【完結】Fate/stay nightで生き残る (冬月之雪猫)
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第一話「ここはどこですか? そして……、私は誰ですか?」

 その日の天気は快晴だった。けど、俺の心はどんより雨模様。大した事じゃない、と人は言うかもしれないけど、俺にとっては大事だった。

 

「また、振られた……」

 

 大学でクリケットサークルに入り、そこで一目惚れした女の子に満を持して告白した。その結果、見事に玉砕した。

 鏡を見る。顔は悪くない方だと思う。髪だって、毎日丹念にワックスで整えているし、眉もキッチリ整えてる。体つきも筋肉質では無いけど、それなりに鍛えてある。

 

「やはり……、性格の問題なのか?」

 

 ゲームやアニメ、漫画が大好きなせいか、ついついその手の話題を振ってしまう事がある。と言っても、オタクだとばれる程、コアな話はしていないつもりだ。

 けど、やっぱり滲み出てるものがあるのかもしれない。最近はオタクも市民権を得てるらしいけど、それは一部のマニアック趣味な女を捕まえられた男に限った話だ。俺が好意を抱いた女の中に俺の趣味を理解してくれる女は居なかったというわけだ。

 憂鬱な気分だ。明日から絶対皆にからかわれる。それに、彼女と顔を合わせるのが辛い。こんな事になるなら、卒業ギリギリまで待てば良かった。彼女と一緒のキャンパスライフを夢見た俺が馬鹿だった。

 

「欲を掻くからこうなんだよな……」

 

 今日、何度目になるか分からない溜息を零しながら、馴染みの居酒屋に向う。いつも一人で飲みたい時に利用するとっておきだ。小さな店だけど、心が落ち着く。

 

「いらっしゃい、サトちゃん」

 

 店主の婆ちゃんがニコニコと俺を歓迎してくれる。家族と離れて一人暮らしをしている俺にとって、アパートよりもここの方が家って感じがする。

 

「ビールと枝豆ちょうだい」

「あいよ」

 

 よく冷えたコップに注がれる黄金の液体。グビッと一杯呑むだけであら不思議、とっても気分がよくなってくる。苦味を打ち消す為に枝豆に手を伸ばし、もう一杯。

 

「今日はよく飲むねー」

 

 婆ちゃんが煮込みをサービスしてくれた。ここの煮込みはとにかく美味い。七味を振って、いただきます。

 好きな子に振られた愚痴をだらだら零しながら、備え付けのテレビのチャンネルを回す。理解ある女である婆ちゃんは俺がアニメにチャンネルを合わせてもとやかく言わない。

 婆ちゃんがもっと若かったら、俺は迷う事無く告白していた事だろう。

 

「サトちゃん、このアニメ好きだねー」

 

 別に特別好きってわけじゃないけど、たまたま俺が来る日はこのアニメの日が多い。

 

「……アニメが好きって、そんなに悪い事なんかなー」

 

 三杯目を飲み干して、すっかり赤くなった俺に婆ちゃんは苦笑する。

 

「いつの時代も若い子はイメージを大切にするもんだからねぇ。他人から見られた時の事を想像すると、一緒に居る彼氏には色々と条件を付けたくなるもんさ」

「婆ちゃんも……?」

「この歳になっちゃうと、そんな事はどうでも良くなるものだよ。でも、若い女の子にとっては大事な事なんだ。だから、女の子に好かれたいなら、女の子が一緒に居たい、一緒に居る所を見られたいって男になる事だね」

「……難しいなー」

 

 お勘定を済ませて店を出る。女の子ってのは本当に難しい。

 男からすれば、女がオタク趣味持っていようが、他の変わった趣味を持っていようが、可愛ければ大抵オーケーなんだけど……。

 

「もう、いっそ男にでも走るかなー」

 

 酔ってるせいか、そんな馬鹿な考えが浮んで来る。家に帰って、アニメのDVDを鑑賞しよう。そんで、嫌な事はさっさと忘れよう。

 家賃の安さに釣られて借りたボロアパートに戻り、アニメDVDを再生する。

 

「アニメの女の子はいいよなー」

 

 主人公が多少アレな性格でも好きになってくれるし、大抵裏表の無い子ばっかりだ。ちょっと嫌味なキャラクターの子でさえ、ある意味で裏表が無いと言える子ばっかりだ。

 主人公に対して一途な子ばっかりだし……。

 

「二次元嫁……いや、でもそこに辿り着いたらさすがに……」

 

 一人でぶつぶつ呟いてる時点で相当キテる自覚がある。

 

「主人公ってのはどうしてモテるのかねー。優柔不断な男がモテる時代? いや、そういう問題じゃないな……。まあ、主人公ってのはそれなりに真っ直ぐな人間ばっかりだしなー」

 

 とりあえず、顔が好みだから告るって主人公はあんまり居ない気がする。でも、告らないと始まらないし……。

 

「やはり、問題は出会いか?」

 

 アニメでも映画でも大抵、主人公とヒロインの出会いは劇的だ。そうじゃなくても、実は過去に因縁があったりって展開が後から出現したりもする。

 つっても、坂道で自己暗示してる子にあったり、魔法陣から現れる女の子と遭遇したり、いきなりよく分からない戦いに巻き込まれたりなんて事、現実では起こり得ない。

 

「うう……、頭痛くなってきたな……」

 

 ちょっと、飲み過ぎたかもしれない。冷蔵庫を漁ると、飲み物は何も無かった。

 

「やっべー、買い置き無いじゃん……」

 

 溜息混じりに財布をポッケに押し込んで、部屋を出る。近くにコンビニがあった筈だ。

 

「ウコンの力飲んで、さっさと寝よ」

 

 ふらふらしながら歩いていると、突然目の前で大きな音が響いた。

 酔い過ぎて、意識が朦朧としていたらしい、ハッとした瞬間、俺の目の前には大型のトレーラーが迫って来ていた。運転手がブレーキを踏んでいるみたいだけど、ちょっと間に合わないっぽい。

 跳ね飛ばされた時、驚く程痛みが無かった。恐らく、衝撃が強過ぎて、感覚がマヒしているんだろう。感覚を取り戻した時の激痛を思い、背筋が寒くなる。

 このまま死ぬのかなー、俺。悲しくて、涙が出て来る。だって、結局彼女居ない暦イコール歳の数のまま生涯を終えるのだ。こんな事なら風俗でもいいから童貞を卒業しておけば良かった。

 幸か不幸か、痛みが来る前に眠くなって来た。目を閉じたらきっと……、俺は――――。

 

「もしやとは思うが……、お前が最後の一人だったのかもな。だとしても、これで終わりなわけだが―――――」

 

 目覚める筈の無い眠りから覚めた。耳に届いた声はどこか聞き覚えがある気がする。

 瞼をゆっくりと開く。そこには……、

 

「ふざけるな、俺は――――ッ」

 

 などと叫ぶ少年と少年に赤い長物を向ける青タイツの変質者。

 ちょっと、待って欲しい。目覚めるにしても、この状況は無いと思う。

 普通、白いベッドで目を覚まして、腕に差された点滴の針や呼吸器に驚く筈だ。

 なのに、こんな薄暗い上に埃っぽい所で男の子が変質者に襲われてる現場に出くわすとはどういうわけだろう……。

 

「って、そんな事言ってる場合じゃない!!」

 

 間一髪、変質者が槍を振り下ろす前に少年を抱え上げて変質者から距離を取る事が出来た。

 

「だ、大丈夫!? っていうか、何があったの!? あんな変質者に襲われ……っていうか、まずは警察に!! って、アレ!?」

 

 携帯電話を取り出そうとしたら、ポケットが無かった。

 というか、よく見ると今の俺の服装は尋常じゃなかった。まずなにより、スカートだった。青い生地のスカートだった。

 その上、手には銀色の篭手。ポケットのあるべき位置には同じく銀色のプレート。

 

「……コスプレ?」

 

 電流が走った。何が起きたのかを漸く理解出来た。

 つまり、俺もこの少年と同じくあの変質者によってここに連れ込まれたのだ。しかも、こんなコスプレを寝ている間に……。

 全身に鳥肌が立った。俺の顔は決して悪く無い方だと思う。けど、女と間違われる事は無い筈だ。

 チラリと少年を見る。ちょっと、童顔ではあるが、男らしさも見える。

 間違い無い。相手はゲイだ。

 

「ちょっと待てよ……」

 

 俺は既にコスプレしていた。寝ている間に他の事もされていない保証がどこにある?

 尻に違和感は特に無いが……、それでも不安でいっぱいになった。

 

「に、逃げよう」

 

 少年を抱き抱えたまま、俺は決意を固めた。

 変質者から逃げるのだ。ここがどこだか分からないが、警察に逃げ込みさえすれば大丈夫な筈だ。

 

「君、ここの地理は分かる?」

 

 踵を返し、走りながら少年に問う。

 

「え? あ、ああ、分かるけど……っていうか、アンタは」

「ごめんね。とにかく、まずは逃げないと……」

 

 まずはこの広々とした屋敷から出よう。

 犯人はきっと、あのぶつかって来たトレーラーの運転手に違いない。衝突した後、証拠隠滅の為にここに連れ込んだのだろう。

 そこで……、クッソー、童貞の前に処女を失ってたりしたら本気で泣くぞ。

 

「あそこが出口か!!」

 

 それにしても、少年は驚く程軽い。ちゃんと、栄養は取っているのだろうか?

 もしかしたら、長い間監禁されていたのかもしれない。

 許せない、あの男。

 

「――――どこに行くつもりだ?」

 

 ゾッとした。後ろからでは無く、なんと、上から声が降ってきた。

 青いタイツの変質者の顔が月明かりによって顕となる。顔立ちは際立って良い。驚くべき事に彼は外人だった。しかも、髪を青に染めて、瞳には赤のカラーレンズという徹底したコスプレイヤー。

 モデルはきっと、あのキャラクターだ。『Fate/stay night』というゲームのランサーというキャラクター。実に様になっているが、やっている事が拉致監禁と性的暴力である以上、褒めてやるわけにはいかない。

 

「……くっそ」

 

 少年を降ろして、手近にあった木の棒を構える。

 見れば、少年はまだ中学生か高校生くらいだ。そんな子をこんな変質者の魔の手に晒すわけにはいかない。

 きっと、正当防衛になる筈だ。

 

「……おい、何の冗談だ?」

「黙れ、変質者!! この子には手を出させないぞ!!」

「ハァ? 誰が変質者だ!! ったく、漸くお出ましかと思えば、とんだ――――」

「セイヤー!!」

 

 舐めるなよ! これでも中高は剣道部に所属していたんだ。

 頭部がガラ空きだぜ!

 

「……おいおい」

「……え?」

 

 呆気無く、木の棒を掴まれ、俺の体は宙を浮いた。

 腹を蹴られたのだ。人間の体がこんな風に宙を浮くなんて、まるでアニメの世界みたいだ。

 地面を転がり、何とか体勢を立て直す。思ったより、痛みが無い。このコスプレ衣装は予想以上に頑丈らしい。

 寝ている間に着替えさせられたらしい衣装に感謝するのも何だかおかしな気がするが、とにかくあの男、凄く鍛えてる。

 

「うぁ」

「お、おい、何してんだ!?」

 

 何と言う鬼畜。男は少年まで蹴り飛ばした。あんな子供を蹴り飛ばす神経が信じられない。

 慌てて抱き止めると、少年は痛そうに顔を歪めて体を丸めた。

 

「こ、子供相手に何をするんだ!!」

「子供? 馬鹿言うな。マスターになった以上、子供だろうが関係ねーだろ」

「マ、マスターって……」

 

 本当にヤバイ、この男。ゲームのキャラクターになりきってる。

 日本語がお上手ですね、とか褒めてる場合じゃない。このままだと、二人揃って犯られるか、下手をすると殺される。

 冗談じゃない……。

 

「だ、誰か……」

 

 少年を体で庇いながら、俺は助けを求めた。

 誰も来る筈が無い。そう思っていた……。

 

「っと、追って来たか」

 

 助けが来た。

 

「って……、あれ?」

 

 と思ったけど、違った。変質者と俺達の間に立ちはだかった浅黒い肌の男もまた、コスプレ野郎だった。

 変質者が変質者仲間とチャンバラごっこを始めた。

 

「なにこれ……」

 

 変質者同士のバトルに呆気に取られていると、女の子の声が響いた。

 

「衛宮君!!」

 

 振り返ると、黒髪の女の子が走って来た。自分が抱え込んでいる少年と同い年くらいだろうか?

 随分と可愛い女の子だ。ツインテールが良く似合っている。

 それにしても……、その格好は完全にゲームキャラクターのコスプレだった。しかも、『衛宮君』って……。

 

「とお……、さか?」

 

 思わず少年から距離を取った。

 やばい。この子達もあの変質者の仲間の可能性が浮上して来た。

 

「……驚いたわ。まさか、貴方が最後のマスターだったなんてね」

「マス、ター?」

 

 はい、決定。仲間でした。何かのサークルなのだろうか? 人を寝ている間にコスプレさせて、訳の分からない演劇に巻き込むこの方々は一体……。

 

「それで、貴女が衛宮君のサーヴァントって訳ね?」

「……えっと、その」

 

 外人二人に歳若い男女が二人。こんな広い敷地を持つ屋敷で……。

 まさか、これってあれだろうか? ゲームをモチーフにしたAV撮影……。

 色々と考え事をしていると、不意に屋敷の窓が視界に映った。そこに信じられないものが映り込んでいた。

 

「……誰、この人」

 

 そこには金髪の少女が映っていた。

 

「……もしかして、貴女も記憶に不具合がある感じ?」

 

 黒髪の少女が問う。嫌な予感で背中に嫌な汗が流れ出した。

 

「えっと、その……、ここはどこですか? そして……、私は誰ですか?」



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第二話「――――どうして?」

 現実は小説より奇なり、とは良く言ったものだ。果たして、これが現実と呼べるのならば……、だが。まったく、如何なる因果の末にこんな場所に居るのか、理解が出来ない。

 隣に座っている少年、衛宮士郎は『Fate/stay night』というゲームの主人公だ。単なる同姓同名では無く、本人なのだ。ゲームの登場人物が立体的な肉体を持ち、自らの口と喉で言葉を発している。それだけでも十分に不可解な現象だと言うのに、何と、俺自身もゲームの登場人物の一人になっている。

 セイバーのサーヴァント、アルトリア。聖杯を求め戦う七人の魔術師が召喚するサーヴァントの一体であり、本作のメインヒロインでもある。ちなみに、サーヴァントとは、英霊と呼ばれる過去に偉業を為した英雄の魂をクラスと呼ばれる寄り代に憑依させたものだ。

 分からない事は山積みだが、分かる事もある。

 

――――詰んだ。

 

 恐らく、俺はあのトレーラーに牽かれた時死んでしまったのだろう。その後、何の因果かセイバーの体に憑依してしまったらしい。それも、衛宮士郎によって召喚された直後に……。

 この世界には聖杯と呼ばれる何でも願いが叶う魔法の器なんてものがあるが、とある理由が原因でまともに機能しなかった筈だ。他にこんなフィクションの世界に紛れ込んでしまった俺が元の世界に帰る方法なんて、あるとは思えない。

 溜息しか出て来ない。

 

「ちょっと、聞いてるの?」

 

 現在、聖杯説明に関するレクチャーを士郎君にしてくれている凛ちゃんからお叱りを受けた。

 未熟なマスターと記憶喪失のサーヴァントという組み合わせに彼女はお節介を焼く決意をしてくれたらしい。ありがたい事とは思うが、正直なところ、それ所じゃない……。

 相変わらず上の空な俺を凛ちゃんが睨む。

 

「……ごめん。ちょっと、頭の整理が追いつかなくてね」

「セイバー……」

 

 とりあえず、士郎君にはクラス名であるセイバーと呼んでもらう事にした。今後どうなるにしても、彼とは一蓮托生になるのだから、いずれは此方の事情を話す事になるだろうけど、今は早い気がする。

 

「……とりあえず、話はこんな所かしら。それで、どうするの?」

「どうするって?」

 

 凛ちゃんの問い掛けに士郎君が首を傾げる。

 

「戦う気はある? ハッキリ言って、今の貴方達じゃ、この聖杯戦争を生き残る事なんて不可能に近いけど」

 

 彼女の言い分は尤もだ。原作でさえ、生き残る事が難しい状態にあった。なのに、サーヴァントであるセイバーが俺なのだ。ランサーとアーチャーの戦いを見て、理解した。俺にサーヴァントと戦う力は無い。

 だけど、士郎君はきっと戦いを選ぶだろう。彼はそういう性格の主人公だ。聖杯戦争で犠牲になる人々が居ると聞けば、例え、自分の命が危険に晒される事になろうと、戦う決意を固めてしまうだろう。

 

「……士郎君」

「なんだ?」

 

 今ならば間に合うかもしれない。

 

「パスポートは持っているかい?」

「いや、持ってない」

「じゃあ、お金は? ある程度の余裕はあるかな?」

「まあ、貯金はあるけど……」

「なら、決まりだ」

 

 俺は問答無用で士郎君を立ち上がらせる。

 

「海外に逃げよう。そこで、聖杯戦争の終結を待つ」

「はぁ!? いきなり、何を言ってるんだよ!」

「さっき、凛ちゃんも言ってただろ? 俺達がこの戦いを生き残るのは難しい。だから、逃げるんだ」

 

 有無を言わさず、俺は廊下に士郎君を引き摺り出した。

 

「出来るだけ早急に準備を済ませてくれ。今夜中に出発する」

「ま、待ってくれ、セイバー! 俺は――――」

「生き残れないと分かり切っている戦いに君みたいな子供を参加させるわけにはいかない。せめて、俺が戦えれば話は別だが、俺にランサーやアーチャーのようなサーヴァントと戦う力は無い。だから――――」

「落ち着きなさい、セイバー」

 

 静かな声で凛ちゃんが言った。

 

「今の貴女に理解出来ているか分からないから、一応言っておくけど、冬木を離れたら聖杯との繋がりを保てなくなる。一時的にならまだしも、数日間ともなったら、余程の魔術師をマスターにしてないと、現界を維持出来なくなるわ」

 

 そんな設定があったとは知らなかった。

 けど、俺に考えを改める気は無い。

 

「それでも、士郎君の命が助かるなら問題無いよ。子供の安全が最優先だ。そもそも、俺はもう死んでる人間のようだしね……」

 

 苦い表情を浮かべる俺に凛ちゃんは肩を竦めた。

 

「ふーん。ステータスを見る限りだと、貴女、相当優秀なサーヴァントみたいだけど、記憶が無いとやっぱり厳しいの?」

「厳しいなんてもんじゃないよ。戦う方法すら分からないんだ。宝具を使う事はおろか、剣を振るう事さえ出来ない。こんな状態で他のサーヴァントと遭遇したら、俺はアッサリ殺される。士郎君を守るどころじゃない」

「……何とか、記憶を取り戻す事は出来ないの?」

「難しいな。そもそも、思い出せる記憶がこの体に残っているのかどうかすら分からない」

「ふーん。でも、海外への逃亡はあまり現実的じゃないわね」

「どういう事だい?」

 

 凛ちゃんは肩を竦めながら言った。

 

「まず、監督役から確実に警告が出されるわ。何せ、サーヴァントを市外に出すという事は監督役の手の届かない場所で被害が発生する可能性が出て来るから」

「……それは不味い事かい?」

「監督役からの警告自体に然程意味は無いわ。問題はそれを無視した後。確実に魔術協会と聖堂教会の両方から罰則が下される事になるわ」

 

 凛ちゃんの言葉は事実上の逃亡不可能を意味した。

 

「逃亡するとしたら、安全地帯に到着するまで、セイバーが護衛する必要がある。けど、セイバーが居れば教会と協会から罰が下る。どちらにしても、衛宮君が厄介な立場に立たされる事は間違い無いわ」

「じゃあ……」

「それより、監督役に保護を求める方がまだ現実的よ」

「それは……、しかし……」

 

 監督役とは、言峰綺礼の事。実のところ、彼こそがゲームのラスボスだったりする。あそこに保護を求めるという事は蛇の口にダイブするのと同義だ。

 

「まあ、私も個人的にはあまり勧められないけど、国外逃亡よりはマシだと思うわ」

 

 溜息が零れる。参った、打つ手無しだ。

 

「……とりあえず、監督役に会いに行きましょう。そこでなら、もっと詳しい話が聞けるし、衛宮君の保護も頼めるかもしれない」

 

 さて、どうしたものか……。言峰教会に行く事は虎の穴に自ら入りこむようなものだ。

 

「……どうする、セイバー?」

 

 士郎君が問う。

 

「そうだね……」

 

 残された道は少ない。逃げられないなら、戦うしかないがその為には協力者がどうしても必要になる。

 そうなると、候補は目の前の少女唯一人だ。他は誰も彼も問題を抱えている。

 

「凛ちゃん」

「……とりあえず、まず、その凛ちゃんっての止めてもらえない?」

「駄目かい? じゃあ……、凛でいいかな?」

「それでいいわ。ちゃん付けなんて、落ち着かないし」

「了解」

「それで、行くの? 行かないの?」

「その件なんだが、とりあえず後回しにしたい。それより、君に士郎君の保護を求めたい」

「……まあ、そう来るような気がしてたわ」

 

 話が早い事は良い事だ。

 

「勿論、俺の事は好きにしていいよ。士郎君を守ってくれるならね」

「ちょ、ちょっと待てよ、セイバー!」

 

 俺の発言が気に障ったのか、士郎君が声を荒げた。

 

「直感だけど……、監督役を頼るのは得策じゃない気がする。それより、信用の置けるマスターに保護を求める方が君の生存率が上がると思うんだ」

「随分と私を買ってくれているのね、セイバー」

「うん。一目見て、君が心根の優しい子だと分かった。それに、わざわざ敵のマスターの為に懇切丁寧な説明をしてくれて、自滅を防ぐ忠告もしてくれたしね」

 

 視線を士郎君に向ける。

 

「悪いが、異論は認めない。君みたいな子供を若い身空で死なせるわけにはいかないからね」

「で、でも!」

「頼む、凛。此方の取引材料は俺の身一つしかないけど……」

「構わないわ。ただし、決して裏切らないように令呪を使ってもらう」

「ああ、此方からは士郎君の保護以外の条件を出すつもりは無い」

「……衛宮君はそれでいいのかしら?」

 

 思わず舌打ちしそうになった。余計な事を聞くなよ。

 

「俺は……賛成出来ない」

 

 士郎君は言った。

 

「いや、別に遠坂と組みたくないってわけじゃないんだ。ただ、その為にセイバーに犠牲を払わせるのは……」

「それこそ問題視する必要は無いよ。俺はこう見えても君より年上だ。だから、甘えてくれて良い」

「でも!」

「悪いが、これ以上文句を言うなら手足を縛って監禁しないといけない」

「か、監禁って……」

 

 士郎君が言葉を失う。確かに過激過ぎるかもしれないが、あまり反抗的な態度を取るなら仕方が無い。

 

「君を死なせるよりはマシだ。無論、全てが終わったら幾らでも殴ってもらって構わないよ」

「でも……、遠坂は戦うんだろ?」

 

 士郎君が問う。痛い所を衝かれた。

 

「当然よ。聖杯を取る事は遠坂家の義務だもの」

「……士郎君。勘違いしているかもしれないが、彼女は極めて優秀な魔術師だよ。君とは違う」

 

 ちょっとでも死亡フラグを踏むと死んじゃう君と凛では違うんだよ。

 俺が士郎君を必死に守ろうとしているのも、彼がちょっとした事で直ぐに死んでしまうからだ。

 その死因の多くはヒロインによるものだが、遠坂凛という少女によって齎される死は他のヒロイン達に比べて圧倒的に少ない。

 むしろ、命を救ってもらう事の方が多いくらいだ。

 

「実際、この戦いの勝者は彼女になると思う。だから、彼女に保護してもらえれば、君の生存率は飛躍的に向上すると思うんだ」

「け、けど……」

「待った、セイバー」

 

 尚も言い返して来ようとする士郎君にいい加減苛々していると、凛が言った。

 

「さすがにマスターの意思を無視するサーヴァントは信用出来ないわ」

「なっ……」

「勿論、貴女が衛宮君を守りたい一心での発言である事は認める。けど、彼の意思を度外視して、自分の意見ばかり主張するなら、悪いけど組む気になれない。マスターが制御出来ないサーヴァントなんて、スイッチの入った爆弾を手元に置くようなものだもの」

「お、俺は……」

「例えば、何らかの理由で衛宮君の命が危険に晒された時、貴女は私達を裏切らないと断言出来る?」

「……それは」

「出来ないでしょ?」

 

 何も反論出来なかった。三歳くらい離れている少女に言い負かされた。その事に落ち込んでいると、彼女は言った。

 

「それに、正直、私に貴女達と組むメリットが少な過ぎる。せめて、ある程度、セイバーが戦闘を行えるようになる事と、セイバーが衛宮君の意思を尊重するようになる事。その二つの条件を満たさなきゃ、組む気になれないわ」

「そんな……」

 

 最悪だ。原作の彼女はお人好しと言ってもいいくらいの性格だった。主人公である衛宮士郎が危機的状況に陥れば、救いの手を差し伸べてくれる存在だった。

 そんな彼女が此方の手を振り払った原因は全て俺にある。

 

「……とりあえず、今日は解散しましょう。一応、休戦協定だけは結んであげる。条件を満たしたら会いに来なさい。即決はしないけど、話くらいは聞いてあげる」

「ま、待ってくれ、凛。なんなら、ここで自害しても構わない。だから、士郎君の保護を――――」

「お断りよ。セイバーが居ないんじゃ、尚の事、衛宮君を保護するメリットが無いもの。魔術師同士の取引は等価交換が原則。それを忘れないようにね」

 

 凜が去った後、俺は頭を抱えた。大失敗だ。最悪だ。

 

「ど、どうしよう……」

 

 頼みの綱が切れてしまった。

 

「な、なあ……」

 

 士郎君が恐る恐る肩に手を触れてきた。

 

「あ、ああ、士郎君。すまない、俺が不甲斐ないばかりに……」

「いや、別に……。っていうか、セイバー」

「なんだい?」

「どうして、そんなに俺に戦わせたくないんだ?」

「だって、君は直ぐに死にそうだからね」

 

 即答すると、士郎君は実に面白い表情を浮かべた。

 

「い、いや、直ぐに死にそうとかどうして分かるのさ!?」

「もう、何て言うか、顔に滲み出てるんだよ。ちょっと選択肢を誤っただけで直ぐ死にそうな感じが……」

「嘘だろ!?」

「いや、本当」

 

 実に困った。何が困ったって、このままだと序盤における最大の死亡フラグがやって来てしまう。

 

「……もう一度、凛を説得しに行こう」

 

 実際には巻き込みに行こう。更に正確にはアーチャーの力を借りに行こう。

 

「でも、遠坂は――――」

「ほら、行くよ。抱っこで連れて行ってもらいたいのかい?」

「じ、自分で歩きます」

 

 後一秒決断が遅かったら本当に抱っこして連れて行くつもりだったけど、士郎君はいそいそと立ち上がり、玄関に向った。

 外に出ると、涼しい風が頬を撫でた。

 

「凛の家の方角は分かる?」

「えっと、確か南の方にある高級住宅街だったと思うけど……」

「じゃあ、行こうか」

 

 ちょっと駆け足。士郎君が必死な顔をしているけど、俺の方は余裕綽々。セイバーボディーの性能の素晴らしさを体感した。

 しばらくして、分かれ道まで来ると、凛の後姿が見えた。

 

「……こっちの返事は変わらないわよ」

「頼むよ、凛。君しか頼れる人間が居ないんだ」

「何度頼まれようと、貴女のスタンスが変わらない限り同じ事よ。それより、あんまりしつこいようだと……」

 

 凛の瞳に危険な光が宿ると同時に背後から愛らしい声が響いた。

 

「――――やっと見つけた、お兄ちゃん」

 

 来た。歌うような少女の声。それが、死神が鎌を研ぐ音のように聞こえた。

 振り向くと、そこに怪物が立っていた。まるで現実味の無い、異形の存在。

 アレが生き物であると知っているが故に体が震えた。

 

「バーサーカー……」

 

 凜が呟く。

 異形から視線を下に降ろすと、そこには声の主たる少女が居た。

 

「こんばんは、お兄ちゃん。こうして会うのは二度目だね」

 

 少女はそう言って、士郎君に向って微笑み掛ける。

 

「……やばい。アレ、ステータスが幸運以外全部最高値のAランクオーバーじゃない」

 

 眉間に皺を寄せながら、凛は自らを鼓舞するかのように顔を上げる。

 

「アーチャー。アレは力押しじゃなんともならない。貴方は本来の戦いに徹してちょうだい」

 

 小声で自らの相棒にそう囁く凛。それに、姿を見せないまま、アーチャーが応える。

 

「了解した。だが、守りはどうする? セイバーには期待出来んぞ」

「まあ、こっちは三人居るし、少しの間なら凌げると思う。ただ、あまり長くは保たないわ……」

「分かった」

 

 凛の背後から何かが去るのを感じた。気配なんてものを感じたのは初めてだけど、これが英霊の感覚というものなのかもしれない。

 

「そういう事だから、セイバー。悪いけど、一緒に戦ってもらうわよ」

「分かった。ただ、その前に士郎君」

「な、なんだ?」

 

 話しかけるのが唐突過ぎたせいか、士郎君は酷く狼狽している。

 

「令呪を使って欲しいんだ。そうすれば、一時的にでも本来の力が使えるかもしれない」

「なるほど、その手があったわね」

 

 凜が小声で士郎君に令呪の使い方をレクチャーする。士郎君は青い顔をしながら頷くと、瞼を閉ざした。

 

「――――え?」

 

 凜が戸惑い気な声を上げる。

 それと同時に白い少女が口を開く。

 

「相談は済んだ? じゃあ、殺すね」

 

 少女はこの緊迫した状況に不似合いな行儀の良いお辞儀をした。

 

「はじめまして、リン。わたしはイリヤ。イリヤスフィール・フォン・アインツベルン」

「アインツベルン……」

 

 ハッとした表情を浮かべる凛にイリヤは満面の笑みを零し、自らの怪物に命令を下した。

 

「さあ、やりなさい、バーサーカー」

「士郎君!!」

「あ、ああ、令呪をもって命じる!! セイバー、全力を発揮するんだ!!」

 

 瞬間、俺の中で何かが変化した。極自然に剣を取り、極自然にバーサーカーの剣を受け切った。

 どう動けばいいのかが考えるより早く感覚で分かる。

 一瞬、足を止めたバーサーカーに八連の矢が疾走する。機関銃染みた矢はアーチャーによるものだろう。

 けど、その悉くがバーサーカーの肌に弾かれる。あの怪物には一定ランクを超える攻撃以外、通じないという能力があるのだ。

 背後で凛の驚く声が聞こえるが、今は目の前の敵の対処に集中しよう。

 令呪のおかげか、恐怖は薄れている。剣を剣で弾き、バーサーカーに隙を作らせる。そこにアーチャーの矢が殺到する。

 

「アーチャー!!」

 

 凛の合図と共に銀光がバーサーカーの脳天に直撃する。

 あれでは倒れない。知っているが故に追撃の手を緩めない。

 

「セアァァァア!!」

 

 渾身の一撃が防がれた。一端距離を取ろうと退がると、バーサーカーの追撃を阻むように幾筋もの銀光が降り注いだ。

 

「Gewicht, um zuVerdopp elung――――!」

 

 凛が黒曜石を投げ放つ。アーチャーと凛の同時攻撃に周囲のコンクリートが爆散する。

 けれど、肝心のバーサーカーは無傷だった。

 

「リンとアーチャーの矢なんて無視しなさい! どうせ、アンタには効かないんだから! セイバーだけを狙って殺しなさい!」

 

 最悪な少女だ。見た目が可愛らしいせいで余計に憎らしく見える。

 とは言え、バーサーカーに対する必勝法……、マスター狙いをするのはどうしても気が引ける。

 せめて、彼女が俺より年上だったなら考慮したかもしれないけど、あんな小さな子を殺すわけにはいかない。

 

「となると……」

 

 ここまで来る途中に広々とした空き地があった。そこまで誘導すれば、アーチャーが決めてくれる筈だ。

 

「――――って、ヤベ」

 

 一瞬の思考が命取りになった。

 バーサーカーの斧剣が迫る。咄嗟に剣を盾にするも、俺の体は紙屑のように吹き飛んだ。

 何度も地面をバウンドして、転がる。尋常じゃない痛みに呻き声しか上げられない。

 

「……痛い」

 

 あまりの痛みに涙が滲んで視界がぼやける。

 まずい、まずい、まずい。

 こんな状況で視界を曇らせるなんて――――、

 

「セイバー!!」

 

 士郎君の声のおかげで何とか目の前に迫る斧剣を剣で防ぐ事が出来た。

 だけど、再び吹き飛ばされ、全身がバラバラになったかのような痛みを感じる。

 息も絶え絶えだ。視界が真っ赤に染まっている。

 不味い……。ここじゃ、アーチャーの切り札が使えない。あれは周囲への影響が大き過ぎるから。

 

「こうなったら……」

 

 もう、四の五の言ってられない。剣に纏わせている風を操る。狙いはバーサーカーの背後に居る少女。

 大丈夫だ。バーサーカーが必ず防いでくれる。そんで、逃走の隙を作ってくれる筈。

 

「終わらせなさい、バーサーカー!」

 

 風を解き放つより早く、バーサーカーの動きが変わった。

 

「そんな――――」

 

 再び跳ね飛ばされ、俺の意識は朦朧となった。

 立ち上がる力も残っていない。

 やばい……、死ぬ。こんな痛い思いをして死ぬくらいだったら、トレーラーに牽かれた時、さっさとあの世に行ってればよかった。

 なんで、俺はこんな場所でこんな痛い思いをしないといけないんだ……。

 

「あはは、勝てると思ったのかしら? 私のサーヴァントはギリシャ最大の英雄なのよ?」

「ギリシャ最大の英雄って、まさか……」

「そうよ、リン。ソイツの名前はヘラクレス。貴女達程度が使役出来る英雄とは格が違うの」

 

 イリヤと凛の会話が耳に入って来る。

 まったく、何をしているんだ。そんな会話をしている暇があるなら、さっさと逃げろ。

 

「遠坂、こっちだ――――」

 

 士郎君が凛の手を取った。そうだ、それでいい――――、

 

「クッソ……」

 

 俺は痛みに悲鳴をあげる体に鞭を打つ。

 バーサーカーが彼等を追っているからだ。

 ちくしょう、俺から先に殺せよな……。

 

「離して! あいつ相手に背中を向けるなんて――――!」

「え?」

 

 凜が士郎君の手を振り払う。閃光を迸らせ、バーサーカーを攻撃するも、バーサーカーは意に介さず斧剣を振るった。

 

「――――は、くぁ……」

 

 致命傷を受けた。ああ、これは絶対に死んだ。だって、腕が肩や横腹ごと吹っ飛ばされたんだから、これで生きていられたらそれこそ化け物だ。

 こんな痛みを体験する事になるなんて、俺は神様にどんな恨みを買ったんだろう……。

 

「セ、セイバー……?」

「……逃げろ」

 

 さすがにもう守ってやれない。子供が死ぬ姿なんて見たくない。だから、早く逃げてくれ。

 俺は必死に懇願した。

 

「いいわ、バーサーカー。そいつを先に片付けなさい。再生されたら面倒だし」

 

 悪魔っ子め……。

 ここまで完膚無きまでに瀕死の俺を更に痛めつけようってか……。

 ああ、いいぜ。それで二人が逃げられるなら、悪く無い。なるべく、時間を掛けて甚振れよな……。

 

「こ――――のぉおおおおおおお!!」

 

 ああ、馬鹿野郎。最悪だ。

 俺が何の為にこんなに痛い思いをしてると思ってやがるんだ……。

 士郎君がいきなり走って来て、俺に振り下ろしたバーサーカーの斧剣を真っ向から受けてしまった。

 真っ赤な血が花のように咲き乱れ、俺の隣に士郎君の体が落ちて来る。

 アヴァロンがあるからって、必ず助かるわけじゃない。でも、今の俺なら魔力を補充して助けられるかもしれない。

 

「し……、ろう」

 

 死ぬなよ。俺の前でだけは死ぬなよ。子供が死ぬってのはキツイもんなんだよ。

 ああ、意識が更に朦朧として来た。頼むから、死なないでくれよな……。

 最後の瞬間、誰かの声が耳に届いた。

 

「――――どうして?」



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第三話「貴方は一体、誰なの?」

 雀の鳴く声で目が覚めた。酷い夢を見ていた気がする。

 

「……いや、夢じゃないな」

 

 目に掛かる金の糸。染めた覚えは無いし、こんなに綺麗な金を染めて作れるとは思えない。

 起き上がり、辺りを見渡す。趣のある和室の中心に布団が敷かれ、俺はその上に横たわっている。布団を捲ると、ベッタリとした赤い染みが出来ていた。俺の血だ。

 昨夜の事を思い出して、身の毛がよだつ。恐る恐る左腕に視線を向ける。そこには何事も無かったかのように細く綺麗な左腕があった。腹部にも傷痕一つ残っていない。

 

「……生きてた」

 

 溜息が零れる。生きてて良かった。死んでしまった方が良かった。

 

「……ボランティア活動なんて、するもんじゃないな」

 

 大学に入って一年目の夏。俺は学校に来ていたボランティアの募集に応募した。理由は実に俗物的で、就職の際の自己PRのネタに使えると思ったからだ。ついでに海外に行ってみたいとも思っていたから、友達を誘って参加した。

 学校が募集していたのは某国での植林活動だったのだが、そこで酷い目にあった。たまたま、ボランティア先で他のボランティア活動のグループと遭遇し、彼等の活動を見させてもらったのだが、そこは正に地獄絵図だった。

 別に紛争地帯ってわけじゃない。ただ、その国は酷く貧しい国で、ついでに言うと、あまり衛生的じゃなかった。俺は出国前に予防接種を各種受けていたし、キチンと指示通りに対策をしていたから健康なまま、ボランティア活動を終えられたが、その国に生まれ育った免疫力の低い……、その上、栄養失調気味な子供は……。

 

「俺も懲りないよなー」

 

 あの一件以来、子供に弱くなった気がする。見学させてくれたボランティア活動家の人が賢明に手を尽くしたのに、どんどん弱っていく子供の呼吸。徐々に動かなくなっていく体。

 付き添いの人の言う事をキチンと聞くべきだった。彼等が渋い顔をした理由に気付くのが遅過ぎた。興味本位で見学を申し出るんじゃなかったと後悔した。

 

「俺に出来る事なんて何も無い……ってのが、一番堪えるんだよな」

 

 覚悟も知識も経験も無い人間に出来る事なんて一つも無い。

 

「……俺がまだ消えてないって事は士郎君も死んでないって事だよな」

 

 心から安堵した。同時に怖くなった。

 今の俺はまさにあの時の俺と同じだ。違うのは、単なる見学者じゃなくて、当事者だという事。

 

「とにかく、起きて顔を見に行くか」

 

 起き上がり、廊下に出る。途中、声が聞こえた。声の方に足を向けると、そこには凛の姿があった。どうやら、霊体化しているアーチャーと会話をしていたらしい。俺が顔を見せると、彼女は軽く手を振った。

 

「おはよう、セイバー」

「おはよう、凛。色々とありがとう」

 

 運んでくれたのは恐らく彼女とアーチャーだ。

 

「どういたしまして。具合はどう?」

「悪くないよ。治療は凛が?」

「いいえ、私は特に何もしてないわ。二人揃って、勝手に治っただけの事。ちょっと、気味が悪い回復力だったわよ。絶対に死んだと思ったのに……」

「……回復に関しては心当たりがあるよ」

「あら、記憶が戻ったの?」

「ちょっと、違う。事情を説明してもいいけど、それは君が同盟を結んでも良いと言ってくれたらだね」

「……同盟ね。つまり、士郎の保護を求めるって意見は撤回するわけ?」

 

 俺は「うん」と頷いた。一度眠ったおかげか、頭が冷静に働いている。何が最善なのかを判断出来るようになった。

 

「まあ、全ての責任を君におしつけようとしていたわけだし、昨夜のアレは拒否されて当然だったよ」

「うん、合格。やっと、自分の発言の無責任さを自覚出来たみたいね」

 

 手厳しい言葉だけど、彼女の言葉は実にもっともだ。昨夜の俺は単に彼女に責任を全て押し付けて逃げようとしてただけだ。あんな無責任な提案、呑んでもらえるわけが無い。

 

「士郎君の事は俺が守る。守り切れる自信はあんまり無いけど……」

「そこはギブ・アンド・テイク。貴女が私に力を貸してくれるなら、こっちでも彼の身の安全の為の策を講じるわ」

「ありがとう。じゃあ、同盟締結って事でいいのかな?」

「一応、衛宮君が起きてきたら、彼の意見を聞いた上でって事になるけどね。まあ、昨日は助けてもらっちゃったし、此方に異存は無いわ。セイバーがキッチリ戦力になるって確証も得られてしね」

「戦力か……。正直、難しいな」

「どういう事?」

 

 俺が凜に説明しようと口を開きかけた時、襖が開いた。顔を向けると、青い顔をした士郎君が入って来た。

 

「おはよう、士郎君。体は大丈夫かい?」

「な……、え?」

 

 戸惑いに満ちた表情を浮かべる士郎君。どうやら、状況が掴めていないらしい。

 

「とりあえず、座ったら?」

 

 凛が促すと、士郎君はゆっくりと座布団の上に腰を降ろした。

 

「えっと……」

 

 言葉を探しているらしい。

 

「とりあえず、水でも飲んで頭をスッキリさせなよ」

 

 立ち上がって、キッチンに向う。流し台にコップを発見。冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを注ぐ。蛇口の水はどうも飲む気になれない。

 水を持って来ると、士郎君は漸く事態が飲み込めたらしく、凜にあれこれと質問をしていた。

 

「とりあえず、これを飲んで落ち着きなよ」

「あ、ありがとう」

 

 ゴクリと一杯。良い飲みっぷりだ。

 

「衛宮君が一息吐いた所で、本題に入りましょう」

 

 凛が言った。

 

「まず、昨夜の事だけど、二人揃ってバーサーカーに腹を掻っ捌かれた後、イリヤスフィールとバーサーカーは立ち去った。その後、看取るつもりで貴方達の体を見たら、勝手に治り始めてた。十分もしたら、外見は元通り。ちょっと、不気味なくらいの回復力だったわ」

 

 凛の言葉に士郎君はギョッとした表情を浮かべた。まあ、事情を知らなければ無理も無い。

 

「セイバーには心当たりがあるみたいだけど、貴方達の回復に私はノータッチ。包帯を巻いたりとかはしたけど、その程度よ」

「遠坂が治療したんじゃないのか?」

「ええ、あの時の貴方達は殆ど死者も同然だった。死者の蘇生なんて、今の私にはもう無理。だから、回復の理由は貴方達自身の力によるもの」

 

 そう言って、凛が俺を見る。

 

「彼女から詳しい話を聞きたい所なんだけど、その前に衛宮君に質問がある」

「な、なんだよ、質問って」

「私達と手を組む気は無い?」

「遠坂と? それは願っても無い事だけど、昨日は――――」

「昨夜の事に関しては彼女と既に話がついている。衛宮君がどうこう以前の問題だったの。けど、それに関してさっき決着がついたから、改めての提案よ。まあ、幾つかそっちに譲歩してもらう事になるけど、それを呑めるなら交渉成立」

「譲歩って……?」

「まず、聖杯を手にする段になったら、その所有権を私に譲る事」

「……俺は別に構わないけど、セイバーは――――」

「俺も構わない。士郎君の安全が最優先だ」

 

 俺が即答すると、士郎君は口を噤んだ。何か、気に障ったのだろうか?

 

「なら、次の条件。もし、私が危機に陥った場合、セイバーには無条件で助力してもらう」

「ああ、請け合うよ。君なら問題無いと思うけど、やっぱり、子供が危険に晒されるのは看過出来ない。君に危険が及ぶようなら、力を尽くすつもりだ」

「……ふーん。お人好しなタイプ?」

「……というか、子供にトラウマがあってね。目の前で死なれるのがキツイ。個人的な事で悪いけど、そう言った理由だから、バーサーカーに関してもマスター狙いは出来ない」

 

 俺の発言に関して反応は様々だった。

 士郎君は「当たり前だろ!」と目を丸くし、凛は険しい表情を浮かべた。

 

「待って、それはつまり、イリヤスフィールが自らを盾にして来た場合、貴女の戦闘力が落ちると受け取っていいわけ?」

「ああ、そう受け取っていいよ」

「……同盟を結ぶ気あるの? そんな致命的な弱点があるなんて、こっちからしたら――――」

「でも、結んでから言ったら詐欺だからね」

「……まあ、後から言われたら契約を破棄してたかもしれないし」

 

 凛の言葉に安堵した。彼女の人となりはゲームをプレイした時にある程度掴めたけど、やっぱり、生身の人間相手に交渉する際、嘘はいけない気がする。

 子供っぽい持論だし、そんなの社会じゃ通用しないだろうけど、誠実さは大切だ。

 

「まあ、そこはおいおい対策を練るとして、もう一つ。あらゆる情報を共有してもらうわ」

「どういう意味だ?」

 

 士郎君が首を傾げる。

 

「そのままの意味よ。勝手な自己判断で秘匿せず、聖杯戦争中に得られた情報は全て開示する事」

 

 俺と士郎君が揃って条件に頷くと、凜はすました顔で言った。

 

「じゃあ、同盟締結ね。なら、聞かせてもらえるかしら、セイバー? 貴女の言う心当たりについて」

 

 事ここに至り、隠すつもりは無かった。昨夜は下手な発言で軋轢が出来る事を懸念したけど、このまま記憶障害で通すのは無理がある。一晩が過ぎ、死闘を経験した今なら、言っても問題無いだろう。

 

「とりあえず、前提として理解してもらいたいんだけど、俺は英霊じゃない」

「……は?」

 

 二人の表情が凍りつく。まあ、当然の反応だろう。けど、二人が我に戻る前に話を進めよう。下手に中断すると、面倒な事になる。

 

「勘違いしないで欲しいんだが、この体は英霊のものだ」

「ちょ、ちょっと待って、どういう意味!?」

 

 凜が問う。

 

「単純な話だよ。この体は確かに英霊のものなんだ。だけど、肝心の中身が違う。ちょっと、宗教的な話になっちゃうけど、キリスト教の教えでは、人間は霊魂と精神と肉体の三つによって構成されているそうなんだ」

「……ええ、知ってるわ。錬金術で言うところの三原質。それは魔術師の基本的な教養の一つだもの」

 

 さすがは名門魔術師の家系の当主だ。反して、士郎君はちょっと困惑顔。まあ、宗教系の話は興味や信仰が無いとついていけないから仕方が無い。俺の場合は姉がキリスト教系の学校に通っていたもんだから、色々と知識が身についてしまっただけだけど。

 

「ここで重要なのはサーヴァントのシステムだ。多分、この三つの内、肉体は寄り代であるクラスが請け負っているんだと思う」

「その通りよ」

 

 システムを構築した御三家の当主のお墨付きをもらえた。

 

「というか、霊体の召喚は基本的にその概念を基にしてる。基本じゃない」

 

 士郎君がショックを受けている。

 

「ああ、何と無く分かって来たわ」

 

 凜が言った。

 

「つまり、貴女の今の状態は肉体と霊魂が英霊のものであるにも関わらず、精神だけが別物って事?」

「多分ね」

「えっと……、俺にはよく分からないんだけど、つまり?」

 

 頭を抱える士郎君。さて、どう説明したものかな……。

 

「霊魂ってのは、その者に蓄えられた情報の塊。精神っていうのは、その情報を扱う頭脳の事。サーヴァントの肉体は霊魂の情報を基に作られるから、今の状態になっているんだと思うわ」

 

 凜が実に見事な解説をしてくれた。

 

「昨夜の戦いで俺が英霊本来の力を引き出せたのも、恐らく令呪によって霊魂の情報を引き出す事が出来たからだと思う」

 

 俺の言葉に凛は納得顔だ。

 

「色々と納得出来ない事はあるけど、まあ、理屈は通るわね」

「納得出来ない事と言うと?」

「決まってるじゃない。貴女の精神が別物と摩り替わってる事についてよ。そんな事態、聞いた事が無いわ」

「と言われても、事実だしな……」

「なら、貴女のプロフィールを教えてもらえるかしら? 精神の方だけじゃなくて、霊魂や肉体の方に関してのものも」

「ああ、それなら可能だよ。まず、霊魂と肉体に関してだけど、アーサー王のものだ」

「……は?」

 

 空気が凍り付いた。まあ、当然の反応と言えるだろう。

 

「アルトリア・ペンドラゴン。それがこの体の持ち主の名前だよ。宝具は風王結界《インビジブル・エア》と約束された勝利の剣《エクスカリバー》。そして、士郎君の体の中にある全て遠き理想郷《アヴァロン》だ」

「お、俺の中に宝具?」

 

 目を丸くする士郎君に俺は頷いた。

 

「昨夜の傷を治癒したのもアヴァロンの力によるものだよ。後、アーサー王を召喚出来たのもアヴァロンが寄り代になったからだ」

「待った。寄り代になった? 百歩譲って、貴女がアーサー王で、昨夜の治癒がアヴァロンによるものだとして、どうして、衛宮君の中に宝具があるの?」

「情報は全て共有するって約束だから、全部白状するけど、士郎君の中にアヴァロンを埋め込んだのは衛宮切嗣さん。つまり、士郎君の義理のお父さんだね。彼が前回の聖杯戦争で英霊召喚の寄り代に使ったのがアヴァロンなんだ」

「……爺さんが聖杯戦争に?」

 

 戸惑い気な士郎君。対照的に目の端が吊り上っていく凛。

 

「君の御義父さんはアインツベルンが聖杯戦争の為に外部から招いた魔術師だったんだよ。アインツベルンは彼の為にアヴァロンを発掘して与えた。そして、優勝した」

 

 衛宮切嗣に関して出来る説明はこのくらいかな。『Fate/ZERO』という『Fate/stay night』の前日譚があるけど、あの小説の内容は本編で明かされた情報と矛盾点がかなりあるから、実際にあった過去として話すのは避けた方がいいだろう。

 余計な事を話して、後々要らぬ矛盾点が出て来ても困る。

 

「ただ、優勝の直前に戦っていた相手が厄介な奴でね。そいつが彼より先に聖杯を確保してしまった。その結果、彼の欲望が叶えられて、大惨事が起きた……らしい」

 

 確か、邪魔物を排除したかったんだっけ……。いや、どちらかと言うと、聖杯が彼の内なる欲望をすくいあげた結果がアレだって話も聞いたな。

 

「大惨事って……、まさか」

「この地で起きた大火災。それが今言った大惨事だよ。そして、衛宮切嗣は君を火災現場で見つけ出し、君を救う為にアヴァロンを埋め込んだ。アヴァロンには強力な治癒能力があるからね」

 

 俺が口を閉ざすと、しばらく沈黙が続いた。

 それから、唐突に凛が口を開いた。当然と言うか、来るだろうと予想していた質問。

 

「そんな知識を持つ、自称英霊じゃない精神の持ち主である貴方は一体、誰なの?」



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第四話「信頼させてね、セイバー?」

「日野悟」

 

 セイバーの発した五文字の単語に凛と士郎の反応が遅れた。

 

「……え?」

 

 漸く、二人が搾り出した疑問の声にセイバーはかすかな笑みを浮かべて言った。

 

「日光の日に野原の野。悟ると書いて、悟。ヒノサトル。それが俺の名前だよ」

「……はい?」

 

 士郎は判断を仰ぐかのように凛を見た。彼女も困惑を隠し切れずにいる。

 

「ごめんなさい。ちょっと、言葉の意味が分からないんだけど……」

 

 眉間に皺を寄せて言う凛にセイバーは短く「だろうね」と同意した。

 

「説明の仕方が下手になるのは勘弁して欲しい。俺も事情に精通しているわけじゃないんだ。ただ、あるがままを話そうとしているだけなんだよ」

 

 そう言って、セイバーは落ち着く為に深呼吸をした。

 

「この事に関して、話すべきか迷いもあったんだ。でも、交渉事には不慣れだから……。下手に隠し事をしたり、嘘を吐くのは賢明な判断じゃ無いって、思ったんだ」

「……虚言や冗句じゃないのね?」

「そこは信じて欲しい。根拠になるかどうか分からないけど――――」

 

 そう前置きをして、セイバーが語ったのは平凡な青年の簡素なプロフィールだった。

 

「本名は日野悟。年齢は二十歳。東京と神奈川の県境にある大学に通う二年生。クリケットサークルと登山愛好会で活動しつつ、バイトや研究室巡りに精を出してました」

「……えっと、つまり、セイバー……じゃなくて、日野さんは――――」

「そう、ただの一般人だよ」

 

 士郎の疑問に先んじて答えたセイバーに凛は深く息を吐いた。相手を激しく揺すってやりたい衝動を堪え、彼女が発した言葉の意味を吟味する。

 まず、大前提として考えなければならないのは、彼女の言葉が真実か否か、という点だ。普通に考えたら嘘八百を並べているだけと考える方が賢明だ。今までの全てが演技で、此方の油断を誘っているだけ……、と考える方が自然だし、説得力もある。

 けれど、そうなると分からない点が幾つかある。例えば、昨夜の件だ。彼女は凛がバーサーカーに殺されそうになった時、身を盾にして守った。あの行動を演技だと考えるのは無理がある。何故なら、あの時のバーサーカーの攻撃は一歩間違えればセイバーを即消滅させかねない強力なものだった。完全に見切って、即消滅を免れ、かつ回復する程度のダメージを負う。例え、そんな真似が出来たとしても、リスクに釣り合うメリットが無い。

 それに、これが作り話だとしたら、あまりにもお粗末だ。そもそも、英霊の霊魂と一般人の精神が融合する……、なんて事例は聞いた事が無い。作り話なら、もっと説得力のある方便を使う筈。それに、彼女は自らの真名と宝具を全て暴露した。敵に対して、致命的と言っていいレベルの情報漏洩だ。そこまでして、作り話を語る意味……。

 

「無いわね……」

 

 仮に何らかの策略が彼女の胸の内にあったとしても、もう少し話に耳を傾けた方が得策だろう。

 凜は己のパートナーに思念を飛ばし、臨戦態勢に入らせた。もし、怪しい動きを見せたら即座に戦闘状態に移行出来るよう、準備だけは整えておく。これで保険は掛けられた。

 

「セイバー、貴女は本当に一般人なの?」

 

 凛はのっぺりと感情を抑制した声で尋ねた。

 

「本当だよ」

「なら、どうして、こんな状態になっているのか、心当たりはある?」

 

 凜が尋ねると、セイバーは「うーん」と虚空を睨み付けた。

 

「話せるとしても、こうなる直前の事くらいかな。根本的な理由とかは俺にも分からない」

「こうなる直前?」

 

 セイバーが話し始めたのは彼女が彼だった頃の事。好意を持ったサークルの女の子に告白して、「ごめんね、嫌いじゃないんだけどー」と半笑いで返され、自棄酒した挙句、交通事故にあったという、あまりにも情け無い顛末。聞き終えた後、士郎と凜はなんとも言えない表情を浮かべた。

 けれど、責めないで欲しい。セイバーは思った。正直、焦りもあったのだ。成人式で小学校の同級生と久しぶりに会ったのだが、殆どが脱童貞していて、このままだとマズイと焦りを覚えたのだ。だから、少し遊んでいる風な印象があった彼女に告白したのだ。あわよくば、脱童貞させてもらえるように願いながら……。

 

「そんで、目が覚めたら士郎君が目の前に居たってわけ。最初は士郎君が変態に襲われそうになってるんだとばっかり思ったよ……」

 

 話を聞けば聞くほど、凛の中でセイバーに対する評価が落ちていった。代わりに彼女……、彼の中身が確かに英霊では無く一般人のものなのだと確信を得た。

 

「……もういいわ。とりあえず、貴方の話を聞いて分かった事は一つ」

「……と言うと?」

 

 ゴクリと唾を飲み込むセイバー。士郎も慌てて姿勢を正す。

 

「貴方の中身が正真正銘、一般人のものだって事。出鱈目を口にしているにしては設定が細か過ぎるしね……。幾ら、サーヴァントがあらゆる時代に適応するからと言っても、限度があるわ。貴方が召喚されてから今に至るまで、その話を作る為の下準備をしている様子は無かったし……」

 

 一応、凜は自らの相棒に確認を取る。確かに、彼女が現代に関して調べている様子は無かったとの事。

 

「どうして、そんな事になってるのかは分からないけど、それに関して調べるのは後々って事にして……、聞きたい事がもう一つある」

「なんだい?」

「貴方の精神が一般人のものだと仮定すると、無視出来ない違和感が生まれる」

「と言うと?」

 

 凛は言った。

 

「こんな奇妙奇天烈な状況に巻き込まれて、どうして冷静に居られるのか? 幾つかの疑問を集約すると、この問いに行き着く」

「……えっと」

 

 回りくどい言い回しをする凛にセイバーの返事がまごつく。

 

「貴方は最初こそ取り乱している様子を見せた。けど、私が聖杯戦争に関して衛宮君に解説した後、まるで人が変わったかのように冷静になった。その後、士郎を海外に逃がそうとしたり、私に保護を求めたり、状況判断が的確過ぎた。まあ、完璧に冷静だったわけじゃないみたいだけど……」

 

 凛は数えるように広げた指を折り曲げながら言った。

 

「バーサーカーとの戦いでも、衛宮君に令呪を使わせ、英霊の力を引き出したり、身を盾にして私達を守ろうとしたり……」

 

 凜は鋭い眼差しをセイバーに向ける。

 

「単なる一般人がまったくの別人に成り代わり、聖杯戦争という異常事態に巻き込まれる。こんなの、発狂してもおかしくない状況よ。なのに、どうして、貴方はそんなにも冷静で居られるの?」

「……冷静じゃないよ」

 

 セイバーが少しぴりぴりした様子で呟いた。

 

「頭の中はしっちゃかめっちゃかさ。だから、とりあえず目的を定めただけだよ」

「目的?」

 

 士郎が尋ねる。

 

「緊急事態の際は心の安定を保つ事が最優先事項なんだ。凛も言ってたけど、俺の今の状況って、本当に発狂してもおかしくない事態だと思うんだ。だから、目的……、つまり、行動の指針を作る事を優先した。他にも自分を見失わないように独り言を呟いたりしながら自我を保ってる」

「……つまり、貴方は今、発狂寸前って事?」

 

 険しい表情を浮かべる凛にセイバーはあいまいに頷いた。

 

「人間ってのは危機的状況に陥るとストレスを感じて、基本的に視野が狭くなるものなんだ。要するに、『過剰警戒』って状態に陥り、情報処理に混乱が生じてしまうのさ。その為にヒステリーを引き起こす可能性も極めて高い」

 

 セイバーは続けた。

 

「さすがにこんな奇妙奇天烈な事態に巻き込まれる人間はそうそう居ないだろうけど、緊急時に人間が取る行動はある程度決まっている。コンピューター用語の『スクリプト』をイメージすると分かり易いかな?」

 

 士郎が曖昧に頷く。凛に至っては「コンピューターって、何?」と呟く始末。

 

「……えっと、つまり、反復練習や学習によって体に染み付いた行動の事だよ。反射と言い換えてもいいかもしれない。梅干を見ると唾が出るだろ?」

「……つまり、緊急事態に陥った人間は咄嗟に体に染み付いた行動を取ってしまうって事か?」

 

 士郎が眉間に皺を寄せながら言う。セイバーはニッコリと笑顔を浮かべて頷いた。

 

「そういう事だよ。緊急事態だからこそ、視野が狭くなり、普段無意識に行っている行動を選択してしまうんだ。例えば、火災現場をイメージしてくれ。目の前に非常用の出口がある。けど、普段使っているのは別の出入り口だ。逃げるとしたら、どっちを選ぶ?」

「そんなの、目の前の非常用出口に決まってるじゃない」

 

 凜が当然のように言う。

 

「ところが、普段使っている出入り口を目指してしまう人が多いんだ。これを『日常的潜在行動』と呼ぶ。それ以外にも元来た道を引き返してしまったり、慣れ親しんだ光景に戻りたいと思い、逃げ場の無い場所に向ってしまう事もある。そうした、誤った選択をしないようにするにはどうすればいいか?」

 

 セイバーは言った。

 

「デパートなんかでバイトした事はあるかな?」

 

 士郎と凛は揃って首を横に振る。

 

「ああいう所だと、避難誘導の指導を受けたりもするんだ。要は、出口を指差したり、叫んだりして、避難誘導を行うわけ。重要なのは正しい出口に向う為の指針を作る事」

「だから、俺を守ろうとしたって事なのか……?」

 

 士郎が尋ねる。

 

「完全な善意による行動では無かったよ。とにかく、ヒステリーを起こさないように自己を制御する必要があった。でも、完全に打算による行動でも無かったんだ。それは信じて欲しい」

 

 セイバーは言った。

 

「目的を作り、行動の指針を作る。それも重要だけど、自我を保つ為には出来る限り感情を動かし続ける必要があるんだ。感情ってのは生き物と一緒で、停滞させると反動が大きくなるからね。だから、目的には強い感情を結び付ける事が重要なんだ」

「つまり、衛宮君を守ろうとした行動は貴方自身の感情に起因するって事?」

 

 凜の問い掛けにセイバーは頷いた。

 

「士郎君を守りたいと思ったのは本心さ。じゃなきゃ、意味が無い」

「そっか……」

 

 士郎が少し安堵したように呟いた。

 

「それで……、結局、今の貴方の心理状態はどうなの?」

「完全に安定しているとは言えないけど、発狂したりする事は無いと思う。一晩が過ぎて、状況を再定義出来たと思うからね」

「状況を再定義……?」

 

 士郎が問う。

 

「簡単に言うと、緊急事態に陥った中で得た情報を元に『平常時との違い』を意識する事で、暗黙の前提である『現在は平常状態にある』という状況から、『現在は異常事態にある』という状況に変化したという事を意識的に認めたのさ。これを『状況の再定義』と言う。これはヒステリー状態から脱却する為に重要なプロセスなんだ」

「……つまり、直ぐに問題が発生するような事は無いってわけね?」

「そういう事」

 

 セイバーの言葉に凜は深く溜息を零した。

 

「よく、そんな知識があったわね。それに、よく、そんな知識を元に行動出来たわね」

「知識に関しては大学の教授に感謝かな。少し前に大きな地震があって、教授が生徒全員に緊急事態におけるパニックの回避方法を教えてくれたんだ」

 

 しばらくの間、部屋に沈黙が広がった。

 

「……まあ、ある程度は納得してあげる」

「ある程度?」

 

 凛の物言いに士郎が首を傾げる。

 

「当然だけど、納得のいかない所がまだある。例えば、衛宮君の中に宝具がある事に関して――――」

「それはさっき説明した通りで―――-」

「私が納得し切れないのは、貴方がどうして、召喚される以前の事を知り得ていたかよ」

 

 凛の発言に時間がストップした。

 

「貴方のこれまでの数々の奇行に関しては納得してあげる。だけど、そこだけはどうしても納得出来ない」

「納得出来ないって、さっき、セイバー……じゃなくて、日野さんが言ってたじゃないか。前回、俺の親父がアヴァロンを使って、聖杯戦争に参加したって。それってつまり、親父もセイバーをサーヴァントとして呼び出したって事だろ?」

「衛宮君。大前提だから、覚えておきなさい。サーヴァントは英霊の端末の一つでしかないのよ。連続で同じ英霊をサーヴァントとして召喚しても、殆ど別人も同然なの。それに、日野悟は死後、直ぐに貴方の前で意識を覚醒させた。なら、前回の戦いやその後について知識を持っているなんておかしいわ」

 

 凛の言葉は至極尤もなものだった。それ故に士郎はセイバーを不安げな瞳で見つめる。

 

「……それが実はおかしくないんだ」

 

 セイバーが言った。凛の表情が険しくなる。

 

「どういう意味?」

「この体の主であるアーサー王はまだ完全な英霊に至っていないんだ」

 

 セイバーは語った。アーサー王は国の滅亡を認める事が出来ず、自らの死後を世界に預ける代価として、聖杯の探求を続けている。国の滅びを回避する為に……。

 

「要は、死の直前で彼女の時間は止まっているんだよ」

「……あり得ない事だらけね」

 

 アーサー王に対して、同情を寄せる士郎とは反対に凛は眉間に皺を寄せた。

 

「……昨夜、士郎君に令呪を使ってもらったおかげでアーサー王の知識が少し流れ込んできたんだよ。だから、俺には士郎君の中のアヴァロンの存在が分かった。それが彼に入り込んでいる理由もね」

 

 朗々と語るセイバーに対して、凛は疑いの眼差しを向けたままだった。

 確かに、全ての話が真実であるなら、筋は通っている。けど、その話の真贋を確かめる術が無い。それに、彼が語る話はどれもこれも嘘くさくて仕方が無い。

 

「……どうしたら、信じてもらえるかな?」

「そうね……。貴方の話を信じる根拠が無いから何とも言えないわ」

 

 まるで、戦場で睨み合っているかのような二人を止めようと仲裁に入ろうとした瞬間、セイバーが言った。

 

「なら、とりあえず、俺の体がアーサー王のものである事を証明しよう」

「どうやって?」

「エクスカリバーを見せるよ。何よりの証拠だろ? 一応、アーチャーを呼んでくれ。変な誤解は避けたいから」

「……分かったわ」

 

 セイバーの提案は決定的なものだった。エクスカリバー程の聖剣なら、英霊であるアーチャーに真贋を見抜かせる事が出来るかもしれない。偽物なら、同盟を破棄する。どんな策を巡らせているか分からない以上、彼女はここで始末する。士郎に関しては教会にでも放り込んでおけばいいだろう。

 逆に、エクスカリバーが本物であったなら、一端、話はここまでにしておこう。警戒を怠る気は無いが、彼の体がアーサー王のものだった場合、大分疑惑が解消される。

 

「アーチャー」

「ここに居る」

 

 凛の呼び掛けにアーチャーが黒と白の陰陽剣を手に姿を現す。

 

「じゃあ、ちょっと庭に出ようか……」

 

 ゆっくりと立ち上がり、セイバーは士郎に手を伸ばした。

 

「えっと……」

「一応、俺の近くに居てくれ」

 

 士郎を立たせると、セイバーは彼を伴い庭に出た。そこで、見えない剣を振り上げた。

 

「……うん。ここまで来て、取り出せなかったどうしようかと思った」

 

 苦笑いを浮かべるセイバーに士郎がずっこけそうになる。

 

「ひ、日野さん? 大丈夫ですか?」

「あはは……、いや、よく考えると、昨日の感覚を思い出しながら手探り状態だから……、ちょっとだけ離れててもらっていい?」

 

 士郎はこくこくと頷きながら距離を取った。すると、セイバーは深く息を吐いて呟いた。

 

「風よ……」

 

 疾風が轟く。まるで、セイバーを中心に竜巻が発生したかのようだ。少しずつ、不可視の剣がその正体を明かし始める。

 

「……ああ、アレは本物ね」

 

 完全に姿を現した時、凛の頭から疑念は吹き飛んでいた。アーチャーに確認するまでも無い。

 聖剣というカテゴリーの最上位に位置する星が鍛えた神造兵装、エクスカリバー。その刀身の眩さは紛れも無く、本物の輝きだ。

 

「ああ、私も断言しよう。あれは紛れもなく、究極の聖剣だ。担い手に関しては分からんが……」

 

 そう呟き、アーチャーはセイバーを睨み付けた。

 

「凛……。アレは紛れも無く聖杯戦争における異分子だ。ここで排除しておいた方が賢明だぞ」

「待った。異分子だからって、排除の対象にはならないわ。少なくとも、マスターの方は策謀とかとは無縁な性格だし、サーヴァントも嘘は言っていない様子。もう少し、様子を見るべきね」

「何を悠長な事を……。アレが本気で牙を剥けば、厄介な相手だぞ」

「承知の上よ。昨夜の戦いで彼の底力は見せてもらった。セイバーのクラスに相応しい実力を持っているのは確か」

「ならば――――」

「でも、もう同盟を結んじゃったし」

「そんなもの、破棄してしまえば良い」

「駄目よ。遠坂の当主たるもの、一度結んだ約定をそうそう簡単には破れないわよ。少なくとも、向こうが何らかの約定違反を犯すまでは……」

「後悔しても知らんぞ……」

「大丈夫。万が一の時は貴方が私を守ってくれるでしょ?」

 

 確信に満ちた凛の眼差しにアーチャーは溜息を零した。

 

「まったく、厄介なのは敵ばかりじゃないな……」

「褒め言葉として受け取っておくわ」

「皮肉だ、戯け」

 

 聖剣を仕舞い、セイバーと士郎が戻って来る前にアーチャーは姿を晦ませた。再び、異分子とその主の脳天を吹き飛ばす為の準備をする為に……。

 

「それで、信用してもらえたかな?」

 

 セイバーが問う。

 

「……ええ、信用はしてあげる」

「今はそれでいいよ」

 

 ニッコリ笑うセイバーに凛は言った。

 

「信頼させてね、セイバー?」



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第五話「納得出来ない……」

 話が一段落した後、凛は家に帰って行った。今迄、潤滑油のように存在していた彼女が居なくなると、途端に士郎とセイバーの間には気まずい空気が流れ始めた。

 

「……お茶でも淹れようか?」

「う、うん。お願いするよ」

 

 セイバーの正体が正体だけに、士郎も途惑っている。見た目は同世代の可愛い女の子だけど、中身は大学生のお兄さん。途惑うな、と言う方に無理がある。お茶をあっと言う間に淹れ終えてしまい、士郎は何を話そうか悩みながら戻って来た。

 

「えっと、日野さん――――」

「なんだい?」

「改めて、昨夜はありがとうございます」

「……いや、うん。此方こそ……」

 

 日頃、感謝の気持ちを向けられる事が少なかったセイバーは照れたように笑った。

 

「えっと、体の具合はもう大丈夫なの?」

「あ、はい。もう、バッチリで――――」

 

 何とも空気が固い。何か違和感がある。

 

「なあ、士郎君」

「な、なんですか?」

「その……、無理に敬語は使わなくていいぞ?」

「……すみません」

 

 会話がぎこちない理由は士郎の敬語にあった。彼からすれば、見た目と内面の噛み合わない相手にどう接していいか分からなかったのだろう。だから、とんちきな敬語になってしまっていた。

 

「あと、俺の事はセイバーと呼んでくれ。さすがに、この外見で日野悟を名乗るのは無理がある。周囲に変に思われても面倒だし」

「……うん、分かった。じゃあ、セイバー」

「なんだい?」

「セイバーはこれからどうするんだ?」

「どうするって?」

「だって、セイバーが俺を守ろうとした理由は自我を保つ為なんだろ?」

「……まあ、そうなんだけど」

 

 セイバーは気まずさに耐え切れず、視線を逸らした。

 

「あ、いや、責めてるとかじゃないんだ。ただ、もう心が安定しているなら、無理に俺を守る必要は無いっていうか……」

「何が言いたいの?」

「セイバーは魔術師ですら無い、普通の一般人なんだろ? だったら、無理に戦いに参加する必要は無い。何か別にやりたい事があるなら――――」

「ストップ」

 

 士郎の言葉を遮り、セイバーは溜息を零した、

 

「士郎君。俺が好き勝手に行動したら、君が死ぬ。それは理解してるんだろ?」

「……でも」

「でも、じゃないよ。君の気持ちは嬉しいけど、君の死に結び付くような行動は出来ないし、許容も出来ない。確かに、最初は発狂を防ぐ為に君を守る事を指針としたけど、その為だけに体を張ったわけじゃない」

 

 セイバーは言った。

 

「さっきも言ったけど、子供の死は看過出来ない。とくに、こうして深く関わった相手なら尚更だ」

「俺は子供なんかじゃ――――」

「子供だよ。大学生のお兄さんからしたら、高校二年生の君は十分に子供だ」

 

 意地悪そうな笑みを浮かべて言うセイバーに士郎は呻いた。

 

「君を守る事は俺自身の意思で決めた事なんだ。だから、君に何を言われても止めるつもりは無い。幸い、凛と同盟を結べたし、油断さえしなければ、そうそう危険な目にも合わないだろう」

 

 セイバーの物言いに士郎はぴりぴりした様子で呟いた。

 

「俺は……、だろ?」

「……士郎君?」

「確かに、俺は安全なんだろうけど、セイバーはどうなんだよ?」

 

 温厚な印象の士郎が声を荒げた事にセイバーは目を丸くした。

 

「遠坂との話し合いの時は……、口を挟めなかったけど……」

 

 唇を噛み締めながら、士郎はセイバーを睨んだ。

 

「遠坂との同盟の条件だって、セイバーだけがリスクを負ってるじゃないか!」

「……お、落ち着きなよ」

 

 うろたえるセイバーに士郎は言った。

 

「本当なら、セイバーの方が保護されるべき立場じゃないか!」

 

 肩で息をしながら怒鳴る士郎にセイバーは目を伏せた。

 

「……士郎君」

 

 囁くような声。

 

「俺はもう死んでるんだよ」

 

 その一言に士郎は息を呑んだ。

 

「死んでるんだ。酔って、トレーラーに牽かれて……」

 

 項垂れて、セイバーは腕に頭を乗せた。

 

「あんまり、かっこいい死に方じゃなかったけど、俺の人生はもう終わってるんだよ」

 

 セイバーは深く呼吸を繰り返した。感情の揺らぎを必死に抑えている。

 

「……なあ、聖杯ならセイバーを生き返らせる事が出来るんじゃないのか?」

 

 士郎が名案を思いついたかのような表情で言った。けれど、セイバーは暗い表情のまま、顔を上げた。

 

「聖杯は凜に渡す約束だろ?」

「遠坂だって、話せば分かってくれる筈だ」

「無理だね。彼女は俺を信頼していない。聖杯を譲り渡すという条件を反故にすれば、間違いなく、同盟を破棄される。そうなったら、俺達は詰みだ」

「でも……」

「……俺に聖杯を使う気は無いよ」

 

 ハッキリと断言するセイバーに士郎は「どうして……」と声を震わせた。

 

「同情してくれるのは嬉しいよ。けど、君には俺の事より自分の事を優先して欲しい。君だって、理不尽な状況に巻き込まれている当事者なんだから」

「……セイバー」

 

 拳を硬く握り締める士郎にセイバーは小さく溜息を零した。

 

「話してなかった事がある」

 

 セイバーが言った。

 

「俺が居たのは2014年の東京都なんだ」

「2014年って……」

 

 セイバーが切り出した思いがけぬ言葉に士郎が目を丸くする。

 

「それに……、俺が居た世界には冬木市なんて場所は存在しなかった」

「ど、どういう意味だよ……」

「単純な話さ。俺が元居た世界とこの世界は別物って事。幾ら、聖杯でも、俺を俺として甦らせた上で別世界に送り返す、なんて不可能だろ?」

「それは……」

「だから、俺に聖杯は不要なんだ。意味が無いからね。どうせ、この戦いが終わったら消えるしか無いんだ。だから、俺の事は気にしなくていいよ」

 

 士郎は思いつめた表情でテーブルを睨み付けた。

 

「……元の世界に帰れなくても、この世界でなら、生きられるんじゃないのか?」

 

 その言葉にセイバーは溜息を零した。

 

「確かに、その程度なら可能かもしれないね」

 

 セイバーの言葉に士郎は希望を見出したかのように顔を上げた。けれど、セイバーが浮かべる表情を見た途端、表情が強張った。

 

「元の俺に戻る事も出来るかもしれない。けど、そうなると魔術協会や聖堂教会が厄介だ。聖杯を使い、甦った人間を放逐しておくような組織かい?」

「……それは、でも――――」

「一般人である俺に両組織から逃げる力は無い。解剖されたり、人体実験のモルモットになるような事はごめんだ。だから、結局、俺に残された道は一つなんだよ。後は消え方の問題さ。君を守って消えられたら、ちょっとは格好がつくだろ? 少なくとも、酔って牽かれる死に方よりは――――」

「セイバー!」

 

 士郎は怒りに満ちた瞳をセイバーに向けた。

 

「そんな言い方はやめてくれ。きっと、何かある筈だ! 消える以外の選択が――――」

「……し、士郎君」

 

 すっかり気圧されてしまい、おろおろするセイバーに士郎は言った。

 

「セイバーが俺の事を守ろうとするなら、俺だって、セイバーを守る。消える以外の選択肢を見つけてみせる」

「……士郎君」

 

 セイバーは深々と溜息を零した。

 

「……これ以上話しても平行線を辿るだけになりそうだな」

「俺は……、セイバーが消えるなんて、納得出来ない」

 

 唇を噛み締める士郎。

 良い子だ、とセイバーは素直に思った。自分のように自暴自棄になっているわけでも無く、知り合ったばかりの人間相手にこんなにも思い遣りの気持ちを向けられる人間は稀だと思う。

 

「士郎君」

 

 セイバーは穏やかな笑みを浮かべて言った。

 

「君の気持ちは本当に嬉しいよ。だから、ありがとう」

「……俺は」

「本当なら、君の前に居るのは正真正銘のアーサー王だった筈なんだ。なのに、俺が紛れ込んだせいで、ややこしい事になってる。迷惑掛けて、ごめんね」

「……なんで、セイバーが謝るんだよ」

「分かんない」

 

 クククと笑うセイバーに士郎は肩を落とした。

 

「ところで、本当に具合は大丈夫かい?」

 

 セイバーが心配そうに士郎を見つめた。

 

「顔色が悪い。無理はしない方が良いよ」

「……セイバーにだけは言われたくないな」

 

 深々と溜息を零しながら、士郎は時計を見た。程無くして、チャイムが鳴り、凛が戻って来た。

 同盟を結んだ以上、同じ場所に拠点を構えた方が効率的だと凛が主張し、士郎は離れの洋室を彼女に宛がった。

 

「……実験道具の一つも無いなんて、魔術師として、どうなの?」

 

 文句を垂れながら、凛は一番立派な部屋を占拠し、扉に『ただいま改装中につき、立ち入り禁止』という看板をぶら下げて引き篭もった。

 

「そう言えば、セイバーにも部屋が必要だよな?」

 

 確認するように問い掛けると、「出来れば、君の部屋の隣が望ましい」という返事が返って来た。

 慌てふためく士郎にセイバーは言った。

 

「この身形だし、複雑だとは思うけど、警護の為にも妥協して欲しい」

 

 真剣な表情で言われ、士郎は溜息混じりに頷いた。中身が男であろうと、セイバーの見た目はとびっきり可愛い女の子だ。出来れば、部屋は凛と同じ離れを使って貰いたかった。

 

「もう、どうにでもなれ……」

 

 若干、捨て鉢気味に呟きながら、セイバーを自室の隣部屋に案内し、家財道具の運搬に精を出した。

 

「士郎君。このゲーム、部屋に持っていってもいいかな?」

 

 ほぼ、毎日のように顔を出す、士郎にとって姉のような存在である女性が持ち込む雑貨類の山を見て、セイバーが瞳を輝かせた。

 

「後、このDVDレコーダーとプレイヤーも……」

 

 あっと言う間に殺風景だった部屋が生活臭に溢れた一室に変貌を遂げた。

 

「布団で寝るなんて、久しぶりだなー。とりあえず、リモコンは枕の傍に置いておこう」

 

 嬉々として部屋の改装を行うセイバーに士郎は密かに笑みを零した。漸く、セイバーの素の表情が見れた気がしたからだ。

 セイバーの部屋の改装が終わると、二人揃って欠伸が出た。

 

「ちょっと、一休みした方が良さそうだね、お互いに」

 

 セイバーの提案に士郎は素直に頷いた。疲れがピークに達していて、瞼が酷く重かった。

 自室に戻り、瞼を閉じると、アッサリと意識が闇に沈み込んだ。

 

 目が覚めたのはすっかり、日が暮れた頃だった。居間に行くと、セイバーと凛がお茶を飲みながらテレビを見ていた。お笑い番組を見ながら時折噴出すセイバーを凛が呆れたように見ている。

 

「あ、起きたか、士郎君。ちょっと待っていてくれ」

 

 士郎が顔を見せると、セイバーはとことことキッチンに向った。

 

「セイバー?」

 

 何をするつもりなのか、とキッチンを覗くと、そこには既に完成された食事が並んでいた。

 

「これ、セイバーが作ったのか?」

「そうだよ。これでも、一人暮らしだったから、それなりに料理は出来る方なんだ。士郎君も凛も昨夜の戦いでの疲労が残っているだろうと思って、勝手ながら作らせてもらったよ。冷蔵庫の中身を勝手に使っちゃったけど、不味かったかい?」

「いや、折角作ってくれたんだし、別に構わない」

 

 呟きながら、士郎はセイバーが掻き混ぜている鍋に目を向けた。

 

「味噌汁か」

「豆腐の賞味期限が迫っているようだったから、豆腐中心に作ってみたよ」

 

 小皿で味見をして、セイバーは納得したようにお椀を準備し始めた。

 味噌汁の他は揚げ出し豆腐と鶏肉を使ったチャーハン。まとまりの無いメニューだけど、どれも中々美味しそうに出来ている。

 

「座って待っていてくれ。直ぐに持っていく」

「配膳くらいは手伝うよ」

「ありがとう」

 

 料理をテーブルに並べ終えると、セイバーがお茶を運んで来た。

 

「簡単なものばかりで悪いね。男の一人暮らしで重要なのは簡単かつスピーディーに作れる美味い料理だから、バリエーションがちょっと偏ってるんだ」

「味さえ良ければ文句を言うつもりは無いわよ」

 

 凛はスプーンでチャーハンを一匙すくい、口に含んだ。

 

「うん、合格。悪く無いわ」

「……はは、ありがとう」

 

 上から目線の物言いにセイバーは乾いた笑みを浮かべて礼を言った。

 

「いや、本当に美味いぞ。ちょっと、変わった味付けだな」

「ヴァンプ将軍にならったレシピだよ」

「ヴァンプ将軍……?」

「漫画の登場人物だよ。家庭的な悪の組織のリーダーで、漫画の途中途中に将軍のレシピが掲載されているんだ」

「か、家庭的な悪の組織って、何だよ……」

 

 くだらない話に花を咲かせながら、食事をしていると、凛が思いついたように言った。

 

「これからの事だけど、夕食の当番は交代制にしない? 士郎だって、ずっと一人暮らしだったなら、料理くらい出来るでしょ?」

「ああ、まあ、それなりに」

「今日はセイバーに作ってもらったし、明日は士郎が作ってよ。明後日は私が作ってあげるから」

「……そうだな。二人もこれから家で暮らすんだし、家族と同じだ。飯ぐらい、作るのは当たり前だし、異論は無い」

「決まりね。セイバーもそれでいいでしょ?」

「ああ、構わないよ」

「朝はどうするんだ? 朝飯も交代制にするのか?」

 

 士郎が尋ねると、凛は肩を竦めた。

 

「朝はいいのよ。私、朝は食べない派だから」

「……なんだ、それ。朝飯はちゃんと食べないと、体に毒だぞ?」

「いいのよ。人の生活スタイルにイチャモンつけないでよね」

 

 ふん、と鼻を鳴らす凛に士郎は溜息を零した。

 

「なら、朝は俺達で交代に作る事にしよう」

 

 セイバーの提案に「そうだな」と士郎が頷く。

 

「今後の事だけど――――」

 

 料理が少なくなった頃、凛がおもむろに切り出した。

 

「とりあえず、情報収集を優先的に行うわ。まずは残る四人のマスターについて探る」

「四人? 五人だろ。判明してるマスターはまだ、俺と遠坂の二人だけなんだから」

「何言ってるの? まさか、バーサーカーのマスターの事を忘れちゃったわけ?」

「……あ」

「呆れた。貴方、イリヤスフィールの事を敵だって、認識出来てないんじゃないの?」

 

 凛に白い目で見られ、士郎は小さくなった。

 

「イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。あの子を甘く見てたら痛い目を見るわよ? 何と言っても、聖杯戦争を始めた御三家の一つ、アインツベルンのマスターなんだから」

「御三家?」

「この地に聖杯戦争という大儀式のシステムを構築した三つの魔術師の一族の事よ。遠坂にアインツベルン、そして、マキリ。特にアインツベルンは三家の中でも別格の歴史と力と財力を誇っている。加えて、あの子が従えていたのはバーサーカー。理性を犠牲にして、英霊を強くする特殊なクラス。その制御には莫大な魔力が必要なの。並の魔術師なら、御しきれずに自滅するのがオチ。けど、イリヤスフィールは超一流の英霊をバーサーカーとして召喚し、完全に支配していた。……悔しいけど、マスターとしての能力は私達を遥かに超えている」

「しかも、その次元違いの強敵に俺達は命を狙われている……」

 

 げんなりした様子でセイバーが呟く。

 

「まあ、アーチャーに見張りをしてもらうから、怪しい奴が接近して来たら直ぐに分かる。とりあえず、逃げる事は可能だと思うわ」

「情報収集に関しても、アーチャーに一任する他無いな。俺にはサーヴァントの気配なんて分からないし……」

 

 セイバーが俯くと、凛がクスリと微笑んだ。

 

「索敵はアーチャーのクラスの得意分野だから、問題無いわ。それに、此方から行動を起こして、逆に情報を敵に与える方が不味い。基本的に情報収集はアーチャーに担当させるから、士郎は普段通りに生活して、マスターである事を敵に悟られないように注意しなさい。腕の令呪は他人に見られないように隠しておく事と、出来るだけ、人気の無い場所には立ち入らない事。それと、日が落ちたら直ぐに帰って来る事」

 

 指を折り曲げながら言った後、凛は鋭い眼差しを士郎に向けた。

 

「とにかく、単独行動は避けなさい。常に私かセイバーと行動を共にするようにして。令呪を使えば、セイバーもある程度は戦える筈だから」

「……凛、一つ頼みがある」

 

 セイバーが思いつめた表情で凛に言った。

 

「何かしら?」

 

 ぴりぴりとした空気が漂い始める。士郎が堪らず割って入ろうとした瞬間、セイバーが言った。

 

「アーチャーを貸して欲しい」

「……アーチャーを?」

 

 首を傾げる凜にセイバーは続けた。

 

「昨夜の戦いで、少しだけ、この体の使い方が分かった気がする。聖剣を手に取れるようになったし、訓練を積めば、少しはマシになる気がするんだ」

「つまり、士郎を護る為にアーチャーに稽古をつけて欲しいってわけね」

「ああ、頼めないかな?」

 

 しばらく、沈黙が続いた。

 

「……分かった。アーチャーには私から言っておく。貴方が戦力になってくれれば、此方としても助かるもの」

「ありがとう、凛」

 

 朗らかな笑みを浮かべるセイバーに凜は苦笑した。

 

「士郎を守る為に協力する約束だしね」

 

 笑い合う二人を尻目に士郎は一人、孤独を感じていた。二人の間に割って入ろうとした時に上げた手を下ろせずに居る。

 

「……すげー、置いてけぼりにされた気分だ」

 

 夕食を終えると、セイバーは食器を片付け始めた。作ったからには最後まで責任を持ちたいと言うセイバーに士郎は根負けして、ミカンを齧っている。

 凛はと言うと、勝手に風呂を沸かして入浴中。同世代の女の子が一つ屋根の下で裸になっている。その光景を想像しそうになり、慌てて士郎は頭を振った。

 

「ど、どうした?」

 

 その光景をセイバーに見られ、ドン引きされ、士郎が釈明したりなどして、夜が更けていく。

 それぞれ、部屋に戻り、各々、今後の事に思考を巡らせた。

 

 凜はアーチャーと思念でやりとりをしている。

 

『セイバーの事だけど、どう思う?』

『分からんな。素振りを見た限りだと、完全に素人のそれだ。だが、自らの技量を隠蔽している可能性もある』

『けど、あの言動や料理……。とても、演技とは思えない』

『……同感だが、油断は禁物だ。例え、奴の言葉に嘘が無かろうと、それがイコール真実であるとは限らない』

『セイバーには別の何らかの意思が働きかけを行っている可能性があるって言う事?』

『あくまで、可能性の話だが、召喚直後に奴の精神に何者かが働きかけを行った可能性も無くは無い』

『……つまり、現状維持で監視を続けるしかないってわけね』

『別に、倒してしまっても構わんだろう。むしろ、後顧の憂いは断つべきだ』

『却下よ。同盟を結んだ以上、此方から一方的に破棄するつもりは無い。何度も言わせないで』

『……了解だ』

『とりあえず、明日からセイバーに稽古をつけてあげて』

『……本気か?』

『本気よ。別にセイバーの戦闘力を引き上げる事だけが狙いじゃない。剣を交える事で分かる事もあるでしょ?』

『……私は武士では無いのだがな』

『とにかく、お願いね』

『……了解した。探りを入れてみるとしよう』

『言っておくけど、稽古に乗じて殺そうとしたら駄目だからね?』

『……………………ああ、承知している』

『……その間が冗談である事を信じてるからね』

 

 思念での遣り取りを終えた後、凜はベッドに横たわり溜息を零した。

 心情としてはセイバーを信じたい。けれど、彼を取り巻く状況が容易な判断を許さない。

 

「……まったく、厄介だわ」

 

 天井を見上げながら、凜は呟いた。

 

 同じ頃、セイバーも溜息を零していた。

 原作の知識をどう使うかに悩んでいる。セイバーの頭の中には敵のマスターやサーヴァントの情報が全て刻まれている。けれど、安易に口に出す事は出来ない。

 この世界をゲームやアニメとして知っていた。そんな事を口にすれば、今度こそ凛の疑いは確かなものとなってしまうだろう。証明出来たとしても同じだ。

 それに、間桐桜の事がある。彼女は言ってみれば特大の地雷だ。彼女が覚醒してしまうと、辿り着くのは他のルートを圧倒する死亡フラグの連続。さすがに士郎を守り切れる自信が無い。

 それに、最強の敵である英雄王・ギルガメッシュをどう対処するかも思いつかない。少なくとも、俺の力では手も足も出ないだろう。

 

「……俺の身を差し出せば、士郎君達の事は見逃してもらえるかな?」

 

 考えて、直ぐに無理だな、と落胆した。

 恐らく、英雄王の眼力を前にすればセイバーの中身が異なる事など直ぐに看破されてしまうだろう。そうなったら、下手を打つと、彼の怒りを買ってしまうかもしれない。

 

「アーチャーに全てを託すか……」

 

 いや、頼り過ぎても良くないだろう。如何に設定上、天敵とされていても、英雄王が本気を出すと手も足も出ないそうだし……。

 

「最悪、彼と敵対した時点で盛大に自爆するか……。多分、現れるとしたら終盤だろうし……」

 

 先の事を思い悩みながら、セイバーは眠れぬ夜を過ごした。

 

 そして、士郎もまた眠れずに居た。原因は隣に女の子が居るから、では無い。

 

 ――――セイバーを助けるにはどうすればいいんだろう……。

 

 その事を昼間からずっと考えていた。けれど、答えは浮かばなかった。

 理由はどうあれ、セイバーは自分の事を守ろうとしてくれている。なら、自分もセイバーの為に力になりたい。

 でも、力になる方法が分からない。元の世界に帰らせてあげる方法も、この世界で彼が彼として生きられるようにする方法も分からない。

 

「けど……、だからって、消えるしか無いなんて事……」

 

 拳を硬く握り締め、士郎は唇を噛み締めた。

 

「納得出来ない……」



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第六話「本当にごめん、アーチャー」

 土蔵の中で士郎は目を覚ました。昨夜は結局、セイバーの事を考えるあまり寝付けず、土蔵で魔術の鍛錬をする事にしたのだ。余計な事を考えず、一心不乱に修練に励む内、いつの間にか眠りに落ちていたようだ。

 入り口から差し込んでくる日光に目を細め、起き上がると毛布がずれた。

 

「……あれ?」

 

 土蔵に常備している毛布じゃなかった。土蔵の外に出ると、元々あった毛布が物干し竿に掛けられている。

 

「桜……はまだだよな。じゃあ、セイバーか?」

 

 他に候補が居ない以上、そうなる。いや、居なくはないが、彼女がこうした気遣いを見せる姿を想像出来ない。学校で遠目から見ていた限りだと、こんな失礼な思考はせずに済んだのだが……。

 

「にしても、寒いな――――」

 

 深山町は冬場でも割と温暖な気候なのだが、この家は山に近いせいか少々寒い。顔を洗おうと、母屋に向うと、敷地内にある道場から物音が聞こえた。竹刀を打ち鳴らす懐かしい音。

 中を覗いて、動けなくなった。

 

「一直線過ぎる。それでは脇ががら空きだと、何度言わせる気だ?」

 

 セイバーとアーチャーが居た。両者は竹刀を手に向かい合っている。

 

「……も、もう一回」

「凛の命令故に手を貸すが、進歩が無いようなら次は無いと思え!」

「は、はい!」

 

 セイバーが動き出す。その動きを一言で言えば平凡でありながら異常。時折、アーチャーの竹刀を未来予知のような精度で防いだり躱したりするのだが、逆に呆気無く一撃をもらう事もある。

 

「直感のスキルは確かに有用だが、虚実を見抜けぬようでは意味が無い。常に疑いを持て、直感すると同時に思考を働かせろ!」

「はい!」

 

 完全な師弟関係が出来上がっている。

 セイバーは何度も重い一撃を受けているが、痛みを訴える様子を見せない。サーヴァントに対して、神秘を持たない武器は効果が無いらしい。それ故にアーチャーは手加減無しに攻撃を打ち込んでいる。

 アーチャーを見ると、厳しい言葉を発しながらもどこか楽しんでいるように見えた。

 

「……予想外だったわ」

 

 ジッと見つめていると、背後から凛が現れた。

 

「予想外って?」

「アーチャーってば、本気で指導してる。彼、そういうタイプじゃないと思ってたんだけど……、生前、指導者だった経験でもあるのかしら」

 

 二人が見守る中、二騎の英霊の稽古は続く。

 

「武器にばかり意識を集中させるな、戯け。常に敵の全体像を見るようにしろ」

 

 あまりにも圧倒的な力量の差。けれど、セイバーの剣技も徐々に精練されていくのが分かる。アーチャーからの教えを必死に飲み込もうとしているのが伝わって来る。

 しばらく打ち合った後、アーチャーが竹刀を下ろした。

 

「今朝はここまでにしよう。次までに今回の稽古で学んだ事をよく振り返っておけ。それと、今の貴様ではアサシンですら相手にならん。その事をよく自覚しておく事だ。マスターを守りたいなら、精進しろ」

「はい!」

 

 姿を消すアーチャーに凛はなんとも言えない表情を浮かべていた。

 

「アイツ、セイバーの事を警戒しまくってた癖に……」

 

 目元を引き攣らせる凛に士郎は苦笑いを浮かべた。

 

「意外な一面を見たな」

 

 士郎の言葉に肩を竦め、凛は母屋に向って歩き出した。

 

「おつかれ」

 

 士郎は道場の中に入り、セイバーに声を掛けた。

 

「ああ、起きたのか、士郎君。恥ずかしいところを見せちゃったな」

 

 照れ笑いを浮かべるセイバーに士郎は苦笑した。

 

「いつからやってたんだ?」

「昨晩、君が土蔵で寝入ってからだよ」

「ああ、やっぱり、あの毛布はセイバーが掛けてくれたのか。それにしても、俺が寝入ってからずっと?」

「ああ、アーチャーから声を掛けてもらってね。彼はちょっとした魔術が使えるらしく、防音の結界を張って、今までずっと稽古をつけてくれていたんだ。正直、ここまでちゃんとした稽古をつけてもらえるとは思っていなかったよ」

 

 アーチャーの見せた意外な一面にセイバーも驚いている。

 

「攻撃も竹刀によるものだけだった。多分、彼の拳や蹴りを喰らったら、凄く痛かっただろうけど、竹刀はあたっても特に痛みを感じないんだ。だから、途中でへこたれずに稽古に励めた」

 

 竹刀を仕舞いながら、セイバーはふん、と息を吐きながら背筋を伸ばした。

 

「ちょっと、お風呂に入ってきてもいいかな?」

「ああ、沸かそうか?」

「いや、シャワーだけにするよ。ただ、すまないけど朝食は頼めるかな?」

「ああ、任せてくれ」

「それにしても……」

 

 セイバーは自分の体を見下ろしながら首をかしげた。

 

「女の子の体になった割りに興奮しないな」

「……おい」

「いや、肉眼で裸体を見たのは初めてだったから、昨夜はそれなりに緊張したんだけど、特に興奮もしなかったし……」

「……今は体が女の子のものだからじゃないか?」

「ああ、そうかもしれないな。何て言うか、常時賢者モードになってる感じっていうか――――」

「その顔でそういう事言うなよ!」

 

 顔を真っ赤にして叫ぶ士郎にセイバーは「ごめん」と素直に謝った。

 

「とりあえず、入って来るよ。着替えをまた借りてもいいかい?」

「ああ、用意しとく」

 

 ちなみに、今のセイバーの服装は士郎の普段着を借用している。女の子に着せるような物では無いが、中身が男である事を考慮した結果だ。

 自分の服を女の子が着ている事実にちょっとドキドキしている事は秘密にしている。

 セイバーが風呂に向った後、居間に向かうと凛が居た。

 

