俺から離れ、いつでも挟撃出来る位置取りに移動している。勿論、スーツも着用している。

 

 雪ノ下家の人間は、もう誰が、どこまで、化物なのか分からない。

 

 都築さんは、そんな俺の警戒に対し何の反応も示さず――。

 

「奥様と旦那様がお待ちです」

「……みたいですね」

「どうぞ、中へ」

 

 と言って、都築さんはきぃと鉄格子のようなその門をゆっくりと開く。

 

 そして、俺と中坊は、先導する都築さんについていく形で――雪ノ下家へと乗り込んだ。

 

 背後から、檻を閉めるように、扉が閉まる音が聞こえた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 

 俺と霧ヶ峰は、都築さんの後を歩く形で、洋館の入り口――ではなく、その横の、建物前に用意された席へと導かれる。

 白い傘の下に白いテーブル、そしてその周りに三つの椅子が用意されている。まるで貴族のお茶会かお洒落な喫茶店のテラス席のような場所だ。

 

 その三つの椅子の内、一つには既に貴婦人が座っていた。

 この洋館の主にも関わらず、身に付けているのは上品な和服。

 だが微塵も違和感がなく、むしろこの洋館も、そしてこのお茶会セットも、全て彼女の為に用意された映画か何かのセットのようだった。

 

 いや、少なくとも、このお茶会の場は、彼女が自分の意思で用意させたものだろう。俺達を――自分の“空気感”で迎え撃つ為に。

 俺達が近づくと、彼女はにこっと上品に微笑んだ――その微笑みは、まさしく人間のそれで。事前に陽乃さんから聞かされているのに、揺らいでしまった。

 

 この人が、この女性が本当に――化けの皮を被った、化物だというのか?

 

 そこまで考えて、それほどまでに慄いて――香ってきた、紅茶の香りに意識を戻される。

 いつかの、あの場所のような、温かい――紅茶の香り。

 

 あいつが淹れたかのような、あいつの好みそうな――“雪ノ下”の、紅茶の香り。

 

「……………………」

 

 俺は、その温かい香りを嗅いで、みるみるうちに頭が冷え切っていくのを感じる。

 

 こいつは……一体、どこまで知っている? 都築さんがいるということは、少なくとも、雪ノ下と俺の関係は――雪ノ下と俺の末路は、知っている筈だ。

 その上で、あえてこの演出を選んだのだとしたら――いい度胸をしている。

 

 望む所だ。

 

「初めまして、()()()()()()()へ。雪ノ下家は貴方を歓迎しますよ、比企谷八幡さん」

 

 正体不明の女傑は、再び強かに微笑みを向ける。

 その姿は、その笑みは――その冷たい、氷のような仮面は、まさしく、雪ノ下陽乃と、雪ノ下雪乃の、母親の面影を感じさせた。

 

「娘達が、大変お世話になったようで」

 

 俺は咄嗟に殴り飛ばさなかった自分を絶賛したい衝動に駆られた。

 

「――いえ。俺は…………何も」

 

 こいつ…………しらじらと。

 

「…………笑顔が引き攣ってるよ、八幡」

 

 ギチッ、と。握り締めた拳が異音を立てる。

 そりゃあ引き攣りもするだろう。むしろ笑顔を作ろうとしているだけ誉めてもらいたいものだ。

 

 …………落ち着け。ここまでは完璧に相手のペースだ。

 これは、いつものように相手を殺せばそれでいい戦争じゃない。ただ殺すだけじゃあ、俺が望む答えは得られない。

 

 けれど――これも紛れもなく戦争だ。やられっぱなしじゃあ、勝つことは出来ない。

 

 冷静に――殺意を、押し殺せ。

 

「ふふっ。いつまでもお客様に立たせたままじゃあ、雪ノ下の面子に関わるわね。比企谷さん、それから霧ヶ峰さんも。どうぞ、お座りになってください。都築、お二人にお茶を」

「かしこまりました、奥様」

 

 雪ノ下夫人に促され、俺と霧ヶ峰は用意された残り二つの席に、夫人と合い向かいになるように座る。これで文字通り、同じテーブルについたわけだ。

 

 これで、戦場は整った。後は、言葉で、嘘とはったりと虚言と隠し事で戦う、政治的なやり取りだ。

 

 政治という――戦争だ。

 

 人間と化物の、真っ黒な腹の探り合いだ。

 

「…………」

 

 相手の目的は分からない――だが、こうして交渉のテーブルに着いたことから、奴等にも何か目的があるのだろう。

 俺達にさせたい何か、俺達から欲しい何かが。それを、この交渉で引き出そうとしている。

 

 そして、俺達が奴等に求めるのは――何よりも情報。幾つもの情報だ。

 奴等の正体。星人組織の全容。本物の雪ノ下夫妻の所在……生死の確認。そして――雪ノ下雪乃の安否。

 

 ……こいつ等だけなら、もしかしたら今日の午後には向かうことになっているパンダ達の、地球を守っているらしい対星人の組織に密告すれば、カタが付くのかもしれない。

 

 だが、“組織”は星人を駆逐することは出来ても――たった一人、組織にとっては無関係の一般人は。

 雪ノ下雪乃については――歯牙にも留めてくれないだろう。

 

 例え万が一、こいつ等の手によって、雪ノ下もその毒牙に掛けられていて……それを治す手段を、戻す手段を、こいつ等しか保有していないとしても。

 あの“組織”とやらは、雪ノ下も纏めて駆逐するだろう。……俺達が、そして俺が、今までそうしてきたように。

 

「……ッ!」

 

 俺はテーブルの下で、自分の両腕を握り締める。

 それは――それだけはダメだ。そんなことになっては、俺が雪ノ下の記憶を消した意味がない。アイツ等の元を去った意味がない。解放した――意味がない。

 

 俺は――もう、アイツを……傷つけたくない。

 

 その為にも、これは負けられない戦争だ。

 いつものように、ただ相手を殺せばいい戦いではない――だが、それでも俺は勝たなくてはならない。

 

 例え、政治が大人の舞台でも、相手があの雪ノ下陽乃の母親であろうと、大魔王であろうと。

 

 勝たなくてはならない――雪ノ下の為に。

 

「――ふふ、比企谷さん。そんなに怖い顔をしなくても大丈夫ですよ。私達に、あなた方との敵対の意思はありませんから」

 

 雪ノ下夫人は口にあてがっていたティーカップを、そっとテーブルに下した。

 その微笑みは、こちらをまるで対等の相手だと思っていない――子供を見る、大人の目だった。

 

 ……嘗められている。いや、これが、紛れもない俺と彼女の実力差なんだろう。力の差に相応しい、余裕の振る舞いなんだろう。

 中身が化物だろうと関係ない。コイツは、あの雪ノ下家の社長夫人という“役”を、あの陽乃さんですらいつ入れ替わったのか分からないと評する程に完璧に演じきっていた――演じることが出来る程に、彼女は“人間”だ。

 

 人間の――それも超ド級の大魔王クラスの、()()()()()()()()()()()()()だ。

 戦闘力がどれほどのものかは分からない。だが、こと人間的な戦争――政治的な戦争においての戦闘力は、場数は、経験値は、俺みたいなガキよりも、遥かに上だ。

 

 正しく、大人と子供のように、歴然だ。

 

「…………」

 

 俺は、そっと紅茶を含む。こんな所で毒などを入れたりしないだろう。

 ここは敵地だ。万が一、俺達を問答無用で排除するというのなら、もっとやりようはいくらでもある。

 

 紅茶に含まれた毒は見抜けなくても、これまでのガンツミッションの経験からか、人の、そして化物の敵意、殺意のようなものはなんとなく分かるようになった。長年のぼっち生活で磨き抜かれた悪意センサーがパワーアップしたんだろうな。便利だが悲しい才能だぜ。

 

 少なくとも、俺達の傍には、隠れている伏兵のようなものはいない。目の前の夫人と、その横に控える都築さんだけだ。

 …………後、()()()()()()()()()()()。黒金程ではないが、もしこれがミッションだったら、おそらくはボスはソイツだろうという個体が。

 

 十中八九、現雪ノ下家当主。陽乃さんと、雪ノ下の父親。

 

 雪ノ下豪雪(ごうせつ)

 目の前の貴婦人、雪ノ下陽光(ひかり)の夫にして、恐らくはコイツ等、何とか星人のトップだろう。

 

 ……ごくり、と。

 あの空間で飲んだ味を思い起こさせる、けれど明確にどこか違う温かい紅茶を嚥下し、脳を冷やす。

 

 そして、思考を纏める。

 ……そういえば、どうして雪ノ下父は出てこない。陽乃さんが言っていたように、外交は雪ノ下母の役割なのだろうが……それでも、これも陽乃さんの話によれば、豪雪はその場にいるだけで空気を掌握できるような威圧感の持ち主らしい。交渉事において、何も喋らなくてもそんな存在が傍らに立っているだけで、十分にカードになると思うが……。少なくとも俺はビビるかもしれない。

 

 それをしないのは――逆に、威圧感を与えないためか? こちらを警戒させないため? あれだけ煽っておいて?

 

 ……考えているだけでは埒が明かない。

 切り出してみるか。

 

「……そうですか。でしたら、ご主人はどちらに? そういうことは、やはりトップの人間から――失礼。トップの“化物”の口から、直接聞かせてもらえないと、信用出来ませんね」

 

 俺の言葉に、ピクリと都築さんが反応する。霧ヶ峰は「うわぁ……」と呻いているが、声色から楽しんでるのがバレバレだぞ。

 

 この言葉は――まぁ今更だが、俺達はお前等の()()を知っていると、暗黙の了解だったその前提を明確に言葉にし、その上で、俺はお前達に――化物に対し、歩み寄るつもりはないと敵意を滲ませることを目的とした嫌味だ。

 此度の会談における、俺のスタンスを明確に示した形だ。

 

 先程、雪ノ下母は、俺達に対し――ガンツ側に対し、敵対する意思はないと明言した。

 つまり、これでこの会談の流れは、奴等が俺達に対しどう歩み寄るか、いかに自分達の目指す青写真に近づけるかというものになる。

 

 決定権を、主導権をこちらで握れる――筈だ。

 

「…………」

 

 雪ノ下母は――貴婦人は、淑やかに微笑み、紅茶のカップを口に付ける。

 まるで、一生懸命足掻く俺を、拙く戦う俺を、微笑ましく思うような笑みを――微笑みを浮かべる。

 

 ……そうだろうな。百戦錬磨の、本物の政治(せんそう)を知るお前からすれば、俺のやってることなど文字通りの児戯に過ぎないのだろう。

 

 まず第一に、奴は――奴等は、俺の、比企谷八幡の弱点を把握し、掌握している。

 

 雪ノ下雪乃――そして、雪ノ下陽乃。

 

 コイツは初めに、娘達がお世話になっていると、そう言った。

 目の前の貴婦人は、昨日の池袋の戦争の時、陽乃さんと接触している。その時の口振りから、奴は俺と雪ノ下の関係だけでなく、俺と陽乃さんの関係も――関係の深さも、深く把握しているということだ。

 

 昨日、奴は陽乃さんと会談の約束をしていたらしい――その上で、今朝になってこいつ等の包囲網から陽乃さんが逃げ出し、代わりに俺達がアポなしで現れたことに対して何も言わないのが、その証拠だ。

 それ程までに俺が大事に思っているということが筒抜けな“家族”を――自分達が保有しているカードを、この会談という戦争の場で、脅しとして彼女達の身柄を使うことは、十分に考えられる。

 

 陽乃さんはまだしも、雪ノ下に対してそれは、たしかに有効だ。一人暮らしをしているとはいえ、未だ雪ノ下は、コイツ等の庇護下にあるのだろうから。

 ……その可能性も考えて、陽乃さんには雪ノ下の元に行ってもらったが、俺程度で思いつくこんなことを、目の前の化物が見逃しているとは思えない。

 

 直接的にせよ、間接的にせよ……何らかの手が回っている可能性も、十二分に考えられる。

 

――だが、その時が、お前等の最後だ。

 

 俺はそっと、この椅子に座る前に乱雑に放った鞄を見遣り、続いて横に座る霧ヶ峰を見る。

 奴は、にやりと、気味悪く笑い――俺も口元を緩ませる。

 

 そうだ。そんときは、もうこんな会談はどうでもいい。いつまでも奴等の得意分野に付き合う必要はない。

 

 俺の大切に対して明確な敵意を向けるなら、俺の大切に対する明確な敵となる意を示すなら――その時、俺はきっと、どこまでも残酷になれる。

 

 大嫌いな殺しも、きっと喜々として実行することが出来るだろう。

 

 ここが敵の巣穴だろうと関係ない。

 力ずくで、暴力的に制圧し、雪ノ下のことを吐かせ、情報を貪る。

 大事になっても、あのパンダがどうにかしてくれるだろう。あまり借りは作りたくはないが、しょうがない。雪ノ下の為だ。

 

 その時は……最終的には、最終手段としては、きっと雪ノ下を……一緒に連れて行かなければならないのだろう。星人側にも、組織側にも、処分される前に保護する為に。

 

 本当に、それは最終手段にしたい。やっと俺から解放してやれた雪ノ下を、これ以上巻き込まない為に……出来れば仮初でも、欺瞞でも、こいつ等には雪ノ下の家族で、表面上は親子で居てもらいたい。その為に、こんな面倒くさい政治ごっこをしているのだから。

 

 それに――殺しは嫌だ。本当に嫌だ。出来れば、死んでも、殺したくない。

 

 でも、しょうがない。幸せになる為には、時には嫌なこともやらなくちゃな。

 

 俺は――幸せにならなくちゃいけないんだから。

 

「…………」

 

 スッと、俺は一度瞑目し、再びその腐った双眸を開く。

 

 目が合った雪ノ下陽光は、カップをソーサーに戻し、微笑みはそのままに、すらりと背筋を伸ばしている。

 俺の瞳に剣呑な色が混じったのを察したのだろう。本来ならこんな殺意を滲ませてしまった時点で政治的には俺の負けなのだろうが、そんなのはいつものことだ。

 

 勝とうが、負けようがどうでもいい――どうせ、殺せばいいんだから。

 散々勝たなくちゃとか思っていたくせに、いざとなるとそんな風に開き直れてしまう、俺のようなキチガイに対し、話し合いほど無意味なものはない。言葉が通じないヤバい奴には、何を言っても無駄なのだから。

 

 ……まったく、とても野蛮で原始的なやり方だ。

 俺は、いつだって、こんな斜め下の解決方法しかとれない。

 

「――勿論です。主人には、あなた達の警戒心を煽るのもと思い控えさせてしまいましたが、どうやら全てお見通しのようで。あなた達程の“戦士(キャラクター)”に対し、これは侮辱でしたね。無礼をどうかお許しくださいまし」

 

 そう言って、雪ノ下夫人は頭を上品に下げる――が、こいつ、わざとやってるな……。流石は陽乃さんの母ということか。初めの無駄な煽りも、只のコイツの趣味だな。自分達の、一応は修羅場である筈なのに、いい性格をしている。

 それだけ、自分の能力に自信を持っているということだろうが――まさしく女傑だな。

 

 もしかしたら、この結局は無駄となったこの時間も、こちらを見定める意味があったのかもしれない。……全く、相手をしていて疲れる連中だ。

 

 どこまで見透かされたのか――まぁ、いい。全てはこっからだ。

 この会談で今後の扱い方を見定めようとしているのは、こっちだって同じだ。試されているのは、お前達も同様だ。

 

 場合によっては――今日がお前達の命日だぜ、()()

 

 雪ノ下夫人が、都築さんが差し出したベルを鳴らす。

 そして、がちゃりと、洋館の大きな正面の扉が直ぐに開かれた。

 

 

「――――な――に」

 

 

 そこから現れた“二人”の人影に、俺は思わず椅子から勢いよく立ち上がった。

 

 からんからん、と椅子が倒れる音をどこか遠くに聞きながら、俺は呆然と“そいつ”を見つめる。

 

 雪ノ下父と思われるその男――雪ノ下豪雪は、彫りの深い端正な顔の美丈夫だった。

 東条程の巨漢というわけではないが、それでも一般的な成人男性よりは大柄な鍛えられた身体。漆黒の短髪に鋭い眼光は、一目で只者ではないと分かる。

 

 だが――俺が見ていたのは、これほどまでに敵陣で無様に醜態をさらしているのは、その後ろ、雪ノ下豪雪の背後から飄々と登場した、その少年だった。

 

 

 ()()()()()()()()()だった。

 

 

「…………へぇ」

 

 隣で、何の感情も伺わせない、簡素な呟きを漏らす――霧ヶ峰霧緒と、中坊と瓜二つの、同一の顔を持つ少年。

 

 俺を二度も窮地から救ってくれた、ゆらゆらと片手の袖がひらめく、隻腕のその少年は――。

 

「…………中…………坊?」

 

 俺の間抜けな、掠れた音量のその呟きに、白い少年は、偽中坊は、中坊とは違う、けれど中坊と見紛うような、無邪気な、邪気のない笑みで言う。

 

「昨日振り、だね。……約束、守ってくれたんだね。“彼”を、生き返らせてくれてありがとう」

 

 その言葉に呆然とする俺は、昨日、日常で“オニ”に襲われた時、こいつが俺と黒金の間に降り立った時のことを思い出す。

 

――『カタストロフィは近い。それまでに“彼”を生き返らせて。必ず、彼はあの終焉(カタストロフィ)に必要になる――――』

 

「でも陽乃の方が先でしたけれどね。賭けは私の勝ちでしたけどね」

「うるさいよ。賭けはしないってあの時も言ったじゃんか」

 

 そんなやり取りも呆然と聞き流す程、俺は偽中坊の衝撃から未だ立ち直れなくて、混乱していて――そして、偽中坊は、俺の横を通り過ぎ、俺の隣の、霧ヶ峰と相対する。

 

 偽物と、本物が、相対する。

 

 二人とも不敵な笑みを、穏やかな笑みを浮かべている。

 こうして隣り合っていても、向かい合っていても、何もかも、瓜二つだった。

 

 顔も、身長も、声も、笑みも――身に纏う、白いパーカーも、全く同じ。

 パーカーの中のシャツや履いているズボンの色だけは違うが――それによって辛うじて判別がつくが――それでも、双子でもここまで似ないだろうという程に、この二人は似ている。

 

 まったくの、同一だ。

 

 けれど、片方は人間で、片方は化物だ。

 

 片方は“鬼”で、そして、もう片方は――。

 

「……久しぶりだね、“僕”。無事に生き返れたようで何よりだ。ずいぶんと、遅刻ギリギリだったけどね」

「…………なるほど、ね。そっかそっか、そう言うことか。…………何はともあれ――」

 

 偽中坊は、中坊に――霧ヶ峰に語り掛ける。

 

 対して霧ヶ峰は、そんな偽中坊の言葉に、こう、不敵な笑みと共に返す。

 

「――似合ってるじゃないか、そのパーカー。中々に決まってるぜ」

 

 その言葉に、偽中坊は――

 

「……………っ。………うん。気に入って………るんだ。………あの日……君が、ああ言ってくれたから………僕は、“僕”に――君に、なれた。……だから、これは僕の宝物だ」

「ふふ、そこまで言われちゃうと、それは僕のアイデンティティだから今すぐ脱げとか言えないなぁ。僕はファンには優しい男の子なんだ。今なら特別サービスでサインまでなら許しちゃうぜ」

「っ!? 本当に!? な、なら、このパーカーの背中に――」

「待て待て待てお前等自重しろ! 盛り上がる前に説明義務を果たせ!」

 

 なんなのこの偽中坊!? 唐突にキャラ崩壊してんじゃねぇよ! あのミステリアスキャラはどこに行ったんだ!?

 

 俺が霧ヶ峰と偽中坊の間に割って入ると、雪ノ下母がなんかしゅんと落ち込んでいる雪ノ下父を慰めながら、微笑みと共にこう切り出した。

 ……あ。そういえば父のん放置してましたね。本当は彼こそがボスキャラ登場として注目される筈だったのに総スルーだったからなぁ。なんかゴメンね。っていうか180センチ以上の男がしゅんとしているという絵面なのに絵になるのは美男美女だからか。イケメン滅びればいいのに。

 

「“彼”についても、きちんと順序立てて話をさせていただきますよ。それなりの物語になりますので、まずは皆でお茶にしましょうか。都築、椅子を持って来て。それからあなたも座りなさいな」

「承知しました、奥様」

「さて――とりあえず、遅まきながら自己紹介と参りましょうか。ほら、あなたしっかりしなさい。それでも雪ノ下家の当主ですか。“役割”はきちんと全うしなさいな。ほら、あなたもこっちにきなさい」

 

 そう言って、雪ノ下陽光は父のんと偽中坊を自分側に呼び、座る彼女を中心に、右側に雪ノ下豪雪、左側に偽中坊を立たせ、俺と霧ヶ峰に向かって――ガンツからの使者に向かって、自らの正体を、星人として正体を告げた。

 

「改めまして、私の名前は雪ノ下陽光(ひかり)――“彼女の身体”を譲り受け、“彼女の役割”を代行させていただいております。そして、隣にいる夫――雪ノ下豪雪と共に、黒い球体には『寄生(パラサイト)星人』と名付けられた、同族達の(おさ)のようなものをさせていただいております」

 

 寄生(パラサイト)星人――そう、自らの化物としての正体を告げた時の微笑みは、それでも人間のような笑みで。

 

 美しい貴婦人の微笑みを、美しき化物は、いたずらっぽく俺達に向ける。

 

「私達は、弱くて、弱くて、弱弱しいので――あんまり、イジメないでくださいね?」

 




比企谷八幡は、化物の巣窟たる雪ノ下家へと、新たなる戦争へと乗り込む。


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Side八幡――②

――我が子は、人間でした。

我が子なのに、人間でした。


 

「私達は、弱くて、弱くて、弱弱しい。

 

「これは謙遜でも、言葉遊びでもなく、むしろ言葉通りの意味として、私達は最弱の種族なのです。

 

「戦闘力という意味でも――生存力という意味でも。

 

「そもそも私達は、生物としては恐ろしく欠陥的です。文字通り――致命的な程に。

 

「何故なら、私達は、繁殖能力を持たないのです。

 

「この宇宙にて、突然変異的に発生し、地球に降り立ち、地球生物に寄生して、今日を生きている。なんとか生き抜いている。どうにか生き永らえている。

 

「そして、宿主の死と共に、死んでいく。

 

「只の――いえ、そんな可愛らしいものではありませんね。あり得ませんね。私達の本性は、本質的な生物的本能は、虫というよりは、むしろ獰猛な獣なのですから。

 

「寄生虫ならぬ――寄生獣、と言ったところでしょうか。

 

「私達は、寄生獣――寄生(パラサイト)星人と呼ばれているものです。

 

「呼ばれている、化物です。

 

「見かけたら、どうか優しくしてあげてくださいね。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「私達の起源――寄生(パラサイト)星人の起源というものには、残念ながら見識はありません。知識としては知りません。お恥ずかしい限りですが。

 

「気が付いたらここに居たのです――地球に居たのです。

 

「宇宙から、地球に降り立っていたのです――ここ、日本列島の端である、千葉県に。我らが愛すべき千葉県に。

 

「なので、正確には私達は自分達が宇宙人なのかも分かりません。あの黒い球体は、私達が地球外生命体――通称“星人”であることを確信していたようでしたが。まぁ、オニ星人のような方達もいますし、私達もウイルスのようなものだと思っても大差ないのかもしれませんね。私達が人間ではなく、化物であることには疑いようがありませんからね。

 

「さて、地球来訪のその日、まず行ったのは宿探しでした――宿主探しでした。野宿は辛いですからね。死んでしまいます。

 

「なにせ、その頃の私と来たら、文字通りの虫ケラでしたから。全長五センチメートルにも満たない、ミジンコの巨大版です。ふふ、大きいのか小さいのか分かりませんね。

 

「そのことからも分かる通り、私達は何かに寄生することを前提とした生命体なのです――星人なのです。だからこその寄生虫――寄生獣――寄生(パラサイト)星人です。

 

「この行為は、寄生というこの行動は、本能にインプットされていたようでした。まず、そこがどこか、自分が何かということを省みるよりも前に、一刻も早く宿主を探さなければという行動原理が優先されました。そのことに何の疑問も持ちませんでした。

 

「まぁ、疑問も何も、その時点ではそんなことを思うような、他の事を思わないことに疑問を覚えるような知能はなかったのですが。

 

「虫けらですから。

 

「むしろ、そんな知能を得る為に、宿主を欲していたという面もあるのでしょう。

 

「私達は、宿主の身体に侵入し、その方の脳を奪うことで――宿主を乗っ取ることで、食らうことで、ようやく一人前の生命体になれるのです。虫けらから脱却し、人間に――否、化物になれるのです。一人前の、一化物前の、寄生(パラサイト)星人になれるのです。

 

「どうです? 獣でしょう? 本能のままに、寄生し、食らう――まさしく寄生獣です。

 

「………ええ。その通りです。お察しの通り、既に本物の彼女等は――雪ノ下陽光や、雪ノ下豪雪は、この世にいません。

 

「私達が食らいました。私達が乗っ取りました。――私達が、殺しました。

 

「……ありがとうございます。ええ、とりあえず話を聞いてください。物語を聞いてください。

 

「言い訳にもなりませんが、理由はあるのです。動機は――犯行動機はあるのです。納得していただけるかは分かりませんが、耳を傾けていただければと。その後で、いかようにもしていただければと。

 

「――ええ。これは自己犠牲などではありません。私達の命を差し出すから他の同胞は見逃してくれなどと言い出すつもりもありません。只の諦念です。

 

「最初に言いましたが、私達は、弱くて、弱くて、弱弱しい。何かに寄生しなくては明日も生きられない、最弱の寄生獣です。あなた達を――黒い球体を敵に回して、明日の日の出が拝めるなど、初めから空想すらしていません。

 

「ですから、こうして無様に命乞いをしているのです。私達の物語を語って、あなた方の同情を買うことを目論んでいるのです。

 

「哀れに思っていただけるのなら――もう少し、お付き合いいただければと思います。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「日本の千葉県に降り立った私は、とある豪邸の窓から侵入しました。最も近くにあった生命反応がそこだったのです。

 

「そこは、ここ――雪ノ下家の本家でした。何の因果か、ここは私の、ある意味では生誕の地なのです。

 

「私は、そこで眠っていた一人の女中の耳から体内に侵入し、脳を奪い、乗っ取りました。彼女という人格を食らい、彼女という人間を殺したのです。

 

「こうして私は宿主を得て、一人前の、一化物前の、寄生(パラサイト)星人となったのです。

 

「始めは苦労しました。元々、彼女は口数が少なく、友人は居らず、どうやら身請け同然に雪ノ下家へと配属になったようで、雪ノ下家でも肩身が狭い、厄介者のような存在であったようでした。

 

「ですが、そのおかげで、誰とも会話をすることなく、ただ一方的に言われるがままの仕事をこなせばいいだけだったのは助かりました。

 

「私は他の寄生パラサイト星人と比べて特別知能が高いようなのですが、それでもやはり彼女を乗っ取った当初は、人間の言葉も、当然ながら常識も分からず、書物を読んだり、他者を観察する必要がありましたから。

 

「ですが、数日もあれば、どうにか彼女の生前の暮らしを模倣することは出来るようになったようでした。他者とあまり会話をせず、言われるがまま仕事をこなし、そして館の外れで孤独に眠る。そんな日々を、模倣(トレース)することが出来ました。

 

「しかし、そんな順風満帆に思えた私の寄生生活にも、すぐさまどうにもならない問題が浮上しました。

 

「生きる上で、生き永らえる上で、欠かせない問題――栄養の摂取。すなわち、食事です。

 

「私達は、同族を食します。正確に言えば、宿主となった生物の同族を食する――つまりは共食い専門の種族なのです。

 

寄生(パラサイト)星人は、生物の体内に侵入し、その宿主の脳を奪うことで知能を得ます。つまり、宿る前の、寄生する前の状態は、著しく知能が低いのです。そんな状態で宿主を選ぶわけですから、中には人間ではなく、犬や猫などの、文字通りの獣に寄生する場合も有り得ます。勿論、最も本能的に惹かれるのは人間の脳なので、こんな例はごく稀ですけれどね。おそらくは知能を求めての本能的欲求であると推測しているので、人間に最も惹かれるのではないかと推測しているのですが――あなた方にはどうでもいいことでしたか。

 

「つまり、犬に寄生したものは犬だけを、猫に寄生した場合は猫だけを――そして、人間に寄生した化物は、人間を食すのです。

 

「私も、数多くの人間を殺し、食しました。頭を乗っ取ったことで、私は頭部を“異形”に変形させることが出来ます。食虫花を咲かせるように、裂かせることが出来ます。この細胞こそが、私達の本体であり、本性です。ほら、こんな風に。

 

「………そんなに引かなくてもいいじゃないですか。ほら、霧ヶ峰さんなんか紅茶のお替りを頼んでいますよ。え? 一緒にするな? いえいえ、顔を顰める程度で済んでいるあなたも同類です。私達からすれば頼もしい限りですよ。ふふ。

 

「話を戻しますね。まぁ、こんな感じですので、普通の一般の方を襲う分には――食す分には、そこまで苦労はしないのですよ。勿論、人間社会では殺人事件ですので、計画は綿密に、雪ノ下家からはなるべく離れた場所で、回数も最小限にするように努めていたのですが――そんな配慮をする私のような寄生(パラサイト)星人は、当然のように一握りでして。というよりも一摘みでして。

 

「他の大多数の同胞達は、そんなことはお構いなしに、自由気ままに、勝手気ままに、空腹に任せて狩りをしていたのですよ。原始人のように。この文明社会で。

 

「野蛮ですよね。迷惑なものです。ですが――当時の私にとって、それはどうでもいいものでした。

 

「同胞の暴挙も、その時は暴挙だとは思いませんでした。随分と豪快だなぁとか。よく食べるなぁとか。そんな感じでした。

 

「私が行っていた偽装工作は、あくまで人間にとって自分達の食事は、殺人事件という取り締まるべきもので、もしその犯人が自分だと割り出されたら、私の平穏が――生存が脅かされると思ったからです。

 

「断じて、倫理観などに基づいての行動ではありません。数は少ないとはいえ、私もばりばり食べてましたからね。やだっ、ばりばりとか使っちゃいました☆。ワードセンスが若い!

 

「……なにを、さっきの変形を見た時以上に顔を顰めてるんですか。まだまだ若いでしょう、私。年齢? 女性の年齢を聞くなと教わらなかったんですか、平塚先生に。

 

「あ、いいえ、平塚先生が私達の仲間ということはないです。あの事件の後、雪乃のことで話し合ったことくらいですよ。……まぁ、後はあなたのことを調べていく上で、少し調査をしたくらいです。

 

「その辺りのことは、順を追って追々説明していきましょう。今は食事の話でしたね。

 

「つまり私は、同胞の暴挙を、その時は暴挙とは思わず、むしろ自由に食事出来ることを少し羨ましく思っていたくらいでした。

 

「――ですが、やはりそんな暴挙は、黒い球体は見逃してはくれませんでした。

 

「私達には、同胞を感知する能力があります。私達特有の脳波のようなものです。これにより、見た目には完全に人間に擬態している同胞を見つけることが出来ます。

 

「それが――ある日、一斉になくなりました。

 

「……いえ、それは正確ではありませんでしたね。言葉が正確ではありませんでしたね。この感覚は同胞が近づかなければ反応しないレーダーのようなものなので、消えた瞬間に感知できたわけではありません。

 

「地球に――千葉に降り立ち、雪ノ下家の女中としての生活に慣れてきた頃には、私は周辺市内の同胞の数や住処などはある程度把握していました。その頃には、同胞同士で馴れ合おうとか、ましてや組織を作ろうなどとは考えておらず、居るなぁという程度の感じでした。ほら、私ってドライな女ですから。クール系女子ですから。

 

「でも、ある日を境に、それなりの人数の同胞がいた筈の街から――同胞が丸ごといなくなっていたのです。

 

「駆逐されていたのです――殺処分されていました。

 

「今覚えば、それは黒い球体による“掃除”だったのでしょう。ミッションの標的(ターゲット)にされていたのだと思います。私達の弱さから考えたら、おそらくは点数は微々たるものだったと思いますが。

 

「その地域の同胞達は、特別食事のマナーがなっていない、暴飲暴食な同胞達が多数生息していた地域でした。人間社会の方でも連続通り魔事件が多発していると話題になっていたものです。

 

「私は直ぐに気付きました――人間達が、私達を“敵”として認定したのだと。

 

「この頃の同胞達は、人間を自分達の食料としか見ておらず、見下しがちだったものですが、私は違いました。私は理解していました。個々人ならばまだしも、群生としての人間は、種族としての人間は、私達のような寄生獣よりも、遥かに強く――悪魔的であると。

 

「悪魔とは、まさしく人間のことであると。

 

「ありとあらゆる動植物を食らい、支配し、この地球を掌握している、紛れもない強者で、強種族であると。

 

「だから私は、だからこそ私は、こそこそと目立たないように雪ノ下家へと寄生していたのですが、このままでは馬鹿で野蛮な同胞達のせいで、私までが駆逐されてしまう――この時、私は遅まきながら危機感を覚えました。

 

「そこで、私は決意しました。組織を作ることを。弱い者は弱い者同士でつるみ、固まりあい、身を寄せ合い、ひっそりと暮らすことを。

 

「黒い球体に、これ以上、目を付けられないように。

 

「私はこの日から行動を開始しました。

 

「まず、人間らしい食事を摂ることにしました。頭は化物ですが、身体はそのまま人間として残っています。消化器官も健在なので、人間が摂取する食事だけでも生きていくことは可能なのです。

 

「この発見は、私のそれまでの人生で――いえ化物生ですが――とにかく、過去最大の衝撃でした。人間を食らうという欲求は、食事という面以上に、私達の根源的な本能のようなものでしたから。それをしなくても、私達は生きていける、生き永らえていけるというのは、己という生物の、寄生(パラサイト)星人としての根本を崩されたような、崩してしまったかのような、アイデンティティクライシスのような感覚を覚えました。

 

「そして、次に感情表現です。私達は――寄生(パラサイト)星人は、基本的には合理的で、理性的な物の考え方をします。というよりはやはり、感情というものを理解できない、といった方が正確でしょうか。だからでしょうかね、基本的に寄生(パラサイト)星人というのは、皆一様に無表情なのです。私の夫のように、人形のような、作り物めいた無感情なのです。むしろ、私や“彼”の方が特異例なのですよ。……だろうな、ですか。……比企谷さんも言いますね。ふふふ。

 

「とにかく、ひっそりと生きると決めた以上、周りの人間(ふうけい)に溶け込む能力は必須です。いくら宿主が弾かれ者とはいえ、いつまでも無表情で無感情では違和感を覚えられてしまいます。最悪雪ノ下家を追い出されても生きてはいけますが、その頃の私は、いつどこに自分達の()がいるのか分からない状態でしたから。いずれ追い出されるのだとしても、感情表現を覚えることは必須でした。新天地では馴染めるように――擬態できるように。これは食事のように、直ぐに身に付くというものではありませんでしたが。

 

「そのような努力と並行して、同胞達の保護も続けました。殆どの同胞達は耳を傾けてくれることはありませんでしたし、その組織作りも決して楽な道のりではありませんでしたけども。

 

「第一に食事に対する考え方ですね。人間の食事で生きていけると言っても、先述の通り、人間を食らうという捕食行為は私達の根源的な本能に根付いているので、中々理解されず、むしろ私が異端扱いされて殺されかける始末した。返り討ちにしてやりましたが。

 

「それでも何とかめげることなく足掻き続け、色々と試行錯誤を重ねました。せめて騒ぎが大きくならないように目につかない場所に『食堂』を作ったり、後は人間達に対抗する為に色々と実験したりを繰り返したりして――上手くいったこともあれば、上手くいかなかったこともあって。中々しんどい毎日でした。

 

「そして、それから数年が経って――私は子供を身籠りました。

 

「当時の雪ノ下家当主――雪ノ下厳冬様との御子です。まぁ隠し子という奴ですね。昼ドラ的な展開ですよね。うふふ。夜の顔は化物で、昼間は昼間で昼顔的なことをやっていたというわけです。おほほ。いえいえうそうそ、ちゃんと致したのは夜ですよ。え? そこじゃない? パラサイトジョークですよ。笑ってくださいな。当時は当時で笑えないことになっていたんですから。

 

「随分と話は遡りますが、私の宿主が雪ノ下家の女中で、身請け同然でやってきたという話はしましたよね。

 

「ちなみに、当時の肉体年齢は十二才でした。子供を身籠ったのは十六才です。ええ、事案ですね。

 

「いくら当時の時代が時代だったとはいえ。まぁそんな時代だったからこそ、両親兄妹をなくした私が――というより“彼女”が、地元の有力者である雪ノ下家の当主に見初められて拾われる、なんて展開になったのでしょうけれども。

 

「そんな経緯なので、暗黙の了解として、彼女の――そして私の職務には、厳冬様の夜伽の相手が含まれていました。

 

「なんでも、当時の奥様とは政略結婚だったそうで――まぁこれも当時はよくあったことだったのでしょうが――夫婦仲は最悪に近かったそうなのです。

 

「奥様には結婚前から相思相愛の異性がいて、厳冬様も取引相手に半ば無理矢理押し付けられたような結婚だったそうで。そんな時に、厳冬様が“彼女(わたし)”を見初めたものだから、もう。光源氏待ったなしですね。

 

「私が感情表現を必死で覚えたのも、そんな経緯があったのです。毎晩自室に呼ぶ()()()()()と致している中、ある日急に反応が無くなった私に対して、厳冬様は当時そりゃあもう慌てふためていたものです。思ったより下世話な理由で驚いたことでしょう。

 

「……え? 夫の前でそんな話を赤裸々に話すのはどうか、ですか。いいんですよ、この人も昔は色々やりたい放題していたのですから。そういう気まずい部分(かこ)を互い受け入れるのがいい夫婦というものです。だからあなた、泣くのはおよしなさいな。結婚生活というのは綺麗ごとじゃやっていけないんですよ。ドS? 大魔王? なんのことかよくわからないですわね。

 

「さて。話を戻しましょうか。私の夜のテクニックの話でしたね。……え、違う? ああ、そうでしたね。とにかく、そんな形で、私の当時の宿主はロリコン当主に手籠めにされていました。

 

「当然ながら、そんな話を大っぴらに出来る筈もありません。私が他の雪ノ下家の人達にあまりよく思われていないのは、そんな理由もありました。厳冬様も、暗黙の了解を受けていた関係だったとはいえ、表だって私を庇うようなことなどもやはり出来ませんでしたし。そんな中、私が子供を妊娠したことは、それはもう雪ノ下家を大きく揺るがせました。

 

「遂に追い出される日が来たかと。周りの人達から冷たい目で見られながら、今後の計画を心中で立てつつ脱走の準備を整えていたのですが――冗談抜きでお腹の子ごと処分されかねなかったですから――そんな時、更なる重大な事実が発覚したのです。

 

「奥様、ご懐妊です。厳冬様とは結婚以来一度も褥を共にしたことはないにも関わらず。……ええ、浮気ですね。まぁ本人は開き直って、これはあなたの子ではないわよ! とズビシッと家族会議――雪ノ下家重鎮会議で勇ましく厳冬様に宣言したらしいのですが。本当に、雪ノ下家の女性は当時から強いですわね。

 

「まぁ、そこからいろいろとごたごたぐちゃぐちゃぐだぐだしつつ、結果としましては、私は子供を産むこととなりました。雪ノ下家当主と奥様の子として――対外的には。

 

「つまりは、どっちも産んで、意図的に取り違えればいいじゃん、ということになったのです。名家の闇が深過ぎて怖いですね。

 

「要するに、私が産んだ子供を、奥様が産んだことにして雪ノ下家の第一子とする。そして奥様が産んだ子供は、そのまま奥様の想い人がシングルファザーとして育てるということになりました。

 

「奥様は荒れに荒れましたが、それでも望まぬ結婚を強いられることが確定していた出自の立場において、身の貞操を愛する男性のみに捧げ、そしてその想い人との子供まで産めることになったのだから、あなたは恵まれている――と、奥様の母上に説得された末に、奥様は涙ながらにその結果を受け止めました。

 

「そして条件として、雪ノ下家からその奥様の想い人には一定額の養育費を奥様の私財から投ずること。そして奥様は想い人の“友人”として、いつでも想い人と子供に会いに行っていいと、厳冬様は仰いました。

 

「この決定は会社のその他の重鎮から大批判を浴びましたが、厳冬様はそこは頑として譲らず、奥様もこのことを機に、厳冬様との仲も良好――とはいかないまでも、お互いを信頼した喧嘩仲間くらいの距離には落ち着きました。ええ、喧嘩の絶えないご夫婦でした。同じ部屋で寝ていたことは終ぞ見たことはありませんでしたが……ええ、良きご夫婦ではなかったのでしょうが、良きパートナーでは在れたのだと思います。

 

「……さて、ここまで私とは特に関係のない雪ノ下家の裏話を語ってしまいましたが、ここでようやく本題に入りましょう。つまり、紆余曲折の末、私は雪ノ下家を追い出されるどころか、むしろここで子供を産まなくてはならなくなったのです。

 

「化物の私に宿った――正体不明の子供を。

 

「子供を宿ったこと自体は、私は後悔していませんでした。むしろ多大なる興味がありました。

 

「化物である私と、人間の子供。それが、果たしてどんな生命体であるのか――正直、興味しかありませんでした。私が知っていた限り、当時そんな試みを行った同胞は――それどころか、寄生(パラサイト)星人同士でも、子供を作ったものなど存在していませんでしたから。

 

「私達には、性欲がないのです。生殖活動を行おうという、意欲が湧かないのです。

 

「食欲しかありません。私の場合は知識欲も同等以上に凄まじかったのですが、まぁそれは個性ですよね。個性が芽生えること自体、寄生(パラサイト)星人の中ではとんでもない希少性の個性なのですが。

 

「とにかく、大変でした。こんなことになるとは思いもよりませんでした。てっきり隠し子を身籠った時点で追い出されて縁を切られることになるだろうと思っていたので。後で子供だけ渡せと言われても雲隠れしてやり過ごすつもりでした。大事な検証記録ですので。

 

「しかし、あろうことか、隠し子どころか嫡子として、険悪な夫婦の間に産まれる切望された第一子として、我が子を産まなくてはならなくなったのです。

 

「全てを投げ出して逃亡してやろうかとも企みましたが、その日の内に私は館の端の小部屋から奥様と同じ一室に移され、万全の体勢で出産に臨むことになりました。万が一のことがあったらあれだからと。手の平を返したような態度でしたね。

 

「仮にも正妻と不倫相手を同じ部屋で過ごさせるなんてどうなのかと俗な知識から疑問に思いましたが、むしろ奥様は私のことを大歓迎しました。あんな親父のどこがいいのと笑うときもあれば、あなたのお蔭でこの子を産めると泣きながら感謝されたこともありました。

 

「……そんな奥様との日々を過ごす中で、私は内心冷や汗ダラダラでした。どうしよう。どうしましょう。実は私は化物で、この子もどっちに転ぶか不明なんですよおほほうふふとは、とてもではないですが言えるわけがなく、逃げることも無理でした。……ええ、この頃には私もだいぶ人間に染まっていたのだと思います。弱りましたねぇ。弱ってしまうくらい、弱りきっていました。他の寄生(パラサイト)星人ならば、雪ノ下家の全員を惨殺してでも逃亡していたでしょうが。

 

「勿論、私も我が身が一番大事です。腐っても星人で、弱りきっても化物です。もし生まれてきた子が私達と同様に化物で、その正体が露見したならば、集団惨殺を躊躇なく実行する心積りでした。

 

「ですが、結果として、幸か不幸か、生まれてきた子供は、私がお腹を痛めて産んだ――まぁ頭を乗っ取った星人は痛みに対する恐怖心がないので陣痛だろうがなんだろうが無表情で乗り切りましたが。そして助産師さんにドン引きされましたが――子供は、普通の人間でした。

 

「紛れもなく、紛うことなく、その細胞全てが、普通の子供でした。

 

「健康優良児でした。

 

「おめでとうございます。可愛い女の子です――拍子抜けしてしまう程に。

 

「生まれてからしばらく観察していましたが、彼女はすくすくと育ちました。健康に育ちました。普通に育ちました――まぁ、普通よりも少し、いやかなり優秀な子でしたが、それは育て方が良かったのでしょう。

 

「彼女は、あの子は――我が子は、人間でした。

 

「我が子なのに、人間でした。

 

「あの子は私の子ではなく奥様の子として育てられましたが、本当に我が子ではないかのようでした。産んでから少し経つと、自分が産んだという実感すら、失くしてしまう程に。

 

「その後――私の後に続くように、何人かの寄生(パラサイト)星人が、あらゆるパターンで子作りに励みました。化物同士で交配してみたり、寄生(パラサイト)星人である男が人間の女に子種を注いだりもしましたが、生まれてくる子供は、その全てが、普通の人間だったそうです。

 

「最初に言った通りです。

 

「私達には――繁殖能力がないのです。

 

「次代に子孫を残せず、絶滅不可避な、欠陥種族なのです。

 

「人間などと比べる余地もない――弱くて、弱くて、弱弱しい。

 

「生物として、圧倒的に弱者なのです。

 

「……ええ、にも関わらず、何故、私はこうして生きているのか。

 

「若いままで、美しいままで、今もこうして、無様に生き永らえているのか。

 

「その理由をお話しします。

 

「世にも悍ましい種明しを致しましょう。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そう言って、雪ノ下陽光は――雪ノ下陽光の姿をした、雪ノ下陽光という存在を乗っ取った寄生(パラサイト)星人は、長い物語を語って水分を欲したのか、紅茶のカップを口に運ぶと、あらと言い、その中身が空になっていることに気付いた。

 

 すぐさま都築さんが「(わたくし)としたことが。申し訳ありませんでした」と言い、熱い紅茶を注ぎ直す。

 ……おそらくは、これは都築さんの、俺達への――俺への気遣いだろう。雪ノ下陽光の――始まりの物語に含まれた大量の情報を整理する為の時間を与える為の。都築さんが、霧ヶ峰の紅茶のお替りは注ぐ癖に、自らの主の紅茶の残量に気を遣い忘れるという失態をするとは思えない。

 

 だが、ありがたい。正直、ここまで長い物語だとは思わなかった。まさかの誕生秘話から始まるとは。……だが、御蔭で、確かに分かり易かった。

 その途中で、軽く雪ノ下家の闇のような部分を垣間見て――垣間聞いてしまったが。……というか厳冬も厳冬だが、奥様も奥様だな。雪ノ下家の女性はどいつもこいつも規格外じゃないといけないみたいなルールでもあるのか?

 

「――さて。いかがですか、比企谷さん。だいぶ長い話となったので――そして、もう少し長い話が続きそうなので、少し小休止としましょう。質問タイムです。紅茶が冷めるまでの間、聞きたいことには答えますよ。さぁ、クエスチョン! クエスチョン! ふんふふ」

 

 …………そして、物語を語っていく内に、だんだんとキャラ崩壊を起こしてきたこの星人。……星人の癖に、ばっちり雪ノ下遺伝子を受け継いでいるのは何でだ。

 この人は、この化物は、まるで昔の陽乃さんみたいだ。こっちをおちょくる癖に、決定的な隙は全く見せない。いや、この人が見せる隙は、この人が意図的に作った誘導路なのだ。自分のペースに引き込むことで、こちらを相手には自覚すらさせずに支配しようとする。魔王の――大魔王の手口。

 

 あの陽乃さんが、敵わないと零す程の女傑――まぁ、陽乃さんのことだから、何処まで本心かは分からないが……内心では恐らく虎視眈々と、この女を乗り越えて、踏み台にすることも目論んでいたのだろうが、それでも、()()()()()()()()()()()と、自分よりも上だと、口に出して認めていた程の存在。

 

 雪ノ下雪乃の、雪ノ下陽乃の――母親。

 どいつもこいつも規格外な、雪ノ下家の女の頂点――女王よりも、魔王よりも上の、大魔王。

 

 それは、果たして目の前の化物のことだったのか――それとも、この化物に乗っ取られた、その人だったのか。

 

 どちらにせよ、目の前の存在が、化物であることは変わりない。

 身も、心も、比喩抜きで、文字通りに。

 

「……そうですね。なら、時系列をはっきりさせておきたいのですが、あなたが地球に降り立ったのは、具体的にはいつ頃のことでしょうか。その雪ノ下厳冬とは、何代前の当主なんですか?」

「正確な数字はよく覚えていませんが、厳冬様は、先代のご当主様です。私――雪ノ下陽光の父であり、現当主である我が夫――雪ノ下豪雪の義父にあたります」

 

 そうか。そこまで古い話でもなかったのか。

 つまりは陽乃さんや雪ノ下の爺ちゃん、か……なら、話は百年も経ってない頃の話――

 

 

――待て。()()()()()()……()、だと?

 

 

 厳冬の娘が雪ノ下陽光――今、目の前にいる化物、寄生(パラサイト)星人に乗っ取られ、殺された人物だ。

 雪ノ下陽乃の、雪ノ下雪乃の母。寄生(パラサイト)星人を束ねる存在。

 

 だが奴は、目の前のコイツは、自分の人生を――化物生を語る物語で、たった今語っていた己の始まりの物語で、()()()()()()()()()と言っていなかったか?

 

 化物の自分が、人間の子供を、産んだと言っていなかったか?

 当時の雪ノ下家の当主であり、自分の宿主の身体を孕ませた厳冬の、子供を、産んだと。

 

 雪ノ下家の第一子として――元気な女の子で――そして――――そして――――。

 

「――――ッッ!! お……ま……えは……」

 

 俺は、愕然と、目の前の化物を見る。

 

 そして……理解する。

 背筋を走る寒気と恐怖――そして、冷たい憤怒と共に理解する。

 

 霧ヶ峰と、都築さん、そして雪ノ下豪雪と偽中坊が俺を見ている――見上げている。

 

 気が付いたら無意識に、反射的に、テーブルに手を叩きつけて、座っていた椅子を弾き飛ばして、思わず立ち上がっていたらしい。

 

 立ち上がり、睨み付けずには、いられなかったらしい。

 

 目の前の化物を――雪ノ下陽光を。

 雪ノ下陽光の皮を被った、化けの皮を被った、化物のことを。

 

 転げた椅子をしゃがみこんで直してくれる都築さんに礼も詫びもすることを忘れて、ただ目の前の化物に――殺意を送る。

 

 俺は、既に自分が胸を張って人間だと言える存在でないことは理解している。痛感している。

 

 ガンツによってこうして現存しているが、そうでなければ何回死んだのかも分からない。常人なら決して助からないような大怪我をミッションの度に負い、それを転送の度にバックアップデータを基に復元されてきた。

 そして、毎夜毎夜、無数の命を奪い、味方を切り捨て、そして、人間も――妹も、小町も遂にこの手にかけた。

 

 間違いなく死後は地獄行きで――地獄なんてものが、今俺が生きているこの世界以上の地獄なんてものがあれば、だが――間違いなくクズ野郎で、クソ野郎で、“鬼”で、そして、化物なのだろうと思っている。

 

 それでも――それでも――自分のことを棚に上げて、恥知らずなことを承知で、それでも言わせてもらえるなら――。

 

 コイツは、化物だ。

 

 人間じゃないとか、強さとか弱さとか、歪さとか不気味さとか異形さとか、そんなものじゃない。そんなものを抜きにして、そんなものすら霞んで、コイツは――化物だ。

 

 そんなことが、あっていいのか。

 

 そんな奴が、生きていていいのか。

 

 ダメだろ――それはダメだろ。それだけはダメだろ。

 

 こんな奴は、生きてちゃ、ダメだろ。

 

 俺と同じくらい――死ななくちゃダメだろ。

 

「八幡――座って。それを、下して」

 

 いつの間にか、無意識に取り出し、奴に銃口を向けていた俺の右手を、これまたいつの間にか俺の背後に回っていた霧ヶ峰が、スーツの力で抑えこんだ。

 

 頭は冷えている。いつもよりも、ずっとクールだ。

 だが、心が拒絶した――こんな俺が、今更心などと語るのは、滑稽極まりないと自覚はあるが、それでも徹底的に拒絶した。目の前の化物を殺したかった。

 

 ああ、これが同族嫌悪か。

 

 鏡を見ているみたいなのか――俺は、今、こんなにも気持ち悪い化物なのか。

 

 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い悍ましい悍ましい悍ましい嫌悪嫌悪嫌悪嫌悪。

 

 死ねばいいのに。なんで生きてるんだコイツ。

 

 なんて生きているんだ俺。死ねばいいのに死ねばいいのに。

 

 ………ああ、そうか。俺は、死ねないんだ。幸せになるまで。幸せにならなきゃ。

 

 小町と陽乃さんと、由比ヶ浜を拒絶して雪ノ下を壊して小町と約束して小町誓って陽乃さんがだから俺は小町幸せに陽乃さん陽乃さん俺は――俺は――俺は――。

 

「……………悪い、霧ヶ峰。もう大丈夫だ」

 

 俺はそう言って、Xガンを霧ヶ峰に渡し、都築さんに頭を下げて、椅子に座り直す。

 霧ヶ峰はXガンをテーブルの上に置いて、そして俺の左隣の席に俺に続いて座る。

 

 そして、雪ノ下陽光が紅茶を口に入れた。冷めたらしい。適温に。無表情でゆっくりと味わっていた。

 

 俺の激昂に対して、寄生(パラサイト)星人サイドの奴等は恐ろしく無感情だった。誰一人取り乱しておらず、動き出してもいない。雪ノ下陽光を庇おうとすらしていない。

 

 霧ヶ峰が止めるだろうと確信していたのか――それとも――。

 

「――比企谷さん。あなたのお怒りはごもっともです。私は、まさしく、化物の名にすら恥じるような、悍ましい行いをしました。……そして、その結果として、今、こうして無様に生き永らえています」

 

 そう言って、再び雪ノ下陽光は――雪ノ下陽光の化けの皮を被った化物は、再び語り始める。

 

 化物の物語を。その美しい化けの皮を手に入れる物語を――美しく、悍ましく、語る。

 

「……恥ずかしながら、語りましょう。面の皮の厚い奴だと、口汚く罵られることを覚悟に語りましょう。……私が、この顔を、この美しい面の皮を、化けの皮へと貶めてしまった化物の所業の独白を」

 

 そして、美しい寄生獣は独白した。

 

 何よりも恐ろしい毒のような言葉を、雪のように真っ白な酷薄の微笑みを浮かべながら、この世で最も罪深い大罪を告白した。

 

 

「――私は、娘を殺したのです」

 

 




比企谷八幡は、美しき寄生獣の化けの皮の物語を聞く。

それはこの世で最も罪深い大罪――家族殺しの物語。


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Side八幡――③

化物の、化物による、化物に相応しい物語ですから。


 

――私は、娘を殺したのです。

 

 

 

 美しき寄生獣は、背筋を伸ばして、凛とした声色で、そう胸を張って自供した。

 

 脳内では既に辿り着いていた真実だが、改めて犯人の口から聞かされると、冷たい憤怒と、強烈な嫌悪感が湧き起こってくる。

 

 妹殺しが、己が大罪を棚に上げて、娘殺しに怒りを覚えるというのも虫が良すぎる話だが――だからこそ。

 

 鏡を見ているかのような目の前の化物を、俺は絶対に許すことが出来ないだろう。

 

 化物は――雪ノ下陽光は。

 

 自分の胸に手を当て、大切な宝物を取り出すような、そんな人間のような表情で語る。

 

 己が殺した娘の物語を、我が事のように語る。

 

 母の顔で――語る。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「言い訳がましく、時系列に沿って、私が娘を殺すまでに至ったあらすじを語らせていただいきたいと思います。

 

「私が産んだ子供――厳冬様と奥様が産んだことになった、雪ノ下家の待望の第一子であるあの子は、雪ノ下陽光(ひかり)と名付けられました。

 

「彼女は文字通り、太陽のような女の子でした。

 

「お日様のように笑い、雪が吹き荒れる真冬のように殺伐としていた当時の雪ノ下家を、彼女は明るく照らしてくれました。

 

「愛される子供でした。愛さずにはいられない娘でした。

 

「お世辞にも味方が多いとは言えない、言葉を選ばずに言えば周りが敵だらけだった厳冬様と奥様。あの方らを快く思わない者達も、陽光の笑顔を見れば、思わず頬を綻ばせてしまう程に。

 

「化物から産まれたとは思えない――天に愛された子供でした。

 

「しかし――それでも、厳冬様達の敵が無くなったわけではありませんでした。

 

「その者達は、次にこう言ってきました――跡継ぎはどうするのかと。

 

「娘が生まれたばかりで気が早いとお思いかもしれませんが、ある程度の力を持った大きな家など、こんなものです。それに、厳冬様の御年も問題でした。

 

「雪ノ下家は、厳冬様が一代で、千葉県でも有数の名家へと伸し上げたのです。言うならば厳冬様は創始者で、創立者で、初代です。けれど、若い内から仕事一筋だった厳冬様は、陽光様を生んだこの時、既にかなりのご高齢でした。

 

「そんな状況で生まれた子は、天に愛された子とはいえ――女の子です。跡継ぎとして男の子が欲しかった重鎮達は、こぞってそのことを追求しました。まぁ、もし男の子が生まれていたのならば、我先にと教育係へと志願し、傀儡にするという目論見があったのでしょうが。

 

「ちなみに、陽光の教育係は私が――【私】の前代で初代の宿主の〔彼女〕が任命されることになりました。厳冬様と奥様が揃って推薦してくれました。

 

「母親と名乗ることを許してあげることは出来ない。ならば、せめて触れ合う機会を多く、少しでも母親らしいことする機会を、と。乳母も務めさせていただきました。

 

「このことも、厳冬様が第二子をお作りになろうとしなかった要因の一つだと思います。私から子供を取り上げてしまったということを負い目には思ってくれていたようですから。かといって奥様は旦那様に抱かれるつもりなどないし、表だって愛人を作れと言えるような世情では、その時は既になくなっていました。雪ノ下建設もこの時には、かなり知名度のある会社になっていましたから。下手にスキャンダルになって困るのは重鎮達も同じです。

 

「けれど、実際問題として、跡継ぎは用意しなくてはなりません。厳冬様も奥様も傑物では在らせられましたが、その分やり方は強引なことが多く、信頼し、信頼される部下には残念ながら恵まれてはいませんでした。一族経営に拘るつもりはなかったようですが、厳冬様の人生の結晶ともいえる雪ノ下建設を、安心して任せられるような人材がいなかったのも確かなのです。

 

「そんな中、厳冬様は明言しました。陽光の夫――その方に、この雪ノ下建設を譲り渡すと。万が一、陽光が結婚するよりも先に厳冬(じぶん)が倒れたら、陽光と奥様の二人をその間、会社のトップに据えると。

 

「その宣言は轟々に幹部達の批判を浴びました。当時は今よりも遥かに女性の立場が低かったですから。女の下になどつけるかと、その場で堂々と罵声を放った者もいました。

 

「当然、奥様に処分されましたが。奥様の敵が多かった理由にはこの気性もあったのです。あの方は男顔負けの能力を持ちながら、男のプライドなどというものにまるで関与しないお人でした。その分、女性からの信頼は篤かったのですが。

 

「しかし、いくら声高に批判しようとも、当時の雪ノ下家のトップはあくまで厳冬様。全ての決定権をあの方が握っていた、いわゆるワンマン経営でした。重鎮達は、大きくなった会社のそれぞれの部門の長に過ぎません。なので、王が白といったら、それは白になるのです。

 

「それでも、彼等は諦めません。既に高齢の王――そして、その王に明確な跡継ぎがいない、次代の王の座が空白なこの状況を、指を咥えて見ているような者達なら、その会議の椅子に座ることなど出来なかったことでしょう。

 

「彼等が次に行ったのは、まだ保育園にも上がっていない陽光に、許嫁を贈ることでした。

 

「自分の息子を差し出すのは勿論、中にはまだ妻は妊娠していないが男子を身籠った際にはぜひという者や、果ては自分そのものをプレゼンする男までいました。中々のカオスでしたよ。

 

「激昂しましたが。ええ、厳冬様が。あの時程、厳冬様がお怒りになった時はありませんでしたね。流石は一代で雪ノ下建設を築き上げた一国一城の主です。まさしく戦国大名が如き覇気でした。

 

「何を隠そう、陽光の一番の心酔者は厳冬様でした。そりゃあもう猫可愛がりでしたね。初孫を愛でるお爺ちゃんのように。事実、歳だけを見ればその方が自然ではありましたから。

 

「結果、許嫁の話は保留になり、文句があるならば陽光自身に気に入られろ! 儂からはその手の事に関して一切の強要はせん! というか陽光は嫁には出さん! 一生儂が面倒を――とまで言って、奥様のエルボーが厳冬様の腹に打ち込まれました。要はそれほどに厳冬様は拗らせていたのです。いつの時代も雪ノ下家の男というのはどうしようもないですね。

 

「何はともあれ、そこからは幼女の陽光におべっかを使いまくる醜いおっさん達の戦いが始まるのですが、幸か不幸か、陽光はそんなものには一切興味を示さない、打算の笑顔を的確に見抜く、優れた感覚を持っていました。これも天に授かった才能なのかもしれませんね。

 

「そして、そんな騒動から間もなくして、雪ノ下陽光への英才教育が始まりました。

 

「あんなことを言っていたものの、厳冬様はご自分のことをよくお分かりになっていました。

 

「自分は、そう長くはないだろうと。

 

「かなりの確率で、雪ノ下建設の跡継ぎが確定する前に——つまりは、陽光が結婚するよりも前に、自分は天に召されると。そして、そうなった際の青写真を、厳冬様は実行する気満々でした。

 

「奥様と――そして陽光の二人で、会社を支えてもらうという未来図を。

 

「厳冬様は、己の妻の――奥様の能力を誰よりもご存知でした。良き夫婦にはなれなかったお二人ですが、仕事の面では、誰よりもお互いのことを理解し、信頼し合っているパートナーでしたから。

 

「そして、自分の娘の――陽光の才能も、あの方は誰よりも理解しておいででした。あの子は、いずれは儂など遥かに及ばぬ傑物になる。まさしく天に愛された子だと。よく楽しそうに笑っていました。まぁ、親馬鹿も多分に入っていたとは思いますが――それでも、それは事実でした。

 

「事実とする為に、陽光は幼き頃から徹底的な英才教育を施されました――私が施しました。

 

「当時は、学もない身請け同然でやってきた[彼女(わたし)]などに教育係が務まる筈がないと文句を言ってきた者もいましたが、先程も言った通り、幼い陽光にあることないことを吹き込んで傀儡にしたいという意図が透けて見えるようだったので、完膚なきまでに叩きのめしました。

 

「仮にも私は星人です。化物です。人間に擬態する為に、ありとあらゆる知識は身に着けていました――厳冬様や奥様もこれには不思議がっていましたが、それでもあのお二人は学歴や身分よりも能力を重視する方達であり、普段の仕事ぶりから私の能力の高さは見抜いておいででしたので、深くは追及されませんでした。

 

「こうして、陽光は両親よりも――厳冬様や奥様よりも、教育係の私と接する時間が最も長くなりました。私は、誰よりも、陽光の傍にいました。

 

「まるで、母親のように。いつも傍で寄り添いました。笑い合って、時に叱って、喧嘩なんかもしながら、最後には仲直りをしました。

 

「……不思議な時間でした。陽光と接する度に、あの子を観察する度に、彼女は人間なのだと再確認していきました。

 

「よく笑って、転んだだけなのに大声で泣いて、両親が構ってくれないと拗ねて不機嫌になって、与えた課題を習得して私が誉めると本当に嬉しそうに喜びました。

 

「見れば、見るほど、人間でした。化物の――【私】の子供なのに。

 

「……不思議な時間で、不思議な気持ちでした。……気持ち? あれは、気持ちだったのでしょうか。何かの――感情だったのでしょうか。

 

「……分かりません。分かりませんでした。感情というものを、知識としては学び、完璧に模倣できるようになった筈なのに。私には、最後の最期まで、感情というものの正体が分からなかった。

 

「私は陽光に多くのことを教えました。同年代の子供達が何年も先になってから学ぶような勉学知識は勿論、武道等の習い事や、果ては帝王学のようなものまで。彼女は本当に優秀で、教えた先からすぐさま身に着けるので、教えることもどんどんディープになっていきました。

 

「そんな、他の人間達には理解できないようなことを、両親にも内緒で、私とだけで共有する――そんなことが、陽光はとても好きなようでした。陽光は、両親が与える課題はあっという間にクリアして、残った時間を使って私にあれを教えてこれを教えてと強請(ねだ)るのです。そして、私はそれをこっそり教えるのです。厳冬様にも、奥様にも内緒で。中にはあの方々から陽光にはまだ早いと釘を刺されているようなことも。

 

「そして、授業の最後に、陽光は私にこう言うのです。二人だけの秘密ね、と。小指を絡めて、約束をするのです。

 

「……やはり、不思議な時間で、不思議な気持ちでした。今でもあの頃の記憶は、殊更鮮明に思い出せます。

 

「あの子は優秀な生徒で、娘でしたが、私の方は劣等生でした。駄目な……母親でした。

 

「きっと私は、私が教えていたこと以上に、彼女から、陽光から、娘から……教わっていたのだと思います。

 

「あの子という人間から――生命から、私という化物は、何かを、何かとても大切なものを、教えてもらっていたのだと、そう思います。

 

「……それでも、今になっても、こんな事態(こと)になるに至っても……まるで分かりません。その答えを、出すことが出来ません。

 

「いつ死んでも悔いはないですが……これだけは、心残りです。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――さて。ここまで聞くと、これだけ聞くと、まるで化物が我が子の純粋無垢さによって改心し、化物の心を改めて人の心に目覚め、そして人間を目指すことになる……そんな物語のように進むかのようにも思えますが、残念ながら、そんな幸せな結末は訪れません。

 

「ハッピーエンドは訪れません。この物語はバッドエンドです。どうしようもなく後味が悪く、胸糞が悪い、そんな最低な結末で幕を閉じます。

 

「化物の、化物による、化物に相応しい物語ですから。

 

「私は娘の教育係をこなしながら、並行して、寄生(パラサイト)星人の集会にも顔を出していました。

 

「人間の母のように娘の子育てをしながら、しっかりと裏では、裏の顔では、裏の本性では、化物の勢力管理に勤しんでいたのです。

 

「どちらも私――というよりは、やっぱり()()()()()私なのでしょうね。所詮、化物ですから、私は。

 

「その甲斐あってか、寄生(パラサイト)星人の寄り合いは、徐々に組織としての形を手に入れていきました。

 

「しかし、中々苦労しましたよ。どの子も皆、こちらの言うことを中々聞こうとしない駄々っ子でした。娘のカリスマ性を羨ましくも思いましたが、けれど、それと同時に、私達寄生(パラサイト)星人が地球という星に飛来してからそれなりの月日が経ち、合理的にしか物事を計れなかった我が同胞達が、上から目線で従えられるのは嫌だという、いわば我が儘のようなものを覚え始めたのは――そんな感情を、徐々にですが覚え始めていたのは、何やら娘の成長を見守るに似た感覚を覚えました。

 

「そして、そんな中で、そんな同胞達の中で、一際目立つ個体がいました。

 

「その子は私に特別反抗的であったわけではなく、むしろ、特別私に懐いてくれた個体でした。

 

「男か女か、雄か雌か――そもそも寄生(パラサイト)星人自体にそんな雌雄があるのかさえ不明ですが――分からないような見た目でしたが、後に取った証言によると、この時寄生していた宿主の身体は男性体であったそうです。

 

「身長は当時の“宿主(わたし)”と同じくらいで、年齢も同じくらい。髪色はくすんだ灰色で、顔立ちは先程言ったように中性的で、体つきも細々と痩せ細っていました。

 

「元々そんな身体の宿主を乗っ取ったのか、それとも寄生(パラサイト)星人としての“食事”が上手く行っていなかったのか――とにかく彼は、私にとても懐いてくれました。組織作りに積極的に協力してくれて、私の話にも熱心に耳を傾けてくれました。

 

「私に付いて来れば安定して食事が出来るという下心があったのかもしれませんが、それでも寄り合いには出席率100%で参加してくれて、いつも私の後ろをついて回るようになりました。

 

「彼は、寄生(パラサイト)星人の典型のように、無感情で無表情で無感動ではありましたが、私に付いて回るにつれ、徐々に人間の文化も覚えていくようになりました。

 

「表の時間でお互いに休みを貰うと、プライベートで食事に行ったりするようにもなりました。……勿論、人間風の食事ですよ。彼は余程お腹を空かしていたのか、人間の食事もそれはもう貪るように食べていました。

 

「彼は頭も悪くありませんでしたし――何より強かった。貧弱な寄生星人(わたしたち)の中では屈指の戦闘能力を誇っていました。だからこそ、私が頭脳で、彼は武力を担当するようになり――私は彼を側近として、副官のようなポジションとして、手元に置くことに決めました。

 

「貴重な戦力を確保することに成功した私の化物組織作りは、概ね順調だったと言えるでしょう。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「しかし、同時期。雪ノ下家の――正確には雪ノ下建設の方では、何やら波乱が起きていました。

 

「私が貴重で有望な新人を獲得したように、雪ノ下建設の方にも、入社して僅か五年で、一般入社の平社員から怒涛の勢いで実績を積み重ね、上層部も無視出来ない程に出世街道を駆け上がる、若手有望株が頭角を現し始めていたのです。

 

「その正体は、何を隠そう、あの奥様の想い人で、奥様との間に子供を作った間男――かのシングルファザー君でした。

 

「彼は、奥様の妊娠が発覚した次の日――雪ノ下本家の、正しく私達が今いるこの屋敷に出向き、門の前でそれはもう見事な土下座を敢行をしました。ちょうどあの辺りですね。ほら、あそこですよ、あそこ。

 

「夫がいる身の女性の純潔を奪い、あろうことか子供を孕ませた――当時、地元の有力者の妻に対してのそんな所業は、一族を纏めて路頭に迷わされて当然の行いでした。

 

「しかし厳冬様は、そんな彼を無罪放免で許し、子供を取り上げるどころか彼に渡すと確約し、奥様との密会も許され、あろうことか養育費まで差し上げる始末。普通なら有難過ぎて裏を疑うレベルです。え? なに? 俺、死ぬの? って感じで。

 

「ですが、良くも悪くも真っ直ぐだった彼は、その厳冬様の寛大というにも広過ぎる心の処置に――まぁ、実際は奥様の“女”に全く興味を持っていなかったからなのですが――震える程に感動し、雪ノ下厳冬という男に惚れ抜いたそうです。勿論、人間的にですが。只のロリコン娘馬鹿なんですけどね。こうして文字にするとヤバいですね、あの方。

 

「そして彼は元の職場にその足で辞表を提出し、そのまま次の日には雪ノ下建設の面接を受けていました。子供が出来たって言っているのに何をしているのやら。

 

「けれど何がどう間違ったか採用されてしまった彼は、そのまま雪ノ下建設の社員となりました。

 

「彼が奥様の浮気相手であり、想い人であるということは、本当にトップクラスの一部の幹部達と雪ノ下本家の使用人達しか知りません。そして当然、雪ノ下建設の幹部達は、彼のことをよく思ってはいませんでした。厳冬様が微塵も恨んでいない以上、奥様のご寵愛を受ける彼は、ある意味で雪ノ下建設の次期トップの最有力候補ですから。

 

「そして、彼は奥様の想い人であるだけあって、とても優秀でした。優しく誠実で、真面目過ぎる程に真面目。端整な顔立ちと細かい心配りで人間としても社員としても優れ秀でていた彼は、瞬く間に周囲の信頼と尊敬を獲得していきました。

 

「厳冬様と奥様、そして社員の信頼が篤く、能力も優秀。

 

「そして、彼には陽光と同時期に――同じ部屋で生まれた、奥様の血を引く、陽光の幼馴染の男の子がいました。

 

「彼の息子の名は――豪雪(ごうせつ)。大恩ある厳冬様にあやかってそう名付けられた件の少年は、父親に似て言葉数は少ないけれど、とても誠実で真面目な好少年に育っていきました。

 

「私の英才教育によって身に付けた周囲の子達と隔絶した能力と、生まれ持った卓越した天性のカリスマ性により、どうしても周りのお友達から、そして先生方からすら、特別視されて浮いてしまった陽光にとっても、豪雪少年は、周りがどれだけ変わっても変わらない態度で陽光(じぶん)の傍に居てくれる、どれだけ陽光(おのれ)が高みに上っても必死に追い縋って付いてきてくれる、そんな掛け替えのない幼馴染でした。

 

「奥様も、そして周りの大人達も――厳冬様は渋い顔をしていましたが――そんな微笑ましい少年少女は、いつかきっと素敵な夫婦になるだろうと、温かく見守っていました。

 

「――が。

 

「そんな状況に、不満を、不安を、怒りを、嫉妬を、焦りを、そして恐怖を。

 

「抱き、()ぎらせ、拗らせ――爆発させる。

 

「そんな愚かな者達も、当然のように現れました。

 

「人間とは、美しくも醜く、強くも弱く、そして――時に、化物のように愚かしい一面を覗かせるのです。

 

「それは――あなたの方が、よく知っていますよね。比企谷さん。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「事件が起きたのは、吸い込む空気がとても冷たく、朝靄が立ち込める冬の日でした。

 

「陽光もそれなりに大きくなり、教育係としての仕事をする時以外は元の一使用人として働くことになっていた私は、その日も陽が昇り切らない内から庭の掃除をしていました。

 

「起きているのは同じように庭に出て草木の手入れをしている庭師以外は誰もいない、静かな、いつも通りの朝。

 

「そんな時、いつもは早起きと言っても常識の範囲内で早起きの陽光が、運動着の格好でこっそりと外に出てきました。

 

「私と鉢合わせてしまったことに気まずげな顔をした彼女でしたが、私が無表情で理由を問い詰めると、何でもクラスメイトのなんとかさんという方の飼い犬が行方不明だというのです。

 

「そして昨日の下校時に、いつも早朝に犬の散歩をする近所のなになにさんというマダムから、散歩の途中で休憩として立ち寄って他の犬の散歩マダム達と立ち話をするほにゃらら公園に、近所の野良犬達がマダム達の持ち歩く高級ドッグフードを目当てに集まるということを聞いたそうで。マダム達はその犬達にドッグフードを分け与えるのが日課の楽しみなのであったとかなんとか。今のご時世だと色々とアレな行動ですが……。

 

「しかし、聡明で規格外だとはいえ、まだまだ好奇心盛りの女の子であった当時の陽光は、一緒に下校していた豪雪少年と一緒に、次の日の朝に行ってみることにしたとか。陽光は元々動物が好きな子でしたから。どちらかというと猫派でしたが、誰のせいか悪戯好きに育ったあの子は、両親に隠れて何かをするというのが堪らなく楽しかったようで。まぁ、豪雪少年と一緒の秘密を共有したかったのでしょう。クラスメイトの飼い犬云々は口実でしょうね。興味のない対象に対してはかなりドライ&クールでしたから、あの子。一体、誰に似たのやら。

 

「私は露骨に溜め息を吐いて見せましたが、結局は朝食までにはきちんと帰ってきて身だしなみも整えておくようにと言うだけで、庭の掃除に戻りました。あの子は私の腰に抱き付き、だからあなたは大好きよ! と言って、そのまま生け垣を乗り越えて屋敷を抜け出していきました――そして、私はストーキングを開始しました。

 

「え? 当たり前じゃないですか? 黙って行かせる筈がないでしょう? 私はあの子の教育係の任を請け負っていたのですから。もしあの子に何かあったらどうしてくれるのですか。

 

「――まぁ、結果として、それは正解でした。

 

「あの子が雪ノ下家の前で眠たげにしながら待っていた豪雪君と合流し、その件の公園へと向かっていた、その道中で――早朝ジョギングを装ってフード付きトレーナーを身に着けてながら走っていた何某を、()()は路地裏に引き擦り込んで殺しました。

 

「そのジョギングマンのパーカーの腹ポケットには、サバイバルナイフが忍ばされていました。

 

「私は、偶々一緒に居てくれた庭師と共に、頭部を“裂かせ”、殺す前に彼を脅して聞き出しました。

 

「案の定、謎のジョギングマンを送り込んだのは、あの会議の椅子に座る重鎮の一人でした。

 

「陽光と豪雪君を秘密裏に殺し、そして豪雪君を使って陽光を誑かして屋敷外に連れ出したとかなんとか言って、その死の責任を奥様の想い人(シングルファザーくん)に擦り付ける所存だったようです。

 

「まぁちんけな策ですが。そもそも件の犬の散歩マダムも、飼い犬が行方不明というクラスメイトも、その男の手回しだったようで。そう考えれば焦った頭で中々頑張ったと言えるでしょう。

 

「どうしてそこまで調べられたのかと言えば、まぁ、頑張ってくれたのですよ。()()()が。

 

「正確には、()()()()()()()が。流石に一晩でとはいきませんでしたが。

 

「彼には庭師の身体に続いて、そのジョギングマンの身体に移ってもらい、そのまま例の幹部を、そして祖奴(そやつ)が率いるグループを、内側から壊滅してもらいました。

 

「その際に、多くの()()を、雪ノ下建設に潜り込ませることが出来ました。企業のパワーバランスを崩さないように同胞達を紛れ込ませるのは中々にことでしたが、それでも数年の月日を掛けて、どうにか私は寄生星人達の居場所を手に入れることが出来ました。

 

「勿論、私には雪ノ下建設を乗っ取ろうというつもりはありませんでした。ただ、私が把握し、コントロール出来る範囲内の場所に、我々の表向きの居場所を用意したかったのです。

 

「どうせ私達は乗っ取りを繰り返さなければ、宿主の身体の寿命に合わせて死にます。つまりは、人間と同じような期間しか生きられません。

 

「ならば、その間を、普通に化けの皮を被って、人の皮を被って人間面して生き延びても、構わないじゃあないですか。人間(あなた)達にしたらゾッとしない気持ち悪い話かもですが、そのくらいはどうか許してください。

 

「誰にも迷惑が掛からないように、ひっそりと、暮らしていきたかっただけなのですよ――少なくとも、彼と、私は。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「そして、そんな風に日々はあっという間に過ぎていきました。

 

「ある程度の地盤作りを終えたら、副官君には再び庭師の職を手に入れてもらい、穏やかな日常を手に入れました。

 

「化物が穏やかな日常を送るというのも、まるで悪夢のような話ではございますが、ご安心を。夢というのは往々にして醒めるものです。それが例え、悪夢であっても。

 

「その頃には、人間の文化も凄まじい進歩を遂げていっていて、ある程度の社会的地位を手に入れた私は、表の立場と裏の立場を使って、数々の情報を手に入れられるようになりました。

 

「化物として満ち足りていた生活を送っていた私は、その中でとある不思議な噂話を耳にします。

 

「裏の世界で、真っ暗な世界で、まことしやかに囁かれるそれは、月日を重ねるごとに、化物達を震わせていきました。

 

 

 

「話は変わりますが、比企谷さんは“星人狩り”と呼ばれる者達のことは知っていますか?

 

「恐竜と戦ったことのある比企谷さんならご理解いただけるかもしれませんが、星人というのは、突如として現れた災厄というものではないのですよ。

 

「正しく太古の昔から、それこそ人間が生まれるよりも早く、地球に降り立ち、地球に住み――地球に棲みついている星人もいるのです。

 

「故に人間達は、今よりもずっと昔から、地球を征服せんとする悪い宇宙人と戦い続けていました。

 

「それが、星人狩りと呼ばれる特殊な技能を持つ戦士達です。

 

「比企谷さんも聞いたことがありませんか? 妖怪を退治する陰陽師の逸話を。悪魔を祓うエクソシストの活躍を。竜を殺す英雄の伝説を。

 

「彼等は皆、化物として語られる星人と戦い、それがお伽話や物語として世に出回った方達です。彼等は平和な世界を守るべく、人知れずに戦うことを使命としているので、後世に伝わっているのはほんの一部ですが。

 

「兎にも角にも、私がお伝えしたいのは、彼等はお伽話や物語ではなく、きちんと実在していた英雄だということです。勿論、英雄譚が表の世界に出回るにあたって大胆に脚色こそされているのでしょうが――彼等は、()()()()()()()()、確かに実在していたのです。

 

「陰陽師も、エクソシストも、竜殺し(ドラゴンスレイヤー)も――その秘伝の奥義や伝説の剣を受け継いできた者達は、確かに存在していました。そして、夜が明るくなった現代においても、それでも照らしきれない闇の中で、誰も知らない裏の世界で、日夜、邪悪な怪物たる星人から、平和な人間達の世界を守る為に戦い続けていました。

 

「そして、そんな彼等の戦いは、ある日、突然、終わりを告げました。

 

「他ならぬ、同じ人間達の手によって。

 

 

 

「話を戻しましょう。化物として、満ち足りた穏やかな日常を送っていた私は、ある日、まことしやかに語られる不思議な噂話を耳にします。

 

「それは、月日を重ねる毎に――化物達を震わせる程に、巨大な恐怖となっていきました。

 

「世界各地に存在する“星人狩り”――それが、次々と、()()()()()によって吸収され、または壊滅させられているというのです。我々化物にとっては吉報ではありましたが、それは、この地球に人間が生まれてから現代に至るまで、一度だって有り得なかった異常事態でもありました。

 

「一部の馬鹿な星人は喜んでいましたが、ある程度の知能がある者達は、これに対してまず違和感と、嫌な予感を覚えました。得てして都合が良すぎる展開は、それ以上の不都合の予兆であるものです。

 

「そして、それは――これ以上ない形で的中することになります。

 

「星人狩りの壊滅が進むにつれて、新たなる噂話が、その存在感を増していきました。

 

 

「それは――黒い球体の部屋と、その部屋に集められる、黒衣の戦士達について。

 

 

「能力、戦闘方法、武器、歴史――ありとあらゆる色が異なる数多存在した星人狩りを、全て塗り潰す黒色で飲み込んでいく彼等は。

 

「現代に至って拮抗状態に陥っていた、あるいは落ち着いていた、人間と星人の関係を大きく揺れ動かしていきました。

 

「やがて、恐らくはこの地球に住まう――この地球に棲み付く全ての星人達が、同じ疑問と恐怖を抱くのに、そう時間はかかりませんでした。

 

 

「あの黒い球体は――GANTZとは、何なのかと。

 

 




化物は語る。化物の、化物による、化物に相応しい物語を。

そして、星人達は、化物達は――黒い球体を、GANTZという黒を知る。


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Side八幡――④

幸せ――だったのかなぁ。


 黒い球体は――GANTZとは、何なのか。

 

 

 俺の目の前に座る美しき寄生獣は、そう言葉を紡ぎ、長い話で消費した水分を補給するかのように、紅茶で唇を湿らせた。

 

 ……黒い、球体。

 

 あの日、俺の日常の全てを狂わせた存在であり、終わらせた元凶であり、生命の恩人であり、地獄へ送り出す支配者でもある、謎の黒球。

 

 やはりコイツの物語にも、あの黒い球体は関わってくるのか……。

 

 

――【もう ひとりぼっちに されないといいね】

 

 

「………………………」

 

 そして、紅茶による休憩を終えた陽光は、再び真っ直ぐ俺を見据え、語り始めた。

 

「世界中の星人狩りを征服し、一つの黒色に()め上げた黒い球体――GANTZという名称を知らなかった当時の我々は、GANTZによって生み出される戦士達を、【黒衣の星人狩り】と呼称していました」

 

 今でも、あなた方のことをそう呼んでいる星人もいますね――と、美しき化物は微笑みながら言う。

 

「オニ星人の皆様は『ハンター』と呼んでいましたか。その呼称を用いる星人の方々も多いです。あの頃の黒衣は、星人への行動指針を対処から討伐へと急激に変更した当時の人間達は、我々星人からすれば、正しく狩人(ハンター)でしたから」

 

 我々は紛うことなき化物(モンスター)ですしね――と、恍けるように言う雪ノ下陽光は、雪ノ下陽光の化けの皮を被る貴婦人は、都築さんが俺の紅茶のお替りを淹れ終わるのを待つかのように間を空けた。

 

 その時、俺は自分のカップが空になっていることに初めて気付いた。

 俺は都築さんに会釈をしつつ、陽光から目を逸らさない。

 

 ……これだけ長く、重い話。重く、大きな――重大な裏話。

 

 一言一句聞き逃せない。組織に入った後でも、こんな話を――それも星人(ばけもの)サイドから聞ける機会など訪れないだろう。

 

 喉も渇く。戦争よりも疲れるくらいだ。

 だが、だからこそ、あの時と同じ集中力で――傾聴しろ。

 

 この化物から語られる情報は、これから向かう戦場で、これからも放り込まれ続ける戦争において、間違いなく重要な武器になる。

 

「そんな狩人達から身を守るべく、ある程度の知能とコミュニティを持つ星人達は、こぞって黒衣の組織に対抗する術を模索し始めました」

 

 再び化物が語り始めるのは、俺が知らないガンツの――創成期。

 突如として現れた漆黒の狩人達に、化物達がどのように対抗したのかという――前日譚。

 

「より徹底的に隠密に徹する者達。より活発に勢力を増強する者達。謎の黒衣の組織にコンタクトを取ろうと試みる者達。あるいは、そんな脅威の人間達を、人間達の脅威を鼻で笑い、いざとなったら返り討ちにしてやると豪語する者達――突如出現した黒色に対する星人(われわれ)の対応は、皮肉なことに十人十色でした」

 

 その化物の言葉に、俺は幾度となく巻き込まれたガンツミッションを思い出す。

 

 黒い球体の部屋に蒐集された死人達、新たな住人として部屋に招き入れられた来訪者達の、唐突に目の前に現れた黒い球体という異常に対する――人間達の対応も、正しくそうだった。

 現実を受け入れられずに発狂する者。

 自分の都合のいい妄想に没溺する者。

 あるいは、異常を受け止め、非常を受け入れ、戦うことを決意する者。

 

 十人十色――だが、この時に染まった色で、容赦なくその後の命運は決められる。

 

「そんな中、私は――私達寄生(パラサイト)星人は、一番を選択しました。より徹底的に、目立たず息を潜め、化けの皮を厚くすることを選んだのです」

 

 陽光が言った彼女達の選択は、意外でもない予想通りのものだった。

 コイツ等なら――否、目の前のこの女ならば、間違いなく一番を選択しただろう。

 

「私は手に入れられる限りを尽くして情報を集め、徹底期に分析しました。その結果、件の黒衣の組織は、黒い球体の戦士達は、人様に迷惑を掛けるような、人間達に脅威を覚えさせるような、悪く言えば悪目立ちした連中を優先して狩っていることに気付きました」

 

 ……それは、俺も何となく感じていたことだった。

 

 黒い球体――ガンツの、ミッションの対象となる星人の選択基準。

 それを俺は、何となくガンツ自身の脅威となる星人を優先的に狩っているのでは、と、そう思っていた。

 

 自分の身を守る為に、俺らという戦士(おもちゃ)を派遣するのだと――まぁ、オニ星人とかはともかく、ねぎ星人とかはガンツの脅威となりうるかと言われれば疑問符が付くから、あくまで何となくの推測ではあったんだが。

 

 それでも、俺らが転送された時には既に都会のど真ん中で暴れていたゆびわ星人に対しガンツの秘密にかなりの所まで迫っていたオニ星人よりも先に討伐指令が下したことや、それこそ池袋を地獄に変えたオニ星人を連続ミッションとしてまで早急に対処しようとしたことを考えると、中らずとも遠からず――なのか。

 

 そんな俺の思考をさておいて、陽光は「――ならば」と言って、考察を先へと進めた。

 

「ならば――と。私達は人様に迷惑を掛けず、そっと息を止めていようと決意しました。黒衣が罪なき一般人を守る為に立ち上がるというのなら、その逆鱗に触れぬようにじっとしていようと」

 

 まるで痴漢冤罪から身を守るがごとく――人間に対し、降伏するがごとく。

 両手を上げてアピールするかのような、そんな無抵抗宣言だった。

 

「私達は、多くは望みません。人間に対する勝利も、地球に置ける自由も、何も望みません。少なくとも私は、私という個体は、ただ寿命を全うしたいだけでした」

 

 身が果てるまで、生存したいだけでした――と、寄生獣は言う。

 

「寄生星人が、唯一可能な、生き永らえる、不老不死の方法――衰えた身体から、健康な身体に移り住むという方法を、私はこの時、生涯、選択するつもりはありませんでした」

 

 その化物は、美しい新品の身体で、己が娘の口から綺麗な言葉を口にする。

 

 美しい言葉は、化物が口にするだけで――途端に黒く、醜く変貌する。

 

「最初の住処である〔彼女〕の、最初の私の犠牲者である〔彼女〕の身体で、天寿を全うしようと。私にこれだけの“生”を提供してくれた彼女に、せめてもの恩返しをと。……化物が言う綺麗事は、中々に滑稽で悍ましいでしょう? でも、当時の私は、それを半ば本気で目論んでいたのですよ」

 

 化物の悍ましい綺麗事は、俺の胸の中に渦巻くドロドロとした黒い殺意に薪を()べていく。

 

 俺の指が引き金を引かなかったのは――ただ、その名前が、刹那早く、俺の耳に届いたからだ。

 

「もう誰も殺さない。もう殺人を犯さない。そう思ったのは、そう願ったのは、そう誓ったのは……あの子――陽光の娘を……あの娘が、我が娘が生んだ、初めての命……そう――」

 

 寄生獣は、この世で最も美しい笑顔で、その名前を優しく紡いだ。

 

 

 

「――陽乃を、この手で抱いた時でした」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「陽光は――あれだけ小さかった生命は、悍ましい化物の私が生んだにも関わらず、誰よりも美しくすくすくと育ちました。

 

「そして、遂に――人生の伴侶を得たのです。

 

「雪ノ下陽光――十八才。いつのまにか、私が、というより私の宿主となった“彼女”の身体が、陽光を生んだ年齢を追い越す程に成長した少女は、我が子は、純白のドレスに身を包むこととなりました。

 

「美しかった――本当に、美しく、綺麗で……かわいかった。

 

「お相手は、豪雪君。すらりと大きく、がっしりと逞しい青年へと成長した彼は、やはり同い年の十八才。というより、それよりもずっと前から相思相愛で、彼が十八になるのを一日千秋の思いで待っていたのですけれどね、陽光が。本当に、下手をすれば日本の法律を変えかねないほどのべた惚れで。よっぽどしつこく送られてくる見合い写真が嫌だったのか、それほどまでに豪雪君が愛おしかったのか……両方ですかね。

 

「結婚式は、小さな、けれどとても綺麗で可愛い教会で行われました。なんでも陽光と豪雪君が小さい頃に探検して見つけた思い出の場所で、二人はそこで初めて結婚の約束をしたそうです。

 

「式に呼ばれたのは、厳冬様に奥様、そしてあのシングルファザー君に、私を含めた小さい頃から陽光達を見守り育ててきた使用人達と、彼女達の本当に親しい友人達ほんの数名。

 

「そして、二人の幼い頃の約束を見届けていた優しげな老牧師が見守る中、二人の結婚式は静謐に行われました。

 

「ヴァージンロードを陽光と共に歩いたのは、この時には殆ど一日中寝たきりになっていた厳冬様でした。

 

「ですが、流石は厳冬様というべきでしょうか。それとも、流石は――父親と、いうべきなのでしょうかね。

 

「見事なものでした。ヴァージンロードを陽光と共に歩く御姿、そして、豪雪君に陽光を託し、深々と頭を下げたその様は、まさしく、偉大な父親でした。

 

「そして、二人の誓いのキスを見届けて、教会の椅子に腰かけたまま――厳冬様は、穏やかにその生涯を終えました。

 

「幸せそうに、眠るように。その生涯に悔いなしと誇るように。隣に座っていた私に、陽光を生んでくれてありがとうと、言い遺して。

 

「――そして、その一年後。二人が十九才の時、陽乃が生まれました。

 

「私が生んだ娘が、新たな生命を生んだのです。繋いだのです。種を。生命を。そして――想いを。

 

「その時の感情は、やはり言葉に出来ませんでした。ただ、何かが溢れそうだった。それが何かは分からず、ただただ渦巻くばかりだったけれど。

 

「陽乃、という名前は、私が付けました。あの子が、陽光が、私に付けて欲しいと、そう言ってくれたのです。

 

「この子に名前を、素敵な名前を――そう言って、生まれたばかり娘を、娘が生んだばかりの生命を、我が孫を、手渡された時。

 

「ずっしり、と。

 

「この手に、あの手に、その重さを感じた時――あの子は、陽乃は……笑ったのです。

 

「気のせいだったのかもしれません。錯覚だったのかもしれません。生まれたばかりの赤子はただ泣き喚くばかりで……でも、私には、それが笑い声に聞こえたのです。

 

「繋がる生命。繋がる想い。それが、繁栄。それが……生きるということ。

 

「この地に住まう、この海に住まう、この空に住まう――この宇宙に住まう、全ての生命が持っている本能。想い。それが――これが、生きるということ。

 

「その時、陽光が、奥様が、本当に驚いたという顔をした後――柔らかく、笑いました。

 

「――あなたが泣いているところを、初めて見た、と。

 

「…………あぁ。やはり、この時、私は死んだのでしょう。いえ、元々生きてはいなかった。それにようやく気付いたのです。

 

「何度でも言いますが、私達――寄生星人は、繁殖力がありません。生存力がありません。次代に生命を残せず、想いを託せず、種を繋ぐことが……出来ない。

 

「誰にも繋がらず、未来に繋げられない――欠陥種族なのです。

 

「初めから生きておらず、死んでいる生命なのです。

 

「それと比べて――いや比べることすら、烏滸がましい。

 

「人間の、生命の、何と美しいことか。

 

「化物の、私達の、何と浅ましく、醜いことか。

 

「人間はこんなにも強い。そして寄生星人(わたしたち)は、弱く、弱く、本当に何とも弱弱しい。

 

「こんなにも美しい繋がり――その中に傲慢に割り込むことでしか、生き真似をすることしか……出来ないなんて。

 

寄生星人(わたしたち)がしていることは、只の模倣に過ぎない。生き真似に過ぎない。それの何と愚かで滑稽なことか。

 

「この時、私は、きっと化物として死んだのでしょう。寄生星人として、どうしようもなく死んでしまったのでしょう。

 

「それでも私は化物で、所詮――寄生獣でした。

 

「何かに寄生し、誰かを奪わなければ、その生き真似すら許されない。

 

「だから私は、この時、決めました。

 

「せめて、人間らしく生きようと。

 

「私は化物です。どうしようもなく化物で、救いようもない化物だけれど――それでも“彼女”は、少なくとも私よりも……ずっと、人間だった。

 

「美しかった。たくさんの繋がりを求めて、きっと手に入れることが出来ていた。そんな可能性と、未来を秘めた――生命だった。

 

「それを――私が奪い、私が食らい、私が破壊した。

 

「こんな私という化物の原罪に、私はこの時、愚かにも初めて思い至ったのです。

 

「私は、この地に生まれ落ちたその時から――化物なのだと。

 

「――私は、この日以降、人を食らうことを止めました。

 

「寄生星人の根源に刻まれた本能に逆らい、無様な人間ごっこを始めたのです。

 

「せめて奪った彼女の分も人間をしなければ――そんなことを、思っていたのでしょうか。分かりません。

 

「たとえごっこだとしても、模倣だとしても、仮初で張りぼてだとしても、偽物で欺瞞だとしても、人間のように美しく……――そんなことを、思っていたのでしょうか。分かりません。……分かりません。

 

「そんなことをしても、どんなことをしても、私が奪った彼女への贖罪になどならないし、私が化物であることは変わりません。……そんなこと、分かっていた……筈なのですがね。………全く、分かりません。

 

「それでも私は、断食を続けました。断罪を求めていたのでしょうか。……全く愚かで、分かりません。理解出来ません。

 

「結論を言いますと、案の定、私の断食は長くは続きませんでした。やはり所詮、化物は化物ということです。

 

「あろうことか、この僅か三年後、私は人を喰いました。

 

「人を殺し、その生命が持っていた、かけがえのない繋がりの悉くを断ち切りました。

 

「……ええ。私が最後に食べた人間。私が最後に食らった生命。……もう、お分かりでしょうね。

 

「――もう一度、言いましょう。何度でも、言いましょう。

 

 

「私は、娘を……殺したのです……っ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 これまで、まるで大魔王のように。

 

 一部の隙も見せず、鉄壁の仮面を纏い、まさしく大人で有り続けた――化物が。

 

 本能的に敵わない存在だと認めてしまうような、何をしても届かないと感じさせるような、そんな雰囲気を放ち続けていた――怪物が。

 

 突如として、空を見上げながら――迷子の子供のように、心細い声で呟いた。

 

 

「幸せ――だったのかなぁ」

 

 

 その姿が、何故か。

 

 俺がよく知る少女に――俺が壊した少女に、重なって。

 

 思わず瞠目し、手を伸ばしかけた。

 

(……雪ノ、下……?)

 

 俺が血迷っている間にも、目の前の化物は語り続ける。

 

 まるで迷子の少女のような声で。

 

 そんな自分を――嘲笑(あざけわら)うように。

 

「……分かりません。分かりません。よく、分かりません。……分かりたくて、分かりたくてたまらないのに。……分かったところで――」

 

 どうしようもないのに――俺は、何かを言い掛けた口を閉じて、誰にも見られないようにズボンを握り締めた。

 

「陽光と豪雪君が結婚し、厳冬様が逝去なされた後――厳冬様が床に伏せた後は陽光と二人で社長業務を代行していた奥様が正式に会長となり、かねてからの宣言通り、厳冬様の実質的な遺言の通りに、陽光の伴侶となった豪雪君が正式に社長となりました」

 

 化物は語った。

 その口調は努めて平淡であろうとしていたが、どこか思い出話を聞かせるようでもあった。

 

「豪雪君は婿養子として雪ノ下姓を継いだこともあり、しつこく息づく抵抗勢力による反抗や混乱は少なからず生まれましたが、そこは力づくで捻じ伏せました。陽光も影ながら、かは……ともかく。豪雪君を公私共に支え、雪ノ下建設はより盤石な体制を手に入れました」

 

 気持ち、これまでよりも早口であるように感じた。

 貴婦人の笑みが、殊更に強調されている。目線もまっすぐ俺を射抜き続けている。

 

「私は数人の同僚と共に、陽光豪雪夫妻家の使用人を続け、陽乃が生まれた後は、やはりお世話係のようなものをしていました。陽乃がある程度大きくなったら、私の時みたいにあなたに教育係をさせても面白いかもね、なんてことを、よく陽光は話していました。私は陽光や奥様の愚痴聞きというか、お茶友達のようなこともしていましたので」

 

 時折、何かが覗き込んでくる。

 それを追い出すように、ひた隠すように、化物の仮面を被り直す。

 

 崩れ始めて、継ぎ接ぎだらけで、必死に繕おうとしている――使い古された、その仮面を。

 

「兎にも角にも、色々と波乱や苦難はあったようでしたが、それでも雪ノ下家は、とても穏やかで、とても暖かく、とても温かい――繋がりに満ちた、美しい家族で在り続けていきました……」

 

 そして――『雪ノ下陽光』は、遂に、口を閉じた。

 笑みを作ろうとして、仮面を被ろうとして――それでも、言葉が、出て来ない。

 

 完璧な化物であろうとした、人間の化けの皮を被り続けた、その女は。

 

 一筋の汗を流し――そして。

 

 一筋の、涙を流した。

 

「……そして、それは……陽乃の誕生から、三年後の、ことでした」

 

 化物は、自分が涙を流していることには気付いていないかのように、再び語り始める。

 

 その顔は――美しい、人形のような笑顔で。

 

 人を、模したような、形で。

 

「陽光の子宮に、再び新しい生命が宿ったとの知らせが舞い込んだ時――幸福は絶頂となり」

 

 俺は、きっとこれが。

 

「そして――絶望は、本当に唐突に、その全てを破壊しました」

 

 この化物の――『雪ノ下陽光』の。

 

 本当の顔なのだと思った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「懺悔しましょう。嘘を吐きました」

 

 彼女は語る。

 

「懺悔しましょう。私は予感していました」

 

 化物は語る。

 

「懺悔……させてください。気付いていた。私は――気付いていたのです」

 

 人間のような顔で。

 

「いずれこうなることを。こうなってしまうかもしれないということを」

 

 化物のような禍々しさで。

 

「私が化物であるせいで。私が化物で、化物な、化物だから」

 

 ■ ■ のように――涙を流しながら。

 

「これはバッドエンドの物語です。化物の、化物による、化物の為の物語」

 

 何処かの誰かのように、救いようのない愚かさを滲ませて。

 

「私の傲慢な自己満足の命乞いの為に語る、気味が悪く、後味の最悪な、私という化物の物語です」

 

 それは、余りにも痛ましく、余りにも浅ましく、余りにも聞くに堪えない自白劇。

 

「…………」

 

 俺は、そんな彼女の涙に濡れた――何処かの誰かにそっくりな瞳を。

 

「…………」

 

 ただ、見ていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして――長い、長い、絶望の物語が語られた。

 

 とある一体の寄生虫が、恐ろしく美しい寄生獣となり、ありふれた人間の家族に迷い込んだことから始まった物語。

 

 化物としては余りにも美しく、獣としては余りにも賢く、人間としては余りにも醜かった、小さな生命の物語。

 

 

 極寒の世界でしか生きられないのに、温かい陽だまりに手を伸ばした、雪の結晶の物語。

 

 

 その全てを、比企谷八幡が最後まで聞き届け終えた時。

 

 

 

 時計の針は――午後六時に迫ろうとしていた。

 

 

 




そして、美しき寄生獣は語る。

化物の化物による化物の為の物語を。温かい陽だまりに手を伸ばした雪の結晶の物語を。


比企谷八幡は、そんな■■を――ただ、見ていた。









活動報告にてお知らせがございます。

目を通していただけたら嬉しいです。


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Side Crossover――①

今日は、世界が変わる一日となる。


 

 日本人にとって、我が国のトップの人間とは誰か――そう問われて、大多数はこう答えるだろう。

 

 内閣総理大臣――と。

 

 かつての天皇のように崇拝もされず、どこかの国王のように君臨も出来ず。

 独裁者でもなく、絶対者でもなく、ましてや支配者などでは有り得ない。

 

 むしろ批判の的であり、不平不満の対象であり、国民の大多数から嫌われるのが役割の存在。

 

 それでも――日本という国を背負い、日本という国を守り、日本という国に尽くす。

 

 行政権――日本という国の舵取りを命じられた総舵手である内閣、その首長たる国務大臣。

 

 それが――内閣総理大臣。日本の首相たる役職である。

 

 

 

 

 

 ここは永田町――首相官邸。

 

 内閣総理大臣の執務の拠点であり、日本という国の進み方を決める場所。

 日本の中枢ともいうべきこの場所に、今――多くの日本国民が押し寄せていた。

 

 圧倒的な――不満を爆発させて。

 

「おい! 出て来い総理! いつまでも引き籠ってねぇで、その汚ぇツラを見せやがれ!」

「誰の票のおかげでそんなデケェ家に住めてると思ってんだ! 説明責任を果たせ!」

「一刻も早く辞職しろ! さっさと辞めろ! 今回の一件をどう責任取るつもりだ!」

「どうせ国が絡んでんだろ! なにかもがお前たちが悪い!」

「対応が遅ぇんだよ! 先延ばしばっかり上手くなりやがって!」

「何が会見だ! 言い訳のカンペを作ってる暇があるなら、池袋に人員を派遣したらどうなんだ!!」

 

 早朝から人が増え始め、常設の警備隊だけでは抑えきれない程に膨れ上がったデモ隊に、やがて警察隊までもが派遣されるようになった。

 

 皮肉にも、池袋へと回される筈だった人員さえも呼び寄せることになった国民の怒りは、塀から離れた官邸まで届き、二人の男の心を痛めつけている。

 

 現在、官邸にはたった二人の大臣を残すのみであり、他の大臣はおろか清掃員すらもいなかった。

 

 だだっ広い空間に、大きな執務机が一つ。

 

 そこに座り、己の背中に投げつけられる罵倒の言葉を、じっと黙して受け止める男に――机を挟んで向かい合う男は告げる。

 

「――これが、国民の声ってヤツだな」

 

 屈強な体格と逆立つ黒髪、そしてサングラスを掛けた、独特の光沢のある黒い全身スーツの上からフォーマルな黒いスーツを纏った男。

 

 この日本という国において、最も強い軍事力を有する立場にいるこの男は、目の前に座る――この日本という国において、誰よりも日本という国を背負っている男に向かって言った。

 

 一見肥満体にも見える――が、その実は鎧のような筋肉で構成されている体躯。

 荒れた肌。醜悪な相貌。

 だが、その目だけは曇っておらず、明晰な印象を醸し出していた。

 

 この国で最も責任ある立場の男は言う。

 

「……正当な怒りだ。彼等の言う通り、我々は――“星人”を知っていたんだからな」

 

 黒い球体も知っていた。黒衣の戦士達も知っていた。

 昨晩のような地獄が世界中の各地で繰り広げられていたことも。

 

 そして――この日本でも、罪なき国民が、傀儡(キャラクター)として弄ばれていたことも。

 

 きっと、この国の誰よりも、彼らが最も知っていた。

 

「――せっかく築き上げた支持率が急降下してるみたいだな」

「覚悟の上だ。元々、そうなることも想定して、“あの組織"がこの時期に俺を総理に仕立てていたのは明白だ」

 

 誰だって、()()()()()()()()()()()()()()()()()()になどなりたくはない。

 任期は残っている。たとえ、どれだけ国民が怒りの声を上げ、解散総辞職を願おうとも、この総理の座を下されることはないだろう。

 

 だが、だからこそ――受け止めなければならない。

 

「……アイツの言葉じゃないが、こうなることは分かっていた。……分かっていた、が」

 

 屈強な男は、醜悪な男から目を逸らし、小さく言う。

 

「――気分のいいもんじゃ、ねぇな」

 

 国民の罵詈、罵声、罵倒の中、二人の男は――ただ、憂う。

 

「…………」

 

 戦い、戦い、戦い続けてきて――計画通りに、辿り着いた筈の場所(フェイズ)なのに。

 

 汚してきた両手、見過ごしてきた犠牲、守れなかった同胞、防げなかった悪事。

 

 ただただ口の中に広がるのは、どうしようもなく苦い――後悔の味だけ。

 

 

「――まだだ」

 

 

 醜悪な男は言う。

 

 立ち上がり――自分が守るべきものを見据えながら。

 

「俺達の戦いは終わっていない。俺達の罪はこれからだ。まだ計画はフェイズを一つ上ったに過ぎない。……むしろ、これからが本番だ」

 

 この国を背負い、この国を守ることを職務とした男は。

 

 この国を揺るがし、この国を滅ぼすことを任務とする男は。

 

 漆黒の光沢のあるスーツを脱ぎ捨て、何の防御力もない一張羅を着て、ネクタイで首を締めて、誰よりも過酷な立場に身を置くことを選んだ男は――告げる。

 

 新たな戦争の開戦を。そして、誰よりも汚い大人になることを。

 

「今日という日を以って、日本はこの世界で最も地獄に近い国となるだろう。……瞬く間に世界へと広がるだろうが、その起点となるのは我々だ。いずれ来る滅びの時に、我々は世界から呪われる――その全責任を、俺は背負おう」

 

 それが、“彼”に英雄という十字架を背負わせる、せめてもの贖罪だ。

 

 この世界で最も醜悪なる男は――内閣総理大臣は言った。

 

 そして、盟友たる屈強なる男は、彼とは別の意味でこの国の頂点に立つ男は――防衛大臣たる男は、言った。

 

「――彼のことは、俺に任せろ」

 

 一筋の電子線が、かの首相官邸の執務室に走る。

 

 その光は、この部屋にまるで当然のように鎮座していた、一つの黒い球体から照射されていた。

 

 内閣総理大臣が、防衛大臣が、その光を真っ直ぐに見詰めている。

 

 謎の光は、やがて一人の少年を召喚した。

 

 日本国の頂点に立つ二人の大人の前に、黒いジャンパーにブラックジーンズ、そして、その下に光沢のある機械的な全身スーツを纏った少年が立つ。

 

 少年は、目の前の大人が防衛大臣だと、内閣総理大臣だと理解する。

 

 そして――理解して尚、剣の切っ先のように冷たい目で、鋭い声で、日本のトップをこう問い詰めた。

 

「俺は――何をすればいい?」

 

 防衛大臣は言う。

 

「俺達の共犯者(なかま)になれ」

 

 内閣総理大臣は言う。

 

「歓迎しよう――桐ケ谷和人君」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「さあ、会見の時間だ」

 

 

 

「国民へ伝えよう。星人という存在を。漆黒の戦争の存在を。そして、我らが英雄の存在を」

 

 

 

 

 

「今日は、世界が変わる一日となる」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「「我々『寄生(パラサイト)星人』は、この事態に――何もしない。いつも通り、これまで通り、普通に過ごすのです。人間に混じり、人間に擬態し、人間のように振る舞い、人間のように暮らす。化けの皮が剥がれぬように、ひっそり、こっそり、静かに過ごすの――やり過ごすのよ」

「逃げてるだけじゃあ、隠れてるだけじゃあダメなんだ! 守るんだ! 守る為に……守る為に、戦うんだ!」

「ならば――あなたは捨てられるの?」

 

「人間を――棄てられるの?」

 

 

 

 

 

――ああ、儂は……幸せだ。

 

 

――こんなにも幸せに逝ける。こんなにも、満たされて死ねる。……お前の、御蔭だ。

 

 

 

――だから、もういい。

 

 

 

「………………………………っ!!? お、お義母さん!!」

「うぇぇえええええええええええええん!!」

 

 

 

 

――幸せになれ。

 

 

――人を愛して、愛する人と、幸せになれ。

 

 

 

 

(………………………………終わっ……た)

 

 

 

 

 

「…………陽、乃……陽……光……待っ……て……ろ……俺が……俺が……絶対――ッ」

「あ……な、た……大丈夫……大丈夫よ陽乃…………あなたは……あなただけは――ッ」

「逃げましょう」

 

 

 

 まだだ――まだ、やり直せる。やり過ごせる。

 

 

 

 …………………………あぁ。

 

 

 冷たい。

 

 

 

 

「人間ごっこはしめぇだ――寄生星人。……いつまでも、偽物に縋ってんじゃねぇ。お前が逃げているのは――」

 

 

 

――只の欺瞞だ。化物め。

 

 

 

 

 

――――。

 

 

 

――お前――――なんかに――――ッッ。

 

 

 

 

 

「なぁ――黒い球体を、見たことがあるか?」

 

 

 …………黒い……球体?

 

 

 

 

「……目的? 随分と曖昧な言葉ね? 具体的にお願い出来るかしら?」

「おいおい、化物の癖に言葉で遊ぶなよ。ちょっと流暢に喋れるからって――人間気取りか?」

 

 

 

「お前という化物が、この地球ほしで生きる目的は何だ? お前という化物が、この地球で求めるものとは何だ?」

 

 

「さぁ、答えろよ化物。お前程に賢い化け物が、この地球で、何が目的で、何を目指して――どんな欲望を叶える為に、そんなに一生懸命になってるんだ?」

 

 

 

 

――――私、は…………。

 

 

 

『私』……は…………【私】は――――――ッッ!!」ッッ!!

 

 

 

 欲を覚えた。望まずにはいられなかった。

 

 

 触れられないと分かっているのに。届かないと分かっているのに。

 

 

 きっと自分には相応しくなくて、例えこの向こう側に行けたとしても、この手は全てを壊してしまう。この身は温かさで溶けてしまうだろう。

 

 

 支離滅裂で、荒唐無稽で、論理も因果も破綻していて、ただただ無様な戯言でしかない。

 

 

 あぁ、醜い。醜い。醜い。醜い。醜い。

 

 

 なんと化物で、なんという化物だ。

 

 

 

 そう――【彼女】は、化物だった。

 

 

 ただ、それだけの話だった。

 

 

 

 

 

「あなたのことが――嫌いだ――ッ――『私』は――――ッッ」

 

「――なら、生き残って、俺を殺してみろ」

 

 

 

「あぁ、ウザッてぇ」

 

「下等種族共が――調子に乗ってんじゃねぇぞッッ!!!」

 

 

 

「――逃げてください」

 

「託されたんです。アナタを守れ――と。アナタの夢を守れと」

 

「――アナタにはもう、守るべきものがある筈です」

 

 

「――守る為に、生きてください」

 

 

 

「ありがとうな。人間を、好きになってくれて」

 

「お前達と、出会えてよかった」

 

 

 

 

 

「舐めやがってェェェェエエエエエエエエ!!!! 下等種族がァァァァぁあああアアアアアアアアアアアアア!!!!!!」

 

 

 

「――あなた。まだ、戦うの? あなたの味方はもういない。もう戦わなくてもいいんじゃない?」

「僕は――俺は、死ねない。あの人に、俺は生きろと命じられた」

 

 

「……あ~、負けたわ。完敗だぜ」

 

 

 

 

――死にたく、ない。

 

 

――死にたく、ない。

 

 

 

――死に、たく……ない。

 

 

 

 

――「………死にたくない」

 

 

 

 

 まだ――まだ。

 

 

 

 

 

――「…………一緒に………居たい」

 

 

 

 

 

――………………ごめんなさい。

 

 

 

 

 

「――もっど、欲じいぃ」

 

「あぁ……ワタシは、全てが――欲しいぃ」

 

 

「ご安心を。その細胞一つに至るまで、人類の発展にすると活用すると誓いましょう」

 

 

 

(…………いや…………元々、【私】の……身体じゃ……なかった……わね)

 

 無理矢理、奪い取った身体だった。殺し、盗った、身体だった。

 

(…………見捨てられた………いいえ………見放された……のかしら)

 

 

 

「さらば。哀れな化物よ」

 

 

 

 

「――っ!! ………分かっているの? ………分かっているのですか。……あなたが……今……腕に抱いているのが……どんな……存在なのか」

「分かってる。抱き締めて、何が悪いの?」

 

 

「俺はお前達がこの世で最も大切だ。他のどんな人間を、例え家族をも見殺しにしようと、お前達を守りたいんだ」

 

 

「それでも、私を愛してる?」

「この世界中で、誰よりも」

 

 

「――娘の最大の親孝行は、親より長生きすることです」

 

 

 

「ッッ!! ン~~~~~~~~~!!!! エクスタスィィイイイイイイイイイイイイイイ!!!!!!」

 

 

 

「ああ、肝に銘じる――もう俺は、お前の傍から離れない」

 

「…………そう。なら――あなた達の、寄生(パラサイト)星人の長として……最期の命令を送ります」

 

 

 

「私と共に死になさい」

 

 

 

「決まっている――愛の力だ」

 

「愛する女の為なら――男は何だって出来るのさ。そんなことも分からないなら――天才ってのも、大したことないな」

 

 

 

「ワタクシは! 全ての星人(バケモノ)を超えてみせる! 人間として!!」

 

 

「ワタクシこそが!! 人間だッッ!!!」

 

 

 

「……死ねッ! 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねシネェェェェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!!!!!!!」

 

 

 

「上を向いて、敵を見据えて、最後の瞬間まで戦いなさい。それが、上に立つ者の務め――それが、女の、意地というものでしょう」

 

 

 

「さよなら――地獄で会わないことを祈ります」

「ご安心を――私は地獄へ逝きません」

 

 

 

「地獄へ落ちるのは、あなた達――【化物】だけです」

 

 

 

「あなたは――どこまで化物なんですかッッ!!!!」

「ギャハ。……その言葉、そっくりそのままお返ししましょう――化物」

 

 

 

「ワタクシは……絶対に化物には屈さない」

 

 

「人間は――負けない」

 

 

 

「YAHOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!! レアキャラぶっ殺したぜぇええええええええええええええ!!!!!!!」

 

 

「ヒャッハァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアア!!!! 化物ぶっころぉぉぉおおおおおおおおおおお!!!!! ざまぁぁぁぁぁぁああああああああああああアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

 

 

「ヒャーーーーーーーーハハハハハッハハハハハハッハハハハハハッハハ!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そうですか。【私】は化物です」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――お母さん」

 

 

「私を、殺してくれないかな」

 

 

 

 じゃなきゃ、私、死んじゃうよ。

 

 

 

 

 

「――雪乃。この子の名前。きっと可愛い、女の子だから」

 

 

 

 

 

「…………誰か……」

 

 

「……………たすけて」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――いただきます」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ごちそうさまでした」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 偶々手に取ったその本は、分厚い日記帳だった。

 

 表紙にタイトルはない。一見は何の変哲もない只の本。

 やけにしっかりした作りで、装丁までしてあった。周りにある意識高そうな本と何ら見分けが付かない。だからこそ、森の中に隠すような感じでこっそりと混ぜておいたのかもしれない。誰が、かは知らないが。

 

 まぁ、他人の日記を読んだ言い訳にはならないな――だが、とても忘れることは出来ないような日記(ものがたり)だった。

 

「…………」

 

 俺は、その日記を元にあった場所に戻す。そして、そのまま室内をもう一度見渡した。

 

 ここは雪ノ下邸のとある一室――雪ノ下陽光(ひかり)の執務室。

 

 陽乃さんが殺された場所――殺害現場。

 

 雪ノ下陽光の長い過去語りが終わった後、俺はこの場所を訪れていた。

 

「…………」

 

 分厚い装丁の日記帳をなぞる。

 

 もうすぐ、午後六時となる。

 

 陽乃さんは雪ノ下と共に、池袋の病院に由比ヶ浜の見舞いへと行くとメールがあった。

 午後六時までにこちらに帰って来るのは難しそうだが、奴等がその時刻ぴったりに迎えにくるとは限らないし、最悪、別々に本部に向かうことになっても構わないだろう。

 考え得る中で高い可能性としては、何処かのガンツによって何処かの部屋に招集されるか、あるいは本部まで直接転送されるという方法を取るだろうしな。わざわざパンダがロケットエンジンで迎えに来たりはしないだろう。それもちょっと見てみたい気もするが。

 

「…………」

 

 終わってみれば、結果として、この会談は最高の形に終わったといっていいだろう。

 

 

――『――どうか、よい戦争を。黒い球体に、よろしくお伝えくださいませ』

 

 

 ……こっぴどく負けはしたが、そんなことはいつも通りに過ぎない。

 奴の言う通り、俺は千葉を離れるにあたって、後顧の憂いを失くすことに成功した。

 

 

――『ご安心を。あなたの守りたかった日常は、私達が代わりに守ります。雪乃も。由比ヶ浜結衣という少女も。この千葉は、あなたの愛した千葉は、これからは私達が守りましょう』

 

 

 雪ノ下と由比ヶ浜の身を脅かす可能性を持つ化物を排除する筈が、そいつ等を味方にして彼女達の身の周りを守る戦力を手に入れることが出来た。

 

 奴等は化物だ。星人だ。信用し過ぎるのも問題だが、奴等が黒い球体を束ねる組織――通称CIONと繋がっていることは、間違いない。

 

「……これが、portable GANTZ」

 

 portable GANTZ――通称P:GANTZ。

 

 執務机の上。

 そこに、僅かに宙に浮いているように見える、手の平サイズの黒い球体が、異様な不気味さを放ちながら悠然と存在している。

 

 あの『部屋』の球体のように人が中に入れるだけのサイズはないが、この質感、この異質感は、見間違える筈がない。あのガンツと同様の技術で作られたものだ。

 

 雪ノ下陽光の話では、千手のミッションが終わった後、CIONの手の者が同盟の証と言って送って来たものらしい――陽乃さんが死んだ直後に、まさかそんな取引が、こんな場所で行われていたとはな。

 

 通常のGANTZのように武器を出したり、メモリーを記録したりすることは出来ないが――転送だけは出来るらしい。

 

 いうならばこれはどこでもドアのようなもので、CIONはいつでもこの家に、連絡要員を送ることが可能なのだとか。

 

 それはいつでもCIONはこの家に、寄生(パラサイト)星人の本拠地に戦闘要員も送ることが出来るということで、そんな関係のどこが同盟なのだと思うのだが、奴等の言い分としては他の星人が雪ノ下邸(ここ)を襲撃しようとした時、我々が戦力を送って撃退してやると、そういうことらしいのだ。

 

 まるで米軍基地を配置された日本のようだ、と、俺は思った。

 同盟という名の、隷属関係。はっきりとした上下関係が見て取れる。力の差がはっきりしている。

 

 だからこそ、これは寄生(パラサイト)星人がCIONと繋がっている何よりの証拠で、雪ノ下陽光を始めとする寄生(パラサイト)星人達の話の裏付けの、確かな証拠の一つ言える。勿論、全ての話が事実だという裏付けにはならない――が。

 

 ……今は、信じるしかないだろう。

 少なくとも奴等が、これから俺等が向かう本部と懇意にあることは確かである以上、ここで寄生(パラサイト)星人と事を構えるのは得策ではない。

 

 ならば――俺は、雪ノ下陽光を、寄生(パラサイト)星人を信じて、預けるしかないだろう。託すしかないだろう。

 

 俺は、彼女達を、放り出したのだから。

 

 元々俺に、とやかく口を出す権利だと、もうないのだ。

 

「…………」

 

 引き寄せられるように、その背表紙を見つめてしまう。

 

 これは、[彼女]の日記であり、【彼女】の日記だった。つまりは『彼女(かのじょたち)』の日記だった。

 

 それは――とある化物の日記であり、とある化物の日記でもあり、とある化物の日記でもあった。

 

 それは、ひとりぼっちの化物の独白で。

 

 それは、感情を持って生まれた化物の慟哭で。

 

 それは、人間を志した、人間に憧れた、化物達の――人生で。

 

 それは、脈々と受け継がれていく――繋がっていく、[彼女]の、【彼女】の――『彼女』の物語だった。

 

「…………」

 

 これは、俺が知らなかった物語――本来、俺は知ることはなかった筈の物語。

 

 化物と人間の、人間と化物の物語。

 

 昼の世界と、夜の世界。

 表の世界と、裏の世界。

 

 俺が知らなかった世界の、俺が知らなかった過去の物語。

 

 当然ながら、俺が知らなかっただけで、星人はずっと前からいて、人間はずっと戦い続けてきた。

 

 俺がその世界を知ったのはほんの半年前で、俺が歩んできた物語など、この広大な地球の、この壮大な歴史の中の、ほんの一頁にも満たない、ほんの数行すら埋められない程度の、浅い物語なのだろう。

 

 一人一人の人間に、一体一体の星人に、一つ一つの物語がある。

 

 俺は、それを知らなくてはならない。

 一つでも多く知らなくてはならない――全ての物語は繋がっている。

 

 あの狭い部屋から飛び出し、より深い闇の中へと飛び込むのならば。

 より世界の深い場所へと潜るのならば。より物語の、根源に近い場所へと臨むのならば。

 

 今こそ――千葉から巣立つ時だ。世界へ羽搏はばたく時だ。

 

 これから俺は、この人間と星人の、黒い球体の物語の、主要キャスト共に会いに行く。

 

 そこは、より恐ろしい闇の中で、より悍ましい化物の巣窟で、今よりも遥かに救いようのない地獄なのだろう。

 

 これまでの地獄が、天国に感じてしまう程の、地獄なのだろう。

 

「――――だが、もう……後戻りは出来ない」

 

 俺は雪ノ下雪乃を切り捨てた。由比ヶ浜結衣を切り捨てた。比企谷小町を、この手に掛けた。

 

 もう俺に帰る場所などない。千葉にはもう、未練はない。

 

 俺は――幸せにならなくちゃいけない。

 

 その為に、俺は――強くなる。

 

「……終焉(カタストロフィ)まで、後――半年」

 

 時間は余りにも少ない。だが、やるしかない。

 全ては、終わりの日(クライマックス)を、生き抜く為に。

 

 半年で主要キャラにまで上り詰めてやるよ。

 例え地獄に堕ちてでも――地獄から、更なる地獄に堕ちてでも。

 

 死んでも、幸せになってみせる。

 

「……幸せにならなくちゃ、俺は死ねない」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「…………」

 

 都築は、机の上の黒い球体を腐りきった瞳で睨め付けながらそう呟く八幡を、ただ黙って見ていた。

 

 この執務室からは、雪ノ下家の庭が良く見える。

 先程まで八幡達がいたパラソルには、未だ陽光と豪雪が残り、なにやら言葉を交わしているように見えた。

 

 そして、そこから離れた、とある場所。

 雪ノ下邸の一階にある応接間がよく見える中庭。

 

 そこには、二人の美少年がいた。

 まるで双子のように瓜二つ。まるでクローンのように同一。

 

 お揃いの白いパーカーを纏った、黒髪童顔の二人は、片方はパーカーのポケットに両手を入れ不敵に笑い、片方はそんな彼の後ろに続いて嬉しそうに微笑んでいた。

 

「…………」

 

 都築はそこまで見て、そのまま彼等を意識から外した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 自分達から視線が外れたことを確認した彼等は、一度執務室の窓に目を向けた後、再び目を合わせて微笑み合う。

 

「――さて。この辺でいいかな」

 

 ポケットに両手を突っ込んでいた美少年――霧ヶ峰霧緒は、己と同一容姿の存在に対し、まるで心拍数を乱すことなく、旧友と再会したかのような口ぶりで告げる。

 

「ようやく二人っきりで話が出来るね。――(けい)くん、って呼ばせてもらってもいいかな」

「勿論だよ、“僕”。……ううん、こうして生き返ってくれた以上、もう僕が“僕”を名乗る必要もないね。霧緒くんと呼ばせてもらうよ。僕のことも――ぜひ継と呼んで欲しい」

 

 かつてとある庭師が手入れをしていた樹の下で、二人の同一容姿の少年達は語らう。

 

 霧ヶ峰霧緒。

 そして、八幡から偽中坊と呼ばれていた、中坊の化けの皮を被っていた化物――名を、朧月継(おぼろづきけい)と言った。

 

「君にも僕に聞きたいことは沢山あるだろうけど――そうだね。それでも、まずは君の仕事から済まそうか」

「……仕事?」

「誤魔化さなくていい。言付かっているんだろう? 僕がこうして生き返った時用の伝言(メッセージ)を。《彼女》から。もしくは、《彼》から」

「っ!?」

 

 霧ヶ峰の言葉に、継は瞠目する。

 

 そして、呆然といった様相で問い返した。

 

「……お、思い、出したの……? 《彼女》のことを……?」

 

 有り得ない。それだけは有り得ないと、継は《彼》に聞いていた。

 

 霧ヶ峰に施されたのは、通常のGANTZが行う記憶操作のように、記憶(データ)を奥深くに閉じ込めて幾重にも防護(プロテクト)を重ね掛けるといった形式のそれとは()()()()()()()()

 

 彼が一度、()()()()()()()()()()()()()()――()()()()()()()()、他の記憶に関しては通常通りの記憶操作が行われたが、こと《彼女》に関してのみは、それとはセキュリティレベルが段違いの特別処置が施されたのだ。

 

 いうならば、記憶移動――記憶強奪。

 

 霧ヶ峰霧緒という少年の頭の中にあった《彼女》に関する記憶(メモリー)を、彼の中に面影(バックアップデータ)すら残さずに、全てを《彼女》は抜き取った。

 

 霧ヶ峰少年の中に《彼女》は存在しないし、存在しなかったことになっている――筈だ。

 

 故に、通常のGANTZの記憶操作のように、何かのきっかけでプロテクトが罅割れ、記憶が蘇るといったことは起きない――筈だ。

 何故なら、霧ヶ峰の中に、蘇るような《彼女》の記憶は、封じ込まれている《彼女》の記憶は、面影(バックアップ)すらも存在しないのだから――なのに。

 

 継の驚愕を見て、霧ヶ峰霧緒は穏やかに微笑みながら、樹の幹に背を預けながら言う。

 

「……全てを思い出したわけじゃない。僕の中にあった、《彼女》の残滓を、それっぽい残りカスを集めて――残像を蘇らせただけさ。今も、瞼を瞑っても、《彼女》の朧気な背中しか思い出せない」

 

 そう言って、木陰の中で、涼やかな風に揺られる木の葉の音の中で、目を瞑りながら、霧ヶ峰霧緒は思いを馳せた。

 

 蜃気楼のような残像の少女の残滓に。

 

 面影すら残っていない、朧気な金色の後ろ姿に。

 

「………………」

 

 そんな姿を、継はただ無言で見詰めていた。

 

 彼と――《彼女》は。

 

 霧ヶ峰霧緒と、【■■■■■】。

 

 継が憧れ、継が見蕩れた、この二人の規格外は。

 

 かつてどのようにして繋がり、そして今、どのように繋がっているのだろうか。

 

「……………」

 

 しばし静かな時間が流れたが、やがてゆっくりと目を開けた霧ヶ峰が、微笑みながら継に問いかけた。

 

「ごめん。似合わずにセンチメンタルになっちゃったね。君は職務を果たすといい。あの美魔女なボスには言えないような――()()()を築いているんだろう。君からか、それとも『向こう』から作った繋がりなのかは知らないけれどね」

「……本当に、君って奴は」

 

 最早、この少年に対して驚くのは止めにしよう。

 この半年でほんの少しは近づけたと思っていた昨日までの自分が本当に恥ずかしい。

 

 それに、この少年に驚かされるのは嫌いじゃない。ただ憧れが強まるばかりだ。

 ほんの一言の言葉を交わす度に、この“鬼”に魅せられていく自分を感じる。

 

 あの《彼女》とは――また違う。

 惹かれるものは、魅せられるものは、徹底的に引き摺り込まれてしまうような――魔性。

 

(あの人外も、この鬼の魔性に……取り込まれたのかな?)

 

 そして、きっと――それは、この鬼も。

 

「――そうだね。それじゃあ……僕も、お仕事をしよう」

 

 もっとこの人間を見ていたい。もっとこの人間の傍にいたい。

 この人間が、どこまでいくのか。この鬼が、どこまで世界を揺るがすのか。

 

 霧ヶ峰霧緒という男の物語を、誰よりも傍で見ていたい。

 朧月継は、確かな決意と共に、この美しい鬼を、この恐ろしい人間を。

 

「伝言を、預かっているんだ」

 

 地獄の底の地獄へと、誘う言葉を真っ直ぐに告げる。

 

「今日、君はCIONの本部へと呼ばれる。――その時、真っ先に、何よりも優先して、この場所へと向かって欲しい。これを持っていれば、君はその場所に転送される」

 

 朧月継は、霧ヶ峰霧緒に向かって――P:GANTZを差し出す。

 

 そして、彼に向かって、()の者から預かったメッセージを、そのまま預かった通りに告げる。

 

「『君の帰還を待っていた。あの日、預かったものを、君に返そう――」

 

 

 

――Cosmopolitan Integration OrganizatioN(世界主義統合機構)

 

 

――CEO(最高経営責任者)

 

 

 

――虹ヶ崎虹鳴(にじがさきこうめい)

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、場所は戻って、雪ノ下邸――玄関先。

 

 テーブルを挟むようにして、パラソルの下に夫婦が向かい合う。

 

 雪ノ下陽光(ひかり)。雪ノ下豪雪。

 都築がいない為に陽光自ら紅茶を二人分継ぎ足したのを皮切りに――重苦しい夫婦喧嘩が始まった。

 

「――どういうつもりだ?」

 

 雪ノ下豪雪が切り出した。

 その瞳はまさしく極寒で、受け継いだ名に相応しい、豪雪のような冷たく重々しい眼差し。

 だが、雪ノ下陽光は夫のそんな眼差しを飄々と受け流しながら、「どういう、とは?」と、微塵も動じることなく問い返す。

 

「此度の会談は、当初の予定以上の成果があった。考え得る限り最高の結果といっていい。陽乃を生き返らせることが出来た上に、霧ヶ峰霧緒も蘇らせ、そして比企谷八幡の信用も手に入れた」

「……CIONからの面目も保ち、娘の安全も確保できた。一体、何が不満だというの?」

 

 豪雪の言葉に、陽光が問う。

 これ以上、一体何を求めているのかと。

 

「――確かに、寄生星人(われわれ)にとって、霧ヶ峰霧緒の蘇生は急務だった。CIONからの直々の厳命だったからな。寄生星人(われわれ)は、何としても成し遂げなければならなかった……その為に」

 

 俺達は、陽乃(むすめ)黒い球体の部屋(地獄)に送ったのだから。

 

「…………」

 

 豪雪の言葉に、陽光は何も言わない。

 ただ、湯気を上げる程に熱かった紅茶が――凍り付いただけだった。

 

「…………」

 

 そして、豪雪も陽光に何も言うことなく、話を先に進める。

 

「――確かに、霧ヶ峰霧緒も蘇生した。それもカタストロフィよりも半年も前に。陽乃も還ってきた。結果としてみれば、何も問題はない。むしろ出来過ぎなくらいのように思える」

「……分からないわね。アナタの言いたいことが。だとすれば、結局は何が面白くないというの? はっきり言って。夫婦の間に隠し事はなしよ」

 

 額を長い指で支えながら、みるみる内に冷たさを増していく視線と言葉で、夫を問い詰める陽光の言葉を、豪雪は端的に両断した。

 

「――比企谷八幡だ」

 

 陽光は、その言葉に俯いていた顔を上げ――夫を見詰めた。

 豪雪は、腕を組みながらも鋭い眼差しで――妻を見据えた。

 

「……お前は随分と奴を評価しているようだ。些か、行き過ぎと感じる程に」

「……今更、何を言っているの? 彼については、CIONの方からも重要視するように言われているでしょう?」

「それはあくまで、()()()()()()()()()()()()()()()()()として、だ」

 

 豪雪は尚も問い詰める。

 いつもは雪原のように物言わぬ男が、まるで熱くなっているかのように。

 

「霧ヶ峰霧緒を、そして陽乃を生き返らせるために、確かに比企谷八幡は重要人物だった。だが、その前提から、俺は疑問を抱いていた」

 

 雪の冷たさに――炎のような苛烈さを滲ませ、言う。

 

「そもそもの話――比企谷八幡という男がいなければ、霧ヶ峰霧緒も、そして陽乃も死ななかったのではないか、とな」

 

 夫は言った。雪ノ下家の、当主は言った。

 今も自分達の住処の何処かにいるであろう同盟相手について。

 

 奴は、奴こそは――我らが娘の仇なのではないか、と。

 

「………………」

 

 その言葉に、陽光は何も言わずに先を促す。

 

「霧ヶ峰霧緒が()()()()田中星人に殺された。これはあのCIONの奴等も予想だにしていない緊急事態だった」

 

 豪雪は言う。平坦な口調で。淡々と機械的に。

 

「そして――陽乃。たとえ千手観音の端末が紛れ込んでいたとはいえ、あの陽乃が仏像星人如きを相手に殺されるとは……俺にはとても思えなかった。それとも、いつの間にか俺も親馬鹿になれる程に、人間らしくなれていたのか?」

 

 これは陽光ですら見たことのない、陽光以外のことで感情を見せる夫の姿で――いや。

 

(……それでもきっと、私のことね)

 

 あの時――陽乃が帰ってこなかった夜。

 

 陽光がどれほど己を呪ったかを知っているから。この夫は、誰よりも傍で見ていたから。

 

「――あの二人だけではない。……チビ星人の暴走も、間違いなく奴が発端だ。あれによって……雪乃がどうなったか。お前も理解しているだろう」

「……あれに関しては、彼だけを責めることは出来ないわ。CIONとの関係悪化を恐れて、結局は何も出来なかった……私達にも、責任はあるでしょう」

 

 結果として雪乃は死ななかったが、死んでもおかしくない――死なない方がおかしかった程の事件だった。雪乃以外のJ組生徒は誰一人として助からなかったのだから。

 

 既に雪乃の同級生が、そして姉がガンツの戦士になってしまう程の状況だったのだ。

 ああいった事態も想定しておくべきだったし、最低限、雪乃の傍に護衛の一体でも配置しておくべきだった。

 

「――だが、そもそもの発端は、比企谷八幡だ」

 

 豪雪はそう断ずる。

 そもそもの原因は奴だと。全ての原因は奴だと。

 

「全ては、比企谷八幡が黒い球体の部屋へと招かれてから動き出している」

 

 霧ヶ峰霧緒が死に、雪ノ下陽乃が死んだ。

 日常の総武高が襲撃され、雪ノ下雪乃が壊された。

 そしてオニ星人が表世界を襲撃し、二つの世界の垣根が破壊されようとしている。

 

「……これは、偶然か?」

 

 全ては比企谷八幡が画策したこと――とは思えない。

 

 だが、全ては比企谷八幡が引き起こしたこと――そう思える程に、彼はあらゆる事態を悪化させている。

 

 彼が戦えば戦う程、藻掻けば藻掻く程、悪足掻けば悪足掻く程――世界は着実に終焉へと向かっているように思えてならない。

 

「……本当に、荒唐無稽ですね。まるで全ての罪を彼に被せたいかのように、強引なこじつけです」

 

 でも――それも、きっと少なからず当たっているのでしょうね。

 

 陽光は、黒色に侵食されていく美しい空を見上げながら、呟くように言った。

 

「……いるんですよ。残念ながら、確実に。……ただ、願っているだけなのに。ただ、望んでいるだけなのに。ただ、欲しているだけなのに。ただ、手を伸ばしているだけなのに」

 

 憧れただけなのに。綺麗になりたかっただけなのに。

 暖かくなりたかっただけなのに。寒いのが嫌だっただけなのに。

 

 幸せに――なりたかっただけなのに。

 

 本物が――欲しかっただけなのに。

 

 なのに――なのに――なのに。

 

 …………どうして。

 

「…………どうして、こうなっちゃったのかなぁ」

 

 陽光は、そう呟いて――苦笑しながら、夫に笑いかける。

 

「……こうなっちゃう、人もいるのよ」

 

 ただ――純粋な、願いだけを抱えて。

 

 戦って、戦って、戦って。

 戦って戦って戦って戦って戦って。

 

 それでも――世界はそんな奮闘を嘲笑うかのように。

 

 幸せを遠ざけて、ただ絶望だけを押し付ける。

 

「神様とかいうものに嫌われて、世界とかいうのにも嫌われている。だけど、理不尽にはとことん愛されている。そんな生命が、この世界にはいるのよ」

 

 陽光は笑う。儚げに笑う。雪の結晶のように、美しく――悲しく。

 

 豪雪は、ただそれを受け止める。

 そんな夫に、妻は優しく言った。

 

「……確かに、彼は周りを不幸に落としたかもしれない。彼はいくら頑張ろうと、戦おうと報われない嫌われ者なのかもしれない。……でもね。彼は私と違う所があるの」

 

 彼は――化物な私とは、違うの。

 

 陽光は、空を眺めながら言った。漆黒に塗り潰されまいと、堪えるように現れた月を見ながら言った。

 

「彼は――人間よ」

 

〔彼女〕が憧れ、【彼女】が憧れ――そして『彼女』が、愛した。

 

「彼こそが――人間よ。私は、そう思うわ」

 

 陽光は、そして――美しく、笑った。

 

「何より――娘達が好きになった男の子ですもの。信じてあげたいでしょう?」

 

 それは豪雪が、この世で最も愛する笑顔で。

 

「…………そうか」

 

 この世で最も弱い、豪雪最大の弱点だった。

 

「――母は、強いな」

 

 いつか、こんな風に――俺も父親になれるだろうか。

 

 こんな風に、人間のように、なれるのだろうか。

 

(…………父親、か)

 

 豪雪は――雪ノ下陽光程に人間ではない。

 

 陽乃を、雪乃を愛してはいるが――それでもいざという時はきっと、迷わず陽光を選ぶだろう。娘を見殺し、妻を助けることを、躊躇なく選択するだろう。

 

 豪雪に芽生えている僅かな感情の全ては、陽光に関するものだ。陽光が起点のものだ。陽光を源泉とするものだ。

 

 だが、きっと陽光は――何よりも、娘のことを優先するだろう。

 己の生命を失うことになったとしても。嬉々として、娘の為に死ぬだろう。

 

 陽光が娘の為に死んだその時、豪雪は――娘の為に死ぬことが出来るだろうか。

 

「…………」

 

 きっと、娘を殺すのだろうと、豪雪は思った。

 愛するモノを殺されたら、きっと子供だって殺してしまう。

 

(……もし、俺が父親ならば――)

 

 陽乃が帰ってこなかったあの日――比企谷八幡を、きっと殺していたのだろう。

 娘を殺されて、相手を殺そうとしない父親など――この世には存在しないだろうから。

 

「……俺は、父親失格なのだろうな」

 

 そう呟きながら、今度は豪雪が空を見上げた。

 陽光が「……あなた、何を――」と何かを言いかけた時――豪雪の、表情が固まった。

 

 普段から氷のように無表情である豪雪だが、陽光だけはその表情の変化を感じ取れた。

 

 そして、夫の視線の先に陽光が目を向けると――そこには。

 

 

 

 二筋の電子線が――執務室から庭へと伸びていた。

 

 

 

 そして――鳴り響く。

 

 あの――地獄へと誘う歌が。

 

 

 

 

 

あーた~~らし~~いあーさがき~~た~~きぼーのあーさーがー

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――――な」

 

 俺は、喉から空気が掠れ出るのを自覚した。

 意味が分からない。だが、この歌だけは、例えどれだけ耳を塞ごうと聞き逃す筈がない。

 

「――何なんだ、これは……ッッ!!」

 

 俺は思わず都築さんを睨み付ける。

 ここは雪ノ下邸――寄生(パラサイト)星人の本拠地。奴等の何かしらの罠である可能性が過ぎったからだ。

 

 だが、都築さんの浮かべていた表情は困惑だった。

 本性では表情というか感情が乏しい彼だったが、それでも目の前に起こる事態が想定外であることは確かなようだった。

 

(……だとすれば……これは――)

 

 俺は、改めてそれを睨み付ける。

 

 執務室の机に置かれているP:GANTZ――やはり、ここからラジオ体操は流れ、そして電子線は伸びている。

 

(……普段ならば、この電子線は新しい戦士の召喚……そしてこの歌はミッションの開始を知らせる音楽……だが、ここはあの『黒い球体の部屋』じゃない。この執務室が別の黒い球体の部屋だという可能性は皆無じゃないが、電子線は部屋の外へと伸びている――)

 

 俺は窓の外へと目を向ける。

 

 光が照射されているのは、雪ノ下邸の敷地内――門から、あのパラソルまでの間の広いスペースに、二筋。

 

「……何が起きてる? ……何が起こるんだよ、クソ」

 

 意味が分からない。

 今まで連続ミッションや、部屋の外でのミッションじゃない戦闘はあったが――部屋の外で始まるミッションなんてのは初めてだ。何を考えているんだ、ガンツ。

 

 時刻はもう六時になる。

 あのパンダの言うことが本当なら、ガンツの組織は今から大事な会見を始める筈だろう。

 まさか、これはガンツにとっても想定外の何かなのか。

 

 ……とにかく、今は準備だ。

 ガンツスーツは着ている。ソードもある。銃はXガンとYガンのみでBIMもない。

 ……心許ないが、最低限の装備はある。

 

 残る問題は、これがミッションなのか、そしてミッションならば標的(ターゲット)は何なのかということだ。

 

 ……まさか、転送されてくるのは、戦士ではなく星人(ターゲット)

 ガンツが送り込んでくる星人を、ここで倒せということなのか?

 

 徐々に電子線が、送り込んできた正体不明を形どってくる。

 ……遠目だが、シルエットは人間のように思える。それも――ガンツスーツを着た二人組。片方は男で、片方は女。

 

 ……やはり新しい戦士なのか。

 だとすれば、標的(ターゲット)は一体――――?

 

 

「――――ッッッ!!!???」

 

 

 ……は?

 

 ……何だこれ、どういうことだ?

 

 

 

 

 

「…………何なんだよ。それ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 時計の針が進む。

 

 時刻は――午後五時五十九分。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 来良総合医科大学病院――屋上。

 

 時刻――まもなく、午後六時。

 

(……もう、そんな時間か)

 

 雪ノ下陽乃は、手首に巻いた腕時計にて時間を確認する。

 

 結局、陽乃は表世界の最後の一日を、ずっと屋上で体育座りをしながら過ごしていた。

 

(……このわたしが、まるで教室に居場所の無い、いじめられっ子みたいね)

 

 自嘲的な笑みが漏れる。

 あの雪ノ下陽乃が、こんな笑みを浮かべる日が来るとは、自分でも思いもしなかった。

 

(……流石に、雪乃ちゃんは帰ったかな?)

