イリス ~罪火に朽ちる花と虹~ (あんだるしあ(活動終了))
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Interview1 End meets Start Ⅰ
「すぐに外に出してあげる」


 ルドガーは手元の小さなLEDライトを頼りに、地下迷宮を進んでいた。

 

 別にルドガーは探検家でも洞窟マニアでもない。これは、ルドガー憧れの会社、クランスピア社の入社試験なのだ。

 ルドガーの希望は競争率の高い「特殊戦闘エージェント」。戦闘力はもちろん機に応じた判断力と思考力、そして実行力が求められる。時にはその身を任務のために危険に晒すこともいとわない、エレンピオスのヒーローだ。そのための選抜試験だから、サバイバルも想定の内だ。

 

(この広さで5体――なら、イケる!)

 

 剣の手ほどきは、護身術程度だが兄から受けている。もっとも手ほどきをした兄が、かのクラウンエージェント、ユリウス・ウィル・クルスニクだから、他の受験者よりはアドバンテージがあるかもしれないが。

 

(今ので4体目。時間もまだ残ってる)

 

 心が躍る。ようやくユリウスと同じ場所に立てる。育ての親で唯一の家族である彼に恩を返せる。

 

 当たりをつけたポイントから、鳥型の魔物のアックスビークが躍り出た。ルドガーは慌てず、支給品の双剣でアックスビークを撃破した。

 

(ラストワン撃破! よっしゃあ!)

 

 快哉は堪えたがガッツポーズは堪えなかった。

 人前に出ても冷静に振る舞えるようひとしきり喜んで、ルドガーがその場を意気揚揚と去ろうとした時だった。

 

 ――足元の地面が割れた。

 

「ここで地盤沈下とかウソだろー!?」

 

 一人の青年が情けない声を上げながら、地下のさらなる深みへと落ちていった。

 

 

 

 

 

「――生きてるよ、俺」

 

 ルドガーは誰もいない暗闇に向かって呟いた。

 

 我ながらよく生きていられたものだ。結構な落下感があったので打ち所が悪いと死ぬと思って急いで受身を取りはしたが。

 

 起き上がる。が、闇が濃すぎて自分の手足さえ視えない。

 体を手探りし、支給品の剣とGHSがあることを確認する。

 GHSの液晶を開くと電波は0本表示。外との連絡は早々に諦めて落としたライト代わりに使うことにした。

 

(しっかし。こうしてると洞窟って本当暗いんだな。試験場は岩に照明でも埋め込んでたのかも。何だかんだで自分も魔物もはっきり見えたし……)

 

 ぺたぺた。足場を手で確保しつつ四つん這いで進む。立たないのは、天井の高さが分からないからだ。頭でもぶつけたら先ほどの神懸かり的受身が無駄になる。

 

「だれ?」

 

 手元がもつれて強かに顔面を地面に打ちつけた。

 

「へ、え、あ……そこに誰かいるのかっ?」

「答えたということは、幻聴じゃないと思っていいかしらね。何百年ぶりかしら。生身の人間とお話するのは」

 

 落ち着いたハスキーボイスが暗闇の向こうから届いた。

 

(これも試験の一環かな? 災害現場から要救助者を救出するって任務も中にはあるっていうし。この人も試験のためにユリウスが用意したエキストラかもしれない。じゃなくても、俺と同じで巻き込まれた人かも。だったら助けなきゃ)

 

「動けないの。近くに来てくれない?」

 

 ルドガーは四つん這いで声のするほうへと向かい始めた。

 

 途中から、足場の感触が妙にぶよぶよしたものに変わった。無理やり例えるなら、中に粘土を詰めたゴムホース。

 液晶の光で手元を照らす。大掛かりな機械のエンジンチューブらしきものが密集して地面を覆った光景が浮かび上がった。

 

 それらのチューブやらホースやらを辿る内、ほんのりと視界が開けてきた。試験場にいた時と同じ程度の視覚情報を得られるようになったルドガーは、一度留まって顔を上げた。

 

 

 燐光にて露わになったのは、美しすぎる囚われ人だった。

 

 

 両手両足、腹、乳房、首、髪さえも繋がれ、前のめりの姿勢のまま吊るされ、四肢の自由を奪われた、女。

 

 恐ろしいのは女を拘束するパイプやチューブやコードが、彼女の皮膚に直結し、まるで血管の一部のように脈打っていることだ。

 

「なに………してるんだ?」

 

 我ながら間抜けな問いだが、他に尋ねようがない。

 

「その質問に答える前にひとつ確認させて。貴方にはイリスが何に見える?」

「イリス?」

「わたしの名よ」

「何にって……女の子にしか見えないけど」

 

 あえて「女の子」と言ってみた。彼女の実年齢は分からないが、若く見積もって告げたほうが女子は喜ぶ、と同級生が言っていたので。

 

「封印した上で人間態に戻したのね、あの番犬。手の込んだ真似を。でも、それなら封印術式さえ解ければ……」

「あ、あのさ」

 

 独り言を連ねる女に思い切って声をかける。

 

「こんなとこで、何でそんなふうに縛られてるんだ? 誰かに捕まってるのか?」

「捕まっている――そうね、そう表現するのが正しいかしら。正確には、ここに封じられているの。恐ろしきモノ、おぞましきモノと、精霊に見なされてね」

「精、霊」

 

 伝説上の存在。概念を形象化した人外のナニカ。世界は精霊によって創られたと伝える文書もあるが、エレンピオスの国民の大半は、精霊など実在しないと知っている。

 

 ゆえに彼の目には、女は「よく分からない理由で囚われた哀れな人」と映った。

 

 ルドガーは思い切って、イリスに絡まるコードの束をぐわしと掴んだ。

 

「ちょ!? 貴方、何をしているの!」

「大丈夫。すぐに外に出してあげる」

 

 笑いかけると、イリスは翠の目を丸くした。

 

 コードの絡まりを探しては、力強く握り、足をかけて登る。

 入社試験のため、団地の公園の鉄棒を使って懸垂をしてきたルドガーである。ちょっとしたウォールクライミングだと思えばいい。

 

「ただのニンゲンが素手でイリスの拘束具に触るなんて……!」

「タッチ。はいとーちゃくっ。言ったろ? すぐ出してやるって」

 

 

 ――次の瞬間、掴んでいたコードの束が、脈打った。



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「貴方が終わらせるのかもしれない」

 ――掴んでいたコードの束が、脈打った。

 

「え? は? ええ!?」

「どうしたの!? 痛いの!?」

 

 ヒステリックな心配声に応える余裕もない。

 

 無機物であるはずのモノが、ルドガーの掌の中で、心臓があるようにドクンと跳ねた。

 ルドガーはチューブの束を掴んだ右手の手首を握りしめる。右手を剥がそうとしても離せない。

 ならば。

 

「だああああああああっっ!」

 

 チューブごと剥がすまでだ。

 

 両手でチューブの束を力いっぱい引っ張った。チューブの群れは呆気なく岩から離れた。そのためルドガーは足場を失い、再びコードの地面の上にべしゃっと落ちた。

 

 起き上がる。手の中からチューブの束はなくなっていた。

 

 イリスを見上げると、彼女に絡んだチューブやコードが、ミチミチと音を立てて蠢動していた。空洞内に張り巡らせられた触手がイリスに集まっているのだ。

 集まっては、消えていく――イリスの背中が呑んでいるのだ、莫大な量の触手を。

 

 やがてイリスは、体中の力を失したように逆しまに落ちてきた。

 

 ルドガーは慌ててイリスの落下地点に走り、落ちてきたイリスをキャッチした。

 

(軽い……いや、薄い? 俺とそう変わらない歳の女の人なのに、感触に現実味がないっつーか、ここにいるのにいないような気がする? あんなにたくさんのモノが入ってったのに)

 

 イリスが顔を上げた。銀髪が顔面に一筋二筋とかかる姿は幽鬼を思わせた。

 

「貴方、時計は?」

「え、持ってない、けど。時間はGHSで見ればいいし」

「――骸殻に目覚めていないのにイリスの封印を解いたの? 何て潜在値の高さ……」

 

 知らないフレーズの羅列にルドガーも何が何やら分からず首を傾げるしかできない。

 

 すると、女はルドガーをまっすぐ見据えた。翠の目。ルドガーと同じ色。ルドガーの××と同じ、色。

 

「貴方の名前は?」

「俺は……ルドガー。ルドガー・ウィル・クルスニク」

「ルドガー。貴方はイリスが触れても何ともないのね」

 

 女の指がルドガーの頬をなぞった。

 

「何度かクルスニクの子どもと会ったけど、貴方みたいな子は初めてよ。もしかしたら、貴方が終わらせるのかもしれない。クルスニク一族の宿業を」

 

 会ったばかりの異性がするには過剰なスキンシップ。それなのにルドガーは動けない。動けなかった。女の仕草があまりに自然で。

 

 頭上で再び岩が割れる音がして、大空洞全体が震えるまでは。

 

「! 危ない!」

 

 女が目の前にいたのが幸いした。ルドガーは彼女を自分の下に抱き込んで盾となろうとした。

 

「――しょうがないわね」

 

 直後、下にいた彼女から光が炸裂した。そこでルドガーの意識は途切れた。



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「母さんだったんだ」

 ――その時、彼には何もできなかった。

 

 自分にひたすら哀しげに笑いかけ、自分を強く抱き締めた母。

 銀の長い髪をふり乱して××××に襲いかかった母。

 ××××の必死の抵抗によって致命傷を負った母。

 呆然とする××××に覆い被さるように、血を胸から噴き上げて倒れた母。

 

 ――彼には何もできなかった。

 

 だからこそ彼は強くなりたいと強く望んだ。

 

 どんな形であれ、二度と目の前で「家族」が血を流すことがないように。

 二度と自分のせいで「家族」が傷つけ合うことがないように。

 

 …

 

 ……

 

 …………

 

 ルドガーは鈍痛と共に目を覚ました。

 

「う、ん…」

「気がついて?」

 

 声のほうを見やる。たったさっき庇ったあの女が、心配そうにルドガーを見下ろしている。

 

「ぁ……ぅわああ!?」

 

 意識が明瞭になるや、ルドガーは飛び起きて後ずさった。イリスはきょと、と首を傾げた。

 

「あ、あん、あんた…っ」

「イリスよ」

「い、イリス……じゃなくて、そのカッコ! 服っ!」

 

 イリスは一糸まとわぬ姿だった。産まれたままの姿だった。どう言い繕っても、ハダカ、だ。

 

「ああ、これ。イリスが着るとどんな布も腐り落ちてしまうから、服を着られなくて。だから髪を伸ばして隠しているのだけど、これでも駄目かしら」

「だ、ダメに決まってんだろ!!」

「こんなおぞましい皮膚に欲情する殿方なんていないでしょうに……しょうのない子」

 

 高い音が鳴り渡り、紫の光が炸裂した。ルドガーはとっさに目を庇う。

 

「これでいいかしら」

 

 声に反射で腕を外してイリスをまた見て、また別の意味で度肝を抜かれた。

 

 イリスはどこから出したのか、近未来SFでバトルヒロインが着るようなアーマードボディスーツを纏っていた。

 素地は紫紺で、所々にあじさい色の蛍光ラインが入っている。同じパーツで出来たヘッドギアの留め具が頬をも覆う。腿や腰や肩には、昆虫の翅にも似たパーツが乱立している。両手両足は獣の四肢を模したそれに変化していた。

 

「あ、ああ。いいんじゃない、か?」

 

 ボディラインを強調するラバースーツのほうが裸より問題大ありだとしても、ルドガーの中では丸裸の異性を連れ歩くよりずっと常識的である。

 

「じゃあ問題がなくなった所で街へ下りましょう。中はさっきの地割れで崩れていたから」

「あ。そういえば、どこだ? ココ」

「さっきまでいた空洞を抜けた先()()()()()()()()()()()()わ。尤もこの場所で忠犬よろしく待てというわけにもいかないから、せめて人のいる場所に行ったほうがいいんじゃなくて?」

 

 銀糸をゆらめかせて笑うイリス。

 ふと彼女の何かに、ルドガーは既視感を抱いた。

 

(それもそう、か。会社に戻らないと、試験がどうなったかも分からないし……ユリウス、心配してるかも。それにイリスだ。何でクラン社の地下であんなやり方で捕まえられてたか、それを知るには、クラン社へ戻らないと)

 

 立ち上がろうとして、足がもつれた。こんな時に、先ほどの落下のダメージが来たらしい。

 ルドガーは片膝を突いた。

 

「大丈夫っ? どこか怪我をしたの?」

 

 イリスがしゃがんでルドガーの顔を覗き込む。今までの妖艶さが嘘のように、本気の心配を浮かべている。

 

 また、既視感。

 

「えっと、さっきちょっと高いとこから落ちたから」

「……イリスのせいね。ごめんなさい」

 

 イリスは落下のことを、チューブを外した時だと思ったらしい。申し訳なさげに面を伏せる。

 

「イリスのせいじゃないよっ。俺がドジっただけだから。このくらい何てことない」

「――ルドガーがそう言うのなら。でも痛みが続くようなら我慢しては駄目よ」

 

 その言い方が、どこかで聞いたものに感じられて。これで何度目か、ルドガーは胸を押さえた。

 

 イリスが先に立ち上がり、歩き出した。その拍子にふわりと長い髪が慣性で浮いた。

 とたん、ルドガーは既視感の正体を突き止めた。

 

「分かった」

「なに?」

「何か思い出すなーと思ったら、母さんだったんだ。俺の母さん、イリスと同じで銀髪のロングだったから」

「それはイリスと、というより、貴方と同じ、と言ったほうがいいんじゃなくて? 貴方のお母さんなんだから」

「いや、なんていうか、こう…動いた時のふわっとした感じとか、ふり向く時の髪の揺れ方とか、ほんとそっくりだ」

「ふふ。ルドガーのお母さんと同じなんて光栄だわ。褒め言葉として頂戴しておくわね」

 

 そう言って笑ったイリスの顔に先までの妖しさはなく、ただ明るく無邪気だった。

 これもだ。この、微笑ましいものを見守るような表情もまた、ルドガーの中に母の思い出を想起させた。



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「倒れられない理由がある」

 ルドガーがトリグラフの街へ出て目にした光景は、異様、としか表しようがなかった。

 

 あちこちのベンチや床に大勢の人が無気力に座っている。まだ仕事時間帯で人が少ないトリグラフ埠頭でさえそんな感じだ。

 

「普通の人、どうしていないんだよ…」

「……」

 

 トリグラフの商業区へ向かった。さすがにあそこなら正常者の一人や二人はいるだろうと踏んで。

 

 

 ――確かに人は、いた。だが、それはルドガーの期待を大きく裏切った。

 ここでも人々は無気力に座り、あるいは横たわっていた。

 

 ルドガーはその中の適当な一人の肩を掴んで揺さぶった。

 

「おい! しっかりしろ! お…」

 

 眼球があるべき場所にはひたすら暗い眼窩があった。だらしなく開いた口から、ぽわ、ぽわ、と白い風船のようなモノが絶え間なく吐き出されては、空気に融けて消えた。

 

 気持ち悪い。

 

 ルドガーは後ずさり、尻餅を突いた。多少のことで動じない自信はあったが、これは、無理だ。

 

「マナ、ね。この街の……いえ、下手するとこの世界の人間は総じて、ただのマナを吐く物体にされてしまったかもしれない」

「う……っ」

 

 ルドガーは適当な街路の隅へ走り、嘔吐した。ひたすら、「ここ」の人間たちの有り様が気持ち悪くて堪らなかった。

 

 吐く物も尽きてえづいていると、背中を優しく撫でられる感触がした。

 

「イリ、ス」

「大丈夫よ。大丈夫」

 

 ルドガーはイリスにされるがまま体を預ける。イリスはルドガーの頭を優しく、一定の律で叩いてくれた。大の男としては情けなくもあるが、ずっとこうしてもらいたいとさえ思った。

 

 

 だが、現実はそう優しくなかった。

 

 

「まだ生き残りがいたか」

 

 

 直後、イリスはルドガーを抱き締め、大きく跳んだ。ルドガーたちがいた場所が抉れ、煙を上げている。

 もしイリスがいなければ――考え、ルドガーの背筋は冷えた。

 

 イリスは接地するなり、ルドガーをすぐ近くの建物の陰に押し込んだ。

 ルドガーはその陰から空を見上げ、息を呑んだ。

 

「何だよ、あいつら……」

 

 炎の巨人。水の女。惑星儀に乗った猫。緑毛の少女。氷のドレスの乙女。和太鼓を持つ小人。光輝を放つ巨鳥。ヒト型の黒いオブジェ。

 それらが一列に並んで、宙に浮いている。

 人間が単独で空を飛べるはずがないのに、飛んでいる。

 

 中でも異色なのは、中心にいる褐色の肌をした男。

 

「見るのは初めて? なら忘れてしまいなさい。精霊に記憶を割くなんて労力の無駄遣いよ」

「精、霊? あいつらが?」

 

 イリスは答えず、ルドガーを隠す位置に立った。

 

「久しいわね、クロノス」

 

 クロノス、と呼ばれてイリスを見下ろした――睥睨したのは、中心で浮かぶ褐色の男。

 

「蝕の精霊――なぜ貴様が地上にいる」

「そんなことも分からない? 封印が解かれたから以外に何があるというのかしら」

 

 物陰にいても分かるくらい、明確な殺気が立ち込めた。

 イリスが精霊と称した全ての存在が、殺意を等しくイリスに向けている。

 

「――ルドガーはここにいなさい。進んで死地に赴く必要はないわ。大丈夫。すぐ片付ける」

「あ、イリ…ッ」

 

 イリスはふり返らず、銀髪をひらめかせて歩き出す。

 

 

 あちらの先制攻撃は水だった。激流のような滝がイリスに降り注ぐ。しかしイリスは、巨大な水晶刃のブレードをどこからか持ち出し、そのブレードで水流を割った。

 

 するとその水は氷へと転じ、イリスの水晶ブレードを捕えてしまった。

 

 イリスは無手で一歩下がった。だが、緑毛のゴーグル少女がそれを許さず、小規模な竜巻を起こしてイリスを捕えた。イリスの足が数センチ地面から浮いた。

 

「この程度」

 

 イバトルスーツのあちこちから細いコネクターが何本も射出された。イリスはコネクターの尖端を街路に突き刺した。そして、コネクター収納の勢いを借りて竜巻から脱出した。

 

 和太鼓の小人が太鼓を打つと、いくつもの小さな雷球が生じ、イリスへと放たれた。コネクターや他の触手を代わりに受けるが、イリス本人にも数発着弾した。

 

「う…っ゛…」

 

 感電したイリスは前屈みになったものの、決して膝を突きはしなかった。

 

「往生際の悪い――」

「生憎とイリスには倒れられない理由があるのでね」

 

 イリスが一瞬だけ視線を流したのは、他ならぬルドガー自身だった。

 

(俺のために? 俺なんかを庇うために、イリスは戦ってくれてる)

 

 今でこそ順に攻撃をくり出している精霊軍団だが、いつ一斉攻勢に出るか分からない。

 その時、ルドガーはこの剣でイリスを守り抜けるか?

 

 ここまで動かなかった褐色の男が手の平をイリスに向けた。

 

「その理由とやらもどうせ下らぬものだろう。ここで散華しろ、精霊殺し」

 

 大きな攻撃の発射の兆候。さすがのイリスでも躱しきれるか分からない。

 

(成長して剣が使えるようになっても、俺は役立たずなのか?)

 

 脳裏に走る、ルドガー・ウィル・クルスニクの根幹ともいえる、ある記憶。

 

 

 自分にひたすら哀しげに笑いかけ、自分を強く抱き締めた母。

 銀の長い髪をふり乱して××××に襲いかかった母。

 ××××の必死の抵抗によって致命傷を負った母。

 呆然とする××××に覆い被さるように、血を胸から噴き上げて倒れた母。

 

 

(『あの時』は見てるしかできなかった。でも、今なら。大人になった今の俺なら、何かできなきゃいけない。いや、絶対にできる!)

 

 感情ではなく、自身の実力と現況を分析した上の判断を下し、ルドガーは飛び出した。



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「ちゃんと届いたから」

 ルドガーは走る。走る。

 クロノスのレーザーの射線上から、イリスを抱きすくめて外れ、イリスともども地面をローリングした。

 

「ルドガー!? だめでしょう、出て来ちゃ! 今ここがどれだけ危険な場か分からないの!?」

「分かってるから出て来たんだよ!」

 

 ルドガーは立ち上がり、精霊の列を睨みつけた。

 

「精霊ってのはずいぶん幼稚なんだな。女一人、寄ってたかって痛めつけて、恥ずかしくないのかよ」

 

 改めて向き合えば、ますます異様だと思わざるをえない。

 ヒト型のモノが空を飛んでいるだけでも異様なのに、それぞれがヒト科にはない特徴を備えている。

 特に赤眼。眼球が流血しているようで気味が悪い。

 

『純粋なエレンピオス人のようですね』

「ならばコレもマナを吐く物体へと変えよう」

 

 クロノスが掌の上に広げたのは、ボール型のプラネタリウムのような黒い球。プラネタリウムと異なるのは、その黒い波動がまぎれもなく毒だと分かる点だ。

 

「行け」

「うおおおおおおっっ!!」

 

 ルドガーは戦った。模擬戦用のCS黒匣ガードと、剣術の稽古でのユリウス以外で、初めて剣を揮った。

 

 だが、剣のたかが2本でどうにかなる存在ではなかったと、ルドガーは痛感させられることになる。

 

 ――凍らされたかと思えば炙られ、濡らされたかと思えば感電し。暴風によって上下に叩きつけられ。眩い光に目も開けなかった。

 ルドガーが満身創痍になるまで数分かかったかどうか。

 

 倒れる、と思った直後、後ろからルドガーを支えた腕と胸。

 こんなことをするのは、この場ではイリス以外にありえない。

 

 

 イリスはそのまま座り込み、ルドガーの頭を膝に載せる形に持って行った。初めて異性に膝枕されたのがこんな緊迫した状況など、冗談でも笑えない。

 

「いい子、本当に優しい子ね。会ったばかりのイリスのためにボロボロになって。そんなとこまであの方と一緒だなんて」

 

 イリスはルドガーの髪を優しく梳いてから、そっとルドガーの体を膝から地面に横たえた。

 

「ありがとう。嬉しかったわ」

 

 立ち上がったイリスは、単騎で精霊軍団へと歩いて行く。

 

(悔しい。何が強くなりたいだ。女一人守れてないじゃないか。動け、動けよ、俺の体! このままじゃイリスが嬲り殺しにされるんだぞ!!)

 

「――ルドガー」

 

 はっとする。まるでルドガーの懊悩を読んだかのようなタイミングだった。

 ふり返ったイリスはとても優しい表情をしていて。

 

「大丈夫よ。貴方の思いやりは、ちゃんと届いたから」

 

 クロノスが精霊軍団に合図を出した。火、水、風、土、光、闇、氷、雷、あらゆる属性の攻撃がイリスの立つ位置へと放たれ、着弾した。

 石畳が抉れ、露出した地面から上がった土埃のせいでイリスが視えなくなる。

 

「イリスーーーーーッ!!」



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「世界に散らばる私の子どもたちよ」

 地揺れの影響が最も深刻だったのは、入社試験会場で試験官をしていたユリウスかもしれない。

 

「CS黒匣(ジン)ガード緊急停止! 待機中の受験生を1階へ誘導しろ!」

 

 試験官として迅速に指示を出すユリウス。指示を受けて動く部下たちは心中で「さすが室長」と感嘆していたりするのだが、ユリウス自身はそれどころではない。

 

(この非常事態なら試験が中止になることくらい、ルドガーなら分かるはずだ。それが戻らない……となると、多分道が塞がれたかで戻れなくなったんだ。早く行ってやらないといけないのに!)

 

 弟を思う余り焦りが募る。

 その焦りを鎮めるように、その「声」はユリウスの頭に直接響いた。

 

 

 

                   世界中の息子たちよ……

 

 

 

 最初は空耳かと思った。だが、周囲にいたエージェントが数名、ユリウスと同じように訝しんで周りを見回していることから、幻聴ではないようだ。

 

 ――後に知ることになるが、ユリウスと、そしてエージェント数名は、全員が骸殻能力者――クルスニク一族の者たちだった。

 

 

 

 

 地域新聞社「デイリートリグラフ」が構えるテナントビル。

 その大動脈、編集部のオフィスは忙しなかった。

 

 9割の社員が先の地揺れで散らばった原稿を拾い、または原稿が入ったデータ媒体に異常がないかチェックするのに必死だった。彼らにとってはすぐ来る明日に遺漏なく出さねばならない情報、大事な飯のタネなのだ。

 

 その中で一人だけ、開いた窓から身を乗り出して、灰色立ち込める天を仰ぐ少女がいた。

 

 吸い込まれるように、ひたむきに、少女は曇り空を仰ぎ見ていた。

 

 ――否。少女は、耳を傾けていたのだ。

 天を伝わり、血の同胞のみが聴くはずの、その声に。

 

 

 

 

                 世界中の息子たちよ

            私はあなたが殺されるのを見たくありません

             私はあなたが殺すのを見たくありません

 

 

                 世界中の娘たちよ

            私はあなたを守るために目覚めました

           私はあなたの魂を奪われぬために目覚めました

 

 

             世界に散らばる私の子どもたちよ

             私はあなたたちを愛しています

              私があなたたちを守ります

           私があなたたちを幸福な未来へ導きます

 

 

 

 

 

 ルドガーの目の前で土埃が晴れて、現れたモノは――人間でも精霊でもなかった。

 

 顔が、なかった。そこにいたモノには、顔がなかったのだ。

 つるりとした石膏のペルソナ。血の涙のような赤い筋が白い面を縦に両断している。

 

 骨は全てが金属のアームに置き換わった。皮膚が消えて上半身の骨格は剥き出しだ。特に両腕はもう肉の原型を留めていない。ただ工事重機のアームが地面近くまで垂れ下がるのみだ。胴体はもはや人工臓器らしきものが露出していて直視に堪えない。

 

 視覚的に救いなのは、背中は頭から尻まで甲殻に覆われて、向こう側を見通さずにすむ点か。

 

 髪の一房一房もコードに置き換わり、尖端に水晶刃を備えた武器となった。特に太いのが、頭から細いコードを束ねた円柱、繋ぎらしき円筒、工事用もかくやというウィンチと、三つ指にも似た捕獲アーム―― 一連のポニーテールだ。

 

 足は消えた。代わりに、甲殻と同じ素材の2本足で、しかも右足と左足でデザインが異なる。

 

 どう言い繕おうと、バケモノ、だ。

 

 

「………………………………イリス、なのか?」

 

 ソレに問いかける。

 ペルソナの口角が上がり、笑みが形作られる。ペルソナには表情機能があるらしい。

 

「イリスよ。コレがイリスの精霊態。蝕の精霊イリスの本性」

 

 答えた声はまぎれもなくイリスのものだ。コレはイリスなのだ。

 

「ふん。貴様など精霊を名乗るもおこがましい。世界を蝕む邪霊よ」

 

 頭上からクロノスが吐き捨てた。第三者のルドガーでさえむかつく気分にさせる声音と台詞だ。

 

「イリスからすれば、お前たち精霊こそ邪霊の名を冠すべきね。大自然を支配する権能を盾に取り、人類を管理下に置く傲慢なモノども」

 

 コードと化したイリスの髪が広がり、尖端を精霊軍団に向けた。精霊軍団もまた、再び属性に応じた一撃を撓めている。

 精霊軍団の攻撃が生み出す惨状は目の前にある通りだ。そこに同じ精霊らしきイリスの力がぶつかり合えばどうなるのか――

 

 じり、とルドガーの足は意思と無関係に下がっていた。

 

「大丈夫。貴方には傷一つ付けさせない」

 

 全属性の砲撃と、イリスが掌から発したエネルギーが激突した。

 

 ひどい眩しさに、ルドガーは腕で目を庇った。

 

 踏み止まっていられない。足が地面から浮いた。

 吹き飛ばされた。その後は覚えていない。



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「残念ながら時間切れだ」

 次に目を覚ました時、ルドガーがいたのは病院のベッドだった。

 

(夢、だったのか?)

 

 ちがう。夢ならばこの全身の傷は、治療の痕は何だ。何かが起きたのだ。あそこで。

 

 ルドガーは急いでベッドを降り、窓ガラスから外を見下ろした。

 

 ――何もない。人が普通に動いて、笑顔で、目も口もある。あの白いマナを噴いていない。

 

 ひとまずは安堵してベッドに座り直した。

 考えようとしたタイミングで病室のドアが開かれ、考えは霧散した。

 

「ユリウス……」

「起きてたのか、ルドガー。よかった」

 

 ユリウスが入って来て、座ったルドガーの両肩を掴んだ。微かに震えている。

 

「俺はへーき。何ともないからさ」

「何ともないわけあるか! お前が眠ってから丸15時間だ。外傷もひどかった。何があった。誰にやられたんだ?」

「えーと」

 

 精霊に、と素直に答えられない。夢でも見たんだろうと一蹴されるのが世間一般の反応だ。そもそもどうして自分は怪我などするはめになったのか――

 

 ――地下にいたイリス、精霊軍団、手も足も出なかった自分。芋づる式に思い出した。自分はクランスピア社のエージェント試験の真っ最中だったのだと。

 

「そうだ、ユリウス! 試験! 俺の入社試験の結果」

 

 するとユリウスは目をぱちくりさせたが、次いで苦笑いを浮かべた。表情こそ取っつきやすいものだが、その貌はクランスピア社のクラウンエージェントのもので。

 

「あの試験はタイムトライアル形式だった。迅速に任務を遂行する適性があるかを審査するために。お前は全ての想定敵を倒した。が、残念ながら時間切れだ。よって――ルドガー・ウィル・クルスニク。不合格だ」

 

 

 

 

 廊下に出たユリウスのGHSに着信があった。ユリウスは院内通話可のゾーンまで移動してから電話に出た。

 

『ヴェルです。()()()()()の容態確認は済みましたでしょうか』

「ああ。特筆すべき異変は見られなかった。医者の話でもこれといった異常はないとのことだ。()()I()の証言通り、該当受験者との皮膚接触はなかったと目算が濃くなった」

『畏まりました。リドウ副室長にはそのように報告いたします。状況を終了し、帰社してください』

「了解した」

『それと室長。受験者の試験結果報告書も別個に提出願います』

「ああ。すまないな。対象Iの件でゴタゴタしていて提出が遅れた。また作って出しておくよ」

『いいえ。差し出がましいことを申し上げました。失礼します』

 

 通話を切って、GHSをポケットに突っ込む。

 ユリウスは忌々しさを隠さず舌打ちした。これからの時間は会社でどんな隙も覗かせることはできなくなった。

 

 

 ユリウスは「兄」の仮面を被り直し、ルドガーの病室に戻った。

 

 ドアを開くと、俯いていたルドガーはひどく驚いて顔を上げた。よほど思考に没頭していたのだろう。

 

「あ、ユリウス…何だったんだ?」

「会社から呼び出し。例の地震であちこちの部署が混乱しててな。せっかく一仕事終えたのにまた仕事だ」

「地震……ああ、そうか。ん、了解。行ってらっしゃい」

「すまん。清算はすませといたから。後は一人で平気か?」

「コドモじゃないんだから、そのくらい平気だって。そろそろブラコンやめないと、嫁さん貰えなくなるぞ」

「生意気」

 

 ユリウスはルドガーの頭を小突く真似をした。ルドガーは明るい笑い声を上げた。

 

(大丈夫。お前さえいるなら、俺はいくらでも汚くなれる)

 

 その決意は、今からクランスピア社で並み居る曲者と相対しても揺るぎはしないだろう。

 数分前までささくれていたユリウスの心は、すっかり治っていた。

 

 

 

 

 世界を隔てる殻が割れてから、ほんの少ししか経っていない頃のお話。




 性懲りもなくまた始めてしまいました。TOX2二次オリ主もの長編。
 前回までは「綺麗な物語」を心掛けていましたが、今回は作者の欲望全開で行きたいと思います。
 ズバリ、目指せバッドエンド。
 そうです。実は作者、バッドエンドが大好物なのです。
 もっともあまりにえぐすぎるのは勘弁して、という、にわかバッドラバーですが。


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Interview2 1000年待った語り部 Ⅰ
「夢なんかじゃなかった」


 筆者がルドガー・ウィル・クルスニク氏と出会ったのは、別件の取材の場であった。

 当時、筆者はクランスピア社のオフィスビルを中心に起きた大地震と、原因不明のビル腐食崩落の事件を追っていた。

 

 特筆するが、筆者はこの時点でクルスニク一族の存在やクランスピア社の裏側など全く知らなかった。

 ルドガー氏に取材を申し込んだ理由も、地震とビル腐食の起きた日がたまたまルドガー氏のクランスピア社入社試験の日と重なっていたからという、何とも当てずっぽうなものであった。

 

 真実から最も遠くにいた筆者だが、真実に最も近いルドガー氏に取材を申し込んだ縁で、後述する一連の事件について書き記すことになった。

 

 筆者はこれを真摯に受け止め、持てる知識と誠意の全てを込めて、当記事を著したいと思う。

 

 

L・R・クルスニクテラー

 

 

 

 

 

 

 

 買い物帰り、ルドガーは50階建超高層ビルの威容を見上げた。首を痛めるまで傾けてようやく見える階が、内側から凄まじい衝撃を与えたように抉れている。

 

 ――昨夜、クランスピア社の高層フロアで発生した謎の爆発事故。正確な時刻は午前0時58分。現場は医療班が医術研究にもっぱら使用するエリアで、高価な機材がいくつも壊れ、被害額はざっと1億ガルドを超えるという。

 

(兄さん、ゆうべ大丈夫だったかな)

 

 深夜にユリウスにクランスピア本社から電話が入った。エージェント全員に緊急招集がかけられたとユリウスは言った。

 

 ルドガーは簡単な夜食を作ってユリウスの帰りを待っていたが、ユリウスが帰るより先に睡魔に負けて休んだ。――自分の試験も終わって間もないのに、と理に適わない罪悪感を覚えて。

 

(試験の時にあったこと……あれは夢だったのか?)

 

 この2ヶ月、何度したか分からない思案にふける。

 地下深くに封印されていると語った、銀髪翠眼の女。ニンゲンがただの燃料だったディストピア。

 

(いいや、夢じゃない、夢なんかじゃなかった。俺は覚えてる。あの人がかけてくれた言葉も、俺なんかを庇ってボロボロになるまでアイツラと戦ってくれたのも、あの哀しい姿も)

 

 悶々と考えていたルドガーの、背を、後ろからぽんっと叩く者があった。

 

 ルドガーは仰天して、ふり返りながら後ずさった。勢いで、抱えていた袋からパレンジが落ちた。

 

「わっ。驚かせてごめんなさい」

 

 ひまわり色のパフスリーブジャケット、キャスケット、それが真っ先に特徴として捉えられる少女。

 彼女は落ちたパレンジを拾い、ルドガーに差し出して笑った。

 

「ルドガー・ウィル・クルスニクさんですよね?」

「あ、ああ。そうだけど」

「わたし、レイア・ロランドっていいます。『デイリートリグラフ』の見習い記者です」

「記者?」

 

 少女は記者というよりは読者モデルを思わせた。

 まんまるな目はパロットグリーンの宝石をそのまま嵌めたようにキラキラしている。ルドガーの視線は自然と彼女の目の輝きに吸い込まれた。

 

「2ヶ月前にトリグラフで起きた大地震について、ルドガーさんが知ってることをお伺いしたいんです。今、お時間空いてますか?」

 

 大地震。多くの出来事が脳裏を奔る。――エージェント採用試験。地下訓練場。何百本という触手に拘束されていたイリス。人間がマナを吐くだけの物体に成り果てた世界。数多の精霊が「人間」に向けていた侮蔑――

 

「どうして俺に? 俺はクラン社の採用試験に落ちた部外者だし、地震がクラン社と関係あるとは限らないだろう?」

「ところがそうとも限らないんですよね」

 

 少女はメモ帳を繰る。

 

「まず震央はクランスピア社。震源はピンポイントに本社ビルの真下です。本社ビルより下には戦闘・特務エージェントのための訓練場がありますよね。地震発生の日、訓練場はエージェント枠の入社希望者のための実技試験会場に使われてたって裏が取れてます。ルドガーさんもこの日の受験生のお一人でしたよね?」

 

 淀みなく述べる少女に内心驚嘆した。ここまで調べているなら、自分などがいくら理屈をこね回そうがすっぱり説破されるに違いない。

 

「まあ、そうだけど。本当に俺があの地震と関係あるかなんて分からないよ? それでもいいなら取材ってやつ、受けるよ」

「もちろんですっ。ありがとうございます!」

 

 本心の底から、裏もなく、とても嬉しい――そんな清々しく爽やかな感情が伝わる、笑顔、だった。



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「こういうのは気分なんだから」

 ルドガーはレイアに連れられて近くのカフェに入った。こういうガールズ仕様の店に入ることなど初めてで、つい周りの視線が気になるルドガーだった。

 

 壁際の席に二人で座り、ウェイトレスに飲み物の注文をする。

 

 ルドガーはじっとレイアを見ながら、注文したメニューが来るのを待った。可愛いから見つめていた、とかではなく、何となしに、レイアの容姿に違和感を覚えたのだ。

 

「早速で申し訳ないんだけど、2ヶ月前のクランスピア社の地震について。いいですか?」

「ああ」

 

 レイアはハートモチーフのシャーペンをくるくる回してメモの紙面にスタンバイした。

 

「何でもいいから心当たりがあったら教えてください。あ、どうしてもしゃべりたくない時は言ってね。無理に言えとは言わないから」

 

 ルドガーは叶う限り細かく語った。エージェント訓練場のさらに下層で、封印されたイリスを解放したこと、そして彼女の特異性。話している間に飲み物が届くくらいには語った。

 

 イリスと共に行った、精霊と敵対する世界については省いた。現実味がなさすぎて口にしていいか迷った。

 

 

「蝕の精霊…イリス…かあ。リーゼ・マクシアじゃ聞かない精霊だなあ」

「そうか……ごめん。役に立てなくて」

「ううん! それはルドガーさんのせいじゃないから! これをどうまとめて書くかが大事なんだよ。情報を貰ってからは記者の腕の見せ所。――でも一つの可能性が浮上したね。地震の原因はそのイリスかもしれない」

「イリスが!?」

「地下の大規模な封印。それを解いたことで空洞が生じて、地盤が滑落してビル直下を震源地にした地震が起きる。理論的にはありえない話じゃなくない? 地下水源が涸れるとそこの空洞に地盤が自重で落ちて地盤沈下が起きるっての、エレンピオスじゃ珍しくないんでしょ? 精霊が少ないってこういう現象に繋がるんだって、初めて知った時ちょっと感心したくらいだから、はっきり覚えてるよ」

「その通りだけど……」

 

 今のレイアの台詞で、ルドガーが彼女に抱いた違和感の正体が分かった。ルドガーは深く考えずそれを口にした。

 

 

「レイアさん、ひょっとしてリーゼ・マクシア人なのか?」

 

 

 カラン。レイア側のグラスの氷が音を立てて崩れた。

 

 彼女から今までの人懐こさは消え、緊張ばかりがそこにある。

 

 ルドガーは慌てて両手を振った。

 

「いや、それでどうこうってわけじゃないっ。ただ思ってたことが口に出ただけだ。気に障ったなら謝る。ごめん」

 

 レイアの緊張感が戸惑いに移ろう。ぱちぱちと、まんまるな瞳が見え隠れする。

 こんな台詞ではフォローにならなかったかとルドガーが内心焦り始めた頃、レイアはおもむろにころころと笑い出した。

 

「わたし、エレンピオスの人にそういう態度取られたの初めてだよ~」

「そう、なのか?」

「リーゼ・マクシア人っていうとさ、未開の土地の原住民ってイメージ持ってるエレンピオス人のほうが多くてねー。服替えても分かる人は分かるみたいだし。わたしも来たばっかの頃は路上で精霊じゅ――算譜法(ジンテクス)使って変な目で見られてね」

黒匣(ジン)なしで?」

「そりゃもちろん。気味悪い?」

「……そんなことない」

 

 レイアは遠慮なく噴き出し、快活な笑い声を上げた。周りの席の客が不躾にこちらを窺ってくる。居心地が悪かった。

 

「ルドガーさんってさ、嘘下手って言われない?」

「あー…」

「あははー。顔と台詞が一致してなかったって! これでも記者になろうって身だからね、人間観察はちょいと勉強中なのだよ」

「ごめん」

「気にしないで。ルドガーさんは本心からわたしを気遣って答えてくれた。試すような質問したわたしも悪かったし。ごめんなさい」

 

 レイアはペコッと頭を下げた。

 

 ルドガーは苦笑した。本当にどこまでも気風のいい少女だ。黒匣(ジン)に毒されず、風と土に恵みを受けて育ったリーゼ・マクシア人は、レイアみたいないい()ばかりなのだろうか。

 

「ええっと、さっきの話ね。わたしなりの仮説だから。ただの地震って線も否めない。それでも聞き捨てなんない情報ゲットしちゃったからには、徹底的に調べてみるね。ありがと、ルドガーさん。おかげで取材の方針が決まったよ」

 

 レイアの笑みが、あんまり――綺麗、だったから。

 

「あのさ」

 

 出した声は思いの外乾いていた。ルドガーは手元の水を飲んで仕切り直した。

 

「また何かあったら情報持って行きたいから、連絡先、教えてくれないか」

「ほんと!? 助かるぅー。あ、待って。今書くからっ」

「あ…じゃあ、俺も」

 

 レイアに倣い、テーブルのナプキンを取り出して、GHSの番号、アドレス、名前を書き込む。

 