「アーチャーってば、『随分とノリノリで指導してたわね』って言ったら、『さあな』ですって! からかい甲斐が無いわね、まったく」

 

 アーチャーも苦労してるな。士郎は凛の言葉に曖昧に頷きながら、朝食の準備に取り掛かった。すると、しばらくして来客を告げるチャイムの音が鳴り響いた。

 

「士郎、誰か来たみたいよ?」

「ああ、気にしなくていい。この時間に来るのは身内だから」

 

 この時間帯にこの家を訪れる人間は二人しか居ない。どちらも合鍵を持っているから、玄関まで迎えに行く必要も無いだろう。

 

「チャイムなんか、一々押さなくていいって、言ってるんだけどな……」

 

 チャイムを律儀に鳴らすのは桜の方。彼女は士郎にとって、家族も同然の存在だ。チャイムなど押さずにドカドカ入ってくればいいのに、と常々思っている。

 

「って、ちょっと待った」

 

 この家には今、凛とセイバーが居る。桜が彼女達と顔を合わせると面倒な事になりそうだ。慌てて、水道と火を止めて桜を帰らせようとキッチンを出たが時既に遅し、桜は居間に入って来ていた。

 顔を見合わせる二人。微妙な緊張感を感じる。

 

「おはよう、間桐さん。こんな場所で会うなんて、奇遇ね」

「遠坂……、先輩」

 

 桜は愕然とした表情で凛を見つめ、視線で事情の説明を士郎に求めた。

 

「えっと、これには深い訳が……」

「ここに下宿する事になったのよ」

 

 どう説明しようか考えていたのに、凛があっさりと爆弾を投下した。

 

「……本当ですか、先輩」

「ま、まあ、要点だけを簡潔に述べると……。ごめん、連絡を入れるべきだった」

「い、いえ、謝らないで下さい。その……、驚きましたけど……でも、あの……本当に――――」

 

 桜が凜に視線を戻すと、彼女は言った。

 

「私と家主である士郎で決めた事だから、もう決定事項よ。この意味、分かるでしょ?」

「分かるって……、何がですか」

「今まで、貴女が士郎の世話をしてたみたいだけど、暫くは不要って事よ。来られても迷惑なだけだし、来ない方が貴女の為――――」

「分かりません」

「……え?」

「分かりません! 遠坂先輩が何を仰りたいのか、私には分かりません!」

「ちょ、ちょっと?」

「先輩、台所をお借りしますね!」

「あ、えっと、は、はい!」

 

 望みどおり、ドカドカと入って来てくれたにも関わらず、士郎はまったく喜べなかった。なんだ、この状況……。

 凛も呆然と立ち竦んでいる。

 

「……修羅場だな、士郎君」

 

 そこに新たな爆弾が到着した。頭から湯気を出しながら、セイバーがニヤついている。

 

「うるさい! それより、遠坂。どうして、桜が俺の世話をしてるなんて――――」

「前に小耳に挟んだのよ。あの子が貴方の通い妻をしてるって。それにしても、驚きだわ。あの子、ここだとあんなに元気なの? 学校とじゃ大違いじゃない!」

 

 アーチャーの意外な一面を目撃した時以上に驚いている。声を荒げる彼女に士郎も困惑した様子で応えた。

 

「俺だって、あんな刺々しい桜を見るのは初めてだ」

「鈍いね、士郎君」

「な、何がだよ……」

 

 実に楽しそうな笑顔を浮かべるセイバーに思わず口調が刺々しくなる。

 

「彼女は君の家に他の女の子が居たから嫉妬しているんだよ。この泥棒猫!って」

「ど、泥棒猫って……、桜はそんな奴じゃないぞ」

「いやいや、女って生き物は――――」

「童貞が粋がって女を語ってんじゃないわよ」

 

 凛の辛らつな一言にセイバーは凄く切なそうな表情を浮かべて黙り込んだ。気持ちは分かる。ただし、同情はしない。

 

「それにしても、しくじったわ。桜があんな風に意固地になるなんて……」

「対応を完全に誤ったな」

「……でも、本当に困ったわ。これからこの家は戦場になるかもしれない。出来れば、私達以外の人間の立ち入りを禁止したかったんだけど――――」

「完全に逆効果だったな」

 

 凜は爪を噛みながら表情を歪めた。

 

「何とかしないと……。ねえ、桜が来るのは朝だけ? まさか、夕食もこき使ってるの?」

「人聞きの悪い言い方をするな! 朝は毎日だけど、夕飯は毎日じゃない」

「……うわ、本当に通い妻状態じゃない」

 

 溜息混じりに凜はミカンをかじり始めた。セイバーも意気消沈したままミカンを齧り出す。

 現在、この家には何故かミカンが山のようにあるのだが、朝食前にツマミ食いをするなと一喝しておく。

 

「えっと……」

 

 無言で朝食を作っていた桜は配膳を手伝おうとキッチンに現れたセイバーに目を丸くした。

 

「はじめまして、セイバーです。ただいま、士郎君の家に厄介になっています。どうぞ、よろしく」

 

 混乱している内に畳み込んでしまえ大作戦。立案者は凛。余計な事をするな、と声を荒げたのは士郎。

 

「あ、えっと、間桐桜です。どうも、はじめまして……?」

 

 目を丸くする桜にセイバーは手伝いを申し出た。なんとも言えない空気が漂う中、二人はせっせと朝食の準備を済ませる。

 ふっくらとした卵焼きや味噌汁にセイバーが瞳を輝かせる。

 

「女の子に料理を用意してもらえる日常か……、羨まし過ぎるぞ、士郎君」

「……セイバー」

 

 真剣な表情で言われ、士郎は微妙な表情を浮かべた。

 朝食を食べ始めると、最初の緊張感は徐々に薄れて行った。

 

「美味しいな。卵焼きって、こんなにふっくらするものなのか……」

 

 味わいながら戦慄の表情を浮かべるセイバー。

 

「……これは負けた」

 

 何故か消沈する凛。

 

「遠坂。お前、朝食は食べない主義じゃなかったか?」

 

 士郎が尋ねると、凛はそっぽを向いた。

 

「出された物は食べるわよ。当然の礼儀でしょ!」

 

 鼻を鳴らし、味噌汁を啜る。

 

「……美味しいわ。凄く、美味しい」

「……ありがとうございます」

 

 しみじみとした様子で呟く凛に桜は嬉しそうに言った。

 しばらく、静かな食事風景が続いた。ところが、突然士郎がハッとした表情を浮かべ、同時にドタドタと言う足音が廊下から鳴り響いて来た。

 

「おっはよー! いやー、寝坊しちゃったー」

 

 現れた藤ねえに全員の表情が凍りつく。行儀良く、いつもの席に正座する藤ねえ。

 誰もが第一声を発せられずに居た。

 

「士郎、御飯!」

「……おはようございます」

 

 恐ろしい程ユニゾンする三つの声。再び、置いてけぼりをくらった士郎。

 桜は平常運転に戻り、藤ねえの茶碗に御飯をよそる。

 

「どうぞ」

 

 セイバーもお茶を出した。

 

「……んん?」

 

 茶碗と湯飲みを受け取り、首を傾げる藤ねえ。まだ、現状を認識出来ていないらしい。

 それでいい。そのまま、何事も無く、学校に向かってくれ。士郎の強い祈りはお茶碗一杯分しかもたなかった。

 

「ねえ、どうして遠坂さんがここにいるの? それに、そこの金髪美少女は誰?」

「……彼女はセイバー。二人共、今日からうちで下宿する事になったんだ」

 

 感情を抑え、淡々と告げる士郎。最初こそ、朗らかに二人に話しかけていたが、徐々にその表情が強張り始める。爆弾の導火線についた火がとうとう、火薬に引火した。

 

「って、下宿ってどういう事よ、士郎!!」

 

 ひっくり返るテーブル。幸い、桜は風上、凛も既に脱出済み。セイバーに至っては自分の分だけ遠くに移動し、食事を続行。被害は俺だけに集中した。

 つくねを煮込んだ鍋が降って来る。

 

「あっちー!!」

「あっちー、じゃない! どういう事よ、士郎! 同い年の女の子を二人も下宿させるなんて、どこのラブコメよ!? ええい、桜ちゃんというものがありながら、そんな性質の悪い冗談を言うのはこの口か~~~~!?」

「ひゃ、ひゃめろ~~! ってひゅうか、あひゅい! ヒャッヒャオルー!」

 

 唇の端を引っ張られながら悲鳴を上げる俺に桜が冷やしたタオルを渡してくれた。こんな状況にも関わらず、天使のように穏やかな笑みを浮かべている。

 

「手馴れてるな、桜ちゃん」

「はい、いつもの事なので」

 

 エッヘンと胸を張る桜に拍手を送る馬鹿二人。いいから、助けてくれ。士郎は胸中で叫んだ。

 その後、何とか藤ねえを落ち着かせ、三人がかりで説得した。

 結局、学校では極力秘密にして、家では藤ねえが監督するという事で決着。最終的に機嫌を直してくれた事に士郎は安堵した。

 朝食を終え、藤ねえを見送った後、士郎も学校へ行く準備をした。

 

「士郎君。学校まで送らせてくれ」

 

 仕度を終えた士郎にセイバーが言った。

 

「今は昼間だし、学校みたいな人の多い所で襲ってくる奴なんて居ないぞ」

 

 士郎が渋るが、セイバーは譲らなかった。

 

「思い込みは禁物だ。学校だろうと、油断はしない方が良い。君が学校にいる間、俺は校舎の近くに待機している事にする」

 

 頑固な一面があるセイバーにそれ以上何を言っても無駄だろうと溜息を零し、士郎は頷いた。

 

「分かったよ。よろしく頼む」

「ありがとう」

 

 微笑むセイバーに苦笑いを浮かべるしかなかった。

 

 玄関先では凛と桜が士郎を待っていた。

 

「それじゃ、行きましょう。この辺りは不慣れだから、学校までの近道があったら教えてね」

 

 制服姿の凛に士郎は思わず緊張した。本性を知った今でも、彼の中には優等生然とした遠坂凛のイメージが残っている。学校一の美人と一緒に登校する事に胸がドキドキしている。

 

「先輩。戸締り出来ました」

 

 加えて、桜とセイバーも一緒に居る。桜は弓道部の部員だから、本来なら藤ねえと一緒に先に出るのが日課なのだが、今日に限っては何を言うでもなく残っていた。

 美人三人に囲まれて登校する。きっと、クラスメイトに処刑されるな。士郎は戦慄した。

 

「……桜に合鍵なんて渡してるんだ」

 

 歩きながら凜が呟くように言った。

 

「ああ、持たせてる。桜は悪い事なんてしないし、ずっと世話になってるからな。まあ、その分でいくと、遠坂にはやれないが、別にいいだろ?」

「……別にいいけど。どういう意味よ、それ」

「だって、悪い事するだろ」

「喧嘩を売っていると捉えていいのかしら、衛宮君?」

 

 ニッコリと微笑む凛に士郎は恐怖した。

 

「ま、まさか……」

 

 そんな風にじゃれ合う士郎と凜の後ろで、桜とセイバーも会話に勤しんでいた。

 

「桜ちゃん、元気が無いけど、大丈夫かい?」

「え、ええ……」

 

 暗い表情を浮かべる桜。藤ねえが言い負かされてから、ずっとこうだ。

 

「……急な事で申し訳無いと思ってる」

「いえ、別に……」

 

 俯く桜になんとかフォローを入れようとするのだが、上手くいかない。

 思い人の周りに一気に二人も女が増えたのだから無理も無いだろうけど、溜息が出て来る。彼女という地雷が爆発しないように警戒しているが、女の子の扱いに慣れていない自分では逆効果にしかならない。

 そう判断したセイバーは仕方なく口を閉ざした。

 

 学校近くの坂道まで来ると、周囲から奇異な眼差しを向けられた。無理も無い。こんなに目立つ集団、目立たない筈が無いのだ。

 居心地の悪さを感じながら、士郎達は坂を上った。

 校門前に辿り着くと、セイバーは立ち止まった。

 

「じゃあ、俺は近くで待機しているよ。何かあればこれを使ってくれ」

 

 セイバーが士郎に小声で話し掛けながら渡したのは小型のトランシーバーだった。藤ねえが持ち込んだ雑貨類の中に紛れ込んでいたらしい。

 

「電池は新品だ。これを使えば、直ぐに連絡が取れる」

「分かった」

「じゃあ、勉強頑張ってね、皆」

 

 士郎から離れ、三人にそう言うと、セイバーは離れて行った。

 

 士郎達と別れた後、セイバーは裏の雑木林に身を潜めていた。

 

「今度からは漫画でも持ってこよう」

 

 只管暇だった。

 

「話し相手も居ないし、ここを離れるわけにもいかないし……」

 

 溜息を零しながら、空を見上げる。雲行きが怪しくなって来た。

 

「おいおい、雨は勘弁してくれよ……」

 

 そう、呟いた時だった。突然、空から光が降って来た。何事かと目を丸くすると、背後でカチンという音が鳴り響いた。

 慌てて振り返ると、そこには妖艶な美女が居た。

 

「お、お前は――――」

 

 ライダーのサーヴァントがそこに居た。彼女は自らの釘剣を弾いた矢を見て舌を打った。

 

「アーチャー……」

 

 再度、降り注ぐ流星にライダーが逃走を図る。追おうとすると、今度は俺の目の前に矢が降り注ぎ、慌てて立ち止まった。

 抗議しようと矢が降って来た方に顔を向けると、アーチャーが現れた。

 

「戯け! 朝、言った事をもう忘れたのか? 貴様では相手にならん。深追いはするな」

「……は、はい」

 

 叱られ、項垂れるセイバーを放置し、アーチャーは弓に矢を番え、一息の内に十の矢を放った。

 

「……逃がしたか」

「えっと……、どんまい?」

「……貴様がもう少し使えれば、奴をここで脱落させられたのだがな」

 

 鼻を鳴らし、息をするように嫌味を吐くアーチャー。

 

「……ごめんなさい」

 

 けれど、何も言い返せなかった。

 

「まあ、いい。それよりも警戒を緩めるな」

「う、うん」

 

 アーチャーが去った後、セイバーはハッとした表情を浮かべた。

 

「……今のって、俺を助ける為に釘剣を弾かなければ、倒せてたんじゃ――――」

 

 狙撃は初撃必殺が基本だと、何かの漫画で読んだ事がある。必勝を期すなら、俺がライダーにやられた直後に矢を放つのがベストだった。

 それに、彼が放った矢も普通のものだった。アーチャーの切り札は投影した刀剣を弾丸とするもの。それを使わなかった理由は俺を巻き込まない為だとすると……。

 

「やっべー、完全に足手纏いじゃん……」

 

 思わず頭を抱えた。凛の命令故か、彼は俺の命を優先した。その結果、ライダーを取り逃がす結果に終わった。俺がもう少しちゃんとしていれば……、本物だったなら、こんな風にはならなかった筈。

 

「……はぁ、本当にごめん、アーチャー」



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第七話「聖杯はもはや、儂の手の内じゃ」

 昼休み、凛に呼ばれ、屋上に向う前に士郎は桜の教室へと足を運んだ。改めて、凛とセイバーの件について謝罪をする為だ。あの家は桜や藤ねえのものでもある。家族に黙って、勝手な真似をしてしまったのだから、謝るのが道理というもの。嘘偽りの無い本心を告げ、頭を下げると、桜は広い心で士郎を許した。

 その後、屋上に向おうとしたらチャイムが鳴ってしまい、結局、凛とは会えず仕舞いだった。

 放課後になり、昼休みの事を謝罪しようと凛のクラスへ向うと、彼女は士郎の顔を見るなりニッコリと笑顔を浮かべた。ツカツカと歩み寄ってきて、そのまま攫うように士郎の手を引っ張った。冷やかしの視線を感じながら、人気の無い場所まで連れて来られた士郎は猛烈な殺気を感じて体を震わせた。

 

「このバカ士郎!」

 

 耳がキーンとなった。ご立腹な彼女を宥める為に笑顔を浮かべると、「へらへらすんな!」と顔面を殴られた。女の子がグーを使うなよ、と士郎は呻きながら思った。

 

「せっかく、人が忠告してあげようと思って、待ってたのに! どうして、来なかったのよ!」

 

 凄い剣幕で迫って来る彼女に士郎はやむなく正直に応えた。

 

「桜のところって、もしかして……」

 

 急に怯えたような表情を浮かべて、彼女は言った。

 

「私が士郎の家で下宿する件で?」

「あ、ああ。朝はうやむやにしちゃったから、改めて許しを請いに行ったんだ」

「……そっか、なら、仕方無いわね」

 

 彼女はそう言うと、あっさりと矛をおさめた。

 

「うん、そういう事ならいいわ。それより、お昼に話すつもりだった事なんだけど―――」

 

 凜が語り始めたのは校内に大規模な結界が構築されているという物騒な内容だった。

 

「刻印が広範囲に渡って仕込まれてる。発動したら最後、学校の敷地全体を覆う巨大な結界が発生するわ。それと、これが重要なんだけど、こんな強力な結界を現代の魔術師に張れるとは思えない」

「つまり……、結界の主はサーヴァントって事か? なら、マスターは……」

「十中八九、学校の関係者ね。ここに結界を張る以上、紛れ込んでいても不審に思われない人間の仕業でしょうから……」

 

 凜が怒った理由を士郎は漸く理解した。こんな大変な事態になっている事も知らず、一日を安穏と過ごしてしまった事に士郎は深く後悔した。

 

「ごめん、俺……」

「今回は大目に見てあげる。理由が理由だったし……」

 

 許してもらえた事に安堵しつつ、士郎は凛に犯人について問い掛けた。

 

「マスターは分からないけど、アーチャーがサーヴァントを捕捉したわ」

「本当か!?」

「ええ、詳しくは後で自分のサーヴァントに聞いてみなさい。撃退したのはアーチャーだけど、襲われたのはセイバーだから」

「セイバーが!?」

 

 愕然とした表情を浮かべ、士郎は凜に詰め寄った。

 

「セイバーは無事なのか!?」

「落ち着きなさい、士郎。セイバーなら無事よ。アーチャーがしっかり守ってあげたみたいだから」

「アーチャーが……?」

 

 予想外の言葉に士郎が目を丸くする。

 

「ええ、だから心配は無用よ。それより、問題なのは、この結界の種類」

「結界の種類……?」

「この結界は発動したが最後、結界内の生物を一つ残らず溶解して、吸収するタイプのもの。魔力で身を守れる私達はともかく、他の魔力を持たない人間は瞬く間に衰弱死しかねない。一般人を巻き込む巻き込まないのレベルじゃない。この結界が発動したら、学校中の人間が皆殺しにされる」

「な……」

 

 言葉を失う士郎に追い討ちをかけるように凜は続けて言った。

 

「分かる? こういうふざけた結界を張らせる奴がこの学校に潜むマスターなの」

 

 警戒を怠るな。彼女が言った言葉が胸に突き刺さる。

 

「遠坂……。この結界を壊すことは―――-」

「とっくに試したけど、無理だったわ。結界の基点は全部見つけたけど、消去は出来なかった。なにしろ、サーヴァントが張ったものだから、私に出来る事なんて、精々基点を一時的に弱めて、発動を先延ばしにする事くらいよ」

「……先延ばしに出来るって事は遠坂が居る限り、発動を阻止出来るって事じゃ――――」

「そう都合良くはいかないわ。もう、結界の準備は完了している。恐らく、魔力さえ溜まればいつでも発動出来る筈よ。その魔力もアーチャーの見立てによれば一週間程度で溜まり切る。そうなったら……、後はサーヴァントかマスターの匙加減次第よ」

「……じゃあ、それまでに学校に潜むマスターを――――」

「倒すしかない。でも、それは難しいと思う。この結界を張った時点でそいつの勝利は確定したも同然。だって、黙っていても結界は発動するんだからね。その時まで、姿を現すとは思えない」

「なら、チャンスがあるとすれば、その時だけって事か……」

「そういう事。だから、今は大人しくしてなさい。その時が来れば、嫌でも戦う事になるんだし、出来るだけ、情報は隠匿しておくべきよ」

「……分かった」

 

 正直、こんな結界を張った馬鹿を野放しにしてはおけないが、正体を掴めない以上、下手に動く事は出来ない。それより、今はセイバーが心配だ。怪我とかしてないといいんだけど……。

 

「私は少し用事があるから、先にセイバーと合流して帰りなさい。寄り道はしない事。いいわね?」

「……了解。でも、用事って何なんだ?」

「大した事じゃないわ」

 

 そう言って、凛は踵を返して離れて行った。不思議に思いながら、士郎はセイバーと合流する為に校門へ向った。門の前でセイバーは空を見上げながら待っていた。

 

「あ、士郎君!」

 

 輝くような笑みを浮かべて手を振るセイバー。下校する他の生徒達の視線が痛い。

 

「……お待たせ。さっさと帰ろう」

 

 セイバーの手を掴み、引っ張るように歩き出す。セイバーは慌てた様子で俺の歩調に合わせて歩き始める。茜色の空の下、二人の影がまるで寄り添っているかのように見える。

 

「……そうだ。ちょっと、商店街に寄ってもいいか?」

 

 士郎が思いついたように言った。

 

「出来れば、陽が沈む前に帰りたいんだが……」

「三十分くらいで済むよ」

「……了解」

 

 渋々頷くセイバーに士郎は凛から聞かされた学校の結界について語った。

 

「……恐らく、結界を張った犯人は俺を襲った女だろう」

「そう言えば、大丈夫だったのか? 怪我とかは……」

「心配いらないよ。アーチャーが守ってくれたからね」

「……ちょっと、意外だな」

 

 士郎は眉を顰めながら呟いた。

 

「アイツ、セイバーを守るより、セイバーを利用して敵を打ち倒すタイプだと思ってた」

「同感だよ。というか、その方法を取れば、アーチャーはあの場で敵を倒せていた筈だ。あんな厄介な結界を張ったサーヴァント。彼の立場からすれば、俺を見捨てた方が効率的だった筈だし、賢明でもあった。なのに、どうして……」

「熱心に稽古をつけたり、アイツはセイバーの事を知ってるんじゃないのか?」

「……その可能性は高いな。俺ではなく、アーサー王の事をだろうが――――」

「よく考えると、最初にアイツがうちに乗り込んで来た時も同盟を結ぶ前だったってのに、迷わずセイバーからランサーを引き剥がして助けたよな」

「……そう言えば」

 

 セイバーは戸惑いの表情を浮かべた。

 

「幾らなんでも、ちょっとおかしいな」

 

 凛の指示があったにしても、彼はセイバーにとって都合の良いように動き過ぎている。

 

「もしかして、アイツ、セイバーの事が好きなのかもな」

「正確にはアーサー王の事をだけどな。そうなると、彼には悪い事をしたな」

 

 原作で彼がセイバーをどう思っていたのかは分からなかった。少なからず憧憬を抱いていたようだけど、果たして……。

 どこか違和感を感じながらも、セイバーは話を切り上げる事にした。どちらにしても、他人の心なんて分からない。

 

「とりあえず、さっさと買い物を済ませて、帰ろう」

「ああ、了解」

 

 マウント深山は深山町の中心部にある唯一の商店街だ。新都の方にはもっと立派なショッピングモールもあるが、深山町の人々は基本的にここで買い物を済ませる。それ故に夕食時であるこの時間はとくに賑やかだ。

 

「やあ、士郎君。今日は可愛い子を連れてるねー」

 

 突然、八百屋の親父が話しかけてきた。びっくりして目を丸くするセイバーを尻目に士郎は談笑しながら野菜を買う。

 

「キャベツはどうだい? 甘いよー」

「じゃあ、それも」

 

 その後も肉屋や魚屋、酒屋で士郎は店主と挨拶を交す。その光景にセイバーは士郎がこれまで生きて刻んできた軌跡を見た気がした。

 時折、セイバーにも話の矛先が向う事もあり、何だか奇妙なくすぐったさを彼は感じた。

 

「凄いな、士郎君」

「なにが?」

 

 帰り道。手分けをして荷物を持ちながら、セイバーが切り出した言葉に士郎は首を傾げた。

 

「俺はあんな風に行く先々のお店で談笑した事なんて無かったよ」

「一人暮らしになる前から、家事は俺が担当してたからなー。子供の頃から通ってるから、すっかり顔を覚えられちゃっただけだよ」

「彼等はまさに士郎君の生きた証だな。君が死んだら、きっと、彼等も悲しむ。一層、君を守らなきゃって思ったよ」

「……セイバー」

 

 瞳に決意の炎を燃やすセイバーに士郎は複雑そうな表情を浮かべた。

 そんな決意して欲しくないというのが本音だ。本当は戦いなんか無縁な生活を送っていたのに、奇妙な運命の下、彼はここに居る。自分を護る為に命を使い捨てるような真似をする。そう言うのは、嫌だ。

 

「俺は――――」

「ストップだ、士郎君」

 

 士郎の言葉を遮り、セイバーは警戒心に満ちた声で囁いた。

 セイバーの視線の先を見ると、そこに彼女が居た。銀色の髪を靡かせる幼い少女、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。

 

「お、お前は……」

 

 咄嗟にセイバーを庇おうと動いた士郎の前にセイバーが躍り出る。

 

「……イリヤスフィール」

 

 セイバーの声が恐怖で震えている。そんな彼を無視して、イリヤの視線は士郎に向けられていた。

 

「良かった。生きてたんだね、お兄ちゃん」

 

 心の底から嬉しそうな顔で彼女は言った。

 士郎の体を引き裂いた怪物の主が天使の様な笑顔を浮かべ、近づいて来る。

 

「――――お前はイリ、ヤ?」

 

 恐怖で言葉が詰まった。

 

「え……」

「じゃなかった。えっと、そう、イリヤスフィール。えっと、間違えて悪い……」

 

 何で、自分を殺しかけた相手に謝っているんだろう?

 いや、理由は分かっている。何故か、彼女が泣きそうな顔をしているように見えたからだ。

 不機嫌そうな彼女に士郎は慌てた。

 

「わ、悪気は無かったんだ。その、つい……」

「……名前」

「へ?」

「名前、教えてよ。私だけ知らないのは不公平」

 

 一瞬、何の事だから分からなかった。

 

「名前……、ああ、名前か!」

 

 そう言えば、彼女はちゃんと名乗ったけれど、自分はまだ名前を口にしていない。その事に気付いた士郎は頬を掻きながら自分の名を少女に告げた。

 

「……エミヤシロ? 不思議な発音ね」

「俺もそんな発音で言われたのは初めてだよ。それじゃあ、『笑み社』だ。衛宮が苗字で、士郎が名前。呼び難いなら、士郎ってだけ覚えてくれ」

 

 イリヤのあまりにもキテレツな発音に思わずツッコミを入れてしまった。ビシッと鼻先に指を突きつけると、彼女は再び泣きそうな顔をした。

 

「……シロウ。シロウかぁ……、うん、気に入ったわ。単純だけど、響きが綺麗だし、合格よ。これなら、さっきのも許してあげる」

 

 そう言って、彼女はシロウの腕に抱きついた。

 

「ちょっと、待て、イリスフィール! お、お前、何してるんだよ!」

 

 咄嗟にセイバーを見る。彼女はハラハラした表情を浮かべながら様子を伺っている。助けるべきか、状況を見守るべきか迷っているらしい。ここは、自分の力で切り抜けるべきだろう。

 ゴホンと咳払いをして、士郎はイリヤスフィールに視線を戻した。ちょっと、不満気な表情。

 

「私が居るのに、セイバーを見るなんて、どういう了見?」

「い、いや、別にやましい事は何も――――」

 

 思わず言い訳染みた事を口にしてしまった。

 頭を振り被り、士郎は言った。

 

「い、一体、何が目的なんだ!? ま、まさか、陽も沈まない内からやり合おうってのか!?」

 

 腕に絡みついたままの彼女に問う。すると、彼女は実に不思議そうに士郎を見つめた。

 

「変な事を聞くのね。なに? シロウは私に殺されたいの?」

 

 細められた彼女の視線に鳥肌が立った。さっきまでの無邪気な笑顔が嘘のように冷酷なマスターの表情を浮かべる。

 

「……へぇ、よく分かんないけど、シロウがその気なら、予定が早まるけど、ここでセイバー諸共殺してあげるよ?」

「ばっ、馬鹿言うな! 殺されたいわけ無いだろ! それに、こんな所で戦えるか!」

「でしょ? マスターはね、明るいうちは戦っちゃ駄目なんだよ。だから、今は戦わないの」

「いや、分かってるけど、じゃあ、何しに来たんだ? まさか、偶然か?」

「それこそまさかよ。セラの目を盗んで、わざわざシロウを尋ねに来てあげたのよ。感謝なさい」

 

 再び、彼女は年相応な無邪気な笑顔を浮かべる。その早変わりに眩暈がした。

 

「えっと、つまり、イリヤは俺にただ会いに来ただけって事か?」

「そうよ。私はシロウと話をしに来たの。今まで、ずっと待ってたんだもの。勿論、いいわよね?」

「えっと……」

 

 判断を仰ごうと、セイバーを見る。彼も困った顔をしている。

 

「……また、セイバーを見てる」

 

 再び、ご機嫌斜めになるイリヤ。

 

「わ、悪い」

 

 なんで、謝っているのか、自分でもよく分からない。

 

「……まあ、いいわ。セイバー、私とシロウのお話を邪魔するなら、この場で殺す。それが嫌なら、離れていなさい」

「……わ、分かった」

 

 とても冗談とは思えない口振りに、セイバーは素直に従い、士郎達から距離を取った。

 下手に刺激してはまずいと判断したらしい。

 

「さてと、お邪魔蟲は居なくなったし、改めてお話をしようよ。フツウの子供って、仲良くお話しするものなんでしょ?」

「そ、それはそうだけど……。いやいや、俺とお前はマスター同士だし、一度戦った仲だろ! むしろ、敵同士じゃないか!」

 

 士郎の言葉にイリヤは笑った。

 

「何を言ってるのかしら? 私に敵なんて居ないわ。他のマスターはただの害虫。シロウはいい子にしてたら見逃してあげる」

 

 その言葉に背筋が寒くなった。逆らってはいけない。本能がそう、警鐘を鳴らす。

 

「わ、分かった。話をするんだよな? 俺も、イリヤとは話をしたいと思ってたし、構わないぞ」

 

 これは本当だ。どうして、こんな幼い子がマスターとして聖杯戦争なんかに参加しているのか、本人の口から聞いてみたいと思っていた。

 

「やった! じゃあ、あっちに行こう! さっき、静かな公園を見つけたの!」

 

 言うや否や、イリヤはとっとこ走り出した。一瞬だけ、セイバーを見る。彼はコクリと頷いた。

 

「……まあ、なるようになるさ」

 

 観念し、イリヤの後を追いかける。

 公園に到着すると、士郎とイリヤはベンチに腰掛けた。セイバーは入り口の近くで静かに待っている。

 イリヤとの会話は思った以上に穏やかなものだった。彼女は本当に士郎と話がしたかっただけらしく、特別な質問をするわけでも無く、単純に士郎の生活振りに関心を示した。

 

「ねえ、シロウは私の事、好き?」

 

 最後にそんな質問が飛び出してきた。士郎はとまどいながらも肯定した。

 

「……まだ、知り合ったばかりだし、色々あったけど、イリヤの事は嫌いじゃない。少なくとも、今みたいなイリヤとだったら、仲良くなりたいと思ってる」

「ほ、ほんと?」

「ああ、なんか、妹が出来たみたいで、何て言うか、楽しい」

「……そっか」

 

 イリヤは輝くような笑みを浮かべ、士郎に抱きついた。

 

「……ったく、変な奴だな」

 

 文句を言いつつ、士郎は不思議な温かさを感じた。それから一時間くらい話した。

 ありきたりな話をイリヤは大いに喜んだ。それが、どうしてだか痛ましく感じて、士郎は彼女に対する印象を変化させた。

 

「……イリヤ」

 

 この子はあまりにも無邪気過ぎる。もしかすると、善悪の区別すら分かっていないのではと思う程。

 人を殺す事の意味を彼女は理解しているのだろうか? その事を問いかけようと、口を開きかけた瞬間、彼女は突然立ち上がった。

 

「あ、バーサーカーが起きちゃった。もう、帰らなきゃ」

 

 そう言うと、ベンチから飛び降り、彼女は「またね」と手を振って、走り去った。

 呆然とする士郎にセイバーが近寄って来る。

 

「嵐のような子だったな」

「あ、ああ、そうだな」

 

 しばらくしてから、二人は帰路についた。雪のような髪の少女を思いながら……。

 

 その夜は魔術の修行にもあまり身が入らなかった。無理をしても仕方が無いと、切り上げようとした時、土蔵の入り口に人の気配を感じた。視線を向けると、そこには意外な人物が居た。

 

「……アーチャー?」

 

 何故か知らないが、彼の姿を見た途端、士郎の胸に言い知れぬ苛立ちが芽生えた。今まで、話した事など一度も無いし、幾度と無くセイバーを助けてくれた相手。むしろ、好意を持つべき相手である筈なのに、顔を合わせた瞬間、思った。

 この男とは相容れない。何があっても、認められない。

 そう、互いに感じている。ここまで性が合わない相手が存在する事に驚きすら抱く。

 

「……何の用だ?」

 

 士郎が問う。すると、アーチャーは敵意にも似た……否、敵意を士郎に向けた。気圧されそうになる体を必死に堪え、士郎はアーチャーを睨む。

 

「……何の用かって、聞いてるんだ! お前、見張りをしてるんじゃなかったのかよ」

「ああ、お前などに構っている暇は無い……が、見逃せない事があってな」

「見逃せない事……?」

「何故、凛を頼らないんだ?」

 

 その言葉の意味がよく分からなかった。

 

「いや、遠坂の事は頼ってるだろ。むしろ、頼り過ぎなくらいで――――」

「これでは、凛の一人相撲だな。いや、セイバーの……、と言うべきか」

「な、何で、セイバーが出て来るんだよ?」

 

 これ見よがしに溜息を零され、ムカッと来る。そんな士郎をアーチャーは確かな敵意をもって、射抜いた。

 

「やはり、お前はセイバーの言う通りの子供だな」

「な、何を――――」

「他人の助けなど要らない。出来る事は全て自分でやる。その思考はセイバーの思いを蔑ろにしている」

「なっ……、うるさい! 俺はセイバーを蔑ろになんかしてない!」

「していないと、本気で思っているのか?」

 

 数刻、二人は黙って対峙した。先に沈黙を破ったのはアーチャーだった。

 

「……卓越した魔術師が傍に居る。にも関わらず、教えを請わないのは何故だ?」

 

 そう、アーチャーが問う。

 

「……え?」

 

 途惑う士郎にアーチャーは言った。

 

「アレは請えば否とは言わんだろう。その事を貴様も理解している筈だ。にも関わらず、何故だ? 頭を下げるのが恥ずかしいとでも?」

「いや、俺は……」

「セイバーはお前を守る為に最善を尽くしている。自らに足りないものを補う為、凛に助力を求め、私に指導を請う。そんな彼を誰よりも近くで見ていながら、何故、お前はここで一人、鍛錬とも呼べぬ自慰行為に耽っているのだ?」

 

 士郎は応えられなかった。凛に助力を請う為に自らの命すら差し出そうとしたセイバー。アーチャーと一晩中竹刀で打ち合う姿も見ている。なのに――――、

 

「俺はただ……」

「無意味なプライドなど捨てる事だ。大方、女は守る者、とでも決めつけて、彼女達を頼りたくなかったのだろう?」

 

 その言葉は士郎の内面を正確に評したものだった。

 

「なんで、そんな事が―――-」

「分かるさ。お前は実に分かり易い愚者だ。正義の味方でも気取っているのだろう?」

 

 今度こそ、言葉が出なくなった。アーチャーは士郎の心の奥底を見透かした。

 

「本当に守りたいものがあるなら、そんなくだらない考えは捨てる事だ。無様に地を這い、物乞いをしてでも力をつけろ。如何に崇高な理想を掲げようと、力が無ければ無意味だ」

 

 アーチャーは踵を返した。

 

「お、おい――――」

「……後悔したくなければな」

 

 つい、その背中を追いかけようとして、彼の呟きに足が止まった。

 

「それと、一つだけ忠告してやろう」

 

 アーチャーは闇に消えながら士郎に告げた。

 

「セイバーはその身こそ英霊のものだが、中身はたんなる一般人だ。その判断能力は賢明ではあっても、所詮は素人のもの。その事を忘れるな」

「それ、どういう――――」

 

 意味を問い質そうとした時にはもう、アーチャーの姿はどこにも無かった。

 

「なんだ……、アイツ。言いたい事だけ言って……」

 

 まあ、要約すると、考えを貫くつもりなら、プライドなんて捨てて凛に教えを請えって事だろう。じゃなきゃ、セイバーが可哀想だ、と。

 

「アイツ、本気でセイバーの事が好きなんじゃないか?」

 

 結局、今のもセイバーの為の行動に思えた。そう思うと、怒りはふっと消えて、思わず笑ってしまった。

 

 湿った密室の中、少女は一人、階段を降りていく。足下で蠢く無数の蟲が彼女の為に道を開く。その先で、少女を出迎えたのは一人の老人だった。

 

「報告を聞こう」

「……居ました。ただ、中身は異なるようです」

 

 少女の報告を受け、老人はけたたましく笑い声を上げた。

 

「面白い。どうなるか気になっておったが、まさか、そうなるとはな!」

 

 腹を抱えて笑い続ける老人に少女は願う。

 

「お爺様。どうか……、先輩の事は」

「ああ、分かっておる。サーヴァントは倒さねばならぬが、マスターはその限りでは無い。まあ、お前の協力次第だがのう」

「……はい」

 

 老人は背後の空間に視線を向ける。

 

「面白い事になる。お主もそう思うじゃろう?」

 

 暗い影の中に居て、その存在の姿を確認する事は出来ない。

 ソレはただ、肯定を示す動作をするだけ。声一つ上げない。

 老人はそれで満足らしく、歓喜の下、勝利の確信を謳った。

 

「此度の戦、準備は万全よ。聖杯はもはや、儂の手の内じゃ」



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第八話「――――投影、完了」

 昨日に続き、土蔵で目を覚ました。外に出ると、案の定、道場から竹刀の音が響いている。覗き込んでみると、セイバーとアーチャーが稽古の真っ最中だった。

 

「……あれ?」

 

 ジッと眺めていると奇妙な違和感を覚えた。

 セイバーの動きが格段に良くなっている事にも驚いたが、それ以上にアーチャーの動きに驚いた。

 アーチャーが戦う姿を士郎は二度目撃している。一度目は学校。二度目は衛宮邸。そのどちらにおいても、彼は常に双剣を握り、戦っていた。その卓越した剣捌きを見るに、アーチャーにとっての最強はあの双剣を使った戦い方の筈だ。

 にも関わらず、アーチャーは今、竹刀という長刀を完璧に使いこなしている。ただ、扱えるだけ、という感じじゃない。そう戦い方こそが自らの最強なのだと謳うかのようなずば抜けた剣技を披露している。

 けれど、それはおかしい。アーチャーにとっての最強はやはり、双剣による戦い方である筈だ。あんな風に真っ向から敵を切り裂く清廉な剣はむしろ――――、

 

「……セイバーの剣技?」

 

 そうだ、自分は一度、あの剣技のオリジナルを目撃している。バーサーカーとの戦いの折に令呪を使ってセイバーが引き出した霊魂に蓄積されているアーサー王の剣技だ。

 どうやら、アーチャーはその剣技を模倣して見せる事で、セイバーに最適な剣技を覚えさせようという魂胆らしい。

 けれど、解せない。幾らなんでも、たった一度見ただけの剣技をあそこまで完璧に模倣出来るものだろうか? それこそ、俺なんかじゃ一生を修練に費やさなければ到達不可能な領域の業だ。士郎は思った。

 仮に一回見ただけで完璧に模倣して見せたと言うのなら、如何に英霊とはいえど、常軌を逸している。それこそ、剣聖と呼ばれる程の剣豪クラスの技量が必要な筈だ。だが、そんな英霊がセイバーではなく、アーチャーとして召喚されるなどあり得ない。究極の剣技を持つ者がその剣技を上回る射撃の名手であるなど、子供の空想レベルだ。

 

「やっぱり、アイツは……」

 

 もう、間違い無い。アイツはセイバーを……、いや、アーサー王を知っている。もしかすると、有名な円卓の騎士の一人なのかもしれない。そして、幾度となく、騎士王の剣技を見続けて来たのだろう。あれほど完璧な模倣が出来るくらい……。

 自らに最も適した剣技を真っ向から受ける事で、セイバーの技術は昨日の稽古の時と比べて遥かに上達している。

 結局、最後までセイバーの竹刀はアーチャーの体に当たらなかったけれど、その技量は既に一般人のレベルを超えている。

 

「――――お疲れ、セイバー」

 

 アーチャーが稽古の終わりを告げ、姿を消した後、士郎は水とタオルをセイバーに渡した。

 

「ありがとう、士郎君」

 

 汗を掻いている様子は無いが、セイバーは実に美味しそうに水を飲んだ。

 

「彼は教え方が上手いな」

 

 セイバーは心からアーチャーを讃えた。

 

「剣道部に所属していた事があったけど、その頃と比べても上達の早さが段違いだ。何て言うか、凄く馴染むんだよ、彼が教えてくれる技術が――――」

 

 興奮した面持ちのセイバーに士郎はついさっき考えたアーチャーの正体に関する推理をセイバーに聞かせてみた。すると、彼は複雑そうな表情を浮かべた。

 

「……まあ、彼の正体が何であれ、アーサー王を知っていた事に疑いの余地は無いな。なるほど、彼が教えてくれたのはアーサー王の剣技だったわけか……。道理で、馴染むわけだ」

 

 セイバーは立ち上がり、竹刀を振った。

 

「……士郎君。俺はアーサー王じゃない」

「ああ、知ってるよ」

「日野悟。それが俺の名前だ」

「ああ、それも知ってる」

「けど、俺の中にはアーサー王の霊魂が存在している。その力を使いこなせるようになれば―――-」

「……セイバー」

 

 セイバーの言葉を遮り、士郎は言った。

 

「俺も強くなるよ」

「士郎君……?」

 

 士郎はアーチャーが置いて行った竹刀を手に取った。

 

「一緒に強くなろう、セイバー」

「えっと……、そろそろ準備しないと学校が――――」

「今日は休む」

「……なんか、火が点いちゃった感じだな」

 

 苦笑いを浮かべるセイバーに竹刀を向ける。

 

「それじゃあ、いくぞ!」

「……ああ、いや……待った」

 

 一瞬、応じようとしてから、セイバーは何を思ったか、道場の脇にある木刀を手に取った。

 

「――――士郎君。やるなら、こっちを使ってみてくれ」

 

 セイバーが持って来たのは短いサイズの木刀だった。子供用というわけじゃない。剣道にも二刀流は存在する。この短い木刀はその為のもので、昔、藤ねえが練習の為にここに持ち込んだものだ。

 ただ、剣道における二刀流は長刀と短刀を使うのがセオリー。二つとも短い木刀を持って来た理由は一つ。

 

「……セイバー?」

「これは単なる思い付きだけど――――」

 

 そう、前置きをして、セイバー言った。

 

「折角、身近に凄い剣士が居るんだし、お手本にしてみたらどうかなって、思ったんだ。俺が教わってるのはアーサー王の為の剣技だし、今の俺には君に教授出来る程の実力が無いから」

「……そうだな。アイツの剣技か」

 

 士郎は瞼を閉じて、これまでに見たアーチャーの剣技を思い浮かべた。到底、真似出来るとは思えない卓越した剣技。弓兵のくせに、剣士を称してもおかしくない奴の剣捌きをイメージする。

 軽く振ってみると、不思議と竹刀がいつもより軽く感じた。

 

「――――よし、ちょっと、打ち合ってみるか、セイバー」

「ああ、来い、士郎君。言っておくが、アーチャーのおかげで今の俺はそこそこ強いぞ」

 

 不適な笑みを浮かべるセイバー。向かい合い、呼吸を一定に保つ。

 自分からは攻め込まない。アーチャーの剣技は守りに特化したものだ。鉄壁の守りを築き、微かな活路を見出す。ある意味、狙撃を生業とする弓兵らしい型だ。

 セイバーが動いた。アーチャーの剣技が守りの型だとすれば、セイバーが習っている騎士王の剣技は攻めの型。嵐の如き剣戟が襲い掛かって来る。

 上達しているとは思ったが、真っ向から受けると、その技量の凄まじさに言葉を失う。

 

「アーサー王の剣技と聞いて、気付いた事がある」

 

 セイバーが言った。

 

「恐らく、アーチャーは心眼のスキルを使っていたんだろうけど、これは本来、直感のスキルを利用して扱う剣技だ。だから、彼は事ある毎に俺に直感のスキルの使い方を注意してたんだな」

 

 直感のスキル。それはセイバーが保有する固有スキルの一つだ。戦闘時、常に自身にとって、最適な展開を感じ取る能力。未来予知にも等しい研ぎ澄まされた第六感。

 そのスキルを前提とした剣技。

 

「くっそ、負けるか!」

 

 攻めに入れば、振るった木刀に力が乗る前に弾かれる。更に、神速の追撃に襲われ、肝を冷やす事になる。攻撃が鉄壁の守りにもなっている。戦慄すら覚える隙の無い剣筋。防げているのが奇跡に等しい。

 あらゆる攻撃に備えるアーチャーの剣技はまるであらゆる無駄を削ぎ落としたかのような精密かつ、軽快な挙動でセイバーの攻撃への対処を可能とする。彼の剣技を模倣していなければ、恐らく、セイバーの剣を前に数秒と持ち堪えられなかったに違いない。

 けれど、不思議だ。アーサー王の剣技程では無いにしても、アーチャーの剣技も十分に神業めいている。なのに、どうしてこんなに馴染むのだろうか? まるで、自分の為に用意されたかのようにすら感じる。

 時間を忘れるほど、その攻防に夢中になった。互いに打ち合う度に研ぎ澄まされていくように感じる。

 藤ねえとは数えるのも馬鹿らしいくらい打ち合った事があるけど、いつも負けっぱなしだった。だから、こうやって、戦う事が楽しいと思った事は無い。だけど、この時間だけは別だ。セイバーとのこの打ち合いは永遠に続いて欲しいと願う程、楽しい。

 

「セイバー!」

「士郎!」

 

 結局、打ち合いが終わったのはお昼だった。汗だくでダウンした士郎にセイバーが氷を入れた水を運んで来る。

 

「お疲れさま。いや、楽しかったな」

「ああ、ほんと……。なんか、こんなに楽しくて夢中になったの久しぶりだ」

 

 友達との遊びでも、部活動でも、趣味でも、魔術の鍛錬でも、家事でさえ、こんなに楽しいと思った事は殆ど無い。

 正義の味方を目指す者として、こんな風に誰かを傷つける技術の向上に歓喜するのは如何なものかとも思うが、楽しかったものは仕方が無い。

 

「シャワーを浴びた方がいいな」

「セイバーが先でいいよ。俺はもうちょっと、ここでゆっくりしてるから」

「そうかい? じゃあ、お言葉に甘えるとしよう」

「それと、後で気分転換に商店街に行ってみないか? 正直……、昼飯を作る気力が湧かないんだ」

「同感。美味しいお店を紹介してくれ」

「了解。幾つか候補を見繕っとくよ」

「楽しみにしてる。じゃあ、先に行ってるね」

「ああ」

 

 セイバーが母屋に向った後、士郎はセイバーを連れて行くお店選びに取り掛かった。

 折角だし、抜群に美味い店を紹介してやりたい。この世界で生きる事も悪く無いって思うくらい、美味い店を……。

 

「……そうだよ。俺が強くなれば解決する話なんだ」

 

 拳を強く握り締め、士郎は呟いた。

 

「誰にも負けないくらい、強く……」

 

 

「それで、どこに行くんだい?」

 

 二人で並んで歩いていると、セイバーが尋ねてきた。

 

「セイバーの好みは? それに合わせるよ」

「俺の好み? そうだなー、辛い物は全般的に好きだよ。だから、カレーとか中華がいいかな」

「辛い物か……」

 

 途端、士郎の顔に暗い影が過ぎった。

 

「あ、いや、士郎君が辛いの苦手なら別のでいいよ。洋食も割と好きなんだ。大学に入って、バイトをするようになってから、月一で食べ歩きなんかもしてたんだ。そん中で食べたイタリア料理やロシア料理は特に絶品だった。エスカルゴは食べた事ある?」

「エスカルゴって、カタツムリだろ? うーん、あんまり我が家の食卓に並ぶものじゃないなー」

「なら、折角だし、エスカルゴが置いてありそうなイタリアンのお店に行こうよ。あの味を士郎君にも是非知って欲しい」

 

 ちょっと、計画にズレが生じ始めた。セイバーは思ったよりグルメらしい。ここはドカンとインパクトで勝負するべきか……。

 

「いや、やっぱり中華にしよう」

「いいのかい? 苦手なんじゃ……」

「いいから、行くぞ。とびっきりのお店を紹介してやる」

 

 正直、あのお店はトラウマ以外の何者でも無い。本来なら、誰かに紹介したいお店じゃない。だけど、グルメなセイバーを唸らせるとなれば、並大抵なお店じゃ不可能だろう。

 ここは、賭けるしかない、あの店に!

 

「……あっ」

 

 不意にセイバーが立ち止まった。どうしたのかと、顔を向けると、その視線の先に見知った少女の姿があった。

 少女が此方に気付いている様子は無い。立ち去ろうと思えば、気付かれずに立ち去れるだろう。だけど……、

 

「いいと思うよ」

 

 何も言ってないのに、セイバーは苦笑しながら言った。

 

「気になるんだろ? あの娘の事が」

「……ごめん、セイバー。ちょっと、寄り道する」

 

 少女に近寄り、そっと声を掛ける。

 

「――――イリヤ」

「だ、誰!?」

「俺だよ」

「シ、シロウ……? え、ほんとに、シロウ?」

 

 酷く驚いた様子を見せるイリヤに士郎は苦笑を洩らした。

 

「偶然通り掛ったら、イリヤの姿が見えたから、声を掛けたんだ。ちょうど、イリヤとはもう一度会いたいと思ってたしな」

「え……?」

 

 驚きに目を丸くするイリヤ。

 

「どうして……? 私はシロウを殺すつもりなんだよ? なのに、どうして、会いたいなんて……」

「どうしてって、改めて聞かれても困る。俺はただ、マスターとしてじゃなくて、普通にイリヤと会話をしたと思ったんだ」

「私と……、普通に?」

「ああ、普通に話したいだけだ。昼間は戦わないってのが、マスターのルールなんだろ? だったら、ちょっとくらい聖杯戦争を忘れてもいいじゃないか。殺すとか、殺さないとかは置いといて、昨日みたいに話がしたいんだ」

「えっと……、まあ、ちょっとくらいならいい……のかな?」

 

 それから、士郎とイリヤは二人で他愛の無い話をした。

 セイバーはそんな二人を微笑ましげに見つめている。

 一時間くらい話した後、イリヤのお腹が鳴った。

 

「今のは……」

「ち、違うの! 今のは私じゃなくて――――」

「俺のだよ、士郎君」

 

 顔を真っ赤にして否定するイリヤにセイバーがジュースの缶を向けながら言った。

 

「いっぱい話して、喉が渇いたんじゃないか?」

「……いらない」

 

 イリヤはそれまでと打って変わって、冷たい表情を浮かべて言った。

 

「お、おい、イリヤ――――」

「待った、士郎君」

 

 思わず口を挟もうとした士郎を遮り、セイバーはイリヤに謝った。

 

「余計な事をしたみたいだね。ごめん、話の腰を折る真似をしちゃって」

「……別に」

 

 口を尖らせるイリヤ。どうやら、イリヤは会話を中断させられた事に御立腹らしい。

 

「……そうだ。イリヤも行かないか?」

「行くって?」

 

 首を傾げるイリヤに士郎はこれからセイバーと二人で食事に行く予定である事を話した。

 話してから、しまった、と思った。これから行くお店はまだ幼いイリヤの心にトラウマを植えつけかねない。

 

「いや、無理ならいいんだけど……、イリヤにも都合があるだろうし――――」

「いいわよ」

 

 イリヤはアッサリ同意した。

 

「えっと……、いいの?」

「ええ、折角、シロウが誘ってくれたんですもの。邪魔物が居るのは気になるけど、我慢してあげる」

 

 自分の作戦が音を立てて崩れるのを士郎は察した。こうなったら、主賓はイリヤに変更するしかない。

 

「それで、どこに行くの?」

「ああ、士郎君がとっておきの中華屋を紹介してくれると――――」

「い、いや、今日は別の所にしよう」

「ええ、なんで!?」

 

 イリヤが不満の声をあげる。

 

「セイバーにはとっておきを教えてあげるのに、私には教えたくないって言うの?」

「い、いや、そう言う事じゃなくてだな! た、ただ、あんまりその、イリヤの口に合うかどうか……、そこまで美味いってわけでも」

「なんだ、とびっきりのお店って言うから、ちょっと期待してたんだが……」

 

 しまった。イリヤを宥めようとしたら、セイバーをガッカリさせてしまった。

 

「ち、違うんだ。ほら、セイバーは辛い料理が好きなんだろ? けど、イリヤには――――」

「あら、私だって、辛いのくらいへっちゃらよ」

 

 ジーザス。言葉を重ねれば重ねるほど、ドツボに嵌っていく。

 結局、士郎は二人をトラウマが残る中華料理屋に連れて来る事になってしまった。

 マウント深山に唯一存在する中華料理屋。名を、『紅洲宴歳館・泰山』と言う。真昼間の書き入れ時だというのに、締め切られた窓ガラスのせいで店内の様子が見えず、一見さんが悉く逃げ帰るという商店街きっての魔窟だ。

 ちびっこ店長と親しまれる謎多き中国人・魃さんとは、町内会のボランティア活動の時にちょくちょく会うのだが、彼女が振るう十字鍋の中身を見た日以来、彼女の店の半径十メートル以内には決して近づくまいと心に誓っていた。

 今日、その誓いを破る。破ってしまう。

 

「先に二人に言っておく」

「なんだい、士郎君?」

「なにかしら、シロウ?」

「ここでは甘酢あんかけ系以外、決して頼んじゃ駄目だ」

「えー、私はチンジャオロースが食べたいの!」

「俺も麻婆豆腐が食べたいんだが……。もしかして、お金が―――-」

「……あ」

「ち、違う! お金の問題じゃない!」

 

 切ない表情を浮かべる二人に慌てて言った。

 

「と、とにかく、中に入れば分かる! いくぞ!」

 

 もう、後は直接見せて分からせるしかない。最悪、二人が食べられないようなら、自分が三人分食べるだけだ。ここでは決して、残すという選択肢を与えてもらえない。食べ終わるまで、外に出る事は許されない。

 

「い、いくぞ!」

 

 ここはまさに戦場。決死の覚悟を決めて挑まねばならない。

 

「き、気合入ってるね、シロウ」

「よ、よく分からないけど、俺達も気合を入れておくか、イリヤスフィール」

「そ、そうね、セイバー」

 

 何故か、ドン引きされてる気配があるが、気にしてはいられない。

 

「いざ!」

 

 中に入ると、速攻で店長が飛んで来た。あれよあれよと言う間に席に通され、メニューを渡される。

 甘酢あんかけ系は……、

 

「な、無い……だと?」

 

 脂汗が滲み出る。無い。どこにも、無い。ページを捲る手が震える。

 

「ど、どうしたの、シロウ?」

「し、士郎君?」

「ちょっと、待っていてくれ!!」

 

 探す。ある筈だ。前は確かにあったんだ。

 

「ちょ、ちょっと、魃さん! あんかけ系は!?」

「ああ、撤去したアル」

 

 我が耳を疑った。

 

「そ、そんな――――」

 

 まずい。こうなったら、もう、土下座でも何でもして、ここから出よう。二人をもっと別の……、そうだ、高級イタリアンに連れて行こう。全財産を叩いてでも、二人に素晴らしい御馳走を――――、

 

「麻婆豆腐とエビチリ、それに、チンジャオロースとラーメン。了解アル。それで、シロウ君は――――」

「どうして、そんなに頼んじゃうんだよぉぉぉぉぉ!?」

 

 顔を上げると、二人はとっくに注文を済ませていた。

 叫ぶ士郎にイリヤは精一杯の優しさを篭めた笑顔で言った。

 

「大丈夫よ。ここは、私が奢ってあげるから、シロウも好きな物を注文しなさい」

 

 その様はまるで駄々を捏ねる弟をあやす姉のようで……、士郎は何故か目からしょっぱい液体が流れるのを感じた。

 

「……白い御飯」

「し、士郎君?」

「白い御飯を食べたいんだ!」

 

 セイバーとイリヤは顔を見合わせた。お互い、目だけで相手の気持ちが分かった。

 

「そ、そうか、白い御飯か、そうだよな! 士郎君は日本人だもんな!」

「そ、そうね。日本人たるもの、白い御飯は外せないわよね!」

 

 そして、数分後、店長が届けた料理の数々にイリヤとセイバーは絶句した。

 

「……なにこれ」

 

 イリヤは真紅の液体に真っ白になっている。

 

「……ああ、そうか、ここが」

 

 セイバーは何やら納得した風な表情で目を細めた。

 二人は一口舐め、悟った。

 

「……シロウ。豚の餌を私に食べさせるなんて、死にたいのかしら?」

 

 ニッコリと笑みを浮かべるイリヤ。

 

「いや、こんなもの喰ったら、死ぬぞ。豚が……」

 

 そんな彼女にセイバーがよく分からないツッコミを入れる。

 

「大丈夫だ、二人共」

 

 そんな二人に士郎は不思議な程爽やかな笑みを見せた。

 

「し、士郎君?」

「え、シロウ……、何をする気?」

 

 その表情がまるで……、これから磔の丘に歩き出そうとする神の子のようで、二人は士郎に手を伸ばす。その手を振り払い、士郎はレンゲを手に取った。

 

「だ、駄目よ、シロウ!」

「ま、待て、待つんだ、士郎君!」

 

 少女達の制止の声を振り切り、少年は往く。真紅に彩られた地獄の道を―――-、

 

「――――――――!」

 

 声にならない悲鳴を上げ、全身の穴という穴からよく分からない液体を出し、それでもレンゲを口に運ぶ士郎にセイバーとイリヤはただ、静かに涙を零した。

 

「……サーヴァントとして、俺も共に逝くよ、士郎君」

「……ふふ、仕方ない子ね、シロウは」

 

 二人は顔を見合わせ、レンゲを手に取る。咄嗟に気付き、止めようと士郎が声を上げようとするも、口が痺れて間に合わなかった。

 

「――――――――!」

「――――――――!」

 

 二人の声無き絶叫。

 最終的に士郎が麻婆豆腐とエビチリ、ラーメンを完食し、イリヤとセイバーは何とかチンジャオロースを完食した。

 英霊の耐久力をもってすら、甚大なダメージを与える泰山の中華。三人はよろめきながら外に出ると、直ぐ近くのコンビニで飲むヨーグルトを買い、一気に飲み干した。

 

「……セイバーの言ったとおりだな。口の中が少し、マシになった」

 

 目が充血し、唇も腫れ上がり、別人のような顔をしている士郎。

 

「……とりあえず、あんな危険地帯は二度と行かないからな、士郎君」

 

 セイバーは一緒に購入したウェットティッシュでイリヤの汗を優しく拭っている。

 

「……シロウの馬鹿。あんなとこ……、あんな」

「いや、本当にすまなかった。どうかしてた……、よりにもよって、二人を泰山に連れて行くなんて……。今度、この埋め合わせをさせてくれないか?」

 

 必死に頭を下げる士郎にセイバーとイリヤは苦笑いを浮かべあった。泰山という地獄を共に共有した事で、そこには奇妙な友情が生まれていた……。

 

「次はちゃんとした場所に連れていってね、シロウ。じゃないと、許してあげないんだから」

「あ、ああ! 今度はちゃんと美味しい店に連れてく!」

「期待してるからね。じゃあ、そろそろ帰る時間だから、私は行くね。バイバイ、シロウ、セイバー」

 

 走り去るイリヤを士郎とセイバーは静かに見守った。

 彼女の後姿が見えなくなった後、セイバーが言った。

 

「ところで、あのお店を選んだ真意は一体、何なんだ?」

 

 純粋な疑問。士郎は視線を泳がせながら言った。

 

「……ちょっと、歩かないか?」

「……いいけど」

 

 士郎はセイバーを連れて、川の方へと向った。静かな場所で話がしたかった。

 川辺に辿り着き、ベンチに座る。二人はしばらくジッと、川の水面を見つめた。

 

「……セイバーは消える以外の選択肢は無いって言ったよな?」

「……ああ、その事か。どうにもならない事だから、士郎君が何か思い悩む必要は――――」

「俺は嫌だ」

 

 セイバーの言葉を遮り、士郎はハッキリと言った。

 

「士郎君……」

「俺はセイバーが消えるなんて、嫌だ」

「……言っておくが、俺は男なんだぜ?」

「知ってるさ。別に、セイバーが女の子の体だから言ってるんじゃない。最初はただ、いきなり聖杯戦争なんかに巻き込まれて、それで消える以外の選択肢が無いって事に納得がいかなかった。けど、今はそれだけじゃない」

 

 士郎は視線を尖らせて言った。

 

「セイバーはもう、赤の他人じゃない。純粋に消えて欲しくないんだ」

「士郎君……。けど、俺がこの世界で生き残る道は――――」

「俺が強くなればいいんだ」

 

 士郎は言った。

 

「セイバーが元の姿に戻っても、俺がセイバーを……、日野さんを守る」

「……気持ちは凄く嬉しいよ、士郎君」

 

 けど、とセイバーは俯いた。

 

「それは君に大きな犠牲を払わせてしまう」

「そんなの――――」

「君の未来を大きく歪める事になる。色んな事を諦める必要があるだろうし、とても危険だ。魔術協会と聖堂教会の両方を敵に回す可能性があるんだよ? そんな立場に君を置きたくない」

 

 セイバーは言った。

 

「俺だって、もうとっくに、士郎君の事を他人だとは思っていないよ。ただ、純粋に君を守ってあげたいと思うから、ここに居るんだ。だから――――」

「でも、そんなの――――」

 

 二人の声が不自然に途切れる。感情が一気に冷えた。

 

「セイバー。今のって……」

「悲鳴……」

 

 空はいつしか暗くなっていた。泰山で思った以上に時間を浪費してしまっていたらしい。

 悲鳴が聞こえた方へ走り出す。迷う事は無かった。あまりにも強烈な魔力の波動を感じるからだ。

 きっと、この先には死が待ち受けている。本当なら、セイバーを連れて逃げるべきだ。だけど、逃げて、その後、悲鳴の主はどうなる?

 その人を見殺しにしたら、きっと、何かが壊れる。そんな気がして、無我夢中に走った。

 

「ここは……」

 

 そこは公園だった。甘ったるく淀んだ空気が満ちている。

 

「アレは――――」

 

 セイバーがいつの間にか武装して前に出た。その顔は恐怖と怒りに歪んでいる。

 彼に遅れて、士郎もその光景を視認し、吐き気を覚えた。

 黒い装束の女が意識を失っている女性の首筋に吸血鬼の如く口をあてている。

 そいつは人を喰っていた。肉ではなく、中身……、精神や霊魂といった、命そのものを吸っている。

 

「衛宮か……。学校をサボって、こんな時間にこんな場所を徘徊しているなんて、悪い奴だな」

「え……、慎二?」

 

 そこに居たのはクラスメイトの間桐慎二だった。間桐の姓で分かるように、彼は桜の兄であり、士郎にとっての旧友だ。

 そんな彼がどうしてこんな場所に居るのか、士郎は直ぐに理解出来なかった。

 

「どうしたんだよ、固まっちゃってさ。サーヴァント同士が顔を合わせたんだ。やる事は一つだろ? 鈍いお前の為に分かり易い演出までしてやったんだ。トロイ反応をするなよ」

 

 聞き慣れている筈の彼の声が酷く耳障りに感じられる。

 

「……お前が殺させたのか?」

 

 震える声で問い掛ける士郎に慎二はククッと笑った。

 

「馬鹿だね、お前はやっぱり。サーヴァントは人間を喰う存在だ。それだけ言えば、さすがに分かるよなぁ?」

 

 怒りで頭がどうにかなりそうだ。

 

「まあ、僕もどうかと思うよ。こいつ等と来たら、まったくもって、品性が無い。けど、魔力を与えないと維持出来ない以上、仕方なしと諦めるしかない。お前だって、自分のサーヴァントに餌をやる為に得物を探してるんだろ?」

「慎二……、そこを退け。その人を病院に連れて行く」

 

 士郎が言うと、慎二は今世紀最大のジョークを聞いたかのような笑い声を発した。

 

「病院だって? 病院なんかで助けられるものかよ。この女を助けたいなら、頼る場所が違う。そんな事も理解出来ないなんて、本当に馬鹿な奴だな」

 

 慎二が奇妙な本を掲げる。

 

「馬鹿面下げたまま、死んじまえよ」

「士郎君、退がって――――」

 

 セイバーが飛び出す。黒い装束の女とセイバーが戦いを始めた。

 今のセイバーではサーヴァントを倒す事は出来ない。止めなければ……、彼女を見捨てて逃げなければ、セイバーが死ぬ。でも、逃げたら、被害者の女性が助からない。彼女を救うなら、セイバーに命懸けで時間を稼いでもらい、その間に連れ去るしかない。どちらか一方を選べば、一方が死ぬ。そんな究極の選択をいきなり突きつけられ、咄嗟に応えられる筈が無い。

 

 雁字搦めになりながら、必死に考える。両方を助ける方法――――、そんなもの、一つしかない。

 

「……強さが要る。今直ぐに力が要る」

 

 セイバーを守りたい。

 被害者を救いたい。

 両方為すには力が要る。現状を打破する力――――、

 

「――――今、ここで力を!」

 

 俺みたいな未熟者がこの現状を打破するには、少なくとも徒手空拳はまずい。必要なのは武器だ。それも、木刀や竹刀のような生半可なものではなく、英霊相手に通用する強い武器が必要だ。鍛え上げられた強力な武器。俺には分不相応なものであっても、アイツが持っていたような武器があれば――――、

 

「――――投影、開始」

 

 どんなにねだっても、今ここでアイツが剣を貸してくれる筈が無い。そもそも、今、遠坂とアーチャーがどこに居るのかも分からない。

 だから、今ここで武器を手に入れるには、作る以外の選択肢など無い。

 無いものを作れ。足りないものは偽装しろ。セイバーを守りたいなら、何を犠牲にしてでも力を手に入れろ!

 視界がスパークする。何も見えない。何も聞こえない。だけど、そんなのどうでもいい。力が必要なんだ。力を手に入れたいんだ。

 力を、力を、力を、力を、力を、力を、力を、力を、力を、力を力を、力を、力を、力を、力を力を、力を、力を、力を、力を力を、力を、力を、力を、力を力を、力を、力を、力を、力を――――!!

 

「――――投影、完了」



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第九話「まずは学校でいつもどんな風に過ごしているのか、聞かせてもらえるかな?」

 セイバーと黒衣のサーヴァントの戦いはほぼ、一方的なリンチの様相を見せていた。なにしろ、敵があまりにも速過ぎる。直感のスキルによる迎撃が間に合わず、体の至る所から血を垂れ流している。激しい痛みが思考を鈍化させ、更に苦戦を強いられるという悪循環。

 

「ッハハ、なんだ、ただの木偶の坊じゃないか! どうやら、外れを引いたらしいな、衛宮」

 

 返す言葉も無い。彼の言葉は真実だ。本物のアーサー王なら、この程度の相手に苦戦などしない。

 目で追えない時点で詰んでいる。後は嬲り殺しにされて終わるだけだ。だが、そうなると己のマスターはどうなる? 偽物相手に救いの手を伸ばそうとしてくれた士郎。己が居なくなった後、目の前の怪物が彼に何をするか、想像しただけで吐き気が込み上げて来る。

 終われない。彼の為に、ここで諦めるわけにはいかない。せめて、この命を引き換えにしてでも、目の前の敵を倒す。彼女さえ居なければ、士郎は逃げられる。凛と合流を果たす事が出来ればもう、安心だ。彼女はきっと、彼を守り抜いてくれる。

 だから、狙うは必殺。こちらの息の根を止めようと仕掛けて来る一瞬に全てを賭ける。相手が女である事を無視し、全身に走る痛みを無視し、誰かを殺す事への罪悪感を無視する。

 士郎を守りたい。その事で頭の中をいっぱいにする。他の余計な感情が入り込む隙間を作らない。

 

「いいぞ、やっちまえ、ライダー! 衛宮のサーヴァントを始末しろ!」

 

 ついに来た。直感が示すライダーの必殺の軌跡に全身全霊を掛けた攻撃を放つ。

 守りを捨てた渾身の一撃がライダーの体を大きく抉る。けれど、同時に襲い来る筈の痛みが来ない。届いたのは甲高い金属音と守るべき主の息遣い。

 

「し、士郎……君?」

 

 セイバーが声を掛けるも、彼の耳には届かない。聴覚がまともに機能していない。むしろ、まともに機能しているのは片目だけだ。痺れたみたいに、手足の感覚も無い。

 

「酷い出来だ……」

 

 両の手には白と黒の双剣。陰陽剣、干将・莫耶。ライダーの釘剣を渾身の力で弾き返して尚、刀身には傷一つ無い。けれど、その出来はあまり良く無い。

 士郎の体がよろめき、セイバーが慌てて抱き止める。

 

「嘘だろ……」

 

 慎二の声が響く。呆然と傷ついたライダーを見下ろしている。まだ、彼女は生きていた。

 セイバーは小声で謝りながら士郎を地面に寝かせ、エクスカリバーの柄を握り締めた。

 

「な、何してるんだよ、おい! ふざけんなよ!」

 

 取り乱す彼に一歩ずつ近寄っていく。

 

「……慎二君」

 

 ライダーに対して、口汚い罵声を浴びせる慎二にセイバーは声を掛けた。

 

「な、なんだよ……。来るんじゃない! お、おい、ライダー! いつまで寝てるつもりなんだ!」

 

 ライダーの体に火花が散る。どうやら、慎二の命令に従えない罰を受けているらしい。

 悪循環だ。ライダーはもう戦える状態じゃない。立ち上がる事さえ困難の様子。なのに、慎二は立ち上がり、戦えと命じる。その命令を守れないが為に体を苛まされ、傷を深くして、命の灯火を小さくして行く。

 

「……慎二君、ライダーを引き渡すんだ。そして、家族の下へ帰りなさい」

 

 ライダーは殺す。女だろうと、彼女はサーヴァントだ。サーヴァントが生き残っている限り、聖杯戦争は終わらない。だから、止めを差す。

 いつかはこの時が来ると分かっていた。

 

「……さあ、行くんだ」

 

 怖い。喉がからからに渇いている。

 いくら、相手が人間じゃなくて、サーヴァントだとしても、殺すのは罪だ。戦争だから、生き残るためだから、敵だから……、思いつく限りの言い訳を脳裏に浮かべる。

 士郎を守るという事はつまり、聖杯戦争を終わらせるという事。それは即ち、敵サーヴァントを殺すと言う事。

 慎二は悲鳴を上げて逃げて行った。もう、これで邪魔をする者は居ない。

 

「……ぅぁ」

 

 ライダーに近寄れば近寄るほど、体が震え、眩暈に襲われる。

 

「……こ、殺さなきゃいけないんだ」

 

 自分に言い聞かせるように呟く。

 

「殺すんだ……。殺さなきゃ、守れないんだから……仕方無いんだ」

 

 全身から力が抜けていく。

 

「ぁぁ……」

 

 怖い。こんなに怖い気持ちになるのは初めてだ。トレーラーに牽かれる寸前だって、こんなに怖くは無かった。

 人を殺すって、死ぬより怖い事なんだ。

 

「でも……、でも……」

 

 ガランという音がした。俺はエクスカリバーを落としてしまった。

 

「あ……、ひ、拾わなきゃ――――」

 

 落ちたエクスカリバーを拾おうと腰を屈めた瞬間、狙い済ましたかのようにライダーが動いた。

 反応が出来ない。直感がどうこうのレベルじゃない。対処しようにも、体勢が悪過ぎる。

 殺される。直感が告げたのは、起死回生の一手などではなく、避けようの無い現実だった。だと言うのに、セイバーはホッと胸を撫で下ろしてしまった。

 これで、殺さなくて済む……。

 

「――――この野郎!」

 

 血飛沫が舞った。セイバーのものでは無い。首から上を失った、ライダーのものだ。

 士郎が干将で飛び掛かって来たライダーの首を刎ねたのだ。

 

「な、なんで……」

「……セイバーは殺さなくていい」

 

 士郎は静かな声で言った。

 

「だ、駄目だ……。士郎君の方こそ、子供がこんな事――――」

「泣いてる癖に!」

 

 セイバーの言葉を遮り、士郎は怒鳴った。顔を強張らせるセイバーに士郎は唇を噛んだ。

 

「……こういうのは俺の役割なんだよ」

「何を言って――――」

「――――魔術師は死を容認するものだ」

 

 士郎は今まで聞いた事の無い冷たい声で言った。

 

「……他者を傷つけようと傷つけまいと関係無い。自分自身の手を汚さなくても、進む道は血に塗れる。それが魔術師って存在なんだ。だから、俺には人を殺す覚悟が出来てる。でも、セイバーは違うだろ」

「お、俺だって、君を守る為に――――」

「そんな事の為に……、セイバーが人を殺す覚悟なんてする必要無い!」

「だって、それじゃあ、君を――――」

「守らなくていい! そんな顔をしてる奴に守られたくなんかない!」

 

 なんて、馬鹿な話だろう。聖杯戦争に参加するって事の意味を己は今に至るまで、真に理解出来ていなかったのだ。士郎は干将を苛立ちに任せて投げ捨てた。

 戦い、生き残るにはサーヴァントを殺さなければならない。それはつまり、セイバーが士郎を守ろうとする限り、いずれ彼にはサーヴァントを殺さなければならない時が来るという事。そして、それが今だった。

 こうなる事は想定出来た筈なのだ。魔術師ですら無い一般人である日野悟が人を殺める。それが如何なる苦しみを彼に与えるか、考えもしなかった自分が憎らしい。

 

「前提を間違えてたんだ。何があっても、セイバーを戦わせるなんて、しちゃいけなかった」

「士郎君、それは――――」

「悟は一般人なんだぞ!」

 

 本名を呼び捨てにされて、思わずセイバーは黙った。

 

「悟が命の遣り取りをするなんて、間違ってる。もっと、早くに気付かなきゃいけなかったのに……」

 

 士郎は言った。

 

「もう、セイバーには戦わせない」

「ば、馬鹿を言うな! 瀕死のライダーを殺したくらいで――――」

「分かってる。ライダーはとっくに死に体だった。残る五体のサーヴァントを相手に今の俺の力が通用するなんて思ってない」

「なら……」

「だから、強くなる」

 

 士郎の目には揺るぎない決意の光が灯っている。

 

「……そんなの、駄目だ」

 

 けれど、セイバーも引くわけには行かなかった。

 

「敵を殺す為に力を求めるなんて……、それを人は修羅道と呼ぶんだ。士郎君にそんな地獄を歩ませたくない!」

「だから、自分で歩むってのか?」

 

 怒りを滲ませた士郎の声に、今度はたじろがなかった。

 

「ああ、そうだ。忘れるなよ、士郎君。俺はとっくに死んでるんだ。地獄を歩むのは死人の役目、敵を殺すのは俺の役目だ」

「泣きべそかいて、震えて、肝心の武器を落として、そんな奴に修羅道を歩むなんて無理だし、許さない」

「君の許可なんて不要だ。さっきは醜態を晒したけど、次は必ず――――」

「殺すって? 無理だな、お前には」

「無理じゃない!」

 

 互いに睨み合う二人。決して譲れぬ思いが、二人の間に亀裂を作る。

 互いに思い合うからこそ、ぶつかる。

 

「お前はただ、美味い飯を食べて、ゲームして、寝転がってればいいんだ!」

「こっちの台詞だ! 子供は子供らしく、大人に甘えてろ! もっと、自己中心的になれ!」

 

 言い争う二人。その二人を止めたのは小さな呻き声だった。

 ライダーに襲われた女性。彼女は微かに息をしていた。

 助かるかもしれない。そうと分かった途端、二人の頭から言い争いを続けるという選択肢は消えうせた。一刻も早く、彼女を治療する必要がある。

 

「慎二は医者に連れて行っても無駄だって言ってた」

「なら、凛に助けを求めるしかない。衛宮邸に向おう」

「ああ、分かった」

 

 頷いて、士郎が女性を抱き上げようと屈んだ途端、彼の体が崩れ落ちた。

 

「し、士郎君!?」

「あ……れ――――?」

 

 ピクリとも動かなくなった。慌ててセイバーが呼吸を確認すると、不規則とは言え士郎はかろうじて生きていた。けど、予断は許されない。

 

「と、とにかく、凛の下に……」

 

 苦戦しながら、士郎を背中に背負い、女性を抱き上げる。二人を落とさないように慎重にセイバーは歩き始めた。

 

 屋敷に到着すると、セイバーは二人を床に降ろして凜に助けを求めた。

 

「……それは?」

 

 凜より早く、アーチャーが駆けつけてくれた。彼は士郎が握ったままの莫耶を見て、僅かに瞠目した。

 

「これは士郎君が投影したものだ。それより、二人を!」

「――――なるほど、小僧の方は私が何とかしよう。そちらの女性は凜に任せるしかない」

 

 彼の親切にセイバーはもはや驚かなかった。ただ、信頼を篭めて、彼に士郎を預けた。

 

「……なるほど、私の剣を投影した事で閉じていたものが開いたらしい」

「閉じていたもの?」

「この小僧は度し難い愚か者だ。魔術回路とは、一度作ってしまえば、後はスイッチのオンオフをする要領で表層に現出させる事が出来る。だが、この小僧はそれを知らずに勘違いしていたらしい」

「つまり……?」

「小僧の内には既に回路があったのだ。だが、こやつはそれを知らずに今日まで生きて来た。故に、放棄されていた区画が急に『正しい使い方』をされて驚いている状態なのさ。いずれにせよ、処置は施した。一晩眠れば、体も動くようになる」

「じゃ、じゃあ、もう士郎君は――――」

「問題無い。むしろ、今までが異常だった分、目を覚ました時、以前よりも幾らかマシな魔術師になっている筈だ」

「そ、そうか……」

「それより――――」

 

 アーチャーが口を開きかけた時、廊下の奥から凜が走って来た。その手には赤い宝石が握られている。

 

「――――ったく、こういうのは教会の領分なのに!」

 

 文句を言いながら、事情も聞かずに治療を開始する凛。どうやら、セイバーが二人を背負って帰って来るのを窓から目撃していたらしい。治療に必要なものをかき集めるのに時間が掛かったそうだ。

 

「凛、彼女は……」

「何とか、一命を取り止めたわ。雑な喰らい方をしたものね、彼女を襲った奴は」

 

 そう言って、彼女は立ち上がり、セイバーに視線を向けた。

 

「それじゃあ、説明してもらえるかしら?」

「……うん」

 

 とりあえず、場所を移す事にした。士郎と女性を布団に寝かせ、居間に向う。

 

「そう言えば、さっきは何かを言い掛けてたよね?」

 

 居間の襖を開けながらアーチャーに問う。すると、彼は顔を逸らして言った。

 

「何でもない。それより、今夜の稽古は無しだ。今夜はゆっくり体を休めておけ」

「……うん。いろいろとありがとう、アーチャー」

「……ふん」

 

 アーチャーは踵を返し、姿を消した。

 もう一度、セイバーは虚空に感謝の言葉を投げ掛け、凛への報告の為に席に着いた。

 ライダーのマスターが慎二である事や、彼女を脱落させる事が出来た事を話すと、凜は「なるほど」と肩を竦めた。

 

「未熟者コンビにしては上出来よ。だけど、今日の戦果は相手も未熟だったから、という理由に過ぎない。その事を忘れちゃだめだからね?」

「……ああ、肝に銘じておくよ」

「――――それにしても、慎二か……、完全に盲点だったわ。まあ、確かにマキリは御三家の一つだし、裏技の一つや二つ、用意しててもおかしくないか……」

 

 考え事をしたいから、と凜が部屋に戻った後、セイバーは士郎が眠る部屋に向った。

 結局、士郎との言い争いに関しては凜に話さなかった。士郎の意思は誰が何と言おうと変わらないだろうから、対処法は彼が安心出来る位、セイバー自身が強くなる事しか無いからだ。

 氷水を用意して、タオルを湿らせ、彼の額に流れる汗を拭う。

 

「寝顔だと、余計に幼く見えるな……」

 

 こんな子供に人を殺させてしまった事に深い罪悪感を覚える。

 あの時、己がもっと確りしていれば……、ライダーを殺せていれば、士郎を不安にさせる事も無かった。

 

「情け無いな……、俺」

 

 彼より年上の癖に肝心な所で怖気付いてしまった。これでは、何の為にアーチャーに稽古をつけてもらっているのか分からなくなってしまう。

 

「士郎君は正義の味方になるんだろ? なら、敵を殺す為に力を求めたりしたら駄目だよ……」

 

 直接は聞いていないけど、セイバーは彼の夢を知っている。その顛末が如何なるものかも知っている。でも、原作の凛ルートで、彼の未来であるアーチャーは自らの過去を肯定した。

 苦しい事や悲しい事はあるだろうけど、彼はちゃんと正義の味方になれるんだ。なら、こんな自分のせいで道を踏み外させるわけにはいかない。

 このままいけば、きっと、彼は取り返しのつかない未来に向って歩んで行ってしまう気がする。

 

「……幸せになって欲しいな」

 

 これが父性というものなのだろうか?

 彼に不幸な人生を歩んで欲しくないと、セイバーは切に祈りながら一晩中、士郎の看病を続けた。

 朝になり、先に目を覚ました女性はパニックを起こしたけれど、予め、準備を整えていた凜が対処した。記憶を弄り、朝の内にアーチャーを連れ、教会へと連れて行った。

 お昼になっても目を覚まさない士郎を心配しつつ、セイバーは少しだけ彼から離れ、お風呂場に向った。昨晩の戦いで服や肌に汚れが付着したままだったからだ。

 服を脱ぎ、洗濯籠に入れてから中に入る。衛宮邸のお風呂は広々としていて快適だ。椅子に座り、シャワーを浴びる。曇り止めの塗装がされている鏡にクッキリと映る自らの姿をセイバーは溜息を零しながら見つめた。

 

「……あれ?」

 

 マジマジと鏡を見つめると、奇妙な違和感に襲われた。

 何がどうとは言えないけれど、奥歯に物が挟まったかのような感じがする。

 しばらく眺めて、結局結論が出せず、セイバーは考えを放棄して、髪と体を洗い、湯船に浸かった。足をめいいっぱい伸ばせるお風呂というのは実に素晴らしい。

 生前、住んでいたアパートは便所と一緒な上にとても狭くて辛い思いをした。このお風呂に浸かっている時間はまさに至福。この世界に来て良かったと思う瞬間を与えてくれる。

 

「……ん?」

 

 のんびり浸かっていると、扉の外でガチャガチャと物音がした。

 士郎が起きて、洗濯物を片付けようとしているのかもしれない。病み上がりの彼にそんな事をさせるわけにはいかない。慌てて止めようと声を発しようとした時、急に扉が開いた。欠伸をかみ殺しながら、割と大きいアレをブラブラさせ、入って来た。

 

「……あれ?」

 

 漸く、士郎君はセイバーに気付いた。互いに言葉を失う。

 凍り付いた時間を動かしたのは天井から垂れてきた冷たい雫だった。

 ポチャンという音と共に我に返ったセイバーは言った。

 

「……まさか、お風呂場でバッタリを体験する事になるとはな」

 

 士郎の表情が目まぐるしく変化する。最初は赤くなり、次に青くなり、最後には真っ白になった。

 

「ご、ごめん、セイバー! 汗を流そうと思って、それで!」

「……ああ、とりあえず、落ち着きなよ。ほら、深呼吸、深呼吸」

 

 セイバーに促され、素直に深呼吸をする士郎。漸く冷静さを取り戻した彼は回れ右をした。

 

「……ちょっと、待ってくれ、士郎君」

 

 出て行こうとする彼をセイバーは呼び止めた。

 

「な、なんでしょう……?」

 

 強張った表情の士郎。

 

「……ちょっと、話をしないか?」

「話……?」

「ああ、体を洗いながらで構わないよ」

「いや、それは――――」

「男同士、裸の付き合いといこう」

「男同士って言っても……。大体、何を話すのさ?」

「お互いの事さ」

「お互いの……?」

 

 セイバーは頷いた。

 

「ちゃんと、君の事を知りたい。それに、俺の事も知って欲しい。駄目かな?」

「……いや、いいけど、ここじゃなくても――――」

「ここなら、変に飾らずに話せる気がするんだ」

「……分かった」

 

 士郎は渋々頷きながら、石鹸を手に取った。

 

「それで、俺の何を知りたいんだ?」

「そうだねぇ――――、うん。まずは学校でいつもどんな風に過ごしているのか、聞かせてもらえるかな?」



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第十話「……どうしたってんだ、イリヤ」

 奇妙な時間が流れた。狭い個室の中、裸の女の子と共に居るという事実に士郎は最初こそ緊張していたが、いつしか気にならなくなっていた。魔術や聖杯戦争とは全く関係の無い話に華を咲かせる。学校生活の事、アルバイトの事、友達の事、初恋の事。

 互いの話をしようと言っていたのに、セイバーは殆ど士郎にばかり話をさせた。魔術に関する事を抜かせば、衛宮士郎の人生に劇的な事など殆ど無い。我ながら、面白みに欠ける話だと感じながら、士郎は体を洗いつつ語り続けた。

 不思議な事にセイバーはヤマもオチもない士郎の話を終始楽しそうに聞き入っていた。それが妙にくすぐったくて、士郎は話を打ち切ることが出来なかった。

 

「それで、その時は――――」

 

 父親と共に花火を見に行った話や藤ねえの剣道大会に応援に行った話をしながら、士郎は思った。

 こうして、誰かに自分の事を語り聞かせたのは何時以来だろう? イリヤと喋った時も趣味や好き嫌いを語ったくらいで、ここまで深くは話さなかった。別に、話したくなかったわけじゃない。ただ、話す機会が無かっただけだ。

 まだ、切嗣が生きていた頃はよく、こうして共に風呂に入り、学校での出来事や友達との事を彼に報告していた。でも、彼が死んでから、こんな風に誰かに自分の事を話す事が無くなった。

 葬儀の後、藤ねえは士郎の心を気遣い、未来に目を向けさせる為、あまり過去を振り返るような話は振らなくなった。中学に上がる頃には、彼女も彼がもう大丈夫だと確信したが、その頃は彼女も忙しく、あまり士郎と話す機会に恵まれなかった。高校に上がると、同じ学校の先生と生徒という関係になり、話す意味が無くなった。

 桜や一成、慎二とも、あまりこういう話はしないから、ちょっと新鮮で、ちょっとこそばゆい気持ちになった。

 

「そんで、アイツ――――」

 

 なんだか、童心に返った気分だった。中学時代の慎二との思い出を語りながら、士郎は次に何を話そうか考えた。

 それはセイバーがこの会話に求めた意図の一つだった。

 多くの研究において、『語り』は重要なテーマとされている。セイバーが彼に求めたのは、彼自身が持つ彼の物語、『自己物語――――ドミナントストーリー』と呼ばれるものだ。

 過去の経験を時の流れの中に配置し、そこに一つ一つ意味を与える事によって構造化する。通常、人はそれを無意識の中で行い、自らの人生を一つの物語として捉えている。

 自己物語を語らせる事は本来、無意識下で行われている『物語化』を意識上に浮き上がらせる事を目的とする。

 一般的な精神治療法に『ナラティヴ・セラピー』というものがあり、これは意識的自己物語への介入による治療法である。

 衛宮士郎という少年の過去は明るいばかりではない。むしろ、常人からすれば陰鬱なものと捉えられる人生である。

 火災で両親と家とそれまでの人生を失い、それから現在に至るまでの環境も劣悪とまではいかずとも、良いものではなかった。けれど、セイバーは彼の自己物語に常に好意的な反応を返した。

 自らの人生をつまらないものであると解釈していた士郎に『そんな事は無い。君の人生は素晴らしいものだった』という他者視点からの反応を与える事で新たなる概念を創造する。

 それがセイバーの目的の一つ。彼の自己犠牲精神を抑制する為のアプローチだった。

 とは言え、あくまで、それは目的の一つに過ぎない。セイバーが彼の過去を知ろうとするもう一つの理由は単純に衛宮士郎という少年の事をもっと知りたいと思ったからだ。

 セイバーにとって、彼に対する印象は『ゲームの主人公』としての印象が大きい。自己犠牲精神旺盛な、正義の味方を目指す純朴少年。けれど、それはあくまでゲームにおける彼への印象。目の前で今を生きる彼に対して、そんな印象を抱き続ける事は不義理であるし、要らぬ距離感を作ってしまう。

 出会う前から持っていた第一印象を彼の自己物語を聞く事で一新する。それが、この会話のもう一つの意図。そして、それは大成功だった。

 確かに、彼の人生は衛宮切嗣から託された夢によって、一つの骨子を作られた。けれど、それはあくまで骨子の一つに過ぎない。彼の人格が今のものになるまでに多くの人の影響があった。

 例えば、それは小学校の頃の先生であったり、虐めっ子であったり、アニメのヒーローであったり、初恋の女の子であったり……。

 ゲームで語られている内面は彼の人格の一端に過ぎない。その事を深く理解出来た。

 彼は悲しい過去を持ち、魔術が使えて、やがて、英霊になる人。だけど、同時に今を生きている一人の人間。

 

「……士郎君」

 

 セイバーは湯船の縁に腕を置き、ニッコリと微笑んだ。

 

「君は将来、何になりたいの?」

「……正義の味方になりたいんだ」

 

 彼は言った。照れ臭くて口に出す事を躊躇われる夢。けれど、どうしてか、自然と口から飛び出した。

 

「そっか……。なら、君に良い事を教えてあげるよ」

 

 衛宮士郎は正義の味方を夢見ている。けれど、彼が正義の味方になる為に必要な経験をこの世界では得られない。本物のアーサー王にしか、彼に与えられない高潔な在り方をセイバーは教える事が出来ない。

 衛宮切嗣が与えたのが骨子であるなら、アーサー王が与えたのは肉だ。肉が無いからこそ、この少年は己を守る為に……、正義の為に間違った選択をする可能性がある。

 只管、力を求めて修羅の道を歩んでしまうかもしれない。だから――――、

 

「正義の味方は心に常に愛を持っているものなのだよ」

 

 とりあえず、スーパーヒーローに必要なものを教えておこう。

 

「あ、愛?」

「俺の知ってる正義の味方は心に愛が無ければ、スーパーヒーローにはなれないって、言ってたよ」

 

 俺の知ってる正義の味方、キン肉マン……のオープニング。

 

「救いたい人、守りたい人をまず、愛してみてよ。ほら、イエスも言ってるだろ? 汝、隣人を愛せって。第一歩は愛を知る事さ」

「……愛」

「きっと、救えなかった時は愛さなかった時より辛くなると思う。けど、救えた時は愛さなかった時より嬉しくなる。正義の味方になるなら、きっと、それは大切な事だと思うよ?」

「……考えとく」

「うん。考えておいてくれ」

 

 話はそれで終わりとなった。士郎は思い悩む表情を浮かべながら出て行き、セイバーも彼が脱衣場を出た後に風呂場を後にした。

 

 士郎とセイバーは家を出た。特に買出しの必要は無いのだが、約束があったからだ。

 いつもの公園に向うと、そこに案の定、イリヤが待っていた。

 

「イリヤ!」

 

 声を掛けると、イリヤは弾んだ足取りで士郎の下に駆け寄って来た。前回の事でご機嫌斜めなのではないかと思ったが、それは杞憂だったらしい。抱きついて来るイリヤに士郎は家を出る直前、セイバーと話し合って決めた事を提案した。

 

「イリヤ、今日はうちで御飯を食べないか?」

 

 前回、泰山で彼女を酷い目に合わせてしまったから、その埋め合わせのつもりだった。

 

「シ、シロウの家で!?」

 

 イリヤは一瞬、嬉しそうに瞳を輝かせた後、一転して喰らい表情を浮かべた。

 

「いいの……、かな? 私はシロウを殺しに来たんだよ? なのに、その私がシロウの家にあがるなんて……」

 

 抑揚の無い声で呟くイリヤ。

 

「頼むよ、イリヤ。前回は酷い物を食べさせちゃったから、今日は俺の料理をイリヤに食べて欲しいんだ。この通り!」

 

 深く頭を下げる士郎にイリヤは目を丸くした。

 

「……そういう事か。うん、そういう事なら――――」

 

 イリヤははにかみながら言った。

 

「私の舌を満足させなさい、シロウ。それが条件よ! 美味しくなかったら、お仕置きなんだからね!」

「誠心誠意頑張ります」

 

 ビシッと敬礼して見せるシロウにイリヤは笑った。

 そんな彼女にセイバーは恐る恐る声を掛けた。

 

「なに、セイバー?」

 

 ホッとした。彼女から以前のような敵意を感じない。

 

「その……、俺も一緒に居ていいかな?」

「……駄目」

「……そ、そうですか」

 

 ガックリと肩を落とすセイバーにイリヤはケラケラと笑った。

 

「冗談よ、セイバー。特別に許可してあげる」

「あ、ありがとう」

 

 お礼を言うセイバーにイリヤはそっぽを向いた。

 

「さ、さあ、行くわよ! エスコートしてよね、シロウ」

「おう!」

 

 衛宮邸に辿り着くと、イリヤは恐る恐る玄関に上がった。

 

「お、お邪魔しまーす」

 

 キョロキョロト周りを見渡しながら廊下を歩くイリヤ。

 

「板張りの廊下……、聞いたとおりだわ」

 

 居間に入ると、士郎は腕まくりをしてキッチンに向った。

 

「それじゃあ、昼飯の用意をするから、適当に寛いでてくれ」

「ちゃーんと、美味しいものを作ってよね?」

「ああ、任せとけ」

 

 キッチンの中で作業を進めるシロウをイリヤは楽しそうに見つめている。

 

「ねえ、セイバー」

 

 しばらくして、イリヤの方からセイバーに話を振った。

 

「この家を案内してくれないかしら?」

「ああ、構わないけど、俺でいいのかい?」

「本当はシロウに案内してもらいたかったけど、料理で忙しそうだし、特別にセイバーで我慢してあげる」

「あはは……、了解です」

 

 苦笑いを浮かべながら立ち上がるセイバーに続いて、廊下に出るイリヤ。

 彼女にせがまれて、セイバーは屋敷中を歩き回る事になった。行く先々でぶーぶーと文句を言いつつ、キャッキャと楽しそうな笑みを浮かべるイリヤにセイバーは微笑ましさを感じた。

 彼女は最初にして最大級の死亡フラグだったが、こうして一緒に居ると、至って普通な子供にしか見えない。彼女が士郎の命を狙う理由を知ってる分、セイバーの心中は複雑だった。

 

「ねえ、セイバー」

 

 屋敷の裏手を案内している最中、急にイリヤが声のトーンを落とした。どうかしたのか、とセイバーが問うと彼女は言った。

 

「シロウって、貴女から見て、どう?」

 

 その表情ばどこか悲しそうだった。

 

「……良い子だよ。凄く……」

「……ねえ、セイバー」

 

 イリヤは言う。

 

「私はシロウを殺すつもりでニッポンに来たの」

「……イリヤスフィール」

「でも……、シロウはとっても良い子なの……」

 

 イリヤは泣いていた。

 

「おかしいね、私。シロウが良い子なのは嬉しい事なのに、同時にとっても悲しいの。シロウがもっと、悪い子だったら良かったのにって、思っちゃうの……」

「……イリヤスフィールはシロウが好きなんだね」

「……嫌いになれる筈が無いわ。会う度に好きになっちゃう。この家に来てからも……」

 

 泣き顔を見せたくないからと、顔を洗いに洗面所に行った帰り道、イリヤはセイバーに言った。

 

「シロウを……、殺すのは私。だから、それまでは絶対に負けちゃ駄目よ、セイバー」

 

 赤い瞳に見つめられ、セイバーは頷いた。

 

「君にも殺させるつもりは無いけど、士郎君は必ず守るよ。命に代えても絶対に……」

「……セイバーも私が殺すまで死んじゃ駄目」

「イリヤスフィール?」

「イリヤでいい。セイバーの事も私が殺す。だから、他の誰かに殺されたりしたら、許さない」

「……了解」

 

 なんとも物騒な言葉だけど、セイバーは微笑んだ。

 

 居間に戻って来ると、丁度良く、食事の準備が終わっていた。イリヤはキチンと正座して、箸を手に取った。

 

「イリヤは箸を使えるのか?」

「簡単よ。こうでしょ?」

「いや、その持ち方はちょっと違うぞ。ここはこう持って――――」

 