 

 そう思いながら、ゆっくりと陽乃は立ち上がる。

 妹に会わせる顔はないけれど、それでも、パンダに言われるまでもなく、午後六時のCIONの会見を見逃すことなどあってはならない。

 

(といっても、それは全国民共通の思いでしょう。不特定多数が観るテレビなら、間違いなくチャンネルはあの会見の筈)

 

 携帯端末を握り潰した陽乃には、この屋上にて一人で鑑賞するということは出来ない。

 だが、ここは病院だ。待合室などでテレビは幾らでもあるだろう。

 

 陽乃は自身に再び透明化を施す。

 取り敢えずまた屋上から飛び降りて、適当な場所で会見を――と、思った所で。

 

 

 ドスンッッ――と、屋上に何かが落下した。

 

 

「――っ!?」

 

 思わず反射的に体を硬直させる。

 まるで隕石か何かが直撃したかのような衝撃。

 

 あのパンダがロケットのように帰ってきたのか――そう咄嗟に思考したが、次の瞬間には、その事実を認識した瞬間には、そのような思考は吹き飛んだ。

 

(……あれほどの衝撃なのに――)

 

 

――この病院は一切揺らいでいない――ッ!?

 

 

 体感的にも凄まじい威力だった。

 建物全体が揺れるどころか、屋上が崩壊する光景を幻視してしまった程だ。

 

 だが、現実には、屋上には罅一つ入っておらず、何のパニックも起こっていない――まるで、何も起こっていないかのように。

 

 けれど、それは違うと、陽乃だけは気付いている。

 

 何かは確実に落下した。

 それは隕石ではなくても、何かが隕石のように――襲来したのだ。

 

 陽乃の目の前に、突如として襲来した正体不明がいた。

 

 自分と屋上の出入り口の間に墜落したそれは、身の丈以上に巨大な、正しく隕石のような――ハンマーを担いでいる。

 

 そして、そのハンマーと同じくらい、光沢のある――漆黒の全身スーツを纏っている。

 

(…………あれは――あの人は――)

 

 陽乃は凝視する。

 見覚えのあるスーツを身に纏う、見覚えのある人物を。

 

 黒槌を担ぐ黒衣は――妹の親友にそっくりな笑顔を向けて、その独特な挨拶を陽乃に放った。

 

 

「――やっはろー! 雪ノ下陽乃ちゃんだよね?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 時計の針が、また進む。

 

 

 時刻は――午後六時。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 眩いフラッシュが一斉に焚かれた。

 

 永田町――首相官邸。

 

 時刻が日本時間午後六時を示すのと同時に、溢れんばかりのマスメディアが集められた一室に、二人の男が姿を現した。

 

 いかにも記者会見というような、横長の折り畳み机とパイプ椅子。

 六脚用意されたその椅子の、奥の二つの椅子に、男達は一礼の後に座った。

 

『――時刻は午後六時。早朝の声明で予告されていた定刻通りに、会見は始まるようです。……当初の情報ではあくまで政府関係者による会見とだけ伝えられていましたが……』

『……会見場所として官邸を使用するといった段階から予想はしていましたが……やはり、総理自らマイクを持つようですね』

『……そして、総理と共に現れたのは、現職の防衛大臣――』

 

 

 

――小町小吉防衛大臣です。

 

 

 

 ニュースキャスターは、二人の男達が椅子に腰掛けるまでに、そう視聴者に情報を届けた。

 

 鍛え上げられた肉体と顎鬚が特徴の背の高い男は――防衛大臣は言う。

 

「――それでは、定刻となりましたので、これより、昨夜、東京都豊島区池袋駅周辺にて発生した、未確認生物による一般人大量殺人事件、通称『池袋大虐殺事件』に関する、政府の見解を発表する会見を行いたいと思います」

 

 

 Cosmopolitan Integration OrganizatioN(世界主義統合機構)  

 

 JP(日本)支部 副代表 

 

 JP支部戦士(キャラクター)ランキング 1位(最上位幹部)

 

 防衛大臣

 

 小町小吉

 

 

「……それでは、会見を始めるに置きまして、まずはこの残された空席に座るべき――四人の英雄を皆様にご紹介したいと思います」

 

 

 Cosmopolitan Integration OrganizatioN(世界主義統合機構)

 

 JP(日本)支部 代表

 

 戦士(キャラクター)ランキング 枠外

 

 内閣総理大臣

 

 蛭間一郎

 

 

『――な!? 何でしょうか!? 蛭間総理の言葉と共に、突如として室内に……四筋の光が現れました!?』

 

 半ばパニックに陥るマスコミ達。

 だが、職業病か、それともプロ意識か、全員が意味も分からずに、その意味の分からない光景を記録に残そうとカメラを回し、フラッシュを焚いていく。

 

 そして、何処かの番組の誰かのコメンテーターが言った。

 

『……あれは? まさか、昨夜の池袋大虐殺の終結時にも現れた……天から降り注いだ、あの光線?』

 

 

 四本の電子線は、総理大臣と防衛大臣と並ぶ四つの空席に――四人の戦士を召喚する。

 

 一様に不可思議な漆黒の全身スーツを身に纏う――年端もいかぬ四人の少年少女達。

 

 

 逆立つ金髪の大男。

 

 水色髪の小さな少年。

 

 艶やかな黒髪の美しき少女。

 

 そして――昨夜、日本全国民が目撃した、あの地獄の大虐殺を終結させた英雄。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 とあるフードにロイド眼鏡のオニと、悪魔のような山羊の頭の被り物のオニは観ていた。

 

「……どう見る? 篤」

「……随分と、思い切った決断をしたものだ」

 

 

 

 

 

 とある戦闘の天才の氷鬼と、哀れな残灰の白鬼は観ていた。

 

「――ほう」

「…………」

 

 

 

 

 

 とある孤独だった座敷童と、そんな座敷童に寄り添う眼鏡の少年は観ていた。

 

 巨大な街の巨大な街頭モニターで、四人の黒衣が続々と姿を現すその様子を。

 

「……平太」

「……そうだね。やっぱり、思った通りだ」

 

 噎せ返るような人の海の中、平太は詩希をギュッと抱き締めて言う。

 

「――鴨桜(オウヨウ)さんに、伝えないと……ッ」

 

 そして平太は、人混みから外れた路地の前でモニターを見上げる化物に目を遣る。

 

 

 

 

 

 とある元人間で妖怪で吸血鬼で式神な化物と、迷子の駅員の少女は観ていた。

 

 暗い路地裏から突如として現れ、百目鬼の背後に立つ少女に、彼は振り向くことなく言う。

「――如月か? 何の用だ?」

「……晴明さんから、伝言です」

 

 駅員帽を被ってナップザックを背負う小学生ほどの少女が、百目鬼の横に立ち、巨大な街頭モニターを眺めながら言った。

 

「――『なんか超ダルいから代わりに会見観といて。後で概要ヨロ♪』……だ、そうです」

「…………あんのクソ(あるじ)……ッ」

 

 ひっ――と、少し前方から眼鏡の少年の悲鳴が聞こえた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして――その会見は、日本だけでなく世界中に流されていた。

 

 

 

 

 

 ロシアのツンドラ地帯に聳える基地の中で、黒髪ボブカットのガラの悪い女と、無色透明な少年は観ていた。

 

「――ハッ。さぁて、世界はどう滅茶苦茶になるかねぇ」

「……………………」

 

 

 

 

 

 バチカンの教会奥の密室で、聖書と十字架を握り締める神父と、純白の修道女と漆黒の修道女、そして白髪白髭の老人は観ていた。

 

「へぇ、大胆ね。優柔不断のジャパニーズのくせに」

「……彼等も、深慮の末の決断でしょう」

 

 正反対の色の修道女の後ろで、神父は十字を切り、祈る。

 

「…………神よ」

 

 老人は、全てを見渡す位置に座り。

 

「………………」

 

 まるで、眠るように――目を瞑る。

 

 

 

 

 

 広大な都の中心に位置する塔の一室で、険しい顔の黒髪の美青年と、笑顔を張り付けた純黒のスーツに緋色のネクタイの男は観ていた。

 

「……愚かな」

「ふふ、そうかね。君にはそう見えるかね。そう思えるかね」

 

 笑顔の男は、血の色のネクタイを更に深く己に締めて――笑う。

 

「――実に、面白い」

 

 

 

 

 

 ワシントンD.C.のペンシルベニア通り1600番地にある官邸のオーバルオフィスにて、金髪オールバックの屈強な男と、カールがかった金髪にビジネススーツのふくよかな男は言う。

 

「はっはっはっ、見るがいいデイヴス! 我が親友イチローが楽しいことをやっている!」

「……他人事ではありません。これから世界が変わるのです。あなたは世界で一番忙しい男となるのですよ」

「何を言う!」

 

 ふくよかな男は、その部屋の執務椅子にふんぞり返り――窓の外の合衆国に視線を移して言った。

 

「そんなものは――この椅子に座った者の当然の税金だ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして――某国、某所。

 

 真っ暗な部屋の中、淡く光る六角形のテーブルの一辺に、ただ一人。

 

 テーブルに肘を着き、細い指を組むフルフェイスマスクにマント姿の存在は、虚空に浮かび上がるモニターで観ていた。

 

 そして、出入り口の無いその部屋の仮面の男の背後に、一筋の電子線が照射される。

 

「……お前も来たのか」

 

 加工されていない生まれ持った肉声を漏らす仮面の存在。

 

 一切振り向くことはせず、ただモニターを見ながら続ける。

 

「――ようやくだ。……ようやく、ここまで来た」

 

 謎の人影は、仮面の存在の前に回り、その膝に座る。

 

 仮面の存在はそれに構うことなくモニターを見続け、そっとその髪を撫でた。

 

「――もうすぐだ。……もうすぐ、『あそこ』まで行ける」

 

 仮面の男は、次々と黒衣の戦士達が召喚されていくのを眺めていた。

 

 紫紺色のスクリーン越しに届くその光景が、仮面の存在にはどのように映っているのか、それは本人にしか分からない。

 

 謎の人影は、そんな彼の胸に凭れ掛かり。

 

「…………」

 

 何も言わず。

 

 まるで映画を観るかのように。

 

 

 それを、観ていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 同刻――来良総合医科大学病院屋上。

 

 巨大な黒槌を担ぐ桃色の髪の美女は、文字通りの無邪気な笑顔で――雪ノ下陽乃を観ていた。

 

「…………確かに、わたしは雪ノ下陽乃だけど……あなたはどなた? 殺し屋かしら?」

「ちがうよー。あたしは正義の味方だよー」

 

 ぶんぶんと黒槌を振り回す。それによる風切り音だけで殺されそうに感じる陽乃は、汗を流しながら不敵に言う。

 

「なら、どうしてわたしを殺そうとするのかしら?」

「あはは。殺す気ならとっくに殺してるよー」

 

 桃色の髪の美女は、どこかの誰かにそっくりの笑顔で――黒槌を大きく振り上げる。

 

「あたしは只の試験官だよ。裏口入学は簡単じゃないってこと。さぁ、陽乃ちゃん! 行っくよ――!!」

 

 そして、鋭く、振り下ろす。

 

 瞬間――地面が爆発した。

 

「あたし達の仲間になりたくば――まずはあたしを倒してから行け!!」

 

 

 Cosmopolitan Integration OrganizatioN(世界主義統合機構)

 

 本部職員

 

 戦士ランキング 枠外

 

 由比ヶ浜結愛(ゆあ)

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 同刻――雪ノ下邸。

 

 二筋の電子線が、二人の黒衣を召喚する。

 

 片方は男。片方は女。

 

 男は抜身の黒刀を、女は細身の黒弓を手に持ち。

 

 二人並んで、女は無表情で、男は笑みを浮かべながら。

 

 

 たった二人で化物の巣へ、寄生(パラサイト)星人の本拠地へと襲来する。

 

 

「…………何で――」

 

 掠れた声で言った。

 

 比企谷八幡は、その存在を知っていた。

 

 へらへらと笑う男も、一切の表情を浮かべない女も、見覚えがあった。

 

 比企谷八幡は、生まれたその瞬間から、その存在を知っていた。

 

 何故なら、彼は、彼女は――。

 

 

「おぉい!! 八幡!! 出て来いヤァ!!!」

 

 

 男が刀を振るう。

 

 剣閃は雪ノ下邸の広大な敷地内に――黒火のアーチを描き出す。

 

 黒い火を背負う黒衣達は、揃ってとある一点を見詰める。

 

 瞬間――執務室の窓ガラスが粉砕された。

 

「――ッッ!!!」

 

 八幡の頬を黒い矢が擦過する。

 

 開く傷。流れる血。

 

 だが、八幡は矢を射られるまでもなく――その視線に射竦められていた。

 

 女の眼鏡の奥から除く冷たい瞳に。男の濁りきった眼光を放つ眼に。

 

「……聞こえなかったの? 降りてきなさい、八幡」

 

 八幡は、まるで怒られることを恐れる子供のように、情けない声を漏らす。

 

 

「…………母ちゃん」

 

 

 女は鏃のように鋭い視線で――己が息子を射抜く。

 

 

 Cosmopolitan Integration OrganizatioN(世界主義統合機構)

 

 本部職員

 

 戦士(キャラクター)ランキング 枠外

 

 比企谷雨音(あお)

 

 

 そして、黒刀を、まるで不良がバットを見せつけるかのように己の肩に当てる男は、へらへらと笑いながら――己が息子を嘲笑する。

 

「どうした? なに? ビビってんの、お前?」

 

 

 Cosmopolitan Integration OrganizatioN(世界主義統合機構)

 

 CEO直轄部隊 リーダー

 

 戦士(キャラクター)ランキング 枠外

 

 比企谷晴空(はると)

 

 

「…………親父……ッッ」

 

 八幡は、口端からも血を流す程に――食い縛る。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 同刻――首相官邸。

 

 突如として虚空から出現した四人の人間に――四人の黒衣に。

 

 思わず沈黙する百戦錬磨のマスメディア達。

 そして、彼等が我に返るよりも早く。

 

 小町小吉防衛大臣は、マイクを握り、彼等に向かって――自分達に向けられたカメラを通じて、固唾を呑んで見る者達に向かって。

 

 国民に向かって――世界に向けて、言う。

 

 宣言する。

 

「彼等は、地球外生命体、通称『星人』に対して設立された、対『星人』用特殊部隊のメンバーであり、昨日の池袋大虐殺事件に置いて多大な功績を残した――戦士であり、」

 

 英雄です。

 

 蛭間一郎内閣総理大臣は、発表した。

 

 

「部隊名は――」

 

 

 

 GANTZ

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 同刻――千葉。

 

 黒火に囲まれた雪ノ下邸の敷地内で、親子は向かい合っていた。

 

 比企谷八幡の目の前に、実父と実母が立ち塞がる。

 

 真っ黒な――黒衣を身に纏って。

 

「……親――」

 

 瞬間――ぶん殴られた。

 

 瞬間移動で、ぶん殴られた。

 

「カッ――」

 

 雪ノ下陽光と雪ノ下豪雪の間を吹き飛び、パラソルを薙ぎ倒し、雪ノ下邸の壁に叩き付けられる八幡。

 

 比企谷晴空は、ゆっくりと歩きながら、ニタニタと笑いながら言う。

 

「久しぶりだなぁ、クソ息子。ちょっと見ない間にまた一段と腐りやがって。誰に似たんだ? あぁ?」

 

 黒刀を真っ黒に発火させ、ガラガラと切っ先を引き摺りながら――黒火の道を作りながら、笑う。

 

「驚いたぜ。お前が『こっち側』に来たと知った時は。まぁ、どうでもいいから放置してたが、随分と楽しい第二生を謳歌してたみてぇじゃねぇか。父ちゃんは嬉しいぞ」

 

 八幡は自分のスーツが悲鳴を上げているのが分かった。

 

 スーツを着ていなければ、間違いなく死んでいた――殺されていた。

 

 実の親父に――殺されかけた。

 

 殺意の篭った、拳だった。

 

「…………」

 

 八幡は晴空の向こうの雨音を見る。

 

 実の母親は、息子を見ていた――冷たい、瞳で。

 

 殺意の篭った、瞳だった。

 

「――でもまぁ、流石にオイタが過ぎたなぁ、テメェ」

 

 比企谷晴空は、真っ黒に燃える切っ先を向ける。

 

 壁に叩き付けられ、未だ立ち上がれない息子に――たっぷりの。

 

 殺意の篭った――怒りだった。

 

 

 

「小町をぶっ殺しておいて、なに幸せになろうとしてんだ? アァ?」

 

 

 

 笑顔を消して、憤怒に歪めて、実の息子に――晴空は告げる。

 

「…………親父」

 

 どうして――と、八幡が、口を開く前に、母は言う。

 

「――決まっているでしょう」

 

 そして、父は、言った。

 

 

「テメーをぶっ殺す為だ。八幡」

 

 

 そして、執務室の机の上の、小さな黒球は、虚空に映像を浮かび上がらせる。

 

 

 死んだ双眸。一房のアホ毛。

 とある人物の画像が――指名手配犯の手配書のように。

 

 

 

【てめえ達はこいつをヤッつけてくだちい】

 

 

《八幡星人》

 

 

 

「―――――な!?」

 

 雪ノ下陽光は、比企谷晴空の手に持つP:GANTZから照射された同様の映像を見て絶句する。

 

「………………」

 

 八幡は、何も言わずに、まるで死人のような眼で、それを見ていた。

 

 晴空は、P:GANTZを背後の雨音に投げ渡しながら――いつもの不快な笑みを浮かべて言った。

 

「さぁ、八幡。どうせ仇を討たれて死にてぇんだろ。好きなだけ殺してやるよ」

 

 

 戦争開始(ミッションスタート)だ――息子。

 

 

「せめて(オレ)の手で殺してやる。あの世の小町に――死んで詫びろッッ!!!」

 

 晴空は笑顔を消して激昂する。

 

 娘を殺された父親の殺意が、妹を殺した兄に向かって黒火と共に振り下ろされた。

 




比企谷八幡と黒い球体の部屋―繋― 八幡星人編
 
戦争(ミッション)――開始(スタート)





※途中のダイジェストでお送りしている日記(ものがたり)は、『比企谷八幡と黒い球体―外―』にて『寄生星人編』として投稿しました。興味がある方はぜひ、読んでいただけたら嬉しいです。


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Side試験(ミッション)――①

――正義の味方だよ!!


 

 正義の味方に憧れていた。

 

 誰かのピンチに颯爽と駆け付けて、絶望を振り撒く悪に立ち向かい、解決不可能だと思われた窮地を覆し、世界に笑顔と平和を取り戻す。

 

 そんな、テレビの中にしかいないようなヒーローに、少女は純粋に憧れていた。

 

 

 

 同い年の女の子が、一つ年上のお姉ちゃんが、他の皆と同じように魔法少女やプリンセスに憧れる中――その少女は、仮面のライダーや五色の戦隊ヒーローに憧れていた。

 お姉ちゃんのおもちゃ箱には着せ替え人形やカワイイぬいぐるみが増えていく中で、少女は変身ベルトやヒーローのフィギュアを両親に強請(ねだ)った。

 

 日曜の朝は誰よりも早く起きて、ヒーローの活躍に胸を躍らせていた。

 

 テレビの中のヒーローの動きに合わせて、手に汗を握り、変身ベルトを腰に巻いて、パンチやキックを見えない敵に向かって繰り出す女の子の姿に、母はお兄ちゃんがいるわけでもないのに誰の影響でこんな男の子みたいな子になっちゃったのかしらと頭を抱え、父はまぁ子供の内は女の子も腕白(わんぱく)なもんさと笑い、お姉ちゃんは笑顔でお姉ちゃんも応援してと手を引っ張る妹の我が儘を苦笑しながら受け入れていた。

 

 少女はそんな温かい家族に囲まれ、見守られながら、その純粋な正義感を育てていく。

 

 世界には悪がいるけれど、同時にカッコいい正義の味方も確かにいて。

 悪の野望は絶対に潰え、正義の力に挫かれる。

 ピンチの時には何処からともなくヒーローは必ず駆け付けて、正しい思いはいつか間違いなく報われる。

 

 それが世界の仕組みだと学んで、それが世界の法則だと信じていた。

 

 だからこそ、少女は正義の味方に憧れた。

 悪の怪物を倒し、人々の笑顔と平和を守る――正義の味方に。

 

 いつか必ずなるのだと、そう眩しい憧れを抱きながら、少女は今日も腰に変身ベルトを巻いて、背中にはライダーが愛用する玩具の剣を背負い、頭には縁日で強請って買ってもらったお面を付けて、街の平和を守るべくパトロールに出掛けた。

 

 だけど、少女はすぐに理解する。

 

 世界はそんなに正しくなくて、不合理と不条理に満ちていると。

 

 正しいことが報われずに肩身が狭い思いをして、間違っていることが幅を利かせて我が物顔でまかり通っていることを。

 納得の出来ないことを、筋の通らないことを、そういうものだからと見て見ぬふりをすることで成立している仕組みなのだということを。

 

 悪が栄えても、怪物が跋扈していても――正義の味方は現れないということを。

 

 少女が憧れた画面の中のヒーローなど、何処にもいないということを。

 

 割かし早く、呆気なく――由比ヶ浜結愛(ゆあ)結愛は、理解することになる。

 

 

 

 それは、結愛がいつも通り、全身フル装備で遊びに出かけて帰ってきたある日のこと。

 

 結愛は泣きながら、ベルトも剣もお面もボロボロにして、泥だらけで家へと帰ってきた。

 

 母は急いで娘を抱き締め、姉と一緒に何があったのかをお風呂の中で聞いた。

 

 少女曰く、女の子を泣かせていた男の子達がいたと。

 

 寄って集って複数の男の子が、一人の女の子を取り囲んで暴言を浴びせていたと。

 聞こえてくるその悪口は、どれもこれもが理不尽な言い分で、論理的に考えればいくらでも反論出来るもので、そういったことが分からない幼い結愛でも――間違っているのは男子達で、女子は罪なき被害者だと理解出来た。

 

 だからこそ、結愛は男子達に立ち向かった――正義の味方として。

 

 滑り台の上に立ち、大きな声で登場の口上を叫ぶ。

 

「お前たちのような悪は、あたしが許さない!」

 

 あたしは、正義の味方だ! ――と。

 

 突然現れたお面少女に、男子達は呆気に取られたが、結愛が玩具の剣の一撃を加えた途端、一気に喧嘩が始まった――そして、結愛は呆気なく負けた。

 

 悪に負けるなど、正義の味方として許されない。

 だからこそ、結愛は泣き喚きながらも剣を振るい続けた。

 

 次第に固くて痛い剣の攻撃に男子達も泣きべそをかいていたが、女子に負けるなど男子としても許されず、結果として、引っ込みがつかなくなった両者はお互いにギャンギャン泣きながらも喧嘩を止めることはなかった。

 

 いじめられていた女の子が呼びに行ったお母さんがその場を収めることで決着はついたが、お互いの敗北は認めないままに、それぞれの家へとべそをかきながら帰ることになった。

 

 経緯を全て聞き終えた結愛の母は、風呂から上がるや否や、どこかへと電話を掛け始めた。電話の内容までは聞こえなかったが、断片的に聞こえるのは――母の、謝罪の言葉。

 

 うちの子がご迷惑を、いえ女の子とはいえどうちの子から手を出したようですし、そうですね剣を持って歩くことは止めさせます、お気になさらずに大きな怪我も無いようですし――そんなようなフレーズが、断片的に聞こえた。

 

 なんで、どうしてママが謝っている?

 悪いのはあの男の子達だ。理不尽な言い分で女の子をいじめるような奴らは悪に決まっている。だからあたしは正義の味方として戦ったんだ――それの何処がおかしい?

 

 ママに、お姉ちゃんに包み隠さず全部話したのも――褒めてもらう為だ。

 がんばったね、と。結愛は間違っていないよ、と。そう言ってもらって、正義の為に頑張って戦ったことを褒めて欲しかったのに。

 

 なのに、電話を切って、リビングに自分を呼んだ母の第一声は、結愛の期待に沿わない厳しい言葉だった。

 

 何で、お友達をぶったりしたの? ――と。

 

 結愛はショックで涙を浮かべたが、必死に反論した。

 悪いのは女の子をいじめていたアイツ等だと。自分は女の子を守る為に戦ったと。

 

 だが、母の言い分は「それでも、先に手を出したあなたが悪い」というものだった。

 

 母は滔々と続けた。

 

 そういう時は先生かお母さんを呼びなさい、と。

 どんな理由があれ暴力はいけないことです、と。

 女の子がむやみやたらに怪我をするようなことをしてはいけません、と。

 

 結愛がぷるぷると震えて俯き何も言えないのをいいことに、母はやがて「これを機会に玩具の剣や変身ベルトをして外に出ることを禁止します」やら「これからは女の子らしい遊びをしなさい。お姉ちゃんを見習って」などと言い募った。

 

 すると、結愛は目を真っ赤にして涙を溜めて、母に「ママのバカ!! 大嫌い!!」と言い放ち、そのまま二階の自室へと駆け上がった。

 母が「……だいきらいって言われた……」とショックで動けないのを一瞥して、そんな妹の後を姉が追う。

 

 姉妹共有の子供部屋に入ると、真っ暗な部屋の中で結愛が布団を被って啜り泣いていた。

 

 姉はそんな妹の傍に寄って、ぽんぽんと布団を叩く。

 結愛は、そんな姉に、布団の中からくぐもった声を出す。

 

――あたしは、まちがってるの? と。

 

 姉は、そんな妹に、優しい声で言う。

 

 まちがってないよ――と。

 泣いている女の子を助けようとしたのは偉かったよ。立派だった――と。

 

 大好きな姉に、そんな風に言ってもらえて、妹は泣きじゃくっていた顔に笑顔を浮かべる。

 

 だが、「だけど――」と、そう聞こえたと思ったら、結愛が包るまっていた布団の中に、お姉ちゃんが入ってきて、目が合った。

 姉の顔は、結愛と同じように、真っ赤に充血し、涙を浮かべていた。

 

「……お姉ちゃん、結愛が怪我するのは……ヤダよ」

 

 そう言って、姉は結愛にひっつき、わんわんと泣いた。

 大好きな姉が、自分のせいで泣いている――そんな状況に、結愛も再び泣いた。

 

 この夜は姉妹揃ってずっと泣いて、泣き疲れて、久しぶりに二人で同じ布団で眠りについた。

 

 

 

 あの日から、結愛は日曜の朝に早起きをすることはなくなった。

 

 街をパトロールすることもなくなった――だけど、女の子の遊びを女の子の友達とすることが、増えたというわけでは決してなかった。

 

 玩具売り場の前を通る度に、戦隊ヒーローのコーナーを複雑な瞳で眺める妹の姿に、姉は心配そうな顔を向ける。

 それに気付く度に、結愛は姉になんでもないよと笑うのだ。

 

 もう、あの日のように、姉に自分のことで泣いて欲しくない。

 

 だけど――結愛の心の中には、まだあのカッコいい正義の味方達の姿があって。

 

 正義が必ず勝つなんて嘘だと知っても。

 まちがっていることも、そういうものだからと流される世界だと知っても。

 

 結愛の憧れは、仕舞い込んだ心の底で、それでもまだ息づいていて。

 

 

 ある日、同じ公園で、結愛は――同じ男の子達が、同じ女の子をいじめている現場を目撃した。

 

 

 その光景に、真っ先に感じたのはショックだった。

 自分があれほど全力を尽くして戦っても、自分は何も変えられていなかったのだと。

 いや、それどころか、あの男の子達は前よりも苛烈にあの女の子をいじめているようにも見える。前はただ悪口を言っていただけだったのに、今、あの男の子は女の子の髪を掴み上げた。

 

 それを見た瞬間、思わず結愛は駆け出そうとして――止める。

 過ぎったのだ。あの日の母の言葉が、そして、姉の涙が。

 

 自分の正義は母に否定された。姉に涙を流させた。

 あの女の子も、自分が余計なことをしなければ、今、あんな風に涙を流していないかもしれない。

 

 このまま見て見ぬ振りをして帰るのが、正しいことなのだと結愛はあの日に学んだ。

 

 自分が何もしなくても、あの女の子のお母さんはその内この公園にあの子を迎えに来るだろう。その時は、あの時と違い、あの男の子達は明確に只の加害者だ。今度こそ、あの子達は悪として裁かれるだろう。もうこの公園に来られないようになるかもしれない。

 

 そうすれば、あの子にも笑顔が戻るだろう。この公園にも平和が戻る。

 ほら。自分がちょっと我慢すれば、見て見ぬ振りをすれば――ズルをして、悪者になれば、結果として正義の味方と同じことが出来る。

 

 正しいことだ。みんながそうしているらしいことだ。

 

 だから――結愛は、ダッシュで家に帰った。

 

 心が張り裂けるような悔しい思いを抱えて。どこも怪我をしていないのにあの日と同じように泣いて。

 

 そして、ただいまの代わりにごめんなさいと言って。

 

 二階の子供部屋に駆け込んで――玩具箱の中から。

 

 あの日、壊れてしまったものとは別の変身ベルトを巻いて、より安っぽい剣を背負って、別のヒーローのお面を付けて。

 

 張りぼての正義の味方として、勇気と共に家を出た。

 

 向かう先は、もちろんあの公園。

 

 間違っているのかもしれない。

 心はあの日のように真っ直ぐではなくて、多大な不安と恐怖があって。

 

 だからこそ、こうしてフル装備で武装しなくては、戦えないほどに――自分は、弱くて。

 

 弱くて、弱くて、涙が出た。

 自分はあの強い正義の味方のように、なりたかった筈なのに。

 

 だけど、それでも――嫌だった。

 

 母の言葉に逆らうよりも、姉をあの日のように泣かせてしまうとしても。

 あの光景を、間違っている光景を、己の正義に反する光景を、見て見ぬ振りをするのは嫌だった。

 

 だから、あたしは――と、玩具の剣を背中から引き抜いて、玩具のお面を被って、玩具の変身ベルトを発動させて。

 

 あの日と同じように、滑り台の上に立って。

 男の子達の注目を己に集めるべく、大きな声で――叫ぼうとして。

 

「お前たちのような悪は、あたし……が……?」

 

 ヒーローのお面を被った少女は、その小さな穴から覗く光景に目を疑った。

 

 先日、自分をボコボコにした男の子達が、揃いも揃って苦しそうに蹲っている。

 助けられた筈の女の子も、ぼさぼさの髪のまま呆然と座り込んでいてしていて。

 

 立っているのは、結愛とそう年の変わらない、一人の男の子と、一人の女の子。

 

 ぴょんと一房のアホ毛が特徴的なボロボロの服の少年は、凄くだるそうに首に手をやって言う。

 

「……おまえらさぁ……人がせっかく束の間の休みを使って仕上げた作品をさぁ……何してくれちゃってるわけ?」

 

 そう言って親指を背後に――砂場で潰れている()作品に向ける。

 

「見ての通り、俺は貧乏なの。お前たちが馬鹿みたいにやってるゲームも買えねぇ、カードも買えねぇ。そんな可哀そうな俺が、唯一思う存分楽しめるお遊びなんだよ。水を入れるタイミング、量、割合、角度――俺がこの神バランスを見つけ出すまで、どれだけの時間を費やしたか分かるか? どれだけの情熱を注ぎ、ストレスを解消してきたか……なのによぉ」

「あがっ!」

 

 少年はぶかぶかのパーカーのポケットに両手を突っ込みながら、蹲っている体の大きなリーダー格のいじめっ子の後頭部を踏みつける。

 ちょうど、このいじめっ子がアホ毛少年の渾身の作品である神殿をぶち壊したように。

 

「……あんだけ大騒ぎしてたのに、壊されるその瞬間まで気付かないくらい集中してたアナタも悪いんじゃない? だからもっとお手軽なのにしときなさいって言ったのに。それになんで神殿なのよ。もっと山とかトンネルとかにしときなさいよ」

「俺をガキ扱いするな」

「紛れもなく子供よ。私も、アナタも、その子もね。……まぁ――」

 

 子供だからって、全部許されるわけじゃないけどね――そう呟いて、いじめられていた女の子の手を取って立たせ、眼鏡を直したこちらも見事なアホ毛の少女は、倒れ伏せる他の同年代の男の子らに向かって言う。

 

「確かに、私達は子供で、間違うことが仕事みたいなものだってお父さんも言ってたわ。……でも、間違いから何も学ばないのは罪だって、お母さんは言ってた。それも、間違っているって気付いたのに、それでも間違いを直さないのは――大罪だってこともね」

 

 そう言ってアホ毛少女は、アホ毛少年に頭を踏まれている大柄の少年の短い髪を掴んで、無理矢理に顔を上げさせる。

 

「いたいいたいいたいいたい!!」

「そう、痛いの。でもアナタ、これをあの女の子にもしてたわよね? 痛いって知ってたわよね? でもそれを他の人にやった。これって悪いことよね?」

 

 それって(あく)よね――と、アホ毛少女は問い詰める。

 こえーとアホ毛少年は棒読みで言うが、少年の後頭部を踏みつける行為を止めようとはしない。少年が踏みつける力を強めると、少女が髪を引っ張る力を強める。

 

 どんどんと涙を溢れさせていくいじめっ子は、やがて涙声で喚くように言う。

 

「ま、ママに言いつけるぞ! ママはPTAかいちょうなんだ! ママに言えば――」

「――ねぇ。それって弁護士(私のお母さん)よりも正義なの?」

 

 警察官(私のお父さん)よりも正義? ――と、無表情で首を傾げながら言う、アホ毛少女に。

 

「あなたは――私よりも、正義?」

 

 今まで会ったことのない目の少女に、いじめっ子少年は――完全に、言葉を失い。

 

「ちなみに、俺はコイツみたいなカッコいい職業の両親はいない。クズとビッチな、どこに出しても恥ずかしい両親だ。遠慮なくディスってくれていいぜ」

 

 と、アホ毛少女が髪から手を離した為、勢いよく地面に顔を押し付けられたいじめっ子少年は。

 

 泥だらけのまま無理矢理に上を向かされて――見たこともない、悪魔のような笑みを浮かべる少年に。

 

「ほら? 助けを呼べよ。()()()()()()()()()()()、自慢のママなんだろ?」

 

 今まで会ったことのない、決して会ってはいけなかったと思わせる目で、覗き込まれてしまって。

 

「よかったなぁ。素敵なママが居て」

 

 羨ましいよ――と、そう耳元で囁いて。

 

「う、うわぁああああああああああ!!」

 

 いじめっ子少年は渾身の力で立ち上がり、そのまま公園の外へと走り出した。

 

 リーダーの少年の逃走に、(おの)が恐怖も限界だったのか、次々と取り巻きの少年達が同じ方向に走り出していく。

 

「――ハッ。鬱陶しいガキ共だ」

「……砂の城が壊された憂さ晴らしは済んだ?」

「城じゃねぇ! 神殿だ!」

「はいはい。神殿神殿(笑)」

 

 そう言ってこれ見よがしに神殿(笑)跡地を踏み抜くように砂場を突っ切って読書途中の本が置かれたベンチへと戻っていた少女に、少年は蟀谷(こめかみ)が引き攣るのを感じながら言う。

 

「……おい、アホ毛女」

「何よ、アホ毛男」

「……お利口さんのお前にしては、随分と助けに入るのが遅かったじゃねぇか。お陰で比企谷神殿が崩壊した。賠償しろ」

「弁護士の娘に何を馬鹿なことを請求してるの? ……単純に本をキリのいい所まで読んでいたら、あなたの比企谷神殿(笑)が崩壊してただけのことよ。私は(あく)じゃないわ」

「……人のことをとやかく言えない集中力(笑)じゃないですかねぇ」

 

「そういえば、あのいじめられっ子はどこ行った?」「あの男の子達が逃げるのとは逆方向に逃げていったわ。あなたが怖かったんじゃない? あなたの目が」「いやなんで目に限定した? それにお前の恫喝も十分に怖かったからね」「恫喝じゃないわ。正義の尋問よ」「お前、正義って頭に付ければ何でも許されると思ってない?」――と、まるで、何事もなかったかのように。

 

 当然の日常だったかのように。当たり前のルーチンだったかのように。

 少年と少女は、まるで何もなかったかのように、それぞれの遊戯へと戻っていった。

 

 アホ毛の少年は砂場で神殿の再築へと勤しみ。

 アホ毛の少女はすぐ傍のベンチでハードカバーの装丁の本の読書へと浸る。

 

 一人の少女を救ったことを誇りもしない。正義を執行したことに充足も感じない。

 賞賛も求めず、かといって少年達への改心も求めない。

 

 まるで、やりたいからやったことだと、そう言わんばかりの少年少女に。

 

 安物の変身ベルトを巻いて、玩具の剣を背負い、ヒーローのお面を被った少女は。

 

(……か……カッコいい――――!!!)

 

 一目で――憧れた。

 

「……そんで――」

「……それで――」

 

 やはり、我慢できなかったのか。

 

 そのままスルーして元の遊びに戻ろうとしたが、どうしても無視できない存在感を放つ何者かの正体を。

 

 アホ毛の少年とアホ毛の少女は、ゆっくりと、滑り台の上で仁王立ちする不審者に向かって誰何(すいか)する。

 

「お前(あなた)――誰?」

 

 背格好は自分達と同じ年頃であろう子供。

 先程から真っ直ぐに、自分達に向かって視線を向けてくるヒーローマスクは。

 

 ハッとしてお面を外し――その予想外に可愛らしい顔立ちを、興奮で真っ赤に染めていて。

 

 ぐんと胸を張り――誇らしげに。

 

 生まれて初めて出会う――本物の正義の味方に対し。

 

 大きな声で、自己紹介した。

 

「あたしは、由比ヶ浜結愛!」

 

 そして、一瞬躊躇したが、喉の奥で停まった言葉を――今一度、固めた決意と共に、宣言する。

 

「――正義の味方だよ!!」

 

 滑り台の上で仁王立ちする、変身ベルトを巻いた少女の、むふーという満足気な様子に。

 

 アホ毛少年――比企谷晴空(はると)は、露骨に呆れてげんなりし。

 アホ毛少女――雨宮(あまみや)雨音(あお)は、露骨に溜息を吐いて眼鏡を直し。

 

 そして、お互いを見た。

 

 ()()、変なヤツに出会ってしまった、と。

 

 

 

 

 

 これが由比ヶ浜結愛という少女の、その後の運命を変えたターニングポイントとなる出会い。

 

 その後、紆余曲折を経て、この日に出会った二人と、人によってはまちがっていると称されるであろう青春を送り。

 

 他の誰が何と言おうと、結愛にとっては胸を張って本物と言える絆を築き。

 

 やがて、本物の星人(かいぶつ)と戦い、人々の笑顔と平和を守る、五色ではなく黒一色の戦隊の一員となるのだが。

 

 それはまた、別の話。

 

 いつかどこかで語られるかもしれないが、今は語るべきではない物語だ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 地面が――屋上が、爆発する。

 

 その衝撃を、轟音を、雪ノ下陽乃は間違いなく肌で感じた。

 

(――ッ!? 爆発する、ハンマー!?)

 

 比喩ではない。

 文字通りの爆発――爆炎、爆風が陽乃に向かって襲い掛かる。

 

 陽乃は瞬時に距離を取った。

 爆発も勿論だが、その余波たる倒壊から逃れる為に。

 

 だが、再び――陽乃は己が目を疑った。

 

「――――な、んで――!?」

 

 屋上が――破壊されていない。

 

 あれ程の爆発で、あれ程の衝撃で――まるで傷一つない、平和な状態。

 

(……いや、そんなわけないでしょ)

 

 陽乃は黒槌を再び肩に担ぎ直す由比ヶ浜結愛を見ながら、自らが着ていた服を引き千切る。

 露わになるのは――目の前の戦士と同じ、光沢のある漆黒の全身スーツ。

 

 そして取り出すのは、一本の黒刀と、一本の黒槍。

 陽乃は、真っ直ぐ結愛を見据えながら、ガンツソードの刀身を伸ばし――屋上を抉った。

 

「…………へぇ」

 

 結愛は陽乃の行動を見て、笑顔のまま呟く。

 陽乃はそんな結愛から目を逸らさないままに――横目にその現象を確認した。

 

「…………やっぱり」

 

 屋上は、確かに抉れていた。ガンツソードは確かに、コンクリートに消えない刀傷を残した筈だ。

 

 だが、その傷は既にない。

 瞬間的に修復されていた――電子線が、まるで時を戻したかのように、傷を無かったことにしていた。

 

「――『位相』をずらしてるんだよ」

 

 結愛は陽乃にそう言った。先輩が後輩に伝授するように得意気に。

 

「今までアナタがいた『部屋』での戦争(ミッション)は、ミッション中は一般人に気付かれなくても、ミッションが終わると周辺被害はそのまま現実に影響を残していたでしょ? それは、あくまで『周波数』をずらして見えなくしていただけだったから。だけど、今は『位相』をずらしている――簡単に言うと、()()()()()()()()んだよ」

 

 同じ世界にいない――そう、結愛は笑顔で言った。

 

 陽乃は、これまで僅かに二回のミッションしか経験していない。

 しかも内一回は、ガンツの周波数操作が機能してないオニ星人戦であり、もう一回はそもそも死亡し生還することが出来なかった。

 ガンツミッションから帰還出来たのは、実は今日が初めてだった。

 

 その為、通常の『部屋』でのガンツミッションが現実世界にどのような影響を残すのかなどについての知識は乏しかった――だが、今、目の前の女が言ったことがとんでもないことなのだということは理解できる。

 

「……それは、ちょっと前に流行ったAR(拡張現実)みたいなことかしら?」

「違うけど、まぁ考え方としては近いかな。やってるのは『拡張』じゃなく、『複製』だけどね」

 

 複製――コピー。

 

(……確かにガンツの得意技の一つ……なんだろうけど。これは、ちょっと規模(スケール)が違い過ぎるんじゃない?)

 

 死者の蘇生(コピー)なんてもんじゃない。

 

 いつ放り込まれたのかも分からなかった。

 いつ掏り替わったのかも分からなかった。

 

 さっきまで当たり前に立っていた世界が、知らない間に――複製品(にせもの)に、変わっているという。

 

(……私も何度か遊んだことがあるけど、あれだけ進歩したVR(かそう)界とも違う。……正直、実はそうだってネタ晴らしされた今でも――何が違うのか分からない)

 

 仮想と現実の違いが、情報量の多寡だけだというのなら。

 まったく情報量が同一の『複製世界』は、それは最早、現実ということではないのか。

 

 それはつまり、あの黒い球体は――世界を創れるということではないか。

 

「勿論、限界はあるよ」

 

 結愛は語る。

 ぶんぶんと黒槌を振り回しながら、自分達が今、紛れもなく存在する――実在する、複製現実(Duplicated Reality):DR世界について。

 

 死者蘇生に続き、世界創造すらも実現させた、黒い球体(GANTZ)の――限界についての話を。

 

「まず、このDR世界は複製元の世界を軸に作ってあるから、何でも好きな世界を作り出せるってわけじゃないの――あくまで、複製(コピー)。そして、複製元の世界と繋げる形でDR世界は存在してるから、いきなり世界の裏側の、例えばブラジルとかのDR世界に移動するってことも出来ない。……ま、これは『転送』を経由すれば出来るんだけどね」

 

 全く同一の、複製し、重複した世界。

 

 GANTZが作り出した、もう一つの世界。もう一つの現実。

 

 好きなだけ壊し、好きなだけ暴れられる、星人と戦士の闘技場(コロシアム)

 

「……そっか。知らなかったよ。わたしは殆ど新人みたいなものだけど、本当にわたしは、ガンツのこと何にも知らなかったんだね」

 

 現実を複製する。

 元になった世界を軸にし、繋がっている――鏡のような世界。

 

 由比ヶ浜結愛が登場した時も、黒槌を振り下ろした時も、そして自分がガンツソードで抉った時も――あれは、修復していたというよりも、文字通り復元していたのだろう。

 

 あれ程の所要時間(スピード)で、あれ程の完成度で復元が可能なら、確かにDR(この)世界ならばどんな戦争だって、どんな大戦だって受け入れて――無かったことに出来るだろう。

 

 ならば――だが。

 

 陽乃は目を細め、黒槍の穂先をダイナマイトボディの美女に向けて、言う。

 

「だけど、『本部(あなたたち)』も人が悪いんじゃない。こんな素敵なDR世界(もの)を、どうして自分達だけで独占(ひとりじめ)してたのかしら?」

 

 見れば見る程、聞けば聞く程、感じれば感じる程に完璧だ。

 地面を蹴る感触も、肺に取り込む空気の味すらも。

 

 ここまで見事な空間を作れるのならば、どうしてこの技術を、この世界を――『部屋』の戦士にも提供しないのか。

 

 そうすれば、池袋であれ程までに凄惨な地獄が生み出されることも、今こうして表の世界に星人の存在が暴露することもなかっただろうに。

 出し惜しみにしては、余りに不利益が生まれ過ぎている。

 

 陽乃のそんな言葉に――結愛も黒槌を向けながら答えた。

 

「――言ったでしょ。限界があるんだよ。……旨い話には、それなりの苦みもあるってこと。世知辛いよねぇ。でも、」

 

 世界は案外、そんなもんだよ。

 

 由比ヶ浜結愛は、一瞬哀れむような表情をして、そのまま誰かを彷彿とさせる笑顔で言った。

 

「だから、陽乃ちゃんも覚悟を決めてね。本来の合格点だった残り900点分の可能性――」

 

 

――この『入隊試験(ミッション)』で、見せてもらうよ。

 

 

 両者、同時に地を蹴る。

 

 由比ヶ浜結愛は黒槌を、雪ノ下陽乃は黒槍を、同時に突き出す。

 

 そして衝突し――爆発する。

 

 

 位相がずれた複製現実(DR)世界で、二人の美女が真っ向から激突する。

 

 

 




正義の味方と漆黒の魔王は、複製世界で激突する。

そして、雪ノ下陽乃の『入隊試験(ミッション)』が始まる。


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Side試験(ミッション)――②

お断りよ、正義の味方。


 

 幾数度目かの爆発音が響き、建物を破壊する。

 

 窓ガラスや壁片を空中に撒き散らす破砕――だが、それらは遥か下の地面に落下するよりも先に、無数に降り注いできた電子線により捉えられる。

 そして、普段の戦士(キャラクター)や星人を転送する速度を通常とするのならば、まるで早送りのような早さで電子線による修復が行われる――逆再生が始まる。

 

 まるで何もなかったかのように、あるべき姿へ戻っていく。

 平和そのものの光景へ。何の変哲もない病院の廊下へ。

 

 雪ノ下陽乃は、つい今し方にも破壊を生み出した恐るべき黒槌を背負う刺客から姿を隠しながら、それをつぶさに観察していた。

 

(……なるほど。本当に無制限に修復するんだ。それも、損傷が生じるのと殆ど同時に復元がスタートするのか……これはDR(この)世界のルールというか、性質に近いのかしらね……加えて――)

 

 陽乃は肩で息をしながらも必死に呼吸音を押し殺し、自身が逃げ込んだ何処かの病室を――()()()()()病室を見渡しながら、心中で呟く。

 

(――ちゃんと、一般人(余計なもの)は消している。まさに、思う存分戦える空間……戦争(ミッション)の為の舞台(ゲームステージ)ってわけ)

 

 点きっ放しのテレビ、捲れた布団、開いたままの窓など、人がいた痕跡は至る所に存在するにも関わらず――人間だけがいない空間。人間だけを消し去ったかのような異空間。

 

 その余りの精巧さに、此処が複製された世界だと――偽物の世界だという事実に、改めて疑問と衝撃を覚えてしまう。

 

(……テレビは点いている――だけど、画面は変わらない。窓は開いている――だけど、カーテンは靡いたまま。……複製された世界というよりは、まるで時間が停まったみたいな世界ね)

 

 現実世界を軸に複製した世界――つまり、複製を実行したその瞬間を精巧に複製させ、別世界として確立させる技術。

 

(だからと言って、別に物理法則が通用しなくなったり、ライフラインが切断されたりしてるわけじゃない。靡いたまま停まっているカーテンも、こちらから触れて動かすことも出来るし、テレビもリモコンで消して画面を消して、また点けることも出来る)

 

 カーテンは一度触れれば不自然な形で停まることもない。

 テレビは点け直しても画面はフリーズしたままだが、別の局の番組にチャンネルを回すことも出来る(やはり停まっているが)。

 

(……とにかく、この空間のルールを理解しなくちゃ。基本的に複製時の状況を維持しようとするけれど、それが『損傷』と認められない限りは『修復』はされない。例えば、さっきのカーテンだと、靡いた状態に戻ろうとはせず、そのまま現実世界のような物理法則に従った――自然な状態に戻る)

 

 つまり、電子線が必要とされる程度レベルの『損傷』でなければ、『修復』は発動しないということか――陽乃はそんな仮定を頭に入れながら、病室の扉から背を離し、槍を構える。

 

 瞬間――扉が爆発と共に吹き飛び、陽乃はそのどさくさに紛れて廊下へと飛び出した。

 

「いい反応だねぇ~。一応、気配は消してたんだけどなぁ~。だけど~、逃げるだけじゃあ、合格はあげられないぞ~」

 

 にこにこと笑いながら凶悪な武器を振り回す結愛の声を背中に受けながらも、陽乃は冷静に全速力で廊下を走り、見つけた階段をすぐさまに駆け下りる。

 

(まともにやって勝てる相手じゃない。それは初めの真っ向勝負で分かった。――この人は、強い)

 

 恐らく、今のわたしよりも、ずっと――と、冷静に、沈着に、己と相手の力量さを見極めながら、陽乃は。

 

(……へらへら笑ってるけど、昨日の最強さん(黒金)みたいに精神的に突けるような弱点(すき)も見当たらない。……とにかく、何か作戦を考えないと)

 

 落ち着いて――心を凪がせて、背後から必殺に追われながら、必死に状況を逆転させる作戦を練る。

 明確に力量(レベル)差のある敵に、安全確実に勝利する方法を探る。

 

 その為に必要なのは――何よりも情報。

 初めて放り込まれたこの未知なる空間を、少しでも知ること。そこに勝機を見出すしかない。

 

(ある一定レベルの『損傷』に対して『修復』が発動すると仮定する――なら、次に考えるべきことは、それは無機物に対してだけなのか、それとも有機物にも発動するのか。つまりは、建物やらだけじゃなく、此処にいる人間――『戦士(キャラクター)』にも、それは発動するのかどうなのか)

 

 もしそうならば、正しく対『星人』用の戦場(フィールド)としてこれ以上ない最高の――最強の空間だ。

 

 ダメージを負う度に、天から降り注ぐ電子線によって五体満足に修復される。

 それはいうならば常時回復魔法が施されているような状態――どれほど恐ろしい怪物相手でも、まるで恐怖を覚えない楽しい楽しい戦争(ゲーム)が楽しめるだろう。

 

(――けど、この世界にそんな美味い話があるものなの?)

 

 もしそんな奇跡の戦場(ゲームフィールド)を用意出来るのだとしたら、CIONはこんなに躍起になって強い戦士集めなどしなくてもいい筈だ。あんな不合理なやり方で死人蒐集などしなくても、今いる強い戦士だけで十分に事足りている筈だ――今も背後から黒槌を担いで追ってきているだろう彼女のような戦士が、恐らく既に何人もいるのだろうから。

 

(だけど、これは切実な問題よね。対星人とか考えるより、文字通りの直近の死活問題)

 

 この世界の自動修復機能が『戦士』に対しても有効なのかどうか――つまり、この戦いにおいて、あの爆発するハンマーをこの身でまともに受けても、それを無かったことにしてくれるのかどうか。

 

「残念だけど、そんな美味い話はないよー。この世界の『修復』は、あくまで現実世界に対する『隠蔽工作』の為だからねー。ちゃんとミッションをクリアすれば『転送』で元通りになる『戦士』は対象外なんだよ」

 

 だから、ちゃんと怖がらなくちゃダメだよ――と、少し後ろで爆発音と共に、そんな声が聞こえてくる。

 

「……ご丁寧にどうも」

 

 陽乃は駆け込んだ先程とは別の病室の壁際で、そんなことを呟いた。

 

(……こっちが必死にDR世界について頭を働かせるのもお見通しってわけね。……でも、『隠蔽工作』か……。つまり、こっちの世界に『損傷』を残すと、後々面倒なことになるってこと?)

 

 あくまでDR世界は、ミッションの為のインスタントな異世界で、ミッションが終わる度にきちんと丁寧に消去する。

 そして、その時に――『損傷』が残っていると……どうなる?

 

(……DR世界の『損傷』が、そのまま現実世界の方にも現れる? 普段の『部屋』のミッションみたいに? だからこそ、損傷が生じる度に逐一『修復』して回っているの?)

 

 だが、だとすれば、このDR世界を消す前に、一斉に損傷を修復すればいい――損傷が生じる度に修復するよりも、最後に纏めて修復(なお)した方が余程効率的だ。

 

(出来るだけ『軸』とした現実世界と同じ状況を保つ必要がある? そっちの方がDR(この)世界を維持するのに労力(コスト)が掛からないとか? ……駄目ね。余りにも情報が少な過ぎる)

 

 それ以上、この方面に思考を進めても成果は少ないと判断し、陽乃は別の方向に思考を進めようとしたが――その思考を、廊下の向こうから聞こえる間延びした声に遮られた。

 

「おーい、陽乃ちゃーん。作戦を立てるのもいいけど、いい加減にしないとタイムアップになっちゃうよー」

「……そう。それはごめんなさい。だけど、そういうのは最初に言っておいてくれないかしら? いくらなんでも不公平(アンフェア)じゃない?」

 

 陽乃は、明確に自分の居場所に向かって放たれた声に、姿は現さず、黒槍の柄を強く握り締めながらそう答える。

 その返答に対し、結愛は「いやぁ、ごめんごめん。なんか流れで始まっちゃったからさー」と悪びれもせずに言った。

 

 一度――唾を呑み込んだ後。

 陽乃は、「タイムアップって言ったわね。この入隊試験(ミッション)の制限時間は何分なのかしら? いつものミッションみたいに一時間?」と、こうなったら結愛との会話の中から情報を引き出して突破口を見つけようと(相当に難易度が高いことは覚悟の上で)試みる――が、結愛の言葉に、その思考は一瞬で手放しかけてしまった。

 

「――10分だよ」

「…………え?」

 

 思わず反射的に聞き返してしまった陽乃。

 そんな陽乃の動揺をどう受け取ったのか、相変わらずの間延びした言葉で結愛は言う。

 

「この『入隊試験』の制限時間は10分だよ。陽乃ちゃんが大分逃げ回ったから――」

 

――後、3分くらいかな?

 

 結愛のそんな言葉の後に、これまで何も表示されていなかったガンツスーツのモニタに、残り時間が「0:03:03」と表示される。

 

 残り時間――3分3秒。

 

(――コイツ……ッ)

 

 陽乃は確信する――確信犯の犯行だと確信する。

 制限時間が10分だったのは本当だろう。だが、それをここまで聞かれるまで黙っていたのは、間違いなく(わざ)とだ。

 もし聞かれなかったら最後まで黙っていたのだろう――いや、こうして余裕のない状況に陥った状態であえて暴露して、どう動くのかを審査しようとしているのか――試験官として。

 

(やってくれるじゃない……ッ)

 

 陽乃は不敵に笑って見せる。

 こうなった以上、ゆっくりと情報を探っていく時間はない。

 

 今の手持ちの情報で、手持ちの武器で、迅速に作戦を立てて焦らずに実行に移す必要がある。

 

(……かくれんぼも鬼ごっこもおしまいね。場所は割れてるみたいだし……真正面から真っ向勝負とまではいかなくても、面と向かって対峙して、そこから――)

 

 陽乃が残り時間を知らされると共に「……そう。随分とケチなのね。もうちょっとサービスしてくれてもいいんじゃないの?」と言葉を返しながらも、覚悟を固め、武器を確認して、己が隠れている病室の扉を開けようとした――瞬間。

 

 再び、結愛の言葉が、陽乃の動きをピタッと止める。

 

「何言ってるのさー。戦争(ガンツミッション)でもないのに、こうしてDRを使ってるだけでも出血大サービスなんだよぉ――文字通りのね。だから我が儘言っちゃダメだよー」

「……文字通りの? どういう意味? それだけコストが掛かるということかしら?」

「そうだよー。高級品だよー。何せ――」

 

――こうしてる今も、『生体電池』がガリガリ消費されてるからね。

 

 と、あっけらかんと放たれた言葉に、陽乃は思わず考える。

 生体電池――その言葉が、無性に引っかかって勝手に脳が思考する。

 止められない。こうしている今も、残り僅かの制限時間が削られているのに。

 

 結愛は、そんな陽乃の姿が見えているかのように、にこにこと笑顔で言葉を紡ぎ、陽乃の身体を硬直させていく。

 

「このDR空間はね、『部屋』でのミッションの時に使う『周波数調整』よりも遥かに『生体エネルギー』を消費するんだよ。簡単に言うと、超コスパ悪いの。だから、普通は『部隊』のミッションでも、相当ヤバい星人(ヤツ)相手しか使わないんだー。便利だけど、ガンツは不具合起こすと後が面倒くさいからねー」

「……不具合?」

 

 生体電池。ガンツ。

 その二つのキーワードで、陽乃が思い至ったのは、黒い球体の中にいる、あの名も知らぬ――人間だった。

 

 生気もなく、呼吸器を着けて、まるで部品のように黒い球体と一体化していた、人形のようなあの男。

 

(……今まであんまり深く考えないようにしていたけど……やっぱり、あれは本物の人間? ガンツを操作している存在なのかとも思ってたけど……『生体電池』っていう言葉からすると、むしろ――)

 

 ガンツを裏で操っている黒幕が――CIONが、紛れもなく非人道的組織であるということは、とっくの前から理解していた。

 死人を強制的に蘇生させ、脳内に爆弾を埋め込んで首輪とし、星人(バケモノ)との戦場に放り込んで有無も言わさずに戦争をやらせる集団が人道的である筈がない。

 

 そんな組織の狂気的な一面が、また一つ露わになっただけだ。

 人間を、生命を――戦士(キャラクター)にするか、部品(パーツ)にするかの違いだけだ、と陽乃は生理的恐怖心が湧くのを強制的に押し留める。

 

 だから、今、無理矢理にでも考えるべきことは――そのガンツに起きるという、不具合についてだ。

 

(DR世界はガンツの『生体電池』の消費が激しい。つまりは、電池(バッテリー)不足によって起こる不具合……それは――)

「――それはね」

 

 君達が、昨夜に体験したみたいなことだよ――と。

 結愛は――少し離れた場所を、陽乃が隠れる病室を真っ直ぐに見詰めながら言った。

 

 陽乃はそれに気付かず、その扉の向こう側で絶句する。

 

(……昨夜――池袋の、オニ星人戦)

 

 確かにあの戦争は、これまでにないイレギュラーなものだった。

 八幡曰く、あの日は連戦だったらしいし――何より、隠蔽工作が上手くいっていなかった。

 

 戦士も、星人も、全く隠しきることは出来なかった。

 それはてっきりガンツによる隠蔽工作が行われる前に、オニ星人が隠しきれない規模で一般人を襲い、隠しようもない程に周知されたからだと思っていた――が。

 

(――違うの?)

「違わないよ。昨日に関しては、陽乃ちゃんの考えている通り、オニ星人による作戦勝ち」

 

 陽乃は思わず頭を掻く。苛立たしさを隠しきれずに表情を歪める。

 結愛は、そんな陽乃を煽るように語り続ける。

 

「でもね、ガンツの不具合で起こる現象もあんな感じだよ。まず一番先に、隠蔽工作が上手くいかなくなる。次に戦場からの回収が出来なくなって、次に戦場へと転送が出来なくなる。そんな感じで、どんどん正常に機能しなくなるの」

 

 どれだけ作戦を練ることに頭を使おうとしても、結愛の声は脳内に響くように届き続ける――それが、平時ならば聞き逃すことなど有り得てはならないような重大な情報であるから猶更だ。

 

 そして、陽乃の優秀な頭脳は瞬く間に得た情報を分析してしまう。

 ガンツによる不具合――機能消失。

 

 隠蔽工作不備、回収不備、転送不備――それで止まれば、まだいい。

 だが、ガンツの不具合に――その先があるとすれば? 

 

 ガンツによる――恩恵。

 その全てが、失われるとしたら?

 

(……100点メニューの『蘇生』は勿論、ミッションの後の戦士の『修復』も行われなくなるかもしれない。……いえ、そもそも、わたし達は――わたし達、戦士(キャラクター)は……そもそも、死人だ)

 

 戦士は、そもそも――死人だ。

 不慮の事故にしろ、不測の殺人にしろ、死んで、殺されてから始まっている――終わってから、始まっている。

 

 そう――大前提として、()()()()()()()()()()()()()()

 こうして生きていることこそが、ガンツによる恩恵の賜物なのだ。

 

 その全てが、失われるとしたら?

 

「――――ッッ!」

 

 陽乃が反射的に自らを抱き締める――結愛は、狙い澄ましたかのように、言った。

 

「それでね。DR世界を展開中に、もしガンツが不具合を起こしたら、現実世界に『損傷(ダメージ)』が持ち越されるんだよ」

 

 余りにも、あっさりと告げられた、その真相に。

 

「……え?」

 

 陽乃は呆然とする。

 そんな陽乃を、結愛は「ん? 何を驚いてるの? ちゃんと既に辿り着いていたことでしょ?」と、態とらしく、首を傾げて言う。

 

(……いや、ちょっと待って。確かに、DR世界のそんな危険性は思考してた。……なのに、どうして……)

 

 バクバクと、心臓の音がやけにうるさく聞こえる。

 

 死人である自分の存在が消失する可能性を思考した直後に明かされたが故に、必要以上に動揺しているのだろうか――いや、それもあるだろうが、それだけでは説明出来ない程に、心拍数の上昇が収まらない。

 

 どんどん思考が進む。

 DR(この)世界での『損傷』が、現実に引き継がれる。

 

 だとすれば――どういうことになる?

 

「陽乃ちゃんの言う通りだよ。いや、考えてた通りだよ。逐一修復するよりも、最後に纏めて一気に修復した方が効率的だよね。普段はそうしてるの。だけど、今回に限っては、いつまでこの世界が持つか分からないから、念の為にこういう設定にしてるんだ。いつ不具合が起きても、最小限の『損傷』で済むように」

「……いつまで持つか、分からない?」

「そ。たぶん10分は持つと思うんだけどねー。でも、何せガンツミッションじゃない、只の入隊試験だから。限界寸前の『生体電池(バッテリー)』しか貸してもらえなかったの。そういうわけで、さ――」

 

――もしかしたら、10分持たずに壊れちゃうかもね、このDR空間(せかい)

 

 その言葉と共に――黒槌が真横に振るわれる。

 

 数部屋分あった障害物が、爆発と共に一気に消失し、結愛と陽乃の目が合った。

 

(――っっ!? 『修復』の……速度が……!?)

 

 明らかに、遅くなっている。

 由比ヶ浜結愛の登場時の墜落後は、正しく瞬きの間に見違えるように――見違うことすら出来ない程の早さで『修復』されていたのに。

 

 今では、まるで通常の戦士の召喚時のように、ゆっくりと『修復』されている。

 

「当然、『修復』にも『生体電池(バッテリー)』は使われているからね――これで、またタイムリミットは縮まっちゃったかな?」

「……あな、たっ――!?」

 

 陽乃は、結愛を睨み付ける。

 

 そして結愛は、二人を遮る壁が『修復』されきる瞬間、陽乃の妹の親友にそっくりな笑顔で、言った。

 

「そうそう。このDR世界に人間は確かにいないけど、ちゃんと現実世界のこの場所には一般人が――人間が、居るからね」

 

 雪ノ下陽乃の実妹と、その親友であり、自分にとっての姪でもある少女達の――命運について。

 

 

「突然、自分達がいる病院が倒壊していたら――ただでさえ弱り切ってるあの子達はどうなっちゃうのかな?」

 

 

 瞬間――雪ノ下陽乃は、『部隊』の戦士に、上級戦士に。

 

 真っ黒な戦士、由比ヶ浜結愛に向かって――頭を真っ白にして、絶叫する。

 

「あなた――悪魔なのっ!?」

 

 そして、完全に壁が『修復』される。

 結愛は見えなくなった陽乃に向かって、見たことのない笑顔で返す。

 

「違うよ。あたしは正義の味方だよ」

 

 正義の味方は、破壊を振り撒く黒槌を担ぎながら言う。

 

「そもそも、今のあなたに妹ちゃんとあたしの天使の姪っ子を心配する資格あるの~? ちゃんと今日、あの状態のあの子達を、きちんと見捨ててきたんでしょ~。今更、お姉ちゃんぶるのよくないな~。滑稽だよ~」

 

 正義の味方は、笑顔で少女の心を抉るように言う。

 

「それに、今の陽乃ちゃんにそんな余裕ないよね~。言っておくけど、タイムリミットまでにあたしが納得できるくらいの“資質”を見せてくれない時は、不合格――記憶消去で『部屋』に強制送還だからね~。勿論、0点からやり直し。文字通りの0からのリスタートだよ」

 

 正義の味方は――言う。

 

 自身の姪と、姪の親友を、切り捨て、見捨てた――悪を。

 

 断罪するように――笑顔で。

 

 悪魔のような、笑顔で。

 

「あ、ちなみに言っておくと、『記憶操作』じゃなくて、『記憶消去』だから。脱落者に施すアレじゃなくて、解放者に施すアレだから。ガンツに関する記憶を、一切合切キレ~に忘れて、一般人になるってアレ。ま、陽乃ちゃんはなれないんだけどね。『部屋』からは出られないんだけどね。まぁ、つまりね――」

 

 

――比企谷八幡くんのことも、きれいさっぱり忘れちゃうってことだね!

 

 

「……………………………」

 

 限られた、残り時間の、貴重な数秒。

 

 静寂が――その廊下を満たし。

 

「…………」

 

 由比ヶ浜結愛は、一度笑顔を消して――再び笑みを纏う。

 

 悪魔の笑みを、浮かべて、言う。

 

「そうなると~、雪乃ちゃんや結衣ちゃんにとってはチャンスが生まれるわけで、叔母さんとしてはハッピーかな。これまでのヒッキーくんはあたしとしてはイマイチくんなんだけど、まぁ、腐ってもはるるんとあおのんの子供なわけだしね。だから、別に頑張んなくてもいいよ。命だけは助けてくださいっていうなら、喜んで歓迎しちゃう!」

「そうね。なら、喜んでこう言わせてもらうわ」

 

 扉が荒々しく開かれる――途端、溢れ出すのは、()()()()()()()

 

 甲高い破砕音が何処からか響く中、雪ノ下陽乃はこう吐き捨てる。

 

「お断りよ、正義の味方」

 

 雪ノ下陽乃の入隊試験。

 

 残り時間は――後、30秒。

 




追い詰められた魔王は、己を追い詰める正義の味方を打倒すべく、30秒での奇跡(ジャイアントキリング)に挑む。


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Side試験(ミッション)――③

この初恋を――わたしは忘れない。


 

 雪ノ下陽乃が、『黒い球体の部屋』から持ち帰った兵器は、全部で三つ。

 内一つはガンツソード(黒剣)。内一つはガンツランス(黒槍)

 Xガン等の銃器類を持ち帰らない代わりに、小さく畳めて忍ばせることが出来る近接武器を、彼女は日常に密輸することを選んだ。

 

 そして、もう一つが――BIM。

 昨夜のガンツミッションにおいて、比企谷八幡の新たなメイン武器の一つとなった八種類の爆弾。

 小さくコンパクトである上に、爆弾という性質上、一発逆転の切札にもなりうる攻撃力を秘めた新兵器を、八幡の勧めもあり、彼女は此度の帰還に置いて持ち帰っていた。

 

 由比ヶ浜結愛の言葉を黙って聞いている最中、陽乃はその切札をこの場面で発動することに決めた。

 

 円筒タイプの金属塊――そのスイッチを押し、息を殺す。

 

 扉の向こう側から聞こえてくる――許せない言葉。

 雪ノ下陽乃という少女の逆鱗に触れる間延びした声に、殺意を昂らせながら――勢いよく扉を開く。

 

 途端――病室に充満する、全て生命を奪う灼熱の殺人霧。

 陽乃は、自らその指で発生させた、昨夜も最強の雷鬼を相手に勝利を齎したその霧に追われるように、扉とは反対側の――窓に向かって走った。

 

「――お断りよ、正義の味方」

 

 そして、窓を突き破って、空中に躍り出る。

 

(――勝負ッ!)

 

 陽乃は遥か下の地面に向かって己を誘う重力を感じ始めたその時――意を決し、新たな爆弾のスイッチを押した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

(――ようやく、覚悟を決めたかな?)

 

 由比ヶ浜結愛は、己に向かって襲い掛かってくる猛毒のガスに向かって微笑みを浮かべる。

 

 確かに、屋内という場所に置いて、この烈火ガスBIMは強力な武器になる。

 まず、第一に逃げ場がない。ガスという性質上、それは気体であり、限られた範囲内を隙間なく殺人攻撃で埋めることが可能となる。

 自分をも巻き込んでしまうことが最大の欠点として挙げられるが、先程の破砕音から既に陽乃は窓から外に逃げているであろうことが推測出来る。そして、結愛がその逃げ場から逃げる為には、この灼熱の濃霧の中を突っ切るしかない。いくらガンツスーツを着ていても、それは不可能だ。

 

 ならば、結愛に可能な逃走手段は、未だガスが届いていない他の病室の窓から同じように逃げるということになるが――そうなれば、そこからは空中戦になる。ハンマーという重たい武器を持っている以上、不利になることは避けられない。それが狙いか。

 

 だが――そうなると。

 

(気付いているのか、それともいないのか。……いや、そこまで含めて、覚悟を決めたってことかな?)

 

 結愛はそこで笑顔を消すと――逃げずに、退かずに。

 

 大きく黒槌を――爆槌を下す。

 

 ドガンッッ!!! ――と、これまでで最も大きな爆発を起こした。

 

 狙いは――爆風。

 烈火ガスはガス、すなわち気体だ。

 

 威力は高く、効果範囲も広いが、その最大の強点であり、弱点でもあるのは――正しく、その気体であるということ。

 

 つまり、コントロール出来ない。

 流れる方向は、拡散速度は風任せ――簡単に操作出来てしまう。されてしまう。

 

 結愛は殺人霧から逃げず、空中戦にも乗らず、ただ爆弾に対し爆発で対抗することで、その場から一歩も動かずに、陽乃の切札に対応してみせた。

 

(確かにBIMをここまで隠しておいたのも、使い所も良かったけど――ただ武器をそのまま切札にするだけじゃあ、合格は上げられないよ)

 

 殺人霧を豪快に吹き飛ばした――その瞬間。

 

 ピッ――と。

 小さな電子音が何処からか発生し、それを掻き消すような轟音と共に――天井が降り注いだ。

 

(――ッ!? 別の、BIM――!?)

 

 伊達にここまで無様に逃げ回っていたわけではない。あの雪ノ下陽乃が、そのような弱者である筈がない。

 

 例え、敵が自らよりも強くとも、相手が己よりも格上の強者であろうとも。

 策略を巡らせ、謀略で躍らせ、必ず己が掌中で動かす。

 

 それが――雪ノ下陽乃だ。

 

(…………なるほどね。誘導してたつもりだったのは、お互い様だったってわけだ)

 

 あの追いかけっこにも、かくれんぼにも、二人の美女のそれぞれの戦略があったのだ。

 このDR世界についてだけでなく、雪ノ下陽乃は由比ヶ浜結愛という人間に対しても、その分析力を働かせていた。

 

 こちらにどのような揺さぶりをかけてくるのか。

 空ける距離は、隔てる距離は――物理的に、精神的に。

 どのようなシチュエーションを好むのか――ロケーション的に、ストーリー的に。

 目的は。求める資質とは。目指す先は。守るべきルールは。

 

 そして――その結果が。

 絶好の位置に仕掛けられた――このリモコン式BIM。

 

(陽乃ちゃんが飛び出したその方向にしか窓がないのも、ちゃんと計算済みか。どうあっても空中戦に持ち込みたいんだね。そんなに自信があるのかな?)

 

 だったらいっそのこと、そちらに乗るのも一興か――そう思い始めた結愛だったが、ここまで見事に罠を張られた以上、真正面から食い破ってみたくもあった。

 

(これも陽乃ちゃんの予想通りなのかもしれないけど――ねッ!!)

 

 結愛は、穏やかな微笑みから、好戦的な戦士の笑顔へと表情の毛色を変えながら、大きくハンマーを真上に振り抜く。

 

 ガンツスーツを着ていても、そもそもスーツを着ることを前提に設計された重量のハンマーだ。威力は絶大でも、その分、扱うのに相応の技量とパワーがいる。陽乃の使っているガンツランスと違い、このハンマーは100点メニュー2番によって手に入るオーダーメイドの上級装備だ。

 

 一度地面に向かって全力で振り抜いたそれを、間髪入れずに真上に振り抜くのは、かなり無茶な挙動だ――結果として上から爆風によって吹き飛んできた天井片を、これまた爆風で防ぐことが出来たが、体勢は崩され、少なからずの衝撃を浴びることになってしまった。

 

 だが――まだだ。

 まだ、ダメージと言える程ではない。

 

(合格は――上げられないよ)

 

 さあ、どうする? ――と、結愛はよろけながらも、膝を折ることすらせずに笑みを浮かべる。

 

 深くて、大きな、好戦的な笑みを。

 

 そして、陽乃が飛び出したであろう外の方を見た瞬間。

 

 

 陽乃が居たのとは隣の病室の――結愛の目の前の扉を、槍が突き破ってきた。

 

 

「え――」

 

 思わず呆けた声が出る。

 いや、待て、それはおかしい。

 

 槍が飛んできたことには、まぁ、驚かない。

 外にいる陽乃が空中で槍を放ったのだろう――不安定な空中でこれほど鋭い投槍を繰り出したのならばそれはまた見事だが――だが、それにしても、扉を突き破るよりも前に、()()()()()()()()()()()だ。

 

(天井を砕いたBIMの音で聞こえなかった? でも、それなら天井片が降り注いできたタイミングで槍も届く筈。この時間差は? いや、それより――)

 

 一瞬でそれらの可能性を考えることが出来るのは、流石は上級戦士といったところか。

 だが――それこそが、エリートの寿命を縮める要因となりかける。

 

 既に投槍は最後の障害たる扉を突き破り、由比ヶ浜結愛の肌先まで迫っていた。

 

「ぐッ――うっ」

 

 とても空中の不安定な体勢で放られたとは思えない鋭い一撃。

 重たいハンマーは再び地面に落ちていて反射的にはもう振るえない。

 

 反射的に動いたのは、ハンマーではなく、只の手だった。

 

 結愛は、戦士として――ではなく、人間として。

 寸前にまで迫った脅威に対し、武器を手放し、防御を取った。

 

 自身の豊満な胸部に向かって迫る鋭い槍先に――手を向ける。己の身体と脅威の間に手を挟む。

 

 そして、そこは長年死線を潜り抜けた戦士か――只の手で、無手で、結愛は投槍を弾き飛ばすことに成功した。

 とんでもない激痛と共に、槍は結愛の身体の中心線を脅かすことはなく、ただ小さな手の平を吹き飛ばす。ここでの吹き飛ばすとは、物理的に吹き飛んだわけではなく、大きく逸らされた程度の意味だったが――それで十分だった。

 

 黒槌を手放し、人間としての最高の武器である手も弾かれた――左手は大きく逸らされ、右手は黒槌の柄に僅かに残されている、この状態で。

 

 

 間髪入れずに、絶妙の時間差で襲い掛かっている、()()()()()()()を防ぐ手立ては、もうないのだから。

 

 

(――!? 二投目!?)

 

 由比ヶ浜結愛は、現役戦士時代も破壊力のある打撃武器を好んで使用していたので、終ぞガンツランスを用いたことはなかったが故に知らなかった――ガンツランスが、()()()()()()()()()仕様であることを。

 

 だが、それを知った所で、この二投目を予測することは出来なかっただろう。

 そもそもが空中に投げ出されている体勢で、ガンツスーツを着用している状態とはいえ、あれ程の鋭さと精度で投槍を実行しただけでも、とんでもない達人技なのだ。

 

 それを、あろうことか、絶妙の時間差で――それも、()()()()()()()()()で。

 

 有り得ない――と、結愛が瞠目する中、それを見て更に絶句する。

 

 二本目の黒槍――その先端に括りつけてある、()()()()()()()()

 

 表示される数字――それが、結愛の眼前で「0」になった

 

 

「――お見事」

 

 

 途端、再び巻き起こる――何度目かの爆発。

 

 爆煙が開いた病室の窓から噴き出してくるのを、陽乃は息を吐きながら見ていた。

 

 そう、陽乃が窓を突き破った隣の病室、つまりは結愛の目の前の病室の窓は、そもそも突き破るまでもなく――()()()()()。元々、何をするまでもなく開いていた。

 

 このDR世界は、軸とした現実世界を、複製したその瞬間を忠実に現存している。

 つまり、複製が実行されたその瞬間、開いていた窓はそのまま開いているままなのだ。あのカーテンが靡いていた病室のように。

 

 もっと言うのなら、陽乃が初めてあの病室の前を通りがかったその時、あの病室は窓だけでなく扉も開いていた。

 そこで陽乃は、窓が開いているのを確認し、結愛が来る前にその扉を閉めていたのだ。

 

 烈火ガスによるこの攻防の開幕時に、あらかじめ自分の居た部屋の窓を開けておくことをせずに、敢えて豪快に窓を突き破ったのはその為だ。普通に考えれば元々窓が開いていることなど十分に思い至る可能性だが、そこで窓を強烈な音を立てて突き破ることで、それを印象づかせ、先入観を植え付けた。

 

 ほんの僅かな思考誘導――だが、度重ねて怒涛の攻撃ラッシュを仕掛け続けて一瞬の判断を迫め続けて、思考時間を極端に短くさせることで、こういった一瞬の僅かな思考誘導が、文字通りの命取りになることに、陽乃は賭けた。

 

「…………ギリギリね」

 

 陽乃はスーツのモニタを見る。

 残り時間は――3秒。そこで、カウントダウンは停まっていた。

 

 そして、天から光が降り注ぐ。

 数多の爆発によって起こった『損傷』――その全てに降り注いでいる電子線は、まるで光の雨のようだった。

 

 戦場となった病院の、一応は外といえる場所から陽乃が、幻想的にも思える光景に目を奪われていると、真っ直ぐに、己に降り注ぐ電子線があることに気付く。

 

 戦士に施される『修復』は、ミッション終了時に行われる『転送』のみ。

 つまり、これが意味することは。

 

「……ミッション、クリア……かな?」

 

 陽乃は、そう呟いて微笑む。

 

 己が窓を突き破った病室と、己が投槍した病室と――同じフロア。

 烈火ガスも届かず、一切の『損傷』もない、少し離れた場所にあるその病室。

 

 その病室の壁に向かって伸ばされ、突き刺さったガンツソードを、()()()()()()()()()()()、空中に立っていた陽乃は、その病室にいない誰かを――見詰めて。

 

「…………」

 

 静かに瞑目し、薄暗い空から降り注いだ電子線を、まるで雨を浴びるかのように享受しながら。

 

 複製された世界から、現実の世界へと帰還した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「コングラチュレーショ~~ン! おめでとう、雪ノ下陽乃ちゃん! 文句なしの合格だよ! いやぁ~死んじゃうかと思ったぁ~。これで君も今日から正義の味方だね! パフパフ! 一緒に力を合わせて悪の星人をどんどんぶっ殺していこうね!」

 

 次に目を開けると、そこはいつもの『黒い球体の部屋』だった。

 

 いつものと称せる程に通いなれた場所では陽乃にとってはないけれど、それでもそこが陽乃達にとっての『出身部屋』であることは分かった。

 

「…………ありがとう、と言っておきましょうか」

 

 個人的には本当に殺すつもりで攻撃を放ったのに、それをまともに受けた筈なのに、由比ヶ浜結愛は未だに黒槌を担いだまま、無邪気な笑顔で陽乃を迎える。

 

 怪我どころか汚れ一つないのは『転送』によるものだとしても、殺意がふんだんに詰まった攻撃を受けた直後、その攻撃を放った加害者に向かって浮かべる笑顔ではないと思ったが、既に由比ヶ浜結愛はこういう人間だと理解したつもりになっている陽乃は、ただ淡々と笑みも浮かべずにこう問い返した。

 

「それで? どうしてこの場所なの? これから第二試験でも始まるのかしら?」

「ん~ん。試験はあれで十分だよ。単純に、ここが集合場所だから、此処に来ただけ」

 

 結愛は言った。

 集合場所――それがどんな意味の言葉なのかは何となく分かったが、陽乃がそれを問う前に、結愛が「それにしても」と、口を開いた。

 

「急に開き直ったみたいにスイッチが入ったから驚いちゃったよ。勿論、仕掛けとか用意していたみたいだから、その内きちんと仕掛けるつもりだったっていうのは分かるけど――そんなにヒッキーくんが結衣たちに取られるのが嫌だったのかな?」

 

 試験が終わっても笑顔で人を煽ってくるスタイルである結愛に、陽乃はこの人のこれは作戦だけでなく天然も入っているのかもしれないと、苦手のタイプであることを認めながらも蟀谷(こめかみ)を引き攣つらせながら答える。

 

「――当たり前。……八幡がわたしを忘れるなら、わたしは絶望しても……たぶん立ち直れる。何度でも、また奪えばいいだけだから。でも、」

 

 かつて――死の間際。

 彼に、自分の妹を託したように。

 幻想の中、手を繋いで去っていく、二人の背中を見送った時のように。

 

 心が引き裂かれるような激痛に、心に打ち込まれるような鈍痛に、涙を流すことになろうとも。

 

 八幡が、自分ではない他の誰かを選んだとしても。

 八幡が、自分のことを綺麗さっぱり忘れ去ったとしても。

 

 耐えられる。耐えられなくても、立ち上がれる。

 何度、彼が遠ざかってしまっても。何度、彼を連れ去られてしまっても。

 

 今の雪ノ下陽乃なら、それを追いかけ、戦い――略奪することを厭わない。

 

 例え、比企谷八幡に恨まれ、殺されることになろうとも――それを享受してでも、彼と共にあることを選択するだろう。

 

 でも――もし。

 

 雪ノ下陽乃が、()()()()()()()()、比企谷八幡の元を去るようなことがあるのなら。

 

(――それだけは……耐えられない……ッ)

 

 あのひとりぼっちの背中を。あの孤独者の温もりを。

 

 比企谷八幡の『本物』の座を、自ら降りて、その価値を忘却し、手放してしまうというのなら。

 

 それこそ悪夢だ。それこそ地獄だ。

 

 そんな生に価値なんてない。どんな無駄死によりも無価値だ。

 

「私は死んでも解放なんてしない。私は死んでも忘却なんてしない。忘れない。この想いを。この記憶を」

 

 雪ノ下陽乃は、不敵な笑みを浮かべる由比ヶ浜結愛に、真っ直ぐに殺意を持って告げた。

 

「この初恋を――わたしは忘れない」

 

 だからこそ、陽乃はこの黒い衣を脱ぐことはない。

 黒い槍も、黒い剣も手放さない。爆弾を持って戦場を歩き、一つでも多くの命を奪い続ける。

 

 最後まで、黒い球体の戦士で、あり続ける。

 

 この場所で、この黒い球体の部屋で、雪ノ下陽乃はそう誓ったのだ。

 

「…………その為に、雪乃ちゃんと結衣ちゃんを見捨てたわけだ。さっきも最後には、あの病院にどんな『後遺傷』が残ろうとも構わないって開き直りっぷりだったしね。あんなに、その危険性は説明したのにさ」

 

 後遺傷――DR世界崩壊時に現実世界に齎す、現実世界に引き継ぐ『損傷』のことを、そう呼称するようだった。

 

 確かに、あの時、陽乃はそのことを仄めかされ、結愛に揺さぶりを掛けられていた。

 

「…………」

 

 あのDR世界に残されたタイムリミットは残り3秒だった。

 それも、あくまで10分は恐らく維持できるであろう程度の余力しかない生体電池によって形成されていたDR世界なので、結愛による数々の爆発、そして陽乃による最後の大立ち回りによって、あのDR世界には当初の想定よりもかなりの負荷が掛かっていたことだろう。

 

 自動修復の速度がかなり遅くなっていたことも考えると、あの最後の攻防の途中で、DR世界の強制終了からの『後遺傷』出現も、十分に起こり得た可能性だったに違いない。

 

「あのトラップから考えて、()()()()()()()()()()()()あの(フロア)を戦場に選んだのも確信犯だよね。まったく、試験合格と一緒に恋敵抹殺まであわよくば成し得ようなんて、強かだねぇ、陽乃ちゃん」

 

 強くて、強かな、いい女だ――由比ヶ浜結愛は、雪ノ下陽乃を下から覗き込みながら、そう言った。

 

 そんな美女の笑みに、向けられたもう一方の美女は。

 

「……褒めてもらって恐縮だけど、流石にわたしも、そこまで血も涙も捨ててないわよ」

 

 と、苦笑を返しながら、返した。

 

「確かに、その『後遺傷』の話は効いたわ。可能性としては当然考えていたけど……うん、動揺した。そういった意味では、あなたの言葉はきちんとわたしを揺さぶれていたわ。……でもね、だからこそ、引っかかったの」

 

 あの時――今日の日中、雪ノ下雪乃を連れて、由比ヶ浜結衣の病室を訪れた時。

 

 ほんの一瞬、垣間見ただけだけれど、陽乃はこの美女の存在をしっかりと確認していた。

 年の離れた姉であると言われても納得が出来る程に、この美女は由比ヶ浜結衣と似ていたから。

 

 由比ヶ浜結愛が、由比ヶ浜結衣に向ける表情も、しっかりと印象に残っていた。

 まるで母が娘に向けるような、姉が妹に向けるような、そんな蕩けるような愛情を持った笑みのように見えていた。

 

 そして、確信を持ったのが、あの言葉を聞いた時だった。

 

――これまでのヒッキーくんはあたしとしてはイマイチくんなんだけど

 

 それまでずっと飄々と、笑顔で陽乃を揺さぶっていたにも関わらず。

 この言葉を放つ時だけは、ほんの少し――隠しようのない怒りが込められていたように感じた。

 

 大切な存在を傷つけられた者だけが放つ――仄かに、黒い、殺意が。

 

「それで、分かったの。アナタが、少なくともガハマちゃんには、間違いなく愛情を持っているって」

 

 だからこそ、烈火ガス式BIMを使った。

 当初の予定ではホーミング式BIMを使う予定だったけれど、確実に足止めするならば、烈火ガス式の方がいいと判断した。この階ならば、このロケーションならば、由比ヶ浜結愛は逃げずにガスを吹き飛ばすことを選択すると確信した――己の背後にある由比ヶ浜結衣の病室に、烈火ガスによる『損傷』による『後遺傷』が生じる可能性を、万が一でも摘む為に。

 

「……もし、あたしがあの子達を見捨てて、さっさと空中戦に乗ってたら?」

「その時はアナタを瞬殺で撃墜して、防火シャッターを下ろしに行ってたわよ。()は作ってたしね」

 

 あのガンツソードによる足場は、二段投槍の為だけでなく、その為の二段構えの保険でもあった。

 

 いくら足場を固めていて、なおかつハンマー使いには不利な空中戦とはいえ、由比ヶ浜結愛を瞬殺出来たかどうかは不明だが、陽乃は自信満々にそう言い切った。

 

「――だから、そう怒らないで。叔母さん」

 

 陽乃は揶揄うように、そう言った。

 ここでのおばさんという言葉は、年上の女性を揶揄する意味ではないことは、直ぐに分かって。

 

「……分かった分かった。あたしのか~んぱい」

 

 娘程に年が離れている(結愛に娘はいないが)この少女は、まさか、この『入隊試験』の『試験官』に由比ヶ浜結愛が立候補して此処にいるということは知らないだろう――が。

 

 自分がどんな感情を持って、雪ノ下陽乃の試験官として相対していたのか――それは見抜かれているような、そんな気がした。

 

(本当はヒッキーくん本人にぶつけてやろうと思ってたんだけど。流石にあの二人を差し置いて、そんな真似は出来なかったしね)

 

 言うならば、半ば以上に理不尽な八つ当たりだ。それこそ、娘程に年が離れている少女に、いい大人が向けていい感情じゃない。

 けれど彼女は、そんな思いを半ば以上に見抜いていながら、笑顔で許しを請うて見せた。

 

 この少女は、きっと強くなる。

 今以上に強く、強かな、いい女になるだろう。

 

「――ようこそ。雪ノ下陽乃ちゃん。あたしはあなたを歓迎します。……いっぱい、いじわるしてごめんね」

 

 由比ヶ浜結愛は、綺麗な大人の女性の笑顔でそう言った。

 あの少女が真っ直ぐに正しく育ったら、きっといつかはこんな美女になるのだろうと、そう思える程に、『彼女』にそっくりな笑顔だった。

 

「……こちらこそ。……ありがとう。……ごめんなさい」

 

 雪ノ下陽乃は、精一杯に作った笑顔で、眉尻を下げながら、その握手に応えた。

 小さく呟いた謝罪の言葉については、お互い何も言わなかったし、何も聞こえなかったことにした。

 

「――それで、わたしはこの後、どうすればいいのかしら? 集合場所って言ってたけど」

「陽乃ちゃんも気付いてるでしょ。ここでもう一つの『入隊試験』が終わるのを待つの。その合否結果がどっちでも、この『部屋』に『試験官』と一緒に転送されてくるから」

 

 合格の場合、陽乃と一緒に『本部』に転送される為に。

 不合格の場合、ここで記憶消去を行い、0点の戦士として再出発させる為に。

 

「…………」

「……ま、あっちはまだまだかかるだろうし、こっちはテレビでも観ながら待ってましょ。ガンツ、テレビ」

 

 結愛はそう言ってフローリングに座り込みながら、黒い球体にそう命じた。

 

 いや、テレビってと陽乃は思ったが、ガンツはいつも標的の星人の情報や戦士の採点を表示する己の表面に、恐らくは今放送されているであろうテレビのニュース映像を映し出した。

 こんな機能もあるんだ……と陽乃は呆気に取られる。結愛は、そんな陽乃を見上げながら、己の隣の床を叩きながら言った。

 

「陽乃ちゃんも座んなさいな。愛しのヒッキーくんのことが心配だろうけど、いい女には男を信じて待つ強さも必要だよ。それに、この会見の内容は遅かれ早かれ知らなくちゃいけないことだし、ね」

「……その言い方、なんかおばさんくさいわよ」

「ねえ今のおばさんは完全にディスりだよね? もう一戦する? 小娘」

 

 笑顔の背後に般若を浮かべながら威圧してくる結愛を無視して、陽乃は結愛の言う通りに隣に座り、記者会見の放送を見る。

 

 現職の内閣総理大臣、防衛大臣の横に、見知った顔の四人の少年少女が並ぶ映像を見ながら、陽乃は心の中で、愛しい男の名前を呟いた。

 

(……八幡)

 

 正しく紙一重の賭けの連続だった、CION本部への『入隊試験』。

 

 今、まさにそれに挑んでいるであろう彼の安否を、黒い球体の部屋から陽乃は、ただ信じて待つことしか出来なかった。

 




こうして、雪ノ下陽乃の試験(ミッション)が終わり、漆黒の魔王は正義の味方に勝利した。

そして、黒い球体は、別の場所にて行われている、別の黒色のミッションを映し出す。


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Side会見(ミッション)――①

俺達は――大人だからな。


 

 対『星人』用特殊戦闘部隊――『GANTZ』。

 

 蛭間一郎内閣総理大臣が放った言葉は、記者会見場に――否、日本中にざわざわとした混乱を齎した。

 

 そんな中で、漆黒の近未来的なSFスーツを身に纏い、『GANTZ』メンバーとして紹介された四人の少年少女は。

 

 逆立つ金髪髪の大男は――不敵な笑みを浮かべて威風堂々と耳をほじり。

 水色髪の小さな少年は――穏やかな笑顔を浮かべつつも冷たい瞳のままで。

 艶やかな黒髪の美しき少女は――浴び慣れた眩光の中で笑みを浮かべず目を瞑り。

 

 そして――かつて鋼鉄の浮遊城にて魔王を討ち果たし、昨夜の池袋にて牛頭の怪物を撃ち破った英雄は。

 

「…………」

 

 自身の隣に座る防衛大臣を、細めた瞳で睥睨していた。

 

「あ、あの! 質問を! 質問の方をよろしいでしょうか!」

 

 そんな中で、一早く混乱から脱却した一人のジャーナリストが、突き動かされたように挙手をした。

 

「勿論です。どうぞ」

 

 司会を配置していない今会見に置いて、防衛大臣である小吉は自ら進行役を務めるべく、ジャーナリストに発言を許可する。

 ジャーナリストは、「で、では……」と立ち上がり、係員から手渡されたマイクを持つと、表情を引き締め、どもりのない声で、日本のトップに向けて問い掛けた。

 

「小町防衛大臣は、先程、昨夜の『池袋大虐殺事件』が、未確認生物によるものだと述べました。……確かに、電波ジャックされ全国に放映された映像には、まるでSFホラー映画のような怪物に変身する人間の姿が映し出されていました。ネット上でも様々な突飛な憶測が広がっていますが――」

 

 彼が言葉を続けていくにつれて、周りの記者やマスコミ達も徐々に混乱を鎮めていく。

 そして、各員が手元に持つメモに、ボイスレコーダーに、カメラに、力を込める。

 

 ジャーナリストは、小吉と一郎を真っ直ぐに見据えながら、鋭く、刃のような言葉で問い詰めた。

 

「――あれは、人間の変装や特殊メイクではなく、あくまで未確認生物によるものだった、と。これは政府の公式見解、公式発言と受け取ってよろしいですか?」

 

 その場にいる全ての人間が――いや、日本中が、世界中が、息を止めて注目する。

 

 蛭間内閣総理大臣は、一瞬の躊躇もなく、その質問にはっきりと答えた。

 

「――はい。昨夜、池袋を襲った怪物は、地球外から齎された災厄であり、生命体です。我々は、奴等のような地球外生命体を『星人』と呼称しています」

 

 再び、どよめく室内。

 その中で、別の記者が挙手し、発言の許可を得てすぐさま問う。

 

「地球外生命体――そう断じた根拠は?」

 

 蛭間総理は、自身に近づいてきた役人に耳打ちをすると、その役員は再び何処かへと消え、自分はマスコミに向かって「これから幾つかの映像をお見せします」と返した。

 

 途端――部屋の中の明かりが落とされ、蛭間達の背後に映像が照射される。

 

 それに伴い、和人達四名も着席する。

 和人は、隣に座る小吉にマイクに拾われない音量で囁いた。

 

「……大丈夫なのか?」

 

 小吉は、和人の方を見ずに――真っ直ぐにカメラを、その向こう側の世界を睨みながら返した。

 

「俺達は――大人だからな」

 

 その言葉に、和人は。

 

「…………」

 

 何も言わず、パイプ椅子に深く腰を掛けた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――まず映し出されるのは、今回の池袋大虐殺において回収された、怪物の細胞のDNAデータです。専門家による調査の結果、これらは地球上のどの生物とも根本から異なる、全く未知の構造であることが判明しました」

 

 騒めく記者達の反応を、冷たい眼差しで眺めながら和人は思う。

 

 ()()

 池袋大虐殺で殺されたオニ星人達の死体の殆どは、あの『始祖』の吸血鬼により捕食された。食べ残した肉片もあったかもしれないが、それらは黒い球体による証拠隠滅が働き、日本政府は奴等の死体の一欠片だって入手することは叶わなかった筈だ。

 

 よしんばそれらしいものを手に入れたのだとしても、それは黒い球体が回収するに値しないと判断した証拠物件である――故に、人間の死体それか、あるいは()()()()()死体(それ)である筈なのだ。そのDNAが特殊である筈がない。

 

「続いて、その未確認生物を地球外生命体と判断した理由についてですが……ここで一つ、皆さまの質問に先んじてお答えしたいことがあります。皆様も、先程の我々の話を聞いて、こう思ったのではないですか? どうして、未確認生物たる『星人』に対して、既に専用の特殊部隊が設立されているのかと」

 

 記者達が互いに見合うようにして騒めく。

 無論、彼等もプロだ。だからこそ、その点は確実に問うべき案件ではあった。だが、だからこそそれは、総理や大臣にとっては問い詰められたくない弱みであると踏んでいた――こんな会見を開く事態になった今、避けられる質問ではないけれど、されて嬉しい質問では間違ってもないだろうと。

 

 探られたくない腹である筈だ――痛くてたまらない腹である筈だと。

 これまで、今の今まで、こんな事態に至るまで、『星人』や『GANTZ』について何の発表もされてこなかったのが――その何よりの証拠である筈だと。

 

 だが、目の前の総理と長官は、まるで自らの腹を掻っ捌くような潔さで、四人の少年少女戦士達を召喚し、こうしてプレゼン資料まで万全に準備している――。

 

 記者達は戸惑いと共に眉を顰めながらも、一言一句聞き逃すまいと己の仕事に集中する。

 

 そんな彼らに、蛭間総理大臣は握ったマイクをまるで揺らさずに言った。

 

「答えは単純明快です。我々は――『星人』を知っていた」

 

 昨夜の悲劇が起こる前に、昨夜の惨劇が繰り広げられるより――ずっと前から。

 日本政府は、『星人』を――地球外未確認生命体を、確認していた。認知していたと。

 

 そう――日本の首相たる、内閣総理大臣は自供した。

 

 再び騒めく記者達――何も知らなかった、国民達。

 日本中の戦士達が、世界中の幹部達が、この地球に住まう星人達が、各々異なる心境で口を閉じる中。

 

 記者が挙手をするのを制するように、再び蛭間総理は口を開く。

 

「今からお見せする映像は、彼等『GANTZ』が、これまで『星人』と秘密裏に戦い続けてきた、その記録の一部です」

 

 蛭間総理が言葉を切ると、間髪入れずに映像が流れ始める。

 

 

 一瞬の砂嵐の後に映し出されたのは――真夜中の、千葉の幕張。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――――――ッ」

 

 和人が、あやせが、渚が――その体を一瞬硬直させる。

 

 その瞬間、映像の中の幕張の象徴たる大型展示場から――巨大な恐竜が飛び出してきた。

 

 記者達が一斉に息を呑む。

 映像の中の、頭部と顎に刃を携えた奇妙なブラキオサウルスは、己を見上げる全ての敵を威圧するように――嘶く。

 

――『ギャァァァアアアアアアアアアアアア!!!!!』

 

 見たこともない怪物の、聞いたこともない咆哮。

 これが映像だと分かっていても、まるで映画のように現実離れしている映像だと思っていても――体の芯を恐怖が貫く。本能的な脅威が襲う。

 

 一人の女性記者が、己の商売道具たるメモ帳を潰れるように抱き締めた、その時。

 

――『……許すまじ』

 

 見たこともない怪物が、聞き慣れた言語を流暢に発した。

 

 その異様さに、記者達は、国民達は驚き、戸惑う。

 

――『……貴様らを、滅ぼし尽くす……覚悟せよ』

 

 怪物が発する――怨念の言葉。

 

 燃え滾る憤怒を。禍々しい殺意を。

 

 映像越しに、間接的に――突き付けられた、一般人は。

 

「…………」

 

 何も言えず、ペンを動かすことも出来ず、ただ何かを呑み込むばかり。

 

 再び一瞬の砂嵐。

 映像は、先程の巨大な恐竜と――黒い少年の決闘へと移り変わる。

 

――『ぉぉぉぉおおおおおおお!!!!!』

 

 一般人の目には、それは何が起こっているのかすらまるで把握できないものだった。

 

 視認できない程の斬撃の嵐を、一人の奇妙な衣装を纏った少年が捌いている。

 甲高い音が断続的に響き続ける中、真っ黒な少年が雄叫びを上げて、一心不乱に戦っている。

 

――『剣を!! もう一本だ!!』

 

 剣を!! 俺に寄越せ!! ――少年は叫ぶ。真っ暗な闇に向かって手を伸ばし、力を求める。

 

 そして、その願いに応えるように――闇の中から、真っ黒な剣が飛来し、少年の手に収まった。

 

――『ぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおあああああああああ!!!!!!!!』

 

 少年が二刀を振るう。振るう。振るう。振るう。

 

 少年が吠える。少年が戦う。

 見上げるような恐竜と、見たこともない恐怖と、一心不乱に――死に物狂いで。

 

 そして――ザバンッッッ!!!! と。

 

 英雄の剣が、怪物の首を切り落とした。

 

 それはまるで昨夜の牛人との決闘と同じく――絵に描いたような、英雄譚の一頁。

 

 

 桐ケ谷和人という少年を、英雄へと祭り上げる――PV(プロモーションビデオ)のようだった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――――ッッ」

 

 小さく機械音が鳴る。

 そのことに、新垣あやせと潮田渚、そして東条英虎だけが気付いた。

 蛭間一郎と小町小吉は――それに気付かない振りをした。

 

 桐ケ谷和人は、ガンツスーツの駆動部が僅かに発光する程に――己が体を握り締めていた。

 唇を噛み締めて、息を吐きながら――己が隣に鎮座する男を睨み付けるのを必死に堪えていた。

 

(……これが……闘技場(コロッセオ)――なるほど、さぞかし楽しかったろうな……ッ)

 

 一昨日――訳が分からぬまま放り込まれた、幕張での恐竜達との戦争。

 ここにいる、東条英虎、潮田渚、新垣あやせ、そして桐ケ谷和人にとっての、初めての戦争。

 

 それが何故、こんなにも大迫力で、臨場感たっぷりの映像として残されているのか。

 

 答えは――殺意が湧く程に簡単だった。

 

――『君達が送り込まれるガンツミッション――あの様子は、とある世界の大富豪が集まるVIPルームに生中継されているんだ』

 

 娯楽の為にね――そんな水妖精族(ウンディーネ)の大人の言葉が、和人の殺意に薪を()べる。

 

 

 ザッ、という砂嵐を経て、再び映像が切り替わる。

 

 次に現れたのは、和人達が知らない戦争だった。

 

 

 

 場所は――何処だか分からない程に有り触れた、とある住宅街。

 

 ただ途切れがちな街灯の光のみが照らすその場所に、緑色の体色で、サーベルのように鋭く長い十本の爪を伸ばして吠える怪人がいた。

 

 

 

 再び走る一瞬の砂嵐。

 

 次に映し出された場所は、とある木造アパートだった。

 

 一斉に開く窓。

 そこから飛び出したのは、強い光沢が特徴的な、見るからに硬質な金属である身体を持つロボットのような正体不明。

 

 彼らは一人、また一人、一体、また一体と、ロケットのように空を飛んでいく。

 

 そして、その中の一体が、口腔内を青白く発光させた。

 

 

 

 果たして、どれだけ続いただろう。

 

 散発的に流れる映像は、見たこともない未確認生物を収めた記録映像は、いつしか記者達の、そして国民達の思考を停止させていく。

 

 

 寺院の中から飛び出してくる大仏。

 

 

 ビルの屋上から屋上を跳び渡っていく悪魔のような天使。

 

 

 どれもがまるで現実感のない映像で、誰かがやはり映画だと、よく出来た合成だと、鼻で笑おうとして、ネットに書き込もうとして――だけど。

 

 記者達の視線が、カメラの視点が、四人の少年少女に向けられる。

 その顔は、露骨に歪んではいないけれど、涙を流したり目を伏せたりしているわけではないけれど。

 だからこそ、放たれる、漏れ出す、溢れ出す、迸る――殺意のような、何かが。

 

 この世の物とは思えない荒唐無稽な証拠映像の信憑性を、如実に、現実に、証明しているように思えて。

 

 彼らはただ、その映像を流れるままに受け止めることしか出来なかった。

 

 

 

 やがて映像は――昨日の戦争を映し出した。

 

 それは池袋――ではなく、その前哨戦として行われた六本木での黒騎士との戦争。

 

 

 まず、映し出されたのは――東条英虎だった。

 

――『さぁ。ケンカしよーぜ』

 

 漆黒のスーツを身に纏いながらも、その男は己が身一つで。

 

 見上げる程の巨大な騎士を、握り拳で圧倒する。

 

 

 次に、映し出されたのは――潮田渚だった。

 

――『――それでも、()らなくちゃ、()られる』

 

 大人と比べても遥かに小さい体躯の少年が、巨人が如き騎士に向かって一目散に駆けていく。

 

 その手に持つは、一本のナイフと、二つの金属塊。

 

 瞳から殺意を迸らせ、少年はその金属塊を、黒騎士に向かって投げつける。

 

 

 次に、映し出されたのは――新垣あやせだった。

 

――『ぶち殺すんですよ――あの怪物を』

 

 無骨な漆黒のショットガンを連射しながら、少女は怪物の身体を削り取る。

 

 返り血を浴び、その血を真っ黒な手で拭うが、それが却って少女の美しい顔を血で彩るが。

 

 普段のカメラの前では決して見せない細めた瞳で怪物を睥睨する女戦士は、それに委細構うことなく、ただ銃口を瀕死の怪物へと向ける。

 

 

 最後に、映し出されたのは――やはり、桐ケ谷和人だった。

 

――『うぉおおおおおおおおおおおお!!!!』

 

 黒い衣を纏った少年がその手に携えるのは、当然のように漆黒に輝く剣だった。

 

 巨場に跨る二頭の黒騎士。

 怪物が振るう巨大な斧に、怪物が振り下ろす巨大な蹄に、黒い英雄は恐れることなく立ち向かっていく。

 

 剣を振るい、闇を祓う。

 

 黒い剣は、必ずや、怪物の首を一刀両断に斬り飛ばしてくれると。

 

 

 

 そして、和人のガンツソードがゆびわ星人の首を斬り落とした所で、その映像は幕を下ろした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ブツンッと、砂嵐ではなく真っ黒な画面に切り替わった所で、室内に明かりが点いた――まるで映画が終わったかのようだった。

 

 非日常から――日常へと回帰する、あの感覚。

 だが、流されたのは、紛れもなく現実の映像だ。

 

 これまで、黒い球体によって誘われ戦士(キャラクター)とされた傀儡(おもちゃ)達が、必死に仮初の生命を繋ぐ為に戦い続けた、記録映像だ。

 

 恐らくはこれまでずっと腐った権力者達を楽しませてきた、生配信されていたであろう戦争(デスゲーム)映像を切り繋ぎ、編集した――特殊部隊『GANTZ』のPV(プロモーションビデオ)だ。

 

(――実際、よく出来ている)

 

 記者達や国民達が観ていたであろう自分達の頭上の辺りに照射されていた映像(それ)ではなく、まるでバラエティ番組でテレビカメラを向けられている演者がVTRを眺めるように、カメラの死角であり自分達の見える場所に置かれたモニタから先程の『PV』を観ていた和人はそう思った。

 

 この『PV』の主目的は、未確認地球外生命体『星人』と、対星人用特殊部隊『GANTZ』の“宣伝”にある。

 星人という怪物がこの世界に存在していること、そして、その星人と戦い続けてきたGANTZという部隊がいること、それを国民に理解してもらう為の教材ビデオだ。

 

 そして、この映像は全国中継している。それも、昨夜の池袋大虐殺とは違い、明確に、公的に、公式に電波に乗せて発信している。

 

 故に、星人との戦闘シーンは厳選しなくてはならない。

 つまりは、人間が過剰に破壊されるシーン――ましては、戦士が敗北、殺害されるシーンなど以ての外だ。

 

 単純に刺激が強すぎるということもあるが、何より――実は設立したての新設部隊『GANTZ』の信用問題に真っ直ぐに繋がるからだ。

 

 英雄になって欲しい――菊岡誠二郎は、蛭間一郎は、小町小吉は、大人達は桐ケ谷和人にそう言った。

 厚顔無恥にも、傲岸不遜にも、傍若無人にも、そう恥ずかしげもなく頭を下げた。

 

 つまり彼等は、計画外にも終焉の日(カタストロフィ)より遥か半年も前に世間に露呈してしまった『星人』、『星人との戦争(ガンツミッション)』――その混乱を、その恐怖を、昔ながらの最も分かり易い方法で切り抜けようとしているのだ。

 

 魔王に征服されかけた世界に置いて、辺境の村の若者を、異世界から召喚した何も知らない少年を、勇者として祭り上げるように。

 神の怒りという名の伝染病を鎮める為に、村で一番の若い処女を、何の罪もない麗しき少女を、生贄として捧げ奉るように。

 

 たった一人の戦士に、希望という名の使命を、期待という名の重圧を。

 たった一人の英雄に――その、全てを、背負わせるのだ。

 

 全国民の恐怖を。全国民の混乱を。全国民の平和を。全国民の笑顔を。

 

 

 桐ケ谷和人という少年に――『GANTZ』という部隊に、押し付けようとしているのだ。

 

 

 だからこその、教材VTRにして、PV(プロモーションビデオ)

 星人という存在の不気味な恐怖はアピールしながらも、戦士達の――特に和人の活躍は華々しく映し出す。

 

 それでいて、ここにいる四人以外の戦士は、その負傷映像すら流さないように編集されている。未だ存命である筈の比企谷八幡、湯河由香、そして死亡歴があるとはいえ復活している霧ヶ峰霧緒や葉山隼人まで、その姿は徹底的に隠されていた。

 

 昨夜、存在も容姿も既に流出している雪ノ下陽乃は、対仏像星人編で活躍の映像が紹介されていたが、それでもほんの僅かだった。

 あくまで蛭間と小吉は――『本部』は、ここにいる四人を中心に宣伝(プロモーション)していくつもりのようだが――。

 

(……その辺りはいい。納得はしていないが、この後に理由(わけ)は話すと言われているから、それを信用するしかない)

 

 確かに比企谷八幡は、万人に受け入れられる性質とは思えない。

 だからといって、ここにいる四人が揃って英雄の器かと面と向かって言われれば何も言えないが、例え国のトップの要請とはいえ、こんな会見の席に大人しく座るような奴だとは、あの戦士は思えない。

 

 葉山隼人、霧ヶ峰霧緒は復活したばかりで人となりも分からないし、池袋大虐殺に参戦してもいない。

 湯河由香に至っては未だ中学生だ。渚も中学生だが、彼女は見るからに非戦闘員だと分かってしまう。この後に来るであろう、記者からの質問という名の詰問に余計な口実を与えるだけだろう。

 

 だが、雪ノ下陽乃はどうか。

 彼女は女性だが、明らかに女傑である。常人離れしたカリスマ性、華、そして器の持ち主でもある。

 この場にいてくれれば、桐ケ谷和人(おのれ)などよりも遥かに頼もしい戦士として視聴者に、国民に安心を届ける記者会見とすることが出来るだろう。

 和人同様に既に正体も割れている。世間の注目を集める英雄(アイドル)として偶像化させるならば、彼女以上の適任はいないようにも思える。この場に呼ばない理由が見つからない。

 

(確かにあの人も比企谷と同じく、総理大臣に招集されたからといって大人しく連行されるような人には思えないが……同じくらい、面白がりそうな気もする)

 

 案外、八幡が行かないならわたしも行かない、くらいの理由なのかもしれないが――そこまで考えて、和人は小さく頭を振る。これ以上、ここにいない人物達のことを考えても仕方ない。

 

 既に記者会見は始まっている。記者会見という名の、紛れもないミッションが。

 日本という国の行く末を左右するという意味では、これまでで最も過酷な戦いだ。

 

 そして、その成否は――その勝敗は、この桐ケ谷和人にかかっている。

 

「…………」

 

 和人はちらりと横を向く。

 小吉ではなく、あやせ、渚、東条達と目を合わせる。

 

 出会ってまだほんの二日――だが、共に死地を、戦地を駆け抜けた戦友達。

 新たに出会った頼れる仲間にして、和人が守らなくてはならない隊員達の存在を、共に椅子を並べ、肩を並べてこの場に居てくれる存在を確認して、和人は覚悟を固める。

 

(――――俺が、やるしかないんだ)

 

 そして、和人が一度瞑目し、力強く目を開いた瞬間、蛭間総理が再びマイクを握った。

 

「――今、皆様にご覧頂いたのは、我々がこれまで確認した『星人』、そして『星人』と戦い続けてきた、彼等『GANTZ』の戦闘記録です」

 

 醜悪な容姿の総理大臣は、その眼光を鋭く光らせて再び己に注目を集めた。

 記者達は総理の力強い声色に我を取り戻し、己が手の中の記録媒体を確かめて、男の言葉の一言一句に傾聴する。

 

「先程の映像にもあった通り、一言に『星人』と申しましても、多種多様な外見、性質、特徴を有しています。見上げる程に巨大な『星人』もいれば、視認が難しい程に矮小な『星人』もいる。しかし、『星人』にはある共通点がある。それを基準に、我々は『星人』を判別し、発見し――排除してきました」

 

 ここにきて、“排除”という強いワードを総理が用いたことで、記者会見場に再び強い緊張が満ちる。

 蛭間総理は再び役員を呼びつけると、今度はプロジェクタではなく、テレビモニタのようなものを運ばせて、そこに映像を表示させた。

 

 先程のPVでこれを用いなかったのは、あれが文字通りの作品であり、視聴者たる国民にアピールする意味合いがあったからだ。ここでスクリーンではなくモニタを使うのは、これが作品ではなく資料――プレゼン資料であるからだろう。

 

 案の定、表示されたのは映像ではなく画像――複数の波形図が表示されたデータだった。

 

「――これは、昨夜の池袋に置いて確認された怪物、通称『オニ星人』から発せられていた『波動』のグラフです。これは、NASA(アメリカ航空宇宙局)により開発された測定器によって記録されたものであり、これまでに発見された全ての星人から記録されています」

 

 蛭間総理は『オニ星人』だけでなく、『ゆびわ星人』、『かっぺ星人』、『チビ星人』、『あばれんぼう星人・おこりんぼう星人』、『田中星人』、『ねぎ星人』などの画像、そしてそれらに付属されるグラフを表示する。

 

「――我々は、これを『星人波動』と呼称しています」

 

 間髪入れずに一人の記者が手を挙げ、質問する。

 

「その『星人波動』とは、どのようなものなのでしょうか?」

 

 蛭間総理は、モニタ画面が再び『オニ星人』の波動のみを表示するのを確認すると、まるで講義のように説明を始めた。

 

「NASAの見解によりますと――『宇宙放射線』により発生するものだと考えられています」

 

 宇宙放射線とは、地球外の宇宙空間を飛び交う高エネルギーの粒子の流れのことである。

 太陽系外から超新星爆発などによって加速されて飛来する「銀河宇宙線」、太陽風や太陽フレア粒子などにより発生する「太陽宇宙線」など、大気のない宇宙空間にも放射線は存在し、宇宙飛行士にとっては宇宙空間での長期滞在時のリスク評価項目として研究されている。

 

 そして、とある実験時に、NASAは不思議な隕石を発見した。

 

 只の隕石では有り得ない、まるで生体のように宇宙放射線を吸収している不可思議な物体。

 その謎の物体はそのまま大気圏を抜けて地球内へと飛来し――その瞬間、見たこともない謎の『波動』を発生させた。

 

「この謎の『波動』を記録した謎の物体は――実は謎の生体であり、世界で初めて発見された『星人』でした。これ以上は国際的な極秘情報の為に明かすことは出来ませんが、その後の研究により『星人波動』は大量の宇宙放射線を浴びた生物が、地球の大気を浴びることによって発生する現象であることが確認されました」

 

 長期宇宙滞在した宇宙飛行士にも、この『星人波動』は観測されたそうだ。

 だが地球人は暫くするとこの『星人波動』は消失し、発生されなくなる。

 

 しかし『星人』であるならば、数年単位で地球に滞在していようと、微弱になる場合はあっても、この『星人波動』が全く発生しなくなる『星人』は、これまで確認されていないらしい。

 

「――これが、我々が未確認危険生物を地球外生命体と断ずる根拠であり、我々が『擬態』している星人を発見し、秘密裏に排除することの出来た理由でもあります」

 

 この総理の言葉の後、記者達は本領発揮とばかりに矢継ぎ早に質問を投げ掛けてくる。

 やれ「その『星人波動』は周囲に害を齎すものなのか」、やれ「その測定技術を民間に提供しなかったのは何故か」、やれ「それは本当に保障された精度を持つのか」、やれ「そもそも全ての宇宙人――『星人』が地球人を害する存在なのか、その線引きは誰が行っているのか」。

 

 その質問を問うのは最もだと思うものもあれば、それは本当に今この場で問うべきものなのかと首を傾げざるを得ない揚げ足取りのような質問もあった。

 だが、示せる根拠があるべき時は堂々とそれを突き付け、相手を納得させることが出来るだけの根拠を示せない質問の時はそれとなく具体例を避けて躱す――正しくそれらを仕事とする大人達の頂点に立つ存在は、日本のトップに上り詰めた政治家である内閣総理大臣は、それら全てを如才なく捌いていく。

 

 和人は、真実を事前に明かされたものからすれば茶番にしか見えないその光景を、茶番にしか聞こえないそのやり取りを、目を閉じて耳を塞ぎたい衝動を堪えながら耐える。

 

(……『星人波動』? NASAのお墨付き? ……随分と、それらしく作り込んだもんだな?)

 

 ()()

 そんなものは()()()()()()()()()で、()()()で、()()()()()()で――()()だ。

 

 真実は――もっと単純で、残酷だ。

 

「………………」

 

 桐ケ谷和人は聞かされていた。

 

 この会見が始まる前、文字通り計画の中心を担うことになった英雄に――小町小吉と、蛭間一郎は明かしていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「星人を判別する方法――それは『()()()()()()()()()()()。黒い球体――GANTZ。星人判別は、この世界であの生体コンピュータだけが可能な作業だ」

 

 小吉はそう言った。

 宇宙放射線による『星人波動』は、世間を納得させる為だけの、それっぽいフィクションだと。

 

「今回の会見で世界に明かすのは、あくまで【星人】と【黒衣の戦士】だけだ。【CION】は勿論のこと、【黒い球体(GANTZ)】の存在を明かすことは出来ない。『星人波動』は、あくまでガンツのことを説明せずに、【ガンツミッション】をこれからも行うことを世間に納得してもらう為の理由付けだ」

 

 例え、政治家の発言の粗探しが生業のマスコミがこぞって裏取りを始めようとも、『星人波動測定機』は決して民間には発表しないし(そもそもそんなものは存在していない)、当然ながらNASAとの裏交渉はCIONとして既に行っている。

 細かい祖語は生まれるだろうが、その時は政治家の得意技である都合の悪いことは聞かなかったことにする時間稼ぎを行えばいい。

 

 あくまで――半年だ。

 半年後の、終焉の日(カタストロフィ)――その日まで、仮初の平和を保てればいい。

 

 その日まで、仮初の英雄であればいい。

 

「……なら」

 

 桐ケ谷和人は、小町小吉に、蛭間一郎に、こう問うた。

 

「星人波動が嘘なんだとしたら、どうしてお前らは、星人が宇宙人だって、そう納得できるんだ?」

 

 蛭間総理大臣と顔を見合わせて、小町小吉防衛長官は、何も知らない英雄(こうはい)に、こう言った。

 

「行ったことがあるからさ。奴等の故郷である――たくさんの文明惑星にな」

 

 宇宙は広いんだ――そう言いながら、小吉は和人の頭を撫でた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 お前も、いつか分かる時が来る――そう、小町小吉は言っていた。

 

「………………」

 

 小吉の言葉の、全てを正直に受け止めた訳ではない。

 これまでずっと自分達を騙し、そして今も騙し続けているであろう組織の幹部である総理大臣と防衛大臣を、全面的に信用することなど出来るわけがない。

 

 だが、あの言葉――別の惑星に行ったことがあるという、あの言葉は。

 

(……簡単に、信じられる話じゃない。単にこっちを子供扱いしてはぐらかしたと考えるのが妥当――だが)

 

 騙すならばもっとそれらしい嘘を吐くのでは――現に、今、国民に対してそうしているように。

 

 あの言葉を聞いてから、会見が始まってもずっと、それを心の片隅で考え続けている――が。

 

(……今、考えてもしょうがない、か)

 

 大人達に言いたいこと、聞きたいことは山程ある。

 

 だが、今は――言葉をぶつけるべきは、言葉を届けるべきは、奴等にではない。

 

「――では、総理。質問の方をよろしいでしょうか」

 

 気が付けば、随分と時間が過ぎ――この会見が始まって、もうすぐ一時間が経とうとしていた。

 そろそろ閉会ムードが漂い始める中、ぐしゃぐしゃのメモ帳を握り締める女性記者が、真っ直ぐに腕を伸ばして挙手をしていた。

 

「どうぞ」

 

 小吉が発言を促す。

 

 女性記者はスッと立ち上がって、その美しい背筋を伸ばし、凛とした声色で――総理大臣に問い掛ける。

 

「――『星人』という、未確認地球外生命体の存在がいることは、漠然とですが理解しました。そんな存在に対し、特殊部隊を設立していたという対応も。……どうしてこれまで公開しなかったのかということに関しても、そう簡単に明らかに出来る事実ではないということで、完全にではありませんが、理解できます。……ですが、これだけは、どうしても……納得が出来ません、総理」

 

 ぐしゃぐしゃのメモ帳を更に強く握り締め――瞳を険しく細めながら。

 

 女性記者は、蛭間総理大臣と真っ直ぐに目を合わせながら――そして、その横に座る四人の少年少女を見遣って、言う。

 

「そんな強大で未知なる怪物と戦う特殊部隊員が、どうして……彼らのような、()()()()()()()()()()()()()()()()()()――その理由について、納得できるだけの説明をお願いしたい」

 

 その、女性記者の、切なる声に。

 

 蛭間総理大臣の、マイクを握る右手に、初めて強い力が込められた。

 




何故、怪物に立ち向かい、世界を救う英雄に――少年少女(こどもたち)が選ばれるのか。

何故、世界の命運を、その小さな身体で背負わなくてはならないのか。

一人の女性記者が、今、その是非を大人達に問い質す。


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Side会見(ミッション)――②

我々には――『GANTZ』が必要なのです。


「…………なん……だ……それ、は――」

 

 誰も見ていない場所で、葉山隼人は毒を(あお)ったかのように(うめ)いた。

 

 無数のカメラ、世界中の注目が向けられる、目が潰されんばかりの光の世界の――その、裏側。

 同じ空間にいながら、まるで何処にもいないかのように誰の注目も浴びていない場所で、その男は初めから、この会見を誰よりも近い場所で見学していた。

 

 そう――見学。

 彼はこの会見の出席者でもなく、関係者としてもお呼びがかからず、決して無関係ではないのに、初めから蚊帳の外にいた。

 

 とある一体のパンダの気まぐれにより、大勢の記者達の後ろから、漆黒のボディスーツを着用したジャイアントパンダの横で、総武高校の制服姿で――誰にも気付かれず、気にも留められず、存在を無視されながら、己が関係のないところで明かされる真実に、音を立てて動いていく世界に、ただ衝撃を受けることしか出来ない。

 

 特殊な細工を施しているのか、葉山隼人だけでなく、その隣で屹立するジャイアントパンダにも、背中を向ける記者達は、カメラを向けられている少年少女達は、その存在に気付かない。

 

 パンダは、そんな中で、隣で呻く蚊帳の外に置かれた脇役(エキストラ)に向かって言った。

 

「よく見ておけ――葉山隼人」

 

 未だ衝撃から抜け出せない、おそらくはこの場にいる誰よりも混乱している――自分が陥った地獄の真実(ネタばらし)に、内閣総理大臣と防衛大臣によって語られる世界の裏側に、物語の端っこで打ちのめされている少年に、パンダは渋い声で、静かに語りかける。

 

「世界が変わる瞬間を、物語が動き出す瞬間を――その目で、その心に、焼き付けておけ」

 

 パンダは、今にも目を閉じてしまいそうな少年に言う。

 

 葉山隼人は――そんな言葉を受けて、ゆっくりと。

 

「……………」

 

 目が、心が、潰れてしまいそうな程に眩しい“向こう側”を、しっかりと、その目で見据え、その心で受け止めた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 星人(バケモノ)と戦う特殊部隊『GANTZ』が、どうして少年少女(こどもたち)で構成されているのか。

 

 命を懸けて世界を救う為に戦う――そんな英雄に、どうして子供達がさせられているのか。

 一人の女性記者の、まっすぐ真摯な弾劾に、会見場は沈黙に満たされた。

 

 他のマスコミ達が、そして、テレビ画面の向こう側の国民達が、黙ってその答えを待つ。

 桐ケ谷和人は、新垣あやせは、潮田渚は、東条英虎は――何も答えず、ただ泰然とし。

 

 小町小吉防衛大臣が言葉を発しようしたのを抑えて、蛭間総理大臣は。

 真っ直ぐと女性記者の目を見て、国民に向かって釈明を始めた。

 

「まず、皆様に申し上げたいのは――特殊部隊『GANTZ』は、対星人用に設立された、従来とは全く異なる文字通り()()()部隊であるということです」

 

 これは本当だ。

 自衛隊や警察とは根本から異なる。設立経緯も、形態も、装備も――入隊条件も。

 

「彼等が身に纏っている特殊スーツもその一つです。これは防弾防刃仕様は勿論のこと、身体能力を大幅に上昇させ、超人が如きパフォーマンスを可能にします」

 

 Xガン――撃った対象を内部から破裂させることが出来る拳銃。一度ロックオンすれば銃口を向けずとも対象の破壊を可能にし、複数の標的を同時にロックオンし、同時に一斉破壊することも可能。レントゲン機能により敵の弱点を探すことも出来る。

 

 Yガン――特殊素材によるワイヤーを射出する捕獲銃。ワイヤーネットは地球上のどんな猛獣であろうと千切ることの出来ない程の強度を誇り、こちらもロックオンによる自動追尾機能も搭載している。

 

「他にも、極めて優れた切断機能を持つ伸縮自在の日本刀型の(ソード)。一時的に己に透明化処置を施すコントローラ等。『GANTZ』の戦士達には、およそ数世代先の科学技術を持って作製された特殊装備を与えています」

「……い、一体、どのようにして、それほどの装備を実現させたのですか? い、いえ、それも勿論ですが、それほどの装備を扱わせるのならば、それこそ幼い子供達ではなく、相応の訓練を受けた大人達が、怪物と戦うべきなのでは?」

 

 少年少女が地球を救うヒーローになる――なるほどフィクションでは定番の、熱いストーリーではあるけれども、それを現代世界で実現させては、只の児童虐待である。

 

 未成年とは――子供なのだ。

 大人が守るべき世界の財産であり、少年兵など己が国を滅ぼす愚行に他ならない。

 

 未来を潰して得られる勝利など、紛れもない大敗だ。

 何も知らない少年に剣を、何も知らない少女に銃を握らせてまで、得られるものなど何も無いのが現実だ。

 

 そんな子供達が笑顔を浮かべている筈がない。

 子供達の笑顔を守るのが――大人の仕事である筈だ。

 

「――無論です。特殊部隊『GANTZ』には大人達の戦士もいます。……ですが、彼等のように、少年少女の身でありながら、怪物との戦争に送り出さなくてはならない戦士がいることも、また事実なのです」

「っ! そんなことが許されるとお思いですか? 彼等がそうしなくてはならない、その明確な根拠とは何ですか!?」

 

 蛭間総理が一度閉口し、再度口を開こうとする――その一瞬を制し、その男は端的に言った。

 

「――才能です」

 

 日本の防衛において最大の責務を負う男は――現職の防衛大臣である、小町小吉は言った。

 

 少年兵を享受する理由を、少女兵を戦場に送り出す根拠を――たった一言の現実を持って説明した。

 

「……さ、……才能?」

 

 女性記者は、思わず職務を忘れて言葉を失う。

 

 そのあんまりと言えばあんまりな言い分に、大臣として、大人としてあんまりな開き直りに――だが、決して、笑い飛ばすことの出来ない二文字に。

 

 蛭間は小吉を見遣る。

 小吉は、ただ一度蛭間と目を合わせ、小吉は前のめりになり、蛭間はパイプ椅子の背凭れに体重を掛けた。

 

 国民に向けて、堂々と、小町小吉は供述する。

 

「先程、蛭間総理が説明した通り、特殊部隊『GANTZ』の装備は数世代先の科学技術によって生み出された特別なものです。その性能、威力は申し分ない――だが、決して完璧ではない。その圧倒的なスペックに対して、武器として致命的な欠点があるのです」

「……欠点とは、どういった?」

 

 女性記者の反射的な問いかけに、小吉も間を入れずに端的に言う。

 

「GANTZ装備(アイテム)は、使い手を選ぶのです」

 

 それは、名刀を扱うには名手でなければならない、というわけではない。

 

 筆が弘法を選ぶ――武器の方が、使い手を、戦士を選別するのだ。

 

「銃が引き金を引けば誰でも発砲出来るように、誰がアクセルを踏んでも車は発進するように――科学技術とは、極端なことを言えば、難しいことを誰もが簡単に行えるようにすることが出来る技術のことです」

 

 遠くにいる誰かと会話をする。火を起こす。長距離を移動する。命を奪う。

 多大な労力、時間、技術を必要とするそれらを、簡単に、短時間に、誰でもお手軽に行うことが可能となる――それが科学の力だ。

 

 無論、より上手に扱うことで、よりスペックを引き出すことの出来る者は生まれるだろうが、格差は生まれるだろうが、電源スイッチを押すことは誰でも可能だ。起動させ、スタート地点に立つことは誰でも許される。

 

 だが、GANTZ装備(アイテム)は、その時点で人を選ぶという。

 

 才能無きものには、スタート地点に立つことすら許さない。

 

「GANTZ装備(アイテム)において、最も重要になるもの。それは(Xガン)ではなく、(ガンツソード)でもなく――(ガンツスーツ)なのです」

 

 そう小町小吉は、自身の隣に座る四人の少年少女達を指し示した。

 真っ黒な、光沢のある、近未来的なSF映画のようなスーツを纏った――選ばれし戦士達を。

 

「――桐ケ谷」

 

 小吉はそう小声で呼びかけると、和人は一度瞑目した後、ゆっくりと立ち上がった。

 

 途端、複数回のフラッシュが瞬く。

 和人はそれを意に介さず――手品のように一本の黒剣を取り出した。

 

 記者の海からどよめきが生まれるが、和人はそれに構うことなく、剣を横にし――目を細めながら――剣の柄から、手を放した。

 

 剣が落下し、机に衝突すると――異音が響いた。

 その細身の剣からは想像もつかないような、重いダンベルを落としたかのような音が。

 

「――この通り、GANTZ装備(アイテム)は総じてかなりの重量を誇っています。つまり、ガンツスーツが機能を発揮しなければ、彼等は先ほどの映像のように超人的なスピードで動くことも、怪物の熾烈な攻撃に耐えることも勿論ですが、武器を持って戦うことすら困難になる」

 

 和人が労わるように剣を拾って仕舞う横で、小吉は記者達に向かって語り掛ける。

 

「つまり、ガンツスーツは只の部隊のユニフォームではなく、彼等を――人間を、地球人を星人(かいぶつ)に立ち向かう戦士にする為の、必要不可欠な装備(アイテム)なのです」

 

 だが――そんな夢のようなアイテムにも、欠点がある。

 

 岩に刺さった剣が勇者以外には決して引き抜くことが出来なかったように。

 

 戦士になる為の初期装備(スーツ)は、己に袖を通すに相応しい才能を要求する。

 

「このガンツスーツは、相応しい才能の持ち主でなければ、効果を発揮しないのです。強靭な肉体も、驚異の運動能力も提供しない――只の黒い服になってしまう」

 

 人間を、地球人を――戦士へと変えてくれない。

 

 戦士になれる人間しか、戦士になれない。

 

 凡人に希望を抱かせずに、現実を突きつける――夢のようなスーツだった。

 

「……その才能とは、具体的にどのようなことを指しているのですか? 熟練の大人よりも何も知らない子供達の方が、その才能が溢れていたと?」

 

 大人よりも子供の方が才能に溢れている――なるほど、一つの至言ではある。

 

 少なくとも、子供の方が可能性に満ちているのは確かだ――それを何かになれる、何かを成し遂げることが出来る才能と呼ぶのならば、生きるということが才能を消費するということであるならば、それは一つの答えとなり得るだろう。

 

 大多数の子供達がその才能を無為に消費し、そこら中に有り触れる才能のない大人に成り果てるのだとしても、若く幼い現時点においては、才能はあるだろう。残っているというべきか。

 

 だが、だからといって、そんなことを根拠に、子供の方が大人よりも戦士に相応しいと言われるのは納得が出来ない。

 

 そんな基準で己に袖を通すものを選別しているのだとすれば、その黒服の目はとんだ節穴だと言わざるを得ない――何処に目を付けているのか分からない。

 

「そのガンツスーツとやらは、どのような基準で人を判別、選別しているのですか? AIでも搭載しているのですか?」

「そもそも、大人には着ることが出来ずに子供にだけ反応する、そんな兵器自体に問題があるのでは? そんな兵器を採用する国にこそ、問題があるのでは?」

 

 段々と質問が詰問へと代わっていき、疑問が批判に傾いてくる。

 

 それは蛭間や小吉だけでなく、和人やあやせ、渚も感じ取った。東条は徐々に眠くなってきていた。

 

 小吉はマイクを握り答える。

 

「ガンツスーツがどのような基準で着用者を選別しているか、それは現時点では不明です。ですが、決して少年少女だからこそクリアするといったものではなく、先程申し上げた通り、戦士には大人も大勢含まれています」

「そのような不透明な装備を戦士に与え、戦場へ送り出すことは問題ではないのですか?」

 

 間髪入れずに批判が飛び出してくる。

 あやせや渚、和人はその言葉に込められた見え見えの刃に(己が向けられたわけでもないのに)冷たいものが走ったが、小吉はまるで動じずに言葉を返す。

 

「確かに、余りに最先端技術を追い求めたが故に、未だ全て解明された技術とは言えません。把握しきれていない部分、制御(コントロール)しきれていない部分もあります。本来であるならば、実用化に踏み切ってはならない段階の未来技術であると、こちらもそう判断しています」

「ならば、どうしてそんな制御不可能な兵器を、子供達に持たせて戦場へと送り出したのですか?」

 

 小吉の言葉を思い切り強い言葉へと変換し、明確な悪意を持って紙面を脚色することを前提とした言葉に、和人達は思わず寒気を感じる。

 

(……何となく、分かってはいたけれど……ここはそういう場で、あの人達はそういうことを仕事としている人――大人達なんだよな)

 

 真実を虚実に変えることはなくとも、真実から虚像を作り出すことは出来る。

 嘘を吐かずに、真実を膨れ上がらせる。都合の悪い部分を引き出し、引き延ばし、読み手に自分達の作品を提供する。

 

 和人は、真面目な表情の中、瞳だけが嗤っているその男を注視する。

 

(……真実を追い求めるジャーナリズムを掲げる記者の人もいるんだろうけど……)

 

 ああいった娯楽を提供する感覚でジャーナリストを騙る人間が増えたのも確かだ。誰でも情報を得ることが出来るネット社会だからこそ、その情報が商品になるようになってしまったが故の弊害だろう。

 

 だが、そういった人間達に一挙手一投足を監視されるような生活の中、常に戦い続けるのが――政治家だ。

 

 和人は横目で見る。蛭間一郎と小町小吉は揺るがない。

 

「――これは、昨夜の東京湾近郊の映像です」

 

 映し出されたのは、これまでのような動画ではなく、天から撮影したような航空写真だった。

 

 倒れているのは、怪獣と表現する方が相応しい異形の、魚のような頭に人間のような体の怪物。

 

 そして、その周辺に海のように広がる――夥しい死体群。

 

「っ!?」

 

 モザイク処理をされているが、だからこそ余計に、その中身が想像出来てしまう。

 

 息を呑む記者、そして目を見開く和人達に、小吉は感情の篭らない声で告げた。

 

「――昨夜の池袋大虐殺事件に置いて、事件発生後からしばらくして、現場となった池袋駅周辺に二体の巨大な怪物が乱入するという事態が発生しました。内一体はここに座る桐ケ谷和人が、もう一体はここにいないGANTZ戦士が討伐しましたが……巨大怪物は三体目が存在していました。残る一体は空からではなく東京湾から上陸後、陸路を持って池袋へと進撃を試みていた為、自衛隊及び警察隊を派遣し、足止めからの討伐を試みました」

 

 GANTZ部隊は池袋へと派遣していた為、自衛隊及び警察隊の通常装備のみでの対応をやむなくされたのですが――小吉はそこで言葉を区切り、低い声で言った。

 

「……結果は、ご覧の通りです。怪物の――『星人』の討伐には成功しましたが……生存者の数のおよそ数倍もの犠牲者が、生まれることとなってしまいました」

 

 記者達は、何も言えない。和人も、あやせも、渚も何も言えなかった。

 

(……池袋の外で、そんな戦争があったのか)

 

 何も――知らなかった。

 

 自分の知らない所でも、怪物退治は行われていた。

 

(あのミノタウロスもどきよりも、遥かに巨大――)

 

 この映像の中で倒れ伏せる魚人が、もし昨夜の池袋に上陸していたら。

 

 そう考えるだけで、この魚人討伐を果たした――大人達に。

 勇敢に、果敢に、戦ってくれた戦士達に、和人は胸の中に温かいものを感じた。

 

「彼等もまた、英雄です。……ですが、そんな彼等をもってしても、これだけの犠牲を払わなくては、怪物には――『星人』には勝てない。通常兵器では、限界があるのです」

 

 最早、限界まで、我々は追い詰められているのです。

 

 小町小吉の、日本の防衛の頂点の言葉に、記者達は何も言えない。

 

 何も言えない彼らに、何も知らない彼らに、小町小吉は堂々と言ってのける。

 

「我々には――『GANTZ』が必要なのです」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 息を呑み、その言葉を受け止める彼らに。

 

 桐ケ谷和人は、今日何度目かの感想を、再び抱いた。

 

(……よくもまぁ、堂々と――)

 

 顔色一つ変えず、心拍数一つ乱さず。

 

 これだけの人の前で。どれだけの国民の前で。

 

(――嘘を、吐けるもんだ)

 

 ()()――いや、『GANTZ』が必要だということは、嘘ではない。

 

 嘘なのは、嘘だらけなのは――戦士になるのに、才能が必要だということ。

 

 戦士を選ぶのは黒服ではない――黒球だ。

 そして、黒球は人など選ばない。奴等が選ぶのは死人だけだ。そして、死人だったら、奴等は誰でも構わない。

 

 大人だろうが子供だろうが構わない。

 少年でも少女でも、老爺だろうと老婆だろうと、英雄にしかりクズにしかり、等しく誰でも歓迎する。犬だってパンダだって選り好みはしない。

 

 他人のガンツスーツは着用しようと反応しないが(というがそもそも着ることさえまず出来ないが)、黒球は全員分を専用装備(オーダーメイド)で用意してくれる。戦士であろうとそうでなかろうと、差別はしない。

 

 誰だって、スタートラインには立てる――その後、何もしてくれないだけで。

 理不尽な地獄のど真ん中に置いてけぼりにして、そのまま放っておくだけで――放置するだけで。

 

(……本当に、大人って奴は)

 

 だが、分かってきた。

 ここ数日で、分からされてきた。

 

 きっと――こうならざるを得なかったのだろう。

 

 大人になるということは――子供ではなくなるということだ。

 大人になるということは――矛も盾も、どっちも併せ持たなくてはならなくなるということだ。

 

 矛盾を呑み込むのだ。

 

 正義の為には、悪にならなければならないように。

 誰かを助ける為には、誰かを見捨てなければならないように。

 

 何かを手に入れる為には、何かを手放さなければならない。

 

(化物を殺す為には――人間を捨てなければならないんだ)

 

 蛭間一郎。そして、小町小吉。

 宇宙を見たことがあるという彼らは、果たして、どれだけのものを見て見ぬふりをしてきたのだろう。

 

 どれだけの『星人(ばけもの)』を殺し、どれだけの『戦士(にんげん)』を見殺しにしてきたのだろう。

 

 此処まで『大人』にならなければ――地球を守ることなど出来ないということか。

 

(……俺に、ここまでの覚悟があるのか?)

 

 英雄になる為には――果たして、何を捨てればいい?

 

「……総理。……大臣。……質問が、あります」

 

 静まり返った記者会見場で、再びか弱い声が響く。

 

 その女性記者は、手を震わせながらも、真っ直ぐに二人の大人を見ていた。

 

「……どうぞ」

 

 小吉が促して、女性が起立する。

 

 女性記者は、己に注目が集まる中、祈るような気持ちで問い掛けた。

 

「……ここまでのお話で、総理と大臣の意向は理解しました。……それでも、これだけは問わせてください。未だ、子供である身で、大人達がやるべきことを肩代わりして、怪物と戦うことに――」

 

 彼女は、真っ直ぐに――四人の少年少女を見詰めながら言った。

 

「――彼らは、本人は、どうお考えなのでしょうか?」

 




遂に、語る。

日本中が、世界中が注目する眩光の世界で、四人の少年少女が――その胸の内を、語る。


そして、世界は――英雄を知る。


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Side会見(ミッション)――③

好きなことを、好きなように、好き勝手に話せ。


 

 戦士になるには――才能が必要。

 例え子供でも、才能があるならば、戦士にさせる。

 この国は今、化物に対抗すべき戦士が必要だから。

 

 なるほど、それが国の考えであることは理解した。

 そういう状況なのだろう。切羽詰まっているのだろう。

 

 だが――それでも。

 少年兵を使おうとも。少女兵を用いようとも。

 

 本人の意見を無視しての、子供達の意思を圧殺しての徴兵ならば――それはどれだけ綺麗事で盾をしても、どれだけ容赦ない現実を突きつけようとも、許されることではない。

 

 例え、世界が滅ぼうとも、許されることではない。

 そう――女性記者の目は訴えかけてきた。

 

「…………」

 

 この意見こそが綺麗事だと、現実に即していないと切り捨てることは簡単だ――ここが公の場でなければ。

 

 例え、現実を見ていない夢のような意見でも、それが綺麗である以上、公の場では両断出来ない。

 力を持つ。たとえ、真っ白な心で言おうと、真っ黒な思惑を持って用いようと、綺麗事とは、決して無視できない力を持つのだ。

 

 蛭間一郎と小町小吉は、日本を代表するものとして、日本を預かるものとして、後半年の間、束の間の平穏を維持しなくてはならない。

 

 その為には、この綺麗事にも真っ向から対抗しなくてはならない。

 嘘を吐いてでもいい顔をして、納得は出来なくても反論を封殺しなくてはならない――封じて、殺さなくてはならない。

 

 例え、現実が有無を言わせぬ徴兵だろうと、彼女が許せない真実であろうとも――世界を滅ぼすわけにはいかないのだ。

 

「分かりました。それでは最後に、これまで『星人』と戦い続け、日本を守り続けてきた、彼等に言葉を頂いて、この会見を締めさせていただきたいと思います」

 

 小吉はそういうと、マイクを横へと回した。

 

 和人がマイクを受け取ると、小吉はそのまま目で一番端まで回せと指示する。

 その指示通りに和人はあやせに、あやせは渚へと手渡す。

 

 渚は受け取ったマイクを渡そうとするが――東条英虎は普通に寝ていた。

 

「…………」

『…………』

【…………】

 

 横に並ぶ仲間達が、会場いっぱいの記者達が、カメラの向こうの国民達も思った。

 

 マジか、コイツ――と。

 

 結果、渚が東条を起こしてマイクを握らせ、端的に請われていることを教えるまで少々の時間が掛かった。

 

「えぇと、なんだっけか。わりぃ、寝てて聞いてなかった」

 

 知ってた。

 全国民に生中継されているこんな場面で居眠り出来るとかどんな心臓をしているんだと、横に座る仲間達も記者達も思ったが、引くを通り越して慄いている記者達に対し、和人やあやせや渚は引くどころか苦笑していた。

 

 これでこそ、東条英虎だと。

 

 和人は、だからこそ東条を一番手に小吉は指名したのかと思ったが、今は東条の言葉を聞こうと耳を傾けた。

 

 何故なら、ここから先は、蛭間や小吉すらも舵を握っていない、()()()()()()()だからだ。

 

 小吉と蛭間は、この記者会見が始まる前、和人があやせや渚や東条達と合流させられた後、全員が集まった場所でこう言っていた。

 

 

 

「これから君達には、我々と共に記者会見に臨んでもらう。基本的に俺や総理(イチロー)が応対するが……彼らはきっと、君達の言葉も聞きたい筈だ」

 

 ある日――突然、それまでの日常が木端微塵に破壊されて。

 

 見たこともない怪物と、聞いたこともない悲鳴の中、嗅いだこともない空気の中で、触ったこともない武器の手触りだけを頼りに、味わったこともない唾液の味を感じて。

 

 いつまでもいつまでも終わらない、戦争に次ぐ戦争に次ぐ戦争の日々に身を置くこととなった。

 

 何処にでもいる子供だった筈の――戦士(英雄)にさせられてしまった少年少女(こどもたち)の言葉を。

 

「…………」

 

 和人は、あやせは、渚は、東条は、何も言わずに、大人を見る。

 

 蛭間一郎は、小町小吉は、そんな子供達に、こう言った。

 

「その時は――難しいことは、何も考えなくていい」

 

 例え、国を追い込むことになるような言葉でも、俺達に対する恨み言でも、これまでの戦争に対する激情でもいい。

 

「好きなことを、好きなように、好き勝手に話せ」

 

 それが、こんな所まで来てくれた、こんな目に遭わせてしまっている子供(きみ)達に対しての、せめてもの――自由だ。

 

 

 

(――そう、小町防衛大臣は、笑って言った)

 

 和人は横に座る東条を見遣る。

 

 あんなことを言っていたが、それでも皆、話す内容は熟慮するだろう。

 

 黒い球体の部屋を運営していた大人達に対し、思うことはそれぞれ山のようにあるだろうが――それでも、小吉の言う通り、『GANTZ』はこれからも必要な存在だ。

 通常兵器だけで挑んだ結果、あれ程の惨劇が生まれてしまったという事実を映像として突き付けられた、今となっては猶更だ。

 

 ここで余計なことを言い、余計な真実を暴露し、小吉と蛭間を失墜させても、今の和人達にとっては何の得もない。

 あの黒い球体の部屋について碌に何も知らない首相がこの状況で新たに生まれても、ただ混乱の坩堝に叩き落された日本が生まれるだけだ。

 

 だから好き勝手に好きなことを言えと言われても、言えることは限られてくる。言える思いも、限られてくる。

 

 しかし、だからこそ、ぶっちゃけ――怖い。

 

 そんな思惑だとか忖度だとか裏事情だとか、この男には――東条英虎には、きっと通用しないから。

 ていうかたぶん何も考えてないし、きっと何も分かっていない。一応、あの場には東条もいたけれど、小吉の言葉を覚えているかどうかも怪しい。この記者会見も途中から寝てたし、コイツ。

 

(……大丈夫だろうか?)