「はい、どーぞ」

「ありがとう。こっちが俺の」

「ありがと。――ついにわたしもネタ元ゲット! 見たか編集長~!」

「ネタ元になれるほど重要機密は知らないけど……」

「いいの。こういうのは気分なんだから」

 

 レイアはひまわりのような笑顔を浮かべた。その笑顔だけで、いいか、とルドガーは思えた。



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「今の仕事が自分に向いてないと思ったことはないですか?」

 その「取材」の日からルドガーとレイアの付き合いは始まった。

 

 レイアは「とにかくがんばる」がモットーの子で、取材のネタがあると聞けば東西南北、国の隔てなどぽーんと飛び越えて現場に向かうような元気印の女の子だった。

 だがその熱意は大体が空振りに終わり、ネタを集めて書いた記事は編集長に酷評されて終わるとか。

 

「『あんな感想文もどき新聞に載せられるか、バカ。焦点もぼやけてる。何を記事にしたかったんだ? 雇用問題か、環境問題か、事件速報か、それとも文化か? 思ったこと書きゃいいわけじゃない』だってさー」

「一言一句違わず言えるってことは、それ何回も言われてるんだな」

「呑まなきゃやってられっかーっ」

「ノンアルコールだけどな」

 

 口ではそう言うものの、あまりに心配になったルドガーは、付き合い1ヶ月半ほどで、自分にもレイアの取材の手伝いをさせてくれ、と頼み込んだ。

 

「就職活動はいいの?」

「やりながら手伝う。少しでもレイアの力になりたいんだ。頼む!」

「わたしなら心配ないって。これでもそんじょそこらの魔物より頑丈なんだから」

「ダメだ! ……あ、いや、ごめん。とにかく。レイアが心配なんだ。俺も一緒にやらせてくれ」

「あ……うん。ルドガーがそうしたいなら、わたしは、いいけど」

 

 彼自身、どうしてこうもレイアを放っておけないのか、レイアが気になってしようがないのか分からなかった。

 分からないのに、目はレイアの動きを追い、レイアの笑顔を見るとふわふわした気分になって、取材に臨む真剣なまなざしと芯のある声に鼓動が跳ねた。

 

 だが、そんなルドガーの機微を無視して、現実とはどこでも付いて回るもので。

 

 載らない没原稿が増えるたび、さすがのレイアも消沈した。

 

 反省会を二人でやる日もあったが、今度こそレイアもルドガーも持てる全てを注ぎ込んだという出来栄えだっただけに、没を食らったのはルドガーでさえ辛かった。

 

 

(あの編集長、一度闇討ちしたろか)

 

 ジンジャーティーを淹れながら剣呑な企みを巡らすルドガー・ウィル・クルスニク(20)。

 

 二人分のジンジャーティーを持ってリビングに戻ると、レイアはテーブルに突っ伏したままだった。

 ルドガーはそろ~っとカップをレイアの横に置いた。

 

「るどがぁ~…わたし、この仕事向いてないのかなあ~…」

 

 出た。社会人1年生が100%口にするという「私、この仕事向いてないんじゃないかしら」発言。

 

 ルドガーが否定してやるのは簡単だが、果たして社会人未満のルドガーの言葉にレイアを元気づけるだけの重みがあるのか。声をかけあぐねる。

 

 その時、タイミングを計ったように玄関のドアがスライドした。

 

「ユリウス。おかえり」

「ただいま。――レイア君、来てたのか」

「おかえりなさぁい、ユリウスさん。おじゃましてま~す」

 

 レイアは頻繁にこの部屋を訪れるので、ユリウスもすっかりレイアと顔なじみだ。加えて、ルドガーと違いユリウスは歴とした社会人。その点でレイアとユリウスの間で話が通じることも珍しくなく、たまに、ごくたまに、面白くない目を見たこともあった。

 

 だが、今回はそれこそが必要だった。

 

 ルドガーはユリウスの腕を掴むと、有無を言わせずキッチンに引きずり込んだ。

 

「何だいきなり」

「レイアがまた記事ボツ食らって凹んでんだ。慰めてやってくれよ。ユリウス、得意だろ、そういうの」

 

 自分で自分の友人も慰められないのは情けないが、失敗してレイアがよけいに沈むよりはいい。

 

「頼むよ兄さん。な?」

「こんな時だけ兄貴扱いか……はあ。分かった。ちょっと待ってろ」

 

 ユリウスがリビングに向かうのを見届け、ルドガーはキッチンに向き直った。自分にできるのは、せめてレイアにおいしい手料理を食わせてやることだけだ。

 気合を入れて冷蔵庫を開けた。今日は得意のトマトソースパスタで勝負だ。

 

 

 トマトはじめとする食材と乾麺を出して調理を始めてしばらく、リビングからバタバタと物音がした。

 次いで、レイアがキッチンを覗き込んできた。

 

「ごめん! 今日はもう帰るね! やりくさしの原稿あるから!」

「え!? ちょ、おい、レイアっ」

「ほんっとごめん! またご飯食べさせて」

 

 言うだけ言って、レイアは部屋を出て行ってしまった。ルドガーはエプロン姿のままぽけっと突っ立っていた。鍋でパスタが噴き零れなければ、ずっとそうしていただろう。

 

 鍋の火を止め、リビングに行った。ユリウスに、レイアに何を吹き込んだか聞くために。

 

「俺はそう思ったことはないか、と聞かれたよ。『ユリウスさんは今の仕事が自分に向いてないと思ったことはないですか?』ってな」

「何て答えたんだ?」

「もちろん何度もあると答えたさ。それから『そういう時はレイア君も頑張ってるんだろうなと思って気合を入れる』って付け加えた」

「だからあの勢い」

「だな。というわけで、今日の夕飯は」

「分かってる。追加分、トマトのブルスケッタでいいか?」

「よろしく頼むよ、シェフ」



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「何か欲しい物、あるか?」

「……ユリウスってタラシの才能あるよな」

 

 食後、愛猫と戯れていた兄に対し、ルドガーは半眼でグチをぶつけた。

 

「悔しかったらさっきみたいな台詞くらいはさらっと言えるようになれ。相手が彼女なら特にな」

 

 ユリウスはルドガーがレイアをどういう対象として見ているかを知っている。ルドガーが自覚した翌日に、「何だ。やっと気づいたか」と言われた時の悔しさは人生で暫定トップだ。

 

「無理だって。言ってもレイアを困らせるだけだ」

「どうして」

「レイア、好きな男いるから」

 

 ルドガーは半ばヤケにユリウスに打ち明ける。

 

 ――たまたま見てしまったレイアのGHSの待受画像。黒髪の少年と並んで写るレイアの表情は、ルドガーが知るどんな彼女より「女の子」だった。

 一緒に写った少年が誰かをレイアに問うと、リーゼ・マクシアでの幼なじみだと答えた。

 

 

「少女時代の幼なじみでいつでもどこでも一緒だった相手か。しかも片想い継続中。相当分が悪いな」

 

 ぐっさー。台詞が直に突き刺さった。

 ルドガーはテーブルに突っ伏した。人の口から言われると秘奥義並みに効く。

 

「まあ、今は離れて暮らして、滅多に会う機会がないんだろう? その点、こっちは近所なんだから攻め放題じゃないか。そう士気を落とすな」

「落としたのはどこの誰だよ~」

 

 この話題はやめよう。際限なく悩んでしまう。

 

「あ、そうだ。ユリウス、1コ報告」

「何だ?」

「レイアが落ち込んでたから言い出せなかったんだけど、決まりそうだよ、就職」

「――本当か?」

「駅の食堂だけどさ。ほら、明日、アスコルドの完成式典の日だろ? 駅の利用客が増えるだろうからって臨時の求人出してて。手っ取り早く売り込もうと思ってマーボカレー持ってってアタックしたら、明日からすぐ来いって。本採用にするかはそれから決めるって言ったけど、結構いい線行ったと思うんだよな」

「そりゃお前の料理の味をプロが分からないわけないからな。――でも、そうか。ようやく……」

 

 ユリウスはイスを立つと、ルドガーの頭に手を置いた。嬉しそうでいて寂しげな、それでも心から安堵したという貌。

 独り立ちする子を見送る父親はこんなだろうかと想像すると、ルドガーはとたんに恥ずかしくなった。

 

「何か欲しい物、あるか? 就職祝いに」

「気が早いよ、ユリウスは。でも、そうだな――じゃあ、時計。ユリウスがいつも持ってるヤツ。片っぽでいいからさ」

「あんな古いのを……? それくらいなら新品の腕時計を買ってやる。そこまで甲斐性なしじゃないぞ」

「そういう意味で言ったんじゃないんだけど……ま、いいや。じゃ、特になしで」

 

 

 

 

 ――これが兄弟と少女が安穏と過ごせた、儚くも尊い最後の夜。




 これにてエピローグ終了。次回から原作チャプターパートに入ります。
 原作に先んじてレイアと仲良くなったルドガー。女の子に耐性がない+レイアがいい子で、ルドガー、すっかり骨抜きです。
 いいんです、茨道のCPでも。作者の中でルドレイはジャスティス!(>_<)

 しかし最後の一文の通り、これがルドガーにとって、そしてユリウスとレイアにとっても「日常」の終わりの日です。
 列車テロ、そして本来いないはずのイリスによって狂っていく物語を、どうぞお楽しみください。


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Interview3 鍵の少女、殻の悪女
「ぜひ我が社の護衛にも習わせたいものだ」


 今回の記事を書くに当たり、読者の皆様に確認したいことがある。

 

 プリミア暦4295年、×霊×節×旬。反リーゼ・マクシア組織アルクノアによる列車テロで、自然工場アスコルドが大破した。犠牲者は2000人にも上るという、エレンピオス史上類を見ない凶悪テロ事件を、皆様は覚えておられるだろうか?

 

 事件の日は自然工場アスコルドの完成式典が執り行われる日で、トリグラフ中央駅から特別列車ストリボルグ号がアスコルド直通便として特別運行された。

 この列車には式典参加のため政財界の要人が多数乗車していた。その中にはクランスピア社前社長のビズリー・カルシ・バクー氏の姿もあった。同氏が秘書ともども暴走列車から生還したことで一部は話題騒然となった。

 

 閑話休題。

 

 では、この列車テロの最有力容疑者として全国に指名手配された人物は誰であったか。

 

 当時クランスピア社の通信・戦闘部門クラウンエージェントであった、ユリウス・ウィル・クルスニク氏である。彼は前回紹介したルドガー氏の実の兄でもある。

 

 賢明な読者の皆様には、すでに筆者が語らんとすることがお分かりだろう。

 

 ルドガー氏とユリウス氏。ビズリー元社長。今も語り継がれる伝説の企業のカリスマ社長と、その企業のトップエージェントであった兄弟。

 彼らが一堂に会したこの列車から、今日の世界における危機的状況は始まったのだ。

 

 

 

L・R・クルスニクテラー

 

 

 

 

 

 

 

 

 大した動きでもなかったのに息が上がっている。暑い季節でもないのに汗が噴き上げる。

 

 ルドガーは双剣を両手に、今襲ってきたテロリストの、初めて殺した人間の死体を見下ろした。

 

(殺、した。人を。同じ、俺と同じ、人間、を)

 

 どうしてこんなことになったのだろう――今日は新社会人一日目で、駅の食堂で働き始めるはずだったのに。初対面の女の子にチカンの濡れ衣を着せられて、アルクノアのテロが起きて、ストリボルグ号に飛び乗って、そして、今……

 

 ムチャクチャに叫んで吐きたい気持ちになりかけた。

 

「コワイひと……もういない?」

 

 座席の陰から上がった声で、ルドガーは我に返った。

 

「ああ。もう、大丈夫だよ。怖がらせてごめんな」

「ヘイキだし……ぜんぜん」

 

 通路を覗く、蝶の刺繍の帽子を被った幼い少女。つい先刻、ルドガーにチカンの濡れ衣を着せた張本人である。

 

(コドモのくせに意地張ってんなよ。死体だらけで逃げ場はない、どこからテロリストが襲ってくるかも分からない。そんな状況で平気なわけないだろ)

 

「俺はルドガー。そっちの猫は俺んちの猫で、ルルってんだ。君は?」

「エル……エル・メル・マータ」

 

 エルが座席の陰から出てくる。足下にはルル。何があって一緒にいるかは知らないが、ルルが懐いた人間を放ってはおけない。

 

 今は、生きるか死ぬかだ。戦場(げんば)では迷うな、とユリウスにも教えられた。この子のためにも情けない姿は見せられない。

 

「フシャー!」

「! ルドガー、うしろ!」

 

 ルドガーは目視もせずまったくの勘で剣を振り抜こうとした。

 だが、その前に背後で人ひとりが倒れた重い音がした。

 

「――あれ? 何でルドガーがここにいるの?」

 

 知った声に阿呆みたいに大口を開けた。

 テロリストを成敗したのは、ペンではなく棍を両手に持ったレイア・ロランドだったのだから。

 

「そういうレイアこそ何で」

「わたしはアスコルドの式典の取材に行くはずだったんだけど。ルドガーは?」

「俺は…」

 

 傍らのエルを見下ろす。ルドガーにとっては屈辱的な部分も話さねばならないので、正直に事情を告げたくない。時間をかけて距離を縮めた異性となれば特に。

 

 悩んでいると、場違いに朗らかな拍手が響いた。

 

「これは驚いた。これがリーゼ・マクシアの武術か。ぜひ我が社の護衛にも習わせたいものだ」



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「男なら責任持てよ」

 ルドガーは内心で仰天した。

 

 ――ビズリー・カルシ・バクー。天下にその名轟かすクランスピア社の代表取締役。彼失くしてエレンピオスの市場は回らないと、経済界の誰もが認める傑物。

 列車に乗るところは見たが、まさか自分が会うことになろうとは。

 

「もっとも、君のような黒匣(ジン)なしの算譜法(ジンテクス)は、エレンピオスの人間には些か荷が重いが」

「お怪我がなくてよかったです、ビズリー社長。ヴェル秘書官も」

 

 レイアは揶揄を含んだ賛辞には触れず、鮮やかに切り返した。初対面の頃から比べてレイアの記者スキルは格段に向上している。

 

 会話の流れから察するに、レイアはテロリストと打ち合う内にビズリーと鉢合わせしたのだろう。そこから護衛を買って出たという所か。ブレない少女である。

 

「そちらも。なかなかの腕をお持ちのようだ。私はクランスピア社代表、ビズリー・カルシ・バクー。君の名は?」

「ルドガー、です。ルドガー・ウィル・クルスニク」

「ウィル・クルスニク……ユリウスの身内か」

 

 ルドガーが答えるより早く、ヴェルがGHSを見ながら事務的に言った。

 

「本社のデータにありました。ルドガー様はユリウス室長の弟です。――母親は違うようですが」

「え」

 

 表には出さなかったが、ルドガーは動揺した。

 母親が違う。そんな話はユリウスから聞いたこともない。

 

「構えがそっくりなわけだ。お兄さんには、いつも助けてもらっているよ」

 

 ビズリーが大きな掌を差し出す。ルドガーは迷ったが、双剣を近くの座席に立てかけ、応じてビズリーと握手した。

 

「こちらこそ、兄がお世話になってます」

 

 母親の件は後だ。今は今、目の前にあることを。

 

 直後、列車が急加速した。

 かららん、と双剣が座席から転がり落ちる。ルドガーはとっさに横のエルが転ばないように支えた。

 

「始めたな、アルクノアども」

「アルクノア!?」

「連中、和平政策を支持する我が社を目の敵にしていてね。おそらく、この列車をアスコルドに突っ込ませるつもりなんだろう」

 

 説明しながらもビズリーは慌てる様子はない。控えるヴェルのポーカーフェイスも揺らがない。

 だが、このままではこの列車と心中するはめになるし、アスコルドの工員や招待客、まだ息がある乗客も全員が道連れだ。

 

「止めないと――」

「うん、止めに行こう! ルドガー」

 

 パロットグリーンの瞳には決意が滾っている。こうなったレイアは止められないと今日までの付き合いで熟知していた。

 思い留まるよう諭そうとした男心をぐっと堪え、ルドガーは肯いてみせた。

 

「どうやってとめるの?」

 

 エルが不安いっぱいの声で問うてくる。

 

「先頭車両に行く。運転席をいじったんだろうから、それを直すか、最悪壊すかして停める」

「やる気か……面白い」

 

 ルドガーはエルを後ろからビズリーの前にそっと押し出した。

 

「無理を承知でお願いします。彼女をしばらく預かってくれませんか? 彼女、保護者がいないみたいなんです。けどこの先連れて行くには危険すぎますから。お願いしますっ」

 

 勢いよく頭を下げる。会ったばかり、しかもかのクランスピア社の社長に対し不躾な頼みだとは自覚している。だが他にエルを託せる宛てはない。それに、初対面なのに何故か、ビズリーなら大丈夫だ、という不思議な確信があった。

 

「――頭を上げたまえ。この少女は責任を持って私が預かろう」

「! ありがとうございます!」

 

 言質は取った。

 ルドガーはヴェルに頼んで手帳のメモの切れ端を貰い、それにユリウスのGHSの番号を書き込む。そして、エルの前にしゃがむと、両手でしっかり、エルの手にメモを握らせた。

 

「いいか、エル。もし俺たちが間に合わなかったら、ビズリーさんと一緒に列車を脱出しろ。そしたらこの番号に電話するんだ。俺の兄さんに繋がる。こいつの飼い主でもあるんだ。ルドガーからって言えば、兄さんも悪いようにはしないはずだ。きっと家に帰してくれる。できるか?」

 

 エルはメモを両手で握りしめて、強張った表情で肯いた。

 

「いい子だ。――ルル、この子を頼んだぞ。お前が連れてきたんだ。男なら責任持てよ」

「ナァ~!」

 

 意気軒昂とした鳴き声に満足し、ルドガーは立ち上がった。

 通路に転がった双剣を拾う。元々エルからの借り物だが、永久貸借させてもらおう。

 

 ルドガーはレイアと示し合せ、先頭車両へ、ふたりだけの進撃を開始した。



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「あぶなくても大事なの!」

 ビズリーの下に残されたエルは、ルルと共にビズリーから少し離れた位置にいた。

 

(…このおじさんのそばにいたくない…いちゃいけない……()()()()()()()()()()()()()()()から…)

 

 巨漢である以上に、ビズリーに対してエルの中の何かが警鐘を叩いていた。

 

(カナンの地は……    と…いっしょに行く、ヤクソク、だから…ふたりで、いっしょ……ヤクソク…)

 

 ルルが後ろ足で立ってエルの胸にもたれた。エルはルルを抱っこしようとして、気づいた。

 

「時計がない!!」

 

 列車の揺れも物ともせず立ち上がった。

 頭の中がぐるぐるしている。あの時計は父親に託されたオンリーワンの品。そして、    とエルを繋ぐ絆なのに。

 

 エルは走り出した。ルドガーは先頭車両に行くと言った。彼を追いかければ時計は戻ってくる。根拠もなくエルは信じていた。

 

「お嬢さん、動くと危ないよ」

 

 テロ真っ只中とは思えない優雅さで座席に座っていたビズリーから、声がかかる。

 

「あぶなくても大事なの! あれがないと、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()んだから!」

 

 自身が放った台詞のおかしさにも気づかず、エルは夢中で先頭車両に向かった。

 

 

 

 

 

 ルドガーとレイアは先頭車両に向けて快進撃を続けていた。

 

「円閃打!」

 

 レイアの棍がアルクノア兵を床や天井に叩きつけて沈黙させ。

 

「鳴時雨!」

 

 ルドガーの双剣がアルクノア兵を瞬息で斬り伏せる。

 

 

「はぁ…はぁ…今どの辺かな。大分進んだと思うけど…」

「あった、看板。――2号車。次が先頭車両だ」

「いよいよだね」

「ああ」

 

 先頭車両へ続くデッキの、出入口の両脇で二人は分かれて身を潜める。特に何かが動いている気配はないが、油断はできない。

 

「わたしが先に行く」

「よせっ。危険だ」

「だいじょーぶ。わたしにはお母さん直伝の棍術があるから」

「その棍術自体、体が弱いハンデをカバーするためのものだろ。ご両親から聞いてるんだからな。できるできないの侮りと、体調を気遣ってるのは違う」

 

 ――レイアの取材アシスタントでル・ロンドに立ち寄る機会があった。確かにレイアの母ソニアは空中戦艦でも持ってこないと倒せないくらい強い女性だった。

 ソニアも夫・ウォーロックも同時に、ルドガーに教えてくれた。レイアの黒匣(ジン)事故と過酷なリハビリの日々、虚弱というハンデをみじんも感じさせず笑う彼女の精神力。

 ――また一つ、ルドガーが彼女に()()()エピソード。

 

「俺が先に行く。レイアは算譜法(ジンテクス)、じゃない、精霊術でバックアップしてくれ」

「それこそ危ないよっ。ルドガー、完璧に一般市民じゃないの」

「そっちこそ今はエレンピオスの一新聞記者だろうが。とにかくレイアは後衛、俺が前衛。これだけは譲らないからな」

「ルドガーの頑固者! わたしだってちゃんと戦えるの知ってるでしょ!?」

 

 誰が好き好んで、好ましく思っている女子を激戦区に投入したいものか。勢い任せに言ってしまいかけ――

 

 頭上から銃撃戦の音と、断末魔が聴こえた。

 ルドガーはレイアと顔を見合わせた。

 

「「行こう!!」」

 

 何が起きたか分からないが、もうどちらが先などと言っていられないのは確かだ。

 

 彼らはラウンジを抜け、列車上層に繋がる階段を駆け登り、2階展望室に突入した。

 

「きゃっ」

「見るな、レイアっ」

 

 ルドガーはとっさにレイアを背中に隠した。

 

 黄砂が混じった金光が、一面ガラス張りの天井から燦々と降り注ぎ、ドームの模様を浮き立たせている。その幻想的な光景の中にそぐわない、いくつもの死体。誰もが床を血で濡らし、目をぎょろりと剥いて絶命している。

 

 そして、これらを処理したであろう、この場の唯一の生存者が、ふり返った。

 

「ルドガー…レイア君も…何故ここに…」

 

 ユリウスの両手には二つの懐中時計が握られている。

 就職祝いに欲しいと試しに言ってみて、やんわりと断られた品。

 ユリウスが必ず仕事に持って行く銀と真鍮の時計。

 エルが首から提げていて、ルドガーが触れるや消失した真鍮の懐中時計。

 

「ユリウスこそ、どうして」

「――、仕事だよ」

「テロリストの処分が?」

「悪いが教えることはできない」

「エージェントだから危険な任務に就くのは分かる。でもテロリストをこの車両で片付けるには、最初からこの列車に乗ってないと無理だよな?」

「――――」

「一つだけ答えてくれ。一つだけでいい。ユリウスは今日アルクノアのテロがあることを知ってて、この列車に乗ったのか?」

 

 知っていて無関係な乗客が死ぬのを傍観したのか。

 

「……俺がここにいたのはヴェルに用があったからだ。テロのことは本当に知らなかった」

「信じていいんだな?」

 

 ユリウスは固く肯いた。嘘ではない。そう分かる程度には、ルドガーとユリウスの兄弟仲はしっかりと結びついていた。

 

 

 粘つく睨み合いの中、再び場違いな拍手が乱入してきた。

 

「私はいい部下を持った。さすがクラウンエージェント・ユリウス。仕事が早い」

 

 ビズリーとヴェル。それにエルとルルも。

 

 エルが軽やかにルドガーへと駆けてくる。ルドガーは左の剣を右手に持ち替え、しゃがんで左手でエルの肩を掴んだ。

 

「どうして来たんだ。危ないって言っただろう」

「時計がないのっ。パパの時計。あれがないとカナンの地に行けないのに」

「カナンの、地?」

 

 ふいに、エルの目がルドガーを通り越した。エルはルドガーの背中の先、ユリウスを、正確にはユリウスが握る懐中時計を見ていた。

 

「パパの時計あったぁ!」

 

 エルが喜色を満面に走り出す。ルドガーはとっさにエルを追おうとして――

 

「ルドガー、上っ――――ルドガー!!」

 

 天井のガラスが割れて降り注いだ破片を、二人して浴びた。



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「泣かないで、可愛い子」

 エラール街道の遙か頭上にそびえるレールの陸橋。その陸橋は、それの倍の高さを誇る時計塔を貫いて走っている。

 

 時計塔の回転灯がとうに沈黙した、朝の時刻。その時計塔の天頂に、イリスは立っていた。

 

「発展した都市を一歩出れば不毛の大地。これが黒匣(ジン)を2000年使い続けた()()か――」

 

 イリスは花開くように笑んだ。心から嬉しかったのだ。人類が黒匣(ジン)という、人類の英知の極致を最大限に活かして、自らの営みを豊かにしてきたのが。

 

 緑が一本も芽吹いていない無機質な都市が、イリスには堪らなく愛しかった。

 

 その進化を、成長を祝福するように、イリスはメガロポリスの輪郭を宙でなぞった。

 

(これを守るためにも、必ず奴らを抹殺しなくちゃ。オリジン、クロノス、マクスウェル。イリスの、誰よりあの方の子どもたちを無為に死に追いやってきた、悪逆非道の精霊ども)

 

 慰撫の手を拳に変えて、天へと向ける。

 

(待っていなさい。もうすぐこのイカれたゲームをメチャクチャに叩き壊してやるから)

 

 遠くから列車がレールを走る音が届いた。ほどなくして、特別列車ストリボルグ号が街からぬうっと現れた。

 

 ストリボルグ号はじきにイリスが立つ時計塔の中を通過する。イリスは何気なく列車を見下ろし――懐かしい気配に小さく瞠目した。

 

(二つ……地下で会ったあの子と、もう一人……)

 

 列車が塔に差しかかった時、イリスは時計塔から無造作に身を投げた。

 

 

 

 

 

 

 展望室のガラス天井が割れた瞬間、ルドガーはエルを押し倒して覆い被さった。とにかく彼女に傷をつけるような事態はあってはならない。ルドガーはありったけの力でエルを抱きしめていた。

 

 やがて破砕音が収まって、列車がちょうどトンネルの暗がりを抜けた。

 

「ぷはっ。終わった?」

「あ、ああ、多分」

「くるしかったー」

「ごめんごめ…ん…」

 

 言いながら起き上がり――ルドガーはこの日、レイアより、ビズリーより、ユリウスよりも驚く人物と遭遇した。

 

 ふわり。髪をストールのように翻し、デッキに舞い降りた灰紫の女。

 今日の彼女は裸ではなかったが、布一枚だけを巻いたあられもない姿。しかもその布も、早回しの映像のようにどんどん黴が生えていっている。

 

 彼女はルドガーのちょうど真正面に浮遊してくると、優しく微笑した。

 

「ひさしぶりね、あの方の血を最も濃く引く末裔」

「イリ、ス――」

 

 ルドガーの心を1年前から鷲掴みにして離さなかった女が今、目の前にいた。

 

「っは――あんた、今までどこいたんだよ。俺がどれだけ心配したと思って…一人だけ突っ込んで…ずっとどうなったか、思い出すたびに不安で…」

「泣かないで、可愛い子。あの時はあれが最善だったでしょう。それに、イリスはクルスニクの子なら守らずにいられないのよ。ゆるして?」

「泣いてないっ。――あの後、大丈夫だったか? ケガ治ったのか?」

 

 イリスはきょとんとルドガーを見返すばかりで答えない。答えたくないのかもしれない。ルドガーが気絶した後に、言いたくない所業を精霊たちに強いられた線も否めないのだ。

 

「イリスが言いたくないことなら無理に言わなくてもいい。でも、何かしてほしいことがあったら言ってくれ。俺にできることなら、やるから」

「――やっぱり優しい子ね。あの方と同じ」

 

 イリスは少し高く浮くことでルドガーの手から逃れた。拒否、されているのだろうか。とたんに不安が増幅する。

 

「怪我なら今のクランスピアの医者、リドウという子が治してくれたわ。その後あそこに留まったのはイリスのコレを何とかする術を見出せるかと期待して。無理だったけれど。そういう貴方こそ怪我は治ったの?」

「ああ。もう1年だぜ。傷そのものも軽かったし、すぐ元気になったよ」

 

 イリスは胸を撫で下ろしている。ルドガーのケガの回復を、彼女はまるで我が子のそれのように安心してくれる。

 

「弄らせてあげるにもそろそろ刻限だったから、脱走させてもらったわ」

「刻限?」

「そう。刻限。間もなく始まる――いいえ、もう始まっている。もう何審目かも分からない。『オリジンの審判』が」



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「イケナイお兄ちゃんね」

 オリジンの審判。

 

 初耳なのに、ルドガーの心臓は大きく跳ねた。血が騒ぐとはこういう感覚なのか。全身の血管が内側から焼き切れそうだった。

 

「オリジンの、審判――」

 

 ぎょっとする。エルの翠眼は茫洋としていた。魂だけどこかに旅立ったような、幼い少女がするとは思えない貌。

 

 するとイリスは浮遊の高度を落とし、エルの前に片膝を突いた。

 

「この時計は貴女の?」

 

 いつのまにかエルの胸に、ルドガーが触れて消えたはずの懐中時計が戻っていた。

 

「ううん…エルのパパ、の…」

「――貴女も無自覚なのね。己の業に」

 

 つう、とイリスの細い指先が、エルの胸に下がる懐中時計をなぞる。そこでエルは、はっとしたように周囲をきょろきょろ見回した。

 

「ユリウス」

「何だ」

「口の利き方と背信行為は大目に見てやる。導師を捕えろ」

「……了解、社長」

 

 驚いて顧みた兄は、真鍮と銀の懐中時計を正面に構えていた。

 

 直後、ユリウスの姿が変質した。

 

 腕と二の腕のケモノのような装甲。白いコートの下に顕れたダークブルーの鎧。メガネが消えた顔に奔る蒼い光の筋。

 

「変なのになった!」

「これ、精霊の力!?」

 

 少女たちが驚く間に、ユリウスはイリスへと向かってくる。イリスは前に漂い出てエルを巻き込まない位置に浮いた。

 

「はあああ!!」

「できればクルスニクの子とは争いたくないのだけど」

「イリス! ――待ってくれ! ユリウス!」

 

 ユリウスが蒼黒く染まった双刀でイリスに斬りかかった。

 瞬きの間にくり出された斬撃は10を超える。やはりユリウスは強い。なのに、イリスに斬撃は一つとして届かなかった。

 

 触手、だ。イリスを封印していたチューブやコードといった触手が、イリスが巻いた布の中から生えて、ユリウスの剣の全てを受け止めたのだ。

 

「な、なに!?」

 

 レイアが後ずさった。エルもレイアの腰にしがみついて怯えている。ルルはしきりに威嚇している。

 

 ユリウスは軌道を変えて双刀を揮う。だが触手が身代わりとなって斬られるため、一太刀たりともイリス本人には届かない。

 イリスはただ悠然と漂っているだけで優位に立っていた。

 

「これはどういうことかしら、ビズリー」

 

 斬撃を躱しながらイリスはビズリーに目線を流す。

 

「どうもこうも。我が社から姿を消した重要参考人が目の前にいるのだ。見つけたなら連れ戻そうとするのが道理ではないかね」

「それについては話がついたはず。イリスと貴方では目指すモノが違う。貴方は人類の守護を至上とする。イリスは『審判』そのものをブチ壊して2000年の負債を払う。同じ道を往けても、同じ願いは懐けない」

「ああ、充分に存じているとも。ゆえに貴女のその他と一線を画する力、そして貴女だけが知る2000年前の真実を、我らが切り札とさせてもらう」

「――生憎とイリスはそこまで縛られてあげることはできないのよ」

 

 イリスを中心に紫の歯車が現れ、イリスは姿を変えた。ルドガーが初めて会った日にまとっていた紫暗のアーマードスーツだ。

 

 イリスはスーツの装甲を盾にし、ユリウスの剣戟を受けた。イリスが初めて素手で攻撃を捌いた。

 

「いい太刀筋。研鑽と意志が滲み出ている」

「ぐぅ…っ!」

 

 鍔迫り合いが解かれる。

 

 離れたイリスの手に顕れる、水晶のロングブレード。イリスはブレードをユリウスの双刀に大上段から振り下ろした。

 ユリウスは刀身にブレードを掠らせるに留め、バックステップでイリスから距離を取る。

 

(信じられない。あのユリウスが防戦一方だなんて)

 

「『ヴィクトル』を除けば貴方は間違いなく当代最強の戦士よ。この域に至るまで挫けずに前進してきて――本当にえらかったわね」

 

 イリスが不意に口にした労いは、数秒、わずか数秒だけユリウスの戦意を削いだ。

 数秒がイリスにとって絶好の隙だった。

 

 イリスはユリウスの両手を、腰のパーツから射出した触手でがんじがらめに捕えた。そして、ふわりと懐に入った。

 

「でもね。『それ』だけは感心できないわ。弟のモノを奪うなんてイケナイお兄ちゃんね」

「がっ!? あああああっっ…!」

 

 鋭い刃物が肉を裂く音がした。音だけだ。それがよけいに生々しかった。

 

 触手の拘束が解ける。ユリウスは胸を押さえて苦しげに膝を突いた。とたんにユリウスを覆っていた蒼黒の殻が消えた。

 

「許してね。コレを返してもらうには、貴方に一度殻を解いてもらわないといけなかったから。痛い思いをさせて、ごめんなさい」

 

 イリスのかんばせには紛れもない申し訳なさと憐憫。さすがのユリウスも、自分をこてんぱんにした相手の心からの謝罪に泡を食っている。

 

 銀髪を翻して立ち上がり、イリスはルドガーを顧みた。触手の尖端には、真鍮の懐中時計が吊られている。

 イリスは時計を取ると、何とルドガーに向かって晴れやかにそれを投げた。

 

「受け取りなさい。それは貴方の資格よっ」

「やめろッッ! 取るな、ルドガー!!」

 

 兄の制止は遅すぎた。ルドガーは腕を宙に伸ばしていた。意図したわけではない、完全な反射。

 

 真鍮の時計を手にした瞬間、ルドガーの全身の血が沸騰した。



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「大事に隠しておくわけだ」

「ぐああああああああああああああっっ!!!!」

 

 入ってくる。歯車が、エネルギーが、マナが、本来こんなに乱暴に体内に侵入してはならないものが。

 熱い。細胞が煮えたぎる。四肢が造り替わっていく――!

 

 

 ――やがて全ての歯車がルドガーの肉体を変異させきった時、そこに「ルドガー」の姿はなかった。

 立っていたのは、白のラインが走る黒いフルプレートアーマーを纏った槍騎士。

 

「フル……骸殻」

「まさかこれほどのものとは。大事に隠しておくわけだ。優しい兄さんだな」

「っ、当然だろう!」

 

 当事者のルドガーには、兄とビズリーのやりとりはひどく遠く感じられた。

 

 全身を覆い尽くす黒銀の鎧。イリスやユリウスと同じ、殻。

 何故こんなものが自分にあるのか。答えのない問いで頭が埋め尽くされていた。

 

「ルドガー……」

 

 ふり返る。エルがすぐ前に立って、泣き出しそうにルドガーを見ている。

 

(泣かせちゃいけない)

 

 ただでさえ列車テロに巻き込まれ、幼い少女には耐えがたい状況なのだ。これ以上、訳の分からないものを見せてエルを怯えさせてはいけない。

 

(大丈夫だから)

 

 そう伝えるつもりで、ルドガーはエルに手を伸べる。

 ルドガーの手が届く前に、エルは縋るように手を握った。

 

 すると、次の瞬間、アリ地獄に引きずり込まれるような感覚がルドガーを襲った。

 

 

 

 

 

 

 

「ルドガー……? ルドガー!?」

 

 ユリウスは血の気を失って展望室を見回す。ルドガーはおろか、レイアもルルも、あの少女もいない。

 

「分史世界に入ったようね」

 

 事も無げに言う女を睨んだ。

 女がユリウスたちにとって遠い先祖であっても、「審判」の切り札になりうる特殊な精霊であっても、ユリウスには関係ない。

 

「どうする、ユリウス? 追いかけるなら誘導してあげる」

「誰が貴様の助けなど!」

 

 この女は敵だ。この女は弟を「こちら側」に引きずり込んだ。

 15年間だ。ユリウスが半生を費やして隠してきた秘密を、たった一瞬でぶち壊した。

 

「あの子を骸殻に目覚めさせたのは、現代の子どもたちと同じことをさせるためじゃない。イリスは在るべき物を在るべき人へ返しただけ。有事に無知のまま利用されるより、力の切れ端でも知って危機を回避してほしかった。ルドガーはそれができるくらいには賢い子でしょう?」

 

 イリスの主張は全く正しい。ああ見えてルドガーは小狡い。ユリウスは身に染みて分かっている。

 分かっていても、この修羅の巷を知られたくなかった。

 

「それにユリウス。本来、他者の時計を用いて変身するのは外法よ。使う時計が増えれば因子化は早まる。もう左半分はやられてしまってるでしょう?」

 

 ユリウスは反射的に左腕を押さえた。

 

 すらすらと人の秘密をしゃべる女を睨みつける。イリスはそれさえ微笑ましいといわんばかりだから、ユリウスはよけいに苛立つ。

 

「ユリウス。イリスは貴方のためを思って言っているのよ。貴方だってクルスニクの子なのだから」

「よけいなお世話だ! 貴女のような存在に心配されるほど子供じゃない」

 

 ユリウスは双刀ですぐ横のドームのガラスに斬りつけた。ガラスが砕け散り、ドームに穴が開いた。暴風が吹き込む。ビズリーの後ろのヴェルが身を竦めた。

 

 ユリウスはその穴から飛び降り、列車を脱出した。




 ついに幕開けしてしまいました。イリスという異物が混じった、ルドガーの物語。
 ここからは大きくストーリーが変わっていきます。

 一つ確かなことは、イリスは本気でルドガーやユリウスのようなクルスニク一族の人間を思いやり、心配していることです。それだけは、イリスの中では誓って本当なのです。


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Interview4 1000年待った語り部 Ⅱ
「どっちを信じるかは明白だよね」


 公正なゲームがしたいなら、チェスか将棋。

 公平なゲームがしたいなら、ポーカーかブラックジャック。

 

 どこが違うんだ、と首を傾げる読者諸賢が目に浮かぶようである。しかしここはしばし著者の持論展開に目を傾けて頂きたい。

 

 ゲームのルールとは完璧であればあるほど、プレイヤーの彼我の差を浮き彫りにする。一対一ならば尚のこと、プレイヤーの性能がそのまま勝敗となると言っても過言ではない。

 

 公正とはいわば完璧に調整された天秤。受け皿に重さの違う分銅を載せれば、より重い皿が傾く。物理学の基本法則だ。

 

 驚くことに、『オリジンの審判』にもその法則は当てはまるのだ。

 

 筆者はクランスピア社の専門セクション協力の下、過去の『オリジンの審判』の資料を第一審から現在まで読み返してみた。結果は読者諸賢もご存じの通り、負け越し。

 

 精霊側の数々の行いにより、『オリジンの審判』が公平なゲームでなかったのは周知の事実である。

 

 では、せめて公正なゲームであったかといえば、全くそのようなことはない。

 

 人類と精霊では、性能に天と地ほどの開きがある。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。最初から人類は精霊に劣るように生まれてしまっている。

 仮に番人クロノスが骸殻の罠、分史世界の罠を張らずとも、精霊の主マクスウェルが断界殻(シェル)を造らなかろうと、人類は敗北していた。

 

 プレイヤーが「人」と「精霊」であった時点で、人類の――我々の破滅は確定していたのだ。

 

 

 

L・R・クルスニクテラー

 

 

 

 

 

 

 

 

 多分に不快な気分で覚醒したルドガーが一番に聞いたのは、ニュースキャスターの声だった。

 

 

《……り返します。完成したばかりの自然工場アスコルドに、暴走した列車が脱線衝突し、大破しました。被害者規模と死傷者の数は掴めていませんが、当局はリーゼ・マクシアとの……》

 

 

 上半身を起こす。正面の壁一面に所狭しと並んだ酒瓶。カウンター席。うす暗い室内の対角線上にはグラスを磨くバーテンダー。どうやら自分はどこかのバーにいるらしい。

 

 ふとテーブル越しのソファーにエルが寝かされているのを見つける。テーブルの上にちょうどルルがいて、エルを見守っている。列車での「エルのことは責任持て」発言はルルの中で未だ有効らしい。

 

 ルルよりもっと手前にはあの真鍮の時計。エルの物か、ユリウスの物か。状況的には後者だと踏んで、ルドガーは起きて立ち、真鍮時計をそっと取ってポケットに入れた。

 

「列車テロだって。物騒だねえ」

 

 ふいにルドガーたちのボックス席の前、カウンターに座っていた赤いスーツの男が声を上げた。内心跳ね上がりたいくらい驚いた。

 

「あ、あんたは……?」

「君たちの命の恩人。それだけ覚えててくれればO・K」

 

 赤スーツの男は椅子を回してルドガーをふり返った。同じ赤を着るのでも、ついさっき会ったビズリーとこの男では天と地の開きがあるのだな、と頭の片隅で思った。

 

「で。起きて早速で悪いが、二人合わせて1500万ガルドだ」

「ぇえ!?」

 

 素っ頓狂な声が出た。その拍子にエルが目を覚ました。

 

 エルは起き上がって左右を見渡し、ルドガーがいると気づくや、寝ぼけ眼でソファーを這い下りてルドガーのズボンにしがみついた。

 

「ケガ、大丈夫か?」

「だいじょうぶ」

 

 自分の体をチェックしたわけでもないのに、エルはやたらと確信的に答えた。

 

「あの、1500万って……」

「治療費だよ。君たちの命の値段」

 

 高すぎる。ルドガーは反射的に思った。この男は明らかにこちらの足元を見てぼったくろうとしている。エル共々助かったのは素直に喜ばしいが、よりによって何故、こんなヤブ医者に――

 

