不完全えふぇくと (ゼン(リア充駆逐艦))
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第一話『染まらない色』

 

この世界には『神さま』と呼ばれる存在がいる。

ーーいる、とは言っても、それ自体に明確な形や姿が在る訳ではない。結論から言ってしまえば、『神さま』という存在がわたしたち人間に視認されたことは一度もなく、恐らく未来永劫それは変わることはないだろう。

神のお告げ、なんて言葉もあるが、そもそも喋るのか、鳴くのも。単体なのか、はまたま複数体なのかも不明。

もしかしたらそれは、雲の上に鎮座するような立派な髭を蓄えた老人の姿をしているかもしれないし、泉から現れる勇ましい龍だったり、或いは青々とした草むらで跳ねるムシの姿をしているかもしれない。

勝手な想像だけが膨らみ、肥えていく。

誰もその姿を目にしたことがないのだから、その姿も個人の数と同じだけ存在する。

存在が不確かな存在。

というのも随分とおかしな話だが、きっとそれでいいのだろう。

 

想像の自由。

 

信仰の自由。

 

表現の自由。

 

わたし達、人間には自由があるのだから。

人間に自由が許される限り、『神さま』はこの世界に在り続けるのだ。

多くの人間が、『神さま』はいつも自分たちを見守ってくれている、と幼い頃から知っている。もっと正確な表現を使うならば、幼い頃から周囲の親や大人を始めとする環境からの影響を受けて、『神さま』を感じ取る。もしくは、言葉は悪いが『刷り込まれる』と言った方がニュアンス的にはしっくりくるかもしれない。

 

『神さま』がいる生活が自然で、日常。

 

それがこの世界の摂理である。

 

『神さま』に毎日感謝し、時に奉られた場所へ足を運び、参拝する。

一説では、この世界そのものや人類、その他のありとあらゆる万物を造り出したのも『神さま』だとされている。それを考えると人々が『神さま』を奉り、参拝するのも頷ける話だろう。

なにせ、万物の母であり、父であるのだから。

 

もしかすると、そんな人智を越える『神さま』だからこそ、その姿が明確ではなく、実体も存在しないのかもしれない。

わたしは、たまにそんな風に思うことがある。

仮に『神さま』に明確な姿があったとしたら、この世界はまた違った在り方をしていたのではないか? と。

 

万物創造。

そんな力を持つ現人神や、神獣に向けられるのは恐らく恐怖心でしかない。

過ぎた憧れは嫉妬に代わり、やがて憎悪を呼ぶ。

自分と違うモノを恐れ、妬み、羨むのが人間なのだから、その醜い感情も当然という言葉であっさり片付けられてしまうのだろう。

本当に酷い言い方ではあるが、それが『神さま』が創造した人間という存在なのだ。

 

なぜ、『神さま』が人間を造ったのかはわからない。

その真意も、意図も、解らない。

 

それでもーー。

 

今日も神さまに感謝。

 

 

多くの人間が『神さま』という存在を信仰し、毎日感謝する。

この世界には、『神さま』が根付いている。

それは年齢や性別、国籍を問わず、たとえ多感で思春期真っ只中の女子高生であっても例外ではない。

裏を返せば、『神さま』を信仰しない人間は周りから奇異な目で見られてしまう。『神さま』の有無に関わらず、集団から、社会から弾き出されてしまうことは言うまでもない。

 

そう

人間は自分と違う者をまず信用しない。

怪しみ、気持ち悪がり、忌み嫌う。

拒絶し、疎み、仲間は外れにする。子供でも大人でも、『神さま』を信仰しない者は、『異端』のレッテルを貼られ、集団社会から差別されてしまうのだ。

 

ーーだから。

 

「あ、あの、私も手伝うよ」

 

その言葉がわたしの口から吐き出されるまでに、一体どれだけの時間が掛かっただろうか。

わたしーー四川彩夏は、絞った雑巾を握りしめたまま、放課後の教室でそう顧みる。

 

場所は、私立明聖学園。

ここらの地域ではそこそこ名の知れた共学の進学校であり、医者という夢を抱くわたしにとってはそれなりに相応しいレベルの高校である。

事の起こりは、わたしがこの教室、3年A組の教室に在籍して一ヶ月が過ぎた頃。

いよいよ大学受験が迫る高校三年生へと進級し、生徒も教師も胃がきりきり痛むような高校最期の学生生活に慣れ始めてきたーーちょうど五月晴れという言葉がお似合いだった五月の某日。

四限目の授業が終わり、昼休みに入った矢先のことだった。

 

一時とはいえ、勉強から解放されるランチタイム。教室ではクラスメイトが仲良しのグループや、カップルで弁当や購買で購入したパンを食べる日常的風景が広がり、わたしも同様に自分の席で友人とランチを楽しんでいた。

受験の存在を忘れ、僅かな憩いの時間を楽しみ、共有するクラスメイトたち。

好きなことを話し、笑い合い、驚いてまた笑う。

まさに青春の模範ともいえる光景が、確かにそこにはあった。

きっと、その場の全員が楽しい束の間の時間が流れていることを、『神さま』に感謝していたことだろう。

わたしをはじめ、3年A組のクラスメイト全員がそう思っていた。

それが当たり前だと思い込んでいた。

 

ただ、ひとり。

水甲真愛という生徒を除いては。

 

 

ーー『神さま』が居なければ、きっと辛い受験なんてものも無くなって、皆幸せになれるのにね。

 

 

その、水甲さんの言葉が始まりだった。

昼休みの和やかに流れていた空気が、一瞬で凍りついたのを一ヶ月が過ぎた今でも、わたしは鮮明に覚えている。

わたしにとって長らく感じていなかった恐怖という感情、忘れていたそれを思い出した瞬間だった。全身に鳥肌が立った気持ち悪さ、背筋が凍るような重たい空気、好物だった筈のコロッケの味が消え失せてしまうほどの沈黙。

全て昨日のことのように思い出せる。

 

水甲さんがその言葉を一体どのような意図をもって口にしたのかは誰にも解らない。

それはきっと、発言者である水甲さん自信でなければ知り得ない。

 

水甲真愛。

主席番号13番。

 

彼女はクラスでは特に悪目立ちような生徒ではなかった。無論、それは例の発言を口にする前までの話だが……。

成績や素行になんら問題はない。

初めて同じクラスになったわたしとは主席番号が前後ということもあって、何度か会話もしたことがある。その際も口下手や寡黙という印象とは遠く、むしろ弁の立つ少女という印象を受けた。

ただ、自分から話し掛けてくることはまずない。常に受け身。

間違っても、『神さま』の信仰を重んじるこの社会で、異端と疑われるような台詞を自ら進んで吐くような人間ではない。

それが、わたしの知るクラスメイト、水甲真愛の姿である。

良識があり、常識在る級友。

 

だから。

だからこそ、わたしには理解できない。

理解することができなかった。

理解しようとすればするほど、水甲真愛という人間が見えなくなってしまう。

 

 

ーー『神さま』が居なければ、きっと辛い受験なんてものも無くなって、皆幸せになれるのにね。

 

 

そんな言葉を口すれば、水甲さんは間違いなくクラスから孤立する。いや、恐らくそれだけでは済まされない。

事実、この出来事を境に水甲さんは教師を含む校内全体から奇異な目で見られ、無視され、影で罵倒され、虐めともとれる嫌がらせを受けることになったのだ。

現在に至るまでの約1ヶ月も。

わたしはそれを、この目で見ていたのだ。見ていることしか、出来なかった。

水甲さんの孤独な背中を、ただ見ていることしか出来なかった。

 

