IS~インフィニット・ストラトス~ ―I AM…ALL OF ME…― (ヱ子駈 ヒウ)
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第1話 「朴月 姫燐」

「よぅ、朝から不景気な顔してるねぇ」

 

 彼は身を投げ出していた机から億劫そうな動きで身体を起こすと、恐らく自分に声をかけたのであろう妙にオッサン臭い口調で喋る少女の方に向き直った。

 

「……なんだよ」

「そう邪険にしなさんなって。オレは感動したぜ、あの生意気なイギリスっ娘に『日本人を無礼るなぁー!』って叫んだ所は懐にこう、グッとくるモノがあったな。うん」

 

 そう言って、ワザとらしく目頭を押さえながら気分爽快といった表情を浮かべた彼女を彼は胡散臭そうな目で見遣る。

 背は男である自分より少し低い位だろうか。それでも女子の中では大分高い方で、女性なのにスカートではなく自分と同じズボンを着用しているが、開けた上着の下のインナーから激しく自己主張する2つの浪漫が、彼女は女ですよと大合唱している。

 顔立ちは間違いなく美少女と呼ぶに相応しく整ってはいるモノの、今現在浮かべているお淑やかさとはかけ離れた悩みの『な』の字すらなさそうな笑顔と、自分の事を女なのに『オレ』と呼ぶせいでむしろ、美少女と呼ぶより『近所の悪ガキ』と形容した方がしっくりと来てしまう。もったいない。

 そして特に目を引いたのが、全世界から人が集まるこの学校でも一際珍しい燃え上がる様な赤い髪で、それをセミロングで適当に切り揃え、どこかに妖怪でもいるのかレーダーがぴょこんと1本と立っていた。

 

「はぁ……」

 

 さっきの口喧嘩でそんな啖呵を切った覚えは全くないのだが、今は心身共に疲れており、つっこむ気力も無いので彼は適当に生返事を返す。

 

「あー、なにか用か? 何も無いなら……」

「おっと、そう急かすなよ。今のは挨拶みたいなもんで本題はこっからだ」

 

 そうして彼女は一度大きく息を吸い、キッと目を見開き、彼に向かい叩頭しながら手を合わせ叫んだ。

 

 

「たのむ織斑一夏! オレの恋愛に協力してくれ!」

 

 

 ピシィ! と空間に亀裂が走った――ような気がした。

 さっきまでの喧騒が嘘のように、休み時間の教室が静寂に包まれる。

 1年1組に所属する生徒全ての視線が、1番前の席に座る彼と、頭を下げる少女に集中砲火された。

 懐疑、好奇、驚愕、そんな感情が飛び交う張りつめた空気の中、彼―――織斑一夏は、

 

「…………はぁ?」

 

 そんな、覇気の無い返事を返すのが精一杯だった。

 

 

第1話 「朴月 姫燐」

 

 

 このままでは訳が分からないので、話を少し巻き戻そう。

 全世界で今、もっとも注目を浴びている少年、織斑一夏は、ここ最近の自分の人生を振り返り、ふと憂鬱のため息を漏らした。

 ぶっちゃけこれだけ言うと、タダの厨二病が激イタな自己陶酔をしているだけにしか見えないが、もし本当にそうだとしたら彼は今頃、どれほど幸せな男だっただろうか。

 いや、ある意味一夏の現状は、男ならこれ程の幸せは無いと断言する猛者が少なからず居るモノだが、生憎と彼はそう思う事ができない草食系でチェリーなボーイだった。

 女、女子、婦女子、乙女、おなご、ミス、ガール、べっぴん、デラべっぴん。教室を見渡す視界に映るはそればかり。渡る廊下も女子ばかり。トイレも離れにある1つを除けば女子用ばかり。

 そう、ここは女子校。入学初日の朝のホームルームが終わり、女子生徒達がわき合い合いと新たな学友たちと戯れるここは本来、正真正銘の『男』である一夏が居ていい場所ではない……のだが。

 

「はぁぁぁぁ~~……」

 

 ああ、なんで自分は『あんな物』を動かせてしまったのだろうか。

 机に身を投げ出しながら特大のため息と共に、一夏は自分の手のひら……正確には自分の身体自身とにらめっこする。彼は別に、祖父の遺言でここに来た訳でも、不登校が祟って母親に無理やり入学させられた訳でもない。だが、不条理という点ではこれらといい勝負をしているだろう。

 『IS』……正式名称『インフィニット・ストラトス』。

 とある天才で天災なイカれた科学者が創り出した、現代戦最強にして究極の機動兵器。

 核となるコアを中心に、手足に部分的なアーマーを装着するパワードスーツ。

 その力は、重力を無視し空を鳥の様に自由に飛び、バルカンやミサイルが直撃してもバリアを展開することで傷一つ付かず、圧倒的な出力と人だからこそできる柔軟性を併せ持つ。しかもISの本体を粒子化させる事によって持ち運びにも長けると、ニュートンやライト兄弟、歴代の科学者全員にケンカを売った超兵器。

「戦争は変わった……」と言う言葉が、まさか現実世界で、しかも自分が生きている内に聞く日が来るなど誰が予測しただろうか。 

 その現代戦の常識を全てひっくり返してゴミ袋にまとめ、ポイっと捨てた驚異的な兵器は際どい所で成り立っていた世界のバランスをいとも容易くぶち壊し、人々の価値観すらも狂わせた。

 だが、そんなISにも唯一にして最大の欠点がある。

 それは何故か『女性』しか操れないという、全国のフェミニストが裸足で逃げ出すようなもので結果、世界は女尊男卑が当たり前。男など、女の奴隷であるという風潮が全国的に広がり、全国の野郎共は涙を呑む生活を強いられてきた。そう、

 

「あー、疲れた……」

 

 ここで身を投げ出しながら、ポヘ~と腑抜けている男以外は。

 織斑 一夏、全世界でたった1人だけ『男』でありながら、『女』しか動かせない筈のISを動かせる人間。それが彼の通り名だ。

 そしてここは『IS学園』。その名の通り、ISの操縦者を養成するために作られた世界唯一の高等学校だ。分校も無いため、世界中から国籍を問わず様々な生徒が集まって来るのが特徴の1つだが、まぁ当然、女性しか動かせないので世界中から集まってこようが結局女性だらけな訳で。

 たった独りのロンリーボーイ、一夏は肩身が狭い思いをしながら過去を羨む。

 思えばここ最近、ロクな事が無い。

 高校受験の会場を間違えた事から始まり、迷子になった先にあったISを起動させてしまい此処への入学が勝手に決まってしまった事や、そこには女の子しかおらず一時も気が休まらない事や、今まで何をしているのか知らなかった姉がここで教鞭を振るっており、今朝さっそく自分もその鞭を出席簿で叩かれるという形で受けた事や、極めつけは先程のイギリスからの代表候補生――セシリアとか言ったか。に、よく分からない理由で目を付けられてしまった。

 ……まぁ、千冬姉が何をしているのか分かった事や、幼馴染の篠ノ之 箒と6年振りに再会できたのは素直に嬉しかったのだが。

 

 だが、一夏はまだ知らない。

 ここから先、もっとかつ、最も疲れるイベントが待っていることに。

 織斑一夏が犯した失態はただ1つ。それは先程のイギリス人、セシリア・オルコットなど可愛く思えてくる『変人』に目を付けられてしまったことだ。

――オレの想像以上に、コイツは使える。

 口元を楽しそうに歪ませた彼女はヘッドホンを外して首にかけ、己が愛するヘヴィメタルと自分の席に心の中でしばしの別れを告げると、定めた獲物の正面へと脇目も振らずに進み、言った。

 

 

「よぅ、朝から不景気な顔してるねぇ」

 

 

 そうして、物語は冒頭に戻る……。

 

              ●○●

 

「……おい、これはどういうことだ一夏」

 

 沈黙が支配する教室に響いた第2声は、いつの間にか一夏の隣までボソンジャンプしていた6年振りに再会した彼の幼馴染みこと、篠ノ之箒だった。それが起爆剤であったかのように、他のクラスメイト達による質問と言う名の爆撃が投下される。

 

「ねぇねぇねぇ、今のってどういう事!? 告白なの!? コンフェションなの!?」

「うわぁ~、先越されたぁ~~~~!!」

「速さは文化の基本法則と言うけど、いくらなんでも速過ぎじゃない!?」

「さぁ吐けッ! いつの間にこんな女を作ったのだ!?」

「い、一体なにがどうなっていますの!?」

 

 それはこっちが聞きたいよ。

 一夏が心の中でそんな事を切実に思ってると、いきなり女性のモノとは思えないバカ力でグイっと腕を引っ張られ、

 

「ここじゃちょぃと話辛いな。屋上に行くぞ、織斑」

 

 次の授業まであと数分と無いのに、物凄いスピードで屋上へと拉致られてしまった。

 ちなみに教室を出た瞬間、千冬と副担任の山田先生とすれ違ったが、2人共ポカーンとした表情で自分達を見送ったとき、一夏が「千冬姉があんな顔するとこ初めて見た」とか思ってしまったのはどうでもいい余談である。

       

                  ○●○

 

「はぁ~、風が気持ちいいなぁ~」

 

 屋上の扉を開き、フェンスの方へと小走りすると両手を広げ、身体を優しく撫でる春風を全身に感じながら彼女は、この解放感に心から酔いしれていた。

 

「授業、始まったなぁ……初日なのに……」

 

 一方、鳴ってしまった2時間目が始まるチャイムを背に一夏は、サボタージュの背徳感と帰ったら待ち受けているであろう教師であり姉である千冬の説教を、今日の空模様のように心から憂鬱に思っていた。

 

「どうした、暗いぞ織斑。晴れて無いのは確かに残念だけどなぁ」

「誰のせいで暗くなってると思ってるんだ……」

「あー……その件は悪かった。謝罪する。だが、ちょっと急を要する件だったからな」

 

 急を要する件? 一夏が首を傾げるのを図ったように、彼女は事情を説明しだした。

 

「まず始めに誤解を解いておこう。オレは、別にお前の事を愛してる訳じゃない」

「そりゃ、俺達は初対面だからな。ここでいきなり愛してるなんて言われても、正直困る」

「あー……そういう訳じゃないんだが、まぁいいや」

 

 アレで誤解しないのか……と小声で聞こえたが、どういう訳だったのだろう。と心底分かりませんといった表情を浮かべる唐変木。

 

「とにかく、織斑にはオレの恋愛に協力して欲しいんだ」

「恋愛……?」

 

 その言葉に眉をしかめる一夏。

 どこか要領が掴めない。このIS学園には女性しかおらず、『彼女』の恋愛対象になるような男は1人も……そこで、ようやく自分の見落としに気が付く。

 

「も、もしかして俺と!?」

 

 そう、必然的にそうなってしまうのだ。

 この女体パラダイスであるIS学園において唯一の例外。恋愛対象である男は自分しか居ない。生まれてこの方、異性に告白されるなど初めてで、どう返事しようかあたふたしていると一夏を見て彼女は心底呆れたような表情を浮かべ、

 

「お前……人の話聞いてたか? 勘違いするなよ。さっきも言った通りオレは、お前にライクは抱いていてもラヴな感情はこれっぽっちも無い。因みにツンデレでもないぞ」

「え……じゃあ、どういうことだ?」

 

 少しばかりがっかりとした気持ちになるが、まぁ仕方ない。

 一夏は、更に膨れ上がった疑問を投げかける。

 

「恋愛に協力するもなにも、相手がいないじゃないか。男は俺だけだし……もしかして遠距離恋愛ってヤツか? 文通とか」

「年の割に随分古典的な恋愛手段思いつくなオィ……まぁ、それも悪くは無いがハズレだ」

 

 これもハズレ? 自分は決して頭が良い方ではないが、これ以上の可能性なんてあるのか? と先程から頭をフル回転させているが、答えは見付からない。

 そんな一夏の姿を面白そうに眺めながら、彼女は人差し指をピン、と立て、

 

「じゃあ1つ目のヒントだ。まず、この学校は何でしょう?」

「何ってそりゃあ……ここはIS学園だろ?」

「うーん、惜しいな。もうちょっと根本的な所だ」

 

 根本的……? この学校は、ISの事を教える為に作られた学校で、IS以外に特徴なんて……あ。

 

「もしかして、女子校って所か?」

「大正解だ。聡明な奴はお姉さん嫌いじゃないぞ」

 

 同年代じゃん……というつっこみを何とか飲み込み、その時ふと思いついた可能性を提示する。

 

「まさかお前、俺と同じで間違えてここに来たんじゃ……」

「残念、続いて2つ目。オレはこの学校が女子校だという事を知って入学した。つーかお前くらいだ、自分の進路を決める試験会場を間違えるバカなんざ」

 

 いや、まぁ事実だが、もうちょっと言い方ってもんが……と傷ついてる一夏を無視し、彼女は3本目の指を立てた。

 

「じゃあ、ラストに大ヒント。オレは、ここIS学園に新たな『恋』を求めてやって来た。お前が居るとは知らずに、だ。ここまで言ったらもう分かるよな」

「え……だって……えぇ?」

 

 流石の一夏でも、もう予想はできていた。だが理解ができない。

 確かに、この予想が確かなら今までの彼女の言動全てが納得いくモノになる。だが、それは正にチェス盤をひっくり返すなんてレベルではなく、全ての前提を、この世界の必然すらひっくり返した……あえて言うなればチェス盤をちゃぶ台返ししたような予想なのだ。

 

「ふふん、どうやらデッドエンド(真実)に辿り着いたみたいだな」

 

 そう呟くと、彼女は大手を広げ、まるで城に辿り着いた勇者と対話する魔王の如く威風堂々と宣言した。

 

 

「そう! オレは! 可愛い女の子が、大ッ、大ッ、大好きなのだぁぁぁぁぁーーーーー!!!」

 

 

 ズガガーン! と雷のようなイメージが彼女の背後を奔り、その全身全霊を込めた叫びは木霊となり、蒼い海と曇り空へと溶けていく。

 無論、ライクじゃなくてラヴで! と締めくくる彼女の声で、半放心状態になっていた一夏の脳みそがようやく稼働を始め、そこでようやく

 

「えええええぇぇぇぇぇぇぇぇーーーーーーーーーー!?!?」

 

少し遅れて、また特大の木霊が屋上から世界へと消えていった。

 

                  ●○●

 

「よーう、少しは落ち着いたか?」

「あ、ああ……」

 

 2人はいつまでも立っているのに疲れたので、適当に座れそうな所に並んで座ることにした。

 彼女が持っていた水を貰い一息つく一夏だったが、まだ頭の中は混乱のるつぼだ。

 

「あ、あのさ、念のためもう一度確認するけど、お前ってもしかして、その……レズビアンって奴……なのか?」

「格調高く言うと百合だが、まあ大方間違っては無いな」

 

 改めて宣言され、一夏は強烈なカルチャーショックを受けた。

 そういう人が居るって言うのは聞いた事があるし、悪友の家でその手のマンガを読まされそしてその場で力説されたことがある(無論、ドン引きした)が、まさかこうして目の前に、しかも自分のクラスメイトとして出会うとは思ってもみなかったからだ。

 

「なんだ、同性愛がそんなに珍しいか?」

「だ、だって……そりゃ……」

 

 自分と、価値観が全く違う人間。

ただ、それだけだというのに、一夏には彼女がどこか、とても遠い存在に思えてしまう。

 

「まぁ、無理もないわな。多分オレだってお前がホモだったらドン引きする」

「えー…………」

 

 なんか、とても理不尽な物を感じるが……いやそれ以前に自分はホモなどでは断じて無いが。

 

「織斑が引くのは自由だし、オレだって気にしない。でもな、なんでそれを今、お前に告白したのか。その理由だけは考えて欲しい」

「告白の……理由?」

 

 そう、そもそもなんで俺達はここで話しているのだったか。

 この話のルーツは―――

 

「恋愛に協力してほしい。……って奴だよな」

「ザッツライト、その通りだ」

 

 なぜ、彼女が俺にこんな話をしたのか。

 その理由が……イマイチよく分からない。

 一夏の混乱は更に深まっていくばかりであった。

 

「分かりませんって顔だな。理由としては、まず協力関係を結ぶ前にオレの事を少しでも理解して欲しかった。って所かな」

 

 理解と信頼なき協力などあり得ない。

 簡単な事だ、例えその人物の事を一切知らずとも、信頼に値し、目的のために使えると判断できる力さえ有れば人と人は協力する事ができる。その逆も叱り。利害さえ一致すれば、数が多い事に越したことはないからだ。

 だが、その両方を知らない人物と協力するとなれば別だ。

 人は見ず知らずの力量も分からない人間に、己の背中を預けられるだろうか?

 答えはNO。勝手に裏切る可能性だってあるし、自分の足手まといになる可能性もある。無論、その両方が襲いかからないとも限らない。

 当然、前者でもその可能性が無いとは言い切れないが、まだある程度の予測を立てる事ができる分マシだ。しかし、後者に至ってはそれすらできない。

 

 だから彼女は己の秘密を暴露した。少しでも、一夏の信頼と理解を得るために。

 

「……それでも分からないな。そもそも、なんで俺に頼むんだよ?」

 

 恋愛経験皆無の自分よりも、もっと相応しい人物がこの学園には居るんじゃないだろうか?

 その疑問に、彼女はとっても簡素な言葉で答えた。

 

「それは織斑、お前が男だからだ」

「男だから?」

「そうだ、お前も知っての通りこのIS学園はお前以外全員女のパラダイス。言わば桃源郷。もしくはヘブン」

「は、はぁ……」

 

 そこまで言う物だろうか? 彼女を見ていると、もしかして自分は女子への執着というか、そういう物が枯れているのではないかと思わず錯覚しまう。

 

「そこに1匹男(イケメン)を投げ込んでみろ。どうなったかは身に沁みてるはずだぜ?」

「ああ、確かに……」

 

 この学園に入学して以来、一夏は常に誰かの視線に晒されて来た。

 教室はもちろん、校庭、廊下、門、あげくの果てにはトイレまで、ありとあらゆる所でまるで見世物動物のような扱いを受け、彼は心底ウンザリとしていた。

 

「だからこそ、意味がある」

「意味?」

「織斑、オレがお前に頼みたいのは、紹介だ」

「しょ、紹介?」

「非常に歯がゆいがオレが1個人である以上、限界がある。1日に会ってお茶に誘える量も、お互いの将来について語り合う時間もほんの少ししか無い」

 

 確かに、この学園の敷地は非常に広大で、それに見合う全校生徒がいる。

 その全てをチェックすることは、1個人の力では到底不可能だ。

 

「だが織斑、お前は逆だ。お前はほっといても逆に人を夜中の蛍光灯の用に自分から引きよせてくれる。そこでお前の眼にかなった女の子をオレに紹介してくれるだけで良い。無論、それなりに謝礼は弾むぜ?」

「……確かに、そうだな。その表現はどうかと思うけど」

 

 今日だけでも、一体何人の女子と出会っただろうか? 中には間違いなく自分より学年が上の人だって居たし、教師だって居たような気がした。確かに彼女の言う事は利に叶っている。

 

「納得したけど全く、勘弁して欲しいよなぁ。なんかここ最近、厄介事ばっかりだ。俺が男でISを動かせるって理由だけで……」

「……お前、本当に、本当にそれだけだと思ってんのか?」

「へ? それって、どういう……」

 

 彼女の非常に驚いたような、それでいて壮大な呆れと、ほんの少しの怒気を孕んだような表情に、思わず一夏の声が詰まる。今までの、どこかおどけたような声色が一切成りを潜め、真剣で、冷淡な眼差しが一夏を突く。

 

「織斑、こいつはオレからの忠告だ。お前が思っているほど、お前が今口走った『だけ』ってヤツは決して軽く無い。むしろこっから先、お前はその『だけ』のせいで2度と今までの過ごして来た生活には戻れないだろうな」

「なっ………!?」

 

 一夏は、彼女の言ってる事がすぐには分からなかった。

 もう、2度とあの平穏な、普通に学校に行って、将来役に立つか分からない勉強を眠気眼でノートに取って、帰りに友人達とバカをしたり、家に帰って晩御飯を作って姉の帰りを待ち、共に笑いながら夕食をつつき、明日に供えて寝る。

 そんな退屈ながらも素晴らしく、毎日が輝いていたあの日々が戻らない……?

 

「な、なんでそんなことが……」

「言えるのかって? 答えは簡単、それはお前が世界のバランスすらひっくり返せる超兵器を動かせる唯一の男だからさ。今頃、世界各国のお偉いさんはお前の腹を解剖したくてウズウズしてる頃だろうな」

 

 立て続けに突き付けられる事実に、脳の処理が追い付いていない一夏の目の前に座り、彼の胸をトントン、と突きながら、明日の天気でも言うかのように起伏のない声で彼女は話を続ける。

 

「お前が自分の事をどの程度だと思ってたのか知らないが、お前の身体には膨張抜きにこの世界をぶち壊せる秘密が隠されている。当然、その秘密を狙う輩はこの世に腐るほどいるぜ」

「……教えてくれ、その事についても」

「ああ、OKだ。今のお前はオレにとっても、いや誰にとっても金の卵だ。例えばオレが、今この瞬間お前を拉致って然るべき所に連れてったとする。きっとそれだけでオレは一生遊んで暮らせる金を得られるだろうな。当然、俺の場合なら個人だからこんな事しかできないが、国クラスならもっとエグイ方法も平気で使って来る。だからだろうな、織斑先生がお前をここに入学させたのも」

「千冬姉が!?」

「そうとしか考えられねェよ。あらゆる国家機関に属さないIS学園は言ってしまえば1つの国だ。国家権力に対抗するには、国家権力しかない。無茶な要求はつっ返せるし、誘拐でもしようものなら即国際問題だ。そのうえ、弟を自分の手元に置く事ができる。よくもまぁ、ここまで完璧な環境が有ったモンだぜ。って、おい織斑?」

 

 一夏は、ただ俯き歯を食いしばる事しかできなかった。

 どれほど、自分は今まで無知で愚かだったのだろう。

 誰かを護りたい? 自惚れもいい所だ。結局、俺はまた千冬姉に護られている。そんな俺が、誰かを護る事なんて出来るわけが無い。

 結局、俺はあの日から何も成長していないッ……!

 

 そんな無力感に打ちひしがれる少年を見て、彼女は思う。

 

(……あちゃー、もしかして地雷踏んじゃったかなこりゃ……)

 

 始めは軽い警告のつもりだったのだが、思わず熱が入り過ぎてしまった。

 何度反省しても思った事を包み隠さず、しかもやたら刺々しく言ってしまうのは何度やってしまっても止められない悪癖だ。こんなんだからモテないんだろうか。

 このまま気まずい空気にしとくのは耐えられないので、立ち上がってとにかく何か話題を……、

 

「あー、その、まぁ何だ。クヨクヨすんなって! 人生は長いんだから」

「……いい?」

「ドンストップキャリオンな精神で……はぃ?」

「教えてくれ、俺はどうすればいいんだ!? どうすれば俺は千冬姉に護られずに、1人で立つ事ができるんだ! 昔から親が居ない俺を何時だって、どんな時だって俺の代わりに千冬姉は傷ついてくれた。護ってくれた! 嫌なんだよ、もう俺の為に千冬姉が傷つくのは!! 俺は……俺は……」

 

 彼女の肩を潰れてしまいそうな程の力で握り、溢れそうな涙を堪えながら一夏は叫ぶ。それは彼の本心。今まで誰にも、千冬にすら吐露しなかった心からの叫びだった。

 力無く、その場に力無く膝を付く一夏。

 いつまで、2人はそうしていたのだろうか。

 彼女は、そんな情けない彼の姿を見てため息を1つ付く。

 そして少し考えた後、うん、と首を1回縦に振るとゆっくりと口を開いた。

 

「……なら、強くなるんだな」

「…………え?」

「誰かに護られるのが嫌なら。誰かに護られる必要が無いくらい、お前自身が強くなっちまえばいいのさ。簡単だろ?」

「でも……どうすれば……」

「とりあえず、男ならシャキッと立つ! ハリィアーップ!」

「は、はいぃ!?」

 

 強く命令されたせいで、思わず敬語で返してしまい、なぜかしっかり直立してまでしまっている。

 

「そう、背筋は真っ直ぐ、顎は引く! これからオレの問いには口で(ピー)たれる前に言葉の前と後ろに『サー』を付けろ! 分かったかこの(禁則事項)が!」

「サ、サーイエッサー!」

「ふざけるな! 大声を出せ! (都知事による規制)落としたか!?」

「サーイエッサー!!!」

 

 とうとう受け答えすら軍人風になってしまった。

 

「織斑一夏訓練兵! ここは何処だ!!?」

「サー! IS学園でありますサー!」

「では、お前の特技はなんだ!!?」

「え? ええっと、家事全般とマッサージ……」

「んな事は聞いていないバカ者!! お前が、お前にしかできない事を聞いているんだ!」

「サ、サー! お、男でありながらISを動かせることであります! サー!」

「そうだ! そしてオレは誰だ!?」

「サー! 教官はええっと……あれ?」

「なんだと!? そんな事も忘れたのかこの……」

「ちょ、ちょっと待ってくれ!? 冗談抜きで、お前は誰なんだよ!? まだ名前すら聞いて無いぞ俺!?」

「………………へ?」

 

 その言葉に彼女は質問を止めると、顎に手を置いてあっちをウロウロ、こっちをウロウロ、結構広い屋上をぐるっと1周してまた一夏の所に戻って来た辺りで、

 

「……オレ、まだ名前言ってなかったっけ?」

「言ってないよ! つーか前フリ長いな!?」

 

 普段はこんな大声を出すことが滅多に無い一夏だが、今回に限っては全くの無意識に腹の底から全身全霊でつっこんでいた。

 

「いやー悪い悪い。今まであんまりにも会話がスムーズに進んでたからつい……ははっ、ははは」

 

 苦笑いを浮かべながら後頭部をポリポリする謎の少女A(仮)。

 一夏はもう色々と脱力が止まらなかった。今まで完全に忘れていた彼女と、そして自分自身に。

 

「ほんじゃま、改めまして! 耳の穴かっぽじってよーく聞きな。オレの名は」

 

「朴月(ほおづき)! 朴月(ほおづき) 姫燐(きりん)だ!」

 

「朴月……姫燐……いい名前だな」

「だろ? でも褒めたって惚れないぞ? めんどかったらキリでもいいぜ。そっちのが慣れてるし」

「ああ、それじゃあこれからよろしくな、キリ。代わりに、俺の事も一夏って呼んでくれないか?」

「おう! よろしくな一夏!」

 

 お互いに笑いながら名前を言って握手を交わす。ああ、これぞ青春。これぞ学園モノ。

 

「……なんつー奴だ、オレも一応女だってのに。オレがノンケだったら即死だったかも。織斑一夏、恐ろしい子……後でメモっとこ」

「ん、なんか言ったか?」

「なんでもねーよ、ケッ」

(……え、俺なんか嫌われる様な事した?)

 

 天然の特1級フラグ建築士、ああ、なんて眩しい。その能力さえあれば……と羨む眼差しどこ吹く風か、鈍感を極めた彼には届かない。

 

「それよりキリ、さっきの質問なんだけど……」

「ああ、その事だな。さっきも言ったが、お前は護られるだけの自分が嫌なんだな?」

「……ああ、その通りだ」

「だったら、この学園ほど最適な機関はそうそう無いぜ。なんせ、ここは現代最強の兵器の専門学校だ。お前より強い奴は山ほど居るから相手には困らないし、授業でも強くなる為の方法も教えてくれる。そして何より……」

 

「このオレが、協力者としてお前を全力でサポートしてやるからな! 問題無しだ!」

 

「ふむ、確かに……ここはISの専門学校、トレーニングマシンだってあるし、それにキリも……キリも?」

 

 なぜだ、一体いつの間にそういう話になっている?

 ようやく無くなりかけてた疑念がまた沸々と顔を出す。

 

「あ? 決まってるじゃねえか。一夏がオレの恋をサポートする。その代わりにオレが一夏が強くなるのをサポートする。世の中は等価交換で出来ているんだぜ?」

「ちょ、ちょっと待て! 何でもう俺が協力することが決定して……」

「大丈夫大丈夫、オレこう見えてもそこそこ強いから」

 

 姫燐はそう言って堂々とその豊満な胸を張るが、一夏としてはどうしても一抹の不安がのこる。

 

「……本当に強いのか、お前?」

 

 何て言うか、一夏がイメージする実力者と呼ばれる人種と目の前の彼女は、余りにもかけ離れすぎている。少なくとも、一夏の中では同性愛者ではない。

 

「うーん、じゃあオレが『専用機』を持ってるって言えば少しは分かるか?」

「専用機? なんだそれ?」

「あー、まずそっからか。ホント何も知らないなお前」

「う………」

「あーもう、いちいち落ち込むなって。これから知ってけばいいんだからさ」

 

 姫燐がそう言って背中を叩きながら励ますも、それでも、一夏の顔が晴れることは無い。

 

(うーん、本当は校則違反だからやりたくないんだけど、まぁいっか)

 

 オレは、一夏をサポートすると決めた。そして今、彼の精神状態は好ましくない。

 何事もスタートがダメなら全てダメになる。それが彼女の持論だ。

 だから、ちょいと一肌脱ぎますか!

 

「よっし一夏!」

「ん、なんだよキリ」

「行くぞ!」

「へ? あ、ちょ、どこまッ!?」

 

 突然、姫燐は一夏を軽々とお姫様抱っこすると、反対側の柵目掛け全力疾走を始めた。

 

「ま、待てキリ! ぶつかる、ぶつかるーーー!?」

「大丈夫だ、せ~のッ!」

「ッ~~~~~~~~~~!?!?」

 

 そのまま姫燐は、3メートルはあるだろう柵を何と軽々と飛び越えて見せた。しかも、大の男を1人担いだ状態で。

 冷静に考えればそんなこと、出来るはずが無い。だが、今その冷静さは一夏の頭からドロップアウトしていた。

 ここで問題です、屋上の柵の向こうには何があるでしょう?

 

「お、落ちる!?」

 

 正解は、『何も無い』でした☆ 分かった方から抽選でハワイの代わりに、一夏くんが天国へ行きそうです。

 どんどんと遠ざかる空、吹き荒れる風、近付く地面。

 あ、わかった俺死ぬんだ。どうせなら、最後に1度くらいは千冬姉に恩返ししたかったと瞳を閉じて――

 

「一夏ぁ!」

「なんだよ、俺が心安らかに最後を」

「飛ぶぞ!!!」

「迎えようと……え?」

 

 そこで、一夏はようやく気が付いた。自分を抱く腕が、人間のそれでは無く、深く吸い込まれそうな濃い黒に近い蒼色をした鋼鉄であった事に。

 それだけでは無い。いつの間にか自分を抱いていた筈の彼女は足も、身体も、顔さえも、深く蒼い装甲を見に纏う、鋼の鉄人と化していた。

 耳を澄ませば微かだが姫燐の足元から、何かを放射するような音が聞こえる。

 それがゆっくりと落下速度を殺していき、とうとう空中で完全に停止すると、唯一変わらない姫燐の声だけが高らかに響いた。

 

「IS起動! Go for It、『シャドウ・ストライダー』!」

 

 その声と共に、一夏を抱っこした鉄の騎兵は大空を駆け抜けた。

「うわぁぁぁぁぁーーーーーーーー!?」

 殺人的な加速で行われる急上昇に彼は今日、何度目か分からない絶叫を上げる。

「イィィィヤッホォォォォォォウ!!!」

「無理死ぬ落ちる堕ちちゃうぅぅぅぅぅぅ!!!」

 テンションがハイに成り過ぎて奇声を上げる姫燐と、別の意味でハイになって良く分からない事まで叫び倒す一夏。

 体中を駆け巡る風圧と、胃の中身を全てぶちまけそうな重圧に目を瞑りながらでも、意識を失わないように必死にしがみ付くその根性は称賛に値するだろう。

 そうして数分後、ようやく姫燐の動きは止まった。

 

「ヘイ、見てみろよ一夏!」

「ああ分かってる。キリ、お前俺を殺す……つも……り……」

 

 何があっても開くものかと閉じていた瞳を開いた一夏が見たのは、先程までの灰色の世界では無く、ただただ光さす蒼の世界だった。

 何も無い、ただ蒼と太陽と風だけが果てしなく流れていくだけの世界。

 ふと下を覗き見ると、そこには見慣れない白い地面があった。柔らかそうでアレの上で昼寝したらきっと気持ちがいいだろうななんて事を考えてしまう。

 

「どうだい、最高の景色だろう?」

「あ、ああ……」

「空はいいぞー、悩みとか重い物全部、地上に置いて行けるからな」

 

 ただの人間である一夏は生まれてこの方、空を飛んだ事など無いが彼女の言う事が何となく分かるような気がした。それほどまでに、この空間は壮大で、寛大で、美しく、息すら忘れてしまいそうなくらい一夏の心を鷲掴みにして放さない。

 実際この時、一夏の頭には自分が抱えていた悩みなど、まるで別世界の事であるかのようにちっぽけに思えていた。

 

「なーんも無い蒼と白。オレ達の始まりに、ピッタリな景色だ」

 

 そう言って彼女は笑った……様な気がした。仮面の下で。

 

「オレは! このIS学園で! 必ずオレの嫁を見つけて見せるぞーーーーーー!」

「……なにやってんだ?」

 

 いきなり叫びだした姫燐を訝しむような顔で睨む一夏。

 

「何って、意志表明だけど。一面の蒼空に誓うってなんかカッコいいじゃねぇか」

「ぷっ、なんだそれ」

 

 ふっ、と一夏の顔から笑顔がこぼれた。

 

「おお、初めて笑ったな」

「え、そうか?」

「ああ、オレは初めて見る。ツチノコの盆踊りよりレアだねこいつは」

「………………」

「………………」

 

 僅かな沈黙、そして、

 

「くくく、ヒヒヒッ、だぁーーーーはっはっはっはっはっはっはぁ!!!」

「ぷくく、アハハッ、ひぃーーーーはっはっはっはっはっはっはぁ!!!」

 

 2人はこの大空に響く程のバカ笑いをした。数分間、気でも触れたかのようにただひたすら笑い続けた。

 彼女は、初対面から1度も笑わなかったバカを見て。

 彼は、ここ最近、笑うということ自体を忘れていたバカを見て。

 嫌な事も、憂鬱も、全てを吹き飛ばしてしまうくらいに彼等は大笑いした。

 

「ようやく元気が出て来たじゃねぇか、オイ!」

「そうだな! 何か今までふて腐れてたのが勿体無いくらいだ。うっし、じゃあ俺も!」

 

 一夏は呼吸を大きく吸って、空を揺らす勢いで叫ぶ。

 

「俺は、絶対に誰かを護れるぐらい強くなってみせるぞぉーーーーーー!!!」

 

 この大空に、必ず誰かを護れるほど強くなるという誓いを乗せて。

 

「だから、キリ。協力して欲しい」

「ん?」

「俺が、ちゃんと強くなれるように。この誓いが嘘にならないように、見ていて欲しい」

 

 そう言って二カっと笑う一夏。

 その言葉を受け、姫燐は一瞬動きを止めるが、すぐに首をぶるんぶるん振り、

 

「よく言った! それでこそ男ってもんだ。あと、分かってるとは思うが」

「分かってるよ。どこまでできるか分からないけど、俺もキリの恋を全力でサポートする。約束だ」

 

 見届け人は、この世界。

 一夏は思った。俺は絶対に強くなって見せる。そうして、今度は自力でここに来て見せる。

 この蒼と白の世界に、恥じない男に俺はなってやる、と。

 

「ははっ、しかし、レズに男を説かれるなんてな」

「なっ、言いやがったなコイツ! 落とすぞ!?」

「………………」

「……ん? あ、一夏? 流石に冗談だぜ、今のは」

 

 突如、一方向を向いたまま黙りこくった一夏の顔を心配そうにのぞき込む姫燐。

 そんな一夏は顔面蒼白で、自分の視線に捕らえたある物を震える指で指した。

 

「な、なぁ、なんだよアレは?」

「何って、ジャンボジェットだな」

「いや、それは分かる。でもな」

「でも?」

「なんでココまで『ジャンボ』なんだ?」

 

 一夏が指刺した物は、自分達の前を『横切る』民間の旅客機であろうジャンボジェットだった。

 しかし、それは彼がいつも地上で眺めている奴よりも遥かにジャンボで、しかもあろうことか、ジェットエンジンが赤く光っているような気がした。と言うより、まず飛行機が一般ピーポゥである自分の目の前を横切るということがあり得ない。

 

「そらな、高度3万5千フィートだ。旅客機くらい普通にいるだろ」

 

 ちなみに高度3万5千フィートとはメートル換算すると、地上から約1万メートルもある。

 良い子はここまで旅客機以外では来ないようにしよう。

 

「大丈夫だ、ISのシールドバリアーのちょっとした応用で酸素とか寒さは問題ない様になってっから……っておーい、一夏?」

 

 姫燐が声を掛けるが反応が無い。

 あばらを持つ様な形にして、一夏の顔を見るとプラーンと口からエクトプラズムを出しながら白目向いて気絶していた。想像を絶する事態に遭遇したとき、人はオートで気絶するように作られていると言われている。まさに、今の一夏がそうであるように。合唱。

 

「むぅ、肝っ玉が小せぇ奴だ。IS乗りになるんだったらこれ位の高さには慣れとかなきゃならねぇのに」

 

 流石にそれは酷である。

 

「まぁ、いいか。全てはこれからだ。こっから強くなればいいだけなんだからな」

 

 また一夏をお姫様だっこの体型にして抱きかかえると、姫燐は踵を返し地上へと向けて雲の中へと帰っていった。

 

「これから楽しみにしてるぜ、一夏」

 

 その無骨な仮面の下に、頬笑みを隠して。

 

 こうして、IS学園唯一の男とガチレズ男女の奇妙な協力関係は始まった。

 2人の決意の果てにある物は何か、茨道の終わりはまだ誰も知らない……。

 

 

 因みに一夏が次に目を覚ますと、保健室で阿修羅すら凌駕する存在と化した姉が土下座する姫燐を足蹴にしながら、説教と言う名の罵倒を浴びせかけていたので即座に2度寝を決め込んだのは余談である。



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第2話 「俺の協力者はタクティシャン」

 はーい、どうも全国の女子高生のみなさん。

 オレ朴月 姫燐ってゆ―んだ!! よろしくな!!

 好きな物はヘヴィメタルと女体。嫌いな物は耳に入れるタイプのイヤホンと抱き心地が悪い身体。

 好きでも嫌いでもないのは消しゴムだよ!

 え、なんでいきなりこんな痛い自己紹介なんざしてんのかって?

 いいじゃんか、ちょっとくらいハイになっても。人間だもの。

 ……本当は昨日のアレのせいで織斑先生から出された反省文の処理をやってたら、いつの間にか朝になっていて一睡もしていないだけなんだがな。ったく、初犯なのになんなんだよ反省文100枚を明日までにて。絶対に私情入ってるだろあのブラコン教師。

 まぁそんなこんなで今、俺の頭は絶好調。だけど目蓋は月光蝶くらった無機物みたいにとろけそうなのだ。

 だが、ここでオチオチ眠る訳にはいかない。

 別に授業について行けなくなるからじゃない。織斑ティーチャーは確かに恐いが、授業自体はこんな基礎中の基礎、いつ何どき質問されても余裕で答える事ができる。退屈すぎてあくびが出るとは正にこの事だ。

 ん? じゃあなんで寝ないのかって?

 それはゲッ○ー線の答え以上に、とーっても簡単なことさ。

 だって――

 

「決闘ですわ!!!」

「おういいぜ、四の五の言うより分かりやすい」

 

 こんなにも楽しそうな祭りを前に、惰眠を貪る奴なんて居ないだろう?

 誰だってそーする。オレだってそーする。

 

 

第二話 「俺の協力者はタクティシャン」

 

 

 全ての始まりは、織斑千冬が授業中に切り出した『クラス代表』を決める。という話題だった。

 その名の通りクラス代表とは、そのクラスを代表する存在であり、もう少し先にあるクラス対抗戦に出たり、生徒会の会議にも顔を出さなければならない言わば、そのクラス―――姫燐達の場合は『1年1組の顔』とも呼べる存在である。

 普通こういうのは基本的に誰もが渋るモノだが、織斑千冬の自薦他薦は問わないという言葉のせいで、真っ先に吊るし上げられた哀れな子羊が居た。

 

「はい! 織斑くんを推薦します!」

 

 生贄が決まれば後は芋づる式だ。次々とあちらこちらから一夏を推薦する声が上がる。ちなみにこの時、どさくさに紛れ姫燐も一夏を推薦したのは秘密だ。

 しかし実際、姫燐も内心クラス代表は一夏でいいと考えていた。

 彼はISを扱える唯一の男、言わば世界的な有名人だ。クラスの顔としてこれ以上に相応しい存在はいないだろう。それに、適度な精神的重圧は上を目指すのならもってこいなバネだ。

 ぶちゃけてしまえばクラス委員長みたいなモンだし、今の一夏には軽過ぎず重過ぎず、丁度いいプレッシャーだろうと彼女は踏んでいた。と、これは後で一夏への言い訳に使う用の建前で、本心では長引いてもめんどくさいのでさっさと終われ。とそれだけを切望していたのだが。

 だからこのままでいいし、他に立候補する者もおらず、どうせこのまま決定だろうと姫燐は見越していたのだが、

 

「納得が行きませんわ!」

 

 忘れてた、コイツが居た。

 見た目麗しいブロンドをロングに伸ばし、10人中10人が美少女と言い切るであろう顔立ちは日本人また違う西洋風の魅力に溢れているが、その高過ぎるプライドと常に人を見下した態度で全てが台無しなイギリスからの代表候補生。

 

「男が代表なんて言い恥さらしですわ! このセシリア・オルコットに1年間そのような屈辱を味わえとおっしゃるのですか!?」

 

 そう言って机をドン、と叩くセシリア・オルコットことバカ。

 女尊男卑。昨今流行りの典型的な社会問題をこじらせているその姿に、姫燐は一昔前に流行ったモンスター父兄さんの面影を重ねていた。

 

(はぁ……見てくれは悪く無いのになぁ……モンペはちょっと……)

 

 彼女の好みは、知的で聡明、なおかつ幅広い視野を持つボインだ。

 少なくともC以上無いモノは乳などではない。ただの壁だ。

 ロリはロリで悪くないし、その魅力も十二分に理解しているが、どちらかと言うと姫燐にとって彼女達は恋をする対象ではなく、愛玩動物のように愛でる対象である。

 姫燐はペドフェリア達とは例えクアンタムシステムがあろうとも分かり合えないだろう。

 だがしかし、超美少女級のロリに向こうから言い寄られてしまった時、姫燐は果たして正気を保っていられるだろうか? きっと、彼女は手をワキワキ息をハァハァしながら「今からオレが成長させてやるよ。主に胸周りを」とか口走りながらロリを押し倒しそのまま…………話が脱線しすぎたので閑話休題。

 その基準で言えば、セシリアは見た目はクリアしているのだが、内面が絶望的なまでにキリの好みとかけ離れ過ぎていた。

 少なくとも、このように偏ったモノの見方しかできない様な奴に、彼女の心は絶対に傾きはしない。

 

「大体、文化としても後進的な国で暮らさなくてはいけないこと自体、わたくしにとっては耐えがたい苦痛で……?」

 

 おーい、そろそろ黙ったほうがいいんじゃないかー? 周りのお前を見る目を見てみろ、すっごい怖いぞー。

 と、姫燐はそんな助け舟をジャスチャーで送るが、一切届いて無いどころかそんな船、今のセシリアにとっては不法入国で即撃沈モノでしかないだろう。少し首を傾げただけで、見事にスル―された。

 

「イギリスだって大してお国自慢無いだろ」

 

 とうとう、言いたい放題なセシリアの罵詈雑言に一夏が反撃の一手を投じた。

 

「世界一マズい料理で何年覇者だよ?」

 

 そーなのかー。最初の反撃が料理の事とは、さすが趣味に真っ先に家事を上げる奴は言う事が違う。

 

「美味しい料理はいくらでもありますわ! あなた、わたくしの祖国を侮辱しますの!?」

 

 お前さっき日本のこと壮大にディスってたじゃん。一言一句そのまま返してやろうか……とか姫燐は思ってしまうが、眠気のせいで頭がポポポポーンとなっている今はいいやと、また睡魔との壮絶なドッグファイトに没頭していった。

 つか教師、面白くなって来たって顔してないで止めろよ。

副担任もオドオドしてないでさ。

 

 悪口雑言も尽きたのか、互いに睨みあい、動かない一瞬即発状態。

 そして、セシリアは一夏を指さして叫んだ。

 

「決闘ですわ!」

「おういいぜ、四の五の言うより分かりやすい」

 

 そのひと声に、もっとも沸き立ったのは誰だろうか。

 決闘を叩きつけたセシリア・オルコットか? 叩きつけられた織斑一夏か?

 いや、違う。先程までの眠気など何処へやら。この時、この瞬間、もっとも愉快そうに口元を歪ませ、もっとも期待に目を輝かせる少女。

 言うまでも無い、朴月 姫燐だ。

 実は彼女が好きな物は冒頭のアレが全てでは無い。

 彼女が、朴月 姫燐が好きな物は、魂震わせる激しいヘヴィメタルと、抱き心地が最高な女体に加えもう1つ、

 

 血肉わき心踊るケンカが、彼女の大好物であった。

 

 

                    ○●○

 

 

「さーて、どうするつもりだい。一夏くんよ」

「………………」

「相手はイギリス代表候補生で、なおかつ専用機持ちの超エリート様。かたやこっちは昨日まで専用機の『せ』の字すら知らなかった超が付くド素人」

「………………」

「当然、ハンデを付けてやるキリッ。とまで言いきったんだから、オルコットの奴を余裕で完封できるくらいの勝算はあるんだよなぁ。いーちぃーかくーん?」

「…………反省してます」

 

 4時間目の授業が終わり、昼休みが始まるや否や席を立ち、満面の笑みを浮かべながら姫燐は頭を抱える一夏に詰め寄っていた。

 

「はァ……確かにむかっ腹が立ったのは分かるが、いくらなんでも向こう見ず過ぎだバカ。『例えいかなる時でも冷静さを失うなかれ』。強くなるための鉄則だぜ?」

「……………善処します」

 

 腕を組み、はァ……、とまた1つため息をつく姫燐。

 しかし、その瞳はくまが出来ていようが相変わらず妖しく輝いている。

 

「まぁ、やっちまったモンは仕方ねえし、あのまま黙ってたら多分今頃、オレはお前の顔面を修正(グーパン)してただろうしな」

「お、おう……」

 

 物騒な事を呟く姫燐に若干恐怖を感じる一夏。

 眼がB級ホラーにでてきそうなくらい怖いから尚更だ。

 

「さて、説教はここまでだ。今後の事は飯でも食ってゆっくり考えようぜ」

「わかった……あ、その前にちょっといいか?」

「ん?」

 

 そう言うと一夏は何かを思いついたように自分の席を立つと、窓際の1番前に座るポニーテールへの方へ足を運び声をかけた。

 

「箒」

「………………」

「篠ノ之さん。一緒に飯喰いに行こうぜ」

 

 おお、早速アタックを仕掛けてくれたか一夏よ。あの篠ノ之 箒を狙うとは分かってるじゃないか。

 心の中でそんな事を考える姫燐。

 篠ノ之箒。

 あのISを開発した天才科学者、篠ノ之束の妹で剣道の有段者。

 セシリアとは対照的な日本人らしい黒く長い髪をポニーテールにした、ちょっと気が強そうなイメージがあるが、凛とした出で立ちの和風美人。

 特に目を引くのは高一のそれとは思えない豊満なバストで目測でもD以上はあるだろうか、ブラボー……おおブラボー……そうとしか言いようがない。服の下からでもこれなのだ、その制服を脱いだらいったいどれほどの戦闘力が……!

 

「大丈夫、きりりー? 鼻血でてるよ?」

「ふっ、大丈夫だ問題無い。生憎と持病なもんでね」

 

 同級生の心配そうな声にビッ、とブルース・リーのような無駄にカッコいい動作で鼻血を拭い、凛々しい表情をする姫燐。これで頭の中がピンク一色でなければよかったのだが。

 ともかく、姫燐は思ったより行動が速い一夏に感動を覚えていた。

 

「私はいい……」

「そう言うなって、ほら立て立て」

「お、おい!」

 

 じれったくなったのか箒の腕を掴み、無理やり席を立たせる一夏。

 お、おーい、流石にそれはマズくないですか一夏くんや。嫌がる女の子の手を無理やり引っ張るとか、そんな学園ドラマとかに出てくる捨て役のヤンキーみたいな行動はどうかと思うぞ。

 いくらなんでもやり過ぎな一夏を嗜めようと、姫燐もそそくさと箒の席におもむく。

 

「なんだ、歩きたくないのか?」

「お、おい! 私は行かないと……!」

「なんなら、おんぶしてやろうか?」

 

 さらにエスカレートするセクハラ魔に、姫燐は制裁を加えようと背後から腕を振り上げ、

 

「はい、そこま」

「なッ……離せ!!!」

「あ、おわぁ!?」

「でぃうぼぁ!?」

 

 箒が一夏の腕をふり払い、おまけにボディタックルをかまして彼を後ろに吹っ飛ばした。当然、後ろで姫燐☆ダイナマイツ(ただのチョップ)の狙いを定めていた姫燐と共に。

 バランスを完全に崩し、いくつかの机と席を巻き込んで後ろに尻餅を付いてしまう一夏。

 だが、思ったほどの衝撃は無かった。どうやら幸いにも、何かがクッションになってくれたようだ。

 ……クッション? そう言えば、そんな物この教室にあっただろうか?

その何かを確かめようとして一夏は手を後ろに回して押し――

 

 むにゅん

 

「むにゅん?」

 

 思わず呆けた声が出てしまう一夏。

 なんだろうかこれは? とても柔らかく、それでいて暖かい。何かとても、そう遥か昔に似たようなモノを感じていたような、それでいてどこか言いようのない背徳感が同時に押し寄せてきて…………

 

「な、な、何をしているのだ一夏ァァ!!?」

「へ? 何って……ッ!?!??!」

 

 悪鬼羅刹のような形相を浮かべて叫ぶ箒の声に何となく後ろを振り返り、そこでようやく自分がやってしまった事に気が付く。

 衝撃が緩和されていた謎、そしてこの感触の謎。

 すべてのデッドエンド(真実)は、そこにあった。

 

「き……キリ…………!」

「ぁ……ぅん………」

 

 一夏の尻に敷かれる形で、箒に負けず劣らずグゥレイトォな右のオパーイを彼の右手に押しつぶされ官能的な声を上げながら、彼女は強烈に後頭部を打ち昏倒していた。

 いくら男っぽくてガチレズとは言え、彼女も一介の女性。しかも身体つきだけで言えば、このクラスどころかこの学年でもトップクラスな彼女の胸を鷲掴みにして、何も思わない男など居ないだろう。薔薇とかホゥモとかそんな人種以外は。

 当然、一夏は前者も後者も当てはまらない健全な一学生である訳で……

 もう、色々と彼の中にある男の基本的衝動がトランザムでEXAMな明鏡止水的に乙女座でもないがセンチメンタリズムディスティニーを感じずにはいられない。

 いつまでも、こうしていたいという悪魔のささやきが一夏の心に渡来する。

 だが、そのデビルを一夏ごと狩るデスサイズは無慈悲に振るわれた。

 

「いつまで触ってるのだいい加減その手を退けえぇぇぇぇぇ!!!」

 

 箒の竜巻すら発生させそうな回し蹴りが頭部に直撃する瞬間、一夏は思ったそうな。

 

 やわらけぇ……と……。

 

 

               ●○●

 

 

「ふーん、幼馴染だったのか。篠ノ之達って」

「ああ、そうだ。この6年間、会ってなかったがな」

 

 あの後、すぐに意識を取り戻した姫燐と一夏は食堂に足を運び、姫燐は昼食のラーメンをすすりながら、テーブル席で日替わり定食を食べる箒と会話をしていた。

 

「その……先程はすまなかったな。私のせいで」

「いいっていいって。身体が頑丈なのが取り柄だし、それに悪いのは幼馴染とはいえデリカシーの欠片も無いこのバカだ」

 

 そう笑って、隣に座る一夏を苦笑いしながら肘で小突く姫燐。

 しかし、一体何がどうしてこうなったのだろうか。

 姫燐の隣の席には、身体中を縄でグルグルの簀巻きにされ、デコに『もう二度とセクハラなんてしません。主とヴァルハラと篠ノ之 箒に誓います』と書かれた紙をキョンシーのお札のように貼られ、おまけに目隠しと猿轡まで噛まされた、異様というか異質な姿に変わり果てた一夏の姿があった。

 お昼時の食堂だというのに彼等の周りだけ、不自然にスペースが空いている。

 

「……なぁ、篠ノ之。さっきから言おうと思ってたんだが、流石にコレはやり過ぎじゃないか? 周りドン引きしてるし、つーかオレもドン引きしたいし」

 

 姫燐が周囲に目配せしても目が合った途端、皆一様に明後日の方向へと顔を背けてしまう。自分が原因ではないのは分かってるが、女の子に目を逸らされるのは精神的に堪えるものがある。

 

「いくらなんでも、手を引っ張った位でここまでやるのは……」

「……そうか、気絶していたから覚えて無いのか……」

「は?」

「かまわん、この変態にはこれくらいが丁度いい」

 

 さも当然のように言い切り、味噌汁をすする箒。

 もしかして、こいつら幼馴染なだけで実は物凄く仲悪いんじゃ……。

 真実を知らない姫燐が、そんな誤解をしてしまうのも無理も無い。ああ、『知らない』ということは、時としてここまで優しいモノなのか。

 流石に哀れに思った、というか周囲の視線に耐えきれなくなった姫燐は一夏の拘束具一式を外すことにした。

 

「ぷはぁ……あ、ありがとな、キリ」

「どういたしまして。次からは気を付けろよ、一夏……はて?」

 

 なぜ一夏も顔を明後日に背けるのだろうか。微妙に顔が赤いのも謎だ。

 

「……ははーん、何だ一夏、オレに惚れたか?」

「いィ!? な、ば、そんなんじゃねぇ!!!」

「はっはっは、だよなー。だったら何で明後日向いてんだよ?」

「い、いや……それはその……き、禁則事項です……」

「なーんーでーだーよー? 気になるじゃねぇか」

 

 ニシシと笑い、一夏の頬を指で突きながら詰め寄る姫燐。

 そちらを向いてしまえば嫌でも目に入る、アレの感覚が忘れられません。

 これが一夏の生涯で、初めて墓まで持って行く必要ができた秘密である。

 どうやって誤魔化そうと、汗がダラダラ、目を白黒させる一夏への支援砲火は意外な所からやって来た。

 

「……おい一夏、1つ聞きたい。なんで、お前は朴月とそんなに仲がいいのだ?」

「え、あ、箒……さん?」

 

 ただし、その砲火の矛先は一夏自身に向いているが。

 

「さっきから黙って見ていれば、休み時間も所構わず親しげにして……昨日だって、一晩中わたしと一緒だったというのに朴月の話ばかり……あんな自然な笑顔も、朴月にしか見せんし……もしや、その、お前達は……もう……付き合って……」

「はぁ? 何言ってんだよ箒?」

 

 箒の口が進む度に消え入りそうなボリュームになり、最終的には蚊の鳴くような声まで身体も縮めてしまう。俯き、このままガイアと一体化しそうな勢いで表情も視線も沈んでいる。

 ここで、ようやく姫燐は悟った。

 

(ほうほうほう……さては篠ノ之の奴、一夏のことが……)

 

 先程までの一夏に対した辛辣な反応も、幼馴染の自分より、言ってしまえば新参者の姫燐と一緒に仲良さそうにしているのが気に入らなかった故の嫉妬からで、しかもずっと外を眺めてるフリして、休み時間の様子までしっかりチェックしてるんだからこいつはもう大当たりで間違いないだろう。

 なんだ、ずっと不機嫌そうな顔してるだけの奴かと思ってたが、普通に可愛い所もあるじゃねぇかと、姫燐の両頬がつり上がる。

 

「安心しな。オレとこいつはそんな仲じゃない」

「でも、昨日のアレはどう見ても……」

 

 本人が否定しても昨日の告白紛いが、どうしても箒の心に引っかかる。

 まぁ、アレで誤解しない奴は隣で「何がどうなってる姫燐、説明してくれ」って顔をしてる唐変木くらいなものだが。

 

「大丈夫だ。オレがこいつを好きになるなんて、ヤ○チャが時○天に勝つくらいありえん」

「た、例えはよく分からんが……なぜ、そこまで言い切れるのだ?」

「う……それはだな……」

「俺が説明するよ、箒。キリは同性ントセィャ!?」

(お前は黙ってろバードヘッド! 昨日言ったこと早速忘れたか!?)

 

 箸の先端で一夏のKOMEKAMIを打ち抜き、強制的に口を塞ぐ姫燐。

 自分がガチ百合であることは、決して口外してはならない。

 あの後、姫燐が一夏に取り決めとしておいた事である。

 普通の人間に実は隣の人は同性愛者で、君を狙っている。と、口添えしたらどうなるだろうか? 少なくとも、一般常識を忠実に守っている人間からはドン引きってレベルじゃないくらい引かれて罵倒のフルコンボを受けるだろう。

 無論、そういうこと(キマシタワー)にバッチ来いな人だって居るだろうが、極めて少数派だ。彼女は、自分がその少数派だと自覚していた。いつの世だって、少数は多数に迫害される定めにある事は歴史が証明している。

 彼女はそれを見越し、文字通り相手を『堕とす』事を目的とするプランを画策していた。

 自分がレズであることは一夏と自分だけの秘匿とし、狙った女性とは始めは友人として接近し、そしてフラグと親密度を徐々に構築し、最終的には共に禁断の園へ堕ちて計画通り……! と、ほくそ笑む。新世界の神だって、3流悪役のように逃げ出すだろう完璧な作戦だ。

 これなら、例え相手がノンケだろうと関係ない。自分から合意の上で百合の花咲き乱れる世界に堕ちてくれるのだから。

 ……ぶっちゃけ、そこら辺の結婚詐欺と似たような手口ではあるが。

 だが当然、コレには相手に自分はレズでは無い……つまり相手に警戒心を抱かせないのが最重要で、いま一夏がしようとした事はこの作戦の根底すら台無しにしかねない危険な行為だったのだ。

 

「あー、とにかく! オレはコイツとはそんな関係じゃない! 以上!」

「そ、それでもだな……」

 

 クィックィッ

「?」

 

 姫燐はそれでも納得しない箒を手招きするような手付きで呼び寄せると、決して一夏に聞えないように彼女の耳元で囁き始めた。

 

(篠ノ之、お前一夏の事が好きだろ?)

(なッ、ば!??!? 何故その事を!!?)

 

 そらアレで分からない奴なんざ、この広い地球上を探しても絶対に……横でノックダウンしているド天然記念物以外はいないだろう。きっと。

 

(落ち着け、篠ノ之はコイツがそう簡単に堕ちると思ってんのか?)

(あ……)

(ハッキリ言ってコイツはギネスブック級のニブチンだ。初見でコイツを堕とすとか、まだナ⑨ンボールセラフを無傷で落とす方が楽に思えてくるぜ。幼馴染ならその辺は分かってるだろ?)

(た、確かに……そうだな。冷静に考えてみれば奴を初見で堕とすなんて、剣道で竹刀を投げつけて一本を取るくらいあり得ないことだ)

 

 自分から言い出しといて何だが、幼馴染にまでこれ程こき下ろされるとは。

 少し出た汗を拭いながら姫燐は続ける。

 

(だから安心しな。オレと一夏はただちょっと初日にウマが合って仲良くなっただけで、別にアンタの獲物を横取りする気はねぇよ)

 

 アンタ自身を横取りする気は満々だが、というのは胸の内に仕舞ってそっと鍵をかけて。

 

(そ、そうなのか? 本当に?)

(ああ、オレのもっとも大切にするコレクションに賭けて誓う)

 

 因みに、言うまでも無く殆どが表紙にR―18と書かれた百合モノのゲームや薄い本である。

 

「そ、そうか。疑って悪かった……」

「いいさいいさ。あ、そうだ、だったら今度お互いの事をもっとよく知るためにお茶でもどうだ? その後はホテ」

「う、う~ん……」

 

 ここでようやく、一夏が黄泉の川から無事生還を果たした。

 

「お、やっと還って来たか。一夏」

「う、うん? ここは……さっきまで俺、知らないお爺さんと話してたはずなんだけど」

「そうか良かったな、盆じゃなくても会えて」

 

 まだハッキリしない頭と痛む米神を押さえる一夏を無視して、姫燐はラーメンのスープを飲み干す。

 

「ほんじゃま、篠ノ之の誤解も解けた所で本題に移りますか」

「「本題……?」」

「いや、一夏。お前は聞くなよ……」

 

 小首をシンクロさせる変なところで仲が良い2人にツッコミを入れながら、彼女は水を氷ごと一気飲みし、本題を切り出した。

 

「どうやってオルコットの奴の天狗ッ鼻を叩き折るか、だ」

「あ、ああ、そうだな」

 

 おまえ絶対に今思い出しただろ……とか言うのも今更なのでスルーを決め込む姫燐。

 

「ハッキリ言うぜ。お前がオルコットに勝てる確率は客観的に見て今のところ……」

「今のところ……?」

 

「0だ。勝機もキボーもありゃしない」

 

 一夏も予想はしていたが、正面からストレートに言われると若干ヘコんでしまう。

 

「だ、だが一夏には専用機が用意されるはずだ。それなら……」

 

 すかさず箒が疑問を口にした。

 専用機……本来は各国の代表や企業にのみ与えられる、パイロット独特のカスタマイズが施された文字通り個人専用のISだ。その大体は量産機とは比べ物にならないスペックを兼ね備えており、単一仕様能力という物を発現する物まである。

 超簡単に言ってしまえば、赤い3倍の角付きのようなモノだ。

 

 だが、姫燐はその意見をつまらなそうに吐き捨てる。

 

「専用機なら尚更だ。織斑先生に問い詰めた所、お前の機体が届くのは仕合当日になるそうだぜ」

「いつの間にそんな情報を……」

「当然だ、戦いにおいて情報は何よりも重要な剣であり盾だからな。ったく、しかも到着予定時刻が仕合の数分前とかアホか。『一次移行』すらしてるヒマ無えっつの」

 

 一次移行―――専用機とは言え、そのコアは初めからその人間に合わせられている訳ではない。

 ISには、意識に似たような物がある。曖昧だと言われても、それを司るコアの仕組みが判明していないので似たような物としか言えないが、ともかくISのコアは操縦時間と比例して操縦者特性を理解していくのだ。それができて、ようやくその機体は本当にソイツ専用のISとなるのだ。

 ところで、何も知らない無垢な子を私色に染め上げるって激しく萌えないか? 少なくともオレは超萌ゑる。と、一夏への説明を締めくくる姫燐。

 

「さ、最後はともかく、一次移行のことは分かったよ……」

「それにだ。スペックも分からない。武装も分からない。安全性もわからない。んな分からん尽くしな兵器、戦場で使えるかってんだ」

「しかし、ならばどうするのだ? 機体が無いのではどうしようも……」

「有るじゃねえかISなら。この学園に腐るほどな」

 

 一瞬、彼女の言い分が箒には理解できなかった。

 それはつまり……

 

 

「一夏に、第二世代のISで戦えと言う事か!!?」

 

 

「オフコース、当然だろ? 機体が間に合わないんだからさ」

「だ、だからと言ってだな……」

「分かってる、相手は第三世代だ。機体スペックには、埋めがたい差ができるだろうな。だがそれでも、訳のわからん新型でぶっつけ本番するよりは遥かにマシだ」

 

 今、学園で訓練用などに使われている第二世代と、代表候補生が持つ第三世代ではカタログスペック上、比べ物にならない差がある。だが、それでも今の一夏が置かれた状況はそれ以前の問題なのだ。

 

「じ、じゃあ、どうするんだよ。最新機でも勝ち目が無いのに、旧式の機体で勝ち目なんて本当にあるのかよ?」

 

 一夏が上げる当然の疑問に、にっしっしと悪い笑顔を浮かべ、待ってましたと言わんばかりに姫燐は声を張り上げた。

 

「いい質問だ。んじゃ、最初のお勉強だ一夏。何で人類は今、生態系の頂点に立ってるんだと思う?」

「な、なんでって……」

「大きさはゾウに劣る。力はゴリラに劣る。速さはチーターに劣る。寿命すらコイに劣る人類が、なんで今この星を我が物顔で支配してるのか? その答えは……ここだ」

 

 そう言って彼女は、自分の頭をコンコンと突いた。

 

「頭脳……頭だと言いたいのか?」

「正解だ篠ノ之。人類最大の武器はここ、知能だ。いいか、一夏」

 

 

「『戦術』ってのはな、『作戦』次第でいくらでもひっくり返せるんだよ」

 

 

「作戦次第で……ひっくり返せる……」

 

 本当に、できるのか。本当に、俺はセシリアに勝つことができるのか?

 まだ見ぬ強敵と、果てしなく弱い自分から来る不安に押しつぶされそうな一夏を、心底楽しそうに横目で見ながら姫燐は席を立つと、ポンと彼の肩に手を置いて、

 

「このオレに任せな。必ず、お前を勝者にしてやる」

 

 力強い、芯の通ったハッキリとした声で彼女は言い切った。

 その何時どんな時であろうと臆さず、怯まず、ただ目の前の困難に堂々と笑みすら浮かべて立ち向かうその姿は、自分の姉と―――自分がもっとも憧れる者の姿と重なって……だからだろうか。

 

「……ああ、信じてる。姫燐」

 

 彼が一切の迷いなく、そう答えることができたのは。

 

 一夏の答えが余程気にいったのか、彼女は更に嬉しそうに口元を歪まると、ステップとターンとスピンを織り交ぜて出口の方へと走って行った。

 

「お、おい、どこに行くんだよ、キリ!?」

「ん? ああ、そうと決まればこうしちゃ居られないからな。色々と下準備を、ね」

「ま、待て朴月! もうすぐ予鈴が……」

「山田ちゃんには、朴月は腹痛と目眩とヘルニアと虫歯とL5が同時に発症して保健室で寝込んでます。と、でも言っといてくれ~~~~!」

 

 ずいぶん色々と重症な嘘を言い残して、颯爽退場する銀河……ではないが美少年のような少女。

 後に残るは、さっきの姫燐の奇行を噂する周りの喧騒だけ。

 決して静かでは無いと言うのに、置いて行かれた一夏と箒の2人にはとても、とても深い静寂が訪れたような気分であった。

 

「ホント台風のような奴だな、アイツは……さて、俺達も戻るか。箒」

 

 一夏も席を立ち、身体をほぐす。身体が、先程と比べて随分と軽かったのが不思議だった。

 大丈夫、不安は無い。きっと、俺とキリならやれる。今はそう信じよう。

 

「……ああ、そうだな」

 

 あれ? なんでまた不機嫌なんだ箒は?

 

「……信じてるだと……私も……言わ……こと無い……」

 

 まぁ、いいか。今はただ、1週間後のセシリアとの決戦に集中しなくては。

俺は強くなるんだ。こんな所で、つまづいてなんかいられない!

 一夏は自然と、強く、強く己の手を握っていた。

 

 

 

 彼等に訪れた最初の試練。

 見える茨はとても刺々しく、道は果てしなく真っ暗だ。

 だが、彼等は躊躇わない。ただ、己の誓いと決意に恥じぬ様に進むだけである。

 

 

 

 

 その後、一夏が5時間目が始まった所で何も食べていない事に気が付き、午後の授業が地獄だった事と、姫燐が食堂を出てすぐ、廊下を全力疾走している所を千冬に見付かり、椅子に縛られた状態で午後の授業を受けるハメになったのは、非常に恥ずかしい余談である。



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第3話 「セシリア・オルコット」

 セシリア・オルコットが自分の机に入っていた手紙に気が付いたのは、2時間目が始まる直前であった。

 1時間目が終わり、次の授業の予習をしようと教科書を引き出した時、足に何かが当たったような感触を憶え、足元を見てみると、

 

(これは……手紙?)

 

 一見デフォルメされたネコのように見えるが、耳から羽のような物が生えており、ルビーの様に真っ赤でクリンとした目が特徴な、何故だかよく分からないが無性にISを起動して穴だらけにしたくなるキャラクターがプリントされた封筒が落ちていた。

 それを拾い上げたセシリアは、一体何かと裏を返して見る。

そこには何もプリントされて無い無地に、ど真ん中に黒い文字でデカデカと文字が書きなぐってあった。

 ふむ、と顎に手を置いて、そこに書いてある文字とにらめっこするセシリア。

 IS学園の入試模試で主席をとった頭をフル回転させて、思案の海に浸かり、より良い答えを模索し続けた彼女の、長いようで短い数分間。

その果てに、彼女はたった1つの結論へと辿り着いた。

 

 

(……さ、さっぱり読めませんわ)

 

 

 何となくだが、辛うじて漢字だという事は分かる。

 だが、何だかフニャフニャしているし、妙に見難いし、自分が日本にやって来る前に猛勉強した漢字とは似ているようで違う。

 日本人は、皆この様に漢字を書くのだろうか?

 英語でも、文字を意図的に崩した筆記体と呼ばれる物はあるし、他の国では微妙に書き方やニュアンスが違うことがあるとは言え、ここまで基本と違いが多過ぎるモノは無い。

 ということは……、

 

(誰かの悪戯かしら……?)

 

 全く、これだから島国の庶民は困る。

 きっと代表候補生である自分の威光と強さに嫉妬した誰かが、直接戦っては敵わない事を悟り、このような下らない姑息な手段に出たのだろう。

 

(まったく、プライドの欠片も感じられませんわね)

 

 中を読むまでも無い。どうせ、低能な庶民が無い知恵を必死に絞って考えた自分への怨み辛みしか書かれて無いのだろう。

 そう結論付けると彼女は席を立ち、その手紙をゴミ箱に捨てようとしたが丁度そこで授業開始5分前の予鈴が鳴り、仕方なくポケットの中に適当に突っ込んでおくことにした。

 

(少しはしたないですけど……こんな物、いつでも捨てることは出来きますわね)

 

 そんなことよりも今は、もうすぐ始まる授業の予習が最優先であった。

 

 

      第3話 『セシリア・オルコット』

 

 

 姫燐は携帯電話を取り出すと、最近ゲットした中では最高の収穫物(箒の電話番号)へとコールした。

 

『もしもし、篠ノ之です』

「おぅ、篠ノ之。一夏はどうだ?」

『ああ、朴月か。大丈夫だ、サボってはいない。なにせこの私が常に見張っているからな』

 

 電話越しでも、彼女がそのブラボーバストを自慢げに張っているのが容易に想像できる弾んだ声だ。

 放課後に一夏と2人っきりでトレーニングしている現状が、よっぽど幸せなのだろう。愛い奴め。

 

「そうかそうか、みっちりしごいてやってくれ。大会まであと6日、付け焼刃とは言え、何もしないよりはマシだからな」

『ふふ、任せてくれ。それより聞いてくれ朴月。一夏の奴、私が居ないからといって中学ではなんと帰宅部だったそうなのだ。恐ろしいまでに弱くなっていてな、まったく軟弱者め。今では見る影も無いが、実は小学校のころの一夏は私より強くて凛々しくてそれでいて』

「分かった。よーく分かったから、それはまた今度聞かせてくれ」

 

 ホントどれだけ一夏と一緒なのが嬉しいんだ。学校とはテンションが完全に別人である。

 こりゃ攻略には骨が折れそうだ、と心の中でため息を付く姫燐。

 

「それより、アレ。本当にちゃんと書いてくれたのか?」

『ん、ああ。お前の注文通りに書いたぞ、「果たし状」を』

 

 いま姫燐が立っているのはこの学園内で数少ない、ISを起動する事を許された場所である第3アリーナの会場内。そこの競技場の中央に、彼女は1人ポツンと佇んでいた。

 先程、箒が『果たし状』と言った通り、姫燐は『ある人物』と戦う為にここに居る。

 だが放課後となってから即ここに来て、もう結構な時間が経った気がするが、待ち人は一向に現れる気配がしない。

 

「果たし状には、放課後になったらここに来るよう指定しておいた筈なのに、一体どうなってんだ?」

『さぁな、決闘から逃げたか……いや、オルコットの性格からその線は考えられんか……』

「くそっ、わざわざ誰にも見付からない早朝に来て、アイツの机の中に入れたオレの苦労を何だと思ってんだ。低血圧なめんなっつの」

 

 そう、セシリアに手紙……いや、果たし状を送ったのは何を隠そうここで独り悪態をつく少女、朴月 姫燐その人であった。

 昨日の放課後、姫燐は箒に果たし状を書いて欲しいと頼み込んだ。

 最初は自分で書こうとしたが書き方が分からず困っていた所、たまたまそこに居た一夏によると彼女は幼い頃から中々に達筆であるらしく、「それにアイツ、こういうの得意そうだし」という助言からそれなりの報酬(一夏の盗撮写真)と引き換えに依頼したのだ。

 まさか一晩でやって深夜に部屋に届けてくれるとは思わなかったが、そこは嬉しい誤算と受け取り、大っ嫌いな早起きをしてまで朝一にセシリアの机へとシュートして超エキサイティングにホームルームまで昼寝を決め込んでいたのだが……。

 

『しかし何故……ん? すまない朴月、一夏が呼んでいるから切るぞ』

「ああ、悪かったな。頑張れよ、トレーニングも、一夏の方もな」

『……ッ! い、言われるまでも無い! でひゃな!』

 

 必死に声を荒げ、壮大に噛みながら電話を切る箒。

 あー、おもろい。こんなにからかい甲斐ある奴、そうは居ないぞ。

 にしし、と笑い、携帯をポケットの中に突っ込む。

 しっかし、まぁ……

 

「どこで道草食ってんのかねぇ……あの野郎」

 

 

               ●○●

 

 

「せっしー、ポケットから何か落ちたよ~?」

「え?」

 

 教室の掃除当番を任されたセシリアが、今まで握った事すらなかったモップの扱いに苦戦していると、同じく掃除当番の同級生の1人が彼女に声をかけた。

 

「ああ、コレ? ご心配なく、ただのゴミですわ。ついでに捨てておいて下さる?」

「でもコレ、お手紙みたいだけど~?」

 

 そう言ってその同級生は手紙を拾い上げると、セシリアの前まで持って来る。

 

「はぁ……本当に困りますわ。何処の誰だか存じませんが、この様な子供の落書きみたいな文字で……」

「これ、落書きじゃなくて『草書体』だよぉ?」

「は? そうしょ……なんですの、それ?」

「え~とね、草書体ってのは……」

 

 草書体。

 結構な歴史を誇り、簡単に言えば文化の基本法則に則り文字を速く書くことができるように、普段教育で教えている一般的な物とは違い、字画を大幅にカットした文体である。文字ごとに決まった独特の省略をするため、形を覚えなければ読み書きすらできないのが特徴なのだ。

 今では滅多に使われず、日本人ですらマトモに読み書きできる人間は少ないモノを、イギリスからの留学生であるセシリアが読めないのも無理らしからぬことであった。

 

「今の日本では、目上の人とか、大事な人とかに送る時に使われる文章なんだよぉ~」

「だ、大事な人に……そうでしたの……」

 

 危なかった。自分としたことが、とんでもない勘違いをしていたようだ。

 このぐにゃぐにゃ文字が、そのような重要なモノだとは夢にも思っていなかった。

 これが噂の『東洋の神秘』と言われる奴なのだろうか?

 

「あ、ありがとうございますわ」

「いえいえ~。どういたしましてぇ~」

 

 しかし、それではこの手紙には何が書かれているのだろう?

 わざわざその様な文章を使うのだから、下らない怨み辛みとは一概に言い切れなくなって来た。

 なぜか、先程のマスコットの顔を縦にバックリ引き裂かないと開かない形になっている封を少し躊躇いがちに開き、封筒を捨て中を確認するが、やはり予想通り中も同様に草書体でセシリアには全く読めない。

 

「むむむ、困りましたわねぇ……」

「ん~、せっしー草書体読めないの~?」

「そ、そんなことは!?」

「だったら読んであげよっかぁ~? その手紙」

「え!?」

 

 とても以外な救援だった。

 セシリアはこの眠たげな眼をした同級生を、よく言えばのほほんとした。悪く言えば何も考えてなさそうな、こういった格式ばった物とは無縁の存在だと思っていたのだ。

 

「わたしの家ってね、仕事柄こういう文字をいっつも使うの。だから、わたしも小さい時から教えられてるんだぁ~♪」

 

 あんまり好きじゃないけどね~、とダボダボの袖を振り回しながら彼女は笑う。

 この好機を逃す訳にはいかない。セシリアは、できるだけ『自然な態度』で彼女に解読を頼む事にした。

 

「そ、それじゃあ『せっかく』なので今回だ・け・は・特別にお願いしますわ」

「はいは~い」

 

 素直じゃないなぁ~、と彼女はセシリアからそのぶかぶかな袖で器用に手紙を受け取ると、ふむふむと草書体に目を通し始めた。

 長々と書かれた力作に、目を通すこと数分後。

 

「なるほど~、そういうことかぁ~」

「なんて、書いてありますの?」

「ん~、誰が出したのかは書いて無かったけど、とっても簡単に言うとだねぇ、『今日の放課後、第3アリーナで待ってます』って書いてあったよぉ」

「今日の放課後に第3アリーナ!?」

 

 今日の放課後と言えば、もうかなり時間が経っているではないか!

 

「ッ! こうしては居られませんわ! えっと……」

「むふふ~、分かってる。掃除はわたしに任せて行ってきなよ、せっしー」

「恩に着りますわ!」

 

 同級生に礼とモップを渡すと、出口へと全力疾走するセシリア。

 

「頑張ってねぇ~~~~♪」

 

 袖の中の手を振りながら、同級生は彼女の背中にエールを送る。

 それを受けたセシリアの姿はあっという間に、1年1組から居なくなってしまった。

 

「……ふぅ、それにしても久々に草書体なんて読んだなぁ~」

 

 適当に独り言を言っても返す人間が誰も居ない教室は、何となく寂しいのでさっさと終わらせてしまおうと、やはりぶかぶかな袖で2本のモップを器用に操り掃除を始める同級生だが、

 

「それにしても果たし状かぁ、古風だねぇ……あれ? そう言えばわたし、せっしーにあれが果たし状だって言ったっけ?」

 

 先程の自分の言動に、沈思黙考すること少し。

 ここで彼女が己の間違いに気が付き、急いでセシリアの後を追ってこの事を伝えれば『あのようなこと』には決してならなかっただろう。

 

「まぁ、いっか♪ それより早く終わらせてお菓子食~べよっと♪」

 

 だが残念ながら彼女は、よく言えばのほほんとした、悪く言えば物事を深く考えない性格であった……。

 

 

               ○●○

 

 

 セシリア・オルコットの人生は、決して優しいものでは無かった。

 当然、人が人として世に生きる以上、人生という奴は誰にでもハードモードを突きつけるのは当たり前である。だが少なくとも、そんじゃそこらの同年代と比べれば、彼女が今まで歩んで来た人生は壮絶すぎるものがあった。

 名門貴族である実家の発展に生涯尽力した偉大な母と、婿養子という立場の弱さから誰だろうと卑屈であった父を早くに事故で亡くしたのを皮切りに、莫大な遺産を、築き上げて来た地位を、そしてオルコット家の誇りを汚さんと狙うハイエナ共と渡り合う為に、その貴重な青春を心身共に削る様々な勉学と訓練に費やし、ようやく代表候補生という椅子にまで辿り着いたのだ。

 自分が最高レベルの重役であるイギリスのIS操縦者代表にさえなってしまえば、オルコット家の名は世界に轟き、その基盤は確固たる物となり、吸収を目論むハイエナ共も尻尾を巻くしかなくなる。それが彼女の目論見であった。

 故に、例えどのような壁が立ちふさがろうと、彼女に敗北や後退などは許されない。

 敗北はオルコット家の破滅。しいては、自分自身の破滅。

 誰にも頼らず、誰も信じず、一度の失敗すら許されないたった独りの決死行。

 そんな孤独な道筋に今、1つの転機が訪れようとしていた……。

 

 

              ●○●

 

 

 セシリアは廊下を速足で歩き、先程の手紙の内容をリフレインさせていた。

 待ち受けているであろうこの生涯、初めてのイベントに嫌でも顔に血が昇り、息が荒くなり、心臓が張り裂けそうになる。

 そう、きっと違いない。

 あの手紙は名門貴族であり、イギリス代表候補生でもあるこのセシリア・オルコットへ叩きつけられた、

 

 

 

(ら、ラ、ラ……『ラブレター』……ですわよね……)

 

 

 

 どうしてこうなった。

 先程の暗いモノローグが台無しな今世紀最大の勘違いを孕んだまま、セシリアは悶々と手紙のことについて思いを馳せる。

 まず、あの草書体と言う文法。

 あのクラスメイトが言うには、滅多に使われない『大事な人』に送る時に使う文字……。

 つまり、これはきっと『本当に愛する人』に手紙を送る時に使われる文法なのだろう。

 彼女の両親はきっとこの、真実の愛を伝える文法を皆に教える崇高な仕事についているのだ。

 

(そ、その様なモノで書いて来たということは……やはり間違いありませんわ)

 

 もう本格的に火照りが止まらない顔をブルンブルンと振って、無理やり冷まそうとする。

 間違いなのはその無駄に豊かな発想力なのだが、それを彼女に嗜めることかできる存在は今、おやつのドーナツを幸せそうに頬張っており不在である。

 

(でも、宛名がありませんでしたし……一体どなたが……)

 

 ぱっ、と思いつくのは、この学園唯一の異性である彼だ。

 だがあの人をバカにした態度を取る、代表候補生すら知らない明らかに学の無さそうな無礼者が、この様な由緒ある文字で手紙を送って来るだろうか?

 それに彼とは6日後、大ゲンカの末に決まった決闘が控えている。

 今から決闘する相手に恋文など送るだろうか? 

いくらなんでも、それは無いだろう。戦う相手と相思相愛になっても、やり難いだけだ。

 そう冷静に判断するセシリア。できれば、もっと根本的な所を冷静に見つめ直して欲しい。

 

(で、でででは、送り主はじじじ『女性』……!?)

 

 あの厚顔無恥ではないとすれば、自然とそうなってしまうのだ。

 このIS学園には生徒どころか教員も、用務員1人を除いては女性しか居ないのだ。

 その用務員も既婚者だと聞いているし、流石に彼では無いだろう。

 となれば、残るのは女性しかありえない訳で……。

 

「ふ、不潔ですわ!」

 

 思わず声を大にして叫んでしまい、周りが何事かと視線を向けるが、今の彼女にはそれすらも意識の外だ。

 いくら彼女が女尊男卑主義であろうとも、流石に一般常識ぐらいはある。

 女は、男と交わり子を成す。それが自然の摂理だと言うのに、女同士だと?

 不潔だ、邪道だ、我々をお創りになった神に対する冒涜だ。

 だが、それだというのに……

 

(何故!? なんで、こんな……胸の高まりが止まりませんの……!!?)

 

 彼女は、孤独だった。いや、孤独であろうとした。

 耳元で甘い言葉をささやく男は皆、自分の向こうにある遺産しか見えておらず、女もさして変わらない。ささやく甘言が愛情か、友情かの違いだけだ。

 誰も、この『セシリア・オルコット』という人間を見ようともしない。

 だから拒絶した。誰が、貴様らのようなプライドも誇りも無い犬畜生共になびくものか。

 何を考えていようか知った事か。ありとあらゆる人間を拒み、見下し、はね除け続けた彼女であったが、そのじつ、心は誰よりも深く『愛』に飢えていた。

 愛したい、愛して欲しい、本当の自分を見て欲しい。

 その役目を果たすべきであった両親は、彼女の物心つく前に他界し、代わりに彼女が今まで愛し続けたのは『オルコット』という名であった。

 『オルコット』の為なら何でもできる。たとえ、泥水をすすり、戦火へ飛び込み、血川にこの身を汚す事となろうとも悔いは無い。

 しかし、所詮『オルコット』は名前だ。それ以上の存在になど成れはしない。

 苦楽を分かち合う事も、彼女の身体を優しく抱くことも、その名前を……『セシリア』の名を呼ぶことも無い。

 それを心のどこかで悟っても、彼女はただ妄信的に『オルコット』を信じ続けた。

 そうしなければ、自分はその足で立つことすらできない弱虫だから。

 

 そんな彼女に、『真実の愛を告げる』手紙は訪れた。

 もしかして、この人なら自分を、こんな情けない自分を愛してくれるのだろうか? 

 性別など関係無い。抱きしめて、苦楽を分かち合って、優しく真っ直ぐに目を見て自分の……『セシリア』の名前を呼んでくれるのだろうか?

 

(…………確かめなくては)

 

 もう一度、もう一度だけ、誰かを、信じてみよう。

 彼女は息を整え、彼女は運命の扉をゆっくりと……開いた。

 

 

                 ○●○

 

 

 ようやく御出でなすったか。

 姫燐は丁度サビに差しかかったヘヴィロックが響くヘッドフォンを外して首に掛けると、開いた扉を、正確にはその扉を開けた人物を見遣った。

 

「よぅ、重役出勤ごくろうさまなこった。セシリア・オルコット」

「あ、あなたは……朴月 姫燐さん?」

「おお、オレの名前を憶えていてくれたとは、光栄だねぇ」

「え、ええ。なにせ、あのクラスでは唯一、わたくし以外で専用機を持っているお方ですから……」

 

 それに、昨日の食堂で壮大に目立ちまくってましたし……という言葉に片手でおでこを抱えながら、テンションが上がると周りが一切見えなくなる自分を戒める姫燐。

 

「頼む……昨日の事は今すぐ忘れてくれ」

「わ、わかりましたわ……」

 

 ……あれ? おかしいな。

 コイツの性格なら、ここで「はん、専用機持ちの恥さらしですわ。このダニが!」と嫌味の一言でも飛んでくるだろうと思っていたのだが、何時の間にこんなにも謙虚な性格に生まれ変わったのだろうか?

 まぁ、殊勝な態度に関心するがどこもおかしくはない。と、姫燐は話を続ける。

 

「で、お前はアレを読んだから、ココに来たんで間違いないな?」

「た、確かに、読ませていただきましたわ……」

「だったら……話は早い」

 

 姫燐はヘッドフォンを外し、太陽のアクセサリーが付いたチョーカーに触れ、叫んだ。

 

「IS起動。Go for it『シャドウ・ストライダー』」

「えっ!?」

 

 その瞬間、彼女の身体は宙に浮き、チョーカーから強烈な光が迸る。

 次々と展開されていく装甲が、瞬く間に彼女の全身を覆い隠し、先程までタダの少女だった姫燐の姿は、鋼鉄の機人へと変貌していった。

 ISにしては非常に珍しい全身装甲(フルアーマー)タイプ。黒に近い蒼色を基調とした、無骨な装甲が随所に散りばめられてありながらも、しなやかな女性の肉体を思わせるデザインだ。

 両籠手には、羽のような形状をしたブレード付きの、腕より一回り大きいガントレットが装着されており、両脛にも同様の足用パーツが付いている。

 美少女と言えた顔を完全に隠すフルフェイスからは、彼女の象徴でもある燃え上がるような赤い髪が、平時より伸びて腰位までのポニーテールのように突き出ており、金色に淡い発光をする2つのカメラアイからは無表情だというのに、見る者の背筋にナイフを突き立てられたかのような悪寒を走らせる。

 ヘッドフォンを持っていた筈の右手にはいつの間にかボロボロの赤いマフラーが握られており、それを首に巻くのが、車で言うキーを差し込む動作だったかのように、カメラアイが点灯し、周辺の大気が震えた。

 もし、この世に『闇夜を馳せる女神像』というものが有るというのなら、このような姿をしているのだろうか。

 

 これが、これが彼女の専用機。『シャドウ・ストライダー』……!

 

「悪いが、オレはお前の事をまだ何にも知らないんでね。相手になってもらうぜ、セシリア・オルコット」

 

 腕を組み、堂々と宣戦布告を言い渡す姫燐。

 その雄々しくも壮麗な姿に、思わず息をのむセシリアであったが、彼女の言葉でようやく本来ここに来た理由を思い出した。

 自分は、告白を受ける為にここに来たのでは……?

 

「で、でも……」

「安心しな。この第3アリーナは貸し切りにしてある」

 

 本来は今日の放課後は3年生の先輩方が使う予定であったが、全員に袖の下(一夏のスナップ写真。全15種類)を送ると皆快く会場を明け渡してくれた。全く、モテる男は便利である。

 しかし、まだここを伝説の木の下だと勘違いしているセシリアには、彼女の意図が上手く伝わらない。

 なぜ彼女は告白どころか、自分に向けて臨戦態勢をとっているのだろうか?

 これは一体……、

 

(……ハッ! そう、そう言うことですのね……)

 

 ようやく彼女は事の次第を理解し、自分のイヤーカフスへと手を掛ける。

 

「分かりましたわ。IS起動、行きますわよ『ブルー・ティアーズ』!」

 

 瞬間、彼女のイヤーカフスも姫燐のチョーカーと同じように眩い輝きを放つ。

 姫燐と同じように、装甲が次々とセシリアの身体を包んで行き、『青き雫』はその姿を現した。

 姫燐のシャドウ・ストライダーとは違い肌は露出しており、汚れない海のように清らかな青い装甲と、宙を浮く数機のユニット。そして巨大なレーザーライフル、『スターライトmkⅢ』を両手で構えたその可憐な姿は『青の雫』の名に相応しい機体だ。

 

「ほぅ、射撃型か……んで、その横に浮いてるのはBT兵器(ビット・ウェポン)ってところか」

「ふふっ、どうかしら? あなたこそ、見た所は近接型の様ですわね。射撃型であるこのブルー・ティアーズとは相性が悪いのではなくて?」

「さぁね。一皮剥けば、実は内蔵火器のオンパレードかもしれないぜ?」

 

 くくくっ、と仮面の下で悪役の様に笑う姫燐。

 

「さぁ、来いよ。お前の力を見せてみろ」

「それではお言葉通り、わたくしの全てをお見せして差し上げますわ!」

 

 ……はて? やはり何かおかしい。

 この様に高圧的な態度に出てやれば、オルコットのような高慢ちきはすぐにバカにされたと思い冷静さを失うのだが、今日の奴は何と言うか……非常に素直なのだ。

 まるで、とても親しい人と触れ合っている時のような……。

 

 その姫燐の予想は、当たらずとも遠からずという奴であった。

 

(絶対に、認めさせてやりますわ。このセシリア・オルコットの存在を!)

 

 そう、彼女は事の次第を理解していた。壮大に間違った方向に。

 お前の事をまだ何も知らない。当然だ、自分と彼女はまだ会って3日しか経っていないのだから、何も知る訳が無い。故に彼女は、この様な手段に出たのだ。

 拳と、拳で語り合う。

 昔、家にあったので興味本位で読んだ日本の少年マンガで得た知識が、こんな所で役に立つとは思わなかった。

 男って、野蛮な生き物ですのね~。と、この時は流し読みしていたが、今ならこの気持が少しは分かるような気がする。

 

 きっと彼女は、とてもシャイなのだ。

 

 タダでさえ告白には勇気がいるのに、女が女に告白するというのは常人が持ち合わせない程の並々ならぬ勇気がいるであろう。

 だから彼女はこのような回りくどい手段に出たのだ。

 自分の気持ちを少しでも伝え、そしてわたくしの心を少しでも知るために。

 今思えば、代表候補生を決める立候補の時にも、彼女はそれを裏付ける行為をしていた。

 熱烈な視線も、あの謎の踊りのような物も、今思えばきっと自分に好意を伝えたかったが故の行動だと彼女は悟る。

 そんな不器用で、だけど真っ直ぐに自分の事を思ってくれる彼女に愛おしさすら覚えてしまう。

 

(ですけど……!)

 

 それはそれ、これはこれだ。

 今は、全力で彼女の気持ちに答える。それが今の自分に出来るベストだ!

 

「踊りましょう、このセシリア・オルコットとブルー・ティアーズが奏でる円舞曲で!」

 

 そうして、セシリアは己の翼と共に空へ舞い上がる。

 

 致命的かつ奇跡的な勘違いを抱いたまま……。

 

 

                ●○●

 

 

 まず先手を打ったのは、セシリアだった。

 

「喰らいなさい!」

 

 セシリアは戦闘を開始してから直ぐに相手との十分な距離を確保すると、空中からスターライトでまだこちらを見上げたまま地上を離れない姫燐に向け発射する。

 それでも彼女は両手をぶらん、とさせたまま微動だにせず、ただ襲いかかって来る凶弾を眺めるのみ。

 

(なぜ、避けようともしないのかしら……?)

 

 もしや、彼女のISは防御に特化しているのだろうか。

 しかし、それでも光学兵器を完全に無効化できる装甲など聞いた事が無い。

 当たっても軽いかもしれないが、それでもまずは着実にダメージを……。

 そう考えていたセシリアの思考は、姫燐の手刀によって『弾丸ごと』縦に叩き斬られた。

 

 ギャイン!!

「はぁ!?」

 

 真っ2つになったレーザー弾は姫燐の斜め後ろへと反れて行き、地面に当たって消滅した。

 あっけに取られるとは、まさにこの事であろう。

 レーザー兵器の利点は、その弾速の速さと防御の難解さにある。

 実弾とは比べ物にならないスピードで飛来し、熱線によって相手をぶち抜く。

 防御するには、その超スピードを見切り回避するか、同じように光学兵器で相殺しなければならない。それを見てから叩き落とすなど、ハッキリ言って人外の技だ。

 だというのに、それを彼女はいとも簡単にやってのけた。

 にわかには信じがたいが、まだ弾速を見切ったのはまだ分かる。

 だが、光学兵器を搭載していない様に見えた彼女の機体が、一体どうやってビームを弾いたのだ……?

 

(……ッ! あ、あれは!)

 

 ブルー・ティアーズの情報コンソールが、姫燐の姿をズームで映し出す。

 先程の危機など何のその。赤いマフラーをなびかせ、威風堂々としたその姿は不変で……いや、変化はあった。強烈な変化が。

 

「右手が……光ってる……?」

 

 そう、先程レーザーを弾いた右手が黄金色に発光していたのだ。

 恐らく、手にエネルギーを纏わせ、膜のようにして作っているのだろう。

 確かに、この状態ならレーザーを叩っ斬る事だって不可能ではない。

 だが、それでも……

 

(この様な機体、見たことも聞いた事もないですわ!)

 

 湧き上がる隠せない焦りと共に、更に何発か連射するが今度は左腕も同様に発光させた姫燐に全て叩き落とされてしまう。

 

「どうした? ストレートだけじゃ、バッターは打ち取れないぜ?」

 

 軽口を叩き、パンパンと手を叩いて挑発する姫燐。

 いくらでも隙は有っただろうに未だに一歩も動いていないという、完璧に人を舐めくさった態度に、普段のセシリアなら間違いなくライフルをクラッシュさせん勢いで激昂していただろうが、今の彼女には通用しない。

 セシリアは自分を、正確には自分の更なる猛攻を誘っていることを理解していた。

 

(彼女は、わたくしを試している……ならば!)

「お望み通り、変化球ならどうかしら!?」

 

 彼女の声に反応して、腰のあたりに搭載されていた自分の機体名でもあり、最大の特徴。BT兵器『ブルー・ティアーズ』が4機発射された。

 彼女の脳波に反応して動き、縦横無尽に空を駆ける小型機が姫燐を囲み、発射態勢に入る。

 例えどれほど反応速度に優れていようとも、180度の4機同時オールレンジ攻撃を2本しかない腕で防ぎきることなど不可能だ。

 

(今度こそ、当てさせて貰いますわ!)

 

 だが、その目論見はまたしても発射された『弾丸と同時に』空振りする事となる。

 

「へっ?」

 

 消えた。そうとしか言いようが無かった。

 確かに捕らえていた筈の姫燐が、先程まで佇んでいた黒い影が、発射を命令したとたんに、その姿を消していた。な、何を言ってるのか分からないかも知れないが、セシリア自身も何が起こったのか分からなかった。

 

「な、なにがどうなって……」

「超スピード。悪いがタネも仕掛けも世界もない、チャチな芸当さ」

「ッ!?!?」

 

 肩に手を置き、耳元でささやく声に背筋が、いや身体の全てが一瞬、凍りついた。

 バッ、と後ろを振り向くのと同時に、また彼女は地面へと落ちて行く。

 い、一体いつの間に背後を取られたのだ!?

 さらなる思考の混沌へ陥るセシリアに、姫燐は淡々と説明を始める。

 

「お前はさっき、このシャドウ・ストライダーを近接型って言ったな?」

 

 姫燐は着地すると同時に、また腕にエネルギーを充填する。

 

「惜しい、悪くない着眼点だ。確かにこの子は接近戦が得意だが、正確には少し違う」

 

 背を屈め、両腕を後ろに向けると、更にエネルギーを腕部に集中させていく。

 

「この子、シャドウ・ストライダーは……」

 

 そうして限界までチャージし、エネルギー膜がまるで某ネコ型ロボットの様に球体状に膨れ上がった状態になったせいで、あらぬ方向に暴れる両手を必死に制御しながら、

 

 

「バッリバリにイカしてイカれた、『超高速スピード型』さぁぁぁァ!!!」

 

 

 その理性とチャージを、ブッ千切った。

 

「モードチェンジ・『カーテンコール』! ぶっ飛べ! シャドウ・ストライダぁァァァ!!!」

 

 ドラ○もんハンドが爆発し、溜まりに溜まったエネルギーが間欠泉のように姫燐の腕から溢れだす。その力を利用して、姫燐は文字通り地面を『ぶっ飛んで』行く。

 

「イィィィィィヤッハアァァァァァァァァぁぁぁぁぁ!!!」

 

 狂気すら……いや、狂気しか感じない奇声を上げながら知覚すら困難なスピードで大地を馳せる姫燐。そのイカれた速度は最新鋭機である第3世代のスピードが、まるで三輪車であるかのような錯覚すら覚えてしまう。

 先程の超スピードは、これをチャージせずに発射した状態で出した物だった。

 無論、フルチャージには劣るが、それでもイグニッションブースト級の爆発的な加速を得る事ができるのでセシリアが消えたと錯覚するのも無理も無い。

 

「む、無茶苦茶ですわぁぁぁぁぁ!!!」

 

 原理は分かったが、訳が分からない状況に、セシリアも叫ばずには居られなかった。

 この狂気の産物を前にして、ヒステリックに叫ぶなという方が無茶ではあるが。

 しかも、恐ろしいことに彼女はこれを、この暴走と言っても全く問題ない状態のISを己が思うまま制御しているように見える。じゃないと、未だに壁にぶつからない理由が他に思い浮かばない。

 

(わ、わたくしは夢を見ていますの……? それも、悪い夢を……)

 

 ところがどっこい、これは現実……紛れもない現実である。だからこそ余計にタチが悪い。

 とうとう様子見に飽きたのかセシリアの居る空中へ、腕を下に向け急上昇する姫燐。

 当然、壮大に朴月シャウトを響かせながら。

 

「こ、来ないでぇぇぇぇぇ!!!」

 

 半狂乱なセシリアが涙目になりながら悲鳴に近い声をあげ、腰部に付けられた2本のミサイルランチャーを放つ。

 だが、それすらこのスピード・バーサーカーには届かない。

 

「遅イぃ! 遅すぎるぜミサイルさんよォ! もっと死にモノ狂いで頑張れよォ!?」 

 

 ミサイル達も逃げ回る姫燐のバックに必死に食らいつくが、それでも出力が違い過ぎる。

 あっという間に置いて行かれ、目標をロストしてアリーナの上空に張られたバリアーに激突し、爆散した。

 一歩間違えればこうなるのは彼女の方だと言うのに、それでも頭の大切なネジを全部クーリングオフした狂人はケラケラと笑い続ける。

 

「い、嫌ぁァァァァぁァァァ!!?!?」

 

 そして、逃げ回る所を狙い撃ちしようとスターライトのスコープを覗いていたセシリアが、姫燐『だった何か』の急接近に悲鳴を上げ……。

 

 激しく咲き誇った花火は、音も無く散り逝くのみ。

 決着は、先程の乱痴気騒ぎが嘘のように、あっさりとついた。

 

 

                  ○●○

 

 

「おぇ……気持ち悪……」

 

 あの壮絶な戦いの後、姫燐は逆流しそうな胃の中身と格闘しながら、夕闇照らす寮への道のりを1人淋しく歩いていた。

 ああ、どうして自分はいっつもこうなんだろう。

 ケンカとなれば、いっつもテンションがレッドゾーンまで簡単に吹っ切り、壮絶な自爆をしてしまう。

 今回はまだ相手が振られても大丈夫なオルコットだからよかったモノの、これが篠ノ之だったら多分1週間は立ち直れなかっただろう。

 あんなモン見て、ドン引きしない女子など居ないだろうから、もはやセシリアとの関係修復は絶望的だろうか。今日の謙虚なオルコットならまだ自分の好みにギリギリ滑り込みセーフだったのだが、惜しい事をした……。

 

(しかし、今回の目標は無事に達成したから良しとしよう。うん)

 

 そう今回、彼女がセシリアに果たし状を送った理由。

 それは全て、6日後に控えた一夏とセシリアの決闘の為であった。

 初心者の一夏がセシリア勝つには、事前対策が必要不可欠だ。

 だが、セシリア本人にお前の機体の事を教えておくれ。と言った所で、つっ返されるのがオチだろう。

 当然、敵のデータが無ければ対策など立てようが無い。

 だから今回、姫燐が戦ってでも、セシリアの正確な情報を入手しておく必要がどうしてもあったのだ。

 まぁ、結果は色んな意味で散々だったが。世界がまだ一方向に定まらないし。

 しかし、やっぱり気になるのはオルコットの態度だ。

 オレと一夏が仲良い事を知らない筈が無いし、故に、絶対に断られると思ってたので、相手をその気にさせる挑発のパターンを108式まで考えて来たのだが、その大半が無駄になってしまった。

 なんでアイツは、自分に不利益しか無いはずのこの戦いを2つ返事で受けたのだろう?

 

(まぁ、考えてもしかたない、か……)

 

 何にせよ、データは手に入った。あとは、一夏と今後の事について話し合うだけ……

 

「お待ちしておりましたわ……朴月さん」

「…………あ?」

 

 ゾンビのような顔色と共に揺れる足取りがようやく寮の玄関にさしかかった所で、自分を待つ意外な姿があった。

 パツキン残念美人代表。セシリア・オルコットである。

 しかし、その眼には涙を溜めており、今にも溢れだしてしまいそうだ。

 

「……なんだよ」

「教えてくださいまし。なぜ、ですの……なぜ……」

 

 涙声になりながら、オレに答えを求めるオルコット。

 あー、やっぱりアレが納得いかなかったのか。無理も無いことだ。

 

 結果的に言えば、オレはオルコットとの勝負に負けた。

 

 理由は簡単、ガス欠である。

 学校で決められたIS同士の戦いのルールは、相手のシールドエネルギーを0にする事で勝利となる。

 そして、オレの機体。シャドウ・ストライダーが最後に使ったモード『カーテンコール』は、文字通り最後の手段であり、機体の全エネルギーを腕にぶち込む変態モードだ。

 んで、今回はデータも取ったしもういいや。と、こんな時くらいしか使う機会ないし、ワザと負ける為に発動し、テンションの赴くまま壮大に暴れて、壮大にセシリアの真正面でガス欠して、壮大にライフルで腹をパンされてはい、お終い。自業自得とは言え、正直シャレにならない痛さだった。

当然、セシリアからしてみれば、最後の最後までコケにされたようにしか見えないだろう。

 それがよっぽど悔しいのか、オレが帰って来るまでずっと待っているとは……。

 だが、オレだって決してデータ収集のためだけに手を抜いていた訳ではない。

 

「今日は……本当に悪かったな、オルコット。だけどな、オレはお前に勝ったら……ダメなんだ。勝つのは……一夏じゃないといけない」

 

 そう、オレがお前に勝つのは、一夏の奴が勝ってからだ。そうしないと、意味が無い。

 これはアイツの喧嘩だ。サポートこそすれ、オレが代わりに戦って勝ってしまったらアイツの怒りは何処に向ければいい。

 オルコットからしてみれば勝手な言い分さ。だけど、そういうモンだろ?

 

 ケンカって奴は、本人同士で決着を付けないと無意味なんだ。

 

 とっさの言葉だったので、上手く伝わったかどうか不安だったが、オルコットの涙が止まっている所をみると一応は伝わってはいるみたいだ。

 

「じゃあな、6日後。楽しみにしてるぜ……」

 

 そうして、オレは彼女に心の中で土下座し、オルコットを置いて寮の中へと入っていった。

 

             

                   ●○●

 

 

 残されたセシリアは、1人決意を新たにしていた。

 あの後、頭から落下した彼女が意識を取り戻した後、何も言わずに立ち去ってしまったため、絶望に打ちひしがれていた。

 認めてもらえなかったのか……やはり、自分はどこまでも孤独なのか、と。

 それでもなぜ、自分はダメだったのかと、せめて理由だけでも聞こうと玄関で待ち伏せしていたのだ。

 そこで帰って来た姫燐に、涙声でハッキリとは言えなかったが意志はちゃんと伝わったらしく、彼女は心底苦しそな顔だというのに優しく諭してくれた。

 

「オレは勝っちゃダメなんだ。勝つのは一夏でないといけない」と。

 

 つまり、姫燐は自身がこのセシリア・オルコットに相応しくないと思ったのだ。

 本当に相応しい、勝者になるべき人物は織斑一夏だと言う。

 冗談ではない! 自分の事を本気で大切に思ってくれる人間と、あの案山子以下、自分がどっちを選ぶと思っているのか! 

 ……確かに、あの異様なテンションに引いたのは確かだが、それでもこの気持は変わらない。未来の嫁の欠点1つ許せないで、何が名門貴族か!

 

(見ていてくださいまし、朴月さん……いや、姫燐さん!)

 

 6日後、織斑一夏の奴をケチョンケチョンにした後で、わたくしは貴女にこの気持を伝えます。

 

 

 その時は、今度こそ貴女の腕で……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方同時刻 一夏と箒の部屋。

 

「なぁ……はぁ……ハァ……はぁ……箒……ヒィ……さん……」

「ん、どうした一夏! ペースが落ちてるぞ!」

「む……ムリ……放課後から……ハァ……ずっと腕立て……フゥ……いつまで……」

「情けない。お前はその程度の男ではないだろう! さぁ、あと腕立て42731回、頑張るんだ!」

「も……無理……千冬ね……キリ……助け……」

「バカ者! トレーニング中に女の名前を呼ぶなど、死にかけの甘ったれが言う台詞だ! ま、まぁ一夏がどうしてもと言うなら私の名前なら呼んでも……」

 

 結局、このトレーニングは本日の成果を伝えに来た姫燐が、無理やり箒をドロップキックで止めるまで続いたという……。



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第4話 「恋と信念の円舞曲」

「一夏、調子はどうだ?」

「……ああ、問題無い」

 

 一夏は姫燐の声に、自分の身体を包みこんだ鎧武者を彷彿とさせる第二世代型IS『打鉄』の腕を軽く動かす。

 しばらくすると、PIC(パッシブ・イナーシャル・キャンセラー)が作動し、鋼鉄の身体が万有引力に逆らい宙に浮く。

 嫌でも高鳴る鼓動を押さえ、左手を閉じたり、開いたり、

 

「どうした、震えてんのか?」

「……ああ、震えてるよ」

 

 少し不安げな表情を浮かべる姫燐の言葉に、一夏は素直に答えた。

 これから始まる決戦が、待ち受ける強敵が、重力を裏切るこの感覚が、これから試練を乗り越えてまた1つ強くなる自分自身が、

 

「楽しみで楽しみで、嫌でも身体が疼いちまう」

「くくっ、そうかい。あんま調子乗んなよ?」

 

 巣立つ子を見送るようなはにかみで、姫燐はISを装着した一夏の太ももをコンコン、と小突き念を押す。

 6日間。長いようで短い期間だったが、出来る手は全て打ったつもりだ。

 それでも、一夏とオルコットの実力差に埋めがたいモノが有るのは事実。

 しかし、それでも喰らい付き、喉笛を噛みちぎる為に努力はしてきた。

 作戦もある。勝算もある。気合は元より。あとは……

 

「お前次第だ、一夏」

「ああ、これだけお膳立てしてもらったんだ。絶対に勝って来るよ、キリ」

 

 現代で自由に羽ばたく翼を持つ唯一の男は薄暗いドックから、太陽の光さす戦場へと飛び立って行った。

 

「ああ! もし負けたら次の箒とのトレーニング、絶っ対に口出ししてやらねぇからなぁーーーーーーーーーー!!!」

 

 ああ、それは困る。本当に、割とマジに本格的に死ぬ。殺される。鍛え殺される。

 戦いが始まってもないのに背中に薄ら寒いモノを感じながら、一夏は向かい立つ。

 

 眩い太陽に照らされた、『青い雫』の眼前へと……。

 

 

 

      第4話 「恋と信念の円舞曲」

 

 

 

「あら? おかしいですわね。いくらわたくしがここ最近、『あの方』を思い眠れぬ夜を過ごしているとは言え、貴方のその機体。専用機でも何でもない、ただの第二世代に見えるのですが……?」

 

 ドックから出て来た一夏の姿を見た瞬間、僅かな驚きを孕みながら明らかに人を小馬鹿にしたような口調で目を細めるセシリア。

 会場である第3アリーナの客席からも、困惑のざわめきが沸き起こる。

 無理も無い、彼には事前に第三世代の専用機が与えられる手筈となっていたのだが、今彼女の眼前に相対するのは、圧倒的にスペックで劣る第二世代のIS『打鉄』に身を包んだ織斑一夏……。

 タダでさえ勝ち目が無いと言うのに、更に絶望的な状況に自分を追い込むとは、自棄でも起こしたのだろうか? 

 

「……あー、今なら『これは夢だった』ってことにしといてあげますから、さっさとご自分の機体を取りに行かれてはどうかしら、おバカさん?」

「お気使いは感謝するが残念ながら、これは夢なんかじゃない。俺の機体は間違いなくこの『打鉄』で……」

 

 一夏は、『打鉄』唯一の装備である刀を取り出し、

 

「今から『青き雫』を地面に叩き落とすのも、間違いなく俺『達』だ」

 

 セシリアの顔面に、生涯最ッ高のしたり顔と共に突き付けた。

 普段ならセシリアも、客席も、この世界中の誰もが笑い飛ばす台詞だろう。

 だが、できなかった。むしろこの場にいるセシリアを含んだ殆どの人間が息を呑み、目の前の存在に畏怖すら感じてしまった。

 彼がISを使える唯一の男だから? あの織斑千冬の弟だから? いや、そんな下らない理由では無い。

 彼には、『迷い』が無いのだ。

 この絶望の中でも、彼の表情が、態度が、言葉が、物語っている。

 必ず勝利すると、敗走なんてする訳が無いと。敗北の可能性という『迷い』が一切見えないのだ。

 ただ、彼の真っ直ぐな眼は勝利するという『希望』のみを見据えている。

 

 

――もしかしたら、この男なら本当にやってのけるかもしれない……。

――この絶望を、希望に変えてしまえるかも知れない……。

 

 

 観客達は皆自然と、全くの無意識にそんな事を思ってしまっていた。

 ……数名の例外を除いては。

 

 その例外の1人であるセシリアは、不愉快に心を煮えくり返してちゃぶ台返ししていた。

 ふざけるな。自分が、このセシリア・オルコットと『ブルー・ティアーズ』が貴様程度の男などに墜とされるだと? ありえない、タダの状況が見えていない愚かなハッタリだ。

 だと言うのに、なぜ心は平常を保てない? なぜ頭に上り続ける血流を押さえられない?

 男など、取るに足らない存在だというのに!

 しかも、『自分の』姫燐をたぶらかし、あまつさえ馴れ馴れしくあだ名で呼び接するこの男などに!!!

 

(……だったら、わたくしが直々に教えて差し上げますわ)

 

 貴様がいかに愚かで、矮小で、脆弱かつ彼女に相応しくない大バカ者であるかを!

 手加減など不要、最初から全力でブルー・ティアーズを作動させ、チャンスなど与える暇なく墜とす!

 

『それでは、仕合開始!!!』

 

「行くぞ、セシリア!」

「さぁ、踊りなさい……このブルー・ティアーズとセシリア・オルコットが奏でる円舞曲で!」

 

 

                  ○●○

 

 一方その頃、観客席。そこの最前列で、うっとりと自分の世界にトリップしている少女が1人。

 

(一夏……)

 

 先程の勝利宣言を聞き、別の感情を寄せる例外の1人こと篠ノ之 箒は乙女の純情をバーストエンジェルさせていた。

 どこからどう見ても一夏にベタ惚れな彼女は、久方ぶりに再会した時の想い人をこう評していた。『しばらく見ない内に見る影もない腑抜けとなってしまった男』と。

 だが先程の一夏の宣言は、その幻想を彼女のハートごと偽・螺旋剣でぶち抜いてぶち壊した。

 一夏は、私の婿はあの時から何も変わっていない所か、この6年で更に強く、凛々しく、カッコよくなっていたのだ。

 

(一夏…………)

 

 ほぅ……と恍惚のため息を付き、彼の勇士を例え1フレームでありとも見逃さない様に食い入り、網膜に焼き付ける。

 今すぐ立ち上がり、この胸の中で顎が尖った人達のギャンブルを見る人達みたいにざわめく思いを、どうせ聞えているからと開き直ったゲームチャンプのように情熱的に伝えたい……!

 

(一夏………一夏……!)

 

 今はダメだ。分かっている、いくらなんでも人目が多すぎる。

 しかし、この粗ぶる思いを今伝えずしていつ一夏に伝えるのだ?

 思えば、自分が今までずっと彼と男女の仲となれなかったのは、どこか恐れていたからでは無いだろうか? 『もしも』に躊躇して、傷つくのを恐れて立ち止まる。

 だから、自分は別れの時であろうとも弱いまま、彼に何も言えなかった。

 だが、彼は立った今、 自分に見せてくれたではないか。迷いを捨て去った者の『強さ』を!

 

(一夏一夏一夏イチカいちか一夏イチカいちかぁァ!!!)

 

 そう、迷いを捨てろ。恥や名聞など知った事か。

 彼が、彼さえ隣に居ればそんなモノ、リサイクルすら出来ないゴミ屑同然。

 深呼吸と共に眼をクワッ、と見開くと箒は観客席から立ち上がった。

 身体が軽い。周りの有象無象の視線が、こんなにも気持ちいいなんて初めて!

 

 もう、なにも怖くない!!!

 

「一夏ぁぁーーーーーー! 私は、お前が大すふふぉ!?」

「はーいお客様、前のお席で立つのは後ろに迷惑だからおやめ下さいね、っと」

 

 しかし、恐怖を忘れるということは同時に、ありとあらゆる危機に対して疎くなるという事である。

 彼女の一世一代の告白は、空気の読めるKYによる頭部をパックリ……ではなく、普通に頭に振り下ろされた手刀よって、フェイタルカウンターされてしまった。

 

「ほ、ほほほほほ朴月!? ななななななじぇここに!!」

 

 彼女は一夏と共に、ドッグで最終調整をしていたはずでは!?

 

「とりあえず落ち着け。ドックの中じゃ生で見れないからな。ホレ、さっさと座れ」

 

 そう言って姫燐は箒の横の席に、「よっこらせっぷく丸」と変な掛け声をして座り、未だに混乱する箒も、言われるがままに席に付く。

 

「な……なぁ、朴月……い、今のはな、別に邪な気持ちがあった訳では無くな……ただちょっと自分に正直に生きてもいいのではないか? と思っただけでな……」

「あぁ、分かってる。全部オールライトだ」

 

 パァ、と今まで滝のように脂汗を流していた箒の顔が明るくなり、

 

「お前さんが、うちのクラス全員と先生方が居る中で、恥も外聞もまぁーったく気にせずに一夏に君が好きだと大・喝・采したかったのはよぉーーーーっく分かってますから」

「ッーーーーーーーーー!!?!!?!!?」

 

 通常の三倍より更に赤く、魔を断つ剣・ブラッドも裸足で逃げ出す程に真っ赤になった。

 切腹だ。とにかく切腹するしかない。もうこの世に生きてはいられない。

 

「ブッ!? お、おい何してんだバカが!」

「離せぇぇぇぇぁぁぁあぁ!!! もう死ぬしかないぃぃぃいいいぃいぃ!!!」

 

 完全に正気を失い、泣き喚きながら服を脱いで、短刀も何も無いのに腹を掻っ捌こうとするバカを何とか羽交い締めにして止める姫燐。

 当然、姫燐がこの時、目の保養に加えて関係無い所まで触りたおし、箒の肉体を思う存分堪能したのは言うまでも無い。彼女が暴れるのを止めるのについカッとなってやったので、セクハラにはならない。反省も後悔もしていない。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

「ハァ、ハァ……少し落ち着いたか……チッ」

 

 ようやく抵抗が無くなった所で、姫燐は心底名残惜しそうに箒を解放した。

 

「告白は大いに結構だが、TPOを弁えろ」

「う……うむ……」

 

 極上の餌の前で『待て』を喰らい、そして結局貰えなかった子犬のようにショボン……とする箒。

 くそう、可愛いなぁ。でもここまで重症じゃ、今更オレが入り込む余地なんて無い。攻略は不可能だな……はぁ……。しかたない、これからは精一杯愛でさせて貰うとしよう。

 アディオス、マイライクじゃなくてラヴ……。

 

「な、なぁ……朴月、苦しいんだが……」

「ん~……?」

 

 おっと、つい失恋のショックとそのプリチーさに某動物王国の王張りのスキンシップをしてしまったが、流石に時期尚早だったか。

 あーあ、このわがままボディを独占できる一夏の野郎マジ爆発し……一夏?

 

「……あ、忘れてた」

 

 ここでようやく、姫燐は何のために自分がここに居るのか思い出す。

 しまった。箒の告白未遂のせいで試合をまったく見て無かった。

 急いで会場の方へと視線を戻す姫燐と箒。

 

 ワァァァァァァァァァァァ!!!

「なっ………!?」

「ほー………」

 

 沸き立つ観客、信じられない様なモノを見た顔で固まる箒、そしてその中でただ一人、別に何事も無いと言った冷めた表情をする姫燐。

 そう、彼女も一夏の姿に別の感情を寄せる例外の1人。

 

 朴月姫燐は最初から、彼の勝利しか信じていなかった。

 

 

                  ●○●

 

 

 いったい何がどうなっている?

 セシリアは額から流れ出る汗を、湧き上がる焦燥を隠せない。

 余裕だと思っていた。所詮は素人、自分のブルー・ティアーズのオールレンジ攻撃は、初心者如きがどうこう出来る代物では無い。第二世代の機動力なら尚更だ。

 一瞬でブルー・ティアーズにハチの巣にされ、無様に落下すると思っていた。

 だが現実はどうだ? 目の前の雑魚であったはずの男は、飛来する『最後の』ブルー・ティアーズが発射した弾道を、まるで未来が見えているかのように巧みにかわすと、

 

「これで、最後ォ!!」

 

 そのまま突進し、すれ違いざまに手に持った刀でビットを両断する。

 これで、最後の1機まで切り落とされた。

 さっきから全てこうだ。自分がブルー・ティアーズを射出して敵を包囲しようとも、それら全てをいとも簡単に切り抜け、本体を決して狙わずにビットのみを破壊していく。

 自分とした事が、頭に血が昇り過ぎていた。その狙いに気が付くのが遅すぎた。

 

「よう、どうした? 随分すっきりとしたデザインになったじゃないか?」

「ぐぐっ……織斑……一夏……!」

 

 そう一夏の、姫燐と共に立てた作戦は、一番厄介なブルー・ティアーズをさっさと封じることであった。

 これさえ封じれば後はライフルのみ。ライフルだけとなればいくら速かろうと所詮は『点』、避けるのはさして難しくない上に、一夏が使う打鉄の得意とする接近戦に持ち込めば、例え初心者であろうとも結果は一目瞭然だ。

 そして彼が行って来た特訓は全て、このブルー・ティアーズを避ける事のみに特化してきた。

 この前のデータを元に組まれた5日間、打鉄を使った状態での徹底した『朴月印の対ブルー・ティアーズ用』シュミレート・プログラム。

 姫燐が気が付いた、セシリア本人すら気が付いていない『確実に全て自機狙い』であるという欠点も再現した、完璧なガチ対策。

 アリーナの使用許可を得るのに非常に苦労したが、時には力尽くで(主に姫燐が)、時にはお話合いで(やはり姫燐が)、時には賄賂で(言うまでも無く姫燐が)、文字通りありとあらゆる手段を講じて使用権を奪取し操作訓練に明け暮れ、そのお陰もあって、一夏はブルー・ティアーズの軌道をセシリアと同じ、いや下手をすればセシリア以上に理解していた。

 起動さえ分かれば、怖い物では無い。

 

「戦闘開始から3分38秒……ちょっと昨日より遅いな、キリにドヤされそうだ」

「な、何を言っていますの……?」

 

 セシリアには、眼前に立ちふさがる底知れない男に恐怖を抱いた。

 本当に、彼は1週間前の『織斑一夏』と同じ人物なのか? ただ、見下すだけの存在でしか無かった筈の彼が今、果てしなく立ちふさがる巨壁に見える。

 己の不覚に奥歯を噛み締めるセシリア。

 自分の油断、慢心、乱心、全てが己の首を絞めているこの状況を作った自分が、不甲斐なくて仕方が無い。

 だが、後悔は後だ……。

 

「ふっ……ふふふ……」

「ん?」

「お見事ですわ、織斑さん。わたくしのブルー・ティアーズが貴方如きに完封されるとは、夢にも思っていませんでしたわ」

「そりゃどうも」

「……今まで申し訳ありませんでしたわ。正直、わたくしは今まで貴方の事を虚弱貧弱無知無能な島国のお猿さんだと思っていました」

「あ、ああ……」

 

 今までの彼女からした自分の評価の酷さに、一筋汗をかく一夏。

 

「ですが、認めざるを得ないようですわ。貴方が、わたくしに立ち塞がる『壁』だという事を……ですから」

 

「ここからは、油断も慢心も無い。本当のわたくしで、お相手いたしますわ」

 

 彼女を纏う気が変わる。

 今までの、どこか真剣みに欠けていた表情ではなく、ただ立ち塞がる壁を破壊するために全神経を集中し、研ぎ澄まされた無表情へと一変させ、その殺気が一夏の身体を突き抜けた。

 

(ようやく……本番か……)

 

 一夏の腕に、自然と力が篭る。

 ここまでは予定調和。問題は、ここからだ。

 観客席で、共に作戦を考えた姫燐も同じことを考えていた。

 ブルー・ティアーズを封じ、あとは接近戦に持ち込むだけなのだが、この『だけ』が曲者なのだ。

 機動力が圧倒的に負けているこちらが、どうやって接近するか? 当然、武装がライフルのみとなったセシリアは逃げに徹するだろう。一度第3世代の性能で引き離されてしまえば、第2世代である打鉄では追いつくのは絶望的だ。

 かと言って、遠距離武装がない打鉄は何としても近付くしかない。遠距離武装がマトモに揃った『ラファール・リヴァイブ』で行くという案もあったが、ヒヨっこの一夏では遠距離武装を使いこなせないと判断し、なら武装が1つしかない分、集中できる打鉄のほうがまだマシだと判断したのだ。

 だが、遠距離攻撃が無くては逃げ回る自分より素早い相手に接近するなど不可能。

 一見、絶望的に詰んでいるように見えるこの状況。だが、一夏の眼から闘志が消える事は無い。

 自分独りでは、とっくに諦めていたかもしれない。だけど、今の自分には不思議と不安は無い。

 

(本当に、俺はいいパートナーに恵まれたよ……)

 

 なぜなら、彼は最高の相棒に教えてもらったから。

 

『戦術は、作戦しだいでいくらでもひっくり返せる』事を!

 

「行け! 一夏ぁ!」

「うおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉ!!!」

 

 そうして彼は相棒の声援を受け、雄たけびと共に突進した。

 ……セシリアとは『反対側の』方向に。

 

「……………はぁ?」

 

 一瞬、本人達を除くセシリアも含めた会場全ての人間があっけに取られた。

 何故に? 前ならともかくよりにもよって後ろ?

 どうなっている、ここまできて自棄になるとは思えない。

 だがこの状況を打開するには、どう考えても逃げられる前に一か八かでセシリアに突進し、一撃を加える以外に勝機が無いように見える。その唯一のチャンスを、彼は自ら棒に振ったのだ。

 

「ど、どういうつもりかは知りませんが……容赦はいたしませんわ!」

 

 気を取り直し、向こうから勝手に離れて行ったおかげで距離を離す必要が無くなったセシリアが、スコープを覗きライフルで一夏を狙い撃つ。

 一夏も打鉄をフルスロットルで飛ばすが、それでもセシリアの狙いとレーザーのスピードの方が速く、どんどんシールドエネルギーを削られていく。

 

「一夏!」

 

 観客席の箒が、居てもたってもいられずに立ち上がった。

 何をしているのだ一夏は! これでは、ただ嬲り殺しにされるだけではないか!?

 

「どうなっている朴月! 作戦は一体どうしシャナ!?」

「だーかーら、お前は座ってろっての」

 

 今度は膝の裏にチョップを直撃させ、無理やり箒を座らせる姫燐。

 

「し、しかし一夏が、一夏が!」

「安心しろ、まだアイツは負けちゃいない」

「これでは時間の問題だ! なぜあの状況で引かせた、一か八かなら勝てたかも知れんのに!」

「…………はぁ」

 

 粗ぶる箒に姫燐はため息を1つ付くと、あくまでも冷静、冷淡に語り始めた。

 

「バーカ、『一か八か』だぁ? 何でこのオレの作戦が、んなもんに頼らなくちゃならねぇんだ。事前に対策練ったのに一か八かに縋るなんざ、救いようのないアホがやる事だ」

 

 命を賭ける作戦に『一か八か』なんて不確かなモノは、あってはならない。

 彼女が、一夏の為に丹精込めて練り上げた作戦は、そのような不良品では決して無い。

 

「だ、だが……」

「ま、ポップコーンでも片手に黙って見てろよ」

 

 姫燐は先程とは打って変わってニカッ、と春風のような笑顔で恥ずかしげもなく言い切った。

 

「オレの自慢の相棒が、オルコットの野郎を叩きのめすその姿を、な」

 

 ちなみに、この一言がまた箒を悶々とさせたのは言うまでも無い。

 

 

              ○●○

 

 

「へっくしぃ!」

 

 うう、このタイミングでくしゃみとは、誰かが噂でもしているのだろうか。

 だが、状況はそんな呑気なことを考えている場合ではない。

 今まで一切消費しなかったからまだ余裕はあるが、それでもシールドエネルギーは着実に削られていく。あと数発マトモに喰らえば……負ける。

 

「あと少し、あと少しだけもってくれ打鉄!」

 

 目的のポイントまで、あと少しなんだ!

 被弾を繰り返しながらも、一心不乱にあの場所へと上昇する一夏。

 

「……随分と粘りますわね。でも、これで!」

 

 所詮は悪あがき、スコープ越しに空を駆け上がる一夏の姿をしっかりと追いかけ、

 

「終わりですわ!」

 

 トリガーに指を掛け、収束し照射された光の弾丸は容赦なく焼く。

 

 

「ッきゃあ!?」

「よし、かかった!!」

 

 

 セシリア・オルコットを、正確には、彼女の『眼球』を。

 一夏は『太陽』を背に受けながら、不意の襲撃に思わず目を押さえるセシリアを見て作戦の成功を確認した。

 そう、今回の作戦はこの『逆光』を利用したモノだ。

 自分を囮にし、セシリアにスコープで太陽を直視させる。

 幼い頃、理科で学ばなかっただろうか? 太陽を『レンズ』で覗いてはいけない、と。

 レンズはその仕組み故に光を一点に集める。しかもそれが、兵器に利用されるほど高性能なスコープに使われるレンズなら、そしてそれを肉眼で覗いたら果たしてどうなるだろうか?

 全ては、この為の布石だった。先にブルー・ティアーズ破壊する事に集中したのも、その後、ワザと自分から引いたのも、全てセシリアをライフルを使った射撃に集中させるためだったのだ。

 一時はどうなるかと思ったが、全ては『彼等』の思惑通り。

 そして、ようやく生まれたこのチャンスを逃す愚か者などいない。

 

「トドメだ、一夏ァァ!!!」

「おっしゃぁぁぁぁぁぁあぁ!!!」

 

 セシリアも何とか避けようと機体を必死に動かすが、もう遅い。ブーストを全開にしながら急降下し、刀を振り上げ一夏は全体重を乗せて彼女に叩きつけた。

 

「きゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 

 散る火花、揺れる世界、落下していく2つの機影。

 己の悲鳴と一夏と共に、セシリアは地面へと落下して行く。

 激しい衝撃、舞う砂埃、そしてゆっくりと立ち上がる1つの機影。

 機影は衝撃のショックにまだ少しふら付きながらも、刀を杖代わりにしっかりと2本の足で立ち上がり、呟いた。

 

「俺の……勝ち、だ。セシリア」

 

 会場が、嵐のような歓声に呑まれた。

 大番狂わせ、ブラックホース、そんなレベルではない。この少年は裏切ったのだ。

 この第3アリーナに入る前に誰もが思った、セシリア・オルコットの勝利という未来を見事に裏切ってみせたのだ。

 自分に向けられる一向に鳴りやまない拍手と喝采の中、一夏は思う。

 本当に凄いのは俺なんかじゃない、キリと『打鉄』だ。と。 

 彼女の作戦無しでは、自分は間違いなくセシリアに勝てなかったし、打鉄がここまで保ってくれなかったらやはり自分は負けていた。

 こんなに弱い自分を、支えてくれた彼女達が居たから、俺はこうしてここに立っている。

 この勝利は、俺と、キリと、この打鉄のモノだ……!

 彼女に礼でも言おうと、観客席に居るはずの姿を一夏は探す。

 ISに備え付けられたハイパーセンサーは、最前列で立ち上がり叫ぶ彼女をハッキリと映し出した。

 

「…………ッ! ………………ッ!!! ………………………ッ!!!!」

 

 何かを必死に叫んでいる様に見えるが、喝采が邪魔で聞えない。

 彼女の声を聞こうとハイパーセンサーを限界まで集中させると、ようやくハッキリと聞え出した。

 

 

 

「バッカ野郎ッ! なに油断してんだ!! オルコットのシールドはまだ0になってねぇぞ!!!」

 

 

 思考が、凍る。

 その言葉の意味を真に理解したのは、背後から飛来した弾丸が頬を掠めた直後だった。

 

「チィッ! あんな使い方をしたせいでバレルがひん曲がってしまったようですわね……」

 

 バッ、と先程自分が出て来た場所を振りかえる一夏。

 砂埃が舞うクレーターからゆっくりと影は立ちあがると、ボロボロのライフルを邪魔だと言わんばかりに投げ捨てる。

 

「な……うそだろ……?」

 

 最後の一撃は完全に入ったはずだ。

 キリの話では、例え第三世代のISであろうとも耐えられるものでは無かったはずだ。

 なのに、なぜまだ彼女は立ちあがれる!

 異常事態に思わず後ずさりする一夏。そこで、ふと彼女が投げ捨てたボロボロの、刀傷が入ったライフルが足に当たる。

 

(……まさか!)

 

 信じられない、まさか彼女は咄嗟にライフルを盾にしたのか!?

 そのせいでダメージが軽減され、ギリギリで耐えきったというのか!?

 

「負けられませんの………」

「えっ?」

「こんな所で、わたくしは負ける訳には行きませんの……!」

 

 血走った眼で残された最後の武装、接近戦用ショートブレード『インターセプター』を起動するセシリア。

 とっくにその眼から正気は消え去っており、ただ自らを突き動かす確固たる信念のみが、満身創痍の彼女の身体を突き動かす。

『オルコット』の名を護るために、自分のプライドを護るために、そして……何よりも!

 

「わたくしを愛して下さった『あの方』のために! 貴方にだけは負けるわけにはいきませんのよぉぉぉ!!!」

 

 ショートブレードを片手に、一夏に最後の接近戦をしかけるセシリア。

 

「くっ!!」

 

 刺し、引き、薙ぐ。高速で振るわれる彼女の鬼気迫る猛攻に、一夏は防戦しかできない。

 接近戦が有利なのは、あくまで彼女が遠距離用のライフルを持っていた時だけだ。

 同じ土俵に立たれてしまっては、あとは経験と技量の差だ。

 セシリアも本来は接近戦は専門外だが、それでも初心者の一夏のそれを越える実力も経験も備わっている。

 

「落ちろ! 落ちろ! 落ちろォォ!」

「ぐっ、うう……」

 

 徐々に捌ききれなくなり、押され始める一夏。

 そして、ついに刀を持った腕に、セシリアの一撃が入る。

 

「がぁア!!」

 

 唯一の武器である刀を落とし、抵抗手段が無くなった一夏の腹部にすかさずセシリアの回し蹴りが飛ぶ。

 

「げほっ……!」

「一夏ッ!? あんのバカ野郎……!」

 

 椅子に八つ当たりしながら姫燐も即興で策を考えるが、ダメだ。どうやっても一夏が勝つビジョンが浮かばない。

 そもそも、あそこで落とせなかった時点で彼の敗北は決まっていたようなモノなのだ。

 

「クソッ! ここまで来て……」

 

 箒も同様に唇を噛み締める。

 このまま、オルコットの成すがままにされるしかないのか!?

 しかし観客である彼女達に、出来ることなど何もない。

 

「これで……お終いですわァ!」

 

 倒れて蹴られた腹を押さえる一夏に、セシリアはトドメを放とうとする。

 迫りくるセシリアをどうこうする手段など無く、ただ茫然と眺めることしかできない一夏。

 ああ、負けだ。こんなもの、勝利とは言えない。

 ごめん……箒……打鉄……キリ……。

 そして、勝敗を決するアナウンスは非常にも告げた。

 

 

 

「勝者、『織斑一夏』!」

 

 

 

 この勝負の、勝者の名前を。

 

 

                   ●○●

 

 

 勝因は、セシリア側のエネルギー切れだった。

 まぁ、即死しない方がおかしいほどのダメージを受けたのだ。いた仕方ないモノはあるだろう。

 だが勝負は勝負。例えどんな内容であろうと勝者は、最後までエネルギーが残っていた織斑一夏に他ならなかった。

 当然、本人達は納得している筈が無く、

 

「あれほど調子乗んなっつっただろうがこのボケがぁぁぁぁぁーーーーーーー!!!」

「ごめんなさボルグ!!?」

 

 アリーナの中に降り立った姫燐の容赦無いハイキックが、心身共にボロボロな一夏の側頭部をなにそれ関係無いね、とばかりに蹴り抜いた。

 

「ああ、てめぇはアレか? やっぱり3歩あるいたら大切な事を忘れるバードヘッドなのか? だったら今夜は焼き鳥パーティにしなくちゃなぁァ、このド畜生が!!!」

「だ、だから、ごめんマジギブ、ギブ!! 縦に割れる! 臓物一夏になっちゃうって!!」

 

 ダウンした所を即座に持ち上げ、めちゃ許せん一夏にバックフリーカーを仕掛ける姫燐。

 ロープを要求する声が聞こえるが完全に無視。完全にルール無用の残虐ファイトである。

 未だかつて、ここまで彼女がプッツンした事があっただろうか? いやない。

 

「そこまでにしておけ、朴月」

「あぁ? なんでだよ篠ノ之?」

 

 そんな一夏の姿を見かねたのか、姫燐に制止を呼び掛ける箒。

 

「ほ、箒……」

 

 今の一夏には、彼女が救いの天使に見えていた。

 

「まだ一夏は初心者だ。同情の余地はある」

「だ、だけどなぁ……」

「だからこれから油断どころか、泣いたり笑ったり出来なくなる程に徹底的に鍛え直さなくてはならないな。当然、今から」

 

 が、直ぐに地獄の獄卒とさして変わらなく見えるようになった。

 

「さぁ、行くぞ一夏! まずはグラウンド37564周からだ!!」

「い、嫌だぁぁぁぁああぁぁああああぁぁぁぁぁぁ!!!」

 

 姫燐から一夏を受け取ると、箒は断末魔を上げる一夏を引きずりながら意気揚々と第3アリーナを後にして行った。

 なぜだろう大戦中に、桜花を見送った人達もこんな気持ちだったのだろうか?

 胸に渡来するモノを「まぁ、どうでもいいな。アイツだし」と適当にスルーしながら姫燐は、未だ鳴りやまない歓声を掻き分け、アリーナの中心で独り茫然と立ち尽くす彼女へと声をかけた。

 

「よぅ、惜しかったな。オルコット」

「…………あ」

 

 しかし、彼女の姿を見た瞬間、セシリアは俯きながらそっぽを向いてしまう。

 

「おいおい、どうしたんだ?」

「見ないで……下さいまし……」

「は?」

「こんな惨めなわたくしを……見ないで……」

 

 頬に、一筋の透明な雫が浮かび上がっているのが分かる。

 彼女は、セシリア・オルコットは泣いていた。

 

「惨めだ? んな訳あるかよ、あれは誰がどう見てもお前の勝ちだったさ」

「でも……でも……わたくしには、もうッ、なにも残ってッ……」

 

 過程はどうであろうと、敗北は敗北だ。

 自分は、『オルコット』を護るという誓いを、愛しい人の期待を裏切ってしまった。

 その絶望感と、ズタボロになったプライドが後ろ指をさし続ける。

 お前は、酷く惨めで無価値な負け犬であると。

 

「わだぐじはぁ……わだぐじはぁ……」

「…………」

 

 だだ、子供の様に泣きじゃくる事しか出来なかった。

 存在価値を失った自分に、意味なんてない。

 だけど、どうしたらいいか分からずに感情のまま泣く事しかできない。

 悲しい、悔しい、ただひたすらに無様。

 どうしようもない感情の行き先が見付からない。

 このまま、いっそこの世から消えてしまえたら……

 

 ギュッ

「え……?」

 

 そんな事すら考えていた彼女の凍え切った心と身体に、突然、暖かい物が渡来した。

 あったかっくて、大きくて、優しい。まるで、全ての痛みを柔らかく包みこんでくれるようで……

 

「なッ……へェ!?」

 

 突然の事に呆けていたセシリアだったが、ようやくそこで気が付く。

 自分は、あの方に、愛する姫燐に抱きしめられているのだと。

 

「な、な、ななんあななきり、きりりりりりしゃん!」

「落ち着け……この際だから言う。正直に言ってオレはお前が嫌いだった」

「う、ぐすっ………」

「とりあえず最後まで聞けよ。今回の勝負だって、オレは一夏が圧勝すると思ってた」

 

 あれだけ念入りなガチ対策にあの作戦だ。

 姫燐は一夏の勝利は絶対だと確信を持って送り出した。

 

「だが、実際はどうだ? お前がエネルギー切れを起こさなければ、一夏の奴は間違いなく負けていた。それは何故だと思う?」

 

 答えは実に簡単、それは単に……

 

「お前が強かったからだよ。オルコット」

「わたくしが……強い?」

「ああそうだ、オレはお前を、セシリア・オルコットを見くびっていた」

 

 今まで姫燐はセシリアの事を、プライドが高いだけの世間知らずなお嬢様だと思っていたが、最後に立ちあがったあの気迫。そんじゃそこらの奴が、そう簡単に出せるモノでは無い。『あの方』とは誰の事だか知らないが、あの時、彼女が見せつけた力は姫燐の予想を大幅に超えていた。

 

「そ、そんな……あの時はただ無我夢中で……」

「だからこそ凄いんだ。無我夢中であれだけの力を出せる奴なんざ、そうは居ないぜ」

「姫燐さん……」

「それに、何も残って無い訳無いだろ。お前は生きている、生きてるなら何度でも、何だってやり直せるさ。オレだって、一緒に手伝ってやる」

 

 そう言って姫燐はセシリアの頭を撫でる。

 抱きしめられて、撫でられる。たったこれだけの事だというのに、どこか懐かしくて暖かいこの感触に、セシリアは心から満たされて行く。

 こんな感覚、何年振りだろうか……。

 

「認めるよ。お前は、セシリア・オルコットは大した奴だ。誰がどれだけお前を貶そうともオレが……オレだけは何があっても胸を張って言い切ってやる」

「あ、ああ……!」

 

 やはり、自分は間違っていなかった。

 この人を信じて、好きになったのは正しかった……!

 

「あー、とにかくだっ。これからもよろしくな! 『セシリア』……ッ」

 

 ここまで言って、姫燐はようやく自分が取った行動がこっ恥ずかしくなって来たのか顔を赤くしながらセシリアを離すと、回れ右して走り去ってしまった。

 

「セシリア……名前で……呼んでくれた……」

 

 自分には、『オルコット』を取ったら何も残っていない。

 感づいてはいたが、ずっと向きあわないようにしていた自分のコンプレックスが、今、ゆっくりと解けて無くなっていく音が聞こえる。

 この胸の内で激しく高鳴る感情は、決して『オルコット』のモノなどではなく、確かに『セシリア・オルコット』自身のモノなのだから。

 ようやく見つけた自分自身の姿、それを堪らなく愛おしく思いながら、彼女は第3アリーナを後にした。



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第5話 「Escape From The School (前編)」

 金曜日の夜、学生寮。

 箒による虐待というか拷問スレスレの訓練からようやく解放されて部屋に戻り、今日の特訓内容を心底楽しそうに語るルームメイト兼幼馴染を尻目に、一夏は文字通り傾れ込むようにベッドに投身する。

 確かにここに来るまでは運動などあまりしていなかったが、それでも運動神経はクラスでもいい方だったはずだ。だが、目の前で同じトレーニングをしていたというのに自分とは対照的なとても生き生きとした表情をする箒を見ると、もしや自分はの○太も真っ青な運動音痴ではないのかと思えてしまう。

 ……まぁ、ただ単に彼女が人の皮を被ったプ○デターか何かなだけであるが。

 希望の見えぬ明日に、瞳のハイライトを尊厳というか色々大切なモノをズタボロにされた少女の様に曇らせながら無心に天井のシミを数えていると、携帯電話が軽快な音楽と共にメールの着信を告げた。

 腕立て伏せのしすぎで動かす度に醒鋭孔を突かれたかのように激痛が走る腕を何とか律しながら、一夏はポケットから携帯を取り出し、ディスプレイに映し出された名を確認する。

 そこには別におかしい事では無いのに、一夏の予想を大幅に裏切る人物の名が記されていた。

 

(キリ……?)

 

 自分のクラスメイト兼協力者からの突然なメール。

 彼女は日常生活ではまどろっこしい事を極力を嫌うため、用が有るならなら即座に電話の方で連絡を入れるので、メールで来るというのは非常に珍しい事に思う。 少なくとも、一夏が彼女のメールを受けるのは初めての事であった。

 

(何の用だろ……)

 

 まさか、直接口では言えない事なのだろうか?

 可能性として無い訳ではないだろうが、例え暴れた牛が100匹来ても優雅に歌っていそうな神経をしていそうな彼女が、この様な女々しい事をしてくるだろうか?

 たとえ彼女なら、初デートの約束であろうと思い立った瞬間、閻魔の御前であろうとも背中を叩きながらありとあらゆる都合を無視して大声で相手に取り付けそうだ。

 そんな本人に聞かれたら、利き腕じゃない方の腕で片足を持たれ、崖の上で逆さ釣りにされそうな事を思いながら携帯を開き中身を確認する一夏。

 

《篠ノ之の奴は今、近くに居ないか?》

 

 最近流行りの顔文字も記号も何も無い飾りっ気が皆無な文章に、少し「キリらしいや」と思いながら一夏は文章を打ち込み返信した。

 

《箒ならシャワーを浴びに行ったけど、箒になんか用か?》

 

 そして返信後、携帯を閉じて一息つこうとした瞬間、すぐさま今度は先程とは別のアラーム―――電話の着信を告げる音楽が手の内で震えだした。

 ディスプレイに映し出され名は、言うまでも無いだろう。

 

『よぅ、一夏。伊達にあの世は見てないか?』

「……ああ、本当に、フランダースのネロ達に来たのと同じのがお迎えに来そうだ。んで用事は何だよ、箒ならまだまだ上がるのに時間かかるぞ?」

 

 紛れも無い本心で、今の状況を簡潔に伝える一夏。

 その言葉に苦笑いしながら、姫燐は事の次第を告げた。

 

『いやそうじゃない、今日オレが用が有るのは篠ノ之じゃなくてお前だ。一夏』

「俺に? お前が?」

 

 一体なんだろうか? 彼女が自分に用などと、協力関係の事以外では思い当たる節が無い。

 その協力関係であるが、目の前の問題は数週間後に控えている『クラス代表戦』ぐらいで、それはこの前、彼女自身が「トーナメント表が決まってない以上、気にしても仕方ないから今は、お前の専用機の調整と訓練に集中する」と言い切ったばかりだ。

 しかし生憎と、専用機の訓練は前のクラス代表を決める戦いにて、対策の為にした賄賂などをフル活用したアリーナ独占が千冬姉にバレてしまい、しばらくのあいだ使用禁止を喰らってしまったため不可能。しかも彼女が使った賄賂も在庫ごと全て没収をくらったらしく、キリを含む生徒全員が非常に悔しがっていた事が記憶に新しい。

 なぜか箒が何処となく嬉しそうだったのが気掛かりだったが、賄賂とは一体どんな物だったのだろうか?

 そのあいだ手持ち無沙汰なので、姫燐の勧めもあり一夏は基礎体力を付けるために箒とのトレーニングに勤しむ事にした……結果がこの地獄のような筋肉痛の日々な訳だが。

 

「まさか、またグチを聞けって訳じゃないよな?」

『ああ、ソイツは……もういい。終わった……終わった事なんだよ……』

 

 つい先日、一夏は姫燐の愚痴に散々付き合わされたばかりなのだ。

 内容は主にセシリア・オルコットについてのモノで、彼女が言うにはこの前、セシリアが可愛かったから堪え切れずつい抱きついてしまったらしく、その日以来セシリアから露骨に避けられるようになってしまったらしい。

 普通に挨拶しても明後日向かれるわ、昼食に誘っても即座に逃げられるわ、授業中に目が合っただけで寝た振りをされるわ、極めつけにはちょっとプリントを取る時に指が触れあっただけで、ワナワナと震えながら俯き、へたり込まれてしまった事まであるそうな。

 ここまで避けられると、流石の姫燐でも飲まずにはやってられない。

 チャイルド麦酒片手に一夏の部屋で延々と泣き語り、本来の部屋主達は朝まで一睡もさせてくれなかった。

 いくら彼女にはデカい借りがあるとは言え、もうしばらくは勘弁願いたかったので一夏は少し胸をなで下ろす。

 

『んじゃ、もう一度確認だ。箒はシャワーに行って確かに傍に居ないんだよな?』

「ああ、居ないけど……?」

 

 なぜここまで念入りに箒が居ない事を確認するのだろうか?

 その答えを、一夏は嫌でも理解する事になる。

 ニヒヒと、どこかの解決狐のような笑い声と共に、彼女は言った。

 

 

 

『うっし一夏。明日、オレとデートしろ』

 

 

 

 その言葉にどこか、彼女と初めて会った時のような衝撃が一夏の中にリフレインして、

 

「…………はぁ?」

 

 やはり、初めて会った時のような気の抜けた返事しか、織斑一夏には出来なかった。

 

 

 

    第5話 「Escape From The School (前編)」

 

 

 

 

 わからない、さっぱり分からないぞ。

 次の日こと土曜日の早朝、私服姿の一夏は待ち合わせの駅で1人、悶々と昨日の電話について考察していた。

 何故だ、彼女はガチレズ……格調高く言うと百合の人だったはずだ。

 この前だって、お前女は『乳』と『尻』どっち派だ? と真顔で堂々とセクシャルハラスメントをして来たばかりだと言うのになぜ、水を被ると女になる訳でもない正真正銘『男』の自分をデートに誘う?

 デート……もとい逢引、いくら恋愛とは無縁な自分でも、どのようなモノか位はマンガなどで知っている。愛し合う2人の男女が外にお出かけする事……で、間違いないんだよな?

 あまりの異常事態に、自らの常識すら危うくなっていく。

 ダメだ、非常識に囚われてはいけない。いいか冷静に、冷静に考えるんだ。

 もしかしたら『デート』というのは名前だけで、友人同士の冗談と言う奴なのかもしれないし、それともセシリアにフられたせいで、元々ダメな頭がとうとう本格的にイレギュラーになってしまったのだろうか?

 もしや、まさか俗に言う『二刀流』という奴に目覚めて……

 

「んな訳あるか、バカ」

「バィァラン!?」

 

 後ろからの奇襲チョップに、一夏は頭を押さえながら振り向いた。

 そこには、慣れ親しんだいつもと同じ呆れ顔、同じ声、同じ…………?

 

「あ、あのー……」

「ん、なんだよ。一夏」

「あなたは『朴月姫燐』さんで間違いない……んですよね?」

「それ以外に誰が居るってんだ。オレの後ろにス○ンドでも見えるってのか?」

「い、いやだって……」

 

 一夏にはある意味スタ○ド能力者よりも、よっぽど奇妙で衝撃なモノが映っていた。

 姫燐の足元が、足元が2つに分かれていない。

 一夏が履いているジーンズとは違い、ゆったりとした布で出来ており、それがふわりと風に揺れている。ぶっちゃけてしまえば膝位までの長さの、

 

「スカート……だと?」

 

 異常事態のターンはまだ終わっていない。それ以外にも何時ものトレードマークであるヘッドフォンも無く、代わりに首には赤いゆったりとしたスカーフが巻かれており、上も半袖のシャツの上に簡素なロングコートを羽織った出で立ち。

 それらを赤と黒で統一し、いつもは適当に切り揃えられた赤髪も、パイロットキャップを被ってストレートに決めており、しかも何故か昨日までは肩位だったのに今では腰位まで伸びている。

 まぁ、このエマージャンシーを一言で言ってしまえば、

 

「キリが……女の子だ……」

 

 この一言に尽きるのであった。

 普段、なぜか制服でも男物を着ている彼女が、仕草も趣味嗜好もおっさんそのものな彼女が、こういうのには無縁だと思っていた彼女が!