「あんた――ひょっとして、クラン社医療エージェントのリドウ・ゼク・ルギエヴィート?」

「何だ、知ってんの。さすがのユリウスもそこまでは情報シャットアウトできなかったか」

 

 リドウ・ゼク・ルギエヴィート。兄ユリウスと肩を並べるトップエージェントで、特に医学分野での活躍が目覚ましい。クランスピア社のエージェントを挙げろと言われれば兄と彼、と巷で言われているほどだ。

 

「エル、お金かせいだ時なんてない……」

 

 しおれたエルを、リドウは虫でも見るような目つきでソファーに叩きつけた。幼い悲鳴が上がる。

 

「稼ぐ気さえあれば金を作る手段なんかいくらでもあるんだよ。子供だろうが何だろうが」

 

 もう我慢できなかった。ルドガーは、エルを掴むリドウの腕に手を伸ばし――

 

「ごめーん、話し込んじゃっ……何してるの!?」

 

 レイアだった。入るなり彼女は駆けてきた。

 

 リドウはエルを引っ張り寄せてルドガーから離れた。実質、エルを人質に取られた状況だ。

 

「どうしたの?」

「いや、その……」

「治療費が高すぎるってクレームをつけられてね」

「いくら?」

「……1500万」

「高すぎます!」

 

 レイアはリドウに詰め寄った。

 

「どういうことですか。いくらクラン社のトップエージェントだからって、こんな高額を請求できるなんて聞いたことありません。ドクターエージェントは他のエージェントと違って請求上限があるはずです」

「命を救ったんだ。妥当な値段だろう? それに俺のこれは、エージェントの仕事じゃなくて、俺個人の善意の営業」

「だとしても、医療黒匣(ジン)による治療費の相場や、緊急災害時における医師の救護従事義務を考えると、あなたの行為は正当とは言えません! この件はきっちり記事にして世間に発表させてもらいますから!」

 

 リドウは悠々とした笑みを崩さない。エージェントにとってはスキャンダルのはずなのに。

 

「別に記事にしてもいいけど。ただ、クランスピア社のトップエージェントと、地元紙の駆け出し記者、世間がどっちを信じるかは明白だよね」

「う……く、ぅ…っ」

 

 レイアは反論できないでいる。見ていられなかった。

 ルドガーはレイアの肩を掴んだ。

 

「いいよ、レイア」

「っ、ルドガー、でも」

「レイアが俺たちのためにがんばってくれたの、ちゃんと伝わったから」

 

 ルドガーはレイアを下がらせ、リドウの前に立った。

 

「銀行からの融資――借金の契約をして金を用意する。だからエルを返してくれ」

「O・K。賢明な判断だ」

 

 リドウはぞんざいにエルの腕を離して前に突き出した。

 まろび出たエルを慌ててキャッチする。涙の膜が張った翠眼は見ないフリをして、ルドガーはエルの頭を撫でた。

 

 慰めるようにルルが下から鳴いた。ルドガーとエル、どちらを慰めているかは分からなかった。



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「新聞記者なのに」

 借金の手続きをすませたルドガーは、エルたちを連れてバーを出た。

 

 暗いストリートを駅に向かっていると、ふいにレイアが言った。

 

「……ごめん。何もできなくて」

 

 元気印のレイアに落ち込まれると、太陽を隠された心地になる。

 

「あんまり自分を責めるなよ。何もできなくたって、それで俺がレイアを恨んだりするわけないんだから」

 

 細い手が握りしめた黄のジャケットにシワが寄った。

 

「……悔しいよ。真実を世の中に伝えるのが新聞記者なのに。わたし、ちっとも役に立てなかった」

 

 ルドガーは見かねて、レイアの両手を掴んで(ほど)かせた。

 

「ルドガー……?」

「正直さ、知らない間に借金させられて、俺もう人生観ぐらぐらだったんだ。俺が何かした? って。でもレイアはさ、最後まで俺は悪くなくて、悪いのはあっちだって主張して俺たちを庇ってくれた。それにすごく――救われた。ああ俺、何かとんでもないことしでかしたわけじゃないんだ、俺は俺のままなんだって」

「そんな。大袈裟だよ。わたしは中途半端に知識ひけらかしただけだよ」

「でも最後まで俺の――俺とエルの味方だった。ありがとな、レイア」

「ありがとっ」

 

 エルも礼を言った。ルドガーの真似をしてか、本人の意思かは分からないが。

 

「……はぁー。もう。ルドガーってば相変らずなんだから」

 

 レイアはキャスケットの鍔を少し下ろした。

 ルドガーはエルと顔を見合わせ、首を傾げ合った。

 

「Dr.マティスって知ってる? ヘリオボーグで源霊匣(オリジン)の研究開発してる人」

「名前だけ、なら」

「おりじんって?」

「確か俺たちにも使える算譜術(ジンテクス)の装置だったと思うけど」

「精霊を殺さず、霊力野(ゲート)のない人にも使える、黒匣(ジン)に代わる装置だよ。もっとも失敗続きで開発は足踏みしてるけど」

 

 レイアは苦笑気味に解説した。

 

「実はわたしの知り合いなの。さっきの電話、その彼からでね。ニュース観てわたしが無事か気になったみたいで。Dr.マティスって精霊研究もしてるから、ひょっとしたらルドガーの力とかあの変な世界……それに、イリスのこと、ちょっとでも分かるかもしれないよ」

 

 イリスの名を出されては心の天秤も傾く。

 

「――うん。じゃあ行ってみよう。ヘリオボーグ」

「エルも行く!」

 

 下からエルの目一杯の声。

 

「時計、返してもらってない。あの時計がなきゃ、エル、カナンの地に行けないもん」

 

 ルドガーはエルの前で片膝を突いて目線を合わせる。

 

「どうしてそんなに、その、カナンの地に行きたいんだ?」

「約束したから。約束は、守らなきゃダメでしょ? イリス、カナンの地、知ってるっぽかったから。ルドガーたちも、イリスに会いに行くんでしょ。だからエルも付いてく」

「家に帰らなくていいのか?」

 

 エルは無言で、硬く肯いた。

 そもそもエルがどこからどう来たかはエル自身も分かっていないようだし、これは、保護者が名乗り出るまでルドガーが引き受けるしかない。ルドガーも腹を据えた。

 

「じゃあみんなで行くか」

「うん!」

「列車? 徒歩?」

「列車。この子と二人分くらいならまだ持ち合わせはある」

 

 レイアにも切符代くらいはあるはずだ。彼女はエレンピオスで置き引きに遭って以来、金銭は分割して持ち歩いていると聞いた覚えがある。

 

 ルドガーたちは一路、ドヴォール駅へ向かった。

 

 

 

 

 

 ドヴォール駅はテロの影響で込み合っていた。小さなエルが人混みにはぐれてしまわないように、ルドガーとレイアで両側からエルの手を繋いで歩いた。

 

 券売機前の列に並んで順番を待つ。そしていざ、ルドガーの番が回ってきて、ルドガーはGHSを券売機のリーダーに当てた。

 

 すると、リーダーが赤く灯り、明らかに警告らしき音が上がった。

 音を聞いた近くの駅員がやってきて、券売機の表示を見た。

 

「発券はできないよ」

「なんでー!?」

「なんでって、この男の移動には制限がかかってる。見逃したらこっちが処罰されるんだ」

 

 その時、タイミングよくGHSに着信があった。ノヴァからだ。

 ルドガーは急いで電話に出た。

 

『ごめーん。移動制限について説明してなかったね。エレンピオスはGHSで個人情報を管理してるでしょ? 背負った債務に応じて、移動を制限するコードが発動するの』

 

 その後もつらつらとノヴァは説明するが、ルドガーにはほとんど聞こえなかった。聞きたくないのだと脳が聴覚をシャットアウトしたようだった。

 

 

 ――まったく、何をやらかしたんだか――

 

 ――まだ若いのに、人生詰んでるな――

 

 

 遠慮なく言い捨てて行った駅員たちに触発されてか、駅構内の人々がルドガーをちらちら見ながらひそひそ話し始める。

 

 大声で「チガウ」と叫びたい気持ちと、ここから一刻も早く消えたい気持ちがぶつかり合う。

 

 知らない所で、ルドガー・ウィル・クルスニクの社会的地位が崩れ落ちていた。

 

 その時、エルが駅員の去ったほうへ走り出て仁王立ちしたかと思うと。

 

「ばーか! なんにも知らないくせに!」

 

 まさにルドガーが主張したかったことを叫んでくれた。

 

 ルドガーが呆気にとられていると、エルはルドガーの片手をふんずと掴んで歩き出した。当然ルドガーも引っ張られる形で付いて行く。

 

「何か日雇いの仕事ないか斡旋所で探してみよ」

 

 気づけばレイアも付いて来ていた。

 

「大丈夫。どんな時だって付いてる。友達だもん」

 

 エルのまっすぐさが、レイアの労りが、ささくれていたルドガーの心を鎮めた。

 

「――ありがとな、ふたりとも」

 

 礼を言いつつも、ドヴォール駅での人々の態度から、ルドガーは不思議な予感を得ていた。

 

 

 ――きっと自分は、もう「日常」へは帰れない、と。




 本作はレイアが新聞記者であるという面をプッシュしていきます。よってこのように「記者」としての顔をレイアが見せることが多くなりますことをご承知ください。

 ここまではジュードのポジションがレイアに変わっただけでしたが、次からは、次こそは!(>_<) レイアに交代させた意味を強調したいです。

 はい。安定のレイアLOVEですが何か?


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Interview5 大遅刻ファースト・コンタクト
「ジョウトウクだってパパが言ってた」


 ヘリオボーグ研究所に来るまでも、ルドガーは借金に悩まされた。

 ヘリオボーグに入れるだけの返済のため、休みなくクエストに通っては魔物退治や届け物の調達・配達を行った。

 

 有難かったのはレイアもエルもルドガーに笑いかけ、何でもないという顔で手伝ってくれたことだ。

 

 クエストのための拠点にした安宿のブラウン管TVや新聞の一面は、どこも「ユリウス・ウィル・クルスニクはテロ首謀者」という見出しで踊っていた。

 現状、冤罪とはいえ兄は重犯罪者。弟は破産寸前の借金まみれ。

 そんな身の上なのに、レイアもエルもルドガーを見捨てなかった。だから、ルドガーは頑張れた。

 

 そしてついにヘリオボーグへの移動許可が下りたとノヴァから電話があった時。電話を切ったルドガーはレイアとエルをきつくハグしていた。

 

 3人はついにヘリオボーグに着き、巨大研究所に足を踏み入れる――運びとなるはずだったが。

 

 

「もしもし、ジュード? レイアだよ。今、ヘリオボーグ研究所の玄関前。出て来られる? ……え。手が離せない? 分かった。じゃあこっちから行かせてもらうよ。いいんだね? ……おっけー」

 

 レイアは電話を切って、GHSをポケットに入れた。

 

「面会許可下りたよ。ジュードの研究室、こっち。行こ?」

 

 レイアが進むままに、ルドガーとエルは付いて行った。レイアは、複雑な造りであろう研究所をすいすい進む。きっと「ジュード」に会うために何度も通ったのだろう、とルドガーはやけっぱちな結論を出した。

 

 やがてルドガーたちは一つの研究室のドアの前に着いた。研究室のネームプレートには「Matis Labolatory」と刻印してある。

 

 

「ジュード~。来たよ~」

 

 すると一拍置いて、どさどさどっさー! と、積み上げていた物が崩れたような音がした。

 

「……大丈夫なのか?」

「いつものこと、いつものこと」

 

 レイアが笑顔なので、まあ大丈夫なのだろう、とルドガーは思った。ついでに、顔しか知らぬ恋敵に「ざまみろ」とも思った。

 

 ドアがスライドして、中から白衣の小柄な少年が現れた。

 

「い、いらっしゃい。久しぶり、レイア……と?」

「前に話したでしょ? ルドガー・ウィル・クルスニクさん。仕事手伝ってもらってるって」

「ああ。そっちの子は?」

「エルはエル。エル・メル・マータ」

「ナァ~」

「と、ルルっ」

 

 エルはルルを抱き上げた。

 

 少年はルドガーに右手を差し出した。

 

「ジュード・マティスです。レイアとは幼なじみなんです。よろしくお願いします、ルドガーさん」

「ルドガーでいいよ。俺もジュードって呼んでいいかな」

 

 ジュードは破顔した。両者の手が重なる。

 

「もちろん。じゃあ改めて。よろしくね、ルドガー」

「よろしく、ジュード」

 

 よろしく、恋敵さん。――ルドガーは心中のみでこっそり呟いた。

 

「込み入った話になるから中入りたいんだけど……いつも通りね」

 

 研究室の中を覗き、ルドガーも理解した。

 あちこちに乱雑に文書や資料が積まれ、床までそれが侵食している。

 

「どこに何を置いたかは把握してるんだけど……」

「それ、片付けられない人のジョウトウクだってパパが言ってた」

「エルのパパは厳しいなあ」

 

 とりあえず専門書や資料を隅に避けて、座れるだけのスペースを確保した。

 対談形式になって、ルドガーはようやく話すことができた。

 

 列車テロに巻き込まれてから発現した謎の異能。

 同じチカラを持つらしいのに教えてくれなかった兄。

 そして、蝕の精霊を名乗ったイリス。

 

「――と。こんな感じだったんだけど……」

 

 するとジュードは、好奇心でも畏怖でもない――憐憫を、ルドガーに向けた。

 

「そっか。ここに来るまで本当に大変だったんだね。僕が言うのも変だけど、うん、お疲れ様、ルドガー」

「あ……」

 

 暖かい。

 レイアといい彼といい。どうしてリーゼ・マクシアの人たちはこんなに暖かく接してくれるのだろう。

 

 望まない形で借金をしたルドガーでも、債務と移動制限のせいで人が離れていくのは理解できた。もしも知り合いが同じ立場になれば、関わりは避けたいと思う程度には、ルドガーは平易な感性の持ち主だ。

 

 その視えない壁を、レイアもジュードも易々と越えて来た。

 

(特にジュードは。結構前から勝手に恋敵だと思って敵視してたから)

 

「ど、どうかした!? 僕、何か変なこと言った?」

「言ってない。ただ、ちょっと前の俺ブン殴りてえ~、って思っただけ」

 

 ジュードは首を傾げていたものの、理由が理由だけに言えないルドガーだった。



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「退屈しないでしょう?」

 彼らは現在分かる情報で「イリス」に探りを入れ始めた。

 

「蝕の精霊イリス、か……人間形態を取れるとなると大精霊クラスで間違いない。今確認されてる大精霊は、四大精霊で、炎のイフリート、水のウンディーネ、風のシルフ、土のノーム。氷のセルシウス。雷のヴォルト。精霊を束ねる主……マクスウェル。言い伝えも加えると、光のアスカ、闇のシャドウ、冥界の王プルート。そのイリスも大精霊と仮定すると、どこかしらに伝承があってもおかしくないはずだけど。蝕、ねえ」

「わたしも聞いたことないなあ。エレンピオスにしかいない大精霊……にしてはこっちで働き出してからそういう話聞かないし。ねえ、ジュード。今日はバランさん、いないの?」

「いや、いるよ。リーゼ・マクシアからの親善使節団の案内中。もしかしてバランさんに聞こうと思った?」

「バレたか」

「これでも長いこと幼なじみやってるからね」

 

 朗らかに言い合うレイアとジュードに色めいた空気はない――と思いたい。

 

 

 

 

 エルは、ルドガーとジュードたちの話し合いを聞きながら、一人ふて腐れていた。

 

 ルドガーたちはイリスが「何か」ばかりを話し合い、イリスが今「どこにいるか」を話題に上げることはなかった。不毛な意見交換だ。ここにいてもエルの欲しいイリスの手がかりは手に入らない。

 

 そう判断したエルは、ルルに「しーっ」と指を立てつつ、自らの小柄さを生かして、ジュードの研究室から脱走した。

 

 脱走――したはいいのだが。

 

 エルにも行く宛てがあったわけではない。なのでエルは、足の赴くまま、気持ちの赴くままに施設を歩き、登り、降りた。

 もちろんそんなことをすれば結果的には。

 

(まよった……)

 

「ナァ~」

「へ、ヘイキだし。すぐ帰るんだから」

 

 エルは大股で進み始める。ルルも付いて来る。ちなみに、反対方向である。

 

「あの、どうかしたの?」

 

 急に話しかけられたエルは、ルル並みの俊敏さで飛びずさった。

 

「え、あ、あのっ」

 

 女の子だった。童話の中の木の精霊(ドライアド)がそのまま出てきたような、エルより少し年上だろう少女。

 

「ここの職員さんのご家族ですか? ひょっとして……迷っちゃった?」

「エル、迷子じゃないしっ」

 

 女の子はきょとんとする。エルはますます真っ赤になった。引っ込みがつかない。

 

「た、たんけん! タンケンしてるの! ここ広いし、一緒にいる人たちがオトナの話してるから、だからエルだけタイクツでっ」

「探検ですか。それは――」

 

 女の子はニコリと笑った。

 

「楽しそうですね。わたしも混ぜてくれませんか?」

「えっ」

「どうせならガイドさんがいる探検のほうが退屈しないでしょう?」

 

 女の子が指さしたのは、彼女と同年代の集団、それに施設の説明をしている職員らしき白衣の男だった。

 

 ここで断ると、エルはまたルルとふたりきりに戻って、ルドガーの下へ帰れなくなるかもしれない。

 それは、困る。

 ルドガーはイリスに繋がる人で、イリスはカナンの地に繋がる人だ。

 カナンの地がどこにあるか知るためには、ルドガーのところへ帰らなくてはならない。

 

「そこまで言うんなら、イッショに行ってあげてもいいよ」

「はい、一緒に行きましょう……ええっと。わたし、エリーゼっていいます。あなたは?」

「エル。エル・メル・マータ。この子はルル」

「ナァ~」

「エルにルルですね。仲良くしてください」

 

 エリーゼは大人びた顔でエルに笑いかけた。エルはつい彼女の笑顔に見惚れたが、それが恥ずかしいことに思えて、エリーゼより先に一団と同じ方向へ歩き出した。そんなエルに、エリーゼが苦笑していたとも知らずに。

 

 

 

 

「はいはーい。ちょっと天気が悪くなってきたみたいだから巻いて行くよ~。質問があったらスピーディに言ってちょーだい」

『『『はーい』』』

 

 行儀よく返事をするのは、エリーゼと同年代の少年少女。しかし、エルからすれば年上の集団である。ぴったりと混ざるのには抵抗があった。

 

 最後尾についたエリーゼの、さらに後ろから、エルは付いて行った。

 

 小さな雷鳴が、生じた。

 

「ひぅっ」

 

 エルは思わず先を行くエリーゼの背中にしがみついていた。

 

「雷、こわいんですか?」

「ぁ、あ、ぅ」

 

 エリーゼが言葉を続ける前に、先より大きな雷鳴が轟いた。

 巨大な光のフラッシュは、エルの心の中にもフラッシュのようにいくつもの光景を瞬かせた。

 

 

 ――トリグラフ中央駅10時発の列車――カナンの地――約束―― 一緒に来るか――ホントの約束は目を見て――いっしょにカナンの地に行きますっ――××を壊す仕事なんてあるわけ――わたしが必ず××××××を連れて――お願い、エルを――思い出なんてまた作れば――約束より大事なものがある――俺は××××にエルを助けてくれるよう――

 

 エルは両手で頭を抱えて蹲った。

 

「あああああああああああああっっ!!!!」

「エル!? しっかりしてください! エル!!」

「ナァ~!」

 

 

 

 3度目の雷鳴の直前、二人の少女が消えたことに案内役のバランが気づくのは、このすぐ後の話。




 タイトルは言わずもがなルドガーとジュードの出会いのタイミングです。エリーゼとエルは正しい?タイミングで会っているのにねえ。

 そしてここでエルの意味深さをさらに深める描写をして自分で自分の首を絞める作者orz ……いやまあ拙作でのエルが何者なのかはもう決めてあるのですが。

 そしてお待ちの方がいるかは分かりませんが。
 次回からイリス、本格参戦です。


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Interview6 End meets Start Ⅱ
「エルはわたしが守りますから」


 エリーゼは困惑してあちこちを見回した。

 景色は変わらないのに、肌がざわつく。

 

(今、ほんの少しだけど、次元の裂け目を通った時に似た感じがした。この子、一体)

 

 エルは両手で耳を押さえて蹲っている。

 エリーゼはエルの横にしゃがんで、背中に手を置いた。

 

「エル、大丈夫。もうやみましたよ」

 

 翠眼がエリーゼに向けられる。両手はまだ耳を塞いだままだ。

 笑顔を維持しつつ待っていると、しばらくしてエルはそろそろと両手を下ろした。

 

「内緒だけど、わたしも雷は苦手です」

「エリーゼも?」

「はい」

「そっか……」

 

 エルはそれで納得したらしく、立ち上がった。エリーゼも立ち上がる。

 

(さっきの感じ。気のせいならいいけど、そうじゃないなら。わたしが何とかしなきゃ)

 

 リュックサックを下ろし、向き合うように持ち上げる。隣でエルが首を傾げている。

 

 エリーゼはすう、と息を吸い込んで。

 

 

「ティポ。起きて」

 

 

 ――所有者の声が、ただのヌイグルミを呼び覚ますキー。

 

『おはよー、エリーゼ! 会いたかったー』

 

 ティポはエリーゼの心を増幅して代弁する。つまりは自分も、まだティポがいなくて寂しいという気持ちがどこかにあったということだ。

 

(がんばってもっと強くならなきゃ、ですね)

 

 苦笑してから、ティポを抱き上げてエルに見せた。

 

「ティポってゆーんですよ。仲良くしてね?」『ね~』

「……変なの!」

 

 エルはぷいとよそを向いた。しかたがない。ゆっくり距離を縮めて行こう。

 

「とりあえず、他のみんなを探しませんか? わたしたちだけ、はぐれちゃったみたいですから」

「ん、いーよ」

「ナァ~」

 

 バランから見学前に貰った、見学用の研究所案内図を取り出した。この案内図の順路通りに行けば、バランや学校の友達に追いつけるはずだ。

 

 いざ歩き出そうとした時、廊下の角から慌ただしい足音が聞こえた。バランが気づいて迎えに来てくれたのかもしれない。一時はそう思ったエリーゼだが、おかしな点に気づいた。

 

 まず、足音が複数。そして、足音だけでなく、重い金属が振動する音も同時に聞こえた。1年前まで闘争の巷にいたエリーゼには、金属音が兵器だということが分かった。

 

「エル、下がって」

 

 エルとルルが離れたところで術式を展開した。あの足音がこちらに近づききる前に――

 

 道の角から姿を現したのは、案の定、黒匣(ジン)兵器を持った兵士たちだった。

 

「『ピコハン!!』」

 

 ピコピコハンマーがいくつも落ち、兵士たちの頭にクリティカルヒットした。

 

 エリーゼは愕然とした。気絶した兵士は軒並み、オレンジのスカーフ――アルクノアの印を身に着けていたからだ。

 

「エル、走って!」

「う、うん」

 

 エリーゼはエルと手を繋いで走り出した。ティポとルルがそれに続く。

 

(アルクノアのテロには気をつけてって、ジュードもレイアもメールで言ってた。やっぱりティポを持って来ててよかった。学校のみんなにバランさん。戦えるくらい精霊術が使えるのはわたしだけ。わたしがやらなきゃ)

 

 

「ね、ねえエリーゼっ、これ、なにっ?」

「きっとアルクノアのテロです。大丈夫、エルはわたしが守りますから」

 

 ――前だけ見て走っていたエリーゼは気づけなかった。

 ちょうど十字路になった道の、横側。そこにもアルクノアがいて、黒匣(ジン)兵器で通る人間を狙っていたのだと。

 

『リーゼ・マクシア人は出て行け!』

「え? ――あっ」

 

 術式展開が間に合わない。エリーゼはとっさにエルを抱き締め、自身を傷つけるであろう兵器に背中を向けた。

 

 だが、恐れた痛みはやって来ない。エリーゼは恐る恐る顔を上げた。

 

 エリーゼとエルを庇う位置で、一人の女が立っていた。

 野戦でも経てきたのではないかと疑うほどにボロボロに崩れた迷彩服。エルとよく似た翠色の瞳はやわらかくこちらを見つめている。

 

「怪我はない? エル、それと小さな精霊術士さん」

「は、はい! ……ありがとうございます。あなたは?」

「イリス! 前にエルたちのこと助けてくれたの」

 

 エルはイリスに駆け寄るが、イリスはさりげなくエルから距離を取った。子供が苦手な人なのかもしれない。

 

「そうなんですか。――わたし、エリーゼ・ルタスです。リーゼ・マクシアのカラハ・シャールから来た、親善使節です」『ティポだよー。よろしくね~、イリス』

「よろしく、エリーゼ、ティポ」

 

 イリスは整った笑みで応えた。

 瞬時に悟る。この人はエリーゼに何の関心も持っていない。

 

 現にイリスの翠眼はエリーゼもティポも映していない。むしろ、接触を避けたエルをこそ、イリスは真剣に見ていた。



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「一緒なら何もこわくないね」

 そこで不意に銃器が連射された音がした。アルクノアの兵士がこちらに機関銃を撃ったのだ。

 エリーゼは精霊術での防御を図るが、詠唱より銃弾が速い。

 

 すると、イリスが何の気負いもなく、掌を弾幕に向けた。

 

 地面を突き破って何十本もの細いコードやケーブルが生えた。コードは幾重にも交差して「網」を形成した。虫取り網ほどに精細な目のクロスステッチ。それを重ねて網は面に、面は壁となり、銃弾をことごとく跳ね返したのだ。

 

「すごい……」『アンビリーバボー!!』

 

 先刻もこうして助けてくれたのか。一年前の旅で多くの強敵と対峙したエリーゼも、このような技巧は初めて見た。

 

 だが、イリスの技はあくまで銃弾を防いだだけで、弾を放ったアルクノアを仕留めたわけではなかった。

 

 「壁」がほどけてから、アルクノア兵が再び銃器を構え――

 

 直後、彼らの背後から撃たれた銃弾によって、アルクノア兵は沈黙した。

 

「エリーゼッ!!」

「え、アルヴィン!? どうして」

 

 エリーゼたちの二度目の窮地を救ったのは、去年、共に旅をした仲間、アルヴィンだった。今はエレンピオスのスーツに身を包んでいるが、エリーゼが彼を見間違うわけがない。

 

 互いに駆け寄り合って、会話できる距離に立った。

 

「大丈夫かっ? ケガとかしてねえか?」

「は、はい。平気です。アルヴィンはどうしてここに?」『タイミングばっちしー♡』

「前に使節団に選ばれたって手紙くれたろ。いっちょ驚かしてやろうと思って研究所に来たらドンパチやってたってわけ。慣れねえこともたまにはしてみるもんだ」

「わたしに会いに来た、んですか?」

「俺だって昔の仲間に会いたいと思うことくらいあるんだよ、お姫様」

 

 アルヴィンがエリーゼのおでこを小突いた。懐かしく、暖かい。心の中から恐怖が消えていくのが分かった。

 この混乱の中でアルヴィンに再会できた、ささやかな奇蹟。

 

『おっとこまえー。アルヴィンが一緒なら何もこわくないね♪』

「頼りにしてくれていいぜ」

「またすぐ調子に乗るんですから」『でも今日は許したげるー』

「姫君がご機嫌で何よりだ。――エリーゼ、精霊術のレベルは去年と同じか?」

「はい。ティポもいますから、前と変わらないと思ってくれていいです。アルヴィンのお手伝いもできますよ」

「……子どもに頼るのは気が引けるんだが。悪い、手伝ってくれ。正直この数は一人じゃキツイ」

「任せてください」『がんばっちゃうんだからなー!』

 

 

 

 

 ――そこからは快進撃だった。

 エリーゼが大規模な闇の精霊術でアルクノア兵を一息に片付ける。討ち漏らしがあればアルヴィンが大剣か銃でフォローする。

 

「イリス、やることないね」

「全くだわ。せっかく無理を押して駆けつけたのに、ルドガーはいないし、ナイトの役目は取られるし」

 

 ――エルとイリスについては、「見学中に仲良くなった子」と「テロから助けてくれた人」とアルヴィンには紹介してある。

 アルヴィンが握手しようとしたが、イリスはその手を握り返すことはなかった。

 

 

「元アルクノアなんて言うからですよ」『信用ガタ落ち~』

「さっきのことか? ウソつきたくねえんだよ、もう」

「だからって……もうっ」

 

 嘘をつきたくないというアルヴィンの決意は尊重したいが、そのせいでアルヴィンが悪党に見られるのは嫌だ。

 エリーゼは悶々とした気分で、アルヴィンを追い抜いて先に歩いて行った。

 

 ――それが悪手だと知るのは、廊下の角を曲がってからだった。

 

 廊下の先に待ち構えていたのは、アルクノアの重装兵。黒匣(ジン)兵器のエネルギーチャージは完了していた。

 つまり、エリーゼは恰好の的だった。

 

「エリーゼッ!!」

 

 後ろを向く。アルヴィンが飛び出し、エリーゼを掴み寄せる。そして、自身の腕の中に隠す――

 

 電磁砲が炸裂する音がしてから、エリーゼとアルヴィンは元いた廊下の角に転がった。

 

「アル、ヴィン?」

「はっ…ケガ、ねえか…エリー…づっ…」

 

 どうして自分はアルヴィンに押し倒されているのだろう? どうしてアルヴィンの呼吸はこんなに苦しげなのだろう? どうして床に血が広がっていくのだろう? どうして、どうして、どうして――

 

「わたし、は、大丈夫、です。でも、アル……」

「…じゃ、いいか…わり…ここまで、だ…」

 

 エリーゼの体にかかるアルヴィンの重みが急に増した。

 

『アルヴィン! アルヴィン! 起きろバホー! 死ぬなー!』

 

 死ぬ? アルヴィンが――死んだ?

 

 ふいにエリーゼの上からアルヴィンがどいた。エリーゼは頬を引き攣らせながらも笑った。

 やはりアルヴィンは死んでなどいなかった。ウソツキはキライだと前に言ったのに、こんな嘘をつくなんてあんまりだ。ちょっと泣きそうだったんだと怒ってやらないと。

 

 希望を胸に起き上がったエリーゼが見たものは。

 ボロ布のように触手にぶら下げられ、目から光を失ったアルヴィンの死体だった。

 

「あ、あ、ああ…っ」『ヤダー! ヤダよー! 何でー! うわ~~~~ん!!』

 

 触手が彼だったモノをゆっくり下ろす。エリーゼは彼の骸に縋って泣いた。

 

「エ、エリーゼ…」

「エル、今は」

『おい! ここにも生き残りがいたぞ!』

 

 アルクノア。テロリスト。人殺しの集団。彼をエリーゼから奪った奴ら。

 

(許せない。許せない。絶対に許さない!)

 

 エリーゼは泣き濡れた目に憤怒を燃やして身を翻し、人生最速で術を編み上げた。

 

「『リベールゴーランド!!!!』」

 

 最初の兵と、呼ばれて集まった兵が、闇の包囲陣の中で爆散した。

 

(次の敵はどこ?)

 

 エリーゼはふらふらと歩き出す。新たなエモノを求めて。彼を奪った者たちの血を求めて。



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「所詮は刀のくせに」

 イリスは歩く殺戮兵器と化したエリーゼの後ろに付いて、施設を進んで行った。

 途上のアルクノアとやらの掃討は手間だと思っていたので、エリーゼが奮闘してくれてありがたい。

 

「イリス。エリーゼ、なんかこわい」

「ナァ~…」

 

 エルは黴だらけの軍服の裾を握って付いて来ている。エルの傍らをさらに恰幅のいい白黒猫が付いて来る。

 手は繋げない。繋いだらエルの玉の肌を爛れさせてしまう。

 

「確かにエルには恐ろしいかもね。でも今止めたらきっとエルとイリスが潰されてしまうわ」

「そうかも、だけど」

「安心して。これが終わったら止めるから」

「エリーゼ、ちゃんと元にもどる?」

「ええ。もちろん」

 

 ここは分史世界。正史世界に戻れば、エリーゼが想う男はちゃんと生きている。男の死はいずれただの悪夢として心の底に沈み、エリーゼはたおやかな少女に戻る。エリーゼが夢から覚めるまでは、露払いの役に立ってもらおう。

 

 

 ついに彼女たちが屋上へ踏み入った時、屋上には先客がいた。

 

 イリスは一瞬息を呑んだが、奥歯を割らんばかりに噛みしめて動揺を封殺した。

 

 その先客が、当代において「ミュゼ」という名を冠した、「マクスウェルの次元刀」のヒト型の器ということは分かっていた。

 

 イリスはエリーゼをふり返り、しゃがんでエリーゼの耳に口を寄せた。

 

「ここまででいいわ。お疲れ様」

 

 イリスが囁くと、エリーゼは糸の切れた人形のように崩れ落ち、倒れた。ティポも白目を剥いて地面に落ちた。

 

「エリーゼ!?」

「エル、彼女をお願い」

 

 エリーゼに駆け寄ったエルたちを守るコードの「壁」を展開してから、前に出てミュゼと対峙した。

 

「よくもまあクラン=セミラミスの女主人のご尊顔を被って地上に降りれたものね、次元刀。恥を知らないのかしら」

「――ミュゼよ」

 

 イリスは俯き、こっそりと拳を固めた。

 

(ミュゼ様のご尊顔をして「らしく」しても、所詮は刀のくせに)

 

「お前は『何』? 精霊にも見えるけれど、精霊はそんな邪気は放たない。――私はジュードたちに会いに来たの。邪魔するなら薙ぎ倒すわよ」

「表現が不適切ね。正確には『斬り倒す』でしょう。お前は刀なのだから」

 

 通常の骸殻能力者のものとは異なる骸殻――変異骸殻を纏い、コネクターを無数に巡らせる。

 翠眼は好戦的に爛々と輝き、口の端は限界まで吊り上がった。

 

 

「錆びて腐って爛れて――死ね」

 

 …………

 

 ……

 

 …

 

 エリーゼの傍らでただ座り込んでいたエルの前で、ばらりとコードの「壁」がほどけて落ちた。

 

 「壁」の向こうに立っていたのは、列車の時のように紫紺のアーマードスーツをまとったイリス。イリスの手には、小さな白金の歯車の集合体が載っていた。

 

「何ともない? エル」

「うん――」

 

 エルはぽやーっとした気分でイリスを見上げていた。この時に限り、エルの中では危機感がなかった。

 

「エル、手を出してちょうだい」

 

 意図は分からないまま両手を差し出す。イリスは差し出したエルの手の上に、白金の歯車の集合体を置いた。

 

 それを見計らったかのように、景色がガラスのようにひび割れ、崩れ落ちていった。

 

 場所こそ同じだが、先ほどまでいた世界とは異なる。正しい世界に帰ってきた。何の根拠もなく、エルはそう感じ取った。

 

「離さないで。無くさないで。とても大切な物だから。貴女にとっての『パパ』の時計と同じくらい。これを託せるのは貴女しかいないの」

 

 自分しかいない。それほどの大役を幼いエルに任せる者などいなかったから、エルの胸は期待に躍った。エルは白金の歯車の集合体を胸に強く押しつけた。

 

 その時だった。胸に硬い感触があった。

 見下ろすと、エルはいつのまにか父から託された真鍮の懐中時計を首から提げていた。

 

 

 “エル”

 

 

「ルドガーが呼んでる」

「……そう。あの子は分史世界に入ったのね」

 

 エルは天を仰いだ。曇った空があるだけのそこに、エルはイリスらとは異なる人物を視ていた。

 

「ごめんなさい。少し借りるわ」

 

 イリスがエルの時計を掬い上げ、手に取った。

 ――光の柱がイリスを包んだ。エルの前から、イリスだけが消えた。



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「確かめたいことがあるんだ」

 エル(とルル)がいないとルドガーが気づいたのは、ジュードやレイアと小一時間話し込んでからだった。

 イリスの存在やクルスニク一族との関係について言及する内にのめり込んでしまった。

 

 

「エルー! どこだ、エルー!」

「エールー!」

 

 開発棟に出て、レイアやジュードと揃って少女の名を大きく連呼しても、いらえはない。

 

(最悪だ、俺。あんな小さい子から目を離して、自分の知りたいことに夢中になって。エル、ごめん。どうかエルに悪いことが起きてませんように――)

 

 ルドガーは真鍮の懐中時計を取り出し、それを両手で握り締めて祈った。

 

 その瞬間、変化は起きた。

 

「うわ!」

「え!?」

「これ、列車の時の…!」

 

 周囲の景色が歪み、砂時計の砂のように一点に集約して、ルドガーらもろともに滑り落ちていった。

 

 

 

 

 

 視界が晴れた。ルドガーはぐるりと周りを見回した。いつのまにかルドガーたちは研究棟の室内にいた。

 だが、そんなことが気にならないくらい、何かがおかしい。「ここ」は「違う」のだと本能が訴える。

 

「――ジュード。ルドガー」

 

 レイアが低い声で囁いてから、一つのドアを示した。3人揃ってドアにぴとりと耳を当てる。

 

『……のヴォルトって奴を造ってたみたいだぜ』

『ジランド、本気で源霊匣(オリジン)でエレンピオスを救うおうとしていたんだ』

 

 二言目の声は、ジュードの声と全く同じだった。

 

『半刻くらい前に、誰かが強制起動させた記録があるな』

 

 ジュードが立ち上がった。

 

「屋上へ行こう」

「? 何で屋上?」

「確かめたいことがあるんだ。お願い」

 

 ルドガーはレイアと顔を見合わせた。

 

「いいぜ」

「うん。ジュードが気になるなら」

「ありがと、二人とも」

 

 3人の若者は、部屋の中のメンバーには聞こえないよう静かに離れてから、全速力で走り出した。

 

 エレベーターを上がり、最上階に着く。それから屋上の入口まで、ジュードが先頭を切って駆け抜け、ドアを開けた。

 

「やっぱり……」

 

 ルドガーにとって、屋上にあったモノは、とにかく訳の分からないモノだった。

 

 紫電色の巨大な球体。時おり、中に和太鼓を背負った小人がいるのが見える。何より異様なのは、その球体が電気を発していたことだ。

 

「な、なあ、何だよコレ」

源霊匣(オリジン)ヴォルト」

 

 ジュードが抑揚を抑えた声で答えをくれた。

 

源霊匣(オリジン)でヴォルトの起動実験をしたことがあるんだ。コレは、その時の――」

「暴走した源霊匣(オリジン)ヴォルト、それにさっき見つけたんだけど、向こうの昇降機にバランさんが乗ってて……え? これって去年、エレンピオスに来た時、源霊匣ヴォルトを見つけた時とおんなじ!」

「僕たちは、夢でも見てるの……? まさかここは、過去の世界だっていうの?」

 

 ジュードの呆然とした声に答えうるだけの情報を、ルドガーも持たなかった。

 

 ストリボルグ号で引きずり込まれた世界に、ここはよく似ている。あの世界ほどではないがここは過去であり、「ユリウス」のような黒いモノも目の前にいる。

 

「――過去であっても、正しい過去ではないわよ。分史世界における過去の時間軸上にいるだけ」

 

 この、声は。ルドガーはすぐさま、声がした背後をふり返った。



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「このひとにだけはきらわれたくない」

「イリスっ」

 

 今日のイリスは、黴だらけでボロボロの迷彩服を着ていた。もはや服が服として機能していない。女として大事なアソコやアソコが見えているのに、当のイリスは平然としている。

 

「ちょ、ルドガーとジュード、回れ右! そいでジュードは白衣貸して!」

 

 レイアが物凄い剣幕で叫んだので、反射的に命令に従った。ジュードも横で、レイアに白衣を剥ぎ取られながらも、同じくしていた。

 

「貴女……列車でルドガーと一緒にいた子ね」

「レイアだよ。って、それどころじゃなくて、服! とにかくこれ羽織って」

「……クルスニクの子以外で普通に心配してくれたの、貴女が初めてだわ」

 

 レイアが「もういいよ」と言ったので、ルドガーもジュードもふり返れた。

 

 イリスはジュードの白衣をきっちり着ていた。ボタンを全て留めているので、露出面も問題なしである。

 

「ルドガー。彼女が『イリス』?」

「ああ。――イリスっ」

 

 駆け寄ると、イリスは柔らかい笑みを浮かべて迎えてくれた。ルドガーも嬉しくなった。

 

「いつも俺の行く先々にいてくれるな」

「気持ち悪い?」

「ぜんっぜん。会えてよかった。話したかったから、色々」

「ありがとう。でも、話をするのは」

 

 翠眼から温度が消えた。彼女の目線が流れたのは、背後で帯電した紫電色の球体。

 

「アレを片付けてからにしましょう」

「待って!」

 

 制止の声を上げたのはジュードだった。

 

「せめて源霊匣(オリジン)ヴォルトで、基地の停電だけでも回復させないと。それまで待って」

「必要ないわ。ここは分史世界だから」

「分史……世界?」

「有体に言えば、正しい歴史から枝分かれした『IF』の世界。パラレルワールド。あの電球を殺せば、この世界は崩壊する。どれだけ人助けをしたって、結局は壊れてしまう世界よ。それに意味がある?」

 

 それ以上の反駁をイリスは受け入れなかった。

 

 紫の光の歯車がイリスを囲んで展開し、イリスの姿は紫紺のアーマードスーツを着たものに変わった。

 アーマードスーツのあちこちからケーブルやコードが無尽に射出され、源霊匣ヴォルトをがんじがらめに捕えた。

 

『…ジジ…ガガ……ジャレイ…ジャレイ…コロス!』

「くあ!?」

 

 イリスが片膝を突いた。ケーブルやコードの束を見やると、それらは帯電していた。源霊匣ヴォルトが、自身を捉えた触手に電流を流し、イリスを逆に攻撃したのだ。

 

『シネ! シネ!』

 

 電流が触手を走り、イリスに電気ショックを与え続ける。

 