だからこそ、理解できない。

 

孤立することを承知で、なぜ水甲さんはあんなことを言ったのか。

一体、何が水甲さんをそうさせたのか。

 

理解したい。

それが、水甲真愛という人間を理解したい、というその感情が、わたしをこの放課後の教室に導いたのだ。

 

「ひとりじゃ大変でしょ? だから私も手伝うよ、水甲さん」

 

意を決してもう一度。

今度は誰に話し掛けているのかを明確にするために相手の名前もしっかり呼ぶ。

そうは言っても、放課後の教室にはもう水甲さんとわたしの二人しかいないのだが……,

他のクラスメイトたちは引退間近の部活動や塾などで青春を謳歌している頃合いだ。無論、普段ならわたしも図書室で居残って、学校が閉まるまで勉学に励む時間帯なのだが、本日は特別である。

 

例の事件から、クラスメイトたちは水甲さんを良いように、まるでメイドか何かのように扱うようになった。

ゴミ捨て、黒板掃除、教室の掃除。

それらを水甲さんひとりに任せ、押し付けるようになったのだ。それがわたしの在籍する3年A組の悲しき現状。

たったの一ヶ月で、クラスメイト達はひとりの敵を見つけ出すことで団結し、結束を強めた。ひとりを仲間外れにして、絆を得たのだ。なんとも皮肉な話である。

どんな言い方をしても、どう言葉を繕っても、わたしは素直にその結束を受け入れることが出来なかった。

 

そう、これは虐めだ。

ひとりを集団で囲う、異端という理由で。嫌な仕事を全て水甲さんに押し付けて、自分たちは楽をする。まるでそれが当たり前であるかのように。

習慣となり、当然になり、日常になっていく。

そんなことをわたしは望まない。

四川彩夏という人間は馬鹿ではない。

少し自慢になるが夢は医者というだけあって成績も常に上位だ。

勿論、水甲さんを庇えば、自分も水甲さんと同じように扱われることになる。

そんなことが解らない馬鹿ではない。

 

「私に手を貸すと、恐らく貴女も異端認定されるわよ? 四川彩夏さん」

 

しばらくの沈黙の後、水甲さんは教卓を雑巾で吹きながら言葉を返した。

決してわたしの方は振り向かず、ひとり黙々と教卓を吹き上げるその手際の良さに圧倒されそうになるのを堪え、わたしはひとつ深呼吸。酸素をたくさん頭に取り入れて、再び思考をフル回転させる。

 

異端認定。

それはつまり、クラスでの孤独を指す。

きっとそれは辛いことだ。悲しいことだ。

だが、今さら異端認定をされたところで後悔するつもりなど、わたしにはこれっぽっちも無かった。

後悔はしない。

そう言い切れた。

なにせ、やりたいことをやるのだから、後悔する筈がないのだ。

わたしの決意は揺るがない。

あとは、決意を表明するだけ。

その言葉を選ぶため、四川は思考を巡らせたのだ。

決意を声音に乗せて、これから異端仲間となるであろう友人に、思い付く限りの最高の言葉を送る。

 

「その時はきっと、異端同士で親友になれるね。わたしたち」

 

なにも失うだけが人生ではない。

失って、その代わりに手に入れたものだって、それなりの価値があるのだから。

 

自分で言うのも恥ずかしい話だが、幼い頃から四川彩夏は人一倍正義感の強い子供だったと思う。

異常とまでは言わないにしても、それはわたしの価値観やアイデンティティーにまで関わる程、重要なファクターであると言ってもまず間違いないだろう。

純粋に、ただ誰かの為に。

ただ人を助けることが出来るという理由だけで医師を目指すような馬鹿。それがわたしという人間、四川彩夏である。

決して『神さま』を信仰していないわけではない。

『異端』の肩を持つ訳でもない。

 

ただ、純粋に。

 

純粋に、わたしは自分のクラスを否定していた。

その在り方を、現状を受け入れることはどうしても出来なかったのだ。それはわたしのプライドが許さない。

どうやっても正当化できないもの。

それはつまり悪事と同じだ。

やってはいけないことであり、認めるべきものではない。いわば、『神さま』の信仰以前の問題。

こんな胸を内を暴露してしまえば、わたし自身も確実に異端認定を受けるだろう。

だが、それでも信念を曲げるつもりはなかった。

悪事に屈することもまた、わたしのプライドが許さない。

 

だから。

だからこうして、四川彩夏は放課後の教室でひとり、机を拭いている水甲に声を掛けたのだ。

本来ならば美化委員と日直がやるべき仕事を、ひとりでこなす水甲真愛に。

なぜ、異端と疑われる発言をしたのか。

なにが彼女をそうさせてしまったのか。

本当は、そんなことはどうでも良かったのかもしれない。

 

「わたしは、水甲さんの味方って訳じゃないんだけどさ。今のこのクラスはなんか違うかなって、間違ってるって思うから」

 

自分の気持ちを。

思っていることを偽らず、わたしは水甲さんの背中にぶつけると、相手の返事も待たずに近くに設置されている机から拭いていく。

3年A組、生徒は全部で38名。

それだけの人間の机を拭く。正直、思春期真っ只中の女子高生である身として言わせてもらえば、手が汚れる雑巾掛けは気持ちのいいものではない。

加えて言えば、水甲にとっては仕事を押し付け、自分を差別する人間たちの机だ。

勿論、水甲に押し付けられたのは机の拭き掃除だけではない。

考えるだけで雑巾を握る手に力が入る。

机の汚れと同じように、この心のイライラも綺麗にできたならどれだけ楽なことだろうか。

そんなことを思った瞬間、わたしはふとあることに気が付く。

 

「四川さん、そこはもう終わったわ」

 

それは不覚にも、机の綺麗さに気が付いたのとほぼ同時のことだった。

顔を上げ、水甲さんがこちらを見つめていることに気がつくと、わたしの心が弾むように高鳴る。その言葉は拒絶でもなく、拒否でもなく、アドバイス。

 

「ついでに言うと、この教卓で拭き掃除は終わり。出来れば、もう少し早く手伝いに来てほしいところだったけれど、それはあまりにも酷というものよね」

 

前言撤回。

まるで姑の小言だった。

苦笑いを浮かべながらわたしは急いで水甲さんのいる教卓へと移動すると、教卓を挟んで対峙するように教卓を吹き上げる。

互いに相手の顔を見ることはなく、懸命に、決して広くもない教卓の机上をゆっくりと拭ていく。

またも沈黙。

気持ちを伝えたはいいものの、その後何を話したらいいのか。

散らばったチョークの粉を無言で拭くというなんとも言い難い気まずい空気の中、沈黙に耐えかねたのか、それともわたしを気遣ってか、先に沈黙を破ったのは意外にも、普段は受け身のはずの水甲さんの方だった。

 

「遅かれ早かれ、四川さんは私に接触してくると思っていたわ」

 

クラスでは自ら口を開くことのない水甲真愛。

彼女が自ら進んで話を振ってくれたことに喜びを覚えつつも、それを変に表情に出さないように、ポーカーフェイスをキメるわたし。

 

「理由を聞いてもいい?」

 

「大したことじゃないわ。そうね、言うなれば色の問題よ」

 

と、水甲は続ける。

 

「学年首席の天才にこんな質問をするのもどうかと思うのだけれど、世の中には2つの色があるのはご存じ?」

 