 イリヤの箸の持ち方を直し、士郎は手を合わせた。

 

「ほら、イリヤも食事の前にはこうやって、手を合わせるのがマナーなんだぞ」

「こう?」

「そうそう。じゃあ、いただきます」

「いただきまーす」

 

 イリヤの食事の仕方は予想に反して豪快だった。

 

「うんうん、合格! シロウはお料理が上手ね。ごはんが美味しい事は良い事よ」

「じゃあ、前回の失敗は――――」

「ええ、許してあげるわ。わたしの寛大さに感謝なさいね!」

「ああ、ありがとう、イリヤ」

 

 美味しそうにハンバーグを頬張るイリヤ。

 

「イリヤ。頬にソースがくっついてるよ。それだと髪の毛についちゃう」

 

 セイバーはハンカチでそっと、イリヤの口周りを拭った。

 

「ありがとう、セイバー」

「どういたしまして」

「……なんだ、二人共、思ったより仲が良いんだな。いつの間にか、セイバーもイリヤをイリヤって呼んでるし」

 

 士郎が嬉しそうに言った。

 

「ああ、前回、共に士郎君に酷い目に合わされたからな」

「被害者の会を結成したのよ」

「……いや、もう勘弁して下さい」

 

 意地悪な笑みを浮かべる二人に士郎はガックリと肩を落とした。

 

 穏やかな時間が過ぎた。三人で過ごす時間があまりに楽しく、士郎は時間を忘れて話しこんだ。

 イリヤがそろそろ帰らなければ、と言ったので、士郎とセイバーは彼女を近くまで送って行く事にした。

 

「また、うちに遊びに来いよ、イリヤ」

 

 士郎が言った。

 

「次は俺が腕を振るおう。士郎君には敵わないかもしれないけど、それなりのものを用意してみせるよ」

 

 セイバーが続く。

 

「それは楽しみね」

 

 イリヤは微笑んだ。

 しばらく、三人並んで歩き、三叉路までやって来た所で唐突にイリヤが言った。

 

「……二人共、油断しちゃ駄目よ? まだ、一人も脱落者が出ていないんだから……。そろそろ、聖杯戦争は本格的に動き出す頃合の筈――――」

「ああ、いや、脱落者はもう出てるぞ」

 

 イリヤの不安を払拭しようと、士郎が言った。

 

「……え?」

「ライダーは俺達が既に倒してるんだ。確かに、俺もセイバーも未熟だから、イリヤが心配するのも分かるし、その気持ちは嬉しいけど、心配はいらない」

 

 ニッと笑みを浮かべる士郎に対して、イリヤは狼狽した表情を浮かべた。

 

「シ、シロウ……。かっこつけたいからって、嘘は良くないわ」

 

 イリヤの言葉に士郎は「嘘じゃない」と反論した。

 

「……ライダーは確かに脱落した。マスターは逃がしたけど、サーヴァントは完全に消滅した」

 

 ライダーの首を切り落とした時の感触を思い出しているのか、士郎の表情に苦いものが混じる。

 

「士郎の言っている事は本当だよ、イリヤ。確かに、ライダーは死んだ」

 

 セイバーが士郎の言葉を肯定すると、イリヤは大きく目を見開いた。

 

「……嘘じゃないの? 士郎とセイバーの勘違いじゃなくて?」

 

 尚も疑うイリヤ。士郎は時計を見た。食事をしたり、お喋りをしながら歩いたりしていたから、いつの間にか夕方になっていた。

 

「この時間なら、そろそろ遠坂が帰って来る頃合だな。ちょっと、待っててくれ。そこの公衆電話で遠坂に確認する。学校に結界を張ってたのはライダーなんだから、それが消えてれば確実だろ?」

 

 十円を投入し、自宅の電話番号をプッシュする。数十回、コール音が鳴り響き、まだ帰って来ていないのかと諦め掛けた時、電話が繋がった。

 

『は、はい、衛宮ですが……』

 

 受話器越しに聞こえる声は間違いなく凛のものだった。

 なんだか、妙に緊張した様子。

 

「もしもし、俺だ、士郎だけど、遠坂に確認したい事が――――」

『はぁ? ちょっと、何ふざけてんのよ、アー……って、あれ? あれれ?』

「お、おい、どうしたんだよ、遠坂?」

『あ、ううん。ちょっと、ビックリしちゃっただけよ。それで、今、どこに居るの?』

「坂を下りた所の三叉路の辺りだ。今、ちょっとイリヤと一緒でさ」

『はい? イリヤって……、アインツベルンと一緒に居るの!? ちょ、ちょ、どういう事!?』

「いや、戦ってるんじゃなくて、ちょっと話をしたりしてただけなんだ。ただ、その流れでライダーを倒した事を話したんだけど、信じてもらえなくてさ。遠坂、学校の結界はどうなってた?」

『……ったく、緊張が無いんだから。結界なら消えてたわ。間違いなく、ライダーは倒れたって事ね』

「ありがとう。それと、悪いんだけど、後で頼み事があるんだ。夕飯は遠坂が好きな物を作るから、時間をくれないか?」

『別に構わないけど……。アンタはもうちょっと、緊張感ってものを持ちなさい。アインツベルンのマスターと一緒に居るなんて……』

 

 ぶつぶつよ小言を言い続ける凛に士郎は平謝りしながら受話器を置いた。

 電話ボックスの前で待っていたイリヤに確証が取れた事を告げると、イリヤはまるで人が変わったように冷たい表情を浮かべた。

 ライダーを倒した事で彼女から明確な敵と認識されたのかもしれない。そう思い、慌てる士郎を尻目に彼女は言った。

 

「……帰る」

「イ、イリヤ……?」

 

 唐突に踵を返し、数歩歩いた後、イリヤは振り向いて言った。

 

「……シロウ。夜中は出歩かないようにして」

「えっと……」

 

 困惑する士郎を無視して、イリヤは今度はセイバーを見た。

 

「シロウを何が何でも守りなさい、セイバー。それと、凛と同盟を結んでいるなら、常に行動を共にする事。少なくとも、夜間は絶対に離れちゃ駄目よ」

 

 イリヤの発する言い知れぬ迫力に士郎とセイバーは只管頷く事しか出来なかった。

 

「……バイバイ」

 

 走り去るイリヤを二人は追い掛ける事が出来なかった。

 士郎は呟いた。

 

「……どうしたってんだ、イリヤ」



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第十一話「アイツの力があれば……」

 苦しい。助けを求めて伸ばした手は空を切り、足は己の意思を無視して深みへ向う。もし、老人が“ソレ”を手にしていなければ、全ては違ったかもしれない。微かな望みであろうと、己が救われる道もあったかもしれない。けれど、己は既に完成してしまっている。

 人が犯してはならないという三つの禁忌を全て犯したのが十年前。

 建前である『魔術師』としてでは無く、本来の意図であった『胎盤』としてでも無く、『魔術品』としての完成を求められたが故に人間性を剥奪された。

 道具に感情は不要である。その判断の下、精神の破壊を工程に組み入れられた。

 

 陰茎を模した蟲に処女を奪われた。耳穴、鼻孔、口、膣、尿道、肛門。人体におけるあらゆる『孔』が単なる蟲の出入り口となった。

 殺人を強要された。最初に殺したのはクラスメイトだった少年少女六名。その後、魔術に寄らぬ顔見知りを次々殺害した。殺害方法は当時、世間を震撼させた殺人鬼による殺害方法を参考とさせられた。

 犠牲者から怨嗟の言葉と眼差しを向けられながら、彼等の血肉を貪った。工程完了までの期間、己の食事は彼等の眼球や脳漿、肉、内臓ばかりだった。

 精神の防壁に亀裂が走り、精神操作が工程に加えられた。夢の中で犠牲者達に行った拷問や殺害方法を体験させられた。

 電流が脳漿を焼き切る感触を知った。自らの肉や骨が焼ける臭いを知った。体内の器官が溶けていく喪失感を知った。自分の血肉を喰らう恐怖を知った。

 

 最低限の生体機能と必要な魔術的機能さえ残っていれば、彼等はそれで構わなかったのだ。

 だが、不幸な事に人格が完全に消え去る事は無かった。苦しみを苦しみと捉え、美しさを美しさと捉える感覚が生き残ってしまった。

 とは言え、道具としては完成を見た。必要な機能の組込みが終了し、精神の防壁は完全に崩れ去っている。

 それ故に、残された感情を抹消してもらう事は叶わず、死への逃避も許されない。

 

 

 夕食が終わった後、士郎は凛の部屋を訪れた。ノック三回の後、中から凛の声が届く。

 

「士郎? ちょっと、手が放せないから勝手に入って来てもらえるかしら?」

 

 なにやら、作業の真っ最中だったらしい。言われた通りに部屋の中に入ると、凜は注射器で血抜きを行っていた。真紅の血を満たした注射器の先端を今度は机の上の宝石に向け、中身を垂らす。

 その宝石を彼女が握り締めた途端、眩い光が奔った。

 

「うーん、三割までかー。手持ちの九つだけだとさすがに不安が残るのよね……」

 

 落ち込んでいるらしく、溜息を零しながら凜は宝石を宝石箱に戻した。

 

「えっと……、大丈夫か?」

「ええ、大丈夫よ。待たせちゃって、ごめんなさいね。アーチャーが『妙な胸騒ぎがする』なんて言うから、切り札を増やそうと思ったんだけど……」

 

 上手くいかなかった。そう、彼女は肩を竦めて言った。

 

「アーチャーが?」

「ええ、真剣な顔してね……。それより、私に用事があるんだったわね?」

「あ、ああ。実は遠坂に……その、お願いがあるんだ」

「何かしら?」

「俺を……、弟子にしてくれないか?」

「いいわよ」

「ああ、いきなりこんな事言っても断られるに――――って、いいのか!?」

 

 驚く程あっさりと凛は士郎の申し出を受けた。思わず目を丸くする士郎に凜は言った。

 

「どうせ、セイバーを守りたいから力が欲しいって感じでしょ?」

 

 図星だった。閉口する士郎を凛はケラケラと笑った。

 

「なら、貴方の選択は間違ってないわ。まず、何より貴方に必要な事は中身を鍛え上げる事だもの。だから、とりあえず――――」

 

 そう言って、凜は机の引き出しを開いた。そこから取り出した物を見て、士郎はアッと驚いた。

 

「――――コレについて説明してもらいましょうか?」

 

 空気が凍り付いた。一瞬、士郎は凛に殺されると思った。それほど、彼女は彼に対して明確な敵意を向けている。さっきまでの笑顔が嘘だったかのように、厳しい表情を浮かべている。

 

「と、遠坂……?」

「コレはアーチャーの双剣の片割れよね? でも、アーチャーはコレを貴方に渡した覚えなんて無いって言ってた。貴方、コレをどうしたの?」

「いや、それは――――」

 

 士郎は矢継ぎ早にライダーとの一戦について凜に語った。とにかく、彼女に真実を告げなければと焦りを覚えた。

 敵意が殺意に変化しようとしているのを感じたからだ。

 

「……アーチャーの――――、英霊の宝具を投影ですって? そんな事、あり得ないわ……」

「いや、あり得ないって言われても……、それは確かに俺が投影したものなんだけど……」

 

 疑われているように感じて、士郎は言葉を重ねた。すると、凜は首を横に振った。

 

「疑ってるわけじゃない。貴方が嘘を吐いてるなんて思ってないもの。ただ、貴方の投影魔術があり得ないものだって話よ」

「ど、どういう意味だよ……?」

「投影魔術って言うのはオリジナルの鏡像を魔力で物質化した一時的な物に過ぎないの。通常、投影によって作られたものは数分程度で消滅する。なのに、貴方が投影した“莫耶”は丸一日が経過した今も実体化し続けている。これは明らかに異常な事なの。そもそも、英霊の宝具を投影するなんて、無茶苦茶にも程がある。本当なら、廃人になっていてもおかしくない蛮行よ。貴方が仕出かした事は……」

「つまり……、俺の魔術はおかしいって話なのか?」

「そういう事。本来、何処にもないモノにカタチを与えるなんて、現実を侵食する想念に他ならないわ。世界に対して、喧嘩を売ってる。きっと、貴方の本来の“力”はそういうモノなんだと思う。この投影もその“力”の一部に過ぎない筈」

「力って……?」

「現実を侵食する類の異能には幾つか心当たりがあるけど、どれにも共通して言える事がある」

「な、何だよ……」

 

 凜は酷く険しい表情で言った。

 

「それは人間の限界を超える業。五つの魔法やそれに匹敵する奥義」

 

 その声には怒りが滲んでいる。

 

「馬鹿にしてるとしか思えないわ。アンタみたいな未熟者が……、あまねく魔術師達が羨む高みに既に至っている可能性があるだなんて――――」

 

 あまりにも理不尽な物言いだが、士郎は彼女の気持ちをある程度察する事が出来た。

 五つの魔法。それは魔術師にとっての到達点の一つだ。その時代で如何なる技術や金、時間を費やしても実現不可能な奇跡を可能とする業。

 魔術に関する知識も碌に持っていない未熟者がソレに匹敵する力を持っているかもしれない。生粋の魔術師である凜からすれば、苛立って当然だろう。

 

「……この力があれば、セイバーを守れるか?」

 

 けど、彼女の感傷を気に掛けている余裕など無い。重要なのは“力”が有用であるか否かだ。

 

「……英霊の宝具を投影出来る。そんな反則染みた能力、使いこなすなんて無茶も良い所よ。でも、使いこなす事が出来れば、大きな武器になる事は間違い無い」

「なら――――」

「ただ、勘違いはしないで」

 

 凜は深く息を吸い、冷静さを取り戻しながら言った。

 

「宝具を作る事は出来ても、担い手になれなければ無意味よ。相手は百戦錬磨の英雄達なんだから――――」

「じゃあ……」

「過信はしないで、って言ってるの。宝具の投影を使いこなせるようになったとしても、サーヴァント相手に勝てるだなんて思わないで」

 

 でも、勝てなきゃ、セイバーを守れない。セイバーを守るという事はあまねく全てのサーヴァントを殺し尽くす事と同義なのだから……。

 

「……思い詰めてるみたいだから、忠告。自分一人で抱え込んだって、出来る事は限られてる。もっと、周りを頼りなさい。例え、貴方が敵を倒せなくても構わない。一瞬でも、時間を稼ぐ事が出来れば私やアーチャーが敵を殺す事も出来る。セイバーだって、アーチャーとの稽古のおかげで少しずつマシになって来てるわけだし――――」

「セイバーにはもう戦わせない……」

「……は?」

 

 士郎の発言に凜は思わず口をポカンと開けた。

 

「た、戦わせないって、サーヴァントを戦わせずにどうやって生き残る気なのよ!?」

「セイバーは一般人なんだ。ただ、事故に合って、こんな場所に居るだけで、本当なら戦う理由なんて無いんだ。だから、セイバーにはもう戦わせない。敵は俺が――――」

「馬鹿言わないで」

 

 凜は怒りを滾らせて言った。

 

「貴方如きがどんなに命を削っても、出来る事は限られている。サーヴァントを倒せるのはサーヴァントだけって言うのが聖杯戦争の基本。中には例外があるでしょうし、条件が揃えば私も幾つか手段を持ってる。でも、それはあくまで例外なのよ。宝具の投影くらいで思い上がってるなら、待っているのは死よ」

「でも、俺は……」

 

 士郎が思い出しているのはライダーを殺す事に恐怖し、涙を流すセイバーの顔だった。

 あんな顔は二度と見たくない。

 

「……まったく、最初と逆ね。今度は貴方がセイバーの意志を無視して暴走してる。付き合いきれないわ……」

「お、俺は――――」

「頭を冷やしなさい。貴方が考えを改めない限り、私は何も貴方に教えない。今の貴方に何を教えても、早死にのリスクを上げる事にしかならないもの……」

「と、遠坂……、俺は……」

「セイバーともう一度話し合いなさい。お互いの気持ちをちゃんと理解し合う事。貴方達はどっちも一方的過ぎるわ」

「……ごめん。勝手な事ばっかり言って……」

「――――本当よ。いい加減、愛想が尽きて来てる。これ以上、失望させないでちょうだいね」

「ああ、ちゃんと話し合うよ。アーチャーにも言われたのに、俺はまた、独り善がりになってた……」

 

 肩を落として立ち去る士郎に凜は深く溜息を零した。

 

「本当なら、アイツを鍛えて、さっさと戦力の一部に組み込んだ方が効率的だって言うのに……」

 

 士郎が宝具を投影出来るようになれば、戦略の幅が広がるし、勝率も上がる。自滅する可能性が高まろうと、巻き込まれないように注意を払えば、別に問題無い筈なのに、あの二人を見ていると、ついお節介が焼きたくなってしまう。

 

「……心の贅肉だわ」

 

 あの似たもの同士め、凜は愚痴を零した。

 どちらも気付いていないようだが、セイバーと士郎は非常に似通った気質の持ち主だ。セイバーの異常に対し、まだ明確な推論は立っていないが、恐らく、日野悟という男の精神を呼び出す要因の一つは士郎の気質にあるのだろう。

 

 士郎はセイバーと話をする為に道場に向った。竹刀を打ち鳴らす音。彼はアーチャーとの稽古の真っ最中だ。

 中を覗き込むと、アーチャーは以前通り、アーサー王の剣技をセイバーに仕込んでいる。

 

「……アイツみたいに」

 

 見た所、アーチャーは所謂天才型じゃない。どちらかと言えば、凡才の類だろう。

 あの優れた剣捌きの裏に彼の並外れた努力が見える。血反吐を吐きながら、至れぬ筈の高みに至った彼の剣技。

 それが胸を掻き毟りたくなる程羨ましい。自分にも時間があれば……、努力する時間さえあれば……、そう思わずには居られない。

 

「……出直そう」

 

 セイバーはアーチャーとの稽古に熱中している。全ては士郎を護る為の技術を磨く為。

 戦わせたくないのに、邪魔をするのが躊躇われる。彼の真剣さに横槍を入れる事が出来ない。

 部屋に戻り、布団を敷く。早く寝て、早く起きよう。そして、セイバーと話をしよう。

 

「俺は……」

 

 思い浮かべるのは火災の現場で己を救った時に見せた切嗣の笑顔。

 あの笑顔に憧れて、彼の夢を受け継いだ。

 正義の味方になりたい。その為に道標も無く、闇雲に走り続けて来た。

 だけど、今になって道を見失いそうになっている。

 

『正義の味方は心に常に愛を持っているものなのだよ』

『貴方がセイバーの意志を無視して暴走してる』

 

 セイバーの言葉と凜の言葉。

 二つに共通しているモノは救うべき対象にキチンと目を向けるべきという点だ。

 ただ、救えばいい、というモノじゃない。彼女達はそう言っていた。

 

「……正義の味方に――――」

 

 意識が微睡む……。

 

『おいで』

 

 ……これは、夢?

 体は眠っている。自分の意思では指一本、折り曲げる事が出来ない。

 なのに、足だけが勝手に動いている。おかしな耳鳴りが響き続ける。

 

『おいで』

 

 寒い。

 まるで、北国に居るかのような寒さを感じる。

 身を切るかのような悪寒が走る。

 

『おいで』

 

 誰も居ない。普段なら、真夜中であろうとそれなりに人の気配がある通りにも誰も居ない。

 無人となった街を足が勝手に歩き続ける。

 

『おいで』

 

 喋る事さえ儘なら無い。

 衛宮士郎の意思を無視して、衛宮士郎の体は動く。

 

『おいで』

 

 辿り着いたのはクラスメイトの自宅近く。

 街のシンボルとも呼べる山。

 円蔵山の麓にある柳洞寺へ通じる石段を一歩、また一歩と足が登る。

 

『さあ、ここまでいらっしゃい、坊や』

 

 耳鳴りが確かな声に変化した。

 否、変化したのでは無く、意識が声を声であると漸く認識したに過ぎない。

 初めから、耳鳴りは同じ文句を繰り返す女の声だった。

 頭蓋を埋め尽くす、魔力を伴いし、魔女の声。

 山門が見える。その奥に寺が見える。そこに何かが居る。

 駄目だ。あの山門を超えたら、もう、戻れない。生きて帰る事は出来ない。

 

――――セイバーを守る事が出来ない。

 

「ッ――――」

 

 意識が一気に覚醒に向う。

 起きろ、そして、逃げろと叫ぶ。

 けれど、手足は士郎の意思を無視して山門を潜った。

 

「――――ぁ」

 

 寺の境内の中心に陽炎のように揺らめく影が居た。

 影から現われたるは御伽噺の魔法使い。人ならざる気を放ちし、魔女。

 

「――――止まりなさい、坊や」

 

 女の命令に対し、士郎の体は従順に従った。

 まるで、自らの主が士郎の意思では無く、目の前の女の意思であるかのように――――。

 

「――――ゥ」

 

 サーヴァント。恐らく、クラスはキャスター。魔術師の英霊。

 

「ええ、そうよ。私はキャスター。ようこそ、我が神殿へ」

 

 涼しげな声。

 必死に体を動かそうと力を篭めるが、身動き一つ取れない。

 セイバーを守ると言った矢先にこんな醜態を晒してしまうなんて、士郎は屈辱のあまり顔を歪めた。

 

「――――める、な」

 

 意識を研ぎ澄ます。どんなカラクリであろうと関係無い。

 キャスターの呪縛から逃れる為には奴の魔力を体内から排除する必要が――――。

 

「可愛い抵抗だ事。でも、無駄よ。まだ、気付かないの? 貴方を縛っているのは私の魔力ではなく、魔術そのもの。一度成立した魔術を魔力で洗い流す事は不可能」

 

 馬鹿な……。

 奴の言葉が真実だとすると、己は眠っている間にキャスターに呪われたという事になる。

 けれど、魔術回路には抗魔力という特性がある為、魔術師が容易に精神操作の魔術を受ける事は無い筈だ。

 よほど、接近されて呪いを打ち込まれでもしない限り、あり得ない状況。

 

「それを可能とするのが私。理解出来たかしら、私と貴方の次元違いの力量の差が――――」

「……だま、れ」

 

 キャスターは嘲笑した。士郎の抗魔力の低さを嗤った。

 

「ああ、安心なさい。この町の人間は皆、私の物。魔力を吸い上げる為に容易には殺さないわ。最後の一滴まで搾り取らないといけないから」

「な、んだ……と?」

 

 聞き逃せない言葉があった。

 今、この女は冬木の街の住人達から魔力を吸い上げると言ったのか……?

 

「キャ、スター。お前、無関係な人間にまで手を――――」

「あら、知らなかったの? あの小娘と手を組んでいるのだから、当然承知していると思ってたのだけど……」

 

 口元に手を当て、わざとらしく言うキャスターに怒りが湧いた。

 

「キャスターのクラスには陣地形成のスキルが与えられる。魔術師が拠点に工房を設置するのと同じ事。違うのは工房の格。私クラスの魔術師が作るソレはもはや神殿と名乗るに相応しいもの。特に、ここはサーヴァントにとっての鬼門だから、拠点としても優れているし、魔力も集め易い。漂う街の人間達の欠片が分かるかしら?」

 

 目を凝らせば分かってしまう。そこに漂う魔力が人の輝きによって出来ているという事が――――。

 

「キャスター!!」

 

 怒りを声に乗せて叫ぶ。だが、体はやはり動かぬまま……。

 

「さあ、そろそろ話もお仕舞いにしましょう。貴方の事を見ていたわ。面白い能力があるみたいじゃない。まずは令呪を引き剥がしから、適当に刈り込んで、投影用の魔杖にでも仕立て上げてあげるわ」

 

 何を言っているのか理解出来ないが、このままでは不味いという事だけは分かる。

 手足が千切れようと構わない。それだけの意思を篭めて暴れようとしているのに、手足がピクリとも動かない。

 

「あらあら、この期に及んでまだ抵抗する気力があるなんて……。ふふ、中々面白い坊やだわ。街中をうろついているアレの始末にセイバーを使うつもりで招いたのだけど……、貴方も立派な武器として使ってあげる」

 

 セイバーを使う。その一言に何かがガチリと音を立てて嵌った。

 キャスターが禍々しい魔力光を放つ指を向けて来るが、無視する。

 

「さあ、己の運命を受け入れなさい、坊や」

「――――ざける、な」

「あら……」

 

 投影する。アイツの剣を投影して、この女の首を切り落とす。

 躊躇いは無い。この女を今ここで確実に――――、

 

「可愛いわ。本当に、可愛いわ。まだ、そんな抵抗をしようだなんて……、ますます、気に入ったわ」

 

 愕然となった。投影をしようと回路に魔力を流した瞬間、それを何かに塞き止められた。流れを歪められた魔力が全身を突き刺す刃となる。

 堪え切れず、吐き出されたのは赤い塊。

 

「でも、そろそろいい加減にしないと――――」

 

 その時だった。突然、背後にある山門が吹き飛ばされた。天に昇るは黄金の軌跡。

 その直後に何十という矢が襲い掛かって来た。キャスターが咄嗟に後退すると、矢は直前まで彼女が居た場所に突き刺さった。

 

「ア、アーチャー?」

 

 瓦礫の向こうから姿を現したのは赤い騎士。

 

「……まんまと敵の術中に嵌り、こんな場所まで連れて来られるとは、間抜けにも程がある」

 

 アーチャーはキャスターを阻むように士郎の前に降り立ち、言った。

 

「な、なんで……」

「呆けている暇など無いぞ。今ので、あの女が貴様に付けた糸は断った」

「あっ……」

 

 言われて、手足を確認する。

 動く。自分の意思に体が応えてくれる感覚に打ち震えそうになった。

 

「――――しばらくはジッとしておけ。好き勝手に動き回られては面倒を見切れん」

「ア、アーチャーですって……? アサシンはどうしたの……?」

「見て分からんか? 寄り代である山門ごと吹き飛ばしてやった。剣の腕は確からしいが、宝具も持たない侍風情を門番に置いた貴様の愚だ」

「……所詮、アサシンは捨て駒でしかないわ。それを殺したくらいでいい気にならないでちょうだい!」

「なら、試してみるか? 生憎、時間が無いのでね。速攻で片を付けさせてもらう。あんまりゆっくりしていると、“待て”が出来ない馬鹿弟子がここまで来てしまうのでね」

 

 そう呟くと同時にアーチャーはキャスターへと疾走した。いつの間にか、奴の手には陰陽剣が握られている。

 キャスターは呪文を詠唱する暇も与えられなかった。片腕を突き出すより早く、アーチャーが間合いを詰め、キャスターの体を両断した。

 

「――――ッチ」

 

 あっと言う間に斬り倒した相手の亡骸を前に、アーチャーは不満そうに舌を打った。どうやら、大口を叩いておいて、アッサリ倒れたキャスターに苛立っているらしい。

 だが、士郎にその事を気に掛けている余裕は無かった。士郎はその時、彼が握る剣に夢中になっていた。美しい二振りの剣。己が投影した剣が如何に不出来だったかを実感させてくる。

 他者を倒す事を目的とする戦意も、後世に名を残そうとする我欲も、誰かが作り上げた武器を越えようとする競争心も、絶対的な偉業を為そうとする信仰も……、その剣には何も無い。

 あるのはただ、作りたいから作っただけ、という鍛冶師の心のみ。

 無骨なその在り方が美しく、目を離せない。

 

「――――ぁ」

 

 キャスターの亡骸が消えていく。

 それを見届け、アーチャーが剣を納めようとした瞬間――――、

 

「……不合格よ、アーチャー。その程度で勝ったつもりになるなんて、ガッカリだわ」

 

 魔女の声が響き渡る。

 同時に光弾が降り注ぎ、アーチャーは双剣で弾いた。

 空を見上げると、そこにキャスターは君臨していた。

 

「……空間転移か固有時制御といったところか? なるほど、随分と魔力を溜め込んだものだ。この空間内なら、魔法の真似事すら可能らしい。ッハ、大口を叩くだけはある」

「そう……。私は逆よ。見下げ果てたわ、アーチャー。中々の実力者だと思って、試してみたけど、この程度なら要らないわ」

「耳が痛いな。まあ、次があるなら善処するよ」

「――――愚かね、二度目なんて無いわ。ここで、死になさい、アーチャー」

「……ック」

 

 空に舞うキャスター。彼女の広げる外套に光の陣が現れ、そこから無数に魔弾が降り注ぐ。

 そこから先、展開は一方的なものとなった。何しろ、降り注ぐ光弾は一つ一つが冗談染みた魔力を含有している。一度でも喰らえば、英霊であろうと唯では済まない。

 通常魔術を超える大魔術をシングルアクションで矢継ぎ早に発動する。その凄まじさは未熟者である士郎ですら分かる。

 

「――――ランクAの魔術をここまで連続で使うとは……」

 

 逃げに徹し、境内から離脱しようと走るアーチャー。

 ところが、途中で何かに気付いたかのように此方に向って走って来た。

 

「戯け! 何を暢気に突っ立っているんだ、貴様は!」

 

 血相を変え、士郎を抱え上げ走り始めるアーチャー。

 

「え?」

 

 それで漸く、士郎も現状認識が追いついた。ここが超危険地帯であるという現状を認識するに至った。

 

「――――クソ、なんだって、こんな手間を!」

「ま、お、降ろせ、自分で走れる!」

「馬鹿を言うな! 貴様など、瞬時に蒸発させられるぞ! とにかく、ジッとしていろ! さっさと離脱を――――」

「士郎君!!」

 

 その声と同時にアーチャーは溜息を零した。

 

「来るなと言っただろ、戯け!」

「だ、だって、士郎君が――――」

「だったら、大事に抱えていろ!!」

 

 のこのこ現れたセイバー目掛け、アーチャーは士郎の体を投げ飛ばした。同時に上空に向け、手を挙げる。

 

「熾天覆う七つの円環!!」

 

 眩い光を放つ七つの花弁がキャスターの魔弾を防ぐ防壁となって立ちはだかる。

 

「アイアスですって!? まさか、これは――――」

 

 驚愕に声を張るキャスター。彼女目掛け、左右から同時に白と黒の軌跡が迫る。

 

「なっ――――!?」

 

 キャスターのローブが裂ける。アーチャーの仕出かした事に対する驚愕が彼女の反応を一瞬遅らせたのだ。

 責める事は出来ない。アーチャーが展開したのは嘗て、トロイア戦争で活躍した英雄の盾。そんなものがいきなり現れて、狼狽するなという方が無茶な話だ。

 盾の展開と同時に放たれた白と黒の双剣に襲われたキャスター。

 対して、アーチャーは詰めの一手の準備に入っていた。

 地面に膝を立て、弓を上空のキャスター目掛け、構えている。弦に宛がわれているのは奇妙な剣。

 捻じ曲げられた黄金の剣。その剣を彼が持っている理由が分からない。だって、あの剣は――――、

 

「――――I am the bone of my sword.」

 

 切迫したキャスターの声が轟く。

 一節の詠唱によって紡がれる大魔術に対し、アーチャーは“矢”を放った。

 

「――――ッ」

 

 矢はキャスターが生み出した大魔術を真っ向から打ち破り、キャスターの守りをも貫通して雲の向こうへ消え去った。

 

「あ……がぁ――――」

 

 上空からキャスターの喘ぐ声が響く。空間をも捻じ曲げる破壊の軌跡はキャスターの体の一部を捻り切っていた。

 それでも尚、生き永らえているキャスターに驚愕を覚える。

 

「……ほう。今の一撃を受けて生きているとは、思った以上にやるな、キャスター」

「……く……ぁぁ」

 

 ゆっくりと地に降り立ち、苦しげに喘ぐキャスター。彼女に対し、アーチャーは止めを差すべく、双剣を取り出し――――、

 

「……待ちなさい」

 

 キャスターの一声に手を止めた。

 

「アーチャー。貴方も今、街を徘徊している存在には気付いているのでしょ?」

 

 その言葉にアーチャーの表情が変化した。

 

「貴様……」

「アレに対処出来るのは私だけよ? 力自慢の英雄が何人居ようと、アレには勝てない。だから――――、私と手を組まない?」

 

 キャスターの言葉に士郎とセイバーは目を丸くした。

 

「貴方の力量と私の魔術が合わされば、アレを片付け、聖杯戦争を正常に戻す事が出来る。どうかしら?」

「……断る。別に君の力を借りる必要は無い」

「――――自分の力だけで対処出来るとでも?」

「……さてな。まあ、君がアレに対処するつもりなら、君を倒すのは後回しにしよう」

 

 その言葉に士郎は声を荒げた。

 二人が何の話をしているのかは分からない。ただ、キャスターが多くの人の命を脅かしている事だけは分かる。

 なのに、そんな奴をアーチャーを見逃そうとしている。

 

「待て、アーチャー! そいつを見逃すなんて――――」

 

 セイバーから離れ、アーチャーに詰め寄ろうとした瞬間、キャスターの姿が闇に溶けるように消えた。

 

「ま、待て、キャスター!」

「馬鹿か、貴様。追った所で、殺されるだけだぞ」

 

 慌てて追いかけようとする士郎の襟首を掴み、アーチャーは彼をセイバーに向って放り投げた。

 

「な、なんで、見逃すんだよ、アイツを!」

「どうせ、奴はここで斬り伏せても逃げおおせた。それに地上を徘徊している厄介者を排除してくれるなら、今は倒さず、自由にさせた方が賢明だ。奴ほどの魔術師なら、あるいは……」

「何の話だよ!? 自由にって……、アイツにまた、人を襲わせるのか!?」

「私が襲わせているわけじゃない。とにかく、私は戻る。貴様等も早々に引き上げるがいい」

「お、おい、待て!」

 

 伸ばした手は空を切った。

 

「し、士郎君、落ち着いて……」

「落ち着けるか! キャスターは街中の人間を襲っていたんだぞ! なのに、アイツ――――」

「何か理由があったんだよ! じゃなきゃ――――」

「じゃなきゃ、キャスターが人を襲う事を黙認する筈が無いって言うのか? 人が大勢苦しむのを許容する理由って何だよ!?」

「落ち着いてくれ、士郎君!」

「――――アイツは……、アイツなら、止められたのに……」

 

 士郎は拳を硬く握り締めた。

 

「アイツの力があれば……」



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第十二話「ビシバシ鍛えてあげるわ!」

 気が付くと、見慣れぬ風景が飛び込んできた。一面に広がる荒野。そこに無数の剣が立っている。

 その中心に立つ自分が妙にシュールだ。

 

「ここは……」

 

 ガキンという音がした。違和感を感じて、袖を捲ると、自分の腕から無数の刃が生えていた。

 頭が真っ白になり――――、

 

「――――うわぁ!?」

 

 士郎は目を覚ました。

 布団を跳ね飛ばし、慌てて腕を見る。

 大丈夫だ。そこには普通の腕があった。刃なんて、一つも生えていない。

 当たり前の事に酷く安堵した。

 

「大丈夫!?」

 

 と、安心したのも束の間、襖を勢い良く開けて、セイバーが現れた。

 

「セ、セイバー!?」

 

 ズカズカと中に入り込んで来るセイバーに士郎は慌てた。

 朝の生理現象が発生している為、ちょっと前屈みになる。

 

「何かあったのかい? もしかして、キャスターに何か――――」

「ち、違うって。ただ、変な夢を見ただけだ」

「変な夢……?」

 

 膝を折り、心配そうに士郎を見つめるセイバー。

 士郎は今見たばかりの奇妙な夢について語った。すると、セイバーは目を丸くした。

 

「荒野に……、無数の剣」

「ああ、変な夢だろ?」

「……もしかすると、キャスターが何かしたのかもしれない。その夢に関して、凜に相談した方が良いと思う」

「遠坂にか……」

「どうしたんだい?」

「……いや、実は――――」

 

 士郎は正直に昨日の凜の部屋でのやり取りを話す事にした。

 元々、セイバーとはじっくり話すつもりでいたから、これも良い機会だろう。

 セイバーは士郎の話を聞き、深々と溜息を零した。

 

「……士郎君。俺は君を戦わせたくない。今もそう思ってる」

「俺だって、セイバーを戦わせたくない」

 

 しばらく沈黙が続き、互いに微笑み合う。

 

「……まったく、我侭な子だな」

 

 困ったように言うセイバーに士郎が唇を尖らせる。

 

「我侭なのはセイバーだ」

「……まったく、そういう所が子供なんだよ」

 

 やれやれと肩を竦めるセイバーに士郎はムッとした。

 

「な、何でだよ! 先に言ってきたのはセイバーだろ!」

「ほら、そうやってムキになるところがますます子供っぽい」

「お、お前な! 泣きべそ掻いてた癖に!」

 

 鼻息を荒くする士郎にセイバーはニッコリと微笑んだ。

 

「……君は子供だよ」

「お、俺は――――」

「そして、俺も子供だった……」

 

 セイバーは吐き捨てるように言った。

 

「白状するよ。本当は怖かったんだ……」

 

 セイバーは言った。

 

「剣を人に向けるのが怖いし、殺されそうになるのだって怖い。戦う度に怖くて怖くて仕方無いんだ」

「なら――――」

「でも、昨日の夜……、君が居なくなっている事に気付いた時はもっと怖かった……」

「セイバー……」

「ねえ、士郎君。あの時、俺がどんなに恐怖したか分かるかい? ライダーを殺そうとした時の恐怖なんて比じゃないくらい、恐ろしかったんだ。君と二度と会えないかもしれない。そう思うと、アーチャーの制止の言葉なんて聞いていられなかった……」

 

 稽古の真っ最中、突然胸騒ぎに襲われて、士郎の部屋に向かい、そこが空っぽだった時の恐怖は筆舌に尽くし難い。

 そして、彼の部屋から天に伸びる金の糸を見た時、彼に何が起きたのかを理解した。

 

『キャスター!!』

『待て、セイバー!!』

 

 飛び出そうとするセイバーを押し留めたのはアーチャーの一喝だった。

 彼は自分が助けに行くから、ここで待っていろとセイバーに告げ、闇夜に飛び出して行った。

 

『……でも』

 

 待っていられたのは数分程度だった。駆けつけた凜に事情を説明している間も気が気じゃなかった。

 

『ごめん、凜。君を一人にしてしまうけど……、でも』

『……まったく。アンタ達はどうせ言っても聞かないでしょ? さっさと行って、速攻で助けて来なさい!』

『ありがとう、凜!』

 

 一秒でも早く辿り着こうと、魔力放出のスキルを使った。うろ覚えも良い所だったが、普通に走るより何倍も早く円蔵山へと辿り着く事が出来た。

 辿り着いたソコはまさしく死地だった。訪れた者の死に場所という意味では無い。ここは死そのモノが渦巻く地。

 上空を見上げると、渦巻く死霊が見え、木々の隙間からは怨嗟の声が響く。

 

『こんな場所に――――』

 

 一秒後、士郎との繋がりが断たれるかもしれない。それが意味するものは士郎の死。

 恐怖のあまり、絶叫しそうになった。

 

『士郎君!!』

 

 何が起きたのか分からないが、柳洞寺へ続く石段は跡形も無く吹き飛ばされていた。

 デコボコだらけの奇怪な坂道と化した道を突き進む。

 山門があった筈の地点まで辿り着くと、そこに彼が居た。

 アーチャーには叱られたが、抱きとめた士郎が呼吸をしている事に心から安堵した。

 

「――――って言っても、君は無茶を止めてくれないんだろうけどね」

 

 セイバーは諦めたように呟く。

 

「俺は……」

「だからさ、士郎君」

 

 セイバーは言った。

 

「前に君が言ってたように、二人で強くなろう」

「セイバー……?」

「一緒に強くなって、最後まで生き残ろう」

「セイバー……」

「俺も自分の命を大切にする。だから、士郎君も自分の命を大切にすると約束してくれ」

「……えっと」

 

 真っ直ぐに向けられるセイバーの視線から逃れるように士郎は顔を伏せた。

 そんな彼にセイバーは溜息を零す。

 

「……士郎君。君が俺を守ろうとするのは俺がただの一般人だから? それが正義の味方の勤めだから?」

「それは――――」

 

 違う。言おうとして、言えなかった。

 セイバーを守りたい。その思いの発端は切嗣から受け継いだ理想にある。

 正義の味方になりたい。だから、弱き者を助け、強き者を挫かねばならない。セイバーを助け、迫る脅威を排除しなければならない。

 

「俺は――――」

 

 その事を口にする事が出来ない。出来る筈が無い。

 だって、それは――――、セイバーを一人の人間としてじゃなく、単なる救済対象という記号扱いしている事に他ならないのだから……。

 

「……ああ、そうか」

 

 思い出すのは彼女達の言葉。

 

『正義の味方は心に常に愛を持っているものなのだよ』

『貴方がセイバーの意志を無視して暴走してる』

 

 彼女達は士郎の歪さに気付いていた。だからこそ、そう言ったのだ。

 救うべき対象に目を向けろ。お前は救うべき対象に目を向けていないのだから――――。

 

「……セイバー」

「士郎君?」

「セイバーは俺が死ぬと嫌なんだよな?」

「え? あ、うん」

 

 いきなりの質問に途惑いながら答えるセイバー。

 

「分かった。セイバーが嫌なら俺は死なない」

「士郎君……」

「それでいいんだろ? セイバーが嫌な事はしないよ。だから――――」

 

 士郎は言った。

 

「セイバーも俺の嫌な事はしないでくれ」

「……ああ、それは勿論だよ。士郎君が嫌がるような真似はしないさ」

「約束だぞ?」

「ああ、約束だ」

 

 手を伸ばす士郎にセイバーも応えた。握手を交わしながら、お互いに微笑み合う。

 セイバーは士郎が自分の命を大切にすると約束してくれた事に喜んだ。

 士郎は――――、

 

 朝食の後、士郎は学校に向う準備途中の凜に頭を下げた。

 

「……そう。お互いに強くなって、双方が生き残れるよう尽力するって結論に落ち着いたわけね」

「ああ、分かり易く言うと、そうだ。だから、遠坂には迷惑をかけっばなしで申し訳無いんだが、どうか、俺を弟子にしてくれ!」

「まあ、貴方達の擦れ違いが解消されたなら、私としても文句は無いわ。了解。じゃあ、今日の夕方から早速始めましょう」

「ありがとう。本当、遠坂が居てくれて良かった」

「……まったく。どうせ、今日も学校を休むんでしょ? 時間を無駄にしないようにね」

「ああ、分かってる」

 

 凜と藤ねえが屋敷を出た後、士郎は早速道場でセイバーとの稽古を始めた。

 セイバーは昨夜もアーチャーと打ち合っていたからか、更に腕を上げていた。

 対して、士郎もアーチャーの戦いを間近で見たおかげか、模倣の精度を上げて稽古に臨むことが出来た。

 昼過ぎまで夢中になって稽古を続けた後、いつも通り、イリヤに会いに公園に向った。

 ところが、公園には誰も居なかった。セイバーと二人で探し回ったけれど、どこかに隠れている様子も無い。

 

「そう言えば、昨日、変な事言ってたよな」

「ああ、確か、夜中は出歩いちゃ駄目、とか」

 

 あの時のイリヤは様子がどこかおかしかった。

 

「どうして、イリヤはあんな事を言い出したんだっけ……」

「確か、士郎君がライダーを倒した事を彼女に話してから様子が変わった気がするよ」

 

 そうだ。あの瞬間、それまでの楽しげな雰囲気が一変したのを覚えている。

 

「……とりあえず、買出しだけしてから帰ろう」

 

 考えても分からない。次に会った時に聞いてみよう。

 士郎はやむなく公園を出て、商店街に向った。

 

「そう言えば、今日は特売の日だ。ちょっと、奮発してみるかな」

「いいねー」

 

 二人で商店街を練り歩いていると、ついつい財布の口が緩んだ。

 その結果……、

 

「買っちゃった……」

 

 思わず手が震えた。

 士郎の持つ袋の中には子牛のフィレ肉が入っている。高くて希少なだけで、そんなに味が変わらないフィレ肉をついつい肉屋のおっちゃんの口車に乗せられて買わされてしまった。

 普段よりは安いものの、アルバイト一日分が吹っ飛んでしまった。

 だが、クヨクヨしていても仕方が無い。これも何かの運命だ。折角だし、今日はフルコースメニューに挑戦してみるとしよう。

 そうと決まれば、前菜とデザートとチーズも用意しよう。

 

「だ、大奮発だね、士郎君」

 

 高級なチーズを買う士郎に目を丸くするセイバー。

 

「今日は特別だ」

 

 最後にデザートを買いにケーキ屋フルールに向うと、奇妙ないでたちの女が居た。

 どこかの制服だろうか? 全身をスッポリと覆う白い服。

 女はケーキ屋の売り子のお姉さんを困惑させている。どうやら、出したお金が日本円では無く、フランだったらしい。

 見過ごすのも後味が悪い。

 

「あの――――」

 

 声を掛けて、目を丸くした。振り向いた女の瞳の色は血のような赤色だった。

 僅かに見えるふんわりとした髪の色は銀。

 特徴的過ぎる二つの要素。

 

「もしかして、イリヤのお姉さんですか……?」

「……違う」

 

 違った……。恥ずかしくてのた打ち回りたくなった。

 

「わたし、イリヤのお姉さんじゃない。イリヤのメイド」

「……そ、そうなんだ。俺は衛宮士郎って言うんだ。イリヤから聞いてないか?」

「……シ、ロウ?」

「あ、ああ、そう。シロウだ」

「……知ってる」

 

 お姉さんじゃなくて、メイドだった。

 ナイチンゲールみたいな格好はどうやら、彼女のメイド服だったらしい。カタコトな彼女と苦労しながらコミュニケーションを取り、とりあえず、彼女のフランを残っている僅かな日本円と交換した。

 

「……ありがとう。セラとイリヤが喜ぶ」

 

 ケーキを買えた事で喜んでいるらしい。表情も声も感情が殆ど見えないけれど……。

 

「えっと……、イリヤは元気か?」

「……元気。だけど、ちょっと焦ってるみたい」

「焦ってる?」

「変なのが徘徊してる。シロウも気をつけたまえ。見つかったら、終わりだから」

「それって、どういう……」

「……帰る。シロウ、ありがとう」

 

 最後に意味深な言葉を残して、女は去って行った。

 

「な、なんかよく分からないけど、そっちも気をつけろよ!」

「……うん。バイバイ」

 

 女の後姿が見えなくなった後、士郎は大切な事を思い出した。

 フランと日本円を交換したせいで、デザートを買うお金が残っていない。

 

「……しまった」

「どんまい、どんまい。ホットケーキミックスがあったし、それでいいんじゃないかな? 良い事したんだから、落ち込む事無いって」

「あ、ああ、うん。そうだな……、デザートにはホットケーキを作るか」

 

 気を取り直して、帰路につく。

 家に到着すると、士郎はさっそく調理に取り掛かった。大掛かりな作業になるからとセイバーが手伝いを申し出たのだが、追い出されてしまった。

 どうやら、一人で作りたいらしい。鼻歌混じりだった。

 

「……料理が相当好きらしいな、士郎君」

 

 フルコースを一人で作るなんて、セイバーには到底不可能な所業だ。

 

「剣を握るより、包丁を握っている方が似合ってるな、彼は……」

「そうね。私もそう思うわ」

「り、凜!?」

 

 キッチンをこっそり覗き込んでいると、背後から凜が声を掛けて来た。

 

「まったく、魔術の鍛錬の準備の為にこっちは走り回ったっていうのに……。まあ、今夜は御馳走を作るみたいだし、勘弁してやるとしますか」

 

 呆れたように肩を竦める凜。

 

「それにしても、士郎君は何故急にフルコースなど……」

「フルコース……? え、なに、アイツ、フルコース作ってるの?」

 

 呆れ顔が困惑顔に変化した。

 

「アイツ、ほんとにどうしちゃったの?」

「それがサッパリなんだ。急にフルコースを作るだなんて言い出して……。そんなに特売が嬉しかったのだろうか……」

「特売にテンションが上がってフルコース作るって……。アイツ、魔術師より料理人を目指すべきなんじゃ……」

「ああ、それは良い考えだな。士郎君の料理は何と言うか……、食べていて落ち着くし、何より美味しい。料理で人を救えば、それも正義の味方と言えるような気がする」

「何よ、正義の味方って?」

「ああ、それは――――」

「あらら、セイバーちゃんってば、士郎から聞いたの?」

 

 凜と話し込んでいると、いつの間にか藤ねえが目の前に居た。

 

「あ、おかえりなさい、藤村さん」

「はい、ただいま、セイバーちゃん。それより、士郎がその事を話すなんて意外ね。あの子ってば、照れ屋だから、あんまり夢について他人に話したがらないのよ」

「夢……、ですか?」

 

 凜が問う。

 

「そうよー。士郎は正義の味方に憧れてるの。思い出すなー」

「先生は士郎がまだ子供だった頃の事も御存知なんですか?」

「うん。あの子がこの家に来た時から知ってるの。……聞きたい?」

「是非!」

「お願いします!」

「では、話してしんぜよー!」

 

 藤ねえは懐かしむように幼い頃の士郎の話を語った。

 

「今でこそ、ちょっと捻くれた部分もあるけど、昔は本当に可愛かったんだよー。人の事を欠片も疑わなくて、お願いすれば何でも二つ返事で引き受けてくれるの!」

「ふむふむ」

「それで、それで?」

「でもねー、妙に頑固な部分も当時からあったんだー。一度決めた事は中々変えなかったり……」

「ああ、それは分かるな」

「うんうん。そういう所あるわね」

「その辺りは切嗣さんと正反対だったなー」

「切嗣さんって、士郎のお父さんですよね?」

「そうだよー。切嗣さんは何でもオッケーな人だったの。良い事も悪い事も人それぞれケッセラッセラって感じ。人生はなるようになるさって人だったわ」

 

 凜は僅かに驚いた顔をしている。

 

「そのくせ、困ってる人が居たら迷わず飛び出して行って、何とかしちゃうの! 士郎もそんな切嗣さんの後を追い掛けて、真似ばっかり。まあ、士郎の場合、切嗣さんより善悪がハッキリしてたから、悪い事は駄目だ、許さん! って、町の虐めっ子をバンバン懲らしめてたわ」

「その頃から士郎君は正義の味方だったんだね……」

 

 その話は知らなかった。ゲームの内容もそこまで詳しくは覚えていないし、お風呂場での会話でもその話は出なかった。

 その後も藤ねえから士郎の過去話を色々聞き、凜とセイバーは彼の新たな一面を知った。

 大分時間が過ぎ、漸くフルコースの準備が整った後、士郎は折角だからとルール通りの食べ方をしようと提案。

 藤ねえは面倒な事を嫌がり、直ぐに食べたいと抗議したが、凜とセイバーは賛成した。折角のフルコースをいつも通り適当に食べては勿体無い。

 いつもの団欒に一工夫が加わり、楽しい一夜が過ぎた。

 食事が終り、藤ねえが帰宅した後、凜が士郎に一つの問いを投げ掛けた。

 

「士郎はどうして正義の味方になりたかったの?」

 

 その問いに応えたのはセイバーだった。

 

「お父さんの夢を受け継いだんだよね?」

 

 士郎はしばらくの沈黙の後、頷いた。

 

「……ああ、そうだよ」

 

 答えながら、士郎が脳裏に浮かべたのは炎の記憶だった。

 そして、父の後ろ姿。

 

「……それじゃあ、遠坂」

「はいはい、分かってるわよ」

 

 凜は何故かポケットからメガネを取り出した。

 

「ビシバシ鍛えてあげるわ!」



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第十三話「これからじっくり役に立ってもらうわ」

 夢を見た。英雄の座に祭り上げられた一人の男の軌跡。

 そいつはどこかがおかしかった。それなりに力を持っていたし、野心もあったくせに、使い道を完全に間違えて、そのまま呆気無く死んでしまった。

 オスカー・ワイルドの子供向けの短編小説に“幸福な王子”という作品がある。そいつはまさしく幸福な王子そのものだった。

 自分の力を一滴残らず他者の為に絞り尽くした。幸福な王子との違いは一つ。王子にはツバメという理解者が居てくれたけれど、そいつには誰も居なかった。

 他者の為だけに力を振るったそいつは結局、色々な裏切りを見せられて、救った内の誰かに罠に嵌められ、その生涯を終えた。

 腹立たしくて仕方が無い。そいつは頑張ったのだ。秀でた才能など無く、ただの凡人のくせに努力して、努力して、努力し続けて、血を流しながら為し得た奇跡の報酬が裏切りによる死など、ふざけている。

 

 そこまでがいつも見る夢。なのに、今日に限っては続きがあった。

 

 今まで見てきた夢は表層に過ぎず、深層へと迎え入れられたらしい。

 そこにあったのは二本の長剣だった。同じ剣である筈なのに、全くの別物。

 片一方が光であるなら、もう一方は闇。そいつはその剣を前に見た事の無い表情を浮かべていた。

 嫉妬。憎悪。我欲。妄執。あまりにも不似合いな感情がその顔には宿っていた。

 男がそこで行っていたのは、まったく無意味な事だった。光の剣を手に取り、只管鍛錬に励んでいた。

 けど、そいつはそこで以外、決して長剣を振るう事は無かった。どんなに血の滲むような鍛錬をしようと、使わなければ意味が無い。

 何故、そんな真似をするのかが理解出来ない。

 人を救う為以外の全ての時間をそいつは無意味な作業の為に費やした。

 

 

「――――まず、言っておくけど、私は投影魔術なんて使えない。自分が知らないものを教える事は出来ないわ」

 

 魔術の修行を開始する前に凛はそう言った。

 

「だから、私に出来る事は貴方自身の理解の後押しくらい」

「理解の後押し……?」

 

 凛は頷くと一枚の紙を士郎に渡した。

 

「これは?」

 

 紙には日用雑貨や機械、衣服、武器、防具の名前が書き連ねられている。

 首を傾げる士郎に凜は言った。

 

「そこに書いてある物を全て投影して」

「……はい?」

 

 士郎は慌てて紙の上で踊る文字に視線を滑らせた。

 ざっと数えて数百以上ある。

 

「こ、これを全部か?」

「そうよ。一度投影した事がある物や無理だと思う物も一通り投影してもらう。ここだと狭いから、道場に移動してやりましょう」

 

 そう言うや否や、凜はさっさと大荷物を抱えて部屋を出て行った。

 慌てて後を追い駆けながら、士郎は投影する品目の多さに眩暈を覚えた。

 

 道場に到着すると、凜は稽古をしていたセイバーとアーチャーを追い出し、道場の至る所に奇妙な文字を描いたり、奇妙な粉を振り撒いたりして回った。

 変な改造をされては困ると言うと、凜はさも当然のように……、

 

「弟子は師匠に絶対服従。屋敷の改造くらい、目を瞑りなさい」

 

 ……などと仰りやがった。

 追い出されたセイバーとアーチャーも困惑している。

 

「ア、アーチャー。凜は一体何を……?」

「……どうやら、道場を改造し、簡易的な工房にしようとしているらしい。だが、こんな風通しの良い場所では何をしても焼け石に水だと思うが……」

「道場を工房にって、何でまた……?」

 

 セイバーの視線が士郎に向く。

 

「なんか、これを全部投影しろって……」

 

 凜に渡された紙を士郎が二人に見せると、二人はギョッとした表情を浮かべた。

 

「こ、これを全部……?」

「……どうやら、今夜の稽古は中止だな」

「み、みたいだね……」

 

 アーチャーは見張り役に戻るつもりらしく、姿を消した。

 残ったセイバーも苦笑いを浮かべながら「頑張って」と応援するばかり……。

 

「ほら、士郎! 準備出来たから、さっさと始めるわよ!」

「お、おう! えっと、じゃあ、セイバー。逝って来ます……」

「う、うん。いってらっしゃい」

 

 セイバーに見送られ、士郎は深く息を吸う。

 

「よ、よし、始めるぞ!」

「頑張ってねー」

「あ、あれ? 遠坂さん? どこ行くんですか?」

 

 気合を入れる士郎の横を通り過ぎ、凜は道場から出て行こうとする。

 

「どこって、寝室よ。夜更かしはお肌の天敵だし、そこにあるものを投影してる間は私に出来る事も無いしね。終わったら呼びに来てちょうだい」

「……はい」

 

 鬼が居た。去って行く凜に目から汗が零れ落ちる。

 

「……頑張ろう。投影開始……」

 

 とにかく、順々に投影していこう。

 士郎は投影した洗濯ばさみを床に置き、次の投影を開始した。

 先は長い……。

 

 投影に集中している士郎の邪魔をしないように、セイバーは道場を離れた。

 

「長丁場になりそうだし、オニギリでも握るか……」

 

 キッチンに向かい、炊飯器を開く。中には熱々のお米。

 臭いを嗅いだだけでお腹が減って来る。

 

「確か、梅干がここに……」

 

 すっかり慣れた衛宮邸のキッチン。生前は誰かの為に作るなどという習慣が無かったから、レパトリーは少ないものの、オニギリくらいならキチンと握れる自信がある。

 如何に熱くとも、この身はサーヴァント。素手でも平気。

 

「ついでにアーチャーにも持って行ってみるかな……。凛は……、もう寝てそうだな……」

 

 士郎に徹夜作業を命じ、自分は確り睡眠を取る。

 素晴らしきスパルタ教官だ。

 

「よっほっと」

 

 三角形に形を整え、海苔を巻く。

 お茶をお盆に載せて、道場へ向った。

 道場には既にたくさんの投影品が並んでいる。ヤカンや地球儀、水筒、時計、電話、本。

 どうして、こんなモノを投影させるのか理解出来ない。けど、魔術に誰よりも精通している凜の指示だ。必ず意味がある筈。

 

「――――士郎君」

「ん? ああ、セイバー。どうしたんだ?」

「いや、疲れてるだろうと思って、オニギリを持って来た」

「サンキュー」

 

 ちょっとの間、冷蔵庫で冷やしたタオルを渡す。汗を拭い、気持ち良さそうな顔をする士郎にセイバーはお茶を渡した。

 暫しの休憩の後、士郎は気合を入れなおして投影作業に戻った。今度の投影は包丁。

 

「じゃあ、頑張ってね、士郎君」

「おう!」

 

 静かに道場を後にして、セイバーは一度キッチンに立ち寄ってから天井へと上った。

 

「アーチャー」

 

 呼び掛けると、アーチャーは直ぐに姿を現した。

 

「何だ?」

「士郎君にオニギリを握ったんだ。ついでにアーチャーにもって思ってさ」

「……ふむ、小僧のおまけというのは気に入らんが、作ってくれた物を粗末には出来んな」

 

 そう言って、アーチャーはセイバーの持つお盆からオニギリを取った。

 口に放り込むと、鼻を鳴らした。

 

「五十点……といった所だな」

「ず、随分辛口だな……。割と上手に出来た自信があるんだが……」

「甘いぞ、セイバー。これでは少々固過ぎる。無理に三角形にしようとするより、丸く握った方がふんわりとするぞ」

 

 何故か始まるオニギリの握り方指南。文句を言いつつ、全て平らげたアーチャーはお茶を飲み下し、言った。

 

「握る時、背筋をビシッと伸ばすのがコツだ。手だけで握るのでは無く、全身で握るんだ」

「お、おう……」

 

 セイバーはちょっと引いていた。料理に掛ける彼の情熱の一端を垣間見た気がする。

 

「……ところで、セイバー。一つ質問をしてもいいか?」

「質問? 別に構わないけど?」

 

 首を傾げるセイバーにアーチャーは躊躇いがちに問い掛けた。

 

「君はその……、死ぬのが怖いか?」

「……は?」

 

 予想外の問いにセイバーは目を丸くした。

 

「ああいや、ちょっと違うな。君がもし、君で無くなるとしたら……、どうだ? その、自分の意識が全く別のものに塗り替えられたら……、どう思う?」

「じ、自分の意識が全くの別物に?」

 

 考えてみて、ゾッとした。何で、急にそんな質問を投げ掛けて来たのかサッパリ分からないけど、アーチャーの眼差しはとても真剣だった。

 冗談の類で聞いているのでは無いらしい。

 

「自分の意識が全くの別物に塗り替えられたら……か、それは怖いよ。当然だろ? だって、そんなの……」

 

 死んだも同然だ。

 セイバーがそう口にした瞬間、アーチャーの表情が僅かに歪んだ。

 今にも泣きそうな顔をしている。

 

「……怖いんだな? やっぱり、君も消えたり、死んだりするのは……、怖いんだな?」

「あ、当たり前だろ? だって、死ぬなんて……。聖杯戦争が終わったら消えるしか無いって分かってるけど、それだって、本当は怖くて仕方が無いんだ」

「――――ッ」

 

 アーチャーの意図が分からぬまま、セイバーは言った。

 

「ああ、言っておくけど、この事は士郎君には内緒だよ? 言ったら、また、無茶をしそうだから……」

「……ああ」

 

 その声は震えていた。

 

「ど、どうしたんだよ、アーチャー。何だか、君らしく無いよ?」

 

 そう言ってから、セイバーは目を見開いた。

 彼らしくないどころじゃない。セイバーは今になって、アーチャーの異常さに気が付いた。

 気付いた瞬間、今までの彼の行動に対する違和感が一気に強まった。

 学校でライダーと遭遇した時、彼はセイバーを護る為に必勝の好機だったにも関わらず、ライダーに離脱を許した。

 士郎が攫われた時、自らが助けに向かうと言って、実際に助け出した。

 ゲームでのアーチャーは決してそんな行動を取らない。だって、彼の目的は――――、衛宮士郎を殺す事なのだから……。

 今の問答にしても、明らかに奇妙だ。こんな泣きそうな表情を浮かべるのも……、

 

「アーチャー……、君はもしかして――――」

 

 セイバーが湧き出た疑問を口にしようとした時、唐突に屋敷中の電気が消えた。同時に鐘の音が鳴り響く。

 屋敷に張られている結界が見知らぬ人間の侵入を感知したらしい。

 

「凛!!」

 

 アーチャーの視線の先を追う。そこに凜を抱えたキャスターの姿があった。

 キャスターはローブの向こうで微笑むと。恐ろしい速さで円蔵山に向って飛んで行く。

 

「おのれ――――ッ」

 

 瞬時に飛び出していくアーチャー。

 瞬間、嫌な胸騒ぎがセイバーを襲った。

 この感覚、覚えがある――――!

 

「士郎!!」

 

 魔力放出を使い、一足で道場の中に飛び込む。

 そこには意識を失っている士郎と彼に短剣を突き立てているキャスターの姿があった。

 

「馬鹿な……、じゃあ、さっきのは――――」

「単なる囮よ。どっちにしようか迷ったのだけど、アーチャーは少々厄介だから、貴女の方にしたわ」

「士郎君を放せ!!」

 

 不可視の刃を構え、猛るセイバー。対して、魔女は悠然と微笑む。

 

「私に命令が出来る立場だと思って? 私がほんの少し指を動かすだけで……」

 

 士郎の首に一筋の切り傷が出来た。

 流れ出す血にセイバーは目を見開いた。

 

「や、やめろ!!」

「止めて欲しいなら、まずは剣を置きなさい」

「わ、わかった!! だから、士郎君をそれ以上は――――」

「私はノロマな人間が嫌いなの。さっさと置きなさい」

 

 更に深く、士郎の首に切り傷が出来る。

 セイバーは慌ててエクスカリバーを床に落とした。

 

「こ、これでいいだろ!?」

「ええ、まずはそれで結構よ。じゃあ、次は――――」

 

 キャウターは言った。

 

「私のモノになりなさい、セイバー」

「……なんだと」

 

 怒りに歯軋りをしながら、セイバーはキャスターを睨み付けた。

 

「今、私には戦力が必要なのよ。本当なら、この坊やも欲しいところなんだけど、貴女が自分から私に協力すると約束するなら、坊やの命は助けてあげる」

「……本当に、士郎君には手を出さないのか?」

「ええ、私としても、この子の事は気に入っているから、貴女が素直に私のサーヴァントになるなら、この坊やの事は見逃してあげる。ただし、私のサーヴァントになったからには命懸けで尽くしてもらうけれど――――」

「分かった。それで士郎君が助かるなら構わない」

「……随分と素直ね。貴女、死ぬのが怖いんじゃなかったかしら?」

「……それより怖い事があるだけだ。士郎君を放せ」

「――――そう。そんなに大切なのね、この坊やが」

 

 セイバーは肯定も否定もせず、武装を解除した。

 いつも着ている士郎のお古姿に戻る。

 

「俺の事は好きにしろ。ただし、士郎君には手を出すな。士郎君に手を出したら、その時は――――」

「ええ、承知しているわ。貴女の対魔力はキャスターにとって、あまりにも大き過ぎる脅威だもの。素直に従うと言うのなら、余計な事はしない」

 

 キャスターがそう呟いた途端、士郎が苦しげに喘いだ。

 

「……やめ、ろ。セイ、バー」

「あらあら、思ったよりやるわね、坊や。自力で回復するだなんて――――」

 

 キャスターは感心したように言う。

 

「……いく、な、セ、イバー」

 

 苦しげに言葉を搾り出す士郎。

 セイバーは首を横に振り、言った。

 

「ごめん、士郎君。一緒に生き残る約束……守れそうにないや」

 

 諦めたように、セイバーは言った。

 

「凛とアーチャーなら、君を守ってくれる筈だ。俺の事は助けようとするな」

「まて……、まって、く……れ、セイ、バー」

 

 セイバーは士郎から顔を逸らし、魔女に向って歩み寄った。

 

「やれ、キャスター。約束は守ってもらうぞ」

「ええ、勿論よ。さあ、受け入れなさい、セイバー。これが私の宝具。何の殺傷能力も無い儀礼用の鍵。ただし、この鍵が解くのは扉でも、宝箱でも無い。あらゆる契約を解くのがこの刃の特性」

 

 突き立てられた歪な形状の刃から赤い光が迸る。

 禍々しい魔力の奔流がセイバーの全身に纏わりつき、彼を律していたあらゆる法式が破壊されていく――――。

 

「ああ、やっぱり、そういう事なのね……」

 

 キャスターはなにやら呟くと、僅かに嗤った。

 

「日野悟。どうやら、貴方は大きな勘違いをしているみたいよ。だけど、安心なさい。その点も私が正してあげるわ。立派なセイバーに仕立て直してあげる」

「なんで……、その名を――――」

「言ったでしょ? ずっと、観察していたって」

 

 それは士郎とセイバーの二人の時間をずっと覗き見していたという事。

 怒りに震えながらも士郎の事を思い、心の奥底に仕舞いこむ。

 

「約束だ。士郎君の事は――――」

「ええ、約束は守るわ、セイバー」

 

 そう言って、キャスターは士郎から手を離した。

 

「さあ、ついて来なさい、セイバー」

「ま……て、まって……く、れ」

 

 呻く士郎にキャスターは薄く微笑む。

 

「諦めなさい。貴方の可愛いセイバーはもう私のもの。彼にはこれからじっくり役に立ってもらうわ」



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第十四話「――――これで、私の勝利が確定したわ」

「――――待ってくれ、セイバー!!」

 

 腕を突き出し、衛宮士郎は目を覚ました。伸ばした手は空を切り、士郎は自分の状態を確認して安堵した。

 温かい布団の中に居る。つまり、今のは夢だったという事だ。昨日は襲撃なんて無かった。セイバーはいつも通り、傍に居る。

 早く起きないと……。朝御飯は味噌汁と焼き魚にしよう……。最近分かってきた事だけど、セイバーは割りと濃い目の味付けを好む。

 ふらふらと立ち上がり、部屋を出て、廊下を歩く。

 

「セイバー。今日は俺が作るからな」

 

 道場に居て、アーチャーと稽古をしているかもしれないけど、一応言っておく。

 居間に入ると、凜が居た。

 

「ああ、遠坂。今、朝飯を作るよ。セイバーを呼んできてもらえるか?」

「……士郎」

 

 凜は何故か険しい表情を浮かべている。

 困惑した表情を浮かべながら、キッチンに向おうとすると、彼女に呼び止められた。

 

「セイバーは居ない」

 

 彼女の言葉の意味が理解出来なかった。

 

「……買い物にでも行ったのか? でも、昨日たっぷり冷蔵庫の中身は補充したし……。散歩かな? ああ、それは良い事だ。セイバーにはたっぷりこの世界を楽しんでもらわないと――――」

「そうじゃない。セイバーは連れ去られたのよ。覚えてないの? 昨夜の事……」

「……な、何言ってるんだよ、遠坂。それは夢の話だろ?」

「しっかりしなさい。昨夜の事は夢じゃない。まだ、錯乱したままなの?」

 

 凜は怒りに満ちた表情を浮かべている。士郎は首を振った。

 

「止めろよ。性質が悪いぞ、そんな冗談……。だって、セイバーは――――」

「現実を見なさい。貴方を護る為にセイバーはキャスターの軍門に下った。貴方自身が語った事よ? 散々暴れまわって、手を焼かせたくせに、まだ私を困らせる気?」

「……嘘だ」

 

 士郎の脳裏に昨夜の光景がフラッシュバックした。

 現れたキャスター。人質にされた自分。自らを差し出すセイバー。

 

「嘘だ……」

 

 守ると誓った。もう二度と、泣かせたり、苦しませたりしないように強くなって、守り抜く筈だったのに……。

 

「セイバー……。そんな……、だって、俺は――――」

「……言っておくけど、セイバーを守り抜けなかったのは貴方が弱かったからじゃない。そもそも、英霊相手に人間如きが立ち向かえる道理なんて無いもの。だから、必要以上に自分を責める必要は無いわ」

「だって、俺が守らなきゃいけなかったんだぞ!! 俺が召喚したから、アイツはこんな戦いに巻き込まれちまったんだ!!」

 

 セイバーは元々、こんな戦いと縁の無い人間だった。なのに、己が召喚してしまったが故に戦いを余儀なくされた。

 

「俺が黙って、ランサーに殺されてれば、セイバーはこんな世界に来なくて良かったんだ!!」

「……何ですって?」

 

 思いの丈を叫ぶ士郎に凜はイラついた表情を浮かべた。

 

「セイバーは貴方を守る為に我が身を差し出した。なのに、肝心の貴方がそんなんじゃ……」

「だけど、俺なんかが居なければ――――」

「……黙りなさい」

 

 低く押し殺したような声。士郎は凜の瞳に宿る深い怒りの感情に途惑った。

 

「――――人が助けてあげた命を……」

 

 立ち上がり、凜は踵を返した。

 

「と、遠坂……?」

「セイバーとの契約があるから、貴方を見捨てたりはしない。ただし、今後は行動を制限させてもらう。勝手な行動は許さないから、そのつもりでいなさい」

 

 凍えるような冷たい眼差しを士郎に向けて、凜は言った。

 

「……一時間後にここを出る。準備しなさい」

「出るって……、どこに行くんだ?」

「ここの結界は既に機能していない。だから、今後は遠坂家の屋敷を拠点にする。藤村先生と桜への連絡は私からしておくから、数日分の衣服と必要な荷物だけ持って、一時間後に玄関に来なさい」

 

 それだけを言うと、凜は去って行った。

 取り残され、士郎はいつもセイバーが座っている場所に目を向けた。

 急に心細さを感じ、そんな自分に腹が立った。

 

「……セイバーは救い出す。絶対に――――」

「やめておけ」

 

 独り言のつもりだったのに、返事が返ってきて、士郎はギョッとした。

 

「ア、アーチャー!?」

「……下らぬ事を考えず、凜の指示に従え」

 

 アーチャーは縁側に立っていた。

 

「今の貴様はマスターですら無い。貴様が下手に動けば、凜にそれだけ負担を負わせる事になる」

「……そんな事は分かってる。だけど、俺は――――」

「分かっていない。貴様は凜にとって、足枷でしか無い。令呪を使えば、二度限り戦力として扱えるセイバーが居たからこそ、あの契約は成り立っていた」

 

 アーチャーは嘲るように言った。

 

「全く、凜も甘過ぎる。セイバーが敵の手に落ちた以上、衛宮士郎とこれ以上関わる事に利は無い。さっさと見捨ててしまえばいいものを……」

 

 アーチャーの言葉に士郎は何も言い返す事が出来なかった。

 凜が士郎に手を貸す理由はセイバーが自らを凜に売り込んだからに他ならない。彼女の為に自らの力を使う。そう、セイバーが約束したからこそ、凜との同盟関係が成り立っていた。

 そのセイバーが居なくなった以上、凜に士郎と同盟を結び続ける理由は無い。

 見捨てられても文句は言えない立場なのだ。

 

「間違っても、貴様の勝手な判断で動こうとはするな」

 

 そう言い残し、アーチャーは姿を消した。

 

「――――クソッ」

 

 拳をテーブルに叩きつけ、士郎は顔を歪めた。

 

「……ちくしょう」

 

 涙が頬を伝い、滴り落ちた。

 

 衣服と最低限の私物だけを抱え、玄関で待っていると、凜がやって来た。

 

「……行くわよ」

「ああ……」

 

 凜の後に続き歩きながら、ここ数日の間、セイバーと共に街中を歩いた記憶を思い出す。

 二人で商店街を歩き、イリヤと会い、三人で過ごす。それがここ数日の日課だった。

 泰山で酷い物を食べさせたお詫びに、ちゃんと美味しいお店を教えてやるつもりだった。

 この世界で生きていきたいと思わせる為に連れて行こうと思っていた場所が幾つもあった。

 

「……セイバー」

 

 いつもイリヤと会う公園の近くを通った。彼女は今日も居ない。

 三人で一緒に衛宮邸で食事をしたのが遠い日の事のように思える。

 

 坂道を上がり、遠坂邸が見えて来た。高級住宅が立ち並ぶ区画の中でも一際立派な建物。

 凜は玄関口で士郎を待たせた。扉を開く手順を士郎に口頭で教え、中に入る。後に続く士郎。

 同級生の女の子。それも、学校一の美人。何より、士郎にとって憧れの女の子。そんな彼女の家に上がりこんだというのに、士郎は上の空だった。

 考えているのはセイバーの事ばかり……。

 

「一先ず、士郎にはこの部屋を使ってもらうわ。比較的、変な仕掛けが少ない部屋だけど、そこの壁と箪笥には触れないようにしてちょうだい」

「あ、ああ」

 

 物騒な事を言い残し、凜は自室に荷物を置きに行った。

 士郎に宛がわれた部屋は外観に合った洋室。大きなベッドと箪笥、鏡台がある。

 何だか、女性用の部屋である感じがする。

 荷物を置いて、ベッドに倒れ込む。

 

「セイバー……」

 

 キャスターの下で何をさせられているのだろう? まさか、人を殺す事を強要されているのではないだろうか……。

 いや、“まさか”じゃない。直ぐでは無くとも、確実にセイバーは人を殺させられる。それがサーヴァントなのか、人間なのかは分からない。けれど、キャスターはセイバーを戦力として欲した。なら、戦力として投入されたセイバーは人を殺める事になる。

 人を殺す恐怖に涙し、体を震わせていたセイバー。

 剣を取り落とし、ライダーに殺されそうになった時、酷く安堵した表情を浮かべていたセイバー。

 

「ちくしょう……」

 

 セイバーは自分が死ぬ事より、人を殺す事の方が怖いのだ。

 なのに、それを強要される。

 

「俺が人質なんかになったせいで……」

 

 何て、間抜けな話だ。

 守ろうとして、守られて、守れなかった。

 魔術の修練も、剣の稽古も意味が無かった。

 

「セイバー……」

 

 それから、時間だけがゆったりと過ぎていった。

 陽が落ちた頃、廊下から凜の声が響いた。

 

「――――士郎。こっちに来てくれる?」

 

 ベッドから起き上がり、廊下に出て少し歩くと、一つだけ開いている扉がある。

 

「遠坂?」

 

 部屋を覗き込むと、凜がソファーに座っていた。

 

「そこに座ってちょうだい。今後の事について話すから」

「あ、ああ」

 

 素直に席につこうとして、不意に見覚えのあるシルエットが目に入った。

 

「あ……」

 

 それは赤い宝石だった。

 

「これ……」

「どうしたの?」

 

 その宝石と同じ物を士郎は持っていた。どうして、これがここにあるのか、そう考えた時、数日前の記憶がフラッシュバックした。

 暗い学校の廊下。血に塗れた自分。近くに落ちていた赤い宝石。

 誰かに助けられた記憶があったのに、それが誰だか分からなかった。少し考えれば分かった筈なのに、己の鈍さに呆れるばかりだ。

 

「……そうか。遠坂が助けてくれたんだな」

「え?」

 

 目を丸くする凜にずっとお守り代わりにしていた宝石をポケットから出して差し出した。

 

「返すよ。これも遠坂のなんだろ? お礼を言うのが遅れたけど、ありがとう」

「……え?」

 

 士郎が差し出した宝石を見て、凜は更に大きく目を見開いた。

 

「こ、これって……」

 

 唖然としながら、二つの宝石を見比べる凜。

 まるで、お化けでも見たかのような奇妙な表情を浮かべ、やがて悲しげな表情を浮かべたかと思うと、「そっか……、やっぱり、そういう事か」と呟き、顔を伏せた。

 

「遠坂……?」

「ううん、ごめん。ちょっと、感傷に浸っちゃっただけよ。まったく、本当に貴方達って……」

 

 深く溜息を零し、凜は言った。

 

「とりあえず、今後の事だけど――――」

 

 凜は言った。

 

「これからは時間との勝負。最優先でキャスターを倒して、セイバーを奪い返すわ」

「…………え?」

 

 予想外の発言に目を丸くした。

 

「なに、アホ面下げてんのよ? 当然でしょ。今現在もキャスターは街中の人間から生命力を奪い続けている。それだけで、冬木の管理人として放っておけない。それに、考えてみたんだけど、セイバーが完全にキャスターの手駒となったら、手が出せなくなる」

「セイバーがキャスターの手駒にって……、もう、既になってるんじゃ――――」

「馬鹿ね。セイバーは今のままじゃ戦力にならない。中身がアレである以上、直ぐに手駒として扱う事は出来ないのよ」

「あ……」

 

 そうだ。現状、セイバーは令呪を使わなければ、己とどっこいどっこいで、宝具を発動する事も出来ない。

 だからこそ、二人で頑張って強くなろうとしていたわけで……。

 

「相手はキャスターだから、何らかの手段を講じる筈だけど、直ぐにどうこう出来るとも思えない。だから、セイバーが使い物にならない役立たずの内にキャスターの拠点を攻める」

「……そうすれば、セイバーを助けられるのか?」

「確約は出来ないけど、取り戻せる可能性もある。とにかく、キャスターさえ倒せれば、セイバーは解放されるから、その後に再契約すれば――――」

「セイバーを取り戻せる……」

 

 凜はニヤリと笑みを浮かべた。

 

「セイバーの役立たず振りは筋金入りな上、魔術でどうにかしようと思ったら、あの対魔力が邪魔になる。キャスターがそれらの問題を片付ける前に一気に叩く」

「遠坂、俺に出来る事は何か無いか!? 何でも言ってくれ、俺に出来る事があれば何でもする!!」

 

 詰め寄る士郎に凜は言った。

 

「何も無いわ」

「……え?」

 

 突き放すような言葉に士郎は途惑った。

 

「今の貴方じゃ、足手纏いにしかならない。だから、ここでジッとしていてもらう。貴方に出来る事は私の邪魔をしないって事だけよ」

「……で、でも」

「貴方が余計な事をすれば、セイバーが助けられなくなる。セイバーを取り戻したいなら、黙ってジッとしていなさい」

 

 凜の言葉に士郎は二の句が告げなくなった。

 

「安心なさい。貴方の可愛いセイバーは私がちゃんと取り戻してあげる。その後は私の手足として馬車馬のように働かせてあげるから、期待していなさい」

「……あ、ああ」

 

 セイバーが戻って来る。嬉しい事のはずなのに、その為に自分に出来る事が無いという事に士郎は酷く動揺していた。

 それがどうしてなのか、士郎自身分かっていない。ただ、不快な感情が胸を締め付けた。

 

「完全に陽が沈んだら、私とアーチャーは打って出る。その間、貴方には大師父の資料室に閉じ篭って貰うわ。あそこは殆ど異界同然で、如何に魔術を極めたキャスターのサーヴァントであろうと、おいそれと手が出せない筈だから」

「分かった……」

 

 元気の無い士郎に凜は溜息を一つ。

 

「セイバーが戻って来た時にそんなしょぼくれた顔を見せたら気分を悪くするわよ? シャキッとしなさい」

「ああ……、色々とありがとう、遠坂。本当に……」

「お礼はセイバーを助け出した後でいいわ。貴方は大船に乗ったつもりで――――」

 

 その時だった。凜の目が大きく見開かれ、アーチャーが姿を現した。

 

「どうやら、キャスターは閉じ篭っているつもりが無いらしい」

「……みたいね」

 

 凜が走り出す。士郎も慌てて追い駆ける。

 玄関に辿り着き、凜が扉を開いた瞬間、視界に飛び込んで来たのは単身で乗り込んで来たらしいキャスターの姿

 

「……まさか、単独で来るとは思わなかったわ」

 

 凜は挑発的な視線を向けながら言った。

 

「あらあら、威勢が良いのね、お嬢さん。だけど、そういう態度は相手を選ぶべきよ?」

「お生憎様。選んでやってんのよ」

 

 二人の間で視線が絡み合う。

 

「昨日は不覚を取ったけど、今日は昨日のようにはいかないわよ。一人でノコノコ現れた事を後悔させてあげる」

「……面白いわ。貴女のような向こう見ずな子は嫌いじゃない。だけど、ちょっと調子に乗り過ぎじゃないかしら?」

「人質を取らなきゃ、未熟者コンビの相手すら出来ないような奴、敵じゃないって言ってるのよ」

 

 空気が凍りつく。両者の殺気が空間を歪ませているかのようだ。

 

「……用があるのはアーチャーだったのだけど」

 

 キャスターは片腕を上げた。瞬間、光弾が放たれ、咄嗟にアーチャーが双剣を取り出して弾く。

 

「お仕置きが必要のようね、お嬢さん」

「お生憎様。お仕置きされるのは貴女の方よ」

 

 凜の視線がキャスターからアーチャーの背中に滑る。

 

「キャスターを倒しなさい!! 出来ないなんて言わせないわよ、アーチャー!!」

「無論だ。魔力を貰うぞ、凜!!」

「ええ、好きなだけ持っていきなさい!!」

 

 猛烈な殺気と共にアーチャーが前に出る。

 

「抵抗は無意味よ」

 

 キャスターが軽く手を振ると、地面が蠢き、首の無い骨が無数に現れた。

 

「これは――――、なるほど、竜の歯を寄り代とした人型か」

「一目で看破するとは、さすがね、アーチャー」

 

 火の様な敵意を向けながら、キャスターが冷え冷えとした声で言う。

 

「……これはコルキス王の魔術だな? ならば、貴様は――――」

「ええ、ご推察の通り。だけど、私の真名が分かった所で、貴方に勝ち目は無い。今日は前回と違い、貴方を無力化する為の策を講じてここに居る。貴方は少々小賢しいようだから、徹底的に調教して、私の従順な奴隷にしてあげるわ、アーチャー」

 

 薄ら寒い微笑みを向けるキャスターにアーチャーは嘲笑で返した。

 

「生憎だが、私にそのような趣味は無い。アレの対処をするに当たり、有用かと思って前回は見逃したが、懲りずに此方に牙を剥くならば是非も無い。貴様はここで倒れろ、キャスター」

 

 アーチャーが一歩、前に出る。

 

“I am the bone of my sword”

 

 耳鳴りのように響く声と共にアーチャーの頭上に幾つもの刀剣が浮ぶ。

 驚きは誰のものか――――、その刀剣は一つ一つが宝具だった。

 膨大な魔力を纏うそれらの矛先が首無しの骨に牙を剥く。

 

“Unknown to Death.Nor known to Life”

 

 その異変にキャスターは誰よりも早く気付いた。

 

「まさか、これは――――」

 

 それは果たして詠唱なのか――――、まるで、自らの在り方を謳う詩のような言葉。

 ソレは世界へ働きかける大いなる祝詞。

 

「こうなったら――――」

 

 キャスターが舌を打ち、片手を上げる。

 

“So as I pray,――――”

 

 アーチャーの詠唱が完了する刹那、それは現れた。

 アーチャーの片腕が飛ぶ。油断があったわけじゃない。ただ、それを為した人物があまりにも彼にとって――――、

 

「……セイ、バー?」

 

 士郎は目の前の現実に大きく動揺した。

 

「言ったでしょ? 抵抗は無意味だと……。此方には最強の手札があるのだから――――」

 

 キャスターの言葉と共に、虚空から飛び出して来たセイバーが後退したアーチャーに剣先を向ける。その威容は明らかに普段と違う。

 

「貴様……、セイバーに何をした?」

 

 アーチャーが片腕で干将を握り、凛を庇うように立つ。

 殺気の篭ったアーチャーの問いにキャスターは謳うように応えた。

 

「夢を見て貰っているわ。とろけるような甘い夢。外見が如何に可愛らしくても、中身がだらしの無い男じゃ興醒めだもの。目が覚めた時、セイバーは私好みに染め上がっている筈」

「……お、お前!!」

 

 飛び出そうとする士郎を凜が抑える。

 

「馬鹿! 今飛び出したら、セイバーに殺されるわよ!?」

「だ、だけど!」

「いいから、ジッとしていなさい!」

 

 凜はキャスターを睨む。

 

「本当に威勢が良いわね、お嬢さん。だけど、既に詰んでいるのよ。片腕を失った状態で、アーチャーが性能を引き出したセイバーに敵うと思う?」

 

 凜は唇を噛み締めた。セイバーの顔に生気は無い。虚ろで、意思を感じない。

 士郎が何を叫んでも、眉一つ動かさない。

 

「最後よ、アーチャー。我が軍門に下りなさい」

 

 キャスターの勝利の宣告にアーチャーは歯を食い縛り、セイバーを見つめた。

 やがて、観念したように顔を俯かせる。

 

「……この二人は見逃せ。それが条件だ。さもなければ、この身が砕け散ろうが、貴様の息の根は確実に止める」

「主従揃って威勢の良い事。まあ、いいわ。どうせ、サーヴァントが居なければ、マスターには何も出来ない。その条件、認めましょう。さあ、我が宝具を受け入れなさい、アーチャー」

 

 曲がりくねった奇怪な短剣を掲げるキャスターにアーチャーは瞼を閉ざし、背中越しに凜に語り掛けた。

 

「……無念だ、凜。お前達はこの街を出ろ」

「ア、アーチャー……」

 

 敗北を認めたアーチャーに凜は呆然とした表情を浮かべている。

 

「お、お前……」

 

 何も出来ない。セイバーは完全に敵の手駒となり、アーチャーもキャスターの軍門に下った。

 完全なる敗北。その事実に凜と士郎は打ちのめされた表情を浮かべている。

 

「――――破戒すべき全ての符」

 

 キャスターの宝具が赤い閃光を迸らせる。やがて、彼女の手に真紅の刻印が刻まれる。

 

「……これで、手駒は揃った。イレギュラーを排除し、聖杯を手にする準備が整った」

 

 哄笑するキャスター。

 

「――――これで、私の勝利が確定したわ」



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第十五話「そんな事――――、オレはとうの昔から知っている」

 全てが上手くいった。戦いの日々は過去となり、俺の隣には彼が居る。元の姿には戻れなかったけど、構わない。

 驚くべき事だと思う。“幸せ”というものに小細工は不要だった。“美味しい料理”も“使いきれないお金”も“綺麗で広々とした家”も必要無い。ただ、その人の傍に居られるだけで、この世は天国に早変わりする。

 彼の顔から目が離せない。微笑むたびに目尻に寄る皺の数を数えてみる。他の誰に見せる時より、目尻の皺が多い。彼も俺の傍に居られる事を喜んでくれている事が分かる。

 

「手を出して」

 

 士郎が手を伸ばす。拒絶の選択肢など無く、自然に彼の手を握り締める。すると、彼の空いている方の手が腰に据えられた。身震いする。

 触れ合った肌が燃えるように熱くなる。最高の感覚。胸の奥が激しく疼く。いつまでもこうしていたいと思う。

 その願いは口に出す必要が無かった。彼はいつもこうして俺に触れている。傍に居る事を常に確認せずにいられないらしい。仕方の無い子だ。

 愛おしさが際限無く込み上げて来る。彼の頬に手を当てる。温かい肌の弾力が心地良い。彼と言う存在が俺に与える影響は果てしなく大きい。その事を実感し、涙が滲む。

 この感情が一方通行じゃない保証なんて無い。もしかしたら、彼が俺に向けている感情は想像と違うものかもしれない。こうして傍に居ても、彼の鼓動は速まっていないかもしれない。そう思うと、胸が引き裂かれそうになる。

 

「どうしたんだよ。何か、考え事か?」

 

 士郎が問う。俺はこの孤独な葛藤の答えを求めている。

 何て、強欲なんだろう。“生前”も含め、今までこんなに欲張りだったつもりは無い。なのに、求める気持ちが溢れ出す。

 ただ、傍に居るだけで、他の何処に居るよりも満たされるのに、彼の心を確かめたいと願ってしまう。

 想像通りの感情を向けて欲しいと求めてしまう。

 

「士郎……」

 

 嫌がられたらどうしよう……。

 そんな俺の迷いを感じ取ったのか、彼は安心させるように穏やかに微笑んだ。

 目の周りの皺が網目のようになる。最上級の笑みを浮かべた彼はこの世の如何なる存在をも凌駕するハンサムに変身する。

 

「どうした?」

「……俺」

 

 深呼吸をして、ありったけの勇気を振り絞る。

 

「俺……」

 

 瞳が潤む。動悸が激しくなり、頬が赤くなる。途端、彼は俺に回していた腕に力を篭めた。

 そして、抵抗する間も――するつもりも――無く唇を奪われた。

 

「士郎……」

 

 解き放たれた口からは蚊の鳴くような声しか出せない。

 

「愛してる……」

 

 一瞬、空白の時間が流れた。顔を上げ、彼の表情を伺いたいけど、恥ずかしくて死んでしまいそう。

 嫌がられたらどうしよう……。

 彼の表情に非難の色が浮んでいたら……、とても耐えられそうにない。

 

「……セイバー」

 

 ざらついた士郎の指先が顔に触れる。持ち上げられ、彼の視線と俺の視線が絡み合う。

 あごを押さえられ、固定されている為に、彼の熱い眼差しから逃れる事が出来ない。胸の奥がズキズキする。

 

「愛してる」

 

 たった五文字の言葉が世界を作り変える。光が満ち溢れ、風が歌う。

 

「……離れたくない。永遠に……」

 

 

「とりあえず、今後の方針について話しましょう」

 

 スープをスプーンで掬いながら、凜が切り出した。

 キャスターの襲撃から一時間が経ち、二人は今、遠坂邸のリビングルームで食事を摂っている。

 

「セイバーを救い出す」

「……言うと思ったけど、この期に及んで即答出来る貴方の神経の図太さには呆れるわ」

 

 溜息を零す凜に士郎は首を横に振った。

 

「――――これでも、色々と考えた末に出した結論なんだ。俺がこの戦いに参加する理由ってのを考えてみたんだ」

「それで?」

「初めは巻き込まれたから、とりあえず戦うしかないって思った。マスターになったからには、この戦いをどうにかしなきゃって、思ったんだ。けど……」

 

 士郎は言った。

 

「俺は正義の味方になりたいんだ。だから、みんなを守りたい。マスターとか、関係無く、この戦いで犠牲になる人を守りたい」

 

 凜は士郎の言葉をただ黙って聞いている。

 

「セイバーもその一人なんだ」

「……ふーん。セイバーもあくまで正義の味方が守るべき犠牲者の一人に過ぎないってわけ?」

「……って、思ってた」

 

 力無く、士郎は笑みを浮かべる。

 

「今は違うって事?」

 

 スプーンを置き、両手を組んで、その上に顎を乗せる凜。 

 微笑ましげな彼女の笑みに士郎は渋い表情を浮かべる。

 

「……ああ、違う。セイバーを助けるのは……、俺が助けたいからだ。正義の味方も関係無い」

「うん、合格。正義の味方として――――、とかふざけた事を言い出したら、ふん縛って、大師父の資料室にでも閉じ込めてやる所よ」

 

 真っ直ぐな眼差し。彼女は士郎の決断を心から認めてくれている。

 それが――――、他の誰に認められるよりも嬉しかった。

 

「私だって、アーチャーを助けたい。今頃、キャスターに何をされてるか分かったもんじゃないわ。調教なんて……」

「……いや、何を想像してんだよ」

 

 ちょっと、顔を赤くしている凜に士郎は思わず突っ込みを入れた。

 ふん、と顔を背けながら、ぶつぶつと「鞭で……、蝋燭とか……」などと物騒な単語を呟いている。

 何故か、自分の尊厳まで傷つけられている気がして、士郎はゲンナリした。

 

「それより、キャスターから二人を奪い返すって方針はいいとして、具体的にどうするんだ? 正直、俺には何をどうしていいかサッパリだ」

「まあ、今の私達に出来る事なんて、限られているしね……。そうだ!」

 

 凜はポンと手を叩き、己の閃きを口にした。

 

「士郎、本格的に投影魔術をやってみない?」

「本格的にって?」

 

 首を傾げる士郎に凜は言った。

 

「ほら、士郎に色々と投影してもらったでしょ? それを一通り見てみて分かった事が幾つかあるの」

「一通りって、いつの間に見たんだよ?」

「士郎が寝てる間。他に出来る事も無かったからね。とにかく、肝心なのは、貴方の魔術属性が“剣”だと言う事」

「魔術属性?」

「要するに、どんな魔術がその者に適しているかって指標よ。貴方の投影魔術は剣に特化している。まあ、槍とか鎧とか盾とかもそれなりの物が出来てたから、出来ないって事は無いと思うけど、一番適しているのは刀剣の類よ」

「刀剣……。だから、アーチャーの剣は今までに無い手応えがあったのか……」

「そういう事。とにかく、まずは手札を増やす事が最優先。食事が終わったら、色々と教えてあげるわ」

 

 その言葉通り、食事の後片付けを終えた後、凜は熱心に投影に関する知識を士郎に語り聞かせた。

 

「――――つまり、投影っていう魔術にも色々と制約があるのよ。一番分かり易いのは存在強度っていう奴」

「存在強度?」

「分かり易く言うと、幻想たる投影品が現実に如何に耐えられるかを示す強度の事。投影は術者のイメージによってオリジナルを複製する魔術だから、その物理的、概念的な強度もイメージによって左右される。その術者のイメージと現実のギャップが大きければ大きい程、存在強度は脆くなる」

 

 今一よく分からない。首を傾げる士郎に凜は一つの例えを口にした。

 

「例えばだけど、士郎が『絶対に折れない名剣』を投影したとするわ。けど、絶対に折れない剣なんてものは無い。その剣の表現方法や伝承、売り文句なんかに『絶対に折れない』っていう、パーソナリティがあるだけで、実際はソレを上回る神秘を持つモノとぶつかれば、刃こぼれくらいはするし、折れる事もある」

 

 凜は言った。

 

「問題なのは、ソレを投影した時、士郎はソレを絶対に折れない剣だと思い込んでいる事。なのに、ソレが現実で折れちゃった場合、イメージと現実との間にギャップが発生する。そのギャップが投影した剣のイメージを否定する事に繋がってしまう。術者にすら否定された幻想はもはや現実に残る事が出来なくなり、消えてしまう。それが存在強度という制約」

 

 士郎の表情に不可解さが消えた事に満足しながら凜は続けた。

 

「だから、投影魔術において重要なのは、そのギャップを如何に無くすかに掛かっている。だから、投影魔術を行う際はまず、オリジナルを理解する事から始めるのよ。材料とか、性質、歴史なんかも考慮した方が良い。基盤をしっかりと固めれば、それだけ現実と幻想の食い違いは小さくなる」

「……なるほど」

 

 士郎は幾度も見たアーチャーの剣を脳裏に浮かべた。

 一度見て、解析した“干将・莫耶”への理解を更に深める。

 

「――――投影開始」

 

 凜に言われた事を念頭に入れ、アーチャーの双剣の投影を行う。

 どのような意図で、何を目指し、何を使い、何を思い、何を重ねたか……。

 弓道における射法八節を真似て、投影の工程を幾つかに分けてみよう。

 第一に創造の理念を鑑定し、第二に基本となる骨子を想定し、第三に構成された材質を複製し、第四に製作に及ぶ技術を模倣し、第五に成長に至る経験に共感し、最後に蓄積された年月を再現する。

 投影六拍とでも呼ぼうか……、キチンと工程を踏んで投影したソレは以前とは比べ物にならない程、真に迫る出来だった。

 

「……凄いな。遠坂の言う通りだ! 前より全然――――」

「アホかー!!」

 

 耳がキーンとなった。凜は硬く握った拳を士郎の頭目掛けて振り下ろす。

 

「いきなり、宝具を投影するなんて、何考えてるのよ!! 物事には順序ってのがあるの!! 最初は包丁とかから始めるつもりだったのに!!」

 

 ガミガミ叱られ、しゅんとなる士郎。

 凜は呆れたように溜息を零し、士郎が投影した干将・莫耶に視線を向けた。

 

「まあ、出来たんだから、文句ばっかり言っててもしょうがないわね。まさか、こんな助言でここまで真に迫る物が作れるなんて……。ほんと、頭に来るわね」

「理不尽過ぎないか、それ……」

 