 一夏に、電流走る。

 馬子にも衣装とはいうが、これはもうそんなレベルでは無い。

 普通に可愛いのだ。普段、色気もへったくれも無い格好をしている事も相まって、ギャップ効果という奴だろうか? ともかく、いつもの彼女とは違い嫌でも女性である事を認知させられて……。

 

(あ……あ……?)

 

 一夏は、茫然とするしか無かった。

 正直、自分と彼女がここまで仲良くなれた背景には、彼女が『男っぽかった』と言うのが少なからず関係している所がある。

 異性では無理な、どんな事でも気兼ねなく話せる同性。

 普通の生活では別に珍しくも無いはずのそれが、今の一夏の環境には逆鱗や、紅玉並みにレアな存在なのだ。だから彼を異性だからと言って意識せず、こちらも意識する必要が無い姫燐の存在は、この女だらけの学園生活で生活する上で、一種の清涼剤のような物だった。

 だが、今の彼女は違う。

 女物の服を着ているだけで、頭がどうしても彼女の事を『仲の良い友人』である以前に、『1人の女性』として認知してしまうのだ。

 よろしくない……この状況は非常によろしくない……。

 夢から覚めた直後の様に、だんだん現実味が帯びてくる。

 これは白昼夢でも何でも無い、自分と、キリの2人っきりの逢引である事に。

 

「……? おい、どうしたんだよ一夏?」

「ふひゃい!?」

 

 不意に肩に彼女の手を置かれ、つい過剰な反応でそれを振り解いてしまう一夏。

 後ろを向き、大きく息を整えるその仕草を見て姫燐は一瞬ポカンとするが、次の瞬間には全てを理解したのか顔を過去最高に嫌らしく歪めて、

 

「うーん、オレは悲しいぞ一夏ぁ~♪」

「うひゃひゃおひゃ!?!??」

 

 後ろから、彼の背中に思いっきり抱きついた。

 無論、その豊満なπを満遍なく当ててんのよする様な形で。

 

「オレはお前の事を、今まで友人だと思ってたんだがなぁ~」

「ああああ、あのキキキキキリさんささささ!!???」

「まさか手を払われるとはなぁ~、オレは夢想転生を習得できそうなほどの哀しみを背負っちまったよぉ~」

 

 世紀末で水を求めるモヒカンとどっこいどっこいな笑みを浮かべて、哀しみを語るイソップガール。無論、一夏に対するセクハラは更にヒートアップさせながら。

 

「あ、謝る! 男らしく何でもするからとにかく離して!! その双丘を離してくれキリ!!!」

「……言ったな」

 

 計画通り……! 今の彼女の顔を表現するには、これ以上に適する言葉は無いだろう。

 パッ、と未練も何もなく一夏の身体をリリースすると、姫燐は服の乱れを整え後ろ髪を掻き上げた。

 

「んじゃとりあえず、行きの電車代はお前持ちな。『男らしく』、頼むぜ?」

 

 

                  ●○●

 

 

 ハメられた……。

 休日だというのに人が少ない電車の中で座りながら頭を抱え、一夏は自分が犯してしまった過ちをただひたすらに後悔していた。

 いくら女の子の皮を被っているからと言って、こいつの中身は狡猾な策士なのだ。それは協力者であり、少し前にその恩恵を受けた自分自身が一番良く分かっていた筈なのに。

 きっと、自分は今日中このネタで揺すられるのだろう。下手をすれば、このデートが終わった後もずっと……。

 

「安心しろ、流石にこれ以上はたからねぇよ」

 

 そう言いながら、上機嫌で鼻歌を歌う姫燐。

 一夏の隣に座る彼女はいつもの足組みではなく、ちゃんと足を解き、手を膝の上に置いた仕草でちょこんと座っている。

 女の子なら別にどうと言うこと無い仕草だというのに、それがまた一層不気味に一夏には見えてしまう。

 

「な、なぁ、キリ」

「ん、どしたよ?」

 

 なんとなく、聞くのが怖いのだが……それでも聞かない訳にはいかない。

 

「どうして、その……今日はズボンじゃ……」

「ああ、これか?」

 

 そう言って、スカートの裾をひょい、と持ち上げる姫燐。

 その無防備な振る舞いが、また一夏をヤキモキさせる。

 

「お前なぁ、一応オレも女だぜ? そりゃ休日くらいスカートを履くさ」

 

 この言い分は本当の事ではあるが、それが全てではない。

 確かに、姫燐はモテる為にそれ相応のファッションは勉強しているし、休日には女物を着て街に行く事だってある。だが、基本的にめんどくさい事が嫌いな彼女は別に人目を気にしなくてもいい時や場所……主にタダの買い物の時や、自室ではズボン(ていうかジャージ)1択だ。

 学園は別にスカートでも構わないのだが、やっぱりズボンの方が楽であることや、そっちの方がレアで需要ありそうだから。という理由でズボンを着用している。

 そして今日は別に気取る必要が無い相手……男の一夏とのお出かけな訳だが、あえて彼女はズボンではなくスカートを履いて行く事にした。

 理由はとっても単純明快、一夏の反応が面白そうだったからである。

 いつもはズボン姿の男っぽい姿しか見せた事が無いので、あえて今日はこういう女のファッションで出て行き、いわゆるギャップ萌えという奴をリアルでやるとどうなるのか実験してみたのだが、効果は抜群であった。

 自分の女の子らしい服装に呆然としてあたふたする一夏の姿は、カメラを持っていなかったのが非常に悔やまれるほどに失礼ながら大爆笑モノだった。箒とかが居ればもっと面白い事になっただろう。

 

「そ、それでだな、昨日からずっと聞こうと思ってたんだが、なんで今日は俺とその……デートに?」

「あー、それはだな」

 

 やはり緊張した声色で昨日、彼が悩みに悩み非常に疲れ果てているというのに、羊が柵を飛び越えるのをストライキする位に悩み抜いて結局答えが出なかった問題の答えを求める。

 

「なぁ一夏。お前ここ最近、トレーニングを休んだことあるか?」

「休んだことか……?」

 

 そう言えば、クラス代表戦の対策から今日まで、平日も休みもずっとトレーニングに明け暮れていたような気がする。我ながら酷い青春だ。

 

「『継続は力なり』って言うがな、根の詰め過ぎも良くない。物事は大抵、ほどほどが一番だ」

 

 彼女が思い立ったもの、そんな巨人のスター的青春を送りそうになっている一夏の身を案じての事であった。というか、昨日やたらハイテンションな箒との会話で明日からヘレクレス・ファクトリーも真っ青なトレーニングメニューを計画している事を聞き、一夏を多少強引にでも学校から引きずり出さないと、本格的に力石君みたいになりそうだと判断しての行動である。

 昨日、箒が近くに居ない事を念入りに確認したのもこの事からだ。万が一聞かれれば、100%ややこしい事になる。

 

「だから……デート?」

「そう、故にデート」

 

 これもサポートの一環だ。

 前々から姫燐は思っていた。コイツには恋愛というか、他人の好意に気が付く回路が須らくイカれていやがる、と。

 そいつはバッドだ。このまま生きれば、多分コイツは誰かが差しのべられた救いの手にすら気付かずに1人孤独にくたばるだろう。コイツがこれから進む道は、たった独りで大往生を迎えれるほど生易しくは無い。

 コイツにはパートナーが必要だ。それこそ、この修羅道でさえ共に笑い合って墜ちて行く相方が。

 無論、その道連れを選ぶのはコイツ自身だ。コレばかりは、所詮は他人のオレがあれこれ決めていい問題じゃない。

 だから、一夏には自分で気が付いて貰わなくてはならない。

 アンタと共に、墜ちる覚悟を持った人間の存在に。

 

 だから姫燐はその一環として、このデートプランを企画した。

 正常な男女のお付き合い、と言うモノを通してこのポンコツを少しでも修理できればと考えたのだ。これが今日、面倒が嫌いな彼女が女物を着て来た理由その2だ。

 プラン次第では多少の荒療治も考えてはいたが、明らかにオレを意識しているこの様子なら廃案でいいだろう。

 まずは、コイツに女性を意識する事を覚えさせないとな。自分から意識し始めれば、自然と他人の好意にも敏感になって行くだろう。主に箒とか、箒とか、箒とかの。

 そんな事を思いながら心の中でガッツポーズをする姫燐の横で、一夏はとにかく心を静めようと他の事、他の事をひたすらに考えていた。

 そうして、開口して飛んで来た言葉は、

 

「なぁ、キリ」

「ん、今度はなんだ? スリーサイズ以外なら答えてやる」

「俺……外に出ていいのかな?」

 

 本来なら悟ったニートの戯言にしか聞こえないが、一夏が言うととたんに重みが別格になる言葉だ。

 彼はその気になれば世界をちゃぶ台返しできるスーパーフェミニスト兵器―――ISを世界で唯一動かす事が出来る『男』で、当然その身体の謎を欲しがっている人間は誇張抜きで星の数だろう。

 そんな数の人間が自分を狙っていると教えてくれたのは、他ならぬここで呑気に鼻歌を歌う彼女自身である。

 

「ああ、その件か」

「キリもこの前言ってたじゃないか。俺、迂闊に外に出かけたらマズいんじゃないかなー、って思ったんだけど」

「大丈夫だ、問題ねぇよ。やっこさんも、流石に今は仕掛けて来ないはずだ」

「なんで言い切れるんだ?」

「それはだなぁ……と、コホン」

 

 姫燐は咳払いと共に一夏に説明を始めた。

 

「まず、お前はIS学園の生徒だ。この時点で相手からすれば厄介な事この上無い」

 

 IS学園は各国から生徒が集まるだけあって、それらを統括するためにどの国の干渉も受けない一種の治外法権として機能している。

 ここ生徒は言ってしまえばIS学園という国に住む国民であり、迂闊に手出しをすれば即座に外交問題に発展しかねないのだ。しかも、それが全国的な著名人であれば尚更に。

 

「でもさ、相手はその……その道のプロって奴等だろ? 俺をさらうのに、どこの国がやったのか分かるような証拠とか残すのか?」

「どうした、今日は妙に冴えてるな。その辺もオールライトだ」

 

 もし万が一、どこかの国が一夏をさらい、その謎を解明して『男性でも動かせるIS』が量産できたとしよう。

 しかし、それを表に出す事は非常に難しい。

 当然、出来てしまえば『男でも動かせるIS』は世界唯一の技術となり、利益を求める為に国はその技術を独占したがるだろう。だが、独占してしまえば一発でバレてしまうのである。

 

「あの国は、織斑一夏を誘拐した」と。

 

 そうなれば世論は一気に最悪レベルになり、外交も全て絶たれるだろう。敵も大勢増える。

 そんなことになってしまえば、その国に残された道はただ1つ。

「滅び」、のみである。

 かと言って、他の国と共同で開発しても滅亡すらチラつく超ハイリスクを負う割には、国という単位で考えるとリターンが少なすぎる。

 しかもその技術自体も最悪、極度の女尊男卑思考の女性達によって闇に葬られかねない。

 男と女が戦争したら3日と保たないで男が負ける。

 このご時世をもっとも分かりやすく現した、どこの誰だか知らん奴が言った言葉だが、実に的を得ている。

 例え男がISを動かせるようになっても、誰もが最初は素人なのだ。

 技術的にも不安定な所が多いだろうし実戦経験も浅い集団では、技術的に安定した百戦錬磨の兵達にはやはり勝ち目が薄い。

 個人的な見込みでは、良くても『3日』の部分が『1週間』に変わるだけだろう。

 だから、迂闊に動いてもロクな結果にはならない。

 織斑一夏は男達の『希望』であると同時に、一部の女共にとっては『絶望』という表裏一体の存在なのだ。

 

「下手すりゃ暗殺とかもして来るかもしれんが、その点も心配いらんだろ」

「な、なんでだよ……」

「そりゃお前がさっきも言った通り、『絶望』であると同時に『希望』だからさ」

 

 そう、彼は『希望』。どんなに貧困に喘ぐ国でも、彼の謎さえ手に入れば一気に経済大国へと華やかにクラスチェンジするだろう。

 それほどまでにISという兵器は今、この世界の根底を形成しているのだ。

 例え一部の女共でも、余程のアホじゃない限りはいくらでも利用価値がある金どころか富権力財宝が全てごっちゃになった卵を即座に潰すなどと考えないはずだ。

 

「ま、余程のアホが来ても、そう簡単にはお前は死なねぇよ」

「……どういうことだよ?」

「決まってるだろ。このオレが、お前を護るからさ。シュワちゃんが銃撃戦で生き残る確率くらい安全だぜ?」

 

 そう言って、彼女はウインクをしながらスカーフの下に隠された太陽のチョーカーをツンツンと突いた。

 ……なんで、こういう台詞を素面で吐けるのだろうか? 俺には絶対に無理だ。

 などと、お前が言うな。と、どこからともなくツッコミが飛んで来そうな事を一夏は考えていた。

 

「それに今日は、『最強のボディガード』様がついてきてるからな」

「最強の……ボディガード?」

「お、着いたみたいだぜ」

 

 一夏が聞き返すのとほぼ同時に、アナウンスが目的の駅に到着した事を告げた。

 

「さぁ、行くぜ。今日は遊び倒すぞーーー!」

「お、おい! ボディガードって……」

「大丈夫大丈夫。お前が心配する事なんざ、何も無ぇよ!」

 

 そう言って姫燐は困惑する一夏の手を引き、電車から降り立つ。

 駅のホームから覗く朝の陽射しは、そんな2人を微笑ましく見守っているように見えた。

 

 

                ○●○

 

 

 セシリア・オルコットは激怒した。

 必ず、かの邪智暴虐寝取り野郎を除かねばならぬと決意した。

 休日、たまたま朝早くに目が覚めてしまい、何となく朝の散歩にでも出かけようと部屋の外にでた瞬間、彼女は偶然にも見てしまった。

 姫燐の部屋から出て来た、可愛い洋服を着た『女の子』を。

 心臓が急ブレーキをかけたかのように跳ね上がる。

 ホワィ? 何故? どうしてこうなった?

 我が愛しの彼女は人数の都合上、1人部屋でルームメイトは居なかったはずだ。

 では、あの女は一体だれだ? もしや、自分以外にも彼女が?

 そりゃあの日以来、「おはよ、セシリア」と挨拶されるだけで顔を直視できないし、「昼飯食いに行こうぜ、セシリア」と呼ばれるだけで食事が一切喉を通らなくなるので心配をかけないよう逃げるしかないし、「ん。悪りぃ、セシリア」とちょっと指先が触れあっただけで全身の力が抜けてしまうが、何も嫌われる様な事はしていないはずだ。うん。

 ならばますます分からない。あの女は一体……?

 そこで、セシリアの無駄に賢い入試トップブレインが閃いた。

 

(まさか……姫燐さん!?)

 

 いつもとは違いすぎる服装に一瞬信じる事ができなかったが、この学園であのような美しい赤髪をしているのは彼女だけだし、先日に比べ妙に長い髪もエクステを使えば何とかなる。

 では、姫燐はそのような格好で一体どこに?

 多少心苦しいモノを感じたがそれよりも好奇心と使命感が勝り、ISの装着よりも遥かに速い速度で外行きに着替え、彼女の後を付けること駅前まで。

 そして、そこに居た。討つべき寝取り野郎は。

 

(織斑……一夏ッ!!!)

 

 待て、まだ慌てるな。感情を殺し、近くにあった植え込みに身を隠すセシリア。

 姫燐が後ろから彼を小突き、振り向いた彼はやはり彼女の服装について自分と同じように驚愕している様に見える。

 そして、彼女が肩に手を置くとオーバーリアクションで驚く一夏。

 

(あ……あざといですわ……!)

 

 実際にはオーバーリアクションでも何でもないのだが、彼女の嫉妬に狂ったフィルターを通せばあら不思議、あっという間にあの男が姫燐の気を引く為に一芝居打った行動に早変わりである。

 

(ぐっ……ぐぐぐぐぐ!!!)

 

 あの試合で、セシリアは一夏のことを中々に骨のある男だと思ったし、それに少しカッコいいかも……とまで評価を格上げしていた。

 しかし、やはりそれは間違いであった。

 男など、所詮は皆同じ。貪欲に女を狙うハイエナなのだ。

 この前、後学のためにルームメイトに借りて読んだ「リリープリンセス」に書いてあった通りである。

 

(マンガというのも、案外バカにできませんわね)

 

 バカなのは彼女の頭なのだが、それを口に出来る人間は残念ながら居ない。

 そうして1人、うんうんとまた新たな勘違いを突貫建築していると、

 

 ギュッ

(―――ッ!???!??!?!???!)

 

 抱きしめた。彼女が織斑一夏を抱きしめた。

 あまりの事態に己の中の小宇宙が消滅しかけるが、何とか持ち直し目の前の現実に立ち向かう。

 姫燐が、後ろから、幸せそうな笑みを浮かべて、織斑一夏に、抱きついています。

 どう見てもバカップルです。本当に、本当にありがとうございました。

  

(……神は、言ってますわ)

 

 寸分の迷いなく『ブルー・ティアーズ』を腕だけ展開装着し、レーザーライフル『スターライトmkⅢ』を取り出すセシリア。

 

(その綺麗な顔の中身を、今ここで一切合切ぶちまけさせろと……!!!)

 

 非常に自分勝手な神も居たモノである。

 セシリアの中に仮にも人を1人殺そうとしているのに、自分でも恐ろしく思えてくる程の冷淡さがこみ上げてくる。だが、今は好都合。殺しに感情など邪魔なだけだ。

 

(くッ、姫燐さん退いて下さいまし! ソイツ殺せませんわッ!)

 

 スコープを覗き、一撃で仕留められるよう脳天に照準を合わせようとするが、後ろから抱きついている姫燐が邪魔で思うように照準が付けられない。

 

(きぃぃぃぃぃ! 妬ましい羨ましい疎ましいですわーーー!)

 

 自分も彼女に抱きしめられた事はあるが前からだけだ。バックはまだ未体験なのだ。

 だというのにあの男は、あの男はァぁぁぁぁぁぁぁ!!!

 

(パニッシュ&デス……ですわ)

 

 主よ、お許しください。そして出来れば、あの男を速攻で地獄に叩き落として遠慮なく骨の髄まで地獄の業火で炭火焼にしてくださいまし。

 やっと姫燐が一夏から離れる。それは、奴の守護天使が彼を見捨てたのと同意義であった。

 

(デリート……!)

 

 最高のオリジナル笑顔を浮かべながら、セシリアがトリッガーに指を掛けようとしたその時、

 

「ここで何をしているオルコット? 学校外でのISの起動は禁止されているはずだが?」

 

 声が、聞こえた。

 織斑一夏に憑く、もう1人にして文字通り史上最強の守護天使の、そしてセシリア・オルコットにとっては無慈悲な告死天使の、底冷えするような審判の声が……。

 

 

                 ●○●

 

 

「それで、貴様が街のド真ん中でISを起動させ、一体何をしようとしていたか……弁解があるなら聞こうか」

 

 休日だというのに空席が目立つ電車に揺られながら、セシリアは死罪を待つ罪人のように、そしてその死刑の執行人である彼女……織斑千冬はスーツじゃない以外はいつもと何ら変わりない威風堂々とした態度で隣り合って座っていた。

 

「私が見た限りでは、貴様はウチの生徒達にライフルを向けていた様に見えたが……私の見間違いだったか?」

 

 全て解りきっている筈なのに、ここであえて事の次第を聞くのはセシリアに発言を許すという彼女なりの慈悲だ。もし千冬が本当に無慈悲なら、すぐにでもギロチンは落ちている。

 

「見間違いでは……ありません……」

 

 デッドエンド。今のセシリアの状況は正しくソレである。

 現場を目撃され、現行犯逮捕されてしまった以上、どうあがいても絶望。どう言い逃れしようとも道場送り。どう逃げ出そうにも石の中にいる。

 もはや彼女に残された道は1つ、祈ることだけであった。

 そして、告死天使はため息を1つ付き、セシリア・オルコットへの審判を下す。

 

「そうか。なら、次からは注意するように」

「はい。お母様、お父様、セシリアも今そちらに…………へっ?」

 

 アイアンメイデンの蓋は、閉じる事が無かった。

 どういう事かは分からない。

だが、セシリア・オルコットは一命を取り留めた。それだけは確かな真実だった。

 

「え? ん? ふぇ?」

「何を不抜けた声を出している。当然、帰ったら反省文は書いて貰うがな」

 

 そのような紙切れで命を繋げる事ができるなら何百枚でも書くが、それでもセシリアは腑に落ちない。

 何故だ? なぜ審判は下されない?

 その事をセシリアはおずおずと千冬に尋ねると、

 

「ああ、その事か。……今回は初犯だからな、次回からは容赦はせん」

 

 少し答えを溜めたのが気になったが、余計な事を口走って刑が再執行されても嫌なのでセシリアは何も言わない。

 その代わりに、気になっていた別の要件を切り出す事にした。

 

「そ、その、織斑先生はどうしてこ……」

「偶然だ」

 

 まだ言い切っていないのに、千冬は即答した。

 

「で、では何でわたくし達は何故この電車に乗っ……」

「偶然だ」

 

 流石にコレは苦しい。

 偶然で自分の弟が乗っている隣の車両に、しかも付かず離れずに向こうの様子がチェックできる丁度いい席に座るだろうか。

 それにセシリアに説教をするならそこら辺の喫茶店でいいし、2人分の電車代まで払ってまで、この姫燐と一夏が乗るこの電車に無理やり引きこむ理由が無い。

 ……『セシリアへの説教』と『弟の尾行』を両立させるには、これ以上に適した手段はないが。

 

「……何かおかしいか? オルコット」

「い、いえ、とっても自然な理由ですわ先生……」

 

 この人に眉間にシワを寄せながら睨まれて、NOを唱える事のできる人間なんてこの地球上に存在するのだろうか? 少なくとも、セシリアには到底不可能な事である。

 

「………………」

「………………」

 

 気まずい、非常に気まずい。

 なんなのだ、このプレッシャーは。無言で腕を組みながら座っているだけだというのに、大気が彼女にひれ伏し、この重圧を作っているのではないかと錯覚してしまう。

 それにもう1つ、彼女の服装がまた威圧的だ。

 

「せ、先生? また、随分とその……こ、個性的な私服ですね?」

「……そうか? 私は外出する時はいつもコレだが」

 

 嘘つけ。セシリアは心の底からそう思った。

 トレンチコートにつば広ハット、男物のスーツにサングラスまで装備して、それらを見事に黒と僅かな白に統一した姿は、どう見てもメン・イン・○ラックか何かの成りそこないだ。

 それらを見事に着こなしているのは素直に凄いと思うが、それでも傍から見れば完全に不審者である。というか、いわゆる裏社会でシノギをしている人にしか見えない。

 客が少ないのもあるだろうが、自分達の周りに人が居ないのは間違いなくこの人のせいだ。と、セシリアは確信していた。

 一昔前のスパイ映画だって、もう少しマシな服を着るだろう。

 しかもそれを私服てアンタ……。

 

「なんだ、異存でもあるのか?」

「い、いえ……ありません」

 

 言いたい事も言えないこんな世の中じゃ……な気分になっているセシリアを尻目に、ずっと一点のみを凝視する千冬。さっきから、姫燐が明らかにこちらをチラチラと見ているのにそれすら眼中に無いようだ。

 神様は完璧な人間を作ることは決して無いという事を悟りながら、セシリアは口を開いた。

 

「あ、あの……先生? その辺にしといた方が……」

「バカを言うな。なんのために今日、山田先生に仕事を全て代わってもらったと…………オルコット」

「は、はひぃ!?」

 

 今まで見たこと無い、獲物を狩る者の目をした千冬に正面から見据えられ、狩られる者でしか無いセシリアは完全に震えあがる。

 そうして千冬はゆっくり、一言一句丁寧に殺気をラッピングし、両手でセシリアの双肩を掴みながら質問した。

 

「貴様は、先程、何かを、聞いたか?」

「聞いてません! 聞いてません! 最近、鼻炎が酷くて何も聞こえませんでした!」

「ならいい。あと、もう私に構うな」

 

 肩から手を離され、涙目になりながら自分の胸に手を当てて、生きてる事の素晴らしさを実感するセシリア。完全に尋問だったが「もう命があるだけでいいや」と、どうでもよくなって来る。

 そんなこんなをしている内に、電車のアナウンスが次の駅への到着を告げた。

 

「……降りたか」

 

 この駅の付近は歓楽街で、若者が喜びそうな店は大抵揃っている。

 確かにデートには持ってこいな場所だ。

 千冬は立ち上がると、まだ座りながらエクトプラズム状態のセシリアに向かって言い放つ。

 

「いいか、オルコット。寮に真っ直ぐ帰れ、そして今日見たことは全て忘れろ。分かったな?」

「…………………ふぁい?」

「では、また学園でな」

 

 セシリアを乗せたまま、千冬の背後で電車のドアが閉まる音がする。

 さて、ここからが本番だ。

 ……前々から、問題児だとは思っていた。

 確かに、一夏を良い方向へと導いてくれているのには感謝している。

 特に、この前のクラス代表決定戦での著しい成長は目を見張るモノがあった。

 だが、校則違反の常習犯である上に、犯罪にまで平気で手を染める。

 あのような盗撮写真、一体いつ撮ったのだ。しかも、それを第三者にばら撒くとは……回収にどれほどの時間と労力を割いた事か。

 そしてあまつさえ、どのような思惑があるかは知らないが一夏とデートなどと……もはや捨ててはおけん。

 

(やはり、あのような輩に一夏は任せてる事などできん!)

 

 朴月姫燐、少しでもデート中に一夏におかしな行動をしてみろ……その時は貴様を……。

 

 織斑千冬はコートを翻すと、またこっそりと決してバレないように2人のストーキングを再開した。……あくまで、本人はストーキングのつもりで。

 

 

 

 ああ、最強のターミネーターにロックオンされてしまった姫燐。

 そしてそれ以外にも別のもう1つの影が、彼等に近付きつつあった。

 

「一夏ぁ…………どこへ逃げたァ………」

 

 はたして、彼等の運命や如何に。

―――中編に続く。



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第6話 「Escape From The School (中編)」

 早朝、朝の職員会議が終わり1年1組の担任と副担任こと、織斑千冬と山田真耶は職員室で互いに事務仕事をこなしていた。

 クラス代表戦が控えている事もあり普段に比べれば仕事内容はハードだが、それでも千冬はテキパキと、真耶は少しもたつきながらも着実に仕事を消化していく。

 そして一区切り付いた所で真耶が淹れて来たお茶をすすりながら、2人はこの前のクラス代表決定戦について花を咲かせていた。

 

「それにしても、織斑くん凄かったですね。第二世代のISで第三世代に勝ってしまうなんて。流石は千冬先生の弟さんです」

「ふん、あのような無様な勝利、白星にカウントしていいモノではありませんよ。むしろ私としては、あの状況から立ち上がったオルコットの方を褒めてやりたいぐらいです」

 

 そう辛辣なコメントを言いながらもその口元は緩んでおり、これは彼女が非常に上機嫌だというサインである。

 いつも険しい表情をしているので誤解されがちだが、ゆっくり彼女を観察してみると以外に表情が豊かで、結構思っている事が顔に出やすいタチなのだ。似ていないようで、やっぱり細かい所が似ている姉弟である。

 元彼女の教え子であるためそれを理解している真耶は、微笑みながらその言葉をオートで脳内変換する。

 

「全く、あのバカはいつも肝心な所で油断する」

(まったく、いつまでたっても一夏は変わらないな)

「あそこまで有利な状況で、逆に追い詰められるとは……」

(しかし驚いた、私が少し見ない内にあそこまで強くなっていたとは)

「姉として、非常に不甲斐なく思います」

(お姉ちゃんは、とっても嬉しいぞ)

「……山田先生、聞いていますか?」

(……真耶くん、私の言う事を聞いて)

 

「はッ! はい! ちゃんと聞いてにちゃぁ!!?」

 

 不意をつかれた千冬の問いに、手に持ったお茶をひっくり返し、アツアツの中身を服と肌に引っ被ってパニックを起こす真耶。

 すかさず、千冬が持っていたハンカチで水分をふき取る。

 

「大丈夫ですか、山田先生?」

「は……はい……ごめんなさい」

 

 まだ少し呆けながら、千冬の姿を見遣る真耶。

 因みに、今の千冬の言葉を山田流エキサイト翻訳するとこうなる。

 

(大丈夫だったかい? 真耶くん)

 

 あと、ここに何か薔薇とかそういうキラキラしたオーラを付属して、千冬の表情を200%くらい緩めれば、あっという間に山田印のアイフィルターは完成だ。

 彼女の一挙手一投足を眺めるだけで、心の中で壮大に悶える真耶。

 ……まぁ、一言で言ってしまえば彼女、山田真耶も大概な人間であった。

 

「そういえば織斑くん。最近よく篠ノ之さんとトレーニングをしている所を見かけますね」

「ええ、そうですね……」

 

 そこで少し千冬の表情が曇る。

 この表情は、何か心配ごとがある時の表情だ。と、真耶は0Fで察知する。

 

「どうしたんですか、織斑先生。何か心配ごとでも?」

「ん……いや、なんでもありませんよ山田先生。帰宅部だったあのバカにも、ようやく男としての自覚が出て来たのでしょう」

 

 表面上はそう取り繕うが、内心千冬の心は波立っていた。

 確かに、トレーニングに励むこと自体は問題ない。

 これから幾多の試練が待ち受けているであろう我が弟には、本人がどう思っていようが嫌にでも強くなって貰う必要がある。故に彼の意思を無視してまで、このIS学園に入学させたのだから。

 しかし、あの箒とのトレーニングはいくらなんでもやり過ぎだ。

 自他共に認めるヒューマン最強の千冬の目から見ても、異常だとキッパリ言い切れる訓練をほぼ毎日の様に繰り返している。

 本来、トレーニングというのは一度肉体を『破壊』し、そしてより力強く『再構築』することによって強靭な肉体を作って行く行為だ。だが、今の彼等の訓練はその『再構築』をする暇を与えず、即座に次の『破壊』を行っている。

 これではただ全てを破壊し続けるだけで、全てが次に繋がらない無意味な堂々巡りだ。

 一夏の事を気にかけてくれる箒にはいつも感謝している。この前も彼女の密告があったからこそ、あの問題児の悪事を暴くことができた。

 しかし、今回の件は流石にやり過ぎだ。後で直々に口出しする必要があるかもしれん。

 

(あまり、好ましくはないのだがな……)

 

 だが今、自分はこのIS学園の教師だ。教師という立場である以上、例え肉親であろうとも、親友の妹であろうとも、全ての生徒に対して平等に当たらねばならない。

 それゆえに、親身になり過ぎる事が出来ない。

 箒は『どこかのマッドさん』とは違い、筋を通し、しっかりと諭してやれば話が分かってくれる奴だという事は知っている。しかし、それを他の生徒達はどう思うだろうか? 

 恐らく、自分が箒の、そして弟の一夏のためだから特別に動いた。と、思う生徒が少なからず現れるだろう。

 そうなってしまえば、詰みだ。もう織斑千冬という『教師』を信頼する者は居なくなる。

 

(まったく、厄介な奴だよ。『立場』というモノは……)

 

 どうしたものか……と、思案に暮れながら立ち上がり、窓の外を覗く。

 空を見上げると今日は澄み渡る快晴で、僅かな雲が千冬の憂鬱などどこ吹く風と流れて行く。次に下を見下ろすと、休日の朝から部活動に所属している生徒達がランニングに精を出し、中には私服で街に出かけるのであろう生徒達の姿も……姿も……。

 

「…………山田先生」

「どうしましたか? 織斑先生」

「すまない急用ができた。私は今日、早引きする」

「え、えぇ!? いきなりどうしたんですか!?」

「仕事も君に全て押しつける形になってしまうが……どうしてもやらなくてはいけない事ができた」

 

 その時、真耶は悟った。この有象無象を一切見ず、その先に待ち構える『何か』のみを真っ直ぐに見据えた顔は、彼女が決意を超○金Z並みに固めた時の表情だ。さっきから敬語をスッパリ忘れているのも、このモード時の特徴だ。

 この状態に入った彼女は、第三者が何を言おうが止めることは出来ない事を真耶は知っている。なら、自分が出来る事はただ1つ。

 

「はい、任せて下さい。織斑先生……お気をつけて」

「ああ、すまない。この埋め合わせは、何時か必ずしよう」

 

 何も言わずに、その背中をそっと押す事だけだ。

 なぜなら、その表情は彼女が久しぶりに見せる、真耶が一番大好きな表情だったから。

 真耶の後押しを受けた千冬は自分のバッグを引っ掴むと、人類最強のスピードで職員室を出て、「教師? ルール? 何それ」と言わんばかりの勢いで廊下を駆け抜ける。

 普段はストイックなまでに真面目な彼女をここまで突き動かすのだ、余程重要な要件なのだろう。

 真耶はその足音が聞こえなくなるまで彼女の背中を見送り、そして足音が完全に聞えなくなった辺りから先程の表情とセリフに壮大に独り悶え始め、事務椅子に座りながら子供の様にグルグルと回しながら、バランスを崩し後ろに思いっきり転倒した。

 

 そうして1時間後、仕事をかなぐり捨てた鋼鉄の意思と面皮を持った成りそこないメン・イ○・ブラックは、実の弟と学園きっての問題児とのデートのストーキングを開始した…………お前、それでいいのか?

 

 

 

    第6話 「Escape From The School (中編)」

 

 

 

 ここはIS学園から少し離れた所にある歓楽街。

 完成してからまだ日が浅いが、その広大な敷地にモノを言わせ、若者向けの店を中心にありとあらゆる専門店が出そろっている。

 無論、この近辺では間違いなく最高にデートには持ってこいな場所で、先程から一夏や姫燐と同年代位の男女が仲睦まじく腕やら何やらを絡めながら歩いている。

 何時もなら、やるなら場所を考えてやってくれ。と冷めた視線しか送ることしかできない一夏だが、今日は少し、いやかなーーーり事情が違った。

 

「さーて、まずは何処へ行きますかねっ、と」

「………………」

 

 なぜか女物を着た姫燐に、なぜか手を引かれて歩く自分。

 周りの視線が酷く痛い。痛風ならぬ痛視線だ。IS学園で似たような状況に慣れてなかったら、間違いなく自分はここから逃げ出していただろう。朴月姫燐からは逃げられない、そんな気がしなくもないが。

 自分も同じ立場に立って、ようやく分かる。カップルという奴等は、皆この苦行に耐えられるというのか。昔からチャラチャラした女連れの不良達には良い印象を持った事が無かったが、こういう所だけは見習う必要があるかもしれない。

 いや、それ以前に自分とキリは決してカップルなどでは……

 

「おい、一夏!」

「ほ、ホワィ!?」

 

 思考のどん底に陥っていた一夏を覚醒させたのは、少し不機嫌そうに眉をひそめる全ての元凶こと姫燐の一声だった。

 

「なにさっきからボケっとしてんだよ」

「あ、ああ、その、ゴメン」

「ったく、折角のデートなのに女に任せっきりってのは、まるでダメな男のやる事だ」

 

 つまりお前の事だよ、一夏。と締めくくる姫燐。

 そうは言われても、こちらはデートなんぞ初体験なのだ。右も左も分かったモンじゃない。

 そんな事を思いながらも、口に出したらまた小言がガトリング掃射されきそうなので黙る事しか出来ない一夏。

 

「しゃあねぇな。んじゃ先ずは、オレの用事から片付けさせて貰うぜ」

「お前の用事?」

 

 そう言うと姫燐は、一夏を電化製品の専門店へと引きずり込んだ。

 例えISという超技術が発展しようとも、人間の生活というモノはそう簡単には変わるモノでは無い。店内に入った途端、最新のテレビやエアコン、掃除機などが一斉に彼等を出迎えた。

「あ、あの掃除機、少し試してみたいな」とか「お、電球が安いな」とか、必要無いのに自然と思ってしまうのは主夫の悲しきサガである。

 そんな一夏を尻目に、姫燐はズカズカと目当てのコーナーへと一直線に向かう。

 

「うっし、あったあった」

「これは……カメラ?」

 

 彼等の目の前にズラッ、と並ぶ、色取り取りの様々なサイズをしたカメラ達。

 彼女の言う用事というモノは、どうやらコイツらしい。

 

「キリって、写真が趣味だったのか」

「あー、趣味というか、どちらかと言えば実益のほうが多いような……」

 

 彼女にしては歯切れが悪い台詞に、首を傾げる一夏。

 まぁ、それもいた仕方ない事で。姫燐からしてみれば真実を言える訳が無い。

 今日彼女がここに来たのは、没収されたカメラの代わりを買うためだった。

 この前、自室で賄賂用の写真(一夏のアレコレ)を加工編集していると、突如抜き打ち部屋検査という名目で現行犯を押さえられ、それら一切合切を没収されてしまったのだ。

 のちに聞けばその日、他の部屋には抜き打ち検査など無かったらしく、しかもその検査をしたのが生活指導でも何でもない千冬だった事から恐らく、どこからかこの情報を入手し、独断で動いたのだろう。あんのブラコン教師め、まさかHDごと持って行きやがるとは。せめてここで叩き割ってくれ。

 賄賂を渡した奴には皆かん口令を布いたし、他の誰かには言った覚えなど当然ない。

 大方、自分以外があの写真を持つ事を良しとしない身内こと『あんちくしょう』の犯行だろうが……畜生、今度会ったらどんなデマを吹き込んでやろうか。

 実は一夏はカブトムシが好物だとか、実は一夏は丸ボウズな女が好きだとか、実は一夏は窒息プレイフェチなんだドゥーユーアスタンドゥ? とか吹きこんでも彼女なら全く疑わずに実行に移すだろう。

 ……まぁ、何を吹き込んでも一夏が可哀そうな事になるのは間違いないのだが。

 

「どういうのを買うつもりなんだ?」

「んー、できれば小さめの方がいいな。手ブレを押さえて、あとは軽くて持ち運びに便利で、加工と消音が楽な機種の方が……」

 

 うーん、たかがカメラだと思っていたが、その筋の人間から見ればこれ程までに違いがあるモノなのか。と、一夏は素直に感心する。……加工とか消音とか言ってる時点で色々察するべきなのだが、生憎と彼はまだ古い地球人であった。

 

(しかし、なぁ……)

 

 楽しそうにカメラを物色する彼女を見て、一夏は思う。

 今日の出来事で思い知らされた。よくよく考えれば、自分はまだ彼女の事を何も知らないのだ。

 朴月姫燐はガチレズで男っぽく、腹黒くてよく笑う女学生……それだけだ。

 今までドタバタが続き自然と仲良くなってきたので気にしてなかったが、好きなモノとか趣味とか家族とか、俺はまだ彼女の事をこれっぽっちも理解していない。

 

(キリって……何が好きなんだろう?)

 

 今度、機会があったら日頃の感謝を込めて、彼女の好きなモノを作ってあげるのも良いかもしれないな。

 そんな事を思いながら、一夏は新しいカメラを手に持った姫燐と共に、レジに向かって行った。

 

 

                  ○●○

 

 

 その後2人は様々な店を転々とし、昼ごろには一夏もデートに慣れて来たのか、自分から行きたい店を積極的に言うようになった。ただ流石に姫燐に手を引かれようと『R18』と堂々と書かれたのれんを潜る勇気はなく、そして彼が選んだ店は全てが主夫臭く、姫燐に笑われていたが。

 太陽も真上に差しかかる頃、朝から動きっぱなしだった2人は昼食を兼ねて喫茶店で休憩を取る事にした。昼時だったが上手く席を取ることができ、早速やってきた店員にそれぞれの注文を頼む2人。

 

「えーと、紅茶とホットケーキを」

「んじゃオレは、この『爆熱シャイン・アンド・ヘブンイチゴパフェ』と『ハートブレイクレジェンドラコーヒー』を」

 

 なにそのGなイチゴパフェとコーヒー、と驚愕の眼差しを向ける一夏。

 

「ん、ああ。心配すんな、お前に喰ってもらうことにはならねぇよ」

 

 いや、彼女の胃袋以前にネーミングとかその他諸々が心配なのだが……。本当に、ただの喫茶店なのかここは?

 

「ていうか、キリって甘い物平気なのか?」

「おう、大好きだぜ? オレの部屋行けばチョコとか普通にあるしな」

 

 つか、美味い物全般が好きだな。と付け加える姫燐。

学食でラーメンやかつ丼しか食べている所しか見た事が無かった一夏にとって、また新たな発見だった。

 

「なんだよ、オレがパフェ喰うのがそんなに変か?」

「いや……そうじゃなくてさ。俺、よく考えればお前の事、まだ何にも知らないんだなぁ、って」

 

 そう、変だと思うのではない。今の一夏は、彼女を変だと思う事すら出来ないのだ。

 物事を『変』だと思うには、その物事に定められた『基準』と照らし合わさなければならない。だが一夏は、朴月姫燐という人間の『基準』を知らない。だから、ただひたすらに驚くことしかできないのだ。

 

「んー、そうか? お前が多分、オレの事を1番よく理解してると思うけどなー」

「だけどさ、互いにまだ色々知らない事が多いし、それに興味があるんだ。キリがどんな事が好きで、ここに来る前は何をしていたのか、とかさ」

 

 その言葉が余程意外だったのか、姫燐は眼を丸くしていた。

 しかし、すぐに少し恥ずかしそうに一夏から視線を外し、頬を指で掻いて呟く。

 

「……あんまし、面白い話じゃないぜ?」

「あ……何か、聞いちゃ悪い話しだったか?」

「うんにゃ、平凡すぎて面白くないってことさ」

 

 それから彼女は自分の過去と、家族について話し始めた。

 

「オレは物心ついた時からこんなんだったよ。気が付いたら女の子が好きで、気が付いたらこんな喋り方だった。環境も、そんなに変じゃなかったと思うんだがなぁ……」

 

 我ながら不思議だ、と首を傾げる姫燐と、ハハハ……、と苦笑いする一夏。

 

「親は両方とも居るぜ。なんかエネルギーとか何かだったかの研究員してる親父と、どこにでも居る専業主婦のお袋がラブラブで、兄弟とかそんな類は居ないな」

 

 な、普通だろ? と彼女は一夏に聞き返す。全く、なんでこんな普通の環境からこのような変態が生まれてしまうのだろう? 人類の神秘だ。

 

「んで普通に小中卒業して、就職率良いし、何より全国から女の子が集まる女子校だからIS学園を選んだ、以上お終い」

「そうなのか……ん?」

 

 そこで、一夏にある疑問が浮かび上がる。

 

「なぁなぁ、キリ」

「なんだ?」

「前々から気になってたんだけどさ。どうしてキリは専用機を持ってるんだ?」

 

 専用機は本来、セシリアのような国の代表候補生や、大手の企業に所属している、または一夏のような特例以外には支給される事は無い。しかし話を聞く限りは、果てしなくただの一般人に近い姫燐がどうして専用機を持っているのだろうか?

 

「ああ、この子の事か」

 

 スカーフの下に隠された太陽のアクセサリーが付いたチョーカー……シャドウ・ストライダーを突きながら、その事についても説明を始める。

 

「この子はオレがIS学園に入学するって言った時に、親父が入学祝いでくれたんだよ。まぁ、入学祝いって言うよりも稼働テストに丁度良かったからだろうな。さっきも言ったが、親父の奴は何かのエネルギーを研究してて、そのエネルギーをなんか最新のISとかに組み込む為のテストフレームらしいんだよ、この子はな」

 

 無論テストフレームだからその新エネルギーとやらは使われて無いし、安全性を高める為に不必要なまでに装甲だらけだし、テスト用にエネルギーを照射する武装しか組み込まれてないんだがな。と、付け足す姫燐。

 

「なるほど、そうだったのか」

 

 これで少しだけ、キリの事が分かった。

 普段の立ち振る舞いから、もっと自分が想像もできないような壮絶な人生を送ってきたのかと思っていたけど、そんなことは無い。彼女もまた、普遍な1人の女の子なのだ。……ただちょっと、いやとても性癖が特殊なだけで。

 

「さて、今度はお前の番だ。一夏」

「ひょ?」

「なに言ってるんだ。まだお前のフェイズが終了してないぜ?」

 

 なんのことか分かりませんと、虫野郎のような声をだす一夏を見て、彼女はやって来たイチゴパフェを食べながらニヤニヤとターン交代を宣言する。

 

「オレだけ過去バナ言ってお前が言わないってのは、ちょいと虫が良過ぎじゃないかい?」

「え……それは、そうだけど」

「安心しな。オレは例えお前がベトナム帰りだろうと、光の国からやって来た巨人だろうと受け入れる。お前と同じさ、オレもお前の事がもっと知りたいし、興味があるんだ。『織斑一夏』って人間にさ」

 

 今度は、一夏が顔を赤らめる番だった。

 自分で言っておいて何だが、これは言われた側からすれば結構に照れる。全くの無意識にこんな事をほざいていた自分を胸中で少し嗜め、彼は少し遠い目をしながら自分の過去を語りだした。

 

「俺……いや俺と千冬姉はさ、小さい頃に両親に捨てられて、それからずっと2人暮らしだったんだよ」

 

 あちゃあ、マズイ事聞いたか……という顔をしている姫燐に一夏は、別に気にしてないさ、と言って話しを続ける。

 

「それから千冬姉は俺の事をいっつも護ってくれて、そのおかげで俺は小中を普通に卒業できたんだ。生活は決して楽じゃ無かったけど友達とかも居たし、なにより千冬姉がずっと傍に居てくれたから俺は今、ここにいる」

 

 ああ、なるほど。こりゃブラコンにもなるわ。と、姫燐は斜め後ろの席に陣取る今朝からずっと自分達をストーキングして来ている黒服を見遣った。……つか、オレの話をしてた時とは段違いな真摯っぷりでこっちを見てるけど、まさかとは思うがこの距離で会話が聞えてるのか? さすが人類最強、聴力も最強なのか。

 

「……続けていいか、キリ?」

「ん、ああ。スマン」

 

 視線を一夏に戻し、また彼の話しを傾聴する姿勢に戻る。

 

「それから高校入試の時に、学費が安くて就職率が高い『藍越学園』を受験しようと思ってたんだが……」

「ああ、それなら知ってる。試験会場で迷子になった挙句、間違って入った『IS学園』の試験会場にあった試験用のISを勝手に動かしたバカな『男』がいるって話だろ?」

「……そんなに有名なのか、この事」

「そりゃ、試験会場がパンデミックかってくらいの大騒ぎだったからな。あの時、あそこに居た奴は無論、居なかった奴でも知ってるぞ。そのバカの話はな」

 

 割と本気で落ち込む一夏のつま先を足で突きながら、彼女は彼女流に励ます。

 

「まぁ、そのバカのお陰でこうしてオレ達は会えたんだ。そこまで悲観するような事じゃない。むしろ感謝して然るべきだと思うぜ」

「……そうだな、アレも今思えばそんなに悪いことじゃないのかもしれない」

 

 昔ずっと、考えていた事がある。

 もし自分があの時、ISと出会わなかったらどうなっていただろうか? ということを。

 最初はずっと後悔していた。あんな事が無ければ今頃はきっと、こんな女子だらけの学校で見世物パンダなんかじゃなく、授業をそこそこマトモに受けて、悪友の弾達とバカをやって、また家で姉を待つ平穏な毎日を送っていた筈なのに、と。

 しかし、ここ最近はそんな事をスッパリ思わなくなった。

 千冬姉や箒とも再会して、平穏とは程遠いが充実した日々を送って、そうして彼女とも出会って……。楽しいのだ。毎日が、あの緩やかでどこか退屈だった日常とは違い、今は1日たりとも同じ様な日が無い、生きていると実感できる濃密な毎日が楽しくて仕方ない。

 本当に、キリには頭が上がらない。彼女と出会わなければ自分はまだ、あの日の屋上から1歩も前に進めていなかったかもしれないのだから。

 

「そうそう、暗いことなんざ考えるだけ時間の無駄無駄。ポジティブシンキングに行こうぜ、それが人生って奴を楽しむコツさ」

「ああ……そうだな」

 

 姫燐は、どこまでも明るい少女だ。太陽という言葉が、ここまで似合う女性も珍しい。

 どんな時でも明るく笑って、適度に軽いジョークを飛ばしながら真っ直ぐに夢を追い続ける。そんな彼女に一夏は、一種の尊敬を覚えていた。

 その精神の『強さ』。自分が追い求めている、形無きモノの1つの完成形を彼女は持っているのだから。

 

「俺も……いつか強くなりたいな、キリみたいにさ」

「オレが……強い?」

「ああ、キリは強いよ。俺なんかよりも、ずっと」

「……そいつはちょっと違うぜ、一夏」

 

 パフェを削り取る手を止め、姫燐は少しだけ、ほんの少しだけ悲しそうな表情をした。

 それは一夏が初めてみる、太陽の陰りだった。

 

「オレは、自分で言うのも何だが確かに強いよ。少なくともそんじゃそこら奴に負ける気はしない。だけどな……支えてくれる人が居てこそ、人って奴は本当に強くなれるのさ」

「……キリには、居なかったのか?」

「さぁな、正直に言うと……分からないんだ」

「分からない?」

「ああ、オレは今まで親父とお袋に育てられてきた。友人もそこそこ居た。だけど今こうして思えば、オレは本当に愛されてたのかな……って思う時がある」

「……どういう事だよ?」

「実感が湧かないんだ。過去を見ても、自分が、『朴月姫燐』が本当に愛されていたって実感がな」

 

 親が悪かった訳でもない。自分は必要な教育と、必要な愛を充分に受けて育って来た筈だ。しかし、どこか心には虚しいモノがずっと住み着いて引っ越す気配が無い。

 

「理由は何となく分かってる。きっとオレの趣味を誰にも、両親さえずっと隠してたからだろうな。少し離れてようやく分かった事だけど、ずっと負い目があったんだろうな。オレを産んでくれた人達にさ」

 

 そんな負い目を彼女はあの日、自分に話してくれたことをふと一夏は思いだした。

 例えそれが偶然の産物だったとしても、ずっと周囲に隠して来たことを打ち明けて、この手を借りたいのだと頼ってくれたことが――少し不謹慎だが、一夏にはとても嬉しいことに思えた。

 

「だから、オレは少しお前が羨ましいよ一夏。あんなにも、お前の事を真剣に愛してくれている人が居るんだからな」

 

 その言葉の意味を理解した一夏は、少しだけ彼女を見習って、最高の笑顔で自慢した。

 

「ああ、千冬姉は俺の自慢で最高の、大好きなたった1人の姉さんだからな」

 

 嘘偽りない、本当の愛情を込めて。

 

「くくっ……そうかい。妬けちまうな」

 

 そんな一夏を見て、彼女はこのセンチメンタルな気分ごと、コーヒーを飲み干そうとして、

 

「ブふフォぉ!!?!?」

 

 中身をビックバンにぶちまけた。

 

「ゴホッ、ゲホッ、ブくフィぃひィッ~~~~~~~ッッッ!!???!?」

 

 無理だ。コレは必中に熱血と祝福と努力をかけた位の一撃必殺だ。

 ヤバい、本格的に腹筋が光になる。腹を押さえながら、一応人前だという事もあり俯いてなんとか笑いを堪える姫燐。だが、その努力もこの衝撃の前には撃滅して抹殺されかねない。

 その必殺技は、姫燐の斜め後ろから放たれた。そう、あの忍んでない黒服が、HD奪ったあと人を鬼のような形相で長時間ISで引きまわしの刑にしやがったあの鬼畜鉄面皮が、

 

 

 グラサン越しでも分かるくらい、すっげえ嬉しそうにほっこりしてるとか反則すぎるだろッッッ!!!

 

 

 絶ぇ―ッ対に聴こえてやがったな、あの野郎。っべー、これマジでっべーは!

 カ、カメラ……カメラはどこだ……。今日買ったカメラはまだ充電してないから使えないし、ならばせめて携帯のカメラでツチノコがそこらの小石に見えるレアな光景を激写しようと、痛む腹を堪えながら携帯をカメラモードにして顔を上げシャッターを……

 

「あ……」

 

 カシャ、と姫燐がぶちまけたコーヒーを正面から受け止め真っ黒になった一夏の姿を、カメラはしっかりくっきりデータフォルダに記録した。

 

 

                  ●○●

 

 

 その後、即座に喫茶店に代金を払い、逃げる様にその場を後にした2人は適当な裏路地まで全速力で走り込み、そこでようやく一息を付いた。

 背後からの気配も消えており、どうやら千冬もついでにまく事ができたようだ。

 

「す、スマン、一夏。でもアレは……プクク……」

 

 まだあのインパクトから立ち直れない姫燐は、口元を押さえながら謝罪の言葉を述べるが、当然まったく謝っているようには見えない。

 

「勘弁してくれよ……しかもこれ、コーヒーだろ?」

 

 着ている簡素なプリントが付いた『元』真っ白、『ただ今』染み塗れのTシャツを摘み、MPが無くなった時に軍○ガニに出会った時のような表情をする一夏。コーヒーの染みは頑固で厄介なのだ。

 

「あー……なんなら、どっかで新しいの買ってこようか?」

「いや、まだ大丈夫だ。それよりキリ、水とティッシュ持ってる?」

「ん、ティッシュならあるけど……」

「だったら、水をどっかで買って来てくれないか」

 

 今回は完璧に自分が悪いので、姫燐は文句1つ言わずにそれに従う。

 そこら辺にあった適当な自販機で水を買い、また同じ裏路地へと戻って行く。

 

「ほい、一夏」

「さんきゅ、キリ」

 

 彼女から水を受け取ると、一夏は自分が持っていたハンカチに水を染み込ませると、おもむろに上着を脱ぎ始めた。ここ最近、箒に鍛えられっぱなしだったため、そこそこに筋肉が付き始めた肉体が風に晒される。

 こういう時は染みの下にティッシュを敷き、その上から濡れたハンカチでトントンと叩き、汚れをティッシュに移すのが最善なのだ。これだけで、染みは大分落ちる。

 

「さて、後はティッシュを……キリ?」

「ど、どうした。一夏?」

「……ティッシュが欲しいんだけど」

「わ、悪い悪い、ホレ」

 

 ポケットからティッシュを取り出し、ポイッ、と投げる姫燐。

 

「どこ投げてんだよ……」

 

 しかし、彼女がピッチングしたティッシュはあらぬ方向へと飛び、溝のドブへとダイブしてしまった。これではもう使えない。

 

「あ、あれれ~、おかしいなぁ~? あは、あははは」

「そりゃ、後ろ向いて投げりゃ誰でもそうなるって」

 

 先程からなぜか後ろを向いて、一夏の方を見ようとしない姫燐。

 その頑なな態度に、少し疑念を抱いた一夏は『カマ』をかけてみる事にした。

 

「ねぇキリさんキリさん、どうして後ろを向いているの?」

「それはね、背後からの敵襲に供えるためだよ」

「じゃあ、どうしてティッシュ投げる時ぐらいこっちを向かないの?」

「それはね、バックアタックは即パトる危険が高いからだよ」

「……服着たけど」

「おっ、そうかそうカッッッィ!!?」

 

 服を着たと言ったな、アレは嘘だ。

 未だに半裸の一夏の方へと振りむいた姫燐は、顔を真っ赤にしながらまるで『女の子』ようにとり乱し、また180°クイックターンした。

 

「バ、ババババッカ野郎ッ!!! 下ッらねぇ嘘ついてんじゃねぇ! 次やりやがったら服と肌縫い合わすぞ!! 分かったな!!!」

「あ……ご、ごめんなさい、ハイ」

 

 胸を押さえ、乱れた呼吸を整えようとしてやっぱり整えられない姫燐。

 一夏が彼女を怒らせた事は初めてでは無いが、それでもここまで感情を乱した彼女を見るのは初めてだ。

 もしかして、キリって結構ウブなのか?

 散々人にセクハラしておきながら、男の半裸1つでここまで狼狽するだなんて……。

 普段、人に弱みを見せない彼女だからこそ何と言うか、物珍しいというか、被虐させたくなって来るというか、もうちょっとくらい涙目を見てもバチは当たらない様な……。

 

「……ハッ!」

 

 危ない危ない。自分は一体何を考えていた。イジメダメ、ゼッタイカッコ悪い。

 それに、あのようなセクハラ紛いは女が男にするからまだ許されているのであって、逆の場合はもう完全に規制対象のレッドゾーンぶっち切りで、万が一誰かに見られたら……

 

「なぁ、もしかしてお前、織斑一夏……か?」

「…………」

 

 万が一この、半裸の男がその肉体を、涙目になって縮こまってる女の子に見せびらかしている様に『見えなくも無い』シーンを誰かに……例えば中学時代の悪友に見られたら俺の人生は間違いなく……

 

「なぁ、一夏……」

「弾、誤解が無い様に言っておくがコレは」

「わかってる。何も言うな」

 

 おお、さすが中学時代ずっと共に居たマイフレンド。

 何も言わずとも分かってくれたか。

 

「お前も、れっきとした男だったんだな……」

 

 今まで女には興味が無いとばかり……とほざいてうっすら目尻に涙すら浮かべながら、まるで旅から帰って来た息子の成長を見た親のような表情を浮かべる悪友と書いてクソ野郎。

 通報されるよりかはマシだが、これはこれでムカツク。そんなことを思う一夏であった。

 

 

「いいから速く服を着ろヘンタイがぁぁーーーーーーーーーー!!!」

 

 

 ―――後編へ続く。



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第7話 「Escape From The School (後編)」

「ふーん、五反田弾ってのかアンタ」

「おう、あのバカと同じ中学出身さ。よろしくな、朴月ちゃん」

 

 お互いの簡単な自己紹介を済ませた姫燐と弾は、軽快なBGMが流れる男物のファッションを扱う専門店であのバカこと一夏に着せる為の服を選んでいた。

 あの後、姫燐の説得もあって何とか誤解は解け(弾は終始『分かってる』としか言わなかったのが気掛かりだが)、もういっそこれなら新しいのを買った方が速いという事で、弾の紹介によってこの店に3人でやって来たのだ。……あのバカこと一夏は、ちゃんと弾の羽織っていたジャケットを借りたので補導はされなかった。念のため。

 因みにその本人は今、また半裸になりながら試着室で頑固な染みと果てしない闘争を繰り広げている。

 

「しっかし、なんでアイツばっかりいつもこんな可愛い娘とばっか……くぅ」

「一夏の野郎、中学の時も似たような感じだったのか?」

「ああ、そりゃもう。『女殺しの織斑』と言えば、うちの近隣校で知らない奴はいなかったからね」

 

 おかげで、野郎共に命を狙われた事も1度や2度じゃないぜ、と乾いた声で笑う弾。普通なら冗談だと笑う所なのだろうが、彼がこの時だけチラッと見せた地獄を見飽きた最低野郎のように濁った眼が、今までの苦労を物語っていた。

 弾の話によれば中学の時も、告白紛いの約束まで取り付けるほどに彼にお熱な少女が居たそうだが、結果は今の彼を見る限りお察し下さいということだろう。

 

「ったく、ホントに進歩のねぇ奴だぜ」

「いや、アイツは充分変わったよ」

「はぁ? どこがだ、今の学校でも本当に人類か疑わしくなってくる唐変木さは一切変わってねぇぞ?」

「確かに、アイツは本当にホモサピエンスから生まれて来たのか怪しく思える筋金入りの唐変木だ。だけどな、さっきその唐変木さまに今日何をしに来たのか聞いたらなんて答えたと思う?」

 

 今日何をしに来たのかと聞かれれば、そりゃあやっぱり……

 

「『デート』だよな。オレと一夏の」

「ああ、流石の俺も、今日ばかりはギャラルホルンが本当に鳴るんじゃないかと思った」

 

 因みに、『ギャラルホルン』とは北欧神話にでてくる、天使達が鳴らすこの世をラグナロク状態にするのを宣言する時に使われる角笛で、まぁ鳴ってしまったらざんねんながら人類は死滅してしまった! 状態になってしまうハタ迷惑な一品だ。平日の目覚まし時計と同じくらい永遠に鳴って欲しくない代物である。

 

「だってな、『あの』一夏が、だよ? アイツの口から『デート』なんて単語が飛び出すなんて、マジ心臓が止まるかと思った」

 

 そう、彼―――五反田弾が知る限りでは、織斑一夏という人間は明らかに『異常』だった。

 一夏のモテっぷりは老いも若きも関係無く、燦然と輝くダイヤの様に全ての女を魅了して止まない。どんな女性でも彼の前では『恋する乙女』と変わりなく、もはやここまで来るとルックスや中身などの問題ではなく完全に『呪い』の域だ。そう確信させるほどに、彼はとにかく異性という異性に好かれた。

 一夏に好意を寄せる女はそれこそ星の数。そしてその星々全てが玉砕していった。

 理由は簡単。彼は、これまた呪われているとしか思えない程に『女心』という奴に鈍感なのだ。

 どれだけ激しく好意を示そうとも、どれだけ露骨にアプローチしようとも、その一切合切にあの男は気付かない。もし女の恋心に気が付かない事が法律的に罪ならば、今頃一夏は石座布団に座りながら市中引きずり回しののち、討ち首獄門されたあと、アイアンメイデンにぶち込まれるくらいの大罪人となるだろう。

 そんな男にこの目の前の少女は、2人っきりで出かけてるこの状況を『デート』と言い切らせたのだ。

 彼の心臓が止まりそうになったのは、冗談も膨張も無い本心。それほどまでに、この事件は衝撃だったのだ。

 無論、やたらおモテになる一夏が女性と2人っきりで出かけたのはこれが初めてではない。

 

「昔な、俺達のクラスメイトに『凰 鈴音』って奴が居たんだ。そりゃもう見てるこっちが恥ずかしくなるくらい一夏にぞっこんな奴でな、何度もアイツと2人っきりで出かけた事がある」

「……ちょっと待て、一夏の野郎すこし前に『デートなんて今日が初めてだ』とか抜かしたばっかだぞ?」

 

 午前中に何となく気になったので聞いた所、証言した発言だ。

 こんな嘘を付いた所で意味など無いし、なにより彼の少し照れくさそうな仕草は嘘に見えなかった。

 

「そら、アイツが言うならそうなんだろう、『アイツの中では』な」

「ま、まさか……」

「そう、そのまさかさ。アイツにとっちゃ鈴とのデートは『ただのお仲のいいお友達同士のお出かけ』だったんだよ」

 

 鈴音が一夏と2人っきりで出かけたのは、1度や2度ではない。

 弾達クラスメイト一同も『もしや鈴なら……鈴ならやってのけるのかも』と思い、常に2人を同じ班や係にしたり、皆で出かけても彼等だけを残して即座に撤退したりとサポートを惜しまなかった。

 が、駄目。中学2年生の頃に両親の都合で彼女が転校してしまい、最後まで彼女の淡い恋心は伝わらないまま、全てのお膳立ては徒労に終わってしまったのだ。

 

「その鈴って奴も可哀想に……」

「ああ、全く心から同情する。それなのに朴月ちゃんは、俺達が1年以上かけても出来なかった事をモノの数カ月でやってのけたんだ。ホント、一体どんな魔術を使ったんだよ?」

 

 どんな魔術って、普通に「デートに行こうぜ」って誘っただけなんだが……。

 返答に困る姫燐だが、そのストレートこそが最強のルールブレイカーだったという事に気が付かないのは致し方無いことだろう。

 

「まぁ、正直に言うとだな、俺は君に感謝している」

「えらく唐突だな。オレはまだアンタに会ったばかりだぜ?」

「会ったばかりでも分かるさ、俺はアイツと定期的にメールでやり取りしてるんだが、君の事は何度も一夏から聞いているよ。色んな事を教えて、常にあのバカの手助けをしてやってるそうだね」

 

 寂しそうな、それでいてほんの少しだけ悔しそうな顔をする弾。

 

「本当はな、一夏がIS学園に行くことになっちまった時、心配だったんだ。アイツはちゃんとやって行けるのかってね」

 

 それは酷いモンだった。完璧にスネてたアイツが、友達を、それも異性の友達を作る事なんて出来るのか心の底から弾は心配だったのだ。

 愛は憎しみと表裏一体。誰が言った言葉だっただろうか。

 しかしIS学園に来た一夏には、この言葉が重く、重く圧し掛かる。

 彼は、無意識に他人の愛を呼び込んでいく。それは同時に、他人の憎しみをも呼びこんでいくのと同意義だ。

 人は、四六時中憎しみを向けられて生きていけるほど強くは無い。

 仮に生きていけたとしても、きっと人として大事なモノを捨てなければ正気を保っていられないだろう。だからだろうか、あの男が人の好意に異常なほど鈍感なのは。

 憎しみに、愛に気が付かなければ、苦しむ事などないのだから。

 今までは弾のような『男』の友人達が、『友情』によってそれを誤魔化し続けて来た。

 しかし、『女』しか居ないIS学園に、彼と『友情』を結ぼうとする人間が果たして現れるだろうか?

 きっと、現れない。弾の中には確信に近い何かがあった。どこまで行っても男は男、女は女。同じ人でも、真に分かり合えない2つの道。今の社会がまさにソレを体現している。

 憎んで憎んで憎まれ続ける。孤立、どこまでも孤独。そうして、また彼はゆっくりとその心を異常狂人に歪ませていく。

 その果てに待ち受けているのか何であるか? 少なくとも、真っ当な幸福など欠片もありはしない。弾の少ない人生経験でも、それだけは薄々と感じ取れていた。

 

 しかし、彼の前に裏切り者は現れる。

 百合の花にしか興味を示さない、男に非常に近い裏切り者が。

 

「話を聞いた限りでは、アイツにとって非常にいい友人だそうだね。だから1つだけ聞きたい。じゃあ、何で、今日は『デート』にアイツを誘った?」

 

 嘘は、絶対に許さない。そのような強い言葉と、言い知れぬ威圧、鋭い視線を歯牙にもかけず、少し鬱陶しそうに姫燐は言い切った。

 

「ただの気分転換だ。アイツ最近、色々と大変そうだったからな。言い方が違うだけで、その鈴とやらとしたのと同じ『お友達同士のお出かけ』と変わんねーよ」

 

 ついでに、壮大にからかってやるつもりでな。そう言って笑いながら、非常にそっけなく答える彼女に、弾は確信する。

 

「……くくく、俺の負けだよ。やっぱり、今のアイツには君が必要だな」

 

 本当に、アイツはいい友人を持った。

 彼女になら、俺の唐変木で、どこか抜けてるイカれた悪友を任せる事ができる。

 正直に言うと妬ましかった。ISが使えない、それだけで俺とアイツの距離は物理的にも、いやそれ以外もずっと、ずっと遠くなってしまった。

 なのに、俺が本来居たはずの席にのうのうと座る彼女が、妬ましい。

 そして、ダチをその席で憎み追い詰め続けるというのなら、許せない。

 だが、今日実際に会って見て分かった。彼女は、朴月姫燐は自分の大切なダチを任せるに足る女……いや人間であることに。

 

「なんだよ、いきなり訳が分からんぞ」

「いや、いいんだ。気にしないでくれ」

 

 やはり少し妬ましい。けれど、今なら手を振って彼等を応援できる。

 彼の中で、今まで溜まっていたモヤモヤが吹っ切れたような感じがした。

 

「さーてと、んじゃま、さっさとあのバカの服を選びますか!」

「そうだな、あのバカにピッタリな……エプロンドレスとかどうだ?」

「いや、確かに似合いそうだけど遠慮するよ……」

 

 

                ●○●

            

 

 姫燐と弾は、ゆったりと広めにスペースが取られた店内で、時には離れ、時には比べ合いながら一夏の服を吟味していた。

 店が流すポップなBGMをバックにして、笑いながら、小突きながら、少し文句を垂れ合いながら、ゆっくりと穏やかな時間は流れて行く。

 

「うーん、やっぱり一夏にはエプロンが似合うと思うんだが……どう思うよ五反田?」

「いや、確かに朴月ちゃんの意見も一理あるが、それじゃあアイツ帰り半裸エプロンに、てか何で男物の服屋にエプロ……ん?」

 

 その時、弾の視界に珍しいモノが飛び込んできた。

 

「ん、どうした?」

「いや、アレ見てみろよ」

 

 ヒソヒソ声で、弾は突如現れた珍客に指をさす。

 

「あの姉ちゃん、何で道着なんだ? しかもアレ……刀か? どこのラストサムライだよ」

「……なんでここに居やがんだよチクショウめ……!」

 

 へいおんと緩やかな日常終了のお知らせ。

 それを見た瞬間、姫燐の血がサッ、とどころかドバッ、と引いて行く様な気がした。

 

「しかもおっかねー……何だよあの顔、仇でも探してんのか?」

「あ、あっははははは……」

 

 あながち、間違いではない。

 見慣れた黒髪ポニーに、怒りの極みに達し無表情の仮面と化した顔面。完全なる殺意はもはや感情ではなく、冷徹なる意志とはよく言ったモノだ。背後にダークサイドの禍々しいフォースが見える。そのナイス、ナイスなボディも前かがみになったゾンビの様に歩くから台無しだ。

 狙いは間違いない、一夏だ。訓練をサボったアイツをここまで追って来たのだろう。

 コー……ホー……、と息づかいが少し離れたここまで聞えて来る。

 あ、目が合った客の1人が泡吹いて失神した。無理も無い。フォースパねぇ。

 今のダース・ベ……もとい篠ノ之箒に睨まれたら、地獄の獄卒も土下座して命乞いするだろうさ……!

 

「すまん五反田、少し待っててくれ!」

「へ? あ、ちょっと朴月ちゃん!?」

 

 エマージェンシ、スーパーピンチだ。

 今の篠ノ之に一夏と合わせる訳には絶対にいかない。アイツだけならまだしも、下手すりゃ同伴していた自分の首まで宙を跳ぶ。

 迷っている暇など無い。急いで姫燐はそこら辺にあった男物の服を数点かっぱらうと、試着室へと突入した。

 

「ん? キ、キリ!?」

「すまん、ちょっと借りるぞ……!」

「へ、なんでってうわ! なななななにしてんだ!?」

「うっさい静かにしてろ……! 死にたいのか……!?」

 

 どうやら一夏が入ってる試着室だったようだが、今の姫燐には関係ない。羞恥は一時の恥、躊躇はこの一生の終幕だ。

 いきなり自分が入ってる試着室に押し入って来たかと思えば、突如ストリップショー始めた友人に、当然一夏はかつて無いほどにテンパる。

 

「キ、キキキキキリさぁぁぁぁん!? いったい何がどうなゴベキュ!?」

 

 意外と趣味が可愛い水玉のブラとショーツと、これが若さかと言わんばかりに艶のいい肌色等々が見えて、色々粗ぶる一夏の腹に姫燐は満足パンチをかまして黙らせると、簡単なシャツにジャケットとジーンズと、いつもの彼女とさして変わらない服に素早く着替え、作画崩壊気味な一夏を放置して即座に試着室を跳び出す。

 

「あ、あれ朴月ちゃわぉ!?」

「すまん五反田、オレに合わせろ……!」

 

 何故か服が男物になって戻って来たかと思えば、いきなり襟首を掴んで引っ張り、小声で訳のわからない指示を飛ばす姫燐に弾は困惑するが、それでも何とかついて行く。

 そして彼女は、こともあろうにあの暴走モードの前に立ち塞がった。

 

「よう、篠ノ之。奇遇だな、こんな所でどうした?」

「……ォォォォォォほおづきィィィィィ……?」

 

 やだ、何これ怖い。

 子供が見たら泣くどころじゃないよこれ。恐れるなオレの心。悲しむなオレの闘志。

 今はあくまでも自然に、オーガニック的に情報を集めろ……。

 

「オレか? オレは昔の友人に会ったんでな、ちょっと話しこんでたんだ。なぁ、五反田?」

「へっ? ああ、そうです、俺が朴月ちゃんの友人の五反田弾です!」

 

 いきなり大嘘をパなす上に、いきなり暗黒卿との面会に強制参加させられパニックになりかけながらも、しっかりと合わせる弾。どこかの誰かと違って胆が据わっている。

 知り合いに会った故か、少しだけ威圧感をマシにしながら、篠ノ之ベーダーは問う。

 

「丁度いい……朴月、一夏を見なかったか?」

「へっ、一夏? 一夏ならイッづ!」

「あー、見て無いわぁー! 今日は1回も見て無いわぁー!」

 

 なに食わぬ顔をしながらブーツのヒールで弾の足を踏み、大声でしらばっくれる姫燐。

 一か八かの賭けだったが、どうやら自分と出かけた事までは知らないようだ。

 実はと言うと、女物の服で来た最後の理由がコレで、万が一誰かに見付かっても、最悪自分であることを即座に見切ることが出来なくするためだ。クラス1のイケメンとデートして他の奴に見付かり、色々といざこざが起こるだなんて完全に一昔前の少女漫画のテンプレだが、現実問題として起こる可能性が無いと言えないのが怖い。

 流石にあそこまで普段と違えば、何も無しに初見で自分であるということを見切るなど、人類には不可能だろう。そうなれば、今の様にまだ誤魔化しが効く。

 本当に最悪のケースを考えての一手だったが、どうしてここが……?

 この事態だけは決して起きない様に、一夏には箒が寝静まったのを見計らって部屋の外で寝るように指示をしたはずなのに。

 それに、足止め用の抱き枕(姫燐特製、一夏愛の囁き寝言レコーダー付き)をベットに身代わりに入れるようにも指示したから、出て行く所を見られた可能性も薄い。それに篠ノ之の性格から考えて、オレ達を見たならそこで即座に仕掛けてくるはずだ。

 

「そうか……オルコットの情報によれば、この付近に居ることは確かなのだが……」

 

 アイツかい、情報元。電車から見なくなったと思ったら、何しくさってんだ。

 そう、あのあと寮に帰ったセシリアはまだ諦めていなかった。

 千冬に言われるがままIS学園に帰宅した後、どうにか我が愛しの君と、それを狙う野獣を引き離そうと策略をめぐらしていた彼女は一夏を探し学校をさ迷う箒を見つけ、そこで悪魔のウィズパーを彼女に授けたのだ。

 

「織斑一夏が、他の女とデートに出かけた」と。

 

 当然、ここであえて姫燐の名前を伏せたのは、彼女に少しでも迷惑がかからないようにするための配慮だが、充分に迷惑千万である。

 まぁ事実、今はそれに助けられているのが何とも言い難いことだが。

 

「オノレぇ……どこへ逃げた一夏めぇぇ……」

(な、なぁ、このシス、一夏の知り合いなのか……?)

(あー、知り合いというか、愛して止まないというか……)

 

 それだけで弾は全てを悟った。

 ああ、あのバカ、また厄介な女を引っかけたんだな……と。

 とりあえず、このままではラチがあかない。この場所に一夏が居る以上、見付かるのはここにいる全員のデッドエンドだ。無論、その中には完全に無関係な弾や他の客も含まれている。

 とにかく自分が箒をどこか別の所に誘導して、その隙に弾に一夏を何処かに逃がして貰わなければ、自分達に明日は無い。死と隣り合わせの任務だが、考えようによっては好都合だ。彼女には色々と2人っきりで腹を割って話したい事がある。

 大丈夫だ、問題無い。箒は単純だからコロッと騙されてくれるだろう。なぁに、オレの話術は不可能を可能にできるのさ。

 

「あー、篠ノ之。一夏なんだがな、確か今日はちょっと開かれたオーラロードの先にだな……」

「……どこだ、そのオーラロードとは?」

 

 うっし、喰いついた! へへっ、やっぱりオレの話術は不可能を……可能に……

 

 

 

「痛つっ……いきなり何すんだよキ……あれ、箒じゃないか? こんな所で何してんだ?」

 

 

 

 ……ああ、やっぱり今回もダメだったよ。

 瞬間、空気、凍結。

 試着室から一応人前なのでコーヒーで汚れたままのTシャツを着用して、腹を押さえながら出て来た青年に全員の視線が集まる。本人は呆ける。友人達は終わりを悟る。ハンターは獲物を自動マーキング。

 きっと空耳なのは分かっている。だが極限状態まで追い詰められた姫燐の耳には幻聴だとしても、ハッキリと、その声が聞こえてしまった。

 

―――狩リノ 時間ダ―――

 

 静寂の店内に、怒声が駆け抜けた。

 

「逃げろ一夏ァ!!!」

「へっ?」

 

 いきなり自分に怒声を浴びせる姫燐と、そして全く同じタイミングでいつの間にか自分の真正面に出現して木刀を振りかぶる箒に、瞬時に対応できるほど一夏はスーパー地球人ではない。

 駄目だ、完全に出遅れた。今からでは、例えISを展開した姫燐でも間に合わない。

 幼馴染のような何かが浮かべる狂乱の笑みと共に、白刃がゆっくりと脳天へと落ちて行く。あ、死にそうになると世界って本当にスローになるんだ。とか、明日役に立ちそうに、というか使えそうにないムダ知識に感嘆してしまう一夏。

 そのまま哀れ一夏は、頭蓋を砕かれ骨と脳味噌のシェイクになる……と思いきや、救援は意外な所から現れた。

 そいつはまだ状況が理解できていない一夏の押し倒す様な形で無理やり回避させ、間一髪で振り下ろされた箒の剣閃は背後にあった棚を砕くだけで空振りし、即刻で体制を立て直す。

 

「ナイス五反田!」

「あとで何か奢れよ一夏ァァァ!!!」

「ああ、彗星はもっとバァーって輝くもんな……」

 

 なぜいきなり幼馴染に頭をカチ割られかけたのか、訳が分からない現実のせいで虚無空間へと旅立ってしまった一夏を連れながら、弾は出口に向け全力で走りだす。

 

「腑抜けが! 男に後退の二文字は無いぃぃィ!」

「なぁっ!?」

 

 無論、それを許す狂戦士ではない。

 ゼロシフトもビックリな速度で弾達の正面へと高速移動すると、すかさずステンレスの商品棚をいくつか両断しながら横薙ぎに一閃を放つ。完全にOFか何かなアクションに、完全に虚を突かれた。回避が、間にあわないッ……!

 

「むぅ!?」

 

 だが、一夏を護るのは1人だけでは無い。

 カメラが入った箱を盾に姫燐は箒と弾達の間に入り、その一閃を受け止めた。剣戟を受け止めたショックと、完全にお陀仏になった新品のカメラに心理的ショックを受け、顔をしかめる姫燐。

 

「今の内に逃げろ! 五反田!」

「だ、だけど朴月ちゃん……!」

「バッカ野郎、迷うな! オレなら心配ない!」

「くッ……死ぬなよ、朴月ちゃん!」

「暑苦しいな。ここ。出られないのかな。おーい、出してくださいよ。ねぇ」

 

 正面を塞がれてしまったので、今度は裏口へ向け疾走を始める弾。

 まだ一夏はコックピットの中から帰って来ない。

 

「逃がさぬわぁぁぁぁ!」

 

 箒が咆哮を上げて弾達の背中を追おうとするが、一歩を踏み出そうとした瞬間、何かが頬を掠めた。

 

「つれないねぇ、オレの事は無視かよ篠ノ之?」

「朴……月……?」

 

 箒の頬から滴り落ちる赤い液体。それが、彼女の完全にオーバーヒートしていた頭を急速冷却させていく。

 目の前に立ち塞がるは、目が据わり、両腕を下にぶらん、と掛かる重力に従わせ、セリフそのものは何時もの彼女なのに、声に起伏が全くない姫燐。

 姫燐は一夏達を追う箒を足止めするために、ワザと箒の頬を掠める位の間合いで蹴りを放った。それだけだ。ただ、

 

(軌道が、一切見えなかっただと……!?)

 

 いくら不意打ちだったとは言え、箒ですら視認する事の出来ない程のスピードで。

 彼女の直感が告げる。恐らく、今の姫燐を無視して一夏を追う事など不可能である事を。

 初対面の時からタダ者ではないとは思っていた。平時からヘラヘラしている様で隙のない立ち振る舞い。後頭部を強烈に討ちつけたのに、たった数分間で意識を取り戻す耐久力。時たま覗かせる、一切の希望的観測を排除した、ただ目の前の現実のみを冷徹に見据えた瞳。

 そして決定的なのは、剣道で全国大会を優勝した箒でも見抜けなかった今の鋭い蹴りと、箒に向けられた非情なまでに冷たく、ねっとりと肌を舐めまわすように粘りつく確かな……殺気。ただ箒の暴走に怒っているだけでは、この様な物騒なモノは出ない。そう、殺気など放出するのは当然……殺す時だけである。

 仮にも仲が良い同級生を流血させたのに眉を微動だに動かさない目の前の少女は、自分の知る朴月姫燐であって、自分の知る朴月姫燐ではない。もっと、非情で冷酷な何かだ。

 感情の消え失せた顔、自分だけを見据えた冷徹な瞳、確かな殺気。

 

(コイツは一体……何者なのだ……!?)

 

 そんな箒の迷いを余所に、変貌した姫燐は仮借無い連撃を加える。

 

(くっ、なんだ! なんなのだ!?)

「…………………」

 

 流れる様な動作で、それでいて鉛の様に重い手刀と脚技の嵐。

 仮にも武器を持った相手だというのに、その拳に躊躇いなどは一切なく、ただ目の前の敵を沈黙させる事のみを目的とした無慈悲な連撃を、箒は何とか捌いていく。

 しかも先程から、至近距離でありながらも最適最短の拳と足技でこちらの退路を塞いでいく。こんなもの一朝一夕で出来る芸当ではない。それが姫燐の練度を物語っている。

 だが、箒もやられっぱなしで終わる様なタマではない。

 

「隙有りッ!!」

「ぐッ…………!」

 

 一瞬の攻防。箒は姫燐を突き飛ばし、一定の距離を離す。

 箒は自分の有利となった戦況にようやく一息を付く。それを理解しているのか、姫燐の視線が更に鋭いモノとなった。

 戦いにおいてリーチとは、もっとも単純で、もっとも重要な勝敗を決する要素だ。

 少し昔の戦場で刀が消え、銃が戦場の主役となっていったのが分かりやすい例だろう。敵の攻撃が届かず、こちらは一方的に攻撃が出来る状況。戦いにおいて最も理想的なパターンである。

 今の姫燐と箒の状況は、正にそれだ。

 木刀と拳。圧倒的な射程の差。いくら速度があろうとも、届かない攻撃に意味は無い。姫燐が箒に一撃を加えるには、再びその拳が届く距離―――インファイトへと持ち込まなくてはならない。

 しかし、それを簡単に許すほど箒は甘く無い。先程は不意打ちだったからこそ、容易に懐に潜り込めたのだ。一分の油断すら消し去った今の彼女に不用意に近付けば、即座に木刀はその身体に叩きこまれるだろう。

 そして何よりもこの距離は箒がもっとも得意とする、高速の一投から繰り出される面を叩きこめる間合いだった。

 再び訪れる静寂、逸らさず真っ直ぐに火花を散らす2人の視線。

 箒の絶対なる有利。だが、相手は敵の油断を最強の銃弾とする狡猾な策士。今この瞬間にも彼女の頭には、絶対不利な状況をひっくり返すための策が練られているに違いない。

 ならば、取る行動は1つ。

 

(策を練る時間など、与えん!)

 

 箒の足が、地面を蹴り飛ばした。

 

「めぇぇぇぇぇぇぇん!!!」

 

 無論、少しずらして急所は外すつもりだが、それでも一切の手加減無しで木刀を振りかぶり、姫燐へと肉迫する。そうしなければ、殺られるのは……自分だ。

 姫燐の目が見開かれる。だが、もう遅い。この距離で討ち損じることは無い。

 

(もらった……!)

 

 疾走と共に振りかぶり、確信と共に振り下ろされる一刀。

 しかし、その閃きは姫燐の肉に当たること無く、止まる。

 

「なっ、バカ……な……?」

 

 木刀は、姫燐が箒の頭上へと掲げた足に……正確には履いていたブーツのヒールに受け止められていた。

 箒が信じられないのも無理は無い。全力で振り下ろした筈の一撃が、たかが靴の底で受け止められたのだ。

 これにはとある『トリックとロジック』が隠されてあった。

 箒が操る剣道には、型というモノがある。一般的に剣道で打ち込んで判定があるのは頭頂部に叩きこむ『面』、前腕を打ち払う『籠手』、横腹に打ち込む『胴』、喉を突く『突き』の4種類。打ち込む際にその狙う部位を叫ばなければ判定にならないのも特徴だ。

 そう、今から攻撃する部位を、『事前』に。

 そして、いくら箒が速かろうと人が何の助けも無く、音の速さの壁を超えることなど不可能。つまり彼女は、朴月姫燐は、箒の掛け声から次の攻撃を予測し、その部分へと脚を掲げたのだ。

 如何に鋭い剣閃でも、威力が乗らない頭上で受け止められては物体を絶ち切る事は不可能である。

 無論こんな一歩間違えれば、いや、間違えなくても右足を犠牲にしかねない戦法など、常識の欠片も無い狂気の沙汰に等しいが、卑怯だ、反則だ、などと文句など言える筈が無い。

 これは剣道のような格式ある競技ではなく、ただただ血泥に塗れた『殺し合い』。

 どんな事があろうと、生き残る者こそが全てなのだから。

 

「ぐっ、朴月っ……!」

「……篠ノ之、良い事を教えてやる」

 

 姫燐は、開いた腕で軽く彼女の腹を殴り胴を奪うと、

 

「対象を仕留める際には、余計な事を喋らない事だ」

 

 耳元で子守唄をささやくような声で、箒の横腹へと回し蹴りを放つ。

 武器であり半身の木刀を失った箒にそれを防ぐ手段など、ある筈が無かった。

 

 

                ○●○

 

 

 強烈な一撃が直撃し、意識を失った箒が次に眼を覚ました時に飛び込んできたのは、天国でも地獄でもなく、自分の顔を心配そうに覗き込む姫燐の顔だった。どうやら自分は、箒に膝枕をされるような形でベンチか何かに寝転がっているようだ。

 

「う……ううん……」

「おっ、目が覚めたか。篠ノ之」

 

 弾んだ声で、少し安心したような笑顔を姫燐は浮かべた。少し前までの眉1つ動かさない冷徹さは何処へやら、余りに何時もと変わらないその姿に、箒は『アレ』は本当に現実だったのだろうか疑念を覚えてしまう。

 

「ここは……?」

「さっきの店から結構離れた自然公園さ。隠れる場所も多いし、この時間なら人も少なくて丁度いい」

 

 いやぁ、大変だったぜ。と語る姫燐。

 壮大に暴れたせいであの店の中は、何があったのかと聞かれれば、『第3次大戦だ』としか答えられないような惨状になってしまったらしい。無論、被害は彼女の手持ちで弁償できるような金額では無いだろうから……ここから先は考えない方がいいだろう。

 

「ッッ……」

「すまん。割と容赦なく蹴っちまったからな、まだ痛むだろ?」

 

 とりあえず身体を起こそうとして、鈍痛に横腹を押さえる箒。

 その確かな痛みが、あの出来事が夢ではない現実だと告げる。

 

「悪いな、流石にオレも、あの時の篠ノ之は本気じゃないと止められる自信が無かったんだ」

 

 そこで、ようやく彼女と大ゲンカした理由と目的を箒は思い出して……バッ、と跳び上がるように立ち上がり、ベンチに立て掛けてあった自分の木刀を手に取った。

 

「お、おいおい! 第2ラウンドに突入するには速過ぎやしないか!?」

「……………」

 

 慌てて立ち上がる姫燐を無視して、箒は無言で道着の上着を肌蹴けさせる(下はサラシなので大丈夫)と、夕暮れに照らされ赤くなった地面に正座をし……

 

「待てやコラ」

「ふもっ」

 

 事態を察した姫燐の軽い踵落としによって、犬だかネズミだかよく分からないマスコットのような声を上げる箒。

 

「切腹するならオレのモノに……じゃなくて、余所でやれ。いや、木刀で出来んのかそもそも」

「うう……だが……」

 

 目尻に涙を溜めながら俯く箒。

 

「嫌われた……一夏に……絶対……」

「あーもう。嫌われるって分かってんなら、何であんなマネするかねぇ」

「だって……他の女と一緒に……許せなくて……」

「だからって、木刀持って追いかけ回すのはやり過ぎだろ……」

 

 このどうしようも無いほどに不器用な少女に、姫燐は呆れかえる事しかできない。

 まぁ、これじゃあ無理だわな。アイツと相思相愛になるのは、不器用な箒にはいささかハードルが高過ぎる。だけどどれだけ届かなくとも、『諦める』というカードなど、始めから手札にありはしない。恋という奴は本当に厄介な病だ。

 きっとこのままじゃ箒はずっと同じ様な堂々巡りを、アイツが別の女とくっ付くまでし続けるだろう。それでは、余りにも彼女が哀れで……

 

 ―――まぁ、これもある意味サポートの一環か。

 

 どこまでやれるか分からないが、処方箋を出してみますかね。

 

「箒、ちょっと話したい事がある」

「話したい……こと?」

「そうだ、とりあえず正座は止めろ」

 

 姫燐は木刀を再びベンチに立て掛け、箒の腕を引いて立ち上がらせて座らせると、自分もその横にもたれかかる。

 

「朴月、話とは……なんだ?」

「色々あるが、まず1つ目。今日一夏をデートに誘った女ってのは、このオレだ」

 

 先程まで俯いて涙を流すだけだった箒の眼が、驚愕に見開かれる。

 

「おっと、勘違いすんなよ。オレは一夏にライクは懐いてても、ラヴはこれっぽっちも無い」

「で、ではなぜ……」

「お前のせいだよ、篠ノ之」

 

 事情をイマイチ飲み込めないと言った表情を浮かべる箒。そんな箒に姫燐はゆっくりと諭すように事のあらましを説明していく。

 

「オレは確かに一夏のトレーニングをお前に頼んだ。だけどな、誰も虐待スレスレまで痛めつけろとは一言も言ってねえぞ。だから、お前から遠ざけるためにオレはアイツをデートに誘ったんだ」

「違う……私は……そんなつもりは……」

 

 分かっている。コイツのトレーニングに悪意の『あ』の字すら無いのは、あの果たし状の事を聞いた電話の時、一夏との時間をとても幸せそうに語っていた彼女を姫燐は知っている。

 

「だけどな、恋愛ってのは1人でするもんじゃないんだぜ?」

 

 悪意の無い悪ほど、罪深きモノは無い。

 彼女の愛は、独りよがりの一方通行すぎるのだ。

 

「なぁ、篠ノ之。お前は、一夏の気持ちを考えた事があるか? アイツがなぜ今日、サボったらお前が怒ることなんて判りきってる筈なのにデートに行った訳が分かるか?」

「一夏の……気持ち……ッ」

 

 そこで、箒は己の過ちに気が付く。

 言われてみれば、自分は一夏の気持など考えた事も無かった。なぜ自分の事を見てくれないのか、なぜ姫燐ばかり相手にするのか、なぜ昔のように自分に笑ってくれないのか……ただ自分の感情だけで精一杯で、今の彼の事など知ろうともしなかった。

 自分もこの6年で変わった様に、彼も6年前のままでは無い。

 結局、自分は一夏と再会などしていなかったのだ。自分は彼という肉体に再会しただけで、彼の心とは6年前に離れ離れになったままで、一度も触れあってなど……いない。

 

「アイツは疲れ切っていた。相手の気持ちを理解しようとしないで、自分の事だけを知ってもらおうなんて、おこがまし過ぎる。そう思わないか、篠ノ之?」

「……っ……っ……」

 

 もはや言い返す言葉も無い。完敗だ。

 自分は、最低だ。相手の気持ちを考えずに、ただただ自分の考えだけを押し通して、それが相手の為だと勝手に納得して……。本当にっ、最低の人間だ……っ。

 自分など、彼の傍に居ない方がきっと……。

 

「はいそこ。さっそく閉じこもらない」

「むにゃ!」

 

 ずぷずぷと泥中に沈んでいた世界が、姫燐の脳天割によって覚醒する。

 

「篠ノ之、お前の生まれは知ってる。確かに、あんな姉ちゃん持っちゃ苦労も多かっただろうさ。だけどな、恋愛もそうだが、人生って奴も1人でするモンじゃないんだぜ?」

 

 箒の人生を歪めた、大いなる存在。

 篠ノ之 束。この世界を歪めた超兵器『IS』を開発した天才科学者。

 彼女がISを発明したせいで箒は政府によって、重要人物保護の名目で各地を転々とし、その先々でずっと独りで立ち続けて行くこととなった。

 どこへ行こうとも姉の影は消えず、男からはこの世界を狂わせた奴の妹として影で蔑すまれ、女からもまるで『御神体の些細な飾り』でも扱うかのような扱いを受ける最悪な日々。

 人は無意識に、どのような場所でも己の心を最適な形に適応することができる。生き残るための本能といってもいいだろう。

 そして悲しくも箒の本能は、その最悪に適応してしまった。

 ただ、己の世界に閉じこもる。そうすれば、誰が何を言おうとも関係無い、この世界に居るのは自分だけだのだから。そうやって、彼女は今までを乗り越えて来た。

 何も見ず、何も知らず、何も聞かず。ただ己の声を信じるのみ。

 だが、それではいけないと、横に座る同級生は、優しくほほ笑んだ。

 

「吐きだしてみろよ、篠ノ之。お前は、本当はどうしたいんだ?」

「私は……私は……」

 

 脳裏に浮かぶは、愛する彼。

 昔、男女といじめられていた自分を庇ってくれた彼の背中。

 6年ぶりに再会して、随分と大きくなった彼の姿。

 ISを纏い、凛々しく刀を構える彼の勇姿。

 そして、明るく、地獄の底でもずっと忘れることがなかった彼の……明るい笑顔。

 もっと見たい、もっと知りたい、もっと聞きたい。

 彼の全てが欲しくて、そして自分の全ても知ってもらいたくて堪らない。

 そう、自分は、篠ノ之箒は、

 

 

「私は……一夏を愛してる! だから、もっと一夏の事が知りたいし、私のことも、もっともっと知って欲しい! 今の、この篠ノ之箒を……」

 

 

 ふっ、と、ずっと心の中にあった霧が消えたような気がした。

 見える。今なら、自分が何をしたかったのか、自分が本当の望みがハッキリと。

 

「不思議だ……声に出すだけで、こんなにもスッキリするだなんて……」

「だろ? 何があろうとも、自分の心にだけは嘘をついちゃいけない。嘘は、他人だけじゃなくて自分の心まで曇らせる。だけどな、もし何かのはずみで霧が深くなったら、そんな時は誰かに話せばいいんだ。例えば……」

 

「青狸よりもとーっても頼りになる、素晴らしい友達とかにな」

 

 そう言って、姫燐はニカッ、と笑う。

 その笑顔はどこまでも眩しくて、真っ直ぐで、それでいて……どこかおバカで。

 

「……ぷっ、くくく……それはまさか、お前の事を言っているのか?」

「な、なんだよ、笑うな! 命が惜しければ笑うなー!」

 

 顔を赤くして、腕をブンブン振り回す彼女。

 本当に、よく分からない奴だ。月光の様に冷たいかと思えば、次の瞬間には太陽のように朗らかで、だけど……どんな時でも真っ直ぐで。

 

「ふふふ、すまない。私とて命は惜しい」

「ふ、ふん、分かればいいんだ。分かれば」

 

 箒は、少しだけ考えて、言った。

 自分の過ちに気が付かせてくれた、拗ねてそっぽを向いている、

 

 

「ありがとう、姫燐」

 

 

 友達に送る、感謝の言葉を。

 

「……ふん、どういたしましてだ。箒」

 

 姫燐も、友達に返しの言葉を送る。まだ、少しだけ拗ねながら。

 その後、2人は話をした。他愛のない雑談や、好きなモノを語り合ったり、一夏のダメさ加減に一緒に呆れたりと、些細だけど、とても、とても充実した時間を過ごした。

 そうこうしている内に、日は完全に沈み、公園に備え付けられた外灯に次々と火が灯る。

 

「さて、私は一夏の所に行くよ」

「……念のため聞いておく。何をしに、だ?」

「まずは……今日の事を謝ろうと思う。簡単に許してくれるとは思えんが……」

「くくく、大丈夫だって、あのトリ頭の事だ。どうせもう忘れてるに決まってる」

「ふふっ、だと良いがな」

「それに丁度いい機会だ。めんどくさいし、もうそのまま勢いで告っちゃえよ。もしくは押し倒すか」

「なっ! ななななななっ!! ぷ、ぷじゃけるな! そ、それじぇひゃな!!」

「ああ、じゃあな。また明日」

 

 頬を紅色に染めながら、箒は全速力で走り去っていった。

 あの様子なら、もう心配はいらないだろう。彼女は、きっと上手くやって行ける。

 それに再び間違えたなら、また処方すればいいだけだ。

 

 彼女の友人である、朴月姫燐が頑張って。

 

「……それにしても、今日は疲れた……」

 

 ようやく1人になった彼女の双肩に、今までの疲れが一気にフィールドバックしてくる。

 本当に今日は色々とあった。一夏をからかって、カメラを買って、色んな店によって、喫茶店でUMAより珍しいモノを見て、一夏の旧友にも会って、服を選んで、箒とケンカして、アイツの友達になって……全く、ヘヴィだぜ。

 

「ったく、明日の学校が憂鬱だぜ。そうは思いませんか…………織斑先生?」

「……いつから気が付いていた?」

 

 瞬間、彼女が座っているベンチの後ろの茂みから、ガサゴソと音を立て、黒ずくめの女が飛び出て来た。

 そう、この時間帯に見付かれば、一発で職質モノの最高に怪しい格好をした担任教師、織斑千冬である。

 

「最初っから。学園を出た辺りからですよ。喫茶店で一度はまきましたが、その後オレが弾と買い物をしてる辺りから、ずっと見てましたよね?」

「……末恐ろしい勘だな」

 

 いや、アレほど怪しい奴に気が付くなって方が難しいような……そんな事を思いながらも、面白そうなので口には出さない姫燐。

 

「で、何の用ですか? 一夏の奴なら今頃は寮に帰ってると思いますけど?」

「いや、用があるのは貴様だ。朴月」

 

 そう言うと千冬は、手に持っていた紙袋から服を取り出した。

 

「まずは、お前の服だ。あの店に忘れてきてただろう?」

「おっ、ありがとうござ」

「そしてコレが、今お前が着ている服と、篠ノ之と共に台無しにしてきた店の物品のレシートだ」

「いま…………あ……あ……?」

 

 次に取り出した生まれて初めて見る、人の身長ほどある長さのレシートに、お礼の言葉と服を受け取ろうとした手が止まり、代わりに油汗がとめどなく流れて行く。居た堪れなくなって視線を落とすと、まだ『値札が付いたまま』のジーンズが彼女の眼に入った。

 万引き、器物損壊、その他諸々……なんだこの罪状は?

そして、目の前にティーチャー千冬!! おいおい、これじゃあMEの詰みじゃないか!!

 

「私が弁償しておいたから良かったモノの、下手をすれば貴様は今頃ブタ箱の中だ。どうだ、今の気分は?」

「は……はははははは……」

 

 恐怖が限界まで達すると、人は笑うか、逆ギレするしかなくなると言う。

 千冬に至近距離からガンの集中砲火を受ける今の姫燐に、逆ギレなんて選択肢が残っているはずがなく、自然と選ぶのは前者に限られてしまう。仕方ないね。

 

「この金は、私のポケットマネーから落としておく。二度とこの様なマネはするな。分かったな?」

「はい、死ぬ準備はできて……はぃぃ?」

「聞えなかったのか? 私は、二度とこの様なマネはするなと言ったんだ」

 

 どういうことだ。あの、人がちょっと先生の弟を盗撮しただけで石座布団を持ってくる雛見沢の緑その2も真っ青な拷問狂がなぜ自分を許す? まさか、これも全てゴルゴムか乾巧って奴の仕業……

 

「そんなわけあるか、馬鹿者」

 

 なぜ人の心が読めるのだろう。人類最強になるには読心術も使えなくてはならないのだろうか? スネークは死ぬほど下手くそなくせに。

 

「先生、ダンボールなんてどうでしょうか?」

「いきなりダンボールをどうでしょうと聞くお前の頭がどうなんだ」

 

 はぁ、と深いため息1つと共に、千冬はさっきまで箒が座っていた姫燐の隣へと座る。

 

「まぁ冗談はこれ位にして、何でお咎め無しなんすか先生?」

「……これから言う事は、『全て』独り言だ。私だって、独り言を呟く時もある。分かったな朴月?」

 

 ずいぶんと念を押す独り言だことで。

 

「こほん。……実はな、私は『ある生徒』に、とても感謝している」

 

 ふっ、と顔を綻ばせながら千冬は、『本人曰く』独り言を呟き始めた。

 

「私は正直に言えば不安だった。一夏の奴が、このIS学園で上手くやっていけるかどうか」

「ま、普通の男なら無理っすよね」

「………………」

「はいはい、独り言でしたよねー。黙ってますよ」

 

 だからそんな、見るだけでISすら撃墜できそうな視線をこっちに送らないでお願い。

 

「友人も居らず、女しかいない学校で、慣れぬ戦いの訓練。いくらアイツの為だとは言え、それが本当に一夏の幸せの為なのか? 随分と、悩まされた」

 

 

 きっと彼をIS学園に無理やり入学させた時も、その鉄面皮の裏で、謝罪し続けて来たのだろう。

 自分の進む道を、自分の手で選ばせてやれなかった事を。

 

「事実、この学園に入ると決まってから、一夏は滅多に笑わなくなった。卒業するまでの3年間、一夏の顔に笑顔が戻らないのか思うと、負い目を感じずには居られなかった……だが、アイツには良い友人ができた」

 

 そう言って千冬は、姫燐の顔を見遣る。

 

「そいつは少々……いや、大分問題が多い不良だが、その生徒と出会ってから、確かに一夏の顔に笑顔が戻ってきた。アイツの事をいつも気にかけてくれるし、友人の妹とも仲良くやってくれている。そして今日、一夏はこの学園生活の事を『悪くない』とまで言ってくれた。姉として、教師として、これほど嬉しいことは無い」

 

 傍から見れば、唇が微妙に釣り上がっただけで、ほんの少しだけ嬉しそうにしか見えない千冬の笑みだったが、いつも不機嫌そうな彼女の顔に見慣れている姫燐にとっては、それはとても極上の笑顔に思えた。

 

「だから……ここからは質問だ、朴月」

「質問? いやー、光栄っすよ。まさかあの織斑千冬に興味を持って頂けるとは。これはフラグですか?」

「旗が何かは知らんが、これだけは、大切な弟と親しくなる奴として、どうしても知っておかなければならない」

 

 千冬の表情が一転、元の鉄面皮に戻っ―――いや、これは違う。

 平時の表情とは違う。いつも真剣な彼女だが、それでもこの真剣さは段違いだ。

 姫燐の眼を一直線に見つめ、千冬は問う。

 

「朴月。お前は、いったい何者なのだ?」

 

 浮ついていた姫燐の表情が、締まる。

 その瞳から暖かさが消え、急速に冷たく、鋭く磨かれていく。

 

「……いやですね先生、オレ達の話を聞いてたんでしょう? オレはただの一般家庭に生まれた―――」

「一般家庭に生まれ、普通に過ごして来た奴が、そんな目をするか?」

 

 彼女の言い分をピシャリと遮った千冬に注がれる視線が、また、一段と鋭利になる。

 

「その目だ。私は貴様のような目に、非常に見覚えがある」

 

 そう、彼女は今まで非常に様々な地を転々としてきた。

 呆れかえるほど平和な国もあれば、常に銃声が鳴り響く地獄様な国すらあった。

 そして、彼女の、朴月姫燐が今、千冬に向ける瞳は、

 

「貴様の目は鉄が心にまで染みついた、殺し、殺されるのが当たり前の世界。そんな地獄の住人共の目だ」

 

 ただただ、目の前に広がる現実に、冷徹に容赦無く鉛玉をぶち込んでいく、そうしなければ生き残れない。そんな世界に順応した、いや心の底まで染まりきった双眸。

 

「だが、貴様はそんなロクデナシ共とは何か違う。確かな暖かさを持っているのも確かだ」

 

 一夏や箒に見せた、義理人情と呼べるモノ。

 不確かで形の無いそれは、地獄の住人どもが忌み嫌い、無意味だと吐き捨てる綺麗事。

 だが、この世のどんなモノよりも、人の心を暖める大切なモノ。それを彼女は確かに持っている。

 

「だから、私は知らなければならない、いや知りたい……だから、もう一度聞く」

 

 

 

「朴月姫燐、本当のお前は、一体どちらなのだ?」

 

 

 

 真摯な千冬の声が、夜の公園に響き渡って溶けていく。

 いくら時間が経っただろうか。冷たい春風、電灯の光る音、ありとあらゆる環境音が、とても大きく聞え、そして、姫燐はその冷たい瞳を閉じて、

 

「Iam……」

「………………?」

「Iam……all of me……」

 

 ゆっくりと、ささやく声で姫燐は説明する。

 

「『オレが、オレの全て』って意味ですよ、先生。どれが、じゃない。いつものオレも、さっきのオレも、全部ここに居るオレって存在なんです」

「……それで、納得しろと?」

「ええ、でも信じてくれ、と言うしかありませんよ。オレが一夏に言った事に嘘偽りはありませんし、自分でも訳が分かりません。何で本気になると、こんな目をするのか」

 

 姫燐の顔に浮かぶ表情は、不安。

 

「ハッキリ言って、自分でも怖いんです。箒を傷付けておきながら、あそこまで冷淡になれる自分が、怖い」

 

 冷たさが消え、代わりに瞳に憂いが宿る。

 本当に自分でもあの感情が何なのか、分かっていないのだろう。それが突然牙を剥き、友人を襲う、それがどうしようもなく怖い。そんな顔をしていると、千冬は思う。

 

「でも、それもオレって人間なんです。だから『オレが、オレの全て』、そうとしか言いようがありません。ですから……」

「わかった」

 

 千冬は、彼女の答えを聞かずに立ち上がった。

 

「もういい、それ以上喋るな」

「……分かりました」

「ああ、私とした事が、無駄な時間を過ごした」

 

 千冬はコートのずれを直し、吐き捨てる。

 

「本当に、無駄だった。何を今更聞く必要があったのか、お前は元々私の信じるべき、生徒の1人ではないか」

 

「……ありがとうございます、先生」

 

 嬉しそうに笑う姫燐を無視して、彼女はこれ以上話す事は無いと言わんばかりに、スタスタと速足で去っていく。そのつれない仕草でも、今の姫燐にはとても暖かなモノに見えた。

 

「……あ、そうだ。先生!」

「なんだ、お前も遅くならない内に……っと?」

 

 振り向くと共に、姫燐がこちらに何かを投げ寄こした。

 千冬はキャッチすると、手のひらの上の姫燐が投げた何かを見る。

 

「これは、ネックレスか?」

 

 黒いリングに、銀を台座に蒼と純白が混ざった水晶があしらわれた、翼のレリーフ。

 あまり高い物ではないが、中々に趣味が良い男物のネックレス。

 

「それ、一夏の奴に渡しておいてください」

「……なぜ、コレを一夏に?」

 

 千冬が理由を尋ねると、姫燐はエクステで伸びた後ろ髪を恥ずかしそうに掻いて、

 

「いや、この前のクラス代表決定戦でアイツ、それなりに頑張ってたのに叱ってばっかだったから、少しは労ってやろうかなーって、さっきの男物の服屋で……ほ、本当にそれだけですよ!?」

「なら、お前が渡せばいいだろう」

「いや、そりゃそうなんですけど……」

 

 顔を真っ赤にしながら、少し俯いてそっぽを向き、

 

「こんな女々しいマネ、オレのガラじゃないっつーか……」

 

 本当にガラじゃないその一言に、心底意外そうな表情を浮かべる千冬だったが、次の瞬間には不出来な生徒を見るいつもの鉄面皮に戻って、

 

「分かった、これは私が、責任を持って一夏に渡しておこう」

「あ、あと! オレからって事も伏せて下さいよ! 絶対にですよ!」

「まったく、意外と心配性だなお前は。ではな、明日遅刻するなよ」

 

 それでは意味が無いのではないだろうか? そんな事を思いながら、渡す時に絶対、赤くなりながら呟いた事も含めて在りのままを伝える事を決意した千冬の姿は、元々真っ暗だった事もあり、すぐに闇夜へと溶けていった。

 

「……ったく、散々だぜ。今日は」

 

 千冬の気配が完全に消えた事を確認すると、姫燐はベンチに思いっきりもたれ掛り、右手を顔に当てながら恨み事を呟く。

 カメラは買った瞬間箒に壊わされるし、弱点を一夏に知られてしまうし、果てはあんな醜態を千冬の目の前で晒してしまった。

 そして何よりも一番アウトなのは、ずばりと『自分の闇』を言い当てられてしまった事だ。

 

「くくっ……くはは……はははははははっ…………」

 

 ぐにゃり、と右手の下の顔が歪む。

 笑いが喉の奥から、愉快なほどに湧き出て、止まらない。

 

 

 

「……『Iam all of me』……ええ、それだけですよ。織斑先生……」

 

 

 

 さて、そろそろ自分も帰るとしよう。姫燐は立ち上がると、ゆっくりと誰も居なくなったベンチを後にする。明日からも、日々は続いて行くのだから。

 

 そう、彼らとの別れの日までは、ずっと……。

 

 

 

                  ○●○

 

 

 

 服屋から逃げ出した弾は、何とか無事にコックピットから帰って来た一夏を適当な駅まで送り届け、すっかり夜も更けた頃にようやく自分の家に帰って来ることができた。

 

「つ、疲れた……」

 

 自分はリフレッシュのために街に出た筈なのに、どうしてここまで疲弊して帰って来なくてはならないのだろうか? 本当なら今すぐベッドにダイブしたいのが本心だが、生憎と家業がそれを認めない。

『五反田食堂』、近所ではちょっとは名が売れた食堂で、基本的には両親が営んでいるのだが、休日のような人が多い日には自分も手伝いに駆り出される日が多々ある。

 そして今日は街に出る軍資金の前借の条件として、帰ったら食堂を手伝う事を約束していたのだ。

 

「はぁ~……ついてねぇ」

 

 これで、見た目麗しい女の子が「お仕事、頑張ってね♪」の一言でも言ってくれたら俄然やる気もその他色々も出ると言うモノだが、生憎と自分の周りには周辺の女運を全て吸っていく、ダイソンも真っ青な奴がいるので期待は出来ない。

 因みに妹は居るが、そいつは自分にエールではなく暴力という名のランチャーを良く送って来る。

 

「ま、頑張るしかねぇか……」

 

 愚痴を言っても仕方が無い。調理に集中している父親に一声かけ、洗剤で手を洗うとエプロンを手に取り、ホールへと出る。

 古臭く、そこまで大きく無い木製のテーブルと安物のイスが多数置かれた、いかにも下町の食堂といった言葉が良く似合う幼い頃から見慣れたホール。

 しかし、今日は少し何時もとは様子が違った。

 

(なんだ? 今日は、えらく空いてるじゃねぇか)

 

 夜も更けて来たこの時間帯は、飲食店にとっては一番の書き入れ時であるというのに、ホールには閑古鳥が鳴いており、居るのは最近常連になったOLさんと、そして……

 

(誰だ、アレ?)

 

 自分と同年代だろうか? 見慣れない外国人の女の子2人だけだった。

 片方はハンチング帽を目が見えるか見えないか位に深めに被り、腰位までの流れる様な少しくすんだ青髪をお下げにして纏め、出る所は出ておきながらスラッとした体型が魅力的な、大人びた少女だ。……しかし、なぜ着物を着ているのだろうか? 非常にミスマッチだ。チラチラ見える肌色が、非常にナイスだが。

 もう片方は、これまた背が低い、クラスメイトであった『凰鈴音』にそっくりな少女だ。もちろん、体型が。しかし顔色は何処か具合が悪いのか、余り良いとは言えず、病的なまでに白い肌とサイドテールに纏められた消し炭のように灰色の髪と、パッチリと開かれているのにハイライトが虚ろな瞳が余計に病弱な印象を与える娘だ。因みに、こっちもなぜが着物姿である。

 2人共、どこか不機嫌そうに何かを話しているが、外国語なので何を言っているのかさっぱり分からない。少なくとも英語では無いようだ。

 もの珍しいのは確かだが、お客はお客だ。

 弾は父親に呼ばれ、出来た2人前の焼き肉定食を受け取ると、2人の席へと運んで行く。

 

「焼き肉定食を2人前、お待たせしました!」

「む、スマンな。恩に切るでござる」

 

 ……ござる? 日本語も喋れる事に驚きだが、弾は寧ろ受け取った青髪の方の少女の、妙に時代錯誤な物言の方が衝撃だった。

 

「では、さっそく頂くでござろうか」

「……異常。リューン、日本語がおかしい。見て、五反田さん明らかに引いてる」

 

 リューンと呼ばれた青髪の少女は、顎に手を当てながら灰色の少女の言葉を思案する。

 

「しかしトーチちゃん。拙者が見た日本語の教科書では、この『ござる』こそが日本語の最大の特徴だと書いてあったでござるよ?」

「……質問。その教科書、なんてタイトル?」

「『これでニホンはマスター! ニホンジダイゲキの全て』というタイトルでござる」

「……論外。何で普通の翻訳書を買わなかったの?」

「いや、店員に聞いたら『ニホンを知りたいならコレしかない!』と強く推されて……」

「……馬鹿。どう考えても本屋の在庫処分に協力させられただけ」

「で、では、日本人は皆、外着は着物だというのも嘘なのでござるか!?」

「……当然。というか、外を歩いてる人が1人でも着物着てた? ワタシは服なんて別にどうでもいいけど」

 

 少し特徴的だが、トーチと呼ばれた少女の方がまだ日本語ができるらしい。

 しかし何と言うか、個性的というか……もしや彼女達もIS学園の生徒だろうか?

 あそこの外国人は、皆スラスラと日本語が使えると聞くし、何よりもこんな所に来る外国人などそれくらいしか思いつかない。

 少し彼女達に興味をそそられた弾は、話を聞いてみる事にした。

 

「ねぇ、君達?」

「ござ?」

「……なに?」

「君達って、もしかしてIS学園の生徒?」

「いや、残念ながら違うでござるよ」

「あ、そうなんだ……」

 

 はて、コレが外れなら一体、彼女達はなぜここに? 五反田食堂も、とうとう外国人客が来る程に人気がでたのだろうか?

 アテが外れて思考を展開する弾を余所に、キュ~ッと可愛らしい音がどこからか聞こえて来た。

 

「……空腹。先に食べていい?」

「うむ、トーチちゃん。日本では食べる前に、手を合わせて頂きますと……ってコラ!」

「……美味。このトマトはイケる」

 

 日本のうんちくを語るリューンを無視して、焼き肉の皿に乗っていたプチトマトを素手で摘み、ひょいと口に放り込むトーチ。

 

「トーチちゃん、箸を使うでござるよ!」

「……ヤダ。コレ、無駄に使いにくい」

「何を! 箸を使わずに日本食を食べるなど、食に対する冒涜でござる!」

「あ、あの~、フォーク使いますか?」

 

 弾は、すかさず厨房からフォークを持って来て、トーチの前に差しだす。

 するとトーチは即座に引ったくり、余程お腹が空いていたのだろう再び食事に没頭していく。

 

「……感謝。五反田さん」

「いえいえ、どうもっす」

「そういえばお主、先ほどIS学園がどうとか言っておったでござるな?」

「ええ、そうですけドゥエイ!?」

「む、どうしたでござる?」

 

 リューンの方へ視線を向けた弾は、思わず奇声を上げてしまった。

 別にしょうゆ瓶を手に持ったリューン自体は色々とおかしいがおかしい所は無い。問題は、そのしょうゆ瓶の口の先に広がる光景だった。

 黒、黒、黒。焼き肉定食『だった』それは、ご飯やみそ汁にほうれん草のおひたし、そして当然焼き肉すらも真っ黒に染まっていた。それでもまだ足りないのか、更にしょうゆが投下されていく。

 

「む、ショウユが切れたでござる。五反田殿、おかわりをお願いするでござる」

「は、はい……」

 

 そして弾が厨房から持って来た新しいしょうゆも、ドバドバと遠慮なく料理へとかけていく。今すぐに「もうやめて! とっくに料理の味はしょうゆよ!」と叫び引きとめたいが、別に犯罪をしている訳でもないお客に店員がそのような事を言うことは出来ない。

 そうして、2本目が半分を切った所でようやく納得がいったのか、

 

「それでは、いただきます。でござる」

 

 リューンは手を合わせ、箸を外国人とは思えないほどに器用に操ると、しょうゆでボドボドになったおひたしをパクっと一口で食べる。

 

「うむ、うまいでござる!」

 

 舌死んでんのかコイツ。

 もうここまで来たらコレはほうれん草のおひたしじゃない。ほうれん草の食感がするタダのしょうゆだ。さっきトーチに食の冒涜だとか何とか言っていたが、コイツの方がよっぽど食を冒涜している。

 

「いやー、やはり日本食と言ったらショウユ! これに限るでござる。トーチちゃんは要らないでござるか? ホレホレ」

「……不要。その黒いモノをこっちに向けるな馬鹿が」

 

 あくまでも視線は定食から目を離さずに、はしゃぐリューンを軽くあしらうトーチ。

 何だろうか、どう見てもスタイルのいいリューンの方が年上なのに、先ほどから見は目は幼女なトーチの方が年上に見えて仕方が無い。

 

「あ、そうそう。五反田殿、IS学園のことだったでござるよね?」

「あ、はい、そうですけど」

「もしかして五反田殿、『織斑一夏』のお友達か何か?」

「えっ、一夏の奴をしってるんっすか?」

「ふっふっふ、そりゃ世界的な有名人でござるからな。同年代の男、そしてIS学園が近い少年が男には無縁の学園の事を聞く理由なんて、それくらいでござろう?」

 

 どうやらこの少女、言動は残念だが、それなりに頭は切れるらしい。

 

「それじゃあ、そんな五反田殿に拙者から助言でござる」

 

 助言? 一体、何だろうか?

 リューンは箸を手元に置くと、静かに告げた。

 

 

「今すぐ、伏せるでござるよ」

 

 

 瞬間、蛍光灯が消え、店内が暗黒に包まれた。

 

「なっ!? なんだぁ!?」

「……黙れ。そして伏せて」

「へっ? うおっ!?」

 

 暗闇で分からないが、恐らくトーチに引き倒され、弾は無理やり床に伏せさせられる。

 次にバリン、と窓ガラスが割れる音。そして『何か』が投げ入れられて店の床に転がった。うっすら見える、濃い緑色をした手のひらサイズの、まるで『パイナップル』の様な形をした何かが……。

 

「ひッ!」

 

 弾は、理解した。してしまった。

 自分がやってるゲームにもよく出てくる代物だ。それはパイナップルの様な形をしており、栓を抜くと数秒で爆発し、破片を飛び散らせる……人を殺すための兵器。そして、投げ入れられたという事は、今殺されそうなのは、自分。

 動けない。動かない。ここから逃げなければ自分は確実に死ぬというのに、首に当てられた死神の鎌に、完全に身体が竦んで動けない。

 

「あ……あぁ……!」

 

 死ぬのか? 俺は、このまま本当に死ぬのか?

 例え、脳内でなにを問答しようとも時間は無情に過ぎていく。

そして無情に、パイナップルは破裂し、爆音が店内に響いた。

 

「ッッ………!!」

 

 恐らく直ぐに襲いかかるであろう破片の数々に、弾は咄嗟に目を閉じて頭を隠し、少しでも生存率を上げる虚しい努力をするが……。

 

「…………?」

 

 どれだけ時間が経っても、破片は自分に襲いかからない。

 しゃっくりが止まった時の様な、嫌な感覚が弾の身体を支配する。

 いったい、何があったのか? 恐る恐る瞳を開けると、

 

「無事でござるか、五反田殿?」

 

 自分の目の前に、庇うように紫の鎧が立っていた。

 いや違う、これは鎧などではない。

 手榴弾どころか、バルカン砲でも傷1つ付かない装甲。世界を文字通り作り変えた超兵器……!

 

「インフィニット……ストラトスッ……!」

「イエス、その通りでござるよ、五反田殿」

 

 声から察するに、リューンのISなのだろう。

 暗めの赤を基調にした、女性的でありながら全身を包む威圧的な鎧に、目元が隠れる位に深く被った、竜の頭のような形状をした兜。よく見れば、装甲もどこか鱗を思わせるような彫が入っている。背中から生えているコウモリのような翼も相まって、まさにその姿は人の形をしたドラゴンそのものである。

 

「怪我はないでござるか?」

「あ、ああ、何とか……ッ!」

 

 足音が2つ、いや3つ。誰かが、この店に入ってきた。

 恐らく、先ほど店内に手榴弾を投げ込んだ奴等だ。

 

「な、なんなんだよあいつ等も、アンタも!」

「ちょ、五反田殿、声が大き―――っ!」

 

 チャ、と何かがこちらに向けられた音がする。

 そして同時に、間髪無い発砲音。

 

 ズドドドドドドッ!

 

「う、うわぁぁぁぁぁ!」

「五反田殿! 動くなでござる!」

 

 放たれた銃弾は、全てISのシールドバリアに弾かれる。下手をすれば戦車砲にさえ耐えられる装甲だ。アサルトライフルごときで、貫ける代物ではない。

 しかし、このままでは動けない。下手をすれば、弾に銃弾が当たってしまう。

 さてどうしたものか、とリューンが高速で思考を巡らせていると、

 

「……発見。捕縛」

「ぐ、わぁぁぁぁぁぁ!!?」

 

 トーチの声と共に、銃声は止み、代わりに響くは銃を撃っていた奴の悲鳴。

 弾が姿勢をずらして覗き見ると、トーチは侵入者の首を掴み、軽々と持ち上げていた。

 当然、彼女もISを展開して。

 まず一番に目立ったのは、その不自然に巨大なまでに両腕だ。トーチの首くらいまでのサイズがあるだろうか、深海のような灰色のブルーをメインカラーとし、背中に積まれたジェットパックらしき物と、胸元に鈍く輝くコアのような物が特徴的だ。

 

「は、離せ! はなせぇぇぇぇぇ!」

 

 弾には分からない外国語で、侵入者は叫ぶ。

 仲間を捕まえたトーチのISに、他の仲間が集中砲火を仕掛けるが、それでもISの前には無力。たとえ3対2とお荷物付きであろうとも、IS相手にただの歩兵に勝ち目などある訳が無い。

 

「くそッ、なぜだ!? 貴様、まさか……!」

「……ハァ」

 

 首元を持たれて宙づりになりながらも暴れながら、ごちゃごちゃと分からない事を叫ぶ侵入者にトーチは心底鬱陶しそうにため息をついて、

 

 

「うるさい。燃えちゃえ」

 

 

 赤くコアが光り輝き、侵入者の身体はトーチの腕から噴き出た蒼い炎に、あっという間に飲み込まれた。

 

「ぎゃあああああぁぁぁぁっぁぁぁっぁぁ!!!!!!」

 

 暗かった店内が、命の炎で照らされる。他の2人の姿が丸見えになったが、2人共目の前の惨状に動けずにいた。

 外国語でも分かった。彼の叫びは、命が燃える絶叫へと変わる。

 昔、理科の実験でやった、タンパク質を燃やした時と全く同じ匂いが、店内に充満する。

 その、人が生きたまま丸焼けになる余りにもショッキング光景に、弾はただ茫然とすることしかできない。

 

「タスケ!! タス!! アツいダレカタケシテスケテスケタス!!!」

「……だから、うるさい」

 

 トーチの巨腕からゴキャ、という嫌な音が鳴る。

 必死に足掻いていた火達磨は2度と叫ばず、動かなくなった。

 

「……照明。コレでいいよね?」

「うむ、充分でござる」

 

 物言わぬ、タダの松明となった死体を持ったままトーチは尋ねる。

 それを言い終わるか終わらない内に、弾の前に立っていたリューンが姿を消す。

 

「ひっ、バケモ」

「遅いでござるよ」

 

 ヒュン、と風を斬る音がした。

 いつの間にか手に槍を持っていたリューンが、茫然としていた2人目の真正面に立ち槍を振り抜いた音だ。そして次に、ドサァ、と重い物が地面に落ちる音と、プシャァ、と噴水が吹き出る様な音が弾の耳に届く。

 そしてリューンが身体を退けた先には、上半身が無い2人目が、ただ棒立ちしていた。

 

「どうなってんだ……どうなってんだよ……」

 

 呪われたように、弾は同じ言葉を呟く。

 訳が分からない。いきなり訳の分からない奴等に襲われて、訳の分からない外国人に助けられて、そして訳が分からないまま、目の前で人が2人も死んで。

 

「一体、何がどうなってんだよ!!!」

「まぁまぁ、落ち着くでござるよ。五反田殿」

「……錯乱。よくない」

 

 返り血でISを真っ赤に染めたリューンと、人間松明を持ったままのトーチが彼をなだめるが、効果なんてある筈が無い。むしろ完全に逆効果だ。

 

「黙れ! なんで、なんでお前らは人を殺してそんなに落ち着いてるんだよ!!?」

「なんで、と言われましても、ねぇ?」

「……平常。おかしいのは五反田さん」

「おかしい……? 俺が、俺の方が狂ってるってのか!? ふざけんじゃ……ッ」

 

 そこまで言って、弾は気が付く。

 彼女達の表情は、冷たく、どこまでも冷徹で、穏やかな湖水のように微塵も揺れ動いていない。本当に、これが同じ世界を生きる、同じ人間のできる表情なのだろうか?

 

「こらこらトーチちゃん。五反田殿は『向うの世界』の住人ですから、殺しが当然じゃないのは当たり前でござるよ?」

「……失念。ごめんなさい、五反田くん」

 

 ようやく、弾は悟った。

 コイツ等は、俺達と根本的に違う。人殺しに何も感じない、地獄を生きるロクデナシであることに。そしてここは、そんな地獄の1丁目。奴等のホームグラウンドで、アウェーな自分が何を言おうとも、それはただの戯言でしかないことに。

 

「さて、それじゃあ最後の人に、話を聞くとしましょうかでござる」

「ヒッ! た、助けて、助けてくれ!」

 

 完全に戦意を喪失し、腰を抜かして壁にもたれ掛り命乞いをする最後の1人。

 そんな彼にリューンはしゃがみ込む形で視線を合わせ、外国語で尋問を始めた。

 

『さて、吐いて貰おうか「チーム・オットー」。なぜ勝手に動いた?』

「チ、『チーム・セプリティス』……それは、奴の親友である五反田弾を人質にすれば、織斑一夏を簡単に」

『五反田弾には、指示があるまで手を出すな。というのが上からの命令だったはずだ』

「そ、それは……」

『貴様らが功に焦ったせいで、これから五反田弾の警備はより一層厳重になるだろうな』

 

 そう言って、先ほどからずっとISを腕部のみ展開させ、こちらを狙うOL……恐らく日本が誇る裏仕事のプロフェッショナル……更識家の者だろう、を横目で見遣るリューン。

 

「ゆ、許してくれ! この失敗は、必ず、必ず次に!」

『……もう、何も言うな』

 

 呆れたようにリューンは、ポンと彼の頭にその手を置いて、

 

 

『言い訳の続きは、地獄でやってこい』

 

 

 ぐしゃ、と生物が潰れる音が、した。

 

 

 

                   ●○●

 

 

 

「……通達。後始末は別働隊に任せて、セーフティハウスに帰っていいらしい。ただし、報告書は後で送ることだって」

「はぁ、ついて無いでござるなぁ……」

 

 冷たい風が吹きすさむ、ビルの屋上。下の街明りがイルミネーションの様に輝いていて、非常に美しい。まさに地上の星、と言えるだろう。

 そこのフェンスに肘を乗せながら、リューンとトーチの2人は佇んでいた。無論、不法侵入で。

 

「……幸運。更識と一戦構えずにすんだだけ、マシ」

「あれは、拙者達が同士討ちをしてたから、見逃してもらえただけでござるよ。本当に憂鬱なのは、あの店にもう2度と行けない事でござる……」

 

 最後の1人を処分したあと、2人は物言わなくなった3名を担ぎ、店の弁償代とご飯の代金と掃除屋の番号だけを渡して店を去った。特に最後のはキツすぎたのか、弾は最後まで放心状態だったが、まぁそこは運が悪かったと諦めてもらうしかないだろう。

 

「しっかし何で本部は、あんなアホ共をこんな重要な作戦に起用したのでござろうなぁ……」

「……不明。ただ単に節穴なんじゃない?」

 

 彼女達に課せられた任務、それは『織斑一夏の誘拐』……その為に、『組織』から派遣されたリーダーを筆頭として、スリーマンセルの10チーム―――今は9チームが派遣された。その中でも『チーム・セプリティス』は専用機を持つ数少ないチームで、リーダーと選りすぐりのエースのみが就任することを許された主力部隊だ。だというのに……。

 

「なんで拙者達、隊長の命令とは言え、こんな『暴走しそうな小物共の見張り』だなんて下らない任務に付かなきゃならないんでござるか?」

「……遺憾。前の隊長ならこんな事はなかった。というか、隊長ならきっとオットー達が行動に移す前に処分してた」

「はぁ……ですよねぇ……でござる」

 

 自分達は前のリーダーと共に配属されて以来、ずっとそのセプリティスの座を護り続けて来た。しかし……。

 

「特別任務、一体なんなのでござろうなぁ……」

「……不詳。とても大事な任務らしいけど」

 

 隊長は3月頃にその高い能力を買われて、独りだけとても重要な特別任務へと引き抜かれてしまった。強く聡明で、非常に高いカリスマを持ち合わせていた隊長をとても慕っていた彼女達にとっては、とてもショックな出来事だったが、所詮は組織の末端でしかない自分達に何かが出来る訳ではない。

 リューンは少し寂しそうに携帯端末を取り出し、隊長とトーチとで最後に撮った記念写真を眺めた。

 

「……またそれ?」

「いいじゃないですか、思い出に浸るくらい」

「……確かに、悪くない」

 

 トーチも、その画面を共に覗きこむ。

 そこには野戦服を着て明るくピースサインをして笑うリュートと、同じく野戦服を着た相変わらず不健康そうだが同様に薄らと笑うトーチ。そして、2人に挟まれた自分達と同年代の、野戦服にロングコートを羽織った直立不動で顔面神経痛をおこした様にしか見えない少女。

 

「……傑作。隊長は笑うのが下手糞だった」

「そうでござるなぁ。笑顔と言っても、隊長はコレが限界でござったからなぁ」

 

 適当に切り揃えられた燃え上がるような赤髪、服の下からでも分かる発育のいい身体、首に掛ったヘッドフォン、そして、太陽レリーフが付いたのチョーカー型の専用機。

 

 

 

「キルスティン隊長……拙者達、また、どこかで会えるでござるか?」

 

 

 

 そんなリューンの悲しい吐露が、風に乗って街の中へと消えていった。



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番外編 「ifストーリー 『五反田食堂へようこそ!』」

「……前書き。今回のお話は第七話のifストーリーです。リューンが五反田くんに『伏せるでござる』と言った所から派生した、Arcadiaの百人目様のリクエスト、ワタシとリューンが罰として五反田食堂で働かされるお話です。いつも以上にキャラ崩壊が激しく、色々とメタ全開でカオスですが、ifなのでここで起きた出来事は本編には一切影響を及ぼしません。なので深い事は何も考えず、激流に身を任せて楽しんで下さい。かっこ、きゃはおんぷ、かっこ閉じる。……これでいい、リューン?」
「ちょっとトーチちゃん! なんでカンペ通りにしないんですか!?」
「……意味不明。ちゃんとリューンが書いた通りに喋った」
「わっかってませんねー、トーチちゃん! そのカッコの中は『きゃは♪』と普段はテンション最低なトーチちゃんが萌え萌えキュンなポージングすることでギャップ萌えを演出し、読者の皆さんに露骨な萌えを見せつけそれに反応する豚共をブヒ(カチャ)ごめん火炎放射器こっち向けないで良い子だから」
「……分かればいい。それでは本編、始まり始まり」」


「今すぐ、伏せるでござるよ」

 

 

 

「なっ!? なんだぁ!?」

「……黙れ。そして伏せて」

「へっ? うおっ!?」

 

 暗闇で分からないが、恐らくトーチに引き倒され、弾は無理やり床に伏せさせられる。

 次にバリン、と窓ガラスが割れる音。そして『何か』が投げ入れられて店の床に転がった。うっすら見える、自分の前腕くらいのサイズの、まるで『パイナップル』の様な形をした何かが……。

 

「ひッ! ……いィ?」

 

 弾は理解した。が、意味が分からなかった。

 目の前に転がっているのは、パイナップル型をした『何か』ではない。丸みを帯びたシルエット、独特の形状をした瑞々しい濃い緑色のふさ、硬く黄色い甲羅のような皮。しかも身が下ぶくれしており、甘い香りがここまで漂ってくる。これは、ちょうど食べごろな状態であるというサインだ。そう、そんな完璧な、

 

「パイナップル……?」

 

 またの名をアナナス。言わずと知れた一般的なフルーツで、爽やかな酸味と甘みが凝縮された身と果汁が特徴の果実で、肉類と摂すると酸素の働きにより、胃の中で消化しやすくなり、また生肉と一緒にしておくと肉を柔らかくする効果もあったりする。

 どういうことなの? どうしてウチの窓にパイナップルが投げ込まれるの?

 仮に、これがパイナップル型の手榴弾だったら、まぁそれも喜ばしくは無いがまだ投げ込んだ相手が何をしたいかは分かる。しかし、爆発物でもなんでもない食べ頃のパイナップルを投げ込まれた場合は、どう反応すればいいのだ? 弾のまだ人生の半分も生きていない経験値では、まだこのナゾを解明することができない。

 きっと、どれだけ歳を喰っても解明する事はできないだろうが。

 

「油断してはダメでござる。五反田殿……」

「えっ……」

 

 薄暗くて顔はよく見えないが、聞えるリューンの声色は真剣一色だ。

 まさか、アレは見た目はタダのパイナップルだが、実はとんでもない兵器なのでは……。

 

「あれほど美味しそうなパインを惜しみなく投げ込んでくるとは、もしや『奴等』は……」

 

 どうやら、ただのパイナップルで間違いないらしい。

弾は一瞬でも本気で警戒した自分が、とてもアホくさくなってくる。

 

「や、奴等ってなんなんっすか?」

「……ええ、そうでござるな。巻き込まれてしまった以上、五反田殿も無関係ではござらんからな」

 

 何か聞きたい様な聞きたくない様な……だが、何時如何なる時でも真実を追い求めるのは、悲しきかな人の性である。

 

「『酢豚の中のパイナップル撲滅委員会』……五反田殿、この名を知ってるでござるか?」

「……………はぁ?」

 

 やっぱり聞くんじゃなかった。一言一句どこをどう吟味してもしょうもない予感しかしない。しかし後悔あとに絶たず。リューンは頼んでもいないのに、そのアホそうな組織の全容を説明し始めた。

 

「奴等は、『ツインテール・ベル』と呼ばれる謎の人物をリーダーに、全世界、いや全宇宙の酢豚の中のパイナップルをこの世から消し去ろうと日夜暗躍する非合法組織でござる。奴等に目を付けられ、酢豚のレシピからパイナップルを消されてしまった中華料理店は数知れず」

 

 やはり、どうしようもないアホ集団だった。無駄にスケールデカいし。つーかウチは酢豚なんか取り扱ってないし、五反田食堂は中華料理店ですらないが、なぜか気にしたら負けな気がする。

 くぅ……と忌々しそうに顔を歪めるリューンとは対象的に、弾は心底どうでもよさそうに立ちあがりズボンに付いた埃を払いながら、ポケットから取り出した携帯を『110』とプッシュして、

 

「もしもし、警察ですか? はい、不審者が店の中で暴れているんです。はい、場所は五だ……」

「スナッチ・アンド・クラッシュ!」

 

 警察に通報しようとした弾から携帯電話を素早く奪い取ると、リューンはそのまま携帯を360度折りたためる様に膝で粉砕……もとい改造した。

 

「ああっーーーーーーー!!! 何すんだテメェ!?」

「ダメでござる! 奴等は警察にも太いパイプを持ってるでござるよ。きっと、通報なんかしてももみ消されるのがオチでござる……!」

 

 弾は悟る。ああ、世の中って俺が思っているよりもずっと平和なのかもしれない。

 あと弾が言った不審者の中には当然、今しがた携帯をぶっ壊しやがったコイツ等も含まれている。

 

「つーか、お前らは一体何なんだよ!? その無駄に規模のデカい訳分からん組織と、どんな関係なんだ!?」

「それは……ん?」

 

 一応客だというのに敬語を完全に忘れた弾の叫びに呼応したのか、ぱぁ、と店内に、消えていた筈の文明の明りが蘇る。

 そして入口から、さっきからずっとフェードアウトしていた、もう片方の少女が一仕事終えたような顔をしながら手をパンパン、と払いながら入ってきた。

 

「……処分。終わった」

「おお、トーチちゃん! さっきから空気だと思ってたらいつの間に!」

「……さっき。リューン達がお喋りしてる間に、侵入した奴等は全員ボコってゴミ捨て場に捨てて来た。配電盤もズタボロだったけど応急処置はしたから、しばらくは大丈夫なはず」

 

 どうやら、人の店にパイナップルを投げ込んだ不届き者はいつの間にか、この不健康そうな少女によって成敗されたようだ。そう言えばさっきから、客が居ないのにやけに店内が騒がしかった気がするが、どうやらそれはこの娘が暴れていた音らしい。こいつら見た目とは違って、かなり強いのかもしれない。

 

「うんうん、さっすがトーチちゃん。完璧な仕事でござるな! うりうり~」

「……邪魔。暑いから離して」

 

 トーチの小さな身体に、後ろから抱きつきながら頭を撫でまわすリューン。口では嫌がっているが、無理やり振り解こうとしないのと、よく見れば薄らと笑っている所から、本人も満更ではないのだろうか。

 

「……で、お前らは、結局何なんだ?」

 

 そろそろ本格的に呆れが怒りに変わってきた弾が、ドスの利いた声で尋ねた。

 

「おお、そう言えば自己紹介がまだだったでござるな」

「……説明しよう。じつは私達、世界を股にかけるトップエージェント」

「なんなんだよ、アンタら……」

 

 エージェントが自分から名乗っていいのか? と、そんな弾の素朴な疑問は置いてけぼりに自己紹介は続く。

 

「ふっふっふ、なんだかんだと聞かれたら!」

「……貴様に名乗る名前はない」

「無駄に勿体ぶって無いのかよ!」

 

 今日だけでもう何回叫んだだろうか? 

 そろそろ本格的に水か、のど飴か、ハリセンが欲しくなってきた弾であった。

 

「こ、こらこら。それじゃあ自己紹介にならないでござるよ、トーチちゃん!」

「でも、コレを名乗るだけで誰かは一発で分かるって前の隊長が」

「それで誰だか理解してもらえるのは、天空宙心拳をマスターした人だけでござるよ! ほら、打ち合わせ通りに……」

「……了解。リューンに合わせる」

 

 どこか残念そうに頷くトーチ。実はあのセリフを結構気にいってたのだろうか?

 ていうかもう既に自分達の名前言ってないかこいつら?

 

「分かればよろしい。では五反田殿、もう一度お願いするでござる」

 

 口からヘドロが出そうな程めんどくさい……心の底からそう思う弾。

 しかし、これ以上長引いたらのど的にも精神的にも良くないので、ここは力を込めた迫真の演技でとっとと終わらせるとしよう。そしてこれ以上長引きそうならすぐに店から叩きだそう。そう決意を固め、弾は叫んだ。

 

「だっ、だれだお前らは!!?」

「……五反田殿、もしかしてそれはワザとやってるでござるか?」

 

 言われた通りにやったのに、何で睨まれなければならないのだろうか? 弾は首を傾げる。

 

「……貴様に名乗る名前はない」

 

 そしてトーチはトーチで、心なしか嬉しそうだが結局名乗らないし、訳がわからない。

 

「ってか、もう名前覚えちまったよ俺……デカいのがリューンで、小さいのがトーチだろ?」

「む、やるでござるな。この短時間に女の子の名前を覚えるとは、いいフラグ男になれるでござるよ五反田殿は」

 

 残念ながら、そういうのは全部悪友に持って行かれて在庫不足を起こしている。

 

「で、さっき自分達の事をトップエージェントだとか言ってたけど、何のエージェントなんだよお前ら? 『酢豚の中のパイナップル推奨委員会』とかそんなんだったら、今すぐ布団で簀巻きにして海に沈(チン)するぞ」

「…………え、そ、それ、マジでござる?」

「…………こ、後生。せめて指詰めで許してほしい」

 

 声が震え、本気で青ざめる『酢豚の中のパイナップル推奨委員会』のトップバカエージェント2人に弾は怒る気力も出ず、脱力しながら頭を抱えることしかできなかった。

 

「はぁ……別にいいけどな。お前らが例え何してようと、それは個人の勝手だし」

「ほっ、よかったでござる。それじゃあ、拙者達はこの辺で」

「……サラダバー」

「おい待て、どこへ行くつもりだお前ら?」

 

 回れ右して出口へとスタコラと歩いて行く2人の肩を掴んで、弾は彼女達を引きとめる。

 

「えっ、五反田殿? そんな、大胆でござるよ……」

「……注意。男は狼なの~よ、気を付けなさ~い」

「黙れ、そして聞け。お前らの身体なんぞこれっぽっちも興味はないわ」

「それはそれで傷つくでござるな……」

「……希少価値。貧乳はステータス……」

 

 まぁ、弾も年相応には性欲を持てあましてはいるが、それでもこのド変人共に欲情するほど餓えてはいない。……確かに、2人とも弾の目から見ても魅力的な美少女なのは否定できないのだが。

 

「残念ながら貧乳は知り合いで間にあってる。それより質問に答えろ、どこに行くつもりだ?」

「どこへ行くって、セーフティハウスに帰るんでござるけど。拙者達はエージェントでござるからなぁ、上が命令するままに夜を往くだけでござる」

「……離別。ワタシ達は2度と会う事は無い。触れあう事もない。それでいい」

「俺は……それでよくない。今お前達と、離れ離れになる訳にはいかない」

 

 弾は真摯な顔で、ハッキリと言い切った。嘘も偽りもない、己が紛れもない本当の気持ちを。そしてそれは、男性経験など皆無なエージェント2人の頭脳をオーバーヒートさせるには充分過ぎる破壊力を秘めていた。

 

「ごっ、ごごごご五反田殿ぉ!? れれれ冷静になるでござる! 拙者達、そんなにフラグ立ってたでござるかぁ!?」

「……冷静。冷静冷静ワタシハ冷静ミンナモ冷静スベテガ冷静アレ冷静ッテナンダッゲシュタルト」

 

 慌てふためく2人を余所に、弾はあくまでも冷徹に、ある場所を2つ指さして言った。

 

 

「お前らが居なくなったら、アレとアレの修理代、誰が払ってくれるんだ?」

 

 

 1つ目はパイナップルが投げ込まれ、粉々に砕け散った窓ガラス。

 そしてもう1つは、無残に足などが飛び散った椅子やテーブルなどの調度品の数々。恐らく、トーチが大暴れした際に粉砕されたのだろう。本人も明後日の方向を向いているし。

 

「それに俺のぶ~らぶら状態になった携帯と配電盤もプラスして、さて、どうやって弁償してくれるんですか? お客様?」

 

 最高の営業スマイルを浮かべる弾に、さっきまで真っ赤になっていた彼女達の顔色が再びデスラー総統のように真っ青になったのは、言うまでもないだろう。

 

 

 

                ☆★☆

 

 

 

 そして数日後の土曜日。五反田食堂のキッチン。

 着物ではなく、簡素なズボンにTシャツ、それに三角巾にエプロンを装備したリューンは、隣で黙々と作業をする、自分と同じような服装をしたトーチに話しかけた。

 

「……トーチちゃん、トーチちゃん」

「……専念。今、話しかけないで」

「いやだって、拙者達、何でこんなことしてるでござるか?」

 

 カチャカチャと泡だらけの流し台に立って手を入れ、皿を手にとってはスポンジで磨き、水ですすいで積み重ねる。それが終わるとまた次の皿を手にとって同じことの繰り返し。エンドレスウォッシュ。

 ……まぁ簡単に言えば、リューンとトーチの2人は五反田食堂で皿洗いをさせられていた。しかも、泊り込みでこの数日間ずっと。

 

「……必然。上から弁償代が下りなかった以上、店の修理費はワタシ達の身体で返さないと」

「その言い方は五反田食堂が、お水のお店みたいに聞こえるからやめるでござるトーチちゃん。あと今回、拙者あまり関係無いでござるよね? 窓と配電盤壊したの奴等だし、店壊したのトーチちゃんだし」

「……連帯責任。チーム1人の失敗はみんなの失敗、これ軍隊じゃ常識。あと携帯壊したのはリューン」

「拙者は過去を振り返らない女なのでござる。それに軍隊って、確か拙者達はエージェントでござるよね?」

「……無問題。番外編で細かい事を気にしたらダメ」

 

 そんな下らないメメタァな雑談をして手が止まっている2人の背中に、配ぜんを終えてキッチンに戻ってきた、雇い主である弾の怒声が突き抜ける。

 

「くぉらぁ! 無駄口叩く暇があったらさっさと手を動かせアルバイト共!! 手を動かすだけの奴はアルバイトだ! 手をもっと速く動かす奴はよく訓練されたアルバイトだ!!」

「い、イエッサー! でござる、弾殿!」

「……ホント。お昼の食堂は地獄だぜフゥフハハハー……」

 

 それだけ言い残して弾は父親が作ったシャケ定食を2人前持つとまた、オーバーブーストを吹かしたネクストのようにホールへと吹っ飛んで行く。

 お昼時、それは五反田食堂がもっとも繁盛する時間帯だ。

 お腹を空かせた昼休みの会社員や学生達が一挙に押し寄せ、安く、そして早い飯を所望してくる五反田食堂のメインターゲット層。

 お客の昼休みには刻限があるので、ハイペースで店を回す事が求められる。キッチン、オーダー、レジ、ウェイター、そして当然タダの皿洗いでさえも一丸となって運営は成り立つのだ。一時も気を緩める事など許されるはずがない。

 次の皿、それが終わればまた次の皿へと淡々と作業をこなしていく2人。しかし、汚れた皿の量は全然減る気配がしない。だんだんと終わりが無いのが終わりなのを悟りはじめている2人は、すでに考える事を半ば放棄しながらまた次の皿へと手を伸ばす。

 

「この皿洗い、いつまで続くでござる……?」

「……むせる。皿洗いには飽きたのさ」

 

 そんな事をぼやいてもまた空になった皿は増えていくし、作業は全然楽にならない。今まで仕事一筋で生きて来た2人にとって家事など、取説無しで戦略シミュレーションをするくらいに至難の技であった。

 そう、実際に……。

 

 パリン! パリン!

「あ……また割れたでござる」

「……おお皿よ。落とした程度で割れてしまうとは情けない」

 

 2人が手を滑らせたり、力を入れ過ぎたりで皿を割る度に、

 

「まーた割りやがったな!! この愚か者どもめが!!」

「お、お許しくださいメガとろばぁ!」

「……痛い。幼女虐待で訴える。そして勝つ」

 

 どこに居ようともいつの間にか、彼女達の背後に戻ってきている弾の容赦ない拳骨が2人の脳天に炸裂するのだ。

 

「お前らまるで成長しねぇな!? これで初日から何枚割りやがった!?」

「ふっふっふ、弾殿は今まで」

「『喰ったパンの数を覚えているのか?』とかほざきやがったら、七面鳥の丸焼きみたいにパンを体内に詰め込むぞ」

「……聞きたい? 昨日までの時点で98枚、そして今日2枚割ったから」

「記念すべき100枚目だな! オメデトウございますドアホがッ!!!」

 

 再び弾の拳骨が振り下ろされ、頭にたんこぶを作りながら正座させられて、お説教を喰らうリューンとトーチ。

 ここまでテンプレ。これが、ここ数日の五反田食堂の日常と化していた。

 丁度タイミングが良いのか悪いのか、客足もようやくマシになってくる時間帯に差しかかった事もあって、このまま弾のパーフェクト説教教室が始まるのかと、彼女達は腹を括ったが、

 

「おーい、弾! いるかー?」

「よーぅ五反田! 飯食いに来たぜー!」

 

 突然の来店した、ひと組の『夫婦』によって、彼女達へのお説教はお流れになった。

 

 

  

             ★☆★

 

 

 

「おう、いらっしゃい。一夏、朴月ちゃん」

「よう、弾。今日は寮に食材がなかったから来てやったぞ」

 

 弾はバカ2人に破片の掃除だけ命令して、店にやってきた中学からの悪友こと織斑一夏と、その彼の腕に抱きついて離れない彼の『伴侶』を出迎えた。

 

「おいおい、間違えんなよ五反田。オレはもう『朴月』じゃないんだぜ?」

「ああ、そうだったね。えーと織斑ちゃん? ……だと、このバカと被るな」

「いや、まだ挙式は挙げて無い! 挙げて無いからな!?」

「いいじゃん別に。オレはもう『朴月』じゃなくて、『織斑』なんだよ。今決めた」

 

 もう殆ど夫婦のようなもんじゃん。と弾は思う。

 真っ赤になって否定する一夏に、えへへー、とどこか照れているが幸せそうにほほ笑む『朴月姫燐』改め、『織斑姫燐』。

 そう、2人は相思相愛。もう既に協力関係では無く、新たな恋愛関係へと進んだイチャイチャラブラブのバカップルなのだ。

 

「いやー、俺は今、歴史的瞬間に立ち会えてるんだな……」

 

 割とマジに目がしらに感動の涙を浮かべながら、弾は肘で一夏を小突く。

 

「あの一夏が、鈍感を極めし者だった織斑一夏が、こんな良い娘を嫁にするだなんて……羨ましいぞチクショウめ! 爆発して粉微塵になれリア充!」

「そこまで言うか……いやそれ以前に、俺達は嫁とかそんなんじゃ……」

「……違うのか、一夏?」

 

 姫燐はその言葉に不安そうな声で、傷ついたような悲しんだような目をして、一夏を見上げる。そんな乙女のリーサルウェポンが直撃して、折れる事ができない男など、この世には存在しないだろう。

 

「う……まぁ……違わなくないけど……」

「だろぉ? そんな一夏がオレは大好きだぜぇ~。ぐりぐり~」

「お、おいキリ!?」

 

 瞬間、先ほどの表情が嘘のようにパァ、と姫燐の表情が明るくなり、姫燐はさらにきつく身体を密着させて擦り寄せてくる。というか先程の憂いの表情は、嘘のようにと言うか完全にタダの嘘なのだが、そんな所もまた彼女の魅力の1つだと理解している一夏は、別段なにも言わずに彼女のスキンシップに身をゆだねる。

 が、腕越しに伝わるその発育したボディの柔らかさや、女の子独特のいい匂いは、確実に一夏の理性をガリガリと削って行くので、余り為すがままにさせる訳にはいかない。

 一夏は慌てて彼女を引き離すと、肩を掴みながら何とか説得を開始する。

 

「やめてキリ、それ以上いけない!」

「なんだよ、いいじゃねぇか。寮じゃこんくらい日常茶飯事なんだし」

「いや、確かに寮じゃそうだけどな? でも、ここ一応人前だしそれにお前、手を出したら怒るだろ?」

「……ちっ、この前はマジになりそうだった癖に」

 

 実は一夏が姫燐と五反田食堂に訪れたのは初めてでは無く、このやり取りも初では無いのだが、そのときは一夏も完全に惚気きっており、弾の全力のツッコミが無ければここから先は完全にR指定になっていただろう。

 彼等の関係は恋人同士になってもさして変わらず、姫燐が全力でからかい、一夏はそんな彼女に振り回される。それが、少しだけ情熱的になっただけであった。

 

「そう何度も引っかかってたまるか。アレも冗談だった癖に」

「ま、そうなんだがな。もしお前がマジになったら、殴ってでもブレーキを掛けるつもりだったし。だけど……」

 

 姫燐は悪そうな笑みを浮かべると、ふっ、と背伸びして、一夏の耳元へ顔を近付け、決して他の奴には聞こえない位の小さな声でささやいた。

 

 

 

―――部屋に帰ったら、そん時はオレもノンストップでイカせてもらうぜ?

