「私と小百合」を勝手にノベライズしてみた (箱女)
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私と小百合

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 黒彦村というところがどれほど田舎かと言えば、たとえば化粧品などが欲しいと考えたときに、村にただひとつの商店に買い求めなければならないといったほどです。東京とは違って道も舗装されてはいませんし、三階以上の建物など見当たりません。

 

 

 私こと豊島マコトは、黒彦中学校に通う中学二年生であり、豊島家の末子でもあります。家には村会議員の父をはじめとして、母、長兄、長姉、次姉がおり、そして最後に私といった具合です。私は末っ子として育てられたせいか、幾つになっても一人前として扱ってはもらえませんでした。その所為かはわかりませんが、いえ、その所為です。意見とか主張とか思想であるとか、“自分” を出すのがひどく不得手な人間になっておりました。まだ小さな時分には、近所の子供に玩具を取り上げられても何も言い返せずに彼らの背中をただじっと見ているだけのことさえありました。

 

 「ああ、嫌だ、嫌だ、ガサツな人間のなんと多いことよ」

 

 こうやって独り言ちたところで自分の性格は変わらず、このままずっと、私は他人に下駄を預けるような人生を送るのではないかと思うと、少し不安な気持ちになりました。

 

 

 板東大介という男があります。彼は私の同級生ではありますが、決して仲が良いというわけではありません。何という理由があるわけではないのですが、どちらかといえば私は彼を苦手としておりました。剣道、柔道に弓道と様々な武道を嗜んでいる彼は中学二年にしては非常に大きな体躯をしており、その所為もあるのでしょうか、彼は誰に対しても語気強く、どこか居丈高で、彼が私に話しかけても私はいつだって曖昧に答えることしかできませんでした。

 

 だからこそ私はあのような悪戯を思いついたのかもしれません。

 

 

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 とある日曜日のことです。大して雲も出ていない秋晴れの日にもかかわらず、私の気分は陰鬱なものでさえありました。私の顔を撫ぜるのは秋風ではなく白粉をまぶした細い刷毛です。籐椅子に座る私を囲むのは二人の姉で、彼女たちは楽しそうに私に化粧を施しておりました。女袴に丸帯、果ては打掛まで持ち出してくる姉たちにさえ、私は物申すことができませんでした。

 

 ですが私は彼女たちに対して、このことで特別に腹を立てるつもりはないのです。なぜなら弟を持たぬ学友に、弟とはどのようなものか、と問われて、冗談まじりであったにせよ “ドレイよ” と即答するような人たちでありましたから。

 

 

 頬紅までさし終わってひと段落ついたところで、私は席を立ちました。長い時間ただ座っているのも疲れるものでしたし、尿意を催したのも事実でした。それに姉たちのこの遊びは、父がいてはできないものであったので、私がその場にいればいるだけ際限なく続くものでもありました。

 

 こういう日に小用を足して洗面所の鏡の前に立つと、自惚れでなく思うのです。

 

 「姉より美しい」

 

 ただ、それがいったい何の支えになりましょう。私は男子です。そのようなことを考えながら、ぴ、と洗った手についた水滴を払って縁側へと足を一歩踏み出した時でした。庭の柵の向こうに、弓の道具を担いだ板東大介が歩いていたのです。踏み出した足は過去のものであり、既に縁側は、ぎ、と軋んだ音を立てた後でした。その音に気付いた板東大介がこちらへ顔を向けて、私と目が合いました。

 

 私も板東大介も同じように目を見開いておりました。いやに学生帽の似合う面構えが驚愕の色に染まってゆくのは平時であればたいへん愉快に感じられたのでしょうが、その時の私はそれどころではありませんでした。もうこの村にはいられない、そんな考えが頭を過ぎりました。

 

 ところがどうやら板東大介は、厠から出てきた私を豊島マコトと認識してはいないようでした。常に強気の姿勢を崩さない彼が、動くことも言葉を発することもできずに、ただ私をじっと見ていました。わずかに時間が経って、私がまごついた様子を見せると、板東大介は雷に打たれたように身を正して、失礼しました、と叫んで駆けて行きました。私は彼が頬をうすく朱に染めていたのを見逃しはしませんでした。そしてその時、私はなんだかとても鋭い刃を手に入れたような気がしたのです。