 文句を言う士郎を拳をチラつかせて黙らせる。

 

「とにかく、これで士郎の投影がある程度使い物になったと思う事にする。とすると、次は――――」

「他のマスターを頼るしかないんじゃないか? 現状、キャスターの陣営は他のマスター達にとっても容認し得ない状態の筈だ。だから、今回限りって事でなら、手を組めると思う」

 

 士郎の言葉に凜は素直に頷いた。

 

「そうね。士郎の投影はかなり有用だと思うけど、そればかりを当てにも出来ない。そもそも、相手はサーヴァントが三体。しかも、その内訳は近接最強のセイバーと遠距離攻撃の専門家であるアーチャー。そして、中距離と支援能力に長けたキャスター。セイバーとアーチャーは既にキャスターの手駒になっていると仮定して動かないと痛い目に合うだろうから、その三体を相手取ると考えた場合、協力者は必要不可欠。問題は誰を協力者にするかだけど――――」

「ライダーとアサシンは既にリタイアしているから、残るはランサーとバーサーカーのマスターって事になるな」

「……ランサーのマスターは正体不明のままだから、交渉のしようもないけど、バーサーカーのマスターであるイリヤスフィールなら可能性はあるかもしれない」

「イリヤか……。確かに、あの娘なら話せばちゃんと聞いてくれる筈だ」

 

 渡りに船と言うべきか、イリヤの事も正直、放っておけなかった。

 最後に会った時、彼女の様子は少し変だった。それに、彼女のメイドも意味深な事を言っていた。

 

「――――馬鹿。士郎にとってはアイツが一番やばいのよ……って、言っても意味無いか」

「な、なんだよ……、引っ掛かる言い方だな」

「だって、セイバーと仲良くデートしながら、もう何度もあの娘と外で会ってるんでしょ? 私がどんなに忠告したって、貴方の中ではイリヤスフィールが無害な少女ってイメージで固まっちゃってる。だから、出たとこ勝負しかない。まあ、イリヤスフィールと協力関係を結べれば、それが最善。アーチャーの言葉から察するに、あの魔女の正体は恐らく、コルギス王の娘であるメディア。なら、バーサーカーは彼女の天敵である筈。腹立たしい事だけど、アーチャーとセイバーの二人掛かりでも、バーサーカーを相手に易々と仕留められるとも思えない。きっと、活路を見出す事が出来る筈」

「――――じゃあ、決まりだな。イリヤの居場所は分かるのか?」

「ええ、大体の見当はついてる。昔、父さんから聞いた話だけど、アインツベルンは郊外の森に別荘を構えているそうなの」

「なら、早速出発するか――――」

「待ちなさい」

 

 凜はいきり立つ士郎を制止した。

 

「夜の内は不味いわ。あの森はイリヤスフィールにとって、全域が庭も同然なの。問答無用で襲い掛かられたら、夜で視界が効かない状況はあまりにも危険よ。せめて、朝を待ちましょう」

「……ああ」

 

 本当なら直ぐにでも行動したい。だけど、凜の言葉は己と違い、常に冷静で思慮深い。どちらの判断を優先すべきか、迷う余地すら無い。

 歯痒い思いを抱きながら、夜が更けていく――――。

 

 

「貴方達は大きな勘違いをしている」

 

 キャスターは虚ろな表情を浮かべて横たわるセイバーの頬を指でなぞりながら呟く。

 

「そもそも、精神と霊魂の関係はとても密接なもの。他人同士のそれらをくっつけ合わせるなんて、不可能なのよ」

 

 キャスターの掌に赤と青の光球が浮かび上がる。

 

「仮に力ずくでくっつけた所で、馴染む事は無い」

 

 赤と青の光が一瞬の間一つとなり、直ぐに分かれてしまった。

 

「なら、このセイバーは一体何者なのか? その答えを探るヒントはアーサー王という英霊の異質な在り方にあるわ」

 

 キャスターは語る。

 

「――――セイバーが自ら語った事を思い出してみなさい。アーサー王は聖杯を求め、世界と契約を交わした。聖杯を手にする日まで、彼女は終焉の間際を生き続けている。つまり、彼女は英霊であって、英霊では無い。本来、英霊本体の触覚であるサーヴァントをクラスという肉体に押し込めて使役するのが冬木のシステムだけど、彼女の場合は本体そのものが召喚される。それ故に彼女は霊体化が出来ないし、召喚される度に記憶が継続する」

 

 彼女の手がセイバーの唇に触れる。

 

「だけど……、だからこそ、他の英霊であったなら起こり得たかもしれない事が彼女には適応されない。なのに、衛宮士郎は“彼女限定”の起こり得ない事を強制した。まあ、あの坊やがそうしようと思って、やったわけでは無いのだろうけど……」

 

 キャスターはクスリと微笑んだ。

 

「それが今回の異常事態を呼び寄せた。日野悟の魂が呼び寄せられたのは恐らく、単なる偶然。“異常”を無理矢理、“正常”にする為、起きたイレギュラー」

 

 魔女の目が怒りの形相を浮かべるアーチャーに向けられる。

 

「ここまで言えば、貴方なら、もう分かるのでは無くて?」

 

 もったいぶった言い方をするキャスターにアーチャーは嘲笑うかのような声で応えた。

 

「貴様にわざわざ解説されるまでも無い。そんな事――――、オレはとうの昔から知っている」



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第十六話「あなた達に此度の聖杯戦争における数多の異常の解決への協力を要請します」

 地獄。そこは紛れもなく地獄だった。あたかも、龍に襲われているのかと思うような光景が広がっている。紅蓮の大蛇がとぐろを巻くように蠢き、家々を焼き払い、人を喰らい、闇夜を赤々と照らしている。遠くで微かに聞こえていた悲鳴ももはや聞こえない。

 死が蔓延する中に彼は居た。一秒ごとにナニカが彼から失われていく。死に対する憎悪を見失い、理不尽に対する憤怒が零れ落ち、希望と言う足場は崩落し、最後に自我が闇に呑まれ往く。

 瓦礫の山に横たわり、彼はただ只管、広がり続ける地獄を眺めている。何もかもを失い、彼は自らの運命を受け入れた。けれど、それは諦め故では無い。死に往く者は死に、生ける者は生きるという自然の摂理を理解しただけに過ぎない。

 けれど、彼は理解すると同時に思ってしまった。

 

“ああ、だけど――――、この場で何もかもを救う事が出来るなら、それはどんなに素晴らしい事だろう”

 

 それが衛宮士郎の持つ正義の味方への憧れの源流。

 最初はただ、誰も苦しまなければいいと思っただけだった。その為に、衛宮切嗣が掲げる“正義の味方”という在り方は都合が良かった。何より分かり易いし、理想的に思えた。

 だから、目指した。行き先が見えているから、どんなに険しい道でも突き進む事が出来た。

 その道の果てに行き着く為に、彼はあらゆるものを――――、犠牲にした。

 

 

 日の出と共に二人は遠坂邸を後にした。

 

「――――確認するけど、私達がこれから踏み入ろうとしているのは郊外の森。未だ、人の手が入っていない広大な樹海。そのどこかにアインツベルンの別荘がある筈」

「あそこか……。かなり深くて広いって話だよな。前に藤ねえから聞いた話だと、年に何人か、あそこで遭難者が出てるらしいぞ」

「まあ、アインツベルンの結界の防衛機能の影響も少なからずあるでしょうけど……。イリヤスフィールの事を抜きにしても、あの場所は危険よ。常に警戒を怠らない事。いいわね?」

「ああ、もちろんだ」

 

 数分後、予約したタクシーが指定の場所にやって来た。凛と頷き合い、士郎はタクシーの運転手に目的地を告げた。

 

「……郊外の森かい?」

 

 怪訝な表情を浮かべる運転手。当然の反応だと思う。あの森は自殺の名所としても有名な上、国道が走っている以外に何も無い。

 娯楽施設の一つも無い樹海の傍へ早朝から赴こうとしている高校生二人。怪し過ぎる。

 最悪、凜に暗示を掛けて貰う事を視野に入れていた士郎は諦めたように凜にアイコンタクトを送った。

 凜は優雅に微笑み、頷く。分かってくれたようだ。ホッと一安心……、

 

「ただのデートですよ。前々から樹海を見てみたかったんです。その事を彼に相談したら、『任せておけ』って。なーんか、下心を感じるんですけど、彼はアウトドアの経験が豊富なので」

 

 一体、この方は何を言い出しているのでしょう……。

 

「なーるほど、デートか! けど、あそこには野犬も多いぞ?」

「もっと怖いケダモノが傍に居るから、あんまり怖くありませんよ。彼、格闘技の経験も豊富なんです」

「そうかい、そうかい。けど、あんまり無茶はいかんよー?」

「まあ、国道沿いに外周を見て回るだけですから」

 

 あれよあれよという間に凜は運転手を説得してしまった。士郎に下心満載のケダモノという不名誉な称号を押し付けた上で……。

 タクシーが郊外の森に到着した後、運転手は去り際に「あんまり、外で盛り上がったらいかんぞー!」と言い残して走っていった。

 森に踏み込む前から、士郎は激しい疲労感に襲われた。

 

「もう少し……、何とかならなかったのか?」

「いいじゃない。ああいう中年男はこの手の話で煙に巻くのが常套手段よ。暗示の魔術で運転に支障が出たら、こんなに早く到着出来なかったでしょうし」

「まあ、それはそうだけど……。いいのか?」

「何が?」

「その……」

 

 士郎は言い難そうに頬を赤らめている。

 

「俺と恋人同士みたいに扱われて……、遠坂はいいのかよ」

「……ップ」

 

 士郎の言葉に凜は堪らず噴出した。

 

「な、なんでさ!?」

 

 笑われるのは心外だと立腹する士郎に凜は言った。

 

「構わないわ」

 

 凜は言った。

 

「……え?」

「別に構わない。そうね……、貴方風に言うなら、私も貴方の事が嫌いじゃない。だから、恋人同士に見られても、別に構わない」

「と、遠坂……」

 

 茹蛸のようになる士郎に凜は微笑んだ。

 

「なーんてね。そういう甘酸っぱいのはセイバーを助けてからにしましょう。……それとも」

 

 凜は目を細め、真面目な顔をして問う。

 

「このまま、二人で逃げちゃう?」

「……それは」

「貴方がそうしたいって言うなら、一緒に逃げてあげてもいいわよ?」

「遠坂……」

 

 凜は語る。

 

「ハッキリ言って、イリヤスフィールに協力を要請しに行くなんて、死にに行くのも同然。だって、此方から差し出せるものが皆無だもの。等価交換どころじゃない。私達がしようとしている事は一方的な要求を突きつけて頷かせようって行為。それにもし、イリヤスフィールと協力関係を結べたとしても、相手はセイバーとアーチャーを手中に収めたキャスター。ハッキリ言って、バーサーカーだけだと勝ち目は薄い」

 

 淡々と語る彼女に士郎は口を閉ざす。

 

「もう、詰んでいるも同然の状況なのよ。だから、逃げるも一手だと思う。二人で遠くの街に逃げて、結婚でもして、幸せに暮らす。それって、割と素敵な未来じゃない?」

「ああ、そうだな……」

 

 士郎は一瞬、凜と共にある未来を想った。

 

「だけど、遠坂は諦めないだろ?」

 

 確信に満ちた問い。凜は答えない。

 

「もしも、遠坂が本気で俺と一緒に居てもいいって思ってくれているなら、凄く嬉しい。だけど……、もしも、そっちの未来を取ったら、俺達はきっと――――」

「ええ、間違いなく後悔する事になる。二人揃って、おかしくなる」

 

 士郎と凜は顔を見合わせ、笑い合った。

 

「だって、それは自分を曲げる事だから……」

 

 凜の言葉に士郎が頷く。

 

「俺はセイバーを助けたい」

「私はアーチャーを取り戻したい」

 

 願いは同じ。進む覚悟も出来ている。

 

「……けど、さっきの言葉は嘘じゃないわよ?」

「遠坂?」

「貴方の事、嫌いじゃないわ。だから、これからは無理はせずに生き残る事を第一に考えて行動しなさい」

 

 凜の真っ直ぐな瞳に士郎は途惑う。

 

「貴方が死んだら、少なくとも私が悲しむ。貴方、私を泣かせたら唯じゃ済まないわよ?」

「……ああ、肝に銘じておく。遠坂も……、絶対に死ぬな。俺も遠坂が傷つくのを見るのは嫌だ」

 

 あまりにも眩しい。彼女は魔術師で、普段は猫を被ってて、実はとっても溌剌とした性格で、学園一の美少女で、士郎にとっての憧れで、とても魅力的な女の子。

 

「さあ、行こう」

 

 森へと足を向けながら、士郎は思った。

 もし、イリヤとの交渉が決裂し、戦闘になったとしても、遠坂の事は必ず守る――――、と。

 

 国道から離れ、雑木林を抜け、樹海に入る。三時間くらい歩き続けたところで一息吐く。

 一筋縄ではいくまいと覚悟はしていたけれど、実際に樹海を進んでいると精神的にキツくなってきた。

 既に陽が完全に昇っているというのに、森の中は仄暗く、十数メートル先すら見通せない。行けども行けども風景に変化は無く、自分が今、正しい道順を歩いているのかどうかも分からない。

 獣の息遣いは欠片も感じられない。この森に存在する生命体は己と凜の二人だけ――――、そんな気がする。

 

「ストップ」

 

 更に奥へと進もうとすると、凜に待ったを掛けられた。

 首を傾げる士郎に対して、凜は奇妙な表情を浮かべている。

 

「おかしい……」

「どうしたんだ?」

 

 凜は答えず、森の奥を睨んでいる。

 

「……ここは既にアインツベルンの領域である筈。なのに、幾らなんでもアクションが無さ過ぎ……――――!?」

「とおさ――――ッ!?」

 

 瞬間、地面が大きく揺れた。遠くの方から爆発めいた音が響いてくる。

 

「これは――――」

 

 凜が走り出す。士郎も慌てて彼女の後を追った。

 胸騒ぎがする。この先に待ち受けているものが何なのか分からない。なのに、それが“とてもよくないモノ”である事は分かる。

 

「――――投影開始」

 

 干将・莫耶を投影する。真に迫る出来栄えと言えど、やはりオリジナルには敵わない。

 この先で待ち受けているものが何であれ、コレで対処出来ればいいが……。

 

 

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは既にその存在を察知していた。

 衛宮士郎からライダーが既に敗北している事を聞いた時、己と同じ存在が別個に存在している事を認識し、調査を進めた結果だ。

 冬木全域に放った使い魔からの情報を束ね、ソレが間桐の手の者である事を突き止めた。

 

「――――これは」

 

 問題なのはソレの危険性。本来なら、歯牙にも掛ける必要の無い雑魚である筈なのに、ソレが敷地内に侵入して来た瞬間、イリヤは逃走を選択せざる得なかった。

 ソレの正体は――――、“聖杯”。

 聖杯戦争で破れたサーヴァントの魂を受け入れ、奇跡の為の薪とする魔術炉。アインツベルンが聖杯戦争の度に拵えるモノであり、此度の聖杯戦争における聖杯こそ、イリヤの正体だった。

 だと言うのに、この聖杯戦争にはもう一つ、聖杯がある。とは言え、アインツベルンの聖杯とは似て非なるものではあるが……。

 本来、聖杯とはアインツベルンの魔術特性である“力の流動”と“転移”を基盤として作られている。対して、ライダーの魂を横取りした間桐の聖杯は吸収や戒め・強制という間桐の魔術特性を基盤としている。

 聖杯としての本質的な機能である、“サーヴァントの魂の回収”は備えているらしいが、間桐の聖杯にはアインツベルンの聖杯には無かった凶悪な機能が追加されている。

 その追加された能力はあまりにも危険過ぎた。最強であると確信している自らの狂戦士ですら、アレには敵わないと確信する程の脅威。

 故に逃げた。

 逃げ切れるわけも無いのに、逃げた。

 そして――――、追いつかれた。

 

「賢明な判断だ。勝てぬと悟り、迷わず逃走を選ぶとは、此度のアインツベルンが用意した人形は中々に筋が良い」

 

 深いな声と共に目の前に現れたのは枯れ木を思わせる老魔術師。そして、その傍らに佇むは――――、

 

「ふーん。アサシンの魂までそっちに横取りされたのかと思ったけど、反則に反則を重ねてくるとは思わなかったわ」

 

 この聖杯戦争に召喚されたアサシンは青い衣を纏う侍だった。

 けれど、本来なら聖杯戦争に侍が召喚されるなど、あり得ない。冬木の聖杯戦争のシステムはアインツベルンの魔術師基盤を用いているが故に西欧で名の知れた英霊以外は召喚出来ない筈なのだ。

 よほど、ヨーロッパ諸国にも名が知られている大剣豪なら話は別かもしれない。かの剣聖、宮本武蔵や第六天魔王、織田信長あたりならば召喚する事も出来るかもしれない。

 けれど、佐々木小次郎などという実在したかどうかすら定かでは無い侍を召喚する事は不可能なのだ。

 それが最初の反則。キャスターが為した、“英霊が英霊を召喚”するという禁忌。それ故に起きたイレギュラー。

 この老魔術師はその反則に更なる反則を行使した。それ即ち――――、

 

「アサシンを寄り代に新たなるアサシンを召喚するなんて、やるじゃない……」

 

 アーチャーによって寄り代であった山門ごと吹き飛ばされたかのように思われたアサシン。

 けれど、彼はその時点でまだ生きていた。元々、彼は此度の聖杯戦争において、最高の敏捷性を誇っていた。故に山門の破壊を最優先としたアーチャーの矢を寸前で回避する事に成功していた。

 だが、その瞬間を老魔術師に狙われた。寄り代が破壊され、野良サーヴァントとなったアサシンを使い、老魔術師は本来呼び出されるべき暗殺者を召喚したのだ。

 名は――――、ハサン・サッバーハ。アサシンという単語の由来ともなった暗殺教団と呼ばれる組織の長を務めた歴代の指導者。その内の一人。

 

「マトウゾウケン……」

 

 名を問うまでも無い。故郷の城で教わった同朋の魔術師。

 

「聖杯に選ばれてもいないモノが、マスターの真似事をするなんてお笑い草ね」

「是は異なこと。聖杯がマスターを選ぶなど、教会の触れ込みに過ぎぬ。アレはただ、炉にくべる薪を調達する人間を欲するのみよ」

「――――確かに、聖杯はただ注がれるだけのもの。マスターはただ、儀式の一端として用意されるだけのものよ。だけど、器たる聖杯に意思は無くとも、大本である大聖杯には意思がある。そんな事も忘れてしまったなんて、マキリの衰退は本当に深刻なようね」

 

 イリヤの嘲りを臓硯は呵々と笑って受け止める。

 

「案ずるな。マキリの衰退もここまでよ。事は既に成就しているも同然。だが、あまりにも事が順調に進み過ぎておって、逆に不安が大きくなる。故、万が一の為にお主の体を貰い受ける。ここで聖杯を押えて置けば、我が悲願は磐石となるであろう」

 

 臓硯の瞳に鬼気が宿ると共に白面をつけた黒衣の暗殺者は戦闘態勢に入る。

 けれど、踏み込むには至らない。当然だろう、彼の前には最強の護衛が君臨しているのだから――――。

 

「ふーん。主に似て、臆病なのね、アサシン。死ぬのが怖い? なら、最初から戦わなければいいのに、愚かね」

「生憎、儂もこやつも易々とは死ねぬ。悲願があるのだ。儂は不老不死を、こやつは永劫に刻まれる自身の名を望んでおる。己の命は何より大事。だが、前に進まねばならぬ苦渋。お主には分かるまいて。我等にあるのは邁進のみよ」

 

 その在り方にイリヤは嫌悪感を覚える。

 

「マキリも終わりね。貴方の技術は確かに役に立った。だから、同朋として、これ以上の無様を晒す前に終わらせてあげる。もう、手遅れかもしれないけど……」

 

 不老不死などという世迷言を聖杯に託すなど、イリヤからすれば正気の沙汰じゃない。

 

「……所詮、お主は人形よな。如何に精巧に作られていようが、人間には近づけなんだ。短命を定められし作り物よ、貴様は人間を理解出来て居らぬ。死という終焉を越え、永劫に自己を存続させる祈りは現在過去未来、万国共通の人類の悲願よ」

 

「――――ええ、理解出来ないわ。だって、貴方はまるで自分こそが人類の総意を語っているみたいに思っているようだけど、そんなの勘違いだもの。貴方は人間の中でも特例。自らの寿命を受け入れられずに乱心している病人よ」

「ッカ、死が恐ろしくない人間など居らぬ。それは如何なる真理、如何なる境地に達した者とて同じ事よ。最期に知っておけ、人形よ。目の前に生き延びる手段があり、手を伸ばせば届くと言うのなら、人は――――、あらゆる倫理を棄て去り、あらゆる犠牲を払い、なんとしても手に入れようとするものなのだ」

 

 その言葉にイリヤの表情が一変した。

 

「呆れたわ、マキリ。私達の悲願、奇跡に至ろうとする切望が何処から来たのか、本当に思い出せないの? 何の為に、私達が人の身である事に拘り、人の身であるままに、人あらざる地点に至ろうとしていたのか……」

 

 冷たい声に臓硯は一拍の間言葉を失い、されど狂気の笑みを浮べ言い捨てた。

 

「――――人形風情がユスティーツァの真似事をした所で響きはせん。お主の体には用があるが、心には無い。さらばだ、アインツベルンの人形よ。貴様に宿りし聖杯は、この間桐臓硯が貰い受ける」

 

 老人の足下から影が伸びる。瞬間、バーサーカーが吼えた。

 主の命よりも早く、動き出す狂戦士にイリヤは「駄目!! 戻って、バーサーカー!!」と叫んだ。

 ソレを相手にすれば、バーサーカーは戻って来れなくなる。それを知るが故に少女は叫ぶが、狂戦士の耳には届かない。

 否、届いていても踏み止まる事など不可能。何故なら、自らの停滞は少女の死を意味するが故――――。

 

 

 徐々に地響きが近くなってくる。もう直ぐ、現場に辿り着く。

 あの木々を抜ければ、目前に最強の英霊の戦場が広がっている筈――――、

 

「――――ッ」

 

 足が地面に縫い止められたかのように止まった。

 木々の無い開けた場所に出た瞬間、全身が警鐘を鳴らした。

 逃げろ。全身全霊の限りを尽くして逃げろ。さもなくば死ぬ。死なずとも、死よりも恐ろしい結果が待ち受けている。

 そんな警鐘を力ずくで黙らせ、瞼が閉じぬように気合を入れる。

 

「あれは……」

 

 そこにあり得ない光景が広がっていた。

 戦場に立つは三体のサーヴァント。内、一体はバーサーカー。

 背後に幼い主を庇い、奮闘している。

 

「うそ……」

 

 もう一体は正体不明のサーヴァント。白い面をつけた黒衣の英霊。既に七体のサーヴァントを確認済みだから、アレは八体目という事になる。

 それだけでもとんでもない異常事態だが、士郎と凜の瞳は最後の一体に引き付けられている。

 そこに立っていたのは――――、

 

「セイ、バー?」

 

 あり得ない。何故、彼がここに居るのだろう?

 凜が何かを叫んでいるが、士郎の耳には届かない。

 誰よりも守らなければならなかった筈の存在。誰よりも救わなければならなかった筈の存在。何を置いても取り戻さなければならない存在。

 セイバーが目の前に居る。だけど、様子が少しおかしい。

 常の蒼天を思わせる甲冑が黒く染まっているし、その顔は無骨なプレートに覆われている。

 何より、その身に纏う禍々しい魔力が以前の彼と全く違う。

 

「どうなってんだよ……」

 

 うろたえる士郎を尻目に戦闘は苛烈さを増していく。

 狂戦士が雄叫びを上げ、斧剣を振るう。岩山をも切り裂く一撃を受け、セイバーはされど一歩も引かずに前進すらしていく。

 恐怖という感情を失ったかのような戦い方に只管戦慄する。

 懐に入り、容赦の無い一撃を繰り出すセイバー。如何なる攻撃も無効化させる鋼の肉体を易々と切り裂く。

 

「駄目、逃げなさい、バーサーカー!! そいつは違うの!! 戦っちゃ駄目なのよ!! そいつにやられたら戻ってこれなくなっちゃう!!」

 

 泣くようなイリヤの叫び。

 

「無駄だ。無駄無駄。如何に最強の名を冠する英霊とて、三対一では敵わぬが道理」

 

 嘲笑う老人の声。何者なのかと士郎が困惑する最中、凜が彼の正体を看破した。

 

「間桐……、臓硯。なるほど、アイツがキャスターのマスターってわけね」

「ど、どういう事だ?」

「分からないの!? あそこの白面のサーヴァントは間違いなく、アサシンよ!! しかも、セイバーまで連れてる。だったら、答えは一つじゃない!!」

「で、でも、アサシンはアーチャーが倒したって」

「アイツの勘違いだったんでしょ。山門を吹き飛ばして、速攻で貴方を助けに行ったみたいだし、一々確認してる暇は無かったでしょうからね」

「間桐……、臓硯」

 

 士郎は老魔術師を睨む。アレが元凶。己からセイバーを奪った下手人。

 飛び出しそうになる自分を必死に抑えながら、戦況をつぶさに確認する。

 彼等の地面には黒い沼が広がっている。それが何なのかは分からないが、底なしの沼となり、バーサーカーの動きを鈍らせている。しかも、沼から黒い蔦が幾つも伸び、彼の手足をも縛り付けている。

 

「あれは一体……」

 

 惑いは一瞬。剣と剣のぶつかり合う甲高い金属音に意識が戦場へと戻る。

 最強である筈のバーサーカーが圧されている。このままでは、限界が直ぐにやって来る。

 セイバーは沼を苦も無く走破し、バーサーカーの体を裂いていく。その姿に吐き気が込み上げて来る。

 あんな風に無情に他者を傷つける事はセイバーにとって何よりの恐怖であった筈。殺す為の行為など……。

 

「勝負あったな。後は任せたぞ、アサシン。これ以上、ここにおっても巻き添えをくらうが関の山よ。バーサーカーが呑まれ次第、その人形を捕らえ、戻って来い」

 

 臓硯の体が霞む。咄嗟に飛び出そうとする士郎を凜が止めた。

 

「な、なんで――――」

「駄目よ。さすがに今の状況は危険過ぎる」

「でも――――」

「黙って」

 

 凜に口を封じられ、口篭る士郎の耳に臓硯の声が響く。

 

「……よいか。アレは目に付くモノを見境無く呑み込む。魔力の塊であるサーヴァントやそこな人形も例外では無い。失態を犯すでないぞ」

 

 その言葉を最後に臓硯は気配ごと完全に消え去った。残ったのはアサシンとバーサーカー。そして、黒き光を帯びるセイバー。

 

「駄目!! お願いだから、逃げて、バーサーカー!! このままじゃ死んじゃう!! ううん、それよりもっと酷い事になる!! だから――――」

 

 少女の叫びは狂戦士をただ奮い立たせるのみ。

 逃げるなどという選択は無く、只管、背に守る少女の為に剣を振るう。

 膝まで沈んだ足を動かし、泥を蹴散らす。暴風の如く暴れるバーサーカー。彼は自らを縛る黒い蔦に手を――――否、ソレ自体に触る事の危険性を知るが故にソレらが纏わりついた腕を自ら引き千切った。

 狂戦士が奔る。拘束が緩んだ一瞬を逃さず、セイバーに襲い掛かる。

 最後にして、最強の一撃。瀕死になりながら繰り出した究極の一撃。

 

「だ、駄目だ、セイバー!!」

 

 もはや、止まれない。状況的に見て、明らかにバーサーカーが不利だが、あの一撃にセイバーが耐えられるとも思えない。

 セイバーが死ぬ。その光景を幻視し、士郎は凜の拘束を振り解いた。

 けれど、士郎の足が大地を蹴るより速く、セイバーが動いた。

 

「――――あ」

 

 弾き返した。最強であるバーサーカーの一撃をセイバーは難なく弾き返し、バーサーカーの胸を切り裂く。

 

「や、やだ!! いかないで、バーサーカー!!」

 

 走り出すイリヤ。巨人の足下に広がる黒い沼が目に入っていないかのように、一心に狂戦士へと奔る。

 

「だ、駄目だ、イリヤ!!」

 

 走る。どちらに味方するべきかなど、考えている余裕は無かった。

 だって、セイバーとイリヤは両方とも士郎にとって大切な日常のピースなのだから――――。

 

「イリヤ!!」

 

 バーサーカーへと駆け寄るイリヤを真横から抱き止め、必死に足を動かす。

 逃げなきゃ殺される。今のセイバーはもはや別人だ。キャスターを倒せば、取り戻せる筈だけど、今は無理だ。

 セイバーを救いたいと猛る本能を理性で押し潰し、凜の下へ走る。

 もがくイリヤに「すまない」と何度も謝罪を繰り返しながら走り続ける。

 

「――――士郎!!」

 

 凜の叫びと同時に音が止んだ。凜の下に辿り着き、振り返った先に見えたのは――――、

 

「なんて、デタラメ――――」

 

 魅入られた。たった、一瞬の間に心の底に焼き付いた。

 アーチャーの双剣やランサーの槍もアレの前では見劣りしてしまう。

 段違いの幻想。造形の細やかさや、鍛え上げられた鉄の巧みさで言えば、他にもソレを上回るモノがあるかもしれない。

 だけど、アレの美しさは外観だけでは――――否、そもそも、美しいなどという形容すら生温い。

 

 その剣はただひたすらに――――、“尊い”。

 

 あまねく戦場に倒れ逝く兵達が願った夢。

 剣を手にした者達が等しく謳う理想。

 そうした、人々の“希望”という名の想念が紡ぎし、『最強』。

 名は――――、

 

「約束された勝利の剣」

 

 闇色の光が森を吹き飛ばす。あまりにも強烈な輝きに視界が霞む。

 けれど、必死に堪える。ここで倒れるわけにはいかないと自らの体に渇を入れる。

 そして、見た。黒い炎を背に佇む剣士の姿。

 敵意も殺意も持たず、剣を向けて来るソレに士郎は無意識の内に呟いていた。

 

「――――お前は誰だ?」

 

 違う。この女はセイバーとは別人だ。外見が違うとか、性格が変わったとか、そういうんじゃない。

 ただ、違うと思った。

 

「アルトリア・ペンドラゴン。貴様は我が写し身のマスターだな。いや、キャスターに奪われたのだったか……。相見えたいと思っていたのだが、今回は諦めるとしよう。その人形を渡せ。さすれば、命までは取らない」

 

 その声はまさにセイバーそのもの。けれど、そこに宿るのは彼には無い冷たさ。

 酷く神経に障る声だ。

 

「断る。イリヤはお前達になんて渡さない」

「ならば、殺して奪うだけの事だ」

 

 剣士が黒い剣を振り上げる。

 瞬間、既に消滅したかと思われた狂戦士が雄叫びを上げた。

 酷い有り様だった。体の半分以上が消し飛び、もはや現界している事自体があり得ない状態。

 にも関わらず、残った腕で斧剣を握り、バーサーカーは剣士に襲い掛かる。

 彼の脳裏には一つの光景が浮んでいた。

 

『バーサーカーは強いね』

 

 雪の中でそう呟く主。

 

『だから、私は安心だよ。だって、どんなヤツが来ても、バーサーカーさえいれば負けないもん』

 

 そう己に告げた主が怯えた表情を浮かべている。

 殺されようとしている。

 ならば、己がやるべき事は一つ。如何にこの身が死に瀕していようと関係無い。

 己は最強でなければならぬのだ。でなければ、主が怯えてしまう。

 

「バーサーカー……――――!」

 

 狂戦士は吼える。その声に宿らぬ筈の意思を士郎は感じた。

 逃げろ、と狂戦士の背中が告げている。

 

「士郎、行くわよ!!」

 

 凜が走り出す。それで漸く、士郎も迷いを棄て去れた。

 バーサーカーが剣士を引き付けている今しかない。イリヤを抱えたまま走り出す。

 先行する凜の背を追い続ける。けれど、背後から迫る気配があった。アサシンだ。

 

「士郎、後ろ!!」

 

 振り向く間すら惜しみ、士郎は干将を振るう。

 黒塗りの短剣が干将にぶつかる。その向こうから声が響く。

 

「――――そこまでだ。オマエは要らない」

「いや、勝手に要らないとか言って殺すなよ。俺達はその小僧に用があるんだからよ」

 

 そんな軽口がアサシンの攻撃を防いだ。

 

「な、なんで……」

 

 口をポカンと開ける士郎に青き槍兵は楽しげに笑った。

 

「言っただろ、用があるってよ。そのまま走れ! 殿は俺が務めてやる!」

 

 何が何だか分からない。

 いきなり現れて、用があると言われても、相手は己を二度も殺そうとした相手だ。

 はい、そうですかと頷ける筈が無い。

 

「迷っている時間は無いぞ。アサシンはともかく、あの影とセイバーもどきに追いつかれたら詰みだ」

「……っくそ、分かってる!」

 

 ランサーの言葉はもっともだ。

 迷っている一瞬一瞬が命取りになる。士郎はイリヤを抱く手に力を篭め、走る事に集中した。

 

「そうだ、それでいい。その娘っこを守るんだろ? だったら、何が何でも守り切りな!!」

 

 言われるまでも無い。イリヤは守る。その為なら、過去の因縁も脇に置く。

 ランサーが何のつもりで助力しているのかは分からない。けれど、イリヤを守る一助となるなら是非も無い。

 利用するまでだ。

 

「行くぞ、遠坂!!」

「ええ、全力で走り抜けるわよ!!」

 

 速度を上げる士郎と凜。

 

「逃がさん!!」

 

 アサシンも二人を追撃する為に速度を速める。

 しかし――――、

 

「おっと、俺というものがありながら、余所見は感心しないぜ」

 

 赤い槍が走る。

 邪魔だとばかりにアサシンは黒塗りの短剣を投げる。

 ソレをランサーは軽く槍を振るうだけで防ぎ切る。

 アサシンの放つ短剣はそれこそ、アーチャーの射撃にも匹敵する破壊力がある。それも至近距離から受けて尚、ランサーが防げる理由が一つ。

 

「何らかの加護か――――」

 

 舌を打ち、アサシンはランサーから距離を取る。

 投擲が効かぬと分かっても、距離を詰める愚作は犯さない。

 三騎士の一画であるランサーに接近戦を挑むなど、それこそ死にに赴くようなものだ。

 故に狙うは無防備な士郎と凜の背中。如何なる理由かは知らぬが、ランサーは二人を賢明に守っている。

 ならばこそ、勝機はそこにある。

 走り続ける事一時間あまり。全力疾走を続けた士郎と凜は動きが徐々に鈍っていく。

 けれど、出口は間近に迫っていた。

 それがランサーに刹那の隙を生み出させた。

 

「――――貴様は死ね」

 

 歪つな腕。布に覆われたアサシンの腕が露出する。

 その身に見合わぬ巨大な腕を振り上げ、アサシンは叫ぶ。

 

「妄想――――」

 

 対して、ランサーは――――、嗤った。

 

「いや、お前は大した奴だったぜ、実際。ぶっちゃけ、技術も能力も眼力も悪くなかった。ただ、運が悪かっただけだ」

 

 ランサーは肩を竦めながら呟く。

 何故、アサシンの言葉が途切れたのか、士郎と凜は一瞬分からなかった。

 けれど、息が整い、視界が明瞭になった瞬間、理解した。

 そこに佇んでいたのは赤い髪の女だった。周囲に奇妙な球を浮かせ、拳を前に向ける女。

 そして、彼女の射線上で心臓に小さな穴を穿たれ消滅するアサシン。

 彼女がアサシンを殺したのだ。

 まさか、新たなるサーヴァントか?

 士郎の迷いは直ぐ後に彼女自身の口から否定された。

 

「――――魔術協会所属、封印指定執行者、バゼット・フラガ・マクレミッツ。アインツベルンのマスター、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。遠坂家当主にして管理人、遠坂凛。魔術師殺しの息子、衛宮士郎。あなた達に此度の聖杯戦争における数多の異常の解決への協力を要請します」



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第十七話「セイバーとアーチャーを取り戻す」

 封印指定の執行者。魔術協会の中でも極めて特異な立場にあり、選ばれる者は戦闘に特化した魔術師である。彼等の職務は時計塔により封印指定を受けた魔術師の捕縛、並びに事後処理。時に聖堂教会の代行者とぶつかり合う事もあり、故に執行者は例外無く極めて強力な戦闘能力を誇る。

 混迷を極める聖杯戦争に更なる狂乱を呼び込む事になるであろう、女の言葉を士郎達は承諾する他無かった。元より、彼女にはランサーというサーヴァントが居るが、士郎達には居ない。拒否する事はその場での死を意味する事に他ならない。

 バゼットの車に乗せられ、走る事一時間。彼女が士郎達を連れて来たのは衛宮邸だった。

 

「……私の拠点を明かすわけにもいきませんし、遠坂の屋敷やアインツベルンの城に踏み入るのは遠慮願いたい。故に結界が既にキャスターに破られているココを選びました」

 

 バゼットは淡々と語りながら無遠慮に衛宮邸の敷居を跨ぐ。

 

「お、おい、靴は脱いでくれよ!」

 

 土足で上がろうとするバゼットに堪らず士郎が抗議の声を上げた。

 凜とイリヤが慌てて彼の口を塞ごうとするが、バゼットはキョトンとした表情を浮かべ、頭を下げた。

 

「失礼しました。未だに日本の習慣に疎いもので……」

「あ、いや、分かってくれたならそれで……」

 

 靴を丁寧に揃えて上がるバゼットに士郎はすっかり毒気を抜かれてしまった。

 そんな彼を叱責しながら、イリヤと凜が後に続く。二人は士郎とは比べ物にならない程の強い警戒心を彼女に抱いている。

 その理由は士郎の魔術にある。士郎の投影魔術は異端そのものであり、見るものが見れば、“『一代限り』であり、『学問では習得不能』な能力”という封印指定に選ばれる条件が揃ってしまっているのだ。

 間違っても、士郎をホルマリン漬けの標本などにさせるわけにはいかない。ついさっき、己の相棒を失ったばかりのイリヤも意識を切り替えざる得ず、緊張しながら決意を固めている。

 

「どこか、話し合いに適した部屋はありますか?」

「えっと、居間でいい……、ですか?」

「居間……、リビングですね。ええ、案内して下さい」

 

 士郎が居間に案内すると、バゼットは低いテーブルの傍に腰掛け、他の面々にも座るよう促した。

 全員が着席するのを確認した後、彼女は口火を切った。

 

「では、最初にコレにサインをして下さい」

 

 バゼットが懐から出したモノに士郎は首を傾げ、凛とイリヤは殺気だった。

 

「えっと……、これは?」

 

 暢気に尋ねる士郎にイリヤが押し殺したような声で説明した。

 

「魔術契約の証文よ。これにサインをするという事は“特定のルール”を自らに課す事に同意するという事。破った場合、命か……、あるいはもっと別の何かを奪われる」

 

 凜がバゼットを睨み付ける。

 

「こんなモノをいきなり突きつけてくるなんて、舐めた真似をしてくれるじゃない。封印指定の執行者だからって、遠坂家の当主を舐めるんじゃないわよ」

 

 怒りを滲ませる凜にバゼットは冷ややかな眼差しを向ける。

 

「既にサーヴァントを失い、敗者となった貴女達に選択の余地があるとでも? 安心しなさい。別に貴女達の行動を闇雲に縛るものではありません。貴女達に守ってもらう制約は一つ」

 

 バゼットは証文を開いて三人に見せた。

 

「――――“聖杯の解体に全面的な協力を惜しまない事”。これだけです」

「せ、聖杯を解体ですって!? 冗談じゃないわ!! 何で、そんな事を――――」

 

 バゼットの暴挙とも言える発言に凜が食って掛かる。対するバゼットは冷静そのもの。

 

「……理由について、私よりも詳しい方がそこに居ますよ」

 

 バゼットの視線の先を追うと、イリヤが舌を打った。

 

「――――そう、気付いちゃったんだ。じゃあ、もう聖杯戦争は今回で終了ってわけね」

 

 イリヤは深々と溜息を零しながら言った。

 

「どういう事……?」

 

 凜が問う。

 

「――――まあ、この期に及んで凜と士郎だけが知らないなんて、不公平だものね。恐らく、キャスターとマキリは勘付いてるだろうし……」

 

 そう前置きをして、イリヤは聖杯に纏わるアインツベルンの秘め事を語り始めた。

 

「発端は七十年近く前に行われた第三次聖杯戦争。聖杯戦争史上、最も混迷を極めた戦いよ。ナチスや帝国陸軍の介入もあって、聖杯戦争は始まる前から熾烈を極めたわ。未だ、サーヴァントが揃わない内から帝都で争いが始まっちゃって……、その激戦にお爺様も肝を冷やしたみたい。当時、彼は二つの選択肢の間で揺れていた。圧倒的なアドバンテージを得られる“裁定者”を喚ぶか、殺す事に特化した“魔王”を喚ぶかでね。そして、彼が選んだのは“魔王”だった」

「魔王……?」

「“この世全ての悪”の名で知られるゾロアスター教の悪神よ」

「ば、馬鹿を言わないでよ。神霊を呼び出す事なんて――――」

 

 イリヤの言葉に凜が声を荒げた。出来る筈が無い――――、と。

 対して、イリヤは自らの恥部を晒すかのような苦悶の表情を浮かべて言った。

 

「ええ、そんな事は不可能。だから、呼び出されたのは“災厄の魔王”では無く、何の力も持たない脆弱なサーヴァントだった」

「どういう事……?」

 

 凜が問う。

 

「神霊を召喚する事は不可能。だけど、お爺様は無理矢理ソレを呼び出そうとした。その結果、ただ“『この世全ての悪』という役割を一身に背負わされた憐れな人間”が召喚に応じる結果となった」

「アンリ・マユを背負わされたって……?」

 

 士郎の問いにイリヤは淡々とした口調で答える。

 

「文明から隔絶された小さな村によくある因習よ。生贄を見繕い、あらゆる災禍の根源を押し付け、延々と蔑み、疎み、傷つける。その結果、平凡な村人だった筈の彼、あるいは彼女は『そういうモノ』になってしまった。――――とは言っても、神になったわけじゃない。ただ、そういう役割を押し付けられた人間というだけ」

「それって……」

 

 何故か、士郎の脳裏に大切な相棒の顔がチラついた。

 

「“この世全ての悪”という役割を持つとは言え、彼は脆弱な人間でしかなかった。だから、初戦であっさりと敵のサーヴァントに討伐されてしまった。問題はその後――――」

 

 イリヤは自分の髪を弄りながら続ける。

 

「彼は確かに脆弱な人間だった。特別な異能も宝具も持たないただの人間。だけど、彼は周りから身勝手な願いで“この世全ての悪であれ”という“祈り”を背負わされていた。敗北し、“力の一端”として聖杯に取り込まれた時、聖杯の“願望機”としての機能が働き、彼が背負わされた“祈り”を叶えてしまったの」

「叶えてしまったって……、まさか!!」

 

 士郎と凜は一気にイリヤの語る真実の恐ろしさを理解した。

 

「――――そう、彼は偽物から本物に変わった。とは言え、既に聖杯に取り込まれている状態だから、外に災厄を撒き散らすような事は無かったわ。けど、そのせいで聖杯自体が穢れてしまった」

 

 イリヤは語る。

 

「本来、“聖杯”は根源へ至る為の架け橋よ。七体の生贄を捧げ、『 』へと至る道を繋ぐ為の杯。“願望機”としての機能なんて、その副産物に過ぎない。けれど、その両方ともが歪められてしまった。今の聖杯は“この世全ての悪であれ”という彼、あるいは彼女の背負う“祈り”のみを叶える為の胎盤でしか無い」

「そ、そんな……」

 

 凜は言葉を失っている。当然だろう。遠坂家の悲願であった聖杯がとうの昔に壊れていたなど、彼女にとっては悪夢でしかない。

 

「……なら、どうしてアインツベルンは聖杯戦争を続けたんだ?」

 

 対して、士郎はどこか冷淡な口調で問う。

 

「確かに、機能は歪められている。けど、失われたわけじゃないのよ。此度のキャスタークラスの魔術師なら、聖杯の破損を修復する事も可能かもしれないし、私でも『 』へ至る為の道を作る事くらいは出来る。だから、アインツベルンは聖杯を求め続ける」

「で、でも――――」

「シロウの言いたい事は分かるわ。聖杯の完成は即ち、災厄の魔王の顕現を意味するんだもの。だけど、それがアインツベルンなのよ。数千年に及ぶ妄執は“60億の人間を呪う災禍”を目覚めさせる事も些事として切り捨てる」

「そんな……」

 

 愕然とした表情を浮かべる士郎にイリヤは顔を背ける。

 

「シロウには理解出来ないだろうし、する必要も無いわ。ただ、これは事実なのよ。あるがままに受け入れるしかない事実なの……」

「イリヤ……」

 

 まるで、今にも泣きそうな声で呟くイリヤに士郎はただ頭を撫でてやる事しか出来なかった。

 けれど、それで少し安心したのか、イリヤの肩がストンと落ちた。

 

「……とりあえず、理解してもらえましたね? 私も伝手を頼り、真相に行き着いた時は愕然としました。とにかく、聖杯は解体しなければならない。この事に異論は無い筈です」

 

 バゼットが凜、士郎、イリヤの順に視線を向ける。

 三人がゆっくりと頷くのを確認すると、バゼットは言った。

 

「――――とは言え、貴方達は一度聖杯を求め、戦いに参加する事を決意したマスターだ。途中で心変わりされるような事態は避けたい。申し訳ありませんが、証文にサインをお願いします」

 

 もはや、拒絶の意思を見せられる者は居なかった。三人はゆっくりと証文にサインを行う。

 

「これで契約は受理されました。これより、私達はチームです。まずは情報交換から始めましょう」

 

 バゼットはそう切り出すと、懐から一枚の紙を取り出した。一瞬、身構えそうになる凜とイリヤの前に彼女が広げたのは冬木市の地図だった。

 

「現在、この冬木の地には三つの勢力が出来上がっています」

 

 バゼットは柳洞寺を指差した。

 

「まず、キャスターを頭とした陣営」

 

 次に彼女が指差したのは間桐邸。

 

「次は間桐臓硯を頭とした陣営」

 

 最期に彼女は衛宮邸を指差した。

 

「最後が私達です」

「待ってよ。キャスターは臓硯の陣営でしょ? 臓硯がキャスターのマスターなわけだし……」

「違うわ、リン」

 

 否定の声はイリヤのものだった。

 

「マキリはキャスターのマスターじゃない」

「……じゃあ、同盟を結んでいるって事?」

「そうじゃない。貴女がそう判断したのはセイバーとアサシンの存在が原因ね?」

 

 頷きながら、凜はイリヤの言葉の不可解さに眉を顰めた。

 

「何が言いたいの……?」

 

 凜の問いにイリヤは答えた。

 

「まず、アサシンは本来、キャスターが反則を行い召喚した“佐々木小次郎”という侍だったわ」

「まさか――――」

「嘘じゃないぜ。俺が証人だ。一回、奴とは手合わせしたからな」

 

 音も無く実体化してイリヤの言葉を肯定したランサーにバゼットを除く三人が身構える。

 

「おっと、別に暴れたりしねーから、そう警戒すんなよ」

 

 軽口を叩きながら壁を背凭れにして座り込むランサーをイリヤは無視する事にしたらしく、話を再開させた。

 

「あの森に居たアサシンはマキリが反則に反則を重ねて召喚したイレギュラーなのよ。彼は元々、キャスターが召喚した佐々木小次郎を寄り代にハサン・サッバーハを召喚するという暴挙を行ったの」

「……なら、あのセイバーは何なの?」

 

 既にバゼットによって倒されたアサシンの事など正直どうでも良かった。

 反則に反則を重ねる暴挙への怒りや呆れも一瞬で頭の中から飛んで行った。

 重要なのは臓硯と共に居た黒い鎧を纏うセイバー。

 

「……アレはセイバーよ」

 

 その言葉に口を開きかけた士郎と凛を制止して、イリヤは言った。

 

「ただし、前回の聖杯戦争で召喚された方のセイバーよ」

「な、なんだって……?」

 

 目を瞠る二人にイリヤが頷く。

 

「前回――――、第四次聖杯戦争において、衛宮切嗣はお爺様より託された騎士王の鞘を寄り代にアーサー王を召喚した。私もまさか、前回の聖杯戦争の後、消えずに存命し続けていたなんて思わなかったけど、直接見た瞬間に理解出来たわ」

「どういう事だ?」

 

 士郎が問う。

 

「アイツは聖杯の力で受肉したのよ。けど、“この世全ての悪”によって汚染された聖杯を使ったせいで反転してしまった。何がどうなって、マキリと手を組むに至ったのかは分からないけれど……。とにかく、あのセイバーとシロウのセイバーは別物よ」

「……そうか」

 

 士郎は安堵の溜息を零した。別物だとは思っていたが、確証が無かった。

 だが、そうなると湧き出す疑問がある。

 

「……アイツはアーサー王なのか?」

 

 内におぞましいナニカを飼う黒衣の剣士。あれが本来のアーサー王だとしたらイメージと違う。

 清廉潔白なる王。騎士の理想の体現者。常勝無敗の覇者。

 アレはそんなアーサー王に対して士郎が抱くイメージとあまりに掛け離れている。

 

「言ったでしょ、反転しているって――――。アレはアーサー王であって、アーサー王じゃない。恐らく、受肉の際に“この世の全ての悪”の呪いを受けてしまったんでしょうね」

「……じゃあ、本来のアーサー王はむしろ、セイバーに近いって事か?」

「まあ、あんなおちゃらけた性格では無かったでしょうけど、在り方としては彼の方がまだ本物に近いと思う。今のアーサー王はアーサー王でもありながら、同時にアンリ・マユでもある状態なんだと思う」

 

 イリヤはスーッと息を吸った。

 

「そして、ここからが本題。マキリがどうやって、アレを制御しているのかは不明だけど、一つ判明した事実がある」

「判明した事実……?」

 

 バゼットが問う。

 

「最後に会った日の事を覚えてる?」

 

 イリヤは士郎を見て問い掛けた。

 

「あ、ああ……」

「あの時、シロウがライダーを倒したと聞いて、私は心から驚いたわ。未熟者のシロウがサーヴァントを討伐したからってわけじゃない。それより、問題は深刻だった」

 

 イリヤは語る。

 

「私は今回の聖杯戦争における聖杯なのよ」

「聖杯……、イリヤがって、どういう意味だ?」

「そのままの意味よ。私という人格やこの手足は聖杯という核に外付けされたパーツでしかないの。ただ、サーヴァントが脱落する度に彼等の魂を受け入れ、聖杯として完成する。それが私の役割」

「それって……」

 

 イリヤの衝撃的な告白に言葉を失う士郎。

 対して、イリヤは儚げに微笑む。

 

「その為だけに生まれ、その為だけに生きて来た。サーヴァントの魂を受け入れる度、私という外装は壊れていく。それも運命だと受け入れていた。なのに――――」

 

 イリヤは唇を噛み締め、怒気を篭めて言った。

 

「ライダーの魂を横取りされた」

「どういう事ですか?」

 

 バゼットが鋭い視線をイリヤに投げ掛ける。

 

「マキリはアーサー王だけでなく、何らかの方法で別個の聖杯を手にしたのよ。それもマキリ風のアレンジを加えたものを……。アンリ・マユの一部を現出させるなんて、あんな物を制御出来るつもりなのかしら」

 

 敵意を篭めて吐き捨てるイリヤにバゼットが暗い表情を浮かべる。

 

「では、現状、最も危険度が高いのはマキリの陣営という事になりますか」

「……そういう事か」

 

 凜が悔しげに呟く。

 

「遠坂?」

 

 士郎が声を掛けると、凜は言った。

 

「つまり、アイツが言っていた徘徊するモノってのは、マキリの聖杯の事だったわけよ。その危険性も承知の上だったんでしょうね。だから、キャスターをわざと逃がしたりした……。ちゃんと話してくれれば……」

 

 ぶつぶつと呟く彼女の瞳には怒りの他に哀しみの感情が宿っている。

 

「とにかく、そういう事なら方針は決まりました」

 

 バゼットが手を叩き言った。

 全員の視線が彼女に集まる。

 

「私が貴方達に協力を要請した理由は御三家の知識とマキリのセイバーに関する情報が欲しかったからですが……、路線を変える事にします」

 

 バゼットはランサーに視線を向ける。 

 彼は薄く微笑み、頷いた。

 

「少なくとも、その小僧は大丈夫だ。それに、小僧が大丈夫なら、後の二人も大丈夫になる」

 

 ニヒヒと笑うランサーに首を傾げる士郎。

 そんな彼にバゼットは言った。

 

「ランサーには今まで、各陣営に対する情報収集を行ってもらっていました。そして、全マスター中、もっとも協力者に適した者は貴方だと、ランサーは判断した」

「……えっと」

 

 突然の言葉に士郎は面くらい、ランサーを見た。

 

「お前さんのお人好し振りとか、色々覗き見させてもらったぜ。その上での判断だ」

「……衛宮士郎。これより、貴方のセイバーを取り戻しに向います」

 

 ランサーのストーカー発言に憮然とした表情を浮かべる士郎にバゼットが言った。

 

「セ、セイバーを!?」

「貴方ならば裏切らない。そう、ランサーが判断した。故に貴方の戦力を取り戻します。マキリの陣営はあまりにも危険過ぎますから、戦力は多いに越した事は無い」

「ほ、本当に……、セイバーを?」

「ついでにアーチャーも可能ならば取り戻しましょう。三騎士の英霊が揃えば、もはや恐れるものは無い」

 

 バゼットは言った。

 

「明朝、キャスターの拠点を攻めます。そして、セイバーとアーチャーを取り戻す」



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第十八話「……なにこれ」

 夜が更けていく――――。

 バゼットは明日の戦いに備え、準備があるからと言って、一度拠点に戻って行った。衛宮邸に残った士郎、凜、イリヤの三人は食卓を囲いながら意見を交わしている。

 

「――――してやられたって感じね」

 

 凜が苛立った様子で呟く。イリヤは同感だとばかりに頷いた。

 

「どういう事だ?」

 

 一人、現状を理解し切れていない士郎が問う。

 そんな彼に凜は肩を竦めて答える。

 

「恐らく、彼女は機会を見計らっていた……。私達が彼女の提案を絶対に拒否出来ない状況を待っていたのよ。でなきゃ、あんなにタイミング良く、加勢に入る事なんて出来ないわ」

「な、なんでそんな事……」

 

 困惑する士郎にイリヤが答える。

 

「サーヴァントを失った私達は彼女の武力に対抗する手段が無い。つまり、彼女の提示する如何なる提案にも頷く以外の選択肢が無い状況なのよ。交渉の余地すら相手に与えず、自らの手駒とする。実に効率的だわ」

「でも、バゼットの提案は別に――――」

 

 拒否するようなものでも無いだろ? そう言い掛けた士郎に凜が首を振る。

 

「問題は今後の事よ……。彼女は私達にサーヴァントを取り戻させた後もこの状態を維持しようとする筈。その際に、あの証文がネックになる」

「どういう事だ……?」

「聖杯の解体に全面的に協力するって言う事はつまり、聖杯の解体に託ければ、彼女は私達にある程度“行動の強制”を行う事が出来るのよ」

 

 凜の言葉にイリヤが舌を打つ。

 

「……やり方が一々卑怯なのよ、あの女。あの証文にサインをしないという事は“魔術協会に叛意を示す”事と同義だもの」

 

 悔しそうに呟くイリヤ。

 

「バゼットは協会が“聖杯戦争、並びに聖杯の調査”を命じたマスター。彼女が“聖杯に異常あり”と認め、その“異常の解決”を求めて接触して来た場合、それは単なるマスター同士の会合では済まないのよ」

 

 未だに分かっていない様子の士郎に凜が細やかな解説を行う。

 

「彼女のバックには協会が存在する。彼女の指示に従わない場合、その者は協会の意に反する者として罰責が下る。回避するには彼女の言いなりになるか、彼女を殺して口封じをするしかない」

「だけど、私達に彼女の口を封じる手立てが無い……」

 

 士郎も徐々に事態を呑み込み始めた。彼は単にバゼットの提案には従うに足る理があると判断して証文にサインしたが、裏では白熱した戦いがあったのだ。

 

「とにかく、セイバーとアーチャーを取り戻した後の事を考えなきゃ……」

「あの女はランサーにシロウを監視させていた。つまり、シロウの魔術の特異性も知っている筈。手を拱いていたら、最悪な展開になる」

 

 イリヤの顔に怒りが滲む。

 

「シロウを使い潰した挙句、ホルマリン漬けにしようとでも考えてるんでしょうけど、そうはいかないわ……。必ず、隙を見つけて始末してやる」

「お、おい……、そんな物騒な――――」

「生憎だけど、私もイリヤスフィールと同意見。士郎もホルマリン漬けになんてなりたくないでしょ? 利用するだけ利用して、用が済んだら、あの女を確実に殺す。まあ、こっちの考えなんて、向こうもお見通しでしょうけど……」

 

 士郎はすっかり取り残された気分だった。女性陣三人の考え方が殺伐とし過ぎている。

 自分が暢気過ぎるのかもしれないが、双方共に相手を利用する気満々だ。

 

「えっと……。バゼットもそんなに話の通じない人じゃないっぽいし……、話し合いの場を設けて――――」

「ダメよ、シロウ」

 

 イリヤはまるで駄々を捏ねる弟をあやす姉のように甘い声で言った。

 

「執行者なんて職に就いている時点で、あの女は人としても、魔術師としても異端なの。話が通じると思うなんて、勘違いよ」

「覚えて置きなさい、士郎。魔術協会において、執行者って存在は悪霊ガザミィや封印指定に次いで厄介事として扱われているのよ。本来なら、絶対に関わるべきじゃない相手なの」

「別にシロウに手を下させるつもりなんて無いから安心しなさい。あの女は私とリンで殺すから」

 

 畳み掛けるように言う二人に士郎の反論は封殺された。

 何とか、物騒な真似をしないように宥めようとするが、二人は彼を完全に蚊帳の外に追い出した。

 やむなく、士郎は心を落ち着ける為に一人、道場に向った。

 

 道場に辿り着くと、思い出すのはセイバーとの立ち合いだった。二人で強くなろうと誓い合い、切磋琢磨したあの時間、凄く楽しくて、充実していた。

 セイバーを助けたい。凜やイリヤには申し訳無いが、それが叶うならバゼットが何を企んでいようと、士郎にとってはどうでも良かった。

 

「セイバー……」

 

 セイバーとの立ち合いの際にいつも使用していた木刀を手に取る。

 

「……絶対に助けるからな」

 

 彼の姿をイメージし、木刀を振るう。共に切磋琢磨した時間を思い出し、決意を固める。

 この一分一秒の間に強くなる。キャスターの手から取り戻し、今度こそ――――、

 

「――――ッハ、随分と動きが良くなったもんだな、小僧」

 

 木刀に何かが当たった。聞き覚えのある声に瞼を開く。

 

「ラ、ランサー……? バゼットと一緒に出て行ったんじゃ……」

「生憎、今は別行動だ。バゼットからはこの屋敷を守るように命じられている。結界が解けて、無防備な状態だからな」

「い、いいのかよ!? バゼットは一人で外を出歩いてるって事じゃないか!!」

 

 詰め寄ってくる士郎にランサーは笑みを浮かべた。

 

「心配は無用だ。アイツは強い。並の英霊相手なら、俺が居なくても、単独で勝利出来る程の逸材だ」

「……まさか」

「いや、これがマジなんだわ。ぶっちゃけ、嬢ちゃん達が何を企んでようと、アイツには無意味だ。下手な策を弄しても、力ずくで粉砕されるのがオチってもんよ」

「……聞いてたのか」

「あの程度の結界、俺には無いも同然だ。これでも、少々魔術を嗜んでいる身なんでな」

 

 ニヤリと笑みを浮かべるランサーに士郎は警戒心を顕にした。

 

「そう、構えるなって――――。それより、稽古には相手が居た方がいいなじゃねーか?」

「ランサー……?」

 

 ランサーは手近な所にある木刀を手に取り、片手で振り回した。

 

「槍には劣るが、剣にも覚えがある。――――構えな。いっちょ、アレから七日か……? どのくらい腕を上げたか見てやるよ」

 

 挑発的な視線を向けて来るランサーに士郎は黙って構えた。

 願っても無い事だ。これまで、士郎はセイバー以外と切り結んだ経験が無い。ライダーとの一戦も殆ど不意打ち同然で、サーヴァントとまともに打ち合った事が無かったのだ。

 本物と戦える。それはセイバーを助ける為の大きな助けとなる筈だ。

 

「――――いい感じだ。あの時も思ったが、お前は長じればいっぱしの戦士になれるぜ」

「別に戦士になりたいわけじゃない。俺は……、セイバーを助けたいんだ」

「ッハ! 惚れた女を助ける為に戦うんだろ? それを戦士と言わずに、何と呼ぶ!」

 

 ランサーが動く。士郎はカッと目を見開き、両手に構えた双剣にアーチャーの剣技のイメージを乗せる。

 槍の英霊の癖に、ランサーの剣技はセイバーとは比べ物にならない激しさと卓越さを有していた。アーチャーの剣技をもってしても、防ぎきる事が叶わず、士郎の体が弾き飛ばされる。

 

「――――ックァ」

 

 激痛に表情を歪める士郎。

 

「悪く無いが、経験不足だな。その剣技はアーチャーのものだろう? 模倣するのはいいが、奴の剣技は奴の弛まぬ鍛錬の成果だ。如何にお前さんに適した剣技でも、中身が無ければ単なるハリボテだ」

「……そんなの、分かってる! だけど、俺には今直ぐに力が要るんだ! 時間が無いんだ! だから、中身を満たさせてもらう。経験させてもらうぞ、ランサー!!」

「……いいぜ、小僧。いや、シロウって言ったか? 惚れた女を救いたきゃ、全力で力を蓄えろ! 付き合ってやるから、死ぬ気で挑んで来い!」

「――――ああ、ありがとうな、ランサー!」

 

 士郎は木刀を捨てた。その意図を悟り、ランサーは笑みを深め、自らも木刀を捨てる。取り出したるは真紅の魔槍。

 

「――――投影開始」

 

 対して、士郎が取り出したるは白と黒の陰陽剣。木刀など、幾ら振るっても死線を経験する事など不可能。真の戦いを経験する事など不可能。

 自らの意思に応えてくれたランサーに士郎は改めて感謝の言葉を告げ、彼に挑む。

 双剣に蓄えられた、担い手の経験を読み取りながら、幾度も敗北し、傷を作りながら挑み続ける。

 それは異常な光景だった。翌日に本番が控えているというのに、士郎はまるで、今、この稽古の間に死のうとでもしているかのようだった。

 踏み込めば死ぬと分かっている一線に踏み込み、逃げねば殺される一瞬に留まる事を選ぶ。そして、その度に絶体絶命の窮地を打破する方法を模索し、手に入れる。

 幻想に綻びが生じ、双剣が砕ける事、十数回。壁に叩きつけられる事、十数回。床に倒される事、数十回。

 それでも尚、挑みかかる士郎にランサーは喜悦の笑みを浮かべる。

 

「――――本当に面白い奴だな、お前」

 

 深夜まで続けられた攻防が一段落し、倒れ伏す士郎に治癒の魔術を施しながらランサーは呟く。

 

「バゼットは別の意味でお前さんを注視していたが、ある意味で正解だったな」

「……どういう事だ?」

 

 首を傾げる士郎にランサーは言う。

 

「――――バゼットは最初に俺がお前さんと遭遇した時よりずっと前からお前さんを危険視していた」

「な、なんで……」

 

 目を剥く士郎にランサーは語る。

 

「お前さんの親父……、衛宮切嗣つったか? そいつの名が結構裏の世界じゃ有名だったらしい」

「親父が……?」

「やっぱ、知らなかったらしいな。何でも、魔術師殺しって異名を持つ、凄腕の暗殺者だったらしい。その息子だってんだから、警戒するのは当然ってもんだ」

 

 ランサーの言葉に士郎は戸惑いを隠せずにいる。

 

「親父が……、暗殺者?」

「バゼットから聞いた話によると、かなりえげつない真似も平気でこなしたそうだ。とにかく、奴に狙われて生き残った魔術師は居ないって話だぜ。だからこそ、あの夜、バゼットは戦いを目撃したお前さんを俺に追わせ、殺させた」

 

 ランサーの言葉に心臓が大きく跳ねた。

 そう、己は目の前の男に一度……、いや、二度殺されかけた。内、一度は本当に殺された。

 今、生きているのは凜が助けてくれたからに他ならない。彼女が居なければ、自分はここに居なかった。

 

「元々、バゼットの目的は聖杯戦争の調査だった。だから、とりあえず全ての陣営のサーヴァントとマスターの力量を測ろうと巡回してたんだが、最大の危険因子の出現に焦ったみたいだ。なんせ、衛宮切嗣は前回の聖杯戦争の勝者でもあるからな」

 

 それは最初にセイバーから聞かされた事だった。アインツベルンが外来から招き入れた魔術師。それが士郎の父、衛宮切嗣。

 彼は前回の聖杯戦争でアーサー王を召喚し、優勝に漕ぎ付けた。けれど、そこで厄介な奴とやらに遭遇し、あの大惨事が起きた。

 

「前回の聖杯戦争の記録によれば、衛宮切嗣はホテルを一棟爆破したり、人質を取ったりとやりたい放題だったらしい。神秘の秘匿もそこまで徹底していなかったそうだからな。本人はとうの昔に死んだらしいが、息子が聖杯戦争に関わって来るなら確実に消すつもりだったそうだ」

 

 ランサーの言葉に士郎は言葉が出なかった。切嗣の為した所業に対しての驚きと息子と言うだけで殺そうとしたバゼットの理不尽さに頭の中は真っ白になっている。

 

「まあ、実際のとこ、お前さんと衛宮切嗣の在り方は全く異なる。その点は俺からの報告を聞いて、バゼット自身が語った事だ。だからこそ、お前さんを信頼出来るとした俺の判断をアイツも信じた」

 

 けど、とランサーは嗤った。

 

「やっぱ、お前さんはヤベーな。バゼットも英雄になる資質を備えてるが、お前はアイツ以上だ。才能は無いが、その在り方はもはや人間じゃねーよ。ある意味、既に英雄として出来上がっていると言っても良いだろう」

「えっと……」

 

 当惑する士郎にランサーは言った。

 

「嬢ちゃん達が何をしようが、バゼットは歯牙にも掛けないだろう。だが、お前さんがアイツに牙を剥いたら、ちょっとヤバイかもな」

「俺は別に……、バゼットが何を考えてようが、牙を剥くつもりなんて無いぞ。聖杯の解体には賛成だし……」

「いざ、セイバーがバゼットの指示で危険に晒されるようになっても、同じ事が言えるか?」

 

 その問いに士郎は直ぐに返答が出来なかった。

 

「それに、聖杯を解体したら、セイバーは消えるしか無いんだぜ?」

 

 畳み掛けるような言葉に士郎の表情が歪む。

 

「お前さんの望みはセイバーを存命させる事だ。その為には聖杯が必要なんじゃないのか?」

「……聖杯は穢れているんだ。マキリのセイバーみたいにする気は無い」

「だが、他に方法が無い以上、いつまでもそんな悠長な事を言っていられるのか?」

 

 士郎は唇を噛み締めた。

 ランサーの問いはいずれ、士郎に訪れる試練だった。

 セイバーを存命させる。それが士郎の願いだ。だが、その為には聖杯が必要であり、その聖杯を使うという事は――――、

 

「……俺は聖杯なんて使わない」

 

 淡々と呟く士郎にランサーは目を細める。

 

「セイバーの存命を諦めるって事か?」

「そうじゃない……。他の方法を探るだけだ。俺はただ、セイバーを存命させたいわけじゃない」

「あん?」

「俺は――――」

 

 士郎は眉を潜めるランサーに言い放った。

 

「セイバーを幸せにしたいんだ!」

 

 その言葉にランサーは目を見開いた。

 まるで、時間が止まったかのような奇妙な一瞬が過ぎ去った。

 心底虚を突かれたような表情で絶句し――――、

 

「ッハ! 言うじゃねーか、シロウ! ああ、そうだな! 幸せにしたいなら、穢れた聖杯なんか使えねーよな! 道理だわ!」

 

 そして、大いに笑った。ゲラゲラとその瞳には涙すら滲んでいる。大爆笑というやつだった。

 

「な、なんだよ。笑われるような事を言ったつもりは無いぞ」

 

 ムッとする士郎にランサーは至極真面目そうな顔を取り繕った。

 

「いやいや、見直したぞ。お前、マジでセイバーにゾッコンなんだな。そこまで言うとは、いや、御見逸れしたぜ」

「……いや、待て! ちょっと、待て! お前、何か勘違いしてないか!?」

「いやいやー、勘違いなんかしてねーよ。いいんじゃねーの? 結婚して、幸せにしてやれよ!」

 

 爽やかな笑みを浮べ、サムズアップするランサーに士郎は目を剥いた。

 

「違う! 間違ってるぞ、ランサー! 言っておくけどな、セイバーは女の子の姿をしてるけど、中身は――――」

「ああ、知ってるぜ。男なんだろ?」

「……いや、知ってるならおかしいだろ、その発言!」

「いや、別に野郎同士でってのも、俺の居た時代じゃ珍しくなかったしな。まあ、俺は女の方が好みだが」

「いや、アンタの時代はそうだったかもしれないけど、現代は違うんだよ!!」

「って言っても、お前さん見てると、どう考えても惚れてるとしか――――」

「ち、ちがっ、そんな筈――――」

 

 否定しようと声を荒げて、何故かセイバーと一緒にお風呂で話をした時の事を思い出し、赤面した。

 

「ハッハッハ! やっぱりそうなんじゃねーか」

「ち、違うって言ってるだろ!」

「いやしかし、お前も大変だな。中身が男だと、落とすのも手間が掛かるかもしれんぞ。つっても、あんだけ甲斐甲斐しい性格してるなら、頼めば一発ヤラせて――――」

「ぶっ殺すぞ、お前!!」

「おいおい、正義の味方目指してんだろ? ぶっ殺すって言葉は使っちゃいけねーと思うぜー?」

「うるさい! とにかく、この話はもう終わりだ!!」

 

 真っ赤になってガーッと怒鳴る士郎にランサーは笑い転げ、尚も士郎に茶々を入れる。

 途中、騒ぎに気付いた凜とイリヤが様子を見に来ると、干将・莫耶を手に見た事のない程の殺気を迸らせてランサーを追う士郎と笑いながら彼を煽り続けるランサーの姿があった。

 良からぬ事態が発生したのかと思い、駆けつけた二人は唖然としながらその光景を見つめるのだった。

 

「……なにこれ」



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幕間「……了解した。地獄に落ちろ、マスター」

 初めて、女を知ったのは中学に上がったばかりの頃だった。魔術という神秘の存在を知り、必死に探求の日々を送る彼の目にソレが飛び込んで来たのは全くの偶然だった。

 親に捨てられた憐れな少女。彼は彼女をそう評していた。だから、それなりに優しく接してあげていた。だから、彼女がふらついているのを見て、いつものように声を掛けた。ただ、体調を気に掛けての行為だった。けれど、振り向いた彼女の口元を見た時、彼は絶句した。

 幼く、無垢である筈の彼女の口元を汚しているのは真紅の血液。まるで、マナーを知らぬ子供がケチャップで口周りを汚してしまったかのように赤々としている。

 

『ど、どうしたんだよ、それ……』

 

 変な病気かと思った。さもなければ、どこかにぶつけて怪我をしたのでは、と心配した。

 けれど、どちらも違った。少女が出て来た場所は彼がそれまで知らなかった扉の向こうだった。言い知れぬ恐怖に襲われながら、恐る恐る中を覗き込んだ時、彼は地獄を知った。

 無数の死が溢れていた。どいつもこいつも肉体が損壊している。

 

『あ、ああ……ああああああああああああ……――――!!』

 

 逃げ出した。あらゆるものから目を逸らし、部屋に飛び込んでベッドを被った。

 今見た光景は全てが嘘に違いない。目が覚めたら、いつものように暗い表情を浮かべた義妹に渇を入れてやって、魔術の修練に励むのだ。

 だから、今は眠ろう。何も考えずに眠ろう。

 大丈夫。目が覚めたらきっと――――、

 

『……あれ?』

 

 気が付くと、彼は暗い部屋の中に居た。

 そして、視線の先には義妹が立っていた。その姿があまりにも――――艶かしくて、彼は陰茎を勃起させた。

 知識はあった。サンプルとして、身近な少女に悪戯をした事もあった。だから、自分が発情している事を彼は瞬時に悟り、愕然となった。

 だって、アレは義妹だ。血の繋がりは無くとも、そんな対象として見た事は無かった。なのに、今は彼女を押し倒したくて仕方が無い。

 

『……って、何考えてんだよ、ぼくは』

 

 必死に理性を働かせる。本能のままに動けば、取り返しのつかない事になる。

 自分が自分のままで居られなくなる。そんな恐怖が彼を押し留めた。

 けれど、留まっていられたのは彼だけだった。

 空間内には彼以外にも男が大勢居たらしい。誰も彼もが衣服を身に着けて居ない。

 

『オ、オレのもんだ……。あの……、女の子は……オレの……』

 

 醜悪の極みだった。勃起した陰茎をぶら下げ、男達は義妹に歩み寄る。

 中には既に白く濁った先走りの汁を垂らしている者までいる。

 

『ふ、ふざけんな!!』

 

 彼は飛び出した。それは若さ故の無謀であり、女を知らぬが故の脱却であった。

 素っ裸で、勃起した陰茎をぶら下げているという点では五十歩百歩であったが、少なくとも彼は彼女を守ろうと立ち上がり――――、彼女に近づいてしまった。

 それが運の尽きだった。彼はただ、蹲り、事が終わるまで耐え抜くべきだった。けれど、彼女に近づいてしまった事で囚われた。

 未だ、成熟には程遠い肢体。なのに、その姿はどこか優美で、奇妙な色艶を感じさせる。その臭いが、仕草が、顔が、体が、全てが男を誘う為に出来ているかのようで――――、彼も理性を失った。

 我先にと男達は少女を抱く。時間を忘れ、寝る暇も惜しみ、自らの欲望を吐き出し続ける。

 匂い立つような色気を放つ少女を慰み者とする暴漢達。けれど、真に喰われているのは彼等の方だった。

 壊すより先に壊された男達の肉を少女は咀嚼し始める。自らの肉体が喰われている現実を認識しながらも、その顔に浮かべるのは快悦の笑み。

 狂気が支配する空間。それでも彼は生きていた。生き永らえてしまった。

 

『さくら……。お前は……――――』

『……不味い』

 

 肉を咀嚼しながら顔を顰める桜に慎二は溜息が出た。

 狂気に中てられたからなのかどうか、彼自身にも分からない。

 

『そんなおっさんの肉が美味い訳無いだろ。まったく、本当にトロいな、お前は――――』

 

 何を馬鹿な事をしているんだろう。

 自嘲の笑みを浮かべながら、慎二は自らの腕を桜に向けた。

 

『こっちを食べてみろよ。きっと、美味いぞ』

 

 ただ、不味いと言いながら汚らわしい中年男の肉を食べる義妹が哀れだった。

 どうせなら、美味しい物を食べさせてやりたい。

 桜が男の死骸を放り捨て、近づいて来る。小さな口を開け、慎二の指を口に含む。

 痛みは無く、くすぐったさを感じた。

 

『おいおい、味見のつもりかよ』

 

 苦笑する慎二に桜はキョトンとした表情を浮かべ、小さく頷いた。

 その仕草に笑った。生まれて来て、初めて大笑いした。

 

『美味しいか?』

 

 一心不乱に指を舐める義妹に慎二は問う。

 コクンと頷く桜に再び笑う。

 

『舐めるだけでいいのかよ?』

『……もったいない』

 

 ボソリと呟く桜の言葉に慎二は涙を流して笑った。

 

『舐めるだけでいいなら、いつでも舐めさせてやるよ。不味いもんばっかり喰ってたら嫌になるだろ? 口直しくらいは用意してやらないとな。何と言っても、僕はお前の兄貴なんだから』

『……うん。ありがとう、お兄ちゃん』

 

 再び、男達の骸に歯を立てて咀嚼を始める桜。慎二は黙って、その光景を見つめていた。

 その日を生き延びた慎二は毎日、桜の食事を見守り、最後に指を舐めさせた。

 不思議な事に彼の陰茎が反応したのは最初の日だけだった。それ以降、彼が義妹の前で発情する事は無かった。

 理由は明白。彼女が彼を例外と扱ったのだ。毒婦の瘴気に惑わされ、食われていく男達への同情心など欠片も湧かなかった。

 ただ、食事をする彼女の顔が不味さに歪むのが可哀想だった。

 

『まったく、こいつらは出来損ないだな。ジャンクフードばっかり食べて、不摂生に生き来たんだろうよ。まったく、不味い肉を喰わされる桜の身にもなれってんだ』

 

 少年のブラックユーモアな言葉も少女には届かない。何故なら、彼女はとうの昔に壊れているから。

 少年を生かしている理由も単に美味しいからに過ぎない。だから、彼の肉の味が落ちれば、彼女は彼を殺すだろう。

 だけど、彼はここに来るのを止めない。

 

 そして、現在に至る。この家の当主、間桐臓硯が衛宮士郎の召喚したサーヴァントを特別視している事は知っていた。

 義妹の食事風景に時折紛れ込む時代錯誤も甚だしい格好の少女の正体を予め彼女自身の口から聞かされていたからだ。どうやら、永い間ここに閉じ篭っていたから、話し相手を欲していたらしい。

 彼女の名はアルトリア。前回の聖杯戦争の終盤、アーチャーのサーヴァントと戦っていた彼女は聖杯に呑み込まれ、自我の大半を失い、代わりに第二の生を得た。

 名前と聖杯への渇望を残し、彼女は全てを失った。生前の記憶も曖昧な上、それに対する執着心も無い。だからこそ、彼女は聖杯を手に入れようとする臓硯と協力関係を結んだ。聖杯を得る事だけが目的であり、それ以外に何も頓着しない彼女。

 目の前で凄惨な殺人や食人行為が行われようと、眉一つ動かさない。ただ、最後に聖杯さえ得られれば、後はどうでもいいのだと言う。

 

『――――俺、お前が嫌いだ』

 

 慎二が言うと、アルトリアは『そうか』と微笑んだ。

 自我の大半を失い、感情も希薄となった彼女にしては珍しい事だった。

 

『私は嫌いじゃないぞ、シンジ。いつ喰われるかも分からないのに、義妹のデザートになり続けるお前は見ていて飽きない』

 

 元からこうだったのかは分からないが、この女は生粋のサディストだ。

 乾いた笑い声を発しながら、慎二は親友を思った。

 ああ、こいつをあいつに会わせたらやばいな……、と。

 だから、アルトリアの隠れ蓑として呼び出したスケープゴートを引き連れ、彼は士郎と対峙した。

 宝具である鮮血神殿を発動すれば、有利な状況で戦えた筈なのに……。今にして思えば、浅はかな行動だった。けど、焦りがあったのだ。臓硯がいつ、本格的に動き出すか分からなかったから。

 アイツのサーヴァントを片付けて、さっさとリタイアさせるつもりだった。

 だけど、勝てなかった。あの単細胞の事だから、煽れば勝手に自滅覚悟の特攻を仕掛けて来ると思った。一応、中学時代からの腐れ縁で、それなりにアイツの事を理解してるつもりだった。

 マスターを人質にすれば、サーヴァントなんて木偶も同然。いや、取らなくても、あのセイバーは木偶だった。

 予想外だったのは士郎の強さだ。宝具を生み出すなんてデタラメ過ぎる。結局、セイバーを殺そうと動いたライダーの意識が一瞬士郎に向けられ、そこをやられた。

 

「――――衛宮は自業自得だ。僕は助けてやろうとしたんだ。なのに、自分から……」

 

 いつものように義妹の食事を見守りながら、慎二はぼやく。

 臓硯の命令とは言え、あの家に居る間は桜も人間に戻れた。だから、その礼のつもりもあった。

 あいつはサーヴァントなんて捨てて、日常に戻れば良かったんだ。

 そうすれば、誰も傷つかなくて済んだ。

 

「……兄さん」

 

 桜が甘えるように囁く。いつものおねだりだ。手を差し出すと、嬉々として舐め始める。

 慣れた習慣。

 

「……よく、飽きないな」

「えへへ……」

 

 どいつもこいつも馬鹿ばかり。臓硯も例外じゃない。魔術に関わる人間はどいつもこいつも大馬鹿野郎で、ロクデナシだ。

 

「なあ、アルトリア」

「なんだ?」

「お前は聖杯さえ手に入れば良いんだよな?」

「ああ、その通りだ、シンジ」

「だったらさ――――」

 

 慎二の提案にアルトリアは楽しそうに微笑んだ。

 

「ああ、お前は――――だから、好ましいんだ。けれど、今はその時じゃないな。それに迂闊が過ぎるぞ」

 

 そう言って、アルトリアは慎二の腹部に容赦無く貫き手を差し込んだ。

 

「……なに、を」

「私の対魔力の影響でこいつと臓硯本体とのラインは切断状態にあるが、私から離れたら、そいつは直ぐに本体に告げ口をするだろう」

 

 慎二の腹から摘出した蟲を潰しながらアルトリアは言う。

 

「桜に治してもらえ。この程度の傷なら塞げるだろう。もう、あまり迂闊な事は言わない事だ。時が熟すまではな……」

「……ああ、そうするよ。その時になったら……」

「ああ、私はお前の剣となろう。あのような妖怪より、お前のような道化の方が好ましい。だが、どうせ踊るなら上手に踊れ。私の知っている道化は……、最期まで見事に踊り切ったぞ」

 

 どこか懐かしむように呟く。

 

「……ふーん。昔の事、少しは思い出したのか?」

「いいや、殆ど思い出せない。だが、あの者の事はそれなりに覚えている。面白い男だった。常に私達を笑わせてくれたよ」

「名前は?」

「……困ったな。奴に笑わせてもらった事は覚えているのに、思い出せない」

 

 眉を八の字に歪めて唸る彼女に慎二は笑った。

 

「まあ、お前の伝承にある道化っていうと、一人しか居ないし……」

「なんだ、知っているのか?」

「たしか……、ディナダンだっけ」

「ディナダンか……。ああ、そんな名だった。奴は……、実に面白い奴だった。お前には奴に通じるものを感じるよ。まあ、奴の方が何枚も上手で、お前のように無様な結果を残す事は無かったがな」

「……よっぽどお気に入りだったんだな」

「ああ、そのようだ。奴に関しては話していて気持ちが良い」

 

 ご満悦な様子の元王様。彼女の伝承通りなら、それも当然かもしれない。

 道化のディナダン。彼は王と騎士の狭間にある溝を埋める役割を荷っていた。円卓の不和を未然に防ぎ、全てを笑いに変える男。

 彼がモードレッドに殺されたからこそ、円卓はバラバラとなり、ブリテンは滅んだ。

 アーサー王にとって、彼の重要度は他の側近と比べても低くなかった筈だ。

 

「……はは。それにしても、今日は随分とお喋りだな」

「ああ、久しぶりに外に出たからな。それにお前の企みは実に愉快だ。今直ぐ、全てを捨てて逃げれば、それなりの人生を歩める手腕を持っている癖に、破滅と絶望しか無い選択をするお前は実に良い」

「……うるさいな。僕はただ……、桜に美味しいものを食べさせてやりたいだけだ」

 

 顔を背けながらも義妹に指を舐めさせ続ける慎二にアルトリアは言った。

 

「お前はディナダンになれるかな……?」

「途中で死んでどうするんだよ……」

 

 夢半ばで散った道化と一緒にされたくない。不平を零す慎二にアルトリアは笑った。

 

「ああ、そうだな。貴様はキチッと踊り切れよ、シンジ」

「……そのつもりだよ」

 

 

 月を愛でながら、魔女は謳う。

 

「セイバーの仕上がりも上々。策も万全。これで漸く、打って出られるわ」

 

 彼女の膝には黒髪の少女が頭を乗せて眠っている。

 

「不思議そうな顔をしているわね、アーチャー」

 

 庭に立ち、怪訝な表情を浮かべている弓兵に魔女は微笑む。

 

「……その娘がセイバーだと?」

「ええ、その通りよ。もしかして、そこまでは知らなかったの?」

「どういう意味だ……」

 

 眉を顰めるアーチャーにキャスターは言った。

 

「衛宮士郎が召喚を行った際、彼の内に埋め込まれている聖剣の鞘が寄り代となり、他のどの英霊よりもアーサー王が優先的に召喚される。“全て遠き理想郷”に縁を持つ英霊は他にも居るけれど、聖杯を手に入れる事を世界との取引材料としたアーサー王を差し置いて、マーリンやモルガン、アコロンといった英霊達が召喚される事は無い。彼女が聖杯を諦めでもしない限りは……」

 

 キャスターは少女の髪を撫でながら呟く。

 

「けれど、衛宮士郎がアーサー王を召喚する事は世界に大きな矛盾を生じさせてしまう。だって、アルトリア・ペンドラゴンは既に召喚されている。他の英霊ならば、同時に写し身が二体召喚される事もあるかもしれない。例えば、ヘラクレスをセイバーやアーチャー、バーサーカーといった、彼に適合するクラスにそれぞれ召喚する事は可能なのよ。何故なら、彼は英霊・ヘラクレスという本体から伸びる触角に過ぎないから……。同じ存在が同時に存在していても矛盾は生じない。だけど、アルトリアは違う。彼女の本体は生きている。それ故に伸ばせる触角も本体の意思を乗せた一つのみ。なのに、既に触覚を放っている彼女を新たに召喚させようと思ったら、どうなると思う?」

「……彼女の精神は既に召喚されている方のセイバーに宿り、後から召喚された方には霊魂のみが召喚される。それ故に、精神を補完する為、世界は日野悟の精神を――――」

「違うわ。そうじゃないのよ、アーチャー。全部が全部ってわけじゃないけれど、肝心な所を勘違いしている」

「どういう事だ……?」

 

 困惑するアーチャーにキャスターは語る。

 

「アーサー王は将来的に英霊化が確定している英雄。だからこそ、彼女の英雄としての情報はアカシック・レコードに刻まれている。彼女が悲願を成就し、英霊の座に収まる為の空間が既に用意されているのよ。衛宮士郎はその将来的にアーサー王が英霊となった場合を想定し、世界が準備した彼女の英雄としての情報を引き寄せたの」

「……すまん、よく分からない」

 

 彼女の難解な言い回し故か、アーチャーは眉間に皺を寄せている。

 

「簡単に言うと、英霊では無く、世界に刻まれた英霊としての情報……即ち、彼女の設定だけを呼び寄せたという事よ。髪の色はこうだ。瞳の色はこうだ。剣の腕前はこうだ。過去はこうだった。宝具はこういう物だった……、などなど。だけど、肝心要の本体が無かった。だから、設定を適当な魂にくっつけて、無理矢理アーサー王に仕立て上げ、召喚に応じさせたというわけよ」

「な、なんだそれは……。では、日野悟は!!」

「ええ、完全に巻き込まれただけの一般人。衛宮士郎ともアーサー王とも縁の無い、根源に浮ぶ無数の魂の内の一つ。ただ、アーサー王の情報を植え付け、召喚に応じさせる為だけの……言ってみれば、着せ替え人形ね。だけど、彼の魂は結局、日野悟のもの。だから、完全なアーサー王とはなれず、いつまで経っても剣の腕は上達しないし、宝具の使い方も理解出来ない。それに、彼自身も鏡を見て思ったみたいだけど、その外見も元の日野悟に戻り掛けている」

「な、なんだと……?」

「眉の形や耳の形なんかを見て、違和感を感じ取っていたみたいよ。見覚えがある気がするって……。当然よ。それは生前の自らの顔の特徴だったのだから」

 

 キャスターの言葉にアーチャーは目を丸くした。

 

「では、日野は何もせずとも元の姿に戻れるという事なのか?」

「そう単純じゃないわよ。そもそも、初めの肉体作りの際にアーサー王の情報が大きく作用したから、性別だって、女の子だし、髪の色や瞳の色も生前とは違う。だから……、ある程度までは戻れるかもしれないけれど、完全には戻れない。中途半端に戻った末に……、恐らく壊れてしまう」

「な、何故……」

「考えてもみなさい。今は生前と完全に別人だからこそ、性転換や諸々の異常を無視出来ている。大きな混乱が小さな混乱を抑え付けているのよ。だけど、その混乱が小さくなれば、他の混乱が明るみに出る。自らの性別の違いをより一層意識する事になり、それが彼を守っていた心の防壁を壊してしまう」

「心の防壁を……?」

「彼は常日頃から現実逃避をしているようなものなのよ。ここは異世界であり、自分は別人なのだ。それに加え、自分には守るべき存在が居る。そういった、自己暗示に近い事を常に考え続ける事で自我を保っている。だけど、一度、自分が自分なのだと認識してしまえば、次々に現実が彼を襲う。そうなれば、彼は瞬く間に廃人となるでしょう」

「ま、まさか……」

 

 慄くような表情を浮かべるアーチャーにキャスターは微笑む。

 

「安心なさい。その為の対策は打った。私には夢がある。宗一郎様と共に未来を歩むという夢が……。その為にセイバーの力が必要だもの。壊したりはしないわ」

 

 慈しむような表情で少女の頬を撫でるキャスターのアーチャーは途惑った。

 

「お前は……」

「聖杯を取ったら、貴方達の事も解放してあげる。邪魔さえしなければ、ある程度は願いも叶えてあげる。例えば、セイバーを受肉させたりとかでも、私なら可能よ」

「……何故」

「正直言って……、気に入らないのよ」

 

 キャスターは呟くように言った。

 

「私も……、神に運命を散々弄ばれた。偽物の愛を植え付けられ、裏切りを強要され続けた……。だから、こうして世界の矛盾を正す道具として扱われた日野に同情してるのかもしれないわ。あの坊やを守る為に我武者羅に頑張る姿も見ていて飽きなかったし……」

 

 キャスターは月を見上げた。

 

「日野悟の魂から必要最低限の情報を除いて、アーサー王の情報を取り除き、再調整したから、髪は黒くなったし、瞳の色も暗い茶色に変わった。今の自分を見たら、きっと自分を自分と認識してしまうでしょうね。でも、目が覚めた時、彼は壊れたりせず、現実に感謝すらするかもしれない」

「一体……」

「簡単よ。彼に夢を見せているの」

「夢……?」

 

 キャスターは悪戯に成功した子供のような可愛らしい笑みを浮かべて言った。

 

「今頃、夢の中で彼は衛宮士郎と新婚さんとしてイチャイチャしてる筈よ」

「……は?」

 

 顔を強張らせるアーチャーにキャスターはセイバーに見せている夢の内容を語った。

 少女趣味全開の内容にアーチャーは真っ白になった。

 

「……お前」

「言っておくけど、これが一番簡単かつ、一番確実な方法よ。彼の心が現実を受け入れられるようにするには――――」

「待て……、待て。いや、幾らなんでもそれは……」

「男の子と恋愛するなら、女の身である方が色々と都合がいいじゃない」

 

 輝くような笑顔で言うキャスターから目を逸らし、アーチャーはセイバーを哀れみの目で見つめた。

 

「偽物の愛を植えつけられて、神を恨んでいたんじゃなかったのか?」

「ええ、恨んでいるわ。だからこそ、私が日野に対してただ甘々な夢を見せているだけよ。それなりに絆の深い男の子に徹底的に女の子扱いされ、ひたすら幸せに身を包まれ続ける夢を見せているだけ。別に、精神を操って洗脳をしてるわけじゃないもの」

「いや……、十分に洗脳の類だろ」

「……貴方にも同じ夢を――――」

「キャスター。そんな事より、明日の間桐邸襲撃の作戦内容について話を詰めておこう」

 

 急に表情を引き締めて話を変えるアーチャーにキャスターは呆れ顔だった。

 

「……まあ、いいわ。何事も無ければ、明朝、間桐邸に襲撃を掛ける。分かっていると思うけど、最も注意すべきは影の存在。アレに囚われたら最期よ」

「どうにかする手立てはあるのか?」

「最悪。セイバーに聖剣を使わせるわ。そうなると、貴方にはアーサー王と影を一時的に押し留める役を担ってもらう事になる」

「構わん。アレを葬りされるのであれば是非も無い事だ」

「そう……。なら、私の勝利の為に死になさい、アーチャー」

「……ああ、心得たよ、一時の主よ。我が命、好きに使うが良い。だが、使うからには確実に仕留めろ」

「勿論よ」

 

 月夜の下、弓兵と魔女が契約を結ぶ。

 

「……しろ、そんなとこ、さわっちゃ……いやん、もう……えへへ」

 

 身悶えし、寝言を呟くセイバーに二人は顔を見合わせた。

 

「どうやら、もうそろそろのようね……。意識が戻り始めている」

「……これで良かったのだろうか」

 

 頭を抱えるアーチャーにキャスターが笑う。

 

「面白い話をしてあげる」

「面白い話?」

「……アーチャー。人はよく、平等って言うわよね? だけど、実際は違う。持つ者と持たざる者が居る。優れた才能を持つ者も居れば、何の才能も無い愚鈍な人間も存在する。人間っていう生き物はそれぞれ作りがちょっとずつ違うのよ。特にそれが男女の違いとなるとね……」

「何が言いたいんだ……?」

 

 キャスターはミステリアスな表情を浮かべて言う。

 

「男と女は脳の構造からして異なるのよ。例えば、男は理論を尊重するけれど、女は感情を優先する。それは脳の構造が違うから故に発生する違い。無論、理論を尊重する女も居るし、感情を優先させる男も居るけれど、それもまた個人差。言葉にしてもそうよ? 男は脳の一部分のみで会話をする。だけど、女は脳全体を使って会話をするの。万人に共通するものでは無いけれど、男の感覚で女の体を操るというのは無理があるのよ。そもそも、生物としての在り方からして、違うから……」

「だから、セイバーを女に近づけようとしているのか……?」

「そういう事よ……。言ったでしょ? 壊すつもりは無いって……。男の感覚のままで居たら、いずれは破綻し、壊れるのが目に見えているもの」

「キャスター……」

「それに……、自分が女性っぽくなってる事に途惑うセイバーも見てみたいし……」

「――――おい! 貴様、それが本当の目的ではあるまいな!?」

「とにかく! 明日は頼むわよ、アーチャー!」

 

 話を無理矢理打ち切り、主である葛木宗一郎なる男の寝室へルンルンと向う稀代の魔女にアーチャーは毒づいた、

 

「……了解した。地獄に落ちろ、マスター」



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第十九話「……さあ、後は頼んだぞ、小童共」

 夜明けの少し前、バゼットが戻って来た。居間で待機していた士郎達に彼女は言った。

 

「――――行きますよ」

 

 士郎達は互いに頷き合い、互いの意思を確かめ合う。

 此度のキャスター陣営に対する襲撃はバゼットとランサーを主戦力に据えて行う事になっている。

 ただし、彼等が抑えられるのは二名までだ。敵が三名居る以上、一名が余る。その対処が士郎達三人の役割だ。

 

「……では、確認します」

 

 円蔵山への道程、バゼットが歩きながら口を開く。

 

「本命であるキャスターの相手はランサーが引き受けます」

 

 此方の勝利条件はあくまでキャスターを討伐する事にある。他の二名を倒す事はむしろ避けたい事案だ。

 故に最強の戦力を彼女にぶつける。

 

「任せましたよ、ランサー。初手から全力で討ちに行って下さい」

「了解だ、マスター」

 

 ランサーはバゼットの隣を歩きながら、自らの槍や肉体に光で文字を刻んでいる。

 それがルーン魔術の刻印なのだとイリヤが士郎に解説する。

 

「セイバーの相手は私がします。恐らく、アーサー王としての真の力を引き出された状態で待ち受けている事でしょうから――――」

 

 最優のサーヴァントと名高きセイバーのサーヴァント。その中でも最強であろう英霊・アーサー王。

 如何に封印指定の執行者であろうと、生身の人間が立ち向かうなど狂気の沙汰だ。けれど、彼女は気負った様子も見せずに淡々と語る。

 

「問題はアーチャーですが……、いいのですね?」

 

 バゼットが確認を取るように凜を見る。凜は頷く。

 

「こっちには“聖杯”であるイリヤが居る。加えて、“士郎”も」

 

 本来、戦闘能力の低いイリヤは衛宮邸に残して行くべきだ。にも関わらず、戦場に連れて行く理由は二つある。

 一つは彼女が他の陣営に狙われている事。一人、無防備な状態で残して行く事は獣の目の前に餌を放置するのと変わらない。

 もう一つの理由は彼女の存在価値の高さ。彼女が“聖杯”である事は既に全陣営が承知の事実。マキリがイリヤを攫おうとした理由もそこにある。

 その事を逆手に取り、彼女の存在を抑止力にしようと考えたのだ。

 

