さっちん喰種 (にんにく大明神)
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彼女は学ばない

勢いと思いつきだけで始まります。

無双とかそういう要素は無いのであしからず。


 

 弓塚さつき。17歳。平均的な身長に体格、まだ幼さの残る若干整った顔、ツーサイドアップにした茶髪。

 どこにでもいるような女子高生といったいでたちだが、世界広しと言えどおよそ彼女ほど大変な思いをした女子高生はいないであろう。

 彼女はある日、平穏な日常から一息に世界の裏側に叩き落された。その後大変な苦労をすることになった決定的な出来事、そこに彼女の過失はほとんどない。あえて理由を挙げるとすれば彼女が少し才能豊か過ぎたという点。

 そう、その本人さえ気が付いていなかった才能が無ければ、彼女は空腹に耐える生活や路上生活をすることも無く、速やかに命を落としていたのだから(・・・・・・・・・・・・)

 

 彼女は一人の少年への淡い恋心から、通り魔が出るとされる夜の街を歩くという愚を犯した。しかし、それも彼女の歳を考えればそう責められることではないだろう。少女というのはえてして夢見がちなモノであり、足元を見失いながら危険な火遊びに手を出してしまうのだ。たいていはそこで痛い目に遭って現実を見ることになったり、運良く何も起こらずその内その行動に飽きたり、運が悪いと命を落としたりするのだ。

 しかし例外的に、運の悪さや間の悪さといったものを超越してしまった者、弓塚さつきの場合はどうなるのかといえば、

 

 彼女は吸血鬼になった。

 

 血を吸う鬼と書いて吸血鬼。

 夜の闇に身をひるがえし、処女の血を吸う。体を蝙蝠へと転じ日光と十字架に滅ぼされる。さまざまな伝承として現代に伝わるその人ならざる者は、確かに世界に存在した。表の世界で生きているほとんどの人間は一生気が付かないまま一生を終えてしまう。しかし、魔術師などの裏側の人間にとって、その存在はそう珍しいものでは無かった。犬や猿と同じく、一つの生物種であるのだ。

 そして、彼らは多くの伝承にある通り、血を吸った人間を同族にするという力を持っていた。

 ここまでくれば弓塚さつきが吸血鬼に血を吸われ、自らも吸血鬼になってしまったということが分かるだろう。

 問題は、この吸血鬼に血を吸われたものが吸血鬼になるという現象は、非常に稀に、しかも通常長い時間をかけて起きるというところなのだ。

 具体的には、『血を吸った相手が血を送り込み、その遺体が埋葬された後に、脳髄が溶けて魂が肉体から解放される。ここまでに数年をかけ、これでようやく食屍鬼(グール)と呼ばれる動く死体(リビングデッド)になる。グールは欠けた肉体を取り戻すために周囲の死体を喰らい、その過程で、さらに数年をかけて失った脳の変わりに幽体での脳を形成、知能を取り戻す。通常、ここでようやく吸血鬼と呼ばれる段階に至る』

 たいていはその間に聖職者に滅ぼされてしまったりするのだが、彼女弓塚さつきの肉体的なポテンシャルは非常に優れていたため、彼女はこの行程をで済ませて吸血鬼となった。

 

 血を欲する体を必死に誤魔化し、住所不定無職である事実から目を逸らしながらも、彼女は懸命に生きようとしている。

 自分と同じように吸血鬼になりかけている魔術師、吸血鬼に返り討ちに遭った音楽家と共に、今日も路上で笑顔を作る。

 

 

 

 

 その日は、特に何か特別な日だったという訳では無かった。

 繰り返すなんでもない日常の一点。吸血鬼となった弓塚さつきが送る平穏な日々の内の一日であった。

 強いて言うなら、その日のさつきはいつもより少し寝覚めが良かった。だがその程度のことはそんなに珍しいものでは無いし、やはり彼女の数奇な人生には日常的にとんでもないことが起こるのかもしれない。

 

 事の発端は、彼女の友人シオン・エルトナム・アトラシアの呟いた一言だった。

 

「さつき、海に行きましょう」

 

 彼女は吸血鬼であったが、この『海に行く』という言葉が意味するのは一般人が言う『海水浴に行く』と同じ意味であった。つまりは照り付ける太陽の下、水着で水と戯れるということである。

 力のある吸血鬼ならいざ知らず、彼女達は日の光に激痛を感じる極めて普通の吸血鬼だ。当然日中そんなことをすれば命に関わるのだが、シオンの言葉に冗談の色は無かった。

 

「それって、また琥珀さんに例の日焼け止めもらうってことだよね……?」

 

 さつきは頬を引きつらせながら聞き返した。

 実は以前もこのやり取りはあったのだ。そして、その時は日光は克服する方法が手に入った。狂気の科学者琥珀に頼るという形で。さつきが口にした『例の日焼け止め』とはこの琥珀が作った、吸血鬼でも日の下に出れるという代物のことである。

 結果的にはその時は様々な不都合が重なって本懐はほとんど遂げられなかったのだが、今シオンが口にしたのはその時の思惑の焼き直しということなのだろう。

 しかしさつきはあまり乗り気ではない様子を見せた。

 

「私は、……別にいいや。またろくなことが起きそうにないし……」

 

 軽い自嘲と共に吐き出された言葉には、わずかな哀愁が漂っていた。

 夏の蒸し暑い夜。さつきとて眩しい太陽は恋しかったし、ひんやりとした海水につかる想像は大変魅力的に思えた。しかしその計画が上手くいかないであろうことが予想できてしまうのだ。それはさつきがこの生活から学んだことであり、すなわち自分が良い思いをする出来事には必ず良からぬことが起こるということである。

 

「そう言うと思いました。しかし、その決断は些か早すぎると思いますよさつき」

 

 シオンは良い顔をしないさつきに、自信に満ちた目を向けて返答した。

 

「どういうことシオン?」

 

「実は――」

 

 合理主義者である彼女にしては珍しい程もったいをつけてから、シオンは得意げに言い放った。

 

「志貴に約束を取り付けました!」

 

「……!」

 

 思わず目を輝かせるさつき。

 志貴、というのは遠野志貴のことである。それは、さつきがこんな境遇に陥っても未だに変わらぬ恋心を持ち続ける相手であり、吸血鬼となったさつきにも以前のように察してくれる人間。そんなわけで、さつきとしては今のシオンの言葉は到底聞き流せるものでは無かった。

 しかし、一時目を輝かせたさつきだったが、再び表情は暗いものに変わった。

 志貴は、ともすれば自分以上に厄介な境遇にいる。加えて、さつきと同じように彼に思いを寄せる者は多い。

 志貴本人が約束したからといってそう上手くとは限らないのだ。

 

 ネガティブな姿勢を崩さないさつきに対して、それでもシオンは食い下がる。

 

「悲観する必要はありませんよさつき。秋葉にも許可を取ってあります」 

 

「本当!? ……でもそれだけじゃ」

 

「その日シエルは教会に定期報告に行きます」

 

「……でも」

 

「琥珀も当日は別件でついて行けないと」

 

「……」

 

 気難しい義妹、恐ろしい代行者、興味本位で事態をかき回す使用人。そんなさつきの不安要素を次々と排していくシオンに、さつきも次第にポジティブな考えを持ち始める。

 自分も久しぶりに報われる時が来たのかもしれない。今まで路地裏生活を頑張ってきた自分も、日の目を浴びる日が来たのだ。

 

「日焼け止めについてですが、琥珀は対価としてさつきに実験協力を要請しています」

 

「え……」

 

 明るくなりかけたさつきの表情に陰が差すが、シオンは強気な姿勢を崩さない。

 

「さつき、そこで足踏みをしているようではいつまでも状況は進展しませんよ。今こそやる時です」

 

「……そう、だよね。うん、私頑張るよ! 遠野君との砂浜デートのために!!」

 

 勝手に脳内で砂浜デートにまで昇華させてしまっているあたり、彼女の頭が依然女子高生然としたフワフワしたものであることがしっかりと窺えるのだが、とにかく彼女はシオンの提案に賛同した。

 こんな訳でさつきは先に控える大事に目を奪われ、琥珀の実験に付き合うというある意味最大の問題をあっさり受け入れてしまったのだ。

 そしてそれが、今回の一連の失敗に繋がることになった原因でもあった。

 

 

 

 

 使われなくなった下水を歩くこと数十分。さつきは遠野の屋敷の地下にある琥珀の研究室に辿り着いた。

 怪しげな照明の元ぼんやり浮かび上がる納屋。以前訪れたときと同じように怪しげな植物のツタがのさばり、妙に甘ったるい蒸気が漏れだしている。

 さつきがノックをして中にいるであろう人物に呼びかけると、すぐさま割烹着姿の琥珀が部屋の中へ迎え入れた。黒いフードを目深にかぶり、片手はしっかり箒の柄を握りしめている。

 

「いやー、待ってました待ってました」

 

 琥珀はさつきの手を握ってブンブンと縦に振る。

 さつきはされるがままになりつつも、自分が協力をしなければならないという実験について尋ねてみた。

 琥珀はさつきの手を握るのを止めると、いかにも気楽そうにそれに答えて見せた。

 

「なーに、難しいことじゃありませんよ。ちょろーっと宇宙の果てを見てきてもらうだけですから! ……あっ、これ例の日焼け止め、副作用も無くなったしいっぱい出来ちゃったんで全部あげます」

 

「あ、どうも……え、宇宙?」

 

 琥珀から大きな紙袋を受け取りつつさつきは思わず聞き返す。

 

「はい! この次元転移装置で、こう、ぐわーっとやれば宇宙の果てに行けるはずですから」

 

 大仰な身振りで次元転移装置を指差す琥珀。そこにはいかにも(・・・・)といった風体の機械が鎮座していた。

 さつきの背丈の二倍はあろうかという高さのガラス張りの容器。容器の中は緑色の溶液で満たされており、炭酸飲料のように泡立っていた。

 

「あー、安心して下さい。志貴さんは無事帰ってきたし命の危険は無いと思います。……ただ、今イチ感想がフワフワしていて要領を得なかったので」

 

「あー、だから私が行って詳細に報告しろと……」

 

「そのとーり!! それではさっさか行きましょう!」

 

 そう言うと琥珀は機械の横のパネルをいじり始めた。

 何をすればいいか分からずさつきがその様子を眺めていると、しばらくして容器の中から液体が無くなり容器の前面が開いた。

 

「ささ、その中に入ってくださいまし」

 

「……え? この服のままですか?」

 

「いえ、宇宙の果てで裸でうろつくなら構いませんが………弓塚さんはそう言うご趣味が――」

 

「あ、ありません!」

 

 琥珀とそんなやり取りをしつつ、さつきは容器の中に足を踏み入れた。

 底には何やら塗り固められたような跡があったが、それを除けば容器内部はおおよそ外から見た通りであった。

 

「あ、この日焼け止めも持っていってください。宇宙の果ては今昼かもしれませんから! ……ちなみに使い方ですが、一度全身に塗れば一週間は保ちます。お風呂オッケーの優れモノ、コハク印の超優良薬品です」

 

「あ、はいどうも」

 

 容器の中にいるさつきに先程の紙袋を渡すと、琥珀は容器のふたを閉めた。

 この時さつきは宇宙の話はなかばいい加減に聞き流していた。宇宙の果てに朝昼があるとか、いかにもいい加減な話をまともに受け取る神経は持ち合わせていなかったのだ。

 しかし彼女は同時に大事な言葉を聞き流していた。

 琥珀は日焼け止めが一週間単位で効力があると言った。そして、それを紙袋にたくさん渡されたことにどんな意味があるか考えようともしなかった。

 さまざまなことを見落としながら、ただこの実験が早く終わればいいななどと考えていた。

 

「それじゃあ始めますねー」

 

 さつきの耳に容器越しにくぐもった琥珀の声が届く。

 そして彼女はにわかに驚いた。頭上から紫色の液体があふれ出してきたのだ。

 

「ちょ、琥珀さーん。濡れちゃいます」

 

「大丈夫ですよー、うふふ」

 

 容器にたまった液体はだんだんとかさを増していき、ついにはさつきの膝の高さに達しようかというところまで溜まって行く。

 しかし頭上から降り注ぐ液体の勢いは止む気配が無い。

 

「こ、琥珀さーん。これ止まらないんですけどー!?」

 

「あ、大丈夫ですよー」

 

「これ、もしかして一番上まで溜まっちゃったりするんじゃないですかー!?」

 

「…………」

 

「………え?」

 

 水かさはどんどん増していく。

 腰、肩、顎、と次第にさつきの身体は液体の海に沈んでいく。

 

「ま、大丈夫ですよ」

 

「全然大丈夫じゃないです! 私人間辞めちゃいましたけど流石に空気が無いと死んじゃいます―!!」

 

「大丈夫でーす」

 

 何を言っても大丈夫としか言わない琥珀にいい加減危機感を覚えるさつき。この琥珀という少女はいつだって小さな企みで大きな惨事を作り出してきたのだ。

 そして同時に、自分は窒息で死ぬことがあるのかだろうかと疑問にも思った。

 

「ちょ、琥珀さん! やばい、やばいです!」

 

「大丈夫ですよー」

 

 いよいよ水かさはさつきの身長を越した。

 彼女は必死に足をばたつかせて残った空気の層を求めたが、じきに容器は完全に液体で満たされた。

 

「もがもが! もがもがー!」

 

「あはー、何を言っているか分かりませんねー。でも大丈夫ですよ、もうどうしようもありませんから」

 

 遠のく意識の中さつきが最後に見たのは、そう言って笑う琥珀の少女のような笑顔だった。

 

 

「いやーわくわくしますねー。喰種(グール)ってどんな生き物なんでしょう? はぁ、一匹くらい捕まえてきてくれないでしょうか」

 




琥珀さん周りに深い設定はありません。
今後出てくる可能性も大分低いです。むしろ月姫勢はさっちんくらいです。

設定はガバガバで行きます。
暖かく見守ってくれるとありがたい。


感想、指摘等は遠慮せずにいただけると嬉しいです。


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わりと良くある話

しばらく導入です。


 喰種対策局。英訳のCommission of Counter Ghoulを略してCCG。世に潜み人を喰らう悪鬼から人の社会を守る国家機関である。

 彼らは日夜自らの身を戦いに投じ、愛する者を守るために身を粉にする。 

 

 CCGの喰種捜査官は二人一組で行動するのが通例であった。

 上位捜査官と下位捜査官の組み合わせである。それは教育のためであったり、安全のためであったり、様々な理由があるのだが、有馬貴将と平子丈もそういったペアの一つであった。

 CCGにおいて天才と名高い有馬、そんな彼が組む最初のコンビだということで、このペアへの期待は結成当初から相当なものであった。そして彼らはその期待を裏切ることは無かった。

 有馬の高い実力と平子の堅実な実力も相まって、二人は危なげなく着実に実績を積み上げていった。多くの名のある喰種の屍を重ね、結成から一年もしたころには局内で当然のように大きな戦力の一つとして数え上げられた。

 そこには目立った失敗や犠牲は見られず、あえて彼らがした苦労をあげるとすれば、平子と有馬の認識の齟齬程度であろう。所謂天才である有馬の視点は、凡人であった平子には理解しがたい点が多かったのだ。

 しかし、それでも平子は適度に折り合いをつけつつなんとか有馬について行った。

 次第に無愛想な二人の間にも絆のようなものが芽生え、気付けば六年の月日が経っていた。その六年の間に有馬は当然のように階級を特等まで引き上げ、平子もまた明日の叙任式で上等捜査官となる。

 そして、平子が上位捜査官となることは、すなわち二人のコンビが解消されることと同義である。つまり六年間連れ立ったペアも、今日この日までなのだ。明日からはそれぞれ別の現場で戦うことになる。

 