 

 

 

「ッツッッ~~~~~!!?!???!?」

「なーんてな、けっけっけ」

 

 その一言に耳までゆでダコ状態になった一夏を見て満足そうに頷くと、姫燐は彼の手を引っ張って席に座らせ、自分も心の底から楽しそうに笑いながらその反対側の席に座った。

 

「………………」

 

 2人の固有結界に完全に置いてけぼりにされた弾は、無言で彼等にメニューだけ渡すと、他の客から次に来るであろうオーダーに供え、キッチンへと戻る。

 

「「「「「すみません、この五反田食堂特製『お口の甘さ全滅激苦青汁』っての下さい」」」」」

 

 彼等が来店すると、他の客が必ず僅かな殺意を込めて異口同音に注文する青汁を、自分も一気飲みした後、弾は皆に配って行った。

 

 

 

                  ☆★☆

 

 

 

「……甘ったるいでござるな~、トーチちゃん」

「……嘔吐。口から砂糖が出そう」

 

 皿洗いをサボり、置いてあった青汁を勝手に飲みながらホールを覗き見て、お互いの感想を述べるリューンとトーチ。

 

「つか、あのキリって人、気のせいか前の隊長にメチャクチャ似てるでござるが……」

「……大丈夫。このお話はifストーリー、本編とは一切関係ないのでワタシ達と彼女は1ミリも関係ない。因みに何で2人が夫婦かと言うと、一夏とキリのラブラブ状態が見たいってリクエストが多かったのでやった。五反田蘭を含め他の一夏に気がある娘達はラブの邪魔なので、悪いけどこのお話では消えてもらった。反省してるけど後悔はしていない」

「たまにトーチちゃんって、本気で意味の分からない事を言うでござるよね」

「……不明。何でこんなこと言うのか、自分でもびっくり」

 

 不思議そうに首を捻るトーチ。合言葉は『番外編なのでしかたない』。

 空っぽになったコップを流し台に置くと、もう一杯別のコップに青汁を注いで一気飲みしながら、リューンはキッチンの奥を見遣る。

 

「しかし、あっちもあっちで重傷でござるなぁ」

 

「なんで一夏ばっかりチクショウ一夏ばっかりいいなチクショウおれもいちゃいちゃしたいチクショウつっこみ役はもう疲れたチクショウ俺原作どころか本編でもじゃこんなキャラじゃないのにチクショウモブなのが悪いのかチクショウこれといった特徴が無いのが悪いのかコンチクショウ」

 

 そこには、店の奥で壁によく分からない独り言を呪詛のように呟きながら、白い粉をキメた奴のような目をしてデコを一心不乱に壁に打ち付ける弾の姿があった。

 

「……痛い。色んな意味で見てて痛い」

「気持ちは分からんでもないでござるが……ん!」

 

 その時、リューンの頭に電球が浮かび、ピロリンと音が鳴った。……気がした。

 

「トーチちゃんトーチちゃん! 拙者にいい考えがあるでござる!」

「……却下。ダメ論外ゼッタイ異議あり汝罪あり死ぬがよい」

「そこまで!? まだ拙者なにも言ってないでござるよ!」

 

 その言葉の後に提案された作戦は、人事以外ではほぼ100%成功しない事を知っているので、トーチは即座に彼女の言葉をぶった切る。

 

「いーやーでーごーざーる! 拙者の作戦を聞いて欲しいでござるー! 聞いてくれないなら、これから毎晩トーチちゃんの枕に乾燥したイクラを詰め続けてやるでごーざーるー!!」

「……ちっ。屑が……」

「ごーざー……え、今何か言ったでござるか?」

「……別に。何も」

 

 ゴロゴロと一昔前の駄々っ子のように寝転がりながら海産物に謝れと言いたくなる事をほざくリューン。このままでは鬱陶しいだけなのでトーチは渋々話を聞くことにした。舌打ちの1つくらいは許されていいだろう。

 しゅば、と立ち上がるとリューンは悪事を思いついた三流悪役の様に表情を歪ませながら、作戦を説明し始めた。

 

「ふふふ、腰を抜かすなでござるよ……拙者が皿洗いをしている間に考えた作戦名! 名付けてッ!!」

「……作戦名? 名付けて?」

 

 既に嫌な予感しかしない。そんな彼女の懸念を無視して、リューンは姫燐に負けず劣らずのバストを堂々と張って言った。

 

「『反旗の夜明けはここから! 五反田食堂乗っ取り大作戦ッ!!』でござる!」

「…………はぁ?」

 

 乗っ取る? この五反田食堂を?

 皿を洗い過ぎて、とうとう頭にまで洗剤が染みついてしまったのだろうか? 無表情ながら内心で本気でそんな心配をしながら、トーチはすかさず目の前の石鹸脳みそに質問する。

 

「……何で? コツコツ働いて返すんじゃなかったの?」

「甘い、サッカリンより甘いでござるよトーチちゃん。明日に、未来に向けて足掻かない人間に、輝かしい夜明けは来ないのでござるよ……!」

「……愚考。下手に動いて泥沼に足を突っ込むよりマシ。それに、勝算はあるの?」

「当然でござるよ、まず最大の障害である弾殿はあの様子……」

 

 とうとう壁に赤い染みができても、まだ水飲み鳥のように頭を打ち付けるだけ簡単な作業を続けている弾。確かに、行動を開始するなら今が最適だろう。

 

「……でも。まだ弾くんのお父さんが」

「あ、それはさっき縛って袋に詰めて裏のゴミ捨て場にポイして来たから大丈夫でござる」

「……なん……だと……?」

 

 もう既に決行してやがったコイツ。ナイフ以上にバカに与えてはいけない行動力というモノに、恐ろしいまでに恵まれている。

 どちらにせよ、トーチに選択権は無かったのだ。賽は投げられた、後は一天地六の賽の目次第。そこに『後退』という二文字の選択肢は、無い。

 しかしここで、新たな疑問がトーチの頭に浮かびあがる。

 

「……質問。乗っ取った後はどうするの?」

「あと、でござるか? そりゃあ無理やり借金を帳消しにして、オサラバするだけでござるけど?」

「……回りくどい。そんなことしなくても、さっさと借金なんか踏み倒して、今すぐここから逃げればいいだけ」

「…………………」

「…………………」

 

 いつも通り不健康そうな顔のトーチと、目をパチクリさせたまま微動だにしないリューン。

 無言、沈黙、静寂。2人の間に、そんな時間がどれだけか流れて、

 

「ああ! その手があったでござるか!」

 

 ぽん、と手のひらの上に握り拳を置いて驚くおバカに、トーチは本気で帰ったら相棒を変えてと直談判しようか頭を悩ませる。

 まぁ、何はともあれ方針は決まった。あとは行動に移すだけだ。

 

「そうと決まれば!」

「……直行。言われなくても、スタコラサッサだぜぃ」

「……おいィ? お前ら、どこへ行こうというのかね?」

 

 エプロンを投げ捨て、裏口へと輝かしい未来に向けて撤退を始めようと回れ右した2人の肩に、いつの間にか精神世界から帰って来ていた弾の手が乗っかっていた。

 血が抜けて冷たいのに、それでいて力強く肩を掴む彼の手に、よくB級ホラーなどに出てくるゾンビってこんな感じなのかな? とリューン達は現実逃避する。が、五反田弾からは逃げられないので戦わないと、現実と。

 

「あ、あー、弾殿? これはその……別に逃げるとか、エスケープするとか、未来へ全力前進だとか、そんな気はハナから無いでござるよー? 拙者達ウソつかなーい」

「……心配無用。ワタシは嘘が大嫌いだから大丈夫、だけどリューンは息をするように嘘をつくから注意」

「なっ、トーチちゃん!? 仲間を売るでござるか!?」

「……真実。弾くーん、この人さっきこの店を乗っ」

「ぎゃーーーー! ストップ、シャラップ!! それ以上いけない!!」

 

 逃げようとしていた時点で2人とも同罪だというのに、不毛な擦り付けあいを繰り広げるリューンとトーチ。そんなコントを繰り広げる2人を余所に、弾は無表情で新鮮なカツオと包丁を持って来て、まな板の上に置き、

 

「いいから、働け」

 

 ズガン、ともの凄い音を立ててカツオの首を叩き落とした。

 ありえない事だが、胴体から旅立ってまな板に転がるカツオヘッドの死んだ瞳が、リューン達に告げている様な気がした。

 

――こうなりたくなかったら、余計な考えを捨てて大人しく言う事聞いた方が良いんじゃないかな? と……。

 

「おーい、弾―。注文いいかー?」

「ん、ああー! ちょっと待ってろー!」

 

 弾はカツオを急いで片付けると、一夏達のオーダーを取りにホールへと戻っていく。

 

「お前達が働く意思を見せなければ、俺は貴様らをこのカツオ君のようにするだけだぁ……」

 

 抱き合いながら歯を鳴らす、恐怖に喰われたバカ共にしっかりと釘を刺しながら。

 

 

 

                 ★☆★

 

 

 

「五反田、このシャケ定食と……どうしたんだ、その頭?」

「ん、ああ。なんでもないよ、ちょっとケチャップが付いただけさ」

 

 弾の頭に巻いたタオルから滲んでる赤い何かを不思議に思いながら、姫燐は注文を続ける。

 

「あとは、このうなぎ定食を1つ頼む」

「キリ、お前そんなに食べるのか?」

 

 先ほどシャケ定食を頼んだばかりだというのに、事もなさげに追加でうなぎ定食も頼む姫燐。いつの間に彼女はフードファイトに目覚めたのだろうか? これほどの量、男で食べ盛りの一夏でも流石に厳しいのに。

 

「あ、なに言ってんだよ。これはお前の分だぞ、一夏」

「はぁ!? ちょ、待ってくれキリ!?」

 

 勝手に自分のメニューまで決めている彼女に、慌てて一夏は静止を呼び掛ける。

 高校生のお財布事情は、この店で一番高い定食を頼めるほど潤っていないのだ。

 

「安心しろ一夏。今日はオレのおごりだ、何も気にすんな」

「……なんか、お前の事だから裏が有りそうで素直に喜べないな」

「おお、よく分かったじゃねぇか」

 

 一夏のげんなりとした視線などどこ吹く風か。澄まし顔でメニューを畳んで弾に返すと姫燐はちょいちょい、と人差し指をカムバックさせた。

 顔を近付けろ、という事だろうか?

 一夏が机に乗り出すように姫燐に顔を近付けると、彼女も同じように身体を乗り出して彼の耳元に、

 

 

 

―――それなりの金は払ったんだ。帰ったら満足させてくれなきゃ、嫌だぜ?

 

 

 

 消えそうで、甘く、とろけるような声色が、一夏の鼓膜を震わせた。うずまき管が脳に情報を送り、そして脳がやってきた情報を処理するために回転を始め、今までの経験や彼の中に詰まった情報を照らし合わせ送られて来た言葉の意味と意図を理k………リカ……りり……、

 

 ボンッ!!!

 

 一夏のOSに、深刻なエラーが発生してしまった。

 先ほどの言葉はどうやら、思春期絶賛営業中の彼にとっては、即死レベルのブラクラだったようだ。

 

「ったく、この程度でフリーズかよ。だらしねぇな」

 

 そんな通常の3倍で真っ赤になっている一夏を見て、ニヤニヤが止まらない姫燐。

 本当にいい性格をしている娘である。

 そんな性格のせいで彼との本来在るべきだった関係はここまで歪んでしまったというのに、本人は一向に退かないし媚びないし顧みない。それどころか、どこか開き直って更に過激なスキンシップをするように悪化してしまった。

 まぁ恋人関係になっても変わらず、姫燐は女の子にしょっちゅう浮気してナンパをするわ、以前にも増して平気で盗撮をするわ。それに彼女の中には、今まで軽い気持ちで一夏の心というかボーイの本能を弄びすぎた責任を取っている部分も有るには有るのだが、

 

―――そんな所も、大好きだぜ。一夏。

 

 その胸に秘めた本心は一夏にぞっこんなので、きっと問題無いないのだろう。

 うっすらと顔を赤らめながら、必死にシステムを再起動している一番大好きな思い人を眺め、姫燐は幸せそうに微笑んだ。

 

 

 

                  ☆★☆

 

 

 

「さて、状況を説明するでござる。トーチ軍曹」

「……最悪。どうしようもないでありますリューン3等兵」

「ちょっ! いくらなんでもそれは低過ぎでござらんか拙者の階級!?」

 

 相変わらず下らないコントをキッチンで繰り広げる、もういっそ芸人に転職したほうが良いんじゃないかと思えてくる2人。しかし、状況が最悪なのはシャレでもなんでもない。

 シャケ定食と、うなぎ定食。弾が持って帰って来たオーダーは2つ。

 しかし本来、そのオーダーを叶えるべき五反田食堂を支える大黒柱は、先走ったリューンのせいでゴミ捨て場に送られ不在。

 適当に言い訳して、弾に作ってもらうという案も思いついたのだが、

 

「弾殿は戻ってくるなり、また頭を打ち付ける作業に戻ったでござるし……」

 

 キッチンの奥で、またガガンガガンとさっきよりハイペースで痛い音が聞こえてくる。そろそろ救急車を呼ぶ準備をしといた方がいいだろうか? 白いのも黄色いのも両方。

 かといってオーダーを無視したり逃げ出そうとすれば、直ぐに弾は自分達の背後に人間ワープをしてくるのだろう。まだ自分達はあのカツオの様にマミりたくないので、『投げ出す』という選択は最初からボツだ。

 

「……やっぱり。今からでも回収して謝るべき」

「そうでござるよなぁ……それしか無いでござるよなぁ……」

 

 自分達の扱いは息子である弾に一任しているため彼の父親から説教を喰らった事は無いが、流石に今回は避けて通れないだろう。あの恐怖の説教魔の父……考えただけでも、耳がキンキンと耳鳴りしてしまう。

 

「はぁ……じゃあ、行って来るでござる」

「……達者で。いってらっしゃい」

 

 背中を丸めてリューンはトボトボと裏口へと向かい、ドアノブを捻った所で、

 

「そういえば、トーチちゃん」

「……なに?」

「た・し・か・拙者の記憶が正しければチーム『1人』の失敗は、チーム『全員』の失敗でござったよねぇ?」

「……ッッ!?」

 

 にへら、と思わずマザー・テレサでもドロップキックを叩きこみたくなるような笑みを張りつけながら、トーチの方へと振り向いた。

 

「……少し前。自分は過去を振り返らない女だって言ってたよね」

「人は、過去から学ぶ生き物なのでござるよ。トーチちゃん」

「……レッツゴー。脳外科か精神科」

「プクク……トーチちゃん、唇がピクついてるでござるよ。ド畜生でもいたでござるか?」

 

 今すぐ、自分の足元の棚に収納されている文化包丁を取り出して、口元を押さえて笑う目の前のド畜生以下に跳びかかろうか迷うトーチ。

 

「へっへっへ、こうなりゃ死なば諸共でござる! 拙者は独りだと死んでしまう生き物なので一緒に仲良く説教地獄へ落ちましょうやー!! ヘイヘイヘーイ!!!」

「……分かった。もっとお友達が多い所に送ってあげる」

 

 迷いなんて、あるわけない。

 トーチは即座に棚に手をかけると鈍く煌めく文化包丁を取り出して、半ばヤケクソ気味手を叩いて粗ぶる彼女の脳天目掛け、スローイングナイフと同じ要領で、

 

 ゴガガガガガガゴゴッゴ……ベキグチュバキベキボチュベキボキ………

 

 音が聞こえた。無論、包丁が眉間に刺さった音では無い。と言うかまだ投げて無い。

 どこか遠くで『大きな機械』が動き、そして何か硬い物と柔らかい物が……そう、例えば大きな『骨』と『肉』のような物が同時に潰されたような音が聞こえてきて……。

 

「……リューン。今日は、何ゴミの日、だっけ?」

「……確か……『生ゴミ』……でござ……る……」

 

 弾の父親は、ゴミ捨て場に捨てられた。

 口も身体も縛って気絶させて、外から見えないように黒いビニール袋に入れて、生ゴミを回収する日のゴミ捨て場に。

 驚いた。まだ状況に悪化の余地があったとは。。

 表情から血の気が引いて、一点に定まらないトーチの視線が、冷蔵庫に貼られたゴミ捨て場のスケジュール表に行く。そこには丁度今日、この時間にゴミ収集車がやって来る事が明確に記されており……。

 

「……ふむ、今回は拙者が60%、トーチちゃんが40」

「黙れ! 今回は100%リューンが悪い! ワタシは悪くないッ!!」

「ひっ!」

 

 初めて見る冷静さの欠片も無く半狂乱で声を荒げて怒鳴る相棒に、リューンは軽い悲鳴を上げてしまう。血走った目と今にも飛んで来そうな包丁との追加効果も相まって、完全にキャラ崩壊を起こしている。

 

「お、落ち着くでござるよトーチちゃん! 拙者を仕留めても何も変わらないでござるよ!? 第2第3の拙者がいつか……」

「……そうでもない。少なくともワタシの気分は天晴れ」

「何してんだお前ら……?」

 

 その騒がしさに、店の奥から弾が戻ってきた。……ただ、ノーメイクなのにそこら辺のB級パニックホラー映画に出て来そうな人相になっているが。

 

「おお、メシアよ!」

「……何でもない。すぐに終わる」

「そうも言ってられるかよ」

 

 弾はトーチの手から包丁を奪うと、彼女の脳天に手慣れたように拳骨を叩き落とした。

 

「殺るのは構わんが、外で殺れ。んでウチの包丁を使うな」

「え、ちょ弾殿、アンタなに言って」

「……了解。次からはそうする」

「あと、仕事中に何して……ん?」

 

 足元の違和感に、弾は視線を下におろすと、

 

「なんだ、スニーカーの靴紐が切れてやがる」

「え、あ、弾殿?」

「そういえば昔のマンガにあったよなー。仲間の1人の靴紐が切れたら、何か絶対に仲間が死ぬって奴」

「……だ、弾くん?」

 

 2人の脳裏にそのマンガの、額に『米』と書かれたキャラが浮かぶ。

 そう言えば彼も、主人公の親友ポジションだったような……。

 

「ま、現実にはそんなことある訳無いんだけどな」

「そ、そうでござるよなぁ! あっはっはっは……」

「……あっはっはっは」

「ところで2人共、親父はどこ行ったんだ? さっきから見ないんだが」

「そ、そういえば見ないでござるなぁー! きっと、トイレにでも行ってるのではござらんか?」

「……ワタシにそう言ってたから、間違いない」

 

 本当はもっと別の所に片道特急しているのだが、当然そんなことが言えるわけがない。

 

「ふーん。んじゃ、ちょっと靴代えてくる。あと、逃げるなんて思うなよ?」

 

 最後に念を押すようにドスの利いた声を残し、弾は店の奥へと帰っていった。

 冷汗が止まらない。今でさえこれなのに、あの事がバレた暁にはフェイタリティ程度で済むかどうかすら分からない。

 弾の足音が完全に消えたのを確認した2人は、肩を組み、緊急会議の体制に入った。

 

(どうする!? マジどうするでござるかトーチちゃん!?)

(……とりあえず、今は何とかして誤魔化すしかない)

(誤魔化す……って、何か手段があるでござるか?)

(……勝算はある。ようは、弾くんの親父さんが居るって思わせればいい)

 

 緊急会議終了。

 トーチは肩を解くと、再び別の包丁を棚から取り出した。

 

「ひっ! 結局ソレでござるかぁ!?」

 

 ファイティングポーズを取るリューンを無視して、トーチはキッチンへと立つ。

 流石にリューンも、彼女の目的が自分の刺殺ではなく、もっと別の所にあると悟った。

 

「……リューン。注文は何だっけ?」

「え、確かシャケ定食とうなぎ定食でござるけど……本当にやるつもりでござるか? 料理」

 

 そう、トーチの勝算とは料理人である弾の父親の料理を自分達が作って、ちゃんと生きていることを一時的にでも錯覚させることだった。時間稼ぎにしかならないだろうが、それでもやらないよりはマシである。

 

「でも、拙者達。料理なんてレトルトとか、そんなんしかやったこと無いでござるよな?」

 

 皿洗いも満足にできない自分達に、定食なんぞ作れるのだろうか? トーチの方も料理が得意だなどと聞いた事がない。今溜まっている注文は、あのバカップルのだけなのは幸いだが、それでも2人前だ。

 しかしそれでもトーチはすまし顔で、

 

「……何時から?」

「なに……」

「何時から、ワタシは料理ができないと錯覚していた?」

「……な、なん……だと……?」

 

 初耳であった。コンビを組んでからもう結構が立つが、彼女にこんな特技が隠されていたとは。

 

「……後片付けが苦手なだけ。料理の腕にはちょっと自信がある」

「マジですか! じゃあちゃちゃっとお願いするでござる、トーチ様!」

 

 リューンのおだてに無言で頷くと、トーチは手慣れた手つきで食材を手にコンロに火を付けた。

 

 

 

               ★☆★

 

 

 

「……お待たせしました」

「お、ようやく来たか」

 

 先にできたシャケ定食の乗ったお盆を手に、トーチは姫燐達のテーブルにお盆を置いた。

 

「あれ、君。新入り?」

「……はい。アルバイトです」

 

 五反田一家を除けば、誰よりも五反田食堂に詳しい一夏でも初めて見るトーチの顔に、興味を持った一夏は彼女に声をかけた。

 

「ふぅん、弾の奴も隅に置けないな。こんな可愛い子をアルバイトに雇うだなんて」

「……か、かわいい?」

 

 彼女連れだと言うのにタラシパワー全開である。

 本当に無意識だというのだからタチが悪いが、一緒にデートしている女性からしてみれば失礼以外の何物でもない。一夏の足を踏むなり嫌味でも言って不機嫌になるのが定石なのだが……

 

「まったく、一夏の言うとおりだぜ。ところで、この後予定とか空いてるかな? できれば一緒に買い物とかでも」

 

 男とのデート中だというのに、一緒になって女の子を口説きだす姫燐も大概であった。

 確かに一夏の事は大好きだが、美少女も大好きなのも一切変わらず。あわよくばそのあとお持ち帰りまでと、その腐った脳内で考えているのだから本物である。

 だが、そんな最低な彼女だからこそ、この最低天然フラグ男と上手くいってるのだろう。

 

「……あ、ぅ……し、仕事が、ありますから……」

 

 突然やってきた人生初のナンパに冷静な対処ができず、赤くなった顔を見られない様に俯きながら、トーチはそそくさとキッチンへと戻って行った。

 

「うーん、初心な娘ってのも悪くねぇなぁ」

「相変わらずだな。キリは」

 

 彼女がデート中なのにナンパをおっ始めるのも、今となっては見慣れた光景なので一夏は笑って気にも留めない。本当に変なバカップルである。

 

「だってなぁ、あんな感じに真っ赤になって恥じらう娘って激萌えだろうが?」

「まぁ、確かに。でも、寮でのキリも丁度あんなか」

「わぁーーーーーーーーーー!!!! な、ななな、大衆でなに言い晒してんだこの大バカ野郎ふぁ!!?」

 

 突如として戯けた事をカミングアウトしだした、ド大天然の口を大慌てで塞ぐ姫燐。

 

「む、むぐぐ、なに怒ってるんだよ、もちろんキリの方がもっとかわいぐぇぇぇぇぇ!」

「そこじゃねぇぇぇぇーーーー!!! そういうこと言われると我慢できなくなるってんだこのアホがぁぁぁーーーーーーー!!!」

 

 まだ毒電波を吐こうとする一夏の首根っこを持って、全力で頭をシェイキングして無理やり黙らせる姫燐。自分も相当に色々とカミングアウトしてるのだが、気にしたら負けと言うか爆発しそうなのでスルー。

 

「ぐふっ」

「ったく、バカ野郎が、バカバカバカ……」

 

 一夏が三途の川へと短期旅行に出かけた事を確認して手を離すと、姫燐は怒りと羞恥と興奮で桃色吐息になった頭を冷やすように水を一気飲みし、テーブルに置かれた箸箱から割り箸をとりだした。

 

「ふん、さて……と……?」

 

 気を取り直して割り箸を割り、シャケ定食へ舌鼓を打とうとした手が、止まる。

 

「なんだ、これ……?」

 

 今までナンパと一夏の口封じに躍起だったため、よく確認してなかったが、改めてじっくりと見て、いや、よく見なくてもこのシャケ定食、おかしい。

 

「いや、確かにシャケ定食だがな……?」

 

 お盆の上に置かれていたのはご飯とお茶とシャケだけだった。味噌汁とか副菜が一切ないが、まぁ一応シャケ定食と名乗って許されるだろう。それ『だけ』なら。

 そんな事が霞むくらいに、大問題なのは、

 

「なんで紅鮭が『丸ごと』のってんだよ!?」

 

 お皿からはみ出るくらいに、ドドンと存在感抜群に乗せられた大きな紅鮭。申し訳程度に焼かれているが、だから何だと言うのか? ただ焼かれただけの紅鮭をポンと出されて、「これがシャケ定食です」と言われて、それで納得できる人間がこの世界のどこに居るというのか?

 シャケ定食を頼んだ覚えはあるが、タダの紅鮭を頼んだ覚えは無い姫燐は、立ちあがり厨房へ文句を言いに行こうと、

 

「……お待たせしました。うなぎ定食です」

「あぁ?」

 

 したところで、先ほどの店員が、今度はうなぎ定食を持って来た。

 

「丁度いい、なんだこの紅鮭は」

「……すみません。クレームは後で」

「あ、こらテメッ!」

 

 置く物だけ置くと、こちらのクレームを一切無視して、ダッシュで厨房へと逃げ込んで行ってしまった。

 

「なんなんだ……一体?」

 

 姫燐は一夏ほど五反田食堂に詳しい訳ではないが、決してシャケを丸ごと出すような店では無い事だけは間違いなく言える。

 その疑念を確信に変えるため、置いて行ったうなぎ定食を見遣った。

 

「見た目は……まだ許せるな」

 

 うな重が1つだけ、ポツンと。

 相変わらず副菜などは一切無いし、少し作り雑なような気がしたが、まだ許せるレベルだ。少なくとも定食では無いが。

 ほかほかの白ご飯の上に乗せられた、ボリューム感たっぷりのうなぎのかば焼きに、上からいささか過剰なような気はするが、べったりと塗られた黒いタレが食欲をそそる。

 

「う、うーん……」

「ん、帰って来たか一夏」

 

 姫燐が黄泉道から帰って来た一夏を一瞥しながら、うな重に怪しい所が無いかどうか慎重に目を凝らしていると、

 

「お、もう俺の奴来てたのか」

「あ、おい! 待てっ!」

「んじゃ、ゴチになるぜ姫燐。いただきます」

 

 止めようとする姫燐の声を無視して、一夏は割り箸を割ってパクっと一口、うな重を食べてしまった。

 もぐもぐと無言で口を動かす一夏。それを少しハラハラしながら見遣る姫燐。流石に毒物などは入って居ないだろうが、それでも前例が前例なだけに、懸念がどうにも収まらない。

 

「むぐむぐ……」

「……………?」

 

 しかし、笑顔で口を動かしている彼の姿を見ると、それも杞憂だったのだろうか。

 口内のうな重を飲み込むと、一夏は水を手に取りそれを浴びるように一気飲みして、

 

 ズガァン!

 

 コップをテーブルに叩きつけた。

まるで撃鉄が雷管を叩きつけた様な、凄まじい音が店内に響く。

 コップは粉々に砕け散り、持っていた一夏の手の平にも無数の破片が刺さって、痛々しい鮮血が流れているが……

 

「い、一夏……?」

「ん、どうしたんだよキリ? 俺の顔に何か付いてるか?」

 

 その当の本人は、不気味なまでに涼しげな笑顔を浮かべていた。

 本人のイケメン具合も相まって、まるで雑誌のトップを飾る二枚目アイドルような風貌をかもし出しているが、姫燐にはそれが感情を完全に押し殺しきった、般若面のように見えてしかたがない。

 

「だ、大丈夫か……? その、手とか、他にも色々」

「ん、ああ、ゴメン。水、かからなかったかキリ?」

 

 そこじゃない、そこじゃないんだ一夏さん。

 

「なぁキリ。悪いガ、先に寮ニ帰っててクれるカ?」

「お、おい一夏? お前なに言って」

「本当にスマン。だケど俺はチょっと、弾とオ話するこトが出来ちマった。食材ヲ侮辱シた罪ヲ贖罪サセナクくハ」

 

 どこか危うい発音と共に採光が消えた瞳で立ち上がり、キッチンへと向かう一夏。

 怒ってる。それも、今まで見たことが無い程に怒ってらっしゃる。

 普段キレない奴がキレると、無茶苦茶怖いというのはどうやら真実であったらしい。

 姫燐は思い出す。普段はどこか抜けているし、ヘタレで天然ジゴロな一夏だが、その姓は織斑。そう、彼はあの人類最強のブリュンヒルデと同じ血を分けた姉弟。

 そして今、彼の中で眠っていた織斑の、阿修羅すら凌駕する戦闘民族の血が覚醒を迎えているのだ。

 クリ○ンが死んだわけでも無いのにいったい、何が彼の織斑の血を……いや、原因は分かってる。

 

(あのうな重、何が入ってたんだよ……!?)

 

 一夏は料理が上手い。

 姫燐もご馳走になったことがあるが、その手腕は下手な食堂とかで食べるよりもよっぽど美味であった。IS操縦者になるよりも、コックとか家政婦のほうが絶対にコイツに向いていると断言できる程に。

 そして彼は、絶対に食材を無駄にするようなことはしない。この前も、普段は捨てる様な余った部位を、一級品の料理に生まれ変わらせた時は惚れ惚れしたものだ。

 本人に理由を尋ねたところ、「ただの貧乏性だ」と笑っていたが、貧乏だった過去のことも関係しているのだろう。一夏が食材に、人一倍の敬意と感謝を持って接していることがよく分かる一時だった。

 だからと言って、ここまで怒り狂うとは完全に予想外だったが。

 

「待て待て! 落ち着け、れれれ冷静になれ!」

「贖罪か断罪か贖罪か断罪か食材か洗剤か贖罪か断罪か贖罪か断罪か贖罪か断罪か」

 

 完全にぶっ壊れた一夏の服を掴んで静止させようと努力するが、ヤミノナカオリムラノイチニメザメルイチカのパワーの前には敵わず、ずるずると引きずられてしまう。

 彼女の努力も虚しく、一夏はキッチンへと続くのれんをくぐり、

 

「あのうな重を作ったのは誰だあっ!?」

 

 どっかの雄山のような雄たけびを上げた。

 キッチンを潜った先に居たのは、本来居るはずの弾でもその父親でもなく、

 

「あ・れ・ほ・ど・余計な事はするなと言った!」

 

 激怒に目を血走らせ、歯を剥き出しにして包丁を手に暴れ回る先ほどのロリウェイターと、

 

「ギャーー―!!! お、お許しを! 次こそは必ず! 必ずや!」

 

 真剣白刃取りでその包丁を受けとめながら、毎週正義の味方にやられては許しを請う悪役の様にあやまる、見知らぬ女性の姿だった。

 

「黙れ、少しでも反省する気があるならここで死ね! 死んでワタシに害を及ぼさない生物に生まれ変われ!」

「そんなつもりは無いでござる! せ、拙者はただ、トーチちゃんが運びに行ったから代わりに仕上げを……」

「だ・か・ら、醤油をぶちまけたのか!?」

「醤油ではないでござる。無かったから、偶々あったそこの黒いのを代用に……」

 

 そう言って、首を調理台の上に置かれたビンへと首を向けるリューン。

 そこのラベルに書かれたのは、

 

「黒酢じゃねぇか、アレ……」

 

 確かに黒いのは黒いが、後の共通点は液体であること位である。

 黒酢をかけたうな重が美味な訳が無い。一夏がキレた理由もよく分かる。

 

「大体トーチちゃんもトーチちゃんでござる! なんでござるか、自信満々に料理が出来ないといつから錯覚していた(キリッ)とか言っときながら、やったのは紅鮭を焼いて乗せただけではござらんか! うな重も冷凍の切り身乗せただけでござるし!」

「大丈夫。大抵のモノは焼いたら食べれるから問題ない」

 

 果たして、それを調理と言っていいのだろうか?

 頭が悪すぎる見慣れぬ少女たちのコントに、姫燐がどうしたものかと頭を悩ませていると、

 

「おい、お前ら」

「あ、なんでござ……る……?」

 

 一夏の底冷えする様な一声に、ようやく彼等の存在に気が付いたのか、トーチとリューンは彼等の方を向くと、一瞬の硬直の後、お互いに顔を合わせアイコンタクトで同時に頷く。

 そしてトーチはリューンの背後に回ると首筋に手を回し、包丁を動脈に突き付ける。

 そう、あのよく銀行強盗とか、追い詰められた殺人犯がよくするあのポーズである。

 

「あーれー! お助けでござるー!」

「……動くなー。人質がどうなってもいいのかー?」

 

 心の底からどうでもいい。

 姫燐はズッコケるのを我慢しながら、偏頭痛がし始めた頭を手の平で押さえるのが精一杯だった。

 身長に差があるせいで背伸びをしないと届かないのか、犯人役は生まれたての小鹿の様にプルプルしてるとか、人質役マジで誰だよとか、つかさっきお前ら仲良くケンカしてたよなとか、突っ込み所が多すぎる。

 流石の一夏も、これにはポカンとするしかないようだった。

 

「……ふははー。道を開けろー、早くしないとこの娘が傷モノになるぞー」

「いやー、お助けー、ってトーチちゃん? あの、マジでちょっと刺さってるんでござるけど……?」

 

 本当にどうしようか?

 余りにシュールな光景に、姫燐と一夏は顔を見合わせて首を傾げ合うしかなかった。

 そしてチャンス到来とばかりに彼女達は裏口までチョコチョコと後ろ歩きし、外へ出ようと後ろ手でドアを開け自由への逃走を始めようとした。

 

「……待て、どこへ行く?」

 

 だが、彼女達は失念していた。

 

「誰が、何時、どこで何時何分何秒何周期」

 

 敗因はシンプル。自分達に立ち塞がる障害は、1つでは無かった事を忘れていたこと。

 

「仕事を、終えていい。と言ったんだ? この虚弱貧弱無知無能アルバイト共が」

「ご、五反田……」

「……だ、弾くん」

 

 自分達が繋がれた鎖を握る飼い主を、五反田弾の存在を……すっぱりと忘れていたことだった。

 

「さて、どんなお仕置きがいいんだ? 貼り付け? 石座布団? 逆さ釣り? 何でもいいぜ?」

「あわ、あわわわ……」

「……オ、オワタ」

 

 営業スマイルを浮かべながら、手をバキボキと鳴らしてゆっくりと怯える彼女達に近付いて行く。今頃、弾の脳内では2人共、見るもおぞましい拷問にかけられているのだろうか。

 

「お仕置き……美少女2人を……マジで……?」

「き、キリ……?」

 

 そんな光景を見て、あふれ出る鼻血を押さえながらハァハァする姫燐。今頃、彼女の脳内では2人共、弾の手によって見るもR―18な拷問にかけられているのだろうか。自重しろ。

 

「弾! 今すぐオレと交代しろ! そのヘブンにオレを導いてくれ!!!」

「姫燐ちゃん、なに言ってんの……?」

「大丈夫だ! ちゃんと首輪は専門の所に行って買ってくるから! アンタのペットの首筋がかぶれる心配はない!」

「キリさーーーーーん!? お願いだから帰って来て!」

 

 本当に何言ってんだろうか、この本編主人公は。

 全開で全壊な姫燐に、ドン引きする男子組。その弾達にとっては致命的な隙を、自分達にとっては千載一遇のチャンスを見逃す2人ではなかった。

 

「ふっふっふ、残念でござったな。弾殿」

「なっ、お前ら何して……ッ!?」

 

 弾の首筋に、冷たい感触が走る。

 いつの間にか包丁はリューンの手に渡っており、そして先ほど自分がされていたのと全く同じポーズを弾相手にしかけていた。

 

「なっ、弾!?」

「……動くな。動くと弾くんの命は保証できなくなる」

「くっ、テメェら……!」

 

 トーチの一言に、飛びかかろうとしていた一夏と姫燐の足が止まる。

 姫燐は心の中で己の失態を嘆く。いくらアホそうでも、コイツ等は不審者。このご時世に店に不審者が乗り込んできたなら、やる事なんぞ容易に想像が付くというのに完全に後手に回ってしまった。

 

「……これは何のマネだ? アルバイト共?」

「弾殿、確か最初に言ったでござるよな? 拙者達はエージェントだと」

「だから、何だってんだ?」

「……明確。エージェントは、状況の打開に一番確実な手を選ぶ」

「残念ながら、そこに人道とかそういう甘いのは、お払い箱なんでござるよ」

 

 耳元で、聞いた事が無い冷酷な声色でささやく。

 弾は思い知る。今まで自分が全て知っていた気になっていたのは、彼女達の上っ面だけだという事に。その真実の裏側に、自分は一度も踏み込んだ事がなかったことに。

 

「さーてと、それじゃあ未来への撤退の続きと参るでござるか」

「……了解」

 

 ずるずると弾を引きずりながら、裏口へと向かう2人を、一夏達はもどかしさを感じながらも見送る事しかできない。鎮圧そのものならISを使えばあっという間だろう。しかし今下手に動いてしまえば、弾の身が危ない。

 

「クソッ、あいつ等!」

「焦るな一夏、まだチャンスはある。だからまだ……!」

 

 口では彼女も平静を装いつつも、額から焦りの汗がにじんでいる。

 

「それでは、もう会う事も無いでしょうでござる」

「……アデュー」

 

 別れの言葉を呟きながらトーチは裏口のドアノブを捻り、ドアを押してとうとう自由な外の世界へと……

 

 

―――タンタタン♪ タタタタンタタン♪ タタタ、タタタンタタタンタタタンタタタンタ、タ、タ、タタン♪

 

 

 旅立とうとした途端、謎の軽快なBGMが店内に響き渡った。何だか、おい肉焼いてんだから蹴るなよとか、何で3rdでは生肉が売って無いんだとか、そんな感情が湧きおこるテーマだ。

 余りに唐突で前フリが無い不意の一撃に、ピタッと全員の時が止まる。

 

「……何だ、今の?」

「誰かの着メロか……?」

 

―――……ウルトラ上手に、焼けピッ、

 

「……もしもし」

 

 少し鬱陶しげにポケットから、携帯電話を取りしたトーチ。

 どうやら、彼女の着メロだったようだ。

 

「あ、はい……何でしょうか、ボス」

(ボス……ってことは奴等の元締めか? 組織的なグループってことか)

 

 姫燐の手のひらが嫌でも汗でにじむ。

 態度こそふざけてはいるモノのこのロリっ娘、電話しているというのに一分の隙も見せない。そんな奴等の元締め……中々に出来る奴のようだ。

 

(何でこんな奴等が五反田食堂に? いったい、どこの組織なんだ……?)

 

 これで彼女達が『酢豚の中のパイナップル推奨委員会』のエージェントだと知ってしまったら、姫燐の精神衛生上とてもよくない事が起こってしまうだろう。L5的な感じに。

 

「はい……はい、申し訳ありません。今すぐそちらに戻りま……え?」

 

 淡々と応答をしていたトーチの表情が固まった。

 何と言うか、全クリしたと思ったら「ご苦労だった……と言いたいところだが、君達には消えてもらう」と言われた時のような驚愕と茫然が支配している時の顔である。

 

「え、トーチちゃん? ボスは何て言ってるでござるか?」

「…………ボスが話したいこと……あるって……」

 

 トーチはギギギ、と油の切れた機械のような動きで携帯をリューンの耳に当てる。

 そのボスとやらの声が、弾の耳にも微かだが聞こえてくる。

 

「あ、もしもしボス? 今から帰るんでお土産は」

『もしもしリューンちゃーん? 君達クビだから♪』

「…………はぁ!?」

 

 般若のようなCVで、彼女達のボスはいきなり死刑宣告を言い渡した。

 

『簡単に言うと、もういらないからそこら辺で野垂れ死んでねってことなのだよ~』

「ちょ、ちょ待って下さいでござる! 拙者達のどこに落ち度が!?」

『今まで落ち度が無いと思ってた方が、天才の私でもビックリ』

 

 その点については、たった数日間だけ上司になった弾でも、嫌というほど同意できる。

 

『最近不況の波がウチにまで来ててね~、それでいらない産廃を切ろうかな~って♪』

「産廃扱い!? つーかあんたこの前、ISに全自動たまご割り機つけるオプションパーツで思いっきり儲けてたでしょ!」

「誰が買うんだよ、んなもん……」

「…………ごめん、弾」

「一夏!!?」

 

 居た堪れない表情で俯く、とても身近な所にいた購入者。

 彼女である姫燐も知らなかったのか、狼狽を隠せてない。

 

『とにかくもう君たちはクビだから、これからの就活がんばってね~♪』

「おんどりゃ! 待てこのクソ般に……ゃ……ぁ……」

 

 ツーツーツー、と無機質な音しか鳴らなくなった携帯をトーチが仕舞うと同時に、リューンは弾を解放した。

 

「弾! 大丈夫か!?」

「ああ、俺は大丈夫だ……」

 

 が、明らかに大丈夫な様子では無い元エージェント、現無職が2人。

 

「は、ハはっ……無職……ニート……ハロワ生活……」

「ワタシ達帰れる所ない……こんなに悲しい事はない……」

 

 茫然自失で棒立ちして、うわ言を呟く2人に、呆れるしかなかった姫燐も、怒っていた一夏もなんだか同情的な気分になってくる。

 しかし、そんな事もお構いなしな被害者が一人居た。

 

「おい、アホ共」

「……へ、うごッ」

「……痛ッッ」

 

 弾は、2人の首元を掴んで締め上げる。その双眸は、確かな怒りで揺れていた。

 

「だ、弾、女の子相手にやりすぎじゃあ……」

「そうだぜ五反田。気持ちは分かるが、互いに落ち着いてからでも」

「バカップルは黙ってろ。これは五反田食堂の問題だ」

 

 2人の意見にも馬念通風で、更に首元を締め上げる弾。

 

「さて、お前ら。覚悟はいいだろうな?」

「「……………」」

 

 2人共目を閉じ、やって来るであろう運命をただ受け入れる姿勢に入る。

 処遇はよくボコボコの後にブタ箱、悪くてデッドエンドであろう。

 しかし、それも案外悪くないかもしれない。行き場所も帰る場所も失った以上、自分達は言わば迷い子なのだから。彼が行き道なり、逝き道なり示してくれるなら、寧ろ感謝して然るべきだ。

 腹を括った2人を交互に見遣りため息を1つつくと、弾は、叫んだ。

 

 

「こんのバッカ共がッ!!! アルバイトは延長だ、今日から一生ウチでタダ働きでこき使ってやる!!! わかったな!!?」

「……え、弾殿?」

「……それって、わっ」

 

 

 言うだけ言うと2人を離し、流し台から石鹸とスポンジを持って来て、

 

「ほれ、今までサボってた分さっさと働け!」

 

 それぞれ、リューンとトーチに投げ寄こした。

 

「え、え、え?」

「……理解不能。なんで?」

 

 戸惑う2人を余所に、弾はテキパキと溜まっていた仕事を片付けながら口を開く。

 

「最初はしばいて海にコンクリ詰めにしようかと思ったが、それよりもウチで無給でタダ働きさせたほうが効率的で生産的だって気付いただけだ。拒否権なんざ、当然ないぞ」

「で、でも拙者達……弾殿のお父上を……その……」

「……まさかとは思うが、アレもお前達がやったのか?」

 

 そう言うと、弾は親指をキッチンの一角へと向けた。

 そこには、

 

「!!??!?!??」

「……お、オバケ、幽霊怨霊自縛霊ッ!!?」

 

 元気に調理に勤しむ、弾の父親の姿が!

 

「お、おじさんいつのま間に……!?」

「ご、五反田の親父さん、さっきまで居なかったよな!?」

「な、なんで!? どうして生きてるんござるか!?」

 

 死んだはずの存在が目の前に現れるだなんて、チープだが実際に起きてしまえば、心臓が弱い人なら即停止しかねないイベントに驚きを隠せない。

 

「さっき、ゴミ捨て場から変な音がしたから行ってみれば、黒いビニール袋が回収不可のシールを張られて捨ててあったんだ。デカイし重いし、何を詰め込んだのかと確認してみれば、親父が入ってた……何を言ってるか分かんねーかも知れんが、俺も意味が分からなかった」

 

 最近は、市が指定したビニール袋しか回収してもらえない事が、ここに来て思わぬ幸運を呼び込んでいた。

 

「じ、じゃあ、拙者達」

「……ここに、居ていいの?」

「何度も言わせるな、無駄口叩く暇があるならとっとと仕事しろ」

「っッ……弾殿ぉぉ!」

「……一生ついてく」

「う、うっとおしい! 離れろお前ら!」

 

 後ろから2人に抱きつかれて、思いっきり慌てふためく思春期。見ていて微笑ましくなってくる。

 

「これにて一件落着、でいいのかな、キリ?」

「ん~、いいんじゃねぇの?」

 

 涙を浮かべながら弾に激しく抱きつくリューンと、安らかな笑顔を浮かべて静かに抱きつくトーチ。口ではウザがりながらも、赤くなりながら満更でもなさそうな顔をしている弾。

 

「本人達が幸せならそれで、さ」

「ああ、そうだな」

「ところで一夏、」

「どうした、キリ?」

「んっ」

 

 ぎゅ、とキリも情熱的に一夏に抱きつくと、そしてその唇に、ふっ、と軽いキスをした。

 

「なっ、なななな! キ、キリ!? なんで、ここじゃあいくら何でも」

「いやな、アイツ等見てたらな、オレもそろそろ我慢が限界になって来てな、はははのはー」

 

 口では笑っているが、目は一切笑っておらず、一言で言うなら彼女の瞳は今、獲物を狙う狩人のソレそのものであった。

 

「な、ええやろ? ほんまええやろ?」

「キ、キリちょま、シャレになってな」

「大丈夫大丈夫、死角になる場所なら知ってるから、な?」

「いや『な?』じゃなくてあ、待って、だれか、弾助けアッーーーー!」

 

 ……その後、キッチンの隅で掃除をしていたトーチが『白くべたつくなにか』を見つけ、弾にそれの正体を訪ね、また一悶着起こってしまうのは、ここではちょっと語れない余談である。

 

 

 

                 ☆★☆

 

 

 

 五反田食堂には、2人の住み込みのタダ働きがいる。

 

「トーチちゃーん、椅子は全部下ろしたでござるかー?」

「……完璧。開店準備に抜かりは無い」

 

 そしてそれを監督する、五反田家の長男。五反田弾。

 

「ふん、ようやく仕事を覚えて来たじゃないか」

「ふふん、拙者達は一分一秒、そしてこの瞬間にも成長してるでござるよ」

「……だからこそ言える。今のワタシ達は、昨日のワタシ達より、もっともっと優秀」

「へぇへぇ、御託はいいから……開けるぞ、準備はいいな?」

「無問題、でござる!」

「……バッチ来い」

 

 そうして、ドアのカギを開くと、さっそくやってきたお客を、弾達は笑顔で迎えた。

 

 

 

『いらっしゃい! 五反田食堂へようこそ!』

 



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第8話 「白式、起動」

 夜、IS学園寮の一室に無機質なタイピング音が響く。

 明りが消えた部屋で、怪しく光を放つディスプレイ。時折聞こえる、マウスをクリックする時のカチカチ、といった独特のプッシュ音。カリカリ、と高速で雪崩れ込む情報を素早く処理していくハードディスク。

 そのパソコンの持ち主、朴月姫燐は一心不乱に机へと向かっていた。

 少し疲労が浮かんでいる双眸は右から左への往復のみを繰り返し、眠気対策のために入れておいたホットコーヒーはすっかり冷めてしまっている。

 

―――今日までに、仕上げなきゃな。

 

 授業が終わり、友人たちに別れを告げた後、姫燐は夕食すらとらずにずっとパソコンの前にかじり付いていた。理由は簡単、必ず出さなければならない『報告書』の期日が目前まで迫っていたからだ。

 面倒とはいえ、ミッションを円滑に進める為の必須作業だ。

 怠っていざという時に「情報不足でした。お許しください」。では、済まされない。

 それほどまでに、このミッションの重要性は大きいのだ。

 

「……次」

 

 1つの作業が終わり、また別の、今度は第三アリーナのデータを打ち込んでいく。

 広さ、詳細構造、監視カメラ、出入り口の数、緊急時のセキュリティ、脱出ルートetc……

 セシリアとの戦いや、一夏との訓練ついでに集めたデータに加え、後日みずから調べ上げた情報を頭の中でまとめ、無表情でキーボードを弾いていく。

 

「ふぅ……」

 

 そしてそれが一段落ついたところで、ようやく姫燐は背もたれに背中を預けると、完全に冷めきったコーヒーを飲んで、気分転換の一息をついた。

 我ながら、あくどい事をしている。

 クックック……と笑いをかみ殺し、彼女はディスプレイに映る、完成した第三アリーナの詳細なデータを改めて見直す。

 これなら、滞り無くミッションは成功するだろう。

 自惚れではない。何度頭の中でシュミレートしても結果は常に同じ。不測の事態も考えられない訳ではないが、それでも彼女達ならきっと上手くやってくれるはずだ。

 

「パーフェクト……完璧、だな」

 

 あとは、コイツを本部へと送信するだけなのだが、別にこのコーヒーを飲み終わる位のロスがあっても誰も文句は、

 

 ―――コンコン

「姫燐……居るか?」

「ッ!!?」

 

 背後から響いた第三者の声とノック。一夏では無い、女性の声だ。

 そして、自分のことを『姫燐』と呼ぶ人間は、この学園に1人しかいない。

 

「んー箒かー? すまーん、ちょっと待ってくれー」

「あ、ああ……」

 

 焦りを殺し、平常通りの声を出したつもりだったが、問題無かっただろうか。

 激しく警鐘を鳴らす心臓を無理やり黙らせ、驚いた衝撃で少しこぼしてしまったコーヒーを忌々しげに机の上に戻し、マウスをいじってデータを保存。そして、ウィンドウを閉じる。これで、問題無い。大丈夫だ。

 姫燐は立ち上がるとドアのカギを開け、突如やって来た来客を出迎えた。

 

「どうしたんだ、こんな時間に珍しい」

「少し……話したい事があってな……」

「話したいこと?」

 

 こんな時間になんだ、と一瞬思案するが、彼女が自分に相談しそうな事と、赤くなった―――おそらく、先ほどまで泣いていたのであろう眼が、姫燐に大体の察しをつかせた。

 

「まーた一夏と何かあったのか」

「っ!? な、な、な!?」

「わっかりやすい奴だなぁホント。とりあえず入れよ、誰かに聞かれちゃ嫌だろ?」

 

 エスパーでも見る様な視線で自分を見る彼女に、姫燐は呆れのため息を付きながら箒を部屋に上げた。

 箒にはベッドに座るように言い、向い合う形で姫燐は先ほどまで座っていた机の椅子に座る。

 

「で、今度は何があったんだ?」

 

 一昨日、あのショッピングモールで起こした事件のあと、トレーニングも姫燐が監修を入れることで、以前より遥かに現実的なモノに改善されたし、襲撃のことも後で箒から聞いたのだが、何も言わずにサボった自分にも非があったため、一夏はあっさりと彼女を許したそうなのだ。

 これにて一件落着……な筈なのに、昨日の今日でなんでまたこじれるのだろうか?

 ギャルゲーでもこんなに短期間にトラブルは続かねぇよ、と心の中で呆れながらを付きながら、姫燐は箒の話を聞く。

 

「実は……だな、その……むぅ……」

 

 あまり他人に、自分の心情を語ることに慣れていないのだろう。

 顔を赤くして、自分の気持ちをどう言葉にすればいいのか考えあぐねて、じっくり1分ちょい。

 まだ時間がかかりそうだな。と、姫燐は残ったコーヒーを一気に口に含み、

 

「今日……だな、一夏に告白したのだが……」

「ブフゥッ!」

 

 全部、壮大に噴射した。

 

「ま、まーた、ずいぶんと思いきったな……」

「やっ、やれと言ったのは姫燐の方ではないか!?」

「…………あ」

 

 そういえば、そんな事をノリと勢いで口走った記憶が薄らと。

 しかし、どうやら彼女の一生一代の大勝負は、パッピーエンドには終わらなかったらしい。

 もしここで箒の告白が成功しているなら、彼女の眼が赤く腫れることは無いし、実は成功した嬉し涙でした。というオチがありえないのも、その沈み切った表情から推して知るべしだろう。

 

「まぁ……オレはそんな経験が無いからなんて言えば良いか分かんねーけど……いい男ってのも一夏だけじゃないんだ。そう落ち込みなさんなって。それに少し視野を広げれば同せ……」

「い、いや、決してふられた訳じゃないんだ。ふられた訳じゃ……」

「……ふられたんじゃない?」

 

 はて、どうにも腑に落ちない。

 姫燐が知っている告白というイベントには、結ばれるか、ふられるかの2種類しか結末が無い。

 ―――まさか、逃げられた?

 いや、箒のベン・ジョンソンな脚力なら、いざとなれば無理やりにでも一夏を取り押さえることができるはずだ。それに姫燐の記憶では、アイツはそこまで救いようが無いヘタレではなかった様に思える。

 

「じゃあ、どうしたってんだよ?」

「……なぁ、姫燐」

「ん?」

 

 箒は俯きながら胸に手を置くと、一度息を大きく吸って、吐いて。

 そうして顔を上げ、熱っぽく、それでいて憂いを秘めた表情で口を開き、言葉を紡いだ。

 

 

「……篠ノ之箒は……あなたのことが、好きです」

 

 

 その呪詛は姫燐の耳から侵入し、彼女の脳へと到達すると、一瞬にして身体を制御する全神経を犯した。

 理解不能、解読不能、規律不能。

 五体に一切の力が入らず、椅子から転げ落ち、思いっきりフローリングの床に顔面を打ちつける。興奮と強打でボタボタと紅い雫が鼻から滴るが、それを意にも関せず姫燐は何とか立ち上がろうと四つん這いになり、ふと途中で先ほどの言葉をリフレインさせて、

 

「我が一生に一片の悔いなしッ……!」

 

 そのまま紅いアーチを作って、仰向けに倒れた。

 

「き、姫燐!? どうした、姫燐!?」

「へ、へへっ、わ、悪いな箒。どうやら、オレはここまでらしい……」

「な、何が!? 何がここまでなのだ姫燐!?」

「この姫燐、天に帰るのに人の手は借りぬ……」

「姫燐、まて逝くな! きりぃぃぃぃぃん!!!」

 

 そうして意識を手放した姫燐の寝顔は、大業をやり遂げた漢の顔だったと、後の世は語ったという。……訳もなく10分後。

 

「と、いう夢を見たんだ」

「いや、夢ではないぞ……」

 

 ベッドに寝かされた姫燐が意識を取り戻した直後、今までのことを全て夢で片付けようとした彼女に、即座に箒のツッコミが入る。

 

「ふぅ……悪いな箒、いやマイワイフ」

「……本当に大丈夫か、色々と」

 

 若干、本気で引かれているのにも気付かずに、まだ頭の悪さが止まらない姫燐。

 

「いやいやだってねようやく緻密に練って来たけど半分以上諦めかけてたフラグを回収できたんだよ? この喜びを何に例えようか例えば3本買って来たアイスが全部当たりだった時と例えようかアレしょぼくね? と君は思うかもしれないが以外とこういう小さな喜びから人類は宇宙にエントロピーを」

「さっきの言葉を!! 今日、私は一夏に言ったんだ!!!」

「……へ?」

 

 いい加減に苛立ちが募った結果、思わず大声で姫燐の電波を無理やり遮ってしまう箒。

 

「……ああ、そうだよな……そんなこったろうとは思ってたんだけどな……」

 

 言葉の冷水をぶっかけられ、ベッドに俯けに沈む姫燐。

 ブツブツと枕に小言をぶつける彼女に、箒は傷付けてしまったのだろうかと、人付き合いに慣れない自分を恨むが、完全に杞憂である。その証拠に、次の瞬間にはもうケロッとした様子で、

 

「で、さっきの言葉を言ったんだよな。一夏の奴に」

「そ、そうだ……確かに言ったんだ。だが……」

「まさか、あのバカ。『ああ、俺も好きだぜ箒。俺達、最高の幼馴染だよな!』とか、ほざいたんじゃ……ああ」

 

 なんで知っているのだ。と口よりも雄弁に語る箒の表情に、全ての合点がいった。

 些細な違いはあれど、どうせ似たような事を言ったのだろうあの大馬鹿は。

 この前のデートで少しはマシになったと思っていたが、箒へのこの仕打ちを見るとなぜか以前よりも酷くなったようにすら思えてくる。

 あれだけのど真ん中直球ストレートで決めても討ち取れないとくれば、実はあの男は自分と同類で、同性にしか興味が無いのかとすら錯覚してしまう。

 

「なぁ、姫燐、教えてくれ。私は、これ以上どうすればいいのだ……?」

 

 涙を浮かべて、姫燐に答えを問う箒。

 ハッキリ言って姫燐の方がその答えを聞きたい位だが、まだ具体案が思いつかない以上、下手な助言はできない。しかし、今すぐにやらなくてはいけないことだけはハッキリしている。

 姫燐はゆっくりと立ち上がると、

 

「なぁ箒、オレはハッキリ言って男との恋愛経験は無いから、ここまでどうしようも無い奴の振り向かせ方は分からない。けど、また考えておくから今日はここに泊っていきな。アイツと顔合わせ辛いだろ?」

 

 おもむろにタンスの中を漁り、麻袋と丈夫な縄と金属バットを取り出した。

 

「その提案は有難いが、その、それは一体、なんだ? 何をするつもりなんだ」

「ん、ああ。オレは今から、ちょっと」

 

 にぃ、と凍える様な笑顔を姫燐は浮かべて、

 

「人狩り、行って来るわ」

 

 バタン、とドアを閉めた。

 翌朝、女子寮にある噂が立ちのぼる。

 深夜、肉が潰れる音と一緒に、必死に抵抗するような物音と、痛みに呻く、くぐもった苦悶の声が、どこからか聞こえてくるという……。

 

 

 第八話 「白式、起動」

 

 

 クラス代表戦が数週間後に控えたある日の放課後。

 姫燐達は、数日前にようやくやって来た一夏の専用機、「白式」のテストを兼ね、もうすっかりおなじみの第三アリーナに集まっていた。ちなみに今回はちゃんと正式な手続きを踏んで使っているため、余計な事を心配する必要も無い。

 代わりに、個人ではなく「1年1組」として登録せねばならなかったので、余計な人員はいくらか居るが……その様な事を一々気にしていては、年が明けても訓練なんぞできないだろう。実際に彼女達が確認した、アリーナ使用のスケジュール帳もそう語っていた。

 クラスメイト達が放つ好奇目線の集中砲火に居心地の悪さを感じながらも、姫燐と一夏は予定していた訓練を開始した。

 

「うっし、一夏。起動してみろ」

「ああ、こい……白式!」

 

 姫燐の声に、アリーナの真ん中で特注の男用ISスーツに身を包んだ一夏は眼を閉じ、掛け声と共に右腕を突き出すポーズを取る。

 ISという兵器を扱うにあたって最も重要な要素は、イメージである。言いかえれば想像力とも言えるだろうか。

 兵器としてそれはどうなのか、と聞かれれば、こちらも小首を傾げるしかないが、実際問題そうなのだから仕方ない。

 装着する際、このISという兵器はどういう仕組みか所有者の意思意図を読み取って、瞬時にその装甲を展開、装着することができる。その時、所有者の頭には『その装甲を呼びだして装着する』という意思が発生し、その工程をイメージしなくてはならない。

 当然、イメージが速く、精確であればあるほど装着に時間を浪費することはなく、時を無駄に削らないという事は、古今東西いかなる状況においてでも非常に喜ばしい事である。

 その点では彼、織斑一夏は中々に優れた才覚を持っているようだった。

 右腕に装着していたガントレットから出た、光の膜が彼の全身を包む。

光は徐々に激しさを増し、腕、脚、胸、肩、頭。五体の全てに白の、汚れ無き雲を思わせるほどに真っ白な装甲が展開されていく。

 そして光が収まった先に立っていたのは、世界最強の装甲を身に纏う事を許された、世界唯一の男の姿。不覚にも、姫燐はその姿に一瞬見惚れてしまった。それ程にこの機体は、雄大で、力強く、美しかった。

 

「これが……俺のIS」

 

 その名に相応しい白となった両腕を、まじまじと見つめる一夏。

 自分が憧れる強さ、その結晶とも呼べる最強の現代兵器。

 彼の、織斑一夏のためだけに創造された、インフィニット・ストラトス。

 

「白式……か」

 

 いやがおうにも、やかましい心臓の動悸が止まらない。

 この時、周りにいた女子達のまるで街かどでアイドルにでもであったかのような喚きも、一切一夏の耳には届いていない。

 今、この世界に居るのは自分と、白式だけ。

 そんな錯覚すら覚えるほどに、一夏は興奮を覚えていた。

 

「うっし、上出来だ一夏。んじゃまずは、武装の確認から……おい、聞いてんのか?」

「え……あ、ああ。悪りぃキリ」

 

 姫燐の声によって、ようやく現実へと戻って来た一夏は、言われた通り白式に積まれた武装を確認しようとして、

 

「……なぁ、キリ」

「やらせたい事をイメージしろ。大体のことは、それだけで出来るようになってる」

 

 彼の質問を予想していたのだろう。要件を聞く前に答えを言う彼女に、敵わないなぁ、と少しバツを悪くしながら、一夏は頭から機体へ、伝令を走らせる。

 

(この機体の武器は……何だ?)

 

 白式は主に対する返事の代わりに、一夏の目の前に薄く青いディスプレイを展開させる。

 

(おお……)

 

 数週間前までは、普通にボタンを押したりしなくては言う事を聞かない機械しか扱った経験が無い一夏にとって、このISという機械は、非常に感動的な代物であった。……掃除機と、現代最強の兵器を比べるのも、色々とアレなモノだが。

 そんな庶民的な感動もそこそこに、一夏はディスプレイの内容に目を走らせる。

 まず、最初に目に飛び込んできたのは、独特の形状をもった日本の魂。

 

「ほぉ、刀か」

「これ……千冬姉の……」

 

 一夏は、この刀に見覚えがあった。

 自分の姉、織斑千冬が優勝を果たし、その名を全世界に知らしめたISの世界大会。第1回モンド・グロッソで操っていたIS『暮桜』が扱っていた刀。

 ディスプレイに、その名が浮かぶ。

 

「雪片弐型……千冬姉の武器……」

「へぇ、出してみろよ一夏」

「あ、ああ」

 

 姫燐に言われるがまま、一夏はその手を伸ばして、

 

「キ」

「イメージだ」

 

 もう少し人の話を聞いてくれてもいいのではないか。と、少し拗ね、同時に自分が聞きたかった答えであることに妙な悔しさも覚えつつ、それらを邪魔だとふり払い、一夏はまた想像する。

 己の手に意識を、切り裂く刃を、姉と同じ力を……!

 瞬間、装着したときと同じような光が手から棒状に伸びていき、鍔の無い刀の形を形成すると同時に、弾ける。

 光が弾けた場所には、先程までは姿形すらなかった一本の刀……『雪片弐型』がしっかりと握られていた。

 この機体を作ったのは誰だか知らないが、味な事をしてくれる。

 自分が憧れた力、自分を守り続けてくれた力、自分の大切な家族を守り続けてきてくれた力。それと全く同じ物を、自分に授けてくれるだなんて。

 一夏の口元が緩んでしまうのも、無理らしからぬことであった。

 

「……弐型ってことは、スキルもアレってことか……? だが、あんなもんトーシロには……」

 

 対象的に姫燐は雪片を見て、難しい顔でなにやら独りブツクサと呟いているが。

 

「ま、いいか。んじゃ次だ、他の武装は何がある?」

「おう、ちょっと待ってくれ」

 

 流石に何度も言われて学ばないほど、彼も馬鹿ではない。

 ISに、他の武装は無いのかと、脳内で命令を飛ばす。

 のだが、

 

(……あれ?)

 

 何度イメージしても、ディスプレイには雪片弐型しか映らず、一向に他の武装が移らない。弾の家でよくやるゲームで見たライフルとか、ミサイルとか、レールガンとか、とっつきとかを予想していただけに、肩すかしを喰らったような気分になる一夏。

 

(壊れてんのかな?)

 

 流石に、今日起動したばかりの機械が壊れるなどとは考えにくいが。とは思いながら、何となくディスプレイをコンコン、と叩く一夏。社会をひっくり返したスーパーウェポンであろうとも、やはり彼の中ではテレビか何かとそう変わらないようである。

 

「どうした、一夏。やり方なら」

「いや、そうじゃないんだ。さっきから命令してんだけど……」

 

 ふーん! と、気合を入れて唸った所でやはりディスプレイはうんともすんとも言わずに雪片弐型を映し続けるのみ。どうやらこれは本格的に、

 

「なぁキリ。ISも保証期間内なら修理できるよな? あーでも、そもそも契約した覚えないし、保障ってあるのかな?」

「……一夏、お姉さん怒らないからいっぺんだけ聞かせろ。お前は、ISを、一体何だと思ってんだ? もしかして、電気屋とかに並んでる掃除機とかテレビとかと同類に思ってないだろうな?」

「んなわけないだろう、いくらなんでも値段が違いすぎる」

「………………」

「「「………………」」」

「………………?」

 

 姫燐どころか、先程まであれほど騒いでいた周りのギャラリー達も沈黙するこの状況に、自分は何かとてつもなくマズい事を言ったのかと思案を巡らせ、

 

「ああ、そうか」

 

 ようやく合点がいったのか、手の平に拳をポンと乗せると、

 

「そうだよな、ISは電気屋には置いて無いもんな」

「「「そこじゃねぇぇぇーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」」」

 

 一夏はやはり、姫燐を含む、この場に居る女子達全員の異議に、首を傾げるしかなかった。

 

               ●○●

 

 一通りの情報を教えた後、急に黙って独り言に没頭しだした協力者に一夏は声をかける。

 

「おーい、キリ?」

「……どうしろって………刀一本……?」(ブツブツ)

「おーい、俺の話し聞いてる? 君にこの声が届いていますかー?」

「冗談キツ……まだ訓練機のほうが……」(グチグチ)

「……………」

「誰だよ……こんな産廃……送って……新手の嫌がらせ?」(グダグダ)

「……あ、ポロリ」

「どこだぁ!!!」

 

 ボソッと呟いた一夏の一言に、先程まで複雑に展開していた思考を一瞬でぶっちぎり、欲望のおもむくままにバッと顔を上げて、首を半信半疑あっちこっちする姫燐。

 恐るべき反応速度で周囲の女子全員を見渡し、眼球を不気味な位にギョロギョロ動かし、その服装に一片の乱れが無いことを確認すると小声で、

 

「……おい一夏、ポロリは? オレのポロリは何処へ行ったんだよ?」

「そうだよな、お前はそういう生き物だもんな……」

 

 泣いてないよ……と、明後日へと視線を向ける一夏。

 その様子に眉をひそめながらも、とりあえず一応の完成を迎えた意見を姫燐は口にした。

 

「あー、コホン。とりあえずだ。お前の専用機……白式なんだが、オレの見立てでは、お前が傷つかない様にマイルドに表現するとだな―――」

「……ゴクリ」

 

「文句のつけようも無い、完膚なきまでの『欠陥品』だよ、コイツは。この機体を作った奴は『戦闘』をこれっぽッちも分かってねぇ」

 

 姫燐の前フリも虚しく一夏が見るからにヘコんでいるが、そうとしか言いようが無いのだ、実際。

 

「まず、搭載されてんのが接近戦用の『雪片二型』だけ。この時点で舐めくさってる」

 

 確かに雪片は、非常に強力な武装だ。

 ISには、パイロットを攻撃から守る不可視の防壁『シールドバリア』と、それを貫通された時に発動する『絶対防御』という2つの防御機能がある。

 このシールドバリアは非常に堅固で、万全ならば戦闘機に搭載されるようなバルカンですら弾く圧倒的な強度を持つ。ISが現代最強の兵器と言われる所以だ。

 さらに万が一シールドバリアを突破されても、続く絶対防御は更に堅牢で、パイロット本人に通る攻撃を全てシャットアウトする。つまり、致命傷となりうる攻撃を自動で防御する反則級の防衛機能。

 故にIS同士の戦闘では、この防衛機能を形成するためのエネルギーを如何に消耗させ、相手の盾を消すことこそがもっとも基本的で、重要な戦術なのだ。

 しかし、この刀。『雪片二型』には、その常識が通用しない。

 この雪片が、実際に千冬がモンド・グロッソで使っていたあの雪片ならば、相手のシールドバリアを無効化し、その内側にある絶対防御を消滅させる能力を持っていたはずだ。

 つまり言ってしまえば、相手を盾ごと両断する力。

 防御不能というアドバンテージは、非常に強力である。

 ISという兵器は、防御をシールドバリアと絶対防御に任せているため、デッドウェイトとなるだけの余計な装甲を極力削っている機体が非常に多い。その分を他の機能に回したほうが有用だからだ。

 装甲を極力まで削った機体に、装甲で受け止めるしかない攻撃が入れば、どうなってしまうだろうか。答えは述べるまでもない。

 一撃必殺。それが、白式の刃。

 

「そう、雪片は確かにすげぇ武装だ。だけどな」

 

 確かに、雪片はISの根本すら無視できる兵器だ。相手からしてみれば充分に警戒の必要がある。

 

「それ『だけ』じゃ相手は警戒こそしても、脅威とはなりえないんだ」

「ど、どういうことだよ。姫燐」

「んじゃ、分かりやすい例えをしよう」

「例え?」

「お前は今、銃を持っている。銃弾も入ってるし、整備も万全。安全装置も外れていて、後は狙って撃つだけの代物だ」

「ん……? ああ」

「そんなお前の前に、ナイフを持った暴漢が現れた。そいつはお目々ギラギラ息をハァハァ身体ガクガクさせながらお前にナイフを突き付けて、今にも襲いかかってこようとしている」

「あ……あぁ」

 

 なんだか、妙に嫌でリアルな暴漢である。

 

「さて、質問だ。お前は、コイツが怖いか?」

「……んー」

 

 確かに、ナイフを持った暴漢は充分に恐怖すべき対象であるが、こちらには銃がある。流石に人を撃つのは気が引けるが、それでもいざとなれば自分はほぼ確実に、この男を止めることが出来るだろう。

 

「あんまり、怖くねぇな。人を撃つのはちょっとアレだけど、少なくとも脅威ではないかな」

「だろ? そして、その暴漢はお前だ。一夏」

「はぁ!?」

 

 いきなり何を言い出すのだろうかこの娘は。

 まさか、自分は彼女にとって、そこまでの危険人物と見られていたのでは……

 

「あー、言い方が悪かったな。お前の機体は万全な状態のIS相手なら、その暴漢と同程度の脅威にしかならねぇってことさ」

「む……」

 

 言いたい事は分かる。だが、一夏は釈然としない。

 実際に千冬はこの武器一つで、全世界の数々の猛者たちを打ち破り、世界一の座について見せたのだ。この白式は千冬と同じ武装を持つ。即ち、千冬が勝ち取った『世界最強』の実績を持つということと同じなのだ。

 それをただのそんじゃそこらの暴漢と同レベルと扱われるのは、彼にとって「ハイそうですか」と、黙っていられることではなかった。

 

「ようし、だったら一回実戦で示してくれよ。この白式が本当にお前の言うような欠陥品かどうかをな」

「ほぅ……ま、慣らしには丁度いいか。オーケー、やっぱり、こういうのは口であれこれ教えるより、一度身に沁みた方が確実に覚えるからな」

 

 温和な時が流れていた2人の空気に、亀裂が走る。決して目には見えないその亀裂は、それでも確かに一夏と姫燐の心理的な距離を、果てしなく遠いモノへと引き裂いていく。

 

「え? え? マジ? 織斑くんと朴月さんのマジバトル?」

「きゃー! あたし、朴月さんにおやつのプリン賭けるー!」

「じゃああたしは、特製プロマイドを3枚織斑くんへ!」

「なっ、まさかまだ残存していたのか!?」

「姫燐さんと先程からずっと2人……怨めしや口おしや煩わしや……」

 

 亀裂は何名か例外はいるがクラスメイト達にも伝染し、あっという間に皆観戦モードへと移行していく。

 一夏はあまり、特にここ最近は誰かの視線にいい思い出は無いので少し煩わしく思ってしまうが、逆に姫燐はザッとクラスメイト達を見渡し、ある一点で視線が止まる。

 流れる様な黒髪をポニーテールで纏めた、ムッチムチなバストをピッチピチのISスーツで隠す、性欲を持てあ―――もとい、我が友人の彼女を。

 ――仕掛けるなら今、か。

 

「うっし、折角だからオレ達も賭けをやらないか一夏」

「賭け?」

 

 一夏は突然の申し出に、いったい何事かと一瞬思考を巡らすが、答えは考えるまでもなかった。

 なぜなら姫燐がこのように、口元を最っ高に嫌らしく半月型へと歪める時は、いつも「今からロクでもないことを喋りますよ」の合図であるからだ。

 

「なぁに単純な賭けさ。お前がオレに一撃でも当てたら、お前の勝ち。お前のエネルギーが切れたらオレの勝ち。な、簡単だろ?」

 

 周囲のざわつきが、更に大きなモノになる。

 無理も無い。彼女が出した条件は、この模擬戦、相手を完封勝利してみせる。と豪語しているのと同じなのだから。

 簡単過ぎる勝利条件に、楽観よりも更なる警戒を強めて一夏は尋ねる。

 

「……で、『賭け』って言うぐらいなんだから、何を賭けるんだよ?」

 

 若干ドスの利いた言葉を向けられてもどこ吹く風と、姫燐は飄々とした態度を崩さず顎に手を当てると、

 

「ん~、んじゃオレが勝ったら晩飯はお前のおごりで」

 

 なるほど、まぁ学生同士の賭けとしては無難な所だろう。最悪、目か耳を賭けることを覚悟していた一夏にとっては一安心である。

 だから、一夏はついうっかり忘れてしまっていたのだ。

 姫燐が浮かべていた笑いは、「今からお前に、ロクでもないことをしますよ」という合図であったことを。

 

「んで、逆に。お前がオレに勝ったなら……」

 

 口元に三日月を浮かべたままシレっと、明日の天気でも言うかのように朴月姫燐は提示した。

 

 

「今晩、オレをお前の好きにしていいぞ」

 

 

 先程まで鉄火場と間違えてしまいそうな程の熱気に溢れていた第三アリーナが、液体窒素でもぶっかけられたかのように、シン……と静まり返る。

 ここに居る姫燐以外の誰もが、彼女の発言の意味と意図を図ることが出来ず、フリーズしていた。

 

「聞えなかったか? なら、もう一度言うぜ」

 

 ワザとらしく咳払いして大きく息を吸うと、姫燐は一言一句、ゆっくりしっかりハッキリ言い切った。

 

「お前が、この模擬戦で、オレに一撃でも入れたら、今日一日、お前はオレに何したってオッケーって言ったんだ。何をしようが万事許す」

 

 ズガン!

 沈黙を一番に打ち破ったのは、文字通りの鉄砲玉だった。

 米神辺りに走るヒリヒリとした痛みと、液体が頬を伝う感触。そして重力に逆らえなくなり、数本が風に揺られて落ちて行く自分の髪を見て、ようやく一夏は、自分が撃たれたのだということを認識した。

 

「う、うわぁあぁ!?!?」

 

 情けない声が出てしまうが、ここまで見事な不意打ちだと仕方がない部分もある。

 姫燐の先制攻撃かと彼女の方へと顔を向けるが、ISも展開していないし、なによりも彼女にしては珍しく、口をポカンと開けたまま本気で目を丸くしていた。

 では、いったい誰がと、一夏は辺りを見渡し、

 

「……おりムラァ……イちカぁ……」

 

 居た。蒼い鬼が居た。角も無く金棒も持っていないが、そんなものより遥かにおっかない現代最新最強兵器のISを身に纏って、手に持ったライフルや宙に浮いたビットを全門こちらに向けていた。

 

「Dei……or……kill……or……destroy……chooseing……」

 

 これはアレだろうか。「死ぬか、殺されるか、滅ぼされるか、好きなのを選んでね♪」と言って来ているのだろうか? 当然のようにどれも嫌だ。

 剥き出しに向けられた本気の殺意に、自然と身体がガタガタとマナーモードのように震えだす。自分は彼女に、なにか悪い事をしてしまったのだろうか。考えても、むしろ何もしていないため全く思い浮かばない。

 当然である。彼は完全に、とばっちりを受けているだけなのだから。

 

「Destroy……Destroy・them・all……」

 

 抹殺するだけの機械と化したセシリアに説得は不可能だろう。だったら誰か、助けを呼ぼうと一夏が視線を逸らした先には、

 

「どどど、どういうつもりだ姫燐!? お、おま、お前は何をぉ!?」

「あーいや、落ち着け、落ち着けって箒。涙目でこっちを見上げてくれるのは胸キュンなんだがお願いだから首絞めながら問いただすのは止めて死にます逝きます姫燐トンじゃう」

 

 向こうは向こうで修羅場みたいだ。

 周囲の学友達は、皆揃って首を不自然な方向に向けて明日を見つめている。騒がしい事に定評があるクラスメイト達でも、流石にここで茶々を入れる豪胆さを持つ奴はいない。やはり皆、我が身が大切なよ……

 

「ストップだよせっしー。落ち着いて落ち着いて。ドゥドゥ、ドゥドゥ」

 

 居たよ一人。全く物怖じせず、いつも通りののほほんとした口調で蒼鬼に向かうしんのゆうしゃが。

 駆動音が聞こえてきそうな程に人間味を感じない動作で、セシリアは彼女の方へと顔を向ける。

 

「……ジャマ……しないでくださいまし……」

 

 地の底から響いているかのような声での忠告もどこ吹く風か。勇者はあくまでもマイペースに語りかける。

 

「大丈夫だよぉ。女の子が勝算もないのに『私をその剣で好きにして!』なんて、言う訳無いよぉ。ね? ツッキー?」

「ゲホッ……あ、ああ、その通りだぜ。安心しなセシリア、あと箒も。お前らの思ってるようなことにゃならんよ」

「それは……どういうことですの?」

「そうだ! 説明しろ姫燐!」

 

 無理やり箒を引き剥がし、暴走モードに入った彼女達に姫燐は一夏には聞こえない様に、小声で言い聞かせる。

 

「オレは勝算のない戦いはしない。つまり、アイツ相手にパーフェクトゲームをする自信があるってこった」

 

 負ける訳がないから、何を賭けても問題ない。言葉にするだけなら、当然の事である。

 しかし、その当然がまかり通ってしまえば、世の中のパチンコ屋や競馬場は皆廃業だ。

 

「そ、それでも万が一ということが……!」

「心配すんなって。それに、これはお前達のための戦いでもある。負けねぇよ」

「私達のため……だと?」

 

 そう。この戦いには、ただ一夏のトレーニングのためだけでなく、箒とセシリアのためでもあった。

 箒は先日、あのバカにこっ酷く告白をスルーされたばかり。しばらくの間、箒は恋愛に関して消極的になってしまうのは目に見えていた。

 ―――しばらくは、このままでも構わないか。

 恋愛ではそういう思考が一番危ない。自分と彼はあるていど仲が良いから、もうゴールインは確定などと言う読みは、まさに泥沼。嵌っている……すでに泥中、首まで……NTR路(ルート)……! せせら嗤われる……恋愛という魔性に……!

 そうやってたった一度の失敗で自分から得物に遠ざかって行っては、あっという間に余所から来た泥棒猫に奪われる。恋は先手必勝、ドラ猫がお魚をくわえて行った後から、裸足で追いかけても時すでに時間切れなのだ。

 だから姫燐は、彼女を焚きつける為に燃料を投下する必要があると考えた。

 2人の恋路に立ち塞がる新たなる困難。ぬるま湯な現在状況を、一気に熱湯へと変え、箒に自分が退路無しの背水に立たされていると『錯覚』させるプロジェクトを考え付いたのだ。

 そして、この『賭け』がその一環である。

 自身という『他の女』が、断言はしないまでも一夏に露骨なアプローチをかけ、「一夏を狙う女はいくらでもいる」ということを、彼女に間接的に気がつかせる。

 そうすれば箒は彼を盗られまいと、積極的に自分から一夏の心を射止めるために動き始めるだろう。

 ただ傍目には、どう軽く見積もっても『朴月姫燐は織斑一夏が好き好きトキメキス』と映ってしまうだろうから、色々と事後処理が大変だろうが、まぁ……うんたらかんたらして、なんやかんやすれば大丈夫だろう。うん、きっと大丈夫だよ問題ない。

 

「それって、どういう事ですの? まさか……」

「ああ。セシリアには、一夏のデータが多く取れるだろうから、あとでこの前のリベンジをするなら喜んで渡そうと」

「……ハッ! やはり……そういう……」

「って、オイ聞いてんの」

「分かりましたわ姫燐さん! 思う存分、あの男をケチョンケチョンのボロ雑巾にしてやって下さいまし!」

「へ? あ、ああ。頑張るよ」

 

 ISを解除し、ガシッ、と感極まったように姫燐の両手を掴んでセシリアは言うと、先程までの鬼迫(誤字に非ず)が嘘のように鼻歌を歌いながら外野へとスキップで戻って行った。

 ちゃんと理解したのかと懸念する姫燐だが、無論セシリアはきっちりシッカリ1ミリも真意を理解していなかった。

 セシリアはその場で悶えそうになってしまうのを、何とか堪えて光悦の溜め息を付く。

 やはり、わたくしの目に狂いは無かった。と。

 あの人は恐らく一度、あのカカシに自分が今居る『立場』というモノを理解させるために、あのような賭けを申し出たのだ。

 確かにあの専用機は見事な一品だ。どこのメーカーが作ったのかは知らないが、それは間違いない。しかし今あの男に、代表候補生である自分に非情に認めがたくはあるが勝利したばかりの男に与えたらどうなるだろうか?

 人は、自分が軌道に乗っている時、失敗の可能性を考えない生き物である。

 今、間違いなく軌道に乗っているといっても過言ではないあの男に、専用機など与えたらどうなるだろうか?

 少なくとも、自分なら間違いなく舞い上がり増長する。この世に、自分に叶う敵など存在しないのではないかと、現実を知らぬバカげた幻想を抱く。

 その幻想を抱き続けたまま進めば、一体どうなるだろうか? 

戦いにおいて身の程を、自分の出来る事と出来ない事を弁えない奴は、間違いなく死ぬ。

 己が作りだした幻想に、その身を喰い殺される。

 では、それを防ぐにはどうしたらいいのか?

 簡単である。大事になってしまう前に、その幻想をぶち殺してやればいいのだ。

 実戦では無い訓練で、奴の歪んだ物差しをへし折り、正しい大きさを分からせる。

 そうすれば自分の強さや、出来る事と出来ない事を理解させ、更には「自分を負かした人間」という目標まで与えることまで出来る。

 無論、その折り方が派手であればあるほど、バカげた幻想は抱かなくなる。

 だから彼女は、あのような賭けを申し出たのだろう。一発も当てられない敗北……そのような屈辱、恐らく二度と忘れられなくなるに違いない。

 我が貞操を危機に晒してでも、友を正しく導こうとするその献身的な姿に、セシリアはますます深めていった。姫燐への愛情と、誤解を。

 そんなセシリアの背中を見送り、姫燐は小首を傾げるが、

 

「まぁ、いっか。とりあえずそういう事だ。悪い結果にはならねぇよ、だから待ってな。箒」

「むむむ……分かった」

 

 ここで作戦をネタばらししては意味が無いので、はぐらかす形になってしまったが、それでも箒も渋々、観客席に移動を始めたクラスメイト達の中に合流していった。

 

「むふふぅ、にしても結構大胆なんだねぇ。つっきーって」

「言うな。ほら、お前も観客席に行け。襲われてもしらねぇぞ。……っと、なんかだいぶ待たせちまったな一夏。さっそく始めっ……か?」

「………………」

 

 しんのゆうしゃが安全エリアに避難したことを確認してから、先程からずっと空気だった一夏に向き直るが、返事が無い。ただの屍のよう……ではないが、反応が無いのは確かだ。

 こっちを確かに見ているのだが、明らかに姫燐を見ていない。見ているのはその先、もっと別のなにかを見ている様な目線だ。顔も覇気のはの字すら感じない、ボケっとした腑抜け顔である。

 実戦なら即座に先制攻撃と行きたいところだが、これは模擬戦だ。丸腰の相手を仕留めても訓練にはならない。

 という訳で、姫燐は溜め息を付くと一夏へとズンズン歩み寄り、

 

「おーい、一夏お前もか? お前もオレの話を聞かな」

「ん―――くぁwせdrftgyふじこlp!!?!?」

 

 ほぼ目の前まで来てようやくハッとしたかと思えば、人間には発音不可能な単語を並べながら物凄い勢いで飛び下がる一夏。1メートルくらい飛んだように見える。

 

「お、おう! いつでも大丈夫だ! だけどそ、そのだな、人前でそんな恰好はよくな、あ、いや仕方ないけどな! 俺が、かかか、勝っても賭けとか俺は気にしないからな! いつでも、無効にしていいからな!」

 

 確かに、姫燐の出る所は出まくり、引っ込む所はしっかり引っ込んだ肢体に、ピッチリとしたISスーツは反則ではあるが、いくらなんでも挙動不審すぎである。

 全く落ち着かない精神を目を瞑ることと、大きく息を吸い込み全てを忘れることで、強制的に安定させ、一夏は右腕を突き出し叫ぶ。

 

「い、行くぞ! 『白式』!」

 

 マスターの声に従い、彼の腕にはめられていた白いガントレットが激しい光を放つ。そして光は分解され、質量保存の法則を全力で無視しながら、全身をつつみこむ白銀の鎧へと姿を変えて行く。

 

「プックッっくっ、愉快な奴だぜお前はホント。……でもなぁ」

 

 ここまでチェリーだと、からかい明利に尽きるというものだ。

 流石にエキセントリック思春期ボーイには刺激が強すぎたかもしれないが、ここまで過剰に反応してくれると、ついついもっと過激にイジメてみたくなるのが人の性……というか、朴月姫燐の性癖である。

 タダでさえコレなのに、これで自分が負けたら、いったいどれくらいキョどるのだろうか? 少し見てみたくもあるが、流石に貞操を売る気にはなれないし、それに「それはそれ、これはこれ」という偉人の言葉があるように、

 

「お気使い悪いが、負けてやる気はこれっぽっちも無いんでなぁ! 一夏ァ!」

 

 どのような事であれ『負ける』というのは、姫燐が最も嫌いな事がらの一つであった。

 首に付けた、太陽のチョーカーに触れて、定められた解放のコードを復唱する。

 

「Go for it! シャドウ・ストライダー!」

 

 白式と同じように、太陽のアクセサリーが激しい光を放ってはじけ飛び、またもや質量保存の法則に全力でケンカを売りながら、彼女の全身をくまなく包んでいく。

 光が収まった後に残るは、白式とは真反対の、闇すら己が腹の中へと飲み込まんとする程に深い紺色の鎧。IS、シャドウ・ストライダー。

 第三アリーナに相対する『白』と『紺』。

 片や『白』は剣を手に、片や『紺』は半身を引いて拳を突き出すように構える。

 嵐の前の静寂。一夏と姫燐、お互い共にどこか浮ついていた空気が、一瞬にして沈む。

 二つの鎧が放つ重圧がアリーナを圧巻し、2人の意識はどんどん認識できなくなっていく。ただ、前に立つ己の敵以外の全てを。それ以外はこの世界に、何もかもが不要だとでも言うかのように。

 一夏が、瞳を閉じる。息を深く吸い込み、吐きだすと同時。

 2人の世界が、揺れた。

 

「いくぞ! キリ!」

「来な! 一夏ァ!」



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第9話 「仮面は狂い」

――なんだ、このスピードは?

 

 姫燐は内心で、剣を振り上げ自分に肉迫する白銀の機体、白式に驚愕を覚えずにはいられなかった。

 たった1メートル弱の距離。ISの推力なら文字通り瞬きする間に詰めることができる距離ではあるが、それでもこの白式の速さは異常と言えた。

 なぜなら、あと僅かでも、身体を横に逸らすのが遅れていれば、

 

「ぐ……おぉ……痛ッてぇ……」

 

 確実に自分も、あの驚異的な加速に巻きこまれて共に壁にぶつかっていただろう。

 アリーナの壁にキスをしながら、痛みに悶える一夏。非常に滑稽な場面だ。

観客席からも、笑い声が響くのも無理らしからぬ事だろう。

 だが、姫燐からしてみれば笑いなど起きよう筈もない。

 

――もし、奴があのスピードを制御していたなら?

 

 奴は自分のすぐ横を掠めて行った。

それはつまり、自分は奴に必殺の間合いまで踏み込まれる事を許したということ。

 あのまま一夏が雪片を横に倒し、すれ違いざまに抜き胴をしていれば……自分は、負けていた。

 

 そう、オレは―――敵に負けていたのだ。

 

 世界が自分と敵だけを隔離して消滅し、意識が余計なモノをデリートして透明感を増し、処理事項を急激に増やした脳が悲鳴を上げて焼けついていく。

 認知する。認知する。認知する。

 どうしようもなく、覆しようもなく、紛れもない、この現実を。

 

 

                  ●○●

 

 

「痛てて……」

 

 強打した鼻を手で押さえながら、鼻血が出ていない事を確認する。

 あれほどの速度でぶつかっておきながら、この程度で済んでいるのはIS様々と言える。

 一夏は内心で軽く舌打ちした。この白式、今まで扱ってきた打鉄とは何もかもが違う。

 確かに全力で飛ぶイメージを意識したのだが、まさかここまで爆発的にかっ飛んで行くとは思っていなかった。

 この時の一夏はまだ知らないのだが今、彼は無意識の内にISに秘められた機能を発動させていた。

 ――イグニッション・ブースト。

 後部スラスターに溜めたエネルギーを、圧縮して一気に放出することで、爆発的な慣性エネルギーを得ることができる機能だ。無論、それに応じてエネルギーも相応に消耗するのだが、接近の布石や不意打ちには非常に頼もしい奴でもある。

 周囲の笑いを無視して、一夏は回避してから立ちつくしたままの姫燐に向き直る。

 身を開いたままピクリとも動かず、フルフェイスの仮面に隠れているため表情も読み取れない。だが視線は一夏の方へ向いておらず、かわした時と同様、右を向いたままだ。

 まさか、放心してる?

 一夏の脳裏に、その可能性が浮かぶ。

 あの姫燐が、戦闘中に茫然自失になるなんて考えられない。これも戦略の一つ?

 などと一夏が警戒心を露わにし動けないでいると、姫燐の首がようやく一夏の方を見る。

 だが、他の者のように笑わずに、ただただ無言で棒立ちしているその姿からは、どのような生物でも発する『動』が微塵も感じられない。

 やはり、どこか様子がおかしい。

 どこか体調でも悪いのだろうか? と、模擬戦中だということも忘れ、一夏は姫燐へと足を一歩踏み出す。

 

「えっ」

 

――果たして、朴月姫燐は本当にここに居たのだろうか?

 

 一夏は一瞬、不意にそんなバカげたことを考えてしまった。

 当然じゃないか、さっきまで彼女とは仲良く喋り合っていて、模擬戦を申し込んで、互いに名前を叫び合ったじゃないか。

 だというのに、そんな一夏の思いを真っ向から否定するように、居ない。

 朴月姫燐が居た筈の、一夏の真正面には、立ちのぼる土埃だけが残っている。

 消えた。視界から、朴月姫燐の紺色の機影が消えた。

 そうとしか表現のしようがなく、一夏は茫然としたまま更に一歩踏み出し、

 

「がッ!?」

 

 背後から鈍く強烈な衝撃に一夏は、アリーナ中心付近の空まで吹っ飛ばされる。

 

――攻撃ッ!?

 

 それでも素早く姿勢を制御して正すと、360度の周囲を見渡す。しかし、どこに視線を集中させようと映るのは、地面と空と、自分と同じ何が起こったのかを理解できていない困惑顔のクラスメイト達ばかり。

 ならばと言わんばかりに、一夏はハイパーセンサーを起動させた。

 このハイパーセンサーには、見失った敵機の位置情報を割りだす機能が備え付けられている。

 一夏がイメージするだけで、レスポンスは滞りなく行われた。

 瞬時にハイパーセンサーは周囲の機体反応をサーチして、彼の脳裏に直接フィールドバックさせる。

 が、ISが一夏に見せたのは、彼がイメージしていた物とはかけ離れたモノだった。

 

――なんだよ、これは!?

 

 脳裏に移しこまれる赤い点。これが、おそらく姫燐の現在地なのだろう。

 だが、なぜこの赤い点は2つ? 3つ? いや、そんなもんじゃない。まるで快晴の夜空に散りばめられた、瞬く恒星のように大量に脳を真っ赤に染めてキレイオオイアカイ――

 

「あ、が、あああああぁぁぁぁ!」

 

 追いつかない。流しこまれる、暴虐的な情報量を脳が捌き切れない。

 今すぐ脳を取り出して掻き毟りたくなる感覚に捕らわれ、一夏は片手で頭を抱える。

 一夏のバイタルサインの狂いを感知してか、ハイパーセンサーが無理やりシャットダウンされる。

 

「ッ、ハァ! はぁ、ハァ、はぁ……」

 

 空気が欲しい。ただひたすらに、頭が、全身が、熱を吐き出すために冷たい空気を求めている。頭から片手を離し、息を整える。

 

――何が起きた? ハイパーセンサーが壊れていたのか?

 

 一夏は敵機探索の機能を使ったのは初めてだったが、本来はこのような物な訳が無い。それだけは直感で分かった。

 では、やはり衝撃で故障したのかと一夏は懸念するが、それもありえない。

 この前、千冬から渡された教本でハイパーセンサーは、『第三の眼』と呼ばれるほど重要な機能だと書かれていた。

 これが有ると無いとでは、下手を打てば第三世代の機体でも、第二世代に下される。それが過言ではないほどにISの強みは、この『第三の眼』が多大なウェイトを占めているのだ。……と、書いてあった。

 そんな重要なパーツが、あの程度の衝撃でトラブルを起こす訳が無い。無論、初期不良などは論外だ。

 では、一体何が起こったというのだ? 姫燐の機体が増えた? それとも消えた?

 そんな非現実的な発想が浮かんでしまう気持ちを押さえつける。

 

――焦るな……焦るな……焦るな……。

 

 一夏は、どんな些細な変化も逃すかと意識を周囲に配る。と、

 

「さすがですわぁ! 姫燐さんの速さは!」

 

 その時、光明は観客席から刺した。

 興奮を押さえられないのか立ち上がり、黄色い声援を上げて今にも観客席から身を乗り出そうとして、隣に座る箒に押さえられている金髪の姿。

 そういえば彼女は一度、姫燐と戦った事があったはずだ。何か、彼女の機体に知っていいてもおかしくは無い。

 

――速さ……? てことは、スピード!?

 

 まさか。まさかとは思った。

 ハイパーセンサーは故障していない。むしろ良好だったのだ。良好過ぎたのだ。

 もし、センサーは全て捕らえていたとしたら? 縦横無尽に駆けまわる彼女の機影を。

 では、センサーが映し出していたのは? 目視すら困難な高速で動きまわる彼女の現在地。

 ならば、センサーがそれを随時、脳裏に送りつけていたとしたら? 映し出される情報が、真っ赤に染まるのは必然。

 繋がった、掴んだ、手品のタネを。

 

「サンキュー、セシリア!」

「へっ?」

 

 想い人の敵に塩を送った事に気がつかないまま、目を白黒させるセシリアを捨て置いて、一夏はまたハイパーセンサーを起動させる。

 今度は、敵機の位置を割り出すのではなく、空間の歪みと大気の流れを探るために。

 一夏の考えは大当たりだった。

 歪む周囲の空間。吹き飛ばされ、モグラが通った後のように穴を作る大気の塵。

 さらに、余裕が出来て来た事でようやく捕らえ始めた、引っ切り無しに響く小さな爆発音と、正面を確かに通り抜けた紺の影。

 

――やった! 見つけた!

 

 本当に一瞬掠めただけで、攻撃を与えられるとは到底思えない。

 それでも、本当に完全に何も見えていなかった先程に比べれば、大きな進歩と言えた。

 姫燐が通り過ぎた最新の痕跡を、必死に追っていく。

これで、いつか追いつく。一度、喰らい付きさえすれば後はどうにでもなれ。

 これは模擬戦なのだ。勝ち負けは重要ではない。この機体のことを一つでも多く知ることができれば、それでいいのだ。

 そういう観点では、この姫燐の行動は褒められたモノではないなと、一夏は内心で苦笑しながらも探知を続ける。

 痕跡は始め、周辺を上下左右法則性も無しに動きまっていた。

 次にこちらとの距離を徐々に詰め、そして最後に上空へ、こちらの真上へ、

 

――あ……。

 

 気がついた時は、一夏が首を咄嗟に上げた時には、全てが遅かった。

 光っていた筈の道に、文字通りの暗い影が落ちる。

 こちらに、右手を伸ばしながら重力に従い落ちる姫燐の機影。

 恐らく、これが自分にトドメを刺すためのラストアクションなのだろう。

 そう、自分はトドメを刺される。

 一夏は不思議と、そう思えていた。

 シールドエネルギーはまだまだ充分に残っているし、最悪の場合、絶対防御が発動して彼を護る。それにこれは実戦じゃなくて、模擬戦だ。

 

――だけど、トドメを刺される。トドメを刺されて――俺は死ぬ。

 

 なぜ、彼の思考が死に満たされるのか。

 理由は無い。理論も無い。証明もできない。

 だが、そんなものよりもずっと飾り気が無く、淡白で、正直な彼の直感がそう告げている。

 それに、一夏は聞いた事があった。

 

――本当に、死ぬ時って、時間が遅く感じるんだな。

 

 事実、あれ程のハイスピードで動いていたのに、姫燐はこの一撃のみ、非常に怠慢な動作でこちらに向かって来ていた。

 同時に、なんとかしなければこちらが死ぬのに、一夏の身体は一切の命令を聞かない。

 だから、一夏は漠然と睨みつける事しかできなかった。

 真上から飛来する、全身の装甲を羽のように逆立たせて展開させ、右手を紫色に発光させながら手を伸ばし、無表情な仮面を、下手糞な笑顔の様にいびつに歪ませる姫燐の姿を―――。

 

 

                 ○●○

 

 

 気がつけば、一夏は地面に仰向け叩きつけられていた。

 白式が展開されたままの右腕を握って開く。若干痺れるが、ちゃんと動く。

 

「おいおい、もうヘバっちまったのかよ一夏?」

 

 聞きなれた声に首を動かすと、そこには腰に手を当ててこちらを見下ろす姫燐の姿があった。こちらも、ISは展開したままだ。しかし、装甲は展開していないし、腕も紫に光っていない上に、仮面も当然無表情のままだ。

 

「やれやれ、これだからゆとり教育は肝心な時に『くっ、ガッツが足りない!』ってなるんだよ」

 

 などと英国風に首を振り、やれやれといったジェスチャーを取る姫燐。

 状況をまだ、イマイチ把握できない一夏は姫燐に尋ねる。

 

「お、俺は……いったい、どうなったんだ?」

「はぁ? お前は、オレの完璧なイナズマキックを喰らって、綺麗に地面に叩きつけられたんじゃねえか。そんなことも忘れちまったのか?」

 

 ……イナズマ『キック』?

 説明と記憶との祖語に、一夏は更に混乱する。

 イナズマはともかく、最後の攻撃は間違いなく腕を使った攻撃だったはずだ。

 彼女は、拳と言いながら蹴り技を繰り出す技の使い手ではないと思いたい。というか、あれはゲームの話だ。

 それに、あの一撃はトドメ。自分は、なぜ生きている?

 何よりも、一番考えたくないのは、なぜ彼女が自分を殺そうと……。

 

「ふぅん、無様ですわね織斑一夏! あの姫燐さんのえーと、その……なんとかキックでそのままずっと寝ていればよかったモノを!」

「分かった。分かったから座っていろ、オルコット。あとイナズマキックだ」

 観客席から、罵声が響く。

 

――俺以外の人間も、キックを見ている?

 

 ますます一夏の混乱は加速していく。

 

「さて、んじゃ続きといくか。テメエに見せる裸はねぇ、しな!」

 

 背伸びをしながら結構古いネタを叫ぶ、カラッとした彼女の声に、一夏の思考は打ち切られた。

 能天気丸出しの彼女は、先程までの冷酷な影とは余りにも違いすぎて、一夏は自分が白昼夢でも見ていたのではないかと思えてしまった。

 

「お……おう!」

 

 未だ過去と現実の矛盾に動揺を隠せないままではあるが、今は模擬戦。考えるのは後だ。

 

「んじゃ、今度は少し手加減してやる。ついて来れるかなぁ!?」

 

 姫燐は、両腕の袖から毒々しい紫とはかけ離れた、きらびやかな金色のエネルギーを噴出して宙に浮くと、そのまま空へと駆けだす。

 手加減と本人が言っていた様に、今度はちゃんと肉眼でも追えるスピードだった。

 それでも、かなりの速度だというのに変わりはない。

 

「あっ、待てキリ!」

 

 急いで一夏も、姫燐の後を追いかけて空へと飛翔する。

 確かに、打鉄に比べて白式は速い。その推力は、軽く動かしているだけだというのに雲泥の差だ。

 それでも一夏が振り回されないのは、本人の高いセンスも関係しているだろうが、何よりも、

 

「ハッハー! どうした、それじゃ西から昇った太陽が東に沈んじまうぜ!?」

「わっけ、わかんねぇよ!」

 

 白式より更に速い姫燐のシャドウ・ストライダーを前にして、眼や感覚が慣れてしまったのも関係しているだろう。

 身体にかかるGに苦しみながらも、一夏は何とか挑発に口を返す。

 

「おーいおい、今はドッグファイトの形だぜ? 絶好のアタックチャンスだってのに攻撃して来ねえのかよ?」

「くそぉ……分かってるくせに……!」

 

 更に追い討ちで挑発を入れる姫燐に、一夏は額の彫りを深めた。

 ドッグファイト。犬同士の喧嘩で、相手の尻尾を追いかける様子に似ているため名付けられた、受けの側――つまり今の姫燐が空中戦で、もっとも避けなくてはならない状態だ。

 PICで三次元的な動きが約束されているISにとっては、あまり例を見ない状態なのだが、

 

「ハンデだ、いいことを教えてやるよ一夏! オレの相棒は、PICを殆ど作動させてねぇ!」

「はぁ!?」

「つーまーりー! 大分かみ砕いて説明すると、ほぼ吹かしてる腕の力だけで飛んでるって事だよ! だから昔の飛行機みたいな動きになるってことだ!」

 

 要は彼女の機体、シャドウ・ストライダーは旧世代の戦闘機などにかなり近い動きで飛んでいる事になる。PICが無ければ、三次元的な動きは難しい。

 だが、それでも彼女は先程、かなりの速さで三次元的な動きをしていたように思えるが――?

 

「あー? でも関係ねぇな、お前には接近戦用の武装しかねぇんだからなぁ!?」

「これかよ、姫燐が言ってた脅威にはならないって奴は……!」

 

 先程、姫燐は白式のことを全く脅威にならないと言っていた。

 今の一夏には、それが骨身に染みて良く分かる。

 どれほど鋭利な切味を誇るナイフを持っていたとしても、檻の中に入れられた猛獣が全く怖くないように、相手へと届かなければ無意味なのだ。

 自分より速い相手に、逃げに徹されるだけで何もできなくなってしまう。

 それが、この機体、白式の致命的な欠点だという事を、一夏は理解した。

 

――それでもッ!

 

 負けたくない。少なからずカチンと来る挑発の数々に、こうなったら意地でも賭けに勝ってやるという意識が、一夏の中に芽生えていた。

 

――飛べ! 速く! キリよりも! 誰よりも!

 

 その確かな思いは、彼の翼を一層強く羽ばたかせた。

 

「ね、ねぇ、織斑くん。なんかさっきよりも速くなってない?」

「う、うん。私もそんな気がする!」

「あ、ありえませんわ! きっと貴方達の錯覚」

「だからもう何も言わずに座っていてくれオルコット!」

 

 観客席から、歓声が上がる。だが、一夏の意識はISへと偏り、飲み込まれていく。

 

「ほぅ、『やっと』か」

 

 姫燐の感嘆の声。その声すら聞こえない程に、一夏の意識は更に高揚していく。

 

――行ける、いけるぞ白式!

 

 先程までは身に包んでいたISが、どんどんと体内に溶け込んで、一体化していく感触。

 異物と一つになっているというのに不快感は全くなく、むしろジグソーパズルの最後のピースをはめた時のように、そこに有るべきだったモノが戻ってきた様な感覚。

 一夏の意識とは裏腹の、無機質な声が何処からか響く。

 

《フォーマットとフィッティングが完了しました》

 

 この瞬間、確かに白式は織斑一夏の専用機となった。

 

――追いつけ、追いつけ!

 

 もはや完全に一つになった一夏と白式は、確実に姫燐とシャドウ・ストライダーに向かい距離を詰めて行く。

 

《30……20……10……クロスレンジ》

 

 刃が届く距離になったことを、白式が告げる。

 こんなことまで教えてくれるのかと驚きながらも、一夏は雪片を両手で握り、上段に構え、

 

「くらえぇぇぇぇぇ!」

 

 足を狙い、一夏は全力で雪片を振り下ろす。

 

――もらった!

「ところがギッチョン!」

 

 ブン、と、確かに捕らえた筈だった一夏の刃は、虚しく虚空を斬っただけに終わった。

 

「なっ……!?」

 

 また、姫燐の姿が消えた。再び、あのふざけたスピードを出して動いているのかとハイパーセンサーを起動しようとしたが、

 

「一夏、下だッ!」

「え?」

 

 観客席から響く箒の声に、一夏はハイパーセンサーを下に集中させると、

 

――居た!

 

 姫燐は、自分の遥か後方で飛行していた。

 どうして、いったい彼女はどうやって一瞬で位置を入れ替えたのだ?

 

「お前が刀を振った瞬間、アイツはブースターを急激に弱めて速度を落とし、背後を取ったんだ!」

「正解だぜ、箒。あとでご褒美にハグしてやろう!」

 

 箒の解説に、やってのけた本人が同意する。

 そう、姫燐は全速力で接近する一夏の速度を逆手にとって、逆にこちらが足を止めることによって一夏に自分を追い越させ、位置を反転させたのだ。

 ようやくトリックを理解した一夏は、箒に礼を言おうとする。

 

「ありがとな! ほう」

「篠ノ之さん!? なに貴方、あの唐変木に姫燐さんに不利な情報を渡し腐ってやがるんですの!? あと、羨ましすぎですわ代わって!」

「し、知るか! というか、先ほどお前も一夏に助言してたではないか!」

 

 どうやら取り込み中のようだ。礼は後にしよう。と、一夏は意識を背後に集中する。

 それにしても言葉にするだけなら簡単だが、これを攻撃を回避しながらやってのけるのはかなりの技量を要するはずだ。だというのに、それを当然のようにやってのける。

 

――やっぱり、お前はすげぇよ! キリ!

 

「それでも!」

《イグニッション・ブースト。スタンバイ》

 

 一夏は機体を、円を描く様な動きで動かし、姫燐の真上の位置を取る。

 模擬戦開始時の謎の加速も、今なら全て分かる。この力を使えば、姫燐のスピードでも回避は難しいはずだ。

 

「今度こそ、終わりだァァァ!」

《イグニッション・ブースト。アクティブ》

 

 雪片を腰だめに構え、重力を味方につけ、白式と一夏は全速力で姫燐の背中辺りを目掛けて落ちる。

 

「ああ、確かに終わりだな」

 

 そんな熱血丸出しな一夏とは対照的に姫燐は、諦めたような脱力した声を上げ、

 

「じゃーなー」

 

 斜め下にブースターを吹かして身体を起こし、全速力で地面に向かい墜ちて行く一夏の呆けた顔面を、手を振りながらすれ違う形で見送った。

 

 

                 ○●○

 

 

「いやぁ、悪い悪い一夏」

「悪いで済むかよ……痛てて」

 

 あの模擬戦から一夜明けてからの保健室。

 腕に巻いた包帯を外しながら、ジャージ姿の一夏はベッドに腰掛けた。

 姫燐も隣のベッドに腰掛けながら、苦笑いと共に頭をかく。

 

「それにしても見事だったよなぁ、土埃むちゃくちゃ舞ってたし、すげぇデカイ穴できてたし」

「うるさいな、そのせいでこっちはご覧のあり様だ」

 

 頭に巻かれた包帯を突きながら、一夏は顔をしかめる。

 

「念の為とはいえ、昨晩は保健室に泊まるハメになったんだぞ。授業も出れないし……ってキリ、授業は? 今、一時間目だよな? それに保険の先生は……?」

「あ、何だって? 怪我してるからよく聞こえない」

 

 怪我してんのはお前じゃなくてこっちだろ。

 そういうツッコミを飲み込みながら、一夏は昨日からずっと聞きたかった事を尋ねる。

 

「しかし、なんで最後の攻撃を避けれたんだ? アレは絶対に貰ったって思ったのに」

「なんで、ってそりゃあ、アレが釣りだったからに決まってんだろ」

「釣りぃ?」

「おう、だいたいあんな所でボケっとしてる意味がねえじゃねえか。お前、明らかにハイになってたからな。ちょっと餌チラつかせてやったら、コロッと簡単に喰い付きやがった」

 

 来るって分かってたら、どれだけ速かろうと関係ないぜ。と笑う姫燐を余所に、一夏はもう1つの腑に落ちない出来事、『ボケっとしていた後の姫燐』について想いを馳せていた。

 あれは、本当に結局なんだったんだろう。一晩経っても答えはでないまま。

 ここで一度、思い切って聞いてみるべきだろうか……?

 などと考えていると、姫燐も悩む一夏に気がついたようで、

 

「お前の言いたいことは、よく分かる」

「えっ?」

 

 まさか、見透かされていた? 

 真剣な表情でこちらを見る姫燐に、思わず一夏は息を飲んでしまった。

 

「確かに、納得行くもんじゃねえだろうな。お前も、悶々としたままじゃ収まりがつかねえだろ」

「そ、そうだ。教えてくれキリ、昨日のアレは……」

「オレの肉体を、思う存分堪能できなかったのには、な……」

「……ハイ?」

 

 お前はいったい何を言っているんだ?

 

「はっはっは、残念無念、賭けは賭けだからな。いくらお前がチェリーを色々と持て余す思春期だといっても、オレも貞操は惜しい。ま、諦めてくれや」

 といって勘違いしたまま軽快に笑う姫燐に、一夏は待ったをかける。

「ちょ、待った! 俺は別にお前の身体なんか……なんか……」

 

 興味が無い。といえば、嘘になる。

 赤くてサラサラしたショートヘア、整った顔、赤く瑞々しい唇、パッチリとした瞳、かなりのサイズな胸、むっちりとした足。改めて意識してみると、かなりのチートスペックである。

 

「どうした、赤くなってないで続きを言ってもいいんじゃよ。ホレホレ」

 

 足を組んで、手の平に顎を乗せながら続きを催促する姫燐。当然、顔にはニヤニヤを張りつけながら。

 

「大人しく言うんだったら、そうだなぁ……耳元で囁いてやるくらいならいいぜ。『完全にチェリーです、本当に本当にありがとうございました』ってなぁ」

 

 一応授業中だというのに、更にバカ笑いを加速させる姫燐に、いい加減一夏もカチンと来ていた。

 昨日から、ずっと姫燐にはコケにされっぱなしな気がする。

 ここらへんで何か手痛い反撃をしてやらねば、彼の中にも一応ある男のプライドが納得いかなかった。

 なにか、彼女に効くしっぺ返しはないかと考える一夏。

 普段から他人に隙を見せない彼女だ、そう簡単に思い付くとは思えなかったが――

 

「って、あるじゃん」

「あ、何がだ?」

 

 突然の一夏の言動に頭に『?』を浮かべる彼女を余所に、一夏はジャージのジッパーを外した。ジャージの下に隠されていた、肌色の胸が直に空気に晒される。

 ジャージの裾をパタパタと、ワザと隠れた肉体を見せつける様にして一夏は呟く。

 

「あー、それにしても何か今日は暑くないか? なぁ、キリ?」

「……ッ!!! ッッッ!!?」

 

 計画通り。一夏は、噴き出しそうになるのを必死にこらえた。

 無理もない。姫燐は彼の言葉を一言も聞いておらず、その可愛らしい顔を真っ赤に染め、目をクワッと見開き、突然のエマージェンシーに大量の脂汗を流して身体を硬直させている。

 形勢逆転、してやったり。一夏は、心の中で壮大にガッツポーズを決めた。

 

「そ、そうだな、今日は、暑い、かもな……だ、だが服を脱ぐほどじゃ……」

「んー? 悪い、怪我してるから良く聞こえないなー?」

「グッ!? て、テメエ……! この野郎……ッ!」

 

 因果応報。先に仕掛けて来たのは向こうなので、今日の一夏は容赦が無い。

 今まで積りに積もった鬱憤を晴らす様に、一夏は更に追撃をしていく。

 

「なぁ、キリ」

「な……んだ? 一夏」

「ほい、これ」

 

 一夏は、近くにあった新品のタオルを姫燐へと投げ渡した。

 

「…………?」

 

 キャッチしたは良いものの真意を理解していない姫燐を捨て置いて、いそいそと一夏はジャージを全部脱ぐとベッドにあぐらをかいて、その背中をキリに晒す。

 

「悪いけど、汗、拭いてくんねえかな?」

「なあっ!?!??!」

 

 背中越しからでも、驚愕に顔を歪めている姫燐の姿が容易に想像できた。

 

「ばッ、馬鹿も休み休み言え! だ、だだッ、誰がお前の、せせ、背中なんかを!」

「痛ったたたた……くう、傷口が汗で染みる……」

 

 と、言いながら一夏は背中を後ろ手で押さえる。実は一夏の背中には怪我など一切ないのだが、そんな簡単な事にすら気付けない程、今の姫燐はテンパっていた。

 

「だ、だからって……その……」

「は、はやく頼む……キリ……」

「うー……あぁー……!」

 

 ああ、駄目だ。なんでいつも姫燐が自分をからかうのか分かる気がする。これは、楽し過ぎる。

 ダメな人の才能が着実に開花しているのを感じながらも、一夏は自分の顔面からニヤニヤが剥がれないのを感じていた。

 

「だ、大丈夫やればできるオレがんばれがんばれ気持ちの問題だってそこだそこだどうしてそこで諦めんだよ頑張れ積極的にポジティブに……!」

 

 が、流石に鼻息がかかる程の至近距離で、自分宛の呪詛や洗脳じみたエールを送りながら一夏の背中を凝視する姫燐に、彼は気恥ずかしさを覚える。

 

――そろそろ、潮時かな?

 

 これ以上イジメるのは、流石にやめておこう。そろそろ可哀想になってきたし。

 と、思いながら一夏はクルっと身体を反転させて、

 

「なーんて、嘘だ。キ」

「ぴゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!?!?!」

「うわぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 

 男の身体を正面から間近で眼にして、完全に錯乱した姫燐はタオルを投げ出して慌てふためき悲鳴を上げる。ついでに一夏も釣られて悲鳴を上げる。

 

「ひあぁぁぁぁ!? いやぁぁぁぁ!? ほあぁぁぁぁ!?」

「あ、暴れるなキリ、こら! うわッ!?」

 

 半狂乱状態の姫燐を、何とか諌めようと一夏は奮闘するが、とっとと服を着るという根本的かつ本質的な解決策を完全に失念しており、それがまた火に油を注ぐ。

 このままでは、色々と不味い。少々荒っぽくなるが、一夏は強硬策に出る事にした。

 

「いい加減に、落ち着け!」

「ひゃッ!」

 

 暴れる姫燐の両手首を掴み、一夏はそのままベッドに押し倒す。

 

「ようやく、大人しくなっ……ん?」

 

 はて、なぜだろうか?

 確かに自分は、姫燐を落ち着かせるために動いていたはずなのに。

 女の子の両手首を掴んで抵抗できなくした状態で、半裸の男がベッドに押し倒す。これではまるで……。

 ふと、視線を下ろせば、暴れていたせいか肌蹴てしまったIS学園の制服を着て、目尻に涙を浮かべながらも、自分と同じく状況を正しく理解できていない姫燐の顔が映る。

 肌蹴た制服からは、彼女の男の夢とロマンが詰まった谷間が丸見えであり……。

 ここまで来て、一夏はようやく自分がとんでもない事をしてしまった事に気がついた。

 まだ、姫燐は自分の世界から帰ってきていない。それを唯一の救いだと思いながら、一夏はゆっくりと手を離して……

 

「ようやく見つけたわよ、一夏!」

 

 世界の終わり、ハルマゲドンを感じた。

 ドアが開くと共に聞こえる、どこかで聞いた事があるような活発な声。

 

「まったく、折角このあたしがわざわざ教室まで出向いてやったってのに、怪我して呑気に保健室で寝てるなんてね」

 

 カツ、カツ、と速足で近付く足音。

 

「ま、まぁ、折角だから色々と面倒見てあげる。一年と少し振りだもん、色々と積もる話も……」

 

 そして、一夏は、

 

「イィィィチカァァァァァぁァァァァァぁぁ!?!?!???!?」

 

 考えるのを辞めた。



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間幕 「歪み、変わりゆく思い」

 自分の部屋で、箒がシャワールームに居る事を確認し、一夏はベッドに腰掛けながら「ふぅ……」と短い溜め息をついた。

 

――最低だ……俺って……。

 

 ここ最近で急激に暴落し、ストップ安をさらに天元突破しそうな自己評価に、織斑一夏は遠い目をする。

 今、シャワールームに入っている箒の存在もあるが、あの事件の丁度その日に転校してきた、セカンド幼馴染、凰鈴音の存在も自己嫌悪に更に拍車をかける。

 

――俺って、意外と色んな奴から好かれてたんだなぁ……。

 

 周囲からすれば意外でもなんでもない所か、太陽が東から西へと沈むくらいの一般常識なのだが、この唐変木がそれに気がついたのは、末恐ろしい事につい最近の出来事であった。

 

「篠ノ之箒は、あなたの事が好きです……か」

 

 幼馴染に言われた、あの一言。

 衝撃だった。そんな簡潔なコメントしか浮かばない位に、あの瞬間、一夏の頭は真っ白だった。

 確かに、箒とは仲が良かった。小学生の頃は間違いなく一番の親友と呼べるほどに。

 それでも、まさか向こうはこちらを友では無く、一人の男として見ているとは夢にも思ってなかったのだ。

 だから、答えなくてはならない。その気持ちを受け止めるのは、男の義務だ。

 IS学園で恋愛が禁止されているなんて聞いた事もないし、それに、箒は客観的に見ても充分魅力的な女の子だ。あんな娘に告白されるなんて、男明利に尽きるじゃないか。

 だから、なにも、問題はない。

 だというのにあの時、彼の口から出た言葉は、

 

「なにが『俺達、最高の親友だよな』だよ……クソッ!」

 

 やり場のない怒りを拳に乗せ、枕に叩きつける。

 今すぐに首を吊るなり、胸にナイフを突き立てるなりで自分の存在を消し去りたい衝動に駆られる。

 なぜ、あの時逃げたのかと、なぜ箒の想いや勇気を踏みにじるようなことをしてしまったのかという後悔が、一夏の心を蝕んでいく。男として、いや人としてすら失格だ。

 もはや、謝って済まされる問題ではない。それでも、謝った所でどうする? 箒の思いを受け入れるのか? そうだ、それでいいじゃないか。そう、してしまおうと思うたびに、

 

「ッ……」

 

 自分の気持ちがうそぶくなと、胸に刺すような痛みを走らせる。

 なぜ痛い? なにが痛む? それすら一夏には分からない。生まれて初めての疼きだった。

 そして、その疼きがどうしてもこの問題を先送りにさせてしまう。今まで通りを、気付かなかったあの頃を演じる事しかできなくなる。それが例え、箒を更に傷つける結果になろうとも。

 更に追撃だったのが、転校してきたもう1人の幼馴染、鈴の存在だ。 

 中学生時代、非常に二人は仲が良く、2人で出かけたことも一度や二度ではない。

 もしかしたら、彼女も自分のことが好きだったのではないか?

 今、思い返してみれば鈴も、その明るく裏表のない性格から男女問わず色んな人間に好かれていた。だというのに放課後、不思議なほど、いや、今にしてみれば不自然なほど、よく二人きりで遊んで帰ったものだ。

 そう意識してしまうだけで、あのただ楽しかっただけの放課後の夕暮れが、途端に色を失い最悪の追憶へと変わっていく。

 

「ッ―――!!!」

 

 狂ったように、いや、いっそこのまま狂ってしまえるように叫び声を上げたい衝動を、隣のベッドを見て何とか押さえこむ。

 駄目だ。これ以上、箒に迷惑をかけたくない。

 一夏は自分のベッドに倒れ込み、電球が照らす天井を仰ぎ見る。

 それがまるで、醜いこの身を白日へと晒す光に思えて、影を作るように虚空へ手を伸ばす。

ふと、その手を握って、開いた。

保健室の一件以来、なんとなくこの手に残る感触が、懐かしく愛おしく思えた。

 

――細かったな。キリの手首。

 

 いつもは遠慮なく人をはっ倒すあの腕が、握ってみれば想像以上にか細く、簡単に壊れてしまいそうで、脳裏から離れない。まるで、女の子のようで――いや、キリは女の子だった。

 そんな本人に知られたらはっ倒すでは済まされないような事を思いながら、きっと、それだけ衝撃的だったのだろう。そう結論づけ、何となく一夏は枕元に置いてあったネックレスを手に取った。

 黒い皮のリード、トップに青と白の翼を思わせる飾りが付けられた、品のいい男物のネックレス。

 あのデートの日の後、千冬姉が、キリが買ってくれたお祝いだから大切にしろよ。と念を押して渡してくれた一品を眺めながら、一夏はそっと眼を閉じる。

 

――明日、絶対に謝らないと。

 

 あの後、結局ゴタゴタして一言も謝れずに夜を迎えてしまった事に、自分の愚鈍さを疎ましく思う。

 今、キリは何をしているのだろうか。

 俺のことを恨んでいるだろうか。

 もしかしたら、今頃傷ついて泣いているのではないだろうか。

 今から直接部屋に行くには遅すぎるし、電話やメールで謝るのも、誠意が足りないような気がして嫌だし、だからと言って……他に対応策がある訳でもない。

 

――キリ……。

 

 あの太陽のような笑顔を、またもう一度見れることを願いながら、一夏の意識はゆっくりと眠りへと堕ちて行った。



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第10話 「チャイナが来る!」

「晩上好、邪魔するわよ。朴月姫燐」

 

 雑なノックと、鈴の音ように綺麗で、だというのに良く通る中国語で「こんばんは」という意味の挨拶と共にドアが開き、ズカズカと遠慮のない足音が部屋に響く。

 

「って、なによこれ! 汚ったな!」

 

 小学生高学年くらいしかない身長に、スリーサイズも小学生相応、着ている服はホットパンツとタンクトップだけという、ラフかつ着る人が着れば殺人級の破壊力を発揮するコーディネートでも、完全に夏のお子様の部屋着である。

 彼女のトレードマークである大きなツインテールが、部屋を見渡す視線と共に左右に揺れる。

 

「うっわー、掃除くらいしなさいよアンタ。ゴミ袋どこ? って、あったあった」

 

 と、言いながら、許可なく勝手に開いた棚に置いてあったゴミ袋を広げ、床に散乱するゴミをテキパキと拾って入れていく。

 

「あーもー、洗濯物も畳まないで置きっぱとか……シワになるじゃない」

 

 ゴミとごっちゃになって捨てられていたジャージを手に取り、一瞬顔を近付けただけでまだ未使用だと判断すると、これまた電光石火の早業でピシッとシワ一つ無い、服屋に陳列されていそうな新品の服のように綺麗に畳み上げる。

 

「って、これも…………これぐらいは自分でやりなさい」

 

 もう1つ手近に捨ててあったブラジャーを手に取って広げたと思ったら、彼女は急に不愉快丸出しの顔面をして、パソコンの椅子に座ったまま一連の事を眺めていたこちらに投げ寄こした。

 今まで、突発的に発生したイベントに対応に困っていたが、ようやく追いついてきた現実感を確かに掴み、部屋に侵入を許してからジャスト三分のロスを得て、ヘッドフォンを外しオレはようやく口を開く。

 

「なぁ、お前。そう、そこのミス・ツインテール」

「なによ、まさかその歳で畳み方わかりませんって言わな」

「お前は、オレの母ちゃんか何かかッ!?」

 

 オレの会心のつっこみを受けても、目の前のチャイニーズは「あんたバカぁ?」と今にも言いだしそうな呆れた表情を浮かべ、

 

「それはそれ! これはこれ! 余計な御託はいいからさっさと掃除するわよ、こんな部屋じゃ落ち着いて話しもできやしない!」

 

 こちらの言い分を完全論破し、再び掃除に熱中し始めたツインテールにオレは頭を抱え、もうなにも言う事ができなか

 

「なにボケっとしてんのよ、アンタの部屋でしょうが!? 見てないでサッサと手伝う!」

「あぁぁぁぁ! はいはい、わかりました! やりゃあいいんだろやりゃ!」

 

 

○●○

 

 

「はぁぁぁ~~~ッ! やっぱり、清潔っていいモンよねぇ~~~」

「……はぁ、そっすね」

 

 夕焼けが眩しかったはずの空は、掃除が一通り終わるころにはすっかり満点の星空が浮かび、開けた窓からは新鮮な夜風が吹き込んでくる。

 背伸びをしながら、それを気持ち良さそうに全身に浴びるロリツインとは対照的に、姫燐はどこまでも憂鬱そうな表情で彼女を眺めていた。

 

「ほら、もう換気はいいだろ? 冷えて来たから閉めるぞ」

「えぇ~」

 

 不満げな声を上げる子供は風の娘を無視して姫燐は窓を閉め、改めて自分の部屋を見渡した。

 ここ最近、確かに部屋が散らかり気味だったことは認める。

 ベッドシーツはぐちゃぐちゃ、固形栄養食の殻は捨てっぱなし、パソコン周りには栄養ドリンクの空ビンが乱雑に放置されている。掃除機も長い事かけた様な気がしないし、CDもケースと中身がバラバラの状態でそこら辺に……と、ここで姫燐は一旦思考を停止する。

 これ以上いけない。なんというか、仮にも年頃の少女が住んでいた部屋の回想として。

 それが、なんとうことでしょう。そんなゴミ屋敷一歩手前だった姫燐の部屋は、この小さな匠の手によって劇的にビフォーアフターを遂げていた。

 ベッドは今すぐにでも身体を沈めたくなるほどしっかりメイキングされており、床にだらしなく捨てられていたゴミやビンは全てゴミ袋に詰められて部屋の隅っこに鎮座されている。

 CDもキチッと外身と中身が一致しており、掃除機も「もう腹がパンパンだぜ」と今にも言いだしそうなほどいい働きをしていた。

 オマケに、部屋の中心にある小さなラウンドテーブルの上で、いつの間にか置かれた二つのマグカップがほんのり湯気を上げていた。先程、キッチンを借りると言っていたのは、これを淹れるためだったのだろう。

 余りの仕事人っぷりに何となく悔しくなり、姫燐は窓の縁を指でなぞるという姑御用達のアクションをしてみる。だが、期待に反して指先には一切ほこりが付いておらず、彼女は鼻を不機嫌そうに鳴らすどころか、逆に感嘆の声を上げる事しか出来なかった。

 

「……パーフェクトだ、鈴音」

「感謝の極み。……って、あんたに名乗ってたっけ、あたし?」

 

 結構ノリノリで恭しく一礼をしながらも、いつの間にか自分の名前を知っていた姫燐に対して鈴は聞き返す。

 名乗られた覚えは当然ない。ここ最近の姫燐は、授業の時以外は部屋で引き籠り気味に過ごしていたのも相まって、彼女とちゃんと会話をしたのはこれが初めてだ。

 しかし、中国から専用機持ちの転校生が来るという噂は前々から学園で噂になっていたため知っていたし、そして何よりも姫燐は一度、彼女の名前を耳にした事があったのだ。

 

「五反田の奴から聞いた事がある。あのボケへの恋路に赤く燃え、見事に散って星になった『凰鈴音』って命があったってことをな」

「……弾の奴、今度会ったらしばいて海に捨ててやる……」

 

 と、歯を食いしばりながら弾に報復を誓う鈴を横目に、姫燐はテーブルにあぐらをかいて座って茶をすする。

 

「つか、散って無い! あたしは一夏にフラれてなんか」

「そーだな。お前はあのドアホに、恋愛対象とすら見られて無かったもんな」

「……アンタ、あたしになんか恨みでもあんの?」

 

 声に確かな怒気を孕ませながら、鈴も頬杖を突いてそっぽを向く姫燐と向い合う形で座る。

 

「これが地だ。許せ」

「ふぅん……いつもは猫でも被ってたの? 一夏から聞いた印象とは、ずいぶんかけ離れた感じだけど?」

「だったら、あのド腐れ低能の伝達力が脳みそと同様、致命的に足りてないんだろうさ。オレの知ったこっちゃねえ」

「……ははぁん、そういうこと」

 

 彼女の言葉を聞いて、急に眉間のしわを消して何かを悟った顔になった鈴に、全てを見透かされたような気分になり、今度は姫燐の眉間が不機嫌に歪む。それを誤魔化すように、姫燐は残りのお茶を一気にあおり、

 

「アンタさぁ、いくら虫の居所が悪いからって、他人に八つ当たりはどうかと思うわよ?」

「ッ!? ごふぉ、げふぉ!!?」

 

 そのまま気道にストレートでぶち込まれた液体を、全てむせ返した。

 

「あーもー、汚いわねぇ」

「だっ、誰が八つ当たりしてるってんだ!? 誰が!?」

「アンタ以外いるわけないじゃない。ほら、動かない」

 

 鈴は立ち上がるとポケットから出したハンカチで、手際良く姫燐のジャージやカーペットなどに飛び散った水分を吸収して、彼女の隣に再び座る。

 

「なるほどねぇ、原因はやっぱりアレ? ほら、保健室で一夏に押し倒されてた」

 

 姫燐の表情が更に不機嫌に歪んだのを見て、鈴は自分の憶測が当たっていることを確信した。

 

「ま、確かに許せる行為じゃないけどね。理由はどうあれ、半裸で年頃の女の子を押し倒すだなんて、犯罪スレスレどころか完全にアウト物よ。訴えたら確実に勝てるわね」

 

 鈴はドラ息子の悪行に頭を悩ませる親のように溜め息をつき、真っ直ぐな視線と人差し指で、もう1人のドラ娘の方を射抜く。

 

「けど、それで関係無いあたしにまで牙を剥くのは完全にお門違いよ。あたしは別に平気だけど、それで本気で傷つく子だっているかも知れないのよ? 一回、頭冷やしなさいこの笨蛋(バカ)」

 

 突き付けられた反論の余地もない完璧な正論に、いつもはあーだこーだと屁理屈に定評がある姫燐も押し黙る事しかできず、突いていた頬杖をデコに移動させて数秒。

 ゆっくり持ち上げた頭を、今度は隣で座る鈴に向けて下ろす。

 

「……確かに、お前の言う通りだ。悪かった、鈴音」

「はい、素直でよろしい。あと、鈴でいいわ。みんなそう呼ぶし」

 

 姫燐は憑き物が落ちた後ような顔を上げ、ニカッと八重歯を見せて笑う鈴の笑顔を見つめた。それは歳相応とは言い難いが、無邪気で健康的な魅力に溢れた素敵な微笑みだった。

 そして、ベルトコンベアーの流れ作業の様に、姫燐は視線を顔から胴体の方へとシフトさせて、

 

――これで、もうちょっと有るモンが有ればなぁ……。

 

「クッ!」

「なんだかよく分からないけど、今までのアンタの態度の中で一番ムカついたわ。今の」

 

 先程のいい笑顔のまま頭上に怒りマークを浮かべ、やっぱり腹辺りに一発修正いれるべきかしら? と悩む鈴だったが、

 

きゅぅぅ~~~~~~……。

 

 そんな事をしなくても、可愛らしい警告音が姫燐のお腹から響いた。

 

「う……」

「そういやアンタ、ここ最近ロクな物食べて無かったわね」

 

 鈴は部屋の隅に置かれた、固形食糧や栄養ドリンクが大量に詰め込まれたゴミ袋をチラリと見遣る。

 

「姫燐、どうして学食に行かないのよ? 確かお金も要らないんでしょ? ここの学食」

「……学食行くと、アイツと顔合わせるかも知れないだろ」

 

 と言って、顔をほんのり赤らめながら斜め下を向く姫燐。

 丁度、姫燐にはインフレしていて鈴にはデフレしているモノを挟み込むように、腕を交差させながらあぐらをかくその姿は、同性である鈴の眼から見ても充分に惹きつけられるボリューミーを感じさせ――

 

「そのまま対消滅して消えろッ!!」

「なにゆえ!? オレと一夏は粒子と反粒子かッ!?」

「はっ! いや、そうじゃなくて……てか、そうだ、あたしはこれを聞きにアンタの部屋まで来たんだった」

 

 そういえば、姫燐も気になってはいたが口にする暇が無かった事だった。なぜ、鈴はこんな時間に自分の部屋に来たのか? ……まぁ、冷静になった頭で考えれば、大方の予想はつくのだが。

 

「答えなさい姫燐! アンタ、いったい一夏の事どう思ってんのよ!?」

「あー……その、だなぁ……」

 

 どうしようか? 言ってしまうべきだろうか?

 姫燐の脳内で、二つの選択肢が揺れる。

 このまま一夏の事が好きだと誤解させるか、正直にありのまま全てを話すか。

 誤解させるのは誤解させるので、少し苦しいような気がする。

 もし仮に、自分が一夏のことを好きだという設定で通すのなら、押し倒された時にあそこまで露骨に不機嫌だった説明がつかないのだ。

 保健室の一件は、確かに自分も悪ノリが過ぎたと思う。

 それでも、それでもだ。アイツは、人が男の裸が本気で苦手であるのを知ってあのような事をしてきた挙句、よりにもよって手首を掴み、ベッドに押し倒して……思い出しただけで、再び腹の中が煮えくり始めたので閑話休題。

 要は、この選択肢の問題点は、好きだという『設定』の男に押し倒された女が、あそこまで不機嫌になるという納得がいく理由が思いつかない所にある。

 愛している人間に求められる。これ程の幸福を受けながらも不機嫌になる奴は、余程歪んだ愛を相手に求める変態以外では考えられない。

 姫燐はそんな人格破綻者を演じ続けていられるほど、演技力に自信がない。性癖は常にフルスロットルで破綻しているが、それはまた別の問題である。

 

 ならばこの際、正直に全部話してしまうべきだろうか。

 自分が、格調高く言えば百合、身も蓋もない言い方をすればレズビアンであるという事を。

 ここまで疑心暗鬼を全開にした相手に、自分は一夏とは友達で、それ以上でもそれ以下でもありませんと言っても、そう簡単には信じないだろう。

 だが、これをカミングアウトして、部屋中に隠してあるコレクションでも見せてやれば誤解は一瞬で溶け、あれは不幸な事故で、自分に故意は一切無かったことも簡単に証明できる。

 しかし、これにも決して軽くないリスクが付き纏う。

 まだ、姫燐はこの少女、凰鈴音を全面的に信用した訳ではないのだ。悪い奴では無いことは何となく分かるが、口が堅いかどうかは別問題だ。

 友人との雑談中にでも、なにかの拍子でコロッと喋ってしまわないとも限らない。

 一夏には、『協力関係』という制約が拘束するため――それでも一回ポロリと喋りかけたが、まだ一定の信頼を置けた。だが、鈴にはそういった拘束具が一切ないのだ。

 万が一、鈴の口から自分の性的趣向がバレてしまえば、夢は間違いなくデッドエンドを迎える。

 だがそんな物はぶっちゃけ、殆どどうでもよかった。

 本当の所を言ってしまえば姫燐は彼女、凰鈴音に少し惚れ込んでしまっていたのだ。

 確かに体型は非常に残念だが、家事スキルは完璧な上、他人の事を想いやれる優しさや、初対面の人間にここまで世話を焼ける面倒見の良さまで兼ね備えている。それに可愛いし、可愛いし、可愛いし。

 それに、まだ彼女は成長期。某玉ねぎの騎士の様に、もしかしたらここから爆発的に成長を始めるかもしれない。そうなったら、まさしくパーフェクト凰鈴音の出来上がりである。

 故に、姫燐は葛藤する。この原石、果たしてこのまま捨てるべきモノなのか? 今は適当に誤魔化して、来るべき未来に繋げるべきではないのか?

 迂闊な行動は厳禁だ。全ての可能性を考え、最善の答えを慎重に導き出さねばならない。ならないのだが……時間がそれを許さない。

 

「さっきからなに黙ってんのよ? ま、まさか、実は保健室のが初めてじゃない、とか言わないよねッ……!?」

 

 姫燐の肩を力強く全力で掴み、ガクガクとシェイクしながら彼女を問いつめる鈴。

 これ以上、誤解を増築工事させていくのは危険すぎる。主に、さっきから軋みを上げる姫燐の肩と三半規管が。

 

――あー、クソッ! ダメだ考えが纏まらねぇ!

 

 痛みと空腹と不衛生が彼女の思考にジェットストリームアタックをしかけ、彼女のインスピレーションを浮かんだ片っ端から全て撃墜していく。

 

――あーうー……ええい、ままよっ!

 

 もはや完全に思考を放棄して、姫燐は舌が動くままに口を開こうとした瞬間、

 

ぐぎゅるるるるるぉん………。

 

 地の底から響く猛獣の唸り声のような音が部屋に響き渡り、鈴のシェイクもピタッと止まり、先程までの喧騒が嘘のような静寂が支配した。

 

「今の音……なんだ?」

 

 あのような音、初めて聞いた。

 いったい、どこの百獣王が咆哮をしたのかと姫燐が憂慮していると、

 

「……し、仕方ないわね。姫燐も簡単には話すつもりがないようだし、それならこっちも持久戦よ。先にご飯にしましょう。それから、ゆっくりと聞く事にするわ」

 

 絶対に放さない。絶対にだ。と言わんばかりの勢いで肩を掴んでいた両手をあっさり手放すと、鈴はダッシュで部屋を出て行った。決して、姫燐に顔を見られないようにしながら。

 

「……耳、真っ赤だったな。鈴の奴」

 

 だが、流石に耳までは配慮が足りなかったらしい。

 姫燐はしっかりと、羞恥で通常の三倍の血流を送っていた耳たぶを目撃していた。

 

「……あれ、まさかとは思うがアイツの腹のn」

「お料理の時間よコラァ!」

「うぉ!?」

 

 バァンと、ドアを蹴破るような勢いで開いて鈴が帰って来る。先程とは違い、タンクトップとホットパンツの上から簡素なエプロンを装着しており、その手には、食材が詰まったエコバックが握られていた。

 

「さってと、台所借りるわよ姫燐」

「え? ああ、別に構わんが、まさか作るのか? 今から?」

「あったりまえじゃん。その為に部屋から色々もってきたんだから」

「いや、でもなぁ……」

 

 先程、鈴本人が言っていたようにIS学園の学食は基本タダなのだ。手ぶらで行っても作りたての飯を作ってくれるのに、わざわざ外で食材を買って自炊するという面倒を自らに科すなど、酔狂以外の何物でもない。

 そのこと姫燐は鈴に尋ねると、

 

「なんで? どっちかって言うと、いちいち歩いて食堂まで行く方が面倒じゃない?」

 

 価値観の違いをまざまざと見せつけられた。

 これがいつでも嫁に行ける勢と、ゴミ御殿伯爵即位勢との決定的な戦力差だというのか。

 

「まぁ、家事もロクにできない姫燐には、分からない話しかもしれないけどねぇ」

「なっ!? 誰がだ! オレだって基本的な家事くらいこなせるわ! ただ、今日というか最近はちょっと気が乗らなかっただけで……」

「ふーん、気が乗らないだけでねぇ……」

 

 鈴は冷めた目で、再び部屋の端に積まれたゴミの山を見

 

「やめろォ!」

「こんなの日頃から習慣になってれば、気分が乗らなくても身体は勝手に動くもんよ」

 

 つまり、どういう事か分かるな? と言いたげな軽い溜め息をついてエコバックをキッチンに置く鈴の背中を、姫燐はぐぬぬと涙目で睨みつけることしかできない。

 しかし、だ。ふとこういうのも悪くは無いなと、姫燐は思う。

 女の子が何かと文句を言いながらも、エプロンを翻して自分のために料理を作ってくれる。このシチュ、むしろ良い。グッとくる。主に鼻に。

 

――これで、裸だったら言う事ないのになぁ……。

 

 と、どこかの美人画にでも描かれてそうな柔らかな微笑みを浮かべつつ、調理器具を探すために下の戸棚を開け、その可愛らしいお尻を突き出す鈴の姿を、目蓋の裏でキャストオフさせる姫燐。下衆い、主に発想が下衆い。

 

――ん? 裸……?

 

 待てぃ。と、軽くトリップしていた姫燐の頭脳がストップをかける。

 この部屋には、ありとあらゆる所に姫燐が血塩にかけて収集し続けた百合グッズが大量に眠っている。当然、中には子供が見ちゃダメよな内容の物も結構な量があり、特に誰に見付かってもロクな結果にならないような代物は、彼女の灰色の脳細胞をフル活動させて隠した。

 理想的な場所は、普段誰も使わずに、手を伸ばすのに少し苦労する所で、意外性がある場所。

 そんなベストプレイスを探すのにはかなり苦労させられたが、姫燐はこの全てをクリアしている場所を、このまえ偶然思いつき、意気揚々と試しに置いてみてそのまま……。

 

「ッ!?!?!?!」

 

 姫燐は己の迂闊さを呪う前に、姫燐は眼を見開き、跳び跳ねる様に立ちあがって鈴の後ろ姿を見る。

 そこには丁度、包丁を片手に持ちながら、流し台の上に備え付けられた戸棚に、背伸びをして左手を伸ばす鈴の姿が映り……、

 

 姫燐の視界から、急速に色が失われていった。

 

「あいたっ! なによ、も……う……?」

 

 コツンと戸棚を開いた瞬間、自分のおデコを強襲して床に落ちた『何か』を鈴は拾い上げた。

 おかしい。鈴に、拭いようのない奇妙な違和感が襲いかかる。

 なぜ、台所の戸棚の中から、DVDケースが出てくるのだろうか? 本来、こういう代物は水気のある所からは離して置くのが常識なはずだ。

 なぜ、このケースには、ラメが入ったシールが貼られているのだ? しかも、彼女もこういった物をみるのは初めてだったが、そこには眼の様な形をしたマークに、しっかりくっきり『成人指定』と書かれている。

 そうして、なぜ、このケースに写された絵には、

 

 自分と同年代ぐらいの、ツインテールの女の子が、裸で鎖に縛られて……?

 

 ダメだ。これ以上理解するな、理解するな理解するな理解するな理解するな理解するな!

 脳が全力で現実を否定するが、一度強烈にインプットされた情報は消え去ることができず、泥の様な違和感は、鋭刃の様な危機感へと変わる。

 なにをするの? どうするべき? あたしはどうすればいい?

 逃げるの? 反抗するの? このまま立ち尽くすの?

 いくら代表候補生とはいえ、所詮は15年生きただけの小娘。この非常事態に浮かびあがる数多の対応策が、ごちゃごちゃと鈴の脳内ですし詰め状態へとなってしまい、それが彼女の処理能力をショートさせ、判断力を鈍らせる。

 そこから生まれる時間のロスが、更に彼女を追い詰める。

 

「痛ッ!?」

 

 突然、右手首を握られる。そこから容赦なく圧力がかかり、持っていた包丁が右手から離れて床に落ちる。そしてフローリングの床に、何かが滑る音。おそらく、包丁を蹴り飛ばされた。

 それをほぼ反射的に確認しようと、首を横に向け、鈴は見た。いや、正確には見えてしまった。

 

「あ……」

 

 自分に向けられる、朴月姫燐の視線。鈴は、それに見覚えがあった。

 この眼差しは、まな板の上に乗せられ、まだ生きたいと、死にたくないと悪あがきを続ける食材へと、包丁を無慈悲に振り下ろす料理人の眼差しそのものであった。

 そう、これは、目の前の活きの良い『素材』を、どのようにして食べてやろうかと思案する『料理人』の――

 

「ひッ、いッ、やぁぁぁぁぁぁぁァァァァァァァァァァ!!!?!?」

 

 身を犯す発狂しそうな程の恐怖に鈴はDVDを落し、喉が切り裂けるのではないかという程の悲鳴を上げる。

 刹那、鈴の自由だった左腕が激しい光を放った。

 彼女の華奢な腕が、鉄に覆われたパープルのガントレットへと変貌し、そのまま振り向くと同時に右脇から見える狩人の脇腹へと、拳を突き出す。

 

「もガッ!?」

 

 人間一人を吹き飛ばすには充分過ぎる鉄拳は、鈴よりもガタイが良い姫燐の身体を背後へと吹き飛ばし、そこに置いてあったお茶を乗せたテーブルを破壊して巻き込み、摩擦から生まれた煙を上げてようやく止まる。

 

「ハァ、ハァ、ハァ……ぁ? ……ァ……ぁあぁッ!」

 

 死神の鎌を無理やり振り解いて、なんとか命を繋いだ事を実感し、床にへたり込んで安堵したのもつかの間、今度は別の焦燥が鈴の身を焼く。

 自分は、彼女の脇腹を半狂乱になりながら全力で殴った。その事実が、冷静さを取り戻しつつあった鈴の精神を蝕む。

 確かに、ただ全力で殴っただけなら問題はなかっただろう。

だが、鈴は己の左腕を、先程から震えが止まらない紫の装甲に纏われた手の平を眺めた。

 現代最強の兵器。『インフェニット・ストラトス』。それを纏う者に、圧倒的な力を授けるパワードスーツ。

 その恩恵はとても大きい。本来なら扱える訳が無い、自身の身の丈を余裕で超えるサイズの大剣すら、軽々と振り回せるようになる程の力を与える程だ。

そんな代物で鈴は、人間を殴り飛ばしたのだ。それも、全力で。

 

「な、なんでっ……違うっ……あ、あたし、こ、こんなつもりはっ……!」

 

 歪む視線が見つめるのは、俯けになったままピクリとも動かない女性の姿。

 こんなこと、ドラマやマンガの中だけだと鈴は思っていた。これが夢なら今すぐに覚めて欲しい。しかし現実は、どうしようもないリアルは、ただ目の前で微動もしない。

 

「嫌ッ……嫌ぁっ……」

 

 合わない歯の根。抜けて行く力。込み上げる吐き気。

 震えはとうとう全身へと移り、ISも消して何とか止めようと鈴は自分の身体を抱きしめるが、それでも一向に止まる気配は無い。

 逆に頭が冷えれば冷える程、自分の犯してしまった罪に頭が正しい理解を始め、思考をどうしようもないデッドエンド(袋小路)へと導いていく。

 

「嘘よっ……」

 

 だからもう、彼女は否定することでしか正気を保てない。許容できない、この絶望を。

 

「嘘よッ!!! こ」

「ドンドコドーン」

「んなこ……と……………………は?」

 

 ……ドンドコドーン?