 

 和人とあやせと渚(更にちょっと不安になってきた小吉と蛭間)が、そんなことを思う中。

 

 東条英虎は、座ったままパイプ椅子に凭れ掛かりながら話し出す。

 

「――まぁめんどうくせぇことは分かんねぇが、俺が此処にいるのは、此処が面白れぇからだ」

「……面白い?」

 

 ああ――と、東条は女性記者のオウム返しに言う。

 

 胸を逸らして堂々と、迷いなく告げる東条の言葉に、全国民が注目していく。

 

「此処に居れば、俺は面白い喧嘩が出来る。此処に居たら、俺は面白い奴等に会える。そんで――此処に居れば、俺は面白れぇくらい……強くなれる」

 

 東条英虎が放つ雰囲気に、記者達は息を呑む。

 

 ぎらぎらと輝く猛獣の瞳が見詰めているのは――己の右手。

 

「『GANTZ(ここ)』が――俺の一番手っ取り早い近道だ」

 

 ただ、そんだけだ――と、東条英虎は、笑う。

 

 それだけが全てだとばかりに、猛獣のように笑う。

 

――俺の元へ辿り着け、トラ。 

 

 この場所で暴れ続けていれば、必ずあの男達の元に辿り着ける。

 

――……お前が殺しに来るその日を、俺は心から待ち望む。

 

 東条は、何かを掴むように拳を握る。

 

 そんな威圧感を振り撒く男に対し、記者達は何も言えずにいる中、東条は「ほらよ、渚」とマイクを早々に隣に明け渡し「ええ!?」と渚は驚きながらも大人しくマイクを受け取った。

 

「えぇと……潮田渚です。今年の春で中学三年になりました」

 

 東条の空気に呑まれかけていた記者達が、再び騒めく。

 

 先程の男(東条英虎)は、若いといっても正直子供には見えない、戦士と言われても納得の大男だったが、そんな男の隣に座るこの少年は、見るからに幼く、小さく――案の定、義務教育も終えていない、紛れもない子供だった。

 

 とてもではないが、戦士には見えない。戦う()であるようには思えない。

 

 記者達の見る目が変わる――戻る。

 可哀そうな少年兵を見る目に。政府を貶める攻撃材料を見る目に。

 

 そんな空気の中、潮田渚は、しばし困った風に頭に手をやりながら――やがて、話す内容が整ったのか。

 

 笑顔で――言った。

 

「僕は、今年の春――挫折をしました。……こんなこと、子供が何を言ってるんだと思われるかもしれませんが……人生に、絶望してしまう程の失敗をしました」

 

 記者達が、静まり返る。

 様子を伺っているのか、隙を探しているのか――渚の言葉に、耳を傾ける。

 

「僕は諦めていました。希望を。未来を。人生を。変化を。期待を。警戒を。認識を。……この先の未来に希望なんてなくて、この先の人生に変化なんてなくて、誰にも期待も寄せられず、誰にも警戒も払われず、誰にも認識すらされない。……僕はずっと、そんな風に生きていくのだと――そんな風に死んでいくのだと、そう思っていました」

 

 そう――諦めていました。

 

 小さな少年は――小さな少年兵は、そう言った。

 

 笑顔で、言った。

 

「…………」

 

 誰も、何も言わない。

 笑顔で壮絶な諦念を語る少年に、何も言えない。

 

 水色の少年兵は、一度瞑目し、笑顔をとびっきりに咲かせて言う。

 

「だけど――そんな僕は、殺されました」

 

 その笑顔に、記者達は目を奪われる。

 その言葉に、少年の横に並ぶ仲間達は――何も言わない。

 

「僕は、此処で生まれ変わりました。……ほんの短い間に、本当に色んなことがあって……僕は、変わったのかも、しれません」

 

 水色の少年兵は、そこで初めて、ほんの少し俯いた。

 表情は変わらず穏やかな笑顔だったけれど、そこに一瞬、影が差したようにも――だが。

 

 渚は再び顔を上げて、再び笑顔で――死神の顔で言う。

 

「僕は、夢が出来ました」

 

 憧れに出会えました。目標に出会えました。

 

「――才能を、見つけることが出来ました」

 

 少年兵は、将来を語る。

 未来を諦めていた少年が。希望を諦めていた少年が。人生を諦めていた少年が。

 

 少年兵となった今、夢見る少年として――将来の夢を語る。

 

「辛いこともあるけれど……でも、僕は、『GANTZ』に出会えて、よかったと思います」

 

――()りましたよ、“()()”。

 

 潮田渚は、あの瞬間を思い出しながら言う。

 

 初めて人を殺した――夢に向かって、一歩を踏み出せた、あの瞬間を。

 

「『GANTZ(ここ)』が――僕の進路(進む路)です」

 

 水色の少年が――水色の少年兵が。

 小さく、弱弱しい、義務教育すら終えていない中学生が。

 

 笑顔で行った進路表明に、百戦錬磨の記者達は黙する――黙することしか、出来ない。

 

 その間に、渚は「はい、どうぞ新垣さん」と隣に座るあやせへとマイクを渡し、あやせは「ありがとうございます、渚くん」と受け取る。

 

 両手にマイクを持ったあやせは、呆然とする記者達に向かって明るく言った。

 

「こんばんは、新垣あやせです。よろしくお願いします」

 

 と、流れるように言葉を紡いだ。

 

 流暢な敬語だった。流暢なお辞儀だった。

 無数のカメラを前に、無数の大人を前に、まるで動じることのない女子高生。

 

 既に記者達は彼女の正体に気付いている。

 先程までの二人と違い、あるいは隣に座る英雄以上に、ジャーナリスト達にとっては有名な人種である彼女は――やはり、新垣あやせだった。

 

 どうして、あの新垣あやせが此処に――これまで、余りにも衝撃的な情報の暴露が続いたこの記者会見において、どうしても疑問を抱く順番が後回しになっていたが、この単体だけでも平素ならば紙面のトップを飾れるようなニュースだ。

 

 現役女子高生モデル――ここまで血生臭い戦場と無縁な存在も珍しい。モデル界も一種の戦場だと言えばそれまでだが、美しく最新ファッションで着飾りスポットライトの中で戦う彼女と、硝煙と絶叫の中で真っ黒な戦闘服を纏って戦う彼女が易々と結びつかないことも確かだろう。

 

 芸能人――それは政治家と同じかそれ以上にジャーナリスト達の大好物だ。此処で下手なことを言えば、明日の朝刊の表紙は難しくとも、ネットニュースの一文くらいにはなるだろう。

 

 そんな欲を舌なめずりで露わにする一定の記者の匂いを、新垣あやせは肌で感じながらも――やはり笑顔で口を開く。

 

 天使のような、微笑みだった。

 堕天使に見えた人も、もしかしたらいるかもしれないけれど。

 

「わたしがこの服を着て、この場にいることに驚いていらっしゃる方もいるかもしれません。ですが、今はわたし個人が長々とお時間を頂く場ではないので、後日、個人的にご質問を受け付ける場を設けたいと思います」

 

 なので、今は簡潔に――あやせは流れるように、(のび)やかに言葉を紡いでいく。

 それは大人に一切隙を見せない戦闘態勢で、曲がりなりにも芸能界という魔物の巣窟で戦い続けて磨いてきた大人への対抗法でもある。

 

「子供である身で、戦場に出て戦うことをどう思うか――そういったご質問でしたね。勿論、怖いです。ですが『星人』は既に、わたし達にとって身近な恐怖となりつつあります。誰かが対処しなくてはならない脅威です。そんな存在に対抗出来る立場に選ばれた以上、全力を尽くして精進していきたいと考えています」

 

 麗しの少女兵は、お手本のような決意表明を流れるように暢やかに答えていく。

 お手本だからこそ誰にも文句を付けられず、だからこそ誰にでも言えて、誰にでも本音ではないと看過される――そんな百点満点で解答欄を埋めていく。

 

 誰もが、そう思った。

 

 だが――あやせは、そこでピタリと、言葉を止める。

 

 不自然な間が空いて、記者達が少し騒めき始める。

 その時、隣に座る仲間達は、先程の小吉の言葉を思い返していた。

 

――『好きなことを、好きなように、好き勝手に話せ』

 

「…………」

 

 小吉は苦笑する。

 

 そして、あやせは、天使の微笑みに、ほんの少し――堕天使を垣間見させた。

 

「――突然ですが、皆さんにとって、正義とは何でしょうか?」

 

 あやせの声のトーンは変わらないままだったが、しかし、明らかに空気が変化した。

 

 お手本のような台本通りの会見から、少しレールを外れる音が聞こえる。

 

 記者達は、自然と臨戦態勢を整え始めた。

 

「わたしにとって正義とは――正しいことです」

 

 正しいこと――それこそが正義だと、新垣あやせは言う。

 

 間違っていないこと。歪んでいないこと。乱れがないこと。偽りではないこと。

 

 本物――であるということ。

 

「わたしのような若輩者が語れるほど軽い言葉ではないと思います。それでも、こういった立場を、こういった力を与えられた者として、しっかりと向き合わなくてはならない概念だとも思っています。皆様一人一人に、それぞれの正義があるのでしょう。それぞれの形の、それぞれの色の、それぞれの正義が。そして、その全ての根幹には――正しさがあるのだと思います」

 

 己が正しいと信じる概念――それこそが正義。

 

 だからこそ、正義は守るもので、正義は掲げるもので、何よりも――正義は貫くものであると、あやせは言う。

 

「わたしは『星人』という怪物と戦う立場となりました。そのことに、光栄な思いを感じると同時に、大きな不安も抱いています。……ですが、このことだけは、全ての人に――約束します」

 

 艶やかな黒髪の少女兵は。現役の女子高生モデルの戦士は。

 

 新垣あやせは、天使の微笑みを消し、堕天使の微笑みすらも豹変させて。

 

 画面の向こう側を――睨み付けながら、言う。

 

「わたしは――逃げない」

 

 その言葉は――その決意は。

 

 果たして何色の感情を持って放たれたものなのか、国民の大多数は分からなかった。

 

「わたしは貫きます。わたしは曲がりません。わたしは――折れません。真っ直ぐに、己の正しさを、『本物』だと信じて戦います」

 

 あやせの瞳は、真っ直ぐに見ていた。

 

 カメラの向こう側で、きっと自分を見ているであろう、誰かを。

 

 きっと自分を、見ていないであろう、誰かを。

 

「見ていてください――新垣あやせ(わたし)を」

 

 新垣あやせは、何処かの誰かを。

 

 睨め付けながら、見せつける。

 

「『GANTZ(ここ)』で、わたしは――『本物』になります」

 

 麗しの少女兵の、確固たる決意表明は、再び記者会見場に張りつめた静寂を齎した。

 

 あやせは一呼吸の後、再び天使の微笑みを取り戻して、流れるようなお辞儀と共に「ありがとうございました」と礼をした後、本日の主役へとマイクを手渡す。

 

 黒い髪に黒い瞳の黒い衣を纏った、線の細い少女と見紛うような美少年。

 

 呆然としていた記者達が急いで己の記録媒体(得物)を構え直す。

 今、この国で最も注目を集めているといっても過言ではないこの少年の言葉を、一言一句たりとも逃すことなどプロの名の下に許されなかった。

 

 会場の空気が、先程とは違った意味で張り詰める。

 

 黒い少年は、一度小さく溜息を吐いた――覚悟を固めるように。

 

 そして、先程までの三名とは異なり、意を決し立ち上がった。

 

 途端、一斉にフラッシュが焚かれる。

 目を潰すような光の中で、少年は瞬きすらせず、堂々と現実世界の己の名を名乗って見せる。

 

 仮想世界の英雄としてのキリト(キャラクターネーム)ではなく、現実世界で勇者となるべく宿命を背負わされた――どこにでもいる普通の高校生の名前を。

 

「――はじめまして。桐ヶ谷和人です」

 

 もう逃がさないとばかりに、もう逃げられないと突き付けるように、シャッター音が鳴り響く。

 

 それは数十秒にも及び、和人にはまるで永遠に続くかのように感じられた。

 

 喉が急激に渇き、掌に汗が滲む。

 全国民の、全世界の注目が己に集まっていることを自覚し、唐突な目眩が襲う。

 

 しかし、もう、目を瞑ることも、呼吸を整えることも許されない――もう、こうして矢面に立った以上、弱みは見せられない。

 全国民の期待を背負う英雄には、全世界の平穏を守る勇者には、弱さを見せることすら許されない。

 

 強く、気高く、美しく、正しい――そんな戦士にならなければならない。

 これは、そんな勇者の鍍金を塗装する為の、デビュー会見なのだ。

 

 和人は――小さく息を吸い、そのまま小さな声量で、その言葉を紡いだ。

 

「――昨夜、池袋において……夥しい程の、血が……流れました」

 

 黒い少年の静かな言葉は、報道陣のシャッター音を掻き消す。

 和人は、俯きながら、ゆっくりと探すように語る。

 

「現在、判明しているだけで死者は数百名……千にも届くかもしれないと。負傷者も含めれば、その人数は――計り知れません」

 

 黒い少年は、その髪よりも、纏う衣よりも、黒く染まるその瞳で、昨夜の地獄の戦場を語る。

 絶叫と、絶望の中で、絶命していった、無数の生命を思い、拳を握る。

 

「――全ては、自分達の力不足です。……俺達が、守れなかった生命です……」

 

 桐ケ谷和人は、そういって項垂れるように頭を下げた。

 パシャ、パシャと断続的に数枚の写真に収められるが、嵐のようにフラッシュを焚かれることはなかった。

 

 しばしの黙祷のようなそれの後、和人は顔を上げ、力強い声色で言葉を紡ぐ。

 

「……今回の事件により、『星人』は隠れ潜むことを止めました。これからは、今までのように一般人に見つからない夜の中だけではなく、人目も憚らずに人間を襲う『星人』も……現れるかもしれません」

 

 だからこそ、俺達も、表舞台に立つことを決意しました――和人はそう言った。

 

 隣に、自分達をこんな舞台に祭り上げた大人が堂々と鎮座する横で、求められた仮面を被りながら、望まれた役割を演じる為に。

 

「――約束します」

 

 桐ケ谷和人は――宣誓する。

 

「――例え、どれだけ強い敵が相手でも。例え、どれだけ恐ろしい化物が相手でも。例え、どれだけ凶悪な怪物が相手でも」

 

 漆黒のスーツに包んだ躰を全国民に晒しながら、和人は虚空に向けて手を開く。

 

 そして、その掌の中に、どこからともなく照射された電子線により――漆黒の剣が召喚される。

 

 まるで選ばれし勇者の元に、伝説の剣が現れるように。

 

 

「――この剣で、その全てを斬り祓ってみせると」

 

 

 和人は夜空のように美しい黒剣を力強く握り――掲げる。

 

 誓いを立てる騎士のように。真っ黒な少年兵は、全国民に――全世界に宣言する。

 

 

「『GANTZ(おれたち)』が――世界を救ってみせる」

 

 

 噛み締める様に吐き出された――勇者の決意。

 それは、桐ケ谷和人という少年を――英雄とする、決定的な言葉だった。

 

 沸き立つ報道陣、そして国民達。

 

 世界が動く。歴史が変わる。

 星人と人間の戦争に、また一つの革命が起きる。

 

 爆発したかのように動き出すマスコミに対し、横に並ぶ仲間達は無言だった。

 それぞれの感情と共に、その黒い小さな背中を見詰める――たった今の宣言により、世界の命運を背負い込むことになった、その背中を。

 

 小町小吉は、蛭間一郎は、何も言わず、何も答えない。

 

 桐ケ谷和人は、その剣を下し、天井を見詰める。

 

 これだけ眩い(フラッシュ)の中にいるのに、そこは闇のように暗かった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 こうして――記者会見は終わった。

 

 ほんの少しの真実と、真実のように語られた創作により、劇的に世界を変えて。

 

 そして――たった一人の少年を英雄へと仕立て上げて、祭り上げて、歴史を動かし。

 

 現地球人である『人間』と、異星からの外来種である『星人』との戦争に、新たに革命を齎した、この会見は。

 

 後に【英雄会見】と呼ばれ、重大な変換点(ターニングポイント)として語られることになる。

 

 

 

 全てが終わり、全てが始まる、最後の審判の日まで。

 

 

 真なる終焉の日(カタストロフィ)まで――残り、200日。

 

 

 

 

 









 葉山は、一歩、一歩とふらつくように後ずさり――壁に寄り掛かる。

 フラッシュが奔流のように浴びせかけられる、その背後で、薄い暗闇の中で、たった一人――絶望する。

「葉山隼人。これが、今の貴様の立ち位置だ」

 パンダの言葉が、小さく、葉山の耳に届いた。
 だが、その意味は分からない。ただ、きっと、どうしようもなく、どうしようもないということだけは分かった。

 分かった。分かっていた。
 この世界が――現実なのだということは。

 黒い球体に支配された、理不尽な箱庭なのだということは。

 自分は、その中に気紛れに放り込まれた、只の一体(ひとつ)人形(キャラクター)なのだということは。

 だが――これは――こんなのは――。

「…………ふざ…………けるな――――っっ」

 葉山隼人は、どっぷりとした真っ黒な感情の中で、呻くように呪詛を吐いた。

 忘れない――忘れない。
 目が潰れそうな光の外側で、葉山は、何かに押し潰されそうな重圧に逆らうように――顔を上げて、焼き付けた。

 この光景を忘れない。この感情を忘れない。

 この理不尽を、決して忘れない。

 刻み込んで、焼き付けて、刷り込んで、痛みと共に記憶する。

「――そうだ。忘れるな。折れるな。潰れるな。そうすれば、お前は、きっと見返せる」

 誰にも光を向けられず、誰にも知らない場所で人知れず、何かと戦う少年に、ただ一頭のパンダは言った。

 今にも潰れそうな少年に、今にも折れてしまいそうな可能性に。

 けれど、もしかしたら、この哀れな種火が――誰もが忘れられない英雄になれるかもしれないという分の悪い賭け。

 だが、パンダは――それこそが、浪漫(ロマン)だとばかりに。

 何の配役も与えられず、ただ数字上の一として消費される筈だったエキストラが。

 誰にも期待されていない成果を上げ、奇跡を起こし、物語を動かす。

 そんな熱い展開が芽吹くかもしれない種を、この日、とあるパンダはこっそりと撒いた。

(――後は、この男次第だな)

 人間としての尊厳を悉く失った機獣(パンダ)の、浪漫を求めるこの小さな遊び心が。

 遠からず未来、誰も予想しなかった未来を齎すことになるのだが――。

 それはまだ、誰も知らない。

 まだ誰も――彼を、知らない。


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Side戦争(ミッション)――①

小町……俺は。

ちゃんと、幸せに死ねそうだ。


 

 

 

 その日――地球人人間は、『運命られた終焉の日(カタストロフィ)』を乗り越えた。

 

 

 

 圧倒的な戦力差を覆し、絶望的な文明差を攻略し、奇跡的な大勝利を成し遂げた。

 

 多くの同胞を失って、身にも心にも癒えぬ傷を負って、仲間の屍を踏み越えて、およそ勝利以外の全てを失いながらも――明日(未来)を手に入れた。

 

 生まれ故郷の、青い惑星を守り抜くことが出来た。

 

 

 そして――今。

 

 とある三人の人間が、全宇宙の生物の誰も足を踏み入れていない、紛れもなく前人未到の空間である――その『部屋』へと辿り着いていた。

 

 戦い、戦い、戦い抜いた、その果てに。

 最果ての地へと――この世とあの世の狭間の彼方へと。

 

 きっと何処にでもなくて、だけど何処にでもある――その『部屋』に。

 

 機械的な黒い衣を纏った――三人の戦士が、迷い込んだ。

 

 その『部屋』は、摩訶不思議な部屋(空間)だった。

 

 どれだけ広いのかも分からない。どれだけ狭いのかも分からない。

 どれだけ高いのかも分からない。どれだけ低いのかも分からない。

 

 壁が何色なのかも分からない。床が何で出来ているのかも分からない。

 そもそも、どこからが壁で、どこまでが床なのか、それさえも上手く認識出来ない。

 

 分かるのは――ここが『部屋』であるということ。

 

 そして、自分達の背後に――『黒い球体』があるということだ。

 

 彼は戸惑っていた。

 右を見ても、左を見ても、何も分からない。

 状況が上手く掴めず、情報が上手く集められない。

 

 この『部屋』には、少なくとも二人の同胞と共に侵入した筈だ。

 あの『黒い球体』には、二人の仲間と共に吸い込まれた筈だ。

 

 だが、今、此処には自分しかいない。自分しか分からない。

 

 この『部屋』には、自分と、この『黒い球体』しか居ない。

 

 

――【やあ。よく来たね、地球人】

 

 

 否――存在した。

 この『部屋』には、自分と、『黒い球体』と、もう一人――誰かが居た。

 

 いや、誰かではなく、何かかもしれない。そもそも誰でもなく、何でもないかもしれない。

 

 声は聞こえた。

 まるで少年のようでもあったが、老婆のようでもあった。

 聞き慣れた日本語のようでもあったし、聞いたこともない外国の言葉だったようにも思えた。

 

 目を向ける。そこにいる。

 誰でもあるような、何でもないような――存在が、いる。

 

 一房の飛び出た黒髪。濁り腐り切ったような黒い瞳が特徴的な、その黒衣の戦士は問う。

 

 お前は誰だ――と。

 

 声を出せたかすら分からない。

 だが、その正体不明は、こちらの意思が伝わったかのように――笑った気がした。

 

 実は怒ったかもしれないし、泣いているようにも感じられた。

 何でも分かったし、何も分からなかった。

 

 正体不明は、こう言った――かに、思えたし、思えなかった。

 

 

――【僕のことなんてどうだっていい。地球(きみたち)は勝った。それが全てだ】

 

 

 少年のようにも老婆のようにも醜男のようにも美女のようにも見える正体不明は。

 少女のようにも老爺のようにも醜女のようにも美男のようにも聞こえる音声を出した。

 

 

――【奇跡を成し遂げた君達に、ほんの少しばかりのご褒美だ。宇宙初の栄誉を、どうか快く受け取って欲しい】

 

 

 その時――この『黒い球体の部屋』の、何かの扉が開かれる。

 

 正体不明の背後から突如として現れたようにも、ずっとそこにあったかのようにも思える、その扉から――何かが解き放たれ、『部屋』を変える。

 

 景色が変わる。音響が変わる。芳香が変わる。感触が変わる。風味が変わる。

 まったく何もなかったかのような、まるで何でもあるような、そんな謎の空間が、確かな意味を持ち始める。

 

 何かを現し始める。何かを表し始める。

 

 脳に直接響かせるような、形容不可能な何かが聞こえる。

 

 

――【刮目せよ。傾聴せよ。嗅分せよ。体感せよ。賞味せよ。――人間よ】

 

 

 世界が、変わった――その瞬間。

 

 一房の飛び跳ねた黒髪と、整った顔立ちを台無しにする黒瞳が特徴的な、その黒衣の戦士は。

 

 こんな、正体不明の、音声を聞いた――ような、気がした。

 

 

 

――【これが――『真理』だ】

 

 

 

 そして――。

 

 

 

 

 

 彼は――【終焉】を見た。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 どこにでもある、普通の家庭だった。

 

 長男が下の子の面倒をみる――有り触れた話だ。

 両親が下の子ばかりを可愛がり、長男が寂しさを感じる――有り触れた話だ。

 (おとこ)より(おんなのこ)の方が可愛い――どこにでもある、有り触れた話だ。

 

 だから、比企谷八幡(おれ)は、どこにでもある、ごく普通の家庭で育った。

 

 虐待など受けたことはない。育児放棄などされたこともない。

 服も与えられたし、飯も食わせてもらった。旅行には連れて行ってもらえなかったが、家で一人好き勝手に過ごす方が俺にとっては理想の休日だったので何の問題もなかった。

 

 そりゃあ俺と小町との扱いの差に思うことが一度もなかったとは言わないが、目の腐った面倒くさい長男より、よく笑って素直なあざと可愛い妹の方を贔屓するのは、親云々よりも人として当然のことだ。誰だってそうする。俺だってそうする。

 

 そもそも、両親はずっと女の子が欲しかったのだとは聞かされていた。

 初めて生まれた子供がこんな俺みたいなヤツで、そして次に生まれたのが待望の女の子で、それもあんなにカワイイ天使だとしたら、そりゃあ猫可愛がりするだろうさ。

 

 それに、両親はそんな溺愛する小町にすら、滅多に会えない程に忙しい大人だった。

 

 食費は欠かさず置いておいてくれたが、正直、俺はお袋の味というものを覚えていない。滅多になかった母ちゃんの偶の休みには(小町の好物だが)腕を振るってくれて、それがすげえ美味かったことは覚えているが、具体的にどんな味だったのかは、もう覚えていない。家庭の味は小町の味に塗り替えられた。

 

 小町が小さい頃は、俺が自分で小町の分の飯も作っていた。小学生に上がった頃にはもう台所に立ち、包丁を握っていた。

 それほどまでに俺が小さく、そして小町が更に小さい頃から、家にいない両親だった。

 

 親父も母ちゃんも同じ会社に勤め、それぞれそれなりに偉い立場にいるのだとは聞いていた。

 完璧超人の母ちゃんはともかく親父に関しては(性格的に)半信半疑だったが、確かに親父もスペックだけは母ちゃんに負けず劣らずの超人だった。

 

 将棋、チェス、囲碁やオセロといったボードゲーム。トランプや花札といったギャンブルゲーム。果てはテレビゲームまで、俺は一度も親父に勝ったことがない。

 あのクソ親父は小学生の息子相手にトラッシュトークなどの盤外戦術もふんだんに使い、ラスベガスのカジノ真っ青のイカサマ、トラップ、ブラフにハッタリなんでもござれで全力で勝ちにきやがった。そんでこれ以上なく息子を叩き潰した後、世界一ムカつく顔と言葉で煽って死体蹴りをしてきやがる。その後、母ちゃんに拳骨くらうまでがワンセットだ。小町には猫撫で声で接待プレイをするくせに。

 

 つまりは――うちの両親は高スペック夫婦だった。

 それ故か、家には俺ら兄妹が寝静まった頃に帰ってきて、俺らが目を覚ます前には家を出ているみたいな生活が続いていた。職場に泊まり込むこともしょっちゅうだった。

 

 だからこそ、本当に珍しく取れた偶の休みには、両親はそれはもう小町を溺愛した。

 小町の好きな物を作り、小町の行きたい場所に連れて行ってやり、小町の欲しい物を買ってやり、目一杯に小町成分を補充した。

 

 小町もそんな両親のことが大好きで(思春期に入ってからはめっちゃ構ってオーラを出してくる親父を気持ち悪がっていたが)、両親の休みを何日も前から楽しみにしていた。

 

 俺は、そんな家族を、見ていた。

 

 お互いを愛し、笑顔で団欒し、幸せという言葉を体現した光景を。

 

 どこにでもある、普通の家庭を。

 

 俺は――ずっと見てきた。

 誰よりも近くで、ずっと、見てきた。

 

 俺は知っている――母ちゃんが、そして親父が、どれだけ小町を愛していたかを。

 俺は知っている――どこにでも有り触れた、だからこそ、この世界で最も温かい宝物であった家族を。

 

 それを、俺はぶっ壊したんだ。

 

 だから俺は、こうして仇を討たれている。

 

「――八幡。お前……ほんと、どうでもいいくらいに雑魚(よわ)いな」

 

 親の顔が見てみたいぜ――そう親父は、徹底的にボコられ、雪ノ下邸の壁に凭れ掛かる俺を見下ろす。

 

 ガンツスーツは悲鳴を上げるように鳴き叫び、ガンツソードは叩き折られ、XガンもYガンも手の届かない所に弾き飛ばされた。

 

 辺り一面を真っ黒な火が走り、親父はその黒火と同じくらい、黒く濁った瞳を俺に向ける。

 

 見慣れた眼。どこかの誰かに――そっくりな目。

 

「…………八幡。テメェ――」

 

 世界で一番嫌いな存在に、世界で一番嫌いな目を向けられながら、俺は今、殺されようとしている。

 

「――何、泣きながら、笑ってやがる」

 

 これが泣かずにいられるか。これが、笑わずにいられるか。

 

 こんな日が来るとは思わなかった。

 だが、いつかきっとこんな日が来るだろうとは思っていた。

 

 

 小町……俺は。

 

 ちゃんと、幸せに死ねそうだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 時間にして――僅か、五分。

 

 それが、比企谷晴空(はると)vs比企谷八幡、親子対決の所要時間だった。

 

「…………」

 

 黒火で外周を描かれた円形闘技場の外側で、夫と息子の戦いを無表情で眺めていた美女――比企谷雨音(あお)は、スーツのモニタを見詰めながらそれを確認した。

 

《八幡星人》。

 自らの息子を標的(ターゲット)として始まった、この『入隊試験』を兼ねた番外戦争(ミッション)

 

 その呆気ない幕切れに、雨音は眼鏡の奥の瞳をほんの僅かに細める。

 

 瞬間――背後を振り向かずに漆黒の矢を振るう。

 細く短いが硬度は高いその黒矢は、雨音の背中に向けて振るわれた白刃を弾き飛ばした。

 

「……どういうつもり? これは、CION(わたしたち)に対する背信行為と考えていいのかしら?」

 

 寄生(パラサイト)星人――と、己に向けられた殺意に、行われた殺人未遂に、雨音は目だけを向けて言う。

 

 眼鏡の奥から放たれる冷たい眼差しに、それ以上の極寒の眼差しを持って――雪ノ下陽光(ひかり)は返した。

 

「……それはこちらの台詞です。これはどういうことですか?」

「見ての通りよ。私の息子は星人だったの。だから……これから駆除するのよ」

「――ッ!!」

 

 ギリッ、と。

 和服姿のお淑やかな美女は、その可憐な口を歪ませ――怒声を放つ。

 

「――ふざけるなッッ!!!」

 

 途端、雪ノ下陽光の、そして比企谷雨音の周囲の黒火が――凍り付く。

 晴空も一瞥する程に広がる凍気に、だがその冷たい殺意を向けられた雨音は動じない。

 

「それを――ッ!! この私に向かって言うのかッ!! 他でもない、お前達がッッ!!」

 

 黒火に支配された戦場に置いて、雪ノ下陽光の周囲に氷の刃が発生する。

 それはまるで、氷の中でさえ轟々と燃え続ける黒い火種のように――黒く冷たい、燃えるような殺意。

 

 雨音はまっすぐに陽光を見据えながら、黒弓に黒矢を静かに(つが)える。

 

 一触――即発。

 文字通り、何かが触れるだけで勃発しそうな雰囲気に――だが。

 

 二人の美女の殺意のぶつけ合いを、乱入者が間に入って止める。

 物騒な美女の殺し合いを制したのは――雪ノ下豪雪だった。

 

「――陽光、やめろ。今、ここでCIONを裏切れば、破滅するのは寄生星人(われわれ)だ」

「――ッ!! あなた――ッ!?」

「……賢明ね。旦那さんの方は、冷静な判断が出来て助かるわ」

 

 素敵な旦那さんに免じて、さっきの攻撃は不問としてあげます――そう矢を戻しながら言う雨音に。

 寛大な処置、感謝します――と、豪雪は慇懃に礼を返す。

 

 陽光は、ただ一人、氷の刃を消しながらも雨音を睨み続けていた。

 

(比企谷八幡くんが星人? ――有り得ない。有り得る筈がない。……そんなことは、()()()()()()()()()()()()()筈でしょう――ッ!)

 

 歯を食い縛りながら陽光は、黒火に囲まれる中で、己が息子に黒く燃える剣を突き付ける男を睨み付ける。

 

(……また、貴方は……いつだって、私の邪魔をする――ッッ!!)

 

 陽光は晴空を忌々し気に殺意を込めて一瞥すると、再び雨音に向き直り、侮蔑するように吐き捨てた。

 

「……そこまでして、貴女達は――」

 

――息子を殺したいの?

 

 氷の刃の如く、冷たく鋭く、抉るように言う陽光に。

 

「………………」

 

 雨音は振り向かず、殺し合う夫と息子から目線を逸らさずに見詰める。

 

 陽光は、そんな雨音を睥睨しながら続けた。

 

「……比企谷小町さんを、比企谷八幡くんが殺したから? ……確かに、小町さんは八幡くんに撃たれて死んだ。けれど、それを貴女達が責めるの? これまで、()()()()()()()()()()()()()貴女達が」

 

 その、言葉に。

 

「――――」

 

 これまで一切動じなかった、雨音の身体が硬直したように、豪雪は思った。

 陽光は、それに気付いているのかいないのか、冷たい激情に突き動かされるように尚も言い募る。

 

「貴女は、これまであの子に母親らしいことをしたの? あの男は、これまであの子に父親らしいことをしたの?」

 

 比企谷八幡(あの子)に、愛情を注いだの? ――と。

 

 そんな、化物からの冷たい言葉に、雨音は。

 

「…………………」

 

 過去の――とある情景を思い出す。

 

 それは、我が家の長男――比企谷八幡の、総武高校合格と中学卒業祝いで企画した家族旅行での一幕。

 

 にも関わらず、企画段階で当の本人である八幡から「面倒くさいから俺は自宅待機でいい。代わりに金をくれ」と可愛くないことを言われ、なんだかんだで八幡を除いた三人で旅行に出掛けた。

 

 そして、旅行先のホテルにて。

 

 家族三人で一部屋だったが、和室と洋室が組み込まれていた為、雨音と小町が洋室で寝て鍵を閉め、晴空は和室にて一人で寝ろという雨音の指示に、ここまで全力でテンションが上がっていた晴空が畳の上で駄々を捏ね始め、雨音が額に手を当てて溜息を吐いた。

 

 相変わらずの夫の有様に呆れながらも、久しぶりの家族の一時に。

 

 小さく雨音が微笑みを浮かべた時――小町が、ポツリと言った。

 

 あの言葉が、よりにもよって――今。

 

『……ねぇ。お父さんとお母さんはさ――』

 

 

――何で、お兄ちゃんが嫌いなの?

 

 

「………………ッ」

 

 愛娘から、怒りよりも悲しみで満ちた表情で言われた、あの言葉が蘇り、雨音は小さく唇を噛み締める。

 

 そんな彼女の表情は見えない陽光は、尚も告げる。

 まるで――八つ当たりするように。別の誰かにも向けた言葉を、吐き続ける。

 

 親らしいことを何一つしない、化物のような大人達への糾弾を。

 

「そもそも、小町さんを殺した責任を彼にだけ押し付けるのはふざけているわ。……小町さんは、CION(あなたたち)にも想定外に発生した戦争(ミッション)に巻き込まれた。黒金というオニ星人の起こした突発的な無計画の革命――でも、だからこそ、あの無法地帯には、いくらでも介入の余地があった筈よ。無論、貴女達にもね」

 

 事実、昨夜の池袋は、まさしく無法地帯だった。

 表側の存在は警察機構が封じたとしても、裏側の存在は好き勝手に出入りし、混乱を更に混沌とさせていた。

 

 かくいう、この雪ノ下夫妻も、昨夜の池袋には(陽乃)の生還を直接確認する為といった理由で(他にもオニ星人への貸し作りといった目論見もあったが)潜入していた。

 そのオニ星人に関しても、ミッションの標的となっていない幹部達――氷川、篤、斧神といった連中がエリア内に侵入していた。三体の邪鬼などその最たる例だ。

 

 他にも『死神』や葛西善二郎など、ミッションに関係ない――裏側の人間といえど――部外者といっていい連中まで好き勝手やっていたのだ。

 

 それらのイレギュラーを理由に、大義名分に、あの戦争に参戦することも介入することも十分に可能だった筈なのだ――そんな行動が独断で許される程度には、この夫婦は組織内でも重要位置(ポスト)にいるということを、陽光は知っている。

 大事な『入隊試験』を、こんな風に私物(ミッション)化しているのが、そのいい証拠だ。

 

 にも――関わらず。

 

「――貴女達は、何もしなかった。息子が戦っているのに、娘が巻き込まれているのに……貴女達は終ぞ、あの戦場には現れなかったわね。あの戦争を、あの革命を、ただ傍観していたわよね」

 

 雪ノ下陽光は言葉をぶつけ続ける。

 こちらを振り向かない雨音に――子供を見殺しにした母親に。

 

「ずっと……何もせずに、ただ見捨てていたわよね」

 

 凍り付いた真っ黒に燃える殺意を、ずっと胸の中に燻り続ける殺意をぶつける。

 

比企谷八幡(息子)が死んだ時も! 死んで戦士(キャラクター)になってからも! ずっと! ずっと! 彼が絶望しながら戦い続けてきたこの半年間! あなた達は何もせずに、見捨て続けてきたじゃない!?」

「――――ッッ!!」

 

 その言葉に、遂に雨音は振り向き、陽光を睨み付ける。

 

 陽光は、そんな雨音を真っ直ぐに見返して、静かに、だが容赦なく問う。

 

「なのに……貴女達は()()、子供を殺すの?」

 

 瞬間――陽光の頬横を、漆黒の矢が擦過する。

 瞬き一つしない陽光の目には、己のそれと遜色ない程に黒色な――真っ黒で冷たい、凍るような殺意を向けてくる、母親が映る。

 

「…………あなたに、何が分かるっていうの?」

 

 雨音の言葉は、陽光に一度閉口させる程の威力があった。

 

 己が子供を見捨て、見殺しにした――その点に関しては、陽光は全てが分かってしまう。

 

 陽乃を黒い球体の部屋へと送った日、そして還って来なかった日――絶叫した。

 雪乃が日常の総武高校で襲われた日、そして壊れてしまった日――絶望した。

 

 陽光は、そのどちらに関しても、何もしなかった。いや、陽乃に関しては、他ならぬこの手で殺したのだ。

 そんな化物が、何も言う資格などないことは分かっている。

 

 だが――だからこそ、許せない。

 

 人間として生まれ、人間として育ち、人間としての幸せを手に入れた筈なのに。

 

 こうして自分と同じ化物へと堕ちている目の前の戦士達が。

 化物である分際で、誰よりも人間として生きる息子を化物呼ばわりして殺そうとしている、この化物達が。

 

 故に――陽光の殺意は揺るがない。

 己が所業を棚に上げていることを理解していても、全ての言葉が己にも突き刺さることを理解していても、血を吐くように糾弾せずにはいられない。

 

「……両親(あなたたち)に――貴女達のような化物(モンスター)に、あの子を責める権利があるの!? あの子を星人(バケモノ)呼ばわりする権利が――あの子を殺す権利が、両親(あなたたち)にあるというの!?」

「勿論だ。あるに決まってる」

 

 陽光の言葉に軽く答えた声は、怜悧な表情を歪める雨音ではなく――その後方。

 黒火に囲まれた闘技場――処刑場にて、一歩も動かない息子に向けて、黒い火を纏う黒刀を突き付けながら、陽光の叫びを聞いていた男から届いたものだった。

 

 化物と呼ばれた父親は、飄々と、堂々と、己が権利を主張する。

 

「俺はコイツの父親だ。だから、コイツを殺す権利がある」

 

 愛情を注がなくても。窮地を見捨てても。

 責任転嫁でも。棚上げでも。八つ当たりでも。

 

 関係ない――理由はただ一つ。

 

 ()()()()――故に、何をしても許される。何でもしていい権利がある。

 

 殺しても、許される。殺す権利が、己にはあると。

 

「――そうだろう? 息子(八幡)

 

 絶句する陽光には見向きもせず、比企谷晴空は息子に問う。

 父親(オレ)には、息子(オマエ)を殺す権利があるだろう――と、問い詰める。

 

 その言葉には明確に、鋭く、黒い――殺意があって。

 

 八幡は、それに対し笑顔を作り――涙を流し――己に向けられた、剣を掴んだ。

 

 黒火によって黒衣が焼け焦げる音が響く。

 泣き叫ぶように悲鳴を上げるスーツに構わず、八幡は――その()()()()()()()()()()()()()()()

 

「な――!?」

「…………」

 

 陽光が叫ぶ。

 豪雪は無言で傍観し。

 

「――――」

 

 雨音は、それを睥睨し――唇を噛み締め。

 

「――――ハッ」

 

 晴空は、表情を一瞬消して、乾いた嘲笑を吐き捨てた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 真っ黒に燃える刃が、真っ黒に燃える殺意が、真っ直ぐに俺に向けられている。

 

 真っ黒に染まった瞳で――俺を見ている。

 

 あぁ――これが、笑わずにいられるか。これが、泣かずにいられるか。

 

 ずっと欲しかったものが、ずっと求めていた瞬間が、今、眼前にある。

 

 悲鳴を上げる右手の熱さを感じない。

 既に壊れているのだろうか。スーツなのか、触覚なのか、心なのかは、分からないが。

 

 だが、そんなものはどうでもいい。壊れていようがどうでもいい。

 

 それでも、これだけは分かる。

 

 俺は、この真っ黒な火に燃やされれば、真っ黒な殺意に貫かれれば、間違いなく――幸せに死ねる。

 

 仇を討たれて死ねる。相応しい末路を迎えられる。

 

 それはきっと――正しい、終わりだ。

 

 

 あぁ……俺は、きっと。

 

 こういう風に、死にたかった。

 

 

 

――『……あきらめないで……』

 

 

 

 ……………………あぁ。……そうだ。

 

 

 そうでしたよね――――陽乃さん。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 バキ――ッと。

 何かに――罅が入る音。

 

「――――ッ!?」

 

 比企谷晴空は瞠目する。

 

 そして――己が息子に突き付けた刃が、ビクとも動かないことに気付いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

――『……捨てないで…………手放さないで…………逃げ……ないでぇ……』

 

 

 そうだ――そうだ。

 

 俺は、捨てられない。俺は、手放せない。

 

 俺は――もう、逃げることは、許されない。

 

 

 例え、それがどれだけ望んだ(おわり)でも。

 

 どれだけ相応しい末路でも。どれだけ当然の仇討ち(報い)でも。

 

 どれだけ――幸せな、最期でも。

 

 

――『それでも、わたしは――――あなたに、生きていて欲しいの』

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 スーツの悲鳴がより一層に響き渡る。

 その甲高い音の中に、バキ、ビキと、黒い刃の悲鳴が混ざる。

 

「……八幡……テメェ」

 

 晴空は――何も言わず、死んだように俯きながら、真っ黒に燃える刃を握り続ける息子を見下ろす。

 

「………………」

 

 比企谷雨音もまた、ただ、無表情に、夫と息子を真っ直ぐに見詰めていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 俺は――生きていかなくてはいけなくなったんだ。

 

 俺は、幸せに死ぬよりも、不幸に生きなくてはいけないんだ。

 

 

 

――『……『本物(わたし)』を……あきらめないで……』

 

 

 

 俺の――『本物』になると。

 

 言ってくれた――救ってくれた、あの女性(ひと)の為に。

 

 

 そして。

 

 

――『幸せにならないで死んじゃったら、絶対に許さないよ! 小町的に超ポイント低いんだからね!』

 

 

 俺が殺した――(小町)の為にも。

 

 

 だから――俺は。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「……悪いな、親父」

 

 比企谷八幡は、ゆっくりと顔を上げて。

 

「確かに、アンタ達には、俺を殺す権利がある。小町を殺した仇を討つ、正当な権利がある。……だけどな、俺は死ねないんだよ」

 

 どんだけ死にたくても、どうしても生きなくちゃいけないんだ。

 

 そう――疲れ切った笑顔で。

 

 だが――未だ、死んでいない笑顔で、そう吐き捨てて。

 

「……ハッ。――で? そんな(ザマ)で、どうしようってんだ? その似合わねぇスーツ脱いで裸土下座でもしてみるか?」

 

 八幡は、そう煽る晴空に。

 

 己が父親に、こう宣言する。

 

 

父親(アンタ)を殺して、俺は生きる」

 

 

 バキィ!! ――と。

 

 真っ黒の殺意で燃える剣を、悲鳴を上げる右手で握り砕き。

 

 

 比企谷八幡は、実の父親の殺害を実行すべく――立ち上がった。

 

 




己が望んだ『幸せな死』を齎す、正当なる仇討ち(報い)の黒火の剣を砕き
幸せに死ぬよりも、不幸に生きていく為に――立ち上がる。

そして比企谷八幡は、史上最も罪深い、父殺しの戦争(ミッション)に挑む。


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Side戦争(ミッション)――②

……その目で……俺を――

――見るんじゃねぇよ。


 

 ガンツスーツ。

 

 特殊な技術も、特別な才能も必要なく、黒い球体の部屋に蒐集された死人達に何の選別もなく無料配布される初期装備。

 死人を戦士にする魔法のような科学アイテムであり、現代の最先端の更に先の技術によって作製される――戦士の証のユニフォーム。

 

 上下ツーピースからなるこのスーツは、全ての戦士に対して世界で一着のオーダーメイドで提供される。

 例え、たった一回のミッションで死亡しても、その存在すら知らずに使用されなかったとしても、黒い球体は全ての戦士にそのスーツを用意する――たった一人の着用者に対して、世界でたった一つの未来技術の結晶を。

 

 死人を蒐集する際――戦士にとして傀儡とする際。

 黒い球体は、その対象者の全身を細胞レベルでスキャンし、寸分の狂いなく、魂まで複製し部屋へと招く。

 そして、その際に、その者に文字通りピッタリのパワードスーツを、入居――入所祝いに贈呈するのだ。

 

 何の戦闘訓練も受けていない一般人の拳を――コンクリートすら砕く弾丸へと変え。

 何の修羅場も潜り抜けていない平民の躰を――トラックに跳ねられても物ともしない鋼鉄へと変える。

 

 その(スーツ)を構成する漆黒の光沢を持つ人工筋肉は、人間の貧弱な体を星人と相対するに相応しい戦士へと生まれ変わらせる。

 

 だが、どんな弱者も戦士にするこのパワードスーツは、どんな人間に対しても等しい効果を提供するかと言えば――そんなことはない。

 

 基本装備のユニフォームでも、武器(アイテム)である以上――使い手を選ぶ。

 ある程度の効果は等しく与えても、その性能の全てを引き出せるかどうかは、着用者の技術と才能に懸かっている。

 

 戦士の才能に、懸かっている。

 

 透明化(ステルス)などの特殊機能をどれだけ使いこなせるかというのも勿論だが、ガンツスーツの基本にして最大の特徴である『身体能力向上』――それすらも、着用者の才能によって引き出せる性能(スペック)に差が生まれる。

 

 ガンツスーツによる超人性――筋力の増加や防御効果は、前述の人工筋肉だけでなく、むしろ、その人工筋肉を操作する『特殊ゲル』によって齎されている。

 スーツの内部を満たし、使用者に全裸による着用を余儀なくさせる正体不明の特殊ゲルは――原理は一切不明だが――着用者の元来の筋力は勿論のこと、精神の昂り、感情の爆発等を詳細に感じ取り、その機能を増大させる。

 

 人間を超人へ――超人を更なる超人へと、押し上げる。

 

 ガンツスーツが蓄積された内部ダメージや駆動部の損傷により機能を消失するのはこれが原因だ――ゴボッと内部からゲルが漏れ出すことにより、戦士を戦士たらしめている、人間を超人へと押し上げている科学のゲルによる恩恵がなくなり、魔法が解けるからだ。

 

 つまり、ゲルを失わなければ、スーツはその効果を保ち続ける。

 例え、スーツの腕部分を引き千切られても、スーツ全体の負荷値が許容量を超えておらず、駆動部(メーター)からゲルが漏れ出していなければ、ゲルが健在な他の部分は超人のままであり――逆を言えば、スーツ全体の負荷値が許容量を超えていなくても、駆動部を強引に破壊され、ゲルが漏れ出してしまえば、スーツはその時点で死んでしまう。

 

 だから――比企谷八幡は、未だに死んではいない。

 

 どれだけ悲鳴を上げていたとしても、今にも死んでしまいそうな有様でも。

 

 その腐った双眸のように、死んではいない。

 

 比企谷八幡が、死への逃避を諦めたように、生に縋り付く覚悟を固めたように。

 

 そのボロボロの漆黒のパワードスーツは――まだ、死んではいない。

 

「…………ハッ。往生際が悪ぃな。誰に似たんだ?」

「…………少なくとも、アンタじゃねぇことは確かだな」

 

 ニヤリと、不気味な笑みを交わし合う、そっくりな笑顔と双眸の二人は。

 黒い火で囲まれた闘技場で――処刑場で、武器を持たずに向かい合う。

 

 だがそれは、対話による平和的解決への望みを体現しているかといえば、そうではない。

 不気味な笑みの裏で、真っ黒な双眸の中で、二人の親子は――互いを殺す算段を立てている。

 

「…………あの『黒火の剣』を――砕いた?」

 

 その二人を黒火の即席闘技場(コロシアム)の外で見ている雪ノ下陽光は、八幡が立ち上がったことに安堵する一方で、その光景に驚きを隠せなかった。

 

 比企谷晴空が愛用する『黒火の剣(ガンツファイアソード)』は、由比ヶ浜結愛が愛用する『爆発する黒槌(ガンツボムハンマー)』と同様に上位武器であり、専用装備(オーダーメイド)としてなら稀少性は全ガンツアイテムの中でもトップクラスの、いわば最上位装備の一つである。

 

 雪ノ下陽光にとっても因縁深い武器であり、その恐ろしさは誰よりも身を以て知っている。

 故に、その黒火の剣が目の前で、それも只の握力で破壊されたことに衝撃を受けていたのだが――。

 

「――驚くようなことじゃないわ。『黒火の剣』はその黒火こそが特殊なだけであって、剣自体の強度は普通のガンツソードと大差ないもの」

 

 現に、晴空(あのひと)は別に動揺していないでしょう――と、比企谷雨音は言う。

 向かい合い、殺し合おうとしている戦士の夫であり、母でもある戦士は言う。

 

 陽光も、晴空が動揺しないことに対しては何も驚かない。

 彼は根っからのガンツ戦士であり、騎士でもなければ武士でもない。己が武器に対して愛着はあっても執着はない。そもそもが『黒火の剣』自体、彼が『開発室』から実地テストを頼まれて持ち歩いている数多の『実験品』の一つに過ぎない。『黒火の剣』自体は気に入っていて、何度壊しても改良品を新たに作るように求めているが――つまりは、壊しても新しいものを作ってもらえばいい程度の玩具に過ぎない。

 

 だが、それはつまり、『黒火の剣』はCIONの最先端技術の結晶――ガンツスーツ等の量産品など及びもつかないような、未来技術の最先端の武器(アイテム)であるということで――。

 

(……確かに、完成度で言えば実験品である『黒火の剣』は劣るかもしれないけれど……それでも、スーツより性能としては間違いなく上であることは確か)

 

 それにも関わらず、八幡はスーツの力のみで、『黒火の剣』を砕いてみせた。

 雨音の言葉通り、強度としてはガンツソードと同等の、つまりは使い手によってはスーツを切り裂くことの出来るソードと同等のアイテムを、只のスーツで。

 

(元々の筋力がずば抜けているというのならばまだしも……比企谷くんの身体能力は、あくまで運動神経がそれなりにいい程度のものだった筈……よね?)

 

 いくらCIONと繋がりがあるといっても、部外者の同盟者でしかない寄生(パラサイト)星人である雪ノ下陽光は、たった一つのガンツアイテムについても、深くは知らない。知ることは出来ない。

 

 当然ながら、自分は星人であり、彼らは戦士である。

 今、持っている知識もその殆どが僅かな情報を元に重ねた推測の産物であり、知っていることしか知らない。知ることが出来る知識しか知らない。

 

 そんな雪ノ下陽光の懊悩を察してか、比企谷雨音は、陽光の方を振り向かず、ただ息子と夫を見詰めながら呟いた。

 

「ガンツスーツの超人性の源は『特殊ゲル』。そして、ゲルの性能を引き出すのは精神――つまりは感情よ。例え、普段はどれだけ昼行灯でも……普通の人間でも。隠された才能を引っ張り出して、思いの力で――英雄になれる」

 

 人間を戦士にする科学のアイテム。人間を超人にする魔法のアイテム。

 そして、少年を、英雄にする――神のアイテム。

 

「……八幡は……それだけの思いを……秘めていた。……感情を……溜め込んでいた。……ただ、それだけよ」

 

 

――俺は、本物が欲しい。

 

 

「…………ただ……それだけよ」

 

 血を流しながら、涙を流しながら、悲鳴を上げるスーツを動かし、立ち上がる八幡に。

 右手が黒い火によって燃やされながらも、己が父親からの殺意を受けても、尚も醜悪な笑みを浮かべて立ち向かう我が子に。

 

 雨音は、一度口を開きかけ、何かを叫びかけ、毒を飲むように口を閉じる。

 

 何を言おうとしたのだろうか――何かを言おうとしたのだろうか。

 

 今更、一体、何を――。

 

「……今、それを――そんなことを言うの? 彼に――母親(あなた)が?」

 

 そんな雨音を、背後から氷の刃が貫く――幻痛を感じた。

 氷の刃のような、鋭く尖った言葉が、比企谷雨音(あお)の胸を後ろから突き刺す。

 

「貴女――卑怯だわ」

 

 誰が、そんな感情を、彼に溜め込ませさせた、と。

 誰が彼を、あんな姿にまで追い込んだと。誰が彼を、あんな姿の戦士にしたと。

 

 比企谷八幡を――英雄にしたと。

 

「………………そうね」

 

 母親は、誰にも聞こえないように呟いた。

 

 表情を変えず、瞬きすらせずに――息子と夫の、殺し合いを見届けた。

 

 どうしてこうなってしまったのだろうと――何処かの英雄のようなことを思いながら。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

(ハッ――英雄? コイツが?)

 

 比企谷晴空(はると)は、嘲笑った。

 

 目の前の、血を流し、右手を燃やしながら、己に対面する少年を見据えて。

 

(あんな気味悪く笑う人間が。あんな真っ黒に笑う人間が)

 

 あんなドロドロに腐り切った双眸の人間が。あんなボロボロに壊れ切った相貌の人間が。

 

 俺の息子が――英雄だと?

 

「――ふざけんな」

 

 瞬間――笑みを消し、唸るような低い声で、晴空は言った。

 

「認めねぇよ。そんなこたぁ」

 

 己を殺して自分が生き残ると、そう宣言する息子に、一歩近づきながら、父親は言う。

 

「死んでも認めねぇ。ぶっ殺してでも認めねぇ」

 

 砕かれた剣を放り、ぼきぼきと拳を鳴らしながら、晴空は否定する。

 

 己が息子の英雄の資質を。己が息子が英雄であるという可能性を――否定する。

 

(例え――神が認めても)

 

 それでも――父親だけは、絶対にそれを認めない。

 

「お前は――ココで終われッ! 八幡ッ!!」

 

 全力の拳が、炸裂する。

 父親の拳骨は八幡の顔面真横を真っ直ぐに擦過し――息子の黒く燃える右拳は、晴空の頬に真っ直ぐに打ち込まれた。

 

 全体重を乗せたカウンターの一撃は、比企谷晴空を仰向けに吹き飛ばす。

 

 雨音と陽光、豪雪までもが絶句する中、八幡は無表情でこう呟く。

 

「――終われねぇんだよ、親父。……俺は、まだ」

 

 救われるわけには、いかねぇんだ。

 

 息子の、そんな言葉を聞き流しながら、晴空は――血のような赤みがかった黒い空を眺めた。

 

 黄昏時――赤が残った、黒。

 

(……いや、こんな綺麗な色じゃなかった。……あの時の――あの、終焉(カタストロフィ)の空は)

 

 もっと禍々しい、終わりに相応しい空だった――と、晴空は思い返す。

 

 

 あの日――世界が終わる()()()()、あの日。

 

 

 あの『運命られた終焉の日(第一次カタストロフィ)』を回顧する、世界を救った英雄の一人は――嘲笑った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 今から――十年前。

 

 世界が終わる――筈だった、あの日。

 

 空が赤く染まる――筈だった、あの日。

 

 

 終焉を齎す星人となる――筈だった、最後の星人となる――筈だった、『地球を上回る文明』との戦争。

 

 その――終戦時。

 

 とある戦士が『英雄』との死闘に終止符を打つ最中、彼らは『真理』と相対していた。

 

 その『部屋』に辿り着いたのは、三名。

 

《天子》、《CEO》、そして――比企谷晴空(はると)

 

 三人の地球人が、形容不可能な、『黒い球体』しか存在しない、その『部屋』で。

 

 向かい合った、その『真理』は――正体不明だった。

 

 何の媒体も存在していないのに、こうして手の触れる距離にいるのに――何も見えない。

 

 だが、何にでも見えた。

 

 晴空には、それが老爺に見えていた。だが、次の瞬きの後には、それは少年になっていた。

 

 美女になっていた。外人になっていた。兵士になっていた。

 猛獣になっていた。彫像になっていた。怪物になっていた。

 

 何にでも見えるし――何にも見えなかった。

 まるで此処には存在しないような、だが、何処にでも存在しているような。

 

 その『真理』は、その『部屋』を訪れた三人の地球人に、こう『予言』した。

 

 

――【地球(きみたち)は、本来、この終焉で滅びを迎える筈だった】

 

 

 老爺のような掠れた声だった。だが、少年のように瑞々しい響きも含んでいた。

 まるで機械で加工されているようにも聞こえたし、耳元で囁かれているようにも思えた。

 

 

――【地球(きみたち)は、それを乗り越えた。だが、結末は変わらない。終焉は、避けられない】

 

 

 労われているようにも感じた。哀れまれているようにも感じた。淡々と無機質に言葉を紡いでいるようにも感じた。

 

 これは――何なのか。

 宇宙人なのか。それとも只の概念なのか。

 

 もしかすると、これが、これこそが――『神』なのか。

 

 こうして相対していると、時すらも忘れる。

 果たして、この『真理』と言葉を交わして、この『部屋』に足を踏み入れて、どれだけの時間が過ぎているのか。

 

 一分か。一時間か。

 一日を過ぎているようにも、一秒にも満たっていないようにも思える。

 

 共にこの『部屋』に侵入した筈の《天子》も、《CEO》も、何処に居るかすらも分からない。存在しているのかすらも分からない。

 

 見回すことも、見渡すことも出来ない。

 何処にでもいるかのような目の前の『真理』から、逃れることが出来ない。

 

 正体不明が、右手を翳した――ような、気がした。

 

「――――ッッ!!」

 

 瞬間――世界が変わる。

 

 何かの扉が開かれ、何かが放たれ――『部屋』が、変わる。

 何もなかったような、だからこそ、何にでもなれるような、真っ白な背景のようだった『部屋』が。

 

 見たこともない場所に――変化した。

 

 途端、強烈な『光』が襲う。

 何もなかった筈の室内に、神々(こうごう)と光り輝く巨大な物体が出現していた。

 

 

――【これが――『真理』だ】

 

 

 直視できない。いや、直視するのも畏れ多いと、そう本能で感じてしまう。

 この比企谷晴空というクズが、あろうことかそんなことを強制的に思わされてしまう――『光』。

 

 

――【これが、地球(きみたち)未来(まつろ)だ】

 

 

 目の前の正体不明の、そんな声が聞こえた気がした。

 

 声が届いたと思える方に目を向けると――黒い影が差した。

 

 それは、よく見慣れた、だが、見たことのなかった――黒い戦士。

 

(――誰、だ?)

 

 背格好からして《天子》でも、《CEO》でも、ましてや自分でもない。

 だが、この『部屋』へと辿り着けたのは、招かれたのは、その三人しかいない筈だ。

 

 黒い(スーツ)。黒い髪。

 年若く、体つきから辛うじて男だと分かる――少年戦士。

 

(……駄目だ、見えねぇ)

 

 顔は分からない。だが、少なくとも、これまで一緒に戦ってきた誰でもない、見たことのない戦士だった。

 

 

――【ここに、『予言』しよう。これは、『未来』だ。そして、今度こそ避けられない、地球(きみたち)の『終焉』だ】

 

 

 終焉(カタストロフィ)

 

 今、再び、『予言』された地球の終焉。

 つまり、この光景は、その来るべき末路であると――『真理』は告げる。

 

 

――【その中でも、最も希望的未来を、これは創り(うつし)出している。つまり、こうして再び『部屋(ここ)』に辿り着くことまでは、地球(きみたち)ならば可能であると、そう認めているわけだ】

 

 

 だが、そこまでだ――と。

 

 姿なき正体不明は、声なき声は――『予言』する。

 

 そして、『黒い少年戦士』は、神々たる巨大な『光』に向けて走り出した。

 

「――――ッッ」

 

 比企谷晴空ですら、刃を向ける所か、銃口を向ける所か、見ることすらも畏れ多いと思わされた『光』に向かって、その未来の少年兵は走り出す。

 

 迸る程の殺意を以て、神々たる『光』を討ち滅ぼさんと――戦う。

 

 

 そして――()()()()、『()()()()()()()()()()()

 

 

「…………………」

 

 晴空は、それを見て、呆然と立ち尽くした。

 

 当然の末路のように思えた。当然の未来のように思えた。当然の――終焉であると、思えた。

 

 これが、次なる終焉(カタストロフィ)だと、真なる終焉(第二次カタストロフィ)だというのなら、今度こそ、地球は終わりだと、そう思えてしまった。

 

 対峙しただけで――あろうことか、立ち向かっただけで。

 

 あの名も知らぬ未来の少年戦士は――『英雄』だと、そう思えてしまったのだ。

 

 

――【理解したか。愚かなる地球人よ】

 

 

 姿なき正体不明は、晴空に『真理』を告げようと、見えない口を開く。

 

 

――【これが、地球人(きみたち)の限界……ん?】

 

 

 だが、そこで初めて、『真理』が言葉を濁らせた。

 

 それはまるで、超常たる存在が初めて覚えた――戸惑いのようで。

 己の理解を外れた現象を、生まれて初めて目撃したような、そんな人間味溢れるもので。

 

 端的に言って――『感情』のようだった。

 

 

――【…………何だ? …………いや、そうか】

 

 

 地球人(きみたち)を、どうやら見縊っていたようだ――と、聞こえる声。

 

 だが、晴空は、その声よりも、『光』の方に目を奪われていた。

 

 少年戦士を呑み込んだ神々たる『光』が――()()()

 

 巨大な光の中から何本もの光筋が、まるで串刺しにされるように、一本、また一本と増えていく。

 

 明らかな異常事態。有り得ざる非常事態。

 だが、『真理』は、それを見て、実に楽しそうな感情を以て言った。

 

 まるで――笑っているかのようだった。

 

 

――【そうか……っ。地球人(きみたち)は、()()まで辿り着ける可能性をも秘めているのか】

 

 

 正体不明の『真理』は――『神』かも知れない超常存在は、分裂する光を背景に、晴空に向かって、地球人に向かってこう言った。

 

 

――【面白い。十年後、また会おう。この【英雄】の誕生を、我は心から待ち望む】

 

 

 

 そして、分裂し、まるで爆発するかのように膨張する『光』に吞み込まれ――比企谷晴空は意識を失った。

 

 

 結局、終焉(カタストロフィ)を乗り越えても、次なる終焉(カタストロフィ)が訪れるだけだった。

 

 戦争は終わった――だが、平和は訪れなかった。

 

 

 次なる終焉(カタストロフィ)へと向けた、新しい戦争(ミッション)が始まるだけだった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ダンッ! ――と、千葉の大地に強かに背中を打ち付け、晴空は意識を現在へと取り戻す。

 

(…………そうだ。今は、息子と殺し合っている最中だったな)

 

 口端から血を滲ませながら、半身を起こし、黒く燃える己の顔を荒々しく拭う。

 たったそれだけで、()()()()()である黒火を消火した晴空は、未だ黒々と燃える右手で拳を握りながら己を見下ろす息子を見上げる。

 

 墨汁の如く真っ暗な瞳。濁流の如く穢れ切った瞳。

 これまでの人生に置いて何度も拳を打ち付けて破壊した、鏡の中の己を見ているような――鏡の中の己に見られているような、最悪な気分にさせられる双眸に。

 

「……その目で……俺を――」

 

 ゆっくりと立ち上がり――晴空は息子を睨め付ける。

 

 墨汁の如く真っ暗な瞳で。濁流の如く穢れ切った瞳で。

 

 地面を掻き毟るように踏み抜き――瞬間的に移動し、八幡の背後を取り、筋張った漆黒の右腕を振り抜く。

 

「――見るんじゃねぇよ! クズが!!」

 

 まるで、この世で最も嫌悪する存在に向けるような――殺意を持って。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 英雄。

 

 危機や困難に立ち向かう、勇敢で統率力ある人物を表す言葉。

 優れた能力を持ち、偉業を成し遂げた人物に捧げられる言葉。

 

 一口に英雄と称しても、その言葉が指し示す人物像は、英雄像は様々で、誰もが知る偉人を指すこともあれば、誰かにとってのたった一人のヒーローに与えられた称号であることもあるだろう。

 

 そして、第一次カタストロフィにて地球を救った戦士達によって、第二次カタストロフィにて再び地球を救うことを使命とし本格的に創り上げられた組織――『CION』にとって、【英雄】という言葉は、とある《鍵》となる戦士を指し示す言葉となった。

 

 あの第一次カタストロフィ終戦時――『真理の部屋』にて、たった三人の地球人が聞いた『予言』。

 

 神々たる『光』に相対し、超常存在である『真理』をして【英雄】と言わしめる、奇跡の戦果を挙げて、世界を救うこととなる、黒髪黒衣の少年戦士。

 

 その『予言』された【英雄】の存在は、《天子》、《CEO》、そして他ならぬ比企谷晴空自身の証言を持って、他のCION創設メンバー達にも伝えられ、今現在に置いては、古参メンバーだけでなく、CION組織の中核となる幹部達、そして各主要国の首脳達にも伝わっている。

 

 かの『真理』は、あの『予言』の光景は地球人たる自分達が()()()()()()()()()()()だと言った。

 つまりは、()()()()()()()()()()()()。自分達が作り出そうと尽力しなくては辿り着けない未来――作り上げようとしなくては、生まれないかもしれない【英雄】の姿だった。

 

 その為の育成方式――その為の、厳選方式。

 数多いる地球人の中から、あの【英雄】たる少年を見つけ出し、探し出し――戦士にしなくてはならない。

 

 戦士にして――育成しなくてはならない。

 育てて、鍛えて、レベルを上げて――【英雄】にしなくてはならない。

 

 あの第一次カタストロフィから――その為の十年間だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ガンツスーツの性能を引き出すのは『感情』だ。

 精神の昂りに応じて装着者の能力を向上させ、人間をより超人にする。

 

 つまりは、標準装備たるガンツスーツもやはり武器であり、兵器であるということ。

 

 装着者の技量によって、戦士の才能によって、その破壊力は桁を上げる。

 素人のナイフでも、達人が振るえば名刀の切れ味を見せるように。

 

 通常のガンツスーツが、使用者が徐々に戦意を高めていくにつれて、車のエンジンが徐々にスピードを上げるように、数学のグラフのように能力を向上させるのと比べて――比企谷晴空は、ガンツスーツを瞬間的に、部分的に最大機能を発揮させることが出来る。

 

 それは、瞬間的に戦意を――殺意を意図的に膨れ上がらせ、完璧にコントロールすることが出来る晴空だからこそ出来る荒業であり、ガンツスーツを含め、ことガンツ装備(アイテム)の扱いに関しては、彼の右に出る戦士はCIONの中に置いてもほぼ存在しないといっていい。

 

 彼にかかれば、透明化(ステルス)などの小細工を使用するまでもなく、只の身体能力強化のみで、近距離に置いては相手に視認されることのない、超能力の如き瞬間移動(テレポート)を実現することが出来る。

 

 数多の星人を屠り、名実共にトップ戦士の一角に名を連ねる比企谷晴空。

 あの『黒火の剣』と並びその比企谷晴空の代名詞ともいえるこの瞬間移動による一撃。

 

 視認不可能、反応不可能なこの必殺を――だが。

 

 比企谷八幡は、黒く燃える右手で――掴み取って見せた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 この十年間、世界中で『英雄候補』となる戦士の捜索、発見、育成が行われた。

 世界を救う為。地球を守る為。その可能性を持った、たった一人の【英雄】を求めて。

 

 黒い髪の少年。

 ただ、それだけを手掛かりに。

 

 そしてそれは、単純に世界を救う為だけではなかった。

 

 運命られた終焉の日(第一次カタストロフィ)は、数々の奇跡的な条件が揃ったことにより、殆どの地球人にはその危機どころか星人の存在すらも露見しないままに終戦することが出来た――が、第二次カタストロフィにおいては、そんな奇跡が二度も起こることはないだろうと、真実を知る誰もが分かっていた。

 

 真なる終焉の日(第二次カタストロフィ)――それは、正しく世界を滅ぼす戦争であり、それを乗り越え、勝ち越え、地球と共に生き残った所で、今と同じ世界が広がっている可能性など、皆無である。

 

 世界は終わる――例え、地球が生き残ったとしても。

 それは『真理』によって見せられた『掴み得る最高の可能性の未来』においても不可避だった。

 

 例え、真なる終焉を乗り越えたとしても、待っているのは青い地球ではなかった。

 しかし、それでも、例え今と同じ世界が広がっていないとしても、我々は地球を守る為に戦い、勝利しなくてはならない――【英雄】と共に。

 

 そして――()()()()

 

 各国上層部――彼らが見ているのは、地球を守り、世界が滅びた、その先の未来だった。

 

 現在の状態の世界は、後およそ半年で終焉を迎える。

 

 世界の情勢は、世界の順位は、およそ半年後に全てがリセットされる。

 大国も、小国も、先進国も、途上国も――その全てがリセットされる。

 

 そして――新しい世界の新しい順位は、終焉の戦争の戦果で決まるのだ。

 より目覚ましい戦果を挙げた国が、より地球を守る勝利に貢献した戦士の国が、新しい世界での大国となる権利を手に入れることが出来る。

 

 故に――彼らは望むのだ。

 己が国の戦士から、【英雄】となる少年が誕生することを。

 

 だからこそ世界は、裏側に置いてこの十年間――己が国の『英雄候補』となる少年兵の発掘と育成に取り組んできた。

 

 全ては、新しい世界での、己が権力と栄華の為に。

 

 銃を握らせ、剣を与え――黒いスーツを着せて戦士(キャラクター)としてきたのだ。

 

 何も知らない少年を、誰もが知る【英雄】とする為に。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その瞬間移動は、確かに視認不可能、反応不可能の必殺の一撃だった。

 

 だが、比企谷八幡には、既に比企谷晴空には瞬間移動する何らかの術があると知っていた。出会い頭の一撃によって。

 

 これまで親父に殴られたことのなかった八幡が、初めて受けた父親の拳。

 

「……そう何度も、ボコスカ殴られてたまるかよ」

 

 それだけ分かれば、八幡には十分だった。

 世界で最も嫌いな存在。だからこそ八幡には、晴空がこの状況で、どんな攻撃を仕掛けてくるか、手に取るように分かっていた。

 

 将棋、チェス、囲碁、オセロ、花札にトランプゲームに至るまで。

 ありとあらゆるゲームと呼べるゲームで、ありとあらゆる手を使われて負かされ続けてきたからからこそ。

 

 この状況で、激昂しながら拳を見せつけてきたとしても――息子相手に真正面からぶつかっていくような素敵な父親でないことは、誰よりもこの身で知っていた。

 

 生まれてこの方、比企谷八幡は、比企谷晴空に真正面から向き合ってもらったことなど――比企谷晴空が、比企谷八幡に真正面から向き合うことが出来たことなど、只の一度もありはしないのだから。

 

 この男が、背後から不意打ちの一撃を狙うであろうことは、息子には嫌になる程にお見通しだった。

 

「――アンタは、変わんねぇな……親父」

 

 八幡は、小さく笑いながら、見限るように笑いながら、黒く燃えた右手で晴空の腕を掴み上げる。

 唸る駆動音は八幡の殺意の昂り故か、それとも黒火から受けるダメージによる悲鳴か。

 

 晴空は顔を顰めながらも、左足による膝蹴りを八幡のがら空きの左腰に向かって放つ――八幡は、左肘を背後に振り抜いてそれを迎撃した。

 

 鈍い音が響く。

 父も、息子も、唸るように、堪えるように歯を食い縛りながら、互いを睨み付ける。

 

「――チッ!」

 

 晴空は八幡が左肘を放ったことで、僅かに力が緩んだ右手を振り払い、そのまま右足で八幡の躰を押し出すようにして蹴る。

 

 両者の身体が弾き出されるようにして逆方向へ吹き飛ぶ。

 

 八幡はゴロゴロと転がりながらも、すぐさま上半身を起こし、左膝だけを地面につける体勢で晴空に鋭い眼差しを向ける。

 晴空は空中で体勢を整え、同じく片膝だけを着く体勢で着地し、右腕を払って黒火を消す。

 

 両者――若干の距離を開けて、再び禍々しい眼差しで睨み合う。

 

 その攻防を、雪ノ下陽光は絶句しながら傍観していた。

 

(……あの、比企谷晴空の『瞬間移動』を――受け止めた?)

 

 比企谷晴空という戦士の恐ろしさを誰よりも思い知り、長年ずっと研究してきた陽光は、あの瞬間移動の神業ぶりも、そして、その瞬間移動を受け止めるという神業ぶりも、どちらも理解出来た――いや、理解出来たが故に、理解出来なかった。

 

 確かに、比企谷八幡という戦士の優秀さは、陽光は理解していた。

 だが、それはあくまで凡百の戦士と比べて優秀だという意味であり、その潜在能力(ポテンシャル)は評価していても、現時点において、比企谷晴空と戦士として比べたら、手も足も出ない程の確固たる差があると、そう思っていた。

 

 現に、初めの五分、八幡は晴空に手も足も出なかった。

 あれこそが、この両者の、この親子の、何の変哲もない当然の力の差である筈なのに。

 

(……まさか、比企谷八幡の戦士としての才能は、私が思っていたよりも、もっとずっと凄まじいものなの?)

 

 実は比企谷八幡は陽光の想像を遥かに超える資質を秘めていて、それがこの親子対決という場で花開き、覚醒したというのか――まるで主人公のように。

 

 まるで――英雄のように。

 

「――そんなわけないでしょ。あの子を何だと思っているの?」

 

 うちの子が――八幡が、そんな選ばれし存在であるわけないでしょ。

 

 絶句する陽光の横で、比企谷雨音は、そう淡々と言った。

 自分がお腹を痛めて生んだ息子は、そんな選ばれた存在でない――と。

 

 ずっと、選ばれなかった人生を歩んできた息子に――ずっと、そんな息子を、見て見ぬふりをし続けてきた己に、まるで言い聞かせるように。

 

 はっきりと、強く、断じた。

 その上で、母は、そんな息子を、細めた瞳で見詰めながら――誰にともなく言う。

 

「……それでも……八幡は、ずっと見てた。あの人を……みんなを、ずっと見てたの。……例え、向こうが自分のことを、見て見ぬふりをし続けようとも」

 

 例え、嫌われても、弾かれても――愛されなくても。

 

 それでも彼は、その背中を見つめ続けていた。

 手を伸ばしたこともあった。顔色を窺い続けていた頃もあった。

 

 偽物の優しさに裏切られ、何の呵責もない悪意に切り刻まれても――彼は求めるのを止めなかった。

 

 諦めた――ふりをして。

 悟りきったふりをして。理解したふりをして。

 

 化物になった――ふりをして。

 

 手を伸ばすことを止めても。期待することを止めても。

 

 それでも――目を瞑ることだけは、出来なかった。

 見たくないものを見せられ続けて――目が腐っていくのが分かっていても。

 

 それでも、比企谷八幡は――突っ伏して寝たふりをした腕の間から、読んだふりをする本の横から。

 

 人間を見ることを――止めることは出来なかった。

 

 八幡は、ずっと――暗い世界の中から、明るい場所を眺め続けていた。

 

「――――ッッ!」

 

 雪ノ下陽光は、激痛を堪えるように目を細める。

 それは、まるで――何処かの馬鹿な、化物のようで。

 

「…………」

 

 雪ノ下豪雪も、静かに一度瞑目し、真っ直ぐにボロボロの少年を見遣る。

 

(……そう。あの子はただ、見てた。……それだけ。……それだからこそ、あの攻撃を受け止められた)

 

 比企谷雨音は。

 

 唇を噛み締めて、瞼を震わせて――でも。

 そんな資格はないと知っているから、ただ真っ直ぐに、無表情でただ見つめ続ける。

 

 世界で最も見たくない戦いを――息子と夫が殺し合う戦争を。

 

(視認など出来なくても、反応など出来なくても、八幡には晴空(あのひと)がどこを狙うかが分かる――何を避けるのかが、分かる)

 

 それくらい、息子は父親を見続けてきた。

 例え、父親が、息子を全く見ることが出来なくても。

 

 諦めながら、諦めながら、諦めながら。

 

 それでも、八幡は、ずっと――自分達を。

 

「――――っッ!!」

 

 比企谷雨音は――それでも、何も言わない。

 何も言う資格はない。自分も夫と同罪だから。

 

 逃げ続け、逃げ続け、逃げ続けて。

 世界は守れても、娘も――息子も、守れなかった。

 

 只の母親失格の――人間失格の、自分は化物(モンスター)なのだから。

 

「――――ハッ」

 

 そして――比企谷晴空は。

 

 嘲笑するように吐き捨てて、自分にそっくりな目で睨み付けてくる息子を。

 決して自分のようには育って欲しくない――そう、確かに願った筈の息子を。

 

 英雄になど、死んでもしないと誓った筈の息子の――威風堂々たる殺意を受けて。

 

「――――ッッ!!」

 

 化物(クズ)と成り果てた元英雄は、笑みを消して、拳を握った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 世界各地で『英雄候補』となる少年が発掘され続けた。

 

 条件は、あくまで黒髪の少年であることのみ。

 身に纏う黒衣はCION(こちら)で支給すれば簡単にクリアすることが出来る。

 

 今の時代、黒髪など世界中に存在する。

 それにあくまで最終決戦の時の姿しか幻視していないので、強引な解釈だが、カタストロフィの時のみ黒髪に染め上げればクリア出来なくもないのだ。

 

 各国の上層部にとっては、未来の祖国の行末を左右する問題だ。

 端的に言えば――彼らは手段を選ばずに、金の卵を『英雄候補』に仕立て上げていった。

 

 歴戦の戦士を若返らせる手段までもが研究され始める中――某年某日。

 

 比企谷晴空は、耳を疑う言葉を、上司であり、盟友でもある存在から告げられた。

 

「――ハッ? ……わりぃ。ちょっと五徹して耳がイカれてるみたいだわ。……もう一回、言ってくんね?」

 

 晴空は、普段以上にドロドロと己が双眸を濁らせながらも、机に激しく右手を叩き付け――その仮面に顔面を近づけながら、引き攣った笑みを浮かべながら言った。

 

 対して――仮面の存在は、秘密組織『CION』の最高幹部であり、№2であり、実質的な支配者でもある《CEO》たる存在は、シンプルながらも素材のいい椅子の背凭れに体重を預けながら答える。

 

『私は、『英雄候補』として君の息子――比企谷八幡を推挙する。そう言ったのだが、今度こそ聞き取れたかな?』

 

 綽々と答える機械音声に、今度は左手も机に叩き付けて、笑みを消して、低い声で晴空は言った。

 

「……どーいうこった? 何処の国にも所属してねぇお前らは、特に『英雄候補』探しはしねぇって言ってなかったか?」

『積極的にはしないと言っただけだ。それに、これはあくまで個人的な意見だよ。別に今すぐ君の息子を殺して、戦士にするといった意味合いではない。安心しろ』

 

 仮面存在は椅子を回転させ、不気味な笑みを浮かべる晴空と向き直る。

 そして晴空は、相変わらず感情の伺えない機械加工の言葉を、感情の見えない仮面を睨み付けながら聞く。

 

『君の言う通り、我々は何処かの国に正式に属しているわけではない。故に、何処の国の誰が【英雄】になろうと構わない――だが、だからと言って、誰でもいいわけではない』

 

 晴空と同様に、伝聞ではなく、その目で、その身であの『予言』を体感した存在である《CEO》は、世にも恐ろしい眼で睥睨してくる晴空に対し、淡々と――だが、力強く告げる。

 

『君も、アレを感じたのだから分かるだろう。アレは『真理』の言葉通り、辿り着ける最高の可能性の未来だ。確約された未来ではない。数値として算出すれば恐らくは1%にも満たないであろう、そんなか細い枝葉に過ぎない』

「……だからこそ、だ。そんな可能性を実現させるご大層な英雄様に、俺の息子が成り得るとでも?」

 

 そう鼻で笑おうとする晴空に、だが、《CEO》は。

 

『勿論だとも。私は、その可能性が最も高いと考えている』

 

 静かに、真っ直ぐに、感情の伺えない声色と仮面を持って、そう断じた。

 

「――な」

『何度でも言うが、これはあくまで私の一意見だ。《天子(アイツ)》にも個人的にお気に入りがいるようだし、それに先程の言った通り、私は究極的にいえば誰が【英雄】になろうとも構わない。現段階では、個人的に君の息子に何かしようとも考えはいない』

 

 だが――と。

 

 晴空が何も言えないでいる中、仮面の盟友は、己が戦友を真っ直ぐに見据えて、淡々と機械的に言ってのける。

 

『あの『予言』を、《CEO()》と、《天子(アイツ)》と、そして比企谷晴空(きみ)が託された。私は、これは偶然ではないと考えている。あえてふざけた言葉を選ぶなら、そう――運命のような、必然であったと』

「……運命、だと? ハッ、お前らしい、おめでたい言葉だな」

 

 晴空の力無い皮肉に、《CEO》は『ああ、自覚はある』と、何も動じずに返し。

 

『だからこそ、私は――何もしない。だが、もし、我々が何もしなくても、君の息子が無作為に戦士に選ばれ、そして『真なる終焉の日(第二次カタストロフィ)』まで生き残り続けるようなことがあれば……私は、期待せずにはいられないな』

 

 その時、初めて《CEO》の機械的音声に、感情のようなものが垣間見えた。

 

 盟友たる晴空には分かる――コイツは本気で言っている。

 

 俺の息子が【英雄】となることを、本心から期待している。

 

『それに――だ。他ならぬ、君の息子だ。私はそれだけで、君の息子には英雄の素質があると、そう確信することが出来るよ』

 

 俺の――比企谷晴空の、息子だから?

 

 だから、アイツは――比企谷八幡は、英雄になれる、と、そういうのか?

 

 

「――ふざけんな」

 

 

 晴空は《CEO》の机の上に広がっていた数々の重要文書を撒き散らし、ひらひらと白い紙が舞う中で、禍々しく告げる。

 

「……認めねぇよ。例え、お前が認めても……『真理』が、『神』が認めても! 俺だけは認めねぇ!! 死んでも殺されようと認めねぇ!!」

 

 世界を救う英雄? 地球を守る英雄?

 

 ああ素晴らしいな最高にカッコいい。

 男の子なら誰もが夢見る絶好のシチュエーションだ濡れるな惚れるよサイン欲しいぜ。

 

(クソッタレだ)

 

 どいつもこいつもふざけてんのか。

 英雄だ救世主だと素敵な言葉で飾り付けて、テメェらのやろうとしてることを美化してんじゃねぇ。

 

(はっきり言えよ――()()だとな)

 

 晴空は《CEO》を睨み付ける。

 ドロドロと、禍々しく濁り切った眼で睨み付ける。

 

 お前は見ただろう――あの『予言』を。あの『光』を。

 

 確かに【英雄】は、あの『光』へと特攻し、分裂させ、破壊した。

 超常存在たる『真理』をも予想出来なかった『可能性』へと至った。確かにスゲェな、惚れ惚れする。

 

 だが――()()()()

 肝心の英雄様は、あの後――どうなった?

 

(――生死不明。消息不明。肉片一つでも残ったかすら怪しい――ッッ!!)

 

 断言する――()()()と。

 あの『光』の神々しさを体感した晴空には分かる。

 

 呑み込まれ、取り込まれ――あの『光』に包まれて。

 生き残った筈がない。凱旋出来た筈がない。

 

 死んだんだ――そうだ、死ぬんだよ。

 英雄は英雄らしく、我が身を犠牲に、その生命を捧げて、地球を守り、宇宙の塵となって死ぬ未来が約束されている。

 

 そんな役目を押し付ける少年(こども)を、大人達は一生懸命に探している。

 地球(おれたち)の為に死んでくれと、そう願われる英雄(ガキ)を育てている。

 

(ふざけんな――ふざけんなッ!!)

 

 大人(おれたち)が始めた戦争だ。

 なのに、何も知らないたった一人の少年(ガキ)に、その全てを押し付けるのか?

 

「お前は、俺に――八幡(息子)に死ねと、そう言えってのか? アァ!?」

 

 紙がゆっくりと舞い散り、荒く乱れた息を吐き出す晴空に向かって。

 

 仮面の盟友は、淡々と、当たり前の事実を告げるかのように言った。

 

『――言えるだろう? 君は』

 

 弾けるように顔を上げる晴空だが『……君の息子が生まれて、およそ八年か』と、『CEO』は機械的に言う。

 

 比企谷晴空が、何も答えることの出来ないと分かり切っている、その問いを。

 

『これまでの、只の一度でも――君が息子を、慮ったことなどあったかね?』

「――――ッッ!!」

 

 晴空は、拳を握り、口を開いて――そして。

 

 そして――口を閉じて、ゆっくりと、拳を解いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、現在。

 

 比企谷晴空の目の前には、死に掛けたボロボロの息子がいる。

 

 仮面の英雄の言葉は、これ以上なく的中し、そして今――外れようとしている。

 

 晴空は、ハッと笑いながら、その言葉を口にする。

 

「死ね――八幡ッ!!」

 

 最早、何度目の殺害宣言かも分からない。

 

 何故――俺は、息子を殺そうとしているのか。

 何故――俺は、息子に殺されようとしているのか。

 

 晴空は、真っ直ぐ八幡を見ることが出来ず、その向こう側で、弓を持ち矢を番えながらも――泣きそうな顔をした、雨音と目が合う。

 

(……同じだな。あの時と)

 

 晴空の脳裏を駆け巡るのは――これは、走馬灯なのだろうか。

 

 

 真っ先に思い出すのは――あの、晴れ渡った、雨の日の墓地。

 傘も差さずに、何の感情も込めずに、墓の前で両手を合わせる二人。

 

 ふとしゃがみ込んでいた幼馴染の少女は、こちらを見上げ、びしょびしょに濡れた笑みを浮かべた。

 

 この時、晴空は、初めて――この女は、本当にピッタリな名前を貰った少女なのだと、気が付いた。

 

 こんな風に、泣く女なのだと、初めて知った。

 

 

 今でも思い出せる。

 

 俺は、この時、この女に、こう言ったのだ。

 

 

――『俺達は幸せな子供じゃなかったかもしれない。だったら、俺達は子供を幸せにしよう』

 

 

 ハッ――と、晴空は吐き捨てる。

 

 息子を殺す拳を固めながら――。

 

 どうして、こうなっちまったんだろうな――と。

 




世界を救った元英雄は、走馬灯のように回顧する。

己が人生を。己が生涯を――息子を殺す拳を固めながら。

どうしてこうなっちまったんだと、嘲笑いながら。


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Side戦争(ミッション)――③

俺って、こんな目……してたんだな。


 

 比企谷晴空(はると)というクズは、酒癖と女癖の悪いクズの父親と、依存癖と妄想癖のあるクズの母親から生まれた。

 

 どこかの暴力団の下端構成員であったロクデナシのクズだったとある男は、ある日、所属していた暴力団が運営していた風俗店で働かされていたとある一人の風俗嬢を身籠ませた。

 

 精神的に脆く不安定だったが、容姿は優れていたその風俗嬢は、男の所属していた組織の幹部員の贔屓嬢であり尚且つ店の売上としても重要な嬢だったらしく、男は散々に痛めつけられた。

 

 このままだと殺されると思った男は、単身で夜逃げし、そのまま千葉の地へと身一つで逃げ出してきた。

 

 男にとって誤算だったのは、そこに身籠った風俗嬢もついてきたことだった。

 

 最初は怒鳴り散らし、暴力も振るいながら東京へ帰るように迫った。

 彼女目当てに暴力団の追手がやってくるかもと考えたからだ。

 

 だが、結果として、追手は差し向けられなかった。

 構成員として下っ端の下っ端である男が大した情報も持っていなかったこと、身籠った時点で女に商品としての価値がなくなったことなどが理由だったかもしれないが、男にとってはどうでもよかった。生きていればそれでよかった。

 

 結果として、男と女は千葉の地で新たな人生をスタートさせる。

 

 だが、それは、底辺だった人生から、最底辺の人生へと転落しただけだった。

 

 男は学歴がなかった。

 小、中と教科書通りにロクデナシの生徒だった男は、中学卒業と同時に義務は果たしたとばかりに親にも国にも見捨てられ、転がり落ちるように裏世界に堕ちた。

 そして、暴力団に入ったことを、威張りながら好き勝手に生きることの出来る肩書を手に入れた程度にしか考えられなかった生粋のクズだった。

 

 学歴や資格どころか、まともな職業を全うする根性すらない。

 表社会に彼を雇う所がある筈もなく、裏社会においても、東京に本拠を置くそれなりに全国に名が通っている暴力団を逃げ出した身の上である男を入れる組織など千葉にある筈もない。それどころか、余計な火種だといわんばかりに男が近づく度に殺されかかる始末だった。

 

 故に、男は女を使った。

 身籠っていた赤子を生んだ直後に、女は男によって適当な風俗店に再び放り入れられた。

 

 そして、女の稼ぎを着服することによって、男は生き長らえることとなる。

 

 女は店のスタッフが顔を顰める程のハードスケジュールで文字通り体を張って金を稼ぎ、男は汗も水も垂らすことなく手に入れるその金をパチンコ台に拳を叩きつけながら溝に捨てるが如く浪費した。

 

 毎朝、女の髪を掴み上げながら金が少ないと怒鳴り散らす男の声で目を覚まし、女がへらへら笑いながらごめんなさいと男に縋りつき愛していると告げる横でパサパサの何も付けていない食パンを水道水で流し込む。

 

 それが、比企谷晴空の幼少期の記憶――原初の記憶。

 

 家族という言葉で引き出される――己の根源となる光景だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 殆ど家にいない父親らしき男に代わって、晴空を育てたのはいつも笑顔の母親だった。

 

 夜は滅多に家にいない母親は、外が明るくなるくらいの時間帯に家に帰宅しているようだった。

 そして、いつ寝ているか不明な母親が用意した味のしない食パンを食べ終えた後、父に金を奪われて、頬に殴られた跡をつけたままの母親に、抱き締められこう囁かれるのが晴空の日課だった。

 

 おはよう。今日も愛してるわ――と。

 

 その言葉の歪さに気付いたのはいつだろうか。

 少なくとも、思い出せる最も古い原初の記憶の中の己でさえも、その言葉を耳元で囁かれて、晴空は――途轍もない嫌悪感を覚えていた。

 

 今でも、自分を風呂に入れるその頃の母親の裸身を覚えている。

 それは己が母親を性的対象として見ていたというわけではなく、その身体が余りに痛々しかったからだ。

 

 客前で服を脱ぐ職業である母親の身体は、分かり易く痣だらけというわけではない。

 毎朝、母親を殴りつける父親も、顔などの見えやすい部分はすぐに消える程度の力加減で殴るが、見えにくい箇所には痛々しい痕が残っていた。そういった小賢しい計算だけは働く父親らしき男に、晴空は日々怒りを募らせていた。

 

 しかし、幼い晴空の目に留まったのは――母親の手首の傷。

 普段は腕時計で隠しているだろうその傷は、母の弱さの証だった。

 

 

 

 これは、晴空が大人になってから知った真実だ。

 晴空の母親は、まだ十代の頃に、見知らぬ男に犯されていた。

 

 当時、普通の女学生だった母親は、不審者に不審車両の中に連れ込まれ、そこで複数人の男に強姦された。

 これは、何の変哲もないごく普通の人生を歩んできた思春期の少女の心を砕いて余りある悲劇だった。

 

 この時、逃げ出せというのは過酷にしても、男らに対する復讐心や恐怖心を持てる程度に強くあれば、親や警察なりにこのことを打ち明けられる程の強さがあれば、彼女の未来にはまだ希望というものが残っていたのかもしれない。

 だが、彼女は普通の少女で、己の身に突如として降りかかった凄惨な悲劇を――まともに受け止められることは出来なかった。

 

 少女を弱者だと、そう切り捨てることは余りに傲慢なのかもしれない。

 しかし、この時の彼女の逃避行動が、その後の彼女の人生を――終わった人生を決定づけた。

 

 端的に言ってしまえば、彼女はこの時、自分を強姦した男達の一人と交際を始めた。

 犯されている最中も悲鳴を上げずにただ呆然とする彼女を、都合のいい女だと判断したその男は、その後も事ある毎に彼女を呼びつけ、欲望のままに行為に耽った。

 

 そんな己が状況を、少女は自分に彼氏が出来たと判断した――そう思い込んだ。

 自分は年頃の少女らしく、年上の彼に愛されて、彼氏と彼女として付き合っているのだと。

 

 そんな風に逃げて、逃げて逃げて逃げて――気が、付いたら。

 

 自分は腕に注射器を打ち込まれ、何処かの風俗店で働かされていた。

 

 朦朧とした記憶の中で覚えているのは、自分の彼氏だった筈の男が、どうやら何処かのヤバい組が若者に流していたクスリを不正な手段で入手し、それを自分にも使ったらしいということ。

 その代金が払えずにボコボコに殴られる彼氏の横で、クスリが抜けるまでの監視と代金の回収を兼ねて、自分がこの風俗店で働かされることになったということだった。

 

 彼女は、それを夢の微睡の中でぼんやりと聞いていた。

 それがクスリの影響なのか――それとも、ずっと前からなのか。

 

 よく分からないまま、彼女は次々とやってくる見知らぬ男の前で服を脱ぎ、張り付けた笑顔を相手に向け続けた。

 

 

 

 そして――その数年後。

 

 彼女は、同じ笑顔を浮かべたまま、己が息子を抱き締めている。

 

 晴空は、そんな母親の弱さを、この時には既に見抜いていた。

 大人になってから知る母の過去を、母の人生を、母の逃避を知るまでもなく、己の母親が、どんな気持ちでこの笑顔を浮かべているか。どんな気持ちで自分を抱き締めているか。

 

 母は今も逃げている。

 現実から、自分を孕ませたあの男から――そして、自分が生んだ、息子から。

 

 母は思い込んでいる。

 自分は幸せな結婚をしたと――実際には、夜逃げ同然で千葉に来た為、籍どころか住民票すら持たない身分の癖に。

 

 母は思い込んでいる。

 自分は夫を妻として支えていると――実際には、文字通り道具扱いされ、稼いだ金の大半を強奪され、ギャンブルに負けた腹いせに犯される身分の癖に。

 

 母は思い込んでいる。

 自分は息子を愛していると――実際は――実際は――実際は。

 

 晴空は、己を抱き締める母親の耳元で囁く。

 母親が望んでいるであろう言葉を――母親には見せられない、無表情で。

 

 僕も、愛しているよ――と。

 

 母はその言葉を聞いて声を震わし、嗚咽を漏らす。

 息子を抱き締める力をギュッと強めて、言うのだ。

 

 ありがとう、ありがとう、ありがとう――と。

 

 この母親は――クズなのだろう。

 逃避だと分かっているのに、その間違った道から出られない。

 

 でも間違っているという自覚がどこかであるから、常に何かに怯えている。

 怖いから、恐ろしいから、必要とされていると思い込むことで、その恐怖を紛らわせている。

 

 夫を、そして息子を――自分がいなければ何も出来ないと内心で見下すことで。

 共依存――必要とされることを己の存在意義と見出すことで、この母は何とか今日も形を保てている。

 

 この人にとって息子とは、自分の自己犠牲的献身を振る舞う道具として絶好な存在なのだろう――そして、あのクズの父親も。

 

 お似合いのクズ夫婦だと、息子に見下されていると知らずに――母は、また、ありがとうと言った。

 

 その言葉を聞く度に、毎朝、晴空は強く、固め、高めるのだ。

 

 ゆっくりと、ゆっくりと――その、殺意を。

 

 それを誤魔化すように、晴空は今日も母の耳元で、空虚に、愛していると呟いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その殺意が明確な形を得たのは、それからおよそ数年後。

 

 毎朝、父親らしき男が暴力を振るう対象が、母親を庇う息子へと変わって久しい頃。

 

 その日もいつもの日課を終え、息子を抱き締めていた力を母親が緩め、息子の肩に手を乗せて、泣き腫らした笑顔を息子に向けて言った――この言葉を、聞いた瞬間だった。

 

 

――あなたに、弟か妹が出来るのよ。

 

 

 晴空は、その言葉を聞いた瞬間に決意した。

 

 ああ、殺そう――と。

 父親が未だ母親を犯し傷つけ続けていた事を知ったからなのか、それとも、新しい生命を宿した母親をこれ以上傷つけさせない為だったのか。

 

 それとも――こんな地獄の中で生き続けなければならない、新たに生まれる自分のような存在を、守りたかったのか。

 

 決定的な感情(よういん)は何だったのかは思い出せない。

 だが、その時の殺意(かんじょう)は、今でもはっきりと思い出せる。

 

 そして、晴空は、その計画を綿密に立て始めた。

 己が父親への――殺人計画を。

 

 ただ殺すだけじゃダメだ。

 例え、首尾よく父親を排除出来たとしても、自分が逮捕されたら意味がない。

 

 二人の依存対象を同時に失えば、母親は今度こそ逃げきれずに壊れてしまう。

 万が一、耐えられたとしても、その対象は生まれてくる――弟か妹に一身に注がれてしまう。

 

 だからこそ、父親を排除し、自分が逃げ延びる――最低限、自分が大人になり、母親を立ち直らせることが出来るようになる、その時まで。自首するのはその後でいい。自殺するのはその後でいい。

 

 そして、生まれてくるのが妹でほぼ確定する程に母親のお腹が大きくなった頃。

 働けなくなった母親に代わり、息子が母の店のスタッフに頼み込んで雑用をして最低限の給料を稼がざるを得なくなってしまった頃――計画を実行に移すことになった。

 

 計画を詰め切れたとは言えなかった。

 だが、これ以上の計画の遅延は厳しい。家計的にも、そして父母的にも。

 

 母親としては、自分が金を稼ぐことが出来なくなるということが、自分は必要とされていると逃避することが出来なくなる大きな要因となっていたので、何も出来ずに息子に養われているということが、恐怖にも似たストレスになっていたようだった。

 

 共依存が、壊れてしまう。

 それは母にとって、己の破壊に等しかった。

 

 それに加え、日中母親を家に置いたまま、自分が何も出来ないという状況にあったのも大きい。その間にあの父親が母親に何かしているかもしれないという危険性が把握しきれず、また何でも出来るという状況が不味かった。赤子を生んだばかりの女性を、平気で風俗店に放り込ませ働かせるようなクズだ。第二子が生まれそうという母体を慮るとは思えない。

 

 最早、一刻の猶予もない。

 そう判断し、晴空は実父殺害計画を実行に移した。

 

 晴空が選んだのは、車に細工をしての事故に見せかけた殺人だった。

 

 あのロクデナシのクズが少し前から、何をトチ狂ったのか車が欲しいと言い出し、母を恫喝していたのは知っていた。

 当然ながらこの住民票もないクズ野郎に免許を取れる金も資格も、そして根性もある筈もない。もっと言うのなら、毎日体を張って働いている母にさえ、車のような高い買い物が出来る信用性など皆無だろう。

 

 だが、男が言うには、同じロクデナシ仲間のとある伝手から、使わなくなった中古車を譲り受けることが出来るらしいのだ――金さえ払えば。

 当然ながら犯罪だし、毎朝のトーストにジャムを塗ることすら出来ない比企谷家にそんな金がある筈もなかった。何より、そんな家計状況の中、もうすぐ赤ん坊が生まれるのだ。無免許運転の為の車などを買っている余裕などあるわけもないが、このクズにそんなまともな論理が通じるわけもなく、またこのクズにそんな子供染みた我が儘など我慢しろと言っても、出来るわけもなかった。

 

 結果として、金は母があちこちに頭を下げて体を売って掻き集め、男は念願の違法マイカーを手に入れた。

 晴空は、それを奴の棺桶にしてやろうと画策した。

 

 そもそも違法な手順で手に入れた違法車両。そして何より、肝心の運転手が無免許のクズである。

 事故死したところで、只の馬鹿なクズの事故死という先入観で見られるだろうし、早々に事故としてさっさと処理したくなるだろう。いい大学のご出身であろう国家権力と言えど、毎日同じ仕事をしている大人である。一々、一つ一つの事故に対して、これは殺人事件かもなどと疑っていたら、仕事にならない。ましてや、息子による父親殺しの可能性など考えもしないだろう。ドラマじゃあるまいし、と。

 

 だが、晴空は念には念を入れて、万が一にも車両に施した細工が見つからないよう、車ごと海に沈めることにした。

 アイツはクズの癖にミーハーで他人がやっている楽しそうなことは何でもやってみたがるふざけた習性がある。幸か不幸か、奴はこの時期は海でサーフィンを楽しんでいる。当然、サーフボードから水着に至るまで、妻の身体で作った金で購入したものだ。

 

 あのクズのことだ。当然、海岸線の急なカーブ時なども、面白がってドリフトごっこをしながら限界を攻めているのだろう――その時にブレーキが利かなくなるように細工をする。そして、そのまま海へと突き落とす。

 

 細工が面倒だったが、生まれてからずっと念願だった殺人の為だ。労力は厭わない。

 

 問題は細工を発動させるタイミング。こればかりは事前練習が出来るわけではない。

 それに、これまで父親のことなど興味もなかったので、行動パターンを観察するようになったのは殺害計画を整備する段階に入ってからだった為に、サーフィンに出かける正確な日時が分からない。あの自由人を気取るクズ野郎は、その日の気分で行動を変えるのだ。事前に細工を施して、町中をドライブ中に作動して足を折るくらいで済みましたでは、何も済まされない。ただ罰が当たっただけだ。

 

 それに、こっちにはあのクズと違って仕事がある。最悪サボればいいが、働いているのが母の職場なので、下手なことをすれば母に迷惑が掛かる。色々と仄暗い背景を持っている比企谷家は、再就職など容易ではないのだ。あのクズの為に路頭に迷うなど冗談ではない。

 

 欲を言えば、その辺りも完全にコントロールし、こちらが指定した日時と場所でしっかりと殺害したかったが――そこは仕方ないと考える。

 奴がサーフボードを持ち出したタイミングで、先回りして車に細工を仕込み、問題のカーブに先回りして、あの違法中古車の通りがかったタイミングで細工を発動させる――これしかないと、晴空は考えた。

 

 そして――ある日。

 

 本当に珍しく、父親が前日にちゃんと家に帰ってきて、明日は海に出かけると宣言してきた。

 これまで家族に外出の予定を事前に語ったことなどない父親が。恐らくは、晴空の記憶にある限り初めてのことだった。

 

 クズは、前の日からサーフボードを磨いて楽しそうに準備をしていた――テレビを見て、げらげらとビールを飲んで笑いながら。そして、そのまま寝た。

 

 家の中で――我が家の中で。

 

 いつも自分と母が暮らす家の中に、母と自分だけで過ごしてきた家の中に――父親がいる。

 それが違和感で気持ち悪くて、逆に晴空が家を出た。

 店に呼ばれたからと、母親にそう嘘を吐いて。

 

 奴と母を二人きりにするのは気が引けたが、あのクズは良くも悪くもガキなので、機嫌がいい時は気持ち悪いくらいに機嫌がいい。あれだけビールを飲めば朝まで起きないだろうし、何があったかは知らないが、あれだけご機嫌にサーフボードを磨いていたのだから、少なくとも明日海に行くまでは機嫌がいいままだろう。

 

 心配なのは天気だけで、これで朝に土砂降りだったりしたら(それはそれでいい気味だが)一気に機嫌が悪くなるかもだが、少し癪なことに明日の降水確率は0%だった。神はちっぽけな人間一人の日頃の行いなど見向きもしていないらしい。

 

 だが、それはそれで好都合だ。

 どうせなら最悪な気分の中で死んで欲しかったが、この際、贅沢は言うまい。

 

 気持ち悪いくらいのご機嫌な中で殺してやる――と、真っ暗な夜の中、晴空は奴の違法愛車に仕掛けを施し、夜が明けぬ暗い内に目的地へ向かった。

 本当は知り合いに頼んで送ってもらうつもりだったが、殺人の片棒を担がせるような真似は心苦しかった。今から向かえば、必要最低限の交通費で辿り着けるだろう、と。

 

 そして、次の日の早朝。

 晴空は件のカーブを見下ろせる絶好のポイントに身を潜めることが出来た。

 

 後の問題は――奴が来るか、どうか。

 あの違法中古車はクズが分かり易く改造していた為(よく警察に職質されなかったものだ。こういった部分は国家公務員にしっかりと仕事をしてもらいたい。今回はある意味助かったわけだが)、同じ車種を見間違えるということもないだろう。

 

 だが、あのクズは前述の通り、気分屋で、自由人気取りのガキだ。

 どれだけ前日はウキウキ気分でも、二日酔いで頭が痛いからやっぱ行くのやめたとか、普通に考えられる。可能性は低くない。

 

 よく酔っぱらって帰ってくることはあるが(そして妻や息子に暴力を振るうが)、次の日に二日酔いになったといったところは見たことがない。しかし、酔って散々暴れた挙句に再び飲みに出かけるといったことも多かったので、その後どこかで二日酔いに苦しんでいたのかもしれない。そんな様を想像すると少し溜飲が下がるが、今ばかりはそれが不安要素だ。

 

 どくどくと心臓が鳴り響く。

 握り締めたスイッチが手汗で滑りそうだ。

 これは――宿願が叶う緊張か。それとも――生まれて初めての殺人への恐怖か。

 

 昨夜の楽しそうな父親の様子を思い出して――晴空が歯噛みした瞬間、その趣味の悪い車を見つけた。

 

 中古軽自動車では有り得ないスピードで、真っ直ぐにカーブに突っ込んでくる。

 予想通りの頭の悪い運転だ。晴空がスイッチを入れなくてもそのまま曲がり切れずにガードレールに突っ込みそうな勢いだ。

 

 それを見て――晴空は。

 

「――――――――――――」

 

 自分の表情が消えるのを感じた。自分の感情が――死んでいくのを自覚した。

 

 そして、ただ機械的に、ただ作業的に、その凶器(狂気)のスイッチを入れた。

 

 カチ、と。乾いた音。

 ひょっとすれば何も起こらずに、失敗したかと錯覚するような、気の抜けた音。

 

 だが――何故か。

 晴空の心には、焦燥感もなく、恐怖心も消え失せていた。

 

 そして、趣味の悪い違法中古軽自動車は、ガードレールをまるでゴールテープか何かのように突き破り、千葉の海へと飛んだ。

 

 ボンと。やはり、乾いた音が聞こえた。

 小さな爆発の衝撃が腹に届き、黙々と遺灰のような黒煙が天に伸びる。

 

 真っ直ぐに落下し、固い岩にワンバウンドした小さな車は、そのまま天井から逆さまに海に落ちた。

 

 辺りに人はいない――自分以外には。

 だが、あれだけの事故だ。狼煙(のろし)のように煙も上がった。

 朝も早い時間帯だが、いずれ誰かが気付くだろう。何よりガードレールに穴が開いているのだ。通りがかった安全運転のドライバーが通報してくれるに違いない。

 

 当然、自分はしない。

 携帯電話など生まれてこの方触ったこともないし、何より発見が遅いに越したことはない。

 出来る限り、あの男には冷たく苦しい思いをしてもらいたい。どうか即死ではありませんように――と、息子は父親を思った。

 

 晴空はしばし、天に昇る黒煙を見詰めると、そのまま背を向けて帰宅を開始する。警察が来る前までに家に戻らねば。

 

 晴空は終ぞ、父親に別れの言葉を言うことはなかった。

 

 人を殺してしまったという焦燥感も、人を殺してしまったという恐怖心もなかった。

 人を殺してやったという達成感も、人を殺してやったという優越感もなかった。

 

 ただ――帰り道。

 海沿いの道を駅まで歩く道中で、誰もいないのを確認して海に向かって証拠品(スイッチ)を違法投棄して。

 

 駅のトイレで普通に小便をした後に、手を洗う際に鏡を見て、小さく呟いただけだった。

 

 そこには、殺した男とそっくりな顔をした息子が。

 生まれて初めて、直視した自分の顔に対して――微笑みかける姿があった。

 

「俺って、こんな目……してたんだな」

 

 他の全てのパーツはそっくりなのに、その目だけは、あのクズとは違っていた。

 

 きらきらとガキのように輝く父親(クズ)の目ではなく。

 

 鏡に映った息子(クズ)の目は、どんよりと濁り――腐っていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その日の夕刻。

 晴空は、冬場には隙間風に悩まされる安アパートへと帰宅した。

 

 家の前に、当然ながら違法駐車の違法中古車はない。永遠に帰ってこない。

 それを横目で濁眼により確認しつつ、一切歩調を変えぬままに一段一段軋んだ音を立てて階段を上る。

 一日休みをもらった分、明日はフルタイムでシフトに入らなくてはならない。学校は休まなければと、義務教育中の男子学生は、早朝に父親を殺した息子は雑考する。

 

 別に自分が犯した罪から目を背けているわけではない。母親のように、逃げているわけでもない。

 かといって、己が罪状を誇るわけでもない。家にいるだろう母親に、己が手柄を誇ることもしない。

 

 何も言わない。何も知らない振りをする。

 警察が来たら一緒に戸惑い、悲報を伝えられたら一緒に驚くつもりだ。流石に一緒に泣くことは出来ないかもしれないが、慰めることくらいは何食わぬ顔でするつもりだ。

 

 全てを受け入れて、日常を送る。

 これからも、クズな母親を守ろう。生まれてくる妹だけは、クズにならないように大切に育てよう。

 

 父親(クズ)を殺した息子(クズ)は、未来に向かって希望を伸ばす。

 その為に、晴空は父親を殺したのだから。

 

 ハッ――と。

 晴空は、笑って――嗤って、扉を開けて、ただいまを言った。

 

 真っ暗だった。

 

 母親はいなかった――帰ってこなかった。

 

 その日の夜、真っ暗な部屋で佇んでいた少年の元を、警察が訪れた。

 事故死した被害者の家族に、その訃報を伝えるという仕事をしに来たらしい。

 

 

 死んだのは、彼の父親と――彼の母親。

 

 

 そして、母親のお腹の中にいた、名もなき彼の妹だった――妹となる筈の生命だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 住所不定の両親をいっぺんに失って、一日にして天涯孤独となった晴空少年は、警察官の父親を持つ幼馴染の少女の家に引き取られた。

 

 父親も母親も実家からは勘当されており、葬式すら開かれなかった。

 幼馴染の少女の父によって形として作られた墓の前に佇む晴空は、ドロドロと瞳を腐らせて思考する。

 

 結果として、あの暴走違法中古車には、あのクズの父親だけでなく、クズの母親も乗っていたということだったらしい。

 

 らしいということを、警官をやっている幼馴染の少女の父親から聞いた。

 本当はあの夜に訪れた警察も同じようなことを説明したのだろうけれど、晴空は覚えていなかった。

 

 晴空の記憶はそこでブツリと途切れていて、次に覚えている映像では、もう幼馴染の少女の家に用意された自分の部屋の中にいた。

 

 何でも、急に空き部屋が出来たらしい。

 まるで引っ越しでもしたかのように、その部屋だけ全ての家具が撤去されていた。

 

 何もないその空っぽな部屋で、晴れ渡った空をよく眺めていた。

 隙間風など一切感じない、あのボロアパートとは比べ物にならない良質な作りの一軒家。

 

 流石は国家権力だと、警察官の家に住まうことになった殺人者は笑う。

 

 殺人者――そう、結果として父親殺しは、実は母親殺しでもあり、そして妹殺しでもあったというわけだ。

 

 ハッ――と、晴空は笑う。清々しい程に晴れ渡った空に向かって。

 

 どうしてあの日、母親は父親と一緒にいたのか。

 どうしてあの前の日、父親はまるで父親のように振舞っていたのか。

 

 脅していたのか。拐していたのか。

 

 それとも――ずっと。

 

 もしかしたら――ずっと。

 

「――ハッ」

 

 晴空は、晴れ渡った空に向かって、笑う。

 

 どうでもいい。

 全ては終わったことだった。全ては殺したことだった。

 

 全てを受け入れると決めた。

 何食わぬ顔で日常を送ると決めた。

 

 やっと、クズから解放されたのだ。

 クズな父親に暴力を振るわれることも、クズな母親に依存されることもない。

 

 いかがわしい店の雑用をやらなくてもいい。

 少ない金でやりくりしなくていい。残飯を漁らなくていい。道行く大人に物乞わなくていい。ホームレスの老人に土下座して食パンの耳を分けてもらわなくてもいいのだ。

 

 やっと人並みの人生を送れる。

 クズから、やっと、人になれる――いや。

 

「………………違う」

 

 晴空は乾いた声で呟く。

 

 そうだ。

 父親はクズだった。母親もクズだったかもしれない。

 

 それでも――妹は。

 生まれなかった妹は。生まれる前に殺された妹は。

 

 決してクズじゃない――無垢だった。

 穢れる前に、兄に殺された生命。

 

 そんな生命を殺しておいて、クズでない筈がない。

 

 クズの父親と、クズの母親の間に生まれたのは、それ以上のクズだった。

 

 ただ、それだけの話だった。

 

 ハッ――と。

 

 夏の日の晴れ渡った空に向かって、笑う。

 

 地面に、一粒の雨が染み込んだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 念願の日常を、晴空は濁り切った瞳で無機質に見詰めていた。

 

 義務教育中の夏休み。

 ずっとクズの両親によって虐げられていた横目で見ていた筈の、憧れの当たり前の中にいる筈なのに、何故か一つも楽しくなかった。

 

 友達がいない為、毎日、色々な場所を一人で歩き回った。

 時折、お節介な正義の味方が絡んできたが、晴空の乾ききった笑顔を見ると、苦笑しながら一人にしてくれた。

 

 ゲームセンター。動物園。デパート。遊園地。

 今まで行けなかったたくさんの場所に行った。これから生まれる筈だった妹の為の金が少しは遺されていた為、好きな場所に好き勝手に行けた。

 

 本当ならば、妹を連れてくる筈だった場所。

 妹には、自分のようになって欲しくなかった。だから、ゲームセンターにも、動物園にも、デパートにも、遊園地にも、何処にだって連れて行ってあげる筈だった。

 

 当然――海にも。

 

 晴空は、父親と母親と、そして妹が死んだ場所――自分がこの手で殺した場所へと、あれから初めて訪れていた。

 

 あの日と違って、夏の日としては珍しく、今にも降り出しそうに曇っていた。

 決してサーフィン日和ではないこの空模様に、あれからすっかり癖になった、ハッと吐き捨てるような笑いを漏らす。

 

 だが、しかし――心は目の前の海と違い、凪いでいた。

 

 少しは後悔の念が湧き起こるかと思った。

 殺してしまったという焦燥感や恐怖心が、襲ってくれるものだと期待した。

 

 両親を殺してまで、妹を殺してまで、手に入れた普通の日常の――無味乾燥さを知った今ならば、と。

 

 だが、目の前の荒れ狂う海は、対して無風状態の凪いだ心は、否応なしに晴空に突き付けてくる。

 

 比企谷晴空という存在が、どれだけクズなのかということを。

 

 あれだけのことをしておいて、この補修されたガードレールのように、何もかもをなかったことにしようとしている。

 

 ハッ。

 

「ふざけるな……馬鹿野郎」

 

 ぽつ、と。

 地面に小さな染みが出来る。

 

 雨が、降り出した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 雨の中を、傘も差さずに帰路を歩く。

 

 あの日と違い、隙間風が吹き込むボロアパートにではない。

 だが、国家権力たる警察官が待ち構える、居心地のいい新居にでもない。

 

 俯きながら、ぽたぽたと雨を垂らしながら辿り着いた場所は――墓地だった。

 

 ……ハッ、と、嘲笑う。

 ここには確かに、晴空のクズの父とクズの母、そして生まれることすら出来なかった妹の墓がある。

 

 しかし――死体はない。灰すらない。

 灰というのなら、今朝方に足を運んだ、あの千葉の海の方がきっと流れていただろう。

 

 魂すら眠っていない形だけの墓地に、一体、何を求めているのか。

 そう思って、再び俯きかけたその時――墓地に、誰か人がいることに気付く。

 

 御覧の通りの土砂降りである。

 しかも降り始めてからかなりの時間が経過している為か、傘を差した通行人すら殆どいない。だが、その墓地の中で佇む人影は、奇特なことに、誰かさんと同じく傘を差していないようだった。

 

 それは女の子だった。

 年若い――まだ子供のようだった。

 

 肩口程の長さの黒髪。自分と同じ一房のアホ毛が雨に濡れてしな垂れている。

 トレードマークの眼鏡も濡れて、その表情はここからでは伺えない。

 

 晴空は、そんな見知った幼馴染の、見たことのない姿を見つけ――用の無い筈の墓地の中に足を踏み入れた。

 

 やはり、人は誰もいない。

 お盆には少し早いし、何よりもこの雨だ。

 

 こんな空の下で、傘も差さずに墓参りに来るような奴は、自分とコイツだけだろうと思った。

 

「……何をしに来たの」

 

 と、少女は言った。

 

「……あなたの会いたい人は、この下にはいないでしょ」

 

 と、少女は続けた。

 

 晴空は、そんな少女の座り込んだ小さな背中を、びしょびしょに濡れて下着が透けている背中を、濁った眼で見詰めながら返す。

 

「……お前は。……その下に眠る人に、何て言って欲しいんだ?」

 

 女の子は、ゆっくりと振り返った。

 今まで何度も見てきた少女だった。近頃は毎日会っている筈の少女だった。

 

「……あなたには、分かるでしょ?」

 

 だけど、振り返って見せたその表情は、見たこともない笑顔だった。

 

「……分からないわよ。……分かるでしょ?」

 

 びしょ濡れの美少女は、雨に打たれながら、そう言った。

 

 そう言われて、晴空は、コイツは雨が似合うと、そんなことを思っていた。

 己と違い、本当に自分にピッタリな名前を貰ったヤツだと。

 

 少女は、今にも壊れそうな笑みで、濁った眼の無表情の少年を見上げる。まるで、助けを求めるように。

 

 彼女のその声は、この土砂降りの雨の音のようだった。

 静かに、零すように呟かれた言葉だった筈なのに、何故か晴空にはそんな風に思えた。

 

 

 この幼馴染の少女、新しい家族となった少女――雨宮(あまみや)雨音(あお)は。

 

 

 きっと、こんな風に泣く少女だと、比企谷晴空はやっとそんなことに気付いたのだ。

 




父親を殺し、母親を殺し――妹を殺した少年は、土砂降りの中で濡れている幼馴染に出会う。

少女は、雨の中――まるで泣いているように、幼馴染に笑いかけた。

分からないと、何も分からないと――まるで助けを求めるように。


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Side戦争(ミッション)――④

――きっと、初めから間違ってたのよ。


 

 雨宮(あまみや)雨音(あお)というモンスターは、正しいことを()さとするモンスターの父親と、正しくないことを悪とするモンスターの母親から生まれた。

 

 千葉県警のエリート刑事であるカタブツのモンスターだった父親は、ある日、とある事件を切っ掛けに知り合った勝利主義者の弁護士と男女交際をすることになった。

 

 精神的にヒステリックな面もあったが容姿は優れていた彼女は、勝率九割というその裁判成績も相まってマスコミの注目度も高く、こちらも抜群の事件解決成績を残していた男との関係はすぐに話題となり、その後、当然のように二人は結婚した。

 

 女の方は、集まったその注目を利用してあらゆる分野、方面へのコネクションを築き上げ、己の仕事へと結びつけて、出世街道を突き進んで首都東京への進出を視野に入れる所まで上り詰めた。

 

 だが、男の方は周囲の注目も発言にもまるで取り合わず、数々の栄転の話を全て断り、地元千葉の地の平和を守り続けるべく、一刑事として現場へと残り続けた。

 

 女にとって誤算だったのは、そこに結婚した男がついてこなかったことだった。

 

 最初はヒステリックに喚き散らし、泣き落としながらも東京へ上京するように迫った。

 彼のような気心の知れた優秀な刑事が居れば、警視庁方面へのツテも獲得できると考えたからだ。

 

 だが、結果として、彼は千葉の地を離れることはなかった。

 彼にとっての正しさとは、他人の意見に左右されることなく、ただ己が内に芯のように存在する柱のようなものだった。

 

 愛する地元に住む、愛する人々の穏やかな日常と笑顔。

 それこそが彼にとって守るべき大切な宝物であり、それを見捨ててまで見知らぬ東京の地へ栄転することが正しいことだと、彼にはやはり思えなかった。

 

 彼女にとっても、彼のそういった部分は自分には持ち得ない眩しい資質であり、そんな彼に心惹かれたことも間違いではなかったので、遂には彼女の方が折れた。

 その時、女が男の子供を身籠っていることが発覚したこともあり、女も男も千葉の地に残ることとなった。

 

 だが、女はやはり、己の正義を捨てることは出来ず――少しでも高みに上り詰め、少しでも勝利を積み重ね、悪を裁くことこそが正しさだと、正しくないことはすなわち悪だという己が信念を捨てることが出来ず、生まれた娘が一才となったその年、彼女は仕事の本拠地を東京へと移すことになる。

 千葉に戻るのは仕事のない時だけ――東京にマンションを借り、千葉と東京を往復するビジネススタイルを選択することとなった。

 

 男の方も普段はいつも通りだが、娘の為に残業を減らし、家事もするようになった。

 これまで妻と結婚するまでは付き合いなどで朝まで飲むことも少なくなく、コンビニ飯が主食であった父が、真新しいエプロンを付けて料理本片手に台所へ向かうこととなったのだ。

 

 だが、それも夫婦で話し合って決めたことだ。

 互いの正しさを尊重し、貫く為。この二人にとっては何よりも大切な盟約の為に、一緒に頑張ろうと誓い合った。

 

 結果として、父と母は千葉の地と東京の地で、それぞれ新たな人生をスタートさせることとなる。

 

 だが、それは、順調だった二人の人生に、暗雲を齎す結果となった。

 

 男は家事歴がなかった。

 学生時代は柔道、剣道、学道に勤しみ、大学時代から一人暮らしを始めた男だったが、妻と結婚するまでは同棲はおろか男女交際経験すら皆無だった男は、ずっとまともな家事経験がなかった。

 

 いうならば、自分がよければそれでいい程度の家事力しかなかった。

 学生時代の貧乏飯といえばもやしやら細切れ肉やらを炒める程度だったし、洗濯も汚れが落ちればそれでいい、掃除も埃がたまったら掃除機をかけるぐらいだった。一人暮らしならそれでよかったのかもしれないが、子供を育てるとなったらそうはいかない。

 

 栄養バランスの優れた食事、子供服の洗い方、畳み方、汚れが溜まる前に定期的な清掃、保育園への送り迎え――妻が千葉に帰ってきている時は妻がやってくれたが、東京で着実に実績を積み重ねていく彼女は、どんどん東京での滞在期間が長くなっていった。

 

 だが、だからといってその全てを男が肩代わりするわけにもいかない。

 いくら現場主義者だからといって、毎日定時で帰れるわけでもない。むしろ、足で捜査を重ねる兵隊な分、どうしても残業時間は生じてしまった。

 

 しかし、未だ保育園児の娘をずっと一人で留守番させておくわけにもいかない。それくらいの良識を持った両親ではあった。

 

 故に、男は女に頼った――別の女を頼った。

 

 彼女は雨音の父の子供時代からの友人であり、いわゆる幼馴染だった。

 優秀な父に負けず劣らずの聡明な女性で、小・中だけでなく、高・大と同じ学び舎で過ごした、父にとって最も長い腐れ縁である。

 

 だからこそ、父は真っ先に彼女に相談した。己の両親よりも妻の両親よりも――つまりは雨音の祖父母よりも先に相談した。

 その不可思議な事実には後になって父も気付いた。だが、彼の父親もかつては刑事だったものの事件の捜査中に大怪我を負ってしまっていて、今では己の実家である群馬で夫婦揃って暮らしているといった事情がある為に容易には頼れない。妻の実家とは父は居り合いが悪かった為、やはり頼れるのは地元の友人しかいないと思い直した。

 

 幼馴染の女はまだ独身だった。

 彼女は、雨音の父と同じく警察官を志したが、元来の彼女の優し過ぎる性格は警察官には向いていないと、刑事の父を持つ彼女の幼馴染――雨音の父には分かっていたので、男はしっかりと彼女を説得し、幼馴染は保育士へと道を変えた。

 

 誰よりも信頼でき、子供の扱い方も文字通りのプロ級である幼馴染。

 娘の育て方を相談するのに最適な人材だと、男は彼女に頼ることを躊躇わなかった。

 

 結果として、幼馴染は男が忙しい時は、家事を代行してくれることとなった。

 一から男に家事をレクチャーし、共に買い物に行ったりした。雨音が通う保育園に勤めている彼女には雨音も懐いている為、父が迎えに行けない時は一緒に家まで送ってくれて、雨音の面倒をみながら、家で夕食を作ってくれたりもした。

 

 そんな光景が、端から見ればどういう風に見えるかと言えば――自明の理で。

 

 温かい食事。暖かい愛情。

 保育園の帰り道を一緒に手を繋いで帰り、途中で一緒にスーパーに寄って、何が食べたいなんて聞かれながら献立を考えて。

 

 一緒に家の扉を開けて、一緒にただいまを言って。

 エプロンを付けた女性が台所で腕を振るっている背中に、お手伝いしたいと子供が我が儘を言って。

 

 夕食が出来上がった頃、疲れて帰ってきたお父さんが、ネクタイを緩めながら言うただいまに。

 一緒に声を揃えて、おかえりを言う。

 

 ()()()()()()()()()()が、お父さんの背広を微笑みながら受け取る。

 

 それが、雨宮雨音の幼少期の記憶――原初の記憶。

 

 家族という言葉で引き出される――己の根源となる光景だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 殆ど家にいない母親らしき女に代わって、雨音を育てたのはいつも笑顔の先生だった。

 

 初めは保育園終わりに一緒に帰り夕食を食べ終わると自分の家へと帰っていた先生は、いつしか合鍵を手渡され雨音と父の為に朝食を作るようになっていた。

 美味しそうな味噌汁の匂いで目が覚めて、二階の子供部屋から目を擦りながら階段を下り、一階のリビングの扉を開けると、エプロン姿の先生が笑顔でこう言うのだ。

 

 おはよう。今日も早起きね――と。

 

 その光景の歪さに気付いたのはいつだろうか。

 少なくとも、思い出せる最も古い原初の記憶の中の己でさえも、その言葉を笑顔で伝えられて――途轍もない焦燥感を覚えていた。

 

 今でも、その頃の――時折千葉へと帰ってきていて、自分に続いてリビングに降りてきて、その笑顔を向けられた時の、母親の表情を覚えている。

 それは苦々しい言葉で罵り合っていたからというわけではなく、その一瞬が余りに痛々しかったからだ。

 

 母も、先生も、お互いに一瞬――表情が無くなるのだ。

 そして、お互い笑顔を取り繕い、分厚い壁を感じさせる丁寧過ぎる敬語でのやり取りが始まる。

 

 母は、先に食べ始めていた雨音が朝食を食べ終わるよりも早く家を出る。先生が作った朝食には手を付けず、これ見よがしに冷蔵庫にストックしてあるゼリー飲料を手に取りながら。

 

 こんな光景の中に本当に稀に父親も混ざる時もあるが、父は一切気まずさを感じることもなく、新聞や事件資料を熟読し続けて、何も言わない。

 そういった暴力的なまでに鈍感な父親の姿を見る度に、雨音は恐怖にも似た感情を募らせていた。

 

 リビングの扉を開けて、仕事に向かう母が一度振り向いた時に見せる表情。

 普段は鉄仮面で隠しているだろうその表情は――母の弱さの証だった。

 

 

 

 これは、雨音が子供のころから知っていた事実。

 雨音の母親と、雨音の先生は、こんな状況に至る前に幾つもの談合を重ねていた。

 

 雨音の父親とて、いくら幼馴染とはいえ妻とは別の女性に合鍵を渡し、こうして家事を代行させるのは褒められたことではないとは分かっていた――否、分かっていたかは分からない。

 

 父にとって幼馴染はあくまで幼馴染であった。

 いや、彼が大学生となってから群馬へと帰った両親以上に、一緒にいる期間は長いこの幼馴染は、父にとっては腐れ縁を通り越して正しく家族に近かった。

 

 だから、彼にとっては困った時に彼女に助けを求めるのは当然といえた――だが、幼馴染の方は、こんな光景が端から見れば、そして彼の妻から見れば、どういった意味で捉えられるかを正しく理解していた。

 

 刑事として事件に関する時は女の心情も正しく読み解けるのに、自分に関する感情だと途端に暴力的なまでに鈍感になる幼馴染に嘆息しながら、彼女は彼の妻にしっかり話すべきだと強硬に主張した。

 

 結果、事後承諾ではあるが、父と母と先生は、こういった状況に至る正当性について――正しさについて、幾重にも会議を重ねたらしい。

 

 当然ながら、母はこの措置に対し、当初は大層な不快感を示した。

 自分が愛する夫と、自分がお腹を痛めて生んだ娘が、自分ではない別の女と家族のような光景を作り出すというのだから。

 

 だが、夫と娘を置いて、いうならば自分の個人的価値観に基づき、東京という地で仕事に時間と労力を捧げると決断したのは母だ。それにより生じた不利益に関する解決案を、これまた自分の個人的嫌悪感を理由に一刀両断することも、母には出来なかった。

 

 それはプライドの問題でもあっただろう。ここで代わりに家事代行を頼む友人も母にはいなかったし、己の両親に頭を下げることも出来なかった。単純に家事代行を専門とするサービスを頼むということも考えたが、刑事と弁護士の家に素性の知れない他人を入れることに対する危険性を考えると、それも出来なかった。

 

 結果として、先生は母に対して二つの誓約をした。

 

 一つは、なるべく早く雨音に家事を覚えさせて、自分が雨宮家に来る期間は最低限にするように努めること。

 そして、父のいない場所にて二人きりで会い、母に対して真摯に頭を下げながら誓ったもう一つは。

 

 決して、貴女の家庭を壊すような不貞は働かないということ。

 もし他人に邪推されても誤魔化さずに真実を伝え、必要以上に醜聞が広まらないよう努力すると。ただ自分は、大切な幼馴染の家族の力になりたいだけなのだと、そうはっきりと伝えたらしい。

 そこまでされて、尚もまだ駄々を捏ねることは――内心はどうであれ、母のプライドが許さなかった。

 

 故に、雨音に対しても、先生が母親面をすることは全くなかった。

 間違ってお母さんと呼んでしまったことも一度や二度ではなかったが、その度に先生は、一度表情を消した後、微笑みながら違うよと、雨音ちゃんのお母さんは私じゃないよと、そう言って笑顔を向けた。

 

 先生は、いつだって笑顔だった。

 そんな先生に、雨宮雨音は育てられたのだ。

 

 やがて、先生は誓約通り、雨音が小学生となると、雨宮家へと訪れる頻度を減らした。

 雨音にとっても先生は先生ではなくなった。偶にケーキなどのお土産を持って、雨音の様子を見に来ることはあったけれど。

 

 食卓は雨音と父親で囲むことが多くなり、父親が仕事で帰れない時は、先生がファミレスなどに誘ってくれた。先生と二人で家にて料理をすることもあったが、彼女はあまり自分と二人で食卓を囲まないようにしているようだった。

 

 雨音はそれを寂しくも感じたが、きっとそれが正しいことなのだろうと思った。

 代わりに、雨音が小学生となる頃には、母が家に帰ってくることも少しだけ多くなった。

 

 そして――徹底的に、徹底的に徹底的に徹底的に、雨音に“正しさ”を植え付け始めた。

 

 

 

 

 

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 正しく生きなさい――それが母親の口癖だった。

 

 絵本の代わりに道徳の教科書を暗記させられ、漢字が読めるようになると六法全書を手渡された。

 学校で社会の授業を受け始めるよりも早く母親が立つ法廷を見学させられた覚えもある。

 

 正しさこそが全て。

 正しくないことは悪であり、正しくない人は悪人であると、そう言い聞かされて雨音は育った。

 

 雨音の母自身が、まさしく己にそう言い聞かしながら育った弁護士だった。

 他人に厳しく、己に厳しく、何よりも悪人に厳しい正義の使徒だった。

 

 悪の敵――彼女を知る者達は、彼女をそう称して慄いたという。

 

 雨音はそんな母親を尊敬していた。

 彼女の教えを正しいと思ったし、彼女の生き様が正しいと信じた。

 

 それと同時に、雨音はそんな母親の危うさのようなものも、この時、既に感じ取っていた。

 

 きっと、母にとって正しさとは、()()()()()()()()なのだ。

 

 人は正しくあるべきだ。私は正しくあるべきだ。

 正しさとは正義であり、正しくないものは悪である。

 

 彼女はそう言い聞かせている――何よりも己に。誰よりも自分に。

 だからこそ、彼女はそれを他人に、世界に押し付ける。

 

 正しくしろ。正しく生きろ。正しくあれ。正しく、正しく、正しく。

 間違いを許すな。過ちを許容するな。歪さを放置するな。清く、正しく、真っ直ぐに矯正しろと。

 

 まるで追い立てられるように。何かに強迫され、脅迫されているかのように。

 正しくあれないことに恐怖するように。間違っているかもしれないことに怯臆であるかのように。

 

 彼女にとっての正義とは、羨望だ。

 確固たる目標であり、目指すべき理想形。

 

 だからこそ、母は、正義を追い立てられるように追いかける。

 

 悪の敵。

 間違っているものを正すことこそが、正義を貫くことだと信じている。

 

 

 故に――母は、きっと父に惹かれたのだと、娘である雨音はそう思った。

 

 

 

 

 

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 好きなように生きなさい――それが父の口癖だった。

 

 娘を徹底的に管理し、与える本や玩具にまで口を出す母と違い、父は娘に放任だった。

 

 知りたいと娘が問うたことは何でも教え、やりたいと思ったことを何でもやらせた。

 母が娘に対して行う教育には口を挟まなかったが、雨音が母に反論したら絶対に娘の味方をした。

 

 お前が正しいと思うこと、娘に語るのはいい。

 だが、娘が正しいと思うことを、何の根拠もなくただ否定することはするな、と。

 

 母が理想的な正義を追い求める人であるならば、父は己が正義を貫く人だった。

 父にとって正義とは誰かの為のものであり、誰かを守る為のものだった。

 

 悪とはすなわち誰かを、何かを害するものであり、正義とはそれらから誰かを、何かを守るものであると。

 他人に優しく、家族に優しく――そして正義に優しい、正義の使徒だった。

 

 雨音は、そんな父を尊敬していた。

 彼の考えを正しいと思ったし、彼の有り様が正しいと信じた。

 

 それと同時に、雨音はそんな父親の危うさのようなものも、この時、既に感じ取っていた。

 

 きっと、父にとって正しさとは、()()()()()()()()()()なのだ。

 

 正しさとは人の通常の状態であり、間違っていることこそがイレギュラーなのだと。

 誰かの笑顔を守ることこそが正義を貫くということだと、当たり前のようにそう信じている。

 

 彼はそう思い込んでいる――言い聞かせるまでもなく、自覚なくそう呼吸している。

 だからこそ、彼はそれを他人に、世界にまったく押し付けない。

 

 正しくしなくていい。正しく生きなくていい。正しくあらなくていい。

 好きに生きろ。好きに歩め。好きに目指せ。

 たくさん間違えろ。過ちを恐れるな。歪で何が悪い。

 

 最後に笑えれば、それが正義だ。

 誰かの笑顔を奪わなければ、お前はまったく悪じゃない。

 

 まるで追い立てられることもなく、何かに強要されるまでもなくそう許容している。

 

 正しさの意味など深く考えたこともない。

 己の価値観が正しいと自覚なく確信していて――そして、それが周囲に、世界に認められている。

 

 彼にとっての正義とは、習性だ。

 当たり前にある光景であり、世界の前提条件でもある。

 

 身に付く人間を間違えたら余りに危うい素質。

 自分の価値観を疑わず、自分の思想を省みず、ただそれに当たり前に従って生きる。

 

 当たり前のように正しくあり、当たり前のようにそれを執行する。

 

 正義の味方――彼を知る者達は、彼をそう称し憧れ付き従ったという。

 己が信じる感情に従うことこそが、正義を貫くことだと信じている。

 

 

 故に――父は、きっと母に惹かれたのだと、娘である雨音はそう思った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 父にとって正義というものは確固たる形がない。

 目指すべき理想形はなく、ただ目の前の善悪を己が価値観に従って判別することしか出来ない。

 

 だからこそ、彼は彼女について行けなかった。

 彼には大局的な正義を見ることが出来ないから。彼にとって正義とは当たり前に湧き起こるものでしかないから。

 

 だから、父は母に惹かれた。

 己の中に大局的な理想的正義を持ち、その実現を目指して邁進する彼女に惹かれ、愛した。

 

 対して母は、当たり前のように正義を、呼吸のように執行できる父に憧れた。

 自分が恐怖的なまでに追い求める絶対的な正義を、ただそこにあるだけで体現する存在に、どうしようもなく憧れた。

 

 だから、母は父に惹かれた。

 自分が暗闇の中で手をなぞるようにして把握しようとしている正義というものが、当たり前のようにくっきりと見えている父という存在に惹かれ、愛した。

 

 きっと本人達も完全には自覚していないであろうそんな感情を、娘として見透かしながら、雨音は思った。

 

 ああ、私はこの人達が大好きだと。

 

 このモンスターペアレンツの間に生まれて、本当に幸せだと。

 

 狂気的な正しさの授業を受けながら、雨宮雨音はそう微笑した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして――その数年後。

 

 雨音は、同じ微笑を浮かべたまま、己の母の職場を訪れていた。

 

 あの日と変わらぬ幸福を、あの日から変わらぬ両親への、正義への尊敬の念を抱き続けながら、今日までを生きてきた雨音という少女は。

 

 母が家に忘れた資料を、自主的に東京の母の事務所へと、正しいことだと信じて届けに訪れた。

 

 

 これが、雨宮雨音という少女の、歪だと自覚のなかった人生の。

 

 誰よりも正しさを植え付けられていた少女の、間違っていた人生の、決定的な分岐点。

 

 取り返しのつかない程に、間違ってしまった選択肢だった。

 

 

 雨音は、そんな母親の弱さを、あの時には既に見抜いていた筈だった。

 

 母の危うさを、母の逃避を――母の、間違いを。

 

 分かっていたのに、分からなかった。

 だけど、この時、雨音は思い知らされた。

 

 正しさという言葉の――重さを。

 

 

 母が、見知らぬ男と抱き合い口付けを交わしていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その光景を目撃して、まず真っ先に雨音が思ったことは。

 

 ああ、母は逃げたんだなぁ――という失望だった。

 

 その口付けは、とても深く、母は見知らぬその男に身も心も委ねているのが如実に伝わってきて。

 首に手を回し、まるで夢を見るように目を瞑っているその姿は、何かから解放されているかのようでもあって。

 

 端的に言って、とても幸せそうな姿だった。

 

 何をしてるの――と、扉を開けて、静かに問うた娘の言葉に。

 急激に現実に引き戻され、己が間違いを突き付けられ、絶望した母の顔を。

 

 雨宮雨音は、比企谷雨音となった今でも、たぶん一生――忘れることが出来ない。

 

 

 

 この男は何度か母と仕事のしたことのある若手有望検察官で、関係は既に数年に及ぶらしい。

 

 その浮気相手の男曰く、互いに割り切った遊びの関係らしい。この男にも、この時、既に結婚を誓っていた婚約者がいたそうだ。

 互いに己が一生の愛を誓った相手を裏切りながらも、平気な顔で法廷にて正義を語っていたであろうその姿を想像して、雨音は深く深く軽蔑した。

 

 この浮気相手の軽薄な男も、そして、そんな相手に身も心も委ねていた、己が母も。

 

 母は思い込んでいた。

 自分は幸せな結婚をしたと――実際には、己が持たない才能に、己が持てない正義に、まるで篝火に引き寄せられる虫のように惹き付けられた身分の癖に。

 

 母は思い込んでいた。

 自分は夫を妻として支えていると――実際には、週の殆どを別々に暮らし、碌に手料理も作れず、夫のスーツの皺を伸ばしたことすら数える程だ。

 

 母は思い込んでいた。

 自分は夫を、そして娘を愛していると――実際は――実際は――実際は。

 

 雨音は、地を這いながら号泣して自分を見上げる母親を見下ろして囁く。

 母親が恐れているであろう言葉を――母親には見せてはいけない、無表情で。

 

 私も、愛して()()わよ――と。

 

 母はその言葉を聞いて声を震わし、嗚咽を漏らす。

 カーペットを握り締める力をギュッと強めて、言うのだ。

 

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――と。

 

 この母親は――モンスターなのだろう。

 羨望だと分かっていたのに、その間違った道から出られなかった。

 

 でも間違っているという自覚があるから、常に何かに怯えていた。

 怖いから、恐ろしいから、正しいことをしていると思い込むことで、その恐怖を紛らわせていた。

 

 夫を、そして娘を――自分がいない場所に遠ざけて、何も見えない場所に逃げ出すことで。

 

 正しくあろうとした。正しくあろうとした。正しくあろうとした。

 だけど、身も、心も、まるでその重圧に押し潰されそうに軋みを上げていて。

 

 そして――母は、お手軽な、過ちに逃げた。

 

 間違っているというのは気持ちよかった。

 インスタントに手に入る快感に溺れた。

 

 目が焼けるような正義の体現者たる夫からも、こんな自分を正しさの求道者だと信じる娘からも、目を逸らすように別人になろうとした。

 

 この人にとって娘とは、自分は正しいと思い込む為の捌け口だったのだろう。

 何度も正しい、正しいと、正しくあれ、正しくあれと、言い聞かせ続けた対象は、娘ではなく――己だったのか。

 

 偽物の正義に縋り続けた挙句、本物の正義の眩しさに目を潰された女だと、娘に見下されていると知らずに――母は、また、ごめんなさいと言った。

 

 その言葉を聞く度に、雨音は強く、固め、高めるのだ。

 

 ゆっくりと、ゆっくりと――その、殺意を。

 

 それを突き付けるように、雨音は座り込んで、その突っ伏せる頭頂部に向けて、空虚に愛していたと呟いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その殺意が明確な形を得たのは、それからおよそ数日後。

 

 あれから一度も家に帰ってこなくなった母親に呼び出され、再び雨音が単独で東京へと赴いた時だった。

 

 オシャレなカフェのテラス席で向かい合う美人親子にそれなりの注目は集まっていたが、そこはやはり東京という街か、さして珍しくもないようで聞き耳を立てているような外野はいなかった。

 

 忙しい仕事の合間を縫ってきたという母に、雨音は冷たい無表情で鋭く要件を問うた。

 母は怯えを見せながらも、ぽつりぽつりと娘に先日の件の釈明をした。

 

 あの男とは別れたと。

 浮気相手の男が言う通り、いわゆる遊びの関係だったようで、男の方もあっさりと母の連絡先を消したらしい。

 母は、男に未練がないことを示す為か、娘の目の前で浮気相手の男のものであろう連絡先を、携帯画面を見せながら消去した。

 

 雨音は、母の潔さを感じると同時に、そんな軽い思いで父と自分を裏切っていたのかという憤慨も感じていたが、何も言わずに母の次の言葉を促した。

 

 母は、淡々と、淡々と――懇願した。

 それは、そうならないだろうという諦念に満ちているかのような、か細く、力無い懇願だったが。

 

 娘は、その言葉一つ一つに、まるで狙っているのかという面白さすら感じながら――殺意が形作られていくのを感じた。

 

 母は言った。

 

――あの人には、言わないで欲しい、と。

 

 母は言った。

 

――私は、あの人だけを、愛していた、と。

 

 母は――言った。

 

――あの人に見捨てられるのだけは……耐えられない、と。

 

 この期に及んで、あんな風に――逃げておいて。

 

 目の前の母は、未だ父に――正義に、焦がれているのだ。

 あの輝かしい正義に。あの目が潰れるような眩い正義に。

 

 父という男を、未だに女として愛していた。

 

 哀れだと、そうはっきり思った。

 

 あんなにも正しさに縋り切った女が、己が過ちで全てを台無しにして。

 己が直々に正義を植え付けた娘に失望され、見下げ果てられ、軽蔑されて。

 

 それでもなお、この女は――父という正義に、見捨てられることを恐れている。

 

 母は、遂には公共の場で、メイクが落ちて禍々しい隈が露わになるのも構わずに――娘に対し、懇願した。

 

――お願い……助けて、と。

 

 それはまるで、命乞いのような、見苦しさで。

 

 雨音は、その言葉を聞いた瞬間に決意した。

 

 ああ、殺そう――と。

 

 母の釈明に一つも自分に対しての言葉がなかったからなのか、それとも、父という自分に残された最後の正義(正しきもの)にこんな存在が縋りつくのが我慢できなかったからなのか。

 

 それとも――こんなにも哀れで見苦しい、自分の憧れだった母親に失望することで、傷つく自分のような存在を、守りたかったのか。

 

 決定的な感情(よういん)は何だったのかは思い出せない。

 だが、その時の殺意(かんじょう)は、今でもはっきりと思い出せる。

 

 そして、雨音は、何も言わず、ただ頭を下げ続ける母親を置き去りに店を出て、千葉へと帰り。

 珍しく家にいて、書斎で誰かに電話をしていた父に真っ先に密告した。

 

 洗い浚い、全てをバラした。

 母の不貞を。母の裏切りを。母の過ちを。

 

 母が――正義ではなくなったことを。

 

 父は、娘が無表情で淡々と告げるその言葉を、最後まで黙って聞いて。

 

 そうか――とだけ、呟いた。

 

 

 次の日、父と一緒に東京の母の事務所に行くと、母が死んでいた。

 

 首を吊って死んでいた。

 

 

 自殺という、この世で最も正しくない逃避だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 雨音は、その死体を目撃した時、まるで目が覚めたかのように――ハッとした。

 

 豪雨に打たれたかのように、全身から汗が噴き出した。

 

 人を殺してしまったという焦燥感を感じた。人を殺してしまったという恐怖心も感じた。

 人を殺してやったという達成感はなかった。人を殺してやったという優越感はなかった。

 

 ただ――焦り、ただ――怖かった。

 

 殺意はあった。殺してやりたいとは思った。死ねばいいのにとも、確かに思った。

 

 だけど、だけど、だけど、まさか、まさか、まさか。

 

 本当に――死ぬなんて――。

 

 そう呆然と立ち尽くす雨音を押し退けて、父はすぐに母を下しにかかった。

 娘に携帯電話を放り投げて、警察と救急を呼びように命じた。

 

 雨音は、己に命じられたその役目を全うしたのかどうか記憶がない。

 ただ焦り、ただ恐れ、ただただただただ混乱した。

 

 やがて警察が駆け付け――雨音は反射的に父親の背中に隠れた。自分の父親も警察官だということも忘れて。

 やがて救急が駆け付け――雨音は反射的に母親の遺体に縋りついた。自分が殺意を持って追い込んだということも忘れて。

 

 そのまま父と一緒に病院へ行き、大した時間も待たないうちに、医者に残念ですがと言われた。

 

 父が医師に詳しい説明を聞いている間、雨音はこっそり化粧室へと向かい、吐いた。

 一通り胃の中のものを全て吐いて、口と手をゆすいでいると、鏡に映る己の顔を見た。

 

 そこには、殺した女とそっくりな娘が。

 天井からぶら下がっていた母親にそっくりな顔の少女がいた。

 

 ゆっくりと手が首へと伸びる。もう一度個室に駆け込んで吐いた。

 

 胃液の味がすっぱいということを学んで、ふらふらの足取りで父の元へ戻る。

 そこで雨音は、死んだ母親のお腹の中に生命が宿っていたことを知った――女の子のまま死んだ生命。

 

 雨音は再びトイレに駆け込んで吐いた。母だけではなく妹も殺していた。

 妹の父親があの浮気相手であること。そして父の浮気相手が先生であることは、後に知った。

 

 雨音が、正義というものに絶望し、幼馴染が新しい家族となったのは、それから間もなくのことだった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 土砂降りの墓地で、己が母親と、そして生まれることのなかった妹が眠る墓を見詰めながら、雨宮雨音が語った過去に。

 

 同じく土砂降りの墓地で、隣り合う、同じく己が母親と、そして生まれることのなかった妹が眠るということになっている墓を見詰めながら、黙って聞いていた比企谷晴空は。

 

 何も言わなかった――何も言えなかった。

 

 雨音は、そんな何も言わない幼馴染に。あるいは、何も言えなくなった生命が眠る墓に。

 

 自供するように、言う。

 

「――きっと、初めから間違ってたのよ」

 

 初めから間違えていた。初めから正しくなどなかった。

 

 父から見捨てられることを恐れた母は、遠く離れた東京で浮気を始めた。

 その恐怖が限界値を超えたのは、きっと先生が家に出入りするようになったからだ。

 

 先生は今から思い出せば、明らかに父のことを女として諦めきれていなかった。

 それに幼い雨音と鈍感な父は気付いていなかった。

 

 父に他意などなかったのだろう。

 先生が母に誓った、あなたの家庭は壊さないという宣言は、きっと心からの決意で語った言葉だ――恐らく、己への戒めも兼ねていた。

 

 だが、明らかに父を女として愛していて、父も心から信頼していて、自分よりも長い年月で培った絆があって、そして、端から見ても、明らかに己よりも相応しいパートナーに見える二人の姿を見て、母はきっと耐えきれなかった。

 

 ある意味で、母は正しかった。

 事実、先生は結果として、己の気持ちを抑えきれなかったのだから。

 先生が堪え切れず父に迫ったのか、それとも足繁く家に通い自分達に尽くしてくれる幼馴染に父が絆されたのか。

 

 母の死後、己が不貞を先生と共に土下座しながら娘に自供すべく自首してきた父の姿を思い出し――どうでもいいことだと、雨音は切り捨てた。

 

 父もまた、正義の体現者などではなく、普通に間違える、只の人だった。それだけの話だった。

 

 でも、先生はあくまできっかけに過ぎない。

 母が父の正義(ひかり)に耐えきれず、東京へと逃げた時点で、遅かれ早かれ雨宮家は崩壊していた。

 

 正義というものに壊されていた。

 

 正義という、分不相応な概念で繋がっていた二体のモンスターは、初めから間違っていたというだけの話だった。

 

「……ねぇ。私、間違っていたのかな?」

 

 雨音は晴空に問い掛けた。

 

 それは土砂降りの雨に掻き消されそうな程の小さな呟きだったが、晴空はしっかりと聞き届けてしまった。

 答える言葉など、返せる言葉など、何も持ち合わせていないのに。

 

 比企谷晴空というクズに、雨宮雨音というモンスターを救えるような言葉など、届けることなど出来ないというのに。

 

 だから、晴空は、隣に座り込み、二つの墓の前で――びしょ濡れの美少女の肩を、荒々しく抱き締めて、言った。

 慰めの言葉でもなく、救いの言葉でもなく、ただ当たり前の事実を告げた。

 

「……あぁ。俺らは、間違えた」

 

 親を殺し、妹を殺した。

 救いなど求める資格もない大罪。本来なら死んで詫びて当然の大罪。

 

「――でも、俺はクズの血しか流れてない、生粋のクズだ。だから自首も自殺もしねぇ」

 

 俺は逃げないと。俺は死なないと。

 自殺に逃げた母親と、自首に逃げた父親を持つ雨音は、己を抱き締めるクズの幼馴染を見遣る。

 

「……でも、お前が死にたい時は、一緒に死んでやる」

 

 逃げるのが怖いなら、死ぬのが怖いなら――間違えるのが、怖いなら。

 

 俺が共犯になってやると――クズは言う。

 

 お前の大罪を一緒に担ってやる。

 過ちを、後悔を、罪悪感を、選択の結果を、俺だけは一緒に背負ってやると。

 

「俺が一緒に裁かれてやる。俺が一緒に地獄に堕ちてやる」

 

 だから、泣くな――と、親と妹を殺したクズは、親と妹を殺したモンスターを救った。

 

 土砂降りの雨に濡れた二人の顔は、もはや拭いきれない雫に塗れていた。

 

 きっといつか――報いを受ける。

 それを心待ちにするように、二人は笑って、雨の音の中で初めてのキスをした。

 

 長い長いキスを終えた頃、雨が止んで、光が差した。

 晴れ渡った空の中、二人は揃って同じ家に向かって帰る。

 

 比企谷晴空はクズのまま。雨宮雨音はモンスターのまま。

 

 二人の大罪人は罪を償うことなく生き続け、自殺も自首もせずに成長し、やがて結ばれ夫婦となった。

 

 もう一人の幼馴染に祝福されつつ幸せな日々を過ごす中、それでも埋まらない心の穴に――時々、言いようのない、隙間風を感じつつ。

 

 やがてクズとモンスターは、比企谷夫婦は、呆気なく相応しくない死を迎える。

 

 

 そこで――黒い球体と出会い、真っ黒な衣を纏いながら、化物達と戦争する新生活の中で。

 

 

 二人の間に子供が出来た。

 

 

 親を殺し、妹を殺して結ばれた、クズとモンスターの間に――新しい、生命が宿ったのだ。

 

 




親殺しであり妹殺しであるクズは父となり、親殺しであり妹殺しであるモンスターは母となる。

そして、クズの父親とモンスターの母親の間に――彼は、生まれる。


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Side戦争(ミッション)――⑤

俺の息子が、英雄なんかにならなくちゃいけないんだ。


 

 比企谷夫婦の間に、子供が出来た。

 

 晴空(はると)雨音(あお)は、その事実を知った時――期待し、恐怖せずにはいられなかった。

 

 この子は、生まれることが出来なった、生まれる前に殺してしまった――あの()の、生まれ変わりではないかと。

 

 そんな都合のいい奇跡などある筈もなく、ましてや最低の代償行為だと分かってはいるものの、注ぐと決めていた愛情を、そんな愛情を注げなかった後悔を、果たせるかもしれないと期待せずにはいられなかった。

 

 だが――それ以上に。

 

 親殺しの自分達が、果たして親になる資格などあるのかと。

 

 クズの子はクズであると、モンスターの子はモンスターであると、そうこれ以上なく思い知らされている自分達に――果たして。

 

 クズである己の子を、モンスターである己の子を、愛することが出来るのか、と。

 

 恐怖せずにはいられなかった。だからといって、生まれることの出来なかった生命を殺すということの罪深さを、誰よりも知っている自分達にそんな真似が出来る筈もなくて。

 

 結果、親になる覚悟が固まらないまま、ただ漠然とした恐怖に怯える中で――生まれた子供は、男の子だった。

 

 待望の女の子ではない――待ち望まれていない男の子。

 

 

 比企谷八幡という、晴空がこの世で最も嫌いな顔によく似た、元気な男の子だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 父親の役目とは何だろうか。

 

 家族の大黒柱として家の外へと出て労働し、生活費を稼ぎ家計を支えることか?