 さて、この解散にあたって、この二人は驚くほど無感動であった。と、少なくとも周囲にはそう見えた。

 仮にも六年連れ立った仲であるというのに、平子の昇進の旨を知らされた際もこの二人は二三言葉を交わしただけですぐさま仕事の話に移っていた。

 しかし、それも不仲であるからではない。それが二人にとっての普通だったのだ。

 互いに死別するわけでもなし、ただ現場が変わるだけでいずれはまた共闘する日も来るだろう。そんな程度の認識である。

 

 とはいえ、このまま叙任式を迎えてしまいそうな二人を見て放っておかない同僚もいた。

 その同僚の勧めもあって、二人は最後の夜に食事に行くことにした。といっても、飲み屋では無くどこにでもあるようなファミリーレストランにふらっと立ち寄った程度である。

 

 

 

 

 

 子連れの家族や学生たちの喧騒の中、二十代後半の男二人は黙々と食事をとった。近くの席の学生のカップルにクスクスと笑われていることに平子は気付いたが、彼は特に反応することも無くドリアを完食した。

 有馬の奢りでその店を出ると、夏にしては涼しげな風が二人の間を通り過ぎた。

 平子はこのまま解散しそうだと踏んでいたが、彼にとって意外なことに有馬は少し話をしよう、と平子を公園のベンチに誘った。

 対する有馬にも、特に伝えたいことがあった訳では無い。

 純粋なる気まぐれ。いつもは右に曲がる道を、何となく左に曲がってみようという程度の思い付きだ。

 そして、その思い付きは平子丈にとっての今後に少なからず影響を及ぼすことになる重大な分岐となった。

 

 

「話ってなんですか?」

 

「ほら、このコンビはこういったことってしなかっただろう? 最後くらいは、と思ってね」

 

 緑豊かな公園。

 都心の中のオアシスといった立ち位置なのか、それなりの広さを持ち、地面はランニング用に舗装されていた。

 昼ならば子供や老人で賑わいそうなものだが、喰種の出る街の午後十時過ぎとなれば話は違う。二人の他に人影は無く、ポツポツと浮かぶ街灯の明かりも相まって静かな公園というよりどこか寂しげな公園といった様子である。

 その灯りの一つの元にある三人掛け程度の木製のベンチ、公園の中心付近にあるそれに二人は腰を掛けた。

 

「それとも嫌だったかな」

 

「……いえ、なんというか意外だっただけです」

 

「そうだね、自分でも意外だ」

 

 二人はお互いの顔を見ることもせず、ぼんやりと前方を見ながら言葉を交わした。

 内容はさまざまであるが、喰種捜査官という身分であることから必然的に喰種が話の中心となった。

 自分達の討伐した名のある喰種についてや、違う班から聞いた珍しい喰種の話。ピエロマスクの掃討や、四区で追い詰めたもののリーダーを逃した喰種集団。

 喰種の話が一通り尽きると話題は私生活のことに移っていった。

 

「有馬さんは結婚とかは考えないんですか?」

 

「そういうタケはどうなんだい? 君だってたいして歳は変わらないだろう」

 

「……こんな仕事ですし、俺は有馬さんと違っていつ死ぬか分かりませんから。所帯を持つのはちょっと……。出会いもありませんし」

 

「いつ死ぬか分からないのはお互い様だよ。出会いが無いのもね。……そうだ、今度篠原さんにでも聞いてみたらどうかな。なかなかの愛妻家だと聞くし、勉強になるんじゃないか」

 

「……ですかね」

 

 想像より話が弾んだことに平子は純粋に驚いていた。

 どこか一般の人と違う視点を持った有馬に、平子はこれまでどこか距離を感じていたのだ。平子とて有馬との仲は特別悪かったとは思っていなかったし、同じ組織に身を置く同僚としてむしろ関係は良好だったと思っていた。それでも平子丈という個人と有馬貴将という個人の間には埋め得ぬ溝があるようにも感じていた。

 それがどうだろう。違う視点だと思っていたのは有馬の性格が天然だっただけだったのかもしれないと平子は思い始めた。

 同時に、もう少しこういった時間を持つのも良かったかもしれないと若干の後悔のような物が胸に去来してきたころだった。

 

「…………」

 

「…………」

 

 二人して言葉を失う。

 息を呑むような驚愕では無く、静かな驚き。

 眼前に突如として直径1mほどの黒い球体が現れたのだ。

 

「……なんでしょうね、コレ」

 

「穴だろう」

 

「いや、それはそうなんですが」

 

 有馬が天然であることを再確認しつつ、平子は仕方なく自分で観察する。

 しかしどう見ても黒い球体としか表現できなかった。いや、正確には穴だ。まるで空間に穴が穿たれているかのようである。

 

「それじゃあタケ、今日は楽しかったよ。明日は別に早くないけど、そろそろ帰って寝るといい」

 

「……はい」

 

 目の前の怪奇現象にたいした興味を見せず、有馬はベンチから立ち上がった。それにつられるような形で平子も立ち上がる。彼もまたこの現象に対して自分が出来ることは無いと判断したのだ。

 二人がその場を去ろうとしたとき、またしても状況が変わる。宙に浮かんでいる球体から、人が出てきたのだ。

 黄色いセーターに青のプリーツスカート。どう見ても女子高生である。

 女子高生は地面に落下すると、短いうめき声をあげて動かなくなった。続いて四角い紙袋が硬質な音を響かせて落下した。二人がそれに目を取られている間、球体は景色に溶け込むように見えなくなった。

 

「タケ」

 

「……はい」

 

「出会いだ」

 

「……さすがにそれは」

 

「ああ、冗談だ」

 

 表情一つ崩さずにそんなことを言う有馬に平子は何とも言えない気持ちになったが、その平子も真顔のままなので、はたから見れば気味が悪いと評されることだろう。

 しかし平子も内心は動揺していた。まるでSF作品である。今の光景に平子は何となく、昔見たネコ型ロボットが登場するアニメで、タイムマシンが到着した先に出来る穴を連想した。

 どうすれば良いか分からなかった平子は、とりあえず少女が生きているか確認することにした。

 しゃがんで女子高生の脈をとってみれば、規則正しく脈打っている。別段死にかけているということも無く、どうやらただ気を失っているだけのようだった。

 

「この子どうしましょう」

 

「落し物は交番にという訳では無いけど、やっぱりここに置き去りにするのは危ないだろう。交番まで背負っていこう」

 

「そうですね」

 

 気を失った女子高生を夜の公園に置いて行くのは危険だ、という意見に平子は賛同した。それはこの子が女子高生だからという以前に、この街には喰種が出るのだ。彼女を置いて行くというのはライオンの檻にシマウマの子供を放り込むことに等しい。

 有馬は少女を危なげなく抱きかかえるとそのまま歩き出した。平子は一緒に落下してきた紙袋を拾うと、こちらを気にせず公園の出口に進んでいく有馬を慌てて追った。

 

「この辺に交番ってあったっけ?」

 

「駅前に一つあったかと」

 

「じゃあそこを目指そうか」

 

 

 

 

「公園のベンチで気を失っていたので、危ないから連れてきた、ということでいいですか?」

 

「はい」

 

 しばらくして交番は見つかった。

 眠たげにうつらうつらとしていた警官を平子が起こすと、その少し太り気味の警官は初め怪訝な目で二人を見た。理由はもちろん有馬が抱きかかえる少女であり、いくら有馬が理知的な容姿をしていようとも、気を失った女子高生という要素はいやおうなしに犯罪の香りを漂わせる。しかし、有馬が状況を説明し、身分証を見せるとすぐさまその警戒は解かれた。

 説明の際、有馬は例の怪奇現象については黙っていた。そんなことを口にすれば頭のおかしい奴だと再び疑われることになるからだ。平子もまた有馬と同じ考えの様で、いつもの仏頂面を顔に張り付けたまま黙って事の成り行きを見守った。

 件の女子高生はといえば、交番についても一向に目を覚ます気配が無く、交番の奥の座敷に寝かされた。平子はその傍らに、彼女と共に落下してきた紙袋を置いた。

 

「それじゃあ、念のために連絡先を教えておいてもらえませんか」

 

 すっかり態度の改まった警官が有馬にそう言った。

 彼はすでに二人を疑っていなかったが、こういった特殊な状況では不測の事態に備えて連絡先を聞いておくのが常識だったのだ。

 

「それじゃあこれを」

 

 有馬は胸のポケットから小さな革のカードケースを取り出し、その中から一枚の紙片を抜き取った。

 

「有馬さん、名刺持ってるんですか」

 

「うん。特等になるといろいろ面倒なことが増えるんだよ。宇井にも常備しろって口を酸っぱくして言われてたし。タケも特等に上がるなら気を付けた方がいいよ」

 

「……はぁ」

 

 自分の名刺をしげしげと見つめた有馬は、それをゆっくりとテーブルに置いた。

 あくまでなろうとすれば特等になれる、そんな口ぶりの有馬に、平子はもうわざわざ何か言うことも無かった。

 

「はい、確かに」

 

 警官は名刺を少し眺めてから、それを大事そうにデスクの一番上の引き出しにしまった。

 

「それじゃあ、あの女の子をお願いします」

 

「お願いします」

 

 一礼して二人は交番を後にした。

 有馬が腕時計を確認すると、時刻は既に11半を回ろうかという頃である。

 

「それじゃあタケ。今度こそさよならだ。急がないと終電を逃すんじゃないのか」

 

「まだ大丈夫です。今日はありがとうございました」

 

「うん。こっちも楽しかったよ。それじゃあ」

 

 軽く手を上げる有馬に平子は会釈で返す。

 こうして二人はコンビ最後の日を終えた。

 

 有馬はこの近辺に住んでいるのか、改札には向かわずに住宅街に向かって歩き始めた。

 平子は改札を通り過ぎ、丁度到着した各駅停車に乗って自宅を目指した。そして家に着くころには黒い穴から落ちてきた少女のことなどほとんど忘れ去ってしまっていた。




この作品では平子さんが中心人物として展開していきます。


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世界が変わっても路地裏は変わらずそこにある

まだまだ導入です。


 

 さつきが目を覚ますと、そこは畳張りの六畳ほどの空間だった。天井からは、ひもを引っ張ると三段階で光が切り替わる木製のペンダントライトがぶら下がっている。

 部屋の中心には昭和のドラマでひっくり返されたりされなかったりするちゃぶ台。その上には地味な柄の湯飲みが二つばかり。さらに急須と電気ポットが置いてあり、部屋の中にはそこはかとない生活感が出ていた。

 

「えーと、私はいったいどうしてこんなところに……?」

 

 体を起こしてみると、さつきはすぐそばに琥珀からもらった日焼け止めの入った紙袋を発見した。

 そうして彼女は自分の記憶に残る最後の瞬間を思い出した。自分は琥珀の実験に付き合っておかしな容器に詰め込まれたのだ。そして頭上からあふれる液体が止まらず、容器に満ちたその液体に溺れて意識を失ったのだ。

 

「……吸血鬼って溺れるんだ」

 

 同時に実験の目的を思い出す。

 宇宙の果てを見てくる。たしかそんなフワフワしたものだったはずである。

 

「……もしかしてここが宇宙の果て……? ハハッ、いやいやそんなわけないよ。琥珀さんにからかわれてるに決まってる」

 

 手をぶんぶんと振りながら笑って見せるさつき。それは自分に言い聞かせているようにも見え、事実彼女の笑いは引きつっていた。

 さつきは楽観しようにも過去に琥珀の行動が起こした惨事を知りすぎている。ここが宇宙の果てでなかったとしても、さらなる困った事態になっている可能性は否定できない。

 

「それにしても、ここどこだろう……?」

 

 さつきの記憶では、遠野の屋敷に和室は無かったはずである。つまり、実験が終わってどこかに運び込まれたのだとしても、そこは遠野の屋敷ではないということになる。

 見知らぬ場所であるということで、さつきの警戒心が注意を呼びかけ始める。

 ――余談だが、実は庭を深くまで行くと使用人が住む離れがあり、そこには和室がある。しかしそんなことはさつきには知る由も無い。

 

「おっ、目が覚めたみたいだね。どこか痛いところとかないかな?」

 

 唐突に和室のふすまが開き、小太りの警察官と思しき制服を着た男性が入ってきた。

 その目は優しげでさつきにもこの男性に悪意の類が無いものと判断できた。もっとも、仮に悪意があったとしてもさつきには対処できる力があるのだが。

 

「あ、はい大丈夫です。……それで、あの――」

 

「……ん、何かな?」

 

 どこか怪訝そうなさつきに、男性――この交番の巡査は尋ねる。

 対するさつきは若干の人見知りを発揮しながらも、巡査の服装について言及した。

 

「お巡りさんですよね……?」

 

「あ、ああそうか。覚えていないんだね。……君は公園のベンチで気を失っているところを保護されたんだ。優しい人が通りかかってくれて良かったねえ」

 

「公園のベンチに……、そうですか。ありがとうございます」

 

 丁寧に頭を下げるさつきに巡査は慌てて手を振って頭を上げさせる。

 

「いやいや、私は君を預かっていただけで保護したのは別の人なんだ。……ちょっと待っててね」

 

 そういうと巡査は入ってきたところから出て行き、しばらく何かを漁る音を響かせてから再び室内に戻ってきた。その手には一枚の紙片が握られている。

 

「ほら、これ。この名刺の人が君をここまで運んできてくれたんだ」

 

 巡査が名刺を渡す。

 さつきが名刺に目を通していると、巡査は何やら羨望した様子でさつきを保護したという人間について語り始める。

 

「君を保護した人はCCGの捜査官なんだ。しかも特等! すごいなぁ……。私もCCGに入りたかったんだけどね、やっぱり怖いものは怖くてねぇ。結局街のお巡りさんさ」

 

 照れくさそうに笑う巡査だったが、さつきは彼の言葉の中に耳慣れない単語を聞きとがめた。

 

「CCG……?」

 

「あ、ああ。あんまりこういう言い方は一般じゃないのかな。喰種対策局って言えばわかるかい?」

 

「グール対策局……えーと」

 

 なおも頭に疑問符を浮かべるさつきを見て巡査は訝しむ。現代社会に生きていて、喰種対策局の名を聞いたことが無いというのははっきり言って珍しいからだ。

 特に喰種の活動が活発なこの東京において、その名に触れないことはまずない。

 眉をひそめる巡査にさつきはおどおどしながらも質問する。

 

「グールって、あの食屍鬼(グール)のことですか?」

 

「あのグールもどのグールもないよ。グールは喰種(グール)さ」

 

 さつきは困惑する。

 彼女の知識では、一般人は死徒はもちろん食屍鬼(グール)のことなど知っているはずがないのだ。それはシエルのような人知れず死徒を葬る教会の代行者などが隠蔽工作をするためであり、実際そんな存在が公になれば世間は大騒ぎだろう。

 さつきはカレー臭い法衣を纏う代行者の姿を脳裏に描いて思わず身を震わせるが、同時に自分と巡査の間に何か決定的な認識の違いがあることを感じ始めていた。

 対する巡査はいよいよさつきに不信感を持ち始める。

 

「君、もしかして頭でも打ったんじゃ……」

 

「あ、あー思い出しました! 食屍鬼対策局ね、あーなんで忘れてたんだろう。すみませんほんと、アハハハ」

 

 白々しいほどの誤魔化しだった。 

 巡査の怪訝な目は変わらず、耐え切れなくなったさつきはこの場を脱出することに腹を決めた。いろいろ詮索されうっかり自分の名前が相手に伝わり、それが行方不明者として届出を出されている人間のモノだと分かった場合、さらなる面倒は避けられないと踏んだのだ。

 さつきはこそこそと近くにある日焼け止めの入った袋を掴むと、勢いよく立ち上がった。

 

「あ、それじゃあ私はそろそろお暇させていただきます! 今日は本当にありがとうございました」

 

 そそくさとその場を後にしようとするさつき。

 自分の横を足早に通り過ぎようとする女子高生の腕を、巡査は慌ててつかんで引き留めた。

 