「イリヤが居る限り、アーチャーを含め、敵は大規模な範囲攻撃を出来なくなる。接近戦に持ち込めば、ある程度なら持ち堪える事が出来る筈よ」

 

 とは言え、絶対では無い。凜とイリヤにはある程度の勝算があるらしいが、士郎の剣技ではアーチャーに遠く及ばない。

 一晩、ランサーに揉まれて、少々技術の底上げが出来たつもりだが、付け焼刃の通じる相手じゃない。

 相手は弓兵なれど、ケルト神話を代表する大英雄の槍捌きに負けず劣らずの双剣使い。二度目の戦いでは撃退すらしてみせた武の英雄。

 正体は未だ不明なれど、少し剣技を齧った程度の士郎には荷が重過ぎる。バゼットは未だ幼さを残す少年の顔を見た。そして、余計な心配など不要である事が分かった。

 少年には既に覚悟が決まっている。ランサーから伝え聞いた話によれば、少年はセイバーに恋をしているらしい。愛する者を救う為と思えばこその勇気と覚悟がそこにあるのだと感じる。

 

「――――頼みましたよ、衛宮士郎。セイバーは必ず私が取り戻します」

 

 特別性のグローブを手に嵌めながら、バゼットが言う。

 

「……ああ、頼む。何があっても、アーチャーにお前達の邪魔はさせない。だから――――」

「任せろ、シロウ。キャスターなんざ、俺の敵じゃねぇからよ。速攻で片を付けてやる」

 

 士郎の言葉に応えたのはランサー。

 この一週間、彼は諜報活動に徹していた。己の渇望する戦場を求め、戦いの刻を待ちながら、士郎達の生活を監視し続けて来た。

 その間の彼等のやり取りは見ていて飽きなかった。互いが互いを護る為に全てを掛ける。その関係は実に清々しいものだった。

 己が主の思惑がどうあれ、今の自分はこの少年の仲間だ。ならば、全力をもって思いに応えるとしよう。

 それが昨日の敵とも酒を飲み交わし、昨日の味方の首を取るのが日常であった常勝無敗の大英雄の決断だった。

 

「――――さあ、覚悟はいいですね?」

 

 遠くに円蔵山が見えて来た――――、そして、光と音が爆発した。

 

 

 一際、甲高い金属音が鳴り響く。柳洞寺へと連なる石段にて、赤と黒が剣を交えている。

 片や双剣、片や長剣。石段という不安定な足場だと言うのに、両者はまるで平地に立つが如く、揺るぎない。

 

「……弓兵風情と侮っていた事を詫びよう。いや、これほどの剣士がアーチャークラスで召喚されるなど、システムに異常が起きているのかもしれんな」

 

 黒衣を纏う剣の英霊が呟く。

 

「生憎、剣の才能は無かった。私がセイバーのクラスで召喚されるなど、あり得んよ」

「才無くして、この腕前……。相手にとって不足無し」

 

 狂気的な笑みを浮べ、怒涛の剣戟を放つ暗黒の騎士を赤き弓兵は嵐の如き双剣捌きで迎え撃つ。

 その様子を上空から見守るは魔術師の英霊。

 

「――――此方が動くより先に攻めて来るとは、侮っていた事を認めるわ、マキリ・ゾォルケン」

 

 彼女の視線の先、石段の下には枯れ木の如き老人が一人。呵々と笑いながら、彼は隣に並び立つ奇怪な影に指示を下した。

 影が猛烈な勢いで石段を侵食する。

 

「セイバー!!」

 

 サーヴァントに対する絶対的な優位性を持つ影。されど、敵を侮ってはならない。この神殿と化した山の主は神代の魔女。

 既に脅威の存在を知覚し、理解している彼女にとって、対処不可能な事案など存在しない。

 御三家の当主。五百年を生きる妖怪。人を喰らいし化け物。

 如何に大層な名を冠していようが、所詮は現代の魔術師。如何なる権謀術数に優れようが、戦術と戦略を駆使しようが、蟻如きが獅子に挑むなど無謀を通り越した愚行。

 天上に現れし、黒髪の騎士が魔女の与えし翼を駆り、光の剣を掲げる。

 

「――――約束された勝利の剣!!」

 

 地上を呑み込まんとする暗き影を“最強の幻想”が輝きの光をもって打ち祓う。

 キャスターの魔術によるサポートを受けたエクスカリバーの一撃はアーチャーを器用に避け、地上を蹂躙する影と暗黒の騎士に牙を剥く。

 されど、焼き払われた地上にマキリのセイバーは尚健在。咄嗟に効果範囲内から脱出出来たのは“直感スキル”の恩恵と“魔力放出スキル”の最大出力による敏捷性の一時的向上によるもの。

 そんな化け物染みた真似が出来るのは彼女のみであり、影と臓硯は跡形も無く消し飛んだ。

 けれど、キャスターの顔に浮かぶ表情は渋みを帯びている。

 

「虫けら如きが……」

 

 嫌悪感をありありと浮かべながら、キャスターは吐き捨てるように呟く。

 光に呑み込まれたのはどちらも偽物。本体は恐らく、間桐邸に引き篭もっているのだろう。

 ここに本物はマキリのセイバーのみ……。

 

「セイバー!!」

 

 再び、姿を現す影。それも所詮は偽物。けれど、万が一にもアーチャーの動きを阻害させる訳にはいかない。

 如何に調整を施したとは言え、セイバーは偽物。本物と打ち合えば、真贋の差が如実に現れるだろう。

 高ランクの対魔力を持つマキリのセイバーに対して、キャスターの自慢の魔術も通用しない。

 そうなると、彼女に対抗出来るのは、“とある理由”から、アーチャーのみとなる。

 だが、それは万全の状態に加え、キャスターの魔術による助力があればこその拮抗。

 均衡が僅かにでも崩れれば、瞬く間に勝敗が決してしまう。

 

『……付け焼刃の連携はむしろ互いの足を引っ張りかねない』

 

 そう言ったのはアーチャー自身。

 セイバーとアーチャーが連携してマキリのセイバーを打ち倒すという策を提示したキャスターに彼は冷ややかな声で言った。

 

『――――アレを倒すのはオレの役割だ。お前達は影と臓硯の相手に集中しろ』

 

 如何に神代を生きた魔女と言えど、戦闘行為に関しての“いろは”は殆ど無い。

 アーチャーの判断に従う事こそが最善。例え、そこに私情があろうと、理に叶っているのならば不問とする。

 ただし――――、

 

「負けたりしたら、承知しないわよ、アーチャー!!」

 

 並大抵の魔術はむしろ、敵のエネルギー源となってしまう。影を迎え討つ手段は一つしかない。

 圧倒的な破壊力を篭めた一撃を放ち、吸収する間も与えずに消し飛ばす。シンプルにして、究極の対処法。

 

「セイバー!!」

 

 魔女は苦心して円蔵山に溜め込んだ膨大な魔力を惜しみなく使わせる。

 最強宝具の連続発動。大地に刻まれた傷痕は一つ一つが底の見えぬクレーターと化している。

 円蔵山の麓は田畑が連なっている為、死人が出る恐れは無い。だが、赤々と燃え上がるその様は正しく地獄の具現。

 神秘の秘匿など存ぜぬとばかりの凶行。けれど、それが最善であり、唯一の活路であるのなら、是非も無い。

 

 

 戦場の様子を使い魔の視界越しに見ていた臓硯は舌を打つ。

 キャスターを侮っているつもりは無かった。むしろ、最大の障害にして、最強の脅威であると確信したが故に彼は先手を打って、虎の子であるアルトリアを放った。

 

「――――よもや、アルトリアと斬り結び、互角の英霊が居ようとは」

 

 影による“絶対的優勢の立場”の形成をセイバーの宝具の連続発動というとんでもない方法で封じられ、アルトリアを孤立させられてしまった。

 とは言え、本来ならば彼女だけで十分だった筈なのだ。強力な対魔力故にキャスターは敵では無いし、弓兵や偽物など束になって掛かられても圧倒出来る筈と高を括っていた。

 侮っていたのはアーチャーの技量。よもや、受肉し、生前の力を取り戻したアーサー王と互角に戦える弓兵が存在するなど考えていなかった。

 

「遠距離から宝具を放つだけならば対処のしようもあったものを……」

 

 この状況の肝は“立ち位置の妙”にある。

 アーチャーが遠距離からの狙撃に徹し、セイバーがアルトリアを迎え撃つという、本来あるべき立ち位置であったなら此方の勝利だった。

 偽物が本物に勝てる道理は無く、“約束された勝利の剣”という最強クラスの対城宝具でも無ければ、影が一層される事も無かった。

 エクスカリバーの連続発動というデタラメさえ無ければ、アーチャーによる遠距離からの狙撃だったなら、影は悉く攻撃を呑み込み、同時に迎撃に来るセイバーの動きを止め、アルトリアの剣技で圧倒するという戦術が機能した筈だった。

 

「――――アーチャーの剣技。そして、キャスターの知略。加えて、セイバーの宝具。この状況は不味い……」

 

 先手を打たれた事による動揺すら感じられない完璧な布陣。此方の戦力と戦術と戦略を全て読み切ったキャスター。

 やはり、最悪の敵。倒さねばならぬ、障害。

 

「セイバーの宝具の連続発動など、如何に魔力を溜め込んでいようと続かぬ筈……。その間、アルトリアが耐え抜けば、こちらの勝利。だが――――ッ」

 

 あのアーチャーは侮れない。そもそも、奴は“弓兵としての切り札”を使っていない状況でアルトリアと拮抗している。

 セイバーやアルトリアのように、発動時に“一瞬の隙”が発生するような宝具持ちであるなら、この状況が動く事は無いだろう。

 だが、もしも接近戦をしながら発動出来る切り札を持っていたなら、事態は最悪の方向に向う。そして、あの剣技の卓越さを見るに、“そうした切り札”を持つ可能性は極めて高い。

 

「――――しかも、奴自身が持っておらずとも、奴の背後にはキャスターが居る」

 

 如何に優れた対魔力を保有し、あらゆる魔術を無効化出来ようとも、敵は神代の魔術師。現代の魔術師の理解を遥かに超越する魔女。しかも、同等の存在であるセイバーを手中に収めている状態。

 セイバーの翼や様子の変化から察するにキャスターはセイバーの対魔力に対する対策を持っている可能性が高い。アーチャーによって、動きを止められている今、奴の魔術がアルトリアに牙を剥けば――――、

 

「イカン……。これは非常に不味い状態じゃ。このままではアルトリアを失う事態になりかねぬ……」

 

 聖杯に取り込んだ英霊を使うか……。

 

「……駄目だ、本体で無ければ英霊の再召喚は行えない」

 

 聖杯に取り込んだ英霊を再利用する場合、影のリソースを大きく削る事になる。

 それに、先手を打つ策に加え、アルトリアと影による連携攻撃をもってすれば、勝利は確実と高を括っていた。

 その二つを理由に予め、英霊を再召喚するという策は使わなかった。それが完全に裏目に出ている。

 

「――――いや、そもそも、あのセイバーの宝具の連続発動を前にしては……」

 

 あのような波状攻撃を連続で繰り出されては、如何に優れたサーヴァントであろうと一溜りも無い。

 

「……そうだ。奴等がアーチャーを見捨てれば、その時点で詰む。そもそも、奴はキャスターにとって捨て駒に過ぎぬし……」

 

 セイバーがエクスカリバーでアーチャーごとアルトリアを狙えば、今度こそ避け切れない。

 今の状況はキャスターがアーチャーを見捨てていないが故のもの。恐らく、次なるランサーとの戦いを見越しての安全策の為だろうが……。

 

「セイバーが居る以上、無理にアーチャーを残しておく可能性は低い」

 

 一分にも満たない逡巡。刻一刻と変化する戦場において、致命的とも言える迷い。

 アルトリアが未だ健在な理由は“この迷い”が臓硯だけのものでは無いからだろう。

 恐らく、キャスターにも“迷い”があるが故の“思考時間”の発生。

 だが、もはや残された時間は無いだろう。

 

「――――これはッ」

 

 決断する切欠は使い魔越しに見えた新たな軍勢。

 臓硯は無意識に笑みを浮かべる。

 

「愚か者共が間抜け面を下げて、ノコノコと現われおった!!」

 

 恐らく、キャスターを討伐し、自らのサーヴァントを取り戻そうと言う魂胆なのだろう。

 好機の到来。キャスターさえ脱落すれば、誰に何のサーヴァントが戻ろうと関係無い。

 今回の最大の戦果はアーチャーの技量という情報が手に入った事。十分過ぎる結果を得られた。

 

「――――最悪な事態があるとすれば、キャスター陣営と奴等が組む事だが、それは無かろう」

 

 桜からの報告と使い魔による監視の末、衛宮士郎のセイバーに対する思慕の大きさはある程度掴めている。

 精神性に少々異常をきたしているらしいが、それでも好いた女を奪われた事に対する憤りはそう易々と消えるものでもあるまい。

 キャスターの失策はあの小僧からセイバーを強引に奪った事。話し合いによる一時的な譲渡などでは無く、力ずくによる強奪だった事で奴等の関係に和解という解決策は消滅している。

 臓硯は佐々木小次郎を寄り代にハサン・サッバーハを召喚した際、手に入れた令呪を掲げた。

 令呪はサーヴァントを縛るもの。受肉しようとも、アルトリアにはサーヴァントとしての側面を未だ残している。故にこその聖杯の汚染。

 寄り代である山門との楔とする為のものだった故に一画のみだが、それは確かに臓硯の腕に存在した。

 

「令呪をもって、命じる!! アルトリアよ、全力で撤退せよ!!」

 

 膨大な魔力が吹き荒れる。遠き地の先で一人戦うアルトリアに臓硯の命令が届き、彼女の肉体が消失する。タイムラグを発生させず、強制転移が発動し、アルトリアが臓硯の眼前に現れる。

 臓硯は嗤う。

 仮にこれでキャスターの陣営とランサーの陣営が手を組むと言う最悪な事態が発生しても、対策を練られるだけの情報は得られた。

 

「まあ、その可能性は低いだろうが……」

 

 勝利の道筋が見えた。だが、出来るなら苦労は負いたく無い。

 故に臓硯は心から少年少女一行を応援する。慈愛の眼差しを使い魔越しに向け、彼は呟く。

 

「……さあ、後は頼んだぞ、小童共。儂の為に存分に踊ってくれ」



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第二十話「……ちょっと、やり過ぎちゃったかしら」

 光と音が世界を埋め尽くす。咄嗟の事態に対応出来たのはランサーとバゼットのみ。ランサーは士郎とイリヤを両脇に抱え、バゼットが凜を背負う。既に臨戦態勢に入り、肉体を極限まで強化していた二人は全力で後退を選択。一蹴りで百メートルを戻る。

 幸い、光の奔流は柳洞寺へ連なる石段の麓を中心としている。距離があった分、襲い来る余波のみに対処すれば良かった。とは言え、その余波が侮れない。盛り上がった土が聳える壁を構築し、土石流となって襲って来る。猛烈な衝撃波と局地的大地震のおまけ付きで――――。

 

「ッハ! 無茶苦茶だな、オイ!」

 

 着地と同時にランサーは士郎を放し、虚空に空いた手で光のルーンを刻む。“影の国”とも呼ばれる冥界の女王・スカアハより授けられしルーンの秘術。何の神秘も宿らぬ、単なる土石流如き、彼の道を阻む障害とはならない。迸る魔力の衝撃に士郎達は顔を伏せ、次の瞬間、ランサー達を呑み込む筈だった膨大な量の土砂石が吹き飛んだ。

 ランサーのサーヴァントを純粋な槍使いであると思い込んでいた士郎達はその光景に唖然となり、その間にランサーは士郎を抱えなおすと、自らが開いた活路を突き進む。

 今のランサーの魔術行使が何らかの切欠となったらしく、光が唐突に止んだ。あの場所で何が行われていたのか、大よその見当はつく。大方、他の二陣営が此方を尻目に勝手に闘争を繰り広げていたのだろう。だが、今ので片方が撤退した。キャスターが自らの拠点を易々と放棄するとは思えない。恐らく、逃亡したのはマキリの陣営。

 何れにせよ、千載一遇の好機。如何に無敵の布陣を敷いていようが、二大陣営のぶつかり合いとなれば、両者共にある程度は疲弊している筈だ。

 攻めるなら、今――――ッ!

 

「――――往くぞ、テメェ等!!」

 

 此方には抑止力となるイリヤが居る。あの光の爆発を無闇に撃っては来ない筈だ。

 勝負は一瞬で決まる筈。その一瞬、邪魔物を抑えるのが士郎達とバゼットの役割。

 ランサーは士郎を先に解放し、その腕にイリヤを抱かせた。

 意思の疎通はアイコンタクトのみで行う。既に作戦が固まっている以上、無駄口を叩く理由は無い。

 

「イリヤ、走れるか?」

「大丈夫よ、シロウ。足手纏いにはならない」

 

 士郎は走りながらイリヤを降ろし、投影の準備に入る。

 背後から凜の気配が追いつき、各人が自らのポジションに着いた。

 そして、彼等は石段に辿り着く。見上げた先にまず見えたのはアーチャーのサーヴァント。常の紅の装束に身を包み、干将・莫耶を手に提げている。

 次に目に入ったのは上空に浮ぶ二騎の英霊。

 

「――――セイ、バー?」

 

 士郎は片一方の英霊を見て、当惑した。

 装束は確かにセイバーのものだ。青き衣に白銀の鎧を身に纏っている。

 けれど、彼女の金砂の如き髪色が墨のような深黒に染まっている。それに、背中からは真っ白な翼を生やしている。

 魔術や英霊という非日常的な概念や存在に慣れ親しんでいる士郎達ですら、その姿は非現実的に見えた。

 

「――――スカアハ直伝」

 

 困惑は彼にとっても同じ事。けれど、見知った者の髪色が突如変わろうが、人が翼で空を飛ぼうが、その程度の事に動揺する時間など刹那も存在しない。

 彼はそういう戦場を生き抜き、勝って来たのだ。

 故に彼の緋眼が狙うは変貌したセイバーでは無く、それを為したであろう下手人。キャスターのサーヴァント目掛け、自らの魔槍を振り上げる。

 

「突き穿つ――――」

 

 元々、それは投擲の技法の名。魔と武を極めし女神の奥義。

 クー・フーリンはその奥義に自己流のアレンジを加え、近接にも使えるようにした。

 けれど、この奥義はやはり、投擲でこそ真価を発揮する。

 加えて、ランサーはこの奥義を最大にして、最速に撃ち出す為の準備を整えていた。

 槍そのものに刻まれたルーンとランサーの身に刻まれたルーン。それが意味するのは――――、不可避の速攻。

 

「――――死翔の槍ッ!!」

 

 態勢を整え、槍を構え、魔力を充填し、跳び上がり、真名を解放し、投擲する。

 その過程の内、彼は真名の解放と投擲以外の過程を全て破却した。

 過程の無視。それによる威力の減退はルーン魔術が補強する。

 元々、ランサーは他の連中を当てになどしていなかった。それは彼等を信じていなかったからでは無く、単に必要性を感じていなかっただけの事。

 無論、バゼットならばセイバーの相手は余裕だろう。例え、アレが正真正銘のアーサー王であり、その実力を最大限に発揮したとしても、バゼットは負けない。

 アーチャーに対しても、士郎達ならば十分に持ち堪える事が出来る筈だ。士郎の覚悟と凜の魔術、そして、イリヤの存在が彼を押し留める事を可能とするだろう。

 だが、それらはランサーが一瞬で勝負を決められなかった時の為の対策。

 

――――舐めてんじゃねぇよ。

 

 ケルト神話最強の大英雄が魔術師風情に遅れなど取るものか――――。

 一気呵成に事を成したランサー。放たれたが最期、敵の心臓を射抜くまで、その槍は止まらない。

 発動と同時に敵の死が確定している。その過程を後から創るのが“ゲイ・ボルグ”。

 因果律に干渉する業。如何に神代の魔術師と言えど、本物の神の業に抵抗するなど――――、

 

「――――熾天覆う七つの円環!!」

 

 確かに、キャスターには発動したランサーの魔槍を防ぐ手立てが無い。

 けれど、彼女は孤独に非ず。忘れる無かれ、彼女には今、二騎の“最強”が控えているという事実を――――。

 

「アーチャー!?」

 

 凜が叫ぶ。その驚愕はどこに向うのだろうか……。

 彼が魔女を助けた事か――――、

 彼が発動した宝具の事か――――、

 あるいは、その両方に対してか―――ー。

 

「――――我が“ゲイ・ボルグ”に挑むつもりか、弓兵!!」

 

 アーチャーは応えない。応える余裕など無い。

 彼が展開した七つの花弁を持つ盾の宝具は投擲武器に対して無敵とされる結界宝具。

 嘗て、トロイア戦争で大英雄の投擲を唯一防いだとされるアイアスの盾。

 この盾の前には、投槍など一枚羽にも届かず敗退するのが必定。

 にも関わらず、一撃で花弁が二つ消し飛んだ。

 

「……っく」

 

 苦悶の声はアーチャーのもの。

 二枚の花弁を破砕した魔槍は弾き飛ばされて尚、自らの目的を忘れず、目標に狙いを定めている。

 次なる一撃は初撃を越え、三枚の花弁を粉砕。

 再び弾かれながら、更なる追撃が加わる。

 刹那の間に繰り出される三連撃。もはや、残る花弁は一枚。その花弁にアーチャーは渾身の魔力を篭める。

 キャスターから供給される膨大な魔力を悉く注ぎ込み、盾は一秒という時間を作り上げた。

 そして、その一秒が活路を作り出す。

 

「約束された――――」

 

 キャスターは既に転移の魔術の発動態勢にある。とは言え、転移したとしても、魔槍はどこまでも追い駆けて来る事だろう。

 だが、槍そのモノが消失してしまえば――――、

 

「――――勝利の剣!!」

 

 エクスカリバーが発動する。同時にキャスターは転移の魔術を完成させ、逃亡。

 同時にアーチャーの姿も掻き消える。どうやら、キャスターが彼に対しても転移の魔術を行使したらしい。

 如何に大英雄の渾身の一撃と言えど、発動体そのものが失われれば無意味。

 光の斬撃が走る。

 ゲイ・ボルグを防がれる事は即ち、セイバーとアーチャーの奪還を阻止された事を意味する。

 落胆に肩を落としそうになる士郎の耳にバゼットの声が響いた。

 

「――――後より出でて先に断つ者」

 

 振り返ると、彼女は拳の上に球体を浮かばせ、真っ直ぐにセイバーを睨み付けている。

 彼女の意図は明白だった。この一撃を防がれてしまったら、二度とキャスターはランサーの宝具の射程範囲に入ろうとはしないだろう。

 ここで取り逃がす事は即ち、キャスターを倒す好機を失うという事。それに、エクスカリバーが直撃すれば、如何に大英雄の宝具と言えども無事には済まない。

 キャスターを取り逃がし、唯一の戦力であるランサーの宝具を失う事態だけは避けなければならない。

 今ここで、キャスターを倒し、ランサーの宝具が破壊される事を防ぐ唯一の手段。それは――――、

 

「斬り抉る――――」

 

 放たれし、黄金の輝き目掛け、バゼットはその手に浮かべる奇跡の真名を紡ぐ。

 其は――――、逆光剣・フラガラック。

 ランサーのマスターであるバゼット・フラガ・マクレミッツの秘奥の名。神代の魔術たるフラガラック――――、その力は“不破の迎撃礼装”。呪力、概念によって護られし神の剣。

 後より出でて先に断つ――――。その二つ名の通り、フラガラックは因果を歪ませ、自らの攻撃を『敵の切り札の発動よりも先に為した』というものに書き換えてしまうのだ。如何に強力な宝具を持っていても、死者にその力は振るえない。先に倒された者に反撃の機会を与えられる事は無い。

 フラガラックとは、その事実を誇張する魔術礼装であり、運命を歪ませる相討無効の神のトリック。如何に優れた英雄であろうと、歪められた運命の枠から逃れる事は出来ない。

 

「――――戦神の」

 

 だが、それは彼女の宝具が発動すればの話。

 如何に強力な宝具を持っていても、死者にその力は振るえない。それはバゼットに対しても同じ事が言える。

 

「駄目よ、駄目駄目。あの子を殺させるわけにはいかないの」

 

 背筋が凍りつく。魔女の転移は単なる逃亡では無く、窮地を打開した先の勝利の為のもの。

 魔女は歪な形状の短剣を発動寸前の逆光剣に突き立てていた。

 

「破戒すべき全ての符」

 

 あらゆる魔術契約を断つキャスターの宝具が逆光剣に担い手を裏切らせる。

 発動を中断された逆光剣の球体が落下し、同時にエクスカリバーがゲイ・ボルグ諸共、大地を蹂躙する。

 猛烈な光と爆風に晒され、士郎達は目を開けていられなくなった。

 

 

 士郎達とキャスター陣営が交戦を始めた瞬間、既に老人は動き始めていた。

 ただ傍観に徹するも良しの状況にありながら、老人は動く事を選んだ。その理由は――――、

 

「奴等が手を組むと……?」

 

 アルトリアが肩に乗せた臓硯の使い魔に問う。

 使い魔越しに老人の嗄れ声が肯定する。

 

「――――キャスターはランサーのマスターを殺さずに宝具の発動を阻止した。どちらも結果が同じなら、マスターを殺した筈じゃ」

「それはどうかな……。あの女は優れた戦士だ。心臓を破壊されようと、宝具を発動するくらいはしたかもしれない。それを懸念したのでは?」

「ならば、脳を破壊すれば良い。あの魔女ならば可能な筈。脳を破壊すれば、その時点で宝具の発動など不可能。心臓とは違い、壊れた瞬間に人としての機能が失われる故な」

「……なるほど」

 

 バゼットを殺さなかった理由は一つしか考えられない。

 キャスターは彼等と手を結ぶ算段なのだろう。だとすれば、臓硯にして見れば最悪の展開。

 敵の陣営が巨大化する事は避けねばならない。

 

「――――負ける気はせんが、不安の種は詰んでおくに限る」

「了解した、マスター。では、仕事をするとしよう」

 

 アルトリアは円蔵山を視界に収め、自らの聖剣を振り上げた。

 彼女が思うのは先の戦闘で刃を交えた弓兵の事。

 

「……奇妙な男だ。優れた剣技を持つ癖に、自らを非才の身などと……」

 

 いや、それは恐らく事実。あの男の剣技は生来のポテンシャルを活かすものでは無く、何も基盤の無い者が必死に地力を上げ、修練に修練を重ねた結果、最適化されたもの。

 だが、如何に歳月を修練のみに捧げようよ、騎士の王とまで称された己に迫る剣技を果たして非才の者が得られるだろうか……?

 

「……まるで、私と戦う為だけに鍛え上げたかのようだった」

 

 恐ろしく、奴の剣技は己の剣技と噛み合っていた。それ故に、アルトリアは彼の剣技を褒め称えた。

 初見の相手の剣にああまで見事に合わせられる者など、そうは居ない。それこそ、天賦の才によるものだと思った程だ。

 興味が湧いた。情欲にも似た、堪え切れない興味。もう一度、刃を重ねたいと願ってしまう。けれど、己が果たすべきは“聖杯の入手”。

 ここで、自らの興味を優先し、聖杯を取り逃がすなど、あってはならない。

 

「……出来る事なら、生き延びてくれ、アーチャー。そして、もう一度、私と刃を交えてくれ」

 

 その顔は恋する乙女のように可憐。

 なれど、彼女の纏う殺気と振り上げる剣の魔力は邪悪に染め上がっている。

 

「さあ――――、私の期待に応えて見せろ、アーチャー!! そして、我が写し身よ!!」

 

 暗黒の魔力が大気をも揺るがし、迸る。

 

「約束された――――」

 

 セイバーの放つソレとは比較にならない力の波動。

 正真正銘、本物のアーサー王が振るいし一撃。それを防げる者など――――、

 

「――――勝利の剣!!」

 

 

 気が付くと、士郎達は不可思議な空間に居た。淡い光のドームの中、彼等は顔を見合わせる。自分達が生きている事実に混乱している。

 だが、直ぐに自分達の置かれている状況を判断し、臨戦態勢を整えた。

 そんな彼等の前に彼女は立っていた。

 

「キャスター……」

 

 魔女は彼等の前に無防備な姿を晒している。

 表情を引き締める彼等に魔女は言う。

 

「……ちょっと、止まっていなさい」

 

 その一言で彼等は身動きが取れなくなった。

 ランサーですら、体の自由が一切効かない状態に驚愕している。

 

「無駄な抵抗は止しなさい。如何に三騎士と言えど、空間そのものを固定化されていては動けないでしょう。安心なさい。貴方達に危害を加えるつもりは無い。ただ――――」

 

 キャスターは言った。

 

「ちょっと、アレに対処する間、邪魔をしないで欲しいのよ」

 

 キャスターが指差すのは彼等の後方。勝手に首が回り始め、彼等は“ソレ”を目撃した。

 立ち昇る暗黒の魔力。天上にまで到達し、大気をも揺るがし、大地を鳴動させるソレに全ての者の思考が一つとなる。

 見える筈の無い彼方に立つ存在。常勝無敗にして、清廉潔白なる騎士の王。彼女が振り上げる、あまねく兵達の祈りの結晶。

 その剣は正しく、担い手に“勝利”を齎す究極の剣。

 

「――――令呪をもって、命じます」

 

 抵抗に意味など無い。あれは発動したが最期、敵に敗北という事実を突きつける。

 にも関わらず、キャスターの目に迷いは無い。 

 あらゆる逆境を知略で切り抜けてこその魔術師の英霊。

 彼女の瞳には自らの敗北という未来を断ち切る意思が宿っている。

 

「アーチャー!! 自らの“最強”を創り上げなさい!!」

 

 一画の令呪が消滅し、アーチャーが彼等の前に躍り出る。

 彼は一説の呪文を紡ぐ。

 

「……I am the bone of my sword.」

 

 そして、誰もが目を見開いた。彼の手に顕現したソレは紛れも無く、彼方で敵が構えし、“最強の幻想”。

 

「嘘……」

 

 その言葉は誰のものか……。

 アーチャーはアーサー王の剣――――、エクスカリバーを手に携えている。

 

「セイバー!!」

 

 上空から髪を黒く染め上げたセイバーが降り立つ。彼の手にもエクスカリバーがある。

 同時に“同じ宝具”が三つ存在しているという異常事態。

 その驚天動地の事態に混乱する一同を尻目に稀代の魔女が自らの手に宿る令呪を掲げる。

 

「令呪をもって、我が二人の騎士に命じます。最大威力のエクスカリバーを放ちなさい!!」

 

 同時にキャスターは自らの魔術を展開する。セイバーとアーチャー。並び立つ二人の騎士に神代の魔術が次々に重なっていく。

 そして、二人は同時に聖剣を振り上げた。

 瞬間、彼方の敵が動く。暗黒に染まりし、エクスカリバーの一撃が迫る。

 対する、セイバーとアーチャーも自らが握るエクスカリバーを振り下ろす。

 

「約束された勝利の剣!!」

「永久に遙か黄金の剣!!」

 

 エクスカリバーとエクスカリバー・イマージュ。

 二つの真名解放による光の斬撃が暗黒の斬撃を迎え撃つ。

 片や担い手の中身が偽物。

 片や担い手も宝具も両方偽物。

 故に威力は迫る本物に遠く及ばない。

 けれど、二つが重なり合い、神代の魔女が力を貸せば、その威力は本物をも凌駕する。

 白き光と黒き暗黒がぶつかり合う。世界の終焉を思わせる光と暗黒の衝突は大地に皹を入れ、天上の雲を裂く。田園地帯は荒地に変貌し、余波によって巻き上げられた土砂石が隕石のように周囲に降り注ぐ。民家の屋根が吹き飛び、窓ガラスが割れていく。

 そして、ぶつかり合いを制したのは白き光。セイバーとアーチャーとキャスター。三騎の英霊の力が合わさった事でアルトリアの放ったエクスカリバーを掻き消し、その先の彼女自身へと牙を剥く。

 大幅に威力が減退しているとはいえ、相応の威力を秘めた光の斬撃にアルトリアが浮かべたのは愉悦の笑み。

 

「……素晴らしい。次に会う時が楽しみだ」

 

 光に呑み込まれながら、彼女は呟いた。

 光は彼女を呑み込み、尚も突き進む。冬木の空を明るく照らし、山の頂上を削り、空の彼方へと消え去る。

 その光景にキャスターは真顔で呟いた。

 

「……ちょっと、やり過ぎちゃったかしら」



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第二十一話 「それじゃあ、始めるとしようか」

 辺りを静寂が満たす――――。

 アーチャーとセイバーは聖剣を降ろし、静かに士郎達を見つめている。

 士郎と凜が口を開こうともがくが、キャスターの魔術によって、口を動かす事が出来ずに居る。

 

「――――悪いけど、そのままの状態で聞いてもらうわ」

 

 口火を切ったのはキャスター。

 

「長々と説明をするには場所が悪いから、単刀直入に言うけれど、私と手を組まない?」

 

 そう言うと、キャスターは指をパチンと鳴らした。途端、今まで縛っていた口の拘束が解ける。

 

「――――ふざけるな」

 

 凜よりも先に士郎は怒りを篭めて一蹴する。

 彼の瞳は虚ろな表情を浮かべるセイバーに向いている。

 

「セイバーに何をしたんだ!?」

 

 髪の色が濡れたように黒く染まり、瞳の色も透き通るような翡翠色から深い茶色に変化している。

 何もせずに変化したなどという言い訳を聞くつもりは無い。

 

「――――セイバーを生前の姿に近づけただけよ」

 

 魔女はあっさりと答えた。

 

「……生前の?」

 

 思わず問い返す士郎に魔女は告げる。

 

「アーチャーには詳しく話したのだけど、セイバーはいずれ心を病み、壊れてしまう可能性が高かった。だから、必要な処置を施しただけよ。貴方達が私との同盟に頷いてくれるなら、セイバーとアーチャーは直ぐに返しましょう。勿論、意識も回復させる」

「――――信用すると思う?」

「しないなら、ここで死ぬだけよ?」

 

 それは紛れも無い事実。頼みの綱であるランサーとバゼットまでがキャスターの術中に嵌り、動きを止められている今、彼女の一存で士郎達の命は瞬く間に掻き消える。

 その事を強く実感し、凜は唇を噛み締める。

 

「……そこまでにしておけ、キャスター」

 

 そんな彼女を案じてか、アーチャーが仮初の主に苦言を弄する。

 

「徒に煽るな。そのような態度を取っては、この二人が余計に意固地になるだけだ」

「……アーチャー?」

 

 どこか、親密さを臭わせるアーチャーの口調に違和感を感じ、凜は困惑の声を零す。

 そんな彼女を無視して、彼はキャスターに視線を送る。

 一拍置いてから、キャスターは口調を和らげた。

 

「マキリのセイバーの宝具を撃ち返したのも、貴女達を守る為というのが大きい。さすがに、この大人数を全員まとめて転移させようと思ったら、きっと間に合わなかったでしょうけど、私達だけなら逃亡は可能だった。これは貸しになるんじゃないかしら?」

「その貸しの清算として、要求を受け入れろって事?」

「そう取ってもらって構わないわ」

 

 凜は現状と彼女の要求を受け入れた後の事を思案し始めた。

 まず、第一に現状が既に詰んでいる事を考える。キャスターの一存で即座に命を詰まれる状況にある以上、そもそも交渉の余地など無い。

 にも関わらず、キャスターは強制では無く、駆け引きによる交渉を持ち掛けて来た。その意図を読み解くと……、

 

「……ああ、そうか」

 

 何故、彼女が譲歩しているのか? その理由に察しがついた。

 要は――――、

 

「――――マキリのセイバーは倒せていないのね?」

 

 キャスターは肩を竦める。

 

「マキリのセイバーが!? だって、あんなデタラメな攻撃が直撃したんだぞ!?」

 

 ついさっきの壮絶な光景が脳裏に甦り、士郎は声を張り上げた。

 二つの聖剣が織り成す光の柱。山をも削る破壊の一撃。あんなモノの直撃を受けて、無事に済むなどあり得ない。

 

「……残念だけど、あの程度で倒せるなら苦労はしないわよ」

 

 ところが、キャスターは溜息混じりにそう言った。

 

「負傷はさせられたでしょうけど、消滅には至らなかった筈。最大の“切り札”は隠し通したけど、殆どの情報を持って行かれてしまった今、徒に戦力を消費するわけにはいかないのよ……」

 

 それがキャスターの譲歩の理由。

 現在のキャスターの戦力は自らを除けば、セイバーとアーチャーのみ。それでも、マキリの陣営を滅ぼすには十分な筈だった。けれど、それはあくまで敵に此方の情報を開示していない事が条件。

 特にアーチャーの剣技は可能な限り隠して置きたかった“切り札”の一つだ。それを敵に知られてしまった事が何よりの痛手。

 

「マキリ・ゾォルケンは抜け目が無い。恐らく、既に対策を練り始めている事でしょう。今、私達が争えば、確実に漁夫の利を得ようと動き、奴が勝利を収めてしまう」

 

 現状の停滞はあくまで、全員が自らの生存を視野に入れているからに過ぎない。

 誰か一人が命を投げ出す覚悟をした場合、この程度の拘束がいつまでも保つ筈が無く、そうなれば最期、血みどろな戦いが繰り広げられる事になるだろう。

 特にランサーとバゼットは既に切欠さえあれば動く気配を見せている。

 

「それは頂けない話ですもの……。だからこその提案よ」

 

 受けるべきか、拒絶するべきか……。

 迷いは一瞬だった。

 

「……分かった。受けるわ、その提案。士郎達もいいわね?」

 

 そもそも、この提案を蹴るという事はセイバーとアーチャーを取り戻す機会を失う事を意味する。

 最大の好機を逃してしまった以上、もはや、セイバーとアーチャーの奪還から、討伐へと路線を変更せざる得ない状況にある。

 此度の作戦の肝は急襲による速攻。相手が完全な警戒態勢に入ってしまった今では……。

 

「――――いい訳が無いでしょう」

 

 そう断じたのはバゼット。

 

「神代の魔女と取引を行うなど、正気ですか?」

「バ、バゼット……?」

 

 彼女の放つ殺気に士郎は思わずたじろいだ。

 途端、バゼットとランサーが動いた。

 ランサーが狙うのはキャスターの首。そして、バゼットが狙うのは――――、

 

「やめろ、バゼット!!」

 

 士郎の叫びと同時にセイバーとバゼットの間に紅の影が割り込む。

 常の双剣を手に、バゼットを迎え撃つ。

 その瞬間、まるで時が巻き戻ったかのような錯覚を覚えた。

 突如、ランサーとバゼットが後退したのだ。瞬時に入れ替わった二人にキャスターとアーチャーが僅かに動揺を見せる。

 刹那、士郎は思い出した。彼等が士郎達に手を貸す理由は聖杯の解体を円滑とする為の手駒の確保と情報の入手。

 その為の“証文”であり、士郎達と彼等の関係はあくまでそうしたドライなものだった。

 

「――――ふざけるな」

 

 勘違いしていた。ランサーとの交流を通して、彼等との間に信頼関係が築けたと勘違いしていた。

 彼等がセイバーの救出を提案したのは単に手駒の増強の為。だが、魔術師の英霊と手を組むという事は彼等の計画の破綻を意味する。

 何故なら、キャスターの宝具、“破戒すべき全ての符”ならば一度交わした魔術契約を解除する事が出来るからだ。

 それでは、士郎達を己に都合の良いように使う事が出来なくなる。

 故に、彼等は選んだ。今、この場で何としてもキャスターを打ち倒す。その為にセイバーとアーチャーが障害となるなら、消滅させる事も辞さない構えだ。

 ランサーの手にはエクスカリバーによって蒸発した筈の魔槍が握られている。どうやら、直撃を受ける寸前に発動を中断させ、手元に戻していたらしい。

 

「刺し穿つ――――」

 

 瞬間、時間を止めた。衛宮士郎の内部を総加速させ、刹那を永遠に偽装する。

 

「――――投影開始」

 

 宝具の発動態勢が整い、残り零コンマ数秒の後に魔槍がアーチャーの心臓を貫く。

 それを阻止するには、一瞬で良い。奴の動揺を誘う必要がある。

 使うべきモノ、選び出すべきモノを決定する。ただ、それだけで投影は成る。

 

「――――あ?」

 

 呆気に取られるランサー。必殺の宝具を発動する寸前であったにも関わらず、彼がこのような表情を浮かべてしまった理由は明白。

 自らとマスターであるバゼットとの間にある筈の繋がりが断たれた。

 

「破戒すべき全ての符!!」

 

 投影した時点でキャスターの魔術は崩壊した。彼女が固定していたのは士郎達の肉体では無く、周囲の空間。故に“裏切りの短剣”が現れた時点でその術式は崩壊する。

 同時に走り出し、奴が宝具の真名を紡ぐより先に手を伸ばした。

 ランサーにとっての誤算は士郎がキャスターの固定の魔術を打ち破れるとは思っていなかった事。

 

「――――テメェ」

 

 殺気は奔らせ、士郎を睨むランサー。そんな彼に赤き弓兵が斬りかかる。

 

「ッハ、小僧風情にしてやられたな、ランサー!」

 

 赤き弓兵を一撃で落とす。それが彼に託された役割だった。それが為せなかった今、彼の表情には焦りが広がる。

 何故なら、この場にはもう一人、自由に動ける英霊が居る。

 

「バゼット!! セイバーが行ったぞ!!」

 

 士郎が咄嗟に視線を向けると、拳をキャスターの腹部に叩き込み、壁に激突させるバゼットの姿があった。

 キャスターのダメージは酷い。たかが人間と侮ってはならない。彼女は封印指定の執行者。

 ただの一撃がミサイル級の威力を誇り、キャスターの腹部を半分吹き飛ばしている。

 幸い、霊核である心臓は守り抜いたようだが、彼女は動けずにいる。そんな彼女に止めを刺そうと大地を蹴るバゼット。

 そこへ変貌したセイバーが襲い掛かる。以前までの彼とは比較にならない冴え渡った剣技。堪らず、バゼットは後退を余儀なくされ――――、

 

「風王鉄槌!!」

 

 ストライク・エア。通常はエクスカリバーを収める鞘として使われているアーサー王の風属性の結界宝具。

 それを大砲の如く撃ち出し、バゼットの肉体に叩き込む。更に吹き飛ぶバゼット。そこへ、止めとばかりにセイバーが聖剣に魔力を篭める。

 刹那、士郎の眼は見えない筈の彼方に居るバゼットの姿を捉えた。その拳の先には見覚えのある球体が浮んでいる。

 

「止めろ、セイバー!!」

 

 士郎がセイバーの目の前に躍り出た。尚も構わず聖剣を振り下ろそうとするセイバーにキャスターが一節の祝詞を唱えた。

 瞬間、セイバーの瞳に光が宿る。聖剣の魔力が霧散し、彼の手から零れ落ちた。

 

「し……、ろう?」

「セイバー……」

 

 自らの名を呼んだセイバーに士郎は歓喜の笑みを浮かべた。その背後にランサーが迫る。

 

「――――悪いが、これもマスターの方針なんでな」

 

 彼はキャスター討伐の為に事前に用意していたルーン魔術のストックを解き放ち、アーチャーを足止めしていた。

 如何に英霊といえど、アーチャーの対魔力は低い。ランサーの神代のルーン魔術に対し、対処が遅れた。

 

「もう一回、死んでくれや、シロウ!!」

 

 伸びる真紅の魔槍。士郎に避ける暇は無く、セイバーは現状を認識出来ずに居る上、キャスターも限界ギリギリ。

 万事休す。士郎はせめてセイバーだけでも守ろうと彼女を突き飛ばそうと手を胸元まで掲げ――――、

 

「――――舐めた真似してんじゃないわよ、ランサー!!」

 

 怒りの魔神の咆哮を聞いた。

 士郎が“破戒すべき全ての符”を投影した時点で、彼女達の拘束も解かれていたのだ。

 そして、彼女はポケットから今宵の決戦用に用意した宝石を解き放ったのだ。

 

「ック――――」

 

 ランクAにも達する炎と雷。さしものランサーも直撃を回避する為に後退を余儀なくされる。

 そこへ、一拍遅れたアーチャーが迫る。その顔に浮ぶは憤怒を超えた憎悪。

 

「――――消えろ、ランサー!!」

 

 その手に握られている陰陽の双剣が形状を変化させる。

 刀身が巨大化し、鳥の翼のような形状に変化する。

 得物の刀身の変化に一瞬対応が遅れたランサー。魔槍をもって、防ぐも大きく弾き飛ばされる結果となる。

 

「――――ッチ」

 

 舌を打つと、ランサーは踵を返した。いつの間にか、バゼットの姿も見当たらない。

 

「ったく、お前達との同盟も悪くなかったんだがな……」

 

 そう言い残すと、彼は闇の中へと消えて行った。

 後に残された士郎の胸に去来したのは一時的とは言え、仲間だと信じた相手に殺されかけた事に対する憤りだった。

 彼の消え去った方角を睨みながら、険しい表情を浮かべていると、凜やイリヤ、アーチャーが戻って来た。

 そして、チョンチョンと肩に触れる柔らかな感触を感じ振り返る。

 瞬間、頭の中が真っ白になった。

 振り返った先には少しだけ容姿が変化したセイバーの顔。

 とても近かった。合間が五センチも無い。そして、セイバーは尚もその距離を詰めようとする。

 咄嗟に離れようとしたが、セイバーが彼の背中に手を回し、動きを縫い止めた。

 

「ちょ、セイバー!?」

 

 仰天する彼にセイバーは更に顔を近づけ、彼の唇に自らの唇を合わせた。

 

 

 森の中を走り抜け、マスターであるバゼットと合流したランサーは苦い表情を浮かべていた。

 

「……別に、あんな風に焦る必要は無かったんじゃねーか?」

 

 言うにしても遅過ぎる言葉だが、ランサーは言わずに居られなかった。

 マスターの命故に従ったが、士郎達を裏切る事が最善の選択であるとは思えなかった。

 そんな彼に彼女は言う。

 

「ああした方が分かり易いでしょう」

「あ?」

「生憎、私にとって、キャスターとマキリの脅威度はあまり変わらない。ですが、キャスターならば対処のしようもある」

「つまり……、お前」

 

 呆れたように溜息を零すランサーにバゼットは言った。

 

「キャスターと行動を共にすれば、妙な仕掛けをされないとも限りません。故に一度戦線より離脱し、事態を傍観する事とします。キャスターとマキリ。片方の陣営が滅びた時こそ、私達が再び動き出す時です。願わくば、キャスターと士郎君達がマキリを滅ぼしてくれるのが理想。そうならなくとも、ある程度消耗させてくれさえすれば……」 

「お前って、本当に容赦無い性格してるよな……」

「効率的と言いなさい。それより、一度教会に向かいましょう。監督役と今回の戦闘での被害の隠蔽について魔術協会の使者として談義する必要があるます」

「ああ、“あの女”とか……」

 

 何故かゲンナリした様子を見せるランサーに首を傾げるバゼット。

 

「どうしました?」

「……いや、何か苦手なんだよ、あの女」

「貴方らしくありませんね……。ビシッとしなさい」

「へいへい……」

 

 主従は歩く。橋の向こうの教会に向けて――――。

 

 

 負傷し、体を引き摺るようにしながら戻って来たアルトリアは臓硯から事の顛末を聞き、笑みを浮かべた。

 

「よもや、アーチャーまでが私の剣を持ち出してくるとは思わなかった……。体の負傷を癒すには丸一日掛かるか……。その後は――――」

 

 アルトリアは老人から離れ、常の住処としている地下蔵に向いながら朗らかな笑顔を浮かべた。

 

「楽しみだ。待っていろ、アーチャー」

 

 聖杯は欲しい。だが、少しの寄り道程度ならば構わないだろう。

 体の疼きを必死に抑えながら、アルトリアは地下に繋がれている生贄の腕に歯を突き立てた。

 魔力と一言で言っても種類がある。あるいは、それは生命力であったり、記憶であったりもする。

 魔力の純度を効率的に上げるには幾つかの手段があるが、もっとも簡単なものは記憶の濃縮化だろう。

 活かさず殺さずの拷問を繰り返す事で“苦痛の記憶”を植えつける。苦痛は快楽以上に消え難い記憶であり、幸福などよりもずっと密度が濃いものだ。

 それ故に、魔術師としての適正が無い一般人でも、セイバーの膨大な魔力の器を満たす助けと成る。

 

「――――早く回復せねばならん。この者達だけでは足らぬな……」

 

 アルトリアは拷問の順番待ちをしている憐れな娘達が閉じ込められている部屋に向う。

 そこはまるで戦争末期の収容施設のような有り様だった。最も多感な思春期の女達が裸のまま詰め込まれている。座るスペースすら無く、只管立ち続ける事しか出来ない暗闇。それは痛みを伴わぬ拷問。

 ここでゆっくりと純度を上げながら、仕上げの拷問を施す事で魔力源としての完成となる。

 

「時間が惜しい。手っ取り早く、全員を焼いた鉄板の上で躍らせるとしよう」

「……で、その準備は僕にやれってんだろ?」

 

 溜息混じりに彼女の恐ろしい提案を受け入れたのは間桐慎二。

 彼は立ち続ける事を強要されている女達の中に同級生の姿を見た。

 彼女は慎二の顔を見て、一瞬希望を見出したかのように表情を輝かせ――――、

 

「鉄板なんて用意するのは手間だ。そんな事しないで、手っ取り早く蟲に任せればいいじゃないか」

 

 その言葉に凍り付いた。

 

「しかし、アレを使うと苦痛より先に恐怖で壊れる事が多いからな」

「先に快楽を与えて馴染ませてやればいい。それで恐怖感を和らげてからじっくり苦痛を与えてやればいいじゃないか」

「……おお、頭が良いな、慎二」

 

 確かに、飴と鞭の使い分けは拷問の基本。ただ、普通は飴より先に鞭を振るうものなのだが、正に逆転の発想だ。

 称賛の眼差しを向けて来るアルトリアに慎二は肩を竦める。

 

「とりあえず、ちゃっちゃと済ませよう。桜の食事に何人か貰うぞ?」

「ああ、構わん。後で臓硯に補充しておくように言っておこう」

「よろしくー」

 

 二人はまるで料理の作り方を話すような調子だった。

 けれど、彼等の言葉を耳にしてしまった生贄の娘達は既に恐怖のあまり泣き叫んでいる。

 

「それじゃあ、始めるとしようか」



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第二十二話「あの、――――第四次聖杯戦争で」

 キスというものについて、士郎は勿論知っていた。国や値域によって、多少の差異はあるだろうけど、大抵の場合、“ソレ”は好き合う男女が愛を確かめ合う為の儀式だ。人間の五感の中でも際立って敏感な粘膜同士を接触させる行為。この国では時に淫らと揶揄される事もある行為。知ってはいた。けれど、経験するのは初めてだった。唇同士が触れ合った瞬間、稲妻が士郎の体を引き裂いたようだった。鮮烈な感触に抵抗する意思が薄れ、されるがままとなる。

 士郎の体から力が抜けた途端、セイバーの口元は激しく、荒々しくなり、彼の腰に回していた手を顔に沿わせ、引き寄せた。唇同士が急き立てられるかのように馴染みの無い動線を描く。あまりにも強烈な感覚に頭がふらつき、わけがわからなくなっていく。

 肉体と精神は別物だと誰かが言った。心では止めなければいけないと分かっているのに、肉体が理性を押し退ける。静寂が満ちる夜闇の中、二人の息遣いばかりが大きく響き渡る。周囲に大勢の人が居る事や彼等の視線が自分達に向けられている事に頓着している余裕が無い。

 狂おしく乱れるセイバーの吐息に士郎は荒々しく呻く。固まっていた筈の腕が緊張という名の束縛を突き破り、セイバーの髪を指で絡ませる。

 

「――――って、シロウ!! ちょっと、こんな場所で何してるのよ!?」

 

 誰よりも早く立ち直ったのはイリヤだった。それまで、目の前で起きた衝撃の光景に固まっていたが、漸く我に返り、二人の間に小さな体躯を滑り込ませた。

 それで漸く、士郎の瞳に理性の光が戻る。まるで、藤ねえに叱られたかのような錯覚を覚え、体に電撃が走ったかのようにビクリとした。

 腰に手を当て、お叱りモードのイリヤに士郎は慌てて言い訳を考える。そんな彼にセイバーがイリヤを押し退けて近寄る。

 

「……しろう」

 

 まるで、砂糖菓子のように甘ったるい声。一瞬、それがセイバーの発したものとは分からなかった。

 寄り掛かって来るセイバーの表情は甘えに満ちている。

 

「――――説明してくれるのよね?」

 

 イリヤはピクピクと米神を痙攣させながらキャスターに問う。

 吹き飛んだ腹部を既に元通りにしたキャスターが小さく頷く。

 

「――――とりあえず、ここを離れましょう。溜め込んでいた魔力の大部分を消費してしまったし、これからここには聖堂教会の人間が大挙して押し寄せて来るでしょうから……」

「……なら、衛宮邸に向いましょう」

 

 提案したのは凜だった。人前でとんでもない事を仕出かしたバカ共に気を取られている暇は無い。

 ここはキャスターの神殿。いつまでも長居はしたくない。それに、セイバーが洗脳されている可能性もあるし、今のキスで士郎の体に何かを仕掛けられた可能性がある。それを確かめる為にもココに留まるのは愚策。

 

「ほら、行くわよ、しろ――――」

 

 振り向いた凜の視線の先には頬を赤らめ、士郎の腕に自分の腕を絡ませてご満悦な表情のセイバー。

 

「……なんか、イラッと来るわね」

 

 人が真面目にあれこれ考えている時に……。

 

「落ち着きなさい、リン」

 

 嗜めたのはイリヤ。

 

「――――今は余計な事をせずに衛宮邸に向いましょう。今のセイバーは十中八九、キャスターに精神操作されている。下手な事をして、士郎に牙を剥かれても、私達じゃ助けられないわ……」

「……随分な変わりようね。一度は士郎を殺した癖に」

「それは聖杯戦争だったからよ。バーサーカーを奪われた以上、私は敗者。だから、後は傍観に徹するのが筋なんでしょうけど……。私は聖杯の担い手となる勝者がシロウだったら最高だと思ってる。だから、シロウを勝者にする為に動く」

 

 この場合、彼女が口にした“聖杯”とは、“彼女自身”を意味する。いずれ、自らの身を勝者に捧げなければならない以上、その相手を自ら選定したいと思う事におかしな点は無い。

 けれど、あくまで士郎はイリヤにとって、並み居る敵の一人。敢えて、彼だけを特別扱いする理由とは――――、

 

「……何度も外で会って、絆されたわけ?」

「まあ、近いかもしれないわね。ただ、もっと根本的な理由が別にある」

 

 凜の揶揄するような言葉に悠然と笑みを浮べ、イリヤは言った。

 

「今の私はシロウの敵では無く、ただのお姉ちゃんなのよ。だから、弟の為に手を焼きたい。あの子が幸せになれるように全てを尽くす。この命も例外じゃないわ……」

 

 士郎に聞かれないようにする為か、イリヤは声を抑えていった。

 彼女の真意を量りかね、途惑う凜に彼女は言った。

 

「私の母の名はアイリスフィール・フォン・アインツベルン。そして、父の名は――――、衛宮切嗣」

 

 思わず声を上げそうになる凜にイリヤは人差し指を口に当ててシーっと黙らせた。

 

「もう、十数年くらい前の事になるかな。アインツベルンは自らの戦闘能力の低さを嘆いていた。研究をしているだけなら、戦闘能力なんて有っても無駄だけど、聖杯戦争という大儀式において、最も重要視されているのが“ソレ”だから……。だから、お爺様は外来の魔術師を身内に引き入れる事にした。当時はちょっとした話題になったそうよ」

「そうでしょうね……」

 

 話の筋が見えてきた事で凜は頭が痛くなった。

 

「――――その外来の魔術師が衛宮切嗣だった。そして、アインツベルンが宛がった魔術師との間に貴女を産み落としたって事?」

「その通りよ。後は知っての通り。切嗣はアインツベルンが用意した聖遺物を手に、聖杯戦争に参加し、二度とアインツベルンの城に帰って来る事は無かった」

 

 イリヤは悲しげに呟いた。

 

「シロウの事を知ったのは少し前の事だった。私から切嗣を奪い、息子として傍に居る彼の事を憎いと思った事もある。だけど……、実際に会って、話をして……」

 

 イリヤは深く溜息を零した。

 

「憎しみなんて感情を持たせてくれる相手じゃなかったわ。ほんの僅かな時間を共に過ごす内、どんどん憎しみや怒りが愛情に摩り替わっていくのが分かった」

 

 イリヤは疲れたように士郎を見た。

 

「セイバーも……。切嗣が召喚したサーヴァントと同じものだと思ってたから、正直言って、嫌いだったわ」

 

 肩を竦める。

 

「だけど、セイバーも嫌いなままにさせてくれない。本当に困った主従よね」

「まあ……、そこは同意しておくわ。放っておくと、勝手に死んじゃいそうで目が離せないし……、困った主従よ」

 

 凜も苦笑を零した。

 

 

 衛宮邸に戻って来ると、少し安心感が湧いた。さっきから、腕に感じるセイバーの柔らかさに対する戸惑いも少しだけ和らいだ気がする。

 

「ほら、ついたぞ、セイバー」

「う、うん……」

 

 セイバーの様子がおかしい理由を道中でキャスターに教えられた。

 セイバーがどうして召喚されたのかについても……。

 

「大丈夫か?」

 

 キャスターはセイバーに長い夢を見せていたらしい。女の子の体である事を許容出来るように夢の世界でじっくりと時間を掛けて慣らしたのだと彼女は説明した。

 その説明の辺りからだろうか? セイバーの様子が少しずつおかしくなり始めた。

 幸せ一杯な笑顔が徐々に抜け落ちていき、俯いてしまった。今では少し震えているようにも見える。

 

「お、おい、セイバー?」

 

 声を掛けると、セイバーは顔を背けた。

 

「す、すみません、士郎さん。わたくし、少々私用がありまして、先に部屋に行かせて頂きます」

「ちょ、セイバー!?」

 

 士郎からのろのろと手を離した後、セイバーは脱兎の如く走り去った。

 唖然とする士郎を余所に他の面々はどこか悟ったような表情を浮かべている。

 その直後――――、

 

「ギニャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?」

 

 離れからこの世のものとは思えない絶叫が響いた。

 

「セ、セイバー!?」

 

 慌てて追いかけようとする士郎をアーチャーが押さえ込んだ。

 

「お、おい、何するんだ!! セイバーが悲鳴を上げたんだぞ!?」

「大丈夫だ。大丈夫じゃないが、大丈夫だ。とりあえず、慈悲をやれ」

「何言ってるのか分からねぇよ!!」

 

 肩を抑え付けられながら、尚もジタバタする士郎を尻目に凜とイリヤは白い眼をキャスターに向けた。

 

「貴女……、生粋のサディストね」

「鬼でしょ……」

 

 

 彼の傍に居ると、酷く心地が良かった。安心と幸福。その両方が無償で得られる。

 士郎の肌の香りを吸い込み、ぬくもりを感じる。

 

「――――セイバーの魂は元々――――だから、今は――――」

 

 さっきから、幸福に水を差す雑音が響く。

 今まで、彼以外の声が聞こえる事は無かった。酷く耳障りだ。

 

「――――セイバーには夢を見せていた。女の体である事に抵抗を抱かないように」

 

 何だか、聞き捨てならない言葉が聞こえた気がする。

 そう言えば、今まではずっと彼と二人っきりだったのに、何だか見知った顔がぞろぞろ並んでいる気がする。

 時々、彼女達がチラチラと此方を見てくる。

 何だか、猛烈な不安を感じ、彼の腕をより強く抱き締めた。

 すると――――、

 

「セイバー……」

 

 いつもなら、甘い言葉を囁いてくれる彼が困ったような声を発した。

 案じるような、不安を帯びた声。

 途端、今まで思考をぼやかしていた霧が晴れた。

 ……晴れてしまった。

 

「……あれ?」

 

 おかしい。何で、俺は士郎君の腕に抱きついているのだろう。

 いや、今までの記憶はちゃんと残っている。

 不思議な夢を見ていた。士郎君とまるで新婚夫婦のように只管愛し合うというとんでもない夢を見続けていた。

 何の目的かは定かでは無いが、どうやら、キャスターが見せていたらしい。

 ただ、今の問題はそこじゃない。どうやら、いつの間にか己は夢から覚めていたらしい。

 

「…………ッ」

 

 ちょっと待ってよ……。

 何だか、取り返しのつかない事をしてしまった気がする。

 百歩くらい譲って、士郎君の腕に抱きつくのはいい。限り無くアウトに近い気もするが、まだセーフという事にしておく。

 だけど、キスはまずいだろ。舌まで入れちゃった。ファーストキスだったのに、男にキスして、思いっきり堪能してしまった。

 多分、士郎君もまだ未経験だった筈。桜ちゃんに手を出しているとも思えないし、藤ねえとキスしている姿は想像出来ないし……。

 自分よりも年下の男の子の唇を奪い、あまつさえ舌を入れる……、完全に犯罪者だ。

 自分の仕出かしてしまった事に顔が青褪め、震えが止まらなくなる。何が恐ろしいって、キスした事自体には嫌悪感が皆無だという事だ。

 

「お、おい、セイバー?」

 

 士郎君の声が耳元で囁かれる。それだけで心臓が大きく跳ねた。

 まずい……。非常にまずい……。士郎君の顔をまともに見られない。

 

「す、すみません、士郎さん。わたくし、少々私用がありまして、先に部屋に行かせて頂きます」

「ちょ、セイバー!?」

 

 猛烈な名残惜しさを必死に振り払いながら、士郎君の下を離れて走る。離れまで行き、空き部屋に滑り込む。

 一気にベッドに飛び込み、瞬間、絶叫した。

 

「ギニャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?」

 

 ベッドの上を転がり、床に落ちても転がり続ける。

 ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ。

 マジでこれからどうやって士郎君と一緒に居ればいいのか分からない。

 というか、凜とイリヤに見られた。男にキスしてるとこや甘える所を見られた。

 

「ミギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?」

 

 死ぬしかない。今直ぐに死ぬしかない。

 ああでも、士郎君になんてお詫びをすればいいのか分からない。死ぬ事がお詫びになる相手じゃない。

 困ったぞ、困ったぞ、困ったぞ、困ったぞ、困ったぞ、困ったぞ、困ったぞ、困ったぞ、困ったぞ、困ったぞ、困ったぞ。

 せめてバードキスだったなら、まだ言い訳……立てられなくも無かった気がしないでもない……多分。

 でも、やってしまったのはディープな方だ。言い訳不可能。単なるホモ野郎では済まされない。

 ショタコンという、より業の深い領域に全身でダイブしてしまった。

 

「キャ、キャキャ……キャスター!!!」

 

 全部アイツのせいだ。何の意図があったか知らないが、あんな夢を見せるからこうなったんだ。

 ぶっ殺してやる。アイツを殺して自分も死ぬ。

 

「うおおおおおおおお!! ぶっ殺してやるぞ、キャスター!!」

 

 エクスカリバーを手に魔女の討伐を志す。

 迷いも躊躇いも無い。必死に走り、声のする方に向う。

 

「キャスター!! テメェ、絶対にぶっ殺――――」

「……士郎君バリア」

 

 居間に入った瞬間、キャスターが士郎を立たせて、その後ろに隠れた。

 途端、セイバーは震えだした。彼の顔を見た瞬間、急激に自分の態度が恥ずかしくなった。

 はしたないと思われたくない。そんな奇妙な感情が湧き上がり、セイバーは唇を噛み締めて、泣いた。

 

「ひ、卑怯だぞ、キャスター!!」

 

 駄目だ、こんな所には居られない。

 

「ちくしょう!! キャスターのばかぁぁぁああ!!」

 

 ドタバタと走り去るセイバー。完全な敗者の姿だった。

 元居た部屋に閉じこもり、布団を被って転がり続ける。

 セイバーが漸く落ち着いたのは翌日の朝の事だった――――。

 

 

「だ、大丈夫か、セイバー?」

 

 漸く部屋から出て来たセイバーに士郎がお茶を出しながら問い掛ける。

 どこかやつれた感じのするセイバー。士郎の感謝の言葉を告げながら、一息で飲み下す。

 そして――――、

 

「ごめんなさい、士郎君」

 

 謝った。誠心誠意、心を篭めて頭を下げた。

 

「……え?」

 

 目を丸くする士郎にセイバーはぼそぼそと言う。

 

「……いやもう、本当に色々と迷惑を掛けちゃって」

「迷惑だなんて、思ってない」

 

 実に男らしい事を言い出す士郎。

 

「……や、やるな、士郎君」

「は?」

「いや……、それより、その……キ、キ……キスした事もその……ごめんなさい」

 

 顔を真っ赤にして謝るセイバーに士郎は苦笑した。

 

「別に気にして無い。セイバーだって、キャスターに変な夢を見せられたから錯乱してただけだろ? セイバーだって、被害者なんだ。責める筋合いなんか無い」

「う、うん。そう言ってもらえると……嬉しいです」

 

 許してもらえて嬉しい筈なのに、何だか心がもやもやする。

 とにかく、後でキャスターと話をつけた方がいいだろう。きっと、洗脳の類を施されたに違いない。

 

「とりあえず、セイバーに今起きている事を説明するように言われてる」

 

 居住まいを正して言う士郎にセイバーも慌てて背筋を伸ばす。

 

「まず、セイバーがキャスターに捕らえられた後の事なんだけど――――」

 

 士郎はこれまでに起きた出来事を順序立ててセイバーに語り聞かせた。

 セイバーは影の出現に表情を青褪め、もう一人のセイバーの存在に驚愕した。

 

「つまり……、本物のアーサー王がこの戦いに参加しているって事?」

「ああ、そういう事だ。キャスターから聞いた話によると、それがセイバー……、悟が召喚される事になった理由らしい」

「……どういう事?」

 

 士郎はキャスターに聞かされた“日野悟がセイバーとして召喚された理由”を語った。

 語り終えた後、士郎は深く頭を下げた。

 

「……本当にすまないと思ってる」

「し、士郎君!?」

 

 途惑うセイバーに士郎は言う。

 

「悟がこの戦いに巻き込まれたのは俺が無理矢理召喚を行ったからだったんだ……。本当にすまない……」

 

 彼の顔に浮ぶ表情にセイバーはうろたえた。苦悩などという言葉で表現出来る生易しい表情では無い。

 まるで、誰かに火を放たれたかのような苦悶の表情。よく見れば、彼の顔はどこか痩せて見える。目の下にもクマが出来ている。

 

「士郎君……、ちゃんと寝てるの?」

 

 己がここに召喚された理由などどうでも良い。それより、士郎の体調が心配だった。

 

「……俺の事なんてどうでもいい」

「良くない!! まさか、俺がキャスターの下に行ってから一睡もしてないんじゃないだろうな!?」

 

 否定の言葉が返ってこない。恥ずかしさも申し訳なさも吹き飛んだ。

 

「こんな事をしてる場合じゃない!! ちゃんと体を休めなきゃ!!」

「……俺は」

「言い訳も何も聞く気は無いぞ!! 御飯は食べたの!? まだなら、直ぐに用意するから食べて、寝るんだ!!」

 

 言いたい事や考えたい事が山程ある。だけど、最優先は士郎の体調だ。あんな風にやつれるなんて只事じゃない。

 冷蔵庫を開けて、材料を見繕い、栄養の付きそうなものを用意する。卵は消費期限が過ぎていて使えなかった。

 買出しにも行っていなかった。その事実が重く圧し掛かる。

 

「セ、セイバー。料理なら俺が――――」

「いいから、君は座っていろ!!」

 

 有無を言わさず怒鳴りつけて調理に取り掛かる。

 簡単な物ばかりだが、味は問題無い筈。

 

「ほら、キチンと食べてくれ」

 

 お茶を入れて、士郎に差し出す。

 士郎は堅い表情のまま、箸を手に取った。

 キスしたとか、そんなくだらない理由で一晩を無駄にしてしまった事が悔やまれる。

 もっと早く、士郎の異常に気付いてあげるべきだった。こんな風にやつれているのに気付かないでいたなんて……。

 

「食べ終わったら、直ぐに眠るんだよ?」

「……いや、そんな暇は無い」

「――――何、言ってるの?」

 

 眠る事は暇が無いからと言って、無視していいものじゃない。

 怒りを滲ませるセイバーに士郎は言う。

 

「強くならなきゃいけないんだ……。だから、休んでいる暇は無い」

「……ふざけるなよ。君は自分の姿が見えていないのか!? そんなにやつれて――――」

「ふざけてなんかいない!!」

 

 声を荒げる士郎。けれど、セイバーも引く気は無かった。

 

「ふざけてるよ!! そんな体調で無理をしたって、何の意味も無い!!」

「……でも、もう嫌なんだ!!」

 

 士郎は吐き出すように叫んだ。

 

「俺が弱いせいで、セイバーが傷ついたり、遠くに行くなんて、嫌なんだ!!」

「し、士郎君……」

 

 セイバーはうろたえた。士郎の目から涙が零れていたから……。

 

「――――俺は弱いままじゃ嫌なんだ」

 

 その言葉に言い返す事が出来なかった。

 

「……だから、己の我侭を通し、セイバーを困らせるのか?」

 

 突然、部屋に現れてアーチャーが言った。

 

「……なんだと?」

「セイバーの言う通りだ。今の貴様の体調では鍛錬に時間を割くだけ無駄だ。一度眠り、体調を整えてからにしておけ」

「でも――――」

「焦るな……、と言う方が無茶なのだろうが、それでも焦るな。セイバーを守りたいなら、常に冷静さを忘れるな。一時の感情に踊らされ、間違った選択をしてしまえば、後に残るのは後悔ばかりだ……」

「アーチャー……?」

 

 士郎とセイバーが困惑するのを尻目にアーチャーは静かに姿を消した。

 

「……えっと、アーチャーもああ言ってたし」

「……分かった」

 

 

 夕刻になり、士郎が目を覚ますと居間には一同が勢揃いしていた。

 

「起きたのね、士郎」

「ああ、すまない。こんな時だってのに――――」

「士郎は無茶をし過ぎる性分だから、折角休んでくれたのにとやかく言う奴は居ないわ」

 

 苦笑する凜に士郎は感謝の言葉を伝え、セイバーの隣に座った。

 

「それじゃあ、士郎が起きたところで早速なんだけど、言峰教会から出頭命令が届いたわ」

 

 凜の言葉に士郎が目を丸くする。

 

「出頭命令……?」

「ええ……。今回は騒ぎが大き過ぎたから、監督役が動き出したみたい。まあ、監督役とは知らない仲じゃないし、今回の事はマキリの側に非がある。そうそう悪いようにはならないと思うわ」

「監督役か……」

 

 凜の言葉にセイバーが表情を曇らせる。

 

「どうしたんだ?」

「いや……、何でもない。それより、全員で向うのか?」

 

 セイバーの問いに凜は「もちろん」と応えた。

 

「下手に戦力を分散させるのは避けたいから、教会には全員で向う事にする」

 

 その後、それぞれ身支度を整え、教会に向って歩き出した。

 

「そう言えば……」

 

 道中、歩きながら士郎が呟く。

 

「キャスターのマスターはどうしたんだ? 一緒に居なくて大丈夫なのか?」

 

 その問いに応えたのはキャスター当人だった。

 

「マスターの情報は完璧に隠蔽しているから、むしろ、一緒に居ない方が安全なのよ。まあ、万が一の場合には備えているから大丈夫よ」

「そうなのか……」

 

 二人の会話に小さく舌を打ったのは凜とイリヤ。

 あわよくば、キャスターのマスターの情報を得られるかもしれない、と一瞬期待してしまったが故だ。

 すると、そんな彼女達にキャスターは微笑んだ。

 

「マスターの事が知りたいなら、アーチャーにでも聞いてごらんなさい。彼には教えてあるから」

「え?」

 

 凜とイリヤが同時にアーチャーを見た。

 

「……キャスター」

「教えても構わないわ。それで裏切るつもりは無い。と言うより、それを私が裏切らない証と受け取ってもらって構わないわ」

「――――なるほど、了解した。キャスターのマスターについては帰宅後に話す。すまんな、下手に口にしてキャスターの機嫌を損ねては面倒になると思って黙っていた」

「……教えてくれるなら、構わないわ」

 

 どこか不信な光が宿る眼差しを向ける凜にアーチャーは苦笑した。

 

「すまないな、マスター」

「……フン」

 

 

 しばらく歩いていると、漸く言峰教会が見えて来た。

 士郎がここに来るのは“数年振り”だった。

 

「それじゃあ、行きましょうか」

 

 凜の掛け声に一同が頷く。ただ一人、セイバーだけが警戒心を顕にして周囲を見回しながら歩く。

 そんな彼を不思議に思いながら、士郎は教会の入り口を潜り抜けた。

 途端、ピアノの音が聞こえて来た。

 

「……あら、来たのね、凜」

 

 ピアノの音が止み、代わりに少女の声が響く。

 その姿にセイバーの目を見開かれる。

 白い髪、金色の瞳。彼女をセイバーは知っている。けれど、彼女がここに居る事はありえない筈。

 本来、彼女は聖杯戦争に関わらない筈の人間だ。

 四日間を繰り返す、アンリ・マユの夢。そこに出来た穴を埋める為の存在。

 ここに“本来居る筈の男”の“娘”であり、聖杯戦争の後、どうあっても生き残る事の出来ない彼の変わりに監督役という立場を宛がわれた少女。

 

「――――久しぶりね、カレン。出頭命令に応じたわ」

「感謝します。少々、今回の騒ぎで上から厳しい指摘を受けまして――――。いえ、これは全員が集まってからにしましょう」

 

 そう言うと、彼女は扉に目を向けた。

 再び開かれた扉の向こうから現れたのは――――、

 

「臓硯!?」

 

 間桐臓硯が一人、教会の中を突き進む。全員の警戒レベルがトップになる。

 

「――――そう、構えるでない。今宵は教会の出頭命令に応じたまでの事よ」

 

 呵々と笑う老人にアーチャーが殺気を走らせ、前に出る。

 

「止めなさい、アーチャー。ここで手を出せば、こっちが教会にペナルティーを課される事になる」

 

 今にも飛び掛りそうなアーチャーを凜が諌めた。

 

「……了解した」

 

 そう言いながらも、彼は油断無く臓硯を睨んでいる。僅かでも妙な動きを見せれば、その瞬間に刈り取る腹積もりらしい。

 

「集まったようですね」

 

 そこに新たな人物が登場した。バゼット・フラガ・マクレミッツがランサーを引き連れ、教会の奥から現れた。

 

「……一参加者が教会の奥から悠々と出て来るってのはどういう事かしら?」

 

 凜が問う。

 

「別にやましい事はありませんよ。私は単に先についていたので、奥で他の参加者の皆さんをお待ちしていただけです」

 

 白々しく言うバゼットに凜が舌を打つ。

 

「とにかく――――」

 

 手をパンと叩き、一同の視線を集めながらカレンが言う。

 

「これより、冬木市全体の隠蔽作戦を実行します。それ故、明日一日、全陣営に停戦を命じます」

 

 カレンの言葉は予想通りのものだったらしく、バゼットも臓硯も凜たちすらも異を唱えはしなかった。

 

「これに応じなかった場合、ペナルティーとして令呪の剥奪、並びにマスターの私財の一部没収を行います。皆様の賢い選択を期待しておりますわ」

 

 カレンの言葉に素直に了解の意を伝え、臓硯が扉から堂々と出て行った。次にバゼット。残された凜達もこれで用は済んだとばかりに去ろうとする。

 ただ一人、セイバーだけが愕然とした表情を浮かべたまま、カレンを見つめている。

 

「どうしたんだ、セイバー?」

 

 士郎が問うが、セイバーは応えない。代わりに監督役であるカレンに対して、口を開いた。

 

「……カレン・オルテンシア?」

「ああ、私の名はカレン・オルテンシアです。何か御用ですか? セイバーのサーヴァント」

「……えっと、その――――」

 

 迷いながら、セイバーは思い切った様子で言った。

 

「こ、言峰綺礼はどこに居るんですか!?」

 

 その言葉があまりにも予想外だったのか、カレンは目を見開き、やがて、背後の凜を見た。

 すると、凜も途惑う表情を浮かべ、首を傾げる。

 

「……何故、彼の名を?」

「そ、それはその……」

 

 口篭るセイバー。

 

「そう言えば、セイバーは最初の令呪を使った時にアーサー王の記憶を読み取ったんだっけ?」

 

 助け舟を出したのは凜だった。

 

「そっか……、なら、綺礼の事も知ってるか……。でも、なら何で綺礼がどこに居るか、なんて聞いたの?」

 

 心底不思議そうに問い掛ける凜。

 彼女は言った。

 

「綺礼は十年前に死んでるじゃない。あの、――――第四次聖杯戦争で」



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第二十三話「果てしない絶望の物語を――――」

「ど、どういう事……?」

 

 言峰綺礼が死んでいる。凜の告げた言葉をセイバーは咄嗟に呑み込む事が出来なかった。

 

「どういう事って……、前回の聖杯戦争の事に関しては貴方の方が詳しい筈でしょ?」

「いや……その、俺が知っているのは断片的な事だけで――――」

「セイバー」

 

 凜の指摘に慌てるセイバー。そんな彼にアーチャーが声を掛けた。

 

「……どうして、“言峰綺礼”という男の事が気になるんだ?」

「それは……」

 

 応え難そうに口篭るセイバーにアーチャーは溜息を零す。

 

「カレン……、と言ったな? 君ならば十年前に起きた第四次聖杯戦争のあらましを知っているのだろう? セイバーに聞かせてやってくれないか? まあ、ルールに反すると言うのなら無理強いするつもりは無いが……」

「いえ、その程度でしたらルールには反しません。問われたなら、応えるのが私の務めです。ただ、もう夜更けですので明日にしましょう。丁度、停戦命令を出しましたし、お昼頃にまた、足を運んで頂けますか?」

「あ、はい」

 

 セイバーはかしこまった様子で頭を下げた。

 

 

 衛宮邸を目指す道すがら、凜は前を歩くセイバーの背中を睨んでいた。

 前々からおかしな点が幾つも見受けられていたが、今回の事は決定的だった。

 

「……アーチャー」

 

 凜は隣を歩くアーチャーに声を掛ける。

 

「どうした?」

「セイバーって、何者なのかしら?」

「……キャスターの推理通りなのでは無いか? 少なくとも、アレは筋が通っている」

 

 そういう事じゃない。凜は首を横に振った。

 

「そこに疑問を抱いているわけじゃない。問題は“日野悟”が何者かって話よ」

「どういう事だ……?」

 

 凜は今までの彼の言動を思い出しながら言った。

 

「前々から、変だとは思ってた。それまでずっと、魔術なんて知らなかった人間が私のちょっとの説明だけで現状を把握し、あれほど的確な判断を下せるものかしら?」

 

 最初に出会った時、セイバーは自分の事すらよく分かっていない状態だった。にも拘らず、士郎に対して行った“魔術を知る者向けの説明”を聞いて、直ぐに士郎を救う為の行動に出た。

 バーサーカーに襲われた時も凜が考えるより早く、“マスターに令呪を使わせる”という的確な判断をして見せた。

 自分の命を掛ける理由については彼自身の口から聞いていたが、どうして、あんな判断が出来たのかは聞けず仕舞いだった。

 

「セイバーの判断は常に“魔術を知る者”にしか出来ない判断ばかり。まだ、アーサー王の記憶を令呪によって得る前の段階から……。それに、さっきの教会での会話は明らかにおかしかった」

「言峰綺礼についての事か?」

「違うわよ。それも変だけど、それ以上におかしな点があった」

「どういう事だ?」

 

 凜は険しい表情を浮かべて言う。

 

「アイツ、カレンのフルネームを口にしたわ。カレンは名前しか告げていない段階で……。カレンが綺礼の後釜として、監督役に任命されたのはほんの数年前の話。まさか、たった十年で聖杯戦争が再開されるとは思っていなかった聖堂教会が急遽用意したのが彼女。セイバーがフルネームを知り得る筈が無い」

「……なるほど。つまり、セイバーは何か隠し事をしていると?」

「ええ、その通りよ。貴方みたいにね……」

 

 怒りの矛先を向けられ、アーチャーは肩を竦めた。

 

「何のことやら……」

「とぼけても無駄よ。アンタの正体はとっくに分かってる。話してくれるのを待つつもりだったけど……、セイバーにまで秘密があると分かった以上、そうもいかない。マキリが怪しい動きを見せ、執行者が敵に回り、内側にキャスターのサーヴァントが入り込んでいる現状。とてもじゃないけど、これ以上の厄介事を抱え込む余裕は無いわ」

 

 凜は言う。

 

「話しなさい。貴方は全てを知っている筈よね? だって、貴方はセイバーと――――」

「知らないよ」

 

 詰め寄る凜にアーチャーは静かにそう言った。

 

「……アーチャー?」

 

 怒鳴ってやろうかと思ったのだが、アーチャーの浮かべる表情を前に凜は言葉が出なくなった。

 彼はとても哀しそうに言った。

 

「オレは……、何も知らないんだ」

 

 寂しそうにセイバーの背中を見つめながら言う。

 

「何も……、教えてもらえなかった。あんなに一緒に居たのに……、結局、最期まで……」

 

 それはある意味で凜の望んだ答えだった。凜の推理した彼の正体を肯定する言葉。

 けれど、その先を問う事は出来なかった。まるで、親と逸れた子供のような表情を浮かべる彼に掛けるべき言葉が見つからなかった。

 

「……まあ、セイバーだって、いつかは話してくれるわよ。少なくとも、私達に牙を剥いてくる事は無い。それだけは確信が持てるし……」

 

 それで今は良しとしよう。数少ない信頼の置ける仲間をこれ以上疑っても仕方が無い。

 本当に注意すべきは他に山程居る。特にキャスターには眼を光らせておく必要があるだろう。

 アーチャーは何だか絆され掛けているようだけど、相手は神代の魔女。決して、心を許して良い相手では無い。

 

「一人で根を詰めるのは禁物よ、リン」

 

 眉間に皺を寄せる凜にイリヤが声を掛ける。

 

「キャスターは警戒した所で容易に対処出来る相手じゃない。今は“信用”するしかない。寝首を掻いて来るタイミングに全神経を研ぎ澄ませておくしかない。そんなの、一人でやってたら壊れちゃうわよ」

「……イリヤ」

「安心なさい。私だって、目を光らせてる。協力しましょう、リン」

「……はは」

 

 信頼出来ない人間の一人に手を差し伸べられ、その手を取るしかない現状に凜は眩暈がした。

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。アインツベルンのマスターにして、衛宮士郎の義理の姉。

 彼女の言動を額面通りに受け取るわけにはいかない。士郎を勝者にしたいという彼女の言葉が仮に真実だとしても……、己に牙を剥かない保証にはならない。

 凜とイリヤは士郎の味方という意味では共通しているが、互いを味方とは考えていない。

 

「……ええ、協力し合いましょう、イリヤ」

 

 彼女の手を取りながら、凜は考える。士郎よりもむしろ、己の方が生き延びる可能性が低いのでは無いか……、と。

 

 

 衛宮邸に戻ると、一同はセイバーが淹れたお茶で一息入れた。

 新都までの往復は中々に堪えた。

 各々、居間で休息を取っていると、しばらくしてから凜が立ち上がった。

 

「とりあえず、今後の事についてだけど――――」

 

 凜の司会の下、今後の動きについて話し合われた。と言っても、殆どイリヤとキャスターが口を挟むだけで、士郎とセイバーは隣り合ってお茶を啜るばかりだった。

 話し合いが一段落して、一先ず、明日は今後の為の準備に当てる事となった。キャスターの指揮の下、この屋敷の結界を再建し、強化するらしい。

 その間に何人かで食料などの調達も行う事になった。メンバーは結界敷設に役立たない士郎とセイバー。

 その後の事についてはとりあえず、マキリの動きに注視する事で決定した。

 バゼットは恐らく、しばらくは諦観に徹する筈だと頭脳派三人組の意見が一致した為だ。恐らく、どちらかの陣営が潰れた時点で疲弊している方に攻撃を仕掛けて来るだろうというのが彼女達の予想。

 

「それじゃあ、とりあえず今日は解散にしましょうか」

 

 話し合いが終わり、それぞれ宛がわれた部屋に散っていく。士郎もセイバーと共に自室に向って歩いて行く。

 二人っきりになると、どうしてもあのキスの事を意識してしまい、二人は揃って黙り込んだ。

 

「……今日はちゃんと寝なきゃ駄目だからね?」

 

 部屋の前でセイバーは恥ずかしさを胸の底に押し込めて士郎に念押しをした。

 

「抜け出して、魔術や剣技の鍛錬をしたら駄目だよ?」

「……分かってる。セイバーを困らせる事はしないよ」

 

 前以上に過保護になっている気がするセイバーの態度に苦笑しながら士郎は言った。

 

「……それならいいけど。とにかく、無理は駄目だからね?」

「ああ、了解」

「それじゃあ、おやすみ」

「ああ、おやすみ」

 

 士郎が部屋に入って行った後、セイバーは自室に戻り、鏡台の前に正座した。

 両開きの扉を開き、中の鏡を覗き込むと、セイバーは小さく悲鳴を上げた。

 

「……これが、俺」

 

 髪と瞳の色が違うだけで、鏡に映る自分の姿は一気に生前のものに近づいていた。

 勿論、大部分は女らしい形をしている。けど、耳の形や細部をよく見ると、生前の己を思い出す。

 キャスターが言っていたのはこの事だったのだ。今まで、抑え込めていたものが抑えられなくなる。

 猛烈な吐き気に襲われて、慌てて部屋を出た。走るように廊下を通り過ぎ、浴室前にあるトイレに駆け込む。

 涙と嘔吐が止まらない。見るべきじゃなかったのかもしれない。今まで通り、現実逃避し続けていれば良かったのかもしれない。

 だけど、肝心な場面で壊れてしまったら士郎を守れなくなる。それだけは困る。自分が壊れるのは構わないけれど、それで士郎が危険に晒されるのだけは絶対に許されない。

 壊れるなら今だ。今なら、壊れても他に士郎を守ってくれる人が居る。凜やイリヤになら、彼を任せられる。

 

「……ぁぐ」

 

 元々、英霊の体が幾ら吐こうが胃液しか出てこない。後は全て、魔力に変換されるからだ。

 だから、今まではトイレも行かずに済んだ。女である事を意識するのはお風呂に入る間だけ……。

 お風呂に入っている時は特に気にならなかった。だけど、今はどうだろう?

 今まではこの体をアルトリアという別人の物だと思っていたから平気だったのだとキャスターは言った。だけど、今は己の……、日野悟のものに近づいている。

 自らの面影を残したまま、性転換したという事実を認識したら、自分はどうなってしまうのだろう……。

 

「……怖い」

 

 体が震える。あの夢の世界でなら、女である自分を受け入れられていた。むしろ、そうある事を悦んでいた。

 だけど、あれは所詮、キャスターのまやかしが感情をぼやけさせていたからに過ぎない。

 真実を虚飾に塗れた眼で見たって、何も感じられないのは当たり前だ。

 

「……き、気合だ」

 

 精神的なものだけど、今こそが“気合”というものを発揮するべき瞬間だ。

 トイレを出て、脱衣場へ向う。ゆっくりと服を脱いで、裸になる。鏡は何故だか曇っていて、よく見えない。

 

「……っちぇ」

 

 覚悟を決めたのに、肩透かしを喰らった。仕方が無いから、風呂場の中にある鏡を使おう。

 あれなら曇っていてもシャワーで曇りを取る事が出来る。

 深呼吸をして、中に入る。

 

「……あれ」

 

 瞬間、目の前に跳び込んで来た光景に絶句した。

 よく考えれば分かった事だけど、そもそも、鏡が曇っていたという事は誰かがお風呂を使っていたという事。

 

「……えっと、セイバー。一応、電気点けてたんだけど……」

 

 幾ら何でも、この家の女性率を考えれば、鍵を掛けるのは必須だと思う。

 そんな冷静な思考が働くくらい、頭の中が真っ白だった。

 ヤバイ。何がヤバイって、体を洗う最中だったせいか、士郎君の全身がバッチリ視界に入ってしまっている事だ。

 ついでに言えば、士郎君の視界にも己の全身がバッチリ映り込んでいる筈。

 

「……お、おい、セイバー? えっと、ほら、その……、言峰教会からここまで歩くのに汗かいてたから、ちょっとシャワーでも浴びようかなって思ったわけで……」

 

 士郎の声は殆ど頭に入って来なかった。

 肌が炎に包まれたような気がして、視線を落とす。大丈夫、何も燃えていない。ただ、お酒を飲み過ぎた時みたいに赤くなってるだけ……。

 意識して、呼吸をしながら、ふらふらと士郎に近寄る。

 駄目だと分かっているのに、果てしない恐怖から逃れたいという欲望が顔を出し、士郎を求めてしまう。夢の中で彼にしてもらったように、優しく包み込んで欲しくなる。

 無垢な肌色。濡れた髪。途惑う顔があまりにも可愛くて、愛おしさが溢れ出して来る。

 肌を焼いていた炎がじわじわと深みに達していき、心を焦がしていく。

 

「セイ、バー……?」

 

 困惑する彼の声に涙が溢れる。

 そうじゃない。掛けて欲しい言葉は違う。

 

「……ぁぁ」

 

 涙を拭った途端、視界に鏡が映り込んで来た。

 困惑する男の子に迫る女。それが自分なのだと直ぐに気付き、頭がおかしくなりそうだった。

 世界が歪み、壊れていく。こんなの違う。鏡に映っている女は別人だ。自分である筈が無い。

 士郎から離れ、セイバーは浴槽にしがみついた。まるで、深い穴の底へ引き摺り込まれる様な感覚に襲われ、体を震わせる。

 

「セイバー!!」

 

 女として、士郎に縋り付こうとしてしまった。

 その事に吐き気がした。男である自分を否定するかのような行動に怖気が走った。

 こんなの自分じゃない。キャスターに洗脳されたせいで、おかしくなっているんだ。

 だって、そうじゃなきゃ――――、

 

「セイバー!!」

 

 体を揺する硬い手。温かくて、優しい手。

 顔を上げて、彼の顔を見た途端、湧き上がってくる感情に恐怖した。

 こんなの知らない。今まで、好きになった女の子に告白した時もこんな気持ちにはならなかった。

 

「……離れて」

 

 本心のつもりで言ったのに、酷く虚ろに響いた。

 心が延々と『離れないで』と訴えている。繰り返し繰り返し、口から飛び出そうともがいている。

 胸の中は彼に対する思いでいっぱいだ。

 心の底で理解しているのだ。この思いに流されて、士郎を愛の対象にしてしまえば、きっと、この恐怖から逃れる事が出来る。

 女である事実を受け入れて、悦ぶ事すら出来るようになる。

 だけど、それは“自分”を否定する事だ。それに“士郎”を慰みの道具にしてしまうという事だ。

 きっと、士郎は受け入れてくれる。受け入れてしまう。優しい人だから、己の吐く弱音を受け止めて、最大限に応えようと努力してしまう。

 だから、甘えるなんて許されない。

 

「……離れて」

 

 いっそ、壊れてしまえばいい。そうすれば、この恐怖からも、士郎への愛からも逃げられる。

 こんな仮初の愛を向けられたって、士郎には迷惑以外の何者でも無い。全てはキャスターが悪いんだ。

 あの女があんな夢を見せるから、彼に“甘える”という選択肢が生まれてしまった。

 見下ろすと、湯船の水面に己の顔が映っていた。酷く醜悪な女だ。基となった、騎士王の顔とは似ても似つかない……。

 

「……死にたい」

 

 こんな状態で生き続けたくない。こんな醜悪な顔で、こんな醜悪な心で、彼の傍に居たくない。

 こんな、虚飾に塗れた奴が誰かを守る資格なんてある筈が無い。

 死にたい。もう、いっそ死んで終わりにしたい。

 

「ふ、ふざけるな!!」

 

 強引に体を引き寄せられた。怒りに満ちた彼の顔に体が震える。

 

「……ぁぅ」

「し、死にたいなんて……、よくも、そんな事――――」

 

 今までにも彼が怒った顔を何度も見て来た。だけど、今回のソレはいつもと決定的に違っていた。

 

「なんで……、そんな事を言うんだよ……。苦しいなら、理由を言えよ!! ちゃんと、話してくれよ!!」

 

 士郎の瞳からも涙が零れ落ちる。

 

「俺って……、そんなに頼りないか?」

 

 体を震わせ、顔を歪める士郎にセイバーは必死に頭を振った。

 

「そ、そんな事無い!!」

「だったら、何で何にも相談してくれないんだよ!? お前が悩んでる事くらい分かってた!! いつも顔を伏せて、思い悩んでる所を見て来た!! だけど、いつか話してくれると思って待ってた!! なのに、何で死にたいとか言うんだよ!? そんな状態になるまで、何で何も言わないんだよ!?」

「お、俺が悩んでたのは……、この事とは違くて……」

「だったら、今悩んでる事を俺に言えよ!! 他の事も俺に話せよ!! 