「イリス!」

「来ないで! 貴方まで感電する!」

 

 来るな、と言われて反射的に足を止めてしまった。

 

「大丈夫よ。イリス、この程度で負けないから」

 

 ふり返ったイリスは笑っていた。源霊匣ヴォルトの電流で体中が痛くて堪らないはずなのに、ルドガーに笑いかけたのだ。

 

(同じだ。初めて会った時も、この人は精霊たちと戦いながら、こんなふうに笑った)

 

 ――1年前のイリスはいかな見返りもなく、ルドガーのために戦って傷ついた。それが当たり前だというように。

 

(他人にどうしてほしいとかどう思ってほしいとか思ったことはない。お人好しってよく言われたけど、俺がしたいからしてるんだし。だから礼なんて言わなくていい。お返しなんて要らない。俺ぐらいの奴なんて、そこら中に溢れ返ってるよ)

 

 あそこにいたのが別のクルスニク血縁者、たとえばユリウスでもイリスは同じことをしたと断言できる。

 

(俺なんか何の役にも立たないし、何もできないし。イリスが傷ついてまで守る価値なんてないんだよ。だから、やめろよ。もう傷つかないでくれ。もう頑張らないでくれ)

 

 傷ついているのはイリスとて同じなのに。自分はいいのだと笑って言った。

 

 ルドガー・ウィル・クルスニクは人生で初めて、想ったのだ。

 

(このひとにだけはきらわれたくない)

 

「イリスッッ!!」

 

 イリスと源霊匣ヴォルトの間に飛び出して双剣の片方を抜いた。

 大上段に剣を振り被る。紫電の閃き。この触手を斬れば感電する。分かっている。分かっていてももう引けない。

 

(後からイリスに、俺なんか守らなきゃよかった、頑張って損した、なんて思われたくない。今まで通りに接してほしい。だって、イリスは)

 

 

 無償の愛を惜しみなく注いでくれた、「     」のようなひと、だから。

 

 

 ルドガーは剣を振り下ろし、イリスと源霊匣ヴォルトを繋ぐ触手を全て切断した。

 大量の電流が、刀身から手へ、手から全身へ伝わった。

 

「ルドガーっっ!!」

 

 イリスの悲鳴のような呼びかけを最後に、ルドガーの意識は途切れた。




 ついにルドガーの中でイリスの位置づけが決まりました。
 ユティは「友達」、フェイは「我が子」、ジゼルは「先輩」と来て、4人目オリ主のイリスはずばり! というわけです。

 まさかの、テロがあった世界=分史、何もなかった世界=正史です。
 よって正史のアルヴィンは無事なのですが、エリーゼの心には大きな傷が残ったでしょう。

 ちなみにエルとエリーゼが正史に戻った時にエルの時計が戻っていたのは、入れ替わりにルドガーが分史世界に入ったからです。
 正史世界の物質がなければ、分史世界の物質でも存在できるのは衆知の通りです。


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Interview7 「お母さん」
「みーんなやっつけてやります」


 2000年もの昔。エレンピオスに一人の卓越した女がいた。

 

 女は文字通り身を削り、人と精霊のために尽くした。

 

 北で黒匣(ジン)によって微精霊が死んだと聞けば、飛んで行って黒匣(ジン)の使用中止を訴え、黒匣(ジン)そのものを破棄することもあった。

 南で精霊が黒匣(ジン)ごと人間を殺していると聞けば、翔けていって先陣を切って強大な精霊と刃を交えた。

 

 そんな女の周りには自然と人が集まった。当時、徒党を組むとそれは「クラン」という単位で表された。

 女のクランは精霊との共存を望む人間の集まりであった。

 

 

「  ミラさま、マクスウェルさまとちゃんと会えたかなあ  」

 

 

 そのクランのメンバーの中に、一人の少女がいた。銀髪に翠眼、クランの中でも小柄で年少。

 アイリスの名を持つ少女は、女の養い子だった。女にとって少女は自らの後継者で、少女にとっての女は母を超えて女神に等しかった。

 

 精霊を利用せんとする一派が女と精霊の主の逢瀬を襲撃した際、これを撃退したのはその少女であった。それほどに少女の実力と女への心酔はクランの中で抜きん出ていた。

 

 

「  ミラさまはマクスウェルさまと望むままに進んでください。ミラさまを邪魔する奴は、イリスがみーんなやっつけてやりますから  」

 

 

 だから、必然だった。少女が新天地へ渡らず女の傍らに残ったのは。

 

 少女の婚約者のように決意を帯びて、あるいは精霊の一方的な「審判」に憤り、または恐れて、新大陸に渡る者もあった。

 

 

「  恥知らずども! 精霊ごときに恐れを成して追従するなんて。ミラ・クルスニクのクランに名を連ねた時の誓言は偽りか!  」

 

 

 精霊を利用せんとの打算で追従した者もあった。

 

 

「  ミラさまを利用する奴、嘲笑う奴、貶める奴は、イリスが殺せばいい。貴女は光の中にいてくださればいい。ミラさま。イリスの女神さま。この世で一番尊いお方  」

 

 

 もちろん少女のように女を慕って残る者たちもあった。彼らは崇高な使命に闘志を燃やし、愛する人々が健やかに暮らせる明日を守ろうと、強い意思を宿していた。戦友の存在は、女を、少女を、慰め奮起させた。

 

 しかし、心意気だけで現実が打破できるかといえば、全くもってそんなわけはなかった。

 

 体が炭化していく「呪い」。これは戦士たちから戦う意思を奪った。生きながら己が無機物になってゆく恐怖、激痛。

 

 時計を捨てて脱走する者もあった。

 少女は陰で脱走者を粛清し、残った者を牽制した。ただでさえ少ない戦士を減らせなかった。

 

 「道標」集めは暗礁に乗り上げた。精霊の主が閉ざした新天地に、5つの「道標」の内3つがあった。隔世の殻は人間では壊せない。

 

 ついに女は「呪い」のため倒れた。病床に臥した女は、少女に次世代を任せた。

 

 

「  私の跡目として育てたあなた……遺される同志たちを導きなさい……今日までにそれが出来るだけのことは教えてきたわ。さあ……世界に羽ばたきなさい、私のリリオシータ(小さなアヤメ)  」

 

 

 初代クルスニク族長は没した。亡骸は黒い呪いに侵され、崩れ去った。

 

 そして、虹と花の名を冠した少女が2代目族長として立った。

 

 

 

 

 クラン襲名後、少女は準備をした。

 

 骸殻の強さや「呪い」を研究した。

 いずれ挑むべき大精霊、クロノスとオリジンを破る力を求めた。

 先代から継いだ元素水晶から「蝕」の属性の精霊を産み出し、さらにはその精霊と同化した。

 戦力増強、そして万が一の「審判」敗訴に備え、黒匣(ジン)技術を尽くして「次世代」を量産した。

 

 

 活動中、少女たちは分史世界なるものを観測した。骸殻能力者は進入できるらしいので入ってみた。

 

 そこは写し身の天地。殺さねばならないのは同志。

 それでも壊した。少女はクランのリーダーだったから。

 

 これ以後、「呪い」――時歪の因子化を恐れる、特に若く新しい世代は少女に反発し始めた。

 

 少女は反発を利用した。ドロップアウトを目論む戦士を、密かに、非人道な手段で因子化させた。リーゼ・マクシアと繋がった分史を造り出し、そこから「道標」を回収する。すでに方舟から隔てられた彼女らに選択肢はなかった。

 

 「道標」回収を円滑に進めるため、「鍵」には半ば強制で子を産ませた。当時の「クルスニクの鍵」は一人だけ。「鍵」に大事あれば使命遂行どころではない。

 

 

 血涙を流して「道標」を4つまで集め終え、残すは「最強の骸殻能力者」だけとなった。

 

 クランは大いに紛糾した。まず同族で優劣を競ったこともない。「最強」の定義も分からない。実力か、壊した分史の数か、精神力か。結果として、クラン内で押し付け合いが発生した。お前だ、いやお前だ、ちがう俺じゃない、私じゃない。抗争は三昼夜に渡って続いた。

 

 四日目の朝、ようやく最後の「道標」が出現した時には、もはや彼らは「一族」の体裁を成していなかった。

 生き残った者は少女を除いて7。全員が少女の「製造」した、偉大な女導師の実子だったことがせめてもの救い。

 

 ほうぼうの体で「道標」を揃え、「カナンの地」を開いた彼らは、約定に従って渡し守であるクロノスを呼んだ。

 これでようやく長く苦しかった戦いの日々が終わる。少女は半ば達成した気分だった。

 

 だが、現れたクロノスは告げた。

 カナンの地へ「橋」を架ける術の「証」として、強いクルスニク血統者の命を捧げろ、と。

 

 そんな約定は「審判」開始前に定めたルールには含まれていなかった。「審判」のルールを歪めるなら精霊側の敗訴だ、と少女は訴えた。

 

 クロノスは冷ややかに答えた。

 

 

「  オリジンと契約した始祖クルスニクこそが、クルスニク一族の者の命を『橋』に定めたのだぞ  」

 

 

 崇拝していた女が、精霊どもと同じくらいに残酷な試練を少女たちに用意していた。

 

 少女の女への愛は変わらなかった。だがこの日確かに、少女の中で女に対して抱いていた何かが砕け散った。少女は、折れたのだ。

 

 だが、少女以外の7人の「子どもたち」は屈しなかった。彼らは腑抜けてしまった少女に頼もしく告げた。

 

 

「  貴女は言った。人類は精霊から解き放たれ、自由に生きるべきだと。貴女の理想を遂げるためには、貴女に頼ったままではいけない  」

 

「  貴女の力で『審判』を超えてもそれは真に人類の勝利とはいえない。貴女は精霊であるゆえに。我らは我らのみで精霊より勝利をもぎ取らねばならない  」

 

 

 かの子らの主張はまったき正論であった。少女は歓喜した。

 

 

「  若者たちよ。お前たちは自らの意思で選んでくれたのね。人の独立独歩を。精霊を排し人類が繁栄する未来を。我が理想を正しく受け継いでくれていたのね。ええ、ええ、これ以上何を望みましょう。さあ、その槍をこの身に突き立てなさい。イリスは貴方たちをかの地に渡す橋となりましょう  」

 

 

 少女は子どもたちを「カナンの地」へ渡すため、喜んで子どもたちに殺されて「橋」を架けた。

 

 ミラ・クルスニクの子どもたちは虹色の「橋」を渡り、最後の試練に挑みに行った。

 

 これで少女のものがたりは閉幕――であればどんなに救われただろう。



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「それが一番、救いがない」

 ルドガーは瞼を開けた。

 

 一面に広がる闇を、一面に広がる白砂が仄かに照らしている。こんな景色は知らないし、いつここに来たかも分からない。だがその不条理をルドガーは冷静に受け入れる。

 

 何故ならここは――夢の中なのだから。

 

「どうして俺にこんなものを見せた」

 

 声に応えるように空気――否、闇が蠢き、体積を持った。

 

 頭、肩、両腕、胸板、両足。ヒトの形を模そうとして、アート要素を足し過ぎたような「影」のオブジェが出来上がった。

 

「お前が俺にこんな夢を?」

『オレじゃない。オレはただ見やすいようにイメージを具現化させただけだ』

「本当か?」

『ああ。本当だとも』

『――アナタにそれらを観せたのはボクですよ』

 

 第三者の声。ルドガーは頭上を仰いだ。

 

 りりりぃん

 

 清冽な鈴の音を奏でながら、一匹の狐が「影」の横に並んだ。闇と白砂のツートンの空間で、オーロラ色の毛並を輝かせる九尾の狐。

 

『来たか。遅いぞ、ヴェリウス』

「お前が?」

『正確にはある者の心をボクが汲み上げ、そこなる影の大精霊シャドウに具現化してもらいました。夢は心に溜まったものを整理する時も兼ねます。その中に、ほんの少し、他者の心のイメージを入れ込ませて頂きました』

「お前も精霊なのか? 何の精霊なんだ?」

『名はヴェリウス。「心」の大精霊です。心を持つあらゆる命の代弁者にして守護者』

「心の、精霊」

 

 精霊の中には抽象的な属性を司るものもいると知識では知っていが、「心」にまで精霊が付いてくるとはついぞ知らなかった。精霊研究家のジュードに報告すれば喜ぶかもしれない。――と、それは措いて。

 

「今俺が観たのは、ひょっとしてイリスの『心』か?」

 

 ルドガーたちクルスニクを創った女。ただの集団を一族へシフトさせた立役者。

 生き方、いびつな理想、母代(ははしろ)だった始祖への狂的な愛と献身。

 自らの血肉を異形に食わせてでも精霊に負けまいとした、「人」の矜持。

 

『正解です。目的のために手段を択ばない。彼女はクルスニク血統者の雛型です。感想はありますか、クルスニクの末裔』

「……俺が同じ立場だったら、さっさと一族見捨てて精霊の主に付いてっただろうな。現実があれだけどうしようもないんじゃ、別の世界に逃げ込みたくもなる」

『彼女は愚かだったと?』

「大バカだよ。あの人だけじゃない。周りにいた奴、どいつもこいつも大バカ野郎だ。バカを通せるくらい――イリスも始祖も始祖の理解者たちも、強かった。それが一番、救いがない」

 

 ほんの欠片でも弱さや汚さがあれば。どこかで諦め、自らをごまかし、生き延びる道もあっただろうに。誰も彼もが強すぎたから、次々走り抜けて逝ってしまった。

 

 どんな大義名分で没しようと、それは立派でも何でもないとルドガーは考える。

 

(死んでやり遂げたなんてとんだ欺瞞だ。生き物なら生きる努力は最後まですべきだ。けどそう考えちまうのは、きっと俺が、命より大事な、愛とか理想とかを持ったことがないからなんだろうな。自分以上に価値があるものを知らないから)

 

 こういう場面に遭遇すると、否応なくルドガー・ウィル・クルスニクの凡庸さを突きつけられる。

 

『ま、前置きはここまでにして、っと。せっかくクロノスが封印してくれてたってのに。よくもまあアレを解放してくれたなぁ? クルスニクの末裔』

 

 ふーやれやれ、とでもバックに出そうな風情でシャドウが肩を竦めた。

 

『アレは呪いの塊だ。存在は醜悪、呼吸は害悪、抱擁は凶悪、涙は罪悪。髪の毛一本、マナの一滴に至るまで生者を蝕まずにはいられない。アレ自身がどれだけオマエら人間を愛していようがお構いなしにな』

「俺にどうしろっていうんだ。言っとくけどな、もっかい封印しろって言われたって俺できないからな。俺、算譜法(ジンテクス)なんて使えねえんだから。できたってイリスをまた縛りつけるなんて俺はやらない。絶対に」

『蝕の精霊の過去を知ればアナタの心も変わると踏んだのですが』

「勉強になったんじゃないか? 心の精霊にも心変わりさせられない奴はいるって」

『オマエ、こっちが下手に出てやれば好き勝手……』

「うっせえ!!」

 

 凪いでいた闇がびりびりと波打った。

 

「人が大人しく黙って聞いてりゃ、こっちこそ『よくもまあ』だ。お前らの言うことが正しいのなんて百も承知だ。俺は去年の試験でイリスが精霊になって戦うのを見たんだ。イリスが毒だってのはイヤってほど知ってんだよ。だからって憎みきれるかよ! 俺にとっては恩人なんだよ!」

 

 ルドガーを地下の落盤から救うために分史に連れ込み、分史でも自分が勝手に危険地帯に連れてきてしまったからと独りでクロノスたちと戦った。

 マナを吐く物体になった人間にルドガーが情けなく錯乱した時、両腕の中で宥めてくれた。

 

 確かにイリスは過去の人たちに酷い仕打ちをした。でも、今ここにいるルドガーはイリスに何も酷いことはされていない。

 

『――アナタの「心」はよく分かりました。アナタの「心」は間違いなく蝕の精霊の救いとなるでしょう。ですが覚えておいてください』

 

 意識が傾いだ。眠気を堪えて起きていて、知らずがくんと眠りに落ちていくのに似ている。

 

『アナタが恩だという彼女の慈悲こそが、猛毒となって世界を蝕むということを――』



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「母親を守ってやらなきゃ」

 ルドガーは目を覚ました。

 

 頭にまだ霞がかかっている。ここがどこで、何をしていて、何故眠っていたか思い出せない。

 

「ルドガー」

 

 呼びかけのただ一声。それだけでルドガーの頭は急速に覚醒した。

 

 エルが見当たらなくて探していたところを、例の妙な世界に迷い込んだ。源霊匣(オリジン)ヴォルトにやられそうになったイリスを助けるためにルドガーは雷撃を受けた。

 

 頭だけを横に向ける。やはりイリスがベッドサイドに座っていた。

 

 イリスは研究所の職員の制服を着ていた。制服の布地はとっくに黴だらけで、布の端々は少しずつ腐ってリノリウムの床に落ち続けている。椅子も刻一刻と錆が滲み出していた。これが、「蝕む」。

 

「……怪我、ないか」

 

 ルドガーが発した一言で、イリスの翠眼は険しさを増した。

 

「イリスは怪我なんてしてないわ。一切合切、これっぽっちも」

「そうか。よかった」

「よかった、じゃないわよ」

 

 イリスはベッドに上がると、ルドガーに覆い被さり、厳しくルドガーを見据えた。

 

「なぜあんなことしたの。イリスは簡単に死なないって知ってるでしょう。貴方の体は人間なのよ。骸殻もまとわず精霊の攻撃を受けたりして。貴方が死んでいたかもしれないのよ」

「怒ってる……のか?」

「怒ってないわ。ただね、イリスは悲しい。ルドガーが、ルドガー自身を大事にしてくれなかったから。自ら命を危険に曝して、こんな傷まで負ってしまったから」

 

 イリスの手がルドガーの胸板を撫でた。くすぐったくてもぞりと動くと、引き攣るような痛みが走った。どうやら自覚よりひどい傷だったらしい。

 

「ねえ、ルドガー。なぜイリスなんかを庇ったの?」

「……『なんか』なんて言うなよ」

 

 ルドガーは腕を伸ばし、覆い被さるイリスの頬に手を当てた。

 

「イリスが俺たちを自分の子ども同然に想ってくれてるみたいに、俺はイリスのこと、母親みたいに思ってるんだ。母さんに似てるからじゃない。もっとこう、体の奥底で感じてるんだ。ああ、この人は俺たちが産まれた苗床なんだ、俺たちの『お母さん』なんだって」

 

 イリスは目を見開いた。ルドガーと同じ翠の虹彩。始祖クルスニクの色。この色に染まるために生前のイリスは自らの体を造り替える処置さえ受けたのを、ヴェリウスとシャドウの夢の中で知った。彼女はそれほどにミラ・クルスニクを愛していた。

 

「お母、さん? イリスが? イリスをそう呼んでくれるの? そういうふうに見て、くれるの?」

 

 ルドガーは笑って頷いた。

 

 存在が醜悪でも、呼吸が害悪でも、抱擁が凶悪でも、涙が罪悪でも。

 

「俺は男なんだから、母親を守ってやらなきゃ、だろ」

 

 イリスはクルスニクの血を引く自分たちの、母なるひとなのだから。

 

 感極まって胸板の上に落ちてきたイリスの体躯を、ルドガーは優しく抱き締めた。

 

 

 

 

 

 身支度を整えたルドガーは、イリスによって、レイアたちが待つという場所へ案内された。

 

 ジュードの研究室から程近い、広めの研究室だった。

 そこにはレイアとエルはもちろん、ジュードと、初めて見る顔ぶれが3つあった。

 

「ルドガー! よかった。元気になったんだね」

 

 レイアが真っ先にルドガーの前に来た。レイアの明るい顔に、やはりルドガーはどきっとした。

 

「ああ。この通り。心配かけてごめん」

「ナァ~」

「ホントにみんな心配したんだからねっ」

 

 ルルとエルにもどやされたので、重ねて「ごめん」と言っておく。

 

「そっちの人たちは?」

「うん。紹介するね。ここの所長のバランさん。それから、アルヴィンと、エリーゼとティポ。わたしとジュードの友達」

 

 アルヴィン、と呼ばれた男が手を挙げた。ふと気づく。褐色系の虹彩――この男、エレンピオス人だ。

 

「ども。おたくがルドガー? レイアから大体の事情は聞いてるぜ」

「エリーゼです。さっきエルともお友達になりました」『ヨロシクー』

「よろしく。アルヴィン、エリーゼ」

『ぼくはー?』

 

 ルドガーは彼らと順に握手した。最後にティポに恐々と手を差し出すと。がぶりと噛まれた。歯はなかったが、驚いた。

 

 イリスがエルの前に進み出て屈んだ。

 

「エル。さっき預けた物、出して」

 

 エルはピンクのカーディガンのポケットから何かを取り出した。歯車だ。白金の歯車が集まって出来た球体。

 

「ありがとう。――ルドガー。これは貴方が持っていて」

「俺?」

「エルが持っていては逆に危険だから。イリスが持っていてもいいのだけど、万が一爛れでもしたら一大事だからね」

 

 ルドガーはエルからそれを受け取り、ポケットに突っ込んだ。

 

「早速で悪いんだけど、蝕の精霊ってのがどういうものか教えてくれるかな」

 

 バランに促されて、イリスが前に出た。

 

「改めまして。イリスよ。一応、蝕の精霊ということになってるわ。よろしくしてちょうだい。見てもらえば分かると思うけど、常の精霊と異なり、毒と瘴気で体を構成しているわ」

 

 イリスはカビだらけの職員制服を翻して一回転した。

 

「服であっても、直接肌に当たっていればいつも黴だらけよ。こんなふうにね。後で替えの服を貰えると助かるわ」

「それは精霊としての力かい?」

「いいえ。正確には属性、あるいは生態ね。イリスがやめたいと願っても、イリスの体は居るだけであらゆるモノを蝕むの」

 

 青白い手がデスクチェアの一つを掴む。すると、イリスが掴んだ部分からデスクチェアはみるみる腐り、中のスポンジを剥き出しにし、バキバキと音を立てて崩れ落ちた。

 

 デスクチェアの金属部分は完全に錆びていて、ルドガーが軽く触っただけで崩れた。ルルが体躯に似合わぬ敏捷さで飛びのいた。

 

 知っていたルドガーは平静でいられたが、初見のレイアとその友人たちは、恐れ慄いてイリスを凝視している。

 

「望むのなら、日月さえも蝕んでみせましょう」

 

 指一本まで誇示するようにぴんと立て、イリスは嫣然と笑んだ。

 

 粘着質な沈黙を破ったのは、研究室のドアがスライドする音と、慌ただしく駆け込んだ研究員だった。

 

「所長! あ、ジュード博士も! よかった、探してたんです」

「どうかしたんですか?」

「それが、ジュード先生の試作源霊匣(オリジン)がなくなっていて。マキが持ち出したみたいなんです。それと、前に例の商人が置いてった精霊の化石もなくて」

「! バランさんっ」

「君、マキちゃんが今どこにいるか知ってる?」

「総合研究棟の13階だったと……」

「ありがとうございます。――ごめん、ルドガー、イリス。話はまた後で!」

 

 ジュードとバランは職員に付いて部屋を慌ただしく出て行った。

 

「待って、ジュード!」

 

 レイアが、アルヴィンとエリーゼが、彼らを追って走り出した。

 

 ルドガーはイリスと見交わした。イリスが肯いたので、ルドガーはエルの手を引いて研究室を出た。




 エリーゼは無事正史のアルヴィンと再会を果たせました。
 正史で目覚めて無事だったアルヴィンを見たエリーゼはきっと泣いたでしょう。

 そして本作では何回目になるんだという、源霊匣セルシウスEP。今更ですが、どうやら自分、このEPかなり気に入ってるみたいなんです。


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Interview8 蝕の精霊 Ⅰ
「人間も精霊どもの玩具じゃない」


 ルドガーたちが飛び込んだ研究室では、異様な光景があった。

 

 冷気と黒い磁場を噴き上げる、明らかに人間ではない乙女。それから離れて、黒匣(ジン)に似た小箱の近くに立って不安げに見つめる女職員。

 

「ジュード、あれ、何だ?」

「氷の大精霊セルシウス。確かに大精霊クラスの実験が必要とは言ったけど……マキさん……っ」

 

 ジュードが悔しげに拳を作ると同時、マキという女職員の前にあった小箱が小爆発を起こした。

 氷のドレスの乙女は、胸を押さえて苦しげに肩で息をしている。

 

『またか……また私を縛りつけるというのか。こんな機械で、無理やりに!』

 

 セルシウスの体から冷気と氷晶が迸った。マキが両腕を顔の前に持ってきた。冷気のほうが速い、ルドガーもジュードも間に合わない。

 

 その時、まるで切り取った時間の中にいるように優雅に、イリスが両者の間に割り込んだ。

 

「イリス危な…!」

 

 マキを庇うように立ったイリスの正面で、無数のコードが編み上げられて防壁を構成した。セルシウスが放った冷気は防壁にぶつかる先から黒い土くれに変じ、床に落ちていった。

 予備動作が一切なかった。算譜法(ジンテクス)か精霊の力か知らないが、とにかくマキは助かった。

 

「さっきのおっきい盾!」

 

 エルの横にいたエリーゼが、若草色の目を見開き、細い肩を強張らせた。

 

 疑問が湧く。イリスはマキをセルシウスから助けたのに、エリーゼはまるでイリスを敵であるかのように睨みつけている。

 

「氷の精霊が血気に逸るなんて笑い話にもならなくてよ」

『イリス……まさか、貴様があのイリス? 蝕の精霊イリスなのか!?』

 

 セルシウスには応えず、イリスは後ろのマキに離れるよう告げた。こちら側に走ってきて震えるマキ。バランの指示で、職員がマキと、さらにエルとルルを連れて外へ出て行った。

 

 ルドガーはイリスの横まで走って双剣の柄を握った。守ると宣言した以上、目の前でイリスを害する者は見過ごせない。

 ジュードとアルヴィンも来て、それぞれ身構えた。まだ誰も武器は出していない。

 

「セルシウス、落ち着いて。僕らは君を傷つけるつもりなんてない。だから――」

『ならば何故貴様の後ろには蝕の精霊がいる!』

「え……イリスが、何?」

『とぼけるか! ……いや、もしや本当に知らないのか? 私を操ろうと目論んでいながら、我らの天敵たる者の存在すら知らなかったのか?』

 

 言葉に困るジュードを見てか、アルヴィンが答える。

 

「後ろの女については俺たちも知らねえよ。精霊の間では有名人なわけ?」

『知らぬ者などいるものか。会ったが最期、その精霊の「精霊だけを蝕むマナ」を注入されて、精霊は生きながら魂を汚染され、化石も残さず、死ぬ』

 

 セルシウスの目はルドガーらを越えてイリスを睨み据えた。

 

『蝕の精霊。またの名を「精霊殺しの精霊」』

 

 実験室がしん、と静まり返った。

 

 当事者であるはずのイリスは、セルシウスの暴露にも泰然と構えて崩れない。その態度でルドガーは分かった。セルシウスが言ったことは本当だ。イリスは精霊を殺すモノで、イリス本人がそれを善しとしている。

 

「分かっているなら話は早いわね。今すぐそのハコに戻って次の目覚めを待つか、この場でイリスに蝕まれるか、好きなほうを選びなさい」

『戻るものか! それは私の自我を奪い、人形にする道具だ! 私は――精霊は人間の道具じゃない!』

「ええ。けれど、人間も精霊どもの玩具じゃない」

 

 セルシウスのありったけの激情を、イリスは一言の下に斬り捨てた。

 その声を合図にしたように床から無数のケーブルが生え、セルシウスを拘束した。

 

『くっ…この…!』

「お前たちは何度くり返せば気が済むの? お前たちは人間に利用されていると被害者面をするけれど、そう言うお前たちは人間から多くを搾取しているじゃない。精霊さえいなければ、人はもっと自由に幸せに暮らせるのに」

 

 憂いを浮かべるイリスにセルシウスを案じる色は欠片もない。

 

 コードに拘束されたセルシウスに、イリスが悠然と歩み寄る。

 イリスは何をするでもなく、ただ、セルシウスの胸の谷間に掌を当てた。その掌が、ずぶりと、セルシウスの胸に沈んだ。

 

『がっ…あ、ああ、ああああああ!!』

 

 ルドガーは「それ」を立ち尽くして見ているしかできなかった。すぐ横にいたジュードもアルヴィンも。

 

 イリスが手を沈めたセルシウスの胸から、セルシウスの全身が黒く染まっていく。腕も、足も、首も。やがて全身を黒く染めたセルシウスは、木炭のようにひび割れて崩れ落ちた。

 

 現れたイリスの手には、()(そく)のタマゴが載っていた。

 

「化石も残さず死ぬというのは誤りよ。正確には、化石をこんなふうに造り変えて、我が身の糧とするのがイリスのやり方。それを他の精霊が誤解して伝えているだけ」

 

 イリスは秘色のタマゴをちょうど真ん中で口に咥え、カッと歯を立てた。

 

 パキパキパキッ

 

 秘色のタマゴに走る亀裂。そしてタマゴが砕け散るのに合わせ、イリスは顎の角度を上げ、卵の破片を残らず口に入れた。

 ばきり、ばきり。噛み砕く音を経て、喉がごくんと鳴った。

 

「ゴチソウサマ。これからお前の凍ての奏で、イリスが有効活用してあげる」

 

 身篭った女のように下腹を撫でるイリスは、ひたすら嫣然としていた。




 本作でタグにも記した精霊アンチはこれが始まりでした。
 原案ではマジにカニバリズム表現だったのですが、「そらあかん」と人に言われて変えました。

 余談ですが、秘色というのは薄い水色だといいます。響きが好きでよく使います。


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「わたしが契約する!!」

「何、ですか、今の。精霊、を……食べ、た?」

 

 エリーゼの愕然とした声は、場の全員の心情を代弁していた。

 

「これでまた一歩前進した。フフ」

 

 その時、実験室に紫暗の光線の束が放たれた。

 術者はエリーゼ、標的はイリスだ。

 ルドガーはセルシウスに相対した時に抜きそびれた双剣で、光線を斬り払った。

 

「何するんだ、エリーゼっ」

「どいて、ルドガー! そのヒト、マトモじゃありません。だって精霊を…っ…食べたんですよ!? 絶対! オカシイですよ!」

 

 反論できない。ルドガーはエレンピオス人だが、精霊が同じ精霊を無機物化して食べるモノだと聞いた験しがないし、何よりルドガー自身がえぐい、と感じてしまった。

 

「――いいわ、ルドガー。これ以上は貴方が立場を悪くする」

「イリス……」

「認めましょう、エリーゼ。遠い昔、イリスは死にかけた時にこういう精霊に成ることを受け容れた。精霊に、クルスニクと同じ『呪い』を味わわせた上で、食らう精霊。ゆえに邪霊の渾名にも甘んじてきたわ。けれどね、人が動物を食らうように、イリスが精霊を食らうことの、どこがおかしいの?」

「――、え」

「確かに精霊は食事を必要としない。でもイリスは人類と精霊の中間に位置するから、必要なのよ、食事。エリーゼはイリスに飢え死ねって言うのかしら」

「そ、そんなこと言ってないじゃないですかっ」

「貴女がイリスのような半端モノにも情をかけてくれる優しい子ならば、どうか黙認してちょうだい。別に毎日食べなくてもいい。イリスだって好んでこんな食事をしてるわけじゃないのよ。――精霊なんて、本当なら頼まれたって食べたくないわ」

 

 最後の一言は、ただ一言だったが、場の誰にも分かるほどくっきりと憎悪が透かし見えた。

 

「イリスは精霊……キライ、なの?」

「大キライ。貴方はスキなの? ジュード」

「それは…もちろん」

「それは精霊という種が? それとも特定の精霊が?」

 

 ジュードが返答に詰まった。

 

「例えば特定の精霊を愛していて、ソレと同じカテゴリに属す『精霊』に愛着を感じるというスキなら、それはいずれ貴方自身の足場を崩すわよ。そんな幻想さっさと捨てて、現実を見つめなさい。貴方がすべきは人と精霊を結ぶことじゃなく、切り離し独立独歩で生きていける体系を作ることよ」

 

 再び部屋に下りる、粘ついた沈黙。

 ルドガーにはイリスに反論できなかった。イリスの持論もまた、一つの正しい選択肢に思えたからだ。

 

 

 その沈黙の中、ルドガーの背後から、胎動の音が聴こえた。

 

「イリス?」

 

 ふり返ったイリスは、腹を抱えて、銀糸を振り乱して膝を折った。

 

「イリスっ? イリス!」

 

 ルドガーは慌ててしゃがみ、イリスの両肩を支えた。イリスは片手で床を掻き、さらに深く上半身を前へ傾ける。

 

「だ、いじょう、ぶ……イリス、は、何百年も、こうやって進化、して、きた。だから今回、も……あ、く、うああああっ!!」

 

 ちっとも大丈夫には見えないが、ルドガーにはどうしていいか分からない。

 

『マナが、足りない……蝕を抑えるだけのマナが……ああ、悔しい、くやしい…! 結局はイリスも精霊どもの同類か! 人類から生命を徴収する賤奴に堕ち果てて……ああ、痛い、イタイ! 臓物が腐る! 目玉が融ける! 皮が爛れる! イヤ、イヤよ……精霊と同じカラクリで機能するなんてイヤなのに……アア、崩れる、崩れて、なくなる……『イリス』が消える……ああああああっ! アアアアア゛ア゛ア゛ア゛!!!!』

 

 未だかつて人生でこれほど壮絶な悲鳴をルドガーは知らない。その様は悲痛を超えて圧倒的で、音の暴威にすら感じられた。

 

 イリスを囲むように、天井と床を突き破って、太いコードやケーブルが生えた。イリスはそれらの濁流に上下から呑み込まれた。

 ルドガーがその触手の群れに触れた時、すでに触手は昆虫の繭のような形を成していた。

 

「イリス! イリス!!」

 

 ルドガーは「繭」を叩いた。だが「繭」はビクともせず、イリスのいらえもない。

 

「なんかヤバげな雰囲気だから、とりあえず全員外に出てっ」

 

 バランの号令に従い、何度もイリスをふり返りながら、ルドガーは最後に研究室を出た。

 

 バランが職員IDをカードリーダに当てて何か操作している。すると、壁の一部がシャッターのように上がり、ガラス窓から室内を覗けるようになった。

 

「イリス、イリス!!」

 

 「繭」は依然としてイリスを閉じ込め、今イリスがどういう状況にあるかを教えない。だが、これがずっと続いてはならないという予感だけは、ルドガーの中を席巻していた。

 

「どーすんだよ。このままじゃ研究室どころか、研究所まで溶解しかねねえぞ」

「――直接使役」

 

 ジュードが発した単語に、皆が注目した。

 

「ミュゼは前に力が足りなかった時、僕の直接使役で力が戻ったって言った。同じ原理がイリスに通用するか分からないけど……現状、僕が考え付くのはそれくらいだ」

「その直接使役ってやつ、どうやるんだ!?」

 

 ルドガーはジュードに詰め寄った。

 

「なるべくそばにいて、マナを絶えず供給する……人間側からはそのくらいだけど」

「分かった。俺、やるよ。イリスは俺の一族の先祖だ。俺が契約するのがベストだろ」

「残念だけど、霊力野(ゲート)がない人間じゃ精霊にマナを与えることはできないんだよ。ルドガーはエレンピオス人なんでしょう?」

「そんな――」

 

 助けたい気持ちがあるのに体にそのための機能がない。エレンピオス人として当然のスペックは、人類スケールでは欠陥だった。

 

 ルドガーは無力感に任せてガラス窓を叩いた。

 

 窓の向こうでは、チューブの繭から一本、また一本と、触手が剥げて融け始めている。――羽化する時期でないサナギを切り裂いたら、中から出るのはドロドロに溶けた粘液だけ。

 

「だったら、わたしが契約する!!」



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「もう少しだけ、ここにいて!」

「だったら、わたしが契約する!!」

 

 ルドガーは驚いて、宣言した友人――レイアを凝視した。ジュードもバランも、エリーゼとティポも、アルヴィンも、レイアをまじまじと見返している。

 

「わたしならリーゼ・マクシア人だから霊力野(ゲート)もあるし、ルドガーとはこの中で一番会う機会が多いから、ルドガーとイリスを一緒にいさせてあげられる。私が一番適任だよ」

「待って、レイア!」

 

 ジュードがレイアの両肩を掴んだ。

 

「イリスは蝕の精霊だ。使役することになったらレイアの体がどうなるか見当もつかないんだよ。最悪、契約した瞬間にレイアのほうが蝕まれるかも」

「じゃあジュードは放っとけって言うの? あんなに痛がって叫んでたイリスが溶けて崩れるまでこのまま無視するの?」

「そ、それは」

「わたし、できない。ジュードが心配してくれるの分かる。でもわたしは、イリスがあのまま苦しんでるのが許せない。認められないのよ」

 

 ジュードの両手がレイアの肩から滑り落ちた。

 レイアは、脱力したようなジュードの横を通り過ぎて、実験室に続くドアの前に立った。

 

「レイアっ」

 

 ルドガーが呼ぶと、レイアはふり返り、とてもキレイな笑顔を向けてきた。

 

「大丈夫。ルドガーの大切なひとだもん。わたしが絶対助けてみせるから」

 

 

 

 

 実験室に踏み込むと、中はひどい腐臭で溢れ返っていて、レイアは咳き込んだ。

 咳き込みながらも、イリスを閉じ込める触手の繭を見据えた。

 

(わたし、どうしてこんなにイリスを助けたいと想うんだろう。触ったら腐るっていうのだって怖くて、心の底じゃ近づきたくない気持ちがあって。だけど)

 

 イリスはおそらく何百年もコレをくり返してきた。醜悪だろうが壮絶だろうが。ひとえにルドガーたちクルスニクの血族を守るために。大事な人の血を引いた「子どもたち」を守るために。

 

 新聞記者は真実を伝える仕事。美しいモノだけ触れて感じればいいか? 否。

 世に伝えるべきは、こういうものではないか。

 陰の悲鳴、恐怖、汚泥、腐敗、悪臭。

 それに触れる覚悟なくして記者などできない。

 

(イリスといると、そういうことを分かっていける気がする。まだ始まってもいない。だからイリス、まだ。もう少しだけ、ここにいて!)