「何を言ってるんだ君は。もうこんな時間だし、今日はここに泊まっていくか親御さんを呼んで迎えに来てもらうんだ」

 

 そういって巡査が指し示した壁のデジタル時計は、0時35分を表示していた。

 

「い、いや私の家はほんとすぐ近くなんで大丈夫です! 走って三分かからないくらい! うわー近いなー、ってことで離してください!」

 

「じゃあ私がついて行ってあげるよ、ほんとに夜道は危ないんだ!」

 

「結構です!」

 

 適当な嘘をでっちあげるさつきに対し、あくまで職務精神を全うしようとする巡査。巡査のそれはお手本のような立派な心がけだったが、今のさつきには迷惑この上なかった。

 

「ほんとに、大丈夫ですから!」

 

「うわっ、君力強いなあ」

 

 派出所内の押し問答はさつきに軍配が上がった。見た目は女子高生であっても彼女は吸血鬼である。死徒二十七祖の番外位に数えられるアカシャの蛇を親に持つ才能豊かな死徒なのだ。

 当然のようにその膂力は成人男性のそれをはるかに超越している。

 巡査の腕を振り払い、紙袋を抱えたさつきは勢いよく派出所を飛び出していった。

 そして最後に振り返って、巡査に最終確認をする。

 

「あの、ここって宇宙の果てだったりします?」

 

 既にさつきを追うのを諦めた巡査が固まった。

 痛いほどの沈黙の後、

 

「……随分詩的なことを聞くね君は」

 

「はは……」

 

「…………とりあえず病院に行こうか」

 

 さつきはお礼を言って駆けだした。

 心の中では琥珀に対する恨み言のようなものを吐き出しながら、とりあえず服は着てきて良かったと再確認した。

 

 

 

 

 さて、さつきの当面の目標は三咲町に帰ることである。

 そこまで行ってしまえばあとは再びシオン達となんでもない日常を過ごせばいい。さつきはそんなことを考えていた。

 そのためにはまず現在位置の確認である。

 幸運なことに、さつきは自身の大まかな位置を理解していた。派出所を出てすぐのところにあったJRの駅の名前に見覚えがあったのだ。

 実際に降りたことは無かったが、そこが三咲の駅からおよそ十数駅程度のところであることは知っていた。

 終電はとうに出た後であったが、そもそもさつきに電車に乗る金は無い。さつきは当然のように10㎞以上ある距離を徒歩で帰ることを選択した。

 事実、彼女は動きづらいローファーでも電車などより早く移動することが出来た。ただ、走っている途中で自分が何の疑問も無くその選択をしたことに気が付いて、さつきはいよいよ自分が人外じみてきたことを痛感しいたたまれない気持ちになった。

 

 線路沿いを、時に塀の上を、時に家屋の上を走っていたさつきだったが、ある時異変に気が付いた。

 気付かないうちに美咲の駅を越えたところにいる。

 

「……そんなに考え事してたのかなぁ。観布子まで通り越してるよ」

 

 そう、三咲の隣にある観布子の駅のさらにその次の駅付近まで来ていたのだ。

 生ぬるい夜風を切って引き返すさつき。悪い予感を全身に感じながらも、彼女は力の限り走った。

 

 そして数分後、さつきはいよいよ現状を理解した。

 

「どうしよう、三咲町が無くなっちゃった……、ついでに観布子市も」

 

 三咲の駅と観布子の駅が無い。それどころか街自体が無いのだ。

 三咲町と観布子市が無くなり、その周囲の地域がそのまま連結している。

 絶句するさつき。琥珀はそんな大それたことまでしでかせるようになったのだろうか。

 

「それとも、私が違う世界に来ちゃったのかな……なーんて。ハハ」

 

 さつきの口から乾いた笑いがこぼれる。

 観布子市と三咲町を世界から抹消するか、それともさつきを異世界に飛ばすか、そのどちらが現実的なのかさつきには見当もつかなかったが、どちらにしたって最悪の事態であることには変わりない。

 

「どうしよう、これじゃあ遠野君と海行けない……」

 

 抱きかかえた日焼け止めを強く抱きしめるさつき。

 もっと気にするべきことがあるような気もしたが、彼女の思考は完全に止まってしまった。

 さつきはその場にへたり込むと、放心状態で空を見上げた。かつて自分が人間だったころ、夏の大三角形と教わった星の群れを見つけようとしてみるが、星の並びが三角形になっているところがたくさんありすぎて彼女にはどれが夏の大三角なのか見分けがつかなかった。

 さつきは星にまで裏切られたような気分で視線を地面に落とす。

 

「なんか私の人生こんなのばっかりだなぁ……」

 

 

 数時間後、朝陽が昇ろうかという時間になってさつきは再び動き出した。

 このままここに居ては日光に焼かれてもだえ苦しむことになってしまう。とりあえずは日光を遮れる場所、廃工場でも路地裏でも良い、そこに身を隠そうと思い立ったのだ。

 

「うん、琥珀さんだって鬼じゃないんだし、その内何とかしてくれるよね!」

 

 本日の寝床と見定めた路地裏の隅で、さつきは自身を鼓舞するようにそう呟く。

 むしろそうであってもらわないと自分の精神がもたないのだ。

 適当に見繕ったダンボールを、日光が当たらないことを厳重に確認した場所に敷き、さつきはその上に寝転がった。

 

「おやすみなさい。目が覚めたら全部夢だったとか、そんなだったらいいなぁ……」

 

 希望的観測に全ての希望をつぎ込み、こんな慣れない世界でも路地裏にはある程度の安心感を覚える自分に対してがっかりしながらもさつきはゆっくり目を閉じた。

 

 

 また暑い夏の一日が始まる。

 多くの人が活動を開始しようという午前七時前。一人の若い吸血鬼は自らの未来を憂いながら、路地裏の隅で体を休める。

 この街に、すぐ近くに、人の肉を喰らう喰種(グール)が存在することにも気付かないまま……。

 




他の連載と比べて一話一話を短めにしようと思います。
区切りをつけやすいので。


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ヒトを食べるヒト

三人称難しいです。
おかしなところがあったら指摘していただけるとありがたいです。


 

 

「…………おい、見ろよ!」

 

 太陽がその日の役割を果たし、遠い稜線に消えようかという夕暮れ時。

 繁華街の外れの路地裏に、押し殺したような興奮した声が響いた。

 

「嘘だろ……、俺たちどんだけラッキーなんだよ!」

 

 最初の声に返答するかのようにもう一つの喜悦の声が上がる。

 その声からは疑いようのない歓喜と、そして少しばかりの安堵の色が見て取れた。

 

 路地裏に現れたのは二人組の男性であった。

 パーカーにジーンズというカジュアルな服装の若者と、グレーのスーツというサラリーマン風の若者。組み合わせとしては、違う道を進んだ高校の頃の同級生が偶然出会って、これから飲みに行こうというようにも見える。

 しかし、一時でも彼らを観察した人ならばすぐに気が付くであろう。二人の服装が少し汚れすぎていることに。そして、二人の頬が健康体と呼ぶには少々こけすぎていることに。

 つまり、二人の立ち居姿は世間的に見れば浮浪者というものに近かった。

 そして、実際二人は浮浪者であった。家も無く仕事も無い。社会から見捨てられたような存在だが、彼らはそもそもその出生からして社会の一員として認められていなかった。

 喰種(グール)。人と同じ姿をしながらも特有の捕食器官を持ち、その食料は同じ姿かたちをした人間であるという人類の天敵。

 それがこの二人であった。

 

 

「しっかし、『食事』なんて何時ぶりだろうなぁ……」

 

「最近ここらへんで勢いがいいナントカの樹とかいう集団、あいつらにほとんどの喰場奪われちまったしな」

 

 感慨深く呟く二人。その足元では一人の少女が小さな寝息を立てていた。

 ここで言う『食事』とは、当然この少女を食すという意である。

 

「しかもこれ、女子高生だろ? 十代の女の肉は最高なんだよ」

 

「……俺はもう少し脂がのってた方がいい」

 

「贅沢言うなよ。それに俺はこのぐらい引き締まってた方が……。時代はヘルシー志向さ」

 

「餓死寸前の奴が良く言うぜ」

 

 そうして笑いあう二人。その目にはこれまでの苦労と、隠しきれない疲労がありありと映し出されている。

 この少女のおかげでまた生きていける。その事実から、二人は食欲と同じくらい感謝の気持ちを感じていた。

 

「それじゃあ、さくっと殺そう」

 

 感動も冷めやらぬまま、スーツを着た男が口を開く。もたもたしていたらこの御馳走を他の喰種にかっさらわれてしまうかもしれないからである。

 しかしもう一人が不満げな声をあげた。

 

「……俺、生きたまま喰いてえ」

 

「おいおい趣味悪いなお前」

 

「せ、せっかくの御馳走なんだ。俺は楽しみながら喰いたい!」

 

 興奮した様子で一人がまくし立てる。その目は紅く充血していき、終いには人間のそれとは全く異なる喰種特有の瞳――赫眼となった。

 しかし、相棒の空腹が限界を迎えようとしていることを悟りつつも、スーツ姿の喰種はその提案を却下した。

 

「駄目だ。まだ少し明るいし、こんなところで悲鳴でも上げられたらすぐに人が集まってくる。ここは安全に行こう」

 

「……でも俺は!」

 

「派手なことやって白鳩(ハト)に目ぇ付けられたらどうすんだよ。俺らみたいな力の無い喰種はそんなことなったら一貫の終りだぞ」

 

「……」

 

「………分かってくれ。踊り食いならまた今度余裕のあるときにやればいいだろ、な?」

 

 あくまで冷静に相棒を宥めようとするスーツの喰種に、もう一人も納得したのか、うつむいて「ああ」と呟いた。

 その様子を見てスーツの喰種は安堵の溜め息をつく。食事に余計なスリルはいらないというのが彼の持論である。

 実際、彼の言ったことはまさしく真であった。力の無い喰種はすぐに淘汰されるという事実は、全ての喰種の共通認識であり、変えようのない世界のルールなのだ。

 

「それじゃあ殺すけど、……お前やるか?」

 

「いや、いい……」

 

 スーツの喰種は相棒の返答を聞くと、腕まくりをして少女に向き直った。

 首を折るつもりである。余計な血しぶきを出せば、数少ない衣服を駄目にしてしまうからだ。赤い斑模様のワイシャツを持ってコインランドリーに現れる男は、社会では受け入れられないのだ。

 スーツの喰種はいたって落ち着いた様子で少女の首に手を伸ばす。そこにこれから殺人を犯すという罪悪感など微塵も存在せず、レストランでハンバーグを取り分けるような何気なさで事を為そうとした。

 

「――――あ?」

 

 それが、彼の最期の言葉だった。

 

 力の無い喰種は淘汰される、確かにその事実は全ての喰種に共通である。しかし、それも喰種にとっての空腹の前には何の意味もなさない。彼らの空腹は理性を奪い、あらゆる現実は『餓え』という地獄の前に価値を失う。

 

 噴水のように血をまき散らしながら、スーツの喰種の首が飛んだ。

 

「俺の、俺のだ……!」

 

 音も無く彼の首を薙ぎ払ったのは、後ろにいた彼の相棒の『赫子』である。 

 喰種だけが持つ捕食器官。液状の筋肉とも表現されるそれは、夕暮れの朱に染まりながら怪しく輝いた。

 

「ひゃっ……!?」

 

 そして、同時に先程まで寝ていた少女が跳ね起きた。いや、正確には寝ていたと思われていた(・・・・・・・・・・・)少女である。

 

 彼女――弓塚さつきは、喰種二人の食事相談の一部始終を耳にしていながら、どのタイミングで逃げ出すべきか独り目を閉じ煩悶していたのだ。

 本来ならば即逃げ出すような状況だが、そもそもその時のさつきは冷静な思考力を欠いていた。

 それも仕方がないだろう。聞こえてくる、自分を食料として見ている会話。寝起きで頭がはっきりしない状態で、そんなにわかには信じがたい話を聞かされたのだ。

 そのため困惑しながらも寝たふりを続けていたが、終いには二人組が仲間割れを起こした。しかも、首を飛ばすという明らかな殺人行為で。

 さすがのさつきもこれには耐え切れず反応してしまった。命の危機を明確に認識したということもある。

 とにかく、こうして喰われる側と喰う側は初めて正面から相対した。

 

 寝ていると思っていた獲物が跳ね起きたのを見ても、若い喰種は一切動揺を見せなかった。それどころか、むしろ歓喜した。

 ――久しぶりに狩りを楽しめる。

 つい今しがた首を刎ね飛ばした仲間のことは既に頭から消え去っている。今はただ、目の前にいる活きの良い獲物を狩る興奮に身をゆだねている。

 抑えきれない空腹から口からはよだれが滴り落ち、赤黒く染まった赫眼はドクドクと脈を打つ。腰から尾のように生えた赫子は舌なめずりをするかのようにのたうった。

 若い喰種が今にも飛びかかろうと姿勢を低くしたとき、彼の目の前の少女が口を開いた。

 

「あの……」

 

 通常ならば悲鳴を上げるような状況で、予想外に冷静な調子で声をかけられた。その事実に、思わず拍子抜けした若い喰種は一瞬動きを止めてしまう。

 

「……失礼します!」

 

 その瞬間、さつきは身を翻し一目散に駈け出した。

 どう見ても人間ではない相手に無理して立ち向かう必要はないのだ。

 

「……待て俺の肉ぅ!」

 

 若い喰種も遅れて駈け出す。

 人間を遥かに超えた身体能力を有する喰種だが、追いかける相手もまた人間を遥かに超えた身体能力を有する死徒。しかもさつきはただの死徒では無い。言うなれば血統書付きの名馬である。

 若い喰種の予想に反して、路地を曲がるごとに差は開いていく。予定外の現状に若い喰種は苛立ちを募らせていった。

 対するさつきの方も、すぐさま引き離せると思った距離がなかなか広がらず、泣きたいような気持で路地を走りぬける。

 

「あの人なんなのかなぁ。……新手の死徒だっ――――ひゃ!」

 

 また一つ路地を曲がろうとしたとき、さつきは転倒した。

 さつきは自分のどん臭さに呆れるが、すぐさま自分がただ転倒したわけではないと気が付いた。足に何かが絡みついている。

 

「こ、これさっきの……!」

 

 追っての喰種の赫子が、さつきの右足首に巻きついていた。スーツを来た人の首を刎ねた触手、というのがさつきの認識である。

 さつきはこのままではまずいと思ってそれを振りほどこうとするが、それを待たず10mほど後ろを走っていた若い喰種はさつきを自分の元へ引き寄せた。

 

「はぁ、はぁ。……驚かせるなよ」

 

 荒い呼吸を整えながら足元のさつきを見る若い喰種。

 

「空きっ腹にはきつい運動だったが、まあ楽しかったよ」

 

 そう言って口角を吊り上げると、若い喰種は自らの赫子でさつきを逆さまに吊り上げた。

 さつきは慌ててスカートの裾を押さえるが、同時に目の前の男が自分の太ももに噛み付こうとしているのを見て凍りついた。この男は本当に人を食べるのだ。

 死徒である自分も、人から血液を摂取するのは抵抗がある。それなのに目の前の存在は目を輝かせて口を開けている。

 外見から既に相手が人間ではないことは理解していたが、その行動にいよいよ本当に人外であることを理解させられた。

 

「……いただきます」

 

 ニタニタ笑いながら自分の足に口を近づけていく喰種。その歯が肌に触れた瞬間、さつきは自分の身体の一部が食されるかもしれないという嫌悪感から、思わず大きな声で叫んだ。いつかの冬の日、体育倉庫に現れた眼鏡の少年の顔を思い浮かべながら。

 

「――助けて遠野君!!」

 

 

「…………ごはぁっ!」

 

 若い喰種の身体が弾け飛んだ。

 赫子の拘束から解かれ落下するさつき。しかし地面に叩きつけられる直前、誰かに受け止められるのを感じた。そのままゆっくり地面に降ろされる。

 