「だ、だって――――」

 

 セイバーは……、悟は顔をくしゃくしゃに歪めて叫ぶように言った。

 

「お、俺は女になっちゃったんだ。今までは必死に目を逸らしてた……。だけど、キャスターのせいで真実に目を向けざる得なくなった……。そうしたらもう、怖くて仕方なくなったんだ……」

「セイバー……」

「その恐怖から逃れたくて……、士郎君に縋り付きそうになるんだ。それが……」

「……俺が力になれるなら――――」

「駄目なんだよ!!」

 

 セイバーは怒鳴るように叫んだ。

 

「俺のこの感情はキャスターに植えつけられたものだ。こんなの……、偽物なんだ」

「でも……、それで苦しみから解放されるなら――――」

「そうやって、士郎君が受け入れてくれるって分かってるから、言いたくなかったんだ!!」

 

 吐き出すように叫ぶセイバーに士郎は眼を見開いた。

 

「君は優し過ぎるんだよ……。こんな偽物でも、一度受け入れたら君は義理を果たそうとしてしまう。君の人生が大きく歪んでしまう……。そんなの嫌だ」

「何言って……」

「――――俺は士郎君に幸せになって欲しいんだ。例え、どんな道を生きても、最期は後悔せずに死ねる人生を歩んで欲しい。それなのに、俺なんかを受け入れたら、君は……」

「……セイバー」

 

 言葉を無くす士郎にセイバーは頭を下げた。

 

「ごめんよ……。馬鹿みたいに騒いだりして、君に迷惑ばかり掛けてる……。さっき言った事は取り消すよ。俺が死ぬのはここじゃない……。この事は自分なりにケリをつけるよ」

 

 そう言って、セイバーは立ち上がるとふらふらとした足取りでお風呂場を後にした。

 取り残された士郎はしばらくボーっとしたまま天井を見上げていた。

 

「……そのままだと、風邪をひくわよ? 坊や」

 

 その声に意識が明瞭となった。

 咄嗟に身構える士郎にキャスターは微笑む。

 

「そんな格好で凄んでもカッコ良く無いわよ?」

「……う」

 

 自分が全裸である事を思い出し、顔を真っ赤にする士郎。

 そんな彼を魔女は楽しそうに見つめる。

 慌てて浴槽の中に身を沈め、士郎は彼女を睨んだ。

 

「な、何の用だ!」

「……ちょっと、話しておこうと思ったのよ」

「話……?」

 

 キャスターは言った。

 

「セイバーの事だけど……。貴方はどう思ってるの?」

「どう思ってるって……、それは大切だと……」

「それはどのくらい? 友達として? 相棒として? それとも、家族として?」

「い、いきなりそう言われても……」

 

 慌てる士郎にキャスターは言った。

 

「……私がセイバーにした事は只管、女として愛される事の愉悦を味合わせる夢を繰り返し見せただけ。完全に荒療治よ……。だから、アフターケアが必要なの」

「ア、アフターケア?」

「セイバーの心はとても不安定。だから、安定させる為にはもう一手必要なのよ」

「もう一手って……、何をしようってんだよ?」

「本当なら、手近なところでアーチャーにやらせようと思ってたんだけど……」

 

 士郎の言葉を無視するようにキャスターは続ける。

 

「あの子の心を安定させるには男に心から愛される必要があるのよ」

「ちょっと待て!! いや、理屈は何となく分かるけど、だからって、何でアーチャー!?」

「あら、気付いてなかった? アーチャーはセイバーに恋心を抱いているわよ?」

「……はい!?」

 

 あまりにも衝撃的な事実に目を丸くする士郎。

 

「ど、どういう事だよ!? だって、アイツだって、セイバーと出遭ったのは――――」

「ああ、まだ気付いて無いのね……」

 

 キャスターは呆れたように溜息を零した。

 

「アーチャーの正体に気付けば、自ずと答えも分かるでしょうけど……、そうね」

 

 キャスターは閃きに満ちた表情を浮かべた。

 

「上手くいけば、戦力の増強にも繋がるかもしれない」

「キャ、キャスター……?」

 

 何故だか、非常に不味い事になった気がする。

 キャスターの瞳に悪戯っぽい輝きが灯っている。

 

「貴方にもアーチャーという英霊が歩んだ歴史を見せてあげるわ。それを見れば、どうして私がこんな荒療治に踏み切ったのかも分かる筈よ。それに、貴方とは違う道を歩んだ彼の歴史を見れば……、彼と同じ過ちは繰り返さない筈だしね」

 

 そう言って、キャスターは士郎のおでこに人差し指を当てた。

 

「おやすみなさい、衛宮士郎。存分に堪能してくるといいわ。英霊・エミヤシロウが辿った果てしない絶望の物語を――――」



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第二十四話「ああ、決着をつけよう、アーサー王」

 とても怖い夢を見た。とても長くて、苦しい夢を見た。

 狂いそうになる頭を冷やす為に布団を被り、そのまま眠ってしまっていたらしい。

 英霊は夢を見ない筈。なら、これは士郎君の記憶という事になる。だけど、有り得ない。だって、この夢は――――、

 

「なんで……?」

 

 頭の中を埋め尽くすのは無数の疑問。ただ只管、どうして? なんで? と繰り返す。

 

「……起きなきゃ」

 

 一時間くらい、延々と問いを繰り返してから、よろよろと起き上がる。

 涙が止まらなくて、顔を何度も洗ってから、居間に向った。

 

「……あら、おはよう、セイバー」

 

 居間には凜が一人お茶を啜っていた。何だか、表情が暗い気がする。

 

「おはよう、凛。みんなは?」

「アーチャーは見張り。キャスターは士郎に邸内を案内させてる。イリヤはお風呂よ」

 

 “夢”から覚め、新たに始まった日常。キャスターとイリヤを交え、衛宮邸の朝は穏やかに過ぎていく。

 セイバーは夢の事を誰にも話せなかった。あまりにも多くの疑問と感情が脳内で渦を巻いているせいで、誰と話している時も上の空だ。

 だけど、それはセイバーに限った話では無く、凜と士郎もどこか意識が飛んでいる風に感じられる。

 お昼になると、カレンとの約束がある事を思い出した。

 

「俺も一緒に行くよ。ついでに買出しも済ませよう」

 

 教会に行く旨を告げると、士郎が立ち上がった。今日は教会に命の下で停戦を強制されている。戦闘に繋がる行為をする者は居ない筈だが、それでも一緒に居るべきだろう。そう、彼は主張した。

 油断大敵の言葉に頷くしかなかった。“あの夢”のせいか、昨夜に比べて、心は安定している。より大きな混乱の為に一時的に麻痺しているだけのような気もするが、冷静さを取り戻す事が出来ている。

 士郎を守る。その初志を貫徹する為にも、醜態を晒し続けるわけにはいかない。

 

「……じゃあ、アーチャーも連れて行ってくれない?」

 

 深く息を吸い、覚悟を決めるセイバーに凜が言った。

 

「……え?」

 

 キョトンとした表情を浮かべるセイバー。

 

「ほら、荷物持ちとしてよ。アイツ、結界構築には役に立たないし、見張りったって、今日は停戦日だしね」

「う、うん。でも――――」

「いいんじゃないか?」

「士郎君?」

「帰りは荷物が多くなるだろうしさ」

「う、うん」

 

 思わぬ士郎の言葉にセイバーは戸惑い気に頷く。

 

「――――ついでに出掛けるなら、ちょっとおめかししてみない? セイバー」

 

 そう言ったのはキャスターだった。彼女の手には見覚えのある服。

 黒のブラウスと黒のブリーツフレアスカート。

 あの夢を見せた下手人が見つかった。また、己の精神を操ろうとでもしたのだろう。あんな嫌な夢を捏造するなんて、どこまでも性根が腐っている。

 

「お断りだ。どうして、俺がスカートなんて……」

「いいじゃない。正直、その格好はどうかと思うわよ? ダサイって言うより、変なコスプレみたい」

 

 凜の言葉に言葉が詰まった。セイバーの今の格好は士郎の古着を借りている。

 上はダブダブなTシャツで、下は同じくダブダブなジーンズ。

 

「隣を歩いてて、正直恥ずかしいのよ。無理強いするつもりは無いけど、一緒に歩く人の事も考えて格好を選びなさい」

 

 実にもっともな言葉だった。セイバー……、日野悟とて、生前は自分の格好にそれなりに気を使っていた。

 髪もキッチリとセットし、常に清潔かつ流行に沿った格好を心掛けていた。

 客観的に見て、今の格好は確かにおかしい。女として以前に人としてどうかしてる。せめて、もっとサイズの合う服があれば別だけど、この家にある服はどれも今のセイバーよりも大きい。

 

「……でも、スカートなんて」

 

 ただでさえ、精神的にキツイ状態だと言うのに、己を一層追い込むような真似はしたくない。

 けれど、士郎に恥をかかせるわけにもいかない。

 

「一端、着てみなさいよ。どうしても嫌だってんなら仕方無いけど、大丈夫そうなら、それで行きなさい」

「……わ、分かったよ」

 

 渋々、キャスターから上下を借りる。服の構造自体は単純だったから、着方は直ぐに分かった。

 何となく、士郎の視線が気になってしまい、別の部屋で着替えた。ついでとばかりに下着まで渡されたが、さすがにこれは着れない。

 別に服さえちゃんとしてればそれで良い筈だ。キャスターが見せた夢のせいか、そこまで忌避感は無かった。

 着替えて、居間に戻ると、そこにはアーチャーが立っていた。なにやら、凜と揉めている。

 

「どうしたの?」

 

 問い掛けると、彼は振り返り、大きく目を見開いた。

 

「――――ぁ」

 

 一瞬、今にも泣きそうな表情を浮かべ、直ぐにアーチャーは首を振った。

 

「わ、私はこの屋敷の見張りを――――」

「今日は停戦日だから問題無いわよ。幾らなんでも監督役の命令に真っ向から背く馬鹿は居ないわ」

「し、しかし……」

 

 尚も渋るアーチャーに凜は険しい表情を浮かべる。

 

「アンタがここに居ても役に立たないのよ! いいから、仕事をして来なさい!」

 

 物凄い剣幕だ。アーチャーはより一層渋味の増した表情で嫌々頷いた。

 

「了解した……。地獄に落ちろ、マスター」

「それって、口癖なの……?」

 

 何故か、キャスターが怪訝な表情を浮かべている。

 

「……生憎、生前も師や主に恵まれなくてね。ついつい、文句が口を衝いて出てしまうんだ」

 

 そう言えば、あの夢の中でも金髪の女性に時々……。

 いや、アレは彼の夢じゃない。そんな筈が無い。だって、あんなのが本当にあった事だとしたら、そんなの……。

 

「――――行くぞ。約束は一時だったな? あまり時間も無い。バスでは間に合わんな。タクシーを呼ぶとしよう」

 

 そう言って、アーチャーはつかつかと電話を掛けに行った。

 電話をしているアーチャー。なんだか、凄くシュールだ。

 思わず噴出しそうになっていると、凜がちょんちょんと肩を叩いて来た。

 

「どうしたんだ?」

 

 首を傾げるセイバーに凜は言った。

 

「……折角だし、三人でちょっとゆっくりして来なさい」

「え?」

「ほら、聖杯戦争中にこんな安全を約束された時間が出来るなんて、本来は有り得ないんだし、今後は気の休まらない状態が続く。この機会に羽を伸ばしてきなさいって言ってるの。士郎とアーチャーも根を詰めるタイプだから、引っ張りまわしてやんなさい」

「でも、今日は忙しいんだろ?」

「忙しいのは私達だけよ。アンタ達じゃ、居ても邪魔になるだけだし」

「わ、分かった……」

 

 途惑いながら頷くセイバーに凛は満足そうに微笑むと、電話を終えたアーチャーに言った。

 

「アンタも荷物持ちをするからには現世の服が要るでしょ? どうせだから、ここで着替えておきなさい」

「着替えって……、これか?」

 

 アーチャーは凜に渡された服に眉を顰めた。

 

「着替えるのは構わないが、私としてはもっと黒を基調とした――――」

「そういうの着ると、アンタはホストみたいになるから駄目」

「なん……だと……?」

 

 愕然とした表情を浮かべるアーチャー。ガックリと肩を落としながら、凛に渡された服を持って、渋々隣の部屋に向う。

 戻って来た彼が着ていたのはホワイトのインナーにカーキーのブルゾン。下はデニムで赤い騎士はあっと言う間に爽やか青年に大変身。

 

「おお……」

 

 士郎とセイバーがアーチャーの変わりように感嘆の声を上げる。

 劇的なビフォーアフターだ。

 

「こういうのは着慣れないのだが……」

 

 確かに、彼の性格上、あまり身に着けそうにないファッションだ。

 けど、とてもよく似合っている。

 

「バッチリ似合ってるよ、アーチャー」

「……そうか?」

 

 驚いたように目を見開くアーチャー。やがて、「そうか」ともう一度呟き、柔らかく微笑んだ。

 

「では、行くとしよう。タクシーはもう直ぐ到着する筈だ」

 

 

 タクシーに揺られる事一時間弱。途中で渋滞に巻き込まれたせいで、到着したのは約束の刻限ギリギリだった。

 慌てて、教会内に入ると、昨夜と同じくピアノの音が響いていた。

 

「――――いらっしゃい」

 

 しばらく聞き入っていると、一区切りがついた所でピアノの音が止み、カレンが士郎達に顔を向けた。

 

「こ、こんにちは」

「えっと、今日はその……、よろしくお願いします」

 

 セイバーと士郎がそれぞれ頭を下げると、カレンはクスリと微笑み、彼等を奥へと誘った。

 奥の部屋にはジュースとお菓子が並べられていた。

 

「こうして、お客様を招くのは久しぶりだから、無作法があるかもしれないけど許してちょうだい」

 

 そう言って、カレンは椅子に座った三人にお菓子を勧めてくる。

 意外な押しの強さに出されたお菓子を食べると、どこからともなく新しいお菓子が現れる。

 

「さあさあ、好きなだけ食べていいわよ」

 

 食べる度に出て来るお菓子。微妙に不毛な感じが何だかおばあちゃんの家に招かれたような錯覚を覚える。

 

「と、とりあえず、昨夜の約定通り、第四次聖杯戦争の話を聞かせてもらえないか?」

 

 食べ終わったそばから新しいお菓子を取り出そうとするカレンにアーチャーが慌てたように言った。

 すると、カレンは口元に手を当てて「あらあら」と微笑んだ。

 

「そうだったわね。ごめんなさい。ここ数年、荒事からも遠ざけられて、退屈な日々が続いていたから、ちょっとテンションが上がっちゃったみたい」

 

 本当に田舎のおばあちゃんみたいな事を言い出した。

 若干呆れた表情を浮かべる三人にカレンはゆっくりと語り始めた。

 第四次聖杯戦争のあらましを――――。

 

 

 第四次聖杯戦争はセイバー……、日野悟が知るモノとは大きく異なっていた。

 参加したマスター達は皆、一流の魔術師だったらしく、雨生龍之介のような一般人や間桐雁夜のような落伍者は居なかったそうだ。そもそも、前回の聖杯戦争に間桐の関係者は参加しなかったらしい。

 サーヴァントの顔触れも異なり、セイバーは只管動揺するばかりだった。知識と合致したのはアルトリアとギルガメッシュ、そして、イスカンダルだけだった。

 

「――――化け物揃い。そう称するに足る魔術師達を貴方の御父上は悉く打ち破った」

 

 カレンの語りの中で一番印象深かった事は衛宮切嗣の戦い方だった。

 

「私の父、言峰綺礼は真っ先に衛宮切嗣に狙われ、サーヴァントを失った。他のマスター達も殆ど抵抗らしい抵抗も出来ずに脱落していった。ある者は建物ごと爆破され、ある者は家族や恋人を人質にされ……。全く隙を見せなかったマスターもセイバーという最強の英霊が真っ向から打ち破った。報告書や諸々の書類を見比べて得た印象としてはほぼ、衛宮切嗣とセイバーのワンサイドゲームだったみたい」

 

 カレンが見せてくれた書類には天に浮ぶドラゴンと対峙するアルトリアの姿を捉えた写真が掲載されている。

 

「未遠川に沈没したボートがあるのを知っているかしら?」

 

 士郎が頷く。

 

「アレはこの時にセイバーが宝具を使った余波で沈んだものなのよ。天を舞うライダーに対抗する為に彼女は宝具を解き放ったわ」

 

 ライダーはイスカンダルだった筈なのに、彼女はドラゴンに跨るサーヴァントこそがライダーだと言った。イスカンダルはエクストラクラスで召喚されたらしい。

 セイバーは持ち得る知識に根本を覆されたような錯覚を覚えた。

 

「最期の決戦の舞台は街の中心部だったわ。生き残っていたのはセイバーとアーチャーだけだった」

 

 書類に掲載された写真にはアルトリアともう一人、金髪赤眼の男の写真。備考欄にギルガメッシュという文字がある。

 

「使い魔で遠巻きに監視していた者の報告によれば、二人の実力は拮抗していたそうよ。けれど、突然――――」

 

 戦場が炎に包まれた。カレンの言葉に士郎とセイバーが息を呑む。

 

「理由は分からない。二人はその時、未だ広範囲に影響を及ぼす類の宝具は使っていなかった。ただ、それが世に言う“冬木の大災害”よ」

「なっ……」

 

 そんな筈は無い。だって、あの災害は聖杯をセイバーが破壊した後に聖杯の中身が零れて起きた事件である筈だ。

 唖然とするセイバーを尻目にカレンは続ける。

 

「報告に詳しい記載は無いのだけど、生き残っていたマスターは三人だったそうよ。内一人はその時既に国外に逃亡していた」

「……残った二人ってのは?」

「無論、一人は衛宮切嗣。そして、もう一人は言峰綺礼。どうして、序盤でサーヴァントを失った父がアーチャーと契約して戦場に舞い戻る事が出来たのかは不明です。その点に関する記載はありませんから……。ただ、分かっている事は一つ。その戦いで言峰綺礼は死亡した」

「……そう、ですか」

 

 中身に違いはあれど、その顛末はセイバーの知るものと酷似していた。ただ一つ、言峰綺礼の死亡という事実を除いて……。

 

「じゃあ、本当に言峰綺礼は居ないんですね?」

「ええ、死体も後に回収され、火葬されたので間違いありません。喪主を務めて下さった遠坂の当主に尋ねれば、証明して下さる筈ですよ。生憎、私は当時、遠い地に居たので再会した時は既に遺骸でしたが……」

 

 話し終えると、カレンは再びお菓子攻撃を開始した。

 解放されたのは三時過ぎだった。

 

「また、いつでもいらっしゃい」

 

 教会の監督役というのは本当に暇らしい。特に士郎は聖杯戦争後も通うよう唆されていた。

 洗礼の準備はいつでも整えておくとの事……。

 

「士郎君。生き残ったらキリスト教徒にさせられそうだね」

「……シャレにならないから止めてくれ」

 

 カレンの目は得物を狙う野獣の眼光だった。

 

「――――とりあえず、買出しを済ませてしまおう」

 

 アーチャーの提案に頷き掛けて、セイバーはハッと凜の言葉を思い出した。

 

「気晴らし……?」

 

 凜の指示を二人にそのまま伝えると、二人はそっくりな表情を浮かべた。

 

「凛は何を考えているんだ……」

 

 呆れたように呟くアーチャー。対して、士郎はどこか納得気に頷いた。

 

「いいんじゃないか? 直ぐに帰っても邪魔になるだけだろうし、これも良い機会だ。セイバーに新都を案内するよ」

「なら、私は先に帰るとしよう。馬に蹴られる趣味は無い」

「待てよ。今戻っても、遠坂に『邪魔だ!』って追い出されるのがオチだぞ」

「いや、しかしだな……」

「アーチャー……」

 

 渋るアーチャーにセイバーは言った。

 

「折角の機会だし、一緒に遊ぼうよ」

 

 その言葉にアーチャーは凍り付いた。

 無意識だったけれど、この言葉は夢の中の■■が言っていた言葉だった。

 

「……まあ、お前達は目を離すととんでもない事をしでかすしな」

 

 溜息混じりに先を歩き出すアーチャー。

 士郎とセイバーも慌てて後を追う。何だか、不思議な感覚だった。

 後ろを振り向くと、そこには三つの影法師。一際大きなアーチャーの影に寄り添う二つの影。お父さんに付いて行く、二人の兄弟。

 

「とりあえず、水族館にでも行ってみるか?」

 

 こういう時、どんな場所に行けばいいのか分からず、士郎は適当に提案してみた。

 

「いいね。マグロの周遊とかってあるかな?」

「いや、さすがに無いのではないか……? ここの水族館はあまり大きくないし……」

 

 

 水族館の中は静かでとても落ち着く。薄暗い空間にぼんやりと浮ぶ水槽の灯り。

 透き通る体のクラゲ達に思わず見惚れるセイバー。

 

「これがクラゲセラピーというものか……。なんとも癒されるな」

 

 士郎とアーチャーはと言うと、大きな水槽を周遊しているサメやマンボウを見ている。

 

「……マンタの下側って、意外と怖いな」

「あまり知りたくなかったな……」

 

 二人して、壁にへばりつくマンタの裏側にゲンナリしている。

 何だか、仲が良い。

 奥の方に行くと、広いスペースに出た。中央にはアシカやペンギンのコーナー。

 

『ただいま、ペンギンの餌やり体験を実施してます。希望する方は此方に来てください』

 

 スピーカーから女性の声が響いた。

 

「よし、行ってみよう!」

 

 動物が割りと好きなセイバー。ずんずんとお姉さんの方に歩いていく。

 

「……どうする?」

「まあ、我々は見学といこう」

 

 士郎とアーチャーは餌やりに興奮しているセイバーを苦笑しながら見守った。

 戻って来たセイバーはペンギンにバシバシ手を突かれた事を自慢気に話しながら、売店コーナーに向った。

 

「ペンギンパフェ……、俺はこれにするぜ」

「俺はペンギンアイスにするよ」

「……私はこのクラゲゼリーというのを試してみよう」

 

 意外にもチャレンジャーな選択をするアーチャー。なんと、本当にクラゲを材料に使ったゼリーらしく、セイバーと士郎も興味を引かれてアーチャーに少し分けてもらった。

 コリコリしていて不思議な食感。

 

「次はどこに行こうか?」

 

 売店コーナーの後は直ぐに出口だった。

 眩しい太陽の光に眼を細めながらセイバーが二人に聞く。

 

「セイバーの私服を買いに行くのはどうだ? さすがに小僧のお下がりばかりでは不便だろう」

「ああ、確かにそうだな」

「いや、でも、俺は聖杯戦争が終わったら消えるわけだし――――」

 

 話の流れでつい口が滑った。それまでの和やかな空気が一変し、士郎とアーチャーは急に険しい表情を浮かべた。

 

「……別に消えるって決まったわけじゃないだろ」

「そうだ。仮に聖杯が使えなくとも、キャスターが居る。あの女は性格にこそ難があるが、極めて優秀な魔術師だ。英霊を受肉させる方法の一つや二つ、容易く思いつく筈だ」

「でも……」

 

 確かにキャスターが協力してくれるなら、それも可能かもしれない。けれど、そのキャスターが信用ならない。

 あの女のせいで士郎にキスをしたり、迫ろうとしたりしてしまった。悪戯では済まない悪質な行為を平気で行う相手を当てになど出来ない。

 それに、仮に受肉出来たとしても、その後、魔術協会や聖堂教会に付け狙われる可能性もある。そうした場合、士郎にまで危険が及ぶ可能性が極めて高い。

 

「――――この話は止めよう。どちらにしても、勝ち抜かなきゃ、話にならないわけだし……」

 

 セイバーは話を無理矢理打ち切った。

 どんなに理由を説明しても、この二人は耳を貸さない。

 なら、幾ら問答をしても不毛なだけだ……。

 

「服の事も追々で良いよ。とりあえず、今日は買出しだけして帰ろう。この時間だと、商店街じゃ売り切れてる物もあるだろうし、この辺のスーパーで買って行こうよ」

「セイバー……」

 

 怖い表情を浮かべる士郎。セイバーは顔を背けて歩き出す。

 その後を士郎とアーチャーは静かに追った。楽しい時間は急に終わってしまった。

 自分が終わらせてしまった。セイバーは少しだけ、後悔した……。

 

 

 買出しを済ませてスーパーを出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。

 

「停戦日とは言え、早めに帰った方がいいな」

 

 アーチャーの言葉に頷き、セイバーと士郎はバスターミナルへ向う。

 その途中、突然、身も凍るような悲鳴が聞こえた。三人は顔を見合わせてハッとした表情を浮かべる。

 

「今のって――――」

「あっちだ!!」

 

 士郎が声のした方向へ走って行く。

 

「ま、待って、士郎君!!」

 

 慌てて士郎を追うセイバー。その後をアーチャーも追い掛ける。

 暗い路地を抜け、人気の無い通りに出た。そこに、“奴”は待っていた。

 

「お前は……――――ッ」

 

 視線の先で黒い甲冑を纏う剣士が静かに佇んでいる。

 彼女の足下には幼い少女が倒れている。

 

「……何をした?」

 

 士郎が怒りを篭めて問う。

 

「ん? ああ、体を動かす前に軽く栄養補給をしておこうと思ってね」

 

 そう言って、アルトリアは少女の体を持ち上げた。

 

「ここに置いておくのも邪魔だな」

 

 そう言うと、彼女は少女を近くのゴミ置き場に放り投げた。

 

「――――なっ」

 

 士郎は彼女の暴挙に怒りを通り越して唖然とした。 

 少女がゴミ袋の上に落ちて漸く我に返り、慌てて駆け寄る。

 

「……あ」

 

 少女は死んでいた。投げられる前に死んでいたのか、投げられた後に死んだのかは分からない。

 ハッキリしているのは少女が目の前の女によって殺されたという事実のみ。

 

「――――テメェ!!」

 

 怒り心頭になる士郎の前にセイバーが立ち塞がる。

 

「駄目だ、士郎君!! 相手はマキリのセイバーなんだぞ!!」

「――――ック」

 

 セイバーの叱責に士郎は歯を食い縛りながら怒りを押し殺した。

 

「退がっていろ、二人共」

 

 その二人の前にアーチャーが躍り出る。

 

「貴様等では相手にならん。急いでここを離れろ」

「おっと、そうはいかない」

 

 アルトリアが指を鳴らすと、突然、士郎は吐き気に襲われた。

 

「――――え?」

 

 眩暈と共に周囲が赤く染まる。まるで、眼球に血が染み込んでしまったかのように、見るもの全てが赤くなっている。

 

「これは、まさか――――ッ!?」

 

 セイバーが愕然とした声を発する。

 

「小僧!! 気を確りと持て!!」

 

 アーチャーの叱責に意識が切り替わる。

 

「っ――――すまない、けど、これは何なんだ!?」

「ライダー……」

「え?」

 

 セイバーの呟きの意味が分からなかった。

 

「それ、どういう――――」

 

 戸惑いながら、セイバーの見つめる視線の先を見た。

 そこに、女が立っていた。

 倒した筈の女が立っていた。

 

「馬鹿な……」

 

 頭の中が疑問で埋め尽くされる。

 視線の先に居るのは間違いなく、自分達が最初に倒したライダーのサーヴァント。そして、その隣には――――、

 

「しん、じ……?」

 

 間桐慎二がつまらなそうな表情を浮かべて立っている。

 

「衛宮……」

 

 慎二は溜息混じりに呟く。

 

「言っておくけど、僕は別にお前を殺したいわけじゃない」

 

 慎二は陰鬱そうに言う。

 

「今直ぐにセイバーに自害を命じろ。そして、教会に逃げ込め」

「何を言ってるんだ……、慎二?」

「愚鈍な奴は嫌いだ。繰り返させるなよ。今直ぐにこの戦いを降りろ。アルトリアの目的もアーチャーと聖杯だけだ。お前が戦いを降りるなら、わざわざ息の根を止めるような真似はしない」

 

 アルトリアとライダーは慎二の意向に従っているらしく、襲って来る気配を見せない。

 

「……それは出来ない」

「……あ?」

 

 慎二は険しい表情を浮かべる。

 

「お前はどこまで馬鹿なんだ? キャスターを引き入れたくらいで、アルトリアをどうにか出来るとでも思ってるのか? 言っておくけどな、お前達のサーヴァントが幾ら束になって掛ろうがこいつには敵わないんだよ。こいつは正真正銘の化け物なんだ。街で攫った女達の魂を喰らって、魔力も充実してる。ここで降りなきゃ、お前は死ぬしかないんだぜ?」

「……慎二。お前が俺の為に言ってくれてるんだって事は分かる。だけど、駄目だ。俺は絶対にセイバーを死なせない。それに、人喰いを行うソイツを放っておく事も出来ない」

「……ああ、そうだよな。お前って、そういう奴だよな。本当に馬鹿で愚鈍で……、面倒な奴だよ」

「悪いな……」

 

 士郎の言葉に慎二は鼻を鳴らす。

 

「まあ、いいさ。運良く生き残ったら、教会に放り込んでやるよ」

 

 そう言って、慎二はアルトリアに視線を向ける。

 

「待たせたな」

「――――いや、構わんよ。待ち侘びた瞬間を前に、心が高揚しているからな。だが、邪魔はするなよ?」

「ああ、分かってるさ。ライダーに手は出させない。好きなだけやれよ。どうせ、勝つのはお前なんだろうし」

「いやいや、分からんぞ。このアーチャーは中々の手練だからな」

 

 アルトリアはそう言うとアーチャーに視線を向ける。

 

「――――前回は中途半端に終わってしまったからな。今宵は決着をつける為に特別な舞台を用意した」

「……今日は停戦日の筈だが?」

「関係無いな。所詮、ペナルティーと言えど、令呪やマスターの私財の没収程度だろう? 私には関係が無いし、慎二も了承している」

「貴様のマスターは間桐臓硯だと思っていたが?」

 

 アーチャーが言うと、何がおかしいのか、アルトリアはケラケラと笑った。

 

「生憎、私にマスターは居ない。臓硯とは単なる協力関係に過ぎん。奴に私を縛る事など出来んよ」

 

 そう言うと、アルトリアは士郎とセイバーを見た。

 

「我が写し身。そして、その主よ。お前達も無粋な真似はしてくれるなよ?」

 

 狂気に彩られた眼差しに士郎とセイバーは眼を剥いた。

 

「……アーチャー」

 

 士郎がアーチャーに声を掛ける。すると、彼は普段と違い、実に楽しそうな声で応えた。

 

「奴の言う通りだ。無粋な真似はせず、お前達は被害の及ばぬ場所に避難していろ」

「で、でも――――」

 

 セイバーが声を掛けようとすると、アーチャーは振り向いた。

 その顔を見た瞬間、セイバーと士郎は呼吸が出来なくなった。

 そこに浮んでいたのは狂気的なまでの憎悪を孕んだ殺意。

 

「邪魔をするな、と言ったんだ。この女はオレが殺す」

 

 そのアーチャーの言葉にアルトリアは恋する乙女のように頬をほころばせた。

 

「貴様の殺意……、実に良い。お前が何者なのかは知らぬ。だが、今の私の頭の中はお前の事でいっぱいだ。ああ、これが恋というものなのかな?」

「――――戯言を弄するな……、と言いたい所だが、奇遇だな。私の頭の中もお前の事でいっぱいだよ」

 

 アーチャーは言う。

 

「お前を殺す事を今日まで夢見て来た。こんな機会が巡ってくるとは夢にも思わなかったが、オレは今、歓喜しているぞ」

「……最高だな。ならば、見せてみろ。お前の殺意の全てを!!」

「ああ、見せてやるさ。お前を殺す為だけに重ねた全てを!!」

 

 二人は互いに唇の端を吊り上げる。殺意と殺意がぶつかり合い、大気を軋ませる。

 セイバーは恐ろしかった。二人の殺意が……、では無い。この戦いの果てに待ち受けるものに恐怖した。

 

“とても怖い夢を見た。とても長くて、苦しい夢を見た”

 

 二人の騎士は互いに刃を構える。浮かべるのは双方共に笑み。

 

「さあ、決着をつけようか、アーチャー」

「ああ、決着をつけよう、アーサー王」



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第二十五話「絶望の果て・上」

 戦いが始まった。鮮血に濡れた舞台の上で赤と黒の殺意がぶつかり合う。

 戦局はアルトリアの優勢。当然だろう。本来、アーチャーはその名の通り弓兵だ。遠距離からの狙撃こそ、彼の本領であるにも関わらず、剣で剣の英霊たる彼女と斬り結ぶ事自体がおかしい。

 以前の戦いでは足場が石段だったが故にアーチャーの技巧が冴え渡り、拮抗させる事が出来た。この平らな大地の上ではアルトリアの王道的剣技が真価を発揮する。純粋なるスピードとパワーがテクニックを圧倒する。

 

「アーチャー!!」

 

 セイバーは考える。この場で最善の選択を必死に考える。

 このままではアーチャーが死ぬ。これは必定に近い。

 アーチャーの宝具は接近戦に持ち込まれた今の状態では発動不能。能力に関しても、接近戦ではあまり役に立たない。故に彼は純粋な剣技だけで戦わなければならない。

 だが、それではジリ貧だ。守りに特化した剣技故に決定打を受けてはいないが、ダメージは蓄積し続けている。何か手を打たなければ、いずれ破綻し、アルトリアの剣がアーチャーの体に致命傷を刻む。

 

「――――クソ」

 

 だけど、己に何が出来る?

 キャスターに操られていた時は宝具を使えたらしいけれど、今は使い方が分からない。

 士郎に令呪を使ってもらうという手もあるが、それでは一手遅れる。手を出さないからこそ、セイバーと士郎は見逃されているのが現状。攻撃態勢に入った事を相手に知られたら、恐らく、ライダーも戦闘に加わるだろう。

 令呪を使い、宝具を発動させるのは愚策でしかない。確実に回避され、その隙に殺されるのがオチだ。その果てにあるのはアーチャーと士郎の死。

 ならば――――、

 

「……いや、駄目だ」

 

 令呪でアーサー王の能力を発揮出来るようにしたとしても所詮は偽物。結局、アルトリアには敵わない。

 ライダーならば倒せるかもしれないが、機動力に優れた彼女と戦闘になると、確実に士郎から離れる事になる。そうなると、無防備な士郎が危険に晒される。

 万事休す。そこまで考えての“この布陣”だとすれば、間桐慎二という人間を侮っていたと認めるしかない。まさか、再び戦場に舞い戻って来るとは思わなかった。

 あの時、キチンと殺しておけばこの状態には至らなかったかもしれない。

 

「……ちくしょう」

 

 セイバーが迷っている間も戦闘は続いている。

 只管守りを固めるアーチャーに対し、アルトリアは不満を口にする。

 

「守ってばかりではつまらんぞ、アーチャー!」

 

 怒涛の攻撃を繰り出しておきながら、無茶を言う女だ。

 けれど、確かに守ってばかりでは勝てない。アーチャーは如何なる戦場においても勝利への布石を並べ、活路を見出す戦法を取る。

 ならば、今の守勢も勝利への布石なのかもしれない。

 

「どうするつもりだ……、アーチャー」

 

 士郎はアーチャーの背中を見つめながら呟く。

 その言葉が合図であったかのように、戦局が動いた。

 

「――――なっ」

 

 ただし、それはアーチャーの更なる劣勢を意味した。

 アーチャーの双剣がアルトリアの一刀の下に大きく弾かれたのだ。天高く舞い上がる干将・莫耶。あんな重い物がどうやったらあんな高度にまで舞い上がるのか不思議に思う。

 双剣は落ちる事無く、戦場を挟むビルの壁面に突き刺さった。

 武器を失い、徒手空拳となるアーチャー。アルトリアは勝利を確信し、溜息を零した。

 

「――――なんだ、こんなものか」

 

 それは好敵手と思っていた相手の不甲斐なさを嘆くものだった。

 その不満が止めの一撃を僅かに遅らせた。

 そして――――、

 

「――――ッハ」

 

 アーチャーは嗤った。

 アルトリアは未だ、アーチャーというサーヴァントの本質を理解していない。

 彼の行動には一つ一つ意味がある。全ては勝利への布石であり、己を劣勢に追い込む事もまた、布石の一つに過ぎない。

 彼の行動の意図……それ即ち――――、

 

「――――鶴翼、欠落ヲ不ラズ」

 

 彼が干将・莫耶を愛用する意味。

 彼が双剣に秘めた真意がここに顕となる。

 新たに現れた双剣がアルトリアの剣を弾き、同時にアーチャーは後退する。

 

「――――同じ武器?」

 

 僅かに目を見開くアルトリア。その隙にアーチャーは抜き去った双剣を投げた。

 最大魔力と共に投げられた陰陽剣がアルトリアの首を狙い襲い掛かる。

 

「愚かな――――」

 

 鉄をも砕く宝具の一刀。弧を描きながら襲い来る双剣をアルトリアは事も無げに打ち払う。

 要したのはたったの一撃。左右同時に襲い来る二つの刃をただの一撃で片付けた。

 軌道を歪められ、本来なら手元に戻って来る筈の刃が彼女の背後に飛んで行く。

 再び無刀となったアーチャーにアルトリアは侮蔑の表情を浮かべ、そして――――、

 

「――――また、同じ武器?」

 

 三度現れる双剣にアルトリアの表情が変わる。剣士として最高峰に位置する彼女だからこそ、三度同じ武器を取り出すアーチャーに違和感を覚えた。

 その宝具では届かぬと分かっている筈にも関わらず、愚直に同じ得物を使い続ける彼の真意をアルトリアは探ろうとする。

 

「――――心技、泰山ニ至リ」

 

 されど、答えを見つけるより先にアーチャーが答えを放つ。

 有り得ない方角からの攻撃がアルトリアを襲い――――、

 

「そういう事かっ……」

 

 未来予知染みた直感の下、背後から飛翔した干将を躱すアルトリア。

 後方の地面に突き刺さる干将を尻目にアーチャーは握る莫耶を彼女へ叩きつける。

 

「舐めるなっ!」

 

 アルトリアは強引に干将を躱した態勢のままで莫耶を砕く。

 見ている事しか出来ないセイバーと士郎はその化け物染みた所業に言葉を無くす。

 そして、武器破壊という極技を見せたアルトリアは――――、凍り付いた。

 

「これはっ……」

 

 今まで、さんざん打ち合った剣。たかが一撃で砕ける筈が無い。

 アーチャーというサーヴァントの本質に漸く気が付き始めたアルトリアは警戒レベルを最大まで引き上げる。

 だが、前ばかりを見ても居られない。

 

「――――心技 黄河ヲ渡ル」

 

 干将が来たのなら、当然、莫耶も来る。夫婦は常に寄り添うもの。

 干将が莫耶に引き寄せられたように、莫耶も干将に引き寄せられ、アルトリアを背後から襲う。

 磁石のような性質を持つ干将・莫耶の性質。それに気付き、アルトリアは神業めいた反応速度で回避を行う。干将と同様に地面に突き刺さる莫耶。

 そこへ更なる干将の追撃。

 

「――――くっ」

 

 アーチャーの握る干将が再び砕け散る。

 二対の干将・莫耶による前後からの同時攻撃を防ぎ切ったアルトリアはもはや限界を迎えている。

 これ以上無い無防備な態勢。

 対して、アーチャーには次がある。三度取り出したならば、当然、四度目がある。だが、それは予想とは違った。

 アーチャーの手に顕現したのは細身の長剣。

 

「――――ッチ」

 

 限界を迎えた筈のアルトリアの動きがブレる。

 彼女には肉体の限界の先を往く手段がある。

 それが魔力放出というスキル。

 膨大な魔力で無理矢理体を動かすアルトリア。

 だが、読み違えたアーチャーの得物によって、腕を貫かれる。

 

「――――クァ」

 

 そして、苦悶に歪む彼女の目に映ったのはアーチャーが浮かべた必勝の笑み。同時に耳に届く破滅の音。

 そう、アーチャーの行動に意味の無いものなど無い。

 最初に弾かれ、ビルの壁に突き刺さった干将・莫耶が地面に突き刺さる干将・莫耶に牽かれ、急降下して来る。

 既に限界を超え、腕を貫かれている状態。回避も防御も不可能。

 

「勝った!!」

 

 勝利を確信し、叫ぶアーチャー。

 だが、侮るなかれ――――、敵はあまねく騎士の王。最強の名を冠する剣の英霊。

 アルトリアは直感に従い、魔力放出により僅かに体を揺らす。そして――――、

 

「……なっ」

 

 セイバーはその光景に瞠目した。

 切り裂かれ、宙を舞うアルトリアの片腕。それはアーチャーが貫いていた方の腕だった。

 アルトリアは魔力放出によって体を揺らす事で聖剣を振り上げ、僅かに襲い来る干将・莫耶の軌道を変えたのだ。

 干将が横腹を裂き、莫耶が腕を両断した。けれど、アルトリアは未だに健在。

 

「今のは驚かされたぞ、アーチャー」

 

 残った腕で聖剣を握り締め、アルトリアは微笑む。

 

「やはり、気になるな」

 

 彼女は僅かに眉を潜める。

 

「お前は何者だ? 今の四連の剣技は……、“私”を殺す事に特化し過ぎている。私の生前の縁者か?」

「……貴様に教える道理は無い。片腕を奪った。次は命を貰うぞ、アーサー王」

 

 衰えぬアーチャーの殺気にアルトリアは恍惚の笑みを浮かべる。

 

「なるほど、愚問だったな。語るは剣で、という事か! ならば、存分に語ろう」

 

 戦局はアーチャーに有利な方向へ傾き出した。当然だろう。如何に最強の剣士と言えど、片腕を失った状態で万全な動きなど出来る筈が無い。

 なのに、どうしてだろう? 心に不安がこびり付いて離れない。アーチャーが圧倒的に優勢な筈なのに……。

 全てはあの夢のせいかもしれない。やっぱり、あの夢は彼の……、本当に起きた出来事だったのかもしれない――――。

 

 

 男の生涯は後悔に塗れていた――――。

 カツンカツンと硬い音が鳴り響く。後ろ手に手錠をかけられ、目隠しをされ、処刑場へ向って歩き続ける。

 遺書は遺さなかった。遺すべき相手など居なかった。

 辿り着いた首吊り台。階段を一段登る度に脳裏を過ぎるのは出発点であった遠い日の思い出。

 一筋の涙が零れる。看守は自らの行いを悔い、己の死を嘆いているのだろうと無言を貫く。けれど、それは違う。

 彼は喜んでいた。漸く、終わりを迎える事が出来た事に歓喜していた。

 

“君は立派な人間になるんだよ”

 

 嘗て、魔術師同士の争いがあった。聖杯戦争と呼ばれる、たった一つの聖杯を巡り、サーヴァントと呼ばれる使い魔を召喚し殺し合う大儀式。

 彼はその戦いにマスターの一人として選ばれた。召喚したサーヴァントのクラスはセイバー。最優と名高きクラスで召喚されたのはアーサー王。まさに剣士として最強の英霊が招かれた。

 けれど、セイバーには異常があった。外見や性能は紛れもなくアーサー王のモノであるにも拘らず、中身が異なった。

 彼女――――……、彼は自らを『日野 悟』と称した。

 

 

 悟はどこにでも居る普通の大学生だったらしい。

 死んだ原因も『女の子に振られて、自棄酒をした挙句の事故死』だ。見事なまでの自業自得。同情の余地は一切無かった。

 そんな彼との共同生活は波乱万丈だった。

 

 最初の戦いの相手はイリヤスフィールと名乗るドイツ人の少女が率いるバーサーカー。

 悟は彼に“令呪”と呼ばれるサーヴァントに対する“絶対命令権”を行使させた。

 アーサー王の力を発揮し、悟はバーサーカーを相手に善戦し、見事に人気の無い空き地へと誘い込む事に成功する。

 空き地には障害物が多く、地形の有利を利用して、悟はバーサーカーの体勢を崩す。

 

『――――入った!!』

 

 協同戦線を張っていた遠坂凛というアーチャーのマスターが歓声を上げる。

 勝利を確信し、笑みを浮かべる遠坂。悟も勝利を確信し、笑みを浮かべている。けれど、突然、俺は背筋に寒気を感じた。

 空き地から遠く離れた高台にある建物の上。そこに赤い衣を纏う騎士が弓を構えていた。迸る殺意の矛先がバーサーカー以外の存在にも向けられている事を瞬時に察し、考えるより先に悟に駆け寄った。

 

『なっ……、士郎君!?』

 

 悟の手を取り、地面に組み伏せると同時に光と音が爆発した。その衝撃で俺は意識を刈り取られた。

 

 

 悟は自らの力の無さを自覚していた。それ故に遠坂に助力を求めたけれど、結局、手を結ぶ事は出来なかった。

 彼女のサーヴァントであるアーチャーが同盟を結ぶ事に強く反対したらしい。

 二人っきりで聖杯戦争を生き抜かなければならない。それが如何に絶望的であるか、バーサーカーと一戦を交えた事でよく分かった。けれど、唯一助力を求められそうだった遠坂に断られた以上は仕方が無い。二人で意見を交わし合い、必死に生き残る為の計画を建てた。

 

 

『……そうだ。俺の事は士郎でいいよ』

 

 話が一段落した後、思い切って悟にそう告げてみた。

 君付けで呼ばれると、妙にくすぐったく感じて慣れない。

 

『そうかい? なら、そう呼ばせてもらうよ』

 

 悟も別に拘りがあったわけでは無いらしく、アッサリと応じた。

 

 当面の方針は“強くなる事”だった。兎にも角にも、俺達は二人共弱過ぎた。

 朝は剣道場で只管竹刀を振るい、夜は魔術の鍛錬に当てた。悟は“アーサー王の知識”や“聖杯の知識”とやらを活かして助言をくれた。

 そうしている内に穏やかな時間が二日、三日と続いた。剣の稽古や魔術の鍛錬の合間に息抜きとして一緒にゲームをしたり、意外にもお酒好きなセイバーが食事をせがみに来る藤ねえと飲み比べをする事もあった。

 

 けれど、平和な時間は長続きせず、ある時、友人である間桐慎二から電話が掛って来た。

 

『――――話がある』

 

 悟は反対したが、何とか説得して慎二の指定したオシャレなカフェに赴いた。

 そこで語られたのは彼がマスターである事。そして、同盟の提案。

 

『悪くない話だろう? 巻き込まれただけのお前が一人で生き残れるわけ無いんだし』

 

 ありがたい申し出だったが、悟が猛反対した。

 普段、温厚な悟がこれだけは譲らなかった。やむなく、頭を下げて答えを先延ばしにすると、慎二は呆れたように肩を竦め、去り際に呟いた。

 

『何かあったら教会に逃げ込め。それと、柳洞寺に居る魔女には注意しろ』

 

 その助言に感謝の言葉を告げ、悟と共に喫茶店を離れた。

 

 翌日、再び慎二から連絡が入った。

 

『考えは変わったかい?』

『……いや、セイバーが反対しててさ。すまないが、もう少しだけ待って――――』

『衛宮……。僕は愚鈍な人間が嫌いなんだ。知ってるだろ? チャンスを何度も棒に振る奴の事なんて、僕は知ったこっちゃない。後は自分達でどうにかするんだね』

 

 電話越しに怒りを滲ませる慎二。慌てて謝ると、彼は鼻を鳴らした。

 

『……お前は覚悟が足りないんだよ。なあ、久しぶりに学校に来いよ。お前に聖杯戦争がどんなものかを教えてやる』

 

 その言葉に首を傾げながら、学校に向った。やはり悟は反対したが、善意の申し出を二度も断ってしまった手前、行かないわけにもいかなかった。

 そして、学校に到着した途端、二人揃って愕然となった。学校中が赤い光に包まれていて、教室に入ると生徒達が倒れ伏していた。肌はまるで蝋を溶かしたかのようになっていて、二人は青褪めた。

 

『まったく、本当に愚鈍な奴だな、衛宮』

『……慎二。まさか、これは――――』

『ああ、僕がやらせたのさ』

 

 それが二度目の戦いの幕開けだった。

 

 

 思えば、彼は一貫して“救う”為に行動していた。もはや過ぎ去った過去ではあるが、あの時、彼の手を取っていれば、別の未来もあったかもしれない。

 階段を更に一段上がりながら、男は苦笑する。

 悔やむばかりの人生。もしもの話を何度も脳裏に浮べ、その度に絶望する。そんな愚かな己に嘲笑の笑みを浮べ、男は再び意識を過去に戻す。

 

 

『慎二!! アンタ、学校でこんなふざけたモノを発動させるなんて、良い度胸してるじゃない……』

 

 戦いが始まるや否や、怒り心頭の遠坂が現れ、アーチャーに指示を出した。二対一となり、慎二は舌を打つ。

 

『セイバーを殺して脱落させるつもりだったんだけど……、余計な邪魔をしてくれたな、遠坂』

『何を企んでの行動かは知らないけど、覚悟なさい』

 

 宝石を指の合間に挟み、遠坂が呪文を詠唱する。

 

『これは――――』

 

 アーチャーと切り結んでいたライダーの口から驚嘆の声が漏れる。

 

『――――ッチ』

 

 舌を打つと同時にライダーはアーチャーから離れ、主を抱えて窓の外に飛び出す。即座にアーチャーは弓を構え、外を走るライダーを狙う。

 

『消えろ――――』

 

 矢のように細く捩れた剣を弦に番え、引き絞る。

 

『――――偽・螺旋剣Ⅱ』

 

 膨大な魔力を篭められ、大気を捻じ切りながら矢がライダーに迫る。けれど、トップクラスの敏捷性を誇るライダーは間一髪でこれを回避する。対して、アーチャーの顔には勝利の笑み。

 次の瞬間に起きた事はバーサーカー戦の焼き直しだった。光と音が破裂した。宝具が内に秘める幻想を解き放ったのだ。“壊れた幻想”と呼ばれるサーヴァントの切り札。

 極めて凶悪な破壊力を誇る絶技を受け、ライダーは無惨な姿に変わり果てていた。どうやら、咄嗟に彼女は慎二を庇ったらしく、彼には火傷と裂傷程度の傷しかない。

 対して、現界しているのもギリギリな状態のライダー。

 もはや勝敗は決した。誰もがそう思った瞬間、彼女は自らの眼帯を解き放った。

 

『――――自己封印・暗黒神殿』

 

 途端、全身が痺れたように動かなくなった。俺だけじゃ無い。遠坂とアーチャーも身動きが取れない様子。唯一、セイバーだけは強力な対魔力のおかげで体が少し重くなる程度で済んだ。

 ライダーの眼は石化の魔眼。彼女の眼帯はその力を封じる為の宝具。名はブレーカー・ゴルゴーン。

 ギリシャ神話に登場する蛇髪の怪物、メデューサ。それが彼女の真名だった。

 そして、突如姿を現すペガサスに跨り、彼女は言う。

 

『油断ですね、アーチャー。この程度の傷を付けた程度で過信するとは……』

 

 天高く舞い上がり、狙いを済まして宝具である手綱を手に取るライダー。

 

『騎英の手綱!!』

 

 宝具を発動し、天高く舞い上がる。膨大な魔力を纏い、迫り来るライダー。

 絶体絶命の窮地に陥り、悟が叫ぶ。

 

『令呪を使え、士郎!! 宝具を使う!!』

『あ、ああ……!! 宝具を使え!!』

 

 身動きが取れない状態のまま必死に魔力を令呪に注ぎ込み、叫び声を上げた。

 直後、悟は風王結界を強引に解き、聖剣を顕とする。

 

『約束された勝利の剣!!』

 

 光を呑み込むより大きな光の斬撃。

 エクスカリバーの一撃がベルレフォーンを発動したライダーを消し飛ばし、勝敗が決した。

 しかし、同時にいつの間にか慎二が姿を消していた。

 

『ど、どうしたんだ……?』

 

 天を裂く聖剣の発動を目にして呆気に取られていると、突然、悟が倒れ伏した。

 

 騒ぎになる前に悟を抱えて衛宮邸へと戻った。

 そこで遠坂は恐るべき事を口にした。

 

『このままだと、セイバーは消滅する』



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第二十六話「絶望の果て・中」

『このままだと、セイバーは消滅する』

 

 遠坂が発した言葉に俺は立ちつくした。

 

『ど、どうして……?』

 

 漸く搾り出せた言葉がそれだった。

 原因は俺達の間にキチンとしたパスが通っていなかった事。エクスカリバーの発動によって、悟は有していた魔力の大部分を失ってしまったのだ。

 そうなっては、如何に強力な潜在能力を持つアーサー王の肉体と言えど、待ち受ける死を回避する術が無い。

 

『正直、セイバーが宝具を使ってくれなかったら、私達も危なかった。だから、当面の間、以前の彼女の頼みを聞いてあげる』

 

 幸か不幸か、遠坂は以前の悟の嘆願を聞き入れ、衛宮邸に滞在する事になった。けれど、悟はそれから布団で寝たきりとなってしまった。

 

、乱れる感情を落ち着かせる為に一人竹刀を振るう。どんなに汗を流しても、悟が消えてしまうかもしれないという恐怖が拭えない。

 その時、既に英霊召喚から一週間以上が過ぎていた。その間、殆どの時間を二人っきりで過ごしていたのだ。一緒に居て当たり前になっていた。

 だから、急に消えてしまうと言われても受け入れる事なんて出来なかった。

 

 そうして、更に二日が経つ。いよいよ、悟の容態が悪化した。魔力が切れ掛かっている事で苦しみの声を上げる。

 方法はあった。悟を存命させたいなら、魔力を補充してやればいい。けれど、それは――――、

 

『悟……』

 

 消えないで欲しい。そう思いながら、ふらふらと一人で外を出歩いた。

 悟と二人で何度も往復した道。その度に出会う少女が居た。

 

 公園のベンチに座り、手に顔を埋めながら震えている。

 悟を存命させるには人を襲わせるしかない。けど、そんな事、出来る筈が無い……。

 そんな事をさせようものなら、悟は頑なに拒む筈だ。

 

『でも……』

 

 手の甲に視線を落とす。そこには残り一画となった令呪が存在する。

 

『これを使えば……』

 

 例え、悟が拒んだとしても命令を実行させる事が出来る。

 いいじゃないか……。それで別れずに済むなら、赤の他人がどうなろうと……。

 そうした悪魔の囁きを必死に振り払う。

 唇を噛み締め、いつまでも寒空の下で項垂れ続けた。

 

『あれー? シロウってば、なんだか浮かない顔してるー』

 

 いつものように彼女が現れた。暗い表情を浮かべる理由を問うのはバーサーカーのマスター。名はイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。

 買い物の度に顔を合わせる少女とは彼女の事。

 自らの不安の種について、気がつくと彼女にポツリポツリと語っていた。

 

『ふーん……。そっかー、セイバーが消えちゃうのが悲しいのね』

『……ああ』

『……可哀想なシロウ』

 

 心から憐れむように俺を見つめるイリヤ。彼女は少しの間思案の表情を浮かべ、やがて頷いた。

 

『……うん、決めた』

『イリヤ……?』

 

 突然、頬に両手を添えられて、眼を丸くする。

 そして――――、

 

『――――!?』

 

 手足が動かなくなった。むしろ、力を篭めれば篭める程、体が硬くなって行く。

 イリヤの赤い瞳を見つめていると、体が麻痺してしまった。

 

『大丈夫よ、シロウ。セイバーが消えても、私がたっぷりと愛してあげるわ』

 

 そうして、まるでブレーカーが落ちたかのように、意識が暗転した。

 

 次に目を覚ましたのはアインツベルンが郊外の森に保有する城の中だった。

 相変わらず、体は微動だにしない。イリヤは俺をベッドに寝かせ、色々な事を喋った。聖杯戦争とは関係無い昔話だったり、お気に入りのぬいぐるみに関してだったり、話題は取り留めの無いものばかり。

 最初はニコニコと楽しそうに話をしていたイリヤだったが、俺が暗い表情を浮かべたままである事に気分を害したらしく、部屋を出て行った。

 それから何時間経ったか分からない。唐突に扉が開いた。イリヤかと思い、耳を澄ますと、聞こえたのは悟の声だった。

 

『……し、ろう』

 

 やつれ、立っている事さえ辛い状態で悟はそこに居た。

 後ろには遠坂も居て、中に入ると拘束と暗示を解いてくれた。

 身動きが出来るようになると、お礼を言うより先に文句が口を衝いて出た。

 

『なんで、こんな場所まで来てるんだよ!? 布団で寝てなきゃ駄目だろ!?』

 

 怒り心頭になり思わず怒鳴ってしまった。すると、悟もムッとした表情を浮かべて言い返してきた。

 

『君が危ない目にあってるのに……、ジッとなんてしてられるわけ無いだろ!!』

 

 辛そうに荒く息をしながら言う悟に怒りを通り越して悲しみが湧いた。

 いつ消えてもおかしくない。それほど、悟は弱り切っている。

 

『……無茶しないでくれよ』

『はいはい、そこまでよ』

 

 言い争う二人の間に遠坂が割り込む。

 

『思ったより元気そうね』

 

 遠坂はクスリと微笑んだ。

 

『――――まったく。だから言っただろう、凜。この男の事など放っておけと。この手の男はな、周囲に迷惑を撒き散らした挙句、己だけが生き延びるのだ。今回は良い機会だった。見捨てておけば勝手に死んでくれたものを……』

『ア、アーチャー。そんな言い方は……』

 

 アーチャーの棘のある言い方を非難する悟。

 すると、あからさまに侮蔑の表情を浮かべ、アーチャーは悟を睨み付けた。

 

『――――ッハ、なんだ? 頭を地面にこすり付けてまで懇願して来た癖に、この程度の軽口も見過ごせないとは……、やはりポーズだけだったか。主従揃って、恩知らずも甚だしい』

『ストップ。いい加減にしなさい、アーチャー。言い争ってる時間は無いんだから』

 

 遠坂が厳しく言うが、アーチャーが悟を見る目には嫌悪感がありありと浮んでいた。

 

 その後、城からの脱出を試みる四人。

 

『お、おい……、ここって!?』

 

 大胆不敵というべきか、遠坂が脱出経路として選んだのは正面玄関だった。

 堂々と入り口から出て行こうとする四人。そんな蛮行をみすみす見逃す程、この城の主は優しくない。

 

『――――まったく、仕方のない子。私が折角守ってあげようとしたのに、逃げ出そうとするなんて……』

 

 その寒気がするような殺気が篭った声に足が止まる。振り向いた先にはイリヤとバーサーカー。

 戦慄の表情を浮かべ後退ると、彼女は薄く微笑んだ。

 

『お仕置きが必要みたいね。安心しなさい。シロウだけは助けてあげる。私のサーヴァントにして、一生飼ってあげる』

 

 殺意と歓喜の入り混じった声。同時にバーサーカーの瞳に光が灯る。

 戦闘態勢に入る狂戦士に対し、遠坂は強く歯を鳴らした。

 

『――――アーチャー……、少しの間、アイツの足止めをして』

 

 アーチャーは無言のまま、両手に常の双剣を構える。

 

『な、何言ってるんだよ、遠坂!? 幾ら何でも、アーチャー一人でアイツに挑むなんて――――』

『黙りなさい。私達は一刻も早く、ここから離れる。アーチャーにはそれまでの時間稼ぎをしてもらうから……』

 

 遠坂の判断をアーチャー一人が肯定する。

 

『賢明な判断だ。凜一人ならばともかく、足手纏いが二人も居るからな』

『……悪いわね』

『別に構わんよ。そういう君だからこそ、付き従う価値を見出す事が出来た。往け、凜。案ずる事は無い。単独行動は弓兵の得意分野だからな』

 

 遠坂は彼に背中を向けて走り出した。

 アーチャーも振り向かずにバーサーカーを睨み付ける。

 

『……さて、終わらせるのは少々手間だぞ、バーサーカー』

 

 敗色濃厚な敵を前にしながらも不敵な笑みを浮かべる彼にイリヤは苛立ちの表情を浮かべる。

 そして、二騎の英霊の戦いが始まった――――。

 

 森の中に突入した途端、悟が足を縺れさせて転んだ。

 

『――――大丈夫か!?』

 

 既に魔力不足は深刻なところまできていた。

 己を置いて行けと言う悟に耳を貸さず、両手で彼を抱えて走る。

 それから一時間余り――――、唐突に遠坂が足を止めた。

 

『……遠坂?』

 

 遠坂は服の袖を捲った。そこには何も無い。けれど、少し前までは何かがあった。恐らく、それは令呪。

 

『アーチャーは……』

『二人共、ちょっといいかしら?』

 

 声を掛けると、遠坂は振り向き、感情を抑えた声を発した。

 

『このままだと、セイバーは消滅する。もう、時間の問題。恐らく、この森を抜けるより先に……』

『そ、そんな……』

 

 突きつけられた真実に呆然となる。

 ショックで目を見開く俺にセイバーは冷静に告げる。

 

『……そういう事だ、士郎。俺の事は良い。二人で逃げろ』

 

 そう言って、彼はよろめきながら立ち上がる。

 

『令呪を使ってくれ。それで、少しでも足止めをする。アーチャーが犠牲になってくれたんだ……。俺だって、命を賭けなきゃ釣り合わない』

 

 覚悟を決めた悟が聖剣を手に取る。けれど、直ぐによろめいて、剣を杖に肩で息をし始める。

 

『……馬鹿言わないで、セイバー。今の貴女じゃ、令呪を使っても焼け石に水よ』

『けど、他に方法が無いだろ。こうなったら……、イリヤスフィールを狙ってでも時間を――――』

『そんな事をしても無駄よ。稼げても数分』

 

 遠坂は険しい表情を浮かべて言う。

 

『アーチャーを犠牲にした以上、貴女を無駄死にさせるわけにはいかない。死ぬにしても、ちゃんと役に立ってもらう』

 

 遠坂の視線が此方に向けられる。

 

『最後の令呪も使ってもらう事になる。けど、その前にやるべき事があるわ』

『やるべき事……?』

『貴方だって、セイバーをみすみす死なせたくは無いわよね?』

『あ、当たり前だ! セイバーを消えさせるくらいなら……、俺は――――』

 

 最悪の手段を取ってでも――――、

 

『オーケー。じゃあ、覚悟を決めてもらう。セイバーには何としても回復してもらって、三人でバーサーカーに戦いを挑むわ』

『セイバーを回復って……、出来るのか!?』

『……ま、まさか』

 

 遠坂の言葉に何かを感じ取ったらしく、悟は真っ青な表情を浮かべる。

 

『拒否は許さない。私達に士郎の助命を懇願する時、言ったわよね? 『何でもするから、士郎を助けて下さい』って』

『あ……、ああ』

 

 二人が何を言っているのか分からず、困惑する。

 やがて、気まずそうに顔を伏せながら悟は遠坂の隣に立った。

 

『…………分かった。けど、手順が分からない』

『安心なさい。私が手伝ってあげる』

 

 そして、遠坂が俺達を連れて来たのは小さな廃墟だった。どうやら、城に向う道すがら、アーチャーが発見したらしい。

 二階に上がると、月明かりに照らされたベッドが一つ。凜は瓦礫を踏みつけながら傍まで行き、悟をベッドに寝かせるよう指示を出す。

 

『それで……、どうすればいいんだ? セイバーを助けるには人を襲わせるしかないって、前は言ってたけど……』

『現状だと、それは不可能よ。ここはイリヤスフィールの庭だもの。人の魂なんてどこにも無い』

『なら、どうやって……?』

『前に説明したでしょ? サーヴァントに魔力を分け与える方法は共有の魔術とそれ以外の僅かな方法しかないって』

『……そう言えば、パスは通ってるから、魔術以外の方法があるとか何とか言ってたな?』

 

 思い出したように言うと、遠坂は何故か顔を赤らめた。

 

『遠坂、その方法って?』

『……私がサポート出来る範囲だと、方法は二つよ。内一つは荒っぽいし、下手をすると士郎が身動き取れなくなる可能性がある。一人も戦力を欠く事が出来ない状況だから、もう一つの方法を取る』

『それは……?』

 

 詰め寄ると、遠坂は言い難そうに呟く。

 

『長期的に見れば荒っぽい方法だけど、魔術回路をセイバーに移植する方が良いのかも知れない。けど、今は万が一の事態も避けなきゃいけない。士郎には令呪を使ってもらう必要があるから、シンプルかつ安全かつスピーディーな手段を取る』

『そ、そんな方法あるのか? 一体、どうやるんだ!?』

 

 声を荒げて問う。すると、遠坂は頬をますます赤らめて言った。

 

『……抱きなさい』

『……ん?』

 

 よく聞こえなかった。

 

『だから、セイバーを抱きなさい。セックスしろって言ってるのよ』

『お前、何を言ってるんだ?』

『あのね……、貴方とセイバーは霊的なだけじゃなく、肉体的にもパスが通ってるのよ。だから魔力供給に難しい魔術は要らないわ。ようするに活力を与えてあげればいいんだから』

『い、いやでも、お前――――』

『口答えしないの! 性交による同調なんて基本じゃない。それに魔術師の精は魔力の塊だしね。お金に困窮した魔術師は協会に精液を売るって知らない?』

『知るか!! だって、た、立川流は邪教だし黒山羊は迷信じゃないか!!』

『あのね、立川流はちゃんとした密儀だし、黒山羊はれっきとした契約者よ。まったく、どうして男のあんたが拒むのよ。それとも、抱きたくないの?』

『お、俺は――――』

 

 横たわる悟を見た。荒く息をする悟に思わず生唾を飲み込む。

 

『だ、だって、さと……セイバーは――――』

『……士郎』

 

 悟は辛そうに俺の名を呼んだ。

 

『……まあ、あれだ。生き残る為に必要な手段だと割り切るしかない。幸い、見た目だけなら悪く無いだろ? 演技をしてやる余裕は無いけど、口は閉じてるから我慢して抱いてくれ』

 

 その言葉に発作的に唇を噛んだ。違うのだ。我慢するとかじゃない。悟は手段として割り切ろうとしているけれど、俺は――――、

 

『……でも、セイバーは嫌じゃないのか?』

『――――まあ、状況が状況だしな。まさか……、こっちだとは思わなかったが……』

『え?』

『いや……、それより、俺は構わないよ。他の奴が相手なら舌を噛み切ってでもお断りするが、士郎が相手だしな……』

 

 その言葉は聞きようによっては俺になら抱かれても構わないと思っていると受け取れる。

 

『……言っておくけど、ただ射精して終わりじゃないからね?』

 

 忘れていた。ここには第三者が残っているという事実を忘却していた。

 顔を真っ赤にする俺達に遠坂が呆れたように言う。

 

『精を注ぐだけじゃ意味が無いのよ。感覚を共有する為に意識を同時に高みへ到達させる必要がある』

『つまり……?』

『同時に逝きなさい』

 

 その言葉に二人揃って真っ白になる。

 

『でも……、俺はその……、童貞なんだけど……』

『俺だって、どっちも初めてだよ。いや、まさか……童貞より先に処女を失う事になるとは思わなかったが……、幾ら何でも童貞と処女で同時に逝けとか無茶振りにも程が……』

『まあ、その辺もサポートしてあげるわよ』

 

 そう言って、遠坂は悟が横たわるベッドに腰を降ろした――――。

 

 紆余曲折はあったものの、魔力を補充する事が出来た悟は一人広場に立ち、バーサーカーの接近に備えた。俺と遠坂は木の陰に身を潜めている。

 

『悟……』

 

 不安に駆られながら広場で剣を構えている悟を見つめている。

 

『タイミングを間違えないようにしなさい。令呪の効果を最大限に発揮させる為にも戦う直前に発動させるのがベストだけど、いざ発動が遅れて、戦う前にセイバーが死ぬなんて事態はまっぴらよ?』

『わ、分かってるさ』

 

 それから数時間、三人は只管イリヤとバーサーカーの登場を待った。

 けれど、何時まで経っても来なかった。

 

『……待ち伏せに気付いて、機を狙ってるのかしら?』

 

 それから更に数時間。夜が明けても、イリヤは現れなかった。

 

『……ど、どうなってるんだ?』



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第二十七話「絶望の果て・下」

 いい加減、痺れを切らした三人は警戒しながら森の外へ撤退する事にした。

 油断した所を狙う作戦だろうと思い、慎重に行動したが、結局、森を抜け、衛宮邸に戻ってもイリヤの襲撃は無かった。

 不可解に思いながらも無事に家へ帰る事が出来た――――。

 

 

 思い出すと苦笑してしまう。その頃から既に気持ちにズレが生じていたのだろう。

 

 

 アインツベルンの森からの脱出に成功し束の間の平穏を取り戻したものの、予断を許さぬ現状。三人は今後の事を考える。

 

『幸い、令呪を消費せずに済んだわけだし、高ランクの対魔力を持つセイバーならキャスターを倒す事は難しくない筈。問題はランサーとアサシンね……』

 

 内、片方は令呪を使う事で倒す事も出来るだろう。けれど、問題は残る一体。

 

『しばらくは様子見に徹するってのは?』

 

 悟が提案すると、遠坂は渋い表情を浮かべる。

 

『セイバーが正真正銘最強最優の英霊だったら、その案もアリなんだけどね……』

『何か問題があるのか?』

『多分、セイバーはキャスターに次いで弱い。それでも、令呪を使えば一度限り最強になれる。残るサーヴァントはどれも間諜に秀でたクラスであったり、英霊であったりするから、セイバーを最後の一人にはしないと思うの』

『なんで?』

 

 俺が首を傾げると遠坂は呆れたようにジトっとした目を向けて来る。

 

『セイバーは一度だけなら最強になれるのよ? 最後の一人に残したら、セイバーは迷い無く最強状態で迎え撃てちゃうじゃない』

『あ……』

『だから、どの陣営もセイバーに最後の令呪を使わせようと動く筈』

『なら……、どうするんだ?』

『決まってる。こっちから攻め込むのよ。キャスターとアサシンは内に引き篭もり、必勝の策を練り、刹那の隙を狙うクラスだから、待ち構えるのは下策だし』

 

 遠坂の言っている事は至極もっともだ。けれど、問題が一つある。

 

『攻め込むのはいいとして……、敵うかな? 令呪は使えないわけだろ?』

 

 自身無さ気に呟く悟。

 

『――――……そうなのよね。それが最大の問題なのよね』

『致命的な欠陥があるじゃないか……』

 

 敵わないのに攻め込んでも自滅するだけだ。

 

『でも、待ち構えてたら余計窮地に陥るわけだし……』

『結局……、どっちにしても死線を潜る必要があるわけか……。攻め込んだ方がまだマシってだけで……』

『そういう事よ』

 

 話し合いの末、俺達はキャスターが根城とする柳洞寺に赴くこととなった――――。

 

 夜になり、三人は円蔵山へと向う。不気味な程静かな夜道。

 

『なんか……人の気配が全然しないな』

『まあ、今は聖杯戦争中だもの。聖杯戦争の事を何も知らなくても、街にはびこる違和感を感じて、皆、家に引き篭もってるんだと思う』

 

 やがて、円蔵山に辿り着くと、三人は愕然となった。

 柳洞寺へ続く石段が崩れているのだ。何事かと思いながら、慎重に山門を目指して登る。

 柳洞寺に辿り着いた瞬間、三人は猛烈な死臭を感じた。

 

『あ、あれって――――!』

 

 中心部には女性の死体が転がっていた。赤い髪の女。

 

『……どうやら、魔術師だったみたいね。既に死んでいる。もしかすると、ランサーのマスターかも……』

『ランサーのマスター……?』

 

 悟が大きく目を見開く。それを正体不明だったランサーのマスターが死んでいる事に対する驚愕と受け取った遠坂が頷く。

 

『恐らく、彼女はランサーと共に此処に攻め込んだ。けれど、返り討ちにあったみたい』

 

 幸運と受け取って良いのかは不明。

 三人は不気味なものを感じながら境内を歩き、本堂へ入る。

 中は外よりも更に濃厚な死臭が漂っていた。

 

 寺の人間は皆無事だった。ただ、目覚めぬ眠りについているだけ……。

 寝返り一つうたず、五十人弱の僧侶は例外無く衰弱し切っていた。

 

『後で教会に連絡を入れましょう。大丈夫……、助かるわ』

 

 遠坂は優しく囁いた。いつの間にか拳を握り締め、険しい表情を浮かべていたらしい。

 奥へと向う。そして、そこには――――、

 

『葛木先生……?』

 

 辺り一面に広がる赤。

 床に倒れ伏した男の胸から血があふれ出し、床を染め上げていた。

 

『……死んでから、大分時間が経っているみたい』

『な、なんで、葛木先生が?』

 

 原因は分かるが、理由が分からない。

 

『……恐らく、彼がキャスターのマスターだ』

 

 悟が言った。

 

『葛木先生が!?』

 

 驚く俺に対して、遠坂は『なるほど』と頷く。

 

『けど……、どうして死んでいるんだ?』

『……もしかして、キャスターはランサーと相打ちになったのかしら?』

 

 幾ら考えても、答えは分からなかった。

 教会に連絡を入れ、俺達は一端、衛宮邸へと戻る事にした。

 そして――――、何も起こらぬまま数日が経過した。

 

 

 あの時は本当に平和な時間が流れていた。どうせなら、もっと満喫すれば良かったとさえ思う。

 最初の数日は常に警戒しながら時間を過ごした。けれど、一向に敵が襲って来なかった。

 当然だろう。既に敵は一人残らず駆逐されていたのだ。ただ一人を除いて――――。

 

 

『ひょっとして……、もう戦いは終わってる?』

 

 あまりにも平穏な時間が続き、遠坂が困惑した表情で呟く。

 

『終わってるって……、どういう事だ?』

『いや、だって……、こんなに待っても襲撃の一つも無いって事は……。ほら、アーチャーがバーサーカーと相打ちになって、ランサーとキャスターも相打ちになって、ライダーは既にセイバーが倒している。残るはアサシンで、襲撃をずっと警戒していたけど……、アサシンがとっくに他の陣営に撃破されていた可能性も有り得なくは無い……でしょ?』

 

 あまりにも唐突過ぎる勝利。

 俺と悟はポカンとした表情を浮かべている。

 

『とりあえず、明日、ちょっと教会に行って来る。もし、本当に勝利してたなら、教会が把握してる筈。あそこに居座ってる監督役はあんまり仕事熱心じゃないから、こっちから確認しに行かないと――――』

『ま、待った! 教会って……、“言峰綺礼”に会いに行くのか? それは――――』

『……はい? なんで、綺礼の名前が出て来るのよ?』

『え、いやだって、監督役って言うから……』

 

 悟の言葉に遠坂は不可解そうな表情を浮かべる。

 

『何を言ってるの……? 監督役はカレン・オルテンシアっていう女よ? 綺礼なら――――、十年前に死んでるじゃない』

 

 悟はその言葉に愕然とした表情を浮かべた――――。

 

 様子のおかしい悟の事が心配になり、その夜、俺は悟に宛がった部屋に来た。

 

『なあ、どうしたんだよ?』

『な、なんでも無いよ……』

 

 明らかに隠し事をしている。それがなんだか面白くなかった。

 既に数週間を共に過ごしている仲なのだ。死線を何度も潜り抜け、肌も重ねた。

 今更、何を隠すというんだ。そう、不満を口にすると、悟は申し訳無さそうに呟く。

 

『ごめん……。もう少しだけ、待って欲しい……』

 

 結局、悟の秘密は明かして貰えなかった。最後まで……。

 

 そのまま、二人で一緒に居ると不意に月明かりが溢れる夜の廃墟で悟を抱いた時の事を思い出し、落ち着かなくなった。

 あの時のように、部屋は月明かりに照らされている。

 

『その、悟……』

『なんだい?』

『その……、魔力って、大丈夫なのか?』

『……っぷ』

 

 悟は噴出した。そして、そのまま服を脱ぎ始める。

 

『別に言い訳とかはいらないよ』

『……うん』

 

 そうして、その夜も何事も無く過ぎていった――――。

 

 

 互いの気持ちは一致していると思い込んでいた。

 肌を重ね合う事はその確認となると信じていた。

 

 

 翌日、遠坂は教会に出向く事になり、その間、俺達二人は街に出た。もう、戦いが終わっているなら何も心配は無い。俺は悟を連れまわし、色々な場所を回った。

 悟はいつもニコニコしていた。それを俺は楽しんでくれているのだと感じ、喜んだ。もう、戦わなくていいのだ。これからは二人で仲良く楽しく過ごすのだ。

 空が茜色に染まり、体がクタクタになるまで二人は遊び歩いた。

 

 そして――――、再び聖杯戦争の時間がやって来た。

 

『……え?』

 

 帰り道、談笑しながら歩く二人の前に彼は現れた。

 

『慎二……?』

 

 ライダーとの戦いの後、姿を晦ませていた慎二の登場に二人は驚く。

 

『……十分に楽しめたか?』

 

 慎二は陰鬱そうに問う。

 

『え?』

 

 途惑う俺に構わず慎二は言う。

 

『……友人の好で時間をやったけど、それも明日までだ』

 

 茜色に染まる橋の上で慎二は告げる。

 

『もう、これ以上は待てないらしい……。衛宮、今直ぐにセイバーとの契約を破棄して、教会に行け』

『な、何言ってるんだよ……。聖杯戦争は終わった筈だろ!? 俺達が勝ったんだ!! だから、もう……、戦わなくていい筈で……。俺とさと……、セイバーはずっと一緒に――――』

『現実を見せてやるよ』

 

 慎二が指を鳴らすと、俺達は息を呑んだ。

 

『これが現実だ。お前達は決して勝てないという……、残酷な真実だ』

 

 声は慎二の背後から響いた。

 そこに、悟……否、セイバーが立っていた。ただし、鎧や衣は漆黒に染まっている。

 

『お前は……』

『知っている筈だぞ、我が写し身よ。さあ、選ぶが良い。今直ぐに戦いから降りるか……、それとも――――』

『ふ、ふざけるな!! な、なんなんだよ、お前!?』

『知ってるだろ? アーサー王だよ、衛宮。本物のアーサー王だ』

 

 慎二が言う。

 

『僕がコイツを抑えておけるのは明日までだ。それまでに決めろ。僕は……、お前を殺したいわけじゃない。間違えるなよ? そいつは人間じゃない。単なる亡霊なんだ。そんな奴の為に命を粗末にするなよ?』

『――――待て、シンジ』

『……あ?』

 

 去ろうとする慎二を呼び止めたのは黒のセイバーだった。

 

『お前の事は気に入っている。故に、幾らか譲歩してやった。だが、私はこの写し身に興味がある。明日まで待って、自害でもされては興醒めだ。少し、遊ばせろ』

『……おい』

『案ずるな。その小僧の事はどうでもいい。それに、適当に遊んだら切り上げるさ』

 

 剣を抜く黒のセイバーに慎二は鼻を鳴らす。

 

『勝手にしろ。だけど、衛宮は殺すな。そいつは……、桜を少しだけ人間にしてくれたからな』

『そ、それってどういう意味だ、慎二!?』

『お前が知る必要は無い』

 

 そう言って、慎二は去って行った。そして、戦いは唐突に幕を開いた。……否、それは戦いなどと呼ぶのもおこがましい、一方的な蹂躙だった。

 悟は一太刀すら受け切れずに倒れ伏し、黒のセイバーは悟が起き上がるのを待つ。その繰り返しを十繰り返した後、黒のセイバーは悟の頭を踏みつけ、言う。

 

『つまらんな。私の写し身ともあろうものが、何と言う体たらくだ……』

 

 蹴り飛ばし、橋の下を流れる川に悟を落とす黒のセイバー。

 

『テ、テメェ!!』

 

 飛び掛ると黒のセイバーは焦る様子も見せずに俺の拳を避けた。そして、誰かが俺の腹を蹴り、悟と同じく川へ落とした。

 落下の際、俺が見たのは――――、慎二に寄り添う六つの影だった。

 

『馬鹿……な』

 

 あまりにも絶望的な光景がそこにあった。

 脱落した筈の六体のサーヴァントが、まるで慎二に付き従うかのように立っていた。

 体を漆黒に染めながら――――。

 

 その後、ずぶ濡れの状態で衛宮邸に帰ると、遠坂が待っていた。彼女は教会で情報を手に入れて来た。

 本来、どの陣営にも手を貸さない筈の教会が情報を渡した理由は一つ。聖杯戦争という枠組みを逸脱した現象が発生している為だった。

 第三次聖杯戦争でアインツベルンが犯した過ち。第四次聖杯戦争の最後に起きた事件。そして、この第五次聖杯戦争でマキリが犯した反則と凶行。

 慎二に与えられた最後の時間をどう使うか必死に考え、そして――――、

 

『……凜。確認したい事がある』

『何かしら?』

 

 黒のセイバーへの対策法が一向に思いつかず、雲泥の気分に浸っていると、悟が突然言った。

 

『令呪を使い、俺を完全にアーサー王にする事は出来ないかな?』

『……どういう意味? 令呪はあくまでも一時的なものに過ぎないから永続的には続かないわよ?』

 

 遠坂の言葉に頷きながら悟は名案だとばかりに言う。

 

『ほら、令呪を使って、俺の精神をアーサー王のものにするのさ。そうすれば、一時的じゃなくて、永続的に戦闘力を向上させる事が出来る筈だ』

 

 その言葉の意味を正しく理解出来たのは遠坂だけだった。

 彼女は険しい表情で口を開きかけ――――、やがて俯き、感情の無い声で言った。

 

『……そんな事をしたら、自分がどうなるか分かって言ってるの?』

『もちろんだよ。けど、他に選択肢も無いだろ?』

『な、何を言ってるんだ?』

 

 二人の空気が重くなっている事に気付き、遠坂を問い詰める。

 すると、彼女は言った。

 

『……恐らく、セイバーの提案は可能だと思う。令呪を使えば、霊魂からアーサー王の精神を複製して、セイバーの精神に上書きする事も出来る筈よ。でも――――』

 

 彼女は言った。

 

『そんな事をしたら、セイバーの意識はアーサー王の意識に塗り潰されてしまう』

『ど、どういう事だよ……』

『分からない? アーサー王の精神で塗り潰されたら、セイバーの意思は残らない。今の彼女は死ぬのよ』

『……え?』

 

 何を馬鹿なと叫びそうになった。

 悟が死ぬ。そんな事を許容する事は出来ない。そんな事になったら、全てが無意味になってしまう。

 

『その案は却下だ。他の方法を探そう』

 

 遠坂と悟は俺が必死に考えて意見を口にすると、悉く論破した。

 そんな作戦では全滅するだけだ……、と。

 

 悟は言った。

 

『――――アーサー王が士郎の中にある鞘を手にすれば、敵は居ない。最強最優の英霊として、全てに決着をつけられる筈だ』

 

 そう言って、詰め寄る悟に俺は只管首を横に振り続けた。

 

『他に方法がある筈だ』

『そんなものは無いよ……。戦力が違い過ぎるんだ。士郎、覚悟を決めるしかないんだよ』

 

 その言葉で頭に血が上った。

 

『なんだよ、覚悟って!! お前一人に犠牲を払わせるくらいなら、俺はいっそ――――』

『自棄を起こすなよ』

 

 激昂する俺に対して、悟はどこまでも冷静だった。穏やかに微笑んでいる。

 そして――――、

 

『君は正義の味方になりたいんだろ?』

 

 そんな残酷な事を口にした。

 

『マキリを勝たせるわけにはいかない。凜が言ってただろ? マキリは人喰いを是として、大量の犠牲者を出しているんだ。そんな奴等に聖杯が渡ればどうなると思う?』

『で、でも――――』

 

 分かっている。マキリは何としても止めなければならない。

 学校に行ってなかった為に知らなかったけれど、クラスメイトも何人か行方をくらましているらしい。

 その原因がどこにあるか考えずとも分かる。

 だけど――――、

 

『こ、怖くないのかよ!? お前、死んじゃうんだぞ!?』

『……怖くないよ』

 

 穏やかな笑顔のまま、悟は言った。

 

『だって、君を守れるんだぜ? 怖がる理由が無いじゃないか。それに俺は一度死んでる身だ。だから、大丈夫さ』

 

 いつの間にか、遠坂は居なくなっていた。けど、そんな事はどうでも良かった。

 ただ、悟の考えを改めさせたくて、口を動かし続けた。

 

『他にも方法がある筈だ!! 思考停止してるだけだろ!! もっと、よく考えよう!!』

『……無いよ。俺も士郎も弱過ぎる。せめて、もう少し力があれば良かったんだけどね……』

『でも……、こんなの――――ッ!!』

『……泣くなよ、士郎』

 

 いつの間にか、目から止め処なく涙が溢れ出していた。

 

『――――士郎。俺と君が出会って、まだ二週間くらいしか経ってないんだぜ? だから、大丈夫だ』

『何が大丈夫なんだよ!?』

『君は乗り越えられるよ。この二週間あまりの聖杯戦争を過去の思い出にして、ちゃんと歩き続けられる。大丈夫だよ。君は強いからね』

『な、何言ってんだよ!?』

 

 勝手な事ばかり言う悟に俺は掴み掛かった。

 

『ふざけるなよ!! 居なくなるなよ!! お前は俺とずっと一緒に居るんだ!!』

 

 身勝手な事を口にしていると分かっていながら、俺は言わずに居られなかった。

 そのまま、途惑う悟の唇を奪う。

 

『……仕方無いな』

 

 諦めたように呟く悟。

 大丈夫だという確信があった。だって、俺達の気持ちは同じ筈。

 そうじゃなかったら、拒絶している筈なんだ。

 服を脱がし、抱いた。何度も何度も泣きながら抱いた。

 

『……気は済んだかい?』

『……え?』

 

 気がつけば夜明けが近づいていた。

 悟の言葉に途惑う俺。対して、彼は続ける。

 

『酷い事を君に言う。だから、先に謝っておくよ』

『な、何を言って……』

『君が愛したのはこの体だ。俺じゃない』

 

 そんな酷い事を悟は口にした。

 

『ち、違う。俺は――――』

『俺の見た目が違っていたら、君はきっと抱きたいなんて思わなかった筈だ』

『違う!! 俺は悟の事を――――』

『君が愛した女は偽物だ。君はこの容姿に騙されたんだよ』

 

 やめてくれ。そう叫んだ。なのに、悟はやめてくれなかった。

 

『俺は偽物なんだよ、士郎。セイバーというクラスもアーサー王という真名も女という性別も全て偽物だ。日野悟という何の取り得も無い大学生。それが俺なんだよ』

『や、やめろよ……』

『俺は偽物なんだ。そして、お前の愛も――――』

 

 偽物だ。そう断じられて、頭がおかしくなりそうだった。

 違う。そう、何度も叫んだ。けれど、悟は穏やかな笑みを浮かべるばかりだった。

 

『俺は悟が好きなんだ!! さ、悟だって、そうなんだろ!? だって、じゃなきゃ……、肌を重ねるなんて……』

『……ああ、愛してるよ』

 

 その言葉に……、戦慄した。

 違う。悟が俺に向けているモノと俺が悟に向けているモノは決定的に違っていた。

 男が女に向ける愛では無く、悟が俺に向けるソレは――――、親が子に向ける愛情。

 そう、藤ねえが俺に向けて来る愛情と酷く似ていた。

 

『……なら、なんで……、俺が求めた時に拒絶しなかったんだ?』

『……不安にさせたくなかった』

 

 悟は言った。

 

『何から何まで偽物だけど、そんな俺にも出来る事があるならする。ただ、それだけだよ。ただ、士郎が望むなら俺は――――』

『やめろ!!』

 

 ただ、求められたから応えただけなんて……、そんなの娼婦と同じだ。

 俺は悟にそんな事を望んだわけじゃない。

 

『……ごめん。最近、ちょっとおかしいんだ。何が正しくて、何が悪い事なのかが分からないんだよ』

『さ、悟……?』

 

 悟は苦悩に満ちた表情を浮かべていた。

 

『ただ、士郎の為に何かしようとすると、頭がスッキリするんだ。他の何よりも集中出来る。だから――――……ごめん』

 

 足場が崩れ去ったかのような気分だった。

 何もかもを裏切られた。俺はただ只管惨めになり、涙を零した。

 悟はそんな俺の頭を撫でながら『ごめんね……』と呟き続けた。

 

 そして、夜が明けた。俺は心が乱れ切っていた。手酷い裏切りにあった気分だった。

 だから、諦めてしまった。泣きながら、震えながら、俺は令呪を掲げる。

 悟はやはり穏やかな笑顔のままだった。

 

『大丈夫だよ、士郎。君は大丈夫。きっと、こんな事に負けたりしない』

 

 悟は言う。まるで、急き立てられているかのように早口だ。

 

『――――ちゃんと乗り越えて……、君は立派な人間になるんだよ』

 

 そして、俺は令呪を使った。

 変化は一瞬だった。後悔しても遅過ぎた。

 垂れがちだった目が釣り上がり、穏やかな笑顔が消えた。

 

『……では、マスター。早速、アヴァロンを摘出しましょう』

 

 それは悟が死んだ事を意味した。

 俺が悟を殺した。その事に気付いたのはセイバーが俺の中からアヴァロンを取り出した後の事だった。

 セイバーは強かった。マキリの陣営は七体の英霊を使役し、更に聖杯の泥を戦力に盛り込んでいたが、アヴァロンを手にしたアーサー王の前に悉く敗れ去った。

 幕切れは驚く程呆気無いものだった。あまりにも呆気無さ過ぎて、俺は脱力してしまった。

 

『では、マスター。さらばです』

 

 用は済んだとばかりにセイバーは聖杯を破壊して消えた。

 俺に残ったのは悟を殺した事実だけだった。

 

 

 それで彼が経験した聖杯戦争は終わりだった。

 愛した者を殺した士郎は全てを捨てて旅に出た。同時期に渡英した凜の助けを借りながら魔術の鍛錬を重ねながら戦場を練り歩き、嘗て、義父から譲り受けた理想を叶える為に戦い続けた。

 憧れは呪いとなった。

 

“君は立派な人間になるんだよ”

 

 悟が言い残した言葉が士郎に足を止める選択を許さなかった。

 彼を殺したからには立派な人間にならなければならない。中途半端など許されない。

 多くの悲劇を食い止める為に人を殺した。戦いを扇動する者を殺し、病の感染源を排除し、悲劇を生み出す者を殺した。

 殺して、殺して、殺し続けた。狙撃の技術や毒の知識を深めていく。

 正義の味方になる。立派な人間になる。その為に超一流の殺人鬼となった。

 

 人の心を持たない怪物として人々に忌避されるようになり、彼は人気の無い場所に身を隠すようになる。

 そこは山奥の小さな小屋だった。正義を執行する時以外はここで剣を握った。暗殺を主な手段とする彼には無用である筈の技術を鍛え続けた。

 瞼の裏に焼きつくセイバーの戦い。あれほどの力があれば、悟を殺さずに済んだ。だから、無意味と知りながら剣を振り続ける。只管彼女の戦いをトレースし続けた。そして、悟を殺す事になった要因である黒のセイバーを殺す方法を考え続けた。

 

 戦場を練り歩くか、無意味な鍛錬で自己陶酔に浸り、そして、妄想に耽り自分を慰める日々。

 苦しみしか無かった。けれど、止まれなかった。

 

“君は立派な人間になるんだよ”

 

 悟が残した呪いが足を止める事を許してくれなかった。

 そして、気がつけばそこに居た。思想に共感してくれた友人に裏切られ、独房に入れられた。

 死刑台に向いながら、それでも安堵してしまう。友人には感謝の言葉しかなかった。

 これで苦しみから逃れられる。首に縄を掛けられ、最後の時を向かえる。

 そして、今際の際に彼は呟く。

 

『ああ――――、俺は正義の味方じゃなくて……』

 

 そして、死を迎えた彼を待ち受けていたのは終わりの虚無――――ではなく、更なる地獄だった。

 

 彼は既に守護者の契約を世界と交わしていた。掃除屋として、世界の滅びを水際で防ぎ続ける日々。

 見たくも無い人間の醜悪な部分ばかりを延々と見せられ続けた。

 心は磨耗し切り、ただ只管苦しみ続けた。

 

 

 そうして、彼は彼女によって運命に招かれる。再び見る“終わった筈の世界”で彼は無意味と思いながら半生を費やし鍛え上げた剣技と共に戦場へ向う。

 それが英霊・エミヤシロウの生涯だった。セイバーが知る本来の彼とは違う存在。只管、後悔に塗れ、自己陶酔と妄想に耽り続けた男。

 彼の見せる憎悪、憤怒は全て己に向けられたものだった。彼がマキリのセイバーに殺意を向けるのも己の後悔が故。

 

「――――オレは」

 

 アーチャーが吼える。

 

「お前を殺して、今度こそ――――」

 

 少年の体は青年のものへと成長した。けれど、奇妙な出会いと数奇な運命を経て尚、心はあの頃のまま……。

 アーチャーの干将が振り下ろされる。

 瞬間――――、

 

「……他の女の事を考えるとは余裕だな」

 

 アーチャーの腕が干将ごと引き裂かれた。

 勝利の確信。それが呼び起こした歓喜にアーチャーの動きが僅かに一瞬遅れ、その隙をアルトリアは逃さなかった。

 片腕でありながら、魔力放出を使い放たれた斬撃はアーチャーを一撃で戦闘不能に追い込んだ。

 

「……なるほど」

 

 アルトリアはセイバーを見た。そして、視線はそのまま士郎に向けられる。

 

「……そういう事か」

 

 つまらなそうにアルトリアは肩を竦める。

 

「お前がそれほどの剣技を手にするには人生の大半を注ぎ込まねば足らなかっただろう」

 

 まるで、失望したかのようにアルトリアは冷たい眼差しを彼に向ける。

 

「貴様の努力は全て水の泡だ。まったく、無意味な人生を送ったな――――」

 

 悔しいのか涙を溢れさせるアーチャー。飛び出そうとするセイバーと士郎。そして、アーチャーに止めを刺そうとするアルトリア。

 彼等の動きを止めたのは一人の男だった。

 

「……は?」

 

 止めを刺そうとエクスカリバーを振り上げたアルトリアの懐に踏み込んだのは――――、

 

「せ、先生?」

 

 士郎は目を点にした。眼鏡を掛けた倫理の先生が最強の英霊の首に指をねじ込み、遠くへ投げ飛ばしたのだ。

 呆気に取られる一同。それまで傍観していた慎二やライダーからも驚きの声が上がる。

 士郎の学校の先生、葛木宗一郎は威風堂々とそこに立っていた。

 常の厳格な態度を崩さず、彼は言う。

 

「……無事か、衛宮。学生がこんな夜更けにこんな場所をうろつくなど感心しないな」



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第二十八話「絶望を超えて」

 葛木宗一郎の登場という予想外の事態に敵味方関係無く一瞬の隙が出来た。その一瞬を宗一郎は一つの行動に使った。

 動作は単純。既にポケットから取り出していた一枚の紙切れを破ったのだ。瞬間、虚空に陣が形勢され、その中から神代の魔術師が姿を現した。

 

「――――まったく、無茶をなさらないで下さい……、総一郎様」

 

 溜息混じりにキャスターは呟く。

 

「すまんな。教師として、教え子が暴漢に襲われていては助けぬわけにもいかん」

「……相変わらずですね」

 

 キャスターは宗一郎とアーチャーを庇うように立ち、宗一郎は倒れ伏しているアーチャーに手を伸ばす。

 

「起きろ、衛宮。まだ、やるべき事が残っているのだろう?」

「……ど、どうして?」

「質問には主語を付けろ。お前の世界の私は教えなかったのか?」

 

 アーチャーを助け起こし、宗一郎は言う。彼が全てを理解している事を悟り、アーチャーは尚問いを口にした。

 

「何故……、私を助けたんだ?」

 

 その表情に浮ぶのは困惑。葛木宗一郎は魔術師ではない。それは確かな事だ。

 ただの人間が英霊の前に立ちはだかるなど、愚行でしかない。

 それも殺されようとしていたのはいずれ敵になるかもしれないサーヴァント。自らの身を危険に晒してまで救う道理など無い筈。

 

「妙な事を聞くな――――」

 

 宗一郎は眼鏡を抑えながら淡々と呟く。

 

「お前が私の生徒だからだ」

「……は?」

 

 呆気に取られるアーチャーに宗一郎は言う。

 

「キャスターから話は聞いている。お前が何者なのかもな。別の世界の――――、既に卒業したOBとは言え、お前は私の生徒だ。キャスターもお前達を仲間と称した。ならば、救わぬ理由が無い」

「……せ、先生」

 

 唖然とするアーチャーにキャスターがクスリと微笑む。

 

「私が惚れ込む理由が分かったのではなくて?」

「キャスター……、お前は……」

 

 満面の笑みで惚気る魔女にアーチャーは未だ困惑の表情を向ける。

 すると、宗一郎が言った。

 

「一つ、あの女は見当違いの事を言っていたな」

「見当違い……?」

 

 怪訝な表情を浮かべるアーチャーにキャスターが言う。

 

「貴方の人生が無意味だったなら、私はここに居ないわ」

 

 そう言って、魔女はアーチャーに微笑み掛ける。

 

「貴方と契約したその日にとんでもない夢を見せられた。貴方という英霊の事を知ろうと思ってパスを開いた事を猛烈に後悔したわ」

「お、お前……」

 

 自分の過去を見られたのだと知り、アーチャーは青褪める。

 

「――――だけど、見ていて愛おしかったわ。だって、貴方はあまりにも一途だった。一途過ぎる程に……」

 

 だから、助けてあげたくなったのよ。キャスターは言った。

 

「貴方の後悔を繰り返させない為にセイバーには荒療治を施した。貴方のセイバーが言ってたでしょ? 『最近、ちょっとおかしいんだ。何が正しくて、何が悪い事なのかが分からないんだよ』って」

 

 アーチャーは息を呑んだ。

 

「貴方のセイバーはあの時すでに心を病んでいた。当然よ。未だ、男としての人格を強固に持っていた状態で性行為をするなんて、繊細なガラス細工をトンカチで叩くようなものだもの」

「お、俺は……」

「後悔はし飽きたでしょ? あと少し、頑張りなさい、エミヤシロウ」

 

 キャスターが視線を前に向ける。そこには立ち上がり、憤怒の表情を浮かべるアルトリアが居た。

 

「……宗一郎様に渡していた魔符のおかげで侵入は出来たけど、脱出するにはこの結界を解除する必要がある」

 

 キャスターはアルトリアからライダーに視線を移動する。

 

「私とセイバーはライダーを倒す。恐らく、敵はアサシンやバーサーカーも出して来る筈だから少し時間が掛かると思うの……、だから――――」

「ああ、あの女の事はオレが引き受ける。今度こそ、奴に引導を渡してやるさ」

 

 アーチャーはスッと表情を引き締めた。

 

「ええ、任せるわ。今度はキッチリ倒しなさい」

 

 キャスターはそう言うと、アーチャーに複数の魔術を重ね掛けした。

 

「無粋かしら?」

「いいや、感謝するよ、キャスター。もう……、残るは“アレ”しかないからな」

 

 アーチャーはそう呟くと、意識を自らの内側へ静めた。

 すると、暗闇に声が響いた。

 

“アーチャー”

 

 その声が誰か、聞くまでも無かった。聞き慣れた主の声。

 

“……本当は貴方の口から聞きたかったわ”

 

 どうやら、キャスターは相当なお喋りらしい。よもや、己の恥ずべき過去を凜に聞かれるとは思わなかった。

 

“恥ずかしがってないで、目の前の事に集中しなさいね”

 

 細かな感情まで伝わってしまっているらしい。

 思わず溜息を吐きそうになる。相変わらず、この少女には敵わない……。

 

“辛気臭い事は言わない。アンタはアンタのやりたい事を精一杯やりなさい。その為に力を貸してあげるから” 

 

 その言葉と共に全身に活力が漲る。

 

“頑張りなさい、アーチャー。出来れば……、帰って来てね?”

 

 努力はする。生前も今も迷惑ばかり掛けてしまっている少女にまだ、己は何も返せていない。

 

“ああ、必ず帰るよ――――、遠坂”

 

 親愛を篭め、彼女に言う。

 

“約束よ……、士郎”

“ああ、約束だ”

 

 瞼を再び開いた時、アーチャーは髪を手でくしゃくしゃにした。髪を下ろした彼はまさに士郎と瓜二つだった。

 

「――――往くぞ、騎士王!!」

 

 心を外へ広げる呪を唱える。自らの在り方を謳う。

 

“I am the bone of my sword.”

 

 キャスターと宗一郎がセイバーと士郎の下へ後退すると同時にアルトリアが動いた。

 突如、己を投げ飛ばした宗一郎の異様な体術を警戒していたのだろう。

 

“Steel is my body,and fire is my blood.”

 

 投影を行う。生み出される剣群にアルトリアは足を止める事無く回避する。

 

“I have created over a thousand blades.”

 

 けれど、距離を詰めるには至らない。刀剣があたかも結界のようにアーチャーを中心に降り注ぐ。

 

“Unknown to Death.Nor known to Life.”

 

 遠くでキャスター達も動き出した。

 あちらは彼等に任せよう。

 

“Embraced regret to create many weapons.”

 

 アルトリアが剣群の合間を抜けて迫る。

 投影するはバーサーカーの斧剣。同時に彼の技術も模倣する。

 

「――――是、射殺す百頭」

 

 本物には遠く及ばぬであろう剣戟だが、アルトリアは咄嗟に距離を取る。

 

“Yet,those hands will never hold anything.”