 

 レイアは意を決し、腕まくりをしてチューブの繭に両手を突っ込んだ。

 一拍置いて、激しい熱が両腕を灼いた。

 

 悲鳴を上げたかもしれない。分からないくらい夢中だった。

 粘液を両腕で掻き分け、手に、確かな人肌の感触を得た。

 レイアはその感触を掴み、繭を蹴ってテコの原理で「それ」を引っ張り出した。

 

「はぁ…はぁ…っ」

 

 尻餅を突いたレイア。その膝の上には、全裸の女が一人横たわっている。紫の粘液に塗れてはいるが、それ以外には外傷らしい外傷はない。

 

「イリス……イリス!」

「う……」

 

 イリスがゆっくりと瞼を開けてゆく。イリスは力が入り切らない様子で半身を起こした。

 

「その火傷……貴女が出してくれたの?」

「まあね。イチかバチかだったけど。よかった、無事で」

 

 粘液に突っ込んだ両腕はずくずくと痛んで水ぶくれが出来ている。だがそれを打ち明けるとイリスが気に病むかもしれないから、レイアは笑顔の下に痛みを隠した。

 

 イリスは自身の手、胴、足と全身を見渡し、やがて苦く笑んだ。

 

「皮肉なものね。より精霊に近づいたから苦しんでいたのに、精霊に近づいたから貴女と契約して難を逃れられた」

 

 イリスは火傷したレイアの両手を捧げ持ち、跪いた。

 

「レイア・ロランド。鳥瞰の瞳を持つ乙女よ。蝕の精霊イリスは、己を省みずこの身を救ってくださった貴女の真心に報いるべく、貴女に誠心誠意お仕えすることを此処に誓います」

「ちょ、や、やめてよ、イリスっ。別にそういう、仕えるとか、上下関係とかがやりたくて契約したんじゃないんだから。今まで通りにしよ? ね?」

「……レイアは清々しい人ね」

 

 ふいにイリスがレイアの胸に飛び込んだ。軽い、いや、薄い。

 

 復活したミラにじゃれついた時にも同じ感覚があった。人間ではないモノの質量。幽かとしか表現できない、現世における精霊の存在感の脆さ。

 

「ありがとう。ほんとに、ありがとう。イリスを助けて、くれて。だいすきよ、レイア。一生忘れないから」

 

 囁く声は外見年齢よりずっと幼く澄んでいた。

 

 レイアもまたイリスを強く抱き返した。




 ブレない悪役を書くのは難しいと知る今日この頃でございます。

 これで直接イリスに触っても平気な人にレイアも加わりました。
 現時点でイリスと普通にコミュニケーションが取れるのはルドガーとレイアのみ。ここ、地味に拘ったとこでもあります。つまり、触るとヤバイことになるジュードたちは、まだイリスに対して溝がある状態なんですよね。

 それでなくても、目の前でセルシウスばきばきごっくんしたイリスと普通に接するのは、まともな神経では難しいかもしれませんが。


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Interview9 我が身を証に
「彼らはクルスニクの子ではないから」


 はるか古のお話。花の名を持つある少女が、水晶の卵から小さな精霊を孵しました。

 

 花の少女はどこに行くにも小さな精霊を連れて行きました。時には一緒に戦いました。戦友たちも、精霊との共栄を望む人々だったので、花の少女と小さな精霊の仲の良さを言祝ぎました。

 

 

 “お前はわたしよ、もう一人のイリス。大きくなって、強くなって、あの大精霊たちを殺してね”

 

 

 ある日のことです。花の少女とその仲間たちは、宝物を手に入れるため、海の魔物と戦いました。

 花の少女は小さな精霊と一緒に先陣を切って戦いました。

 ですが海の魔物は強く、花の少女は死の淵に追いやられました。

 

 心配して泣く小さな精霊に、花の少女はお願いしました。

 

 

 “精霊どもに運命を弄ばれたまま死ぬなんて絶対にイヤ。だから『イリス』、そうなる前にイリスを食べて。イリスの血肉を契約の証として立てるから、絶対に原初の三霊を殺して”

 

 

 小さな精霊は花の少女のお願いを聞いて、花の少女をひと欠片も残さず食べました。

 すると、ふしぎ。少女と精霊はひとつになって、新しい存在へと生まれ変わったのです。

 

 これが「蝕の精霊」が生まれた日のお話。

 

 

 

                 ~*~*~*~

 

 

「おしまい」

 

 イリスが寝物語を締め括る頃には、エルとルルはすっかり夢の中だった。愛おしさが込み上げて、イリスはエルの頭を撫でた。

 

 レイアと契約してから、イリスは瘴気を体内に収められるだけのマナを得られた。だが、触れたものを蝕む性質は変わっていない。服を着ても布が腐らなくなった程度だ。

 

 今は、腐蝕対策も兼ねて黒い全身ラバースーツで表皮を覆い、その上から服を着ている。紫のジャケット、オレンジのキュロットスカート、ローファー。どれもレイアがあつらえてくれた物だ。

 

 

「イ~リスっ」

「レイア」

「あ、エル寝ちゃったんだ。ルルも」

「ええ。こうして幼子を寝かしつけるのなんて何百年ぶりかしら――」

 

 レイアはどこか嬉しそうにイリスの隣に腰を下ろした。湿布とネットを処置したレイアの両手が視界に入る。イリスは痛痒を感じた。

 

「イリスってさ、ルドガーとかエルとか、クルスニクの人たちといる時、とっても優しい顔してるよね」

「優しい? そうかしら」

「うん。見守ってる、って感じ。きっとルドガーたち、イリスがそんな目で見つめてくれてるの、すごく安心してると思うよ。ほら、エルだって寝ちゃってるくらいだし」

「ルドガーやエルだけじゃないわ。イリスは、レイアも大事よ。こんな傷を負ってまでイリスを救ってくれた」

「えへへ、なんか照れるな~」

 

 レイアの笑顔は好きだ。見ていると、産まれてから幸せでなかったことなど一度もなく、出会ってきた人はいつでも優しかったという気がしてくる。レイア・ロランドはそんな不思議な魅力の持ち主だ。

 

「ところで、アルヴィンとエリーゼに電話したのでしょう。どうだったの」

 

 

 ――イラート海停を発つ前、エリーゼとアルヴィンは探索エージェントたちの治療をすると言って宿に残った。

 エリーゼはともかく、アルヴィンが留まったのは他ならぬエリーゼから懇願があったからだ。

 

「うん。今ちょうど全員分の治療が終わったって。後は病院でってことで。今からアルヴィンと一緒にこっちに戻るって」

「ナイトが付くなら心配しなくていいかしら」

「そだね。何だかんだでエリーゼってアルヴィンと仲良しだし」

 

 ――エリーゼ・ルタスは分史ヘリオボーグでの光景を引きずっている。目を離したらアルヴィンがいなくなりはしないか、という恐怖が彼女の心を蝕んでいる。だからアルヴィンを手放せない。仕事に行く親に行くなと駄々をこねる童のようで、大層愛らしいではないか。

 

(でも、言わない。彼らはクルスニクの子ではないから)

 

 

「ねー、イリス。一つ聞いていい?」

「何なりと」

「イリスは何でクランスピア社を脱走したの? まさか、ここの人たちに酷いことされたとか――」

「それこそ、まさか。目新しい物ばかりで、最新の情報はすぐ手に入ったし、何より常にクルスニクの子どもたちに会えた。仲良くなれた子もいたのよ。――だからこそ出て行こうと決意した。始祖の大事な子どもたちが、これ以上、精霊に破滅させられる前にケリをつけようと思って。兵器扱い自体はいいのだけど、自由に動けないのは困りものだったから」

 

 脱走して半年。イリスはカナンの地の「王」を平らげうるだけの器となるため、正史分史を問わず奔走した。

 有体に言えば、実体化した大精霊を探し出しては喰らった。源霊匣(オリジン)セルシウスにしたように。

 

「後悔、してる? ルドガーに付いてクラン社に来たこと」

「いいえ。ルドガーと共に戻ってきたのだから、これがイリスの運命なのでしょう」

「そっか…」

 

 するとレイアはぴょこんとソファーを立ち上がり、イリスへ手の平を差し出した。

 

「じゃあイリスと、ルドガーも、その運命ってヤツ、ちょっとでも早く何とかできるよう、頑張ってこう! ね?」

 

(ああ、やっぱり――どうして彼女はこんなにも優しくまばゆいのかしら。まるでお日様を一心に見つめ続けるひまわりのようだわ)

 

 イリスはレイアの手の平に手を重ねた。

 

 記者見習いと精霊モドキ、二人の少女の不思議な友情が結ばれた瞬間だった。



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「半分だけでも同じ血で繋がってて」

 ルドガーはジュードと共に、ヴェルに、イラート海停で回収したデータディスクを見せた。

 

「確かに。ご案内しますので、社長に直接お渡しください。――それと、こちらが頼まれていた物になります。ユリウス前室長に抹消されたデータを復元したものです」

 

 ルドガーはヴェルから受け取った書類にざっと目を通した。

 

「本当に腹違いなんだな」

「――申し訳ありません」

「? 何でヴェルが謝るんだ?」

「いえ、その……ああいう場で申し上げることではなかったと」

「別にそのくらい気にしてないさ。むしろ俺、嬉しいと思ってるよ」

「嬉しい、ですか」

「俺とユリウス、見た目似てないだろ。それで昔、ユリウスは血の繋がった兄弟なんかじゃないんじゃ、って疑ってた時期があってさ。でも、安心した。兄さんと、半分だけでも同じ血で繋がってて」

 

 ヴェルは痛ましいものを見る目でルドガーを見た。ルドガーとしては慣れているので、不快には思わなかった。

 

「悪い。妙な空気にさせちまったな。社長に持ってけばいいんだっけ」

「はい。ご案内します。――それとルドガー様。エル様とロランド記者には今回ご遠慮いただいてよろしいでしょうか」

「エルとレイア? 何でだ」

「エル様はお小さい方で、ロランド記者はマスコミ関係者。どちらも社の機密をお聞かせするにはふさわしくありません。どうしても同行をとおっしゃるなら、Dr.マティスと導師イリスのみにしていただけませんか」

「ジュードはともかく、イリスもOKなのか。脱走したって聞いたけど」

「ルドガー様がご一緒ならば問題ないとの社長の判断です」

 

 ルドガーは考える。エルとレイアを置いてビズリーに会いに行くべきか、それとも無理を通してでも連れていくべきか。

 

「悪い、ヴェル。できれば二人とも連れて行きたい。多分だけどエルは関係者だ。ユリウスと同じ、この時計を持ってた。『カナンの地』に行かなきゃいけないって言ってた。『カナンの地』に関する話になると様子がおかしくなってたし。それとレイアだけど、レイアはイリスと契約した。イリスと離さないほうがいいと思うんだけど――」

 

 ジュードにアイコンタクトを送る。ジュードにとっては幼なじみの問題だからか、会って日も浅いのに通じたようだ。

 

「普通の精霊ならともかく、イリスは『蝕』という特性を持ってます。それを抑えていられるのはレイアが直接マナを供給してるからです。離して契約が切れるわけじゃないですけど、距離の分だけ供給は細くなるのが直接契約の常ですから。どこまで離れても有効かが分かるまでは、レイアとイリスを離すべきじゃないと思います」

「……Dr.マティスが仰るのでしたら。しばらくお待ちを。社長に確認します」

 

 ヴェルは少し離れ、GHSで電話を始めた。

 

「フォローさんきゅー、ジュード」

「いいよ。レイアは大事な幼なじみだし、ルドガーだってもう僕の友達だから」

 

 ジュードは笑った。嬉しいが、こそばゆい。面と向かって「友達だ」と言われたことなど、ルドガーの人生で何回あったことやら。そもそも打算抜きでルドガーと「トモダチ」をしていた者を除けば、本当に友達などいたのかと疑いたい学生時代を送って来た。

 

 ヴェルが戻って来た。

 

「社長に確認が取れました。感心されていました。ルドガー様はなかなか人望があると」

「喜んでいいのか? それ」

「ルドガー様にお任せします。――こちらです。付いて来てください」



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「エージェントとして雇ってください」

 ルドガーは社長室の前に立って一度深呼吸をした。

 今から「あの」ビズリー・カルシ・バクーに会うのだ。緊張するなというほうが無理だ。

 

 ヴェルがドアをノックして開いた。

 

「待っていたよ、ルドガー君」

 

 ビズリー直々に「待っていた」などと言われて、舞い上がらないエレンピオス人はいない。ルドガーも例に漏れず、心臓が跳ねた。

 

「頼まれていた物を持ってきました。これでよかったですか」

 

 緊張しながらもデータディスクをビズリーに差し出した。

 

「確かに。――ユリウスの手がかりは見つかったかね?」

 

 これに対しては首を横に振るしかできなかった。今回のイラート海停での件以外で、ユリウスの消息は噂でも耳にすることがなかった。

 

「よくお戻りになられた、導師イリス」

「ルドガーのそばを離れたくなかったから。だからイリスの知識は全てルドガーに伝えたわ」

「導師は君にどこまで教えたのかね」

 

 ビズリーの目がイリスからルドガーに向いた。

 

「2000年前の情報なんで、今も合ってるかは俺には分かりませんけど。原初の三霊とクルスニクの勝負と『審判』。それと、骸殻のペナルティと分史世界の関係を」

「そこまで知ったなら、もはや説明するまでもないな。で、今日私の指示を聞き入れたのは、利用するなとでも言いに来たからかね?」

「――逆です」

 

 ルドガーはホルスターから白金に輝く「マクスウェルの次元刀」(と呼ぶのだとイリスに聞いた)を出し、ビズリーに差し出した。

 

「俺が兄の代わりをします。俺をエージェントとして雇ってください」

「ほう?」

「俺には深い分史世界に入るだけの力があります。こうやって『道標』を持ち帰ることもできます。そういう才能の持ち主を、あなたは探していると聞きました。俺の持てる力を差し出します。だから俺をクランスピア社の分史対策エージェントにしてください」

 

 ビズリーの壮健な威容に呑まれそうになったが、ルドガーはエルのこの先を考えることで持ち堪えた。

 ――そう。今回、ルドガーがこの提案をしたのは、エルの存在をクランスピア社から隠すためだった。

 

 

 

 “それはね、エルが『鍵』だから”

 

 ヘリオボーグ研究所でイリスから聞いた。エルの特異性について。

 

 “『クルスニクの鍵』。分史世界の物質を正史世界に持ち帰れる力。エルはみんなが喉から手が出るほど欲しい蝶なの。蝶は弱い。いじわるするとすぐ死んでしまう。翅をもがれないよう、大事に大事に守ってくれる人のそばから離れないことを心がけなさい”

 

 ――エルが見上げたのはルドガーだった。レイアでもイリスでもなく、ルドガーだったのだ。

 

 

 

(ユリウスが俺のためにエージェントを続けたように。俺も、エルのために、誰かを護るための盾にならなきゃいけない時が来たんだ)

 

 一度はエルを見失うという失態を犯したからこそ、エルを守ること、そのために必要な策をルドガーは真剣に考えた。そして、この決断に至った。

 

「わたしも一緒にやるよっ。友達だもん。それにわたし、イリスの契約者だから」

「僕も。源霊匣開発が進まない原因がそこにあるなら、一緒にやらせてほしい」

 

 ビズリーを見上げる。レイアとジュードの協力宣言が蹴られる台詞はなかった。

 

「君の提案を受け入れよう。世界のために、君の力を貸してくれ」

 

 ルドガーはビズリーに「次元刀」を渡し、差し出された大きな手に応えて握手を交わした。

 

「地下訓練場に来い。骸殻の使い方を教えてやろう」



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「お前には傑出した才能があるのだ」

 ルドガーたちが揃って1階エントランスホールに降りると、ちょうどエリーゼとアルヴィンが入って来たところだった。

 

「エル!」

 

 エリーゼがエントランスを抜けて、真っ先にエルに向かって駆けてきた。

 

「エリーゼっ。おかえり~」

「ナァ~」

「ただいまです。怖いことや変わったこと、ありませんでした?」

「えっとね。エル、ルドガーと一緒にオシゴトすることになったよっ」

「お仕事?」

「うん。カナンのミチシルベを探して、持って帰るんだって」

 

 エリーゼがルドガーを見上げてきた。そんな危ないことをエルにやらせるのか、と目線がありあり語っている。

 

「安心していいのよ、エリーゼ。その時はイリスも共に行って、エルに傷一つ付けさせないから」

 

 エリーゼは答えず、まるで我が身に起きたことのように憂いを強く浮かべた。エルを親身になって心配してくれる人間は一人でも多いほうがいい。ルドガーは単純にその点を喜んだ。

 

「ジュードとレイアもか」

 

 アルヴィンの確認に、レイアもジュードも肯いた。

 

「んじゃ、俺も付いてこーかな」

『さびしがり屋ー』

「そうだよ。そういう自分、認めることにしたんだ」

「じゃあとりあえず、一緒に来てくれ。これから骸殻の使い方、レクチャーしてくれるらしいから」

 

 ルドガーは地下専用エレベーターを指差した。一年前にあれに乗ってエージェント試験を受けたことが、まるで遠い過去のように思える。

 

「りょーかいっと」

「はい。また一緒させてください、エル」

「うんっ」

 

 

 

 

 地下訓練場でのビズリーのレクチャーは至極単純なもので、CS黒匣ガードを相手に骸殻に変身して戦うというものだった。

 ルドガーは列車で初めて変身した時の感触を思い起こしながら時計を起動し、骸殻を使ってどうにかCS黒匣ガードを全て破壊した。

 

「何でルドガーにこんな力が……」

「ルドガーが尊師――始祖クルスニクの末裔だから」

 

 エルたちの輪を離れて訓練場の隅にいたイリスが、会話に参加した。

 

「クルスニク……意思の槍を持つ、創世の賢者だよね」

「リーゼ・マクシアではそうらしいわね」

「賢者じゃないなら、何?」

「精霊どもの悪趣味なゲームの最たる被害者」

 

 頭に閃く、シャドウとヴェリウスから観せられた、ある少女の過去。――一族に裏切られ、時歪の因子化が進んで臥せった始祖。始祖に代わって苛烈に一族を治め、死に物狂いでカナンの地を目指した少女。

 

「2000年前にね、原初の三霊――オリジン、クロノス、マクスウェルと、人類が賭けをしたの。尊師は不幸にも人類代表に選ばれた。内容はシンプル。『願い』というエサをぶら下げて、人類が『待て』をできるか、はたまた我慢できずにエサに食いつくか。酷い話でしょう? 渇き餓えれば何か食べたいし、その『エサ』のせいで友情や愛が壊れた者は後を絶たなかったっていうのに。奴らはこっちが足掻くのを愉しんでるの。今この時もね。尊師が亡くなられて、イリスが仕損じてからは、賭け対象の範囲を子孫にまで広げた」

 

 イリスは震える息を大きく吐いて、自身を両腕で抱き締めた。

 

「……そこにいるビズリーもそう。彼は分流だけど。ユリウスも、リドウも、分史対策エージェントと呼ばれる子たちは、みんなそう。貴方たちは同じ血と悲劇の下に産まれた家族なのよ」

 

 ルドガーは、列車テロの時にビズリーに対して不思議な信頼を感じた理由を、ようやく理解した。

 家族。同じ血と宿業。これがあの時、そう思わせた根源。

 

「そして彼女もまた然り、だ」

 

 ビズリーがイリスを示し返した。

 

「イリス・クルスニク。クルスニク一族の2代目族長にして、尊師クルスニクの一人娘。2000年前のオリジンの審判、第一審の生き証人だ。ゆえに我らクルスニクの全員がごく薄くとはいえ導師の血を確実に継いでいる。彼女は我々にとって母なる人というわけだ」

 

 イリスにジュードたちの注目が集まったが、イリスは全く動じなかった。

 

「確かに子孫は遺したけれど」

 

 イリスは下腹部、おそらく女性では子宮があるであろう部位を撫でた。あそこ、から、自分たちの先祖が。自分が。想像すると生々しかった。

 

「2000年も経てば血族はバラバラ、個々の血も薄まった。骸殻を持って生まれるのは、我らの血をより濃く再現した者たちに限られる。今は千人に一人いるかいないかですって? 番犬がここまで見越していたならいっそ天晴れだわ」

 

 かつん。かつん。ローファーの音を鳴らして、イリスがルドガーの傍らに来た。

 

「ルドガーは直系だからかしら、尊師の先祖返り……いいえ、ここまで似ていると、生まれ変わりじゃないかとさえ思えてくるわ」

「俺が?」

「これはイリス個人の感想。現実的な確率としてはありえないけど」

 

 ルドガーの頬を撫ぜる、ゴム越しの指の、細さ。

 

「そうだと、いいな」

 

 愛惜に潤む翠眼にルドガーが見入る内に、イリスはルドガーから指を引いた。

 

「一つの時計で100%の骸殻を引き出せる者は稀だ。強い骸殻の持ち主ほど深く隠れた分史に進入できるのはすでに承知していたな。お前には傑出した才能があるのだ、ルドガー」

「才能……」

 

 ルドガーは真鍮時計を取り出して見下ろした。世界を壊す力を才能と呼ぶのは憚られた。

 

「自信を持て。ルドガー・ウィル・クルスニク。才能と思いたくないなら、それはお前の『可能性』だ」

「可能性――?」

 

 それは才能よりも、ずっと何かを成せる心持になれる響きだった。

 

「ありがとうございます。少しでも社長と仲間のお役に立てるよう、全力で取り組みます」

「……相変らずいい目をする。――新たな分史世界が探知され次第、連絡を入れる。それまでは体を休めておけ」

 

 ビズリーはヴェルを引き連れて地下訓練場から引き揚げた。

 プレッシャーの塊が去り、ルドガーは盛大に肩を落とした。



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「近くにいさせちゃいけない」

 1階エントランスホールのあちこちに据え付けてある、円形の休憩スペースに、ルドガーは適当に腰を投げ出し座った。

 

「ルドガー、無事?」

 

 左側にレイア、右側にルルを抱えたエルが座った。

 

「メンタル的な意味では被害甚大……」

 

 明日からあんな男の下で働かねばならない。緊張するなというほうが無理だ。

 ルドガーは襟に着けられた社章バッジを指で摘まんだ。

 

「エル…本当によかったのか?」

「何が?」

「俺と一緒に『道標』集めするの」

 

 単純な分史破壊任務ならルドガーだけでも構わないが、「カナンの道標」を回収する時はエルを伴わなければならない。危険地帯にエルを放りこまねばならない。そこだけは回避できなかった。

 

 エルは考え込むように、ルルの毛並みに口元をうずめた。

 そして顔を上げてルドガーを見上げた時、エルの表情は決然としていた。

 

「エルはルドガーといっしょにカナンの地に行くの。だから、ルドガーといっしょに、オシゴト、がんばる」

 

 ルドガーは嬉しくなって、そして申し訳なくなって、エルの頭に手を置いた。エルは「コドモ扱いしないでーっ」とじたばたするが、そうなるとよけいイタズラしたくなるのが人情だ。そのままエルの頭を撫でてやった。

 

 そうしていると、ふいにエリーゼがエルの正面に立って笑った。

 

「エル。よかったらカラハ・シャールに来ませんか?」

 

 

 

 

 

「からは・しゃーる?」

「はい。わたしが住んでる街です。わたし、その街の領主のドロッセルって人のお家でお世話になってるんです」

「知ってる! リョーシュってエライ人でしょ」

「そうですよ。ドロッセルはお客さんが泊まったり、おしゃべりしたり一緒に出かけたりするの大好きですから、きっとエルのことも歓迎してくれます」

 

 エリーゼは内心必死だった。一刻も早くエルを説得し、エルをイリスから引き離さねばならない。

 

(イリスは精霊なんて名ばかり。そばにいれば瘴気に当てられて、触ったらレイアみたいに傷つく。居るだけで誰かを傷つける存在。この子をあんなモノの近くにいさせちゃいけない。わたしが守るって言ったんだもの)

 

 エルはルドガーをちらちら見上げている。そういえばルドガーは列車テロからエルの保護者ポジションだという。決して楽な生活ではなかったはずだ。

 

「ルドガーはどうですか?」

「え、俺? 俺は……」

 

 エルは不安と期待が半々に現れた顔でルドガーの答えを待っている。

 ずっと守ってくれた異性と離れるのが漠然と不安になるのは分かる。エリーゼも、ジュードにカラハ・シャールに留まれと言われた時は寂しく不安を感じた。しかし同時に、エリーゼを手放したジュードが、優しさからそうしたことも分かっていた。

 だから。

 

「そうだな、そうしてもらえよ、エル」

「え……ルドガーはそれでいいの?」

「? ああ、いいけど」

 

 だから、ルドガーが誠実な男なら、必ずジュードと同じ行動に出るとエリーゼは読んだ。

 

 エルはリュックサックのショルダーを両手で強く握りしめた。

 

「ルドガーがそうしろってゆーなら……エリーゼ、いい?」

「もちろんです!! そうと決まれば善は急げです!」

 

 エリーゼはエルの手を取って立ち上がらせ、駆け出した。当然エルも引っ張られて走る。

 

「こら、エリーゼっ。こんなとこで走んなって」

 

 まるで父親のような言い方で、アルヴィンが少女たちを追いかけて行った。

 

 

 

 

 駆けて行った少女二人と男一人に苦笑する仲間たちの中で、一人、ジュードだけが納得行かないという顔をしていた。

 

「どうしたの、ジュード?」

「あ、いや、気のせいかもしれないけど」

「なぁに? もったいつけずに言ってよ」

「じゃあ言うけど――エリーゼがエルと話してる間、ティポ、全然しゃべってなかったなーって」

 

 

 

 エリーゼはもちろん、彼らの誰もまだ知らない。

 蝕の精霊――蝕むのは、モノだけではない。




 ついにルドガーがエージェントになりました。
 イリス視点での説明をもっと入れたかったのが心残りです。
 エリーゼのイリスへの敵視は現時点でMAXです。実はこの子が一番イリスに対して正しい反応をしているという皮肉。

 そして皆様お忘れでしょうが、本作のルドガーはエルとの間接契約をしておりません。初っ端から直接契約です。エルなしで変身できるんで、ルドガーの単独行動が増える。
 つまり、タグの「エルが空気」はここから顕著になっていくってことです。


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Interview10 イリス――共食いの名
「どうか、お気をつけて」


 ついにルドガーに、分史世界破壊の初任務の招集がかけられた。

 

 ルドガーは約束通りエリーゼを通してエルに連絡し、レイアがジュードとアルヴィンに初任務の話を伝えたことで、あの日の全員がこの任務に集まる運びとなった。

 

「ルドガー、カッコイイ!」

「ナァ~っ」

 

 ルドガーはつい照れる。エルからの忌憚ない賛辞は稀なのだ。

 

 今日のルドガーは分史対策室で支給された戦闘エージェントの制服を着ている。ヴェルからは私服でいいと言われたが、初仕事くらいは職場の制服を着ておきたい。

 

「おかしくないか? 急いで着替えたからチェックしてなくて」

「ネクタイ緩めてるのはわざと?」

「いや、癖で。堅苦しいの苦手なんだよ」

「だめでしょー、ちゃんとしなきゃ。エージェントってクラン社の顔っていわれるくらいだし」

 

 レイアがルドガーのすぐ正面まで来て、ネクタイを直し始める。

 

「あ、悪い」

「いいっていいって。聞いたよ? エレンピオスって給料査定に『服装』って項目があるくらい、服装に厳しいって。初仕事だから、窮屈だろうけど我慢して? ――よし、できたっ」

「ん。ありがとな、レイア」

「――微笑ましい光景ですねえ」

 

 しわがれた声に驚いてふり返る。

 後ろにいたのは燕尾服にビシッと身を包み、ヒゲをきっちり揃えた好々爺だった。

 

「ローエンっ。ひっさしぶりー」

「ご無沙汰しております、レイアさん。お会いしない間にずいぶんと大人の顔になりましたね」

「ほんとっ!?」

 

 きゃー、とレイアは両手を頬に当てて満面の笑み。――可愛いぞ、ちくしょう。

 

「あ、ルドガー、エル、紹介するね。この人はローエン。リーゼ・マクシアの宰相なんだよっ」

「宰…!」

 

 つまり隣国のトップ2。エレンピオスで考えると副首相。

 

「驚いたかっ」

「驚いた……レイアの人脈がべらぼうに広いのは知ってたけど、ここまでとは」

 

 かくしゃくと笑う老人は、ルドガーに白い手袋をした手を差し出した。

 

「改めまして、ローエン・J・イルベルトです。よろしくお願いします、ルドガーさん」

「よ、よろしく。ローエン、宰相」

「ローエンで構いませんよ」

 

 仮にも一国のナンバー2を呼び捨て。ルドガーにはハードルが高いが、ここで足並みは乱せない。

 

「じゃあ、ローエン。よろしく」

「はい。ルドガーさん」

 

 GHSが鳴った。ルドガーにとっては天の助け。急いで通話に出た。

 

『分史対策室です。これより向かっていただく分史世界の概要を説明します』

 

 ヴェルの声だった。社長秘書以外に、分史対策室までまとめているのかと、ルドガーは軽く驚いた。

 

『存在自体は確認されていたのですが、座標位置が確定できなかった分史世界なのです』

「……新米に初っ端からリスキーな仕事回してくれるじゃないか」

『ルドガー様は分史対策エージェントの中で唯一100%骸殻をお持ちです。ルドガー様が進入されるのが一番リスクが低いと、分史対策室は判断しました。送信した座標は不安定ですので、どこに出るかは分かりません。――どうか、お気をつけて』

「ありがとう。辛いこと言わせて悪かった」

『これが仕事ですので。失礼します』

 

 通話が終わる。ルドガーはそのままGHSの画面を操作し、送信された座標を表示した。

 

(深度212。ノーマルエージェントが請け負う分史の深度は100前後だっけ。この分史は、本当ならユリウスとかリドウとかのトップエージェントが行くべきなんだろうな。フル骸殻じゃなきゃ俺には回されなかったかもしれない。ほんっと、新人に対しても容赦ねーな、クランスピア)

 

「それじゃあ行くぞ。みんな、準備はいいか?」

 

 誰も否は唱えない――かと思いきや。

 

「あ、待って」

 

 レイアがストップをかけた。

 

「イリス。いる?」

 

 レイアが見上げた中空に、紫紺の立体球形陣が結ばれた。中に顕現するのは当然、レイアと直接契約したイリスだ。イリスは銀髪を揺らめかせて着地した。

 

「いてよ。分史世界へ入るのね。ルドガー、誘導は必要?」

「自分でやるよ。このくらいは一人でできるようになりたい」

「そう。えらい子ね」

 

 エルがよく「コドモ扱いしないで」と言う気持ちが痛いほど分かったルドガーだった。

 

 GHSのディスプレイに映る「YES/NO」の内、「YES」にボタンを合わせて打った。

 とたん、蟻地獄に吸い込まれていくように、周囲の景色が歪み、一点に集約して、ブラックアウトした。

 

 

 

 

 

 

 視界が晴れて立っていた場所は、ルドガーからすればおとぎ話の中にいるかのような光景だった。

 連なって螺旋を描きながら上へ向かう無数の岩。上下四方の暗闇に煌く星々。

 

「ここって……世精ノ途(ウルスカーラ)?」

「うるすかーらって?」

 

 事情を知らないエルは無邪気に尋ねる。

 

「人間界、ていうか、リーゼ・マクシアと精霊界を繋ぐ道のこと。断界殻(シェル)の解放で消滅したはずなんだけど」

「これがあるってことは、断界殻は健在ってことでしょうか?」

「やっぱりこのまま進むとマクスウェルのじーさんに会っちまうのかね」

 

 ざわり。横にいたイリスから殺気が立ち昇った。

 

「マクスウェル――」

「イリス?」

「この先にあの老人がいるのね。――いけないわね。気が昂ぶってしまう」

 

 爪が食い込むのではないかと心配になるほど、イリスは強く拳を握っている。

 ルドガーはとっさに、イリスの拳に手を添えた。

 

「ルドガー?」

「あんま気負うなよ。何かあったら俺が何とかするから」

「……不思議ね。貴方が言うと、本当に何とでもなりそうな気がする。あの方の時みたい。ありがとう」

 

 イリスは拳をほどいて、ルドガーの手を握り返した。

 ゴム越しにでも、その感触はやわらかかった。



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「そんなにも我らが憎かったか」

『また招かざる客か……』

 

 その老人は空飛ぶ椅子に座り、気だるげにルドガーたちを見下ろした。その姿は、戦に疲れ切った退役軍人を思わせた。

 

「あれがマクスウェル……精霊の主なのか」

 

 ルドガーはレイアに囁いた。

 

「うん。1年前、断界殻(シェル)を消すために消滅したんだけど。この分史世界は過去の世界みたいね」

 

 レイアも囁きで返した。

 

 ――マクスウェル。原初の三霊の一角にして、「オリジンの審判」の難易度を断界殻によって跳ね上げた張本人。クルスニクの骸殻能力者として、思う所がないと言えば嘘になる。

 

 だが、ルドガー以上に「思う所」がある者が、このメンバーの中にいたのだと、次の瞬間にルドガーは思い知る。

 

 

「久しいわね、マクスウェル」

 

 

 一声かけるや、イリスは変異骸殻に変身し、足のアームで地面を弾いて銃弾のようにマクスウェルに迫った。

 イリスは水晶のブレードを、ソニックウェーブが生じる威力で振り下ろした。余波がこちらまで飛んできて、ルドガーたちは腕で身を庇って踏み止まる。

 

 刃は、マクスウェルの掌に生じた、視えない壁に阻まれた。

 

「イリスはお前を許さない! マクスウェル! 尊師と愛し合いながら裏切った老害!」

 

 訝しんでいたマクスウェルだったが、イリスの名を聞いたとたんに顔色を変えた。

 

『そなた、イリス!? あの女の養い子のイリス・クルスニクか!』

「今さら気づいても――遅い!!」

 

 不可視の防壁を自ら弾き、イリスは猫のように着地した。ぎり、と。聞こえるはずがないのに、イリスが奥歯を砕くほどに噛みしめた音が聴こえた。

 

『そなたであろうと我が使命の妨げになる者は許さん。いかにして我が天地に入り込んだか知らぬが、ここまでだ。疾く帰れ、アイリスの子よ』

 

 マクスウェルから殺気が立ち上った。

 ルドガーは急いで双剣を抜いて、マクスウェルとイリスの間に入った。

 

「ルドガー、下がって。貴方が戦えば時歪の因子(タイムファクター)化が急速に進む」

「下がらない。言っただろ。イリスが俺たちを守るなら、俺がイリスを守るって」

「ルドガー……」

「心配なら骸殻はなるべく――使わない!」

 

 ルドガーは地面を蹴り、イリスが先ほどしたのと同じ要領で上からマクスウェルに斬りつけた。当然防がれる。だが、ルドガーはイリスと異なり、双剣使い。もう一本の剣でマクスウェルを下から薙ぎ払った。

 しかし斬れたのは空飛ぶ椅子だけで、マクスウェル自身はさらに高く浮かび上がっていた。

 

(や、ば――)

 

 しかし、ルドガーが追撃を受けることはなかった。尖端のあるケーブルやコードが無尽に湧いてマクスウェルを拘束したからだ。

 着地してふり返れば、精霊態に変じたイリスが全身から触手を発射していた。

 

 レイアたちが慄いて身を引いている。しくじった。ルドガー以外はイリスの精霊態を見るのが初めてなのだ。

 クルスニクのルドガーはともかく、一般人の感性でアレを気持ち悪いと思わない人間はいない。

 

『その姿……まさか巷に言う「精霊殺し」とはそなたのことか』

「そうよ。コレがイリスが理想とする『精霊』の姿。素晴らしく醜いでしょう?」

 

 ペルソナの顔に笑みが刻まれた。

 

 ルドガーは1年前を思い出す。あの精霊軍団はどれもが整った容姿をしていた。イリスはあえてその逆の姿を選んだのかと、今さらながらに納得した。

 

『それほどの力、いかにして得た』

「お前が尊師に渡した元素水晶を覚えていて? この世のありとあらゆる元素と、命一つ分なら造り出せるほどの莫大なマナを込めた、水晶の卵。尊師はお使いならなかった。だからイリスが使ったわ。結果はこの体。お前ならイリスが『何』かは分かるでしょう?」

『あれを……まさかそなたが孵すとは。しかも新しい精霊を造り出すとは……そんなにも我らが憎かったか、イリス』

「憎まれてないと思ってたのなら、相当おめでたい頭ね」

『……ミラが知ればさぞ悲しもう。我が子同然に可愛がっていたそなたが、精霊とトモグイしたなど』

「気安くミラさまの名を呼ぶな! 裏切ったのはお前でしょう! 捨てたのはお前でしょう! ミラさまがどんな想いで死の床に就いていたか分かるか!?」

「ミラ!?」『さま!?』

 

 エリーゼとティポが驚きの声を上げる間にも、イリスとマクスウェルの舌戦はヒートアップする。

 

『儂はあの娘を方舟に連れて来ようとした。儂の手を払ったのは他ならぬミラ自身だ!』

「ミラさまがお前の選民思想を許すわけないでしょう! 恋人のくせにミラさまの気質も分からなかったの? 賢者が聞いて呆れるわ!」

『黙れ!! 強欲な徒花よ。お前も覚えているはずだ。儂とミラを襲った者どもを。彼奴らの欲望にぎらついた(まなこ)を! 利己の刃と銃弾を! ミラはあのような者どもの手を取ったのだ!』

 

 また思い出すのは、ヴェリウスとシャドウに見せられた、あの少女の夢。

 

 

 ――始祖ミラとマクスウェルを狙って現れた一派を、アイリスの子は一人圧倒的な強さでもって全員を殺した。全身に血しぶきを浴びながら。

 ――始祖はそれらを見てなお、マクスウェルの誘いを断り、エレンピオスに残ると宣言した。血しぶきに塗れた養い子を抱き寄せ、手を伸ばすマクスウェルにただ首を寂しげに振って。

 

 

「だからあんたは尊師が自分を裏切ったと思ったんだな」

『そうだ。私は悟ったのだ。人は自らの益を前に、己を保つことなどできぬと――』

「あんたはどうだったんだ?」

 

 ルドガーの問いかけに、マクスウェルは眉をひそめる。

 

「マクスウェル。あんたの気持ちは。尊師への気持ちはどうだったんだ。裏切られたってショックを受けて、その後は? 尊師を愛する気持ちは、これっぽっちもなくなったのか? 尊師の歌声は、あんたの心に少しも響かなかったのか?」

 

 ヴェリウスとシャドウが見せたミラ・クルスニクを思い出す。マクスウェルを呼んでいた。

 

 

 

         『ごめんなさい、ごめんなさい、許して、お願い』

 

     『私を許さなくていい、私を憎んでもいい。せめて仲間たちは許してあげて』

 

        『「道標」を取りに行かせてあげて。彼らに罪はないの』

 

         『お願い、おねがい、応えてください、我が背の君』

 

 

 

 

『ミラの、歌だと?』

 

 マクスウェルは人への失望は呈したままに、ますます眉をひそめた。

 

「無駄だ、ルドガー」

「アルヴィン?」

「断界殻ってのは次元を隔てる破格の閉鎖術式だ。歌声どころか電波や光だって、当時のリーゼ・マクシアにゃ届かなかっただろうよ。俺らの親の代で、辛うじて無線が通じたぐらいだ」

 

 反論できず拳を固めた。

 

 マクスウェルはミラ・クルスニクの召喚に応じなかった。彼女は悲しみを抱いたまま歯車に成り果てた。

 そして今も時空の海のどこかを、終わらぬ天地を夢見ながら漂っている。



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「永遠に詫び続けなさい」

「……ここには時歪の因子はない。もう行こう」

「ああ……」

「そうですね……」

 

 ルドガーが歩き出したのを皮切りに、ジュードたちもルドガーに続いて歩き出した。自分とはぐれては異世界から帰れないかもしれないのだ。これである程度の方針はルドガーに決められると分かった。

 

『イリスよ』

 

 殿(しんがり)だったイリスが銀髪を翻してマクスウェルを見上げる。石でも観るようなまなざし。

 

『あの日、儂とミラを襲った輩、いかに処した』

「あの方に刃を向ける不忠者なんてクラン=スピアには相応しくない。断界殻(シェル)のない頃の分史を創らせるために時歪の因子(タイムファクター)化させたたり。骸殻の研究に使ったりもした。お前がリーゼ・マクシアで楽隠居してる間にね。裏切り者とはいえ血縁者だから、体外受精用に種子を摘出して、ミラさまの子を増やしたりもしたわね。子が欲しい、それもまた尊師の願いの一つだったから」

 

 カツッ

 イリスは靴を鳴らし、マクスウェルと完全に向き合う態勢を取った。

 

「忘れるんじゃないわよ、マクスウェル。お前がリーゼ・マクシアを閉ざしたせいで、イリスたち血族は不必要な犠牲を払い続けた。お前はミラさまの子どもたちを2000年に渡って殺し続けたのよ。そのことを胸に刻みなさい。そして、お前との子を誰より望んだミラさまに、永遠に詫び続けなさい」

 

 

 

 

 

「よかったのか、あれで」

 

 合流したイリスにルドガーがかけた第一声である。何言ってんだこいつ、といわんばかりの皆の目線が少々痛かった。

 

「ここは分史世界だからね。ここで感情を爆発させても意味がないわ。さっきのあれは失態だったわね」

 

 イリスは片手を頬に当てて溜息をついた。こうして人間として在る時のイリスはこんなに優雅なのだから、精霊態が不気味でもルドガーは気にならない。

 

「『ここ』の老害は満足でしょうけど、こちとら目の前であの方が息を引き取られたのを見てるのよ。恋人の死に様を人づてに聞いて安心するなんて虫が良すぎるわ。正史のマクスウェルには――こんな容赦しないわよ」

 

 イリスは空中に融けて消えた。

 ルドガーは、レイアたちが複雑な面持ちをしているのに気づいた。

 

「どうかしたのか?」

「……正史には、マクスウェルはもういないの」

「いない?」

「正確には、あのじーさんがとっくに死んじまってんだ。断界殻解放のためにな」

「あ、そうか――」

 

 レイアが言っていたではないか。「断界殻を消すために消滅した」と。

 

「その後で精霊の主マクスウェルを継いだのが、ミラ=マクスウェル。お前らのご先祖様と同じ名前の女だよ」

「だからイリスが憎んでる『マクスウェル』は、もうどこにもいない。復讐なんてしなくていいのに」

 

 痛ましく面を伏せたレイア。

 

「心配か。イリスのこと」

「心配に決まってる。1000年も自由を奪われて、ようやく解放されたのに、自分の幸せなんかそっちのけで、ただ恨むだけで生きてこうとしてる。あんなんじゃずっと心から笑えないよ」

 

 イリスを案じているのは自分だけではない。ルドガーは密かに喜んだ。一番近しくなりたい相手が、母のように想う人を心配してくれる。

 同じ心配を抱くことで、ジュードたち以上にレイアと近づけた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 世精ノ途を抜けてルドガーたちが出た場所を、ルドガーも知っていた。

 

 ル・ロンド。

 リーゼ・マクシアの島国の一つで、レイアとジュードの故郷だ。

 

「ここに時歪の因子が……レイア、何か変わったとこ、分かるか? 地元だろ」

「――静かすぎる」

「うん。なんか、嫌な感じの空気だ」

 

 同じくル・ロンド出身のジュードも顔をしかめている。ル・ロンドにはレイアの取材旅行で一度だけ来たことがある。たった一度の来訪者の自分でも分かるくらい、町の空気が不穏だ。

 

「! 誰か来ます!」『かくれてーっ!』

 

 エリーゼとティポが言ったので、ルドガーたちはとっさに二手に分かれて近くの民家の軒先に入った。

 

 現れたのは金蘭の長髪をなびかせた一人の少女、否、幼女と称して差し支えない年頃の女の子だった。

 女の子の手には細く長い剣が握られ、からから、と地面を擦っては血の跡を残していく。

 

「ひ…っ」

「エル、静かに」

 

 ルドガーはエルの口に掌を当てた。エルは目を白黒させたが、すぐにコクコクと肯いた。

 

「幸運ね。あの童女(わらめ)が時歪の因子だわ。よくご覧なさい、ルドガー。そして覚えて」

「あっ」

 

 ルドガーたちが隠れた場所の正面を幼女が横切った途端、彼女の胸部から黒煙が噴き上げたのをルドガーは見た。

 

(あれが時歪の因子。あれを破壊するのがエージェントの仕事、クルスニクの使命。じゃあ今回は、あの女の子を殺すのか?)