 ならば、比企谷晴空はその役目を果たしているといえよう。

 

 だが、しかるところつまり、彼が立派な父親なのかといえば――それは誰もが口を揃えて吐き捨てるだろう。

 

 ハッ、と。

 誰よりも晴空自身が、その戯言を宣った阿呆に向かって、汚れきった濁眼を持って。

 

 んなわけがねーだろう――と。

 

「それでも、あなたはまだマシよ。……お金を稼ぐっていう、父親の最低限の勤めは果たしているもの」

「……なんだ? 珍しく優しいじゃねぇか。やめろよ、気持ちわりぃ。それに金だったらお前も俺とほぼ変わんねぇくらい稼いでんだろうが」

 

 晴空と雨音は、同じ会社(秘密結社)に勤めていて、だいたい同じようなポストにいる。

 しかし、主要幹部の直轄部隊リーダーとその部下という関係上、一応は晴空の方が稼いではいる。どちらもちょっとした大企業の幹部以上の金を貰っているのだが。

 

 つまりは、家計を支えるといった面では、二人とも親の勤めは果たしているといえる。

 

 だが、親としてのもう一つの――最大の責務。

 

 育児。

 ()を育てるという、そのままの意味であるこの責務を、二人は十全に果たしているとはいえなかった。

 

「……今日、どっちが帰る?」

「……お前はこれからまた病院だろう? ……俺はさっき連戦終えたばっかだ。俺が帰るよ」

 

 ……悪いわね、と、雨音は晴空の顔を見ずに言う。

 ……お互い様だ、と、晴空は子供が生まれてから愛用している電子煙草を吹かしながら言った。

 

 生まれた子供は――望まれなかった男の子は、預けられるようになったらすぐに保育園に預けられた。

 

 仕事を理由にして彼らは早々にしかるべき機関を頼った。育休はどちらも申請しなかった。

 子供といる時間を、出来る限り最小限にしたかった。

 

 雨音の事情(かこ)を考えて、家事は自分達がちゃんとやろうと決めていた。

 だが、息子と二人きりの空間に耐えきれず、雨音は八幡が立ち回れるようになると必要最低限の家事スキルをスパルタで身に付けさせることになる。

 

 そんな己の姿がかつての大嫌いな自分の母の姿と重なって、雨音は八幡の目を見られなかった。この子に自分がどんな風に映っているのか――それを考えると、更に八幡と接するのが恐ろしくなった。

 

 晴空はもっとひどかった。

 八幡は、余りにも己と、そして己の父親の面影があり過ぎた。

 

 この世で最も憎い人間にそっくりな――けれど、まだ何も染まっていない、無垢な生命。

 

 複雑な感情が湧き起こるのは禁じ得ない。

 だが、だからといって何の罪もない八幡を理不尽に虐げられるようなことなど出来る筈がない。

 

 したがって、晴空も八幡と接するのは必要最低限になっていった。

 この日も、食事を作った後は風呂に入るように言い、後はリビングでお互い黙ってテレビを見るだけだった。

 

「……おとうさん」

「……何だ?」

「……あの……おやすみなさい」

「…………あぁ。さっさと寝ろ」

 

 枕を持って、何かを訴えかけるようにして見つめる、己とは違い、綺麗な瞳でこちらを見る八幡と――晴空は目を合わせられない。

 

 八幡は、諦めたように肩を落とし、そのまま子供部屋に向かう。

 既に八幡は専用の子供部屋を用意させられていて、夫婦とは別の寝室で寝ていた。

 

 しばらくしてから、八幡が寂しそうに布団を抱き締めながら寝ているのを確認すると、晴空は服を着替え、施錠してから職場に向かう。

 

 初めは、こうして夜勤が多い故に起こしてしまうからといって分けた寝室だった。

 一緒に寝たいとかつて八幡が強請ってきた時も、こう言って無理矢理納得させた。

 

 今日も八幡は、きっと晴空と一緒に寝たかったのだろう。

 それを気付かない振りをする両親に対し、八幡が何も言わずにおやすみなさいと言って一人で寝室に向かうようになったのはいつからだったから。

 

 八幡は、まだ二歳になったばかりだというのに。

 晴空は、そんな息子の背中におやすみも言うことが出来ないのだ。

 

「ハッ――クズだな」

 

 晴空はそう吐き捨てる。

 その上、こんな有様であるというのに――すぐさま次の子供をこさえているというのだから、いっそ救いようのない。

 

 自分らに、こんなクズとモンスターに親など勤まらないと、この二年で学ばなかったのか?

 

 八幡一人ですらこんな様だというのに――まだ、あんな顔をさせる子を作るのか。

 

『――私、もう一人作りたいわ』

 

 だが――晴空には。

 

『――女の子が、欲しいの』

 

 そう言ったときの、雨音の声が、顔が、忘れられなくて。

 

「…………」

 

 晴空は、足早に、産婦人科へと向かった妻を迎えに行った。

 

 検査の結果――お腹の中の子供は女の子だと分かった。

 

 そして、次の年の春。

 

 比企谷家に、待望の――正真正銘、待ち望まれた、女の子が生まれた。

 

 雛祭りの日に生まれ、小町と名付けられたその子は、天使のような可愛らしい赤ちゃんだった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 本当に可愛かった。

 

 いつもニコニコと笑い、素直で、お茶目で、本当に――まるで、天使のようで。

 剥き出しの、無垢な、穢れなき愛情を、こんな自分達にも向けてくれた。

 

 晴空は、雨音は、小町という存在に――心から、救われた。

 

 生まれて来られなかった妹に。生まれる前に殺してしまった妹に。

 まるで――笑顔を向けられているようで。やっと、赦しを、もらえたような気がして。

 

 勿論、それが傲慢な感傷であることは理解している。

 けれど、それほどまでに、小町という存在は、晴空と雨音を――幸せにしてくれた。

 

 気が付いたら、晴空も雨音も、家に帰ることが怖くなくなっていた。

 思う存分に愛情を注げた。生まれて来られなかった妹の分まで、この子に救われた分まで、この子が幸せにしてくれた分まで、この子を幸せにしようと心に誓った。

 

 そして、その分だけ心に余裕が生まれたのか、八幡に対しての苦手意識も少しだが軽減していた。

 

 小町が生まれるまで、まともに愛情が注げなかったという負い目もあり、未だに真っ直ぐには接することは出来ていない。特に晴空は、成長していくにつれ自分にそっくりになっていく八幡に対し、常に複雑な心境だった。端的に言って可愛くない。

 

 だが、元々八幡自身には何の罪もない言いがかりのような苦手意識だ。自分達のDNAを受け継いだ正真正銘の息子であるし、それに、小町が生まれてからなお一層に忙しく、むしろ家に帰りたくてしょうがなくなったのにも関わらず碌に帰れなくなり、家事やら小町の世話やらを押し付けてしまっている現状に心苦しさを感じているのも事実だった。(小町家出事件を知った際、夫婦共にオーバー100点を連発する程に無理矢理時間を作るようになった。流石に無理が祟り長続きはしなかったが)。

 

 それほどまでに、比企谷小町という存在は、全てを良い方向へと、徐々にではあるが幸せな方向へと、家族を――比企谷家を導いてくれていた。

 

 八幡は将来に化物と称される自意識が徐々に芽生え始めていくにつれ、小町との露骨な扱いの差に目を濁らせていくことになり、晴空が珍しく本気で慌て始めたが、雨音はそれをも可愛いと思えるようになった。

 

 笑顔が増えた。家が明るくなってきた。

 

 だが、八幡が八才となり、小町が来年小学校に上がるという年の暮れ――それは起きた。

 

《天子》によって予言された――運命(さだめ)られた終焉の日。

 後に、第一次カタストロフィと呼ばれることになる、史上最大の星人戦争。

 

 結果として、地球に一切の損傷なく、存在すらも認知されなかったという、最高の勝利を勝ち取った――その末期に。

 

 比企谷晴空は、『真理』からの『予言』を見せられた。

 

 第二次カタストロフィ。不可避の真なる終焉の戦争。

 そして、その大戦を終結に導く――【英雄】となる少年戦士の予言を。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「―――――――ッッッ!!!!」

 

 自らの執務室に戻った晴空は、手当たり次第に備品に暴力を振るい続けた。

 

 仮面の盟友たる《CEO》が、比企谷晴空に示した可能性。

 それを告げられ、突き付けられた晴空は、その認めがたい現実に――『未来』に。

 

 認めるわけにはいかない――『予言』に、胸を掻き毟るようにして苦悩していた。

 

「…………ふざけるな」

 

 人類を救う英雄となる可能性。

 

 時代が時代なら、人が人なら喉から手が出る程に、それこそ何をかなぐり捨ててでも欲したかもしれないそれは、だが、あの『予言』を体験させられた比企谷晴空にとっては、只の人身御供と同義だった。

 

 あるいは、比企谷晴空が、この世界を救うことを己が使命とする生粋の戦士ならば。

 あるいは、比企谷晴空が、この惑星を守ることを己が責務とする純粋な兵士ならば。

 

 己の息子がそのような栄誉を与えられるかもしれないと知ったら、咽び泣いて歓喜し、いますぐに息子の首を掻っ切って戦士として、同じ『部屋』に連れ込んで実践教育を施し始めたかもしれない。英雄に相応しい戦士にすべく、星人との戦争に放り込んだかもしれない。

 

 だが、晴空はそんな愛星心溢れる地球人ではなかったし、愛人心溢れる人間でもなかった。

 むしろ世界を、人間を嫌いな方であるという自覚はあったし、ぶっちゃけ滅びるなら滅びろとすら思っていた。

 

 地球を守ったのは単純に死にたくなかったからだし、殺したくなかったからだ。

 

 だから戦った。だから勝った。

 だから戦士であり続けたし、だから勝者であり続けた。

 

 戦って戦って戦って、気が付いたら最強クラスに強くなっていて。

 結果――英雄なんて、そんな笑える称号を与えられて。

 

 だからこそ、何もしていない息子が、何の罪もない息子が――人身御供たる英雄に選ばれようとしている。

 

「………………ふざけるなッ」

 

 確かに――蛙の子は蛙かもしれない。

 鳶の子は鳶だし、鷹の子は鷹だ。

 

 クズの子はクズであるということ、モンスターの子はモンスターであるということを、誰よりも知っている比企谷夫妻は、その論理を的外れだとは一蹴出来ない。

 

 神に選ばれた天使である《天子》。神に選ばれた端末である《CEO》。

 この二人ならば『予言』を託される戦士として選ばれた所で、何の不思議もないだろう。

 

 だが、その場にいた三人目――その不相応な三人目に、何か、その場にいた特別な、納得に足る理由をこじつけるのならば。

 あの『真理』により上映された『予言』――その光景の文字通りの主役たる、未来の英雄の、その父親であるからなのだとすれば。

 

 なるほど、よく出来ている。見事な伏線だ。

 英雄たる父親の後を引き継ぎ、その息子が真の英雄となって今度こそ本当の、真の平和を取り戻す。

 

 ああ実に使い古された設定だ。王道といってもいい。

 収まりがよく、物語としての説得力があって、何よりも最初から全部決まってましたってところが最高に救いがなくて素晴らしい。

 

 ありとあらゆる人間を巻き込んで。色んな登場人物を不幸にして。

 どっかの誰かのお涙頂戴の悲劇はサイドストーリーとして処理して。

 

 それなりの可哀そうな過去を背景(バックボーン)として設定して。

 異常なメンタルを形成する為にトラウマを与えて。更にそのボロボロのメンタルを鍛える為に色んな不幸(シリアス)を浴びさせて。

 

 様々な困難を乗り越えて、仲間の死とか恋人との別れとか、そんなほにゃららを経た挙句。

 親父が成し遂げられなかった諸々の借金も背負って、ラスボスたる絶対者の前へと辿り着き。

 

 最後には我が身を犠牲し、俺たちはアイツを忘れないエンド――てか。

 

 ハッ――。

 

「――ッッッッッッッッッざけんじゃねぇぇぇえええええええ!!!」

 

 何だそれは何だそれは何だそれは。

 何処の自称作家希望が書いた安直三文小説だふざけてんのか。

 

 何もない何の罪もない何もしていない――ただ俺の息子だからって理由で、それだけでアイツを見たこともない神とやらがアイツの運命を決めるのか。

 

 ただ英雄(オレ)の息子だってだけで。

 こんなクズとモンスターの間から生まれたってだけで。

 

 蛙の子は蛙? 鳶の子は鳶?

 クズの子はクズか? モンスターの子はモンスターか? あぁそうかもな確かに俺達はそうだったさ。

 

 でも、プロ野球選手の息子は世界のメジャーリーガーか? Jリーガーの息子はバロンドールを取ったか?

 独裁者の息子は独裁者か? 殺人鬼の息子は(すべか)らく殺人鬼か?

 

「……違うだろ……そうじゃねぇだろッ!」

 

 クズの血が流れていようが、モンスターのDNAを受け継いでいようが。

 英雄の親父とクリソツな息子にだって――平凡に生きる権利はあるだろう。

 

 そこそこの腐った性格で、捻くれた思考で、人生を舐めながら生きたっていいだろう。

 世の中を斜め下から見据えて、ふざけた夢を描いて、腐った眼で青春を謳歌したっていいだろう。

 

 なんでこんな両親から生まれたっていう理由で、勝手に運命を決められなくちゃいけない――なんで自己犠牲しなくちゃいけない。なんでみんなの為に死ななくちゃいけない。なんで――。

 

 

 俺の息子が、英雄なんかにならなくちゃいけないんだ。

 

 

「……あなた」

 

 真っ暗な部屋の中で、ボロボロの備品の中に立ち竦む晴空に、雨音は静かに声を掛ける。

 

「…………雨音。俺はさ、小町を愛してる」

 

 最近、ちょっとつれないけどさ、俺の天使だ――と、小さく呟き、そして微笑む。

 

「……そう。私も愛してるわ」

 

 あの子、天使だもの――と、雨音は、部屋の扉を開けたまま、真っ暗な部屋の中に光を差し込ませながら答える。

 

 晴空は、背中を向けたまま、光に背を向けたまま言った。

 

「俺は……お前も愛しちゃってたりするんだぜ。知ってたか?」

「知ってた。あなたの初恋は私よね? 実を言うと、私の初恋もあなたよ」

 

 碌にプロポーズらしい言葉のなかった夫婦の、無表情で無機質な惚気に、晴空は苦笑する。雨音は、ピクリとも笑わなかった。

 

 そして――晴空は。

 

 振り返り、真っ暗な部屋によって見えない表情を向けながら、光を背負う雨音に言った。

 

「……俺は――八幡を、英雄にはしねぇ」

 

 晴空は、表情の見えない、雨音に向かって言った。

 

「……それでいいか?」

 

 雨音は、見えない夫の表情を、分かりきっていると言わんばかりの――笑みを浮かべて返す。

 

「――勿論よ。私も、一緒に背負うわ」

 

 比企谷夫婦は、こうして、世界への、真理への反逆を決意する。

 

 晴空は、雨音に部屋の中に入るように言って、扉を閉めさせた。

 

 遮断される光に――安堵を覚える自分がいた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、晴空と雨音は、そこから更に家に帰る頻度が減った。

 

 時折、小町を愛でに家に帰り、息子ともそれなりに会話をしたが、どうしてもぎこちなくなることは否めなかった。

 

 それは、自分達のせいで勝手に『英雄候補』に名を連ねることになってしまった罪悪感なのか、それとも息子との心の距離を詰める過程で更にそんな負い目が出来てしまったが故に、これ以上の距離の詰め方が分からなくなってしまったからなのか。

 

 だが、これはこれで好都合かもしれないと、そう考えているのも確かだった。

 それは、自分達にとっての自分勝手な好都合かもしれないけれど。

 

 盟友たる《CEO》の見立て通り、優秀な戦士である晴空と雨音の息子だからという理由で、彼を無理矢理に『英雄候補』に仕立て上げようとする勢力があっても何もおかしくはない。それほどには、晴空と雨音はCIONという組織にとって特別(レジェンド)な戦士であることは確かだ。

 

 日本のトップは晴空とも旧知の仲で、彼等がそんな真似をするとは思い辛いけれど、彼等は穏健派であるが故に――日本も一枚岩ではない。

 過激派も、武力派も、どこの国にも存在している。自称平和国日本も例外ではない。

 

 それに、日本という国を表向きにも背負う彼等は晴空達と違ってクズでもモンスターでもないので、いざとなれば自分を押し殺し、日本の為、世界の為に悪人になれる大人だった。本物の戦士だ。注意するに越したことはない。

 

 運命派である《CEO》は、それが運命ならば何もしなくてもそうなる、むしろそうならなくては運命ではないというスタンスなので、ギリギリまで何もしないだろう。だが、他ならぬ《CEO》がそう考えていると知ったら、組織のトップたる《CEO》が目を付けていると知られたら、誰か他の勢力までもが比企谷八幡に目を付けるかもしれない。

 

 だからこそ、職場(CION)ではことさら娘カワイイアピールをしている。

 息子のことなど眼中にないと、息子には俺らが注目するような資質などないと。

 

 息子には英雄の素質などないと、そうアピールするように、息子との距離を開けていた。

 

 そうして日々が過ぎていく中――息子との距離は縮まらず、見えない溝が深くなっていく。

 

 

――お父さんとお母さんは、お兄ちゃんのことが嫌いなの?

 

 

 その言葉に、晴空も雨音も、何も答えられない。

 

 自分達は、八幡のことをどう思っているのだろうか。

 小町に対してそう言えるように、心から愛していると言えるのだろうか。

 

 胸を張って、そう恥ずかしげもなく、言えることが出来るのだろうか。

 

 そんなことを思考していく内に、いつの間にか、カタストロフィまで残り一年となっていた。

 

 このままならば、もしかしたら何も起こらないかもしれない。

 小町からの話を聞く限り、この一年に置いて、八幡にもいい出会いがあったらしい。

 

 いい青春を、送っているらしい。

 

 高校入学時に事故に遭ったと聞いた時は、もうダメかと思ったけれど、それでも何事もなく一命を取り留め、何事もなく退院し、何事もなく普通の生活を送れている。

 

 このまま小町も高校生となり――普通の、何も知らない一般人として、真なる終焉の日(カタストロフィ)を迎えることが出来るかもしれない。

 

 そうなった時は何を差し置いてでも我が家に帰り、小町と――そして八幡を保護し、生き残ることに全てを懸ける。

 

 どんな敵が襲来しようとも、必ず生き残り、勝ち残り――そして。

 

 新しい世界で、新しい地球で――今度こそ。

 

 幸せな――家族に。

 

 そんな夢想を描き始めた頃、夫婦の執務室に、一体のパンダが訪れる。

 

 悲報が――届けられる。

 

 息子が、死んだと――そして、生き返ったと。

 

 比企谷八幡が、黒い球体の部屋の戦士となったと。

 

 

 まるで――運命のように。『予言』通りに。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 比企谷八幡が死んだ。

 

 自分達の、息子が死んだ。

 

 死んで――生き返り、戦士になった。

 

 自分達と、同じように。

 

 あの死と絶望と理不尽で溢れ返る無機質な部屋の、傀儡になった。

 

 そう、聞かされて。

 

 比企谷晴空は、叫ばず、嘆かず、ただ――机に手を着いて。

 

「……………………そうか」

 

 掠れた声で、呟いた。

 

 一緒にいた彼の妻の雨音は、八幡の母は、何も言わずにただ顔を伏せて。

 

 そんな旧知の戦士達に、四足歩行の喋るパンダは、渋い声で機械的に言った。

 

「嘆くことではない。君達の息子は戦士になった――つまりは、ガンツのメモリーに記録されたということだ。これで、もしミッションで死亡したとしても、カタストロフィで落命したとしても、君達によっていつでも再生可能になったということだ」

 

 君達の息子は、実に幸運だ。

 

 パンダがその言葉を言い切ったその結果――CION本部のワンフロアが消失した。

 

要塞(フォートレス)】の異名を持つ機獣と我を失ったCEO直轄部隊のリーダー。

 カッとなってやっただけの八つ当たりとは言え、このクラスの戦士達が暴れたこの事件は、半年経った今でも語り草となっている。

 

 そんな中で、晴空も雨音も痛感していた。

 彼らが信頼する数少ない盟友であるこのパンダも、数々の人体実験を経て、動物実験を(ため)されて尚、未だロマンを忘れない稀少な存在ではあるけれど――それでも既に、彼の人間としてのパーソナリティは摩耗しきっている。

 

 彼は骨の髄まで、体毛一本に至るまで戦士であり、兵器だ。

 地球を守るという使命に殉じるという意味であるならば、彼こそ象徴たる戦士だろう。

 

 故に、違和感なく現場に赴け、且つ信頼できる動物(じんぶつ)としては彼程の適任はいないけれど、その反面、彼程に不適格な戦士もいない。

 

 八幡のことを頼んで現場である『部屋』に侵入してもらっても、八幡が彼の眼鏡に叶うならば本部へと連れてきてより後戻り出来なくさせてしまうだろうし、八幡が彼の眼鏡に叶わなければ、そもそもパンダはこちらが何を言っても八幡に何もしてくれないだろう――地球を守るに相応しくない戦士に、または戦士ではない者に、このパンダは何の興味も示さない。例え、旧知の仲間の息子であろうと。

 

 色眼鏡では見ない。例え、英雄の息子であろうとも。

 

(…………八幡が登録されたのが、あの『部屋』で――あの『黒球』であることが、せめてもの幸い、か)

 

 戦士に感情移入しすぎてしまうと(悪い意味で)有名な――識別番号(シリアルナンバー)000000080。

 

 現在、正常に稼働する量産品の中で最も古い部品(おとこ)である、あの黒球(ガンツ)ならば――と、晴空は噛み締める。

 

「……晴空……私達は――」

「――ああ。俺達は――」

 

――…………()()()()()()……っッ。

 

 再び荒れ果てた彼等専用の執務室で、晴空は既にボロボロの机に、今一度拳を叩き付ける。

 

 晴空と雨音が、もし八幡のいる『部屋』へと部署移動したいと願い出せば、通るか通らないかだけいえば、通るだろう。

 

《天子》や《CEO》らと共に組織(CION)創設時からのメンバーであり、盟友であり、共に『運命られた終焉の日(第一次カタストロフィ)』を乗り越えた英雄である晴空や雨音は、それほどの影響力は持っている。それほどの我が儘を通す権力は持っている。

 

 だが、それと同時に、その我が儘は組織を揺るがす程度の混乱は招くだろう。

 トップクラスの戦士である彼らは、昔ほどではないが今でも『部隊』の、それも難関ミッションへと駆り出されることがある。

 つまりは『部屋』レベルのミッションで使うような人材ではない――カタストロフィまでおよそ残り一年と間近に迫った、この佳境時ならば猶更だ。

 

 当然、理由を追及される。

 どうしてそんなふざけた真似をするのかと――それが息子を守る為という、究極に公私混同な理由であるということが発覚すると、どうなるか。

 

 比企谷八幡という、英雄の血を受け継いだ――黒髪黒衣の少年戦士が、注目を浴びることになる。

 

 カタストロフィまで、残り一年――そんな佳境に、唐突に現れる、全身に伏線を巻いた戦士の出現に。

 邪悪な笑みを浮かべるものがいたとしても、何の不思議もない。

 

 八幡を利用しようというものが現れることは、想像に難くない。

 

 だから――何も出来ない。

 晴空と雨音は、結果として、何もしなかった。

 

 八幡が、戦い、戦い、戦い、戦っている中で。

 八幡が、苦しんで、苦しんで、苦しんで、苦しんでいる中で。

 

 それら全てから守り抜く力がある両親は、何もしないことを選択した。

 見て見ぬ振りをした。何も知らない振りをした。

 

 何も出来ないと言い聞かせ、己が息子に何もしないことを――彼等は選んだ。

 息子を見捨て、息子を見殺しにし、息子を見て見ぬ振りをすることを――親として選択した。

 

 目を逸らし、耳を塞ぐ為に――息子の何百倍ものスコアを叩き出し、かつての英雄として相応しい働きを見せつけるように、戦争(ミッション)に没頭した。

 息子と同じように、何度も死の淵へと己を追い込んだ――まるで、何かに許しを請うように。

 

 その心には、あの日のパンダの言葉があったのかもしれない。

 

 例え、八幡が死んでも、自分達が生き返らせればいい――と。

 

 そんな傲慢な願いが、まるで自分達が赦しを求めているように感じて、元英雄は咆哮を轟かせ『部隊』を率いながら星人(かいぶつ)へと特攻する。

 

 そして、そんな彼等の願いに応えるように――そんな彼等に天罰を与えるように。

 

 半年後――昨夜。

 

 パンダは再び、彼等の執務室にやってきた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 某国――某所。

 

 何度となく家主により備品を八つ当たりによって破壊され、その都度、模様替えを余儀なくされる、とある小さな幹部部屋。

 家主達の組織内のポジションには見合わない決して広くない部屋の中で、一人の社畜がノートPCと合い向かっている。

 

 先日の『部隊』ミッションに置いての報告書を、部隊長の責務として仕上げている中――ふと、こっそりと幹部権限で開いていた全世界の『部屋』のミッションデータのフォルダを開く。

 

 黒球(GANTZ)識別番号(シリアルナンバー)――000000080の戦歴データ。

 そこには、昨日の時点で新たな住人(せんし)が大幅に増員され、長らく一人暮らしだった戦士の仲間が増えたことを示した記録があった。

 

「…………」

 

 そのことを確認すると、ふと、幹部である己の個人的なアドレスにメールが来ていることに気付く。

 だが、晴空は先に識別番号(シリアルナンバー)000000080のデータを最新情報に更新することを選び、クリックした。

 

 すると、更新されたそのデータには――。

 

(……新しいミッションが二件……連戦だと?)

 

 珍しい――だが、有り得ないことではない。

 昔は連戦などしょっちゅうあり得たことだし、『部隊』のミッションでは同じ星人と何日間もかけて『戦争』することなど日常茶飯事だ。

 

 ここ最近、あの『部屋』ではなかったことだが――と、晴空は昨夜の連戦を終えた後の、最終的な住人リストを見て。

 

「…………………ハッ」

 

 目当ての戦士の名前があることを確認すると、そのまま椅子の背凭れに体重を掛けながら、真っ暗な部屋の天井を見上げる。

 

 どうやら――今日も、アイツは生き残ったらしい。

 

「………………」

 

 晴空は、そのまま瞑目し――ふと、隣で寝落ちしている己の嫁を見遣る。

 

 ……ここ最近。

 もっと言えば、八幡が戦士となってから、自分達は殆ど我が家に帰っていなかった。

 

 この執務室もどんどん生活感に溢れていっている。

 PCの周りには、不健康な色の栄養ドリンクの空き瓶、袋の口が開いているパサパサの安い食パン、そして、自分が愛飲している内に、いつの間にか息子の大好物になっていた警戒色の缶コーヒーまで。

 

 妻は、この報告書に書かれている、とある強豪星人との戦争(ミッション)が始まる前――自分に言っていた。まるで、死亡フラグを立てるように。

 

 この戦争が終わったら、一緒に我が家に帰ろうと。

 

 小町と、そして――八幡に、会いに行こうと。

 

(……カタストロフィまで、あと200日……か)

 

 今回の自分達が相手にした星人も、相当に強力な敵だった。

 ずっと前から組織が要警戒星人としてリストアップしていたが、ずっと警戒して仕掛ける時期を探っていた星人。

 そんな星人が遂に無視できないほどの動きを見せ始めたという要請を受け、晴空達ほどのレベルの戦士が戦線に投入されたのだ。

 

 かつてのカタストロフィを思い起こさせる――第一次(十年前)の時も、終焉(カタストロフィ)が近づく毎に、暴れ出す地球在住の星人の強さも増していった。より強い星人達が動き始めていった。

 

 彼等も感じているのだろう。終焉を。そして、終焉を齎す星人の襲来を。

 

 もうすぐ、我が家に、帰りたくても帰れなくなる――そんなタイムリミットが、迫っている。

 

 だからこそ、それまでに――と。

 

「…………」

 

 晴空は、机に突っ伏している雨音の頭を撫でる。雨音は、体を捩ってそれを嫌がった。

 こんな仕草が、かつて八幡が頭を撫でた時の小町の反応に似ていて、晴空は思わず笑みを浮かべた。

 

 そして、気合を入れるように、眠気覚ましの冷えピタを額に貼る。

 

 ハッ――まるで社畜だと、警戒色の缶コーヒーを煽り、晴空は報告書を仕上げるべくラストスパートを掛けた。

 

 

 

 

 

 

 晴空は気付かなかった。

 

 自分の幹部用のアドレスに直接送られてきた重要メールのことも忘れていたし、八幡のその夜の二度目の戦争のスコアが異常に低いのも気付かなかった。

 

 だが、気付いた所で、この時の晴空には何も出来なかっただろう。

 

 この時には、もう既に――全ては終わっていたのだから。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――欲求不満(さびしい)なら、一緒にシャワーでも浴びてスッキリするか?」

「――自殺志願(しにたい)なら、照れずにそう言えばいいのに」

「すいまっせんしたーー!!! 徹夜明けで調子こきましたぁあああああ!!」

 

 徹夜で報告書を仕上げ、五日間にも及んだ強豪星人との戦争の記録をプリントアウトした紙の海の中にジャンピング土下座を敢行する元英雄。

 そんな英雄の頭頂部に向けて、Z型の巨銃を突きつけるこちらも元英雄にして妻の美女を、晴空はちらっと見上げた。

 

 彼女も感じているのだろう。今日が、娘と、息子と、平和な日常で会える最後のチャンスだということを。

 

 今回は、本当に久方ぶりの、自分達が現実逃避的に突発的に行う乱入ではなく、あの《CEO》が直接的に上司命令として晴空に『部隊長』を依頼した戦争だった。

 これから先、正式に回される現場での任務(しごと)が増えるかもしれない。

 

 最古参であり、元英雄である自分達が、正式に仕事として現場に立つ――それは、それだけCIONが、本腰を入れて動き始めるということ。

 

 終焉が――近づいているということ。

 

 それを――彼女も気付いている。

 

 だから、今日は――。

 

 今日だけは――今日こそは、と。

 

 そんな思いを込めて晴空は土下座しながら妻を見上げる。

 雨音も、そんな夫の思いを汲み取っていたのか、巨銃を向けながらも、その表情は柔らかかった。

 

 そんな時、執務室の自動ドアが開く。

 組織内でも特殊な立ち位置の幹部である晴空達の執務室を、訪れる来客など本当に限られている。

 

 現れたのは――黒い衣を纏ったジャイアントパンダだった。

 

 この時、比企谷夫婦の脳裏には、半年前の、あの時のことが頭を過ぎる。

 

 一瞬息を呑むも、晴空は、昨夜の内に息子が今回の戦争も生存したことを知っている。

 雨音も、自分よりも早く起きた時に確認していたのだろう、動揺は表に出さない。

 

 何食わぬ顔で、何食わぬトーンで、盟友たるパンダに声を掛けた。

 

「――あら? 珍しいお客さんね。どうしたの?」

「おおッ! 救いの神よ! いや、救いのパンダよ! いいところに来た、俺を助け――ん?」

 

 地球に危機が目前に迫っているというのに、いつも何をやっているんだお前たちは――そんなツッコミが来ることを、期待した。

 

 何気ない要件で来たのだと。ただ顔を出しに来たのだと、そう期待した。

 

 だが、生真面目ではあるが、ロマンもユーモアも理解するこのパンダから、愉快な言葉が何も出てこない。

 

 やめろ――何も言うな――そんな言葉が飛び出しそうになりながらも、晴空は口を開く。

 

 どうした、と。大したことはないんだろ、と。そう言って欲しくて――だが。

 

 いつもは愉快なパンダが、軽快なジョークを飛ばすパンダが。

 

 重い声で、重々しく――告げる。

 

 比企谷晴空の、比企谷雨音の。

 

 世界を終わらす、その真っ黒な言葉を。

 

「……君達の――」

 

 

――娘が、死んだ。

 

 




そして、親殺しにして妹殺しである夫婦は、息子と娘を見殺しにした両親は。

全てを終わらせる――最悪の計画(ミッション)を画策する。


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Side戦争(ミッション)――⑥

ここに化物はいない。いるのは――英雄だけだ。


 

 小町が死んだ。

 

 ガンツのメモリーにすら残されていない、たった一人の愛娘の死亡。

 

 何で、死んだ――そう、掠れるように問い返した、晴空の言葉に。

 

 パンダは、ただ、言ったのだ。

 

 

 君達の息子に――比企谷八幡に、撃たれたのだと。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 これは天罰なのか――と、そう思った。

 

 親殺しが親になろうとした――その天罰なのかと。

 

 妹殺しが、娘に己が殺した妹を重ねて、勝手に救われた気になっていた――その天罰なのか、と。

 

 超常たる『真理』が下した、神託が如き『予言』に、逆らおうとした――その天罰なのか、と。

 

「――――ハッ」

 

 守るというならば、全てを敵に回してでも守るべきだった。

 

 息子に目を付けられない為だと。息子を英雄にしない為だと

 なんだかんだと言い訳を捏ねて――結果、十八年。

 

 息子から逃げ続け、目を逸らし続けてきた、これは――その天罰なのか、と。

 

「―――――――――――ハハッ」

 

 取り返しがつかない過ちを、再び犯した。

 

 覚悟がないままに子供を作り、向き合うことなく逃げ続けた――その結果。

 

 たった一人の息子に、たった一人の娘を、殺させてしまった。

 

 息子に――妹を、殺させてしまった。

 

 八幡を、自分達と同じ地獄へと、叩き落してしまった。

 

「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!」

 

 比企谷晴空(はると)は笑った。

 

 世界で一番滑稽な人物を笑うように、腹の底から大爆笑した。

 

 何度も何度も床を叩き、ぽたぽたと涙を流しながら。

 

「…………小町…………はち、まん……ッ」

 

 同様に、口を押え、大粒の涙を流していた雨音(あお)は。

 

 俯いていた顔を上げて、地に倒れ伏せる夫の名前を呼ぶ。

 

「…………はる、と――ッ」

 

 瞬間、晴空は。

 

 両の拳を振り上げて、世界で最も許せない存在に対して慟哭する。

 

「オマエはッッ!!! 何もッッ!!! 何も変わってねぇなッッ!!! アァ!!?」

 

 逃げてばっかりだ。逃げてばっかりだ。

 逃げて逃げて逃げて。逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて。

 

「何にも出来ねぇッ!! 何にもしねぇッ!! 何にも見ねぇッ!! 何にもッ!! 何にもッ! 何にもだッッ!!!」

 

 父親と向き合うことから逃げて。母親と向き合うことから逃げて。

 過去と向き合うことから逃げて。現実と向き合うことから逃げて。未来と向き合うことから逃げて。

 

 息子と――向き合うことから。

 

 逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて。

 

「……何が、星人(バケモン)を狩る戦士(ハンター)だ……。何が、地球を救った英雄だ……ッッ。一番のモンスターは、テメェだろうがこのクズがッッッ!!!」

 

 その、何のスーツも着ていない、ただ振り下ろしただけの元英雄の拳は。

 

 まるで、大地を――地球を揺るがすかのような、錯覚を起こす程の迫力に満ちていた。

 

 ただ、己への――莫大な殺意に満ちていた。

 

「…………晴空」

 

 そして、地に伏せる英雄に、嘆き苦しむ男の肩に。

 

 優しく手を乗せて、涙に濡れるその顔を挟んで、涙に塗れる己の顔を向ける美女が、言った。

 

「晴空……ありがとう」

 

 雨音は、夫にそう囁いた。まるで、愛を囁くように。

 

 別れの言葉を、告げるように。

 

「今まで、一緒に背負ってくれて。今日まで、一緒に生きてくれて」

 

 その濡れた瞳で、涙に塗れた顔で――雨に打たれたように、笑う美女は。

 

「………約束、したよね?」

 

 愛する夫に。あの日、自分を救ってくれた男の子に。

 

 晴れ渡った空のような、満面の笑みで言う。

 

 

「一緒に、死のう?」

 

 

――『……でも、お前が死にたい時は、一緒に死んでやる』

 

 あの日、晴れ渡った雨の日に、誓った言葉。

 

――『俺が一緒に裁かれてやる。俺が一緒に地獄に堕ちてやる』

 

 少年が少女を救った言葉。

 

 親殺しが親殺しを、妹殺しが妹殺しを、唆した――愛の告白(プロポーズ)

 

「…………ああ。そうだな」

 

 約束、したもんな――そう言って、晴空は。

 

 あの日と同じように美女の涙を拭い――抱き締める。

 

「一緒に裁かれてやる。一緒に地獄に堕ちようぜ」

 

 今度こそ、クズとモンスターに相応しい死を迎える為に。

 

 比企谷晴空と比企谷雨音は、晴れ渡った、笑顔を浮かべた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして晴空は立ち上がり、その場でずっと慟哭する夫婦を静観していたパンダに告げた。

 

 自分達が、息子の――比企谷八幡の『入隊試験』の『試験官』となること。

 

 そして、その『入隊試験』を、『星人戦争(ガンツミッション)』として行うということを。

 

「…………正気か?」

「――ハッ。おいおい、今更かぁ? 何年の付き合いになるんだ、寂しいこと言うなよ」

 

 俺らが正気(まとも)じゃねぇことくらい知ってんだろ――と、晴空は笑う。

 

 その笑みは、先程までの慟哭などまるでなかったかのような――あの比企谷晴空の笑みで。

 

 人を喰ったような、見る者全てを不快にさせる、不愉快な英雄(かいぶつ)戦士の笑顔。

 

「……出来るわよね。例え、実績のあるアナタのスカウトでも、形式上は『入隊試験』は行わなければならない。霧ヶ峰霧緒は実績があるとしても、八幡の成績じゃあそれは避けられない筈よ」

 

 比企谷雨音は、笑わない。

 

 人を人とも思わないような、見る者全てを凍えさせる、怜悧な英雄(かいぶつ)戦士の無表情。

 

 それはパンダがよく知る戦友達の姿。

 幾重もの戦場を共に地獄へと変えた、紛うことなき()戦士の顔。

 

 だからこそパンダは、無駄だと分かっていても、こう問わずにはいられなかった。

 

「……お前達ならば分かっているだろう。その強権発動が、公私混同が、どんな事態を招くことになるか」

 

 これまでずっと、その事態を避ける為に、息子を見殺しにしてきたのではないか――そう問うパンダに、晴空は。

 

 一切戦士の笑みを崩さず、ニヤニヤと笑いながら言ってのける。

 

「――ハッ。どうせこのままじゃあ、お前が『本部(こっち)』に連れてきちまうんだろ? だったら遅かれ早かれだ。それに――」

 

 その為の『ミッション』だろうが――そう、吐き捨てる。ニヤニヤと、吐き捨てる。

 

 ミッションの標的(ターゲット)は――《八幡星人》。

 このモンスターペアレンツは、他ならぬ息子を、『英雄候補』となる少年兵を、あろうことか『星人(ターゲット)』として設定した。

 

 それは、つまり――。

 

「例え、どんなに伏線塗れでも、『星人』を【英雄】に据えるような馬鹿はいない」

 

 それどころか、【英雄】どころか、もはや『戦士』でもいられないだろう。

 

 息子を、八幡を――英雄としても、戦士としても解放する。

 

 その為に――。

 

「――お前は、息子を『星人(バケモノ)』にするのか?」

 

 パンダは低く、渋く、重い声で問う。

 己が地球を守る戦士としてスカウトしてきた少年を、星人として設定しようとしているこの戦友に。

 

「息子を殺すのか――化物として」

 

 己が息子を、星人として殺そうとしている、この両親に。

 

 そうだ。

 確かに、()()()戦争(ミッション)星人(バケモノ)認定を受ければ、【英雄】たる資格も、『戦士』としての資格も失われるだろう。

 

 解放されるかもしれない――だが、それは、比企谷八幡から人間たる資格すらも奪い去る。

 待っているのは、責務からの解放だけではない。生からの解放と、化物としての死が待ち構えている。

 

――『一緒に死のう?』

 

 そう夫に囁いた妻は、化物として殺されようとしている息子の母は。

 パンダからの忠告に対し、怜悧な戦士の無表情で返す。

 

「……八幡は、小町を殺したの」

 

 それが全てよ――そう言って、執務室のクローゼットの中から、黒い弓と黒い矢を取り出す。

 

「アイツを殺してやるのが――俺達の……両親(おや)の、務めだろう?」

 

 今まで、親としての務めを何一つ果たせなかった――クズとモンスターは嘯く。

 

 晴空は断言する。八幡は殺されたがっていると。

 誰かに裁いて欲しくてたまらない筈だと。誰かに仇を討たれたくてたまらない筈だと。

 

 真っ直ぐに窓に向かって歩きながら、片手を掲げて黒い剣を呼び寄せる。

 

 そして、黒い火を纏う剣を肩に担いで、「……それでも、アイツが生きたいと望むなら」と。

 

 欲しくてたまらない断罪を、求めてやまない赦罪を拒絶し、生に縋りつくというのなら。

 

「――そん時は、俺が……背負ってやるさ。父親としてな」

 

 例え、八幡から、死ぬほど恨まれることになろうとも。

 

 望むところだと言わんばかりに、黒火に向かって、笑いかけた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして――再び晴空は、黒火に向かって、笑みを浮かべる。

 

(…………もうすぐだな)

 

 黒火に囲まれた処刑場に、血だらけの親子が対峙している。

 

 比企谷八幡は、『星人認定』された元『英雄候補』たる息子は――やはり、案の定、死にたがっていて。

 けれど、それでも、こうして生に執着し、縋りつき、両親たる自分を殺してでも、生き残るのだと殺意を燃やしている。

 

(……やっぱりお前は、俺の――俺達の息子だな)

 

 着実に親殺しの遺伝子を受け継いでいる。妹殺しの宿命を背負わされている。

 

 だからこそ、余計な運命を背負わせた張本人として――父親として、責任もって背負ってやらなくてはならない。

 

(今――楽にしてやるよ)

 

 八幡の右手に燃える黒火は――着実に八幡の寿命を奪っていて、そして。

 

「――――ッ!」

 

 スーツの泣き叫ぶ悲鳴の音調が変わる――その場にいる、全員が悟った。

 

 あのガンツスーツは、まもなく死ぬ。

 どれだけ感情による性能強化で寿命を延ばそうとも、まるで毒のように常にダメージを与え続けられれば、遠からず内に命を奪いきる。

 

 ベテラン戦士の比企谷夫妻は当然として、長年黒い球体の戦士達と戦い続けてきた雪ノ下夫妻も、そして、黒火によるダメージを受け続けている八幡自身も、それは分かっていた。

 

 だから――これが、最後の攻防。

 

 壮絶で凄絶な親子喧嘩の、遂に決着の時だ。

 

「ハッ――どうした? 来いよ? これが父親(オレ)を殺す最後のチャンスだぜ?」

 

 晴空は、そう凄惨に笑いながら嘲笑する。

 口端から血を流しながらも、だからこそ、禍々しく、息子を挑発する。

 

 対して――息子は。

 父親とそっくりの顔を――けれど、母親のように冷たく無表情で、応じる。

 

「……そう死に急ぐなよ、クソ親父」

 

 タイムリミットが近づいているのは己にも関わらず、黒く燃える拳を固め、半身を引き。

 黒く燃えていない左手を――そっと腰に回して。

 

 冷たく、静かに――最後の切り札を、切った。

 

「慌てなくても――今、殺してやるよ」

 

 カチッ――と。

 まるで失敗したかのような、気の抜けた乾いた音が聞こえ。

 

 それを掻き消すように――勢いよく。

 

 黒火に囲まれた戦場を――黒煙が満たした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 比企谷八幡は、例えミッション外でも、この黒いスーツは手放さない。

 あの部屋の外にも星人はいて、ミッションが終わっても戦争は終わらないと知っているから。

 

 だからこそ、彼は日常世界でも(スーツ)を纏い、銃を持ち歩く。

 しかし、だからといって常に万全の装備を整えているかといえば、そうではない。

 

 あの黒い球体の部屋には種々雑多な装備が用意されているが、その全てを持ち歩くことなど出来る筈もない。それに、平和な日常においてはガンツの武器は異彩を放ち過ぎる。

 

 武器を持ち歩いて半年の人間が、最新鋭の更に先の未来武器を持ち歩くのは、やはり目立ち過ぎるのだ。どれだけ隠そうとしても、武器を持っている人間というのは、それだけで自然体ではいられない――そして、露見すれば、待ち構えているのは死だ。

 

 だからこそ、武器を日常に持ち帰ることを覚えた戦士達は、まず、持ち帰る武器の取捨選択から始めることになる。

 己が得意な武器を、命を預けるに値する武器を――平和な日常へと密輸する。

 

 そこには当然、最低限の条件がある。

 持っていることを露見されないことだ。

 

 ガンツバイクのように見るからに手に負えない武器などは真っ先に除外され、ひっそりと隠し歩けるような手頃な武器が人気を博す。

 上級者になると、常に好きなタイミングでガンツバイクを出現させ、返還できる『キー』を手に入れることも出来るのだが――とどのつまり。

 

 現在、不意に日常の中で勃発したこの親子戦争において、比企谷八幡は決して万全な状態ではないということだった。

 

 八幡は今回の帰還に対し、BIMを持ち帰っていない。

 彼自身は気に入ったあの武装に対し、その宣伝(アピール)も兼ねて陽乃には持ち帰るように勧めたが、八幡本人はXガンとYガン、そしてスーツと既に荷物がかなり嵩張っていたのもあって、持ち帰りを断念した。

 

 滞在時間はおよそ一日、その後はすぐに迎えに来るという計算もあった。

 見るからに重装備だと寄生(パラサイト)星人の無用な警戒を煽るかもという打算もあった。

 

 だが、しかし――今回の帰還において八幡は、そもそもとして、この寄生(パラサイト)星人の本拠地への乗り込みは念頭に置いていた。

 親子戦争の勃発は予見出来なくとも、一つの星人種族の巣窟に突っ込む覚悟は固めた上での日常への一時帰還だったのだ。

 

 だからこそ、必要最低限の装備だけでなく、また、寄生(パラサイト)星人の必要以上の警戒心も煽らない、そんな特殊な切り札を忍ばせて、この敵地に赴いている。

 その装備とは、昨夜のオニ星人との戦闘に用いた、あの閃光弾(スタングレネード)――ではなく。

 

 爆弾(BIM)があるならば、閃光弾(スタングレネード)があるならば、恐らくはこれもあるだろうと、昨夜の帰り際に『武器庫(クローゼット)』から見つけた特殊武器。

 

 いざという時の――逃亡用の武器。

 

 煙幕弾(スモークグレネード)

 真っ暗な闇に覆われる深夜のガンツミッションではなく、光の下で行われる日常での戦争において、その有効性を発揮する攪乱装備。

 

 その光を遮り――闇を作り出す、その為の武器。

 平和な日常を、慣れ親しんだ戦場へと作り変える――その為の切り札。

 

 八幡の左手から生み出される黒煙は――真っ先に八幡自身を呑み込む。

 

 不敵な笑みで、壊れた笑みで、その闇を堂々と享受し――消える。

 黒煙は膨れ上がるように広がり、処刑場を覆う。

 

 その様は――皮肉にも。

 晴空が十年前に目撃した、あの『予言』を思わせる光景だった。

 

 光ではなく、闇であるところが最大の違いだが――あの男には、あの息子の笑みには、むしろその方が相応しいように思えた。

 

「――――ハッ」

 

 晴空は、今、再びに笑う。

 その皮肉さに、光に呑まれさせまいと【英雄】となることを阻止してきた息子が、自ら邪悪な笑みを浮かべて闇に呑まれた姿に――笑いが込み上げるのを堪え切れない。

 

(……この黒煙に紛れて逃亡するか? それとも、背後から不意打ちするか――いいねぇ、実に俺の息子らしい小細工だ)

 

 晴空は棒立ちのまま、ゴキッとその五指を鳴らす。

 剣は折られて、銃もない――だが結構。人を殺すなど、この腕だけで十分だと。

 事実――数々の星人の息の根を止めてきた、この細長い鉤爪が如き右手は、それだけの殺傷力を秘めている。

 

 それに、この黒煙も、実はそこまでの脅威ではない。

 単純に黒煙ならば黒火も隠せると考えたのかは知らないが、八幡が生まれた頃から『黒火の剣』を愛用してきた晴空ならば、この闇の中でも黒火を見つけることなど容易い――右手が黒く燃えている息子の居場所など、接近してくれば必ず見分けることが出来る。

 

 後の問題は――八幡が接近してくるか、それとも逃亡してくるか。

 

 この期に及んで逃げるという選択肢があるのかと言われれば――間違いなく、ある。

 例え一度、ミッションの標的にされようとも逃げることは出来るということは、他ならぬ自らの失態を持って八幡は知っている。

 

 勿論、間違いなく追手を差し向けられるだろうが、八幡はカタストロフィまで後半年を切っていることも知っている。つまり、明確にゴールが、手の届く範囲にあるということを知っている――だが、それらを差し引いた所で。

 

 適わない相手に、勝てないと分かっているのに、真正面から戦い続けることが愚策であると――その程度のことに思い至らない比企谷八幡ではない。比企谷晴空の息子ではない。

 

 この場は負けよう――だが、真の敗北とは、むざむざと殺されることであると。

 だからこそ、晴空に対し、己が父親に対し、一切の勝算をこの時点で見出していなければ、比企谷八幡は間違いなく逃亡する。

 

 だが――。

 

(――なるほど。八幡、お前は俺に勝てると踏んでいるのか)

 

 一瞬――黒火が揺らめくのを感じた。

 

 つまり――八幡は逃亡を選んでいない。

 

 晴空を、父親を殺すべく、この黒煙の闇の中で息を潜めている。

 

(なら――後は、簡単だ)

 

 向かってくるならば――アイツは間違いなく。

 

 晴空は脱力し――直立する。

 そして、敢えて、その背中を無防備にする。

 

 分かっていると――父親は息子を、おびき出す。

 欲しいんだろと、ここを狙いたいんだろうと――父の背中を、剥き出しにする。

 

 今まで、ずっと息子に向けてきた――何一つ、教えられなかった、その無様な背中を。

 

「……さぁ、来い……八幡」

 

 ゴキっ――と。

 息子の命を刈り取るべく、喉を鳴らすように。

 

 ハッ――と。

 真っ暗に笑い――そして。

 

 

 比企谷晴空の背後に、真っ暗な火を灯した右手が出現した。

 

 

 晴空は機械的に、完璧なタイミングで右手を振るう。

 

 かつて、己が父親の車のブレーキを狂わせた時のように――己が父親と、母親と、生まれる前の妹を、その右手で殺した時のように。

 

 真っ暗な無表情で、ドロドロに濁り切った眼で、血に塗れた右手で。

 

 今度は、己が息子の息の根を――刈り――。

 

「っ!?」

 

 取れ――()()()()

 

 なかった。何もなかった。

 

 右手があるのに。黒火を灯して、そこにあるのに。

 

 そこには――()()()()()()()()

 

 肘から先しかなく、息子は、息子の命は、そこにはなかった。

 

「なん――!?」

「本当に――」

 

 声が聞こえた――()()()()()

 

 自分が逃げ続けた息子の声が聞こえ、思わず振り向き、やっと見えた。

 

 こんなにも近くで、こんなにも真正面から、晴空は初めて、息子の顔を見た。

 

「――アンタは、変わんねぇな……親父」

 

 余りにも近くで合った、その息子の眼は、やはり禍々しく腐っていて――けれど、とても綺麗な、黒色で。

 

 鏡のように、間抜け面で呆然とする、カッコ悪い男の顔がはっきりと映っていた。

 

(……あぁ。俺って、今――こんな顔をしてたんだな)

 

 それは、世界で最も嫌いな男の顔で――でも。

 

 目の前で拳を振りかぶる男とは――まるで似ても似つかなかった。

 

 そこで、世界は白く染まる。

 

 比企谷晴空は、比企谷八幡の渾身の左拳を、鼻っ柱に打ち込まれた。

 

 それは本当に――とても痛く。

 

 晴空は思わず――嬉しくて、涙が出た。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 黒煙が祓われる――闇が晴れる。

 

 それはまるで、比企谷晴空の心のように――清々しい敗北だった。

 

(……あぁ。これが因果応報って奴か。最高に気持ちイイな)

 

 ()っちまいそうだぜ――と、晴空は大の字で地に横たわりながら、目を上げる。

 

 そこには右手を肘から切り落とし、だくだくと血を流しながら、息を荒げながらも、こちらを冷たく見下ろす息子がいた。

 

「……まさか、そこまでするとはな」

「……別に。いつものことだ。そうだろ?」

「ハッ――違いねぇ」

 

 ガンツミッションにおいて、手足の欠損など珍しいことではない――日常茶飯事だ。

 失くした足も、切り落とした腕も――例え、ミッション終了時に生きてさえいれば、半身が奪われていようと、脳が削り取られていようと、全てが綺麗に修復される。

 

 新品のように、なかったことになる。

 

 だが――それは戦士(キャラクター)の場合だ。

 この場において、戦士は晴空で、八幡は星人(ターゲット)だ。

 

 だが、それでも、この息子は――当然のように。

 

 文字通り、我が身を犠牲にして――勝利を得た。

 

 そして、悲願を、果たす。

 

「――(Xガン)は、拾えたか?」

「……ああ」

「よし、撃て」

 

 そして、殺せ――と。

 

 晴空は綺麗な空を見上げる。

 茜色は消え去り、こちらを映しそうな黒が広がる。

 

 息子の瞳のように、美しい夜空だった。

 

「…………ああ」

 

 八幡は、小さくそう呟いて――横たわる父に、銃口を向ける。

 

 慣れない左手で銃を持ち、慣れた手つきで照準を合わせる。

 それを見て、晴空は「……ハッ」と、穏やかに、微笑む。

 

 念願の瞬間だ。

 

 あの日から、ずっと申し訳なく生きていた。

 開き直ろうと思っても、常に心の隙間風が寒かった。

 

(……悪いな、雨音。先に行くぜ)

 

 一緒に死んでやると誓った妻へのプロポーズを裏切ることが心残りだが、それはまあ、こんなクズを伴侶に選んだあの日の自分を恨んで欲しい。

 

 親殺しの自分が、己が息子に殺される。

 

 こんな相応しい死があるか? こんな望ましい死があるか?

 

 こんな素晴らしい――仇討ちがあるか?

 

(……悪いな、八幡。俺の方が先に、こんな幸せに死んじまって)

 

 晴空は、己に向かって銃口を向ける八幡を見て、笑う。

 

 ハッ――と。嘲けるように、笑う。

 

 八幡は、そんな笑みを見て――表情を消し。

 

 左手の人差し指を、使い慣れた銃の引き金へと向けて。

 

「……………」

 

 そして――そして。

 

「……………………」

 

 晴空は、そんな息子を見て――笑みを消して、言う。

 

 

「――()れ」

 

 

 瞬間、僅かに残っていた黒煙を――真っ直ぐに黒矢が突き破る。

 

 突如として飛来してきたそれに対し、八幡は振り返り、晴空は――醜悪に、笑った。

 

 飛び散る血。

 

 その一射が齎した光景に、誰もかもが――息を呑んだ。

 

 傍観していた雪ノ下豪雪も。

 凶行に及んだ女を止めようと右手を刃に変えていた雪ノ下陽光(ひかり)も。

 

 黒矢を放ち、黒弓を手に呆然としていた、比企谷雨音も。

 

 そして、発射を命じ――()()()()()()()()矢を。

 笑みを浮かべながら待っていた、比企谷晴空も。

 

 皆――その男を見ていた。

 

 ガラン、と。左手に持っていた、Xガンを落とし。

 

 突如として、己の横を擦過し、自分が殺そうとしていた父親を貫く筈だった、己の母が放った黒矢を。

 

 左の掌で受け止め、血を流しながらも――真っ黒な瞳で大人達を睥睨する、その黒衣の少年を、見ていた。

 

「俺は――アンタ達とは、違う」

 

 矢を放った体勢のまま、呆然と立ち尽くす――母に向かって、真っ直ぐに腐った眼を向けた後。

 矢を待った体勢のまま、呆然と座り尽くす――父に向かって、真っ直ぐに。

 

 静かに、冷たく――けれど。

 温度の通った、声色で。

 

 八幡は、死にたかった父親に向かって、言った。

 

「俺の勝ちだ。……クソ親父」

 

 壊れかけのスーツを纏い。右手を切り落として。左の掌も矢が貫いていて。

 真っ直ぐに立つことも出来ず、瞼も今にも閉じてしまいそうで。

 

 今にも死んでしまいそうな、そんな有様の少年が呟く――勝利宣言に。

 

 母は黒弓を落としながら、その怜悧な瞳の端から、一筋の涙を流して言った。

 

「…………そうね。私達の、完璧な負けね」

 

 自分達には、息子のことが何も見えていなかった。

 向き合うことを恐れて、何も見ることが出来なかった。

 

 だが――息子は。

 

 父親の、母親の、その情けない内面の全てを見透かし――見抜いていて。

 そして真っ向から、真正面から、逃げずに、受け止め――勝利した。

 

 まるで――英雄のように。

 

「…………ハッ。そうだなぁ」

 

 晴空は、今度こそ、脱力し、死んだように横たわり――空を見上げた。

 

 綺麗な真っ黒で、全てを受け入れるように優しい、晴れ渡った夜空だった。

 

 晴空はP:GANTZを取り出し、ミッション画面を操作する。

 

《八幡星人》と、己の息子が化物であると表示するその画面を。

 

(ここに化物はいない。いるのは――英雄だけだ)

 

 消去し、リセットする。

 

 こうして、戦争(ミッション)は終わった。

 

 比企谷晴空と、比企谷八幡。

 

 真っ黒な親子の殺し合いは、誰も死なずに幕を閉じた。

 

 一人の息子を、英雄にして。

 




こうして、元英雄の父親は、完膚なきまでに敗北する。

そして、息子は――英雄たる道、その一歩目を歩み出す。


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Side戦争(ミッション)――⑦

お前、どこから気付いてた? んで、どこまで気付いてる?


 

 戦争を終えた――雪ノ下邸の広大な庭にて。

 

 黒火が消火された跡が、まるでミステリーサークルのような消えない戦争痕を残している中。

 比企谷八幡が左の掌と右腕の切断面を雪ノ下陽光(ひかり)によって凍らされ、応急処置を施されているすぐ傍で。

 

 二人の敗者たるミッションに失敗した戦士が――比企谷晴空(はると)と比企谷雨音(あお)夫妻が、ボロボロの息子の傍で微笑みながら、治療を受ける死に掛けの息子を眺めていた。

 

「おい、実の父親をぶっ殺しかけたクソ息子」

「なんだ、実の息子をぶっ殺しかけたクソ親父」

 

 呼吸するようにお互いをディスり合う、ほんの一分前までバッチバチに殺し合っていた息ピッタリの親子に、雪ノ下豪雪はこれが父子(おやこ)というものかと感心し、雪ノ下陽光はドン引きし、比企谷雨音は溜息を吐いて己が夫の脇腹を肘で抉る。

 

 命に係わるような大怪我はないとはいえ、中々の死闘でダメージもそれなりに蓄積していた晴空はマジかこの嫁と夫婦の愛を疑うも、八幡を一刻も早く転送してやらなくてはならないことは確かなので、P:GANTZを右手で弄びながら、晴空は八幡を問い詰める。

 

「お前、()()()()気付いてた? んで、()()()()気付いてる?」

 

 ニヤニヤと、あのいつも通りの人をおちょくったような性格の悪い笑みが晴空に戻ったことに、陽光は露骨に顔を顰めて、八幡は溜息を吐きながら言葉を返す。

 

「……親父達がガンツ関係者ってのは、まあ、驚いたけど、納得はした。雪ノ下陽光との距離感を見ても、初対面って感じじゃなかったからな。つまり、同盟相手とはいえ星人との交渉を任されるくらいは重要ポストってことか。そんで、そんな雪ノ下陽光も知らなかったのがこのミッション――俺を星人扱いしてぶっ殺すってミッションだったってわけだ」

 

 そういって、ジロリと八幡は真っ黒な瞳で両親を睨み付ける。

 雨音は少し眉尻を下げたが、晴空の口元は笑みのままで、その睥睨を受け止める。

 

「――で? どう思った?」

 

 晴空は、そう八幡に感想を求める――父親が、母親が、息子を殺そうとした感想を、自分が両親に殺されそうになった感想を、真正面から。

 

 八幡は、そんな晴空が内心ではどういった思いを抱いているかを見抜いた上で、見えていない振りをしてやるというように顔を逸らしながら淡々と言う。

 

「生温い――って思ったよ」

 

 陽光は、応急処置の手を止めて瞠目した。

 

 あれほどの死闘を、あれだけの常軌を逸した戦争を。

 父親が、母親が、強襲的に息子を殺害しようとした、あの狂気のミッションを。

 

 この息子が、殺されかかった当の息子が――生温いと、そう表現したことに。

 

 晴空も、雨音も、一切の表情を変えずに受け止めた。そんな両親の方を真っ暗な瞳で見ながら、八幡は尚も淡々と言う。代わり映えのない日常を語るような口調で。

 

「親父達が本当に本気で俺を殺そうとするんなら、こんな回りくどいことはしない。俺らに気付かれないように透明化して現れ、背後から確実に殺す。あんな分かり易くこれ見よがしに登場することもないし、俺にわざわざミッションの標的にされたことを教える必要もない」

 

 それに本気なら、母ちゃんが一発目の矢を外すとは思えないし、親父も俺のスーツを壊さないように手加減して殴ることなんてしなかっただろう? ――と、自明の理を説くように言う。

 

 つまり――この少年は。

 

 突如、唐突に現れた――黒い衣を纏った戦士の姿の両親に。

 凍えるような殺意を向けられ、お前は星人(バケモノ)だと理解不能な烙印を押され。

 

 一方的に強襲されて、殴られて、蹂躙されて――殺されかけている、その状況を。

 冷静に俯瞰して、分析して、検討した――その上で。

 

 ()()()と、そう冷めた真っ黒な眼で見詰めていた――と、そういうのか?

 

 ぞくっと冷気を生み出すその手に冷たいものを感じながら、陽光は唾を呑み込む。

 星人(バケモノ)が、陽光が誰よりも人間だと、そう称した少年に慄いている横で、晴空は再び息子に問い掛ける。

 

「つまり――お前は読んでいたのか? 両親(おれたち)が、息子(おまえ)を殺しにくるってことを?」

 

 父親が、母親が、自らの息子を殺しにくるという状況を――他ならぬ息子自身が、想定していたのかと、そう問う父親に。

 

 八幡は、目を逸らしてあげながら、再び淡々と、冷静に言う。

 

「……親父達がガンツ関係者ってことに驚いたのは、本当だ。……だが、小町はガンツ関係者じゃなかった。つまり、小町の死は隠せない。いずれ必ず知ることになる。……で、そん時は、間違いなく――」

 

――両親(アンタたち)は、俺を殺しにくるだろうと、そう確信していた。

 

 真っ暗に晴れ渡った夜空を見上げながら、八幡は真っ黒な瞳でそう言った。

 当然のことのように。自明の理だと、何の感慨も抱かずに。

 

 例え、八幡に対する記憶操作が行われ――両親が、八幡に関することを忘れたとしても。

 小町の死を知った両親ならば、()()()()()()()()として、八幡を探し当てたに違いないと――だからこそ。

 

 父親が、母親が、己を殺しに来るという未来を、息子は当たり前のように確信していた。

 

 その上で、八幡は――ここにきて初めて、僅かながらも確かな怒りを込めて言った。

 

「だが――まさか、あんな生温い殺意だとは思わなかったよ」

 

 八幡は、凍り付いた左手で、真っ直ぐに己の心臓を叩く。

 己が父親を、己が母親を睨み付けながら、黒く燃える怒りを込めてこう言う――どうして、もっと真剣に俺を殺そうしなかった、と。

 

「俺は――小町を殺したんだ。アンタ達の宝物を、ぶっ壊した張本人だ。なのに、アンタらは、明らかに俺を生かそうとしていた……っ」

 

 それぐらいの力の差はあった。

 八幡を殺すチャンスなどいくらでもあった戦争だった。

 

 なのに、確かな殺意を持って追い込む癖に、最後の一線には踏み込まない――まるで、怯えるように。

 この期に及んで、この両親は、一人息子と――向き合おうとしなかった。

 

「……正直、がっかりした」

 

 もしかしたら――と。この時、八幡は、自分がそう期待していたことに気付いて。

 顔を顰めた。唇を噛み締めた。自分の最も嫌いな自分が再び顔を出したことに。

 

 勝手に期待して、勝手に失望する――唾棄すべき醜悪さに、怒りが表情に出ることを堪え切れない。

 

「…………」

「…………」

 

 だが、その表情をどう受け取ったのか。

 

 顔を僅かに伏せる母親と、何も言わない無表情の父親に。

 

 八幡は顔を逸らしながら「……だから、何らかの理由があると思った」と、語り続ける。「何かしらの思惑があって、裏があって――こんな茶番をやってるんだと」と、言葉が強くなるのは、やはり我慢できなかったが。

 

「……初めは、それでもいいと思ったんだ。どんな茶番であれ、どんな温い殺意であれ……両親(アンタたち)が、俺を殺そうしていることは確かだったからな」

 

 この世で最も、自分を裁く権利がある存在。

 小町の死に最も悲しみ、小町の死に最も怒りを覚え、小町を殺した存在に最も殺意を抱く存在。

 

 そんな存在から殺されるというのは、もっとも己に相応しく幸せな(おわり)であると。

 

 茶番染みていることは否めないが――しかし。

 このまま終わりにしたいと。このまま死んでいきたいと、そう身を委ね掛けたことは事実で――でも。

 

「それでも――俺はもう、楽に死んでいい身分じゃない。少なくともアレは、こんな茶番で反故にしていい誓いじゃなかったから」

 

 俺は生きることにした――そう、八幡は言った。

 それは、真っ黒な瞳で、どうして自分をもっと真剣に殺さなかったと両親を睨み付けた男とは思えない程に――強く、冷たい、凍土のような硬質な決意。

 

 陽光は、そんな少年に悲しげな瞳を向けた。

 あの死にたがりな少年と、この生き抜く決意を表明する少年は、果たして同一人物なのだろうか。

 

(……きっと、そうなのでしょうね。どちらも確かに比企谷八幡――彼は、そう歪に壊れて、こんなにも歪に完成してしまった)

 

 生に執着する死にたがり――それもまた、英雄と呼ばれる少年には必要不可欠な素質なのかもしれない。

 

 そう思考しながら、陽光は晴空と雨音を見る。

 己が息子の歪んだ才能を見て、その両親は――何も言わず、ただ静かに見詰めていて。

 

 八幡は、そんな両親の方を見ずに続けた。

 

「生きると決めたからには、この茶番を生き抜く必要があった。その為には、この茶番がどういった目的で繰り広げられているのかを、見抜く必要があった」

「……目的、ですか?」

 

 陽光は思わず問い返す。

 次々に起こる理解不能な超展開にただ流されるばかりだったが、確かに、何の目的もなくこんなふざけたミッション紛いの殺し合いが行われたとは考えにくい。

 八幡の殺害が目的ではなかったのだとしたら、一体何の目的があって、こんな茶番を始めたのだろうか。

 

 思わず声に出して疑問を呈した陽光の方を見て、八幡は逆に問い返す。

 

「まず初めに聞いておきたいんだが、雪ノ下陽光。星人は他の星人の存在を、一目で見分けることが出来るのか?」

「……難しいですね。例えば寄生星人(わたしたち)ならば、ある程度の距離まで接近すれば同族の存在は感知できますが。擬態しているオニ星人などは、確実に判別できるとは言い難いです。ですが――」

 

 陽光は真っ直ぐに、晴空と雨音を眼で射抜きながら言う。

 

「――比企谷八幡さん。あなたは人間です。断じて私達のような化物ではない」

 

 それを……こいつ等は分かっている筈なのに……ッ――と。

 雪ノ下陽光は、未だにそれだけは許せないのか。

 晴空と雨音は陽光の殺意を受けても、何も言い返すことはしない。

 

 対して、八幡は。

 

「――まぁ、それはどうでもいいんだ。問題はそこじゃない」

 

 と、己が星人(バケモノ)呼ばわりされたことはあっさりと流して言う。

 

「問題は、親父達は俺を殺すことを、どうして『ミッション』としたのか。そして、ミッションの標的(ターゲット)として設定したにもかかわらず、どうして全力で殺しにかからなかったのか、だ」

 

 答えとして有効なのは、ミッションは形式的なもので、誰かに対してのパフォーマンスとしてそう設定する必要があった――というケース。

 

 その上で、親父達は、あるいは誰かは、何かを八幡に求めていた。

 

「親父達が俺に求めていることはすぐに想像がついた。……何せそれは、俺が何よりも求めていることだったからな」

 

 最も己を殺す権利を持つ者に――相応しい仇を討たれて死ぬこと。

 

 十八年間もの間、向き合うことが出来ずに、数々の宿命を背負わせ、自分と同じ地獄に叩き落してしまった息子に殺されること。

 

 それが、比企谷晴空と、比企谷雨音が、この戦争に求めていた――断罪であると。

 

「……ちょっと待ってください。だとすれば、このふざけた茶番は! この二人が、自分から殺される為に設定したミッションだというのですか!? 両親(じぶんたち)を……息子に殺させる為に!?」

 

 瞬間――陽光は、晴空と雨音を睥睨する。

 その余りに情けなく、安直で無責任な逃避を選択しようとした大人を軽蔑するように。

 

 晴空と雨音は、そんな瞳を受けても、何も言わずに目を合わせようとはしない。

 

――『……出来ない……わたしには……八幡を……好きな人を…………殺すなんて……出来ないよぉ』

 

 八幡は、昨夜の想い人にさせてしまった泣き顔を思い出し、己の首に小さく触れて、言った。

 

「……つまり、親父側の設定したクリア条件としては、俺が親父達を殺すことが可能性として挙げられる。……だが、それはつまり、親父達の目論見通りってことだ。そんなもんは、只の敗北と変わらない」

 

 この『試験』の『合格』ではあっても、個人的にはいつも通りの『敗北』だ。

 

「それに、たかだか俺程度の戦士を見極める為に、親父達クラスの戦士をみすみす殺させるか? さっき言った通り、俺は親父達はそれなりのポジションにいる戦士だと想定している。組織側にとっては明らかに釣り合いが取れていない。だからこそ、親父側とはまた別に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と、そう感じた」

 

 晴空と雨音――『試験官(ハンター)』を『標的(ターゲット)』として返り討ちにする、のではなく。

 あくまで両者を生かした上で――徹底的に、勝利する。

 

 それが、晴空や雨音ではない、第三者が求める比企谷八幡のクリア条件である――と。

 

 雪ノ下豪雪は、そう淡々と語る比企谷八幡を、細めた目で見詰めながら思考する。

 

(……確かに、CIONとしては比企谷晴空と比企谷雨音を、たかだか『入隊試験』が必要な戦士の為に失うというのは損失でしかない。……そう言った意味では、比企谷夫妻(かれら)を殺した所で、戦士としての未来が比企谷八幡に用意されている保障などなかった。むしろ、危険な英雄(おや)殺しとして、今度こそ消されてもおかしくはなかった。だが――)

 

 雪ノ下陽光は、完全に傷を氷で塞ぎ終えて、八幡の顔を複雑な表情で見詰める。

 

(……黒火をその身で受けたあの状態で、あれだけの黒い殺意をその身で受けたあの状態で……殺さずに勝利するという、通常の戦争では殺害よりも遥かに難しいそのクリア条件を……何の正解の保証もないその勝利を目指したというの? そして、成し遂げたというの?)

 

 誰も殺さずに勝利する――ただし、誰よりも己が最も深い傷を負いながら。

 

 その姿は、その在り方は、まるで――。

 

「――どうだ? 親父」

 

 八幡は、自身の凍り付いた左手と、切断した右腕を一瞥して、己を見下ろす『試験官』に目を向ける。

 

「俺は――合格か?」

 

 黒曜石の如く、真っ黒な、それでいて鋭く尖った、その瞳を受けて。

 

 比企谷晴空は、息子殺しに失敗した元英雄は、新たな『英雄候補』たる息子を見定める役目を担った『試験官』は。

 

 ハッ――と、笑って。

 

 弄んでいた手の平サイズの黒球を放り――空中で静止した、その黒球に問い掛けた。

 

「――だ、そうだ。どうだ、俺のクソ息子は合格か?」

 

《CEO》――と、そう言った、晴空の言葉に。

 

「「――――ッッッ!!!!???」」

 

 雪ノ下陽光が、雪ノ下豪雪が絶句し、滝のような汗を流す。

 その様子を一瞥した八幡は、それだけで、その《CEO》たる存在が、それほどの存在なのだと理解する。

 

(………………CEO)

 

 CEO(最高経営責任者)と呼ばれる存在――晴空(おやじ)は随分と気さくに呼びかけたが、その役職名の通り、文字通りの“お偉いさん”ということか。

 

 世界を支配する組織の重役とは、すなわち、世界の支配者の一角ということだが――。

 

『――比企谷八幡』

 

 宙に静止した小さな黒球から、機械仕掛けの無機質な音声が、そう発声した。

 

 CEOというその役職名が文字通りの意味なら、文字通りの世界の支配者の一角が――あるいは、そのものが。

 

 己の名を――比企谷八幡という、個人名を呼称した。

 

「…………」

 

 その事実を、どう受け止めたものか――脳内で幾通りの可能性を模索しながら、表面上は一切の反応を見せず、無表情でただ黒球を見詰める。

 手の平サイズの黒球は、その向こう側にいる世界の支配者は、そんな八幡が見えているのかいないのか、無反応に委細構わずにこう続ける。

 

『見させてもらった。君の戦いを――君の可能性を』

 

《CEO》は、姿なき機械音声は、小さな黒い球体は。

 

 文字通りの、世界の支配者は、言う。

 

 比企谷八幡を――見せてもらった、と。

 

「……………………」

 

 比企谷晴空は――比企谷雨音は。

 雪ノ下陽光は――雪ノ下豪雪は。

 

 そして――比企谷八幡は。

 

 思い思いの表情で、思い思いの心情で、その言葉を聞く。

 

 黒い球体は――言った。

 

 

『無論、合格だ。我々は、君を大歓迎する』

 

 

 世界で最も黒い地位にいる、存在は言う。

 

『君のような英雄を、我々はずっと待っていた』

 

 その言葉と共に、天から一筋の光が降り注ぐ。

 

 真っ直ぐに、引きずり込むように、夜の闇から伸ばされたそれは――比企谷八幡に突き刺さっていた。

 

『ようこそ、後戻りの出来ない地獄へ。取り返しのつかない選択をした君を、我々は仲間と認めよう』

「……笑えるくらいブラックな上司だな。安易に就活なんてするんじゃなかったぜ」

 

 やっぱり専業主夫こそ至高だな――そう溜息を吐いた八幡は、最早慣れ親しんだといっていい己の身体が消失していく感覚の中で、死んだ魚のように瞳を腐らせながら言う。

 

「で? 俺はこれからどんな酷い目に遭わされるんだ?」

「お前はこれから『いつもの部屋』に送られる。そこで“彼女”とも合流できるだろうよ」

 

 酷い目に遭うのはその後だ――そう吐き捨てるように言った晴空の顔は。

 

「…………」

 

 八幡が初めて見るもので、八幡は小さく瞳を細める。

 

「――八幡」

 

 そして、その時。

 

 雨音が初めて、真っ直ぐに――八幡を見詰めて、言った。

 

「……私達も、すぐに行くわ」

 

 だから、待ってて――と。

 

 瞳を潤わせ、揺らし、震わせる――母に。

 

「…………あぁ」

 

 と、顔を逸らしながら答える。

 

 そして、逸らした先にいた陽光に――消える間際、八幡は。

 

 一瞬のみ逡巡し――無数の言葉を呑み込んで。

 

 ただ一言、顔の半分をなくした状態で、言い残す。

 

 もう二度と訪れない、日常の世界に――遺言を残す。

 

「――雪ノ下達を……どうか、頼む」

 

 

 そして、比企谷八幡は。

 

 生まれ育ち、愛し尽くした千葉の地から。

 

 世界で最も黒い闇の中に、影も形も残さずに消え失せた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして――黒く燃えた雪ノ下邸の庭に降り注いだ光線と共に、消え去った比企谷八幡に。

 

 日常への遺言を託された雪ノ下陽光は、静かに瞑目しながら言葉を心中で返す。

 

(……確かに、受け取りました。あなたが守りたかったものは、私達が守ります。……だから――)

 

 これから彼はきっと今までいた地獄が真っ白に感じるような、黒く澱んだ闇の中に堕ちるのだろう。

 身も心もズタボロにされ、何度も死に掛け、何度も死にたいと願わされた、これまでの地獄が楽園に感じるような、そんな戦争に身を投じ、心を放るのだろう。

 

(――どうか、死なないで。そして、願わくば――)

 

 きっと、雪ノ下陽光という星人(バケモノ)ですら、想像を絶するような地獄へと――そして。

 

 恐らくその隣には、きっとあの子もいる筈だ。

 あの子はきっと、例えどんな地獄だろうと、彼の隣を手放さない。

 

 そう確信できる――あの子は、『雪ノ下陽光』の娘だから。

 

『雪ノ下陽光』に、そっくりな――自慢の娘だから。

 

(――陽乃を、どうかよろしくお願いします)

 

 雪ノ下陽光は、そう、星に願うように、真っ暗な夜空へと祈った。

 

 そして――そんな陽光を余所に、昏い声が真っ暗になった雪ノ下邸に響いた。

 

「――で? どうだ、《CEO》さんよぉ。満足か? あれが俺の息子だ」

『ああ、実に満足だ。流石は君の、君達の息子だ』

 

 私の目に狂いはなかったと、そう確信出来たよ――と、無機質に紡ぐ機械音声に。

 

 ぎりっ、と。

 明確に聞こえた――歯を食い縛る音。

 

(――っ!? まだ、《CEO》との通話は――いえ、それよりも……今のはまさか、比企谷晴空が――ッ!?)

 

 雪ノ下陽光は、未だ《CEO》がこの場を見ているという緊張感を忘れて、衝動的にその方を向いた。

 

 それほどまでに衝撃的だった。

 常に飄々と不愉快に笑い、こちらを全て見透かすような不気味な眼差しを絶やさない、あの比企谷晴空が――音が聞こえる程に、歯を食い縛ったという事実が。

 

 陽光の位置からは晴空の表情は伺えない。雨音も、その小さく震える背中しか見えない。

 

『安心しろ。彼を英雄として偶像化させ、希望の象徴のように扱わせるつもりはないさ』

 

 そういった役割を負う英雄は、既に小吉達が用意してくれた――と、《CEO》は、そう言った。

 

『小吉達は実にいい仕事をしてくれた。そして、君達も。持つべきものは戦友ということだな』

「駒の間違いだろ。俺らはお前の、チェスの兵隊(コマ)ってか」

 

 ハッ――と、晴空は吐き捨てる。

 

 強く、激しく――何かを込めて。

 

『私は君達を信頼しているさ。だから、こうして君達の我が儘を聞いてあげただろう』

「………………」

 

 確かに、比企谷八幡の『入隊試験』を私物(ミッション)化出来たのも、晴空や雨音というCIONでもトップクラスの稀少戦士を『試験官』として派遣させたのも、《CEO》というCIONの最高幹部であり、№2であり、事実上の運営責任者(トップ)である存在の許可があってこそだ。

 

《CEO》直轄部隊リーダーという立場にある晴空が、息子に殺されて自殺するには、どうしても《CEO》の許可を得ることが必要だった。

 故に、《CEO》が一目見るまでもなく一目を置いていた、『比企谷八幡』の英雄の資質を確かめるという理由付けの元に、此度の番外戦争が行われたのだ。

 

 そして、結果としては――《CEO》の一人勝ちだった。

 八幡は、晴空と雨音の息子は、両親の目論見を見破り、思惑を超えて、身勝手な自殺を防いだ挙句、《CEO》が満足する程の資質を見せつけた。

 

「……お前は、本当に――八幡が、世界を救うと思うのか?」

 

 晴空は、そう力無く、黒球に向かって呟いた。

 

 それは醜い足掻きのようでもあったし、切なる願いでもあった。

 どんな言葉を期待したのかは分からない。だが、期待通りの言葉が来る期待など、まるで持たずに放たれた言葉だった。

 

 果たして、《CEO》は、こう答えた。

 

『英雄は、一人とは限らない』

 

 世界を救う、地球を守る、光を打ち砕く奇跡を起こす、たった一人の【英雄】を探し求めた十年間。

 その大前提を覆す発言をした、世界を征服し、世界を救うことを目的として作り上げられた組織のトップは、共に戦い続けてきた戦友に言った。

 

『確かに、我々が観た『予言』では、【英雄】はたった一人で立っていた。だが、あの【英雄】があの場所に辿り着くまでに、果たしてどれだけの“英雄”が必要になると思う?』

 

 第一次カタストロフィにおいて。

 あの『黒い球体の部屋』に、《天子》が、《CEO》が、そして晴空が辿り着く為に。

 雨音が、結愛が、小吉が、一郎が――どれだけ数多くの英雄が尽力し、どれだけ無数の奇跡を起こし続けたか。

 

 あの『真理』との面会が、どれほどの奇跡の結晶であったか、忘れたわけではあるまいと。

 そう、今では数えるほどしか残っていない戦友達と乗り越えた、あの運命られた終焉の日を、思い返しながら述べる《CEO》に。

 

「………………」

 

 晴空は、雨音は、闇の中に表情を隠しながら、その言葉を聞く。

 

『世界を救う英雄。故国を守る英雄。民衆の期待を背負う英雄。希望の象徴たる英雄。数多くの英雄が生まれるだろう。真なる終焉の日に向けて、英雄は多いに越したことはない』

 

 そして――その中の、たった一人。

 

 世界を救わなくても。故国を守らなくても。

 民衆の期待を背負わなくても。希望の象徴になれなくとも。

 

『英雄の中の英雄でなくてもいい。救世の英雄にも、護国の英雄にも、希望の英雄にも出来ないことを、たった一つ出来る無名の英雄が――【英雄】となるのだと、私はそう考えた』

 

 全てを備える完璧な英雄など存在しない。

 あの神々(こうごう)たる光を打ち砕くのは、何も出来なくとも、誰にも出来ないことを成し得る、そんな異常な英雄なのだと。

 

 晴空と共に、その身で『予言』を浴びた男は、そう――予言した。

 

 光輝く英雄では、あの光は超えられない。

 神々たる光を乗り越えるのは、神に嫌われた闇を纏う英雄なのだと。

 

『そして――だ、晴空よ』

 

 仮面の英雄は――その仮面を脱ぎ捨てて。

 

 機械により変えられた声ではなく、雪ノ下陽光と雪ノ下豪雪(星人)が聞いているのを承知の上で。

 本当に限られた戦友しか聞いたことのない、その荘厳なる色の肉声で。

 

 ()()()()()として、こう、友に向かって言った。

 

「彼は、我が友の息子は、そんな【英雄】となるに相応しいと――そう心から信頼している」

 

 神様というものに嫌われていても。世界というものにも嫌われていても。

 民衆に受け入れられなくとも。何の希望にもなれなくとも。誰にも期待などされないとしても。

 

 真っ白じゃなくて――真っ黒でも。

 綺麗じゃなくて、腐っていても。

 光など放たず、闇に纏わり憑かれていたとしても。

 

 だから――こそ。

 

 誰にも見えない場所で。何も聞こえない場所で。

 誰にも知られない戦いでも、何の期待もされていない奇跡を起こすと。

 

 神の如く神々しい光にも呑まれない――強く、美しい、闇になれると。

 

「……………………………」

 

 そんな――友の希望を聞いて、晴空は。

 

 ただ背中を震わせ、拳を握り、歯を食い縛る。

 

 そして、ただ、乾いたように――力無く、笑う。

 

「……………………ハッ」

 

 己の無力さに、絶望するように。

 

『――役者は、揃った。舞台も、整った。後は、(ページ)を進めるだけだ』

 

 声は――再び、機械音声に戻り、《CEO》は淡々と言葉を紡ぐ。

 まるで、台本を読むように。台本を読み進めるように。

 

『全ては、200日後――真なる終焉の日にて繋がる伏線だ。消化しなくてはならないフェーズも残っている。君達の力も必要となるだろう。我々の戦いはこれからだ』

 

 まだ、最終回とはいかないのだ、友よ――と、全てを終わらせることに失敗した敗北者達に、そんな言葉を言い残し、宙に浮いていた黒い球体は落下した。

 

 比企谷八幡が消失し、《CEO》も音声を切断し、その場を奇妙な沈黙が満たす。

 

「…………あぁ~。負けた負けた。惨敗だぜ」

 

 そんな沈黙を破るように、晴空が癖のある黒髪を掻き毟り、そう吐き捨てる。

 立ち上がり、そんな男の表情がはっきり見える場所まで近づいた陽光は、「あぁ?」と振り向いた晴空を――パァン! とビンタした。

 

 戦争が終わった戦場に、気持ちのいい程に響き渡ったそれに。

 豪雪は僅かに目を見開き、雨音は何も言わずに瞳を細め――晴空は。

 

 醜悪に笑い、いつもの見る者全てを不愉快にさせる笑みを浮かべて、陽光を見遣った。

 

「随分と冷たい眼差しと張り手だな。思わずゾクゾクしちまうぜ」

「黙りなさい。……この、」

 

 クズ――そう、雪女の極寒の軽蔑の表情を、陽光は晴空に向ける。

 

 晴空は、打たれた頬から冷気の煙が昇るのにも委細構わずに、ただ不快な笑みを崩さない。

 

「クズだクズだとは思ってはいたけれど……まさか、ここまでのクズだったとはね」

「ハッ。お前からの評価なんてとっくに最底辺だと思っていたが、思ってた以上に下がる余地があったくらいには好かれてたんだな。モテる男は辛いぜ」

 

 パァンと、再び放たれる華奢な右手。

 晴空は、打たれままの姿勢で、だが笑みを崩さない。

 

「……あなた、どうするつもりだったの?」

「…………何がだ? ついさっき黙れって言われたばかりなんだがな?」

「いいから答えなさいッ! その不愉快な笑みを消して、本当のことだけを話しなさい!」

 

 それは俺に死ねということか――と、呼吸するようにペテンを織り込む習性を持つクズは、だが、その言葉を放つ前に、陽光に咬み付かんばかりにこう問われる。

 

「あなた――もし」

 

 雪女の眼差しが、雪女の殺意が、真っ直ぐに比企谷晴空に向けられながら、切っ先を突き付けるように言う。

 

「八幡さんが、あのまま殺されることを選んだら――どうするつもりだったの?」

 

 比企谷八幡は、殺されかけた息子は言っていた――生温いが、その殺意は確かに本物だったと。

 

 雪ノ下陽光も同意見だった。

 あの親子喧嘩での、親子殺合でのこの男の殺意は、比企谷晴空が向ける比企谷八幡への殺意は、間違いなく本物だった。

 

 八幡の傷の治療をしていた陽光には、それが如実に感じられた。

 自ら切り落とした右腕はともかく、自ら矢を受け止めた左の掌はともかくとして。

 

 その他の種々雑多な掠り傷の数々――それには紛れもなく、本物の殺意の残滓があった。

 一歩間違えれば、一寸でもズレていれば、容赦なく致命傷に成り得た程の。

 

 八幡の回避もあっただろうが、それはこの男が致命傷を避けていたのだろう。だが、何かの間違いがあれば、何かのイレギュラーがあれば――そう思える程に、鋭いその傷跡は。

 

 殺しても構わないといった殺意の元に繰り出された攻撃であることを物語っていた。

 長年、黒衣の戦士と戦い続けてきた陽光に、それが分からない筈もなかった。

 

 もし――八幡が敗れていたら。もし――()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 あの時、比企谷八幡が、生きることを止めて、死に逃げることを選択していたら――その時は。

 

「その時は、小町の仇を討っていたさ。八幡を殺し、解放していた。その未来は、十分に有り得ただろうな」

 

 パァァン! ――と、これまでで最も強い張り手が振るわれる。

 

 息を荒げる陽光の声だけが、辺り一面に小さく響き、豪雪と雨音は何も言わず、晴空は――。

 

「この――クズッ!!」

「……あぁ。何だよ、今更気付いたのか?」

 

 いっそ開き直るように、俯く陽光を、顎を上げて、天を向いて、見下す。

 晴空は、晴れ渡った夜空を見上げながら、感情の読めない言葉を紡ぐ。

 

「――死にたがってる逃避野郎が生き残れるような、地獄じゃねぇんだよ。……カタストロフィは」

 

 ここで死に逃げるようなら、遅かれ早かれ、どうせ死ぬと。

 かつて第一次カタストロフィを生き残った英雄は、息子に殺されたがっていた死にたがりのクズは、そう夜空から雪女へと視線を移しながら言った。

 

 そこには、見る者全てを不愉快にさせる笑みはなく、ただ小さい微笑みがあって。

 陽光は、その笑みが、何故か無性に癇に障った。

 

「――ッ! ……なら、もし、八幡さんが、あなた達を本当に殺していたら?」

 

 もし、比企谷晴空と比企谷雨音の、目論見通りに事が進んでいたら。

 もし、クズの父親とモンスターな母親の思惑通り、息子が両親を殺していたら。

 

 つまり――お前達の、当初の計画通りに自殺に成功してたら、一体どうするつもりだったのかと。

 

「あの『比企谷晴空』と『比企谷雨音』を――元英雄の両親を殺した息子を、CIONが快く歓迎していたと、本気でそう思っているの? 彼の言う通り、あくまで『入隊試験』が必要な程度にしか期待されていない戦士が、カタストロフィの英雄の首を手土産にやってきたら……待っているのは、それこそ地獄よ」

 

 英雄殺しにして、親殺し。

 彼等が求める【英雄】としての資質としては、余りに大きすぎる(スキャンダル)を持つ、中途半端な戦闘力の戦士。

 

 そんな戦士(キャラクター)が人気を博するとは思えない。むしろ、いつも通りの迫害が待っているに違いない。

 

「もし、そうなっていたら――あなた達は、親として、一体どう責任を取るつもりだったの?」

 

 息子を自殺に利用した親として、残された天涯孤独な息子に、いったいどんなケアを用意していたのかと、そう問う雪ノ下陽光に。

 

 比企谷雨音は、唇を噛み締めて陽光から目を逸らし。

 比企谷晴空は、不敵に微笑み、とんと――雪ノ下陽光を指差して、言う。

 

「――お前だよ。雪ノ下陽光」

 

 瞠目する雪ノ下陽光に――瞠目する雪ノ下豪雪を無視して――ただ雪女の瞳だけを見詰めて、比企谷晴空は言う。

 

「息子に殺された俺達は、息子を置き去りにした俺達は、行き場のない息子を、地獄へと放り込まれるであろう息子を――お前に託すつもりだったんだ。雪ノ下陽光」

 

 自分勝手に身勝手に、クズでモンスターな決断をした晴空と雨音は。

 全て投げ出し、全てを置き去りに、全てから解放され――死へと逃げた後。

 残された責務を、親としての責任を、雪ノ下陽光という寄生(パラサイト)星人に丸投げすることを目論んでいたと。そういう目論見で思惑だったと。

 

 呆然とする陽光に、晴空は尚も微笑みながら言う。親として最低極まりない無責任な計画を明かす。

 

「何の為に、ここに結愛を連れてきてないと思ってんだ?」

 

 由比ヶ浜結愛(ゆあ)

 比企谷晴空、比企谷雨音という英雄夫婦を語る上で欠かすことの出来ない最強のパートナー。

 

 この三人は三人揃ってこそ真価を発揮し、この三人を纏めて相手にして生き残った星人はいないとすら言われる――彼女もまた、紛うことなき英雄戦士。

 

 確かに、由比ヶ浜結愛もまた、陽光ら寄生(パラサイト)星人との交渉役を仰せつかっている筈の戦士だ。ここにいてもおかしくはない――が、いなくてはおかしい程ではない。雨音一人というのはなかったが、晴空や結愛が一人でやってくることも少なくなかった。グリフィンドール生ではあるまいし、常に三人揃っていなければおかしいというわけではない。

 だが、今回の来訪に至っては、由比ヶ浜結愛を外したのは――紛れもなく、故意だったと。

 

(……確かに、この二人の目的が息子に殺されることによる自殺だったというのならば、彼女は連れてこられないだろう。あの“正義の味方”が、例え親友だろうと――いや親友だからこそ、こんなふざけた自殺を看過する筈もない)

 

 ここに彼女がいれば、間違いなく止める筈だと、そんな確信を抱く陽光に対し――正解だと告げるように、晴空が口元を歪ませ、言う。

 

「結愛には、お前の娘の方の『入隊試験』の『試験官』を任せてある。姪馬鹿なアイツのことだから、多少のいじわるはするだろうが――多めに見てやってくれ。アイツはクズでもなければモンスターでもねぇ。俺らみたいなことはしねぇよ」

「……陽乃ならば、それが原理上不可能でなければ、どんな試験でも問題なく突破するでしょう。問題ありません」

 

 ハッ、親馬鹿はここにいたか――と、晴空は肩を竦めて笑うが、陽光の逸れない眼差しが話が逸れることを許さず、晴空は語りを再開する。

 

「……お前のことだ。八幡が俺達を殺したとする――すると、直にその危うさに気付くだろう。そして、“上”と交渉できる存在である、結愛と間違いなく連絡を取る筈だ。……まあ、さっきので分かってると思うが、《CEO》はこの『入隊試験(ミッション)』を見てたからな。俺らを殺しても、八幡は『部屋』には転送されないようになってた」

 

 そして、この場にいない結愛は、晴空と雨音が殺されたという報告を受けたら。

 唯一無二の親友夫婦が、実の息子に殺害されたという訃報を受けたら――果たして、一体どうするだろうか。

 

「決まってる――()()さ。結愛は、八幡に対して色々と複雑な感情を抱いているようだったが、例え内心にどんな感情を抱いても、アイツは八幡を守ろうとする。俺らの息子だから、それだけの理由でな」

 

 そんな『正義の味方』なんだ――と、晴空は言う。

 例え、心の中ではどれだけ禍々しい殺意が荒れ狂っていようとも――由比ヶ浜結愛は、それを噛み殺しながら、親友を殺した親殺しの息子を守り続けるだろうと。

 

「……………ッッ」

 

 雨音は己を爪立てながら左腕を掻き抱く。

 たった一人の親友に、この世界でたった二人の――『本物』の関係を築いたと胸を張って言える存在に、そんな思いをさせることを計画に入れていた自分達に対する軽蔑が止まらない。

 

 ハッ――と、笑うことすら、晴空には出来なかった。

 

「…………確かに、そんな事態になれば……私なら。八幡君をそのまま本部には行かせなかった。……そして……様々な危険性(リスク)を考慮した上で――由比ヶ浜結愛に、連絡を取っていたでしょうね」

 

 八幡が黒衣の戦士である以上、CIONからはいつまでも逃げ果せるものではない。

 そして、交渉するならば――例え、漆黒の殺意を抱かせることになろうとも、彼女の友情を、そして彼女の正義感を、利用することを考えただろう。

 

 由比ヶ浜結愛ならば、比企谷八幡を殺すことはしない。そして、《CEO》と直接交渉できる立場にいる。

 

「アイツには――《CEO》には、もし俺らが殺されたら、八幡には寄生(パラサイト)星人の所に潜伏させるということを約束させてあった」

 

 つまり、雪ノ下陽光から交渉の要請さえあれば、後は勝手に《CEO》がやってくれる手筈となっていた訳だ――全ては整備されていた。晴空と雨音によって。

 

「……あの《CEO》が、何でそこまで――」

 

 たった一人の、半年前に極東の島国の黒球に無作為に選ばれたに過ぎない一戦士に。

 

 怒涛の戦果を挙げたわけでもない。卓越した戦闘力があるわけでもない。

 特異な能力を持っているわけでもない。潜在する可能性を秘めているわけでもない。

 

 どこにでもいる普通の高校生である比企谷八幡という戦士を、どうしてそこまで贔屓するのか。

 

 世界を征服する組織を支配する男が、どうして――。

 

「……さぁな。それだけは、俺も分からん」

 

 比企谷晴空の息子だから――《CEO》はそう言っていたが、果たしてそれが真実なのかも分からない。

 実の親にも分からない、気付いていない何かを、八幡に見出しているのか――それとも。

 

 あの日――運命られた終焉の日に。『真理』に見せられた、真なる終焉の日の【英雄】に関する『予言』。

 

 たった三人――《天子》と、《CEO》と、そして晴空だけが見せられた『予言』。

 

 だが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

(……虹鳴は、俺とは違う、何かを見せられたのか?)

 

 もしかしたら――《天子》も。

 

「………………」

 

 晴空は、薄暗く、見通しが悪くなってきた夜闇の中を――既に転送されているであろう、《天子》のお気に入り戦士がいたであろう方向を見遣ると。

 再び陽光に向き合い「――だが、アイツが八幡を、やたらめったら買い被ってるのは確かだ」と、肩を竦めて言う。

 

「アイツは運命論者で傍観主義者だ。奴の計画(プラン)に致命的なズレが生じなければ、何もしてこないだろうと踏んだ。八幡を買ってることは確かだから、GANTZによる生命維持は継続させるだろうしな」

 

 だが、ガンツ装備を提供されなければ、戦士など只の人に過ぎない。

 故に晴空は《CEO》に、もう一つの提案をしていた。

 

「八幡は、寄生(パラサイト)星人――お前らの懐に侵入させる『星人側潜入諜報員』として送り込んだ、という体で処理されることになっていた」

 

 逃亡兵ではなく、潜入兵――つまりは、正式なミッションとして、星人側に身を置いているのだと、そう書類上処理することになっていた、と。

 

「……つまり、スパイということ?」

「ああ。別にCIONとしては珍しいことじゃない。同盟星人の監視役として送り込まれることもあれば、秘密裏に人間に擬態する星人の組織に紛れ込ませることもある」

 

 お前らも、まさか寄生星人(じぶんたち)だけが、同盟星人(とくべつあつかい)だと思ってたわけじゃないだろ? ――と、晴空は嘯く。

 

 陽光は険しく晴空を見据えながらも、無言の肯定を返す。

 晴空はそれを確認し、再び大仰な身振りをしながら、語る。

 

「――どうせ、半年だ。半年経てば、世界の勢力図は崩壊し、全ての組織は解体される。それはCIONも例外じゃない」

 

 CIONの中には、半年後の世界滅亡のその後で、CIONが表舞台に支配を表立って広げるだろうという憶測の元、必死に組織内の権力争いに精を出し、滅亡後の世界に置いての地位を高めようと努力を勤しまない者達もいるが――晴空からすれば、それこそ無駄な努力だと嘲笑う。

 

 他の幹部連中がどんな思惑を抱いているのかは知らないが――少なくとも。

 

 あの《象徴》と、あの《端末》は、そんなことはまるで考えていない。

 

 全ての勢力が崩壊する。全ての組織が、全てのパワーバランスが崩壊する。

 それは、滅亡後の世界の主義を統合するという名目で設立された組織――CIONも例外ではない。

 

 CIONは、あくまであの二人の目的の為に作られた、手段に過ぎない――それに気付いている人間は、果たしていったい、どれだけいるのか。

 

「――つまりは、これが俺達の計画だった」

 

 ハッ、と笑いそうになるのを堪え、晴空は陽光に言う。

 逸れそうになってしまった話題を強引に引き戻し、己が自殺計画を自供する。

 

「俺達は、八幡に自分達をぶっ殺させるように仕組んだ。それがアイツをどんな立場に置くことになるか、十二分に理解した上でな」

 

 世界を救った元英雄。

 組織内でも独特の立ち位置にいる伝説級の戦士を殺させる――それはつまり、英雄殺し、親殺しのレッテルを張られることになるということ。

 

 それを理解していて尚、自分達が楽になりたいがために、息子に手を汚してもらうことを選択した。

 

 ただ、相応しい存在に、相応しい仇を討って欲しいが為に。

 

「その後のアフターケアは、結愛と寄生星人(おまえら)に丸投げすることにした。『星人側潜入諜報員』として送り込んだ体にして、カタストロフィまでの半年間の時間を稼いでもらうことにした」

 

 下手をすれば、英雄(おや)殺しとして処分されかねない八幡の身を、宿敵たる寄生(パラサイト)星人に匿ってもらうことにした。

 親友殺しの少年戦士を、それでも親友の息子だからと殺意を抑えさえるといった地獄の所業を結愛に課し、怨敵たる戦士の息子をこれまで数々の屈辱を与えてきた陽光に科そうとした。

 

「カタストロフィまで待てば――後は自由だ。どうせ全ての組織、機関が機能しなくなる。CIONも同様だ。八幡も、そして寄生星人(おまえら)も、好きなようにすればいい。誰もお前らに構うものはいない。皆、自分のことで精いっぱいになるからな」

 

 これが俺達の素敵な自殺計画の全容だ――と、晴空はドヤ顔で言った。

 色んな人間に、色んな星人に押し付けるだけ押し付け、自分達は全てから解放されて楽になるという、クズでモンスターな傍迷惑極まりない犯行計画。

 

「お前にはさぞ面倒だったろうが、それでもお前らなら、俺の息子を有効利用してくれると思ったんだよ。悪い話じゃなかった筈だ」

 

 例え、CIONという枠組みから外れようとも。

 寄生(パラサイト)星人という独特な星人組織に身を置くことになろうとも、雪ノ下陽光という星人の元でなら、比企谷八幡という社畜戦士はカタストロフィを乗り切ることが出来る筈だと。

 

 そう、この父親は、母親は――育児放棄した。

 

「俺の息子は、使えるぜ」

 

 バチンッッ!!! ――と。

 陽光は、肩を震わせ、息を荒げながら、晴空の頬を渾身の力で振り抜いた。

 

 晴空を叩いた手を、震えるその手を握り、瞳を濡らして――陽光は、漏らす。

 

「………この………クズ…………っ」

 

 そして、バッと振り向き、俯く雨音を見遣る。

 

「……なによ………なんなのよ、ソレ………なんでそんな、モンスターになれるの?」

 

 雪女は――涙を流す。

 冷たく、温かい、頬を伝う涙に――晴空は、思わず、目を見開く。

 

「――――最低…………ッ」

 

 雪ノ下陽光は、震える声で、掠れるように漏らした。

 お願いだから――そんな化物のようなことは、しないでくれと。

 

 誰よりも人間だと、そう信じた戦士の――両親に言った。

 

「…………あなた達は、親でしょ?」

 

 そう――星人は、懇願する。

 誰よりも己が化物だと自覚し、誰よりも己は人間にはなれないと痛感した化物は。

 

「親は、子供を幸せにする為に生きなくちゃダメなの!! 子供を幸せにする為にしか、死んじゃダメなのよ!!」

 

 かつて娘を殺し、その生命と身体を略奪した化物は、そう人間に絶叫する。

 

 己の所業を棚に上げて、涙を流し、心を震わせて。

 頼むから――お願いだから――後生だからと。

 

 かつて死んだ身体で。己が殺した娘の、身体で。

 どうか――こんな化物(モンスター)には、ならないでくれと。

 

 人間に――希う。

 

「…………お願い……だから――」

 

 陽光は、晴空の身体にしがみ付いて。

 そして――真っ直ぐに見上げて、眼前に己が顔を突き付けて。

 

 晴空は、その雪の結晶のように透き通った眼を、突き付けられて。

 

「…………子供に、守ってもらうのは……止めなさいよ。……情けないとは思わないの?」

 

 太陽のように眩しい化物(モンスター)は、暗闇のような昏い瞳の人間(クズ)に、言った。

 

「親なら!! 子供の生命を守る為にッッ!! その生命を使いなさいッッ!!」

 

 化物は言う。化物は怒る。

 感情を爆発させ、激情を迸らせ、情けない親を叱咤する。

 

 そんな化物を――晴空は。

 

 皮肉な笑みではなく――慈しむような、微笑みで。

 

「………………やっぱり、“当たり”だったな。お前は」

 

 ボソッと、そう呟く。

 陽光が眉根を寄せて、その聞こえなかった言葉を問い質そうとすると。

 

「――っ!?」

 

 雨音が、晴空の妻が、グイッと晴空と陽光の間に入り、距離を開けた。

 無言で睨み付ける雨音に苦笑を返した後、晴空は陽光に向かってこう言う。

 

「……耳に激痛が走るお話ありがとうとよ、寄生(パラサイト)星人。……安心しろ。俺らのふざけた計画は、あのクソ息子にご破算にされた。アンタ達に迷惑は掛けねぇよ」

 

 これまで通り、時々俺らが美味い紅茶を飲みに来るだけだ――と、飄々に嘯く。

 

「今まで通り、仲良くしようぜ」

「まるでこれまで私達が仲良くしていたみたいな言い方をするのは止めてくれるかしら。不快でしかないわ」

 

 陽光がそう晴空の軽口をバッサリと両断すると、晴空はあの不快な笑みを浮かべながら「おいおい、いいのか、そんなことを言って」と陽光の顔を覗き込んできた。

 

「…………何かしら?」

「当然、お前も知っているのよな? 俺んとこのクソ息子と、アンタんとこの長女ちゃんが、随分といい仲になってることを」

 

 そう言われ、陽光はギョッと硬直する。

 晴空は攻め所を見つけたとばかりに目を輝かせる。

 

「おたくの娘さんは随分とまあ男の見る目がないとは思うが、おかげさまでウチの捻くれ野郎を貰ってくれそうで助かったぜ。だが、するとつまり、あの二人が結婚すれば、俺達は親戚となるわけだが、そこんところはどうお考えで? ん~?」

 

 この男――ッ、と、陽光は歯を食い縛らんばかりに、晴空を睨み付ける。

 

 娘に――孫娘に。

 陽乃に幸せになって欲しいと願うのは、陽光の確かな本心だ。

 

 雪乃と陽乃の幸せだけを願って陽光は今日を生きているし、娘達の幸せの為ならば明日にでも死ぬ覚悟は――この体を手に入れたその日から、陽光はずっと胸に抱いて生きている。

 

 比企谷八幡という男の子についても、陽光としては何の不満もない。

 だが、この男が余計だ。付録としても無用。おまけでついてきたらそのままゴミ箱に捨ててしまいたい程にいらない。

 

 どうしたものか――と、表情を歪ませて、真剣に懊悩する陽光に。

 

「………………」

 

 先程の皮肉気な笑みではない、どこか優しさすらも感じる眼差しを向ける晴空――の耳を、雨音は強く引っ張った。

 

「イタタタタタタタ!! ちょっと雨音さん!? 引っ張るのは最悪良しとしても爪を食い込ませるのは止めていただけるとイタタタタタ!!」

「……いい加減にしなさい。これ以上、あの子達を待たせるわけにはいかないわ」

 

 あれ? 血出てない、血? と耳を押さえている晴空の頭頂部に電子線が降り注ぐ。

 そして晴空は、そのまま陽光に振り向き、自身を睨み付ける陽光に対し、――ハッ、と、笑いながら言った。

 

「ま――こうして死に損なった以上、これからも顔を突き合わせることもあるだろう。未来の親戚として、色々と付き合ってもらうぜ」

 

 今からでもこの男だけ未来予想図から消し去れないだろうかと、半ば真面目に殺害計画を組み立て始める陽光に。

 

 晴空は、晴れ渡った笑顔で言った。

 

()()()()もよろしくな。カタストロフィでは、頼りにさせてもらう予定だから」

 

 そう言い残して、晴空は雪ノ下邸の庭から姿を消した。

 

「……………………」

 

 残されたのは、二人の母親と、一人の父親未満の化物。

 

「…………さて。じゃあ、私も行くわ。お邪魔したわね」

 

 そう言ってすぐに、雨音の頭頂部にも電子線が降り注ぐ。

 

「………………ねぇ、比企谷雨音」

 

 雪ノ下陽光は、初めて出会ったその瞬間、比企谷晴空と犬猿の仲になった。

 というよりも、陽光が一方的に晴空のことを蛇蝎の如く嫌い、晴空がそれを面白がって煽るという関係だが――それ故か、あまり陽光と雨音は言葉を余り交わさない。

 

 結愛は晴空とはまた別の意味で図太くコミュ力の化物なので、陽光とはまた独特の関係を構築してはいるけれど、だからこそ、結愛と共に訪れた時は結愛が陽光の相手をし、決して雨音一人では雪ノ下邸を訪れたことはなかったので、陽光と雨音の関係は、未だ形容しがたく冷え切っている。

 

 そんな雨音に対し、陽光は冷たく言う。

 

「――母親になりなさいよ」

 

 あの男は、父親は、クズなりに、生命を懸けて息子と向き合った。

 

 ならば――次は、モンスターの、母親の番だろうと。

 

「あなたはモンスターよ。自分の都合で息子から逃げて、娘に逃げて――死に逃げて。何も見ようとしない。その眼鏡は飾りなの?」

 

 何も見ようとしない者に、何もかもから目を背けている母親に、そんなレンズは必要ないと。

 むしろ――そのレンズこそが、視界を――世界を、歪めて見せているのではないかと。

 

「裸眼で向き合いなさい。ありのままを見なさい。そして、しっかりと――母親になりなさい」

 

 あなたは――と。

 冷たく、静かに――血を吐くように、己にも突き刺さる言葉を放つ。

 

 目の前の、妬ましく、羨ましい――自分が燃える程に、己が体を溶かす程に欲しかった、その全てを持っている女に。

 自分がなりたくてなりたくてなりたかったものになれたくせに、その全てを放り出そうとした、殺したい程に憎らしいモンスターに。

 

「あなたはモンスターよ――だけど、人間なのだから」

 

 私と違って――人間なのだから。

 そう、冷たく、言い放つ雪女に。

 

 雨音は、消失する間際、こう言葉を――小さく、返した。

 

「――るっさい。ばーか」

 

 この人間(モンスター)め――と、不貞腐れたように。

 

 言われなくても分かっているとばかりに、顔を顰めて耳を擦りながら、比企谷雨音は消失した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、すっかりと暗くなった雪ノ下邸には、雪ノ下家の人間だけが残った。

 

「――都築」

「はっ。こちらに」

 

 陽光の呼び掛けと同時に背後に姿を現した都築に、陽光は目を向けずに淡々と言う。

 

「――あの二人は?」

「……比企谷晴空と比企谷雨音が来襲した直後、比企谷八幡がこちらに向かったのを確認し、私は霧ヶ峰霧緒と……(けい)がいる中庭へと向かいましたが――」

 

 都築は、薄闇の中で膝を着き、頭を垂れながら語った。

 

 

 

 突如として、雪ノ下邸の一室から、広大な庭へと伸びた二筋の電子線。

 

 そして、そこから現れた男女の黒衣の戦士と、比企谷八幡が向かい合う光景に。

 

「…………なるほど。そういう展開か」

 

 涼しい微笑みで――けれど、どこか冷たい眼差しで、その親子喧嘩を眺めるのは、霧ヶ峰霧緒。

 人目に付かない中庭で、自分と瓜二つのパーカー少年と向き合う黒衣の戦士は、木の幹に背を着けて言った。

 

「――で? 僕の相手は君なのかい?」

 

 霧ヶ峰霧緒と同一容姿の寄生(パラサイト)星人――朧月継(おぼろづきけい)は。

 

 無風にも関わらず木の葉を揺らしているかのような殺気を放つ美しき鬼の眼差しに――ごくりと唾を呑み込み。

 声を震わせないように細心の注意を払いながら「……いや、違うよ。さっき言ったじゃないか。君は、この後、CIONの本部に呼ばれるって」と、意識して笑いを作り上げながら言う。

 

「あれは、本来の基準(ボーダーライン)を超えていないのに、『監視員』の『勧誘(スカウト)』によって本部入りしようとする戦士に対して行われる『入隊試験』なんだ。君は覚えていないかもしれないけれど、君は過去に13回連続クリアを成し遂げている。合計クリア数ならば20回を超えているだろう。そんな君に、今更『入隊試験』は必要ない。すぐにでも転送を開始するよ。このP:GANTZで、《彼女》の待つ本部(ばしょ)までね」

 

 そう朧月継は、気持ち早口で言い募る。

 

 霧ヶ峰霧緒の鬼のように美しい殺意から解放されたいが為か。

 こうして『入隊試験』が始まってしまった以上、遠からず内に露見する己が正体に気付かれない内に、この雪ノ下邸から姿を消したいが為か。

 

 だが、そんな継を、霧ヶ峰は大きく溜息を吐いて――。

 

「――継くん。僕のようになりたいとまで言ってくれたファン一号である君に、こんなことは言いたくないんだけどね」

 

 そう言いながら木の幹から背を離し――その木の幹をぐるりと回るように、死角から迫っていた漆黒のブーメランを踏み堕とす。

 

「…………………」

 

 引き攣った笑顔で硬直する継に、霧ヶ峰はパーカーのポケットに手を突っ込んだまま言う。

 

「僕のようになりたかったら、まずは平気な顔をして嘘を吐けるようになる所から始めようか」

 

 継は、大きく息を吐いて「……嘘は吐いてないよ。君が『入隊試験』は免除されていることも、この後に本部に送られることも、《彼女》が待っているのも本当だ」と言って――その頭頂部を、凶悪に裂かせた。

 

「――だけど、たかだか田中(5点の)星人に殺されたことが最終戦歴になっている君の実力を、疑っている幹部がいることも確かなんだ」

 

 自分と同じ顔が、まるで食虫花のように裂き乱れる様を、霧ヶ峰は不気味な笑みのまま見詰める。

 

「……それに、僕は確かめてみたい。この半年で、僕はどれだけ君に近づけたのか」

 

 継は、そう言って裂かせた肉片の全ての先端を鋭く大きな刃へと変える。

 そして、その全ての切っ先を向けられた――霧ヶ峰は。

 

「……そうか。それじゃあ、存分に僕の力を確かめるといい。僕も、あの面白ロボットに殺されて、昨日生き返ったばっかだからさ」

 

 ガッと地に堕とした初めて見るガンツ製のブーメランをまるでサッカーボールをリフティングするように空中に蹴り上げ、くるくると頭上に回転させながら――その宣戦布告に応えた。

 

「――今の僕が何%の《僕》なのか、確かめずにはいられないぜ」

 

 そして、白いパーカーのジッパーを下して――真っ黒な機械仕掛けの服を露わにし。

 黒衣から数々の機械兵装を――『怪物兵装(エイリアンテクノロジー)』を展開していく『星人戦士』は、憧憬(なりたい“自分”)に言った。

 

「――行くよ、“僕”!!」

 

 Cosmopolitan Integration OrganizatioN(世界主義統合機構)

 

 CEO直轄部隊 メンバー

 

 戦士ランキング 枠外

 

 朧月継

 

「ふっ、胸を借りるつもりで掛かってくるがいいよ、ファン君。でも――」

 

 襲い掛かる無数の星人の刃、そして人間(科学)が作り出した機械の刃に――霧ヶ峰は。

 

「――もしかしたら、やり過ぎて殺してしまうかもしれないけれど、君から仕掛けた戦争だ。例えそうなっても」

 

 初めて扱う漆黒のブーメランを手に取り、美しく、妖しく――漆黒に、笑う。

 

「僕は、悪くない」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、場面は再び、薄闇に包まれた雪ノ下邸。

 

 跪いたまま口を閉じた都築に、陽光は静かに問い詰める。

 

「…………それで? その後、どうなったの?」

「…………僅か、数分でした」

 

 比企谷晴空と比企谷八幡が戦争を始め、僅か数分で八幡が叩き伏せられ、黒く燃える剣を突き付けられた――それよりも、早く。

 無数の星人の刃が、無数の漆黒の怪物兵装(エイリアンテクノロジー)が、一人の生き返り間際の少年戦士に、一斉に容赦なく降り注がれた戦争は――決着が着いた。

 

 都築は――震えながら、言う。

 雪ノ下陽光と雪ノ下豪雪に遥か昔から仕え、今生き残っている寄生(パラサイト)星人では、間違いなく五本の指に入る猛者である彼が、声色から恐れを隠せずに、漏らす。

 

 

「――霧ヶ峰霧緒は、その身に掠り傷一つ負うことなく、あの朧月継を制圧してみせました」

 

 

 無数の刃も、無数の兵器も、その一太刀たりも――返り血さえも浴びることなく。

 初めて触る漆黒のブーメラン一つを持って、全てを捌き、砕き、雪ノ下邸の中庭に串刺しにした。

 

 圧し折った槍で、砕いた剣で、別の刀を、別の刃を――串刺しにした。

 まるで一つの芸術を作り出すように。

 

 都築は――恐ろしかった。

 その鬼のような戦いぶりに――美しさすら感じてしまった、その強さが恐ろしかった。

 

「…………そう」

 

 己が信頼する腹心の報告に、陽光は遠く何処かを見詰めながら思う。

 

(――霧ヶ峰霧緒。……やっぱり、彼は――)

 

 陽光がそう思考している傍で、豪雪は都築に端的に問うた。

 

「…………それで、霧ヶ峰霧緒と継の奴はどうしたんだ?」

 

 都築は、一瞬口ごもりながらも、主君の問いに偽りなく答えた。

 

 

「――決着後、程無くして転送されました。霧ヶ峰霧緒も、そして……地に伏せ、虫の息だった継も」

 

 

 その報告を聞き、陽光は瞑目し――先程の晴空の発言を思い出す。

 

(……なるほど。『星人側諜報員』、ですか)

 

 つまりは――そういうことだろう。

 

 とっくの昔に、寄生(パラサイト)星人の中にも《諜報員(スパイ)》をCIONは忍ばせていた。

 

 木乃伊(ミイラ)取りが木乃伊(ミイラ)になった――ただ、それだけのことだ。

 

「…………いいのか? 陽光」

「いいも何も――あなたも気付いていたでしょう、豪雪」

 

 遅かれ早かれ、こうなることは分かっていた。

 来るべき時が来た――ただ、それだけの話だと。

 

「……お疲れ様でした、都築。去ってしまった者を追う暇は我々にはありません。これからの話をしましょう」

 

 そう言って陽光は、跪く都築へと初めて向き直り、淡々と指示を告げる。これからの指示を告げる。

 

「まずは見逃してしまった記者会見を確認しましょう。すぐに用意しなさい。それから、継の代わりの仕事を頼む者が必要ですね。“あの子”を至急呼び寄せてください」

 

 陽光は、光が降り注がなくなった、真っ黒な空を見上げる。

 

――『例の計画もよろしくな。カタストロフィでは、頼りにさせてもらう予定だから』

 

 霧ヶ峰霧緒は蘇らせた。雪ノ下陽乃も取り戻した。比企谷八幡と同盟を結ぶことも出来た。

 

 朧月継は失ったが――それもまた、計画の一部だ。

 

(……それでもまだ、やるべきことは残っている。私達には、私達のすべきことがある)

 

 雪ノ下陽光は、未だ跪いたままの都築の横を通り過ぎ、「――それから」と、凛とした声で言った。

 

「小町小吉防衛大臣――そして、オニ星人の篤さんへと連絡を」

 

 あの『計画』を、次なる段階へと進めます――その主の指示に、「――はっ」と都築は了解し、陽光の背後から姿を消した。

 

 そして、残されたのは、雪ノ下陽光と、雪ノ下豪雪の二人のみ。

 黒火が消えない傷跡を残した庭から、もはや慣れ親しんだ我が家となった雪ノ下邸内へと歩みを進める二人。

 

 そんな中、豪雪がぽつりと、徐々に星が顔を出してきた黒い空を見上げながら言った。

 

「……あんな父親もいるのだな」

 

 豪雪は、今日、初めて見せつけられた父親という存在に対して回顧する。

 

 息子に対して殺意を向け、八つ当たりに近い言いがかりで殺しに掛かり――そして、ちゃっかりと、自分が楽になる為に、息子に己を殺させようと画策していて。

 

 それでも、息子が己を殺した後、仇敵と親友と盟友にその後のフォローを託していて、息子の死にたがり症候群を荒療治で克服させ――誰よりも、息子の可能性を信じていながら、否定していて。

 

 息子を殺せるほど、息子に殺されるほど、息子を――。

 

「……あんな形の、親子もあるのだな」

「…………やめなさい。あんなクズを見習うと、碌な父親になれないわ」

 

 陽光は、その場で振り返り――そして、豪雪に唇を重ねた。

 

「――――」

 

 滅多に夫婦の愛情を、それこそ外敵へのパフォーマンス以外では見せない陽光が。

 

 あまりに珍しく、あまりに直接的に行ってきた、その雪女の口吸い(キス)に。

 

 雪ノ下豪雪は――凍り付くことしか出来なかった。

 陽光は、息を吐くように唇を放し、そしてそのまま歩を進める。

 

 そして――振り返り、その、()の光のような、眩しい微笑みを浮かべて。

 

「あなたなら――あんなクズよりも、もっと、ずっと素敵な、父親になれるわ」

 

 なってもらわなくちゃ困るもの――そう言って陽光は、再び豪雪の前を歩き出す。

 

 いつだって、自分よりもずっと前を歩き、自分よりもずっと重い物を背負ってきた、美しい背中。

 

「…………そうだな」

 

 ならなくては――あの隣を歩くに相応しい男に。相応しい、父親に。

 

 雪ノ下豪雪は、そう改めて決意するように、強く、その力強い一歩を踏み出した。

 




こうして比企谷八幡は、愛すべき千葉へ別れを告げる。

そして、最後の審判の場所たる――『黒い球体の部屋』へと送られる。


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Side戦争(ミッション)――⑧

【いってらっしゃい】


 

 目を開けると、そこは慣れ親しんだ景色だった。

 

 いっそ“帰ってきた”という気持ちすら湧き起こる程に、俺の中に染み込んだ――いや、この『部屋』に、俺という存在が染み込んだのかもしれない。

 これまで、この小奇麗で無機質な『部屋』に、一体どれだけの人間の――どれだけの戦士の存在が染み込んできたのか。どれだけの生命を、この『部屋』は呑み込んできたのか。

 

 もう来ることはないと思っていた――この『黒い球体の部屋』には。

 

 俺は、全てが終わり――全てが始まった場所に。死んだ俺が、再び生まれ変わった場所に。

 無機質な黒球が鎮座する、『黒い球体の部屋』に、目が覚めたら立っていた。

 

 いつものことだった。

 

 そして、きっと――これが、最後の訪問だ。

 

「――八幡ッ!」

 

 部屋には先客がいた。黒い球体の他に、二人の黒衣の戦士がいた。

 

 一人は――今の俺の存在理由であり、世界で一番の大切な女性。

 恐らくは俺と同じ『試験』を受けたであろう、雪ノ下陽乃その人だった。

 

 陽乃さんは俺が目を開けるのと、ほぼ同時に俺を抱き締めてくる。

 ……流石は陽乃さんだ。俺よりもずっと早く、あの試験をクリアしていたのか。

 

「…………すいません、陽乃さん。遅くなりました」

「いいよ! それよりも――どうだった?」

 

 俺を抱き締めていた陽乃さんは、俺の肩に手を置いたまま、真剣な眼差しで俺の目を見る。

 ……そうか。てっきり、俺は合格されたら転送されるもんだと思ったが、この様子だと、不合格でもこの『部屋』には転送される仕様なのか。

 

 この『黒い球体の部屋』は、最後の審判の場所――いや、恐らくは結果はもう出ているだろうから、只の判決を言い渡される場所ということか。

 

 ……まぁ、俺の場合はあの《CEO》って明らかに親父以上に偉そうな立場の人(?)から言い渡されているし、たぶん大丈夫だろう。この分だと、陽乃さんはやはり合格しているようだしな。

 

「少なくとも、『試験』を見ていたという者からは、合格と言われましたね。これで不合格だったらとんだブラック企業です」

 

 まあ、ブラックはブラックだろうが。どこぞの黒ずくめの組織よりも真っ黒だろうが。

 俺がそういうと陽乃さんは再び満面な笑みを咲かせて、そのナイスバディを俺に押し付けてくる。

 

「わたしもだよ!」

「でしょうね。知ってました」

 

 どんな試験だろうと、この人を落とすようなそれは試験自体が欠陥品だろう。

 俺を合格とする時点で、欠陥試験である説得力は十分にあるが。

 

「……よかった。まだ、ずっと一緒に居られるね……」

 

 陽乃さんは、そういって俺を優しく――けれど、強く縋るように抱き締める。

 

 ……俺と一緒に来るということは、それは雪ノ下と離別する道を選ぶということだ。

 まだ生き返って一日――死んでから、およそ半年が経っている陽乃さんにとって、ここで俺とまで離別するということは、それは……考えたくもない可能性なのだろう。

 

「――――はい」

 

 やはり――俺は、死ねないな。

 

 雪ノ下雪乃を壊し、由比ヶ浜結衣を傷つけ、比企谷小町を殺した――俺は、雪ノ下陽乃を、孤独にするわけにはいかない。

 

 例え死んでも、俺は生きなければならない――この女性(ひと)の為に。

 

「……………ありがとうごさいました、陽乃さん」

「…………八幡?」

 

 俺は、優しく強く――そして、何よりの感謝を込めて、陽乃さんの柔らかい体を抱き締める。

 

 ……この人が、きっと俺を救ってくれた。

 

 死にたくて、死にたくて、死にたくてしょうがなかった俺を。

 

 逃げたくて、逃げ出したくて、何もかもを捨てて終わりたがっていた俺を。

 

 

『――あなたに、生きていて欲しいの』

 

『わたしはあなたを、助けない。わたしはあなたを、死なせないと――ここに誓うわ』

 

 

『――わたしの幸せは、あなたの幸せ。……だから、あなたの不幸を補って余るくらい、わたしは幸せになるわ。……だから、ずっと、わたしの隣で生きてね』

 

 

 あの言葉があったから、俺は生まれて初めて――親父に勝つことが出来た。

 

 あの言葉があったから、この人がここに居てくれたから――俺は。

 

 

「――陽乃さん」

「…………八幡」

 

 あの時、ここで――陽乃さんが、俺を救い上げてくれたように。

 

 俺は、この人に恩を返したい。この人の力に。この人の救いに。

 

 

 俺は――雪ノ下陽乃を、幸せにした――

 

 

「じ~~~~~~~~~」

 

 

「………………」

「………………」

「わくわく。わくわく。あ、おばさんに構わず続けて続けて! いやぁ~若いっていいなぁ~」

 

 …………俺と陽乃さんは、顔を赤くして近づけていた顔をそっと遠ざけた。

 

 …………いや。誰?

 

「「…………………はぁ」」

 

 陽乃さんと、図らずとも同時に深い溜息を漏らしてしまう。

 いや、この部屋に転送された瞬間、陽乃さんの他にも気配が、黒い影がいることは気が付いていた。

 

 だが、瞼を開けると同時に陽乃さんに抱き着かれ、陽乃さんの温もりやら匂いやら柔らかさやらを感じていると――その、なんだ、昨日のここであったあれやこれやを思い出して……こう、陽乃さんに対する感謝やら愛しさやらが溢れ出して、な。うっさい男子高校生の生存本能ナメんな。ついさっきまで殺し合ってたんだいつも通り死に掛けてたんだしょうがねぇだろ。

 

 なんか陽乃さんもバッチこいみたいな感じで目を瞑って唇を近づけてきたもんだから、色々と頭から吹っ飛んでたけど、そうだよね他人見てる前でイチャつくのよくないよね。知ってる! 奇跡的に彼女出来たからって浮かれまくる童貞って一番気持ち悪いって兄ちゃん言ってた! 俺兄ちゃんいねぇしついでに童貞でもねぇけど(ドヤ顔)。

 

 さて、現実を見ようか。

 思わぬ形で醜態を晒してしまったが、ここにいる、俺と陽乃さん以外のもう一人の黒衣。

 

 中坊か? ――だが、声からして女だった。

 ……母ちゃん達も後から来るって言ってたし、陽乃さんの『入隊試験』の『試験官』か?

 

 俺は散々脳内で言い訳を模索しながら、気不味さマックスで声を掛けてきた女の黒衣を見る。

 

 それは、今、俺が最も見たくない顔だった。

 

 合わせる顔のない、女の子だった。

 

 

「――――っ!? …………由比、ヶ浜……?」

 

 

 俺が――昨夜。

 

 この世で最も傲慢で、この世で最も醜悪な手段で――解放した、女の子。

 傷つけ続けて、押し付け続けて、背負わせ続けて――逃げ続けた、女の子。

 

 由比ヶ浜結衣。

 俺が失った日常の、俺がぶち壊した日常の、その象徴たる素敵な女の子が。

 

 真っ黒な衣を纏って、見たことのない笑顔を浮かべている。

 

「――――っっ!!」

 

 俺の心に真っ黒な絶望が急速に広がる。

 

 何でだ? どうして? なんで由比ヶ浜が? 此処に居る? 黒衣を着ている? 俺を見て笑っている? 俺のことを知っている? 俺のことを思い出している? 俺のことを忘れていない? 何でだ? どうして? 何が原因だ? 何が起きている? 

 

――こいつは、誰だ?

 

「……誰だ、アンタ?」

 

 俺がそう呟くと、目の前の由比ヶ浜のようなナニカは、ニヤリと――俺の知らない顔で笑った。

 

 ……違う。コイツは、由比ヶ浜じゃない。

 余りにも面影が強かったからか、思わず由比ヶ浜と見間違いかけたが、よく見れば違う。別人だ。背も、髪も違うし、体つきもより大人びている。

 

 そう――大人。

 本人がそう口走ったようにおばさんと言うほど老けては見えないが、由比ヶ浜と比べると十分にお姉さんとは表現できる。

 

 まさか――と、俺は陽乃さんを見る。雪ノ下の姉である、彼女を。

 

 陽乃さんは、複雑な表情を浮かべていた。

 ……もしかして、本当に……?