 とうとう、自分の精神は本格的に異常をきたしてしまったのだろうかと、鈴は懸念する。こんな意味不明な空耳を聞くだなんて――。

 

「おぉ、痛ぇ痛ぇ……っと。さっきはゴメンな鈴、怖い思いさせちまって。手首、大丈夫か?」

「ッ!? ァ、ンタ……ッ!?!?!」

 

 夢なら、本当に今すぐ超特急で覚めて欲しい。

 二度と動かないと思っていた彼女は、涼しい顔をしてジャージについた埃を払いながら、落ちていたDVDを拾い上げてまた棚に戻し、茫然自失に陥った鈴を見て顔をしかめ、

 

「……あちゃ、やっぱり滑ったか。元は『そんなこと』だもんな。絶対に聞こえねーけど」

「ふ……」

「いやぁ、なんかな。冷めきったこの空気をどうにかほっこりさせるために、小粋なジョークの一つでもと考えたんだが……ん? どうしたり」

「ふッッッッざけんなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!?」

「うぇい!?」

 

 部屋が揺れる程の怒髪天を衝く雄叫びに、びくぅと姫燐の身体が跳ねあがる。

 

「姫燐アンタぁ! 生きてるなら生きてるって言いなさいよバカなの!? 死ぬの!?」

「うぉ! や、やっぱ不味かったか!? と、とりあえず落ち着け、鈴」

「冗ッ談じゃないわッ! なんでよッ!? なんでなのよッ!?」

「まぁまぁ、オレは不可能を可能にできる女だし……」

「知ッらないわよそんなバカみたいな設定ッ!?」

 

 飄々と下らない冗談を飛ばす朴月姫燐という存在が、とんでもなく奇怪で、理不尽で、訳が分からない鈴はヒステリックに喚き立てる。

 

「あー、そのだな。アレ喰らって死んでない理由は、実はこういう事だ」

 

 そう言って、姫燐は右腕をヒラヒラさせる。

 紺色の鋼と、翼のようなブレードが付いたガントレットと化した右腕を。

 

「まっ、まさかアンタ……! あの一瞬でISを展開して受け止めてっ……!?」

 

 なんという化物染みた反応速度と判断力。

鈴はこの同年代であるはずの少女に驚愕を超えて、戦慄すら覚える。

 

「……悪い、ちょっとふざけ過ぎたな。流石に意識は少し飛んだが、幸い怪我は軽い打ち身と擦り傷だけだし、テーブルはまた買えばいいだけだ。こいつは全部、自業自得の手痛いしっぺ返し。だから、お前が気に病む必要はどこにもねぇよ。なぁ、り」

「ッ!!? バカ言ってんじゃないわよ!」

 

 ISを仕舞いながら本気で申し訳なさそうな顔をして、自分の頭にふれようとした姫燐の手を弾き、鈴は彼女を真っ直ぐ憤怒と慄然を込めてキッと睨みつける。

 

「……やっぱり、同性愛者はキモイか? まぁバレちまったからにはしょうがない、そうです私が変な百合おじさんで」

「んなことはどうでもいいのよ! 性癖とかそんなん以前の問題、アンタ本気でおかしいわよ! 狂ってるんじゃない!?」

 

 その言葉に、軽薄な笑みを浮かべていた姫燐の表情が固まる。

 

「オレが……狂ってるだと?」

「そうよッ! 今あたしに酷いこと言われて怒った!? 傷ついた!? それが普通よ! なのにアンタはッ! 朴月姫燐はッ!」

 

「なんでさっき! あたしに殺されかけたのに、ヘラヘラと笑ってたのよッ!?」

 

 仮にも自分を殺しかけた人間を前にして責めようともせず、全て自分が悪いから仕方ないと、なぜ彼女は笑える? なぜそんな眩しく、柔らかな笑みや、申し訳なさそうな顔を自分に向けて浮かべることができる? それが、どうしても鈴には納得できない。許容できない。理解できない。

 

「……えっ? なぜ、ってそりゃ……オレが……」

 

 答えに詰まる姫燐の襟元を、鈴は締め上げる。

 

「どうよ! 納得させてみなさいよ! 答えを出して頂戴よ! 怒ってみなさいよ! そしてあたしに、アンタを殺しかけたこのあたしの罪に! 罰を、ちょうだいよぉ……」

 

 初めは一粒。だけど一度決壊した防衛線はもはや意味を成さず、次々と一つ、また一つ、雨粒は次第に洪水のように、鈴の瞳からボロボロとこぼれ落ちる。

 鈴は、姫燐に責めて欲しかった。罰を与えて欲しかった。裁きを下して欲しかった。

 この一件、完全に姫燐にのみ非があった事など、どうでもいい。彼女に怒り狂いながら、なんで自分を殺そうとしたんだと、絶対に許さないと、最悪あのDVDに書かれていたイラストの様に、鎖でこの身を縛り、身体も尊厳もズタボロにして欲しかった。

 それ程にでもしてくれねば、受け入れられなかったから。一時の恐怖に負けて、ISまで使って人を殺そうとした弱くて醜い、自分自身を許容することができなかったから。

 自分の胸に顔を埋め泣き続ける鈴に、姫燐はそっと口を開いて、言葉を紡ぐ。

 

「……ゴメン、鈴。本当に、ゴメン……だけど、お前の質問……オレは、答えたくない」

「なんっ……でよっ……」

 

 答えられないではなく、答えたくない。つまり、彼女は納得させる真実を掴んでいるのに、自分に話そうとしない。

 

「確かに、お前には知る権利があるのかもしれない。だけど、コレは、コレばっかりは本当に勘弁してくれ。それに、お前がどうしても自分を許せないなら、オレに責めて欲しいなら、この黙秘を、お前に対するオレからの罰だと思って欲しい」

 

 我ながら、都合がいいよな。と、自嘲気味に姫燐は笑う。

 その仕草がやはり納得が行かなかったが、それが彼女が望む、自分への罰だと言うならば、甘んじて受け入れよう……。鈴は、そう思う事にした。

 自分の胸で涙を流し続ける彼女に、そんな権利を持っていないと思いながらも、姫燐は手を鈴の背中に回し、あやす様に叩いて、

 

「突撃、隣の浮気調査の時間ですわコ……ラァァァァァァァァァ!?!?!!?!?」

 

 なにかデジャビュを感じるドアの開け方で突然現れた来訪者は、これまた突然、悲鳴を上げた。

 

「なっ、ななななな何してますの姫燐さん!? ちゅ、中国の代表候補生とふっ、ふた、2人で、抱き合って……不埒ですわぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 

 頭を抱えて自身の金髪ロールをグリングリンと過激なロックパフォーマンスの様に回転させながら、完全に狂乱状態で叫ぶ来訪者こと、セシリア・オルコット。

 あまりに見事に決まった電撃作戦に、ポカンとその姿を眺めていた姫燐と鈴だったが、次第に状況がとんでもなく不味い方向に向かっている事に気が付いていき、磁石のように弾け飛びあった。

 

「おまっ、なっ、待ちなさいアンタ! これはその、違っ! あたしが好きなのはこんなんじゃなくて……!」

「お黙りなさい! この、そのぉ、……チがッ!」

「はぁ!? なに言ってんのか分かんないわよこのバーカ!」

 

 台詞の途中で照れが入って聞き取れなかったが、恐らく何か罵り言葉を言ったのだろう。このままでは本格的に取っ組み合いのケンカになりかねない。即座にドアを閉めに走っていた姫燐は、いがみ合う二人の間に割って入る。

 

「まぁ待て、まだ慌てる様な時間じゃないぜセシリア。オレ達は確かに抱き合っていた。だが、そこに恋愛感情は一切ない。本当だ」

「そ、そんなこと、口ではどうとでも言えますわぁ! それに、先程から大きな物音や、そちらの人の叫び声が何度も聞こえてきますし! 何よりも、なんで彼女の眼は赤いんですの!? 状況説明を要求しますわ!」

 

 さめざめと今にも泣き出しそうなセシリアと、何なのだこれは!? どうすればいいのだ!? と、思いっきり狼狽する鈴の二人の視線を同時に向けられながらも、姫燐は冷静平坦な表情を崩さない。

 その表情を見て、鈴は悟る。

 

――なるほど、なにか策があるのね、姫燐!

 

 一夏から事前に聞いた話では、彼女は例えどのような不利な状況でもアイデア一つで大逆転してみせる、狡猾な策士だという。この手の状況は、きっと慣れっこなのだろう。

 

――見せてもらうわよ、朴月姫燐の実力とやらを!

 

 コホン、と一つ咳払いをして、姫燐はセシリアの肩を掴み、その双眸をしっかりと見据えて言い切った。

 

「なんてことない。オレはコイツに、どうすればオレのようなダイナマイトなボディをゲットできるのかをレクチャーしていたのさ」

「そうそう、あたしは姫燐にダイナマイトなボディを……………はぁ!?」

 

 いったい、何を抜かし下さってるんだろうか? この変態は?

 

「なんですって、それは本当ですの!?」

「ザッツライトザッツライト。いやぁ、オレも突然でビックリしたんだがなぁ。ほれ見てみろよ、コイツの哀れみすら覚える肢体を」

「……確かに、哀れですわね」

「きィィィりィィィんッッッ!?」

 

 間違いなく、今日一番ぶっち切りでブチ切れながら自分に掴みかかろうとする鈴を、姫燐はおデコを押さえて止め、セシリアに聞こえぬよう小声で語りかける。

 

(いいから話を合わせろ、鈴。お前も、色々と面倒事は避けたいだろ?)

(ギ、ギ、ギぃ……)

 

 奥歯が妙な音を立てるぐらいに歯を食いしばりながら、なんとか理性を保つ鈴を横目に、姫燐はさらに嘘八百をマシンガンのように浴びせて行く。

 

「物音はコイツがオレに頼みこむ時、テーブルに頭を叩きつけたモノなんだ。古い奴だったからな、それで壊れちまったんだよ」

「まぁ……それほどまでに必死だったのですね」

「ソ、ソウナノヨー、アタシ必死ダッタノヨー」

 

 明らかに作り笑いが歪んで引きつっているが、基本的に姫燐しか目に入っていないセシリアは気付かない。

 

「んで……えーっと、叫び声が外まで聞こえていたって言ってかけど、どんな声が聞こえていたんだ?」

「え、えーっと。先になにかとても大きな悲鳴と、次に『ふざけるな』って声との二種類が……あとは、小さすぎてなんとも」

「あー……アレかぁ……」

 

 どうやら、今日の騒ぎの中でも特大な二つ以外は外に漏れなかったらしい。姫燐はこの寮の防音性に本気で感謝しながら、即急でブラフを組み立てて行く。

 

「最初のは、オレが知っている知識その一。『胸は、もげば大きくなる』を実績した結果だ。その時、あらかじめ先に言っとくのをうっかり忘れちまってな、そのせいだ」

「な、なんてうゴフンゴフン……」

「……風邪か? 続けて大丈夫か、セシリア?」

「あ、申し訳ありませんわ、どうぞ続きを」

「おぅ。んで、これが次の『ふざけるな』の理由なんだが、なんでそんなにデカくなったのかってのを聞かれた時のことなんだがな……」

 

 どこかのクイズ番組のように、無駄な勿体を少し付けて、

 

「オレが『特に何にもしなくてもメロンになったぜ?』と言った瞬間、あれだ……」

「それは……気の毒に……」

 

 そう言いながら姫燐は、先程から鼻息を荒く一心不乱に壁を殴り続けている鈴を指さした。ああでもしないと、本格的に発狂しかねないのだろう。

 

「で、では、最後に抱き合ってたのは……?」

「ああ、あれか。アレはだなぁ……オレがアイツに教えれる事を全部教えても、『本当にこれで大きくなるのか?』って泣き出しそうだったからな、だから抱きしめて言ってやったんだよ」

 

「『大丈夫だ、どんなに背も胸も尻も小さくても、需要がある奴にはしっかりステータスだから、希少価値だから』ってな」

 

 その言葉を言った途端、鈴が姫燐の胸に飛び込み、思いっきり抱きしめて来た。

 

「ほらな、鈴の奴、この言葉にとても深く感銘を受けたらしくて、こんな感じに感極まったように抱きついて泣き出したんだよ。なぁ?」

 

 姫燐の胸に顔を埋めながら、鈴はコクコクと無言で頷く。

 その姿は、まるで母に甘える人見知りをした少女のようで、非常に愛くるしい。

 

--アトデ殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス今度ハモウ迷ワナイ絶対ニ仕留メテ殺ル--

 

 蚊の鳴くようなボリュームでささやかれる、呪詛の言葉さえなければ。

 

「そうでしたの……そのっ、本当に申し訳ありませんでしたわ。勝手な勘違いで、お騒がせしてしまって……」

「い、いいっていいって。こんな時間にあれだけ騒いでたら、そりゃ誰だって気になるさ。オレだって気になる。みんなにも、そう伝えといてくれ」

 

 姫燐の言葉に頷くと、次にセシリアは、まだ姫燐に抱きついたままの鈴へと顔を近付け、

 

「貴方……たしか鈴さん、ですわよね? 貴方も、あまりお胸の事なんて気にしない方がいいですわよ。大きくてもあまり良い事はありませんし、何よりも本当の愛は、相手の姿形なんて……」

 

 そう言いながら顔を赤らめ、姫燐の方を僅かに一瞥し、すぐに視線を逸らす。そして、その先にある物を見つけた。

 

「アレは……食材? もしかして、お夕食がまだですの?」

「ん? あー……そういや、まだだったなぁ……」

 

 遥か昔の事のように感じるあのゴタゴタのせいで、結局夕食を食べそびれてしまっていたことを姫燐は思い出した。そして一度意識してしまえば、無視することができなくなるのが食欲という奴である。

 きゅぅぅぅぅぅ……。と、また可愛い腹の音が、部屋に響いた。

 

「う……」

「ふふ、何でしたら、わたくしが何かお作りしましょうか?」

「え、マジで? んー、そうだなぁ……」

 

 軽くほほ笑みながら手を合わせて申し出るセシリアに、姫燐は少しだけ思案しながら、

 

「んじゃ、頼んでいいか? 本当は鈴が作る予定だったんだが、構わないか? 鈴」

 

 姫燐は下を向いて、元の食材の持ち主である鈴に確認を取る。また無言でコクコクと頷く鈴を見て、姫燐はOKだとセシリアに伝えた。

 

「それじゃあ、エプロンや調味料を取ってきますわ! 少々お待ち下さいねっ!」

「おう、サンキュー! 愛してるぜセシリア!」

「あ、愛してッ!? あ、ああああああ愛アイあいアい愛あ……」

 

 まるで熱に浮かされた病人のような表情と足取りで、セシリアは自分の部屋へと戻って行った。

 扉が閉まり、覚束ない足音がドンドンと遠くなっていく。

 九死に一生。何とか、なったか。

 ようやく潜り抜けた修羅場に、姫燐は深い安堵のため息をつく。その息に反応したのか、先程から黙りっぱなしだった鈴が、口を開いた感触が胸から伝わった。

 

「……あんた、アイツとは」

「ありえん。アイツにオレは嫌われている。それは確定事項だ。一応、いつも通りに接してるつもりだが、どういうつもりか最近不気味なほどにやたら愛想が良い。これは本格的に警戒を強める必要があるかもしれん……」

「……あれでいつも通りなの? まぁ、別に良いけど。それより、姫燐?」

「ん、どうし」

「コノママ、終ワルト思ッテナイデショウネ……アトデ、覚エテオキナサイ……」 

「たばががががが」

 

 なんてこったい。まだ修羅場は終わっていなかった。

 このままプロレス選手にでもなれそうな程の力で自分を抱きしめる、地獄の底から響く様な小鬼の声に、姫燐は更なる激闘の予感に顔を引きつらせた。

 

「……まぁ、でも。ホント、デカいわよね。あんたのコレ」

「へっ、うひゃあ!?」

 

 急に抱きしめる力を弱めたと思ったら、今度は少し離れて、鈴は少々荒っぽく姫燐のダイナマイトを揉みしだき始めた。

 

「や、やめっ、おまっ、ふざけひゃあ!」

「ふーん、やっぱりデカいと敏感って聞くけど、あながち嘘じゃないのかもね」

 

 反撃を許さぬよう、口を動かしながらも手は絶対に止めない。というか、止まらない。

 そのまま姫燐を押し倒して、マウントポジションを取る鈴。

 

「あー、ちょっと不味いわねコレ。癖になりそう」

「り、りんやめっ、やめてくれっ、これいじょ、されたらオレ、オレひゃ……」

 

 だんだんといつもの覇気が抜け、涙声にとろけてきた姫燐の声を聞き、鈴は鼻を鳴らしながらようやく手を離した。

 

「ハァ、な、なんの、ハァ、つもりひゃよ、ハァ、おまぇ」

 

 息も絶え絶えに尋ねる姫燐に、鈴は存分に堪能したその手を見つめ、握って開いてを繰り返しながら、冷たく言い放つ。

 

「別に、少しだけアンタの事が分かった気がする。同性愛ってのが流行る理由も、あながち分からんでも無いわ」

「…………は…………?」

「でも、勘違いしないでよね。あたしが好きなのは、あくまで一夏なんだから」

「そ、そいでふか……ガクッ」

 

 今までの過労もあるだろうが、やはり弄ばれ過ぎて完全に精根尽きたのか、そのまま気絶するように姫燐は眠りに陥って行った。

 そんな彼女を見て、鈴はISを両腕だけ展開すると、姫燐をお姫様だっこの形で持ち上げ、ベッドに寝かせて布団をかけてあげた。

 安らかな寝息を立てて眠る姫燐の横にゆっくりと座り、鈴は小さく呟く。

 

「本当の愛は、相手の姿形なんて……か」

 

 先程の金髪女の言葉を、リフレインさせる。

 もしかして、あの女は姫燐のことが好きだったのではないだろうか。というか、ほぼ確実にそうだろう。鈴には確信があった。

 なぜなら彼女には、こちらの好意に気付いていない相手に、空回りのアプローチを延々と続けるその滑稽な姿が、どこか自分と重なって見えしまっていた。

 男を愛する自分と、女を愛するアイツ。

ダブって見えた、2人の存在。2人の行動。2人の――恋愛。 

 

「案外、なーんにも変わらないのかもね。男も女も」

 

 夢の中でも誰かに弄ばれ続けているのか、ときどき思春期には毒な寝言を上げる姫燐を見てクスリと笑うと、自分も彼女と横に並んで、夕食が出来上がるまでしばしの仮眠を取る事にした。

 

 ――もし、一夏を他の誰かに取られちゃったら、もう少し視野を広げてみるのも、悪くないかな……?

 

 ……やはり、自分も今日は疲れてしまったのだろう。

 我ながら世迷言だなと思いつつ、鈴の意識もすぐに夢の世界へと旅立って行った。

 

 

 

 

 

 

 

「ただ今戻りまし……あら? お二人共、眠ってしまったのですわね。……くぅ、羨ましいですけど、ここは耐え忍ぶ時ですわセシリア・オルコット。なんたって、今日は姫燐さんが、わたくしの手料理を食べてくださるのだから……はぁぁッ、待っていて下さいまし姫燐さん! これから貴方を夢の世界よりも素敵な、味のヘヴンへと連れて行って差し上げますわぁ♪」

 

 ……そうしてその後、彼女達の姿を見た者は、誰も居なかった…………念の為言うと、翌日の学園で。



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第11話 「風と嘘は吹き荒む」

――これはもう、本格的にダメかもしれない……。

 

 昼休み。ほとんど確信に近い、そんな懸念を抱きながら、一夏は自分の席に座り目を閉じた。

 開催まで一週間を切った、各学年のクラス代表同士が一対一での決闘を行う『クラス代表戦』。その傾向と対策について語り合う。

 それが今、気まずい雰囲気を絶賛散布中である自分と彼女が共有できる、自然かつ共通の話題。ここで二人が共通できる目的を持ち、それとなくゆっくりと彼女との縒りを戻していく。というのが、一夏が普段使わない知恵を絞って、夜通し考え続けた一番いい作戦であった。

 無論、そんなまどろっこしい真似をする暇があれば、素直に謝れば良いじゃないかと思うかもしれないが、それが出来ないからこんな作戦が必要なのだ。

 今日こそは、絶対にあの件を謝罪すると心に誓う一夏であったが、現実はどこまでも彼をあざ笑うように空回る。

 

「とうとう、学校にすら来なくなったな……キリ」

 

 一夏はそう呟きながら、斜め前にある空席へと目を遣る。

 イヤでも思い出すのは3日前、保健室で起きてしまったあの事故。と、あの感触。

 そりゃあ、あの後は酷いモノだった。姫燐に謝ろうとも彼女は無言でフラフラといつの間にか居なくなってしまっていたし、探しに行こうにも、鈴の事情聴取と言う名の尋問から逃れることができず、結局、休み時間になって様子を見に来た千冬が鈴を制裁するまで保健室から出る事すら叶わなかったのだ。

 それからと言うモノの、一夏は姫燐から徹底的とも呼べる程に、避けに避けに避けられまくっていた。

 次の日の朝、一夏が彼女に軽く挨拶をしても、何故か隣ののほほんさんに返事を返された。

 一昨日の昼、一夏が食堂に誘おうとしたら、即座に弁当箱をこれよ見がしに取り出した。無論、彼女が弁当を作ってきたのなんて初めてだし、オマケに中はカロリーメイトがギッシリ詰まってた。弁当の意味があるのかそれは。

 そして昨日の夜、自室でこうなったら直接土下座するしかないと腹を括っていると、セカンド幼なじみの悲鳴が聞こえ、何事かと部屋を飛び出すと……

 

――……織斑一夏ッ!?

 

 何故かセシリアが、姫燐の部屋の扉の前で顔を真っ赤にしながら呼吸を整えていた所を発見し……気がつけば翌朝、一夏は自分のベッドの上に寝転がっていた。首がしばらくの間、明後日の方向にしか向かなくて、箒に珍妙な顔をされたのは記憶に新しい。

 で、今日。とうとう、彼女は学校に来なくなってしまった。理由はあまり考えたくないが……考えるまでもないだろう。腹痛だと千冬は言っていたが、そんなもの『仮病』の言い訳としては、もはやテンプレを通り越してチープの領域に入りつつある。

 前日まで彼女と普通に話をしていた箒に聞けば、確かに普段に比べ、どこかいつもより余裕がないというか、思い詰めていたように感じたという。当然だろう、年頃の女の子が別に好きでも何でもない男にベッドへ押し倒されたのだ。姫燐の心をどれほど傷付けてしまったかなど、一夏の未成熟な価値観では想像もつかない。

 

――クソッ…………。

 

 心の中でいくら過去の自分を咎めようと、それが何の贖罪にもならない無意味な事だと分かっていても、一夏は自分への嫌悪感を捨てられない。

 焦る心が彼の心からゆとりを失くしていき、もう慣れ切ったと思っていた周囲の話し声が、過去最高に耳をつく。微かに耳に届く全てが、まるで自分の罪業を責め立てているようにすら聞こえて……

 

「一夏っ!」

「ッ!」

 

 突然の呼び声に、一夏の体が跳ね上がる。

 

「ほっ、箒!?」

「私以外に誰がいるというのだ?」

 

 さっきからずっと呼んでいたのだぞ? と不機嫌に眉をしかめて腕を組んだのも一瞬、次の瞬間には気色と声色が心配を孕む。

 

「本当に大丈夫か一夏? 最近のお前は……いや、『お前ら』と言うべきか。何か良からぬ事でもあったのか? クラス中どころか、学園中がお前らが破きょ……いや、ケンカでもしたのかと持ち切りだぞ?」

「……そんなに、噂されてるのか? 俺達って」

「お前達は、様々な意味でとても目立つからな…………コレを、見てみろ」

 

 そう言って箒は一瞬、躊躇うような仕草を見せたが、意を決したのか小脇に挟んでいたB4くらいのコピー用紙を机の上に広げる。そこには、この様な文面がデカデカと我が物顔で踊っていた。

 

「『織斑一夏&朴月姫燐、おしどり夫婦、とうとう破局か!?』…………な、なんなんだよ……コレは?」

 

 更に続く細かい文字には、自分と姫燐について脊髄反射だけで書きなぐったような、証拠もへったくれもない過大誇張されたホラ話が延々と書きつづられている。

 特に『衝撃!? これが朴月姫燐の正体!?』と小見出しに書かれた所に関しては、直視することすら憚られるモノばかりだった。

 

――織斑一夏に近付いた淫売――

――専用機も、その身体を使って――

――学園の外で、今も援助交際を――

 

 どれもこれもが、いっそ白々しいまでに確証の欠片もない、最悪な虚実ばかり。

 一夏は自分でも、嫌というくらいに声が震えているのが分かった。怒りや驚愕や嘆きだけではない、もっと別の強い『何か』が、彼を揺さぶる。

 

「この学園に、新聞部と言う部活があることを知っているか?」

「あ、ああ……知ってる」

 

 知っているというか、一夏も入学当初から、ぜひ一度インタビューをさせて欲しいと、何度もせがまれたせいで嫌でも覚えてしまっていた。

 

「そこの部員の一人が、独断で作ったゴシップ記事だ。無論このような悪辣な記事、発行前に他の部員や教員達に差し押さえられ、全部回収された。これを作った部員も厳重注意を受け、強制退部させられたそうだが……事実こうやって、ごく一部にはしっかりと出回ってしまっている」

 

 どこにでも居るモノだな。こういう連中は……と、箒の顔が憂いを帯びる。その眼差しは、ここでは無い何時か。遥か過去を嫌悪しながらも追想するように、遠い。

 

「なんだよ、こんな、こんなデタラメ、信じる奴なんて」

「一夏……お前には信じられないかもしれんが、少なからず居るのだ。こういった嘘八百を好物にするような下衆としか言いようのない輩は、な」

 

 そう言い切った彼女の声は冷酷で、平坦で、残酷なまでに、自信と確信に満ち溢れていた。

 

「で、でも、姫燐はッ! こんな奴じゃないって、見てれば誰だって……」

「人の眼は……時に、非常に都合の良い『曇り』を作る。故意であれ、無意識であれ、作られた曇りは自分にとって都合良く、目の前の真実を歪めてしまう。そして、それが例え何であろうと、人は自分の信じた『真実』を、信じるモノだ」

「嘘……だろ……だって、こんな……」

 

 この新聞が、いつ出回ったのかは知らない。だがもし、この記事を、彼女が目にしてしまったとしたら? 今までどれだけ険悪であろうとも皆勤賞だった彼女が、なぜ今日に限って急に、人前に出ようとしないのか?

 その答えが、一夏の中で最悪の答えへと繋がる。

 

――俺の、せいだ。俺のせいで、キリは。また、俺は、誰かを傷付けて……。

 

「……すまない、一夏」

「……なんで、箒が、謝るんだよ?」

 

 表情を苦く歪め、なぜか謝罪をする幼馴染に一夏は尋ねる。

 

「こんな事、知らない方が幸せだったかもしれない。だが、噂と言う奴は風と同じ。いつか必ず、お前の耳にもコレと似たような風が届く」

 

 箒の瞳が、再び遠くへと向けられる。

 

「こんなタイミングだ。私を最悪な女だと思うかもしれない。だが今のお前が、第三者からこのような事を告げられたらきっと、平静を保てないと思ったんだ…………にな」

 

 最後だけ掠れたように小さな声だったが、一夏の耳には不思議と確かに届いていた。

 

――かつての私が、そうだったようにな……。

 

 確かに、彼女はそう言っていたと一夏は思えた。

 

「だから早めに、知人の誰かがお前に知らせておくべきだと私は思ったんだ……非難ならいくらでも、甘んじて受けよう」

 

 言いたい事を全て言い切ったのか、待ちかまえる責めを受け入れるように薄く目を閉じた箒を見て一夏は、シッカリとしている様で、思いのほか盲目な幼馴染に愛らしさすら覚えた。

 

――ハハッ、意外と抜けてるんだな。箒って。

 

 非難? なんだそれは? いつの間に、彼女は冗談がこんなにも上手くなったのだ?

 箒は、自分のためにわざわざこんな記事を持って来て、汚れ役を買って出てくれたのだ。誇りこそすれ、咎められる筋合いなど何処にも無い。

 本当の悪は、本当に皆から後ろ指を指され、非難を全霊に受けるべきなのは――

 

「ありがとな、箒」

「……一夏?」

 

 ふっと、吹っ切れたような笑みを浮かべて立ち上がり、一夏は箒の肩を軽く叩く。

 

「箒のお陰で、決心がついたよ」

「決心……? 待てっ、何処へ行くのだ?」

「うん? ……ああ、ゴメン。俺、行かなくちゃいけない所が出来たんだ」

 

 本当にありがとな、ともう一度だけ箒に礼を言って、一夏は確かな足取りで教室を後にする。その表情に、先程までずっと浮かべていた苦悩は微塵も無かった。

 

――思えば、今までが幸運だったんだ。

 

 何も知らなかった自分を導いて、鍛えて、常に傍に居てくれた存在。彼女が居たから、俺は今も夢を、『誰かを護れるくらい、強くなる』という夢を追う事が出来た。

 だが、その強さの裏で、誰かが傷つくというのなら、誰かが涙を流すというのなら、致命的な矛盾をはらみ続けるというのなら、

 

――この夢に意味なんて、無い。

 

 だから、ここからは独りだ。それなら絶対に、自分の夢の影で泣く者は居ない。誰も、傷付けることも無い。

 一夏は制服の第一ボタンを外し、首にかけていたネックレスを取り出す。青と白の翼をあしらった、彼女からの大切な贈り物。貰ってから、恥ずかしかったため外には出さずにいたが、ずっと肌身離さず身に着けていた宝物。

 それを強く、強く握りしめ……首から外し、ポケットの中へ乱雑に詰め込んだ。

 

――彼女に甘え続ける時間は今この瞬間、終わった。

 

 これは、その証明。もう、姫燐には絶対に頼らない。

 たった独りでも、自分は強くなって見せる。このクラス代表戦を独力で勝ち抜いて、それを証明してみせる。その時こそ、一夏はようやく自分を許せそうな気がした。

 

――待っていてくれ、キリ……!

 

 謝罪が遅れるのは心苦しかったが、今は目の前に控えた戦いに集中するべきだ。

 

 勝ち取った優勝報告と共に、彼女に謝る。そうして自分はもう姫燐の力を借りずとも、独りで立てることを示して、もう大丈夫だからと、独りでもやっていけるからと、彼女へ――

 

――ズキン――

 

 そこまで考えた瞬間、一夏の胸に僅かだが、辛くて、苦しくて、どこか切ない痛みが走る。あの日の夜に疼いた、胸を貫くような痛みが再び身を焦がす。

 なんだって言うんだ? なにも間違ってはいないだろう? 喜ばしいことじゃないか。 彼女が居なくても自分は強くなって、夢を叶えて、ようやく誰かを護ることができる。

 そうしたらきっと再び、彼女は自分に、あの陽光のような暖かな笑みを向けてくれる……その筈なんだ。

 

――なのに、なぜ、そんな悲しそうな顔で俺を見つめるんだよ……?

 

 きっと、まだ自分を許せていないからだ。

 だから、思い浮かべる彼女の顔も曇ったままなんだ。

 自分に言い聞かせるように一夏は頭を振り、鬱屈した気分を逸らすため窓から空を見上げた。

 きっと、冷たい雨が降るだろう。そう思わせる程に暗く、だだっ広くて、何もかもを遮る。そんな曇天だった。



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第12話 「白い決別」

 所詮、相手は数週間前にISに初めて乗った素人。しかも男だ、恐れる必要などない。

 自分にそう言い聞かせ、少女は手に持ったライフルのグリップを強く握りしめた。

 こちらを真っ直ぐに睨みつける純白の機影。覗く瞳は強く、手にした刀を下段に構え、明確な敵意を持って彼女を射抜く。

 確かに形だけは非常に様になっている。が、それに中身が伴っていないのは、一回戦の内容から察するに明らかだった。

 一回戦を勝ち抜くことができたのは、どう考えてもマグレだ。そう少女に確信を抱かせる程に、無様な姿を晒して、彼はこの空に居る。

 ある者は失笑し、ある者は嘆息し、またある者は無効試合を主張した。だが、あの試合を見た誰もが共通して抱いた念だけは共通して1つ。

 これが、本当にあの織斑千冬の弟なのか?

 試合開始のカウントを告げるコールが鳴り、少女はこびり付いた雑念を振り払う。

 

 ――3

 

 何の問題も無い、勝てる戦いだ。

 敵の武装があのブレード一本しかないのは、既に予習済みである。

 

 ――2

 

 先程の相手のように、初手と加速能力にさえ油断しなければ、

 

 ――1

 

 一瞬で、ケリはつく。

 

――Fight

 

「白式ッ!」

 

 試合開始と共に、響いた咆哮と共に白の機体は爆音を上げて、吹き飛ぶように少女へと肉迫する。

 本当に愚か、素人だってもう少しマシな動きをする。

 勝利への確信を得て、冷静に少女は敵機の直線状から真横に退避する。

 初戦の相手は、これにやられた。開幕から自分の機体の加速能力を制御できなかったのか、奴は目の前で突飛な事態に呆けていた相手を巻き込みながら、全力で壁に激突したのだ。そして、偶然打ち所が良かったのか奴は相手が立ち上がる前に、敵に刃を突き立てた。

 本当に無様、どうしようもないまでに無様。

 このような相手が、いや男などが、自分と同じ舞台で踊っているという事実が彼女にはどうしても容認できない。大人しく地べたを這いずりまわっていれば良いモノを、何を勘違いしてこの場所に居ると言うのか。

 かのイカロスと、コイツは同じだ。決して届くはずが無い領域へと、無知無謀に紛い物の翼で近付こうとしている。

 貴様の傲慢、今すぐその白翼と共に打ち砕いてくれる。

 彼女の予測通りに真横を通り過ぎる純白の敵影。あとは、壁とキスした所に全弾をぶち込んでやるだけ。

 凶悪な狩人の笑みを浮かべる彼女の前を、白い敵が横切った。

 最後にそのマヌケな横面を拝んでやろうと視線を向け、彼女はまた確信することになる。

 

 白い死神に手を掴まれた己自信の、避けようも無い敗北を。

 

「ぎ、あ、あぁぁぁぁぁぁぁあああああ!!?」

 

 引きずられる。掴まれた右腕を形成する全てが口と共に悲鳴を上げ、視界に映る全てが瞬く間に吹き飛んで行く。PICが無ければ、彼女の身体はとっくに内部から生まれる遠心力でバラバラになっていただろう。

 それでも何とか銃のトリガーを引き、ゼロ距離から銃弾を浴びせて敵のシールドを削るが、そんなささやかな抵抗をあざ笑うかのように、腕にかかる圧力はさらに増大していき、

 

「イグニッション・ブースト!」

 

 男の叫びが響いた瞬間、世界の全てから彼女は切り離された。

 

「がっ……ふ……」

 

 気がつけば、彼女は壁を背に空を見上げていた。全身に焼けつく様な痛が走り、上手く呼吸が出来ず、脳が揺れたせいか視界がグレーになり、醜く歪む。

 少女は手を空に伸ばした。まるで空虚な何かに縋る群衆のように、無意識にただ救済を求めて。

 そして、そんな彼女の手を、誰かが掴む。

 

「ぁ……」

 

 逆光に照らされ、漆黒に染められた人影。いや、きっと人では無い。人の背に、翼など有りはしない。

 雄大な翼を持ち、自分に手を差し伸べるその姿は、少女が今まで見た何よりも美しく、

 

「零落白夜、発動」

 

 同時に、何よりも残酷に、青い光が彼女の胸を貫いた。

 

 

                   ○●○

 

 

 まだ少し痛む身体を引きずりながら、一夏はハッチへと向かう通路を歩いていた。

 ようやく、ここまで来れた。心が自然と高揚と自制を繰り返し、油断すればあっという間に平静を失いそうだ。それでも、一夏は自然と顔がふやけそうになるのを押さえられない。

 残りの一週間で寝る間も惜しんで考えた作戦が、面白い様に成功したのも止まぬ興奮に一躍かっている。

 始まると同時に敵へ突進し、無理やり超至近距離に持ち込み、そのチャンスに零落白夜でトドメを刺す。

 打鉄では絶対に不可能な、あの姫燐ですら対応が遅れたスピードが出せ、一撃必殺の武装を持つ、白式ならではの戦法だ。

 しかし、こんな作戦が通用するのは初見の相手だけ。勝ったとしても次があるトーナメント戦では、一回だけしか通用しないだろう。

 だからこそ、一夏は初戦。あのような無様な勝利を飾ったのだ。所詮、自分はまだISを使いこなせていないペーペーだと錯覚させるために。

 結果は上々。次の相手は、明らかにこちらの事を侮っていた。そして勝負の結果は先程の通りである。

 一夏は、制服のポケットに入れたネックレスを取り出し、想いを馳せる。

 敵の油断こそ、最強の銃弾なり。一夏が彼女の一挙一動から学んだ、策を成功させるもっとも重要なファクター。ここまで生きるとは、正直に言って予想外であった。

 大丈夫、確かに自分は強くなっている。

 そんな確信を抱いて、一夏は角を曲がろうとして、

 

――キリ!?

 

 久方ぶりに見えた背中に思わず一時停止、そして即急に曲がり角までバック。

 一瞬、見間違いかもと考えたが、赤い髪をなびかせる少女はIS学園広しといえども朴月姫燐しかおらず、即座にその判断を却下。

 結局、あの日から一度も顔を出さなかった彼女がなぜここに? 部屋から出てきてくれた事を嬉しく思いながらも、同時に罪悪感が沸々と募る。

 

「悪りぃ、遅くなったな」

「いいよいいよ、間に合ったんだから。結構ギリギリ所か、若干アウトだけど」

 

 話声? 相手も必然のように女子だが、一夏は聞いたことが無い声だ。

 盗み聞きするようで少し悪い気もするが、すぐに好奇心の方が競り勝ち、一夏は息を殺して耳を澄ます。

 

「……ホントに大丈夫なの? 出来の方は」

「安心しな。第三アリーナの構造データは、確かにその中さ。出来に関しては、掛かった時間で推して知るべしってな」

 

――第三アリーナの……構造データ?

 

 つまり、このアリーナの構造を書き記してあるという事だろうか? なぜ、そのようなデータを姫燐が? 同時に、このようなデータを求めるコイツは誰だ?

 嫌な胸騒ぎを感じながらも、一夏は静聴を続けた。

 

「それより、報酬の方は頼むぜ?」

「分かってるわよ。そういう契約だものね」

 

 報酬、契約。一般の学生には無縁の言葉が次々と飛び出す彼女達の会話に、一夏の疑念は更に加速する。

 

「じゃあな、有効に使えよ」

「ええ、貴方の方も」

 

 相手の方は最後まで言わず、足音がこちらへと近付いて来る。

 とっさに一夏は音を立てないように距離を少し離し、まるで今、この通路を歩いてきたような風貌を装った。

 跳ねる鼓動を喧しく思いながら、一夏は出来る限り何事もなかったかのような顔を作り、少女とすれ違う。

 

「…………」

 

 僅かに訝しむような表情をされたが、何とか無事に切り抜ける事に成功し、安堵の一息を、

 

「盗聴は犯罪ですよっと」

「うへぃ!?」

 

 つこうとした一夏の腕がガシリと掴まれ、彼の口から、奇妙な声が漏れる。

 

「キ、キキ、キリさんッ!? やぁこんな所で奇遇」

「本当に奇遇だな一夏。足音が急に止まったと思ったら、アイツが角を曲がろうとした瞬間また聞こえて、オマケに他の足音は聞こえなかったけど、本っ当に奇遇だな一夏」

 

 バレてる。モロにバレてる。

 思わず出た出まかせを完全に論破され、滝のように額から汗を流す一夏を見て、姫燐はやれやれといった風で頭を抱える。

 

「ご、ゴメンなさい……」

「ま、別に聞かれて困るような要件でもねぇが、人にはプライバシーってもんがあんだ。次は言葉じゃなくてリアルの暴力を飛ばすからな」

 

 土下座すら覚悟していた一夏の予想を余所に、呆れたように笑いながら、姫燐はあっさりと彼の腕を離した。

 久方ぶりに見る彼女の笑顔。だが、その顔色は一夏の記憶と比べて明らかに悪く、薄らと目蓋にクマすらできている様に見える。それが、彼女が一週間も部屋に篭っていた訳を見せつけるようで、ただですら顔を合わせ辛い一夏の、居た堪れない気持ちを更に煽る。

 

「あー………………」

「……………………」

 

 次の言葉が見つからないのか、もどかしそうに頭を掻く姫燐。

 彼女にはかける言葉も無いと、沈痛な表情を浮かべて顔を沈める一夏。

 二人の間に訪れる、突然の気まずい沈黙。

 

「……もう、腹痛の方は大丈夫なのか?」

「あ、ああ。オレも流石に一週間近く寝込むハメになるとは思わなかったが、もう大丈夫だ」

 

 発する言葉の節々からにじみ出る、呆れるほどのリアリティの無さ。いくら何でも、食べたら一週間も寝込むような食べ物、というか劇物なんて有りはしないだろう。

 それから、また静寂。会話が異様に続かない。こんなこと、2人の間では初めての事だった。そして今度は、姫燐の無理におどけた様な声が空気を裂く。

 

「そ、それにしてもだ! 少しはやる様になったじゃねぇか、ええ! お姉さんビックリだぜ!」

「へ……」

「オレがお前ならこうするってプランを、ものの見事にトレースしやがるとは。うん、驚いた! 正直に驚いた! もしやお前は純正種かっての!」

 

 なははー、とワザとらしく笑いながら一夏を褒める姫燐だが、すぐにその顔は元のしかめっ面に戻る。

 また渋い表情で首をあっちこっちへ動かし、とうとう観念したように首を落とす。

そうして一度、その胸に手を当てて大きく息を吸うと、

 

「すまんかった一夏!」

 

 パンと突き出すように両手を叩きながら、腰を綺麗に45℃曲げた。

 

「キリ……?」

「いやまぁ、そのだな。保健室の件なんだが……」

 

 彼女も思い出すのが恥ずかしいのか、頬を赤く染めながら顔を逸らそうとして、それでも精一杯一夏の顔を見ながら、結局少し横目な彼を見て謝罪する。

 

「あれから冷静になって考えたんだけど……そもそも、オレがお前を過剰にからかったのが事の発端だし、押し倒したのも、別にオレにその……アレする気じゃなかったんだろ? だったら、別に減るモンでも無いし許してやってもいいかなって……あ、違うぞ! 減らなかったら何しても良いって訳じゃねぇからな! オレだって、その、一応女の子って奴なんだし……」

 

 表情を二転三転もさせながら、最後には、声色と同じようにそのまま地面へとズプズプと沈んでしまいそうに顔を伏せる姫燐。

 久しぶりに見る、いつもと変わらない彼女の姿。その何もかもが無性に懐かしく思えて、一夏の心を縛っていた戒めの鎖が、ふわりと解けそうになる。

 もういいじゃないか。後は、こっちも悪かったと頭を下げるだけだ。それでこのケンカは終わり。何もかも元通りで、いつもの、あの日々の二人に……

 

――戻りたいのか、お前は?

 

 冷たい声が、聞こえた。

 

――昔のように、彼女に教えられ、護られて、傷付けるだけだった、あの日々に戻りたいのか? また、彼女に甘え続けるのか、お前は?

 

 一言一言が、ピアノ線のように冷たく身体に食い込む。逃れる事も、耳を塞ぐこともできない、彼の内側から間欠泉のようにあふれ出る問答。

 

――そもそも、この戦いに勝っても同じだ。全てが元の鞘に戻ったら、本当に『全て』が元通りなんだぞ?

 

 思い出すのは、一週間前に見たあの記事と、斜め前の空席。そして、目前に映る明らかに消耗した彼女の表情。

 

――縋るな。不抜けるな。ふざけるな。

 

 分かっている。自分の夢は、織斑一夏が抱いた夢は、

 

――強くなれ。賢しくなれ。護り抜け。誰かを。この両手で。自分自身の力で。

 

 だから……離してしまえ。お前は、織斑一夏はもう、たった独りで行くと決めたのだから。

 一夏はポケットに手を入れる。翼のネックレスが手の平に触れた。

 刹那、彼女と過ごしたこの数週間が、フラッシュバックのように脳裏を掠める。

 出会って突然、屋上に拉致られたこと。不可抗力とはいえ、彼女の胸を揉んでしまったこと。セシリアに勝つため、毎日のように奔走してくれたこと。代表決定戦で、出撃する自分を見送ってくれたこと。2人っきりで、デートに出かけたこと。

 そうして、全ての記憶の欠片に散りばめられ、焼きつけられた、あの太陽のような笑顔。

 

「なっ! だから、これで痛み分けだ! これからもよろしくな、一夏!」

 

 またこの瞬間でも、陽光はどこまでも無邪気で、優しくて、明るくて、何時までもどこまでも、この身を照らして欲しいと、一夏は思う。それが許されたら、どれほど幸福なのだろうかとも。

 だから、一夏はその双眸に焼き付けることにした。これが最後、自分に向けられる最後の笑顔。なぜだか、この光さえ覚えていれば、自分は何でもできる。どんな非現実すら、現実のモノにしてしまえそうな気すらしてくるから。

 強く、再びぶり返しかけた惜しみを痛みで殺すように握り締めて、一夏はポケットに入れた手を、姫燐に突き出した。

 

「……一夏? それ、オレがあげたッッ!」

 

 己の失態に、急いで口を塞ぐ姫燐。

 

「い、いやー、どうしたんだよ一夏? お前がアクセサリーとは珍しいなー、うん。しかし趣味が良い。我ながじゃなくて、コレ選んだ奴は良いセンスしてるな。むしろ、オレが欲しいくらいだぜーって、はっはは」

「じゃあ、やるよ」

「はは……は?」

 

 一定方向を向いていなかった彼女の瞳が、一夏を見据えて止まる。

 

「な、なに言ってんだ……? 冗談なら、もっとマシなのを」

「冗談なんかじゃ……ない。欲しいのなら、姫燐にやる。もう、俺には必要無いモノだから」

 

 茫然とする彼女の胸にアクセサリーを押しつけると、一夏はハッチへ向けて走り出した。

 逃げる様に、置き去る様に、背後から追いかけてくる僅かな後悔に捕まらない様に。決して振り向かず、一心不乱に通路を走り続けた。

 自分の愛機の様に真っ白になっていく心が僅かに、霞んでいく視界を鬱陶しがっていた。

 その姿を見送りながら、一人取り残された姫燐は、彼から貰ってしまったネックレスの紐を持って、眼前に釣り下げるようにして呟く。

 

「……どうやら、ふられちまった、か」

 

 ゆっくりと口にして、ようやく彼女の現実と意識がリンクする。

 ふらりと揺れた足のまま、姫燐は壁を背にして座りこむ。

そうして、電球が照らす天井を見上げ、

 

「……くひっ」

 

 にぃ、と端整な顔立ちを、歪に歪めて牙を剥く。歯の隙間から、肺と喉が製造した声が漏れる。

 

「ひっ、ヒヒヒ……ヒはは……」

 

 声は小さな笑い声に変わり、小さな笑い声は断続的に繰り返される度に、ボリュームを上げて、

 

「ハーははっ! ヒーッはっははは、アははハはハはッ! クヒッ、ヒヒっ、クヒャハハハハハーーーーッ!」

 

 壊れたオーディオの様に、大音量で、ぶつ切りで、狂ったような笑い声が、ただただ誰も居ない廊下に無情に響き続けていた。



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第13話 「白vs龍」

「ふぅん……本気ってわけね、一夏」

 

 第三アリーナ上空で相対する愛しき男の顔を見て、鈴は背筋に冷たい感触を感じていた。

 日頃から見せる、歳相応の軽さなど微塵もない。揺れぬ湖水のように無表情で、刃のように鋭く、氷塊のように冷たい、ただ一点のみを真っ直ぐ見据えた男の瞳。

 まさしく今の織斑一夏は、抜き身の刀と呼ぶに相応しい状態であった。

 

「……聞く耳なしってわけ? 上ッ等じゃないの!」

 

 気を抜けばそのまま飲み込まれてしまいそうな、初めて見る彼の姿に、鈴はワザと大きな声で自分を鼓舞する。だが、その怒声を耳にしながらも眉1つ動かさず、 一夏は手に持つ雪片二型の柄を顔に近付けながら、鈴に突き付けるような姿勢で構えた。

 一夏が構えたのは、突きの構え。鈴は自分の読みが当たっていたことを確信した。

 

(やっぱり、またその戦法で来るのね)

 

 初戦、そして準決勝で見せた、白式の超スピードによる初手からフルスロットルで突貫する電撃戦。確かに、あのスピードからの一撃を見切るのは困難だろう。

 

(あれを見るのが初めてなら、危なかったかもしれないけど……)

 

 彼の試合は全て、しかとこの目で観戦していた。

 だから分かる。あの戦法には、致命的な大前提が必要であると。

 どれほどのスピードで来たとしても、真正面から来ると分かっている攻撃は脅威と呼べるだろうか。答えは否。古来から、突撃しか能の無い猪は狩られるが定め。

 先程の一夏の相手も、そこまでは読んでいたのだろう。

 しかし、彼の行動を読むことができても機体の方を、第三世代のISと、第二世代のISの間に有る、決定的なスペック差を軽く見積もっていたのが彼女の敗因だ。

 同じ第三世代のIS「甲龍」を操る鈴だからこそ、分かる。

 あの白いISは正真正銘の化物だ。いったいどうやったら、あそこまでの加速性能を持たせることができるのか、そういった方面には凡俗である彼女には想像もつかない。

 だが、纏う彼は違う。彼のことなら、ずっと見て来た自分だからこそ分かる。

 一夏とずっと一緒だった、中学時代のことを思い出す。

 彼は、こういった難局に余計な策を練って来るタイプではない。

 いつもそうだった。テストの時も、運動会の時も、合唱コンクールの時も。基本的に対策を練らずに行き当たりばったりで、正面から全力でぶつかれば何とかなると考えている。

 そういう少し抜けたというか、頼りない一面がまた保護欲を掻きたてるのだが……と、雑念が鈴の脳内を支配している一方、観客席の一角に座っていた箒は振りかえり、

 

「ところで、あの鳳の肩に付いている球体は何だ、姫燐?」

 

 と、友へと意見を求めるが、

 

「……………ぁ? 悪ぃ、聞いて無かった」

 

 どうにも先程から、ずっとこの調子である。

 まだどこか体調が優れないのだろうか。何を聞いても上の空で、いつもはパチクリと開かれた双眸も、今日はしんなりと据わっている。

 

「大丈夫ですの? お身体が優れないのなら、保健室に……」

「心配なら無用だ。ありがとな」

 

 箒の隣で座るセシリアの憂いを潜めた声に、手をヒラヒラさせて無理やり笑顔を作るが、あまりこういったことの機微に明晰ではない彼女でも、姫燐が無理をしていることは一発で分かった。

 

「無理だと思ったら、いつでも言って下さいまし。姫燐さん」

「サンキュな、セシリア。んにしても、空間圧作用兵器とは、また厄介なモン装備してんじゃねぇか、鈴の奴」

「空間圧作用兵器? なんなのだそれは」

 

 空間圧作用兵器「龍咆」は、その名の通り空間に圧力をかけることで砲身を生成し、その際に発生する余剰衝撃を砲弾として打ち出す事によって敵を攻撃する兵器だ。

 

「まぁ、簡単に言えば、空気を圧縮して砲身と砲弾を作る兵器だ。空気で出来てるから、人間の眼では見えないってのが最大の特徴でありアドバンテージだ。そのくせ、中々に威力がありやがる」

「まぁ! 流石お詳しいですのね、姫燐さん」

「ん……まぁな」

 

 セシリアの賛辞を生返事で返しながら、姫燐は再び彼等が舞う空へと視線を戻す。

 タイミングよく、無機質なコールがカウントダウンを始めた直後であった。

 鈴は、雑念を振り払うように深呼吸し、彼女はその手に、両端に青龍刀が付いたツインブレード「双天牙月」を虚空から引っぱりだして装備する。

 大丈夫だ、自分は勝てる。丁度いい機会だ、ここで自分の実力を思い知らせ、倒れたアイツに手を差し伸べるついでに、もう言ってしまっても良いかもしれない。

 と、また脳に咲き誇り始めたお花畑を踏み散らす様に、鈴は手に持った武器を構えなおす。

 改めて正面から見る愛しい人の面貌。無表情は変わらないが、それでも一寸のブレも無く刀を構えるその凛とした佇まいに、惚れ直してしまいそうである。だが、今だけ煩悩はカギをかけてしまい込む。

 そうしてカウントはゆっくりと、グリーンで表示された数字から、レッドの戦闘開始を告げる文字へと変貌を遂げ……瞬間、白式のスラスターから激しい音を上げて推進剤が爆発し、一夏は鈴の予想通り、こちらへと吹き飛んで来た。

 

――もらった!

 

 甲龍の両肩に対となる形で設置された2つの球体が、あらかじめ命令していた通りに作動し、唸る獣のような低くて重い音が響く。

 

「やはり、そうきますわよねぇ、普通」

 

 行儀良く座りながらも声色は心底つまらなそうに、セシリアが呟く。

 

「避けられないなら、最大火力で迎撃してやればいい……当然だな」

 

 箒が、神妙な顔つきで腕を組みながら相槌を打った。

 確かに機動力では、あの機体に勝てる奴などそうは居ないだろう。だが、戦闘は足が速いだけで勝てるかけっこのような、甘いモノでは無い。

 相手が自分より強いカードを持っているのなら、そのカードを一方的に斬り刻めるハサミを使ってやればいいのだ。

 彼女の両肩に存在する、敵が保持していない遠距離攻撃と言う名のハサミで。

イノシシ武者は依然正面。唯一の懸念であったチャージラグも、余裕で間に合う。あとはトリガーを引くだけ。

 

「バイバイ、一夏ァ!」

 

 鈴は頭の中で、己のISに龍咆の発射を命じた。

 

「だが、当然だからこそ、読みやすい」

「へっ?」

 

 どういうことですの? とセシリアは箒に尋ねようとし、口を紡ぐ。

 百聞は一見にしかず。目の前に広がる光景は、セシリアに揺るぎようもない真実を告げていた。

 

「なっ!?」

 

 一方の鈴は、理解が追いついていなかった。

 避けられた。龍咆を、あの完璧なタイミングで。

 正面へとストレートに発射した2発の空圧弾は、先程まで確かにいた筈の敵に当たらず観客席上空に張られたバリアーに当たって四散し、敵影は――

 

「ハぁぁぁぁぁッ!」

「ッ!?」

 

 上空、真上を取られた! 

 我に帰り、手に持った双天牙月で彼の一閃を防ごうとするが、

 

「零落白夜、作動ッ!」

 

 手に持った雪片二型が変形し、柄だけの形になったかと思えば、その先端から迸る青い光が刃を形成する。全てを斬り裂く、一撃必殺の刃を。

 

――ダメだ、アレは受けきれない!

 

 鈴の本能と言っても差し支えない直感が、機体を後退させた。

 それでもやはり初動の遅さをカバーしきれず、天空からの一閃が、逃げ損ねた鈴の双天牙月の片方を両断する。

 観客達は、興奮に呑まれ一斉に歓声を上げた。

 

「いったいどうやって……ま、まさか、あの男はッ!」

「そうだ、アイツは、一夏は全力を出し切っていなかった。わざとスピードを落としていたんだ」

 

 箒の動体視力は、初戦や準決勝に比べて鈍重な彼の動きを、確かに捕らえていた。

 確かに、全速力で走る車を制御するなど困難であろう。出来ても正面突撃が関の山だ。

 だが、本来ISとは重力をぶち破り、非常に高度な3次元戦闘を可能にする代物である。思えば今までの、突進しかしない一夏が異常だったのだ。

 そして彼は、その「異常さ」を逆手に取った。

 

「くっ、このぉ……!」

 

 鈴も彼の作戦を悟り、己がまんまとこんな単純なミスリードにハマっていたことへの不甲斐なさに、今が戦闘中で無ければ壁を何度も殴りつけていただろう。

 油断していた、甘く見ていた、軽んじていた。

 当然ではないか。なぜ、織斑一夏は突進しか能が無いと錯覚していた? こんな単純な動きすら出来ないと高を括っていた? そんな訳が有るはず無いことを、今まさに刃を反して二の太刀を切り上げんとする、修羅の如き表情を浮かべる彼の姿を見て、なぜ察することが出来なかった?

 どれほど己の愚鈍さを後悔しても遅い。

 それでもこのまま、なにも出来ず無様に負けるわけには――。

 

「いかないのよっ!」

「ぐっ!」

 

 即座に鈴は、龍咆を一夏に向けて発射する。

 至近距離での爆発に、自分のシールドエネルギーも減少するが、あのまま即死するよりは遥かにマシだ。

 続けざまに第二射、第三射と連続で龍咆を発射しながら距離を離していく。

 集中砲火に晒されながらなお、白い機影はこちらへと接近を試みるが、先程のダメージが響いているのか、次第に速度を落としていった。

 なんとか死神が笑う至近距離を脱した鈴は、荒い息を整える間もなく双天牙月の柄を刃がまだ残っている方へと持ちかえつつ、龍咆を乱射し続ける。

 

「落ちろ落ちろ落ちろォ!」

 

 一見、恐慌し錯乱したかのような出鱈目な乱射。だがそれでも、遠距離兵装も防御兵装もない白式にとっては、それが一番厄介な選択肢であった。

 

「これでは、いくら機動力が有っても近付けませんわ」

「なるほど、もう二度と距離を詰めさせる気はないようだな」

 

 弾幕を掻い潜って敵を斬り裂くなどという、マンガのような離れ業が出来れば別だが、残念ながら一夏にそのような技能は無い。おまけに龍咆の弾も、銃身も不可視なのが、回避を非常に困難とする大きな障害となる。

 

「それにしても、よくあの程度しか被弾しませんわね。あの男」

 

 見えないため確証は持てないが、抉られる地面や、響く観客席のシールドから推測するに、どうにも先程から発射されているであろう弾数に比べ、あまり被弾していないように見える。

 

「そこよっ!」

 

 縦横無尽にアリーナ内を逃げ回る白式を右の龍咆で誘導した先に、もう片方の龍咆の一撃をすかさず叩きこむが、

 

「遅いッ!」

 

 雪片の刀身をとっさに盾にして、なんとか直撃を避ける一夏。

 

「な、なんで、まさかアンタ、龍咆の弾が見えてるっていうの!?」

「答える義理は、無いッ!」

 

 精確には見えてはいない。だが、教えてはくれている。

 再びこちらに向けられる龍咆。白式のハイパーセンサーが一夏の頭に直接、空気の湾曲を伝えた。

 今度は身体を半歩開いて、最小限のアクションで避けて見せる。

 

「なにが答える義理は無いよっ、完璧に見えてるじゃない!」

 

 ムキになって鈴は龍咆を連射するが、やはり弾は虚しく地面や壁を叩くだけだった。

 

「鳳の奴を、ここまで完璧に手玉に取るとは。この試合、貰ったも同然か」

「いえ、まだですわ」

 

 テンションが沸騰し、思わず笑みすらこぼれていた箒に、セシリアの否定が水を刺す。

 

「どういうことだ? もう勝ったも同然ではないか。後はこのまま奴に無駄弾を消耗させ続けて、エネルギー切れに持ち込めば……」

「残念ながら、そうは問屋がおろしません。見て下さいまし、アレを」

 

 そう言いながら動くセシリアの視線を、箒は追う。

 その先にあったのは第三アリーナに設置された、巨大なモニター。そこにはいま戦っている両者の名前と、機体の情報が詳細に書かれており――

 

「なっ、バカな!?」

 

 箒は、我が目を疑った。

 モニターに表示された、ISの試合におけるHPに等しいシールドエネルギーの残量。このモニターは、今の戦況とは真逆の報告を歴然と写していた。

 

「一夏のシールドエネルギーの方が、鳳よりも残り少ないだと!? どうなっている!? どう見ても、アイツの方が消耗している筈なのに!」

「そこが、あの龍咆の厄介な所、その2ですわ」

「その……2だと?」

「あの龍咆は従来の兵器に比べて、非常にコストパフォーマンスに優れていますの。何発撃とうが、大した消耗にはならない……まったく、羨ましい限りですわ」

「そんなバカな……それでも、この燃費はいくら何でも」

「まぁ無論、タダで撃ち放題というほど龍咆も優れてはいませんわ。先程から着実にエネルギーは減っていってますけど……問題は、あの男のISの方ですわ」

「一夏の……ISが?」

「少しあっちのほうを見ていれば、嫌でも分かりますわ」

 

 セシリアの言おう通り、箒はフィールドから一旦目を離してモニターを、一夏の白式のエネルギー残量を注視してみる。

 目は向いていなくても耳に届く、龍咆の発射音と、また地面を抉る音。

確かに文字通り、一発で箒は悟った。一夏の絶対的な不利を。

 

「バ、バカな……回避だけで、龍咆一発分よりもエネルギーを消費しているだと?」

「そう、訳が分かりませんわ。いったい、何にどう配分すれば、あれ程の燃料喰い虫になるのだか」

 

 思わず歯噛みをしてしまうセシリア。

 彼女の心情もいつの間にか、一夏のほうへとエールを送っていた。

 

「だったら、一気に接近戦へと持ち込めば……」

「それも多分、厳しいと思いますわ」

 

 箒の声が聞こえていたかは知らないが、一夏は一瞬の隙を窺って、引き撃ちに徹する鈴への接近を試みるが、

 

「残念、遅いよっ!」

「ぐッ!」

 

 何発かの弾丸を潜り抜けるが被弾し、また大きく距離を離されてしまう。

 

「やっぱり、ハイパーセンサー頼りじゃ、どうしても反応が遅れちゃうようね」

 

 内心を読まれたことに、一夏の眉間が一層深く刻まれる。

 いくら一体化している状態に近いとは言え、所詮は人と機械。ハイパーセンサーが情報を読み取り、パイロットである一夏に伝えるのには、どうしてもほんの少しだがタイムラグが生じてしまう。

 遠距離から避ける分にはまだ大丈夫だが、接近するとなれば更に高度な情報処理が求められてしまう。一夏の脳はそれを捌ける程、このISという半身に馴染んではいなかった。

 

「ほらほらほらッ! このままだとジリ貧よ一夏ッ!」

 

 見えない砲弾は、当たっても当たらずとも着実に一夏を追い詰めていく。

 少しずつ、それでも着実に削り取られてい行くアドバンテージ。

 

「これでは、一夏はッ……」

 

 見兼ねた箒は、振り向き先程から一言も喋らない友人に向けて声を張り上げた。

 

「なにも無いのか、姫燐!」

「……なにがだよ?」

 

 イマイチ鈍い反応を返す彼女に、2人は尋ねる。

 

「逆転の秘策だ! 今回も、なにか用意しているんじゃないのか!?」

「そうですわ! 姫燐さん、わたくしの時のような作戦は……」

「…………クヒッ」

 

 その問いにしばしの沈黙を挟み、姫燐は引く様な笑いで口元を三日月に歪め、ゆっくりと語り始める。

 

「あぁ? ねぇよ、んなもん」

「なっ……」

「どういうこと、ですの? だって、え? じゃあ、開幕にやった一連のフェイントを考えたのは……」

「アイツが自力で考えたんだろ。クッ、ハハ、今回は完全にノータッチだ。オレも正直、驚いてるよ。本当に、やりゃできるじゃねえか、アイツも」

 

 表情を隠す様に額を手の平で押さえ、笑い声を押し殺す姫燐。

 

「だ、だが、なぜだ? 一夏がお前に相談1つしないとは……」

「ああ……それ、か。ククッ、傑作だぜ? アイツ、もうオレなんて必要ないんだとさ」

「ッ!?」

「お待ちくださいまし! いったい、それはどういう……」

「おっと、それより上を見てみな。アイツ、また何か仕掛けるみたいだぜ?」

 

 姫燐の声に、箒達はアリーナの上空を仰ぎ見る。

 白き翼はいつの間にか、アリーナの天井近くまで飛翔していた。

 全速力で天高く舞い踊る白式を、甲龍は動きを止めて狙い撃つ。

 

「あの動きはまさか! わたくしの時と同じッ!?」

 

 その時、アリーナの空よりも遥か高くに浮かぶ太陽と、一夏の機影が重なる。

 

「チッ!」

 

 天然の閃光弾を直接眼球に浴びせられ、鈴は目を細めて、腕で影を作る。

 本当に一瞬の、僅かな隙。

 だが今の一夏には、それで充分だった。

 

「白式! イグニッション・ブーストォ!」

 

 最大加速に加え、万有引力の援護を受けて、一夏は真っ白な弾丸となって甲龍目掛け、エネルギーの余波を彗星のように尾を引かせながら驚異的な速度で落下していく。

 

「ですが、この状況では……」

「余りに下策だッ……!」

 

 この状況をひっくり返す、起死回生の一手にしては、いくら何でもこれは――。

 

「狙いが露骨過ぎんのよ、っとォ!」

 

 待ってましたと言わんばかりに、鈴は頬を釣り上げ、機体を全速力で進行ルートから離れさせる。

 鈴は一夏が空に上がった瞬間、次は間違いなくこの手で来るだろうと確信していた。

 彼がこの策でフランスの代表候補生からクラス代表の座を勝ち取ったのは、転校生である鈴の耳にも届いており、この戦いにも使ってくる可能性は充分にあると対策を立てていたのだ。

 一度解き放たれた力は、もはや制御することは出来ず、白い彗星はそのまま甲龍を通り過ぎ、グラウンドへと大衝突してしまった。

 轟音と共に大量の砂煙が舞い上がり、一気にアリーナは一寸先も見えない砂嵐が巻き起こる。

 

「い、一体、どうなりましたの?」

「ダメだ、何も見えない!」

 

 試合終了のコールが鳴っていない以上、まだ敗北した訳ではないようだが、それでも中の状況は一切分からず、観客席から困惑がにじみ出る。

 このアリーナを包み込むように、ドーム状に貼られたバリアーは空気穴こそあるモノの、そのような僅かな隙間だけでは中々砂煙は晴れない。

 騒乱と混乱に包まれる観客席。だが1人だけ、

 

「ククッ…………」

 

 嬉しそうに頬を歪め、なのに同時にどこか遠い彼方を見つめるような瞳で、たった1人だけ、

 

「なるほど……そうきたか、一夏」

 

 朴月姫燐だけは、砂の向こうにある真意に気が付いていた。

 

「けほっ、けほっ! くっ、一体どうなってんのよ……?」

 

 その砂煙の渦中に居る鈴は、口に入って来る砂にむせながらも索敵を続ける。

 

「まさか、これが狙いだっていうの……?」

 

 確信のない直感。だが、鈴はもしもの時はこういうモノこそが一番アテになると信じているタチだ。そしてそれは無論、今回も同様である。

 先程の奇襲は、奇襲と呼ぶには余りにお粗末なモノだった。

 今日の一夏は違う。上手く言葉に出来ないが、鈴の追憶の中に生きる彼と、いま敵対する白い修羅は、何もかもが違いすぎる。

 異様なまでの周到さ。か弱い羊の皮を被るような悪魔じみたペテン。己が身すら犠牲にする作戦。

 卑怯とすら言えるこのどれもこれもが、彼女が知っているあのウソが下手糞で、真っ直ぐで純朴だった少年が取るような行動とは到底思えない。

 余りにも成り振り構わない、勝利への飽くなき執着心。

本当に彼は、自分が恋したあの織斑一夏なのか?

 

――いったい、アンタに何があったのよ……一夏……。

 

 沈みかけていた思考を打ち破る様に、鈴のハイパーセンサーが接敵を告げた。

 右下、45℃! 先程までのセンチメンタルを吹き飛ばすように、即座に龍咆を向ける。

 彼方に薄らと浮かぶシルエット。こちらが肉眼のみならスモーク代わりにでもなったのだろうが、ハイパーセンサーはこの様な状況でも敵機の位置を確実に割りだす事ができる。即ち、彼の行動は全くの無意味。

 いくらなんでもあれだけの事をすれば、もうエネルギーは危険域のはずだ。恐らくだが、耐えるとしてもあと一発、即ちこれで決着をつけられる。

 

――このあと、絶対に問いただす!

 

 そんな決意と共に、龍咆は吼える。後方へと退避しながら、2発、3発、4発と呵責無い弾幕を張っていく。

 これは避けられない、確定事項だ。遠距離ならかわす事が出来ても、近付けば近付くほど被弾率は上がっていく――

 

「このっ!」

 

 確かに、ハイパーセンサーに反応できなくなっていき――

 

「なんでッ!」

 

 こちらに、近付くことなど出来るはずがないのに――!

 

「どうして、弾が当たらないのよぉ!!!」

 

 発射される弾丸全てが、砂煙を斬り裂くだけで接近する白式に掠りもしない。

 鈴はとっさにハイパーセンサーを確認したが、センサーは無情なまでに主の要求に答え、確実に距離を詰めて行く敵影を映し出している!

 

「なんで、どうして、避けれんのよッ! さっきまで、さっきまでは……?」

 

 そう、さっきまでは無理だったのだ。

 逆に考えろ、ではなぜ、今は龍咆を近距離でも避ける事が出来るのか? さっきまでと、今、なにが違うと言うのか?

 乱れる呼吸を整えようにも、吹きあがる砂煙がそれを阻害して――砂煙……?

 

「まさかッ!」

 

 それは分かってしまえば単純で、目を開く限り逃れようも無く、彼女の目の前に広がっていた。

 あるではないか。先程までと、現在では決定的に違う条件が。

 鈴は、ハッと今まさに発射されようとしている右肩の龍咆へと視線を向ける。

 そこにはハッキリと映ってしまっていた。

 吹き荒れる砂煙を巻き込み、その周囲一帯だけが不自然に晴々とした砂色の砲身と、砂煙を掻き分けて発射される砲身と同じ色の砲弾。そして、

 

「もらったァァァァァァァ!」

 

 青い光刃に無残に貫かれる、龍咆の姿が。

 

「しまッ!」

 

 己の失態を悔やむ暇すら、白い修羅は与えてくれない。

 連撃。すぐさま一夏は身体を回転させ、もう片方の龍咆を薙ぐように横へと一閃。

 鈴はとっさに、右手に持った双天牙月を盾にする様に構えるが、心中ではこれが 無駄な抵抗だと分かっていた。この刃で、あの青い光は止められないと。2度目の接近を許した時点で、自分は敗北していたのだと。

 光の刃が双天牙月を斬り裂き、そして奥にあった最後の龍咆も切り捨てる。

 全ての武装のロスト。それは、模擬戦において勝敗を決するもう1つのルール。

 砂煙が徐々に晴れていき、白式は、織斑一夏は光の剣を天へと突きあげた。

 それが、まるで合図だったのように、モニターは勝利者の名前を大きく表示する。

 

《WINNER  織斑一夏》

 

 下手な爆弾よりも遥かに強烈な歓声による爆音が、第3アリーナを大きく揺るがした。

 

 

                 ○●○

 

 

「本当に、勝ってしまったぞ……」

「ええ、本当に……勝ってしまいましたわね……」

 

 鳴りやまない拍手と喝采の中、砂煙の攻防が一切見えていなかった2人には何が何だか分からないまま茫然と立ち尽くしていた。

 だが次第に処理落ちしていた頭脳が現実に追いついていき、次第に箒の身体がワナワナと震え、

 

「篠ノ之さん、どうし」

「いぃぃぃぃぃぃぃぃぃやったァァァァァァァァァァァァ!!!」

「ひゃあ!」

 

 感極まったような雄叫びを上げ、興奮のまま隣のセシリアに熱い抱擁を交わした。

 

「やった、やったぞ! 一夏が勝った、勝ったんだぁ! ハハハハハハ!」

「ちょ、貴方、はしゃぎ過ぎ」

「ハハハ、どうだ見たか! 一夏があの程度のセカンドなどに負ける訳が無い! なんせ、私の一夏だからなぁ! ハハッ、ハハハハッ!」

 

 どうやら黙ってはいたが、相当に中国の代表候補生というか、彼のセカンド幼馴染相手に色々と鬱屈した感情が溜まっていたのだろう。

 最高にハイになって、完全にキャラを忘れはしゃぎにはしゃぐ箒に抱きつかれながら、内心ではセシリアも浮き上がる心を押さえられなかった。

 

(そうです、こんな所で負けてもらっては困りますわ。貴方を打ち倒すのはこのセシリア・オルコットなのですから。ISでも、無論恋でも……あ)

 

 そこで、ふと思い出す。

 そういえば先程、我が愛しの君が、なにやら聞き捨てならないことを言っていたような……?

 抱きついて離れない箒を押しのける様にして、セシリアは背後を振り向く。

 そこで、確かに見てしまった。

 

――えっ……?

 

口元をいびつに歪めながらも一筋、彼女の頬を確かに伝っていた――余りに太陽には似つかわしくない、透明な雫を。

 

「姫燐……さん?」

 

 見間違いなどでは無い。なぜ彼女は泣いている? これは一体どういうことだと、セシリアは彼女の名前をもう一度呼ぼうとしたが――第3アリーナを再び揺るがす、本日2度目の爆音が、それを妨げた。

 今日は、本当に不可思議なことばかり起こる日だと、セシリアはぼんやり考えていた。

 あの男の勝利、あの人の涙、そしてアリーナの上空から、バリヤーを突き破って現れた漆黒の巨人。

 嬌声は悲鳴に変わり、拍手は静寂へと変わり、そして競技は――実戦へと、変わる。

 巨人はその巨腕を、まだ事態を飲み込めていないのか、ポカンとした表情をした一夏へと向けると、

 

「逃げろ一夏ァ!」

 

 轟く姫燐の声。それとほぼ同時に、第2ラウンドのゴングを打ち鳴らす、激しい熱線を放った。



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第14話 「冷たい太陽」

 響くアラート、閉じられるシャッター、開かぬ出口。

 アリーナ観客席は、混乱の最中へと陥れられた生徒達によって混迷を極め、まさしく混沌のるつぼと呼ぶに相応しい現状を醸し出す。

 薄赤い空間の中、箒はアリーナ内部と観客席を遮るシャッターを何度も叩きながら叫ぶ。

 

「一夏! おい一夏!? どうなっているんだ!?」

「無駄ですわ。IS同士が激闘する場所のセーフティを、非武装の人間が力尽くで破ることができると思いまして?」

 

 流石に代表候補生だけあって、他の生徒に比べ冷静さを保ち、腕を組みながら席に座るセシリアの現実的な言葉が突き刺さる。

 

「だがっ……そうだ、オルコット! お前の専用機なら」

「無駄ですわ。わたくしのブルーティアーズは、火力そのものには重点を置いていませんの。全エネルギーを使いきっても、堅牢なバリアと装甲の二重層を突破できるかどうか。それに貴方は、こんな場所で更に激しい爆音を立てろ。と、おっしゃいますの?」

「それは……」

 

 我先にと、開かない出口へと切迫する者。突然の事態に怯え竦み、動けなくなる者。パニックを起こし、ヒステリックに喚き立てる者。その傍で、神に祈り始める者。

 これ以上の混乱をこの場に呼べば、どうなるか?

 更に激戦が繰り広げられているかもしれない場所へのルートを開けば、どうなるか?

 思い浮かぶ最悪の数々に、箒はシャッターに拳を叩きつける。無論、ビクともしなかったが。

 

「では……どうすればいいのだ……」

「どうするも何も、完全にお手上げですわ。貴方も無駄な体力を使うくらいなら、大人しく座っていてはいかがかしら?」

「貴様っ……!」

 

 平坦に、まるで傍観者でも気取るかのような物言いに、箒は思わず喰ってかかりそうになるが、強く握られた制服の袖と、深刻さを湛えた眉。そして何よりも、一定のリズムで浮き上がりは沈んでを繰り返す、上品とは言い難いはしたない足が、『無力』という現状に対して湧き上がる代表候補生としてのプライドを押さえこむのに必死であるという証明であった。

 

「いや……そうだな。すまん」

「謝罪は無用ですわ、わたくしも貴方と同じ状況に追い込まれれば、恐らく同じように錯乱していたでしょうから」

「それは……?」

 

 イマイチ要領を得ていない箒を横目に、セシリアは愛しき彼女の姿を探して首を動かす。

 様々な形相を浮かべる集団の中で、彼女は……いた。

 クラスメイトでは無い、先輩だろうか? 新聞部の腕章をつけた少女と、何か揉めているように……

 

「まっ!?」

 

 姫燐の両手が、新聞部の首根っこを掴み、捻り上げる。

 己に自重を命じていたセシリアも、立ち上がらずにはいられなかった。

 

「何をしていますの! 姫燐さ――」

 

 鳴らそうとしていた喉が凍る。突き刺さったのは、鮮烈な感情だった。

 向けられた、赤く照らされながらも薄暗い観客席でなお、苛烈に輝く黄金の瞳。

 無機質で、底が見えぬほどにとごっていながらも、決して輝きを失っていない。

 ナイフ。それも肉や紙では無く、人を斬り裂くための。

 背筋に走る冷たさと相まって、脳裏にそんなイメージが浮かぶ。

 睨まれるだけで身体の奥にある自分を、命そのものを見透され、それを何時でも簡単に握りつぶせるよう手を添えられているような、絶対的な拒否感とおぞましい感覚。

 それは間違いなく、恐怖という感情だった。

 言葉が出ないセシリアを一瞥だけして無視すると、姫燐は再び向き直り、新聞部の彼女へと冷淡な口調で催促をする。

 

「分かっているのか? 見ての通りの非常事態だ。速くデータを寄越せ」

「で、でも、アレがバレたら、君も私もグッ!」

 

 寸分の迷いもない手付きで、彼女の首筋に当て身を食らわせた姫燐は、意識を失い倒れ込んできた彼女のポケットを弄り始める。

 手段を選ぶという言葉すら感じられなかった粗雑かつ乱暴な手法に、セシリアが呆気に取られる間もなく、何事かとやって来た箒が姫燐を問いただす。

 

「なにをしているのだ、姫燐!?」

「箒か、任せた」

「おっ、おい!?」

 

 答えている間など無いとばかりに用済みになった少女を箒に寄越すと、すぐさま手に持ったデータチップを首元へのISへと挿入する姫燐。目を閉じ、叩く様な仕草を何度か繰り返し、

 

「よし、行くぞセシリア」

「行くって、どこひゃ!?」

「待て姫燐! そっちは!」

 

 自分だけ勝手に納得して、そのままセシリアの手を掴み走りだした。

 

「い、痛い! 痛いですわ姫燐さん!」

「なら、自分で走れ」

 

 もはや共に来ることは決定事項らしい。有無を言わさぬ彼女の言動に疑問は尽きないが、それでも姫燐の後へとセシリアはついていく。

 

「でも、姫燐さん。この先は……」

 

 箒も別れ際に言おうとしていたように、彼女が向かおうとしている先には姫燐達が居た観客席と、反対側の観客席を繋ぐ地下通路だけだ。外への出口でも無ければ、バトルフィールドへの入り口でもない。

 

「知っている、それよりも喋るな。目立ちたくない」

 

 いつも以上に乱雑で、真意の見えない姫燐の言動。始めは彼女も平常心を失っているのかと思いもしたが、彼女の言動にはイラついていたり、錯乱している様な人間には、絶対に宿らないスマートさと言えるだろうか。

 その一挙手一投足には一切の無駄がなく、だからこそ余計にセシリアの眼には……

 

「この辺か」

「ここって……」

 

 観客席と同じ様に、薄暗い地下通路の中間辺りに設置された女子トイレの前で、姫燐の足が止まる。

 目立ちたくないと本人は言っていたが、確かにこんなタイミングで用を足そうとするほど図太い神経を持った人間はそう居ないだろう。

 ズカズカと中へ進入する姫燐の後を、おずおずとセシリアが追う。

 

「そっ、そろそろ、目的ぐらい、教えてくだってもよろしいのではないですの? まさか、おトイレに行くために、なんて訳は……」

 

 全力で走ったため、少し息が荒いセシリアとは対照的に、汗1つかかずに姫燐は彼女へと向き直る。真っ直ぐに自分を見つめる瞳に、思わず息を呑んだセシリアの手首を、姫燐はまた取ると力を込めて引っぱり、

 

「痛っ、きっ、姫燐さ……ん……?」

 

 彼女のか細い肉体を、強引に自分の方へと抱き寄せた。

 ゼロ距離。服越しではあるが、互いの熱を帯びた身体と身体が隙間なく密着し、背の高い姫燐の丁度胸の辺りに、一回り小さいセシリアの金髪が埋められる。

 

「あっ……」

 

 姫燐の右手が、彼女の顎を持ち上げると、指先が髪を掻き分けて頬にそっと触れる。

 首を意図せぬ方向に曲げられて、筋肉が僅かな痛みを訴える。それにこの状況、冷静に見れば色々と腑に落ちぬ事柄が多すぎる気がするが、脳内が絶賛突沸中のセシリアにとってそんなことはどうだって良かった。

 揺れる赤髪、届く吐息、伝わる体温、握られた手、交わし合う視線。

 世界は彼女だけのモノとなり、謎のISによる敵襲も、ここが女子トイレだということも忘れ、常識、恥じらい、体裁などなど、人として必要不可欠な要素が心音に追い立てられて蚊帳の外へと放り出される。

 彼女はこの時、間違いなく常世の全てを手にしていた。

 

「きりん、さぁん……」

 

 熱に浮かされた、甘い声が自然と漏れる。

 きつく凛と結ばれた姫燐の唇が、セシリアにはどうしようもなく甘美な果実に思え、背伸びをすれば、届いてしまいそうだと……

 

「よし、確認しろ」

「ひゃいん!」

 

 パッ、と姫燐が彼女から両手を離すと、抱擁をあっさり解く。

それは一分の無駄も無い、未練もロマンもへったくれも無い早業であった。

 

「なっ、なに、先程からなんですの姫燐さん!? 急に抱き寄せたり離したり! わたくしは、もうちょっとその、レベルが低い所から……」

「お前が言ったんだろう。必要な情報は全て第三アリーナのマップと共に、お前のISにインストールしておいた」

「い、いんすとーる?」

 

 一瞬、セシリアには彼女が何を言っているのか分からなかったが、「IS」という単語と、先程さわって貰った左頬――の少し上にある、自らの待機形態にしていたIS「ブルーティアーズ」の存在を思い出し――

 

「はぁぁぁぁぁぁ……そういうことですの……」

 

 全てのファクターが一致し、肩を落としたセシリアの、魂ごと只漏れそうな溜め息が落ちる。恐らくは、先程あの新聞部から奪ったデータチップを、自分のISにも刺し込んだのだろう。

 

「早くしろ、時間がない」

 

 急かす姫燐の声に、今がどう言った状況であるか。そして今、彼女が何を考えているのかを知るという本分を思い出し、セシリアは耳のイヤーカフスに触れて、新しく追加されたデータを参照していく。

 そして一秒、また一秒と、若干まだ、先程の余韻で弛んでいた頬に、当惑、疑惑、そして戦慄を刻んでいくセシリアの表情を、姫燐は無言で見遣る。

 

「――姫燐さん、これは、いったい」

「確認したか。なら行くぞ、今は一刻一秒が惜しい」

 

 まだ何かを言いたげに手を伸ばす彼女の介入を拒むように、姫燐は首元のチョーカーに触れて、呟く。

 

「Go for it『シャドウ・ストライダー』」

 

 濃い藍色の全身装甲、逞しい四肢、赤くなびくマフラー。

 虚空を斬り裂いて現れた鉄仮面は、セシリアへと背を向けた。

 

「目的--織斑一夏と鳳鈴音の救出、および敵機の撃滅」

 

 仮面の下から声が響く。ただ目の前に立った看板を音読するように、カレンダーに書かれたその日の予定でも確認するかのように、

 

「ミッション……スタート」

 

 炎は、対極の冷然と共に巻きあがった。

 

 

               ○●○

 

 

 意志と剣は未だ折れず。しかし翼は、もはや只の枷となる一歩手前。

 織斑一夏の現状を言葉にすれば、そんな感じであった。

 黒いISが地を踏みしめ、自身の背丈ほどに巨大な左腕を、飛びまわる一夏へと向ける。

 そこに備え付けられた砲門から迸る、太く眩い光の線が、天かける白の僅か数センチ隣を横切った。

 

「くっ!」

 

 ギリギリの回避に悪態1つ。

 何となくではあるが、察せる。アレに当たってしまえば、自分は確実に地に落とされてしまうだろうと。

 龍咆とはケタ違いの出力で断続的に照射される光線は、この身を削らなくとも確実に心の方を削っていく。先程戦った鈴に比べると、狙いがどうにも甘い様に思えるのが唯一の救いではあったが、ハッキリ言って気休めにもならない。

 

「どうなってんのよ、これはぁ!?」

 

 同じように右腕からのビームを回避しながら、鈴は理不尽かつ唐突な現状に吠える。

 

「それが分かってたら、そろそろ増援が来るんじゃないか!?」

「だったら、学園側としてもアクシデントなんでしょうねぇ、っと!」

 

 互いが完全に消耗しきったところへの強襲。

 確かにエキシビジョンマッチにしては、いささか悪趣味が過ぎる。

 それに先程から視線に入る、蟻一匹通さぬよう堅牢なシャッターが遮る観客席やピット、そしてどこへ飛ばしても一向に届かぬ通信。恐らくはこの機体を送りつけて来た奴らが生み出したのであろうクローズド・サークルは、ただ爆音と2人の声だけを響かせる。

 

「聞えるでしょ、そこのあんたぁ! 所属と目的、っと、その前に即刻ISの解除! 今ならまだ、代表候補生が直々に取り成してあげるわよ!」

 

 先程から無言を貫く黒い巨人に、鈴は降伏を呼び掛けるが、返事は文字通り光の速さで返された。

 

「無駄だ鈴! アイツ、どうやら止まる気は無いらしい!」

「ああああぁ! 誰かさんに武装全部破壊されてなかったら、今すぐにでもあんの棒立ちに百発くらいぶち込んでやるのにぃぃぃ!!!」

 

 先程の戦闘で一夏に全ての武装を破壊されてしまった甲龍に、反撃の術は残されておらず、また飛来する一閃に機体を捻りながら、その原因を激しく言い詰める。

 

「なんとかならないの一夏! アンタの剣、当たれば一撃なんでしょ!?」

「いや……ダメだ。足りない、さっきの戦闘でもう飛行が精一杯だ」

 

 それも、何時まで持つかどうか。

 零落白夜はカットしたため、冗談みたいな消耗こそ無くなってはいるモノの、それでも吐き出され続けるエネルギーは有限である。

 残り残量から推測するに全速力で敵へと肉迫したとしても、その内の被弾で消費するであろうシールドエネルギーも合わさり、恐らく零落白夜を発動した瞬間、白式は己の姿を保てなくなり雲散霧消してしまうだろう。

 つまりは今、唯一の光明は風前の灯火も同然であった。

 勝機。今まで経験したどの戦いにも、僅かながらだろうと確実に存在していたそれが、脳裏を掠める戦術全てを総動員させても、今は天上に住まうが如く、手が届かない。

 そう、それが常套の手段であれば。

 

「……一夏、こうなったら」

「ダメだ鈴! それだけは絶対にダメだ!」

 

 鈴も、彼と同じ結論へと辿りついていたようだった。

 しかし織斑一夏にとってその提案は、その提案だけは、絶対に首を縦に振る訳にはいかなかった。

 

「分かってるでしょう!? もうこれ位しか方法がないじゃない!」

「鈴ッ!!」

 

 認められない。認めてしまう訳にはいかない。

 それは対極だ。自分が望み臨んだ夢と、決して交わってはいけない現実だ。

 

--護る筈の自分が、護る相手を囮にしてまで勝利を掴むなどと!

 

「じゃあこのまま、揃って大人しくレンコンにされる!? あたしはゴメンよ!」

「それでも、鈴は!?」

 

 彼女はどうなる。いくらシールドや絶対防御があるとはいえ、それでも向こうの火器は相当な出力を誇る。ISの耐久力を持ってしても万が一、万が一にでも直撃してしまったら、鈴は――

 

「大丈夫よ。あんな素人丸出しの射撃に当たるようなら、代表候補生なんてやってらんないわ」

「ダメだ! そんなの俺は絶対に……ッ!」

 

 水平線の討論を引き裂く様に、巨大な影が2人の間に走る。

 

――いつの間にッ!

 

 その姿に似合わぬスピードで、重力ごと敵をブチ破るかのように宙を駆け抜ける巨体。

 一見、それは圧倒的に有利なレンジを自ら捨てる暴挙に見える。しかし、戦いのセオリーを知る2人にとってはだからこそ読む事ができずに、不格好な回避を強いられてしまう。

 吹き荒れる突風。僅かに崩れるバランス。

 物理的なダメージこそ無かったがこの一瞬は、停滞していた状況を打ち崩すには充分すぎた。

 敵機を追いかけた一夏は捕らえる。

 空中で振り返る巨人を、突き付けられる双腕を、黒光りする二つの砲門を。

 完璧に不意を打たれた。間に合わない。どのようなアクションも、間に合わない。

 認めたくないのに、一夏の中の、冷徹な彼は無機質にささやく。

 動きを止めた羽虫の末路など決まっているだろう。

 無様に叩き落とされ、散り逝くのみだと。

 決められた定め。この手の刃では切り開けない閉ざされた運命。クライマックスを彩るように、視覚が、知覚が、聴覚が、感じる全てが緩やかに引き伸ばされていく。

 この感覚は、一夏にとって二度目。

 あの時も、自分はどうしようもない程に無力で、ただ襲いかかる終りを受け入れていた。

 

――護れない。

 

 それでもせめて、鈴だけでもとISに命令する。動け、盾になれ。それだけでいい、と。

 

――俺は、誰も護れない。

 

 しかし、今まで自分の肉体同然であった白式は、凍りついた時間と同じようにフリーズし、指の1つすら満足に動かせない。

 

――なぜ、俺はこんなにも無力なんだ?

 

 どこかで俺は間違えたのだろうか?

 どうすればアイツに勝てただろうか? 

 それとも、織斑一夏の限界はこの程度だったのだろうか? 

 泥中のような意識は、ただただ廻る問いに見合う答えを渇望する。

 

――君なら、護れただろうか。

 

 終わりに浮かんだのは、悲しみでも、怒りでも、絶望でも無い。

 そんな、ふと脳裏をスローで掠めただけの、憧憬に似た感情。

 自分が立つ場所より――物理的にも心理的にも――遠くに見える大きな背中。

 

――キリ……。

 

 君は、どうして、なぜそうまでに、俺が……

 

「下がってろ」

 

 俺が、望み焦れた全てに、答えてくれるんだ?



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第15話 「ヴェノム・サンシャイン」

 爆音と共に現れたそれは、流星群の様であった。

 鈴の瞳に瞬く、黄金の尾を引く閃光。

 閃光は黒い巨人へと飛来し、装甲を擦れ違いざまに削っていく。反撃のために向けられたレティクルを一瞬の急停止と共に、また別の方向へ急加速する変則起動で一定の方向へと定めさせない。

 空間という立体的なキャンパスに描かれては消えて行く、無数の黄金閃。

 それは祭のように絢爛豪華で、同時に胡蝶の夢のように儚い。まさに流星群と呼ぶに相応しい『破壊』だった。

 

「こっちですわ、鈴さん!」

 

 現状を忘れ、思わず見惚れていた鈴の手を、くすんだ蒼腕が掴む。

 

「なっ、アンタ達、どうやってここに」

「後で説明しますわ! 速く、姫燐さんが敵機を引き付けている間に!」

「姫燐……って、ウソッ!? あれ、まさか姫燐なの!?」

 

 彼女も専用機を持っていることは知っていた。

 だが、鈴は知らない。あれ程のスピードで、あのような変態機動をやってのけるISなど、知っていよう筈がなかった。そしてなによりも、アレを操っているのが、自分もよく知っているガチレズの変態だと言う事も。

 

「そうですわ! さぁ、急ぎますわよ!」

「っとと!」

 

 セシリアに手を引かれ、アリーナの端まで退避させられる鈴。

 そこには既に退避をすませていたのだろう土に汚れた白い機影、織斑一夏の姿もあった。

 セシリアが手を離すと同時に、鈴は呆けたように空を見上げる一夏の傍へと駆け寄る。

 

「一夏ッ! ねぇ一夏!? 大丈夫なの!?」

「あ、ああ、俺は何ともない。お前の方は?」

 

 一瞬反応が鈍かったため心配したが特に目立った外傷も見せず、何よりも淀みないハッキリとした声色が、確かな健全の証明であった。

 

「よかった……こっちも大丈夫よ。それで……」

「ああ……どうやってここに?」

 

 1つの疑念を孕んだ2つの視線が、ブルーティアーズに集中される。

 なぜ、彼女達がここに居るのか? ハッチは全て閉鎖されシャッターとバリアの二重層が塞ぎ、観客席も同様に護られている。これらを突き破るには、相応の重装備か、かなりの時間が必要の筈だ。

 いつもと変わらぬ装備、即ち大火器を持たないブルーティアーズでは、アレらをこの短時間で突破するのは不可能だろう。

 かといって、シャドウ・ストライダーでも……一夏はあの機体の全てを知っている訳ではないが、彼女はこの前「シャドウ・ストライダーにはエネルギーを放射する武装しかない」と言っていた。

 ならば、エネルギーを一点に集中させて放射することで、障壁を破壊することも可能ではないかと考える。だが、戦闘前からそれ程のエネルギーを消耗したにしては、彼女の動きからは『温存』と言う言葉が微塵も感じられなかった。

 

「これも全て、姫燐さんのお陰ですわ」

 

 本当にほんの少し、動揺をたたえた表情を浮かべ、セシリアはフィールドへと指を差す。

 彼女が躊躇いがちに差した指の先には――

 

「あれって、確かアンタが……」

「ああ、俺が開けた穴……だよな」

 

 土のフィールドにポッカリと空いたクレーター。

 先程の戦闘で、一夏が砂煙を巻き上げるために機体ごと全速力でぶち当たったせいで、歪な円状にくぼんだ地面からは、鋼色をした土台が露出しており――

 

「…………なんだ、あれ」

「……冗談……キツイわよ」

「冗談みたいなのは、私も認めますわ……はぁ、後でなんと言い訳すれば……」

 

 その土台の中心にもまたもう1つ、大穴が口を開いていた。

内側から突き破られたような、丁度ISが通れそうな程の大きさをした穴が。

「学園側もまさか床下を突き破って侵入するだなんて、考えもしないでしょうし……」

 虫も通さぬ180度の鉄壁を誇る城壁。しかし、180度はあくまでも180度であって、それはこの三次元の世界において完璧とは言えない。

 確かに土台も堅牢に作られてはいるだろうが、それでも防壁とシールドの二重障壁に比べれば遥かに脆弱だ。

 朴月姫燐は、その死角となったもう1つの180を貫いたのだ。

 

「で、でもアンタ……下手したらそれって……」

 

 無論、ただ無策に下から大穴を空けるだけでは、土台から放出される土の雪崩に巻き込まれ、生き埋めとなってしまうだろう。それに万が一、万が一にでも地下を通る水道管でも破壊してしまえば、溢れ出た大量の水が密室となった観客席へと流れ込み……考えたくも無いほどの大惨事となりかねない。

 だが、それら問題はある『男』の手によって既にクリアーされていた。

 

「その点は行幸でしたわ。貴方が先程の試合で、上に積もる土をかなり退けて下さってくれましたもの」

「お、俺が……?」

「そう。その真上を姫燐さんの地図から割りだして、幸運にも上に危険なモノも無かった。と言う訳ですわ」

 

 私にも、初めからそう説明して下さればあんな……とよく分からない事をぼやくセシリアを置いて、一夏達は閃光が舞う空を見上げた。

 凡人では考えもつかないであろう発想力と、そんな絵空事を実現させてしまう行動力。

 そして、自分が手も足も出なかった未知の敵すら圧倒する戦闘力。

 

「すげぇ……やっぱり凄ぇよ、キリは……」

 

 少年は、流星が舞う空を純粋な憧憬と共に眺める。

 まるで、摩天楼を駆けるヒーローを見上げるかのように、瞳を輝かせて。

 だが一方、鳳鈴音が写す世界は違った。

 その地図に僅かでも狂いがあれば、多くの人命が散っていたであろう作戦を易々と思いつく発想力と、それを躊躇いも無く実行する行動力。

 そして代表候補生すら凌ぎかねない、ハッキリ異常と呼べる戦闘力。

 

「……出鱈目にも……程があるわよ、姫燐……」

 

 少女は、流星が蹂躙する空を純然な恐れと共に眺める。

 まるで、闇夜に君臨した悪魔でも見上げるかのように、瞳を見開いて。

 

 

               ○●○

 

 

 フェイズ1「織斑一夏と鳳鈴音の救助」、完了。

 ようやく足枷共が消えたことを確認し、姫燐は四肢にエネルギーを集中させながら着地。すぐさま両足のみパワーを解放して、跳んだ。

 見失った自分の姿を探す、空に浮かぶ木偶の背後へと肉迫。同時にエネルギーが充填され、黄金に輝く両指を互いに絡ませながら突き出す。

 ISが自動で腕同士の合致を確認し、姫燐の双腕を短く太い紺色の砲身へと変形させる。

 敵機はワンテンポ遅れ、気付かぬうちに切迫していた紺の鎧へと振り返り、

 

「モード・ハイライト」

 

 全てを撃砕する爆炎に飲み込まれた。

 例え奴がどのような装甲を誇っていようと、この爆風の前では関係無い。屈強な五体が紙屑のように吹き飛ばされ、黒煙を上げながら障壁に叩きつけられる。

『モード・ハイライト』。普段は高速移動に使う腕に込めたエネルギーの爆裂を、両腕をバレルに変形させる事によって一点集中させるシャドウ・ストライダーの攻勢形態。

 そこから繰り出されるは、小賢しい原理などが一切無い、純粋なる発破。

本来ならISを動かすため、しかもPICを殆ど使わない全身装甲を跳ばすために使われる爆発を一点に集中させたその威力は、ISであろうが土台に使われていた鉄壁であろうが等しく粉砕せしめる。

 当然、ごく至近距離の大爆発は、彼女の機体と肉体にもダメージをもたらす。だが、相手に与えた損害に比べれば取るに足らない事項だ。

 反動で跳ね上がった両腕の勢いをそのままに、宙返りで体制を立て直すと、猫のような器用さを持って、姫燐は四肢全てを活用し衝撃を緩和、地へと降り立つ。

 今回もやはり彼女よりワンテンポ遅れ、ズルリ、と堅牢なシャッターに人型の痕をクッキリと残し、黒いISも地面へと身体全体を使って轟音と共に着地する。

 その音を最後に、あれ程の動乱が全て幻だったかのような静寂が訪れた。

 残る痺れを払う様に腕を振り、姫燐は仕留めた獲物を見下ろす。

 初めから使えれば、もっと早くに決着はついていた。

 だが、相手の目的、武装、戦力が全て不明な状況で、全エネルギーの実に10%を一気に叩き込むモード・ハイライトを使用するリスクは高い。

 ゆえに一夏達の安全確保を最優先とし、セシリアに救助を任せ、自分は敵機の注意を引き付け時間を稼ぐと共に、敵の出方をうかがい、様子見に徹する。

 危惧すべき事態すべてに備えた戦法であったが――どうやら、とんだ茶番だったようだ。

 

「終わった……のか、キリ?」

 

 静寂を斬り裂く一夏の一声。何気なく姫燐へと伸ばされた彼の一歩を、

 

「……なぜまだ居る。早くあの穴から逃げろ、足手纏い」

 

 吐き捨てるような、忠告と呼ぶには横暴過ぎる声がせき止める。

 

「なっ……!」

「あ、アンタねぇ、言い方ってもんが……」

 

 余りにも不躾で、冷たく、遠慮の無い彼女の背中に絶句する一課の代わりに、鈴が怒り混じりの呆れを文句にして突き付けようとし、

 

「まだ、終わっていない」

 

 アリーナの壁を背に、再び蘇る『脅威』が、それらを黙殺した。

 自分の背丈よりも巨大な腕を杖代わりとし、ゆっくりと、だが確かな足取りを持って、漆黒のアンノウンは立ち上がる。

 

「そ、そんな……あれ程の攻撃を受けて……」

 

 傍目から見ていたセシリアでも分かる。

 目の前で繰り広げられるのは、異常と異常の応酬であると。

 確かにISには搭乗者を護るため、過保護とすら思えるほどの数々のセーフティが搭載されている。だが、やり過ぎだとすら思えてしまうあの至近距離での大爆発。

 シールドや、絶対防御は確かに『攻撃』を受け止める。しかし、搭乗者を襲う『衝撃』は別だ。PICがあっても完全に殺し切ることなど出来ないし、もし出来たとしても長時間続ければ、本来ならあり得ない超常に晒され続けた五感が麻痺し、戦闘にも、最悪日常生活にまで支障を来しかねない。

 吹き飛ばされ、グルグルときりもみ、壁に叩きつけられる。

 いかにISが堅牢でも、中に居る人間はあくまで人間なのだ。これ程の衝撃を立て続けに受け、即座に立ち上がってしまう人間を、異常と呼ばずになんと呼べばいいのかセシリアには分からない。

 だが、もう1人の異常はそんな敵の姿を見ても、凄然とただ腕を組みながら、仮面の下の眼光を光らせ続ける。

 

――硬いだけが取り柄か。

 

 姫燐の視界の片隅に映る『残エネルギー50%』の警告。やはりモード・ハイライト2発と、高速起動を維持し続けた代償はそれなりに高い。

しかし、憂慮する必要は無い。

 最も危惧していた増援は、来ないと見て間違いないだろう。

 不意を打ち敵地に潜り込む電撃戦は、時間が経過すれば経過するほど成功率が格段に落ちて行く。故に、初手から持てる全戦力を投入し、反撃の隙も与えずに目的を達成することがセオリーとなる。

 敵はそのセオリーに従わなかった。いや、従ってこその単騎突入なのかもしれない。

 どちらにせよ、姫燐には興味の無いことである。

 重要なのは、増援を気にする必要は無く、敵がまだ動いている。その事実だけだった。

 

――2度目は、無い。

 

 再び、小さな爆音と共に、姫燐が皆の視界から消失した。

 ジグザグに、雷のような軌道と速度で接近する。腕には再び爆裂の力を込めながら。

 敵機が姫燐に砲門を向ける。右へ、左へと、雷光の動きに合わせて揺れ動く腕。

 そうして、アンノウンの砲門が光を収束し始めたタイミングを見計らい、

 

「ッ!」

 

 姫燐は地面を蹴り、敵機の真上を取った。

 全ては彼女の予測通り。モノアイの視線はまだ雷が通り過ぎた跡を眺め、こちらを射抜くはずだった砲門は輝き、鈍重な腕を未だ『真上』へと向けていて――

 

――真上、だと?

 

「ダメだ、キリッ!!!」

 

 閃光が、姫燐の視界を一色に染め上げた。

 駆け昇る光。数多の破片をまき散らしながら、紺色の鎧が虚空へ浮き上がる。

そのまま力尽きた鳥のように何の抵抗も悲鳴も無く、ふわりと弧を描きながらシャドウ・ストライダーは、朴月姫燐は、顔面からドサリ、と地面に堕ちた。

 

「ぃ、いやぁぁぁぁぁぁぁ! 姫燐さん! 姫燐さん!」

「姫燐ッ! そんな……」

 

 再びアリーナに混迷が蘇る。片や愛する人の負傷に、片や完全な絶望に閉ざされつつある戦局に、戦場で最も無くしてはならない平静を奪い去られていく。

 過熱された思考。消えて行く現実感。そびえ立つ壁に、全てが停止してしまう。

 だが、そんな中でもたった1人。

 確かな意思を篭めた指示が、彼女達の背中を突き抜けた。

 

「セシリア、時間を稼いでくれ! 鈴、俺と一緒にキリを!」

 

 セシリアの眼に映った被害、鈴が感じた戦局、それら両方をひっくるめた『現実』を見つめた織斑一夏の指示が。

 

「っ、りょ、了解ですわ!」

「……わ、分かったわ!」

 

 打ち立てられた明確な方針。それは、この絶望を覆すとまでは行かなくとも、止まってしまった足を再び動かすには充分過ぎる動力源だった。

 一か所に固まっていた、3色の機影が一斉に弾ける。

 蒼は空へと飛翔し、ブルーティアーズを展開。敵機の翻弄と時間稼ぎへ。

 その隙に、マゼンタと白は、負傷した紺の救助と応急処置を。

 倒れた姫燐を狙って再び熱を集中させていた2つの砲門が、そのまま流れでターゲットに駆けよる動体2機に向けられる。

 

「させませんわ!」

 

 だが、すかさず上空のセシリアが射出した2機のビットが、アンノウンの両腕へとレーザーを放った。シールドバリアーに弾かれ破壊こそ出来なくとも、爆風と同じように衝撃は伝わる。無理やり射線を下にずらされたビームは本来の標的を射抜けず、その少し手前の地面を抉るだけに終わった。

 アンノウンの赤いセンサーレンズが邪魔者の方へ向く。ターゲットが変更された隙を、一夏達は見逃さない。

 

「大丈夫か、キリ!?」

「しっかりなさいよ!」

 

 即座に2人掛かりで姫燐の両脇と両足を持ち、即座に元いたアリーナの隅へと退避する。

 追い討ちは来ない。どうやら、敵は完全にセシリアに標的を変えたようだ。

 大成功と呼べる戦果。だが、未だ一分の油断さえ許されない状況なのは変わらない。

 キリを地面に寝かせ、ようやく一息を付き――すぐに呑まされた。

 

「キリ……くッ」

「どうしよ……これじゃあ」

 

 IS学園の授業では専門的でこそないが、緊急時のために医療や応急処置についても学ぶ。特に、代表候補生となれば必修科目だ。だからこそ、彼等は横たわる悲壮な現実に打ちのめされるしか無かった。

 シールドバリアーやテストフレーム故の過剰な全身装甲のお陰で、機体の損傷自体は激しいモノの外傷は多く無い。

 目立った傷は2つ。

 1つは顔面。表情を隠す紺の仮面の右半分が砕け、眠るように瞳を閉じる素顔が露出し、額からは血が流れていた。だが幸い出血しているモノの傷自体は浅く、大した傷ではない。こちらの方は。

 問題はもう1つ。右腕の方だ。

 恐らく咄嗟に身体を逸らし、あの熱線を右籠手で受けたのだろう。ブレードが付いていたガントレットは蹴られた空き缶のようにヘコみ、その周りは熱でドロドロにただれて原形を保っていない。当然、中身の方も無事ではないだろう。

 そんな大怪我が嘘のように、彼女の呼吸が安定しているというのも、逆に一夏達の不安を煽る。それは言いかえれば痛みを感じていない可能性。つまり、神経にまでダメージを負っているのではないかという疑念と同意義なのだ。

 もし万が一、そこまで傷が深いのならば、一般人に毛が生えた程度の医療知識しか持っていない一夏たちではお手上げだ。今すぐにでも医務室へと運ばなくてはならない。

 だが、状況がそれを許さない。

 未だ第3アリーナはクローズド・サークルのままで救援が来る気配は一向にせず、ならば早急に侵入者を撃退して撤退に専念しようとも、

 

「な、なによアレ?」

 

 鈴達の眼に、不可思議な現実が映る。

 

「どうなってんだよ……」

 

 その言葉を一番呟きたいであろうセシリアは、歯を食いしばり『最後の』ブルーティアーズを、アリーナの中央へと飛翔したアンノウンの背後へと飛ばした。

 手に持ったライフルと共に放つ十字砲火。残された数少ないコンバットパターンを実行するため、セシリアは自身の回避を犠牲にする覚悟でビットの操作に全精力を注ぐ。

 それでも黒い巨人は視界をうろつく銃口にも、空を駆ける蒼い射手にすら目もくれず、代わりに双方に腕だけを追従させ――

 

「くぁぅ!?」

 

 空飛ぶカモの群れでも撃つかのように、軽々とセシリアとビットにダブルヒットさせて見せた。

 直撃を受けたビットは爆散し、ブルーティアーズは直撃こそしなかったモノの、背面のスラスターを破壊され、地に墜ちるしか無かった。

 

「なによ……今までは手を抜いてたってわけ?」

 

 キリの時と全く同じ、ターゲットを一切視認せずに、しかも今回は2つの獲物を同時に撃ち抜くという、冗談じみたトリック・ショット。それは先程まで、自分達に素人丸出しな射撃しかして来なかった奴の技には到底見えない。

 そう、これではまるで――

 

「今までと、完全に別人のようじゃないか……」

 

 ふと口から漏れた一夏の呟き。その意見に賛同するかのように、

 

「……確かにな」

 

 眠れる姫が、ゆっくりと身体を起こした。

 

「キリ!? …………ッ」

 

 意識はハッキリしてるか? 傷は大丈夫なのか? とにかく無事でよかった。

 そんな月並みな言葉だとしても、言葉にせずには要られなかった思いが、かき消える。

 彼女は、朴月姫燐は、死んでいた。

 

「次は……」

 

 口が動く。声を出せる。ふら付きながらも立ち上がれる。

 そんなことは関係無い。一夏には、壊れた仮面から覗く彼女の素顔が、よく見知っているはずの横顔が、陽光を湛えていた笑顔が、

 

「……仕留める」

 

 頬笑みを模る、月光の様に冷めきったデスマスクにしか見えなかったのだから……。

 

「なに言ってんのよ、バカ!」

 

 再びバトルフィールドへ踏み込もうとした幽鬼の左肩を、鈴の腕が掴み止める。

 

「あんたねぇ、その傷で何しようってんのよ!?」

 

 煩わしそうに彼女はその手を払おうとして、

 

「ッ………ァガ…………」

 

 糸に釣られたような振り子のように垂れさがる、ボロボロの右腕を押さえて膝をついた。

 

「ほら見なさい! それに、そんな状態で行ったところでもう……無理よ! 私達に、いったい何が出来るって言うのよ!?」

 

 瞳に浮かんだ悔し涙をふり払うように鈴は屈み、割れた紺の仮面を覗き込む。

 鈴は別に、楽観も悲観もしていない。これが現実なのだ。

 白式は装甲の実体化すら危ういエネルギーしか残っておらず、甲龍には敵を破壊する武装が無い。シャドウ・ストライダーは半壊し、パイロットも重傷。最後の希望であったブルーティアーズもたった今、潰えた。

 歯向かう牙をもがれた負け犬。

 それが今の、嘘偽りない自分達の姿なのだと、鈴は自覚していた。

 

「俺だって、認めたくない。認めたくないさ……けど……鈴の言う通りだ、俺達は『負けた』んだよ。キリ……お前はよくやった。だから……」

「…………そう、か……分かった……」

 

 反対側に屈みながら健闘を称える一夏に、彼女の頭がガクリ、と落ちた。

 彼にも無念の感情や、悔しさが無いと言えばウソになる。けれど、そんな事よりも、ずっと、もっと、強く、彼の心には、

 

――これ以上、キリが傷つく姿を見ずに済む。

 

 所詮は問題の先延ばしだとしても、ただただそんな安堵感が、渦巻いていた。

 一夏はそんな思いと共に鈴と顔を見合わせ、

 

「……消えろ、オポチュニスト(日和見主義者)共が」

 

 驚愕の感情を、彼女と共有した。

 

「姫燐ッ!?」

 

 背後に渦巻く無念も、観念も、安堵も、憤慨も、友情も、全てを吹き飛ばしながら、深紅のマフラーと右腕をたなびかせ、壊れかけの迅雷が再び戦場へと駆け出す。

 右腕を襲う激痛すら掻き消されるほどに、少女の焼けた脳裏はひたすらに、ひた向きに、壊れて同じ音しか鳴らなくなった楽器のように、同じ問いをリピートさせ続けていた。

 

――貴様らは受け入れるというのか、そんな事実を?

――貴様らは受け入れるというのか、そんな未来を?

――貴様らは受け入れるというのか、そんな終わりを!

 

――ただ、安穏と受け入れるというのか、貴様らは!?

 

 それは、不条理という炎に焼かれ苦しみもがく、狂おしいまでの『叫び』だった。

 

「なッ、なにをやっていますの貴方!?」

 

 なんとか着陸し、体制を立て直そうとしていたセシリアの狼狽すら無視して、狂奏者は両足のエネルギーを解放し、着地したアンノウンへと真っ直ぐに跳躍する。

 

「無謀ですわ、お下がりなさい!」

 

――無謀、だと?

 

 なかなか小意気なジョークに、血が滴る鼻が僅かに鳴る。

 奴の武装、両腕のビームキャノンは確かに破格の威力を持っている。だが、戦闘開始からの経過した時間、それにブルーティアーズが全破損している状況から鑑みるに、敵機はもう相当数を発射した。特にブルーティアーズの破壊には、かなりの連射を。

 どれほどの材質であろうが、超高温が何度も通り過ぎれば、熱は内側に蓄積されていく。故に銃には、オーバーヒートという問題が常に永遠の命題として付き纏うのだ。

 それは例え現代最強の兵器ISに搭載される銃でも、特に熱した光線を発射するような銃ならば、尚更に。

 敵機がこちらを正面に見据える。両腕を前に向け、光を収束させる。

 だが、収束速度も出力も、目に見えて落ちている!

 狂った執念が、確かな勝機へと転じた瞬間であった。

 一度でいい、あと一度だけ接触出来れば、それで全てに決着がつくのだ。

 乗り越えられぬ障害など、なにも――

 

「聞こえていませんの、織斑一夏!!?」

 

 ――このとき初めて、彼女は自身の損傷を――特に聴覚の損傷を、問題視した。

 浮かぶ黒点。それ以外は居てはならない戦場へと正面から突撃する自機から見て、右側から迂回するように駆け抜ける白い影。

 

――阿呆ゥがッ!

 

 あまりに無茶、あまりに無謀、あまりに無策。何を考えているあのバカは!?

 届く訳がなかった。白式には、もう機体を保つだけのエネルギーしか残されておらず、動かす事など、ましてや戦闘など論外である。

 確かに零落白夜は、当たりさえすれば一撃だ。それはきっと、あの規格外ですら同様だろう。だが、イグニッションブーストも使えない、ただ少々速いだけの羽虫が近付こうとも、正確無比な銃身の片割れが右へと動き、確かに一夏も捕らえ、

 

「織斑一夏ッ!?」

「一夏ァ!?」

 

 終幕の熱線を放った。

 放たれた光は高速で動いている白式へと、まるで吸い込まれる様に導かれていき――織斑一夏を刻む時が、また現実から解離される。

 

――誰かを、護りたかった。

 

 あの日から、あの青空に誓った瞬間から。

 物心ついた時から自分はいつも姉に護られていて、いつの間にか当然になってしまって気にも留めていなかったそれに、気付かせてくれた瞬間。織斑一夏は、ようやく自分が「始まった」のだと思った。

 夢がある日々。それは嵐が吹き荒れる中、幾つもの絶壁を乗り越え続けるような受難の日々だったけれど、

 

――俺はただ、護りたかった。

 

 それらを乗り越える度に湧き上がる達成感と、降り注ぐ柔らかな陽光は、それまでの苦難を吹き飛ばすほどの『充実』を運び続けた。

 そうして今、また壁は自分の前にそびえ立つ。

 今度は自分が護りたいモノを否定するために、そびえ立つ。

 

――要らない。朽ちかけた鎧も、捕らえられた翼も、要らない。

 

 音も無く、一夏の鎧と翼が消えて行く。PICの力で飛んでいた身体が、今は世界の慣性によって跳んでいく。

 瞬間に内臓がひっくり返るような不快感が彼を襲い、猛風が身体を殴り付け、意識を奪い取ろうとする。しかし、それらを一夏は感謝と共に甘受した。

 これで、いい。代償は払った。だから今、織斑一夏はそれに見合う対価を望む。

今は剣を、この手に。終わりを断ち斬り、壁を斬り伏せ、誰かを護り抜くための――

 

――最強の剣を、この手に!

 

 唯一残していた右腕の手甲に握られた、雪片二型が彼の渇望に答えた。

 実体剣は瞬時に刀身のない柄に姿を変え、そこから蒼穹の光刃――零落白夜が作動する。

 死――一夏はかつて3度向い合い、そして3度とも、なにも出来なかった絶対的な存在。

 今までは幸運にも感じるだけで終わったそれが今、確かに、無防備な自分を焼き払おうとしている。

 

――本当にやれるのか……この俺なんかに?

 

 恐怖が、怯えが、疑念が、生きているという今が、死へと立ち向かう刃に躊躇いを生む。

 そうして凍ってしまった腕と思考に、光は、差し込んだ。

 

「イチカァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!」

 

 彼女の声が、自分を導き続ける陽光が。

 だから、彼にはもう、過去も今も無く、ただ未来だけが、このデッドエンドの先に広がる次の未来(プロローグ)しか、見えていなかった。

 

 

「そ、こ、だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 

 

 錐揉むように一夏は腕を振り上げ、蒼の刃を払う様に振るい――絶望の今を、切り開いた。

 切り裂かれた過去は真っ二つとなり、通り過ぎる際に生身となった一夏の肌を僅かに焼いたが、所詮はそれだけで背後の障壁へと衝突し、爆散する。

 

「ッしゃぁぁだだぁぁぁぁぁッ!!」

 

 達成の叫喚なのか、地面へと放り出された絶叫なのかは分からないが、一夏は新たな今を噛み締めるように、最高のしたり顔で叫ぶのを止めなかった。

 彼の咆哮は、セシリアの、鈴の、そして今まで微動だにしなかったアンノウンの視線すらも集め――いや、アンノウンの視線だけは、1つの腕がそれを許さない。

 力任せに掴まれた顔面が、歪な機械音を立てる。一夏の代わりに正面に映ったのは、紅血と紺碧に彩られた能面。

 なぜ奴がここに居る? こちらに向けていたもう一発も発射されていた筈だが、避けられたのだろうか。

 そんな人として当然の疑問すら歯牙にもかけず、顔に伸ばされた手を力づくで払おうとした巨腕が、止まる。

 

「モード・デッドエンド――」

 

 ボロボロの全身装甲を羽のように逆立たせ、左腕に黄金ではなく紫電を瞬かせ、腕のアンクルからは無数の槍が剣山のように射出し、そして展開された片割れの能面は、中の死神と同じ歪んだ般若面となって、

 

「ヴェノム・サンシャイン……!」

 

 偽りの翼を焼き滅ぼす、猛毒の太陽が、黒いISに襲いかかった。

 闇色をした輝きと、電子と電子が弾け合う。甲高い音と激しく眩い光がしばらく第三アリーナを圧巻し、それが止むと同時に、シャドウ・ストライダーが全身から白い煙を吐き出した。

 含んでいた紫煙を全て吐き出すような長い蒸気が止むと同時に、シャドウ・ストライダーは元の姿へと戻る。顔面に突き刺さっていた剣山も抜けて、手が黒いISの頭から離れた。

 少しバランスを崩しながらも彼女は、僅かに距離を取って立ち止まる。本当に僅か、黒い巨人が振り上げ、硬直したまま動かない右の拳が、余裕で届きそうなほどの距離を。

 突如として始まった狂騒劇へ、不意に討たれたピリオドに、役者達は困惑の声を上げる。

 

「ど、どうしちゃったのよ、アイツ……?」

「いっ、一体これは……?」

「キリ……お前、なにを……?」

 

 立ちのぼる疑問の数々に、金色の瞳を閉じたまま呟く。

 

「終わった」

「は?」

「これで」

 

 その証拠だ。と言わんばかりに、彼女が目を見開く。

 同時に、ビキビキと金属の悲鳴が黒いISから聞こえ、

 

「ミッション・コンプリートだ」

 

 振り上がった剛腕が肩の付け根から、ベキィ、と断末魔を上げてへし折れた。

 

「ふん、やはり無人機だったか。茶番にも程がある」

 

 口が開いたまま何も言えない一夏達を捨て置き、理性を取り戻したようで、それでいてやはり冷然とした口調が、地面に転がる『コードが伸びた』腕を蹴り飛ばし、続ける。

 

「出来はそこそこだったが……所詮は玩具か」

 

 プルプルと、生まれたての小鹿のように震える機械仕掛けの巨人の身体を、軽く手の平で押す。たったそれだけで、平衡感覚を保てなくなった巨体が無様に倒れた。

 無人機は急いで体勢を立て直そうと足掻く。だが、身体も、足も、手も、五体の全てが、まるで全身に見えない重りを押し付けられているかのように、本当に僅かな動作と、鉄が歪む音しか生み出せない。

 寿命が尽きかけた虫のような情けない姿。先程まで、圧倒的な強さを持って自分達へと襲撃してきた敵の末路としては、あまりに滑稽であった。

 その姿を見下しても、先程から饒舌な、それでも普段に比べれば寡黙である彼女は、冷徹のマスクを崩さない。

 

「キリ……これは、いったい……?」

 

 原因は間違い無く、先程のアレだろう。そう目星をつけた一夏が恐る恐る尋ねる。

 

「PICを破壊した。もう、コイツはISでも無人機でもない。只の鉄くずだ」

「PICを……破壊した、って……?」

 

 PIC。それはこのISという出鱈目を、この世に実在させるために必要不可欠な機能だ。

 物体の慣性を消滅させる。それは即ち、万有引力からの解放すら可能とする。故にISは自在に空を飛ぶことが出来るし、どれほど重い装備を生身で装着しようともパイロットがその重量に押しつぶされることはないのだ。

 では、もしそのPICが無ければ、いったいどうなるか?

 先程の説明とは、完全にあべこべとなる。

 ISは自由に空を飛ぶことが出来ないし、少しでも過剰な――特に全身装甲などを施せば、中身であるパイロットは……その重量を一身に受けることになるだろう。

 中身が機械である無人機だからこそ、まだ動けているが、これが生身の人間であったならば……その鎧の中は今頃、ぶちまけられたトマトとなっていただろう。

 

「始めは尋問のために生捕りにするつもりだったが、相手が口の無い玩具ではな……しかし」

 

 講義はこれで終わりだと屈みこみ、黒い鉄くずの頭を掴み上げる。

 

「どうせ耳と目は付いているんだろう? ならば、聞け」

 

 淡々とした起伏のない口調で、無表情な眼光を突きつけながら、

 

「貴様がいかなる目的を持って、どのような感情で動き、どれ程の理想を抱きながら、この学園を襲撃したか知らんし、個人的興味も一切無い。だが――」

 

 

「次は貴様だ」

 

 

 処刑執行人は、罪人を空高く放り投げた。

 

「モード……カーテンコール」

 

 執行人の命令に従い、処刑器具はリミッターを外す。

 両足から吹き荒れるエネルギーの奔流が、宙に浮かばされた人形へと呼吸する間も無く彼女の身体をぶっ飛ばし、擦れ違いざまに再び左手で頭部を掴む。

 そのまま上空へ、シャドウ・ストライダーは自身が出せる最高のスピードを一切落とさずに上昇していく。PICの加護を失くした無人機は、慣性の影響を全身に受け、腕が、足が、腰が、ボロボロと千切れて墜落していき、

 

「少しだけ待っていろ」

 

 バリアーが貼られた最上空で静止し、少女は瞳を閉じて、最後に残った頭部へと唇を近付け――そのまま、右手を離す。

 

「すぐに、主も同じ場所へ送ってやる」

 

 全てを失った人形は重力に引かれ、地の底へと吸い込まれていった。



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関幕 「乾いたパズル」

 赤いランプが照らすテーブルに、ジグソーパズルのピースが散らばっていた。

 のどかな湖と平凡な西洋風の街並みがプリントされているだけの、面白味も何も無い絵柄のパズル。しかし、こうして赤い光に照らされていると、全てがまるで血溜まりに沈んでいるかのようで、考えようによっては意外と趣があるかも。などと、我ながら悪趣味な考えが、パズルを指先で転がす少女の頭をよぎった。

 低く唸るようなエンジン音をBGMに、バラバラに散らばるピースの1つを、病的な肌色をした小さな手が握り、有るべきだと考えたのだろう場所へとハメる。

 凹凸はキレイに噛み合い、またジグソーパズルは本来の姿へと一歩近づく。

兼ねてから予定されていたようにすかさず、小さな手が伸びた反対方向からピースを遊ばせていた、一回り大きな、それでも女性らしさを残したか細い指が動きだす。

 ハンチング帽の下から覗く、虚ろな視線が手元の欠片が有るべき場所を捕らえ、指先が……止まる。

 

「……どうしたの?」

 

 俯きがちな少女の視線が、正面に座る彼女に向けられた。

 普段から瞳に輝きに満ち溢れているとは言えないが、今日は特に、濁流のような淀みが渦巻いている。愛想も可愛げも精気も無い、それは年頃の乙女としてどうなのかとも思ったが、どうせ今は自分もこんな感じの目をしているのだろう。

 だから乙女と言うよりは確か――落ち武者だったか? 本に書いてあった昔のジャパンの敗残兵の姿らしいが……ああ、そうだ。それが一番似ている。

 そんなことを考えて、フッ、と少女の鼻から小さな笑いがこぼれた。

 

「……なんなの。それ」

 

 小馬鹿にしたような鼻笑いが癪に触ったのか、少女の瞳にようやく活気だった意志の光――いや、光と呼ぶには余りにドス黒い、ギラつくような殺気が宿る。

 しかし、沈みきった少女の口調とは対照的に、必要以上におどけた様な声で彼女は返す。

 

「いやぁいや、傑作でござると思って」

「……なにが?」

「だって拙者達、こんな所で何してるでござる?」

「……ボケたか。とうとう」

 

 明らかに軽蔑が篭った、軽い溜め息。

 

「あー、そういう意味じゃなくて。心配しなくとも、ミッションプランは完璧に覚えてるでござるよ?」

「……不明。分かりやすく、ハッキリ言え」

 

 苛立ちを隠さない少女の言葉に、うーんと彼女は大げさに悩む素振りを見せ、

 

「拙者達、ほとんど死んでるんでござるなって、思って」

 

 空っぽに、笑う。この世の全てが無価値だと信じて止まない、世捨て人のように。

 

「……作戦内容。カミカゼでは無い」

「だぁーかぁーらぁー、そういった肉体的な意味ではござらん」

「……哲学?」

「どちらかと言えば、精神論」

 

 本当に、今ふと思い浮かべてみれば、非常に当然で、下らないこと。

 

「拙者達、ふと振り返ってみれば、なにも持ってないんでござるよな。小さいころからずっと任務と訓練ばっかで、他には夢も、目的も、家族もなぁんにも」

「……当然。だから選ばれた」

「ま、そうなんでござるけどね。けどそんなこと、どうでもよかったでござろう?」

「……うん」

 

 本当にどうでもよかった。命令されるがままに人と戦う、人から奪う、人を殺す。それが彼女たちにとって物心付いた時から与えられた日常で、生きる日常に疑問を持つ人間が少ないように、彼女たちも自分の日常に疑問を持たない、実に『平凡な』人間だったのだ。

 

「でも」

「……でも?」

 

 顎を僅かに上げて、鋼鉄の天井を、その先に広がっているだろう果てない空を見上げて、

 

「隊長は、隊長だけは確かに居てくれた。どんな時でも、拙者達の前に」

「……ッ!」

 

 少女の目が見開く。歯ぎしりが鳴る。テーブルに小さな手が叩きつけられる。

 

「……やめて」

「いやぁ、本当に懐かしいでござるなぁ。飛び交う銃弾、弾けるミサイル、空賭けるISの分隊! それらを全て蹴散らし、圧倒する鬼神のごとき隊長のIS! 初めて見た時のあの衝撃!」

「やめろ……」

「でも辞令で同じ小隊になって、本性を知ると意外や意外。一見完璧なのにどっか抜けていて、少し照れ屋で、出撃の際には不器用に笑いながら『今日も、帰ってくるぞ』って拙者達の背中を叩いて」

 

「やめろと言っているッ!!!」

 

 悲痛な叫びと共に立ちあがり、突き出された少女の左腕と首元のチョーカーが発光する。瞬間、少女の左腕は細く色白い華奢さを失い、代わりにガーネットのような黒っぽい赤色をした鋼の剛腕と化す。そして剛腕に供えられた砲身からは、少女の怒りを表すように、紅蓮の炎がチラチラと先漏れしていた。

 

「……この密室で火炎放射なんて使えば、そっちも無事では済まないでござるよ?」

 

 人一人を消し炭にするには充分過ぎる火力を誇る凶器を前にしても、僅かな沈黙が生まれたのみで、先程と変わらぬ中身の無い空虚な態度は崩れない。

 

「……それも」

「ん?」

「……それも、悪くない。一緒に、隊長の所へ逝けるなら」

 

 今度は、彼女も押し黙る。

 別に、恐れで声が出ない訳でも、言葉が浮かばない訳でも無い。

 いまさら同意に、いちいち言葉が必要な間柄でも無かったから。

 

「…………」

 

 無言のまま、ハンチング帽の下で瞳を閉じた道連れに答えるように、少女もまた、眼を閉じて――

 

《コードネーム『ゴーレム』の沈黙を確認! 『セプリティス・リューン』、『セプリティス・トーチ』、ただちに発艦の準備を。繰り返す、ゴーレムの沈黙を――》

 

 目が、覚める。

 合成音声の無機質な声をバックに二人はしばらく茫然として――少し遅れて脱背もたれに、肺の空気すべてを吐きながら身体を投げ出した。

 リューンは天井を、トーチは床を眺めて、枯れ切った声を捻りだす。

 

「……どうする?」

「……やりますか」

「……どっちでもいいけど一応、なんで?」

 

 今度は素振りではなく、真剣に少しだけ考えながら、

 

「なーんか、もぅ色々ムカつくじゃないですか。いきなり隊長は死んだとかホザく上層部も、呑気に殺し合いごっこを楽しんでいる学園の奴らも、あとついでにこんなくッだらない世界も、最後に全部……全部全部全部全部全部全部全部ゼンブ」

 

 

「ぶっ壊してから、死んでやる」

 

 

 乾いた狂気を、口走った。

 

「……うん。最高の、ストレス解消になりそう」

 

 同意した、もう一つの狂気も薄らと笑う。

 

「でしょう? きっとキルスティン隊長にも、いい土産話が出来るでござる」

 

 自分で言ったことだが、そう考えると急に四肢に力が篭り、虚ろな意識は鮮明さを取り戻していく。初めて味わう感触にリューンは戸惑いを覚えながらも、同時に奇妙な充実感も覚えていた。

 トーチも彼女と同じような感触だったのだろう。付き物が落ちたような、スッキリとした表情を浮かべている。

 

「んじゃ、逝きますかトーチちゃん。最初で最後の、ホリディに」

「……了解。目一杯たのしむ」

 

 そうと決まれば一目散。いつも以上にキビキビとした動きで、二人は部屋を後にした。

 トーチと共に狭い鋼鉄の廊下を走りながらリューンは、ふと自分の手にパズルピースが握られていたことを思い出した。

 これが無ければ、部屋に置いてきたジグソーパズルは絶対に完成しない訳で、街並みには不自然な穴が残り、その穴にちょっとした衝撃が加わるだけでも、パズルはボロボロと崩れてしまう。代用品も、無い。

 

 ――だけど、まぁ、いいか。

 

 どうせ、大した価値がある訳でも無い。

 永遠に完成しないなら、ゴミ箱に捨ててしまえばいい。

 

 そんな程度の、存在なのだ。



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第16話 「キルスティン」

 第三アリーナ、メインルーム。

 いくつも設置された巨大なモニターと、素人目では何が何だか分からないであろう複雑なコンソールが多数設置されたSFチックな部屋の中心に、一つだけ真っ黒な座椅子がある。そこに座る人間は一切の機材を操る必要が無いが、代わりに機材なんかよりも遥かに複雑怪奇な人心を操作しなくてはならない。

 そんな場所に彼女、織斑千冬は座っていた。

 

「山田先生、アリーナ内部の状況はどうですか?」

 

 砂嵐のみを写すモニターの前に座るオペレーターの一人――山田真耶に、湖水のように冷たく揺れぬ声で現状を尋ねる。

 

「まだ、詳しい情報は分かっていません――ですが、先程から執拗に受けていたクラッキングがピタリと止みました。システムも、じきに復旧するはずです」

「……そうですか」

 

 模擬戦が終わるのを待っていましたと言わんばかりに、突如として奪われたメインルームのコントロール。このアリーナに関する全権が詰まった心臓部と呼んで差し支えない場所は、抵抗する暇すらなく一瞬にして何者かの手中に――いや、千冬にはその何者かに、確信と呼んでいい心当たりがあった。

 世界最高峰のセキュリティを誇るIS学園。その中でも更に厳重にロックが掛けられた、IS同士が火花を散らし、大勢の観客が集まる闘技場。本来ならクラッキングなどあり得てはならないこのフィールドを、息を吐く間すら与えず奪い取る不可能をやり遂げてしまうのは、やはり世界を独力でひっくり返すような不可能をやり遂げてしまうような人物しか居ないだろう。

 

(ならば……大した事態にはならない……はずだが)

 

 そんな人物の気性を、千冬は誰よりも理解していると自負している。

 間違いなく一夏は無事だろう。千冬が知るアイツは『認識している』数少ない人間を、無意味に傷付けるような真似はしない……無意識に、なら数えきれないが。

 だが、アイツにとっては喚くだけの雑草とも変わらぬ『認識されていない』その他大勢は分からない。観客席は、その気になれば換気の遮断すらもしてしまえるが……これも問題無いだろう。

 そんな事をしては、自分との関係に致命的な決裂が生まれてしまう。無論、千冬自身もそんな暴挙を犯せば、たとえ相手が親友だろうと許すつもりはない。故に、観客席の生徒達も無事。

 ならば最大の心配は――アリーナ内部に居た鈴音だ。

 モニターは先程から砂嵐しか写さず、アリーナ内部で何が起こっているのかは分からない。だが、何度か激しい揺れや爆音はこの管制室にも届くことがあり、それらが意味することを連想するのは非常に簡単であった――非常に容認しがたいことではあったが。

 

「戦闘は……終わったのでしょうか?」

「ええ、恐らくは」

 

――どのような結果にしろ。

 

 そう続けるのは、オペレーターたちの無用な心配を煽るだけなので止めた。

 アイツが何を送り込んできたのかは分からない。だが、一夏の白式はエネルギーが底を尽きかけ、鈴音の甲龍にいたっては丸腰だ。あのような状況下で、いったいどれほどの対処が出来ただろうか。あのヒヨっこ達に。

 

《こちら突入班。管制室、聞こえますか》

「こちら管制室。どうした」

 

 頭に付けているヘッドセットから、アリーナへ突入を試みていた部隊からの通信が入る。

 

《生徒達の避難は完了しました。引き続き、爆薬のセットに取りかかりたいのですが》

「わかった。では、引き続き」

《待って下さい、ただ少し問題が》

「なんだ、何が起きた?」

《実は、避難しそびれた生徒が二名いるみたいなんです。なんど確認しても居ません。このままゲートを爆破するのは、その二人に危険が及ぶ可能性が》

「……なんだと?」

 

 思わず噛みかけた奥歯を、止める。上の動揺は下に伝わる。この場は、既に何が起きるか分からない戦場と同じ。冷静さを失った奴から、血煙に消えていく。

 だから、織斑千冬は殺す。感情を、願望を、自分自身を。

 この身を常に最善を実行し続ける冷たい機械と化して、目の前の緊急事態に当たり続ける。

 

「誰だ、誰が居ない」

《はい、所属は二人とも一年一組。名前は「セシリア・オルコット」》

 

 あのバカが。思わず呟きかけた言葉を何とか飲み込む。

 どのような手段を使ったかは分からないが、恐らくオルコットもアリーナの内部だろう。そしてもう一人も何となくだが予想は付く。と言うより、このもう一人がオルコットを扇動して、自身もアリーナの中へ突入したと見るのが正しいだろう。

 あの生徒なら、やりかねない。そういった一種の、信頼に似た確信が千冬にはあった。

 

「やった! モニター、復旧します!」

「……ッ! そうか、映してくれ」

 

 丁度いいタイミングであった。これで、全ての予想に裏が取れる。

 左耳で通信を聞きながら、千冬は正面のモニターを見つめる。

 そして――これは少し未来の話であるが、数秒後、千冬の予想は当たり、そして外れる事になる。この時ばかりは鉄面皮を持つ彼女ですら、驚愕を隠し通すことが出来なかった。

 しかし、誰が予想できただろうか。

 

「正面モニターに、あと3……2……1……映ります!」

 

 これから映るであろう、信頼している自分の生徒が、

 

《もう一人は――》

 

《朴月姫燐》

【キルスティン……隊長?】

 

 在るはずが無い二つ目の名で、呼ばれるなど――

 

 

第一六話 「キルスティン」

 

 戦闘を終え、地面に着地すると同時に姫燐は片膝をついて左腕を押さえた。

 激痛に苛まれ、今にも途切れそうな意識を、歯を食いしばり繋ぎとめる。

 

「大丈夫か、キリ!?」

 

 自分も先程の戦闘で傷だらけだというのに、それを意にも関せず駆け寄る一夏に続き、ISを解除して鈴とセシリアも彼女の傍へ走る。

 

「全く、よくやるわよ。そんな傷で……」

「本当に……お見事でしたわ、姫燐さん」

 

 瞳に薄ら涙を溜めながら、彼女の健闘を称える二人に対し、無言で俯いたままの姫燐。だが先程から放っていた、全てを拒絶するような殺気は大分薄れていた。

 

「とりあえず、早く医務室へ行こう。傷を見て貰わいッ、たたた……」

「一夏は、自分の傷も見て貰わないとね」

「だ、大丈夫だ。かすり傷だって、このくらいキリに比べれば……」

「……チッ」

「ハハッ、姫燐。いくらなんでも、それは酷くないか?」

 

 軽く鳴った彼女の舌に、一夏は苦笑いを浮かべながら、

 

「読み違えたかッ……!」

 

 再び彼女の声色に、死臭がまとわり付いていることに、気づいた。

 

「なっ……なんですの、この揺れは!?」

「じ、地震!?」

 

 姫燐の声に呼応したかのように、地面が、第三アリーナ全体が轟音を立てて揺れる。

 これが地震であったなら日本ではさして珍しいモノでも無いが、彼等が知っている地震は地面がひび割れて隆起しはしないし、何よりも地中から甲高い機械音を響かせ――

 

「はいぃ……?」

「なにこれ……ふざけてんの……?」

 

 雨後のタケノコのように削岩機――つまり『ドリル』が生えてきたりは決してしない。

 

「あ……えっと……ど、ドリル、なんで?」

 

 唐突に第三アリーナに出現したドリル。ISを装着した姫燐たちの身長よりも更に大きくぶっとい、あまりにも非現実的すぎるこの存在は、さっきまで命がけの緊張感に身を晒していた彼等にとって、最高にタチの悪いジョークにしか思えなかった。

 

「え、えーっと、もしや技術大国日本では、救援にこのような機械を使っていますの?」

 

 歯切れの悪いセシリアの疑問に答える人間は居ない。

無視された訳では無く、ただ単に全員理解が追いついていないだけである。

 プシュゥゥ、と炭酸が抜けるような音が鳴ると共に、ドリルの先端から割れ目が入り、

 

「はぁ~、シャバの空気は美味いでござるな~」

「……酸素マスク。外してないけどね」

 

 パックリ展開されると同時に、中からゴツい対圧服に身を包んだ人影が大小二つ、能天気なやり取りをしながら現れた。

 

「むぅ、ノリが悪いでござるよ。ここは日本独特のKYという言葉に従い、一句詠むくらいはしなくては」

「……バカ。それはKUをYOむんじゃなくて、空気を読めという意味。つまりお前が今、一番しなくてはならないこと」

 

 などと言いつつ、小さな方も一緒にドリルの中から現れている以上、同レベルに空気が読めていない。

 とりあえず一夏は、目前の対圧服達に向かってコミュニケーションを図ってみる。

 

「あ、あの~……アンタ達は?」

「おおー、君が織斑一夏でござるか! やっぱ生は一味違うでござるなぁ。あ、写真一枚いいでござる? 拙者も生で見るのは初めてでござるから記念に、んんっ、折角だし一緒に写っちゃうでござる?」

「……いらない。さっさとやろう?」

「むぅ……了解、でござる」

 

 なぜこんなにもハイテンションなんだろう? ござるござると謎の語尾を連呼する、声から察するに同い年くらいであろう少女達は、一夏の質問を無視してヒートアップを続ける。

 この場の誰もが、彼女達の無茶苦茶で無軌道で無神経なノリに付いて行けず、茫然と成り行きを見守るしかなかった。

 

「いやはや、こんなにもイケメンなお主にこんなことを頼むのは、非常に心苦しいのでござるが……」

 

 申し訳なさそうに背の高い少女はスッと、初対面の相手に名刺でも取り出すような、ごく自然な動作で、

 

「一発、パスッと死んでくださるでござるか?」

 

 胸元から引き抜いた、サイレンサー付き拳銃を一夏に向け、トリガーを――引いた。

 

「えっ……?」

 

 彼女の言う通りパスッ、と気が抜けるほどに軽い音とノリで撃ちだされる凶弾。

ここでようやく一夏にも、彼女達について一つだけ理解できた。

 そうだ、彼女達のような人間は、行動に理由も理性も理論も無い人間は、人を躊躇いも無く殺そうとする人間は、

 

――すべからく、狂っているのだと。

 

 一夏の額へ真っ直ぐ飛来する弾丸は、そのまま彼の額をぶち抜く――ことを、やすやすと許す彼女ではない。

 

「ほほぉ、中々に」

「……いい反応」

「キ、キリ!」

「フゥー……フゥー……!」

 

 自らの背を盾に凶弾を弾く姫燐。しかし、一夏の前に立つ彼女の姿は、荒い呼吸と共に大きく上下し、フラフラと今にも倒れてしまいそうな程に不安定だった。

 

「その破損と出血でここまで動けるとは、執念と言うか何と言うか」

「……呆れる」

「ハァーッ……ァガアァァァァァァァ!!!」

 

 疲労、出血、激痛。視界から色が失せて、五感が消える。

 だとしても、雄叫びで自らを奮い立たせ、彼女は自分の成すべき事をただ――敵の殲滅を!

 理性は既に擦り切れていて、最後に残った闘争本能が地面を蹴り飛ばす。

 半壊かつ中身は重傷であろうと、なおISの突進は対圧服程度しか装備していない人間ならば紙屑のように吹き飛ばせるだろう。ターゲットの喉笛めがけ、姫燐の手刀が空を切る。

 

「でも、とても気の毒なのでござるが」

「……お前達だけじゃない。その兵器を持ってるのは」

 

 二人の狂人が、共に首元についたチョーカーに触れた。

 長身の方は二つ絡み合った竜の形を、片や低身長のほうは揺らめく炎の形をしたレリーフが輝きだす。IS学園の生徒達にとっては、見慣れ過ぎた装着の光。

 

「な、まさかあの方達も!」

「姫燐ダメっ、下がって! アイツらはッ!」

 

「カモン、『撃龍氷』」

「……来い。『ハイロゥ・カゲロウ』」

 

 耐圧服を吹き飛ばし、暴風と爆炎を纏い、機身は現れる。

 片や、レオタードを纏った身体で背負うように、巨大なユニットを装着していた。ただ、そのユニットには、爪や、翼や、尻尾があり、頭は彼女の頭脳を喰らうかのように被さり、目元を隠している。手にした長大な両剣からは、白い霧が立ち込めていた。

 人と竜が混じり合うワインレッドの異形――「撃龍氷」。

 片や、小柄な体躯とは裏腹に、人間一人なら鷲づかみ出来そうなほどに巨大な両腕を発現させる。そのフレームの隙間から除く金属は赤熱化しており、危険なほどの高温を常に纏っていることを誇示して止まない。熱を帯びたISとは対照的に、顔を隠すバイザーから僅かに覗く表情は不気味なまでに不動。

 巨大な両腕で裁く灰青色の獄炎――「ハイロゥ・カゲロウ」。

 二つの狂気が今、世界最強のチカラをその身に纏った。

 

「んじゃ、アレよろしくでござる」

「了解……」

 

 ハイロゥ・カゲロウが前に出て、シャドウ・ストライダーの手刀を左手で軽々と掴み取る。そして、流れるような動作で無防備なキリの胴体へ鉄拳を叩きこんだ。

 

「ごっ……ふっ……」

 

 ほぼ全てのエネルギーを消費したシャドウ・ストライダーの装甲は、もはや只の鉄板とそう変わりなく、その衝撃はほとんど軽減されずダイレクトに彼女の腹部を貫く。

 限界に限界を上乗せするような一撃は、簡単に姫燐の意識を刈り取った。

 

「あらら、もうダウンでござるかぁ。張り合いない」

「キリッ! お前ら、キリを離せ!」

 

 声を荒げる一夏に、異端な外見とは裏腹の挑発的な態度で撃龍氷が返す。

 

「やーでござるよー。もうコレは拙者たちの戦利品でござる」

「……然り。だから、何をしてもそれは……」

 

 ハイロゥ・カゲロウの右手から、真っ青な炎が噴き上がり、

 

「ワタシたちの、自由」

「ッ!?」

 

 その燃え盛る炎とは対極に、一夏達の背筋が凍りついた。

 

「あ、そこの二人、動いちゃダメでござるよー?」

「……ロースト。動いたら、今すぐにでも」

 

 再びISを展開しようと意識を集中していたセシリアと鈴の動きが止まる。狂っていながらも垣間見せる、適切な状況判断力。鈴は奥歯を噛み締めながらも、そこに賭ける価値を見出した。

 

「あ、アンタら分かってんでしょうねッ!? ソイツはIS学園の生徒なのよ! 殺したら、全世界から追われるハメになるわよッ!」

 

 全世界から将来有望な生徒が集まるIS学園。そこの生徒がテロリストによって殺されたとなれば、黙っている国家は居ないだろう。どの国も己の威信を賭け、どのような手段を用いても、どれほどの時間がかかろうとも、必ずや犯人に裁きを下すため動きだすはずだ。

 例え専用機を持っていようとも、生き残れる可能性は皆無と言っていい。

 だが、それでも撃龍氷は嘲笑うかのような笑みを絶やさず、

 

「そうでござろうな。多分、拙者達は3日もかからず殺されるでござろう」

「なっ……!?」

 

 さも当然、道理の通らぬ愚か者に言い聞かせるよう、彼女は続ける。

 

「織斑一夏を含めたここに居る全員を道連れに、人生の幕を引くのは最後の最後な大立ち回り。拙者達にこんなオモチャと技術を与えやがった奴らへ、感謝の気持ちを叩きつけてやる丁度いい機会でござる」

「そんなっ! 貴方達、何がしたいんですの!?」

 

 織斑一夏も殺し、自分達も死ぬ。

 コイツ等がどこの国家、組織に属しているのかは分からない。だが、専用機まで与えられるほどの人物が使い捨ての鉄砲玉である可能性は限りなく低い。人材はまだともかく、世界に467機しかないISは量産機であろうとそんな気軽に使い捨てられる物では無い。

 それに今、敵が口走った「与えやがった」という言葉。即ちそれは、コイツ等は個人ではなく、ちゃんとした上――即ち黒幕が存在するということと同意義だ。

 つまり、今考えられる一番の可能性は――鈴は、頭に残ったある可能性を口にする。

 

「つまり、アンタら……私念で上の命令無視って暴走中って所かしら?」

「……流石。腑抜けても、代表候補生に選ばれるだけはある」

「ふっ……腹立つほどに、その通りでござるなぁ」

 

 不愉快に歪んだ彼女達の顔面を見て、鈴は口であろうと一発返してやれたという快感以上に、この絶望的状況への震えが止まらなかった。

 もし奴らが、後先を一切考えない暴走状態だというのならば、目的が自分達をただ殺すだけなのだとしたら、

 

「だから、まず一人サクッと焼いてストレス解消といこうでござるか」

「……了解」

 

 それは今、まさに消されようとしている姫燐を助ける方法が、自分達には無いという事実へと繋がるのだから……。

 

「や……やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」

 

 一夏が雄叫びを上げながら、弾け飛ぶように二機へ突進する。

 だが、余りにも蛮勇で無謀で非力。ISを展開できない少年のスピードなど、彼女達にとってはスローボールよりも更にスローであり――

 

「はい、お主は後でござるよー」

「うわぁぁぁぁぁ!!?」

 

 ワインレッドの異形が振るう両剣から発射された深紅の氷柱を足元に打ち込まれ、その衝撃で一夏は背後に吹き飛ばされ地面を転がる。

 コイツ等は本気だ。もはや、迷っている暇など無い。武装はセシリアのスターライトMKⅢとインターセプターしか無く、鈴に至っては丸腰……それでも、勝負をしかけるしかない! 二人はそれぞれの待機状態のISに触れ、

 

「一夏ッ! アンタら、もう容赦へっくち! な、なにこれ寒っヘクシュン!!」

「くしゅん! うう……こ、この白い霧はまさか……冷気!?」

「ようやく気付いたでござるか、思ったより鈍いでござるなお主ら」

 

 ISを展開するために眼を閉じた二人の集中力が、撃龍氷の両剣からずっと発せられていた白い霧――肉眼に見えるレベルの冷気で掻き乱される。

 敵に冷やされていたのは、胆や背筋だけではなかったのだ。肌の露出が多いISスーツを見に纏う二人にとっては、充分危険なレベルにまで既に第三アリーナ一帯の気温は低下してしまっていた。

 手や太ももを擦り合わせて再び集中しようにも、吐く息すら凍り始めたこの空間では、空気を吸うだけで冷気は肺に突き刺さり、肉体の震えも止まらない状態では集中など出来よう筈もない。

それどころか神経伝達すらマヒし始めたのか、真っ直ぐに立つことすら困難になった二人は地面へとへたり込んでしまう。

 

「くそっ……出なさいよ……このっ……」

「あ、ああ……まさか……こんな方法でっ、ISを封じてくるなんて……」

「そ、専用機持ちだろうと、纏っていなければ所詮ただの人間でござるからなぁ……こんな風に少し温度を下げるだけで、簡単に凍えて動けなくなるんでござるよ」

 

 物理と心理に吹く冷風が、セシリアの身体から活力を奪っていく。

 大切な人が殺される。また、わたくしは愛する者を失ってしまう。そんな考えたくもない絶望など受け入れられる筈も無いのに、ISは動かせず、この状態では織斑一夏のように身体一つで助けに動くこともできない。

 そもそも、動けたとして自分はあの人を助け出せただろうか……? 自分は、彼女にあれ程の温もりを与えて貰いながら、何も返すことが出来ずに見殺しにしてしまうのか……? 彼女は、朴月姫燐は、こんなにも弱く、惨めな自分を唯一――

 

――認めるよ――

 

 トクン、と心臓に篝が投げ込まれる。

 

――誰がどれだけお前を貶そうとも――

 

 そう、あの日、彼女がこんな自分に優しく言い切ってくれた言葉。

 

――オレが何度でも張って言い切ってやる――

 

 大切な思い出を、それが全てだと思えたあの瞬間を……そして、この言葉は、彼女が自分に向けてくれたこの言葉と笑顔だけには!

 

――セシリア・オルコットは大した奴だって――

 

 セシリア・オルコットという存在全てを賭けてでも、裏切っていい訳が無いのだと! だから!!

 

「ブルゥゥ……ティアーーーーズ!!!」

「おうっ!?」

「えっ」

 

 二人の顔に、初めて想定外の事態に直面した驚愕が浮かぶ。

 セシリアの叫びに答え、ブルーティアーズは再び発現した――右腕のみ、であったが。

 

(そっか、部分展開ッ! その手があった!)

 

 イメージによって装甲の展開速度が変わるISにとって、全身を出現させようとすれば、当然そのプロセスは冗長になる。その途中に集中を乱せば、光の粒子は鋼鉄と化す前に塵と消えてしまう。

 だからこそ、この代表候補生は腕のみの装着を実行したのだ。腕だけなら、熟練したパイロットなら本当に一呼吸すら必要ない、ほんの一瞬だけ意識を研ぎ澄ませば装着できる。

 別にやってのけた事そのものは脅威ではない――だが、それをこの絶望の中で思いつき、咄嗟に実行してみせたからこそ、この女は撃龍氷とハイロゥ・カゲロウにとって、

 

――この女は、敵だッ!