 

 無意識に双剣の柄に手が伸び、握りしめる。ここで事を起こそうというのではなく、単に、人を殺すという行為への言い様のない恐れを紛らわせたかった。

 

 幼女が見えなくなるまで待ってから、ルドガーたちは隠れていた軒先から路上に出た。

 

「今のが時歪の因子の反応ってヤツか?」

 

 アルヴィンに問われ、ルドガーは首肯した。

 

「さっきの子、剣に血が付いてましたよね。魔物と戦ったんでしょうか」『まさか人斬りー!?』

「あのような幼いお子さんが……いえ、全くありえないこともないのですが」

「――追いかけよう。時歪の因子だって分かった以上、あの子を放ってはおけないんだ」

 

 これには全員が一様に険しい顔をして肯いた。



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「その子はミラだ!」

 幼女は一軒の家に入った。ルドガーたちもその家の前に駆けつける。

 

「僕の、家……? 何で」

 

 その家は小さな病院らしき設えで、看板には「マティス治療院」と書いてある。

 

「ジュードはあの子に心当たりないのか?」

「ない、はずなんだけど。さっきから妙に、どこかで見たような……」

 

 ジュードの語尾に被せるように、マティス治療院の一角が爆発した。

 

「なっ!?」

「童女であれさすが時歪の因子(タイムファクター)。派手にやってくれるじゃない」

「父さん、母さん!」

「大先生、エリンおばさん!」

 

 ジュードが一番にマティス治療院に駆け込んだ。二番手にレイアが続いた。ルドガーたちも急いで二人を追って治療院に駆け込んだ。

 

 

 院の中は煙が立ち込め、火のにおいが未だ残っていた。

 

 煤けた廊下に倒れているのは、看護士らしき女性。ジュードがその女性に駆け寄り、抱き起こした。

 

「母さん、母さん! しっかりして!」

「おばさん! ――まさかこれ、さっきの子が?」

 

 ジュードが彼の母親に治癒術を施し始めた。

 

 だが、治療を遮るように、奥の部屋から男のものらしき悲鳴と、重い物がひっくり返った音が聞こえた。

 

「――父さん?」

「ジュードっ、行ってあげてください」『お母さんはぼくらが治すからー』

「ごめん、頼んだっ」

 

 ジュードは歯噛みしたが、すぐ立ち上がって奥の部屋へ走った。

 

「ルドガーも行ってあげて。嫌な予感がするの」

 

 レイアがエリーゼと揃ってエリンを治療しながら言った。

 

「危ないと思ったらすぐ建物から出るんだぞ」

「ここは私が引き受けます」

「頼む、ローエン。――エル、ローエンから離れるなよ」

「うんっ」

「俺も行かせてもらうぜ」

 

 ルドガーはアルヴィンとイリスを後ろに、遅れて奥の部屋に踏み込んだ。

 

 

 部屋は強盗にでも遭ったように荒れていた。倒れた薬品棚やベッド。壁にいくつも残った大きな、魔物がつけたかのような爪痕。

 

 ジュードは部屋の奥にいた。眼鏡をした若い男を背に庇って構えている。

 驚いたのは、若い男が腕に赤ん坊を抱えていたことと、その男に長剣を向ける金蘭の髪の女の子だった。

 

「増援がいたの」

「ルドガー、避けて!」

 

 部屋の奥にいたジュードが叫んだが、間に合わなかった。

 

 女の子が掲げた掌に、青い魔法陣が浮かび上がり、魔法陣から大量の水が流れ出した。水流の勢いに勝てなかったルドガーとアルヴィンは、押し流されて背中を壁にしたたかに打ちつけた。

 

「アルクノア……しぶとい奴ら。黒匣(ジン)を持って私の前に出て来るなんて。命が惜しくないのかしら。ねえ、姉さん」

 

 部屋に女は彼女一人なのに、彼女はそう見えない何かに語りかけた。

 

 浮くことで水流の難を逃れたイリスが、ふわりとルドガーの傍らに戻ってきた。

 

「俺が壊す。いいな、イリス」

「ルドガーがそうしたいのであれば」

 

 ルドガーは真鍮の時計を突き出した。白い歯車が展開し、ルドガーの体に入り込み、体を造り変える。ビズリーが言っていた精霊の「呪い」がルドガーを変貌させる。

 

「大精霊の力!? どうしてアルクノアがっ」

「応えなくてよくてよ。所詮は分史世界の住人なのだから」

 

 槍を構える。骸殻を使った影響なのか、数分前に感じた、殺害への恐れは消え失せていた。

 この槍で目の前の女の子を殺せば、この世界は砕け散る。

 

「待って、ルドガー、アルヴィン! ()()()()()()()!」

 

 ルドガーはジュードが止めたから、アルヴィンはミラの名を聞いたから、攻撃に転じようとしていた姿勢を崩した。

 

「ミラ、だと!? そのガキが!?」

「アルクノアの生き残りの父さ……ディラックさんとその子供を追って来たんだ。ミラの、マクスウェルの使命として」

「その子供、って」

 

 ジュードが父と呼んだ人物ならば、ジュードに庇われているディラックが抱えた赤ん坊は、分史世界のジュードということになる。

 

「黙っていれば、ごちゃごちゃごちゃごちゃ。うるさいのよ! いいからそこをどきなさい!」

 

 「ミラ」はジュードとディラックに掌を向けた。緑の魔法陣が浮かび上がり、小規模の竜巻が生じた。竜巻はジュードとディラックを襲い、いくつもの鋭い切り傷を負わせていてから、それぞれを逆方向に吹き飛ばした。

 

「やめろ!!」

 

 ルドガーはがら空きの「ミラ」の背中に槍を突き出した。

 しかし「ミラ」は背中に目でもあるように、もう片方の手に持っていた長剣で槍を受け止めた。

 

「その人が何したっていうんだ…っ、それに、赤ちゃんがいるんだぞ!?」

「だから何よ! アルクノア風情が知ったふうな口を利くな!」

 

 幼女の腕力とは思えない威力でルドガーは吹き飛ばされた。

 

「全部お前たちのせいよ。アルクノアのせいで、姉さんはこんな姿になってしまった……っ」

 

 「ミラ」が長剣を胸に抱いた。まさか、あの剣が姉だとでもいうのか。戦慄を禁じ得なかった。

 

 怒りと嘆きに燃えるバラ色の目がディラックと赤ん坊に向けられる。

 

「例え赤ん坊であっても、エレンピオス人なら長じて黒匣を使うでしょう。そうなる前に殺す。黒匣(ジン)とそれにまつわる物を消すのが、私と姉さんの使命!」

「やめてミラ!! 『僕』を殺さないで!!」

 

 鮮血が飛び散った。肉を裂く音がことさら生々しく響いた。

 

 「ミラ」が振り上げた長剣は、過たずまっすぐにディラックの胸を貫いた。

 

 若いディラックが倒れ、腕の中から血塗れになった赤ん坊が転がり落ちた。



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「分かってても……付いてけないんだよ!」

 若いディラックが倒れ、腕の中から赤ん坊が転がり落ちた。赤ん坊もまた、胸の中心を貫かれている。もはや息はあるまい。

 

「ミラ…ミラ、が…僕を、…ぼく、を…」

「ジュード、しっかりしろ! あれは俺らのミラじゃねえ!」

 

 アルヴィンが威嚇射撃するが、「ミラ」は壁を走ってそれらを躱した。

 

「ミラがお前を殺すわけねえだろ! 今のはこの世界だけの出来事だ! 夢だ! 幻だ!」

「そんなの分かってるよ!!」

 

 走っていた壁を蹴って「ミラ」がミサイルのごとく飛んできた。ルドガーはハーフ骸殻にレベルを引き上げ、槍で「ミラ」の突進を受けた。一気に壁際まで追いやられた。背中を壁にぶつけて一瞬だけ息を吐かされる。6歳の幼女の推力とは思えない衝撃だった。

 

「分かってる…あれが僕らのミラじゃないって分かってる、分かってても……付いてけないんだよ!」

 

 ジュードの恐慌が激しい。このままではトラウマになりかねない。

 

(長引かせるとマズイ)

 

 ルドガーは目の前の「ミラ」の腹を蹴った。怯んだ「ミラ」を槍で弾き返す。

 

「イリス、頼む!!」

 

 いらえはなく、イリスが石畳に手を突く。すると触手が床を割って無尽に生え、「ミラ」をがんじがらめに捕えた。

 

「な、何よこれ!」

「行きなさい、ルドガー!」

「うおおおおおおおおお!」

 

 「ミラ」が拘束を解く前に――!

 

 ルドガーは槍を突き出し、「ミラ」の胸を的確に貫いた。一際大きく打った心音が槍越しに伝わり、二の腕がぞわっとした。

 

 ルドガーはすぐさま槍を「ミラ」から引き抜いた。

 同時に触手の拘束も解け、「ミラ」は金蘭の髪束を振り乱して地に伏した。

 

 槍の先で黒い歯車が割れた。

 ガラスに亀裂が入るように。一つの世界が砕けて、落ちて行った――

 

 

 

 

 

 

 気づけば、ルドガーたちはクランスピア社玄関前に立っていた。

 

「戻った、の?」

「ええ。時歪の因子(タイムファクター)は無事破壊できたわ。2回目にしては上出来よ。よくやったわね、ルドガー」

 

 たったさっきまでの血なまぐささが嘘のように、イリスはふんわりとルドガーに笑いかけた。

 

「じゃあ、ジュードのお母さんも……消えちゃったんですか?」『あんなにがんばって治そうとしたのにー』

「消えたの。あの世界の消失と同時にね。それが分史世界の理。世界を壊すとはこういうことよ」

 

 沈鬱な空気が、場にいる全員の間に流れた。

 

 中でも一人――ジュードが背中を向け、首を下に直角にするほど俯いて動こうとしなかった。

 

(目の前で親と、自分自身が殺されたんだ。混乱するなってのが無理だよな)

 

 どうにか励まそうと悩んでいると、レイアが横を通り抜けてジュードの前に回り込んだ。レイアは無言でジュードの頭を小さく叩いた。

 

「…っ…ミラ…」

 

 呟き、ジュードはレイアの肩に額を押しつけた。

 レイアは拒まず、ジュードの頭を腕の中に引き寄せた。ジュードはレイアのジャケットにシワが寄るほどきつく縋って、嗚咽を上げた。

 

(ジュードにとっての「ミラ」はそんなに特別な存在なんだ。そんなジュードなのに、レイアはジュードを)

 

 初仕事を無事終えたルドガーの胸には、達成感は欠片もなかった。代わりに沈殿した泥のような思いが腹の底で渦巻いていた。

 

 

 

 

 ジュードを慰めるレイアと、そのレイアを食い入るように見つめるルドガー。彼らを見ながらも、イリスは別の事案に思いを致した。

 

(『ミラ』ね。まさかその名を、マクスウェルの使命とやらを遂行する人間に与えたなんて。よりによって、ミラさまの名を)

 

 イリスは遠くの天を仰いだ。

 2000年を経てなお鎮火しない心の炎が、より強く燃え上がっていた。

 

 

 

 

 

 

 エルはエリーゼと共に、仮住まいであるカラハ・シャールのシャール邸に帰り、宛がわれた部屋に入った。

 

 リュックサックを下ろし、帽子をサイドテーブルに置いて、ベッドにぽふんと横になった。

 

「今日は色々あってタイヘンだったね」

「ナァ~」

 

 ルルはルドガーの飼い猫なのに、何故かエルに付いて来ていた。ルドガーが「連れてていいよ」と言ったのでそうしているが。

 

 ベッドの上で起き上がる。窓から星を見上げた。まるで夜空の中に、星とは異なる天体を見つめるように。

 

 

「約束…いっしょに…カナンの地に…ルドガーと…いっしょに…」

 

 

 エルは両手の平を強く、胸にある祈りを抱くように押し当てた。



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Memo1 ヴァイオレット・ハニー
「腐らせる気はないから――今は」


 カナンの道標存在確率:高の世界が検知された。

 よってルドガーに召集がかかり、その分史世界の探索をすることになった。

 

 今回のパーティ編成は、エル、エリーゼ、イリスの最低限の人数である。

 クランスピア社に行った日には「レイアとイリスを離すべきではない」との謳い文句を使ったが、案外、かなりの距離を置いても大丈夫だと最近になって分かってきた。

 

 

 進入点であるキジル海瀑に向かう途中、ハ・ミルを通過しようとした時だった。

 

 村のほうから、翅を生やした水色の女がふわりふわりと漂ってきた。

 これに最大の反応を見せたのはイリスだった。

 

「ミュゼ…さま…」

「? あなたはどなた?」

 

 ミュゼと呼ばれた女が首を傾げる間、イリスは戦慄いて食い入るようにミュゼを見つめていた。

 

「――なあ、どうなってんだ、これ。彼女、何者なんだ?」

「彼女はミュゼ。ミラの…マクスウェルのお姉さんで、次元を渡る力を持ってる大精霊です」『そーゆー意味では、ルドガーたちに近いかな~?』

 

 確かに、とルドガーは肯いた。ルドガーを含む骸殻能力者は、皆が次元を跨いで世界を行き来する。

 

 しかしエリーゼの知識だけでは、イリスがああも驚く理由が見つからない。

 ルドガーは思い切ってイリス本人に囁いた。

 

「イリスの知ってる人なのか?」

「……モデルとなった方を知ってるわ。何もかも同じ。顔も形も、その、ヒトを困らせるしゃべり方もね」

 

 ミュゼはふわりと浮いてルドガーの肩に手を置いた。

 

「ご紹介に与かりましたミュゼです♪ 貴方は?」

 

 こういったスキンシップはイリスで慣れていたので、そのままの態勢で自己紹介もエルの紹介もした。

 

 そうしていると、傍らにいたイリスが、ミュゼの手首を掴んでルドガーから剥がした。表情は、不愉快。

 

「その辺にしておきなさいよ。この子たちはお前みたいなモノがベタベタ触っていい子たちじゃない」

「イリス」

「――イリス? イリスって、まさか『精霊殺し』の蝕の精霊?」

「そうだと言ったら?」

 

 ミュゼは血相を変えて、イリスに掴まれた手を振り払った。

 

「安心なさいな。腐らせる気はないから。――今は」

 

 ミュゼが押さえる手首には何の傷もない。それでもミュゼは、シャルトリューズの双眸に強い嫌悪を燃やしている。

 

 源霊匣(オリジン)セルシウスの時も思ったが、イリスは精霊の間でどれだけ嫌われ者なのだろう。

 

「無礼な奴。『精霊殺し』でなければ今すぐ締め上げてるとこだわ」

「お前こそ礼儀を弁えなさい。鋳造年月20年ぽっちが偉そうに。――ミュゼさまのご尊顔を使うなんて、あの老害、どこまで厚顔なの」

 

 イリスは腕組みしてそっぽを向きながら舌打ち。

 ルドガーとエリーゼはつい後じさった。

 

 ミュゼがイリスから離れようとさらに浮いて下がったので、両者の距離は絶望的なまでに開いた。

 

「イリスたちの時代は『クラン』という単位で集団を表していたの」

 

 イリスは肩にかかった銀髪を払いながら答えた。

 

「あの次元刀の姿は、クラン=セミラミスの女主人、ミュゼ=セミラミスさまのご尊顔。クラン=スピアとも比較的良好な関係のクランだったわ。ミラさまなんか、ミュゼさまの美貌に憧れて、少しでも近づこうとなさったくらい。ミュゼさまに出会ってから、実際、ミラさまは断然女らしくなられたわ。――懐かしいこと」

 

 そこで図ったようにルドガーのGHSが鳴った。ルドガーは電話に出た。

 

『分史対策室です。その付近で、ユリウス前室長と思しきエージェントが分史世界に進入した反応が見られました』

「ユリウスが――分かった。ありがとな、ヴェル」

 

 ルドガーは筐体を畳まず、今回進入予定の座標と偏差をディスプレイに呼び出した。

 

「急で悪いけど、ユリウスの手がかりが入った。すぐ分史世界に入りたい。みんな、準備いいか?」

「とっくにできてるっ」

「ナァ~ッ」

「大丈夫です」

「私も付いて行かせてもらおうかしら。分史世界、興味があるわ」

「じゃあ――行くぞ」

 

 ルドガーはディスプレイの座標と偏差をイメージしながら世界を跨ぐ力を開放する。

 

 引きずり込まれるように、ルドガーらは別世界へ落ちて行った。



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「だって俺たち、兄弟じゃんか」

 ルドガーたちが入り込んだのはキジル海瀑だった。

 

「あっ、変なキレーな貝!」

「危ないですよ、エル」

 

 海岸へ走っていくエルとルルを追いかけ、エリーゼもエルのすぐ横にしゃがんだ。

 はしゃぐエルと、優しく微笑むエリーゼは、傍目には幼い姉妹のようにも見えた。

 

(ユリウスは十代でエージェントしてたから、一緒に遊んだりした思い出少ないな。今頃どうしてるかな、ユリウス……)

 

 まるでルドガーの考えを読み取ったようなタイミングだった。

 微かに、よく知るメロディラインのハミングが聴こえたのは。

 

(近くに、いる)

 

 海岸にいるエルとエリーゼを見やる。どちらも子供だ。置いて行くわけにはいかない。

 分かっていても、このチャンスを逃せば次はいつになるか分からない。

 

「ミュゼ。少しの間だけ、エルたちのこと頼んでいいか?」

「いいけれど、どうかしたの?」

 

 ミュゼは片頬に手を当て小首を傾げた。

 

「野暮用ってやつ。すぐ戻るからっ」

 

 ルドガーはハミングが聴こえる方向へ走り出した。

 

 

 

 

 

「ルドガー」

「イリス。付いて来たのか」

「お邪魔かしら?」

「いいよ。イリスなら」

 

 洞窟を抜けた先には、海に突き出した大岩があった。その大岩の上に、ルドガーの目当ての人物は座って、呑気に鼻歌など歌っていた。

 

「ユリウス」

 

 呼んだからか、それとも最初から気づいていたのか、ユリウスはハミングをやめてルドガーたちを見下ろした。

 

「また懐かしい唄を歌ってるわね」

 

 ユリウスは座っていた岩から飛び降り、ルドガーと同じ地面に立った。

 

「癖なんだよ。我が家に伝わる古い唄でね。逢いたくてしかたない相手への想いが込められた唄というが……間違いはあるかな、導師どの?」

 

 そういえば、とルドガーはイリスを向いた。イリスもまた始祖クルスニクの子。唄を知っていても不思議はない。

 

「病床にあってなお、マクスウェルを喚ぶためにミラさまが唄い続けた歌よ。逢いたい人に贈る唄、確かに間違ってないわ」

 

 イリスはしばし瞑目した。とても、懐かしく、切なげに。そして、再びユリウスを見上げた。

 

「でもね、ユリウス、一つだけ。その歌はね、アイタイと歌うけど、相手が決して答えてくれない歌なの。縁起が悪いから少しお控えなさい。ルドガーに応えてもらえないのはイヤでしょう?」

「……それは困る」

「イリス! ユリウスも何本気で答えてんだよ! 恥ずかしい奴らっ」

 

 はは。くすくす。

 ユリウスとイリスの零した笑い声が重なり、ルドガーは自分一人が道化になった気分がして面白くなかった。

 

「ユリウスは、その唄好きだな。機嫌のいい時はしょっちゅう歌ってる」

「それはお前のほうだろう? 赤ん坊の頃から、これを歌ってやるとすぐ機嫌が直った。子供の頃、二人で山にキャンプに行った時もそうだった。雷が鳴って怖がってたくせに、これを歌うと、お前は泣きたいのを我慢して歩き続けた」

 

 ルドガーは密かに拳を固めた。――これ以上をユリウスに語らせたくない。

 

「違うだろ」

 

 ユリウスが訝しげにルドガーを見返した。

 

「俺がユリウスと暮らし始めたのは5歳の頃。赤ん坊の俺なんて、ユリウスは知らないはずだ。キャンプだって、ずっとエージェントの仕事で忙しくしてたユリウスが行けるわけない。ユリウス、休みの日は一日家で寝てるくらい疲れてたろ」

 

 ユリウスの顔が、今まで見たこともないほど蒼白に染まった。

 

 それを嗤って、ではないだろうが、イリスがくすくすと小さな笑い声を上げた。

 

「言ったでしょう? ルドガーは賢い子だって」

「貴女の入れ知恵か」

「いいえ。イリスも初めて聞く話ばかりよ。ルドガーはこれまでで貴方に聞きたいことがたくさん出来たみたいね。お兄さんなら、弟の疑問にはちゃんと答えてあげなさい」

 

 イリスがルドガーを見て微笑んだ。大丈夫、わたしが付いていてあげる、と言われた気がした。

 

「ヴェルから聞いた。俺の母さんとユリウスの母さんが違う人だってこと。俺のほうの母さんは、とっくの昔に死んでたってこと。聞いてから、全部繋がった」

 

 ルドガーは大きく息を吸って、吐いた。

 

「知ってた」

「ルドガー……?」

「俺、知ってたよ。母さんが死んだ時にユリウスがそこにいたのも、ユリウスにその気がなかったとしても、結果的にユリウスが母さんを死なせたんだってことも」

 

 

 

 

 

 ユリウスはかつてないほど愕然とした。

 

 知っていた、と。ユリウスの犯した罪を知っていたと。目の前の異母弟(おとうと)は呆気ないほどさらっとそう言ったのだ。

 

「お、前、いつ」

「最初からに決まってんだろ。俺、その場にいたんだぜ? ガキの記憶力なめんなよ」

「それもそう、か……いやっ、待て。それならお前、俺がクラウディアを――自分の母親を殺したと知って、俺と暮らしてきたのか!? 何も知らないフリをして!?」

「別に知らないフリなんてしてない。聞かれなかったから言わなかっただけ。いや、子供心に言わないほうがいいんだろーなー、とは思ってたけどさ。あの頃のユリウス、結構荒れてたし」

「どう、して」

 

 ならばどうしてルドガーはユリウスに笑いかけることができるのか。どうして暖かい料理を作ることができるのか。どうして、憎まずにいられたのか。

 

 

「だって俺たち、兄弟じゃんかっ」

 

 

 ルドガーは満面の笑みを浮かべ、翠眼から涙を流した。

 

「あ、れ? 何で……俺、泣いて? あれ、ど、して」

 

 堪らなかった。ユリウスはルドガーをきつく抱き締めた。

 この弟を引き取って13年、こうやって思いきり弟を抱擁してやったことが一度でもあっただろうか。

 

「ちょ、ユリウス! 見てる! イリス見てるから!」

「知るか、お前が悪い」

 

 守ることはもちろん、善い未来を祈る必要さえなかった。ユリウスの弟はこんなにも強く大きかったのだから。




 原作との最大の違い。「ルドガーが母の死の真相を覚えている」でした。
 それでも幼いルドガーは、何年も考えて悩んで、「死んだ母」ではなくユリウスという「生きている兄」を選んだのです。


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「引きずり出してあげる」

 イリスの同伴を許したのは失敗だったかもしれない。ユリウスにきつくハグされながら、ルドガーは憮然と思った。

 

 はっきり言って、恥ずかしい。ルドガーとて健全な成人男子だ。この歳で兄弟で抱き合う場面を見られるのは居心地が悪い。

 

(でも、よかった。この分だと、母さんのことも恨んだり憎んだりしてああしたわけじゃないんだろうな。俺のこと、弟として大事にしてきてくれた年月も、嘘じゃないんだな)

 

 ルドガーもまた両腕をユリウスの背中に回そうとした。

 

 

 キャアアアアアアアーーーッ!!

 

 

 前触れもなく轟いた悲鳴。今のは、エルの声だった。

 

 ルドガーは即座に踵を返した。イリスもルドガーに続いて行った。一拍置いたが、ユリウスもルドガーとイリスを追って走ってきた。

 

 

 

 

 

 ルドガーとイリス、加えてユリウスが砂浜に戻る。

 

 倒れたエルをエリーゼが治癒し、ミュゼは海瀑にいる化物――タコとイソギンチャクと巻貝をごった煮にしたような魔物を牽制している。

 

時歪の因子(タイムファクター)――!」

 

 ルドガーはエリーゼとエルに駆け寄った。

 倒れたエルは右に左にもがいて苦痛の声を上げている。

 

「エリーゼ、何があったんだ」

「あの魔物が変な精霊術でエルを…!」『回復が効かないー!』

「避けて!」

 

 ミュゼが叫んだ。ルドガーは後ろに跳びずさり、イリスは高く浮いて、化物の魔の手を躱した。

 だが一人だけ、ユリウスが化物の攻撃を避けそびれていた。

 

 駆け寄りたくとも、暴れる化物が間にいて動けない。

 

「何なんだよ、こいつ……っ」

「海瀑幻魔。生き物の命を腐らせる術を使う魔物よ。エルを救うには、あいつを倒すしかないわ」

 

 ミュゼの解説を聞いて、ルドガーは即座に双剣を抜いた。

 いざ切り結ぼうと踏み出した一歩の先、化物は海瀑から姿を消した。

 

(どこにいる? 急がないとエルが!)

 

「昔と同じ――」

 

 声を発したのはイリスだった。イリスはもがくエルを、目を見開いて見つめている。

 

「姿を消して一人、また一人と同胞の血を啜っていった……」

 

 イリスのまなこの中、瞳孔が肉食獣のように細く鋭くなる。

 

「視えないなら引きずり出してあげる! ()()()はもうあの時の弱い花じゃない!」

 

 イリスは精霊態へと変じるや、その体から上下左右360度に触手を放った。

 

 ――徒花の大開花。

 

 触手の尖端が刺さった木や岩が腐蝕して崩れる。海に落ちた触手はそこから海水をどす黒く濁らせていく。

 

「捉えた――!」

 

 左手だった触手によって引きずり出された海瀑幻魔。投網のように砂浜を引きずると、その跡がイリスの腐蝕とよく似た濁り方をしていた。イリスが散じていた触手を集め直して、さらに海瀑幻魔をがんじがらめにした。

 

「次元刀ッ!」

「ミュゼよ!!」

 

 すでにミュゼが指さす天には炎の魔法陣が編まれていた。

 

「レイジングサン!!」

 

 ミュゼの合図で陣の真下からすり鉢状に炎が広がった。イリスの触手に拘束された海瀑幻魔は成す術なく、術の炎によって焼け落ちていく。

 

 ルドガーは幻魔が完全に燃え尽きる前に、骸殻に変身して走り、幻魔に槍を突き立てた。

 

 砕け散る黒い歯車と、舞い降りる白金の歯車球体――カナンの道標。

 急いで駆け戻り、「道標」をエルの手に握らせた。

 

 ガラスが砕ける音。そして、世界が一つ崩れて落ちた。

 

 

 

 

 

 正史世界に戻った手応え。見渡せば、分史と同じくキジル海瀑にいた。

 

(ユリウスは――いない。ちゃんと戻れたかな。……いや、ユリウスが半端なく強いのは俺が一番知ってるだろ。ユリウスなら大丈夫だ、絶対)

 

 自らに言い聞かせ、一人密かに肯いた。

 

 イリスはすでに人間態に戻っていた。左半身の服の布が点々と焼けているのは、海瀑幻魔を捕えた触手に当たる部位がそこだからだと予想がついた。

 

「イリス、腕。エリーゼに治してもらうか?」

「いいわ。自然回復を待つことにする。彼女はイリスをキラっているしね」

 

 すると、ぽつりと、他意がない声がミュゼから上がった。

 

「……風の噂に聞いてはいたけど、本当におぞましい体をしてるのね、貴女」

「刀風情に言われたくない」

 

 一触即発。まさにその時、抱えていたエルが身じろぎ、目を開けた。

 イリスから敵意が消えた。イリスは身を翻しすぐさまエルの傍らに膝を突いた。

 

「エル、大丈夫? どこも痛くない? 平気?」

「うん…だいじょーぶ…」

 

 そう答えるものの、エルの目は焦点を結んでいない。

 

 ふとエルが腕を上げる。ぺた、と掌がルドガーの頬に触れた。

 

「――ルドガーは、へいき?」

「ああ。俺は何ともないよ」

「ウソ。うで、まっかだよ」

 

 え、とルドガーはつい自分の両腕を見下ろした。何の傷もない。イリスとミュゼのおかげでスピード決着だったから、傷を負う暇もなかった。

 念のためエリーゼにも看てもらったが、彼女も「ケガしてませんよ」と答えた。

 

「……平気だよ。後で手当てしてもらうから。もう少し休め」

「ん…るどがーが、そーゆーなら…」

 

 こてん。エルは今度、安らかな顔で眠りに戻って行った。

 

 無垢な寝顔を見て、ルドガーはエリーゼと顔を見合わせて苦笑した。



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「一緒にカナンの地にいきますっ」

 「海瀑幻魔の眼」を手に入れた日の夜、イリスは暮れ更けた夜のトリグラフの空を翔けていた。

 

 ビズリーはイリスを駒にしたいのだから、イリスが駒に甘んじていればある程度の自由は許されている。

 

 実体化すれば契約者のレイアからより多くのマナを奪うと分かってはいるが、空気に融けて消えているなど()()()()()()()()()()はしたくないのだ。

 

 イリスはあくまで自らを「人」として扱いたい。

 

 この飛翔とて、有事のための訓練だ。レアバードも飛空艇もなしに空を翔ぶなど人の摂理に反していて気分が悪いが、いつどこでこれが役に立つか分からない。何であれ利用できるモノは利用する、がイリスの信条だ。

 

 

『……カナンの地に連れてってほしいの』

 

 

 聞き知った声に、イリスはふわりと空中停止して、下を見やった。案の定エルと、ルドガーがいた。

 

 

『ああ――連れてくよ。絶対』

 

 

 ルドガーの答えを受け取ったエルはとても華やかな笑顔を見せてから、小指を差し出した。

 

 

『ホントのホントの約束だよ。エルとルドガーは、一緒に「カナンの地」にいきますっ』

 

 

 小さな指と大きな指の、契りの儀式。

 

 

『約束っ!』

 

 

 笑みが零れる。どこまでも無垢で芯が強い少女だ。そして、それに応えるルドガーも、どこまで誠実なのやら。まったく似た者同士である。

 

 イリスは宙に座っていたポーズを解き、二つの月に背を向けて公園に降りた。

 

 

 

 

 

 ふわ。背後で何かが降りてくる気配がして、ルドガーはふり返った。

 

「イリス。いつから」

「ついさっき。聞くつもりはなかったのだけど、聞こえちゃったわ。ごめんなさいね」

「ワザとじゃないんだろ? ならいいよ」

 

 イリスは指で、エルがいたブランコのチェーンをなぞった。エルは先に部屋に戻って、今はこの場にいない。

 

「エルを連れてってあげるの?」

「連れてくよ」

 

 気負いもてらいもなく答えが口を突いた。少しの違和感はあったが、自分がエルとカナンの地に行くことは、運命のようにさえ感じていた。

 

「過酷な道のりになるわね」

 

 その言葉は、当然イリスもルドガーの道行きに付いて行くと暗に告げていて、知らずルドガーは笑っていた。

 

「かもな。でもエルと――イリスは、俺が守るから」

「ありがとう。嬉しいわ、本当よ?」

 

 微笑んでルドガーを見上げるイリスに、やはり、どうしてもルドガーは母・クラウディアを重ねてしまう。

 だからといって、母に似ているから守るという代償行為でないのは、ルドガーが一番分かっている。

 実母と似ていることを差し引いても、イリスは「お母さん」だから、イリスのために剣を揮うのだ。

 

 

 

 

 

 イリスはマンションに入っていくルドガーを見送ってから、先ほどエルが腰かけていたブランコに腰を下ろした。

 

(でも気をつけてね、ルドガー。その少女は貴方が骸殻を使う使わないに関係なく、別の穢れを溜め込み続けてるから)



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Interview11 1000年待った語り部 Ⅲ
「案外しんどいんだな」


 エージェント。

 この名称を聞けば、ほとんどの人々が真っ先にかのクランスピア社の華々しく凛々しい仕事人を思い出されるだろう。

 彼らはクランスピア社の看板であり、市民のアイドルであり、一般人が力及ばない事柄を解決するヒーローである。

 

 ではこれが「分史対策エージェント」であったら。読者諸賢は首を傾げるのではないか。

 

 分史対策エージェントとは、時歪の因子(タイムファクター)より生じた分史世界を破壊し、我々の正史世界に魂のエネルギーを還元する使命を担った特務エージェントである。

 

 彼らは2000年の太古に、カナンの地の番人にして時空の大精霊クロノスより「骸殻」という特別な鎧と槍を授けられた。そしてその力で、命を削りながら、2000年の永きに渡って陰ながら世界を守ってきた。

 

 これだけ書くと、彼らが選ばれた特別な人間のように感じられるだろう。あるいは、同じ「人間」だと認めがたくなることもあるかもしれない。

 

 しかし、それは大きな誤りだ。

 

 分史対策エージェントたちは、ひとりひとりが違う心を持ち、違う人生を歩んでいた。彼らを一皮むけば、家族に囲まれ、友と遊び、恋人と睦み合い、泣いて笑った、我々と何ら変わらない一個人だった。

 

 断片に過ぎないが、クルスニクの使命に殉じた彼らの人生を、ここにいくつか紹介させていただきたく思う。

 

 

 L・R・クルスニクテラー

 

 

 

 

 

 

 

 ルドガーはマンションフルーレ302号室に帰宅するなり、自室に直行し、ベッドにダイブした。

 

(疲れた…よーやくあのプレッシャーから解放された…)

 

 今回の分史破壊任務には、とんでもないVIPが同行した。

 リーゼ・マクシア国王ガイアス。

 かつてア・ジュールとラ・シュガルという南北二大勢力に割れていたリーゼ・マクシアを平定し、初代統一国王となった覇王だ。

 

 彼はジュードから世界の裏事情を聞き、はるばるルドガーに会いに来た。

 

 

 “お前が世界の運命を預けるに足る人間か見極めさせてもらう”

 

 

(上から目線にも程があるだろ。いや王様なんだから当たり前なんだけど)

 

 

 “そうでもあるまい。真実を知れば誰もが抱く疑問だ”

 

 

 ガイアスはルドガーに分史世界へ連れていけ、と要求したので、折よく入った任務に同行してもらった。

 

 事前に「道標」があるらしいと知らされていたので、進入点のカン・バルクに行く前にカラハ・シャールでエルも拾っていった。そして、ルドガー、エル、レイア、ガイアス、イリスで任務に向かった。

 

 ガイアスはまさに「王」だった。威風堂々たる豪傑。後ろから一挙一動を見られているだけで、息が詰まるほどのプレッシャーだった。

 

 それに比べて、と思いながらルドガーは寝返りを打った。

 思い出すのは、レイアがガイアスにした「お願い」。

 

 

 “わたし、新聞記者やってるんだけど、ガイアスのこと、記事にしてもいい?”

 

 “記事にするのは、ガイアスの仕事が終わってからにするから”

 

 “待つよ。何年でも”

 

 “ありがとう! きっとすっごいスクープになるよ”

 

 “まずはわたしが大人にならなきゃ”

 

 

(レイアは凄いな。王様が相手でもブレない。しかもあんなに嬉しそうに記事にされるんじゃ、相手もイヤな気分になれないよな)

 

 レイアは記者として一日一日成長している。それに比べて――と、陰鬱とする。想うのだ。俺は何をしてるんだろう、と。

 

 ルドガーは真鍮の懐中時計を取り出し、かざす。

 

 世界を壊す仕事。可能性の枝、ありえたIFを伐って捨てる仕事。少なくとも人様に胸を張って言える仕事ではない(そもそも守秘義務があるので言う宛てもないが)。

 

 だが今のルドガーにはエージェントとしての仕事がライフラインなのだ。多額の借金を返済するため、兄の庇護を失くした自分が働いて生活の糧を得るために、分史対策エージェントの法外な給与は必要不可欠だ。

 

(甲斐性なしの男一人の生活のために壊される世界は堪ったもんじゃないな)

 

 懐中時計を握った手の甲で目元を覆い、自嘲した。

 

 

 ぴんぽーん

 

 

 牧歌的な音が思案を断ち切ってくれた。

 

 ルドガーはベッドから起き上がり、リビングに出て玄関ドアを開けた。

 

 

「レイア」

「やっほー。調子、どう?」

「ちょっと疲れてるけど、悪いとこはないよ。上がるか?」

「うん。おじゃましまーす」

 

 レイアはリビングに入るなり、テーブル備え付けのイスの一つに座った。1年もこの部屋に通っているレイアにとっては、そこが指定席なのだ。

 ルドガーはレイアの正面に座った。

 

「顔色悪いよ? もしかして休んでるの邪魔しちゃった?」

 

 ここで「なんともない」と優しくごまかすか、胸にある気持ちをぶちまけてしまうか。ルドガーの疲れた頭は、後者を選んだ。

 

「本音言うと、何で俺が、って気持ちがあるんだ」

「何で、って?」

「知らない子にいきなり痴漢の濡れ衣着せられて、テロに巻き込まれて、仕事なくして、借金背負って。それだけでもキツイのに、その上、自分でもよく分からない力で世界壊せとかさ。肝心のユリウスは何も教えてくれないし。エージェントになれたのは嬉しいけど、社長が本当に欲しかったのは『鍵』の力だった。俺、ほんの何週間か前までは、本当にどこにでもいる平々凡々な男だったんだぜ? 世界の危機とか縁遠い、モブキャラっていうか、背景の一部っていうか」

 

 ルドガーは前髪を掻き揚げ、苦し紛れに自嘲した。

 

「日常がなくなるって、案外しんどいんだな」



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「そういう両想いなら大歓迎っ」

 レイアの返答はなかった。

 

 彼女としてはルンルン気分で訪れた部屋で、年上の男がじめじめと沈んでいたのだから、呆れられて然る。

 だがルドガーも言うだけ言った分、引っ込みがつかず、次の発言を探しあぐねていた。

 

 粘着質な空気が数分続いた頃、不意打ちでレイアがルドガーの横に来て、膝に両手を突き、鼻先まで顔を近づけてきた。

 

「ルドガー、取材行こう!」

「取材?」

「前はよく手伝ってくれたじゃん。ね、やろうよ」

「取材ったって、どこの何を……」

「わたし、ずっと考えてたの。新聞記者は真実を世の中に伝える大事なお仕事。編集長にそう言われて、わたしもそれを理想に頑張ってきた。その中でルドガーに会って、ユリウスさんに会って、ルドガーが分史対策エージェントになって、分史世界を壊すのに立ち会って、考えたの。頭の巡り悪いから考えるのって苦手なんだけど、それでもとにかく考えて」

 

 潤んだ、揺るぎのない、パロットグリーンの宝玉が二粒、ルドガーを映した。

 

「わたし、エージェントとか分史対策室とかクルスニク一族、それに今、世界で本当は何が起きてるのか、それに立ち向かってる人たちはどんな人たちなのかを、記事にしたいと思ったの」

 

 それはつまり、オリジンの審判とクルスニク一族にまつわる歴史を白日の下に晒すことを意味する。

 社内でもSSSクラスの機密事項を、一新聞記者に明かす。現室長のリドウはともかく、上役のビズリーやヴェルも黙ってはいまい。

 

(――だから何だ。秘密にしてたら、あの人たちがどんなに頑張っても、終わった後、誰も褒めてやれないじゃないか。それくらいならレイアの手で記事にしてもらったほうが、ずっと報われる。世界を守るためにこんだけ命懸けた人たちがいたんだって、世界中の人に知ってもらえる)

 

 

「分かった。行こう、レイア」

「……いいの? ほんと?」

「ああ。リドウとかビズリー社長は俺から説得してみる。俺、『鍵』のエージェントだから、多少の無茶は通せるかもしれない」

「やったあ!」

 

 レイアが飛び跳ねた。その行為に、期待したくなる。レイアはインタビューできることより、ルドガーの同行を喜んでくれているのではないか、と。

 

(そんなわけねえだろ。俺の自意識過剰)

 

「よし! そうと決まればさっそくクランスピア社にゴー!」

「おうっ」

 

 ルドガーは椅子を立ち、緩めていたネクタイを締め直した。そして、うずうずが顔に出ているレイアに付いて、部屋を出た。

 

 

 マンションを出て陽光を浴びる。気分が少しだけ上向く。こういう時、やっぱり人には太陽が必要なのだ、とえらそうなことを思うルドガーである。

 

「そうだ。レイア。今日来たのって、俺にエージェントの取材の件頼むためか?」

 

 ルドガーの愚痴にまぎれてレイアが他に言いたいことが言えなかったらと、今さらに心配になった。

 

 横を歩いていたレイアは、何故か照れを浮かべ、目線を泳がせながら言った。

 

「ちょっとでもルドガーに、日常ってもの、思い出してほしいな、なんて」

「レイア……」

「ほら、ここんとこずっと分史破壊任務だったでしょっ? だからさ、前みたいにしたら、ルドガーもちょっとは元気出るかな~……なんて」

 

 親しくなってからはレイアと取材旅行に行くのが当たり前だった。

 絶滅危惧種の光葉のクローバーの栽培法を訪ねて自称学者のハイテンション男に会った。雪男を探すんだとモン高原に行ってビバークした。エレンピオス人密猟者を追ってバングラットズァームと戦った。きな臭い商会に張り込んで情報屋のジョウと知り合った。

 

 思い出す。地道に就職活動をするかたわらで、レイアとハチャメチャな体験をするのが、ルドガーの「日常」だった。

 

「――俺、レイアのこと好きだなー」

「ど、どうしたのルドガー!? いきなり!」

「いや、何となく。レイアのそういうとこ、救われるなって」

「な、なんだ…そういう意味…びっくりさせないでよ、もー」

「ごめんごめん」

 

 ほのかに赤く染まった頬を手扇で仰ぐレイアに、もう一声。

 

「レイアが友達でよかった」

 

 ぱちくり。レイアはパロットグリーンの瞳を瞬かせ、そして、破顔した。

 

「わたしもっ。ルドガーはわたしの自慢の友達だよ!」

「両想いだな」

「うん、そういう両想いなら大歓迎っ」

 

 二人は足取りも軽く、クランスピア社へ向かった。



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「ノルマとして捉えたほうが」

 レイアがルドガーと共にリドウとビズリーに交渉した結果、翌日から1週間、分史対策エージェントへのインタビューが許可された。

 もちろんいくつかの制約は課されたが、レイアには取材を許されたというだけで充分な成果だった。

 

 その取材も今日で最終日だ。

 

 

 レイアは応接室で、大きく溜息をついた。

 

 ノートにはびっしりと文字、文字、文字。走り書きばかりで、レイア自身が「この時の自分は何を書きたかったんだ」と苦笑してしまった。

 そんなお粗末なメモだが、これらは1週間をかけて綴った、エージェント――クルスニク一族の、骸殻能力者の、人生の記録なのだ。

 