「なんか、その言い方嫌味っぽい」

 

「私は学年二位だもの」

 

完全な嫌味だった。

しかし、水甲さんの楽しげな表情を目にすると、自然とわたしの口角も上がってしまう。不思議なものだ。

 

勿論、嫌味を言われて興奮する性癖が有るわけではない。念のため。

 

あの一ヶ月前に止まってしまった和やかな時間が、今ようやく動き出したような気がして、わたしのポーカーフェイスは即刻で意味をなさなくなっていた。

 

「白と黒…じゃないよね?」

 

首を傾げるわたしに、「その心は?」と水甲さんが続きを促す。

 

「白と黒の間には様々な明度のグレーが存在するもの。他の色でも同じ。境界線には必ず混色ができてしまう。でも、原色と混色っていう答を水甲さんが用意してるとはどうしても思えないんだよね」

 

水甲さん、意地悪な問題出しそうだし。

と、つい本音を漏れる。

対する水甲さんはどうやら図星だったようで、「貴女、エスパーなの?」とやや頬を膨らませた。

互いに気兼ねなく冗談を言い合う。まるで以前から仲良しだったかのように。

 

「まぁいいわ。答を教えて上げる。答は『染まってしまう色』と『染まらない色』よ」

 

世の中には、2つの色がある。

染まってしまう色。

そして、染まらない色。

勿体ぶることもなくあっさりと答を口にする水甲さんに、「それとわたしが話し掛けてくることにどういう接点があるの?」と、わたしも間髪入れず問う。

 

「このクラスの人間たち、担任の倉山先生を加えて39名。その内の37名が既に『神さま』という色に染まっているでしょう? そして、あとの2名。つまりは四川さん、貴女と私だけが、『神さま』に染まらない色なのよ」

 

それはつまり異端であるということ。

自分自身が異端であるかは置いておいたとしても、水甲さんの言葉には納得するばかりだった。強い説得力を感じる。

クラスの中で感じていた違和感。

それを水甲さんも感じていたのだ。

 

「目を見ればすぐに解ったわ。四川さんは、他のクズ共とは明らかに違うもの」

 

「く、クズ共って……。でも、つまりそれって、わたしたちは似た者同士ってことだよね?」

 

異端同士。

染まらない色同士。

似た者同士。

言い方はどうでも良い。

新しい仲間との出会いはいつだって喜ばしいことなのだから。

仲間外れもふたり集まれば、孤独ではなくなる。

 

「ええ。でも、貴女が何者にも染まらない純白ならば、私は何者にも染まらない漆黒。同じ染まらない色でも、真逆の色かもしれないわね」

 

「?」

 

「安心して。下着の話ではないから」

 

そんな心配はしていない!

そう返答をしようと、わたしが勢いよく教卓を叩いた瞬間。

下校時刻を知らせるチャイムが教室に鳴り響く。まさにグッドタイミング。わたしの言葉が遮られたと ころで水甲さんは教卓をさっさと拭き終える。

結局、ほとんど手伝いらしいことは何もできなかったが、それでも水甲さんの表情はどこか満足そうに見えた。それは放課後の美しい夕陽が見せた幻だったのかもしれない。

なにせ、水甲さんの笑った姿はあまりに新鮮だったのだから。

ずっと、彼女は無表情でクラスの重苦しい空気を吸い続けていたのだ。それが少しでも楽になったのなら、わたしにとっても喜ばしい話である。

二人並んで汚れた雑巾を水道で洗い、水気を絞りながら。

 

「水甲さん、良かったら一緒に帰らない?」

 

と、勢いに任せて提案するわたしに、間髪入れることなく水甲さんは首を横に振った。

躊躇いのない拒否。

それはそれで水甲さんらしい。

なるほど、染まらない色。その意味が少し理解できた気がした。それならば、深く追求しないのが正解だろう。

それが四川彩夏の結論だった。

水甲真愛の親友として、仲間としての結論だ。

 

すると。

 

「誤解しないで頂戴」と、まるでわたしを気遣うように水甲さんが言葉を紡ぐ。

 

「今日は貴女に帰れない理由があるのよ」

 

「わたしに?」

 

「ええ。だから、脱靴場までは一緒に帰りましょう」

 

水甲さんの言葉。

それが一体どういう意味なのか、わたしにはわかるはずも無かった。

これから待ち受ける出来事を予測できるわけもなく、暢気に雑巾を片付け、教室に置いてある鞄を取って、そして脱靴場へと向かうのだった。

 

出来たばかりの親友と共に。

 

 

他愛のない話をしながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第二話『異端同士』

 

 

誰にでも語りたくない過去、忘れてしまいたい思い出というものがある。

それは幼い頃に思い描いていた夢だったり、好きな人へと宛てたラブレターだったり、十人十色でありながらも、どれもこれも当事者以外にとっては割とどうでも良いことだったりするものだ。

 

恥ずかしい過去。

やましい過去。

人はそれらを心の奥底へと仕舞い込み、見て見ぬ振りをして生きている。

勿論、それは誰にだってあることで、それこそ恥ずべきことでもない。言ってしまえば、人が服を着て恥部を隠すのと同じことだ。人間の習性と言い換えても過言にはならないだろう。

それを弱味というならば、いっそのこと晒してしまえばいい。

弱点だと思うならば、覚悟を決めて向き合って克服すればいい。

それもまた人に許される自由なのだから。

向き合うも、戦うも、受け入れるも、晒すも、逃げるも、避けるも。

我が身が赴くまま、好きにすればいいのだ。

 

さて。

 

黒歴史。

などという言葉がある。

たかが数十年生きただけの一小娘であるところのわたし、つまりは四川彩夏が、歴史だなんて言葉を用いるのは実におこがましい話だろう。

本当に、至極、おこがましい限りではあるのだけれども、それでもやはり黒歴史というものがわたしにも存在する。

今となっては恥ずかしいような、それでいて誰にも言えない、口外できない過去。

儚くも、壮大な黒歴史だ。

乗り越えることも、もはや立ち向かうこともできない過去。

正直な話をすると、それは実は黒歴史でもなく、わたしが勝手に作り出した妄想だったのかもしれないと疑わしく思うことさえある。

とりあえず、ここで誤解のないように、はっきりと言っておかなければならないこととして、わたしはなにもその閉ざされた過去を、今更消したいと思っているわけではない。

 

ただ、美談でも武勇伝でもないその過去に呼び名をつけるならば、やはり黒歴史という表現しか思い付かなかったのだ。

誰にでもある黒色の歴史。

それでも、わたしのそれは他の人々のひと味も二味も違っていて、苦味のある。決して蜜の味などしない歴史である。

 

もしも。

もしも、そんな過去を。

7年前のわたしの黒歴史を他人に、例えば水甲真愛が知ってしまったならば、果たして彼女は一体どんな顔をするのだろうか?

 

そして。

 

わたしは、7年前の過去を乗り越えたことになるのだろうか? 向き合ったことになるのだろうか?