 

 まるで暇を潰している最中のようだった、どこか真剣みに欠けていた二人の表情が、一瞬で殺戮者のそれに引き締まる。だが、それでも今動き始めた二人より、今まさにスターライトMK3のトリガーを引こうとしているセシリアのほうが遥かに速い!

 トリガーが引き絞られ、光の弾丸が姫燐を拘束するハイロゥ・カゲロウの左手を打ち抜く。

 

「ぐっ……」

 

 シールドバリアーに守られていたとはいえ、関節部に弾丸の直撃を受けたハイロゥ・カゲロウは姫燐を掴んでいた手を離してしまう。

 

「チいッ!」

 

 被弾した相方を一瞥すらせず、撃龍氷の背負った飛竜型のユニットからガトリング砲が二門排出され、彼女の肩に担がれ回りだす。

 狙いは当然、まだ腕以外にISを纏って無い眼前の敵。一撃で仕留められる獲物に定めた狙いが――また別の龍によって、大きく外された。

 

「ちぇぇぇぇぇい!!!」

「ぬがっ!?」

 

 いつの間にか両足だけを部分展開し、こちらの元まで飛翔していた甲龍の飛び蹴りがクリーンヒットし、撃龍氷を横へ大きく吹っ飛ばす。

 

「くっ……」

 

 小癪な目の前のISを焼き払おうと、ハイロゥ・カゲロウも腕を甲龍へ――向けなくてはならないのだが、

 

「邪魔……するな!」

「当然、嫌でござりますわ!」

 

 それが、相方のムカつく口調を中途半端に真似するムカつく狙撃主の止まない射撃に遮られる。

 

「もういっちょぉぉ!」

「なめ……るな!」

 

 ハイロゥ・カゲロウの脳内に、リスク計算が瞬時に走る。

 例え、直撃を何発か貰うことになっても……ここは目の前の機影の排除が最優先。

 足を踏ん張り、直接身体に当たり始めた弾丸の衝撃を堪え、目の前の敵に両腕を向け、灼熱の業火が目の前の敵へ照射される――はずだった。

 

「……えっ?」

 

 思考が硬直する。炎が焼き尽くしたのは、バリアが展開される第三アリーナの天空のみ。

 身体が吹き飛ぶ。敵のISに全力で蹴り飛ばされ、小さな身体と大きな腕が、呆気なく宙を舞う。

 そして最後に、視界が捕らえる。仰向けに転がりながらも、空へ拳を突き上げる戦利品だったはずのISを、その右手から噴き上がる煙を!

 してやられた。奴が、火を噴き出す瞬間、なんからかの手段でこちらの腕を跳ね上げたのだ!

 傷付けられた肉体とプライドの痛みに奥歯を砕かんほどに強く噛み締めながら、ハイロゥ・カゲロウはアリーナの壁に叩きつけられた。

 その姿を確認する間もなく、鈴はすぐさま姫燐へと駆け寄る。

 

「姫燐ッ!」

「バカ……が……なんで……お前……」

「どっちがバカよ……もぅ、無茶して……」

 

 薄ら目尻に浮かんだ涙をふり払うように、パーツごとに部分展開を連続で行うことで、完全な形になった甲龍がシャドウ・ストライダーをお姫様だっこで抱える。

 

「姫燐さん!」

「キリ!」

 

 なんとか無事に帰って来れた二人を、一夏とセシリアが出迎える。

 

「一人で無茶しすぎだ……キリ」

「よかった……本当に、よかった……」

「……なぜ、だ……なぜッ! オレが捕まってる間に逃げなかったバカ共……!?」

 

 心からの安堵を浮かべる一夏と、顔をぐしゃぐしゃにして今にも泣き崩れそうなセシリアの姿とは対照的に、姫燐の虚ろだった表情が怒りによってねじ曲がる。

 

「はぁ!? アンタ、なぜってソレを聞く普通!?」

「そうですわ! わたくし達は、仲間ではございませんこと!」

「そうだぜ、俺達がお前を見捨てられるわけないだろ」

 

 そうじゃない。姫燐はそんな、仲良しこよしの慣れ合いが聴きたかった訳ではない。

 ただ彼女は、あの好機を逃せば、お荷物を抱えた決して少なくないダメージを受けたISが、

 

「はっはぁぁぁぁ……最ッ悪でござるなぁ、トーチちゃんや」

「……ホント。最悪」

 

 果たしてどうやって無傷のIS二機から逃げ切るのかを、聴きたかったのだ。

 フラフラと、まだ吹き飛ばされたダメージが残っているのか足取りは覚束ないが、一歩一歩、二機は互いに歩み寄っていく。

 

「自棄を起こして遊んでみれば、遊び相手に遊ばれて……」

「……屈辱。こんなザコ共に土つけられた」

 

 二人の距離が、拳一つも無いほどに近付き――互いに互いが、手の得物を突き付けた。

 

「じゃ、ザコ以下。これが終わったら拙者が、直々に隊長の所へ送ってやるでござる」

「……不要。その前に、ワタシがお前を炭にして、隊長の居る土へ巻いてやる」

 

 一見、それは只の仲間割れに見えた。だが次の瞬間、殺意に塗れていた顔に浮かんだのは――これ以上にないほどの笑顔。

 

「そうでござる……そのためにも、こんな下らない児戯は今すぐ終わらせなくては」

「……同意。これ以上足引っ張るなら、すぐにでも燃やすけど」

 

 その時、一夏の眼には、眼に見えるはずの無い彼女達の『絆』が確かに映ったような気がした。殺し、殺され、見捨てることすら当たり前でも、自分達の言葉だけの『絆』とは違う。

 互いの命すら軽口で預けられる存在、ただ一つの目的に向かうためなら互いを斬り捨てられる覚悟を共有した存在。そう、この境地を言葉にするのならば――『一心同体』。

 今の自分達とはもっともかけ離れたその強き姿に、気が付けば一夏は見惚れていた。

 自分にも、いつか現れるのだろうか? ――そんな、強さを共有できる存在が。

 

「……必要、ないな」

 

 細く、それでいて芯の通った声が、否定した。

 

「貴様らが……殺し合う必要なんざ……ない」

 

 ふらりと、伸ばされた鈴の手を振りほどいて、足を引きずりながら紺の鎧が否定した。

 

「オレが貴様らを仕置きしてやる……」

 

 腕に、金色のエネルギーを纏いながら、朴月姫燐は――

 

「ここから……帰ったらなァ!」

 

『朴月姫燐』を、否定した。

 

「……は?」

「帰った……ら?」

 

 一夏達は訳が分からなかった。どこへ帰るのだ、姫燐とコイツ等は初対面だろうが、あの重症極まりないガチレズがこんな所で発揮されてしまったのだろうか。ありとあらゆる疑念と困惑が脳内を渦巻いていく。

 そんな彼女の言葉に、同じように疑念と困惑を同じ様に抱きながらも、もう一つ――驚愕の感情を隠しきれない一団が居た。

 

「今……なん……て……?」

「……そんな、バカ、な」

 

 撃龍氷が手に持った両剣を落とし、ハイロゥ・カゲロウの身体に震えが走る。

 忘れるはずもない。忘れられる訳が無い。戦場でミスを犯す度に、幾度となく交わされたこのやりとりを、ピースが欠けてしまい二度と完成することのない筈の言葉遊びを。

 そして、欠けていた永遠に戻らぬはずのピースの名を――撃龍氷は、口にした。

 

 

「キルスティン……隊長?」



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第17話「I AM…ALL OF ME…(前篇)」

――キルスティン。

 

 敵は、オレのことをそう呼んだんだ。声を震わせて、武器まで落として、まるで古い知り合いが枕元にでも立っていたかのように……その頬から涙まで流しやがった。

 これは間違いなく――チャンスだ。今なら、猛毒で一機は確実に仕留められる。

 だから、跳び立て、早く。

 あと少しでいい、動け、この身体。

 保て、奴らを砕け、シャドウ・ストライダー。

 

「なん……で、貴方が、そんな所に居るの……?」

 

 敵が、こちらに問いかける。

 元々だったが、アイツらは本格的に狂ってしまったんじゃないだろうか。

そもそもオレは、そんな名前じゃないのだから絶対に、狂っているのはアイツらだ。

 

「ひ、人が悪いでござるよ隊長? な、なぜ黙ってるのでござる? もしや、さっきの腹パン怒ってるでござるか?」

「……謝る。謝る……から、許してくれるなら、何でもっ、するから……」

「そ、そうでござる! 拙者も、なんでも、なんでもするでござるから……拙者たち……拙者達でごさるよ! キルスティン隊長ッ!!?」

 

 喧しく隙だらけに雑音を喚き散らす敵共に、頬がつり上がる。

 どうやら、どうしても冥土に答えを持って逝きたいらしい。

 いいぜ、だったら答えてやる。オレがいったい『何者』なのかを。

 オレはお前らの敵。

 オレはIS学園の生徒。

 オレは一年一組。

 オレは一六歳。

 オレはシャドウ・ストライダーのパイロット。

 オレは朴月姫燐。

 そしてオレは――そうオレは、いつだって、どこでも、どんな日でも、この殺意と闘志と痛みも全て、オレはどんな朴月姫燐だろうと、オレは――

 

 

 第一七話「I AM…ALL OF ME…」

 

 

 そう呟き、大地を蹴って、眼前の敵を捉え、朴月姫燐は吼える。

 

「モード・デッドエンドォォォォォ!!!」

 

 装甲が展開され、空気抵抗を減らすような丸みを帯びたボディから一変し、全身から刺々しい針が飛び出し、変色したエネルギーが紫電となって周囲にまき散らされる。

 

「ッ、隊長ッ!?」

 

 撃龍氷に伸ばされた死神の右手。だが、戸惑いを隠しきれずとも、その身体に沁みついた反射的動作は、その一撃を紙一重で回避する。

 

「チィィィ!」

『止めて下さい隊長! 私達です! リューン・セプリティスと、トーチ・セプリティスです! 貴方の部下ですよッ!!?』

 

 爪で引き裂く様に右腕を振り回す姫燐の攻撃を避け続けながらも、ござるござるな日本語ではなく、饒舌な外国語でリューンは必死に彼女へと言葉を投げかけづつける。

 

「黙れっ、黙れっ、黙りやがれ……」

 

 姫燐に意味は通じていない。奴らが何を言っているのか分からない。

 だが、その懇願するような声色が、悲壮に歪んだ口元が、そして、

 

『キルスティン隊長ッ!』

「黙れってんだろうがァァ!!!」

 

 ほざくその、キルスティンという名前が、何よりも彼女の頭と理性をどうしようもないまでに、グシャグシャのミキサーに掻き乱していく。

 荒々しく、暴力的で、酷く見苦しい、自棄のような攻撃が続く。それは今までの湖水のように透き通りながらも、猛毒のように容赦なく敵を仕留める残酷でありながらも美しさすら孕む殺意を持っていた少女の攻撃とは思えないほどに、幼稚で不格好。

 その姿はまるで、悪夢から逃げ出そうと足掻く子供そのものだった。

 

「全てオレはッ! オレが全てなんだよォォォォ!」

『しまっ!?』

 

 彼女の重症具合から下手に反撃することを躊躇い、そして一度離れてしまえばそのまま霞と消えてしまうのではないかという疑念から、空に逃げるという選択肢を捨てたリューン。その代償として無茶な回避を連続で強いられた結果、足をもつれさせ回避不可能な一撃がリューンの顔面に襲いかかる。

 だが、その手が撃龍氷を永遠に黙らせることは無かった。

 

「ダメッ……。隊長……ダメッ……!」

「ぐっ、テメ、離せ、離しやがれぇッ!」

 

 背後から接近していたハイロゥ・カゲロウの巨大な指が、姫燐の腕を摘んで止めたのだ。デッドエンドの光には触れぬよう、しっかりと位置まで計算した凄まじき精密さだ。

 尻餅をつくような形で、リューンはトーチの指を蹴り上げて脱出しようとするシャドウ・ストライダーを見上げる。

 

『本当に……隊長では、ないのですか……?』

 

 狂戦士。そうとしか呼びようのない目の前の少女。

 隊長はいつ、如何なる時でも冷静さを失わなかった。どんな時でも、客観的に、冷徹に、的確に自分達を導き続けていた。

 だが、この少女は今、我を忘れて無謀と呼ぶことすら憚られる特攻を仕掛けてきている。

 そもそも、まずあの掛け合いそのものが、偶然の産物だったのではないか? たまたま返した合いの手が、たまたま一致してしまっただけではないのか? 

 確かめなくてはならない、これだけは、絶対に。

 賭けるチップは、我が命。そして十中八九は支払わなくてはならないほどに分は悪いが――それでも躊躇いなど生まれよう筈が無い。

 

「ストップ……」

「え……?」

 

 理由は単純だ。あの人が居ない世界にも、あの人を否定する組織にも、あの人の世界に居られない自分自身にも――

 

「その指、離していいでござるよ、トーチちゃん」

 

 等しく、価値などありはしないのだから……。

 

「ッ!?」

「はぁ……!?」

 

 その声にトーチだけでなく、足にエネルギーを溜め、ハイロゥ・カゲロウを蹴り飛ばす準備をしていた姫燐の動きまで止まる。

 躊躇いがちに、ゆっくりと解放された自分の腕を迷わずリューンに突き付け、息を切らしながらも、眼光は敵影を真っ直ぐに射抜いていく。

 

「どういう……つもりだ、テメェ……?」

「なに、このままでは埒が明かないでござるからな。ちょっと、腹を割って話そうかと」

「ハッ……そんな物騒なモン、身に纏っときながらか……?」

「そうでござるな、これはこれは失礼を」

 

 そう言うと撃龍氷は首元に手をやり――その世界最強の鎧を光の粒子とかき消した。

 残ったのは、姫燐達よりも少し年上に見える、銀色のISスーツを纏い、灰色がかった青い長髪を風になびかせる、瞳を薄らと閉じた少女の姿。

 

「な、に……?」

「これで赤裸々でござるな。キャッ」

 

 ワザとらしく頬に手を当てて、イヤンイヤンとその無防備極まりない身体をくねらせるリューン。

 今ならヴェノム・サンシャインなど必要ない。ただ全力で殴り飛ばすだけで、簡単に行動不能にまで追い込めるだろう。

 彼女はいったい、何を考えている? この場に居る全員が、彼女の奇行に釘付けとなって動けない。

 

「さてと、それじゃあ話そうでござるか。腹を割って」

「…………チッ」

 

 姫燐には、意図がどうしても掴めなかった。

 本格的にトチ狂ったわけでもない、寧ろ先程までに比べて段違いに理性的な姿を晒す敵。罠を仕掛けてる可能性が高い。警戒の糸を極限まで張り詰め、姫燐は尋ねる。

 

「何が……聴きたいってんだ」

「んー、聴きたい、というより、どうしてもお願いしたいことがあるんでござるよ、お主に」

「お願い……だ?」

「ま、その前に少し昔話をしていいでござるか?」

 

 リューンは豊満な胸に手をやって、語り始めた。

 安らかで穏やかな、まるで愛おしい人へ、語りかけるような口調で。

 

「拙者、実は親が居ないんでござる。死別した、とかそんなのではなくて遺伝子強化試験体、いわゆる試験管ベイビーという奴なんでござるよ。実は拙者」

 

 その事実にトーチの眼が見開く。

 相棒と呼べる彼女をしても、初めて聞く事実だったのだろう。

 

「玩具は兵器、親は教官、子守唄は軍歌……兵器のパーツとして生まれた拙者は、明くる日も明くる日も、ずーっと戦争のやり方ばっかり学んで来たんでござる」

 

 別段、おかしい事だと姫燐は思わなかった。

 優秀な遺伝子を使い、余計な情報を頭に入れず、完璧なる兵士を生みだすプロジェクト。

 フィクションなんかでよくある、手垢の付きまくったSF計画だ。そして今のノンフィクションはSF染みた超兵器が当然のように空を飛び、この身体を包む世界。多少のフィクションが現実だろうと、今更驚きはしない。

 

「別に苦に思ったことは一度も無かったでござるし、順風満帆でござった。こう見えても昔の部隊じゃナンバー2だったんでござるよ? ……そう、どっかの天才がISなんてフザけた兵器を作って、軍に正式に採用され」

 

 ゆっくりと開かれるリューンの両目が、

 

「こんなクソッたれな眼を、植え付けられるまでは」

 

 変色した黒い眼球の中で、満月のように金色に輝いていた。

 

「凄いんでござるよ、コレ。名前は……忘れたでござるが、なんと眼球を取りかえるだけでISの適合率が跳ね上がるって一品なのでござる。わーぉ、お手軽」

「……悪趣味な連中も、居たもんだな」

「ホント、ただでさえISが来た直後に突貫で作ったような技術で成功と失敗を繰り返してたでござるのに、『元から適合率が高い人間に、二つ移植したらどうなるか?』、『限界まで適合率が上昇させればどうなるのか?』なんて、ガキみたいな好奇心のせいで――拙者は、地獄を見せられた」

「失敗……したのか?」

「いや、その反対でござる。結果は大成功……そう、成功したんでござるよ、完璧な結果で」

 

 彼女の身体は、新たな二つの眼球を受け入れ、その適合率はもばや計器で測定できるようなモノではなくなった。かの織斑千冬すら上回りかねない、人とISの完全なる同化――それが生み出した結果は、華やかさとはかけ離れた無残に塗れたモノだった。

 

「科学者って連中は、どーしてこう頭が良いように見えて悪いんでござろうね。少し冷静に考えれば人間と機械が完璧に一つになるなんて……出来るはずが、ないでござるのに」

「……おい、まさか」

「そ、お察しの通り。一つになった拙者は見事に食べられちゃったでござるよ。ISに、五感の全てを」

 

 余りにも機械に近付き過ぎた代償は、彼女を司る五感を奪うという、もっとも残酷で最悪な形で支払われた。

 

「不用品、と思われたんでござろうな。どの機能も、ISなら全て元から、いやもっと完璧な能力を供えているでござるから、劣化品が削除されるのは当然でござるよ」

 

 この場でISを纏う全員の背筋が、凍りついた。

 己が半身だと思っていた、力の象徴だと思っていた、ようやく巡り合えた相棒だと思っていた、ただの兵器であり道具だと思っていた。それがこうも、適合しすぎたという理由だけで、己の全てすら奪いかねないのかと。

 

「当然、訓練なんて出来る筈もなかったでござる。下手をすれば、ISのコアごと暴走する危険物を訓練になんか参加させれる筈も無し、かといって他の事すら何も出来なくなって、何も感じられなくなってしまった兵士に、いや人間に――価値なんか、無い」

 

 想像を遥かに上回っていた残酷な過去に、ただ無言になる姫燐へ、ふっとリューンは微笑みかけ、続けた。

 

「まま、今はちょいと工夫してISに五感全て……とまでは行かなかったでござるが、大分補わせているでござるし、それにこっからが良い話なんでござるよ」

「良い……話だと?」

「そそ、何も感じられない本当の地獄の中で拙者は、『あの人』と出会えたんでござる」

 

 また、姫燐の心臓が、腐食されるような痛みと共に跳ね上がった。

 

「あの人は、この眼の情報を求めて廃棄された拙者を回収しに来て、そして――もう一度、拙者に全てを与えてくれた」

 

 無の世界。何も見えず、何も味わえず、何も感じず、何も嗅げず、何も聞こえない。心すら摩耗させ消し去ってしまう、本当の無。

 時間すら意味を成さないそんな世界で、渇き朽ちて逝く心の中で、まだリューンという名すら無かった命が終わるその刹那……全てに、出会えたのだ。

 

「相互意識干渉……知ってるでござるか?」

「ああ……IS同士の情報交換ネットワークが起こす……特殊な意識干渉……あれを起こしたってのか……」

「そう……あの人にとっては、ただ情報収集のためだったみたいでござるけど」

 

 ISは元々、外宇宙活動用として開発されていたが故に、独自のデータ交換ネットワークシステムを備えている。つまりIS同士は意識せずとも常に繋がっており、そうしてほどほどに一体化したISの操縦者同士の波長が合うことによって発現するのが『相互意識干渉』と呼ばれる現象である。

 相互意識干渉に成功した操縦者は、会話や意志の疎通が可能となる。

 全て潜在意識の下――即ち、五感など関係のない精神の世界で。

 

「それでも、拙者は……拙者は声を聴くだけで、誰かに呼ばれるだけで、涙が止まらなかった。生きているんだと、この世界にちゃんと居るんだと、拙者はっ……独りぼっちじゃないとっ、あの人が、全部教えてくれた! だからっ!!」

 

 黒い瞳から、とめどなく溢れる涙。

 

「この世界は、拙者の世界は全て、キルスティン隊長が与えて下さった世界! あの方の居ない世界なんかに、意義なぞ欠片もござらんッ!!」

 

 その色は、普通の人間と変わらず、透明だった。

 

「……ふ、ふふっ、拙者としたことが、少し、熱くなっちゃったでござるな……不覚、不覚」

 

 指で、その眼から流れる涙を拭きとり……真っ直ぐに、力強い眼で姫燐を見つめる。

 

「さ、長々と昔話をしてしまったでござるが……こっからが、お願いでござるよ」

 

 姫燐の肩が、荒い呼吸と共に揺れる。

 そのダメージは、明らかに怪我から来るモノだけでは無い。

 

「このお願いを聞いてくれるならば、拙者はお主の言うことに従う。尋問するなり拷問するなり凌辱するなり、好きにすればいいでござるよ。だから」

「リューン……!」

 

 長年連れ添った相棒を手で制して、リューンは確かな足取りでシャドウ・ストライダーに歩み寄っていく。

 一歩、一歩と近付くにつれて、縄張りに入られた獣のように、姫燐の息は乱れ荒れていくが、優雅さすら覚える足取りで彼女はシャドウ・ストライダーの手が届く距離まで近づいて、

 

「お願いでござる。その仮面を、取っていただけないでござるか?」

 

 割れた仮面から半分だけ覗いていた姫燐の瞳が、大きく揺れた。

 

「一度だけ、お顔を見せて欲しいのでござる。もし別人なら、こんな世界に未練なんぞ無いでござるし、後はご自由にして貰っても構わないでござる。でも……もし、もしお主があの人ならば……キルスティン隊長が、生きているのならば拙者は」

 

「きっともう一度、この世界を愛しながら死ねると思うでござるから」

 

 綺麗な、頬笑みだった。本当に、この場にいる全てが愛おしくて、愛おしくて、堪らないのではないのかと錯覚し――いや、本当に彼女にとっては、感じる全てが、あの女が与えた世界全てが、愛おしくて堪らないのだ。

 

「……ああ、いいぜ」

 

 至福に満たされたリューンの表情とは、余りにも対象的な無表情の仮面と、その奥に更なる無表情を貼り付けた少女が答える。

 決して情に流された訳ではない。単純な損得勘定で、今の姫燐は動いていた。

 この仮面を外すだけで、敵の一体を完全に無力化できる。恐らく嘘では無い、仮に嘘だったとしても、こんなことをするメリットが一切ない。

 しかも少しキャラは濃いが美少女が一人、自分の言うことを何でも聞いてくれるというのだ。朴月姫燐としてこれほど願ったり叶ったりな状況などありはしない。

 反するこちらのデメリットは皆無。

 それに朴月姫燐は、違うのだ。決して朴月姫燐以外の何者でもないのだ。

 だから、迷う必要なんてない。戸惑う必要なんてない。恐れる必要なんて、ないんだ。

 姫燐は右手で、シャドウ・ストライダーのロックを解除し、仮面を脱ぎ捨てた。

 汗が光の玉になって飛び、久方ぶりに外気に触れた赤い髪が、ふわりと風に撫でられる。

 

――ああ、とても清々しい気分だ。

 

 思わず、笑顔が浮かんでしまった。まだ戦闘は終わってないというのに。

でもまぁ、構わないさ、朴月姫燐は笑顔がチャーミングな女の子なのだから。

 人間の第一印象は最初の四秒で決まるという。なら、これからお世話になる可能性が高い相手に悪印象を持たれるのは少々バッドだ。

 ――には、悪い事をしてしまった気がする。勘違いからとは言え、お前をこれほど慕ってたこの娘はもうオレのモノ。部屋に帰ったら何をしようか。

 いや、その前にほら、酷く驚いた表情を浮かべているあの娘に、挨拶をしなければ。

 こうやって、軽く手を上げて、

 

「……あ、あぁ……貴方は……本当に……本当にッ……」

 

 また涙を流した泣き虫さんの頭に、その手を優しく、

 

「キルスティン、隊長ッ……!」

 

 振りおろして殺せ。

 



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第18話「I AM…ALL OF ME…(中篇)」

 その部屋を、常識的な感性を用いて一言で表現するとすれば、こうだ。

 

『ファンタジーとSFを何も考えずにごちゃ混ぜした空間』

 

 まるで不思議の国のお茶会のような、ゴシックな机とテーブル、そして真っ白なティーカップ。辺りには生い茂る木々や、耕された畑から生える巨大なニンジン、サイケな色合いをした花が咲き誇っており、その周辺には鮮やかな色合いの蝶が飛ぶ。

 まさに絵本の世界が、そのまま現実へ出てきたようなワンダーランドだ……そう、その全てが鋼鉄で出来ていなければ。

 鋼の蝶からは時たま駆動音が鳴り、花や植物からは所々ボルトが露出し、電飾の輝きを葉や花弁から放出している。

 洋風の家具にもスイッチや謎のレバーが大量に備え付けられており、ティーカップの取っ手にすら指圧で機器を操作するコントローラーがついており、家具が放つ荘厳な雰囲気を須らく、異質で理解不能な混沌へと仕立てあげていた。

 メルヘンで機械的、そんな交わる訳が無いコンセプトに真っ向から勝負して、勝敗など知った事かと言わんばかりに存在する前衛的で荒唐無稽で理解不能なコーディネート。

 そして、そんな部屋の主はやはり、青いエプロンドレスを近代的に改修したような服装に、ウサミミのようなヘッドセットを紫の長髪へ乗せた、彼女にしか理解できないし、しなくても構わない独特なセンスをしていた。

 

「んっふんふ~♪」

 

 鼻歌交じりに椅子に座る彼女は、ティーカップ型コントローラーの中に入れられた紅茶を飲みながら、テーブルの上に浮遊するスクリーンに映し出されたあるシーンを何度も見返しながら愉悦に浸る。

 

『そ、こ、だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!』

「うーん、何度見直してもかっくいーよ! いっくーん!」

 

 迫る光弾をISの加護を殆ど受けず、空中で斬り捨てる。

 神技と呼ぶに充分値するその芸当を、ISを動かし始めて一ヶ月もしない人間がやってのけた。これがもし、全国的に公開されている試合であったなら今頃、『彼は間違いなく、あの織斑千冬に匹敵する人材である』と世界中のマスコミが褒めちぎったであろう。

 無論、彼女もまた、わざわざ雑草共が騒ぎ立てずとも、そう信じて止まない一人だ。

 

「いやぁ、ほんっと凄いよーいっくん! 流石はちーちゃんの弟! よっ、世界一!」

 

 身体中から湧き上がる興奮を隠そうともせず、彼女はカップを振り回しながら歓喜する。

 自分が作った白式にはコンソールには表示されない、普通のシールドを更に上回る鉄壁の電子防御壁をこっそり搭載させてある。機体とは完全に独立した機能によって発動するよう作ったその防御壁は、もし万が一、彼が命の危機に晒されたばあい即座に発動し、どのようなダメージからも搭乗者を護るのだが、まさかこの機能を使わずにあの死線を潜り抜けてしまうとは。

 完全に彼の成長を見誤っていた、天才の計算間違い。

 だが、ここまで嬉しい誤算など他にあろうものか。

 

「束さん、ますますいっくんに惚れ直しちゃったよー♪ あーいラーブゆー!」

 

 画面に向かって惚気顔で届かない投げキッスを送っていた彼女――篠ノ之束のとろけ切った天使のような目付きが、

 

『モード・デッドエンド――』

 

 無慈悲な邪鬼の形相へと変貌した。

 

『ヴェノム・サンシャイン……!』

「……生意気、だね。その機能」

 

 無理やり固定された画面から、激しい紫色の光が迸る。

 あの機体は、彼女が手掛けた機体の中でも攻撃力と、特に防御力に特化させた機体だ。

 強固で堅牢なボディとシールド、そして中に人間が入らないことを前提にした構造は、通常兵器はもちろんビーム兵器だろうとビクともせず、至近距離で起きた大爆発にすら完璧に耐えてのける。故に、『そんな装甲すら無視できる刃』を使わなければ絶対に撃墜できない――はずだった。

 

「まさか、こんなワンオフ・アビリティーを発現する子が居るだなんて、ね」

 

 PICの破壊――ISという兵器のほぼ全てを担っていると言っても過言ではないこの機能を破壊するということは、まさに鳥から翼をもぎ取ることに等しく、故に自分の子供達に最高の自負を置く親鳥にとって、それは最高に不快極まりない猛毒。

 

「………………」

 

 眉間にシワを寄せ、手前に大量に出現させた一回り小さなディスプレイを、ティーカップのコントローラー一つで弄っていく。

 大量の画面に踊るのは、まさに摩訶不思議な記号の羅列。常に変動を続け、常人には何を意味しているのか一切分からない情報の大波。

 こんな中から必要な情報のみを抜き出すことなど、それこそ魔法のランプや魔女の魔法を借りなくては出来る筈もなく、

 

「よっし、クラッキング完了♪ さっすが私」

 

 それをこんなメルヘンなデザインのコントローラー一つで出来てしまうからこそ、篠ノ之束は天才なのだ。

 

「ふーん、名前はシャドウ・ストライダー……センス無い機体と名前だなぁ」

 

 ディスプレイに映し出された、全身に装甲を纏った紺色のIS。

 ワンオフ・アビリティーはISのコアが発現する能力なため、機体自体には特別目新しい技術は無い所か、PICを殆ど使用せず、原始的なロケット噴射で飛行するこれがなぜISである必要があるのか、天才である彼女ですら理解不能だった。

 

「んで、こっちが乗ってる雑草と……って、コイツ」

 

 朴月姫燐。

 ディスプレイが表示したその名前に、カップを持つ指に力が篭った。

 

「いつもいつも、いっくんをたぶらかしてる害虫じゃないか……」

 

――次は、貴様だ。

 あの腹が立つほどの無表情が、束の脳裏にチラつく。

 

「ふーん、そうなんだ、あくまで束さんの邪魔をするんだぁ」

 

 よし、潰そう。

 害虫に殺虫スプレーをぶっかけることを迷う人間なんて居ない様に、なんの躊躇いもなく天災の脳は決断を下した。

 今までは、一夏の幸せそうな顔を見せてくれる代わりに見逃してやっていたが、ここ最近はずっと彼の顔を曇らせたままだ。蜜を出さない蜂など、ただ鬱陶しい羽虫でしかない。

 さて、どのように潰そうか。出来るだけ苦しんで、無様にのた打ち回りながらくたばってもらえれば面白いのだがと、更なる情報を求めて画面をスライドさせていき、

 

「……んんっ?」

 

 両親の記述のところで、束の指が止まった。

 

「ISの……新エネルギー……?」

 

 コイツの父親は、ISを動かせる新たなエネルギーについて研究を進めているという。

 有象無象にしてはなかなか面白い着眼点をしていると、束は素直に感心した。

 これは束も、己が生み出したISという存在に置いて未だ納得がいっていない部分の一つでもある。どうしても白式のワンオフ・アビリティー『零落白夜』はエネルギーの消耗が激し過ぎるし、何より自分が理想とするISの姿は外部からの補給すら必要としない絶対無敵で無欠の存在だ。

 もし、それに近付くためのインスピレーションになるならばと、いつでも潰せる害虫のことなど一瞬で頭から消え、さっそくこの新エネルギーについての情報を集めようとした所で――畑に突き刺さっていた巨大なメカニンジンが、白い煙を噴き出しながら傘を開くように開いた。

 

「あ、おっつかれー♪」

 

 その中から現れた人影が、ゆっくりと彼女の方へ歩き出そうとして――四つん這いになり思いっきり胃の中身を吐き出した。

 

「うわわーお、大丈夫!?」

 

 束はすぐさま手元のスイッチを押し、清掃用のロボットを呼びだす。

 すると床から穴があき、大人の腰ほどの大きさをした、ウサミミを生やしたポッドのような機械がせり上がって、手際良く床をクリーニングしていく。

 

「やっぱり、遠隔操作とはいえ初めてのIS操縦は堪えちゃったのかな?」

 

 まだ真っ青な顔で口元を押さえたまま首を横にふると、もう一つの手で再生したままだったディスプレイに写るシャドウ・ストライダーを指さす。

 

『モード……カーテンコール』

 

 その瞬間、画面の映像が、余りのスピードに溶け始め――ブッと音を立てて、真っ黒に沈黙した。

 

「なるほどぅ、いくら遠隔操作でも全身をバラバラにされるのはちょっとキツかったかー」

 

 エグいことするよねー。と、立ち上がり、死にそうな小声で文句を飛ばすその背中をさすりながら束は笑う。

 

「確かに他の雑草も沸いたから操作をAIに切り替えたけど、少しでもISに慣れるために感覚だけは繋げといた方がいいかなーって……メンゴメンゴ! 分かってる、次からは危なくなったら感覚切れるようにしとくから、そんな怖い顔しないで仲良くしようよー♪ だって、私たちは――」

 

 スマイルスマイルと言いながら、この世界を作り変えた女――篠ノ之束は天使のような微笑みを浮かべて、

 

「同じ『答え』を求める、たった二人の協力者同士なんだもん♪」  

 

 己の協力者へ、まったく謝っているように見えない謝辞を送った。

 

 

 第18話「I AM…ALL OF ME…(中篇)」   

 

 

「……う……」

 

 手を振り上げたまま、瞳孔を震わせて、姫燐は呟いた。

 

「違……う……違う……」

 

――信じられない、信じたくない。

 今、自分は何をしかけた? いま、この手は何処へ下ろされようとした? イマ、どうすればいいと思ってしまった? 今、確かに、自分は、無抵抗の人まで、殺そうと――

 

「絶対……違う――違う違う違う違うちがうちがうちがうチガウチガァァァァァァァウゥゥッ!」

「隊長ッ!?」

 

 膝を付き、頭を抱え、声が掠れても、少女は繰り返す。

 赤い髪を潰すように握る。砕けそうなほど歯を食いしばる。鳴り止まない鼻から血が流れる。整った顔立ちが見る影もないほどに強張る。過剰分泌された涎が口元から滴る。

 それでも、少女は繰り返す。

 

「違う違うチガウ俺はおれはオレハ朴月姫燐でずっとそうでずっとずっとオレはァぁぁぁぁぁ!!!」

 

 違うのだと、絶対に『そう』じゃないんだと、否定だけを繰り返す。

 この場に居る誰にも、本人すらマトモに理解できない拒絶の言葉を吐き出し続ける。

 だが、同時に皆が皆、理解できた事もあった。

 そう――このままでは、例え何者であっても『彼女は』間違いなく壊れてしまうだろう、と。

 

「……クッ!」

「がふっ!?」

 

 姫燐の背後から、ハイロゥ・カゲロウの巨壁と読んでも刺し違えない手の平が強く押し付けられ、同時に手の甲に輝く青いクリスタルが輝きを放つ。

 

「トーチちゃん!?」

「トロ火! 加減はしくじらない!」

 

 本人の宣言通り、ハイロゥ・カゲロウの指先にロウソクほどの僅かな炎が出現し、本当にエネルギーが残り僅かであったシャドウ・ストライダーの絶対防御を発動させる。

 チリチリと青い炎が、電子の壁と反発しあい、小さな火花を散らす。

 手を離すのが速過ぎても、遅すぎても、そして火加減を誤っても、無傷でISを剥がすことなど出来はしない。

 神経と、経験と、直感を限界まで酷使して炎を制御する。

 

「ギッ、テメェぁ!」

「……ッァ!」

 

 シャドウ・ストライダーの反撃が背後に振り抜かれるのと、ハイロゥ・カゲロウが手を離したのは、ほぼ同時。鋼と鋼が僅かに擦れ合い、火花が散る。

 だが、まだだ、まだ届く。

 バックステップで退避する敵の巨大な腕を掴もうとして伸ばしたシャドウ・ストライダーが、光の粒子となって掻き消えた。

 

「あ……あぁ……?」

「リューンッ!」

「Ja(ヤー)!」

 

 すぐさまリューンは、ISスーツの胸元から取り出した一本の注射器を、無防備になったその首元に突き刺し、中の液体を注入する。

 

「なっ、お前ら!」

「案ずるな、ただの鎮静剤でござる!」

「ぁ……う……」

 

 リューンの言葉通り、錯乱し強張っていた表情はすぐさまトロンと寝起きのように緩みだし、目蓋をゆっくりと閉じながら、

 

「おっと!」

 

 ポスン、と糸が千切れた人形のようにリューンの胸元に倒れ込んだ。

 そのまま彼女は高熱を放つその身体をゆっくりと地面に寝かしつけ、安堵の溜め息がこぼれかけ――すぐに飲み込まされる。

 

「こ、こんな状態で今まで……!?」

 

 彼女が着こんでいた制服の純白の右袖が、深紅に染まり始める。

 熱と衝撃で歪んだフレームが、腕に突き刺さっていたのだろう。今までISを纏っていたため必然的に栓となっていた破片は、エネルギー切れと共に消滅し、傷口が開いて血が噴き出し始めたのだ。

 恐らく、少し動くだけでも傷口を抉られ、激痛が走り続けたはずである。だというのに、よりにもよって戦闘行動を続けるなどと……いったいこの華奢な身体のどこから、これほどまでの執念を生みだしたのか……

 

「リューン!」

「っ!」

 

 固まっていた思考が、相棒の一括で引き戻される。

 戦慄なんてしている場合ではない。そんな事をしている間にも、彼女は荒い息を繰り返しながらも、見る見るうちに弱々しくなっていく、命が燃え落ちていく。

 裂傷の緊急措置の手順を再確認。必要なプロセスと道具を再確認――ダメだ、足りない。

 道具も、人手も、自分達だけでは、彼女の命を救えない。

 

「誰でもいいッ! こっちに来てくれでござる!」

「ッ、あ……あぁ、分かった!」

 

 今まで、夢幻の世界に放り込まれていたようだった一夏の足に、ようやく力が戻る。

 言われるがままに敵の懐へ駆けつけるその背中に、鈴の言葉が突き刺さった。

 

「まっ、一夏!? アイツらは、一夏を殺そうとして!」

「それが、どうした!?」

「そうですわ!」

「なっ、アンタまで!? ああ、もうっ!」

 

 同じ様に、横で茫然としていたセシリアも鈴の横を飛び去り、鈴もまた放っておけずに二人を追う。

 客観的に見ずとも、バカを極めたような行動だ。先程まで、明確な殺意を持ってこちらの命を狙って来た相手の言うことを聞いて、ホイホイと近寄ろうと言うのだ。近付いた瞬間、その首を刎ねられてもなんらおかしくは無いというのに。

 それでも、それを理解していようとも、織斑一夏は、セシリア・オルコットは止まらない。裏切りが待ちかまえていようとも、この道が破滅への片道切符だとしても、

 

――俺にとって!

――わたくしにとっては!

 

 彼女がこのまま死んでしまうことの方が、殺されるよりもずっと耐えがたいのだから。

 

「ま、まさか、こうもアッサリ……」

「……理解。できない」

 

 彼等の無警戒ぶりに驚いたのは、なにも鈴だけではない。

 一悶着どころか、これを好機にと襲撃されることすら覚悟していたリューンとトーチは、肩すかしをくらったかのような表情を浮かべながら顔を見合わせ――次の瞬間、ふっと頬を綻ばせあった。

 

「……どうやら、愛されてるみたいでござるな。朴月姫燐も」

「……うん」

 

 駆け寄って来た三人が屈みこみ、その惨状を目の当たりにする。

 

「姫燐さん……うっ」

 

 愛しい人の、自分を抱きとめてくれた腕から、とめどなく流れる赤い血に思わず込み上げた胃の中身をセシリアは口元に手を当て無理やり押し戻す。

 

「それで、どうすればいい!?」

「まず、そこのええっと……尻ロールのお主!」

「尻ロールッ!?」

 

 パッと見の特徴だけでつけられたあんまりなあだ名に当惑する間もなく、リューンは寝かされた彼女を指さして、

 

「まず、彼女の服を全部脱がすでござる!」

「ええっ……えええっ!!?」

 

 愛しき人の服をひん剥けという背徳感溢れる命令に、一瞬でセシリアの顔がゆで上がる。

 

「傷口の露出と、少しでも布が欲しいのでござる! ISで破いてしまっても構わんでござるから、ズボンごと早くッ!」

「わ、わわ……分かりましたわ! ええ、分かりましたともッ!!」

 

 眼を見開き、新しい境地に向かう開拓者が内側からあふれ出る興奮を無理やり鎮めるように歯の隙間から呼吸を繰り返し、彼女の服をISで破り始めたセシリアに一瞬人選ミスしたかと感じながらも捨て置き、次にリューンは鈴を指さして、

 

「次は、そこの胸が平らなお主!」

「シバくわよ!?」

「これ、ちょっと持っていてくれでござる!」

 

 音速で飛んで来た抗議も無視して、リューンは撃龍氷を腕だけ部分展開し、その手にパイナップルほどの大きさの紅い氷を生成して彼女に手渡し、今度は一夏を呼びよせる。

 

「織斑一夏! こっちへ!」

「あ、ああっ!」

 

 美少女が美少女の服を力づくで破るという、色々と危険な光景から眼を逸らし続けていた一夏がハッとなってリューンへ近付く。そして、ある程度まで彼女に近付いたところで、手の平をストップ! と突き付けられ、

 

「動くなでござるよ!」

「へ、うわぁぁぁ!?」

 

 纏っていたISスーツの上着を、ISの腕で引っ掻くように力技で思いっきり破られた。

 絶妙な力加減でスーツを破られた一夏の筋肉がついた胸元が、白日の下に晒される。

 

「な、なにやってんのよ!? こっここここの変態!!?」

「お主の仲間も大概でござろうが!」

 

 ハァハァ言いながら服を破り取っていく、もっと悪質な現行犯が身内に居る以上、黙るしかない鈴を余所に、破り脱がした一夏のISスーツの両袖を器用に縛り、即席の風呂敷へと作り変えると、

 

「ほい、この中に氷を入れて!」

「ああ……なるほどね!」

 

 ようやく彼女の意図が掴めた鈴が、受け取ったその風呂敷の中へ手早く氷を入れ、

 

「トーチちゃん!」

「……了解。貧乳、上持ってて」

「アンッタも同レベルでしょうがァ!?」

 

 トーチの炎が、ISスーツ越しに中の氷を焙って水へと変えていく。搭乗者を襲うあらゆる危険から守るために作られた、不燃性のISスーツだからこそできる芸当だ。

 

「それが終わったら、もう一個置いておくでござるから砕いて中へ! ……さて、と」

「ハァ……ハァ……そうですわ、これは姫燐さんを助ける為、助ける為、助ける為ですからもっと、もっとその、貴女のありのままを遮る布もはぎときゃいん!」

 

 もう一個、大きめの氷を作り終えたリューンは、彼女の制服を半端に破き、情緒教育に非常によろしくない服装へと作り変えた本人を軽く蹴り飛ばすと、辺りに散らばった残骸を集めていく。

なんだかんだで、ちゃんと傷口は露出させ、しっかり包帯として使えるほど大き目に破り取り、やる事はやっている。欲望と理性を完璧に両立できるあの尻ロールは実は中々の大物ではないのかとリューンは錯覚を覚えながら、

 

「織斑一夏ッ! これで彼女の傷口をしばらく押さえてくれでござる!」

「分かった!」

 

 包帯になった制服の、出来るだけ汚れが少ない切れ端を渡された一夏が、未だに出血が続く傷口を布越しに強く握り止める。

 

(キリ……死ぬな……死なないでくれ……ッ!)

 

 織斑一夏が、彼女と出会ってから過ぎたこの一ヶ月。そう、たった一ヶ月で、織斑一夏は本当に多くのモノを彼女から貰った。

 今まで胸の内にあるんだと感じていたのに、どこか空回りしていた『誰かを護りたい』という夢。それが、彼女と出会い、彼女と考え、彼女と笑い、彼女と離れて――その度に強く、確かな形を得て激しく回り続けるこの夢は、もう止められない衝動となっていた。

 どんな事があっても、なにが立ち塞がっても、どれほど傷ついても、この夢を必ず叶えてみせろと、織斑一夏を突き動かすのだ。

 燃え上がるようなこの想い。胸の炎を灯してくれた協力者を、自分は迷惑をかけ、傷付けて、突き放しただけで――その笑顔を、ずっと曇らせていただけで、

 

(俺はまだ……お前になにも返せちゃいないんだ……! 俺は……俺は……)

 

――お前と、まだまだ一緒に夢を追い続けたいんだ!

 

 そんな一夏の願いを聞き届けたのか、無かったのか、救いの手は現れる――第三アリーナのハッチを吹き飛ばすという、バイオレンスな形で。

 

「皆さん、無事ですかッ!?」

 

 吹き飛んだハッチから、次々と完全武装した量産型のIS「ラファール・リヴァイヴ」と、「打鉄」纏った上級生と教師による救出部隊が、第三アリーナに降り立っていく。

 

「やーっと来たのね……遅いっての」

 

 軽口を叩きながらも、ようやくやって来た増援に鈴の表情には希望と安堵が宿っていた。これで、彼女に本格的な医療措置が施せるはずだ。

 

「怪我人が居ます! 早く! こっちに来てください!」

 

 一夏の懇願に、衛生ユニットを装備したISが二機、即座に飛来して担架を作り出す。

 すぐさま、メディカルチェックに特化させたハイパーセンサーで、バイタルや負傷、出血量を確認し――意外そうに口を開いた。

 

「これは……君がやったの?」

「え、俺っていうより、皆で……」

「見事な緊急処置よ。安心して、これなら大事には至らないわ」

「本当……ですか?」

 

 衛生兵の何よりも頼もしい言葉に、一夏の両目から思わず涙がこぼれかける。それはセシリアも、鈴も同様であった。

 

「よかった……本当に、よかった……」

「ええ……ええ……!」

 

 感極まって喜びを分かち合う一夏とセシリア、鈴もその輪に加わりたかったが、それよりも完成させた即席の氷のうを医療班に渡すのが先だ。

 

「これ、使えますか?」

「これは……氷のう? どうやって、こんなものまで……」

 

 負傷者が居るのは想定内であったが、代表候補生とはいえ一年生の中にまさかここまで応急処置に優れた逸材が居たのかと素直な驚嘆を覚え、鈴に尋ねる。

 

「いったい、誰がここまで教えてくれたの?」

「えっと、それは……」

 

 急に口ごもり始めた鈴の視線が、横に向かう。衛生兵も、その視線を追いかけて――背筋に緊張が走る。

 既に救助した生徒達の証言では、第三アリーナを強襲したISは一機。だが、目の前に居る、既に制圧班に銃を突き付けられながら周り囲まれた人影の姿は――二つ。

 

「ま、こうなるでござるわなぁ。拙者達は」

「……当然。だって侵入者だし」

「黙れ」

 

 制圧班の威嚇射撃が、再びISを展開したリューンとトーチの足元を抉る。

 

「貴様ら……専用機持ちか。見事な物だが、早急にそれを解除して投降しろ。さもなくば……」

 

 リーダーらしき妙年の教師のISの腕が上がると共に、リューン達を取り囲む8機のISが、冷たい砲門を彼女達へと向ける。

 

「こちらとしても、少々乱暴な手段を取らざる得なくなる」

 

 その腕が下ろされれば、一斉に火を吐き鉄の雨を浴びせる凶器に囲まれながらも、二人の表情はこの場所に現れてから今までの中で、見た事も無いほどに清々しく晴々としていた。

 

「うむ、だがこれであの人は助かるでござろう」

「……同意。結果オーライ」

「き、貴様らッ……」

 

 八対二。圧倒的に絶望的で不利な状況であるにも関わらず、自分達のことを一ミリも気に掛けないような侵入者たちの態度に、リーダーの額へ見事な青筋が浮かぶ。

 

「……今後。どうする?」

「当然、本来のプランに変更でござるよ。まだ拙者達は死ねない、死ねなくなってしまったでござる。『どういうこと』かハッキリするまでは、絶対に」

「……だね。愚問だった」

「聴く耳持たず、か……ならばこちらも無視させてもらおう……」

 

 救護班と負傷者、救助対象が、全員確かに安全圏へと離脱したことを最終セーフティと認識し――確認。

 

「貴様らの人権をなッ!」

 

 発砲を許可する、その手を振り下ろした。

 八機のISが手にした銃機のトリガーが引かれ、激音を立てて鋼鉄を吐き出す。

少々荒っぽいやり方にはなってしまったが、元より発砲許可は下りているし、最悪の場合は生死も問われていない。それに相手は未知の専用機を纏っている。後手に回れば、逆にこちらが深手を負う可能性がある以上、加減など出来る筈も無い。

 硝煙と土埃が辺り一帯にまき散らされ、一時的に視界が埋まる。だが、ハイパーセンサーはそのような環境であろうとも、確かにまだ健在な二機の反応を捕らえていた。

 

(くっ、やはりあの程度では落ちないか……)

 

 恐らく、直撃はしなかった。何らかの手段で防御された。

 ならば当然、敵が次に起こすアクションは――ッ!

 

「全機、防御だッ! 来るぞッ!」

 

 言い終えるか終えないかの刹那、煙を突き破って蒼い炎が彼女の眼前に広がった。

 

「くぁぁっ!? こ、これはまさか……火炎放射機ッ!?」

 

 余りにも想定外すぎる反撃に、思わず声が出てしまう。

 火炎放射機――まさか、こんな旧世代の武器を装備したISが存在するとは。

 遥か昔の戦争で、多くの人間を酸欠に陥れ、肉を焼き払って来たその武装は、ISが誕生する前から既に市民権を失いつつあった遺物。技術が発展し、わざわざ重量がある燃料タンクを背負わずとも、焼夷弾やサーモバリック弾などの代用品が軽量化、小型化、高性能化したため役目を奪われ、必然的に衰退の一途を辿っていた武器だ。

 更にISが現代戦の主役となってからは、現代戦では存在意義すら疑われている。

 元より狭い洞窟などに隠れた敵を焼き払う、対歩兵用の武装である火炎放射機は、空中を高速で動きまわり、堅牢な装甲を持ち、なお且つスペック上は大気圏外でも活動できるISにとっては、もし当たったとしてもホウキで軽く表面を撫でられるのとそう変わらない。

 そんな物をISに、しかもわざわざ専用機に搭載する意図がまったく掴めず、ISの専門家とも言えるIS学園教師の彼女は実際のダメージ以上の衝撃を受けてしまう。

 だが、所詮は猫だましと同レベルの小細工。それ以上の効果などありはせず、即座に体制を立てなおし、コアネットワークを通じて一応安否を確認する。

 

『各機、無事かっ!?』

『はい、損傷はありません!』

『よしっ……』

 

 やはり他の機体にもダメージは無かったようだ。

 視界を覆っていた土埃も晴れて、視界は良好。龍のような姿をした紅色のISと、巨大な腕を持つ蒼灰色のISが丸見えとなった。

 

「……仕込。終わったから、あとお願い」

「はーい、喜んでー」

 

 次に、龍のISが背後のユニットから取り出した、丸いポッドを足元に転がし――今度は、視界が深い白煙に覆われた。

 

「ふっ、今度は発煙弾だと?」

 

 コイツ等は素人か。余りにも無知な侵入者共に、彼女の鼻が鳴る。

 土煙よりも濃く深い煙の中であろうと、空間の乱れや大気の流れから脳内に直接相手の位置情報を送り込むハイパーセンサーの前には無関係だ。不意打ちは二度も通用しない、ハイパーセンサーは忠実に敵機が自分の『横』に居るのだと彼女に伝え――

 

「なにぃ!?」

 

 手に持ったアサルトライフルを横へ向けすぐさま発砲した。

 

(バカな、あの一瞬でどうやってその位置へ!?)

 

 当然、センサーに反応は無かった。本当に、始めからそこへ居たかのように出現した敵機に銃撃を浴びせながらも、その脳内で必死に自問自答を繰り返す。

 だが、各機から次々と飛ばされて来る通信がそれすらマトモに許さない。

 

『きゃあッ!? ひ、被弾、被弾しました! 敵が撃って来ています!』

『うわっ!? こ、こいつらどうやって私の横に来た!?』

『くそっ、みんな、敵はこっちから発砲しています! 対処を!』

 

 あちこちから銃声が鳴り響き、一瞬即発の戦場は一気に阿鼻叫喚となった。

 彼女のISにも、相手が発砲してきた銃弾が何発か直撃し、回避のために包囲網を解かざる得なくなる。

 

(どうなっている……なにが、どうなって……ッ!?)

 

 自分を含め、味方八機全てが交戦状態に陥っている現状――気付かぬうちに底なし沼へ足を踏み入れた時のような違和感と危機感が襲う。

 敵のISはたった二機しか居なかったはずだ。だというのに、なぜ全員が全員、敵機と交戦して――

 

「はぁぁぁぁぁ!」

「くっ!」

 

 煙を掻き分け、背後から突撃して来た敵機反応に、彼女も即座にラファール・リヴァイヴに装備された近接戦闘用ブレードを呼びだし、振り向きざまに凶刃を受け止め、もう片方の手に装備したアサルトライフルをゼロ距離で浴びせるためトリガーを握り、

 

「えっ……!?」

「せ、先生!?」

 

 その相手が、自分の生徒だと気付き、ギリギリの所でその指を止めた。

 

「え、ええ、えっ!? な、なんで先生がこの位置に!?」

「それはこちらの台詞よ! ハイパーセンサーは、貴方の方角から敵が来ていると……ッ!!?」

 

 まさか――彼女の脳内に、直感と呼んで差し支えのない最悪の仮説が過る。

 根拠は無い。だが、この理解不能な現実に突き付ける答えとしては、余りにも辻褄が合いすぎていて――

 

『全機、攻撃を中止しろッ! 繰り返す、攻撃中止だッ!』

 

 その一言と共に銃声と、先程から絶えず送られてきた被弾報告が消え――それが、答えだった。

 

「なっ……先生、いったい何が起こって……?」

『敵機は何らかの方法で、我々のハイパーセンサーに細工を施した! 先程からの戦闘は、全て味方同士の――同士討ちだ!』

「う、うそ……私達、ずっと味方同士で……!?」

 

 ならばその間、敵はいったい何をしていたのかと、ようやく晴れてきた視界が……捕らえた。

 

「じゃ、拙者達はこの辺でー」

「……アディオス」

 

 先程の間に回収したのだろう黒い人型の残骸を手にしながら、閉じていくドリルの中でヒラヒラと手を振る敵機の姿を。

 

「う、撃て! 奴らを絶対に逃がすなーッ!」

 

 肉眼のみを頼りとし、八機のISは砲撃をドリルに浴びせていくが、このドリルもシールドを発生させれるのか全弾当たる前に電子の壁に弾かれてしまい、地面へと沈んでいく鋼の螺旋を止めることは出来なかった。

 完全に沈み込み、第三アリーナに巨大な穴だけを残して遠ざかっていく駆動音。

 

「お、追いかけますか!?」

「……ダメ、ダメよ。ハイパーセンサーが故障した私たちがアレを追える訳が無いし、万が一追いつけたとしても……今の私達では勝負にならないわ……つまり」

 

 唇を噛み締め、彼女は認めた。

 

「私達は完敗したのよ……あの侵入者たちに……」




後篇を書いてるつもりでした……つもりだったんですよ! 必死に!
その結果がこれなんですよ!! 後篇が長くなりすぎて、どう考えてもイベントを盛り過ぎで、今はこうして中編なんかにして投稿してる!
これ以上なにをどうすればよかったんです!! 何を削れって言うんですか!!

……はい、一夏の中の人繋がりのネタでしたが、切実な叫びです。
ノンストップで振り切れていたら、気が付けば2万文字を軽く超えていました。
観月さまお許しください、作者はウソつきでは無いのです……間違いをするだけなのです。


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第19話「I AM…ALL OF ME…(後篇)」

 一人で居ることは、こんなにも苦痛だっただろうか。

 数か月前は、むしろ一人じゃない時間のほうが少なかったはずなのに。

 誰も居ない休憩室の窓際に腰掛け、差し込む茜色の空を眺め、そう一夏は思った。

 あの騒動から一時間。細かい状況説明は後日に頼むと千冬に言われ、今はゆっくりと身体を休めろと解放されても、部屋でジッとしている気分には到底なれなかった。

 休憩室の扉の向こう。すぐ近くで、赤く点灯する『治療中』の看板。

 セシリア、鈴、そして姫燐は今、医務室で治療を受けている。

 セシリアと鈴は、目立った外傷もないため念の為といった側面が強いが、一人だけ未だ意識を取り戻さない姫燐の方はそうもいかない。大事には至らないとは言っていたが――それでも、自分だけが無傷であったというこの現実は、織斑一夏にとって受け入れ難い事実。

 

「また……俺はみんなに護られたんだな……」

 

 鈴に護られ、セシリアに助けられ、姫燐に救ってもらい――そして、確かに負ったはずの傷さえ、今はもう跡形もなく消えている。

 人間の治癒能力を遥かに越えたこの力は……おそらく、この腕にはめられた白い愛機からだろう。それ以外に考え付かないし、心当たりもない。

 ISにそんな力があるとは教本にも書いていなかったが、今は嬉しく思い、それ以上に、悔しい。

 独りで行くと決めた筈なのに、誰かに頼らなければ生きていけない弱い自分が、悔しい。

 

「……こんなところで何をしている、バカ者」

「ひゃおぃ!?」

 

 頭を冷やせと言わんばかりに、背後から首筋に缶コーヒーを当てられ、変な声が一夏の喉から沸く。そんな弟の姿に溜め息を漏らしながら、織斑千冬はいつもと変わらぬ鋭い視線を一夏に向けた。

 

「私は、今日はもう休め、と言った筈だがな」

「……ごめん、千冬姉」

 

 織斑先生と呼べ。と、いつもなら返ってくる戒めの言葉は無く、一夏の隣に自分も腰掛けると、手に持っていた缶コーヒーの一つを彼に渡し、彼女ももう一つ買って来ていた別の缶コーヒーのプルを引き、一口あおる。

 

「……余り、気に病むな」

「………………」

 

 姉の口から紡がれる、そんな余りにも、余りにも自分に相応しくない優しい言葉。

 

「鈴音に、未知の無人機と、新手の専用機2機を続けて相手し、死者を一人も出さなかったのだ……充分に、誇るべき戦果だ」

「でもっ! でも、それは……」

 

 千冬にも分かっていた。客観的に見てどれほどの健闘だったとしても、弟は自らが望む結果を残せなかったことに思い悩み、苦しんでいる事は。

 それでも、たった一人の家族にこんなにも辛そうな顔をされて気が気で居られるほど、織斑千冬という人間は冷徹ではなかった。

 

「俺は……強くなりたいよ、千冬姉みたいに、誰にも頼らなくても……誰にも負けないぐらいに」

 

 一夏の顔が俯き、強く握られた缶コーヒーが音を立ててへこむ。

 行くアテがない慟哭と、憤りと、無力感が、涙となってこぼれ落ちていく。

 

「ふっ……そうか」

 

 逆に千冬は、空を仰いでまた、コーヒーを一口飲む。

 軽く口元を釣り上げて、その味の余韻を心から堪能し尽くしたような溜め息をつき、

 

「我が弟ながら恥ずかしいぞ。やはり、お前はどうしようもない唐変木だな、一夏」

「えっ?」

 

 心底意外そうな弟の声が、余計に千冬には可笑しくて堪らない。

 随分長いこと共に暮らして来たが、実の弟はこんな事にすら気付いて無かったのかと。そして私は、こんな事すら気付かせてやれなかったのかと、織斑千冬は自著する。

 

「『支えてくれる人が居てこそ、人は本当に強くなれる』……」

「それって……!」

「ふふっ……『知人』からの受け売りだがな、切実な言葉だ」

 

 織斑一夏が見た、彼女の笑顔が初めて陰ったあの時に呟かれた言葉。

 その言葉の意味を、ずっと支えられていた姉の口から今、織斑一夏は知ろうとしていた。

 

「実はな、私は昨日、ビールを5缶も開けてしまった」

「なっ!?」

「更にそこから、チューハイを2つ、梅酒を3つ、芋1つも空けて、あとは確か……」

「ち……ち……ちーふーゆー姉ッッ!!」

 

 指を折りながら、常人なら急性アルコール中毒になって急速に天に旅立ってもおかしくない昨日の飲酒量を数える姉に、完全に頭が主夫モードに切り替わった一夏の、実戦よりも遥かに強い気迫が乗った剣幕が飛ぶ。

 

「俺と約束したじゃないか!? お酒は一日一缶! 明日が休みの日でも三缶までって!」

「ちゃんと守っていたぞ。だが、昨日はつい」

「つい、で済む問題じゃない! もし千冬姉が倒れでもしたら、みんなどれだけ心配すると……!」

「ああっ、本当にな」

 

 弟から本気で怒られているというのに、千冬は愉快さに身を委ねた態度を崩さない。

 普段の鉄面皮しか知らない人間が見たらあまりの衝撃に泡を吹いて卒倒しかねないほど、今の織斑千冬の表情は幸福に満ち溢れていた。

 

「だから料理も洗濯も掃除もできない千冬姉が一人暮らしだなんて俺は反対だったんだ! ここで立派に教師やってる姿見て、少しはシャンとした生活を送ってるのかと思ったらコレだよ!」

「ふふっ、一夏の言う通りだ。私は……本当に弱い姉だよ」

「全くだ! 本当によわ……い……ぇ?」

 

 まだまだ言わなくてはいけないことが沢山あるはずなのに、その言葉が全て喉に詰まる。

 人類最強の女が、憧れ続けてきた姉が、追い求め続けてきたはずの強さが吐露した――自分が嫌悪する意味を持った言葉にせき止められて。

 

「千冬姉、もしかして、まだ酔ってんの……?」

「バカを言うな。どれだけ酒を飲もうが生まれてこの方、私が無遅刻無欠勤を欠かした事など一度もない」

「で、でも、嘘だよな……? 千冬姉が……俺をずっと護ってくれた自慢の姉さんが、弱い訳ないじゃないか!?」

「いいや、弱いよ。私は」

「嘘だっ!」

 

 認めたくない。認められる訳が無い。

 護りたい人を護れる。誰だって護ることができる。織斑一夏は、そう信じ続けてきたのだ。

 最強で、タフで、無敵の姉へ、一歩ずつでも近付いていけば、いつかは自分だってそんな存在になれると夢見てきたのだ。

 だが、そんな少年の無垢な夢は今……他ならぬ夢そのものによって打ち砕かれようとしている。

 

「だって……だって、千冬姉はモンド・グロッソで優勝したじゃないか! 一度だって負けた事なかったじゃないか!! 俺をいつでも護ってくれたじゃないか!!?」

「だが、そんな織斑千冬も、一〇五円のビール缶には勝てなかった」

「そんなのっ! そんな事がどうしたんだって言うんだよ!」

 

 缶コーヒーを投げ捨て、一夏の両手が千冬の肩を掴む。

 強く、彼がどんなに力を込めても眉一つ動かさない、小さいけれど大きな肩。

 ずっと自分を背負い続けてくれた大きな肩を掴んで、微笑む姉の優しく真っ直ぐな瞳を見て――嘘偽りが一切ない残酷なまでの美しさを見て、一夏の頬から涙がこぼれ落ちた。

 

「ぞんなごと……言わないでくれよ……千冬姉……」

「だがな一夏、織斑千冬は確かに敗北したんだ」

 

 そのまま、少しだけ背を抜かされてしまった弟の背中に両手を回し、抱きしめて、

 

「実は昨日な……私は今日のお前の試合がどうなるか、心配で、心配で、心配で堪らなくて……まったく、寝付けなかったんだよ」

「えっ……?」

 

 今まで誰にも見せなかった、ちっぽけな弱さを、最強はさらけ出した。

 

「明日、お前がしっかりやれるだろうか。お前が大怪我をしないだろうか。お前は笑顔で居られるだろうか。そんな事ばかり考えてたら、眼も頭も冴えてしまって……ビールを空けても、全く眠くならなくてな」

 

 ビールを呑んでも、チューハイを呑んでも、梅酒を呑んでも、余計に強い不安だけが彼女を満たしていき、

 

「気が付けば、潰れるまで飲んでいたよ……お前とした約束まで破ってな」

「千冬……姉……?」

 

 名前を呼んでくれる誰よりも大切な弟を、もっと強く、強く抱きしめて、

 

「私は……織斑千冬は、お前が居ないとこんなにも弱いんだ……誰よりも私を支えてくれる、お前が居ないと……私は……だから」

 

 顔は、見えなかった。

 それでも一夏の制服に、熱い液体が沁み込んだのは、確かに感じた。

 

「よく……無事で居てくれた……よく……」

 

 一夏は、どうすればいいのか分からなかった。

 あの姉を泣かせてしまったのなんて初めてだったし、ずっと追いかけ続けていた夢も、こうしてありのままの現実に触れてしまえば、それは存在しない幻想で、だから織斑一夏は、なにも分からなかった。

 これからどうすればいいのか?

 これからどこへ向かえばいいのか?

 これからなにをすればいいのか?

 なにも、分からなかった。

 けれど――

 

「ん……?」

 

 何かが、外で起こっていることは分かった。

 消えている治療室の赤い光。慌ただしく外を駆け回る複数の足音。

 そして、力強く明け開かれる休憩室の扉。

 

「織斑先生ッ! と、織斑くん、ここに居たんですか!?」

「なにかあったんですか、山田先生?」

 

 真耶が入って来る一瞬の間に人類最強のスピードで、一夏を投げ捨て、スーツの乱れを直し、目元を拭き、ちゃんと缶コーヒーまで回収して、いつもの鉄面皮を再び張りつけ、まるで何事も無かったように凛と佇む千冬が尋ねる。

 

「ああ、あの子がっ、ききっ、き、消えて」

「落ち着いて、ゆっくり、一言ずつ話して下さい」

「ははっ、はいぃぃ!」

 

 大きく只でさえ大きい胸を張り上げて、深呼吸を繰り返し、山田真耶は報告する。

 

「緊急事態です、治療室から、朴月さんが、消えてしまったんですッ!!!」

 

「なっ……!?」

「キリ……が……ッ!?」

 

 彼女が、消えた。

 それだけで、真っ白だった一夏の心に、真っ黒な焦燥がぶちまけられた。

 

「どう言うですかッ!!!」

「ひゃいいい!?」

 

 気が付けば、一夏は真耶の両肩に掴みかかっていた。

 

「いつッ! どこへッ! どうしてッ!?」

「ひゃ、おおっ、織斑くん!?」

「どこへ行ったんですか、アイツはッ! キリはッ!?」

 

 涙目になって動転する真耶のことなど知った事かと、鬼気迫る形相で一夏は彼女へ更に詰め寄ろうとして、

 

「落ち着け、バカ者ッ!」

「がほっ!?」

 

 千冬に引き剥がされ、その頬を思いっきり殴り飛ばされた。

 

「きゃぁぁぁぁ、お、織斑くん!?」

「あのバカの事は構いません、それよりも山田先生ッ!」

「は、はいっ!」

 

 千冬が皆まで言わずとも、詳しい状況を真耶は説明し始めた。

 

「医療スタッフが彼女が居ない事に気付いたのは、ほんの数分ほど前です。腕の大怪我のオペも無事に終わって、あとは彼女の目が覚めるのを待つだけだったんですが……」

「想像を超えた速さで意識を取り戻したんですね……皆が、オペの片づけをしている間に」

「はい……」

 

 驚異的な体力である。手術を受けた以上、麻酔も必ず打ち込まれていたはずなのに、ほんの数分で復帰して歩き回るなど予想できるはずもない。医療スタッフの落ち度と呼ぶには酷であった。

 

「目撃者は!」

「居ません……セシリアさんも凰さんも、既に部屋に戻ってましたから……」

「監視カメラ!」

「あのクラッキングの影響で、ダウンしたままです……第三アリーナのシステム復旧を最優先にしていましたから……」

「くっ!」

 

 全ての偶然が折り重なって生まれた、完璧なノーヒント。

 だが、あれ程の負傷に加え、ISもエネルギー切れ、麻酔まで入っているなら、どれほど時間が経とうともそう遠くへ行ける筈は無い。

 そう判断を下し、千冬は真耶に命令を飛ばす。

 

「まだ遠くへは行っていない筈です! いま動ける職員は皆、朴月を探すよう連絡を! 更識にも同様に!」

 

 最後に、この部屋を今すぐにでも飛び出してしまいそうな弟の方を一瞬だけ見て、

 

「確実に、朴月姫燐を捕らえるように! 最悪の場合は……生死も、問いません!」

「なッ!?」

「ッ! はっ……はい! 分かりました!」

 

 千冬の非情とも言える命令を受けながらも、僅かに戸惑っただけで何も言わず休憩室から飛び出して行く真耶の背中に、一夏の叫びが突き刺さる。

 

「山田先生ッ! おい、なんだよそれ! 待て、待ってくれ!」

 

 彼の呼び掛けに一瞬だけ、足音が止まるが……また、すぐに鳴り出して、あっという間に聞こえなくなっていった。

 

「なんだよ……なんだよ、これ……」

「………………一夏」

「どういうことだよ……これは!?」

 

 立ち上がり、痛む頬すら押さえずに一夏が千冬の前に立ち塞がる。

 先程までとは違う、優しさから来る暖かな怒りではない、失望と裏切りからくる冷たい怒りを宿した激情が、千冬を貫く。

 

「なぁ、千冬姉! なんで、キリが追われなくちゃならないんだ!? それに生死も問わないって……ふざけんなっ! どういうことなんだよ!?」

 

 愛する弟に詰問されようとも、千冬は無表情を一切崩さず、冷たく『あの名前』を言い放つ。

 

「キルスティン」

「そ、それは……!」

「まさか、お前は朴月と今回の侵入者が無関係だ……などと、言うつもりはないだろうな?」

 

 キルスティン。侵入者が彼女に向けて言い放った、朴月姫燐とは違う、知らない名前。

 そしてその名前に、異常なまでの錯乱を見せた彼女の姿を一番間近で見たのは、他の誰でも無い自分達だ。

 

「アイツが今回の主犯組織と繋がっている可能性がある以上、今この学園から逃がす訳にはいかん。たとえ、物言わぬ身体にしてでも、だ」

「な、何だよそれッ! 千冬姉は、キリがスパイだって」

「織斑先生だッ!」

 

 それは、果たして誰に言い聞かせた言葉だったのであろうか。

 強く、そう断言したIS学園の教師――織斑千冬は、これ以上の反論を封殺するように、ナイフよりも鋭利な眼光を瞬かせ、一夏を睨みつける。

 

「私には全世界の保護者から預かった、全校生徒の安全を護る義務がある。そして、その安全を脅かす者には……必ず、然るべき報いを受けさせなくてはならない。それが、私の受け持つクラスの者であるならば尚更だ!」

「そん……な……ッ!」

 

 すぐさま外へ走り出そうとした一夏の肩を、千冬がすかさず掴み取る。

 

「どこへ行くつもりだ」

「離せよっ、俺は行くんだ! キリの所へ!」

「では、行ってどうするつもりだ、貴様は?」

「決まってるだろ! 連れ戻すんだ!」

「ダメだ、お前はここを動くな。私と共にいろ」

 

 無理やり腕を振り解こうと一夏はもがくが、その程度のささやかな抵抗では、織斑千冬はビクともしない。どの口で自分は弱いなどとのたまうのか、余りにも圧倒的すぎる力の差。

 

「離せ、離してくれ千冬姉ッ!」

「一部始終なら私も観ていた! 明らかに今の朴月はマトモな精神状態ではない、お前が行って何になる!?」

「手を引っ張って、連れ戻せるッ!」

「このっ……頭を、冷やせバカ者がぁッ!」

 

 この水掛け論を強制的に終わらせるため、千冬の鉄拳が再び一夏の横頬を殴りつける。

 最強の一撃が頬にめり込む。骨と骨がぶつかり合う。その衝撃で頭に火花が散る。

 だが、歯を食いしばり、足を踏ん張り、眼に折れぬ意志を宿して、

 

「……なっ」

「ぐ、ぎ、ぎッ!」

 

 一夏は、倒れなかった。

 憧れに、痛みに、現実に、青い少年が全霊を賭して踏みとどまった。

 

「俺は……これでも、少しは、強くなれたんだ……」

「いち……か?」

 

 全力では無かったが、本気で殴り飛ばすつもりで放った一撃を、誰よりも見知っているはずの弟に止められ、茫然とする千冬の腕を一夏は握り、僅かだが押し返す。

 拳は本当に僅かしか動かなかったが、この場の均衡は今、確かに大きく揺れ始めていた。

 

「アイツのお陰で……強くなれたんだッ……!」

 

 殴られ切れた口元から血を滲ませながらも、意気地を固めた男の瞳が真っ直ぐ千冬を貫く。

 その奥底に、たった1人の少女の笑顔を映しながら。

 

「アイツは……アイツはいつだって俺を助けてくれたんだ。初めて会った時から、セシリアと戦う時も、白式と出会った時も、俺が酷い事して、アイツから逃げて……勝手に独りでやるって言った時だって、アイツは……」

 

「キリはッ! あんな風になってまで、俺をまた助けてくれたんだッ!!!」

 

 ゆえに、織斑一夏はこんな所で止まっていてはいけない。

 止まる事を、姉でも、他の誰でも無い彼自身が許さない。

 

「だから、今度は俺の番だ」

 

 一歩、また一歩、押し戻す。最強に押し付けられた壁を、押し戻す。

 怒濤と化した勢いは止まらず、胸の奥からも言葉が止まらず、全てが一夏を奔らせる。

 

「今度は、俺が助けるんだ。今、キリに味方が居ないなら……誰もキリを助けないのなら……誰かにキリが傷付けられるっていうのなら……俺が、キリを護るんだッ!!!」

 

 燃え滾るようなこの想いを、真っ直ぐに千冬へ叩きつけた。

 

「だから、そこを退いてくれ。立ち塞がるなら、たとえ千冬姉だって!」

「…………私でも、どうするつもりだ」

「俺は、越えてわあぁ!?」

 

 突然、千冬が身体を半歩後ろに開いて力を抜いた。前へ進む事に全精力を込めていた一夏の身体は勢い余り、前のめりに倒れ込んでしまう。

 

「まったく、どうせ今のように後先すら考えていないのだろう?」

「で、でも俺はッ!」

「ふっ、落とし物だ」

「アイツの元に……えっ?」

 

 擦った鼻を押さえながらも立ち上がろうとした一夏に、唐突にネックレスが投げ渡された。

 蒼い水晶で出来た、翼を模したネックレス。

 決勝が始まる寸前に、姫燐へと突き返してしまったはずの物が、なぜか千冬のポケットから現れ、一夏はネックレスと千冬を交互に見返す。

 

「第三アリーナに落ちていたそうだ。本来ならば証拠品として押収せねばならない代物なのだが――私の権限で、回収しておいた」

 

 恐らく、セシリアが服を破った時に彼女のポケットも同時に破れ、フィールドに落ちたのだろう。あの場面は、一夏も色々と直視するに堪えない光景だったので見落としていたのだ。

 これを今、手渡すという行為の意味。自分に背を向ける千冬の意思。

 その意図が分からない程、一夏は鈍感では無い。

 

「千冬姉……その、俺……」

「はぁぁぁぁ……不出来な生徒を持つと、本当に苦労が絶えんな。二度と無くすなよ……そして覚悟しておけ」

 

 大切な人へ叩きつけてしまった暴言を悔やむように顔を沈めた一夏に背を向け、やれやれと片手で頭を抱えて千冬は溜め息をつき、

 

「戻ってきたら説教だ。当然、二人共な」

「……ああッ!」

 

 廊下へ向かって走り出した弟を、見逃した。

 背後に響く足音が、眼を閉じた千冬の記憶を走馬灯のように掘り起こしていく。

 両親が居なくなったあの日、泣きじゃくっていた弟。

 誘拐されたあの日、抱きしめたこの胸の内で延々と嗚咽を繰り返した弟。

 そして今日、姉の本当の姿を認められず、涙をこぼした弟。

 こうして思い返せば、いつも泣いてばかりで、なのに他の人にはそれを見せようとしないで、振り向けばいつだって自分の後ろに付いて来ていた弟の姿が――今は雄々しく、力強い足取りで、遠く、別の場所へ向かって走っていく。

 

「ようやく姉離れ、か……」

「ブリュンヒルデでも、やはり寂しいものですか? 最愛の弟が、他の女性に取られてしまうのは」

 

 背後から音も立てず不意に現れた影が、頬を愉快そうに釣り上げ千冬に声をかけた。

 だが、千冬も気付いていたのか、はたまた慣れたモノなのか、そんな不意打ちにも特に意に関せず吐き捨てる。

 

「少なくとも、常に妹に距離を取られている貴様には、分からん感覚だったよ」

「……流石ブリュンヒルデ。痛い所を突いて来ますね」

 

 影は扇子を開いて、歪みかけた口元を隠す。

 開かれた扇子には『痛打』と、達筆な文字で画かれていた。

 

「それで、構わないのですか織斑先生殿? これはれっきとした公私混合では?」

 

 先程のやり取りをすべて見ていたような口ぶりで問われても、やはり千冬はいつもの慄然とした態度と鉄仮面を一切崩さず答えを返す。

 

「違うな。生徒の安全を護るだけでなく、生徒の成長を促すのも、また教師の役目だ」

「なるほど……今回の采配は、あくまで『教師』としてのモノ、だと?」

「ああ、だから万一に備えているのさ。貴様ら『更識』を使ってな」

 

 更識。そう呼ばれた影は、陽の当たる場所へとゆっくり姿を現す。

 夕焼けとは対照的な水色をしたショートヘアの向こうにある、人を食い物にするような赤い瞳が恭悦を宿した。

 

「光栄の極みです。世界最強、天下無双、常勝無敗なブリュンヒルデの弟様を、おはようからお休みまでお任せさせて頂けるとは」

「今だけだ、特に貴様には絶対に一夏はやらん」

「では、あの子には?」

「…………それは、アイツが決める事だ。私には関係ない」

 

 露骨に不機嫌を顔に出す、どうにも器用さと柔軟さに欠ける教師に、更識は一腹抱えたような笑みを更に深くして本題を報告する。

 

「あの子は既に補足していますよ。指示さえあれば……いつでも」

「ご苦労。だが、頼んでおいて悪いが、貴様らの出番は無さそうだ」

「ほほう……できれば、根拠の程を」

「なに、実に簡単なことさ」

 

 わざわざ言わせるなと言わんばかりに、千冬は夕闇に包まれた出口へと向かいながら、背後の更識へと僅かに見やり、

 

「アイツは最高の女タラシで、この私の弟だぞ? 上手くやるさ、きっとな」

 

 微笑みかけながら、休憩室を後にした。

 暗い廊下を歩く彼女の背中から、扇子が床にこぼれ落ちる音が聞こえたが――既に自室に戻ってビールを空ける事しか考えてない千冬には、どうでもいいことだった。

 

 

                 ○●○

 

 

 無人だった1年1組の扉を力任せに閉め、一夏はまた廊下を駆け抜けた。

 これで一階は全て調べた事になるが、消えた彼女の足取りは一向に掴めない。

 

「ハァ……はぁ……ハァ……」

 

 休憩室を出てから全力疾走を続けた結果、ここ一ヶ月で確かに付いたと思っていた体力にも、底が見え始める。

 だが、ここで足を止める訳にはいかない。止めれば止めているだけ、彼女は遠退き、もっと、もっと遠い場所へと行ってしまう気がした。

 

「くっ……そぉ!」

 

 がむしゃらに、何も考えず、ただ彼女のことだけを思い描きながら、足を前に飛ばそうとして、

 

――どんな時でも冷静さを失うなかれ、だ。

「っ」

 

 他ならぬ、彼女の言葉が一夏の足を止めた。

 

「そうだ……頭を冷やせ……考えるんだ、織斑一夏……ッ」

 

 思考停止こそ、戦いにおいて最も避けなくてはならない状態だ。急ブレーキをかけられ、身体中に渦巻く熱にやられた脳へ、思考を言霊にすることで無理やり指示を送っていく。

 

「情報は……戦いに置いて……重要な剣と盾……」

 

 相手の情報から、次の行動を予測し、常に一歩先を行き完封する。

 自分も鈴相手に模範し、見事勝利を収めた彼女の必勝法であり、常套手段。

 鈴の時は2組の人達に大いに世話になったが、今回はその必要はない。山田先生から、全ての手札は回収済みだ。

 

「キリは重傷で、麻酔も打ち込まれている……ISも使えない」

 

 こうやって纏めてみると、動けているほうが奇跡に近い状態だ。

 故に、遠くへは絶対に行けない。この校舎の外など論外だろう。

 

「そもそも、キリは今、何を考えている……?」

 

 もし万が一、彼女がスパイだったとしよう。

 だとしたら、明らかにこの行動は悪手だ。決して軽くない負傷を抱え、麻酔まで身体に回り、切り札のISまで封じられた状態で逃げ出しても結果は見えている。現にいま、彼女が捕まるのは時間の問題だ。

 逆にスパイでなかったとしても、この行動はおかしい。

 大人しく治療を受けて、身体が万全な状態になってから、いくらでも弁明すれば良いだけだ。逃げ出す意味がないし、逃げればそれだけ容疑が深まってしまうだけなのに。

 なのになぜ、彼女はこんな無謀極まりない逃走劇を始めたのか。

 あんな状態ではどう考えても、ここから逃げ出せる訳が無いというのに……考える?

 

「そうか……キリはきっと考えてなんかいない、何も考えてないんだ」

 

 アリーナで見せた錯乱具合に加え、麻酔まで加わった彼女の思考力は恐らく、先程までの自分以下まで落ち込んでいるはずだ。

 つまり今、彼女はマトモな思考が出来ていない状態に追いやられている。

 

「なら……目的は、何を目的に動く?」

 

 どれだけマラソンで息を切らせて思考が覚束なくとも、ゴールを目指すという一念さえあれば足を目的地に動かせるのと同じように、彼女をここまで突き動かすゴールが何処かに存在するはずだ。

 彼女は何を今、願っている? あの時、アリーナで何を言っていた?

 思いだす。あの時、朴月姫燐はキルスティンでは無いと叫んでいた。突き付けられたもう一つの名前をしきりに否定していた。そう、否定だけをしきりに――

 

「……ッッ!!?」

 

 最悪の可能性が、一夏の背筋を冷たく走り抜けた。

 自己否定。それを成すために最も簡単で確実な方法に、一夏は心当たりがあった。

 見開かれた眼が――真上の天井を――その上にある屋上を捉え――

 

「ダメだ……ダメだキリ……ダメだっ!!!」

 

 今度こそ、一夏は何も考えず、がむしゃらに走りだした。

 身体が震える。焦燥に駆られて足がもつれる。締め上げられた内蔵から吐き気が込み上げる。

 階段を何段も飛ばし、まだ痛む身体を押し飛ばし、そして屋上へと続く扉を蹴り飛ばして――居た。

 

「はぁ……はぁ……見つけた……キリ……」

 

 夕焼けに赤く染まった屋上。自分達が約束を交わし合ったあの場所に、赤い髪に包帯を巻きながら、腕にギプスを巻きながら、スカイブルーの病衣を纏って、彼女は、居た。

 朴月姫燐は、ここに居た。

 

「ヒぃっ!」

 

 蹴破られたドアの向こうに居た人影を目にした瞬間、彼女は短い悲鳴をあげながら尻餅をつくように後ずさり、フェンスへと投げ出すように背を預けた。

 

「キ……リ……?」

「ハァーッ……ひぐっ……ハァーッ……」

 

 肩で息を吐きながら、今にも崩れ落ちてしまいそうなほど身体を震わせ、表情を恐怖で強張らせた姿には、動揺、狼狽、恐慌――そんな、彼女には余りにも似合わなかったはずの言葉で埋め尽くされていた。

 

「ひっ、くひ、ヒヒヒッヒ……なんだ、お前かよ……一夏……」

 

 屋上に現れた人影が一夏だと判断できた瞬間、彼女の口元が三日月に歪んだ。恐怖に縛られた表情から、まるで口元だけが別の生物であるかのように喜悦を示す。

 

「はっ、ひはっ、クククけ……一人? お前一人か? 追手にしちゃ、随分と歯応えがねえなぁ」

「キリ……」

 

 誰の眼から見ても分かる虚勢を、必死に張り続ける道化の姿が、一夏の胸を締め付ける。

 

「俺と一緒に戻ろう……みんな心配して」

「こっちに来るんじゃねえッ!!!」

 

 近寄ろうとした一夏を、彼女の悲痛な一喝が制した。

 身体を震えさせ動きを止めた一夏を見て、俯きながら彼女は笑った。

 

「きっひ、ききき、ハーァ、はひっひひひひぐっ……」

 

 嗚咽を漏らしながら、息を切らしながら、涙をこぼす代わりに必死に笑った。

 まるで右と左に同時に進むように命令された機械のように、徹底して矛盾した自己を奮い立たせるように、彼女はあの言葉を呟く。

 

「I am……」

「え……?」

「I am……All of me……」

「キリ……その言葉は」

「『オレが、オレの全て』、って意味で……俺の信条みたいなもんさ……きヒヒ」

 

 あの時も唱えていた、この言葉。

 その意味が今、彼女の口から語られようとしていた。

 

「昔さ……オレ、お前と模擬戦したよな?」

「あ、ああ……白式を受け取った時の……」

 

 彼女に違和感を感じ取った、もう大分昔のことのように思える模擬戦。

今にしてみれば一夏にも理解できた。彼女はあの時、確かに自分にぶつけようとしていたのだ。

 

「ヒヒッ、傑作だぜ……? オレさ、あの時マジで殺すつもりだったんだよ、お前をさ」

「………………」

 

 紛れもない本物の殺意を、この身に。

 

「他にも箒や、鈴も殺りかけたな……どうしても、なんか一線を超えちまうとこうだ。頭から血が引いて、スッーとクリアになるんだよ……敵を潰せって事以外、どうでもよくなって考えられなくなっちまう……。

 ひひッ……鈴にもズバっと言われちまったよ……『お前は狂ってるんじゃないか?』ってな」

 

 まぁ、大正解なんだがな。と、お腹を押さえて笑うフリを少女はする。

 

「でもな、それがオレという人間なんだ。気張って抱えて、よろしくやっていくしかないって、どんなにイカれていようと、どんなに狂っていようと、それがオレだ、朴月姫燐って人間の全てなんだって……」

 

 一夏に語るというより、自分へと言い聞かせていたような語る口調が、

 

「そうだよ……その筈なんだよ……」

 

 ありえてはならない筈の現実に、歪む。

 

「キリ……お前」

「この言葉な……本当はただの言い訳なんだよ。こんな狂ったオレを無理やり納得させるために、ずっと、ずっとオレ自身に言い聞かせてきた言い訳なんだ……何があっても、どれだけ狂っても『それもオレなんだ』って、そうやって、納得してきたんだよ……なのに……なのにッ!」

 

 フェンスに拳を叩き付けて、少女は喚き散らす。

 

「なのにアイツ等、オレを『キルスティン隊長』って呼びやがった! オレの事を朴月姫燐じゃないって! 誰だよキルスティンって!? オレは……オレは朴月姫燐じゃねぇってのかよ!?

 わっけ分かんねぇ! オレはずっと親父とお袋と暮らして、小学校通って、中学行って、飯食って寝て、ダチと一緒に遊んで、トレーニングもして、朴月姫燐として普通に暮らして来たんだぞ!? それ全否定かよふざけやがって……ふざけやがってふざけやがってふざけやがってッ!!!」

 

 自分の記憶が『キルスティン』を否定するのに、他人の認識が『朴月姫燐』を否定する。

 そしてこの記憶にも認識にも、全てに同意できてしまう自分が確かに存在し……ジレンマが、彼女の心を壊していく。

 

「オレは誰なんだよ……? 朴月姫燐か? キルスティンって奴か? ハッ、誰にも分かる訳ねぇよなぁ!? 本人が一番わかってねぇ事なんてよぉ!? ハッハ、ヒャハ、キヒャハハハハッ!」

 

 少女は笑う。理解不能の現実に心折られ、絶望に全てを委ねて全てを笑い飛ばす。

 そんな道化の姿は、泣き笑いの差異あれど、何も出来ずたった独りで泣き散らす赤ん坊となんら変わりないように、一夏には思えた。

 なにか、言わないといけないのに、彼女がずっと抱えていた闇は余りにも彼の想像を絶していて、何も言えなかった。自分如きが何かを言っていいのかと、一夏は立ち止まってしまった。

 動きを止めた一夏を余所に、ひとしきり狂い笑った少女は、お腹を押さえて俯きながら小声で呟く。

 

「早く、呼べよ……」

「えっ……?」

「早く呼べって言ってんだよ! 織斑先生でも、セシリアでも、鈴でも、オレをシトめられる奴を呼んで来いよホラよぉ!?」

「キリ……」

「ぎひっ、ヒヒヒヒヒヒ……安心しな、どうせこんな傷じゃ遠くには逃げられねぇし……それに急がねぇと『誰かさん』がお前を殺しちまうかもしれねぇぞ?」

「………………」

 

 嘘だと、一夏は確信した。

 

「ひっひ、さっきから……身体が震えて仕方ねえんだ……」

 

 嘘だと、一夏には分かっていた。

 

「お前を殺せって、今すぐ消しちまえって、うるせぇんだよ……だから……」

 

 だって、その仮面は、もう、

 

「お願いだから消えてくれよッ、オレなんかの前から早くッ!!!」

 

 その瞳からとめどなく溢れだす涙を、隠し切れていないのだから――一夏は己がやらないといけない事が、今ハッキリと見えていた。

 一歩、一夏は前へ進む。彼女の動揺が伝わる。

 

「……は? お前、バカかよ? 話聞いてたか、なんでこっち来るんだよ?」

 

 もう一歩、進む。彼女の声が裏返り、悲壮が宿る。

 

「や、止めろ、バカ、こっち来んな、来んなよ……オレは、お前を、殺したくっ、止まれ、止まれッてんだろ……来るな……来るな……」

 

 一歩、一歩、一歩、彼女へ近付く。首を振りながら、それ以上進まないフェンスへと尻餅をついてへたり込み、一夏が立ち塞がるように目の前まで迫り、

 

「来るなァァ!!!」

 

 頭を抱えて縮こまった、彼女の身体を――一夏は、屈んで抱きしめた。

 

「ァ……ァァ……?」

 

 両腕で、決して離さないように強く、それでいて傷を包むように柔らかく。織斑一夏の胸へ、少女は抱かれた。笑うことも忘れてしまうほどの強い熱が、密着した一夏の全身から彼女へ伝わって、笑いすぎた喉が酷く痛んだ。

 

「俺は、自分が本当に自分なのかだなんて――そんな難しい事は分からないよ……俺、バカだからさ」

「いち、か」

「でも、これだけは、分かる」

 

 一夏は少しだけ身体を離して、ポケットからネックレスを取りだした。

 

「それ、は」

 

 彼女から貰った、青い翼のネックレスを見せ、一夏は目をつぶって語る。

 今度は強がりも夢も全部かなぐり捨てた、ありのままの弱い自分自身を。

 

「これを俺にくれたのはキリだ。いつだって訓練に付き合ってくれたのもキリだし、俺に協力を持ちかけてくれたのもキリだ。セシリアを倒すために作戦を考えてくれたのもキリで、俺が、その、押し倒して怒らせちゃったのも、全部全部キリだ」

 

 そして、幼い子供のような瞳で見上げる彼女の涙を、指で拭って、

 

「それで今、ここで泣いているキリは、朴月姫燐だろうとキルスティンだろうと、俺にとっては間違いなくキリなんだ。だから」

 

 今度は強く、ひたすらに強く彼女の身体を抱いて、

 

「これから先に何があっても、朴月姫燐でも、キルスティンでも、キリが誰だったとしても、俺は呼び続けるから……キリを呼び続けるから……だから」

 

「どこにも行かないでくれ……俺の隣に居てくれよ、キリ……」

 

 気が付けば、一夏も涙を流していた。

 カッコ悪いとか、情けないとか、そんなちっぽけなプライドでは押さえきれないほどの激情が涙になって、ポロポロと一夏の目蓋から溢れていた。

 ……いったい、なんでこんな事になったのか。普通、こんな状況ならヒーローの胸で泣くのはヒロインの役目な筈なのに、なぜお前が泣いてしまうのかと、普通は逆だろうと、胸でごちゃごちゃしていた陰鬱も含めて全てが馬鹿らしく思えてきて、

 

「……ばーか」

 

 キリの口から、こんな台詞が自然と漏れてしまった。

 

「おまえ、おれをなぐさめるのか、なくのか、どっちなんだよ」

「っ、ごめ、辛いのは、キリのはずなのにな」

「ほんとに、ばか」

 

 途方もない脱力感がキリを襲う。人がマジで悩んでんのに、そこで自分の欲望押し付けるか普通と、呆れて、呆れて――気が付けば涙も引っ込んでしまっていて、

 

「……なぁ、いちか」

「え? あっ」

 

 今度は、一夏の涙をキリが拭う。

 

「おれは、キリ、か」

 

 自分で呟いても、やはりこの心にこびり付いた不安は晴れないが、

 

「ああ、俺にとって、お前はキリだ」

 

 一夏にそう呼ばれるだけで、北風に吹かれたようにあっという間に拭い去られてしまった。

 

「……なんだよそれ、つごうよすぎだろ」

「ごめん、俺はバカだから。他の言い方は分からないや」

 

 全身の力が抜けて、無理やり動かしていた身体が急速に言うことを聞かなくなっていく。

 それでもこれだけは言わないといけなくて、一夏の身体からそっと離れると、真っ直ぐに彼の顔を見つめながら、

 

「さんきゅ、な、ばか」

 

 キリは太陽のような微笑みを浮かべて、一夏の胸に倒れ込んだ。

 限界まで酷使されていた肉体は、コテンと倒れ込むと同時に安らかな寝息を立てて休息を始める。その強がり屋さんの頭を、一夏はそっと撫でた。

 無人のIS,新しい敵、そして――キルスティン。

まだまだ問題は山積みであったが、激動の一日は、ようやく一件落着を迎えようとしていた。

 軽く溜め息をつくと、一夏の極限まで張り詰めていた緊張の糸が解れ、

 

「……~~~~~~ッッッ!」

 

 彼女の柔らかな身体を抱き寄せているという現状に、また別種の緊張が押し寄せてきた。

 もしかしなくても、セクハラまがいの事ばかりをした覚えしか無い一夏の心臓が、激しい警鐘を鳴らす。

 顔から噴火しそうなほどの熱が昇り、抱きとめた手が汗ばむ。辛うじて変な場所には触れていないが、それでもやはり抱いているのには変わりなくて、胸と胸が密着した状態が青少年のメンタルを激しく削る。

 

(でも……本当に、小さいな……)

 

 こうやって始めて、ありのまま抱きしめた彼女の身体は、一夏が思ったよりもずっと小さくて、か弱くて、今にも壊れてしまいそうで……だから護りたいと、思えた。

 誰かでは無い。こうやって、不安に震える小さな彼女を、この手で護りたい。

 たった一人ですらこの手は掴めるのか、護り通せるのか、まだ分からないけど――掴まねば、護り切らなくては、自分がやらなくては。

 決意と覚悟を込めて、もう一度キリを抱きしめて、織斑一夏は口にする。

 

「キリ……俺が護るよ。俺が、お前を絶対に護る」

 

 風向きが変わる。

 青空は暮れ、夕闇の空に一つ、新しい夢が芽吹いた瞬間だった。




~あとがき~
でもキリはレズです。


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第20話「Lazy Mind ~これまでと、これからと~」

 私の幼馴染が、こんなに逞しくなったのは何時からだろうか。

 ジャージを着こみ、私の隣で日課の朝一ランニングを共にこなす一夏の横顔を僅かに覗く。

 この前までは、私が叩き起こさねばベッドから出ようともしなかったのに、ここ最近は言われるまでもなく起きる所か、私が目覚めるよりも早く、全ての準備を整えていることすらある。

 姫燐に頼まれてアイツとトレーニングを始めた頃は、私の後ろ情けなく息を切らせ、歩くのとそう変わらないスピードでついて来て来るのがやっとだったはずなのに。

 今では、一夏は私のペースについて来れるまでに成長していた。

 

「はっ、はっ、はっ、はっ」

 

 白いジャージを着こんで、短く切り揃えた黒髪から汗の粒を飛ばしながらも、真っ直ぐに前を見て走る凛々しい幼馴染。

 まだ少し無理をしているのか少々息は荒いが、それでも成長期の男の肉体なら、あと一ヶ月もしない内に並ばれてしまうかもしれない。

 その成長を心から嬉しく思いつつも、同時に、

 

「ラストスパートだ、少し飛ばすぞ!」

「なっ、こなくそっ!」

 

 負けてられないという心地よい対抗心が湧いて、私は少しだけペースを速めた。

 一夏もそれに合わせて足を速め、気が付けば互いに全力疾走でゴールである女子寮の入口を目指していた。

 確かに体力は付いてきているが、少し前まで帰宅部だった奴に負けるような、柔な鍛え方はしていない。流れで始まった勝負は、余力の差がハッキリと出る結果に終わった。

 

「はぁ……はぁ……あーっ、くっそ!」

 

 息を切らしながら、私よりも少し遅れて玄関に到着した一夏が、もつれ込むようにコンクリートの床に寝転がる。

 

「ふっ、まだまだ弛んでるぞ、一夏」

「くっそー……ようやく箒に並べるくらいに体力ついたと思ってたんだがなぁ……」

 

 とはいえ、こちらも本気で走らされたという点では、目覚ましいほどの成長だ。

 玄関の影に置いていた二人分のタオルとスポーツドリンクを、一夏にも渡す。

 

「ふん、この程度で慢心するな。私に追いつくには程遠いぞ、ほれ」

「猛省しますっと、サンキュー箒」

 

 もう息が整ってきているのか、軽々と身体を起こし、受け取ったタオルで汗を拭き、ペットボトルに口を付ける。

 私が昨日床に付く前にこっそり自作したスポーツドリンクが、一夏の濡れた唇から喉を通り過ぎて行き、失った水分の代わりに一夏と一つになって――

 

「ぷはぁ。やっぱり美味いなー、運動した後の水分補給は」

「っ! そうか、そうだなっ!」

 

 よ、よし好感触だ。明日からも、この配合で大丈夫だろう。もう少し多い目に作って、学食の時にも飲んでもらうのも良いかもしれない。い、いっそドリンクを作ってることを打ち明けて、毎晩遅くまで一夏と一緒に語らって、これからも毎日ずっとお前のドリンクを作ってあげると――

 

「って、できるかぁ!?」

「おわっ!?」

 

 はっ、しまった。

 つい、タオルを床に叩きつけてしまった。

 

「あっ、な、なんでもない、なんでもないぞ一夏!?」

「お、おぅ」

 

 じゃ、若干引かれてしまっただろうか。

 きょとんとする一夏を余所に、誤魔化しの言葉が矢次に流れ出てしまう。

 

「そ、そんなことより、最近のお前は見違えるように逞しくなったな!」

「えっ、そうかな」

「ああ、感心感心! な、なにか心境の変化でもあったか?」

「心境の……変化、か」

 

 また、一夏の表情が引き締まった。

 そう、この顔だ。昔、私をいじめる男子から護ってくれた時と同じ顔。私が――その、大好きな一夏の表情を、襲撃者が襲って来たあの日から一夏はよくするようになった。

 

「ああ、そうだな。俺はもっと、もっと強くならないといけない。もう立ち止まってなんか、居られないからな」

 

 一夏は自分の掌を眺めて、握り締める。

 その仕草からは、一夏が抱いた決意の固くなさが見て取れるようで――少し、彼が遠くに感じてしまう。

 その向こう側に、私の姿があるのかどうか、分からなくて。

 

「さ、部屋に戻ろうぜ。シャワー早く浴びないと、食堂が混んじまう」

「……そう、だな。戻るとしようか」

 

 私は一夏に手を差し伸ばす。

 昔より随分と大きくなったまだ熱っぽい手は、しっかりと私の手を握り返す。

 

「……ん? どうした、箒」

 

 一夏が私を見上げる。

 視線は確かに私に向けられているはずなのに、彼の少しだけ大人っぽくなった真っ直ぐな眼差しは、私を超えた更にその奥を覗いている気がして、胸の奥に痛みが走り――

 

「いや、なんでもない、一夏」

 

 彼の名前を呼んで、私はその気持ちを誤魔化した。

 一夏を引き起こして、私達は寮へ入り、自室へと肩を並べて歩く。

 

「あ、おはよー織斑くん、篠ノ之さん。今日も早いね―」

「うぅん……まだ眠いよぉ……」

「ほら、シャンとしなさいって」

 

 既に身支度を整え終え、食堂へ向かうのだろうクラスメイト達と軽い会釈を交わしながら、一夏が感慨深そうに呟いた。

 

「んー、何かすっかり早起きが習慣になったな。昔ならまだ布団の中だったぞ、この時間」

「早起きは三文の得だ。それに、私からしてみれば何故そんなに眠れるのか分からん。人間三時間も寝れば充分だろうに」

「いや、それは箒やナポレオンみたいな特殊な人間だけだと……」

「一夏?」

 

 一夏の足が不意に止まり、私も彼の横顔から、正面へと視線を向ける。

 のっそりと、自分の部屋から出てきた影と、視線が合う。

 一本だけアンテナが立った短い赤髪。私から見ても充分に女性らしさに溢れた身体。右腕にはギプスをはめて釣り下げて、今日はいつものズボンではなく何故か私と同じ標準デザインであるスカートの制服を纏いながら、

 

「おはよう、キリ」

「……おっす」

 

 いつもより何処かしんなりとした、私と一夏の友人が居た。

 

 

第20話「Lazy Mind ~これまでと、これからと~」

 

 

「久しぶりだな姫燐、謹慎は終わったのか?」

「ああ……今日からいつも通りだ。心配かけた」

「そ、そうか」

 

 四日ぶりに会えたと思ったら、どこか素っ気ない返しに、余計に箒の心配が募る。

 あの騒動で一夏達を助けるためとはいえ、第三アリーナの床に勝手に大穴を空けた責を問われ、傷の手当ても含めて反省房へ三日間居ることを命じられたと聞いていた箒には、千冬辺りの説教がよほど堪えてしまったのかと思えた。

 

「……その、大丈夫だったか、色々と」

「まぁな、色々と聞かれたが、とりあえずは帰してくれたよ」

 

 同じ様に一夏も、心配の色を隠さず姫燐に尋ねる。

 箒とは似て非なる、憂いを抱きながら。

 姫燐は鞄を肩に担いで、横から何も付けていない喉を突きながら続けた。

 

「ただ、専用機はしばらく没収だとよ。ま、当然の処置だし、どうせ修理するために親父の所へ送る必要があったから一緒だけどな」

「そうじゃなくて、その、何か、されたりとかしなかったか?」

 

 普段の彼女なら「んだよ、オレが薄暗い地下室でムサい男共にナニカサレタのを期待してんのかい、ムッツリチェリー?」と笑いながら返すようなイントネーションを孕んだ言葉にも、やはりどこか暗い顔をしながら、

 

「別に……状況が状況だったからな。お前を助けたこともあって、そこまでガミガミ言われはしなかったよ」

 

 そう、冷たく返すだけだった。

 

「じゃあ」

「悪い、オレもう行くわ」

「あっ、おい姫燐!」

 

 まだなにかを言おうとしている一夏達の横を、姫燐が速足で通り過ぎる。

 

「いま、あんま誰かとお喋りする気分じゃねーんだ。すまん」

 

 鞄を担いだ指だけをヒラヒラさせながら、振り向きもせずに食堂へと向かう姫燐の、どこか小さく見える背中。二人はそんな弱々しい後ろ姿を見つめながら、互いにアイコンタクトを交わし、

 

「ごめん、今日は俺、少し汗臭いかも」

「気にするな、どうせ私もだ」

 

 ニッと、笑顔で意思疎通しながら駆け足で自室へと向かい、超特急で準備を整え始めた。

 

 

              ○●○

 

 

「……はえぇよ、ったく」

「そうか? 男の支度はそんなにかからないからな」

「女の支度もだ」

 

 じゃあオレは何だ。と言いたげな顔でゲンナリと歩く姫燐の両隣に、IS学園の制服を着込み、鞄を持った一夏と箒がシレっとした顔で並んでいた。

 

「ほらキリ、鞄持つよ」

「……ウザいお節介ならいらねーぞ」

「別にお節介ではない。今日は無性にお腹が空いていたんだ。なぁ、一夏」

「そうだぜ、箒のトレーニングはハードだからな。お腹が無性に空いて、すぐにでも食堂に行きたくなるんだ」

 

 溜め息をつく姫燐から半ば強引に鞄をひったくり、逃げ出すという選択肢を先んじて潰した一夏が、会話を続けようと話題を振っていく。

 

「そういえば、今日はスカートなんだな。やっぱり、前の制服は……」

「ああ、前の制服は血まみれだったし、何でかスタボロになってたからな。こいつはレンタルの奴で……って」

 

 口に出した事で思い出したように、力が抜けていた姫燐の眼に鋭さが宿り、

 

「お前……見てねぇよな?」

「………………」

「ほーぅ、これはぜひ感想を聞いておきたい話題だなぁ一夏? んんっ?」

 

 全力で墓穴を掘る所か発破した男に、二人の若干殺意を孕んだ言葉の集中砲火が浴びせられる。

 主犯は俺じゃないのに。実行犯は別に居るのに。見たくて見た訳じゃないのに。でも、すごく素敵だったです。と、浮かぶ言い訳は全てデッドエンドへの直行便であり、ランニングの時よりも遥かに多量の脂汗を流しながらソッポを向くしか一夏には出来ない。

 このまま箒(死神)の目の前で、命がけの会話の綱渡りを強要されることを覚悟するが、

 

「……ま、いいけどよ」

「え?」

「減るもんじゃねえし、どうせ応急処置のために破いたんだろ。まーた長々と拗ねても仕方ねぇしな」

 

 一方的に打ち切って、また姫燐はボンヤリと前を向いた。

やはり、どうにも調子が狂ってしまう。箒も一夏も同じように、どうしていいか分からないといった複雑な表情を浮かべるしか無かった。

 

「んなことより、腹減ってんだろ? さっさと食券買いに……ん、なんだありゃ?」

 

 食堂についた三人の前に、その一角に発生している人だかりが見えた。わいのわいのと騒ぐ一団は、パッと見ただけでも、一年生だけではなく、間違いなく上級生も複数居ると断言できる大人数だ。

 この時間帯であの規模の人だかりが、食券売り場以外に出来る理由が思い当たらず、三人の足が思わず止まる。

 

「一夏は……ここに居るしな」

「ああ……」

 

 一夏が食堂に居る時は、割と日常茶飯事の光景だが、肝心の客寄せパンダはここに居る。

 ならば、一体なにがあれ程の客を寄せているのかと、三人は人だかりに近付いていくと、

 

「その時、あの黒い不届き者に姫燐さんは言いましたの……『貴様の血は何色だ!』と!」

 

 無性に聞き覚えがある気品に満ちた声が、まったく聞き覚えのない台詞を吐いていた。

 

「あっさりとやられた織斑一夏と丸腰の鈴さんを護りながら、敵のビーム光線を軽々と避け、敵を圧倒していく姫燐さんの美しくもありながら、グルービーな勇姿……はぁぁ、今も片時すら忘れられませんわぁ」

「おい、あっさりやられたのか一夏?」

 

 思わず聞き返す箒と、だいぶ脚色が施された説話と現実との差異に固まったままの当事者たちを置き去りにして、演劇のヒロインが如く大げさな手振り身振りがセットされた彼女の話はまだまだ続く。

 

「ですが、ここから悲劇が二人に襲いかかりますの……姫燐さんに敵わないと悟った侵入者は卑怯にも、お二人の救助に動いていたわたくしを狙い……そして、そしてっ、敵のビームからわたくしを庇って腕を……っ!」

「そうだったのか、姫燐?」

 

 悲劇から眼を覆うように両手を顔に被せる彼女。

どうしてそうなったと無言で片手を顔に被せる姫燐と一夏。

 

「傷つき倒れる姫燐さん……絶体絶命のわたくしたち……敵機がその卑劣な牙でわたくし達を引き裂かんとした、まさにその時! ボロボロになった腕を抱えながらも再び立ち上がった姫燐さんは、侵入者をしかと睨みつけ『私のセシリアに手を出すなッ!』と」

「あ、きりりーにおりむーにほっきー、おはよー」

 

 のほほんとしたその一声に、集まっていた人間全ての視線がクイックターンし、その全てが姫燐達に注がれる。

 

「え……あ……?」

 

 饒舌に語っていた上品な声も、それを囲っていたガヤも、一瞬にして鎮静化し、代わりに不気味までの静寂が食堂を支配して、

 

「き、き、き」

「き……?」

「姫燐さぁぁぁぁぁぁぁん!!!」

 

 セシリアの叫びと共に、わぁぁぁぁぁ、と、大爆音の歓声が食堂に鳴り響いて、人の雪崩が姫燐達を呑みこんだ。

 

「セシリアさんから聞いたわよ、朴月さん! 大立ち回りだったんだってね!?」

「流石、専用機持ちは違うわねぇ!」

「二人の国家を超えた愛がもたらした勝利……確かに私たちが聞いたからね!」

「あ、そっちもだけど、私はセシリアさんと二人っきりで過ごしたっていう、蜜月の夜の方に興味がッ!」

「うんうん、織斑くんと二股っ!? 修羅場っ!? そこんとこ詳しく!」

「織斑くん、彼女を寝取られた感想を一言っ! なにとぞ一言っ!」

「まっ!? それ以前に、織斑一夏と姫燐さんは付き合ってはいませんわ!」

 

 最後以外すべてが眉つばな情報への質問攻めと、大量の女体にぎゅうぎゅう詰めにされ、ただでさえ精神的にも肉体的にも摩耗していた姫燐は、

 

「うぇ、うぇへへっ……おっぱいがーいっぱいだー…………」

「キリぃぃぃぃぃぃぃぃ!!?」

 

 考えるのを止めて、百合の花咲く脳内空間へとメイド・イン・ヘブン(現実逃避)していた。

 結局、この百合ハーレムは、始業時間を告げに来た世界最強が素手でコンクリの壁に穴を空ける轟音をとどろかせるまで続いたという。

 

 

                 ○●○

 

 

「えっ!? じゃあ朴月さんって本当に、セシリアさん所か、織斑くんとも付き合ってなかったの!?」

「だーかーら……最初からずっと言ってるじゃねえか……」

 

放課後になった一年一組の教室。食堂よりは大分マシとはいえ、それでもクラスのほぼ全員に囲まれながら、机に突っ伏し憔悴しきった声で姫燐は、休み時間の度に続けてきた説得がやっと通じたことに安堵する。

一夏や箒、そしてセシリアは放課後になった瞬間、鮮やかな戦術的撤退を決めこみ、必然的に殿を務めることになった姫燐がその全てを相手することになってしまったのだ。

 

「オーレーは、アイツがIS乗りこなせるようちょいとお節介焼いてただけで、AもBもCも何もしてねーよ。神にもブッダにも織斑先生にも誓っていいぜ……」

「う、ううん……いま明かされる衝撃の事実って奴ね」

 

 逆に衝撃となるほど浸透していた事に衝撃を覚えながら、今度は姫燐が聞き返す。

 

「じゃあ、初日に言ってた恋愛に協力してくれーって言うのは?」

「……あー」

 

 そういえば、そんな理由で協力関係を結んでいたことを思い出す。ふと考えてみれば、協力関係を結んで早一ヶ月と少し経つのに、アイツから何かしてもらった覚えが姫燐には一切ない。契約不履行でどこかへ訴えられないだろうか。

 

「うん、まぁ、あいつイケメンだから、知り合いに良いの居たら紹介してくれーって、な」

「あぁー、確かに織斑くんの知り合いならイケメンとか沢山いそうだしね!」

 

 重要かつ肝心(ただし女に限る)な所を端折ったが嘘は言っていない。

ちなみに姫燐はイケメン系より、可愛い系が好きだ。

 

「ていうか、そんなに気になってたなら直で聞きに来ればよかったじゃねぇか……」

「あー、その、確かにそれが一番手っ取り早いんだけど……ねぇ?」

「うん……えっとね……」

 

 急に歯切れが悪くなったクラスメイト達に、姫燐が顔を横に向けて訝しむ。

 

「どした……お姉さん怒らないから言ってみろ」

「いやぁ、その、ねぇ」

「みんなきりりーが、すごく男前すぎて声がかけ辛かったんだよー」

「あっ、こら本音!?」

「…………はぁ?」

 

 男前? 女の自分には余りにも相応しくない単語に、どういうことだと、姫燐の身体が起き上がって、そう自分を称したのほほんとしたクラスメイトの方へ向き直る。

 

「そのねー、きりりーって、最近いっつも男の子みたいな喋り方とか服装してるでしょー?」

「あ、ああ……そうだな」

「それに、すっごく元気いっぱいだから、みんなどうやってお付き合いするべきなのかなーって、ほんの少し気後れしちゃってたんだよねぇー?」

 

 おっとりと同意を求める声に、次々とクラスメイト達が本音を吐露していく。

 

「い、いやぁ、朴月さんが悪い子じゃないのはみんな分かってたんだけどね? 男の子みたいだし、彼氏持ちだと思ってたし、専用機まで持ってるし……」

「その、あのテンションに私達も合わせないといけないのかなーって思ったら、ついつい……」

「う、うん、カッコいいんだけど、織斑くんといっつも一緒に居るから、私たちが居るとお邪魔かな―って思えて」

「一緒じゃない時は、大体ヘッドフォン付けてて、喋りかけ難くて……今まで朴月さんみたいな子とは会ったこと無かったから、なにを話せばいいのかなーと……」

「そうよ、全ては朴月さんがイケメンすぎるのが悪いのよっ!」

 

 それだっ! と、天啓を発した発言者を一様に指刺し同意する級友たちを余所に、日頃から気にしていた問題の、あんまりにあんまりな答えに姫燐は乾いた笑いを喉奥から漏らして沈みこんでいった。

 

「はっ……ハハハ……イケメンって……オレから喋りかける事あっても、本音以外が喋りかけてくれないのって、そんな……そんな理由で……ちくしょう……ちくしょう……」

 

 常に沈みがちだった今日でも間違いなく一番の轟沈っぷりを見せ、机と一体化しそうなほどに再度沈みこんだ姫燐に、クラスメイト達が全力でフォローを入れていく。

 

「そ、そうよ! イケメンなのよ朴月さんは!」

「イケメン過ぎて困る事なんて、何も無いじゃない!」

「オレは……イケメンなんかじゃねぇよ……」

 

 本格的に陰鬱な空気を発しながら、姫燐は弱々しく呟く。

 

「ちょいと高校デビューに張りきってただけさ……あと、一夏の野郎を勝たせることに躍起になってただけで……ヘッドフォン付けてたのも、そっちの方が作戦考えるのに集中できるからだし……ここ最近はずっと落ち込みっぱなしだし……」

 

 ぐすっ、と僅かに鼻をすすりながら、僅かに覗く目尻にうっすら涙を浮かべ、震え上ずった声でボソッと一言だけ、

 

「……けっこう、寂しかったんだぞ……ちくしょぅ……」

 

 ――キュン

 なにか、どこかで、そんなキューピッドのクリティカルヒット音が大量に鳴った――気がした。

 

「か……か……」

「……は?」

「可愛いぃわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ朴月さぁぁぁぁん!!!」

 

 本日、もう何度目か分からない程の大絶叫が一年一組に響き渡った。

 

「はぁぁっ、なにこの可愛い生き物!? 保護よ保護っ! 今すぐ保護観察処分よっ!」

「強くてイケメンで可愛いって反則じゃない!? チートよチート! でもそこがいいッ!」

「なでなでしていい? もふもふしていい? ペロペロしていい?」

「ヘィ! 今晩私達の部屋にお持ち帰りするわよ本音! 朝まで存分に可愛がってあげましょ!」

「あいあいさー♪」

「は……え……えぇっ?」

 

 凄まじい早さで二転三転する事態に完全に取り残され、もう何が何だか分からず混乱する姫燐の背後から、ワキワキと指を稼働させた一人が両手を腋に滑り込ませ、

 

「えーい隙アリっ♪」

「ひゃいぃ!!?」

 

 思いっきりその豊満なバストを揉みしだいた。

 

「おお……前々から思ってたけど、やっぱり凄いボリューム感……こりゃマジ勃起もんよ……」

「あっ、ずるーい! 私が先に狙ってたのにー!」

「ざーんねーんでしたー! 早さは文化よっ、時代に取り残された奴が敗者なのよっ!」

「あ……あぁっ……おま、おまえらぁ……」

「じゃあ私はレアなモッチり生足―♪」

「ふひぃい!?」

 

 真っ赤になってプルプルと小動物のように震えながらも、何分自分から言いだした事のようなモノなので抵抗できず、弄られるがままに甘い声を出すしかない姫燐の姿は、今までのイメージとのギャップも相まって皆の可虐心を更に煽りたてて行き、

 

「ほうほう、朴月ちゃんは胸が弱いのかなぁ……?」

「ちっ、ちがっ、はにぃっ!!?」

「ふっふっふー、身体は正直だよぉ……?」

 

 いつの間にかちゃん付け呼ばわりしながら、全方向から手を伸ばし、その大人びたボディを玩具のように弄り倒していくクラスメイト達。女だからこそ、女体に触れることに一切の抵抗がなく、そのパワハラには容赦の欠片もない。

 

「なっ!? てめらっ、どこまで触ってツィぃ!?」

「んー? ど、こ、だ、か、ちゃんと口で言ってくれないと分かんないよ―朴月ちゃん?」

「ちょ、いくらなんでもやりすぎじゃ……」

 

 良識ある眼鏡をかけた一人が、一応怪我人である姫燐への蛮行を止めようと何か言いたげに手を伸ばすが、

 

「おねがっ、もう、だめっ、誰かひぐっ、た、たすけてぇ……」

 

 襲いかかるセクハラを精一杯堪えながら、普段は大人っぽくてスタイリッシュだというのに、まるで幼子のように助けを求める姫燐の姿を見て、

 

「たまには、やりすぎも良いよね」

「よくねぇーっ!」

 

 眼鏡を外して鼻血を流しながらキリッと言い切った。重傷である。

 

「えーっ? だって私達に構って欲しかったんでしょ朴月ちゃんは?」

「そ、そうだけどぉ……」

「うんうん、ごめんねぇ気付いてあげれなくて。これからは目一杯、可愛がってあげるからねぇ」

 

 総受けキャラとして。と、獣の眼光を瞬かせた狩人に耳元でささやかれ、姫燐のただでさえ削れ気味だったメンタルは更にゴリゴリと削岩機に掛けられたように削れていき、

 

「お、おれヴぁ……う……ウゥウ……うわぁぁぁぁぁ! ばーかばーかばーか!!!」

「あ、逃げたっ!」

 

 半ば幼児退行しながら、クラスメイトもキャラもプライドも全てを振り切って朴月姫燐は攻めしか居ない魔境から逃げ出した。

 

 

                ○●○

 

 

 何故だろうか、気分が落ち込んだ時にここへ来たくなるのは。

 あれから執拗な追手を撒き、さらにセシリアの話で自分に興味を持った上級生にまで追いかけられながらも、何とか姫燐は一人、屋上へと逃れることができた。

 四日前に一夏に醜態を晒した時と同じ、夕焼けに染まった屋上には、まだ少しだけ冷たい五月の風が吹き、姫燐の火照った身体を冷ましていく。

 

「はぁ……はぁ……なんなんだよ……ここ最近は……厄日ってレベルじゃねーぞ……」

 

 少しだけ弱音を吐いたら、クラスメイトが暴徒になって襲って来た。

 何を言ってるのか分からないが、姫燐が一番よく分かってない事実にどうにかなりそうな頭を、新鮮な空気を吸って落ち着かせる。

 もう一生、アイツらに弱味は見せないと心に硬く誓いながら、疲れ切った声で姫燐は悪態をついた。

 

「大体……オレが可愛い訳ないだろ……常識的に考えろよ……」

「あら……わたくしはそうは思いませんけれども?」

「ひっ!?」

 

 無人だと思っていた屋上で突然あびせられた言葉に若干、対人恐怖症を発症しかけている姫燐の口から軽い悲鳴が上がる。

 ツカツカと屋上のコンクリートを叩くヒールに、風にふわりと揺れるロングドレス風の制服。そしてロールされた金色の髪を掻き揚げながら、先客――セシリア・オルコットは西洋人形のような気品に溢れた柔和な表情を姫燐に向ける。

 

「姫燐さんは、とても魅力的な女性だとわたくしは思いますわ。そのスカートも、とてもよくお似合いですし」

「んだよ……セシリアか……」

 

 パワハラ魔共の内の誰かではないのかと懸念していた姫燐にとっては、無関係な彼女は清涼剤のような人間であり――よくよく考えれば、すべての発端であることを思い出して急にむかっ腹が立って来た。

 

「おい、セシリア。なんだありゃ? マジどういうつもりだ?」

「えっ、どういうつもり、とは?」

「ある事ない事、適当に皆に吹き込みやがって! お陰でひでえ目にあったんだぞ!?」

「え゙っ!? そ、それは本当……ですの?」

「マジのマジで大マジだ! ほ、本気で怖かったんだぞ……」

 

 どんな目に会ったのかは口にもしたくなかったが、思いだすだけで震える身体が充分な証拠になっているようで、セシリアも慌てふためいて弁明を始める。

 

「わっ、わたくしは……そのっ、姫燐さんのご活躍を、皆さまにもよく知ってもらいたくて……」

「あーあー、そうかいそういうことかい! 前々から嫌われてるとは思ってたが、いくらなんでもやり方が陰湿すぎるんじゃねーか? ええ?」

 

 半分ぐらいは自業自得でもあるし、少し考えるだけで姫燐を貶めるならもっと良い手段がいくらでもあるのだが、今の余裕が一切ない姫燐には誰でも構わないと思えるほどに、この苛立ちを誤魔化す相手が欲しかったのだ。

それが今、ちょうど目の前に居て、しかも全ての元凶だったのなら、姫燐の自棄で攻撃的な態度もいた仕方ない所は有ると言える。

 

「き、嫌っ……!? そ、そんなあり得ませんわ! 大体わたくしが、姫燐さんのことを嫌いになるだなんて……そんなこと……」

「じゃ、どういうこった?」 

「そ……それは……あぅ!」

 

 言葉に詰まったセシリアの腕を、姫燐は強引に掴み取り、壁に押し付け鼻先が当たりそうなほどに顔を近付け睨みつける。

 

「ここらで、いい加減白黒ハッキリさせようじゃねぇか……なぁ」

「きっ、姫燐さんっ、お顔が、近っ」

 

 セシリアの碧眼を覗き込みながら、吐く息がかかるほどの距離で、姫燐の八つ当たり染みた質問は続く。

 

「ハッ、原因は大方、前のあの騒ぎか。まぁ……無理もねぇか。オレを疑うのも」

「ち、違いますわ! わたくしは姫燐さんのことを信じています!」

「信じる……か。オレからしたら、あれを見てまだオレを信じられる奴の方がバカげてると思うがな」

「そんな、悲しいことを言わないでくださいまし……」

「別に悲観主義じゃねぇ、オレは現実見てるだけだ」

 

 そう、一般生徒には伏せられているとはいえ、姫燐のスパイ容疑は未だ晴れておらず、特に事情を全て把握している教師生徒の中には、姫燐を退学処分にするべしという声が決して少なくないことを彼女は三日間の軟禁と尋問で嫌というほど分かって来たし、本人も当然だと考えていた。

 爆発物かどうか分からぬ物を近くに置いて眠れるほど、人間の胆は据わっていない。

 

「オレだって……覚悟ならしていたさ。クラスの奴らにも、白い目で見られるぐらいは構わねえし、一夏達に迷惑かけるなら、これからは適当に距離でも置いていればいいさって思ってたさ……だけどな……だけどな……」

 

 肩をワナワナと震わせ、まだ胸に残る違和感に身の毛をよだせながら、

 

「クラスメイトからピンク色の目で見られるなんてどうやったら想定できるんだよ……明日からどういう顔して教室行けばいいんだよ……総受けキャラとか何だよ……何なんだよ……」

「そ、それは、その……クラスの皆さまから大変おモテになったと好意的に解釈すれば」

「オレは純愛主義なの! 身体だけの関係とか死んでもゴメンだっつーの! ま、まぁフィクションなら多少特殊でもイケるが……」

 

 なんでオレはセシリアに性癖まで暴露してるんだ。と、口走るごとに気恥かしさでボリュームが下がっていく。

 

「……ほんと、ダッセぇよ……オレ……」

 

 同時にテンションも下がり、頭も大分スッキリしてきたことで、また誰かに八つ当たりしてしまった事実に、ふつふつと罪悪感と嫌悪感が渦巻いていく。

 強く掴んでいたセシリアの腕が、力無く離され、姫燐は彼女に背を向けて夕空を仰ぐ。

 

「ヒヒッ……またなーにやってんだか……サイテー野郎じゃねぇかこれじゃあ……嫌われても仕方ねぇか……」

 

 自嘲するように、姫燐の喉が鳴る。

 自分ですら分からない狂暴で冷徹な自分が居て、それがいつ牙を剥くか分からないから、怖くて、怯えて、誤魔化すために誰これ構わず八つ当たりするような奴なのに、みんなバカで、能天気で、こんな、こんな狂った自分にだって優しすぎて――だから、絶対に傷付けたくないのに、心配させたくないのに、今は平時の自分すら律せない。

 だから、嫌いになる。虚勢すら満足に張れないこんなにも弱い朴月姫燐が、大嫌いになっていく。

 

「スマン、悪かったセシリア。でもさ、頼むからああいうのはこれっきりにしてくれよ……オレはさ、お前が思ってるほど強く……つよ、く……ひ、ひひひっ……」

 

 姫燐の口元がまた歪んで、引きつったような笑い声を出す。

 泣きそうなのに、叫んでしまいそうなのに、今にも弱い自分を全て吐き出してしまいそうなのに、笑って大丈夫だって強がろうとして、でも、上手く出来なくて。

 

「キっ、はは……もう、ダメ、だな……カッコつけも、ヒッぐ、すっかり下手糞だ……」

 

 弱った心は、少し前までの自分すら思い出せないほどにグシャグシャで、背筋も曲がって、下しか見れなくなって、それでも泣いてしまうことだけはしたくなくて。

 

「ゴメン……一人に……してくれ……もう……オレは……おれは、もう……」

 

オレになれないんだ。

そう言ってしまいそうだった姫燐の口が、不意に止まった。

 背中から伝わる熱に鼓動、両肩に乗せられた白くて細く、綺麗な手。

ボロボロの傷口を癒すように柔らかく、凍える身体にマフラーを巻いてあげるように暖かく、真っ直ぐに相手を思いやるように優しく、

 

「………………」

「セシ……リア……?」

 

 セシリアが、姫燐の背中に、そっと寄り添った。

 

「は……ははっ……なんだよ、同情なんか……いらねーぞ……?」

「いいえ、同情なんてしませんわ」

 

 姫燐の憎まれ口を、凛とした声が阻む。

 分かっているから。そんな物は、屈辱にしかならないと。

 かつて、両親が残した遺産を護るため自分の全てを偽って、出来ない事まで出来ると強がり続けていたセシリアには、姫燐が抱える痛みが全て分かっていた。

 そして、これから彼女に、なにを言ってやればいいのかも。

 

「姫燐さんは……とても、素敵な方ですわね」

「どこ、がっ……だよ……こんなんだぞ、オレ……」

「いいえ、だって姫燐さんは誰かを傷付けてしまったことを、後悔できるではありませんか」

「そんなの、誰だって」

「わたくしは、出来ませんでしたわ」

 

 かつて、人を虐げることでしか、弱さを克服できなかった少女が語る。

 

「昔のわたくしは、誰かを見下して、蹴落として、高笑いしなくては、一歩も前に進めないような女でしたもの」

 

 貴族の肩書に縋りついて、相手を見下すことでしか、傷付けることでしか己を保てなかったセシリアには、自身を磨き続けることで自己を確立し続けてきた姫燐の方が、自分よりもよほど気高く高潔な貴族と呼ぶに相応しい存在に思えていた。

 

「それに謝るならわたくしこそですわ……言っても仕方ないことですけれど、わたくしは、ただ姫燐さんのお力になりたくて……」

「オレの……力に?」

「はい……」

 

 申し訳なさそうに、セシリアは姫燐に教える。

デマゴーグの中に隠された、本当の意図を。

 

「噂を、聞きましたの。とても、残酷な噂を」

 

 何か、とは、聞かずとも姫燐も察しがついた。

 噂は隙間風と同じだ。どれほど必死に塞いでも、必ずどこかからすり抜けて、人の心に確証のない仮説を植え付けて行く。

 

「我慢、できませんでしたのっ……貴女は、わたくし達を命を賭して救ってくださったのに……それを、それを『敵と結託した茶番劇』だなんてっ!」

 

 強く握られたセシリアの手がら、狂おしいまでの無念が姫燐にも伝わってくる。

 

「……そう思われても、仕方ねーよアレは」

「ですが、違いますわよね? 姫燐さんは、敵なんかでは」

 

 姫燐だけなら意味を持たなかった言葉が、彼女の真摯な言葉で意味を得て、彼女の口から紡がれた。

 

「……ああ……お前が、正しいよ。オレは、お前達の味方だ。オレはキルスティンなんかじゃ……敵なんかじゃ、絶対にない」

「ええ、当然ですわ。わたくしの姫燐さんが、そんな下衆な輩な訳ありませんもの」

 

 どれだけ本気で訴えても信じて貰えなかった言葉を、『当然』と言い切ってくれることは、疑念に晒され続けてきた姫燐の胸を強く揺さぶり……残念ながら『わたくしの』の部分は気付かずスルーされてしまう。

 

「だからわたくしは今朝、皆に真実をお伝えしましたの。事の当事者が、下らない噂が全て吹っ飛んでしまうような、ありのままを」

 

 そう、噂はしょせん噂なのだ。事の全てを見た当事者の発言と比べれば、誰が発言したのか分からない、どこから出たのかも分からない風の噂など、文字通りの意味で重みが違う。

 目には目を、歯には歯を、そして言葉にはより重い言葉をぶつけることで、目論見通り信憑性のない噂は、セシリアの流した『真実』に吹き飛ばされていった。

 

「ありのまま……?」

「ええ、より話題になるよう、多少脚色はいたしましたが……」

「多少……?」

「まさか、それが姫燐さんを傷付ける結果になってしまうなんて……本当に、なんとお詫びすればいいか……」

「…………ま、別にいいさ……ありがと、セシリア」

 

 背中に当たったセシリアの心臓が、ひと際大きく跳ねた――気がした。

 いくつかの疑問符は取れないが、それでも彼女が自分の事を真剣に心配し、行動に移してくれた事だけは確かで――余計に姫燐は、あの人との約束に背き続ける自分が情けなく思えてくる。

 

「……少しさ、昔のオレの話、聞いて欲しい」

「昔の、姫燐さんの?」

「そう。昔さ……憧れてた人がいるんだ」

「憧れの、人ですか?」

「あぁ……親父によく連れられて行った家の娘さんで……一人っ子なオレにとって……憧れの姉さんみたいな人だった」

 

 そんな人が居るだなんて初耳だったと驚くセシリアの様子を、誰かに言うのは始めてなんだから同然だろうと姫燐は眺める。

 

「もう4年も前かな……昔のオレはすっげぇ弱くて、泣き虫で、いっつもその人に護ってもらってたんだ……」

「姫燐さんが護っていた、のではなく?」

「んだよ、そう言ってるだろ……? なにかある度に、その人に泣きついてたよ。ガキのオレはな」

 

 可憐で苛烈な今の彼女からは、想像も出来ない様な過去があったことに、セシリアは驚愕を隠せない。

 

「向こうもオレを可愛がってくれたけど、1年ぐらいだったかな……? 親父の用事が終わって、その家もガキが一人で行くには遠すぎて、別れないといけなくなっちまって……散々泣いた、ここの家の子になるって」

 

 今でもハッキリと思いだせる。

 慌てて自分の手を引く父。困り顔の向こうの親御さん。そして別れの日にだって、タンポポのように強く優しい笑顔を欠かさずに、指で自身の頬を釣り上げながら姉が教えてくれた――強くなるための秘訣。

 

「そんなオレに言ってくれたんだよ、別れの日にその人がさ『本当にいい女は、みんな素敵に笑うのよ』って、『だから私が居なくても、素敵に笑える女になりなさい』って……でも」

 

 その日から朴月姫燐は、どうすれば素敵になれるかという肝心な所がボカされた姉の言葉の意味を、一心不乱に追い求めた。

 弱いままじゃ笑えないと思ったから、父からISの知識を、母から戦いの知識を学び、身体も鍛えた。

 泣き虫のままじゃ笑えないと思ったから、自分なりのカッコいいを追い求め続けて、振る舞って来た。

 ようやく笑えるようになってきたから、今度は愛されるのではなく、誰かを愛してみたいとも思っていた。

 それでも、やっぱり、心までは強くなれなくて。

 笑顔は、ちょっとしたことで、簡単に曇ってしまって。

 あの後ろ姿を、もう、追いかけれそうになくて。

 

「もう、ダメだよ……ダメなんだよ……オレひっぐ……もう分かんねぇんだよ……もうっ、どうすりゃっ、素敵になんてっ……笑えねぇよぉ……」

 

 曇った顔が必死に漏らすまいとしても零れる小雨は、まるで少女の傷だらけの心から流れる血汐のようだった。

 そんな弱さを露呈する少女の姿を見て、強さにこそ存在意義を見出していたセシリア・オルコットはふと、思い返す。

昔とは比べ物にならないほど、丸くなった自分を。

 愛する人に、抱きしめられる喜びを。

 いつだって、知らない世界を切り開いてくれる彼女の姿を。

 そして――セシリア・オルコットは、今回も彼女に教えられた。

 

「大丈夫ですわ、姫燐さん」

 

 こんなにも、心から抱きしめたいと思える弱さがあるのだと。

 微笑みながら、本心で弱さを肯定できるのだと、またセシリアは教えられたのだ。

 

「わたくしは何度も素敵だって言ってますのに……わたくしの言葉は、そんなに信じられませんか……?」

「だって……だって……」

 

 もっと深く、少し背伸びをして、手を首に回し、耳元に顔を近付けてセシリアは桃色の唇から優しく語りかける。

 

「ふふっ、少しイジワルな事を言ってしまいましたわ。分かっています、姫燐さんはわたくしが信じられないのではなく、自分が許せないだけなんですわよね?」

「……ひぐっ」

 

 僅かに、姫燐の首が縦に振られる。

 

「確かに、完全な形で理想を叶えられる人間なんてごく僅かでしょう……お金があっても、力があっても、ISがあっても、美しい理想は、本当にふとした拍子に現実で歪んでしまいます」

 

 例えば、かつては誇り高き名門貴族だったはずの、オルコットように……。

 

「でも、歪んでしまったのなら、正せばいいだけですわ。生きている限り、明日がある限り……いつだって遅いなんてことは無いんだって」

 

 そう、彼女に教えたのは他ならぬ、この腕に抱かれた――

 

「姫燐さんではありませんか、わたくしにそれを気付かせてくださったのは」

「オレ……が……」

 

 あの日、織斑一夏に敗北した自分を、慰め、教え、抱きしめてくれた時に感じた、あの胸の高鳴りを、一時一秒たりともセシリアは忘れたことがない。

 この高鳴りは、彼女に会う度、触れあう度に、より強く激しく暖かく鼓動を育んでいき、ついには一線を超える愛情へと華を咲かせた。

 正され、愛が生まれた世界は、孤独に震えたセシリアがかつて求め続けた理想の世界そのままで――だからこそ、他ならぬ今の生身を剥き出した貴女にこそ、思い出して欲しい。

 

「だから、今日が辛いなら明日から、明日が苦しいなら明後日からまた……理想を追えるなら、もう一度、笑うことができるなら、抱え込まずに吐き出してもよろしいではありませんか……そして」

 

「またお顔を上げれるその日まで、わたくしは貴女を見護っていますわ……ずっと」

 

 それだけ言って、セシリアはそっと姫燐から離れて、屋上の出口へ向かった。

 意地っ張りな彼女は、きっと一人じゃないと泣きたくても泣けないだろうから。

温もりを惜しみながらも、冷たい扉に手をかけたセシリアの背中を――姫燐が、抱きとめる。

 

「姫燐さん?」

「オレっ、ひっぐ……おれは……えぐっ、おれはぁ……」

「……ええ、今までよく頑張りましたわね、姫燐さん。貴女はたくさんたくさん頑張ったのですから――少しぐらい、バチなんて当たりませんわ」

 

 セシリアがそう言って、ふわりと赤い髪を後ろ手に撫で――姫燐は、泣いた。

 

「うぁぁぁぁぁぁん!! ぜじりあぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!!」

 

今まで耐えてきた傷を、嘆きを、痛みを、悲しみを、絶望を、心に溜まったドロドロを全て涙に乗せて、セシリアにぶつけるように泣き喚いた。

 月が出始めた宵闇の下、セシリアはただ微笑んで、そんなありのままの慟哭を愛おしそうに受け止め続けていた。

 

      

              ●○●

 

 

 月光と外灯が照らす寮までの道のりを、セシリアと姫燐は歩いていた。

 時間もあってか他に人影はなく、二人っきりの時間がふんわりと流れて行く。

 セシリアはあいも変わらず微笑みを絶やさず凛然とした足取りで、姫燐は俯きながら、それでも少しだけ憑き物が落ちたような表情でセシリアの後についていく。

 思う存分、背中を借りて泣くだけ泣いて屋上を出てから、彼女は終始言葉を発せず、それはまだ複雑な心境の姫燐にはありがたい事ではあったが……いつまでも甘えるのは、気が引けた。

 前を歩くセシリアの制服の端を少しだけ摘んで、姫燐は呟いた。

 

「……ごめん」

「どうして謝られるのですか? わたくしは貴女に非礼など一切受けた覚えがありませんのに」

 

 身長は姫燐の方が高いのに、彼女の背筋が曲がっていることと、妙に子供っぽい仕草から、傍から見ればしっかり者の姉が泣き虫な妹をあやしているような光景に見える。

 

「……その、ごめん」

「うぅん……」

 

 どうにもやり辛い。今までの自由奔放なイメージが先行しがちだが、性根はこれ以上にないほど純情で誠実な彼女からしてみれば、セシリアに迷惑をかけてしまったと思っていることが非常に尾を引いているのだろう。

 どうしたものかと、セシリアは思考をめぐらせて、

 

「そうですわ! でしたら、こういうのはいかかですこと?」

「……えっ?」

 

 とても良いアイデアを、思いついた。

 

「姫燐さんがご迷惑をかけたと思ってらっしゃるのなら、一つだけ、わたくしのお願いを叶えて貰ってもよろしくて?」

「……わかった。オレに出来ることなら、なんでも」

 

 なんでも。と言った姫燐の言葉に、セシリアの微笑みが意味有り気に更なる深みを増した。

 

「本当に、なんでも、よろしくて?」

「ああ……なんでもいい」

 

 自分の発言の無防備さにまったく気付かぬまま、大口を空けたライオンへとスキップしていくような軽やかさで口を滑らせていく姫燐に、セシリアは足を止めて振り返り、姫燐と向かい合って後ろ手を組んだ。

 

「では、これからはわたくしも、貴女の事を『キリさん』と呼ばせてもらえませんか?」

「へっ?」

 

 そんなことで良いのか? 思わず顔を上げ、素っ頓狂な声を出す姫燐の表情からは、そんな感情がありありと見てとれた。

 

「ええ、それがいいんです。これでようやく、あの男とイーブンですもの」

 

 あの男――つまり一夏と何がイーブンなのか分からず、嫌われてこそいないが、やはりどこかよく分からない奴だという評価に姫燐の中で落ち着いてしまう。

 

「わたくしは正々堂々とあの男に勝利するつもりですし……それに、その……」

 

 セシリアは顔をほんのり赤くしながら、ロールした揉み上げを指で弄って気恥かしそうに白状する。

 

「実はわたくし……その、恥ずかしながら生まれてこの方、誰かをあだ名でお呼びしたことが無くて……憧れ、てたのですわ、お二人のような関係に……ダメ、ですか?」

 

 上目づかいでそう告白するセシリアの姿は、月光と外灯のスポットライトを独り占めにして、煌びやかに輝くお姫さまのように見えて――ずっと暗闇に沈んでいた姫燐の胸を、トクン、と動かした。

 なにやってんだかと、あんな顔をされたのに暗々沈んでいては、彼女の魅力までくすんでしまう。

 だからもう一度、この暗闇から抜け出して、歩き出そう。

 背筋を伸ばして、前を向いて、精一杯の笑顔を手向けに――

 

「まさか、なんでも聞くって言ったろ?」

 

 彼女の居る、眩いまでの光の下へと。

 

「で、では……コホン! こ、これからも、末永くず、ずっと……わたくしと……よろしくお願いいたしますわっ、キリさん!」

「……うん、こちらこそ、こんな奴だが末永くよろしく頼むよ、セシリア」

 

 二輪の微笑みが、月下に咲き誇った。

 

「……じゃ、オレは一足先に寮に帰るわ!」

「あっ……姫燐さん! お待ちになってくださいまし!」

「今日は本当に色々とサンキュな、セシリア!」

 

 ポン、とセシリアの頭に手を置いて、そのまま姫燐は速足で通り過ぎて行く。

 

――やっべぇ、なんだアレ可愛い過ぎんだろっ……!

 

 真っ赤になった顔を、必死に悟られない様に闇夜に隠しながら。

 

「お夕食がまだでしょうし、折角ですから何か作ってご馳走いたしますわ!」

 

 急転直下で真っ青になった顔を、全力で悟られない様に足を速めながら。

 

「い、いや、いい。いらない、マジいらない、これ以上迷惑かけれんから、ホント」

「まぁ! まだお気になさっていますの!? 遠慮なんていりませんわ、わたくしが好きでやっていることですもの!」

「ゴメンナサイ、頼むから気にしてください。オレまだ逝きたくないんです、おいしいおやつと暖かいご飯が待ってるんです」

「お菓子……そうですわ、そういうのもありますわよね! 分かりましたわ、今度作って持って来ますわね!」

「あ……あババ……!」

 

 ダメだ。逃げられない。

 病み上がりのため物理的にも口調的にも、セシリアから逃げられない。

 一週間寝込んだトラウマと、どう話を転がしてもそこからロードローラーにでもかけたかのように踏み抜かれていくセシリアのやる気スイッチが、姫燐を本日最高レベルの絶望へと叩きこんでいく。

 

「はっ、ハはひっ、無理っ、やっぱオレもう笑えなくなるかもひっぐ姉……」

「それはきっとお腹が空いているからですわ! わたくしの料理をお食べになれば、きっと暗い気分なんて一瞬で吹き飛びますとも!」

 

 よく知っている。気分どころか、意識まで一瞬で三途まで吹き飛ばされることを本能にまで叩きこまれたから、姫燐はよく知っている。

 もう今日何度目か分からない追いかけっこに、姫燐は決して自分が一人になれない事を悟って――それが、同時にとても嬉しく思えて――だが、捕まる訳にはいかなかった。絶対に。

 だから、ようやく見えてきた女子寮の入り口に佇んでいた彼女の姿に、姫燐は心の底からの安堵を浮かべて飛び付いた。

 

「箒ィィィ! 助けてくれぇぇぇ!」

「なっ、姫燐!?」

 

 走って来たと思ったら、いきなり飛びついて来た友人を困惑顔のまま箒は受け止める。

 

「お前っ、今まで何処へ」

「オレは、オレはまだ死にたくないんだぁぁぁ……」

「はぁ?」

「あら、箒さん?」

 

 あの姫燐をここまで追い詰めるとは何奴かと注視した先には、よく見知った顔のクラスメイトの姿だけであり、箒の頭に疑問符が浮かび上がり続ける。

 

「な、なにがあったのだオルコット?」

「さ、さぁ……わたくしにもサッパリ」

 

 どの口でほざくか。と、思いながらも、箒に気を取られている隙に逃げ出すべく、抜き足刺し足で部屋へ全力疾走を決めこもうとした姫燐の肩を、

 

「まて、何処へ行くつもりだ姫燐」

「そうですわ、キリさん」

 

 空間認識能力が非常に高い二人がむんずと、掴み止める。

 どう足掻いても逃げられない事を悟ったその時……姫燐の精神内に潜む爆発力が、とんでもない暴挙を産んだ!