 

「…………――――っ!?」

「ふーん。君が噂のヒッキーくんか。思ったよりも可愛い目をしてるね」

 

 そんな懊悩する俺を、いつの間にか斜め下のアングルから覗き上げていた彼女は、ギョッとして一歩後ずさった俺を見てクスクスと笑い。

 

 由比ヶ浜とそっくりな――けれど、由比ヶ浜が終ぞ見せなかった、冷たい眼差しで俺を見据えながら言う。

 

「初めまして、ヒッキーくん。あたしの名前は、由比ヶ浜結愛(ゆあ)。世界一可愛い結衣ちゃんのママの妹なんだ。叔母さんって呼んだらぶっ殺すよ」

 

 そう、由比ヶ浜結愛は、由比ヶ浜結衣の母方の妹にあたる――由比ヶ浜の家族は。

 

 気安い笑みで――けれど、冷たい眼差しと声色で。

 大切な家族に、消えない傷跡を刻むまで傷つけ続けた、俺という加害者に向かって、満面に笑い言う。

 

 元来、攻撃的な威嚇の意味合いを持つ――笑顔を作って、殺意を向ける。

 

「あたしのことは気安く由比ヶ浜さんって呼んでね」

 

 比企谷晴空(はると)。比企谷雨音(あお)

 その二人に続いて、俺の前に姿を見せた――由比ヶ浜結愛という黒衣の戦士。

 

 

――『――――ッッ!! お兄ちゃん!! お兄ちゃぁぁぁあああああん!!!』

 

――『……帰って、きて。……ずっと、待ってるから。……いつまでだって、ずっと、ずっと……あたし、待ってるから!』

 

 

 それは――まるで。

 

 忘れるなと――何かが、世界が、俺にそう、突き付けるかのようだった。

 

(…………言われるまでもねぇよ)

 

 俺は、自分の瞳が見る見る内に腐っていくのを自覚した。

 

 忘れることなど、出来る筈もないのに。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その後、陽乃さんと由比ヶ浜結愛は、自分達がこの『部屋』に来てから俺が来るまでの一部始終を語ってくれた。

 

 必然的にその内容は、俺が見逃した午後六時からの『記者会見』の内容についてとなったのだが。

 というか、陽乃さんは俺とほぼ同時刻に『入隊試験』が開始となったのにも関わらず、およそ10分で試験をクリアしたらしい。……流石というか、相変わらずというか、何というか、だ。

 

 何でも、ガンツの表面をテレビ代わりにして、この『部屋』で途中から見ていたらしい。っていうか、今も点いてる。急な引っ越しで段ボール開ける前にテレビを床に直置きして見てるみたいな状態みたいになってる。……ガンツ。

 

 だが、10分程度の遅れしかないということは、その殆どを把握出来たということで――。

 

「――で、どう思うかな? ヒッキーくん」

「……どう思うと言われましても」

 

 粗方、二人が視聴できた限りのこれまでの記者会見の情報を俺に伝え終えた由比ヶ浜結愛は、そう俺に感想を求めてくる。

 

 ……感想ね。

 元から全ての真実が白日の下に晒されるなど思ってはいなかったが、思った以上には思い切った、というのが素直な第一印象か。

 

 日本政府が会見を開くという時点で政府が真っ黒に染まっていることは百も承知だったが――少なくとも、話を聞く限り、総理大臣と防衛大臣はかなり黒いな。恐らくは、現場を知ってる戦士経験者だろう。

 

 蛭間一郎といえば、受け継いだ人脈も後ろ盾も血筋もないままに、裸一貫で総理大臣まで上り詰めた泥臭い政治家として知られている。

 それ故に政界には敵が多く味方は少ないが、それが逆に汚い政界の中で堂々と戦う若武者というイメージが付き、国民の信頼は高かった。

 

 小町小吉は、そんな蛭間の数少ない盟友として知られている。

 一切の政治経験はなく、自衛隊や防衛省の現場で実績を積み重ね、総理である蛭間の大抜擢により防衛大臣へと任命された人物。

 

 蛭間は最大与党『日本党』党首でありながら、己の個人的親友である小町小吉を始め、憲法上の最大可能人数である9名もの『民間人閣僚』を任命している。

 

 これは野党だけでなく与党内からも『お友達内閣』と揶揄され、批判の対象となることが多いが、その9名の大臣は、皮肉にも政治家が勤めていたこれまでの内閣の大臣よりも遥かに仕事が出来ると評判だった。

 

 そして、まるで定期的に話題を提供しなくてはいけないルールでもあるのかと思う程に明らかになる政界のスキャンダルは、そんな彼等を揶揄する本職の与野党の政治家ばかりがやらかすので、彼等の唱える批判は何の説得力も生まれず、蛭間内閣の支持率は上がる一方だった。

 

 が――そんなエピソードも、こうなった今では見方は大きく変わる。

 

 こうして作り上げられた、汚い政界の中で己を貫き真の政治を実行する若き総理大臣というサクセスストーリーも――いざという時に国を動かしやすくする為に、奴等が仕込んでおいた伏線だったんじゃないか、と。

 

 裏から世界を支配していた組織が、表立って支配する準備を進めていない筈がない。

 

 ……日本の総理大臣は既に黒かった。

 この分なら、日本以上の大国の首脳達も――いや、世界中の国を動かす立場の人間全てが、GANTZの、つまりはCIONの傀儡である可能性は低くない。むしろ、現状考えられる可能性とは、最も高いくらいだ。

 

 そして、CIONが仕込んでいた傀儡――圧倒的な支持率を誇る現内閣が打ち出してきた、黒金が起こした革命に対する対処法は。

 

「――対『星人』用特殊部隊……GANTZ……か」

 

 つまり、これまでこの『部屋』で行ってきた戦争――ガンツミッションを、白日の下に晒すこと。

 これまで闇夜に紛れて、世間様に隠して行ってきた虐殺を、政府公認としてオフィシャル化するということ――か。

 

「――率直に言わせてもらえれば……時間稼ぎってことが見え見えですね」

「……ふ~ん」

「どう考えても、長くは持たないでしょ」

 

 その『GANTZ』、そして『星人』の説明資料として流された記録映像も、まるで『PV』のようだったというし。

 

 桐ケ谷を始めとするあの四人をピックアップして会見に同席させている辺りから、政府はアイツ等を――『GANTZ』をまるでアイドルグループか何かのように押し出していきたいようだが。

 

 今まで数多くのアイドル(二次元)をプロデュースし、パーフェクトコミュニケーションを連発してきたエイトマンPから言わせてもらえれば――そんなに現実は甘くない。俺がたったの一度もパーフェクトコミュニケーションを叩き出せないことからして明らかだ。

 

 世間が、政府が、アイツ等に求めているのは――『正義のヒーロー』だ。

 悪の『星人』が現れたら何処からともなくすぐさま駆け付け、自分達に危害が及ぶ前に敵を駆逐してくれる、安全安心の抑止力だ。

 

 オニ星人・黒金の革命『池袋大虐殺』――これにより、日常と非日常の、表の世界と裏の世界の垣根が破壊された。

 自分達の存在が公にされた以上――今後、人目を憚ることなく日常の世界へと、太陽が昇っていようと関係なく攻め込んでくる『星人』も現れるだろう。

 

 そんな脅威に対し、オフィシャルに動かせる戦士として世間に認知させるために、桐ケ谷達を誰もが知っている戦士(ハンター)とする為に、こんな茶番をしなくてはならなかったんだろうが――こんなのは所詮、一時のブームだ。

 

 いざ、『星人』が本当に日常世界へと来襲し、その身に怪物の牙や爪が突き立てられる状況へと陥ったら。

 

 ほんの僅かでも、一般人が『星人』によって害される時が訪れたら。

 その責任の矛先は、叱責の対象は――政府公認の防衛力たる『GANTZ』に向く。

 

 全ての戦争を、誰一人の犠牲者を生まずに、連戦完勝しなくてはならない。

 昨夜、あれ程の犠牲を生んだにも関わらず――不可能だ。

 

 明日からのニュースでは、その辺りを嬉々として突いてくる自称インテリが量産されるだろう。抜群の支持率がどこまで持つか――いや、それこそ時間稼ぎか。

 

 半年持てばいい。年末まで粘れればいい。

 そうなれば、終焉が訪れれば、後は全て有耶無耶に出来ると。

 

「……そう考えれば……桐ケ谷和人というのは適役かもしれませんね」

 

 かのSAO事件を終結に導いた英雄。

 話題も実績も華も、全て兼ね備えている理想の英雄だ。

 

「本当は陽乃ちゃんもあそこに並べたかったらしいんだけどね。でも昨日の時点で陽乃ちゃんはもう『本部(こっち)』に来るか、全部の記憶失うかのどっちかだったからさ~」

 

 由比ヶ浜結愛はそう嘯く。

 ……さらっと全部の記憶を失うとか言ったが、文脈からして『試験』のペナルティみたいなもんか?

 

 相変わらず初見殺しのトラップが至る所に仕掛けられてるな、ガンツ関係ってのは。……存在ごと消去(デリート)でゲームオーバーていうのも十分考えられたから、ある意味では良心設計なのか。両親とのバトルだっただけに。はっ。

 

 ……それに、両親といえば。

 

「ま、結果的にはオーライだったかな。カメラには映えそうだけど、あんな風に傀儡的に動かされるのとか凄く嫌いそうだもんね。動かすのは大好きそうだけど。ね、陽乃ちゃん!」

 

 にこやかに笑い掛ける由比ヶ浜結愛に、だが、陽乃さんは、何も答えない。

 

「………………………っッ」

 

 それも――そうだろう。

 

 顔面を蒼白させ、そんな青白い顔を手で覆いながら、無機質な壁に背を着けて唇を噛み締める陽乃さん。

 あそこまで混乱し、思考を制御出来ていない陽乃さんを、俺は初めて見たかもしれない。

 

 ……無理もない、か。……明かすべきではなかったか? ……だが、寄生(パラサイト)星人はCIONとも同盟関係にある。このまま『本部』へと連行された後も、ずっと無関係でいられる保障はない。だから、俺は少しでも早く知っておくべきだと思った。

 

 そう思い――明かした。

 雪ノ下陽光――雪ノ下豪雪。つまりは、陽乃さんの両親の秘密を。

 

 既に陽乃さんの生母は、生父は――この世にはいないことを。

 ずっと陽乃さんは、雪ノ下は――化物に、星人に、育てられてきたということを。

 

「…………陽乃さん」

「……ごめんね、八幡。……大丈夫。覚悟はしてたから」

 

 陽乃さんは、自分の母親が、父親が化物であることは昨夜の戦争の時に既に対面し、理解させられていた。

 その上で、本物の両親は幽閉されているか――あるいは殺され、なり替わっているのだと、そう理解し、覚悟していた。

 

 ……だが、真実はもっと残酷で。

 およそ、物覚えのついた頃から、その思い出の殆どの母親は、父親は――ずっと、ずっと、化物だったという。

 

 両親か――俺も両親の衝撃の事実を知ったが、陽乃さんの場合は、俺のとはまた種類が少し違う。

 

 陽乃さんの母親は化物に殺されていた。そして、殺した化物は、母親の実の母親だった。

 

 それは――つまり。

 

「……………っ」

 

 陽乃さんは、顔面を蒼白させながら――己が手をじっと見つめる。

 あるいは、自分の中に流れる――四分の一の冷たい血潮を。

 

 そして、震える瞳でこちらを見遣る――俺は、そんな陽乃さんの手を握った。

 

「――ッ! はち、ま」

「……大丈夫です」

 

 とても――温かいですよ。

 俺は、そう言って、笑いかけることしか出来ない。

 

「……今まで何もなかったんです。今すぐどうこうなることはないと思います」

「……………そう、かな」

「……大丈夫です。陽乃さん、言ってくれたじゃないですか。一緒に背負うって」

 

――あなたの罪を、わたしも背負うよ。……今度こそ、全部背負う。

 

 俺を救ってくれた、あの言葉。

 

 あの言葉を、今度は俺がこの人に送ろう――送り返そう。

 こんなもので救えるとは思えないけれど――救いたいのだと、その気持ちだけは届くように、強く手を繋いで。

 

「俺にも、一緒に背負わせてください」

「……うん。……うん」

 

 ありがとう、八幡――そう言ってくれる、陽乃さんに、力無くも笑顔が戻ったような気がした。

 ほんのすこしでも、彼女のことを救えたのならば、似合わない真似をした甲斐があったというものだ。

 

 そして、その時――記者会見を映していたガンツの表面から、こんな宣言が、『部屋』の中に響き渡った。

 

 夜空のように美しい黒剣を、堂々と掲げる黒い少年兵が、全国民に――全世界にした、英雄のような宣誓。

 

GANTZ(おれたち)が――世界を救ってみせる』

 

 大歓声が記者達から湧き起こるのを、俺は陽乃さんと手を繋ぎながら――冷めた目で見詰める。

 

 世界か……英雄様はカッコいいな。

 いや、素直に憧れる。そりゃあ世界なんて救えたらそれに越したことはないだろう。

 

 しかし、俺はそんなものに魅力を感じない。

 こうして――手を繋げるだけの、こんな俺と繋がってくれる誰かを救うだけで精一杯だ。

 

 桐ケ谷、お前は気付いているのか。お前を操る大人達が、お前を監視する世界が、お前を取り巻く勢力が――どれだけ深く粘ついた黒色なのか。

 これから世間の注目を一身に浴びて、一挙手一投足を呟かれ、無垢な目を、濁り切った眼を注がれ続けるのだと、理解しているのか。

 

 それを理解した上で、それでも尚――そんな誓いを、そんな大言壮語を、全世界に顔を晒して宣えるというのならば。

 

 お前は、正しく英雄だよ。

 

「……今の時点では、まだ客寄せパンダだけどな」

 

 そんな俺の呟きに呼応したように――記者会見の映像を打ち切ったガンツから、二筋の光線が照射された。

 

 俺の目の前のガンツのすぐ傍に一筋、そして、俺と陽乃さんと由比ヶ浜結愛の背後に一筋。

 そして、俺の目の前に照射された光によって顕現した存在は、まるで俺の言葉が聞こえていたかのような口ぶりで言う。

 

「――客寄せパンダ、実に結構ではないか。パンダを舐めるなよ、この小童が」

 

 猫のように俊敏に舞い、熊のように獰猛に狩る。更には功夫(クンフー)をも習得(マスター)する個体もいるという――と、渋い声で語りながら。

 

大熊猫(パンダ)を、嘗めるなよ」

 

 大事なことなのか二回ダンディな声で繰り返した――その黒い衣を纏った獣は。

 狭い室内の中に二本足で立ち上がり、意外とビビるくらいに大きい体躯をアピールしながら、口の中からロケット砲を突き付けながら――ジャイアントパンダは言った。何と性別は♀だった。

 

「…………悪かったよ」

 

 別にパンダをディスったわけじゃないし、っていうかお前が転送されてくる前に呟いた言葉を聞き取るんじゃねぇよ、それから功夫を使うパンダ云々は色々と危ないからやめて等々色々――言いたいことはあったが、とりあえず怖いので謝っとくことにしました。

 

「いやあ、ワリィな。ちょっとマダムとイチャイチャしすぎて遅くなったぜ」

 

 と、背後から聞こえるクズい発言の主は、今更確認するまでもなく確定的に明らかだった。

 

「――え? もしかして――」

 

 振り返り、思ったよりも近い距離にいたオッサンに陽乃さんの俺と繋ぐ手に力が入るが、その男の顔を見るなり、何かに気付いたような声を上げかけて。

 

「よう、さっきぶりだな、クソ息子」

 

 そう言って親父は――俺の不肖の父である比企谷晴空は。

 

 俺の顔を見つけるとそのまま視線が下がり、俺と陽乃さんの繋いだ手へと注がれると。

 そのまま陽乃さんの肩に手を乗せて――すごくいい笑顔でこう言った。

 

「さて、君はどこの誰から派遣された美人局(つつもたせ)だい、カワイ子ちゃん」

 

 ビキッ――と。

 空気が罅割れた効果音が聞こえた。

 

「――――ハァ?」

 

 陽乃さんから聞いたこともないような低い声が飛び出す。握られた手はガンツスーツを着ていることもあって信じられない握力を叩き出している。っていうかキュインキュインいってるイタタタタタタタタクソ親父ぶっ殺。

 

「いや、直に見たら想像の数百倍美少女で秒で確信したわ。八幡がこんな美少女と付き合えるなんて何十回カタストロフィがきても有り得ないだろう。じゃあ美人局だほれ決まり。ほれほれ言ってみオジサンに言ってみ。今なら爆笑するだけで怒らないから」

「あたしが怒るよ、はぁるる~ん」

 

 蟀谷(こめかみ)を引き攣らせたまま微笑する陽乃さんにウザ顔で近づいていく何処に出しても恥ずかしいクソ親父を、由比ヶ浜結愛が頭部をワシッと掴んでスーツをキュインキュイン言わせながらリンゴを潰すように握り込んでいく。

 

「なにいい歳こいて娘みたいな歳の子供にセクハラしてるの? 恥ずかしくないの? なんで生きてるの?」

「イタタタタタタタタタタタタクソ息子ぶっ殺! 何でこんな目に遭うんだ全部テメェのせいだ!」

「一から十まで自業自得だろ。そのまま潰されろクソ親父が」

「はる~るん、反省してるのかな? してないよねぇ~。あと~、さっきヒッキーくんから聞かされたはるるん達がやった『入隊試験』の内容についてちょ~と聞きたいことがあるから――ちょっと地獄に行こうか」

 

 ぎゃああああああああああああああ――と、聞き苦しいオッサンの断末魔が響き渡る中で。

 

 俺は陽乃さんを親父から遠ざけるべく背中に隠しながら、もう少しでグロイ意味でR指定が付きそうな親父にドン引きしながらも、胸の中に湧き起こる不思議な爽快感に戸惑っていると。

 

 俺の背中にきゅっとすり寄りながら「……八幡?」と、怯えるような声を出す陽乃さんに萌えながら問い返す。

 

「ど、どうしました?」

「……あの人って……八幡のお父さん?」

「ええ、恥ずかしながら。ああ、親父がガンツ関係者なのは、俺も今日初めて知って――」

「あ、うん、それにも驚いたんだけど……あのね……こんなこと言うなんて失礼だって分かってるんだけど……ごめんなさい、言わせて」

 

 陽乃さんは、本当に申し訳そうに眉根を寄せながら――もはや放送禁止に半身を突っ込んでいる有様の親父を見て、何か苦いものを食べたみたいな表情で言った。

 

「――ごめん。わたし、八幡のお父さん生理的に無理かも」

「奇遇ですね。俺もです」

 

 俺は心の底から同意した。

 いやぁ――本当に、恥ずかしい親を持ったぜ。

 

 人に見せられない顔になっている我が父親を、心の底から軽蔑しながらそっと陽乃さんに見えないように背中で隠した。

 

「はる~る~ん。そういえばこないだ同じ『部隊』の子となんだかんだでフラグ立てたって聞いたよぉ~。よくないな~あおのんが泣くよぉ~――あたしは怒るけどね。っていうか怒ってるけどね」

「なにそれおれしらな――って、ちょっと待ってガンツスーツ着ててもその角度に人体は曲がらなあばばばばばばばばばばばば」

 

 っていうか由比ヶ浜おばさん怖い。絶対におばさんとか言わないようにしよ。

 

 そして、そんなよい子は真似したらいけませんな光景が広がって、ただでさえ生気のない俺の目が見る見る内に死んでいき、ぶるぶる震える陽乃さんに萌え続けている中――更に一筋の光線が、この『部屋』の中に注がれ始めた。

 

「っ! 八――? ………………………」

 

 現れた黒い機械的スーツを纏ったインテリ風美女――俺の母である比企谷雨音は。

 

 瞑目していた瞼を開け、俺の方を向くと何かを言いかけたが。

 目の前のグロい拷問でシバかれる己の夫と、ニコニコ笑顔でシバき続ける美女という光景に、あの時折出現させる冷たい眼差しを向けて。

 

 そして、俺の方を振り向いて、クズとヤンデレに指を向けながら言った。

 

「…………あれ、何?」

「…………知らねぇよ」

 

 むしろ俺が聞きたい……俺の父親と由比ヶ浜おばさんはどんな関係なんですかね……。

 

「おばさんって言うなって言ったよね?」

 

 ニュータイプ勘弁してくれないですかね……。ふぇえん、怖いよぉ。っていうかリアルガチで怖い……。

 

「お! やっと来たか愛する妻よ! 愛する夫がマジ大ピンチなんだ助けろください!」

「触んないで。比企谷菌が移るでしょ」

「いやもう二十年近くあなたも比企谷なんですが……」

 

 親父が無様に母ちゃんに向かって手を伸ばすが、母ちゃんは冷たくその手を蚊でも払うかのように弾き落とす。

 母ちゃん。それは息子(オレ)にも効く。……比企谷菌感染力強すぎなんだよなぁ。バリア無効化だもんなぁ。

 

 今度は俺がガタガタ震えながら陽乃さんにしがみ付き、そんな俺のアホ毛を陽乃さんが恍惚の表情で撫で始めた時――途中から北海道の土産みたいに迫力ある体勢で動かなかったパンダが、渋い声を放つ。

 

「――どうやら揃ったようだな」

 

 パンダは二本の足で立ち上がりながら、この部屋に集まった五人の戦士を見渡す。

 

 俺。陽乃さん。由比ヶ浜結愛。

 そして、親父――比企谷晴空と、母ちゃん――比企谷雨音。

 

 パっと乱雑に親父を投げ捨てる由比ヶ浜結愛を一瞥して、俺はパンダに問い掛ける。

 

「……霧ヶ峰の奴が、まだいないみたいだが」

 

 これが昨夜、日常を捨て本部へと潜る決意を固めた戦士達を試験した結果発表の場として用意されたものならば、俺と陽乃さんの他に、あと一人対象者がいる筈だと、俺はパンダに問い掛ける。

 

 雪ノ下陽光(ひかり)の昔語りが終わった頃からアイツとは別行動となり、結局そのまま別れてしまったが――俺が親父と殺し合っていたあの時、アイツも『入隊試験』を受けていたのだろうか。

 

 だとしても、アイツが落ちるとは思えないが……だけどアイツ、どんな難題も死地もへらへらとクリアし生き残りそうな一方で、誰も落ちないような落とし穴に落っこちてゲームオーバーになりそうな所もあるんだよなぁ。誰にも読めない方向に突き抜けるっていうのか。

 

 案の定、パンダが答えた言葉は、俺の想像を超えたものだった。

 

「霧ヶ峰霧緒は既に本部に転送されている――正確には、奴は既に《天子》様直轄部隊への就任が決定した」

 

 やっぱりアイツは特別待遇だったかと変に納得した一方で、《天子》様とかいう新しいワードの登場に俺は顔を顰める。何なの? ちょっと一日に一気に情報を詰め込み過ぎじゃない? 無駄に風呂敷を広げ過ぎて誰もついていけなくなる長期連載かよ。

 

 だが、同じように首を傾げているのは俺だけのようで、母ちゃんと由比ヶ浜結愛は目を見開いてパンダの言葉に素直に驚いていた。

 

「え? 《天子》ちゃんの!? 直轄って、マジ?」

「……あの子のお眼鏡に叶う男の子って存在したのね」

 

 そして――親父は。

 一瞬呆けるように瞠目したが、すぐにいつもの不快な笑みを浮かべて。

 

「――ほー。そいつぁ、面白れぇ……」

 

 俺はその顔を見て、また下らねぇことを企んでるなぁと考える一方で――また別の考察も組み立てる。

 

 ……よく分かんねぇが、《天子》様ってのはさっきの《CEO》と同じくらい特別っていうか独特な立ち位置(ポジション)にいる存在っぽいな。母ちゃん達は妙に親しげだが、このパンダがきちんと様付けしてるくらいだしな……。

 

 そんな風に思考していると、パンダは「そんなわけで、君達は同期に早速差をつけられてしまったわけだ」と、俺達に言う。

 

「今後、本部に送られても気軽には会えないかもしれない。霧ヶ峰よりも出世したくば、本部に送られた後も研鑽に励むことだな」

「隣の奴に露骨に依怙贔屓されるのは慣れてるよ。今更だ。それよりも俺にとって聞き逃せないのは、今の言葉だ」

 

 俺はパンダの言葉の中の、そのワードを、つぶらなその瞳を腐った眼差しで見据えながら言う。

 

「俺と陽乃さんも、今度こそちゃんと、本部に入職確定ってことでいいんだよな?」

 

 昨夜に内定をくれるみたいな口ぶりだったにもかかわらず、こうして『入隊試験』とかをノー告知で受けさせられた身としては、はっきりとした言葉がなくては納得出来ない。本当なら正式な書面として合格通知が欲しいくらいだ。

 

 俺のそんな面倒くさい問いに、だがパンダは、獣ならではの無表情で、はっきりと返す。

 

「――ああ。君達は見事に『合格』を勝ち取った。これから君達をCION本部へと送ろう」

 

 合格――その通知を受け取った俺は。

 背後にいる陽乃さんへと手を伸ばし、そして陽乃さんは、強くその手を繋いでくれた。

 

「……それでいいな? お前達」

 

 パンダは、俺達の『入隊試験』の『試験官』である三人の大人達に言葉を促す。

 

「もっちろんだよ! 陽乃ちゃんは立派な正義な味方になれると保証するよ! ま、ヒッキーくんもたぶんなれるんじゃないかな。知らんけど」

 

 由比ヶ浜結愛は、年甲斐もなくにこやかに――そして俺に対しては適当にぞんざいに言う。

 

「…………あぁ。ひどくとても残念に大変遺憾なことにな」

 

 比企谷晴空(おやじ)は、年甲斐もなくガキのように不貞腐れながら――そして俺に対して中指を立てながら言う。

 ……この大人達、大人げなさすぎないですかねぇ……。主に俺に対して。

 

 そして――残る一人の大人は。

 

「…………………えぇ」

 

 そう、俯きながら、窓の外の夜景に向かって言う。

 

「……………………そうか」

 

 パンダは「では、これにて必要なプロセスは全て完了した」と、背筋を伸ばして言う。

 

「比企谷八幡。雪ノ下陽乃。君達はこれから、世界を救う組織の本部へと――世界を守る最前線へと送られる。故に、今一度、君達に問おう」

 

 パンダは、渋く低い声で――威厳ある、戦士の声で問う。

 

「世界の為に――何度でも死ぬ。どんな地獄にでも飛び込み、どんな星人にも立ち向かい、どんな戦争をも生き抜く。その覚悟が、君達にはあるか?」

 

 黒き衣を身に纏った、機械仕掛けの兵装をまるで威圧するように展開する獣に。

 

 俺は。そして、陽乃さんは。

 

 繋いだ手に――ギュッと力を込めて。

 

 そんな言葉を――嘲笑した。

 

「「ごめんだね(よ)」」

 

 陽乃さんは、腰に手をやって、不敵に笑って宣言する。

 

「世界なんて知らないわ。地獄も星人も戦争も興味なし! ただ、この手を解こうとする者がいるなら容赦しない。そんな奴等にこそ言ってやるわ――あなたに、その覚悟があるのってね」

 

 陽乃さんは、そう言って俺に笑いかける。

 

 ……まったく、親の見てる前でそんな嬉しいこと言わないでくれないですかね。恥ずか死ぬでしょ。

 

 だがまあ――全くもって、同意ですがね。

 

「安心しろよ。俺は死なない――ただ、生き残る。その為に必要なんだってなら」

 

 ついでに、世界も救ってやるよ――そう、きっと、世界一ムカつく表情で言っているであろう、俺に。

 

 パンダは、ただ一言――機械のように、返す。

 

「期待している。未来の英雄よ」

 

 そして――転送が、始まった。

 

 

 まず光が照射されたのは、他ならぬパンダ自身だった。

 

「――転送された先に設定されている場所は、CION本部の一階のロビーだ。私はそこで待っている。新天地でまた会おう」

 

 新天地――ね。

 新しい――そこは、天国か、それとも、地獄か。

 

 愚問だったな――まぁいい。

 天国でも、地獄でも、やることは変わらない。

 

 ただ死なないように――殺すだけだ。

 

 

 次に転送されたのは、由比ヶ浜結愛だった。

 

「え? もう? ……まぁ、そっか。う~ん、まだまだ言いたいことがあったんだけどなぁ」

 

 そう言って唸る由比ヶ浜結愛は、「陽乃ちゃん! それじゃあ頑張ってね! 分かんないことがあったらいつでも頼って! まぁヒッキーくんもガンバ。分かんないことがあったらググればいいよ」と、陽乃さんにはにこやかな笑顔で、俺にはザ・社交辞令でエールを送る。本当にグーグル先生が通用するんだろうな? 信じるからな?

 

 そして結愛は、びしっと親父を指差し。

 

「はるるん! まだ話は終わってないんだからね! 向こう言ったらお仕置きの続きだからね!」

「……はいはい。分かったよ。………………悪かったな」

 

 親父は後頭部をガシガシと掻いてボソボソと呟き、その言葉に由比ヶ浜結愛は小さな笑みを作る。

 

 そして、その笑みのまま、彼女は母ちゃんの方を向いて。

 

「…………あおのん」

「…………結愛、私は――」

 

 母ちゃんは何かを呟きかけたが、由比ヶ浜結愛はその言葉の先を言わせずに、一言。

 

「――がんばって」

 

 ただ、そう告げて――完全にこの『部屋』から消失した。

 

 

 そして、次に転送されたのは――陽乃さんだった。

 

「……っ。……そっか。なるほどね」

 

 陽乃さんはそう呟いて、解こうとしたものには容赦しないといった手を――自ら放した。

 

 え? もしかして手汗キモかった? と俺が反射的に自殺を検討し始めたのを察したかのように(いやたぶんしてないが)、陽乃さんは俺に向かって小さく微笑みながら言う。

 

「本当は八幡と一緒に行きたかったけどね。でも――八幡には、まだやらなきゃいけないことがあるでしょ」

 

 そう微笑みながら――けれど、小さく目を伏せながら、陽乃さんは言う。

 

「――八幡。ごめんね。……でも、わたしは」

「大丈夫ですよ。陽乃さん」

 

 これは、これから先、陽乃さんも立ち向かわなくてはならない――乗り越えなくてはならないものだ。

 

 ならば――俺が、逃げるわけにはいかないだろう。

 こんな俺が、少しでも――陽乃さんの勇気になれるのならば。

 

「……なるべくですが、やれるだけやってみます」

 

 俺はそう言うと、陽乃さんは繋いでいた手を俺に向かって小さく振って――消える。

 

「――待ってるね。八幡」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、残されたのは、俺と、親父と、母ちゃんの三人。

 

「……聞いてはいたが、本当に戦士(キャラクター)に感情移入する部品(おとこ)なんだな、識別番号000000080(コイツ)は」

 

 中でも八幡(おまえ)はお気に入りってわけだ――と親父は嘯く。

 

 ……まぁ、そうだな。流石にここにきて、この人選の意味に気付かないわけがない。

 本当に、お節介ここに極まれりって感じだが。

 

 でも、陽乃さんにああいった以上――頑張らなきゃな。

 

 向き合わなければ。乗り越えなければ。

 

 これは――俺の戦いなんだから。

 

「――八幡」

 

 口火を切ったのは、親父だった。

 親父は、へらへらした表情を消して――はっきりと、殺意を突き付けて言う。

 

「俺は――お前が小町を殺したことを、絶対に許すつもりはない」

 

 その瞬間的に迸る殺意は、先程の殺し合いの時のそれよりも、よほど強く、黒いもので。

 

 だからこそ、俺は――歓喜で震えそうになる声を、必死に平坦に保ちながら返した。

 

「…………あぁ」

 

 親父は、そんな俺に目を細めながらも――尚も強く、尚も冷たく、尚も黒い声色で言い募る。

 

「八幡――俺は、お前が憎らしい」

 

 小町を殺したお前が憎らしい。俺とそっくりな顔のお前が憎らしい。

 

「――俺を……殺さなかった。お前が、本当に憎らしくてたまらねぇよ……八幡」

 

 親父は、俺にそう――真っ直ぐに、俺の目を見ながら言った。

 

 それは、親父から――生まれて初めて向けられる言葉だった。

 それは、親父から――生まれて初めて向けられる殺意だった。

 

 それは、生まれて初めて――真正面から。

 

 見つめる瞳で、向けられる感情だった。

 

 生まれて初めて見る、父親の顔だった。

 

「八幡。俺は、お前が途轍もなく――可愛くない」

 

 どんと、俺の胸に拳を当てて――親父は、気持ち悪く、満面の笑みを向けた。

 

「だから――お前は、俺のようにはなるな」

 

 それは――生まれて初めて。

 

 親父から言われた――父親らしい言葉だった。

 

「お前は俺を殺さなかった。だから、その責任を取れ」

 

 親父はそう言って、胸に突いた拳を解き――俺の頭を、ぶっきらぼうに掻き回す。

 

 やり方を知らないそれは髪を引っ張り――涙が出そうな程に、痛く、不器用で。

 

「勝手に死ぬな――死ぬまで生きろ。最低でも、俺より先に死ぬことは許さねぇ。んな真似してみろ? 今度こそ俺が殺してやるからな」

 

 その瞳は、濁っていて、とてもではないけれど綺麗ではなかったが。

 

 真っ直ぐに、逃げずに――俺だけを、見ていた。

 

「だから、生き抜け。誰よりも生き抜け。誰よりも――生きろ」

 

 幸せにならなくていい。世界なんて救わなくてもいい。

 罪なんて贖わなくてもいい。罰なんて求めなくてもいい。

 

 誰の為にも――生きなくてもいい。

 

「自分の為だけに――死ぬまで、生きろ」

 

 親父――比企谷晴空。

 

 適当で、勝手気儘で、自由奔放で、快楽主義者。

 嫌なことが嫌いで、苦手なものからは逃げ回って、頑張るということが出来なくて、我慢という文字の意味すらも知らない。

 

 息子が可愛くなくて、娘だけを溺愛してウザがられて、妻にはそっけなくされて時折甘えて甘えられて。

 友達なんて数えるくらいしかいなくて、その全てが例外なく奇人変人異人らしくて。

 

 何処をどう切り取っても言い訳のしようも擁護のしようもないクズっぷりで。

 クズ人間で、クズ親父な、クズ野郎で。

 

 そんな――親父の癖に――。

 

「………………何………父親みてーなこと、してんだよ…………ッ」

 

 ふざけやがって。今更――今更――なんなんだよ……ッ。

 

 今まで……俺が……どんなに………っ。ずっと――ずっと――くそっ。

 

 こんなの――また……俺の……負けじゃねぇか……っ。

 

「――当たり前だ。父親に勝とうなんざ――テメェも父親になってからほざけ」

 

 そしたら、八幡。おめぇも気付くさ――そう、黒い球体から照射される光を浴びながら、親父は。

 

 俺の頭から、僅かに手を放しながら、言った。

 

「――子供に勝てる親なんざ……いないってことにな」

 

 そして、親父は――転送された。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 これで『部屋』に残っているのは、二人。

 

 比企谷八幡と、比企谷雨音――この、二人だけだった。

 

「………………」

「………………」

 

 微妙な沈黙が満ちる。

 

 俺は目元を擦りながら、少し大きく呼吸して感情を無理矢理にでも整理する。……こういう所を母親に見られるの世界一恥ずかしい。……クソが。あのクズ親父。この好機にお前のちょっとドン引くような隠しAVのタイトルを母ちゃんにリークしてやろうか。

 

 なんて、そんなことを考えてみたものの、俺と母ちゃんは――ぶっちゃけ、そこまで仲良くない。

 

 ここに小町や親父が入れば、むしろ親父に対してよりもずっと会話のラリーが続くのだが、二人きりだと親父とのそれよりも気不味い。良くも悪くも(っていうか絶対的に悪だが)俺に対するヘイトを隠さなかった親父とは違い、母ちゃんはどっちかっていうと――よそよそしいのだ。

 

 ある意味で、親父よりもずっと分かり易い。

 だからこそ――これまでの人生において、俺と母ちゃんのツーショットなど、俺と親父の組み合わせよりも珍しい。

 

 ずっと、お互いに、避けてきたから。

 こうして面と向かって、向き合うことから。

 

 ずっと――逃げてきたから。

 生まれてからずっと――生んでから、ずっと。

 

「…………………八幡」

 

 だから、これを分かるのは、きっと世界で俺だけだ。

 

 由比ヶ浜結愛にも、恐らく親父にも、全部は分からない。

 いや、俺にも全部は分からないだろう。それでも、他の誰よりも、俺はきっと分かっている。

 

 このたった一言に――息子の名前を、二人きりで、真っ直ぐに目を見て呼びかけるという、それだけの行為に。

 

 母ちゃんが――比企谷雨音が、一体どれだけの勇気を振り絞ったのか。

 

 俺はそんな母ちゃんの目を真っ直ぐに見て、何も言わずに待った。

 そんな息子に、母ちゃんは目を伏せながら、ポツリポツリと、呟くように言った。

 

「…………八幡。…………ゴメンね。ダメな母ちゃんで」

 

 ずっと、ずっと――ダメな、母親で。

 ごめんなさいと、母ちゃんは、俯きながら――噛み締めるように、言った。

 

 ゆっくりと、その手を伸ばす。

 親父のように、俺の胸に手をやろうとしたのか――それとも、俺の頭を撫でようとしたのか。

 

 文字通り、恐る恐る、まるで猛獣か何かに向かって手を伸ばすように。

 

 だが――その手は。

 途中でビクリと動かなくなり「…………ごめん、ね……」と。

 

 項垂れながら、俯きながら、母ちゃんはそう、息子に言う。

 

「……わたしは…………怖いの……っ」

 

 それは、初めて見る――母の涙。

 きっと隠れてずっと流していたであろう――俺が流させた、涙だった。

 

「晴空みたいに……雪ノ下陽光のように……なれない……っ。割り切れないの……乗り越え……られない……ッ」

 

 母ちゃんは、涙を流しながら――顔を上げる。

 

「……私は――あんたが怖いよ……八幡……っ」

 

 俺は――そんな母ちゃんに。

 

 笑顔を向けることが、出来ただろうか。

 

「――知ってたよ」

 

 知っていた。ずっと、知っていた。

 

 母ちゃんが――ずっと俺を怖がっていたことを。

 怯えながら接してくれていたことを。恐る恐る触れていたことを。

 

 比企谷八幡という俺の存在が、ずっと母ちゃんを苦しめていたということを。

 

「――違うッ!」

 

 母ちゃんは叫んだ。

 

 自分の身体を抱き締めて。怯えて震える体を抱き締めて。まるで、身を守るように。

 

「違うっ! 悪いのは私なの! 母親失格の――モンスターな私なの!」

 

 ずっと――怖かったのだという。

 

 息子を恐れる自分が。息子と向き合えない自分が。息子から逃げ続ける自分が。

 

 怖くて。情けなくて。そして、何より――憎らしくて。

 

「ずっと――母親になれないのが怖かった。……ずっと――母親になるのが……怖かった……くせに……ッ!」

 

 私は――あなたを、生んだの。

 

 そう、母ちゃんは――血を吐くように言った。

 

「……私は、自分の母親が大嫌いだった……ッ。自分の父親に絶望した……ッ。そんな両親の血が流れている私が……そんな母親を殺して、父親を見捨てて……妹が生まれる前に死なせた……そんな私が――母親になるのが、怖かった……ッッ!!」

 

 それでも、世界は――そんなモンスターにも優しくなくて。

 愛する人に縋らなければ、生きてはいけない程に――残酷で、地獄で。

 

 母ちゃんは――自分のお腹に、手を当てながら、笑った。

 

 壊れそうに、笑った。

 

「私は――母親になる覚悟を決めないままに……八幡――あなたを身籠った」

 

 それでも――生まれてくる子が女の子ならば。

 母ちゃんが、かつて生まれる前に殺したという、妹の生まれ変わりのような女の子ならば。

 

 代替行為かもしれないが、許されない歪んだ代償行動かもしれないが、愛することは出来たかもしれないと、母ちゃんは言う。

 

 俺は、そんな母ちゃんの言葉に――怒りよりも、哀れみを覚えた。

 

 それほどまでに望んだ女の子ではなく、生まれたのは、似ても似つかぬ――望まれない男の子だったのだから。

 

 小町ではなく――俺だった。

 

「…………ごめんなさい」

 

 俺がそう謝る前に――母ちゃんはそう懺悔した。

 

 ごめんなさい――ごめんなさいと。

 

 母親になる覚悟もないのに子供を作ったことか。

 望んだ女の子ではないからと、生まれた男児を愛せなかったことに対してだろうか。

 

 それとも――そんな現実からも、逃げ出したことだろうか。

 

「私は――逃げたの」

 

 母ちゃんは――疲れ切った顔でそう言った。

 

 俺は、もう何も言わなくていいと、首を振った。

 

 この人は、この母親は――母親になる覚悟もなく、子供を――俺を作った。

 そして、生まれてきた子は、せめてと思った女の子ではなく、可愛くない男児だった。

 

 案の定――比企谷雨音は、母親になれなかった。

 

 生まれてきた男の子に――俺に、向き合えず、痛めつけられるように育児をして。

 愛情を注げずに、目を合わせることも出来ずに――逃げ続けて。

 

 だけど――すぐに、小町が生まれた。

 

 つまりは――そういうことだった。

 

「ごめんね…………っ。ごめんね…………ッ」

 

 この人は――弱い。

 いつもは家庭内の誰よりも強いのに、根っこの部分は、小町よりも、そしてあの親父よりも弱弱しい。

 

 きっと――この人のこんな部分に、俺は似たのだろう。

 だから、母ちゃんの気持ちは、きっと誰よりも俺は分かる。

 

 ずっと誰よりも、俺は分かっていたし――知っていた。

 

「だから言ってるだろ、母ちゃん。……知ってたよ。……それも、知ってただろ?」

 

 母ちゃんが、涙に濡れた顔を上げて、それをまたくしゃくしゃにする。

 小町譲りの美人な顔が――いや、小町が母ちゃんに似たのか――見ていられない不細工になる。

 

 見ていられなくて、思わず俺は、俯いた。視界がどんどん歪んでいったから。

 

 知ってたよ。そりゃあ母ちゃんの過去は知らないが、俺と小町に対する顔の違いとか、小町と俺の年齢差とか、そういうのを鑑みればおおよその想像はつく。

 

 この人が息子を愛せなかったのに、すぐに次の子供を作ったことも。

 生まれてきたのが今度こそ待望の女の子で、長男をほっぽり出して溺愛したことも。

 

 ああ、母親失格だろう。モンスターペアレントと呼ばれてもしょうがないよな。

 

 だがそれは、俺だけがこの人にそう言える権利を持つことだ。

 他の誰かにとやかく言われる筋合いじゃない。

 

 お前は見たのか?

 時折、深夜遅くに帰宅して、小町の部屋よりも早く俺の部屋に入って、息子の寝顔に震える手を伸ばすこの人の姿を。

 

 お前は聞いたのか?

 誰もいない早朝の洗面台で、俺の名前を漏らしながら懺悔しつつ涙を流すこの人の嗚咽を。

 

 知ってたよ。誰よりも。

 

 この人が、俺を愛していないことを。

 

 そして、そんな自分を――誰よりも呪い、苦しんでいたことを。

 

 俺はずっと、そんな母ちゃんを見てきたんだから。

 

 母ちゃんも――知ってただろ。

 

 そんな俺を、母ちゃんはずっと見ようとしてくれたんだから。

 

「…………はち、まん」

「――いいんだよ、母ちゃん」

 

――『はぁ……バカだね。あんたの心配をしてんの』

 

 あの時は、不覚にも本当にうるっときた。

 

 いつも小町への愛情に紛れ込ませるような形でしか俺と向き合えていなかったのに。

 小町へのオシャレ服のついでみたいな感じで買ってくる、近所の名前も読めないような服屋で買ってくる変なTシャツも――実は結構嬉しかったんだぜ。

 

 怖くてたまらないのに。自責の念で死にそうなのに。

 

 それでもこの母親は、愛せない息子を愛そうとしてくれた。

 

 いつだって苦しみながら、いつだって傷つきながら、それでも母親になろうとしてくれた。

 

「許す。全部許すよ。愛せなかったことも。向き合えなかったことも。逃げ出したことも。――俺は、アンタの息子だから」

 

 この人は、いい母親ではなかったのかもしれない。

 それでも俺は――この人に生んでもらったから、俺になれたんだ。

 

 だから、言いたい。

 母ちゃんにとっては黒歴史かもしれないけれど――俺にとっては、やっぱり感謝でしかないから。

 

 こんな機会を逃せば、恥ずかしくって言えないような言葉だからな。

 

「生んでくれてありがとう――お陰で俺は、生まれてくることが出来た」

 

 碌なことのなかった人生だったけれど――それでも俺は、生まれてきてよかったと胸を張って言える。

 嫌われ、弾かれ、愛されなかった人生だけれど――それでも、こんな俺を愛し、こんな俺と向き合ってくれた人達とも出会えた。

 

 雪ノ下雪乃。由比ヶ浜結衣――あの二人と過ごした日々は、間違いなく俺の青春だった。

 雪ノ下陽乃――あの人と出会い、そして生きていくこれからは、それだけでも俺の生きる理由となる。

 

 比企谷小町――あなたが俺から逃げて、生むことを選んでくれた天使は、ひとりぼっちだった俺の人生を、明るく温かく支えてくれた。

 

 感謝だ――感謝しかない。

 

 あなたは俺に――こうして生命を繋いでくれた。

 

「……本当に、ありが――っ!?」

 

 色んな思いが込み上げてきて、言葉の切り所を見失い、延々と恥ずかしいことを言いそうになっていた俺が顔を上げると――何かが胸の中に飛び込んできた。

 

 いや、この『部屋』にはもう俺の他にはもう一人しかいなくて、その正体が誰なのかなんて言うまでもないんだけど――それは、余りにも信じられない答えで、俺は本気でこの恥ずかしい場面を覗き込んでいた誰かがいたのではないかという可能性の方を先に疑った。

 

 だって、こんな感触は初めてで。こんな温もりは初めてで。

 ああ意外に背が低いんだとか、体が細いんだとか、そんなことばかりが頭を巡って――中々、受け止めきれない。こんなにも軽い衝撃なのに。

 

 俺は――記憶にある限りでは、生まれて初めて、母親に抱かれていた。

 

 比企谷雨音が、比企谷八幡を抱き締めている。

 顔を胸に埋めて、涙を染み込ませながら、言葉にならない嗚咽を漏らしている。

 

 俺は無様に硬直し、行き場のない両手を気持ち悪く持て余していた。

 

「…………母、ちゃん?」

「…………ごめんね」

 

 母ちゃんの身体は、小さく震えている。

 

 それが泣いているからということだけではないことは明らかで、今でも身体は無意識に俺を恐れていて、涙の他にも汗が滲み始めていて――でも、それが分かっても、俺は。

 

 この小さな体を。この余りにも温かい温もりを、引き剥がすことなど出来なくて。

 

「…………母ちゃん。無理しなくて、いいから」

 

 母ちゃんにとって俺は――正しく罪の結晶だ。

 自分の至らなさ、情けなさ、罪深さをまるで突き付けてくるかのような俺の存在は、母ちゃんにとってはまるで世界から責め立てられているかのように思わせるだろう。

 

 俺の腐った双眸に見詰められる度に、どんな感情が母ちゃんの胸中に渦巻いていたのだろうか。

 

 そんな俺を真正面から抱き締める。その全身で受け止める。

 息子を抱き締める――その行為に母親が、どれだけ頑張って無理をしているのか、俺には分かってしまう。

 

 だが母ちゃんは、まるで駄々を捏ねるように、いやいやと俺の胸に顔を擦り付ける。これでは、どちらが親なのか分かったものじゃない。

 

 俺は――そんな可愛い母親を、強くその胸に抱き締めた。

 

「――辛かったね。怖かったね。……ごめんね。ずっと、助けてあげられなくて」

 

 それは、この『黒い球体の部屋』に迷い込んだ時からのことを言っているのだろうか。

 それとも、これまでの人生そのものを指しているのだろうか。

 

 だが、そのどちらに対してだろうと、俺の返す言葉は変わらない。

 

「辛かったし、怖かった。だけど、それを他の誰かのせいにはしない。……ましてや、親のせいになんかには、絶対にしねぇよ」

 

 俺の失敗は俺だけのせいだ。だから、俺の苦難も困難も、消したいような黒歴史も――忘れたくない思い出も、俺だけのものだ。

 

 勝手に責任を感じる必要なんてない。

 自分のことは自分でやる――それは当たり前のことだ。

 

 俺のやらかした罪を、親に代わりに背負わせるなんて真似はしない。

 

 だから、そんなことは言わなくていい。

 

 母ちゃんは、またいやいやと、顔を擦り付けて――言う。

 

「私は――あんたが小町を大好きだったことを知ってる」

 

 愛されない自分のすぐ傍で、これでもかと両親の、世界の愛情を受けて育つ世界の妹。

 

 そんな存在を果たして心の底から愛することの出来る兄が、果たしてどれだけいるというのだろう――そう、母ちゃんは、声にならない声で言って。

 

 ここにいる――と、この腕の中にいると、母ちゃんは俺にそう伝えてきた。強く抱き締めて、そう息子に伝えてきた。

 

「私は――小町があんたを大好きだったことを知ってる」

 

 誰もに愛される自分のすぐ傍で、これでもかと両親に、世界に見て見ぬふりをされて育つ不肖の兄。

 

 そんな存在を誰の視線も意に介さず、自分だけでも愛することの出来る妹が――果たして、どれだけいるというのだろう。

 

 居たんだ――ここに居たんだ。

 

 世界一の妹が、かけがえのない存在が――それを、俺は、殺したんだ。

 

「――ごめんね。……傍にいてあげられなくて」

 

 ああ……くそ。だせぇ……な。情けねぇ……な。

 

 この年で、高三にもなって、一日に何度も親の前で……くそっ。

 

 今更、母親の胸で泣くなんて、思春期の男子にとっては拷問でしかない。そういうの分かんねぇんだろうな――このモンスターペアレントは。

 

 そんな息子の気持ちなど、まるで分からないこの母親は。

 

 まるで止めを刺すように――俺を殺しにかかってくる。

 

「――頑張ったね」

 

 ああ――完敗だ。また勝てなかった。

 

 母親には――勝てなかったよ。

 

 一生――勝てる気が、しない。

 

 聞き慣れたレーザーの照射音が鳴り響くのと同時に、母ちゃんは俺の身体から離れる。

 

 俺はとてもではないけれど見られたい顔をしている自信がなかったので、思わず顔を隠す。断じて目にゴミが入ったからではない。

 

 母ちゃんは、自分も涙でボロボロの癖に、くすりと笑って言った。

 

「こんなこと――私に言う資格なんてないんだけれど」

 

 まるで母親のように――息子に愛情たっぷりの言葉を。

 

「――幸せになりなさい」

 

 そう、俺に新たな呪いを刻んだ。……まったく、もうお腹いっぱいだっての。その手の呪いは。

 

 全く――俺は、幸せ者だ。

 

「――陽乃ちゃんを、幸せにしなさい。あんなにあんたにピッタリな子は、たぶん一生見つからないわよ」

 

 ああ――勿論だ。

 こんな俺を愛してくれる人なんだ。俺はずっと決めていた。誓っていた。

 

 俺を――こんな無様な俺を、愛してくれる人は現れたらその時は、絶対に幸せにしてみせるって。

 その為なら、何だってしてみせる。それだけが、俺の出来るせめてもの恩返しだ。

 

「……これから先は、今まで以上に地獄よ。私達は……これまで通り、きっとあんたの傍には居られない。……あなたはこれからも、一人で困難に立ち向かわなくちゃいけない」

 

 今更だ。

 

 母ちゃんも、親父も、ずっとそうして戦ってきたんだろう。

 

 だったら俺だって、それぐらい出来なくちゃ話にならない。

 

 俺は――アンタ達の、息子なんだから。

 

「……そうね」

 

 こんなこと、言う資格なんて、本当に、ないんだけれど――と。

 

 母ちゃんは消えながら言う。

 

「あんたは私達の――誇りの、息子よ」

 

 消失が顔にまで及ぶ。

 俺や親父とは似ても似つかないその綺麗な目を隠すように瞼を下し、その部分も消失していく最中。

 

 口元が小さく動き、震える。

 

 そして、意を決したように、言葉を紡ごうとする。

 

「……八幡。……あんたを、愛し――」

 

 そして――母ちゃんは、消失した。

 

 最後まで言葉を紡ぐことなく、消えた。

 

「………………知ってた」

 

 俺は、思わずそう呟いていた。

 

 知ってたよ。

 

 世界がそんなに優しくないことも。

 きっと、その言葉の続きを聞く日は、訪れることはないということも。

 

 色々な条件が重なって、こうして二人きりな状況だったからこそ、あんなに恥ずかしいことをお互いに言い合えたのだ。こんな奇跡の場は二度と設けられないだろう。

 

 知ってたよ――知っていたさ。

 だからこそ、俺は裏切られていない。初めから期待などしていないから。

 

 俺は――本当に、幸せ者だ。

 

 いなくなった母親が居た場所に背を向けて、俺は黒い球体と向き直る。

 

 無機質な部屋に、無機質な黒球が、ただ一つ。

 

 見慣れた光景だ。

 半年間、見続けた光景。

 

 黒い球体と、比企谷八幡、その二つの物体しか存在しない空間。

 安心感さえ覚えるこの空気を、まるで刻み込むように瞑目して、俺はガンツに独り言を呟いた。

 

「……お前は本当に、俺のことが大好きだな」

 

 憎まなかった日があるかといえば――嘘になる。

 生命の恩人であるこの球体を憎み、恨み、怒り続けた半年だった。

 

 あの日から――あの命日から、今日まで。

 色々なことがあった。色んな地獄を経験した。

 

 何もかもが悪い方に転がり続けた。

 愛した人を失い、愛した場所を失い、そして――今、俺は。

 

 この『部屋』すらも失い、更なる地獄に飛び込もうとしている。

 

「――ああ。もういい、ガンツ。十分だ」

 

 そして俺は、旅立ちの覚悟を固めて、言った。

 

「ありがとう――世話になった」

 

 そう、呟くと。

 

 黒い球体は、その黒い表面に、こんなメッセージを表示した。

 

【いってらっしゃい】

 

 俺は、そんな言葉に――小さく、笑って。

 

「――行ってくる」

 

 

 そして、真っ直ぐに、眩い光が俺に向かって照射された。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 照射された光が収まると、その部屋には黒い球体だけが残った。

 

 誰もいない――誰もいなくなった。

 

 

 

 この『黒い球体の部屋』には、もう――比企谷八幡は、いない。

 

 

 

 




 




そして――夜が、明ける。






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Side××××――②

――ここはもう、“我が家”じゃねぇな。


 

 某国――某所。

 

 部屋の全容すら掴めない、どれくらいの広さなのかも把握できない程に、真っ黒な闇の中。

 

 ぼんやりと淡い光を放つ六角形(ヘキサゴン)のテーブルの一辺に、一人の仮面の存在が着席していた。

 

 近未来的なデザインの漆黒のマスクに闇と同化するかのような漆黒のマントの男が座る横には、羽と虹が組み合わされたマークが浮かび上がっているモニタが用意されている。

 

『そろそろ、いい時間じゃないかな?』

「――分かった。お前がそう言うのなら、始めよう」

 

 仮面の男――《CEO》は。

 モニタから発せられる《天子》の言葉に了承し、やはり漆黒のユニフォームと手袋によって隠された細い手を伸ばして、その細く長い指で、パチンと小気味いい音を暗闇に響かせた。

 

 途端――六角形の残る五辺に、眩い電子線が照射される。

 

 昨夜と同じく、仮面の男の右隣の辺には二本、残る四辺にはそれぞれ一本ずつの電子線。

 異なるのは、CEOの横のモニタが初めから虹と羽が組み合わされたマークを浮かび上がらせているのと同じように、JP(日本)支部の辺以外の四辺に――(あらかじ)めモニタが設置されている点だった。

 

 CEOが座する『本部』の辺の左隣――『US(アメリカ)』支部の担当辺。

 電子線によって金髪オールバックの屈強な男が召喚されるのと同時に、その隣の席に用意されていた星条旗が映し出されていたモニタ画面が、カールがかった金髪にビジネススーツのふくよかな男の姿を映し出す。

 

『はっはっは、この真っ暗な会議室も久しぶりだな! 商売人の立場から言わせてもらえれば、こんな気分が滅入るオフィスでは捗る仕事も捗らんぞ! 少しは俺の職場を見習うがいい! 世界で最も有名な白い(ホワイト)な職場だ!』

 

 

 Cosmopolitan Integration OrganizatioN(世界主義統合機構)

 

 US(アメリカ)支部 代表

 

 非戦士

 

 アメリカ合衆国 大統領

 

 エドワード・サンダース

 

 

「……はぁ。アナタはもはや会社ではなく、国家を率いる立場なのだと自覚してくださいと、私は何度申し上げれば良いのか……他の国、いえ、他の支部のトップの前で、何度も説教などさせないでもらいたいのですがね」

 

 

 Cosmopolitan Integration OrganizatioN(世界主義統合機構)

 

 US(アメリカ)支部 副代表

 

 戦士ランキング 枠外

 

 アメリカ合衆国 国防長官

 

 ドナテロ・K・デイヴス

 

 

 US支部の代表と副代表の、そんな会話の――更に、その左隣の辺から。

 

 電子線により召喚された雪のような肌に黒髪ボブカットのガラの悪い女の声と、その隣の席に置かれたロシア国旗を映していた画面からモニタに姿を現した、氷のように冷たく無色な、けれど瞳のみはルビーのように赤い美少年の声が届く。

 

「――ハッ。相変わらず、笑わせてくれるなぁ、アメリカさんよぉ。おたくの職場よりも黒い場所なんざぁ、この悪趣味真っ暗ルーム以外ねぇだろうがよ。まぁ、世界のトップが集まる会議室なんざぁ、世界で一番ドス黒い場所に決まってるか。笑えねぇな、いや、一周回って笑えるかもな」

 

 

 Cosmopolitan Integration OrganizatioN(世界主義統合機構)

 

 RU(ロシア)支部 副代表

 

 RU(ロシア)支部戦士ランキング 1位(最上位幹部)

 

 ジュリア・ロマノフ

 

 

『笑えないよ、ジュリア。まったく、何一つ。それに(オレ)は、どちらかというと――黒は、嫌いだ』

 

 

 Cosmopolitan Integration OrganizatioN(世界主義統合機構)

 

 RU(ロシア)支部 代表

 

 非戦士

 

 ???

 

 

 そして、RU支部の代表と副代表の――更に、その左隣の辺。

 漆黒の仮面の男と虹と羽を組み合わせたモニタ――CION本部の辺の、ちょうど真正面に位置する対辺には。

 

 一筋の電子線が二つの席の後方に照射され、その前の二つの席には、二つのモニタが用意されていた。

 

 電子線にて召喚された戦士は、この闇よりも尚も黒い、漆黒の修道着を身に纏い、片手で首から下げた十字架を、もう片方の手で聖書を抱えながら厳粛に呟く。

 

 そんな戦士の言葉に、欧州旗が映し出されていた二つのモニタから姿を現した、二人の人物――緋色の聖職者着を身に纏う緋色髪の眼鏡を掛けた女性と、真っ白な法衣を身に纏う白髪白髭の老人は言った。

 

「……さて。それはそれとして、此度はどういった了見か。見た所、この場所に呼ばれるべき正当な代表や副官が、今回はきちんと呼ばれているようだが。先も言ったが、私は本来、この会議室に呼ばれる立場ではない筈なのだがね」

 

 

 Cosmopolitan Integration OrganizatioN(世界主義統合機構)

 

 EU(ヨーロッパ)支部戦士ランキング 1位(最上位幹部)

 

 グレン・ブックマン

 

 

『私が頼んだのよ。EU支部の、実質的な経営者はあなただから。出来れば副代表(この立場)も代わって欲しいくらいなのだけれど……あなたは強情だからね。それでも、今回の会議は、これからのEU支部――いえ、CIONという組織の方向性に大きく関わるものらしいから、あなたにも同席して欲しいのよ。多分、あなたが一番知らなくちゃいけないことだから。現場のことを一任している、あなたにね』

 

 

 Cosmopolitan Integration OrganizatioN(世界主義統合機構)

 

 EU(ヨーロッパ)支部 副代表

 

 非戦士

 

 真理教会 枢機卿“憑代”

 

 アリアナ・ガンダリン

 

 

『…………さて、うちの若いのがそう言っておるが、儂には、未だ其方らの思惑は掴めぬ。この老いぼれにも分かるよう、色々と説明してはくれぬか? 此度の会合、そして昨夜の会見の――意義についてじゃ』

 

 

 Cosmopolitan Integration OrganizatioN(世界主義統合機構)

 

 EU(ヨーロッパ)支部 代表

 

 非戦士

 

 真理教会 教皇 及び バチカン真国統治者

 

 アルフォース・オリーヴァ・ガンダリン

 

 

 唯一、三種類の声色が発せられたEU支部の、その左隣の辺からは。

 一筋の電子線と一つのモニタが用意されており、電子線によって召喚されたのは艶やかな黒髪の若々しい少年、そして、モニタに映し出されたのは血のように赤いネクタイに仮面のような笑顔を張り付けた純黒スーツの男だった。

 

「――それは、今宵も変わらず、彼等に関することだろう。海を隔てた大陸の我が国にも、当然、大混乱は伝播している。非常に迷惑で、腹立たしいことだ。心当たりがないとは言わせないぞ。――日本」

 

 

 Cosmopolitan Integration OrganizatioN(世界主義統合機構)

 

 CN(中国)支部 副代表

 

 戦士ランキング 枠外

 

 火炎コンツェルン 会長秘書

 

 (リョ) 公瑾(コウキン)

 

 

『まぁまぁまぁまぁ! そういきり立つな、我が優秀なる右腕よ! お前の猛禽類のような鋭き眼を向けられては、喋られるものも喋れなくなるというものだ――いや、だがまぁ、しかし、かつて世界を救った英雄たる御身らには、このような心配こそ無礼に当たるのかな? 親愛なる親友達よ。先程の若者の無礼に気分を損ねていなければ、吾輩の顔に免じて、どうか英雄の心内とやらを、我々凡人にも明かしてはもらえないかね?』

 

 Cosmopolitan Integration OrganizatioN(世界主義統合機構)

 

 CN(中国)支部 代表

 

 非戦士

 

 火炎コンツェルン 会長

 

 (エン) 維新(イシン)

 

 

 少年の猛禽類のような鋭い眼が、男の底の見えない真っ暗な笑みが、CN支部に与えられた辺の左隣――CION本部の担当辺の右隣の辺へと向けられる。

 

 そして、その二人に釣られるように、CN(中国)支部の動きに追従するように。

 US(アメリカ)支部の、RU(ロシア)支部の、EU(ヨーロッパ)支部の――世界中の視線が、二人の男に注がれる。

 

 小さな島国の代表者達に――向けられる。

 

「……………」

「……………」

 

 与えられた席に、並んで腰を掛ける男達は。

 

 鍛えられた肉体と顎髭が特徴的な男――JP(日本)支部の副代表、小町小吉と。

 低い背に肥満体のように見える醜男――JP(日本)支部の代表、蛭間一郎は。

 

 しばし、それらを受け入れるように黙考しながら、やがて小吉が、ぽつりと小さく言葉を発した。

 

「――我が国の失態に、君達(他国)を巻き込んでしまったことを、深く謝罪する。だが、取れる限りの最善策を打ったつもりだ」

「最善策? 最愚策の間違いだろう、日出ずる国の代表者よ」

 

 否。()()()世界を救った、()英雄よ――と、CN支部の副代表、黒髪の鋭い眼差しの美少年、呂公瑾は、そう眼差しと同じく鋭い口調で、小町小吉の言葉を断じる。

 

「確かに、星人の存在については、いずれは表世界にも周知させることは避けられなかっただろう。だが、それは間違いなく、今ではなかった。これから我々は、あまりにも危うい綱渡りの半年を送らなければならなくなったのだぞ? あなた達は自国の尻拭いに、世界中を巻き込んだのだ」

「言うなよ、中国の。いくら日本のことが嫌いだからって、言ってることが殆ど言い掛かりだぜ?」

 

 呂公瑾の言葉を茶化すように――ガラの悪いボブカットの美女、RU支部の副代表、ジュリア・ロマノフは、六角形のテーブルに足を上げながら言う。

 

「確かに、コイツ等のやらかしたことで世界は面白く滅茶苦茶になったが、それは昨夜にネタバレを食らってたことだろう?」

「その通りだ、呂公瑾。我々は昨夜の内に彼らの計画を明かされていた。その上で、君もその場で反対意見を出さなかった筈だ」

 

 ジュリアの言葉に――更に屈強な体の金髪オールバックの白人、US支部の副代表、ドナテロ・K・デイヴスが、呂公瑾を諫めるように言う。

 歴戦の国防長官の沈着な瞳と、ロシアンマフィアの凶悪な嘲笑に、思わず中国の年若き神童は息を吞みかける。

 

 これだ――と、呂公瑾は思う。

 昨夜も自分はJP支部のトップの二人が構築し、《CEO》が認めたという此度の【英雄会見】に、緊急招集された出席者達の中でただ一人反対を示そうとした――だが、しかし。

 

 圧倒的に発言力がある《CEO》が既に了承の立場を示していること、他国も間接的に巻き込まれるとはいえ直接的に舞台となるのは日本であるということ、そして他ならぬ当事者である日本のトップが作戦立案者であること、そしてその《CEO》と日本のトップ達が旧知の戦友であることなど、様々な理由があるが――何より。

 

 ジュリア曰く、文字通り世界のトップが集まる、この深淵の会議室にて――呂公瑾という少年は、余りにも若かった。

 

 否――呂公瑾の他の出席者達が、余りにも怪物過ぎた。

 

(……いや、本来は、そうでなくてはおかしいのだ。……ここは、世界首脳会談の会議室なのだから)

 

 呂公瑾は、昨夜のその場で、この怪物達を納得させられるだけの代案を提示することが出来なかった。

 彼らの異様な雰囲気に呑まれた――そう言い訳をするのは簡単だが、それを許される立場ではないことを、この神童は既に誰よりも自覚している。

 

 故に、ジュリアとドナテロが言うように、呂公瑾には既に【英雄会見】に対して批判できるような立場ではないのだ。ここで更に感情的になって非難することこそ、この会議室に置いての己の発言力を無駄に貶めることに他ならない。

 

「…………ッ」

 

 ようやく手に入れた、この会議(ヘキサゴン)への出席権――CN支部の副代表という立場。

 手放すわけにはいかない。だが、このままでもいけない。

 

 自分は、ただこの椅子に座ることが目的で、現場を離れたわけではない。戦場を変えたわけではない。

 あの誓いは――あの約束は、この怪物の巣窟で、この怪物達を御することで。

 

 世界を救ってこそ――果たされるものなのだから。

 

 呂公瑾は、そう己を奮起させ、再び口を開こうとして――。

 

『――下らないじゃれ合いは、止めろ。君達は、私に何度同じことを言わせるつもりだ』

 

 空気を凍らせるように、仮面の存在が機械音声を発した。

 

 一切の表情が浮かがえない紫紺のスクリーンの中から、この世界で最も暗く、黒い会議室を見渡す《CEO》。

 世界の代表者たる怪物達は、その存在の言葉に粛々と従うように、口を閉じ、皆一様に仮面の存在へと――その隣の虹と羽を組み合わせた紋章(シンボル)へと目を向ける。

 

 五つの支部に二つずつ用意された、その席(EU支部のみ二つの席の後ろに神父が立っているが)は――世界を征服する組織の頂点たる《CEO(仮面の存在)》と、音声のみとはいえ神の遣いたる《天子》と言葉を交わすことを許された証である。

 

 昨夜とは違い、戦士(キャラクター)ではない支部の代表者達もモニタ越しに参列している正式な会議だ。

 

 戦士ではない彼らは、扉も窓もないこの会議室に入ることは出来ない。

 逆にいえば、それでもモニタによる参列を許すのは、彼ら各支部の代表者は、《CEO》を除く『主要幹部』と同様に、黒球(ガンツ)によって命を握ることが出来ていないにも関わらず、ある程度の友好関係を築くしかないと、《CEO》と《天子》に認めさせた程の大傑物であるということだが――閑話休題。今は、それを語るべき時ではない。

 

 正式なメンバーを招集した、世界の行末を決める【六角形会議(ヘキサゴン)】――今宵の議題は。

 

『昨夜、小吉達によって開かれた【英雄会見】。それにより、我々CIONは【計画(プラン)】の大幅な修正が必要となった。今宵は君達と、その修正の方向性について語り合いたい』

 

 小町小吉、蛭間一郎によって開かれた――【英雄会見】

 それにより、世間は、世界は――『星人』、『戦争(ガンツミッション)』、そして『戦士(キャラクター)』の、詳細は知らずとも、存在は知ることとなった。

 

 日出ずる国にて、白日の下に晒された――夜の世界。夜の地獄。

 

 本来ならば、終焉(カタストロフィ)のその日まで隠し通す筈だった闇の一部が明かされた――これまで、多少なりとも発生したアクシデント、それによる修正を繰り返してきた『計画(プラン)』だが、ここに来て、これまでにない、かつてないほどの大幅な修正が必要となった。

 

『だが、昨夜も言った通り、想定外の時期だったが、想定内の事態だ。いずれこうなることは分かっていた。いずれこうならなければならないことは分かっていた。【計画(プラン)】の最終フェイズに変更はない』

「しかし――幾つかのフェイズを飛び越えた事態になってしまった。それは確かだ」

『然り。故に、飛ばしてしまった段階(フェイズ)の修正が必要だ。ここにいる者達ならば、それが可能だと私は確信している』

「カッ、部下に丸投げたぁ、頼もしい上司だな」

『私は君達を部下だと一度も思ったことはない。頼りになる仲間だと常に思っている』

 

 物は言いようだな――と、ジュリアは吐き捨て、昨夜のように報告会とならないだけマシだろう。今度は一から我々の意見を聞いてくれるというのだから――と、ドナテロは静かに言う。

 

「……君はどうだ? まだ、何か言い足りないことはあるかね?」

「……起きてしまったことは仕方がない。これからのことについて議論を交わした方が建設的だということは、自分も理解している」

 

 会議とは、そういう物であるべきなのだから――と、グレン神父の言葉に、呂公瑾はぽつりと返した。

 

「――感謝する」

 

 その言葉に、小町小吉は頭を下げて答えた。

 

『おっと、これ以上、我が同盟国たるジャパンの英雄に頭を下げさせるわけにはいくまい。早速、会議を始めようじゃないか。世界の舵取りは、こうして机の上での言葉による話し合いで行われるべきだ。それが平和な世界というものなのだから。そうだろう、我が友人達よ』

 

 US支部代表、アメリカ合衆国大統領、エドワード・サンダースはそう言って真っ暗な会議室を見渡す。

 

『その通りだな、合衆国大統領。言葉で解決できるのであれば、それに越したことはないと(オレ)も思う。黒は嫌いな色だが――血のような赤は、もっと嫌いだ』

 

 RU支部代表、名も知れぬ無色透明な少年は、嫌いだという血のような赤色の瞳を押さえながら呟く。

 

『けれど、残念ながら、世界を守る為には血を流すことも必要です。流血のない世界を作り出す為には、必ず流血が伴うのも、また確か――』

 

 EU支部副代表、血のように赤い聖者着を身に纏う、世界でただ一人の枢機卿たる修道女、アリアナ・ガンダリンは、そんな世界を誰よりも憂うかのように、悲しい瞳で手を組み祈りを捧げる。

 

『しかし、だからこそ――流れる血は、出来得る限り少なくするのが、我々の務めなのじゃ。儂のような老い先短い命ならばともかく、今もこの世界で生きる若者達に、出来る限り多くの幸いを残し、生を全うさせる為にも。我々は、世界に未来を届けなくてはならない』

 

 EU支部代表、この世で最も神に近いとされる存在、真理を届ける教会の長たる教皇であり、世界で最も神に近い国の統治者でもある老人、アルフォース・オリーヴァ・ガンダリンは、文字通りの白眉に閉ざされようとしている瞳で言う。

 

『で、あるからこそ。であればこそ、だ。まずはあなた方の意見を、私は聞きたい。かつて終焉から未来を勝ち取り、世界に平和を齎した実績のある、御身らに。英雄たる存在に。此度の終焉へ、我々はどう立ち向かっていくべきなのか? この凡人に、どうかご教授願いたい』

 

 CN支部代表、国家主席にすら絶大なる影響力を持つとされる、中華随一、否、世界随一の巨大コンツェルンを手中に収める現代の大商人、炎維新は、張り付けた仮面のような笑顔を、日本に、そして世界を支配する仮面に向けた。

 

「……ならば、まずはうちから、再び草案を提示しよう。あのような失態を犯してしまった直後で恐縮だが、だからこそ、それを取り返す為に、ない頭を捻って必死になって考えた。どうか聞いてくれ」

 

 JP支部代表、雑草育ちの内閣総理大臣、孤立無援の若武者政治家、蛭間一郎は、そう言って席を立ちながら語り始める。

 

『この一郎の意見には、私は何も関知していない。だからこそ、遠慮なく意見をぶつけ合って欲しい。一からの修正案の提示も大歓迎だ』

 

 そして、仮面の男――《CEO》が、そう言って聞きの姿勢に入ると。

 

 隣の虹と羽の紋章を浮かび上がらせた画面が――CIONの象徴的頂点である《天子》の手製の機械音声が響いた。

 

『それじゃあ、有意義な六角形会議(ヘキサゴン)にしよう』

 

 こうして、この世で最も暗く、最も黒い場所にて。

 

 今日もまた、世界を動かす会議が始まった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 日本国――千葉。

 

 ぼんやりと朝日が差し込んで、ゆっくりと部屋の全容が明らかになっていく、薄暗い白の中。

 

 一人の濁眼の社畜と、一人の眼鏡の社畜が、並んでソファに腰掛け座っていた。

 

 コーヒーの湯気も、朝食の香りもない――冷え切った空間で。

 何の喧騒にも満ちていない、ただ静寂だけが支配する場所で――何もない我が家で、二人はぼんやりと、何も言わずに天井を眺めていた。

 

「…………静かね」

「…………あぁ」

 

 二人がこの家に居る時、記憶にある殆どがこのような無音の空間だった。

 子供達が寝静まった頃に帰宅し、子供達が目覚めるよりも早く出勤しなくてはならない社畜達は、子供達の寝息だけが聞こえる支配するこの家で、いつも出来る限り音を立てずに行動しなくてはならなかった。

 

 ああ、そうだ――いや、違った。

 この場所は、この我が家は、このような無機質な無音の空間ではなかった。

 

 子供達の寝息で、子供達の息遣いで満ちた、もっと幸せな静かさの空間だった。

 このような痛いくらいに耳に突き刺さる無音では、このような冷たい場所では有り得なかった。

 

「…………寒い、わね」

「…………そうだな」

 

 温度という面でいえば、帰ってくる時も出て行く時も真っ暗だったあの頃よりも、朝日が差し込んでいる今の方が暖かい筈なのに――今のこの家は、やっと帰ってこれた筈の我が家は、まるで火が消えたかのようだ。

 

 暖かい火が。かけがえのない温もりが――失われた、抜け殻のようだ。

 

 あれほど帰りたかった、温もりに溢れていた空間は、もうどこにもないのだと――そう突き付けてくるかのようだった。

 

「……あの子達が……小町が…………八幡が……この場所を――“家”にしてくれていたのね」

 

 眼鏡の社畜は――比企谷雨音(あお)は、そう呟きながら隣に座る男の肩に、そっと己の頭を預ける。

 まるで寒さに震えるような、温もりを求めるような妻の行動に――預けられた男は、その肩を抱くようなことはせずに。

 

「………………あぁ」

 

 ただ、何かを吐き出すように、何かを諦めるように――けれど、どこか諦めきれないように、そう呟いて。

 

 そして、胸いっぱいの敗北感を、まるでなくならないそれを、ハッと笑って、諦めて吸い込むように――冷たい我が家の空気を、再び胸の中に取り込んで、言った。

 

「――ここはもう、“我が家”じゃねぇな」

 

 そう言って、そう吐き捨てて、濁眼の社畜は――比企谷晴空(はると)は、ソファからゆっくりと立ち上がった。

 

 雨音も「……そうね」と、その背に続き、眼鏡の奥の瞳を細めて、ずっと帰りたかった場所を眺める。

 

「……八幡も…………小町もいない……ここはもう、帰る場所じゃないわね」

 

 晴空は、そんな雨音の呟きを聞きながら、床に置いていた鞄を背負う。

 どれだけ掻き集めても、もう帰らないこの場所から、持ち出すべきと判別した大切なものは、鞄一つに収まる程度だった。

 

 それは、それだけ――この場所に置いてあった思い出がそれだけだと、目に見えて形になったようで。

 晴空は、再びハッと笑いかけるが――それを呑みこみ、雨音に言う。

 

「そんじゃあ、行くか。――仕事に」

 

 いつも通り、身を粉にして、命を懸けて――戦争に行こうと。

 

 社畜は、瞳を濁らせて、しょうがねぇなと溜息を吐いて、朝日を浴びながら出勤する。

 

 生きる為に――働く。

 

「……そうね。八幡達のオリエンテーションも、結愛達に任せてしまったのだし。私達がサボるわけにはいかないわね」

 

 雨音は、そんな父親の背中を見せる晴空に、小さく力無い微笑みを向けながら、P:GANTZを取り出そうとすると――。

 

 

「にゃー」

 

 

 雨音の足元に、一匹の猫が寄り添っていた。

 まるで温もりを分け与えるかのように、雨音のすらっとした足に己の頭を擦り付けている。

 

「……そうね。アナタが居たわね」

 

 雨音は膝を折ってしゃがみ込みながら、ゴロゴロと甘えてくる飼い猫の頭を撫でる。

 飼い猫といえるほどお世話をしてこなかったが――比企谷家のペットであるカマクラは、しっかりと雨音には懐いており、そして当然のように晴空には懐いていなかった。

 

「……ハッ。相変わらず、可愛くねぇ奴だぜ」

 

 久しぶりの大黒柱の帰宅だというのに、一切寄り付いてこない、比企谷家のカーストランキングをきちんと見抜いているお猫様に、晴空が溜息を吐いていると、雨音はクスッと微笑ながら考える。

 

(……そっか。昨日の時点では、八幡は私達がCIONのメンバーだと知らなかったから……)

 

 カマクラをそのまま家に置いていたのだろう。

 普段滅多に帰らない晴空と雨音だが、それでも小町の死を知れば、何を差し置いてでもこの家に帰ってくるだろうと考えて。

 

 雨音は、そんな、きっと自分達と同じく、小町を失ったこの家の冷たさの中に居たであろう、昨朝の息子のことを考えながら――カマクラを抱き上げて。

 

「…………本当は、ずっと……あなたを――ただの(ペット)のままにしておいてあげたかったけど」

 

 静かに、微笑みを消して、雨音は――抱き上げたカマクラと目を合わせて、呟く。

 

「――『安全装置(セーフティ)』を解除するわ。アナタを、比企谷家(ここ)から解き放つ」

 

 瞬間――カマクラがピタッと静止し、その瞳の、色が変わる。

 

「……あなたは自由よ。好きに生きて。……今まで、小町と八幡と、一緒にいてくれて……本当にありがとう」

 

 カマクラは、しばし、じっと雨音と見つめ合っていたが――やがて、「……にゃー」と鳴くと、光に包まれ――その姿を消した。

 

「…………いいのか? 勝手にこんなことをしても。虹鳴も天子も、何言うか分かんねぇぞ」

「…………いいのよ。……だって――」

 

 晴空は、鞄を肩に掛けながら雨音にそう言葉を掛ける。

 雨音は、そんな晴空に向かって振り返りながら――いたずらっぽい笑顔で、けれど、どこか涙を堪えるような表情で言う。

 

一匹(ひとり)くらい……家族の中で、一匹(ひとり)くらい……このふざけた『物語』から……自由になって欲しいじゃない。……誰の思惑にも乗らないで……誰の陰謀にも掻き乱されないで……自分の意思で、自由に生き(動い)て欲しいじゃない」

 

 晴空は、そんな笑みを浮かべる雨音に、瞳に雫を浮かべる雨音に――ゆっくりと近づいて、ゆっくりと抱き締めた。

 

「…………」

 

 そして、雨音は、晴空の耳元に口を寄せて、ほうと息を吐いて、こう呟く。

 

「――ねぇ、晴空。戻ったら」

 

 一緒にシャワーを浴びましょう。

 

 雨音は、甘えるように、そう言った。

 

 そして、二筋の電子線が注がれ――晴空と雨音は、帰りたかった我が家から、帰るべき戦場へと姿を消えた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、誰もいなくなった――比企谷家の、すぐ外で。

 

 電柱の上に立つ一匹の猫が、「――にゃー」と、小さく鳴くと。

 

 その猫は、ひょいと電柱から飛び降りて――空中で、その姿を跡形もなく消し去る。

 

 

 そして、その場所は――誰もいなくなった。

 

 父も、母も、息子も、娘も、猫も――誰もいなくなった。

 

 

 この家に、ただいまという家族も、おかえりという家族も、もう誰も――いない。

 

 日常を失った家族は、非日常を日常とし――今日もそれぞれ、戦争に向かう。

 

 

 にゃーと、どこからか、寂しげな猫の鳴き声が響いた。

 




こうして、日常パートを失った“物語”は、それでも止まることなく進み続ける。

終わりに向かって、加速し続け――家族は今日も、戦争に向かう。


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Side和人――⑤

魂とは、何だと思う?


 

 その大樹は、まるで世界そのものを支えている柱であるかのようだった。

 

 幹の直径――四メル。全長はおよそ七十メルもあるらしい。

 ついこの間、身長が一メル半を超えたばかりの少年にとって、それは正しく化物そのものだった。

 

 いや――柱というよりは、これは屋根に近いか。

 異様な体格に相応しい雄大な枝葉を持つこの大樹は、降り注ぐ陽神の恵みの一切を貪り、少年にただ薄暗い闇ばかりを齎す。

 

 本来ならば、夏らしい気持ちのいい青が広がっている筈の空は――今の少年にはまるで見えない。

 こうして僅かばかりの逃避を行っている間にも、掌を傷だらけにしながら刻み続けた切れ目を、大樹はみるみる内に回復させていく。そして、また――少年から自由が遠ざかっていく。

 

「……………」

 

 それを透き通った翡翠の瞳で見詰めていた少年は、亜麻色の柔らかい髪から垂れる汗を拭い――斧を握った。

 

 重い――と、少年は思う。

 竜の骨で出来ていると言われる由緒正しきこの斧を、これほど重く感じるようになったのはいつのことだろうか、と。

 

 まだ、たったの一年だ。

 朝日が昇り、夕陽が沈むまで――この鉄の壁が如き大樹の幹に、ひたすらに竜骨の斧を叩き付け続ける毎日。

 

 この《天職》を命じられてから――只管に、愚直に。

 先人達が三百年もの歴史を掛けて、未だ四分の一にしか到達し得ない果てしない道のりを、小さな体で歩み始めてから。

 

 まだ――たったの一年。

 

「………………」

 

 僕は、何をしているんだろう――と、少年は思った。

 

 この《巨大樹の刻み手》という《天職》から解放される条件は、ただ一つ――この悪魔のような大樹を、この手で斬り倒す、それだけだ。

 三百年以上、およそ六代を掛けて歩み続けてきた道のり、その果てに到達することだけだ。

 

 それはつまり、十一才の己の一生は、この大樹に徒労を叩き付けて終わる――そういう《天職》だと、そうして費やされる《天命》なのだと、そう決定したということだった。そう終了したということだった。

 

「………………」

 

 汗で滑る斧の柄を握り直す。

 

 後、何度、この斧を振るえばいいのだろう。

 後、何度、無限の彼方に向かって一歩を進めばいいのだろう。

 

 斧を一度振るう度に――斧が重くなっていく。

 一歩足を進める度に――足が、鉛のように、重くなっていく。

 

「――――ッ!」

 

 ガキンッ、と。

 まるで八つ当たりのように振るった斧は、大樹の切れ目のほんの少し上の樹皮に命中し――少年の腕から斧が弾き飛ばされた。

 

 甲高い音を立てて転がっていく斧を、だが、樹皮と同じく己が瞳の中にも火花を瞬かせた少年は、己の身体を貫く電撃のような痺れによって動けない。

 

 涙が出た。

 痛くてなのか、情けなくてなのか――どうしてなのかは、分かることを拒んだ。

 

「………………っ!」

 

 ここは――暗い。

 

 夏なのに――とても、寒い。

 

「――おいおい、一年もやってるのに上達しないな。見てろ。こいつはこうやって振るうんだ」

 

 すると、暗い影の中から、白い斧を拾い上げた――黒い少年が現れた。

 

 翡翠の瞳に涙を浮かべる亜麻色髪の少年の横を通り過ぎ「ちょっと下がってろ、危ないから」と言って下がらせ――にやりと笑って、斧を握り、振り上げ、叩き下ろす。

 

 単純ながらも熟練の技術を必要とする作業だ。

 

 呼吸、拍子、速度、体重移動。

 ほんの少しでもずれると先程の亜麻色の少年のように容赦ない反撃を食らうことになる一連の動作を、だが黒い少年は、粗削りながらも見事にこなして――斧の刃を大樹の切れ目へと叩き付ける。

 

 高く澄んだ、心地よい音。

 それは、竜の骨で作られたとされる重厚な斧の威力を、余すところなく発揮した証明の響きだった。

 

「――よっと。どんなもんだ?」

 

 黒い影の中、白い斧を担いで得意げな笑顔と共に振り返った――黒髪、黒瞳の、黒い少年の明るい笑顔に。

 

 亜麻色の髪に翡翠の瞳の少年は、呆然と口を開けながらも――その表情を、優しい苦笑へと変えて。

 

「……そりゃ、あれだけ長いことサボればね。休憩は十分かい? ――相棒」

 

 亜麻色髪の少年は、黒い少年の肩を突きながら言う。

 黒い少年は大げさに痛がりながらも、表情に微笑みを絶やさなかった。

 

 すると――薄暗い影の向こうから。

 

 夏の日差しに照らされる――光の中から。

 

 眩い金色を輝かせる髪と、空と同じような青色のスカートの少女が。

 

 籐かごを持った手を振りながら、二人の少年に向かって呼び掛けた。

 

 

 

 それは、とても暑い夏の日の思い出。

 

 知らない筈の、だけど決して忘れられない思い出。

 

 

 美しく輝くその世界の情景は――まるで誰かの夢であるかのようで。

 

 

 少年と、少年と、少女は。

 

 いつまでもこんな日が続きますようにと、まるで夢見る子供のように願った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「おはよう、キリトくん。いい夢は見られたかな?」

 

 目覚めとして聞くにはおよそ最悪の部類に入る声によって、夢からの覚醒を促された少年は、眩しい日差しを目に当てられたかのような不機嫌そうな表情で緩慢に起床した。

 

「…………菊岡さん?」

 

 余程、深い眠りに着いていたのか――中々完全な覚醒に至らない頭に不思議な感情を抱きながらも、上半身を起こし、右膝を立てて、額を手で押さえながら、思考を無理矢理に加速させ、纏めていく。

 

 まず――自分が横になっていたのは、あの体を包み込むようなジェルベッドだった。

 つい数時間前までのALO会談において、そしてかつてGGOでのBoB参戦時の時において、幾度となく世話になった横になる身体の負担を減らす器具。

 

(…………病院?)

 

 辺りを見渡す。

 ここは――病院ですらない。

 

 明るい陽射しなど何処にもない。

 只管に薄暗い、怪しげな密室空間だった。

 

 病院というよりは――まるで、秘密の研究所のような。

 

「……菊岡さん。ここは何処だ?」

「どうやら大分意識がはっきりしてきたようだね」

 

 自分が未だ黒いスーツを着用していること、そして制御部に触れてそれが機能を十全に発揮できる状態であることを確認しながら――桐ケ谷和人は、自分が手術台に横たわる患者ならば、まるでその臓物を観察する闇医者のように己を見下ろす男に向かって、鋭く睨み付けながら問い掛ける。

 

 ごく普通のビジネススーツを纏った、この薄暗い空間がまるで生息地であるかのように良く似合う男は――菊岡誠二郎は、黒い少年からの質問に、両手を広げながら言った。

 

「ようこそ――RATH(ラース)へ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「…………ラース?」

 

 和人は菊岡の言葉に眉根を寄せる。

 初めて聞く単語――だが、どこかで、聞き覚えがあるような……。

 

 菊岡は、そんな和人の様子を真意の伺えない微笑みを持って眺め、微笑みを消して真剣な表情を作った後、和人に現状の説明を開始した。

 

「桐ケ谷君、君はあの【英雄会見】の後、他のメンバーや小町防衛大臣らと今後の話し合いをした――その直後、突如として意識を失って倒れたんだ。覚えているかい?」

「……俺が、倒れた?」

 

 和人は額を押さえていた手で己の髪を掴みながら、より深く記憶を反芻する。

 

 ……覚えている。

 確か、あの会見の後、自分達は別の一室で再び集められ、大まかな今後の計画を知らされ――真なる終焉の日(カタストロフィ)の日付を知らされ、そして決断を迫られた。

 

 日常を切り捨て、非日常に身を委ねるか――それとも、残された僅かな時間だけでも、日常を守り抜くか。

 

 そして自分は――完全に日常を切り捨て、非日常に立ち向かう決断をした。

 かつて、はじまりの街にたった一人の友人を置き去りにし、咆哮と共に次の街へと走り出した、あの時のように。

 

 二年もの間、己が胸を掻き毟り続けたあの時と同じ決断を、キリトは――桐ケ谷和人は、選択した。

 

(……結局、これが俺という人間の、いくら取り繕っても変えられない本質で――本性なんだろうな)

 

 己の醜悪なエゴイズムを突き付けられながらも、和人は更に記憶を掘り下げる。

 

 その後、自分達四人は、各自に別れて解散し、自宅へと『転送』される手筈になっていた。

 

 自分だけは、更に小町防衛大臣と共に首相執務室に移動し、蛭間総理大臣を交えていくつか打ち合わせをしたが、それを終えて――菊岡と個人的な、具体的には明日奈(アスナ)達に対してどのように説明するかということに対する打ち合わせをするといった段階で、自分の記憶が途切れていることまで思い出した。

 

「…………そうか。俺は、あの時――」

「ああ。もう既に、時刻は朝となっている。一晩、それはもうぐっすりと眠っていたよ」

 

 きっと、色々あって張り詰めていた緊張で、精神(こころ)が限界だったんだろうね――と、菊岡は言う。

 確かに和人は、一昨日の吸血鬼・氷川の襲撃から始まり、ゆびわ星人戦、オニ星人戦(池袋大虐殺)、ALOでの菊岡(クリスハイト)との対談、会見前の総理大臣・防衛大臣との首脳会談、そして【英雄会見】と、極限まで精神を緊張させる修羅場の連続だった。

 

 それらの合間にも、睡眠どころか碌に休息すら取っていなかった。

 気絶するように倒れてもおかしくはない――しかし、よりにもよって、菊岡(この男)の前でそんな醜態を晒してしまったことは痛恨だったが。

 

「……そうか。余計な手間を掛けさせて悪かったな、菊岡さん」

「なに、君は思ったよりも軽かったからね。そんなに手間は掛からなかったよ。これからはVR(バーチャル)じゃなくて自分の身体(リアル)で戦うんだから、もう少し鍛えた方が――」

「それと、次の質問なんだが――」

 

 和人は、菊岡のへらへらとした表情からの言葉を一蹴し――両断し、鋭く見据え、右手の親指を己の背後に突き付けながら言う。

 

「――ここは何処だ? そして、これは何なんだ?」

 

 己が横たわっていたジェルベッド――その背後には、直方体があった。

 

 剥き出しのアルミ板により構成された――正しく、機械。

 薄暗く、無機質な周囲の様相も相まって、まるで工場機械のようだった。

 

 直方体の下部には、怪物の口のようにぽっかりと空いた穴がある。

 それは己が横たわっていたジェルベッドの延長線上にあり、病院にあるMRI(核磁気共鳴画像)装置のように、この中に体を呑み込ませて使用するのだということが容易に想像出来た。

 

 恐らくは、己が目覚めるまで、そのようにして使用していたであろうことも――使用されていたのだということも。

 

「――答えろよ、菊岡さん。本人に無許可で実験台にしたんだ。それを聞くくらいの権利は、戦士(キャラクター)の俺にだってあるよな?」

 

 菊岡は、一度わざとらしく溜息を吐いてから「……事前に説明しなかったのは謝る。だけど、君は気絶していたし、これを使うのが一番手っ取り早かったんだ」と肩を竦めてから。

 

「それに、遅かれ早かれ、君にはこの研究に協力してもらおうと思っていたからね」

 

 と、嘯く。

 和人の視線が見る見るうちに鋭くなっていることに気付いていながらも、菊岡は尚ももったいぶるように――けれど、どこか真っ直ぐに、どこかを見詰めながら言った。

 

 

「キリト君――君は、魂とは、何だと思う?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 桐ケ谷和人のことを、再び『キリト』と呼称しながらの質問に、だが和人は僅かに目線を細めながらも、その質問を噛み砕くように繰り返した。

 

「――魂?」

「心――と、言い換えてもいい」

 

 魂――心。

 およそ、この物々しく科学的な空間に、そして目の前の男に相応しくないように思える単語に対する問い掛けに、和人は訝しく思いながらも、己の答えを静かに答える。

 

「――人の……記憶……感情……精神……」

「そうだ。そのようなものが一般的な答えで、ポピュラーな認識だろう。それを踏まえて更に質問なんだが――人間の心、魂、そのようなものがあるとして、それはどういう形で、人間の何処にあると思う?」

 

 和人は、己の胸を無意識に掴みながら、菊岡を見上げる。

 菊岡は、まるで銃口を突き付けるように、己の蟀谷(こめかみ)に人差し指を当てながら言った。

 

「――脳だ。人間に心というものがあるとすれば、それは脳にあると、人間(ぼくら)はずっとそう思いながら生きてきた」

 

 和人は鋭く、切っ先の如き眼差しを向ける。

 菊岡は、真意の伺えない微笑みで、それを飄々と受け止めながら続けた。

 

「だが、それを証明出来た人間は、どの時代のどんな国にも居なかった。人間の思考や感情が電気信号による伝達現象であるということを解明し、記憶のメカニズムをも解明しても――それが心だと、そう証明出来た科学者も哲学者も存在しなかった」

 

 銃口を下ろすように、菊岡は手を下ろし――そして。

 

 菊岡は背後を振り向き――このどこかの一室のように無機質な空間の、中心に鎮座する黒い球体に向かって、語り掛けるように言った。

 

 

「だが、十年前――《天子》は、【真理】によって、『心』は……『魂』は、約21グラムの物質だという答えを授かったんだ」

 

 

 和人は僅かに瞠目し、菊岡のその視線の先を見詰める。

 菊岡は、薄暗い室内に、ぼんやりと浮かび上がる黒球に――感情の見えない瞳を向けながら。

 

「魂の、心の――存在が証明された瞬間だった」

 

 和人はその視線を菊岡に移す。

 菊岡は、肩を竦めながら、だが和人に背中を向けたまま、おどけるように軽い口調で言う。

 

「僕は、とある機関で心の研究のようなものを長年続けていてね。……まあ、正確には違うんだが。とにかく、人間の魂のようなものを、科学的に研究していたんだ。……だからこそ、衝撃だったよ。まるで検索エンジンを使って音声検索するみたいに、ポンと答えを無機質に齎されたんだから――それに、その【真理】が正しいことは、少なくとも【真理(それ)】が……魂の、心の存在を正確に認識し、自在に扱っていることは歴然と証明されている」

 

 ゆっくりと、菊岡誠二郎は振り返った。

 桐ケ谷和人へ――漆黒の戦闘スーツを纏った、“黒い球体(GANTZ)戦士(キャラクター)”である和人へと、その感情の伺えない瞳を向ける。

 

「《天子》は、【真理】からの神託によって『黒い球体(GANTZ)』を作り出したそうだ。……そして、【真理(それ)】が齎した『黒い球体(GANTZ)』は、()()()()()()()()()()()()()()戦士(キャラクター)を、いとも容易く量産している」

 

 それこそが、【真理】の唱える心の理論が、魂の存在証明が正しいことの何よりの証拠だ――菊岡は言った。

 

 和人は――真正面から、お前は作り出された複製(コピー)だと、そう言われていると同然の言葉を。

 

「…………」

 

 動じず、ただ拳を握り締めるだけで、真正面から受け止めた。

 

「――言葉が過ぎたね。けれど、気にすることはない。肉体を構成する物質も、魂を構成する物質さえも同質な複製(クローン)を、果たして複製する前のそれと別個体(べつじん)とするのか否かというのは、遠からず内に全ての人類が、当事者として直面し、議論を尽くされることになるであろう論題だからね」

 

 少なくとも僕は、君を初めて出会った時からずっと継続して、同じ桐ケ谷和人(キリト君)だと思って接しているよ――と、慰めなのか本心なのか分からない表情で告げられた言葉を、和人はやはり変わらぬ厳しい表情で受け流して「……そんなことよりも、菊岡さん。話がまた無駄に壮大に逸れてるぜ」と、鋭い眼差しと共に問い直す。

 

「俺は、この場所と、この機械について聞きたいんだ。俺は今度は一体、どんなふざけた人体実験に巻き込まれたんだ?」

「すまない。だが、それらの質問に答える上で、『心』と『魂』は避けられない概念なんだ」

 

 菊岡は表情を苦笑に変えて言う。

 

「とにかく、心というものの存在は()()()に証明された。メカニズムは謎に包まれたままだが、その『魂』を扱う術も、CIONは手に入れた。それはとても素晴らしいことだが――このままでは、僕らの長年の研究は価値を失ってしまう」

 

 正確には、完全に失われるわけではない。

 菊岡誠二郎が進めていた『研究』は、いわば『心』を持つ無人兵器を作製することにある――心の研究は、その為のプロセスに過ぎない。

 

 だが、だからこそ、菊岡の研究には心の()()()()解明が不可欠であり、心の――魂の真理的な存在証明では不十分なのだ。

 必要なのは、解答ではなく、解法――心を扱う技術そのものなのだから。

 

「だから、僕達は真理的に証明されたそれらを、科学的に証明しようと考えたんだ。存在するのは証明された。ならば、後はそれが人間の身体の何処に、どのような形で存在するのかを突き止めて、科学的に運用できるようにすることを目指した」

 

 不親切なことに、【真理】はその存在証明と、それを扱う機械はプレゼントしてくれたけど、それらの仕組みに関する教科書(トリセツ)は付属してくれなかったからね――と、菊岡は肩を竦める。

 

 それは一般家庭に家電を贈るようなもので、どういった仕組みで動いているのかはよく分からないが、何となく扱うことは出来るといった程度の――だが、恐らくはそれだけでも、受け手の身の丈に合わない破格の贈り物だった筈。

 

 大部分の人間は、それだけで満足しているのだろう。恐れている者さえもいるだろう――人間には過ぎた代物だと。

 

 しかし――それでも。

 人間という知恵の悪魔の中には、未知や謎を前にしたとき、それを暴こうと手を伸ばしてしまう者達もいる。

 

 それが、科学者であり、研究者という人種だ――それが、明らかに人の身に余る所業だと理解していても。

 知識欲の前には容易く人間性さえ捨てて、飢えを満たすこと以外考えられない獣と化す。

 

 和人は、そんな化物を見詰める瞳で菊岡を見据える。

 心という物を人為的に操ると堂々と宣言する、薄暗い闇の中で微笑む怪物を。

 

 菊岡は、和人のそんな視線に気付いていながらも、仮面のような不変の表情のまま続けた。

 

「そして――僕らは、そんな中でとある一つの仮説に目を付けた。それは――」

 

――量子脳力学。

 

 菊岡が語るそれは、前世紀、とあるイギリスの学者が著書の中で提唱した、脳の情報処理に関する一説。

 

 要約すると、こうだ。

 脳を形成する脳細胞には《マイクロチューブ》と呼ばれる中空の管が骨格として存在し、その中には光子が封じ込められている。

 この光の揺らぎこそが、人間の心の本質であるという理論である。

 

「――僕らは、これこそが21gの心の正体だと仮定した」

 

 脳の中を満たす光――それこそが、心……人間の魂と呼ばれる物質であると、目の前の菊岡誠二郎は語る。

 和人の鋭い視線を受けながら菊岡は、そのまま真っ直ぐに、和人の背後の巨大な直方体を指差した。

 

 

「そして、この機械(マシン)こそが、その光子の集合体――僕らは《フラクトライト》と呼んでいるが――にアクセスする為の次世代フルダイブマシン《ソウル・トランスレーター》だ」

 

 

 和人は、今度こそ、無表情を崩して瞠目し、開口した。

 

 そのままバッと背後を振り向き、己を咥え込んでいたであろう銀色の直方体を見上げ、呆然といった様相で呟く。

 

「……フルダイブ……マシン……だと――これが?」

 

 確かに、初代フルダイブ実験機、かのナーブギアの前身のマシンも、当初はこれほどの大きさだったらしいとは聞いたことがあるが――だが、何故だ?

 

 次世代フルダイブマシンとやらが、どうして此処に? 菊岡誠二郎の元に?

 さっきまで得意げに話していた心や魂と何の関係がある? ガンツと何の関係が?

 

 心と呼ばれる光子――《フラクトライト》にアクセス? 《ソウル・トランスレーター》?

 

 分からない――ここは、一体なんだ? これは、一体なんだ?

 

「――――ッッ!?」

 

 菊岡誠二郎は、一体何を企んでいる? ガンツは、CIONは、一体何を未だに隠している?

 

 これから、終焉へと向かうこの世界で、一体何が起きようとしているんだ?

 

「――ッ! 菊岡さん、アンタは一体――」

「これは――この、《ソウル・トランスレーター》は」

 

 和人が振り向き様に問い詰めようとするのを遮るように――菊岡は。

 この薄暗い空間に溶け込ませるような声で、あの微笑みのままに静かに言った。

 

「かつて、あの『茅場昌彦』がプロトタイプを作成し、そして己が理想の完成形として追い求めたとされる――彼の夢の終着点となる筈だったマシンだよ」

 

 今度、こそ。

 桐ケ谷和人は――かつて、キリトだった少年は、絶句した。

 

「……………な、」

 

 喉が枯れ果てたように、言葉が出ない。

 生唾を呑み込むが、全く渇きが癒えない。まるで張り付いたかのように気道が開かない。

 

 衝撃が――脳を打ち抜く。

 そんな和人に、菊岡は銀色の直方体を見上げながら、ただ一人に向かって淡々と言った。

 

「魔王『ヒースクリフ』が、勇者『キリト』に敗れた後、自身の脳をスキャンして自殺したことは知っているね? 何を隠そう、その時に使われたマシンこそが、この《ソウル・トランスレーター》のプロトタイプだったんだよ」

 

 魔王の命を奪った機械(マシン)

 魔王が夢を託した機械(マシン)

 

 茅場昌彦の棺桶であり、方舟となった――終着点。

 

 それが――《ソウル・トランスレーター》。

 VRマシンの――いや、茅場昌彦の、夢想の完成形。

 

「この機械は《メディキュボイド》を原型として作られているからね。医療目的での使用も可能なんだ。あの『会見』の直後だったから、病院に運ぶよりも、このマシンによるケアの方が早いと、そう判断した。その為に、君にこれを使用したんだ」

 

 事後承諾となってしまい、結果として人体実験となってしまったことは事実だ。すまない――と、菊岡は和人に頭を下げたが、和人はそれに対し「……下手な建前はよせよ、菊岡さん」と切り捨てる。

 

 病院に運ぶも何も、ここに連れてくる際に、和人に対して『転送』が使われたことは明らかだ。そもそも、そうやって帰宅する手筈だったのだから。

 

 転送が使用可能ならば、家にだって病院だって連れていく気になれば何処にでも瞬時に連れていけただろう。肉体的損傷はそもそも転送自体で復元(かいふく)するし、精神的ストレスも家に帰ってベッドで眠ればいい。それで回復しないのであれば、それこそ《メディキュボイド》を臨床試験として使用している病院へと転送すればよかったのだ。

 

 それをしなかったということは、和人が倒れたことを幸いとし、口実とした為だ。

 菊岡が自身で言っていた通り、彼の中で和人をこの『計画』へと巻き込むのは決定事項だった――後は、遅いか早いかの問題だけだった。

 

「――アンタは、俺に何をさせたいんだ? 菊岡さん」

 

 和人は、片膝を立てながら、彼に背を向けながら――銀色の直方体を見上げながら。

 昨日のALO会談の時と、同じ言葉を菊岡にぶつける。

 

 菊岡は、そんな冷たい瞳の和人に対し、妖しい光を放つ瞳を持って言った。

 

「――君も興味があるだろう? かの天才、茅場昌彦が追い求めた、夢の極地とも言えるマシン、そして『世界』の完成に。……君は、ある日突然、唐突にこの黒い球体の物語に巻き込まれたと思っているのかもしれないが……違う。全ては、繋がっていることなんだ」

 

 桐ケ谷和人が――キリトだった時から。

 かの浮遊城へと囚われたあの日から――否、もしかしたら。

 

 桐ケ谷和人が――キリトとなる、あの日よりも前から。

 あの雑誌を広げ、茅場昌彦という男を知ったあの日から、あの魔王に、あの天才に――憧憬を抱いた、あの日から。

 

 あの背中に向かって、手を伸ばしたあの日から――キリトは――桐ケ谷和人は。

 

「君は、とっくに昔から、この物語の登場人物なんだよ――いや、主役の一人といっても過言じゃない」

 

 菊岡誠二郎は、薄暗い怪しい世界で、微笑みながら言った。

 両手を伸ばして、口元だけが歪んだ笑顔で――求めた。

 

「助けてくれ、キリト君。君の助けが必要だ。僕らは『英雄』を求めているんだ」

 

 君が、最後のピースなんだ――闇に紛れ、真っ黒に塗り潰されていく菊岡に。

 和人は、どこかへと細められた冷たい眼差しを向けながら、その『計画』の名を、脳に刻んだ。

 

「――『プロジェクト・アリシゼーション』。君には、この計画においても主役を担ってもらうことになる」

「……それで? 菊岡さんは、そのプロジェクトとやらで、結局のところ何を目指してるんだ?」

 

 その壮大そうな計画は、一体どこへ繋がっているのだと。

 

 和人が凍える程に冷たく淡々と返した言葉に、菊岡は真っ黒な火を灯した瞳を隠そうともせずに言った。

 

 

「新天地の、創造だよ」

 

 




魔王の夢の終着点たる場所で、漆黒の英雄は、真っ黒に笑う男の野望に呑み込まれる。


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Side和人――⑥

大丈夫だ、アスナ。俺はずっと、君の傍にいるから。


 

 

 桐ケ谷和人にとって――結城明日奈とは。

 

 果たして、どのような存在なのだろうか。

 

 

 キリトにとって、アスナとは――希望だった。

 

――たとえ怪物に負けて死んでも、このゲーム……この世界には負けたくない。

 

 薄暗い迷宮(ダンジョン)の中に煌めいた、真っ直ぐに伸びる流星が如き剣閃。

 

 その余りにも眩い可能性に――桐ケ谷和人は、キリトは目を奪われた。そして、きっと心も。

 

 自分のような鍍金ではない、本物の輝く才能。

 

 彼女ならきっと、自分では届かない場所にまで辿り着ける。

 

 キリトにとってアスナとは、正しく希望だった。

 

 

 キリトにとって、アスナとは――奇跡だった。

 

――わたしも……わたしも、絶対に君を守る。これから永遠に守り続けるから。

 

 ずっと、他人を拒絶し続け、逃げ続けていた自分に出来た――生まれて初めての、己よりも大切な存在。

 

 孤独を癒し、心を救ってくれた人。心を通わせてくれた人。こんな自分を好きだと、守ると言ってくれた女性。

 

 あの日、心奪われた輝きが、こんな自分を見初めてくれた。

 

 見たこともない景色を見せてくれた。愛してくれた――奇跡だった。

 

 キリトにとってアスナとは、正しく奇跡だった。

 

 

 ならば――桐ケ谷和人にとって、結城明日奈とは――何なのか。

 

――わたしこそ、ゴメンね。……君をずっと、永遠に守り続けるって約束……また、守れなかった

 

 

 結城明日奈にとって、桐ケ谷和人とは――何なのか。

 

 

 

――『俺の命は君のものだ、アスナ。だから君のために使う』

 

 

 

 だから、きっと、もう。

 

 

 一緒には、いられない。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

『――はじめまして。桐ヶ谷和人です』

 

 その少年は、無数のフラッシュが浴びせかけられる中、淡々と口を開いた。

 

 漆黒の近未来的な全身スーツを身に纏い、マイクを片手に語る少年は――その瞳を、真っ黒に染めながら、言う。

 

『――昨夜、池袋において……夥しい程の、血が……流れました』

 

 そんな少年を、彼女達は固唾を呑んで見詰めていた。

 

 テレビ画面の向こう側で、探し求めていた少年が――無数の大人達の前で、俯きながら言葉を紡ぐ姿を。

 

『現在、判明しているだけで死者は数百名……千にも届くかもしれないと。負傷者も含めれば、その人数は――計り知れません』

 

 少女達は、誰一人、ただ一言も発することはなかった。

 

 勝手知ったる少年が、思いを寄せる少年が、ついこの間まで、共に笑い合っていた少年が。

 

 静かに、淡々と――戦場の地獄を語る姿に、何も言うことが出来なかった。

 

『――全ては、自分達の力不足です。……俺達が、守れなかった生命です……』

 

 少女達は――信じられなかった。

 

 あそこに立っているのは、カメラを向けられているのは、本当に自分達が知っている少年なのか?

 

 少女達の疑問を晴らすように――黒い少年は顔を上げた。

 

 それは、少女達の知らない表情(かお)だった。

 

『……今回の事件により、『星人』は隠れ潜むことを止めました。これからは、今までのように一般人に見つからない夜の中だけではなく、人目も憚らずに人間を襲う『星人』も……現れるかもしれません』

 

 それは、自分達の知らない、少年の姿だった。

 

 それは、覚悟を決めた、男の表情だった。

 

 少女達は、皆、静かに――涙を、流していた。

 

『――約束します』

 

 少年は、桐ケ谷和人は――宣誓する。

 

 それは、少女達には――日常(じぶんたち)への、決別の宣言のように聞こえた。

 

『――例え、どれだけ強い敵が相手でも。例え、どれだけ恐ろしい化物が相手でも。例え、どれだけ凶悪な怪物が相手でも』

 

 少年は、剣を握る。

 

 それは日常を捨て、戦場へと向かう剣士の姿。

 

 今、再び、戦争(デスゲーム)への足を踏み入れる――勇者の姿だった。

 

『――この剣で、その全てを斬り祓ってみせると』

 

 桐ケ谷直葉は、綾野珪子は、瞳いっぱいに涙を溜めて嗚咽を漏らし。

 

 篠崎里香は、あの少年が再び、あのような瞳で剣を取ってしまったことに、ゆっくりと瞑目し。

 

 朝田詩乃は、桐ケ谷和人が夜空のように美しい黒剣を掲げる様に「…………馬鹿」と悲し気に吐き捨て。

 

 そして、明日奈は――結城明日奈は。

 

 

『『GANTZ(おれたち)』が――世界を救ってみせる』

 

 

 勇者の決意に、英雄の誕生に、報道陣が沸き立つ歓声の中で。

 

 直葉も、珪子も、里香も、そして詩乃も、この時ばかりは誰も、明日奈の表情を見ていた者はいなかった。

 

 眩いフラッシュに晒され、光の中にいる和人に向かって―――明日奈は。

 

 何も言わず、誰にも言わず、ゆっくりと―――真っ暗な和人の私室へと戻っていった。

 

 

 

 そして――翌朝。

 

 明日奈は、愛娘からのモーニングコールによって目を覚ます。

 

 

 ユイは言った。

 

 キリトの行方が、見つかったと。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 桐ケ谷和人は――否。

 

 かつて鋼鉄の浮遊城を沈め、かつて世界樹の鳥籠を壊し、かつて死に囚われた亡霊を滅し、かつて歌姫の最後の祈りを叶えた――黒の剣士キリトは。

 

 影妖精(スプリガン)としての姿で、剣を背中から下ろし、何の強化効果もない黒い家着を身に纏い。

 たった一人で、輝く湖面と濃緑の常緑樹が広がる絶景に背を向けて、木造の手摺に背を預けて――閉ざされた空を見上げている。

 

 ここは、キリトにとって最も幸福な時間を過ごした場所であり、キリトにとって最も過酷な時間を過ごした場所でもあった。

 今となっては、ここはあくまでその時の場所を再現した模倣空間に過ぎないが――見える景色も、流れる時間も、まるであの時のように穏やかで。

 

(……あくまで、逃避に過ぎないという意味でも……あの時と同じだな)

 

 けれど、例え逃避だとしても、キリトにとって――あの時間は間違いなく幸福と呼べる一時だった。

 

 アインクラッド第二十二層。

 外周部に近い南西エリアの、森に囲まれ、湖にほど近い場所にある――小さなログハウス。

 

 キリトは――桐ケ谷和人は、己にとって、最も幸せな思い出が詰まったこの場所で。

 穏やかな笑みを浮かべながら、かつて感じていた穏やかな時間を甘受するように。

 

 目を瞑って、かつてのあの時と同じように――愛しい娘の名前を呼んだ。

 

「――やあ、ユイ。ユイなら、誰よりも早く俺がここにいることに気付いてくれると思ったよ」

 

 ひらりと、己の頭に乗った小さな可愛らしい妖精は。

 そのままジャンプするように浮遊すると、かつてこの家で、家族三人で過ごしていたあの時と同じ姿で――十歳にも満たないが、確かな重みを持った人間の少女の姿へと変身する。

 

「――パパ!」

 

 濡れたような黒髪を靡かせるようにターンして、朝露の少女はパパと呼んだ少年を抱き締める。

 

 キリトはそんな少女の重みを愛おしげに受け止め、己の腹に顔を埋める少女を抱き締めながら――ログインしてきた水妖精(ウンディーネ)の少女の方を見詰めた。

 

「――やあ、アスナ」

「…………キリトくん」

 

 奇しくも、二日続けてALOにて水妖精のアバターと対面することになったが、やはり、心中を満たす感情はまるで違う。

 

 クリスハイトに対していた時にはまるで抱かなかった、暖かで、切なくて、愛おしい感情が――黒い剣士の胸の中に注ぎ込まれていく。

 これは己の影妖精のアバターが感じているデータなのか、それとも、ジェルベッドの上で横たわっている桐ケ谷和人の身体が感じている感情なのか。

 

 愛おしい。失いたくない。手放したくない。ずっと、この手で、この胸で――。

 

「…………アスナ」

 

 キリトは、その腕を開いて、アスナの名を呼んだ。

 

 ユイはキリトにしがみ付きながらも、その身体の正面のスペースを開けて、母と慕う少女に向かって微笑みかける。

 

 アスナは、その瞳に涙を浮かべさせて、ログハウスの木張りの床を軽やかに蹴って、世界で最も愛する少年の元へと向かう。

 

 そして、華奢ながら、アスナにとっては世界で最も頼もしい腕の中へと飛び込んだ。

 

「…………キリト君……ッ! ……キリト君ッッ!」

「……ごめん、アスナ。……心配掛けた」

「本当だよっ! ……ずっと……あの時からずっと……心配、したんだからっ!」

 

 キリトは、同じように涙目で見上げてくるユイの頭を撫でて、その涙を指で拭う。

 そして、アスナを更に強く抱き締め――腕の中に感じる温かさを、その愛おしさを、刻み込むように目を瞑る。

 

 守りたいものを、失いたくないものを、その温もりを――決して忘れないように。

 

「……キリト君、教えて。今、何が起きてるの? 君は、今度はどんな事態に巻き込まれてるの?」

 

 アスナは潤んだ瞳で、少年の腕の中から少年の顔を見上げる。

 その瞳は涙で濡れていて、湖面から反射した光を受けているかのように――力強く、輝いて。

 

 キリトはまるで、胸を締め付けられるような、激しい痛みと愛おしさを覚えて。

 

(……そうだ。分かってた。君なら――俺よりもずっと強い君なら、きっとそうしようとするってことは)

 

 だからこそ――分かってしまう。次に、この少女が言おうとしている言葉が。

 だからこそ――分かってしまう。その少女の言葉を聞いた時、きっと自分は――負けてしまうであろうことは。

 

――『大丈夫だ、アスナ。俺はずっと、君の傍にいるから』

 

 だからこそ――キリトは――桐ケ谷和人は。

 

「――キリト君。私も、君の力に――ッ!?」

 

 その言葉を封じ込む為に、強引に、荒々しく――アスナの唇を奪った。

 

「――!? ――ッ!」

 

 長く――永い、キス。

 

 それは、およそ英雄らしくない、間違った行いだったけれど。

 

 強く、正しい少女の言葉を封じ込める為の、卑怯で、姑息な口付けだったけれど。

 

 黒い剣士は、静かに目を瞑り、溢れんばかりのありったけの愛情を――そのキスに込めていて。

 

 閃光の少女は、初めは戸惑い、身を硬直させていたけれど、重ねた唇から少年の想いが伝わると、やがて目を瞑り、少年の首の後ろに手を回し、己が体を剣士に預けた。

 

 そんな様子を、朝露の少女は両手で口を押えながら、頬を紅潮させて見守っていると――。

 

 キリトは、アスナよりも少し早く目を開けて、マナー違反とは分かっているが、少女が目を瞑って己に唇を差し出す表情を――その美しい少女を、この世で何よりも守りたい、その笑顔を。

 

 強く、強く、強く――切り裂くように、刻み込んだ。

 

 やがて、アスナが顔を下ろしながらも、体はキリトから離さないままに、真っ赤な顔で言う。

 

「……い、いきなりなにするのよ、キリトく――」

「――アスナ」

 

 キリトは、優しくアスナの肩を掴んで――そっと、その身体を離した。

 

「……………え?」

 

 先程までの幸福感が、まるで唐突に削ぎ落されたように――寒くなる。

 

 アスナが呆然とする中で、キリトは、尚も穏やかな微笑みのままで言う。

 

「……アスナ。……俺は、君のことを――愛してる」

 

 真摯に、真っ直ぐに、突き刺すように告げられた、愛の言葉。

 本当に愛おしげに、今にも泣きだしそうな表情で告げられた言葉に――アスナは。

 

「…………いや」

 

 小さく頭を振り、再び瞳に涙を溢れさせながら、か細い声を出す。

 

 しかし、キリトは。

 口にしている自分が、その言の葉一枚一枚に突き殺されているように痛々しい笑みを浮かべながらも、その言葉を紡ぐのを止めない。

 

 己を、そして何よりも、目の前の少女を傷つける言葉を――紡ぐのを止めない。

 

「……でも、ゴメン。俺は、君のことを連れてはいけない。……俺は、そんなに強くないから。……俺は、それでも――強くならなくちゃいけないから」

 

 

――信じてた。

 

――ううん、信じてる。これまでも、これからも。

 

 

――きみは私のヒーロー。いつでも、助けにきてくれるって。

 

 

 それはかつて、鳥籠の姫から鍍金の勇者へと贈られた言葉。

 

 何の力もない偽物の英雄が、それでもこの少女の為ならばと、鍍金を纏い続ける覚悟を固めることを誓った言葉。

 

 例え、全てを救えないちっぽけな力でも――それでも、この少女の涙を拭い続けるのは自分でありたいと、そう決意した、あの戦いを。

 

(――ごめん……すまない)

 

 キリトは――黒の剣士は――桐ケ谷和人は。

 

 英雄と、なる為に――剥がれぬ鍍金を纏う為に。

 

 世界を救う為に――この世で最も大事なものを切り捨てる。

 

 

「――別れよう」

 

 

 キリトは、アスナの手を取って――本当に、穏やかな笑みで告げた。

 

 アスナは、まるで何かに戒められるかのように、全く身体を動かすことが出来ずに。

 

 世界が突然、真っ暗になり――視界が突然、真っ黒になって。

 

「…………やだ………やだよ……キリトくん……こんなの……やだよ――ッ!?」

 

 キリトの手が、アスナから離れる。

 

 そして、その時、初めて――アスナの手に、指輪が握らされていることが分かった。

 

「キリトく――ッ!?」

 

 黒い剣士の身体が、この世界から消えていく。

 

 ALOから――VRMMOの世界から。

 

 この思い出のログハウスから、穏やかな笑顔の瞳から――涙を、一筋、流して。

 

 黒い剣士の流したその涙は、夜空に浮かぶ流星のようだった。

 

「パパーー!!」

 

 動けないアスナの代わりとばかりに、ユイがキリトに向かって手を伸ばす。

 

 アスナも手を伸ばした。けれど、足はまるで凍り付いたかのように動かない。

 

 視界が滲む。呼吸が上手く出来ない。

 

 嘘だ――嘘だ――嘘だ。

 滲んでいく視界が、揺らいでいく世界が、必死に現実を否定していく。

 

「……ずっと……一緒って……わたしを――」

 

 置いて、いかないで……――涙に塗れながら、小さな手を伸ばして求める、最愛の少女と愛娘。

 

 キリトは、そんな二人に向かって、何か残そうとし――口を閉じた。

 

 たった二言――それは、かつて、誰もいない公園で息を引き取った、無力な少年の遺言だった。

 

 

――アスナ、ごめん。

 

 

「……………………ぃゃ」

 

 そして、ユイの――アスナの手が、届く前に。

 

 キリトは――ALOからログアウトした。

 

 

「いやぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああ!!」

 

 

 かつて、世界で最も幸福だった場所に響く、少女の絶叫。

 

 だが、どれだけ泣いても、どれだけ叫んでも。

 

 どれだけ少女が――その名前を、呼び続けても。

 

 彼女の英雄(ヒーロー)が、駆け付けてくれることはない。

 

 拭ってくれる者のいない涙は、いつまでもとめどなく溢れ続けた――少女の悲しみを吐き出すように。

 

 世界が英雄を得たその日、少女は英雄を失った。

 




何処にでもいる普通の少年は、世界を救う英雄となる為。

この世で最も大切なものから背を向けて、剣と世界を背負い、今、再び戦争へと向かう。


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Sideあやせ――⑤

どうして――そんな子に……なっちゃったのぉ……?


 

 一般的な女子高生の中では(そもそも一般的な女子高生というカテゴリ内に入れてもらえるのかは別として)それなりに波乱万丈な人生を送ってきた方なのだろうという自負のある新垣あやせだけれど、リムジンで登校するという経験は流石に生まれて初めてだった。

 

 けれど、あやせは特段に緊張することも恐縮することもなく、外側からは見えないような仕様になっているだろう薄黒い窓ガラスから通い慣れた通学路が流れていくのを眺めながら、腕と足を組んで無表情を貫いていた。

 

 広い後部座席には、二人の美女が並んでいる。

 

 一人は、前述の通り――新垣あやせ。

 艶やかなロングヘアの黒髪と、その黒髪に負けず劣らずの漆黒のスーツ、そしてその上から女子高生の象徴たるセーラー服を身に纏っている。

 

 防犯ブザーをこれ見よがしにキーホルダーとしてぶら下げた学生鞄を挟んで、反対側の窓際に座るのは、昨日のラフで活発な印象の服が嘘のようにお堅いビジネススーツを着込み――その下に漆黒のボディスーツを身に纏った、あやせよりも少しだけ年上の美女。

 

 彼女の名は――桂木弥子。

 昨日、『探偵』を名乗って唐突にあやせの前に現れた、クセのある金髪ショートに赤い髪飾りが特徴的なこの美女は、あやせに【英雄会見】への出席を依頼し、首相官邸まで『転送』した、謎の組織のメンバーだった。

 

 ガンツスーツの上に着込んでいるビジネススーツの襟元には、今日も地球の上に『CION』という文字が浮かぶバッジを付けていて、頑なに自分と目を合わせようとしないあやせを苦笑しながら見遣っている。

 

「――うぅ~ん、いい加減、機嫌直してくれないかな、あやせちゃん。あやせちゃんも、初めて会う筋肉ムキムキなおじさんより、多少なりとも面識のある私の方がいいかなっていう配慮だったんだけど」

「……別に、桂木さんが護衛なことに不満があるわけじゃないです。……ただ、ちょっと――両親と、喧嘩みたいなことになって、もやもやしているだけですから」

 

 弥子は、そのまま窓の外から視線を逸らそうとしないあやせに、はぁと息を吐きながら苦笑する。

 それが本当の理由なのかどうなのかは分からない――が、あやせが両親と喧嘩のようなものをしながら、家を飛び出すようにして、このリムジンに乗っていることは確かだった。

 

 弥子もそれは分かっている。

 何せ、弥子はその親子喧嘩の場に――家族会議の場に、家族でもないのに同席していたのだから。

 

 

 事は――今朝の、新垣家の朝食風景に遡る。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 既に、食卓の上に並べられたコーヒーは冷え切っていた。

 

 テレビすら点いておらず、ただ時計の秒針の音と、気配を隠しきれていない家の前に陣取る報道陣の喧騒のみが、重苦しい沈黙を掻き乱す――そんな中。

 

 顔を真っ青にして憔悴しきっている美しい母君――新垣はるかと。

 精悍な顔つきを険しく引き締める逞しい父君――新垣誠は。

 

 箸すら取らずに、真っ直ぐに、ただ己が娘に視線を注ぐ。

 

 そんな両親の、縋るような、射抜くような眼光に対し――愛娘は。

 

「――何度も言うようですが……お父さん、お母さん」

 

 天使のように微笑みながら――堕天使のように、嘲笑う。

 

 

「私は、この服を脱ぐつもりはありません。この役目を、放棄することは有り得ません」

 

 

 真っ黒なボディスーツを着て、真っ黒な笑顔で、真っ黒な殺意を放ちながら。

 

 一人娘は、己が父親を、己が母親を――美しい笑顔で、切り捨てる。

 

「例え、勘当されようとも――私は星人(ばけもの)と戦い続けます」

 

 そして――再び、母親は号泣し、父親は激昂する。

 

 朝食が冷め切る程に繰り返された家族会議――否、家族裁判の光景に、あやせは。

 

 何度目かの溜息を吐いて――両親を、冷たい眼差しで睥睨する。

 

 その時、新垣家の、玄関のインターホンが鳴った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 新垣家の朝食風景は、相も変わらず――否、先程までよりもずっと重苦しい沈黙で満たされていた。

 

 冷め切ったコーヒーとスープ、そしてトーストとサラダとスクランブルエッグが並んだテーブルを、二人の大人と、二人の子供が挟んで相向かっている。

 

 顔をエプロンで隠しながら嗚咽を漏らす――新垣はるか。

 怒りで顔を赤く染めて息を荒げる――新垣誠。

 

 そして、母と相向かうは、恐ろしいまでに美しい無表情を崩さない女子高生モデル――新垣あやせ。

 

 そして、見知らぬ県議会議員と相向かうは、突然面識のない冷え切った家族会議の現場に巻き込まれ、恐縮しながらも目の前のスープに(勝手に)手を伸ばしている元女子高生探偵――桂木弥子。

 

「……あやせ。お前は、何を考えているんだ」

 

 あやせの父は――新垣誠は、四角い眼鏡を外して目頭を揉み解しながら、理解出来ないとばかりに吐き捨てる。

 

「――いつからだ。いつから、こんなバカなことをしていたんだ」

「お父さんには関係のないことです」

 

 娘のその言葉に、誠は食卓を叩いて絶叫する。

 

「関係ないことがあるかっ!! 知らない間に娘が――化物と戦う軍隊に入れられていたんだぞッ!!」

 

 こんなふざけた話があるかッッ!! ――誠は立ち上がり、唾を飛ばしながら叫び散らす。

 

 はるかはその言葉になお一層に泣き崩れ、あやせはそんな父を冷ややかに見上げ、弥子は唾の飛散から避難させたスクランブルエッグをゴクリと頬張る。

 

「――ふざけた話、ですか」

 

 あやせは激昂する父親に、号泣する母親に、一切の温度を感じさせない瞳で言い募る。

 

「池袋という大都市にあれだけの被害を生み出すような怪物らに対し、政府が設立した特殊部隊を、そんな部隊の一員として国民を守る為に戦うことを――お父さんは、千葉県議会議員であるお父さんは、それをふざけた話だというのですか?」

「そうではない――いや、そうだ」

 

 誠は、娘の言葉を否定しようとして――首を振って、肯定した。

 

 そして、毅然と――大人として、親として言い返す。

 

「少なくとも、お前のすることではない。子供のすることではない――大人のやるべき仕事だ」

「……昨日の会見を聞いていなかったのですか? 戦士になる為には才能が必要で、大人だからといってなれるものではないんです」

「それでも! なれるだけの大人だけでやるべきだと言ってるんだ!!」

 

 例え、スーツを着こなせる大人が十人しかいないとしても――子供を含めれば百人の軍隊になれるのだとしても、十人だけで戦うべきだと、誠は言う。

 

 子供を巻き込むくらいなら、大人一人が十倍の戦力になるよう――働くべきだと。それが大人だと。

 

 それが子供だと――あやせの母は、新垣はるかは懇願する。

 

「……少なくとも、あやせ……あなたは……そんなことをしなくてもいい筈よ……あなたは、こんなことに巻き込まれていい子じゃない筈よ!!」

 

 化物だとか、軍隊だとか、戦争だとか。

 星人だとか、政府だとか、英雄だとか。

 

 そんな物騒なものとは、そんな世界とは――無縁の少女だった筈だ。子供だった筈だ。

 

 私達の子供で――私達の愛娘は。

 

 こんな世界に巻き込まれていい子では――なかった筈だ。

 

「……なのに……どうしてぇ……」

 

 どうして――そんな物々しい、黒々とした服を身に纏っている?

 

 どうして――そんな寒々しい、黒々とした瞳で、両親わたしたちを見ている?

 

 どうして――。

 

「――そんな子に……なっちゃったのぉ……?」

 

 はるかは、エプロンに顔を押し付けながら、世界を嘆くように言う。

 

 誠は、その言葉を受けてはるかを見るが――何も言えず、腰を下ろし。

 

 そして――あやせは。

 

「……………本当に――」

 

 どうしてでしょうね――と、消え入るようなか細い声で、そう吐き捨てるように呟いて。

 

 ゴクリ――と。

 

 食卓の上の冷め切った朝食を食べ尽くした嚥下音が、冷め切った家族会議の場に響いた。

 

「それでは、皆さん――私の話を聞いて下さい」

「いや、我が家の朝食を食べ尽くして何をシリアス顔をしているんだ、君は。誰なんだ、お前は」

「それは本当にごめんなさい。冷め切っていく朝食が余りにも可哀そうで。大変美味でした」

「…………」

「ごほん! さ、さて、それでは皆さん、私の話を聞いて下さい」

 

 口元に食べかすを付けたまま咳払いして、そのまま強行しようとする客人――桂木弥子を、あやせは冷ややかに見詰める。

 

 突然、インターホンを鳴らして数多くの取材陣を押し退けて新垣家への侵入を果たし、挨拶もそこそこに他人の家の朝食を勝手に食べ始めた――この『探偵』。

 

 今の今まで恐縮そうに――だが、決してペースを落とさずに箸を進めていたこの『探偵』に、あやせは訝し気な面持ちを隠そうとしない。

 

 一体、何をしに来たんだ、コイツ――と。

 

 そんなあやせの心中を知ってか知らずか「えっと、自己紹介が遅れまして……では――」と、弥子は唐突に、自分が身に着けていたスーツを脱ぎだした。

 

 他人の家のリビングで、うら若き女性が取った突飛な行動に、あやせが「ちょ――何をアナタは」と慌て、誠が「な、君は、何を――」と驚きながらも前のめり、はるかが「――え?」とエプロンから顔を上げた所で――弥子は、白いシャツを脱いだ。

 

 白いシャツを脱ぎ――黒いスーツを露わにした。

 

 ビジネススーツの下には、あやせと同じ黒いボディスーツを着ていた。

 

 ガンツスーツ――身に付ける者に才能を要求する、文字通り選ばれし者のみが身に付けることが出来るユニフォーム。

 

 それが意味することを、誠やはるかが理解するよりも先に――その『探偵』は、その『戦士』は、自己紹介した。

 

「初めまして、あやせちゃんのご両親。私の名前は桂木弥子。職業は『探偵』――そして」

 

 あやせちゃんと同じ、特殊部隊『GANTZ』の戦士です――と。

 

 桂木弥子は、真っ黒な衣を纏った姿で微笑んだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 新垣家の扉が開き、一斉にカメラが銃口のように向けられた。

 

 だが、そこから現れたのは、彼らが待ち望む新垣あやせでも、彼女の父親でも母親でもなかった。

 

「ど、どうもぉ~。へへ」

 

 癖のある金髪に赤い髪飾り――先程、たった一人で先陣を切り、新垣家への侵入を果たした少女だった。

 

 目当ての相手ではなかったものの、この家の家族と何か特別な繋がりがある対象に違いない――そう思い、この際コイツでもいいかとマイクを向けようとしたどこかの零細雑誌の記者を、近くにいた大手テレビ局のスタッフが止める。

 

 あのバッジが見えないのか――と。

 

 どうもどうもと言いながら、取材陣の海の中を掻き分けて進む弥子がそんなやり取りを見つけると、内心で静かに思考する。

 

(……事情は分かっていなくても、このCIONバッジを付けている人間には関わるな、くらいのお触れは行き渡っているみたい。少なくとも、大手メディアには)

 

 得意の権力の行使というヤツだ。それも、とびっきりの国家権力の。

 こんな風に力で押さえつけると当然一定割合の反発を生むことになるが、このバッジから真実に辿り着こうとする者がそれに辿り着く頃には――世界はとっくにタイムリミットを迎えているだろう。

 

 どうせ最後には何とでもなると、色々と開き直っているようにも思えるが――そういう時に開き直れる奴等は強い。

 

(それと同時に、恐ろしくもあるけどね)

 

 弥子はそう、過去に直面した数々の開き直りを思い出し、取材陣の奥に停めてあったリムジンのドアを開ける。

 

 そして、一度振り返ると、既にマスコミは再び新垣家へと注目を戻していた。

 

(……そろそろ正式に警察を動かしてもらおうかな。ここ、公道だし。流石にこれだけ居座せれば、過剰取材だって問題視させられるでしょ)

 

 あやせちゃんも早くしないと遅刻しちゃうしね、と、車内に入り込んでシートに座る。

 

 すると、前の運転席から、怜悧な女性が弥子に「お帰りなさいませ」と声を掛けてきた。

 

「ただいま、アイさん。早速で悪いんだけど、警察に連絡を取ってくれないですか? そろそろあのマスコミを退けて、あやせちゃんが登校出来るようにしてあげたいんだけど」

「それは構いませんが、必要ないのでは?」

「ん? どうして?」

 

 弥子がきょとんと問い返すと、アイと呼ばれた運転手はバックミラーを見ながら。

 

「――新垣あやせ様は、既にご乗車されているようなので」

 

 途端、弥子の反対側のシートに火花が散るような効果音が発生する。

 

 制服の下にガンツスーツを身に纏った、新垣あやせの姿が出現していった。

 

「――え!? あやせちゃん!? いたの!?」

「……何ですか。透明化くらい、私でも出来ますよ」

 

 学校でも街中でも抜群の存在感を放つあやせが恐らくは人生で初めて取られたであろうリアクションに憮然としていると、弥子はそんな女子高生に尚も言い募る。

 

「い、いや、だって、あんな人混みの中――」

 

 透明化といっても幽霊になれるわけではない。

 障害物をすり抜けることなど出来ないし、肩にぶつかれば衝撃だって与えるだろう。

 

 なのに、あれだけの海の如き人混みの中を、見えないからといって誰にも見つからずに通り抜けられるものなのか?

 

「ものですよ。道はあなたが作ってくれていたでしょう? 私は後を付いて行っただけです。それに――」

 

 マスコミ(あの人達)視線()の届かない(ルート)なんて、芸能人(わたしたち)なら誰だって見分けられますよ――そう言って、あやせは冷たい眼差しで、向こう側からは見えないように黒く貼られた窓を見る。

 

 弥子は、その視線に釣られるように窓の外を見た。

 うじゃうじゃと、近所迷惑であることは間違いない程に群がった無数のマスコミ達。

 

 それは非日常的な事件性を形として現したかのような光景だけれど――だが。

 

 とある世界に生きる者達にとっては、日常的に相手取っている――当たり前に出現する化物に過ぎないのだろう。

 

 ほんの一時だが、今ではすっかり忘れ去られているが、女子高生探偵として世間を賑わせた者として、鞄で顔を隠しながら登校していた者として、その淡々と紡がれた言葉の重さを、弥子は感じずにはいられなかった。

 

 だが、それはそれとして――弥子は、問わなければならないことを、問わなければならなかった。

 

「――いいの? ご両親とは――」

「いいんですよ」

 

 だが、あやせはその問いを、最後まで問わせずに――切り捨てた。

 

 色んなものを、大事なものを、切り捨てた表情で――窓の向こうを、向こう側からは見えない窓を見たままで。

 

「…………言いたいことは、全部、言ってくれましたから」

 

 私から言うことは、もう――ありません。

 

 そう言って、あやせは――新垣家から、生まれ育った家から、目を伏せて。

 

「――出してください。……学校まで、送っていただけるんでしょう?」

「でも――」

「出してください」

 

 頑ななあやせに、弥子はもう何も言わず、バックミラーに向かって頷く。

 

 そして、運転手のアイは、静かにリムジンを発進させた。

 

 新垣あやせは、最後まで振り返らなかった。

 

 切り捨てたものを――二度と、戻ることはない、我が家を。

 

 あやせは、別方向の窓の外を見ようとしたが――そこには、黒い自分の顔しか映っていなかった。

 

 かつて切り捨てられた少女は、切り捨てる痛みを確かめるように、そっと自身の胸を掴んだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 桂木弥子――彼女は、正しく『探偵』だった。

 

 自身を訝しむ聴衆の前で、滔々と真実を語り――脚色し。

 

 筋道を立てて説明し――都合の良い部分を強調し、己が論理に説得力を持たせ。

 

 感心させ――改心させ。

 

 反対意見を封殺し――思い描いた形で事態を解決させ、完結させる。

 

 その様は正しく、『戦士』というよりは――やはり、『探偵』で。

 

(……もしくは、『交渉人』――と、いったところでしょうか)

 

 何はともあれ――桂木弥子は、あの場を見事に収めて見せた。

 

 女子高生の一人娘を、星人ばけものと戦う特殊部隊に送り出す――そんなふざけた事態を突き付けられた両親を説得するという難事件に対しては、年上の女性戦士であり、『探偵』であり『交渉人』である彼女は、正しくうってつけの適役であったのだろう。

 

 適役な――探偵役だったのだろう。

 

 護衛ということに対しても――彼女の戦士(キャラクター)としての力量は分からないが――ガンツスーツを身に纏っていることから、そこらの警察や軍人よりもよほど頼りになることは分かる。

 

 だからこそ、別に彼女が護衛であることに不満があるわけではない。

 

 あの後――今後は護衛などの意味も兼ねて政府で用意した住居に住んでもらう、少なくともほとぼりが冷めるまではという国からのお達しをあやせの両親に伝えた弥子が、しっかりと親子で話し合ってと言って家族水入らずの場を用意して扉を出た、あの後。

 

 その、直後――あやせは喧嘩のようなものを、両親とした。

 

 生まれて初めての――親子喧嘩。

 

『……あやせ。お前は――』

 

 父親は――まるで、父親のようなことを言って。

 

『……あやせ。あなたは――』

 

 母親は――まるで、母親のようなことを言って。

 

 それに対し――娘は。

 

 新垣あやせという、彼らの愛娘は。

 

『―――――ッッ!!』

 

 何も言えずに、ただ感情的に家を飛び出した。家出をした。

 

「…………………」

 

 ただ――それだけの話だった。

 

「…………はぁ」

 

 弥子は、機嫌を直そうとしないあやせに溜息を吐いた。

 何も、弥子も本気であやせが護衛の人選に不満を覚えていると思ったわけではない(別に歓迎されていると思っているわけでもないが)。ただ会話のきっかけになればと思っただけだ。

 

 一応、『交渉人』のような仕事を世界中で行ってはいる桂木弥子だが、それも会話をしてもらえなければ、文字通り話にならない。

 

 そして桂木弥子という『名探偵』は、その為になら手段を選ばないことで一部では有名だ。

 テロリストが占拠する大使館に乗り込んだり、刑務所に潜入したり戦地に飛び込んだり――だが。

 

(……今は、そっとしておく方がいいかな)

 

 別に今は手段を選ばずに交渉の席に着かせるような場面じゃない。

 年上の女性戦士として、色んな意味での先輩として、後輩の女の子の心中が整うのを待ってあげる場面だろう。

 

(……親、か)

 

 ふと、弥子も車の外の光景に目を遣る――と。

 

 

 一人の少年が、真っ直ぐに新垣家へと向かっていくのが見えた。

 

 

 リムジンはそのまま少年と行き違う。

 だが、弥子は、何故かその通行人Aに過ぎない筈の少年のことが少し印象に残った。

 

(……なんでだろう。……目、かな?)