「少しそこにいて下さい」

 

 困惑するさつきを背に、彼女を救った男は吹き飛んだ喰種に向かって走って行った。

 その後ろ姿を見送ってから、数分後。

 背広姿の男が、白いスーツケースを片手にさつきの元に戻ってきた。

 

「怪我はありますか?」

 

「……あ、ありません」

 

「そうですか」

 

 あまりにも平然と聞かれ、さつきは慌てて返答する。

 それを聞いた男は特に反応をせず言葉を続けた。

 

「他に喰種を見ましたか?」

 

「……グールって今の人みたいなやつですよね。向こうで一人死んでますケド」

 

「分かりました」

 

 何事も無かったかのように接してくる男にさつきは若干恐怖を覚えるが、すぐに彼が何かのマニュアル通りに質問をしてきていると理解できた。

 さらに二三質問に答えると、さつきも次第に平常心を取り戻し始めた。そして、質問を終えてどこかに電話をかける男を見て、かつてのことを思い出していた。

 

 冬の寒い日。同じ部活の友達と、古い体育倉庫に閉じ込められた時の事。

 寒さに震えながら、生まれて初めて死というものを意識したあの日。どうしようもない状況を魔法のように覆した自分の想い人。

 本当に大変な時に助けてくれるのが、彼のような人だ。そう思った。

 彼はそのことを覚えていなかったけれど、さつきにとっては今でも鮮明に思い出すことが出来る大切な思い出である。

 

 奇しくも状況はあの時に近い、とさつきは思っていた。

 命の危機に突然現れて救ってもらった。ことが終わった後も何でもないように話しかけられた。

 さつきはその救ってくれた男の顔を観察する。

 その姿に、かつて救ってくれた彼の姿を重ねようとして、

 

「……あれ」

 

「はい、はい。喰種の死体が二体。はい。……いえ、一体はまだ確認してません。それと被害者が一人、はい。……お願いします」

 

 重ならない。

 

「……」

 

「どうかしましたか?」

 

「……いえ」

 

 電話を終えてこちらを見てくる男。

 やはり重ならなかった。

 さつきの少女の心に存在する王子様のような登場の仕方をした男。この上ない程理想的な王子様像に合致するはずだ。

 しかし、さつきにはどうしてもそうは見えなかった。

 

「あの、ありがとうございました」

 

「仕事ですので」

 

 無表情、無感動に言葉を返してくる男。

 その男の顔は、

 ――なんていうか、地味だなぁ。

 失礼だとは思いながらも、さつきは心中でそう呟いた。

 そう、地味だった。王子様というには物足りず、ブサイクと表現されることは無いであろう程度に整った容姿。

 正義の味方になるには気迫が足りず、悪の親玉になるには欲が薄すぎる表情。

 中世の冒険譚においての役割を当てはめるなら、村人。

 可も無く不可もないその佇まいに、さつきは到底志貴の姿を重ねることは出来なかった。

 

 男の名は平子丈。

 CCGの喰種捜査官であり、今日この日上等捜査官に昇進した実力者である。

 

 




最初の段階では、さっちんは助けられる予定はありませんでした。
助けて遠野君、のときにもう片方の足が喰種の顔面に直撃して昏倒させ、その後一ヶ月さっちんには路地裏ライフを堪能してもらうつもりでした。

でもそれだと話が一向に進まないのでこんな話になりました。

なので、平子さんはこんな活躍しない! という人はごめんなさい。


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意外といろいろ考えている人達

 

 叙任式は滞りなく終了した。

 平子は壇上で和修局長から辞令を言い渡され、無事上等捜査官に昇進した。周囲の人間も彼の実力は良く分かっていたし、むしろようやくその時が来たかと安堵した。

 彼を良く知る人間には共通認識の事実であるが、彼は印象が薄い。そのため、上層部にもあまり気を留めてもらえず、昇進出来ないのかと心配してる者すらいたのだ。

 しかし実際はそのようなことは無かった。一生下位捜査官に留まる者もいる中、齢三十を前に上等捜査官となったのは十分出世組と呼ばれるにふさわしい経歴である。

 式の後のパーティーで一通り知り合いに挨拶をして回ると、平子は式用の軍服を着替えそそくさと帰路についた。

 そして帰路の途中で喰種に襲われている少女を発見した。対喰種用の兵装、クインケを持ち合わせていることに感謝しつつ、平子は危なげなく少女を助け喰種を倒した。

 

 被害者に規定通りの質問をし、本局に連絡を入れるという一連の作業を終えると、平子とさつきの間に気まずい沈黙が流れた。

 さつきは気付かなかったが、平子もまた彼なりに驚いていた。昨日保護した少女とこんな形でまた出会うとは思わなかったのだ。

 

「そ、それじゃあ私はこれで……」

 

 ひとしきり平子の顔を眺めた後、さつきはすぐさまこの場を離れるという判断をした。

 この世界は一見自分のいた世界に似ているが、三咲や観布子が無い。つまり自分は戸籍すら存在しない、日本人と認められない存在なのかもしれないからだ。

 下手に公的機関と関わると、不法入国者として逮捕される可能性すらある。

 

「いえ、ここで待っていて下さい。決まりなので、外傷は無くても医療機関で検査を受けていただきます」

 

「え、あのでも……」

 

 それはさつきにとっては避けたい事態であった。彼女の頭には『保険証を持っていない』という一点が強くこびりついていた。身に染みた庶民的な発想は、どこにいても変わらなかった。

 

「あの、私ほんとに急いでいるんで」

 

「あ、ちょっと」

 

 さつきは平子の言葉を耳にしながらも、踵を返した。さっきと違って目の前の男は人間のようだし、走って逃げ切ればよい。

 

「ごめんなさい……!」

 

 感謝もたいして出来ないままこの場を去ることに抵抗はあったが、背に腹は代えられない。引き留める言葉を背にしながらも、さつきは夜闇が忍び寄る街に飛び出そうとした。

 しかし、それは現れた第三者の存在にあっさり引き留められてしまった。

 

「やぁ、昇進初日から飛ばすね。タケ」

 

「…………っ!」

 

 現れたのは男だった。危うく正面からぶつかりそうになったさつきだったが、寸でのところで自身の足が止まった。

 それは死徒になってから研ぎ澄まされた一種の危機感によるものだった。

 端的に言えば、命の危険。

 埋葬機関の代行者、真祖の姫に相対したときに感じた絶対的な死のイメージ。程度の差はあれ、さつきは目の前に現れた男に、それに近いものを感じ取った。

 

「有馬さん」

 

「上からの連絡でタケが昇進初日から二体も倒したって聞いてね。たまたま近くにいたから顔を出したという訳だ」

 

「……一体です」

 

 現れたのは有馬貴将だった。

 180㎝はある長身。落ち着いた髪型に学者のような眼鏡という容姿とは反してがっしりとした体格をしている。

 すっかり腰が抜けてしまったさつきは次の一歩を踏み出せなくなってしまっていた。

 二人はしばらくさつき越しに言葉を交わす。

 その会話を終えて、有馬はようやく目の前で震える少女に目を向けた。

 

「君は……昨日の子だね」

 

「……え?」

 

 まるで自分を知っているかというような物言いに、さつきはにわかに驚かされる。昨日の自分はといえば、琥珀の実験室を訪れ交番で目を覚ましただけで、このような恐ろしい人間とは出会った覚えは無い。

 そこまで考えて、交番の巡査の話を思い出した。自分を公園から交番まで運んだ人間がいる。

 巡査から渡された名刺のことを思い出して、さつきは自分のスカートのポケットを探った。

 

「……有馬貴将、特等捜査官」

 

「初めて名刺が役に立ったよ」

 

 自分の顔と名刺を見比べるさつきを見て、有馬は小さく呟いた。

 そして再び平子に向かって話しかけた。

 

「タケ、この子帰るところが無いんじゃないか?」

 

「……は?」

 

「……え」

 

 またおかしなことを言いだしたと思う平子に対し、さつきは心臓が縮み上がるような思いでその言葉を聞いた。

 二人の驚きようを見ながらも有馬は言葉を続ける。

 

「ほら、昨日すごい登場の仕方をしただろう?」

 

「はぁ……」

 

「今日新しい班で懇親会が開かれたんだけどね。そのときにみんなで映画を観たんだ。その中で同じような光景を見た」

 

 言葉を失う平子。

 有馬はさつきの顔を覗き込みながらひとつ質問する。

 

「もしかして未来から来てたりするのかな?」

 

 酷くおかしな質問だったが、さつきには彼がふざけているようには見えなかった。

 そこでさつきは一つ賭けに出ることにした。

 

「……分かりません。……けど帰るところが無いのは本当です」

 

 もしかしたらこの人は、自分を庇護しようという方向に話を持っていこうとしているのではないか。さつきはそう推測した。

 いつ来るかもわからない迎えを、あの危険な路地裏で過ごすことはさつきも避けたかったのだ。

 

「もしよければ、何とかしようか?」

 

「お、お願いします!」

 

 さつきは藁にもすがる思いで即答した。

 それほどまでに先程の喰種との遭遇は気味が悪かったのだ。

 純粋に力比べをすればおそらくさつきに軍配が上がったのだが、喰種という存在を知らない彼女にとっては純然なる恐怖としてその存在は心に刻み込まれた。

 

「何とかって、どうするんですか?」

 

「アカデミーに入ってもらおうと思う。あそこはジュニア上がりの喰種被害者の孤児とかも多いし、そこに紛れ込ませれば分からないだろう」

 

 CCGアカデミーとは、CCGの捜査官を養成する機関である。捜査官以外にも、数は少ないが局員補佐などの事務職への道もある。

 

「戸籍が無かったとしても、特等権限でどうとでもなるしね」

 

 そう付け加える有馬に平子は少し意外に思った。

 

「珍しいですね。有馬さんがそんなこと言うなんて」

 

「丸手さんに、地位はこうやって使うんだって教わったんだ」

 

 

 こうしてさつきは当面の宿を手に入れた。

 彼女もアカデミーという場所については見当もついていなかったが、全寮制の短大みたいなものだと説明を受けて何となく理解したつもりになっていた。

 

 

 

 

 

「ところで、新しい班って、有馬さんが隊長のモグラ叩きですよね」

 

「そうだよ。24区捜索隊だとかなんとか」

 

「映画のチョイスは誰が……」

 

「真戸上等の娘さんだよ。

 内容は……うん、なかなか面白かった。確か題名は『ドラ――」

 

「ああ、なるほど」

 

「うん」

 

「俺も好きです」

 

 

 

 

 

 

 有馬と平子の後について、さつきは喰種対策局アカデミーに連れてこられた。

 住宅地から外れたところにある広大な敷地。背後にそびえる山までもがその敷地に入っているようである。

 五、六メートルはある塀の外からは立ち並ぶ木々しか見えず、塀の上には有刺鉄線が張り巡らされ、等間隔に防犯カメラまで設置されている。正門からは建物は見えず、警備員が門の開閉を行う様を見て、さつきは学校というよりむしろ刑務所や軍事施設を連想してしまった。

 正門脇の通用門を通ってから敷地内に入ると、辺りはすっかり闇に包まれてしまった。時刻は既に午後七時を回っており、道にはほとんど街灯が無かったのだ。さつきは夜目が利くので問題は無かったが、彼女は自分の前を行く二人はきちんと前が見えているのか少し不安に感じた。

 十分ほど歩くと、施設が見えてきた。先程までとは打って変わって、建物は影が出来る余地が無い程明るくライトアップされている。コンクリートの白で固められた外観は当てられている光のせいか、光り輝いているようにも見えた。

 道との明るさのギャップを不思議に思ったさつきが尋ねてみれば、なんでも警備がしやすくなるからだとか。未来の喰種捜査官を育てるこの施設は、ともすれば喰種対策局本局よりも警備が厳重であるらしい。さつきの視界にチラと入った窓や扉には、見るからに堅牢な鉄格子がはまっていた。

 正面玄関を抜け屋内に入ると、奥から出てきた職員がさつき達を応接室らしき部屋に通した。

 

「ちょっとここで待っててもらうよ」

 

「は、はい」

 

 そう言い残して有馬は職員と部屋を後にした。

 残されたさつきと平子は、革張りの四人掛けのソファに一人分の間隔を空けて腰掛けた。二人の間に会話は無く、室内には壁にかけられた時計の針の音だけが響いていた。

 さつきは一通り室内を観察すると、いよいよすることが無くなってしまった。どこか高級感の漂う部屋の雰囲気になんとなく自分が浮いているような気がして、せわしなく幾度も居住まいを正した。

 そんな自分とは対称的に、微動だにしない隣の男を横目で盗み見てみると、彼はただひたすらに前方を眺めているようだった。その視線の先を辿ると、熱帯魚の水槽が壁にはめ込まれていた。色とりどりの魚たちは、酸欠気味に水面で口をパクパクしている。どうやら平子はそれを観察しているらしい。

 さつきもまた、それに倣って水槽を観察することにした。

 

 十分ほど経ったかという頃、有馬が部屋に戻ってきた。先程共に出て行った職員はいなかった。

 

「それじゃあこれに記入してもらえるかな。本当はあんまり良くないことなんだけど、君の場合ある程度適当で構わないよ」

 

 有馬はさつきの前に一枚の用紙を広げて見せた。どうやら入学手続きのようなものであるらしい。

 

「あの、この住所とかの欄は……」

 

「ああ、空欄でいいよ。喰種被害者っていうだけでそのあたりは融通が効く」

 

 記入する内容は、名前や生年月日、略歴といった平凡なものだった。さつきは女子高生らしい丸みのある字でそれらを埋めると、ふと用紙の中のある欄に目が留まった。特記事項という欄である。

 そこには丁寧な字で『有馬貴将 特等捜査官 推薦』と書いてあった。しかしさつきが気になったのはその下の一行だった。

 

「部分的な記憶喪失……ですか」

 

「その方がいろいろ追及されたときに潰しが効くだろう?」

 

「そ、そうですね」

 

 さつきはこんなにいい加減な内容が通ってしまうのだろうかと一抹の不安を感じたが、考えても仕方がないことだとすぐに割り切った。

 一通り枠を埋めると、さつきは用紙が二枚組であることに気が付いた。ページをめくってみれば二ページ目は、なにやら同意書のようなものであるらしいことが分かった。

 

『本学は喰種対策局に併設された特別養成学校であり、これに在籍する者は将来的に喰種捜査官、及び局員補佐のどちらかとなることに同意したものとする』

 

 喰種捜査官。さつきには耳慣れない言葉であったが、『喰種』という単語に『グール』というルビが振られているのを見て、いい加減この世界と自分の間にある認識の齟齬を正しておこうと思い立った。

 

「あの、この喰種(グール)ってなんですか?」

 

 その言葉に、隣に座っていた平子がにわかに目を見開く。

 しかし有馬は特に動揺した様子も見せず、喰種について簡単に説明して見せた。

 

「人と同じ姿をしているけど、人しか食べられない生き物のことだよ。そして、それらの被害から市民を守るのが喰種捜査官の役目だ。……君もタケに助けられただろう?」

 

「え、もしかしてあんなのがいっぱいいるんですか?」

 

 脳内に『あんなの』を思い浮かべて戦慄するさつき。平気で仲間を殺し、死徒の自分にもある程度着いて来る身体能力を持った化け物。それが日常的に隣にいるかもしれないという恐怖を想像して、さつきは思わず身震いした。そしてある事実に気が付いた。

 

「え、待って下さい。じゃあ私はその喰種(グール)っていうのと戦わないといけないんですか?」

 

「アカデミーは訓練と勉強だけだよ。もし君が卒業してもここにいるようなら、捜査官か補佐のどちらかになってもらうことになるけど。局員補佐なら前線に立つ必要はない」

 

「なるほど……」

 