 

 

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 この村でいちばん活気のあるのは駅前で、そこの大通りを抜けて少し歩くと公民館があります。そこには、剣道も柔道も弓道もできる武道場が併設されております。もちろん私には縁のないところで、これまで立ち入ったことはありませんでした。しかし、その時ばかりは目的を持って武道場を訪れたのです。豊島マコトとしてではなく、ひとりの婦女子として。

 

 私は知っておりました。板東大介が毎週この武道場に弓を引きに来ることも、彼が父と兄との男所帯で育ったために婦女子に免疫がないことも。ですから弓を構えた彼が、視界の端に私の姿を捉えるや否や、つがえた矢をからんと落としてしまったことは十分に予想できたことでした。しかしその姿の可笑しさといったら私の予想などはるかに飛び越えて、人の顔とはあんなに赤くなるものかと内心で笑いが止まりませんでした。

 

 彼の狼狽する姿が見たいがために、私は思い切って女子の格好のまま家を出たのでございます。目論見は大成功でした。あの時の心臓が跳ねるような喜びは、それまでに体験したことのないものでした。ひとしきり楽しんだ私は、板東大介に声をかけられては敵いませんので、ある程度のところで切り上げてそそくさと武道場を後にしました。普段あれだけ威圧的だった彼の変化が殊のほか面白く、私は来週も再来週も、そう、ずっと通ってやろうと決めました。

 

 

 学校では相変わらず肩で風を切って歩く彼ではありましたが、日曜のこともあったので、私にはいつもほど大きくは見えませんでした。

 

 「おい」

 

 と、そう声をかけられたので読んでいた本から目を離し、そちらへ顔を向けてみると板東大介が立っておりました。いつもであれば返答に窮する私ではありましたが、その時はじめて私は彼の目を真正面から受け止めることができました。

 

 「お前の家のな、前の通り、ちょうどこないだの日曜日だ」

 

 彼の言葉はいつものように歯切れのいいものではなく、詰まりながらのものでした。私は本来、人をからかえるような性質をしておりませんので、板東が言葉に詰まるのをつつくこともできずに、ただ彼のほうを見て続きが出てくるのを待っていました。

 

 「……落し物、弦、弓に張るやつ、俺のなんだが見なかったか?」

 

 あまり要領を得ませんでしたが、彼の言いたいことはわかりました。ですがこれについては私は何も知りませんでしたので、こう答えるほかありませんでした。

 

 「さあ、知らないな」

 

 「そ……、そうか、恩に着る」

 

 私は板東の話が終わったのだと思い、再び本へと目を戻しました。彼の爪先が向きを変えたのも確認しましたし、要件が弦についての話であるのならば、これ以上は何も私に聞くことはありはしません。ですが、あの日武道場で見せた私の姿は思いのほか効果があったらしく、板東はもう一度向き直って私に声をかけました。

 

 「豊島」

 

 その顔はひどく緊張しているような、何かを堪えているような、逸っているような説明のつきにくいものではありましたが、その指すところは明瞭でした。

 

 「その、あの日……、お前の家……」

 

 ああ、それは、私だ。

 

 今にして思えば、初めに板東が失くした弦の話をしてきたのも、この本題のための接ぎ穂だったのではないかと思うと、可愛らしくさえ思えてきます。さて、そのことを正直に話すわけにもいきませんでしたので、私は嘘をつきました。

 

 読んでいた本を閉じて、もう一度板東のほうへ顔を向けて、しっかりと目を見ます。彼の不器用な言葉ではこれ以上は期待できません。私はこの前の日曜日のことを思い出すように視線をちらと外して、こう告げました。

 

 「ああ、従姉妹だよ。ええと……、小百合っていうんだ」

 

 それを聞くと板東はまた頬を朱に染めて、ひととき何かに感じ入っているようでした。彼はまた不意に我に立ち戻りました。その様はひどく滑稽で、たとえば観劇などよりも私にとっては心躍るものでした。立ち去り際に彼が放った言葉などはこれまた傑作で、しばらく思い出し笑いの種として重宝したものです。

 