 

脱靴場へと続く廊下を歩きながら、ふとそんな疑問が頭を過った。

 

教室掃除を終えた後。

結局、水甲さんの言った通り、脱靴場までの短い距離を一緒に帰ることにしたわたし達は、ゆっくりと夕陽に染まった廊下を歩く。

その行為を帰る、と呼ぶのは些か苦しいものがあるけれど、それでも楽しい時間であることには代わりはない。

隣を歩く水甲さん。

普段あまり表情に遊びを見せない彼女だが、その横顔はどこか生き生きして、わずかに口角も上がっているような気がした。

まるで別人。

目元を隠すほどの前髪と、腰くらいまで伸びている真っ黒の艶やかな長髪が、一歩、また一歩と歩く度にふわりと揺れる。窓から差し込む夕陽のオレンジを纏ったその姿はまるで舞台のヒロインといった感じで美しく、どこか儚い。

わたしと身長も変わりないはずなのに、そのスカートから伸びる2つの足は細く、それでいて長く、ついつい見惚れてしまう。

同じ制服を着ているはずなのに、まるで別物に感じられる、まるでマジックだ。

お洒落魔女だ。

 

「あの、四川さん」

 

「お?」

 

突然、お洒落魔女もとい、水甲さんが足を止め、わたしもそれに準じるように制止する。

どうやらわたし言いたいことがあるらしい。

どうぞ、どうぞ。なんなりと。

 

「さっきから人の顔をジロジロと見ているけれど、私の頬にキスでもしたくなったのかしら?」

 

「へ?」

 

思いがけない言葉につい生返事を返すと、「そういう本気で驚いたような顔をされると、こちらとしては対応に困るのだけれど」と溜め息をひとつ吐く水甲さん。

なるほど。

今日話してみて理解したが、どうやら水甲さんはジョークがそこそこ行けるクチらしい。

それも結構鋭く、且つ際どいものがお好きなようだ。今後の参考にしよう。なんて、つい僅かな笑いが漏れる。

 

しかし。

そんなわたしとは対称的に、水甲さんの表情は真剣そうにこちらの顔色を伺っているようだった。

長い前髪の間から覗かれる眼差しは、はっきりとわかる程にこちらを凝視していて、少々背筋が寒くなる。それでも、不思議と悪い気はしない。

その眼差しから、確かな真剣さが伝わってきたのだから。

わたしをまっすぐに、正面から向き合ってくれている。嬉しさもひとしおだ。

 

「私に何か言いたいことがあるならば、ちゃんと私と向き合って言いなさい。余程下品な事でない限りはちゃんと聞いてあげから」

 

「あ、うん……」

 

「ちなみに、何度も何度もこちらの様子を伺っているように見えたのだけれど。それって、まるで愛の告白をするタイミングを伺っているようで、やはり私としては貴女のレズ疑惑を先に、何よりも優先して晴らしておきたいところね」

 

その異端は私としても流石に扱いに困るから、と。

随分ユニークなジョークを仰る水甲さん。

生き生きとした表情で毒を吐く彼女の姿を見れただけで、今日は満足というもの。心の底から、話し掛けてみて良かった、と、そう思えた。

というか、ジョーク……だよね?

 

毎日毎日、孤独と戦ってきた彼女。

きっと、寂しかっただろう。

苦しかっただろう。寂しかっただろう。でも、もうひとりではないのだ。

水甲真愛も。そして、四川彩夏も。

 

もしかしたら、これはわたしの身勝手なエゴなのかもしれない。

わたしの誰かを助けたいという願望、否、誰かのためになにかをしてあげたいという強すぎる使命感がそうさせているだけであって、自己満足以外のなにものでもないのかもしれない。

押し付けであり、余計なお節介に他ならないのかもしれない。

 

それでも。

止められないのだ。

やらずに後悔することだけは、絶対にしたくない。それこそ、自己満足で自分勝手だけれども、わたしはこの意志を捨てるつもりも、譲歩するつもりも更々ない。人を助ける、その行為は決して間違ったことではないのだから。

 

「冗談はさておき、話したいことがあるなら、聞きたいことがあるなら遠慮なく言って貰えると助かるわ。私、隠し事というのはどうも苦手なのよ」

 

隠すのは上手いのだけれど、と。

水甲さんは止めていた足を再び動かし、わたしもそれに半歩遅れる形で付いて行く。

確かに、水甲さんは何かと秘密を抱えていそうな雰囲気がある。もしも、校内でミス・ミステリアスコンテストが開催されたならば間違いなく優勝を射止めるだろう逸材だ。

 

「えっとさ…」

 

一方のわたしはというと、隠し事がかなりの苦手。苦手というより下手。ど下手である。

ミス・ミステリアスコンテストでワーストNo.1を獲れる、ある意味逸材だ。

なので、きっとその内わたしは黒歴史のことも簡単に話してしまうのだろう。

それに、勘の鋭そうな水甲さんならば、わたしが何かしらの秘密を隠していることにもう既に気付いているのかもしれない。

思えば水甲さんは、わたしならその内接触してくると思っていた、みたいなことを言っていたし、あながち本当にすべてを見通しているのかもしれない。

それならば。

黒歴史の話を今、ここで彼女に打ち明けるべきではないだろう。

 

いずれ、頃合いを見て。彼女に話せば良い。

 

わたしの過去。

 

そして、神様が実在しているという事実を。

 

でも、まだその時ではない。

 

少し前を歩く水甲さんの背中目掛けて、わたしはずっと気になっていたあの質問をぶつけることにしする。

すべてのはじまり、その核心を問うておかなければ、これから前には進めないと感じたからだ。

あの発言の意義を明確にしておかなければ、わたしは水甲真愛という人間を理解することは難しい。

無論、理解には全力を注ぐつもりではあるのだが、やはり彼女の口から直接話を聞きたかった。

 

「あの、水甲さんは、どうして教室であんなことを言ったの?」

 

「はて。あんなこととは? 下着の色の話のことかしら?」

 

いつまで引っ張るんですか、その話。

胸中で突っ込むだけにとどめ、わたしはそのまま話を続ける。

 

「なんか水甲さんって可愛いのに、中身はおじさんっぽい…」

 

「さりげなく可愛いとか言わないでもらえるかしら? 貴女のレズポイントが加算されるわよ」

 

「なにそのポイント……」

 

「私が四川さんをからかうためのポイントよ」

 

と。

ここまではっきり言われると、逆に清々しく思えてくる。

 

「あんまりからかうと拗ねるよ?」

 

「拗ねた四川さんもきっと可愛いわね、愛でる価値があるわ」

 

「さりげなく可愛いとか言わないでもらえるかしら? 水甲さんのレズポイントが加算されるわよ♪」

 

先程の水甲さんの口調を真似てみる。

自己採点としては86点。中々の高得点と言っていいだろう。正直、想像以上に似てた、うん。

 

「39点」

 

「ちょっと低すぎない?! 絶対似てたよ? 自分でも驚くくらい似てたよ?!」

 

審査員の水甲先生は随分と辛口だったようだ。

わたしの必死の抗議も空しく、水甲先生は似てないの一点張り。

 

「似てないわ。全然」

 

「似てたよ! 絶対似てたって!」

 

「いいえ。決定的に似ていないところがあったもの。だから38点」

 

「決定的に似てないところ?」

 

あと、何気に一点下がってるよ。

わたしが問いただすと、面倒くさそうに、それでいて少し恥ずかしそうに水甲さんは口を開く。

 

「わたしは、貴女みたいに可愛げのある女の子じゃないわ……」

 

回り込んで水甲さんの顔を覗き込むわたし。

目を背けて、顔を真っ赤にしながらわたしを追い越していく水甲さん。

 

なんだこれ?