 つまり、捜査官と喰種は代行者と死徒のような関係であり、何の皮肉か自分は代行者側の教育を受けなければならないらしい。そうさつきは理解した。

 そして、もし万が一卒業するころになっても元の世界に戻れていなかったら、なんとしても補佐になろうと決意した。

 同意するの文字の横にある枠にチェックを入れ、さつきは有馬に紙を渡した。

 

「弓塚、さつきちゃんね。……有馬貴将だ」

 

「あ、どうも」

 

「平子丈です」

 

「あ、はい。さっきはありがとうございました」

 

 さつきは流れのままに二人と握手を交わした。

 屋根のある部屋で寝ることが出来るのは大分久しぶりかもしれないという小さな感動と、喰種の存在という微かな不安を胸に抱えてさつきはひとまず安堵の溜め息をついた。

 

 

 

 

「Rcゲート、反応しませんでしたね」

 

「そうだね」

 

 弓塚さつきを施設の人間に任せた後、アカデミーを出たところで平子が有馬に話しかけた。

 

「良い子そうじゃないか」

 

「捜査官には向いてなさそうですけどね」

 

 平子はそう返しつつ、先程の少女に思いを馳せる。

 

 路地裏で有馬が現れた後、二人はあることに気が付いた。夕陽の朱のせいでそれまで気付くことは無かったが、少女の瞳は夜闇の中に淡く朱く(・・)輝いていたのだ。

 喰種の赫眼とはまた違う、しかし明らかに人間のモノとは思えない怪しい輝き。喰種と見て駆逐すべきかはたまた人間と見て保護すべきか迷った二人は、言葉を交わすまでも無くRcゲートを使って判断しようという結論に至った。

 Rcゲートとは簡単に言えば喰種と人間を判断することの出来る装置である。空港にある金属探知機と似たような機構であり、喰種の高い血中Rc濃度に反応して警戒音を発する。この装置はこのアカデミーの他に喰種対策局の各支部に設置されている。

 二人の心配をよそに、何も知らないさつきは難なくゲートを通り抜けた。それを見て平子はようやくクインケの入ったトランクを握る手を緩めたという訳だった。

 

「それにしても、本当に何者なんでしょうね」

 

「……赤い目っていったら、やっぱり吸血鬼とかかな?」

 

「それは、……困りますね」

 

「冗談さ」

 

 緊張感の無い会話を交わしながら、二人は夜の街へと歩いて行った。

 




ちょっと強引だったかもしれないです。


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気付けば袋小路

時間が飛びます。


 

「――――第72期生代表、真戸暁」

 

 壇上での主席のスピーチが終わり、CCGアカデミー第72期生卒業式は終わった。

 会場に整列した百名以上の72期生は、皆これから捜査官や局員補佐となって喰種対策局に貢献することになる。死と隣り合わせの職場に赴く者達であるというのに、その面持ちに悲観的なものは見られず、むしろ使命感や希望といった生に満ち溢れいた。

 しかし例外的に、主席に及ばなかったことに悔しさを滲ませる者、なんでこんなことになってしまったんだと頭を抱える者がいた。

 前者の名は滝澤政道。喰種の脅威から人々を守る捜査官の存在に強い憧れを持ち、誰よりも真摯にカリキュラムに取り組んだ青年である。アカデミーでは終ぞ真戸暁に及ぶことは無かったが、その優秀さは周囲から見ても確かなものだ。

 後者の名は弓塚さつき。その日の宿を手に入れる気分でなんとなくアカデミーに入学してしまったものの、本来アカデミーで時間をかけて鍛えるべき身体能力を既に身につけていたため、一年足らずしか在学しないまま前線に送られることになった異端者である。有馬貴将を越える反射神経の高さを記録として打ち出した、ウェイトリフティングの世界記録級の重りを片腕で持ち上げた、などとうさんくさく尾ひれが付きすぎた逸話を幾つも持ち、話題性だけで見るならば確実に第72期生の中で一番有名な人間だ。

 

 

 

 

 式は滞りなく終了した。

 和修常吉総議長が引き締めた氷のような緊張感も、講堂の外で卒業生で記念撮影をする頃にはすっかり氷解していた。残暑の中時折吹き抜ける涼やかな風に、誰も彼もが自然と笑顔を浮かべて互いの門出を祝いあう。

 しかし、その中で一人だけ青ざめた顔をした者がいた。言うまでも無く弓塚さつきであり、彼女は卒業生の輪から外れ施設の陰に幽鬼のように佇んでいた。

 

「そういえば私って高校の卒業式出られなかったんだよね……」

 

 その言葉には深い感慨が込められていた。

 人の世を捨てた自分が、特殊な状況下とはいえこういった行事に参加できることに感動を覚えたのだ。もしも自分が死徒になどなっていないかったら遠野志貴や乾有彦と共にこんなふうに卒業できたのかもしれない、さつきはそんな幸せな想像に口元をゆるませる。

 しかし、傍から見ればとてもさつきがそんな想像をしているようには見えなかった。蒼い顔に冷や汗を滲ませ、細い足は力なく震え、今にも倒れこみそうである。

 それもそのはず、彼女は本来このような日の当たる場所には出てこれない筈なのだ。

 真祖などの例外を除けば、死徒にとって日光は天敵とも言うべき忌むべき相手。また昼という時間帯も本来ならば眠っている時間である。

 琥珀の日焼け止めのおかげで日光で焼かれる心配は無いのだが、それでもさつきにとってはおいそれと居ていい状況ではない。

 そんなさつきに、声をかける者がいた。

 

「相変わらず気怠そうだなさつき」

 

「気怠いんじゃなくて、本当に怠いんだよアキラちゃん……」

 

 薄いブロンドの髪をアップで纏めた、周囲にどこか怜悧な印象を与える美人だった。アキラと呼ばれたその女性は、アカデミーを首席で卒業した真戸暁その人である。

 

「いいのか? 向こうで写真撮影をしているみたいだが……」

 

「私はちょっとしかここに居なかったし、みんなともあんまり仲良くなれなかったからいいや。……そういうアキラちゃんこそいいの?」

 

「呼ばれなかったし構わないだろう。あの中に好き好んで私と写真に写りたいなんて輩はいないだろうよ」

 

「……そんなことないと思うけど」

 

 アカデミー最終学年に飛び級で中途入学してきたさつき、周囲とどこか距離を置いていたアキラ。あぶれもの通しだったためか、それとも単にウマが合っただけなのかは定かでないが、二人は一年間で親交を深めていた。

 

「久しぶりだね弓塚君」

 

「あ、アキラちゃんのお父さんも……、お久しぶりです」

 

 その場にもう一人姿を現す。

 白い外套に色素の抜けきった白髪、死神を思わせる肉の落ちた頬。真戸暁の父、真戸呉緒であった。

 CCGのクインケ狂とも言われる彼だったが、今日ばかりは一人の父親として卒業式に参列していたようである。片手にはしっかりと白いアタッシュケース(クインケ)を握りしめてはいるのだが。

 

「来ていたのか、父よ。忙しいだろうから来なくても良かったのに」

 

「ああ、暇だったのでね」

 

 親子らしからぬどこか距離を置いたような口のきき方をする二人。さつきもその光景を初めて見たときは二人の不仲を疑ったのだが、次第にそれが一つの信頼関係の下に成り立っていると気が付いた。

 傍目からすると恐ろしい容姿をしている呉緒に、最初は苦手意識を持っていたさつきだが、今となっては仕事熱心な娘思いの父親という印象となっている。

 

「二十四区は危険だが、有馬君が指揮を執るようだし心配していない。むしろ絶技を間近で見る良いチャンスだと思いなさい」

 

「しっかり学んでくるさ」

 

 二人の言葉を聞きとがめたさつきが不思議そうな声をあげる。

 

「あれ、アキラちゃん二十四区捜索隊配属だったっけ?」

 

「志願したんだよ。腕試しという訳では無いが、実戦経験を積む良い機会だと思ってな」

 

「へぇ……」

 

 アキラのあくなき向上心に、さつきは頭が下がるばかりであった。

 二十四区とは、東京二十三区下にある巨大な地下空間の総称である。そこには喰種が数多く潜んでいるとされ、新人の育成という形で特別な捜索隊が編成される。捜査官の死亡率は他区とくらべても極めて高いため、志願制度はあってないようなもので、捜索隊の隊員はたいてい辞令によって配属されるのだ。

 彼女はそこに自ら進んで入ったという。

 在学時代からその積極的な姿勢を見習おうと思う場面は多々あったのだが、実行するにはどうにも意志の力が足りず、結果としてさつきが自分の凡庸さを思い知らされるというのがいつもの流れであった。

 

「そういえばもうパートナーについては聞いたかな、弓塚君?」

 

 呉緒がさつきにその三白眼をジロリと向ける。

 

「いえ、まだ。支部に行ってから正式に言い渡されるそうです」

 

「そうか、それは残念。……でも安心するといい」

 

「はい?」

 

「戦っている姿は一度しか見たことが無いが、彼は地味だがなかなか良いクインケ捌きをする。安心して背中を預けるといい」

 

 クク、と含んだような笑いを見せながら呉緒はそう言った。

 名前が伏せられていたとはいえ、さつきは彼の言葉で自分のパートナーに大体あたりを付けてしまった。地味であるというのも一つの個性なんだな、などと思いつつ。

 

 そして、数日後。彼女は自身の予想が的中していることを確認した。

 

 

 

 

 草木も眠る丑三つ時、というのは一つの定型表現であるが、この東京の丑三つ時は草木が眠っていようとも活発に活動する異形が潜んでいる。

 喰種である。

 その喰種蠢く東京の夜をひた走るひとつの影があった。小柄なその人物は塀や屋根の上を舞うように駆け抜け、その身のこなしは一目見ただけでは猫か何かと見間違うほどであった。

 やがてそれは郊外の廃教会の前で足を止めた。挙動不審に周囲に人影が無いか確認すると、音を立てないように扉を押しあけて教会の中に入って行った。

 

 教会の中では、数本のろうそくがゆらめいていた。そのどこか怪しい雰囲気にビクビクしながら、入って行った人物――さつきは教会の中を見渡す。

 その時、唐突に拍手が鳴り響いた。

 

「やぁやぁ、その様子なら無事卒業できたみたいだね! Félicitations!」

 

「成績は結構ギリギリでしたけどね……。お久しぶりです、月山さん」

 

 柱の影から現れた男に、さつきは礼儀正しく挨拶をして見せた。

 下げられた頭を見て、男――月山習は眉をひそめた。

 

「君はいつまで経っても余所余所しいね……」

 

「でも、月山さんには本当にお世話になっていますし」

 

 申し訳なさそうにするさつきを正面に見据えながら月山は教会の中央を歩いてくる。その様はさながらファッションモデルのようで、見ようによっては気取った痛いナルシストとも表現できる。

 

「だからいつも言っているだろう? 君はそんなことは気にしなくても良いんだ。この世にただ一人の夜の王(ノスフェラトゥ)

 

「は、恥ずかしいから変な名前で呼ばないでください!!」

 

 耳元で囁かれた言葉に背筋を震わせるさつき。

 月山はその様子を見て心底愉快そうに笑い声をあげる。

 

「まあ実際月山家の力を持ってすれば血液パックの調達なんて些末事だしね」

 

 そう言うと月山は、参列者の席の一角から大手の洋菓子メーカーのロゴが入った紙袋を取り出した。しかし当然中身はお菓子などでは無い。

 袋の口から除く場違いな赤色。そう、月山習はこうして定期的に弓塚さつきに血液を提供しているのだ。

 彼らが知り合ったのはほんの偶然であり、一度は刃を交えたことすらある。加えてこの世界で唯一さつきの正体を知っている。そんな月山が何故自分を支援してくれるのか、さつきには到底想像がつかなかったが、実際彼の行為が非常にありがたいものであることには違いなかった。

 人から血を吸うのは嫌だという吸血鬼らしからぬ信条を持つさつきにとって、今では月山の存在は無くてはならないものとなっている。

 

「それと、あの、月山さん」

 

「何かな?」

 

「私、結局捜査官になっちゃいました……」

 

 目を伏せるさつき。

 この告白は、さつきにとって勇気のいるモノだった。なぜなら月山習は喰種であり、捜査官とはすなわち喰種達にとっての天敵白鳩(ハト)のことだからだ。

 誰が好き好んで自分の命を脅かす集団にいる者を助けようと思うだろうか。

 アカデミーに置いてもらっていることは伝えていたが、これまでさつきは局員補佐になるからと弁解してきた。しかし、アカデミーの教官たちのせいで気付けば半ば強制的に捜査官にされてしまっていた。

 さつきは今日この日、支援を打ち切られることを覚悟してきたのだ。

 

「別に全然かまわないけど」

 

 それを、月山は興味がなさそうに返答した。

 

「え?」

 

「僕は同胞がどれだけ狩られようがどうでもいい。大事なのは僕であり、僕の食事だ。顔も見たことが無いような他人がどこでのたれ死のうが関係ないさ!」

 

 手を大仰に広げてそう歌うように叫ぶ月山。

 それを見てさつきは脳内で月山に変人のレッテルを貼り付ける。事あるごとにこの男は変人であるということを思い知らされるさつきである。

 

「ああ、でも――」そう前置きをして月山がさつきを見る。

 

「もし僕の担当になったら見逃してはくれまいか?」

 

「あ、あの……」

 

「Just a lie! 冗談さ、そんな困ったような顔をしなくていい。良い再戦の機会だ」

 

 目を細める月山にさつきは鳥肌をたてる。

 以前戦った時は互いの手の内が分からなかったため、ジョーカーを隠し持っていたさつきに軍配が上がったが、二度目となると分からなかった。見たところ月山は戦い慣れているようだし、さつきとしても出来れば戦闘は避けたかった。

 

「……そうならないように気を付けます」

 

「僕も祈ろう!」

 

 教会の十字架に投げキッスを飛ばしながらそんなことを言う月山。

 さつきはそれをげんなりした様子で見つめた。この人はどう見ても自分に酔っている。

 

 月山から血液パック入りの紙袋を受け取ると、さつきはお礼を言いながら教会を後にした。

 捜査官になる自分が喰種と関係を持っていること、アキラ含め周囲の同僚に嘘をついていることに後ろめたさはあるが、こればっかりはどうしようもないのだ。

 喰種対策法では、喰種と知りつつ通報しなかった者にもキツイ罰が科せられる。自分が綱渡りをするような危険な立ち位置にいることを、さつきは自覚していた。

 

 さつきが出て行ったあと、教会に残された月山は、しばらく彼女が通った扉を見つめていた。

 そして唐突に、

 

 

「また会おう。僕の――――délicatesse(珍味)

 

 

 口角を吊り上げてそう呟いた。

 その瞳は獲物を見る肉食動物のそれだった。 




本当はアカデミー編が始まるはずでしたが、本格的にグダりそう&喰種ってついてるのに喰種あんま出てこないので割愛することにしました。
あとこの作品アカデミーの卒業式が四月じゃないんです九月なんです。もちろん原作の設定ではありません……。見逃してください。

アカデミー時代についてはおいおい本編で語られる時が来るような……。

あとアカデミーは詳しい説明とか設定とか見たことないので、そのあたりのところは結構適当です。

飛び級したさつきの在学期間は一年。
今回でで原作スタート一年前です。


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最初の日

大変ご無沙汰になってしまい申し訳ありません。
そして話は全然進みません。


 CCG第二十一区支部。

 東京北部に位置し、市区町村コードで見ると足立区にあたる、二十一区の中央部にそびえるビルがそれである。

 市街地に何気ない顔で紛れ込んではいるが、周囲に住む人間は当然のようにそれが喰種対策局の建物であることを知っていた。喰種という存在の実態をよく知らない街の人々からすると、胡散臭いことこの上ない建造物には違いなかったが、同時に喰種という未知の恐怖に対する抑止力として心の拠り所とする住民も多かった。

 弓塚さつき二等捜査官が配属されたのはそこだった。

 