 

 詠唱は一節を残して完成した。

 空気の変化を感じたのか、アルトリアは動きを止め、真っ直ぐにアーチャーを見つめた。

 

「……面白い。まだ、抗うのだな。ならば、見せてみよ」

 

 片腕のみの癖に勇ましく、力強く、堂々と立ちはだかる騎士の王。

 嘗て、遠く及ばなかった頂に今、手を伸ばす――――、

 

「So as I pray,“unlimited blade works”.」

 

 世界は書き換わり、荒野が広がる。無数の剣が墓標の如く立ち並び、その中央には美しい二振りの剣。

 天は曇り、世界は薄闇に包まれている。

 これがアーチャーの心象世界。衛宮士郎に許された唯一の魔術。それが“剣”であるなら、如何なるものでも複製する固有結界。

 

「……なるほど、貴様は剣士でも無ければ、弓兵ですらなかったわけか」

 

 呆れたようにアルトリアは呟く。

 

「なのに、あれほどの剣技か……」

 

 溜息を零す彼女にアーチャーは呟く。

 

「全てはお前を倒し――――、今度こそ“悟の味方”になる為だ!!」

 

 それこそ、彼が胸に秘めていた願い。

 父から託された祈りを否定する独り善がりな願い。

 好きな子の為だけに生きたい。そんな子供染みた願い。

 

「……これが嫉妬というものか。お前の心にあるのは常に一人なのだな」

 

 あの日、悟を死なせる以外の方法があったなら、きっと違う未来があった。

 託された夢や背負った祈りに背を向けて、ただ一人の為だけに生きる道があった筈。

 過ぎ去った過去のIFを求め、無駄と知りながら必死に足掻いてきた。

 

「だが、アレはお前の愛した女ではあるまい。所詮、似て非なる別物だ。それでも、お前は――――」

「分かっているさ。別に小僧と立場を入れ替えたいなどと思ってはいない。オレはただ、日野悟が幸福になる未来さえ切り開ければソレで良い」

 

 アーチャーは言った。

 

「愛して貰えなくたって良かったんだ!! ただ、幸せにしたかった!! なのに、オレは一時の感情に任せて、取り返しのつかない事をしてしまった!!」

 

 そうだ。愛して貰えなくても良かった。ただ、悟が幸せになれればそれで良かった筈なのだ。

 なのに、その未来を己の手で潰してしまった。幸せになれたかもしれない悟の未来を潰してしまった。

 それがアーチャーの妄執の正体。

 

「オレは悟の未来を切り開く!! その為だけにココに居る!!」

 

 アーチャーは片腕を上げる。その手に引き寄せられるは二振りの聖剣。

 光と闇。相反する二つの属性に別れた同一の剣が重なり合う。

 陰には陰の、陽には陽の欠落がある。それを互いに埋め合い、一つの奇跡を為す。

 

「二振りのエクスカリバーを一つにするとは……、無茶苦茶な事をするな」 

 

 おかしそうにアルトリアは笑う。

 

「まるで、子供の発想ではないか……。一本では太刀打ち出来ないと見て、二本を一本に打ち直すなど――――」

「そう馬鹿にしたものでも無いさ。コレなら、お前の持つ本物にだって負けはしない」

「だが、そんなモノを使えばお前は――――」

「覚悟の上だ」

 

 二振りのエクスカリバーを融合させる。そうは言っても、別に力が二倍になるわけでは無い。

 単に光の剣と闇の剣、双方にある欠陥を埋め合ったに過ぎない。

 けれど、光と闇、双方の力を有するソレはもはや――――、

 

「……その剣の半身は私の剣だな?」

 

 アーチャーが頷くと、アルトリアは喜色を浮かべた。

 

「そうか……。お前の心には確かに“私”も居るのだな」

 

 アルトリアはそう言うと漆黒の魔剣を振りかざす。

 

「……受けて立とう」

 

 膨大な魔力を魔剣に注ぎ込むアルトリア。

 対するアーチャーも凜とキャスターから与えられた力を一滴残らず注ぎ込む。

 

「願わくば、この瞬間だけは私だけを思え――――、エミヤシロウ!!」

 

 アルトリアが思いの丈を叫ぶ。それに応えるが如く、アーチャーが烈火の如く吼える。

 光が破裂する。二つの幻想が世界を蹂躙する。

 その光景はまるで世界の原初をみるようだった。無が割れ、天と地が発生した瞬間の如き光景。

 あらゆる生命の死がそこにあり、あらゆる生命の生がそこにある。

 そして――――、

 

「……ぁぁ」

 

 霞む視界の向こうに嘗て愛した人が居た。

 

「……駄目だよ、士郎君。逝かないでよ……」

 

 顔をくしゃくしゃに歪め、涙を浮かべるセイバー。

 

「……やつ、は?」

 

 声が上手く発せられない。どうやら、ダメージが相当酷いらしい。

 

「マキリのセイバーは消滅したわ。そして、貴方は未だ……、ここに居る。貴方は勝ったのよ、アーチャー」

 

 キャスターが優しい笑みを浮べて言った。

 

「アーチャー……」

 

 小僧が複雑そうに己を見つめている。

 意識が今にも消えそうだ。ぼやけた視界に光が見える。どうやら、そう長くはもたないらしい。

 多少の苦痛を無視して、口を開く。

 

「――――衛宮士郎」

「……なんだ?」

 

 既に体の半分が消えているアーチャー。

 彼は苦悶に表情を歪めながら言う。

 

「オレと同じ間違いを犯すな……」

「……ああ、分かってる」

 

 アーチャーは次にキャスターを見た。

 

「……任せてもいいか?」

「貴方は最大の障害を排除してくれたわ。その功績には相応の報酬が在って然るべきですもの」

 

 キャスターは言う。

 

「引き受けてあげるわ、アーチャー。だから、安心なさい」

「……すまない」

 

 そして、アーチャーはセイバーを見つめる。

 

「……士郎君」

 

 涙を浮かべるセイバーにアーチャーは言った。

 

「オレは……、悟に幸せになって欲しかった」

 

 アーチャーの言葉にセイバーは黙って耳を澄ます。

 

「幸せになってくれ、悟」

 

 その言葉がセイバーの心に重く圧し掛かった。

 けれど、撥ね付ける事など出来ない。己の為に人生の殆どを費やしてくれた相手に言える事など一つしかなかった。

 

「……うん。ありがとう、士郎君」

 

 必死に笑顔を取り繕う。もう、彼の体は半分以上消えてしまっている。

 

「……それと、凜に伝えてくれ。すまなかった……、と」

「――――そういう事は直接伝えなさいよ、馬鹿」

 

 その声にアーチャーは僅かに目を見開いた。

 そこには凜が居た。額から汗を流し、肩で息をしながら彼女は立っていた。

 彼女は川の向こうの衛宮邸から必死にここまで走って来たのだ。

 

「……すまなかった、凜。君を勝者にしたかった。それは誓って本当なんだ」

「……どうだかね、嘘吐き」

 

 それはどれに対しての言葉だろう。あまりに多くの嘘を吐いて来たせいで直ぐに分からなかった。

 虚言ばかり弄した事を申し訳なく思う。

 

「――――帰って来てって、言ったのに」

 

 凜は涙を流していた。

 

「アンタだって、幸せになっていいのに……」

 

 凜はアーチャーの頭を撫でる。

 

「アンタはよく頑張ったわ」

「……そう、思うか?」

 

 アーチャーは自信無さ気に問う。

 

「オレはちゃんと……」

「立派な人になれたよ、士郎君」

 

 セイバーは微笑みながら言った。

 

「君はちゃんと、立派な人になったよ」

「……ああ、嬉しいなぁ」

 

 アーチャーは涙を流しながら笑みを浮かべた。

 

「ありがとう、遠坂。君がオレを召喚してくれたおかげだ。オレの人生は――――、報われた」



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第二十九話「――――ああ、そうだな。全てが解決したら、一緒に行こう」

 アルトリアが死んだ。ただ、直接看取る事は叶わなかったが最期は満足して逝ったらしい。自分でも意外だけど、それが少し嬉しかった。

 桜にいつも通り指を舐めさせながら、慎二は思う。

 

「……アイツの事は嫌いだった筈なんだけどな」

 

 慎二と桜は夥しい死体の山に囲まれている。ハサン・サッバーハを桜に“再召喚”させ、集めさせた生贄達の成れの果てだ。

 神秘の隠匿を度外視した暴挙。既に魔術協会と聖堂教会には発覚している事だろう。だが、処罰は別に怖くなかった。どうせ、時が満ちれば世界は終わる。

 

「――――桜。きっと、世界のどこかにお前の口に合う御馳走がある筈だよ」

 

 不味い食事ばかりの妹に美味しいものを食べさせてやりたい。だから、その為に世界人口七十億を殺し尽くす。

 愚かな考えだと人は笑うだろう。間違っていると人は糾弾するだろう。頭がおかしいと人は嫌悪するだろう。

 けれど、立ち止まるつもりは無い。

 

「ごめんな。お前の事を助けてやれなくて……」

 

 桜はもう救えない。とっくの昔に壊れてしまったから、今更何をしても無意味だ。

 体を癒そうが、記憶を消そうが、“壊れた彼女”を救う事は出来ない。一度砕け散った宝石を元通りに繋ぎ合わせたとしても、結局は見せ掛けだけだ。

 もう、全てが手遅れなのだ。

 

「……もう、僕がお前にしてやれる事なんて、こんな事しかないんだ」

 

 アルトリアは彼を道化と呼んだ。その通りだと彼は思った。

 結局、全ては自己満足に過ぎない。壊れた彼女に僅かな幸福を与える為に世界中の人間を餌にしようなんて、あまりにも馬鹿げている。

 そんな愚かな願いの為に“災厄の邪神”を降臨させようとしている己は道化と呼ぶ他無いだろう。

 

「――――臓硯は既に排除した。後は……」

 

 事はアルトリアがアーチャーと戦う前に済んでいた。

 嘗て、この場所で慎二は彼女に頼み事をしていた。

 

『なあ、アルトリア』

『なんだ?』

『お前は聖杯さえ手に入れば良いんだよな?』

『ああ、その通りだ、シンジ』

『だったらさ――――』

 

 彼はあの時彼女にこう言ったのだ。

 

『臓硯を殺して、僕のものになれ』

 

 それは彼等を縛る主に逆らう裏切りの言葉。それ故にあの時、アルトリアは慎二を『迂闊』と言った。だが、事は成った。あの時に交わした約束は確かに履行された。

 臓硯のミスは慎二を桜の傍に置き続けた事だ。所詮、何も出来ないと高を括っていたのだろう。だが、慎二は桜にとって御馳走であり、それ故に彼の命が脅かされる事を良しとしない。

 道具として仕上げる為に心を壊した事が仇となり、彼女は苦痛や快楽では動かなくなっていた。ただ、反目する意思も無かったが故に今までは臓硯の命令に服従して来ただけだった。

 優先順位が入れ替わり、御馳走を奪われたくない桜は慎二の命令を聞き入れた。とうの昔に人間を止めている桜は体内に宿る蟲を己の支配下に置き、忍んでいた本体は桜が再召喚したアサシンによって捕獲され、アルトリアによって始末された。

 

「衛宮――――……は後回しだ。とりあえず、先にランサー陣営を潰そう」

 

 衛宮の陣営は既に無力化したと言ってもいいだろう。なにせ、謎に満ちた最大戦力であるアーチャーが落ちたのだ。もはや、勝利は確実と言える。如何に権謀術数に優れたキャスターでも、ここまで圧倒的な戦力差を覆す事は出来ない筈。

 対して、ランサー陣営は厄介だ。ランサーも相当な戦闘能力を有しているし、マスターであるバゼットも油断ならない。

 此方の戦力は桜が再召喚したサーヴァント達だが一つ問題がある。桜の“再召喚”は英霊の魂を汚染してしまうのだ。正純な英霊ほど汚染の度合いは強まり、戦力が激減してしまう。

 ライダーやアサシンは反英雄であるが故に著しい能力低下は起きていないが、バーサーカーは宝具が使用不能となっている。アルトリアも対魔力や直感、カリスマのスキルが軒並み低下し、騎乗スキルも失われていた。もっとも、受肉した事によって内に秘める竜の炉心が万全に機能した事で戦闘能力自体は向上していたが……。

 

「――――桜。アーチャーとアルトリアの再召喚はどうだ?」

「……難しいです。アーチャーは此方の制御を完全に撥ね付けていますし、アルトリアはこれが二度目の汚染になるので――――」

 

 当然と言えば当然だが、一度汚染したモノをもう一度汚染すれば、その分だけ穢れは増す。アルトリアは最初の汚染で大半の記憶を失い、性格も歪んでしまった。再び、“この世の全ての悪”に汚染されれば今度は理性を持たない怪物として召喚されるだろう。

 アーチャーの方も厄介だ。ライダーやアサシンは元々反目の意思を示さないサーヴァント達だったが故に制御も簡単だった。だが、アーチャーやバーサーカーのように反目の意思を強く保っているサーヴァントは理性を剥奪しなければならない。そうなると、パワーとスピードで他を圧倒するバーサーカーと違い、宝具や技巧を駆使して戦うアーチャーは再召喚しても意味が無い。

 

「バーサーカーも扱い切れてないしな……。敵陣に放り込んで、暴れさせるくらいしか使い道が無いとすると……」

 

 アルトリアとバーサーカーはどちらも強力な力を有する大英雄だ。それ故に理性を奪っても完全に制御出来るわけでは無い。精々、目標を示して暴れさせるくらいしか出来ない。

 

「狂戦士三体を陣地内に放り込んで疲弊した所をライダーの宝具で奇襲。ライダーに注意が集まった所でアサシンの宝具を発動。まあ、こんな所かな」

 

 今ある手札で実行し得る作戦としては最良だろう。問題があるとすれば……、

 

「アサシン」

「――――ここに」

 

 音も無く姿を現すアサシンのサーヴァント、ハサン・サッバーハに慎二は問う。

 

「ランサー陣営の拠点は割れたか?」

「――――申し訳御座いません。未だ、奴等のアジトを掴むには至らず……」

「間諜の英霊であるアサシンが見つけられないとすると……」

 

 アサシンは暗殺集団の長を務める程の男だ。彼に見つけられないとすると、考えられる事は一つ。

 

「冬木の外に出ている可能性が高いか……?」

 

 慎二がアサシンに命じたのは冬木市内の探索だった。もし、バゼットとランサーが冬木市の外に退避しているとしたら、発見は困難となる。

 

「相手は魔術協会のお墨付きを得ているマスターだからな……。ノーリスクで外に出る事も可能な筈だ」

「……だとすれば、聊か厄介かと」

「ああ、分かってるよ。さすがに冬木市外に出られたら発見する手立てが無――――いや、待てよ」

 

 あるにはある。恐らく、普通のマスターならば考え付かない方法が一つある。

 

「……よし、出るぞ」

 

 慎二は立ち上がり、アサシンに言った。

 

「お兄ちゃん……、ライダーは?」

「ライダーは置いていく。必要なのは隠密行動だからな。桜はいつでもアーチャーとアルトリアを再召喚出来るように食事を続けていてくれ。ごめんな、今日も不味いのばっかりでさ」

「ううん、大丈夫だよ。いってらっしゃい、お兄ちゃん」

 

 傍目から見れば仲の良い兄妹に映る事だろう。けれど、彼等を取り囲む死体の山がその印象を打ち消す。

 地底に広がる空洞の主は一人微笑む。

 

「いただきます」

 

 

 暗い部屋の中でセイバーは一人物思いに耽っている。アーチャーが消滅してから数時間が経ち、ついさっきまで今後の打ち合わせやら何やらで大騒ぎだった衛宮邸も今ではすっかり静まり返っている。

 隣の部屋から聞こえて来る筈の寝息も聞こえて来ない。きっと、士郎も眠れない夜を過ごしているに違いない。

 そっと部屋を出て、以前アーチャーが立っていた屋根の上に上がり、座り込む。

 

「士郎君……」

 

 彼の過去を思うと、大きな塊が喉に込み上げ、涙で目がチクチクした。彼が不幸な人生を歩む切欠を作ったのは紛れも無く己だ。

 

「……なんて、無責任なんだ」

 

 結局、思考停止していただけだ。何が正しくて、何が悪いのかも分からず、逃げただけだ。

 もっともらしい言い訳を並べて、彼を一方的に傷つけて、全ての重責を負わせて逃げた。

 あまりにも醜悪だ。だけど、他人事じゃない。その醜悪さは己にも当て嵌まる。

 

「ちゃんと、受け止めなきゃいけないんだよな」

 

 女となった事、戦いの事、他にも色々と受け止めるべき事が山のようにある。

 

「――――女、か」

 

 キャスターの荒療治が功を奏したのかは分からないけれど、女である事に抵抗感が薄い。

 彼女曰く、己に見せた夢はあくまで“衛宮士郎とセイバーが共に聖杯戦争を生き抜けた場合のIF”らしい。この場合のセイバーとはアルトリアの事では無く、己の事。

 あの夢は条件さえ揃えば実際に起こり得る事らしい。それをどう受け取るかは己次第との事……。

 

「……そう言えば、最初はちゃんと途惑えていたんだよな」

 

 夢の世界で最初は驚き途惑っていた。まるで恋人のように扱ってくる士郎に困惑した。けど、別に嫌では無かった。

 キャスターはただ夢を見せただけなのだ。その夢を見て、どう感じ、どう受け取るかはセイバーに委ねられていた。

 

「つまり……、あの夢での生活を悪く無いって思ったのは俺自身って事なんだよな」

 

 夢が続く内に徐々に幸福感が溢れて来た事を思い出す。

 士郎と共に過ごす平和な日々。士郎に女として愛される日々。

 それを確かに幸福だと感じた。

 

「……まさか、俺ってゲイだったのか?」

 

 青褪めるセイバー。慌てて首をブルブルと振る。

 

「いや、俺は確かに女の子が好きだった。男にキスするなんて絶対に嫌だったし、掘られるなんて論外だった……筈」

 

 今だって、テレビに出ているような俳優が相手だとしても断固お断りだ。

 だけど、相手が士郎ならと思うと、拒否感が急に薄れてしまう。

 可愛い士郎。無茶ばっかりするから、いつも気を揉んでしまう。彼が危険に近づく事が何より恐ろしい。彼の命の代替となれるなら、喜んで命を差し出す。

 

「ああ……、ヤバイ。やばいだろ……、こんなの」

 

 顔が熱い。愛に理屈は通用しないと人は言う。愛が深ければ深い程に理屈はますます通らなくなる。一度自覚したら止まらない。士郎の事が可愛くて可愛くて仕方が無くなる。

 同時にアーチャーの事を思い、胸が痛み、呼吸が出来なくなる。俯きながら、彼を悼む。何の取り得もない愚か者を心から愛してくれた彼を思い、涙を零す。

 

「……隣、いいか?」

 

 顔を上げなくても分かる。穏やかで心地良い声。

 士郎は返事も待たずに勝手に隣に座り込み、やさしく微笑む。

 その顔を馬鹿みたいにぼうっと見つめる。誰かの顔にここまで夢中になった事は無かった。士郎の顔は永遠を一瞬に変えてしまう。

 

「セイバー」

 

 名前を呼ばれて、セイバーは真っ赤になりながらこくこくと頷く。

 見惚れていた事に気付かれてなければいいけど……。

 

「……はっきりさせて置こうと思ってさ」

「えっと……、何を?」

 

 馬鹿みたいな変事をしてしまった。恥ずかしくて、おずおずと視線を逸らす。

 すると、士郎はセイバーの頬に手を当てて無理矢理視線を合わせた。暴れ出しそうになる感情を必死に抑え、その瞳にやどる感情を読み解こうと努力する。

 苦悩……、そして――――、

 

「……士郎君?」

「士郎だ」

「……え?」

「し、士郎って呼んでくれ」

 

 顔を真っ赤にして言う士郎にこっちまで赤くなってしまう。

 

「そ、それはその……」

「だ、駄目か?」

 

 途端に不安そうな表情を浮かべる。そんな彼が酷く愛おしかった。

 

「だ……駄目じゃないよ。えっと……、それで何か用かい? その……し、士郎」

 

 ただ名前を呼んだだけなのに恥ずかしくて転げ回りたくなった。穴があったら入りたいとはこの事だ。

 士郎も自分から頼んで来た癖に顔を真っ赤にして身悶えしそうになっている。

 

「そ、その……」

「な、なんだい……?」

 

 ハラハラしながら続きを待っていると、士郎は大きく深呼吸をしてから言った。

 

「……俺、セイ――――じゃない、悟の事が好きだ」

 

 思わず噴出してしまった。

 

「ちょっ……、そこで本名言わないでくれよ……」

 

 サトルなんて如何にも男らしい名前をここで言われると変な気分に陥ってしまう。

 

「いやだって、俺は悟が好きなんだ! い、言っておくけどな。そのアルトリアの体が好きなわけじゃないぞ! 俺は本気で――――」

「ス、ストップ!! 頼むから、ちょっと待ってくれ!!」

 

 セイバーと呼んでくれたならまだ余裕が保てたかもしれないのに、悟の名前で呼ばれたせいで頭の中は大混乱だ。

 

「い、いきなり過ぎないかい……?」

「……悪い。でも、言っておきたかったんだ。アーチャーにも同じ間違いを犯すなって言われたしな」

 

 アーチャーの名前が出て心が揺れた。

 

「別に悟に俺の事を好きになるよう強要するつもりなんて無い。やっぱり、色々と難しいと思うからな。だけど、これだけはハッキリと言っておく」

 

 士郎の手に力が篭る。

 

「――――俺は絶対に悟を死なせない。お前を必ず幸せにする。例え……、隣に居るのが俺じゃなくても構わない。ただ、こんな所では終わらせない」

 

 決意の篭った眼差しを受けて、迷いは消え失せた。

 

「……士郎」

 

 彼の手を遠ざけて、逆に顔を近づける。

 前みたいな衝動的なものではなく、自らの意思で彼に口付けをした。

 

「一応言っておくけど……。別にキャスターに変な夢を見せられたからじゃないぞ? ただ――――」

 

 驚きに目を瞠る彼に誤解しないようちゃんと説明する。

 世に蔓延るラブコメ漫画みたいな事をしている余裕は残念ながら無いからだ。

 

「お、お、お、お――――」

 

 言い訳なんか思いつかない。だから正直に言おうと思ったのに、言葉が詰まってしまう。

 

「セイバー」

 

 士郎がギュッと手を握ってくれた。

 

「教えてくれ」

 

 喉を鳴らす。必死に昂ぶる気を鎮めて、告白する。

 

「……キャスターが見せた夢はただ、士郎と今後あるかもしれない未来の光景だった。それを俺は悪く無いと思ったんだ……。それにアーチャー……士郎はこんな俺の為に自分の人生の大半を注ぎ込んでくれた……」

 

 話し出すと、もう止まらなかった。

 

「……っはは。二十年生きてて、こんな風に誰かを思ったのは初めてだよ。俺はもう……、士郎の居ない日常っていうのが想像出来ないんだ。思い浮かべようとするだけで身体が竦むよ。君は……、俺が生きていく上で欠かせない存在なんだ」

 

 思いの丈を吐き出すと、妙にスッキリした。

 

「――――俺も好きだよ、士郎」

 

 微笑みながら言うと、士郎は顔を綻ばせた。

 

「そっか」

 

 嬉しそうに「そっか」と繰り返す。

 愛している事を自覚すると、次から次へとしたい事が頭に浮ぶ。

 

「……とりあえず、抱き締めていいか?」

「え?」

 

 許可を取るより早く、士郎を抱き締めた。

 凄く心地が良い。温かくて、ほっとする。この世界に来て、初めて味わう安らぎを覚えた。

 このまま、もう一度キスをすれば……その先の展開は予想がつく。きっと、水が上から下に流れるように自然に進んでいくだろう。

 幸せになれる。その確信がある。士郎と一緒に暮らせる未来は間違いなく幸せだ。

 だけど……。

 

「――――まずはこの戦いを終わらせないとね」

 

 その為には立ちはだかる障害があまりにも多過ぎる。

 

「……ああ、そうだな」

 

 一つ一つ解決していかないといけない。その為には余計な事に感けている余裕が無い。

 二人が一つになるとすれば、それは全てが解決した後。

 だから、今は――――、

 

「士郎……」

「……なんだ?」

 

 セイバーは言う。

 

「全てが解決したら……、一緒に俺の故郷に行ってくれないか?」

「悟の……?」

「うん。そこに俺の家があるかどうかは分からないけど……、君に俺の事をもっと知ってもらいたいんだ。その……、失望させたりするかもしれないけど」

「……するもんか」

 

 二人は未来に思いを馳せて夜空の下で語り合った。

 

「――――ああ、そうだな。全てが解決したら、一緒に行こう」



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第三十話「――――ええ、期待に添えるよう尽力致しますよ、慎二殿」

「……いらっしゃい」

 

 未だ草木も黙る丑三つ時。シスターは訪問者を招き入れる。

 

「何を驚いているのですか?」

 

 クスリと微笑み、シスターは奥へ訪問者を誘う。

 訪問者が連れて来られた部屋は蝋燭のぼんやりとした灯りに包まれている。神経を張り詰める彼にシスターは紅茶を淹れた。

 

「砂糖はお幾つ必要かしら?」

「――――必要無い。それより、こっちの用件はお見通しってわけか?」

 

 訪問者……、間桐慎二は眦を吊り上げて教会の主であるカレン・オルテンシアに問う。

 カレンはまるで慎二の訪問を察していたかのように教会の前に佇んでいた。

 

「……ええ、忠告を受けていましたからね」

「ランサーのマスターか? それとも、キャスターか?」

「両方からですよ。恐らく、今夜中に貴方が私を攫いに来るだろうと……」

 

 普通のマスターならば決して思いつかない筈の計画。魔術協会と聖堂教会の橋渡しを担う監督役を攫い、バゼット・フラガ・マクレミッツを炙り出す作戦が筒抜けだった事に動揺を隠せない。

 

「ええ、貴方が考えている通り、この教会は包囲されています」

「――――ッ」

 

 口に出す前にカレンに考えを読まれ、慎二は唇を噛み締める。

 

「……何故だ。どうして……、僕の考えは読まれてしまったんだ?」

 

 包囲網を敷かれた事実に苦慮しながら問う。

 

「――――マキリのセイバーとアーチャーが相打ちになった時点でパワーバランスが崩壊した。この状況で各陣営の動きを予想しようとすると、鍵となるのはランサーの陣営。二大勢力のどちらにも付かず、高みの見物をしているランサー陣営はその思惑次第で天秤を動かす事が出来る。そう……、“マキリの聖杯”というジョーカーを握るマキリをこの機会に打倒してしまおうとランサー陣営がキャスター陣営に手を貸す可能性が高い。故にマキリは動かざる得なくなる。ランサー陣営か、あるいはキャスター陣営を攻め、合流されるという最悪の展開を回避しようとする筈。その場合、マキリ……いえ、間桐慎二は衛宮士郎の居るキャスター陣営ではなく、ランサー陣営を攻めようとする。何故なら、間桐慎二は衛宮士郎に掛け値なしの友情を感じているから……」

 

 考え過ぎだ。そこまで深く考えての行動ではない。けれど、結果が功を奏した現状、考え方や過程など関係無い。

 

「ッハ……、僕が衛宮に友情を感じてるって?」

「貴方のこれまでの行動を垣間見ると、そうとしか判断出来ないそうです」

 

 苦笑した。大正解だ。桜の事で感謝しているし、それ以前に慎二にとって、士郎は紛れもなく親友だ。こんな性格だから、本音を言い合える友人などお人好しな士郎くらいしかいない。

 本心を悟られないように気を使ったつもりだったのだが、目敏い奴等には気づかれてしまったらしい。

 

「それで……、僕をどうするつもりなんだい?」

 

 教会は不可侵領域だ。だからこそ、未だ攻め込まれる事無く慎二は生きていられる。

 けれど、一歩でも外に出れば――――、

 

「監督役として……そして、聖堂教会として勧告します。今直ぐに降伏し、マキリの聖杯を渡しなさい」

「断る。話にならないな」

 

 愚か者め。慎二は嗤った。そんな勧告をする余裕があるなら、今直ぐ己を殺すべきだ。

 既に理由は揃っているのだから、躊躇う必要も無いだろうに……。

 

「……悔い改めるつもりがあるなら、教会は貴方にも門扉を開きます。聖杯戦争中という事なども考慮に入れ――――」

「僕は愚図が嫌いだ。二度も同じ事を言わせるなよ。僕は断ると言ったんだ。神の慈悲なんて今更欲しくない。ここを包囲しているという事はランサー陣営がここに来ているという事だろう?」

 

 包囲と言っても、残っているサーヴァントはセイバーとランサー、そして、キャスターの三騎のみ。内、セイバーが戦力外である以上、ここに居るのはキャスターとランサー。

 他にも何らかのトラップを仕掛けているのだろうが……、

 

「手間が省けて大助かりだ」

 

 今回は隠密行動を主流とするつもりだったからアサシン以外のサーヴァントを連れて来ていない。けれど、必要とあればいつでもどこにでも呼び出す事が出来る。

 慎二はポケットから一匹の蜘蛛を取り出し、指に乗せる。

 

「――――お前達はちょっと僕を馬鹿にし過ぎだよ」

 

 如何なる距離をも零とする方法が一つある。令呪による強制召喚だ。

 元々、令呪とはマキリ・ゾォルケンが考案したシステム。桜が“再召喚”を行う際に再び“英霊に――聖杯の魔力を汲み上げ、作り上げた――新規の令呪と契約を結ばせる”事を怪老は可能とした。

 もっとも、一度“再召喚”を行ったサーヴァントに再び令呪との契約を結ばせる事は出来ないが……。

 

「――――させません! ノリ・メ・タンゲレ!」

 

 それは神の子が己に縋り付こうとする娼婦に告げた静止の言葉。憐れなその娼婦の亡骸を巻いたソレはその対象を反転させる。

 男から女に放たれた苦言は女が男を突き放す言霊となった。

 カレンがどこからか取り出した赤い布が慎二に迫る。

 

「生憎だが、そうはいかんぞ」

 

 その布を突如姿を現したアサシンが黒塗りのナイフで断裁する。

 

「――――気配遮断で隠れ潜んでいたのですね」

「私が復活している事など分かっていただろうに――――、間抜けめ」

「……復活など神に選ばれた者の特権だと言うのに」

「何を言うかと思えば……、サーヴァントとはある意味で復活者だ。それを冒涜と言うのなら、こんな儀式を容認している時点で貴様も狼藉者だ。責められる謂れは無いな」

 

 険しい表情を浮かべるカレンに対し、アサシンは嘲笑の笑みを浮かべる。

 睨み合う彼等の背後でアサシンの主は悠々と蜘蛛に向けて命令を告げた。

 

「――――桜。今直ぐに僕の下に全てのサーヴァントを召喚しろ」

 

 瞬間、カレンは部屋を飛び出した。慎二は彼女の後を追わずに出現したサーヴァント達に命令を伝える。

 下手にライダーと共に上空へ逃げる事は出来ない。目視出来ていない状況ではランサーの“突き穿つ死翔の槍”が来たら、防ぐ手立てなど無いからだ。

 故に逃げるにしてもタイミングを見計らう必要がある。

 

「バーサーカーとアルトリア、そして、アーチャーは外に飛び出して暴れ回れ」

 

 理性を欠片も持ち合わせない怪物三体が慎二の命令と同時に飛び出していく。

 宝具を発動する事すら出来ない狂戦士達。戦闘技術も無いに等しく、生贄達から調達した膨大な魔力で無理矢理引き上げたステータスに飽かして暴れ回らせる事しか出来ないが、逆に言えば暴れ回らせる事は出来る。つまり、全くの無能というわけでも無い。

 型の無い相手というのは意外と厄介だったりする。中学の頃、当時喧嘩っ早かった士郎に付き合い、馬鹿な不良と喧嘩をしてた頃に知った事だ。

 時間稼ぎは勿論、ある程度相手を消耗させる事も出来る筈だ。

 

「ライダーはランサーが出て来て、ある程度消耗したら僕を連れて飛べ。ランサーの射程範囲から直ぐには離脱せずに少し時間を掛けてから屋敷に向けて退避するような軌道で飛ぶんだ」

「……なるほど、囮作戦というわけですか」

「狙い通りにいけば、ランサーが宝具を使う。その瞬間が好機だ。アサシンはその隙をついて、奴に宝具を使え。使い手が死ねば、宝具の発動もキャンセルされる筈だからな」

「聊か、それは危険過ぎるのでは?」

「危険は承知の上だ。だけど、上手く行けばランサーを落とせる」

 

 アサシンの苦言に笑みで返す慎二。アサシンはそれ以上言葉を挟む事はせず、主の指示に従い気配を消す。

 

「タイミングを誤るなよ」

「期待に応えます」

 

 ライダーは首に釘剣を突き立てた。溢れ出す血が虚空に陣を描き、そこから翼を生やした白馬が躍り出る。

 二人は天馬の背に跨ると、時を待った。

 

「キャスターの呪にはご注意下さい」

「ああ……って言っても、神代の魔術を相手に僕に出来る事なんて無い。完全にお前任せだ」

「……そうでしたね」

 

 クスリと微笑むライダーに慎二は舌を打つ。

 

「分かってて言いやがったな、お前」

「緊張している御様子でしたので、少々和ませようかと……。ほら、リラックスリラックス」

「緊張が薄れる代わりにイライラしてくるから止めろ。それより、馬鹿な事しててタイミングを――――」

「今です!」

「今かよ!?」

 

 天馬から跳び上がる。まるでジェットコースターだ。しかも、命綱であるベルトも無い世界最速のモンスターマシン。意識は辛うじて保っているが、ライダーの体にしがみ付いている事さえ困難。

 景色や状況を見る事すら出来ない。風の音が凄過ぎて、ライダーの声も聞こえない。

 生きているのか、死んでいるのかすら分からない。

 

 そして――――、

 

「ああ、シンジ。この程度で気を失ってしまうなんて……、まだまだですね」

 

 目が覚めた時は太陽が真上に昇っていた。

 

「ど、どうなった?」

 

 頭がズキズキする。吐き気も酷い。けれど、状況だけは把握しなければならない。

 

「……しくじりました。ランサーは此方に宝具を向けて来ませんでした」

「ああ、多分だけど、僕達の話が向こうに筒抜けだったんだろうな」

「……え?」

 

 ギョッとするライダーに慎二は肩を竦めた。

 

「相手はキャスターだぜ? あんな所で結界も張らずに堂々と話してたら筒抜けに決まってるだろ」

「で、では……まさか、囮は我々では無く――――」

「……私だった訳ですね」

「おお、生きていたのか、アサシン!」

「…………………………………………ええ、おかげさまで」

 

 表情は読めないが、少々ムッとしていらっしゃる御様子。

 慎二は苦笑いを浮かべながら謝った。

 

「悪かったよ。けど、あの場でリスクを冒すつもりは無かったんだ。僕にはやるべき事があるからね」

 

 その為にわざわざ作戦を相手に聞かせた。此方がランサーを殺すつもりで動くと相手に知らせる事により、逆に相手の動きを支配した。

 慎二の狙い通り、ランサーはライダーでは無く、“己を殺そうと隙を伺っているアサシン”を返り討ちにする為に動いた。

 

「まあ、バーサーカー達にビビッて逃げてくれれば一番楽だったんだけどな。さすがにアイツ等じゃ脅しにもならないか……」

 

 元は最強の英霊達だったが、理性を完全に奪ってしまったせいで役立たずになってしまっている。

 さりとて、アルトリアは汚染され過ぎていて理性を取り戻す事は不可能だし、バーサーカーとアーチャーは理性を取り戻した瞬間に叛逆して来るだろう。

 溜息を零しながら、アサシンの無事の帰還を喜んだ。理性を保つ手駒は何より重要だ。

 

「しかし……、それでもリスクは大きかったのでは?」

「まあ、最悪の展開としてはお前がランサーのマスターにカウンターを喰らう場合だな。そうなると、お前の宝具がキャンセルされて、ランサーの宝具がキャンセルされず、僕達が死ぬ」

 

 そうならなかったのはアサシンが宝具を使わなかったからだ。

 

「よくぞ、僕の考えを汲んでくれたな、アサシン」

「……ランサーのマスターが隠れ潜み、宝具の発動態勢に入っているのを確認しましたので」

 

 慎二の指示通りに戦場に現れたランサーに近づくと、彼のマスターが宝具であるフラガラックの発動態勢を整えていた。

 その瞬間に彼は理解した。実は己こそが囮であった事を……。

 

「さすがに二度も同じ轍は踏みませぬが……」

 

 以前、己を殺したバゼットの宝具。一度受けた技を再び受けて死ぬなど愚の骨頂である。

 ライダーが飛び出すと同時にランサーが宝具を発動させる前に攻撃を仕掛ける。

 そこまでアサシンが読む事で達成される綱渡りの作戦。

 

「私が読み間違えていれば最悪の展開になっていたでしょうに……」

「そこはお前を信用していたのさ。お前なら僕の考えを汲んでくれると思っていた」

「……慎二殿」

 

 アサシンは主たる少年を静かに見据える。少年は妹を既に壊れていると称するが、彼も既に壊れている。

 彼は妹とその周囲を取り巻く環境によって既に正気を奪われているに違いない。士郎という少年に傾倒し過ぎていたり、己を信じ過ぎているのも恐らく、それが理由だ。

 彼の傾倒や信用は彼の心の叫びの発露。救いを求め、深い森を彷徨っている。

 

「これからも頼むぞ、二人共。お前達が僕の切り札なんだからな」

 

 ニッと笑みを浮かべる彼にアサシンは「御意」と返す。

 彼に真に忠誠を尽くすなら、きっと彼を士郎の下へ連れて行くべきなのだろう。恐らく、そこに彼の救いがある。

 けれど、そうはいかない。彼の救いはキャスターの勝利に繋がってしまう。そうなれば、己が聖杯に触れる機会を得られなくなる。

 それはいけない。己には聖杯が必要だ。その為に召喚に応じ、この少年に忠義を誓っている。

 彼には踊り続けて貰う。この手が聖杯に届く、その日まで……。 

 

「――――ええ、期待に添えるよう尽力致しますよ、慎二殿」



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第三十一話「せめて、美味しい御飯を作って、皆に英気を養ってもらおう」

 夜が明けて居間に向うと凜の盛大な溜息が出迎えた。

 

「ど、どうしたんだい?」

 

 セイバーが目を丸くして問うと、凜は苦々しい表情を浮かべて言う。

 

「夜の内に慎二を捕まえようと思って教会に罠を仕掛けていたんだけど、空振ったのよ」

「……はい?」

「――――貴方達がデートしてた頃、こっちも色々と動いてたのよ」

 

 凜は語った。セイバーが士郎やアーチャーを連れて遊んでいる一方で自分達が何をしていたのかを――――、

 

 

「アーチャーの過去の映像を検証した結果、幾つか分かった事がある」

 

 セイバーが士郎とアーチャーを引き連れてデートに行った後、キャスターがそう口火を切った。

 アーチャーを彼等に同伴させた真の理由は単に本人が居る前で彼の過去を穿り返す事が憚られたからだ。まあ、彼にセイバーと過ごす一時をプレゼントしたかった事も理由の一端ではあるが……。

 キャスターが夢を通して開示したアーチャーの過去。キャスターはその中で重要なポイントを幾つかピックアップした。

 

「まず、何より重要な事はマキリの実質的な支配権が途中から間桐慎二に切り替わっている事ね」

 

 アーチャーと彼のセイバーが平和な一時を過ごせた理由は慎二が彼等の時間を作る為にアルトリアを含めた自軍のサーヴァント達を抑え付けていたからだ。

 そんな真似を間桐臓硯が許した事に激しい違和感がある。

 

「……恐らく、“聖杯”が臓硯を見限り、慎二の方に鞍替えしたんでしょうね」

 

 凜は淡々とした口調で告げる。その言葉の真意を目の前の二人は正しく理解している。

 アーチャーの夢では“マキリの聖杯”に関する情報だけがぼやけていたが、少し考えれば分かる事だ。

 

「――――マキリの聖杯の正体は“間桐桜”。恐らく、間違い無いわ」

 

 キャスターが断言する。円蔵山での三竦みの戦いの時点でマキリの聖杯がイリヤと同じ生体である事を確認している。

 加えて、マキリの陣営に所属し、聖杯となり得るだけの資質を持った人間は一人しか居ない。

 

「アーチャーが無意識に記憶を改竄していた理由もソレでしょうね」

 

 イリヤが呟くように言う。

 

「セイバーを自らの手で殺した直後に“マキリの聖杯”の真実を識ったとすれば――――」

 

 険しい表情を浮かべ、彼女は続ける。

 

「アーチャーが剣の鍛錬を行っていた場所に突き刺さっていた二振りの剣は恐らく彼にとっての心の傷を象徴している」

 

 一見すると、ソレ等は二人のセイバーを象徴しているように見えるが、実は違う。そもそも、アルトリアはアーチャーにとって“倒すべき存在”に過ぎない。

 彼にとって、憎悪や憤怒、後悔といった感情は己に向けられたものであり、アルトリアに対しては明確な感情を一切向けていないのだ。

 当然だろう。原因の一端ではあったが、彼女が直接日野悟を殺したわけでは無い。

 二振りの剣が指し示す真の意味は――――、

 

「一方は愛する人。もう一方は……、家族」

 

 アーチャーはセイバーを恋人として愛した。そして、同時に桜の事も家族として愛していた。

 愛する二人を同時に失った。それも……、自らの意思の下で殺害した。

 

「……愛する家族を殺す為に愛する者を殺した。それがアーチャーの後悔であり、彼に立ち止まる事を許さなかった呪いの正体」

 

 イリヤの言葉に凛はやるせなさを感じざる得なかった。直接手を下したのは確かにアーチャーだったが、そうするように仕向けたのは彼の世界の己だった。

 あの時点で彼女は気付いていた筈だ。殺すべき相手が何者であるか……。

 キャスターは眉間に皺を寄せながら口を開く。

 

「――――間桐桜が間桐慎二を選んだとすれば話の筋が通る。今の彼女は紛れもなく怪物。この私ですら、アレを力ずくで御する事なんて出来ない。アーチャーの過去で彼の為に時間を作ろうとしたり、戦いから降ろそうと苦心していた所を見ると、彼は彼女を感情的なもので御しているのだと思う」

 

 それは彼が彼女と築いた家族愛によるものか、はたまた別のナニカか――――、

 

「いずれにしても、間桐慎二を捕らえる事が出来れば状況は大きく前進する事になる」

 

 イリヤの言葉にキャスターと凜が頷く。

 

「でも、どうするつもり? マキリのセイバーはうちのポンコツと違って、難敵よ?」

「……そうなのよね。そこが問題なのよ」

 

 今の戦力では下手に攻撃を仕掛ける事が出来ない。前回の円蔵山での戦いで分かった事はアルトリアがあまりにも強過ぎるという事。

 

「此方の手札を知られている以上、今度は前みたいにはいかない。幾ら策を巡らせても、“最強”が全てを力で捻じ伏せてしまう。慎二を攫うにしても、まずはマキリのセイバーをどうにかしないと……」

 

 三人で知恵を絞っても妙案は浮ばなかった。およそ考え得る限りで最強の布陣を敷いた円蔵山での戦いでも結局打ち倒す事は出来なかった。

 

「……やっぱり、ランサーを味方に付けるしかないわ」

 

 マスターの意向次第で平然と裏切るような真似もする相手を信じる事は出来ないが、贅沢を言っていられる状況でも無い。

 凜の提案に二人は渋面を浮かべながらも頷く。

 

「一応、ランサー陣営の潜伏先は分かっているから、接触は難しくないわ」

「……さすがキャスターのサーヴァントね」

 

 当然の如く敵の居所を掴んでいるキャスターに凜が顔を引き攣らせる。

 

「問題はどうやって交渉するかよね」

 

 イリヤが眉間に皺を寄せながら考え込む。

 

「こっちのスタンスとしては裏切られる前に始末する方向で動くべきだと思う。それを前提とした協力関係を結ぶ以上、カードも選ばなきゃいけない」

「前回みたいに証文を使った契約は論外だし、向こうも恐らく提案して来ないと思う」

 

 キャスターの宝具はあらゆる魔術契約を破棄してしまう。

 

「契約を一方的に破棄する事が出来るのは強みであると同時に弱味ね……。信頼関係を築くなんて不可能だもの」

 

 行き詰ってしまった。キャスターの宝具が交渉の上でとんでもない厄介者になっている。

 此方がどんなカードを出してもバゼットは乗ってこないだろう。

 

「……とりあえず、さっさと結界を張ってしまいましょう。終わるまでにそれぞれ案を練っておく事」

 

 キャスターの言に凜とイリヤが頷く。

 その後、三人は協力して衛宮邸に結界を張り巡らせた。神殿クラスとまではいかないまでも、かなりの完成度だ。

 三人が再び居間に集まり、それぞれが考えた案を出し合うが、到底実行に移せないものばかりだった。

 下手を打ち、ランサー陣営と戦闘になりでもしたら終わりだ。僅かな疲弊も許されない現状、ランサー陣営とは最悪でも現在の停戦状態を保つ必要がある。

 

 三人が睨めっこを続けていると、突然、キャスターが表情を強張らせた。

 彼女のマスターに異常が発生したとの事。彼女の主は夜中に繁華街を徘徊する学生達を取り締まる為に巡回に出ていたのだ。

 しばらくして、キャスターが主とのパスを経由し思念による会話を交わす。どうやら、強力な結界に囚われているそうで、念話を行う為のラインを繋げる事さえ困難で、その分時間が掛かってしまったらしい。

 そして、昨夜のアーチャーとアルトリアの決戦に話は展開していく。

 

 

「……アーチャーがアルトリアを倒してくれたおかげでキャスターも漸く身動きが取り易くなった。だから、盤面を俯瞰し、守勢を転じ、攻勢に出たわけよ」

 

 凜は慎二が監督役を狙う可能性があると告げたキャスターの推理をセイバーに語った。

 

「悲しむ間も惜しんで行動したってのに……、あんまり成果は上がらなかったけどね」

 

 溜息を零し、凜は目を細める。

 

「まあ、全く無かったわけでも無いけど……」

「どういう事?」

 

 セイバーが問う。

 

「まず、同じ推理の下、教会に根を張っていたランサー陣営と接触する事が出来た。その際、キャスターが一時的に協力関係を結ばせる事が出来た。まあ、あの場限りのものだったけど――――」

 

 凜はニヤリと笑みを浮かべる。

 

「それが一時的なものであると、慎二は知らない。恐らく、アイツは私達の陣営にランサー陣営が加入したと考える筈。そうなると、アイツも下手に動けなくなる。それに、マキリの戦力も把握出来た。想定していた最悪の展開は回避出来たわ」

「最悪の展開……?」

「――――アーチャーとアルトリアが万全な状態で向こうの戦力として復活して来る事よ」

 

 凜の発言にセイバーは息を呑んだ。

 

「貴方もアーチャーの過去を見たでしょ? マキリ……、慎二は聖杯である桜にサーヴァントの再召喚を行わせている。案の定、教会にはアーチャーとアルトリアの姿があったわ」

「そ、そんな――――」

 

 愕然とした表情を浮かべるセイバーに凜も不快そうに肩を竦める。

 

「不愉快極まりないけど……、少なくともアーチャーとアルトリアに理性は見受けられなかった。キャスターの言によると、マキリの聖杯による再召喚には幾つかのデメリットがあるらしいわ」

「デメリット……?」

「一つは“この世の全ての悪”によって汚染される事。それは復活していたライダーを視認した時点で確証を得ているわ。アレは正純な英霊程侵され易いから……」

「アーチャーとアルトリアは理性を保てない程に穢されたって事?」

 

 震える声で問うセイバーに凜は首を振った。

 

「アルトリアに関しては恐らくそうだろうけど、アーチャーは違うと思う。教会でキャスターが確認した所、アルトリアは汚染の度合いが増していたけど、アーチャーはライダーと然程変わりが無かったそうよ。アイツは確かに正純な英霊とは言えないから……」

「なら、どうして……?」

「恐らく、意思を残しておくと不味い事になるからでしょうね」

「不味い事……?」

「叛逆される恐れがあるって事」

 

 問題は山積みだが、光明が無いわけでは無い。

 

「アーチャーの過去を見た時点でマキリの聖杯のデメリットについては考察が出来ていたから驚くには値しないけど……。アーチャーとアルトリアが万全な状態で敵に回ったらと思うと身が竦むわ……。確証が得られた時は本当にホッとしたわよ」

「……だろうね」

 

 セイバーの表情は優れない。己の為に戦い抜いたアーチャーが敵の手に落ち、利用されている事実に愕然としている。

 

「……イリヤがアーチャーの魂を確保する事は出来なかったのか?」

「無理よ。相手は簒奪に特化した聖杯。あくまで単なる受け皿でしか無いアインツベルンの聖杯じゃ綱引きの舞台に上がる事も出来ないわ」

「そうか……」

 

 戦局に大きな変化は無い。マキリ陣営にランサー陣営とキャスター陣営の同盟を永続的なものと勘違いさせる事が出来た事とマキリの戦力を此方が把握出来た事は大きいが、未だに膠着状態を続けるしかない状況。

 

「……それにしても、どうしてその事を直ぐに話してくれなかったんだ? 少なくとも、昨夜の内に教えてくれたって――――」

「アンタ達は居ても邪魔になるだけだもの」

 

 不満を口にするセイバーに凜がすげなく言った。

 思わず閉口するセイバーに凜は呆れたように言う。

 

「自らの無知さを自覚なさい。貴方達の為に一々用語や状況の説明をしてたらまともに作戦の立案も出来ないわ。いずれ、動いてもらう時が必ず来るから、それまでは士郎とイチャイチャしてなさい」

「……凜。俺は――――」

「貴方に出来る事は何も無いわ」

 

 凜は冷たく言い捨てた。

 

「自分が一般人に毛が生えた程度なんだって事を理解しなさい。私はアーチャーのマスターとして、彼の望みを叶える義務がある。幸せにする云々は士郎に任せるけど、この聖杯戦争で貴方を死なせたりしない。主従揃って無鉄砲な所があるから今の内に言っておくけど、絶対に勝手に動いたりしない事。いいわね?」

「……ああ」

 

 返事をしながらもセイバーは焦燥感に駆られていた。

 状況が己の知らない内に進行している。その恐ろしさは言葉にならない程だ。

 けど、己に出来る事は何も無い。あるとすれば、それは己の無力さを自覚する事……。

 

「……ごめん、凜」

「謝る必要は無いわ。貴方は私達の切り札。ここぞという時には確りと働いてもらうから」

「はは……、お手柔らかに」

 

 冷や汗を流しながら、セイバーは朝食の準備に取り掛かる。久しぶりの台所。

 この戦いにおいて、自分に出来る事は極端に少ない。なら、出来る事を全力でやる。

 

「せめて、美味しい御飯を作って、皆に英気を養ってもらおう」

 

***

……というわけで、第二十九話~第三十一話は最終章の導入部でした(∩´∀`)∩

予定だと残り十話程度なので、残り僅かとなりましたが後もうしばらくよろしくお願いします!

 



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第三十二話「可愛い坊や……。早くお外に出ましょうね」

 遍く物語には終焉がある。その終わりがハッピーエンドなのか、それともバッドエンドなのか決めるのは読者だ。多くの読者は主人公の行く末に思いを馳せ、それが幸福な終わりか、不幸な終わりかを判断する。けれど、物語の中で息づくのは主人公だけではない。ヒロインや仲間、そして――――、敵。

 主人公の結末がハッピーエンドだったとしても、彼等の結末がハッピーエンドに終わっている保証は無い。特に主人公の敵役は大抵の場合、バッドエンドを迎える。夢を折られ、命すら奪われる事も多い。

 

「――――これが王道なヒロイック・ファンタジーなら、主人公は間違いなく衛宮だ。ヒロインは……残念ながら、僕の妹じゃなくて、あのアルトリアの劣化コピー。そんで、敵役が僕達」

 

 慎二はリビングのソファーで寛ぎながら傍らに立つライダーに囁く。

 

「どんなに頑張っても、主人公と敵役は決して同時に幸福にはなれないらしい。それが世界のルールであるかのように決まっている」

 

 ソファーの前の低いテーブルの上にはチェス盤のようなものが置かれている。ただし、その上に乗っている駒はチェスのソレでは無い。

 聖杯戦争における七つのクラスを象った駒が一つずつとチェスのボーンのような駒が七つ。

 盤上では二つの勢力が睨み合っている。もはや、余計な事で憂慮している暇は無い。

 

「……そろそろ、僕も吹っ切るべきなのかもしれないね」

 

 胸の内に宿る唯一の“迷い”。それさえ拭い去れば、此方の勝利は揺るぎないものとなる。

 

「ライダー……、ついて来てもらえるかい?」

「――――お供いたします、シンジ。どこまでも……」

 

 

「――――よく、セイバーを無能と馬鹿に出来たものね」

 

 朝食を作り始めたセイバーを横目に部屋を出ようと縁側へ出る襖を開けると呆れ顔のイリヤがいた。

 

「無能は私達も一緒でしょうに……」

「煩いわよ、イリヤスフィール。敵であるキャスターの“お情け”に甘えて、頼り切っている時点でセイバーを責める資格なんて無い。そんな事、分かってるわ……」

「分かっているなら、八つ当たりは止めなさい。セイバーは唯でさえ危うい状態なのだから、変に動揺させて、精神を折るような真似は慎みなさい」

 

 凜は唇を噛み締めた。イリヤの言った通り、さっきのは単なる八つ当たりだ。

 アーチャーの死。マキリの聖杯と化した桜。悲願である聖杯を台無しにしたアインツベルン。

 如何に屈強な精神を持つ凜とて人の子だ。憤怒や憎悪の感情と無縁ではいられない。今の彼女の心は酷く荒んでいる。

 何より、彼女を苛立たせたのは“自らの無能さ”だ。五大元素の使い手であり、遠坂の現当主にして、冬木の管理人。御大層な肩書きも意味を為さない。

 バゼット・フラガ・マクレミッツのようにサーヴァントと打ち合う戦闘能力があるわけでもなく、キャスターのように狡猾な策を練られるわけでもない。

 キャスターとセイバーはこの陣営の要。士郎はセイバーを支える為に必要。イリヤも“聖杯”としてここに居なければならない。

 ただ一人、凜だけは居ても居なくても同じなのだ。彼女のこなす役割はキャスターやイリヤが代替出来る。

 なのに、彼女が危険を承知でこの場所にしがみ付いている理由は一つ。“やり場の無い怒りの矛先”を捜しているのだ。

 

「……ごめんなさい。どうかしてた……。少し、頭を冷やしてくる」

「凜――――……」

 

 イリヤは自らの感情に振り回されている凜に溜息を零す。

 

「まったく、手間を掛けさせてくれるわね……」

 

 凜は自らの存在価値を見失っている。キャスターという偉大な魔術師の存在が彼女の土台を揺らめかせてしまっている。

 自らの完全な上位互換が傍に居る事はプラスにも働くし、マイナスにも働く。

 今の凜には彼女の存在がマイナスの方向に働いてしまっている。

 

「……折角、思いついた事があったのに」

 

 凜があのような状態で無ければ、現状を一気に覆す名案を披露出来たと言うのに、肝心要の彼女がああでは実行に移せない。

 常の自信を彼女に取り戻させる必要がある。

 

「アーチャーが居てくれたら……」

 

 彼が生きていれば凜もこうまで崩れる事は無かった筈。

 だが、無い物強請りをしていても仕方がない。眉間に皺を寄せながら、凜を立ち直らせる方法を考える。

 

「何とかしないと……」

「悩み事か?」

 

 その声に顔を上げると、イリヤの表情が強張った。

 

「……葛木宗一郎」

 

 キャスターのマスターであり、あのアルトリアを不意打ちとは言え投げ飛ばした男。

 士郎と凜が通う高校の教師らしいがあまりにも得体が知れず、イリヤは警戒心を顕とする。

 そんな彼女の態度を意に介さず、宗一郎は再び問う。

 

「何やら、悩んでいたようだが、必要とあらば相談に乗ろう」

「……相談に乗るって……、貴方が?」

 

 不審そうに睨むイリヤを宗一郎は静かに見下ろす。

 

「生徒の悩み相談は教師の務めだ」

「……私は貴方の生徒じゃない筈だけど?」

「余計な世話であったなら謝ろう」

 

 イリヤはしばらくジッと宗一郎を見つめた後、小さく溜息を零した。

 

「……まあ、今更貴方達を疑っても仕方無いわよね」

 

 イリヤは華麗にスカートの端を摘み上げ、深々と頭を下げた。

 

「お願い致しますわ、先生」

 

 

「おはよう、坊や」

 

 目を覚ますと、そこに魔女が居た。驚きのあまり言葉が出て来ない。口を魚のようにパクパクさせる士郎にキャスターはクスリと微笑んだ。

 

「寝起きドッキリを仕掛けたわけじゃないから、少し落ち着きなさい」

 

 寝起きドッキリという単語を知っている事にも驚いたが、とりあえず士郎は深呼吸をした。

 

「えっと……、何か用か?」

 

 彼女の様子を見るに緊急事態が発生したわけでは無いらしい。

 

「ちょっと、今後の事について話をしておきたくてね」

「今後の事……?」

 

 キャスターは凜がセイバーにしたものと同じ説明を士郎にした。

 

「桜が……、聖杯……――――?」

 

 何よりも彼を動揺させたのはその事実。桜が間桐の家の娘である以上、想定して然るべき事だった筈なのに、今の今まで彼女が聖杯戦争に関わっているとは考えてこなかった。

 それは彼女が士郎にとって大切な日常のピースであり、家族だったからだ。

 

「た、助けに行かないと……」

 

 慌てて立ち上がろうとする士郎をキャスターが押し留めた。

 

「な、何をするんだ!? は、早く、桜を――――」

「落ち着きなさい。今、貴方が下手に動いたらマキリとの最終決戦が始まってしまう。そうなると、現段階では此方が不利なの。セイバーやお嬢さん達を死なせたいの?」

「そ、それは――――、でも!」

 

 桜がそんな大変な事になっていたなんて、全く気がついていなかった。誰よりも気付き易い距離に居た癖に……。

 桜が苦しんでいるなら、助けに行かないわけにはいかない。

 

「家族なんだ!」

 

 士郎は必死にキャスターに訴える。彼女が苦しんでいるなら救わなければならない。

 

「駄目よ」

 

 懇願する士郎にキャスターはすげなく言う。

 

「少なくとも、今、この均衡状態を崩すわけには行かない」

「だ、だけど……」

「落ち着きなさい、衛宮士郎。どちらにしても、マキリとの戦いは避けられない。その時、必ず間桐桜も現れる。救うにしろ、排除するにしろ、マキリの戦力に抗う為の力が必要よ」

 

 今のままではどちらも不可能。

 

「なら、どうしたら……」

「貴方は力を手にする必要がある。それも今直ぐに……」

「どうやって……?」

「貴方を手っ取り早く強くする手段が一つある。けど、それは――――」

「どうすればいい!? 強くなれるんなら、俺は何だって――――ッ」

 

 詰め寄ろうとする士郎にキャスターは静かに言った。

 

「アーチャーの過去を追体験してもらう」

「追体験……?」

 

 首を傾げる士郎にキャスターは言う。

 

「前に夢という形で見せた彼の過去を今度は彼自身として体験してもらう。ただし、それはとても危険な行為。下手をすると、貴方の人格がアーチャーの人格に飲み込まれてしまう可能性もある。彼の夢の中でセイバーがアルトリアの人格に飲み込まれてしまったように……」

「そ、それで……、強くなれるのか?」

「前世の自分を降霊、憑依させる事で嘗ての技術を修得する魔術もある。これはその応用。私が保存した英霊・エミヤの経験値を同一の存在である貴方に流し込む事で戦闘能力に限らず、様々な点を強化する事が出来る筈」

「……分かった。じゃあ、早速やってくれ」

 

 士郎の言葉にキャスターは何故か苛立ちの表情を浮かべる。

 

「キャスター……?」

「そう来るだろうと思っていたけど、もう少し躊躇すると思ったわ」

「……はぁ? 何が言いたいんだよ」

「貴方、アーチャーがあれほど後悔に塗れた人生を送ったのを知っておきながら、同じ思いをセイバーにさせるかもしれないって事、理解してる?」

 

 キャスターの言葉に士郎は頷く。

 

「ああ、俺の人格がアーチャーに塗り潰されたら、きっとセイバーは悲しむ」

 

 それは確信している。セイバーは確かに己を愛してくれている。

 

「だからこそ、俺は必ず俺のまま戻って来る」

 

 士郎は言った。

 

「セイバーを悲しませる事だけは絶対にしない。どんな無茶でもやり遂げて、最期はセイバーを笑顔にしてみせる」

「…………なるほど、自分を蔑ろにしての決断では無いという事ね」

「ああ、それはセイバーを悲しませる事だからな。俺はセイバーが好きだ。だから、セイバーが嫌がる事は絶対にしない。そう、決めた」

 

 その言葉にキャスターは堪らず噴出した。

 

「――――いいわ。今の貴方は本当にいい。宗一郎様程では無いけれど、実にいい男よ。なら、精々気合を入れなさい。アーチャーの過去は決して生温いものじゃない。常に地獄の業火に焼かれながら、鉛を呑み込み、汚泥に満ちた沼を歩き続けるようなもの。彼の哀しみや怒りは貴方のものとなり、貴方を呑み込もうと襲い掛かって来る」

「承知の上だ。それでセイバーを守り、桜を救う力が手に入るなら是非も無い」

「なら、せめてセイバーの作った朝御飯を食べてからにしましょう。愛情たっぷりの御飯を食べれば、何が何でも戻って来てやるって気になるでしょ?」

「……ああ、そうだな」

 

 

 腐臭に満たされた地の底で少女は嗤う。

 

「――――もう直ぐ産まれるわ」

 

 少女の腹はポッコリと膨らんでいる。彼女は丸々したお腹を優しく撫で上げ、あやしている。

 空間の隅で息を顰めるアサシンはその姿に僅かに驚いていた。

 彼が佐々木小次郎を寄り代に召喚された直後に見た彼女と今の彼女の容貌は大きく変化している。

 歪に膨らんだお腹とは裏腹に他の部位はまるで萎んでしまったかのように細くなっている。顔も骨が突き出しそうになっているし、血色も――元々良くなかったが一層――悪い。

 恐らく、体内に宿っているナニカが彼女から生命力を奪い続けている結果だろう。

 

“アレは人だ。そして、同時にソレ以外のナニカだ”

  

 何故、そんなモノを彼女が孕んだのか正しくは理解出来ない。ただ、推測ならば出来る。

 原因は間桐臓硯が死亡した事。それまで、桜をコントロールしていた臓硯が死んだ事で彼女は恐らく、妊娠が可能になったのだろう。

 元々、年齢的には可能だった筈。だが、彼女は体内に精を取り込む度に全てを魔力に変換していた。ソレを彼女は止めてしまった。

 魔力に変換される事も無く、体内に取り込まれた精子が桜の卵子と結合して受精卵となった。そう考えれば、妊娠自体には説明がつく。

 だが、臓硯が倒れたのは数日前の事。にも拘らず、桜の体はまるで臨月を迎えようとしている妊婦のソレだ。

 それに精子の持ち主が何者なのかも不明。少なくとも慎二ではない。彼はあくまで桜を妹として扱っている。それ故に欲情し、手を出す事は一切無い。

 さりとて、不特定多数の生贄は臓硯亡き後全て、食事を通して桜の身に吸収されている。性行為自体、彼女はここしばらく蟲を使った自慰のみに留めている。

 

「もう直ぐよ、坊や」

 

 うっとりとした表情を浮かべる彼女にアサシンは違和感を覚えた。

 主たる少年は彼女を壊れていると評した。だが、これが壊れた女の浮かべる表情だろうか?

 確かに狂気染みてはいる。だが、女という生き物は大抵の場合、狂気的な面を隠し持っているものだ。それを分厚い仮面で奥に隠している。

 ヒステリックな女。盗み癖がある女。何かにつけて人のせいにする女。そういう悪癖のある女を特別視するのは誤りだ。

 女は魔性と人は言う。女は皆、そういう一面を隠し持っているのだ。違いがあるとすれば、それを如何に狡猾に隠し通せるかどうかに掛っている。

 慎二は彼女の狂気を見て、壊れていると思い込んだ。しかし、この女は――――、

 

「可愛い坊や……。早くお外に出ましょうね」



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第三十三話「第二魔法――――、キシュア・ゼルレッチ」

 私の聖杯戦争は既に終了している。十年待った私の聖杯戦争がこんな風に呆気無く終わってしまうとは思わなかった。

 まあ、アーチャーは本懐を遂げられて満足して逝ったわけだし、そこに文句をつけるつもりは無い。

 けど――――、

 

「……文句を言う時間さえくれないんだもん」

 

 涙が薄っすらと浮かぶ。

 色々と言いたい事もあった。もっと、一緒に居たかった。辛い人生を歩んだのだから、その分、彼の事も幸福にしてあげたかった。

 彼にとって、私は何だったんだろう。

 

『……すまなかった、凜。君を勝者にしたかった。それは誓って本当なんだ』

 

 そんな言い訳染みた言葉は欲しくなかった。

 

『ありがとう、遠坂。君がオレを召喚してくれたおかげだ。オレの人生は――――、報われた』

 

 そんな事で感謝されても嬉しくない。

 

「……馬鹿」

 

 私が欲しかった言葉は私と共に居た時間を肯定する言葉。

 彼の心には常に一人。私は結局、最後まで他人だった。

 

「……っちぇ」

 

 理不尽である事は重々承知している。それでもセイバーを見ていると苛立ってしまう。そんな自分の狭量さに驚くと共に腹が立つ。

 セイバーに罪など無い。ただ、巻き込まれてしまったイザコザの中で懸命に抗おうとしているだけだ。なのに、どうしてこんなにイラついてしまうのだろうか……。

 椅子に腰掛、眉間に皺を寄せているとノックの音が響いた。

 

「――――誰?」

 

 面倒に感じながら椅子から立ち上がり、扉を開く。

 すると、予想外の人物が立っていた。

 

「く、葛木先生?」

 

 そこに居たのは葛木宗一郎。私が通う高校の教師。

 

「――――遠坂。思い悩んでいるそうだな」

「……何のことですか?」

「お前を心配する友人から相談を受けた」

「友人……?」

 

 そんなもの、私にはいない。昔はそういう付き合いもあったけど、今は魔術師の家の当主としての自覚があるから他人とは一定の距離を置くようにしている。

 

「一体、誰の事ですか?」

「アインツベルンだ」

「……イリヤ?」

 

 あの子は友人どころか敵だ。今は士郎を助けるという共通した意志の下で共闘しているが、決して親しい間柄ではない。

 

「……それで、一体先生が私に何の用ですか?」

 

 つい、刺々しい口調になってしまう。

 

「――――要らぬ節介とは思うが……、教師として思い悩む生徒を放っておく訳にはいかん」

「……本当にそれだけですか?」

「どういう意味だ?」

「だって、貴方はキャスターのマスターじゃない」

 

 魔術師では無い。さりとて、一般人とも違う。キャスターと契約したのは単なる偶然という話だけど、それだって確固たる証拠があるわけじゃない。

 安易に信用していい相手じゃない。

 

「リン……。貴方、いつまで意地を張っているつもりなの?」

 

 宗一郎の背後からひょっこりと顔を出したのはイリヤ。

 

「意地って……」

「ここに居る者は誰も裏切ったりしないわ」

「どうして、そう言い切れるの?」

「だって、意味が無いもの」

 

 イリヤはキッパリと言った。

 

「意味が無い……?」

「考えてもみなさい。私や貴女は別に聖杯に固執しているわけじゃない。ただ、士郎の為にココに居るに過ぎない。そして、それはキャスターにも当て嵌まる」

「キャスターにも……?」

「彼女は聖杯を欲しているけど、同時にアーチャーとの約束を守ろうともしている。でなきゃ、アーチャーが脱落した今、ここに居座る理由が無いもの」

 

 それは……、認めざるを得ない。彼女はいつでも私達を見捨てる事が出来る。なのに、彼女がココに居座る理由はアーチャーとの約束を守り、士郎とセイバーを生かす為。

 

「私達の意志は一致している。故に裏切る必要なんて無い」

「でも……――――」

「――――ねえ、リン。もう、一人で抱え込む必要は無いのよ?」

 

 イリヤの言葉に困惑する。別に私は何も抱え込んでなんか――――、

 

「士郎とセイバーがあまりにも無防備だから、貴女は常に周囲に目を光らせる必要があった。セイバーやアーチャーがキャスターに奪われた事で一時は士郎を一人で守らなければならなくなった時もある。だから、誰の事も信じられなくなった。自分だけは常に周囲を疑い、隙を見せないようにしないといけないから……」

「そ、そんな事は……」

「アーチャーが居なくなったせいで、貴女のその思いは更に強まってしまった」

「私は――――」

 

 声を張り上げようとする私をイリヤが抱き締めた。

 あまりの事に声が出ない。目を丸くする私に彼女は言う。

 

「前にも言ったでしょ? 一人で根を詰めるのは禁物だって」

「イリヤ……」

「私達は仲間よ。私は愛する弟を守りたい。貴女は大切なパートナーの願いを叶えたい。なんなら、誓ってあげる」

 

 イリヤはまるで母のように穏やかに微笑んだ。

 その瞬間、私はちっぽけな子供に戻っていた。まだ、家族皆で一緒に過ごしていた頃の……、世の理不尽を何も知らなかった頃の私に戻っていた。

 

「――――私は貴女を裏切らない。最後の瞬間まで、貴女の味方で居てあげる」

「……どうして?」

「だって、貴女はシロウを守ってくれた。これまでずっと……。私の愛する弟を守り続けてくれた。あんなポンコツコンビを抱えて、魑魅魍魎が跳梁跋扈する聖杯戦争を戦い抜くなんて、無茶を通り越して無謀。だけど、貴女は今日まであの子を守り通した。その事に私が恩を感じている事がそんなに不思議な事かしら?」

「…………いや、だって、貴女は一回士郎を殺してるじゃない!!」

「それは私もマスターの一人だったからよ。マスター同士は殺し合う。それが聖杯戦争のルール。だけど、今の私はマスターじゃない。ただのシロウのお姉ちゃんよ」

 

 溜息が出た。張り詰めていたものが解放されたような気分。

 イリヤは味方だ。そんな事、ずっと前から分かっていた筈なのに、どうしても警戒を緩める事が出来なかった。

 理由は彼女の言った通り。士郎とセイバーを守る。その事を気負い過ぎていたらしい。

 

「……ありがとう、イリヤ」

「相談……、してくれるかしら? 貴女の悩みを私達にも聞かせてちょうだい」

 

 イリヤの言葉に頷き掛けて、その必要が無くなった事を悟った。

 頭の中がすっきりしていて、セイバーに対する苛立ちの原因もスッと理解出来た。

 

『何も……、教えてもらえなかった。あんなに一緒に居たのに……、結局、最期まで……』

 

 以前、アーチャーが呟いた言葉が脳裏に響く。

 それが苛立ちの正体だ。セイバーの隠し事。アーチャーが知りたいと願った彼の秘密。

 それを今尚、私達に話してくれない事に腹が立っていたのだ。

 

「――――ごめん。必要無くなっちゃった」

「ふーん。悩みは解決したって事?」

「ううん。そうじゃなくて、これから悩みを解決しに行くの」

 

 私は二人に感謝の言葉を告げ、部屋を出た。

 居間に入ると、エプロン姿で朝食をテーブルに並べるセイバーの姿があった。

 

「セイバー。食事の後に大事な話があるの。いいかしら?」

「……凜? 別に構わないけど、大事な話って?」

「後で話すわ。先に朝食を済ませてしまいましょう」

「う、うん……」

 

 困惑した様子のセイバー。今日は絶対に逃がさない。白状してもらう。全てを――――。

 

 

 朝食は恙無く終わり、セイバーがお茶を淹れて回っている。

 

「セイバー。座ってちょうだい」

 

 凜はセイバーが淹れたお茶を一口飲むと言った。

 

「う、うん」

 

 緊張した面持ちのセイバー。

 

「二人はどうしたんだ?」

 

 二人の間に走る奇妙な緊張感に士郎はすっかり困惑し、傍らに座るイリヤに問う。

 

「凜がセイバーに聞きたい事があるんだって」

「聞きたい事?」

 

 よく分からず、士郎はハラハラしながら二人を見守る。

 

「単刀直入に聞くわ。貴方が隠している事を教えなさい、セイバー」

「か……、隠してる事って?」

「この期に及んで惚けないでちょうだい。私が何を聞きたがっているか……、分かってるでしょ?」

 

 その言葉にセイバーは顔を強張らせた。助けを求めるように士郎を見る。

 士郎が思わず助け舟を出そうとするとイリヤに止められた。

 

「私も気になるわ、セイバー。貴方が何らかの隠し事をしているなら、それは私達の信頼関係に致命的な溝を作る事になる。それでも隠し通したい事なの?」

 

 穏やかな口調だけど、そこには断固とした意思が垣間見える。

 

「で、でも……」

 

 セイバーは再び士郎を見た。

 

「士郎がどうかしたわけ?」

 

 凜が問うと、セイバーは恥ずかしそうに呟く。

 

「……この事を話したら、士郎に嫌われちゃうかもって思って」

 

 その言葉に誰よりも早く士郎が反応した。

 

「嫌わない!!」

「し、士郎……?」

「嫌うわけないだろ!! 何を聞いたって、俺はセイバーを嫌いになんてならない!!」

「士郎君……」

 

 いきなり出来上がった二人の世界に凜はすっかり呆れてしまった。

 

「はいはい、御馳走様。聞いての通り、士郎は貴方にゾッコンだから、何を聞いても嫌ったりしないわよ」

「……う、うん」

 

 今度は頬を赤く染め、別の意図で士郎を見つめるセイバー。ウットリとした眼差しに別の意味でイラッとくる。

 

「いいから、さっさと話しなさい。いい加減にしないと、しばくわよ?」

「は、はい!」

 

 セイバーは名残惜しそうに士郎から視線を逸らし、深呼吸をしてから口を開いた。

 

「……まず、俺がこことは違う世界の人間だって事は皆知っての通りだ」

 

 凜達が頷くのを見て、セイバーはゆっくりと話を続けた。

 

「俺の世界には『Fate/stay night』っていうゲームがある」

「ゲーム……?」

「うん……。ジャンルは伝奇活劇ヴィジュアルノベル。まあ、簡単に言うと小説みたいなものだよ。話の内容に沿った絵や音楽がある分、アニメや漫画のような要素もあるゲームなんだ」

「それがどうしたんだ……?」

 

 突然、ゲームの話題を振られすっかり困惑する士郎達。ただ一人、全てを理解しているらしいキャスターだけが悠々とお茶を口にしている。

 語るべきか語らないべきか、セイバーは迷った。この話はある意味でこの世界を否定するものだ。それはつまり、彼等の事を否定する事でもある。

 けれど、この期に及んで口を噤む事は出来ない。

 

「……士郎」

「なんだ?」

「……その……、本当に俺の事……、嫌わないか?」

 

 もじもじと問い掛けるセイバーに士郎は顔を真っ赤にして頷いた。

 

「ぜ、絶対嫌わない!!」

「そういうのいいから、さっさと話を進めなさい!」

 

 凜に嗾けられ、セイバーは深く息を吸い、覚悟を決めた。

 

「……そのゲームの内容は聖杯戦争っていう魔術師同士の戦いを描いたものなんだ」

「――――は?」

 

 一同が凍りつく。セイバーはキュッと唇を窄め、話を続けるべきか再び迷った。

 

「……続けてくれ、セイバー」

 

 士郎の一言を受け、セイバーは懸命に迷いを振り払う。

 

「……その作品の主人公の名前は――――、衛宮士郎」

 

 セイバーは恐る恐る話し始めた。『Fate/stay night』というゲームの内容を……。

 出来る限り、事細やかに説明を終えた後、セイバーは俯いた。反応が怖かった。

 特に士郎の顔を見るのが怖かった。

 

「……ゲームか――――、さすがに予想外だったわ」

 

 凜の言葉に震えが走った。

 

「……ねえ、貴方は知ってたの?」

 

 凜が問う。

 

「マキリの聖杯やアーチャーの正体を最初から知っていたの?」

 

 それは単なる問い掛け。思わず顔を上げた先にある凜の顔に怒りの色は無い。

 

「……うん。知ってたよ。アーチャーが士郎だって事を俺は知ってた」

「そう……、そうなんだ」

 

 深く息を吐く凜。彼女が今、何を考えているのか想像もつかない。

 

「とにかく、謎は解けたわね。セイバーが言峰綺礼を監督役だと思い込んでいた理由もハッキリした」

 

 イリヤの言葉に凜が頷く。

 

「…………もっと早く教えてくれていたら、色々出来たかもしれないのに」

「ごめん……」

「まあ、いきなり言われても信じられなかったかもしれないけど」

 

 凜とイリヤは俺の話した事をあくまで情報の一つとして受け入れている。

 けれど、セイバーの不安は晴れない。一番肝心な相手が未だ反応を示していない。

 

「ゲームか……」

 

 漸く口を開いた士郎の言葉に身が竦む。次に何を言うか想像して恐怖のあまりどうにかなりそうだ。

 裏切り者。嘘吐き。偽物。この状況で自らに相応しい罵倒の文句が山のように浮んで来る。

 

「……悟」

 

 士郎は言った。

 

「怖がるなよ」

「……え?」

 

 士郎が俺の目下を人差し指でなぞる。すると、彼の指に小さな雫が付着した。

 それで漸く、自分が泣いている事に気が付いた。

 

「言っただろ? 何を聞いたって、お前を嫌いになんてならない」

「士郎……」

 

 士郎はセイバーを安心させるように微笑み、そして、少しだけムスッとした表情を浮かべた。

 

「むしろ、俺がお前を嫌うなんて思われた方が心外だ。俺って、そんなに信用ならないか?」

「そ、そんな事無い!!」

 

 机に乗り出して主張するセイバーを士郎は愛おしそうに見つめる。

 

「なら、俺を疑うな。俺は何があってもセイバーを嫌いになんてならないし、セイバーに嫌われるような事もしない」

「士郎……」

 

 感極まり過ぎて、感情が抑えられない。無意識に彼の頬に手を伸ばしていた。

 

「……やばいよ、士郎。ますます、君が好きになっちゃった」

 

 慄くような表情を浮かべて言うセイバーに凜が頭をチョップする。

 

「いい加減にしなさい」

「ご、ごめん……」

 

 呆れ帰っている凜とイリヤの表情を見て、急激に恥ずかしくなった。

 

「セイバー」

「な、なんだい?」

「俺からも話があるんだ」

「は、話……?」

 

 このタイミングで話とは一体……。

 セイバーの脳内に広がるのはキャスターの夢で見た目くるめく日々の情景。

 

「……なんで、セイバーはこんな頭の中お花畑状態になってるの?」

 

 悶々としているセイバーにドン引きしているイリヤ。

 

「まあ、恋愛経験なんて無かったみたいだし、初めて恋人が出来て浮かれてるんでしょ……」

 

 呆れかえる二人を尻目にセイバーは士郎の次の言葉を待っている。

 

「――――キャスターが俺を強化してくれる事になったんだ」

「……へ?」

 

 予想外の言葉にセイバーはキョトンとした表情を浮かべる。

 

「強化って……?」

 

 セイバーが問う。士郎はキャスターにされた説明をそのまま一同に伝えた。

 

「ま、待ってよ! し、士郎の人格が塗り潰されるかもしれないなんて、そんな事――――」

「もう、決めた事だ。それに、俺は何があっても俺のままで居続ける。言っただろ? 俺はセイバーが嫌がる事を絶対にしないって」

 

 だからさ、と士郎は言った。

 

「俺を信じてくれ」

「……士郎。でも、幾ら何でも……」

「頼むよ、悟。俺はお前を守りたい。それに、大切な家族を救いたい」

「それは……、正義の味方として?」

 

 セイバーが思わず呟いた言葉に士郎は首を振る。

 

「正義の味方としてじゃない……、衛宮士郎として、恋人と家族を助ける。その為に俺は力が欲しい」

「士郎……」

 

 その瞳に宿る決意の大きさにセイバーは慄き、涙を零す。

 

「ぜ、絶対……、帰って来てよ?」

「当たり前だ。俺が死んだら、セイバーが悲しむって分かってるからな」

「士郎……」

 

 二人のやり取りにすっかり置いてけぼりを喰らった凜とイリヤは溜息を零した。

 

「なんか、こいつ等を心配するのが馬鹿らしくなって来たわ」

 

 額を手で抑えながら呟く凜にイリヤが頷く。

 

「こういうのを日本だとバカップルって言うのよね。お爺様が教えてくれたわ」

「……お爺様って、まさか……、ユーブスタクハイト・フォン・アインツベルンの事じゃないわよね……?」

 

 イリヤは応えずにお茶を啜る。

 

「……なんか、頭が痛くなって来たわ」

「確りしなさい、凜。貴女にはこの後重要な役割があるんだから」

「重要な役割……? なによ、それ? 初耳だけど……」

 

 イリヤは勿体振るような笑みを浮かべてゆっくりと言った。

 

「――――貴女にちょっと至って貰おうと思うの」

「至るって……?」

「決まってるでしょ? 遠坂家が至るべき到達点。第二魔法――――、キシュア・ゼルレッチよ」



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第三十四話「――――同盟の再結成だ」

 衛宮と初めて会話を交わしたのは中学の文化祭の時だった。アイツはどんな頼み事にも“はい”と応えてしまう生粋のイエスマンだった。あの時も周りから看板作りを押し付けられていて、夕暮れの教室で一人黙々と作業を行っていた。

 最初、僕は衛宮が“自分の意思というものを持っていないんじゃないか?”と思った。他人に言われるがままに生きている。それが何だかとても気に障った。何だか、妹の姿と重なってしまい、凄く気に障った。

 まあ、それは完全な僕の思い違いだったわけで――――、

 

『お前……、どうして、そうホイホイ他人の仕事を引き受けちまうんだ?』

『……ん? だって、俺が仕事を引き受ければ、その分、他の人が楽になるだろ?』

『……は?』

 

 試しに理由を聞くと、アイツはそう答えた。

 嘘だと思った。単に自分を卑下したくなくて、そんな事を言っているのだと思った。だけど、違った。

 アイツは正真正銘の馬鹿だった。

 

『――――って、他人が楽になっても仕方無いだろ……。お前はそれでいいのか?』

『ああ、構わない』

 

 そうハッキリと言い切ったアイツに僕は只管苛々した。だって、あまりにも愚かだ。他人の為に自分の時間や手間を掛けるなんて、どうかしてる。

 せめて、それでアイツに何か褒賞が出るなら話は別だけど、アイツに仕事を押し付けた周りの奴等は絶対に労ったりしない。それをアイツ自身も分かっている。分かっている癖に……。

 

『お前、馬鹿だよ』

『ひ、酷いな……。別に付き合う必要は無いぞ?』

『別に……、僕がどこに居ようが勝手だろ』

 

 時々、どうしても我慢出来ずに僕は衛宮に悪態を吐いた。

 馬鹿だ。間違ってる。腹を立てろ。周りを糾弾しろ。

 そんな僕の悪態をアイツはただ笑って受け流す。それが余計に苛々した。

 だけど、アイツが完成させた看板を見て、僕は素直に感嘆した。

 

『……お前、馬鹿だけどいい仕事するじゃん』

 

 その看板の出来栄えは実に見事だった。ただ、押し付けられて嫌々やったなら、こんな見事な看板は作れない。

 

『お褒めに預かり恐悦至極に御座います、間桐殿』

『……ふん。まあ、お前が馬鹿なのは撤回しないけどな」

『なんだそりゃ』

 

 もう、外は真っ暗になっていた。だけど、僕達は笑い合っていた。

 その時、確かに僕らは友人となった。何より得難い、“何があっても信じられる”友人を得られた。

 桜の事を知ったのはそれからしばらくしての事だった。

 

 

「……自分の価値観が全て壊れてしまったように思った。妹は怪物になっていて、僕は魔術師にはなれなくて、人間ってのはどこまでも醜い。青臭い事を言うようだけど、あの時は本当に何もかもが信じられなくなってたんだ」

 

 慎二は近所の公園のベンチに座り込みながら、傍らに佇むライダーに自分と士郎の馴れ初めを語っていた。

 

「――――だけど、アイツだけは変わらなかった。アイツは馬鹿だけど、芯が通っていた。何があっても他人の為にあろうとする。その結果、自分が損をする事になっても構わない。だから、アイツの事だけは信じる事が出来た」

 

 慎二は楽しそうに語る。彼がこんな風に笑う所をライダーは今まで見た事が無かった。いつもどこか壊れた感じのある歪な笑みばかりを浮かべていた。

 

「他の何が変わっても、アイツだけは変わらない。こんな戦いに巻き込まれても尚、アイツは変わらない。僕はこんなに変わっちまったのに……」

「シンジ……」

 

 寂しそうに地面を見つめる主をライダーは心配そうに見つめた。

 

「……シンジ。貴方はいつでも逃げ出せる。何でしたら、今直ぐに衛宮士郎に助命を請いましょう。きっと、受け入れてくれる筈です」

「ああ、アイツは受け入れてくれるかもな。でも、僕が助かったとしても……、桜はどうなる? アイツはもう何があっても救えない。仮に記憶を消して、体を綺麗にしても、今のアイツが救われるわけじゃない」

「ですが……」

「僕はとっくに決めてたんだ。アイツのデザートになるって決めた時からずっと、最後まであの馬鹿な妹の味方で居てやろうってな」

 

 慎二は立ち上がり、瞼を閉ざした。次に瞼を開いた時、彼から笑みは消えていた。

 代わりに暗い光を瞳に宿し、ライダーを見つめる。

 

「――――さあ、ライダー。最後の聖杯戦争の開幕ベルを鳴らしに行こう」

 

 慎二は大きなボストンバックを肩に下げ、歩き出す。

 今度こそ、最後の一線を越える為に目指した先は――――、藤村邸。

 

「はいはーい! あら、間桐君じゃない! どうしたの!?」

 

 チャイムを鳴らし、出て来たのは慎二の担任教師。名前は藤村大河。

 衛宮士郎にとって、特別な人間。他の誰よりも彼は彼女を優先する。何故なら、彼女は彼にとって唯一無二の家族だからだ。

 母であり、姉である彼女に手を出せば、今度こそ後戻りが出来なくなる。

 

「えっと……、どうしたの?」

 

 心配そうな表情を浮かべる大河。

 

「……アンタには人質になってもらう」

「へ?」

「ライダー、眠らせろ。いいか? 絶対に傷つけるな」

「了解です」

 

 ライダーが暗示を掛けると、大河はアッサリと意識を手放した。

 彼女の体をライダーは丁重に持ち上げる。二人がその場を離れると、中から暴力団関係者らしき人物達がぞろぞろと外に出て来た。

 藤村組の連中だ。

 

「……ったく、後で返してやるっつーの」

 

 影に潜み、ライダーに結界を張らせる。

 

「やるべき事は分かっているな?」

「――――ええ、ですが……」

「アサシンは信用ならない。まあ、裏切ったりはしないだろうけど……。アイツは心中に一物を抱え込んでやがるからな」

 

 アサシンの忠義を疑っているわけじゃない。ただ、アイツは元々臓硯のサーヴァントだ。サーヴァントとは、召喚者の内面と似通う者が召喚される。

 加えて、主である臓硯を殺した慎二達に素直に付き従っている今の状態が既に異常であり、腹に何かを抱えている事は間違い無い。

 

「だから、お前に全てを託した。いいか? 僕が生きていようと、死んでいようと、計画を完遂しろ。桜にもお前の指示に従うように言い含めてある。分かったな?」

「……了解です、シンジ」

 

 慎二は「頼むよ」と軽い口調で言うと共に結界を出た。向う先は――――、衛宮邸。

 

 

 アーチャーの記憶は恐ろしく強烈かつ明瞭で、築いた防壁がアッサリと崩れ去った。これが単なる記憶の追体験であるという認識が崩れ、距離感が零となる。

 アイツの怒り、哀しみ、苦しみが流れ込み、呑み込まれ、一つになる。

 分かったつもりになっていた。アイツがセイバーを失って、どれほど嘆き悲しんだかを分かったつもりになっていた。でも、実際には全然分かっていなかった。

 猛烈な憎悪に身を焦がされ、息が詰まりそうになる。

 

“I am the bone of my sword.”

 

 失ってはならないものを失った。

 その時点でオレは道を踏み外していた。踏み外したまま、歩き続けてしまった。

 理想は上辺だけのものとなり、只管、多くを救う事だけに執着した。

 

“Steel is my body,and fire is my blood.”

 

 闘争を煽る者が居れば、その者の部下を拷問し、その者の愛する者に暗示を掛け、爆弾を抱かせた。

 世間から隔絶された小さな村で病が蔓延した時は発生源となっている者達を生きたまま焼き殺した。

 

“I have created over a thousand blades.”

 

 裏切られる事など日常茶飯事だった。瞳に映る世界は詭弁や詐称、姦計、自己愛に満ちていた。

 救えば救う程、人の醜悪さを目の当たりにする。

 人を殺す技術ばかりを磨く日々。狙撃銃のスコープから敵の脳や心臓が破裂する光景を見た。毒がどうやって人体を蝕むのかを見た。

 その度に心は小さな罅割れだらけになっていく。

 

“Unknown to Death.Nor known to Life.”

 

 愛した人を殺した。

 愛する家族を殺した。

 だから、立ち止まる事なんて許されない。

 哀しみを憤怒で癒し、苦しみを憎悪で和らげる。

 

“Embraced regret to create many weapons.”