 

 その少年の瞳が――まるで。

 

 これから戦地へと赴くような、そんな覚悟の篭った色をしていたから。

 

 戦士のような、目をしていたから。

 

「――そんな大した人じゃありませんよ」

 

 弥子のそんな思考を読んだかのように、あやせが尚も、反対方向の窓から外を眺めたまま言う。

 

「あの人は――ただの変態です」

 

 そう、小さく、冷たく――静かに、呟くように吐き捨てた。

 




かつて切り捨てられた少女は、両親を切り捨て、帰るべき家を飛び出す。


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Sideあやせ――⑥

それが、青春だよ。それが――人間だよ。


 

 

 

『あやせ――俺が、悪かった』

 

 

 

 高坂京介は、真っ直ぐに、深々と、年下の女子高生に頭を下げた。

 

 だが、そのまま、いつまで経っても、頭を上げることは出来なかった。

 

 頭を下げた――謝罪をした、罪を謝った相手が、目の前の女子高生が未だに何も言ってこないことも、何も言ってはくれないことも理由の一つだったが――何より。

 

「……………ッ」

 

 京介は、頭を下げたまま、ズボンで掌の汗を拭った。

 

 何よりも――京介は、怖かった。

 目の前の女の子と顔を合わせることが――合わせる顔が、なさ過ぎて。

 

 沈黙に耐えきれず、己の中に荒れ狂う、謝罪をしても尚も衰えることのない、むしろ更に暴虐に荒れ狂う――罪悪感に、耐えきれず。

 

 そのままもう一度、何かを吐き出すように謝罪しようとした所で――未だ頭を上げられていない京介の頭頂部に。

 

 淡々と、冷たい――感情の篭らない、美少女の声が降り注いだ。

 

『…………本当に――』

 

 

――愚かですね、あなたは。

 

 

 それは、この日、初めて新垣あやせが見せた、高坂京介に対してみせた、感情のような何かだった。

 

 京介は身体を震わせたが――未だ、頭は上げない。

 

 だからこそ、気付かなかった。この男は、未だ、何も気付けていなかった。

 

 新垣あやせが――高坂京介を、そのみっともなく下げられた頭を、見てすらいなかったことに。

 

 あやせの冷たい眼差しは、真っ直ぐに――京介の隣に立っている、呆然と立ち尽くしている、無表情だけれど、必死に無表情を作ろうとしている。

 

 泣きそうな少女に、向けられているということに。

 

『……本当に、愚かです。……あなたは』

 

 五更瑠璃は、そんなあやせの冷たい眼差しに、今にも壊れそうな儚い笑みを返す。

 

 あやせはそんな瑠璃に口を開きかけたが、何かを呑み込むように口を閉じて、今度こそ京介を見下ろして『……頭を上げてください』とあっさりと許可した。

 

 京介は、それでもすぐには頭を上げようとしなかったが、やがてゆっくりと頭を上げて、ベンチに座るあやせを見下ろした。

 

『――それで? 今のは何に対しての謝罪ですか?』

『…………』

 

 京介は、あやせの飄々とした明るい声での言葉に、口ごもる。だが――。

 

『まぁ、何でもいいですけど。()()()()()。だから――』

 

 

――もう、これで終わりにしましょう。

 

 

 と、言って、あやせはベンチから立ち上がった。

 

『…………は?』

 

 京介が、そして瑠璃が呆然とする中、あやせは、その真っ黒な手を京介に差し出し、言う。

 

『――仲直りの握手です。今まで、ありがとうございました。これから、それぞれお互いに頑張っていきましょう』

 

 それは、明るい笑顔で突き付けられた、圧倒的な拒絶だった。

 

 京介は真っ黒な手と、真っ黒な笑顔を向けられて――どうして桐乃が、自分の妹が、あれほどまでに傷ついて帰って来たのかを余すところなく理解した。

 

 こんなものを向けられたら――誰だって、そうなる。

 

 京介は、その手を取らず、小さな声で、情けなく言った。

 

『…………やっぱり……許しては、もらえないよな』

『何を言っているんですか。許すって言っているじゃないですか。そもそも何のことだかは分かりませんけど』

 

 あやせはニコニコと笑いながら、俯く京介に黒い手を差し出し続ける。

 

 その手を頑なに取ろうとしない京介に――あやせは。

 

 ぼそりと、小さく、殺意を込めて――言った。

 

『やっぱりわたし――あなたのことが、大嫌いです』

 

 京介は息を吞んで顔を上げる。

 

 だが、そこにはもう、あやせは居らず。

 

 あやせは、そのまま京介と瑠璃の間を抜けて、彼等に背中を見せていた。

 

『――っ! あやせ!』

()()()()さん。わたしのことはもう構わないでください。お人好しもお節介も、本当にいりません』

 

 あなたはもう――わたしにはいりません。

 

 そして、あやせは、首だけで振り返り、京介に向かって、小さく口だけ笑みを作りながら言った。

 

『最後の忠告です。女の子を泣かせる男は――最低ですよ』

 

 あやせは、そう()()()()()言い残すと、そのまま公園を後にした。

 

 京介と瑠璃は、あやせの後を追いかけることすら出来ず。

 

 黒い手を取れなかった京介の右手は、今にも血が出そうな程に固く握り締められ。

 

『…………ちくしょう…………ッ』

 

 そう、小さく、血を吐くように、京介は吐き出した。

 

『………………』

 

 瑠璃は、本当に愚かだと、思いながら。

 

 何も言わず、ただゆっくりと、その右手を優しく握った。

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

 次の日の朝、高坂京介は家を飛び出した。

 

 高坂桐乃は未だに部屋から降りてくることもなく、五更三姉妹に両親の迎えが来た時、見送りをしてくれたのは高坂夫妻のみだった。

 

 瑠璃は、松戸の自宅へと向かう車の中で、昨夜の記者会見の映像を思い返す。

 

 

『こんばんは、新垣あやせです。よろしくお願いします』

 

 

 流れるように、彼女は無数のカメラの中でお辞儀をした。

 あの地獄の池袋のと同じ、漆黒の近未来的SFスーツを身に纏いながら。

 

 彼女は、「星人」という化物と戦う、政府公認の特殊部隊の一員として、記者会見に参列していた。

 

 ほんの数か月前まで、間違いなく自分達と同じ日常を生きていた筈の彼女が、どうしてそんな立場になっているのかは分からない。

 

 共に記者会見のテレビ中継を観ていた京介は、歯を食い縛り、拳を握り締めていた。

 

 そんな中、五更瑠璃は――かつて、彼女に黒猫と呼ばれていた少女は。

 

『子供である身で、戦場に出て戦うことをどう思うか――そういったご質問でしたね。勿論、怖いです。ですが『星人』は既に、わたし達にとって身近な恐怖となりつつあります。誰かが対処しなくてはならない脅威です。そんな存在に対抗出来る立場に選ばれた以上、全力を尽くして精進していきたいと考えています』

 

 抜け出した筈の同志に、かつて共に戦った恋敵の姿に。

 

 ギュッとクッションを抱き締めて、胸中に表現不可能な感情を渦巻かせて。

 

 

 その時――テレビの向こう側で。あやせは、ピタリと、言葉を止めた。

 

 

 記者達が少し騒めき始める中、あやせは、天使の微笑みに、ほんの少し――堕天使を垣間見させて。

 

 不特定多数に向けた仮面の笑顔ではなく――確固たる誰かに向けた言葉を紡ぎ始める。

 

『――突然ですが、皆さんにとって、正義とは何でしょうか?』

 

 黒猫は――そして、京介も、静かに息を吞んだ。

 

 記者会見場の空気の変化も感じ取りつつ、二人はあやせの言葉に引き込まれていく。

 

『わたしにとって正義とは――正しいことです』

 

 二人の知る新垣あやせという少女は、間違いを憎む少女だった。

 己が信じる正しいこと――それから外れるものを許せない少女だった。

 

 そして、間違いを正すべく、どんな相手に対しても、戦える強さを持った少女だった。

 

 例え、それが親友でも。例え、それが初恋の相手でも。

 

 京介が、黒猫が、真っ直ぐにテレビを見詰める中、新垣あやせは――宣言した。

 

 

『わたしは――逃げない』

 

 

 その言葉に、京介は目を見開き――そして、唇を噛み締めた。

 

 そして――彼女は。

 

 黒猫は――五更瑠璃は。

 

『わたしは貫きます。わたしは曲がりません。わたしは――折れません。真っ直ぐに、己の正しさを、『本物』だと信じて戦います』

 

 カメラに向かって真っ直ぐに伸びる、その視線に、突き刺されるような錯覚を覚えていた。

 

 あやせのこの言葉が、自分に向けられたものだとは、黒猫は確信が持てない。

 

 高坂京介かもしれない。高坂桐乃かもしれない。

 もしかしたら――だが、それでも。

 

 黒猫の瞳からは、一筋の涙が、真っ直ぐに零れ落ちた。

 

 

『見ていてください――新垣あやせ(わたし)を』

 

 

 黒猫は――五更瑠璃は。

 

 抱き締めていたクッションを退けて、その姿を目に焼き付けた。

 

 その美しく、強く――卒業した、元恋敵を。

 

 

『『GANTZ(ここ)』で、わたしは――『本物』になります』

 

 

 瑠璃は、小さく――けれど、力強く。

 

 窓の外を流れる千葉の風景を眺めながら、誰かに向かって呟いた。

 

「…………私も、強く……ならなければね」

 

 それは、一人の少女の、初恋に対する宣誓の言葉だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 リムジンは、学校からある程度離れた、人目に付かない場所で停車した。

 

「おそらく、正門の前はマスコミでいっぱいだろうから。裏門の方にはマスコミを近づけないように対処してあるよ」

「――ありがとうございます」

 

 弥子は、先にリムジンから降りて、扉を開けながらエスコートするようにして言った。

 

 あやせは、それに対し冷淡に礼を言った後、そのまま少し動きを止めて、緩慢に車外に出ながら言う。

 

「……何も、言わないんですか?」

 

 と。それに対し、弥子は。

 

「ん? 何が?」

 

 あやせと入れ替わるようにしてリムジン内に戻り、弥子の顔を見ずに、顔を俯かせたままで問うてきたあやせに、笑顔のままそう返す。

 

 車外に出たあやせは、やはり弥子の方を見ないまま――自身が通う高校を見上げたまま、まるで懺悔でもするように。

 

「……この期に及んで、こうして学校に通うことを――望むことに、です」

 

 望んでいるのか――あやせは自分のことながら、果たしてよく分からなかった。

 

 昨夜、会見後において。

 防衛大臣である小町小吉から――今後のことを聞かされて。

 その上で尚、学校に通うこと、専用の住居に移り住むことなどの選択を求められた。

 

 桐ケ谷和人は、学校には通わず、専用住居への転居を迷いなく決めて。

 

 東条英虎は、学校には通わず、だが専用の住居へも移り住まないことを選び。

 

 潮田渚は、学校に通い続けて、転居もしないという道を取って。

 

 皆、それぞれがこの状況に向き合った上で、それが自分にとってのベストだと、それが己の望むことだと、そう判断し――自分の意思で、決断して。

 

 だが――自分は?

 新垣あやせのこの選択は、果たして本当に自分が望んだことなのだろうか?

 

 和人は日常元の世界の全てを切り捨て、特殊部隊を率いるリーダーとして、全ての時間を『GANTZ』へと注ぐ決断をして。

 

 東条は煩わしい(しがらみ)を放棄して、ただ一人の強さを求める戦士として、全ての時間を己が研鑽へと費やすこと選択して。

 

 渚は変化していく状況に流されず、普通の中学生としての義務を果たす少年として、全ての時間を日常の維持へと傾けることを――だが、私は?

 

 新垣あやせは――どんな意思の元で、どんなヴィジョンを描いて、この選択をしたのだろうか。

 

 こんな――中途半端な、選択をしたのだろうか。

 

(家族は切り捨て、家を捨てた癖に――こうして、日常を捨てきれていない)

 

 女子高生を、捨てきれていない。

 良い娘であることを放棄したのに、制服を脱ぐことは出来ていない。

 

 黒衣の戦闘服の上に、セーラー服を身に纏う――今のこのファッションこそ、新垣あやせという少女の、中途半端さを象徴しているように思えた。

 

(……未練があるのでしょうか? ……学校に? ……日常に? ……それとも――)

 

 あやせは、空を眺めながら――唇を噛み締める。

 

 もうすぐ始まろうとしている夏の日差しを遮る木の葉によって――空の色は、よく見えなかった。

 

「――女子高生が、高校に通うのは、当たり前のことだよ」

 

 桂木弥子は、そう言って車体の外に顔を出しながら、あやせを見詰める。

 

 弥子の位置からは、木の葉で日差しが遮られていないのか――眩しそうに、目を細めて。

 

 私も普通の女子高生だったとは言い難いけれど――と、前置きをした上で、弥子は、年下の女の子に、後輩の戦士に言う。

 

「どんなに世界が滅亡の危機に瀕していても、星人と戦う宿命を背負わされた戦士でも――青春を謳歌する権利はあるよ。女子高生でいられるのは、人生でたったの三年間なんだから」

 

 日常を過ごしたっていい。

 戦士じゃない時間を持ったっていい。

 セーラー服を脱がなくたっていい。

 

 捨てられないものは――捨てなくていい。

 

 諦めたくないものは――諦めなくていい。

 

 迷ったっていい。悩んだっていい。

 

 それが世界の滅亡より、ずっとちっぽけな悩みでも――世界の滅亡よりも、ずっと深刻に迷って、悩んで、頭を抱えたっていい。

 

 間違ったって、いい。

 

 それが――高校生の特権なんだから。

 

「それが、青春だよ。それが――人間だよ」

 

 桂木弥子は、眩しそうに目を細めつつも――決して目を瞑ることなく、あやせを見た。

 

 大きな瞳で、あやせの心を――探るように、偵うかがうように。

 

 見守るように――見詰めていた。

 

「――いってらっしゃい」

 

 弥子は、そう、あやせを送り出す。

 

 家族を切り捨てた少女に、そう、家族のような言葉で。

 

「――いってきます」

 

 風が吹き、木の葉が騒めく。

 

 一歩を踏み出す。

 

 影の下から出て降り注ぐのは、目を潰さんばかりの眩しい日差し。

 

 もうすぐ、夏が来る――夏休みが来る。

 

 女子高生でいられる、タイムリミットが、刻々と近づく。

 

 見上げた空は――突き抜けんばかりの、青空だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 バタンと、女子高生を送り出した元女子高生は、リムジンの扉を閉めて、エアコンの効いた車内へと戻った。

 

 そっか、もうエアコンの季節かと、そんなことを思いながら一息を吐く弥子に、運転席から声が届く。

 

「――相変わらず、人の心を動かすのが上手いですね」

 

 運転手を務めていた怜悧な美女――アイと呼ばれる女性は、バックミラー越しに、その『探偵』を無表情に見詰めながら言った。

 

 人の心を――探り、偵う。

 かつて、お互いの相棒を伴って対峙し――対決し――敗北を喫した、名探偵。

 

 かつての相棒であり、かつての主人でもあった存在の仇でもあり――そして今の相棒であり、今の主人でもある、この少女は。

 女子高生でなくなった今でも――『探偵』であり続ける少女は。

 

 誰よりも化物という存在を知っていながら、誰よりも人間の可能性を信じる少女は。

 不可視(インビシブル)の『i(アイ)』を冠する、この世から消えた見えない存在である筈の美女と、しっかりと、バックミラー越しに目を合わせながら言った。

 

「……私はただ、女子高生の悩み相談に乗っただけですよ」

 

 色々あるんだよー、女子高生には――と、言って微笑む弥子を、およそ普通とは縁遠い女子高生だった少女の言葉を、アイは無表情で受け止めて、思う。

 

 桂木弥子。

 どこにでもいる普通の女子高生――だった、少女。

 

 およそ全てのガンツ戦士と同様に、ある日、突然に日常を奪われ、非日常に引き摺り込まれた少女。

 そして、およそ、今現在生き残っているガンツ戦士と同様に――非日常に対する適応力に優れ過ぎていた少女。

 

 逆境にあって非常に強く、度胸、耐久力、大きな壁に対する対応力――およそ、優秀な戦士に必要な能力を持ち合わせていてしまった少女。

 日常に置いて、およそ発掘され得ない才能を持ち合わし――その才能を引き出されてしまった少女。

 

 何処にでもいるが、誰にも見つからない筈だった少女。

 

 それはきっと、全てのガンツ戦士に当て嵌まる運命で――悲劇で。

 

(……だからこそ、彼女なのでしょう)

 

 アイは、そう思いながら、何かに向かって瞑目する――と。

 

「――大丈夫だよ、アイさん」

 

 そう、再び後部座席から、弥子がアイに向かって声を掛ける。

 

「……あやせちゃんは、きっとカタストロフィの主力になる。主役の一人になる。……きっと、私達の目的にも、力になってくれるから」

 

 まるで、全ての真実を見透かす――『探偵』のように言う。

 

 人の心を、探り、偵う――探偵。

 

 本当に――。

 

(――この少女に賭けた、私は間違っていなかった)

 

 アイは、再び一度瞑目すると――バックミラー越しではなく、直接振り返り、現主人である少女に向かって言った。

 

 助手席から、とある『アイテム』を取って、突き付けながら。

 

「――それでは、時間ですね。早くしないと、初日から遅刻してしまいますよ」

「…………うぅ………ねぇ、やっぱりその計画無理があると思うんだけど。本当にやらなきゃ――」

「ダメです。大丈夫ですよ。昨日の試着の時は、『……あれ? もしかして、まだいけるかも――』とか言っていたじゃないですか」

「うわぁあああああああああ!! それ忘れてって言ったじゃないですかぁぁああ!!」

 

 先程までの名探偵めいた雰囲気は消え失せて、途端に情けなく頭を振り乱して悶え苦しむ現主人に。

 

(……もしかしたら、間違っていたのかも……そう思えてきますね)

 

 内心で呆れ返りながら、鉄のように無表情な美女は。

 

 小さく、口角を上げて微笑んでいた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 もうすぐ夏休み――とは言え、まだそれは大分先のこと。

 

 それに、このようなイベントは、普通は夏休み明けの、二学期の初日にある定番イベントである筈だろう。

 

 だが、それでも、それはあくまで統計学的確率――あるいは物語的な都合というもので、実際には様々な要因や理由の元に、一年を通して起こり得るものなのだろう。

 

 それは日常の中の非日常的なイベントで、日常に飽き飽きしているごく普通の幸せな学生達にとっては、ちょっとばかし胸が躍る瞬間で。

 

 ましてや、それが――美少女であるなら、猶更で。

 

「――それでは、転校生を紹介する」

 

 担任の教師がそう言って、件の転校生に自己紹介を促した。

 

 新垣あやせは、最早、シャーペンを持っていることすら出来ず、思わずポロリと机の下に落としてしまう。

 

 そんな音を掻き消すように、その転校生は涙目で――やけくそ気味に笑顔で言った。

 

「初めまして! 桂木弥子です! 趣味はご飯を食べること! 特技は大食い! 好きなものは白米! 座右の銘はまず白米ありき! 今年いっぱいの短い間だけど、どうか仲良くしてくださいね!」

 

 ひょこひょこと、一房の三つ編みが手を上げるように、あるいは引き攣った頬と連動するように動く。

 

 あ……あ……と水面に口を出す金魚のようにパクパクと声を漏らしていたあやせは、前の席に座る親友の鼓膜をぶち破るべく、立ち上がって大声で叫んだ。

 

「何を――してるんですかアナタはぁぁあああああああああああああ!!!」

(こっちが聞きたいわぁぁああああああああああああああああああ!!!)

 

 桂木弥子は、頬と蟀谷(こめかみ)を引き攣らせながら、内心で同様に絶叫を返す。

 

 新垣あやせが手放せなかった、最後の日常ともいえる高校生活。

 

 それもどうやら、普通の学園ものとはなりそうもなく、一波乱も二波乱も巻き起こりそうだったが――。

 

 

――それは、また別の、ただの青春の物語(1ページ)

 

 




堕天使の決意は闇猫を動かし、少女は探偵と共に青春の一頁を紡ぎ出す。


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Side渚――⑤

あなたの席は、ずっと用意してありましたよ。


 

 千葉県成田市――とある国際空港。

 

 列島に衝撃を轟かせた【英雄会見】から一夜明けた、混乱冷めやらぬ極東の島国の、空の玄関口であるこの空港は、それでも通常にその責務を果たし、今日も諸外国からの客人を招き入れ続けている。

 

 そんな中、また一便、とある国から海を越えて空を渡りやってきた、鉄の鳥が滑空してきた。

 

 一人、また一人と乗客を吐き出していく中――科学者のような白衣と、『来日』と書かれたTシャツという謎のセンスが余りに特徴的な黒髪の東洋人の美女が、数時間ぶりの日光に目を細めて、笑みを浮かべた。

 

(――帰って、きたんだ……日本っ!)

 

 美女にとっては余り縁のなかった千葉県の空気だけれど、国という大きな括りで言えば故郷の味だ。

 きっと今は飛行機の排気ガスやら何やらが多分に含まれているだろうが、美女は構わず深呼吸した――そして後ろの客に怒鳴られて涙目で吐き出した。

 

(……うぅ。で、でも、やっと帰って来れたんだもん! ……柳沢さんからも離れられたし、少しくらい浮かれてもいいわよね!)

 

 正確には完全に離れられたわけではない。

 彼女がこうして祖国の土を再び踏むことが出来たのは、その恐ろしい婚約者からの命令によるものである。

 

 だが、それでも――そっと、白衣ごと己の身体を抱くようにして、彼女は唇を噛み締めた。

 

(……あかり、心配してるかなぁ)

 

 ここしばらく顔を見ていない、最愛の妹の顔を思い浮かべる。

 己の我が儘により女優としての休養期間の最後の一年を使ってもらっている、自分には過ぎた出来た妹。

 

 こうして日本に帰って来たからには、真っ先に連絡を取るべきか――そう思った美女は。

 きっと妹に見せたら血の涙を流すであろう、己の豊満な胸を揺らすガッツポーズをして、ご機嫌でいたずらを計画する。

 

(――でも、どうせなら驚かせちゃおうかな! どちらにせよ、すぐに会うことになるんだしね!)

 

 うん――と頷いて、彼女はまず真っ先に職場に向かうことにした。

 

 かつての職場であり、そして今日からの職場でもあるその場所に。

 彼女の婚約者である柳沢誇太郎が、日本でのとある男の動向を調査させる為に、名目上として用意した立場として働くことになる――その職場。

 

 椚ヶ丘学園3年E組にて。

 

 彼女――雪村あぐりは。

 

 運命の出会いを、運命とは違う形で果たすこととなる。

 

 彼女は先生として。そして、彼は――そして、彼も、『先生(ターゲット)』として。

 

 運命は、定められた筈のそれとは違う形で――動き出す。

 

 

 

 

 

 ……そして、空港から職場へと向かうタクシー内で、電源を入れた携帯に父と、そして主に妹から恐ろしい量の着信とメールが届いていたことに戦慄し、いたずら心ががくぶる心に変わることになるのだが、それは本筋にはあまり関係のない伏線だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「母さん、おはよう。今日も気持ちのいい空模様だね」

「ごめんなさい」

 

 

 

「朝食は今日もベーコンエッグでいいかな? こんなものしか作れなくて申し訳ないけど。これからレパートリーを増やせるように頑張るから」

「ごめんなさいごめんなさい」

 

 

 

「母さんは今日仕事だっけ? 無理しなくていいよ。行きたくないなら行かなくていいから。何もしたくないなら何もしなくていいから」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 

 

 

「昨日のテレビは観てくれた? 僕、なんか政府公認の組織のメンバーになったんだ。給料も結構貰えるらしい。だから、これからは僕が働くよ。母さんに恩返しもするからさ」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 

 

 

「それじゃあ学校に行ってくるよ。戸締りだけはしっかりしてね。それくらいは出来るでしょ。じゃあ、いってきます」

「いってらっしゃい」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 衣替えを経て薄い夏着となった椚ヶ丘の制服を身に纏い――その下に独特の光沢のある黒い衣を透かしながら。

 潮田渚は一階へと降りるエレベータの中で、己の携帯電話を確認した。

 

 そこには昨夜の会見を終えて、E組のクラスメイト達から幾つものメッセージが届いていたが――渚は小さく目を細める。

 

(……父さんからは……何も無い、か)

 

 母――広海の癇癪(ヒステリック)から一人逃げ出して、(息子)に己が妻を押し付けた血縁上の父親。

 定期的に顔は合わせているものの、渚が一度死んでから――ガンツの戦士(キャラクター)になってからは、母が壊れてからは、一度も顔を合わせていない戸籍上の父親。

 

 それでも、あれだけ大々的にテレビに顔を出したなら、何かしらのコンタクトを取ってくると思っていたのに――やはり、ここでもあの(ひと)は……。

 

 まぁ、今更どんな顔をして会えばいいのか――分からないのは、自分も同じだけど。

 

「………………」

 

 渚は一度、諦めるように瞑目し、一階へと着いたエレベータの開く扉へ向かって足を踏み出す。

 

 マンションから出た渚は、数えきれない()()によって襲い掛かられた。

 

「――っ! 来た! 潮田渚くん! 〇〇テレビだけれど、お話を聞かせてもらっていいかな!?」

「××新聞です! 政府に無理矢理、化物と戦わされてきたことに対する素直なお気持ちは!?」

「総理や大臣に言いたいことはありますか!? あ、週刊△△です!」

「ニュース□□をご覧の皆様! こちらが昨日、特殊部隊GANTZのメンバーとして会見に出席させられた潮田渚くんです! 見ての通り、まだ子供です!」

 

 銃口を向けられるように、向けられるカメラ。

 切っ先を突き付けられるように、突き付けられるマイク。

 

 仮面のように張り付けた笑顔の奥から――ドロドロとした欲望が滲み溢れ。

 爆弾のように煌めく光が散発的に襲い掛かり、その隙間から肉食獣のように飢えた瞳が――標的(ターゲット)を狙う。

 

「……………………!!」

 

 渚は反射的に腕で顔を覆った。

 そんな防壁を引き剥がそうと、尚もフラッシュの嵐が勢いを増す。

 

 マスメディア。

 昨夜の会見後は小吉と蛭間が用意してくれた“抜け道”からこっそりと自宅に帰った為にやり過ごしたが、彼等が事前に忠告してくれた通り――やはり、奴等は待ち構えていた。

 

(……蛭間総理や小町大臣は、何も答えずに通り過ぎるのが一番だって言ってたけど――通り過ぎることが出来るような穴すら見つからない……っ)

 

 まるで壁だ。

 それぞれ別々の職場から派遣されてきた者達である筈なのに、長年苦楽を共にしてきた戦友であるかのように、見事な連携で――取材対象(なぎさ)を追い詰めてくる。

 

「○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○!!」

「××××××××××××××××××××!!」

「△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△!!」

「□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□!!」

 

 彼らの放ってくる言葉の弾丸の意味すらも上手く聞き取れない。

 日本語ではなく、獣の唸り声か何かのように聞こえる。

 

 どれだけこちらを慮るような表情をしていても、声色をしていても――その瞳に、その口元に、その顔色に、滲み出る肉食獣の舌なめずりが隠しきれていない。

 彼等にとって、自分が只の取材対象であり、捕食対象であることが確かな圧力として伝わってくる。

 

(……こんなのと日常的に戦ってるんだ。……政治家とか芸能人って大変だな)

 

 渚が最早、一歩も前に進めなくなった時――マスコミの壁の向こう側から騒めきが届いた。

 

「ほら! 退きなさい、近所迷惑よ!」

「な、なんだ! 我々は知る権利の元に正当な取材を――」

「中学生の登校を妨害しておいて何が権利よ! 文句があるなら(わたしたち)に言いなさい!」

 

 そう言って、マスコミの中を掻き分けて、渚の前に辿り着いた女性は。

 引き連れてきた同じようにスーツを身に纏った――ごく普通のビジネススーツを身に纏った屈強な男達によって、マスコミの海の中に、大きな車への道を作った女性は言う。

 

「我々は防衛省です! 今後、潮田渚くんを始めとするGANTZメンバーに対しての取材を行う際は、国を通してからお願いします!」

 

 渚は、そう声を張ってマスコミ達を威圧する――昨日も会った、その若い女性の横顔を見上げながら言う。

 

「…………園川、さん?」

 

 園川雀。

 昨日、烏間惟臣と共に椚ヶ丘学園3年E組を訪れ、渚と三者面談を行った、弱冠二十五歳にして、日本最強の男の相棒にまで上り詰めた才女が。

 

「――おはよう渚くん。迎えに来たわ」

 

 一緒に学校まで行きましょう――そう言って、マスコミの怒号の中を颯爽と歩き出し、渚を国用車へと導く。

 

 いきなりの展開に呆然としながらも、渚は鞄を胸に抱きながらその後に続き、ふとこんな言葉を呟いた。

 

「……あ、あの――烏間さんは?」

 

 昨日、渚を首相官邸へと送り届けてくれたもう一人の顔と名前を知っている人物が、どうしてここにいないのかと何となくそう思って問い掛けた渚の言葉に。

 

 園川は渚の方を見ずに、ただ、「――もうすぐ会えるわよ」と、そう言った。

 

「烏間さんも、今――椚ヶ丘学園にいるから」

 

 そして、渚は園川に先導されながら、よくニュースなどで見かける要人を乗せる為の胴長の車(これがリムジンというものだろうか)に、恐縮するように小さな体を更に縮こませながら乗り込む。

 

 だが、車内には同様に、小さな体を縮こませながら乗り込んでいる子供の――中学生の先客がいた。

 渚は――彼女の姿を見て、高そうなシーツに座り込む前に驚きの声を上げる。

 

「か、神崎さん!?」

 

 一昨日の夜の――池袋大虐殺において。

 

 渚が黒いスーツを身に纏っている状態で遭遇し、炎に萌える――否、燃えるビルディングの中で共に死地を乗り越えたE組(エンド)の同級生。

 あの戦争の後に入院していた為に、会うのはあの夜以来となる、クラスの憧れのマドンナである少女。

 

 神崎有希子は――入院着ではなく、派手な軽い服装でもなく、渚にとっては見慣れた椚ヶ丘学園の制服を身に纏っている彼女は。

 渚と同じく、人生初めてのリムジンでの登校という現状に戸惑いを禁じ得ないのか、苦い笑いを持って、とりあえず朝の挨拶をした。

 

「お、おはよう、渚くん」

 

 渚は、引き攣った笑顔で、「お、おはよう、神崎さん」と返すことしか出来ず。

 

 このまま二人は、小さな体を縮ませたまま、大きな車内で苦笑いしながら登校することとなった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 椚ヶ丘学園――理事長室。

 

 高度成長教育を掲げる全国でも有数の中高一貫進学校。

 その創立者にして支配者たる怪物の居城であるこの一室に、日本最強の男は、昨日に引き続き来訪していた。

 

「――こうして同じ人物に続けて会うのは珍しいものだ。さて、本日はどんな要件かな?」

 

 学校法人の経営者に過ぎない筈の男――浅野学峯は、国から派遣された要人を前に、堂々と理事長の椅子にふんぞり返りながら応対する。

 

 そんな理事長に、日本最強の男は――防衛省から警視庁に出向中の身である男は。

 否――たった一日のみの出向を終えて、新たな任務を昨日に請け負ったばかりの男は。

 

 烏間惟臣は――その元来の厳しい表情のまま。

 

「……既に、防衛省から通達済みとは思いますが――」

 

その新しい任務を果たす為に、目の前の学園の支配者に対して頭を下げて。

 

「――本日より、椚ヶ丘学園3年E組にて、体育教師をさせていただきます」

 

 すぐさま顔を上げて、その鋭い猛禽類のような眼のまま淡々と言った。

 

「教員免許は持っていますので、ご安心を」

 

 烏間惟臣の、日本最強の殺気のような威圧感を受けても尚、目の前の怪物は面白そうにただ微笑むばかりだった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――烏間。お前、そういえば教員免許持ってたよな?」

 

 昨夜の【英雄会見】終了後――首相官邸のとある一室にて。

 

 自らが連れてきた――連行してきた潮田渚を、責任を持って送り帰そうと、別室で会見中継を観ながら待機していた烏間の元に、会見が終わってかなりの時間が経ってから――小町小吉防衛大臣が訪れた。

 

 挨拶の後、渚のことを尋ね、既にこちらが手配した“手段”で家に送り帰したと伝えられた烏間に、小吉は唐突にそんなことを問うてきた――烏間惟臣の教員免許の所持の有無を問うてきた。

 

 問いの意図が掴めずに、ただ取得しているという事実だけを答えると、小吉は更に唐突にこう言った。

 

「――烏間。急な話で悪いんだが、明日からお前には椚ヶ丘学園に行ってもらいたい」

 

 期間は、潮田渚が卒業する来年の春までだ――と、小吉は一方的に命じた。

 

 烏間は信頼する上司の有無を言わせぬ命令に、ただ部下として粛々と従い――。

 

「――理由を、お聞かせ願いますか?」

 

 否――烏間は、戸惑うことはなかったが、真っ直ぐに小吉の目を見据えながら、静かにその理由を問うてきた。

 

「…………理由は、勿論、今日の発表があったからだ」

 

 小吉は、有能な部下のその反応に僅かに目を細めたが、元々説明するつもりだったが故に、ソファに腰を掛けながら戸惑うことなく答えた。

 

「元々、今日出席してもらった四人の戦士には、専属の護衛を付けるつもりだった。……昨夜の池袋大虐殺は無修正で生中継されている。『星人』の情報、そして『ガンツ装備』。あの『転送』の技術だけでも、垂涎で狙う者は多いだろう」

 

 無論、世界を征服している組織(CION)背後(バック)についている以上、各国の軍隊や諜報組織が全力で嗅ぎ回る――といったことはないだろう。

 だが、例え世界の首脳に根回しを行おうと、世界には表の公認は得ていなくても絶大な力を持つ裏組織など山のようにいる。

 

 それにCIONの中にも世界初の公認黒衣部隊である『GANTZ』のメンバーに唾を付けておこうと考える者もいるだろう。和人や渚達を通じて、《CEO》や《天子》の覚えが目出度い小吉や蛭間に釘を刺そうと考える者もいるかもしれない。

 

 それに、何より――表立って敵対宣言を行われた『星人』達にとっては、彼らは格好の標的となるだろう。

 

 世間に――世界に。

 顔を、名前を、生命を晒すということは、正しくこういうことなのだ。

 

「彼らは戦士だ。だが、その前に学生でもある。出来る限り、彼らの日常は尊重してやりたい」

 

 烏間は、そんな彼らの日常を奪った張本人である小吉の言葉に小さく眉を顰めたが、何も言わずに続きを無言で促す。

 小吉は、そんな部下の無言の言葉を聞き取ったように言葉を止めるが「……だから、彼らが望む限り、これまで通り学校には通ってもらうつもりだ。そして、渚君と新垣君はそれを希望した」と続けた。

 

 それはつまり、桐ケ谷和人と東条英虎は学生の身分を放棄したということだが、烏間はその点にも追求せず、鋭い眼光で一言一句を聞き取る。

 

 小吉は、己の太い指を絡ませながら、低い大人の声で言う。

 

「故に、登下校を含めた外出時、そして自宅付近での護衛を、渚君には了承してもらった。押しかけるマスコミにも初日だけはカメラを向けられることには我慢してもらい、逆にその時の報道姿勢を問題視させることで抑止力とする。これらも全て了解を得ている」

 

 その根回しの早さに、まるで政治家のようだと、烏間は思った。

 裸一貫で上り詰めた現場主義者で、数多くの戦場で伝説を残してきた男のそんな姿に――だが。

 

 烏間は、その上司のスーツの下の、まるで鎧のような、現役時代から全く衰えていない肉体を見て。

 

(……本当のこの人は、一体……どれなんだ?)

 

 尊敬に値する人だと胸を張って、声を張って言えていた、小町小吉という己が上司の顔が、まるで黒く塗り潰されているような錯覚を、一瞬覚えて。

 

 烏間は――ほんの小さく、目を細めた。

 

「……桐ケ谷和人、東条英虎、新垣あやせに対しても、護衛として相応しい、信頼できる人物を派遣するが――」

 

 小吉は、そんな信頼する部下の視線に気づかない振りをしながら続ける。

 

「――潮田渚。彼に関しては少し厄介だ。彼というより、彼が通学継続を希望している、この椚ヶ丘学園3年E組という場所がな」

 

 お前も直接見たなら分かるだろう――と、小吉は烏間に問う。

 烏間は、ただ深く頷いた。

 

 椚ヶ丘学園3年E組――それは、東京都内にありながら、三百六十度が自然に囲まれた、人里離れた山中に隔離される教室である。

 

 生徒達以外の人気はなく、隠れる場所も豊富。

 狙うに易く、守るに難い――絶好の暗殺スポット。

 

「――俺ならば、まず間違いなく、此処で潮田渚を狙う」

 

 小吉は、いつの間にか広げていた椚ヶ丘市のマップを指差し、言う。

 烏間は、その意見に――無言の肯定を返すことしか出来なかった。

 

 そんな烏間に、日本の防衛のトップは、特殊部隊『GANTZ』の最高責任者は、日本の防衛力の統括者は言う。

 

「だからこそ、俺は椚ヶ丘学園3年E組(ココ)に、日本で最強の防衛力を配置することにした」

 

 お前だ、烏間――と、小町小吉は鋭く睨み据えながら言う。

 

「烏間惟臣特務官。特殊部隊『GANTZ』メンバー・潮田渚、並びにその周辺の『護衛』、そして彼らを狙う刺客の監視、及び撃退を命ずる」

 

 何か質問はあるか――と、小吉は問い返す、が、烏間はそれに頭を振ろうとする。

 

 任務は理解した。

 その重要度も、3年E組を一度訪問してその地形環境を把握していて、何より護衛対象と面識のある自分が適格者であることも、理解した。

 

 断る理由がある筈もない。

 先程の会見を経て、あの危うい少年の近辺に危険が迫りくるであろうことは、誰でもわかる自明の理だ。

 

 潮田渚――彼は既に、日本という国にとって重要な存在だ。

 そんな存在を守るということは、つまりは日本という国を守ることに繋がる。

 

 当然、受けるべき任務だ。果たすべき責務だ。尊敬すべき上司から直接に賜った職務だ。

 

 返す言葉など――たった一つしかない筈だ。

 

「……………!」

 

 絶句――する。

 

 何も言葉が出ないことに、出すべき返答を拒むように――言葉を発せない己に、絶句する自分に絶句する。

 

 そんな自分に誰よりも戸惑っているのは、他ならぬ烏間自身で。

 

「…………」

 

 そんな烏間の胸中を、烏間自身よりも把握しているかのような表情で、小吉は言葉を紡ぐ。

 

「……烏間。お前が現在請け負っている任務――『死神』の検挙についてだが」

 

 小吉の言葉から、『死神』というワードが出てきたことに対し、絶句しながらも瞠目する烏間。

 その部下の様子に、あの烏間がこんなにも分かり易く感情を露わにしていることに、小吉の目は逆に細められる。

 

 だが小吉は、それに対し何も言わず、ただ言葉の続きを烏間に届けた。

 

「一時的に、その任務は凍結する。警視庁への出向もなしだ。明日付で再び防衛省に戻ってもらう。笹塚という刑事とのコンビも解消だ。その連絡は既に俺から総監に伝えてある」

「――っ!?」

 

 今度は、絶句していた筈の己の喉から反射的に言葉が溢れそうになる――そのことに、再び烏間は絶句する。

 

 初めて経験する己の異常に、烏間はただ戸惑うことしか出来ない。

 そんな烏間を細めた瞳で見据えながら、小吉は淡々と宥めるように言った。

 

「だが、お前の任務は先ほども言った通り、来年の春までだ。それ以降は、再び『死神』検挙の任務に戻すことは約束しよう」

 

 あくまで、最優先は潮田渚の護衛だがな――と、小吉は釘を刺すように言うが、烏間はその言葉が耳に入っているのかいないのか、先程までの絶句が嘘のように、喉から勝手に言葉が流れ出てきた。

 

「――ありがとうございます」

 

 それは、何に対する礼なのか。

 

 小吉はソファから立ち上がり「……椚ヶ丘学園の理事長にはこちらから話を通しておく。潮田渚の明日の登校は園川に迎えに行くように言っておこう。お前は明朝、真っすぐに理事長室へ迎え。その他のことは全て、お前に任せる」と、淡々と連絡を済ます――そして。

 

 ガシ――と。

 大きく、ごつごつした――戦士の手を、烏間の肩を揺さぶるように掴んだ。

 

「――烏間。俺はお前を信頼している。……だから、これだけは言っておく」

 

 そして――小町小吉は。

 

 裏の世界で日本最強の称号を得ている男は、表の世界で日本最強の称号を与えた男に向かって、言う。

 

「呑まれるな――頼んだぞ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 烏間は、昨夜に掴まれた肩に重みのようなものを幻覚しながら、目の前に鎮座する浅野理事長を真っ直ぐに見据えた。

 

 浅野理事長は、烏間の言葉を受けながら、椅子を回転させ烏間に背を向けて、滔々と言葉を紡ぎ始める。

 

「……確かに、貴方のE組への配属は小町防衛大臣から直接連絡を受けています。――表の意味でも、裏の意味でもね」

 

 裏――という言葉に、烏間は小さく眉根を寄せる。

 それは殆ど表に出ない変化だったが、浅野理事長はそれを的確に見据え、烏間がどこまで把握しているのかを見抜いて、返した。

 

「――いえ、こちらの話です。何はともあれ、ご自由に。こちらとしても、例えE組とはいえ彼等は私の学び舎の生徒です。生徒の学業と安全を守るのは、教育者として当然の義務ですから。それを最優先でお願いします」

 

 思ったよりも理解のある対応に、烏間は「……本来であれば、潮田渚君だけでも、本校舎の方に通学が出来るようお願いしたいのですが――」と探るように口走ると。

 

「――それは出来ない」

 

 浅野理事長は、小さく笑いながら――殺気を放つ。

 

「彼はE組だ。例外はない。国であろうと、私の教育方針に口を挟むことは許さない」

 

 一教育機関の経営者に過ぎない男が放つ、その殺気を受けて――烏間は、改めて理解する。

 

(……昨日の対面時にも分かっていたことだが……やはり、この男は怪物のようだな)

 

 どの世界にも、どの分野にも、一定の確率で出現する規格外。

 どの世界でも、どの分野に置いてでも、規格を外れることになるであろう――怪物。

 

(……そう。まるで、『ヤツ』のように――)

 

 烏間は目を細めながら「……分かりました。それでは、彼らの護衛計画はE組での環境を念頭に立てさせていただきます」と、そう言って小さく頭を下げて、すぐさま浅野理事長に背中を向けた。

 

 もう用は済んだとばかりに理事長室を後にしようとする烏間に、浅野理事長は「少し待ってください」と、肘を立てて手を組みながら声を掛ける。

 

「……まだ、何か?」

「いえ、折角ですから、ここで顔を合わせて頂こうかと思いまして」

 

 そう言いながら浅野理事長は、ここにきて初めて椅子から腰を上げた。

 

「なんとも奇遇なことに、今日からもう一人、E組に新しく教師が赴任することになっているのです」

 

 彼には、新たにE組の担任になっていただきます――と、浅野理事長は言う。

 

(……この時期に、この時機に――新しい担任だと?)

 

 烏間は半身振り返り、浅野理事長を睥睨する。

 このタイミングで新たな人事など――それこそ、何かあると言っているようなものだ。

 

(俺とはまた別に護衛戦力が派遣された……? 確かに、事の重大さを考えるとそれも有り得る話だが――)

 

 しかし、この男が――この怪物が――この教育者が。

 体育教師ならばともかく、全教科を教えるというE組の担任教師を、護衛戦力に――ずぶの教育素人に任せるだろうか。

 

 例え、国からの命令でも――例え、世界を守る為でも。

 

「言うまでもなく――言われるまでもなく、本来ならばそんなことは、私は決して許しません。例え、国であろうとも、私の教育方針に口は出させません」

 

 そう前置きした上で「ですが、この彼は今日――誰よりも早く、この理事長室で私を待ち構えていました」と、浅野理事長は語る。

 

 今日――早朝。

 この理事長室での、怪物と怪物の初対面を語る。

 

「彼が初め、それを伝えに来た時、私は己の理念の元に――教育理念の元に一蹴しました。例え国でも、例え世界でも――どんな裏を持ち出そうとも、私の学園に手出しはさせない、とね」

 

 そう言った私に――あの怪物はこう返したのです、と、浅野理事長は言う。

 

 怪物の言葉を、怪物の笑顔で。

 

――『それでしたら、私があなたの教育を担うに相応しい能力を示せばいいのですね?』

 

 浅野理事長は、その場面を思い起こしながら、小さく微笑する。

 

「かつて、この私に面と向かって、あそこまで堂々と己が能力を晒す者はいませんでした。……そして、彼はたった一時間で、この私に認めさせるだけの能力を見事に示してみせたのです」

 

 烏間は、目の前の男がどれだけ怪物的な支配者なのかは漠然と肌で感じてはいたが、目の前の男がどれだけ怪物的な教育者なのかを理解しているかといえば、首を横に振らざるを得ないだろう。

 

 故に、十全と理解出来たわけではない。だが、これは紛れもなく異常で、偉業なのだ。

 

 この浅野学峯に、たったの一時間で、己が学園に置いて全教科を教壇に立って教えることが出来ると、そう認めさせるということが。

 氏素性すら明かさず、教師の経験どころか免許すら皆無な、そして明らかに裏に思惑を持っていると隠そうともしない不審者が――浅野学峯に、優秀な教師として認められるということが。

 

 どれほどの異常で、どれほどの偉業なのか。

 どれだけの怪物で、どれだけの規格外なのか。

 

「――彼には、すぐそこで待機させてあります。あなたはE組の場所を知っていましたね。ついでといっては何ですか、顔合わせを済ませた後、彼をE組へと案内していただけると助かります」

 

 これからは、同じ職場で働く同僚となるわけですから――と、浅野理事長は「――入りたまえ」と、扉の外で待機していたという、烏間の同期となる、椚ヶ丘学園3年E組の新たな担任を呼び出した。

 

 その男は、ノックもせずに静かに扉を開けた。

 

 現れたのは――ガスマスクを付けていない、初めて見る顔の美男子だった。

 

 恐ろしく整った、いっそ少年にすら見える程に穏やかな顔立ち。

 艶やかな黒髪。すらっとした体躯。そして――見る者の警戒心を無条件で剥がす微笑み。

 

 烏間惟臣は、初めて見るその男に――確信した。

 

「――おま――え、は――ッッ!?」

 

 烏間は反射的に懐に手を伸ばし――二人の怪物は、それぞれ怪物染みた、笑顔を浮かべた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「……ふう」

 

 浅野学峯は、自ら淹れたコーヒーを飲んで、文字通り一息を()いた。

 

 今、この理事長室には彼一人しかおらず、二人の新任教師は――日本の表と世界の裏から派遣されてきた二人の規格外の怪物は、仲良く山の上の隔離教室へと向かっている筈だ。

 

(……まぁ、仲良く、というのは多少語弊があるかもしれんがね)

 

 文字通りの、一触即発――戦争一歩手前まで張り詰めていた、先程までの二人の初対面を思い返し、学園の支配者は小さく微笑む。

 

 そして、窓の外から――この本校舎からまるで見世物のように離れた場所にある『エンドのE組』を細めた瞳で見詰めた。

 

(……あの二人は、能力としては間違いなく申し分ない。……E組の生徒の中に『戦士(キャラクター)』が生まれてしまったのは想定外だったが――計算内ではある)

 

 あの黒い球体が無差別に戦士を蒐集している以上、それは当然、起こり得る可能性として検討はしていた――そして、その後の展開としては、考え得る中で最高に近い転がり方をしている。

 

(万が一を考え、“彼”を奴等の懐に送り込んではいましたが――もし、彼らが上手く機能してくれれば、私の生徒達が終焉(カタストロフィ)において、不利益を被る危険性をより抑えることが出来る)

 

 もし、半年後に迎える終焉が――全世界の人間に等しく滅びを齎すという終わりならば。

 浅野学峯は思う――それはそれで、己の教育の理想の一つの形だと。

 

 だが、違う。

 刻々と近づいている終焉は、あくまで現世界の崩壊に過ぎない。

 

 その終焉の中で、利益を得る者、不利益を被る者の選別は、既に始まっている――終わりに向かって、始まっている。

 

 滅んだ世界での伸し上がりを目論む者達がいる。

 壊れた世界での成り上がりを企む者達がいる。

 

 既に、新たな世界での勝者と敗者の選別は、始まっている。

 

(ならば――私は、私の生徒達を敗者にするわけにはいかない)

 

 浅野学峯は、表情を消して睨み付ける――己にとっての弱さの象徴であり、敗北の歴史でもある、あの木造の隔離校舎を。

 

(その為ならば――この教育理念の為ならば、何であろうと利用して見せますよ。……例え、日本最強の軍人でも、例え、世界最強の殺し屋であろうとね)

 

 一人の怪物教育者が、そう己が殺意(けつい)を滾らせていると、背後から緊張気味のノックの音が聞こえる。

 

 浅野学峯は振り返って、立ったままで来訪者に対し入室を促した。

 

「――ほう。思ったよりもずっと早いご到着(きかん)ですね」

 

 お待ちしていました――と、浅野学峯は先程までの殺意を掻き消し、笑顔を浮かべ。

 いえ、言葉が違いましたね――と、再び理事長の椅子に腰掛けて、がちがちに緊張している彼女に向かって、それを解すような声色で言った。

 

「――お帰りなさい。あなたの席は、ずっと用意してありましたよ」

 

 そう言って、浅野学峯は、三人目の新任教師を――否、その復職教師を迎え入れた。

 

 椚ヶ丘学園3年E組――その、副担任の教師として。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「やばいやばいやばいよぉ~」

 

 木造校舎の軋んだ音が響く廊下を、どたどたと走る音。

 ふわふわの髪の美少女が、まるで食パンを咥えて曲がり角に突っ込むかのように焦りながら、何とか始業のベルが鳴るよりも前に教室の扉を開けることに成功した。

 

「セーフっ! 間に合った? 間に合ったよね!?」

「セーフだよ。ほら、汗拭いて」

 

 ありがとー! ――と、ふわふわ髪の美少女――倉橋陽菜乃は、一緒に走って登校してきた凛とした女生徒――片岡メグが横から差し出したタオルで汗を拭いた。

 

「おはよう。片岡が遅刻ギリギリなんて珍しいな」

「あ、おはよう、磯貝君。……うん、なんていうか」

 

 片岡は自分もハンカチで汗を拭っている時に、横に現れた爽やかなイケメン少年――磯貝悠馬の言葉に、恥ずかしげな笑みを浮かべながら、それを苦笑いに変えていると。

 

「山の入口の所に、すっごいカメラがいっぱい居たんだよ! なんか、警察? みたいな人達が引き剥がしてくれたんだけど、しつこくってさぁ。メグちゃんが助けてくれなかったら絶対遅刻だったよぉ」

 

 なるほど、と、磯貝は苦笑いで理解した。

 実際、自分達が登校してきた時も、山の前で幾つものカメラが誰かを待ち伏せるようにして陣取っていた。

 

 本校舎との分かれ道から逸れて、山へと――つまりはE組へと向かう生徒だと分かると、まるで草食動物を追い詰める狩りをする肉食獣が如く、目の色を変えて飛びかかってきた。中には飢え過ぎて本校舎の生徒にインタビューに向かうメディアもいたほどだ。

 

「そっか。大変だったな」

「倉橋なんかは露骨にターゲットになり易そうだもんなぁ」

「えぇ~。なにそれ~」

 

 磯貝はそう言いながら、片岡の方を労わるように見つめる。

 きっと取材陣に群がられる倉橋を放っておけなかったのだろうと。片岡はそんな磯貝に苦笑でもって応える。

 

 そして、磯貝の傍にいたチャラい着崩しの少年――前原陽斗は、机の上に腰掛けながら倉橋に言う。

 

 実際、倉橋の小動物然とした可愛らしいルックス、そして素直な言動は、インタビュアーとしては恰好の餌食だろう。

 倉橋にとっては不本意なのか、タオルの中で不満の声を上げているが。

 

 そんな話題はクラスの中のあちらこちらで上がっていて、ここにいる全員が今朝、同じような経験をしたのだと分かった。

 

「……………」

 

 茅野カエデは、そんなクラスを己の机に座りながら観察している。

 本性柄、そういったメディアの気配に鋭い茅野は、彼らがマークしていないだろう入口から山に入って登校してきたので(万が一にも己の正体に気付かれたら面倒なことになると察して)、今朝は彼らのようにカメラに捕まってはいないが、聞こえてくる断片的なエピソードから、奴らが今回の件にどのくらい興味を、ひいては商品価値を見出しているのかは、おおよそ把握できる。

 

(……今のところ、そこまで本腰を入れて“こっち”には興味を持ってはいないみたいね。……やっぱり、SAOの英雄“桐ケ谷和人”や、現役モデルの“新垣あやせ”が、マスコミにとっては本命なのかな。奴らは現役中学生戦士ってことくらいしか渚には注目していない。……でも、このE組の実態がバレたら――)

 

 エリート進学校の隔離された落ちこぼれ生徒による差別学級――そんな現状をマスコミが知ったら、間違いなく食いつく。こういった差別待遇は、奴等にとってはきっと大好物だ。だが、山に向かう生徒がE組生徒だと判明されている時点で、それも時間の問題なのかもしれない。

 

 今のところ、嬉々としてインタビューに答えて、渚の、ひいてはこの学級の情報を売ったといった情報は聞こえてこない――が。

 

(……このE組のクラスメイトのみんなが、そんなことをする人達だとは思えないけど……マスコミ(あの人達)は、自分達が欲しい情報を獲得するプロだ。それこそ、どんな手でも使ってでも)

 

 幼い子供の時分から、彼らと戦い続けてきた雪村あかり――茅野カエデは、そう瞳を細めて思考する。

 

 それに――いくら渚が無害な生徒でも、みんながみんな、渚を守ろうとしてくれるとは限らない。

 

「……茅野さん、大丈夫ですか? 怖い顔してますけど」

「頭でも痛いのか? 保健室に行くか?」

 

 E組の保険室は保険医不在(空っぽ)だけどよ、ベッドくらいはあるぜ――と、眼鏡に三つ編みの気弱な少女――奥田愛美と、リストバンドを付けた野球少年――杉野友人に話し掛けられた彼女は、反射的に茅野カエデの仮面を被って笑顔で手を振った。

 

「ん~ん! 大丈夫! 私もいきなりカメラ向けられて朝からちょっと疲れちゃっ――」

 

 教室の後方から、突如として大きな音が響いた。

 

 各所で咲いていた会話が一斉に静まり、音の発生源に注目が集まる。

 椅子に凭れ掛かり、机を蹴り飛ばした――体がデカく、態度も大きな男子生徒――寺坂竜馬に向かって、クラス中の視線が集中する。

 

「……どいつもこいつもくだらねぇ。ちょっとカメラで撮られただけでスター気取りかぁ? あぁ?」

 

 寺坂は、そう大声で吐き捨てる。

 そんな寺坂にクラスメイトは眉を顰めるが、寺坂は尚も言い募った。

 

「大体、渚が悪の宇宙人と戦うヒーローだ? ハッ、俺らと同じ、エンドのE組の落ちこぼれだぞ、ちょっと考えりゃあ分かんだろ? ヤラセだよ、ヤラセ。あんなだっせぇ服着てテレビに出るだけのバイトだろ? な?」

「あ、ああ」

 

 寺坂は大仰に両手を挙げて嘲笑し、隣に座るへちまのような顔の少年――村松拓哉に同意を求める。

 

 段々とクラスメイト達の視線がきつくなっていくことにも構わず、寺坂は大きな口を開けて言った。

 

「大体よ、その肝心の正義のヒーローさんはどうしたんだ? もしかして、今更あの痛いコスプレ姿を晒したことに死にたくなったんじゃ――」

「――うるさいよ、パチモンジャイアン。イタイのはどっちだよ? ちょっと黙っててくんない?」

 

 寺坂と同じく最後列の、席一つ分のスペースを開けた場所から届いた小さな言葉が、寺坂の嘲笑を止めた。

 

 クラスメイト達の注目が今度はその言葉を放った者――赤い髪の異質な瞳の少年――赤羽(カルマ)に向かって集まる。

 

「――あぁ? カルマ、テメェ、今なんつった?」

 

 寺坂は椅子から立ち上がり、そのままカルマの席の元に行き、その大きな身体で威圧するように見下ろす。

 

 だが、カルマは先程までの寺坂のように、椅子に凭れ掛かり体重を後方に掛けながら、椅子の前脚を宙に持ち上げて――嘲笑する。

 

「ギャーギャー耳障りだって言ったんだよ、聞こえなかったの? リサイタルなら公園の空き地でやればいいじゃん。誰かに聞いてもらいたい寂しがり屋なの?」

「アァ!?」

「大体さぁ、あの会見をやったのは政府だよ? どんな理由があって、渚君をヤラセで公認戦士だって晒すのさ? 現役中学生の、それもあんなひ弱な生徒を表に出したって、叩かれるだけだって誰にでも分かるでしょ? ――脳みそまでゴリラレベルのE組(エンド)でもない限りね?」

 

 そう言って、真っ直ぐにカルマは寺坂を見上げる。

 何もかもを見透かすような、その細い瞳に――寺坂は反射的に歯を食い縛り、言葉を呑み込んで、カルマの机を叩き付ける。

 

「――ッ!! じゃあ、テメェは!! あんな弱っちぃヤツが!! 俺らと同じE組(エンド)の貉がッ!! 正義のヒーローにでもなれたっていうのかッ!! アァッ!?」

 

 潮田渚(アイツ)だけが、このE組(エンド)から――暗い闇の中から抜け出して。

 多くの人々の期待を背負う、華々しいカメラの前の住人に――眩しい光の中の世界に、()れたというのかと、そう叫ぶ寺坂に。

 

「…………………」

 

 先程まで、テレビの迷惑なインタビューを受けたと、どこか浮かれて話していたクラスメイト達は。

 渚を馬鹿にし嘲笑していた寺坂の言葉に、厳しい眼差しを向けていたクラスメイト達は。

 

 中学三年生にして人生が終わってしまったと、絶望に暮れる――エンドのE組の生徒達に戻っていて。

 

「…………そんなに気になるんならさ、本人に聞けばいいんじゃない?」

 

 寺坂が机を蹴り飛ばした時とは、また別の意味で静寂に包まれる教室の、扉が開く。

 

 カルマ達がいる方とは逆側の、教壇に近い前方の扉から入ってきたのは、二人のE組(エンド)

 

 始業のベルが鳴り響く直前に遅刻ギリギリにやってきたのは――水色髪の中性的な少年――潮田渚と。

 そんな彼とまったく身長が同じの艶やかな黒髪のクラスのマドンナ――神崎有希子だった。

 

 身長159㎝の少女が身長159㎝の少年に背負われながら登校してきた。

 

 ぶっちゃけ、おんぶ登校だった。

 

「「「「ええええええええええええええええええええ!?」」」」

 

 張り詰めた沈黙に満たされていた山中の隔離教室は、中学生らしい悲鳴で満たされた。

 

「渚! 昨日のはどういうことだったんだ? 心配したぞ!」

「山の入口にいたマスコミは大丈夫だったのか? あれ、渚目当てだろ?」

「っていうかなんで神崎さんと一緒なの!? なんでおんぶしてんの!? え、なんでなんで? コレ夢!? 悪夢!?」

 

 磯貝が、菅谷が、そして血の涙を流す杉野ら男子陣が渚に詰め寄る中。

 

「神崎さん! もう登校してきて大丈夫なの?」

「池袋の事件に巻き込まれて、入院してるって聞いていたけど」

「ねぇねぇ神崎さん! ……えっと……あの……ごめんなさい何でもないです……」

 

 片岡が、矢田が、そして何故か一瞬だけ現れて日和って退散した杉野ら女子陣(+1)が有希子に詰め寄る中。

 

「……………………」

「よかった。渚君も神崎さんもお元気みたいで――茅野さん? どうかしたんですか、茅野さん?」

 

 奥田が無事に登校してくれた二人に安堵し、何故か開口したまま硬直する茅野に戸惑う中。

 

「みんな、何か色々と迷惑と心配を掛けたみたいでごめんね。後でちゃんと説明するから」

「…………渚君……お願い……早く……降ろして」

「ん? ああ、ごめんね。今、降ろすから」

 

 飄々と笑顔で対応する渚。赤面しながら渚の小さな背中に顔を埋める有希子。

 

 渚は、山中ではそんなに恥ずかしがってなかったのに(むしろ出来れば渚に背負って連れて行って欲しいと言ったのは有希子だ。道中は言葉少なげながらかなりご機嫌だった)と首を傾げながらも、集まるクラスメイトを掻き分けて、有希子の席へと連れて行って彼女を降ろした。

 

「っ!? 神崎さん――」

「――その足、大丈夫なの!?」

 

 そして、その時、クラスメイトはようやく、彼女の足に痛々しく巻かれた包帯に気付いた。

 有希子は苦笑いしながらストールを取り出して、それを自分の膝に掛けて言う。

 

「……うん。もうそんなに痛くはないの。お医者さんからは、あんまり歩いたりするのはまだ良くないって言われてるんだけど」

 

 クラスメイトは有希子のそんな言葉を受けて、心配そうな顔を崩さない。(杉野に至ってはさっきとは打って変わって真っ青な顔色に染まっていた)。

 そんな女子陣(+1)に対して有希子が苦笑を深めているのを余所に、渚は有希子の席から離れてた。有希子はそんな渚にありがとうという意味を込めて笑顔を送り、渚は笑顔で返答した。

 

「――渚。ちょっと、ツラ貸せや」

 

 そのまま教室の後方へと移動した渚に、立ち塞がるように寺坂が現れた。

 

「……寺坂君?」

 

 渚は己よりも遥かに大きい男子を見上げる。

 少し前までは、確かに少なくない恐怖を抱いていた相手。見下されていたという自覚もあり、決して得意ではなかった相手――だが。

 

 そんな相手に対し、まるで恐怖も――何も感じないことに、渚は小さな驚きを感じていた。

 

「――――ッ!! 何だよ、その目は――っ!?」

 

 寺坂は、その瞳に対して反射的に渚を掴み上げようとする――が。

 

 渚はそんな寺坂の腕は止めて、もう一方の手の指先で――寺坂の首を突いた。

 

「寺坂君。止めた方がいいよ。……このスーツ、すっごく硬くて痛いらしいから」

 

 そう言って、己の制服の下に纏う“スーツ”を見せながら、まるで邪気のない笑顔を向ける。

 暴力を振るわれかけたことをまるで意に介さず、ただ――殴ると痛いのはそっちだよ、と。意識の波に合わせて、寺坂の昂った戦意すら殺して。

 

 とん、と。優しく寺坂を席に座らせる。

 

 静まり返った教室。

 気が付くと、クラス中の誰もが、渚を見ていた。

 

「………………」

「………………」

「………………」

 

 中でも、緑髪の変幻自在の少女が、黒髪の容姿端麗の少女が、赤髪の聡明叡智の少年が、それぞれ異なった意味の視線を、蒼髪の平凡無害だった筈の少年に注いでいると。

 

 再び、教室前方のドアが開く。

 

「――席に着いてくれ。HRを始める」

 

 昨日までの老人教師ではなく、ここに居る殆どの生徒が見たこともない、がっしりとした体格の鋭い眼光の男が入ってきた。

 

 渚と有希子がその男の登場に対して目配せをする。

 そんな二人に茅野が細めた目を向けて、茅野と同様に男の正体を知っているカルマも鋭い眼差しを男に向けて。

 

 全体的に戸惑いの空気が満たす中、全員が席に着いたところで、学級委員を務めている磯貝が挙手をして起立しながら、男に問うた。

 

「あ、あの……」

「――ああ。前任の永井先生は体調を崩されお辞めになった。よって、今日から新しい担任が、このE組に配属となる」

 

 騒めきがクラスを満たす。今度は片岡が挙手し、男に問うた。

 

「えっと、先生が、新しい担任の方ですか?」

「いや、俺は体育教師だ。防衛省から派遣された烏間という。教員免許は持っているから安心して欲しい」

 

 防衛省という言葉に再び、クラスに混乱が走る。

 烏間は「色々と疑問に思うことはあるだろうが、まずは新しい担任となる男を――君達に紹介させてもらう」と、一度瞑目した後、「…………入れ」と、烏間は低い声で促した。

 

 E組の中に入ってきた新しい担任の教師は――透明な男だった。

 まるで男の身体が透き通っていて、後ろの黒板が見えるような錯覚すら感じる程に。

 

 足音が聞こえなかった。

 真っ白なキャンバスのように白いシャツ。どこにでも売っているかのような無地のジーパン。墨で塗りつぶしたかのような一切の染色もパーマも掛かっていない黒髪。

 

 どこにでもいるかのような装いなのに、今までどこでも会ったこともないと感じる男だった。

 

「――ッ!?」

 

 有希子がそんな男に既視感を覚え、茅野が睨み付ける中――ガタンッ、と。

 

 たった一人――潮田渚は、音を鳴らして立ち上がり、喘いでいた。

 

「………………あ、なた――は」

 

 そんな渚に、烏間と、そしてカルマが鋭い視線を向ける中。

 

 透明な男は――そんな渚に、そしてE組に、小さく微笑んだ。

 

「私は、『死神』と呼ばれる殺し屋です」

 

 静かに、優しく、包み込むような――殺意を放った。

 

「初めまして。私が渚君を戦士にした犯人です。来年には地球は滅びます。君達の担任になったのでどうぞよろしく」

 

 恐ろしいことを平然と言われているのに。意味が分からない言葉を連呼されているのに。

 

 その笑顔と、その声色は、むしろ心を見る見るうちに安堵させていく。

 

 渚は、そんな微笑みを受けて――どすっ、と、倒れ込むように席に着いた。

 

 間違いない。この人は――あの殺し屋(ひと)だ。

 

(――また、会えた――っ!)

 

 渚の瞳に涙が浮かび始める。そんな渚を、茅野は隣の席から複雑な瞳で見詰めていた。

 

「――『死神』。ここでは、そういった技術は使うなと厳命されている筈だ」

 

 教壇に立つ男に、烏間は『死神』のそれとは違う、鋭く冷たい殺意を向ける。

 

 そんな烏間の放つ迫力によって、E組のメンバーはハッと我を取り戻し、背筋を震わす。

 対して『死神』は悪びれもせず「申し訳ありません。最早、これは私の習性のようなものでして」と、滔々と言った。

 

「――先程も言った通り、俺は防衛省から派遣されている。これから話すことは、最上級の国家機密だと理解した上で聞いて頂きたい」

 

 烏間は『死神』の脇に立ち、クラスの前に出て威圧感を込めて言った。

 

「単刀直入に言う。君達に、この『死神(かいぶつ)』を――」

 

 

――殺して欲しい。

 

 




こうして、『死神』はE組(エンド)の教壇に立つ。

そして――授業が、始まる。


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Side渚――⑥

覚悟を決めた者から引き金を引きなさい。


 

 目の前の男を――殺して欲しい。

 

 そう唐突に言われた、どこにでもいる只の中学生達は、当然のように困惑し――沈黙した。

 

「……どういうことですか? 意味が、分からないんですが」

 

 磯貝が、クラスの声を代弁してそう問う。

 烏間は、最もな質問だとばかりに頷き答えた。

 

「詳しいことは話せない。最上級以上の国家機密だからな。だが、コイツが言ったことはどれも本当だ」

 

『死神』と呼ばれる殺し屋だということも。

 潮田渚を戦士にした犯人だとことも。

 

 そして――地球が来年には、滅ぶということも。

 

「正確には、滅亡予定日は来年の三月だ。君達が中学校を卒業する頃には、今の世界は滅亡を迎えている。このことを知っているのは、各国の首脳――そして」

 

 特殊部隊『GANTZ』のメンバーだけだ――と、烏間は渚に視線を向ける。

 

 そして、それに導かれるように、クラスメイト達の視線も渚に向けられた。

 

「……本当なのか、渚……?」

 

 そう問うてくる後ろの席の杉野の言葉に、渚は俯くばかりで答えられなかった。

 この態度が、この無言の態度が、世界の滅亡という荒唐無稽な言葉が、正しく真実であると示して――。

 

(――違う)

 

 否――渚が何も言えなかったのは、烏間の言葉が正しかったから、ではない。

 

 ()()()()()()()()()()()()()からだ。

 

 世界は滅ぶ――それは正しい。

 けれど、それは、来年の三月――ではない。

 

 世界に――来年は来ない。

 

 今年中に世界は終わる。初日の出を迎えることなく滅亡を迎える。

 

 エンドのE組は、卒業を迎えるまでもなく、エンドのまま――世界の終焉(エンド)を迎えることになる。

 

(……この、食い違いは……何? 只の烏間さんの勘違い? それとも、烏間さんは――意味を持って、意図を持って勘違いさせられている? それとも、勘違いさせられているのは――僕?)

 

 昨夜、小町小吉防衛大臣に明かされた――世界の真実。

 恐らくはその一端に過ぎないであろう明かされた僅かな真実の中に、世界の終焉の日――『真なる終焉の日(カタストロフィ)』の日付は、確かに含まれていた。

 

 具体的にどのような滅びを迎えるのかは分からない。

 だが、今年中に世界が終わる――そんな正しくSFのような未来を、末路を、世界中の大人達が本気で信じて、恐れていて、それに向けて動いているということは理解出来た。

 

(……この場合、僕はどっちを信じるべきなんだろう……?)

 

 どっちの言葉を信じて、どっちの期日を信じて、行動するべきなのだろう――向き合うべきなのだろう。

 

 渚は何も言うことが出来ず、恐る恐る俯いていた顔を上げる。

 

 そこには、不安を安堵で包み込んでくれる――『死神』の笑顔があった。

 

「…………………」

 

 渚は、その微笑みに、ただ頷きを持って返した。

 

 その頷きは、茅野以外のクラスメイトには烏間の言葉に対する肯定として受け止められ、クラス内に冷たい動揺が広がる。

 

「だ、だけど、それが、この人を僕達が殺すということに、どうやって繋がるんですか?」

 

 磯貝が、再び烏間に問う。

 動揺するクラスメイトは、その言葉に再び前を向いた。

 

 そうだ――世界は来年の三月に滅亡する、らしい。どうやらそう決まっているらしい。

 

 だが、それが一体、どうして僕達への殺人依頼に繋がるのか――と、そう視線で問う中学生達に、烏間は。

 

「それは――」

「ここからは私が答えましょう、烏間先生」

 

 烏間の言葉を遮って、透明な男が口を開く。

 

「私は――あなたよりも、多くの真実を知っています」

 

 そう、笑顔を持って制する。

 烏間は、無表情ながらも拳を握り、一歩後ろに下がって腕を組んだ。

 

 透明な男は――『死神』は、それに頷き、自らの生徒達となる中学生と向き合った。

 

「まず初めに、世界の滅亡という想像し辛く遠い危機よりも、君達にとってもっと身近な危険に対しての説明をしましょう」

 

 透明な男はよく通る声で、教室の隅々まで届きながらも決して威圧的ではない声色で以て言った。

 

 世界の滅亡よりも、ずっと身近で、もっと分かり易い危険――身の危険について。

 

「先程、烏間先生が仰った通り、私が言ったことは全て事実です。世界の滅亡も。そして――私が殺し屋だということも」

 

 そして、3年E組(きみたち)の担任となったことも――そう、『死神』が口にした時。

 

 遅まきながら、彼等はその状況の異様さに気付いた。世界の滅亡などという大仰な言葉に隠れていた、もっと身近で、分かり易い――身の危険に。

 

「そう。君達はこの私――殺し屋たるこの『死神』が、受け持つクラスの生徒となったのです」

 

 殺し屋が担任の先生になった――防衛省に殺すように依頼された、謎の殺し屋が、僕達の先生。

 

 殺し屋が、己を殺す殺し屋(せいと)を育てる――殺人教室。

 

 その余りに異常な状況に絶句する、未だ殺し屋ではない中学生達に、世界一の殺し屋たる担任は優しく言う。

 

「では、何故――教師ではなく殺し屋たる私が、君達の担任の先生となったのか。まずはそこから授業していきましょう」

 

 そして『死神』は、己の生徒達に背を向け、黒板に相向かいチョークを手に取って、言葉通り、まるで授業を行うかのように説明を始めた。

 

「私がこの教壇に立ち、君達に明かした真実は、この四つです」

 

①自分は『死神』と呼ばれる殺し屋であること。

②潮田渚君を戦士にした犯人であること。

③来年には世界は滅ぶということ。

④椚ヶ丘学園3年E組の担任になったということ。

 

「③については説明をしました。そして、これから①と④について説明をしていくわけですが――これには、②が大きく関わってきます」

 

 順序立てて説明していきましょう――と、四つの項目の内に③を消しながら、それらの項目の横に新たな文字を――“対星人用特殊部隊『GANTZ』”という文字を書き込んでいく。

 

「君達は昨夜の会見は視聴しましたか? 世間では早くも【英雄会見】などと称されているようですが、要は政府によるこの部隊のお披露目の為の会見でした。そして、そこではこんな事実が明かされましたね。GANTZの戦士となることに必要なのは――『才能』だと」

 

 星人に立ち向かい、世界を守る戦士となる為の『才能』。

 最々新鋭の技術で作られた、漆黒の機械スーツを纏うことの出来る――『才能』。

 

「そして、潮田渚君の『才能』を見抜き、『GANTZ』のメンバーへと推挙したのが、この私です。そう言った意味で、私は潮田渚君を戦士にした張本人であり、犯人なのです」

 

 そう言いながら、『死神』は渚の方を見遣り、後ろ手に②の項目を消す。

 クラスの注目が再び渚に集まり、茅野が一人『死神』を睨み付ける中――教室の最後方から、寺坂の大きな声が教壇に響く。

 

「――ハッ! そのモヤシ野郎の、どこにヒーローの素質があるんだ? アンタの目、節穴なんじゃねぇの?」

 

 自らを殺し屋だと宣言し、防衛省の人間のお墨付きすらある危険人物に対し、そう吐き捨てる寺坂にクラスメイト達がギョッとするが、『死神』はそんな中学生の癇癪を笑顔で受け流しながら、滔々と授業を続ける。

 

「昨夜も小町防衛大臣が説明していた通り、GANTZ戦士の才能とは、すなわち『スーツ』に選ばれる才能です。そしてスーツが求める才能とは、屈強な肉体でも、明晰な頭脳でも、類い稀なる運動神経でも、強靭な精神でもない。これらの要因はスーツの性能を引き出しはするものの、スタート地点に立つ上での選別条件ではない」

「……じゃあ、そのスーツが求める才能って何なの?」

 

 再び教室の最後方から、今度は小さな――けれど不敵な声が届く。

 

「肉体でも、頭脳でも、運動神経でも精神力でもない。じゃあ、センセイは渚君の何を見抜いて、あのコスプレちっくなヘンテコSFスーツの目に適うって判断したのさ?」

 

 殺し屋だと自称する男の前で、先程の寺坂に対してと同様に仰け反り、煽りながら。

 ただ目だけは真っすぐに、『死神』に向かって問う――赤髪の少年の言葉に。

 

 透明な男は――透明な笑顔を持って、答える。

 まるで生徒の質問に答える――教師(せんせい)のように。

 

「――殺し屋の才能ですよ」

 

 そう、透明な男は――新たなるE組の担任教師は言った。

 

 世界を守る英雄(ヒーロー)の素質として。無害な透明少年から見出した才能として。

 

 この世で最も恐ろしい殺し屋として、その『才能』を保障した。

 

「私は、GANTZの戦士ではありません――が、これでも世界最強の殺し屋と呼ばれています。GANTZは対星人用と銘打っていますが、それは星人に対抗できる最々新鋭の装備を扱える部隊といった意味であり、星人相手にしか戦えない部隊というわけではない」

 

 共に机を並べて過ごしてきた学友の、到底信じられない才能を暴露されて呆然とする生徒達に構わず、『死神』は授業を続ける。

 そして、黒板に書かれた『GANTZ』という文字を丸で囲んで強調し、再び生徒に向き合いながら言った。

 

「私は、世界最悪の殺し屋を抹殺するという任務を受けた――GANTZの戦士達を差し向けられたことがあります。これまで、およそ四回程」

 

 対星人(ばけもの)用として設立された、世界で最も優れた装備を持つ特殊部隊。

 いわば、世界で最も強い武器を持つ戦士達に――明確に命を狙われたという殺し屋は。

 

 傷一つない顔で、まるで素敵な思い出を語るかのように言った。

 

「けれど、最々新鋭の装備を持っているとはいえ、扱うのはあくまでも人間――そして、その選別条件上、長年訓練を積んだプロと呼べる戦士ばかりというわけでもない。知能の低い星人相手ならばそれでも有効でしょうが、私は殺し屋です。それも世界最強の――世界で最も人間を殺す術に長けた存在です」

 

 殺し屋は――とても綺麗な笑顔で言った。

 

「返り討ちにしました――私は殺されず、彼らを殺しました。だからこそ、こうして皆さんの前に、教師として立っているのです」

 

 殺したと――戦士を、人を殺したと。

 そう目の前の男は、中学生に向かっていっそ誇らしげに言った。

 

 否――その言葉には、誇らしさなど微塵も含まれていなかった。

 ただ、殺したと――当たり前のように、日常を語るように、無色透明に言ったのだ。

 

 故に――だからこそ、恐ろしかった。

 目の前のこの男は、自分達の新しい先生は――そういう人なんだと。

 

 無色透明に人を殺したことを語れる日常を過ごしてきた人なんだと――そういう殺し屋なのだと、段々と理解させられてきて。

 

 先生が殺し屋――そんな身近な、異常な危機に、みるみる危機感を募らさせられて。

 クラスの誰かが唾を呑み込んだ音が聞こえて、急に自らも喉の渇きを覚えた。

 

「そうして刺客を差し向けられ、それらを撃退することを繰り返していく内に――やがてGANTZは刺客ではなく交渉人を派遣してきました。戦争ではなく停戦の誘い――特殊な交換条件を出されたのです」

 

 政府公認の特殊部隊『GANTZ』から、世界最高悪の殺し屋『死神』への、停戦協定。

 

 出された交換条件――正義の戦士と、悪の殺し屋の間で結ばれた、裏取引。

 

 E組(エンド)の担任教師となった男は、それを微笑みながら明かした。

 

「優秀な戦士の育成、及び輩出――それらに協力し、一定以上の成果を上げた暁には、これまでの私の罪歴を全て抹消し、全世界指名手配を解除する、と」

 

 そう、GANTZ(かれら)は持ち掛けてきました――『死神』は、そう語った。

 

 この言葉に対し、E組の中には少なからずの衝撃と、失望があった。

 

 池袋を地獄へと変えた、世にも恐ろしき怪物――『星人』。

 

 昨夜の【英雄会見】を受けて、自分達のクラスメイトも所属する『GANTZ』という組織は、そんな怪物に立ち向かう正義の組織といったイメージを少なからず抱いていた生徒達も多かった――それを裏切られたように、少し感じた。

 

「私はそれを承諾しました。彼らを撃退していく内に、彼らが隠していた『世界滅亡の日』に関する情報も手に入れましたし――ならば、その日までGANTZ(かれら)の中に潜り込み、利用し合うというのも面白いと考えました」

 

 勿論、真っ白なばかりの組織などないのだろうと理解できない程に子供ではいられない年齢だけれど、それでも――こんな黒い取引に、全く失望しなかったといえば嘘になる。

 自分達の手に負えない悪人に対し、正義(ルール)を捻じ曲げ特別待遇で機嫌を取るような、そんな――大人に、失望しなかったといえば、嘘になる。

 

「…………」

 

 烏間は、そんな俯く中学生達を見遣りながらも、自身の肘に爪を食い込ませながら、無表情を貫き。

 裏取引を持ち掛けられた張本人である『死神』は、そんな彼らを細めた目で見渡しながら続ける。

 

「話を戻しますね。そうしてGANTZ(かれら)と同盟関係のようなものを結んだ私は、彼らが持ち掛けてきた交換条件を叶えるべく、優秀な戦士の輩出へと勤しむことにしました。その為にまずすべきと判断したことは、GANTZの戦士となることが出来る優秀な才能の発掘です」

 

 GANTZの戦士となることが出来る才能――すなわち、スーツが求める戦士の才能。

 

「小町防衛大臣が昨夜の会見で仰っていた通り、その詳細な条件は未だ不明です。ですが、これまで何度かGANTZ戦士を差し向けられ、その戦士達を観察してきた先生なりの私見ですが――」

 

 透明な男は、再び黒板に相向かい、その単語を板書する。

 都合四度、GANTZ戦士を撃退してきた、世界一の殺し屋たる『死神』が見出した共通項――それは。

 

「――異端(イレギュラー)性。稀少な性質を持つ者こそ、GANTZスーツは戦士としての可能性を見出す傾向にある、と、先生はそう推測しています」

 

 勿論、全ての戦士がそれを満たすとは限らない。

 そもそもが真実としてスーツが戦士に求める条件など“死人”であるということ以外は皆無な以上、ただのでっち上げ、詭弁に過ぎない。

 

 だが――異端(イレギュラー)性。

 それが“()()()”戦士が持ち合わせる性質――才能であるというのは、『死神』という個人の嘘偽りない私見であることは確かだった。

 

「昨夜の会見に渚君と共に出席した、『桐ケ谷和人』、『新垣あやせ』、『東条英虎』、彼らもそれぞれ、一般人には持ち得ない異端な才能を有しています。そして、私は渚君にも、彼らとはまた違う、独特な素晴らしい才能を見出しました」

 

 それが――殺し屋の才能です、と、『死神』は言う。

 

――『――すばらしい才能をお持ちですね』

 

 渚は、目の前の『死神』に、今と同じ笑顔を向けられながら、そう告げられた下校道を思い出した。

 

 初めてこの人に会った時――初めて、その瞳で、透明な自分を、見つけてくれた時。

 

(僕は――きっと、こうなる運命だったんだ)

 

 潮田渚という人間は――殺し屋になる運命だったのだと、そう思った。

 

「私は、渚君に殺し屋としての才能を見出しました。それは、凡百の中学生――否、世界中の大人達を含めても、一握りも持ち得ないであろう異端(イレギュラー)な才能です。私は、間違いなく彼ならば優秀な戦士に――いえ、優秀な暗殺者(アサシン)になれると、そう確信しました」

 

 そして、やはり渚君(かれ)は選ばれた――『死神』は言った。

 

 エンドのE組は、ただ重苦しい絶句に包まれる。

 そんな中で、ただ二人――『死神』と、潮田渚だけが微笑んでいた。

 

「これで②についての説明は終わりましたね。続いて、①と④に移りましょう。先程言った通り、これには②が大きく関わっています」

 

 目の前の男が①『死神』と呼ばれる殺し屋であること、そして④椚ヶ丘学園3年E組の担任となったこと。

 

 つまり、何故『死神』と呼ばれる殺し屋が、3年E組の担任となったのか、ということ。

 

「先程の説明通り、私は優秀な戦士の育成と輩出をするという契約によって、GANTZから――つまり世界から、執行猶予を得ています。そう、育成と輩出です。決して私の仕事は、優秀な戦士となるであろう人間を勧誘(スカウト)することではないのです」

 

 優れた才能を見出すことは、あくまで必要な下準備でしかありません――と、『死神』は言った。

 

 自分の仕事は、ダイヤの原石を発掘することではなく、一級品のダイヤの宝石を提供することだと。

 

「適当な戦士(ハズレ)を宛がわれて、それを育てろなどという仕事を請け負うつもりはありませんでした。才能もない戦士を寄越されて、育てられずに任務失敗などとされて殺されるのはごめんでしたからね」

 

 まぁ、易々と殺されるつもりなどありませんが――そう言ってクスッと笑い、『死神』は尚も続ける。

 

 堂々と手を開き、目の前の生徒達に向けて――語る。

 

「故に、私はE組(ココ)を、私の教室とすることにしたのです。どうせ育てるのならば、私が見出した才能のある戦士がいい」

 

 此処を、この教室を、椚ヶ丘学園3年E組を。

 己が手で、戦士を、暗殺者(アサシン)を育成する――『教室』とすると、『死神』は宣言する。

 

「タイミングもちょうどよかった。池袋大虐殺によって、政府は渚君達を表に公表せざるを得なくなった。だがそれは同時に、渚君達の日常世界を脅かされる危険がついて周るということになる」

 

 潮田渚の日常世界――つまり、椚ヶ丘学園3年E組。

 それは、この3年E組が脅かされる――戦場となる危険性があるということ。

 

(……っ! ……そうか。僕が、不用意に通学を続けたいなんて言ったから……みんなを危険に晒すことに――)

 

 己の浅慮を悟った渚は、ギュッと小さな体を縮こませる。

 

(…………渚)

 

 それを、隣の席から茅野が心配そうに見つめていたが、『死神』はそれを一瞥すると「よって、政府は護衛を派遣せざるを得ない。烏間先生もその一環でしょう。ですが、折角のこの山中の隔離学級。この環境を利用しない手はない」と、尚も己の計画(プラン)を語り続ける。

 

「つまり――殺し屋の私が、E組(ココ)に担任として、教師として派遣された理由――それはすなわち、此処で私が渚君を育成する為です。護衛として、そして教官として――彼をより優秀な戦士として育て上げ、世界を守る英雄として輩出する為に」

 

 潮田渚――彼という戦士の為に、世界はこれだけ特別扱いをした。

 防衛省のエリートを体育教師として派遣し、世界一の殺し屋を担任教師として斡旋した。

 

 たった一人のE組生徒(エンド)の為に、一夜にしてこの教室は生まれ変わった。

 

 昨日まで――いや、ついこの間まで、世界から見捨てられ、世間から弾かれた、同じ落ちこぼれだった筈なのに。

 

 一緒に、終わっていた、筈なのに。

 

「………………」

 

 それは、とても異常で、とても異様な待遇だ。

 

 中学生の身の上で、見たこともない怪物と戦わされる。

 防衛省の元軍人と世界最悪の殺し屋の指導の元、世界を守る英雄としての責務を負わされる。

 

 きっと、とても重圧で、危険で、苦しい立場である筈で。

 

 でも――彼等は、E組のクラスメイト達は、確かに思った。

 

 とばっちりで危険な立場に置かれて、本当ならば恨み言の一つでも吐き捨てて然るべきなのに。少なくとも、渚本人はそれを覚悟し、申し訳なく思っているのに。

 クラスの大多数の生徒達は、渚の方を向かずに――そっと、俯き、思った。

 

 なんで――僕じゃ、俺じゃ、私じゃないんだと。

 

 少なくとも彼らにとっては、星人やら何やらに身を狙われる危険よりも、殺し屋が担任になることよりも、世界の滅亡よりも――ずっと。

 このクラスに澱み、充満する――E組の闇の方が、ずっと分かり易く恐怖だった。

 

 例えどんな重く、辛く、苦しい立場であろうとも――カメラの前で、光の中に進出した、闇の中から抜け出した同胞(クラスメイト)が、羨ましくて堪らなかった。

 あの黒衣(スーツ)が着たいと、拳を握り、唇を噛み締めずにはいられなかった。

 

 微笑みながら、見透かすように――『死神』は、そんな彼らの耳元で囁くように、言った。

 

「そして、どうせならば――と、先生は“君達”も育てることにしました」

 

 男は、教壇から降りて、生徒達の元に歩み寄った。

 

 咄嗟に烏間は身構える――が、『死神』は、無言で危害は加えないと伝え、歩み出す。

 

 一番前列の生徒達――磯貝悠馬の、倉橋陽菜乃の元に近づいて。

 

「一目見て気付きました。E組(きみたち)は――素晴らしい」

 

 そう言って、彼らの頭を撫でる――まるで、触手のように優しい手つきで。

 一歩、一歩と、中学生の抱える深い傷を、そっと労わるように、癒すように。

 

 矢田桃花の、三村航輝の――そして、ニコッとこちらに笑いかける神崎有希子の、目をしっかりと見つめながら。

 

 世界一の殺し屋は、『死神』は――保障する。

 エンドのE組の生徒達の、世界に、世間に見捨てられた少年少女達の存在を。

 

「渚君に負けず劣らない、稀少な才能を持った逸材で溢れている」

 

 千葉龍之介の、奥田愛美の瞳を真っ直ぐに見据えてそう断言した後、『死神』は教室の最後方に達した。

 

 こちらを怯えるように睨み付けてくる寺坂竜馬に微笑み返した後――『死神』は赤髪の少年と目が合った。

 一際輝く異彩の才能――赤羽(カルマ)と見詰め合って、『死神』はそっと彼の頭を撫でる。

 

 触手のように、蝕むように。

 

「君達がGANTZの目に適うかどうかは保障できません――が、先程も言った通り、世界は来年には終わります。今の世界の階級(ランク)は、新しい世界では何の意味も持たない」

 

 最底辺(エンド)の人間が、最頂上に上り詰めることも可能なのです――と、『死神』は。

 

 菅谷創介の、そして杉野友人の肩に手を置きながら歩みを進める。

 

「殺し屋の私でさえも、GANTZは利用価値を見出せば登用します。……つまり、この学級で才能を育てれば、君達にもまだ人生を逆転することが出来るチャンスが生まれる」

 

 そして、『死神』は潮田渚の元に辿り着き、優しく微笑み、その水色の頭を撫でる。

 

 嬉しそうに微笑む渚に笑みを返し――そして、その隣の席から殺意を持って睨み付けてくる、茅野カエデに対して。

 

「何よりも、これから世界は滅びへと向かう。星人の動向も活発となるでしょう。最早、世界に絶対に安全な場所など存在しない。自分の身は、自分で守れるようにならなくてはならない」

 

 そう断言し、足を進めて、その手を――前の席の片岡メグの頭へと伸ばし、前原陽斗の肩を叩いて、教壇へと帰還して。

 

 再び――3年E組を、エンドの生徒達を見渡して、宣言し――宣誓する。

 

「その為の――この『死神教室』なのです。私が皆さんを、何処に出しても恥ずかしくない、一流の暗殺者(にんげん)へと育て上げて見せましょう」

 

 クラスが、再び沈黙に包まれる。

 

 だが、顔を俯かせている生徒は、最早、誰もいなかった。

 皆、この異常な先生の顔を真っ直ぐに見上げて、その一言一句に心を揺り動かされている。

 

 茅野が、カルマが、それぞれ別の意味で目を細めていると――烏間が小さくその口を開いた。

 

「……無論、防衛省(われわれ)も当初は反対した。だが、このE組という場所が、とかく刺客に狙われやすい立地条件であることは――確かなのだ」

 

 その表情は、硬いながらも苦みが走っていることは皆が分かったが、それでも、その言葉は『死神教室』の開講を否定するものではなかった。

 この異様で異常な教室に、日本という国が認可を出している――その言い訳のような釈明だった。

 

「我々も力の限りの護衛に努めるが、過剰な戦力の導入は却って敵を呼び寄せることにも繋がりかねない。無論、君達が望むのならば転校などの処置は許可をする――が、せめて、この説明を最後まで聞いてから判断して欲しい。国も、この『死神』に好き勝手にやらせるつもりはない」

 

 しかし、烏間の言葉とは裏腹に、今、このE組に『死神教室』に対する拒絶的な反応は見受けられなかった。

 

 それがどれだけ異常なのか――この異常な教室を受け入れられるのが、どれだけ異常なのか。

 これはつまり、そもそも椚ヶ丘学園3年E組という教室が、どれだけ異常だったのか、如実に露わになった光景ともいえる――と、茅野はそう、無言で思った。

 

「確かに、GANTZは『死神』に対しての執行猶予を導入した。だが、全世界で数々の犯罪歴があるこの男の無罪放免を、未だ許容しない勢力があることも確かなのだ」

 

 それはそうだろうと、茅野はやはりそう思う。

 

 世界一の殺し屋――それはつまり、世界で最も恨みを買っている殺し屋と言っていい。

 例え、GANTZという組織が日本だけでなく世界的な影響力を持っているのだとしても、むしろそんな権力者達からこそ、この『死神』は恨みと、そしてそれ以上の恐怖を買っている筈だ、と。

 

「それを知ってか、この男は、今回のこの『死神教室』――その条件として、このような制限を、そして我々側への対価(メリット)の提供を申し出てきた」

 

 烏間は『死神』を押し退けるようにして黒板の前に立ち、その『死神教室』開講の盟約を列挙して言った。

 

「一つ、生徒達を――決して殺さないこと」

 

 殺し屋が教壇に立つ上で、真っ先に懸念される危険性。

 教師と生徒という関係を構築する上で、大前提となるその項目に、『死神』は何の抵抗もなく同意した。

 

「勿論です。例え、どんな依頼を受けようとも、そして、どんな授業に置いてでも、私が皆さんの命を奪うことはないと誓いましょう」

 

 担任教師となった殺し屋は、腕を組みながら頷き、烏間に続きを促す。

 烏間は、『危害は加えない』ではなく『命を奪わない』という言葉を使ったことに目を細めたが、何も言わずに再びチョークを手に黒板に向き直る。

 

「そしてもう一つは、生徒達に――己を殺す許可を与えるということ」

 

 生徒達に、どよめきが走る。

 

 ここでようやく、話が最初に繋がった。

 

 

――君達に、この『死神(かいぶつ)』を、殺して欲しい。

 

 

「この危険な男を毎日、傍で監視出来ること。そして、三十人もの人間が、この男を至近距離から殺すチャンスを得るということ――それを持って、我々はこの男に、君達に対する教育の許可を出した」

 

 世界一の殺し屋――『死神』。

 この男に、優秀な戦士の育成と輩出――そして、この男の、監視と暗殺、その両方のチャンスを与える教室。

 

 つまり、『死神』を利用したい勢力にも、『死神』を排除したい勢力にも、どちらにもメリットがある状況――『死神』が作り出した、その上で、己がやりたいことを実現させる教室。

 被害を、不利益を被るのは――ただ、そんな異常な男の異様な教育を受けさせられることになる、このエンドのE組の生徒達だけ。

 

(……結局、この人も大人ってことだね)

 

 カルマはそう烏間を睥睨するが、それでも、肝心の他の生徒達の目は、決して絶望に染まってはいない。

 このくらいのことは、元進学校のエリートたるE組生徒ならば気付く者はカルマや茅野以外にもいるだろう。だが、それを差し引いても尚、彼らの心が暗く染まり切らない理由は――。

 

(――そもそも、大人の陰謀に利用されるのは慣れっこだから。大人に失望させられるのは慣れっこだから。そして――)

(――その上で、この暗闇から抜け出せるかもって希望の糸を、目の前に垂らされたから……かな)

 

 茅野は、そしてカルマは、そう冷たく思考する。

 

 エンドのE組にとって、現状こそが最底辺である。

 そこに大人達の陰謀だとか、『死神』の企みだとか積み重なった所で――今更でしかない。

 

 最底辺に、幾らか最悪が重なった所で、終わったエンドな世界は、何も変わらない。

 

 けれど――。

 

「無論、君達への対価(メリット)も提供する」

 

 烏間は、そう生徒達を見渡して言った。

 大人達の醜い陰謀に付き合わせる生徒(こども)達に、せめてもの代価を与えることで――口封じをする、大人としての当然の義務を果たす。

 

「先程も言った通り、付き合えないという生徒には転校の手助けをする。学費諸々は国が負担し、この椚ヶ丘と遜色ない進学校を約束する」

 

 そして、これまでの説明を聞いて尚、我々に協力してくれるというのならば、報酬を与える――と、烏間は言う。

 

「この『死神』を殺した暁には、君達には成功報酬として――百億円を支払うことを約束しよう」

 

 成功報酬――百億円。

 

 それは世界滅亡と同じくらい、いっそ笑ってしまうくらい現実感がなく。

 けれど――それを冗談など生まれてから一度も言ったことのなさそうな大人が、大真面目で口にすることで、却って説得力が増していた。

 

 百億円――それは、世界の滅亡と同じくらい。

 人生が変わる――終わった人生を変えられる、希望(かのうせい)

 

「……この男は、それだけの危険性を持った殺し屋だということだ。全世界の全首脳の中で、この男に暗殺されることを恐れない要人など存在しない程に」

 

 だからこそ、この男は自らの命を対価として晒け出した――烏間は、そう言いたげな瞳で『死神』を見る。

 

 透明な男は、不敵に笑い、それを笑顔で肯定した。

 

「その通り。私は、この教室を開講する上で、君達に私を殺す許可を与えた。君達は、百億の為に私を全力で殺しにきなさい。私は、その上で――君達を一流の暗殺者(にんげん)へと育て上げてみせましょう」

 

 先生が生徒に殺し(生き)方を教え、生徒が先生を殺すことでそれを磨く――『死神教室』。

 

「勿論、先生はそう簡単に殺されるつもりは毛頭ありません。来年の三月まで、一緒に楽しく殺し殺され青春を送り、世界の滅亡を迎える予定です」

 

 その時、君達は百億以上の価値のある暗殺者(にんげん)へと堕落(せいちょう)していることでしょう――『死神』は、そう言って、触手のような両手を広げる。

 

「どんな国の精鋭部隊でも、どんな手練れの殺し屋(ごろ)し屋でも――そして、GANTZでも、この私を殺すことは出来なかった」

 

 それこそ、私ごと地球を殺すくらいのつもりでなければ、私は殺せません――と。

 

 世界一の殺し屋は、堂々と己の生命を晒す。

 

 殺せるものならば、殺してみろと――穏やかな殺意を湛えた瞳で。

 

「それでも、君達を一流の暗殺者(アサシン)へと育て上げるのならば、むしろ私を殺すくらいのつもりで授業を受けてもらった方が、効率が良い。それが、ひいては私の利益へと繋がる」

 

 E組――エンドのE組。

 アイツらは終わったと、そう世界から、世間から見放され、見下される宿命を背負わされた二十六人の中学生は。

 

 目の前の異様な男から垂らされた『死神』の糸を前に、恐怖と――僅かではない希望と共に、唾を呑み込む。

 そんな迷える子供達に、その巨大な鎌を隠そうともしない、『死神』は言う。

 

「さあ、残された一年――いや、もう約半年ですかね。それをどう有意義に過ごすかが、滅亡した後の世界での君達の余生を大きく左右します」

 

 残された時間は――約、半年。

 潮田渚は、その言葉の意味を汲み取り、小さくその両手を握った。

 

「無論、通常通りの義務教育も疎かにはしません。あなた方がこれまで受けてきた、どんな教師のそれよりも分かり易い授業を行うことを約束しましょう」

 

 中学生としての本分も忘れずに、明るく楽しく殺し合いましょう、と。

 異常な教育を宣言する『死神』に、中学生が何も言えずにいる中――『死神』は烏間に向かって言う。

 

「それでは烏間先生――例の物を」

 

 そう――殺意を持って微笑む『死神』に、烏間は一瞬、無言で佇む。

 

「…………」

 

 だが、これは既に国家計画(プロジェクト)――国家命令で動いている、国を守る為の国家事業だ。

 

 例え異常な教育だと理解していても、中学生二十六人の将来より――国の方が、重い。

 

「……分かった。――入れ」

 

 烏間はそう口にする――取り返しのつかないことを口にする。

 その自覚がありながら、覚悟を持って、扉の外の部下達に命令する。

 

 運び込まれたのは――()()()()()だった。

 

「――え!?」

「なに、何!?」

「は――これ、本物!?」

 

 木村が、岡野が、前原が――クラス中が混乱に包まれる中。

 

 まるで教科書を配布するかのように、各人に配られるのは――本物の銃器。

 女子には拳銃(ハンドガン)が、男子には自動小銃(ライフル)が、政府の役人と思しき大人達によって手渡されていく。

 

「――あ、園川さん」

 

 有希子は自分の目の前に立つ、見覚えのあるショートカットの女性の名前を呟いた。

 園川雀は、小さく震え、目を伏せながら――まるでお守りを渡すように、有希子の手に、拳銃を握らせた。

 

「…………ごめんね」

 

 そう言って、他の大人達と一緒に教室を出ていった。

 

 有希子は、その背中を呆然と追いながら、その手に握らされた拳銃(ハンドガン)――GGOでも使ったことのあるSIG P224 SASの感触を確かめる。

 

(……重い。……やっぱり、GGO(ゲーム)とは違う……それに、何より――)

 

――冷たい。

 

 これが、命を奪う道具の重さで、冷たさなのかと――有希子は冷たく思考する。

 

 だが、そんな冷静に銃を見詰めることが出来る者などほんの一握りで。

 悲鳴を漏らして机に置く者、逆に体が硬直して手放せなくなる者などが多発する中――『死神』は、怯える生徒達に向かって言った。

 

「それには、本物の実弾が込められています。明日からの授業では特殊なスタンガン仕様の弾丸を使用しますが、今日はこれを――入学届代わりにしようとします」

 

 エンドのE組の担任は――『死神』と呼ばれる男は。

 堂々と、その命を奪う武器を持つ生徒達に、その生命を晒しながら言った。

 

「この『死神教室』――参加は自由です。私の授業を希望する者は、今、ここで()ってみせなさい」

 

 何の武器も持っていない両手を、触手ですらない両手を広げて――生徒に殺人を強要する。

 

 ただ――その『死神』の微笑みを以て。

 

「私に向かって発砲する。それが入学の条件です。希望しない者は、銃を置いてE組を去りなさい。殺せない者に用はありません」

 

 穏やかな――けれど冷たい、微笑みを以て。

 

 3年E組の隔離教室に――『死神』の殺意を充満させた。

 

「…………………ッッ!!」

 

 誰一人、動けない。

 

 本物の殺し屋の、世界一の殺し屋の殺意を前に、呼吸すらも防がれているような錯覚を覚える。

 

「……先程も言った通り、君達の転校先は、椚ヶ丘と遜色ない進学校を保障しよう。無論、今日聞いた国家機密に対する記憶消去は受けてもらうが、何の実害もないことは保障する」

 

 烏間の言葉も生徒達の耳には入らない。

 ただ『死神』の笑顔と、そして自分達の手の中の凶器の感触だけを感じていた。

 

 ここで――これから先の、人生が決まる。

 

 エンドのまま一生を終えるか、転校先での再起に懸けるか――それとも。

 

 目の前の『死神』が、笑顔でこちらを見ている。

 

「……………………っ!」

 

 一人、また一人と、手放した銃を握り直す。

 一人、また一人と、その銃口を――『死神』に向ける。

 

「……よろしい。ならば、覚悟を決めた者から引き金を引きなさい」

 

 そう言い切って、『死神教室』の始業のベルを――。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「やめてください!」

 

 

 鳴らすのを――阻止するべく。

 

 3年E組の扉を開けて、もう一人の教師が姿を現した。

 クラス名簿を胸に抱いて、白衣を靡かせ、『来日』と書かれた謎のセンスのTシャツに汗を染み込ませて。

 

 銃口を向ける生徒達を背に、『死神』から庇うように。

 

 それは――彼らにとっても、よく知った教師(せんせい)だった。

 

「雪村先生!」

「なんで、雪村先生が!?」

 

 今年の三月――この3年E組が始まったばかりの、ほんの一ヶ月の短い間。

 自分達の担任の先生だった、一身上の都合で退職した筈の教師――雪村あぐりだった。

 

「お――ッっ!」

 

 お姉ちゃん――と言いそうになって、茅野は渾身の力で口を噤んだ。

 どうしてお姉ちゃんがここに、と茅野は――あかりは姉を見るが、あぐりはちらりとあかりと目を合わせて苦笑すると、すぐさま『死神』へと向き直って、睨み付けながら言った。

 

「……どういうつもりですか? 生徒達に銃なんか持たせて! ここは学校ですよ!」

「……あなたは? 私の教育に口を出さないで頂きたいのですが?」

 

 真っ直ぐに己を睥睨してくる女性に対し、その巨乳に一切目を向けず微笑みを返す『死神』。

 あぐりは、「口は出します。私は、このE組の副担任になりましたから」と言って、白衣を靡かせながら言う

 

3年E組(このこたち)は――私の生徒ですから!」

 

 生徒達が、そんなあぐりの言葉と背中に目を奪われる中で――『死神』は、靡いた白衣のその中の、異様なTシャツではなく白衣のタグを見て、おおよその状況を察した。

 

(――なるほど。君の差し金ですか、柳沢)

 

 流石にこうして彼女と自分が椚ヶ丘学園3年E組で、それも担任と副担任として対峙することになったのは偶然だろうが――それこそ運命と呼べるほどに幾重にも重なった偶然の産物だろうが――恐らく『死神(じぶん)』が日本に来ているというくらいの情報は手に入れている筈の男だ。

 昨日の殺し屋に続き、日本(こちら)で動かす駒として派遣したのだろう。

 

(……まさか、それが渚君の元担任とは――不思議な縁があるものですね)

 

 だが、この女性が新たに差し向けられた殺し屋ということはないだろう。

 身のこなしも素人だし、そして何より――彼女は今、生徒に発砲を強要している自分に本気で怒っている。

 

 彼女は殺し屋ではない――教師だ。

 

 だが――それと同時に、彼女は柳沢誇太郎の手先でもある。

 似合わない――脱げていない白衣が、その証拠だ。

 

「――あなたにとっても、ここで『死神教室』が開催される方が、都合が良いのではありませんか? 雪村あぐりさん」

 

 あぐりは、名乗っていない自分の名前を呟いた『死神』に身を竦ませる――そして、次の瞬間には、『死神』はあぐりの耳元に、己の口を近づけていた。

 

「私を監視し、いくらでも報告すればいい。――そう、柳沢に命令を受けているんでしょう?」

 

 そう囁きながら、『死神』は白衣の上から――内ポケットに仕舞っていた、あぐりの研究所のIDカードを叩く。

 白衣のタグから当たりを付けた『死神』は、一瞬でカードを抜き取り、彼女の素性、氏名、そして柳沢の名前を出した時の彼女の筋肉の強張り具合から、その関係性まで割り出した。

 

(混乱――そして、恐怖)

 

 更に、先程の生徒に対する反応、『死神(じぶん)』への怒り。

 それらを考慮し、『死神』はあぐりに静かな声色で囁く。

 

「――そして、ここでならば、あなたは教師を続けることが出来る」

 

『死神』は囁く――あなたに、通常教科の授業を任せましょう、と。

『死神』は囁く――あなたに、『死神教室』に参加しない生徒達のケアを任せましょう、と。

 

「私の教育方針に従わなくても構いません。お互い、各々の教育理念を貫けばいい」

 

 そう言って『死神』は、顔を上げてあぐりを見下ろす。

 

「………………」

 

 あぐりは、俯いたままで閉口した。

 彼女は優秀だ――『死神』の言わんとしていることが理解できない筈がない。

 

 ただ、見て見ぬふりをすればいい。

 お互い住み分けて、役割分担をして、この3年E組を『共用』すればいいだけだ。

 

 あぐりは『授業』をして、『死神』は『育成』をする。

 通常の教育をあぐりが施して、異常な教育は『死神』が担当する。

 

 そうすれば、あぐりは好きな教師の仕事が出来るし、裏で『死神』の情報を婚約者へと流せばそちらも満足させられるだろう。

 どの道、柳沢にとっては自分など、日本における目であり耳でしかないのだから。

 

 上手くやり過ごしていれば、恐ろしい婚約者から離れた日本の地で、好きな教師として過ごすことが出来る。大好きな妹と共に一緒にいられる。

 

 あぐりは、腕を降ろしながら、背後にいる生徒達を見遣る。

 本物の銃を手に持って、混乱を表情に浮かべて立ち尽くす生徒達を。

 

 たった一ヶ月の受け持ちだったけど、全員の顔も名前も忘れたことはなかった。

 そして、その時にはいなかった一人の生徒――髪を染めて、名前も変えて転入してもらった、愛すべき妹と目が合って。

 

――『そして、あかりにも知ってほしいの――学校の楽しさを。きっと、E組なら――あの子達と一緒なら、楽しい一年を過ごせるはずだから』

 

 そう――約束したのだ。

 あかり(このこ)に――学校の楽しさを教えてあげるって。

 

 銃を手に持って、殺意に塗れた異常な学級(クラス)で、学校の本当の楽しさが――伝えられるわけがない。

 姉として、先生として――目の前の『死神』に、屈するわけには、絶対にいかない。

 

 雪村あぐりは再び前を向いて、下ろしかけた両手を広げて、世界一の殺し屋に向かって言った。

 

「……それでも、私は――生徒達に殺しなんて、させたくありませんっ!」

 

 あぐりのその言葉に、烏間は己が肘を握り締める手を強め、そして扉の向こうの園川は唇を噛み締めて俯いた。

 

(…………お姉ちゃん)

 

 そして、まず最初に――茅野がその銃を下ろし、机に置いた。

 

 呼応するように、奥田が、原が、矢田が、銃を下ろす。

 

 片岡が、岡野が、磯貝が、前原が。

 倉橋が、木村が、三村が、杉野が、不破が、岡島が。

 

 次々と銃を下ろし、机の上へと置いていく。

 

 やがて神崎が、そしてカルマが銃を置いた所で――『死神』は嘆息するように言った。

 

「…………なるほど。いいでしょう。ならば、今日の所は発砲はしなくても構いません。戦士の為の暗殺の授業も、希望者だけが受講できるものとします」

 

 あぐりは完全に全ての言葉に納得出来たわけではないが、今すぐに生徒と教師の殺し合いに発展しない妥協点を引き出せたことに、両手を下ろしてほっと息を吐く――が。

 

「けれども、私がここに派遣されたのは、生徒達の護衛も兼ねてのことです。雪村先生を副担任とすることは認めますが――担任はあくまで私ということを忘れずに」

 

 そう言って『死神』は、あぐりに微笑みを向けながら――威圧する。

 あぐりは、ごくりと唾を呑み込みながらも、ぐっとお腹に力を入れて、目を逸らさずに真っ直ぐに見詰めた。

 

「………………」

 

 担任教師は、その副担任の真っ直ぐな瞳に、まるで見たことのないものを見るような目を向けるが。

 

「……あの」

「……なんですか?」

 

 あぐりは、真っ直ぐに『死神』を見据えて――こう問いかけた。

 

「あなたのお名前は何ですか? 『死神』というのは、本名ではありませんよね?」

 

 その副担任からの質問に――担任教師は、微笑みの表情のまま問い返す。

 

「……それは、必要なことですか?」

「え、でも、これからは来年の三月まで同僚となるわけですし……いつまでも『死神』さんだと、物々しいじゃないですか」

 

 何より、生徒が困ります――と、あぐりは笑みを浮かべながら言う。

 

 その、先程までの殺伐としたやり取りが嘘のように――平和な笑顔に。

 確執や主義主張の差異などを乗り越えて、それでも分かり合おうとする笑顔に。

 

 真っ直ぐに己を見てくる笑顔に――誰にも正体を隠し続けてきた『死神』は。

 

「――『殺せんせー』、は?」

 

 そう呟く程の音量で届いたのは、窓際の席の緑髪の少女――こちらを真っ直ぐに、突き刺すような殺意を込めて、睨み付けてくる少女だった。

 見慣れた種類の瞳で、これまでに浴び慣れた種類の眼光だった。

 

「先生、殺せない殺し屋なんでしょう? 殺せない先生――略して『殺せんせー』。どう? 気に入った?」

 

 ニコリとお手本のような笑顔と、極めて軽く明るく話し掛けてくる少女――けれど、その瞳の中の殺意は、姉に近づくなと、言外に容赦なく語っていて。

 皮肉をたっぷりと込められた茅野の命名に、「……いいですね。可愛らしくて」と『死神』――否。

 

「今日から私のことは、『殺せんせー』と呼んでください。たっぷりと、殺意(したしみ)を込めて」

 

 そう、殺せんせーは、3年E組の生徒達に向かって呼びかけた。

 

 殺せない先生――殺せんせー。

 そんな担任教師と過ごす、残り約半年間。

 

 終わってしまった学級(クラス)だった筈の、このエンドのE組に――確かに、大きな変化が訪れようとしていた。

 

「それでは、一時限目のHRはここまでにします。日直の方、号令を」

 

 恐らくは人生で最も長いHRを終えたE組(エンド)達は、これからの学校生活が果たしてどうなるのか、大きな不安と――小さな高揚感を抱いて。

 

 烏間とあぐり、そしてその横に立つ殺せんせーに向かって挨拶をするべく、日直の合図と共に立ち上がる。

 

「――起立!」

 

 日直の――潮田渚は。

 

 そう号令を掛けて――手放していなかった89式自動小銃(ライフル)を構えた。

 

「……気をつけ」

 

 どよめきが走る教室の中、静かにそう呟き――照準を合わせ。

 

「――渚!」

「――渚君っ!」

 

 咄嗟に飛び出そうとするあぐりを烏間が止めて。

 

 茅野が渚を止めようと――動き出す前に。

 

 一瞬瞠目し、そして微笑みを浮かべた――『殺せんせー』に向かって。

 

「――礼」

 

 エンドのE組で――ただ一人。

 

 潮田渚は迷わずに、笑顔で実銃()の引き金を引いた。

 

 

 山中に、乾いた銃声が木霊する。

 

 

 椚ヶ丘学園3年E組は――『死神教室』。

 

 生徒は――殺し屋。標的(ターゲット)は――先生。

 

 入学者は、現在一名。

 

 

 始業のベルは、今日から、鳴り始める。

 

 




 椚ヶ丘学園3年E組――『死神教室』。

 始業のベルは、今日から、鳴り始める。



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Side東条――⑤ & Side由香――②

――もちろんよ。あなたが、生まれてきてくれたから。


 

 少女曰く――まるで、刻み込まれるような青春時代だったという。

 

 どう頑張って化粧をしても、クラスの上位グループの脇役の位置にしか属せない75点の容姿。

 どう頑張って勉強をしても、B+ランク程度の大学しか受かることの出来ない頭脳。

 どう頑張って練習をしても、レギュラーにはなれてもエースにも四番にも司令塔にもキャプテンにもなれない運動神経。

 

 青春時代の少女の頭の中には、常にとある四字熟語があった。

 

 その四字熟語を、刻み込まれるかのような青春時代だった。

 

 器用貧乏。

 

 決して出来ないわけじゃない。劣っているわけではない。

 だが、どんな分野でも、どんな科目でも――頂点には立てない、トップにはなれない。

 

 五人兄妹の四番目として生まれた彼女は、最下位ではないけれど最上位にはなれない人生を送り続けた。

 

 小学校での成績は常に五位から十位の間。

 クラスでは四番目にモテる少女だった。マラソン大会では見事に八位に入賞した。

 

 中学に上がると二人の彼氏が出来た。どちらも半年から一年の間に別れた。

 部活はソフトボール部に入部し、七番セカンドでレギュラーだった。不動のスタメンだったが、特に優秀選手に選ばれるというわけでもなく、そこそこの成績を残し、県大会二回戦で敗退した。

 

 高校は地区で二番目の進学校に合格した。一番目の進学校は不合格だった。

 成績上位者として張り出される上位五十名には毎回含まれたが、三十位以上に名を連ねることはなかった。部活は入らずに帰宅部だった。

 クラスでは上位グループの三番手としての役割を与えられた。近隣高校との合コンに明け暮れ、それなりにはモテた。彼氏は在学中に三人出来た。

 三人目の彼氏とは色々な初体験を経験したが、希望の進学先が違うと分かった時点で自然消滅した。

 

『………………』

 

 そんな彼女は、青春時代の終わりを告げようとしているかのような、真っ赤な夕陽が差し込む放課後の教室で、進路調査票を眺めながら――決意した。

 

 勝ち組になる、と。

 

 生まれたこの地は、決して田舎ではない――だが、都会でもない。

 生まれたこの顔は、決して不細工ではない――だが、美少女でもない。

 生まれたこの頭は、決して馬鹿ではない――だが、天才でもない。

 生まれたこの体は、決して運動音痴ではない――だが、スポーツ万能でもない。

 

 何も持っていないわけではない――だが、何も、誇れるものが、ない。

 

 決して悪いカードを配られたわけではない。

 あるいは、彼女が何かしら胸を熱くするものに出会い、そのカードのどれか一つでも死ぬ気で磨く努力をしていたら――きっと彼女は、こんなコンプレックスに塗れなかった。

 

 どれだけ頑張ってもというが、彼女はそのどれもにおいて、頑張ることすらしなかった。頑張る前に諦めた。

 

 決して持たざるものではなかった彼女は、やればどれでもそれなりにこなせる器用さを持っていた彼女は、常に己の傍にいた、どれか一つの分野では己よりも優れる者ばかりの方を見詰めていた。

 光り輝く彼ら彼女らを、羨み、妬み続けた彼女は、やる前から諦めて――己の心をみるみる貧しくさせていく。貧乏になっていく。

 

 器用に――貧乏になっていく。

 

 それ故に、ただコンプレックスのみを肥大化させていった彼女は――東京という街に、濁った野心を抱きながら、上京する。

 

 勝ち組になる。

 誰にも見下されない人生を送る。問答無用に幸せだと公言出来るステータスを手に入れる。

 己に配られたこの中途半端なカードを駆使し、手に入れられるだけの最大の幸福を獲得する。

 

 そう決意して、生まれて初めて死力を尽くして、彼女は努力した。

 

 無我夢中で、一心不乱に。

 

 そんな彼女が、己が未来の幸福の為に全てのリソースを費やすと、何でもそこそこ優れた彼女が、己が勝利の為に、己が勝ち組になる為に全てを懸けると選択した分野は――女だった。

 

 彼女は、女を磨いた――研磨した。

 それなりの学力を持ち、それなりの運動神経を持ち、それなりに武器を揃えていた彼女は、手持ちの才能カードの中で――己が75点の容姿に目を付けた。

 

 正確には、東京という街に目を付けた。

 全国有数の名門大学が集まり、全国有数の優秀な若者が犇めく、首都東京。

 

 これからの日本という国を背負うべく、勝ち組になっていくであろう金の卵達が、未だ右も左も分からぬ卵のままで闊歩する街。

 

 確かに、十年後、二十年後は、自分のような存在とは住む世界が違うのだろう。

 だが、今ならば――大学生である今ならば、同じ時、同じ世界を生きている。

 

 同じ街で――終わりかけの青春を生きている。

 やがては選ばれし勝ち組となる彼らでも、今ならば只の男子大学生だ。

 

 遊ぶだろう。遊びたいだろう。

 これまでそのAランク大学に入学する為に、そして卒業後は日本という国を背負って働く為に――遊ぶことなど碌に許されないのだから。

 

 だからこそ、この限られた四年間であれば――器用貧乏な少女のような存在でも、手が届き得る存在である筈だ。

 

 右も左も分からない――女の良し悪しも見抜くことの出来ない、今だからこそ。

 

 将来光り輝く金の卵を――女として、雌として、誘惑し、籠絡し、誑かすのだ。

 

 これこそが、己が人生で最も輝く道に繋がる選択肢だと――彼女は判断した。

 

 真面目にB+ランク大学で勉強し、資格を取り、それなりの安定した人生を送るよりも。

 大学四年間を女磨きに費やし、あらゆる有名大学と飲み会をセッティングし、金の卵の男狩りに費やすことを選んだ。

 

 そんな彼女を、地方出身の娘が東京に出てきてモテるのに必死で滑稽だと笑う者も多かった。

 だが、あまりに本気で、モテる為に懸命に努力をする彼女に――目を奪われるものも多かった。

 

 事実――彼女は、四年間で見る見るうちに美しくなっていった。

 決して痩せすぎることもなくスタイルにメリハリを生むことを目的とした厳しいダイエットをこなし、シーズン毎に流行の最先端を追う為にバイトを幾つも掛け持ちし、肌艶を保つために生活リズムを徹底して整え、留年女というレッテルを回避する為に授業をサボるといったことは一度たりともなかった。

 

 そんな、ある意味でとても真面目な学生生活を送っているのに、その全てを合コンの成功に費やす――だが、決して不真面目に遊び惚けてもいないという奇妙な、けれどとても面白い行動をする彼女の周りには、徐々に人が増えていった。

 

 どうしてそこまでするのと聞かれて、いい男を捕まえる為だと大真面目に答える彼女は、逆に潔いと、合コンでの人気も高まっていく。

 

 そして――彼女の努力が実を結び、美しさが極まった大学四年の夏。

 彼女は、将来の夫となる、とある男子大学生と出会った。

 

 その男は、Aランク大学の医学部に通う、若き医者の卵だった。

 よほど嫌なことでもあったのか、テーブルの隅にて無言で強い酒を次々とかっ食らっていた彼は、無理矢理その合コンに引っ張ってきた彼の友人曰く――代々病院を引き継いでいる家系の、正しく生まれながらの御曹司だという。

 

 決して派手派手しくはないが、整った顔立ちに涼しげな眼差し。

 異様な雰囲気を放っているが故に誰も近づけていなかったが、女子達は一様に彼に熱い視線を送っていた。

 

 だが、器用貧乏な少女にはそんな彼のことが、涼しげな眼差しのクールな美男子とはとても思えなかった。

 涼しげなんてものじゃない。もっと冷たい――凍えるような目つき。

 

 まるで虚空を睨み付けるような――何かに憎悪を燃やすような、殺意に近い執念を抱えているのを感じた。

 

 だが――と、彼女は立ち上がり、周囲がどよめくのも構わずに、その彼の元にカクテル片手に向かって行く。

 

 その酒は決して強い度数ではないが、既にその日はいつも己に設定しているアルコール許容量を超えていた――しかし、彼女は、まるで己を鼓舞するように、そのカクテルを一気に飲み干して、そのまま誰も寄せ付けない彼の真正面の席に座る。

 

 端正な顔つき。国内でも有数のAランク医大出身。医者の卵であり御曹司。

 そして、彼の友達曰く、成績も飛び抜けて優秀らしい。

 

 正しく彼女が探し求めていた金の――いや、黄金の卵。

 既にこの四年間で、出会える限りの目ぼしい逸材とは粗方顔を合わせていた。大学生活も既に四年目の夏――迷っている暇はない。臆しているだけの猶予はない。

 

 彼女はまるで怯えるように震える心を押さえつけて、磨き抜いた笑顔を作る。

 目の前の男が好む仕草、声色で、とにかくこちらに興味を惹いて――。

 

 彼が、その凍えるような眼差しを向ける。

 

 そして――絶句、した。

 

 見えなかった。

 彼の好む仕草が、声色が、話題が、趣向が――まるで、見えなかった。

 

 四年間、あらゆるコネクションを使って、築いて、数え切れない程の男子大学生に会ってきた。

 色々な男がいた。若い雄としての欲望を隠そうとしないものもいれば、どうしていいのか分からずモジモジする男もいる、プライドが高くて欲望を隠そうとするものもいる――だが、その中で、女に対する興味関心がまるでないという男は、一人として存在しなかった。

 

 多かれ少なかれ、形はどうであれ、皆――女に認められたいという欲求は内に抱え込んでいる。彼女は、そんな男の性質を、この四年間で学んだつもりだった。その満たし方も、くすぐり方も。

 

 けど、目の前のこの男は――何なんだ。

 

 女が嫌いだという男もいる。それは理解している。

 だがそれは、こういった合コンという場に出てくる女を嫌っていたり(じゃあ何でお前は来ているんだという話だが)、過去に女に酷い目に遭わせられていたりという、そういった負の感情が見え隠れしているもので、そういったものの見極め方も、彼女は身に付けていたつもり――だった。

 

 だけど、目の前の男からは、そういった負の感情もない。

 

 まるで――いや、でも。

 

 関係ない――勝つ為には、勝ち組になる為には、手段を選ばないとあの日に決めた。

 

 この器用で貧乏な手に掴める限りの最大の幸福を得る為ならば、私は――この化物を、愛して見せる、と。

 

 彼女――将来、湯河由紀となる少女は。

 

 そのまま近くの誰かの飲みかけのアルコールを引っ手繰り、テーブル中の注目を集めながら飲み干して――そして。

 

 ダンっとテーブルにジョッキを叩き付けて、そして、今度は店中の注目を集める程に、全力で初対面のイケメンに向かって真っ赤な顔で叫んだ。

 

『私と付き合ってくださいっ!!』

 

 沈黙に包まれた店内で、その男は――僅かに微笑みながら答えた。

 

『……いいぜ』

 

 一瞬のどよめきの後に、湧き上がる店内。

 

 だが、告白を受け入れられた当人である由紀は、喜びよりも戸惑いの表情を浮かべ、思わず呆然と、何で、と問うていた。

 

 男は――現在も将来も、湯河和也(かずなり)であり続けなければならない青年は、その言葉にウィスキーを傾けながら答えた。

 

 

――お前が、空っぽだからだ。

 

 

 そして、一口、嘗めるように口を湿らせて、言う。

 

 醜いハラワタ抱えてるヤツよりはマシだ――と。

 

 焼き魚の腹を抉り、内臓を取り出す。

 それを凍える眼差しで見据える和也を――由紀は、まるで己の腹の中を覗かれているような心持ちで眺め、寒気を感じた。

 

 そして、その日から由紀と和也は交際を始めた。

 

 

 紆余曲折ありながらも、様々なドラマを経ながらも、二人はやがて結婚し――娘を授かる。

 

 

 湯河由香と名付けられた少女は、両親である彼女等が経験したそれよりも、更に数奇なドラマに巻き込まれていくことになるのだが、それはまた別の物語(ドラマ)だ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 どこにでもいる中学一年生女子だった少女――湯河由香の朝は特に早くない。

 

 時間を持て余す程に早朝というわけでもなく、だが寝癖を直す時間を惜しむ程にギリギリというわけでもなく。

 

 ぼうとした頭で半身を起こしたまま十数秒頭を揺らし、ゆっくりと背筋を伸ばしながら欠伸をして、のろのろとした動きでベッドから降りて、カーテンを開けて朝日を浴びるのが、由香の朝のルーティンだった。

 

 由香にとってカーテンを開けるという作業は、ちょっとした朝占いのようなものだ。

 日光を浴びるという作業によって体内時計を目覚めさせるという意味合いもあるが、その日初めて見る空模様で、その日一日の運勢を占うのだ。

 

 まあ空などその地域一帯に住む人達全員の上に等しく広がるもので、全人口の何割もの人間が同じ運勢な訳がないだろうとツッコミが入る血液型占いや十二星座占いよりも運勢占いとしては当てにはならないだろうが、それらの占いと同じくそれを妄信して本気で行動指針にしようという類のものではない。言ってしまえば気分の問題だ。

 

 朝一番に見る景色が、晴れ渡っていれば今日は良いことがありそうだとか、雨が降っていればあんまり良いことがなさそうだなとか、ランキング一位だったらちょっと嬉しくて最下位だったらこれから始まる一日にケチをつけられたような気分になるテレビ番組の運勢占いと同じ程度の、けれど密かな楽しみだった。だから由香は余り次の日の天気予報を見ない。

 

 そして、由香は体に染みついた動きで、自室のカーテンを開ける。

 さて、今日は一体どんな一日に――。

 

 

 目に飛び込んできたのは、空の色ではなく――ガムテープで止められた新聞紙の壁だった。

 

 

「……………………」

 

 今日の天気は、新聞、時々ガムテープ。

 

 さて――今日は、一体どんな一日になるのだろうか。

 

 少なくとも――平穏であって欲しいと、膝から崩れ落ちながら、由香はそう願わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 夢であって欲しかったが、やはり現実は残酷だ。

 

 もう着ることはないと思っていた学生服を身に纏い、寝癖を直して髪を結んで、自室でやることもなくなった由香は、溜息を吐いてゆっくりと階段を下りた。

 

 そして、そこで目にしたのは――何故か、高確率で母親と自分しかいない湯河家では有り得ない筈の、()()()()食卓。

 

「これ美味いな。もう一杯いいか?」

「いいわよ~。流石に男の子はたくさん食べるわねぇ。あら? 由香ちゃん、やっと起きたの。おはよう、さっさと顔洗ってらっしゃい」

「もうとっくに洗ってメイクも済んでるわよってそうじゃなくってぇぇぇええええ!!」

 

 由香はずんずんとした足取りでリビングに入り、目を吊り上がらせて、父用の茶碗に盛られた山盛りのお替りを受け取ろうとしている男をビシッと指差す。

 

「――アンタ、ここで何してるのよ!!」

「んあ? あはへしふってるんらよ、わふぁふらろ(ああ? 朝飯食ってるんだよ、わかんだろ)」

「分かんないわよ! っていうか何言ってるのか分かんないわよ! 口の中のもん飲み込んでから喋りなさいよ!!」

 

 豪奢ではないが丁寧に手入れがされていて、とても清潔感のある品のいい足の短いテーブルを囲む、朝の一時。

 

 いつもなら、そこには由香用の朝食だけが並べられていて、由香が起きてくるよりも前に朝食を済ませた母が自分用の食器と朝食を作る時に使用した調理器具を洗っている時間帯――の筈だが。

 

 今日に限っては由香用の朝食はテーブルの隅に追いやられ、何故か最も大きくスペースを独占している大男に頻回にお替りをよそう為か、コードを伸ばしてテーブルの近くに配置した炊飯器の傍らに母親は――湯河由紀は待機している。

 

 それだけでも寝起きの頭に痛みが走るには十分な光景だが、問題は我が家で我が物顔で朝飯を食らい続けているこの男――東条英虎と、そして。

 

「そうだぞ、もっと落ち着いて食えよ。あ! っていうか、その鮭の皮は俺んだぞ!」

「残すんじゃねぇのか? 鮭は皮ここが一番美味ぇのによ。もったいねぇ」

「俺もそう思うから最後に取っといたんだよ! おばさん! おばさんの鮭の皮もらっていいっすか!」

「いいわよ~。なんなら、もう一つ焼きましょうか?」

「「いいわけないでしょッ!!」」

 

 高校生相手に鮭の皮で本気でキレるダメな大人が、朝から年下女子(うち一人はJC)にキレられていた。

 

(……うぅ、本気で頭痛い……)

 

 もう一回自室に戻って布団を被れば、本当にこの光景が夢になってくれないだろうか――と、涙を堪えながら由香は、目の前の現実を頑張って直視する。

 

 当たり前の日常だった朝の食卓風景は――既に遠い夢の中で。

 

 何度目を擦っても、何度涙を拭いても、二人きりだった食卓には……何度数えても、実母と、三人の大人、そして一人の(おとこ)が居て。

 

「おう。お前もさっさと座れよ。美味い朝飯が冷めちまうぜ」

 

 つい数十秒前まで山盛りだった筈の茶碗を空にし、鮭の骨をバリバリと噛み砕いている男子高校生――東条英虎が、そう言って本来の住人である由香に着座を促して。

 

「…………本当に、朝から申し訳ありません。……その上、朝ご飯までごちそうになって」

 

 恐縮そうに身を縮こませた、スーツを着た凛々しい女性――等々力志津香が、由香と由紀に申し訳そうに謝罪して。

 

「いいのよ~。むしろ、こんなに賑やかな食卓は久しぶりで楽しいくらい。由香ちゃんも最近はすっかり不愛想になっちゃってねぇ~。(あのひと)は全然帰ってこないし。あ、そちらの刑事さんもどうかしら?」

 

 何故かいつもよりも遥かに上機嫌で、気のせいか肌艶もいつもよりもいいように見えるエプロンを付けた母親――湯河由紀が、窓際に座る草臥れた男に甘ったるい声を掛けて。

 

「……いや、お気遣いなく。俺は日光と水があれば日中活動する上で問題ないので。それよりもこの馬鹿が馬鹿で申し訳ない。今、食ったもん吐かせますんで」

 

 本気で葉緑素を持っていることが疑わしくなってきた草臥れたスーツと草臥れた様相の男――笹塚衛士が、ただ飯食らいの腹に肘を食らわせて。

 

「ごふっ! 先輩、鮭出るっ! もう喉元まで来てるっ! うぷ」

 

 人気も実力もない男――石垣(じゅん)は……まぁ、どうでもよくいつも通り石垣で。

 

「…………かえりたい」

 

 不幸な少女――湯河由香は、静かにそう呟いた。

 

 残念ながら、このカオスな食卓が、彼女の帰るべき我が家の現在の姿だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――で?」

 

 結局、由香は色んな意味で厳しい現実を受け入れて大人しく食卓に腰を下ろし、朝食に手を付け始めると、涙目で真向かいの東条を睨んだ。

 

「ん? 何だ?」

「だから! なんでアンタが――ていうかアンタ達が! うちで朝ご飯を食べてるのかって聞いてるのよ!」

 

 こうした方が美味しいわよと、鮭の骨をグリルで由紀に焼いてもらったものをデザート感覚で咥えている東条に、由香はテーブルを叩きながら叫んだ。

 

「あぁ。なんかよ、昨日の会見が終わった後、(しずか)から電話があってな。マスコミが集まったら鬱陶しいから、しばらく帰ってくるなって言われてよ」

「………………ふーん」

 

 由香は東条を冷たく見据える。

 静という名前は気になったが(母親を呼ぶには気安過ぎたから、妹か姉だろうか。まぁどうでもいいが)、確かにあの会見があった後だと、それぞれの戦士の自宅にはマスコミが集まっているだろう。

 

 ……だが、肝心の質問にはまるで答えていない。

 

「で? で? それで、どうしてうちに来ることになるのよ」

 

 家に帰れないからと言って、どうして湯河家で朝飯を食べることに繋がるのかと、そう当たり前に突っ込む由香に、東条もまた、焼いた鮭の骨をかみ砕きながら、当然のように返す。

 

「――決まってんだろ。お前に会いに来たんだ」

「っ!? は――ハァッ!?」

 

 真っ直ぐに見据えられながらの直球な言葉に、由香は一瞬取り乱しかける――が。

 

 東条英虎の、ニヤリと笑いながらも、その真っ直ぐな瞳に。

 

 由香はすぐに動揺を消され、その――強い眼光に、射竦められた。

 

「――ちゃんと、見てたか?」

 

――見てろ。

 

 由香は、昨日の夕暮れの中に、そう言い残して消えた、大きな背中を思い出して。

 

「…………見てたわよ。ちゃんと」

 

 そう言って由香は――残さず食べ終えた朝食の皿の上に箸を置いて、東条を――強く見据え返して、言った。

 

「だから――私は、学校に行く」

 

 由香は、真っ直ぐに背筋を伸ばして、真っ直ぐに東条に返した。

 

 東条は、そんな由香を見て、満足げに――ニヤリと笑って。

 

「――おう」

 

 と、胡坐を掻いた膝に肘を立てながら言った。

 

 そして、にししと笑う東条に、照れ臭くなったのか頬を染めてそっぽを向きながら由香は言う。

 

「な、何よ! そんなことを聞きに来たの! それならこんな大所帯で来る必要ないじゃない!」

「……まあ彼一人で来させるわけにはいかないというのもあるんだが、警察(われわれ)には我々の理由があってお邪魔させてもらってるんだ」

 

 笹塚はびくびくと身体を痙攣させる石垣の上に腰掛けながら、由香に言った。

 

「――君は、世間的にはGANTZのメンバーとして認知されてはいない。だが、君がGANTZのメンバーであることは我々はその目で確かめた事実だ。それに、池袋であのスーツを着て戦っていたのも事実だ」

 

 由香は、反射的に――私は戦っていないと叫びそうになった。

 

 戦っていないと――戦えてすらいないと。

 

 あの戦場で、あの戦争で――あの池袋で、湯河由香は、戦うことすら出来なかったのだと。

 

 だが、それを由香はぐっと飲み込み、堪える。

 笹塚の言葉がそういった意味ではないということは、理解出来たからだ。

 

(…………)

 

 そんな由香の挙動を、笹塚が低い体温の目で見詰めながら、笹塚は更に言葉を紡ぐ。

 

「あの戦場は衆人環視の状況だった。当然、目撃者も多くいたことだろう。警察おれたちのような公的機関は、公的権力で黙らせることが出来るが、一般人の口までは簡単に塞げない。それも、今のような、一般人が気軽に全世界に情報を発信できる世の中じゃな」

 

 笹塚が一見けだるげに見える態度で言った言葉に、由香は思わずコーヒーと共に唾を呑み込む。

 

 そう、何も記者会見などする必要はない。

 誰もが持ち歩く、あの小さな端末の小さなレンズによって、たちまち顔も名前も、命だって無遠慮に晒される。

 

 当の本人は、指一本を動かすだけで、顔も名前も、勿論――命だって、晒す必要はなく。

 一方的に、安全圏から、気軽に、お手軽に――他人の命を晒すことが出来る。

 

 いつ、その銃口(カメラ)が――己に向けられることになるかも、分からないのに。

 圧倒的な強者の気分で、何の力もない一般人が――人を殺す。

 これが、今現在の、終焉間近にまで進化してしまった世界の姿だ。

 

「……あの戦争の終局時には、あの場に居た一般人の殆どが意識を失っていた。事後処理の時に生還者には、警察こちらからも不用意な情報の拡散はしないように厳命はしたが――まあ、完全な抑止力にはならないだろう。その注目は東条君に集中してはいただろうが……あの場で、あの黒服スーツを身に纏っていた君の姿が、全く記録として残っていないとは考えにくい」

 

 そうだ――例え、戦えていなくても、戦士としての責務を果たせていなくとも。

 全く無価値の戦争だったとしても――それでも。

 

 湯河由香という少女が、黒い球体の部屋の戦士として、あの地獄の池袋に派遣されていたのは事実なのだ――現実なのだ。

 

 あの池袋に、あの黒いスーツを纏って、あの戦争の渦中にいたのは、変えようのない、残酷な現実なのだ。

 

「今のところ政府は、彼ら四人以外の戦士を公にするつもりはないようだが……それもいつまで持つか分からない。故に、現時点で黒衣の戦士だと発覚している君にも、非公式な戦士である君にも、秘密裏に護衛を用意することになった。それが、我々――警察の判断だ」

 

 それが判断なのか――それとも、独断なのか。

 はっきりと口にせずに、だがはっきりと笹塚はそう言った。

 

 湯河由香は、素直に、ありがとうございますとは、言えなかった。

 

(……それってつまりは、護衛という形の――監視、だよね)

 

 昨夜の会見を、由香は母親である由紀、そして笹塚と石垣、等々力と共に、この湯河家のリビングで拝聴していたが――全く何も知らないに等しい由香から見ても、あの会見で政府が全ての真実を話していないことは明らかだった。

 

 そもそも、対星人用に訓練された特殊部隊という大前提からして、自らの認識と異なっているのだ――それを馬鹿正直に笹塚や母親に言うわけにはいかないということくらいは分かる――こうして自分の元に派遣されている笹塚や、もしかしたらこうして笹塚を湯河家に派遣した警察の上層部すらも、真実を知らされずに、ただ命令だからと、国家命令だからと動かされている可能性もある。

 

 もしくは、真実を知らされていないからこそ、真実を明らかにしようと、こうして護衛という名の監視を派遣することで、少しでも闇を暴こうとしているのかもしれない――警察(じぶんたち)にすら隠された真実を、何も知らないに等しい、湯河由香の一挙手一投足から。

 

(……本当に、頭が痛い……)

 

 どうしてこんなことに――と、改めて思う。

 自分は一昨日死んだ筈なのに、どうしてこんな目に遭っているのだろうと。

 

 どうして、生かされているのだろう。

 もしかして、死んでまで、生き返ってまで、こんな目に遭わなくてはならない理由が何かあるのだろうか――何も知らない自分が知らない真実とやらが、どこかに隠されているのだろうか。

 

 だとしたら――真実なんて、こっちが聞きたい。

 

(……でも、そういうのが只の考え過ぎで、本当に護衛として私を守ってくれるだけかもしれないし)

 

 色々考えてみても、一昨日まで只の(ぼっちな)中学生に過ぎない由香が思いつく可能性なんてたかが知れている。

 

 もしかしたら――そのどちらも本当かもしれない。

 護衛であって、監視であるかもしれない。もしかしたら、そのどちらでもないのかもしれない。

 

 それに――どちらにせよ、何にせよ、由香の取れる選択肢など一つだ。言える言葉など、たった一つだ。

 

「……よろしく、お願いします」

 

 何も知らない由香は――何も出来ない。

 

 ここで警察の介入を断ることなんて出来ないし、笹塚達を全面的に信用して知っている僅かなことを洗い浚い暴露することも出来ない。

 目の前の公的権力にも、見えない所で己を支配する真っ黒な影にも、身を預けることなど出来やしない。

 

 ただ逆らわず、ただ流されるだけだ。

 中学一年生の自分に出来ることなど――学校に行くくらいのものなのだ。

 

「……学校には、行ってもいいんですよね」

 

 だから、それだけは、はっきりと言った。

 逃げずに――真っ直ぐに、大人の目を見て、思いをぶつけた。

 

(……………)

 

 笹塚は、そんな由香の目を、体温の篭らない瞳で、真っ直ぐに受け止める。

 

「安心してくれ。君の日常生活は、出来る限り尊重する。今後、気軽に朝飯を食べにくるようなことはしない。プライベートには踏み込まない。窓を修理したら、他の人間には気付かれない程度に少し離れた所から護衛させてもらう。君を見守るのは、主に彼女だ」

 

 監視ではなく、あくまで護衛だと――由香の内心を見透かしたように、そう口に出して強調する笹塚。

 当然ながら、由香はその言葉に頷きながらも、額面通りに受け取ったりはしない。笹塚も、それを見越した上での言葉だった。

 

「――改めて、等々力(とどろき)志津香です。よろしくお願いします、湯河由香さん」

 

 笹塚に紹介されたきっちりとした服装の真面目そうな女性は、中学生の由香に対してもしっかりと正座し、昨夕の初対面時と同様に綺麗な敬語と共に頭を下げた。

 

 由香も慌てて頭を下げたが、若い美人な女性が護衛とあって、監視役だと思っていても少しだけ安心してしまう。

 

「先輩先輩! こんな奴よりも俺の方を使ってくださいよ! 先輩の一番の部下は俺――」

「寝っ転がっているからって寝言を言わないでください。口元にご飯粒が付いていますよ。色んな意味で恥ずかしくないんですか? それよりもさっさとさっき頼まれた窓の修理に取り掛かったらどうです?」

 

 笹塚に腰掛けられたままの石垣が突っ伏したまま行ってきたアピールは、一応は後輩である筈の等々力に軽蔑の視線と共に切り捨てられてしまう。

 

(――くぉんのがきゃぁぁあああああああああああああ!!!)