 さて、さつきがこの支部を初めて訪れたのは九月の始め、まだまだ夏の残り香のするよく晴れた月曜日であった。CCGという特殊な職場ではあるが、バイトをしたことがないさつきにとって社会に出るのはこれが初めてのことである。

 さつきは緊張のあまり電車に乗る時間を間違え、出勤時間の午前九時の一時間以上前に支部に到着してしまった。しかし早く着くことに問題があるはずもなく、むしろさつきは遅刻しなかった自身をほめてあげたいような気持であった。

 正面玄関の前まで来たところで、さつきは一人ため息をついた。自動ドアに映っている自分がどうみても場違いなのだ。

 シワ一つない新品の黒いスーツに、頼りなさげな童顔がのっかっている。さつきはせめて髪だけでも黒く染めてくれば良かったと後悔していた。いくら地毛とはいえ、茶色い頭髪がどうにも学生感を醸し出している。

 

「私、本当にここに来てよかったのかな?」

 

 もう一度ため息。

 さつきは、CCGが喰種という脅威から町の人々を守っていることはこの一年でいやというほど学んできたし、その職業は誇らしいものであることも理解している。力のなかったころの自分なら、きっと警察同様に自分たちの生活を守ってくれる存在としてありがたく思ったことだろう。

 しかし、だからこそさつきは、自分がその立場になっていいのだろうかという疑問を持っていた。なにせ自分がこの職に就くことになったのは完全に成り行きだ。何かを守りたいという強い意思もなく、ただ流されてきただけなのだ。そんな自分が市民の心の拠り所となるのは、何か町の人たちをだましているような気がして心が沈んだ。

 

 

 

 

 

 

「ゆ、弓塚さつきです。よろしくお願いします」

 

 机に並ぶ厳めしい顔ぶれを前に、さつきはすっかり萎縮しながら挨拶をした。

 会議室に集まっているのは下手をすればさつきの父親と同年代の男たちである。しかも、そのほとんどが自分のことを、使い物になるか品定めするような目、もしくは捜査官にふさわしくないのではないかと訝しむような目をして見てくるのだ。さつきは早くも捜査官になることを選んだことを後悔し始めていた。

 さつきが自己紹介を済ませると、続いて横に並んださつきの同期の卒業生たちが挨拶を始めた。それに即して男たちの視線が自分から外れたことで、さつきはひとまず安心した。そして同時に男たちの中に知っている顔を見つけた。

 相も変わらず何を考えているか分からないような無表情で、さつきの同期達の挨拶を眺めている。真戸暁の父が言っていたことが正しければ、彼がさつきのペアとなるはずである。他の強面達が自分のペアではなくてよかったとさつきは心底安堵した。

 そして、挨拶が一通り終わってペアを告げられてみれば、さつきの予想通り平子丈がさつきのペアであった。

 

 会議室で新しい局員の顔合わせを済ませると、さつきが一息つく間もなく捜査の会議が始まった。さつきは平子の隣に収まってとりあえず様子を見ることにした。

 さつきが今いる第二会議室には現在三つの班が集まっていた。会議の進行は準特等捜査官が務め、各班の代表がそれぞれ自分たちの担当する喰種についての報告を行うという形式のものであった。

 他の班の報告を一通り終わった後、平子が報告をする番が回ってきた。さつきは平子が口を開こうとするのを見て、慌てて手元の資料に目を落とした。

 

「私と弓塚は、阿藤準特等から引き継いで、現在問題になっている二十一区での高齢者の失踪事件を担当します。今月に入ってからの新たな失踪者は三名。調査の結果、いずれも認知症の兆候が見られた高齢者であったため、引き続き聞き取り調査をして喰種による犯行か確認します」

 

 資料と平子の話を聞いて、さつきはひとまず安心した。どうやら自分たちはまだ喰種を追うのではなく、喰種による犯行と思しき事件を調査するだけで良いようである。

 

「ただのボケ老人の迷子だったらいいんだけどなぁ」

 

 机の端に座っていた髭面の捜査官がため息をつくように呟いた。そんな呟きにも平子は律儀に返答して見せる。

 

「ここ三か月にわたって、二十一区、特に二十一区南部での失踪件数は各区の平均失踪件数の数倍を記録しています。喰種では無かったとしてもさすがに何かしらの要因はあるかと」

 

「わーってるよ。希望的観測ってやつだよ」

 

 平子の他の捜査官に対する淡々とした説明を聞いて、さつきは再び不安になり始めた。まだ確定ではないとしても、やはりこの件の裏には喰種が潜んでいそうである。もしかすると自分がクインケを片手に怪物と大立ち回りをする日は予想以上に近いのかもしれない。

 平子の報告が終わった後、各班同士で軽い意見交換のようなものが行われた。しかし平子班の任務については、聞き取りをする以外に今のところ仕事が無いのは誰の目にも明らかだったので、特に意見する者はいなかった。

 五分ほどのやり取りのあと、話が生産性の無いものになり始めた頃を見計らって準特等が口を開いた。

 

「それでは、今日はこの辺でお開きにして。あとは各班捜査を進めてくれ」

 

 準特等の言葉で会議は終了した。さつきは緊張感から解放された安堵から、そのまま椅子に座ってお茶にでもしたかった。しかし、捜査官たちがせわしく立ち上がって動き出すのを見て慌てて腰を上げた。

 そんなさつきの様子に特に反応を見せずに、平子が口を開いた。

 

「今日は聞き取りの前に弓塚のクインケを取りに行く」

 

「わ、分かりました」

 

 会議中と変わらない調子で告げる平子に、自分はこの人と上手くやっていけるのだろうかとさつきは内心ため息をついた。

 

 

 

 

 

 

 午後八時前、さつきの社会人としての初勤務が終わった。今日の勤務内容は、クインケを取りに行った後はひたすら聞き込み。穏やかな初秋の日差しの中歩き回るという、この通りいかにも平和な内容となっていたが、さつきは生きた心地がしなかった。穏やかな初秋の日差しも、死徒にとっては殺人光線と変わらない。琥珀の日焼け止めがあるとはいっても、本能による警鐘は鳴りやまない。

 自身に与えられたデスクの上を一通り整理すると、さつきは帰って良いのか判断を仰ぐために平子を見た。さつきの頭の中では、上司より先に帰ることは失礼だから待たないといけないなど、以前聞いた本当かどうか怪しいマナーがぐるぐると廻った。さつきは今後の生活のためにも、人間関係だけは良好な状態にしておきたかったので、普段以上に気を遣ってしまっていた。

 しばらくして、さつきが意を決して話しかけようとしたとき、平子もまた帰り支度を始めた。そしてさつきの方を見て伝え忘れていたかのように、「ああ、弓塚も今日は上がっていい」と言った。

 

「あ、はい」

 

 さつきが片づけをしていると、向かいのデスクに座っていた糸目の男が口を開いた。

 

「タケさーん。今日飲んでいきません?」

 

「……ああ」

 

 二人のやり取りを聞いて改めて社会人になった実感を持つさつき。いずれは自分も一緒にご飯に行くような相手が出来るのだろうか、などと考えながらその場を去ろうとしたとき、さつきもまた糸目の男に呼び止められた。

 

「あ、ちょっと待ってさつきちゃん。君も一緒にどう? というかさつきちゃんって呼んでいい?」

 

「えと、……はい?」

 

 

 

 さつきは流されるままに二人について店に入ってしまった。そこはこじゃれた雰囲気を持つ焼き鳥屋で、客層としては暑苦しいサラリーマンというより仕事帰りのOLを狙っているようだった。さつきにはこういった店に入った経験がなかったので、男二人に隠れるように入店した。二人は慣れた様子でカウンターの奥から順に座って行き、さつきはそこに続いた。彼らの様子を見るにもう何度もここへ来たことがあるようだった。

 糸目の男は伊藤倉元と名乗った。二等捜査官で、さつきが来るまでの一年間平子とコンビを組んでいたらしい。

 

「タケさん無口だからさ。よく怖い人だと誤解されがちなんだけど、そんなこと全然ないからね。あ、俺ビールで」

 

「私ウーロン茶でお願いします」

 

「ビールで」

 

 各々が自分の飲み物を選んだ後、倉元がメニューも見ずに店員に幾つかの品を注文した。平子が口を開かないことから、さつきは倉元が平子の分まで注文しているのだろうと予想をした。果たしてその予想は当たっていたようで、倉元は一通り品名を羅列した後、さつきにメニューを渡して何が食べたいか尋ねてきた。しかしさつきにはメニューをざっと見渡してもどの品も同じように見えたので、若干申し訳なさそうに倉元に任せることを伝えた。倉元は特に気を悪くした様子も見せず、店員に数品追加で注文した。

 

「そういえばさつきちゃんってタケさんと初対面じゃないっぽいけど、もしかして知り合いだったり?」

 

「あの、以前助けて頂いたことがあって、その時に少し」

 

「それは、その――」

 

 少し間を置く倉元に疑問を持ったさつきだが、すぐに彼が何を言おうとしているのか察しがついた。

 

「あ、はい。喰種からです」

 

「へえ! ……ああ、いや。当事者の前でこういう反応をするのは配慮が足りなかったね。ごめん」

 

「い、いえ。全然大丈夫です」

 

 見た目の軽そうな雰囲気とは反して気を遣ってくる倉元に、若干驚きながらもさつきは気にしていないことを伝えた。

 さつきは一年と少し前の出来事を思い出して何とも言えない気持ちになった。喰種の歯が自身の太ももに当たった感覚は今でも忘れることは出来ない。

 同時にさつきは再確認する。さつき自身忘れがちだが、平子丈は命の恩人なのだ。再び横目で平子を確認するが、平子は運ばれてきたつくね棒に手を付けようとしているところだった。

 

「あ、タケさんフライング!」

 

「お前が注意を怠るからだ」

 

 会議中と変わらない調子でそんなことを言う平子を見て、さつきは思わず吹き出してしまいそうになった。

 

 

………

 

 

 料理を一通り片付けた後、何故だか話題はさつきが住んでいる区の話になった。さつき自身なんでその話になったのか上手く思い出すことが出来なかったが、特に気にすることもなく自身が二十区にアパートを借りていることを伝えた。

 

「ふーん、さつきちゃん二十区に住んでるんだ」

 

「その、局が紹介してくれた賃貸物件の中では大分安めだったので」

 

「二十区ねぇ……」

 

 さつきの言葉にしばらく思案したような顔をする倉元。

 

「まあ安いのは妥当なのかな?」

 

「え……」

 

 思案した挙句に倉元が発した言葉に、さつきの心に不安がよぎる。物件が安いときは大抵地価自体が安いとか交通の便が悪いとか、まれにいわく付きだったりする時だというのがさつきの基本的な認識ではあるが、このときの倉元の”安いのは妥当”という言葉の裏にそれらの理由がないことはさつきにも容易に想像できた。

 さつきの予想は的中した。

 

「『大食い』や『美食家(グルメ)』をはじめとした強力な喰種が多いんだ。だから二十区は指定危険区扱いされてる。隣の二十二区みたいに」

 

 予想通りの”良くない理由”を聞いてさつきの思考は停止した。倉元との間に沈黙がというに足る間が出来そうになったころ、さつきはようやく言葉を絞り出した。

 

「……そ、そんなこと紹介されたとき一言も言われませんでした」

 

「はは、まあ人にモノ売るってなったらそりゃね。あ、そうだ指定危険区一覧とかは一度目を通しといたほうがいいよ」

 

 軽い調子で言ってのける倉元と反して、さつきは冷や汗をかいていた。自分がただの人間ではないというちょっとした安心感から、セキュリティが甘めのアパートを選んでしまったのだ。しかし、さつきもすぐに喰種が相手ならばセキュリティの有無など大した意味を持たないことを思い出し心を落ち着けた。

 

「って、それって何の解決にもなってないよね!」

 

 結局危険であることには変わりはないのだ。

 

「え、……どしたのいきなり?」

 

「あ、あははは。何でもないです」

 

 さつきが自身の心の声を大胆に漏らしてしまったことを適当にごまかしたところで、平子が口を開いた。

 

「二十区は、強力な喰種こそ多いが捕食件数は他の区と比べて圧倒的に少ない」

 

「あれ、そうなんですか」

 

 驚く倉元に平子が淡々と続ける。

 

「だから指定危険区ではあるが、今のところ本局の捜査官は派遣されていない。『大食い』や『美食家(グルメ)』の正体の見当もついていないというのもあるだろうが」

 

「へぇ、まあ捜査官は常に人手不足ですからねえ……」

 

 感心したようにつぶやく倉元。同時にさつきはこの世界で生きる以上どこにいても危険であるという真理を改めて思い知らされた。セキュリティが強固なマンションも、そうでないマンションも、隣の部屋の住人が喰種である可能性があることには変わりはないのだ。それは区によっての差にも通じる。本局のある一区を除けば、どのみち喰種はいるのだ。

 

「安く済んだだけマシ、なんですかね」

 

「そゆことだね」

 

 涙交じりのさつきのため息に倉元がニコニコと返答した。

 

 

 

 

 

 

 十一時過ぎ、店を出て平子たちに別れを告げてから、さつきはようやく家路についた。

 最寄りの駅で降り、出来るだけ街灯が多い明るい通りを選んでさつきは歩いた。彼女の頭の中では、先ほど聞いた『大食い』や『美食家(グルメ)』の名前が何度も廻っていた。

 路地の入口に見える暗闇に通り名を持つ喰種の影を探しながら、びくびくと歩く。さつきはアカデミーで喰種の見た目が一般人と変わらないことを学んでいたし、実際にその目で見たこともあったが、噂に聞いたそれらの喰種達には漠然と怪物のようなイメージを持っていた。

 『大食い』などと名をつけられているくらいなのだから、当然それは人をたくさん食べているということなのだろう。そんな生き物が、依然として人間と見分けがつかないレベルの容姿をしているとはさつきには考え難かった。『美食家(グルメ)』に至っては知り合いですらあったが、記憶の中の月山習とそのイメージを結びつける発想はまるで無かった。

 と、その時唐突に1mほど先の建物の扉が開いた。

 

「ひゃっ」

 

 イメージの中の『大食い』達に怯えて気を張っていたさつきは、それだけで腰を抜かしてしまった。結果、さつきは扉から出てきたおとなしそうな女性に、しりもちをついている姿をしっかりと見られてしまった。

 

「あの、大丈夫ですか?」

 

「あ、はい!」

 

 女性に心配され、さつきは慌てて立ち上がった。

 久しぶりに人前で醜態をさらしてしまったことに頬を赤らめるさつき。その様子を見て、女性は少し微笑んだ後会釈をして去っていった。

 顔から火が出そうな心持でうつむいていたさつきだったが、女性とのすれ違いざまに、その女性から珈琲の良い香りがすることに気が付いた。不思議に思ってふと、その女性が出てきた建物を見ると、そこは喫茶店だった。おそらく今の女性はこの店の店員なのだろうとさつきは予想した。

 時刻が時刻だったために当然喫茶店は閉まっていたが、その喫茶店の出で立ちだけで、さつきはいずれここに足を運んでみたいと思った。

 

「店員さんも感じ良さそうだし」

 

 休日にすることがなく困っていたさつきは、今度の休日にはこの『あんていく』という喫茶店に足を運ぶことに決めた。文庫本などを持って喫茶店で優雅に珈琲でも飲んでいれば、自分も少しは大人のように見られるかもしれない、という淡い期待を持って。

 

「よしっ」

 

 このたかだか一分ほどの出来事で、さつきの足取りはすっかり軽やかになった。不安に思っていた職場にも倉元という話すことが出来る相手を見つけられた上に、持て余しそうだった休日の過ごし方まで決まったからである。

 なんだか自分の未来もそう暗くは無いのではないのかという希望を胸に、さつきは自宅へ速足で向かった。

 