 

「お、オーケーじゃあこうしようか! まず、一夏を唸らせる一品を作って見せてくれよ! なっ!」

「織斑一夏を……ですか?」

「そうそう! オレは美味いもんなら大抵何でも好きだからさ、アイツすっげぇ料理が上手いらしいし、アイツが認めたモノなら大抵オレも好きだと思うから……」

 

 我ながら色々とヒドい言い逃れだと思いながらも、セシリアは顎に手を当てて真剣な面持ちで思案し、

 

「そう……ですの……なるほど! 織斑一夏を唸らせればいいのですね!」

「あぁ、そうだ! まずは一夏に喰わせてやってくれるか! これからは、なに作っても!」

「ええ、分かりましたわ! 織斑一夏……やはり貴方はわたくしの前に立ち塞がり続けるのですわね……」

 

 微妙に不満そうな表情を浮かべながらも納得してくれたセシリアを見て、心の中で姫燐は左手で一夏に敬礼する。

 お前は何も悪くない。君のお父上とかも特に悪くは無いが、スマンがオレのために死んでくれ。というか、一回くらい貸し返せ。と、心中で想いを馳せながら。

 

「……なんだ、もうすっかり元通りではないか」

「んぁ? ……ああ、いや、まぁ……そうか?」

「うむ、いつも通りの朴月姫燐だ」

 

 腕を組みながら、呆れたような、それでいて嬉しそうな、手のかかる気紛れな子供を見る様に頬を釣り上げて一安心といった風に笑った。

 

「まったく、私がお前を探している間に、なにか良い事でもあったのか?」

「え、探してたって、オレを?」

「ああ、正確には私以外も、だがな。さ、行くぞ」

「は、どこに? って、おい!」

 

 イマイチ要領が掴めない姫燐の腕を掴んで、引っぱっていこうとする箒の前にセシリアが立ち塞がり、

 

「まっ! キリさんをどちらへ連れて行くおつもりで」

「丁度いい、お前も探していた所だオルコット」

「って、ええ!? あ、ちょ、箒さん!?」

 

二人の手を取って、体格が殆ど同じ様に見える同性二人を軽々と引きずりながら、箒は上機嫌で自分の部屋へ向かっていった。

 

 

            ●○●

 

 

「一夏、しょうゆ」

「はいよ、鈴」

 

 エプロン姿の男女の間で、会話と醤油が行き来する。

 

「鈴、そろそろ」

「ん、ありがと」

 

 部屋に備え付けられたキッチンに並んで向かう二人の間に、今度はスーパーの袋から取り出された砂糖が行き来する。

 トントントン、と、ジュウジュウジュウ。

 包丁がまな板を叩く音と、鍋で牛肉を焼く音だけが二人っきりの部屋に鳴り渡る。

 放課後になってすぐ足りない材料を一夏と箒と共に買いに出かけ、そして帰って来てからは大好きな人と二人きりで料理しているというのに、鈴の気持ちは浮かばない。

 どうしても、今から来る予定の人物のことが頭から離れない。

 

「……ねぇ、一夏」

「んー、なんだよ鈴」

 

 久しぶりの誰かとの料理に嬉しそうな、それでいて一切の妥協を許さない真剣一色な表情で取り組む一夏に、鈴が尋ねる。

 

「アンタはさ、疑って無いの……? アイツのこと」

「………………」

 

 誰か、なんて聞き返すまでもない。

 あの戦場に居た、全員が各々に胸に想い秘めた疑念。

 その答えの一つを、鈴は知りたかった。

 

「鈴は、どうなんだ?」

 

 質問に質問で返す非礼も、鈴は気にしない。

 ただ語りあいたかったからだ。一人の人間に映る二つ目の影をどう思い、これからどう付き合っていくつもりなのかを。

 

「あたしは……ハッキリ言って、アイツのことを信じられない」

「…………」

 

 野菜を斬る手を止めて、一夏は鈴の言葉を静聴する。

 

「ただ単に付き合いが短いからとか、気にいらないとかじゃなくて、普通に考えてありえないでしょ。たとえ専用機持ちだとしても、そんじゃそこらの人間が、あたしたち代表候補生よりも強いだなんて」

 

 鈴も代表候補生になるために、もう一度一夏に会うために、血のにじむような努力をしてきた。

 才能に助けられた部分は多々あったが、才能だけで成れてしまうほど、将来はその国の文字通り全てを背負って立つかもしれない存在という肩書は軽くない。

 学力、戦闘力、そしてIS適正。これらの分野で常に他者と競い合い、蹴落としてきた鈴だからこそ――己の実力は一般人が軽々と超えてしまえるモノでは無いことを誇る事ができる。

だからこそ、あの事実を受け入れることができない。

 

「因果は常に応報よ。経過をすっ飛ばせる都合のいい神様なんてこの世には居ない。積み重ねた過程があるからこそ、結果が生まれるの」

 

 鈴が信じるこの理屈を、朴月姫燐と言う人間に当てはめて見れば、その結果は納得には程遠く、あまりにも歪。

 

「あたしからすれば、あんなデタラメな強さをしてる奴が、数か月前までただの中学生やってましたって言われるよりも、あのヤバい連中の隊長やってましたって方がずっと納得できるし、辻褄が合うわ」

 

 専用機を纏って現れた、二人の侵入者。

 自分のように男のために、スポーツとしてISを極めようとした人間とはまったく違う、任務のために人を傷付け、奪い、殺すためにISを使う人間。

 もし彼女が、本当にそんな奴らのトップに立つ隊長と呼べる立場にあったのだとしたら――代表候補生など、モデルガンを貰っていい気になっている子供とさして変わらなく見えるだろう。

 鈴の力強い言葉を、一夏は否定することが出来なかったし、

 

「……俺も、そう思うよ」

 

 むしろ、強い同意すら覚えていた。

 強くなるということが、一朝一夕で出来るほど容易くないことを、一夏は誰よりも理解している。

 

「なら、話は速いわ。悪いこと言わないから今後、アイツとつるむのは止めなさい。いつか、本気で取り返しのつかない事になりかねないわよ」

 

 嫉妬や、損得や、悪意からではない。純粋な警告として、そんな事を言えば一夏に嫌われるだろうことを理解し、覚悟してまで、鈴は冷たく彼に決別を薦める。

 だが、一夏は再び野菜を刻む手を動かしながら、こう答えた。

 

「嫌だ、俺はキリと一緒にいる」

「どうしてっ!」

 

 物分かりが良いのか悪いのか。先程と言っている事が矛盾している一夏に、鈴が喰いかかる。

 

「アンタ分かってたんじゃないの!? 姫燐は絶対にマトモな奴じゃないって」

「そうだな、キリはマトモじゃないよ」

 

 そんなことは今更言われなくても、彼女と多くの時間を共有してきた一夏が一番よく知っている。

 

「でも、俺はキリに返しきれないほどの貸しがある。それを返すまで、俺はキリの傍を離れない」

「……そのためなら、どんな危険な目にあっても構わないっていうの?」

 

 だとしたら、どれほどお前が向う見ずで無鉄砲で唐変木なのか、徹底的に罵ってやろうかと考えていた鈴の目論見は――綺麗に外れることになる。

 

「んー、それは困るな。だって俺、愛されてるし」

「………………は?」

 

この男から縁だらけだというのに、呪われたように無縁だった『愛される』と言う言葉を、他でも無い本人の口から叩きつけられて、鈴は一瞬、今この瞬間に心臓麻痺あたりで死ぬんじゃないかという、錯覚を本気で覚えた。

 

「えっ、ちょま、愛され? 愛されてるってアン、ああああ、あんた?」

「いや、自分で言うのも少し恥ずかしいんだけどさ……この前、千冬姉に似たような事を言われて」

「千冬さんからッ!!?」

 

 鈴の脳内で、背徳的な回想が急速に組み立てられて行く。

 確かに前々から姉弟にしては異常に仲良かったし、中学時代も千冬さんが居るから部活に所属していなかったようなもんだし、昔学校でグラフのようなモノを作ってた時になにしてるのか聞いたら「千冬姉の日々の飲酒量をグラフにしてんだけど」とか言い切りやがった事もあったけれども、まさかとうとう一線を超えるとは。

 いや、むしろあんだけベタ惚れだったのだから遅かった方なのかもしれない。というか、こんな異性だらけの学校で一夏が未だに男のリピドー関連の問題を起こさないのは、千冬が日頃から管理しているからでそうすれば理解も納得もしたくないけど出来て……。

 

「……鈴?」

「ハッ! ダメよ一夏! そういう事は、せめて幼馴染で我慢しなさいッ!」

「ゴメン、ちょっとなに言ってるか分かんない」

 

 まぁ、いつもの千冬姉を知ってるなら混乱しても仕方ないかと、気にせず一夏は続けた。

 

「いやさ、俺って、俺が思ってた以上に千冬姉から愛されてたみたいでさ。だから、あんまり心配させたくないし、危険な目には出来れば会いたくないかなーって」

「じゃあ、どうするのよ? 間違いなくトラブルしか起きないわよ、アイツの傍は」

 

 それも、分かっている。

 きっと彼女と歩む道の先には、この前の襲撃者が、それ以上の存在が、下手をすれば彼女自身が立ち塞がるのかもしれない。

 だからこそ明確に、これから先なにをすればいいのか、どう生きて行けばいいのかが、既に一夏には見えていた。

 

「強くなる」

「えっ?」

「俺は強くなるよ、鈴。何が襲いかかって来ても危険じゃなくなるぐらい、キリの傍でも笑ってへっちゃらだって言えるくらい強くなってやる」

 

 彼女を護り抜くことを、この腕で抱きとめることを、あの笑顔を曇らせないことを、織斑一夏は夢見たのだから、もう迷わない。見失わない。躊躇わない。

 

「今はまだ、全然だけど……それじゃ、ダメかな?」

 

 そう言って真っ直ぐにこちらを射抜く瞳は、既に鈴が知るあどけない少年の眼ではなく、確かな覚悟を宿した男の眼差しをしていて、

 

「……バカじゃないの?」

「ははっ、最近よく言われるよ」

 

 それを阻める女なんてこの世に居ない事を知り――

 

「……ま、いいんじゃないそれで。アンタはアンタらしいバカさを貫けば」

「ああ、バカは頑張るよ」

 

鈴も、少しだけ自分が大人に近付いた気がした。

 アツアツに焼けた牛肉から立ち上っては、消えて行く煙を見上げながら、ボソッと呟く。

 

「……遅すぎた、かなぁ」

「あぁぁ! 遅いぞ鈴っ! 肉が、折角の良い肉がっ!」

「えっ……あ、ヤバッ!?」

 

 焦げ目が付き過ぎた焼き肉を即刻退避させ、斬り終わった野菜と調味料を加えながら、コゲ肉のコゲを誤魔化す方法を必死に考えている内に、

 

「一夏、二人を連れてきたぞっ!」

 

 同居人が、本日の主賓を連れて帰って来た。

 

「おかえり、箒。それといらっしゃい、キリ、セシリア」

「お、おう、どうも」

「お、お邪魔しますわ」

 

 濡れた手をエプロンで拭きながら、そそくさと三人分のスリッパを取り出し、鞄を受け取って、満面の笑みで二人を室内へと案内する。

 

「もう出来上がるから、ちょっとそこで座っててくれ」

「あ、私も手伝おう、一夏」

 

 そして、リビングに置かれたコンロが乗った丸テーブルへと二人を招待すると、またそそくさとキッチンへと戻っていった。

 

「……主婦かよアイツは」

「まぁ、これは何ですの? キリさん」

 

 言われるがままに既に箸や小皿が人数分揃ったテーブルへと着きながら、堂に入ったオカンっぷりに白い眼をする姫燐と、生まれて初めて見るコンロに興味深々のセシリア。

 

「ああ、コイツはコンロって言ってな。この上に」

「はいはい、熱いよ熱いよっ! どいたどいた!」

「まぁ!」

「おぉ……」

 

 姫燐の説明途中だが実物を見せた方が早いと言わんばかりに、鈴が湯気が立ち上る大きな鍋をコンロの上に乗せ、着火した。

 中には野菜やお肉、しらたきや焼き豆腐が所せましと詰め込まれており、それらをコトコトと煮た際に溢れた濃厚な煮汁から醸し出す香りが、丁度空腹だったセシリアと姫燐の鼻孔をくすぐる。

 

「まぁまぁまぁ! これはなんと言う食べ物ですのっ?」

 

 空腹時には何でもごちそうに見えると言うが、それを差し引いても故郷のイギリスでは存在すらしなかった器具で作られた未知の料理に、セシリアがうっとりと瞳を輝かせた。

 

「ふふん、それこそが料理大国日本が誇る伝統的鍋料理……すき焼きよっ!」

「これが……スキヤキ……」

「ふっふっふ……まだまだ、これで完成じゃないのよ」

 

 不敵な笑みを浮かべながら、鈴は懐から生卵を取り出して、片手で器用にそれを割り、小皿に入れる。

 

「こうやって、生卵を溶かして、っと」

「それで、どうするんですのっ」

 

 割り箸を小皿の中に入れ、箸で容器の底につけて一気にかき混ぜて行く。

 綺麗な溶き卵になった容器の中に、鍋からすくった良い感じに煮だった肉を入れ――ようとした所で、幼児向け工作番組のマスコットのように感嘆しながら見守っていただけだったセシリアが異を唱えた。

 

「お待ちくださいまし! どうして生卵をお肉につけるのです!?」

 

 実は生卵をそのまま料理に使うという文化は、実は日本以外には存在しない概念であり、外国人には非常に奇怪に映るという。セシリアもその例に漏れず、自分の一般常識では考えられない暴挙に目を丸くして戸惑う。

 

「どうしてって、その方が美味しいからに決まってるじゃない」

「なんですって!? そんなことをしたらお肉が汚染されて」

「あーもう! グダグダ言う前に、一回食べてみなさいって!」

「しもごっ!」

 

 ぺちゃくちゃ小うるさいセシリアの口に、鈴の肉を摘んだ箸が突っ込まれる。

 

「むぅーっ!? むっ……むむむ?」

 

 始めは何てモノを口に入れてくれたのだとか、初あーんを姫燐以外の人間に捧げてしまっただとかで憤慨していたセシリアだったが、口に入ったお肉を一噛み、二噛みとしていくうちに、生卵特有の甘みと、煮汁がよく沁み込んだ肉が絡み合ったハーモニーが広がっていき……

 

「すごく……美味しいですわっ!」

「当然よ、アタシと一夏が作ったんだもの」

「鈴さんと……織斑一夏が?」

「あっ、お前らもう食ってんのかよ」

 

 噂をすれば影と、一夏と箒も人数分の湯のみと、お茶が入ったペットボトルを手にリビングにやって来る。

 

「む、不作法だぞ。鈴、オルコット」

「あはは、ゴメンゴメン。セシリアがあんまりにも目を輝かせてたからつい」

「わ、わたくしは淑女ですわよ。そ、そんな、未知の料理一つで子供のように」

「ちなみに、生卵をつけないでっていうのも、これがまた美味しくて」

「本当ですのっ!?」

 

 ちょろい。皆の脳内でそんな単語が浮かび上がった。

 

「ま、箒もそうやっかむなよ。少しくらいなら良いだろ?」

「む……だが、今日は姫燐のための」

「分かってるよ」

 

 お茶を湯呑に注いで、一夏はさっきから黙りっぱなしな姫燐の前に置き、自分も隣に座った。

 

「はい、キリ」

「……なんでまた、すき焼き?」

 

 いきなり連れて来られたと思ったら、唐突に始まったすき焼きパーティについて姫燐が尋ねる。

 

「このまえ賭けたじゃないか、お前に負けたら飯おごるって」

「あ……あー、そういえばしてたな、そんな賭け」

 

 白式を一夏が初めて起動させた時に行った模擬戦で、確かにそんな賭けをしていたことを姫燐は思い出した。

 賭けを持ちだしたのは他ならぬ彼女なのだが、それから様々なイベントが立て続けに置き過ぎて完璧に失念していたし、何よりも学食で軽くおごってもらうつもりで言った賭けだったため、ここまで本格的に豪勢な物を振る舞われるとは想像もしていなかったのだ。

 

「それに、キリにはずっと世話になりっぱなしだからさ。俺も何かお返しがしたくて」

「そ、そうか……」

 

 その場で思いついた賭けと、自分がしてきたお節介の見返りとしては、余りに分不相応に思えた御馳走に戸惑いを隠せない姫燐を余所に、一夏は右腕が不自由な彼女に代わって小皿にすき焼きの中身を掬い取り、

 

「はい、どうぞ」

「お、おうサンキュ」

 

 お箸と一緒に、姫燐の前に置いてあげた。

 

「さ、みんな揃ったし食べようか」

「さんせーい! アタシもお腹ぺこぺこ」

「では、頂くとしようか」

「では、天にましま」

「いただきまーす!」

「あ、ちょ、貴方達!」

 

 天に祈るという習慣がサッパリなセシリア以外が、いただきますの一声だけ発し一斉に鍋に箸を伸ばし始めた。

 

「へへーん、お肉いただきっ」

「おい、鈴。ちゃんと野菜も食えよー」

「まったくだ。ほら、先に野菜から取ったらどうだ?」

「俺は知ってるからな、箒も大概肉しか食わないの」

「う、うるさいっ! それは昔の話だっ!」

「あ、あらっ? このお箸とやら、どうやって使えば」

「ん、悪いセシリアはスプーンかフォーク用意したほうが……?」

 

 皆が思い思いに鍋を楽しんでいるのに、箸を持ったまま一言も喋らない姫燐の姿が一夏の目に止まった。

 目前に置かれたすき焼きの小皿にお箸を伸ばしてはいるのだが、プルプルと箸先が震え、思う様に白菜を摘めないで悪戦苦闘を繰り返しており、

 

「……もしかして、キリって右利き?」

「っ!?」

 

 突然かけられた言葉に、勢い良くバッと顔を上げる姫燐。

 反応から察するに、図星のようだった。

 

「悪い、気が利かなくて」

「べ、別に、箸使えなくったって食う方法なんざいくらでもあるっての」

「犬食いはダメだぞ、ほら口開けて」

「む……あむっ」

 

 見栄こそ張ったが食べづらかったのは確かなので、ここは素直に彼の好意に甘えることにし、少しだけ躊躇いがちに姫燐は口を開き、一夏が小皿から取って来てくれた白菜を食べさせてもらう。

 小皿に取り分けられたおかげで丁度いい温度になった白菜は、硬すぎず柔らかすぎず、それでいて瑞々しく、文句のつけようのない味が噛めば噛むほど口の中を満たして行き、

 

「……美味い」

「そうかっ! じゃあ、肉も食うか?」

「……あぁ」

 

 今度は少しだけ奮発して買ってきた、高めの牛肉を姫燐の口へ運ぶ。

 二度目とあって、今度はすんなり抵抗もなく口を開いて、牛肉を食べさせてもらう姫燐。

 無言で肉を咀嚼していくが、その表情に浮かぶ満たされる者特有の幸福感は、料理人の笑顔を最も飾り付ける最高のスパイスで、

 

「……おぃ、一夏?」

「ん? どうしたほ……ぅ……」

 

 同時に、全開の殺気を宿した鬼の双眸は、別に料理人でなくとも、氷水の泉に叩き落とされたような感覚を背筋に走らせた。

 

「貴様は一体……当然のように何をしている……」

「え、何をって俺はキリに…………あっ」

 

 ここでようやく、自分達が友人達の目の前で、どれほどの行為を見せつけていたのかを一夏は悟った。

 一夏の顔が、羞恥と恐怖で一人紅白まんじゅうのようになる。

 

「あっ、いや、これはその……仕方ないよなっ、鈴っ、セシリアっ!」

 

 自分の無実と正当性を、他の友人二人に訴えようと声をかけるが、

 

「それにしても、すき焼きは美味しいですわねー」

「ソウヨネー、スゴクオイシイワネー」

「でも、もう二度とこの味が食べれなくなるのは少し残念ですわね―」

「ソウヨネー、スゴクザンネンネー」

 

 まな板に乗った魚のような目をしながら、固有結界を形成して二人だけの鍋パーティを楽しんでいた。一夏がどれだけ必死に声をかけてもオールスルーである。

 

「さて、一夏よ……実は最近、私も料理に凝っていてな……お前に一度裁き方を見て貰いたかったのだ……」

「とりあえず、木刀は絶対に料理には使わないから仕舞えッ!」

 

 ゆらりゆらりと、陽炎のように身体を揺らしロッカーから木刀を取り出した箒を止める為には、姫燐本人を味方につけ、共に弁明するしかないと一夏は即断する。

 

「姫燐からも何か言って……く……え?」

「ふぇ?」

 

 その場に居た全員の視線が一身に集まって、肉を呑みこんだばかりな姫燐の喉から変な声が漏れた。

 少し考え事をしていたため話は聞いていなかったが、いったい何で一夏も、箒も、セシリアも、鈴も、みんなオレの方を向いて泡食ったような顔してんだと、姫燐は小首を傾げ――一筋の雫がスカートにこぼれ落ちる。

 

「あれ……?」

 

 一つ落ちた雫は二つに、二つ落ちた雫はもっと多くの涙になって。

 姫燐の目蓋から、ポロポロと流れ落ちていた。

 

「あっ……アンタっ!? アンタがそんな鬼みたいな顔するから……!」

「わ、私のせいなのかっ!? いや、それ以前に姫燐はこの程度で泣くタマでは」

「キリさんは貴方が思ってるよりも、ずっと繊細な方なのですわっ! ここは日本伝統の詫び方であるドゲザとやらで誠意をですね……」

「ごめっ! キリ、なにか変な物でも入ってたか!?」

 

 あまりに突然かつ異常な事態に、先程までの殺伐な空気は一瞬で薄れ、加害者も被害者も、傍観者までもが皆一丸となってオロオロと右往左往する。

 

「いや、ちげぇよっ、おかしいなっ……辛くも、寂しくも、悲しくもないのにっ、涙が、止まんなくて、あれっ?」

 

 なにバカやってんだと袖で目尻を擦っても、次から次へ落涙は一向に収まらない。

 

「オイオイっ、なんでだよ? なんでっ、泣いてんだよオレはっ」

 

 少し考えていただけなのに。

 同性愛者で、嘘つきで、狂っていて、裏切り者かもしれないような奴なんかのために、こんなにも暖かい居場所をくれるコイツ等は、本物のバカだって考えていただけなのに。

 美味しいなって、楽しいなって、嬉しいなって、そんな当たり前の感情が心に滲んだだけなのに。

 それが――すごく大切で、幸せな事に思えただけなのに。

 

「す、すまなかった姫燐っ! いつもの悪い癖が、また出てしまった」

 

 木刀を捨て、箒がワナワナと震える姫燐に駆け寄って屈みこむ。

 

「ははっ、おまえも、それいい加減なおせよっ。そうしねぇと……」

「そ、そうしないと?」

「そうしねぇと……」

 

 にぃ、と頬に流れる涙も払わず、姫燐は頬を釣り上げながら、

 

「オレが頂いちまうぞっ!」

「えっ、わひゃあ!?」

 

 その豊満なバストに飛びこむようにして、箒を押し倒した。

 

「なななっ、何をする姫燐っひゃあ!?」

「うっせぇうっせぇ! こんな殺人的なバストしてるってのに、いつまでもチンタラチンタラ……折角の大火力を活かせよバカっ!」

「い、活かすとはってかっかかか顔を、擦りつけるなっ! コラっ!」

「そそそっ、そうですわ箒さんっ! いつまでキリさんを抱いているおつもりですか!?」

「どうみても姫燐が抱きついているだろうこれはヒっ!? 何処を触っている姫燐!?」

「うぇへっ……うぇへへっ……へへへっ……!」

 

 涙と笑い一緒に渦巻いて、止まらない。

 だがそれは、矛盾に溢れた強がりの仮面なんかではなく、心からの幸せを感受する一人の少女の、素晴らしい笑顔だった。

 

「あーあ……何やってんだか」

 

 ゴロゴロとじゃれ合う三人がテーブルを蹴り飛ばさないように見張りながら、一歩引いた目線で鈴が呟く。

 

「はははっ、でも、ようやくキリらしくなってきたよ」

「ふぅん、あれが姫燐らしいの?」

「ああ、俺が大好きな、いつものキリの笑顔だ」

 

 その一言は、愛する男が何気なく言った、別の女に向けた『大好き』という言葉は――思ったほど、鈴の胸を揺さぶらなかった。例えばそれは、

 

「……確かに、いい顔してるわアイツ。今までみた、どの笑顔よりも」

「だろ?」

 

 強く咲き誇る花を「美しい」と評することに、誰も憤慨を抱かないのと同じように。

 一夏と鈴は、彼女達を見護りながら確かめ合う。

 

「……あたしさ、やっぱり姫燐のことが信用できないってのは変わらないし、変えられないけど……こうも、思ってるのよ」

「うん」

「いつまでもこんな風に、みんなと居られたらいいな……って」

「……ああ、俺もだよ。鈴」

 

 夜はゆっくりと更けていく。

 多くの疑念と、確信と、笑顔を積み重ねながら――また、明日の朝を迎える為に。

 

 

                ●○●

 

 

 まだ焼けつく様な痛みがする胃を抱えながら自室を出た一夏は、すき焼きパーティをした次の日から数えて『一週間ぶり』の外の空気を紫煙のように大きく吸って堪能する。

 ああ、生きてるって素晴らしい。死地から生還した彼を、柔らかな朝日が、小鳥たちのさえずりが、まだ動いている心臓の鼓動が、すべて自分のために壮大なパレードを開いているようにすら思えた。

 箒は自分の看病を終えて、一人トレーニングへと向かっている。いつまでも自分の看病なんかに時間を取らせるのは心苦しかったので、身体が動くようになったからもう大丈夫だと少し強引に送りだしたのだ。

 食堂に向けて、異様に軽い足取りで一夏は歩み始める。

 

「さて、なにを食べようかなっ」

 

 流動食以外なんて久しぶりで、一夏の目頭に思わず熱いモノが込み上げる。

 あまり消化の悪い物はまだ食べれそうにないので、うどんかソバ辺りがベターだろうか。

 まぁ、なんでも構わないか。胃壁がパージするような激痛に苛まれないモノ以外なら何でも、と歌でも一つ歌いたいようなイイ気分で歩く一夏の前に、ひょっこりと扉を空けて部屋から出てきた影と、視線が合う。

 

「んぁ?」

 

 一本だけアンテナが立った短い赤髪。一夏から見ても充分に女性らしさに溢れた身体。右腕にはギプスをはめて釣り下げて、いつものズボンの制服を纏い上着をジャケットのように着込みながら、

 

「おはよう、キリ」

「オッス、一夏!」

 

 織斑一夏の協力者は、前よりも更に素敵になった太陽のような笑みを浮かべた。

 

 

              ●○●

 

 

「ったく、腹痛で倒れたって織斑先生から聞いた時はマジみんな心配してたんだぜ?」

「ははっ、悪い悪い。やっぱり、いつの間にか冷蔵庫にあったクッキーなんて食べるもんじゃないな」

 

 HRが始まる前の一年一組の教室で、一夏は自分が居なかった一週間の話題を傾聴していた。

 

「まー、オレも一週間ぐらい腹痛こじらせた事あるからよく分かるけど、確かにアレはヤバかったなぁ」

「そういえば、キリも一週間ぐらい寝込んでたことあったっけか?」

「ああ、一週間、胃がバラバラに引き裂かれるような痛みがずっと引かなくてな……」

「そうか……一週間も……ん?」

 

 奇妙な符合に何かが繋がりそうな一夏を余所に、姫燐は軽い溜め息を一つ吐き――サッと素早く背後を振り返ると、

 

「そこだぁっ!」

「きゃあぁぁ!?」

 

 すぐ後ろに居た、クラスメイトの乳を思いっきり揉みしだいた。

 

「え……なぁっ!!?」

 

 特に脈略もないセクハラが女子生徒を襲い、一夏の脳内で同級生への性的嫌がらせで退学処分に追い込まれたIS学園の女生徒の新聞記事が一面で出来上がる。

 どのようにして姫燐の無罪を勝ち取るか、即座に閃きアナグラムしようと目を瞑った一夏であったが、

 

「もーっ、織斑くんと喋ってる時なら絶対いけると思ったのにー!」

「はーっはっは、残念無念。普段のオレに、そんなチャチな不意打ちは通用しないぜぇ?」

「くぅぅぅ……次は絶対に揉んでやるんだからねっ、朴月ちゃん!」

「おうっ! オレはいつ何時、誰の挑戦でも常時受付中だ!」

 

 そう捨てゼリフを残してスゴスゴと退散したクラスメイトは、教室の隅に出来た生徒の一団へと戻っていった。

 織斑くんとのお話中も無理だったわね。食事中はどうかしら? いっそトイレに突撃してみる? と、真剣に不味い気がする話し合いを、真剣な顔をしながら決めこむ彼女達の姿を指さし、眼を丸くして一夏は尋ねる。

 

「えっと……その……なに、あれ?」

「ふっ、オレは受けた屈辱は必ず返す主義でね……。なぁに、ちょいと色々あって揉むか揉まれるかの戦いに発展しただけさ」

 

 ニヒルにカッコつけて笑う姫燐に、固まって姫燐へ熱い視線を送るほぼ全てのクラスメイトに、一夏はどうしようもないまでの距離感を感じた。

 

「まったく……またやっているのか、お前らは」

「よくもまあ、諦めませんわねぇクラスの皆さまも」

「あ、おっはよー、箒、セシリア!」

 

 少し遅れて、箒とセシリアが呆れ顔で教室へ入ってくる。

 

「……なぁ、箒。あれ」

「言うな……最近、私まで狙われてるような気がするのだ……あまり考えさせないでくれないか……?」

 

 確かに箒が教室へ入って来た瞬間、一団の視線の一部が箒の――正確には、箒の胸に集中砲火されていたような気がした。

 

「まったく、デリカシーに欠ける方ばかりですわ……こういうのは、ちゃんとムードを作ってから……」

 

 一人だけブツブツと小声で呟くセシリアが何を言っているのかは分からなかったが、もうここは自分が知っているお淑やかな女生徒が通っていた一年一組ではないことを、少年は薄々悟り始めていた。

 

「まぁ、それも恐らくは今日までだろう」

「ええ、そうですわね」

「えっ……? 今日、なにかあるのか?」

 

 疑問符を浮かべた一夏に、箒とセシリアも一瞬だけ彼が何を言っているのか思案して、

 

「箒さん、織斑一夏に伝えて無かったのですか?」

「そういえば、言ってなかったか。今日、フランスの代表候補生がこのクラスに転校してくるそうだ」

「はぁっ!?」

 

 自分の知らない内に改革が進み過ぎている一年一組に、たった一週間でジェネレーションギャップを一夏は感じてしまう。

 

「なんで教えてくれなかったんだよ箒!?」

「いや……教えても、マトモに聞けたか? あの時のお前が」

「……ごめん」

「しかも、それだけではありませんことよ織斑一夏っ!」

 

 自分のことではないのに、妙に誇らしく胸を張りながら、背の高い一夏を精一杯見下すようにセシリアはスマートフォンを懐から取り出し、一夏に突き付けた。

 光る画面には、ちょうど一週間前の日付のニュースが表示されており……

 

「なになに……『フランスで第二の男性適合者発見。急遽、IS学園へ編入決定』……って、えええッ!?」

 

 男性適合者――つまり、男が、自分以外にもこの学園へやって来る。

 もう何度目か分からない驚愕に、まだ全快していない喉が痛みを発し始めていた。

 

「な、なんで、男でIS動かせるのって、俺だけなんじゃ……?」

「おほーっほっほっほ! 古い、古さが爆発しすぎていますわ織斑一夏ッ! 貴方の時代、既に終りが近付いていますことよ!」

「にわかには信じ難い事だが、どうやら本当の事らしい」

 

 信じられない。様々な感情が渦巻くが、ひときわ頭の中にリフレインするのはこの単語だった。

 自分の時だって、ごく平凡な生活が一瞬にしてお祭り騒ぎのように豹変するほどの大事件が、もう一度、それも海を超えた向こう側で発生し、さらに今日、この学園にやってくるというのだ。

 名前は『シャルル・デュノア』。デュノア社という所の御曹司らしいが、非公開にでもしているのか顔写真まではついていなかった。

 あまりにも多くの衝撃を一気に詰め込まれ、クラクラしてきた頭を抱えながら一夏は、行儀悪く机に座る姫燐に小声で尋ねる。

 

「な、なぁ……マジなのか? もう一人、男の操縦者が見つかったって」

「ふぁぁ……んー、そうらしいなぁ」

 

 深刻そうな一夏とは対照的に、心の底からどうでもよさそうな態度で姫燐はあくびをかみ殺す。

 

「な、なんか、凄くどうでも良さそうだな……?」

「え、だって、男だろ? ソイツ」

「ああ、そう……」

 

 世間一般の認識ではともかく、彼女の価値観に当てはめれば、この無関心さ加減も非常にすんなり納得できた。

 

「どーせ、筋肉モリモリマッチョマンの紳士か、ボンジュールってバラ持って女漁るような奴だろ、フランスだし」

「お前フランスから殴られるぞ……」

「べっつに、どうでもいいさ。オレはよく分からん男なんざよりも……」

 

 自分の背後から、ゆっくりと手を伸ばそうとしている気配を察知して、

 

「そのオッパイに用があるッ!!!」

 

 振り返ると同時に、姫燐はその両手を豊満な双丘へと伸ばし、『黒い女性用スーツ』の生地越しに触れよ――

 

「ふんっ!」

「ごべふっ」

 

 うとして、世界最速の出席簿スイングで横っ面を叩かれ、まるでカンフー映画のような見事な四回転半転倒を決めた。

 

「キリぃぃぃぃぃ!?」

「HRの時間だ! 貴様ら、いつまで遊んでいる! 席につかんかっ!」

 

 白眼を向く姫燐の襟首を掴みながら発せられる千冬の恫喝に、浮足立っていた生徒達が蜘蛛の子を散らしたように自分の席へと帰っていく。

 それを見届けたあと、姫燐を彼女の席へと投げ捨て教卓へ戻り、いつも通り千冬と共に教室へ来ていた真耶と共に出席確認を開始する。

 気絶した姫燐以外の出席を確認すると、いつも以上に厳格な雰囲気を纏いながら千冬は、あの話題についての話をはじめた。

 

「さて、貴様らも既に知っていると思うが、今日うちのクラスに転校生が来る」

 

 ざわつき出した生徒達を、出席簿を教卓に叩きつけて一喝し――真耶の肩も跳ね上がったが――千冬が続ける。

 

「どこかの不良のように、手も頭も思考も軽くない貴様らなら一々口で言わなくとも分かるとは思うが、これから来るのはフランスの代表候補生であり……織斑と同じ、男性操縦者だ」

 

 ワッ、と沸き上がりかけたクラスを、千冬は己の眼光で制し、

 

「無理に仲良くしろ、とは言わんし、交流を深めるな、とも言わん。だが節度は護れ、以上だ……山田先生」

「は、はいっ!」

 

 千冬に言われ、真耶が開きっぱなしの扉の向こうに居る転校生に声をかける。

 

「では、入って来てください! デュノアくん!」

「はい」

 

 たった一言の返事で――教室の空気が変わった。

 セシリアとはまた、別種の気品を纏った澄んだ声と共に、デュノアと呼ばれた男は教室へと足を踏み入れる。

 一歩一歩、前をしっかりと見据えながら、教卓へと足を踏み出していく。

 そんな誰にでも出来る動作が、彼というモチーフを得るだけで、歴史ある演劇や絵画の世界のワンシーンにすら思えてしまう程の、エレガントさ。

 朝日を浴びて輝く金色の髪を流し、一夏と同じデザインだというのに礼服に思えてしまう純白の制服を纏い、男だというのにまるで天使のようなあどけない微笑みを口元に宿しながら、

 

「シャルル・デュノアです。フランスから来ました、よろしくお願いします」

 

 ……この時点で、起こり得るだろう災害の予想が付いた一夏は、口を僅かに開いて、耳を塞いだ。

 それからワンテンポ遅れて爆発する、黄色い大喝采。

 突然浴び去られた音の爆撃に、狼狽を隠せていないシャルルに同情しつつも、俺が色々と教えてやらないといけないな。という、この女だらけな学園生活の先輩としての使命感が湧きおこる一夏。

 そのためには、姫燐にも協力を頼んだほうが楽だろうと耳を開き、呆けたような顔してデュノアを見つめる彼女へと放課後に約束を取り付けようとして振り返り、

 

 

「…………かわいい」

 

 

 溜め息のように吐き出されたその言葉に、織斑一夏は間違いなく本日最大級の衝撃を受けた。




~あとがき~
タイトルの元ネタ兼、脳内EDテーマは森久保祥太郎さんの「Lazy Mind」。

織斑一夏&セシリア・オルコット最強のライバル出現の巻き。
それとこんなに時間と文字数がかさんだのは、すべてポケモンXってゲームのせいなんだ。


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第21話「嵐の転校生」

 生徒会室に差しこみ始めた朝日から背を向けるように、彼女は座っている椅子を回転させて向き直った。

 一目見ても高級な代物だと分かる重厚な机と、その向こうで緊張した面持ちで椅子に座る生徒を映しだした赤い瞳が軽く閉じられ、代わりに彼女が手に持った扇子が口元で開き『統制』の二文字が開く。

 

「つまり、新聞部部長である貴方は、よりよいアングルを求めて朴月姫燐さんの提案に乗った……と、いう訳であってるかしら?」

「は……はい、間違いありません」

 

 生徒会長。と書かれたプラカードが乗った机に置いてあった、姫燐が作った第三アリーナの詳細な構図のデータが入ったメモリーカードを手に、彼女は満悦そうな笑みを浮かべる。

 

「す、少しまえ朴月さんに、カメラをしばらくの間かして欲しいって頼まれまして、でもウチの部費で買ったカメラですから、渡すなら相応の物が欲しいって言ったら……」

「このデータを作るって言われた、と?」

「はい……」

 

 確かに数多のイベントが執り行われる第三アリーナのマップデータは、常にベストポジションを確保しておきたい新聞部部長の彼女からしてみれば喉から手が出るほどに欲しい一品だっただろう。

 会長の隣で控えていた、眼鏡をかけたポニーテールの女性が、その奥の鋭い眼光を光らせる。

 

「だけど、これがもし外部に流出すればどうなってしまうか……分かりますよね?」

「で、でも、まさか、ここまで完璧な物を作ってこられるとは思っていなくて」

「分かりますよね」

 

 言い訳はいらない。

 彼女の強い言葉にはそんなニュアンスが多分に含まれており、部長の背筋を畏怖に振るいあがらせる。

 

「まぁまぁ、そんなに怖い顔しなくてもいいじゃない虚」

「ですが……」

「別に悪用はされなかったし、それどころか人命救助の役に立ったんだから、結果オーライよ」

「会長……」

 

 会長のフランクな態度にホッと、部長は胸をなで下ろすが、

 

「でも、これは没収ね♪」

「はい……」

 

 しっかりと締められるところは締められ、もう席を外して良いと言われても、最後まで部長の肩は下がったままであった。

 扉が閉まり、二人きりになった生徒会室に、虚の溜め息が溶けていく。

 

「らしくないわねぇ、あなたが熱くなるなんて」

「……お嬢様は、何も思わないのですか? 彼女について」

「何も思わないと……思うのかしら?」

「いえ、愚問でした」

 

 俯き、思い詰めたように机に置かれたデータを虚は見下ろした。

 朴月姫燐。今回の第三アリーナ襲撃事件を犠牲者一人出さずに解決した立役者であり、同時に最有力容疑者。

 救出部隊と、イギリスと中国の代表候補生、そして織斑一夏のISの記憶装置から取り出した事の一連は、様々な事件に立ち会って来た彼女達の眼を通しても不可解としか言いようが無かった。

 第三アリーナを突き破り、どこの国が開発に成功したとも聞かない無人のISをほぼ独力で撃墜したと思ったら、新たに登場した敵機に酷く取り乱し、最終的には酷い錯乱状態にまで陥った。

 これらの行動を、本人は「無意識のこと」だと一貫して主張を続けている。

 無人機の撃墜までならまだ納得はいくのだが、その後の専用機達への行動は無意識だけで片付けるには、不審な点が多すぎる。

 何よりも、侵入者が彼女のことを知っており、「キルスティン隊長」と親しげに呼んでいたことが大きな疑念を呼ぶ。彼女達については「初対面だ」と姫燐は言っていたが、ならばなぜ「キルスティン」という名前にあれほど動揺したのか?

 その答えは――彼女が一番知りたそうであった、と尋問をした教師は語っている。

 

「精神鑑定も完全に白。薬物反応なども、打ち込まれたという鎮静剤らしきもの以外は一切検出できませんでした」

 

 つまりは、完全な手詰まり。

 逃げ出した敵機の行方も分からない以上、白と判定するにも黒と断定するにも、証拠が足りず――とりあえずは、監視を続ける方針で上層部を納得させられたのは織斑千冬の口添えも大きかったとは思うが、

 

「まったく、頭がお堅い連中の相手は毎度ながら疲れるわぁ」

 

 ここで畳んだ扇子を使って肩を叩く、水色の髪をした生徒会長の影響も多分に含まれていた。

 無論、彼女がただの全校生徒の代表というだけなら、歯牙にもかけられなかっただろう。

だが、あくまで『IS学園生徒会長』というのは、彼女の数多い肩書の一つ。

 

「『楯無』ともあろうお方が、あの程度の者共を説伏せるのにお疲れで?」

「まさか、言ってみただけよ虚」

 

そう、彼女は『楯無』。

世界の闇と渡り合うために、その身を影へと落とす一族、『更識家』17代目当主。

 

「私は楯無――分かってるわ」

 

 これから自分が、『更識』が成さなくてはならない事を。

 椅子から立ち上がり、扇子を口元に当てながら楯無は出口へと歩み出す。

 

「虚は放課後、翌朝まで帰ってこないわよね?」

「はい、すぐに護衛対象の警護へと向かいます」

「ふふっ、毎日御苦労さまねぇ」

「いえ、この程度……楯無さまは?」

「私は……そうねぇ、今日の授業が終わったら」

 

 扇子を開きつつ、楯無は振り返った。

 その扇子には彼女が背負っているモノを表すような『使命』の二文字。

 

「あの子の所に、かな」

 

 あの子と、呼ばれた少女――朴月姫燐。

 様々な人間から疑念を持たれ、一度はその重みに崩れ落ちそうになり、仲間たちのお陰でなんとか立ち直れた二つの影を持つ少女は今――

 

「いやー……人生って不運と幸運の繰り返しで出来てると思わねぇか? 箒ぃ」

「そうだな……」

 

 過去最高のにやけ面を浮かべながら、対象的に沈みきった同居人ができた自室で報酬品の一眼レフを意気揚々と磨いていた……。

 

 

  第21話 「嵐の転校生」

 

 

「さーて、一夏くんよ。さっそくだが契約内容の確認といこうか」

「……おう」

 

 彼、シャルル・デュノアが転校してきたあの日から一日が経過した放課後、姫燐はいつもの屋上へとなぜか機嫌が悪そうな一夏を連れだし、自分達の関係の再確認を迫った。

 

「まず、オレ達は協力関係だ。そこは覚えてるな?」

「ああ、忘れた事なんてないさ」

 

 自分は『誰かを護ること』。

 彼女は『彼女を作ること』。

 自分の夢こそ少し変わってしまったが、二人が互いの望みを叶えるために交わしたこの協力関係を忘れた日など一度もない。

 だが姫燐は、一夏を指さしながら「ほーぅ」と懐疑の視線を彼に向ける。

 

「あれれー、おっかしいぞぅ? お姉さんの記憶が正しければ、オレはお前に協力してやったことは星の数あっても、お前から協力してもらった覚えが一切全くさっぱりないんだがなー? こりゃ、どういうことかなー?」

「うっ……」

 

 白々しく尋ねられても、全くもってその通りであるため一夏の声が詰まる。

 姫燐のために『彼女を作るための手伝いをする』。それこそが自分が飲んだ協力の対価ではあるのだが――今まで自分のことで手一杯だったため、まったくと言っていいほど支払えていない。

 むしろこの一ヶ月ほど、根気よく待ってくれていたほうである。

 前々から、不味いんじゃないかとは思っていたが、様々なゴタゴタが続いて結局こうして改めて言われてしまうまで、何もできなかったのは紛れもない事実だ。

 

「す、すまんキリ……この埋め合わせは」

「無論、利子つけてしてもらうぜぇ。今からな」

 

 脂汗を流しながら謝罪する一夏に、奴隷を見下すような目で姫燐は当然の権利を行使する。

 

「い、今から?」

「おう、今からだ」

 

 そう言われても、何をすればいいのかサッパリ見当もつかない一夏に、おおむね予想通りといった風に姫燐はギプスへと腕を乗せて、組み上げる。

 

「なぁ、お前はシャルルのことをどう思う?」

「シャルル……か」

 

 遠くフランスの国からやって来た、自分と同じ二人目の男性適合者。

 昨日は他の生徒達に揉みくちゃにされていたため全然しゃべれなかったが、今日から同室となるらしいため、嫌でも顔を合わせる機会は増えていくだろう。

 なので性格は追々分かっていくだろうが、現段階でどう思うと言われても一夏には外見上の特徴を述べることしかできない。

 

「えっと、金髪で、大人しそうで、育ちも良さそうで――」

「そして、何よりも可愛いよなぁ……シャルル」

「…………」

 

 うっとりと瞳を輝かせる姫燐の姿を見て、なぜか一夏の胸の奥に重い物が圧し掛かり――それが思わず口に出てしまう。

 

「けど、随分と華奢だったなアイツ。一体、なに食ってんだか」

「バッカ、そこがいいんじゃねぇか、そ、こ、が!」

 

 いつもよりもテンションが3割増しほど高い彼女の様子からは、少しまえに自分と言う存在に思い悩み、今にも消えてしまいそうなほどに気落ちしていた少女の面影など欠片もなかった。

 とても喜ばしいことではあるのだが――どうにも、モヤモヤが取れない胸に一夏は違和感を覚えてしまう。

 

「雰囲気といい、顔立ちといい、護ってあげたくなるオーラといい、もうほんっとマジでオレのタイプ、こんなに可愛い子が男の子な筈ねぇよなぁ」

「いや、男だろシャルルは」

「…………そうなんだよなぁ……はぁぁぁぁぁぁ…………」

 

 希望に満ち溢れていた姫燐の表情が、一転してこの世の全てから裏切られたような絶望顔へと変貌した。

 

「ああ知ってるよ……現実はいっつもこうだよ……こんなはずばっかりだよ……世界は悲劇だよ……」

「き、キリ?」

 

 何気ないマジレスから、まさかここまでヘコまれるとは思わなくて、労わる様に曲がった彼女の背中へと触れようとし、

 

「ふっ………ふふっ…………」

「え? なんだっ」

「ファーーーーッハッハッハッハァ!!!」

「てィッ!!?」

 

 急遽、高笑いと共に前屈みから180度近く折れ曲がった彼女に、物理的にも精神的にもドン引きする一夏。だが、まったく気にせず姫燐は、屈んでるうちに鞄から取り出したパンフレットを一夏に叩き付けた。

 

「だがっ、人が生み出した英知は主にオレを救ってくれるッ! こいつを見なっ!」

「わぶっ! なんだ、これ……?」

 

 顔面で受け止めたパンフレットの束を剥がして、一番上の表紙を見る。

 

「なになに、『女のススメ』、『俺の性別が男な訳がない』、『俺、女になりま……す……」

 

 次々と冊子の表紙をめくっていく度に、彼女の意図と狙いが嫌というほど読めていき――もう一夏をしても、彼女が途方もないアホなのか、凄まじい大物なのか見当もつかなくなってきた。

 

「き、キリ……お前は、まさかお前って奴は……」

「ふっ、よせよ。そんなに褒めるな」

 

 全く褒めていない。それどころか、大真面目にこれからの付き合い方を考えたい。

 前回の戦いで、頭を強く打ってしまったのだろうか? まさか、全世界にたった二人の、それも世の中を支配している兵器を女性以外で動かせる二人の内の一人を、ただ、ただ可愛いからという理由だけでこの少女は――!

 

「ふと、逆に考え付いただけさ――女じゃないなら、女にしちゃえばいいじゃない、ってな」

 

 どうしてこんな発想をしてしまうまで彼女を放置してしまったんだろうと、一夏は本気で後悔した。

 我ながら震えが止まらないぜ……と、恋をはじめるポーズをしながら叩きつけられた凄まじい姫燐の超理論の前に、一夏の身体も彼女とは別ベクトルにガクガクと震えだす。

 一瞬で精神的レッドカードを叩きつけられ即退場しかけた意識を何とか繋ぎとめながら、一夏は必死に思い直してくれるよう反論をひねり出していく。

 

「ででっ、でもさ、キリ? こういうのって、ほら、料金とかさ、結構するんじゃ……」

「ああ、その辺も問題なしだ。ほれ、見てみ?」

 

 一冊、一夏の手から抜き取って姫燐は付箋を貼ったページをめくり、赤いマーカーでマルがされた欄を見せつける。

 

「え゙っ!!? こんな安いのか性転換って!!?」

 

 パンフレットに書かれた料金プランは、仮にも生まれながら持って生まれたモノを取り除く大手術と考えれば、法外とすら思える格安さであった。昔、一夏がアルバイトをして貯めていた心もとない貯金でも、少しだけ食費を削れば最安値に手が届きそうである。

 

「き、キリ? 流石にこんな闇医者にシャルルを預けるのは……」

「アホか、全部ちゃんとしたクリニックのパンフだっつーの」

 

 裏面を見てみると、確かに一夏もテレビのコマーシャルなどでよく名前を聞く、国内で有名どころのクリニックの名前や電話番号がしっかりと記載されていた。いくら捏造が得意な彼女でも、ここまで凝ったレイアウトを一日で何冊も作り上げるのは不可能だろうし、なにより捏造ではパンフレットの意味がない。

 

「このご時世だ。男であることが嫌になって、男を捨てる奴って結構多いんだぜ? んで、需要が高まれば、供給が盛んになっていくだろ」

 

 そしてオレのパラダイスが出来ていく。と締めた彼女に、一夏は改めて自分――いや、今は自分達か――という存在がどれほどに異端であるのかを再認識させられる。

 男屈女尊。ISの発展により、そう作り変えられた世界の中でも、悪友の五反田弾がそうだったように、自分の周りにはそんな風潮に屈するような人間は居なかった。

 一夏としても、それは何か違う気がする。

 結局は、男が嫌になったのもそんな世界に耐えられなかった自分自身の弱さからだろうに、姿形だけ女になったところで何が変わるというのか? たとえそれで世間の眼が変わったとしても、それは産んでくれた父や母、そして何よりも今まで男として精一杯生きてきた自分自身への手ひどい裏切りじゃないのかと、一夏には思えた。

 まぁ、彼女の提案は、そんな後ろ向きなモノでは無いのだが。

 それどころか、予測もつかない斜め上へとかっとビングしているのだが。

 

「りょ、料金は問題ないのは分かったけどさ……どうやって、シャルルにそれを了承させるんだよ?」

 

 少なくとも自分なら、たとえ相手が姫燐であろうとも「女になってくれ!」と頼まれた場合、流石に断る。土下座でも何をしてでもして断る。だというのに、出会って1日も経たない男に、どうやってそれを頼みこんでOKを貰おうというのか?

 

「なぁに、簡単さ。オトせばいいんだよ、シャルルを」

「オト……すぅ?」

「おう、オレにメロメロにさせて、オレ無しじゃ生きられない身体にしてやる」

 

 もう、勝手してください……。

 真面目にそう言いかけた口を――噤まざる得ない事態へ向かってるんじゃないかと、一夏は察する。

 

「でだ、一夏。ここまで言えば、もう分かるよな?」

 

 ああ――やっぱり、そうなるのか。なってしまうのか。

 自然とダバダバ流れ出した一夏の涙も一切意に関さず、姫燐は言いきった。

 

「んじゃま、改めまして――」

 

「頼むっ、織斑一夏っ! オレの恋愛に協力してくれ!」

 

 こうして織斑一夏は、大きな借りを返すために……凄まじく大きな難題へと向かうことを決定付けられたのだった。

 

「ま、方法は追々考えるけど、お前もリサーチ頼むぜ?」

「りさーち?」

「おう、箒から聞いたけど、お前ら同室になるんだろ? 何が好きかとか、趣味は何だとか、どんな子に萌えるかとか、色々と聞いてきてくれよ」

 

 期待してるぜっ! と、にこやかにサムズアップをし、話は以上だと言わんばかりに姫燐は一夏に背を向けて、出口へ軽やかにスキップしていく。

 彼女から期待されているのは素直に嬉しいし、今までの借りを返す絶好の機会でもある。そして、なによりも純粋に彼女には素敵な人を見つけて、幸せになってほしいとも思う。

 だが――それでも織斑一夏の胸中は、

 

「なんか……スッキリしないんだよなぁ」

「ん、何がだ?」

「あ、いや何でも……ってキリ前ッ!」

「へ? あだっ!?」

「きゃ!?」

 

 一夏の呟きに気を取られていた姫燐が、屋上の扉を空け放って現れた人影と正面衝突してしまう。互いに尻餅をつきながら、一夏も謝ろうと駆け寄り、

 

「ってて、スミマセ……って、セシリア?」

「いえ、こちらこそ……んまっ、キリさん!? 申し訳ありませんお怪我はっ!?」

 

 よく見知ったクラスメイトであることを悟り、とりあえずは一安心しながら改めて駆け寄る。

 

「大丈夫か、キリ、セシリア?」

「ふ、ふんっ、貴方なんかに心配される言われはありませんことよ。さぁ、キリさんお手を」

「ん、悪い」

 

 軽口を叩けるセシリアはもちろん、姫燐も特に怪我はしていないようだった。

 セシリアに起こしてもらい、ズボンの埃を叩きながら姫燐は彼女に尋ねる。

 

「どしたんだセシリア? 屋上なんかに来て」

「貴女を探していたんですわ、キリさん」

「オレを? なんでまた」

 

 多分、姫燐とこの唐変木以外なら一瞬で理解できるだろう理由――では、無さそうだった。

 いつも姫燐に見せている愛おしい人へと向けた柔らかな笑顔ではなく、久方ぶりに覗く凛とした一人の戦士としての顔を固めながら、セシリアは自分の胸に手をやって、

 

「わたくし、先程あのフランスの代表候補生に決闘を申し込みましたの」

「はぁ!?」

「け、決闘!?」

 

 決闘する。セシリアと、シャルルが。

いきなりすぎる果たし合いの報告に、姫燐と一夏は不意を突かれ、目を見開く。

 

「な、なんでまた決闘?」

「や、やっぱりイギリスとフランスって、仲が悪いのか?」

「いえ、お国は関係ありませんわ。これは――私闘ですの、わたくしの」

 

 どういう経緯でこうなったのかは分からないが、チラッと姫燐にセシリアは目配せをして……すぐにソッポを向かれたので、やはり姫燐にも分からない。

 

「それで、キリさんに差し出がましいようですが、お願いがありまして」

「お願いって……なんだ?」

「貴女に立会人になってほしいのですわ。私達が、今日とり行う決闘の」

「え、まぁ、構わないけ……今日!?」

「はい……キリさんには、ぜひ判断してくださって欲しいのです」

 

 突貫工事のように出来上がっていく予定に混乱する姫燐に、セシリアは手を胸に当て、もう片方の腕で空を水平に斬りながら宣言した。

 

「この決闘で、並び立つのに相応しい存在はどちらなのかという事をッ!」

 

 

                ○●○

 

 

「で、こうなったってわけ、一夏?」

「ああ……」

 

 沈みかけた夕陽が照らす第二アリーナは、突拍子もなく決まったイベントだというのに軽いお祭り会場のように人でごった返していた。

 イギリスの代表候補生と、フランスの、しかも二人目の男性IS操縦者の学園に来てからの初戦闘だ。これを注目するなという方が無理だろう。

 観客席に座りながら、一夏は隣に座る鈴に事のあらましを説明し終えた所であった。

 

「私も驚いた。自分の席でブツブツと言っていたオルコットが急に立ちあがったかと思えば、皆に囲まれていたシャルルへ白手袋を叩きつけて、まさか決闘を申し込むとは……」

 

 もう反対の隣に座る箒が、補足するようにその時の様子を解説する。

 

「まさに鬼気迫るような表情でな……いったい、シャルルの何がオルコットの気にさわったのだか」

「まぁ……大方、アレでしょうねぇ」

 

 呆れたように太ももに両肘を乗せながら、鈴は最前列で黄色い声を上げるパパラッチに混ざって、砲弾でも撃てそうな大型レンズを装着した一眼レフのシャッターを一心不乱に押し続ける彼女を見る。

 

「ヒャッハー! シャルルー、こっち向いてくれー!」

 

 既に橙色の専用機『ラファール・リヴァイブ・カスタムⅡ』を纏いながら困惑顔でアリーナ内に立つシャルルに、世紀末のモヒカンめいたテンションで声援を送る姫燐の姿。よく見ればしっかり三脚まで用意しており、彼女の本気ぶりがうかがえる。

 

「ったく、怪我もまだ完治して無いってのに、あの元気は一体どっから来るのよ……」

 

 常にテンションは高めだが、ここまで我を忘れて熱狂する友人を始めてみる箒も、戸惑いを隠せず鈴に尋ねる。

 

「ど、どういうことだ? あの妙にハイテンションな姫燐とセシリアが、どう関係しているのだ?」

「そうだ鈴、俺達にも教えてくれよ」

 

 ごらんの有様を見てもまだ分からないか唐変木共と思いながらも、面倒見がいい鈴は彼等に解説していく。

 

「アンタら……セシリアは姫燐に、『どちらが傍に居るのに相応しいか見ていてくれ』って頼んだんでしょ?」

「ああ、キリは恐らく『どっちが一夏のライバルに相応しいのか、オレに確かめて欲しいんじゃね?』って言ってたけど……」

「……それ、本気で信じてる?」

「ん、姫燐がそう言うならそうじゃないのか?」

「なんか、本人もイマイチしっくり来てないっぽかったけど……違うのか?」

「いいからもう黙ってなさい、このボンクラーズ」

 

 少しは直ったかと思ったがあいもかわらずな彼の、剣術以外はなまくら極まりない彼女の、そして平時は頭が切れるくせに妙なところでニブチンな彼女の鈍感ぶりに鈴は溜め息しか出ない。

一夏のはもう慣れっこではあるし、箒は元より不器用が服を着て歩いているような存在だからまだしも、姫燐については本当に意外だと鈴は思った。

初対面の時も、あんだけベタ惚れなセシリアの好意に一切気付いていなかったし、一体どのような環境で暮らして来たのだろうか?

末っ子は皆に愛されて育つため、それが当然になってしまい鈍感に育ちやすいと聞くが、そういえば姫燐には兄弟が居るのだろうかと考えた所で――

 

「お、始まったな」

 

 試合開始のアラームと共に、セシリアがブルーティアーズを初っ端から全て展開して、ビーム弾とロケットランチャーの雨を怒涛の勢いでシャルルへと浴びせていく。

 

「うわっ、容赦ないわねー」

「あ、あぁ……オルコットも成長しているようだな」

「セシリアも強くなってるってことか……負けてられないな」

 

 一夏に敗北したことが余程堪えていたのか、セシリアが操るブルーティアーズの機動は見違えるまでに高速化しており、かつては彼女以上に彼女の技を理解していた一夏も、そのデータが既に過去のモノであると悟る――ただ、速くなっているだけで、コントロールは落ちている気がしないでもないが。

 

「だが、デュノアも負けてはいない」

「ああ、アイツも凄いよな。あの銃弾の雨で、あれだけしか被弾しないのか」

 

 初めて相手をするビット兵器に渋い顔を浮かべて回避に徹していたものの、狙いが微妙に甘いことが分かった瞬間からシャルルも即座に積極的な反撃へと打って出始めた。

 僅かな弾道と弾道の隙間を踊る様に縫っていき、クイックターンしてブルーティアーズへと振り返ると共に、冷静かつ的確なスナイパーライフルの一撃を放ちセシリアの足を捉える。

 

「鈴は、どう思う? どっちが優勢って感じだ?」

「んー、五分、って所かしらね」

「……そうだな、これは分からんぞ」

 

 現在、互いのシールドエネルギーはほぼ五分。

 確かに反撃こそ出来ているものの、全方向から絶えず撃ち込まれて来るオールレンジ攻撃は、直撃こそしなくともシャルルの装甲を少なからず叩いている。

 逆にセシリアは、少しでも飽和射撃を緩めた瞬間、即座に飛んでくる銃弾が対処できず、数こそ少ないモノの何発かイイのを受けていた。

 激昂の数と、冷静な一。まさに正反対な二人の戦いは、拮抗を迎えている。

 

「負けるな―! シャルルーッ!」

 

 だが、観客席から姫燐の声援が飛ぶ度に、凄まじい勢いでビットの操作が荒くなっていくセシリアの様子を見れば、

 

「……やっぱり、シャルルが勝つでしょうね」

「ほう、そちらに賭けるか。では私はオルコットに」

「いや、もう勝負ついてるわよアレ」

 

 色んな意味で。とは、あえて口に出さずに、想像通りシャルル優勢へと傾き始めた戦局が、というかこの戦いそのものがだんだん馬鹿らしく思えてきた鈴は、退屈そうにふと目を逸らして、

 

「あれ……? あの人って、まさか……」

「ん、どうしたんだ鈴?」

 

 雑多な観客の中を、まるで幽霊か何かのようにすり抜けて最前列へ向かう、外に向かって跳ねた特徴的な水色のショートヘアをした女性が目に入った。

 観客が退いている訳でもないのに優雅な足取りは止まらず、三日月の口元に閉じた扇子を当てる態度からは曲芸めいた芸当をこなしながらも、それを余裕と笑っているように見えた。身体つきも肉が多すぎず少なすぎず、だが胸に至っては姫燐や箒に匹敵するほどあり――

 

「気にいらないわねぇ……!」

「さっきから何をブツクサ言って……ん?」

「あれは……」

 

 一夏と箒も、影のように変幻自在であるというのに、陽光のように無視できない存在感を放つ女性の存在に気付いたようだった。

 

「確かあの人……入学式で見た事あるような?」

「アンタ、あんだけ強くなるって言っときながら知らないの? あの人はねぇ、この学園の生徒会長の更識……」

 

 説明しかけた鈴の口も、聞いていた一夏の顔も、無言で姿を追いかけ続けていた箒の眼も、固まる。

 悠々と最前列へ到着した彼女は、未だに一眼レフに顔を貼り付けたまま微動だにしない姫燐の背後へと忍び寄り――

 

「えーい、後ろをバックぅ♪」

「ひにゃああぁぁぁぁい!!?」

 

 黒いインナーの中へと白い手を滑り込まされ、姫燐はらしくもない悲鳴を第二アリーナに響かせた。

 

「あ、墜ちた」

 

 一方、ビット諸共すべての動きを急停止させたセシリアも、懸念顔のシャルルが放ったグレネードランチャーの爆炎の中へと消えていった。

 

 

                 ○●○

 

 

「はぁ、はぁ、ハァッ……はぁぁっ……」

 

 第二アリーナから少し離れたベンチに腰掛け、一心不乱に走り続けていた姫燐は上下左右すべてを確認しようやく一息をついた。

 

「な、なん、で……よりにもよって……みんなが居る時に……!」

 

 今まで不干渉だったくせに、なんでよりにもよってこのタイミングでやって来るのか? 一眼レフを放置してまで脱兎のように即刻撤退を決めこんでしまったが、それでもまだ、襲いかかって来た脅威に比べれば安いダメージだと断定できる。

 警戒心を限界まで高めながら、もう今日はこのまま部屋でジッとしていよう。んで明日、皆が居ない内に直談判しに行こうと心に決めて、もう一度立ち上がろうと足に力を入れた瞬間、

 

「おーい、キリー!」

「ひゃいっ! ……ああ、なんだお前らかよ……」

 

 突然かけられた声に、全身の毛が跳ね上がったような感覚を覚えるが、それがいつもの3人であることに一安心し、脱力してまた深くベンチに腰掛ける。

 

「まったく、探させんじゃないわよ」

「大丈夫か姫燐? なんだったのだ、さっきの痴れ者は……」

「ていうか、お前も熱中しすぎだろ。いつもなら背後に立たれたらすぐ気付くじゃないか」

「うっせぇ……いくらお姉さんでも、あの人の気配なんて掴める訳ないっつの。織斑先生ぐらいだ、出来そうなのは」

「もうっ、やあねぇ。そんなに褒められると、お姉さん照れちゃうわ」

 

 姫燐は溜め息をついて前屈みになりながら、とりあえず4人の内の誰かにカメラを回収してきてもらえないかと頼もうとして――4人?

 

「でも『あの人』なんて、他人行儀な呼び方はちょっと傷ついちゃうなぁ。オロロ……」

「がッッッ!!?」

「ん、なぁっ!?」

「ええっ!?」

「い、いつの間にッ!?」

 

 いつの間にか誰にも悟られず一夏達の間にシレっと混ざっていた水色の髪をした女性は、胡散臭さを隠そうともせずに手に持った桃色の水玉模様な布で、流れてもない涙を拭う。

 いや、確かに布ではあるのだが、金属の留め具があり、肩ひもがあり、そして大きな二つの楕円形の膨らみがある布は、世間一般的にハンカチとは言わず……

 

「おっ、オレのブラっ!? あれ、なんでっ!?」

「はい一夏ドーン!!」

「クァバゼッ!!?」

 

 いつの間にか軽くなっていた胸部を確かめるようにポンポンと叩いて揺らす姫燐の方に、思わず向いてしまった一夏の視線が箒と鈴の双龍拳で真上に向けられる。

 

「うーん……しばらく見ない内に大きくなったわねぇ……負けてるかも」

「かかかっ、返せ、すぐ返せ、今すぐ返せぇぇぇぇぇぇ!!!」

 

 真っ赤になって必死に飛びかかる姫燐を最小限の動きでかわし続けながら、イリュージョン下着ドロ現行犯は涼しい顔で彼女に尋ねる。

 

「んー、返してもいいんだけど……それは、いったい誰に言ってる言葉なのかしらー?」

「ぐっ、そ、それは……その……さ、更し」

「ちなみに、『あの呼び方』以外なら、これを青少年の性夜を彩る貢物にしちゃうわよ?」

「えっあびじょっ!?」

 

 思わず反応してしまった一夏に叩きこまれる箒と鈴のクロスボンバーを捨て置いて、姫燐は胸を押さえ羞恥と屈辱で半泣きになりながらも、キッと気丈に彼女を睨みつけて、屈辱を噛みつぶす様に懇願した。

 

「お、オレの……ブラジャー返せよぉ、か…………かた……かた姉……っ!」

「ふふっ、久しぶり。本当に大きくなったわね、ヒメちゃん」

 

「か、かた姉……?」

「ひ、ヒメちゃん……?」

 

 これでいいんだろと鼻息荒くブラジャーを引っ手繰る『ヒメちゃん』に、加虐的な笑みを浮かべながら胸元から取り出した『再会』の二文字が書かれた扇子を開く『かた姉』。

 初対面や只の知り合い、と呼ぶには余りに近く見える二人の距離感に戸惑い声を出せない一夏達の代わりに、こちらへと駆け足で向かって来た微妙に焦げている金髪ロールを揺らして、

 

「ま、まさか……あ、貴方でしたの!? キリさんのお姉さんというのは……?」

「はぁっ!!? セシリアあんた、嘘っ、お姉さんってこの人がっ!? 姫燐のっ!?」

 

 試合を終えた後、すぐさま姫燐を探していたのか、ISスーツのままなセシリアに鈴が酷く狼狽し声を荒げる。

 

「なぁ、鈴。お前はこの人のこと知ってんのかよ? そんなに凄い人なのか?」

「ばっ、アンタねぇ!? むしろなんで転入してきたあたしが知ってて、アンタの方が知らないのよ!?」

 

 何をすっとぼけた事を聞いてるのだと、鈴は引っ掻きまわされっぱなしな頭を無理やり鎮め、こちらを値踏みするように見つめる先輩を指刺した。

 

「この人は更識楯無さんっ! IS学園生徒会長にして、ロシアの代表操縦者なのよッ!」

「候補生じゃなくて……代表者!?」

「よしなにねー♪」

 

 健やかな笑顔で手をヒラヒラさせる楯無に、一夏はショックを受けながらも若干硬い笑顔で、箒は友人に呵責無いセクハラを加えた相手として警戒心を募らせながらも軽く会釈する。

 

「なぁ姫燐、どういうことだよ? 姫燐って確か一人っ子だったよな? それにロシアの代表さんと知り合いって」

「うっ……それは……確かに姉さんで間違ってはないんだが……」

 

 このまえ聞いた話では『兄弟は居ない』と確かに言っていた彼女に一夏が尋ねるが、姫燐は出来れば触れて欲しくないと言わんばかりに視線を逸らし、言葉を濁す。

 その会話で、彼女が一夏に家族構成をどう説明していたのか何となく察した楯無が、助け船を出した。

 

「ええ、血は繋がってないわよ。私とヒメちゃんは」

「確かに、姉妹って言うにはちょっと無理があるわよね」

 

 髪の色といい、雰囲気といい、顔立ちといい、外見的な相似はあまり見受けられないように鈴には思える。

 

「でもね、私とヒメちゃんの間にはそんじゃそこらの姉妹に負けない程、百合の花が百花繚乱するルミナスな絆が」

「こ、この人とオレは只の幼馴染だ。ガキの頃に少し世話になったってだけだっつの」

「そんなっ!」

 

 熱に浮かされような語り部を余所に、そっぽ向きながら冷たく返す姫燐に、非常に芝居がかったような仕草でヨロヨロと楯無は地面に崩れ落ちた。

 

「あ、ああ……あの何をするにも私の傍から離れず『かた姉ぇー、かた姉ぇー』って抱きついて、お昼寝の時も私が一緒に添い寝しないとそれだけで泣き出したヒメちゃんが、しばらく見ない内にこんな言葉使いが荒い不良になってしまうだなんて……ううっ」

「ぎがっ!?」

「き、姫燐……?」

 

 白眼をむいて固まった姫燐の反応を見る限り信じ難い事だが、どうやら出まかせではないらしい。

 ぐすん、と自分で言いながら、楯無は制服のポケットから写真を一枚取り出す。

 

「もう、あの頃のすっごく可愛かったヒメちゃんは、思い出の中にしか居ないのね……」

「は……ぇ……?」

 

戦慄。完璧にフリーズしてしまった今の姫燐の様子を、一文字で表すならこれ以上に相応しい物は無いだろう。

 

「ああっ、意地悪な風さんが写真を後輩たちの所へっ」

「うおわっ!?」

 

 妙に説明口調な楯無が意地悪な風さん(物理)の力を借りて、手裏剣のようにその写真を茫然と経緯を見守っていた一夏の手へ投げ渡す。

 すっぽりと一夏の指と指の間に丁度挟まった写真を、固まった姫燐を除く全員がいったい何なんだと覗き見る。

 

「む、子供……?」

「うわっ、また凄い格好してるわね」

「まぁ、可愛らしい」

「……誰だ、これ?」

 

 そこには背景の和風なお屋敷とは非常にミスマッチな、白とピンクを基調にしたドレスのようなゴスロリ服を着こみ、寸胴体型の犬のぬいぐるみを愛おしそうに抱きしめて、上目使いでこちらを見つめる長く綺麗な『赤髪をした少女』の姿が映っており――

 

「……まさか、この子って昔のきr」

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!? ワァァァァァァァ!!! ホァァァァァァァァァア!!? イヤァァァァァァァァァァ!!?」

「グわぁぁぁぁぁぁぁ!!?」

 

 奇声を上げながら姫燐が、電光石火の早業で一夏から写真を奪い取って、即座に粉微塵へと破り捨てる。そして、即座に凄まじい殺気を眼力に込めながら一夏達を睨みつけ、

 

「見てないな?」

「いや、あの、キリ?」

「お、ま、え、ら、は、何も、見てない。いいな?」

 

 恐らく、ISが手にあったなら即座に展開して腕部ブレードを喉元に突き付けていただろう気迫で一夏達に迫る姫燐だったが、肝心の出元を押さえることを忘れており、

 

「残念ヒメちゃん、私の思い出は百八式まであるのよ」

 

 と、言いつつ楯無は扇子の代わりに、大量の写真を扇のように口元で開いた。

 その写真には先程の少女が、涙目で小型犬に追いかけられていたり、アイスクリームを服にこぼして今にも泣きそうだったり、水溜りに転び泥だらけになって同年代の子に笑われていたり、柔らかそうなほっぺを横に引き伸ばされながらグズグズになってかんしゃくを起こしていたり――

 

「ぬわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぅ!!!」

「おほほほほほほっ」

 

 悲鳴とも雄叫びともつかない声を上げ、熟れたトマトよりも真っ赤になりながら姫燐は楯無から写真を奪おうとするも、やはりヒラリヒラリと全て軽々といなされてしまう。

 

「な、ん、か怨みでもあんのかよオレにィッ! くそっ、クソッ!」

「まさか。私が可愛い可愛いヒメちゃんの事を怨むわけないじゃないのー……そう」

 

 姫燐の腕が大振りに身体を掠めた瞬間に、一瞬で彼女の鼻先まで顔を近付けながら、

 

「入学初日、直接会いに行った時に『初めまして、更識生徒会長どの』とか言われた事なんて、全っ然気にしてないのよー……」

 

 ものっそい怨恨を込めながら、サディスティックに微笑んだ。

 

「だ、だってその……かた姉達がこの学校居るって知らなかったし……昔の知り合い居たらカッコつかねぇし……この歳でヒメちゃん呼ばわりとか冗談じゃねぇし……」

「本音ちゃんには、お菓子で買収してでも仲良くしてたのに?」

「アンタの場合、本音と違って絶対にこうなると思ってたから関わり合いになりたくなかったんだよクソォ!」

 

 本音――確かのほほんさんの本名がそんな名前だった気がすると、一夏は思いだし、そしてあの二人知り合いだったのかと、そしてお菓子で買収されてたのかよと、次々と判明していく衝撃の事実に閉口――口はポカンと開きっぱなしだったが――していた皆だったが、ここでふとセシリアが率直な疑問を口にする。

 

「そういえば、更識会長はどうしてキリさんのことを『ヒメちゃん』とお呼びになるのですか?」

「ぐふうッ!!?」

「んっんー、いい質問ね―」

 

 腹に重いボディブローを受けたような声を出す姫燐から繰り出されるであろう妨害を、先んじて封じるように彼女の背後に立ち、後ろから抱き締めるように左手を掴む。

 これだけで、右腕がギプスによって固定されている姫燐にとっては両腕を塞がれたのと同じであり、いくらなんでも姉を足で蹴り飛ばすのは躊躇われ、拘束されたまま身悶えすることしか出来なくなってしまう。

 当然、その程度のささやかな反抗でどうこうできる相手ではなく、ビクともしない肉体の拘束具はもう片方の手で、『姫燐』と書かれた扇子を名札のように彼女の胸元で開く。

 

「やっ、やめてくれ……そ、それだけは……本当に……!」

「ほら、ヒメちゃんの名前って漢字で書くとこういう風に『姫燐』って書くでしょ?」

「ふむふむ……あっ、なるほど、そういうことですの!」

「あ……ぁぁぁ…………!」

 

 プチプチでも潰していくかのような軽さで姫燐の希望を潰していることになど一切気付かず、セシリアは前が覆っていた霧が晴れたかのような満面の笑みで、

 

「姫燐さんの『姫』が、お姫さまの『姫』だから『ヒメ』ちゃん! なんてお可愛らしいあだ名なのでしょう!」

「でしょーう? なんだか貴方とは気が合いそうだわぁ」

「は、ハハはっ、ころせー、誰かオレをころせー……」

 

 黒歴史全てをお天道様の下へと晒され、真っ白に姫燐が燃え尽きる。

 

「た、確かにお姫さまだからヒメは、この歳じゃちょっと……ね」

「うむ……」

 

 妙なシンパシーを感じている上流階級なお二人とは違い、実に平凡な庶民的感性をしている箒と鈴にとっては、若干16歳にしてお姫様と連呼される姫燐に心底同情し、

 

「あれ……近所のおばちゃんとかに『○○王子』って呼ばれるのって、割と普通のことなんじゃ……?」

 

 庶民とも上流階級とも違う天然は、一人的外れなことを考えていた。

 

「もうやだ……お外出られない……実家帰る……」

「どうしてですの? キリさんにピッタリな、とても愛らしいあだ名ではございませんか」

「そうよぉ、『ヒメはお姫様だから、ヒメって呼んでっ!』って、ドヤ顔で初対面の時に言ってくれたのは他の誰でも無いヒメちゃ」

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!! かた姉のバカぁぁぁーーー!!!」

 

 しかも発生が自分であったという特大クラスにアイタタな過去を掘り起こされ、今度こそ完璧に幼児退行を起こした姫燐は、楯無を振りほどいて闇夜の中へと駆け出して行く。

 

「あっ、待って下さいましキリさ――いえ、ヒメさーーーん! できれば、わたくしもこちらのあだ名で呼ばせて頂きたいのですがーー!?」

「まっ、待てセシリアッ! それ以上いけない!」

「本当にやめてあげなさいっ! マジで姫燐のやつ自殺しかねないわよっ!」

 

 無意識に死体蹴りへ向かうセシリアの後を、箒と鈴が血相を変えて追いかけていく。

 流れで一人だけ置いて行かれた一夏は、同年代から呼ばれるのは確かに照れるな。と、やはり微妙に遅くてズレた納得をし終え、満悦顔で姫燐達を見送った会長に一応釘をさしておくことにした。

 

「あんまりイジめないでやって下さいよ、アイツああ見えて結構ナイーブなんですから」

「ええ、よく知ってるわよ。というより、ヒメちゃん貴方にはしっかり見せてるのね、そんな一面も」

 

 見せた、というより、見させてしまった。というのが正しいので素直にハイと言えない一夏だったが、気にせず楯無はベンチに座る。

 

「貴方も座ったら?」

「あ、はい」

 

 なんとなく、彼女と同じ場所に座ることに躊躇いを覚えていた一夏だったが、流石に催促されているのに理由もなく座らないのは失礼だと考え、ベンチに腰掛ける。

 

「謙虚なのは美点だけど、もう少しガツガツしてた方がお姉さん好みかなぁ」

「は、はぁ……」

 

 ただのベンチに座っているだけだというのに、足を組みながら愛用の扇子を口に当てるその仕草と、さっきまでとは打って変わった不動で閑静な出で立ちから、時によって美しくも激しくも移り変わる、まるで清流のような人だと一夏には思えた。

 

「あらぁ、でもいきなりそんなじっくり見られると、お姉さん照れちゃう」

 

 だが、キャーと、ワザとらしく頬に手をやって顔を振る、常に人をからかうような仕草や、自分のことを偶に『お姉さん』と呼ぶところなどは本当に姫燐とそっくりであり、もはや疑いようもなく、

 

「本当に、キリのお姉さんなんですね。更識さんって」

「あんっ、『更識さん』なんて他人行儀な呼び方つれないわ。楯無って、呼んでくれるかしら? 私も一夏くんって呼ぶから」

「えっ、どうして俺の名前を――知ってますか、生徒会長なら」

 

 生徒会長じゃなくてもよぉ。と朗らかに笑う楯無に、一夏は未だ慣れぬ自身の有名人っぷりに軽く溜め息をつきながら、

 

「大分前から、楯無さんとキリってお知り合いだったんですね」

「ええ、4年前にあの子が親御さんに連れて来られて、1年間ぐらいの付き合いだったけど」

 

 楯無は、今も色あせぬ彼女と過ごした日々を追憶する。

 

「甘えん坊で泣き虫な子で、すっごくちっちゃかったのよぉ。あの時は、私より頭一つぐらい小さかったかしら?」

 

 今の姫燐と楯無では、あまり身長差が無いように思えるが、女性の成長期は本当に見違えるほど身長が伸びるため、当時はそのくらいだったのだろうと一夏は解釈する。

 

「じゃあ、さっきから言ってたことも」

「ええ、ぜーんぶ本当。可愛かったわぁ……あの頃のヒメちゃんは、ちょっとイジワルするだけですぐ涙目になってムキになって」

 

 Sっ気たっぷりな光悦を滲みだす楯無に、この人にだけは弱味を握らせないようにしようと誓いながら、今では想像もできない様な姫燐の過去へがぜん興味が湧いて来る。

 

「そんなに泣き虫だったんですか?」

「ええ、特に妹との――ああ、私もう一人ちゃんと血の繋がった妹が居るんだけれど、その子には家に来るたび泣かされててねぇ、その度に私に泣きついてきたわ」

 

 懐かしいわぁ、と空を、彼女にしか見えないヒメちゃんの頭を撫でるように手を動かしながら、

 

「こんな風に、いっつも……嬉しかったわぁ」

「嬉しかった?」

 

 一夏の疑問に、顎を扇子で軽く突き上げ、少しだけ躊躇いながら、「お恥ずかしい話なんだけれども」と楯無は続ける。

 

「私ね、実の妹――更識簪って言うんだけれど、その子に嫌われちゃってるのよ」

「嫌われて、ですか? 妹さんなのに?」

 

 確かに飄々として破天荒なところはあっても、男の自分にでも偏見を持たず、気取らず屈託のない態度で接してくれる楯無に、一夏は出会ったばかりだというのに大分心を許していた。

 だというのに親しい存在である妹には嫌われているというのが、どうにも腑に落ちない。

 

「下手に親しいからこそ、他人なら感じないことも感じちゃうの。貴方になら分かるんじゃないかしら、『あの』織斑千冬の弟である、織斑一夏になら」

「……そうか、そういうこと、ですか」

 

 自分に当てはめられて、一夏は簪という少女の気持ちが痛いほどよく分かった。

 何をしても、どれほど努力しても越えられず、他者からは必ず比べられて、勝手に貶められる。圧倒的すぎるほどに偉大な姉の影は、常に一夏の背後に這い寄っていた。

 自分の場合は、両親代わりであった姉に深い恩義と尊敬を感じており、姉と同じ道を歩んでいなかったのもあって「そんなの当然のことだろ?」と流せていたが……もし、何か1つでも歯車が狂っていたのなら、一度も感じなかったとは言えない劣等感が溜まりに溜まり、爆発してしまったとしたら――果たして織斑一夏は、今のように織斑千冬を愛せていただろうか?

 

「私も当時から、ずっとどうすればいいか分からなくてねぇ……だから、余計に可愛く思えちゃったのよ、かた姉かた姉って甘えてくるヒメちゃんが」

「キリが、ですか?」

「やっぱり人間、どんなに頑張っても自分を好いてくれる子のほうが、可愛く映っちゃうモノなのよねぇ……多分これも、嫌われてる一因」

 

 憂鬱そうに楯無は背筋をまげて、肘を太ももにつき、頬を掌に乗せる。

 

「昔の私は、妹を余所に目一杯ヒメちゃんを可愛がったわ。家に来てくれれば来てくれるほど、私にどんどん懐いてくれるのがついつい嬉しくって……家に来たら、真っ先に私の名前を呼んで胸に飛び込んできてくれるのよ? もう、天使よ、最高よ、ハイって奴よ」

「ははは……」

 

 写真でしか見た事ない一夏でも、確かに昔の姫燐はとても可愛らしかった。あんな娘に兄と慕われ心から好かれて甘えられてしまったら、シスコンにならない自信が一夏にはなく……まさか、自分も無意識のうちに、千冬に思いっきり甘えていたからあそこまで姉は自分を愛してくれているんじゃないかと、思わず一夏は深刻な顔になってしまう。

 

「あの人のそれは、多分貴方が原因じゃないと思うけど……とにかくヒメちゃんは、少し捻くれちゃったけど本当は、弱虫で、泣き虫で、甘えん坊で可愛くて――だから、ありえないのよ」

「……えっ」

 

 空を見上げて目を閉じて、ただ美しい過去を追いかけていただけだった楯無の瞳が――認め難い現実に強く見開かれる。

 

「あんな、あんなに優しい子が……あんな外道共と同類だなんて……ありえないのよ……!」

 

 激しい憤怒と深い無力感を、その眼と剥いた牙に宿しながら。

 

「楯無……さん?」

「……ねぇ、一夏くん? 貴方は、あの戦いでヒメちゃんの事をどう思った?」

「えっと……それは……」

「構わないわ、正直に言ってちょうだい」

 

 どんな言葉も受け止める。ただし、余計な慰めもいらない。

 真っ直ぐに一夏へと視線を送る楯無に、一夏は強い人だと尊敬の念を抱きながらも、その思いに容赦のない答えを返す。

 

「ハッキリ言えば、俺も思ってます。アイツらとキリには、何らかの関係があって、どこかで繋がっているんじゃないかって」

「ええ……そうね……誰だって……そう思うわ」

 

 大切な妹を貶すような発言を、悲しい表情を浮かべつつもしかと受け止めた楯無の姿に、一夏は確信する。

この人になら、キリを任せられる、自分が力をつけるまでキリを護ってくれる、と。

 

「だったら、楯無さんがアイツを護ってやってくれませんか? ロシア代表操縦者なんですよね? 俺も、貴方になら安心してキリを」

「……り、よ」

「……えっ?」

「無理……なのよ。私は、あの子を……信じられない」

「どっ、どうしてですかっ!?」

 

 何故だ。貴方は姫燐を大切に思っているのではないのか? 先程まで、とても幸せそうに語ってくれたことはウソだったのか? 貴方はアイツの家族じゃないのか?

 裏切られたような気持ちは、一夏の頭に血を送っていき、熱を篭らせていく。

 

「家族の楯無さんが信じてやらないで、いったい誰がキリを信じてやるんですか!? 貴方は分かってたんじゃないんですか、キリは絶対にこんなことするような奴じゃないって!?」

「……ごめんなさいね、少し、言い方が悪かったわ」

 

 頭に血が昇る一夏とは対極に、先程までコロコロと姿を変えていた楯無の表情が『無』に凍りつく。冷徹な……まるで、敵を排除する時の姫燐と同じような能面をつけているように。

 

「私はヒメちゃんを『信じられない』のではなく、『信じてはいけない』のよ」

「どうして……ですか?」

 

 彼女の変貌に息を詰まらせる一夏を置いて、楯無は立ち上がり、闇に浮かび始めた月光に照らされながら、

 

「……一夏くんは、なんでヒメちゃんが私の事を『かた姉』って呼ぶか分かる?」

「えっ……それは……」

 

 よくよく考えてみれば、なぜ彼女は姫燐に『かた姉』と呼ばれているのだろう。一夏は答えられなかった。

姉はともかく、『更識楯無』の名前に『かた』の文字は無く、姫燐のヒメちゃんのように漢字を捩っても『かた』の文字は出て来ない。

 

「実はね、楯無っていうのは偽名なの」

「偽名、ですか?」

「そう……私は『更識』の一族」

 

 一夏へと振り向き、バッと、口元で開かれた扇子に刻まれた『楯無』の二文字。

 それが、彼女という人間が背負う使命の名。

 

「先祖代々、この国から依頼を受け負い、この世の裏に潜む『闇』を葬るために暗躍する暗部の一族『更識』が17代目当主――『楯無』は、その長となった者に襲名される字なの」

「あざ……な……」

 

 ゲームやマンガの中だけの存在だと思っていた、暗殺者や諜報員、暗部といった存在のトップが今、目の前に居るなどと突然言われても、訳が分からない一夏であったが――そういう存在が、何を目的に動くかだけは、分かる。

 

「まさか、アンタはキリをっ!?」

「……今のところは、対象じゃないわ。限りなく、グレーのラインに足を突っ込んでいるけど」

 

 臨戦態勢に入り、立ち上がって待機形態の白式に手をやる一夏にも、冷めた目線を動かすだけで微動だにせず楯無は扇子の下の口を動かす。

 

「楯無はね、決して他人を信じてはいけないの。信じれば信じるほど、無色の眼鏡に色が出来てきて、的確な判断ができなくなるもの。それがたとえ――親族であっても、ね」

「じゃあ……俺のことも、キリのことも……」

「ええ、楯無は最初からこれっぽっちも信じちゃいないわ……ごめんなさいね、期待させちゃって」

 

 感情の篭っていない楯無の謝罪は、彼女を信じ切っていた一夏の神経を逆なでする。

自分は構わない。だが、家族を、姫燐を裏切ったことだけは絶対に――許せない。

 

「なら……謝って来てください」

「誰に、かしら?」

「キリにです! アイツは4年たっても、貴方を姉と認めていた! 口ではなんと言おうとも、キリは貴方を今でも慕って……家族だと思って、信じていたんですよ!?」

「……そう、なの……あの娘もバカね、もう『かた姉』はこの世の何処にも居ないのに」

 

 その一言が、限界、だった。

 

「白式ィ!!!」

 

 一夏の両腕に白い装甲が部分展開され、その手に雪片が握られ――世界が、180度ひっくり返った。

 

「あがっ!?」

「遅いわね」

 

 何が起こったのか一夏には分からない。

 だが、結果から断片的なことは理解できた。いつの間にか地面に仰向けに叩きつけられた事と、楯無に腰の上へ座られていること……そして自分が、瞬殺され、敗北したことを。

 

「ISの展開速度、戦闘開始からの初動、緊急時の身体捌き……それに全身展開しないってことは、手加減するつもりだったわけね。ロシアの代表操縦者であり、楯無であるこの私に、数か月前までド素人だった貴方が」

「ぐっ……があぁぁ!」

 

 動かそうとした雪片を持った右手が、軽々と曲がらない方向へ捻り上げられ、激痛が走る。

 

「悪あがきだけは一人前みたいじゃない……でも、それだけじゃね」

「く……そ……!」

 

 この体制になってしまえば、もう身体を動かすことは出来ないし、残りのパーツを出現させようにも、腕を捻りあげられて集中力が保たない。完全な王手と呼べた。

 

「ん―……そうね、後学のために一応聞いておこうかしら? 私に1%でも勝てると思った?」

「思ってなかったさ……俺なんかが、貴方に勝てるだなんて……!」

「じゃ、なんで? 痛い目に会うだけじゃない」

 

 確かに、無茶無謀な相手にケンカを売ったと一夏は思う。作戦も何も考えずに、冷静さを失って突撃したのだから当然だとも思う。だが、それでも彼は、楯無がほざいた『ある一点』だけは、どうしても我慢ならなかったのだ。

 心底不思議そうに尋ねる楯無に、土をつけられた顔を必死に上げながら、一夏は睨み返す。

 

「アンタが……バカにしたからだ」

「私が……?」

「アイツを……キリを、アンタがバカにしやがったからだッ! 文句あるかッ!?」

 

 そう言いきった一夏の啖呵を受けながらも、やはり楯無は冷然とした態度を崩さぬまま、

 

「ふぅん……そんなにヒメちゃんの事が大切なの? 裏切り者かもしれないのに? いつか貴方の首を狙うかもしれないのに?」

「ああ、大切だね! 俺が全てを賭けてでも護ってやりたいぐらいになッ!」

「……………………」

 

 首が回り切らないため、一夏は急に無言になった楯無がどんな表情をしているか分からなかったが、

 

「へっ?」

 

 なに言ってんだコイツ? そんな感情がありありと満ちた声がこぼれたのは分かった。

 

「えっ? ええっと……それは、その、そういうこと、で、イイのかしら?」

「……はい?」

 

 先程までの冷たく抉り込んでくるようだった楯無の発言が、いきなり凄まじくアバウトで要領を得なくなり、一夏も思わず入っていた力が抜け落ちる。

 

「あっ、いや、あああ貴方って、全てを賭けて護るって、つまり、その、ヒメちゃんのことを、え……えええええっ!?」

 

 いったい、何を大混乱しているのだろうか? 当然のことを言っただけなのに。と、自分がした発言がどう受け取られてるか分からないまま、一夏は拘束が離されていた手を地面につき、背に座る楯無をISのパワーで押し返した。

 

「きゃあ!?」

「さ、さぁ、これで形勢逆転だ! アンタが言ったことを撤回してもら……」

 

 ようやく対面できたと思った楯無の顔は、人を食ったような笑みでも無く、能面のような無表情でも無く、熟したリンゴのように真っ赤っかであり、倒れ込んだまま起き上がろうともしないため、一夏の気概もモリモリ削れ、ISも消失する。

 

「そっ、その……か、確認! 一回だけ確認させて!」

「は……はぁ」

 

 尻餅をつきながら、掌で『待った!』と一時停戦をお願いしながら、楯無は初心な子供が学芸会に出る時のように大きく深呼吸を繰り返し、

 

「えっと、ね? 一夏くんは、ヒメちゃんのことが、その……」

「はい、護りたいって思ってます。それが、俺の夢ですから」

「う……うそでしょ……? な、仲良しだとは思ってたけど……まさか、ここまで……ヒメちゃん攻略早っ……恐ろしい子ッ……」

 

 なにが一体、そこまで信じられないのだろうか? まさか自分は、そこまで軽い男に見られていたのだろうか? 一夏の見当外れな心配をしている間に、あるていど落ち着きを取り戻したのか、ようやく楯無は立ち上がると、動揺をできる限り隠すように扇子で口元を隠す。

 

「ふ、ふふふっ……なるほどね、貴方の気持ち、お姉さんしっかりと受け取ったわ」

 

 まだ扇子が文字が出る方と逆を向けている分、かなり狼狽しているようだが、これ以上グダグダになるのも勘弁願いたかったので、あえて一夏はスルーする。

 

「……でも、なんでヒメちゃんなの? 貴方なら、他に一杯居るじゃない」

 

 他に一杯――つまり、千冬姉や、クラスのみんなの事だろう。

 確かに一夏も、昔は自分が関わった全ての人間を護ることを夢見ていた。

 だがそれは所詮、憧れていた姉の強さを『全能な何か』と履き違えていただけで、織斑一夏が如何に盲目だったかを象徴するような夢物語だった。

 それに気付けたのは、いつだって自分の隣に居て、居なくなって、また帰って来てくれた少女の貴さと、儚さと、弱さを知ったから。

 ――少し、これを言葉にするのはクサいと思った一夏は簡潔に、それでも嘘偽りない自分の全てを込めて、楯無に言った。

 

「俺が、どうしても護りたいと思ったから――じゃ、ダメですか?」

「そう……そう、なの」

 

 楯無は目を閉じながら扇子を畳んで、その向こうにある優しい笑みを一夏に見せた。

 

「……こっから先は、口外厳禁で、頼むわね」

「はいっ?」

 

 どんな時でも片時すら手離さなかった扇子を、楯無はそっと地面に置いて、

 

「これ、当主の証みたいなもんだから、片時でも手放したら即一族追放レベルのモノなのよ」

「え、ええっ!!? な、いいんですか!?」

「もちろん、全然よくないわよ。だから黙ってて、ってお願いしてるじゃない」

「なら、なおさらっ……ッッッ!?」

 

 突然の暴挙に戸惑う一夏の身体を、楯無――だった少女が抱きしめた。

 

「あああっ、あんた一体なにをぉぉぉッ!?」

「……がい……」

「はぃぃ!?」

「おねっ、がい……お願い……一夏っ、くん……」

 

 胸に飛び込んできた少女が流す涙。

 弱味を他人に見せてはならない楯無。

 そして今、彼女が楯無を一時とはいえ捨てた意味を、一夏は理解した。

 ここに居るのは、使命に生き、己を殺す更識楯無ではない。

 

「あの子を……ヒメちゃんを……護って……一人に……しないであげて……!」

 

 ただ、大切な妹の身を心から案じる少女――かた姉だった。

 

「ヒメちゃんはね……絶対にあんなこと出来る子じゃないの……とっても泣き虫で……とっても甘えん坊で……とっても、とっても優しい子なの……!」

「はい」

「人を傷付けてね……怖い目にあってね……怪我をしてね……それでも笑えるような子じゃないの……! ヒメちゃんは必死に強がって、泣くのを堪えてるだけなの……!」

「はい……はい」

「でもね……私はもうかた姉に戻れないの……あの子のお姉ちゃんになってあげられないのよぉぉぉ……!」

 

 どれほどの絶望だったのだろうか。

 力があるのに、傍に居るのに、護り抜けるはずなのに。

 立場という呪縛1つで、大切な人を自らの手で追い詰めなくてはならないという地獄は。

 自分の愚かさと歪さに咽び泣く少女を一夏は受け止めながら、もう一度誓う。

 

「分かりました……俺が、背負います」

「……せお、う……?」

「キリを護る役目を、かた姉さんの分まで俺が背負っていきます。アイツの笑顔を奪う奴と戦い続けることを、ずっと傍で見護り続けることを、貴方に誓います」

「うん……ごめん……ごめんね…………一夏くん……ごめんね……」

「大丈夫ですよ、かた姉さん。それが、俺の夢ですから……いつか楯無からだって、キリを護ってみせます」

「ありがとう……ありがとう……一夏くん……っ!」

 

 きっと明日からは、彼女も姫燐を追い詰める敵になるのだろう。

 それでも一夏は今だけ、この瞬間だけでも、拭ってやりたかった。

 姫燐を誰よりも護りたいと願った、この世から消えゆく少女の不安と、涙を……。

 




~あとがき~
シャル回だと思った? 残念、ほぼオリキャラになりかけてる会長回でした!
ていうか、サブタイがシャルなのに、今回シャルが一言も喋ってないって?
……でもそんな事はどうでもいいんだ、重要なことじゃない。

メタモンのフレコが貰えずポケモンを封印したら中々のスピードで書けました。
今回から本格登場で、キリのお姉ちゃんだというトンデモオリ設定を追加された楯無会長ですが、キリが偶に自分のことを「お姉さん」と言っていたり、ぶっちゃけ前半のキリはレズ抜けば完璧に会長のデッドコピーだったりと、伏線自体はあったりします。

この伏線に気付いてた人の中から抽選で「心配症をこじらせ過ぎて病み、姫燐を自分の物にするため幼児退行するまで性的な尋問をしちゃう会長」のSSをプレゼントしません。お早めにお答えしても、何も出ません。あしからず。


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第22話「IS学園に転校してきたけれど、僕はもう限界かもしれない」

 幼い頃、母さんから貰った目覚まし時計が、目覚めの時間を告げて僕の耳を叩いた。

 朝は弱い方ではないが、やっぱり快眠を邪魔されるのは少しだけムッと来て、思いっきり時計の頭を叩き――そうになった所で、やんわりと時計の頭を押した。

 祖国から持ってこれた、数少ない私物だ。昔から、今まで、僕とずっと一緒の朝を迎えてきた思い出の詰まった品の寿命を、一時の機嫌で縮めたくない。

 新品のシーツを退け身体を起こして、詰まった胸から空気を吐き出し、あくびと一緒に肺と脳に澄んだ空気を吸い込んでいく。

 

「ふぁーー……ぁぅぅ」

 

 まだお日様は昇り切っておらず、カーテン越しの景色は夜の青さをまだ残している。

 前までの生活ではまだ寝ていた時間だからか、身体も思う様に動かない。

 そもそも、なんでこんな早起きしたんだっけ僕……は……っ――

 

「ぅむっ!?」

 

 い、急いで口は塞いだけど、み、見られてないよね……?

 何を寝ぼけているんだ。昨日から僕は、彼と同室になったんじゃないか。こんな姿を見せないために、わざわざ慣れない時間に早起きしたのに……お、起きてないよ……ね?

 そっと、そーっと、さり気なーく、自然に視線を右に横にずらしてー……え?

 

「あれっ?」

 

 そこには昨日、僕が部屋に入って来た時と同じようにシワ一つ無くセッティングされたベッドだけがあって――あの男の子はどこへ?

 確か昨日、模擬戦が終わった後は、みんなに揉みくちゃにされたけど何とか部屋まで戻ってこれて、荷物運びしてる最中に彼も戻って来て、軽く自己紹介した後に、少しだけ手伝って貰って、一緒のタイミングで寝た……はずなのに、どうして?

考えたくないけど……まさか、感づかれて既に別の部屋に――

 

「ん、起きたのか」

「っ!?」

 

 だ、誰っ!? って考えるまでもないけど、ま、まさかもう起きてたなんて!?

 

「お、おはよう一夏。あ、朝、早いんだね?」

「そうでもないさ、昨日考え事してたから、今日は少し寝坊した」

 

 ね、寝坊!? まだ太陽も昇り切ってない時間なのに寝坊!?

 白の布地に青いラインが入ったジャージ姿の彼は、眉間にしわを寄せながら、グリーンティーが入ったコップをおどろく僕の目の前に置いて、

 

「ほら、お前の分」

「あ……ありがとう」

 

 置いてくれたグリーンティーを手にとって、少しだけ息を吹きかけて覚ましながら……

 

「そ、その……ねぇ?」

「どうした、飲まないのか?」

 

 うん、分かってる。きっと天然でやってるんだよね?

軽く小首を傾げる仕草から、そう察することは出来るんだけど――

 

「な、なんで僕がお茶飲む所を、そんなじっと見てるのかなーって……?」

「ん……あ、悪い」

 

 や、やっぱり天然なんだよね? 視線が本気だったのも、やたら顔が近かったのも、僕から離れる瞬間ちいさく舌打ちしたのも全部天然なんだよね!?

 う、うん、僕の考え過ぎだよ、きっとそうだよ。久しぶりに男の子同士で会話が出来て浮かれて、いや、浮かれてるなら何で眉間にシワ寄せて……うん、いただきます!

 人肌に近い温度になったグリーンティーは、寝起きの乾いた喉を潤してくれ、紅茶には無い独特の甘みは真っ白になりかけた僕の頭を優しく労わってくれるようで、初めて飲んだけど、とても美味しいと思えた。

 それを率直に彼へと伝えようとして、

 

「味」

「え?」

 

 先手を取られて、思わず言葉が詰まってしまう。

 

「どうだ?」

「あ……うん、すごく美味しかったよ!」

「どこら辺が?」

 

 な、なんでそこまで聞いて来るんだろう……相変わらず怒ったようにムッとしたままだし……。

 それでも、詳しく言わないといつまでも離してくれなさそうだし、僕は思ったまの感想を口にした。

 

「え、えっとね、いつもは僕、紅茶を飲んでるんだけど、それには無い甘みがあって……」

「甘い物が好きなのか?」

「う、うん……」

 

 バッサリと斬られる会話が、緑茶が入った僕の胃に響く。

 だけど、僕の答えに満足してくれたのか、彼はようやく何かを達成したような顔つきになって一息つき、

 

「分かった、ありがとな」

「えっ、あっ! 何処に行くの!?」

 

 もう用はないと言わんばかりに、くるっとターンして出口の方へ急ぐ彼の背中を呼びとめる。

 

「トレーニング」

「あ、じゃあ僕も着替えるから一緒に」

「悪い」

 

 急いで着替えようとした僕にギロリ、と首だけ向けて、あのブリュンヒルデ譲りな刃の眼光で僕を射抜いて、

 

「俺は、急いでるんだ、シャルル」

「う……うん……引きとめてごめんね、一夏……」

 

 バタンと、乱暴に扉が閉められ、速足で足音が遠ざかっていく様子を、僕は中腰のまま見送るしかなくて……完全に聞こえなくなってから、ベッドへと身体を投げ出した。

 

「あ、あんな露骨に拒絶しなくっても……」

 

 思わず滲みかけた涙を、寝巻にしているジャージの裾で拭う。

 

「織斑……一夏……なんで?」

 

 分からない、なんで僕がこんなに彼から嫌われるのか――いや、そもそも嫌われているなら何でモーニングティーを淹れてくれたり、僕の好みとかを聞いて来るのか――やっぱり、分からない。

 僕が二人目の男性操縦者だから?

自分だけの特権だと思ってたから?

女の子だらけのハーレムを壊されたから?

 でも、転校してからたった二日なのにもう一人、イギリスの代表候補生さんからまで並々ならぬ殺気を放たれているのは、やっぱり性別とか立場とかより僕自身に問題があるとしか思えなくて――

 

「……お母さん」

 

 弱気な呟きが、朝日と一緒に溶けていく。

 ああ、お母さん。天国にいるお母さん。

 さっそく二人の人に目の敵にされてしまった僕は、果たしてこのIS学園で上手くやっていけるのでしょうか……?

 

 

第22話「IS学園に転校してきたけれど、僕はもう限界かもしれない」

 

 

「はぁ……」

 

 食堂の適当な一席に腰を下ろしながら、シャルルは憂鬱気に溜め息をついた。

 朝食を食べないのは健康に悪いので、フレンチトーストと紅茶のセットを頼んで持って来たのはいいが、どうにも胃が締め付けられたような気分が晴れず、食欲が湧かない。

 当然ではあったが、自分に向けられる好奇の視線や噂話、黄色い嬌声は今朝どころか、この学校に来てから一向に止まず、ルームサービスって無いのかなぁ……と、顎に手をやってシャルルは真剣に考え込む。

 そんな仕草すら、『フランスの代表候補生』『第二のIS男性操縦者』『悩める貴公子』というフィルター越しに彼を見る彼女達にとっては非凡に映ってしまうのか、ヒソヒソ声のボリュームが一様にアップする。

 

(これは……思ってたよりも、辛い)

 

 二人目の自分ですらごらんの有様なのだ。きっと、一人目だった一夏の時は、居る場所全てがライブ会場もかくやというお祭り騒ぎだったのだろう。

そう考えると、今までの彼の行動は、溜まりに溜まったストレスが自分に矛先を向けているだけじゃないのかという希望的観測が生まれ、同情と共に少しだけ食欲が戻って来る。

 

(うん……そうだよ。きっと、彼も少し虫の居所が悪かったんだ)

 

鬱々と考え込む前に、とりあえず食事だけは済ませようとシャルルは顔を上げ、

 

「よぅ、朝から不景気な顔してるねぇ」

 

 いつの間にか、目の前で真っ赤なリンゴを丸ごとかじる、真っ赤な髪をした少女が前の席で足を組んでいることに気付いた。

 

「うわぁ!?」

「あー、朴月ちゃんズルいよー!」

「抜け駆けはダメだよー?」

「なっはっは、悪りぃ悪りぃ」

 

 と、口では彼女の先行を非難しつつも、口元は須らく先陣を切った功績を「よくやった」と称え緩んだ一年一組の女子達が、一瞬でシャルルの周りを包囲していく。

 

「わぁ、シャルルくんも小食なんだね」

「織斑くんは朝けっこうガッツリ食べるから、わたし男の子ってみんなそうなんだと思ってたよー」

「ま、そっちの方が健康にはイイらしいけどな。もう食ったけど、オレも朝はしっかり食う派だし」

「なるほど……だからそんなに胸が成長」

「胸は関係ねぇ! つかコラッ、触ろうとすんな油断も隙もねぇ!」

 

 わいのわいの朝から女性の胸について騒ぐ一年一組特有のノリについて行けず、戸惑いっぱなしなシャルルに、不届き者の胸を押し払ってから、リンゴをテーブルに置いて手を拭いてから、姫燐がスッと手を差し出した。

 

「えっ……」

「オレ、朴月姫燐ってんだ。同じクラスだけど、こうしてマトモに挨拶したことなかったろ?」

「あっ……うっ、うん! よっ、よろしくね、朴月さん」

 

 おずおずとシャルルはテーブル越しに伸ばされた彼女の手を握り返し、

 

「……よかった、画鋲とか仕込んでなかった」

「へっ?」

「う、ううん! なんでもないよ!」

 

 ようやく普通のコミュニケーションにあり付けたことにグランドフィナーレな感動を覚えながら、サライと共にゴールしかけた精神を再び走らせてシャルルは姫燐の顔を改めて見返す。

 男の子のような喋り方や服装と反する、モデルでもやっていけそうなプロポーションを誇るボディに、屈託のない爽やかな笑顔。クラスのリーダー的立ち位置に居る少女なのだろうか、周りに居るクラスメイト達とも良好な関係を築いているように見える。

 そして初対面で男である自分にも、臆面も気兼ねも無く話しかけてくれる自信に満ち溢れた姐御肌な性格は、独り不安に震えていたシャルルの心へ暖かい春風のように吹きぬけていく。

 

(素敵な人だなぁ……)

 

 今までが関わった人間が人間なのもあったが、それでも風を肩で切るような威風堂々とした朴月姫燐というこの女性の出で立ちは、シャルルにはとても格好よく見え、思わず見惚れてしまい、

 

「わーぉ、さっそくオトしにかかってるねぇ朴月ちゃん」

「流石、1か月で著名人を二人も撃墜したスコアは伊達じゃない」

「おいコラ野暮な話は、ん……著名人を二人……?」

 

 でも、同時にかなり天然モノなタラシさんだとシャルルは判断した。

言われている本人に全く心当たりがない辺りが、特に。

 

(あれ……著名人を……二人?)

 

 と、ここでちょうど自分に露骨な敵意を向ける二人も、世界的に著名な人物であることにシャルルは奇妙な符合を覚えかけたが、

 

「でさ、さっそくだけどシャルルに聴きたいことがあるんだ」

「えっ、聴きたい事?」

 

 姫燐からの質問に答える為にシャルルの頭が切り替わったため、うやむやのまま忘れてしまう。

 

「昨日の模擬戦で使ってたシャルルのISってさ、第三世代じゃないんだな。ありゃ見た所、お宅のデュノア社が作った第二世代『ラファール・リヴァイブ』のカスタム機と見たが」

「うん、そうだよ」

 

 ここへ来るまでに叩き込まれた自らのISのスペックを、一度目を閉じて脳裏にフィールドバック。

 そして、眼を開くと同時にシャルルは自らの愛機について語り始めた。

 

「確かに僕のIS『ラファール・リヴァイブ・カスタムⅡ』、形式番号『RR―08/s2』は、我が社が開発した傑作機『ラファール・リヴァイブ』のカスタム機だよ。元々最大の特徴であった武装搭載量を、プリセットをいくつかオミットすることで更に増加、拡張領域を倍近くまで増やすことに成功したんだ。機動力では特化した機体や第三世代には劣るけど、先述した豊富な武装と兵装の全てを実弾武器にすることで継戦能力と状況対応能力にかけてはどの国の機体にも劣らない。装甲は特殊軽量化した衝撃吸収性サード・グリッド装甲を使用、さらに大出力マルチウィングスラスターと2基の小型推進翼で、鈍重さをいくらか誤魔化してはいるんだけどね。でも、やっぱり昨日みたいな弾幕を張って来る相手の攻撃を全てかわしきるだけの速度は得られなかったから、代わりに…………」

 

 ここまで喋り倒してからシャルルはようやく、自分がどれだけマシンガンのように喋り倒していたのか、そしてあれだけ騒がしかった外野の視線が点になって無言と化していることに気付き、

 

「ごっ、ごめん! こんなの、いきなり訳が分からないよねっ! ぼ、僕ったらつい、熱くなっちゃって」

「い……いや、大丈夫だ、問題ない」

「本当にごめん! も、もっと普通の話もできるんだけどねっ? あっ、ほ、朴月さん達の質問が普通じゃないって訳じゃなくて」

「あー、いや、落ち着けって。素直に感心してただけさ、みんなも」

「へっ?」

 

 しどろもどろになりながら、自身のKYっぷりに謝罪を繰り返していたシャルに、素直な敬意を込めて褒め、姫燐が周囲に確認する。

 

「いや、前例のバカが専用機のせすら知らないレベルで、超酷かったからなぁ……」

 

 同意するように、うんうんと首を縦に振る一同。

 言うまでも無く、織斑一夏のことである。

 

「そ、そこまで……?」

「ああ、オマケにこの前までIS学園最強な生徒会長の存在すら知らなかったレベルでサッパリだったな。オレ達だからある程度ついていけてるけど、アイツに今の話したら多分今ごろ頭ショートさせて顔面脂汗だらけだろうな」

 

 やはりうんうんと一様に同意する外野に、そこまでボロクソに言われるもう一人の男子の扱いに一筋の汗がシャルルから流れ落ちた。

 

「それに比べて、シャルルがあんまりにもISに詳しかったからさ。今まで本気で学んで来たオレ達でも舌巻くレベルだ。フランスの代表候補生だとか、デュノア社の御曹司だからってだけじゃなくて、普通にすげぇよシャルルはさ」

「そ、そうかな……えへへっ」

 

 他人に褒められたのなんて本当に久しぶりで、思わずシャルルの頬も朱に染まり、今まで緊張に縛られていた表情も自然とほぐれて――

 

「ぐふっ!」

 

 姫燐のハートに、特に理由もないキュン死が襲いかかった。

 

「ああっ、朴月ちゃんがやられた!」

「この人でなしッ!」

「えっ、僕人でなしっ!!?」

「ああ……大丈夫だ……大丈夫……」

 

 断末魔と共に机に倒れ込んだ姫燐だったが、すぐさまプルプルと鼻を押さえながら身体をゆっくりと起こし復活する。

 

「ふぅ……次はもうちょっと破壊力が低い質問をしようか……オレの命が萌え尽きる前に……」

「う、うん」

 

 さっきの質問のどこに命を燃やす要素があったのか分からないが、気にしてはいけないことだと空気を読んだシャルルに、姫燐から次の質問が浴びせられる。

 

「じゃあさ、シャルルのご両親って、どんな人なんだ?」

「えっ……」

 

 冷たく、自分の首を締め付ける、鎖のことについて。

 

「いやー、いずれはさ、やっぱり挨拶に行くかもしんねぇじゃん? あ、深い意味は無いんだが、やっぱり大企業のセレブな方々ってどんな人なのか気になるし、だから……シャルル?」

「う……うん……ご、めん、ね……」

「お、おい、大丈夫か?」

 

 急に血の気が引いた表情になったシャルルに、姫燐が何事かと腰を浮かせる。

 だが、それを手を突き出して制し、シャルルは悲しげに、一言だけ、

 

「もう、居ないんだ」

「あっ……」

「母さんは、2年前に病気で亡くなって……」

「す、すまんっ! 無神経なこと聴いちまった!」

 

 またこのパターンかよっ!? と、一人目の男子と全く同じ地雷を踏み抜いてしまった迂闊さに頭を抱える姫燐に、シャルルは冷めた紅茶の入ったティーカップを手に――そこへ熱を帯びた心を落としこむように、一呼吸だけ置いてから、微笑みかける。

 

「ううん、気にしてないよ。それに朴月さんに悼んでもらえて、きっと母も喜んでると思うから」

「シャルル……」

 

 熟れ過ぎている。

どういう環境で育って来たのかは知らないが、顔に出るほどの深い悲しみを、一瞬で心の内側へ飲み込めてしまうシャルルの振る舞い。それが姫燐には、人として歪な動きだろうと仕組まれた糸のままにこなすマリオネットのように思えて……心の面舵が、下心から、お節介に切り替わった。

 

「なぁ、本音。今日は昼までだったよな、授業」

「……うん、そうだよー?」

「うっし」

 

 お菓子を三時に食べれるねー♪ とのほほんとしたコメントを残す幼馴染を放置して姫燐は立ち上がると、座ったまま疑問符を頭に浮かべるシャルルの隣に立ち、

 

「そーう暗い顔すんなって、な!?」

「わぶっ!?」

 

 その背中を、平手で思いっきり叩いた。

 シャルルが手にしていた紅茶の中身が、テーブルに少し零れる。

 

「い、痛いよ朴月さんっ!」

「なははっ、悪い悪い」

 

 むくれるシャルに、姫燐はニッと満面の笑みを浮かべながら、

 

「じゃ、お詫びに今日の放課後、この学校を案内するよ。構わねぇか?」

「えっ……? あ、そんな悪いよっ」

「気にすんな。言ったろ、詫びだって」

 

 くるっと振り向いて、クラスメイト達にもするまでもない一応の確認を声高にとる。

 

「お前らも、言うまでも無く気にしないよな?」

「とーぜん! ナイス朴月ちゃん!」

「ここで引いたら女がすたるよ!」

「でもっ……」

 

 ノリと勢いの結晶体であるクラスメイト達に、まだ何か言いたげに言葉を濁すシャルルの頬が、つり上げられた。

 

「……ふぁい?」

 

 それが自身の交感神経がもたらした笑顔では無いことに、とつぜん頬にあてがわれた少女の指が作った笑顔だということに、あまりにも突然だった事態に、シャルルは何も言えず見つめ返す。

 まっすぐに、自分だけを見つめてくれる、黄金の眼差しを。

 

「笑おうぜ、シャルル」

 

 パッと指を離してシャルルに合わせていた腰を上げ、姫燐は少しだけ考え込むように間を空けてから、

 

「オレは笑ってるシャルルの方が好きだし、それに……」

 

 小恥ずかしい気持ちを誤魔化すように、指を離して頭を掻きながら、姫燐は手探りに言葉に変えていく。久しぶりに会った姉の姿を見て想った、この気持ちを。

 

「あんま上手く言えないんだけど、オレも最近、久しぶりに姉さんと会ってさ……その人、すッげぇ性格もタチも悪いけど……それでも、やっぱり嬉しいモンなんだよ。どれだけ遠く離れてても、家族が元気に笑って暮らせてるってのは、さ」

 

 まぁ本人には、死んでも言うつもりはないけどな。と、苦笑いしながら、照れ隠しに背中を向けて――だから、彼女にも笑って欲しいと姫燐は願うのだ。

 

「きっと二度と会えないくらいに離れちまっても、そいつは絶対に変わらないって思うから……な?」

「……そう、だね」

 

信じられない事は、この世界に多すぎる。

母を亡くした自分が引き取られたデュノア社という鳥籠は、シャルルから、生活と引き換えに年頃の若者が持つ『青さ』を奪った。身も心も、会社を、経済を、世界を動かす、灰色の公式で塗り潰していった。

宝石のように輝きを放っていた綺麗な言葉すら、今のシャルルにはもう、全て自分を陥れるための甘言にしか聞こえない。

シャルルが無心に信頼できる人間は、子を置き去りに独り逝った。だから、いくら人懐っこく裏表を感じられない彼女であろうと、その好意を真正面から受け止めることは――薄情だと思いつつも、出来ない。

それでも、そんなシャルルにも、信じたい事はあった。

 

――母さん。

 

 貴方は私を、今でも見ていてくれていますか?

 天国でも、あの時と変わらず、私だけを見ていてくれていますか?

 心でそう尋ねても、母は何も返してくれないが、代わりに自分の心は答えてくれる。

 

――笑って欲しい。母さんに、笑顔でいて欲しい。

 

 ふと、頭にこびり付いた灰色のロジックが嘲笑う。

 感傷は弱さだ。天国など有りはしない。死んだ人間は、何も見ない。

 でも、信じたい。塗り潰された灰色の下で、懐かしい青色がささやきかける。

 誰のためでも無い、自分が喜ぶから、母さんに笑って欲しいんだ。

 

「うん……分かったよ、私」

 

 シャルルは、呟きを呑みこむように紅茶の中身を一気に飲み干して立ち上がる。

 そして、背中を向ける姫燐の肩を二回、軽く指で叩き、

 

「ん、なんだシャ」

「えいっ♪」

 

 振り向いた姫燐の柔らかなほっぺを両手で掴み、左右に引き伸ばした。

 それはもう、ご無体に、もちもちと。

 

「にゅ……にゅ……?」

 

「ルル」と言おうとして言えない姫燐も、クラスメイト達も凍りつく中でたった一人、悪戯に引っかかったことを喜ぶ子供のような無邪気さで、

 

「仕返しだよっ、朴月さん」

 

 シャルルは、花咲くような笑みを浮かべていた。

 

「僕が言う事じゃないと思うけど、異性の頬には気軽に触れないほうが良いよ? 勘違い、されちゃうかもしれないしね」

 

 茫然とする彼女の柔らかい頬から手を離して、その隣を悠々とシャルルが通り抜けてから数秒。ハッと我に返った姫燐が、真っ赤になって猛抗議を飛ばす。

 

「か……勘違いって……ちがっ!? お、オレは、そんなつもりじゃなくて、ただお前が暗い顔してっから!」

「だったら、その無防備っぷりを直したら? 知らないよ、いつか押し倒されちゃっても」

「お、おしぃっ!!?」

「あははっ、冗談だよ。じゃあ、また放課後にねっ」

 

 あ、ダメだこれ楽しい。

 さっそく背後で「その発想は無かった!」、「意外っ、それはほっぺたッ!」、「目の付けどころがデュノアでしょ!?」と、クラスメイトにリンゴ色の両頬を狙われ悲鳴を上げる天然ジゴロ娘の災難に、少しやりすぎたかなと思いつつも、今度は自然な笑顔が出来上がる。

 自分の明日は、未だ一寸先すら分からない。けれど、下は向かない。

 代わりにきっと母が居ると信じる、上を、空を、天をシャルルは仰いだ。

 

――うん、大丈夫だよ、母さん。

 

 私はまだ、やっていけるよ。

 だから、心配しないで笑っていてね?

 後ろで短く束ねた金髪を、機嫌よく揺らしながら去っていく背中を追い掛け、別テーブルで朝食を取っていた鈴は、呆れたようにテーブルに肘を突きながら他の二人へと同意を求めた。

 

「誘うなら二人っきりにすりゃいいのに……なんだかんだ言って、超が付くほどのお人好しなのよねぇ、姫燐の奴って」

「うむ、掛け値なしに良い奴だ」

「…………」

 

 いつもの和食に舌包みを打ちながら、友人の善良な性根を心から誇る箒とは対照的に、彼女と同じ和食を頼みながらも一切箸をつけず、身体中から不機嫌のオーラを発しながら、

 

「ごちそうさまでしたッ」

「あっ、おい一夏?」

 

 一夏は手を合わせて、箒を一瞥もせず、席を立ち速足で食堂を後にした。

 当然が崩れるのは、誰にとっても恐るる事である。

それは今までどんなに自分が邪険に扱っても笑いながら相手をしてくれた幼馴染に、初めて無視されてしまった箒にとっても同じことであった。

 

「わ……私、わたしは……なにかっ、一夏に嫌われっ」

「あーもう、安心なさい。原因は絶対にアンタじゃないから」

 

 鈴の慰めに思わず零れかけた涙を引っ込ませ――いや、引っ込む方が問題な気もするが――箒は、では一体どう言う事なのろうと腑に落ちず、腕を組む。

 

「では、なぜ一夏の奴はあんなに不機嫌なのだ?」

「分かんない? アンタのお家芸よ」

「………………?」

 

 心底分かりません。

 キョトンとするボンクラーズの片割れに、鈴は落胆を長―い溜め息に込めて吐き出した。

 




ストライダー飛竜の新作? HAHAHA、そんな餌に釣られ……え? 釣りじゃない?
心底ドマイナーだと思ってた元ネタその2のまさかの新作と、気温の急激な変化に震えが止まりません。


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第23話「ライバル関係は突然に」

 結論が出た。これは、自分独りで答えが出せる問題では無い。

 半日で授業が終わった放課後、最近発見したこのIS学園に置いて、他の女性が絶対に来ないと断言できるベストプレイスに腰を下ろした一夏は、携帯に登録された悪友の電話番号をプッシュする。

 こうやって電話するのは久しぶりだなと考える間もなく着信音は途切れ、どこか小憎らしくも懐かしい男性特有の低音声が聞こえてきた。

 

『おっす一夏、どした? 久しぶりだな』

「ああ、弾。悪かったな、最近は少し立てこんでて」

 

 第三アリーナの一件から一夏の身辺警護は一層厳重になり、迂闊に学園の外へ出ることすら自重するようにと教師達から通達され、さらに一週間のダウンも重なり、最近会いにも行けなければマトモな連絡すら送れなかったことに気後れし、次に何を言おうか一夏は口淀んでしまう。

 だが、弾はそんな些細な事を気にするような繊細な性根はしておらず、久方ぶりである友人との会合を心から喜ぶように声を弾ませた。

 

『おぅおぅ悲しいねぇ。女の尻を追いかけるのがそんなに忙しかったのか?』

「バカ言えよ、今の俺にはそんな余裕ないっての」

 

 我ながら、コイツ相手にバカげた心配をしたモノだ。と、世界でたった一人の男性操縦者ではなく、一人のありふれた男子としてのノリを思いだしていくように、一夏も悪態で返していく。

 

『ははーん? てことは、朴月ちゃんにはまだ手を出してねぇのか?』

「なっ!? バっ!?」

『……は?』

 

《HAHAHA、なに言ってんだよ弾。俺とアイツは只の友人さHAHAHA》

 これがとりあえず壁際に移動して、いつでも壁を殴れる位置をキープしていた弾が予想していた、自分がよく知る織斑一夏の模範解答であり――

 

「おっ、俺はもう二度とそんなコトはしないッ!」

『えっ? もうって、まさか出したのか、手?』

「ちちちっ、違うッ! 絶対に違うぞ、あれは不可抗力だッ! 俺に下心なんて無かった本当だッ!」

『……はぁぁ?』

 

 弾はこの会話が、電話越しである事に心底感謝した。

 今、自分がどれだけ間の抜けた顔をしているか、容易く想像できたからだ。

 

『……あー……なぁ、一夏よ?』

「な、なんだよ?」

『俺達が墓まで持って行くと決めた秘密、その1』

「一回、千冬姉のビールにタバスコ混ぜたこと」

『……間違いなく本物の一夏だよな』

「当たり前だッ!」

『いや、IS学園には影武者まで居るのかって思ってな……』

 

 確認は取っても納得できない弾に、友人に影武者扱いされて割と本気でヘコむ一夏。

 ちなみに、弾は面白半分でも、一夏にとっては禁酒してもらいたいという一心で出したタバスコビールだったが、千冬は「ふむ、いつもより辛めだな」と、何事もなく一気飲みした。それどころか「これは何処のビールだ」と、逆に気にいられてしまった事も含めて秘密である。

 

『まぁ、お前が本物の一夏だとしてだ。まさか、俺の声が聴きたかった、なんて気持ち悪い理由で』

「安心しろよ、そんなキモい理由で電話はしない」

『分かってる、じゃあ何だ?』

「その、だな、弾……お前に、少し聴きたい事があるんだ」

『ほー、聴きたいこと?』

 

 今度はどんな料理に手を出すつもりなんだろうかと、弾の声が興味の色に染まる。

 一夏の料理の腕は定食屋の息子であり、小さい頃から家族に料理を叩きこまれてきた弾の舌を度々唸らせてきた。

 だから弾は、祖父か父にいつでもレシピを尋ねられるように、二階の自室から一階の調理場へ向かうために階段を下り、

 

「なぁ、弾……誰かと仲良くするのって、どうすりゃ良かったっけ?」

 

 思いっきり足を踏み外して、段差に尾てい骨を打ちつけた。

 

『ふぉぃぉぉぉぉぉぉ!!?』

「お、おい弾!? なんか今スゴイ音したけど大丈夫か!?」

 

 当然、まったく大丈夫ではない。

 だが、そんな痛みを気にしているどころでは無い非常緊急異常事態に、弾は尻を押さえながらも階段に座り、詳しい状況把握を早急に進めていく。

 

『おまっ、おまま、お前は本当に織斑一夏さんですか!?』

「敬語!? 他に誰が居るんだよ!?」

『え? いや、だって、お前一夏だろ? でも一夏は対人関係を気にするような奴じゃないだろ?』

 

 悪友が心中で下していた自分への評価と印象に、深い悲しみを背負いながらも一夏は単純明快な疑問をぶつける。

 

「弾……お前の中で俺は、今までどういう人間だったんだ?」

『唐変木』

 

 この即答である。

 そして言葉を失くす一夏に追撃で、

 

『それも、なんか世界で競う種目とかに「唐変木」があったら、金メダルでオセロが出来るほどの』

「おっ! 俺はそこまで唐変木なんかじゃな」

『お前それ絶対に俺以外の奴に言うなよ、刺されるぞ』

 

 割と本気の声色をした弾の忠告に、一夏はそれ以上なにも言えなかった。

 

「だからなのか……? いや、でもこんなこと今まで一度も……」

『ん、何がだ?』

「……その、相談、していいか? 本当に分からない事があるんだ……」

 

 友人が初めて見せた弱さと苦悩に、弾は隠せないほどの驚きと――本当に今更な親近感を覚えた。

 ありとあらゆる女性から好意を寄せられながらも、その一切に気付かないという、中学時代からの友人。

そんな彼の姿を何処か、俗世に縛られず生きる仙人のように捉えていた節があった弾にとって、誰かとの付き合い方を真剣に思い悩む今の一夏は、本当に弱くて、繊細で、ちっぽけで――

 

『……スマン、茶化して悪かったな』

「弾?」

『いいぜ、言ってみろよ。笑わねぇからさ』

 

 だからこそ、支えてやりたいと、力になってやりたいと、心から思うことが出来たのだ。

 

「……ありがとな、迷惑かける」

『悪いと思うなら、今度またウチで何か食ってけ。可愛い女の子いっぱい引き連れてよ』

 

 約束する。そう返した一夏の声が、妙に心地よかった。

 

『で、誰かと仲良くする方法? だっけか』

「ああ……弾は、ニュースとか見てるか? このまえ転校してきた」

『知ってるぜ、シャルル・デュノアだろ? フランスの代表候補生』

 

 ニュースで毎日のようにデュノア社と共に紹介されているため、弾もすっかり覚えてしまった名前が出てきたことで、相談内容に大体の察しがついてくる。

 

『なんだ? あのシャルルって奴と上手く行ってねぇのかよ、お前』

「………………仲良くは、したいと思ってる」

 

 曖昧な言葉だったが意図を正しく受け取り、弾はパッと思いついた予測に裏を取っていく。

 

『そんなに嫌な奴なのか? シャルルってのは』

「いや、良い奴だと思う。大人しいし、丁寧だし、人当たりも良いし、金持ちってことも鼻にかけるような奴でもないから……」

『じゃあ、何で上手くいかねぇんだよ? お前、よっぽどアレな奴じゃない限り、誰とでも仲良くなれるだろ?』

「そうなんだよなぁ……でも、どうしても、何かこう胸が重くなって、モヤモヤするんだ、アイツを見てると……だから今朝も、邪険に扱っちまって……」

 

 少なくとも、中学時代の明るく、誰とでも裏表なく付き合っていた一夏は、女子はもちろんのこと、男子達の間でも――女性関係の話題を除けば――人気は高かったし、友人は多かった。

 だから、彼と相性が悪い人間となれば、それこそ性根が曲がった悪人や小悪党、それと大切な姉の悪口を言う人間くらいなモノだ。

 こうして聴く話だけでは、弾には一夏がシャルルを嫌う理由は何処にもないように思うし、彼自身でもそう思っているから、こうして相談してきているのだろう。

 

「キリだってアイツのこと、すっげぇ気にいっててさ……良い奴、なんだとは思うんだけど」

『ん、キリってどちらさんだ?』

「あれ? 弾ってキリに前会ったこと無かったっけ? ほら、一緒に服買いに行った」

『……あぁ、キリって朴月ちゃんのことか』

 

 あの一夏に、デートへ行かせただけではなく、あだ名で名前を呼ばせるとは。

 一夏攻略レコードを矢次に更新していく、あの綺麗な赤髪をした少女への評価を、弾は心中でうなぎ昇りさせていく。

 初対面の時は色々と忙しなかったため詳しい人柄までは分からなかったが、彼を任せるに足る人物であることは間違いなかったし、一夏本人もかなり彼女に心を許しているのだろう。

 だから弾も、相変わらず良好そうな二人の関係に安堵し、

 

「キリが幸せそうなら俺はそれでいいと思うんだけどな。でもアイツ最近それ以外どうでもいいっていうか、怪我もまだ治ってないのにいくらなんでも熱中しすぎっていうか、他が疎かじゃないのかって思ってさ」

『おい』

「キリの奴、しっかりしてるようでどっか抜けてるし、辛い事とか悲しい事も全部一人で背負いこみがちだから、たまに何考えてるのか分かんなくて不安でさ……」

『待て、おい』

「でも、俺はそんな頑張り屋なところもキリの良い所だって思ってるから、あんまり口出しとかしたくなくて、じゃあ俺がアイツに出来ることは何だろうって考えたら、今はキリのために美味い物作ってやるぐらいしかなくてでも何だか」

『待てやッ!!!』

 

 本題からズレまくったマシンガントークを、弾の一喝が遮る。

 

「えっ?」

『えっ? じゃねーよ!? お前は一体なんの相談をしに来たんだッつーの!』

「そ、そりゃ、シャルルとどうやったら仲良くやってけるかを」

『だろ!? お前が朴月ちゃんとお仲がよろしいのは、よぉぉぉぉく分かった! だがな、今はその本題の方を……ぉ?』

「なっ、どうしたんだよ……?」

 

 急に怒鳴ったと思ったら今度は急に黙りこくる友人に戸惑う一夏だが、一方の弾はそんな事を気にかける余裕もなく、過ったまさかの可能性に戦慄を覚え黙考する。

 一夏の話を総合するなら、転校生のシャルルはとても良い奴であり、一夏と仲が良い朴月ちゃんもそんな彼のことが大層気にいってるのに、一夏は彼の事をどうしても邪険に扱ってしまうらしい。

 これらの情報をイコールで結ぶ、簡単な問題だ。

なのに、導き出される答えは、とうてい納得できるものではない。

少なくとも、弾が良く知る織斑一夏という男が抱く感情では、決して。

しかし、それ以外の回答がどれほど論理をこねくり回しても出ない以上、弾には本人に確認を取ることでしか答えを得られない。

 

――まさか、な……?

 

弾は、込み上げる恐々を決して悟られぬよう噛み殺しながら、尋ねる。

 

『……お前、さ。朴月ちゃんのこと、どう思ってんの?』

「へっ? 本題を話せって言ったの弾じゃ」

『言え、間違いなく本題に絡んでるから』

「ど、どう思ってるって……そ、そりゃ、だな……」

 

 照れてる。あの一夏が、女の子との関係を聴かれて照れてる。

 もはやそれだけで弾には答えに等しかったが――一夏が出した答えは、そんな彼の想像を遥かに超えて、

 

「護りたいって、思ってる」

『……は?』

 

 すごく、ニブチンだった。

 やはり長年連れ添った友人に言うには少し抵抗があるのか、口ごもり気味ではあったが、それでもハッキリと一夏は胸中の覚悟を友に語る。

 

「オレは、アイツを護りたいって思ってる。何があっても傍に居て、アイツの笑顔を護り抜きたいって、思ってる」

 

 弾は、何も答えない。

 その沈黙を、分かりにくいジョークに対する返信に迷ってるのだと判断した一夏は、ムッとしながら、

 

「おっ! 俺は本気で言って」

『それだけ?』

「はっ?」

 

 心底、腑に落ちない気持を乗せた弾の疑問に、一夏もまた友人が何を言っているのか分からず問い返してしまう。

 

「そ、それだけって……」

『いや、お前マジでそれだけ? そんなにモヤモヤしてんのに、朴月ちゃんに抱く想いがそれ「だけ」なの?』

「そ、そうだ、俺は何があってもキリを護る。そう決めたんだ」

『………………』

 

 自分の誓いに偽りは無いと断言した、中学以来、ずっと女とは縁しか無いのに無縁だと思っていた友人の姿に、弾は再認識し、再確認し、再確信する。

 

『ぶっ』

「ぶっ?」

『ぶぁーーーっはっはっはっは!!! 何の冗談だよ鈍すぎるだろお前ッ!!?』

 

 少しマシになってもやはりコイツは、頭からつま先まで本当に本当にどうしようもない、天然記念物級の唐変木であるのだと。

 

「なっ!? 弾おまっわ、笑わないって」

『むっ、無茶言うなってフヒヒヒヒ! な、なんで分かんねえんだ、なんでそこまで朴月ちゃんのこと想っときながらッ、なんで出てくる言葉が「護る」だけなんだよお前ッ!? こっ、これで、これで笑うなって、む、むりぃイヒヒヒヒ!』

 

 自分の誓いに、腹立つバカ笑いを続ける友人の姿に、電話越しで無かったなら一発殴っていただろう。

 

『そーかそーか! そら当然か! だってお前わかんねぇんだもんな! 自分自身も例外じゃないってか!? あフフふッ、おかしくって腹痛いわー!』

 

 問題は最後の1ピースを得て、全て1つの線へと繋がった。

 なぜ、シャルルと仲良くできないのか?

 なぜ、姫燐がシャルルと仲が良いと面白くないのか?

 なぜ、その原因が一夏自身に分からないのか?

 そりゃそうである。なぜなら彼は、今まで数多の女性から向けられてきた『答え』に全て気付かず、そして今回もまた、気付いてないだけなのだ。

 それが他でも無い、自分の胸の内から生まれた『答え』だろうとも。

 

「弾ッ! そろそろ本気で怒るぞ!?」

『ふぇふふふッ……バカ言うなって、お前に怒る権利なんざありゃしねぇよ! 自業自得だ自業自得!』

「お、俺が悪いってのか!?」

『ああ、全面的にお前が悪い! 今から御手洗とかにも聴いてみるか、全員揃って腹抱えて笑い転げるだろうよ!』

 

 そこまで力強く断言されてしまっては怒るに怒れず、何がいけないのか黙考する一夏に、弾は痛む腹筋を律しながらヒントを与える。

 

『お前さ、なんで朴月ちゃんをそんなに護りたいんだよ?』

「な、なんでって……借りを返さないといけないから……」

『じゃあ、お前はそれを一生賭けて返すのか? ソイツはそんなにデケぇ借りなのか?』

「それは……」

 

 言われてみて初めて、一夏は自分の言葉が、抱いた誓いに相応しくない事に気付いた。

 違う。確かに借りは大きいが、それこそ「ずっと傍に居て返す」ほど、重い借りとは言い難い。

それにこの誓いは、借りを返す、などという事務的な冷たい義理なんかじゃない。

もっと熱く、もっと強い、身体が、命が燃え上がるような、叶わないならそのまま焦げ墜ちてしまえとすら思える、それほどまでに強い望み。

だが一夏には、この気持に相応しい言葉がどうしても見つからない。

きっとすごく大切なことなのに、分からない。

 

「弾には……分かるのか? 俺がなんで、キリをこんなに護りたいのか」

『ああ、分かる。けど教えねぇ』

「な、なんでだよっ!?」

『そんなん決まってんだろ?』

 

 弾は、受話器に当てた口を思いっきり愉悦に歪ませながら、

 

『いままで散々それで人を振り回したんだ、今度はお前が振り回されてこいってことだよ! じゃあな、俺も人待たせてんだ!』

「はぁ!? なんだよそれオイ! コラま」

『あ、そうそう。1つ言い忘れてた』

「って、なんだよ……もぅ」

 

 こんな我が友人はマイペースだったかとゲンナリする一夏に、

 

『負けんじゃねぇぞ一夏……これから先に、なにが起こってもな』

「えっ……あっ、弾っ?」

 

 とっさに名前を呼んでも、返って来るのはツー、ツー、ツーと無機質な電子音だけ。

 嘲笑うような口調から打って変わって呟かれた、心配を孕んだ真剣一色な友人の忠告。

それが嫌に一夏の心臓を掴み、だというのに、この想いには一点の曇りが生まれるはずもなくて――

 

「……なんで俺は……こんなにも、キリを護りたいんだろう……?」

 

 結局相談して得られたのは新たな疑問と心労だけで、進展と呼べるものはなにも無かった。

 失意のまま立ち去ろうかとしたが、最低限のマナーとして、そして末永く世話になりそうなこの場所に敬意を払う意味も込めて、

 

「立つ鳥、跡を濁さずっと」

 

 レバーを『小』に引いて、空である便器の内部を水洗する。

 緩やかに流されていく水を眺め、自分とシャルルの関係も、このように水に流せる時が来るのだろうかと、一夏は溜め息をついて安息の場所――IS学園唯一の男子トイレを後にした。

 

 

                 ○●○ 

 

 

 敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。

 むかし友人から借りたゲームで覚えた、有名な中国の兵法書『孫子』に書かれた一文を実行に移すため、トイレから出た一夏はIS学園の資料室へと足を運んでいた。

 鞄から取り出した生徒手帳を改札口のようなゲートにかざして入室し、ザッと一夏は室内を見渡す。

ここ、資料室は普通の学校でいう図書室に近く、教室4つ分はありそうな広い一室にズラッと並んだ本棚と検索用のPC、長机とセットに置かれたいくつもの座椅子が置かれている。

流石に世界最先端の技術を取り扱う学校の、貴重なデータが大量に眠っている一室だけあってレイアウトは近未来的で小奇麗だったが、そう言った場所特有の、私語が勝手に喉奥へ引っ込んでしまうほどの静寂は変わらない。

そんな雰囲気に竦みそうな足を飛ばすように動かしながら、本棚の前に立って適当な一冊を抜きだす。

 

(初めて来たけど……スゴイな、これ全部IS関連の資料なのかよ……?)

 

 ISが世界に生まれてから約9年ほど。

 何千年も続く歴史の中では本当に僅かな時間であっても、前に立った自分よりも背が高い本棚に詰め込まれた幾つもの本たちは、世界を作り変えた自負に裏打ちされた重圧を伴う威厳を放っているみたいだと、一夏は思った。

 一介の学生である自分の存在が、こんな場所には余りにも場違いに思えて、

 

(……まぁ、女子校に居る男子ってだけで今更か)

 

 もう慣れたもんだと本を棚に戻し、テーブルの一角に鞄を置いて、自分も椅子に座った。

 今日は一年生だけが半日授業だったらしく上級生の姿は見えず、キリを含めた同級生も今はシャルルに学校を案内しているため人っ子一人すら居ない。

 つまり、誰にも邪魔をされない情報収集には理想的な環境であり――当然、一夏がいま欲する情報はたった1つであった。

 

(せめて、シャルルの……デュノアのことだけは知っとかないと……)

 

 自分のことはいくら考えても分からないが、それならせめて相手の事だけは少しでも理解しておこう。

それが初めてこの資料室へ足を運んだ、一夏の目的であった。

 

(まぁ、シャルルは敵って訳じゃないんだが……)

 

 今までは正体不明のモヤモヤが先行していたが、こうして一人で落ち付いてみると、シャルルへの興味が尽きないのも事実である。

 どんな人生を歩んできたのだろうか?

 どんな夢を抱いてるのだろうか?

 そして今――女だらけの場所に突然ぶち込まれて、どんな気分なのだろうか?

 現れると思っていなかった、自分と同じ境遇――言わば同士と、女性には決して打ち明けれない愚痴で花を咲かせることが出来れば、どれほど楽しいのだろうと一夏は想いを馳せる。

 実際に一夏も、シャルルがここへ来ると知った時はそんなことを密かに夢想しており――だからこそ、素直になれない現実との差異に戸惑うのだ。

 

(思えば可哀想と言うか、なんと言うか……)

 

 一夏は鞄の中から、姫燐に押し付けられた性転換のパンフレットを机に広げて、肘をその上に乗せる。

 

(シャルルの奴も、まさか寄って来る女子が、自分を性転換させようと考えてるなんてなぁ……)

 

 考えるはずもないだろう。普通に考えられる筈がないだろう。

 自分だってゴメンだ。一夏は、もし彼の境遇に自分が立たされたのなら、と想像する。

生まれついての性別を変えられて、抱きしめられて、ずっと一生一緒に居てくれると、その笑顔を自分にだけ向けながら囁いてくれて――きっと、それはとても、織斑一夏にとって――

 

(嫌じゃ……なく……て……?)

 

 なにか、大切な、大変なことが、指先に触れたような感触がして、

 

「はひいぃぃぃぃぃぃ!!?」

「ホァッ!?」

 

 資料室の静寂を斬り裂く悲鳴とも驚愕ともつかない声と、椅子を思いっきりぶっ倒した大音響に、一夏の心臓が身体と一緒に跳ね上がった。

 浮ついた思考など一瞬で吹っ飛び、一夏は急いで駆け寄る。

尻餅を付いて彼を見上げる、荘厳な空間を一瞬でコント会場とも変わらない空気へと変貌させた、よく見知った金髪縦ロールの少女の方へと。

 

「お、おい、大丈夫かセシリア!?」

「あっ、あああ、ああなた、ああななたたあなた……!?」

 

 ホントに大丈夫だろうか。

 一夏の隣に立ってから、飛び跳ねるようにバックしたのだろう。椅子を脹脛で抱くように転倒して後ろから思いっきり倒れ込んだにも関わらず、目立った怪我はしていないようだ。

 だが頑丈な身体と反して、メンタルの方は今にも結合崩壊してしまいそうなほど混迷していることが、瞳孔まで開かんばかりに見開かれた碧眼と、まったく回っていない呂律から察することができる。

 

「いいい、いったい、ぁあなた、あなたと言う人間はどこまで、どこまであの方の事を……?」

「あの方?」

「それがッ! それが貴方の覚悟だと言うのですか織斑一夏ッ!?」

 

 セシリア・オルコットは恐怖した。

 時として善意は、覚悟は、愛は、人をここまで恐怖させるのかと竦みあがらせた。

 シャルルにリベンジを誓った彼女は、お前も一緒にシャルルを案内しようという姫燐の誘いも断腸の思いで断り、彼の戦法や弱点を徹底的に調べ上げ、先日の戦闘データと照らし合わせて対策を練ろうとこの場所を訪れ――見た。見てしまったのだ。

 机の上に開かれていた、一冊の冊子を。

 

――あの男は、捨て去ろうというのか?

 

 細かくマーカーが引かれ、多数の付箋が貼られた性転換のパンフレットを。

 

――あの人のために、男であることを捨て去ろうというのか?

 

 男を捨てる意味――それは、彼女の傍に居続けるために他ならないだろう。

 織斑一夏――この女尊男卑のIS社会に生まれ落ちた、男というイレギュラー。

本来なら存在してはならない存在である彼の立ち位置は非常に不安定であり、今ここに居るという結果も、奇跡に近い偶然がいくつ折り重なって生まれたのかセシリアには予測もつかないし、そしてどんなふとした拍子で崩れさってしまうのかも……同様に。

 もし彼が何らかの理由でこの学園を去ることになれば、彼女に再び会う事は絶望的といっても過言ではない。少なくとも、今までのような関係には二度と戻れないだろう。

 これは彼がイレギュラーでありつづける限り常につきまとう危険であり――

 

――確かに、危険性の回避という点では、もっとも確実な手段ではあるとしても……

 

 だが、これは全ての問題をかなぐり捨てた極論だ。

 世界中の期待を、姉の誠意を、神が与えた運命すらも冒涜する選択だ。

 どんなバカでも分かるだろう。この選択肢を選んだ先が、身を、心を、未来すらもズタズタに引き裂く茨の道であることなど。

 

――それでも……たとえそれでも、この男は愛に殉じるというのかッ!?

 

 しかしこの男は、そんな茨道を今、真っ直ぐに見据えているのだ。

 あまりに無謀。あまりに愚純。あまりに――純粋。

 薄氷のように芯まで透き通っていながらも、愛する者以外、自分自身すら含めた全てを燃やし尽くすと言わんばかりの苛烈なる愛。

 もし彼女を取るか、オルコットを取るかという、苦渋の選択を強いられた時――セシリアはおそらく、どちらも選ぶことなどできないだろう。

 それで良いのだ。その結果はともかくとして、もしどちらかでも欠けてしまったのなら、彼女は二度と『セシリア・オルコット』で居られなくなる。

 自己防衛は人として、生物として何も間違ったことでは無い自然の摂理なのだ……から、こそ、セシリアは織斑一夏の、己の全てを捧げられるほどの深き愛に、恐怖を覚えるのだ。

 

――勝て……ない……。

 

 自分の愛は、この男に勝てない。

 彼の狂おしいほどの愛の前では、自分が抱いていた愛などチープなラブソングのような滑稽さすら感じられる。

 セシリアの人生に、壁が立ちふさがる事は幾度となくあった。

 新たな壁であるシャルルの存在も、足蹴にして、ただ乗り越えるべき壁の一つに過ぎなかった。

 だが……この男は違う。その在り方が根底から違う。

 自分が乗り越えようと、足を掛けることすら出来やしない。もし、彼の領域に踏み出してしまえば、そのまま飲み込まれて消えてしまいそうな……底なしの奈落穴。

 

――でも……負けられない。負けたくない。負けていい訳がない。

 

 そう、だからといって譲る道理も、義理も、意志もない。

 鈍いからなんだ。透き通っていないからなんだ。

それでも、自分は彼女を愛しているのだ! 強かろうが、弱かろうが、この思いに偽りなど有りはしないのだから。

歯を食いしばる。唇から血が溢れる。超えられぬ強敵を睨みつけ、認める。

 

――織斑、一夏っ……貴方は、貴方は……わたくしのッ!

 

「……光栄に、思いなさいな。織斑一夏……」

「えっ?」

 

所詮は虚勢。それでも、足の支えぐらいにはなる。

身体の痛みも無視して立ち上がり、胸を堂々と張り上げながら、セシリアは指刺す。

 

「貴方を……認めて差し上げますわ」

 

踏み越えて捨てていく壁では無く、自分の傍に並び立ち、たった1つの愛を奪い合う強敵――即ち、

 

「貴方こそ、このセシリア・オルコットのライバルに相応しい男であることをッ!」

 

 威風堂々、宣戦布告。

 生涯初めて対等だと認めた男の存在が、小憎らしくも、どこか喜ばしい。

 そんな奇妙な感覚に魅入られながらも、今までにない高揚感がセシリアを包んでいた。

 

「……お、おぅ?」

 

 ただ、肝心のライバルは「お前は一体なにを言ってるんだ?」と、その真意を一ミリも理解していなかったのだが……。

 

「ふふっ……意外と悪くないモノですわね、ライバルというモノも……」

「あー……えっと、その、そうだ。セシリアはなに調べに来たんだ?」

 

 この話題は深く突っ込まないほうが絶対に良いだろうと一夏は直感で理解し、一人ドヤ顔を崩さないセシリアに別の話題を振っていく。

 

「あっ、すっかり忘れていましたわ。デュノアについて、色々と調べなくてはいけませんでしたのに」

「セシリアもか?」

「も……ということは、貴方も?」

 

 ああ。と、短く肯定する一夏に、先を越されていた悔しさよりも、対敵がやはり自分と同じ場所に立っているのだと再確認できた喜びの方が今のセシリアには大きく、

 

「なら、ここは共同戦線と行きませんこと?」

「きょ、きょうど……ええっと、良いのか? こっちとしては、ここ初めて来たから手伝ってくれるんならすっげぇ有難いけど……」

「ふふふっ、貴族たる者、ライバルに塩を送る度量ぐらいは常に持ち合わせていますことよ? 織斑一夏」

「…………なんの?」

 

 と、思わず一夏は小声でこぼしてしまったが、相当浮かれているのか鼻歌スキップで本棚の網目を抜けていくセシリアの耳には届かない。

とりあえず邪魔な全ての元凶(パンフレット)を片付けて待つこと数分。セシリアが何冊かの本を抱えながら戻って来る。

 

「感謝しなさいな織斑一夏。ライバルであるこのわたくしが、知恵の足りない貴方でも分かるような本を直々にチョイスしてさし上げましたわよ」

「お、おう、ありがとな」

 

 言い方は相変わらず尊大でトゲがあったが、確かに彼女が持って来てくれた本は軽くめくってもイラストが多めであり、知識では素人に毛が生えたようなモノな一夏でも分かりやすそうであった。

 右隣の椅子に座ったセシリアが、すかさず解説を入れていく。

 

「その本は、ISの世代について解説しているモノですわね」

「ISの……世代?」

「ええ、デュノア社を語るのなら、避けて通れない話題ですわ」

 

 一夏も、必死に授業で叩き込み、白式を受け取った時に受けたレクチャーも踏まえ情報を纏めながら、セシリアに確認を取ってみる。

 

「確か……俺の白式や、セシリアのブルーティアーズ、鈴の甲龍は第三世代だったよな?」

「ええ、そうですわ。搭乗者のイメージ・インターフェイス――即ち、手足ではなく人間の思考によって動かせる武装を搭載した機体のことを指しますわね」

 

 一夏が相手をした中では、ブルーティアーズのビットや、龍咆がコレに当たる。イメージで展開する点では一応、雪片弐型もイメージ・インターフェイスに対応してると言えるだろう。

 

「そういえば、キリのISは何世代に当たるんだ?」

「キリさんのシャドウ・ストライダーは……おそらく第三世代に当たるとは思うのですが、あの機体は相当特殊な設計思想に基づいて作られている気もしますから、既存の世代分けに当てはめるのは……まぁ、今はそれよりもデュノア社についてですわ」

 

 脇へ逸れた目的を正すため、パラパラと資料をめくりながら、『第二世代の傑作機』と大々的に見開きで映っている緑色の機体のページを一夏に見せる。

 

「あ、これラファールだよな? ウチの学校にもある」

「それだけでは、旧世代の戦闘機になってしまいますわよ? 正確には『ラファール・リヴァイブ』、フランス語で『疾風の再誕』の名を冠する機体ですわ。お間違えにならないように」

 

 一夏としても、専用機である白式、思い入れのある打鉄の次に馴染み深い機体である。

 授業で専用機を持っていないクラスメイト達がよく乗っているし、セシリアとのクラス代表決定戦では自分の愛機候補だった機体だ。

 

「デュノア社のフラッグシップ機といっても過言ではない、第二世代最後発の名機。世界第3位のシェアを誇り、7カ国でライセンス生産され、12カ国で正式に……」

「………………」

「……基礎スペックだけなら、下手な専用機にも劣らないと言えばお分かりになって?」

「おお! そいつはスゴイな!」

 

 渋かった顔をスッキリさせる一夏に、ここまでかみ砕かないとダメかとセシリアは軽く頭を抱えた。

 この無知な民間人そのままな男に一度でも遅れを取った自分を恥じ、逆にこの男を代表候補生相手に勝たせてしまうほどの英知を授けることができた想い人に一層の敬意を抱きながらも、気を取り直して続けていく。

 

「コホン。このラファール・リヴァイブ最大の特徴はなんと言っても、その非凡な汎用性にありますわ。高い操縦性に、多種多様な武装の相互性により……えっと、つまり誰でも乗れて、何でも出来る機体という訳ですの」

「なるほど、誰でも簡単に美味しいご飯を炊ける炊飯器みたいなモンなんだな? そりゃ人気が出る訳だ」

「す、すいはん……?」

「ん、知らないのか? 炊飯器って、使い方次第でお米を炊く以外にも結構色んな料理ができるんだぜ?」

「し、知りませんわよそんな物! いいから話の腰を折らないでくださいまし!」

「わ、悪い……」

 

 逆上したわけではなく本当にセシリアは炊飯器というもの自体を知らないのだが、いい加減にしないと話が一向に進まないため、話の主導権を強引に握りなおしていく。

 

「とにかく! この機体の開発によって、デュノア社の名前は一躍業界に知れ渡りましたの。第二世代に関しては、ここの右に出る企業はついに現れませんでしたわ」

「第二世代に関して……ってことは」

「相変わらず勘だけは鋭いですわね……その通り、デュノア社は第三世代の必須条件に近いイメージ・インターフェイスの技術においては、他の企業ほど優れている訳ではなく、後塵を拝してしまう形になっていますの。ですから、シャルルさんの専用機も」

「そっか、だからアイツの専用機。ラファール・リヴァイブにそっくりだとは思ってたけど」

「ええ、おそらくはラファール・リヴァイブのカスタム機で、第二世代の機体ですわね……カスタムだけであれ程のフレームを作れる技術はあるのに、本当に……惜しいことですわね……」

 

他国の企業の事情であるのに、セシリアの横顔に浮かんだ一抹の寂しさが、一夏の気に留まる。

 

「セシリアは、デュノア社になにか思い入れでもあるのか?」

「……そう、ですわね。正確には、ラファール・リヴァイブに、ですけれど」

「機体の方にか?」

 

 セシリアは既に自分専用の第三世代機を持っているため、なぜ第二世代のラファール・リヴァイブに特別な思いがあるのか一夏には分からなかったが、

 

「わたくしの練習機でしたのよ。ラファール・リヴァイブは」

「……なるほど」

 

 自分という、特例中の特例に当てはめていたのがいけなかった。

 普通の女の子が専用機を貰うまでになるには、常人の倍では済まない汗と涙を流し続けて、ようやく掴み取るモノなのだ。

 それは例え、自らを貴族と公言して憚らないこのクラスメイトだとしても変わりはなく、

 

「悲しいことも、辛いことも、嬉しいことも、ずっとずっと一緒に経験してきた機体ですもの。専用機を受け取ったので、今は祖国へ返却しましたけれど……実はこのブルー・ティアーズよりも気にいってますのよ?」

 

 立場上、あまり大きな声で言ってはいけませんけど。そう、どこか懐かしむように耳元の相棒を指で弄り、セシリアは感傷的に微笑んだ。

 

「……いい奴だな、セシリアって」

「あら? それは塩の送り返しでして?」

「そんなんじゃない。物を大切に思える奴はいい奴だって、単純にそう思っただけだよ」

 

 一夏も、ブルー・ティアーズに手を伸ばして、そっと触れる。

 

「今のこいつも、毎日身につけてるのに汚れが全然ない。大切にしてるんだな」

「ええ、当然。ブルー・ティアーズは我が祖国から授かった名誉と期待の証。そしてなにより、このセシリア・オルコットの身体を預けるISですもの……この子も、私の大切なパートナーですわ――ところで、織斑一夏?」

 

 話を一時中断したセシリアは、クルッと、慈母のような微笑みを一夏に向け、

 

「ん、なんだセシリぼぁッ!!?」

 

 スパコーン! と、会心の平手打ちフルスイングを、一夏の頬に炸裂させた。

 

「貴方……淑女の耳元に気安く触れるとは、いったいどう言う料簡なのかしら……?」

「おぉぉ……あ……?」

 

 なんでこんなに怒るの? と、訳も分からず真っ赤な手形が出来上がった頬を押さえながら机に沈む一夏を、セシリアは侮蔑を隠そうともしない目で見下しながら、

 

「前々から思っておりましたが……どうやら貴方には、紳士としての心構えが圧倒的に不足しているようですわね」

「し、紳士?」

「そうですわ! 紳士とあろう者が、淑女の横顔に許可も無く触れることなど言語道断! だというのに本当に貴方はッ……恥を知りなさいッ!」

 

 鈴なら何も言わないのに……と胸中で想いながらも、赤い顔しながら羞恥で小型犬のようにプルプルと震えるセシリアの様子から、自分が何気なくやってしまったことはトンデモなく不味いことだったのだと一夏は猛省しながら――

 

――仕返しだよっ、朴月さん

 

 フラッシュバックのように鮮烈に、先程のビンタのように強烈に、今朝の二人のやり取りが脳裏に蘇った。

 一夏の中で、今までバラバラの欠片だったソレが、爆発的に1つの『最悪の事実』を作り上げていく。

 

「な、なぁセシリアッ!!? セシリアってば!!」

「仮にもあの方をお慕いする者であり、このわたくしのライバルなのですから、貴方にはそれに相応しい気品を備えて頂かなければ……とりあえずチェルシーに連絡を入れて本国で徹底的に調きょ……なんですの騒がしいですわね」

「男が女の子の顔に触るのってさ、そんなに非常識なのか?」

「……はぁぁぁぁ、貴方と言う人はどこまで恥知らずなので……」

 

露骨な失望感を滲ませながらゲンナリと座っていたセシリアの眼が、

 

「違う、今朝シャルルの奴もやってたんだよっ!」

「……はぁっ?」

 

 彼の証言に、跳ね上がる。

 

「シャルルも今朝、キリのほっぺに触ってたんだよ! こう、両手で摘み上げるように」

「それは一体どぉぉぉぉいうことですの織斑一夏ぁぁぁぁぁァ!!?」

「ぐげぇぶ!!?」

 

 怒涛の早業で頬では無く、一夏の制服の襟首を掴み上げ、自分も裏返るほどの雄叫びを上げながらセシリアは立ち上がった。

 

「あのケダモノがキリさんのおおお身体を汚す所を、あなたは座して見ていただけとほざきやがるのですかぁぁぁぁぁ!!?」

「そ、そんな汚すとかじゃなくて! じゃあお前は今朝どこへぁぁぁぁぁ!?」

「わ、た、く、しはっ! 今朝は本国にブルー・ティアーズの修理を要請して不在でしたのあんのド畜生にボロボロにされましたから貴方とは違うんですのォォォォッ!!」

 

 もう怒ってるんだか泣いているんだか分からないヒステリックを起こすセシリアに、一夏は身体を激しく前後にシェイクされ吐きそうになりつつも、自身が抱いた疑念をぶつけていく。

 

「冷静に考えろって! そんな普通はやらないことを、シャルルがやる様に思えるか!?」

「はんっ! あの転校生も、所詮は巷に溢れるような女性を漁る凡夫だっただけ」

「なら、なおさらじゃないか! もしシャルルが女を漁りに来たんなら、出会って2日目の子に、そんな親しい異性にしかされて欲しくないことをするかよ!?」

「…………確かに。それも、そうですわね」

 

 セシリアも、彼の行動に疑念を抱いたのだろう。

 腑に落ちない表情をしながら、襟首から手を離して顎に手をやって考える。

 

「アイツがどんな学園生活を送りたいかは知らないけどさ。もしこの学園で女子を敵に回しちまったら、何にもやっていけなくなるんじゃないのかって俺は思うんだけど……」

「ええ、そうですわね……貴方の言う通りですわ」

 

 この学園は、言ってしまえば女性の巣窟。たとえ一人が二人になった所で、男が異分子であることは変わりがない。

 もし一夏のように、なんだかんだで受け入れられれば大丈夫であろうが、万が一、彼女達に『女性の敵』のレッテルを一度でも貼られ、害になると思われてしまった異分子の末路は――そう、『排除』だ。

 全校生徒からほぼ全てに目の仇にされ、教師達からも評価は最悪になり、完全に孤立してしまえば……最悪、この三年間を五体満足で過ごせるかも分からなくなると、決して他人事ではない一夏は思う。

 

「それにさ、さっきからセシリアの話を聞いてて、ずっと気になってたんだけど」

 

 机の上に置かれた、先程のISの世代について書かれていた本――そのラファール・リヴァイブのページを一夏は手に取り、

 

「デュノア社って、いま経営が苦しいんだよな?」

「そう、ですわね。いくら第二世代でトップシェアを誇っていても、世間が第三世代にシフトしつつある現在では、順風満帆……とは行かないと思いますわ」

「ならさ、どうしてシャルルはこの学園に居るんだよ?」

「……あっ!」

 

 セシリアにも、一夏が勘付いていたことが分かったのだろう。

 こんなにも単純な事なのに、今まで姫燐のことで頭が一杯で考えもしていなかった疑問が、彼女の口元から思わずこぼれる。

 

「なぜ……デュノア社は、世界でたった二人の男性搭乗者を手放したのかしら……?」

 

 一夏もセシリアの言葉に同意して、かつて姫燐から聞いた『自分達』がどれ程このIS社会にとって特別な存在であるのかを説いていく。

 

「昔キリが言ってたんだけどさ、俺達の謎――『男なのになんでISが動かせるのか?』って、もし分かったら凄い利益になるんだろ?」

「凄いなんてモノじゃありませんわっ! もしそのメカニズムが解明されて、技術として確立すれば、また世界はひっくり返りますわよ!?」

「じゃあ、そんな世界をひっくり返せるほどの技術を、なんでデュノア社は研究しないんだ? しかも自分の所の一人息子なんだから、俺みたいに四六時中拘束するのも面倒じゃないだろ?」

「それは……」

 

 不自然。あまりにも不自然。

心を裏側から掻き毟られるような焦燥に、セシリアは言葉を詰まらせる。

 こうして言われてみれば、おかしい所だらけだ。

 なぜ、経営難のデュノア社が世界でたった二人の男性操縦者を手放す?