 

新種の萌え生物を発見したよ。

水甲真愛が萌え生物図鑑に登録されましたよ。

 

「まったく……。 可愛いげある女の子だなんて、水甲さんのレズポイントがまた加算されちゃったじゃん」

 

そう呟き、わたしは再び水甲さんの後ろを歩く。

オレンジの廊下に二人分の影を伸ばして。

 

一呼吸の沈黙を経た後。

 

「さてと、時間もあまり無いし、約束通り貴女の問いには答えてあげたいところだけれど、本当にいいのかしら? その答えを聞いても、特に面白くもなければ、何も解決しないものよ」

 

水甲さんはまるで編集点が入ったかのように、脱線した話を繋ぎ直す。

半ば無理矢理、強引に。

わたしも敢えてそこには突っ込まず、水甲さんの言葉の耳を傾ける。

 

その理由はごく簡単だ。

ゴール、一緒に帰る終着点。

いや、分岐点である脱靴場が見えてきたのだ。

楽しい時間はあっという間に過ぎていくとはいうが、正しく今がそれだった。

 

脱靴場を視界に捉えた水甲さんは、躊躇うことなくそのまま話を推し進める。

 

「宝物は箱に入っていてこそ価値があるものよ。中身を想像して、勝手に憶測して推測して、夢をブクブク太らせることこそ宝物を本当に楽しむということなの。宝探しをしている時が一番楽しくて、見つけて箱を開けてしまったら幻滅してしまう。なんて、よくある話」

 

箱の中身を想像している時が一番楽しい。

確かにその通りだ。

誕生日のプレゼントも、サンタさんからの贈り物も、お歳暮の品も、中身を想像している時が一番幸せな気持ちになれる。わたしだけではなく、多くの人がこれには共感を示してくれるだろう。

そんな胸中に追い討ちを掛けるかのように

 

「たぶん、わたしの答えは貴女の予想しているどの答えよりもずっとつまらなく、粗悪なものよ」

 

水甲さんはそう言って立ち止まる。

立ち止まって、わたしの方へ振り替えった。

そこはわたしたちが帰ると約束した脱靴場。3年A組の脱靴箱の真ん前だった。

約束の終着点。

 

「それでもいいんだ」

 

と。終着点で、わたしはそう断言する。

それでもいい。

どんな理由でも、どんな経緯でも構わない。水甲さんの考えを、人間性を理解できるきっかけが、ただそれだけが掴めるならば。

これから先、共に異端として生きていく仲間を理解できるなら。

 

だから。

 

「だから、答えを教えて。水甲さんの答えを」

 

なぜ、自ら異端の道を選んだのか。

何が、彼女をそうさせてしまったのか。

 

「きっと貴女は何を言っても意見を変えようとはしないでしょうから、いいわ。了解したわ。勿体ぶらず、包み隠さず、答えを言いましょう。親友の頼みですもの、聞いてあげますとも」

 

そう言って、水甲さんは自分の鞄を開ける。

鞄の中を漁りながら、わたしの求める答えを語り出す。

 

「答えというほど大したものでもないのよ。本当にただ少し、ほんの少しだけ、『神さま』に反抗してみたくなったのよ」

 

本当に些細な感情。

つい出来心で、『神さま』をつついてみたくなった。それ意外の深い意味はない、と。

水甲真愛は語った。

 

「四川さんは気付いてるかしら? この世界にはね、悪役っていう悪役が居ないのよ。居るのは絶対の『神さま』と、『神さま』に都合のいい人間だけ。それって素敵なことなのかしら? それとも残酷なことなのかしら? どちらが正しいのか私にはわからない」

 

だから、実験してみたの。

彼女はそう言いながら、学生鞄の中から大きめの巾着袋を取り出すと、さらにそこから真っ黒な革靴を取り出した。

紛れもないそれは靴。

学校指定の女子用の革靴だ。

 

「それって、水甲さんの?」

 

「ええ。私の靴よ。いつもこうして持ち歩いてるわ。そうしないと、いつの間にか何処かへ行ってしまうから」

 

上履きから靴へと履き替え、その上履きを巾着へ。それから鞄へと仕舞う水甲さん。

その手慣れた行動でわたしは全てを理解した。

悟ってしまった。

 

腰が抜け、足の力が無くなる。

 

わたしの全身から血の気が引いていくのが分かった。

 

水甲真愛は靴箱を使わない。

 

いや、使えないのだ。

靴箱に靴をいれると、靴がなくなってしまう。無論、靴がひとりでに歩いて何処かへ行ってしまう訳ではない。

そんなファンタジー的なものであれば、どれだけ楽だっただろう。

 

つまらなくも、粗悪でもない。

わたしが思っていたより、何千倍も残酷な現実がそこにはあったのだ。

 

「私の例の発言の当日から変化は始まったわ。最初のうちは靴に画鋲とか、チョークで落書きみたいな可愛い物だったのだけれど、日を重ねるごとにエスカレートしていってね。だから結局、持ち歩くことにしたの」

 

靴を切り刻まれたり、虫がつまっていたり、藁人形のように釘が刺さっていたり。

毎回毎回、靴を買い換えるのも面倒だから。持ち歩いた方が経済的、と。

 

水甲さんは顔色ひとつ変えずにそう言い切った。

まるで他人事のように。

その物言いは淡々としていて、度が過ぎるくらいに冷たい。

 

「実験の結果はまるでつまらないものだったわ。この世界で『神さま』の敵、つまり悪役になれば、社会的に孤立して、罰を受けるのよ」

 

あまりの衝撃で、膝から崩れたわたしを見下ろすような形で立つ水甲さん。その姿は夕陽による逆光で真っ黒な闇のようにわたしの目に写り込む。

わたしに似ていて、限りなく遠い黒い色。

 

真っ黒な、暗闇の色だった。

 

「貴女は良い娘。だから、もう私には関わらないで頂戴。私はこの通り、なにをされても平気だけれども、貴女は違う。決して私のような孤高の悪役にはなれない」

 

「そんな……」

 

そんなことはない。

とは、言えなかった。

そんな無責任で確証のない言葉を言うことは、どうしてもわたしにはできなかった。

自分では孤高になれると、水甲さんと共に孤独の道を歩めると思っていた。覚悟もあった。でも、いざ現実に直面すると、わたしはただの臆病者でしかない。その程度の決意しか持ち合わせていなかったのだ。

 

何も言えず、言葉を失い、何もできずに。

ただただ、じわりと滲み出る涙でボヤける視界で、水甲さんを見つめることしか、わたしにはできなかった。

 

崩れたわたしを助け起こそうとはせず、水甲さんは踵を返す。

 

「少しの時間だったけれど、楽しかったわ。四川さん。貴女が傷つく姿を私は見たくないの。それを見てしまったら、きっと私は貴女を虐めた人間をひとり残らず抹殺してしまう」

 

「それじゃあ…、それじゃあ水甲さんが救われないじゃない!」

 

なんとか声を絞り出す。

彼女をどうにか引き留めたい一心で。

嗚咽にまみれ、掠れたわたしの声に水甲さんは一度足を止めると、振り向かずに口を開く。

 

「救いを求めた覚えはないわ」

 

「………」

 

返す言葉が無かった。

まるで心臓を抉られたような感覚。

誰かの助けになりたいという感情で動いているような、どうしようもない、生きる理由を他人に押し付けるような、わたしのような人間には効果抜群の一撃だった。

テクニカルノックアウト。

わたしは、燃え尽きたのだ。

それこそ、真っ白に。

 

「貴女の助けを必要としている人間は他にもいるわ。だから、そんな人達のために動いてあげて。例えば、貴女の靴箱に入っている手紙の差出人なんかに」

 