 その頭の中からは、”通り名持ち”喰種たちのことや、昼間にキノコ頭の研究員に執拗にさまざまな検査を受けさせられそうになったことなどはすっかり放り出されていた。

 

 

 




次もいつになるのやら……。
気長に待っていただければ幸いです。


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おかしな客

長いこと放置してすみません。
話は進んでませんすみません。


 

 

 

 

 

「それでねえ、二人目の子が生まれた頃に家を買うからって――」

 

「はあ、家を出られたんですね?」

 

「そうなの。それからはもう正月とお盆くらいしか帰ってこなくてねえ。本当に薄情なんだから」

 

 夕暮れの公園。昼間遊び回っていた子供たちも家路についたらしく、さつきは老婆と二人公園のブランコに取り残された。聞き取り調査の一環のはずが、気付けば小一時間話し込むことになっていたさつきであった。というのも、老婆が久々の話し相手であるさつきを離さなかったのである。

 

「ちょうどそこの彼みたいにぼんやりした子でねえ、まったく。親のことなんて忘れてるんじゃないかね」

 

 老婆が顎で指し示した先には、ベンチに座って平子がさつきの聞き取りが終わるのを待っていた。老婆の声は明らかに平子にまで届いていたが、平子は微動だにしなかった。

 

「はは、まさか、そんなことないですよお」

 

 老婆に合いの手を入れつつ、さつきは内心冷や汗をかきながら平子の表情を窺うが、やはりそこに喜怒哀楽は読み取れなかった。

 平子と共に行動することになって数日たったにも関わらず、さつきの平子に対する理解は深まりはしなかった。むしろ、さつきの今の平子に対する印象はどんどん理解不能といったものに近くなっている。隣を歩いている人間が表情筋を動かす瞬間が一切ないというのはなかなかに気味が悪いもので、さつきは平子のあまりの感情表現の無さにいっそこの人はロボットか何かなのかもしれないという妄想まで始める始末だった。

 しかし感情が無いということは、やはり人間である以上あり得ないことはさつきも分かっていたので、平子が極端に感情を表に出していないだけなのだということも当然分かっていた。問題はそこだった。

 もしかしたら、こうして老婆と時間を消費している今も、平子は手間取るさつきに対してその無表情の奥で怒りを滾らせているかもしれないのだ。他人の心が読めないことの不便を二十年近く生きて初めて実感するさつきであった。

 

「あら、もうこんな時間じゃない」

 

 老婆はふと見やった自身の腕時計が午後の六時を指し示しているのを見て、ぼんやりとつぶやいた。

 

「引き止めちゃって悪かったわね」

 

「い、いえ。もし何か変わったことなどあればCCGまで……」

 

 杖を突いてベンチから立ち上がる老婆に、さつきは財布から名刺を取り出して手渡した。名刺など自分とは縁遠い存在だと長いこと考えていたので、さつきは名刺を手渡す瞬間はいつも一種の気恥ずかしさのようなものを感じていた。

 

「さつきちゃん、ね。……私の姪っ子と同じ名前だわ」

 

 老婆は渡された名刺を一通り眺めそんなことを呟いた。それから曖昧な表情で相槌を打つさつきを見て一笑いした後、見送るさつきを背に老婆は危なげない足取りで公園を去って行った。そうして公園には場違いなスーツの二人が取り残された。

 

「そろそろ支部に戻るか」

 

「はい」

 

 平子の平坦な言葉を合図にその日の外回りは終了した。さつきの期待とは裏腹に、平子が今までのさつきと老婆のやり取りについての是非を口にすることは終ぞ無かった。

 支部への帰路、さつきはこっそりと平子の表情を窺ったがやはりそこになにがしかの感情を読み取ることは出来なかった。本当にこの上司と上手くやっていけるのだろうかという不安でさつきはどうにかなってしまいそうだった。

 

 

 

 

 

 

 喰種と一口に言ってもその生活水準は各喰種によって大きく異なっていた。社会的立場を持って人間社会に溶け込む者もいれば、読み書きすら出来ず半ば獣のような生活を強いられている者もいる。ただ、その全ての喰種に共通するのが、自身が喰種であるということを人間に知られてはいけないという点である。

 現在地球を支配しているといっても過言ではない人間にとって、唯一といっていい天敵が喰種である。種の天敵である喰種は人間にとってその存在すら許されないものであり、ひとたびその姿が確認されればあらゆる手段を使って抹殺された。

 そのため、人間と比べて生物としては圧倒的な能力を有するにもかかわらず、喰種は皆必死に己の爪と牙を隠し人間の社会に溶け込んだ。

 トーカこと霧嶋董香もまた、そんな人間社会に溶け込もうとする喰種の一人だった。

 両親を人間の手で奪われた彼女にとって、喰種を拒む人間社会は忌むべき存在である。かといって、彼女は人間への復讐などという薄暗い決意をしているわけではない。父が死んだ際も、トーカは残された弟と二人、この先の人生日の当たらない場所だけで生きていくであろう現実を受け止め、弟を守って生きていく覚悟をしただけだった。

 しかし、本人もどうしてそうなったのか未だによく分かっていないが、とある人物の計らいで彼女は四月から高校へと通い始めていた。高校での生活はトーカに、憎むべき存在で、自分たちの食料程度にしか思っていなかった人間に対して、より複雑な感情を抱かせるようになった。

 トーカは高校に通い始めると共に、喫茶店でアルバイトも始めていた。

 二十区にあるその喫茶店『あんていく』はただの喫茶店ではない。というのも、その店の従業員はトーカをはじめその全てが喰種なのである。外観はただの喫茶店であるので当然人間の客が来店するが、店員が喰種であることから、人間と同じくらい喰種も足を運んでいる。そこの店長の喰種――芳村が何を思って喫茶店をしているのかトーカには分からなかったが、高校に通えるようにしてもらった恩もあり一概に彼をただの奇人だと断ずることも出来なかった。

 

 九月の最初の週の日曜日。その日もトーカは『あんていく』の従業員としてアルバイトに精を出していた。

 時刻は三時をまわり、客足がまばらな『あんていく』からまた一人客が去って行く。それを見て繁忙時を過ぎたことを確信し、トーカはゆっくりと息を吐いた。

 『あんていく』は決して混むことは無い。利用した客の評価は高いが、いかんせん駅前などの良い立地ではないので、客層のほとんどは常連客である。そのためいつも満席とは程遠いのんびりとした営業となっている。それでも昼時はトーカも目を回すほどの忙しさになるので、トーカも昼の時間帯は彼女も自然と気を張ってしまうのだ。

 加えて言えば、たった今出て行った人間を最後に店内に残ったのは喰種のみである。『あんていく』では喰種と人間では対応が微妙に異なるため、そのあたりも従業員として気を張っていないといけない一因であるのだが、これでその心配は無くなったことになる。

 トーカがカウンターの中でカップを拭く芳村に目をやると、芳村は口元を緩ませて頷いた。彼も今日の山は越えたという認識なのだろう。

 

「トーカちゃん、陽も傾いてきたしブラインドを下げてもらってもいいかい?」

 

「はい店長」

 

 芳村の指示に返答しつつトーカが窓際まで歩いていく。差し込む陽光に目を細めつつ、トーカがブラインドのひもを弄っていると、『あんていく』に新たな来客があった。扉につけられた鈴の音を聞きながら、トーカは本来の彼女と比べて幾分愛想よく「いらっしゃいませ」と口にする。

 入り口で立ち止まったその客は、店員の案内を待っているようで挙動不審に店内を見渡した。トーカはブラインドを一端そのままにしておき、『あんていく』にしては珍しい新規の客を案内するため入り口に小走りで向かった。

 

「おひとり様ですか?」

 

「えあ? は、はい。おひとり様です」

 

「……ご、ご案内いたします」

 

 おかしなことを言う客に思わず吹き出しそうになるトーカだったが、足の指先に思い切り力を込めてなんとかこらえる。そのまま踵を返し、トーカはその客をたった今自分が下げようとしていたブラインドの近くの席へ案内した。

 

「ご注文お決まりになりましたらお声かけ下さい」

 

 そう言ってトーカは客のついた席の後ろ側に回り、ようやくブラインドを降ろす作業に手を付けた。

 ブラインドのひもをゆっくりと引っ張りながらトーカは客を観察する。

 客は若い女だった。服装はシックにまとまったパンツルックで、卵型の薄いピンク色のフレームの眼鏡をかけている。眼鏡の色が若干浮いてはいたものの、服装だけ見ると落ち着いた社会人女性のようだった。しかし、首の上には高校生といっても通じる茶髪に童顔、しかもお世辞抜きで素朴に可愛らしい顔がのっかっており、不思議と違和感は無かったがトータルとしては到底社会人などには見えなかった。同性であるトーカもぼんやりと、大人っぽく見せる努力むなしくただの可愛い女の子になっちゃってるな、などという気の抜けた所感を抱いてしまった。

 客の外見に毒気を抜かれていることをふと自覚したトーカは、首を振って邪念を払う。彼女は別に客のファッションチェックがしたかったわけではないのだ。客がどちら(・・・)か見極めることこそ本来のトーカの目的であり、そのために自然と距離を詰めやすい状況を作れる窓際に案内したのである。

 

「うわぁ、コーヒーにもこんなに種類があるんだ」

 

 背後から聞こえてくる暢気な声をどうにか無視するトーカ。

 店内にいる喰種の客の視線が集まっていることを感じながら、トーカは感覚を全開にして背後の女の気配を探った。におい、呼吸、心拍数、可能な限りの情報を素早く読み取っていく。自身の瞳が赫眼になっているのを感じ、トーカは開いていた感覚を閉じる。赫眼を隠すようにまぶたを閉じ、一息つきながら一瞬で感じ取った相手の情報を整理しようとする。そうしてトーカは気が付いた。

 

 ――分からない。

 

 トーカにはこんなことは初めてだった。入見や笛口といった感覚の鋭い喰種と比べれば確かに自分のアンテナの精度が悪いことはトーカも理解していたが、このような一歩下がれば背が触れるほどの距離で判断が付かないなどはっきり言ってあり得ない事態である。

 

 ――いや、落ち着いて考え直そう。

 

 混乱に陥りそうな思考を一回停止させ、トーカは深呼吸しながら頭をリセットさせる。

 彼女はまず匂いについて頭を巡らせた。そして匂いについてはすぐに結論が出た。即ち、この女から人間の匂いは一切(・・)しない。

 トーカがこれまで嗅いだ人間からは、その全てから喰種のみが感知できる独特なにおいがしていた。唯一の栄養源である人間からは、たとえその人間がどんなに不潔であろうと、高齢であろうと、他の匂いで上書きしていようと、食欲に訴えかける特殊なにおいがするのだ。しかしこの女からはそれが一切しない。

 ならば喰種なのかと問われれば、トーカは素直に首を縦に振ることが出来ない。喰種からも程度に差はあれ基本的に喰種らしい匂いがするはずなのだが、その匂いもしないのだ。ただ、喰種に関しては匂いを隠すのが巧みな個体が稀にいることもトーカは知っていた。入見や笛口などはその最たるもので、仮に彼女たちを喰種と知らずに接した場合、喰種だと気付く自信がトーカには無かった。そのため、喰種としての匂いがしないことは、隠すのが上手いということで強引に納得できないでもなかった。

 次に呼吸や心拍数について思い返すトーカだったが、最大の疑問はそこだった。というのも、呼吸音も心臓の拍動も女からは一切聞き取ることが出来なかったのである。耳がおかしくなった可能性も考慮するトーカだったが、二つ向こうの席の喰種の客の呼吸と拍動を聞き取れたことからそれは無いと首を振る。呼吸も拍動もないなど、そんなこと生物としてあっていいのかと考えかけるトーカだったが、冷静に考えたところ全ての条件に合致する喰種の存在を思い出した。即ち、喰種としての匂いがせず、呼吸音も拍動音も感知できない、存在そのものが希薄なような存在。

 

 ――店長。

 

 そう、芳村もまたそうした特徴を持っているのだ。逆説的に考えれば、女が芳村と同じ特徴を持っているということになる。

 トーカは芳村について詳しく知っているわけでも、戦っているところを見たこともなかった。しかし、彼女の言葉数の少ない叔父によれば、芳村は相当な実力者であるらしい。そんな芳村と同じ特徴を持つ後ろの女は、やはり実力者なのだろうか。

 

 ――いや、まさか。

 

 到底そうは見えない。トーカは脳裏に『あんていく』入り口でおどおどする女の姿を思い返す。

 しかしそれならば結局この女は何なのだろうという疑問。

 

 

「あの、大丈夫ですか?」

 

「へ?」

 

 唐突に後ろから声をかけられ自身も意図しない声を発してしまうトーカ。慌てて振り向くと手に持っていたブラインドの紐が引っ張られ、勢いよくブラインドが床まで落ちた。一気に遮光されて『あんていく』内が一瞬で少しだけ薄暗くなる。ブラインドと床の接触する大きな音で、トーカはようやく自分が女性客の後ろでカモフラージュのブラインド下げすら行わずぼんやりと立っていたことに気が付いた。

 

「し、失礼しました!」

 

「い、いえそんな」

 

 自分が女性客の正体について考えるあまり、その客本人にボーっと立っている姿を観察されていたことに気が付いたトーカ。彼女は気恥ずかしさと若干の焦りから、珍しく赤面して言い訳を口にした。

 

「あの、ちょっと考え事をしてて……」

 

「ああ! 考え事してると我を忘れちゃうときってありますよね! うん!」

 

 自分のことを考えられていたとは微塵も思っていない様子の女性客は、トーカの返答に思うところがあったのかしきりに同意を示した。その様子はやはり女子高生のようで、落ち着いた社会人女性にも、まして芳村に肩を並べるほどの実力者とはトーカにはどう頑張っても思えなかった。

 

 





本当にご無沙汰しておりました。
ただ怠けていただけなんですが、これからは更新速度を頑張って上げたいと思います。

内容に関しては、誤解が無きように言っておきますと
謎の女性客と芳村が拮抗する実力を持っているようにもとれる文章になっているかもですが、そういうつもりはないです。
拙い分で申し訳ないです。



怠けがちな自分を叱咤する意図も込めて、ついったで投稿報告垢のようなものを作りました。もし最新話すぐに読みたいと思って下さる方がいらっしゃれば、作者ページにリンクがあるのでよろしければ監視しておいてください。


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友達を作ろう

もしかしなくても半年経ってますね。
……なんということだ。


 

 

 

 

 ブラインド騒ぎが収まると、女性客はトーカにコーヒーを注文した。その表情は喫茶店で注文するにしては些か決意に満ちすぎていたが、注文を聞いたトーカの方が平常心では無かったため、彼女がそれに気が付くことは無かった。

 カウンターまで戻り注文を芳村に告げようとしたところで、トーカは芳村が笑みを浮かべていることに気が付いた。

 

「珍しいね、トーカちゃんがあんなに取り乱すとは」

 

「もう、からかわないでくださいよ店長。あと注文はホットコーヒーです」

 

 トーカの言葉を聞いた芳村は、ゆっくりと拭いていたカップを置いてコーヒーの準備に取り掛かった。

 『あんていく』では芳村のこだわりで、コーヒーは豆から厳選されたものを提供している。トーカには豆の違いまでは分からなかったが、それでも芳村の淹れるコーヒーが一味違うとは思っていた。

 トーカに背を向けつつ、芳村がいつもと変わらない落ち着いた調子でトーカに尋ねる。

 

「それで、どうかな? トーカちゃんの見立てでは」

 

「……それがどうにも。なんというか変な感じで」

 

 豆が挽かれる音を聞きながら、トーカは件の席の客に目を向ける。女性客は注文したにも関わらずメニューを眺めて表情をころころ変えていた。それはコーヒーしか口にできないトーカには分からない感覚だったが、しかし注文はコーヒーだけというまさしく喰種らしいものであるのも事実。混乱はより深まっていくばかりであった。

 

「少なくとも人間ではないと思います。……ただ喰種かといわれると――」

 