 

 その在り方は既に人では無かった。さりとて、己が抱いた理想の姿とも程遠い。

 人はこの身を悪魔と呼ぶ。だけど、止まれない。

 “正義”という名の“悪意”を振り撒き続けなければ、唯一残った約束までもが失われてしまう。

 後悔と絶望に塗れた心の唯一の光。パンドラの箱に残された唯一の希望。

 

『君は立派な人間になるんだよ』

 

 その約束を守る事だけが己の全て――――故に……、

 

「――――そこまでよ、衛宮士郎!!」

 

 急に世界が闇に閉ざされた。暗黒が全てを呑み込み、俺をオレから解放した。

 途端、眩い閃光に目が眩んだ。瞼を無理矢理開かれたのだ。

 

「何をする――――!!」

「危ない!!」

 

 気がつくと、オレは使い慣れた双剣を投影していた。呼吸をするように自然に――――、

 

「……あっ」

 

 気がついた。目の前に女の子が居る事に今更気がついた。腕から血を流している。

 知らない少女だ。黒い髪の少女……、

 

「――――ッ!」

 

 違う。知っている。彼女はセイバーだ。俺が知っているセイバーだ。

 

「せ、セイバー!! すまない、俺……」

 

 ああ、何と言う事だ。悟を傷つけてしまうなんて最悪だ。哀しみと怒りが溢れ出して来る。

 また、悟を殺してしまう所だった。もう、二度と間違いを犯さないと心に決めたのに……。

 

「お、オレは……俺は……、すまない。本当にごめん、セイバー」

 

 心を絶望が蝕む。叫びだしたい。頭を掻き毟り、脳をグチャグチャにしてしまいたい。

 

「し、士郎。俺なら全然大丈夫だよ。だから、落ち着いてよ。ね?」

「本当か!? 無理をしてるんじゃないだろうな!? 君はいつも無理ばかりをするから……。ああ、直ぐに消毒が必要だ」

「だ、大丈夫だってば! それより、君こそ大丈夫なのか!? なんか、変だよ!?」

 

 変と言われた。心臓が収縮し、呼吸が荒くなる。見損なわれてしまった。

 漸く、再び会えたのにオレはどうして……。

 

「士郎!!」

 

 セイバーが肩を掴んで来た。相変わらず小さな手だ。記憶通りの小さな手だ。

 愛らしい手だ。行為の時、いつも悟は手を繋ぎたがった。そうする事で安心出来ると言っていた。

 

「退がりなさい、セイバー。ちょっと、しくじったみたい……」

「しくじったって、どういう事だよ!?」

 

 悟が離れて行く。駄目だ、離れたくない。漸く、再会出来たんだ。

 これが死の間際の夢だろうと構わない。言いたい事が山程――――、

 

「ちょっと、荒療治だけど……」

 

 突然、悟とオレの間に割り込んできた女が奇妙な言葉を呟いた。

 言葉として認識が出来ない奇妙な声。直後、頭の中に奇妙な映像が流れ込んできた。

 それは悟とオレの出会いから今に至るまでの――――、

 

「……ちがう」

 

 これは俺とセイバーの記憶だ。セイバーと交わした俺だけの言葉が俺の意識を引き戻した。

 立ち眩みを覚えながら、改めてセイバーを見つめる。

 大丈夫だ。俺は俺だ。危なかったけど、何とか戻ってこれた。

 

「悪い……。ちょっと、アーチャーの記憶に圧倒されてた」

「だ、大丈夫なの?」

 

 心配そうにセイバーが見つめて来る。まだ、アーチャーの意識の名残があるのか以前にも増して愛おしさが込み上げて来る。

 なんだか癪に感じる。俺よりアイツの方がセイバーを愛していたみたいで腹が立つ。

 顔をパンッと叩いて、アイツの意識を追い出す。俺は俺として、アイツ以上にセイバーを愛してみせる。そう意気込んでセイバーを見つめる。

 

「……って、それ所じゃなかった!! ご、ごめん、セイバー。俺、いきなり切りかかったりして……」

 

 セイバーの腕からは血が流れ続けている。

 

「だ、大丈夫だよ、このくらい」

「大丈夫じゃないだろ!? キャスター、治せるか?」

 

 懇願するように視線を向けると、キャスターは深く息を吐いてから頷き、セイバーの腕に治癒魔術を施した。

 

「……大丈夫か?」

「うん、大丈夫よ。これでも俺は男だったんだぜ? このくらいの傷、へっちゃらさ」

 

 思わず溜息が出た。こういう所が不安になる。

 

「痛いなら痛いって言ってくれ。セイバーに我慢される方が……苦しい」

「……うん。ちょっと、痛かった……」

「ごめんな……」

 

 セイバーの血塗れの腕を摩りながら謝る。よりによって、俺自身の手で傷つけてしまった。

 

「……アーチャーの事を分かった気でいた」

「士郎……?」

「アイツの憎悪や憤怒を理解しているつもりになってた。だけど……、全然甘かったよ」

 

 首を横に振りながら俺は吐き出すように呟いた。

 

「当然だよな……。セイバーを……、愛する人を殺してしまった奴の気持ちなんて、実際に経験した本人以外が理解出来る筈無いんだ」

「……でも、理解出来たでしょ?」

「ちょっとだけだ……。それに今の俺とアイツの在り方は違い過ぎる。ただ――――」

 

 それでも、道標にはなる。さっきの投影がその証拠だ。自分の投影魔術の本質は理解出来た気がする。

 真価を発揮するには魔力が全く足りていないけど、理解出来ていないのと理解出来ているのとでは大違いだ。

 

「――――これで、少しは戦力になれたと思う」

「なら、良かったわ」

 

 深く息を吐くキャスター。

 

「正直、失敗したかと思ったわ……」

「……アレ以上は深入り出来ないな。二度と戻って来れなくなる気がする……」

「士郎……」

 

 何はともあれ、戻って来れた事は行幸だ。

 セイバーにかっこつけた手前、口には出せないが、本当に危なかった。

 俺はあの時、確かにアーチャーになっていたんだ。俺がセイバーに向ける愛とアイツがアイツのセイバーに向ける愛は少し違う気がする。

 もっと深くて、もっと……、

 

「……やめよう」

 

 アイツの過去は本来アイツだけのものだ。深く考える事は避けた方が良い。

 いくら同一の存在であっても、そこは礼儀というものだ。今更な感じはするが……。

 

「とりあえず、ちょっと疲れたな……」

「お疲れ様。夕食の準備は出来てるから、いつでも食べられるよ?」

「え!? もう、そんな時間なのか!?」

「うん」

 

 慌てて外を見ると、既に空は暗くなっていた。

 

「お風呂の準備もしてあるよ? どっちにする?」

「それじゃあ、とりあえず飯にしよう。あんまり皆を待たせるのも悪いし」

「ああ、それは大丈夫よ。セイバー以外はみんなとっくに食べちゃったから」

「……そうですか」

 

 しれっと言うキャスターになんだか凄く微妙な気分になった。

 

「いや、ほら、あれだよ。みんなも忙しく動いてたからお腹空いてたんだよ」

「いや、いいんだ。待ってくれてると思い込んでた俺が馬鹿だったんだ……」

 

 寂しいとか思ってはいけない。セイバーだけは待っていてくれたんだから、十分だ。

 

「……やっぱり、風呂に入ってこようかな」

 

 そう、十分だ……。薄情だとか思っちゃいけない。

 

「士郎……」

 

 ちょっと前までは一人での食事も全然へっちゃらだったと言うのに、最近は大所帯で食べる事が多かったせいか、少し寂しいと思ってしまう……。

 

「えっと……、そ、そうだ! 背中を流そうか?」

「だ、大丈夫だ!!」

 

 セイバーの大胆過ぎる発言に慌ててストップを掛けた。

 多分、深い意味は無いのだろうけど、俺の方はかなりヤバイ。アーチャーの過去を追体験したせいか、正直、ふとした切欠で止まれなくなりそうだ。

 出来れば、セイバーとは健全な関係を築いていきたいと思っている。とりあえず、厄介事が全部片付いたらバイトを増やそう。結婚資金やその他諸々でお金が大量に必要になって来る。

 

「坊や……、ニヤけ過ぎてて、ちょっと危ない顔になってるわよ」

「……とりあえず、風呂に入って来る」

 

 キャスターの引き攣った表情を見て、顔を引き締める。

 その時だった――――、

 

「なんだ!?」

 

 突然、屋敷の明かりが消え、地面に光が走った。

 

「……どうやら、お客さんのようね」

 

 キャスターがいち早く動き、外に飛び出す。俺とセイバーも後を追った。

 外に出ると、空に羽ばたく天馬の姿があった。

 

「ライダーか!?」

「いや、違う!!」

 

 セイバーの否定の言葉に改めて天馬の背中に目を凝らす。

 そこに居たのは――――、

 

「慎二!?」

 

 ライダーの姿は無く、慎二だけがその背に跨っていた。

 

「やあ、衛宮」

 

 慎二はまるで聖杯戦争が起こる前に戻ったかのように、爽やかに手を振り挨拶をして来た。

 

「……何の用だ?」

 

 額から汗が滲み出る。今の慎二は俺の知る慎二とは違う。

 アーチャーの過去を見ても、今のアイツはあまりにも得体が知れないままだ。

 

「……嫌だな。いつから、お前はそんな目で僕を見るようになったんだ?」

「――――ッ」

 

 辛そうな表情を浮かべる慎二に思わず張っていた気が緩んだ。

 

「し、慎二、お前は――――」

「いや、悪かったな。今のはフェアじゃなかった」

 

 慎二は俺の言葉を遮るように謝ってきた。

 一体、どういうつもりなのかサッパリ分からない。

 

「慎二……」

「衛宮……。大聖杯の下に来い。そこで、決着をつけよう」

「……なあ、戦わないって選択肢は無いのか?」

 

 俺は縋るように尋ねた。

 今になっても、俺は慎二が敵だとはどうしても思えなかった。確かに、非道な真似をしたけど、それは聖杯戦争なんて異常な事態に巻き込まれたせいだ。

 本当のアイツはちょっと嫌味で……だけど、本当は良い奴な筈なんだ。

 

「無理だな。お前が戦いを降りる事でしか、戦いを回避する事は出来ないんだよ。僕にも聖杯が必要なんでね」

「慎二!! 聖杯は穢れているんだ!! お前が勝っても願いは――――」

「おいおい、衛宮。お前、僕を馬鹿にしてるのか? 聖杯が穢れている事なんて百も承知さ。その上で必要だと言ってるんだよ」

「ど、どうしてだよ!? 願いは叶わないんだぞ!?」

 

 俺の言葉にどういうわけか、慎二は突然嗤い始めた。

 

「叶わないのは真っ当な願いだけだ。そこがズレてるんだよ、お前は」

 

 何の事だか分からない。だって、今の聖杯で叶う願いなど、それは――――、

 

「……慎二。お前は一体、聖杯に何を願うつもりなんだ?」

「全人類を桜の餌にする。まあ、要するに皆殺しだ」

 

 言葉が出なかった。慎二が何を言っているのか理解出来なかった。

 

「……え? は? え? ど、どういう……え?」

「この際だから、教えておいてやるよ。桜はもう救えない。遠坂の家から間桐に引き取られて、その日の内からアイツは拷問に掛けられ続けた。聖杯の欠片とアルトリアを手に入れた臓硯は桜から人格を剥奪する為に徹底的にアイツを苦しめたんだ」

「……な、何を言って……――――」

「言葉の通りさ。心を壊す目的で只管拷問を繰り返されたんだ。まだ、中学にも上がってない幼少の頃にアイツは壊されたんだよ」

「そ、そんな筈あるか!! だって、桜は俺と――――」

「壊されても、言語を操る事は出来るし、ある程度なら演技も出来るんだよ。アイツは臓硯に命じられてお前の事をずっと監視してたんだ」

「……嘘だ」

「嘘じゃない。アイツの行動は全てが演技だったんだよ。影では人間の血肉を文字通り喰らっていた。今もだよ。アイツはもう人間じゃない」

「嘘だ!!」

 

 俺は歯を食い縛りながら慎二の言葉を必死に振り払おうとした。

 桜との日々を明瞭に思い出す事が出来る。最初は確かに暗い表情が多かった。だけど、藤ねえや俺と一緒に過ごす内に――――、

 

「本当なんだよ……、衛宮。だけど、お前には感謝してる。確かに演技だったけど、アイツは少なくとも表面上だけは人間として生きられた。短い間だったけど、そういう経験をさせてやれた事を嬉しく思ってる」

 

 その言葉があまりにも真摯で……、俺は息が出来なくなった。

 

「……嘘だろ?」

「……本当だよ」

 

 足下がふらつく。今までの価値観が全て崩壊するような……、世界そのものが崩れていくような錯覚を覚えた。

 

「士郎!!」

 

 倒れそうになる俺の体をセイバーが支えた。

 

「桜はもう、何をしても救えない。聖杯で記憶を消したり、体を清めたりしても、苦しみ抜いた桜を救う事にはならないし、どっちにしても、アイツの十年間は完全に失われてしまう。そんなの……、残酷過ぎるだろ?」

 

 慎二は言う。

 

「僕がアイツの為にしてやれるのは……、せめて、少しでも美味しいものを食べさせてやる事だけなんだ……。だから……、僕は……その為に、この世界の人間全てを皆殺しにするって決めたんだ」

「……慎二」

 

 身体が震える。慎二はもう止まらない。分かってしまう。

 アイツはアーチャーと同じだ。ただ一つの妄執の為に全てを投げ打とうとしている。その先に待つものが破滅であると分かっていても、立ち止まれなくなっている。

 

「……だから、僕達は戦うしかないんだよ」

「慎二……俺は――――」

 

 叫ぼうとする俺の目の前に慎二はおもむろにボストンバッグを投げつけた。

 

「……これは?」

「開けてみろよ」

 

 重い音を立てて落下したボストンバッグ。

 嫌な予感がする。とても……、嫌な予感がする。

 

「触らないで、坊や……」

 

 恐る恐る手を伸ばそうとする俺をキャスターが止めた。

 彼女はそっと人差し指をボストンバッグに向ける。すると、バッグのチャックが勝手に動き出した。

 するすると開いたバッグの中にあったのは――――、

 

「――――――――――――――――――――――――――――――――あ」

 

 吐いた。胃の中身を全て吐き出した。

 血など見慣れている。死などとうの昔に容認している。

 けれど、そこにあったソレは俺の覚悟を嘲笑うように心を揺さぶった。

 ボストンバッグの中には俺が所属していた弓道部の主将であり、友人でもある美綴綾子の生首が入っていた。

 相当な苦痛を味わったのだろう。彼女の顔は禍々しい程に歪んでいた。

 

「そいつは単なる見せしめだ。日の出までに大聖杯の下へ来い。さもなければ、お前にとって誰よりも大切な人間が死ぬ」

「…………まさか」

 

 誰よりも大切な人間と聞いて、思い浮かんだのはセイバーの顔。だけど、セイバーはここに居る。

 だとすれば……、ここに居なくて、衛宮士郎にとって何よりも掛け替えの無い存在といえば……それは――――、

 

「お、お前、藤ねえに何をした!?」

 

 怒りが一瞬で臨界を突破した。

 

「人質に取った。既に円蔵山にはライダーがブラッドフォート・アンドロメダを張っている。一応、お守りを持たせてあるが、夜明けと同時に自壊するようにしてある。愚鈍なお前でも分かるよな? 藤村を助けたかったら、夜明けまでに大聖杯の下に来る他無い」

「お……、お前……」

「……ふん。お喋りが過ぎるわよ」

 

 怒りのあまり、目の前が真っ白になり掛けた時、キャスターの声が響いた。

 

「……ああ、そう来ると思ったよ」

「――――ッチ。そういう事……」

 

 キャスターの動きが不自然に停止した。

 

「分かっていると思うが、僕が死ねば藤村は即死亡だ。そうなれば、衛宮は戦力にならなくなる。衛宮にとって、あの女は特別だからな」

 

 キャスターは慎二を忌々しそうに睨んだ。

 

「ど、どうしたんだ?」

 

 セイバーが問う。

 

「……どうやら、体内に毒を仕込んでいるらしいわ。何らかの魔術干渉を受けた場合、即座に死ねるように……」

「そんな!?」

 

 俺は慌てて慎二を見た。

 

「……衛宮。大聖杯の前で待ってるよ」

 

 そう言って、慎二は天馬と共に彼方へと消え去った。

 

「……慎二」

 

 俺は動けなかった。あまりの事に頭がついていけていないのだ。

 そんな俺を更なる混乱に陥れる存在が突如現れた。

 

「……ったく、面倒な事になってんな」

 

 青き槍兵が真紅の槍を肩に担ぎ、堂々と俺達の眼前に現れた。

 

「――――行くんだろ?」

 

 その問いが何を意味しているのか、その程度なら分かった。

 

「……当たり前だ。藤ねえを助ける」

「……オーケー。お前が行くってんなら、他の連中も動かざる得ない。最終決戦の幕開けってわけだ。なら――――」

 

 ランサーは頭上に向って高らかに叫んだ。

 

「俺達も行くしかないだろ!! なあ、バゼット!!」

 

 叫んだ後、しばらく虚空を睨んでいたランサーが獰猛な笑みを浮かべた。

 

「サンキュー」

 

 顔を俺達に向け、ランサーは言った。

 

「ってわけだ」

「……いや、何が『ってわけだ』なんだ?」

 

 あまりにも意味不明過ぎる行動に途惑う俺達。

 対して、ランサーは呆れたように言う。

 

「決まってるだろ」

 

 ランサーはニヤリと笑みを浮かべる。

 

「――――同盟の再結成だ」



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第三十五話「逆鱗」

 黒い炎が堅く覆い被さる天蓋を焦がしている。幾億の呪いを背負いし魔が現世に生まれ出ずる刻を待っている。

 澱み切った空気は吐き気がする程甘ったるい。壁はまるで生き物のハラワタのように脈動している。この場所は正しく異界。

 

「……ごめんな。もう少しで美味しい御馳走を食べさせてやれるから、もうちょっとだけ待っててくれよ」

 

 少年は少女に語り掛ける。

 応えてくれる事など期待していない。

 己はただ、少女の為に尽くすのみ……。

 

「さあ、最後の聖杯戦争を始めよう」

 

 

 全ての準備が整ったのは夜明けの一時間前だった。月明かりを頼りに士郎達は森の中を歩いている。

 

「こっちであってんのか?」

 

 殿を務めるランサーが前方を歩く凜に問う。

 

「イリヤに聞いた話だと、この辺りの筈なんだけど……」

 

 凜は眉間に皺を寄せながら辺りを見回す。大聖杯のある地下へと通じる路を探る。

 イリヤは衛宮邸に残った。これが最終決戦となる以上、戦闘能力を持たない自分では足手纏いにしかならないからと、彼女自身が言い出した事だ。

 一人残して行くのは不安だったが、宗一郎が警護についてくれる事になった。彼なら多少のトラブルがあっても何とかしてくれるだろう。

 今は目の前の事に集中するべきだ。ここより先は死地。一瞬の隙が命取りとなる。

 

「……あったわ」

 

 凜が小川を辿り、その上流に大きな岩盤を発見した。どうやら、横穴があるらしい。

 

「魔術による偽装が施されているけど、ここで間違い無いわ」

 

 人一人が漸く通れるくらいの細い入り口。その先は直ぐに壁となっている。

 普通の人間はまさか壁の先に道があるとは思わず引き返す筈だ。けれど、凜はその壁に手を伸ばす。

 

「うん……。この壁、すり抜けるわ」

 

 そのまま、振り返らずに暗闇へと身を滑り込ませる。その後にバゼットとキャスターが続く。

 

「士郎……」

 

 セイバーが振り向く。その瞳に宿るのは不安や恐怖ではない。

 

「――――大丈夫だ」

 

 士郎は言った。

 

「俺は大丈夫だよ、セイバー。もう、覚悟を決めたから……」

 

 セイバーは士郎が慎二や桜と戦う事を憂いている。

 決戦の準備をする最中、士郎が彼等との馴れ初めなどを語ったからだ。

 士郎にとって、慎二は掛け替えの無い友であり、桜は大事な家族だった。

 

「――――セイバー」

 

 士郎は少し迷うように視線を泳がせてから静かに呟く。

 

「……俺は正義の味方にはなれない」

 

 少し哀しそうに彼は言う。

 

「士郎……?」

「俺は今まで全てを救いたいと思ってた。何一つ、零す事無く救う事を理想としていた。だけど……」

 

 士郎は首を横に振る。

 

「そんな事は無理だって分かった。アーチャーの過去を知った時点で……、いや、ライダーを殺した時点で分かってた。誰かを救うには誰かを切り捨てなきゃいけない」

 

 士郎は深く息を吐く。

 

「もし、誰かを救う為にセイバーを切り捨てなきゃいけない時が来たら……、そう思うと身の毛がよだつ」

 

 十を救う為に一を切り捨てる。それが“正義の味方”の在り方なら、己には不可能だ。

 

「……俺にとっての一番はセイバーだ。何があってもセイバーを失いたくない。切り捨てたくない。もし、セイバーを失ったら、俺はアーチャーと同じになる。結局、正義の味方には成れない。だから――――」

 

 士郎はセイバーの頬を両手で包み込み、囁くように告げた。

 

「俺はセイバーだけの味方になる」

「……士郎。君は……――――」

 

 セイバーが何かを言いかけるより先に士郎はセイバーにキスをした。

 驚き、目を瞠るセイバーに士郎は言う。

 

「生き残るんだ。二人共……。絶対に、何があってもだ」

「……うん」

 

 見詰め合う。この瞬間を永遠にしたい。二人の思いは一つだった。

 けれど、時間は決して停止してくれない。

 気まずそうな咳払いが響き、二人は身体を震わせた。

 

「……いや、悪いとは思うけどよ。ここでゆっくりしてると夜が明けちまうぜ?」

 

 ランサーの言葉に慌てるセイバー。対して、士郎は深く息を吸い、頷く。

 

「ああ、すまない。……行こう」

 

 セイバーの手を握り締めて、士郎は闇へと潜る。セイバーもその後に続く。

 最後にランサーが「やれやれ」と肩を竦めながら続く。

 

 水に濡れた岩肌をゆっくりと歩く。急な斜面になっていて、さすがに手を繋いだままでは降りられない。名残惜しさを感じながらセイバーから手を離す。

 奈落へ通じるかの如く、斜面はどこまでも下に続いていく。百メートル近く下った頃、急に視界が開けた。

 

「遅かったわね」

 

 ジトッと凜が睨みつけて来る。

 

「わ、悪い……」

 

 謝罪しながら辺りを見回す。

 

「思ったより明るいな」

 

 辺り一面に薄っすら緑光を放つ光苔が生えている。

 

「さあ、あまりグズグズしている暇は無いわよ」

 

 セイバーとランサーが合流するのを待ってからキャスターが言う。

 一同頷き合い、暗闇の洞窟を歩き始める。

 

「――――にしても、嫌な空気だな」

 

 ランサーが呻くように呟いた。気持ちは良く分かる。

 この空間に漂う空気は異常だ。吐き気がするような生々しい生命力が満ち溢れている。まるで、生き物の臓物の内側に居るかのような錯覚に陥る。

 歩けば歩くほど、その感覚が高まっていく。向う先こそ、この穢らわしい生命力の源泉なのだろう。

 しばらく歩いていると、大きく開けた空洞に出た。生暖かい空気が体に重く圧し掛かる。

 

「……どうやら、ここが決戦場らしい」

 

 ランサーが前に出る。学校のグランド程もある広々とした空間。その中心に怪物が静かに佇んでいる。

 バーサーカーのサーヴァント、ヘラクレス。暗い魔力を纏いながら怪物は仁王立ちしている。

 

「――――待っていました」

 

 上空から声が降り注ぐ。咄嗟に見上げた先に彼女は居た。暗闇で尚、冴え々々と輝く二つの宝石。

 伝説に曰く、その輝きに呑み込まれたものは身体が石と化したと言う。

 怪物・メドゥーサの魔眼――――、“キュベレイ”。

 

「――――――――ッハ」

 

 けれど、恐れる必要は無い。彼女が如何なる存在であるか、此方は先刻承知。

 神代の魔術師と影の国の女王から教えて請うた騎士。二人が力を併せた以上、如何に凶悪な能力を保有していようと無力。

 僅かな重圧も感じさせず、ランサーは吼える。

 

「テメェの相手は俺がしてやるよ、ライダー!!」

 

 赤き魔槍を振り上げ、狂気染みた殺気を放つランサーにライダーはクスリと微笑む。

 

「生憎ですが、私は貴方と相性が悪い。貴方の相手は彼に任せます」

 

 ライダーの言葉と共にバーサーカーが吼える。莫大な魔力を迸らせ、斧剣を振り上げる。

 

「――――出し惜しみは無しってわけか」

 

 予想はしていた。教会で慎二がサーヴァントを集結させた方法は令呪によるものだとキャスターが見抜いていた。

 慎二がわざわざ長期戦では無く、短期で決着をつけるべく最終決戦を挑んで来た理由もコレだろう。

 令呪による一時的な強化。理性を剥奪したまま、全盛期の力を発揮させる。

 それは嘗て、士郎がセイバーの力を強制的に引き出させた方法と同じだ。

 短期決戦であるが故に出し惜しみをする必要が無くなり、今宵、マキリの陣営は最大最強の戦力を有するに至る。

 

「……となると、作戦はBプランですね」

 

 バゼットがグローブを嵌めながら呟く。

 マキリの聖杯が脱落したサーヴァントの魂を回収して再召喚してしまう以上、下手に倒したり、倒されたりするわけにはいかない。

 最終目標であるマキリの聖杯の討伐が成るまで、戦いを長引かせる必要がある。

 

「分かっているわね? アサシンを常に警戒しつつ、後は作戦通りよ」

 

 キャスターが士郎達に向けて言う。

 彼女もここに残る。ランサーがバーサーカーを抑えなければならない以上、残るメンバーの内、機動力に特化したライダーの相手は遠距離攻撃を行えるキャスターが適任だ。

 とは言え、キャスターは近接戦闘に持ち込まれると脆い。故にバゼットとコンビを組む事となった。

 背中を任せる相手として、両者互いに不満を抱いているが、この奥に待ち構えているであろう残りの敵を考慮すると、この布陣こそ最適だと判断せざる得なかった。

 

「――――本命をくれてやるんだ。確りやれよ?」

 

 ランサーが槍を構えながら笑みを浮かべて言う。

 

「そっちもドジんないでよね」

「わーってるって」

 

 凜の言葉に軽い口調で答えながらランサーはバーサーカーに向っていく。

 同時にキャスターがライダーへと挨拶代わりの魔弾を放つ。

 その隙に士郎達は大空洞の出口へと回りこむべく走り出す。

 

「――――させません」

 

 ライダーが鎖付きの釘剣を投げ放つ。

 それをバゼットが驚異的なスピードで弾きに向う。

 

「貴様の相手は私だ」

 

 元々サーヴァントに比肩するスペックを持つバゼット。

 キャスターの助力により、その戦闘能力はもはや人の域を超えている。

 

「さあ、付き合ってもらうぞ。彼等が決着をつける――――、その刻まで」

 

 

 大空洞を越えた先には予想通りの人物が待ち構えていた。

 

「――――アルトリア」

 

 静かにセイバーが前に出る。

 

「……まったく、シンジにも困ったものだ。折角、満足のいく戦いの果てに死を迎えたというのに、再び私を目覚めさせるとは……」

 

 その瞳には理性の光が宿っている。

 

「まあ、良い……。私も写し身とは一度剣を交えたいと思っていたところだ」

 

 クスリと微笑み、彼女はセイバーを見つめる。

 

「退屈させるなよ?」

「……ああ」

 

 セイバーは深く息を吸い、エクスカリバーを構える。

 

「士郎……」

 

 凜が士郎に囁く。

 

「……ああ」

 

 士郎はセイバーの小さな背中を見つめながら唇を噛み締めた。

 出来る事なら止めさせたい。代われるものなら代わりたい。

 けど、自分には別の役割がある。アルトリアの事はセイバーに任せる以外に選択肢が無い。

 

「……セイバー」

 

 士郎は手の甲を掲げる。そこには最後の一画となった令呪が宿っている。

 

「大丈夫だよ、士郎」

 

 セイバーは言った。

 

「一緒に生き抜こう。そして――――」

 

 セイバーは朗らかに微笑む。

 

「全部終わったら、結婚しようか」

「……ああ、そうだな」

 

 まあ、資金集めとか色々あるから直ぐには無理だろうけど……。

 僅かに笑みを浮べ、士郎は覚悟を決めた。

 

「セイバー。全ての力を引き出し、アルトリアと戦え!」

 

 令呪が消失する。同時に巻き起こる烈風。

 キャスターの助力により得られた潤沢な魔力。己が内にあるアーサー王の能力。

 最強の英霊として召喚されたセイバー。その真の力が表出する。

 立ち昇る魔力の渦と傷つく事などあり得ない甲冑。圧倒的な存在感が暗く狭い洞窟内を支配する。

 

「――――ああ、それでいい。では、楽しむとしよう」

 

 アルトリアが獰猛な笑みを浮かべ、飛び込んでくる。

 セイバーは静かに剣を振るった。

 

「――――さあ、行くわよ」

 

 凜に手を取られ、士郎は渋々走り出す。

 セイバーを置いて行く事が辛くて仕方無い。

 走り続けながら、令呪のあった場所を反対の手で握り、強く願う。

 どうか、無事でいてくれ――――、と。

 

 

 そして、暗闇の洞窟を更に奥へと進む。生々しい生命の息吹が満ちる通路をひた走る。

 重苦しい空気が圧し掛かって来る。比喩では無く、本当に重い。視覚化出来る程の濃厚な魔力が洞窟の奥から流れ込んできている。

 この先に最後の門番が待ち受けている。残るサーヴァントは二騎だが、アサシンは真っ向勝負をするような英霊では無いから恐らく隠れ潜んでいる筈だ。

 故に待ち受けている敵は唯一人。その門番と戦うのは己の役割だ。

 準備は十全。後は――――、

 

「――――アーチャー」

 

 凜が憂いを帯びた声で呟く。

 通路の出口を背に彼は居た。

 愛する者の未来を切り開く為に命を捨てて戦った男。悲願を遂げた彼を慎二は目覚めさせ、戦いの道具としている。

 眠らせてやるべきだ。そう、士郎は拳を固く握り締める。

 

「――――待ってたぜ、衛宮」

「慎二……ッ」

 

 アーチャーの背後から現れた慎二に士郎は息を呑んだ。

 彼がここに居るとは思っていなかった。桜と共に大聖杯の前で待っているものと思っていた。

 

「思った通りだな。ここまで来るのはお前等だと思ってたよ」

「……良い度胸ね。こんな所にノコノコ現れるなんて」

 

 凜は背中に隠し持つ切り札へと手を伸ばす。それを士郎が制止した。

 

「……慎二。最後にもう一度だけ言う」

 

 凜が咎めるように視線を送るが士郎は無視した。

 

「止まってくれ」

 

 士郎の真摯な眼差しを真っ向から受け止め、慎二は首を横に振る。

 

「無理だな。ここで立ち止まったら、それは桜に対する裏切りだ。僕は最後の一瞬まで――――、桜だけの味方になると誓ったんだ」

「……そうか」

 

 士郎は深く息を吐く。

 桜だけの味方。慎二はそう言った。

 士郎がセイバーだけの味方になると誓ったように、彼も一人の為に全てを捧げる決意を固めたのだ。

 ならば、これ以上、交わすべき言葉は無い。

 

「……遠坂」

 

 慎二は凜に視線を向ける。凜は複雑そうに唇を噛み締めながら慎二を睨む。

 

「桜は奥だ。行きたきゃ行けよ」

「……どういうつもり?」

 

 道を譲る慎二に凜は怪訝な表情を浮かべる。

 

「別に……。ただ、それはそれでありかもしれないと思っただけだ」

「……?」

 

 困惑する士郎と凜に慎二は薄く微笑む。

 

「僕は……結局、アイツのちゃんとした兄貴になれなかった」

 

 慎二の独白に凜が表情を崩す。その表情に浮かぶものが怒りなのか、哀しみなのか、羨望なのか、分からない。

 そんな彼女に構わず、彼は続ける。

 

「アイツの本当の家族はやっぱりお前だけなんだと思う。だから、お前に止められるなら、それは桜にとって幸福かもしれない」

 

 慎二は肩を竦める。

 

「まあ、止められるかどうかは分からないけどな。今のアイツは強いぜ。ぶっちゃけ、生半可な力じゃ到底敵わない。それでも行くって言うなら、僕は止めないよ」

「――――行くわ」

 

 凜は固く表情を引き締めて歩き出す。

 慎二は言葉通り、彼女を止めようとはしない。

 凜は一度だけ慎二の真横で立ち止まり、小さな声で呟いた。

 

「……ありがとう。桜の味方になってくれた事……、それだけは感謝してる」

 

 その言葉に慎二は肩を竦める。

 

「……ただの自己満足だよ。結局、僕はアイツを救えなかった」

 

 その自嘲の言葉に反応を返す事も無く、凜は奥へと進んでいく。

 慎二は凜の背中を見送った後、士郎に視線を戻して言った。

 

「それじゃあ、始めるとするか」

 

 慎二は薄く微笑むと、ポケットから一匹の蜘蛛を取り出した。

 

「――――やれ、桜」

 

 その言葉と共にアーチャーが動き出した。

 しかし、その行動は士郎の予想を裏切った。

 斬りかかって来ると思っていたアーチャーの腕が慎二の心臓を貫いたのだ。

 

「……え?」

 

 困惑する士郎に慎二は口から血を吐き出しながら笑みを浮かべて言う。

 

「……桜に令呪を使わせた」

「令呪を……?」

「残る二つの内……、一つ目で“衛宮を倒すまで戦い続けろ”と命じた。そして――――」

 

 慎二は笑みを深めて言う。

 

「二つ目でこう命じたのさ……。“間桐慎二の存在をその魂に刻み付けろ”ってね」

「……何を言って」

 

 呆然とした表情を浮かべる士郎の前で慎二の魂がゆっくりとアーチャーの中へと移って行く。

 それは本来なら単なる自殺行為でしかない。英霊の魂に自らの魂を刻むなど、大海に一滴の墨を落とすようなものだ。瞬く間に薄れ、消えていくのが関の山。

 

“だが、そうした条理を覆す事こそ魔術師の本懐”

 

 それはセイバーの身に起きた現象に近いものだった。

 今のアーチャーは“この世全ての悪”に汚染され、理性や意志を剥奪されている。つまり、英霊としての情報と外殻のみの状態なのだ。

 そこに慎二の魂を注ぎ込む事で初期のセイバーと同じ状態を再現している。

 セイバーの現状を探り続けていたが故に思いついた反則技だ。

 

「……慎二なのか?」

 

 士郎が問う。すると、アーチャーはゆっくりと口を開いた。

 

「……さあ、最後の聖杯戦争を始めよう」

 

 

「――――ここね」

 

 暗い場所。冷たい空気。静かな水音。やがて、視界が広がった。暗闇を抜けたその先に広大な空間が広がっていた。

 果ての無い天蓋と、嘗て見た黒い孔。あれこそ、戦いの始まりにして、終着点。二百年の長きに渡り稼動し続けてきたシステムがそこにある。

 見た目はエアーズロックのようだが、その上部は大きく陥没していて、巨大な魔法陣が敷設されている筈。それこそが大聖杯と呼ばれるものの正体だとイリヤが教えてくれた。

 最中に至る中心。円冠回廊。心臓世界。天の杯。計測不能なまでの魔力を孕むソレは名に恥じぬ異界を創り上げている。

 そして、その中央から黒い柱が天に向かって伸びている。空間内を照らすのは黒い柱が発する魔力の波動。

 

「アレが“この世の全ての悪”……」

 

 大聖杯に満ちている魔力はまさに無尽。世界中の魔術師がこぞって好き放題に魔力を汲み上げたとしても、決して尽きぬ貯蔵量。あれだけあれば、確かにあらゆる願いを叶える事が出来る筈だ。

 頭上を見上げる。そこに彼女が居た。

 しばらく見ない内に随分と風貌が様変わりしてしまっていた。髪は真っ白で、全身の肉が削げ落ちてしまっている。まるで老婆のようだ。

 彼女はうっとりとした表情で自らの腹部を摩っている。

 

「――――久しぶりですね、姉さん」

 

 桜はクスリと微笑んだ。

 既に壊れており、救えない状態となっている筈の桜が微笑み、明確な意思を宿して口を開いた。

 

「……桜」

「見てください。もう直ぐ生まれるんです。私の可愛い赤ちゃんが……、もう直ぐ――――」

 

 肌が粟立つ。桜の腹に宿るソレは彼女が背にしている黒い炎と同じ魔力を迸らせている。

 

「……アンリ・マユなんて怪物を可愛い赤ちゃん呼ばわりするなんて、大したお母さん振りね、桜」

「えへへ、そうなんです。私、お母さんになるんです」

 

 嫌味のつもりで言ったのに、桜は心底嬉しそうに微笑んだ。それがとても恐ろしかった。

 

「私の赤ちゃん……。可愛い可愛い……、私とお兄ちゃんの子供」

「……お兄ちゃん?」

「そうです。ずっと昔……、一度だけ肌を重ねた事があって、その時にお兄ちゃんがくれた精子をずっと吸収せずに保管してたんです。いつか……、時が来たら孕めるようにって……」

 

 頬を赤らめて、桜は満面の笑みを浮かべる。

 

「お兄ちゃんは私をただの妹としてしか見てくれない。でも、私はお兄ちゃんを愛してる。お兄ちゃんとの赤ちゃんを産んで、愛の証にするの……」

 

 ムフフと鼻歌混じりに言う桜に凜は冷たく言い捨てる。

 

「何が愛の証よ……。ずっと、その愛するお兄ちゃんを騙してたわけでしょ?」

「騙してなんかいませんよ」

 

 桜はクスリと微笑んだ。さっきまでのあどけない笑みが鳴りを潜め、妖艶な笑みを浮かべる。

 

「お兄ちゃんは勝手に勘違いしているだけです。でも、敢えて正す必要なんて無いでしょ? 私が壊れているからお兄ちゃんは私に優しくしてくれる。私の味方になってくれる。私が壊れてないって知ったら、きっと、お兄ちゃんは私から離れていってしまうもの。そんなの嫌です。絶対嫌です!」

 

 頬を膨らませる桜に凜は言った。

 

「アンタが壊れてないって知ったら、アイツは喜ぶわよ」

「……嘘ですね」

 

 桜は断言した。

 

「お兄ちゃんが優しいのは私が壊れているからです。でなきゃ……、こんな化け物を可愛がってくれる人なんて居る筈ありません」

 

 途端、桜の顔から表情がごっそりと抜け落ちた。

 無表情で桜は呟く。

 

「私は人の肉を食べてるんです。引き取られてから十年間、精子や人肉の味の違いまで分かるようになっちゃったんです。こんなに穢れ切った化け物、誰が好き好んで一緒に居たがるんですか? 壊れているから仕方無いって、同情心があるからお兄ちゃんは傍に居てくれるんですよ。私は身の程を弁えてるんです」

 

 エッヘンと胸を張る桜に凜は言葉を失った。

 壊れてはいない。だけど、決定的に――――、壊れている。

 意思や感情は辛うじて維持しているけれど、他が致命的なまでに壊れ切っている。

 

「……桜」

 

 凜は涙が零れそうになるのを必死に耐えた。

 

「止まりなさい」

「駄目ですよ。姉さんの事は割りと好きですけど、お兄ちゃんとの赤ちゃんは絶対に産みます! 私とお兄ちゃんの愛の結晶なので、これだけは譲れません!」

 

 拳を高々と振り上げる桜。

 

「……それを産ませるわけにはいかないのよ」

 

 それがただの赤ん坊なら産ませてやりたかった。割りと……、というのは気になるが、好きと言ってくれた妹の望みを叶えてやりたい気持ちはある。

 だけど、アンリ・マユをこの世に出現させる事だけは……。

 

「……こっちにはキャスターが居る。アンタの身体を清めて、ちゃんとした子供を産めるようにしてもらう事も出来る筈なのよ! だから、お願い! その子供だけは諦めて!」

 

 血を吐くように凜は懇願する。これが最後のチャンスなのだ。

 壊れていないなら救いようはある。キャスターに頼めば、きっと救える。その為ならどんな代償でも喜んで払う。

 命を差し出せというなら差し出そう。桜の過ごした苦しみの十年を体験しろというなら喜んで体験しよう。

 

「お願いよ、桜」

 

 地面に頭を押し付けて懇願し続ける。

 

「……だ、だって……、お兄ちゃんの精子はこの子の分しかないんですよ……」

「どんな手を使ってでもアイツから精子を搾り取って、アンタにあげるわよ!!」

 

 僅かに動揺する桜に凜は畳み掛けるように叫んだ。

 本心からの叫びだ。そんな事で桜を救えるなら慎二が干乾びるまで搾り取ってやる。

 

「……本当?」

「約束するわ!! だから――――」

 

 桜が心変わりしかけている事に喜色を浮かべる凜。

 その時だった。

 大空洞にしわがれた老人の声が響いた。

 

「――――それはならん」

 

 凜は言葉を失った。桜が悶え苦しみだしたのだ。

 

「この土壇場で心変わりをするなど、儂が許すと思ったか?」

「ぞ、臓硯!?」

 

 身の毛のよだつような悪寒に襲われ、凜は走り出した。

 

「桜!!」

 

 凜が叫ぶ。しかし――――、

 

「ああ、もう済んだ故、幾ら呼び掛けても無駄だぞ。遠坂の娘よ」

 

 そう、桜の口から声が飛び出した。

 

「さく、ら……?」

「親心として、聖杯を手にする栄誉は譲ろうと思っていたのだがな……」

 

 カカと嗤う桜に凜は立ち止まった。

 

「最後の最後で儚い希望を抱かせ、妹を絶望という名の奈落へ突き落とすとは、酷い姉も居たものよ。まったく、貴様のせいで孫娘を喰らうなどと非道な真似をせねばならなくなった」

 

 乗っ取った桜の喉を震わせ、老魔術師は呟く。

 

「……臓硯」

 

 身体が震える。愛する妹を後一歩で救えた筈だったのに……。

 感情が冷えていく。あらゆる思考が一つに纏まっていく。

 後一押しだ。後一押しあれば、最後の一線を越える事となる。

 凜は乾いた声で臓硯に問う。

 

「――――アンタ、人の妹に何をしたの?」

「……ふむ、貴様の事を過大評価しておったようだ。思ったより聊か頭の巡りが悪いらしいな」

 

 臓硯は桜の顔でいやらしい笑みを浮かべて言う。

 

「単に首をすげ替えて乗っ取っただけの事だ」

 

 その言葉が最後の一押しとなった。

 

「――――アハハハハハハハハハハハハ!!」

 

 けたたましく、凜は嗤った。

 腹を抱え、涙を滲ませ、嗤った。

 その狂態に臓硯は僅かに困惑の表情を浮かべる。

 

「……壊れたか?」

 

 その問いに対し、凜は笑みを一変させて言った。

 

「アンタ、私をここまで怒らせて、まさか――――」

 

 臓硯の表情から笑みが消える。広々とした大空洞が寒気のするような殺気で満たされる。

 齢二十にも満たない小娘に臓硯は恐怖した。

 

「――――ただで済むと思ってないわよね?」



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第三十六話「Answer」

 光が夜空に昇っていく。俺は浴衣のまま草むらで寝転がる親父を叱り付けた。すると、親父はこっちに来いと手を振った。一緒に寝転がれと隣の草むらをポンポン叩く。浴衣が汚れるから嫌だと言うと、親父は笑った。

 

「また、洗えばいいじゃないか」

 

 親父の言葉にカチンと来た。この浴衣は買ったばかりなのだ。それに、浴衣は洗うのがとても大変なのだ。

 俺の言葉に親父はまた笑った。クリーニングに出せばいい、などとのたまう親父に蹴りをいれたくなる。そんな無駄遣いを許すわけにはいかない。

 親父は頑固に立ち見を続ける俺を微笑ましげに見つめる。むず痒くなって来て、唇を尖らせていると親父は不意に俺の名を呼んだ。

 

「士郎……。本当に魔術を習いたいのなら、一つだけ、絶対に覚えておかなきゃいけない事があるんだ。何だか分かるかい?」

 

 いきなりだった。今まで、魔術を教えてくれと幾らせがんでも頑なに拒否して来た親父がこんな事を言い出すなんて、天変地異の前触れかと思った程だ。

 これはきっと試練なのだ。ちゃんとした正解を言わなきゃ、折角のチャンスが水の泡になってしまう。でも、絶対に覚えておかなきゃいけない事って何だろう。

 眉間に皺を寄せて必死に考え込む俺を親父は静かに見つめている。

 

「……見つからない事?」

「どうして、そう思うんだい?」

「だって……、魔術は人に気軽に教えちゃいけないものだって、爺さんが言ってた事じゃないか」

「言ったね。でも、不正解」

「……じゃあ、魔術を教えてくれないの?」

「……まあ、完全に不正解ってわけでも無いから、ちゃんと教えてあげるよ」

「本当!?」

「ああ……。だからこそ、これから言う事をちゃんと覚えておくんだ」

「う、うん……」

 

 親父は言った。

 

「魔術は争いを呼び込むものだ。だから、人前では使ってはいけないし、制御が難しいものだから、鍛錬を怠ってもいけない。けど、一番大事な事は――――」

 

 親父は上半身を起き上がらせると、花火を見つめながら言った。

 

「魔術は自分の為じゃなく、他人の為だけに使うという事だよ」

 

 ◆

 

 親父から教わった事は多い。でも、俺はその多くを棄て去る決意を固めた。理想を捨て、ただ一人の為だけに生きようとしている。

 セイバーの為だけに生きる。その為に不要なら、何もかも捨てる。

 親父は言った。魔術は争いを呼び込むものだと……。セイバーを幸せにするなら、争いを遠ざけなければならない。だから、俺はこの戦いが終わったら、魔術を捨てようとさえ考えている。

 多分、親父は笑って許してくれる気がする。でも、同時に寂しがると思う。

 

「――――親父」

 

 折角、受け継がせてもらったのに、とんだ親不孝者だけど、それでも――――。

 

「俺が決めた俺の生き様を見ててくれ!」

 

 立ちはだかる敵に向って吼える。慎二の魂と融合したアーチャーがその両手に干将・莫耶を投影する。

 慎二が何をしたのか完全に理解出来たわけじゃない。唯一つ分かる事はアイツが後戻りの出来ない決断を下した事実のみ。

 

「慎二!」

「衛宮!」

 

 刃と刃がぶつかり合う。干将と莫耶がぶつかり合う。莫耶と干将がぶつかり合う。

 喧嘩なら今までも幾度か経験がある。でも、こんな風に命を奪い合う事になるなんて思ってもみなかった。

 

「慎二!」

 

 この戦いは他人の為じゃない。俺自身の為の戦いだ。

 他人の為だけに使えと教えられた魔術を自分の為に使っている。一番大事だと言われた教えを反故にしている。

 

「慎二!」

 

 セイバーと一緒に居たい。ただ、それだけの為に俺は親友を殺す。

 

「慎二!」

 

 幾度かの攻防で分かった。“再召喚”による影響か、あるいは慎二との融合が原因なのかは分からないが、アーチャーの戦闘能力は明らかに低下している。投影の精度こそ、此方よりも一枚も二枚も上手だが、動きが明らかに鈍い。

 

「――――ック」

 

 苦悶の声は慎二のものだ。如何に武器が上等でも、扱い切れなければ宝の持ち腐れだ。 勝てる。そう、確信した直後だった。慎二は致命的な隙を作った。

 踏み込む。慎二を無力化させられれば、セイバーの援護に迎える。逸る思いが士郎の背中を押した。干将を一閃させる。その直前、士郎の眼に慎二の笑みが飛び込んで来た。

 気がつくと、背中に激痛が走っていた。

 

「……お前って、つくづく真っ直ぐだよな」

 

 慎二がアーチャーの声で呆れたように呟く。背中を切り裂かれた痛みで明滅する意識を耳を欹てる事で必死に維持する。

 

「お前、昔は喧嘩っ早かったけど、その真っ直ぐな所は今と同じだったよな。だから、お前はいつも怪我だらけ……」

 

 学習しない奴だ。慎二は溜息混じりに呟く。

 頭にくる。あんなあからさまな虚実を見抜けないなんて、呆れられて当然だ。絶対に負けられない戦いだったのに、一時の衝動に任せて安易に動いてしまった。それが敗因だ。

 

「あばよ、衛宮」

 

 助けは来ない。皆、各々の戦場で頑張っている。きっと、こんな醜態を晒しているのは俺だけだろう。

 慎二が干将を振り上げる。

 

「……し、んじ」

 

 終わる。終わってしまう。うつ伏せに倒れこんだ今の状態では防ぐ事も避ける事も出来ない。

 一秒後に迫る己の死。俺はその先を思い浮かべた。きっと、俺を殺したら慎二はアルトリアの援護に向う。そして、セイバーを殺す。

 セイバーが死ぬ。そんな可能性を残して死ぬなんて許されない。方法を考えなければならない。この絶望的状況を生き抜く方法を――――、

 

「――――投影開始」

 

 刹那にも満たない一瞬の思考で辿り着いた答えは投影。投影したものを現出させる際、その位置をある程度なら操作出来る。俺は慎二の干将の軌道上に三本の剣を投影し、盾にした。

 甲高い金属音が鳴り響く。慎二が虚をつかれたような表情を浮かべている。その隙に俺は体を捻った。激痛が走るが動けない程じゃない。

 傷口に視線を落とすと、そこには無数の刃が犇いていた。

 

「……ふう」

 

 よろよろと慎二から距離を取り、俺は静かに息を吐いた。

 背中の傷はかなり深い。徐々に修復されているけど、直ぐに慎二と切り結ぶのは難しい。だから、戦い方を変える必要がある。

 血が減ったせいか、頭がやけに冷静に回る。

 

「――――投影開始」

 

 俺は生き残らなければならない。俺が死んだらセイバーが悲しむからだ。セイバーが悲しむ事だけはしちゃいけない。

 いや、言い訳は止そう。俺は生きたいんだ。セイバーと一緒にいつまでも生きていたいんだ。その為に切り捨てる。中学の頃からの親友を斬り捨て、切り捨てる。

 

「……これは」

 

 俺の頭上に浮かび上がる八本の刀剣に慎二が目を剥く。

 

「舐めるな!」

 

 俺の投影を慎二はアーチャーの投影で迎え撃つ。八本の刀剣を八本の刀剣で撃ち落し、慎二は苦悶の表情を浮かべた。けど、そんな事を気に掛けている暇は無い。再び、種類の違う刀剣を十本投影する。迎え撃つべく、慎二も同数の刀剣を投影して。

 そして、――――壊れた。

 そう称するしかない現象が目の前で起きた。慎二は頭を抱えながら悶え苦しみ始め、全身が歪な形状に変化した。

 

「な……、なんだ、アレは……」

 

 理解不能な事態に眩暈がする。白目を剥き、慎二は獣のような雄叫びを上げた。同時に奴の頭上に十数本の刀剣が出現し、飛んで来る。

 

「ック――――」

 

 慌てて同数の刀剣を投影し、迎え撃つ。すると、慎二は更に大きな雄叫びを上げ、更に多くの刀剣を投影した。

 

「し、慎二! お前、一体――――」

 

 俺の声が聞こえているのか聞こえていないのか分からない。慎二は只管雄叫びを上げて刀剣の投影を繰り返す。徐々にその数が増していく。

 不味いと思った時には既に手遅れ。俺が一度に投影出来る限界数を超えた数の刀剣が飛来する。

 

「――――ッ」

 

 撃ち落せるだけ撃ち落し、残りは干将・莫耶で叩き落す。その繰り返しにも限界がある。慎二の風貌は投影を行う度に変化していく。投影を撃ち合い、なんとなくその原因が掴めた気がする。

 俺の投影は所謂普通の投影魔術とは異なるものだ。固有結界という己の心象風景が内包した複製を取り出す。それが俺の投影だ。恐らく、慎二は投影を行う度にアーチャー……、即ち、衛宮士郎の固有結界に侵食を受けているのだろう。

 魔術師ですら無かった慎二が英霊の固有結界に侵食される。そんなの壊れて当たり前だ。肉体の崩壊も恐らくそれが原因だろう。

 

「……慎二」

 

 呼び掛けても、慎二は獣のような唸り声を上げるばかりだ。

 

「俺はセイバーの為だけに生きると決めたんだ。だから……、お前を殺す」

 

 決意を口にすると同時に慎二との思い出が頭の中を駆け巡った。一緒に遊んだ記憶。一緒に喧嘩をした記憶。一緒に勉強した記憶。一緒に部活動に勤しんだ記憶。

 涙が溢れ出し、声が震える。

 

「……ごめん、慎二」

 

 俺がそう呟くと、一瞬だけ慎二の雄叫びが止んだ。咄嗟にアイツの顔を見ると、どこか笑っているように見えた。

 

 ――――謝るなよ、衛宮。

 

 慎二は桜の為に戦っている。桜は俺にとっても大切な家族だ。だけど、俺は桜を選ばなかった。桜を敵として倒そうとすらしている。

 正義とは人の数だけ存在すると人は言う。俺がセイバーの為だけの正義の味方になったのと同じように、慎二は桜の為だけの正義の味方になったんだ。どっちも正義で、どっちも悪なのだ。だから、謝る必要なんて無いし、謝ってはいけないんだ。桜や慎二を切り捨て、セイバーだけを選んだ癖に、そんな己を否定する言葉を口にするなど許される筈が無い。

 

「……いくぞ、慎二」

 

 深く息を吸う。慎二の投影の数はもはや俺の限界を遥かに上回っている。このままでは圧殺されてしまうのが落ちだ。だから――――、

 

「――――I am the bone of my sword.」

 

 慎二が俺の限界を超えるというなら、俺も俺自身の限界を超えよう。

 花弁が花開く。熾天覆う七つの円環。アーチャーが知る限りの最強の守りを眼前に展開し、慎二の投影を防ぐ。その間に呪文を唱え続ける。

 方法は既に分かっている。魔力もキャスターから十分な量を供給してもらっている。

 

「――――Steel is my body, and fire is my blood.」

 

 昔、まだ切嗣が生きていた頃、俺の世界は衛宮邸の敷地が全てだった。あの頃はただ、あの場所を守れればそれでいいと思っていた。だけど、大人になるにつれ、俺の世界はどんどん広がって行った。そして、同時に理想と現実の食い違いにも気付き始めた。

 

「――――I have created over a thousand blades.」

 

 思わず笑ってしまう。結局、俺は身の回りの人々の事すら救えていない。美綴の事、桜の事、慎二の事、誰も救えていない。

 本当に救わなければならなかったものから目を逸らし続けた結果がこれだ。もっと早くに気付くべきだった。俺が救えるものなどほんの一握りに過ぎず、それだって、全身全霊を掛けて挑まなければならないものだと言う事を……。

 

「――――Unaware of loss.Nor aware of gain」

 

 壊れていく。あふれ出す魔力が俺という存在を叩き壊していく。

 たった一人、救う為に背負う痛みがこれだ。

 

「――――With stood pain to create weapons for one.waiting for one's arrival」

 

 狭窄な俺が救えるものなど限られている。そして、救うべき存在は既に決まっている。 人は何よりも大切にしなければならないモノの席を心の中心に据えている。多くの人はそこに自ら座る。けど、俺の心のその席は十年前から空っぽだった。だけど……、

 

「――――Dwell in this heart is only one.」

 

 今はそこにアイツが座っている。誰よりも愛おしくて、誰よりも幸せにしたい存在が俺の心の中心に居座っている。

 セイバーを救う。セイバーと生きる。これは――――、その為だけの世界。

 

「My fate was――――“Unlimited Blade Works”」

 

 真名を口にした途端、何もかもが砕け散り、何もかもが再構築された。

 炎が走る。燃え盛る炎が境界を造り出し、世界を塗り替えていく。後に視界に広がるは見果てぬ荒野。無数の剣が整然と立ち並ぶ世界。

 これが衛宮士郎の世界。生命の息遣いを感じさせない剣だけが眠る墓場。無限に剣を内包した固有結界。

 

「終わりだ」

 

 もう、さっきのような失態は繰り返さない。慎二が撃ち出す無数の剣群を悉く撃ち落し、俺は一歩ずつ慎二に近づいていく。変わり果てた嘗ての友を前に足が止めた。

 アーチャーは既に自らの悲願を遂げ、役目を終えている。別れの言葉も告げてある。

 だから、俺は慎二に対して言った。

 

「じゃあな、慎二」

 

 首を切り落とし、俺は慎二を殺した……。



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第三十七話「分水嶺」

 奇妙な気分だ。今のわたしには2つの記憶が混在している。一方はアルトリアの記憶。もう一方はサトルの記憶。どちらもわたしだという自覚があり、それが一層奇怪だ。

 剣の振り方と同じくらい、パソコンの使い方を理解している。剣の稽古をしたわたしとクリケットに興じたわたしが居る。どちらもわたしだ。

 知識の上ではわたしが日野悟である事を理解出来ている。アルトリアの記憶は令呪が引き出したものに過ぎない。けれど、今のわたしの人格はどちらかと言うと、アルトリアに近い。戦う為にアルトリアの人格を一時的に上書きしたのか、それとも……。

 少なくとも、バーサーカーと戦った時とは明らかに異なる現象が起きている。

 

「……だが、今は目の前の敵に集中すべき時!」

 

 エクスカリバーを抜き放つわたしに対し、"本物”は興味深そうに手を顎に添えて微笑んだ。

 

「……面白いな」

 

 アルトリアは言った。

 

「その覇気……、その眼光……、さっきまでとは明らかに別人だ。さっきの小僧の令呪がお前を変えたらしいな。今のお前はどっちだ?」

 

 質問の意図は分かる。さて、どうしたものか……。

 ただ倒すだけで良いのなら、こんな無駄口を叩き隙を見せている相手、即座に切り捨てる所だが、この戦いは持久戦だ。下手に倒してしまうと、サクラの下に魂が行ってしまう。そうなると、リンはサクラの他にも再召喚されたサーヴァントを相手にしなければならなくなる。再召喚に掛る時間は不明だが、わたしが駆けつける前にリンが殺されてしまう可能性が極めて高い。

 今のリンの戦闘能力は並のサーヴァントを凌駕する域に達しているが、サクラの相手をしながら再召喚されたサーヴァントの相手もするとなると荷が重過ぎる。故にわたし達は倒さず倒されず、リンが決着をつけるまで各々の敵を引き止めておかなければならない

 しかし、一度戦いが始まってしまえばいずれは決着がついてしまう。下手に手加減しようものなら、屍を晒す事になるのは此方の方だ。ならば、この無駄口に乗ってやるのも悪くない。なるべく、話を長引かせれば、それだけ作戦の成功率が上がる。

 わたし達が確りと各々の役割を果たせば、リンが必ず全てを終わらせてくれる筈だ。

 

「……さて、正直に白状すると、わたし自身、分からない」

「ほう……」

 

 アルトリアは興味を示し、わたしの全身を舐めるように見据える。

 

「今のわたしには二つの記憶が混在している。サトルなのか、アルトリアなのか、自分でも非常に曖昧だ。そうだな……、お前から見て、わたしはどう映る?」

「分からんな」

 

 アルトリアの即答に聊か驚いた。彼女の口振りや今のわたし自身の人格を省みれば、アルトリアに近いと言われるだろうと予測していたのだが、分からないと返されるとは予想外だ。

 

「分からないとは?」

「言葉通りだ。だが、敢えて分からないなりに答えるとするなら……、“どちらでも無い”だ」

「……どういう意味だ?」

「以前、円蔵山で会った時のお前に近いかもしれんな。だが、私がアーチャーと切り結んだ時に相見えた貴様とは明らかに違う」

 

 アルトリアは言った。

 

「以前のお前からは男を感じた。生前の私……、アルトリアも男であろうとし続けていた。つまり、以前のお前もアルトリアも形や性別はどうあれ、男であろうとしていた。だが、今のお前は明らかに“女”だ。そうだな……、言ってみれば女であるまま王となったアルトリア。それが今のお前だろう」

「……意味が分からん」

 

 確かに、生前のアルトリアは王として君臨する上で女である事を捨てた。だが、決して自らが女である事実が消えたわけでも、まして、忘れていたわけでも無い。聖剣を手にした時点で肉体は成長を止めたが、それなりに膨らんだ乳房や陰茎の無い股を見れば嫌でも自分が女である事実を思い知らされた。

 私がそう言うと、アルトリアは呆れたように笑った。

 

「そうじゃない。少なくとも、生前のアルトリアは女である事を常に隠していた。忌避していたとも言える。だが、今のお前は女である事を隠していない」

「……言葉の意図が掴めん。貴様は結局、何が言いたいんだ?」

「仮に……、今のお前がアルトリアとしての自覚を維持しているなら、問いたいのだ」

 

 そう言って、アルトリアは僅かに表情を翳らせた。その表情には大きな違和感があった。

 

「お前はあの小僧を好いているのだろう?」

「……ああ」

 

 問いの意図は不明だが、それだけは断言出来る。この思いだけは消える事無く心に根付いている。

 

「男を恋い慕うなど、生前は考えられなかった筈だ。つまり、今のお前は完全に女である事を受け入れているわけだ」

「……それは」

 

 なんとも答え難い。サトルとしても、アルトリアとしても、実に答え難い。

 だが、否定も出来ない。元より、自覚はあったからだ。シロウを愛してしまったその時から、彼に愛されたいと思ったその時から、女である事を受け入れ――――いや、女でありたいと願うようになった。

 女である事を受け入れたアルトリア。そんな奇妙な人格が芽生えた原因はそこにあるのかもしれない。これは恐らく、シロウに愛してもらえる女でありたいと願うサトルの心と令呪によって復元されたアルトリアの人格が合わさった結果なのだろう。

 

「私が問いたい事は一つだ。今のお前なら、どうやって国を統治した?」

 

 その問いに息を呑んだ。アルトリアに感じていた違和感の正体が分かったのだ。

 

「その質問に答える前に此方も問いたい」

「なんだ?」

「――――今のお前はどっちだ?」

 

 私の問いにアルトリアは薄く微笑んだ。

 

「……さあな」

 

 その小さな呟きは殆ど答えも同然だった。

 

「私の質問に答えるのが先だ。さあ、今の貴様なら、どう国を治めた?」

「……変わらないだろうな」

「変わらない?」

 

 アルトリアが片眉を上げる。

 

「当時のブリテンを統治するとなれば、あれ以上の政策は無かった」

「だが、滅びた……」

 

 アルトリアの言葉に頷くほか無い。どんなに最善策を打ち続けても、結果が伴わなければ意味が無い。

 

「本当に何も変わらないのか?」

 

 アルトリアはまるで縋るように問う。

 

「――――いや、変わらないというのは嘘だな」

 

 少し考えてからわたしは言った。

 

「少なくとも、今のわたしにあのような統治は出来ない。むしろ、より悪しき方向へ国を導く暗君となるのが関の山だ」

「……つまり?」

「今のわたしはシロウを愛してしまっている。その思いは例え彼が傍に居なくとも変わらない。一つ一つの選択や思考に彼の顔が浮かんでしまうだろう。そうなると、最善と分かっていても打てない手が出て来てしまうだろうし、悪手と分かっていても選んでしまう事があるだろう」

「なるほど……。お前はそう考えるのだな」

 

 どこか残念そうにアルトリアは呟いた。

 

「……お前は違うのか?」

「ああ、違う」

 

 即答するアルトリアの表情には暗い影があった。

 

「こうなる以前、私はあの滅びを避けようの無いものだと考えていた。出来る限りの事はしたし、あの結末を回避するとなれば、それこそ“聖杯”という人智を超越した力に頼る他無いと思っていた」

「それが間違いだったと……?」

「……『アーサー王は、人の気持ちが分からない』」

 

 アルトリアの言葉に身震いした。

 

「覚えてるだろう? 円卓を去った騎士が去り際に口にした言葉だ。あれが答えだったのではないか?」

「……何が言いたいんだ」

「分かるだろう? あの滅びは私が人の気持ちを軽視したが故に起きたものだ。ランスロットの事も、モードレッドの事も、義姉上の事も……、全て私が愛を知らぬが故に起きた悲劇だ」

 

 その言葉を否定は出来ない。だが、肯定も出来ない。

 

「確かに、人の気持ちを軽視した事が悲劇に繋がった。だが、人の気持ちを重視すれば、それだけ選択の余地が狭まる。ある程度の悲劇は食い止められたかもしれんが、新たな悲劇が生まれていただろうし、滅びを回避する事も出来なかっただろう」

「……私はそうは思わない」

 

 アルトリアは言った。

 

「私の施政が上手くいっていたのは常にディナダン卿が円卓の結束を固め続けてくれていたおかげだ。彼が居なければ、あんな施政……」

「それは……」

「彼が居なくなった途端、全てが崩壊した。だが、その責は誰にある? 死んだディナダン卿が悪いのか? それとも、彼を殺したアグラヴェインやモードレッドが悪いのか? 違うだろ……。彼が居なくなっただけで立ち行かなくなるような統治の仕方をしていた私にこそ、責があったのだ」

 

 アルトリアの表情は哀しみと怒りに歪んでいる。

 

「そもそも、あれが最善だったなどとどうして言える? 義父上やマーリンに騎士としての在り方や王としての在り方は学んだが、私は人としての在り方を学び終える前に王となってしまった。私はかの騎士が告げた通り、人の気持ちに関してはあまりに無知だった。そんな者の施策が最善だったなどと……」

「……それは」

 

 言い返す事が出来ない。確かに、アーサー王の統治は最善だった。だが、それは騎士として、そして、王としての最善。人としての最善では無かった。

 民を思いながら、アーサー王は人を軽んじていた。それが滅びに繋がった。そうした彼女の言を否定する事が出来ない。

 

「愛を知った今のお前なら答えを示してくれるのではないかと期待したのだが……、見込み違いだったようだな」

 

 アルトリアは溜息を零すと同時にエクスカリバーを掲げた。

 

「……戦うのか?」

「今の私は慎二と桜のサーヴァントだからな」

「……彼等はこの世に災厄を招こうとしている。それを承知の上で彼等を守るのか?」

 

 わたしの問いにアルトリアはクスリと微笑んだ。

 

「今の私はある意味、お前と同じ状態と言えるかもしれん。二度に渡る汚染の影響で本来の人格は完全に破損してしまっているのだ。今の私は令呪によって一時的に復元された人格に過ぎない。もっとも、以前とは違い記憶に障害は無いがな。ちなみに、今の私の人格そのものは聖杯に一度汚染された後のものだ。原因は桜が本来の私を知らず、一度汚染された後の私を本来の私だと思い込み、令呪を発動したからだろうな」

 

 アルトリアは言った。

 

「嘗て、王だった者として、ブリテンの滅びを憂う気持ちは今もある。故にお前に問い掛けた。湧き上がる衝動を抑えつけ、愛を知ったお前にブリテンを救えたか否かの可能性の有無を……。結果は期待外れだったがな」

 

 アルトリアは嗤う。

 

「もう、貴様と話す事は何も無い。湧き上がる衝動を抑えつける必要も無い。最後だ。我が写し身よ、存分に死合うと……――――」

 

 瞬間、アルトリアの目が大きく見開かれた。

 

「馬鹿な……」

 

 アルトリアは虚空を見上げ、呟いた。

 

「……ぞう、けん」

 

 光が溢れ、アルトリアの姿が掻き消えた。何が起きたのか直ぐに察しがつき、わたしは走り出した。あの光は令呪の強制召喚によるもの。リンが危ない。

 未だ、アルトリアが健在な為か、令呪の効果は継続している。けど、あまり長続きするとも思えない。今、この状況でサトルに戻るのはまずい。アルトリアがサクラと合流したとなると尚更……。

 

「セイバー」

 

 洞窟内を疾走していると横たわるシンジとシロウの姿があった。予想していたアーチャーの姿は無い。

 手を振るシロウの傍に駆け寄ると、シンジが僅かに呼吸をしている事に気がついた。

 

「そっちも終わったみたいだな。アーチャーは倒した。慎二はアーチャーに自分の魂を喰わせるなんて無茶をしたんだけど、辛うじてまだ生きてるみたいなんだ。今のコイツには戦う術も残って無いわけだし、後で治療をしてやりたいんだけど……」

「……すまないシロウ、話は後だ。アルトリアがサクラの下に行ってしまった。去り際にゾウケンの名を告げた事も気になる。私はこれからリンの援護に向う。君はどうする?」

「……行く。慎二を治療するにはどっちにしても遠坂かキャスターの助けが必要だ。なら、慎二には悪いがここで待っていてもらう」

「分かった。じゃあ、行こう」

 

 再び、止めていた足を動かし走り出す。一刻も早く、リンの下に辿り着かなければならない。彼女こそがこの戦いの切り札なのだ。そうじゃなくても、彼女を死なせるわけにはいかない。

 無心に走り続け、そして、辿り着いた。全ての始まりにして終わりの場所に……。

 

「これは……」

 

 最初に目に映り込んだのは七色の光。リンは未だ健在のまま戦っていた。

 その手に握るは宝石剣・ゼルレッチ。遠坂家の先祖が師である魔法使いに出された課題であり、その力は平行世界の己の魔力を引き出す第二魔法。

 イリヤがリンに持ち掛けた提案とは正にコレの事だったのだ。イリヤの意識に士郎がダイブし、イリヤの祖であるユスティーツァの記憶から魔法使いキシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグの持つ宝石剣を解析し、投影を行った。出発がギリギリとなったのも、この剣を投影するのに時間が掛かった為だ。

 絶大な魔力を誇るリンの渾身の一撃が迫り来る暗黒の巨人を打ち払う。見上げる程巨大な人型はその内に並の魔術師の百年分の魔力が内包されている。サーヴァントの宝具にすら匹敵するソレをリンは悉く粉砕して行く。その眩い輝きはまるでエクスカリバーの光のようだ。

 けれど、彼女は攻め切れずにいる。それ以上の接近を丘の上の騎士が阻んでいる。サクラを守るようにアルトリアが立っていた。

 

「リン!」

 

 わたしが呼び掛けると、リンは舌を打ち後退した。合流すると、彼女は言った。

 

「桜が臓硯に意識を乗っ取られたわ。一気に叩き潰してやろうと思ったのに、あの爺、とんでもない切り札を用意してた……」

 

 彼女の言葉につられ、暗い光を背に佇むサクラを見上げた。彼女はいやらしい笑みを浮かべ、右腕を掲げている。そこに信じ難いものがあった。

 

「あ、あれは……」

 

 彼女の右腕には幾つ者赤い斑点が見えた。その正体が何なのか、直ぐに思い至り、戦慄した。

 

「……これまでの聖杯戦争で脱落したマスター達が残した令呪よ。本来、監督役が回収し保管している筈のもの……。恐らく、十年前に死んだ綺礼の父親から奪い取ったんでしょうね」

 

 あるいは言峰綺礼が璃正神父から奪ったものを更に彼の死体から奪ったのかもしれない。けど、そんなのは瑣末な問題だ。何よりまずいのはそれが今、敵の……、マキリ・ゾォルケンの手にある事。

 ゾォルケンは令呪を掲げ、高らかと叫んだ。

 

「令呪をもって命じる。残るサーヴァント達よ、我が下へ集え!」

 

 その叫びと共に次々にサーヴァント達が出現する。そして――――、

 

「重ねて命ずる。まずは邪魔が入る前にこの童共を全力をもって、殺すのだ!」

 

 瞬間、濃厚な殺意が大空洞を覆い尽くした。殺意を剥き出しにしたサーヴァント達の背後では影の巨人が次々に柱より生み出されている。

 あまりにも分が悪過ぎる。この状況に陥らない為の策だったのに、これでは逃げる事も儘ならない。

 万事休す。かくなる上は二人を逃がす為に囮になって――――、

 

「こうなったら、方法は一つしかないな……」

 

 士郎が一歩前に出て呟いた。

 

「シ、シロウ……?」

「俺が固有結界でサーヴァント達を纏めて隔離する」



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最終話「終焉」

「こうなったら、方法は一つしかないな……」

 

 士郎が一歩前に足を踏み出す。不吉な予感が走り、セイバーが手を伸ばすが、彼はその手を取らずに更に一歩前進し、呟くように言った。

 

「俺が固有結界でサーヴァント達を纏めて隔離する。その間に二人で臓硯を頼む」

「な、何を言ってるんだ!? そんな真似、させられるわけがない!」

「他に方法が無いんだ! このままじゃ、逃げる事も出来ない! だったら――――」

「犠牲になるなんて許さない!」

 

 瞳に涙を溜めて叫ぶセイバー。そんな“彼女”に士郎は口付けをした。

 

「犠牲になるつもりは無い。俺は絶対に生き延びる。信じてくれ」

 

 その言い方は卑怯だ。愛しているから信じたい。愛しているから止めたい。源を同じにしながら、相反する二つの感情の板挟みになり、言葉が出て来ない。ただ、涙だけが止め処なく溢れ出す。

 士郎は静かに丘を降りて来るサーヴァント達を見据え、祝詞を唱え始める。

 

 ――――体は剣で出来ている。

 

 生き延びる。何があろうと、絶対にセイバーを悲しませない。腕が捥げようと、目が潰れようと、背骨が折れようと、脳が潰されようと、心臓を貫かれようと、必ず生き延びる。

 不可能などと諦めを口にする事は許されない。理想を捨てた以上、この上、セイバーに対する愛まで捨てたら、それこそ終わりだ。何の価値も持たない骸と成り果て、ただ彼女に絶望を背負わせてしまう。

 

 ――――血潮は鉄で心は硝子。

 

 祝詞を唱え切るまでに少し時間が掛かる。足止めをしようと、可能な限り多くの剣を投影し、射出する。

 剣の投擲に合わせ、凜が宝石剣を振るう。士郎の剣は弾かれ、往なされ、躱されたが、彼女が放った七色の極光は彼等の足を一時的に止めさせた。

 この隙を逃すわけにはいかない。

 

 ――――幾たびの戦場を越えて不敗。ただ一度の敗走もなく、ただ一度の勝利もなし。

 

 一瞬の停滞の後、再び時は動き出す。セイバーが前に躍り出た。涙が宙を舞う。苦悩と嘆きを叫び声に変え、剣を片手に走り出す。

 

「リン! わたしに構わず宝石剣を振るえ!」

 

 凜は迷わなかった。宝石剣が放つ光は凜の魔力を強引に攻撃力に変換したものであり、一見すると宝具の真名解放のようでいて、その実、魔術の範疇内だ。汚染の影響か、アルトリアは対魔力が劣化している為に宝石剣が通用したが、セイバーの対魔力ならば完全に無効化する事が出来る。

 エクスカリバーの真名解放にも匹敵する極光斬撃の乱れ撃ち。そんな悪夢のような波状攻撃を敵は易々と越えてくる。ただ、破壊力に優れた武器があれば倒せるなら彼等は英雄になどなっていない。

 絶望的な状況、圧倒的な戦力差、それらを覆し、勝利して来たのが彼等なのだ。だが――――、

 

「ハァァァアアアアアア!!」

 

 今の彼等は聖杯による汚染や臓硯による令呪の効果でステータスこそ上昇している反面、戦闘技術が大幅に劣化している。

 凜の波状攻撃を乗り越えた時点で既に奇跡。その先で構える最優の力を万全に発揮したセイバーを打倒する余力など残っていない。

 とは言え、多勢に無勢。アルトリア、ライダー、アサシン、バーサーカーの四騎を相手にセイバーは足止めがやっとの状況。だが、それで十分……。

 

 ――――担い手が立つは剣の丘。唯一人の為に鉄を鍛つ。

 

 彼女が作ってくれた時間を詠唱と追憶に浪費する。

 彼女との出会いの日から今に至るまでの輝きに満ちた日々を思い、涙を零す。

 ああ、己は彼女を愛している。彼女も己を愛している。その事実が奇跡のようだ。

 生きたい。彼女と共に在りたい。愛してあげたい。愛されたい。一分一秒を共に分かち合いたい。

 だけど、その祈りは叶わない。いくら頑張っても出来ない事はある。サーヴァント達を固有結界内に隔離したとしても、恐らくもって一分足らずだ。その先に待ち受けるのは避けようの無い死。

 

 ――――この心に住まうは一人。

 

 愛している。心の底から愛している。

 あらゆる幸福を彼女に与えたい。あらゆる不幸を彼女から取り払いたい。

 生き延びなければならない。

 生き延びる事は出来ない。

 彼女を絶望させたくない。

 彼女を絶望させてしまう。

 

 ――――この体はきっと……。

 

 ああ、この苦悩をどうしたら……――――、

 

「――――安心しな。俺が守ってやるよ」

 

 ――――……無限の剣で出来ていた。

 

 瞬間、士郎を中心に大地が燃え上がる。地面を走る紅蓮の炎は瞬く間に凜とセイバー、そして、臓硯以外の全てを悉く呑み込んだ。

 赤々と燃え盛る炎が視界を覆い、暗黒の光が満ちる大空洞を“赤”で塗り潰したかと思うと、次の瞬間、理性を無くした者達ですら息を呑む光景が忽然と視界に広がった。

 それは、一言でいうならば剣の墓場。地平線には燃え盛る紅蓮の炎。見上げた先には彼女の衣を思わせる蒼穹。視線を下げた先の草一本生えていない見果てぬ荒野には、担い手の無い剣が整然と無数に突き刺さっている。

 大地に連なる刃は全て名剣揃い。アーチャーの記憶から引き出した古今東西の剣が並んでいる。

 無限とも言える武具の投影。まるで畑のように夥しい程の武器が立ち並ぶその光景は圧巻であり、数少ない理性ある者は称賛の笑みを零す。

 ああ、これは正に“剣戟の極致”だ。なんと寂しく、なんと落ち着く場所だろう。

 

「……凄ェ」

 

 士郎の前に立ち、彼を守るように槍を構えながら、彼は感動に打ち震えている。

 これほどの光景を見せられて、感銘を受けない者など居ない。数々の英雄がその伝説を共に作り上げた相棒達。ここには数多くの伝説があり、同時に何も無い。ここにあるモノは全てが偽物であり、全てがいずれ英雄となる男を支える為に存在している。

 

「参ったな……。思わず、惜しんじまいそうだ」

 

 だが、彼等が伝説となる事は無い。英雄となれる筈の男は愛に生きる決意を固めた。

 それを罪とは思わない。むしろ、一人の女の為に自らを変え、命を張り、運命を捻じ曲げようと戦う少年を彼は好ましく思う。

 

「ラ、ランサー……」

 

 士郎は驚きに目を見開く。彼はついさっきまで、バーサーカーと戦っていた筈だ。なのに、どうしてここに居るのだろう?

 彼が問うと、ランサーは口元に笑みを浮かべた。

 

「ランサーのサーヴァントは敏捷さがウリなんだよ。なあ、シロウ。お前はもうちょっと生きろ。お前達の未来は俺の槍が切り拓いてやる」

 

 ランサーは魔槍を手に歩き出す。ラインを通じて、己が主に謝罪する。

 彼女を勝たせると言った約束を反故にしてしまった事だけが心残りだった。

 

『……構いませんよ。これまで、散々窮屈な思いをさせてしまいましたからね。最後に気が済むまで大暴れしなさい』

 

 ランサーは唇の端が吊り上るのを堪え切れなかった。

 なんと良い女なのだろう。なんと、良い主なのだろう。

 

『感謝するぜ、バゼット。……あばよ』

 

 彼の別れの言葉に対する返事は令呪だった。膨大な魔力が彼を包み込む。

 

「そんじゃ、いっちょ、暴れ回るとしようか!」

 

 ◆

 

 士郎の固有結界が桜の前に立ちはだかっていた障害を根こそぎ掃除してくれた。

 セイバーが走り出す。その後ろを凜が追う。臓硯は焦燥に駆られ、影の巨人を次々に繰り出す。けれど、それらは悉く凜に一層され、瞬く間にセイバーは臓硯の前に辿り着いた。

 容赦無く、セイバーは剣を振り上げる。この元凶さえ始末すれば、全てが終わる。

 

「や、やめろ!」

 

 桜の口から臓硯の悲鳴が響く。直後、鮮血が舞った。

 斜めに切り裂かれた自らの肉体を見下ろし、臓硯は絶叫した。

 

「き、貴様!!」

 

 地面に倒れ伏しながらもしぶとく逃げ出そうとする臓硯の眼前にセイバーはエクスカリバーを突き立てた。

 呼吸が荒くなる。殺さなければならない。それが分かっているのに、桜の顔が恐怖に歪むのを見て、躊躇ってしまった。

 もう、随分と昔の事のような気がするが、彼女と共に食事をした記憶が甦る。あの光景は士郎にとっての日常だった。彼の大切な宝物だった。それを今から壊そうとしている。その罪深さにうろたえ、致命的な隙を見せてしまった。

 

「――――馬鹿が! 来い、アルトリア! 儂を守れ!」

 

 光が走り、セイバーは吹き飛ばされた。

 アルトリアの出現にセイバーは言葉を失う。最悪の事態だ。折角、士郎が作ってくれたチャンスを無駄にしてしまった。彼女と戦えば、間違いなくタイムリミットを迎えてしまう。士郎が死に、臓硯は配下を集合させる。

 己の愚かさで全てを台無しにしてしまった。その事実に絶望し、膝を折るセイバー。そんな彼女の隣に凜が立つ。額から冷たい汗を垂らしながら、彼女は目の前の絶望を見据え、尚も戦おうと宝石剣を振り上げる。

 そして――――、

 

「――――あがっ、がぁ?」

 

 信じられない光景が目の前に広がった。

 アルトリアが己が聖剣で主である筈の臓硯の心臓を貫いたのだ。驚愕に目を剥く臓硯にアルトリアは静かに呟く。

 

「……サクラの体で好き勝手な真似をするな、下郎」

「ヒィ……、ヒギィィィイイイ!?」

 

 まるで蟲の囀りのような悲鳴を上げ、臓硯……、桜の体から何かが飛び出した。

 それをアルトリアは平然と掴み取る。男性の陰茎を思わせる姿をした蟲が必死にもがいている。

 

「き、貴様! マスターである儂を裏切るつもりか!?」

「……笑わせるな。貴様を主などと思った事は一度も無い。だが、一つだけ感謝してやろう」

 

 アルトリアは嗤った。

 

「貴様の愚かさに感謝してやる。貴様が命令を変更してくれたおかげで再び再現した人格を取り戻せた。もう幾許も無く消えるだろうが、その前に貴様をこの世から抹消してやる」

「は、放せ! 何を考えておるのだ!? 貴様は聖杯が欲しかった筈だろう!?」

「ああ、聖杯は欲しいさ。だが、私は止めたのだ」

「な、何を言って……」

「人の心を軽視する事を止めたのだ! それが我がブリテンの滅びに繋がったのだからな! その事を私に教えてくれたのはシンジとサクラだ! その二人の為ならば、私は聖杯を諦める!」

「ば、馬鹿を言うな! 桜も慎二も既に死んでおるのだぞ!? あの二人を思うならば尚の事、聖杯を取り、蘇生させてやるべきだろう!」

「馬鹿は貴様だ、臓硯。あの二人は元々未来を生きようなどと思っていなかった。ただ……、今を生き、今に死のうとしていた。彼等が望んだ終わりをこれ以上邪魔など――――」

 

 その時だった。かすかな声が皆の耳に届いた。

 

「……アル、トリア」

 

 それは桜の声だった。臓硯が桜から逃げ出した事で再び意識を取り戻したのだ。

 既に虫の息の彼女に臓硯はコレ幸いとばかりに叫んだ。

 

「桜! アルトリアに自害を命じよ!」

「臓硯……、貴様!」

 

 アルトリアが桜の声に意識を取られた隙を突き逃げ出した臓硯が桜に命令を下す。

 激昂するアルトリアに臓硯は嗤う。そして――――、

 

「アルトリアを……」

 

 魂にまで刻み込まれた臓硯への服従。慎二亡き今、彼女に対する命令権は臓硯に戻っていた。令呪を発動しようとする桜にアルトリアが静止を呼び掛ける。

 その直後、再びありえない声が響いた。

 

「……やめろ、桜」

 

 誰もが息を呑んだ。そこにはアーチャーに魂を喰わせた筈の慎二が居た。

 彼の肉体に残留していた僅かばかりの魂が彼の口を動かしている。彼を運んで来たキャスターが彼を桜の隣に横たわらせる。

 

「僕以外の命令を聞くな……。そう、言っただろ?」

「……おにい、ちゃん」

 

 桜は血の涙を流しながら、必死に手を伸ばそうとする。けれど、上手くいかない。顔を歪める桜。その手を温かい手が取った。凜は桜の手を取り、慎二の頬に宛がう。

 

「……お兄……ちゃん」

「桜……。悪かったな。俺……、負けちゃったよ」

 

 力無く微笑む慎二に桜は首を僅かに振る。

 

「おにい、ちゃん。わた、しは――――」

「ああ、分かってる。もう、全部分かってる。だから、無理をするな」

「……わた、し……、わたしは……」

 

 桜は必死に何かを言おうとしている。けれど、既に意識が遠退き始めているらしく、声が徐々に掠れ始めている。

 そんな彼女に臓硯は喚く。

 

「何をしている、桜! 早く、令呪を!」

「……黙りなさい」

 

 凜は憎悪に満ちた瞳を臓硯に向け、宝石剣を乱暴に振るった。

 最後は悲鳴すら零す暇無く、数百年を生きた妖怪は死んだ。

 そして――――、

 

「おに……ちゃん、わ……た、し……、おに……ちゃんの……事が……だい、すき……だよ」

「……俺もだよ。誰よりも愛してるよ、桜」

「……うれ、し……い……――――」

 

 僅かな間を置いて、桜はゆっくりと息を引き取った。健やかな笑顔のまま……。

 直後、虚空から士郎達が姿を現した。傷だらけながらも生きている彼にセイバーが駆け寄る。その隣で彼以上にボロボロなランサーをいつからか入り口に佇んでいたバゼットが寄り添う。

 バーサーカーは静かに佇み、ライダーはアサシンを拘束している。どうやら、桜が死亡した事で令呪の効果が切れたらしい。ライダーはアサシンの心臓に釘剣を突き立て殺した後、よろよろと桜の下に向かった。

 彼女の後を追うように士郎もセイバーに寄り添いながら歩く。

 ライダーは桜の亡骸の傍に座り込むと彼女を抱き締め静かに微笑んだ。

 

「……思いは遂げられたようですね、サクラ」

 

 そう言って、彼女は光となって消えた。気がつくと、バーサーカーの姿も無い。

 マスター無き後、彼等を現世に縛り付ける鎖は無く、彼等自身もまた、留まる理由を失い去って行ったのだ。

 

「……慎二」

 

 士郎が呼び掛けると、慎二は力無く微笑んだ。

 

「……謝らないぜ」

 

 やりたいようにやった。だから、誰にも許してもらおうとは思わない。

 慎二は正義の味方を目指していた少年に呟く。

 

「柳洞寺の本殿に藤村と美綴を寝かせてある。軽い暗示を掛けただけだから、夜明けには目を覚ます筈だ。ライダーが隠匿の為の結界を張ってたけど、それもアイツが消えた時点で消滅してる筈だ」

「美綴も生きているのか!?」

「……最低最悪ここに極まった感じだよ。いっぱい殺した癖に知り合いだからって理由で殺せなかった。ほんと、醜悪極まりないな」

 

 心底吐き気がする。そう、慎二は表情を歪めて言った。

 

「……そろそろ時間だな」

 

 慎二は呟いた。

 

「時間をくれた事に感謝する」

 

 視線をキャスターに向け、ゆっくりと瞼を閉ざす。

 

「いいの?」

「ああ、もういい。悪党として、惨たらしく死ぬべきなんだろうけど、衛宮に余計なトラウマを持たせたくないしな」

「……馬鹿言え」

 

 士郎は慎二の軽口に溜息を零す。

 

「十分トラウマを植え付けられたよ」

「……ハハ、悪いな」

 

 慎二は小さく息を吐くと、再び目を開き、士郎を見た。

 

「あばよ、衛宮」

「……ああ、あばよ、慎二」

 

 再び目を閉ざした慎二が再び目を開く事は二度と無かった。

 

「さて、私も逝くとするか……」

「アルトリア?」

 

 士郎は思わず目を瞠った。彼女の体もまた、消えようとしている。

 

「色々と思う事はあるが……、シンジとサクラの死出の旅路を穢すわけにもいかん。潔く消えるとするさ。さらばだ」

 

 何かを言う暇さえ与えずに消えた彼女にセイバーは唇を噛み締めた。

 士郎はそんな彼女の手を取り、キャスターに近寄る。

 

「さあ、終わらせよう」

 

 彼は全ての因縁の始まりである暗黒の柱を見上げ呟いた。

 

「……ええ、終わらせましょう」

 

 キャスターが大聖杯に手を伸ばし、作業を開始する。それを後ろからぼんやりと眺めながら、士郎はセイバーの肩を抱いた。

 

「……終わったな」

「……うん。終わったね」

 

 そして、時は流れていく――――……。



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エピローグ「愛してる」

 また、冬が終わろうとしている。この街に多くの哀しみと傷痕を残した聖杯戦争が終結して一年余り。あの後も少々いざこざがあったものの、今ではすっかり落ち着きを取り戻している。

 学校に届けられた志望大学の合格通知を片手に意気揚々と帰宅した士郎は玄関に入った途端、目を丸くした。彼の前では特徴的な青い髪と赤い瞳の美丈夫が靴磨きに勤しんでいる。

 

「おう、おかえり」

「た、ただいま。久しぶりだな、ランサー」

 

 ランサーは慎重な手付きで靴を磨きながら「おう」と応えた。彼と会うのは実に一年ぶりだ。

 最終決戦の後、バゼットはランサーの受肉をキャスターに依頼した。突然の申し出に士郎達は目を瞠った。当の本人であるランサーも寝耳に水だったらしく、ギョッとしたような表情を浮かべていた。ところが、依頼されたキャスターは驚いた様子も見せずにアッサリと快諾した。

 彼女達は先を見据えていたのだ。冬木の聖杯は汚染されているとはいえ、願望器としての能力を備え、使い手次第で根源に到達する事も可能だ。それを解体するとなれば一筋縄ではいかない。ランサーはその時の為の備えだった。

 監督役であるシスター・カレンとの談合の後、解体を始めようとすると、当然のように時計塔から反対派の魔術師達がやって来た。その時、遠坂邸を舞台に熾烈な戦いが繰り広げられたらしい。ただし、武力的な意味では無く、政治的、言論的な戦いだったそうだ。

 一時は時計塔全体を巻き込んだ争いに発展し掛けたというのだから恐ろしい。まあ、その危機は前回の聖杯戦争の唯一の生き残りである男や遠坂家の大師父が動き、力ずくで八方を丸く収めたらしい。

 若干あやふやなのは士郎がその戦いに一切関わっていないからだ。高度な政治的やりとりを行う必要がある為、未熟者の出る幕は無かった。

 騒動が一段落した後、バゼットはランサーと共に世界各国を渡り歩き、封印指定を狩り続けているとの話だったが……。

 

「も、もしかして、俺が封印指定に認定されたとか……?」

「お前を狩りに来たなら、俺はとっくの昔にセイバーに追い出されてるだろうな」

 

 安堵すると共に懐かしい呼び名を聞いて思わず笑みが溢れる。

 

「どうした?」

「いや、セイバーって呼び方、ちょっと久しぶりだったから」

「ああ、なるほど。いや、俺にはこっちの呼び方の方がしっくり来るんだがな――――っと、これで最後だな」

 

 最後の一足を磨き終え、ランサーは立ち上がった。

 

「バゼットも居るのか?」

「いや、アイツはキャスターの所だ。ちょっと前に狩った封印指定の野郎に体を弄くられてたガキが居てな。時計塔で実験動物にするのも気に入らんから、奴に治療出来ないか相談に来たんだ」

 

 納得した。彼女ならきっと救ってくれるだろう。特に最近の彼女は子供に対してとても優しい。何故なら――――、

 

「でも、ビビッたぜ。まさか、奴にガキが出来るとは……」

 

 キャスターは赤ん坊を産んだ。聖杯の力を借り、受肉した際についでとばかりに色々と弄ったらしい。

 

「ああ、亜魅が生まれた時は本当に吃驚したな」

 

 もっとも、一番吃驚したのは葛木先生の変わり様の方だ。彼は亜魅を溺愛している。表情は相変わらず乏しいが、授業中に娘の事を生徒に聞かれた時、彼は娘が如何に可愛いかを力説した。あまりにも普段の彼とギャップが大き過ぎた為に誰もが言葉を失ったのを覚えている。

 まあ、少々目付きが悪いものの、亜魅は確かに可愛い。一度抱っこさせてもらった事があるけど、無邪気に笑う赤ん坊というのは実に愛らしい。

 

「最近、キャスターはうちに結構来るんだ。料理を本格的に習いたいって」

「花嫁修業ってか? ハハ、神代の魔女に教えを授けるなんざ、光栄の至りって奴じゃねーか?」

「考えてみると、確かに凄い事だよな……」

 

 談笑しながら廊下を歩き、居間に向うと、そこにはエプロン姿のイリヤの姿。

 本当なら数年の命だったらしい彼女もキャスターが調整を施し、人並みに生きられるようになった。今は彼女に触発されて、炊事や洗濯などの一般教養の勉強に励んでいる。

 俺達が入って来ると、イリヤは花が咲いたような笑顔を浮かべた。

 

「おかえりなさい、シロウ」

「ああ、ただいま」

 

 イリヤはキッチンに行き、お茶を持って来てくれた。なんだかとても楽しそうだ。

 

「ご機嫌だな、イリヤ」

「ええ、とってもご機嫌よ! だって――――」

 

 言い掛けて、イリヤは口を閉ざした。ニヤリと笑みを浮かべる。

 

「どうした?」

「ううん。なんでもないわ。それより、今日は合格発表の日よね? どうだった?」

「ああ、バッチリさ」

 

 合格の通知を見せると、イリヤは優しく微笑んだ。

 

「やったじゃない、シロウ。まあ、私は初めからシロウなら合格出来ると確信してたけどね」

「はは、ありがとう」

 

 合格通知を手にクルクル回りながら喜ぶイリヤに頬が綻ぶ。魔術を捨て、その時間を全て勉強に当てた甲斐があったというもの。

 本当は大学になど行かず、直ぐに就職しようと思っていた。一刻も早く一人前になって、アイツを安心させたかった。けど、この御時勢だ。最終学歴が高卒だと、後々苦労を掛けてしまいそうで、迷った挙句に大学への進学を決めた。

 

「イリヤ。サトリはどこに居る?」

「さっき、道場の掃除をしてたわよ」

「サンキュー」

 

 サトリとはセイバーの事。戦いを終えた後、セイバーは色々あって、元々の名前である日野悟を名乗る事にした。もっとも、サトルではやっぱり変なので、読みはサトリとした上でだ。

 以前の彼女は金髪碧眼という完全な西洋人顔だったから合わなかったけど、今の彼女は黒髪黒目。聊か、顔立ちが西洋人寄りだけど、嘗てよりは違和感が少ない。

 

「サトリ」

 

 一人、道場に向かい中に入ると、サトリは何だかボーっとした表情で床を雑巾で拭いていた。

 

「おーい、サトリ!」

 

 聞こえなかったのかと思い、少し声を大きくするがサトリは相変わらず上の空。

 最近、こういう事が多くなった。どうしたんだろう……。

 

「サトリ?」

 

 近寄って、肩に手を置くと、漸くサトリは士郎の存在に気が付いた。

 ハッとした表情であわあわしながら「おかえりなさい」と頭を下げる。

 

「ああ、ただいま」

 

 サトリは雑巾を絞り、バケツに戻すと立ち上がった。

 

「ご、ごめんね。もっと早く終わらせるつもりだったのに……。あ、お風呂沸かしてあるよ! 後、御飯も仕込みは終わってるから直ぐに出せるけど、どっちにする?」

 

 やっぱり、様子が少しおかしい。

 

「どうかした?」

「え?」

「何だか、最近ボーっとしてる事が多い気がする」

 

 士郎が問い掛けると、サトリは泣きそうな顔をした。

 

「ご、ごめんなさい」

「いや、別に責めてるわけじゃないんだ。ただ、心配で……」

「……ごめん」

 

 困った。謝って欲しいわけじゃないのに、サトリはすっかりネガティブモードだ。

 

「……とりあえず、御飯にしよう」

「うん。直ぐに仕度するね」

 

 せっせと後片付けをして道場を後にするサトリ。士郎は溜息を零すと額に手を当てながら彼女の背中を見送った。

 明らかに様子がおかしいのに、何が原因なのかが分からない。聞いても、ああして謝られてしまう。大学の合否が気になってるのかと思ったが、真っ先に聞いて来ないという事は違うという事だろうし……。

 

「一体、どうしたってんだ……」

 

 答が分からぬまま、時が過ぎていく。

 食事の間も時折サトリはボーっとしていた。

 

「おい、アイツどうしたんだ……?」

 

 ランサーもサトリの様子がおかしい事に気付いたらしくしきりに気にしている。

 

「それが、分からないんだ……」

 

 病気とも思えない。受肉したとは言え、サトリの体は常人を遥かに凌ぐスペックを誇る。よほど強力な毒でも喰らわない限り、風邪もひかないスーパーボディだ。

 

「悩みがあるのか聞いても『ごめんなさい』ばっかりだし」

「……何だろうな。お前さんに言い出し難い事なのか、それとも……」

「それとも?」

「お前に愛想を尽かしたとかかもな」

 

 からかうように言うランサーに士郎は表情を強張らせた。

 

「いや、悪い。それは無いよな。奴さんはお前にゾッコンだしよ」

「でも……、もしかしたら本当に……」

「それは無いわよ」

 

 味噌汁を啜りながら、イリヤが言った。相変わらずボーっとしているサトリを横目で見ながらイリヤは肩を竦める。

 

「それは断言してあげる。後は自分で推理してみなさい」

「何か知ってるなら教えてくれよ」

「駄目よ。サトリ自身が切り出すか、シロウが見抜くか、どちらにしても、私は教えない」

「なんでだよ!?」

「だって、これは夫婦の問題ってやつだもの」

「なんだよそれ……」

 

 結局、サトリの不調の原因は分からず仕舞いだった。

 そもそも、夫婦の問題と言われても、まだ結婚すらしてないのだが……。

 

 食事を終え、食器の後片付けを皆で協力し合って終わらせた後、士郎はお風呂に向った。その後ろにサトリも続く。初めて肌を重ねた日からの習慣で、士郎とサトリは一緒に風呂に入るようにしている。

 大抵の場合、その後は大人の時間となるのだが、ここ最近はサトリの不調もあって、ただ背中を流し合う程度だ。

 服を脱ぎ、背中を洗って貰いながら、士郎は思い切って切り出した。

 

「なあ、何があったんだよ」

 

 少し、キツイ物言いになってしまった。

 

「……あの、その」

 

 口篭るサトリに士郎は溜息を零す。

 

「どうして、教えてくれないんだよ……」

「それは……」

 

 分からない。サトリが何を考え、何を思っているのかがサッパリ分からない。

 愛想を尽かされたわけでは無いとイリヤは言っていたけど、ならどうして教えてくれないんだろう。己に言い難い悩み事とは一体……。

 考え込んでいると、ふと閃いた。

 

「……もしかして、帰りたいのか?」

「え?」

 

 そう考えると、納得がいく。つまり、ホームシックだ。

 サトリは元々この世界の住民じゃない。別の世界で死に、士郎が無理矢理サーヴァント・セイバーとして召喚した。彼女の故郷と同じ地名の場所はあったし、実際に二人で足を運んだ事もあるが、そこに彼女の生家は無かった。大学も同名のものはあったけど、彼女の在籍記録は無く、借りていたアパートも無かった。

 あの時、彼女はとても悲しそうにしていた。涙は見せなかったけど、とても辛そうな表情を浮かべていた。あれから三ヶ月が経過している。一時は立ち直ったように見えていたけど、実際は必死に抑え込んでいただけなのかもしれない。

 

「ごめんな……。俺がお前を召喚したから……」

 

 彼女を家に帰す事は出来ない。無理矢理連れて来た癖に無責任も甚だしい。己に出来る事は無意味な謝罪を繰り返す事ばかり……。

 

「ち、違うよ! そうじゃない!」

 

 サトリは慌てたように言った。

 そして、しばらく躊躇うように視線を彷徨わせた後、息を大きく吸い込んで言った。

 

「……あのね、俺――――」

 

 士郎はサトリの言葉に気を失いそうな程の衝撃を受けた。

 聞き間違えかと思った。だって、その言葉はあまりにも予想外だったから……。

 

「も、もう一度言ってくれないか?」

「う、うん」

 

 サトリは恥ずかしそうに顔を赤らめながら言った。

 

「……赤ちゃんが出来た」

 

 今度こそ、その単語の意味が脳に浸透し、全身にはちきれんばかりの衝撃を齎した。

 

「あ、赤ちゃん?」

「……うん」

「お、俺とサトリの赤ちゃん……?」

「ほ、他に居ないだろ」

 

 士郎はグイッと体を捻り、サトリの僅かに赤らんだ腹を見た。

 

「こ、ここに俺達の赤ちゃんが?」

「……うん。丁度、三ヶ月みたい。もう少ししたら、お腹が大きくなり始めるんだって、キャスターが教えてくれた」

「い、いつから気付いてたんだ!?」

「す、少し前。ちょっと、体調がおかしくてキャスターに診て貰ったの……そしたら」

「ど、どうして直ぐに教えてくれなかったんだよ!?」

「だ、だって……」

 

 じわりと涙を浮かべるサトリに士郎は慌てて謝った。

 

「ご、ごめん。でも、俺はずっと心配してたんだぞ……」

「……怖かったんだ」

「怖かった……?」

 

 思わず聞き返すと、サトリは泣きじゃくりながら言った。

 

「だって、俺は男だったんだよ? なのに、これからママになるんだ……。それが何だかとても悪い事をしてしまったみたいで……、それで……」

「サトリは……、俺との赤ん坊が出来て嫌なのか?」

 

 つい、意地悪な質問をしてしまった。サトリは必死に首を横に振り否定する。少し、ホッとした。

 

「士郎との赤ちゃんが出来た事は嬉しいよ。キャスターが俺の体も赤ん坊を産めるようにしてくれた事には感謝してるし、あの日、肌を重ねた事も後悔なんてしてない。ただ……」

「自信が無い?」

 

 小さく頷くサトリに士郎は微笑んだ。

 よく見れば、今のサトリの表情はあの時と同じだ。

 生家が無かった事に動揺し、自分の居場所を見失い掛けていたサトリ。涙も流さず、どこか虚ろな表情を浮かべていた。士郎は彼女がどこかに行ってしまう気がして、繋ぎ止めたくて、彼女と初めて肌を重ねた。

 事が終わった後、彼女はあろう事か今のような表情を浮かべて『本当に俺で良かったの?』と問い掛けて来た。

 

「サトリ」

 

 士郎は囁くように名前を呼び、彼女の頬に手を沿えた。

 

「俺、サトリが大好きだ」

「し、士郎……」

「俺はサトリとの子供が出来て嬉しい。確かに、俺も不安だ。正直、父親になるって実感がまだ湧いて来ない。でも、精一杯立派な父親になるつもりだ。だから、サトリも立派な母親になってくれ」

「でも……、俺は――――」

「俺が支える」

 

 士郎はキッパリと言った。

 

「サトリが立派な母親になれるように俺が支える。不安なら、俺を頼ってくれ」

「……士郎」

 

 サトリはお腹に手を当てて呟いた。

 

「俺はちゃんとしたママになれるかな?」

「なれるさ。それに、ならなきゃいけない。その為にいっぱい頑張らないとな」

「……そうだね。頑張らなきゃ。話し方とかも改めないとな……」

「それは別に……」

「駄目だよ。ママになるなら、子供が恥ずかい思いをしないようにしなきゃ……。服装とかももっと女らしくするよ。これから、もっとしっかり女にならなきゃいけないんだ」

「……サトリ」

「うん。なんだか、漸く覚悟を決められた気がするよ、色々」

 

 サトリは涙を拭い、微笑んだ。

 

「名前、考えないとね」

「そうだな……。俺もいっぱい考えて、頑張らないと……」

「ねえ、士郎」

「なんだ?」

「愛してる」

「ああ、俺も愛してる」



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