「……手紙?」

 

「教室で言ったでしょう? 貴女とは一緒に帰れない理由があるって。だから、その手紙を読んでから帰ることをお薦めするわ」

 

それじゃあ、さようなら。

 

あっさり、と。

後腐れもなく。

 

別れの言葉だけを残して、水甲さんの後ろ姿はゆっくりと小さくなり、やがて見えなくなる。

 

わたしは水甲さんの背中が見えなくなったその後も、しばらく立ち上がることが出来なかった。

わたしのひとつ下の靴箱、首席番号13の靴箱でで行われていた事態。

あまりに惨く、悲惨な出来事。

そして、何より水甲さんからの拒絶に、わたしは動く気力を無くしていた。

 

救いを求めた覚えはない。

 

だから、救いを求める他の人のために尽力する。

水甲さんの言うことはきっと、何一つ間違っていないのだろう。需要と供給のバランスが取れていて、花丸パーフェクトな回答だ。

 

「救いを求める人のために……」

 

結局。

わたしが立ち上がり、自分の靴箱の扉を開けたのはそれからまたしばらく経ってからだった。

夕焼けはオレンジから紅に変わり、影は更に長く引き伸ばされる。

 

完全に立ち直った訳ではない。

けれど、水甲さんの言う言葉を信じるならば、まずは手紙を確認しなければならない。

確かにジョーク好きな水甲さんだったが、この状況でさえジョークを言っていたようには思えなかった。彼女の言葉を信じること、親友の言葉を信じることしか、今のわたしにはできない。

 

まずは出来ることから。

 

気を引き閉めて、靴箱の中身を確認すると。

 

「ほんとにあった……」

 

中にはわたしの靴と、水甲さんの言った通り、手紙のようなものが入っていた。

葉書サイズの白い紙。

それを手に取り、表には何も書かれていないことを確認して、裏返す。

 

「嘘……」

 

裏面、そこには三行。

たった三行の文が記されているだけ。

たったの三行、それでも、わたしの驚愕を引き出すには十分すぎる内容だった。

 

 

 

屋上で待つ

七年前からの親友

北守七瀬より

 

 

 



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第三話『孤独の闇』

北守七瀬。

差出人の名は確かにそう記されていた。

北を守ると書いてキタガミと読む、その少し珍しい読み方を家名に持つ少女を、わたしはたったひとり知っている。わたしはしっかりと覚えている。

沢山の思い出に彩られたその懐かしい名前を。

長らく目にしていなかったその名前に邂逅した刹那、まるで七年前のあの頃に戻ってきたような、そんな錯覚を覚えた。過去を振り返っての興奮からか、それともこの状況に対する戸惑いからか。心臓はドクンドクンと早鐘の如く鼓動を刻み、まるでわたしに『早く屋上へ向かえ』と急かしているようだ。

無論、それに従わない理由はない。

その先に、助けを求めている人がいるならば尚更というもの。

まずは、今の自分自身に出来ることを精一杯やる。今し方そう決めたばかりなのだから。

 

手紙をスカートのポケットに仕舞うと、わたしは水甲さんと歩いてきた廊下を急ぎ戻り、屋上へと向かう階段を駆け足で上っていく。すでに紅色に染まりきった校内は幻想的、というよりも、どこか不気味さを感じさせると共に、孤独という寂しさを運んでくる。

闇が溶け出したような深い赤色は、とても七年ぶりの再会を歓迎しているようには見えず、寧ろ、わたしを深い闇の奥底へ誘っているようで正直気味が悪かった。

お世辞にも、詠嘆など感じることはできそうにない。

わたしが暗闇に思うのは恐怖だけ。 怪談や幽霊、そういった非現実が怖いわけではないが、やはりこの暗闇はどこか恐い。 具体的に言うならば、そう。

 

暗闇は孤独を思わせる。

わたしは孤独が嫌いで、恐いのだ。

何でもかんでも単身で熟してしまう、自力で解決してしまう水甲さんとは違う。

だから今も、孤独から抜け出すために、こうやって屋上を目指しているのかもしれない。懐かしい友人に会うためではなく、自らが孤独から逃れるために。

 

しかし。

しかしである。

ここでひとつ言及を。説明を少し加えなくてはならないだろう。

言うまでもなく、今から登場するであろう彼女、他でもない手紙の差出人であるところの『北守七瀬』について、である。

そもそも一体全体、北守七瀬とは何者なのか?

仮にそう問われたならば、わたしはしばらく頭を抱えた後、歯切れ悪く『元親友』という関係を挙げることだろう。そして、我ながら曖昧すぎる表現に苦笑いしつつも、何度も悩み、悩み抜いた挙げ句に導きだしたその答をきっと覆すことはない。

なにせ、それ以上にしっくりとくる言葉が見当たらないのだ。

 

親友ではなく、元親友。

 

わたし個人として少し気になるのは、この件に関しては北守七瀬との相互の認識の度合いに多少のずれがあるように感じられるということだ。 勿論、前提条件として手紙の差出人が北守七瀬本人であるとした場合の話である。

手紙を見る限り、彼女は今尚、わたしを親友として扱ってくれているという点ではただただ嬉しいの一言に尽きるのだが、一方のわたしはというと、先程の通りだ。 彼女との関係を過去のものとして扱い、完結したつもりでいた。

本当に、全てが終わったのだと思っていた。

わたしという人間、四川彩夏の過去を語る上では絶対に欠くことのできないキーパーソンで、初めての親友であった同時に、共に七年前の黒歴史を築き上げた、かけがえのない元親友。

 

彼女は、勉学が得意なわたしとは対照的に運動神経が抜群、文字通りのスポーツ万能少女であり、絵に描いたような秀才。 その身体能力の高さは七年前の小学生高学年の時点でありながら、100m走を始めとするあらゆる競技で体育教師を負かしたという逸話を持つほどであった。それこそ、校内の有名人といった感じだろう。

体育祭で北守七瀬が白組になれば、白組が優勝するなんてジンクスすら流れたのも懐かしい思い出の一片だ。

まあ、事実だけ言えば間違ってはいないのだけれど……。

ちなみに、余談ではあるが、小学校時代から現在に至るまで、わたしは一度も体育祭で優勝したことがない。

四川彩夏が赤組ならば赤組が負けるのだ。

四川彩夏がいたから赤組が負けたのか、はたまた北守七瀬がいたから白組が勝ったのか。

結論はなく、それでいて不毛な話。

ただ、当時親友であったわたしと北守七瀬が一度も同じクラスになったことがないという事実だけは、念のため示しておくことにしよう。

 

運動は人並みで、勉学にそこそこの覚えがあるわたし。

勉学は得意ではないが、抜群の身体能力を有する北守七瀬――当時は七瀬ちゃんと呼んでいた。

 

互いに無いモノを有し、正反対で真逆なわたし達は、一年間にも渡る暗黒の黒歴史の最中に出会い、友情を深め、――決別した。

 

七年前の黒歴史。

折角の機会、元親友である北守七瀬との再会を喜ぶ前に、そろそろこの過去にも触れておくことにしよう。

あくまで触れる程度。大まかな概要だけをあっさりとだが。

というのも、この黒歴史は前途にも記したように少々特殊なのだ。 毛色が違うというべきか、それとも逸脱しているというべきか、或いは常識外れと言ってしまってもいいかもしれない。 自作の創作小説とか、中二病の副産物とか、そんな痛々しい傷痕が遥か遠くに霞んでしまうほど。