 

『分史世界で知り合いと会うと罪悪感がひどい』

 

『分史世界の自分が自分より幸せそうで嫉妬した。因子を破壊する前に自分を襲った。今でも思い出して吐く』

 

『分史に渡ったエージェントが必ず帰れるわけではない。だからいつも指名されたくないと内心思っている』

 

『分史に住み着こうとした同僚も過去いた。止められなかった。戦ってその世界ごと同僚を殺した』

 

『時計をお互いに見せ合って違いに感心する』

 

『ピンチの時に危険を顧みず時計を貸してくれた仲間に感動した』

 

『彼氏が浮気した分史を見てしまって、気まずくなって彼氏と別れた』

 

『分史の娘が病弱。ガリガリに痩せた娘を見て、家に帰って健康な娘を見て泣いた』

 

『因子化した体を見せたくなくて恋人との関係が進められず破局』

 

『体に因子化の痕が広がると、この先を想像して泣きたくなる』

 

『因子化が進んで辞めた同僚を知っている。自分が無事でいられるかが不安』

 

『正直逃げたい』

 

『早く辞めたい』

 

『世界とかよく分からない』

 

『こんなゲーム設定した精霊マジ許せない』

 

『オリジンとかクロノスとか会えたら一発殴りたい』

 

『てかこのゲーム自体メチャクチャに壊してやりたい。願い事『過去に戻せ』とかで』

 

 

 記事になるまでは誰にも見せられないし、決して手放せない。レイアは知らず強くノートを握っていた。

 

「大丈夫か」

 

 ルドガーだった。没頭しすぎて、彼が入ってきたことにも気づかなかった。

 

「え、あ! うん。内容の濃い話いっぱいで圧倒されちゃっただけ」

「……なあ、今日はここまでにしないか? 取材するレイアがそれじゃ、万全のインタビューはしにくいんじゃないか?」

 

 ルドガーは本気でレイアを心配してくれている。

 気に懸けてもらえるのは嬉しい。心がぽかぽかする。でも甘えは程々に。

 今のレイアはルドガーの友人ではなく、一社会人なのだ。

 

「大丈夫だよ! 体は全然疲れてないし。向こうがせっかく時間空けてくれてるんだもん。お願いしたわたしからギブアップなんてできないよ。それに、今日が最終日だしね」

 

 レイアはルドガーに笑いかけた。去年の旅でも何度も使って来た「笑顔」という仮面。

 ジュードたちは見抜けなかった。なのにルドガーの心配顔は変わらない。

 

「次は誰?」

「分史対策室の室長補佐。今回のスケジュール調整してくれた人。俺の上司だけど、そう歳の変わらない女の人だから、あんまり緊張するなよ」

「ありがと。若い女性……やっぱり美容的な部分を重点的に……」

 

 取材相手が来るのを待つ間、レイアはインタビューの流れを組み立てる。こうなるとルドガーや他者の声も届かない。

 

 ドアがノックされ、スライドして開いた。

 

「失礼いたします」

 

 入ってきた女性は、腰より長い黒茶の髪を翻して、レイアの正面に立った。レイアも立ち上がった。

 

「初めまして。『デイリートリグラフ』のレイア・ロランドです」

「お初にお目にかかります。分史対策室室長補佐のジゼルと申します。よろしくお願いします、ロランド記者」

 

 挨拶もそこそこに、レイアとジゼルはイスに座った。

 

「よろしくお願いします。あの、今日までエージェントの方々の取材の時間調整をしてくださって、本当にありがとうございました!」

 

 レイアは元気に頭を下げた。ジゼルはきょとんとし、それからふっと笑んだ。

 

「頭をお上げくださいな。わたくしも今回のような機会は初めてで、上手く采配を振れたか自信がないのですが」

「そんなことっ。おかげさまで、スムーズに皆さんのお話をお伺いすることができました。ありがとうございます、ジゼル補佐」

 

 記者と取材対象の間に華やいだ空気が生まれる。

 

「ではさっそくですが、質問を始めてよろしいですか?」

「どうぞ、いかようにも」

「ジゼル補佐は普段どんな仕事をされていますか?」

「エージェントたちからすでにお聞き及びかもしれませんが、骸殻能力者として分史破壊と探索をしております。他には、管理職も頂戴しておりますので、任務のシフトや、通常セクションとの折衝もしております。こういうことばかりしておりましたから、今回のご依頼も、わたくしにとっては普段の業務の延長線上でした」

 

 レイアは次々に質問する。分史対策エージェントとしての仕事量と室長補佐の仕事量、どちらに比重があるか。シフトを考える時にどういう基準でエージェントを選ぶか。折衝とは具体的にどのようなことをするか等々。

 ジゼルの仕事のやり方から、部下との関係や本人の性向、さらにはノーマルエージェントには聞けなかった、分史対策室というセクションの方向性を分析する。

 

「少し突っ込んだ質問をしてもいいですか?」

「どうぞ」

「骸殻に目覚めたのはいつ頃ですか?」

「10歳の時です。親が隠していた時計を偶然見つけて」

「すぐにクラン社に入社されたんですか?」

「いいえ。しばらくは訳も分からず時計にも触りませんでした。それから普通に学校を卒業してクラン社に入社して、最初は秘書室に配属されました。分史対策室に配属されたのは入社から半月後です」

「その時はやっぱり不安に思いました?」

「はい。何か左遷されるような失敗をしたかしら、と一晩悩みました。実際に行ってみるといかにも歴戦の勇者という方ばかりで。しかも説明は社長直々にだと言われて、前室長に社長室まで連れて行かれましたのよ? 社長の前に立って説明を聞く間、ずっと心臓が破裂しないかヒヤヒヤしていました」

「確かにそれは緊張してもしかたないですね。ビズリー社長は迫力のある方ですから」

「でしょう? その上、分史対策室が世界の命運を担うセクションで、わたくしにも骸殻があって。しばらくはユリウス前室長に言われるままに、分史を壊して回りました。一種のアイデンティティクライシスでした」

「そう、ですね。お辛かったんじゃないですか?」

「最初はそうですね」

「最初ということは、今は違ったお考えを持ってらっしゃる?」

「考えというか……どうでもよくなったんです。文句を言っても、哲学をしても、精霊を恨んでも、仕事は変わりませんもの。わたくしが辞表を出さない限り続きます。だからもう、どうでもいいことにしてしまおうって」

「どうでも、って……世界を、壊す仕事ですよ?」

「そうですね。でも働かないとお給料は貰えませんし、そうなると生活は立ちゆきませんよね? それは困ります。就職自体が厳しいご時世、辞める踏ん切りもつきませんし。かといって骸殻能力者である以上、異動は不可能ですし」

 

 ジゼルは首を傾げた。エレンピオス人には珍しくない青紫の両目は、どんよりと濁っていた。

 レイアの背筋に冷たいものが走る。――これは病んだ人間の目だ。

 

「だったら何も考えないでノルマとして捉えたほうが気持ちはずーっと楽ですわ。どうせ逃げられないなら、最大限、知りたくないです」



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「ちょっと刺激が強すぎたかな」

「分史破壊はノルマねえ。実にアイツらしい答えじゃないか」

 

 クツクツとリドウは小さく笑った。

 最後のインタビュー相手は、分史対策室室長であるリドウである。

 

「ジゼル補佐とのお付き合いは長いんですか?」

「まあそこそこに。アイツが入社してすぐ同僚になったから、今年で3年目になるね。お互いの家の行き来する程度には仲いいよ、オレら」

 

 レイアがきょとんとした。ルドガーもまた同じだ。若い男女で家の行き来があるとなれば、もうそれは男女交際ではないだろうか。

 

「ま、大体君らの想像通りの関係。若い子にはちょっと刺激が強すぎたかな」

「そんなわけあるか!」

「そんなことないです!」

 

 重なった。リドウは今度隠さず大笑した。

 

 ルドガーもレイアも互いに恥ずかしくなって俯いた。

 

(てゆーか家の行き来なら俺とレイアもあるんだった!! レイアが変に意識しませんように!!)

 

「青春だねえ。下り坂のおにいさんには羨ましい限りだ」

「学生の頃からエージェントをされていたんですか?」

 

 レイアが持ち直し、質問を続けた。リドウは悠々と膝を組んだ。

 

「仕事を始めた時期自体は遅いぜ。俺は昔、難病を患ってね。臓器のいくつかを黒匣(ジン)で代用してるんだ。それのリハビリがあったから、他のクルスニク血統者より前線に出るのは遅かったんだよ」

「病身を押して分史対策室に入られたのは、やはりそれが使命だからですか?」

 

 リドウはぱちくりと黄鉛色の目を瞬き、ふいに笑い出した。

 虚を突かれたリアクションにレイアも、見守っていたルドガーも面食らい、戸惑った。

 

「ミス・ロランド。君、先に他のエージェントにインタビューしたんでしょ。それで使命のためって本心から答えた奴はいたかい?」

「あ……」

 

 レイアが返答に詰まり、視線をさまよわせる。ルドガーはとっさに前に出た。

 

「質問に質問で返すのはどうなんですか、リドウ室長。使命感でないならそうとお答えになればすむ話じゃないですか」

「彼女は真実を書きたいんだろう? ならまずエージェントが使命感なんて崇高な動機で働いてるわけじゃないってとこを知っといてもらわないと。『やはり』なんて接頭句使う時点で、取材対象を前提から理解できてない証拠じゃない」

「それは会話の流れで付けただけで、ロランド記者は――」

「ルドガー」

 

 レイアがルドガーに、揺れながらも強いまなざしを向けている。ルドガーもはっとする。これはレイアの仕事なのに。

 

「失礼しました、リドウ室長。わたしの言葉が不適切でした。改めて、エージェントを始めた動機を伺わせてください」

「ま、いいけどね。俺の動機は他の奴らより至ってシンプル。そうしないと死ぬからだ」

「死ぬ、ですか」

「役に立つ駒でなきゃ処分される。ここはそういう世界だ。クォーター連中はともかく、ハーフまで行ってる俺と、スリークォーターのユリウス、あとは初回でフル骸殻なんてかましてくれちゃったルドガー君。君もね。みーんな等しく絞首台に括られてるってわけさ」

 

 レイアから新聞記者の面が落ちかけた。死、と聞いて動揺せずにいられるほど、レイアの心はまだスレきっていない。――決して自分の名がそこに含まれたからと自惚れは、しない。

 

「俺も、ですか。でも俺の骸殻は、偶然」

「偶然で発動するほどフル骸殻ってのは生易しい能力じゃない」

 

 リドウはまるで、芸術家が己より優れた芸術家に嫉妬するようなまなざしで、ルドガーを射抜いた。

 

「そ……れが、何で、処分なんて話になるん、ですか」

「そこが『オリジンの審判』のえげつないとこでね」

 

 リドウの視線がルドガーから外される。途端に呼吸が戻った気がして、ルドガーはこっそり深呼吸した。

 

「カナンの地に行くには5つの『道標』が必要。でもね、『道標』はあくまで道標、かの地の場所を示しても、連れて行ってくれる物じゃあない。カナンの地に行くには特別な『道』をこっち側が用意しなきゃなんないの」

「道?」

「厳密に言うと『橋』。現世からカナンの地っていう異相へ渡るための架け橋が要る。それはクルスニク一族持ちって決まっててね。導師イリスによると、我らが始祖クルスニクがそういう内容で契約したんだとか」

「それは、どんな方法で架けられるものなんですか?」

 

 リドウは待ってました、とばかりに、組んだ両手に顎を乗せ、厭らしい笑みでルドガーとレイアを見据えた。

 

「『魂の橋』。強いクルスニク血統者を殺して、その魂で橋を架ける。『カナンの地』に入る唯一の方法だ。つまり、俺も君もユリウスも、エージェント連中も、社長の中じゃ等しく生贄候補なんだよ」



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Interview12 オトギノヒブン -Historia of “Tales”-
「偶然じゃなく必然なら」


 インタビューを終えてクランスピア社を出てから、ルドガーはレイアと共に、イリスを呼び出した。リドウが語った「魂の橋」の真実を確かめるために。

 

 レイアに陰侍していたイリスは、紫の立体球形陣を結んで現れて、告げた。

 

「本当よ。『カナンの地』に渡るためには、我らクルスニクの中でも特に強い血統者の死が必要。ミラさまがそうお定めになったらしいわ。詳しい経緯はイリスも知らないけれど」

 

 この時になってルドガーはようやく、ヴェリウスとシャドウに観せられた夢の内容を思い出した。

 忙しさに紛れて忘れた己を殴りたかった。ルドガーはとっくに知っていたのに。

 

「ルドガー、探そ!」

「レイア?」

「『魂の橋』以外のやり方。リドウさんはルドガーの骸殻を偶然の産物じゃないみたいに言った。偶然じゃなくて、ルドガーの存在が歴史の必然なら。何かあるはずだよ。見つけられるはずだよ。クルスニクの人たちを犠牲にしないで『橋』を架けるやり方!」

 

 揺れるパロットグリーンの瞳は、それでも希望を探すんだ、と強い決意を宿して。

 

「――そうだな。当事者の俺がうかうかしてちゃいけないよな。やろう」

「それでこそルドガーだよ」

 

 レイアがルドガーの両手を持ち上げて握った。他でもないレイアの手の感触に少しは動揺したルドガーだが、そう浸ってもいられない。

 

「イリスも……手伝ってくれるか?」

「イリスが教えてあげられるのは、審判開始から番犬に封印されるまでの1000年間だけ。それでもいいなら、いくらでも、起きたこと経験したことを話してあげる」

「ありがとう。――じゃあ一端、マンションに戻ろう。作戦会議だ」

 

 

 

 

 

 残念ながらイリスの昔語りからは、「魂の橋」以外の方法を探した先祖が失敗した話しか聞けなかった。

 なので、ルドガーとレイアは、イリスが封印されていた1000年間に有効打がないかを探すため、トリグラフにあるエレンピオス国立図書館に通い始めた。

 

 

(何でもいい。イリス視点じゃ分からなかったこと。何かないのか!)

 

 閲覧室でルドガーが読んでいるのは『クルスニク年代記』。一年前までは、精霊信仰のための偽書というのが世間の認識だった。しかし、リーゼ・マクシアの出現と精霊の実在により、内容の再検証が始まった。

 書体が詩であるのが厄介だが、紐解けば2000年前の様子が垣間見える。

 今のルドガーには五体投地して拝みたい書である。

 

 「魂の橋」についてはジュードたちにも話した。彼らは当然のように、別の方法探しに協力してくれた。

 

 ジュードはヘリオボーグ研究所職員の立場を使って、過去の精霊学実験のデータを閲覧検索。

 

 ローエンとエリーゼは六家の、ガイアスは部族の伝承をそれぞれ洗っている。

 

 アルヴィンは実家のネームバリューを利用して、エレンピオスで有名な歴史学者巡りを敢行中だ。いずれリーゼ・マクシアの古い語り部なども、ユルゲンス経由で訪問する予定だとか。

 

 

 ――ページを繰っていると、マナーモードにしていたGHSが鳴動した。

 着信の相手は、ノヴァ。

 

 ルドガーはレイアに断り、閲覧室を出てから電話に出た。

 

『うう……助けて、ルドガー、ヘルプミー』

「また借金関係か?」

『それが……差し押さえの相手が、すっっっごい怖い人なんだよ~! 水が5秒でお湯になる勢いで睨んでくるしっ!』

「それでも取り立てるのが銀行員の仕事だろ。俺にしてるみたいに強気で行けよ」

『ムリムリムリ! 今度だけだから! 助けて~』

 

 ルドガーは長く溜息をついた。こういうところで「お人好し」を発揮してしまう自分自身に対して。

 

「――場所、どこだ」

『ディールだけど。来てくれるの!? マジ!?』

「今から行く。駅で待ってろ」

『やったー!』

 

 電話を切って、閲覧室に戻った。

 いまだ文献とにらめっこしているレイアの隣の席に座り直す。

 

「電話、ノヴァさん? 取り立て?」

「正解。今回に限り、俺じゃなく別件。相手が怖いから助けてくれって」

「行くの?」

「まあ……」

 

 そこで二度、GHSが鳴動した。着信の相手は、ヴェル。

 ルドガーは、今度は断りを入れず、閲覧室を出てから電話に出た。

 

『分史対策室です。「道標」存在確率:高の分史世界を探知しました。捜索をお願いします。場所はディールです』

「ディール?」

『? 何か』

「いや、さすが双子。さっきノヴァからディールに来いって要請受けたとこだったからさ」

『言っておきますがルドガー様、クルスニクに関係することは』

「他言無用、だろ。分かってるよ。今から向かう」

 

 電話を切る。

 

(『道標』があるならエルも呼ばないと。エルが来るならエリーゼも来るな。レイアには残って、イリスと一緒に調査続けてもらおうかと思ったけど。この分だと結局、全員集合になりそうだな)



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「また来たのか」

 ディールにて。ルドガーの予想通り、ほぼ全員が集合した(何故かガイアスとミュゼはいなかった)。

 ノヴァの取り立て手伝いは男性陣に任せ、ルドガーと女子組は、ウプサーラ湖跡にあるという遺跡へ向かった。

 

 

 

 

 元は湖だったというそこは、水が干上がり、ひび割れた大地を曝していた。ノヴァから聞いた例の遺跡があったのは、壁の一部が崩れて塞がったあそこだろう。

 

「ここ、元は湖だったんですよね」

「ええ。美しかったわ。無くて困るものでもないから、干上がったこと自体はいいのだけど。遺跡なんてあったのね」

 

 ルドガーはGHSに転送された座標と偏差をイメージした。それだけで骸殻能力者は世界を跨ぎ、泡の天地へ入り込める。

 いつもの砂時計の底へ落ちていくような感覚を経て、ルドガーたちは世界を越えた。

 

 

 視界が晴れると、ルドガーたちは先ほどまでとほぼ同じ風景の中に立っていた。

 

「なんか光った!」

 

 エルが湖跡地の壁の一点を指差した。小さいが岩壁を縦に、裂け目が奔っている。さっきまではなかったものがある。――進入成功だ。

 

「あそこが遺跡なのかな?」

「崩れたはずの遺跡が残っている。確かに時歪の因子がある確率は高いわね」

 

 いざ一行が踏み出そうとした時、空が光り、雷鳴が轟いた。

 

「きゃーーーー!!」

 

 エルが耳を塞いでしゃがみ込んだ。

 そんなエルに対し、エリーゼが苦笑した。

 

「そういえばエル、雷こわいんでしたね」

「こ、こわくないですよーだ。ぐうぜん、おなかが痛くなっただけで」

 

 二度目の雷鳴が轟いた。

 

「ひううっ……パパぁ……!」

「エル――」

 

 イリスがエルに近づく前に、エリーゼがエルの薄い肩を横から抱いた。

 

「エル、遺跡に入りましょう? そしたらきっと聞こえません」

 

 エリーゼに優しく諭され、エルはエリーゼにしがみつくようにして立ち上がった。

 そして、少女二人は足早に、遺跡の入口らしき崖の裂け目に向かって行った。

 

「お姉ちゃんしてるなあ、エリーゼ。うんうん」

 

 そう言うレイアのほうがお姉さんらしい――思ったが、口に出来なかった。

 

「ルドガー、イリス。わたしたちも行こう。子供だけじゃ心配だしね」

「ええ」

「あ、ああ」

 

 

 

 

 ルドガーたちが裂け目に着いた時、エルとエリーゼはいなかった。先に遺跡に入ったのだと察し、3人は肯き合って裂け目を潜った。

 

「うわ……」

 

 つい声が出た。

 

 遺跡の中は、レゴブロックのように平面体があちこちに接地され、線から薄い青緑の光をほのかに放って中を照らしていた。

 時おり電線のように、壁を光の信号が奔っている。

 

「すっご……」

「……イリスの生きた時代以上に技術が飛躍してる。こんな技術がある時代があったなんて……」

 

 レイアもイリスも爛々と目を輝かせてあちこちを見回している。

 

 イリスがいた時代は黒匣(ジン)文明の盛期だったらしいのに、そのイリスが驚いている。本当にとんでもない技術で建築された場所なのだと、ルドガーにも薄々凄さが理解できた。

 

「あ、ルドガー」

「おそい!」

 

 少し先にいた少女二人がルドガーをふり返った。

 

「ごめん。先に入って何もなかったか?」

「んー……とくには」

「よかった」

『ここなら雷も聞こえないからねー♪』

 

 ティポの茶々にエルは頬を赤らめた。

 

「でも、エルは弱虫じゃないよ?」

「――知ってる。エルは泣かないもんな」

「っ…分かってるなら、いいけど」

 

 エルはリュックサックのショルダーを両手で握って、歩いて行った。

 

「エル、無理してるよ」

「ずっと親と離れてる8歳の女の子が泣かないなんて、普通じゃないです」『エリーゼが8歳の時なんて、ぼくはいっつも涙でぐしょぐしょだったしー』

「へえ。エリーゼが」

 

 今度はエリーゼが頬を染めて俯いてしまった。子供のフォローは難しい。

 

「ルドガー。早く行かないと、エルが一人になってしまうわよ」

 

 それはまずい。とりあえずルドガーは急いでエルを追いかけた。後ろからレイアとエリーゼも付いて来た。

 

 

 

 

 カツ…ゥン、カツ…ゥン……

 

 天井が高いせいか、足音がなかなか消えてくれない。

 

「ねえ。前にイリス、人間だった時は今より文明が進んでたって言ったよね。ここってそれよりスゴイの?」

「ええ。まずこれだけの巨大施設を人が建造した、ないし、建造しうる設備を持っていた。次に、黒匣のように精霊を消費せずに機能させている。そして」

 

 そこでイリスは言葉を区切り、指を口に当てて思案するふうを見せた。

 

「――そのくらいかしら。最後のは聞かなかったことにして。確証がないから」

 

 イリスはいつもと変わらない笑みを刷いた。だから、レイアも、ルドガーも追及はしなかった。

 

 

『また来たのか、クルスニクの一族よ』

 

 

「だ、だれっ?」

 

 ルドガーはとっさにエルを後ろにして身構えた。「声」は遺跡内を反響して、どこが音源か掴めない。

 

『私はオーディーン。時の方舟トールの管理システムだ』

「道標の一つね。『箱舟守護者の心臓』」

『いかにも』

「知ってるの? 自分が道標だって」

『それだけではなく、お前たちの弱点も理解している。これは忠告だ。大人しく立ち去ってくれ』

 

 それを最後に「声」は聞こえなくなった。

 

「今の声の人、どうしてここが分史世界って知ってたんだろ」

「大方、イリスたちの前に、別の世界のクルスニクの子が来たのでしょう。イリスたちと同じで、道標を求めて」

「それって、分史世界にもエージェントがいるってこと? そっか、エージェントの人たちに取材した時に、『分史の自分』とか『分史の友人』とか言ってたもんね……」

 

 イリスが歩いて行って、妙な鳴き声のルルと格闘するエルから、ひょいとルルの首根っこを掴んで持ち上げ、床に放った。ルルは器用に着地した。

 

「自分のいる世界が正史か分史かは通常分からないわ。確認しようと思ったら、イリスたちみたいに『道標』を集めて『カナンの地』が呼び出せるか試すしかない。顕れれば良し、何も起きなければ分史世界と分かる」

「じゃ、じゃあ、もしかしてわたしたちのいる世界も」

「いいえ。イリスたちの世界は間違いなく正史よ。イリスは一度、『審判』開始からすぐに最初のカナンの地召喚を成し遂げた。イリスたちの子孫もまた、何人か、かの地を顕すだけなら成功しているのよ」

「そう、ですか……」『よかった~』

 

 エリーゼもティポもほっとしている。

 

「でも、その『よかった』はわたしたちだけのもので、100万近くある『分史世界のわたしたち』は、そう安心できないんだね。『道標』を揃えた瞬間、絶望、するんだよね」

 

 レイアは胸に手を当てた。逸る動悸を抑えようとしているようにも見えて、ルドガーはついレイアの肩を掴んでいた。

 

「……ごめん。変なこと言っちゃったね。先、進も!」

 

 レイアはことさら明るい笑顔を見せてから、一番に遺跡の奥へと歩き出した。

 

「先が観えすぎるのもかわいそうね……」

「先?」

「何でもないわ。ほら、早く行かないと、今度はレイアが一人になってしまうわよ」

 

 それは困る。尋ねたいことも言いたいこともあるが、まずはレイアを追いかけたルドガーであった。



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「残された希望を破壊しないでくれ」

 道なりに進んだルドガーたちは、ついに最奥の部屋に辿り着いた。

 

 立方体を敷き詰めたステージのような高台。それをぐるりと四方から囲んでいる小さなキューブは、まるでオペラハウスの観客席を思わせた。

 

 

『やはり、忠告は聞き入れてもらえぬか』

 

 身構えた。いつのまにか、左手にヤギの骸骨、右手に炎の剣を持った、異形の巨人が現れたのだ。

 

「あなたがオーディーン?」

 

 レイアの冷静な確認の声に対し、巨人もまた静かに首肯した。

 

『お前たちの単位で9万5212年前、一つの文明が滅びた。最後に残った住人たちは、自分たちの体を生体データに換え、封印したのだ。遙か未来、データを見つけた何者かが復活させてくれるのを信じて。このトールには、一つの文明と、42万7086名の生体データが保存されている』

「42万超の生体データ、ねえ……」

 

 イリスは唇に指を当て、小首を傾げて何かを考え込んでいる。

 

『私の願いは、彼らの想いを未来へ繋ぐことだけなのだ。頼む、クルスニクの末裔よ。残された希望を破壊しないでくれ』

「ルドガー……」

 

 エルが不安げにルドガーを仰いだ。

 ルドガーとてエルの言わんとする所は分かる。一度、分史世界に進入した以上、時歪の因子を破壊しなければ帰れない。

 誰にとってどんな希望であれ、ルドガーの仕事は壊すことだ。

 

 ルドガーの手はポケットの懐中時計に伸びる。

 しかし、その手を横ざまに止めた者がいた。イリスだ。

 

「箱舟守護者よ。生体データさえ無事ならば、この世界を破壊しても構わない?」

『何をする気だ』

「イリスは精霊を吸収し、栄養にする体をしている。それと同じ要領で、トールにある生体データをイリスが吸収して持ち帰る。電気信号なんて消化できないから、トールの民のデータが損なわれることはないわ。2000年前のテクノロジーであれば、それが可能なことも知っているでしょう? 箱舟守護者」

 

 オーディーンは探るようにイリスを見下ろしている。

 イリスは悠然と笑んでまっすぐ立っている。

 

『……トールの民に危険だと判断したら、私はすぐにでもお前をデータ化する』

 

 オーディーンの答えは、遠回しながらも肯定だった。

 

「構わなくてよ。そんなことにはならないのだから」

 

 

 

 

 浮かび上がったイリスの外見が精霊態に変わる。

 

 イリスがアームに変じた両腕を広げ上げるや、髪から、背中から、指から、脛から、何千と細い触手が射出された。

 触手はキューブのあちこちに突き刺さった。

 

「――コネクト・オールクリア。ドレイン、スタート」

 

 触手の中を光る液体らしきものが通り、イリス一人に吸い上げられていく。

 分かる。これがイリスの言った「データを持ち帰る」ために必要な儀式。

 

「重いわね……さすがに全員分を抱え込むのは無理そう。――箱舟守護者よ。生体データ量が少ない順にサルベージしていいかしら」

『……それでトールの人々が一人でも多く救われるならば』

「賢明な譲歩に感謝するわ。続けましょう」

 

 

 その後、イリスは、触手をキューブに刺してはデータを吸い上げ、また別のキューブに触手を刺すという行為をくり返した。

 

「どうして……」

「? エリーゼ、どしたの?」

「あんなに不気味な見た目なのに、人助けして……反則です」

 

 エリーゼの目尻にはうっすらと水滴が滲んでいた。エリーゼ自身も気づいて目尻を拭うが、我慢しているのか唇が震えている。

 何となくエリーゼの気持ちが読めた。

 ルドガーはせめて、エリーゼの肩に手を置いた。

 

「俺も、最初はイリスの精霊態、えぐいって思ったよ。いや、今でもたまに思う。イリスが強くなって、手がつけらんないくらい蝕の精霊らしくなってくたびに、思うよ。『バケモノみたいだ』って」

「っ!! ルドガー…も?」

「イリスはそれでいいって言ってくれた。気持ち悪いって感じるのは、身を守る本能だから、むしろそう思わないと駄目だって。そう感じないなら生存本能が壊れてるって。だからさ、エリーゼが今までエルを遠ざけようと思って色々してくれたのだって、正しいことだ」

「知って…たん、ですか」

 

 結構露骨だったから、とは、ルドガーは言わないでおいた。

 

「俺のイリスへの気持ちは、俺の中のクルスニクの血から来るものだ。エリーゼが無理だと思うなら、イリスを好きでいる必要はない。好き嫌いの気持ちなんて、誰にも左右できないんだから」

 

 

 

 

 

 大食い大会などのチャレンジャーには、胃袋を広げるため逆にトライ前に食べるという方法が伝わっている。イリス自身の精霊喰らいとそれは似ていた。一度目は微精霊でも吐いてしまうほどだったが、二度、三度と重ねる内に強い大精霊をも平らげることができるようになった。現代ではセルシウスの「食事」から特にそれが顕著だ。

 

 トール文明の民のデータを吸収するのも、イリスにとっては自己容量を増やすための絶好のチャンスに他ならない。

 もっとも電気信号などイリスには栄養にもならないので、いずれデータを吐き出してジュードあたりにくれてやる腹積もりである。彼なら立場上、有効活用できるだろう。

 

(……ぐらいの収穫しか予想しなかったのだけど。思った以上にイイモノを見つけられたわね。10万年以上前の文明、その成立と発展と存続。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 知らず口が弧を描く。

 もしイリスがルドガーたちに背を向けていなければ、彼らはイリスの笑みを目撃し、その邪悪さにイリスへの心証を変えていただろう。

 

 

 

 

 

 

 イリスがサルベージ作業を終えると、オーディーンは戦うことなく投降した。

 ルドガーはイリスの肯きを受け、骸殻の槍でオーディーンを貫き、『箱舟守護者の心臓』をエルに持たせて持ち帰った。

 

 

 正史世界のウプサーラ湖跡に戻ったルドガーは、真っ先にイリスに歩み寄った。

 

「ありがとう。イリスのおかげで、無駄にみんなが傷つくこともなかった」

「ルドガーにとって幸いならイリスにも幸いよ」

 

 

 ――“ルドガーがおいしいなら、お母さんもお腹一杯”――

 

 

 もはやなじみとなった母クラウディアの思い出も含め、ルドガーはイリスに笑いかけた。



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Interview13 アイリス・インフェルノ
「コドモ扱いしないでーっ」


 新たな分史世界が探知されたと、ヴェルからルドガーに連絡が入った。

 ルドガーが動ける仲間に召集をかけると、ほぼ全員が出揃った(ガイアスだけ都合が合わず来られなかった)。

 

 分史世界のトリグラフに入り込んだ彼らは、3組に分かれて街で聞き込みをすることにした。

 というのも、普段はルドガーのGHSで偏差反応を見ながら時歪の因子(タイムファクター)に近づいていくのに、その画面が機能しなくなっていたため、こうして足での捜索に切り替えたのだ。

 

 ちなみに組み合わせは、ルドガーとエルとレイア(+イリス)、ジュードとローエンとミュゼ、アルヴィンとエリーゼとなったのだが。

 

 

「ねえ、エル。本当にいっしょに行かないんですか?」

 

 エリーゼがエルの両手を持ち上げて、懸命にエルに訴えている。エリーゼはエルに、自分たちと同伴するように誘ったが、エルに断られたのだ。

 

「エリーゼはシンパイショーだなあ」

「だってそっちには……」

 

 エリーゼが視線を流した先を見逃すルドガーではなかった。エリーゼはレイアの影――影に潜んでいるイリスを見たのだ。

 

「だいじょーぶだよ。またこんどね」

「はい……」

 

 エリーゼはようようエルの手を離し、アルヴィンと二人で去った。

 

「ジュード。私たちも早く行きましょう。私、これ以上、精霊殺しの近くにいたくないわ」

「ミュゼっ」

 

 ミュゼは悪びれもしないで、拗ねた子供のようにそっぽを向いて、先に行ってしまった。ジュードが困った顔をしてルドガーをふり返った。

 

「ルドガー。イリス、前にミュゼに、何もしないって言ってなかったっけ?」

「言った。俺も覚えてる」

 

 知らず拳を握り固めた。

 

 ルドガーにとっては親を侮辱されたに等しい。精霊の間でイリスが嫌われ者なのは何となく知っていたが、それをはっきりと形にされて、腹が立った。

 

 ルドガーはエルの手を握ってから踵を返した。

 

「早く行こう。やることやってくれるなら別にいいだろ」

 

 ルドガーとエルに次いで、レイアが、ジュードとローエンに軽く手を振ってから付いて来た。

 

 ふと気づく。このメンバー構成は、ルドガーにとっての最良ではないか。守るべき少女と、恋しい異性と、母のような女性――

 

「ねえ、ルドガー、エル。情報集めだけど、図書館に行かない? ちょっと考えてることがあるの」

 

 ルドガーは慌てて考えを切り替えた。

 

 聞き込みはジュードたちという豊富な人材がいるから、自分たち3人(と1匹)が抜けても大差ないだろう。それに、こういう時のレイアのひらめきは、大体が大当たりする。

 

「エル、いいか?」

「んー。ルドガーがいいならいいかな」

「じゃ、さっそくしゅっぱーつ」

「ナァ~」

 

 

 

 

 

 いざトリグラフ市立図書館に入るなり、レイアは脇目も振らずカウンターに行き、

 

「今から遡って1年分の新聞のバックナンバーを閲覧させてください」

 

 と、司書に頼んだ。

 

 

 司書が数百部はあるであろう新聞を台車に載せて持って来てから、レイアは凄まじいスピードで新聞をチェックし始めた。

 左から右へ読み終わった新聞を積み上げていく。もはや速読だ。

 ルドガーとエルは呆気に取られて見ているしかなかった。

 

 全ての新聞を読み上げたレイアは、溜息たった一つ。みじんも疲れの色を見せなかった。

 

「何か、分かったか?」

「うん。どうもこの分史世界、断界殻(シェル)がなくならなかった場合のエレンピオスみたい。リーゼ・マクシアには入れないよ」

 

 レイアはあっけらかんと答えた。

 

「ど、どうして」

「今日の新聞は正史世界の日付と同じだったから、時間軸はわたしたちの世界と同じでしょ? だったら1年前には断界殻開放が大ニュースになってるはず。でもそんな記事なかった。だからここは、まだ断界殻が割れてない、隔てられたままのエレンピオスだと思うの。それならルドガーのGHSが使えなくなったのにも納得いくし」

「え?」

「多分、時歪の因子はリーゼ・マクシアにあるのよ。断界殻の向こう側のね」

「あっ」

 

 言われて、ルドガーも意味を理解した。

 

「どーゆーこと?」

「断界殻を破ってリーゼ・マクシアに渡らない限り、わたしたちは正史世界に帰れないってこと」

「そんなのこまる!」

 

 エルが身を乗り出した。大声を上げたので閲覧室の利用者が訝しげにこちらに注目した。

 ルドガーは慌てて「しーっ」とエルに言いつけた。エルも分かったようで、慌てた様子で口を塞いだ。

 

「一旦出ようか」

 

 新聞のバックナンバーを台車に再び戻してから返却し、ルドガーたちは図書館を出た。

 

 すると、ルドガーたちが人の少ない場に出るのを待っていたかのように、宙に紫の立体球形陣が結ばれ、中からイリスが舞い下りた。

 

「断界殻の突破には、考えはあって?」

「うーん」

 

 ルドガーは腕を組んだ。リーゼ・マクシアへの行き方。マクスバードもシャウルーザ越溝橋もない、そもそも異次元にある異世界。

 

「ここはイリスに任せてもらえないかしら?」

「イリス、断界殻破れるの!?」

 

 レイアが元からまんまるな目をさらに丸くした。

 

「やったことはないけど、今のイリスにならできる。1000年前までのイリスじゃない。心配しなくても誰も傷つける方法じゃないわ。イリス自身も」

 

 優雅に銀髪を肩から払うイリスは、確かに自信に満ちているように見えた。おまけにイリスが我が身を傷つける方法でないなら、願ったり叶ったりだ。

 

「分かった。頼む」

「いい子ね」

 

 下から頭を撫でられた。ラバースーツ越しの掌を、とても温かく感じた。

 

「ルドガー、コドモみたい」

「あら、ごめんなさい」

 

 イリスはルドガーの頭から手を引くと、今度はエルの頭を帽子の上から撫でた。

 

「コドモ扱いしないでーっ」

「ふふふ。可愛い子」

 

 ルドガーがしゃがむと、イリスはエルを撫でていた手と反対の手をルドガーに伸べた。イリスはルドガーとエルの両方を緩やかに抱き寄せた。

 

「可愛い可愛い、ミラさまの子どもたち。こうしてそばにいられる。何て、幸せ」

 

 それが本当にやわらかい声だったから、不覚にも胸に熱いものが込み上げた。

 ルドガーはごまかすように、小さく俯いた。



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「さすが記者のタマゴ」

「よぉし。目途が立つんなら、ジュードたちに集合かけちゃうね」

「あ、ああ」

 

 レイアはGHSでメールを打ち始めた。ルドガーがいつも見惚れてやまない、あのキレイな笑顔で。

 

 イリスの腕が緩んだので、名残惜しくはあるが、ルドガーは立ち上がってレイアの横に並んだ。

 ちなみにエルは抱えたルルの毛並みに口元をうずめてむくれている。かわいい。

 

「みんな、どれくらいで来られそうだ?」

「5分もかからないんじゃないかな。同じ街の中だもん。ただ……」

「ミュゼ、か」

 

 これにはルドガーとレイア、合わせて肩を落とし、溜息を吐いた。

 ミュゼはイリスを嫌っている。イリスが「精霊殺しの精霊」だから。

 

「なるべく距離取らせて、あんまり話さずにすむように俺たちで間に入ろう」

「うん。わたしもそのくらいしか思いつかないや。何もないといいんだけど」

 

 

 先に図書館前に来たのはアルヴィンとエリーゼだった。

 エリーゼはイリスを見て一瞬だけたたらを踏んだが、すぐにエルのもとへ歩み寄った。

 

 アルヴィンはルドガーとレイアのほうへ来た。

 

「よ、レイア、お手柄じゃん。さすが記者のタマゴ」

「これでも毎朝新聞はチェックしてるもんね」

 

 レイアは両手を腰に当てて胸を張った。

 

「それ、デイリートリグラフの備品の自社製品でしょーが」

「だって自分で買うと生活費かさむんだよー」

 

 とりとめもない話をしていると、ジュードとローエン、そして心配の種であるミュゼが来た。これで全員が揃った。

 

 案の定、ミュゼはイリスから一定の距離を取って浮いている。

 

(本当に何事も起こりませんように)

 

「ルドガー。レイア。イリスが断界殻(シェル)を破れるって本当?」

「ああ。詳しいことはイリスから話すって。――イリス」

 

 ずっとしゃがんで膝で頬杖を突いて微笑んでいたイリスは、キュロットスカートを払って立ち上がった。

 

 

「簡単よ。隔世の殻の近くまで船で行って、イリスの蝕で殻に穴を開けるわ」

 

 

 ルドガーとエルを除く全員が驚きに息を呑み、目を瞠った。

 

「できるわけない」

 

 一番に口を開いたのはミュゼだ。

 

断界殻(シェル)はマクスウェル様が大量のマナを使って築いた破格の閉鎖術式。お前ごときに破れるものですか」

「そうね。元はイリスにもそれだけの力はなかった。あれば2000年前、とっくに破って“道標”を回収してるわ」

 

 イリスは自身の両腕を抱き締め、悔しげに俯いた。しかし、すぐに顔を上げた。

 

「けれどその臨界点を超えたの。つい最近。トール文明のデータを吸収したあの日に」

 

 イリスは嫣然と笑んで、愛しむ手つきで下腹を撫ぜた。――トール遺跡の分史世界から帰って来て、イリスは「また一歩前進した」と嬉しそうにしていたが、あれはそういう意味だったのか。

 

「ただ、次元刀の言う通り、その強度は確かなもの。穴を開けるだけのマナを照射したら、イリスは実体を保てなくなるかもしれない。消滅するわけじゃない。でも肝心な時にそばにいられない。それが不安だわ」

 

 イリスが見つめたのは、ルドガーとエル、それにレイア。クルスニク血統者である自分たちと、契約者。それだけがイリスにとっての不安材料。ジュードらは含まれていない。

 それでもあえてルドガーは口にした。

 

「俺は安心した。実体化してないなら、傷ついたり血を流したりすること、ないから」

「……イリスは消えていたほうがいい?」

「そうじゃないよ。でもイリスって、自分のこと度外視で突っ込むとこあるから。嬉しいんだけど、同じくらい不安になるんだ。もちろんそういう心配しなくていいなら、いつだってそばにいてくれたほうが俺だっていい」

「ルドガー……ありがとう。本当に優しい子ね」

 

 イリスはまるで眩しいかのように目を細め、微笑んだ。

 

 

 

 

 

 ルドガーらはトリグラフ港に行き、借りられる船を探した。

 分史世界でもクランスピア社は隆盛のようで、ルドガーが社章バッジを見せてエージェントだと名乗ると、大した時間もかからず一隻のクルーザーを調達できた。

 

 かくして、彼らはクルーザーに乗って海を駆け、断界殻(シェル)を目指すこととなった。

 

 操舵手はアルヴィンだ。横ではイリスが方角と操舵方法の指示を出している。イリスの示す方向へ、船は海を走る。

 

(イリスとアルヴィン、近い。なんか面白くねえ)

 