 「べっ、別にそんなことは聞いとらん! 失礼する!」

 

 

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 ぱん、と小気味いい音が弓道場に響きます。射場にいるのは板東大介で、彼の同門の者たちが口々に最近は射形が崩れないだの、気合が入っているだのと申しておりました。彼らの話によくよく耳を傾けてみれば、近々昇段審査があるとのことでした。私が弓道場に通い始めて、一ヶ月ほど過ぎた頃でした。彼は相変わらず “小百合” を気にしてはいるようでしたが、以前のように調子を崩す姿は見られなくなっていました。

 

 これでは面白くない。そう考えた私は、村で唯一化粧品を取り扱っている商店へと足を運びました。本来であれば私とは縁のない品々ではありますが、二重の意味で私はそれらに縁があります。化粧品とは消耗品ではありますが、一度に多量に使うものではありません。ですからそれらを買う趣味がない限り、一度買ってしまえばしばらく店に来る必要がなくなります。その所為もあって、商店には姉たちの持たない化粧品が多く置かれていました。紅に白粉に香水と、私は少ない小遣いをはたいて板東大介に対する悪戯を続けました。

 

 それからも手を変え品を変え、足繁く弓道場に通いましたが、効果は日に日に落ちていくようでした。きっと板東大介は、見飽きてしまったに違いない。そんなことを考えていた折でした。

 

 父に、化粧道具が見つかりました。

 

 正確には見つけたのは母ですが、そんなことは問題ではありません。すぐさま家族全員が父に呼び立てられ、どういうことだと詰め寄られました。逃げ道などありません。私の部屋の押し入れの隅に隠しておいたものですから、どうあっても言い逃れはできない状況でありました。

 

 不思議と怯えはありませんでした。いずれこうなることがわかっていたような気さえしていました。前は板東大介と日常会話さえできなかった私が、今は父に怒られているというのに、弁明ではない言葉がすらすらと出てきました。

 

 「……女子の、婦女子の格好をして、外を出歩いておりました」

 

 その時、姉が私をかばうように言葉を挟んではくれましたが、父はまるで聞こうとさえしませんでした。それもそうでしょう、男子が女子の格好をして外を歩くなど言語道断の行いです。これについては間違いなく私ひとりに非があり、他は誰も悪くありません。そもそもが昏い喜びのための悪戯だったのですから。

 

 父からはただ、二度はない、次は勘当だ、とだけ言われました。私はこれを聞いて、潮時だと思いました。まさか親子の縁をかけてまでやるようなことではありません。ひと月ばかりとはいえ、それなりに楽しい時間を過ごせたとして良しとせねばなりません。そしてその夜、私は買い揃えた化粧道具を、“小百合” を全て燃やしました。

 

 

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 “小百合” を燃やしてから少し経ったある日の昼休みのことでした。そこに板東の姿はありませんでしたが、級友たちの話題の中心は、やはり彼でした。

 

 「なあ、あいつ随分と落ち込んでいるな」

 

 「ああ、俺もそう思う」

 

 「知っているか? 理由」

 

 「そのことならば俺、兄に聞いたよ」

 

 ひとしずくの水滴が水面に波紋を広げるように、一人、また一人とその話題は拡がってゆきます。いい意味かどうかは知りませんが、やはり板東は耳目を集める人間のようでした。

 

 「いや、それがな、笑うなよ?」

 

 「何だ?」

 

 「恋煩い、らしい」

 

 「ほう!」

 

 何の気なしの彼らの会話が、私には何よりも大きく響きました。まさかの考えが私の頭を過ぎりました。何らの確証はありません。ですが、だからといって彼らを問い詰めるわけにもまいりません。私は、黙っていつものように本に目を落としながら、彼らの話に聞き耳を立てていました。

 

 「武道場にな、毎週稽古を見に来るそれは可憐な女子がいたらしい、しかしな」

 

 この時点で私は既に本に目をやることなど忘れ去っていました。悟られないようにすることなどまるで考えず、目を見開いて彼らのほうへと顔を向けていました。

 

 「最近とんと見かけなくなって、そりゃあもう落胆。まさかなあ、あの板東が」

 

 