 なぜ、世間にその存在を大々的に公表した?

 なぜ、どう考えても無駄でしかないリスクを進んで背負う?

 どれもこれもが、ビジネスライクな合理性とは、余りにもかけ離れ過ぎている。

 

「……何かが、オカシイですわね」

「やっぱり、セシリアもそう思うか?」

 

 今まで以上に二人の間で、シャルル・デュノアという存在に対する不信感が募っていく。

 彼の――いや、デュノア社の目的は、一体なんだというのか?

 少なくとも真っ当な目的ならば、ここまでキナ臭くはならない筈だ。そして、そのキナ臭さがこの学園を、彼女の居場所を侵すかもしれないのなら……座して待つなど、織斑一夏には出来ない。出来る訳がない。

 

――昔の俺なら楽観視して、何もしなかったかもな。

 

 固めるのは握りこぶしと、叶える覚悟。

 たとえ自分を傷付けても、誰かを傷付けても、少年は護ることを夢見たのだから。

 

「悪い、セシリア。俺は行くよ」

「あら、どちらに?」

 

 本を置き、踵を返して背中を向ける一夏に、セシリアが尋ねる。

 

「やらないといけない事ができた、本は悪いけど元の場所に戻しといてくれ」

「お待ちなさいな」

「スマン、止めないでくれ。俺は……」

「誰が、止めると言いましたか?」

 

 そう悪戯気に、セシリアは一夏の肩を擦れ違いざまに叩いて、正面に立つ。

 

「顔に出てますわよ。『俺が一人でアイツの目的を突きとめてくるから、邪魔するな』って」

「うっ……」

 

 胸中を完璧に言い当てられ言い淀む一夏にクスクスと微笑みかけ、直ぐに凛と表情を正し、セシリアも腹を据える。

 

「わたくし、言いましたわよね? ここは共同戦線だと」

「けれど……」

 

 確かに彼女が手伝ってくれるのなら、これほど心強い味方は居ない。

 知識に経験に戦闘力。そしてなによりも、不義を憎み、正義を至上とする実直な彼女の性格を一夏は口に出さずとも高く評価している。

 きっと、目の前で行われているかもしれない曲事を捨てておけないのだろう。

 それがセシリア・オルコットなのだとしても、一夏は誰かを事件に巻き込むことと同意であるこの『共同戦線』に素直に同意できず、その真っ直ぐな眼差しを見つめ返せなくて首を落としてしまう。

 

「まったく……今まで貴方一人で先走って、ロクなことがありましたか? それで一度、キリさんを泣かせた癖に……」

「なッ!!?」

「クラス代表戦の時、あの方はとても傷ついておられましたわ。貴方に『もう必要ない』って言われたことに」

「そんな……俺は……そんなつもりじゃ……」

 

 自分が彼女を、それほどまでに傷付けていた事実に打ちひしがれる一夏を見て、セシリアはあの姉在りて、この弟在りなのだと妙な納得感を覚えた。

 どうしようもないほどに、不器用。

 この男の性根から考えるに、おそらくあの『必要ない』も、彼女にこれ以上迷惑をかけまいとかけた言葉だったのだろう。だが、それにしても他に言い方は無かったのか。

 だというのに、抱く愛は深く、強く、真っ直ぐで……不思議と、不快感は覚えない。

 悪さをした子供を叱った後のような、どこか仕方なさそうな笑顔で、セシリアは答えた。

 

「しっかりおし、織斑一夏ぁッ!」

「ほばぁ!」

 

 その食いしばる一夏の頬に、もう一発強烈なのをオマケにつけながら。

 

「貴方、それでも紳士ですの! 過去を悔やみ、面を下げている暇があるなら、他にやることが在るのではなくてッ!?」

「ったたた……」

 

 頬は真っ赤に腫れ上がり、ヒリヒリと焼けるような痛みが走り続けるが――一夏はそれを甘んじて受け入れ、フッと微笑む。

 

「厳しいな、セシリアは……」

「当然ですわ、ライバルに甘さなんて見せませんことよ」

 

 金髪の少女は腕を組み、ピシッと真っ直ぐに伸びた背を向ける。

 

――私の後に続け。

 

 彼女の迷いない背中は、そう一夏を導いてくれているようだった。

 

「……作戦は?」

「まだ考えてませんけれど、今夜中には」

「分かった、俺も考えるよ」

 

 背中越しに一夏を見るセシリアの頬が、緩む。

 

「それで、もし俺の作戦が間違ってたなら……頼みたい事があるんだ」

「ええ、構いませんことよ」

 

 威風堂々と、貴族は振り返って宿敵の眼差しを射抜き、

 

「何度でも、その頬引っ叩いて差し上げますわ。貴方のライバルである、このセシリア・オルコットが」

「ああ……頼むよ、セシリア」

 

 今まで間違いだらけの人生を送って来た一夏だったが、この選択だけは決して間違いでは無かったと心から信じることが出来た。

 こうして夕陽が差しこみ始めた資料室で、二人の競争相手同士の、真実へ共に向かう共同戦線が結ばれる。

 ただ――

 

――それで結局、何のライバルなんだろう……?

 

 肝心の「なんのライバルなのか?」という所を、やはりこの唐変木は綺麗さっぱりマルっと理解できていなかったのだが……。




せっかくのシャルル編なので、シュガー&ハニー買いました。
出乳首でした。


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第24話「逆襲ののほほん」

「いいか箒、世の中はスピードこそが全てなんだ。分かるな?」

 

 半日で授業が終わり、それぞれが思い思いの時間を過ごす放課後。

 自室に帰る道すがらに振るわれる姫燐の熱弁に、その横を歩くルームメイトの箒は納得できる部分もあると頷いた。

 

「ふむ、確かに一理あるかもしれんな」

「だろぉ、箒もよく分かって」

「確かにどれほど正確無比な一撃だろうと、速度が無ければ当たらない。だが姫燐、余り速度を乗せ過ぎればどうしても剣閃に精細を欠いてしまうぞ? この比率をどう調整するかこそ、一刀に置いてなによりも重要な」

「ねぇな、サッパリ」

 

 コイツの頭には一夏と剣術しかないのだろうかと、そんな憂慮に落ちた肩を張り直して、姫燐は話題を仕切り直していく。

 

「戦いのことじゃなくてだなぁ、オレが言いたいのは出会いの話だ」

「出会い? シャルルとの……か?」

「ザッツライト!」

 

 一回りさせられたが、そんなことを歯牙にもかけずにテンションのボルテージを一人吹き上げながら姫燐はくるりとステップターンを踏み、

 

「そう! 第一印象は『ほぼ』完璧と言っていい出来だった。だが、そこで油断しちゃぁいけない! 更に親密度を上げる為に、ここですかさず追撃を入れるのが匠の仕事って奴だ」

「……? つまり、どうするのだ?」

 

 こういった駆け引きに疎い箒は友の言いたい事が分からず、足を止めて尋ねる。

 

「次は、意外な一面――ようはギャップ萌えって奴を見せるのさ」

「ギャップ……萌え?」

「そうさ、普段は気丈に振る舞うあの子が、ふと見せるか弱さ! ってな感じに、抱いていたイメージとは別の一面を見せる。意外性や多面性って奴は、時としてとんでもねぇ萌えを産むんだよ」

「……ふむ、なるほどな」

 

 彼女の持論に心当たりがある箒は、自身の『実体験』を元に感心し、唸る様に同意した。

 

「確かに落ち込んでいた時のお前には、そそられるものがあったな」

「…………へっ?」

 

 浮き足立ちっぱなしだった姫燐の足が、その一言でピタッ、と地面に縫い付けられる。

 

「いつものお前は、下手な男子よりも男らしいからな。そういった印象が先行していたが、普段からは考えられんいじらしいお前の姿は、中々どうして女の私でも可愛げがあると」

「可愛くねェ!!!」

「むおっ」

 

 声を荒げながら姫燐は一瞬で箒の眼前に詰め寄り――ハッと己の失態を取り繕うように、慌てて腰に手を当ててモデルのようなポーズを取りながら、

 

「そっ、それは違うだろホーキィ? 確かにオレが下手な男子よりカッコいいのは事実だが、可愛いはねぇだろ可愛いは? オレに似合うのは……えっと……そうだ、セクシーだとか、スタイリッシュだとか、クールだとか」

「しかし姫燐。私なりに考えた結果だが、教えてくれたギャップ萌えとやらを一番体現しているのは、やはりお前を置いて他ならないと思うのだが」

「だれが総受けキャラだ誰がぁ!?」

「そんなことは一言も言っていないが……それでもだ」

 

 真っ赤になりながらよく分からない事を言いムキになる友人の頭に手を置いて、素直じゃない子供をあやす様な目をしながら箒は率直に切り捨てる。

 

「ふむ、やはり客観的に見ても、姫燐はとても可愛い奴だと思うぞ」

「ぐっ、ぐぬぬっ……可愛くねェってのに……」

 

 箒としては、真っ直ぐに友人の長所を褒めているだけに過ぎないのに、渋い反応ばかり返されてしまい、どうにも釈然とせず眉をひそめた。

 一方の姫燐は、口ではもう何をいっても名誉挽回できそうにないと判断し、頭に乗せられた手を振り払うと見えてきた自室の扉を開き、その前で大々的に宣言する。

 

「いいぜ、ならまずそのふざけた幻想をブチ壊してやる! 今から見せるオレの本気ファッションに……惚れんなよ?」

「ははは、そうだな」

「……てんめェ……マジ見てろよ……」

 

 いつか絶対に一夏から寝取ってやる。

 完全に保護者特有の穏やかな笑みを浮かべる友人を背に、無謀な野望を心中に掲げながら姫燐は大股で自室に入っていく。

 元々箒の私物が少なかったため、増えたのは彼女のベッドと最低限の調度品ぐらいだったが、彼女と相部屋になると聞いてから徹底的に掃除された部屋は、かつてゴミ屋敷一歩手前まで行きかけたとは思えないほどに広々として小奇麗だ。

 その分、収納には時間的にも物理的にもかなりの突貫を強いられ、今でもクローゼットの中に無理に押し込んだだけの物品がかなり在るのだが――姫燐が「明日から頑張る」の精神を掲げる限り、永遠に片付くことはないだろう。

 そんな現実ごと制服の上着を乱雑にベッドの上に投げ捨てながら、対象的にキッチリとシワ一つなく無く脱いだ制服をハンガーに掛ける箒に彼の予定を尋ねる。

 

「そいや、一夏の奴はどうするって?」

「うむ……なにやら朝から虫の居所が悪いみたいでな。授業が終わったら、そそくさと何処かへ行ってしまって……」

「アイツが? 珍し」

 

 社交的な好青年を絵に描いたような奴である一夏が、箒に行き先すら告げずに何処かへ行くなんて珍しい事もあるもんだと、姫燐は意外そうに目を丸めた。

 色んな出来事こそあったが、この数か月で彼の表裏ない性格は姫燐もよく知っているつもりであり、だからこそ少し何があったのか気にかかったが――

 

「ま、アイツも男だからな。色々と溜まっちまうんだろうさ」

「む? 男だと、何が溜まるというのだ?」

 

 そう尋ねながら、箒は制服の下に来ていたインナーを脱いで、シンプルな薄桃色の下着姿を外気に晒す。

 年齢的に考えて明らかに規格外なオーバードウェポンの巨峰が揺れ、下半身の桃は芸術的なまでの曲線を描いている。さらにお肌は白百合のように汚れ一つなく、出ている所は徹底的に出ているのに、引っ込んでいる所はシッカリと引っ込んでいるという、無理を通して道理を蹴散らしたワガママボディは……

 

「なぜ鼻を摘んで上を向く?」

「いや……ちょっと一夏のチャージインを、オレも味わってるというか何と言うか……」

 

 姫燐はこの性犯罪誘発ボディと2カ月以上相部屋で、何の問題も起こさなかった一夏に果てしない尊敬の念を覚え――そして同時に、今度は自分がこの性犯罪と戦わないといけない宿命に立たされたことに、武者震いを禁じえなかった。

 

「……どのくらいならスキンシップで誤魔化せっかな……」

「んっ、姫燐?」

「あ、いやなんでも。さーオレもさっさと着替えねぇとなー」

「いやそうではなくて、なぜ……」

 

 着替えが終わってもなお食い下がる箒をスルーして、姫燐もさっさと着替えてシャルルの所へ行くためにクローゼットへ足を運ぶ。

 既にその頭にあるのは一夏のことでも、今後の私生活でもなく、シャルルと箒を両方唸らせる事ができるファッションはあるだろうかという懸念と高揚感だけであり、それ以外の全ては蚊帳の外であった。

 そう、全て――

 

「『彼女』が私達の部屋に居るんだ?」

 

 いつの間にか自身のクローゼットの前に立ち塞がっていた、

 

「ぶすー……」

 

狐のようなキグルミを着て、その頬を膨らませる昔馴染みの事すらも。

 

「………………ふぁいっ!?」

 

 ジャスト3秒の間を置いて、目の前に居た予想外すぎる侵入者を認識した姫燐が、思いっきりバックステップで距離を離す。

 

「ほ……本音っ!? な、なんでお前、オレ達の部屋に?」

「ぶっすー…………」

 

 いつもは眠たげに開いているのか閉じているのか分からない目を、今はしっかりと見開きながら不機嫌そうに姫燐を見据える彼女の幼馴染――布仏本音は、ぶっすーと分かりやすく不機嫌を露わす言葉以外なにも喋らず、ただ彼女のクローゼットの前に立ち塞がる。

 

「あー……本音? そこ退いてくれねぇと、オレ着替えられねぇんだけど……」

「ぶっすぅぅぅ……」

 

 貴様と話す舌など持たん、と言わんばかりの強硬姿勢。

 数か月の付き合いとはいえ、いつもニコニコと微笑み、どんな時でものほほんとしたオーラを崩さなかったクラスメイトの意気地なディフェンスは、鈍い箒をしても得体のしれないプレッシャーを感じずにはいられず、ヒソヒソと姫燐の耳元にささやきかける。

 

(お前……布仏に何かしたのか……?)

(い、いや……怒らせるようなこたぁした覚えねぇんだけど……)

 

 だが、火のない所に煙は立たず。

 姫燐にもそれは分かっているため、とりあえず話だけでも聴くために、彼女の怒りを鎮火させる最も手っ取り早いオフェンスに打って出る。

 

「分かった分かった。買って来てある今月の限定品『パン・デ・リングお好み焼き味』オレの分もやるから……」

「いらないっ」

「…………な」

 

 プイッと、一言。

『いらない』の一言だけで苦笑いしつつ冷蔵庫に向かっていた姫燐の足が急反転し、

 

「そんなの、いらないもんっ」

 

血相を変え跳びかかるように本音の肩に掴みかかり、

 

「ほっ……ほんちゃん!? おおま、お前がお菓子要らないって熱!? 風邪!? それとも変なモノ拾い食いした!? あああど、どうしお腹ッ!! お腹痛くないか!? か、かた姉とうつ姉に言わなきゃでも番号知らな医者! そうだ医者だ、ほんちゃんを医者に連れてぇぇぇぇ!?」

 

 動乱、狂乱、大混乱。

 涙目になって手を額に当てたり、おでこをくっ付けたり、お腹に耳を当てたり、携帯を取り出して姉達に番号聴いて無かったことを思い出したりと、七面相のてんやわんやの大慌て。

 だが、そんな色々台無しな姫燐とは裏腹に、肝心の本音はむっつりとしていた表情から、

 

「やっと……呼んでくれた」

「ぽへっ!?」 

 

いつもの朗らかなのほほんスマイルを浮かべて、

 

「やっと、『ほんちゃん』って呼んでくれたね」

 

ギュッと姫燐に抱き付いた。

 

「えへへぇ」

「へっ、お腹とか痛く…………あっ!? いや、これはその、違っ」

「嬉しいよぉ、ひめりんっ♪」

「や、め、ろ!」

 

 自分の失態を反省する間もなく、唐突な奇襲をしかけてきた黒歴史ごと引き剥がす様に本音から距離を取って、姫燐は腰に手を当てながら前髪を掻き上げる。

 

「は、はんっ! くっだらねぇ三文芝居だったな。まぁ、最初から全部分かってたが、ここで乗ってやらねぇほどオレもノリが悪い奴じゃあ」

「なるほど、ヒメちゃんに姫燐の燐を合わせてひめりんか」

「ほっきーせいか~い♪」

「聞けよ話ッ!」

 

 和気あいあいと自分をスルーする友人と幼馴染に想いの丈を怒声でぶつけようとも、二人ともキャンキャン吠える愛らしい子犬を見るような目でしか姫燐を見ようとせず、

 

「ひ~めりんっ」

「ひめりん」

「そのスライムの名前みたいなあだ名止めろ! 特に箒っ、テメエはそういうキャラじゃねえだろ!? お前はどうしようもないほど不器用かまして、オレのような大人の余裕をもったキャラ相手に徹底的にぐぬぬする弄られキャラの典型のような奴だろ!?」

 

 どちらかというと、黒歴史に過剰に反応してムキになる今の姫燐のほうが弄られキャラの典型である。

 本人もそれを理解しているため、冷静になれクールになれと、ホットになった頭から熱を吐き出すように一度大きく息を吐き出して、

 

「あのなぁ本音? オレはもう、4年前のオレじゃねぇんだ。分かんだろ?」

「え~? わたしにはなーんにも変わってないように見えるけどぉ?」

「ぐっ……いいぜ、ならお前に見せてやるよ。この4年間で、オレがどれだけ大人っぽくなったかを……! ちょっと待ってな」

 

 口元にぶかぶかの袖を当てながら首を傾げる本音を背に、フッとニヒルに笑いながら姫燐はキッチンに向かい、ポッドに水を入れてコンロに火を付けた。

 その間に、食器棚にあるマグカップを取り出し、中にインスタントコーヒーの粉末を入れて待つこと1分。

 ちょうどいい温度になったポッドの中身をマグカップに入れて、スプーンで粉末が残らないようしっかりとかき混ぜてから、キッチンから出てきて本音達の前に立ち、

 

「よーく見てろよ」

 

 その中身を一気飲みする。

 

「ぷはぁ――どうでぃ?」

「……………んっ?」

 

 ホットコーヒーを一気飲みしただけで何が「どうでぃ?」なのか分からず、頭に疑問符を浮かべる箒と、にこにこと頬笑みを絶やさいまま無言の本音。

 妙に反応が鈍い二人に、腕組み胸張り姫燐が解説を入れていく。

 

「ふっ、見たか? オレはこうやってコーヒーを、しかもブラックですら一気飲みできるほどに大人になったんだ。これで分かったろ? オレはもう昔のオレじゃ」

「本当に可愛いなぁ、ひめりんはぁ!」

「なんでッ!?」

 

 訳が分からず声を荒げる姫燐に、割と本気の憐れみを孕んだ目をしながら箒が尋ねる。

 

「いや姫燐……? ブラックコーヒーが飲めたからといってお前……」

「だ、だって昔、かた姉が『これを呑めたら一人前の大人よ』ってコレ……………違うの?」

 

 残念そうに首を縦に振る箒。

 新たに築かれた黒歴史に、マグカップを落とす姫燐。

 そして、

 

「うんうん、やっぱりひめりんは4年たってもひめりんのままだねぇ」

 

 目を輝かせながら、トドメを刺す本音。

 そのコトダマの前に、姫燐のメンタルが木っ端微塵に砕け散る。

 

「ばっ、バカにしやがってぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!!」

 

 見事な捨てゼリフを吐いてベッドに逃げ込み、姫燐はシーツに電撃的撤退を決めこんだ。

 枕を頭に被って足を畳み、お尻を突きだしながら閉じこもる簡易的引きこもり姿勢。

その姿は、拗ねたお子様以外の何者でもない。

 

「す、すまなかった姫燐! わ、悪乗りが過ぎた。お前が余りにも可愛いかったのでつい」

「お前もうワザとだろそれぇッ!? つぎ可愛い言ってみろぶっ飛ばすぞッ!」

 

 枕の下から脅したところで脅威など覚えるはずもなく、箒も子供を不意に泣かせてしまった時のようにオロオロするだけである。

 メンタル的にもキャラ的にも既に大破クラス。戦線復帰できないほどのダメージを負う姫燐だったが、その背後には無慈悲な追撃が既に迫っていた。

 

「ど~んっ♪」

「おぶぅ!?」

 

 のほほんとした掛け声から繰り出されたフライング・ボディ・プレスを腰に受け、姫燐は空気を吐き出す様な短い悲鳴を上げる。

 反応する暇など与えん。そう言わんばかりの早業で、手足を姫燐の身体に滑り込ませてホールド。横向きになったその背中に、本音はいつもののほほんとした笑顔を埋めた。

 

「えへへぇ、暖かいよぉひめりん」

「このっおまっ……くそぅ」

 

 一回ぐらい叩いてやろうかと握っていた拳が――強張った青筋と一緒に自然と解けていくのを姫燐は感じた。

 

――昔から、ほんちゃんはズルい。

 

何しても、何されても、この綿毛のようにふわふわな笑顔一つで怒る気力が失せてくるのだから。

せめてもの反抗として、むくれながらそっぽ向く姫燐の耳元で、本音がささやく。

 

「ねぇ……ひめりん、もう一回ほんちゃんって呼んで?」

「やだ」

「むぅ~」

 

 そんな姫燐の素っ気ない態度も、まるで出された極上のワインをじっくり味わう時のように、嫌な顔一つせず本音はうっすらと目を三日月に開きながら受け入れる。

 本音に悪意や害意は無い。ただ、じゃれついて来ているだけ。

 それが分かっているため姫燐も邪険には出来ないのだが、なぜ入学から数カ月たった今になって、こんなにも自分に構って来るのだろうか。

 どうにもピンと来ず、姫燐は背を向けたまま尋ねる。

 

「……お菓子」

「ん~?」

「毎月お菓子やるから、黙っててくれるって約束だったろ?」

 

 おそらく、姫燐の過去の事についてだろう。

 ベッドに腰掛けながら、経緯を見護る箒にも察しがついた。

 

「うん……そうだねぇ」

「それで納得してくれたじゃねぇか」

「約束破っちゃったのは……ごめんね」

 

 俯くと同時に、少しだけ抱きしめる力も強くなり、

 

「でもね、ひめりんもヒドいんだよ?」

「オレも……か?」

 

 箒にも言った通り、彼女の怒らせるような事をした覚えがない姫燐には――こりゃ一夏や箒のことを笑えねぇなと思いつつ――鈍い答えしか返せない。

 

「だって、おじょうさまの事は今でも『かた姉』って呼んでるんでしょ?」

「いや、アレはかた――楯無会長が無理やり」

「とっても、幸せそうだったよ」

 

 その言葉は、素直になれない姫燐の心に、深く突き刺さった。

 

「昨日の晩のおじょうさま、すごく幸せそうだった」

「……へっ、人をイジめてご満悦かよ」

 

 違う、そうじゃない。

 そうじゃないことぐらい、自分でも分かってるのに。

 そう思わないと、余りにもカッコ悪過ぎるじゃないか。

 

「わたし達が入学した日の晩は、あんなに辛そうだったのに」

 

――初めまして、楯無生徒会長どの。

 突然の再会に戸惑う入学式が終わった後。自分から会いに来てくれて、声を出す間もなく抱きしめられて、また『戻って』しまいそうだったから――突き放してしまって、そんな事を言ってしまって。

 本音も同じだ。一緒だと、その陽だまりのような優しさから、ずっと離れられそうになかったから――他人の振りをお願いして、遠ざけた。

 彼女達を傷付けない方法も、なにかあったはずなのに。

いくつもの無意味なIFを考える情けない頭が、姫燐をより強くシーツに鎮めていく。

 だが、そんな震える背中にも、優しく、柔らかく、のほほんと、本音は語りかける。

 

「わたしもね、おじょうさまの気持ちも、ひめりんの気持ちもすっごく分かるの」

「え……オレも、か?」

「うん、だって」

 

 予想外な言葉に、こちらへ振り向いた姫燐の胸へ、

 

「わたしも、ひめりんやおじょうさまみたいに、すっごく寂しかったから」

 

 本音は顔を埋めた。

 上ずりそうな声を必死に堪えても、ずっと貯め込んでいた感情はもう、止まらない。

 

「寂しかったのは、ひめりんだけじゃないんだよ? わたしも、とっても寂しかったんだよ? 昔をなかった事にしてって頼まれて、ひめりんが近くに居るのに、すっごく遠くに居るみたいで……ひめりん、この前まですっごく辛そうだったのに、それでもわたし達に何も言ってくれなくて……本当に、ひめりんと過ごした時間がぜんぶぜんぶ嘘だったみたいで、怖かったんだ……」

「ッ!」

 

 気が付けば、姫燐は本音を抱きしめていた。

 強く、強く、一つになってしまいそうなほどに、強く抱きしめていた。

 

「ごめん……ごめんね、ほんちゃん……ごめん……」

 

 こんなはずじゃなかった。

 始めは彼女達に甘えたくなくて強がって、『あの日』からは迷惑をかけないように遠ざけて――どれだけ薄情な事をしても、あんなに強い幼馴染達なら大丈夫だと……姫燐は、自分に言い聞かせ続けてきた。

 そのツケが、大好きな家族を深く傷付けた、この現実だ。

 

「ううん、大丈夫だよ。ひめりん」

「でも……オレ……」

 

 誰かの痛みに、そんなにも辛そうで、悲しそうな顔が出来る女の子。

 ここに居るよ。確かに4年前、自分達と一緒に居た女の子はここに居て、抱きしめてくれているよ。

 だから――

 

「もう、寂しくないよ」

「……?」

「だって、大好きなひめりんはここに居るから――もうわたし、寂しくないよぉ♪」

 

 その時、二人は再会した。

 4年と2カ月近くの時を重ねて、すれ違いを続けていたひめりんとほんちゃんは、

 

「うん……オレも大好きだよ、ほんちゃん」

「えへへぇ、照れちゃうなぁ」

 

 ようやく、本当の再会を果たせたのだった。

 

 

                  ○●○

 

 

「3つ」

「へっ?」

 

 少しだけ落ち着き、ベッドに身体を起こした姫燐の膝に、ご機嫌顔で座る本音が突然言い出した3の数字。

 それが意味するところが分からず、姫燐は素っ頓狂な声を出す。

 

「わたしと、お姉ちゃんと、おじょうさまのぶん」

「それがどうかしたのか、布仏?」

 

 幼馴染同士の再会というシチュに琴線が触れたのか、流れっぱなしだった涙と鼻水を拭いた、部屋中に散らばるティッシュを片付けながら箒が尋ねた。

 だが、姫燐は幼馴染が言いたいことなどお見通しだと言わんばかりに、それを制して先んじる。

 

「分かった分かった、また後でかた姉とうつ姉には謝っとくから」

「ちーがーうー」

「む……じゃあ何だよ」

 

 先んじてまで言った予想が外れて、少しだけ顔を赤くする姫燐の下で、本音はまたのほほんとブカブカの袖と袖を合わせながら、

 

「これはね、今からひめりんに叶えて貰う『お願い』の数だよぉ」

 

 ちょっと待て。

引きつりながら硬直した姫燐の表情から、多分マトモに口が動けばそう言っていただろうなと箒は思った。

 

「あ……あ……?」

「だって、みんなをあんなに心配させたんだから、そのくらいのワガママはきいてもらっても、ねぇー?」

「む……まぁ、筋は通って……いるのか?」

 

 箒としては急に話を振られて、納得できる部分とできない部分が煮詰りきらない見切り発車の意見だったが、それでも姫燐からすればとんでもない申し出なのは間違いなく、

 

「まっ、待て! なんでお前が、かた姉とうつ姉の分までオレにお願いする流れになってんだ!?」

「お願いを叶えることは問題ではないのだな……」

 

 よく分からないところで、この友人は義理堅い。

 なんというか、彼女が今凄まじい勢いで正念場に向かっている気がしないでも無い箒を余所に、本音はいつの間にか手にしていたスマートフォンを袖の上から器用に弄り、

 

「はいっ♪」

「…………?」

 

 通話中、と画面に表示させてから姫燐に手渡す。

 言われるがままに受け取ったスマートフォンを、懸念顔で耳に当て――

 

『はぁい、ヒメちゃん♪』

「ぎっ!?」

 

 聞こえてきた姉の声に、昨日メンタルに負った見えない傷が疼きだした。

 

『話は大体わかったわ、本音ちゃんと仲直りできてお姉さん一安心』

「ほ、ホントに聴いてたのかよアンタ!?」

『ううっ……アンタだなんて……やっぱりヒメちゃんは、この4年の内に不良になっちゃったのね……』

 

 早くも頭と胃と喉が痛くなってきた姫燐だったが、ツッコミ無用で全て振り切り進んでいく楯無はマイペーズをまったく崩さない。

 

『お姉さん心配だわぁ……ヒメちゃんがちゃんとお友達100人作れてるかどうか……』

「あー、それなら心配いらん。箒とか、セシリアとか、ダチならちゃんと」

『だからね、私の代わりに本音ちゃんにお願いしてもらいたいの』

「いやだから、聞けよ話をっ!」

「どんなことですかぁー?」

 

 もういい、やっぱりコイツら相手に一瞬でもセンチメンタルになったのは間違いだった。と姫燐は即断し、通話を強制的に切ろうとして、

 

『お姉さんね、当然中身は大切だけれど、やっぱり最も印象を左右するのは外見だと思うのよ』

「……まぁ、そらそうだけど」

 

 これには姫燐も、先程箒に似たようなことを力説していたため思わず同意してしまう。

 例えば間違いなく善業である『迷子への道案内』であるが、それを女子高生と、パンチパーマとグラサンを装備したオッサンがやったとしよう。

 女子高生ならいまどきの若いモンも捨てたもんじゃないと称賛を受けそうなモノだが、それがもしパンチパーマだったなら絵面が一瞬で即通報モノになってしまう。もし100%の善意で行っていた事だったとしても、傍目には否が応でも何かロクデモ無い裏を感じずにはいられない。

 姫燐も外見が全て、などと言うつもりは毛頭ないが、それでも人の心が人に見えない以上は、外見を疎かにして良いとも言えなかった。

 影ながら尊敬する姉の言葉は4年経っても相変わらず考えさせられ、姫燐も聞き入って黙考し、

 

『だ、か、ら、可愛い可愛いヒメちゃんの事をみんなが誤解しないように、みんなに愛されるようなとーってもキュートな服装を、お姉さん着て欲しいなーって♪』

 

 即座にスマートフォンを投げ捨てた。

この場所から逃げ出すために腰に力を入れ、

 

「分かりましたっ~」

 

 ようとしたが、膝の上に座っている本音が邪魔で立ち上がることができず、さらに腕を掴まれてしまう。

 

「ほ、ほんちゃん! 待て、待ってくれ!」

 

 のほほんとした笑顔のまま本音は、無言で姫燐を脱衣室へ引きずっていく。

 その小柄な体型のどこにそんな力があるのか。いかに姫燐がまだ右腕にギプスをハメているとはいえ、抵抗もむなしく成す術もなく本音に引きずられていく姫燐。

 

「た、たすけ、助けてくれ箒ィッ!」

「すまない、姫燐」

「だからそんなキャラじゃないだろお前ぇぇぇぇぇ!!」

 

 本音に引きずられ脱衣所へ消えていく姫燐の姿は、むかし音楽の授業で習った、子牛が市場へ売られていく様を歌った童謡を箒に連想させた。

 子供の頃は可愛い子牛を売った牧場主に憤りを覚えたモノだが――こうして、似たような立場に立って少しだけ共感を覚える。

 そう、牧場主にだって、断腸の思いで子牛を売ってでも、『見たいモノ』があったんじゃないだろうか? と……。

 

――はーい、脱ぎ脱ぎしましょ~ね~?

――やっ、まっ、一人で脱げうひゃあ!?

 

 連れ込まれ、閉じられた更衣室の扉の向こうから声が漏れる。

 

――わわっ、やっぱりこっちはすっごく大人っぽくなったねぇ~。

――う、うっせぇ! ジロジロ見んな触んな脱がすなぁ!!

 

 箒は今の内に、さっき姫燐が温めたお湯でお茶を淹れようと立ち上がる。

 

――安心してねぇ、ちゃんと怪我してるところには、布が無いモノを持って来たから。

――なっ、そ、そんなもんどっから……ていうか腕どころか、布自体が少なタンマ! マジタンマ!

 

 私物である渋柿色のきゅうすに茶葉を入れようとして、3人分はどのくらいの量が適度だろうか考える。

 

――う、嘘だろ? そ、そんなもんまで付けないと……?

――だって、これが無いと可愛さ半減だよぉ?

――嘘だっ! これだけは絶対にお前の趣みゃぁぁぁぁぁ!!?

 

 茶葉の量を決め、お湯を入れたきゅうすをテーブルに置き、ベッドに腰掛け待つ一分間。この僅かな時間にする精神統一は、瞬時に集中力を限界まで研ぎ澄ます訓練に持ってこいだ。

 

――い、嫌だ、こんな格好、笑われるに決まって……

――そんなことないよ、すぅぅっごく似合ってる!

 

 これは、良い修業になる。

いつもよりも遥かに沸きだしてくる雑念を、心のどこかで笑いながらも斬り捨てて行き……そして一分が過ぎた。

精神統一を終え、箒が閉じた瞳を開いた先に在ったのは――

 

「おまたせぇ、ほっきー♪」

 

 脱衣室に半分だけ身体を出しながら、こちらにダボダボの袖をふる本音と、

 

「ぐおぉぉぉ……!」

 

 本音に引っぱられようが断固として脱衣室から外に出ようとせず、左腕と唸り声のみを出す姫燐の姿だった。

 

「往生際が悪いな」

 

 期待をスカされた箒の口元が、微妙にムッと不機嫌になる。

 

「お、おま……いいのか泣くぞ、そろそろオレだって泣くぞ……?」

「もぅ、ほっきーだって楽しみなんだよぉ♪ だ、か、ら……えいっ!」

「ほぶっ!?」

 

 悲鳴すら、上げる暇もなかった。

 恐怖すら覚える友人の変貌に戸惑っている隙を突かれて、『ビターン!』とバランスを崩して顔面から外へ引きずり出された姫燐が、鼻先を押さえながら身体を起こす。

 

「いっつつ……」

 

 その瞬間、篠ノ之箒は確信した。

 

「おぉ……」

 

 私の判断は、やはり間違ってはいなかったのだと。

 ショートパンツと一つになった、真っ白なノースリーブのパーカー。サイズが小さいのか、前のファスナーが胸元で開きっぱなしになっており、その見事なプロポーションを誇る胸と、半ズボンより更に短いショートパンツから肉感あふれる太ももが大きく露出している。

 それだけならまだ、彼女のセクシーさを際立たせるだけのファッションだったのだが――

 

「犬耳と、尻尾に……」

 

 パーカーのフードとお尻に付いた、犬の耳と尻尾。姫燐が羞恥から俯いて深くフードを被っているため頂点についた耳がしな垂れるように倒れ、それがまた縮こまっている子犬を箒に連想させる。

 そして極めつけに、そのISを没収されているため空になったその首元には――

 

「首輪、か」

 

 ハートマークの留め具がついた、少し大きめなピンクの首輪がはめられていた。

 パーカーの上から付けられているため、彼女が最後に付けるのをゴネていたアイテムは恐らくこれなのだろう。

 いくら大きめとはいえ、人間に首輪を付けるなど尊厳を大きく傷付ける解し難い所行――で、なくてはならないはずなのに。

 それが姫燐になっただけで、箒の胸中には侮蔑や怒りのような『負の感情』によって引き起こされる熱とは全く異なる、正反対の熱が渦巻いていき――

 

「ね~♪ とーっても可愛いでしょ~?」

「くそぅ……みるなぁ……」

「……ふむ」

 

 箒は顎に手を当てて、涙声で懇願してへたり込む友人の姿を見下ろす。

 

「……箒?」

「ふむ」

 

 姫燐の前にゆったりと歩を進め、真上から見下ろす。姫燐も見上げる。

 

「ほ、箒さんや?」

「ふむ」

 

 屈みこむ。じっくり真っ直ぐ、姫燐の蜂蜜を溶かしたような色をした瞳を覗き込む。

 

「な、なぁ箒? せめて大声で笑ってくれたほうがオレにも救いってもんが……」

「ふむ」

 

 真顔でこちらをガン見し、「ふむ」としか反応を返さない箒に姫燐の顔が引きつる。

 

「……ふむぅ」

 

 吐息がかかる。彼女の呼吸が乱れていることを姫燐は察する。

 呼吸は武道において非常に重視されており、呼吸の乱れは精神の乱れに直結するといっても過言ではない。さらに武道に精通する人間は、呼吸だけで相手の動きが手に取るように分かるというのだから、その重要性は推して知るべしである。

 無論、剣術を修めた箒も一夏関連のこと以外では滅多に呼吸を乱さず、そんな立ち振る舞いは姫燐も素直に敬意を抱いていた。

 つまり、である。そんな重要なモノを、いま、目の前の少女は乱して、首輪を力強く握り、まるでこの身の所有権を主張するかのように引っ張り――

 

「ひやおぉぉぉぉぁぁぁぁぁぁぁ!?!?」

「あっ」

 

 全身から大量の冷汗が吹き出す感覚と共に、姫燐は箒の手を振り払って、出口へと転がりこむように向かった。

 喰われる。本能が叫ぶ。

なんで首輪を引っ張る。動物的直感が警鐘を鳴らす。

 確かに彼女を喰ってやろうかと思ったことは数えきれないほどあり、その手順を幾重も脳内シミュレートしてきた姫燐であったが、逆に喰われそうになるのは完璧に想定外であったため、頭が一瞬で真っ白のポンコツと化する。

 冷静に考えれば、『一夏から彼女をNTR』という大願を成就する一歩手前ではあるのだが、姫燐が狙っていたのは不器用巨乳武士ポニーな箒であり、このような犬すら喰らおうと息巻く獅子では間違っても無く――

 

――こんなとこに居られるか! オレは自分の部屋に戻るぞッ!

 

 ここが自分の部屋なのにそんなことを考えてしまうほど、完璧に動揺しきっていた……。

 ドアノブに縋りつくような形でなんとか辿りつき、とりあえず一夏かセシリアの部屋あたりでかくまって貰おうと、思いっきり扉を開いて外の世界へ、

 

 

「おーい朴月ちゃんに篠ノ之さーん! 迎えにき…………」

「もうみんな集まってるよー? それと、うちの本音どっかで…………」

 

 

 即座に引き返し扉を力任せに閉じてカギを締めチェーンをかけ、

 

「ねぇねぇねぇ!!! ちょ、なになになに今のエロかわファッションッ!!?」

「きゃわわぁぁぁ!!! ねね、開けてここ開けてもう一回見せて見せて見せてぇッ!!」

「ははは……今分かった宇宙の心は彼だったんだねー……」

 

 またベッドにうずくまって、自爆魔は死んだ目をして訳の分からないことを呟き始めた。

 悪質なストーカーやマスコミもかくやと、バンバンバンと激しくノックされる扉も、壊しそうな勢いでガチャガチャ捻られるドアノブも存在しない世界へと一人旅立つが、

 

「よっしこじ開けるわよっ! なにかバールのような物か人ッ! みんなを連れて来て!」

「了解ッ! キリわんちゃんの見張りは頼んだわよっ!」

 

 流石に事態がとんでもない方向へと加速し始めたことを察した箒が、シーツの上から大慌てで姫燐の身体をゆさる。

 

「お、おいっ! 現実へ帰ってこい姫燐っ! お前が今ここで倒れたら、部屋の扉はどうなるっ!?」

「分かってるよ、だから世界に人の心の光を見せなきゃならないんだろ……?」

 

 見事なまでに何も分かっていない。いや、分かろうとしない。

 

「ありゃりゃ~、大変なことになっちゃったねぇ」

「誰のせいだよ誰のぉ……」

 

 こうなった原因の約80%の、危機感の欠片も無い声に、死んだ目に僅かながら怒りと理性の炎が蘇る。

 

「まぁ、着替えればいいだけか……」

 

 非常に億劫そうなモッサリした動作であったが、取る行動は合理的であった。

 脱がされたインナーやズボンがある脱衣所へ向かおうとベッドから出て、トボトボと歩を進めようとしたが、

 

「あっ……もう、脱いでしまうのか?」

 

 とてもとても残念そうな声と、肩を掴む手が姫燐の足を止める。

 

「……そりゃそうだろ、脱がねぇと壊されるぞ、扉」

「そ、それもそうだが……それでも、もう少しだけ、せめて首輪ぐらいはそのままでも……」

「お前……」

 

 どんだけ首輪気にいってるんだとゲンナリする姫燐に、正しい選択は分かり切っているはずなのに素直にそれを選べない自分に戸惑う箒。

 チープな想像ではあるが、おそらく今彼女の脳内では、天使と悪魔が激闘を繰り広げているのだろうと姫燐は思った。

 まぁ、それでも性根は真面目ちゃんな箒だ。きっと最後には天使が勝利し、正しい選択をしてくれるだろうと姫燐も高をくくっていたため、

 

「いいんじゃないかなぁ、正直に生きても」

 

 のほほんとした悪魔の加勢を、一切想定していなかった。

 

「だっ、だが……私は、友を……」

「ねぇ、ほっきー? わたしね、まえからずーっとほっきーを見てて思ってたことがあるんだぁ」

「待て! 箒っ、そいつの言葉に耳を貸すなッ!」

 

 ぶかぶかの袖を耳元に当てながら囁かれる悪魔の甘言は、箒の心の檻に封じ込められたドス黒い感情を、コーヒーへ入れられたクリームのように柔らかく身体中に溶かしこんでいく。

 

「ほっきーはね、もう少し自分に素直に生きるべきだって思うの」

「自分に……素直に……しかし……」

「別におかしいことじゃないんだよ? 女の子はね、みーんな甘いものと可愛いものが大好きなんだから……独り占め、したいよねぇ?」

「だがっ……だが私は……」

 

 もはや天使の猛抗議は届かず、箒の世界に存在するのはとろけそうなほどに甘い囁き声と、自分の本当の願いのみ。

 そして僅か、最後に残った、友を本格的に見捨てたくないという良心の欠片ですら、瞳をうっすらと開いた悪魔は口に転がる小さくなった飴玉を堪能するように微笑み、

 

「じゃあね、こうしちゃおっか。実はね、いま生徒会室にはだーれもいないんだ」

「そ、れ……は……」

「実は生徒会室ってねぇ、先生以外はわたしたち生徒会のメンバーじゃないと入れないの……だからね、そこでだーれにも邪魔されずに」

 

 

――二人だけで、いーっぱいいーっぱい、ひめりんを可愛がっちゃお♪

 

 

 箒の脳内戦争がのほほんとした増援によって悪魔の歴史的大勝利で終結したのと、姫燐が窓から着の身のまま逃げ出したのは、ほとんど同時であった……。

 

 

                 ○●○

 

 

「うん、こんなもんかな」

 

 シャルルは持って来た新品のジャージに袖を通し、自室の鏡台に自分の姿を映した。

 シワやほつれが無いか軽く、なだらかな胸元とお尻を特に念入りに確認しながら、シャルルはよしっ、と軽く気合を入れる。

 

「……うーん、でもこれでいいのかなぁ?」

 

 男女のお出かけが初体験であるシャルルにとっては、ジャージ姿は少し違う様な気もするのだが、これ以外には制服しか持っていないため必然的にこれ一択になってしまう。

 

「でも、女の子とお出かけだっていうのにジャージ姿じゃ、僕はなぁ……」

 

 汚れ一つない金髪を横に傾げ、やっぱり制服で行くべきだろうか、だけど堅っ苦しい奴だと思われるのもなぁ……と、一夏なら絶対にしないであろう葛藤に、シャルルは放課後からずっと頭を悩ませ続けていた。

 

「んー、やっぱり制服? でもジャージだって……うぅん」

 

 しかし、その柔らかな気品漂う顔付きには今朝までの憂いは無く、どこかウキウキとした高揚感に満ちており、

 

「……うん、楽しいよ。すっごく」

 

 鏡に映った自分の姿に、そう微笑んだ。

 こんな気持ちになれるのは、いつ振りだろうか。こんなにも自然に笑えるのは、いつ振りだろうか。こんな方法で、笑顔を確認するようになったのは、いつからだっただろうか……。

 

――お前は、人形だ。

 

 曇り空が、また心を閉そうとする。

 

――常に余裕を持って笑え。他人に隙を見せるな。全ての裏をさぐれ。

 

 胃の中が逆流しそうな感覚に見舞われ、手足が凍りつく。

 

――笑え、シャルル・デュノア。

 

 たとえどれほど暖かい場所に居ても、デュノアは、生きている限りこの身をずっと縛り続ける。デュノアはまるで見えない鳥籠で、私と世界の間に存在して、全てを切り離していく。

 どんなに素晴らしい出来事も、場所も、人も、鳥籠の中から見れば、道端の石も裏返せば蟲がうごめくように、吐き気すら催す茶番に見えてしまう。

 だから信じない。見えてしまう裏を怖れて、ただ自分は何も感じない道具であればいいんだと、それが正しいんだと、運命だと……

 

――笑おうぜ、シャルル。

 

 思っていた、のに。

 独りぼっちの鳥籠に差しこんだ太陽のような眩しさは、凍らせていた感情が爆発しそうになってしまいそうなほどに真っ直ぐで、力強くて、優しくて……気が付けば、今朝からずっと彼女のことが頭から離れない。

 

「朴月……姫燐さん、か」

 

 叶わないと思う。期待するだけ無駄だとも思う。

 それでも、シャルルはこう思わずには居られなかったのだ。

 

「もっと、仲良くなりたいなぁ……」

 

 窓を見る。外は彼女の笑顔のように晴れ。

 フッと、また、忘れかけていた笑みがシャルルの口元に浮かんで、

 

「一夏ヘルプミィィィィィィィィッ!!!」

「うひゃあっ!!?」

 

 パニックホラー映画もかくやといった必死な形相で外から窓を連打され、身体ごと口元が跳ね上がった。

 これがもし知らない人間だったなら、悲鳴なりISなりで正当防衛し兼ねなかったが、その人物がまさにいま親交を深めたいと思っていた張本人ならば話は別だ。

シャルルは急いで窓のカギを外して開ける。

 

「ほっ、朴月さんっ!? どうしたのっ!?」

「なっ、シャルルがなんでっ!? って、そだ相部屋だったな……」

 

 一瞬、躊躇するような表情が姫燐に浮かぶが、

 

「えぇいままよっ! 悪いっ、少しかくまってくれ!」

「えっ、うわっ!? どうしたのその格好っ!?」

 

 窓から裸足で入ってきた少女の服装は日本に来たばかりのシャルルでも、私公序良俗に真っ向から戦いを挑んでいるモノだと一発で分かった。

 短いズボンと一体化した、胸の内側が丸見えであるパーカー。それだけでも大分刺激的だというのに、パーカーとセットになった犬耳や尻尾、そして彼女の首元にまかれた首輪は特定の趣向をした人物にはバズーカ砲よりも破壊力があるアクセサリまでセットだ。

 更にここまで全力疾走してきたのか、息も荒く、6月のムシムシした気候もあってか張りの良い肉体には珠の汗が張り付いている。

 

――……えっ? この服装で男の人の部屋に来るの?

 

 今朝、確かにシャルルは彼女に押し倒されないよう忠告を入れたが、これでは自ら押し倒されに来ているようにしか見えない。

 よくよく考えれば、彼女達は今朝も男である自分の前で、羞恥心の欠片も無く胸についてのトークで盛り上がっていた。自分がもし学園初めての男性だったらそれも分かるのだが、既にこの学園には織斑一夏が居る。

 そして女が男への羞恥心を消す方法も、シャルルは知識としてだけなら知っており……その知識を行動に移すのに適した服装をいま、彼女はしていた。

 

「……シャルル?」

「へっ、あっ、朴月さん!?」

「その……だな、できればあんまジロジロ見るのは勘弁願いたいんだが……」

「ごっ、ごめんね! 一夏以外の男性には、見られたくないよねやっぱり!?」

 

 あ、これ絶対不味い勘違いしてる。

 真っ赤になりながら両手でキャーと顔を塞ぐシャルルの姿は激しく萌えるのだが、コレは絶対に自分と一夏が『繋がり』を持っていると勘違いされたと、彼の言葉と今までの経験がささやく。

 クラスメイト達に何回も説明したのでこういう時の対応、即ち絶対に慌てたりムキになったりしてはいけないことを姫燐は――非常に複雑な気分ではあるが――熟知していた。

 

「勘違いすんな……ってのが、難しい状況なのは分かるが、まず言っておく。オレと一夏はデキてないし、ライクはあってもラブは微塵も持ってねぇ」

「で、でも、その服装は?」

「無理やり着せられたんだよ、幼馴染にな。オレだって、流石にこんな格好で男の部屋に行くかよ恥ずかしい……」

 

 よほど肉体的にも精神的にも疲弊していたのだろう。やつれた様子で一夏のベッドに腰掛け、シーツを適当にマントのように羽織った彼女の背中は綺麗なカーブを描いている。

 シャルルも向かいの自分のベッドに腰掛けた。

 

「そ、それでも、他の子の部屋に行けば」

「頼れる奴が、みんなして居なかったんだよ……」

 

 鈴は最初っから服のサイズが合うと思っていなかったので除外しており、クラスメイトは論外。最後の希望だったセシリアも今日に限って部屋に不在だったため消去法で恥を忍び、一夏の部屋に行くしか無かったのだ。……もし、姫燐がこの格好でセシリアと部屋で二人っきりになってしまえば、恥どころではない『事』になっていただろうが。

 

「てな訳で、悪いけどジャージ貸してくんねぇか? シャルル」

「え」

 

 ずいっと伸ばされた彼女の手に、シャルルの表情が一瞬だけ固まった。

 そして姫燐の無駄にいい動体視力は、それを見落とさない。

 

「いや、全部とは言わねぇけど、せめて上だけは何とかしたいなーって」

「で、でも僕、ここへ来たばっかりだから、これしかジャージとか他の着替え持ってなくて」

「だから上だけでいいから頼むよ、下は……まあ、ギリ許容範囲だ」

 

 両手を合わせて頼み込む姫燐だが、それでもシャルルは今、ジャージの下にはインナーともう一つ、『絶対に他人に見られたくないモノ』しかつけていない。

 これ以上、この話題に深入りされることだけは絶対に避けねばならず、多少強引にでも話題を逸らすしかない。

 

「そういえば! 朴月さんと一夏って、恋人じゃないならどんな関係なの?」

「オレと、一夏の関係、か?」

 

 シャルルにとっては苦し紛れの質問であったのだが、姫燐とってその質問は本当に不意であり、彼の思惑よりも更に深く考え込んでしまう。

 

「オレと、アイツの関係ねぇ……」

 

 そういえば、今まで自分達の関係を尋ねられる時は必ず『カップル』と断定されていたため、今までのような誤解を解くことに終始するばかりだった。

なので、こんな風に一歩踏み込んで聞かれるのは何気に初めてで、直ぐに言葉が出て来ない。

 足を組み、腕を組んで考える。

 まず恋人――ではない。自分は女にしか興味が無いし、なによりもアイツがこちらを恋愛対象と見ていない。というか、こちらが最初っから百合娘だとカミングアウトしたのだから、見る方がどうかしてるだろう。

なら友人――と呼ぶのも、何だか違う。つるみ出してまだ3カ月も経過していないが、それでもアイツと過ごした時間は3年以上かかってるんじゃないかと思うほどに濃密だった。

口にはしないが、姫燐はアイツのことを強く信頼ており、それに『あの日』アイツが居てくれなければ朴月姫燐は、今もこうして『朴月姫燐』で在れたかすら分からないから――感謝もしている。

 だから、姫燐はアイツの事をこう呼ぶのが正しい気がした。

 二人の約束と誓いを込めた、あの敬称を。

 

「協力者、かな」

「協力者?」

 

 聞き慣れない単語に、シャルルは首を傾げる。

 少しだけ小恥ずかしそうに、姫燐は頬をかきながら、

 

「アイツと出会って初日に誓ったんだよ。お互いが、お互いの夢を叶える協力者になるってな」

「へぇ。なんだか、カッコいいね」

「あんま茶化さんでくれ、いい反応はしてやれねぇぜ……?」

 

 茶化したつもりは無かったのだが、そうなると今度は別の疑問が浮かぶ。

 既に誤魔化しなどそっちのけで、目の前の少女への純粋な興味から、シャルルは質問を続けた。

 

「じゃあ朴月さんの夢って、なんなの?」

「あっ」

 

 ここで姫燐は、あんなことを言えば、当然こんな質問が帰って来るだろうとすら予測できなかったポンコツヘッドを本気で疎んだ。

今度こそ冷静に、これから続くであろう会話を軽く脳内でシュミレートしてみる。

 

――オレの夢は、可愛く素敵なお嫁さんを見つけることですっ!

――うわぁ…………うわぁ。

 

 目の前が真っ白になった。

 よし、はぐらかそう。即時即断即決即動である。

 

「じゃ、じゃあ、シャルルはどうなんだよ?」

「えっ……僕の、夢?」

「そそっ、こういうのはえっと、アレだ! 聞く前にまず自分からってのがセオリーだろ?」

 

 非常に雑な振りだったが、真剣に考え込みだした様子のシャルルを見て、回避成功とシーツの中の拳をグッと握り締め、

 

「僕には……無い、かな」

 

 浮かびあがった彼の寂しげな笑顔に、胸を握られたような痛みが走った。

 

「ダメダメな話、なんだけどね。僕には、夢が……ないよ。ダメなんだ、どうしても思い浮かばない」

「そなのか……?」

 

 今朝の出来過ぎた笑顔じゃない。でも、喜びの笑顔でもない。

 シャルルが浮かべたのは、夢を持っていない、ただデュノアに都合がいい人間を演じているだけな自身への、自嘲。

 

「……実はね、僕がデュノアを名乗り始めたのは、つい最近のことなんだ」

「…………そいつぁ」

 

 彼女に言ってしまった。彼女に言ってしまいたかった。

 同情的な陰りを見せる姫燐の瞳を見返して、シャルルはとっさに浮かんだその矛盾を――もう全てを吐き出してしまいたい衝動だけを堪えて、過去をデュノアのために脚色していく。

 

「僕は、ずっと片親だって思ってたんだけどね。でも、母の葬儀が終わって、一息すら入れる間もなく『あの人』はやって来たんだ」

 

 知らないはずなのに、知っている。初対面なのに、とても懐かしい。白髪こそ混ざっていたが、自分と全く同じ輝きを放つ金髪を持つ初老の男性。

 葬儀が終わり、途方に暮れ一人たたずむシャルルの家にやって来た『あの人』は、シャルルと瓜二つとは決して言い難かったが――まるで、ドッペルゲンガーでも見てしまったような衝撃を、彼は今でも忘れられない。

 

「色々言われた気がするけど……気が付けば僕はデュノアになっていて、昔では考えられなかったようなモノばっかりが、僕のモノになった」

 

 そう、平々凡々な小市民として生きていたシャルルにとっては全くの無縁であった――帝王学、経済学、IS学、戦闘術、操縦術、交渉術、ありとあらゆる、人を出し抜くための知識と技術。それを身体と頭に叩き込まれるだけの毎日は、確実にシャルルの精神を削り、この競争社会に適合するために最も適した形へと作り変えていった。

 

「だから、乾いちゃった、のかな。何もかもに」

 

 歯車。気が付けば、そんな呼び名が相応しいほど無機質な自分が、ここに居た。

 だから、父の命令でIS学園へ行くことになっても……恐らく、それがもっと残酷な命令だったとしても、シャルルには反抗する気など起きなかっただろう。

ここがどれほど歪な鳥籠の中だろうと、そこ以外に居場所なんて在りはしないのだから、壊してでも飛び立つ気になんて、なれる筈がない。

 

――ああ、そうか。だから、なのかな……?

 

 こんなにも、目の前の少女に、心ひかれてしまうのは。

 笑って、怒って、いじけて、格好つけて、慌てて、恥ずかしがって……そして今、こんなにも誰かの痛みを悲しんでくれている彼女に。自分が失いかけていた、本物の感情という大空を、自由に飛びまわる朴月姫燐という優しい少女に。

 

――もっと、近付きたい。

 

 もうあの空を自由に飛べないなら、せめてどんな景色なのかを知りたい。

 彼女の中で飛びまわる自由な思いの先にある、目的地を知りたい。

 あの懐かしい籠の向こう側へ、少しでも、繋がっていたいから――

 

「だから、教えて欲しいんだ、朴月さん」

「……えっ?」

「夢の見方を忘れちゃった僕のために、教えて欲しいんだ」

 

「朴月さんは、どんな夢を持ってるの?」

 

 直ぐには、姫燐も答えられなかった。

 それを『彼』に暴露することは、自分の夢のデッドエンドも同意義だ。

 今まで考えてきたプランは全ておじゃんになるし、折角見つけた性別以外すべてが理想に叶った運命的な出会いもパー。

 ドン引きされるかもしれない、それどころか顔も合わせてくれなくなるかもしれない。よくて、二人の関係は一夏と同じように協力者止まりになってしまえばまだ行幸。

 本当の事を言うメリットなど姫燐には欠片もありはしないが……もう、彼女の答えは決まっていた。

 彼はもう、自分の胸中を明かしてくれたのだから――ここで逃げちゃ、フェアじゃない。

 

「OK、いいぜ。なら耳の穴かっぽじってよーく聞きな」

 

 口元に不敵な笑みを浮かべて、姫燐は立ち上がる。

 

「オレの夢はただひとぉーつ、この学園で恋人を作ることだ」

「恋人……って……ええっ!? え、えええっと、それっても、もしかして僕と!?」

 

 どうしても、そうなってしまうのだ。

 この学園には男性は二人しかおらず、その内の一人は本人が恋愛対象ではないと明言していた。

 となれば、あとこの学園で残っている男子は、シャルル一人になってしまう訳で……。

 

「惜しい、ひっじょぉぉぉぉぉぉに惜しいが、ハズレだ。オレはシャルルが来る前から、この夢をひたすらに追い続けてる」

「えっ、でも一夏と僕が恋愛対象から外れちゃえば、あとこの学園には……」

 

 ここまで口にして、ようやくシャルルは、彼女の夢を正しく理解した。

 

「へっ……そ、それって……つ、ま、り……」

「ふっ……どうやらデッドエンドに辿りついたみたいだな」

 

 不敵な笑みは勝ち誇ったしたり顔に変わり、大きく羽織っていた純白のベッドシーツを脱ぎ捨て威風堂々、半ばヤケクソ気味に、叫んだ。

 

「そうっ! オレはっ! 可愛い女の子がッ、大、大、大好きなのだぁぁぁぁぁぁーーーーー!!!」

 

 ズガガーンと、雷鳴のようなイメージが姫燐の背後を駆け巡り、その全身全霊を賭した叫びは部屋の家具がコトコト揺れるほどに響き渡る。

 無論ライクじゃなくてラヴで! と、締め括る姫燐の声で、フリーズしていたシャルルの頭が正常稼働を始め、そこでようやく、

 

「うえええぇえぇぇぇぇえぇぇぇぇーーーーーーーーーーー!!!?」

 

 少し遅れて、また特大の木霊が、部屋中に響き渡った。

 

「なんか色々すまんかった! あと、みんなにはナイショで頼むっ!」

 

 そこから流れるようにベッドの上でジャンピング土下座を決めこまれ、どこかへ抜けかけていた魂がシャルルの体内へと何とか引き返して行き、

 

「そ、それ、それってつまり、朴月さんはど、同性……」

「うん、レズ。格調高く言うと百合の人。ルームメイトは割と本気で押し倒したいと思ってた」

 

 もう、色んな事を一度に叩きつけられすぎてクラクラする精神をシャルルは何とか奮い立たせる。

 

「ホント、コレお前含めて3人しか知らない事だから、クラスの皆には黙ってて欲しい。バレたら……なんか、ヤバいじゃ済まない気がするんだ特に最近は……」

「う、うぅん……」

 

 人間、二面性が無い方が珍しく、誰でも人に言えない秘密の一つや二つ抱えてるモノだと思っていたシャルルをしても、叩きつけられた現実のショックは大きく、軽く眩暈を覚えながらベッドに倒れ込んだ。

 

「なんで……女の子?」

「なんでって言われると困るんだがな。昔から可愛い物は好きだったけど、理由じみた理由もなぁ……」

「なんだか、ISみたいだね……」

 

 理由らしい理由もない癖に女性だけしか乗れない女好きの機械と、少女の性癖が何となくシャルルの中でダブる。

 

「まったくだぜ、いったい何時からオレはISレベルの男女差別者になっちまったんだか」

 

 やれやれと、掌を横にしながらアメリカンに呆れる彼女からは、後ろめたさや、臆面や、そういった負の感情が一切見てとれない。それが、シャルルには不思議で仕方無かった。

言ってしまえば彼女は、自分と『同じ』だというのに。

 

「……なんで?」

 

気が付けば、また口が勝手に動いていた。

 

「なんで朴月さんは、隠し事があっても、そんなに明るく振る舞えるの?」

 

 それは、自分にも人に言えない隠し事があると言っているのと同意義に等しかったが、あえて何も言わずに、姫燐は親指を自分に指して、

 

「そっちの方が、カッコいいだろ?」

「カッコいい……から?」

 

 ニカッ、と歯を向いて笑った。

 笑顔の裏に潜むのは、憧れる姉の姿。

 どんな時だって余裕で、笑顔で、カッコよくて、自分もああなりたいと思ったかた姉の大きな背中。

 

「昔、姉さんとそんな約束したってのもあるけどさ……オレ、思うんだ」

 

 あの約束から4年が過ぎた今、なぜかた姉がそう言ってくれたのか……これは自分なりの解釈ではあったが、姫燐はその答えを掴んでいた。

 

「やっぱりさ、ダッセぇ自分より、カッコいい自分の方が良いじゃんか。他の誰でも無い、自分自身なんだからさ」

 

 もっと深い意味があるのかもしれない。でも、姫燐はそう信じている。

 

「そりゃやっぱり、カッコつけれねぇほどヘコむ時もあるけどさ……」

 

 今度は、金細工のように美しいロングヘアーをした、かた姉とは別のカッコよさを持った貴族と呼ぶに相応しい友人の姿を思い浮かべて、

 

「そんな時は全部吐き出してからさ、美味いモン喰って、寝て、友人とバカやって、気分が変わったら、また仕切り直しゃいいのさ」

 

 まぁ、ホントにヤバいことしそうになったら、ジャパニーズサムライらしく腹を切るね。と、ワザとらしいボケを仕込んで、姫燐は立ち上がって窓から外を見上げる。

 

「だからさ、シャルルもなんか嫌なもん貯め込んでるなら、吐き出しちまえ」

 

 それから振り向いて、眩いほどの日差しを背に受けながら、

 

「オレでいいなら、いつでも受け止めてやるからさ」

 

 それよりも眩しい、満面の笑みを浮かべて胸を叩く姫燐の姿を見て、

 

「なんたって、お姉さんは大人っぽくてカッコいい奴だからなっ」

「ふふっ」

 

 シャルルにも、思わず、自然な笑みが零れる。

 

「わっ、笑われると、少し傷つくんだが……」

「だって、自分で自分のことをそんな大人っぽいとか、カッコいいって言う人、初めて見るんだもん」

「……えっ、マジ?」

 

 だって映画の決め台詞に……? と、ブツブツ言いながら本気で考え込み始めた姫燐に、なぜ彼女が皆からあそこまで好かれるのか、シャルルにも分かった気がした。

 彼女は、真っ直ぐなのだ。自分だけの道を見つけて、傷つきながらも、転がりながらも、そこを真っ直ぐに見据えている。

 誰かが言葉にしなくても、明るい場所に人間が理由もなく安堵感を覚えるように、人を惹きつけていく魅力を持つ。

 

――何も選べない私とは、正反対だね……。

 

 羨ましいと思う反面、どんどん彼女という人間に引き込まれていく自分が居る。

 きっと、他の人達もそう思っているのだろう。

だから……多分、

 

 

――み~つけたっ♪

 

 

 窓の外から、のほほんとした笑顔にミスマッチな、うっすらと開いた瞳に獣じみた眼光を瞬かせるような危険人物も、呼びよせてしまうのかもしれない。

 姫燐も背後から響いた声に、ネジが切れたブリキ細工のようにギギギと戦慄のブルーを浮かべる顔を向けて、

 

「シャルルぅぅぅ! 早くどっかから着替え持って来てくれハーリィィィィ!」

「う、うんッ!」

 

 事情は飲み込めないが只ならぬ危機感をシャルルも感じ取り、急いで購買辺りに着替えを買いに行こうとドアノブに手を掛け、

 

――みんな~、開くよ~♪

「ッッッ!!? ダメだシャルルそこ開けんな!」

「ふえっ?」

 

 本音が携帯を耳に当てていることに姫燐が気付いたのと、シャルルがドアを開いたのは――ほとんど同時のことだった。

 

「この瞬間を待っていたんだぁぁぁぁぁぁ!!!」

「のりこめぇぇぇぇぇぇ!!!」

「わぁぁぁい!」

「もう我慢できないぞぉぉぉぉぉぉぉ!!!」

「きっ、姫燐っ! 週一、週一ぐらいならどうだっ!?」

 

 怒涛とは正にこれ。疾風とは正にこれ。ピンクのプレッシャーを発する群れが一瞬で部屋中を埋め尽くしたかと思えば、次の瞬間にはシャルルを除き、部屋には人っ子一人居なくなっていた。

 

――や、やめろぉぉぉ!!! オレに酷い事するつもりだろ!? エロ同人みたいに、エロ同人みたいにぃぃぃッ!?

 

 遠く、哀れな子犬の残響が開きっぱなしの扉から聞こえていく。

 あまりの超展開に茫然とすることしかできず、思わず子牛が売られていく様を詠うあの曲のフレーズがシャルルの口元からこぼれ落ちていき、

 

――そう簡単に、ひめりんは渡さないからねぇ?

 

 バッと、窓へ振り向いた先には、ただ眩し過ぎるほどの空以外、もう何も映っていなかった。

 いつまでシャルルは立ち尽くしていたのだろうか……気が付けば、既に日光は沈み、夕暮れが外の世界を茜色に染め上げていて、

 

「なにしてんだ、シャルル?」

「………………ぁ、一夏?」

 

 いつの間にか、ルームメイトが部屋に帰って来ていた。

 手には無地の紙袋を下げており、ただ窓を茫然自失で窓を見ていたシャルルを気遣うような顔色が浮かんでいる。

 

「だ、大丈夫か?」

「う、ううん……なんでもないよ、なんでも、無かったんだ」

 

 あの一声を聞いた瞬間、まるで金縛りにでもあったかのように動けなかった事も含めて、僅かな時間で余りにも衝撃的な事が起き過ぎたため、シャルルの現実と妄想の境目はいま、非常に危ういラインをチキンレースしていた。

 光を失った目をしているルームメイトに薄ら寒いモノを感じながらも、この部屋で何があったのか知らない一夏は自分の目的を果たすことにした。

 

「なあ、シャルル……これ」

「ぇ……なに、この紙袋?」

 

 一夏は、手に持っていた紙袋をシャルルに手渡す。

 シャルルは彼の意図が分からず紙袋と一夏の顔を交互に見返すが、彼の一言によってその戸惑いは、堪らない幸福感へと変容した。

 

「今朝は邪険にして、悪かったな」

「い、一夏……」

 

 そう言いながら肩を軽く叩く彼からは、朝までの刺々しいオーラは皆無であり、今までの非礼を許してくれるだろうか憂う、イケメン特有のしっとりとしたオーラが纏われている。

 

「今朝は……少し、機嫌が悪くてさ」

「そ、そんな、受け取れないよ! 僕も、全然気にしてないし!」

「いや、それじゃあ俺の気が収まらない……それに、これはお前のために選んで来た物なんだ」

「えっ……僕の、ため?」

 

 お前のため。イケメンボイスで囁かれたこのフレーズに、思わず胸が跳ねるのを押さえられず、シャルルは紙袋の中身を確かめる。

 中には、100円ショップなどで売られているような、無地のDVDケースが一つだけ。他には何も入っておらず、これの中身が自分のために用意してくれた物なのだろうとシャルルは確信する。

 

「それ、本当はダチから貰った奴なんだけど、シャルルが好きそうだなって思ったから」

「そうなんだ……ありがとう一夏っ!」

 

 今までシャルルが抱いていた一夏へのイメージは完全に払拭され、健やかで義理堅い好青年が送ってくれたDVDは一体何なのだろうと期待を込めて開き、

 

『社長令嬢シリーズ4 秘密に上塗りされる、夜の蜜月』

 

 と、書かれたタイトル。そして隣に印された『R18』のマークに、瞳孔が開くような絶望を叩きつけられた。

 

「んじゃ、早速なんだけどシャルル。俺も結構、楽しみにしてたからさ」

 

 織斑一夏は、眼を強張らせ、身体を恐怖に震わせるシャルルに、

 

「せっかくだし、一緒にそれを、見ないか?」

 

 水平線まで続く蒼天のように澄みわたった、とてもとても爽やかな笑顔で……微笑みかけた。




タイトルはフルブ発売間近と、赤い人があんだけ念を押されたのに、ELSと宇宙怪獣とアンスパがやってくる最中アクシズ落とす記念。
そして作者は、今頃ファース党と新党のほほんに刺客を放たれてると思うので雲隠れします。


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第25話「まことのココロ」

 日本に伝わる古事に、三本の教えというモノがある。

『矢は一本では簡単に折れてしまうが、三本では中々折れない。このように三人が結束し、力を合わせることが大切である』という、とある戦国武将が三人の息子達へ向けた教えだ。

 数の利は、野生動物すら利用する単純かつ明快な力だ。数が多ければ出来る事は段違いに増え、思考も複数が絡むことで、独りでは思いもよらないような発想が出る事もある。

 故に今回、一夏とセシリアという二本の矢が共闘戦線を張る選択をしたことは、実に合理的で的確な判断と言えた。

 ただ――

 

「……織斑一夏」

「……あぁ」

「なにか、いい案は思いつきまして?」

「……セシリアは?」

「…………」

 

 ゼロとゼロを束ねた所で、ゼロ以外に成りようが無いという現実を失念さえしていなければ……だったが。

 資料室で机を挟み、互いに頭を抱える一夏とセシリア。頭の普段使わない部分を総動員しているためか、両方とも額にはビッシリと脂汗が浮かんでいる。

 その姿は夏休みの宿題が最終日なのに終わっていない学生を彷彿とさせるが――実際、似たようなものであった。

 

「本当に、何も思いつかないんですの……?」

「仕方ないだろ……慣れてないんだよ、こういうの……」

 

 そう、織斑一夏も、セシリア・オルコットも、こういった策謀を練る事が大の苦手だったのだ。

 基本的に、一夏もセシリアも思い立ったら即行動に移る直情型で、一瞬の機微すらも読み合う腹の探り合いが得意なタチではない。クラス代表戦は相手が勝手知った鈴であることや、舞台が一対一の戦闘であったお陰で、一夏でも何とか策を完遂することができた。

 だが今回の目的は、相手を殴り倒せばいいようなシンプルなモノでは無い。

 シャルルの、しいてはデュノアの真意を探り、今後の対策を立てることであり……

 

「やはりここは……オルコット家に幽閉した後、地下で全て洗いざらい吐きたくなるまで」

「いや、イギリスは遠いだろ……」

「ならば貴方の家でッ!」

「冗談でもよしてくれ! 千冬姉に見つかったら殺されるじゃ済まない!」

 

 場所以前に、閉じ込めて尋問するという発想そのものが完全アウトなのだが、もはやそんな常識すら危うくなるほどに二人の状況は切迫しつつあった。

 そもそも相手は一企業、いや下手をすれば一国家だ。心理戦に疎い学生二人で、その野望を探るという魂胆からして無謀極まりない。

 

「やはり、キリさんにも相談した方が……」

「それだけは絶対にダメだ!」

 

 椅子から立ち上がり、意見を言語道断と却下する一夏。

 当然である。一夏にとって最大の目標は、シャルルの正体を彼女に悟らせないことなのだから。事の次第を相談すれば頭が切れ行動力溢れる彼女のことだろう、一瞬で確信に辿りついてしまう筈だ。

 そんな事は……とにかくダメだ。理由を上手く言葉には出来なかったが。

 

「あ、貴方がそこまで仰るのなら分かりましたけれど……現実問題どうしますの? 時間は恐らく、そこまでありませんわよ」

「う……」

 

 デュノアがいつ行動を起こすのかは分からない。

しかし、時が事態を好転させる事だけは絶対にありえない。

 

「他にアテは? 本当に、非常に、認め難いですけど、わたくし達だけで手に負える問題ではありませんわよ」

「……ダメだ、誰に話しても騒ぎになる」

 

 一夏はこんな事を打ち明けられるほど、親しい人達の姿を脳裏に浮かべる。

 箒は論外。彼女は一夏やセシリアに輪をかけて直情型だ。鈴は自分達に比べて頭は回るが、曲がった事が大嫌いな彼女は、事実に気付いた瞬間シャルルを激しく糾弾し、やはり騒ぎになるだろう。

 千冬や楯無に相談するという手もあったが……こちらもやり方がスマートになっただけでやはり、シャルルはこの学園に居られなくなり、姫燐も事態を察する可能性は高い。

 とにかく、シャルル・デュノアという存在は学園的にも世界的にも注目を浴び過ぎているのだ。とんでもない奴が学園の外からやってきてしまったモノのだと、普通の人間ならとっくに感じていた憂鬱を溜め息に乗せて……

 

「学園の、外……?」

「織斑一夏?」

「そうだ! その手があった!」

「へっ?」

 

 視線でどういう事だと尋ねるセシリアを捨て置いて、突破口を見つけた興奮のまま一夏はポケットから携帯電話を取り出す。

 完全に失念していた。自分の味方は、学園の外にも居てくれているのだという事を。

 学園の外に居て、感情の機微に長け、決して口外しないと信頼できる人物。

 電話帳を探すよりも、先程電話したばかりなので発信履歴から探った方が早い、親友の名前を。

 

「もしもし、弾か! いま少し時間いいか、相談したい事があるんだが!」

 

――そして夕方の自室、作戦は決行される。

友から授かった知恵と、必ず役立つと言われ渡された物品を手に、一夏は挑む。

 

「んじゃ、早速なんだけどシャルル。俺も結構、楽しみにしてたからさ」

 

 腹の内を悟られないように、精一杯の作り笑いを浮かべて、

 

「せっかくだし、一緒にそれを、見ないか?」

 

 今にも剥がれそうな仮面を必死に押さえつけた、一世一代の大芝居へと。

 

 

             ●○●

 

 

「へ……え……?」

 

 どういうことだ、まるで意味が分からない。

 そう言いたげに口をヒクヒクさせて、言葉を失うシャルルの様子から、一夏は弾が授けてくれた作戦の第一段階が成功したことを確信した。

 事の次第を全て真摯に聞き留めてくれ、快く協力してくれた親友の言葉を、一夏は軽く目を閉じて思い起こす。

 

『どうせ単純なお前のことだから、あんまグダグダ詰め込んでも実践できないだろ? 三歩で忘れるお前にも分かりやすいように、要点も三つに絞って説明する』

 

 ここはいい。大切なのは次からだ。

 

『まず一つ。心理戦においてもっとも重要なのは、相手の余裕を奪う事だ』

 

 これは戦闘でも重要なことのため、一夏の頭にもすんなりと入って来た。

 確かに、舌戦に置いてマトモな勝利を飾った覚えがない自分が、正攻法で挑んだところで勝ち目など万に一つもないだろう。自分の攻めは余りにも脆弱であり、鍛える時間もありはしない――ならば、

 

『一番最初に、シャルルから余計なことを考える余裕を奪っちまえ。相手を最初からパニくらせれば、お前のどうせダメダメな演技もいくらか誤魔化せるだろうし一石二鳥だ』

 

 そんなに都合良くシャルルから余裕を奪える方法があるかどうか不安だったが、一夏が自分の『確信』を弾に伝えると、彼は「コイツをシャルルに渡せ」と一枚のDVDを譲ってくれた。

 中身は「見たら絶対にお前も心理戦どころじゃなくなるから、事が終わるまで絶対に中身を見るなよ」と念を押されたので未確認だが、シャルルの血の気が一瞬にして引き蒼白となった事から、怖い系のDVDなのかと勝手に一夏は推察する。

 

「いいっ、一夏ッ!? こここ、これ、これぇ!?」

 

 だが、次の瞬間には沸騰したように真っ赤になりアタフタするシャルルの様子から、微妙に自分のアテが外れているような気もしてくる。

 

「たたたっ、楽しみにしてたからって、いいい一夏って、こんな趣味が……?」

「え……あっ」

 

 色々としこりは残っているが、ここまで来て後には引けない。

ハッタリを効かせるため一夏は堂々と胸を張り、よく通る大声で、

 

「ああっ、俺すっげー好きなんだよ! そういう作品がさ!」

「ひぃ!!?」

 

 腕を抱きながら、シャルルが全力で距離を取るように一夏から飛び下がる。

 

「ぁ……ぁぁぁ……」

 

 背中を壁にぶつけ、その場へ崩れ落ちるようにへたり込むシャルルの姿は、まるで肉食の獣に追い詰められた子羊を一夏に連想させた。

 

(確かに効果は抜群だけど……弾の奴、本当に何を寄こして来たんだ?)

 

 使い終わっても、もう俺には必要ないから返さなくていい。と弾は言っていたが、人をここまで酷く狼狽させるDVDをアイツはどんな目的で使っていたのだろうか? まさか、一昔前に流行った見た者を呪うビデオのDVD版でも出たのだろうか?

 一夏がそんなくだらない懸念をしている内に、シャルルは大きく呼吸を繰り返し、壁に背中を預けたままだったが何とか立ち上がり、

 

「へ……へぇぇ? や、やっぱり、一夏も男の子、なんだねぇ?」

「え、そりゃそうだけど……っと」

 

 忘れない内に、一夏は要点の続きを思い起こす。

 

『次に、ソイツを再生するように頼め。この時、絶対にシャルルを逃がすなよ』

(分かってるぜ、弾っ!)

 

 緩み掛けた気をもう一度張り直し、一夏はシャルルが持ったままであるDVDケースを指刺し、

 

「なぁなぁ、そんなことより早く見ようぜ? 絶対にお前も気に入ると思うからさ」

「え、えぇぇ!? そそそ、そうかなぁ? どっちかっていうと、僕はそっち系よりもうちょっとプラトニックというか、その、ロマンチックというか愛がある方が……って、なに言ってるんだよ僕はバカバカバカぁ!!!」

「お、おい何してんだ止めろシャルルッ!」

 

 俯いてボソボソと呟いていたと思ったら、急に発狂して壁へ頭を打ち付け始めたシャルルを羽交い締めして止める。

 まさかこれほどまでの危険物だったとは。弾の知り合いで丁度アイツの家に居たという二年生の先輩が、これを持って来てくれた時からは想像も出来なかった。

 そういえば弾も、相談を打ち明けた当初は思い悩んでいたが「ちょうど、こういうのが得意そうな人が家に来ている」と大切な所は伏せて相談してくれ、彼女が教えてくれたコツをまた一夏に分かりやすく伝えているだけだと言っていた。

 相手をここまで心理的に追い詰める方法をパッと思いつくIS学園の生徒は、やはりハイレベルであると一夏は確信する。

 もしかしてDVDと一緒に「いつも妹達が世話になっています」と全く身に覚えの無いことを言って菓子折りをくれたのも、何かの自分には想像もつかないような高度な心理的テクニックなのかもしれないと一夏の背筋に冷たいモノが走った。

 などと考えている間に、発狂寸前だったシャルルが強い疲労感を顔に滲ませてぐったりと彼の胸へもたれ掛り、その重みによって一夏の意識が現実へと回帰する。

 

「だ、大丈夫かシャルル?」

「う、うん……ごめんね」

 

 胸から離れ、よろよろとベッドに腰掛けるシャルルの表情からは、もはやリビングデッドもかくやと言うほどに生気が失われており、心に軽い罪悪感を覚えてしまう一夏。

 だが、これは戦闘におけるスタミナ切れと同様。即ち、絶好の攻め時だ。

 良心の呵責を何とか振り切り、一夏は次のステップへと作戦を進める。

 

「んー、それにしても、ほんとシャルルって女の子みたいだよなぁ」

「…………ッ!」

 

 誰にでも分かってしまうほど、シャルルの肩が跳ね上がる。そんな彼を見下ろし、裁判にかけられた被告人の罪状を一つ一つ読みあげるように、坦々と一夏は口を動かす。

 

「肌は白いし、身体は細いし、声も高いしさ……それに、女の子の顔に躊躇いもなく触れるんだからなぁ」

「えっ、えっとそれ……はっ……」

 

 顔が上げられない、強張った視界が歪む、胃がひっくり返りそうな吐き気が襲う。

 そんな青ざめるシャルルの様子を見ても、一夏は一切の慈悲なくあっけらかんと、

 

「俺も、昔よく言われたなぁ。女みたいだってさ」

「…………え?」

 

 後頭部を掻きながら、思い出話に花を咲かせ始めた。

 

「今でこそ背も高くなったし声も低くなったけど、ガキの頃はマジで女の子と間違われた事が一回や二回じゃ済まなかったんだぜ? これでもさ」

「これでも……って、ぼ、僕は納得だけどなぁ。一夏ってカッコいいし」

 

 シャルルの表情が、死地を脱した時のようにまだ青ざめ気味であるがふっと和らぐ。

 一夏も、そんなシャルルと同調するように向かいのベッドに座り、

 

「でもさ、シャルルはこう思ったことってないか?」

「どんな?」

「俺達、もし男じゃなくて女に産まれてたら、どんな風に暮らしてたんだろうって」

「もし僕が……女の人に?」

 

 二人共有の話題に則った、何気もないたとえ話。

 だがこれこそが、弾(の知り合い)が教えてくれた、心理誘導の第二フェイズだった。

 

『どうやら人間ってのは、たとえ話をする時、自分の中で考えていることを思わず口にしちまうらしいんだと』

 

 デュノアではなく、シャルル自身が何を考えているのか。

 それを一夏は、『この様な事』をしなかったらどうしていたかを尋ねる事で、その本心を引き出そうと画策していた。

 たとえ話とは、言ってしまえば自己との問答である。普段は胸の内に秘め、誰にも言わない本心だろうと、『これは空想である』という前置きをしてしまうだけで、その錠前は驚くほどに外れやすくなる。

 無論、相手が警戒している場合は通じ辛い手段ではあるが、それも前述の精神的疲弊に加え、先ほど打っておいたフェイントで張り詰めた緊張が撓んだ直後だ。

 ほぼ間違いなく、こちらが本命だとは悟られない。

 

「僕が、普通の女の子、だったら……か」

 

 シャルルの瞳が、物寂しげに曇る。

 ここじゃない、どこか遠くを慈しみ眺める。そんなノスタルジアを込めて、彼の口はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

 

「僕が普通の女の子だったら、きっと普通の生活を送っていたかな」

「普通の生活、か?」

「うん、すごく普通な生活。普通の家族と一緒に暮らして、普通に学校へ行って、普通に畑仕事をして、普通の恋をして、普通の家族を作って……」

「それだけなのか?」

「逆だよ一夏、それだけで良いんだ」

 

 所詮、これは妄想に過ぎない。妄想は現実ではなく、現実出ないからこそ全ての願いが叶う。だが、少女の全ては余りにも平凡で、ありふれていて、共感が出来て――

だから一夏には、ふと、確かに見えた気がしたのだ。

 

「それだけで……僕はきっと、すごく幸せだったと思うから」

 

 彼の微笑みの裏で震える、何かに縛られ涙を流す少女の姿が。

 決心、一つ。一夏は薄く閉じて、親友からの最後のアドバイスを思い出す。

 

『それでもし、シャルルが誰かの命令で、嫌々こんなことをやらされてるっぽいんだったら、あとは楽勝だ』

 

 すっと浅く息を吸って、

 

『あとは余計なこと考えず、真正面からぶつかれ。お前なら、それでOKだ』

 

 吐き出す息と共に、似合わない打算すべてを頭から叩き出した。

 

「なぁ、シャルル。なら、なんで男装なんかして、こんな事してるんだよ?」

「……なっ」

 

 先程までの軽薄な言葉とは段違いに熱の篭った瞳と声、そして何よりも唐突に突き立てられた「男装」という言葉に、シャルルの心臓がドクンと激しく脈打った。

 

「だ、男装? なに言ってるのさ一夏、ぼ、僕は一夏と同じ男の人で」

「まず、男は自分のことを男の人とは言わない」

「ッ!?」

 

 バッと、シャルルは己の失言に思わず両手で口を塞ぐが、既にどころか最初から手遅れである。

 

「誤魔化さなくていい、こっちはもう全部分かってるんだ」

「ごっ、誤魔化すって僕は男だよ! な、何に言ってるのさ!?」

 

 あくまで白を切り通すシャルルに、一夏は一つ一つ、無駄な抵抗へ引導を渡していく。

 

「なら、なんでお前はこの学校に居るんだよ? 会社の経営は大丈夫なのか?」

「そ、そんなの一夏には関係」

「ない、と思うか」

 

 一夏は身体を乗り出し、シャルルの顔を至近距離で真っ直ぐと睨みつける。

 

「それ、は……」

 

 思わず、シャルルは顔を背けた。一夏に、息が掛かりそうなほどまでに顔を近付けられたから――では、ない。奥底まで透き通るような熱を秘めた彼の視線は、今のシャルルには余りにも眩し過ぎたのだ。

 まるで暗夜で怯える罪人を暴き出す、無慈悲なサーチライトように。

 

「どう考えてもオカシイよな? デュノア社は第三世代の開発が遅れていて、今すぐにでも何らかの方法で成果を出さないといけないのに……格好の研究対象は、こんな所にいる」

「ッ……僕、は……」

 

 研究対象。

その言葉に、終始一夏に圧倒されっぱなしだったシャルルの瞳に憤りの炎が灯る。

 

「僕は研究対象なんかじゃない! 僕と、僕と父さんは、そんな実験動物みたいな」

「あっ、ああ、そうだな。ごめん、言い過ぎた」

「なっ」

 

 だがようやく口からでた確固たる言葉も、彼に素で謝られてしまい、その矛先をスカされてしまう。意地でも問い質す気勢を宿していた瞳にも背中を向けられ、拍子抜けしたように戸惑うシャルルに、

 

「でも、それならさ。尚更お前は『何』なんだ?」

 

 再び、冷刃のような質問が投げかけられる。

 

「頼む、答えてくれよ……シャルル・デュノア」

 

 当の一夏はまったく意識してはいなかったが、彼の一旦あやまるという行為はシャルルに溜まったフラストレーションを一瞬にしてガス抜きし、激昂に逃げるという道を塞ぐ心理戦術の一つであった。

 

「っ……はっ……それ……は……」

 

 俯き、肩を抱きながら、唇を噛む。

 心に受けた傷を庇うように、シャルルはうずくまり――そして、同じように、

 

(お願いだ……これでもう、諦めてくれよ……!)

 

 一夏もまた、奥歯を噛んで必死に耐えていた。

 人の心を、自分勝手でズタズタに傷付ける、最低最悪の感覚に。

 分かっていたが、解ってはいなかった。

 人を護るために、人に刃を向けるという、矛盾を孕んだ現実に。

 この怖気すら伴う痛みを、仕方ないことだと、所詮は他人事だと無下に切り捨てられるほど、織斑一夏と言う少年は大人では無かった。

 これはキリのため。彼女を、得体のしれないデュノアから護るため。

そう自分に必死に言い聞かせて、今にも崩れてしまいそうな無理を張り続けて――待つ。

 だが、それが、ここに来て詰めを戸惑ってしまった一夏の甘さが、

 

「……証拠」

「…………え?」

 

 致命的な反撃を許す糸口となってしまう。

 

「証拠、だよ。僕が……女だっていう証拠さ」

 

 先程までの弱弱しさが嘘のように目を見開き、口元を加虐的に釣り上げ、強く糾弾するようにシャルルは続ける。

 

「そうだよ、今までのって全部一夏の『憶測』だよね? 僕が本当に女の子だって証拠……一夏、持ってるの?」

「なっ、そ、それは」

 

 確たる証拠を出せ。

 一夏は今更ながら、自分の確信を裏付ける「物」を何一つ持っていない事に気付いてしまった。

 彼が実は女であるという証拠。そんなもの、全く考えもしなかった。

 思い立ってから、細事に脇目も振らず突っ走って来てしまったツケが、ココに来て一気に一夏の勢いを削ぎ落す。

 完全に追い詰めたと思っていたネズミに噛みつかれ、一瞬で優劣が入れ替わる。

 

「……やっぱり無いんだ、証拠」

「な、待てっ! そりゃ、証拠はないけど! お前は、普通の生活に憧れる」

「なに? まさか一夏、あんなたとえ話だけで、僕を女だって決めつけるの?」

 

 露骨な溜め息と共に、シャルルはベッドから立ち上がり、一夏を見下す。

 先程まで青ざめていた子羊の面影は消え、ただ堅く冷たい意志を持った絶対者の姿がそこにはあった。

 

「正直困るんだよ、そんな憶測だけで僕が? 女の子? だって、決めつけちゃさぁ」

「違う! お前は、お前は本当はっ」

「うるさい」

 

 尚もしつこく喰い下がろうとする愚者を、蹴落とすような言葉が遮る。

 

「いい加減分かってよ。僕はシャルルだ……他の誰でも無いデュノア社の、いや、父さんの……一人息子なシャルル・デュノアなんだ」

 

 ウンザリするように、嫌悪するように……縋るように、涙を堪えるように、

 

「僕をここに送った父さんの意思は良く分からないけど、きっと僕のデータ収集とか、学園で色んな事を学ばせたいだとか……そんな所なんじゃないかな?」

 

 それでも、渦巻く全てを溜め息一つで覆い隠し、無難で適当すぎる答えだけを残して、シャルルは一夏に微笑みかける。

 姫燐の朗らかな笑顔とは比べるまでもない、感情を凍りつかせた能面が浮かべる勝利宣言。

 逃げられる。あと一歩、あと一歩なのに、その一歩を詰められない。

 一夏が頭を擦り切れそうなほど回転させようが、0から0を生み出せない様に、考えてすらいなかった証拠を今すぐ作り出す方法など浮かびようが無かった。

 

――やっぱり、俺だけじゃ無理だったのか……?

 

 遠のいていく背中に手を伸ばしても、ただ手に残るのはどうしようもないまでの無力感。

 

「……ごめん」

 

 掠れそうな謝罪の言葉に、遠のくだけの背中が止まる。

 ギュッと締め付けられる拳と唇の痛みよりも、ひび割れ疼く良心が鎖となってシャルルの足を縛りつける。

 

――一夏は何も悪くないのに。悪いのは、本当にごめんなさいって言わないといけないのは、私の方なのに。

 

 このまま、何も言わずに去るべきだ。

 それが正しい。デュノアとして、僕として、最もリスクのない選択。

 けれど……本当にこのままだと、

 

――やっぱり、嬉しいもんなんだよ。

 

 彼女の言葉が、

 

――どれだけ遠く離れていても、

 

 もう追憶の彼方にしか無い母の面影が、

 

――家族が元気で笑って暮らせてるのってさ。

 

 全て、曇りの中へ消えてしまいそうだったから……せめて、一言だけ、謝りたい。

 

「やっぱり、俺一人じゃ無理だったよ……」

 

その足は、再び彼と向い合って、喉奥から自分自身の声を絞り出して、

 

「そのっ、いち」

「ごめん……セシリア」

「か!」

 

…………………………待って。

 不意打ちにスタンした心が辛うじて果たした機能は、そんな言葉を発する事と、彼が、織斑一夏が話しかけていたのは自分では無く、彼の腕に巻かれた――白いISにであるということを認識する程度であった。

 

「やはり、貴方一人では無理でしたのね」

 

 次に認識出来たのは、ガチャリとドアが開く音と、背後から聞こえた気品に満ちた女性の声。

 

「まったく、良い方法を思いついたから、俺に任せてくれないか。なんて自信満々に仰るから、あえて部屋前での見張りだなんて、華やかさの欠片も無い雑務を引き受けました、の、に」

「う……面目ない……」

「まぁ、構いませんわ。手詰まりだと思ったら、イギリスの代表候補生にして名門貴族であるこのセシリア・オルコット! に、即頼ったその素直さに免じ、今回は特別に許して差し上げますことよ」

「お、おぅ」

 

 いつもよりテンション二割ほど増しで、すがすがしい程のドヤ顔を披露するイギリスの代表候補生が、お邪魔しますわ、の一声を挟んで、礼儀正しくヒールを脱いで部屋に入る。

 呼んだ本人であり、慣れたモンである一夏ですら若干置いてけぼりを喰らう颯爽登場に、初見であるシャルルがついて行ける筈も無く、ただ見つめる事でしか反応を返す事が出来ない。

 

「さて、と。お話はコレで大体聞いておりましたわ」

 

 と、制服のポケットからガラスコップを取り出しながら、セシリアはシャルルの眼前に立ち塞がる。

 

「そんなんで聞こえるんだ……」

「貴方は、証拠が無いから、自分は女ではない。と主張しますのねシャルル・デュノア?」

 

 一夏のツッコミを余所に、コップを手近な机に置いて淡々と尋ねるセシリア。

 

「そ……そうだけど……」

 

 辛うじて自分に質問が飛んで来たことを理解したシャルルが、脊髄反射じみた答えを返したのと……彼女が行動を起こしたのは、ほぼ同時であった。

 

「あら、そうですの」

 

 やはり淡々としながらも、同時に気品すら感じる柔和な笑顔を浮かべ、セシリア・オルコットが、突然

 

グワシっ

 

 と、そんな擬音が浮かびそうなレベルで、シャルルの平らな胸を鷲掴みしたのは。

 

「………………」

 

 ジャージの上からも確かな手応えを感じ、完全勝利に口元を釣り上げるセシリア。

 

「……………」

 

 唐突な事案に、今度こそ完璧に声を失った一夏。

 

「……………」

 

 そして、余りにも当然の権利のように胸を鷲掴みにされたシャルル。

 三種三様の沈黙が、これから始まる『事』のインターバルであるかのように僅かな静寂をもたらし……そして、開幕を務めたのは、

 

「き……キャァァァァァァあああアアアアアアぁァァァァァ!!?!??」

 

 当然のように、被害者であるシャルルの絹を裂くような悲鳴であった。

 

「あ、危なっ!?」

 

 後ろによろめき、バランスを崩しかけたシャルルの背を、一夏が思わず抱きとめる。

 それは図らずとも、開いていた両脇から腕を滑り込ませ、胸で受け止める形となり、

 

「ナイスですわっ! そのまま離してはなりませんわよ織斑一夏ッ!」

「えっ? あ、お、おぅ!?」

「ひっ!?」

 

 丁度、両腕を拘束し、胸をさらけ出す姿勢でシャルルを拘束できてしまった。

 

「はっ、離して! 離して一夏ッ!」

「え、えっーと……その、なんかこれって、すごく不味い事してるような……?」

 

 力任せにもがくシャルルであったが、技が伴わない力は、例え困惑の最中であろうと、鍛えた肉体を持つ一夏の拘束を振りほどくことは叶わない。

 

「……くっ!」

 

 一瞬の迷い。それでも、今この拘束を抜けなければ、取り返しは不可能。

 ならば、とシャルルは瞳を閉じて、首に下げた己のISに意識を集中しようとして、

 

「ふうっ……」

「ひゅにゃぁ!!?」

 

 突然、耳元に走った生温かい風に、意識の全てを狩りとられた。

 

「ISは意識が集中できなければ展開できない……させませんわよ、シャルル・デュノア」

「あっ、えっ、今、耳にっ、ええっ……!?」

 

 言ってることはカッコいいのに、やってることで台無しである。

 胸中で一夏が白眼を剥いている間にも、オルコットのオンステージは終わらない。

 シャルルの喉元、正確にはジャージのファスナーへ無造作に手をかけ、

 

「ま、待って待って待ってぇぇぇ!!?」

「あらぁ?」

 

 思わず漏れたシャルルの静止に、待ってましたと言わんばかりに、眼を細めるセシリア。

 

「どうして、お止めになりますの?」

「だだだだって、そ、それは、その……」

「貴方は殿方ですのに、服を脱がされるのに戸惑いを覚えなさるので?」

 

 いや、殿方でもそれは普通に戸惑う。

 などと、冷静なツッコミが一夏の頭を掠めるが、いやそれ以前に、

 

「セシリアッ!? おっ、お前、まままさかっ!?」

「ほぉら、織斑一夏が期待しているような事態になるか否かは……これからの返答にかかっていますわよ、シャルル・デュノア?」

「いや、して無いからなッ!? そんな期待ッ!」

 

 キッ、と言葉にしなくとも「最低」と語る真っ赤な横顔でシャルルに睨みつけられる一夏。理不尽である。

 

「だっ、大体お前こんな方法……よくないだろっ!」

「ええぃ、ガミガミうるさいですわねっ! 仕方ないじゃありませんの、他に思いつかなかったんですものっ!!!」

「えぇー……」

「わ、私だってこんな、こんなキリさんに顔向け出来ないような、下卑た男がやるような真似っ……う、ううううううっ!!!」

 

 どうやら彼女的にも相当な無理をしているらしく、このフルスロットルなテンションも下手に賢者になってしまえば「最低ですわ……私」となってしまうのを避けるためのデッドヒートのようだった。

 故に、熱暴走するセシリアの頭や舌は、普段以上に全力で空回り、

 

「そもそもっ、私がこんなことをしなくてはならなくなったのは、貴方があんな自信満々で出ていったのに失敗したのが原因ではありませんことっ!?」

「そ、そりゃ見栄切ったのにしくじったのは悪かったとは思ってるけど……」

「責任問題ですわっ! もし責任を一ミリでも感じてらっしゃるなら、今すぐキリさんの部屋分けをやり直すよう織斑先生に取り成してくださいましっ! なぜ私ではありませんのっ!?」

「えっ!? いや、そんなこと言われても、そもそも部屋分けって確か山田先生がやってたような……」

「一緒ですわッ! 織斑先生を攻略出来る貴方なら、山田先生なんてきっとチョロイものでしょうッ!?」

「それはいくら何でも酷くないかッ!?」

 

 などと、シャルルを挟みながら暴走とマジレスの応酬を繰り返す二人。

そんな中で、わー完全に蚊帳の外だなぁと茫然自失していたシャルルだったが、

 

(……あれ、これ)

 

 討論に夢中で、自分を抱く腕に力が入っていない事に気付き、

 

(……行ける?)

 

 この程度なら、自分の力でも振りほどけると確信した。

 未だにガヤガヤ日ごろの鬱屈を吐き出しているセシリアの向こう側……この部屋の出口を見据えて、呼吸を整える。

 間違いない。この二人は自分の正体に気付いている。

 このままでは確実に、口を割るまで自分を解放してくれないだろう。

 逃げるなら今しかない。逃げて、とりあえず誰かの部屋に駆けこめば……

 

(けれど……)

 

 なぜ、果たして、そこまでして、自分は逃げる必要があるのだろうか。

 ここで逃げた所で、一夏かセシリアか、どちらにしても国すら無下に出来ない発言力がある二人が、しかるべき場所に口添えすれば、社が学園と取引することでパスした身体検査も受けざる得ないだろう。

 頭を駆け巡る、このささやかな抵抗になんの意味があるのだろう……?

 

――笑え。

 

 いっそ、このまま『私は』楽になってしまえば良いと諦めていた脳裏に瞬く、重くて、冷たくて、突き放すような父の言葉。

 

――笑え、シャルル・デュノア。

 

(ああ、そうだ)

 

 私が、僕である限り。

 父が、僕を見ている限り。

 私は……例え一刻一秒でも、僕であり続けるしかないんだ。

 だから――決断は頭から余計なことを弾きだし、決行へと着実に意識を高めていく。

 確実に二人の虚を突けるタイミングを見計らっていく。

 そして、

 

「大体、俺のせいだって言うけどセシリアも何にも思いつかなかったじゃないか!? もし俺が弾からなにも聞けなかったら、どうするつもりだったんだよ!?」

「そっ、それは……む、むむむぅ……」

 

 二人の会話が詰った、僅かな静寂。

 

(今だっ!)

 

 機が熟したことを確信したシャルルが、一夏の拘束を振りほどいたのと、

 

「ええい、こうするつもりでしたともッ!!!」

「うぉ!?」

「えっ?」

 

 セシリアがちょうど振りほどいたシャルルの腕を力任せに引っ掴んで、強引にベッドに押し倒したのは、ほぼ同時のことであった。

 ダイナミックに揺らぐ視界。背中に走る柔らかな衝撃。そして……

 

「……んっ? あれっ? えっ?」

 

 オカシイ。これは、オカシイとシャルルは思った。

 だって今、自分はこの部屋から逃げ出しそうとしていたのだ。

 なのに、こうして目の前に広がるのは寮の廊下では無く……一人の少女。

 美しいブロンドの長髪はまるでカーテンのように自分と彼女以外を遮り、握られた手首は痛みよりも、汗ばんだ彼女の手の、確かな熱をシャルルに強く伝えた。

 柔らかなシーツの感触を背にした、お互いの息と息が触れ合うほどの、距離。

 

――ドクン――

 

 これを、シャルル・デュノアの失態と呼ぶには酷であった。

 ごく一般的な成長を遂げている思春期の若者が、このような状況に陥ったときに……胸がどうしようもないほどの動悸を訴えてしまうことを、誰が咎める事が出来ようか。

 激しく打ち鳴らされる鼓動は本能的に呼吸を荒れさせ、過剰分泌されたエンドルフィンは現実感を打ち消していき、感情と生理現象の境目を狂わせていく。

 

――私は、なんで、これは、どうして、この人、私を――

 

 飛び飛びに浮かぶワードはどれも要領を得ない。

故に、無意識の視線は答えを求め、眼前に浮かぶ彼女の顔へと吸い込まれていき、

 

「くふっ、くふふっ、くふふふふふふふふふふふふふふふぅっ」

 

 あ、ダメな奴だこれ。と一発で現状を完璧に把握した。

 

「そうですわ……そうですとも……織斑一夏に任せずとも……あんなまどろっこしいことをしなくとも……最初から、もっと早く、こうしておけば良かったんですわよ……」

 

 ギラギラと、正気と狂気の境目を反復横とびする眼。

 三日月に歪んで、今にも歯の隙間から煙でも出そうな口元。

 そして、

 

「貴方が……貴方がいけないんですわよ……貴方が来てからというもの……私とキリさんの甘い時間が……私だってあんなベッタリ……一分一秒一時キリさんと……貴方のせいで……貴方さえ居なければ……全部ッ……全部全部全部ッ……!」

 

 自分に向けて吐き連ねられる、嫉妬に狂った呪詛じみた恨み辛み。

 

(あ、やっぱりセシリアさんって姫燐のこと……)

 

 ここに来て姫燐の名前が出てきたことで、シャルルの頭でふわついていた『なぜ彼女が自分を目の敵とするのか』という疑問とピタリ合致しする。が、人それを現実逃避と言う。

 そうしている間にも二重の意味で止まる訳が無い現実は容赦なく、ジャージのジッパーを荒っぽく掴まれ……

 

「ハッ! ま、待って待って待ってッ!」

「おだまりっ!!!」

「まもごぉッ!!?」

 

 なんとか現実に帰還して、待ったを唱える為に開いたシャルルの口が、セシリアがポケットから取り出したハンカチで無慈悲に封殺される。

 丸めたハンカチを無理やり口に詰め込まれ、痛みと息苦しさにシャルルの大きな目が滲み、もはや小難しいこと一切抜きの本格的な抵抗を試みるが、

 

「ぐふふふふ……無駄無駄無駄……ですわぁ」

「んむーっ! むぐーっ!!?」

 

 腕を掴まれ組み伏せられるこの体制は、重力が味方をする上側が圧倒的に有利だ。

 余程の体格差か、専門の返し技を心得ていなければ、独力での脱出は困難を極める。

 ISを起動する。というジョーカーも、このようなのっぴきならない状況で意識を集中させられるほど胆が据わっている訳ではないシャルルには、只のブダ札だ。

 しかし、それでも襲いかかる色んな事の危機に、ただ無抵抗で成すままであるほどシャルルもお淑やかな羊では無い。

 

「このっ! 暴れるなですわっ!」

「んむいーーーーッ!!!」

「ふぬぬぬぬぬぬッ!!!」

 

 シャルルも最早手段を選んでられないと、セシリアがジッパーを下ろそうとするたびに、全身を動かして妨害したり、フリーになる手で胸倉を掴んだり、押し返そうとしたりと精一杯の反撃を試みる。

 ここに来て、二人の争いは完全に膠着状態に陥った。

 普段の二人のイメージとはかけ離れた、気品もクソもあったモンじゃない争い。

だが、それでも絶対に譲れない戦いが、そこにはあった。

 

「……これは……俺が……悪いのか……?」

 

 一方、自分さえしくじらなければ、セシリアはこんな突発的な性犯罪に及ばなかったのではないか? と、この歳にして変な十字架を背負い掛けている少年は思考回路ショート寸前で黄昏ていたが、

 

(いや、それ以前に!)

 

 とりあえず、このままでは良く無いのだけは分かる。

 織斑一夏は「それはよくない」と言える男なのだ。それになんかもう、常識的に考えれば考えるほどドツボにしか入らない気がしてきた一夏は強硬手段に打って出る。

 ベッドで馬乗りしているセシリアの右手を掴み、なんとか言葉でなだめようと試みる一夏。

 

「もうよせセシリアッ! 冷静になれってッ!」

「なっ! なぜデュノアに味方をしますの織斑一夏ッ!」

「味方とか敵とかそんなん以前に、もうなんか、見てらんないんだよ色々とッ!」

「見損ないましたわ! 貴方の覚悟はその程度でしたのッ!?」

「女の子ひんむく覚悟はした覚えないんだけどッ!?」

 

 もはや常識などデッドヒートの彼方に置いてきたセシリアは、いがみ合いながらもジッパーから左手を離さないと、脱衣に鉄の意思と鋼の強さを見せていたが、

 

「ッぱぁ!」

「しまっ!?」

 

 一夏の妨害は、ギリギリで膠着していた戦況を崩すには充分すぎる効果を果たした。

 両手がフリーになったシャルルは、手始めに口に詰っていたハンカチを引き出し、ベッドの隅に投げ捨てる。

 そして、ガラ空きになっていたセシリアの腰を掴み、華奢な彼女を抱きこむようにして、

 

「いい加減に……してッ!!!」

「きゃあっ!!?」

「おわっ!?」

 

 思いっきり、セシリアを撒きこんで、ベッドの外へと身体を転落させた。

 とっさにセシリアの手を離したため、一夏は巻き込まれずに済んだが、二人はスッポリとベッドとベッドの間へとなだれ込んでしまう。

 

「だ、大丈夫か二人ともッ!?」

 

 ドスン、と決して軽くない音が室内に響き渡ったにも関わらず、今度は逆に押し倒される姿勢になった筈のセシリアはまだしも、押し倒し、いつでも逃げられる姿勢になっている筈のシャルルすら声も動きも無い。

 この事実がもたらす可能性に――一夏の背筋が、ゾッと凍る。

 

「おっ、おい! 二人とも、どこか怪我し……て……」

 

 ……結論から言ってしまえば、セシリアもシャルルも、怪我はしていなかった。

 学園寮のカーペットが衝撃を殺したことや、ISの操縦で普段から衝撃には慣れているのもあって意識もハッキリとしていたが――それは、主にセシリアにとって、決して幸運とは言い難かった。

 抱きこまれ、転がり落ちる形でベッドから落ちたため、先程と上と下が逆になった二人の距離は非常に密接であったのだ。

 そう、ピッタリと密接していたのだ。二人の肌も、二人の顔も、そして……

 

「んっ、むっ……」

「………………」

 

二人の――唇も。

……こうしてセシリアの暴走に始まった乱痴気騒ぎは、まるで鼓膜が割れてしまったのかと錯覚するほどに、静かすぎる幕引きを迎えた。

 

「……………」

 

シャルルの湿っていた唇が、ゆっくりと、透明な糸を引いてセシリアから離される。

 一夏も、セシリアも、シャルルも、この場に居る誰もが「起こってしまったこと」を受け入れるには、少々の時間を要した。

 僅かな間が空いて――いち早く正気を取り戻せたのは、意外にもシャルルであった。

 

「……ご、ごめん……」

 

 まだ足腰が言う事を聞かないため、未だ至近距離から抜けだせないシャルルが、とっさに呟いた謝罪。

 それは、瞳だけをパチクリさせながら、精巧な人形のように不動であったセシリアに「シャルルに謝られるようなこと」が起きてしまったのだと認識させるには充分すぎる一言で、

 

「…………ふぇ」

「ふぇ?」

「ふぇ、えっ、ぐずっ、ぶぇ」

 

 喉からは嗚咽が漏れ、碧眼からは雫が溢れ、そして、

 

「びえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえええええええん! わだぐじの、わだぐじのヴぁーずとギズがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」

 

 絶望は感情の大雪崩を引き起こした。

 

「うわぁ!!?」

 

 耳元で突然、大声で泣き叫ばれたため、弾き飛ばされるようにシャルルが尻餅を突く形になるが、セシリアに彼女を気にかける余裕がある訳がなく、

 

「ごんな、ごんなのあんまりでずわぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!?」

「あ、あの、僕も一応ファーストキスなんだけど……」

「あのがたに、あのがたに捧げるわだぐじの純潔がぁぁぁぁぁぁ……ごんな、ごんなごとでぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」

 

 ベッドシーツに顔を埋めながら、泣き喚くセシリア。

 あんまりなのは言うまでも無く、強姦まがいに押し倒されて服をひん剥かれそうになった挙句、ファーストキスまで奪われたシャルルであるのだが、ここまで年甲斐もなく大泣きされれば怒るより先に憐れみのほうが先行してくる。

 一夏も駆け寄り、なんとか泣き止んでもらおうと慰めをかけていくが、

 

「えーっと、そうだセシリアッ! こう、外国ってよく挨拶でキスするんだろ!? それみたいなもんならノーカンだとおm」

「ふぅんッ!!!」

「もぐふっ!」

「今のは無いよ一夏ぁ……」

 

 鼻柱に裏拳を喰らい悶えるデリカシーゼロには任せておけず、ほぼ100%自業自得だからと放っておくことも出来ず、シャルルは思いついた端からセシリアにフォローを入れていく。

 

「ほ、ほらっ、泣きやんでセシリアさんっ! 僕も今日の事は忘れるから!」

「で、できのなざげはうげまぜんこどよぉ!」

「いや、敵の情けとかじゃなくて。ほら、あんまりシーツで顔を擦るとお肌が痛んじゃうよ? 僕のハンカチで良ければ貸すから」

 

 色々と理不尽なことをされたセシリア相手でも、献身的な態度を崩さないシャルルの姿にやっぱり悪い奴では無いんだよなぁと、鼻柱を押さえつつ一夏は再認識する。

 

「も、もヴ……ごんな、ごんなっ、淑女相手にごのようなプライドの欠片もないような行いっ……キリさんにがお向けっ……」

「だ、大丈夫だって、ぼ、僕は全然気にしてないからっ!」

 

 一気にマイナスまで急転直下したテンションは、先程までの暴走に任せてやってしまったことまで纏めて尾を引き始めてしまい、悔恨の海を更に深めていく。

 何とか泣きやんでもらおうと頭を回転させる最中、さきほど一夏が言っていた単語がふと、シャルルの口先に留まり、

 

「それにほら、一夏もさっき言ってたけど、こんなのノーカウントだよ!」

 

 なぜならばシャルル・デュノアと、セシリア・オルコットのキスは、

 

「女の子同士のキスなんだから、誰も気にしないって! ねっ?」

 

「えっ」

「えっ」

「あれっ?」

 

 突然声をシンクロさせたセシリアと一夏に、なにか相手の気に触るような失言をしてしまったのだろうかと、思案すること数秒。

 

――女の子同士のキスなんだから、誰も……

 

――女の子同士のキスなんだから……

 

――女の子『同士』の……

 

「……………………あっ」

 

 やってしまった壮大な自爆に、シャルルの顔が瞬時に青ざめ、

 

「何をおっじゃりまずのッ!!? 女性同士だろうと同じでずわぁ!」

 

 とりあえず一夏は、眼先でガタガタ震えるシャルルの事は一旦保留にし、

 

「セシリア、今日はもう休もう、な?」

 

 優しくセシリアの肩を叩いた。




ところでベクター、一年以上作者が失踪したのはお前の仕業か?


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第26話「少女の選択、男の惑い」

「……何をしている織斑」

「あれっ、千冬姉?」

 

 もう何か色々とグズグズなセシリアを彼女の部屋まで送り届け、自室に戻ろうと部屋を出た矢先、どこかやつれた様子の姉と一夏は出くわした。

 思わず姉と呼んでしまっても、いつもの「織斑先生だ」という訂正は飛んで来ず、

 

「なぜオルコット達の部屋から……お前もか? お前も何かやらかしたのか……?」

「ぐえっ!?」

 

 疑心暗鬼に囚われた思念が、常人なら気絶しかねない程のガン付けと共に一夏に浴びせられる。

 どちらかと言えばセシリアが主導であったとはいえ、数分前に思いっきりやらかした覚えがある一夏にとって、彼女のプレッシャーは、喉元から変な悲鳴を漏らすには充分すぎる密度があった。

 

「お前……」

「ち、違うって千冬姉! 少しセシリアと話してたんだよ! 遅くなったから、部屋まで送っていっただけだって!」

「ほう、エスコートか……同じ寮に居る人間を? お前はいつからそこまで紳士的な男になった?」

「そ、それは……」

 

 懐疑的な視線は最後まで変わらなかったが、よほど疲弊しているのか、魂まで吐き出しそうな溜め息をついて「まあいい」と自身の疑問を捨て置き、

 

「お前もさっさと寝ろ……これ以上くだらんバカ騒ぎを起こすようなら、拳で眠らせるからな……あのバカ共のように」

「こ、拳でって……どっちみち、そのつもり、だけど」

「なんだ? まだ何かあるのか……」

 

 私はさっさとビール飲んで寝たいんだ。と、表情が露骨に訴えるほどに、この姉を追い詰めた『何か』が気になってしょうがない一夏が、このことを千冬に尋ねると、

 

「……一夏」

「な、なにさ千冬姉」

「お前に、聞きたいことがある」

 

 あまりの負荷に鈍重になった頭を支えるように、前髪を掻き込みながら額を押さえ、千冬は一夏に向き直る。

 常に威風堂々と教師として、一人の大人としても自信と威厳に満ち溢れた立ち振る舞いを崩さない織斑千冬という女性には、あまりに似つかわしく無い精神的な『揺らぎ』を孕んだ――そんな声で、

 

「犬耳と首輪は……正しいのか?」

「……はぁ?」

 

 よく分からないことを、呟いた。

 

「犬耳と首輪は、教師の言い分よりも正しいのかと聞いているんだ」

「ご、ごめん千冬姉、分からない……お、俺、千冬姉が何を言いたいのか、サッパリ分からないよ」

 

 弟の顔色にマジな心配の色が浮かぶが、対して姉はその反応にフッと、どこか少しだけ安堵したかのように鼻を鳴らし、

 

「そうだな……間違っているのは、あのバカ共で……私と朴月は間違っていない……うむ、あぁ……安心したよ」

「は? キリ? なんで」

「スマンな、明日までには調子を戻しておく。今日の事は忘れろ、いいな?」

 

 チラホラ出るバカ共という単語や、なぜ唐突に姫燐の名前まで出てくるのか訳が分からず、混乱の極みにある弟の肩を叩き、千冬はそのままいつもの足取りで――本当に、ごくわずか、背筋が曲がっていた気がしたが――自分の部屋の方角へと消えていった。

 

「だ、大丈夫かな、千冬姉?」

 

 いかなる時でも鉄面皮を崩さない世界最強を、あそこまで追い詰めた『犬耳と首輪』という謎ワードに疑念は尽きなかったが……今は、一度頭からふり払わないといけない。

 なぜなら、

 

「……いや、俺も行かなきゃ」

 

 一夏はまだ、『彼女』を部屋に待たせたままなのだから。

 もう一度、気合を入れ直すように軽く手を開き閉じ、一夏も自分の部屋に向かって行った。

 

                ○●○

 

「ごめん。待たせたな」

「ううん、お帰り一夏」

 

 すっかり暗くなった室内で、簡素なスタンドランプに電源を入れながら、シャルルは一夏を出迎えた。

 薄ボンヤリとした黄色い明りは、真っ白な蛍光灯と比べて眼に優しく、消耗していないとは口が裂けても言えない一夏にとっては、なかなかに有難い。

 

「とりあえず、お茶とか淹れようか?」

「大丈夫、このままでいいよ」

 

 どこか観念したと言うか、重い肩の荷が降りたようなしおらしさで、シャルルはベッドにゆっくりと腰掛けた。

 一夏もまた無言で、それに向き合うように反対側のベッドに腰掛ける。

 対話するような姿勢になってもシャルルからは、もはや抵抗の意思は感じられず、とりあえず頭をグルグル駆け巡る数多の疑問の、何から聞こうかと考える一夏であったが、

 

「シャルロット」

「え?」

「シャルロット・デュノア……シャルルじゃなくて、これが、私の本当の名前」

 

 シャルロット。『私』の名前と言ったこの響きは、確かにシャルルよりも彼女のイメージにしっくり来るなと、一夏は思った。

 

「それじゃあやっぱり、シャル……シャルロットは」

「うん、ご覧の通り……私は正真正銘の女の子、だよ」

 

 ご覧の通りと言われて、確かに先程までと微妙に雰囲気が違う事に一夏は気付いた。

 後ろで束ねられていた金色のセミロングは解かれて肩にかかり、若干ヨレヨレになったジャージは胸元が少し開いていて――そこから、男子には決してありえない豊満な膨らみと谷間が背徳的な自己主張をしており……

 

(ますます、キリが好きそうな体型してるなぁ……)

「……やっぱり」

 

 ハッと、シャルロットの声に、彼女を前になぜか姫燐の趣向を考えていた自分がいる事に気付き、

 

「一夏って、結構エッチなんだね」

「へぁ!?」

 

 いつの間にか彼女の中で、自分の評価がとんでもない状態になっていた事に、心外な衝撃がそのまま声になって飛び出た。

 

「た、確かに分かってもらうために、胸を押さえていたサポーターを外しておいたのは私だけど……そ、そんなにジロジロ凝視しなくたって……」

「なっ!? 俺そんなにって……見てましたね……」

 

 恥じらうように眼を逸らし、ジッパーを上まで戻すシャルロットに、数秒前の行為を振りかえり顔色を青から赤へ器用に変色させながら、あたふたする一夏。

 

「あのDVDだって……好きなんでしょ?」

「DVDって」

 

 考えるまでも無く先程シャルロットに渡した、貰い物のDVDの事だろうと一夏は目星をつけた。中身は確認していないが、気の合う弾の持っていた物なら自分の趣味とも合うんじゃないかとなんとなく考え、

 

「そりゃ、そうだろうけど」

「やっぱり……ヘンタイ」

「なんでっ!?」

 

 ジトっとしたシャルロットの視線に貫かれながら、一夏は後であのDVD中身を確かめる決意を固めた。

 

「い、いや、胸を凝視したのは確かに悪かったけど……と、とりあえず、これはひとまず休題! 閑話休題!」

 

 それはそれとして脱線しかけた話題を元に戻すために一夏は「こほん」と一息入れ、様々な疑問より先に、まずシャルロットに確認しておきたいことを尋ねる事にした。

 

「それで、あれだけやって今更聞くのもだけど……喋ってくれるのか、シャルロット?」

 

 デュノア社が何を企んで、シャルロットをここに送ったのか。と、続けなくとも、聡明な彼女は一夏が言いたいことを汲んで理解していた。

 即答こそはしなかったモノの、シャルロットは重々しく口を開く。

 

「私も……父がやってることが正しいなんて、思って無いから……」

「……そっか」

 

 やっぱり、シャルロットは本心から皆を欺いていた訳じゃない事を、他ならぬ彼女の口から聞けて、一夏は少しだけ胸をなで下ろす。

 

「こちらの事情や経緯は、大体さっき一夏が言ってた通りだから、多分一番気になってると思う部分を最初に言っておくけれど……実は私も、父が何で私をここに送ったのかは、ハッキリとは分からないんだ」

「なっ」

 

 確かに一番気になっていた疑念をピシャリと言い当てられたことよりも、追って告げられた証言の方が、より強く一夏の眼を強張らせる。

 

「どうしてだよ!? そういうのって、えーっと、事前に目的は教えないと意味が無いんじゃないのか?」

 

 一夏の驚愕は当然であった。身分まで偽らせ、IS学園という国家機密で出来た化合物のような物のような地へ赴くのを命じるのだから、当然そこには隠された意図があるはずだ。

 だが、その意図をよりにもよって、現地で実際に活動する人間にまで秘匿してしまえば意味が無い。

 シャルロットも、一夏の疑念は当然だと認めるように、顔を申し訳なさそうに伏せて答える。

 

「父が私に命じたのは『世界で唯一の男性操縦者である、織斑一夏のデータを入手してこい』ってだけで……」

「で、でも、それなら何で、わざわざ男装なんてする必要があったんだよ?」

 

 やはり、自分もそこが一番納得しかねていると彼女も肯定するようにうなずき、

 

「私も、一夏のデータを手に入れてくるだけなら、世界を騙してまでIS学園に入るリスクを負う必要なんて感じなかったから、父に言ったんだけど……父は『お前は余計なことを考えず、私の言う通りにしていればいい』って」

「……そんなこと、言ったのかよ。実の親父さんが」

 

 その、人格を否定するような口ぶりに、家族を道具のように利用する冷徹さに、そして実の娘をこうして平然と傷付けるゲス野郎っぷりに、一夏は腹の底から熱いモノが脳天へ突き抜けていくような感覚を押さえられなかった。

 ベッドシーツを強く握り締める一夏の様子と反比例するように、シャルロットはそれが特に大したことでもない様に続ける。

 

「ああ、父の態度自体は、そんな、別にオカシイことじゃないんだ」

「え……?」

 

 こんな娘の意思を踏みにじるようなことを、然したることでもないと言い切ったシャルロットの微笑みは――

 

「だって私は……父の、愛人の子だから」

 

 ひどく、ぐしゃぐしゃに歪んでいるだけの仮面に見えた。

 

「私ね、二年前までは、母さんと二人で暮らしてたんだ。あんまり裕福だった訳じゃないけれど……幸せだったなぁ」

 

 それから、シャルロットは軽く自分の過去について話し始めた。

 文化の違いからくる軽いカルチャーショックぐらいはあったものの、シャルロットの思い出話は、おはようと言ってくれる人が居たことや、食事の時に会話が弾んだこと、学校であまり良くない成績を取ってしまった時に慰めてくれたことなど……あまりに、普通で、平凡で、それでいて――とても暖かな暮らしだった。

 しかし、そんな、陽だまりのように穏やかな暮らしは、ある日……

 

「本当に、突然だったんだ。母さんが……倒れたのは」

「………………」

「確かに母さんは身体も弱かったし、病気がちだったけど……それでも本当に、あんまりにも突然で……」

 

 二週間ほどの闘病も虚しく、余りにもあっけなくシャルロットの母は、この世を去った。あとに遺されたのは、一人ぼっちになった娘と、ぬくもりが消えてしまった家と、そして――彼女が、最後まで娘にも話さなかった、過去という名の呪いだけ。

 

「お葬式が一段落ついて、家でこれからどうすればいいんだろうって、独り落ち込んでた時だったんだ……父が、私の所に来たのは」

 

 私は、お前の父親だ。

お前は、私の娘になる。

これからは、お前が一人前に生きられるよう『教育』を施していく。

デュノアに引き取られてからの二年間で、父が自分にくれた言葉はその程度ぐらいしか無かったなぁと、シャルロットは自嘲気味に吐き捨てた。

 

「あとの思い出は全部、父が言ってた教育の事……政治の事とか、ISの事、話術や戦闘みたいな、人を傷付けたり、騙したり、陥れたりするような事を必死に覚えた記憶だけ……かな」

「そんな……それじゃ、まるで……まるで」

 

 やはり、聡明になってしまったシャルロットの頭は、一夏が思い浮かびながらも言い淀んでいる言葉も分かりきってしまっていて、

 

「うん、道具。『僕』はね、デュノア社が造った、都合のいい道具なんだよ」

 

 ホント、実験動物と大して変わらないねと、シャルロットは眼を伏せて、

 

「父さんが何を考えていても結局のところ、私をシャルルにしたのは、女よりも男のほうが会社に得があったから……きっと、それだけなんだろうなって思ってる」

 

 冷徹で達観した結果論を、さも当然のように弾き出した。

 

「さ、私の話はこれでお終いかな……他に聞きたいこと、ある?」

「…………ああ、一つだけある」

 

 大体の疑問は氷解したが、まだ一つだけ聞きたいことはあった。いや、織斑一夏は、

 

「それで、お前はこれからどうするんだ?」

 

 随分な遠回りをしたが、ふと思えば、一夏が滾らせていたシャルル――シャルロット・デュノアへの執着は、全てこの一言のためにあった気がした。

 

「……私は、」

 

 聡明な彼女には、目の前の少年が差し伸べてくれている、救いが見えていた。

一瞬の自問が走る。

 あとは彼に全てを委ねれば、この歪んだ学園生活は終わる。。

 もう全て吐き出してしまってもいいんじゃないか。

身勝手に押し付けられた秘密を、これ以上頑なに守り続ける必要なんてどこにあるんだろうか。

 一瞬の自問に――自答が返る。声に出る。

 

「『僕』は、これからも、シャルルを続ける」

 

 全て捨てる決意が何度背を叩こうとも、シャルロットを縛る――いや、彼女がしがみ続けている訳が、ぽろぽろと口元からこぼれ落ちた。

 

「僕はね、一夏。きっと、とても弱い人間なんだって思う」

 

 彼女の選択は――単純な自己防衛だった。

母という全てを失ってから抜け殻となった心体からは、最低限の水やパンすら摂取しようという思考すら枯れ果てて――当然の帰結として、死を肌に感じるほどに衰弱しようとも、孤独に虫食まれた意識は、あっさりと全てを受け入れる準備すら始めていた。

 

「怖いんだ……誰も、私の家族が居ないことが。自分が一人ぼっちだって思い知らされることが……私には、自分がどんな目に合う事よりも、きっと……死ぬよりも、何よりも怖い」

 

そんな壊れ枯れるだけだった自分に、新しい何かを差し出してくれた人が居る。

その人は、決して正しくなく、決して胸を張れるような人物でもなく、母を捨てたという、決して許してはならない罪を背負った男であったが――彼は私の家族になってくれると、囁いた。

 独りぼっちは嫌だ。独りじゃ生きていけない。誰でもいい。私の家族でいてくれるなら。

 だから、使い捨ての道具でも構わない。

父が、私の父で居てくれる限り、私に『生きる意味』を与え続けてくれている限り、

 

「だから僕は、シャルル・デュノアとして生きる。父さんが、僕の父さんで居てくれる限り、これまでも、これからも」

 

 ごめんね。そして、ありがとう。と、最後に柔らかく、感謝と決別を残した。

 

「……そっか」

 

シャルル・デュノアとして生きるということ。それは、彼女がこれからもデュノア社のために活動を続けると公言しているのだと、一夏でも理解できた。

 正真正銘、もう織斑一夏には、打つ手が無い。この手は彼女の生き方を変えられない。

 罪人が罪を認めた以上、執行者は引導を叩きつけなければならない。

――けれど、

 

(それで納得、出来るかよ)

 

 けれど、同時に一夏はこうも思っていた。

 なぜ、彼女が裁かれなければならないのだと。

彼女は――シャルロットは、救われないといけない、と。

 間違っているのかもしれない。矛盾しているかもしれない。ガキなのかもしれない。

けれども、一夏はこれっぽっちも納得していなかった。

 あたり前な孤独に怯え、高慢で自分勝手な親のせいで不幸になる女の子の存在なんて、認めたくないし、納得なら尚更できるはずがない。結局の所、どれだけ小難しい理屈が立ち並ぼうとも、そういう性根なのだ。織斑一夏という、このお人好しの天然ジゴロは。

 だから――一夏はもう一度、姫燐の顔を思い浮かべる。

 姫燐の面影を思いだして、その唇から紡がれる、彼女の必殺技を、思い浮かべた。

 

「なぁ、シャルロット」

 

 俯き、何も答える事が出来ないシャルロットの手を、一夏は取る。

 真っ直ぐに訴えかける織斑一夏のやり方では、彼女は救えない。

 ならば今は、この局面は、彼女のやり方を借りる。

 

「だったら俺と、取引をしないか?」

「とり……ひき?」

 

 駆け引きなんてサッパリ分からない。

 だから、一夏は取引の条件だけを、一方的に叩きつけた。

 

「まず俺は、お前のこれからの学園生活を全力でサポートする」

「なっ」

「当然、お前が女だって事も黙ってるし、セシリアも……こっちでなんとか皆に黙ってるよう説得しておく!」

「ちょぇ!?」

「ついでにデータも渡す! というか、取り方とか分からないから、勝手に持ってけ!」

「えええっ!?」

「誰かに渡すなとか言われたこと無いし、ぶっちゃけた話、俺は俺のデータなんてどうでもいいしな! 人様に見せて恥ずかしい部分なんて……一般常識の範囲では全く無いッ!」

 

 シャルロットの思考を弾きだすカリキュレーターが、余りにもバグだらけな男の提案にエラーを起こして煙が上がる。

 訳が分からない。そんな事をするメリットは? あそこまで自分の正体に執着していたのに? データまでくれる? 世界すら覆す可能性をどうでもいい?

 札束で顔を叩かれるどころか、投石機で金塊を丸ごと投げつけられるような衝撃的メリットが、早速、交渉という体を崩壊させかけているが、それでも一夏は気にせず、

 

「当然、お前にも相応に俺の要求に従ってもらうぞ」

「要求……って」

 

 破格なんてもんじゃない条件に要求される対価に、シャルロットは一瞬だけ息を呑むが、

 

「お前はこれから、俺の『強くなる』って夢を、出来る限り一緒に手伝ってくれ!」

 

 もう何処からツッコめば良いのか分からないほどフワッとしすぎていて、意識まで軽くフワッと持って行かれかけた。

 

「い……一夏……? それって何の」

「俺は本気だぞ!」

 

 軽く頭をかすめた「冗談」という可能性すら、胸を張って否定さた。

 本気だ。本気でこの男は、私を見逃して、更に全面的に協力すると公言している。

 

「な、何を考えてるの……? わ、私に協力するってことは」

「んー、確かに、俺のデータを外部に流出させるのは問題かもしれないけど……」

 

 違う、そうじゃない。いや、違わなくないけど、一杯ありすぎる聞きたいことの一つをシャルルはとりあえず傾聴する。

 

「なんかさ、俺の身体って本当によく分からないらしいんだよ」

「そ、そんなに特別なの?」

「いいや逆だよ、普通すぎるんだとさ」

 

 身体測定、採血、レントゲン、DNA鑑定、IS適正検査、その他、人には言いづらい部分まで諸々――学校行事でよくやるような事から、初めて見るような機材で測定するような様々なチェックを一夏は入学前に、政府の機関で一通り受けていた。

 そして結果はどれもこれも、ただ一言。

 

――一般的かつ、模範的な成人男性の健康体です。

 

 故に、織斑一夏の身体データは、知らない人間にとってこそ未開の金脈だが、実際は既に掘り尽くされた意味を持たない空洞であり、今となっては関係者達の間では、一夏を狙う輩を引き寄せるための絶好の餌にすぎなかった。

だから、迂闊にこの事は口にするな。と、姉から言われた一夏の口から直接聞かされ、危うく餌に引っかかり、バレてさえいなければ明日からでも本格的に一夏の身体データも漁ってみようと考えていたシャルロットの背中に寒気が走る。

 

「ISも、最初に触ったのが特別って訳じゃなくて、どれでも動かせるしな」

「本当に、僕達のような普通の適合者となんにも変わらないんだね」

 

 つまり、専用機にも特別な仕掛けが施されている訳でも無い。

 それは同時に、現状観測できるデータでは、織斑一夏の身体の謎を解くことが出来ないことを意味していた。

 ならば、自分の任務には何の意味もないのではないかという、シャルロットの危惧も、一夏は既に見越していた。

 

「だからさ、好きなだけ持って行けよ。お前の任務は、『俺のデータを持ってくる』ことなんだろ? 一気に全部じゃなくて、こう、卒業まで小分けにしてさ」

「あっ……そう、か」

 

 そうなのだ。あくまで彼女に課せられた命令は、彼のデータを送り続ける事だけ。

 そのデータの価値は、向こうが判断することなのだ。求めていたデータを送られ、そのデータが意味のないモノだったとしても、任務を忠実に果たしただけのシャルロットには関係のないことである。

 

「確かに今は命令に従うしかないかもしれないけど、こうやって少しずつ成果を出していけばさ、親父さんもお前のことをもっと大切に思ってくれたり……までは、都合良すぎかもしれないけど」

 

――彼……私が思っているよりも、ずっとずっと、色々考えてる。

 

 今まで、ただ勢い任せで生きているだけの若者だと少なからず思っていた織斑一夏への認識を、ここに来てシャルロットは大きく変えざる得なかった。

 ならば、このことについても、当然考えているだろう。

 

「じゃあ……」

「ん?」

「じゃあ、ね。もし私の任務が急に変わって、それが、私が一夏や、この学園のみんなを傷付けるような任務だったら……?」

 

 彼女に投げかけられたIFに対する答え。

それは既に一夏の胸に強く、何よりも燃えたぎる『夢』という名で刻まれている。

 

「その時は、迷わず大切な人を護るために戦うさ。でも、シャルロット」

「…………?」

「もしその時が来ても俺は、お前も一緒に護ってみせる。お前が俺に銃を向けても、誰がお前を責めようと関係あるもんか、俺がそうしたいって思ってるんだからな」

 

 それは、今日投げかけられたどの言葉よりも予期していなかった、余りにも貫くような暖かさに溢れた言葉で、

 

「な、なんで……どうし、て……? 言ってること、理論的じゃないし、無茶苦茶で、むじゅん、まみれだよ……」

 

 優しくて、嬉しくて、泣きだしてしまいそうなのに、それでもぬくもりの裏を探してしまう、ちっぽけで卑屈な彼女の猜疑心すら、

 

「だって俺、お前のこと結構好きだからさ」

「………………へえぁ!?」

 

 木端微塵に吹き飛ばすレベルの爆弾発言を紡ぎ出した。

 当然、この自分の名前の類義語に「唐変木」がある男に、そっちのケはサッパリ無い。

 

「確かに始めは……自分でもよく分からない内に、なんとなく気にいらなかったけど、こうやって話を聞いて、向き合って、色々とお前の事を知って、思ったんだ」

「で、でも、だからって、そんな、いきなり。わ、私達、まだ出会って本当に……」

「俺達、きっと良い友達になれるんじゃないか、ってさ」

「こんな展開、ダメだよ不健ぜ…………友達?」

「ああ、友達だ。そりゃ、お互いの全部が分かったわけじゃないけどさ。でも、俺はお前との出会いを、不幸になんかしたくないんだ」

「…………大丈夫、私も一夏のこと、今ので少し分かったから」

「そうかっ。って、え、今ので?」

 

 男と女としては、絶対に簡単に気を許しちゃいけないタイプだとは確信しながらも同時に、

 

「一夏は、さ」

「うん?」

「家族のことは、好き?」

「ああ、大好きだ」

 

 きっと私は、彼と良い友人になれるだろう。そう、シャルロットも素直に思えた。

 これは一時の幻なのかもしれない。

ただの甘えなのかもしれない。

問題からの逃避なのかもしれない。

 それでも、私は――

 

「なら――これから私たちは『協力者』だね」

「えっ?」

 

――もう少しだけ、私に友達との出会いをくれた、この学園に居たい。

 誰の命令でもない、恐怖心からでもない、私自身の願いで。

 

「一夏は、私の学園生活をサポートしてくれる。そして、私は一夏が強くなるための手伝いをする。これって、私達が互いに協力者になったってことだよね?」

「そ、そりゃ、それに近くはなる……けど」

「だったら、うん、取引は成立だよ」

 

 互いに了承を得て、円満に終わったように見えた交渉は、

 

「これで私達は協力者同士。これからよろしくね、いち」

「ちょ、待った! 待ってくれ!!!」

 

 今まで殆ど一方的に条件を叩きつけてきただけだった、持ち掛け人の一声で延長戦にもつれ込んだ。

 

「な、何か私、間違ったこと言っちゃった?」

「い、いや間違っちゃいない。間違っちゃいないんだけど……」

 

 急に大声を上げて立ち上がったかと思えば、訳をたずねた途端に髪を掻き毟り、言葉を探すように右に左にウロチョロし始めた男子の奇行に、頭上に疑問符が飛び交うシャルロット。

 そして、足は止まったモノの相当の難産だったのか、絞り出すように眉間にシワを寄せながら一夏は、

 

「その、だな……『協力者』ってのは、ちょっとやめないか?」

「え、そこなの」

 

 まさか過ぎる一夏の葛藤に、素が飛びだすシャルロット。

 

「じゅ、重要なことなんだよ! とても! すごく!」

 

 顔を赤らめながら小学生並みの語彙で力説する姿から、冗談で言ってる訳ではない事だけは分かったシャルロットだったが、やはりそのこだわりが謎すぎることは変わりない。

 

「えええ……」

 

 当のシャルロットからすれば、

 

――アイツと出会って初日に誓ったんだよ。お互いが、お互いの夢を叶える協力者になるってな。

――へぇ。なんだか、カッコいいね。

 

 先程の姫燐とのやり取りで頭に残っていた単語を、ただ何となく選んだだけなのだが……そういえば、彼女が協力関係を取りつけた存在は、目の前の男子であった事を思い出し、

 

「…………え、まさか、ここ? ここに繋がるの?」

「な、なんだよ」

「うん? あー、つまりこれって、協力者は二人だけの特別なー的な、そういうこと? で、男の子な私と、姫燐が親しくしてたから、いやむしろ私が女の子だから余計に?」

「な、何でそこでキリの名前が出てくるんだよ!?」

「しかも自覚無しッ!?」

「な、何なんだよさっきから! 本当に訳わかんねぇことばっかり!」

 

 そう考えれば全てが納得いくのだ。

 なぜ、何もしてないのに私はあれだけ一夏に嫌われていたのか?

 最初こそ、二人目の男性操縦者の存在を疎んでいるのかと考えていたが、こうして腹を割って話してみれば、織斑一夏という青年はそんなタイプでは絶対にないと断言できた――からこそ、余計に分からなくなっていたのだが、こうしてネタが割れてみれば説明は3行すら必要なく、

 

「あぁ、青春だなぁ……」

「な、ん、で、ニヤニヤしてるんだよ!」

 

照れ隠しの怒声もハハハこの純情めと、若干疲れ気味とはいえ微笑む余裕が産まれ……なんとなく、これは、特に恨んでいる訳ではないのだが、今まで散々振り回された仕返しに使え――いやそんな野蛮な言葉じゃなくて、ちょっとした仲直りの握手的な、フレンドリーなやり取りをしたいと……

 

「ふ、ふふ、ふふふ」

「シャ、シャルロッ……ト?」

「んー、なぁーに? 一夏?」

 

 シャルロットの笑顔が、どこか赤い髪をした協力者にそっくりな、あの「いま私はロクでもないことを考えていますよ」な顔に、形を変えた。

 

「確かに、一夏はもう姫燐と協力者同士なんだから、私とは協力者になれないよねぇ」

「なっ、なんでその事をッ!!?」

 

 相手の期待以上にオーバーに驚くのは、猫の前で猫じゃらしをフリフリするようなものだと気付いていない男の反応は、更に悪い子猫の被虐心を煽っていき、

 

「なんでって、姫燐から聞いたんだよ? 教えてくれたんだ、『私だけ特別』にって」

「なっ、なっ、なっ!」

「お互いの夢を叶えるって約束かぁ、ロマンチックだよねぇ。あ、大丈夫だよ? 内容も聞いてるけど、黙ってて欲しいってお願いされてるから」

「じゃ、じゃあキリが、その、あの」

「ああ、女の子が好きなんだよね? ライクじゃなくてラブな意味で」

「そ、そんなことまで、お前に喋ってるのかキリは……?」

 

 ワザとらしすぎる程に盛った話にも気付かないほどの動揺と狼狽が手に取るように分かり、どのようにしても期待通りの反応が返って来そうだからこそ、長くもっと楽しく転がせられるように。話題と手札と自然さを、シャルロットは天秤にかけて口を開く。

 

「これから、私は僕として暮らしていくけれど」

「そ、そそそそうだな、俺もそれの手伝いを」

「僕、姫燐ともっと『お近づき』になりたいんだよねぇ」

「すうぇ!?」

「あっ、特に深い意味は無いんだよ? でも、姫燐みたいな子と一緒だったら、毎日が楽しそうだろうなぁって思って――そうだ。いっそ、僕も姫燐の恋人に立候補」

 

「駄目だっ!!!」

 

 反射的に飛び出た否定。

 それは今日、織斑一夏が口にしたことの中で、間違いなく一番反射的で、一番大きく、そして一番――

 

「ダメ? どうして? それって、おかしくないかな?」

 

 矛盾を孕んだ、一言だった。

 

「確かに僕は、これから男の子としてこの学園で暮らしていくけど」

 

 また、胸元を少しだけ見せるように、無意識に叫んでしまった彼の矛盾を見せつけるように、上着のジッパーを下ろし、充分なサイズがある胸元を晒して、

 

「私は、女の子なんだよ? なんで、姫燐の好きな人候補になっちゃダメなの?」

「……そ、それは、いや、だって……」

 

 デュノア社のスパイだから。いつバレるか分からないから。その気になれば、いつでも退学に追い込めるから。

 いくらでも出てくる合理的な言葉や、効果的な脅し文句も、意味を成さない。

 そこではないからだ。今、一夏が口にしてしまった言葉の、おかしさの本質は。

 それに自分で気付いてしまった以上、彼は何も言えない。何もしゃべれない。何も、考えられない。

 

「一夏は、姫燐の恋人探しを手伝うって約束したんだよね? でも、私が彼女になろうとするのは絶対にダメだって言う……これって、何故だろうね?」

「お、お前には関係ないだろっ!」

「ううん、ある。だって僕達はもう、取引を結んだんだよ? だから、さっそく私から最初のアドバイス」

 

 フッと、浮ついていた言葉はいつの間にか、強い確信を乗せた重い力強さを乗せて、

 

「もしこの『何故』に気付けたら、一夏は、誰にも負けないぐらいに強くなれる」

「俺が……誰にも、負けないぐらいに……?」

「うん、だって今の一夏、それぐらい他の事なんてどうでもよさそうだし。ついでに、今の戸惑いだって、きっと全部、スッキリすると思うから」

 

 次に一夏から帰って来るだろう言葉は既に分かっていたから、話はここまでとシャルロットは席を立って身体を伸ばす。

 

「でも、誰かに聞いちゃダメだよ? これは自分で気付かないと意味が無いから」

「お、お前まで、俺のダチと同じことを言うのか?」

「そうなの? まぁ、それぐらい、今の一夏には大切ってこと。このままじゃ、どんな結果になっても後悔しそうだし」

「俺が……後悔する、だって?」

「んー、いきなり言い過ぎちゃったかな? とりあえず今は、焦るほど急なことじゃないけどね」

 

 同じ日に、全く同じ忠告を受けた偶然。

いや、これは偶然なのか? このままだと、なぜ俺は後悔するんだ? その理由も、この『何故』さえ分かれば答えが出るのか?