 運転席を覗いていた自身は棚に上げ、ルドガーはデッキのエルとレイアのもとへ行った。

 

「エル。気分悪くないか」

「へーきだしっ。全然」

「よかった。でも具合悪くなったら近くの誰でもいいから声かけるんだぞ」

「わかってるよー。もー、ルドガーといいエリーゼといい、エルの周りはシンパイショーだらけなんだから。ねえ、ルル?」

「ナァ~」

「それだけエルが好きなんだよ」

 

 エルはぱっと真っ赤になった。エルはルドガーを小さな力で突き飛ばし、エリーゼのもとへ走って去ってしまった。

 

「こーらっ」

 

 レイアが軽くルドガーの腕に体当たりした。

 

「女の子に気軽にスキとか言わないっ」

「まだコドモじゃないか」

「コドモでも女の子なの。エルだって」

「……分かったよ」

「――楽しそうね。何のお話?」

 

 イリスがデッキに出て来た。

 

「いいのか、出て来て」

「後はまっすぐ進むだけだから、アルヴィン一人でも大丈夫」

 

 海風になぶられる銀髪を、ラバースーツに覆われた手が押さえる。

 

「1000年、いえ、2000年経っても、海は変わらないものね。磯の香りと生ぬるい風。レアバードで空を翔けた日々を思い出すわね。ふふ」

 

 それを聞いて思い出すのは、夢で見せられた、人間だった頃のイリス。

 小さなイリスが暮らしていた文明は、現代のエレンピオスを超えたテクノロジーで成立していたが、海を含む自然の荒廃と引き換えの発展だった。

 

黒匣(ジン)で精霊を殺すのが当然だった世界で、たった一人、尊師だけはそれをオカシイって言った。当時の人たちからしたら、さぞ変人に映っただろうな。イリスは尊師の主張の内容より、尊師その人に心酔してたから変に思わなかったけど。そういえばジュードも黒匣(ジン)をやめようって呼びかけてるから、ジュードは現代のクルスニクってとこか)

 

 2000年前のエレンピオスと異世界だったリーゼ・マクシアの奇縁に、運命の妙とはこのことかと内心感心するルドガーであった。

 

「ねえイリス。イリスが封印されたのは1000年前なのよね?」

「ええ、レイア」

「じゃあ、封印される前の1000年はどんなふうに過ごしてたの?」

「そうねえ――」

 

 レイアはメモ帳にハートモチーフのペンをセットしていつでもOK状態。こういう時のレイアの生き生きとした表情が、ルドガーは好きだった。

 

「毎日毎日、原初の三霊にどう報復するかばかり考えていたわ。どうすれば奴らにミラさまや同胞たちの苦痛を思い知らせてやれるか。そうして実際にクロノスとエンカウントしては戦って、ボロクズにされて、身を潜めて傷の癒えるのを待って、またまみえては、戦って」

 

 ルドガーは手摺に突いたイリスの手の上に手を重ねた。ぴく、とイリスは反応したが、話を続けた。

 

「そんな1000年に先に飽き飽きしたのは番犬のほうだったみたいね。番犬は時空を操る力でイリスをあの地下に封印したの。それから1000年は、誰とも会わず、地上で精霊の娯楽に消費されていくクルスニクの子たちの嘆きを聴いて過ごした――」

 

 その時のことに思いを致しているのだろう、イリスは遠くを見るような目をした。

 クルスニク血統者の全てを我が子のように想うイリスのことだ。きっとクルスニクの誰かが死ぬたび、時歪の因子(タイムファクター)化するたび、クロノスに傷つけられるたび、慟哭したに違いない。そして、悲しみを憎しみに変えて、誰かがイリスを解き放ちに来るのを、ひたすら待ち続けた――

 

「ごめん。わたし、無神経だった」

「そんな顔しないでっ。イリスなんかの過去も記してくれるなんて、光栄に思ってるのよ? 本当よ?」

 

 俯いたレイアの両肩に、イリスは慌てたように両手を置いた。

 

「イリスの過去に興味を持った者は、クルスニクの子どもたちだけだった。だから、そうじゃない貴女が、後世に伝えるために興味を持ってくれるなんて嬉しいの。だからレイア、謝らないで」




 たまに1000年と2000年がごっちゃになってないか? とお思いの読者様。実はこういうことだったのです。

 レアバードが2000年前のエレンピオスにあったというのは完全なる捏造設定ですのでどうぞ真に受けないでくださいませ。


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「できるわけないわ」

 ついにクルーザーは、一見して大洋しか広がっていない海のど真ん中で航行を止めた。

 

「ここよ。いずれ貴方たちが『断界線(シェルライン)』と呼ぶ場所。今でこそこうして断界殻(シェル)がふてぶてしく邪魔しているけれど」

 

 ルドガーたち全員が見守る前で、イリスはデッキの突端に絶妙なバランスで立った。

 

「やってごらんなさいよ。できるわけないわ」

 

 応えて、イリスは小馬鹿にするような笑みを浮かべた。ミュゼはさらに目を眇めた。

 それだけのやりとりに、人生で一度も見たことのない剣呑さがあった。

 

「精霊態のほうが早いのだけど、そしたら足が接しているこの船まで蝕んでしまうからね。ちょっと時間をちょうだい」

 

 イリスは無造作に紫のジャケットを脱いで落とし、ラバースーツの右腕を覆う部分だけを脱いだ。危うく右側の乳房が露出しそうな脱衣だった。

 イリス本人は気にしたふうもなく、素手を何もない空間にかざした。

 

 すると、そこに透明な壁でもあるかのように、空間が黒ずんでいく。じわじわと。雪白に落としたインクのように。

 ――イリスの蝕のマナが、空間を隔てる殻を、蝕んでいる。

 

「うそ……」

 

 ミュゼの呆然とした呟き。ルドガーは内心、それ見たことか、と思った。

 

(イリスはできもしないことなんて言わないんだ)

 

 やがて黒ずみは止まり、タマゴの殻が一点から全体に向けて割れるように、ヒビが走った。

 

 黒い空間が朽ちて落ち、そこは背の低いトンネルに姿を変えた。

 

 イリスはラバースーツを着直し、デッキに降りてジャケットを羽織り直した。妙にほっとした。

 

「ここを潜り抜ければリーゼ・マクシアよ」

 

 

 

 

 

 イリスが断界殻(シェル)に開けた穴をクルーザーで通り、彼らはリーゼ・マクシアの大洋に出た。

 

 そこから陸地できる場所を探すのが大変だった。クルーザーは黒匣(ジン)技術の塊だ。この世界のミラ=マクスウェルかミュゼに見つかれば、諸共殺されかねない。

 

 なるべく人気のないサマンガン海邸よりの波止場を見つけて上陸し、ルドガーはやっと息をついた。

 

 同行者たちをふり返る。

 ちょうどエリーゼがエルを支えて調子を聞いていた。レイアのほうは、すっかり伸びきったルルを揺さぶって元に戻そうとしていたものだから、笑いを堪えるのが大変だった。

 

「ところでここ、リーゼ・マクシアのどこなんだろ」

 

 その疑問に答えるかのように、ローエンがルドガーに声をかけた。

 

「あれを見てください。ガンダラ要塞です」

 

 ルドガーたちのいる荒野より遠くに、巨大な建造物がそびえ立っている。

 

「確かカラハ・シャールの近くだよな」

 

 エルを預けているのはカラハ・シャールなので、カラハ・シャール周辺であればルドガーもぼんやりと地理を把握できた。

 

 GHSを出してフリップを開く。偏差反応が強いのはガンダラ要塞の方向だ。どうやら今回の時歪の因子(タイムファクター)はあの要塞にあるらしい。

 

「みんな、いるな?」

 

 エル、レイア、ジュード、アルヴィン、エリーゼ、ローエン、ミュゼ――顔ぶれから欠けた人物がいないことを確認する。

 同時に、大所帯なので目立つだろう、とルドガーはげんなりした気分になった。

 

 

 

 

 ひとまず一行はガンダラ要塞に向けて進路を取った。

 

 要塞をぐるりと囲んだ柵に添って要塞側面に回り込む。哨戒の兵士に見つかって無駄に消耗したくなかった。

 

 断崖が陰を作る位置まで回り込んだところで、ローエンがルドガーたちにストップをかけた。

 

「皆さん、あちらを」

 

 ローエンが指さしたのは、3人の男。積み上げた荷箱の一番上に立つのはジュード、下でジュードに何事かを伝えているのはローエンとアルヴィンだ。

 

 もちろん3人ともルドガーたちの側にいる。つまりあの3人は、分史世界での「ジュード」と「アルヴィン」と「ローエン」なのだろう。

 

 その内、「ジュード」が壁の排気口の金網をどけ、中に潜り込んだ。間を置いて「アルヴィン」と「ローエン」も荷箱を登り、「ジュード」に続いて排気口の中に入った。

 

「どうやら去年我々がガンダラ要塞に侵入した時のようですね」

「1年前の時間軸の分史世界か。てことは、中には『エリーゼ』と『ミラ』がいるわけだ」

 

 ミラの名が出た途端、ジュードが顔色を蒼白にした。

 

(ジュード、まだ引きずってるのか。初任務で行った世界の『ミラ』のこと)

 

 年端もいかぬ少女だったマクスウェルが、分史世界のジュードと彼の父親を殺した場面を目撃してしまったこと。それがジュードの心に濃い影を落としている。ルドガーにも分かっている。

 

 ルドガーはGHSを出して、分史世界内における偏差反応を示す画面を見た。

 

「――追いかけよう。この要塞の中、偏差が他より強い。時歪の因子(タイムファクター)があるとしたらこの中だ」

 

 ここからでは遠目で視えなかったが、もしかするとあの3人の中の誰かという可能性も考えられたものの、そこまではあえて言わないルドガーだった。

 

 全員が動き出す中、ミュゼがジュードに声をかけた。

 

「ジュード」

「分かってる。落ち込んでる暇があったら、源霊匣を完成させる努力をするよ」

「――ガイアスだったらきっと『それでいい』って言うんでしょうね」

 

 たったそれだけの会話。慰めも励ましもない。それだけだが、ジュードをガンダラ要塞に向かわせるだけの効果はあったらしい。

 

 要塞内の事情に明るくないルドガーは殿(しんがり)に付こうとした。

 すると、前にいたエルがぴょこぴょこと戻って来て。

 

「エル、ルドガー、まちがったこと言ってないと思うな」

 

 エルはそれだけ言って、先に行った皆に続いて行ってしまった。

 

 先ほどのジュードとミュゼのような、わずかな言葉だけで通じ合える関係。

 どうやらルドガーにとってその相手はエルらしい。




 イリスがこういうことをできるようになったのは、先にトール文明でのデータサルベージによる、本人のキャパシティ拡張があったからであって、2000前の精霊なりたてのイリスにそこまでの力はありませんでした。


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「探したのよ、ずっと!」

 ルドガー一行は分史世界の「ジュード」たちと同じように排気口から要塞に入り、ローエンの案内で要塞内を進んだ。

 一番に選んだ目的地は捕虜を閉じ込める牢のあるスペースだ。一度「ミラ」が時歪の因子(タイムファクター)であったことから、今回も「ミラ」が時歪の因子かもしれないと予想したからだ。

 

 だが、牢まで行ってルドガーたちが見たものは、時歪の因子も何も関係ない、一つの死体だった。

 

「お嬢様……?」

 

 ローエンが呆然とした声を上げた。

 

 明滅する呪帯(と呼ぶのだとローエンに聞いた)の向こう側で、特に下半身を惨たらしく損ねて転がる死体は、ドロッセル・K・シャールのもので間違いなかった。今日もエルを迎えに行った時に、笑顔で「いってらっしゃい」と言ったあの若き女領主だった。

 

「ドロッセルが、どうして」

 

 エリーゼが言い切る前に、足音がした。二人分だ。ルドガーはとっさに双剣の柄に手をかけた。

 

 現れたのは、ルドガーにとっては意外であり、再会を焦がれた相手でもあった。

 

「ユリウス……」

「やっぱりお前だったか」

 

 再会できて嬉しい。嬉しいのに。ルドガーは心から喜べない。ユリウスもそれは同じなのだと表情から読み取れた。

 

 気まずい間が空いた時、ユリウスの後ろから、もう一人の足音の主が現れた。

 豊かな金蘭の髪に横顔を隠された、一人の女。

 

「ミラ、なの……?」

 

 金髪をなびかせ、女はふり返った。

 マゼンタの目に、今にも泣き出しておかしくない哀しみを湛えて。

 

 ジュードはミラの名を呼んだだけで、ミラに自ら近づこうとはしない。ミラのほうも、ジュードだけでなく、こちら側の誰に対しても歩み寄っては来ない。

 

 石化したかのような時間が永遠に続くのではと思った所で、

 

「ああ、ミラ! 探したのよ、ずっと!」

 

 ミュゼが一番に、文字通り飛んで行ってミラに抱きついた。

 

「すまない。心配をかけたようだな」

 

 ミラは、マゼンタの瞳に湛える哀しみはそのままに、ミュゼを抱き返した。

 

(ミュゼにとっては妹との再会なんだから、喜んで当然だ。けど、けどっ、すぐ近くに死体が転がってるんだぞ!? そんな状況でよく。精霊ってみんなこんな神経してるのか? ユリウスでさえためらったのに)

 

 ミュゼ以外の誰も声を上げない中で、一番に口火を切った勇者は、アルヴィンだった。

 

「ミラ。何があったんだよ」

 

 短い問いかけながら、ミラという彼女に何が起きてこの光景に至ったのかを、アルヴィンは的確に問うている。

 

「殺した」

 

 ミラはぽつりと口にした。

 

「『私』が殺したんだ。ドロッセルを。マクスウェルの使命を果たすためだけに」

 

 そこで急に悪寒が走った。ルドガーはその原因――斜め後ろに立っていたイリスをふり返った。

 

「イリス、どうし……」

 

 ふり返ったイリスは俯いていて、無言でラバースーツに包まれた腕を上げた。

 指差すのは、ミラ。

 

 ルドガーは再び、ミラを何気なくふり返った。

 

 ミラが立っていた位置だけ、床のプレートがじゅわりと溶けた。



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「じゃあ、お前は、『何』?」

 直前までミラがいた場所は溶解していた。ミュゼがミラを抱えて飛翔しなければ、ミラも溶解した床のプレートと同じ運命を辿ったに違いなかった。

 

「何するのイリス!」

 

 着地したミラを庇って、ジュードが前に出る。

 しかし、イリスから溢れる瘴気は治まらない。

 

「『それ』がマクスウェルですって?」

 

 呼気さえ毒に変えてしまいそうなほどに今のイリスは禍々しい。何故かは分からないが、ミラが「マクスウェル」であることが琴線に触れたのは間違いない。

 

「マクスウェル、貴様! よりによって己が捨てた女の顔を被ってイリスの前に立つか!」

 

 触手が無尽にミラへと放たれる。ミラは四大属性のレーザーを雨霰と降らせて対抗するが、触手は地水火風のマナを濃縮した光線に触れるや、それを黒く染めた。レーザーは腐った土くれに変じてボタボタと地面に落ちた。

 

「私が、捨てた――?」

「その身のマナの一滴まで蝕んでやろうと思ってたけど、やめた。その顔、時間をかけて腐らせて爛れさせてやる。あの方のご尊顔を現つ世の姿に選んだことを後悔なさい、老害」

 

 イリスは前屈みになる。殻が消え、後頭部から腰へかけて、背中の皮を突き破って無数のコードと、水晶で構成された翼刃が咲いた。ぎちぎちと詰まった大小数百の回路。

 甲殻類の肢。骨は金属アームへ、チューブを床に垂らして。顔はペルソナへ。

 

 腐臭が漂い始める。ルドガーは口を押えた。レイアもユリウスもだ。えぐい。何度見てもイリスの変態は引く。慣れない。それ以上に、トール遺跡でデータをサルベージしてからのイリスは、初対面の時より格段に酷くなっている。

 

「貴様は何を言っている! 私は外見を偽ってはいないし、ましてや女を捨てた覚えもない!」

「黙れ愚劣漢!」

 

 触手を何本も束ねて太くし尖端を付けた即席槍がミラを襲う。ミラは壁を走って全て紙一重で躱しきった。

 尖端が刺さった壁はみるみる錆びていった。天井も割れ、破片が落下し、空の光が要塞の中に注ぎ込む。

 

「命の一滴までマナを捧げ、心の一欠けまで愛を捧げた尊い御方――ミラ・クルスニクさまを忘れたと吐かすか!!」

 

 その叫びでルドガーもようやくイリスが怒る理由を理解した。

 

 イリスはミラを、老マクスウェルがミラ・クルスニクに化けた姿だと思い込んでいるのだ。老マクスウェルが死んだと知るルドガーからすれば、これほどぶっ飛んだ解釈もない。

 

「ユリウス、レイアを頼む! エリーゼはエルを!」

「ちょ、待っ、危ないよ!?」

「ルドガー!?」

 

 ルドガーは戦場へと走りながらクォーター骸殻に変身した。

 イリスはクルスニク血統者を傷つけられない。ルドガーが割って入れば攻撃の手を止めざるをえない。

 

 激戦は続いている。地水火風の算譜法(ジンテクス)が惜しげもなく入り乱れ、物質を蝕む触手がそれらを腐らせ無効化する。

 触手の尖端がミラを狙い、ミラは四大精霊のサポートでそれを防ぐ。

 

「イリスッ!!」

 

 肺の酸素を全て吐くつもりの大音声で彼女を呼ばう。

 触手の動きが乱れる。

 

 ルドガーは槍の柄で触手を弾きながら、ミラを背にイリスの前に立ち塞がった。

 

「どうして……」

 

 邪魔をするの? とでも続けたそうな、悲しげな表情。

 

 ルドガーが呼びかけただけで平静を取り戻してくれた。その信頼に、ルドガーも精一杯の誠意で事のカラクリを説明しようと決めた。

 

「彼女はイリスの憎んでる『マクスウェル』じゃない。尊師に化けてるんでもない」

「……どういうこと?」

「イリスが知ってるマクスウェルは、正史世界ではもう死んでるんだ。断界殻(シェル)を解くために」

「――、え」

「ここにいるミラ=マクスウェルは2代目のマクスウェルだ。先代に生み出された後継者。イリスの憎んでるマクスウェルとは別人なんだよ」

 

 目を見開いて固まるイリス。

 ルドガーは骸殻を解く。もうイリスから瘴気は感じない。

 

 やがてイリスは浮力を失って床に崩れ落ち、その拍子に人間態に戻った。

 

「ほんと、う、なの? マクスウェル、が、死、んだ、なんて」

 

 瞬きもせず震える声で、誰にともなく問いかけるイリスが、とても痛ましかった。

 

「事実だ。私は先代からマクスウェルの座を継いだ。先代の死によって、断界殻(シェル)は術者を失って消滅した」

断界殻(シェル)が開いたのは…奴が解いたからじゃなく、死んだ、から…」

「そうだ」

 

 イリスの呆然とした独り言にも、律儀にミラは肯いた。

 ミラの声に反応し、イリスはゆるゆると頭を上げた。

 

「じゃあ、お前は、『何』?」

「私はミラ=マクスウェル。先代マクスウェルに産み出された、人と精霊の守り手だ」

「……精霊は『鋳造』はできても『生産』はできない。お前がマクスウェルに造られたというなら……その姿形は、ミラさまのお姿に他ならない。声も、髪も、肌も、肉も、佇まいも、何もかもがミラさまで出来てる!」

 

 イリスは拳を振り上げ、瓦礫の散らばる中に思い切り打ち下ろした。

 

「似姿を造るくらいなら何で本物のミラさまを捨てた! ミラさまはずっとずっと…っ…マクスウェルだけを求めていたのに!」

 

 認めたくないけれど叫ばずにはおれない。矛盾した激情をイリスの絶叫から感じた。

 

 ルドガーはしゃがみ、イリスの両肩に手を置いた。

 イリスは他者に触れて本格的に感情の堰が切れたのか、歯を食い縛って床に爪を立てた。泣かなかった。

 

 するとレイアが進み出て、しゃがんでイリスを背中から抱き締めた。

 そうされて、ようやっと、翠眼から涙が流れた。

 落ちた涙は次々と床のプレートを灼いた。イリスは幼子のようにしゃくり上げ続けた。

 

 ルドガーは無言で、彼女たちを見守るしかできなかった。



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「皆に迷惑をかけたという話だ」

 

 

 

 やがてイリスの泣き声は小さくなっていき、イリスは顔を上げ、レイアを顧みた。

 

「……ごめんなさい。レイア」

 

 イリスは指で、泣き腫らした目元の涙を拭った。

 

「イリス、これ、貸したげる」

 

 エルがイリスに小さな両手で差し出したのは、花柄のピンクのハンカチ。

 

「ありがとう。でも、いいわ。イリスの涙を拭いたら、エルの可愛いハンカチを黴だらけにしてしまう」

 

 イリスの涙が落ちた床は、硫酸でも垂らしたように穴だらけだった。ハンカチの布地など一溜りもなかろう。

 

 

 さて、と。ふり返れば、分かりやすく反応が分かれている。

 

 ミラとやり合ったことにより、イリスに少なからず反感を表しているのが、ジュードとエリーゼ、ローエンにミュゼ。

 イリスにまだ肯定的と言えるのはレイア、それにエルとユリウス、アルヴィン。

 

(この先の仕事で手伝いの手が減るのはもう諦めるとして。せめてこの分史世界を出るまでは協力し合わないと)

 

 

「それで」

 

 重い沈黙の中、凛とした第一声を発したのは、ミラ=マクスウェルだった。

 

「お前は私をどうしたい? 蝕の精霊。私に非があるとお前が訴えるなら改めよう」

 

 ミラはイリスへと手を伸べた。

 イリスはその手を見て、その手を借りずに自力で立ち上がった。

 

「お前はイリスが殺したいマクスウェルじゃない。だから殺さない。かつてのマクスウェルのように、クルスニクの子どもたちに害をもたらさなければ、ね」

 

 後ろでレイアがほっと胸を撫で下ろしたのが見えた。

 

「私は人間をいたずらに傷つける気はない。人は守るべきものだ。お前とも、叶うなら善き関係を築いていきたいよ、蝕の精霊イリス」

 

 ミラが改めて右手を差し出した。

 イリスはじっとミラの手を見下ろし、手を握り返した。

 

 周りの空気がぱああっと明るくなった。

 

 2000年の時を経て分かり合ったクルスニクの娘とマクスウェルの娘。歴史的、そして感動的な一幕――

 

 次の瞬間、ミラがイリスの手から乱暴に逃れて下がった。

 

「ミラ、どうしたの!?」

 

 ミラに滅法甘いジュードが真っ先にミラの右手を診る。

 ミラの右手は、手袋の布地は黴が生えて崩れ、手の平は水膨れができていた。

 

 ジュードらが実行犯のイリスに注目する。受けるイリスのまなざしは、まさしく石だった。

 

 精霊の主と精霊殺しの眼光がぶつかり合った。

 

 この時ルドガーは悟った。

 

 ――分かり合うなどとんでもない。この二人の女は不倶戴天の敵にしかなりえない、と。

 

 

 

 

 

 

 覆せない結論に立ち尽くしていると、床が大きく揺れた。

 

「な、なにっ?」

「――おそらくこの世界の『私』がナハティガルを追って呪帯を越えたんだろう。呪環の爆発も顧みず」

「てことはこの後、俺らがミラを拾って要塞から脱出するから~……」

「確か、カラハ・シャールのドロッセルさんのお屋敷に戻って、休ませてもらったんだね」

「そうそう。ミラサマの足。一時はどうなることかと思ったよな」

 

 アルヴィンの台詞を聞いた途端、ミラは苦く顔を伏せた。

 

 ジュードとアルヴィンが困惑している。彼らの中では思い出話の一つだったはずが、ミラにはそうではなかったのが何故か分からない――といった感じだ。

 

 空気を変えるためにもルドガーはジュードらに尋ねてみた。

 

「足って何のことだ?」

「……私が愚かにも危険に突っ込んで皆に迷惑をかけたという話だ」

「ミラ、本当にどうしたんですか?」『なんかヒクツっぽいよー』

「卑屈になっているわけではない。この世界の『私』の在り様を見て、本心からそう思っただけだ」

 

 ジュードら昔なじみ組はしきりに頭をひねっている。ミラを知らないこちらのクランスピア組はそれを見てさらに首を傾げる。悪循環だ。

 

「――偏差反応が消えた。ここにはもう時歪の因子(タイムファクター)はない」

 

 見れば、ユリウスがGHSのフリップを開いて、難しい顔をしていた。その事務的な態度に救われた。

 

「んー。よくわかんないけど、カラハ・シャールに行けばいいってこと?」

「あ、うん、そうだね」

 

 エルがバッサリまとめ、ジュードが抜けた返事。

 グッジョブ、の意を込めてルドガーはエルの頭を撫でくった。

 

「あんまり長居したくもねえしな……」

 

 アルヴィンが流した視線の先には、この世界のドロッセルの死体。

 

「皆さん、すみません。ワガママを言ってもよろしいでしょうか」

 

 声を上げたのはローエンだった。

 

「お嬢様をこのままにしておくことは、私にはできません。例え壊れて崩れる世界でも、せめてお嬢様を弔わせてはいただけませんか?」

 

 ローエンは宰相になる前にシャール家の執事だったと、いつか聞いた。今でも、時おりドロッセルを訪ねるローエンの態度は恭しいものだとエルが言っていた。

 

「――分かった。じゃあ俺たち、先に外に出て待ってるから」

「いえ。皆さんは先にカラハ・シャールへ向かってください。このタイミングで時歪の因子(タイムファクター)がなくなったというなら、1年前の『私たち』の誰かが時歪の因子(タイムファクター)かもしれません。時間を置けば追いつくのが難しくなってしまいます」

 

 ローエンの気遣いはありがたい。ありがたいのだが、ドロッセルの死体を前にしたローエンを一人置いていくのは、やはり心配だ。

 

「俺も残るわ。おたくらは先に行け」

「アルヴィンっ?」

「じーさん一人じゃ何かと大変だろ」

「……ありがとうございます。アルヴィンさん」

 

 ローエンとアルヴィンが呪帯の向こう側へ足を踏み入れようとした時――アルヴィンの背にエリーゼが体当たりした。

 

「うおわ!? どしたよ、エリーゼ」

 

 エリーゼはアルヴィンの背中に頭を押しつけ、イヤイヤをするコドモのように首を振った。

 

 アルヴィンが助けを求めるようにこちらを見返すが、ルドガーたちとてエリーゼの行動の意味が分からない。

 

「じゃあ僕が残るよ」

 

 ジュードが素早く、それでいて自然に交替を申し出た。

 

「アルヴィンはみんなと行って。――それならいいよね、エリーゼ」

 

 エリーゼは小さな声で、はっきりと肯いた。



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「僕一人がいつまでもずーっと」

 ※Attention※ジュードの精霊アンチ発言あり。注意されたし。


 ルドガーたちは、ローエンとジュードを残して、ガンダラ要塞の裏から外へ出た。

 

「そういえば、ユリウス、どうしてミラと一緒にいたんだ?」

 

 ユリウスとミラが顔を見合わせた。

 アルヴィンたちもそこは気になっていたようで、全員の視線が二人に集まった。イリスだけだ、背中を向けて態度で「どうでもいい」と語っているのは。

 

「俺のほうは、エージェントから逃げて進入した先がこの分史世界だった。そして彼女も。クロノスと運悪くエンカウントして、奴にこの分史世界に落とされた」

「私はマクスウェルだが、次元を超える力そのものはミュゼに全て預けてある。独力でこの世界から出ることはできずにいた。そんな時に、カラハ・シャールの市で、この世界の『私』や『ジュード』を見つけて……その……」

「『ここの君たち』の中の一人が時歪の因子(タイムファクター)だったんだ」

 

 家では聞いたこともない淡々とした口調だった。

 

「俺が時歪の因子(タイムファクター)を破壊しようとした時、彼女が止めに入った。その時の彼女は分史世界の成り立ちを知らなかったから、単純に仲間を守ろうとしたんだよ」

「ひょっとしてユリウスさん、ミラと戦ったり……」

「した」

「よ、よく生きてましたね~……」

 

 言ったレイアを初め、アルヴィンやエリーゼもぽかんとしている。レイアが言うほどだから、この精霊の主は相当に強いのだろう。先ほどのミラがイリス相手に苦戦していたのは、単に相性が悪かったからか。

 

「クラウンは骸殻だけで勝ち取った称号じゃないぞ。――まあ俺も最初は、相手がマクスウェルだなんて思いもしなかったから、話が噛み合うまで時間がかかったんだが。ようやくお互い納得が行った頃には、時歪の因子(タイムファクター)はこの要塞に移動した後。追いかけて来て、お前たちに出くわしたというわけだ」

 

 ミラは小さく俯き、口を開いた。

 

時歪の因子(タイムファクター)についてはユリウスから聞いた。破壊しなければ正しい世界に帰れない。時歪の因子(タイムファクター)がヒトでもモノでも関係なく。本当なんだな?」

「本当だ。俺も今までそうしてきた」

「やはり、そうか。そうなんだな。どうあっても――この世界の『ジュード』を殺さなければならないんだな」

 

 

 

 

 

 ルドガーたちはル・ロンドに向かう船の上にいた。

 

 今はめいめい自由行動時間だ。そこでルドガーが取った行動はというと、一人でいたユリウスに声をかけることだった。

 

「レイアといなくていいのか?」

「それは後で。ちょっと言っとかないといけないことがあったからさ。――海瀑幻魔の分史世界の時、守ってくれてありがとな」

 

 ユリウスは目を白黒させてから、ふっと苦笑した。

 

「……守ったと言えるほど大したことはしてないぞ。初撃で吹っ飛ばされたからな」

「でも戦おうとしただろう? だから、あれからずっと言わなくちゃって思ってたんだ。イリスから聞いた。ユリウス、もう結構、時歪の因子(タイムファクター)化、進んでるんだろう?」

「あの導師どのは全く……よけいなことばかり吹聴してくれる」

 

 ユリウスは黒い手袋を左手から外した。その手は黒炭のように真っ黒に染まっていた。――ずっと秘していたものを、やっと、ユリウスはルドガーに曝してくれた。

 

「ご覧の有り様だ。気味が悪いだろう?」

 

 ルドガーは首を横に振った。気味が悪いなど、言えるはずがない。これはユリウスがルドガーを守るために負ってしまった呪いだ。

 

「そんな体のくせに俺たちのために戦おうとしてくれたから、『ありがとう』なんだよ」

 

 ユリウスは微苦笑した。寂しげで、それでも嬉しそうな笑み。

 

 ルドガーは知っている。血の半分でも弟だ。ユリウスがこの世界の「ジュード」をカラハ・シャールで「始末」しようとしなかったのも、領主邸にいる「ジュード」に手を出せばシャール領兵を多く犠牲にしなければいけないからだと。

 

 会話が途切れた。

 それでもルドガーはユリウスの隣に立っていた。

 次はいつこうして何事もなく共にいられるか分からない。正史世界でのユリウスの指名手配と冤罪はまだ解決していない。

 殺伐とした任務でも、なりゆきでも、構いやしない。せめて兄と居られる時間を長く。そう、願った。

 

 

 

 

 

 兄弟の語らいと時を同じくして。

 レイアは、輪から一人離れたイリスに歩み寄った。

 

「レイア。どうかして?」

「気になっただけ」

「それはイリスが? それとも貴女たちのマクスウェルが?」

「両方」

 

 レイアとて、ミラとイリスを近づけさせないほうがいいのは、ガンダラ要塞での彼女たちの激突を見て骨身に染みた。仲を取り持とうという気さえ起きないほど、イリスとミラ=マクスウェルの間の溝は深い。

 

「ミラってそんなに、ミラ・クルスニクに似てるの?」

「生き写しよ。顔の造作も髪の色も体の線も、何もかも。最も憎いモノが、最も愛しい方のカタチをしている。悪夢なんかよりよっぽど酷い現実だわ。ああ、そうね、目の色が異なるのが辛うじて救いかしら」

「目?」

「ミラさまの目は、ルドガーと同じ色だった。宝石のような翠の目をしてらしたわ。2000年を経た今でも鮮明に覚えてる。お美しい色の瞳だった――」

 

 イリスは遠くに思いを馳せるように微笑を浮かべて天を仰いだ。

 

「――いつか」

 

 イリスがレイアに視線を戻した。

 

「イリスにも取材させてほしいな。イリスが知ってるクルスニクの人たちのことや、イリスの『ミラさま』、それに、イリス自身のこと。全ての始まりの時、イリスたちがどう立ち向かっていったか、絶対後世に残すべきだと思うから」

 

 ――さびしいのは、今すぐではない、と確信を持って断言できること。ルドガーやイリスを初めとするクルスニクの記録が世間に公表され、正当な評価を受けるのは、何十年、何百年も先の世代でおいてである。分史(イフ)とはいえ世界を壊してきた所業は、すぐさま賞賛を以て広まることはないだろう。

 

 それでも記録することに意義があるとレイアは信じている。レイアが記しさえすれば、顔も知らない一人ぽっちであれ、誰かに必ず届くのだから。

 

 イリスはまじまじとレイアを見つめてきたが、やがて微笑みを浮かべた。

 

「本当にレイアはまっすぐな人ね。眩しいくらい。ええ、いつか、レイアの綴った文字で遺してちょうだい。クルスニクの全てを。嘆きも怒りも涙も決意も、イリスは余す所なく話すから」

 

 

 

 

 

 ついに船はル・ロンドの海停へ着いた。

 

 ルドガーたちが船を下りる中で、レイアはキャスケットを目深に被るよう調整した。――分史世界とはいえ、ル・ロンドはレイアの故郷。顔見知りにでも会ってしまえば、ここの「レイア」との行動のズレがルドガーたちを行動しにくくさせると分かっての配慮だろう。それが分かる程度には、ルドガーはレイアとの付き合いを重ねた。

 

 「この時点のジュード」がいるのは実家のマティス医療院だ。ルドガーたちはそこをまず目指すことにした。

 

 結果は、どんぴしゃり。ル・ロンド唯一の診療所より手前で「ジュード」を発見した。

 

 ルドガーたちは一度、全員で手近な建物の陰に隠れて、作戦会議を始めた。

 

「ルドガー。ユリウス。あいつが時歪の因子で間違いねえか?」

「ああ。くっきり視える。……って、アルヴィン視えないのか?」

「あー。そういえばそうだな。次元刀持ったちびミラの時には分かったのに」

「あれはクルスニク血統者、中でも外殻能力者が近づかないと可視化しない現象なんだよ」

「となると、だ」

 

 アルヴィンが物陰のギリギリの位置に陣取った。

 

「俺が行くのがいいのかね。こん時の『エリーゼ』はカラハ・シャールにいるはずだから、出てったら怪しまれる。レイアはここの『レイア』と鉢合わせると困る。ほら、俺が適任だろ?」

「そう、ですね……気をつけてください」『無茶しないでよー』

 

 アルヴィンはふり返らず、手を振り返すことで応えた。

 

 ベンチに座っていた「ジュード」に、ついにアルヴィンが声をかけた。

 

「よう、優等生」

「アルヴィン!? 別の仕事に行ったんじゃ」

「そっちが終わって時間が空いたから、こうして来てやったんだよ。感謝しろよ?」

「うん。ありがとう、アルヴィン。心強いよ」

 

 正史世界のジュードと変わらない態度や口調。しかし、確かに時歪の因子(タイムファクター)の証である黒煙は、「ジュード」の胸から噴き上げ続けている。

 

「ミラは?」

「レイアと中にいるよ。体拭くから男子は出てろーってレイアに追い出されてさ」

「見たかったんじゃねーの?」

「別に。興味ないから」

 

 そっけなく答えたジュードに、尋ねたアルヴィンも、盗み見るルドガーたちも面食らった。

 

「何その顔?」

「あ、いや~……なんつーか、お年頃のオトコノコにしては淡白な答えだなーって思っただけ」

「そう? んー、そうかも。でもミラに関してってだけで、異性に興味ないわけじゃないよ、僕。その辺、誤解しないでよ」

「あー、ぶっちゃけた話、ミラのことは異性として圏外と。そういう感じ?」

「今はね」

「今は?」

 

 ジュードは少し考え込む素振りを見せてから、箍が外れたように語り始めた。

 

「初めて見た時は、そりゃ美人だなって思ったよ? 思春期男子にありがちな、女らしい女に憧れる気持ちだってあった。見る目が変わったのは、ミラがマクスウェルだって知ってから。その時の僕は、精霊ってもっと神秘的で幻想的なものかと思っていた。だからとても驚いた。ミラはすごく俗っぽかったから。『人間の半数に有利な容姿を取った』って語ったけど、そういう意味では大正解だとも思った。現にあの外見のせいで、横暴な言動も責める気になれなかったんだから」

 

 「ジュード」が「ミラ」について語れば語るほど、ミラの俯きが深くなっていく。

 

「でも、ミラが足を怪我して、それでも止まらないって言った時は、実は本心から呆れた。仮にあそこで僕が父さんの医療ジンテクスを思い出さなかったら、あるいは、僕がミラを見離していたら。ミラは何もできなかったって断言できるよ。四大精霊はいない、歩けも立てもしない、人間界の地理や常識にうとい、セクシーな外見だけが取り柄のただの女。そんな女に何ができるっていうんだ。イル・ファンどころか屋敷の階段さえ降りられなかったくせに。使命だのなすべきことだの、言うことはご立派だけど、それを実行できる体はもうないじゃないか。素直に自分が無力だって納得して、助けてくださいって僕らに頭を下げるくらいしてもいいんじゃない?」

 

 ルドガーの知るジュードならば絶対に吐かない暴言。

 ――ようやく分かった。ガンダラ要塞からミラが卑屈だったのは、これと同じようなことを「ジュード」に言われたからだったのだ。

 

「ミラはいつでも自分が万能で正義だと信じて疑わなかった。人間は自分を助けるのが当然で、自分の思想に賛同するのが当然だと思っていたミラ。何て高慢で鼻持ちならない女。身勝手で他人を平気で捨てられるミラ。そんなミラでも僕が見捨てなかったのはね、ミラは僕がいないと何もできなかったから」

 

 「ジュード」は後ろ手に両手を組んで、スカイブルーと星が混ざった空を見上げた。

 

「エリーゼもローエンも、ミラ一人だけじゃ絶対に付いて行こうとは思わなかったし、レイアだってあんなに良くしてくれなかったよ? だって僕という賛同者で解説役がいなきゃ、ミラは何一つ成せない無力な女なんだから。可哀想なマクスウェルサマ。僕みたいな、ちょっと頭がいいだけの男子に頼らないと何もできないくせに、それにも気づかず偉そうにふるまう精霊の主サマ。僕が見捨てた瞬間に、捕まって拷問か肉奴隷か。滑稽だよね。馬鹿で馬鹿でいっそ清々しいくらいだ」

「……お前、ミラが嫌い、だったのか?」

 

 アルヴィンが問う声は掠れていた。――当然だ。実際に相対して話していれば、ルドガーも「ジュード」の毒気に当てられていた。

 

「ううん、大好きだよ? 馬鹿で非力なミラ=マクスウェル。一人じゃ何も成せない彼女を、僕一人がいつまでもずーっと助けてあげる」

 

 ――これ以上は、だめだ。

 ルドガーはそう判断し、隠れていた建物の陰でクォーター骸殻に変身した。そして、誰の制止も聞かず――もっとも誰も止めなかったが――物陰から飛び出した。

 

 「ジュード」は闖入者に驚く間に、骸殻の槍に貫かれた。

 世界がひび割れ、崩れ落ちた。

 

 …………

 

 ……

 

 …

 

 時歪の因子(タイムファクター)を破壊したことで、ルドガーたちは正史世界に帰還した。

 

 誰も、何も、言わない。――何かを言えば、均衡が断ち切れると肌で感じている。

 

 その張り詰めた沈黙を破ったのは、皮肉にも別行動をしていたジュードの合流だった。

 

「みんな! よかった、ちゃんと戻れて……どうかしたの?」

 

 ミラがジュードに背を向け、肩を本当に小刻みに震わせ始めた。

 ジュードは不思議そうにミラを見ている。ジュードと一緒に戻ってきたローエンは、そんな二人を見て考え込む様子を見せた。

 

 解散とも言いがたく、かといってこの空気の中にずっと居たくはない。どうする、と地味に心中を追い込まれていた時だった。

 

 ユリウスが何事も起きてないかのように、平然と踵を返した。

 

「それじゃあ、俺はこれで。ルドガー、言ってもあまり意味はないだろうが、無茶はするなよ」

「っ、()()()!」

 

 去ろうとしたユリウスの背に、ルドガーは慌てて呼びかけた。

 

「俺たち、『魂の橋』を使わずにカナンの地に行くやり方がないか探してるんだ。ユリウスも手伝ってくれないか? ユリウスのほうが、俺よりずっとクルスニクのことに詳しいだろうから」

「お前、『橋』のことまで知って……ああ、なるほど。貴女が吹き込んだのか、導師どの」

「今回に限り、イリスは何も言ってないわ。教えたのはリドウよ」

「……あのタレ目男」

 

 久々に聞いたフレーズだなあ、とルドガーは軽く現実逃避した。

 

「分かった。俺なりに探してみる。ただし俺は指名手配中の身の上だからな。あまり期待するなよ」

「了解。連絡待ってる」

 

 ユリウスは背を向け、黒い手袋をした手をひらりと振った。そして、今度こそルドガーたちの前から去った。

 

 レイアが下からルドガーの顔を覗き込んできた。

 

「よかったの? ユリウスさん、行かせちゃって」

「今は、いい。全部終わってからまた一緒に暮らせるように、頑張る」

「そう……じゃあ、その時はわたしも手伝うから。絶対言ってね」

「ああ」

 

 レイアは綺麗に笑んだ。留意なく、ああ、恋しいな、と思える笑顔だった。



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