 

 鳥獣戯画のような顔芸と共に無言でムカつく後輩を睨み上げる石垣であったが、当の等々力は石垣のような虫けらは、もとい虫けらのような石垣は文字通り眼中にない。

 

 笹塚はそんな応酬を無視するように立ち上がる――そんな笹塚の足に石垣は縋りつくが、笹塚はどーでもいいと顔面に書いてある表情で石垣を見下すと、石垣はトボトボとした足取りで二階の由香の部屋の窓の修理の仕上げへと向かった。

 

 由香はあんな男が自分の部屋に入ることに生理的嫌悪感があったが、窓の修理が終わるまでは自分が由香の護衛に付くと、笹塚が等々力を石垣の監視に送る――次いで、由紀に挨拶と礼をした後、由香に向かって言った。

 

「――それじゃあ、早速だが学校まで送ろう。表に車を用意してある。そろそろ向かわないと遅刻だろう?」

「あ! ――あ、ありがとうございます!」

 

 起床時間としてはいつもと同じだったが、いつもは手早く済ませる朝食に想定外に時間が掛かった為、既に徒歩では間に合わない時間になっていた。

 

 別に無遅刻無欠席を目指しているわけではないが(昨日は普通にサボったし)、かといって既に着席しているクラスメイト達の注目を浴びながら入室するなど耐えられないにわかぼっちである由香は、遅刻せずに済むのならばと、恐縮しながらも車で送ってもらうことにした。

 

「よし、じゃあ行くか」

「……なんでアンタも立ち上がるの?」

「ん? 俺も行くからだが」

「……何処に?」

「お前の学校にだ」

「何でよッ!!」

 

 …………いや本当に何でよッ!? ――と、反射的に突っ込んだ後、改めて一考し、再び由香は全力で突っ込んだ。

 

 意味が分からない。ていうか分かりたくない。

 

 平日のこんな時間に余所の家で朝食をお腹いっぱい(かどうかは分からないが、少なくとも一般人の胃袋の許容量以上に)召し上がっているのだから、まあ自分が本来通っている学校には登校しないのだろうが(マスコミ対策と言っていたし、地元には近づかないようにしているのだろう。東条の地元が何処かもしらないが。というか東条が学校に通っているのかすら知らないが)、だからと言って、何がどう間違って、この男が由香の学校に登校することになるのだろう。

 

 何の罰ゲームだ。というか、何の罰なのか。

 こんな罰を受けなければならない程に、湯河由香という中一は罪深いのだろうか。

 

(私が何をしたっていうのよ)

 

 確かに昔やんちゃしてた(ていうかイジメしていた)のは事実だが、今現在進行形で世界からいじめられているみたいなものなのだから、お願いだから許してくれないだろうか。

 

 とりあえず、今日登校したら、かつていじめていた張本人に心から謝罪するところからやり直そう、どうせ一回死んだんだしと、由香が本格的に自暴自棄になり始めた所で(へっ、とか笑い始めた)――。

 

「ま、いいじゃねぇか、今日だけだ」

 

 ぽんと、優しく、あやすように、由香の頭を東条は叩いた。

 

「………………」

 

 由香は東条に叩かれた頭を、ゆっくりと自分で撫でる。

 

 それは――ほんの短い付き合いでしかないけれど――東条英虎という男のイメージにはそぐわない声色で、表情で。

 けれど、まるで違和感のない、ただ単に由香が知らなかっただけであるような――そんな笑顔で、一面で。

 

「………………もうっ」

 

 由香は、やり込まれていると自覚しながら、誤魔化されていると自覚しながら――面白くないと、表情一杯で表しながら。

 

「行ってきますっっ!」

 

 鞄を引っ手繰るように肩に掛けて、笹塚と東条の後を追うように、リビングを出て玄関へと向かった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、そんな娘の背中を――湯河由紀は見ていた。

 

 思い返すのは、既に遥か昔のことのように思える、とある懐かしい――青春の記憶。

 

 否、既に青春を終えて、卵ではいられなくなり始めていた、そんな頃の、思い出の一頁。

 

 

 

 由紀と和也が恋人になってから、数年が経過していた。

 

 あの後、由紀は大学を卒業して都内の企業にてOL(オフィスレディ)として入職し社会人となり、和也は誰もが知る大学の付属病院にて研修医となって日々知識を蓄えて腕を磨きメキメキと頭角を現し始めていた。

 

 互いに時間が合わなくなり、顔を合わせる頻度も減少していたが、恋人関係は恙なく継続していた。

 否、それは恋人関係というよりも、恋人契約という形容が相応しいように思えるほどに、システマチックな繋がりだった。

 

 由紀は正直に言えば、和也のことを少し恐れていた。

 あの怜悧な瞳が、感情の見えない表情が、彼の冷たさが恐ろしかった。

 

 だが、それでも懸命に彼のことを好きになろうとした。

 故に一般的に恋人が過ごす日とされるイベントの時は由紀の方からデートに誘ったし、和也の趣味趣向を必死にリサーチして同じものを好きになろうとした。

 

 しかし、和也は医者の卵だけあって忙しく、休みも殆ど合わなかった。

 それでも偶には時間を作って由紀と会っていたが、何度か回数を重ねていく内に、それが自分の家に対するアピールに過ぎないのだということに気付く。

 

 成績優秀。容姿端麗。それでいて、実家は代々続く医者の名家というステータス。

 そんな彼に目を付けるのがまさか由紀だけである筈もなく、彼は当然のようにモテていた。

 

 更に、彼は何度も言うように、代々続く医者の名家の御曹司である。

 当然ながら実家の方からも、然るべき立場の女性と婚約して早々に跡取りとなる子供を設けることを求められていた。

 

 そんな周囲の目を、声を、黙らせる意味での恋人契約なのだ。

 由紀という彼女がいることを、既に決めたパートナーがいることを、アピールする意味合いでの見せつけのようなデートごっこ。

 

 そう――由紀は、まだ何も分かっていなかった。

 勝ち組には、勝ち組なりに、代償としているものがあるということを。

 高嶺の花は高嶺にしか吹かない強風に耐えながら咲き誇っているのだということを。

 

 世間から羨まれるだけのステータスを、金を、地位を、名声を得ている裏側では、当然としてそれに見合うだけの苦労が、苦痛が、苦悩があるということを。

 

 和也はよく、そんな由紀を見透かすように笑った。

 

「安心しろ。結婚はする。子供も作ってやる。お前が望む世界には、俺が連れてってやるよ」

 

――と。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そんなある日――和也は、照りつける夏の日差しの中、海沿いの綺麗な景色を一望することが出来るカフェのテラス席にて。

 

 パラソルの作る日陰の中で、うだるような暑さを忘れる程に、冷たい眼差しで由紀を見据えながら言った。

 

 見透かすように、笑った。

 

「…………え?」

 

 この日の為に用意した、この夏流行りのワンピースを身に纏っていた由紀は。

 必死に沈黙を消す為の話題を探していた脳内が、一瞬で真っ白になったことに、ただ戸惑う由紀は。

 

 自分達と同じように男女のカップルが、けれど自分達とは全く違う笑顔で談笑する周囲の光景を、何処か遠い世界のように感じながら――和也の、凍えるような視線と、僅かながらの微笑に、その一枚の画だけに、目を奪われ、呆然とする。

 

 そして、まるで、自分の耳に届く音をも支配されたかのように、その低い声が、波の音すら掻き消して、由香の脳に言葉を届けた。

 

「俺はお前を愛さない。お前が俺のことを愛していないように」

 

 音が消えた。暑さも消えた。

 まるで――殺されたかのような、気分だった。

 

 何かを言い返そうと思った。だけど、何も言葉にならなかった。

 

 怖かった。恐ろしかった。

 けれど――同じくらい、綺麗だとも、思ってしまった。

 

 真っ黒なコーヒーを、そのまま口に含み、遠くを見詰める――湯河和也という、目の前の男が。

 

 今にも死んでしまいそうな程に、脆く、儚く、美しく見えたから。

 

「―――――――――綺麗だな」

 

 和也は、由紀の方をまるで見向きもせずにいった。

 

 まるで見る価値もないと言われているような気分だった。

 彼は、ただ、青い空と青い海だけを見ていた。

 

 目が潰れそうな程に真っ青な海の、その地平線の向こう側に――まるで思いを馳せるように。

 

 この狭い国に、この狭い世界に、嫌気が差しているかのように――突如、表情を歪め、吐き捨てる。

 

「……だが、俺にはお前が必要だ。お前に、俺という存在が必要なように……な」

 

 和也は、まるで契約書を突き付けるように――婚姻届をテーブルの上に滑らせた。

 

 ついでとばかりに、指輪も差し出される。

 あの凍える眼差しで見据えられながら、由紀は、暑い夏の日にプロポーズを受けた。

 

 

「結婚しよう。お互い、望む幸せを手に入れる為に」

 

 

 由紀は、この時の、和也の顔を生涯忘れることはなかった。

 

 答えなど、たった一つしか有り得なかった。

 

 そして、由紀は――悪魔と契約を交わす。

 

 もう、後戻りは出来ない。

 そんな諦めを滲ませる表情で、由紀は――湯河由紀と、なったのだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「由香ちゃん、ちょっと待って」

 

 そんな回想を終えた由紀は、玄関で腰を下ろして靴紐を結んでいる由香の元にスリッパの音を立てながら向かった。

 

 既に笹塚と東条は車へと向かっていて、由香はそれに対してなのか何に対してなのかぶつぶつと文句のようなものを呟いていたが、母親に呼び掛けられて思わず後ろを振り返った。

 

「ん? なあに、ママ?」

 

 いつもはキッチンで洗い物をしながら、気を付けていってらっしゃいと、言葉を投げ掛けて送るくらいなのに――そう違和感を覚えながらも、由香はこっそりと身構えた。

 

 昨日、一日中部屋に篭り続けた己が娘に対して、あれほど感情を乱れさせた母なのだ。

 あの後の笹塚の説得や由香の弁明によって、今はこうして落ち着いているように見えるが――実の娘が、中学一年生の娘が、唐突に戦場に送り込まれる立場となってしまったことを、完全に納得出来た筈もない。

 

 今、この場には笹塚も、東条もいない。等々力も石垣もいない。

 母と娘の、二人きりだ。

 

 何を言われるのだろうと、無意識に身構える。

 昨日とは逆に家から出るなと言われるのだろうか。それとも、二人きりになったからこそ、昨夜以上にどうしてこんなことになったのだと問い詰められるのだろうか。

 

 そんなこと言われても、そんなことこっちが聞きたいと、昨日と同じことしか言えないのに――そう、表面上は笑顔を作りながらも、内心はほんの少しうんざりした気持ちを抱えながら、由香は母の言葉を待つ。

 

 由紀は、そんな由香に目線を合わせるように膝を折りながら、口元は笑みを浮かべて言う。

 

「……由香。彼は――東条君は、逃がしちゃダメよ」

 

 真っ直ぐに、娘の瞳を見詰めながら、由紀はアドバイスを送った。

 人生の先輩として。年上の女として。

 

 未だ思春期の娘に。青春の真っ只中の少女に。

 かつての自分と、そっくりな娘に。

 

「――は? ハァ!?」

 

 由香は中途半端に紐を結んだ状態の靴のまま、思わず反射的に立ち上がる。

 

 その頬は赤く、けれど頭の中は、恥ずかしさというよりも――戸惑いが大きくて。

 どうして、由紀が――己の母が、そんなことを言うのか分からなくて。

 

 確かに少し過保護で、娘のことを愛しすぎるくらいに愛している母親だけれど――だからこそ、娘に何かアドバイスを送るなど、それがお節介の類ですら、一度たりともありはしなかったのに。

 

 ただ可愛がるだけで、ただ甘やかすだけで――ただ、押し付けるだけで。

 何もしようとは、何もしてくれようとは、してくれなかったのに。

 

「な、なんで――そんなこと言うの!?」

 

 だからこそ、由香は感情的に反発した。

 

 昨日、由香の部屋の扉に喚き散らしていた時のような――己が知らない母親に恐怖する。

 淑やかな笑顔の母親に――知らない冷たい眼差しの母親に、反抗する。

 

「だ、だから! 東条―さん、は、そういうのじゃないって言ってるじゃん! ありえないって、あんなの!」

「別にそういうのじゃなくていいわ。そういう感情を抱いてなくても、そういう関係になろうとしなくてもいい。だけど、それでも、彼の傍にいなさい。彼と――どんな形でもいい――関係を繋ぎなさい。繋ぎ留めなさい」

 

 そう言って由紀は、開けられた扉の先――それなりに広い庭を挟んだその先の、門の前に停められた車の傍で笹塚と並び立つ、逆立つ金髪の大きな男を見据えて言う。

 

「彼は――必ず、凄い人になるわ」

 

 昨日の夕方の衝撃的な初対面の時は、あれほどまでに拒絶していた男に対し。

 

 湯河由紀となり、母親となった女性は、まるで何かを懐かしむような眼差しを送り、呟く。

 

「――私、これでも男を見る目だけは……自信があるのよ」

「……………」

 

 湯河由香は、未だ只の娘である少女は、そんな母親の表情に、言葉に、思わず複雑な眼差しを向ける。

 

 この人が、この母親が――父という男と結婚して、湯河和也という男と結ばれて、どんな人生を送ることになったのか、由香は何となく知っている。

 広い庭付きの大きな家に住むことになって、医者の妻になって、名家に嫁に来て、どんな人生を手に入れたのか――由香は、何となく思い知らされていた。

 

 由紀と和也――若かった二人の結婚は、それはもう周囲の人間に猛反対されたらしい。

 

 跡取りとなる一人息子に相応しい女性をと散々お見合いの場をセッティングし続けていた和也の実家は言うに及ばず、玉の輿に乗る立場である筈の由紀の実家すら余りにも家の身分が釣り合わないと渋い顔を崩さなかった。

 

 結果として、二人は挙式すらせずに、湯河本家とは半ば勘当に近い形で強引に話を進めていった。

 

 由紀は、いずれは継ぐ家なのにそれでいいのかと和也に尋ねたが――その時、研修医としての期間を終えて本格的に医者として独り立ちを始めようしていた身分に過ぎない和也は、まるで吐き捨てるように嗤ったという。

 

『どうでもいい。その内、向こうの方から、頼むから戻ってきてくれって頭を下げに来る』

 

 そういう奴等なんだよと、凍える眼差しで言った和也の横顔を、今でも由紀は覚えている。

 

 結果として、そう時間のかからない内に和也の言う通りになった。

 数々の現場で実績を残し続けた和也に、やがては湯河家の病院を継いでくれと、本家の両親が頭を下げに来た。

 

 その光景を、由香もしっかりと覚えている。

 頭を下げる己が両親――由香にとっての祖父母――に対し、父である和也は散々に煽りつくして嗤い……けれど、その横顔は、由香にとっては何故かとても寂しそうに見えて。

 

 その横に正座していた母は――由紀は、ゾッとするような、人形のような無表情で。

 

 額を床に擦り着けんばかりに頭を下げていた祖父母は――そんな由紀を、呪い殺さんばかりに睨み付けていた。

 

「…………」

 

 由香は、そのまま母の後ろに続く――長すぎる廊下を見る。

 長すぎて、先の方は暗くて見えない。広すぎて、この家はとても寒くて空虚だ。

 

 母は――由紀は、結婚後、夫を支える専業主婦になった。

 

 父である和也は医師として独り立ちした後、瞬く間にその天賦の才を発揮し、外科医としての名声を高めていった。

 だが、医者の世界のルールを無視する傲岸不遜な言動によって各地で敵を作り、すぐに別の病院へと渡り歩くといったスタイルを繰り返すことになる。

 

 故に結婚当初は全国各地を短期間で渡り歩いたという。

 行く先々の病院でトラブルを起こし、だが一方でその腕をメキメキと磨き上げて、強引に己の居場所と必要性を確立し、彼にしか救えない患者を救うだけ救い、盗めるだけの技術を盗んでは去っていく彼は――まるで黒い医者、ブラックジャックだと揶揄された。

 

 全ての不平不満を圧倒的な実力で黙らせる和也。

 そして、その行き場を失くしたヘイトは――妻である由紀へと向かうことになった。

 

 生まれてからずっと、ごく普通の世界に生きてきた由紀。

 普通の世界に生まれたからこそ、普通の世界で育ったからこそ――庶民の世界で過ごしたからこそ、憧れた普通ではない勝ち組の世界。

 

 そんな世界で、生粋の勝ち組が犇めく医者の妻達による社交会は――由紀にとっては、正しく地獄だった。

 

 医者の奥様会というのは、由紀にとってはそれだけで、化物の巣窟のようなものだった。

 代々培ってきた人脈、暗黙の了解、階級制度――全てが、由紀にとっては未知の法律で。

 湯河本家からすら断絶状態の新妻は、そんな中で陰湿ないじめを受け続けた。

 

 和也が職場で活躍すればするほど――夫がルールを無視し、ルールを覆し、反対勢力を問答無用で叩き伏せればするほど、面目を潰された医者の奥様方から、憂さ晴らしとばかりに由紀に矛先が向けられる。

 

 夫には――和也には言えなかった。

 別に和也が何もしてくれないだろうと思ったわけではない。こんなことで弱音を吐けば、同じようにヘイトを向けられながらも己が才覚を以て捻じ伏せている彼に、パートナーとして見下げ果てられるのが怖かったのだ。

 

 でも、器用貧乏でしかない由紀には、和也のように圧倒的な逆境を覆すような圧倒的な実力はない。

 才能もない。頭脳もない。もっといえば、容姿も、運動神経もない。

 

 持っていない。だからこそ――勝ち組に憧れたのに。

 

 憧れた、勝ち組になれたのに。

 待っていたのは――碌に家に帰ってこない夫、度重なる転勤、そして奥様会での陰湿ないじめ、疎遠になった実家、失った友人……。

 

「………………ママ」

 

 由香は、それらを面と向かって聞かされたことはない。

 何となく、うっすらとだが、何度か察する機会があった程度だ。

 

 由紀が選んだ男は、男としては間違いなく優良物件だ。

 端正な容姿。明晰な頭脳。優秀な才能。莫大な給金。

 

 けれど、それらは――由紀という器用貧乏な女性に、一体何を齎したのだろうか。

 勝ち組というステータスは、生粋の庶民であった彼女に、一体何を与えたのだろうか。

 

 それは、ずっと怖くて聞けなかった問いだった。

 うすうす感づいていながらも、返ってくる答えが怖くて聞けなかった問いだった。

 

 男を見る目があるという母――そんな母が選んだ、あんなにも凄い男は、あなたに何を齎したのか。

 

 圧倒的なステータスを誇る夫は。碌に家に帰らない夫は。

 あなたが選んだ男は――湯河和也という男は。

 

「……ママは――幸せなの?」

 

 由紀は、そんな問いかけをしてきた由香に。

 

 今にも泣きそうな顔をしている娘に――目尻に僅かに皺を見せて、けれど、それにより温かみを齎している笑顔で。

 

 正しく、母親の笑顔を浮かべながら、言った。

 

 

「――もちろんよ。あなたが、生まれてきてくれたから」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その日、由紀はただ流れ出ている水道の水を、いつまでもぼんやりと眺めていた。

 

 確か一人分の朝食を作って、食べて、その食器を洗っている最中だったと思うが、よく覚えていなかった。

 

 既に、彼女の心は限界だった。

 

 欲しかったものを手に入れた筈だった。辿り着きたい場所に辿り着いた筈だった。

 勝ち組になった筈だった――勝者になった筈だった。

 

 だったら、どうして――こんなにも惨めなのだろう。

 

 そう考えて、彼女は無意識に、段々と服用量が増えていた睡眠薬に手を伸ばしていた。

 

 情けなくて涙が出た。

 だけど、余りにも、この家は暗くて、寒くて――冷たかった。

 

 夢を見ていたかった。夢を叶えた筈なのに。

 いつまでも夢の中にいたかった。思い描いた夢の中にいる筈なのに。

 

 そんな彼女を、まるで思い留まらせるように――嘔気が唐突に彼女を襲った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 由紀は、お腹を摩りながら、温かい笑顔で言う。

 

「それがあなたよ――由香」

 

 由香は、そんな母親の笑みを浮かべる由紀に、ただ戸惑いの表情しか返せない。

 

 絶望の極地の中、知らされた由紀の妊娠。

 その日、珍しく早く帰って来た和也は、その知らせを聞いて――小さく微笑んで。

 

『――よくやった』

 

 と、言ってくれた。

 

 その後、和也は淡々と由紀に告げる。

 

 これから数年、海外の病院にて研修を受けることになるということ。

 海外には単身赴任で出張するということ。そして、帰国後は、とある病院にスカウトされている為、そこに腰を落ち着けるつもりだということ。

 

 それからは、まるで何かに導かれているかのように、全てが良い方向へと転がっていった。

 

 和也は、由香が生まれてからしばらくしてアメリカへと研修に向かった。

 その間は、初孫が生まれたことで繋がりが回復した由紀の実家、つまりは由紀の両親と兄妹達の助けを受けながら子育てに奮闘した。

 

 和也は由香が小学校に上がるくらいの頃に日本に戻り、千葉県のとある救命センターへと就職した。

 

 そこでは大学病院時代のような陰湿な奥様会は存在せず、共に相談に乗ってくれるような優しい奥様達に迎えられて、頼りになるママ友が出来た。

 

 相変わらず和也は中々家に帰ってくることは出来なかったが、それでも以前よりはずっと顔を合わせる頻度が多くなった。

 

 由香は、由紀にとって、正しく幸せを運んでくれた天使だった。

 

「あなたは、私に幸せをくれた。あなたは、私の全てなのよ」

 

 手に入れた筈の勝ち組――幸福な人生。

 それに押し潰されそうになっていた中で、生まれた娘は、由紀にとって孤独を癒してくれた新しい光だった。

 

 由香が居てくれれば、何でも出来そうな気がした。

 私は幸せだと胸を張れた。この子を幸せにすることが自分の幸せなのだと理解した。

 

 だから由紀は、由香には望むものを何でも与えてきた。

 欲しいものは何でも与え、やりたいことは何でもやらせた。

 

 自分に似て何でもそつなくこなす彼女。

 自分に足りなかったのは、自分に対する――自信だけ。

 

 だからこそ、褒めて、褒めて、褒めて伸ばしたのだ。

 

「……………」

 

 由香は、母親の笑顔に、真っ直ぐ笑顔を返すことが出来なかった。

 

 余りにも温かすぎる母の愛情は、娘を厳しい寒さを知らない子供に育てた。

 

 温室育ちのエリートは、温室しか知らない彼女の愛娘は――厳しさを知らず、痛みを知らない少女となり、その純粋さ故に過ちを犯した。

 

 母が植え付けた養殖ものであった、娘の根幹となっていた根拠のない自信は――その中身は空洞で、故に容易く折れてしまって。

 

 そんな、母の期待に応えられなかった娘であることに、顔を俯かせる由香の頭に――由紀は、優しく、温かく、手を乗せる。

 

「あ――」

 

 それは、先程の東条のように力強く、ごつごつしたものではなく――小さく、柔らかい、まるで包み込むような掌で。

 

「――いいのよ。ごめんなさい。……私は間違っていた。あなたはいい子だけれど……私はいい母親ではなかったわね」

 

 由香は、その言葉に唇を噛み締める。

 違う――自分はいい子などではない。

 

 許されない行いをして、当然の報いを受けた悪い子だ――悪い人間だ。

 親の育て方が悪かった――そんな逃げは許されない過ちを犯した、受けるべき罰を受けている罪人だ。

 

 合わせる顔がなくて、親に顔向けできない由香の頬を、優しく挟んで――由紀は目を合わせる。

 

 それは、由香の知らない母親だった――見たことのない温かい眼差しだった。

 

「由香――幸せは、誰かに与えてもらうものじゃない。自分で勝ち取るものなのよ」

 

 私はそれに気付くのに、何十年も掛かったけれど――と、眉尻を下げながら、それでも己のことを棚に上げて伝える。

 

 自分の失敗を、自分の後悔を、自分の過去を、自分の無様を。

 包み隠さず伝えて、同じ轍を踏ませないようにすること――それが、親の仕事だと。

 

「その為に、彼を利用しなさい。彼に頼り、彼に縋りなさい。……あなたは――」

 

――戦わなくて、いい。

 

 由紀は、そう――由香に、言った。

 

 それはまるで、祈るように、願うようで。

 

 由香は――瞠目しながら、真っ白になった頭に、母の言葉を刻み込んでいく。

 

「世界なんて守らなくていい――自分の身を守りなさい。地球の為なんかに戦わなくていい――自分の為だけに逃げなさい」

 

 命なんて懸けなくていい。誰よりも活躍する必要なんてない。

 価値ある戦争なんてしなくていい。見ず知らずの人の為になんか――死ななくていい。

 

「あなたは戦士じゃない――女の子よ。だから、男に守られていればいいの」

 

 自分の幸せの為に――利用する。利用し合う。

 

「ママは、パパとそうやって――幸せを手に入れたわ」

 

 湯河由紀は――瞳を潤わせ、娘の肩を、強く掴みながら。

 

 震える手で、震える声で。

 

 器用に――笑って見せた。

 

「いい女は、いい男に――守ってもらうの……っ。それが、強さよ」

 

 だから――どうか。

 

「………………死なないで……ッ」

 

 遂に、堪えきれず、娘の肩に涙を染み込ませた母に。

 

 湯河由香は――不幸な、親不孝な少女は。

 

「………………ごめんなさい」

 

 誰にも聞こえないように、そう呟くことしか出来なかった。

 




不幸な少女は――親不孝な少女は、死なないでと言う母親に、ごめんなさいと、そう呟くことしか出来なかった。


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Side東条――⑥ & Side由香――③

それでは――喧嘩を、しようか。


 

 由香は、恐らくは覆面パトカーなのであろう普通車の後部座席で、シートベルトをしながら窓の外を眺めつつ、先程の母との会話を回想する。

 

(……ママは……変わった。昨日の、あの会見を一緒に観た後までは……戸惑って、困惑するばかりだったのに)

 

 過保護で、甘くて、そのくせ――願望と期待をぐいぐいと無意識に押し付けてくる母親。

 何でも我が儘を聞いてくれるけど、一緒にいて息苦しい母親――それが、由香にとっての、由紀という実母だった。

 

(……私が説明を放棄して、自分の部屋に戻った後――誰が、ママを変えたんだろう?)

 

 決まっている――母に、改めて問い直すまでもなく、そんな相手は一人しか有り得ない。

 笹塚衛士でも、等々力志津香でもない。ましてや石垣荀などでは有り得ない。

 

 湯河和也――由紀の夫であり、由香の父である、あの男に決まっている。

 

「…………」

 

 由香にとって、和也という父親は――由紀という母親とは真逆の存在だった。

 

 過保護ではない。甘くもない。

 そして、願望も期待も――寄せられたことすらない。

 

 時折家に帰ってくるけれど、和也はテレビすら点けない無音のリビングでただ強い酒を静かに飲むだけで、そして朝になった時には既に家にいない父親だった。

 そんな父親に構ってもらおうと100点のテストを見せびらかせたこともあったけれど、和也は無表情を崩さずに、そうか、としか言わなかった。

 

 いつしか、由香は偶に父が家に帰ってきていても、話し掛けずにむしろ率先して自室に逃げ込むようになってしまった――はっきり言って、苦手だった。

 

(…………でも、ママが電話を掛けたってことは……パパも、今の私の状況は……知っているってことだよね)

 

 由香は携帯の電話帳を開く。

 そこには、一応の形として登録してある父の携帯の電話番号、そして、職場のPCのメールアドレス。

 

 今まで一度も掛けたことも、掛かってきたこともない番号は――やはり、着信履歴の欄には、どこを探しても羅列していなくて。

 

「………………」

 

 由香は携帯を鞄に仕舞って、横に座る男を見る。

 

 母は――由紀は、たった一晩で、まるで見違えるように変わっていた。

 強く、なっていた。まるで、生まれ変わったかのように。

 

 それはきっと、男を見る目があると自称する母が選んだ男が、たった一つの電話で導いた結果なのだろう。

 

 だとしたら――母は。

 ならば――私は?

 

 そんな男に出会えるだろうか。そんな男に――変えてもらえるのだろうか。

 母にそっくりだという私にも――そんな出会いは、そんな男は。

 

 

――彼を、逃がしちゃダメよ。

 

 

 横に座る男は――隣に座る由香の方を見向きもせず、ただ真っ直ぐに前を見据えていて。

 

「――――ねぇ」

 

 由香は、そんな彼に向かって何かを言おうと声を掛けようとするが――それを遮るように、覆面パトカーは停車した。

 

「――着いたぞ。この学校でいいんだよな?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 千葉県の、とある公立中学校――校門前。

 

 全く縁もゆかりもない、無関係極まりないその場所で。

 

 

 何故か――東条英虎は仁王立ちしていた。

 

 

「全く知らねぇ学校だぜ」

 

 ぶっちゃけ、ここまで意図的に描写しなかったが――この男、真っ黒である。

 

 上も下も真っ黒の黒ずくめコーデである。ていうか、ガンツスーツである。

 

 昨夜、視聴率75%と空前の数値を叩き出した(無論、強制ジャックしたわけではない)『英雄会見』――その場に出席していた男が、出席した時と同じままの姿で、無関係にも程がある何の変哲もない公立中学校の校門前に、腕を組んで仁王立ちしているのだ。

 

 当然――騒めく。

 ざわざわする。ざわざわするのだ。

 まるで某賭博黙示録のように。

 

 え? マジで? ――と二度見をしながら登校していく、同じ制服に身を包んだ学生達。

 そんな注目や騒めきをものともせずに、仁王立ちし続ける男の背中を――湯河由香は。

 

 空を見上げ、涙を拭いて、あぁ、今日の空はこんな色だったんだと、今更ながらに日課を終えて、呟く。

 

「…………かえりたーい」

 

 それは最早、棒読みでしかなかった。

 

「……いや、気持ちは分かるが……早く行った方がいいんじゃないか?」

 

 笹塚はそんな少女の煤ける背中を見遣りながら、心底同情しつつも登校を促す。

 

 由香は、え? なに? こんな状況で背中を押すとか鬼オニなの? といった目で笹塚を半ば睨み付けるように見上げるが――笹塚は、そんな由香の目線を誘導するように、少し先の離れた場所に立つ東条の方を指差す。

 

 すると――笹塚が指差す方向から、すなわち東条のいる方向から、なにやら男子の歓声が響く。

 

 由香は、出来ればもう何も見たくもないし聞きたくもなかったのだが、まるで諦めろと言われているかのように、目と耳はその光景と歓声を情報として受け入れてしまう。

 

「やべー! かっけー、本物のガンツだ!」

「でけー! すげー! はんぱねぇー!」

「サインして! そんで握手! 僕と握手!」

 

 中学生男子のハートを鷲掴みだった。

 

 勇気を出して近づいた何人かの少年が握手をしてもらえたら、一気に爆発的に男子中学生が大きな黒い男の周りに集結した。

 

 もういや……――と、同年代男子のガキさに脱力感を覚えるが、これがある意味での世論を現わしている光景でもある。

 

 昨夜の会見は、正しく衝撃と言える影響をこの国に響かせた。

 星人の存在。そして、特殊部隊GANTZのお披露目。

 

 朝から新聞各紙、そして各局のコメンテーター達が、盛んに議論を交わしていて、堂々と少年少女兵を使うことを宣言した現内閣への批判も凄まじく、未だに星人の存在を疑問視する自称専門家もいるけれど。

 

 目の前の彼らのように、ある意味では大きな勢力の目論見通りに、純粋に星人を悪の存在とし、そんな彼らと戦うGANTZ戦士達を英雄視――ヒーローとするもの達も、一定数存在した。

 

 特に、中学生男子にとっては、二刀流で敵を薙ぎ払っていく桐ケ谷和人と、豪快なパワーで敵を薙ぎ倒していく東条英虎で人気が二分していた。(ある意味では、新垣あやせ(ガンツスーツver.)に人気が集中しているのだろうが)。

 

 つまりは、正に今、校門前(こうら〇えん)で僕と握手!状態なのである。

 

「すげぇ! え? 本物?」

「おう、本物のごはんくんだぞ」

「ん? ごはんくん?」

 

 本人は全然分かってなさそうだが。何かのバイトの時とごっちゃになっている。

 

「……出来れば、これ以上騒ぎになる前に撤収したい」

「分かったわよ! 登校すればいいんでしょうすればぁ!」

 

 まるで不登校児の逆キレのようなセリフを吐き捨てながら、由香は力強い一歩を踏み出す。

 

 握手会会場となりかけている集団からなるべく関わらないように、全力で他人の振りをしながら由香は早歩く。

 

 そして、その横を通り過ぎる瞬間――由香は、ちらりと東条の方を向く、と。

 

 

 東条英虎は――由香の方を見向きもせずに。

 

 ただ――獰猛に笑い、牙のような、拳を突き出していた。

 

 

「………………」

 

 由香は、早歩きだった足取りを、更に一歩、力強く踏みしめ――走り出す。

 

 そしてぐっと、その小さな手を、拳に固めて、突き出した。

 

 小さく――口元を緩ませて。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 中学生男子の集団から笹塚に引っ張り出された東条は、そのまま再び覆面パトカーの後部座席に乗り込んで、新たな目的地を目指していた(由香の護衛兼監視は等々力が学校に到着するまで別の女性警官に任せてある)。

 

「――どうして、わざわざここまでしたんだ?」

 

 しばらく無言の車内だったが、やがてすれ違う車が少なくなり、周りの風景にも自然が多くなってきた頃、笹塚はそう東条に問い掛けた。

 

 東条は、後部座席から流れる景色を眺めながら、小さく微笑みながら言う。

 

――虎兄! 俺を強くしてくれ!

――俺も虎兄ちゃんみたいになりてぇ!

――ちょっとぉ……やめなよぉ、虎お兄ちゃんに迷惑だよぉ。

 

――ありがとね。いつもうちのチビ達の面倒見てくれて。あの子もアンタに懐いてるし……偶にでいいからお兄ちゃんしてあげてよ。

 

 

――……虎。おめぇはそれなりに強え。が、今のままじゃ、それなりだ。今のオマエじゃあ、背中が軽過ぎる。

 

 

――背中は任せたぜ

 

――はいっ!!

 

 

「ハッ――ガキは守るもんだろうが。たりめーだろ」

 

 

 一度静かに瞑目し、すぐに目を開けた男は。

 

 東条英虎は、まったく気負いのない声色で、背負うと決めたその重さを言葉にする。

 

「………………そうか」

 

 笹塚は、そう呟き、胸ポケットに手を入れ。

 

「――耳が、痛いな」

 

 何も取り出すことなく、再び両手でハンドルを握った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「……着いたぞ。ここでいいか?」

 

 その後、しばらく車を走らせて、太陽が頂点に昇った頃。

 

 覆面パトカーは、とある山道の前に停車していた。

 

「……あぁ。いい感じだ」

 

 後部座席の扉を開けて、車外に出た東条は、目の前に広がる山道――いや、最早、森と表現するのが相応しい程に鬱蒼とした大自然を前に、不敵に、獰猛に、笑ってみせる。

 

 そして、犬歯を剥き出しにして、牙から唾を滴らせるように宣言した。

 

「じゃあ――俺はこれから山に篭るぜ。送ってくれてサンキューな、お巡りさんよ」

 

 東条は山道に背を向けて、片手に最低限の荷物の入った小さなザックを背負いながら、笹塚に向かってその笑みを向ける。

 

 笹塚は、その笑みを見せつけられて、言うだけ無駄だと悟りながらも、まるで義務を――職務を果たすかのように、溜息を吐きながら東条に問う。

 

「……本当に、護衛は要らないのか?」

「要らねぇ。修行の邪魔だ」

 

 それは今朝、この計画を知らされた時に既に断られていたことだったが、こうして東条が篭ろうとしている山を目の前にすると、もう一度問わずにはいられなかった。大人として。刑事として。

 

 これが心配する気持ちからなのか、いざという時の責任回避の為――とは、思いたくないが。

 

(……まぁ、万が一の時は、国の方がなんとかするか?)

 

 東条英虎に対しては、湯河由香と違って正式に護衛任務が“上”から降りている。

 だが、それも本人の自由意志を推奨するという前文が付いており、その場合においては、警察ではなく国の特殊部隊から派遣される人材が、秘密裏に東条英虎を護衛、及び監視するという手筈になっている。

 

(……特殊部隊、ねぇ)

 

 今回の件において、どれだけ警察という組織が蔑ろにされているのか、よく分かる事例だ。

 

 国は、徹底して、星人及びGANTZに置いて、警察が深入りするのを防ぎたいらしい。この期に及んで。

 肝心な所は全て自分達の私兵が行い、警察は世間の混乱を抑えることに専念しろという。詳しいことは知らされないままに。

 

(……だが、全ての警察官が、そんなに物分かりがいいヤツらではないってことくらい理解しているだろうに)

 

 笹塚の同期の、彼にしかり。

 そして、そんな人材が、まさか笛吹だけである筈もない。

 

 そして、そして――そんな人材を擁するのが、まさか警察だけである筈もない。

 

 自衛隊にも、テレビ局にも、新聞局にも、そして民間企業にも。

 

 昨夜の『英雄会見』を視聴して、何かが動き始めていることに――否、ずっと自分達の知らない所で動いていた何かがあったということに気付き始めている人間が、そして、そのまま動かされていては、流されていては危険だと、そう気づき始めた人間が、少なからず、そこら中に存在している筈だ。

 

 そして、そして、そして――そんな人材を擁しているのが、まさか、この国だけである筈もない。

 

「………………」

 

 世界が――動く。

 

 間違いなく、劇的に。

 

 そして、そして、そして、そして。

 

 その中心に近い場所に、きっと、この大きな少年は――。

 

「――行くのか?」

「ああ。その為に来たからな」

 

 車を降りて、東条の隣に立つ笹塚は、相も変わらず体温の感じさせない調子の声で、静かに無感情に問い掛ける。

 

「……君は、GANTZの戦士として顔を晒している。……人里離れて一人になれば、間違いなく……星人とやらに狙われるぞ」

「そうじゃなくちゃ意味がねぇ。望む所だ。俺は、その為に来たんだからな」

 

 東条は、同じ言葉を繰り返す。

 その目は最早、笹塚の方など向いていない。見向きもしない。

 

 ただ、真っ直ぐに、一点だけを見詰めている。

 

「俺は――強くなりに来たんだからな」

 

 山に篭り、修行する。そうすればパワーアップして強くなる。

 そんな漫画のような発想で、漫画のようなことを実行する、漫画のような男。

 

 だが――笹塚は、確信している。

 この東条英虎という男は、間違いなく、漫画のように強くなるのだろう。

 

 最短期間で、最短距離を突き進むのだろう。

 

 真っ直ぐに見据えている、その先に――。

 

「――あの“オニ”に、辿り着く為にか?」

 

 笹塚は、薄く靄がかかったように、はっきりと思い出せない、あのオニ達の姿を思い浮かべる。

 

 東条は――その言葉に対し、振り向かず、力強く、一歩を前に踏み出して。

 

 舗装された道路から、独特の感触の地面の上へと踏み出して。

 

 ただ一言、刻み込むように、こう言った。

 

「もう――誰にも、負けねえ為にだ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ざわざわと、騒めきに満ちる教室の、後方のドアから音もなく由香は室内に入った。

 

 一日ぶりの登校ではあったが、既にその殆どが登校しているクラスメイト達の注目は、先程まで校門前で仁王立ちしていた窓の外の『英雄』に向けられていて、由香の登校に気を留める者は誰もいなかった。

 

 否――何も今日に限った話ではない。

 教室に、学校に、由香の出席や欠席を気に掛ける――友達はいない。

 

 一年前のあの日から、あの林間学校の日から、湯河由香にとって学校とは、ひとりぼっちで過ごす場所――誰の注目も浴びない場所になっているのだから。

 

 初めはそんな学校生活が酷く惨めで、恐ろしく感じていたものだったけれど、やがて一年が経ち、小学校から中学校へと進級し、自分の所業を知らないクラスメイトも増えて(そんな彼ら彼女らも、由香と同じ小学校から上がってきた生徒の由香への視線や空気を感じて、暗黙の了解を察したかの如く、由香に近づいて来ようとはしなかったが)、かつて一緒にいじめに加担していた子達ともクラスが分かれて――誰も何の接触もしてこないことに慣れて、最早それが楽にすら感じるようになっていた。

 

 むしろ、下手に声を掛けられたり、注目を浴びたりする瞬間が不意に訪れる(授業中に教師に当てられたりだとか)ことに、逆に恐怖を感じるくらいだ。

 始業のチャイムギリギリの登校――扉を開けた瞬間、クラス中の注目が、一瞬、ほんの一瞬であるが集まり、空気が止まるかもしれないという危惧もあったので、このことだけは東条に感謝してもいいくらいだ。

 

 そんなことを考えながら、相も変わらず、教室中の視線や注目が一切向かない、孤島のような自分の立ち位置を確認し、表情を消し、気配を殺しながら、ぽっかりと空いた自分の席に向かう。

 

 教室の真ん中の列の、最後方。

 個人的に、この上ないポジションだ。常にクラスメイト達に背中を向けられている所がたまらない。

 

 由香は――真っ黒なスーツが底に詰めてあるバッグを机に掛けると、そのまま『英雄』との握手に浮足立つ男子達と、昨夜の会見での桐ケ谷和人の雄姿を甲高い声で語り合う女子達の声を、BGMのように聞き流す。

 

 まるで、自分だけ一人、重い水の中に潜っているかのように――その声は、そのBGMは、由香の耳には届かない。

 初めの内はこれ見よがしにイヤホンを付けていたが、今ではそんなものなくとも、鬱陶しい雑音をシャットアウト出来るようになった。

 

 寝たふりをするのもいいが、クラスメイト達に自分の寝顔を見られたくない――どうせ、誰にも見られていないと分かっていても。そんな過剰な自意識に、由香はまた惨めな思いを膨れ上がらせる。

 

(…………あ~。やっぱり、ちょっとキツイな。一回、心折れちゃった後だから……特に)

 

 もう、こんな思いをすることはないと思っていたのに。

 もう、こんな場所に来ることなんて、ないと思っていたのに。

 

 だけど――と、由香は、寝たふりもせずに、溢れかけた涙も引っ込めて。

 

 顔を伏せるのを必死に堪えて、その顔をゆっくりと――窓際に向ける。

 

 そこには、この教室におけるもう一つの孤島があった。

 一つの室内にこれでもかと押し込まれた三十数名もの人混みの中で、ぽっかりと空いた、人を寄せ付けずに浮かび上がるもう一つの孤島。

 

 由香のように教室の最後方ではない。

 日当たりがよく、柔らかい風が通る人気スポットを独占する、その孤島の主である――孤高な少女は。

 

 今日も、その美しい黒髪を靡かせて、猫のブックカバーを掛けた文庫本に目を通しながら、クラスメイト達の喧騒の一切をシャットダウンしている。

 

 クラスメイト達に存在を認知されていない由香とは違う。

 黒髪の孤高の少女の美しさは、誰もが目を向けずにはいられない――だが、誰一人として、彼女に声を掛けられる者など存在しない。

 

 その姿は、孤独ではなく、正しく――孤高だった。

 由香は、自分とは違う――その強い姿に、やはり、憧憬を抱かずにはいられなくて。

 

(……あぁ。やっぱり……違う……)

 

 彼女が眩しく美しい程に、自分がいる場所が暗い影の中のように感じて、思わず目を伏せ俯きかける――が。

 

(…………違う? ……なんか、違う。……今日の、あの子は――)

 

 それは、ほんの僅かに感じた違和感だった。

 ずっと――あらゆる感情を篭めて、その横顔を見つめ続けてきた、日陰の彼女だからこそ気付けた違和感。

 

 孤高の少女は、今日も美しい。

 彼女の周囲からは中学生の姦しい雑音など消え失せて――静寂に満ち。

 そのさらさらとした絹糸のような黒髪が靡く様は、見ているだけでうだるような暑さを忘れさせる。

 

 そんな彼女を見つめる度に――由香は毎日、死にたくなった。

 毎日、毎日――殺されているようなものだった。

 

 あの孤高の少女が、怖くて、恐ろしくて――でも、同じくらい……でも、それ以上に。

 

 本当に、綺麗で――美しいと、思ってしまって。

 

 見詰めずには、いられなかった――だから、気付いた。

 この教室で、湯河由香だけが――鶴見留美の、変化に気付いた。

 

 今日の彼女は――美し、過ぎる。

 それは、今にも壊れてしまいそうな、氷像のような美しさ。

 

 まるで――罅が入ったかのように、脆く。

 まるで――今にも溶けてしまいそうな程に、儚く。

 

 そう――彼女は、微笑んでいた。

 

 いつも文庫本から時折目を離して、ここではない何処かへと、窓の方に向ける彼女の横顔。

 ここではない何処かへ、ここにはいない誰かへと向けているかのような、あの美しい無表情が――今日は、なかった。

 

 まるで、失われたかのように――忘れてしまったかのように。

 

 そんな自分を嗤うかのように――彼女は、笑っていた。

 脆く、儚く――微笑んでいた。

 

 鶴見留美は――まるで、今にも死んでしまいそうな程に、美しかった。

 

「――――っ!」

 

 由香は思わず立ち上がった。何かを言わなければと思った。

 

 そんな彼女を、周囲の幾人かのクラスメイトは少し訝しげに見詰めた。

 既に始業のチャイムが鳴り、もうすぐ担任がHRにやってくるという時間だったからだ。

 

 次々と、クラス中に島を形成していた生徒達が、散ちり散ぢりに自らの席へと着席すべく分散していく。

 そんな周囲の行動に、由香は思わずしり込みをしてしまう。注目を浴びたくない。もう、あんな目を向けられたくない。

 

 何かを言わなければと思った。だけど、何も言葉にならなかった。

 そもそも、何と言えばいい。彼女があんな表情をしている理由も分からないのに。彼女から、何が失われて、あんな美しくなったのか――皆目見当もつかないのに。

 

 そもそも、あの日から、自分は彼女と一言も会話を交わしたことなどないのに。挨拶すらもしない仲なのに。一方的に――憧れているだけなのに。

 

 湯河由香と、鶴見留美は――友達では、ないのに。

 

 元いじめっ子で――元いじめられっ子。

 元加害者で――元被害者。

 

 それだけなのに。

 

 弱者と――強者。

 憧憬と――背景。

 

 湯河由香と、鶴見留美は――ただ、それだけの。

 

「――は~い。席に着いて下さい。HRを始めま……あれ? 湯河さん?」

 

 教室中の注目が、たった一人の少女に集まる。

 

 脂汗が滲む。喉が急速に乾く。

 心拍数が、みるみる内に上昇するのを感じる。

 

 それでも由香は、がんがんと鳴り響くBGMを必死に無視して――力強く、足を進める。

 

 この教室の中でたった一人――自分に見向きもしない少女に向かって。

 

(…………怖い……でも――)

 

 こちらを見向きもしない背中。艶やかな黒髪が靡く、その小さな背中。

 かつて自分が無慈悲に踏みにじり、そして――愚かな弱者を、救ってくれた、強者の背中。

 

――『――走れる? こっち。急いで』

 

 一度、由香は目を瞑る。

 思い起こすは、由香にとっての、もう一人の――『英雄』の背中。

 

――『――ダチを守れて、初めて楽しいケンカなんだろうが』

 

 小さな足で、一歩、そしてまた、一歩。

 

 そして由香は、儚く、脆い、美しい少女の傍らに立つ。

 

 この時、ようやく初めて、留美は由香の存在に気付いたとばかりに目を向けた。

 

 真っ黒な真珠のような瞳が、由香に向けられる。

 

(―――――――――綺麗)

 

 由香は、思わず反射的にそう思った。

 けれどそれはやはり、まるで大切な何かを失ってしまったかのような、混じり気の無い――黒色で。

 

 由香は――あの日、留美がそうしてくれたように。

 真っ暗な闇の中から、真っ黒な恐怖の渦から、手を引いて走って連れ出してくれたように。

 

 震える声で、震える手を差し伸ばしながら。

 その――大きな一歩を、涙を零しながら、勇気を奮って、踏み出した。

 

「……っ! あの――鶴見……ッ、さん!」

 

 ごめんなさい。

 

 ありがとう。

 

 伝えたいことがたくさんある。話したいことがたくさんある。

 

 聞いて欲しいことが、聞きたいことが、溢れて――止まらない。

 

 だから、まずは――。

 

「あの! ……私とッ!」

 

 

 最初に湯河由香は――自分の道を選び取る。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「道に迷った」

 

 山籠もりの修行を初めて一時間が経過。

 

 東条英虎は遭難した。

 

「参ったぜ。どっちが右かも分からねぇ」

 

 そう言って真っ黒な右手で、どう考えても日本に生息していないであろう醜悪な野生動物を、未確認生物を、数十メートルに渡って樹木を薙ぎ倒す程に勢い良く殴り飛ばすパンチを繰り出しながら、東条は首を捻った。

 

「そういえば、日本にも野生のライオンっていたんだな。初めて見たぜ」

 

 極採色の輝く鬣を持ち、無数の眼球によって構成される視覚器官を持ち、ハンマーのような塊を先端に持つ伸縮自在の尾を備え、咆哮と共に衝撃破を放つ猛獣を、残念ながら地球ではライオンと呼ばない。

 

 当然、地球産ではない――外来種である。

 

 星人である。

 大方の予想通り、GANTZ戦士として公共の電波に乗せて顔を晒した身の上であるにも関わらず、たった一人で人里離れた山中へと足を踏み入れた東条の前には、早速、野生の星人が飛び出してきた。

 

 だが東条は、それに対してまるで危機感を抱いていない。

 むしろ、考え事をしながらとは言え、ガンツスーツを身に纏った己の拳を受けて立ち上がり、鬣どころか全身を極彩色に発光させ、見るからに戦闘意欲を膨れ上がらせている目の前の星人に対し、俄然闘志を燃やしている所だった。

 

「――ハッ。いいね……山に修行にきた甲斐があるってもんだ……」

 

 そして、東条は。

 自分が極彩色の獣を吹き飛ばしたことで薙ぎ倒した筈の木々が、まるで世界を閉ざすように、何かを隠すようにひとりでに起き上がって復元されていくことにすら一切の疑問を持たないまま、ボキボキと拳を鳴らして、野生の殺意に応える。

 

 獣と、獣が睨み合う。

 そして、虎の放つ殺意に、極彩色の獅子が雄叫びと共に破壊を放とうとして――。

 

 

 シャリーン、と。

 甲高い、厳かな音が響いた。

 

 

 静かな森の中で、嫌に静かに響く音。

 

 静謐な――轟音。

 

 少なくとも、目の前の獣にとって、その静かな音は――膨大に膨れ上がった殺意を、圧殺されるには十分な威力を誇っていて。

 

 口内を渦巻いていた破壊を飲み込み、その剣のような牙を震わせて。

 文字通り、尻尾を巻いて逃げ出した。

 

「…………なんだ?」

 

 拳の振るい所を失った戦士は、訝し気に、そして何処か拗ねるように背後を見据える。

 静謐な轟音の発生源である、己の背後を。

 

 そこには、頑なに道を譲ろうとしない木々を掻き分けるように進む、一人の男がいた。

 まるで山そのものに侵入を拒まれているかのようなその男は、周囲の薄暗さと相まって、この距離まで近づくまで存在に気付くことが出来なかった。

 

 いや、薄暗さだけが原因ではない。

 その男の恰好は、まるで闇に溶け込むかのように――黒かった。

 

 真っ黒な、法衣だった。

 黒衣の――法衣。

 

「……坊さんか?」

 

 黒い法衣自体は珍しくもない。

 編笠に錫杖に草履というその恰好は、禅僧の旅姿のイメージそのままだろう。

 

 だが、その僧は――お面をしていた。

 黒いお面――真っ黒な仮面。

 

 面妖な――漆黒の、烏カラスの、仮面。

 

「――全く。奴等に招き入れられたとはいえ、戦士として些か以上に不用心じゃないか? ここがどういう場所なのか、ここがどういう領域なのか、一時間も遭難しているのに未だ分からないのか?」

 

 烏の面を付けた黒僧は、錫杖を鳴らし――問う。

 嘘は許さぬと、正しく仏の声を聞く僧のように。

 

「此処は只人が足を踏み入れてはならぬ場所。世界から切り離された異形種の巣窟。飢えた虎が如き(おのこ)よ、お主は何を求めて彷徨い歩く?」

「力だ。俺は強くなりてぇ。だからここに来た」

 

 東条は一切恥じずにそう即答した。

 

 そして、真っ黒な僧に、烏面の男に――拳を突き付け、獰猛に笑う。

 

「――分かるぜ。アンタは強え。さっきのライオンよりも……もしかしたら――」

 

 東条は――そこで初めて、言葉を呑み込んだ。

 

 初めて会ったその黒僧の――背後に。

 ロイド眼鏡のパーカーの男と、黒山羊の頭を被った悪魔のような男の、影が見えたから。

 

「……………」

 

 東条は、握った拳を解き――再び、より強く、何かを掴むように握り込む。

 

 そして笑う――笑う――笑う――笑え。

 

 笑え。

 強者との出会いを笑え。自分よりも高みを見上げてこそ笑ってみせろ。

 

 どれだけ強いかも分からない程に強い――そんな強者との巡り合いこそ、東条英虎にとっての唯一の願望であった筈。

 

「なぁ、坊さん――」

 

 虎の飢えを、満たす滴であった筈。

 だから笑え――そして、戦え。

 

「――喧嘩、しようぜ」

 

 烏面の黒僧は、その言葉を受けて――しゃん、と、錫杖を鳴らした。

 

 つまりは――この男は。

 

 この場所の詳細よりも、この黒僧の正体よりも――何よりも。

 未知なる強者との戦闘を、正体不明の黒僧との喧嘩を優先させた。

 

 異境、異形、異常――知ったことかと。

 大事なのは――自分が強くなる為にここに来たこと、そして自分よりも強い存在が目の前にいること、ただそれだけだと。

 

 いいから黙って戦えと、いいから俺と――喧嘩をしろと。

 

「――ふっ。小町小吉(あのおとこ)が、わざわざ新人の面倒を見てくれと、(それがし)に頭を下げるなど何事かと思ったが……なるほど、中々に手が掛かりそうな悪童のようだな」

 

 黒僧は、手に持っていた錫杖を地面に突き刺すと、編笠を外し、黒い髪を露わにしながらも、烏面は外さぬままに――黒い法衣の下に身に纏った、機械的な全身スーツを発光させる。

 

「だが、悪ガキの更生も、昔から坊主の仕事ではある。上司命令には慎んで従うとしようか」

 

 黒僧は――漆黒の面の下で、自分の言葉に皮肉げに笑いながら、両手を広げて宣言する。

 

「よろしい。思う存分、付き合ってやろう若虎よ。季節が変わるその頃までに、某に拳を浴びせることが出来れば、その時は――」

 

 そして――黒僧は、その力の一端を解放する。

 

「――ッ!?」

 

 東条には、まるで薄暗い森林の闇が急速に膨れ上がったかのように見えた。

 葉がまるで恐怖するように騒めく。猛獣の悲鳴のような雄叫びが聞こえる。

 

 思わず一歩、後ずさる。

 あの時と――篤と、斧神の殺気を受けた、あの池袋での戦争の時と、同じように――いや、更に一歩、一歩、後退が止まらない。

 

 そんな己の身体に――己の心に、混乱する。

 だが、続く黒僧の、放った言葉に――。

 

「――お前が、かの“悪鬼”と“狂鬼”に、宮本篤と村田藤吉に渡り合える強者となっていることを、この第三位が保証しよう」

 

――東条の、後ずさる足が、止まった。

 

 額から汗を流しながらも、震える拳を固めて――笑う。

 

「――ほう」

 

 膝が――震えている。

 それでも、東条英虎は、獰猛に笑う。笑い続ける。

 

 拳を握り――力強く、一歩前へと、足を踏み出す。

 

 黒僧は、そんな東条に仮面の下で微笑み、言う。

 

「それでは――喧嘩を、しようか」

 

 Cosmopolitan Integration OrganizatioN(世界主義統合機構)

 

 JP支部戦士ランキング 3位

 

 第十一代目 武蔵坊弁慶

 

 武蔵青雲(たけくらせいうん)

 

「――――ッッッッ!!! ォォォオオオオオオ!!!」

 

 漆黒の虎が、殺気を迸せるように雄叫びを上げながら、漆黒の烏に向かって特攻する。

 

 黒僧は――この国の黒衣を纏う戦士の中で、三番目に強い戦士は。

 

 若き戦士の青き戦争を、真っ黒な面の下で微笑みながら――。

 

 

――たったの一撃で、頭を冷やすかのように地面に叩きつけ、捻じ伏せた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ここは、世界中の各地に存在する、常人には確認不可能な領域――神秘郷。

 

 まるで神に隠されたかのように点在するそれらは、古くから異形の者が住まう地として、数多くの物語の舞台となった秘境。

 

 星人郷とも呼ばれる外来種の巣窟――その一つである、日本のとある場所で。

 

 新たに生まれた漆黒の師弟が、喧嘩と称して殺し合う。

 

 

 

 東条英虎――山籠もり修行編、開始。

 

 彼はきっと強くなる……生きて帰ればの話だが。

 




凋落した少女は、己が過去と向き合うべく一歩を踏み出し。

敗北した男は、己が未来へと立ち向かうべく一歩を踏み出す。


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Side警察――③

お前達は、娘が地獄に送り込まれるのをよしとするのか。


 

 千葉のとある駅から程よく離れたオフィスビルのワンフロア。

 

 十数台の机が島を作り、そこから少し離れた窓際の席に、他のそれよりも少しだけ大きな机がある。

 だが、窓際の大きな机以外の島には、机の上には何も置かれていない。それでも、しっかりと清掃は行き届いているのか、埃一つ存在しなかった。

 

 決して狭くはない。

 しかし、次期千葉県知事最有力候補とまで呼ばれている県議会議員の議員事務所としては、想像していたそれよりも遥かに簡素で――言ってしまえば、寂しいオフィスだった。

 

 恐らくは元々、何かの会社が置かれていたフロアなのだろう。

 窓には『スマイルカンパニー』と文字が貼られていた形跡が完全には消されておらず――外側からは見えないようにされているが――内側からはその痕跡が伺える。

 

 職員も殆どいない。

 まるで――時間が止まっているかのようなオフィスだ。

 

「――申し訳ありません。今、職員はその殆どが出払っておりまして。お飲み物はコーヒーでよろしいですか? 安物なので、お口に合えばいいのですけど」

 

 同伴者の男――筑紫候平は、その和服の女性が飲み物を用意してくれていることに恐縮し、立ち上がりかけるが、女性は「好きでやっていることですから。やらせてください」と笑顔で男を座らせる。

 

 彼女は――今、千葉県で最も権力があると噂されている男、雪ノ下豪雪の妻である女性、雪ノ下陽光(ひかり)は。

 オフィス机の島から少し離れた、恐らくは来客との対話用だと思われる、この部屋で最も高級そうな(といっても、あくまでこの部屋の中にある家具の中では、という但し書きが付くが)二つのソファの間に置かれたテーブルに、三つのコーヒーを用意する。

 

 一つは、先程立ち上がった筑紫候平の前に。

 そしてもう一つは、彼——警視庁所属のキャリア組である警察官、笛吹直大(なおひろ)の前に。

 

 そして最後の一つを、自らの夫であり、次期千葉県知事と名高い県議会議員であり、千葉有数から日本有数の会社へと成長しつつある地元企業『雪ノ下建設』の現役社長でもある、笛吹と筑紫の向かいのソファに腰を掛ける男――雪ノ下豪雪の前へと置いた。

 

「…………」

 

 想像していたよりも大きい、大樹のような存在感を放つ豪傑に対し、笛吹はごくりと唾を呑み込む。

 

 そして、妻が淹れてくれたコーヒーを冷めない内にと言わんばかりに、真っ先に手を伸ばして静かに口に含み、ごくりと、長年培った技術を感じさせる腕前で引き出された苦みをしっかりと味わうと、重々しく、その第一声を放った。

 

「――遠い千葉の地まで、よくぞ参られた、警視庁の方々。それで? この一介の千葉人に何の御用かな?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 昨日――午後六時。

 

 笛吹直大の姿は、永田町周辺を警備する警察隊の指揮車の中にあった。

 

 幾つもの監視カメラの映像が映し出される無数のモニタの一つに、記者会見のテレビ放送の映像が映し出される。

 

 集合を約束した烏間はここにはいない。

 その理由は、映し出された記者会見の席に参列している、『潮田渚』が理由だろう。

 

 潮田渚だけではない。

 笹塚が接触していた『東条英虎』、あの気に食わない探偵少女が何故か出しゃばって接触してきたという『新垣あやせ』、そして、何故か総務省の役人である菊岡誠二郎という男が連行することに成功したという、本命の『桐ケ谷和人』までいるのだ。

 

 だが、ここには――『雪ノ下陽乃』はいなかった。

 自分達の子飼いの部下を送り込み、丸一日捜査をさせたが、彼女の行方の手掛かり一つ見つけることが出来なかった。

 

(……政府は何を考えている? 桐ケ谷和人はまだしも、新垣あやせや潮田渚、東条英虎は、まだ世間的にはその存在も明らかになってはいなかった戦士だ。それでも、こうして公の場に引っ張り出している……。そうなれば、あの時、桐ケ谷和人と一緒にいたあの女はどうしたのだと追及されることになるのは必然だ)

 

 今、この場においては、警察(じぶんたち)も知らなかった衝撃の事実が次々と明らかになり、そちらの方へと質問や疑問を誘導できるかもしれないが、それも長くは保たない。

 渚達と違って、明確に映像として残っている以上、いずれは世間も『雪ノ下陽乃』に辿り着くのは明白だ。

 

(彼女の存在にスポットが当たるのは時間の問題、つまり、彼女が()()()に引っ張り出されるのも時間の問題だ。ならば、何故、初めからここに連れてこない。どうして出し惜しみのような真似をする?)

 

 こうして記者会見を開く事態になった以上、この期に及んでの余計な隠し事は、マスコミに付け込まれる要因にしかならないだろう。

 少なくとも、マスコミがつけると分かっている穴は、事前に防ぐのが定石の筈だ。それが分からない内閣ではない。

 

(まだ二十歳の女子大生を戦士として紹介するのに抵抗があった? 女子高生や中学生を堂々と戦士として晒している上では今更だ)

 

 それをいうなら、今、カメラの前で並んでいる戦士の中では、もし混じるとするなら雪ノ下陽乃は一番の年上だ。

 こうして改めて俯瞰してみると、目の前のモニタの映像が、どれだけふざけたものなのかは改めるまでもなく明瞭である。

 

(……つまり、雪ノ下陽乃に関しては、奴等にとっても想定外の何かが起こっているということか)

 

 勿論、ただ出たくないと少女が駄々を捏ねただけかかもしれないが、それならばその時は、雪ノ下陽乃はそれだけの我が儘を内閣に言える存在か、その程度の強度の支配下にしかいないということだ。少なくとも、問答無用で全ての行動を制御されているといった状態ではない。

 あるいはこんな記者会見の席にも出席できない程の大怪我(ダメージ)を負っているという可能性は――昨夜の映像において片腕を斬り落とした桐ケ谷和人が五体満足で出席しているのを見れば、その可能性は低いだろう。

 

 どちらにしろ、やはり、自分達が付け込むべき次の一手も、やはり――『雪ノ下陽乃』だということだろう。

 笛吹直大は――目の前のモニタを睨み付け、歯を食い縛り、膝を激しく打ち鳴らしながらも、そう、出来る限り冷静な思考を心掛けながら、激情に駆られそうになる己を必死で押し殺しながら、そう結論付けた。

 

 そして、そんな笛吹に切っ先を突き付けるように。

 

 モニタの中で――英雄は宣言する。

 

『「GANTZ(おれたち)」が――世界を救ってみせる』

 

 瞬間――笛吹は、拳をモニタの操作パネルに思い切り叩き付けた。

 

「!?」

 

 周囲のスタッフがギョッとして動きを止め、笛吹を呆然と眺める。

 

「…………」

 

 筑紫が、笛吹の震える背中を痛ましげに見詰める中――笛吹は何かを食い縛るように言った。

 

「――筑紫。撤収だ。残る人員には最後まで気を抜くなと伝えろ」

 

 笛吹はそのまま指揮車を後にしようとする。

 そして、筑紫とすれ違い間際に、他の誰にも聞こえないような声量で伝えた。

 

「烏間と笹塚には、これまで通り『標的(ターゲット)』と接触しつつ、表向きは表の命令を遂行するように伝えろ。勿論、独自に手に入れた情報は共有するように厳命をつけてな」

「……了解しました。我々は、明日からどのように動きますか?」

「明日からではない。今日からだ」

 

 笛吹は、鋭い眼差しで吐き捨てるように言う。

 

「最早、国も警察(うえ)も信用出来ん。これから直接、千葉に向かうぞ。徹底的に一から洗い直す」

 

 我々の標的(ターゲット)は――『雪ノ下陽乃』だ。

 

 笛吹の言葉に、筑紫はただ頭を下げることで無言の了承を示した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 時刻は明朝、午前九時。

 笛吹直大は一睡もすることなく、この対決へと臨んでいた。

 

 昨夜の深夜、まだ暗い千葉の地へと赴いた笛吹が真っ先に向かった場所は――幕張だった。

 笛吹が今回の一連の事件に初めて気付いた、違和感を覚えた事件であり、現代に恐竜が蘇った地である。

 

 池袋と比べると規模は小さいが、それでも数十人の警察官を含めた一般人の犠牲者が生まれた事件であり、黒衣の存在は露見しなかったが、GANTZがその戦争(ミッション)の被害を世間的に隠し切れなくなり始めた事件現場――戦場跡だ。

 

 次に笛吹は、笹塚の報告にあった、千葉における黒服集団の目撃談があった場所を訪れた。

 幕張や池袋と違い、人通りが決して多いとは言えない住宅街の路地ではあったが、塀が尋常ではない形で破壊されており、何かしらの戦闘行為があったことは明らかだった。

 あのPV(プロモーションビデオ)にもなかった戦争――笛吹は、小さな街灯のみが照らすその戦争痕を見て、険しい表情のまま、何かをずっと考え続けていた。

 

 そして――日が昇り、明るくなり始めた頃、笛吹は筑紫にある人物へと連絡を取るように告げた。

 筑紫はその名前を聞き、果たしてアポイントメントが取れるのかを不安視したが、最悪、笛吹はその人物の居場所を突き止めて乗り込むくらいの気持ちでいた――しかし、二人の予想は外れ、電話に出た女性はあっさりと了承し、二人の警察官を迎え入れた。

 

 指定された場所は――千葉のとある駅から程よく離れたオフィスビルのワンフロア。

 半信半疑でオフィスの扉を開けた二人だったが、その中に、目的の人物達は二人っきりで存在していた。

 

 雪ノ下建設の現社長、次期千葉県知事と名高い県議会議員――雪ノ下豪雪。そして、その妻である雪ノ下陽光。

 

 笛吹直大と筑紫候平――二人の標的(ターゲット)である、『雪ノ下陽乃』の両親である。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その巨大な男は、相対するだけで思わず生唾を吞んでしまう程の迫力を放っていた。

 異なる時代、異なる場所であったならば、いっそ『王』呼ぶに相応しい風格であると感じたかもしれない。

 

 例え、場所が簡素なオフィスビルのワンフロアであろうとも、目の前の男から受ける重圧は、警視庁のエリートとして、これまで数々の化物と呼ぶに相応しい、この国を操る上層部の歴々と渡り合ってきた笛吹でさえも、冷や汗を禁じ得ない代物だった。

 

 だが――笛吹は、礼を失する行為だと知りつつも、己を鼓舞する意味も込めて首を締めるネクタイを外し、キッと己を見下ろしてくる豪雪と睨み付けるように目を合わせながら。

 

「――単刀直入に聞かせてもらう」

 

 決して下手に出てはならないと、強気の口調でこう切り出した。

 

「貴様達の長女――雪ノ下陽乃は、今、何処にいる?」

 

 笛吹の言葉に、豪雪は――小さく、一瞬その瞳を細めて、そのまま「……随分と、乱暴な言葉遣いの刑事さんだ」と、ソファに凭れ掛かりながら呟く。

 

「申し訳ありません。こちらの笛吹がご無礼を――」

「いや、構いませんとも。笛吹さん、とおっしゃいましたか――本来ならばあなたは、このように現場に出て直接一般人と言葉を交わすようなタイプの人ではないのでしょう。もっと全体を俯瞰した、指揮官のような形でこそ本領を発揮する方と見える」

 

 ネクタイを緩め、冷や汗を掻き、虚勢を張ろうとする笛吹を、豪雪はその名の通り冷たい眼差しで見遣る。

 思わず唇を噛み締める笛吹に対し「あなたが一番話しやすい口調で構いませんとも。ここには私と妻しかいない。見栄を張らなくてよいのはこちらも同じだ」と、自らも口調を崩し、笛吹に話しやすい空気を作る余裕を見せる。

 

 笛吹は、下手に出てはならぬと強気を示した場で、却って相手の度量の大きさを示されてしまったことに忸怩たる思いを抱くが、豪雪が「それで——陽乃のことだったか」と話の主導権を手放さなかったことで、開きかけた口を再び閉じることとなった。

 

「陽乃は確かにうちの娘だが……何故、警察の方が陽乃のことを? 陽乃は確かにやんちゃだが、警察の御厄介になるようなことをする程、馬鹿な娘ではない筈だが」

「とぼけないでもらおう。一昨日の池袋大虐殺での電波ジャックされた映像に、桐ケ谷和人と共に登場した女が雪ノ下陽乃であることは調べがついている」

 

 豪雪が顎髭を撫でるようにして言うが、笛吹は噛みつくように身を乗り出す。

 そんな二人のやり取りを、筑紫は心配そうに、陽光は日の光のように暖かい微笑みを浮かべてながら眺めていた。

 

「雪ノ下陽乃――彼女の行動記録は、半年前からぱたりと途絶えている。大学にも出席記録はない。しかし、千葉県警に確認を取った所、貴様達からの捜索願も出ていなかった。……これはつまり、両親である貴様らは、雪ノ下陽乃の所在を把握しているということだ。違うか?」

 

 笛吹は公的機関、警察であるという強みを持って入手した情報を武器に、豪雪を問い詰める。

 豪雪は、テーブルの上に出された資料を一瞥し、顎髭を撫でながらふてぶてしく返した。

 

「無論だ。大事な娘だからな。陽乃からは少し大学を休んでやりたいことがあると聞いている。しかし、貴殿の口ぶりからして、あの愚娘は休学届を出すのを忘れていたのだろう。あの子らしくないミスだが、ミスは誰にでもある。後できつく叱っておくことにしよう」

「やりたいことだと? それは何だ?」

「それは答えるつもりはない。娘のプライバシーに関することだ。何かの事件の容疑者となっているならまだしも、これはあくまで任意の聞き取り調査である筈だ」

 

 違うか――と、豪雪は笛吹を見据える。

 笛吹は、一度小さく歯噛みしながらも、足掻くように口を開いた。

 

「あの池袋大虐殺の映像に、雪ノ下陽乃が映り込んでいたのは確かだ。容疑者ではなくとも関係者であるのは間違いがない。昨夜の会見で発表された、特殊部隊『GANTZ』の関係者であることはだ」

「夜闇の中で黒い服を着た、遠目での映像だ。音声も届いていない。我が娘であると断定するには不十分な証拠だ。それに、百歩譲って、陽乃がGANTZの関係者であるとしよう。それならば、我々ではなくGANTZを、内閣を通して事情聴取を申し込むべきではないのか? GANTZは政府が設立した特殊部隊なのだから。少なくとも、一介の千葉人と、警視庁のエリート、どちらが彼等とコンタクトを取り易いかなど、自明の理であると私は思うがね」

 

 豪雪の言葉に、笛吹はより一層、強く歯噛みする。

 そう、あくまでも笛吹達が雪ノ下陽乃を関係者と断定する材料は、あの電波ジャックされた放送映像しかない。

 

 テレビ番組の撮影時のように照明器具などがあったわけではない為、夜闇の中、それも漆黒の全身スーツを着た黒髪の女性ということで、証拠映像として不十分と言われたらそれまでなのだ。

 昨夜の『英雄会見』で正式に顔と名前を晒したわけでもない。つまり、お前達の勘違いだと言われればそれまでだ。

 

 しかし、仮にも己が長女が、化物と戦う部隊の一員として、これ以上なく分かり易い証拠を、不明瞭とはいえ、赤の他人の自分達が見ても分かるくらいの証拠映像を前にして、一切の動揺なく対処している今のこの状況が、笛吹にとっては何よりの状況証拠だった。

 

(間違いなく、コイツ等は雪ノ下陽乃がGANTZと何らかの関係を持っていることを知っている……っ。そして、その上で、警察という力を必要ないと判断しているということだ……っ)

 

 既に政府側に何らかの説得を受けているのか、それとも自分達の独自の力で捜査を進めているのか、いずれにせよ、警察という機関を必要としていない、いや、もっというなら警察機関の介入を拒絶していることは明らかだった。

 

 笛吹は、前傾姿勢のまま手を組み、下から見上げるように、鋭い眼差しで雪ノ下豪雪に言う。

 

「お前達は、娘が地獄に送り込まれるのをよしとするのか」

 

 その言葉に、この日初めて、豪雪は口を閉ざした。

 何よりも、豪雪の隣に座る妻――陽光が、まるで凍り付いたかのように、動きをピタリと止めたのだ。

 

 筑紫がそのことに気付き、目線を動かすのを遮るように、豪雪は低い声で己に注目を戻した。

 

「――何のことだか分からない。……だが、当たり前のことを、当たり前のように言わせてもらえるならば」

 

 雪ノ下豪雪は言った。

 母親のような顔をしている女の隣で、父親のようなことを――堂々と。

 

 

両親(われわれ)が望んでいるのは――常に娘の幸せだけだ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ビルを出て、駅へと向かう道中にて、笛吹直大は吐き捨てた。

 

「――クソっ」

 

 季節外れに寒々しいシャッター商店街を、笛吹は荒々しく歩く。

 結局、決定的な手掛かりは何も得られなかった。

 

「しかし、奴らは間違いなく、何かを知っている。雪ノ下陽乃(むすめ)に何が起こっているのかを。そして、それがGANTZに関することだということも。そのことに確信を持てただけでも、こうして千葉に赴いた甲斐があるというものでは?」

「分かっているッ! こうして、我々に分かり易くその確信を抱かせたのだということも! その上で――我々には何も出来ないと、そう突き付けているのだということもな!」

 

 笛吹は足を止め、思わず両拳を握り締めながら、アスファルトの地面を睨み付けた。

 警察という組織の最大の強さ――それは、国から、そして世間からその正しさを認められているということだ。

 

 絶対的な正当性の保証。

 それがあるが故に、ある種の強制力を持って、どんな相手にだろうと主導的に行動することが出来る。

 

 だが、今回、自分達にはそれがない。

 その正当性を保証すべき国が、自分達の後ろ盾になっていない。

 むしろ、あの余裕から見る限り、雪ノ下豪雪(やつら)の背後を盾として守っている疑惑も出てくる。

 

 正当性。組織力。

 およそ警察が持ちうる最大の両翼を奪われている笛吹達には、これ以上踏み込む資格はないと、そう突き付けてくるかのような、極寒の眼差しだった。

 

「……このままで……終われるか……ッ」

 

 笛吹は、食い縛った歯の間から、そう燃えるような言葉を吐き出した。

 

「折角、こうして千葉まで来たのだ。このまま千葉県警へと向かうぞ」

「……しかし、“上”の力は県警の方まで間違いなく伸びています。我々の行動に協力するような人間が見つかるでしょうか?」

「無論、組織だっての協力など期待していない。だが、距離が離れれば離れるほど、その支配力は“末端”にいくにつれて確実に弱まることは確かなのだ」

 

 例え、独断専行の単独行動を起こしているとはいえ、本庁所属の自分達はいつまでも千葉に滞在するわけにはいかない。

 しかし、あの雪ノ下豪雪の態度を見る限り、あの男が、そして雪ノ下陽乃(むすめ)が、重要な手掛かりを握っていることは間違いないのだ。

 

 それに――。

 

「――筑紫。お前にも読ませていただろう。一時、ワイドショーを騒がせてはいたが、直に鎮火したあの事件。……当時は私もよくある地方事件だと深く気に留めなかったが……星人存在が明らかになった今、この事件の見方は一気に変わる」

 

 半年前――この地域のとある進学校の生徒が、同校生徒を大量虐殺するという痛ましい事件が起こった。

 

 結果的に犯人である男子生徒が死体となって発見されたことで幕を閉じたこの事件は、マスコミの大好物である未成年の闇をテーマに数日の間だけ全国規模で話題となったが、直に別の好物にマスコミの興味が移った為に、今となっては地元民の記憶に凄惨に刻み込まれているだけの――警視庁所属の彼等にとっては、よくある事件に過ぎない。

 

 だが、この事件の舞台が――雪ノ下豪雪の次女、雪ノ下陽乃の妹である、雪ノ下雪乃の通う学校――総武高校であり。

 

 当時は極限状態における集団幻覚であると結論付けられていたが――何らかの力が働いて、警察の資料にもほんの一行のみ記されているだけでまるで重要視されなかったことが却って露骨に示されていたが。

 

 ()()()()()()()()()()――と、そう多数の目撃証言があったとなれば、話は変わる。

 

 星人という存在が公表された今日からは、その事件の見方は大きく変わってくる。

 

「調べ直す意味は、間違いなくある。もしかすると、我々にとっての大きな突破口となるかもしれない」

 

 笛吹は再び力強く一歩を踏み出し、筑紫の方を振り向かずに告げた。

ついてこいと、言外にそう示している尊敬すべき小さな背中に、筑紫は笑みを浮かべながら迷わず追従の一歩を出した。

 

 

「私達の次の標的(ターゲット)は総武高校。そして、雪ノ下雪乃だ」

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「彼等の次の標的(ターゲット)は総武高校。そして、雪ノ下雪乃なのでしょうね」

 

 笛吹直大と筑紫候平が出て行った後のオフィスで、コーヒーを片付けながら雪ノ下陽光はそう夫に言った。

 そして、そのまま淹れたてのお替りをついで、ソファに座ったままの夫の隣に、対面のソファが空いたにも関わらず座り込む。

 

 夫――豪雪は、淹れたての味を一口楽しんだ後、隣を向かずにカップの真っ黒な水面を見詰めながら返す。

 

「……あれで、よかったのか?」

「ええ。あなたにしては上出来です。口下手なりに上手くやったと褒めてあげましょう。これで、彼等は私達に疑念を抱きながら、注目を千葉へと注がざるを得ない」

 

 既に、GANTZに関わる物語としては、千葉は限りなく終わった地だ。

 これからの舞台はもっと広く、もっと大きい。そして、これまでとは比べ物にならない程に早く、加速度的に事態は動いていく。

 

「笛吹直大――ですか。思ったよりも有能な方のようでしたが、あなたが言う通り、彼は盤面を見てこそ本領を発揮するタイプといえます。そんな彼をこうして自らを駒として動かざるを得ない状況に置いている時点で、小町さんは上手く表の勢力を抑えていると言っていいでしょう」

 

 無論、それもいつまで持つかは分からない。

 自分の適性など、笛吹は誰よりも己で自覚していることだろう。

 だからこそ、遠からず内に、己で動くよりも動かせる仲間を集めることを始める筈だ。

 

 しかし、事態は恐らく、笛吹が思っているよりもずっと早く、致命的な段階にまで加速していく。

 こうして千葉で時間を無為に過ごしている一日が、取り返しのつかないダメージとして蓄積していることに、彼はいつ気付くことが出来るのか――。

 

「……確かに、大局的に見れば、GANTZとしては、小町小吉としては、終わった地である千葉をいくら調べられようとも、それほど痛くはないのだろう。……だが――」

「――ええ。総武高校大量虐殺事件。あれを調べられれば、J組唯一の生き残りである雪乃に捜査の目が向けられるのは避けられない。私達の娘としての価値も見出すでしょう。……何より――」

 

 陽光は、己も上品にカップを持ち上げて、普段は自分は余り飲まない苦く黒い液体を体内に摂取する。

 そんな妻の所作を眺めていた夫が、ぽつりと代わりにその名を出した。

 

「――比企谷八幡、か」

 

 陽光は、熱い息を吐きながら、細めた瞳で言う。

 

「……ええ。事件の直接的な関係者としては公的には認識されていませんが、雪乃があの事件以降、八幡さんに依存するようになったのは、校内では有名な話です。しかし、今の総武高校では、そのことを覚えている人間は存在しないでしょうし――いえ、葉山隼人がいましたか。ですが、彼はあの事件当時は休学していたことになっていますし、生徒の口から八幡さんのことが警察関係者に漏れることはないでしょう」

 

 陽光はカップをテーブルに置く。

 反対に、豪雪は再びコーヒーの入ったカップを持ち上げながら言葉を返した。

 

「だが、記憶は消せても、記録は消去出来ていない」

「ええ。そして、その記録を捜査出来るのが、警察という組織の強みです。事件から半年が経過していますし、犯人も死亡したということになっているので、早々に大きな捜査が出来るとは思えませんが、それが可能であるというだけでも――予防線を張らない理由にはなりません」

 

 それに――と、陽光はソファから立ち上がりながら、言った。

 

「彼等は間違いなく、雪乃には接触するでしょう。総武高校虐殺事件についての、あの子の記憶を掘り起そうとするでしょう。……あの子にとっての、あの子達にとっての、比企谷八幡についての記憶を、掘り起こそうとするでしょう」

 

 比企谷八幡が、彼女達の平穏を思い、消去させた己の記憶。

 それが彼女達の幸せに繋がるのか、それを陽光は断言することは出来ないが、少なくとも、これから加速していく黒い球体の物語から少しでも引き離したいという願いは共通だ。

 

 そして、何より、自分は、自分達は託されたのだ。

 

――『――雪ノ下達を……どうか、頼む』

 

 彼が、守りたかったものを、代わりに守り通すと。

 彼が愛したものを、彼が愛した場所を――それが、残された自分達の使命だから。

 

「小町大臣と篤さん達と進めている『計画』の為に用意していた兼ねてよりの作戦、当初の予定は二学期が始まってからという話でしたが、決行を早めましょう。――“あの子”は、もう到着しましたか?」

 

 お呼びして参ります――と、いつの間にかそこにいた都築がそう言って一礼すると、再びその姿が一瞬にして消えた。

 

「……いいのか。()()()に借りを作ることになるが」

「構いませんよ。既に借りなど、こうして生きているだけで際限なく膨れ上がっています。敵対することなど有り得ない以上、()()()との関係は繋ぎ留め続けなければならない」

 

 それに――と、陽光は細めた瞳で言う。

 

「――彼女達も、いつまでも無関係ではいられません。CIONが目論む次なる計画(プラン)()()()()()()()()()()戦争(ミッション)が目前に迫っている以上、いつまでも引き籠ってはいられない。そのことも、彼女達は分かっている筈。決断しなくてはならないのです。()()()()()()()()

 

 だからこそ、無理矢理にでも引っ張り出すと、陽光は言う。

 日の光を嫌う彼女達に。人間を恐れる彼女達に。

 

 戦えと――いつか、この場所で、誰かに自分が言われたように。

 

「――お連れしました」

 

 そして、再びドアを開ける音すら悟らせずに、いつの間にかそこに居た都築は言った。

 

 都築の横には、()()()()()()()()()が居た。

 

「よくぞ来てくれました。あなたに頼みがあります」

 

 雪ノ下陽光は、真っ直ぐに少女の目を見据え、毅然とした態度で、一つの星人組織の長たる風格で言った。

 

「あなたに、人間組織への潜入を命じます。組織名は――『総武高校』」

 

 期間は、世界が滅亡するその日までです。

 

 その命令に、少女は間髪入れず否定の意を示した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 少女がオフィスを後にした後、陽光は大きく一息を吐きながら苦笑した。

 

(……あの子を説得するのは骨が折れましたが、とりあえず、これで『計画』は進められそうですね)

 

 そして、窓際の机に向かってゆっくりと歩き、しかし、その椅子を撫でるだけで座ろうとはせずに、再び表情を凍らせて思考する。

 

(しかし……あの戦争に紛れ込ませる為に、あの子はどうしても『二年生』として送り込まざるを得ませんでしたが……雪乃を守る為には、やはり『三年生』の中に、こちらの指示を送ることの出来る駒が必要ですね)

 

 だが、既に陽光が動かせる数少ない人材――化物材は、それぞれ動かせないポジションに配置されている。“あの子”も相当な無理をして呼び寄せたのだ。二度目はないだろう。

 そうなると――と、その時、昨日からたびたび連絡を寄越してくる番号からの着信が、再び陽光の端末を振動させる。

 

(…………確かに、“彼”ならば……下手な行動をされても面倒ですし、いっそのこと――)

 

 陽光は、雪女のように冷たい眼差しで、凍えるような呟きを漏らす。

 

「…………試してみますか」

 

 葉山鷹仁と表示された画面をタッチし、陽光は昨日から初めて、その男からの着信に応じた。

 




こうして、闇に立ち向かう警察官と化物夫妻の攻防は、総武高校へと舞台を移す。


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Side総武――①

お迷いですか? わたしが導いて差し上げます。


 

 胸にぽっかりと穴が開いたようだ、とはよく言ったものだ。

 一色いろはは、冷めきった空気が充満する空き教室で、ふとそんなことを思った。

 

 時刻は昼休み。

 夏が近づいている中、頂点にまで太陽は昇っているこの時間帯、窓を閉め切った室内の気温は汗ばむ程に達している筈だが、不思議とこの部屋の体感温度は、未だ上昇する気配を見せなかった。

 

 温かみも、暖かい香りも、取り戻す兆しは見えなかった。

 

「………………」

 

 一色は、今日も依頼人(お客さん)席で、持参してきた弁当の包みを開けることもなく、ただぼんやりとこの空間を眺め続ける。

 

 普段は早朝の誰もいない時間帯のみこの部屋を訪れていた一色だったが、今日は自分以外で唯一と言っていい、ここを訪れる可能性がある由比ヶ浜結衣と雪ノ下雪乃が登校していないという噂を聞きつけ、導かれるように昼休みも奉仕部室へと訪れていた。

 

 どうせ教室で昼食を共にするような友達(クラスメイト)は一色にはいない。

 精々が生徒会室で書記の藤沢と時偶に共にするくらいだ。しかし、藤沢もこの頃は副会長の本牧とそれらしい雰囲気を醸し出しているし――何より、今は一色が一人になりたい気分だった。

 

 一刻も長く、この部屋で待ちたかった。

 

 誰を――何を?

 自分は、一体、この場所で何を待っているのだろう? 誰を、ずっと、待っているのだろう?

 

(――葉山先輩ではないことは、確かなんですけどね)

 

 そういえば、昨日、久方ぶりに登校したあの先輩も、今日は登校していないらしい。

 昨朝は唐突にあの扉を開かれて、盛大にぬか喜びさせられたことは不快だったが、あの先輩の、あの言葉は、一色を静かに、けれど大きく揺さぶっていた。

 

――『……いろは。お前は、何が見たいんだ?』

 

 わたしは何を見たいのか。わたしは、ここに――何を、求めているのか。

 

「…………寒い」

 

 外はあんなにも晴れ渡っていて、暑い季節が近づいているのに、この部屋はまるで――時間が止まっているかのようだった。

 

 一色は、胸の辺りの制服をギュッと握る。まるでぽっかりと、穴が空いてしまったかのように、寒くて堪らないその場所を。

 

 寒くて――寂しい。

 きっと、ずっと、この場所はじくじくと痛んでいたんだ。

 

――『……な■、一■』

 

 一昨日からずっと、頭の中に、柔らかいものが潰れる音と、固いもの同士がぶつかる音が響いている。

 

 どれだけ耳を塞いでも、痛くて、怖くて、辛くて、悲しい音が響いている。

 自分はそれをただ眺めていることしか出来なくて――なのに、何故か、手ではなくて胸が狂おしい程に苦しくて。

 

 手――手?

 

 自分は何で、胸ではなくて手をギュッと握っているのだろう。

 左手の爪を食い込ませて——痛くもない右手を、握っているのだろう。

 

 

――『何です■? って■■か、何や■■るん■すか? ……先■、な■か変です■。ま■いつ■■です■ど……■近は、■当に。……こ■な時間■……■ん■■所で何■――』

 

――『…………』

 

――『……■輩?』

 

 

 誰? あなたは誰?

 

 ぽつんと、真っ暗な夜に――ひとりぼっちで、佇むあなたは。

 頼りない一本の街灯に照らされて、無表情で――けれど、今にも泣いてしまいそうな程に寂しそうな。

 

 孤独な――あなたは、誰?

 

 怖くて――あざとくて。

 寂しくて――頼りになって。

 

 あたたかくて――優しい。

 

 あなたは——。

 

 

 

—―『………………。一■、お前■――』

 

 

 

「――会いたいです。………せんぱ——」

 

 

 

「――驚いた。あなたは、()()()()()()()()()()。何も知らないのに。独力で。すごいね」

 

 

 

 その時、つうと流れていた一筋の涙を弾かせて、一色は声の方向をバッと振り返った。

 

 昨日と同じように、そこには一色が望まない闖入者がいた。

 けれど、昨日と違うのは——それは、一色が知らない人物であったこと。

 

 否、一色には、それが人物なのかすら、一見では疑ってしまう程に――それは、精巧に美しい何かだった。

 

 まるで突如、吹雪の雪山に紛れ込んでしまったかのように、寒風を真正面から受けたような錯覚を覚えた。

 

 寒い。冷たい。

 そう感じた後で、一色は改めて、いつの間にか扉を開けていた謎の何かを、つぶさに観察する余裕を持てた。

 

 瞳は作り物めいたアイスブルー。

 髪も透き通った水晶のような薄い青めいた色だった。

 けれど、まるで外国人の血を感じさせないのは、彼女の顔の作りが余りにも人形のように整っていたからだろうか。

 

 いや、人形というより、氷像――違う。

 

「…………雪女?」

 

 一色はぽつりとそう呟いた。

 

 すると、まるで人形に着せたかのように似合っていない、総武高校の制服姿の謎の少女のような何かは。

 くすりともせず「いい勘をしています。やはり只者ではありませんね、あなた」と無感情で返し。

 

 扉を開けたまま、一歩たりとも室内に足を踏み入れないままに。

 

「明日より、あなたのクラスメイトとなる者です。名前は――()()

 

 アイスブルーの瞳を、真っ直ぐに一色に向けながら言った。

 

白縫(しらぬい)氷花(ひょうか)という只者です。世界が滅ぶまでどうぞよろしく」

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

 午前九時。

 休日でも祝日でもなく平日であるこの日は、真面目な学生ならば割り当てられた場所に着席し、表面上だけでも殊勝なふりをして、教師が業務として垂れ流す授業を聞き流さなければならない筈の時間帯。

 

 染められても巻かれてもいない肩までの黒髪に、着崩されていない制服姿の眼鏡の少女は。

 堂々と学校をサボタージュし、他人の家の階段をゆっくりと上っていた。

 

 目的の部屋の前まで辿り着くと、コンコンと形式的にノックし、部屋の主の応答を待たずに扉を開ける。

 

「――入るね。おはよう、優美子」

 

 赤い眼鏡の少女は、そう言ってにこやかに笑って、ごちゃごちゃと服やら化粧品やらファッション雑誌やらで散らかった部屋の中の数少ない足の踏み場を器用に渡りながら、部屋の一番奥にあるベッドへと向かう。

 

 そして彼女が目的の場所に辿り着くと、ピンク色の布団によって作り上げられたアルマジロのようなそれの中から、ひょっこりとボサボサの金髪頭が姿を現す。

 

「……ノックくらいしろし」

「したよ?」

「……返事待たずに入ってきたら意味ないじゃん」

 

 金髪の少女は溜め息を吐きながら、諦めたように布団を己から剥がし、そのままベッドの上で体育座りのような恰好で自室への侵入者である眼鏡の少女を見上げた。

 

「おはよう、優美子」

「……おはよう、海老名」

 

 眼鏡の少女——海老名姫菜は、改めてそう金髪少女に笑い掛け。

 金髪の少女——三浦優美子は、己の膝に顔を埋めながらも、そう友人の言葉に返した。

 

 海老名はそのまま三浦のベッドに座り込むと、「――で? どうしてサボっちゃったわけ? 学校」といたずらっぽく笑いながら言う。

 三浦は体育座りをしたまま、海老名と顔を合わせようとせず「……あんただってサボってんじゃん」と小さく返す。

 

 すると、海老名はスマホのメッセージアプリの画面を開きながら、「そりゃ、こんなのをもらったらね」と、三浦に見せた。

 そこには、普段はスタンプなどを多用する三浦には珍しく、端的に『今日、休む』とだけ送られてきたメッセージ。

 

 染められ巻かれた金髪が表すように、決して優等生という生活態度ではない三浦だが、進学校に通う生徒らしく理由もなく学校をサボるような性格ではない。

 遅刻や無断欠席など殆どしたことのない三浦が、唐突にこんなことをするに至った理由を——海老名は一つしか思いつかなかった。

 

 海老名は、いつも通りの声色で問う。

 

「――昨日の、結衣たちが怖い?」

 

 その言葉に、未だパジャマ姿の三浦の身体が、分かり易く震えた。

 海老名は、そこまで浮かべていた笑みを消しながら、三浦の方を向かず、淡々と呟く。

 

「……大丈夫だよ。結衣はまだしばらく入院してるだろうし。雪ノ下さんも、結衣が入院してるならずっと傍にいるだろうし。間違っても登校してるとかないと思うよ」

「……分かってる。てか、そういう問題じゃないし」

 

 体育座りしてる三浦が、更に強く己の膝を握り締める。

 海老名は、一度ちらりと彼女を見て、そのまま視線を外して更に言った。

 

「なら、行ってみようよ、学校。……ああ、それにほら、あれだよ。昨日来てたし、今日も来てるかもよ——隼人君」

 

 半年以上の休学期間を終えて、昨日、突然登校してきた同級生。

 その名前に、露骨に身体を強張らせた三浦に——海老名は。

 

「彼に相談してみるってのもありなんじゃない? 他の人の意見を聞くだけでも、少しは——」

「――じゃん」

 

 え——と、海老名が問い返そうとした途端、三浦は、引き裂くような叫びを自室内に響かせた。

 

「――()()()()()()()! 学校行きたくないんじゃん!!」

 

 きぃん、と、張り詰めるような音を幻聴して。

 海老名は、三浦の母が外出していて良かったと、そんなことを無表情で思った。

 

「……何て言えばいいの? 隼人に。……大怪我を負った親友に……また……酷い目に遭った結衣に……対して――()()って、思ったって? ……気味悪いって——()()()()()って、思ったって? そう言えっての? 隼人に? ――なにそれ」

 

 最低じゃん——三浦は、自嘲するように、そう言って膝に顔を埋める。

 海老名は、それを、無表情で、何も言わずに聞いていた。

 

「……確かに、引いたよ。ドン引きだった。……でも、それは、()()()()()()。あんな目に遭った親友に、あんな怪我を負った親友に——明らかに、()()()()()()()()()、結衣に。……こんなことを思った、自分が……なにより、気持ち悪い」

 

 海老名は、その言葉を。

 

「………………」

 

 ただ、黙って、聞いていた。

 

「……こんなの、隼人にだけは……見られたくない」

 

 知られたくない。こんな醜い姿を、心を。

 ただ——好きな人にだけは、暴かれたくないと。

 

 そう、引き裂くように叫ぶ、三浦に。

 

 海老名は——何も言わず、ただ無表情で、天井を見詰めて。

 

「――そっか。分かったよ」

 

 ゆっくりと、その手をボサボサの金髪に伸ばして。

 海老名は親友の頭を撫でた。

 

 そのまま、啜り泣く少女が泣き止むまで、その手を止めることなく。

 

 何もない天井を見上げながら——少女は。

 

 どこもまるで痛くない少女は——昨日の、あの病室での一幕を、無感情に思い返していた。

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

 昨夜、三浦優美子と海老名姫菜が来良総合医科大学病院に到着したのは、残念ながら面会時間が終了した午後六時近くのことだった。

 

 よくよく考えてみれば、放課後の千葉から池袋へと向かうとなると、夕方を過ぎて夜に近い時間帯となる。

 そうなると多くの病院の面会時間は終了しており、入院患者と会うことも難しいだろう。

 

 と、三浦はともかく、海老名はずっと前に気付いていたそんな事態に案の定直面し、病院のエントランスで戸惑っていた時、由比ヶ浜結衣と雪ノ下雪乃は一階まで降りてきて二人のクラスメイトと顔を合わせることになった。

 

 何でも、雪乃と一緒に見舞いに来た姉と連絡がつかなくなり、それを探すついでに病院内でのいいポイントを探していたようだ。

 更にそのついでと言っては何だが、わざわざ千葉から池袋まで見舞いに来てくれた二人と顔を合わせることにしたらしいと、メッセージだけを飛ばして帰ろうとしていた三浦と海老名に由比ヶ浜はそう笑顔で答えた。

 

 だが、三浦はそんな笑顔に目を奪われる余裕はなかった。

 彼女の視線は、元気に一階に降りてくることを可能にしていた由比ヶ浜の健脚ではなく、彼女の入院の主要因であるとされる、その痛々しく巻かれた両手に固定されていたからだ。

 

 そして、海老名の視線は、そんな両手の彼女の両手代わりと言わんばかりに、彼女のプライバシーの宝庫であるスマホを開いている、恐らくは自分達が由比ヶ浜に送ったメッセージの返信を代打(だいうち)したのであろう、由比ヶ浜の横に立っている雪ノ下雪乃に向けられていた。

 

 海老名は、そんな雪ノ下から目線を外し、ただ痛々しい由比ヶ浜の傷に狼狽えている三浦の代わりに、彼女達が探していたといういいポイントとは何かを問うた。

 

 由比ヶ浜に問い掛けたそれに、そんなものは決まっているじゃないとばかりに雪ノ下が答えた。

 

 そして、彼女達は、一緒に視聴することになった。

 後に『英雄会見』と呼ばれることになる、物語の転換点となる会見を。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「小町ちゃんを探そうと思うの」

 

 会見が終了した後、入院患者の面会時間に続いて外来診療時間も終わりに近づいているにも関わらず、未だ慌ただしく人が行き交うエントランス近くにて、由比ヶ浜結衣は対面の海老名と三浦に向かって朗らかに言った。

 

「……え? 小町、ちゃん?」

 

 ……って、誰? ――と、いう言葉を、三浦は言わずに飲み込んだ。

 分からない。いや、その小町という、おそらくは人名であろう単語もそうだったが、三浦はそれ以上に、今、この状況で、そんなことを唐突に言い出した由比ヶ浜の心境が分からなかった。

 

 あんな、衝撃的な会見の視聴直後で。

 帰宅する友人達の見送りのついでとばかりに、いつも通りの笑顔と声色で、次の休日の予定を雑談の肴に挙げるかのような気軽さで、こんなことを言う彼女の心が分からなかった。

 

 三浦はちらりと、外来診療受付前の混乱の様子を見遣る。

 自分達がこの病院を訪れた時も、夜に近い時間帯だったにも関わらず凄まじい数の人が順番待ちをしていたが、今はそれ以上の、もはやパニックと称するに等しい有様だった。

 

 ここにいるのは、その殆どが池袋大虐殺の被害者か、その家族の人達だ。

 先程の会見は、ある意味では当事者でもある彼等にとっては、三浦が受けたそれよりも遙かに衝撃的であったに違いない。

 

 自分達を襲った、あの醜悪な怪物達は――宇宙人だった。

 そんなことをこの国で最も偉い大人達が、真面目にご丁寧に根拠まで添えて、全国生中継の会見で発表したのだ。

 

 この傷は、この怪我は、宇宙人の爪で、牙でつけられたものだった。

 自分が浴びたあの血も、この身に浴びせられた唾液も、宇宙からやってきた、未知のそれだった。

 

 外国の蚊に刺されるだけでとんでもない感染症を引き起こす可能性があるくらいなのだ。

 それが国どころか星すら違うという――そんなものが、自分の、家族の、身体の中に侵入(はい)り込んでいるかもしれない。

 

 そう考えるだけで、三浦はぶるりと震え、形容しがたい恐怖で吐き気を催す。

 ならば、現実にその心覚えのある彼等にとっては、堪ったものではないだろう。

 

 あのようなパニックになるのも容易に想像出来る。

 一刻も早く帰らなければ、自分達も巻き込まれてしまうのではないかと思うほどに、その勢いはどんどん膨れ上がっている。

 

 だが、それでも三浦が一目散に病院の外に飛び出さないのかといえば――今、正に、その恐怖の中にいるであろう当事者が、あの恐慌の中にいなくてはおかしい被害者が、目の前にいるからだ。

 

 目の前の――いつも通りに微笑む、親友だからだ。

 

「…………結衣」

 

 三浦は、あの会見が終わってから、否、あの会見の最中から、ずっとこの親友のことを思っていた。

 

 あの池袋大虐殺の紛れもない被害者であり、あの地獄の中で消えない傷を負った親友のことを。

 あの会見の内容に、誰よりも怒るべきであり、誰よりも恐怖するであろう立場の、この親友のことを。

 

 会見が終わってから、このエントランスまで見送りに来てもらって、別れ際、どんな言葉を、自分は掛けてあげるべきなのか。

 本来、見舞いにきた自分が掛けてあげるべき心配の言葉も、まだ言えてはいないのに。

 

 ずっと、可哀想だった親友。

 あんなに辛い目にあって、また酷い目にあって、そして、その上、また――。

 

 そう考えるだけで、思わず涙が浮かんでしまうが、それでは駄目だ。辛いにも、痛いのも、苦しいのも怖いのも、自分ではなく彼女なのだ。

 

 だから自分は、親友として、そんな彼女にせめて寄り添える言葉を――と、そう、思っていたのに。

 

「結衣――小町ちゃんって、誰?」

 

 呆然と、思わず一歩後ずさりしていた三浦に代わって、そんな彼女を隠すように一歩前に出た海老名の言葉に、三浦はハッと現実に意識を取り戻した。

 

 三浦は思わずそんな海老名の背中をギュッと掴んだ。

 海老名はそれに対し、再び纏い直すように笑顔を作る。

 

「小町ちゃんは――」

 

 海老名の言葉に答えようとして由比ヶ浜が口を開く、が、不自然なところでその言葉が止まる。

 

 その一瞬、由比ヶ浜の笑顔が崩れ、無表情になった。

 三浦はそれに思わず悲鳴が漏れそうになるが、海老名の背中に隠れることで何とか堪える。

 

 変化は一瞬で、由比ヶ浜自身に自覚はあるか不明だったが、再びいつも通りの笑顔を浮かべて「……後輩の、一年生だよ」と言った。

 

「あたしと一緒に……池袋に……居たんだけど……はぐれちゃって。まだ……見つかって……ない、みたい……なんだ」

 

 そう由比ヶ浜は答える。

 だが、その言葉は、所々で不自然に間が開いて、声もノイズが紛れ込むように震えていた。

 しかし、表情はいつも通りの笑顔で――それが何よりも不自然で。

 

 そして、何よりも怖かったのは――おそらくは、そんな状態に、彼女自身は無自覚であるということだった。

 

 三浦は、思わず海老名の背中に両手でしがみつき、床を見詰めるようにして顔を伏せた。見ていられなかった。

 

 そして、海老名は――。

 

「………………」

 

 目を静かに細めて、一瞬だけ、唇を噛み締めて。

 

「……でも、結衣。それは警察に任せようよ。これだけの大きな事件だから、きっと警察も全力で動いてる。結衣が責任を感じることなんてないよ」

「それはダメだよ」

 

 海老名の言葉に、由比ヶ浜は間髪入れずに言った。

 

 冷たく、冷たく――冷たく、言った。

 

 容赦なく、簡潔に。

 無感情に――拒絶を込めて、言った。

 

 三浦が顔を上げて、海老名が目を見開いた。

 

「…………結衣?」

 

 それは、どちらが漏らした声なのかは分からない。

 

 だが、それはまるで――縋るような、それだった。

 

 ああ、どうか。

 まだ――お願いだから、と。

 

 由比ヶ浜は、笑顔で――笑顔で。

 

 彼女達の、知らない笑顔で、言う。

 

「それはダメだよ。それはダメ。それだけはダメ。だって頼まれたんだから。だって託されたんだから。だってお願いされたんだから。頼むって。頼むって。あたしに頼むって。約束したんだから。約束、約束、約束。そう、約束だよ。約束は守らなきゃ。あたしが守らなきゃ。守らなきゃいけないんだよ。だって大事な大事な約束なんだから。大事な、大事な、大事な――」

 

 由比ヶ浜結衣は、笑顔で壊れていた。

 

 ただただ辛そうに、ただただ苦しそうに、ただただ痛そうに。

 

 笑顔で――言った。

 

「…………大事…………なんだよっ」

 

 つう、と。

 血のような涙が――雪ノ下雪乃から、流れていた。

 

 あんなにも辛そうな、あんなにも苦しそうな、あんなにも痛そうな由比ヶ浜の瞳からは、何も流れていないのに。

 

 誰よりも傷ついている笑顔の由比ヶ浜の隣で、何も感じていないかのような無表情の雪ノ下は涙していた。

 

 まるで泣けない彼女の代わりに泣いているかのような。

 まるで感じない彼女の代わりに傷ついているかのような。

 

 不安定で、不確定で、歪に、歪んで――彼女達は、壊れていた。

 

 その様に――三浦は、心の底から恐怖して。

 

「か、帰ろう、海老名!」

 

 その様に――海老名姫菜は。

 

(………………あぁ。結局、こうなっちゃうんだね)

 

 小さく目を細めて。小さく唇を噛み締めて。

 

「………………だから、私は――■が、嫌い」

 

 小さく、ぽつりと、呟いて。

 

「海老名っ!!」

 

 三浦は海老名の手を引くようにして、その場から一目散に逃げた。

 

 由比ヶ浜も、雪ノ下も、去りゆく二人を追うことも、声を掛けることもしなかった。

 

 海老名は、帰り道、タクシーの中で泣きじゃくる三浦の横で、東京の夜景を眺めながら、ひたすらに。

 

 胸の真ん中が、寒かったのを覚えている。

 

 ぽっかりと、穴が開いてしまったかのように。

 

 

  

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そんな昨夜の出来事の回想を終えた頃、時刻は既にお昼を回っていた。

 

 海老名は三浦のベッドを背凭れに、いつの間にか少し眠っていたことに気付く。

 そして、後ろを見ると、三浦の方も眠っているようだった。

 

 きっと昨日はよく眠れなかったんだろうなと親友を眺めていると、その手にはスマホが握られていた。

 

 メッセージの送り主は、恐らくは葉山か、それとも――。

 

(……起きてからでいいかな。……でも、この様子じゃ――)

 

 海老名は、もう少し寝かせてあげようと、再びベッドに背を預けて、ぼおと天井を眺め始めた。

 

 思い返すは――昨夜の由比ヶ浜。そして、雪ノ下。

 

 池袋大虐殺。半年ぶりに帰ってきた葉山。

 

 なぜか距離が遠くなっていた戸部。

 

 総武高校虐殺事件。

 

 そして――教室後方の、()()()

 

「……………なんで」

 

 呟いた海老名の手には、スカートのポケットから取り出した――手の平サイズの黒い球体が握られていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 もう既に何度目の帰宅になるだろうか。

 

 例によって、総武高校への登校をサボタージュしている生徒がここにも存在していた。

 

 制服に着替えることすらせずに、昨日のように寝起き姿そのままというわけではないが、外出着としては見栄えよりも機能性を重視した格好の彼女は、動き易いように一本に簡易的に束ねていた青みがかった黒髪を解くと、自宅の扉の前で、乱れた息を整えるリズムを崩して、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 

 そして、ゆっくりと、どうかという願いと、どうせという諦めのようなものが混在する心で、横開きの扉をがらがらと開けた。

 

 そこには――やはり、誰の靴もなくて。

 

「――ただいま」

 

 川崎沙希は、誰もいない我が家に、疲れ切った声色でそう呟いた。

 

 自分が誰よりも、聞きたくて堪らないその帰宅の言葉を。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 沙希は、我ながら未練がましいとは思いながらも、そのまま家の中を隅々まで捜索したが――これも既に今日だけでも数度目の捜索だったが――やはり、探し人である弟、川崎大志は我が家に帰宅してはいないようだった。

 

 既に沙希は、妹の京華を保育園に送り届けてから、自分は学校に向かうことなく、街中のあらゆる場所を探し続けていた。

 一昨日、喧嘩のようなものをしてから、一度も帰宅していない弟を。

 

 一昨日の夜から続けているにも関わらず、昨日は殆ど一日中、徹夜に近い捜索だったにも関わらず、一向に成果が上がらない捜索に、沙希は既に疲労困憊の状態だった。

 

 だからだろうか、今日の捜索は少しでも行き詰まると、不意に、もう大志は自分で家に帰ってきてくれているんじゃないか、家に帰ったら、そこには大志の靴があって、リビングで気まずそうな顔をしながら、小さくごめんと謝ってくるのではないか。

 

 そう思うと、そんな大志を今にも抱き締めてあげたくて、心配したんだからと、こちらこそごめんと、そう言ってあげたくて――今すぐにでも、大志に会いたくて。

 

 何度も、何度も家に帰ってしまって――でも、そこには大志はいなくて。いつまでも、帰ってこなくて。

 もしかしたら、このまま――そんな思いを振り払うように、再び外に大志を探しに出かける。そんなことを繰り返す内に、既に太陽は頂点を過ぎていた。

 

「……うん。まだ、帰ってこない。……ごめんなさい、お母さん。……あたしが、大志にあんなことを言ったから」

 

 沙希は、リビングと呼ぶには少し手狭な、家族が揃って夕食を食べる為に集まるとそれだけでぎゅうぎゅう詰めになってしまいそうな広さの、けれど、自分しかいない今は、酷く広く感じられる川崎家の居間で、窓に背を預けながら、未だ職場にいる母に電話を掛けていた。

 

 仕事に忙殺される川崎家の父と母は、長男が行方不明となっている今も、職場から帰宅出来ずにいた。

 無論、学校から大志が帰ってこなかった一昨日の夜には、沙希からその旨が両親共に連絡があったのだが、よりによってちょうど仕事が忙しいピーク時に重なってしまい、抜け出すことすら叶わず、今に至ってしまっていた。

 

『お母さんこそ、ごめんね、沙希。……いつもいつも、お姉ちゃんにばっかり負担を掛けて。今、やっと仕事が一段落ついたから、これからすぐに家に戻るわ。だから――』

「……うん。分かってる。これから――警察に電話する。お母さん達はすぐに電話しなって言ってたのに……あたしの我が儘で、引き延ばして、ごめん」

 

 でも、あたしの力じゃあ、大志を見つけてあげられそうにないから――と、沙希は、青みがかった己の髪で、誰もいない居間でひとりぼっちにも関わらず、まるで誰かから己の泣き顔を隠すように俯いた。

 

『……沙希は立派なお姉ちゃんよ。少なくとも、私達よりは、あなたは間違いなく――立派な家族よ』

 

――『……お前は、立派な姉ちゃんだよ、川崎』

 

 沙希は、母の――そして、彼の言葉に、小さく瞠目して。

 

 そのまま母親との通話を切った後、すぐさま警察に電話するという行為に移ることなく、床に携帯を投げ出して、そのまま己の膝に顔を埋める。

 

 己の声に振り向くことなく、屋上へと向かう彼の背中。

 

 あの日の彼の表情が、瞳が、言葉が、()()()()()()()()()

 

 だからこそ少女は、縋るように、震える声で、その名前を呼んだ。

 

「……比企谷」

 

 あたし、どうしたらいいの――その名前を未だに呼べるということが、一体、どういった意味を持つのか。

 

 何も気付いていない少女は、さらに深く、逃げるように青みがかった髪の中で、深く俯き、そして呟く。

 

 

「………………頭………………痛い」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 

 かつて総武高校一年生ながら生徒会長となった一色いろはの初陣となる筈だった、海浜総合高校との合同クリスマスイベントとの打ち合わせにしようされていた、市内のコミュニティセンター。

 イベント自体は総武高校で発生した痛ましい虐殺事件によって流れてしまい、一色いろはの生徒会長としての初陣は不戦敗のような形となってしまったのだが――それはさておき。

 

 このコミュニティセンターには、ほぼ隣接するような形で、市立の保育園が設立されている。

 平日の昼間ということで、園児達は教室の外に出て、思い思いの形で全力疾走したりして、走り回っている園児以上に見守る保育士の心拍数を上昇させている。子供は宝だが、そんな宝を扱っているからこそ、傷でもついたら何を言われるか分からない世の中だ。

 

 だからこそ、保育士にとっては休み時間こそ最も神経を尖らせなければならない時間帯なのだが、しかし、昨今のこの国では少子化以上に保育士不足が深刻であり、どう考えても園児の数に対して職員の数が足りていない。

 

 故に、全ての子供を視野に入れ続けるというのは難しく、どうしても、日頃の生活態度から鑑みて、特別にやんちゃで何をしでかすか分からない問題児を重点的に監視せざるを得なくなってしまう。

 

 そして、そんな中で、川崎京華は素直で優しい、比較的に手のかからない優等生として職員からは認識されていた。

 当然、この日はいつもよりも元気がないということにはプロである彼等は認識してはいたが、体調チェックは朝の内に問題なく済ませていたし、いつもは父母のどちらかが車で送ってきているが、ここ最近は姉が登校前に送り届けていることを鑑みて、家庭が忙しくて寂しい思いをしているのではないかと当たりをつけて――職員は深く関わらないことにした。

 

 プロとしてそれはどうなのかという意見もあるかもしれないが、先述の通り、ただでさえ、園児の数に対して職員の数がまったく足りていないのだ。

 それに加えて、園児一人一人の、園外の家庭の事情にまで首を突っ込むことの愚かさを、彼等は理解している。プロだからこそ、家庭の事情に他人が首を突っ込み過ぎるわけにはいかないということを理解しているのだ。

 

 無論、家庭内暴力など看過できない事態の痕跡などを見つけたら彼等もプロとして子供を守るべく動くつもりではあるが、両親が共働きで寂しい思いをしている程度ならば、昨今では珍しい事情ではない。むしろ、そんな子供達の集まる場所こそ保育園といえる。

 

 前置きが長くなってしまったが、つまりはそんな背景があって、今――川崎京華は、保育士達の目の届かない所で、園からの脱走を試みているというわけだ。

 

 普段は友達と仲良く遊んでいる京華ではあったが、この日は外に出ず、一人で室内で絵を描いていた。

 保育士は外で遊ばないのと声を掛けたが、京華は頑なで、保育士は他にも室内でブロック遊びに精を出している子もいるし、その子は他人のブロックを奪って泣かせたりする常習犯だったので、常に一人の保育士が監視している体制となっていたので、大丈夫かとそのまま京華を一人にした。

 

 そして、その十分後、京華は脱園を決行した。

 

 京華は誰よりも、沙希が大志を探し続ける様子を近くで見続けていた。

 沙希と大志が喧嘩のようなものをした時も、沙希が、大志が、どんどん辛そうな顔になっていくのも、誰よりも近くで見ていた。

 

 だからこそ、一刻も早く、二人には仲直りして欲しかった。

 沙希と、大志と、自分と――お父さんとお母さんと、一緒に家族に戻りたかった。

 

 ただ、それだけの思いで、京華は園の正面出口ではなく(その前の庭には、今、人がいっぱいいる)、その裏、人が誰もいない、けれどエアコンの室外機や箱などを利用すれば、園児でも塀を乗り越えられるようなスポットに、こっそりと向かった。子供はこういったポイントを見つけるのが異常に上手い。この保育園に通う京華の友達はみんな知っていた。

 

 京華にも、これが大人に怒られることだという自覚はあった。

 罪悪感も覚えていたが、それ以上に、自分がなんとかしなくてはという使命感もあった。

 

 だからこそ、こそこそと後ろを何度も振り向きながらも、意を決して、塀を乗り越えようとした――その瞬間。

 

「――こらッ!」

「ひうッ!」

 

 唐突に後ろから叱責されて、京華はその小さな体をビクッと震わせた。

 

 怒られる――と思ってゆっくりと恐る恐る振り向いたが、京華はそこでふと疑問に思った。

 定期的に姉に叱られている京華は、今の声色が自分を叱ろうとしたものではなく、びっくりさせようとしたような声色であることを感じた。

 その上、声の感じが、大人のそれではなく、かといって貴重な昼休みに誰とも遊ばずに面白そうなことを一人でしようとしている自分を驚かせようとする友達のそれでもなかった。

 

 けれど、この保育園には、大人と自分と同じくらいの子供しかいない筈だ。

 しかし、案の定、振り向いた先にいたのは、大人でもなく、かといって自分と同じ年頃の保育園児でもなく――小学生くらいの女の子だった。

 

 その少女は、学帽の代わりに駅員帽を、ランドセルの代わりにナップザックを背負っていた。

 夏らしくばっさりと短く切ったかのような髪に相応しい、明るい笑顔を向けて少女は「危ないですよ、そんなことをしては――」と言って。

 

「迷子になってしまいますよ?」

 

 京華に向かって手を差し出した。

 おずおずと、その手を取って地面に降りると、京華はじわっと涙を浮かべて。

 

「……でも…………………さーちゃんが………たーちゃんがぁ………」

 

 もう、どうしたらいいか分からないと。

 奇しくも同じ時刻、姉が同じように頭を抱えている時、京華もまた、同じように家族を思い、苦しんでいた。

 

 駅員帽の少女は「……うーむ、これは可愛いですね。詩希ちゃんが手助けしたくなったのも分かります」と言いながら頭を撫でると。

 

「あなたのお名前は?」

「……かわさき……けーか」

「そっか、けーちゃんですね。それでは、けーちゃんさん」

 

 迷い人を誘う迷子の駅員は、その迷いの先を指し示すように、幼女の手を取り、少女の笑みを見せる。

 

「わたしが導いて差し上げます。あなたのお兄ちゃんの元に」

 

 

 

 かつて、とあるインターネット上の掲示板に、一つの怪奇現象への遭遇譚が寄せられた。

 

 それは人生の道に迷っていた一人の女性が、とある不思議な路線に乗り込んだところから始まる。

 いつもと同じ電車に乗り、疲れ切っていて思わず眠り込んでしまった女性は、目を覚ますと、その車両に乗っている乗客は自分だけになっていて、電車は終点の駅に停車していたという。

 

 だが、降りてみると、その駅は本来の終点の駅ではなく、誰もいない無人駅で、そこには木造のふるびた駅舎と、ただその駅名を表示する案内板しか置いていない。

 

 前の駅名も、次の駅名も空欄で、前の線路も、後ろの線路も霧がかって何も見えない。

 

 途方に暮れていると、無人の駅舎から、一人の駅員が歩み寄ってくる。

 

 その駅員は、まるでどこかで見たような少女の見た目をしていて。

 

 人懐っこい笑顔を浮かべながら、丁寧な口調でこう語り掛けてくる。

 

「お迷いですか? わたしが導いて差し上げます」

 

 その駅名は――『きさらぎ駅』。

 

 迷えるものが迷い込む場所。

 

 これは――そんな都市伝説。

 




何も知らない少女達は、知らず知らずの内に、物語に巻き込まれていく。


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Side星人――①

Welcome(ようこそ) Monster’s World(化物の世界へ)


 

 時系列は、再び『英雄会見』の夜へと遡る。

 

 世界中が、日本政府が行った記者会見に注目し、眩いフラッシュへと引き付けられた――その、数時間後。

 

 場所は――東京、新宿。

 一晩中明かりが灯り、人の流れが途切れない全国有数の繁華街――その、一歩、()

 

 明かりが強い程、光が濃い程、その分だけ深くなるとばかりに、人気が一切ない、真っ暗な夜道。

 そこに、ぽつんと、まるで誘蛾灯のように灯る一つのネオンがあった。

 

「――ここだ」

 

 怪しげな色の光を放つその前に、一歩外に出た先の繁華街の住人としてはぴったりの風貌の金髪ホスト風の男と、学生服ズボンに真っ白なYシャツにグロテスクマスクの少年が並んで立っていた。

 

「……地下に潜るって聞いてたから、てっきりあの千葉のアジトに篭もるもんだとばかり思ってたっす」

「あそこは只の地下だ。人間社会との繋がりを完全に消せるわけじゃねぇ。攻め込まれたら逃げ場がない行き止まりだ。アジトではあっても住処には出来ない」

 

 本気で繋がりを断つなら、もっと深く潜る必要がある――と、ホスト風の男・氷川は凍えるような声色で言った。

 

 煙草に火を点け、氷川が一服する。

 その間、グロテスクマスクの少年、真っ白な髪の白鬼――元人間の吸血鬼・川崎大志は、何も思わぬ真っ白な瞳で、ただネオンが照らすその扉を見詰めていた。

 

「――覚悟はいいか? 大志」

「しつこいっすよ、氷川さん」

 

 まぁ、今までが今までだったのでしょうがないかとは思いながら、あるいは何も思っていないかもしれないが、大志は氷川の一服が終わるのを待たず、その見るからに怪しげな店の扉を開けた。

 

 扉を開けた先に待っていたのは、眩いばかりの光ーーで、ある筈もなく。

 

「……バー?」

 

 足の長い背もたれのない丸椅子にカウンター。壁には一面に並ぶボトル。

 薄暗い照明に、静かな音楽。

 

 ついこの間まで普通の高校生のふりをしていた大志にとっては、これだけでもまるで異世界に迷い込んだかのような空間だった。

 姉がこのような店でバイトをしていたとは聞いたことはある――が、大志は当然、このような店に足を踏み入れたのは初めてのことだった。

 

 無論、新宿の繫華街という立地条件から考えれば、むしろ相応しい種類の店ではあるが――。

 

「――ああ。()()()は、な」

 

 一服を終えた氷川が大志を追い越すようにして前に出る。

 人間離れした美貌の氷川がこの空間を背景にしてフレームに収まると、まるで映画かドラマの中のようだと、漠然とそんなことを大志が思っている――と。

 

「いらっしゃい。ご注文は?」

 

 バッと大志は振り向き警戒を露わにする。

 右、左と勢いよく首を振るも、その声は、大志が先程まで漠然と眺めていた、真正面のバーカウンターの向こう側から聞こえた。

 

 そこには、シェイカーを振りながら、こちらを微笑みながら見詰めるバーテンダーがいた。

 髪は側面を剃り上げ、残った髪は紫に染めている。耳と口元にピアスを開けていて、顔面には稲妻のような入れ墨が入っていた。

 

 一目見ただけでも一生忘れることが出来ないような、言葉を選ばずに表現すれば、明らかにヤバい奴という印象を受ける強烈な男。

 しかし、大志はその男の存在に、そんな男が真正面に、同じ空間に居るということに、声を掛けられるまで全く気付くことが出来なかった。

 

「久しぶりだね、氷川。まさか君がここに来るとはね。いつ千葉から新宿(こっち)に戻ってきたんだい?」

「ふん、お前の(ツラ)をまた見ることになるとは思わなかったよ。まぁ、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 氷川は男とそんな会話を繰り広げながら、足を止めることなく男に近づいていく。

 

「何はともあれ、座りなよ。久しぶりの再会だ。最新の実け――自信作を、ぜひ旧友に振る舞わせてくれ」

「お前のゲテモノカクテルを味わうのも乙なんだが、残念ながら今日は別件だ」

 

 そして、椅子に座ることなく、氷川はバーテンダーに会計を支払うように――どこからともなく取り出した一枚のコインを見せた。

 

 氷川が表面が上になるようにバーカウンターに置いたそのコインに描かれているのは―――何かに向かって咆哮する、竜の紋章。

 

驟雨(しゅうう)。『門』を開けてくれ」

「……君ならば、もちろん僕は大歓迎だが――」

 

 そう言って、驟雨と呼ばれたバーテンダーは、目を細めて大志を見ながら――。

 

「――本気、かい?」

「こいつはもう"こっち側”だ。それに――」

 

 氷川は親指でコインを弾きながら、口元を歪ませて言う。

 

「――遠くない内に、この国で『大戦(デカいの)』が起こる。ガキを甘やかせる時間は終わったんだ」

 

 いい加減、大人にならねぇとなぁ、大志――氷川はそう言って大志を笑う。

 大志は、そんな氷川に何も言わず、ただ驟雨を真っ白な瞳で見ていた。

 

「…………」

 

 驟雨は、振っていたシェイカーから、一杯の真っ赤なカクテルを注いだ。

 それを空席に向かって差し出すと――大志は、真っ直ぐにその席に向かって歩み、それを一息に飲み干す。

 

「―――っ」

 

 人間時代には終ぞ摂取することのなかった初めてアルコールは、まるで己の何かを沸騰させるような味がした。

 思わず吐き出しそうになるそれを強引に強引に飲み干し、大志は驟雨に笑いかける。

 

 その笑みは――何もない、真っ白な笑みだった。

 

「……いいね。空っぽだ」

 

 綺麗に飲み干されたカクテルグラスを引き上げるのと同時に、驟雨はコインを打ち上げた。

 くるくると宙に舞ったそれは、コツンと大志の前のカウンターに着地する。

 そのコインには、氷川のそれと同じ竜の紋章が描かれていた。

 

「分かった。『門番』として許可しよう。大志くん、だったかな。いいよ、好きに潜りな」

 

 Welcome(ようこそ) Monster’s World(化物の世界へ)―――そう言って、驟雨はパチンと指を鳴らす。

 

 すると、店の地下の方から、重い何かが開く音が聞こえた。

 

「――行くぞ、大志」

「……はいっす」

 

 その音が聞こえた途端、勝手知ったるとばかりに氷川が店の奥へと消える。

 大志はちらりと驟雨を見たが、笑顔で手を振るばかりなので、大志はぺこっと頭を下げて、氷川の後をゆっくりと追った。

 

 そして、誰もいなくなった店内で、驟雨はぽつりと呟いた。

 

「…………大戦、か」

 

 近いみたいだね、終わりが。

 驟雨は、再び空っぽのグラスにオリジナルのカクテルを注ぐ。

 

 果たして、あの空っぽの少年は、どのような色で満たされて終わりを迎えるのか。

 

「あの氷川が誰かをここに連れてくるなんてね。あの子が特別なのか、あいつが変わったのか。……それとも――」

 

 驟雨は自ら注いだそれを、微笑みながら一口飲んで――そのまま流し台に全て捨てた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――星人郷、ですか?」

「神秘郷とも呼ばれる。少なくとも、星人狩り(ハンター)の一部の連中はそう呼んでいた」

 

 店の奥の狭い廊下を歩きながら、後ろについてくる大志に、氷川はそうレクチャーしていた。

 

「いわゆる、この世界の裏側みたいな場所だ。人間共からは見えない世界、知らない世界。そんな空間がこの世界の至る場所に存在し、色んな星人が住処にしてたりする」

「……俺達が向かうのは、吸血鬼が住処にしてる星人郷、ってことっすか?」

「一口に星人郷っつても、在り方は千差万別だ。隠れ里みたいなのもあれば、山ん中、海ん中、空ん中、一つの街そのものが外からは見えない星人郷だったみてぇな話もある」

 

 規模、形、場所、侵入方法、それぞれがそれぞれの条件で存在している異空間――それが星人郷。

 

「はじめっからあった“空白”にそういう色を付けて出来上がったのもあれば、馬鹿みてぇなチート使ってそういった場所を自力で作り上げた星人もいる。中には星人じゃなくて人間が管理してる神秘郷もあると聞くが――まぁ、他所様(よそさま)のことは分かんねぇが、俺が知ってる、俺らが使える手段は、ここしかねぇってことだ」

 

 世界の至る場所にあるからといって、どこでも自由に使えるわけではない。

 知る存在が限られているからこその神秘であり、異郷。

 

 居場所など、逃げ場所など、行ける場所など、生きる場所など――限られている。世界のほんの片隅にしか存在しない。

 

 自分達は、化物なのだから。

 

「ここだ」

 

 辿り着いた場所は、真っ暗な店内裏において、分かり易い程に強烈な光を放っていた。

 横開きの扉は開いており、侵入を許可していることが明白だった。

 

 氷川は足を止めることなくその中へ侵入(はい)り、大志もその後に続く。

 

 緊張の面持ちを隠せなかった大志だが、想像したのとは裏腹に、その中は狭かった。

 異空間という位だから、広大な世界が広がっているのかと思ったが、もう帰れない我が家の居間よりも狭い空間だ。ちゃぶ台も置けない。

 

「え、えっと、氷川さん、これは――」

 

 その時、がちゃんと、扉が閉まった。

 

「――え?」

 

 大志が呆気に取られ、そのまま閉まった扉に向かって駆け出そうとした肩を、氷川が素早く押さえる。

 

「はしゃぐな。初体験ってわけじゃねぇだろ」

「な、何言って――」

 

 続いて、大志の体を()()()()()()()()が襲った。

 

「え――こ、これって――」

 

 ()()()()()()? ――と、下に向かって降りていく特有の感覚に、大志が呟いた。

 大志の肩から手を離した氷川が「侵入方法もそれぞれだって言ったろ」と、狭い室内の壁にもたれ掛かりながら言う。

 

侵入(はい)るのに特別な条件――ルートだとか許可だとかな――があるのもあれば、気がついたら迷い込んじまってるっていうタイプの星人郷もある。これから行く場所は、『門番』の許可を得た上で、このエレベーターに乗るのが侵入条件なんだ」

「……『門番』……って」

 

 大志は、つい先程に会った、強烈な個性を放つ驟雨と呼ばれたバーテンダーの顔を思い浮かべる。

 

――『分かった。『門番』として許可しよう。大志くん、だったかな。いいよ、好きに潜りな』

 

 Welcome(ようこそ) Monster’s World(化物の世界へ)―――耳に残る、いつまでも残響するその言葉を思い出しながら、ふと大志は顔を上げると、さっき口を閉じるように閉まった扉の横にパネルがあるのに気付いた。

 

 1とB1の二つのボタンが用意されているが、そのどちらのボタンも点灯していない。

 それに、少なくとも一階から地下一階に降りるよりも遙かに長い時間、このエレベーターは下降を続けている。

 

 大志が眉根を寄せて思考していると、まるで退屈しのぎと言わんばかりの気軽さで、氷川が「……星人郷ってのはな――」再び大志に講義のようなことを再開した。

 

 高校一年生から化物一年生へと生まれ変わった大志に、義務教育を授けるように。

 

「一つの種族が己の国としている場所もあれば、いろいろな種族が共存している場所もある。あるいは複数種族がその場所の独占権を争っているって場合もある。平和な場所もあれば、戦争をしている場所もある。まぁ、その辺は表の世界と、人間の世界と一緒だな」

 

 星人郷――決して、そこは楽園ではないと、氷川は言う。凍えるような眼差しで、何も知らない、化物になったばかりの少年を見据えながら。

 

 大志は思わず背筋が凍るのを自覚しながらも――その眼差しから逃げなかった。

 もう自分には、逃げる資格などないのだと、自覚していたから。

 

 氷川は、そんな大志に向かって「さっきのお前の質問に答えてやるよ、大志」と言って、語り始める。

 

「これから向かうのは、ある意味では俺達の始まりの場所だ」

 

 ぐんぐんと下降を続けるエレベーターの中、氷川はどこからともなく剣を作り出し、それを指先一本でバランスをとりながら、何でもないように言った。

 

「俺らが吸血鬼(ヴァンパイア)になったのは、『始祖』の灰が原因だって話はしたか?」

「……ええ。昨日、聞いたっすよ」

 

 宇宙からやってきた、本物の宇宙人の灰。

 それが大志がセミナーで聞かされたナノマシーンウイルスの正体だった。

 

 かつて一千年前、焼身自殺に失敗した本物の吸血鬼が、世界中に撒き散らした細胞の灰が、世界中に吸血鬼もどきを量産する原因となった。

 

「そうだ。つまり、吸血鬼は俺らだけでなく、世界中に存在する。まぁ、昔、吸血鬼(ヴァンパイア)なんて存在が世界中に周知されるくらいやらかした存在が居たせいで、吸血鬼(ヴァンパイア)狩り(ハンター)なんて専門職(星人狩り)が生まれちまったくらいだからな。かなり気持ちいくらい狩られたもんで、有力な、強力な吸血鬼は割と稀少(レア)になっちまったんだが――」

 

 

 それでも、だ――と、氷川は作り出した剣を、見る見る内に凍らせていき、氷剣を作り出しながら言った。

 

「居るんだよ。お伽噺になっちまうくらいご立派なご先祖様のように、偶に生まれるんだよ。もどきといえど、灰を取り込んだだけの罹患者に過ぎないといえども、極まれに、世界をぶっ壊すくらいの影響力を持つくらいの、いわゆる大物って奴が」

 

 レアの中のレア、星5のSSR個体がな――と、氷川は凍った日本刀をくるくると手で弄びながら「だがなぁ、大志。お前にはないか? 吸血鬼(ヴァンパイア)ってのは西洋の怪物だと、そういうイメージが。少なくとも、日本の妖怪(ばけもの)ってイメージはねぇよな?」と笑う。

 

「さっきも言った、吸血鬼(ヴァンパイア)って存在を世界レベルにしたご先祖様が居たからか、西洋の方では吸血鬼はかなりの強豪星人だが、日本では圧倒的に妖怪星人の一強だった。そのルーツ的に世界中で生まれる吸血鬼だが、日本の奴はこれまでずっと弱小種族だったんだ。発祥の地なのに情けない限りだぜ」

 

 氷川はそう言って嗤うが、大志には少なくとも、日本の吸血鬼(きゅうけつき)が西洋の吸血鬼(ヴァンパイア)と比べて弱いとはとても思えなかった。

 本場の吸血鬼(ヴァンパイア)がどれだけ強いかは知らないが、大志が知っている日本の吸血鬼が――黒金が、火口が、岩倉が、化野が、篤が、斧神が、そして氷川が、弱小だとはとても思えない。

 

「それぞれの個々の強さなら、日本にも強い奴はそれなりに居たさ。俺しかり、黒金しかりな。だが、勢力図っていうのは、その名の通り、勢力でなくちゃ参加出来ない。俺らが今、オニ星人とか呼ばれて黒衣(ハンター)共の脅威になったのも、偏に――篤の力が大きい」

 

 氷川は、氷と化した日本刀を、そのまま空中で破砕させて、再び大志の目を見ながら言った。

 

「……今でも思い出す。あいつは、自分と斧神、たった二人で俺や黒金と接触し、本土の吸血鬼を纏め上げ、一つの組織、勢力としたんだ。一つの星人種族として、一個にしようとした。つまりは、俺らの始まりとは、いうならば篤という吸血鬼の誕生の地だ」

 

 これから行くのは、『宮本篤』という人間が死に、『篤』という吸血鬼が誕生した場所だ。

 

 氷川がそう呟くのと同時に、エレベーターの下降が止まった。

 

「――出るぞ」

 

 エレベーターが完全に停止すると、扉が口を開けるようにゆっくりと開く。

 

 先に出た氷川の後を追うように、大志が外に出ると――そこは、どこかの廃墟のようだった。

 

 まるで学生達が肝試しに使用するような、一目見て分かる程にボロボロの建物だった。

 床や壁は罅割れ、長年誰も手入れをしていないかのように埃まみれだ。

 大志達が乗ってきたエレベーターだけが浮いているかのように小綺麗だったが、廊下には蛍光灯すら点いていない。

 

(……うん? 蛍光灯は割れてて点いてない……のに、()()()?)

 

 大志は頭上を見上げた。

 恐らくは二階だろう廊下は崩れていて、隙間からは月明かりが覗いていた。恐らくは光源はそれだろう。

 

(――いや、待て。月明かりっておかしいだろ。僕らは()()()()()()んだぞ――っ!?)