 秋も深まり、陽が落ちるのも早くなって、木枯らしの吹く帰り道。私は彼の姿を見かけました。昼に聞いた話のとおり、見るからにしょげかえっており、背中は小さく、似合わぬため息などついておりました。私は知りませんでした。“小百合” のあの姿は、いつからか私の目論見とは全く逆の働きをしていたのです。青と橙の混じる不思議な色をした空に、私のからころという下駄の音が小さく吸い込まれてゆきました。

 

 

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 その後の板東大介は、聞くところによると酷く調子を落としているようで、何と無く気になって道場へと向かってみると、ひとり黙々と弓を引く彼の姿がそこにはありました。別に弓になど詳しくなくとも、的に当たるのと当たらぬのとでは前者のほうが良いことくらいはわかります。そういった意味で、板東の調子はまったくもって酷いとしか言いようのないものでありました。私が覗いた時にちょうど射た矢は、的二つぶんほどの大外れのようでした。

 

 

 また別の日曜日、いつものように私と二人の姉は火鉢の側で、お漬物をつつきながら出涸らしを何杯も啜っておりました。私には本がありましたのでそれほど退屈せずにはすみましたが、二人の姉はそうもいかないようで、退屈と口に出してはただのんびりと過ごしておりました。今日は父も家におり、また先日のこともあって、姉たちは私を着せ替え人形にするようなことはありません。

 

 今日は、昇段審査の日です。

 

 弓にはてんで詳しくなりませんでしたが、段を取るというからには弓を引くのでありましょう。弓を引くからには、的に当てるのが良いのに決まっています。であるとするならば、板東大介は。

 

 私は不意に立ち上がり、どこへ行くのと尋ねる姉に、また嘘をつきました。小用を足すと告げて向かったのは姉の部屋。私の化粧道具は全て燃やしましたが、初めに私に化粧を施したのは姉たちです。そこに化粧道具も着物も無いわけがないのです。これまでの一ヶ月の経験もあって、私を “小百合” に作り替えることなど容易なことでありました。父にだけは見つからぬように慎重に家を出て、気が付けば私は弓道場へと駆け出しておりました。

 

 

 これまでのひと月でわかったことですが、彼は、板東大介は、私がからかったり困らせたりするまでもなく、どこへ行っても浮いていたようでありました。彼の強い、居丈高にも見える態度は本当に誰に対しても貫かれており、“小百合” が弓道場に出入りする際には、陰口や小言が時折聞かれました。可愛げがないだとか、謙虚ということを知らぬだとか、そういった理由で、彼が矢を的に命中させても誰も声援を送りはしませんでした。私が駆けたのは、そんな彼にとって、“小百合” がきっと唯一人の心の支えであったのだろうと、そう思ったからでございます。

 

 

 果たして彼は、気の抜けた目に曲がった背をして、ため息などついて椅子に座っておりました。私は弓の昇段審査のことなどまるでわかりません。彼の出番がもう終わってしまったのかもわかりませんし、そもそもどういった形式で行われるのかすら知りません。ただ、息を切らせた私は、そんなことなど考えていなかったように記憶しています。彼の姿を見つけて立ち止まった私の姿を、板東大介が見つけました。そしていつものようにずんずんとその大きな体を動かして私の前で立ち止まり、そうして一言だけありました。

 

 「必ず受かります」

 

 近くにいた諸先輩がたは、呆れたようになにやら口を動かしておりましたが、私にはどうでもよいことでありました。

 

 私は、彼が思い通りに矢を射て的を貫くのを見て、女子と呼ぶには憚られるほど太い声で、“よし” と板東大介に声援を送っておりました。彼に声援を送る者が周囲にいなかったこともあって、私は訝しげな視線を浴びることになりましたが、それは彼が審査に合格したことに比べれば、些細なことでございましょう。

 

 

 私が家に帰ってからの顛末など誰も聞きたい方はいらっしゃらないでしょう。ただ一つだけ申し上げるならば、私の頬には大きな痣ができました。

 

 

 板東大介は、相変わらず威圧感の強い男で、でも私はもう彼に萎縮したりはしません。

 

 そして、彼はもう “小百合” に会うことはありません。

 

 

 

 

 

 

 

 



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