「喰種でもない?」

 

「はい。ただ、正直私より店長の方が感覚とか鋭いだろうし、あんまり私の言葉は信じない方がいいと思いますけど」

 

「ふむ、私はトーカちゃんの判断を信じているけどね」

 

「……それって――」

 

 トーカが芳村の言葉の真意を計ろうとしていると、芳村がカウンターの上に完成したホットコーヒーを置いた。

 

「ともあれ、今は一人のお客さんだからね。彼女がどちら(・・・)かなんてことは二の次でいいんだ。これ、持って行ってもらえるかな?」

 

「店長……。砂糖はどうしますか?」

 

「そうだね、それも二の次にしておこうか」

 

 楽しそうにそう言って芳村は手で顎をさすった。

 芳村の茶目っ気に毒気を抜かれたトーカは、腰に手をついてやれやれと首を振る。そしてコーヒーのカップをソーサーに載せながら、呆れたそぶりを見せながら返答した。

 

「店長って意外といい加減なところありますよね」

 

「うむ、君たちには迷惑をかけるね」

 

 一通り軽口のような親愛表現を交わして、トーカはホットコーヒーを手にカウンターを離れた。

 

 

 

 

 

 

 コーヒーが目の前に置かれると、女性客は難しい顔でうなった。それを不審に思いながらも、トーカは踵を返しカウンター前まで戻った。

 

「それにしても」

 

 トーカが戻ってくると同時に芳村が口を開いた。

 

「表情がころころ変わって面白い子だね」

 

「はぁ……?」

 

 言われて客の方を振り返ると、コーヒーカップに口をつけながら顔をしかめる客の顔がトーカの目に飛び込んできた。泣きそうなような、なにか申し訳なさそうな、そんなトーカの知らない表情だった。

 

「あれはたぶん苦いんだろうね」

 

「苦い、ですか?」

 

「まあ私達には縁のない縁のない話ではあるのだけど」

 

 感心したように呟く芳村とは対照的に、苦いという感覚が分からないトーカは首をかしげる。

 

「それは不味いのとは違うんですか?」

 

「うん。私も味わったことがあるわけじゃないから実感としては無いけど、苦さと不味さは必ずしも同じものではないらしい」

 

「……よくわかんないですけど、ああいう味覚があるってことは喰種じゃないってことなんですかね」

 

「どうだろうね。もしかしたら演技かもしれない」

 

 芳村の言葉にまさかとは思いつつも客の観察を続けるトーカ。仮に女性客の振る舞いが演技だとしたとき、自分の普段の食べるフリがいかに稚拙な物なものだったか思い知らされるような気がしてトーカは内心冷や汗をかく。

 しかし、あそこまで感情豊かにコーヒーを口にする人間というのもトーカは見たことが無かったのも事実なので、再びトーカの思考が混乱し始める。

 ――大体あの気の抜けてそうな女が演技なんて出来るのか?

 そこまで考えて、トーカはある可能性に思い至った。

 

「もしかしてからかってます?」

 

 トーカの不機嫌そうな目に、芳村はただニコニコと機嫌良くカップを拭き続けるだけだった。

 トーカが再び大きなため息をついたとき、扉の呼び鈴が新たな客の訪れを告げた。つられてトーカが顔を上げると、今度は常連客とはいかないまでも見知った客だった。

 

「げ、月山」

 

「げ、とはご挨拶だね霧島さん。芳村氏も壮健そうで何よりです」

 

「半年ぶりかな、月山君も元気そうだね」

 

「おかげさまで」

 

 ――何がおかげさまなんだよ。

 内心で悪態をつきながら客――月山習の来店した目的を問いただそうとするトーカ。しかし、月山の興味は既に別のものに移っていたらしく、その視線の先はトーカでも芳村でもなかった。彼は驚いたように目を見開き、口元をいやらしくゆがませて一人の人物を見つめていた。その人物が例の女性客だとトーカが気が付いたとき、月山が店の空気を読まずに声を張り上げた。

 

「弓塚さんじゃないか!!」

 

「ひゃい!?」

 

「こんなところで君の顔が見れるとは……fantastic!」

 

 あっけにとられるトーカをおいて、月山はその弓塚と呼んだ客のところまでずかずかと歩いて行った。

 

「知り合い、なんですかね?」

 

 店員を完全に無視して勝手に弓塚の向かいの席に腰を下ろす月山を見ながら、トーカは隣の芳村に問いかけた。しかしその答えを聞く前に、トーカはその場を離れないといけなくなってしまった。というのも、月山の来店を見咎めた店内の喰種数名がこぞって席を立って会計をしに来たからである。偏食や派手な行動で喰種捜査官の目に留まっている月山は、同種の喰種達からも煙たがられているのだ。

 しばらくして店内の客が弓塚と月山だけになると、弓塚に雨あられのように言葉を投げかけていた月山は一端口をつぐみ、トーカたちの方へ振り返った。

 

「なんだか悪いことをしてしまいましたね、芳村氏」

 

「そう思うんならなんか頼むか出てくかしたら?」

 

「こらこら、お客様にそんな態度じゃいけないよトーカちゃん」

 

「うぇ、店長……」

 

「月山君もゆっくりしていって」

 

「Merci Beaucoup」

 

 ――何語だよ。

 恭しく頭を下げる月山に、心の中で悪態をつくトーカ。トーカのそんな様子を知ってか知らずか、月山は顔を上げるとトーカに声をかけた。

 

「そうだ。霧島さん、こっちに来て僕らと話そうじゃあないか」

 

「はぁ……?」

 

 突拍子もない提案に目を白黒させるトーカ。月山の向かいに座っている弓塚も似たような反応を見せていた。

 

「いいじゃないか、ちょうど客もいなくなったところだし。……芳村氏も構いませんよね?」

 

 月山の言葉に芳村はニコニコとうなずいて見せた。その様子を見てトーカは半ば裏切られたような心持になったが、そんなトーカの意思にお構いないなく、月山がトーカの腕を引っ張って無理やり席につかせた。

 

「今日は素晴らしい日だね! 友人を、友人に紹介できる。嗚呼、素晴らしき人間関係……!」

 

「私、アンタの友人になった記憶ないんだけど」

 

 一人恍惚と天井に、というより世界に腕を広げる月山に、トーカがぴしゃりと言い放った。しかし月山はそんな言葉に一切動じる様子もなく、機嫌よくコーヒーのカップに口を付けた。その様子に余計腹を立てたトーカがとげとげしい雰囲気を醸し出すが、その空気は弓塚がおどおどと自己紹介を始めたことによって打ち消された。

 

「あの、私弓塚さつきっていいます。すみませんお騒がせしちゃって」

 

 月山をにらみつけていたトーカだったが、慌てて表情を柔らかくして弓塚に対応する。

 

「あ、いや騒いでるのはこいつだし全然大丈夫です。霧島董香です」

 

 人付き合いが得意ではないトーカは、どうすればいいか分からず自己紹介とともに軽く会釈してみせた。対する弓塚もそれを見て慌てて頭を下げた。

 月山はそんな二人の様子を満足げに眺めると、最後に大きな声で『そして、ご存知の通り僕は月山習だ』と付け加えた。弓塚だけがそれに反応して小さく頭を下げた。

 

「さて、僕が君たちをこうして引き合わせたのには、ズバリ理由がある」

 

「はぁ?」

 

 得意げに指を一本たてる月山。トーカは心中でどうやってこの変人を店から追い出すか真剣に考え始めた。

 月山は指を立てたままトーカと弓塚を見渡し、理由について尋ねられるのを待った。数秒の沈黙の後、耐えられなくなった弓塚が口を開く。

 

「あの、それはどんな理由ですか?」

 

「そう、それは君たちに交友関係を築いてもらうことさ」

 

「はぁ……?」

 

 『どうだい、いい考えだろう』なんていうセリフが聞こえてきそうなすまし顔だった。

 

「何をわけのわからないことを――」

 

 ばっさり切り捨てようとするトーカを、月山の言葉が遮る。

 

「まあ聞いてもらおうか霧島さん。これはみんながハッピーになる素晴らしい提案なんだ」

 

「あ?」

 

「なぜなら、……君たち二人とも友達がいないだろう!!」

 

 トーカと弓塚は二人して動きを止めた。トーカは頭の中に、つい最近話しかけてくれた一人の女子生徒を思い描いて、彼女を友達と呼んでいいのか頭を悩ませた。弓塚もまた愛想笑いを浮かべていた頬がぎこちなく固まっていた。

 

「図星、のようだね……。それにしても僕は悲しい、花の十台を孤独に過ごす君たちを思うと」

 

「うるっさい! 友達ぐらい、いるし……」

 

 しりすぼみになっていくトーカの言葉は何一つ説得力を持ち合わせていなかった。それを自覚したトーカは、月山の憐れむような演技臭い悲しさのジェスチャーを見て、頬が熱くなるのを感じた。

 

「うぅ、ほとんどいません……」

 

 遅れて弓塚の絞り出すような声が寂しく響く。

 

「弓塚さん……」

 

 うなだれた弓塚を見て、トーカはそのあまりの悲壮感に思わず目を背けたくなった。そんなトーカをよそに、小さくなった弓塚の肩に月山の手が無遠慮に置かれる。

 

「弓塚さんは仕方がないさ。20区に越してきたばかりなのだから」

 

 月山の言葉に、弓塚が不思議そうに顔を上げた。

 

「あれ、私月山さんに引っ越してきたこと言いましたっけ?」

 

 一瞬だけ空気が凍り付いた。あくまでも純粋な目で月山を見る弓塚に対して、トーカは月山を不審な目でにらんだ。というより不審者を見る時の軽蔑の眼差しをしていた。

 月山はぎこちなく言葉を返す。

 

「ハハ、この間会った時に教えてくれたじゃないか」

 

 そうでしたっけと首を傾げる弓塚。そんな彼女を横目に、風向きが悪いのを感じ取ったのか、月山がおもむろに立ち上がった。

 

「ちょっと失礼。少し催してしまってね、御手洗いに行かせてもらうよ。……僕がいない間、存分に交友を深めておいてくれたまえ」

 

「さっさと行け、クソ山」

 

 トーカの言葉を背に、とてもトイレに行くとは思えないような優雅な足取りで月山は店の奥に姿を消した。

 そうして、二人の間にどことなく気まずい沈黙が残された。トーカが所在なく目を泳がせながら、普段は注目しない椅子の装飾などを見ていると、弓塚の方から声をかけられた。

 

「霧島さんは高校生?」

 

「あ、そうです。……弓塚さんは――」

 

「私は社会人1年生かな……」

 

 それはトーカには意外な回答だった。服装こそ大人びているものの、その風体は自分とほとんど同年代なように見えたのだ。そんなトーカの驚いた様子に気が付いたのか、弓塚は補足で説明を入れた。

 

「実はいろいろあって高校を卒業してないの。だから社会人って言っても18歳なんだけど……、やっぱり子供っぽい、かな?」

 

「……少し、だけ」

 

「あぅ……」

 

 そうやって再びうなだれる弓塚を見てトーカは苦笑すると同時に、少しだけ弓塚に対する警戒心を解いていた。

 18歳というと、7月で16歳の誕生日を迎えたトーカと比べれば、二歳だけ年上ということになる。月山の言う通り年代は近いわけである。

 トーカは一つだけ気になっていたことを尋ねることにした。

 

「弓塚さんが月山と友達だっていうのは本当ですか?」

 

 月山習という危険な喰種と、いったいどんな関係を築いているのか。その返答次第で弓塚に対する警戒度合いは変わってくる。

 トーカの質問が予想外のものだったのか、弓塚は一瞬だけ目を丸くした後、笑いながら首を振った。

 

「違うと思う。月山さんにはいろいろお世話になってるけど、友達っていうほど対等な関係じゃないよ。それに――」

 

「それに?」

 

「その、失礼なんだけど。月山さんて、変、だし」

 

「ですね。……私もアイツとはただの店員と客の関係です」

 

 トーカは大きく頷きながらそう言った。言いながらトーカは、この分だと月山にも友達がいないだろうと自分のことは棚に上げながら思った。

 

「……あの、さ」

 

 唐突に弓塚が神妙な調子で口を開いた。一体何を言われるのかと思わず身構えてしまうトーカだったが、続けて弓塚の口から出てきた言葉に、一気に気を緩められた。

 

「トーカちゃんって呼んでいい?」

 

「……はい?」

 

 トーカにとってそれは完全に予想外の言葉だった。呆気にとられるトーカを前に、弓塚が言葉を続ける。

 

「あの、月山さんも言ってたけど、私こっちに来たばっかりで友達とかも全然いなくて。寂しいなぁ、なんて。……あ、も、もちろんいきなり友達っていうのも変なのはわかってるから」

 

「……」

 

「だから、その、また来てもいいかな? トーカちゃん」

 

 顔を赤くしてあたふたとする弓塚に、トーカは完全に毒気を抜かれてしまった。この人は、先ほどの月山の言葉を真剣に聞いていたのだ。呼び方も、承諾していないのに、ちゃっかりトーカちゃんと呼び始めている。

 なんというか、無害さを凝縮したような人間だとトーカは思った。この、人間とも喰種とも分からない謎の存在が。

 

「……いつでも私がいるわけじゃないけど、それでいいならまた来てください」

 

「本当? やった!」

 

 そう言って弓塚は小さくガッツポーズをしながら笑った。その様子に、再び苦笑してしまうトーカ。

 下されたブラインドの隙間から、柔らかな午後の日差しが店内に差し込んでいる。カウンターの内側では、一部始終を見守っていた芳村が、穏やかに微笑みながらカップを磨いていた。

 

 

 

 

 

 

 なかなかトイレから出てこない月山の存在を、談笑する二人が忘れかけようという頃、『あんていく』の店内に軽やかな携帯電話の着信音が鳴り響いた。

 

「あ、私だ」

 

 携帯を取り出した弓塚は、着信相手の名前を見て表情を変えた。

 

「ちょっとだけ席を外すね」

 

 弓塚はいそいそと店の扉から出ていき、外で通話を始めたようだった。残されたトーカは、どことなく居心地が悪くそわそわと居住まいを正した。一分ほどで弓塚は店内に戻ってきた。その表情は先ほどまでと打って変わり、どこか硬いものが見えた。

 

「ごめんね。ちょっとヒラ……じゃない、上司から連絡があって、これから向かわないといけなくなっちゃったの。今日は本当にありがとう、また来るね」

 

 あわただしくそう口にする弓塚には、トーカが口をはさむ余地がなかった。そうして会計を済ませようとする弓塚に、芳村がサービスで料金は不要だと伝えた。弓塚は一瞬だけ迷った挙句、深くお辞儀をして扉から出ていこうとした。そして慌ててトーカを振り返り、

 

「月山さんにお先に失礼しますって言っておいてもらえると嬉しいです」

 

 それにトーカが頷いて見せると、弓塚は礼を口にしてバタバタと店を出て行った。

 しばらくしてトイレから意気揚々と月山が戻ってきたが、弓塚が帰ったことを告げると自身も身支度を始めた。会計の際月山は実際より多めに支払っておつりは結構と口にしたが、芳村は一度だけ遠慮した後受け取った。

 月山が去ると、いよいよ『あんていく』は客が誰もいなくなった。

 

「最後は随分慌ただしかったですね」

 

「そうだね。……また来るといいね。さつきちゃん」

 

 芳村がニコニコとトーカに告げると、来なくてもいいですけど、とトーカはつっけんどんに返した。弓塚が予想以上にフレンドリーな性格をしていたのは確かだが、それ以前に彼女はどちらかの見当もついていないのだ。喰種が経営する店としてはそんな危険因子を放っておくのは良くないはずである。しかし。トーカから見て。芳村はどうにも気にしていないように思われた。

 このような芳村の多くは語らない姿勢にトーカは悩まされるのが常であった。

 

 

 




急いで打ったのでちょっと粗いかもしれないです。


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