そんな危険物の全容を語り尽くすことはやはり難しく、とてもじゃないが私のお粗末な語彙力では到底表現しきれないだろう。

だから、わたしの口から語れるのは触りの話。

多くも詳しくも語らない。

味見程度の話と思ってくれたほうが私も気が楽というものだ。

その内容は顔から火出るどころの話ではない。 顔の火傷の上からレモンを搾って、さらに垢擦りしたくらい、もはや言葉にすらならない苦悶を上げるほどに恥ずかしく、痛い黒歴史だ。

決して他人に語りふらすようなものではない。 寧ろ、誰の目にも触れないように心の奥底に仕舞ったまま、墓場まで持ち込みたいとさえ思う。

本来ならば、そうするべきことこそが正しく、花丸の模範解答なのだろう。

 

しかし、正解の存在しない問題だってある。

逆に、正解が無数に存在する問題も。

全ては採点者の手に委ねられてしまうものだ。 私の七年前からの頑張りも、努力も、苦悩も、採点者の出した点数には――結論には敵わない。 全ては結果に収束される。

いや、終息して結果が生まれるのかもしれない。 収束が未完全でも、終息さえすれば結果となるのだろう。

経緯がどうであれ、結果は結果。

それでも、わたしは語らなくはならないと思う。

触りだけでも。味見程度でも。 語らなくては、この物語は先へと進むことができないのだから。

まるで嘘のようで、全てが本物の話を。

非現実的な現実の、摩訶不思議で奇々怪々な過去の一件を。

 

七年前。

それはわたしが小学五年生の時の話。

大まかに、そしてざっくりと、結論から言ってしまうと、わたしはその一年間、『魔法少女』として、この街の平和を守っていた。

科学では説明できない『魔法』と呼ばれる力を駆使し、あらゆる悪と対峙し、打ち破り、世界に平和と均衡を齎す『神さま』の使い『魔法少女』として、世の為人の為に戦っていたのだ。

決して他人には口外出来ない。口外しても、頭のおかしな奴と馬鹿にされるだけで、まともにとりあってはもらえない過去。これが私の黒歴史の正体である。

きっと、何を馬鹿なと笑う人が大半だろう。

それでもわたしは構わない。

私は事実だけを簡潔に述べた。それを信じるも、信じないのもこれまた人間一人一人に与えられた自由。 故意に強要するものではないのだから。

誰かに信じて貰えなかったからと言って、事実が偽りになる訳でもない。

突然『魔法少女』に覚醒し、偶然同じ学校に通う北守七瀬という『仲間』と出会い、共に悪と戦ったいう事実は、消えることなく、忘れることなく、わたしの記憶として存在し続けるのだ。

喜びも、悲しみも、そして、別れも。

忘れることなく、わたしは全てを抱えたままこのまま歳を取り、やがて死んでいく。

ならば、ここはこの黒歴史を信じてくれる一握りの人達に向けて話をやや強引にでも進めていくべきだろう。

『魔法少女』

わたしもその全容を事細かに把握している訳ではないが、『魔法少女』というだけあって、魔法を使うことが出来るのは少女に限定される。これは、男性より女性の方が、また大人よりも子供の方が、汚れの無い純粋な存在であり、『神さま』に仕えるに相応しい状態に近いかららしい。言い方は悪いが、要は『魔法少女』は『神さま』の手足のようなものなのである。かといって、『神さま』から直接お告げ等が下る訳ではなく、『天使』と呼ばれる中間者を経て、『魔法少女』は人間界の悪を駆逐するのだ。

やっていることは下っ端の悪役の戦闘員と何ら変わりない。

『神さま』を盲信して、死力を尽くしてあらゆる悪と対峙し、これを駆逐する。

わたしは一年間、これを日常のように行った。

なにも疑問に思わず、絶対的な『正義』を信じて疑わず、『天使』に指示されるがままに、悪という悪を倒し、倒し続けた。

魔物、妖怪、悪霊、怨霊、吸血鬼、怪物、人狼、悪魔、死霊、時には人の道を踏み外した悪人も。

『魔法少女』の使う魔法は、これらの悪を浄化する力を持つ。つまり、誰ひとり人間を殺すことなく、悪に染まった心だけを浄化することが出来るわけだ。なんともご都合主義という気はするが、『天使』の話によれば、これも『神さま』の恩恵の成せる技らしい。

今思えば、わたしの誰かを救いたいという強すぎる感情は、この頃から既に始まっていたのだろう。

まだ人間として未熟過ぎた当時のわたしは、ただただ正義という言葉を愛していた。かっこいいと思っていた。何より、悪を倒して、誰かを救うことに喜びを、快感を覚えていたのだ。その時の感覚を、無意識の内に今なお求めているのかもしれない。

そして、北守七瀬という相棒を得ることでわたしはよりいっそう悪党対峙を効率化していった。作戦の立案と援護をわたしが担当し、接近戦を彼女に任せることで、より強力な悪を確実に処理していくことが可能になり、倒せば倒すほど、わたし達の絆も連携も強固なものへとレベルアップしていったのだ。

同じ境遇ということもあり、わたし達はすぐに意気投合し、『魔法少女』でない時間も共有するようになった。同じクラスでこそなかったが、放課後に勉強したり、休日には遊びに出かけたり。夏休みには海やプール、キャンプに花火も楽しみ、冬にはスキーをした。

悪を退治しながら、それなりに充実した日々を送っていたのだ。

 

果たして、一年間で一体どれだけの悪を消滅させたのか。

その数が五十を超えた頃には、わたしは数えることをやめていた。

 

そして。

『魔法少女』として覚醒してから一年が過ぎた頃。

わたし達は、ひとりの悪党と戦った。

事実、わたしにとっては、この戦いが『魔法少女』としての最期の戦いとなった。

それまで戦ったどの敵よりも強く、わたし達の作戦から戦闘技術に至るまで、全てにおいて上手。二人係だというのに、まるで歯が立たないような敵を相手にして、わたしは初めて死に対する恐怖を知ったのだ。

死になくない。まだ、生きていたい、と。

正義を語ったはずの『魔法少女』は、それ以前に自分がまだまだ非力な子供であることを思い知らされた。それと同時に、自分達がこれまでその恐怖を与え続けてきたこと、正義を掲げて、悪を駆逐してきたこと。それらの全てが一斉にわたしに押し迫り、きつく心を絞めつけたのだ。

その重みに、耐え切れず、わたしはそのまま意識を失い、目を覚ました時にはもう『魔法少女』の資格を失い、『天使』の姿も声も認識出来なくなっていた。

 

当然と言えば当然な話。

 

悪役のことを心配する『魔法少女』は使い物にならない。ましてや、『魔法少女』としての行いを後悔するようならば、邪魔者でしかない。

一方、北守七瀬もこの日以来、その姿を見ることはなくなった。初めは心配もしたが、担任の話によれば急な転校が決まり、すでに街を出てしまったということ話を聞いてからは、不思議とその後を追おうという気持ちも、連絡先を調べようというも気持ちも湧いては来なかった。

それは薄情なことなのかもしれない。

だが、これ以上関わってはいけない世界だと解っていたわたしには、彼女の影を追うことは出来なかったのだ。

 

これが、わたしの抱える黒歴史であり、最高の相方であった北守七瀬との関係である。

 

彼女を抜きにしてはわたしの今は無く、きっと七年前の黒歴史も存在し得なかっただろう。ある意味、わたしの過去は彼女を中心に回っており、わたしは彼女の衛星のような付属物でしかなかったのかもしれない。