 

 何してやがる、大志! ――と氷川が呼ぶ声に突き動かされるように、大志は止まっていた足を動かし、先に進んでいた氷川の後を追った。

 

 氷川は既に廃墟の外に出ていた。

 大志も続いて後に出ると――そこには森が広がっていた。

 

 いや、森だけではない。

 見上げるとそこには空が広がっていた。そして、氷川の眺めている方向を見ると、そこには海が広がっていた。

 

 そして、海岸沿いには、一面に花が咲き乱れていた。

 

「――彼岸花、というらしい。この島では一年中咲いている」

 

 氷川が絶句する大志に、海を眺めたままそう言った。

 

「……島?」

「ああ。この星人郷は島の形をしている。世界のどこにもない、幻の島。俺達はこう呼んでいる」

 

 その時、目の前の海から、突然、巨大な何かが出現した。

 

 魚の頭に人間の体の巨人。

 それは、一昨日の夜、大志が操り、東京湾を横断させた、あの怪物と同様の姿形だった。

 

 魚人型の――邪鬼。

 それが何体も、何十体も、この島のすぐ近くを泳いでいる。

 

 彼岸花が咲き乱れる海岸線、邪鬼が群がる近海、森が広がり、廃墟が佇む――その島は。

 

「――彼岸島。それが、俺らが隠れ潜むことになる、世界で唯一の俺達の居場所の名前だ」

 

 まるでこの世の地獄のような光景。

 

 大志は、正しく自分に相応しい居場所だと、そう真っ白に自嘲した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 真っ白な世界で、真っ白なフードを被った男が、真っ白な吹雪の中を進んでいた。

 

 時系列は、『英雄会見』が行われた日から、ほんの少しだけ先へと進める。

 

 ロイド眼鏡にマスクという出で立ちは最早その男のアイコンと言っていい定番アイテムだが、今日ばかりはこれがなければ凍傷になっていただろう生憎の空模様だった。いや、嘘を吐いた。本当ならばこんな頼りないアイテムよりも、せめてニット帽やゴーグルやマフラーが欲しかった。

 

 まぁ、たとえ凍傷になったとしても、太陽の下に出て凍り付いた皮膚が溶ければ自分は元通りだろう。

 吸血鬼が回復手段として日光を欲するというもの皮肉が利いているが――と、愛用の風邪用マスクの下で小さく笑みを浮かべた。

 

 この吹雪の中に思わず溶け込んでしまいそうな程に真っ白な男――真っ白な吸血鬼・篤に、隣を歩く、どれだけの吹雪の中でも決して溶け込めない存在感を放つ悪魔のような山羊の頭を被る吸血鬼・斧神には、足を止めずに淡々と語りかける。

 

「――食わされたのではないか。あの化けの皮を被った女に」

 

 篤はその言葉に、自身のロイド眼鏡に積もった雪を、眼鏡を外さずに親指で拭いながら言う。

 

「そこまで頭の悪い女ではないさ。だからこそ、恐ろしくもあるが」

 

 あの革命の日、正式に同盟を結んだ彼の美しき寄生獣から教わったポイントから登山を始めて、既に半日が経過している。

 

 真夏の山に登った筈が、唐突に吹雪の世界に迷い込んでから随分と経つが――目的地は未だ目視することすら叶わない。

 この吹雪の中では、既に目と鼻の先に近づいていたとしても気付かないかもしれないが――ここまで辿り着けないとすれば、考えられる可能性は。

 

 篤は、この半日止めることのなかった歩みを止めて、吹雪の中に立ち尽くしながら言う。

 

「つまり――条件が足りないのだろう。あの里の、かの令嬢の屋敷に辿り着く為には。彼女に教わった入り口から侵入(はい)る以外に、必要な工程が存在するということだ」

 

 斧神は、相棒に追随する形で同様に足を止めると、悪魔の顔を篤に向けながら言葉を返す。

 

「ならば、やはりあの寄生獣に食わされたということだろう。我々が奴に求めたのは、かの『氷姫(こおりひめ)』との面談だ。『鍵』を渡さずに送り出したとなれば、明確な盟約違反と言える」

「だから言ってるだろう、斧神。あの寄生女王(パラサイトクイーン)はそんな愚かな女王じゃない。彼女は渡した筈だ、こちらに鍵を。この局面で俺達を雪山で凍死させても、彼女に益はないからな」

 

 そう言って篤は、風邪用マスクを外して、吹雪の中に白い息を吐きながら、同盟相手の寄生獣が提供した情報を振り返る。

 

(入口は、東北の某山中の洞窟――彼女に言われたそのポイントを通過して、気が付いたらこの吹雪の中にいた。あそこが入口だったのは間違いはない。なら、あの洞窟は潜った者は全員、この吹雪の中に放り込まれるシステムになっているのか……? いや、あの洞窟は確かに目立たない場所にあったが、来る者が限られるという程に山奥ではなかった。興味本位で潜る人間もいるだろう。それならば、それは『神秘』とはいえない)

 

 神が秘すると書いて、神秘。

 来る者を拒み、選ばれた者を通す、あるいは迷い込んだ者を引き摺りこんでこその――化物の巣窟。

 

(ならば、我々はその『鍵』を持って、『扉』を通ったからこそ、今、ここにいるというべきだ。ここは既に『あの里』の中――未だこの空間が歓迎の意を示してくれないのは、我々がその鍵を見せていないからだ)

 

 そして、あの時、かの寄生獣はこう言っていた。

 

『ご心配なさらずとも、あなたならば、あの子の元へと辿り着けますよ。その()()を用意する際、あなたはそれを手に入れているのでしょう?』

 

 篤は、その言葉を思い出し――ふと、懐に手を伸ばした。

 

(…………悪いな)

 

 取り出したのは――大きな指輪と、小さな指輪をチェーンで通して作ったネックレス。

 

 とある鬼の――遺品だった。

 

「っ!」

 

 斧神が息を吞む。

 篤がそれを掲げた途端、吹雪が晴れ――屋敷が現れた。

 

 屋敷といっても、それはまるで時代劇や昔話に出て来そうな、百姓や農民が暮らしていそうな、小さく、みすぼらしいものだった。

 とてもではないが、令嬢が暮らしているような住居には見えない。

 

(まぁ――雪女が出てきそうという意味では、イメージ通りなのかもしれないがな)

 

 この『雪女の里』で口に出そうものなら袋叩きに遭いそうな人間時代の先入観のモノローグを思いながら、篤は再びマスクを引き上げ、手袋もしていない手でノックをしようとする――が。

 

「何を似合わないことをしようとしているの? こんなボロ屋にそんな作法は必要ないわ。さっさと上りなさい」

 

 言葉は尊大だが、声音は美しい許可が入り、篤はノックしようとした手を止め、そのまま横開きの扉を開ける。

 

 屋敷内に這入ると、土間からすぐにその存在は見えた。

 開け放たれた居間の中央、火が消えた囲炉裏の向こう側に、今にも消えてしまいそうな真っ白な女がいた。

 

 白銀の髪。黄金の瞳。

 身に纏う白い衣は、まるで死に装束のようで。

 

「――ようこそ、白い世界へ。それで? 醜いオニが、こんな穢れた白に何のご用かしら?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ぱち、ぱちと、今にも消えてしまいそうな小さな火種が焚かれた囲炉裏を囲むように、三人の化物が座り込む。

 

「ごめんなさいね。客人を――それも雪女でもない客人を招くなど、思い出せない程に遠い昔のことだから、ちゃんとした火の起こし方など忘れてしまったわ。寒いかもしれないけれど我慢して頂戴」

「いえ、急に押し掛けたのはこちらです。お構いなく」

 

 そう。ならお茶も煎れなくていいわね。ちょうどめんどくさかったの――と、目の前の白銀髪に黄金瞳の雪女は、そう言って篤達を招き入れてから一歩も動かず、立ち上がることすらせずに「――で?」と、その容姿に似合わず膝を立てて、けれどある意味ではその容姿にぴったりの尊大な口調のまま、篤達に問い直す。

 

「早く質問に答えてくれないかしら。まどろっこしいのは嫌いなの。面倒くさいのはもっと嫌いなの。あなたたち、私に何の用なの?」

「それでは、単刀直入に言わせていただきます」

 

 篤は、フードもマスクも取らないままに、表情を見せないままに、目の前の尊大な雪女に向かって言った。

 

「我々の仲間になっていただきたい」

「嫌よ。面倒くさいわ」

 

 雪女は、篤の言葉を間髪入れずに拒絶した。

 黄金の瞳を細めながら「そもそも――」と、囲炉裏の今にも消えそうな火種をぐりぐりと掻き回しながら、興味なさげに篤達に問う。

 

「それって、私個人に? それとも雪女って種族に? 前者でも面倒くさいし、後者ならそもそも訪問する家を間違えているわ。アンタ、ここのことを知っているの?」

 

 色んな意味で――と、ぶすっと灰を突き刺して、細めた黄金の瞳で見据える雪女に、篤は「勿論、予習はばっちりですよ。遠出の際には下準備は怠らないタイプなんです」と前置きし、ロイド眼鏡を持ち上げながら言う。

 

「ここは妖怪星人・雪女が住処とする里――星人郷としての通り名は『雪隠郷(せついんきょう)』……でしたか?」

 

 雪女は、火を搔き混ぜる手は止めたが、篤からは目を外す。

 篤は、そんな彼女に「雪隠郷の歴史はそのまま雪女の歴史といえる程に古いものですが、その発祥当時から続くとされる一つの絶対的な慣習がある」と、続きを語る。

 

「それは、里の長を、雪女の中でも最も古く、最も濃く、最も強い三家から選ぶというもの。その三家とは――『白夜(はくや)』、『白縫(しらぬい)』、そして、『白金(しろがね)』」

 

 そう、()()()()()()()――と、篤は、目の前の、白銀髪で黄金瞳の雪女を見詰める。

 

 雪女――白金(しろがね)は、そんな篤を一度ちらりと、その黄金の瞳で見遣ると。

 そのまま興味なさげに、灰を弄くり回す作業を再開しながら「……少し、情報が古いわね。正しくないわ」と言葉を返す。

 

「確かに、この里の長は、つまり雪女の女王は、その三家からずっと選ばれてきたけれど、今でも掟の上ではそうなっているけれど――残念。実質、今では内の二家は没落し、『白夜』の一択状態なのよ」

 

 無論、今の女王も『白夜』の雪女よ――と、白金はどうでもよさげに言う。

 

「先代の『白金』と『白縫』が馬鹿をやってね。まぁ、簡単に言えば、男に現を抜かしたのよ。――人間の男にね」

 

 ざくっと、火を完全に消火し――熱気どころか冷気を発するようになった囲炉裏を冷たく見据えながら、白金は淡々と語る。

 

「結果――我らが『白金』は、こうして里の端っこで厄介者のように隔離されて、『白縫』の方は名目上は里長の相談役のようなことをしているけれど、実体は他種族との折衝に言いようにこき使われているパシリよ。まぁ、あそこは身内にとんでもない爆弾を抱えているしね。爆弾というか、化物というか」

 

 ま、化物というなら、私達はみ~んな化物なんだけどね、と。

 どうでもよくなったかのように、灰を掻き回していた棒を投げ捨てるように手放すと、あざ笑うような顔で、白金は篤に向かって吐き捨てる。

 

「つまり、種族交渉とかそういうのは『白夜』にいうべきよ。『白夜』に会ってもらえないなら『白縫』ね。あそこはもう『白夜』の手足みたいなもんだから、上手くおべっかを使えば、いずれは『白夜』に面通ししてもらえるんじゃない?」

「いや、『白縫』の雪女には既に会っているんだ。『白縫』の現当主ではなく、その件の爆弾の方なのだが」

 

 この『雪隠郷』にも、そいつの手引きで侵入(はい)らせてもらったと、そう篤が言うと、その時、初めて白金の表情に驚きのようなものが見えた。

 

「……そう。そもそもどうやって、この里に侵入(はい)れたのかと思ってはいたけれど、迷い込んだならば兎も角――そう、あの寄生獣の手引きだったの。まぁ、この里の雪女達が星人とはいえ外の世界の存在を進んで侵入(はい)らせるわけがないし。考えてみれば第一容疑者よね」

 

 そして、案の定、真犯人だったわけか、と、白金が言うと、いえ、真犯人は別にいますよ、と、篤は返す。

 

「…………」

 

 白金は、篤のその返答に、再び驚きは見せなかった。

 

 そう、そもそも、彼の寄生獣が真犯人ではおかしいのだ。

 もしそれが真実であるならば、この侵入者を招き入れたのは『白縫』となり、このオニ達の前に現れるのは、このオニ達と最初に相向かうのは『白縫』の雪女でなくてはならない。

 

 それが、この里の『鍵』の『管理者』であり、『門番』でもある『三家』の役割。

 部外者に鍵を渡す権利を所有する代わりに、その部外者を見極める義務を持つのだ。

 

 ならば、つまり、このオニ達をこの里に招き入れた真犯人は――。

 

「――――っ!!!??」

 

 その時、白金は初めて、篤達を前にして――立ち上がり、絶句した。

 ここまで一歩も動いていない堕ちた雪女が、その死んだように重かった腰を上げた。

 

 篤が、(おもむろ)に懐から取り出し、白金にその『鍵』を見せたからだ。

 

 大きな指輪と小さな指輪の間にチェーンが通され――繋がれた、世界に一つしかない、そのネックレスを。

 

 他でもない、『白金』の――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を。

 

「どう……して――」

 

 どうして貴様らがそれを持っているッッッ!!!! ――白金が、今にも消えてしまいそうに儚かった雪女が、その身を沸騰させんばかりに激昂を轟かせる。

 

 篤は、燃えるように怒り狂う雪女に、冷たく、淡々と「……これは、我らが同胞の……遺品だからです」と呟く。

 

「………………遺………品?」

 

 白金は、燃えさかったまま凍り付いたかのように硬直する。

 

 篤は「私達は、だからこそ、あなたに会いに来たのです。『白夜』でも、『白縫』でもなく、『白金』である――あなたに」と、固まる白金に向かってネックレスを放る。

 

 それを慌てた手つきでキャッチし、その冷気が、その大きな指輪と小さな指輪が、忘れもしない、己の記憶と完全に一致し、混乱が極まる――その瞬間を、狙い澄ましたように。

 

 篤は、この険しい吹雪の中、無事に運びきった『土産』の入ったクーラーボックスを取り出すと。

 

 白金に見せつけるように、その蓋を開ける――そして。

 

 開けた瞬間――()()()()()()

 

「託されたのです。あなたへと届けるように。我が同胞に。我らが同志に。つまり――」

 

――『()』に。

 

 白金は、ギュッとそのネックレスを胸に抱きながら、雷光を迸らせる、そのクーラーボックスの中身を見た。

 

 どくん、どくんと、未だ力強く、諦め悪く、敗北を認めないかのように――鼓動を続ける、その物体は。

 

 

「――黒金の、心臓です」

 

 

 真っ白に色を失った、とある雪女の胸に――どくんと、熱い何かが、灯った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 時系列は、『英雄会見』の直後へと戻る。

 

 場所は――京都。

 かつての日本の中心地であり、かつての日本を最も色濃く残す土地。

 

 だが、いや、だからこそ。

 この国で最も日本人以外の、外国人が多く溢れる観光地でもあるこの街に、かつては最も相応しかった、しかし、今は誰よりも目立つ格好の一組の少年少女が、誰にも気付かれることなく手を繋ぎながら歩いていた。

 

 静かに流れる鴨川を横目に、華やかな祇園の街の――薄暗い、とある路地裏へと迷い込むように入り込み。

 眼鏡にみずぼらしい和装の少年は、日本人形のような童女を連れて、ちりんと透き通った鈴の音を鳴らし、そのまま真っ直ぐに路地を突っ切る。

 

 道を抜けた先は――夜の世界だった。

 

 灯籠の光が辺りにぽつぽつと置かれて道を照らし、障子の向こう側から淡い光が漏れている。

 街灯もなく、当然のようにネオンもない。新宿の目を焼くような退廃的な光が闇を打ち消すような夜ではなく、こちらはあくまで闇を強調するような静かな夜が満ちていた。

 

 少年と童女が路地裏から飛び出ると、その前を燃えさかる車輪が通り過ぎ、その上をひらひらとした布が過ぎ去った

 道行く女の首が唐突に伸びて、振り向く男の眼球が一つしかなかった。

 

 魑魅魍魎が跋扈する。

 異形の人が、人ではない何かが、化物が、(あやかし)が、我が物顔で、隠れ潜むことなく往来する。

 手を繋ぐ座敷童の少女――詩希(シキ)が、化物達を見てほっと息を吐いた。

 眼鏡の少年――平太(へいた)も、それを見て表情を綻ばせる。

 

 そう、この魑魅魍魎に溢れかえった空間こそ、自分達の住まう世界。

 明るく、眩く、光と人で満ち満ちた表の世界とは違い――暗く、怪しく、闇と妖でおどろおどろめいた裏側こそが、自分達の帰るべき場所。

 

 帰ってきた――そう感じてしまう自分に、平太は苦笑した。

 そして、苦笑する平太を見て、手を繋ぎながら見上げる詩希は微笑した。

 

「――よう。帰ったかい、平太。詩希」

 

 行き交う妖を見て笑い合っていた少年童女に、そう声を掛けたのは青白い顔の()()だった。

 

「清元さん。野坊さんも。迎えに来てくれたんですか?」

 

 そこに居たのは、真っ白な死に装束を纏った青白い顔の男と、ジーパンに白のTシャツにニット帽を被った男だった。

 

 死に装束の男の顔は、およそ血色といえるものが消え失せた死に顔だった。

 まるで死体が歩いているかのような男は、ごほごほと咳き込みながらも、小さくその口元を緩ませる。

 

 表情少なめな死に顔の男の隣に立っているニット帽の男は、対して、表情というものが存在しなかった。

 何故なら、その男の顔には――何もなかったからだ。

 目も、鼻も、口も。ただ凹凸のない肌色のみが、その男の顔面だった。

 

 野坊(のぼう)と呼ばれた口のない男は、やはり何も言葉は発さない。

 体は隣に立つ死に顔の男よりも二回りほどに大きい巨漢で、それ故に顔面の異様さが際立つが、平太は顔のない男に笑顔を向けて「ありがとうございます」と告げ、それに合わせるように、詩希もぺこりと頭を下げた。

 

 清元(せいげん)と呼ばれた死に顔の男は、頭を下げる子供達に対し、動かない表情筋を無理矢理に動かしたかのようなぎこちない笑顔で「子供達だけで危ない橋を渡らせたんだ。何もしなかった大人が、居間で胡坐を掻いているばかりというわけにもいくまい。出迎えくらいはさせてもらうさ」と言って、平太の頭を撫でて言う。

 

「――で? おっかない真似をしただけの収穫はあったかい?」

 

 およそ体温というものを感じない冷たい手を乗せられた平太は、「――はい。得たいと思っていた情報は、あらかた手に入れることは出来ました」と答えながらも、「――でも……すいません……」と、言葉を濁らせ、言う。

 

「…………総大将の……あの方の情報だけは…………表の世界にも……百目鬼(どうめき)さんも、心当たりはないようでした」

「……そうかい。星人側であり、黒球側であり、残党側でもある、およそこの国で最も灰色な場所にいる烏鬼(からすおに)でさえも知らないとなると……いよいよ万策尽きた感があるな」

 

 平太は「勿論、百目鬼さんが知っていて僕に隠した可能性もありますが」と言うと、「平太に見抜けないのなら、俺らの誰も見抜くことは出来ないさ。それはつまり、俺らには手の届かない情報だということ。結果は変わらない」と清元は言う。

 

「――と、なるとだ。……残念ながら、時間切れだ。本当は総大将の口から直接が理想だったが……」

「……このままだと……親を追放して組を乗っ取るという形になります。いくら血の繋がった息子とはいえ……いえ、だからこそ、このやり方に納得しない幹部の方もいると思います。この組織は、総大将が集めた『百鬼夜行』なんですから」

「それでも――これ以上は待てない。こればかりは、あの気に食わない噺家の野郎と、俺も同意見だ」

 

 清元はそう言うと、のっぺらぼうの男・野坊(のぼう)を伴って、魑魅魍魎が行き交う夜の街の中へと消えていく。

 

「清元さん」

「悪いが、行く場所が出来た。迎えに来た身分で悪いが、二人だけで帰れるかい?」

「馬鹿にしないでください。子供ですが、僕達はこう見えても1000才を超えてるんですよ」

「鴨桜はいつもの場所に居る」

 

 清元は、(あやかし)混みの中、一度だけ振り返り、死に顔に笑みを浮かべながら言った。

 

「――お前の帰りを待ってる。早く、安心させてやれ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 季節外れの枝垂れ桜が咲き誇っていた。

 

 否、この妖怪達が住まう()()()()()――怪異京では、季節というものは存在しない。

 茹だるように暑い場所もあれば、身の毛もよだつ程に寒い場所もある。

 一年中、美しい紅葉の見所もあれば、草木も生えない更地も存在する。

 

 そして、この屋敷の一本の桜は、千年以上もの間、美しい花を咲かし続けていた。

 

 小さく風が吹き、桜吹雪が舞う。

 

 不思議だ、と、平太は思う。

 こうして花びらは散るのに、この桜は葉桜にならず、ずっと美しい桜色のままだ。

 

 まるで夢の世界だ。

 

 眼下には静かに川が流れている。

 常夜の世界であるこの星人郷には、本物かは分からないが月もある。これもずっと満月だ。

 雨が降る場所もあるが、少なくともこの屋敷周辺は降らない。

 だから、この川の水面は、美しい満月と、美しい枝垂れ桜を、永遠に映し続けている。

 

 怪しく、妖しいのに、醜悪な妖怪変化に溢れかえるこの世界は――人で噎せ返る外よりもずっと美しい。

 

「――帰ったか、平太」

 

 そんな桜の中から、一人の男の声が聞こえた。

 平太がゆっくりと桜の木に近づくと、その男は一本の太い枝に座り込みながら、キセルを吹かし、満月と眼下に流れる川を、桜吹雪の中から眺めていた。

 

 全身を覆い隠さんばかりに伸びるその髪は、斑だった。

 男が纏う着流しのように、黒色と桜色が入り交じっている。

 それはまるで、男の中に流れる血潮を表しているかのようだった。

 

「……ただいま戻りました。鴨桜さん」

 

 鴨桜(オウヨウ)――と呼ばれた男が、煙を吐きながら微笑む。

 その瞬間、一際強く風が吹き、桜が舞い――男が消えた。

 

「――!」

 

 平太が瞬きをすると、男はいつの間にか、平太の傍らに立っていた。

 

「詩希はどうした? 一緒じゃねぇのかい?」

「……長旅で疲れたみたいなので、春さんに任せてきました。ていうか、心臓に悪いのでやめてください」

「はっ、そりゃあ、俺ら妖怪に人を脅かすなと言ってるのと同じだぜ」

 

 鴨桜はそう言って平太の頭を撫でる。しかし平太は、その手を払おうとはしないものの、暗い顔を崩さなかった。

 

 そんな平太を見て、鴨桜は小さく微笑みながら言う。

 

「――親父は、見つからなかったか?」

 

 ギュッと、平太が唇を噛み締める。

 鴨桜は「……ぬらりくらりと神出鬼没なのがぬらりひょんとはいえ、夜遊びって年じゃあねぇだろうに、ジジイめ。しょうもねぇ、親分だよったく」と呟くと、肩に掛けていた瓢箪に口を付け、酒をぐいっと飲み干しながら――屋敷へと向かう。

 

「鴨桜さん」

「――幹部らを待たせてる。詳しい話は向かいながら聞かせろ」

 

 平太は、鴨桜のその言葉に全てを悟った。

 普段は度し難い自由人だが、百鬼夜行の主の血を引き、組の若頭として数百年もの間、大幹部として戦い続けてきたこの男が、何も分かっていない筈などなかった。

 

 分かっていたのだ。鴨桜も、自分の東京遠征が、最後のチャンスだったと。

 それが空振りに終わった以上、最早、一刻の猶予もない。

 

 黒衣達があれほど思い切った手に出た以上、この国は、そしてこの世界は――変わる。

 

 夜の世界に、人間達が乗り込んでくる。

 いずれはこの星人郷すらも、奴等は暴虐的な光を持って侵略してくるだろう。

 

 そのことは、これから平太が鴨桜に報告することなので、まだこの男は知らないだろうが――それでも、この鴨桜という()()は、感じ取ったのだ。

 

 何かが始まる気配を。何かが終わる兆しを。

 変わらなければならないと。動き出さなければならないと。

 

 さもなくば――滅ぶのは。

 

「――平太。そんな顔してんじゃねぇ。遅かれ早かれ、こうなってたさ。俺達は」

 

 足を止め、俯いたまま動けない平太に、鴨桜は振り向いてそう言った。

 瓢箪を肩に掛け、舞い散る夜桜を眺めながら、百鬼夜行を率いる妖怪と人間の間に生まれた混血種は言う。

 

「心配するな。何があろうと、お前等は俺が守ってみせるさ。俺は――ぬらりひょん(妖怪の主)の息子だからな」

 

 平太は、そんな鴨桜に、千年前――無力な、ただ死に行く存在だった自分を救ってくれたあの日から、只一人の自らの(ヒーロー)の姿に。

 

 地に両膝を突き、両拳を突いて、眼鏡のレンズに涙をこぼしながら、頭を下げて言う。

 

「――はっ! ……どこまでも、付いていきます……っ」

 

 鴨桜は、そんな平太に「……さっさと頭を上げろ。んで、俺にお前の東京の土産話を聞かせやがれ」と言いながら、再び回り屋敷へと向かって歩き出す。

 

 そして、平太から顔を外した瞬間、表情を冷たく消し、静かに呟く。

 

「……ああ。お前等は守るさ。……例え――」

 

 どんな化物が相手だろうとな――と。

 真っ暗な屋敷の闇を見据えて、そして激しく舌打ち、吐き捨てる。

 

「――何やってやがる……っ。クソ親父がッ」

 

 そして、大きくはためかせながら、百鬼夜行が背に描かれた羽織を身に纏う。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 勢い良く、弾き飛ばすように障子を開ける。

 

 中は大きな細長い広間だった。光源は等間隔で置かれた蝋燭のみ。

 

 片側に四体、向かい側に四体、計八体の――妖怪が座っている。

 そんな彼等が見上げる場所、一段高い場所に、殿様のように――半妖が座った。

 

「――テメェら、長く待たせた。これより『百鬼夜行』の総会を始める」

 

 妖怪星人。

 この日本という国、そのおよそ全ての歴史において、夜の世界に君臨し続けていた、在日星人最強最大の勢力を誇る星人種族。

 

 そして、そんな妖怪星人を、およそ千年もの間、支配し続けてきたのが、妖怪ぬらりひょんが率いる――この『百鬼夜行』である。

 

 妖怪組織――『百鬼夜行』。

 全国の妖怪を傘下に置くこの組織には、およそ九体の大幹部がいる。

 

 向かって右側の、総大将の座に近い場所に座る者から順に。

 

 妖怪・天狗――鞍馬。

 妖怪・河童――長谷川。

 妖怪・雪女――白夜。

 妖怪・仏像――弥勒菩薩。

 

 向かって左側の、総大将の座に近い場所に座る者から順に。

 

 妖怪・(ちん)――羽未(バミ)

 妖怪・猫又――仙虎(センコ)

 妖怪・狒々(ひひ)――混愚(コング)

 妖怪・妖狸(ようり)――茶釜。

 

 そして、彼等が見上げる場所に――総大将ぬらりひょんだけが座ることを許された場所に、堂々と胡座を掻いて尻を落とす、最後の一人の大幹部は。

 総大将ぬらりひょんのただ一人の息子であり、この『百鬼夜行』の若頭に任命されていた、次期総大将最有力候補であるこの男。

 

 

「今日の議題は、端的に言えば、これからの『百鬼夜行』についてだ」

 

『百鬼夜行』若頭 妖怪・ぬらりひょんと人間の混血種 半妖 鴨桜(オウヨウ)

 

 

 黒と桜の斑の半妖は、日ノ本の闇の世界を支配し続けてきた大妖怪達に向かって、威風堂々と宣言する。

 

「今宵を持って、お前等は俺の傘下に入る。これは決定事項――今、この瞬間より、お前等は俺の『百鬼夜行』だ」

 

 鴨桜が、並み居る大妖怪を見下ろすように放つ言霊を。

 

 彼の後を追うように、静かにこの広間へと入ってきた二人の男。

 鴨桜の左奥に座る側近、妖怪・首無――士弦(しげん)と。

 鴨桜の右奥に座る側近、妖怪・噺家――桂松(けいしょう)が。

 方や無表情で、方や口元だけにやにやとさせながら見守る中。

 

 これまで鴨桜自身が座っていた位置に、つまりは総大将の側近の位置に。

 己に最も近しい二人の側近を座らせながら決行された、若頭の下克上に。

 

 新たな総大将への襲名を宣言した鴨桜に最も近い場所に座る幹部は。

 現総大将――『百鬼夜行』を束ねて、妖怪星人を纏め上げた、妖怪の主ぬらりひょんに最も近い存在である男は。

 

「――――ふ」

 

 この『百鬼夜行』が妖怪星人の頂点に立った千年前から、総大将ぬらりひょんの片腕と呼ばれ続けてきた大妖怪は、当のぬらりひょん不在の場で、実の息子である若頭が起こしたクーデターに。

 

「ふざけるなぁぁぁあああああああ!!!! 若造がぁぁぁぁぁぁああああああああ!!!!!」

 

 その殺意を膨れ上がらせ、鼻の長い真っ赤な顔を燃え上がらせて。

 

 鞍馬山の大天狗と恐れられた大妖怪・鞍馬は、忠誠を誓った主の一人息子に向かって、漆黒の翼をはためかせながら特攻した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 時系列――不明。

 

 場所は京の都の――どこかの闇の中。

 

 果たして、そこは表世界の京都のどこかなのか、それとも妖怪達が住まう裏世界の怪異京なのか、はたまた、誰も知らない、新たな星人郷なのか。

 ただ一つ確かなのは、そこが座標上は日本の京都――それも京都市内のどこかであり。

 

 この日ノ本という国で、最も妖気に満ちた地脈のスポットの真上であるということだった。

 

(まぁ、真上と言っても地下であることには変わりないのじゃがね)

 

 真っ暗闇であるのも妥当というものだ。

 ここは偉大なる太陽の恩恵すら寄せ付けない、よくないものの吹き溜まり。

 

 だからこそ、これから行う儀式には、うってつけの場所ともいえる。

 

「君もそう思うだろう? 妖怪大将――ぬらりひょん」

 

 世界から黒く塗り潰されたような男が、そう目の前の男に向かって言った。

 

 そこには、上半身が裸ながらも、鍛え上げられた肉体にいくつもの拷問の痕を刻まれ、背中の桜吹雪の入れ墨が血と傷で汚されている――侠客がいた。

 

 髪は己を隠さんばかりに伸びきった黒髪。

 目つきは鋭く、放たれる眼光は両手を鎖で縛られ宙吊りにされている囚われの身とは思えぬ程に力強い。

 

 日ノ本を支配する最大派閥の星人組織――妖怪星人を千年間率い続けた百鬼夜行の主は、絶体絶命の状況に陥って尚、気高く、そして恐ろしかった。

 

「――はっ。こんな暗い場所に、お主のような暗い男と何年間も二人ぼっちじゃあ、さすがの儂も嫌気が差してきたわい。殺すならさっさと殺すがよいわ」

 

 妖怪の王――ぬらりひょん。

 彼がこの闇の中に囚われて、およそ百年が経過している。

 

 その間、両手の拘束が解かれたことはなく、昼夜を問わず――否、一切光の入らない常闇の中で、ありとあらゆる責め苦を浴びせかけられながらも、この男の眼光は、畏れは、いささかも衰えることはなかった。

 

 鍛え上げられた肉体は、背中に刻まれた桜吹雪は、その美しさを血で汚すことはあっても、その赤を彩りに加えて、味わいを増しているかのようにも――黒く塗り潰された男は感じていた。

 

「お主は――いつまでも美しいのぉ。ぬらりひょんや」

 

 この漆黒の闇の中においても、なお判別が出来る程に――いや、判別が出来ない程に、まるで世界というキャンバスの中で、一人乱雑に墨汁で塗り潰されたかのような男は。

 

 身動きのとれないぬらりひょんに近づき、そっとその頬を撫でる。

 

「妖怪といえども、星人よ。つまりは宇宙生物――生物じゃ。生きている物である限り、時の流れには勝てん。人間よりも遙かに遅い速度とはいえど、年を重ね、老いる。種族として後を託す者――子を成したならば尚更じゃ」

 

 妖怪星人は、およそ数千年単位の寿命を持つ。

 確かに老いというものはあるが、人間からみればおよそ不老不死と思える程に、その流れは緩やかだ。

 

 しかし、種族としての後継――つまりは子を成した妖怪は、その速度が急激に早まる。

 子が生まれてから、生きることが出来て長くても千年――無論、妖怪星人の中にも長命なもの、短命なものの差はあるが、少なくとも。

 

「お主には、千年前には既に子がいたな。なのに、貴様はいつまでも美しい。老いることなく若々しい。まるで――時が止まっているかのようじゃな」

 

 お主の妻は――あの摩訶不思議ながらも美しかった人間は、とっくに老い、顔を皺くちゃにして死んだというのに。

 そう、黒く塗り潰した男が呟くと、頬に添えられたその手を噛みちぎらんばかりに、殺意を膨れ上がらせ、化物は牙を剥く。

 

 男がさっと手を離すのと、ぬらりひょんの牙が空を噛むのは、ほとんど同時だった。

 

「……てめぇが……アイツを語んじゃねぇ……っ」

 

 黒く塗り潰された男は、そのドロドロと溶岩のように濁り燃える化物の瞳を見ながら「千年という月日を経ても、未だ囚われ続けるか。妖怪の王よ」と嘯きながら、哀れむように言う。

 

「それほどまでに焦がれておるのに、いつまでも愛する妻の元へと逝けぬ。……呪いとはよく言ったものじゃ」

 

 男は、どれだけ鎖を伸ばしても、ぬらりひょんの牙が僅かに届かぬ位置を絶妙に確保しながら、禍々しく睨み付けるぬらりひょんに言う。

 

「先程の殺すなら殺せという言葉も、あながち儂に対する挑発というわけでもないのじゃろ。死ねるなら死にたい――それが、この千年間、いや、あの女を失ってから、お主が心の片隅に潜ませ続けていた本心の欠片じゃ。違うかの?」

 

 ぬらりひょんは、その言葉に対して言葉で返さず、再びの殺害未遂で答える。

 だが、勢いよく放たれた牙は、またも黒い男の鼻先までしか届かず、空を噛み、黒く塗り潰された男は語るのを止めない。

 

「実際――お主を殺すのは難しい。この儂でさえも、お主をここまで弱らせるのに百年かかった。この膨大な妖気が充満する空間に毒を混ぜ込み、全力全霊で拷問を施し続け、一切の身動きを封じての百年じゃ。不老不死にも程があろうよ」

 

 そう言ってくつくつと笑う黒い男は、「だが、安心せい――」と、手の中に『黒い赤子』をどこからともなく取り出すと、真っ黒な妖気を膨大に放つそれを。

 

 ぬらりひょんの腹に、貫くように押し込んだ。

 

「っっっっっ!!!!!!!」

「妖怪の王よ。お主の天下は、今宵で幕が下りる」

 

 新たな王の誕生じゃ――そう言って、男は、真っ黒に塗り潰された中で、唯一ぽっかりと認識出来る瞳を、醜悪に細めて。

 

「――喜べ、化物。ようやく死ねるぞ」

 

 ぐぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああ――漆黒の闇の中で、百鬼夜行の主の絶叫が響く。

 

 どくん、どくん、どくんと、ぬらりひょんの体内で鼓動が響く。

 黒い赤子が纏っていた真っ黒な妖気が、ぬらりひょんの千年間老いることのなかった躰を飲み込むように取り込んでいく。

 

 両手を戒めていた鎖が砕けても、ぬらりひょんは動けない。

 背中の桜が黒く穢され、そして絶叫を上げる口の中から、両の眼から、真っ黒な血を噴水のように吐き出した。

 

「――よい」

 

 その様を、間近で眺めていた黒い男は。

 満足そうに瞳を細めて、己が宿願が叶う瞬間に心を震わせていた。

 

(この裏京都の中心地――この国で最も妖気が集まるこの場所で、千年間、妖怪の象徴であり続けたぬらりひょんを殺害する。百年掛かったが、第一段階はこれで完遂じゃの)

 

 正確には、不老不死のぬらりひょんを、殺害可能な化物へと貶める儀式。

 これによりぬらりひょんは、新たな化物へと生まれ変わることになるのだが、生まれ変わるということは、一度しっかりと死するということ――新たに誕生するぬらりひょんは、千年間、妖怪のトップだったぬらりひょんとは別存在と見なされる。

 

 妖怪の王・百鬼夜行の主・ぬらりひょんは今宵、死ぬ。

 ならば、そんなぬらりひょんを主材料にした新たな強大極まりない化物(ぬらりひょん)が生まれ変わろうが、そんなことは男の知ったことではない。

 

 いや、だからこそ――面白い。

 

(この場所は、この国の霊的エネルギーの中心点。この場所でこれだけの刺激を与えれば、この裏京都の別の場所に眠らされている『あの二体』の封印にも、大きな綻びが生まれる筈じゃ)

 

 ならば、後は――時間の問題。

 あの千年前の宴を再現する。

 いや、今の世の流れならば、恐らくは、あの時以上に大きな祭りとなる筈だ。

 

「――既に、終わりは近い。ならば、最後は派手にいかねばの。思い残すことのない、()()()()()()()にしなくては」

 

 黒く、燃え上がる。

 体中のあらゆる穴から真っ黒な妖気を吹き出すぬらりひょんは、千年間、忌々しい程に健在だった己が躰が、真っ黒な何かに造り替えられるのを感じていた。

 

 徐々に意識が遠のく。これは、二度と覚めることのない眠気なのだと、漠然と感じた。

 

 そうか――これが、死か。

 

(……あっけないものじゃ。あれほど焦がれていたというのに、最後に感じるのが眠気とはの)

 

 妖怪の王としては余りにも惨めな最期だったが、千年も生きたのだ、今更つけるような格好もない。

 何より、誰よりも格好いいと思って欲しかった相手は、とっくの昔に失っているのだ。

 

(……桜華(おうか)よ。ようやく、お主の元へと逝けるの)

 

 あの世という場所は、果たしてどんな場所なのか。

 死んだ時の姿で送られるというのなら、この老いなかった躰も少しは許せる気持ちになる。あの世で会った時も、また格好いいと言ってもらえるだろうか。

 

 だが、もしも、天国や地獄というものがあったとして。

 桜華は間違いなく天国にいるだろう。自分は間違いなく地獄行きだろう。どうしたものか。

 

(そん時は、閻魔をぶった斬り、天国へと乗り込めばいいだけのことよ)

 

 囚われの姫だった桜華を、この手で掻っ払ったあの時のように。

 ぬらりひょんは、真っ黒な妖気に飲み込まれながら、ふっと――不敵に笑う。

 

(……すまぬ。鞍馬、刑部(ぎょうぶ)……共に杯を交わした、儂の百鬼夜行達よ。先に逝くぞ)

 

 そして、ぬらりひょんは。

 千年もの間、日ノ本の妖怪の頂点に立ち続けた歴戦の王は。

 

 消えゆく意識の中、亡くなった妻を思い、共に戦い続けた義兄弟(きょうだい)達を思い。

 

 そして――たった一人の、息子のことを思った。

 

(…………鴨桜よ。駄目な親父ですまねぇ。……面倒を残すが、後は頼む)

 

 愛している。我が息子よ――そう、黒い妖気の中、死力を尽くして呟き。

 

(願わくば……桜華と共に……鴨桜を……あの世で――)

 

 

 

 裏の京の都の中心地で、その日――黒い爆発が起きた。

 

 表の世界では、それはよくある地震として処理されたが。

 

 それは確かに、一つの時代の終焉であり、新たな終わりの始まりでもあった。

 

 

 千年間、平和を守り続けた王の崩御は。

 

 裏の世界を、日ノ本の星人の世界をも、未曾有の混乱へと叩き込み。

 

 千年ぶりの妖怪大戦への、火蓋を切って落とすこととなった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 時系列は――『英雄会見』から、少し時間が経ったある日のこと。

 

 

 

 正義とは何か。

 そんなことを、近頃はよく考えるようになった気がする。

 

 少し前のことだ。

 世界が動いたあの日、何かが決定的に変わったあの日――ネットカフェのPCモニタで観ていたその会見で、とある戦士がこんなことを言っていた。

 

――『わたしにとって正義とは――正しいことです』

 

 正義とは――正しいこと。

 間違っていないこと。歪んでいないこと。

 乱れがないこと。偽りではないこと。

 

 本物――であるということ。

 

 己が正しいと信じる概念――それこそが、正義。

 

「…………はっ。かっちょええな」

 

 正義とは守るもの。正義とは掲げるもの。

 正義とは――貫くもの。

 

 自分もかつては、この胸に、確固たる正義を持って――戦っていた。

 戦士――だった。

 

――『わたしは――逃げない』

 

 だが――逃げた。

 

 自分は守れなかった。掲げた旗を下ろしてしまった。

 自分は貫けず――正義は折れ、曲がり、己の正しさを、信じることが出来なくなった。

 

 自分の正義は――偽物だった。

 

 結果、自分は堕ち、負け――そして。

 

――『この剣で、その全てを斬り払ってみせると』

 

 それ以上は――観ることが出来なかった。

 

「――――ッッ!!!」

 

 その日、自分は住処としていたネットカフェから飛び出し、別のネットカフェへと引っ越した。

 

 あの日から――いや、そのずっと前の『あの日』から。

 鋼鉄の城が崩壊してから、自分はずっと、こんな毎日を送りながら、そんなことをずっと考えている。

 

 正義について、考えている。

 自分の正義はどこで間違ったのだろうか。

 

 どこで折れたのか。どこで曲がったのか。

 どうして守れなかったのか。どうして貫けなかったのか。

 

 偽物だったからか。それとも、どこかで偽物になってしまったのか。

 

 どうして、自分は――。

 

「……ディアベルはん。……わいは――」

 

 トゲトゲ頭の男は、そこまで呟いて、それ以上は飲み込んだ。

 

 既に底辺まで堕ちている自分だが、続きを口にしたら、さらに惨めになるような気がした。

 

 その時、ちくりと首筋に寒気が走った。

 

「…………」

 

 男は、まるで何かを諦めたように、ゆっくりとネットカフェのフラットシートに身を預けた。

 

 そして、静かに天井を突き破って照射されてきた電子線により、男は消えた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「よぉー。遅かったな、木場。ジブンが最後やで」

 

 そこは、まだ数度目だが、既に見慣れ始めた無機質なワンルームだった。

 天井に設置されたエアコン以外は、テレビも、ソファも、テーブルも椅子もない。

 

 あるのは、鎮座する、一つの無機質な――黒い球体。

 

「はよ着替えろ。既に新参も何人か来とる。あんまりにジブン遅いから、部屋の外でまた死んだんかと思うたくらいや」

 

 部屋の中には、既に何人もの先客がいた。

 

 髪型は全員違うが髭とサングラスが何故かお揃いの三人の男達。

 上半身裸の男。線の細い優男。ケバケバしい髪色と化粧の二人の女。

 

 そして、それらの中心に立つ、スキンヘッドの日に焼けた男と坊主頭の鋭い眼光の男。

 

「室谷はん……島木はん……」

 

 木場と言われた男がゆっくりと立ち上がると、室谷と呼ばれた坊主頭の男に顔面に向かって真っ黒のスーツケースを放り投げられた。

 

「がふっ」

「ぶはは! がふっ、やて、がふっ」

「どんくさいわー。こいつ、今回こそ死ぬんちゃうか? 賭ける? 俺、一万」

「うわっ、お前ずっこいぞー。なら俺も死ぬ方に五万~」

「お前、さっきパチスロですって財布空っぽやんけ」

 

 木場の醜態に後ろの三人組が笑うが、木場はそんな彼等を睨み付けることすら出来ず、気色悪い愛想笑いを浮かべる。

 そんな自分に再び情けなさが込み上げてくるが、室谷は「ええ加減脱げい。お前の粗末なモンなんか誰も見とらん」と言いながら、「それよりそこ退け。邪魔や」と言って、木場を退かす。

 

「――始まるで」

 

 そう、室谷が呟いた途端、無機質なワンルームに不気味な音楽が流れ出す。

 

「…………え? なんやこれ? 新喜劇?」

 

 初々しいリアクションだ。自分が初めてこの部屋を訪れた時と、全く同じ反応を見せる見ない顔。きっと、怯えたような表情を見せる彼等が、室谷が言っていた新入りなのだろう。

 

 見ない顔も、見たことがある顔も、自分以外のこの部屋にいる人間達は、けれど全員――同じ服を着ている。

 

 同じ衣を――黒い衣を、纏っている。

 機械的な、SF風の、光沢を放つ全身スーツ。

 

「な、なんなんやこれは! こんな――『GANTZ』のコスプレさせて……これから何が始まるんや!!」

 

 そう、あの日――世界が変わった日。

 全世界にその存在を明らかにした、対星人用特殊部隊――『GANTZ』。

 

「あー? そんなん決まってるやん。だって、()()()()G()A()N()T()Z()()()()()()

 

 怯えた表情など欠片も見せない。

 余裕と、愉悦と、そして圧倒的な自信で満ちた表情の――この部屋に染まりきった、先住民は言う。

 

「楽しい、楽しい――星人(バケモン)退治や」

 

 愉快な音楽が終わり、黒い球体の表面に、真っ黒な狩人の今宵の獲物が表示される。

 

 

【てめえ達はこいつをヤッつけてくだちい】

 

《ぬらりひょん》

 

 

「さぁ――いくで」

 

 先住民達の表情は笑みで統一され、新住民達の表情は不安の一色になる。

 

 そんな中、木場だけは唯一。

 とぼとぼと、まるで隠れるように、一人で廊下に出て全裸になって着替えを始めた。

 

――『GANTZ(おれたち)が――世界を救ってみせる』

 

「…………」

 

 そう全世界に向けて、かつてと同じく黒い剣を掲げて宣言した、あの世界で肩を並べて、いつの間にか手の届かない場所で輝き続ける男と、同じ色の服に、袖を通す。

 

 人間を超人にするスーパースーツ。

 だけど、木場には――それは、あまりにも重い色だった。

 

「……わいは――」

 

 そして、かつて戦士であった、けれど戦士ではなくなった、そして未だに戦士ではない男は、何も出来ない戦場へと送られた。

 

 かつてのように剣も持たず――勿論、なくした正義も持たずに。

 




人間達の知らない裏側で、化物達も動き始める。

近付いている、“くらいまっくす”に向かって。


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Side八幡&陽乃――⑤

君達は――戦士だ。その仕事とはつまり、戦争をすることだ。


 

「知らない天井だ」

 

 最早、どれだけ使い古されたか分からない、とある作品の主人公の有名な台詞。

 ある日、唐突に、世界を救うという重責極まる役割を大人達に背負わされ、見知らぬ環境に放り込まれ、孤独にぽつりと呟く――独り言。

 

 世界を救う使命を担う秘密組織――フィクションにはありがちな設定で、その主人公も当たり前のように怪しさ極まるそんな組織に取り込まれていたけれど。

 まさか、自分が同じような立場になり、同じような台詞を呟く日が来るとは……人生、分からないもんだ。

 

 あのアニメとは違い、此処は美人上司の汚部屋の一室というわけではなく、まるでどこかのホテルのような小奇麗な場所だが。

 清潔感に溢れている分、一切の個性というものが排除されている――誰のものでもないような、何処にでもあるような部屋。

 

 天井も高く、数える染み一つない。

 ベッドも二つあり、テレビは大きくはないが薄型で恐らくは最新式と思われるものが用意されている。大きな姿見鏡、ポットやドライヤーまで完備。シャワーやトイレまであって、本当にホテルじゃないかと思えるような至れり尽くせりぶり。シ〇ジくんに申し訳ないくらいの歓迎ぶりだ。

 

(……穿った見方をすれば、まだお客さん扱いってことか)

 

 この部屋が俺の私物で埋まり、生活感というものが溢れるまで――ここが俺の新しい『部屋』になるまで、果たして生き残れるのかどうなのか。

 

 それは、今日からの俺の働きぶりに掛かっているのだろう。

 生活を豊かにしたければ、働くしかない。俺はもう、学生でもなければ、巻き込まれただけの子供ですらないんだから。

 

 あの主人公とは違い、自ら望んで、就職活動の末に――この場所にまで辿り着いたのだから。

 

 そんなことを考えながら、俺が半身を起こして――剥き出しの肌につけっぱなしのエアコンの風を感じていると。

 

「…………んぅ」

 

 俺が剥がしてしまった布団の中から、艶めかしい吐息が発せられた。

 まだ照明は点けていないが、俺と同じくエアコンの風でも感じたのか、徐々に吐息の主は覚醒していき、瞼を擦ってもぞもぞと温もりを探すように身悶え――俺の裸の腰に抱き着く。

 

 そして俺と同じく、何も身に着けていない生まれたままの姿の彼女は、その暴力的なまでの魅力を備えた大きく柔らかい乳房とすべすべの肌を俺に押し付けながら――俺に向かって笑顔を向けた。

 まるで、寝起きに初めて認識する存在が、俺であって本当に幸せだと言わんばかりに。

 

 ……そんなことを思い上がってしまって本当に恥ずかしい限りだが、少なくとも、俺はそんな思いだった。

 

 寝て、起きて――誰よりも近い場所に、すぐ手の届く距離に、彼女がいる。

 すぐにこの人を感じられる。触れられる。声が聞こえる。笑顔が見られる。

 

「おはよう、八幡」

 

 それが――幸せでなくて、なんというのか。

 

「おはようございます、陽乃さん」

 

 俺は、そんな思いを込めて、世界で最も愛しい人の名前を発した。

 

 陽乃さんは、ぱちくりと瞬きをしながら一瞬呆然とし、辛抱たまらんといった表情を爆発させると――突如、その凶悪で巨大な胸部で俺の顔面を挟み込むように飛び掛かり、再び俺をベッドの中に引き戻した。

 

 ……いや、流石に朝からはしないよ。

 じゃあ昨晩はお楽しみでしたねって? 言わせんな恥ずかしい。

 

 こんな感じで、俺――比企谷八幡の、世界を救う秘密組織CIONでの生活――その記念すべき一日目の朝は幕を開けた。

 ……いや、マジですまんなシン〇くん。笑えばいいと思うよ。

 

 

 この後、滅茶苦茶イチャイチャした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その数時間後――俺は、信じられないものを目撃した。

 

「……なん……だと……ッ」

 

 朝から陽乃さんと甘ったるい時間(R-17)を過ごし、二人して最早普段着のように着こなしているガンツスーツへと着替えた後、揃って朝食の為に食堂っぽいスペースへとやってきた。

 

 まぁ、食堂というよりは、ショッピングモールとかにあるフードコート的な広さの場所にテーブルと椅子が敷き詰められていて、自動で食事が出てくる自販機みたいなものが壁際に設置してあるだけのシンプルなものなのだが(メニューは流石に世界征服している組織だけあって全世界の料理がこれでもかと用意されていたが)、俺達の他に人は居らず、ガラガラの空間に俺と陽乃さんはぽつんと並んで席を取って、各々が選んだメニューを大した時間も掛けずに完食した。

 

 味は絶品というわけではないが普通に美味い程度のもので(陽乃さんも特に味に不満はないようだった。表情を輝かせるという程ではなかったが)、陽乃さんが先程の食事自販機の中のドリンクメニューにあった紅茶で食後の一服をしている中、俺は用を足そうと食堂を出て、トイレへと向かう廊下の中で――それに出会った。

 

 まるで人目を避けるように、何もない廊下にぼっちに佇むそれは――終ぞ、俗世では出会うことなく、もう会うことも出来ないであろうと思っていた、諦めていた、それがずっと心残りだった、会いたくて会いたくて震えた相手だった。

 

 俺は――再び震え出した手を、そっと――その素敵な黄色いボディへと伸ばす。

 

 選ばれたのは――マッ缶でした。

 

「……お、おお。おお! これが――マッ缶仕様の、マッ缶専用の自販機か! ……期間限定といっていたから……もう会うことも見ることも出来ないと思っていたが――ッ!?」

 

 今年の冬から春にかけて、最寄りのららぽに設置していたらしい、このマックスコーヒー専用自販機。

 行きたくて会いたくてたまらなかったが、今年の年度末はそれどころではなかった為、結局お目通りは叶わず、心の奥底にずっとしこりが残ったままだったが――まさか、こんな場所で、その念願が叶うなんて!

 

 俺は思わずスマホを取り出しインスタにアップしかけたが、スマホは家に置いてきたしそもそもインスタもやってなかったしイイネを貰える友達もいなかったことを思い出して歯噛みした。この素晴らしさを全世界に発信出来ないなんて……俺は何て無力なんだッ!

 

 その後、自販機裏側の成分表示を確認して芸の細かさにコカ・コー〇の愛を感じ、尿意を忘れて今のマッ缶のデザインのポップさに改めて可愛さを感じていると――ふと、大事なことに気付く。

 

「……そうだ。これがあるってことは、これからもマッ缶を愛飲し続けることが出来るってことじゃねぇか……ッ」

 

 スマホは簡単に捨てられたが、日本ですら一部地域でしか愛されていないマッ缶だけは……中々捨てる決心がつかなかった。俺にとっては愛煙者にとっての煙草、愛酒者にとってのアルコールに等しいので(それを陽乃さんに言ったらまるで薬物中毒者を見るような目で見られた)、ぶっちゃけ数箱分は一緒に持ってくるつもりだったが、結局、この場所(CION)への転送も予定外の形とタイミングになった為、一箱どころか缶一本すら持ってこられなかったことに、昨夜は自分を殴打しそうになったものだ。正直ショックを隠せなかった。

 

 だが、今――目の前には夢のような光景が広がっている。

 一段目も二段目も、そして当然三段目もマッ缶マッ缶マッ缶。

 マッ缶によるマッ缶の為のマッ缶自販機がここにある。そうか、アヴァロンはここにあったんだ。

 

 今、買わなくて何処で買う? 絶対に摂らなくてはいけない糖分が――此処にはある!

 

 俺は流れるように130円を放り込もうとして――そこで初めて、財布を持っていないことに気付いた。

 

「…………馬鹿なッ!?」

 

 金が――ない!? というか、金を入れる投入口が、この自販機にはない!?

 

 ……なん……だと……ッ。

 この期に及んで、ここまで来て、こんなアルカディアを前にして――俺はマッ缶が飲めないというのか……ッ。

 

 思わず腐った双眸に涙を溢れさせかけ、無力感に膝を折って絶望に暮れかけた俺の前に――すっと、細い腕が自販機に向かって伸びる。

 

「いやいや。普通に無料(タダ)だから。ボタン押せば出てくるから。さっきの食堂(フードコート)の自販機もそうだったでしょう?」

 

 ピッ、と軽やかな機械音の後に、ガコン、と商品が落ちる音。

 自販機の底の取り出し口から、見慣れた黄色と茶色の缶を取り出すと、それを俺に見せつけるようにしながら――彼女はいたずらっぽく俺に微笑みかけた。

 

 それはやはり、俺の良く知る彼女にそっくりの顔で――でも、俺が全く見たことのない表情だった。

 

「やっぱり親子だね。味覚が同じくらい狂ってるよ。このコーヒー入り練乳の、どこがそんなに美味しいんだか」

 

 そう言いながら彼女は――光沢のあるボディスーツで強調された、その峰不〇子みたいな胸部を更に強調するように、腰に手を当てながら体を逸らし、全千葉民が愛するソウルドリンクを飲み干すと、笑顔で俺に向かって言う。

 

「――うん! 不味い! 飲めたもんじゃないね!」

 

 由比ヶ浜結愛は、そう言って、空になった缶を自販機の隣のダストシュートへと放り込んだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 やはりというかなんというか、あのマッ缶自販機は親父が設置したものらしい。

 

「はるるんの鬼のような希望でね。ららぽで期間限定で使われなくなったアレを、そのままこの本部に持ってきたんだよ。管理とか補充とかあの自販機だけ個別でしなくちゃいけないし、そもそもマッ缶自体はるるん以外飲まないから、他の職員からは鬼のように不評なんだけどね」

 

 あのクソ親父は職場でも大層に嫌われているらしい。ざまあ。

 だが、この件だけは素直に感謝してやってもいい。グッジョブ親父。

 

 憧れのマッ缶自販機に満足いくまではしゃいだ俺は、完全に消え失せた尿意を無視して、無意味にホットとアイスの両方で一本ずつ(無料で)購入したマッ缶を両手に、由比ヶ浜結愛と並んで食堂へと戻る。

 

(…………本当に、ここで親父達は働いているんだな)

 

 俺は親父達と旧知の仲だという女性の横顔を見ながら、そんなことを思う。

 

 無機質な廊下だった。

 廊下だけではなく、食堂も、個室も、どの部屋もどの設備も、全く個性というものが感じられない――無色の空間。

 

 いや、その無色でこちらを圧迫してくるような、全てを無色で塗り潰そうとしてくるかのような、そんな支配的な色で満たされた空間。

 だとすれば、やはり――この無色は、黒なのだろう。

 

 黒で支配された職場――世界を支配する漆黒の組織――『CION』。

 

(一晩経っても、全く慣れる気がしないな)

 

 昨夜――あの慣れ親しんだ『黒い球体の部屋』に別れを告げた後、転送されてきたのは、事前のパンダの宣言通り、秘密組織CION本部のロビーだった。

 そこはやはり無機質で、清潔感にだけは溢れた、人間味は悉く排除された――無駄なものを一切排斥した、どこにでもあるような場所だった。

 

 まるで、あの『黒い球体の部屋』のように。

 だだっ広いフロアの中心に――ぽつりと、『黒い球体』のみが存在するフロア。

 

(……俺が知ってる()()()()()()()()()よりも数回り大きかった気がするが……それでもあれは――あれも、紛れもなくガンツだった)

 

 俺が知るあの『部屋』にも黒い球体(ガンツ)が置かれたリビングの他に廊下や別室と繋がる扉があったのと同じように――あの『ロビー』にも、他の部屋へと繋がる扉、というより、他の(フロア)へと繋がる、他の(フロア)へと転送させるエレベーターのような役割を持つ黒球が配置された部屋への扉はあったけれど、それ以外には基本的には何もない、受付もなければ受付嬢もいない、あの黒い球体以外何もない場所だった。

 

 それはある意味で、黒い球体(ガンツ)を背後で操る黒幕組織には、相応(ふさわ)し過ぎる仕様なのかもしれないけれど。

 

(……『ロビー』にも『食堂(フードコート)』にも、そして俺らに与えられた『個室』にも、この建物の外に出る扉はない。窓すらない。ここがどこも分からず、自分がどこにいるかも分からない。……例え、内部に入り込もうとも、更に徹底される秘密主義――か)

 

 それは俺が、俺達が新参者だからなのだろうか。

 信用や信頼を勝ち取っていない新入りだから――なのだろうか。

 

 ……この人は――由比ヶ浜結愛は、知っているのだろうか。

 俺が知らないことを、知っているのだろうか。

 

 この組織のこと、あの『大きな黒い球体』のこと――そして。

 

 CION(ここ)で働いている、俺の知らない比企谷晴空(おやじ)比企谷雨音(おふくろ)のことを。

 

「……あの、由比ヶ浜さ――」

「あ! やっはろー! フォトくん!」

 

 俺が隣を歩く由比ヶ浜結愛に声を掛けようとした、その瞬間、会話を露骨に拒否るかのように(違うよね? たまたまだよね?)、彼女は途端に歩くスピードを上げ、誰かに向かって駆け寄っていった。

 

 未だにガラガラのこの食堂(フードコート)は、まるで俺と陽乃さんの貸し切りのような状態だった筈だが、彼女の知り合いでも新たにやってきていたのだろうか――それはつまり、俺らの先達、先輩ということか。

 

 バイト先の先輩とすら上手くやれた試しのない俺は、やだなーこわいなーという思いと共に、その方に目を向けると――そこには、引き攣った笑顔の陽乃さんと、その向かいで笹を食っているパンダがいた。

 

「………………」

「………………」

 

 俺は陽乃さんの無言のヘルプコールに、黙って従い、足を進めた。

 

 ……フォトくんって、アンタかよ。

 てかこの食堂の自販機、まさか笹まで出てくるのだろうか。きっと本場(中国産)の良いやつに違いない。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 

 ここに来て初めて知ったが、このパンダ(♀)は『要塞(フォートレス)』くんというらしい。名前というより異名のようなものらしいが。少なくともリンリンと呼ばれるのよりは悪い気はしないようだ。

 だが、そんな厨二――けぷこんけぷこん、もとい、威厳溢れる異名をフォトくん呼ばわりする所に(カメラのCMキャラみたいな名前だ)、そこはかとない由比ヶ浜家DNAを感じるが、まぁ、今はそれは置いておこう。これからも俺はパンダと呼ぶだろうし。

 

 今はそれよりも、思わぬ形で始まった、この新入社員オリエンテーションに集中するべきだ。

 俺はまずつめた~いマッ缶のプルタブを開け(どっちか飲むかを尋ねたら陽乃さんに即答で両方とも遠慮された。解せぬ)、寝起きの頭に存分に糖分を補充しながら、笹を食べ終えたパンダの第一声を受け止めた。

 

「――どうだ? 昨夜はよく眠れたかね? 新たなる部隊戦士達よ」

 

 昨夜のロビーと同じく、だだっ広いだけの無機質な空間である、この食堂(フードコート)

 

 無数に並ぶ中の一つの小さなテーブルに、俺――比企谷八幡と、その隣に座る雪ノ下陽乃。

 俺の真正面の向かい側には、今さっき自販機で購入してきたのか、俺に見せつけるように直方体のハニトーを食べる由比ヶ浜結愛。陽乃さんの正面には、七夕飾りみたいな笹の葉を食べ尽くした要塞の名を冠するパンダ。

 

 たった四人だけが、ぽつんと小さく寄り集まっている。

 

 ……全く、昨日はロビーに着いたら、俺らの新たな住居になる個室に案内した後はさっさと消えた癖に。本当に子供を振り回す大人達だ。

 

 まぁいい。とりあえず腹ごしらえをしたはいいが、この後はどうすればいいのか何も分からなかったのは事実だ。

 分からないことを説明してくれるってなら、それが早いに越したことはない。

 どんな形でさえオリエンテーションをやってくれるってなら、何の説明もなく戦争に放り込まれていた『部屋』時代と比べたら破格の待遇といっていい。

 

 だからこそ――逃すな。

 一言一句、脳内にメモを刻み込む意欲で臨むんだ。

 

 これから先、しくじったら待っているのは減俸ではなく、落命なんだから。俺らはもう、子供ではなく――社畜なんだから。

 聞いてませんでしたじゃ済まされない。覚えてませんでしたでは話にならない。

 

 そういうブラック企業に、俺らは就職しちまったんだから。

 

「お陰様でな。久しぶりにぐっすり寝られた気がするよ。……で――」

 

 俺は――隣の陽乃さんと一度アイコンタクトをして――パンダに向かって言葉を返した。

 

「――俺らは、これから何をすればいい? あの綺麗な個室の家賃分くらいには、身を粉にして働くつもりだぜ」

「うっわぁ~、殊勝だね~。はるるんの子とは思えな~い」

 

 由比ヶ浜結愛は口元に生クリームを付けながら、こちらを嘲るように言った。

 ……由比ヶ浜と同じような顔で、けれど由比ヶ浜が終ぞしなかった表情を見せるこの人には、常に俺に何かを突き付けるようで――本当に、ありがたい。

 

 だからこそ、この人がこのオリエンテーションに同席していることに、俺からは何も言えない。

 そもそも情報源は多いに越したことはないしな。一つの情報を二つの視点から語ってもらえるのは、それだけ詳細にポイントを把握できる。

 

 俺は「親父達の社畜DNAを大いに受け継いでいるんでね。俺は養われる気はあっても施しを受ける気はないんですよ。与えられる報酬分は働かないと気持ちが悪いんです」と嘯くと、由比ヶ浜結愛は「うわぁ~、やっぱりはるるんの子供だね~。なんか言いそ~」と楽しそうにハニトーをもう一口含む。

 

 そんな俺をフォローするように、今度は陽乃さんがパンダに向かって問い掛けた。

 

「話を戻すけど、パンダさん。わたしたちは今後、どんな風に行動すればいいのかな? 『部屋』時代と同じように、ミッションが始まったら強制的に招集を受けるの?」

 

 陽乃さんの問い掛けに、パンダはつぶらな瞳を向けながら、低く渋い声で答えた。

 

「基本的にはそうだ。普段はこの施設内で好き勝手に過ごせばいい。この後、この建物内のそれぞれの『(フロア)』の『渡り方』を教えるが、この施設内には『外の世界』にある大概の施設は揃っている」

 

 欲しいものは大抵手に入れることが出来るだろう――そんなパンダの言葉に、俺は眉を顰めながら、マッ缶を啜る。

 

 ……外の世界、か。

 やはりというべきか、基本的に一度この本部の中に入った戦士を――内側に取り込んだ戦士を、こいつらは簡単には外に出す気がないらしいな。

 

 そもそもこんな場所(CION)に来るような奴等の殆どが、外の世界に未練を残しているとは思えないが――俺らのように、全てを断ち切って、此処にいるだろう。どんな戦士も、全てを捨てて、こんな地獄に飛び込んでいるんだろう。

 

 俺はちらりと、全く人の気配のない周囲の席へと目を配らせ、パンダに言う。

 

「――他の戦士は、その別のフロアとやらにいるのか? それこそレストランとかも完備されてて、そこで優雅にブレックファーストってるとかなの?」

 

 パンダは俺の言葉に「レストランは完備されているが、そういうわけではない。そもそも、そこの自販機には世界中のあらゆる料理が提供できる機能がある。わざわざ別の場所に食べに行く必要もない」と嘯くと(じゃあ何でレストラン作ったんだよ)、獣の瞳で俺の腐った眼を見詰めながら言った。

 

 

「他の戦士の多くは、それぞれの『支部』に居る。ここはあくまで『本部』だからな。一部の職員はここで働いているが、大半の前線戦士は、ここにはいないのだ」

 

 

 ……支部?

 初めて聞くそんな言葉に、俺は思わず陽乃さんと顔を見合わせると、由比ヶ浜結愛が補足するように言った。

 

「ここは、あくまでCIONって組織の運営本部なんだよ。あたしとかはるるんとかあおのんとかが例外で、普通の現役戦士は、それぞれの各支部の所属になって、各支部の『フロア』にいるんだよ」

「無論、君達も例外ではない」

 

 そしてこれが、これこそが、今回の新入戦士オリエンテーションの主題だ――と、パンダは渋い声で、俺達に再び決断を迫る。

 

「君達は――戦士だ。その仕事とはつまり、戦争をすることだ。働きたいというのなら、家賃を稼ぎたいというのなら、これから存分に戦い、存分に殺したまえ」

 

 そして、選びたまえ。これから君達が赴く戦場(職場)を。

 

 パンダはそう言って、何も知らない俺らに、世界を知らない俺らに、優しく丁寧に地獄を説明してくれた。

 世間を知らない子供のような新入りに、社会の厳しさを教え込む大人の先輩のように。

 

 CIONという組織の仕組み、そして、これから赴く戦場(支部)――新たな戦争(ガンツミッション)について。

 

 それはすなわち、俺と陽乃さんの、新たな黒い球体の物語の始まり。

 

「……………」

 

 俺は、あったか~いマッ缶のプルタブを開けながら、脳に更なる糖分を補充した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 この無機質な食堂には、時計すらない。

 

 だから正確な経過時間は分からないが、オリエンテーションが終わったのは、由比ヶ浜結愛が巨大なハニトーを食べ終え、さらにもう一個お替りも食べ終えた頃だった。……甘い物は基本的に好物な俺だが、そんな俺でも胸焼けがする光景だった。……きっと全部のカロリーが――いや、なんでもないです。だから陽乃さんそんな目で見ないで。

 

「――以上が、このCIONという組織の簡単な構図だ。理解出来たかね?」

 

 パンダのその言葉に、陽乃さんは間髪入れずに頷いた。

 ……そんな陽乃さん程には迷いなく首を縦には振れないが、俺も基本的には理解出来た、と思う。

 

 整理しよう。

 

 GANTZを、そして世界を裏で操る組織――CION。

 CIONは、世界中に『黒い球体の部屋』を配備し、『戦士(キャラクター)』を量産する。

 そして『表舞台』へと存在が露見しそうになった『星人』を『戦争(ミッション)』で狩ることで、星人の存在を隠しながら『終焉(カタストロフィ)』へと備えてきた。

 

 更に、各『部屋』で頭角を現した一部の有望な『戦士』達を、『まんてんメニュー』と、『勧誘(スカウト)』からの『入隊試験』によって、『部屋』から『部隊』へと引き抜きを行い、同時に終焉(カタストロフィ)に備えた戦力の確保も行っていた。

 

 CIONが誇る『部隊軍』は、大きく五つの『支部』に分かれている。

 というよりも、五つの支部が、それぞれ固有の部隊軍を持っているという形になっている。

 

 五つの支部とは―――。

 US(アメリカ)

 EU(ヨーロッパ)

 CN(中国)

 RU(ロシア)

 そして――JP(日本)

 

 ……正直、この並びに日本が単独で存在していることに少し疑問を覚えるが(アジア支部とかで一個に出来そうだが)、このような形になっているらしい。……その辺りの経緯にも色々ありそうだが(親父達がCIONの創成期からの古株メンバーらしいくらいだし。陽乃さんはその時に知ったCIONの余りに浅い歴史に絶句していた)、それはまあ今の俺達には関係のないことだろう。

 

 その他にも。

 四天王的なキャラである(六人いるらしいが)『主要幹部』――そして、その主要幹部らが持つとされる『私兵部隊』とか(昨日の『CEO』とやらもこの主要幹部の一人、というか組織全体の№2らしい。そんなお偉いさんとタメ口とか親父どんだけ)。

 霧ヶ峰が所属したっていう組織の№1である《天子》とやらが持つ『《天子》直属部隊』とか(中坊どんだけ)。

 五つの支部のいずれにも所属しない特殊なポジションである『本部職員』(母ちゃんとか由比ヶ浜さんとかはこのポジションになるらしい)とかがあるそうだが。

 

 しかし――これらは就任条件もかなり特殊で、なろうと思ってなれるもんじゃないらしい。

 

 基本的に、CIONの本部へと足を踏み入れた『部屋』上がりの戦士達は、こうして『オリエンテーション』を受けた後、速やかに自分が所属する『支部』を選択し――『転送』されるそうなのだ。

 

 自分の所属支部へ――新たな職場へ。知らない戦場へ。

 

「転送って……また引っ越さなきゃいけないの? あの『個室』がこれからのわたしたちの住居になるって、パンダさん昨日言ってたよね?」

「いや、君達の『住居』フロアから、それぞれの『支部』フロアへは転送により直接移動可能だ。あくまで、所属支部は君達の新しい『職場』だと考えてくれればいい」

 

 ……確かに、個室のフロアから、この食堂のフロアにも、昨夜に使用した『移動用黒球』が勝手に転送してくれた(どこに行けばいいのか分からなかったから、その黒球くらいしか手掛かりがなかったのだ。何すればいいかも何処に行けばいいのかも分からなかったからな。取り敢えず、その黒球のとこに行ってみたら、この食堂に転送されてきたってわけだ)。

 

 つまり、今度からはあの黒球が、この後に決めることになる所属支部に、これから毎日転送してくれるってことか。通勤時間ゼロとかそりゃ便利なこって。

 

「…………」

 

 職場――すなわち、このCIONという大きなビルに、それぞれの『支部』が『(フロア)』として存在していると考えればいいわけか。……スケールが大き過ぎて、頭がおかしくなるな。

 

 勿論、それがあくまで比喩で、それぞれの国の支部がそれぞれの国土にあるとしても、移動手段として使っているのが『転送』ならば何の問題もないわけ、か。

 もっと言えば、俺らが一晩寝て起きたあの『個室』と、優雅に朝食を摂ったこの『食堂』が、まったくの別の場所で、もしかしたら別の国土ってことも――というか、だ。

 

「ちなみに、この『本部』はどこの国にあるんだ? 俺らは今現在、世界のどこにいるってことになるんだ?」

「それを知るのは天子様やCEOら一部の者だけだ。私も知らん。彼ら曰く、『どこでもあって、どこでもない』らしい」

 

 どこでもあって、どこでもない――また哲学的な答えだが、ガンツの『転送』を考えると、場所なんてものに意味がないように思えるのも事実だな。

 まぁ、パンダでさえ知らないってことが分かっただけでも十分だ。それはつまり、知らなくていいことだってことだからな。知らない方がいいことなのかもしれない。

 

 話を戻そう。

 今、重要なのは、求められているのは、迫られているのは―――新たな戦場となる職場を選ぶこと。

 

 その為に重要になってくるのが――『上位幹部制度』、すなわち『ランキング』。

 

「これから君達は、所属した『支部』が保有する『部隊』の一員となり、その部隊に依頼された『戦争(ミッション)』に参加することになる。そこで点数を稼ぎ、評価を得て、ランキングを上げることに終始することになるわけだ」

 

 戦士(キャラクター)ランキング。

 それぞれの支部が保有する部隊の戦士達は、それぞれの支部内においてランキング付けされることになるらしい。

 

 世界各地の『部屋』から集められた、選りすぐりの戦士達によって構成される『部隊軍』。

 そして、その中の上位十名が――各『支部』からそれぞれの『部隊軍』の上位十名、つまり、この世界で僅か五十人のみが選出されることになるそれらは『上位戦士』と呼ばれ、特別な権限を持つ、特別な戦士と“上”に認められたことを意味する。

 

 何故なら『上位戦士』とは、同時に『上位幹部』と呼ばれ――文字通り、CIONという組織に置いて、『幹部』の地位を確約された証であるからだ。

 

 一介の使い捨ての戦士(モブキャラ)から、世界を征服する組織の幹部にまで上り詰めた死人達。

 そもそもこのランキングシステム自体が、星の数ほど存在する戦士(キャラクター)達の中から、より有能な――より有用な戦士を判別し易くするための制度って話だ。

 

 つまり――『上位戦士』になれば、CIONにとって分かり易く貴重な戦士だと認識させることが出来る。

 

 十把一絡げに戦場に放り込むなんてことはされない――出来ない。

 CIONにとっても大事に使わなければならない大駒――捨て駒に出来ない、兵力。

 

 兵力であり――戦力であると、そう認められた戦士ってことだ。

 

「それもまぁ一概には言えまい。一長あれば、一短もある。『上位戦士』となれば、確かに様々な面で優遇はされるだろうが――その分、その実力に応じた、より厳しい戦場に、より強い星人の元へと派遣されることも増える」

「だが、その分――より『物語』の表層に近い場所へと行けるのも確かだ」

 

 そもそも、俺が何故こうして、あの『部屋』を出て、わざわざ黒幕の総本山へとやってきたのかといえば、偏に――より『真実』に近づく為だ。

 

 どうせ俺はもう、この闇の中からは抜け出せない。

 ならば――より真実に近い場所で、より物語の重要人物になると、そう心に決めたからだ。

 

 この複製の魂に――誓ったからだ。

 

 その為に俺は、愛すべき千葉を捨て――ありとあらゆる、全てを切り捨てて、ここに来た。

 

 世界中を包む黒い闇の深奥に。

 黒い球体を巡る物語の中心に――だから、俺は。

 

「……俺はもう、死ぬわけにはいかない」

 

 比企谷八幡という救いようのない愚か者が死んだことから始まった、この救いようのない物語は、最早、俺が死ねば終わるという優しい物語ではなくなった。

 

 俺は生きなければならない。俺は死んではならない。俺は幸せにならなくちゃいけない。

 

 その為に――どこにでもいる戦士Aではなく、台詞も与えられない一般人Bでもなく、この黒い球体の物語の主要キャストにならなくちゃいけない。

 

「俺は――終焉(カタストロフィ)を生き残らなくちゃいけない」

 

 例え世界が滅んでも、俺は死んでも生き残らなくてはならない。

 

 恐らくは世界中の人間の殆どが死に絶えるであろう、そんな終焉で生き残る為に、半年後に確定された終末を乗り越える為に――その残された半年で進むことの出来る、最も生存確率の高い選択肢(ルート)は。

 

「――だから……俺はならなくちゃいけないんだ」

 

 簡単に使い捨てられるような、使い潰されるような戦士Aではなく。

 世界各国にばら撒いた無数の『部屋』の中の一人の戦士Bでもなく。

 

 この物語を動かしている、あの終焉を描いている黒幕達にとっての――登場人物(ネームドキャラ)に、ならなくちゃいけない。

 最低でもエンドロールの一頁目に名前が載るくらいの人物でなくちゃ――終焉(カタストロフィ)は生き残れない。

 

 そうだ――勝たなくていい。

 地球が負けようが、人類が滅びようがどうでもいい。

 

 俺の最終目標は、不幸に生き残り、幸福に死ぬこと――それだけだ。それだけは忘れるな。

 

 残された時間は少ない。

 だが――お陰で、目指すべき目標は明確になった。

 

 

「上位幹部に、俺はなる」

 

 

 折角、世界を支配する組織にコネ入社したんだ。

 このまま何食わぬ顔で、エリート出世街道を突き進む。

 

 堂々と――真っ直ぐに。卑怯に卑屈に、最低に。

 

 俺はきっと悪の組織に相応しいであろう、真っ黒な笑みを浮かべながら、そう目の前のパンダの黒い瞳を見詰めた。

 




比企谷八幡は、黒い球体の黒幕組織で、より深い闇の中へと足を進める。


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Side八幡&陽乃――⑥

 

 上位幹部に、俺はなる。

 

 そんな主人公感溢れる決意の台詞を――目の前の美女は、ハニトーの残滓(のこりかす)(ねぶ)りながら、下らないものを侮蔑するように吐き捨てた。

 

「――はぁ? 無理でしょ」

 

 小指に付いた生クリームを、その真っ赤な舌を伸ばしながら掬い取る。

 けれど、その俺を見据える瞳は、そんな妖艶な仕草がマッチして――恐ろしく、冷たく見えた。

 

「……八幡くん。話、聞いてた? それとも聞いてた上で――そんな妄言を、宣ったのかなぁ?」

 

 それはまるで、かつてのとある魔王を彷彿とさせる雰囲気で――そして、今、俺の隣に座るかつての魔王が、かつてよりも遥かに恐ろしい雰囲気を身に纏い、放ちながら応える。

 

「はぁ? どういうことです? うちの八幡には無理だって言いたいんですか?」

「いやぁ、無理じゃない? 陽乃ちゃんなら、入る支部を選べば、もしかしたらいけるかもしれないけど――八幡くんじゃあ、ねぇ。分かってる? 終焉(カタストロフィ)まで、後たったの半年しかないんだよ」

 

 陽乃さんは身を乗り出して攻撃的な視線をぶつけるが、由比ヶ浜さんはそれに乗らず、そのまま席を立って「ハニトーお替りしてこよ~」と自販機にふらふらと行ってしまった。……まさかの三個目か。糖尿とか大丈夫なんだろうか。同い年の親父はマッ缶すら一日一本って母ちゃんに制限されてるんだが。

 

 本人が目の前に居ると考えただけで殺されかねないことを思いながら、俺は由比ヶ浜さんが席を立ったのを見遣ると、そのままパンダの方に視線を向けて言った。

 

「……で、どうだ? お前は、俺がトップ50にランクインするのは不可能だと思うか?」

「不可能とは言わない。――だが、非常に厳しいのは、由比ヶ浜結愛が言う通り、事実だ」

 

 パンダは黒真珠のような瞳に、俺を映しながら淡々と言った。

 

 そして、そんな真っ黒な世界に映し出された俺は――腐った表情で、そんな誰かを嘲笑っていた。

 

「――ハッ、だろうな」

 

 そもそもの話――果たして『部隊軍』の戦士が総勢で何人いるのかは知らないが、終焉(カタストロフィ)に向けての主力部隊として用意されている兵力だ。百やそこらじゃないだろう。

 

 さらに、その一人一人が、あのふざけたデスゲームに適応した適格者であり、頭角を現すことに成功した文句なしの怪物達だ。

 俺は運よくコネ入社に成功したが、本来の正しいルートを潜り抜けた戦士は『まんてんめにゅー』――100点クリア×10回、すなわち総額1000点に達した戦士であるらしい。俺なんかだと十回死んでも辿り着けるか怪しい数字だ。

 

 つまり――俺は前提として、大前提として、『部隊軍』の戦士達の中で飛び抜けて強いわけじゃない。むしろ下から数えた方が早い、ていうか俺より弱い戦士がいるのかって話だ。

 そんな俺が、選ばれしトップ50に――しかも、たった半年で『上位幹部』になろうなんて宣うんだ。そりゃあ、由比ヶ浜さんもハニトーを欲するってもんだ。イライラで糖分がいくらあっても足りないだろう。

 

「けど、不可能じゃない。可能性はゼロじゃない」

 

 例え正攻法が通じなくとも、正道を歩む資格がなかろうとも――可能性はゼロじゃない。

 俺が邪道のコネ入社でCIONに辿り着いたように――何事にも、裏道を通る裏ワザは存在する筈だ。

 

「まず、もう一度確認したいんだが――戦士ランキングは、スコア制ではなく、アベレージ制で格付けされる。それは間違いないんだな?」

 

 そう――ランキングの評価基準が、これまでの『部屋』時代と同じく、加算式のスコア制であるならば、俺は『上位幹部』への道を早々に諦めざるを得なかった。

 

 スコア制であるならば、そもそもが点数を積み重ねる時間が圧倒的に足りなかったからだ。

 いくらCIONの歴史が浅いとはいえ、少なくとも俺が生まれる前からはこの秘密組織は存在している筈だ。それだけの期間で積み重ねられたスコアを、たった半年で上回れるとは、流石に思えない。

 それこそ、入隊条件と同じく百点クリアの数を競ったりしているのであれば、何回死んでも届きはしないだろう。

 

 だが――アベレージ制であるならば、平均スコア制度であるならば、話は別だ。

 

「その通りだ。『部隊』の戦士に求められるのは、有象無象の雑魚の殲滅ではなく、強大な脅威の撃破――ジャイアントキリングだ。故に、弱小星人を百体狩ることよりも、百点の星人を一体討伐することの方が遥かに評価される。故に――」

 

 戦士ランキングが評価項目として採用しているのは――アベレージ制度。

 つまりは、撃破星人の平均点数(アベレージスコア)だ。

 

「無論、これだけでは野球選手の打率や防御率のように、そもそも分母の数が少なければ良い値が出てしまうということになる。故に、こちらにも規定打席ならぬ、規定撃破数が存在する」

 

 十体――パンダはそう、新入戦士である俺達に最初のノルマを課した。

 たったの十体か、と俺は反射的に思ってしまったが、そもそもが求められている星人のランクが、倒すべき敵の強さの設定が、ミッションの難易度が、『部屋』時代とは違うのだ。

 

 求められているのは、1点2点の雑魚星人の処理じゃない。

 先程もパンダが言った通り、『部隊』の戦士に求められるは――巨人殺し(ジャイアントキリング)

 

 すなわち、これまでのミッションでいう――ボスクラスの対象の打倒。

 

 それを考えれば、十体という数は、決して少ない数じゃない。

 つまりは、ボスを十回撃破できなければ、そもそもが戦士ランキングに参加することすら出来ないというわけか――だが。

 

 半年で――十体。

 決して届かない――数では、ない。

 

 生存を絶望する、死を享受する、幸せを諦める――数字ではない。

 

「……そういえば、さっき由比ヶ浜さんが言っていたな。入る支部を選べば、陽乃さんなら可能性はあるって」

 

 俺は、提示された戦士ランキングへのノミネートへの壁に関する情報の精査をしながら、パンダに先程の由比ヶ浜さんの言葉に対する説明を求める。

 

 入る『支部』――入職する、『支部』。

 まるでトップ10に入り易い『支部』――『上位幹部』になり易い『支部』があるような口ぶりだったが……。

 

「それは――」

「――それは、あたしから説明するよー!」

 

 パンダが口を開き、その意外に怖い牙を見せたくらいの所で――その背後からハニトー(三個目)を持ってきた由比ヶ浜さんが二つの意味で割り込んだ。

 俺らに見せつけるようにテーブルの中央に置いたハニトーをもぐもぐと食べながら、由比ヶ浜さんはフォークの切っ先を俺に向かって突き付けながら説明を始める。

 

「そもそもの話――『上位幹部』っていうのは、『部隊』の戦士のトップ50じゃなくて、五つの『支部』が保有する部隊戦士の、それぞれのトップ10がなれる役職なんだよ。ここまではオーケー?」

 

 俺の腐った双眸を突き刺すように突き付けられる銀色のフォークから目を逸らさずに、俺は無言で頷いた。

 陽乃さんの舌打ちの音が隣から聞こえたが、俺はそちらにも何も言わずに思考する。

 

 ここは確かに、見逃せないポイントかもしれない。

 単純に強い戦士を評価するだけならば、わざわざ五つの支部で別々にランキングを作成せずに、全部隊戦士で合同で一つのランキングを作成し、その上位50人を選別すればいいだけの話だ。

 

 それをわざわざ『支部』毎に個別のランキングを作成し、その上位十人ずつを『上位幹部』としている理由は――各『支部』のパワーバランスを偏らないようにする為か。

 

「名目上は、そうだろうね。そもそもが、五つの支部は本部も含めて、上下関係にはない対等だっていう形をとってるんだよ。首脳会談は六角形のテーブルで行われるしね。名目上は!」

 

 嬉しそうに名目上という言葉を強調する由比ヶ浜さんだが、それはまあ、誰が聞いたってあくまで名目上だということは分かる。

 

 しかし、例え名目上だとしても、それは必要な制度なのだろう。

 本質的なピラミッドとしては本部が頂点なのは致し方無いとはいえ、各『支部』の中ですらヒエラルキーが出来てしまえば、生まれる必要のない確執が生じる。だが――。

 

(――そんなものは、どれだけ生むまいとしても生まれるものなのだろうがな……)

 

 教室という、わずか一部屋で形成される狭い世界ですらそうなのだ。

 ヒエラルキー。カースト。そんなものは、人が三人――いや、二人揃えば、自然と生じるものなのだ。

 

 俺のそんな思いを見透かすように、由比ヶ浜結愛は由比ヶ浜結衣が決して見せない色の笑顔で言う。

 

「まぁ、そうだよ。どれだけ対等だと言い張っても、五つの『支部』にはそれぞれのパワーバランスがある。それは『本部』が各『支部』に与えている『専門分野』に依るものもあるんだろうけど、そもそもの話――それぞれの支部が担当するエリアからして、それはしょうがないことだよね」

 

 専門分野――という話も気になったが、それはまた後で聞くことにして、俺はまず各『支部』が受け持つ『担当エリア』という単語について思考することにした。

 

 だがまぁ、これは読んで字の如しならぬ、聞いたそのままの意味だろう。

 そもそもが、各『支部』の名前が、そのまま大国の名前なのだ。

 

US(アメリカ)RU(ロシア)EU(ヨーロッパ)CN(中国)、そしてJP(日本)。日本を除けば、それぞれが世界の主要国とはいえ、当然ながら平等じゃないよね。この時点で、パワーバランスは生まれてる。ヒエラルキーも、カーストも生まれてる」

 

 平等じゃない、不平等が生まれている――由比ヶ浜さんは、そうハニトーにフォークを突き刺しながら言う。

 

 ……確かに、CION各『支部』に、それぞれ表世界の大国のパワーバランスがそのまま反映されるのであれば、それは確かにヒエラルキーも、カーストも生まれるのだろう。生まれるというより、既に存在しているのだろう。

 

 大きな話で言えば、先程のアベレージ制度ではないが――分母が違うのだ。

 CION本部が『支部』に、『部隊軍』に求めているのが『兵力』である以上、単純な話――数は、そのまま力になる。

 

 人口がそのまま、兵力に繋がる。

 

 星人が世界中に存在する以上、まさか各国に同じ数だけ『黒い球体の部屋』が用意され、同じ数だけの『戦士』を生み出しているというわけではないだろう。

 

 単純に考えれば、広い国土にはそれだけ多くの『黒い球体の部屋』が、人口の多い国にはそれだけ多くの『戦士(キャラクター)』が生み出されていると考える方が自然だ。平等というのなら、そちらの方が余程に平等だ。

 

 そんな平等から、当たり前のように不平等は生まれる。

 

 だが――しかしだ。それだと話は繋がらない。

 

「でも、それじゃあ、このオリエンテーションの意味がなくない? だって、それだと各『支部』が担当するエリアで生まれた戦士は、そのままその担当支部に入職しなくちゃいけないみたいじゃない」

 

 陽乃さんの言う通りだ。

 表世界のパワーバランスがそのまま『支部』のパワーバランスに繋がるというのなら、表の世界でその支部の担当エリアに住んでいた戦士は、そのまま地元の支部に就職しなくちゃいけないということになる。

 

 無論、オーストラリアやアフリカ、南米といった『支部』の名にない国出身の戦士もいるだろうが、担当エリアというくらいだ、何れかの支部がその辺りの国々もエリアとして担当しているのだろう。

 

 何より――俺らは、日本人だ。日本の千葉県にて、死に、生き返り、戦士となった。

 地元就職が既定されているのならば、今、俺達が受けているこのオリエンテーション――入職する『支部』を選択するというオリエンテーションは、何の意味もなくなってしまう。

 

「入職する『支部』は、自由だって話じゃなかったのか?」

「もちろん自由だ。話が少し複雑になったな。確かに、各『支部』にはそれぞれパワーバランスが存在し、それに表世界のパワーバランスが密接に関係しているのは確かだが、それは単純に地産地消が既定であるという話ではない。その辺りも、もう少し複雑な事情が絡まっているのだ」

 

 その辺りのことは、各『支部』の『専門分野』を語るのと同じく、もう少し後に説明しよう――と、ハニトーを口に含んで喋れない由比ヶ浜さんに代わって、再びパンダが主導となって説明を再開する。

 

「まず、君達には就職する『支部』を己で選択する権利がある。日本人だからと言って、日本の『部屋』で戦士になったからとは言って、必ずしもJP支部を選択しなくてはならないというわけではない」

 

 だが、そういった地元就職の戦士が多いことは確かだ――と、パンダは言う。

 それが担当エリアの主要大国のパワーバランスが、そのまま支部のパワーバランスに繋がる理由の一端だとも。

 

「先程も言った通り、これから君達は就職する『支部』の『部隊』の一員となって、与えられた戦争(ミッション)に赴くことになるわけだが――当然ながら、請け負う戦争の殆どが、その担当エリアに棲息する星人の討伐となるわけだ」

 

 つまりは、自らが就職した支部の担当エリアが――そのまま担当戦場となる、というわけか。

 

 担当戦場――戦場となる、土地。国。

 

 つまり、地元就職ということは――故郷を職場に出来るということ。

 生まれ育った愛すべき地に隠れ潜む強大な星人を、この手で殺すことを――仕事に出来る。

 

「それが、地元支部に就職する大きなメリットとなるようだ。無論、一つの『部隊』で請け負うには荷が重い星人に対しては、『本部職員』が助っ人として駆り出されたり、他の支部の部隊に応援を要請したりすることもあるが」

 

 基本的には、地元の平和を守る為に戦うことが出来る――か。

 

 なるほど。そりゃあ、どうせ命を懸けるのならば、見ず知らずの外国よりも、生まれ育った故郷を守る為に戦いたいと思うに決まってる。知っている土地を、知っている人を、知っている文化を、知っている世界を守りたいと、そう思うに決まっている。そうなると、地元就職が増えるのは、ある意味で自明なのか。

 

「故に、明確にルールとして規制も強制もしてはいないが、どの支部も地元民が、地元国民が過半数を占めているのは確かだ。特に、JP支部はその傾向が強い。『上位幹部』が十人中九人もが日本人が占めているくらいだからな」

 

 それは日本人が特別愛国心に溢れているというよりは、やはり国民性の問題なのかもしれないな。

 

 自国でしか通じない言語を用いる海で囲まれた島国であり、近隣国とも外交問題が絶えない国。

 勿論、グローバルな人員も豊富に抱えているのだろうが、多くの一般人にとっては、海外就職というのは二の足を踏む国民ではないだろうか。まぁ、俺が外国に興味がないだけかもしれないが。

 

 ……それに、そもそもが担当エリアの問題として、地元民くらいは獲得しないと、他の支部に対して余りにも兵力差が生まれてしまうだろう、JP支部。明らかに他の支部と国力が違い過ぎる。

 

「確かに、それもまた理由の一つだ。説明したかもしれないが、五つの『支部』が抱える『部隊』は、終焉(カタストロフィ)に置いてCIONにとっての、つまりは地球側にとっての『主力』となる戦力だ。つまりは終焉時にとって、世界の希望を背負う存在ということになる」

 

 世界の終焉という未曽有の大混乱の中、何も知らないまま突如として終わりを迎えられることになる世界。

 そんな真っ黒な絶望に包まれる中、無垢でか弱き一般人達を導き、救いの手を差し伸べることになるCION。

 

 その主力部隊として、矢面に立つことになることになる、五つの『支部』――それには、当然。

 

「当然――これら『支部』の運営には、表世界での有力者達も関わっている。そう、表世界を動かす彼らは、知っているのだ。世界の終焉の日付を。そして、その終焉の後に、どんな戦争が待っているのかを」

 

 俺はその言葉に――特に何の驚きもしなかった。

 昨夜、既に我が出身国日本のトップが、黒い球体の手先だと把握していたからだろうか。

 むしろ、それくらいでなければ疑問を抱いていたくらいだ。

 

 つまりは、五つの『支部』のパワーバランスが、表世界のパワーバランスの影響を受けている――のではなく。

 

 五つの『支部』そのものが――表世界の大国の力の一部そのものということか。

 

「それもまた、ある意味でしょうがないことなのだろう。終焉(カタストロフィ)のその時、またはその後に置いて、世界の滅亡のその時、その後に置いて――『支部』は、『部隊』は、それぞれの大国の力そのものとなるわけなのだから」

 

 一部ではなく――そのもの。

 ありとあらゆるパワーバランスがリセットされる終焉(カタストロフィ)に置いて――唯一、リセットされない兵力であり、力。

 

 世界を救う力は、世界を救った後に置いて、滅亡した世界に置いて、新たなる格差を生む力となる。

 

 平等に滅ぼされた世界に置いて、新たなる不平等を生む――力となる。

 

「当然、己が国の戦力となる『軍隊』は、己が国の人間で構成されておくに越したことはない。終焉を齎す分かり易い共通敵を滅ぼした後、今度は地球人同士で勢力争いが再開されることになるのは自明なのだから。わざわざ、獅子身中の虫を忍ばせたくはないだろう」

 

 だからこそ――己が『支部』の『部隊軍』は、なるべく地元民で構成したいという思惑が働く訳か。

 しかし、名目上とは言え、CIONという組織の『支部』である以上、その『本部』が定めたルール上、来たいと言っている他国出身戦士を何の理由もなしに追い返すわけにもいかない――同じように、来たくないと言っている地元民を無理矢理に引き込むわけにもいかない。

 

「だからこその、この『オリエンテーション』だ。新入戦士達に、それぞれの各支部の特性や特徴を第三者(本部戦士)の立場から分かり易く説明し、本当に自分に合った職場を選び、新たなる戦場として欲しい」

 

 本当に進路相談室みたいなことを言い出したパンダに、ふと、本来ならば自分は高校三年生として、きっと今頃は受験生勝負の夏に向けて、総武高の進路相談室で同じようなことを言われていたのだろうと――笑みが零れる。

 

 まるで大学を選ぶかのように、戦場を選んでいる自分に――笑わずにはいられない。

 

「改めて言っておくが、他国支部に就職を希望する戦士も多く存在する。その思惑は様々だ。獅子身中の虫――スパイとして潜り込んでいる者もいるだろう。だが、少なからず、己の為に、己の為だけに、縁もゆかりもない『支部』を選択している戦士も、無論多い」

 

 終焉後のパワーバランス云々などではなく、一人の戦士として、己を高める選択として海外就職を選択する戦士もいる――と、パンダは、真っ直ぐにへらへらと笑う俺を見据える。

 

「お前達のように、死にたくないから少しでも己が価値を上げる――つまりはランキング入りを目指して、上位幹部になりやすいという理由で支部を選定する戦士もいる」

 

 ここでようやく、その話に繋がるらしい。

 ランキング入りがし易い支部――その解説に。

 俺の将来に繋がる話に。

 

「当然ながら、いくら平等にという名目の上でも、不平等は生じる。これまでの説明通り、各支部は出来得る限り地元民を己が支部に引き込みたいという思惑があるからだ。つまり、各エリアの人口は各支部の戦士数に相似し――分母が大きくなる」

 

 つまり単純に考えれば、CN(中国)支部は、JP(日本)支部の十倍以上の兵力を抱えているわけだ。

 しかし、それでも――平等を生もうとしたルールは、どちらにも平等に施行される。

 

「しかし、上位幹部の椅子は、どの支部も定数――十人だ。つまり――」

「単純計算で考えれば、CN(中国)で上位幹部になるのは、JP(日本)の十倍厳しいということ。逆に考えれば――」

 

 JP(日本)で『上位幹部』となるのは、CN(中国)の十倍簡単だということだ。

 言葉で説明されれば本当に単純な話だった。強豪校でレギュラーになるよりも、弱小校でレギュラーになる方が簡単だというのと同じ理屈だ。

 

 勿論、実際はそう簡単な話でもないのだろう。

 その弱小校のレギュラーが実は強豪校に負けず劣らずの実力を持っているかもしれないし、そもそも何年も練習を重ねた上級生に、コネ入部の新入生がレギュラーを奪える保証など、例え弱小校でもあるわけがない。それだって十分に茨の道だ。

 

 だが、確かに――『上位幹部』になり易い支部、なり難い支部が存在することは分かった。

 それに、あくまでそれは『上位幹部』就任に限った話であって、支部としてのランクとして考えれば、CN支部はJP支部の十倍の人数がいるのだから、部隊としての十倍規模が大きいという話にもなる――つまりは、こういうことだ。

 

 例え上位幹部になるのが厳しくとも強い『部隊』に入るか、それとも『部隊』としては弱くとも上位幹部になり易い部隊に入るか。

 

 それは確かに、進路選択に置いて考慮すべき問題ではあるだろう。

 俺が求めるのは、あくまで生存率の向上であって、上位幹部就任はその可能性を上げる手段でしかない。

 前提として、部隊として弱ければ、それは肝心な終焉(カタストロフィ)に置いての危険性に大きく関わってくる。

 

「他にも考慮すべき点はある。その地に住まう星人についてだ」

 

 パンダは熟考に入ろうとした俺を遮るように、更なる注意点を告げる。

 

 その地に住まう星人――棲息する化物。

 つまりは、その支部に就職した際――戦うことになる、標的(ターゲット)となる存在。

 

「基本的にそのエリアの星人は、そのエリアの『部屋』や『部隊』の戦士が請け負うことになる。つまり、より強い星人が住まうエリアの支部は、それだけ厳しい戦いに身を投じることになるというわけだ」

 

 しかし、そもそも部隊に辿り着く戦士というのは、多かれ少なかれ強敵を求める者が多い為、その辺りはむしろ歓迎される要素であることも多いのだが――と、パンダは言うが、俺は少なくともそんなバトルジャンキーではない。むしろ、敵なんて弱いに越したことはないと思っている。

 

 だが、俺はアベレージ制度を駆使して、半年で『上位幹部』入りを目論んでいる身の上だ。

 あんまりにも弱い星人ばかりが相手でスコアを稼げませんでした――では話にならない。

 かといって、強すぎる星人ばかりが犇めく激戦区に身を投じて、終焉にすら辿り着けませんでしたでは本末転倒だ。

 

「………………」

 

 考慮すべき点は、引くべきボーダーラインは多い。

 どこまでリスクを冒し、どこまでメリットを求めるか――その匙加減が、文字通り明日からの俺の命運を左右する。

 

 ……まったく。

 大学に関しては、俺の成績で受かりそうな範囲で、興味のある学部を消去法で選ぶ程度しか考えてなかったってのに。

 

 俺は頭をガシガシ掻きながら「……この進路選択の期限は――」と問おうとすると、すかさず由比ヶ浜さんが「そんなの、今、ここでに決まってんじゃん」と、生クリームが付いた口で冷たい言葉を発して両断する。

 

「私達はね、君の優柔不断な決心を待つ程、暇じゃないの。君一人に掛けられる時間なんて、精々がこのハニトータイムくらいなんだよ」

「………………」

「分かってる? 今、君はその程度の価値しかない戦士なんだよ」

 

 だから――と、由比ヶ浜結愛は、何も無くなった皿の上にフォークを突き刺し。

 

 真っ直ぐに俺を見据えて、決断を迫った。

 

「今、ここで決めて」

「……………」

 

 由比ヶ浜さんは、そのまま五つの小さな黒球を転がす――その黒球は、五つのモニタを虚空に映し出した。

 

 小さなテーブルの上を埋め尽くすようなそれらの向こう側から、由比ヶ浜さんは淡々と告げる。

 

「それは五つの『支部』の情報を簡易的に纏めた、いわゆる一つのパンフレットみたいなものだね。詳細な担当エリア、保有戦士数、担当エリアの主要国、棲息星人、上位幹部のアベレージスコア、主な星人撃破実績――等々。進路選択する上で必要な情報はそれなりに揃ってると思うよ。流石にオープンキャンパスはさせてあげられないけど。まだうだうだ言う気かな?」

「……いえ、十分です。ありがとうございます」

「そ。じゃあ、あたしはもう一個ハニトーお替りするから。それが食べ終わるまでに決めておいてね」

 

 由比ヶ浜さんはモニタの裏で立ち上がり、そのまま俺らに背を向ける。再び自販機へと向かったらしい。

 俺はそれを見送らずに、陽乃さんと目を合わせて、それぞれモニタへと目を走らせることにした。

 

 そして思考の海へと飛び込む間際、やはり同じようにモニタの向こう側に消えたパンダの渋い声が届いた。

 

「質問は随時、受け付ける。存分に悩み給え、若人。この選択が、この就職活動が、文字通り君達の命運を、未来を左右することになるだろうからな」

 

 なるほど、質問か。

 では、早速だがこの―――研究テーマというものに関して、意識高く説明を求めることにしよう。

 

 これについては散々引っ張られた挙句、結局何も聞かされてないんだが。

 さっき言ってた、本部が各『支部』に求めた、専門分野という奴だよな、これ。

 

 ……ていうか、初めからこの資料を出した上でオリエンテーションをして欲しかったと思わなくもない。

 由比ヶ浜さん、ひょっとしてガチで忘れてたのだろうか。それが気不味くてハニトー取りに行ったんじゃねぇだろうな、おい。……まぁ、無駄な話ではなかったからよしとするが。

 

「いい質問だ」

 

 パンダはそう前置いて、俺の質問に答えていく。

 ……自分らが説明し忘れたのは華麗になかったことにするらしい。これだから大人は。

 

「その通りだ。『支部』最大の特徴として挙げられるのが、その『専門分野』だ。それぞれの研究テーマに沿った『開発室』が置かれ、その分野に置いては他の支部を圧倒する、それぞれの色が――それぞれの特色が、各支部には存在する」

 

 個人的には、自分に合った色の特色を持つ支部にこそ、就職することをお勧めしたい――と、パンダは言う。

 

 そして、それぞれの支部の専門分野を、パンダは一つ一つ丁寧に説明した。

 

 その特色とは――。

 

 US(アメリカ)支部――【兵器開発】。

 

 CN(中国)支部――【戦士改造】。

 

 RU(ロシア)支部――【部隊育成】。

 

 EU(ヨーロッパ)支部――【神秘継承】。

 

 JP(日本)支部――【星人研究】。

 

 

「…………………………」

 

 

 俺は、これまでの人生で、最も深く、深く集中して、資料を読み込んだ。

 きっと、受験生として、勝負の夏として今日を迎えても、恐らくは――これほど死に物狂いにはならなかっただろう。

 

 由比ヶ浜結愛が三個目のハニトーを食べ終えたのは、それからきっちり、一時間が経った頃だった。

 パンダがそれぞれの支部の研究テーマについて語った後は、誰も何も発さなかった。

 カチャカチャと、由比ヶ浜さんがハニトーを黙々と食べる音以外は、俺も、陽乃さんも、只管にそれぞれの支部のパンフレットの情報を貪食することに集中していた。

 

 そして、カチャ――と。

 由比ヶ浜さんが何もなくなった、三枚重ねられた皿の上にフォークを乗せて。

 

 口元の生クリームを拭き――真っ直ぐと、一切の笑みもなく、俺に向かってその綺麗な目を向けて、問うた。

 

「それで――答えは?」

 

 俺は、一度――陽乃さんと、目を合わせた。

 陽乃さんは、一度瞑目すると、頷き、そして――潤んだ瞳で、笑みを返した。

 

 俺は、それを受けて――再び由比ヶ浜さんに相向かって。

 目の前に並ぶ五つのから、一つの黒球を選び――掴んで。

 

 手を伸ばして、由比ヶ浜さんとパンダに示すようにし、再びテーブルに置いた。

 

 

「俺は――この『支部』に、入隊する」

 

 

 その言葉を、発した瞬間。

 

 俺が選んだ小さな黒球から、慣れ親しんだ電子線が照射された。

 

「――そっか。じゃあ、さっそく初出勤だね」

「君の新たなる門出となる初陣だ。出来る限り華々しく飾るといい」

 

 そして、俺の横から。

 陽乃さんが俺の耳元で、そっと囁く。

 

「――帰ってきたら、朝の続きをしようね」

 

 俺はそんな陽乃さんの言葉に「……そりゃあ、死ぬわけにはいかないですね」と返して、言う。

 

 帰るべき場所である彼女に。その決意を告げる言葉を。

 

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 

 彼女にただいまを言う為に。彼女からおかえりと言ってもらう為に。

 

 俺は、新たなる戦場で、初仕事となる戦争へと向かった。

 

 

 

 

 

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 あれから、どれだけ戦い、どれだけ殺しただろう。



「知ってる場所だ」


 見たことのない場所で。見たことのない連中と共に。

 俺は見たこともない化物を前にして、そう呟いた。


 そこは――戦場だった。

 それは――戦争だった。


 やることは変わらない。ずっと知っていることだった。

 真っ黒なスーツを着て、真っ黒な武器を振るい、真っ黒な殺意を以て――戦う。


「知ってる――光景だ」


 何も変わらない。

 世界は変わらず、現実も変わらない。


 俺の物語は――終わらない。

 どんな場所だろうと、どんな地獄だろうと、黒い球体からは――逃げられない。


「――知ってる、絶望だな」


 慣れ親しんだ黒い感情と共に、俺は今日も、化物を殺す。

 彼女にただいまと言う為に。彼女におかえりなさいと言ってもらう為に。

 俺は今日も――戦争をする。


 そして、彼女にいってきますと言い、彼女にいってらっしゃいと言ってもらって。

 きっと俺は――明日も戦争をするのだろう。


 これがきっと、大人になるということだと、俺は知った。


 俺は化物を殺す。


 十八になった夏の日に、俺はそう知った。


 いってらっしゃい。
 いってきます。


 俺は戦争に向かう。


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Side Crossover――last ep

――行こう。世界を守る為に。


 日本国――首相官邸。

 

「―――――――――――!!」

「―――――ッッ!! ―――――っっ!!」

「――ッッ!! ――っっ!! ――ッッ!!」

「!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

 そこには、昨日以上に、老若男女問わず、多くの人間達が集結していた。

 

 思いを、叫びを、たった二人の人間達に向けて。

 

 ただ、真っ直ぐに――届ける為に。

 

『辞・め・ろ!! 辞・め・ろ!! 辞・め・ろ!!』

 

 人々は群衆となり、最早、警備隊や警察隊だけでなく自衛隊までもが派遣されながら、それでも抑えきれない力となった国民の声は、昨日と同じく、たった二人の大臣のみが残されている首相官邸に、静かに――けれど、確かな威力を持って響いていた。

 

「……………」

「……………」

 

 だだっ広い部屋にぽつんと置かれた大きな執務机。

 歴代の使用者の中で、最も飾り気のない内装を施したとされる現在の主は――この部屋からの速やかなる退去を、あれだけの大声で国民に求められている現内閣総理大臣は。

 

 蛭間一郎は、ただ真摯なるその国民の声を、鍛え上げた背中で一身に受け止める。

 

 そんな親友に対し、同じく国民の批判の的となっている現職の防衛大臣――小町小吉は、総理大臣の執務机に尻を置きながら、天井を見上げ言う。

 

「――流石に、今回に限っては、お前が出した草案は殆ど直しが入っちまったな」

「……骨格が残っただけ儲けものだと思うべきだ。それに、修正が入ったお陰で良くなった部分も多い」

 

 世界で最も暗い会議室の暗闇に慣れ切った目を慣らすように、小吉は執務机から立ち上がりカーテンを開けて光を入れる。

 

 流石に投石が届く距離ではないが、小吉の鍛え上げられた視力は、離れた門扉の向こう側に群れる、怒りと恐怖に突き動かされた国民の姿を目に映す。

 

 小吉は、突如として入った日光が眩しかったのか、何かに耐えるように目を細めて――背を向けて、じっと両手を組む一郎へと向き直る。

 

「そうだな。特に、中国のあの若い副官――(リョ)公瑾(コウキン)って言ったか、彼は俺らの草案を潰すことに随分と躍起になっているようだった。嫌われたもんだな」

「我々を嫌っているというより、俺達と『CEO(虹鳴)』の関係を危うんでいるのだろう。彼にも叶えたい目的が――目指すべき未来があるようだからな」

「まぁ、若いもんは、そんくらいの方が頼もしいってもんだ」

 

 叶えたい目的――目指すべき未来。

 

 ただ、それだけを求めて、戦い、戦い、戦い続けた男達。

 

 幾多の困難を乗り越え、体中に傷を刻んで、心を摩耗し続けて――辿り着いた、その場所に。

 

 見据え続けたその終着点たる頂――その麓まで、ようやく辿り着いた、男達は。

 

「―――――ッッ!!」

「――――――――ッッ!! ―――――――っっ!!」

 

 その証たる、守るべき国民の怨嗟の声を背中に受けて、ただ静かに噛み締める。

 

「――これが、俺達の、選択の証だ」

 

 どうしようもなく口の中に広がる、最早慣れ親しんだ苦い味を呑み込んで、内閣総理大臣は言う。

 

「俺達は、選択したんだ。この結果を――そして、ここから繋がる未来を」

 

 繋げなければならない。

 

 汚してきた両手を握り締めて、見過ごしてきた犠牲を噛み締めて、守れなかった同胞を踏み締めて、防げなかった悪事を胸に刻んで。

 

 それでも、未来ある若者に苦難を強いてでも、彼等の未来を守ると誓ったから。

 

「私は、全てを背負い、全てを受け入れる」

 

 蛭間一郎の、その宣言に呼応するように。

 

 内閣総理大臣の執務室に――新たな夜明けを知らせる歌が響いた。

 

 

 

あーた~~らし~~いあーさがき~~た~~きぼーのあーさーがー

 

 

 

 だだっ広い室内には、窓際にある大きな執務机しかない。

 しかし、この無機質な個性のない部屋には、その他に――ただ一つ。

 

 部屋の真ん中に、ただ一つ――黒い球体が存在した。

 ラジオ体操を総理大臣の執務室に流すその不気味な球体は、三方向に開くわけでもなく、己が頭上に巨大なモニタを虚空に映し出す。

 

 そこには、荒々しいドット絵ではなく、最新テレビのような高画質で――何処かの都市のパニック映像が流されていた。

 

『きゃぁあああああ!!』

『なんだ、なんだよこれ!?』

『おい、これってこないだの池袋のヤツみたいな――』

『じゃ、じゃあコイツが! コイツ等が!? ふざけんなよドッキリじゃなかったのかよ!?』

 

 何も知らない、何処にでもいる国民の一人が、涙と混乱に塗れた絶叫を迸らせる。

 

 

『星人だぁあああ!! 星人が出たぞぉぉ!!』

 

 

 助けてくれぇぇぇ!!! ――その、罪なき命の声に、無力なる一般人の叫びに。

 

 呼応するように、一人の英雄が立ち上がる。

 

「……………………………俺が、やらなきゃ」

 

 突如として、内閣総理大臣執務室に降り注ぐ電子線。

 

 この部屋には、この首相官邸には、職員は蛭間一郎と小町小吉しか存在しない。

 

 だが、その他に、もう一人――彼らの共犯者(なかま)が、何をするでもなく座り込んでいた。

 

 部屋の隅で、壁に背を預けながら。

 近未来的な黒衣を身に纏い、真っ黒な宝剣を抱きながら。

 

 じっと大人達の会話に耳を澄ませ、助けを求める声を聞き届けたその時――閉じていた瞼を、ゆっくりと開かせて。

 

 剣のように鋭い眼差しを、冷たい瞳を露わにし、ただ、問う。

 

「俺は――殺せばいいんだな?」

 

 防衛大臣は言う。

 

「ああ。頼むぞ、英雄」

 

 内閣総理大臣は言う。

 

世界(われわれ)に、どうか希望(みらい)を繋げてくれ」

 

 

 

 

 

 そして、今日――人々は、確かな実感を持って理解する。

 

 星人という存在がいることを。

 

 漆黒の戦争が繰り広げられていることを。

 

 未来を繋げる、英雄がいることを。

 

 

 世界が、変わったということを。

 

 

 そして人々は、まだ理解していない。

 

 

 全ての終焉が、近づいているということを。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 首筋に、チリっと焼けるような悪寒が走った。

 

「…………………」

 

 葉山隼人は、自室のベッドに腰を下ろしながら、緩慢に己の首筋を摩る。

 

 何処かの会議室のように、真っ暗な部屋だった。

 窓の隙間から差し込む光だけが、外の世界が昼間であることを示していて――葉山は、その光に釣られるように、俯いていた頭を上げた。

 

「――――ッ!」

 

 そして、歯を食い縛り、ベッドの上に乱雑に広げていた――漆黒の全身スーツを、ギュッと握り締める。

 

(……まさか――本当に――っ!?)

 

 葉山は、スーツを握り締めたまま、それを己の顔面に宛がう。

 何もかも見たくないとばかりに、再び俯き、歯を食い縛って、絶叫を堪える。

 

 しかし、降り注ぐ電子線は、そんなスウェット姿の元総武高校のスターを、容赦なく回収し――転送する。

 

 昨夜、首相官邸から帰ってきてからずっと、真っ暗な自室に篭り切りだった葉山隼人は、そのまま見知らぬ部屋へと――否。

 

 知っている世界へと――思い知っている地獄へと。

 

 黒い球体の部屋へと、再び蒐集されることとなった。

 

 

 

 

 

『よく見ておけ、葉山隼人』

 

 昨夜――首相官邸にて。

 

 葉山隼人は、一頭のジャイアントパンダと共に、詰めかけた大勢の記者越しに、その記者会見を目撃していた。

 

 会見にて語られる、内閣総理大臣と防衛大臣によって明かされる真実の一つ一つに、恐らくは、あの場にいる誰よりも、身を潰すような衝撃を覚えながら。

 

『…………なん……だ……それ、は――』

 

 葉山は、一歩、一歩とふらつくように後ずさり――壁に寄り掛かる。

 フラッシュが奔流のように浴びせかけられる、その背後で、薄い暗闇の中で、たった一人――絶望する。

 

『葉山隼人。これが、今の君の立ち位置だ』

 

 パンダの言葉が、小さく、葉山の耳に届いた。

 だが、その意味は分からない。ただ、きっと、どうしようもなく、どうしようもないということだけは分かった。

 

 分かった。分かっていた。

 この世界が――現実なのだということは。

 

 黒い球体に支配された、理不尽な箱庭なのだということは。

 

 自分は、その中に気紛れに放り込まれた、只の一人(ひとつ)人形(キャラクター)なのだということは。

 

 だが――これは――こんなのは――。

 

『…………ふざ…………けるな――――っっ』

 

 葉山隼人は、どっぷりとした真っ黒な感情の中で、呻くように呪詛を吐いた。

 

 忘れない――忘れない。

 目が潰れそうな光の外側で、葉山は、何かに押し潰されそうな重圧に逆らうように――顔を上げて、焼き付けた。

 

 この光景を忘れない。この感情を忘れない。

 

 この理不尽を、決して忘れない。

 

 刻み込んで、焼き付けて、刷り込んで、痛みと共に記憶する。

 

『――そうだ。忘れるな。折れるな。潰れるな。そうすれば、お前は、きっと見返せる』

 

 誰にも光を向けられず、誰にも知らない場所で人知れず何かと戦う少年に、ただ一頭のパンダは言った。

 

 今にも潰れそうな少年に、今にも折れてしまいそうな可能性に。

 

 けれど、もしかしたら、この哀れな種火が――誰もが忘れられない英雄になれるかもしれないという分の悪い賭け。

 

 だが、パンダは――それこそが、浪漫(ロマン)だとばかりに。

 

 何の配役も与えられず、ただ数字上の一として消費される筈だったエキストラが。

 

 誰にも期待されていない成果を上げ、奇跡を起こし、物語を動かす。

 

 そんな熱い展開が芽吹くかもしれない種を、この日、とあるパンダはこっそりと撒いた。

 

(――後は、この男次第だな)

 

 人間としての尊厳を悉く失った機獣の、浪漫を求めるこの小さな遊び心が。

 

 遠からず未来、誰も予想しなかった未来を齎すことになるのだが――。

 

 それはまだ、誰も知らない。

 

 まだ誰も――彼を、知らない。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その無機質な部屋には、まだ誰もいなかった。

 

 あるのは、一つの異様な――黒い球体のみだった。

 

「…………………」

 

 葉山隼人は、ただ強く拳を握りながらそれを睥睨する。

 己の全てを狂わせた球体。己の全てを終わらせた球体。

 

 そして、葉山はそのまま部屋全体を見渡す。

 染み一つなく、傷一つない。

 半年間も死んでいたのに、まるで懐かしさすら感じない。

 

 しかし、葉山隼人は、眩しげに目を細める。

 

 ただ一つ、覚える――違和感。

 

 窓の外。決して開かない窓の外――出ることが叶わない部屋の外。

 広がる景色が、見慣れた黒い夜空ではなく、清々しい青空だった。

 

(…………変わった、世界――)

 

 葉山が何を言うでもなく、何かを封じるように唇を噛み締めていると。

 

 この部屋の主である黒い球体が、二筋の電子線を室内に照射する。

 新たに招集されたのは、小柄な水色髪の少年と、艶やかな黒い長髪の少女。

 

「――あれ? こんな時間に戦争(ミッション)?」

「――まだ学校に居たのですが……まぁ、あの人と離れられたから良しとしましょうか」

 

 潮田渚と、新垣あやせ。

 昨日の【英雄会見】において、光を浴びせかけられる側にいた戦士達は、それぞれブレザーとセーラー服という恰好ではありながら、突然の黒い球体による緊急招集に対し、平然とした態度で受け入れていた。

 

 恐らくは自分よりも年下であろう、少年少女の泰然とした姿に――そして。

 その学生服の中に既に身に着けている漆黒の光沢ある全身スーツに、葉山は。

 

 未だスウェット姿の自分に、学生服すら身に着けておらずに無為に逃避だけの一日を過ごしていた自分に――右手にぶら下げたままのガンツスーツを握り締めながら歯噛みする。

 

 葉山は、二人に何と声を掛けたらいいか分からなかったが、先に渚が彼に気付き――不思議そうに声を掛けてきた。

 

「あれ? 確かあなたは――どうしてここに居るんですか?」

 

 何で葉山隼人がここにいるのかと、まるで必要性を問うような言葉に、葉山は少なからずのショックを受ける。

 

 それが嫌味でもなければ嘲りでもない、純粋な疑問のように問われたそれだったが故に――昨夜に生き返ってから既に何度目かも分からない歯噛みによって耐える。

 

「渚君っ!」

「あ、ごめんなさい、そういう意味じゃないんです。……ただ、昨日の記者会見の時にいらっしゃらなかったので。これからは、あの四人だけで戦うことになるのかって思って」

「……いや、大丈夫だ。俺が、昨日、あの場所に呼ばれなかったのは確かだからな」

 

 正確には、葉山隼人は呼ばれはしなかったが、あの場所には居たのだが――あの特殊な不可視の細工は、一般人の記者達だけでなく会見の主役だった関係者達にすら有効だったのか、それとも、ただ単純に目に入っていなかっただけなのか。

 

 なんだかアイツに似てどんどん卑屈になっていくなと、葉山は内心で己を嘲りながら、年上に無礼を働いてしまったと恐縮そうに縮こまる渚やあやせに対し、己の疑問を晴らす意味も兼ねて問い掛ける。

 

「気にしないで欲しい。それよりも、君達の言う通り、昨夜の会見には俺は呼ばれなかったから、ちょっと色々と聞きたいことがある――」

 

 葉山がそう切り出した所で、再び黒い球体から電子線が虚空に照射された。

 

 徐々に人体の断面図を晒しながら現れるのは、逆立つ鬣のような金髪の男だった。

 渚やあやせと同じく【英雄会見】にて光の側に立っていた戦士の一人。

 

 東条英虎――彼もまた、既にガンツスーツにその屈強な体を包んでいて、そして。

 その迫力たるや、東条の戦闘シーンを未だ一度も目撃していない葉山にすら、彼が強大な戦士であることを確信させる程だった。

 

「――――ッ!」

 

 思わず葉山は息を吞む――が、当の東条は。

 

 召喚されきるや否や、そのまま背中から倒れ込んで、フローリングに強かに頭を打ち付けた。

 

「え!? 東条さん!?」

「大丈夫ですか!?」

 

 そんな姿は、東条をよく知らない葉山は勿論、葉山よりかは東条と付き合いの長い渚やあやせにとっても衝撃だったようで、急いで仰向けになっている東条の元へと駆け寄った。

 

 東条は、パチッと目を開け、己を覗き込む二人を見上げると――。

 

「――お、朝か」

「「今まで寝てたんですか!?」」

 

 まさかこの人は立ったまま寝ている状態で転送されてきたのかと(でも東条ならありえるかもしれないと)二人が驚愕していると、東条は半身を起こしながら「いや、今日はちょっと頻繁に気絶しててな、すまんすまん」と何事もなかったかのように(頻繁に気絶している時点で何事もあるだろうという言葉を葉山は頑張って呑み込んだ)、心配する二人を制していると――東条は。

 

 ふと、獰猛な笑みを浮かべて、獣が舌なめずりをするような声色で呟いた。

 

「――スゲェな、全く殴れなかった。そんでめちゃくちゃ殴られた」

 

 そして、黒い拳をギチっと鳴らすと――楽しそうに、無邪気に言う。

 

「……ああ――早く帰って、喧嘩してぇ」

 

 面白いゲームや漫画を手に入れた男の子が早く家に帰って続きをやりたいと駄々を捏ねるように、東条英虎は――無邪気に、楽しげに闘志を燃やす。

 

 それは、彼の圧に慣れていない葉山にとっては、思わず悲鳴を上げかけてしまう程で。

 

(……まるで、檻の中で猛獣と相対してるみたいな感じだ……)

 

 葉山は思わず東条から後ずさってしまう。

 既に東条の威圧には慣れているのか、あやせは東条の呟きを聞いて溜息を吐いて呆れているばかりだったが、渚はそんな東条に向かって微笑みながら言葉を掛けた。

 

「いいことがあったみたいですね、東条さん」

 

 東条は、己にそんな言葉を掛けてきた渚の顔を見て、同じように笑顔で返す。

 

「――おう。お前もだろ、渚」

 

 渚は、何も言わずに、ただ笑顔と差し出した手で答えた。

 その手を掴んで立ち上がりながら(渚は東条の身体を持ち上げたことを、スーツの恩恵とは分かっているが凄く嬉しそうだった)、東条は「――さて、だ」と言いながら室内を見渡した。

 

「というわけで、俺はさっさと帰りてぇんだが、なんか化物をぶっ飛ばさなくちゃ帰れねぇんだろ。なら、とっととやろうぜ。喧嘩だ。桐ケ谷は何処だ?」

「気が早いですよ、東条さん。今回もまた、夜じゃないのに呼び出されたりしてる時点で色々とイレギュラーじゃないですか。……まぁ、わたしたちがこの部屋に来てからイレギュラーばっかりで、通常がどうなのかもよく分かりませんが」

「でも、いつミッションが始まるのか分からないのも確かですよね。それじゃあ、葉山さん――ですよね? 葉山さんもスーツを着てきた方がいいんじゃないですか」

 

 東条の言葉にあやせが額に手を当てて呆れ、それに対してフォローするように渚が言った。

 戦士歴でいえば、恐らくは渚達よりも長いであろう葉山だったが、そんな後輩にそんなことを言われて、葉山は急に恥ずかしさを覚える。

 

 この三人の(主に東条の)強烈な個性に圧倒されて呆然としていたが、彼らが放つ戦士としての雰囲気は確かで――そんな中で、未だガンツスーツすら身に着けずスウェット姿である自分が、猛烈に恥ずかしくて堪らなくなった。

 

「あ、ああ、そうだな。……それじゃあ、着替えてくるよ」

 

 そう言って葉山は、もしかしたら赤くなっているかもしれない顔を隠すように、そのまま玄関へと繋がる廊下へと出ていった。

 

「ん? 誰だ、アイツ?」

 

 扉を閉める間際、今まさに葉山の存在に気付いたとばかりの東条の声。

 そして、そんな東条を慌てながらフォローする渚の声を聞きながら。

 

「――――ッ」

 

 最早、数えるのも馬鹿馬鹿しい、何度目かも分からない歯噛みをしながら、葉山は後ろ手に扉を閉めた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 葉山隼人は、再び漆黒のボディスーツに身を包んだ。

 

「……………」

 

 昨夜はガンツスーツを身に着けた状態で復活したので、実質、自分の意思でこの戦争用の近代的な鎧を身に纏ったのは、生き返ってからはこれが初めてのことだった。

 

(…………戻ってきた……いや、逃れられなかったってことか)

 

 文字通り、死んでも逃げられなかった地獄。

 葉山は、グッと何かを確かめるように力を込めて拳を握り、そして力無く微笑した。

 

 脱いだスウェットや下着をそのまま靴棚の中に放り込み、葉山は一度躊躇いながらも、ドアノブに手を掛けて黒い球体の待つリビングへと戻る。

 

 葉山と違いガンツスーツを普段着とする覚悟を既に固めている後輩戦士であり公認戦士達――潮田渚、新垣あやせ、東条英虎。彼らもガンツスーツの上に着用していた私服や制服を脱いで、ガンツスーツのみの姿になっていた。

 

 そして、そこには――彼らの他に、混乱と焦燥に支配された表情の、五人の見たことのない人間達がいた。

 

 銀髪のルックスのいい中学生くらいの少年。

 昏い瞳で蹲るボサボサ髪の大学生くらいの女性。

 コンビニ店員服の眼鏡を掛けた壮年の男性。

 伸ばしっぱなしの髪や髭で面貌が分からないが恐らくは中高年の男。

 そして、少し癖のある髪が特徴的な爽やかな印象を受ける高校生くらいの少年――。

 

(………やはり、アイツはいないか………)

 

 葉山は、()()()、『あの男』と、そして陽乃と中坊がいないことに心中を濁らせたが、その時、ふとあることに気付く。

 

(――? あの、制服は――)

 

 葉山は、老若男女バラバラな彼らの中でも、所在なさげに立っている高校生くらいの男子の制服に目が留まる。

 特徴の強いデザインというわけでもなく、高校の制服など(特に男子の制服など)どこでも似たり寄ったりなのかもしれないが、そのブレザーの制服は、葉山にとっては思わず目に留まってしまう程に、見覚えのあるものだった。

 

 それは、自分が通う高校の近隣校ものであり、かつて、この部屋の住人だった『彼』や『彼女』達と同じ学校のものだったからだ。

 

(………………)

 

 葉山は思わず痛ましげに目を伏せてしまうが、それでも、幸か不幸か、その男子生徒は葉山が知る人間ではなく、それ故にか、葉山はこの時点でその少年に声を掛けることはなかった。

 

 というよりも、声を掛けることが出来なかったというべきか。

 葉山は本人的にはそこまでのブランクがあるというわけではないが、一度死亡したせいか、気持ちとしては一度完全に切れてしまったせいか、ガンツミッションにはお決まりのイベントがあることをすっかり失念していた。

 

 自分にとってはすっかり日常となってしまった非日常、お馴染みになってしまった地獄だけれど――当然、彼らにとっては、何も分からない不気味な現状でしかない。

 故に彼らは、お決まりといえばお決まりの如く、混乱し、恐怖し――意味ありげに揃いのコスプレスーツに身を包む、先住民に説明を求めていた。

 

「あの! お願いだから説明してくれませんかっ! 一体、何がどうなってるんです!?」

 

 一見すると不良のような銀髪の少年が、思いの外に丁寧な敬語で叫んだ。

 着崩してはいるが学生服を着ているので(こちらは葉山は見たことのないデザインのものだった)恐らくは高校生か中学生であろう少年の叫びに、コンビニの制服を着た男が続く。

 

「……君達、もしかして、昨日の会見に出てた――?」

 

 恐らくは三、四十代。パッと見は店長クラスに見えるコンビニ服の壮年の男は、渚やあやせ、東条を指差しながら呆然と呟く。

 葉山は、それは当然バレるかと少し目を伏せながらも、それに続いた酒焼けした別の男の声を聞いた。

 

「――ハッ。胡散臭いとは思ってはいたが……これは普通に悪手なんじゃあねぇのか? 政府公認組織が拉致監禁かー。売れるネタだなぁ、オイ」

 

 伸びきったの髪と髭の中に隠された顔を、恐らくはアルコールによって真っ赤に染めているであろうボロ衣の男は、窓際に座り込みながら渚達を嘲笑するように言った。

 それにしても酒はねぇのかよこの部屋はよぉと、酔っ払いの定型句のようなことを喚く男の声を掻き消すように、部屋の反対側の壁際にて蹲る女性が金切り声を室内に響かせる。

 

「黙って!! 黙ってよっっ!!」

 

 ボサボサの髪の少女は、恐らくは十代後半から二十代前半といったところだろう。

 大学生か、もしくは入社したてのOLといった容貌。先程の酒焼けの男とはまた違った意味で髪に隠れてよく顔は見えないが、そんな彼女は、真っ黒な髪の中から、嗚咽交じりの声を漏らし喚いた。

 

 静まり返った室内に、それは嘘のように響く。

 

「……なんで……あなた達…………そんなに元気なのよ? ……私だけなの? あなた達は違うの!?」

 

 アンタ達は、死んでないのッッ!!? ――と、女性は。

 

 喉が潰れるのではと思える程に痛々しい叫びを轟かせて、そのまま己の真っ黒な髪の中で啜り泣きを続けた。

 

 銀髪の少年が、コンビニ服の男が、酒焼けのホームレスが、揃って目を伏せて口を閉じる中。

 

 癖のある髪の爽やかな男が――海浜総合高校の制服を着た男が。

 

 真っ直ぐに、こちらを見て、問い掛ける。

 

「……僕達は…………一体……これから、どうなるんですか?」

 

 葉山は思わず硬直する。

 偶々なのかもしれない。普通に考えれば、昨夜の会見に出ていた渚達へと説明を求めるだろう。

 

 海浜総合の少年の揺れる目線の先にいた渚達の、その向こう側に位置取りとして葉山が居たというだけなのかもしれない。

 だが、葉山の記憶の中では、こういった新人達への説明役は自分の役割だった。自分が死ぬまでは。自分が生き返る前に生きていた頃ならば。

 

 口が開きかけた。何かを言わなければと思った。

 それが自分の役割だと思って。もうそんなことなど期待されてはいないことも忘れて。

 

「あ――」

 

 しかし――だから。

 掠れ出た葉山の声は、誰の耳にも届かなくて。

 

「――大丈夫です。安心してください」

 

 少年の――新人達の視線を、真っ直ぐに受けたあやせは、そう言って彼らに向かって微笑みかけた。

 誰の目も届かない所で口を閉じた葉山を他所に、続いて渚が口を開く。

 

「もうすぐ、僕達のリーダーが、あなた達を導いてくれますから」

 

 そして、一度小さく息を吸い込んで、何かを込めるように――微笑みと共に吐き出す。

 

「――僕達が、あなた達を守りますから」

 

 葉山はその時、一瞬だけ――彼らの横顔が見えた。

 

 潮田渚の、新垣あやせの横顔が。

 

 その顔は微笑んでいて、だけど、まるで笑っていなくて。

 悲しみを背負っているようで、けれど、悲しみを捨ててしまっているようで。

 何か変わってしまったようで、まるで、何も変わってなどいないかのようで。

 

 それは――この黒い球体の部屋の住人として、終わってしまって、壊れてしまっているようだった。

 

「――――っッ」

 

 葉山隼人は――思い出す。

 

 ああ、そうだ。この『部屋』は、こんな――そんな風な、地獄だったと。

 

「――来たか」

 

 東条英虎は呟く。

 

 黒い球体は、この部屋に最後の戦士を招集する。

 

 部屋の中心に照射された電子線は、人体の断面を描きながら、地獄に英雄を召喚した。

 

 漆黒の(スーツ)に、漆黒の(ソード)を携えて、現れた黒髪黒瞳の少年は。

 

 全身が顕現されるや否や、無機質な黒い球体に向かって歩みを進める。

 

 そして、少年が真正面にやってくるや否や――黒い球体は、歌い始める。

 

 

あーた~~らし~~いあーさがき~~た~~きぼーのあーさーがー

 

 

 五人の新人達は、その場違いに長閑(のどか)な歌に不気味さを覚え、全員が顔を上げて黒い球体を注視する。

 

 渚とあやせは表情を消して険しく佇み、東条は獰猛に笑みを深める。

 

 葉山隼人は、喉元まで競り上がってきた苦い唾を呑み込んだ。

 

(…………あぁ。始まる)

 

 そして、終わる――葉山は、真っ黒な両手をギュッと握って、何かに祈るように瞑目して天井を見上げた。

 

「――大丈夫だ。安心して欲しい」

 

 黒い球体が歌い終わる頃、他の住人達に背中を向けながら、黒い剣士は静かに呟く。

 

 

【てめえ達の命はなくなりました。】

【新しい命をどう使おうと私の勝手です。】

【という理屈なわけだす。】

 

 

 黒い少年は、真っ黒な英雄は。

 

「君達は死んだかもしれない。だけど、まだ死ぬと決まったわけじゃない。……生きて帰れれば、生きて返れる。生きていける。……だから、安心して欲しい」

 

 真っ暗な瞳で、その黒い球体に浮かび上がる何かの宣告を、たった一人で受け止めると。

 

「――これから向かうのは地獄だ。けれど、天国じゃない。戦って、勝てば、またこの地獄に戻れる」

 

 

【てめえ達はこいつをヤッつけてくだちい】

 

 

 ドガンッ!!!! と、黒い球体が三方向に飛び出す。

 

 真っ黒に輝く武器が、黒い球体の部屋の住人達へと提供される。

 

 新人達が困惑と畏怖の視線を、仲間達が覚悟と昂揚の視線を向ける中。

 

 葉山がただ一人、痛ましげな視線を向ける中で――英雄は。

 

 黒い球体の部屋に相応しい姿に成り果てた英雄は、ただ一言、こう告げた。

 

 

「――行こう。世界を守る為に」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 平穏な日常が脅かされた、日本の何処かの、とある平和だった街。

 

 数分前までの穏やかさは消え失せ、市民の怒号と悲鳴、絶叫と叫喚が轟いていた。

 

 そう、まるで、一昨日の池袋のように。

 

「いやぁぁあああああああああああ!!!」

「うわぁぁあああああああああああ!!!」

 

 車は横転し、ビルは破壊される。

 人々は波のように、その存在から少しでも離れようと死力を尽くして逃げ惑う。

 

「や、やだ、やだやだやだやだやだやだ!!」

「なんだよっ! なんでこんなんが――普通に日本にいるんだよッ!!」

「いつからここは異世界になったんだッ!? こんなの二次元だろッ! あんなの現実にいちゃいけねぇ――化物(バケモン)だろうがッ!!」

 

 それは、確かにその通り――文字通りの化物だった。

 

 異様に長い頭に、瞳のない不気味な相貌。

 唾液が滴る凶悪な牙。サーベルのように鋭い爪。

 

 およそエイリアンとして総じてイメージするような、醜悪極まりない化物が、無力な人間達を襲っていた。

 

《ふ。ふふ。まさか、ここまで大手を振って人間共を襲うことが出来る日が来ようとはな》

 

 そして、そんな化物が人間を襲っている地獄のような光景を特等席で眺めようとばかりに、既に危険を知らせる赤い光を力無く点滅する力しか残っていない信号機の上にてそうテレパシーを呟くのは、背の低い小さな悪魔だった。

 

 黒い身体。四角の頭。

 背中には殻のようなギザギザの羽が生えていて、頬と胸の中心には星のマーク。

 そして、そんなコミカルな特徴を打ち消すような、筋肉質なボディ。

 

 小さな悪魔は、赤く細長い爬虫類のような舌で己の口元を舐めながら、赤い瞳を細めて眼下を一望する。

 

 人間達が逃げ惑っている。

 己の無力さをこれ以上なく曝け出し、自分達に背中を見せながら命乞いをしている。

 

 これまでずっと、自分達こそがこの惑星の支配者だとふんぞり返り、夜の世界すら目障りに明るく照らして、我らを日陰へと、闇の中へと追いやった天敵が――こうも無様に! こうも無力に!

 

《さぁ! 殺せ! 壊せ! 解体しろ! 同胞達の無念を、今こそ晴らすのだ!!》

 

 悪魔が信号機の上で立ち上がり、その赤い瞳を一際強く輝かせる。

 

 それを合図とばかりに、数体の醜悪な化物が、転んで逃げ遅れた一人の市民に集結する。

 

「――え? なに――イヤ、やめて――っ!?」

 

 一体の化物が女性の右腕を掴み、もう一体の化物が女性の左腕を掴む。

 化物の爪が女性の柔い肌に食い込んで、それだけで信じられないくらいの激痛が走った。

 

「ヤっ――イタイイタイイタイ!! やめて!! お願い!! 助けて!! やめて!!」

 

 女性は涙を流し、首を必死に振って拒絶を示す。

 だが、化物は人間の言葉など意に介さずに、その爪と牙からは考えられない程に丁寧に、だからこそ異様に恐ろしい処刑方法を実行しようとする。

 

 女性の腕が両側から引かれる。

 否が応でも理解出来た――自分は、真っ二つに引き裂かれようとしている。

 右と左から、一切の容赦なく。まるで、無邪気な子供が、遊び飽きた人形を破壊するが如く。

 

 その時、女性は何故か――これまで気にも留めていなかった、自分を信号機の上から見下ろす小さな悪魔に気付いた。

 

 悪魔は――笑っていた。

 楽しそうに。愉しそうに。

 

 無力な市民は――発狂した。

 

「いやぁぁぁあああああああああああああああああああ!!! 助けてぇぇぇえええええええ!!!」

 

 その絶望が、この上なく美味だとばかりに、悪魔が高笑いを上げようとした――その時。

 

 

 女性を引き裂こうとしていた化物が、殺害された。

 

 右の化物は、首筋に掛けてを真っ二つに切り裂かれ。

 左の化物は、胴体の中心に風穴を開けられた。

 

 

《―――――――――――思ったよりも、早かったな》

 

 悪魔はピタリと笑うのを止め、先程までの昂揚が嘘のように冷たい眼差しで睥睨する。

 

 化物による処刑劇を無粋にも中断させた、二人の黒衣の戦士達を。

 

 天から降り注いだ電子線によって続々と現れていく、黒い球体の戦士達を。

 

『――来ましたっ! 現れましたっ!!』

 

 悪魔の更に頭上から、地獄を映し出していたヘリコプターのカメラは、そしてカメラの横でマイクを握る男は。

 

 まるで先程までの悪魔の昂揚が乗り移ったが如く、興奮のままに言葉を発し――全国へと放送する。

 

 

『それは突然でした。まるで、一昨日の池袋大虐殺の再現とばかりに、このとある地方都市に突如として、謎の未確認生物――『星人』が出現したのです』

 

 

 化物から解放された女性は、何が起きたのか分からないとばかりに呆然としていたが、化物を切り裂いた戦士――桐ケ谷和人が、ふと顔だけで振り返り、座り込む女性に向かって言った。

 

「――遅れてすまない」

 

 その顔を見て、昨夜の会見に出ていた戦士だと気づいた女性は「君は……」と、自分よりも明らかに年下の少年を、そして、その少年の隣に立つ大男を、更にその後ろに現れた水色髪の小柄な少年を、そして。

 

 

『突如として発生した異常事態。市民は戸惑い、逃げることしか出来ませんでした。このままでは、本当に一昨日の悲劇の再現になってしまう――そんな時でした。今、正に、そうなろうとしていた最中(さなか)でした!』

 

 

 やはり自分よりも遥かに年下の、艶やかな黒髪の少女が、倒れ込む女性へと手を伸ばして、微笑みと共に言った。

 

「もう大丈夫です。後はわたし達に任せて、すぐに逃げて下さい」

 

 処刑を逃れた女性は、そんな彼らを――桐ケ谷和人を、東条英虎を、潮田渚を、新垣あやせを――見て、呟く。

 

 

『――GANTZです! 対星人用特殊部隊GANTZ! 昨夜の会見にて政府より発表されました、池袋を救ってくれた英雄達が、この危機にも颯爽と駆け付けてくれました!!』

 

 

《………………》

 

 女性が一目散に逃げていくのを、小さな悪魔は冷たく睥睨していた。

 

「新垣さん、彼女が安全な所に逃げるまで護衛を。渚、敵の数が多い、五月蠅く飛び回る細かい雑魚の処理を頼む。被害を少しでも減らしたい」

 

 和人の指示に小さく首肯と了解の返事をしながら、あやせは女性の進行方向にいた化物に飛び蹴りを叩き込み、渚は駆け出して羽を広げて宙を飛んでいた化物にクラッカーBIMを叩き込んだ。

 

 BIMの衝撃が響く中、小さな悪魔は冷たい眼差しで、和人と東条を見下ろしながらテレパシーを放つ。

 

《楽しいか、人間よ》

 

 和人は一瞬、ピクリと身体を震わせるが、何も返さずに冷たく見据え返す。

 小さな悪魔は、そんな和人に対し、尚も無表情でテレパシーを送り続ける。

 

《我々は、この星を支配しようと思ったことなど一度もない。ただ、誰も気づかぬ暗闇の中で、ひっそりと暮らせればそれでよかったのだ。今も、昔も、眠れる星人(われわれ)を起こすのは、いつだって貴様ら人間だ》

 

 和人は、後ろ目で逃げ惑う市民たちを見遣る。

 真っ暗な闇の中で静かに暮らしていた星人を、こうして昼の世界に引き摺り出したのは――。

 

《忘れるな。これは、地球人(おまえら)が始めた戦争だ》

 

 パチンと、小さな悪魔が指を鳴らす。

 すると、悪魔の背後の道路沿いのビルを突き破り、倒壊させながら――巨大な怪物が登場した。

 

 和人は市民を襲っていたエイリアンのような化物を五月蠅い雑魚と称したが、小さな悪魔の背後に現れたのは、通常体の怪物を鳥とするならまるで飛行船のような大きさの怪物だった。

 だが、動きはまるで大海原を遊泳する鯨のようで、滴り落ちる唾液はアスファルトを溶かし、大きく開けた口は何もかも飲み込むブラックホールのよう――。

 

「――東条」

「任せろ――」

 

 悪魔が立つ信号機を擦過するように低空飛行を始めた巨大な怪物を、和人の前に出た東条が獰猛な笑みと共に受け止めた。

 

「GOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!」

 

 怪物がその巨体をそのまま押し付け、東条を引き摺りながら道路を進む。

 東条は笑みのままにそれに応え、掌が唾液による溶解で煙を上げながらも、そのまま両腕の筋肉を膨れ上がらせて――。

 

「――行くぞ」

 

 片手で巨体を押さえ、もう片方ので拳を作り――怪物の脳天に、強烈な勢いで拳骨を振り下ろす。

 

 

《――大した正義のヒーローだ》

 

 小さな悪魔は、全く微笑まず、まるで人形のような無表情で告げる。

 

「……………………」

 

 和人は、脳内に冷たく響くテレパシーと――そして、轟く市民の絶叫に、一度瞑目し。

 

 斬り祓うように――剣を抜く。

 

《………………人間め………ッ》

 

 小さな悪魔は、忌々しげに表情を歪め、筋肉を膨張させていく。

 

 和人はそれに応えるように、機械音を響かせながら半身を引き、剣を構えた。

 

「俺は――世界を救うんだ」

 

 その言葉は、小さな悪魔の最後の一線を斬った。

 瞬間――星人は信号機を蹴り、和人に向かって雄叫びを上げながら飛び掛かる。

 

 桐ケ谷和人は、一切の揺らぎなく、ただ真っ直ぐに漆黒の剣を閃かせた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、黒衣が貫かれた。

 

「――がふっ」

 

 胸の真ん中を物理的に貫通した腕に向かって、戦士は己の吐いた血液を浴びせた。

 どろりとまるで血のように肩の制御部からジェルを吐き出したガンツスーツは、まるで着用者の息の根と同化するように――機械音を発するのを止める。

 

「――理解不能。正しく、理解不能だ」

 

 ずるりと、物言わなくなった戦士から引き抜いた無数の中の一本の腕は、おどろおどろしく人間の血がべったりと付着していた。

 

 だが、その腕の主はそれに対して何を言うでもなく、何も思うことはないとばかりに無表情で、無感情で、無機質で告げる。

 

「――これで、何人目だ? 殺しても、殺しても、まるで虫の如く湧いてくる。虫のように殺され続け、それでも尚も戦い続ける。黒衣(きさまら)は、一体何がしたいのだ?」

 

 否、一本の腕だけではない。

 既に、無数に生えている腕の全てを、腕だけでなく全身に至るまで、己を緋く染め上げるが如く返り血を浴び続けるその存在は、また一人、黒衣の戦士の息の根を止めて呟いた。

 

「し、島木はぁあああああああん!!!」

 

 トゲトゲ頭の男が、信じられないとばかりに叫んだ。

 ついこの間、この摩訶不思議なデスゲームに巻き込まれたばかりの男だったが、それでも――自分が所属しているらしいこのチームは、恐ろしく強いのだということへの理解はあった。

 

 とあるデスゲームで一時的ながらトップチームを率いたこともある。例え、その中心選手になれなくとも、俯瞰的にギルドの大きさを見る目くらいはあるつもりだった。

 

 現に、自分が戦士となってから、これまで苦戦らしい苦戦はしてこなかった。

 主力戦士達が戦争で遊ぶ癖があったが故に犠牲は決して少ないわけではなかったが、それ故に、主力選手に上手く取り込むことが出来れば、点数は稼げなくとも、生き残ることは難しくない筈だった――そう、その筈、だった。

 

 今日、この――京都の戦場に送られるまでは。

 

「木場ぁ! 何しとんねん! はよ逃げんかいッ!」

「せ、せやかて――室谷はん――」

 

 トゲトゲ頭の男は、自分の前に出て、島木と呼ばれた男を殺した無数の腕を持つ化物に銃を向ける男を弱弱しく見詰める。

 

 この男は、自分達が所属するチームのリーダーで、最強の男だ。

 どんな『星人(バケモン)』を前にした時でも余裕を忘れず、またその余裕を崩さないままに、なんだかんだ言って最後にはボスを屠ってきた男だ。

 

 先程、あっさりと殺された島木という男も、この室谷に続くチームの№2であり、この室谷の右腕のような男だった。

 だからこそ木場は、この二人の懐へと潜り込むことで己の身を守ることに決めて、命を守ることに決めて――そして、それは今日まで上手くいっていた。上手くいっていたのだ。

 

 だが、今――片翼の島木は殺され、そして、室谷も片腕を失っている。

 

「――はっ。ついてへん。よりにもよって、京都かいな」

 

 死ぬんなら道頓堀でグリコ眺めながら死にたかったわ――と、室谷は脂汗を流しながらZ型の銃の照準を合わせる。

 だが、既にジェルを吐き出したスーツは着用者よりも一足早く死んでおり、その巨大な銃を持ち上げるだけで精一杯の状態だ。

 

 なんでや――と、木場は膝を笑わせながら呟く。

 

 どうして――どうしてこんなことになったんだと。

 

 辺りを見渡す――死んでいる。

 室谷の彼女も。島木の彼女も。普段は真面目に戦うことすらないが、それでも過去に百点クリアをしたこともある戦士達だったのに。

 

 逆を見渡す――死んでいる。

 いつも笑って敵を殺す三人組が死んでいる。その壊れた笑顔のまま、永遠に表情を変えることもない状態で無造作に転がされている。

 

 燃えている――京都が燃えている。

 転送されてきたのは、とても有名な寺院だった。誰もが修学旅行で訪れたこともあるような。

 そんな国宝級の寺院が、この戦争によって、きっと灰しか残らないであろう程に――燃え盛っている。

 

 地獄だ――転送先は、地獄だった。

 木場には、炎の中で、全身を真っ赤に染め上げた――無数の手を持つ仏像が、最早、地獄の獄吏にしか見えなかった。

 

「――千手観音、か。『端末』の破壊例は全国で何件かあるって『支部』の奴等からは聞いとったが……『本体』がまさか、ここまでのバケモンやったとはな……」

 

 それに――と、室谷は、その千手観音の背後にいる存在に目を向ける。

 

 燃え盛る寺院の屋根に佇む、小さな老人。

 その老人を挟むようにして佇む、真っ赤な顔面に長い鼻の山伏と、水干に高烏帽子の犬の顔を持つ何か。

 

 奴等もまた、此度の戦争で死体の山を積み上げていた。

 あのたった三体で、此度の戦争で共闘した中国チームと四国チーム、九州チームの強豪戦士達を皆殺しにしたのだ。

 

(あの桑原と花咲もやられとったしなぁ……まぁ、あの二人は何とか逃げよったみたいやけど)

 

 室谷はそんな思考をしながら、モニタで残り時間を確認して、未だ動けていない木場に向かって言う。

 

「木場ぁ、何回言わすねん。はよ逃げんかいな。ここまで派手にやって未だ警察も消防も来いひんちゅうことは、恐らくここはDRや。なら、きっと制限時間が終わればちゃんと転送される。点数はリセットやろうが、死ぬよりはマシやろ」

「む、室谷はん……なに言うて――」

「さっさと失せろ言うとるんじゃ!! このモヤっとボールがッッ!!」

 

 はよせんと俺がぶち殺すぞッッ!!! ――と、室谷がその千切られた腕の断面を見せつけるようにして、木場の方を振り向いて怒声を放つ。

 

「――――ッ!」

 

 木場は、それを見て瞳に涙を溢れさせながら、よたよたと足をもつれさせながらも逃亡を開始した。

 

(……これでええ。これでアイツが生き残れば、もしかしたら100点で生き返れるかもしれへんしな。……期待薄やが)

 

 それでもまだ、終焉(カタストロフィ)までは、僅かながら時間がある。

 あんなにも楽しそうな祭り――死んでも、生き返ってでも参加したいに決まっている。

 

(ここで生き残れればそれに越したことはないんやが……後、3分か……無理やな)

 

 室谷は力無く笑う。

 既に腕の断面から血が流れ過ぎている。視界も殆ど掠れて見えていない。

 

 そして、そんな掠れた視界でも――千手観音が、なにやらとんでもない攻撃を放とうとしているのが分かる。

 

「……元気玉か? それともかめはめ波かいな?」

 

 男の子の憧れやな――という室谷の皮肉にくすりとも笑わず、千手観音は無情に告げる。

 

「悪いが、一兵たりとも逃がすつもりはない。貴様らは――やり過ぎた」

 

 千手観音は、己の居城たる燃え盛る寺院に目を向ける。

 室谷は「そらぁ、悪いことしたなぁ。……せやけど――」と言って、素面(しらふ)の片手で持ち上げるには重すぎるZ型の巨銃の銃口を、炎の中で眩く発光する球体を浮かび上がらせる千手観音に向ける。

 

「――負け逃げくらいは、させてもらうで」

 

 その時――室谷の目の前の虚空が歪む。

 バチバチバチという火花が鳴るような音と共に、京都の寺院には余りにも相応しくない、近代的な強化鎧(パワードスーツ)が登場した。

 

 恐らくは通常のガンツスーツに、幾つかの強化パーツによって武装している。

 何よりも特徴的なのは、マスクのようなヘルメットと、ゴリラのように太く大きな両腕。

 

 その圧倒的な存在感は、緋色の千手観音と相対しても遜色のない――強者のオーラだった。

 

「……ほんま、やりすぎや。いくらDRやからって、こない派手にやらかしおって。とんでもない『後遺傷』が残るに決まっとるやろ。どないすんねん、国宝(こくほー)やぞ国宝(こくほー)

 

 パワードスーツを身に纏う何者かは、背後の室谷に向かって気安く言う。

 室谷は、掠れた視界の中に現れた、かつてのチームメイトであり、ルームメイトであり――現在は『上位幹部』となっている筈の男の登場に「……おそいねん。いまさら、なにしにきてん」と、笑いながら言う。

 

(たっか)いコスト掛けてDR使おうた割に、あっさり全滅した挙句、現実世界で逃がした星人に暴れられましたーじゃ、商売あがったりっちゅうこっちゃ。せめて――しばらく暴れられへんくらいには、お返しせえへんとな」

 

 パワードスーツを纏う戦士は、膨れ上がる千手観音の光球に向けて、半身を引き、拳を握り――何も見えていない室谷に告げる。

 

「――ようやった。最後にワイのかっちょええ雄姿を、その目に焼き付けて死に」

 

 

 Cosmopolitan Integration OrganizatioN(世界主義統合機構) 

 

 JP支部戦士ランキング 8位

 

 岡 八郎

 

 

「死せよ、黒衣共」

 

 そして――千手観音による破壊光線が放たれる。

 

「隙があったら――かかってこんかい!!」

 

 パワードスーツの戦士――岡は、雄叫びを上げながら光の中へと突っ込む。

 

 そして、室谷信雄は静かに炎の中に倒れ込み、彼の雄姿を見ることもなく死亡した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜が明け、全国のマスメディアは、京都の国宝寺院の謎の放火事件について取り上げた。

 

 近隣施設にも多大な損害を出していることから、テロリストによるテロリズムの可能性も疑われたが――すぐに、関東地方で発生した星人事件を()()()()()()()GANTZが解決したことに関するニュースへと切り替わり、その功績に対する賞賛と、救えなかった犠牲に対する批判という、お茶の間が好む話題へと人々の関心は移った。

 

 

 この日、日本にある『黒い球体の部屋』の内、中国チーム、四国チーム、九州チーム、そして最大最強の戦力を誇っていた関西チームが敗北し、致命的な被害を受けたことは、世間の誰も知ることはなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 総武高校の職員室の扉を、一色いろはは気だるげに開けた。

 

「しつれいしま~す」

 

 少し前までは、一色は真面目ではないが素行不良というわけでもない一般的な生徒だったので、他の生徒達と同様に職員室という空間に少なからずの苦手意識を持っており、扉を開けるのに緊張をしていた頃もあったが、生徒会長という肩書を所持するようになってから、頻繁に(悪い意味でなくとも面倒くさい要件で)呼び出されるようになってからは、この部屋に抱いていた緊張感のようなものはなくなってしまった。

 

 いくら聖職と呼ばれる教師といえど、大人である前に人間である以上いつでも聖人君子というわけではない。

 むしろ、教壇の上では聖職として勤めなくてはならない以上、生徒の目がない職員室というこの空間は、教師の大人としての駄目な部分が露見し易い場所でもある。無論、大概の教師は勤務時間である以上、職員室でも立派に仕事をしているのだろうが――。

 

「おう、一色。急に呼び出してすまなかったな」

 

 入室した一色の声に反応し、パーテーションの向こう側から白衣を靡かせてやってきたのは――平塚静。

 今年度は生徒会顧問を担当していることもあってか、一色は案の定呼び出し人が彼女であったことに溜息を吐く。そして、白衣から香ってくるその匂いに対しても。

 

「……先生。また煙草吸ってましたね」

「ああ、すまない。匂ったか」

 

 平塚は白衣を脱いで、男性用の黒いラベルの芳香剤を噴射する。

 確かに煙草の匂いはそれが一番落ちるのかもしれないが、まもなく三十の大台を跨ごうとしている独身女性としては、大事な何かを捨て去ってしまっているように思えなくもない。

 

「……で? 要件はなんですか、平塚先生」

「ん? ああ、そうだったな。すぐに他の生徒達にも伝えることなのだが、先に生徒会長である君には伝えておこうと思ってな。君も当事者の一人である行事についてだ」

 

 当事者? ――と首を傾げる一色に、自分の席に座った平塚は「この間の京都の事件は知っているか?」と問い掛ける。

 

「京都の? それって、あの有名なお寺が焼失したっていうあれですか?」

「ああ。うちの修学旅行のコースにも組み込まれていた。初めは、コースの変更の方向で話は進んでいたんだが――」

「――もしかして、修学旅行が中止になるなんていうんじゃ」

 

 一色は露骨に表情を歪ませる。

 実をいうと一色自身としては、そうなっても別にいっかくらいにしか思っていない。

 修学旅行という高校生活においても最も思い出としては残るであろう行事が中止になってしまうことは少しは残念ではあるが、一色としては今はそんな気分ではないという一言に尽きるのだ。

 

 それでも表情をここまで露骨に歪ませたのは、偏に他の生徒達の反応を思ったからだ。

 一色は自分が特殊例であることを自覚している。普通の高校生にとっては、修学旅行が中止になるなんてことは有り得てはならないことだろう。

 

 とんでもなく大きい不満が教師陣に、そして何故かなんとかしてよ生徒会長と自分の方にも強い風が当たるだろう。面倒くさいことに。面倒くさいことに。(二回繰り返すくらい大事なことだ)。

 

 平塚はそんな一色の心情を理解しているのか「安心しろ、中止にはならない」と苦笑しながらも、「だが、面倒くさいことになっているのは確かだ」と上げて落とす。

 

「当時の報道にもあったように、あの事件はテロリズムの可能性が未だに消えていないんだ。犯人も見つかっていない。故に、そんな危険な地帯で子供達に自由行動をさせるのはいかがなものかという声が大きくてな」

「……はあ。現地の高校生達は、毎日警察に護衛でもされながら登校してるんですか?」

「そう捻くれたことを言うな。誰の影響なんだ、全く」

 

 一色と、何故かそんなことを言った平塚も、一瞬痛ましげに表情を歪める――が、原因不明な感情を置き、平塚は「――結局、そんな声を消せないままに、京都での修学旅行はなしとなった」と言った。

 

 確かにテロリストが潜伏しているかもしれない場所で修学旅行など危険だという声もあるかもしれないが、あれから少なくとも数週間は経過している。それだけあれば今の時代、京都どころか世界中どこにだって逃げる気になれば逃げられるだろう――そんなことを思ってしまうのは、平塚の言う通り、何処かの誰かの影響なのだろうか。

 

 何処かの誰か――きっと、何処かにいた、誰か。

 

 一色は、自分の胸を押さえながら「……でも、中止にはなっていないんですよね」と問い返した。

 

「ああ」

「でも、よく目的地を変えられましたね。もう修学旅行はすぐなのに」

「本当に運が良かったよ。奇跡としか言いようがないな。宿もそうだが、この場所に行けるのなら、直前の変更でもそんなに不満は生まれないだろう」

 

 平塚はそう言いながら、新しい修学旅行先が書かれたプリントを一色に手渡す。

 それを見た一色は、確かにここならば不満の声も少ないだろうと思いつつも、まるでこの思考の影響を与えた誰かを忘れまいとするように、捻くれた言葉を平塚に返した。

 

「……ここって、京都と殆ど離れてないような気がするんですが。それでいいんですか?」

「声を受けて対処しましたという形を整えることが大切なんだ。クレームに対応し、なおかつ新たなクレームが生まれないようにする。それが仕事というものだ」

「……そういうものですか」

 

 まあ一色としては、己に向かってくる生徒達の不満が少なければそれでいい。

 そんなことを思いつつ、一色は、千葉の夢の国に並ぶテーマパークである、日本一有名なスタジオの名前が書かれたプリントを細めた目で、何処かの誰かの如く濁り始めた眼で見遣る。

 

 平塚は、そんな一色から目を逸らしながら言った。

 

「そんなわけで、今年の修学旅行の行き先は――」

 

 

 

――大阪だ。

 

 

 




それはきっと、忘れられない(おもいで)になる。


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