そう思えるほどに、北守七瀬という人物はわたしの過去に深く、強く、大きく関わってくるのだ。

 

そう。

裏を返せば、北守七瀬は、わたしの過去にしか登場しない。

 

……筈だった。

 

 

「七瀬ちゃん!!」

 

屋上の扉を勢い良く開け放ち、わたしはその名を叫ぶ。

昔、彼女をそう呼んでいたように。

自分で言うのもなんだが、いつものわたしならきっと、なんで普段は封鎖されているはずの屋上が解放されているのか、と気になるところだが、今はそんなことはただのどうでも良いことでしかなかった。冷静さを欠いていたのだ。

兎に角、扉の先を確かめたくて仕方がなかった。

刹那、紅の風景のなかに佇む人影を見つけると、まるで主人の帰宅を喜ぶ飼い犬のように、一目散に駆け寄る。

背丈は私より低く、少々小柄な少女はその身体を薄手のパーカーとデニムという随分と動きやすそうな服装で、遠目からでも彼女がうちの学生ではないことは瞬時に理解できる。

さらに言えば、土足である。

いくら屋上であっても、上履きではなく土足というのは如何なものだろうか。生徒ならば、まずそんなことにはならないだろう。

なぜなら、生徒であれば私のように校内から上履きのまま屋上に出ればいいのだから。

 

「やあ、久しぶりだね。彩夏」

 

少しずつ冷静になってきた頭に、ハスキーな声音が木霊した。

わたしの呼び声に呼応するように、彼女はこちらをちらりと確認した後にゆっくりと正面に対峙する。

栗色のショートカットと、前髪を留めた大きなヘアピン。

パッチリとした瞳。そして、微笑むと姿を見せる特徴的な愛らしい八重歯。

 

「七年前はアタシの方が背は高かったけど、すっかり抜かれちゃったな。それと、なんだろう、この敗北感」

 

自分の胸の辺りを擦りながら、彼女はそう呟く。

 

「確かに七年で容姿は変化するけど、これはさすがにショックだわ…。いや、分かってはいた! 分かってはいたんだけど! なんというか、現実は直視したくはないものだ…」

 

奥歯を噛み締めながら嘆く彼女。

間近で顔を合わせて確信した。彼女は北守七瀬である。と。

その強気な瞳と、笑うと溢れる八重歯。そして、七年前とまるで変わらない明るく、活発な雰囲気。髪型も昔のまま、余程気に入っているのだろう。

それとも、わたしにわかるように敢えてその髪型を選んだのだろうか?

どちらにしても、彼女はやはり彼女は北守七瀬、七瀬ちゃんだ。

明確な理由がある訳ではない。だが、わたしには彼女が間違いなく七瀬ちゃん自身であると感じ取れた。わたしの女の勘がそう告げていたのだ。

 

「良かった……。元気そうで、本当に良かった……」

 

七年前はわたしより大きかった七瀬ちゃんを、両手でそっと抱きしめる。

身体や顔は成長と共に多少は変化したものの、懐かしい香りは変わらない。

決別したと思っていた元親友。もう二度と関わることはできないと思っていた彼女との再会は、わたしの心を浮き彫りにする。

一体何度忘れようと考えたか。忘れようと思っていても、結局忘れることは出来ず、どうしても頭から離れなかった彼女という存在を、自分がどれだけ大切に思っていたのか改めて思い知らされた気がした。

 

「アタシはいつだって元気だよ。今も昔も、それだけが取り柄みたいなものだからね」

 

「本当に、本当に、良かった……」

 

「まったく。折角の七年ぶりの再会だっていうのに、それしかないの? アタシは話したいことも、一緒に行きたい場所も沢山あるっていうのに」

 

七瀬ちゃんは笑いながら、今にも泣き出しそうなわたしの腕から離れる。

それから更に後ろに半歩下がると、わたしをつま先から頭のてっぺんまでゆっくりと視線を動かし、再び「もうツインテールじゃないんだね? 泣き虫なのは変わってないみたいだけど」と微笑をみせた。

攣られてこちらも微笑が零れる。

 

「さすがに高校三年生になってツインテールをする勇気はないかな。 あと、泣き虫じゃないよ? 一人暮らしもしてるし、友達もそれなりにいるし、人生毎日ハッピーハッピーなんだからさ」

 

あれ?

あれ? あれ?

わたしは何を言っているのだろう。

微笑ながら思いがけずに出た言葉は、自分でも気持ちが悪くなるくらいに嘘で塗り固められたものだった。 まるで、本当のことのように、自然と、さらりと、スムーズに口から嘘が飛び出したのだ。

つい三十分も前に涙を流した泣き虫は、一体どこの誰だろう。

新しく出来た友人に、『もう関わるな』と釘を刺されたのは一体全体どこの誰だっただろう。

 

一方。

わたしの言葉に「なるほど」と、七瀬ちゃんは頷いてから、さらに言葉を続けた。

 

「やっぱり、その勘の鋭さは驚愕の一言に尽きるなあ。 防衛本能ってやつなのかな? それとも反射反応? まるで野生動物のそれみたいだ」

 

「???」

 

彼女が一体何を言っているのか、わたしには理解できなかった。

自分の発言の意図さえ理解できていないのだから、それも致し方ないのかもしれない。いや、それにしても不可解に思えた。悪寒を覚えたと言ってもいい。

七瀬ちゃんの言葉がわたしに向けられたものというのは明らかだったが、それ以上に何か不穏な空気を感じる。

防衛本能? 反射反応? 野生動物の勘?

どれもこれも思い当たる節はないが、ただ、これだけはハッキリ言えた。

七瀬ちゃんは、確実にわたしの嘘を見抜いている。

昔から、モノを考えるのは苦手だった七瀬ちゃんだが、直感だけはやけに鋭かった彼女。それこそ野生動物のように。そういうことに関しては恐ろしく鼻が利く。

 

「あの、七瀬ちゃ…」

 

――♪

 

刹那。私の言葉を遮るように音楽が鳴る。

音楽業界にあまり詳しくないわたしには聞き覚えのない曲、それがわたしの着信音で無いことだけはわかった。

 

「メールだからちょっと待って」と、七瀬ちゃんはパーカーのポケットから携帯電話を取り出すと、メールを確認する。そして、メールを数秒で確認すると、すぐに携帯をまたポケットに仕舞った。

どうやら返信は必要なかったらしい。

 

「ごめんね、彩夏。 もっと話したかったんだけど、ちょっと呼ばれちゃったからアタシは行くね。 あーでも、大丈夫。 明日辺り、アタシこの学校に転入する予定だからさ。それも、三年A組。 彩夏と同じクラスにね」

 

「え?」

 

「だから、詳しいことはまた明日。 あ。そういえば、彩夏の後ろの席って空席だったよね? 先生たちに頼んで、そこの席に座れるようにして貰うことにするよ」

 

――楽しみだなぁ、学校。

 

そう言い残して、七瀬ちゃんはわたしの視界から姿を消す。

 

まるで、『魔法』で瞬間移動でもしたかのように、本当に一瞬で彼女は消失した。

 

 

 

ひとり。

 

また、ひとり。

わたしはひとりで屋上にぽつりと立つ。

 

 

いつしか真っ暗になった空を見上げながら、潤んだ視界の星に問うてみる。

 

 

 

 

「わたしの後ろの席って、水甲さんの席だよね…?」

 



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