一夏は急激に重さを増した頭が支え切れなくなったように、ベッドへと座りこむ。

 

「いきなり随分な宿題、だな。シャルロット……」

「ふふ、頑張ってね一夏――あ、そうだ」

 

 ポン、と自分の名前を言われ、一夏の名前を呼び返して、あるアイデアが浮かぶ。

 

「『協力者』がダメなら、せめてシャルって呼んでよ」

「シャル?」

「うん、シャルならシャルルでもシャルロットでも、どっちでも同じように呼べるし、呼び方がゴチャゴチャだといつかボロ出しそうだし」

「ぐっ」

 

 まったくもって、いつかやりそうだと自分でも思うため、少し屈辱だとは思いつつも、一夏は有難くその提案を呑ませてもらう事にした。

 

「じゃあ一夏、私さきにシャワー浴びていいかな? 今日は色々と、汗かいちゃった」

「ああ、分かった。タオルは洗面所に置いてあるの好きに使ってくれ、シャル」

 

 ありがとう、と奥の洗面所にシャルの姿が消えていくのを目で追ってから、一夏はさっそく宿題のことについて、目を閉じ自問自答を繰り返す。

 俺達は誓い合った。あの日、互いの夢を支え続ける『協力者』同士になることを。

 なのに彼女の夢を、どこかで否定している自分が居る。

 幸せになって欲しい。それだけは、絶対に間違いないのに……。

 色々と、堂々巡りを繰り返していた思考が、一番最初に弾きだした答えは、

 

「…………お腹すいたな」

 

 実に単純な、生理現象についてのことだった。

 今日は一日中、頭も身体も使い倒していたことや、ずっと張り詰めていた気が緩んだ事もあってか、お腹は即座に補給を訴えてきた。

 腹が減っては、戦は出来ぬ。宿題も大切だが、基本的な人間としての生活も疎かにしていい訳が無い。

 お腹が空いていては、きっと良い答えも出ないだろうと一夏は宿題を一端打ち切り、頭を主婦モードに切り替えた。

 とりあえず食堂はもう遅いし自分で作るとして、今日からはシャルの分まで作らないといけないから、二人分作れるかどうか食材をチェックして、そういえば生理用品もこれから二人分必要になるんだよな――と、明らかにルームメイトとしての枠を超えたプランが、宿題とは対照的にスラスラと走り抜けていき、

 

「あ、しまった。風呂場のシャンプー切らしたまんまだったな」

 

 と、思いついたままフラフラ洗面所の扉を開くと、作業反射的に脱衣所にあった服や下着を洗濯機へと放り込み、買い置きしておいたシャンプーの替えパックを手に取って、

 

「悪いシャルー、シャンプー切らしてたんだった。これ替え……」

 

 ごく当たり前のように、風呂場の扉を開いた……シャルロットが--女の子が、シャワーを浴びている、真っ最中に。

 水滴したたるショートブロンド、湯気のベールだけを纏う男装には余りにも不向きな発育を遂げた肢体、湯を浴びて紅潮していた頬は今にも発火しそうな程に赤信号。

 そんな一糸まとわぬシャルの姿を直視してしまった一夏は、溜め息のようにこう呟いた。

 

「……あ、女だったなそういえぼぁ」

 

――強さとか以前に、まずは異性に対する最低限のデリカシーから身に着けさせた方が良いのかなぁ……?

 

 シャワーから上がったシャルは、ボコボコに変形した風呂桶を捨て、これから始まる共同生活に果てしない不安を抱きながらタオルを手に取った。

 

                  ○●○

 

「ふぅん、一夏の専用機――白式だよね。って、他の武器を積む容量がないの?」

「そぶだな」

 

 翌日、昼休みの屋上。

 喋り辛いので顔に張り付けたガーゼと包帯を外しながら、一夏は頷く。

 さっそく強くなるために、一夏は前々から気になっていた自分の愛機の大きな欠点である、『近接武装しか積まれていない』点について、技術者視点からの意見を聞きたいとシャルへと相談を持ち込んでいたのだ。

人目に付きやすい教室や食堂を避け、一夏が作った二人分の弁当片手にやって来たいつもの屋上は、外で食べるのも悪くないと思わせるほどに快晴であったが、

 

「それは……少し、変だね」

 

 反面、相談を受けたシャルの表情は、疑問に曇る。

 

「だよなぁ、いくらなんでも雪片弐型だけしか積んでないっていうのは」

「ちょっと違うかな。それ自体は、試作機なら珍しくないよ」

「え、そうなのか?」

「うん、試作、だからね。普通の量産型じゃ積まないようなオーバースペックな武装や、戦況においた臨機応変さなんて考えないことは、いつものことなんだけど……」

 

 シャルは、渡された自分の分の弁当箱を広げ、軽くお箸の先で、その中身を指しながら、

 

「でも、普通はこの弁当箱みたいに、全部空にすれば……あ、すごい。美味しそ……じゃなくて、他の武装を積む事だって出来る筈なんだよ」

「言われてみれば、そうだよな」

 

 今まで千冬と同じ武器を扱える高揚感からスッカリ失念していたが、当然、武器は他にもいくらでもあるのだ。

 確かに千冬は、これ一本で世界を制した。

 しかし、自分は姉とは違う凡才の身。同じ道具を使うだけで、自分もその高みまで昇りつめられるかと問われれば、凡才だろうと考えるまでもない。

 雪片に拘るのは、自分がもっと強くなってからでも遅くは無いはずだ。

 

「じゃあ、雪片を外せば他の武器も白式で使えるのか?」

「うん。初心者ならもっと使いやすい近接武装が沢山あるんだから、雪片を外してそれらをインストールすれば良いんだけど……ちょっと一夏、こっち来てIS見せて貰ってもいいかな?」

「おう」

 

 言われた通りにシャルの横に座り、自分の腕にはめられた、白い腕輪――待機形態の白式を差し出す一夏。

 

「一度しっかりとアームズ・ボックスのキャパシティを確認したいから、コンソールを起動して、メンテナンスモードにチェンジしてくれないかな。そこからデータさえ見つけられれば、こちらのISにコンバートして詳しく分析できるから……」

「…………?」

「……白式のお弁当に、どんな食材を使ってるのか知りたいから、僕の台所に持って行くために、そのお弁当箱を開いて欲しいんだ」

「な、なるほど! 分かったぜ、シャル」

 

 ああ、クラスのみんなが前に言ってたけど、本当にド素人なんだね……と、シャルは、「分かりやすいなー」と能天気に笑う横顔を見て、思わず溜め息が出かけたが、

 

「で、メンテナンスモードってどうやるんだ?」

 

 結局、軽く頭を抱えながら遠慮なく溜め息を吐き出した。

 

「そ、その、なんかごめんな?」

「うん……仕方ないよね……ここに来るまでは、普通の学生だったんだし……分かってはいるんだけど……」

 

 業界にとって世界的に有名な人物であるため、勝手な幻想を抱いていた自分が悪いのだとは分かっていても、

 

(本当にこの人……これで中国の代表候補生に1対1で勝ったの……?)

 

ISに触って僅か数か月で、これほどの成果を叩きだした逸材の口から、ここまでド素人丸出しの反応が返って来て失望するなと、シャルを責めるのも酷ではあった。

 この噂が真実ならば間違いなくこの目の前の能天気は、かのブリュンヒルデの一族であると納得出来るが……今は、考えるのは後回しにしようとシャルは割り切り、1からメンテナンスモードを開く方法を教えていく。

 

「そんな難しくないから覚えておいて、まずは……」

「ふむ――あ、いつも通り念じるだけでいいんだな?」

 

 教えると言っても、ISの操作は内部データの開示であっても思考一つで可能であるため、簡単な単語を念じるように教えるだけでスラスラと開くことが出来る。

 そう、あえて一夏用マニュアルに置き換えて言うならば、弁当箱を開くだけなら、誰でも出来るのだ。

 だが――

 

「……ダメだ、お手上げ」

「えっ!?」

 

 その中にある食材に、何を使われているかどうかを判断できるかは別問題である。

 一夏がメンテナンスモードを命じた瞬間、腕輪から出てきた空間スクリーンに表示された文字列の記号をザッと見て、シャルは速攻で匙を投げざる得なかった。

 

「分からない。一体、どんなプログラミングで動いてるの、このIS? 現在流通してるどの国のOSとも当てはまらないし、類似性もない上に、何語で構築されてるのかまでサッパリだ」

「つ、つまり……?」

「完全なブラックボックス。中身が全く分からないから、雪片っていう惣菜を取り除くことも――いや、どれが雪片なのかすら分からないから、換装は勿論、基本的なメンテナンスすら出来そうにないってこと」

「基本的な手入れも出来ないって、それ相当不味いんじゃ」

「当然、試作機としても論外だよ。ISだって機械なんだ、メンテナンス無しで長いあいだ動かしていたら必ずどこかに不調が出る」

 

 だからこそISにもメンテナンスモードが存在し、一般的な規格に沿ったチューニングを施すためにも、試作機だろうが一切他人が手を付けられないブラックボックスであっていいはずがないのだが、

 

「だけど……」

 

 そんな闇鍋状態のソースコードの羅列に、一つだけ。

 まるで、お前らはこれだけ読めれば良いとでも言いたいように、その一文は綴られていた。

 

「『ジークフリート・ギフテッド』……?」

「ジーク……なんだって? シャル、知ってるのか」

「ううん、僕も分からない。何かのシステム名? ジークフリートって、どこかで聞いた事はあるんだけど……」

「ジークフリートっていや、『ニーベルゲンの歌』に出てくる、龍殺しの大英雄の名前じゃねぇか」

「そうそう、それだよ! 一夏詳しいね」

「え、今の俺じゃなくて」

「すまない……オレなんだな、これが」

「へ? うわぁ!?」

 

 背後から、音すら立てずにシャルの肩を抱くと、軽く抱き寄せながら声の主はもたれかかって来た。

 

「おうおう、昼飯時に二人して居なくなったと思ったらISの解析とか、なんか面白かっこいいことしてるじゃねーか? オレも混ぜろよ」

「キリっ!?」

「朴月さん!? どうしてここに!?」

「おおっと、勘違いしないでくれよシャルル? オレは別に、教室に居場所がねぇとか、ルームメイトが怖いだとか、ていうかクラスメイト全員怖いだとか……そういう訳じゃないからな断じて」

 

 と、聞いてもいない事を念入りに押しながら、一夏の弁当箱から卵焼きをつまみ食いしつつ、姫燐は改めて白式から映るコンソールを眺めた。

 

「んぐんぐ、ジークフリートは龍を殺した時に、その血を浴びて不死になったからな。そんな奴の贈り物ってことは……つまり、パイロットにも機体にも効果がある、ジークフリートじみた自動再生システムって所か?」

「どうして、そこまで分かるの?」

「オレとしても、原理はサッパリ分からんが、こいつがイケメンなのが何よりの証拠って奴かな」

 

 コイツ呼ばわりされた本人は、イケメンと姫燐に断言され、少しこそばゆさを感じて指で頬を掻き――

 

「あ、そうか」

 

 昨日、デリカシー欠落のツケで顔に負った打撲が、いつの間にか完治していることに気付いた。

 

「そ、お前、昨日『風呂場ですっ転んだ』から包帯巻いてたほどの傷、もう治ってるじゃねぇか。それにソイツの機体、今までどんだけ激しい戦闘しても、一度もメンテ出してるとこ見たことね―んだもん。そんなもんが付いてるなら納得だよな、一夏?」

「言われてみれば……いつの間にか、勝手に直ってるよな白式も、俺の傷も」

 

「便利だよな―、オレの身体もISはまだ治んねーのによ」と、しかめっ面をして右腕のギブスで一夏を小突く姫燐とは対照的に、シャルは余りに常識を逸脱しすぎているシステムの存在に驚愕を隠せない。

 

「む、無茶苦茶だよ! こんなシステム、作れる人間なんて居る筈が……」

「もー一つ、英雄豆知識。ジークフリートにはな、実は嫁さんが居るんだよ」

「お、お嫁さん?」

 

 いきなりの英雄雑学で待ったをかけられ、余計に迷走しかけたシャルの意識は、

 

「そのお嫁さんの名前はな……ブリュンヒルデ、って言うんだぜ?」

 

 その豆知識によって、一瞬にしてある可能性へと導かれていく。

 

「ブリュンヒルデって、それ、織斑千冬先生の……」

「千冬姉の、二つ名」

「後は簡単だ、あのブリュンヒルデ様の婿って間接的に名乗れるぐらい親しくて、ISに誰よりも詳しい人間なんて、この世に一人だろ?」

 

 流通しているどの企業のOSすら当てはまらないISを作れる人間が居るとしたら……? こうしてみると、考えるまでもない事であった。

 そもそも、数多の研究者を抱える企業以上に、ISのことを熟知している人間なんて、

 

「篠ノ之……博士」

 

 ISを作り出した人間以外に、居る筈もないのだから。

 

「あはは……そうだな、あの人なら確かに出来かねないし、やりかねない――っていうか、出来てやってるのか、実際にこうやって」

「IS設計者の篠ノ之博士と織斑先生が親友同士であるっていうのはテレビとかでもよくやるぐらい、有名な話だしな。なんか、このネーミングセンス見る限りは、すっげぇ情熱的な人みたいだけど」

「ということは白式って、篠ノ之博士のオーダーメイドなのっ!?」

 

 自分が気軽に解析しようとしていた一品が、とんでもない大人物が直々に作り出した逸品だったことに気付き、決して図太いとは言えないシャルの小市民的メンタルの揺れが、彼女の膝へとダイレクトに振動を伝える。

 そんなシャルの姿は、

 

「……そうそう、オレは本来こっち側。受けはキャラじゃない、犬耳と首輪は似合わない。オーケーオーケー……」

「キ、キリ?」

 

 最近崩壊しかけていた何かを姫燐の中に蘇らせ、ぶつぶつウンウンと納得し、

 

「あーもぅ、本当に可愛いなぁお前はよぉー!」

「わぶっ!?」

「なっ!?」

 

 今度はシャルルの背中へと、完全に覆いかぶさるように抱きついた。

 

「わととっ! あ、危ないじゃない朴月さん! お弁当、膝に置いてるんだよ?」

「おっと、悪い悪い。シャルルが子犬……子猫のように、可愛らしーく震えてるもんだからついつい」

 

 謎の訂正を加えながらも、シャルの背中から離れようとはせず、

 

「不安なら、お姉さんの胸で甘えてみるかぁ? うりうりー」

「もーっ、くすぐったいよ朴月さんってば」

「はぁぁぁ……癒される……草食な反応が、こうスゥーっと患部に……」

 

 ギブスを撒いた左手を気にしながらも、更に密接にコミュニケーションを図っていく。シャルも少しだけ困り顔ではあるが、まんざらでも無いためそれを甘んじて受け入れた。

 傍から見れば、仲の良い姉妹とも思えるぐらいの距離感だ。

 だが、その余りに和気あいあいとしたシャル達の反応は、

 

(違う、それは男として間違ってるぞシャル!)

 

 明らかに思春期を謳歌する健全な男子として、異端であった。

こればっかりは鈍い一夏でもわかる。なぜなら昔、自分は彼女にまったく同じことをされて、完全に平静を保てなくなった結果、弱味まで握られ、行きの電車代を取られたのだ。

男としての反応以外にも、もう一つ急を要する問題点がある。

それは、シャルの体型をシャルルへと矯正するためのサポーターの存在だ。

外見からは骨格すらも誤魔化すぐらいに精巧に出来ているため分かり辛いが、流石にあの距離でベタベタされると話は別だ。いずれ必ず、地肌とは違う異物の感覚に気付くだろう。

 今は、なんだか死地から生還して家族と再会できた兵士のように、うっすら涙すら浮かべながらもシャルを堪能しているが、鋭い彼女がいつこれらの違和感に気付くか分からない。

 

(ここは……無理やりにでも、やるしかない!)

 

 手段を選ぶ余裕、時間、全てが足りず、心の中で姫燐に何度も謝りながら、一夏は彼女に対する切り札を切った。

 

「なぁ、姫燐!」

「あん?」

 

 姫燐がこちらを見やるのすら確認せず、一夏は大声と共に立ち上がると、ボタンを外し、上着を捨て、中のカッターシャツも脱ぎ、

 

「今日は、なんだか、すごく、暑いなッ!」

 

 最後に、中のTシャツも脱ぎ棄て、その逞しい胸板を外気に、彼女の視線に、堂々と晒した。

 勢いの良い啖呵が通り過ぎた後に残ったのは、静寂。

 風の音に、軽い喧騒、小鳥のさえずりと言った環境音だけが、しばらく3人だけの屋上を支配する。

 

「…………なにしてるの一夏」

「いや、何してるって……」

 

 ようやく、事態を呑みこめたシャルの質問に、一夏は何も言えずに立ちすくむ。

 服を脱いで、女性二人の前に裸体をさらけ出した。

 完全に露出狂の変態アクションであるこれを、どうすればシャルに納得してもらえるか、一切考えて無かったからだ。

 

「……この国の男の人って、暑くなったら女性の前でも脱ぐの? 違うよね? こんな時、僕は織斑先生に通ほ、相談すればいいのかな? ねぇ、一夏。なにか言ったらどうなんだい?」

 

 シャルの中の、自分への株が急転直下で暴落していく視線に耐えられず、一夏は縋るように本来見せつける予定だった相手を泳ぐ目で探し、

 

――あれ、キリは?

 

 バタァン!

 と、シャルにピッタリ張り付いていたはず人間を『探さないといけない』違和感に一夏が気付いたのと、背後にある屋上の扉が激しい音を立てて閉じられたのを察したのは同時のことであった。

 

――良かった、とりあえず引き離せたみたいだな……。

 

 今度はバカなことはせずに、放課後すぐに土下座しようと心で泣きながらも、とりあえずは一安心と胸をなで下ろし、

 

「ねぇ、何か言ったらどうなんだい? 昨日のDVDの件といい、僕そろそろ本気で通報したほうがいいのかな? 一夏って本当に、女性にそういうことして悦ぶタイプ? 日本人は変態さんが多いって聞いたけど、一夏もそうなの? ねぇ、こっち見てよ答えてよねぇ、ねぇねぇねぇどうして、無視、するのかな?」

 

 まずは、こちらに土下座をすることから始めないといけないようだと、一夏は三つ指を揃え、膝を折った。

 

 

                  ○●○

 

 

「あら?」

 

 いきなり屋上の扉を破壊しかねないほどの勢いで閉じた音に、ちょうどその場所へと続く階段を昇ろうとしていた楯無は足を止めた。

 透き通った湖水のような色をした髪の毛が音波で揺れるが、華奢に見える体躯は決してブレず。この程度のことで揺れるようでは、『楯無』は務まらない。

 しかし、吹っ飛ぶように階段を駆け下りてくる赤い影は、

 

「がぁぁぁぁだぁぁぁぁぁねぇぇぇぇぇ!!!」

「ひ、ヒメちゃん!?」

 

 精神的にも、勢い任せに抱きついてくる肉体的にも、楯を大いに揺るがした。

 

「あ、あらあら……どうしたの、ヒメちゃん?」

「聞いてくれよぉぉぉ……アイツマジ信じらんねぇ……」

「落ち着いてヒメちゃん、お姉さんは離れないから、ね?」

 

 ああ、やはりこの子は、なんにも変わっていない。

 流石に、グズグズと涙鼻水こそ流さなくなったが、四年前と何も変わらず自分へと泣きついてくるヒメちゃんに、楯無は心地よいノスタルジーを感じ、背中を優しく叩いてあげた。

 

「ゆっくりでいいから、お姉さんに話してみて。ね?」

「…………うん」

 

 簪ちゃんにいじめられる度に、こうしてあやしたなぁ。

 と、長々グチグチと続く相談内容は半分以上も頭に入らなかったが、妹がダイレクトに自分へと甘えてくるこの時間。それは楯無にとってかけがえのない、至福の時であった。

 

「ほんと、信じられるかぁ? あのバカも、クラスの連中も……オレをいったい何だと思ってやがんだ」

「ふふっ、ヒメちゃんは誰よりも可愛いもの。みんなついついイジメたくなっちゃうのよぉ」

「可愛くねぇ、オレはカッコよくなったの」

 

 と、頬を膨らませ不貞腐れる姿もまた、彼女の母性本能を全力でくすぐり、今すぐにでも部屋に連れ込んで一日中愛でたくなってくる衝動となって楯無の精神を揺さぶっていく。

 だが、それはまた今度にとギリギリで抑え込み、ちょうど探し出すプロセスが省けた自分の目的を彼女に伝えることにした。

 

「じゃあ、そんなカッコいいヒメちゃんに朗報」

「ん……?」

「さっき、おじさま――朴月博士から連絡が入ったの」

「親父から? ってことは」

「ええ、ご明察。先程、ヒメちゃんの専用機、修理と大幅改修が完了したそうよ」

 

 その瞬間、抱きしめていた彼女の身体が強張るのを、楯無は確かに感じた。

 

「かなり大胆に改修したみたいで明日、直接届けて調整も兼ねた試運転をしてみたいと仰ってたわ。だから、マニュアルには目を通しておいて欲しいって」

「……そっか、これでようやくオレも本調子って訳だ」

 

 言葉とは裏腹に、楯無へ預けられる重さは比重を上げていく。

 それをしっかりと受け止めながら、楯無は優しく背中を擦り諭す。

 

「大丈夫よヒメちゃん、ヒメちゃんは私達が良く知るお姫様、そうでしょう?」

「……それ、いつまで引っぱるんだよ」

「無論、お墓までっ♪」

「一生かよっ!」

「あぁん」

 

 終身弄られ保障発言に、力任せに楯無を引き剥がし姫燐は吠える。

 

「だーっ! もういいっ! 充分だ! ありがとな!」

「そこでお礼はちゃんと言えるところ、お姉さん本当に胸キュン」

「胸キュンじゃねぇ! 親父のマニュアルは放課後、生徒会室で良いよなっ!?」

「もう、ツンツンしながらも、その卒のなさ。どこまでお姉さん好みなのかしら……恐ろしい子っ」

 

 もう良いだろっ!? と髪の毛以上に真っ赤になりながら走り去っていく背中を見つめながら、楯無は達筆な文字で『堪能』と書かれた扇子を開き、口元に当てた。

 

「本当、可愛いんだから」

 

 昔は少しからかえばマジ泣きされてしまったが、成長して少しタフになり、あそこまでからかい甲斐がある言動まで身につけてしまったとくれば、下手をすれば昔より更に自分好みの女の子になってしまったかもしれない。

 と、楯無はクスクスと扇子を閉じ、自分も教室へ向かって歩き出した。

 だが、確かに皆がイジメたくなるほど魅力的な少女には違いないのだが、性根は繊細で心優しいお姫様なのだ。

 いい歳なのだから余り過保護なことはしたくないが、あまり目に余ることを続けるなら今の内に釘を刺しておこうかしらと、彼女の愚痴を思い返す。

 犬耳に首輪は――まぁ、これは本音ちゃんが主導だから、やり過ぎだと判断したら上手く立ちまわって沈静化させるでしょう。と、一任。

 問題は、一夏くんの方である。

 

――あのバカ、脱ぐこと以外でオレに反抗できねぇのかよ!?

 

 と、熟したトマトのような顔で鳴き散らす姫燐の姿は一瞬でフラッシュバック出来るが、今は置いておいて、

 

「んー、流石にお姉さんも、一夏くんが露出狂だとは思いたくないのだけれど……」

 

 と、さきほど聞かされた屋上での一幕に、率直なコメントを楯無は残す。

 しかも、これが初犯では無いというから判断に困る。

 思春期特有の、女の子にちょっかい掛けたくなるアレかしら? と考えつつも、流石にいきなり上半身裸になるのは冗談で笑える範囲を越えてはいたが、

 

(そもそも……)

 

 これは話を聞き始めながらも、月日の経過で納得は出来るし、ごく普通の少女の感性として特におかしな事では無いので、そこまで気に留めてはいなかったのだが、

 

「ヒメちゃんって……そんなに男の人の裸ってダメだったかしら?」

 

……この程度のことで揺れるようでは、『楯無』は務まらない。

 そう自分に言い聞かせながらも、『楯無ではない自分』の胸に燻ぶる煙を振りはらうように、楯無は少しだけ、ここじゃない何処かへと向かう足を速めた。

 




今の私は、自らを提督とか次元の守護者とか適合者とかヘッズとかシャルの台詞作るのに時間かけ過ぎ男と規定している。
この更新遅れはそのためのものだ。

あ、イグニッション・ハーツがPS+で配信されたのでプレイしました。
自分にはハーレム物の主人公になる資格は無いと思い知らされました。


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第27話「透き通る疾刀」

構成の50%ですが、一区切りついたので投稿します。
なのでいつもよりちょっと短めです。


ようは、イメージなのだ。

想像の具現、身体と機械の一体化、自然の摂理を歪める願望機。

それがこの数カ月を共に駆け抜けた、自らの腕となり、足となり、翼となる半身の本質。

 

(つまり白式は、考えるだけで俺の思い通りになる)

 

そんな科学的根拠もへったくれもない暴論へと、織斑一夏の意識は突き進みかけていた。

本当はISなんて、余計な教科書も、論理も、方程式も必要ない。もっともっとあやふやで、確かじゃなくて、パターンがない……人間の心のようなモノなんじゃないか。

もし、白式が――ISという存在が、この非現実的な推察に確かな答えをもたらしてくれる代物ならば……正座で瞳を閉じ、黙考していた一夏は、頭に纏わりつく雑念を振り払うように、瞳を閉じて全身の力を抜く。

そして、双眸が再び開かれた瞬間――右足は弾け飛ぶように前へ踏み出し、

 

「シッ!」

 

その動きと同時に、抜き放たれた木刀が、横一文字に空を断った。

突風のような激動は一瞬、気が付けば木刀の切っ先は水平を保ったままに不動。

 踏み込み、抜刀、攻撃。その全てを、一つの動きに凝縮する戦闘理論。

 

「それが……居合なんだね、一夏」

「ああ、大体こんな感じだ」

 

 と、横できちんと正座しながら拍手するシャルに、「最近全然やってなかったペーパーだけどな」と付け足しながら、一夏は小恥ずかしそうに立ち上がった。

 

「ううん、それでもすごいよ! いつもと違って、すっごくカッコよかったよ一夏!」

「いつっ……ま、まぁ、イメージは分かってもらえたみたいで良かった」

 

 屋上での半裸土下座から、次の日の放課後。

 一夏は、もう一つ前々から考えていた、白式の機能を使った『新戦法』についての相談をシャルに持ちかたのだ。

 出来れば姫燐の意見も同時に聞きたかったのだが、彼女は放課後になると同時にのほほんさんに耳打ちされ、真っ赤になって喚き散らしながらもどこかに連行されてしまった。

 仕方なく一夏はシャルだけを引き連れ、武道系の部活動がいつも使っている和風の道場に向かったのだ。本来は1スペースだけ借りて、邪魔にならないようこっそりやらせてもらおうと考えてはいたが、

 

「ほぁぁ……織斑くんカッコいい……」

「くっ……篠ノ之から昔剣術やってたって聞いていたけど、もっと早くスカウトしとくべきだったわね」

「ああっ! エンジェルフェイスからの毒舌攻めキャラとか、どこまで私得すぎるの……尊い……」

 

 あらゆる部活に満場一致で道場丸ごと明け渡され、遠慮しようにも気が付けば外は行列のできるイベント会場状態となっており、逃げるに逃げられなくなった二人は、あまりにも迅速なご厚意に甘えることになった。

 シャルは先程から、突き刺さる外野の視線に落ち着かない様子だが、既に慣れきった一夏はどこ吹く風と木刀を納刀して立ち上がる。

 相談したいことの、イメージは出来ていた。だが、それを上手く口にする自信が無い一夏は、手っ取り早くシャルに自分の伝えたいことを理解してもらうために、その『イメージそのもの』を彼女の前で演じてみせたのである。

 

「でも、一夏。どうしてこれを僕に見せたかったの?」

「ん、それはだな……あ、これ、ありがとうございました」

 

 と、借りていた木刀を、剣道部の部長に返し……瞬時に、すごい速さで「レア物、レア物よ!」と家宝でも抱えるように、遠巻きで英雄の帰還でも待ちわびていたような部員達の中へと帰っていく背中を見ながら、

 

「そんなに居合ってレアなのか?」

「うん、ある意味天然だと思うよ」

 

 何となくシャルとの会話に噛み合わないモノを感じながらも、本題に戻ろうと、

 

「え、あ、サイン? 木刀にですか?」

「へ? ぼ、僕の分も?」

 

 したところで、二本の木刀とマジックをいつの間にかリターンしていた部長に差し出された。とりあえず二人とも自分の名前を書いて渡し、まるで救世主でも君臨したかのような崇められっぷりで部員達に迎えられる部長の姿を乾いた笑みで眺めながら、

 

「とにかく! 俺はこの技を白式に取り入れてみたいって考えてるんだよ」

「この技って、居合を?」

 

 一夏の考えに、シャルは顎に手を当てて考える。

 確かに、あの剣閃の速さには度肝を抜かされたが、それが戦いに使えるかと聞かれれば、

 

「……それ、意味あるの?」

 

 と、シャルは返さざるを得なかった。

 

「確かにカッコいいし、振りの速度も見事だったけど、無駄が多すぎない? ISはいつでもイメージで武装を取り出せるんだよ? 僕の得意技でもあるから言えるんだけど、武装を構える速さは確かに武器にはなるとは思う。けど、それが一夏の武器となるかは別だと思うけど」

 

 シャルの言葉は、実際的を射ていた。

 自分達が想定しなくてはならないのは、剣と剣の勝負では無く、戦車すら一方的に蹂躙できるIS同士の戦闘なのだ。

 一夏の武装は、その手にもつ刀1つのみ。それしか無い武装を一度納めるという行動のリスクの割に、得られるリターンは、僅かな隙が致命傷になる近接格闘では極めて小さい。そもそも攻撃と同時に戦闘態勢に移れるというメリットも、求めるだけで即座に虚空から武器を取り出してくれるISにとっては余りにも無価値だ。

 更にシャルは、冷たく機械的に、想定しうる居合の有効性を口にしていく。

 

「初撃なら使えるかもしれないけど、白式の武装はそれだけなんでしょ? だとしたら、唯一の武装を封印して敵に接近する必要がある。イグニッション・ブーストで間合いを詰めるなんてやり方も有るには在るけど、そんな不意打ちは一度見せたら二度と通用しない。相手が律儀に格闘戦に付き合ってくれれば効果があるかもしれないけど、銃器を相手が使って来ないこと前提なんて、理想的で希望的で楽観的すぎるって僕は思うけど……」

 

 と、一通り貶し倒したところで、一夏がどんよりと失敗したように俯きながら、顔に手を当てていることに気付き、

 

「あっ……う、うん! でも、確かに見栄えは良かったよ! こういうのって、朴月さんとか凄く好きそうだよね! それでズバーっと敵をやっつけたら、きっと凄く興奮するんじゃないかな!?」

「違う」

「それに僕も、とうようのしんぴ? を見るのなんて初めてで……えっ?」

「すまん。ちょっと、勘違いさせちまったみたいだ」

 

 確かに、アレじゃあダメかと一夏は失敗したように、自分の伝達力の無さを反省しながら覆っていた手を退けて、もう一度、別の木刀を用具倉庫から持ち出して戻って来る。

 

「シャルは、さっきの居合を見て、どこが『すごい』って思った?」

「どこがって言われると……」

 

 彼の問いにシャルは少しだけ黙考する仕草を見せるが、既に返す言葉は決まっていた。

あの今も脳裏に焼きついて離れない、目にも止まらぬ速さで風を断ってみせた、

 

「あのスピード……やっぱり、剣の振りの速さかな」

「あー……やっぱりそっちに目が行くよな……」

 

 遠回しに、自分の推論は見当外れと言われ、少しむっとしたものを感じながらも、シャルは問い返す。

 

「じゃあ、居合はどこがすごいっていうのさ。武器を抜くと同時に攻撃できること?」

「それも当然あるんだが……んー、こっからは半分以上、俺に居合を教えてくれた、箒からの受け売りになるんだけどな」

「篠ノ之さんからの?」

 

 どうすれば納得してもらえるか、試行錯誤するように軽くいくつかの構えを取ってから、一夏は木刀を左手で納めた状態で持ち、彼女が昔教えてくれた、居合の『本質』を呟いた。

 

「居合は、鞘の内にあり」

「居合は……鞘の内に? それって、どういう意味なの一夏?」

 

 その言葉の意味を説明するまえに、まずはシャルの――昔の自分と全く同じ勘違いを解かないといけないと、一夏は慣れない解説を始めた。

 

「確かに、居合の速さは凄いんだけど、それはあくまで居合の『巧さ』によって引き出されるもので、『本質』じゃないってことさ」

 

それにこんな難しいことしなくても、普通に上段で構えて、思いっきり振り下ろした方が速いし強いに決まってるからな。

 と、補足され、考えて見れば当然であるとシャルは納得する。

 

「もう一つの、攻撃と同時に構えられるっていうのも、確かに居合の凄さではあるんだけど……ちょっと、俺の前に立ってくれないか。シャル」

「う、うん」

 

 彼に言われた通り、少しだけ距離を開け、向かいあうように立つシャル。

 そして木刀を抜き、真っ直ぐに青眼で構え、いつでも動きだせるよう一夏は息を浅く吐き出した。

 

「昔の達人って人達は、今のシャルみたいに剣を見たら、それだけで相手の剣がどれだけの長さで、どれだけ届くのかって、間合いが分かったらしいんだよ」

「そうなの? 僕には全然分からないけど」

「大丈夫だ、俺も分からない」

 

 ズッコケそうになるシャルに、幼い箒に「ま、まだ私にも分からん」と言われた時の自分の姿と何処か重なりつつも、

 

「まぁ、これからは相手が、常に剣を見ただけで間合いが分かってるって前提で話すんだけど――じゃあ、これならどうだ?」

 

 その言葉と共に、一夏は構えていた木刀をまた、左手に納めた。

 柄をシャルに向け、刀身を水平に保ち、まるで相手に見辛くするような形で……

 

「……あぁ、なるほど」

 

 そう、一夏がいま取っている刀を納めた状態なら、当然刀身が見えないため得物の長さが分からず、間合いを読む事ができない。そして、この状態、この体勢、この構えから繰り出される必殺剣を――シャルは知っていた。

 

「ん、そうだな。察してくれた通り、こうやって間合いを隠して、リーチを読めなくしてから一気に距離を詰めるんだよ――こんな風に」

 

 一夏の呼吸が、シャルの耳に届くか届かないか――その刹那、一夏は吸い込んだ空気を吹き出し、木刀を納めたままシャルに向かって疾走を始めた。

 突然の暴走にシャルは身を軽く竦ませながらも、即座に神経を戦闘用に切り替えて、彼の姿を凝視――切り替わった思考が、この戦法に対する冷徹な評価を開始する。

 相手の不意を打つ形での突貫――それはシャル自身も提唱した、イグニッション・ブーストによる突撃を思い起こさせた。やっていることも殆ど同じだ。正面から来ると分かってる攻撃を迎え撃つのに、脅威も、恐怖も感じる筈が無い。

どのような小細工を仕込もうとも、必ず相手は真正面から、斬撃で来るのだ。

そうと分かっていれば、迎え撃つなり、逃げるなり、いくらでも返し手は思いつく。

あとは簡単だ。相手の武器が、こちらに届く距離に来る前に動けばいい。

そう、相手が、いつ行動を起こすのかさえ、見極めれば――

 

――……なに、これ……?

 

 シャルの思考が、そこまで辿りついた瞬間――技は、その牙を剥いた。

 

――分からない。どの動きも、どこまで動けばいいのか分からない。

 

 何をしてくるのかは分かる。だが、敵のリーチという未確定要素が含まれる以上、そこに最適の解答を見いだせない。

 これでいいのか? 本当にその読みは正しいのか? 自分は間違えていないのか?

 戦闘中、何か一つを選ばなくてはならない場面はいくらでもあった。だが今は、敵がこちらに突撃してきているのだ。

 読み違えれば即、敗北への片道切符を掴まされるプレッシャーが僅かに――時間にしてみれば1秒にも満たない一瞬とはいえ、彼女の思考に『迷い』をもたらす。

 迷いは身体を硬め、柔軟な選択肢を奪い、隙を生み出す――この時、シャルは完全に居合の術中にはまっていた。

速さだけではない。構えるだけでもない。

 鞘の内に刃を隠し、強襲により間合いを狂わせ、惑う相手を切り捨てる。

 刀がまだ観賞道具となる以前の時代、当時の要人達を恐怖に震え上がらせた、相手の思考を殺す殺人剣。

 

「これが、居合の本質だ」

「あっ……」

 

 シャルがふと気付いた瞬間。既に一夏はニッと頬笑み、彼女の眼前に立っていた。

 周囲の誰もが黄色い歓声を上げる中、シャルの背筋に走ったのは――青。真っ青な恐怖。

今、シャルが感じた感情を言葉にするなら、これ以上に適切な言葉は無かった。

 居合という技に隠された陰湿な殺意に……いや、違う。

 それ以上にシャルは、

「でさ、どうだった今のは? 実際にやろうとしてることはちょっと違うけど、理論はこれに似てるんだよ。そりゃ状況次第だろうけど、中々悪くないって思……シャル?」

 殺人剣の本質を深く理解しながらも、目を輝かせ、その一刀を嬉々として己が身につけようとする一夏に――蟻を好奇心だけで潰す子供のような彼の無邪気さに、本能的な怖気を覚えずにはいられなかった。

 

――他のことなんてどうでも良さそうだし。

 

 昨日、シャルが自分自身で、一夏に下した評価ではあった。だが、こうして実際に、本質が意識の切っ先を掠めてみれば、こぼれ落ちた悪寒が過小評価を訴える。

無意識ですらここまでのキレを覗かせる彼が、心に抱える矛盾を失くし、夢のために研ぎ澄まされたその時――彼は、『夢』と『それ以外』をどのように分かつのだろうか。

 もしシャルの眼が、彼の人間性を正しく捉えているのだとしたら、織斑一夏という男は一つ何かを違えれば……護りたい『夢』のためならば敵も、味方も、他も、自分すらいつか等しく無価値と切り捨てかねない、

 

――まるで剣のような……そんな危うさを……――

 

「どうした、シャル?」

 

 シャルを見下ろす、心配するような、湖水のように穏やかな瞳。

 だが、彼の黒く清んだ瞳は、本当に私を見てくれているのだろうか?

 暗に自らの存在すら否定されるような、おぞましい感覚が、シャルの五感を縛りつける。

 

――それでも、なにか、喋らないと。

 

 答えなければ、その時こそ本当に自分は彼の中から消えるのではないか。

蛇に睨まれたカエルのように硬直した、シャルの背中を押したのは、

 

「はーい、えっちスケッチわんたーっち」

 

 第三者の文字通りな物理接触だった。

 

「わあぁ!?」

「おおっとったったぁ!?」

 

 背中を勢いよく突き飛ばされ、近距離で向かいあっていた二人はそのままシャルが押し倒すような形で道場の床に転倒し、

 

「もう一回、はいチーズっ」

 

 その背後で数回カメラのフラッシュが瞬く。

 

「ごめっ、大丈夫怪我はない一夏!?」

「あ……ああ……」

 

 上手く受け身を取っていたが、未だに何が起きたか分かっていない一夏の無事だけ真っ先に確認すると、直ぐに立ち上がりシャルは自分を突き飛ばした犯人へと、声を荒げて向き直った。

 

「いきなり何するんだ! 危ないじゃないか!」

 

 真っ当で真っ直ぐで当然なシャルの怒声に、デジカメで撮った画像をチェックしていた実行犯が、彼女の方にゆっくりと向き直る――瞬間、

 

(っ……)

 

首筋がチリチリと焼けるような感覚が、シャルを襲った。

まず意識が向いたのは、淡い紫色をした柔らかな広がりを見せるロングヘアがなびく度に、周囲に漂う蟲誘的な、花の蜜の香り。

ズボンタイプに改造されてるとは言えIS学園の制服を纏っているので学生ではあるのだろうが、高めの身長や無駄なくスマートな体型、思春期独特の青さを感じさせない顔立ちからは、既に成熟しきったような雰囲気すら纏う井出達。

 そして、赤いふちをした眼鏡の奥から見える、粘りつく様な『何か』を発する金色の眼差しは、人一倍敏感な、シャルの女の勘に訴えかけ続けた。

 一夏やセシリアから感じたのと同じ――いや、それ以上に、この人は、

 

――私達を……敵視している……?

 

 いつでも動き出せるように、身体から力が抜ける。

 一挙手すら見逃さないように、眉間に力が入る。

 完全に警戒態勢に入ったシャルとは対照的に、女はごく自然にカメラを制服のポケットにしまうと、懐に手を入れ……

 

「まっ」

「もーしわけありませんですっ! シャルル様!」

「……た?」

 

 不審な動きを咎めようとしたシャルよりも先に、女は深々と頭を下げ、

 

「えっ……これ、名刺?」

 

 シャルの前に、おずおずと名刺を両手で突きだしていた。

 

「ワタクシ、こういう者でございますーです」

「あ……はい」

 

 先程までの無礼な態度とは裏腹に少し語尾が変だが、ひたすらに腰が低く、バカ丁寧に名刺まで出されて、条件反射的にそれを受け取ってしまうシャル。

 何の変哲もないそれには、やはり普通に日本語で彼女の名前や、所属するクラスが書かれていた。

 

「えっと……パーラ・ロールセクト……さん?」

「はいー、新聞部に所属しておりますーです」

「ん、あれこの人……二年生なのか」

 

 立ち上がった一夏が、シャルの背後から覗きこむようにパーラの名刺を眺め、真っ先に目に入った部分を言及する。

 

「はいー、まぁ一応、シャルル様達より一学年上の、先輩でございますですね、はい」

 

 女性にしては少し低めのハスキーボイスで、またパーラは愛想笑い感満点の笑みで頭を深々と下げ、

 

「重ね重ね申し訳ありませんでしたシャルル様、お怪我はございませんですか?」

「ぼ、僕は大丈夫ですけど……」

「あ、俺も平気です」

 

 先輩であることや、なのに微妙に謙った態度からすっかり毒気を抜かれてしまった二人は、少し緊張気味に横並びし、

 

「わっ!?」

「おおっ!?」

 

 彼女が顔を上げると同時にまた不意打ち気味に飛来した、カメラのフラッシュに目を細めた。

 

「申し訳ありませんです。普通の一枚も欲しかったのーです」

「だから……もう、そもそも、この写真もさっきの写真も何に使うんですか?」

 

 と、やりたい放題な態度はともかく、流石に自分達の写真が何に使われるぐらいはハッキリさせておきたいと、シャルはパーラに尋ねる。

 

「はいー、わたくし実は新聞部に所属しておりまして」

「いや、それはさっき聞いたんですけど」

「訓練に明け暮れる、IS学園たった二人の男子のお姿を、学級新聞今月号の一面を飾る写真として、ぜひとも撮影許可を頂きたいと思いましてーです」

「許可って、もう大分撮ってるじゃないですか……」

 

一夏のツッコミもマイペースにスルーし、パーラはまたフワリと後ろ髪を掻き上げてから、また丁寧に頭を下げ、

 

「ご無礼をです。ですが部長からは、出来るだけ刺激的でスキャンダラスな一枚をお願いされてしまいましたのです」

「はぁ……」

「部長の命令は絶対。これワタクシがこの国で学んだルールの一つです」

「あ、やっぱりパーラさんも外国から?」

 

 名前や風貌から、自分と同じ日本人では無いだろうとは思っていたが、ようやくシンパシーじみたモノを感じ取れたことシャルの肩から少し力が抜ける。

 

「はいですシャル様。ワタクシも日本にやって来て長いですが、未だに言葉遣いは慣れませんです。新聞部にも日本語に少しでも慣れ親しむため入部したのですが……シャルル様は随分とオタッシャですね?」

「へっ!? あ、アハハ……そうかな?」

「ん、そういえばシャルお前、随分と日本語上手だよな?」

 

 今まで日本に居て、当たり前のように皆と会話していたため気にしたことは無かったが、言われてみればこのIS学園は、全世界から生徒が集められた非常にグローバルな施設なのだ。

 国が違えば文化が違い、言語が違う。

 横のシャルもフランス人で、眼前のパーラさんも外国人。

 だというのに、二人共どうしてここまで流暢に日本語で会話が出来ているのか。

 努力を重ねていると言っていた先輩はともかく、ルームメイトの場合はどうなのか気になった一夏は、早速尋ねてみた

 

「え、えーっと僕の場合は……ちょっとだけ、ズルしてるって言うか……」

「ん?」

「シャルル様?」

「と、とにかくパーラさん! そのシャルル様っていうのは、ちょっとくすぐったいんで止めて貰いたいんですけど!」

 

 露骨な話題逸らしであったが、そちらも気になっていた事であったため、一夏も追及はせず、シャルの意見に同調する。

 

「ですが……」

「その、僕ってあんまり様を付けられるとか、敬語で話されるのって慣れてないんですよ。昔っから余り人が多くない学校とか村に住んでいましたから……」

「はははー! 面白いこと言うなぁシャルは!!?」

「きゃっ……一夏っ!?」

 

 と、自分の境遇から話していたシャルの肩を、突然大声を出しながら一夏が抱きこんだ。

 遠慮なしで力任せに肩を掴まれ、いきなり顔に息が掛かりそうな距離まで異性に詰め寄られたシャルの頬が、瞬間湯沸かし器にかけたように沸騰する。

 一瞬、気が動転して女性らしい悲鳴まで軽く漏れてしまったが、ここ連日似たような目にばかりに遭い、流石に耐性がついてきたシャルはまたセクハラなのかと一夏を睨みつけ、

 

「社長の『息子』にタメ口って、お前の会社、どれだけフレンドリーなんだよー!?」

「えっ、あっ!」

「ハハハ、少し俺も就職してみたくなったなーデュノア社にー!」

 

 ここは、迂闊に口を滑らせていた自分に非があったことを悟った。

 ほぼ零距離で下手クソな笑顔を作る一夏の額からは、かなりの焦りが見てとれる汗が流れている。一昨日のアダルトビデオの一件も、昨日の屋上でのストリップもそうだったように、彼のセクハラには必ず、性欲では無く誰かのために行われることを、シャルは思い起こした。

 パーラではないが、ひたすらに頭を下げたくなるような衝動に駆られ、シャルは目を伏せ大人しく一夏に身を寄せる。

 

「近頃ブラック企業が何かと話題になるけどデュノア社なら百人乗っても、ん……どうしたんだ、シャル?」

 

 数日で何度も助けてもらいながらも、まだ何処かで彼を信じられないでいる自己嫌悪が、シャルの心に深い影を落とす。

 もう少し、彼を頼るべきなのだろうか。

 母の細腕一つで育てられ、父親ともマトモなコミュニケーションが出来なかったシャルルが、初めて至近距離で触れる男性の身体。大きく、力強く、逞しい。汗すら勲章のように輝く、偽物の自分とはまるで違う彼の……男性の体臭は……正直、少し、クラっと来てしまいそうな魔性が……

 

「はいチーズ、です」

「「へ?」」

 

 そんなちょっと別のベクトルで正体がバレそうな思考を打ち切ったのは、やはりまたカメラのフラッシュであった。

 色々と恥ずかしい思考回路をしていた自分自身を、先程とは違うベクトルで軽蔑しながら口をパクパクさせるシャルと、やはり状況に振り回されることに定評がある一夏は、言葉を失いデジカメの画面を注視するパーラの方向にポカンと顔を向け、

 

「んー……ワタクシ的にこの一枚にタイトルを付けるなら……」

「あ、あのパーラさん、いいい、今の写真は」

「『メスの表情』、ですかね」

「めえっ!!?」

 

 ガタリ、と遠巻きに事の成り行きを見守っていた面子の空気が、一瞬にして変貌した。

 

「いえ、別に他意は無く、あなた方は、特別な存在でありますですから『様』をつけていたですが……」

 

 もはやこの場所に居ることすら限界と言った風に身体をプルプルさせ、半泣きになったシャルの涙目を、パーラはじっくり観察するように顎に手を当てながら、

 

「分かりました、次からは別の名前で呼ばせて頂きますですね」

「は、はい、ありがとうご」

「メス豚さま」

「ちぃーがぁーいーまぁーすぅー!!!」

「おわぶっ!?」

 

 あんまりにもあんまりな呼び名に、最早泣くのか怒るのかグダクダになりながらも、とりあえず一夏を力任せに張った押し、断固としてシャルは異議を唱えた。

 

「僕はメスでも豚でもありません! 男の人です! れっきとした! 匹じゃなくて一人の!」

「ちょおま、だから男は自分のこと男の人って」

「一夏黙ってて!!!」

「おごぉ!?」

 

 倒れたまま今度は完全に余計なことを口走ろうとする一夏の腹を、家畜でも蹴るかのようにストライクする気迫を見せつけられても、パーラはやはりどこ吹く風とメガネを拭きながら、

 

「ですが、ワタクシが日本で学んだ文化的表現で、この一枚を表すにはこれ以外の言葉が……」

「ど・ん・な文化ですかそれっ! そんなのある訳ないじゃないですか!?」

「あー……キリが好きそうな奴かー……」

「あるのっ!? そして朴月さん好きそうなのっ!?」

 

あまりのカルチャーショックにSAN値がゴリゴリと削れ膝を付くシャルを横目に、満足げに頬笑みながらパーラはデジカメを懐に仕舞い手を合わせた。

 

「この一枚ならきっと部長も満足するです。ではでは」

「いやちょっと! 今までの全部、使っていいって言ってませんよ!?」

 

 スタコラと道場から出て行こうとするパーラのフワリと髪が揺れる背中を、シャルは反射的に追いかけようとするが、

 

「ダメ、ダメよデュノア君! ここは通せないわ!」

「ここを通りたければ、我ら空手部三人衆を倒していきなさい!」

「ついでに剣道部七星剣も相手になってもらうわよ!」

「その後に柔道部十傑集にも勝利しないと、この武道館から生きて出ることは叶わぬとお思いッ!」

「ええええっ!!?」

 

 打ち切り寸前の週刊漫画よりも一気に現れた武道館中の強豪達の、熾烈な妨害がシャルの行く手を阻んだ。

 武道もクソもない単純な人海戦術の合間合間を、背を低くしながら何とかすり抜けていき、出口付近でようやくパーラの後ろ姿を見つけ出せたシャルは、

 

「ねぇ、待って下さいパーラさんっ!」

 

手を伸ばし、フワリと揺れるロングヘアーからのぞく、細い肩を確かに掴んだ所で、

 

――ほんと、迂闊なメス豚――

 

 ゾクリ、と、まるで触れた花弁の裏側に潜んでいた針蟲に、不意に指先を貫かれた時の様な……そんな直感的悪寒が、シャルを襲った。

 

「うっ……ぁ……ぇ……?」

 

 世界が一瞬逆転したように視界が歪み、軽い眩暈と、胃が流転しそうな吐き気。

 気付けば、確かに掴んだはずのパーラの肩は手の内に無く、握っていたのは彼女の印象深い蜜の臭いがする香りだけ。

 膝から崩れ、青ざめながらへたり込むシャルを捨て置いて、肝心の本人は悠々と、先程と変わらぬまま背中を向けて靴を鳴らし、

 

「ああ、言い忘れていたです。取材ご協力、ありがとうございました」

 

 最後に首半分だけこちらに向けながら、今までの何処か抜けていた雰囲気とは打って変わった――まるで、蜘蛛の巣にかかった愚かな蝶でも嘲るように、頬笑みに隠していた牙を剥き、

 

「よろしくたのみますですよ、シャルル様。また、次も」

 

 悠々と遠ざかっていくその背中を、シャルはただ、言葉に出来ない胸のざわめきと共に、見送ることしかできなかった。




特に深い意味はないですが、作者は落第騎士の英雄譚を応援しております。


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第28話「ブリッツ・ストライダー」

「大丈夫か、シャル?」

 

 いつも通りドダバタ会場になった道場から、いつも通りに何とか抜け出し、段々と覚えてきた人通りが少ない道を紹介する道すがら、一夏は隣を歩くシャルの様子が、どこか心在らずであることに気付いた。

 

「……え?」

「疲れたのか? だったら、今日はこのぐらいにして一端部屋に」

「だ、大丈夫だよ、これぐらい平気平気」

 

 ハッとしたように取り繕うが、鈍い一夏から見ても、今のシャルからは無理が明け透けており、取り繕うような言葉だけで安心など出来る筈がなかった。

 

「慣れない内は確かにしんどいよなぁ。今日は一段と人が多い所行ったし」

「うん……」

 

 記者会見もかくやな人混みは、耐性が出来つつある一夏はまだしも、ここに来たばかりのシャルには確かにそこそこハードではあったが……、

 

――本当に、迂闊なメス豚――

 

 あの時、指に走った痛みと、唐突な体調不良。

異変は本当に一瞬であり、今こうして歩いている限りでは、特に身体に異常は感じられない。

 だが、どうしてもシャルの心には、パーラと名乗ったあの先輩の、最後に見せた加虐的な笑いと台詞が、茨でも刺さってしまったかのように忘れられなかった。

 

(まさか……気付かれた……?)

 

 世迷言と断言するには、前例があり過ぎた。一夏も、セシリアも、ほんの少しの違和感からこちらの正体を突き止めたのだから。

 更に今度の相手は、今までの良心的な同級生達とは違い、この学校のマスコミ的存在にして……何よりも、自分の直感を信じるならば、相手はこちらに敵意を抱いていた。

 そんな相手を野放しにせず先手を打つべきか、下手に動いて余計な疑念を抱かせるような隙を晒すリスクを回避するか――気付けばこんな事ばかり考えている自分自身に、シャルは自己嫌悪を押さえきれなかった。

 

「……本当に平気なのか、シャル?」

 

 このことを、私は相談するべきだろうか。

 隣で下心なく他人を思いやる、眩いほどに真っ直ぐな彼に、私の薄暗いこの疑念を。

 それは純白のテーブルクロスの上に、汚れきった泥水でもぶちまけるかのような行為にすらシャルには思え、

 

「もう、心配し過ぎ。僕だって、代表候補生なんだよ? 体力が無いとやってられないよ」

「なら……良いんだけどさ」

 

 シャルは、慣れきった笑顔で、一夏の半歩前へと足を飛ばした。

 彼は強くならないといけなくて、自分はそれに協力すると約束した。

 ならば、このような不確かな疑念で、歩み続ける彼の足を引っ張ってはいけない。

 彼は、自分なんかとは違うのだから――気持ちが、切り替わる。

 

「そんなことより、イアイの練習は良いの? ISでアレをやるんでしょ?」

「ん、正確にはちょっと違うんだが……まぁ、ちょうど今その練習のために、アリーナへ向かってる所だ」

「あ、そうなんだ」

 

 シャルも、言われてみればと自分のおおよその現在地と、ここに来る前に覚えさせられたIS学園の地理を照らし合わせ、確かにこの道は、以前セシリアと戦った第二アリーナに続いていると納得するが、

 

「でも、ここからなら第三アリーナの方が近くないかな?」

「ん、あー……第三アリーナ、か」

 

 どこか遠くを見て、懐かしげでありながらも、悲しげに。

 か細い呟きとは裏腹に、一夏の手は、自然と強く握り拳を作っていた。

 

「あそこは少し前の戦闘で使えなくなっちゃってさ。今は使用禁止なんだよ」

「もしかして、例の侵入者? あの一夏と中国の代表候補生が戦ってた時に、襲って来たっていう」

「……ああ、そうだ」

 

 あの騒動に関する事は、セシリアや鈴を含め、当事者全てに外部への口外を禁じており――全て嘘とは言え一人、思いっきり破っていた気がするが――大丈夫だと、千冬から聞いていた一夏ではあったが、こうして具体的なことは何も知らなそうな様子のシャルを見て、それが徹底されていることに安堵した。

 一般生徒や学園の外には、襲撃者が一『人』侵入したことだけが知らされており、実は一『機』であったことや、その後に更に二人のテロリストが居たことなどは秘匿されている。

 そういえば、結局どうやって解決したことになったのかは知らされていなかったが、

 

「確か、代表候補生の皆と、この学園のセキリュティが無事に犯人を取り押さえて、日本に引き渡したんだっけ?」

「ん……? あ、あぁ、そうだな」

 

 姫燐の存在が出なかったことに、一夏は少しだけ引っかかりを覚えた。

 どうやら、学園はセシリアが色々と吹き込んだため周知であったが、姫燐の存在は外部には無かったことになっているようであった。

 

(まぁ、当然か)

 

 下手に疑われる要素を増やされるよりは、あの場に存在すらしなかったことになっていた方が、都合が良いのは事実なのだ。

 恐らく姉と、彼女の姉の指示であろう配慮が、一夏の胸に深く染みわたる。

 

(ありがとう、千冬姉、楯無さん)

「あ、一夏一夏。アリーナの話してて、僕思い出したんだけど」

 

 と、感謝の念を飛ばしていた一夏の横で、シャルは何かを思い出したと顎に指を当て、

 

「確かアリーナって放課後に使う場合は、事前にクラスごとに予約を取って、教師に提出しないといけないって、校則に書いて無かったっけ?」

「えっ……そう、なのか?」

「へっ?」

 

 自分の記憶では、割と自由にアリーナを使えていた覚えがある一夏は、こうして言われてみて――そういえば、自分がアリーナを使う時は、大体姫燐が手を回してくれていたことを思い出す。

 

(ならキリって、いつもどうやってアリーナ確保してたんだ……?)

 

 今は回収されたとはいえ自分の盗撮プロマイドが、かなりの数出回っていたことを知らない彼は、間違いなく幸せであった。

 

「え、もしかして取って無いの、予約?」

「…………お、恥ずかしながら」

「あー、そっか。いつも道場みたいに譲ってもらってたのなら、仕方ないか」

 

 ちょっと変な勘違いをされているが、自分もどうやっているのか分からない以上は、訂正はひとまず置いて、崩れ去った予定をどうするか一夏は黙考する。

 確かに、自分達が一言頼めば、どのクラスでも快く譲渡してくれそうではあるが、特権階級であることを何度も行使するのは、どうにも性分に合わない。

 それにまた、まともに動くことすら難しい乱痴気騒ぎになるのは目に見えていたし――何よりも、自分の想定している『技』は、『見られること』が何よりも致命的なのだ。

 出来る限り、第三者には秘密にしておきたい思惑があるため、ここだけはシャルと二人っきりで練習しておきたかったのだが……。

 

「これ今、第二アリーナに向かってるんだよね?」

「あぁ……ていうか、着いたな、今」

 

 と、考える間もなく足を止めた一夏に釣られるよう、シャルも足を止め、改めて見るアリーナの大きさに驚嘆の溜め息を漏らした。

 

「じっくり見るのは初めてだけど、やっぱりIS学園の設備はすごいね。こんな立派なアリーナ、普通は国単位じゃないと所有できないよ」

 

 IS同士が思いっきり闘え、更に何人もの観客を収容できるように作られたアリーナは、いつ見ても圧巻の巨大さであり、このIS学園が人工島の上にあることを思わず忘れそうになる。

 まぁ、そんなことよりも重要なことを忘れていた一夏は、さてどうしたものかと立ち往生することになったのだが。

 

「どうするの一夏? また頼んで使わせてもらう?」

「うーん、それは……ん!?」

 

 と、ここで一夏は、アリーナの入り口で佇む人影に気付き――思わず言葉が喉奥に引っ込み、考え事はぶっ飛んで行ったのを感じた。

 こっちは閉鎖されていないので、人影の一つや二つ、当然あってもおかしくは無いのだが、

 

「えっ、あれ? あの人……!」

 

 同じように気付いたシャルも、その人影を見つけ、一夏と同じように目を丸くする。

 高身長が栄えるワインレッドの上品なスーツの上から、純白の白衣を纏う変わった風体にではない。

 その上の、少しボサボサ気味だが、肩甲骨の辺りまで伸ばした茶髪を、リボンでテールにした頭髪。年気を感じさせるシワが少しあれど、それが醜さよりも深みとなって刻まれた端整な顔つき。そして、旨そうに煙草を咥える口元から生えた、確かな手入れをされている――立派なあご髭。

 女性には決して生えることがないそれは、このIS学園では自分と、顔見知りの用務員にしかあり得ない代物であり――つまり、目の前の人影が何者であるか決定付ける、何よりもの証拠であった。

 

「男の人……!?」

「ああ……! しかも、俺も初めて見る人だ」

 

 訂正すら忘れるほどに、一夏も久方ぶりに見かけるタイプ――中年ぐらいの男性の存在に、動揺を隠せなかった。

 ISによってもたらされた女尊男卑の風潮。ある意味その象徴とも言えるこの学園は、一夏達がパンダ同然の扱いされるほどに男性がおらず、なお且つ年頃の女子だと嫌でも反応してしまう中年となれば、まさに絶無だ。

 偶にトイレですれ違う用務員さんとの話で、スタッフも彼以外は全員女性であることも裏が取れている。

 となれば、目の前の男性が何者なのか一夏達には想像もつかず、二人して二の足を踏んで立ち尽くしていたところで、

 

「あっ」

 

 ふと、男と二人の目が合う。

 

「え、えっと」

 

 男が白衣のポケットから取り出した携帯灰皿に、吸殻をねじ込む。

 

「こ、こんにちは」

 

 そして、とりあえずコミュニケーションの定石を口にした一夏へと――軽いジャンプからの全力のダッシュで一瞬にして距離を詰めその雄大な両腕を大きく広げ、

 

「おおーっ! 君が噂の織斑一夏くんかねッ!!!」

「わぼぉ!?」

 

 その胸内に、思いっきり一夏の身体を抱き込んだ。

 

「ふむふむ……ふむむ、なるほどなるほど……」

「っ? ぇ!? っ!??」

 

 いきなり見知らぬオッサンに抱き締められてフリーズする一夏を余所に、男はそのまま一夏の身体中をペタペタとご無体に弄りながら、感心したような声を発する。

 唐突な男から男への、セクハラ&セクハラコンボ。

 濃密で非現実的な異空間を前にし、魂が口からエクトプラズムしかけつつも、一度ハッと現実に帰って来れれば、シャルの行動は非常に的確であった。

 

「あわわわわ……通報、警察に通報しなきゃ……」

 

 震える声でズボンの中に入った携帯を何とか取り出そうとしたところで、

 

「んむ、君も噂のシャルル・デュノア君だね!」

「ぴぃ!」

 

 養分を吸い尽くした餌を捨てるように、動かなくなった一夏の身体をアッサリと手放すと、今度はシャルの方へくるりと向き直り、

 

「いやぁ、お初にお目にかかれて光栄だよ。デュノア社のパーツには、私もたびたび世話になっていてね。社長が君のことを公表された時には、僕も大層驚いたよ」

「や、やあぁぁ……」

 

 理知的なコメントとは裏腹に、顔は喜悦に歪み、両手を大きく広げた状態でにじり寄る姿は、まさに捕食者のそれ以外の何者でも無く、何でここに来てからこんな目にしか合わないのだろうとシャルが自分の人生を後悔するには、充分すぎるほどな変質者であった。

 

「ははは、堅くなる必要は無いさ……コレは世界各国を回った私が統計を取り、分析を重ね、もっとも優れていると確信したコミュニケーション、そうコミュニケーションなのだよコレは」

「もうやだぁ……」

 

 目を爛々と輝かせながら言っても説得力がなく、一夏もぶっ倒れて白式より真っ白になって動かない現状では助けも期待できず、怯えきって半泣きになったシャルはもはや無抵抗の羊と変わらず、犯罪的な絵面は、ついに危険な領域へと突入する――

 

「はいおじさま、そこまで」

「びぐざッ!」

 

 といったところで、音も無く現れた水色の影が、後ろから男の首筋に呵責ない当て身を加え、間一髪のところで事案を防いだ。

 

「まったく、中々戻って来なさらないから、何をしてらっしゃるのかと思えば……興味深い人に抱きつくその癖、いつか本当に逮捕されますよ?」

 

 ダウンさせた中年を地面に放置して、水色のショートカットを揺らし、ふかーい溜め息を女性はつく。

 

「た、助かったぁ……ありがとうございます」

「ええ、こちらこそ、身内が迷惑をかけてごめんなさいね。シャルル君」

「あれっ? えっと、あの、僕達どこかで……?」

 

 余りにも自然な呼ばれ方に、一瞬だけ面識があるのかと錯覚してしまうが、

 

「いえ、間違いなく初対面。私は更識楯無、この学園の生徒会長よ」

「更識、さんですか?」

「あぁん、つれない呼び方はお姉さんイ・ヤ♪ 楯無って呼んでちょうだい。私もシャルル君って呼ぶから」

「は、はぁ……」

 

 人の心にスルスルと入り込んでくるスタイルや、柔らかい態度でありながらも有無を言わせず話を進める話術、そして何よりも自分の事をお姉さんと自称する姿が、どことなく姫燐と被る部分を感じながらも、隙だらけの彼女とは比べ物にならないぐらい洗練されているといった印象を、シャルは受けた。

 

「ほら、一夏くんも、正気に戻って」

「あ……楯無さん……? 俺は、俺は一体、ナニカサレテ……」

「大丈夫よ。この人、人体改造は流石に専門外だと思うから」

「いや、案外興味が尽きないジャンルではあるぞ、楯無くん?」

 

 と、完全に入ったように見えた手刀も何のそのと、白衣に付いた土埃を払いながら、まだ微妙に目が死んでいる一夏とは対照的に、テンションと輝きを増しながら男は楯無の肩に手を置いた。

 すぐに置かれた指を、本来曲がらない方向に曲げられかけて呻いているモノの、彼女の対応からは『慣れ親しみ』が伺えることから、ただの不審者ではないことは間違いなく、そして身内、おじさまと楯無に呼ばれていたことから、大体の察しこそあれど、確信に変える為にシャルは問いかける。

 

「この人は、楯無さんの伯父、なんですか?」

「んー、血の繋がりは無いのよ。ただ」

「むかーし更識さん家のとこで、顧問技術師をやらせて頂いていてね。四年ほど前に一年ほどバイト感覚でだが、その時からの仲だよ。なぁ、楯無く」

「いい加減しないと、次は両指でリボン結びが出来るようにしますわよ? おじさま」

 

 と、また抱きつこうとした所を、やんわり拷問宣告で遮られ、面白くなさそうに口を尖らせる中年男性。外見からは考えるまでもないが、立ち振る舞いからはどちらが年上なのか分かったのもでは無い。

 

「さ、アリーナに戻りましょうか、おじさま。いつまでも皆を待たせては」

「ああ! それよりも君、織斑一夏くん!」

「は、はいぃ……?」

 

 話を見事にぶった切られ、笑顔がどんどんと意味深に深みを増していく楯無を見事にスルーし、男はようやく目の光を取り戻して来た一夏に詰め寄った。

 

「あ、あの、お、俺が一体、どうかしましたか……?」

 

 思わず言葉も身体も固まってしまうが、男は意にも介せず新しく取り出した未着火の煙草で、一夏の身体を指すと、

 

「君、最近、身体を休めていないね?」

「えっ……!?」

 

 今までのノリからは考えられない突然の鋭さに、思い当たる節がある一夏の身体が、別の衝撃で硬直する。

 

「大胸筋腹筋前腕筋ハムストリングスその他諸々一通り、筋トレで鍛えられる個所の全てに疲労が過度に蓄積されているようだ。身体を鍛えるのは結構だが、これでは筋肉が完成するまえに破損してしまう。空き時間のほぼ全てをトレーニングに費やすならば、そこに適度な休息も加えたまえ」

「はぁ!? なっ、どうして!?」

 

 ここ最近の生活リズムまでピタリと言い当てられ、一息つくように煙草に火を付けたこの男の、あまりの得体の知れなさに混乱と動揺を隠せない一夏に、助け船を出すよう楯無は、珍しく嫌そうな顔を隠さず、

 

「おじさまの特技よ、一夏くん。この方は、抱きつけば相手の事が大体分かってしまうのよ」

「ワハハ、素肌と素肌で触れ合えば筋肉が分かり、文字通り相手の全てが分かる! 言葉で取り繕うが、肉体は常に嘘はつかない。相手が心も体もフルオープンにしてくれれば、内科的な病巣だって見抜いてみせるとも」

「そ、ソウナンデスカ……」

「すごい……だから俺の身体の事も分かったのか……」

 

 だから、これは定期健診なのだよ。と、締めくくり、懲りずに楯無に抱きつこうとして、今度は腕を極められ「がああああ」と悲鳴を漏らす男へと、素直な関心を見せる一夏に、若干ドン引きするシャル。

 

「私の持論で、前々からずっと講義でも学会でも提唱しているのだが、どうにもウケが悪くてなぁ……あ、ちょっと心労が多いみたいだね楯無くがあああああ」

 

 まず、前提条件のレベルが高すぎるからじゃないでしょうか。

 と、シャルの額から汗が落ちるが、そういえば楯無がアリーナに待たせている人が居ると言いかけていたことを思い出し、そのことを口にすると、

 

「あら、いけない。早くヒメちゃん達の所に戻らなきゃ」

「ヒメちゃん……?」

「ん、キリ? キリが今、アリーナの中に居るんですか楯無さん?」

 

 と、キリの名前が出た瞬間、やっぱり喰い付くのねと少し微笑ましさを感じながらも、胸元から『残念』の二文字が描かれた扇子を開き、

 

「ごめんねぇ、一夏くん。今日はちょっと、関係者以外は第二アリーナに立ち入り禁止なのよ。だから二人とも、今日の所は」

「ん、構わんよ? 入れよう」

「お引き取りを……うんっ?」

 

 と、自分の会話へと、唐突に挿入された矛盾にニヤついていた楯無の口が止まり、

 

「私もIS学園名物、男性操縦者のお二人には、ぜひどうにかしてコンタクトを取ろうと考えていたのだよ。やぁ、その手間が省けて丁度良かった」

「ちょ、ちょっとお待ちになってくださいおじさま!」

「それに、男性操縦者独特の意見や視点も、ピチピチしてフレッシュで面白そうだ。ぜひ取り入れてみたい。ささっ、茶と菓子も出すよ。楯無くんが」

 

 と、いきなりな事態に困惑気味の一夏とシャルの肩を両腕に抱くと、背後から突き刺さる楯無の制止もお構いなしに、そそくさと男はアリーナに戻ろうとする。

 とりあえず言いたいことだらけな二人の事が、まるで手に取るように分かると言いたげに男は豪快に笑い飛ばし、

 

「ハッハッハ、安心したまえ。関係者以外立ち入り禁止なら、君達は今から関係者だ。私が決めた」

「そ、そんなんで良いんすか……?」

「そんなんで良いっすとも、私が最高責任者なのだからな」

「おじさんが最高責任者なんですね……」

 

 二人の間で、この人を最高責任者にして大丈夫なのかと、至極まっとうな意見がシンクロし、

 

「……あれっ!? 最高責任者!?」

「……うんっ!? 最高責任者!?」

 

 また、とびきりの驚愕が二人の間でアクセルシンクロした。

 

「良い反応だよ二人とも。男性操縦者はノリツッコミの才能が必須なのかね?」

 

 満足げに二人の肩を叩く男は、ナイスミドルな髭面とは打って変わった、少年が自分だけの宝物を見せてくれるときのような、無邪気な笑みを浮かべ、

 

「それに、少々寂しいと思ってたのだよ。娘の晴れ姿を見るのが、あの程度の人数だと言うのは」

「娘さん、ですか……?」

「娘……って、やっぱり……!」

 

 なんとなく、違和感ではあったのだ。

 一夏の中に渦巻いていた、初対面でこれほどまでに馴れ馴れしく、自由奔放な態度で接されても、不快感は無く、むしろどこか安心すら感じていたような、そんな感覚。

 これの答えが、もし自分の頭を掠めたデジャビュ通りを裏切らないのだとしたら……!

 アリーナ内部へと続く扉が、開く。

 一夏達の眼線に飛びこんできたのは、広大なアリーナの中心で、専用のショートパンツ型のISスーツを纏い、様々な機材に繋がれながら待ち惚けであった、赤い髪をした少女の背中。

 

「ったく、おせーぞ親父ッ! いつまでコレに繋がってりゃいいんだ!」

「ハハハ、スマンね我が娘よ。すぐに始めよう、タイミングは委ねる」

「ったく……待ってました、ってな」

「起動コードは分かっているな、キリ!」

「ああ、いくぜッ!」

 

 予感が確信に変わった一夏の眼前で、父と子は叫ぶ。

 

『Must go on! ブリッツ・ストライダー!』

 

そのコードに込められた、進み続け、決して止まることのない意志は輝きとなり、腕のギプスを邪魔だと言わんばかりに吹き飛ばし、姫燐の身体を包み込んだ。

 

「ブリッツ・ストライダー……?」

「これは……IS!?」

「ここからが少々骨でね。測定開始」

 

 あっけに取られる二人の横で、気付けば男の正面には半透明なコンソールが出現しており、

 

「コア安定、IS適正Aのまま不変、右腕メディカルサポート起動確認」

 

 高速で流れ来るデータの全てを、今までの飄々とした姿勢から一変した、一人の男としての強い眼差しで処理していく。

 

「PICアクティブ、装甲固着完了、駆動系各種問題無し」

 

 徐々に輝きが消えていくにつれ、その全容が肉眼で捕えられるようになってくる。

 全体的なシルエットは、シャドウ・ストライダーを彷彿とさせる、二の腕と脛辺りを覆う筒状のガントレットとレギンズから、ブレードが外れ、V字の補助ウィングのようなモノが付いた程度であった。

 しかし、類似は紺がメインのカラーリングと、それだけ。

 重厚で全身を覆うフルアーマーのようであった装甲は殆どがオミットされ、逆に胴体や腰元、首元に肩や下腹部といった、急所と他に少しだけと相当に薄い。

 インナーであるISスーツが見えているほどであり、フルフェイスだった頭部も鋭利な形状をした左半分を覆うハーフマスクのようなバイザーだけと、あの屈強そうであったフォルムが嘘のように軽装だ。

 あれだけの大怪我を負ったのに、装甲を増やすどころか大幅に減らして来たその姿は、どうにも一夏の不安を駆り立てたが、

 

「よしキリ、ベースは問題ない。マニュアル通りにやってみろ」

「あいよ」

 

 と、姫燐が返事をすると同時に、唯一ガッチリと首元まで覆う胴体アーマーの背中、それと両手足の筒状のパーツに一つずつ装着された、計5つのエメラルドグリーンをしたクリスタルが光を放ち始めた。

 

「『オラトリオ・ジェネレーター』起動ッ!」

 

 その掛け声と共に、オラトリオ・ジェネレーターと呼ばれたクリスタル達は更なる強い輝きを放ち、

 

「そうだキリ、『カオス・オラトリオ』はお前の意志により、姿を変える。コントロールするんだ」

「分かってるっての……つまり、こういうことだろ、っと」

 

 瞬間、胴体と両手足の装甲から金色の液体が吹き出し、

 

「んで、えーっと……よし、モード・オンステェージッ!」

 

 姫燐が右手を天高々へ突き上げると、指をパチンと弾く。

その瞬間、液体はまるで意志を持ったようにうごめき、生身で露出していた部分を瞬く間に覆っていった。

 

「ん、あっ、むっ……っ!」

「慣れない感覚だと思うが、集中を切らすなよ?」

「だい、じょうぶだ、コツは……なんとなく掴んだ!」

 

 その発言が真であったように、生物的なうごめきは見る見るうちにナリをひそめていき、終わってみれば液体は、ラバースーツのように柔軟でしなやかなインナーとして、機体と一体化していた。

 

「オーケーオーケー……つまりは、こういうことって訳だ」

 

 ニッ、と余裕を取り戻した笑顔を浮かべると同時に、首元の装甲の後ろが、小さな翼を広げるかのように二対に展開し、そこからまた金色の液体が吹き出して、ふくらはぎ程の長さで帯状になり――まるで、マフラーのような形状へと変化して固着する。

 

「どーよ親父、完璧だろ?」

「うむ、エクセレントだキリ。これで私の最高傑作、ブリッツ・ストライダーはお前のモノだ」

 

 そうして新たな力を得て、振り返った姫燐の姿を見た一夏は、まるで心臓でも取られてしまったかのような、奇妙な感覚に支配されていた。

 見たこともない、聞いた事もない技術で作られた、流動する液体を操る事が出来るIS――の存在よりも、ただ只管に、それを纏う大自然のように力強く大きな姫燐の姿が、強烈に、鮮烈に、織斑一夏の眼に今まで目にしてきた何よりも、

 

「…………綺麗だ…………」

「んあっ? 一夏にシャルルっ!?」

 

 と、そんな呟きが誰の耳にも入らず、丁度風に吹き飛ばされてしまうほどの驚愕が、第二アリーナに響き渡った。

 

「おまっ、何でここに、っていうかどうして親父と一緒に居るんだよ!?」

「こ、こんにちは朴月さん。僕達、ちょっとヤボ用で第二アリーナの前まで来てたんだけど」

「そこで私の権限により、関係者になってもらった」

 

 てことは、さっきのちょっと変な声出た部分見られてたのかよ!? と、頭を抱え膝を折る姫燐にシャルは駆け寄り、男の方へと振り向くと、

 

「ドクター……えっと」

「永悟(えいご)、朴月永悟が私の名前だよ」

「では、ドクター・エイゴ。これは、貴方が作ったんですか?」

「うむ、その通り。ブリッツ・ストライダー――我が研究と技術の結晶にして、記念すべきカオス・オラトリオ搭載フレーム、その栄えある第一号機だよ、デュノアくん」

 

 と、目線の意味を察するように、永悟が触っても大丈夫だと言う事を伝えると、さっそくシャルは屈んでくれたお陰で届くようになった、太もも周りに触れてみる。

 

「凄い。確かに液体だったはずなのに、確かな弾力と剛性がある。本当にゴムみたいだ。一体どんな材質を使っているんですか?」

「フフフ、知りたいかねぇデュノアくん?」

「しゃ、シャルルや? そのだな、あんまりベタベタ太もも触るのは」

「ぜひ、お願いします! 液体をゴムのようにする事が出来るだなんて、衝撃吸収材にも応用が効くだろうし……これは革命的な技術ですよドクター・エイゴ!」

「うむ、勤勉な若者は好きだよ。それと驚くのはまだ早いが、先に骨子となった理論の解説から始めようか。まず、私が注目したのはロシアと中国が共同研究していた自然物質兵器転用計画でねぇ」

「あ、それなら僕も聞いた事があります。でもあれは、IS相手に充分な破壊力が中々得られず、未だに一部試験的な武装がいくつか製造され第三世代に搭載されているだけでは」

「おーい、親父―、シャルルー……ほんとディープな会話はいいんだが、ナチュラルに太もも触りながらってのは、聞いてくれー……」

 

 と、本人の意向をガン無視した、技術屋トーク特有の専門用語ツーカーは、このまま姫燐が羞恥心の限界が来てキレるまで続くのかと思われたが、

 

「はい、おじさまもシャルルくんも、その辺でストーップ」

「あいたっ」

「ほごぉっ!!?」

 

 影も形も察せられないのに、気がついてみれば目が離せない存在感を放つ少女が、流れるような動きで、シャルの頭部に軽いチョップを、永悟博士の喉元に割と重めの手刀を加えながら現れた。

 

「か、かた姉ぇー……」

「まったく、こう言う時はガツンと言わないとダメよ、ヒメちゃん?」

「いやこう、親父は別にどうでもいいんだが、楽しそうなシャルルに水差すのもちょっとって思って……」

「へっ、あっ!? ご、ごごごごめん、朴月さん! ぼ、僕ったら、女の子の太もも触ってなにを悠長に……!」

「どうでもいい扱いは流石にパパ悲しいぞキリ……」

 

 一気に騒がしくなった第二アリーナの様子に溜め息を付きながら、楯無は先程からずっと一人だけ棒立ちしたままな男の方へとこっそり歩み寄る。

 

「いーちかくん? お姉さんちょっと言いたい事があるんだけれど?」

「………」

「どうしてさっき、ヒメちゃんに助け船を出してあげなかったのか、お姉さんちょーっと気になるな―って」

「……………」

「もし一夏くんがあれよね、ヒメちゃんがそういう目に会うのが好きだーっていうのなら、ちょっと二人だけで、秘密のお話しをしないかしらぁ?」

「……………………」

「あぁん、お姉さん怒ってるわけじゃないのよぉ。ただちょっとね、今後の『二人』のためにも、一夏くんの性癖について正しい理解を深めとく義務が私には…………一夏くん?」

 

 初めは、詰め寄る自分の威圧感に声を出せないのかと思っていたが、口を半開きで一点だけを見つめている様子からは、どちらかと言えば存在を認識されていないから反応を返せないようだと楯無は思い、

 

「一夏くーん?」

「………………」

 

 目の前で、手をヒラヒラさせてみたり、

 

「おーい、お姉さんガン無視は流石に怒っちゃうわよ―?」

「………………」

 

 軽く額をパチパチと叩いたり、

 

「あらあらぁ、それともお姉さんとの秘密のお話しに……こういうの、期待しちゃってるぅ?」

「………………」

 

 艶っぽい仕草で前かがみになりながら、ワザとその豊満な胸元を開いて、風を送るように谷間を見せつけてみたり、

 

「ね、ねぇ、一夏くぅん? ほらほら、お姉さん割とガツガツした子の方が好きなのよ? だからね、そ、そろそろ何か反応ぐらい」

「なにをやっているんだお前らは」

「あぼぁっ!!!?」

「あらっと!?」

 

 女のプライドを賭けた一人チキンレースへと突入しかけていた楯無と、呆けていた一夏の頭に、目にも止まらぬ帳簿スパンキングが襲いかかった。

 楯無は何とか扇子で防いだモノの、完全に無防備だった一夏は顔面から土を削る勢いで地面にぶっ倒される。

 いくらムキになっていたとはいえ、学園最強の名を欲しいままにする楯無に回避すら許さぬ一撃を加えられるような人間は、やはりそれ以上の、世界最強の名を欲しいままにする女に他ならない。

 

「あ、あらあら、織斑先生。ご機嫌麗しゅう」

「貴様らが呼んで置いて、ご機嫌麗しゅうはないだろうが。痴女め」

 

 あらやだと後ろを向いて開けた制服の前をそそくさと留めていく楯無を溜め息で見送り、地面にイケメンが刺さったままな弟を、千冬は黒いブーツの先で小突く。

 

「織斑、『一応』目上の人間に話を振られているというのに、何だ今の態度は?」

「ご、ごめん千冬姉……」

「謝る相手が違うだろうが、あと織斑先生だ」

 

 と、まるで猫でも引っ掴むかのように一夏の襟首を掴むと、男一人を本当に猫でも持ち上げるようにひょいと持ち上げ、楯無の前に突き付け「すみません」と謝らせた。

 

「ん……おおお!! そこの貴方は間違いなく本物のブリュンヒルデッ! いつも娘が世話になっております!」

 

 そこに黒スーツの存在に気付いた永悟がやってきて、大きく手を広げ、

 

「その呼び名はご遠慮願います、朴月博士」

「おぶぁ」

 

 まさに抱きしめたいなと体重を乗せたハグを、彼の体重が乗った完璧なタイミングで千冬はかわし、永悟を本日二人目の地面キスへとご招待する。

 流石に父兄には鉄拳制裁はしないんだなと失礼な安心を覚えながら、一夏はふとなぜここに姉がいるのか疑問に思い、口にした。

 

「そ、そういや、ち、織斑先生はどうしてここに?」

「少しは考えろ、バカ者が。生徒が新たな専用機を受理するんだ、担任である私がチェックしなくてどうする」

「そういうことよ一夏くん。ちょっと細々した手続きがあるから、永悟おじさまと織斑先生はあちらの方に。更識と学園のスタッフを待たせていますので」

「ああ、分かった」

「まったく、ストロングな女性が多いねIS学園には……」

 

 いつも通りの威風堂々とした歩き方で、片や鼻の頭を押さえ白衣の土埃を払いながら、二人はアリーナの出口へと向かっていった。

 そして残された二人のうち一人、一夏は改めて、興奮気味のシャルに自分のISを見せびらかし、ご満悦そうなニヤケ顔を浮かべる姫燐の方へと駆け寄る。

 

「キリっ!」

「おっ、一夏。へへん、どーよ? オレの新しい相棒、ブリッツ・ストライダーは」

 

 銃の形をした右手でビシッとポーズを決める、新しいISを纏った姫燐の姿。

酷い怪我を負った原因であるIS自体に、なにかトラウマが残っていないかと渦巻いていた不安は杞憂に思え、一夏は少しだけ安心し、まず一番気になっていた部分を指摘した。

 

「その右腕」

「ん?」

「もう動かして大丈夫なのか? 痛みとかはないのか?」

 

 そう言われ姫燐は少しだけ目を丸めて、自分で作った銃の右手を眺め、一夏がなにを言いたいのかを察した。

 

「ああ、この前の怪我な。元から神経には達してねぇ傷だし、もうほっとんど塞がってるんだが……一応、今も治療中ってとこかな」

「でもその腕、普通に動かせてるよな?」

「ああ、それなんだが……まぁ、見てなって」

 

 と、目を軽く瞑り、右腕を真っ直ぐに伸ばすと、

 

「よっと」

 

 その右腕のガントレットが輝き、液体がまた手首から噴出したかと思えば、直ぐにファンタジーな世界に出てくるスライムのように右手に纏わりつくと、すぐさま形を整えていき、

 

「ふふん、バァン」

 

 と、元の手から二倍ほどに大きくなった右手で、先程と同じような銃の形を作って見せ、一夏に突き付けた。

 

「この技術、カオス・オラトリオはさ。ナノマシン使って流体を堅くしたり柔らかくしたりと『状態』を自由に変えることが出来るんだよ。そのナノマシンの中に、傷の治りを早くする医療用のも混ぜ込んで入れてあるんだとよ」

「す、すげー……」

 

 そうやって突き出された指を恐る恐る触れながら、一夏は感嘆の声を上げる。

 先程まで確かに液体だったはずの物体は、今は釘でも打てそうなほどに強固な個体へと姿を変えている。

 

「こうやって身体にスーツみたいに纏う事で、細かなダメージを軽減するゴムみたいなインナーにもなるし、当然元から装甲がある部分にも硬質展開すりゃ、それなりに堅牢な装甲になるらしいぜ?」

「でも朴月さん、この液体って何で出来てるの? さっき言ってたオラトリオ・ジェネレーターって装置で作ってるみたいだけど」

「んー、ジェネレーターが重要なのは確かなんだが、コイツが作ってるのはナノマシンだけで、この液体自身は別のモンで作ってるんだ」

 

 一夏の隣でやはり飽きずに、大きく形成された右腕をノックするシャルの質問にも、姫燐は昨日渡されたマニュアルに書いてあった記述を思い返し、シャルはともかく一夏にも分かるように専門用語は噛み砕いて言葉にしていく。

 

「簡単に言うとな、それISエネルギーなんだよ」

「はぁ!?」

「へぇー、凄いなぁ」

 

 熱したヤカンでも触ったように手を引っ込めたシャルと、対象的にのんびりと感心したように顔を近付け別角度で眺める一夏。

 

「う、うそ……? ISのエネルギーを外部に放出し、形状を固定に……? それってつまり、絶対防御の理論と同じじゃないか!?」

「あ、絶対防御な。それは俺も知ってるぞ。ISのエネルギーを使う生体維持装置みたいなもんだろ?」

「ザックリしてんなぁオイ……」

「そんなザックリして良い問題じゃないよ一夏!」

 

 戦慄を隠そうともせず、シャルはこの眼前にある技術の結晶が、どれほど前人未到の代物であるのかを解説していく。

 

「えーっと、ISには絶対に弄る事が出来ない部分――いわゆるブラックボックスが数多に存在するのは知ってるかな?」

「ああ、昨日見せてくれた白式の中身みたいにか」

「ありゃ、特別中の特別だぜ一夏。俺達専用機にも量産型の奴にでも、絶対に弄れない部分が存在してるんだよISには」

 

 篠ノ之束が作り出し、世界へと解き放ったISは、確かに世界の軍事バランスを根底から覆し、世界各国がこぞって開発に熱狂していても、未だ解析が一向に進まない部分――即ちブラックボックスが様々な部分に存在している。

 それは、ISコアの生成方法から始まり、第二移行の仕組み、適合率の基準など有名な所から、普段は外す意味が無いとはいえ、この、

 

「絶対防御もまた、一切仕組みが判明していないブラックボックスでね。ISのエネルギーを消費して形成されていることと、普段は不可視であること、そして搭乗者を致命的なダメージから護ってくれることぐらいしか判明していないんだ」

 

 ほへーと、分かっているか分かっていないのかイマイチハッキリしない態度の一夏は置いておき、シャルの疑問への答えを、昨日読んだマニュアルの記憶から引き出していく姫燐。

 

「確かにISのエネルギーを一定の形状にーっていうのは似てるが、流石に親父もそこまでぶっ飛んでねぇよ。コイツは只、エネルギーに混ぜ込んだナノマシンが発する、オレの脳波と連動する電気信号で反応を起こし、形状を制御しているって代物さ」

「で、でもまず、流体をナノマシンで制御するっていう技術自体が」

「あら、それ自体は割と昔から存在してるわよ?」

 

 またもや気配を一切感じ取らせず、横から『発展』の二文字が書かれた扇子で口元を隠しながら、楯無が会話に入って来る。

 

「実はおじさま、朴月永悟博士の本分は流体力学でね。私が四年前、自分のISで同じ、流体をナノマシンで操作するって部分がどうしても上手くいかなかったから、おじさまに調整を手伝ってもらったことがあるのよ。私がヒメちゃんと出会ったのも、その時」

「流体力学……ヒメちゃん?」

 

 閉じた扇子が差し示した方向へと、シャルも視線を動かした先には姫燐がおり……、

 

「そ、こ、は、い、い、と、し、て、だ! 親父は以前から、生成法以外なんも分かっちゃいねぇISについて興味深々でさ。かた姉のIS弄った時に使った技術とか発想を発展させて、コイツを作ったって言ってたな」

「つまり私のISと、可愛い可愛い妹のヒメちゃんのISは、私達のカ・ン・ケ・イと同じように姉妹機ってことなのよ~。ねぇ~、ヒメちゃ~ん」

「ヒメちゃんじゃねぇ! あとイチイチ煽んじゃねぇ! 気にしなくていいからなシャルル!」

「う、うん……」

 

 すごく気になる。

 そんな率直なコメントは空気を読んで控え、素直に彼女のISを褒める事にする。

 

「でも、本当にすごいや。ISのエネルギーに、電気信号で形状が変化する性質があっただなんて、考えもしなかった」

 

 その意見に、若干置いてけぼりだった一夏もウンウンと賛同し、

 

「電気を流したらビックリして固まるって感じなのか。確かに面白い発想だよなぁ」

「そんな一夏、動物みたいな言い方……ん?」

「あら」

「ほー」

 

 なぜだか、一様に丸くなった目を向けられて、また何かボケたことを言ってしまったのかと冷や汗を流して眼を逸らした一夏だったが、

 

「ほんと、こういう鋭さが侮れねぇよなぁ、お前」

「本質を捉える力、とでも言うのかしら。貴重なセンスね、大切にしなさい一夏くん」

「そうか、確かにISは生物的な要素が多々含まれることも学会で提唱されているしエネルギーを血液、いや筋肉と例えるなら電気信号で固まるのも確かにそこまで的外れな意見でもないのかある意味一夏のような見解こそISのブラックボックスを解き明かしていくのには大切な……」

 

 なんだかよく分からないが褒められてる様で、少しだけ背中がムズかゆくなった。

 

「ま、なんにせよ、使いこなせるかはオレ次第だ。かなり自由に形を変えられるが、言いかえりゃ今までの戦法とは外れた部分も相当あるだろうからなー」

 

 ISを纏いながら軽く身体をほぐすように準備運動する姫燐に、思わず一夏とシャルは距離をとり、

 

「これからテストランするの、朴月さん?」

「あーまぁ、テストランっていうか基本は前の機体とそんな変わらねぇんだよな。普通に飛べるようになったぐらいで、っと」

 

 言い終らない内に、PICを起動させ、軽く宙に浮いて見せるブリッツ・ストライダー。

 普通のISでは当たり前のことではあるが、確かに以前のシャドウ・ストライダーでは出来なかった芸当だ。

 

「普通の動作ならオレは問題ねぇし、試すのならオラトリオの安定した形成とかなんだが……こんなん、実戦形式じゃなねぇと試す意味ねぇからなぁ」

「ん、なんでだよキリ?」

「そらそうだろ。実戦になりゃ常に戦況は変わり、それに合わせてこっちも形状を変えないといけないんだぜ? そんな状況でサクッとベストな形状を作れねぇと、ただのオモシロ一発芸だ」

 

ようは、マニュアル通りにやっていますとはアホの言う事だって訳さ。と締めくくる姫燐の言葉に、

 

「ふぅん……実戦形式ねぇ……♪」

 

 怪しく、そして楽しげに。『天啓』の二文字が書かかれた扇子を開き、楯無が呟いた。

 

「なら、模擬戦をしないかしらヒメちゃん?」

「模擬戦?」

「私達四人で、タッグを組んで、ね?」

「私達……四人!?」

「た、タッグだって!?」

 

 いつの間にか巻き込まれていることに定評がある男共二人のリアクションに満足げに頷いて、楯無はザッと自分達が立つ第二アリーナをアピールするように両手を広げる。

 

「だってほら、丁度いいでしょう? 今日一日、ここは私達の貸し切りだし、全員専用機持ちだから量産型を借りる手続きも要らないわ」

「た、確かにそうだけどよ……タッグかぁ、やったことねぇんだよなぁ」

「お、俺もです」

「僕も、ずっと社の訓練プログラムばっかりだったから……」

 

 イマイチ反応が鈍い一同を扇動するように、各々が反応しそうなワードを、楯無は並べ立てていく。

 

「百聞は一見にしかず、一見は一経にしかず。女は度胸、なんでもやってみるもんよ」

「俺、男なんですけど……ほら、シャルも」

「え? あっ、はい! 僕も男です!」

「それに、今度やる学年別トーナメントもタッグなのよ? ここで少しでもタッグの勝手を経験しておくの、絶対に悪い事じゃないとお姉さん思うんだけど」

「た、タッグトーナメントやるんですか!?」

「なっ、マジかよかた姉!?」

 

 あら、まだ通達されてなかったかしら? とワザとらしく、自分で自分の頭を「お姉さん失敗っ♪」と軽く叩きながら、

 

「それにね、ISは稼働時間――ISと一つになった時間が長ければ長いほど、まるで自分の身体の一部となっていくように馴染んでいくの」

「自分の一部に……白式も、そうなのか……?」

「だからね、『強くなるため』の手段としては、模擬戦って結構大切なことだったり」

「やります! 俺、タッグだろうとやってみせます!」

 

 はい、まず一人。と、喰い気味に釣れた一夏をよそに、今度は熟考している様子のシャルの方へと向く楯無。

 

「それに日本、フランス、ロシア、それと全く未知の専用機同士の戦闘だなんて、滅多にあるものじゃないわ」

「ん……」

「こんな数多くのデータが飛び交う貴重な機会、みすみす逃すだなんてお姉さん考えられないっ」

「確かに……これだけの機体が揃った模擬戦、今を逃すと二度とないかもしれない……」

「うんうん、じゃあ決まりねっ♪」

「ええっ!? ま、まあ構いませんけど」

 

 と、半ば強引に二人目も参加を取りつける。

 

「うぇ……お前ら、やる気かよ」

 

 だが、意外にもこう言ったことに一番ノリノリで参加して来そうな姫燐だけは、未だにイマイチ煮え切らない態度を明確に示していた。

 

「あらヒメちゃん。模擬戦をやりたいって言ったの、貴方じゃない?」

「そ、そら模擬戦はやりたいけど……相手、かた姉だろ?」

 

 本当に彼女らしくない弱音に、一番驚いたのは一夏である。

 

「どうしたんだよキリ。楯無さんだと、何か都合が悪いのか?」

「いやまぁ、都合が悪いっていうか、相手が悪いって言うか……」

 

 と、顔を赤くして躊躇いがちだが、一夏の耳にこっそりと顔を近付けると、

 

(オレさ、あの人と戦うの、正直イヤなんだよ……ほら、なんていうか……た、大切な、姉さん、だし)

(あー……)

 

 確かにそれは戦い辛いと、一夏も彼女の心情を悟った。

 彼女の戦法はお世辞にも行儀が良いとは言えないし、割とダーティーでラフな戦闘も得意としている。

 そして何よりも――あの、彼女の中に潜む、もう一つの自分の存在。あれが万が一にでも姉に向けられる自体だけは、許容できるはずもない。

 例え模擬であろうとも、それらを家族と認識している相手へと向けるのが躊躇われるのは、同じ大切な姉を持つ一夏には痛いほどよく分かった。

 もし、自分が千冬姉に襲いかからなくてはならなくなったら――瞬殺される未来しか見えないが――それまでに、強い葛藤が産まれるであろうことは想像に難しくない。

 

(戦力的に考えても、オレとかた姉が組む訳にはいかねぇだろ? シャルもお前もやる気だし、ワガママ言ってらんねぇのはあるけどさ……)

(キリ……)

 

 流石に、嫌という彼女の意見を無視してまで模擬戦をやろうとは思えない。

 ここはひとつ、最近は慣れっこになってきた汚れ役を買って出るかと、一夏は腹を括ると手を弱弱しく上げて、

 

「す、すみませーん、楯無さん。俺、急に模擬戦なんてとても出来ないぐらい頭痛が痛くて」

「あっ! そうねぇ! ただ戦うのも退屈だし、賭けをしましょうか!」

「え、あ、か、賭け?」

 

 と、姑息でしょうもない嘘を叩き割るような大声で、楯無は賭けを提案した。

 

「戦力的に考えて、私とヒメちゃんが組むのはバランスが悪いから、これは私とヒメちゃんの賭けになるんだけれども」

 

先程の姫燐と同じことを言いながら、豊満な胸元に手を入れ、

 

「お、おい待てっての、オレはまだやるって」

「もしヒメちゃんが私に勝ったら……こ・れ♪」

「いねがッ!?!?」

 

 一枚の写真を、取り出した。

 ドレスのようなゴスロリ服を着て、犬のぬいぐるみを抱き締めた、長くて赤い髪をした幼女が、可愛らしく笑顔でこちらに向けて手を振っている姿が映った写真。それを見せびらかすようにヒラヒラとさせ、満面の笑みを浮かべ、

 

「私が保管している他ぜーんぶの写真、それと元データごと、纏めてヒメちゃんにプレゼントしちゃ」

「ィよぉぉぉし、勝つぞ一夏ァ!!!」

「キリッ!!?」

 

 今までのしおらしい態度から一変させ、心底からわき上がって来る闘志を示すように鉄拳を眼前でガァンと包み、牙をむき出しに吠える。

 

「ちょうど一回、拳でだろうが何だろうが分からせてやる必要があると思ってたんだ……オレがいい加減、昔のオレとは何もかもが違うって証拠をよぉ!」

「あらあら自信満々ねぇ。じゃあ、私が勝った場合はー」

「なんでも構わねぇぜ! 犬耳でも首輪でも、なんでも持ってこいや! ペットだろうが性奴隷だろうが総受けだろうが、何にでもなってやろうじゃねぇか!」

「あらっ♪」

 

 その場の勢いで、またまたとんでもない事を口走り始めた姫燐を、慌てて一夏がたしなめる。

 

「ま、待て待て待てキリ!? お前今、色々とメチャクチャなこと言ってるぞ!?」

「んなこたぁ知るかッ! こんなチャンス二度とねぇんだ、オレは勝ァつ!!!」

 

 瘴気すら発しそうな闘気と呼応するように、身体を覆っているエネルギーも逆立った猫の毛のように――いや、カオス・オラトリオによって姫燐と一体化しているといっても過言ではない今のエネルギーは、まさに体毛とさほど変わらなかった。

 こうなっては止められないと心の中では察していながらも、危険な橋をタップダンスで渡ろうとしている彼女の姿に心中おだやかでいられるほど、一夏は豪胆ではない。

 

「ねぇ朴月さん、今の写真に写ってた女の子って……」

「ハハハハハハハ! よろしい、ならばオレらが求めた戦争だフゥーハハハハハァ! ほんっとIS学園は地獄だぜぇ!」

 

 だが、そんな彼の心労もどこ吹く風。ISを一端解除しISスーツ姿に戻った姫燐は、待機形態である稲妻を纏った太陽のチャームが付いたチョーカーを首につけ、動かせるようになった右腕で力強く楯無を指さした。

 

「20分だ! 20分後にここで決着付けてやるッ!」

「ええ、構わないわよ。じゃあ、組み合わせだけど」

「うっし、作戦会議だ! 行くぞ一夏ッ!」

 

 と、時間だけ吐き捨てるように決めつけると姫燐は一夏の手を引っ掴むと、

 

「あららっ?」

「え、お、おい、キリ!?」

 

すぐさま回れ右をして、問答無用で待機ドック目がけて大股で彼を引きずっていった。

 強引であったが、元々楯無と姫燐が別れること以外は何の取り決めもしていなかったため、残された二人は特に文句も言わず――むしろ、さっそく先程の写真を仲睦まじく一緒に眺めている気がするが――組み合わせは自然と決まった。

 

「ちょっと待てってば、キリ!」

「おっとっ、たっ!」

 

 と思いきや、通路に入って割とすぐに、さっそく解散の危機がキリ側のチームに訪れた。

 思ったよりも強く掴んだ手を振りほどかれ、少しバランスを崩しながらも姫燐は一夏に向かいあう。

 

「んだよ、オレと組むのがイヤだってのか?」

 

 ISスーツの上から腕を組み、眉間にシワを寄せて一夏を睨みつける姫燐。

 

「そうじゃないんだけど、その、さ……えっと……」

 

 うつむきがちで視線を逸らす、まるで恥じらう少女のような態度を大の男にされ、只でさえ気が立っている姫燐のイライラは更にボルテージを上げていく。

 

「言いたい事があるならハッキリ言いやがれ! 乙女か!」

「ご、ごめん……ただ、さ、俺、思うんだけど」

 

 姫燐に一喝され覚悟を決めたのか、一夏は真っ直ぐに彼女の眼をみて、大きく息を吸い、胸から絞り出すような声で、

 

「本当に俺が、タッグパートナーで良かったのか?」

 

 そんな、本当に純情な乙女のような台詞を吐き出され、

 

「……はぁぁ?」

 

 姫燐は露骨に『お前はなにを言っているんだ?』と、表情で訴えるしかなかった。

 

「だ、だってほら、考えるまでもないだろ? 俺よりシャルの方が、ISとか色々詳しいし、武装だって近接武器一本じゃないからさ。本気で勝つなら、俺なんかよりもシャルをパートナーに選んだほうが……良かったんじゃないかなーと……」

 

 自分で言っておいて、自分でヘコむネガティブな姿。

 それは入学以来、ずっと彼を見てきた姫燐が、深―い溜め息をつくには充分すぎるほどに弱々し過ぎる姿であり、ギプスが外れた右手に力が込められて行く。

 握り拳は、弱々しく背筋が曲がった一夏の鼻柱目がけ風を斬る勢いで飛ばされ、そのまま鋭い痛みを与えて走り抜ける――

 

「ていっ」

 

 前に、寸止めされた拳から飛び出した人差し指が、軽く一夏の鼻を叩いた。

 声が漏れすらもしないほど、軽い一発。

 だが、この一発と、

 

「ったく、ほんとバカ」

 

 出来の悪い息子に向けるような、呆れながらも深い優しさを孕んだ笑顔は、暗い感情を根こそぎ吹き飛ばす、暖かな破壊力に満ち溢れていた。

 

「当然、オレは本気で勝つつもりだぜ一夏。あったり前じゃねぇか」

「だ、だけどな」

「まず、オレのISは間違いなくお前の白式とケンカすれば不利だ。ぶっちゃけ相手したくねぇ」

「えっ、そ、そうなのか?」

 

 これは昨日、父親のマニュアルを読んでいた瞬間から懸念していたことであった。

 エネルギーの形態を変化させ戦うカオス・オラトリオの機能、即ちそれはブリッツ・ストライダーの強み全てをエネルギーに依存するということであり、

 

「お前の零落白夜。あらゆるエネルギーを消滅させるアレを、ISエネルギーと直結しているオラトリオ結晶に当てられたら、下手したら全エネルギーの消失だってありえるかもしれねぇからな」

「そうか、だから白式は敵に回したくないのか……」

 

 場のノリと勢いではなく、冷静で合理的な分析からの人選であったことに、納得と……ほんの少しだけの、残念が一夏の胸に落ち、

 

「それに、だ。作戦組むにしても、お前のことなら分かるが、シャルルのことはまだまだ分かんねぇからな。あの人に勝つなら、全力全開、万全の態勢で挑まねぇと、な?」

「…………?」

 

 そこで、姫燐に何かを期待する眼を向けられるが、何を求められているのか分からず、一夏の頭にはハテナが浮かぶ。

 

「ほんっと鈍いよなぁ、お前」

「ごめん……」

「はいはい、そんなお前にでも、分かりやすく言ってやるとだなぁ」

 

 めんどくさげに後頭部をボリボリと掻く仕草から、また彼女を失望させてしまったのだと、止まってしまえばいいとすら思えた自分の心臓に、トン、と拳を当てられ、

 

「つまり、オレにはお前が必要ってことさ。頼りにしてるぜ一夏」

 

 姫燐は、悪戯っぽくまた、ケラケラと笑顔を浮かべると、

 

「ホント、こんなこと女から言わせんじゃねーよバーカ」

 

 その拳を、僅かに押し込んだ。

 これで言う事は全部だと背中を向け、姫燐は奥のドックに向かってまた歩き出していく。

 赤い髪を揺らしながら、ISスーツの下の大きな胸を張って、意気揚々と進む背中。

 呆然とそれを眺める一夏の心臓は、

 

「………………ッ!?!? ッッッ!???!?」

 

 本当に破裂して止まってしまうのかと錯覚しそうなほど、大きな高鳴りを響かせ続けていた。

 




これが俺のファンサービス兼クリスマスプレゼントだ!
ギリギリアウトだとか、作者も予想外の後篇へ続くですが、ふざけるな作者コメントは受付中です!

あと、よかれと思って活動報告で某ツールで姫燐を描いてみました!(ダイマ)
皆さまのイメージがそげぶされるかもしれないけど見てください(姫燐が)なんでもしますから!


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第29話「傷跡に純情を」

「白い方が勝つな」

「はぁ」

 

 教員専用のアリーナ内に備え付けられたモニター室で、紅茶を一口飲みながら呟いた永悟の一言に、コーヒーカップを片手に千冬は気のない返事をこぼした。

 

「確かに織斑の白式は白いですが……今回のチーム分けは、織斑達がレッド、更識達がホワイトなのですが」

「いやしかし、淹れてもらって悪いねミス・千冬。流石IS学園、紅茶サーバーまであるとは、このモニター室は良いモノだ」

「…………」

 

 思わず浮かんだ青筋の勢いで鉄拳を叩きこみたくなった衝動をグッと堪え、千冬は社会に出て学んだ処世術を事務的に行使していく。

 

「はい、このモニター室は、あらゆる角度から戦闘を視聴できる他、リンクした全ISのステータスもタスク表示でき、更に緊急時の指令室なども兼ねています。そのため、非常時に備え全スタッフが一週間ほどであれば活動が可能な物資や施設が」

「ん、ミス・千冬。そろそろ時間ではないのかね? ティータイムはここまでにしよう」

 

 科学者はこういう人種科学者はこういう人種科学者はこういう人種と、相当な無理をして自分の悪友の姿を思い浮かべ、後ろから蹴り飛ばしたくなる衝動を何とか飲みこみ、モニターから4機全てのチャンネルへと接続。マイクから通信を飛ばした。

 

「こちらモニター室。ドッグ待機中の各機、聞こえるか?」

『はいはいこちらチームレッド、大丈夫だ、問題ない』

『え、えっと、聞こえてるぜ千冬姉』

『こちらホワイト、聞こえていますわ』

『同じく、ラファール・リヴァイブ、感度良好です』

 

 あとでレッド側はすっ叩くとして、あらかじめ伝えておいたIS学園タッグマッチの公式ルールを再び再確認させるようになぞっていく。

 

「今回のタッグマッチのルールは、IS学園独自のレギュレーションに沿って行う。今までの模擬戦やクラス対抗戦とは異なる部分も多い。この最終確認で、しっかりと頭にたたき込め」

『わ、分かったよ』

 

 と、一番不安な奴からの返答だけ受け、千冬はまず一番重要な部分から説明を始めた。

 

「IS学園タッグ戦公式ルールは、レッド、ホワイトの二組に分かれて戦闘を行い、チームメイトが一人でも戦闘不能判定が下った時点で、戦闘不能者を出したチームの敗北となる」

『つまり、どっちか片方が動けなくなったら、その時点で負けってこったな』

「戦闘不能判定は、シールドエネルギーの枯渇、全部武装のロスト、搭乗者の気絶、このいずれか1つが満たされた時点で行われる。留意しろ」

『特に一夏、お前はその雪片壊された時点で負けだからな、マジで注意しろよ』

「いちいち、余計な、茶々を、入れるな、朴月」

『アッハイ』

  

 あ、これ本気でキレ気味な奴だと判断した姫燐が引っ込んだのをため息交じりで確認し、ルール解説は続く。

 

「制限時間は10分。それまでに決着が付かなかった場合、互いが削ったシールドエネルギーの総量で判定をつける。ダメージを多く与えたチームの勝利という訳だ」

『織斑先生、相打ちの場合はどうなるんですか?』

「同時に戦闘不能者が出た場合も同じだ、デュノア。その時点で試合を終了、時間切れと同じく与えたダメージで勝敗を決定する」

『あくまでタッグ戦って訳なのか……』

 

 一人で戦う場面が一切なく、片方が脱落した時点で敗北となる、あくまで二人で一つのチーム戦。

 人間が、いやあらゆる生命体が古来より縋り、頼り、行使してきた『数』の力は、もっとも原始的で、もっとも単純な力だ。

 このルールはそれを理解していない、自分は、自分だけが選ばれた存在である――そんな慢心を抱いている奴にこそ、明確に鋭い牙を剥く。

 己だけを信じ、周囲を顧みず、他者を犠牲にしてでも勝利を掴み取る……そのような人間が決して国家の未来を背負わぬよう、勝利者になってしまわぬよう、IS学園が真にISを纏うに相応しい人材を産み出すために備え付けられた、それがこの特別ルール。

 相手が相手であるため結果こそ見えていたが、自分が信じる弟が、そして弟が信じる彼女が、タッグルールと言う舞台で、今はどれだけの過程を叩き出せるのか。一人の教育者として、肉親として、戦士として、千冬は期待を込めずにはいられなかった。

 

(さて……学園最強とフランスの代表候補生相手に、どう戦う? 一夏、朴月)

 

 ふっと、緩みかけた表情を、再び平等かつ公平を称える教師の鉄仮面で多い隠し、千冬は準備が完了した各機に告げる――

 

「かっ」

「うむ、各機発進! 各員の健闘を祈るよ!」

「…………ッ……」

 

 そんな締めを永悟に横からかっさらわれ、世界一触れてはならない逆鱗が狂気へと変わりかけていることなど当然知らず、ベースから飛びだした2機と2機が、右と左に別れ、20mほど離れた定位置で向かい合った。

 

「ヘィ、かた姉にシャルルよ。最初に宣言しとくが、アンタらに見せ場はやらねぇし、データも取らせねぇ。悪いが、速攻でケリつけさせて貰うぜ」

 

 ブリッツ・ストライダーを纏った人差し指を向け、姫燐はニヒルに挑発するようなモノ言いをホワイトチームに向ける。

 しかし楯無が纏う彼女の専用機、霧纏の淑女(ミステリアス・レディ)は、まさに妹機を前に、いつも通りの余裕を多分に含んだ仕草で小さく手を上げると、

 

 

「その前に、一つ良いかしらお二人さん?」

「あん?」

「えっ?」

 

 姫燐はもちろん、横で緊張した趣で佇んでいた一夏にも用があるとほほ笑んだ。

 

「ヒメちゃんは今回が初稼働、一夏くんはド素人。それに学園最強の私が全力で挑むのは、少し大人げないと思わないかしら?」

 

 ブリッツ・ストライダーと同じように肌が多く露出した腕部装甲を、自分の力量を誇るように動かしながら、目の前の妹達にわざとらしく楯無は尋ねる。

 

「なんだよ? ハンデでもくれるってのか?」

「さすが、ヒメちゃん大せいかーい♪」

「……あんだと?」

「ハンデ内容は……そうねぇ」

 

 と、楯無は虚空から、自身のISの全長ほどある大型の騎士槍を取り出し、レッド側に見せつけるように柄尻を地面に突き立てた。

 

「私はこの蒼流旋しか使わず――更に、この場所からずっと足を離さない……っていうのはどうかしら?」

「えっ!?」

「…………」

 

 余りにも膨大すぎるハンデに一夏は戸惑いの声を上げ、対象的に姫燐は眉間にシワを寄せて無言で睨みつける。

 

「そちらが良いなら俺は別に構いませんけど、シャルはそれでいいのか?」

「うん、これは更識さんとさっき相談して決めたことだから、僕も了承してるよ。あ、僕は普通に戦うからね」

 

 パートナーもそれを当然のように了承しており、破格すぎるハンデに一夏は本当にそれでいいのかと困惑しながら相手と姫燐に視線を錯綜させた。

 対する姫燐は、どっしりと据わった眼で相手を見据えていたが、

 

「……分かった、そのハンデ。ありがたく受けさせてもらうぜ」

 

 どこか納得しない思いを溜め息にして吐き出すように、彼女の提案を甘受することに決めた。

 しかし、姫燐と同じように納得していいものかと考えていた一夏は、彼女の様子を見て回線を開き小声で相談を持ちかける。

 

『な、なぁ、本当に良かったのかな……あんなハンデ受けちゃって』

『正直、分からねぇ。なに考えていやがる……?』

『そうだよな。あ、もしかして楯無さん、あの写真を全部キリに渡してあげるつもりなんじゃ』

『それはねぇ』

 

 ピシャリと断言した彼女の真剣な横顔と、そこに流れる一筋の冷や汗は確かに告げていた。

 現状は、自分の甘い認識とはまるで違う、暗闇の洞窟に、明りを持たず踏み込むのと等しい状況であるのだと。

 

『いい事を教えてやるよ一夏。あの人はな、確かに昔っからオレを可愛がってくれちゃいたが……』

 

 思い出と共に、指折り数えられる彼女と自分の戦闘記録。

 

『トランプ、花札、鬼ごっこ、かくれんぼ、その他勝ちと負けがあること全部。なんであってもオレに一度も勝たせちゃくれなかった……そういうこった、一夏』

 

 黒星しか瞬かないその思い出は、更識楯無と名乗る今でも、姫燐の警戒心に全力の警鐘を叩き鳴らし続ける。

 なぜ、彼女は大幅なハンデをここまで警戒し続けるのか?

 一夏の抱いていた疑念は、

 

『あの人は昔っからな、超がつくほど大人げなくて、負けず嫌いなんだよ……ッ』

 

彼女の経験談によってすべて晴れると同時に、更なる疑いを生み出していった。

 

『じゃあ、まさかこのハンデも!?』

『賭けてもいい、かた姉とシャルの奴……絶対に何か企んでやがる』

 

 ISを纏っていてもチリチリと背中を焼くこの嫌な感覚は、決して気のせいなんかじゃ無い。あのワザとらしいまでのハンデは、確実になんらかのトラップ、もしくはその布石であると見て間違いないだろう。

 そうやって、人を手の内で踊らせるのを好む性根とも合致している。

 

「さぁ、そろそろ内緒話は良いかしら? お二人さん」

『ど、どうするんだよ、キリ……?』

 

 不安げにこちらを覗きこむ相棒の顔に、姫燐は腕を組み、目を閉じた。

 敵は格上。こちらは不慣れ。挑む道には黒い罠。

 こちらに味方する要素なんてミリもない。状況は最悪と言っても過言ではない。

 であるならば――姫燐がやることなんて決まっているのだ。

 

「ふっ……」

「え、キリ?」

「さっき決めた通りだ、作戦に変更はねぇ」

 

 いつも通りに、カッコをつけて口元を不敵に綻ばせる。

 そして、弱気を蹴っ飛ばし真っ直ぐな一歩を踏み出す。

 決め台詞は――この一言でいい。

 

「勝つぜ、一夏」

「……ああ! キリ!」

 

 全面の信頼を乗せた相槌と共に、文字通り己の全てである一刀を抜いた男の表情に、もはや戸惑いも、迷いもない。

 彼女の期待に応えたい。ただその一心が、精神から余計な感情を削ぎ落していくのを感じた。

 浅く息を吸い込むと共に、雪片二型を腰だめに持っていき、切っ先を相手に水平に向ける。突撃の構え。

 もう言葉は要らない。武器を構えた相手に呼応するように、シャルのラファール・リヴァイブ・カスタムⅡも手持ち式の分厚いシールドと散弾銃を構える。迎撃の構え。

 構えた二人を余所に、姫燐と楯無の二人はまだ身体に極力負担をかけない、リラックスしたような姿勢のまま――それでいて眼光は相手を真っ直ぐに捉えたまま――糸が張り詰めたような空気が互いの間に、ひとつ、ふたつ、みっつ……この睨み合いがずっと続くのではないかと言う錯覚を吹き飛ばすように、

 

『各機、戦闘開始ッ!』

 

 千冬の号令が吹き、火蓋は、切って落とされた。

 

「先手、貰うよッ!」

 

 開幕と同時、散弾の破裂音が響いた。当然トリガーを引いたのは、散弾銃をあらかじめ構えていたシャルだ。

 零落白夜は瞬殺の刃。一人でもダウンすれば負けなこのルールで、間違いなくもっとも警戒しなければならない一撃。

 そして、この一撃を向けられる可能性が高いのは、間違いなくこちらだ。

 決まれば学園最強とマトモに相見える必要が無い点から考えても実に合理的であり、シャルのこれらの想定は、先程の一夏の構えを見た瞬間、確信に変わった。

 なんて分かりやすく、読みやすい。彼のひたむきで裏表のない性格は美点ではあるが、戦いにおいて弱点にしかならない。

 散弾を可能な限り一夏へと連射し、牽制。

 崩れ、止まれば良し、それでも向かって来るなら迎撃の準備は出来ている。

 

――さぁ、どう動く一夏。

 

 放たれた弾丸は、まだ動かず防御の姿勢を取った白式の装甲を叩く。距離があるので決定打にはならないが、牽制の役目は充分すぎるほど果たしている。

 シャルの導きだした答案は、ここ数日で観察した一夏の性格を完璧に分析できており、

 

――見逃すな、見逃すな、絶対に見逃すな。一夏の動きを。

 

 完全に相手の思考を読み切った彼女を、計算通りの未来へと導くだろう。

 ただ、

 

――一夏は…………いつになったら、動くの?

 

 彼の動きを、彼が考えていたならば、では、あったが。

 

「だっしゃラァァァァァァァァァッ!!!」

 

 いつも誰かに弄られっぱなしであった姫燐が、イメージに反して相手の裏をかくのが得意で、実は誰よりも頭が回るタイプであったことをシャルが知ったのは、この模擬戦の後のことである。

 今は只、唐突に右から殴りかかって来た衝撃で吹き飛んだ身体を、当惑と焦燥を振り切り制御するのに精一杯であった。

 

(しまったブラフッ!?)

 

 ここにきて、非常に単純なミスリードに、ものの見事に引っ掛かった自分の迂闊さにシャルは気付く。

 

「さっそく、デュノアが掛かったか」

 

 これら一連の流れをモニタリングしていた千冬が、本当に僅か、意地の悪い笑みを浮かべ腕を組んだ。

 タッグマッチを初めて行う素人が、もっとも陥りやすいミス。それは、相手が二人居ることを忘れ、たった一人に集中してしまうことだ。

 相手を注意深く観察し、分析して戦術を作るタイプ……まさに、デュノアのようなタイプが一番タッグでやらかしてしまいがちなミスだ。

 

「しかし……」

 

 無論、デュノアが見事にハメられたとはいえ、デュノアの慎重な性格を読み切り、更に必殺の一撃を迷わずブラフに使う大胆さ、そして何より――

 

「あの加速性と瞬発力、か」

 

 口にはしないが、千冬の眼をもってしても、見事、としか言いようが無かった。

 相変わらずであるがイグニッション・ブーストを使わず、あれほどの運動性を叩きだすISの存在、同時にそれを制御できるパイロットの存在。数多のISを黎明期から見つめてきた千冬ですら感嘆を示さずにはいられない。

 

「いやいや、驚くのはまだお早いですぞ、ミス千冬」

 

 それすら序の口だと笑うように、永悟は紅茶に口をつけながら、稼働状況を知らせる手持ち式の小型モニターに注視した。

 ブリッツ・ストライダーが覆う、エネルギーを媒体とした液体結晶『カオス・オラトリオ』。

 意志によって歪み、研がれ、姿を変えるその力は、まず彼女が突き出した右の掌から溢れだし、流体エネルギーを巨大な盾の形へと変貌させた。

 

「おおっと!」

「至近弾を弾いたッ!?」

 

 体制を立て直すと同時に発射された、充分に有効レンジ内の散弾が、ISから『生えてきた』といっても過言ではない結晶の盾に阻まれ、驚愕の声が思わず喉から漏れる。

 だが、打って変わって両手は作業的に動きを止めず、ショットガンのポンプを引き、流れるような動きで次弾を発射する――

 

「やらせっか! モードチェンジ!」

 

 よりも先に、姫燐の命令によって盾であった結晶は既に形状を崩し、今度は巨大な掌を形成。

 

「そいで、伸びろ!」

 

 命令と共に、柔軟に伸びた手はシャルが持つショットガンの銃身をガッチリと掴むと、

 

「もいっちょ、溶けろ!」

「えっ、溶け、しまッ!?」

 

 今度はそのままドロリと液体へ姿を変え、ショットガンの隙間へと染み込んでいく。

 隙間と隙間、形成されているパーツの合間に流れ込んでいく液体結晶。

 それが何を意味しているか、シャルが気付いた時には手遅れであった。

 

「まずは一本……固まりなぁッ!」

 

 液体となっていたエネルギーは、ブリッツ・ストライダーから送られる指示で再び固形に戻る――当然、芯から浸っていたショットガンの内部構造ごと、型に流し込んだセメントが、時間で固まって行くような形となって。

 いかに対IS戦用に頑丈に作られていようが、複数のパーツで形成される銃器である以上、内部に不良が起きれば使いモノにならなくなるという欠点からは逃れられない。

 それも、『内部フレームの殆どに固形物が入り込んでいる』状態で撃てる代物など、この地上に存在するはずもなかった。

 

「まだまだぁ!」

「くっ――イグニッション・ブーストッ!」

「おぶっ!?」

 

 姫燐が今度は左手を構えたのを見て、シャルは即座にショットガンから手を離し、とにかく距離を取るべく瞬時加速を使用した。

 後ろに倒れるような姿勢になり、スラスターの噴出を敵機に浴びせると同時に、身体が全速力でバックに吹き飛んで行き、Gで神経が剥がれ落ちていくような不快感に襲われる。

 かなりの余力を使わされた割に合うダメージではなかったが、欲しかったのは今は僅かでも情報を整理する時間と距離。

 液体の柔らかさ。軟体のしなやかさ。個体の強かさ。

 その全ての強みを、状況によって変幻自在に変化させていく予想不可の戦闘システム。

 

(これが……カオス・オラトリオ!)

 

 特異なISとは思っていたが、ここまで常識が通用しないとは。

デュノア社で覚えた知識など、このISの前には何の役にも立たないことをシャルは再認識する。

 そしてそれは、モニタールームで姫燐の一連の動きを観察していた千冬も同様であった。

 

「凄まじい機能ですね……こうして見ていて、不気味さすら覚えます。もしあの場所に立っていたのが私であっても、冷静に対処できたかどうか」

「はっはっは、あのブリュンヒルデのお墨付きを頂けるとは、開発者明利につきますよ。しかし……課題点も、割と残っていましてね」

 

 と、永悟は自らの小型モニターを千冬へと手渡す。

 そこには、両手を広げた人型のシルエットが表示されていた。

 

「これは?」

「ブリッツ・ストライダー、ひいてはカオス・オラトリオの稼働状況を知らせるモニターですよ。ほら、7つほどクリスタルがあるでしょう?」

 

 永悟の言う通り、人型のシルエットには確かに両腕と両脛、そして両肩と身体の中央に、菱形のマークが計7つ表示されていた。

 中でも、赤く点滅している右腕のクリスタルは、千冬もおおよその予測はつきながらも、なにを意味しているかは気になっていた。

 彼女の疑問を先読みしていた永悟が、指で画面をフリックしながら説明して行く。

 

「これはジェネレーターの稼働状況を示しているモニターでしてね、赤く点滅しているのはナノマシンがクールタイムを挟んでいるため、使用不可能という状態なのですよ」

「やはりそうでしたか。確かに博士の技術は革命的ですが、脳波とナノマシンを常に連動させるシステム――つまり常に多量のナノマシンがエネルギーの内部を休みなく巡回し続けている状態です。冷却が追いつく訳が無い。過剰な数のナノマシン・ジェネレーターは、それぞれを交互に稼働させる事によって冷却時間を稼ぐため、ですね?」

「100点満点の回答です、さすちふ」

 

 なにか癪に触る略し方であったが、自分の予測が的を射ていることを確信した千冬は続ける。

 

「装甲に常に纏っているエネルギーを維持したまま動かせる時間は――1つのジェネレーターにつき、おおよそ『1分』。更に被弾などで熱量が蓄積されれば、更に短い」

「まったく……ブリュンヒルデには敵いませんな。もう、そこまで見抜かれてしまうとは」

 

 世界最強の人間。その末恐ろしさを直に体験した永悟の表情に、畏れに近い苦々しさが混ざった。

 そんな永悟を見て、ようやく『してやったり』と、千冬の心中で渾身のガッツポーズが炸裂した――かどうかは、相変わらず鉄面皮な彼女のみが知ることである。

 若干の平穏が戻りつつある世界最強の心中とは対照的に、未だに攻略の糸口が掴めないシャルは全身に纏わり続ける悪寒と汗を振り払うように、新たに取り出した二丁のサブマシンガンを乱射し続けていた。

 シャルも千冬と同じように、あのシステムには冷却時間が必要であることは察しがついていた。

 ならば、弾幕によってオーバーヒートを起こすまで使わせ続ければ良い――数分前の彼女はそう判断し実行、

 

「どしたどしたぁ! そんな狙いじゃ、オレのハートは撃ち抜けねぇぜ!」

「くぅ……っ」

 

 そして今、これは判断ミスであったと認識せざるを得なかった。

 純粋に、敵機を捉えることが困難なのだ。

 ハイパーセンサーが瞬時に敵の現在地を告げていても、照準をつけ、トリガーを引くのは人間である。

 この360度の戦場を、足で駆け抜け、腕や足と一体化したバーニアでぶっ飛び、急停止からの急発進まで織り交ぜて動きまわる相手を捉えることは至難を極めた。

 しかし、この運動性をシャル以上に脅威と感じていたのは、他ならぬ姫燐自身だ。

 

(チッ……ほんと、ここまで軽くなるもんかよ。気色悪りぃ!)

 

 遊び半分に翻弄しているような軽口とは裏腹に、余裕など一切ない。以前とは比べ物にならないほど軽量化してしまった愛機の操縦に、姫燐は集中のリソースを相当割いていた。

 不必要なまでに装甲だらけであったシャドウ・ストライダーと比べ、今度は極端なまでに装甲が無くなったブリッツ・ストライダーはその機体重量が以前の半分以下に抑えられている。

 重い物を持った後に軽い物を持つと、羽のように軽く感じてしまう、あの錯覚と同じだ。

 極端なまでにバランスが変わった愛機で、今までと同じような感覚で動かすと、下手をすれば転倒からの激突の恐れすらあった。

 そして、これらの問題に引っぱられる形で、もう一つ姫燐が回避に専念しなくてはならなかった理由。

 それは、至ってシンプルに、オラトリオの加工に意識を向ける余裕がなかったのだ。

いくら近接戦闘が得意な姫燐だろうと、完全な素手でISを黙らせることは不可能だ。

 武装そのものは、シャドウ・ストライダーのモノをほぼ丸ごと引き継いでいる。

 しかし、あれらはエネルギーを至近距離で放出、爆発させることでダメージを与える武装だ。今までは装甲が反動や爆風から護ってくれていたが、これからはそうはいかない。

 こちらの攻撃にも、結局オラトリオで防壁を作成しなくてはならないのだ。

 結構気にいっていたので、オミットすると永悟が報告してきた際にはゴネにゴネ、結果、試運転である今回だけ、バーニアとしての機能以外にはロックを掛けるという形で納得させたのだが、

 

(戦闘中に別のこと考えろってコンセプトからして何かオカシイんだよ、バカ親父め!)

 

 ようやく機動には慣れてきたモノの、いくらなんでも時間を掛け過ぎた。

 時間が掛かるということ、それは即ち、あの人が『飽きる』までの時間を与えてしまうこと。

 祈りに近い気持ちを込めながら、姫燐は僅かに、相棒とあの人の方へと視線を向けた。

 

 

               ○●○

 

 

 ハンデは何かの罠だと、キリは言った。

 確かに、自分も府に落ちて納得した。

 だが本当の所、それは全てキリの思い過ごしではないのかと、一夏は薄々思い始めていた。

 槍のみを使い、不動を貫く。そんな圧倒的に不利なハンデキャップを、相手があえて背負ったのは、

 

「ハァ……ハァ……ハァ……!」

「あらあら、一夏くん。もうグロッキーになっちゃったのかしら?」

 

 ただ普通に、単純に、そうでもしないとこの人の圧倒的な実力の前では、自分なんか勝負にならないからではないのか? と。

 これで何回目か数えるのも億劫なほどのダウンから、もはや土汚れで白とは言い難くなった白式に、それでも戦意が衰えぬことを示して立ち上がる。

 

「うんうん、さすが男の子。ガッツは妥協点、と言った所かしら?」

「スゥ……うぉぉぉぉぉぉ!!!」

 

 だからといって、引くという選択肢は、ハナから一夏の頭には存在しない。

 息を吸って、再び唸り声と共に雪片を構え、突撃を敢行した。

 

「でも、その学習能力の無さは、少し赤点かしら」

「ごぁふッ!」

 

 ダメ出しも、カウンターでみぞうちに叩きこまれた石突も、知った事では無い。

 一夏は一端距離を取って、再び齧りつくために呼吸の安定を図る。

 自分でも、思わず笑ってしまうほどに無茶で無謀で無様な姿。

 だが、構うことなんて何もない。全てはキリの作戦通りに進んでいるのだと、一夏の瞳から闘志が際限なく沸き上がっていく。

 先程、二人で行った作戦会議が彼の脳裏を掠めていく。

 

――いいか、一夏。かた姉の性格から考えれば、あの人はオレ達を『活きの良い玩具』か何かだと思っていると考えて良い。晩飯賭けても良い。

 

 いきなり姉をとんでもない外道呼ばわりする姫燐にあぶら汗が流れたものだが、構わず今作戦の根幹を彼女は説明した。

 

――だから、精一杯あの人には、お前で遊んでもらう。オレがシャルを落すまで、な。

 

 至極、簡潔で簡単な作戦であった。

 一人が最大の難敵である楯無のデコイとなり、もう片方が単独でシャルを撃墜する。たった一人でも戦闘不能になれば決着がつく、この学園特別ルールだからこそ通じる戦法だ。

 しかし、そこまで都合よく自分だけを相手してくれるだろうかと一夏が発した疑問も、姫燐は問題ないと断言した。

 

――あの人は、楽しむ時は限界まで楽しむ。お前が向かってくる限り、もしくはシャルがピンチにならない限り、いつまでもお前でお楽しむだろうよ。

 

 よっ、色男。と褒められても、今はまったく頭に入らない。

 つたない頭をフル回転させながら、彼女が自分に求めているモノを弾きだすのに、精一杯だったからだ。

 そうして出した答えを口にした瞬間、ニッと笑ってくれた姫燐の期待に、自分はまだ応えていない。

 

――何も、考えなくて良い。ただ只管に、スタミナの続くかぎり、牙を突き立て続ければ!

 

 自分の役割を、果たすことができる。

 エネルギーを激しく消耗する零落白夜は使えない――ならばと、鋼のように頑なな心が、また強く雪片の柄を握りしめ、地面を蹴り飛ばす。

 

「ウオォォォォォォオァ!!!」

 

 色男には到底似つかわしくない、唸る獣の咆哮と共に跳躍、飛翔、上昇。

 僅か数秒で駆けのぼった白き機影は、遥か眼下にスカイブルーの敵機を補足する。

 

「これで、どうだぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 

 全身全霊を込めた、真っ向からのから竹割り。

 重力を味方につけた縦一文字、足を封じている相手には回避不能の一撃だ。

 更に今度は、迎撃を警戒する必要もない。

 やはり理論は一夏らしく単純明快。上空から飛来する大質量に触れることは、そのまま甚大なダメージへと直結するからだ。

 防御するなら押し潰す、迎撃するなら槍と腕を叩き潰す。

 武器はもはや手に持つ雪片二式ではなく、己の肉体そのもの。肉弾だ。

 己の機体そのものを弾丸とした特攻は、あの程度の装甲しか無いミステリアス・レディではどう足掻いても受け止めきれない。

 完全に取った。一夏の、自画自賛してもよいとすら思えた会心の一手――

 

「……はぁぁ……」

 

 とは、裏腹に。

 湖水のように冷たい失望を隠さない溜め息が、楯無の口から漏れ落ちた。

 

「一夏くん、貴方……そんな手を使うのね」

 

 一夏が、何かを認知できたのはそれまで。

 受けられない、避けられない、絶対必中の弾丸をどうするか? など、『楯無』の名を継いだ彼女にとって、考えることすら愚かしい問答だ。

 選択が二つとも間違いであるならば、三つ目の答えを、もはや寸前まで迫った猪武者に示せば良い。

 三つ目の――『流す』と言う回答を。

 

「フッ……!」

 

 まず楯無は、超高速で振り落とされる刀身の横っ腹を、ミステリアス・レディの裏拳で弾いた。

 これだけでも神がかった反射神経と豪胆さが必要な妙技であったが、まだ肉弾の脅威は消えていない。

だが、その脅威が牙を剥く対象は、既に楯無ではなかった。

 

「因果、応報」

 

 装甲と装甲の僅かな隙間。そこに、機械でありながらもしなやかな両指が滑り込み、掴む。

 あとは只、清流に身を任せるように、上から横へと、そっと流れを変えるだけ。

 それだけで、

 

「あ、が、ぁぁぁぁぁぁぁ!!?」

 

 標的をミステリアス・レディから地面に逸らされた白式に、重力と、速度と、質量の全てが襲いかかった。

 楯無に受け流された肉弾はけたたましい音を鳴らし、地面だけを豪快に転げ回りながら抉るのみという無様な結末を、土の味と共に味わう。

 更識流合気術、『渓流落し』。頭上を取った相手を受け流し、顔面から落す返しの奥義。

 無論、本来は対人戦を想定して編み出された、合気に通ずる技だ。しかし、彼女はそれを、遥かに困難で危険な、サイズも重さも速さもケタ違いのIS同士の戦闘でやってのける。

 もはや稼働時間の差や、専用機のスペックなど、さしたる問題では無い。

 誰もが更識楯無を学園最強と認める明確な訳が、この一瞬に集約されていた。

 

 

                   ●○●

 

 

 タイムリミットだ。

 完全に落すつもりだった楯無の技を見て姫燐は、跳ね上がった心臓から広がる動揺を噛み砕くように歯を食いしばった。

 作戦を放棄し、救援に向かう――などと一瞬、頭を過ったプランを速攻で却下。

 

(アイツはオレを信じてああなってるんだ。なのにオレがアイツを信じなくてどうする!)

 

 それにジャッジが下らなかったということは、一夏はまだ気絶していない。

 幸い派手に転がって行ったため、距離は離れた。かた姉は足を離せない上に、槍以外の武器を封印している。トドメは――あの人なら刺せるだろうが、刺せるなら即座に刺すのがあの人だ。

 アイツならまだ大丈夫だと自分に言い聞かせ、今は目前の相手に、なによりも機体の制御に徹する。そうしなければ――

 

「なら、これでどう! 朴月さん!」

 

 こちらが、先にやられる。

 大いに与えた時間は、シャルに次の一手を思い付かせるには充分すぎる隙であった。

 次にシャルが取り出したのは、肩に担いで発射するタイプの四連装大型ミサイルランチャー。直撃は論外として、もし先程と同じように防御しても確実にジェネレーターは全てオーバーヒートを起こし、最悪動くことすら出来なくなりかねない。

 

「チイッ!」

 

 発射を止めるのは間に合わない。

 撃ち落としも、あんなシステムのせいで不確実。

 ならばこれも回避してみせると、また両足にブースト用のエネルギーを蓄えながら、ラファールを中心に旋回を続ける。

 無論、チンタラやってる時間は残されてないことは姫燐も分かっている。

 狙うのは、隙をついた一発逆転のカウンターだ。

 

――壁にでもぶつけて、こいつの爆炎を煙幕代わりに突っ込む。

 

 両腕のブースターも、そのためにチャージしてある。

 相手がどんな武装を隠し持っていようと、出すまでには必ずタイムラグがあるはずだ。

 これで一気に距離を詰め、短期決戦に持ち込む。

 

(って、考えてるだろうね。朴月さんは)

 

 しかし、これらの作戦は、全てシャルに筒抜けであった。

 あれだけチャンスがあったのに、明確に攻めてきたのは最初だけで、あとは全て逃げに徹していた理由。

 さらに彼女がこの勝負に賭ける必死さや、初めて動かすISであること、追い詰められている相方の現状などのファクターを含め推測していけば、これらの結論を出すのはそう難しい事では無かった。

 一つ目、相手は頼れる遠距離武装を所持していない。

 二つ目、相手は機体とシステムの制御に苦戦している。

 三つ目、必ず相手はこちらの隙をついて一気に勝負をしかけてくる。

 これらを総括して――シャルは一瞬だけ相方に通信回路を開き、事前の取り決めを破る確認を取る。

 

『もう、一夏を狙っても良いですよね?』

『ええ、もう構わないわよシャルルくん。早く終わらせて、一夏くんにはちょーっとお説教といきたいもの』

 

 互いに手出し無用で、シャルが姫燐を、そして楯無が一夏を相手にする――それが、二人が試合前に相談していた取り決めであった。

 姫燐が楯無の性格から作戦を決めた様に、楯無もまた姫燐の考えを読み、あえて彼女の作戦通りに動いていたのだ。

 一夏の今の強さを直に確かめる目的や、姫燐がどこまで自分の想像を越えてくるかを試す思惑が楯無にはあったのだが……結果は、まだまだ。

 妹も弟候補も単純で危なっかしくて、そこがまた保護欲をくすぐるのだが、安心して目を離せる日はいつ来るのだろうかと、楯無から軽い溜め息が漏れ――それが合図だったかのように、シャルはロケットランチャーの照準を、まだダメージに唸る白式の方へと向け、引き金を引いた。

 

「なぁっ!? くそっテメぇぇぇッ!」

 

 とうとう、一夏が狙われた。それも、まだ動けない最悪のタイミングで。

 もはや迷っている猶予もなく、全ブースターを吹かし、姫燐は白式の盾になるようミサイルの前へと躍り出る。

 こうしなくては成らなかったが、こうしても結果は同じだ。

 本来の装甲であっても直撃すれば撃墜必至な一撃だ。

 装甲よりも防御力が劣る上に、熱にも弱い結晶では防ぎ切れるわけがない。

 冷たく『デッドエンド』の一言だけが輪郭を現していく。

 

(ちくしょうチクショウちくしょう! なんか手はねぇのか!?)

 

 そもそも問題として、いま姫燐には、文字通り『手』しかないのだ。

 手だけは、シャドウ・ストライダーの頃から手刀にエネルギーを纏わせて使っていた経験からも、即座にイメージを出すことが出来る。

 ミサイルを掴んで叩き返す――という方法もあるが、四本ものミサイルは両手では掴み切れないし、これを以前と同じように手刀にして全弾斬り払っても、爆風は防げない。

 何でもいいのだ。何でも構わないから、この状況を覆す手を――

 

(あん、何でも……?)

 

 何でも――やれるではないか。

 コイツは、新しい相棒は、こちらのオーダーを何でも叶える力を持っているではないか。

 足りていなかったのは、コイツの可能性を、『確実性に欠ける』と見限っていた自分自身の発想と視野。

 静かに唸る七つのジェネレーターが、早く力を使わせろと、俺の真価はこれからだと、待ちわび震えているように、姫燐には思えた。

 

(ああそうだ、まだこの『手』を試してなかったじゃねぇか……!)

 

 無限の形を持つ力。オレが試すだけじゃない、オレも試される力。

 この瞬間、どことなく、姫燐は新たな相棒の本質に触れた気がした。

 

『気をつけてシャルル君。ヒメちゃん、目つきが変わったわ』

『え? で、でも』

 

 もう、ミサイルが当たりますけど……と、言いかけた口は、その続きを発することが出来なかった。

 

「いっくぜぇ! 掴めッ!!!」

「くっ、またっ!?」

 

 姫燐の、ブリッツ・ストライダーの両手がまたエネルギーを流動させ、巨大化を果たし、飛来するミサイルを二本鷲掴みにして掴み取ったのだ。

 

(そう、そうするしか無い。けれど)

 

 まだミサイルは二つ残っている。

 やはり悪あがきだったのか。もはや、何をやっても撃墜は免れないと判断した楯無も、

 

「変わりやがれオラトリオッ! 足もだッ!!!」

「…………は?」

 

 流石に、今回ばかりは――足から、手が生えてくるような今回ばかりは――素っ頓狂な声が素で漏れざる得なかった。

 テディベアのように突き出した、両足のジェネレーターからも生成された巨大な『結晶の手』が、残りの二本のミサイルも先程と同じようにしっかりと掴み取る光景は、もはやISの荒唐無稽さに慣れきっていたはずの、

 

「え? それっ、え? ええっ……!?」

「それはちょっと……ズルくないかしら、ヒメちゃん……?」

 

 シャルルも、楯無も、

 

「な……なんなのだ……あのISは……?」

「ハハハ、一応スペック上、できることは出来るんだがねぇ、ハハハ……」

 

モニタールームで現状を見ていた百戦錬磨の戦士も、これの開発した張本人も、、

 

「は……はは、そ、そんなの……あり?」

 

 そして、護られた形になる一夏すら一様に、このシステム名が示す通りの『産まれいずる混沌』に、頭が軽い拒絶反応を起こしていた。

 

「ヘッ、驚いたか? コイツが、オレとブリッツの奥の『手』って奴だ!」

 

 と、本人も口ではカッコつけてはいるモノの、

 

――……うわぁ、マジで出来たよ……キモっ……。

 

 クリーチャーめいた自らのビジュアルに、割と本気でドン引きしていた。

 思い付きの一か八かが完璧に決まった快感より、自分の足すら手になった奇妙な違和感の方が上回っていたが――ここに、逆転の一手は成った。

 PICの推力で、今度こそラファール・リヴァイブに肉迫。

 

「ふぇ」

 

 当然オラトリオは動かせないが……火力ならば既に、手中に四本も用意されている。

 

「確かにコイツは素敵なプレゼントだったが……好みじゃないんでね」

「はッ! いけない、避けてシャルル君!」

「全弾お返しさせてもらうぜ、シャルルッ!!!」

「ひっ!?」

 

 シャルが出来た抵抗など、咄嗟にシールドを腕に出現させる程度。

 手に持った四本すべてのミサイルを、姫燐はラファール・リヴァイブの装甲に叩きつける。

 

「うそ……こんな、手が」

 

 己の敗北を悟ったシャルの呟きは、全て爆音に掻き消されていった。

 

「す、すごい……」

 

 あの大ピンチからだろうと、誰も思い浮かばないような方法で、華麗に逆転してみせる。

 アリーナに立ちこめる爆炎の中から、しっかりと結晶のシールドを展開しながら飛びだして来た彼女の機影を確かに焼きつけ、改めて自分の目標は遥かな高みに居るのだと、一夏は再度認識を深めていく。

 

(俺だって、いつか、その隣に……いつか……)

 

 今はまだ、夢物語に過ぎないけれど。

 シールドを解除しながらも、まだ爆炎の方を睨み続ける彼女を見上げ――まだ敵でも居るかのような険しい表情をしているが――思いを馳せて……電撃が走ったかのように思い起こす。

 あれで終わったなら、絶対に鳴るはずの、試合決着のコールが聞こえない。

 それが意味することは、つまり、

 

「まだ、試合が終わってない……?」

 

 と、一夏が呟いた矢先であった。

 爆雲の中から、もう一機、ISが飛び出して来たのは。

 

「チィッ、あれで耐えられるかッ!?」

「はぁ……はぁ……はぁ……!」

 

 所々の装甲が焼け焦げ破損し、バチバチと千切れたコードが踊り狂う、明らかに軽くないダメージを負っていることが目に見えていても、まだシャルル・デュノアは、ラファール・リヴァイブ・カスタムⅡは健在していた。

 

「あ、アレが直撃したのに耐えたのかよっ!?」

「いや、直撃じゃねぇ。寸での所で割りこまれた……あの人にな」

「はぁい、こっちよ一夏くん」

 

 手をヒラヒラさせ、笑みを――いつもよりも余裕のない、間一髪で命拾いしたような深みのある笑い顔を浮かべながら、やはり最初に指定した場所から一歩も動いていない楯無が一夏を呼んだ。

 

「そんな、だって楯無さん、あそこにずっと居たまま……割りこまれた?」

 

 間違いなく、楯無の機体は動いていなかった。どうやったって、二人の間に割りこめる筈が無いと――ヒラヒラと振る、何も持たない彼女の手を見て、まさかの可能性が頭を過る。

 

「まさか……槍? 槍をあの二人の間に投げ込んで、盾に!?」

「本気で焦ってたから、ちゃんと間に合うか賭けだったけど、ね」

「ケッ、どっちがズルいんだっての、どっちが……!」

 

 先程の攻防を思い起こし、姫燐は思わず悪態を付かずにはいられなかった。

 四つの腕を振り下ろし、勝利を確信したあの瞬間――二人の間に割り込んだのは、蒼天のように澄んだ青色をした突撃槍だった。上から叩きつける形であった両腕のミサイルは、それに阻まれる形となり、結果、直撃させられたのは足元からぶつけた二本のみ。

 爆発する前に離脱しなくては巻き込まれるため、シールドの作成をやらなくてはならず、追い打ちや確認などが出来る筈もなかったが、

 

「ありがとう、ございます……楯無さん」

「いいのいいの、本当によく耐えてくれたわ。シャルルくん」

 

 多少の緩和こそあれど、至近距離からの大爆発を受けながらも、未だに戦闘不能判定が下らないのは、ひとえにシャルルのダメージコントロールと、そしてラファール・リヴァイブ・カスタムⅡの堅実で堅牢な装甲あってこそだと姫燐は歯噛みする。

 状況も、相手が満身創痍だからといって一概に有利とは言えない。

 あの爆風を突っ切ったため、シールドを作った両腕のジェネレーターは冷却中。そもそも、戦闘開始から既に結構な時間が経過しているため、ほぼノンストップで動きまわっていた相棒は既にガス欠間近だ。

 自分が出せるベストは尽くした。

 だからこれは、完全に相手のスペックを読み違えた結果の五分五分だ。

 今更ながらに、外見とはかけ離れたタフさを誇るこの王子様を、速攻で落すなんてプランは完全に失策であったと、彼女は猛省し、同時に胸から溢れ出た言葉を吐き捨てる。

 

「ますます、惚れちまいそうだぜ」

 

 やはり男にしておくには惜しい。

 姫燐は、シャルとも賭けをしておくべきだったかと、悪い笑みを浮かべながらブリッツ・ストライダーに最後のインファイトを命令した。

 

 

              ●○●

 

 

「ふぅ、やってくれたわねぇ。ヒメちゃんったら」

 

 満身創痍の二機が最後の空中戦を見上げながら、地上では手持ち無沙汰になったミステリアス・レディがやれやれと言った面持ちで、しかし口元は綻ばせながら、妹の健闘を称える。

 

「あんな使い方、『この子』では絶対に出来ないし、思い付きもしなかったもの。私ももっと、バリエーションを考えようかしら、ねぇ?」

 

 と、天空で華々しく火花を散らし合う戦士達とは対象的に、陸に打ち上げられた魚のように這いつくばったままの男へと視線を向け、

 

「一夏くん」

 

 彼の名を、呼ぶ。

 楯無の声は、優しく、穏やかで、柔らかなイントネーションをしていたが、一夏は今更勘違いはしなかった。

 

「これが、最後のチャンスよ」

 

 この声は狩人が、本気でこちらに銃口を向けた合図であるのだと、震え上がる背筋が全力で警鐘を鳴らしていたからだ。

 

「だ、だけど楯無さんは、もう」

「このまま攻撃手段を失くした私を放置しておけば、ヒメちゃんなら必ずシャルルくんを落してくれる……なんて、考えていないかしら?」

 

 心中を完璧に言い当てられ、威嚇射撃が鼻先を掠めたような戦慄が走る。

 

「でもね、一夏くん。私が本当に、なんの奥の手も残していないと思ってる?」

「奥の手……ですって」

「そう。確かにシャルルくんはとっても頑張ってくれてるけど、そもそもどうしてシャルルくんは、実質的に一人で戦うなんてハンデを引き受けてくれたと思う?」

 

 言われてみれば、確かな違和感であった。

 いくら楯無が凄まじい強さを誇っているとはいえ、シャルもまた自分達と同様に、タッグ戦は初めてなのだ。

 自分が彼女ならきっと困惑を隠しきれず、不安と動揺が必ず言動に出ていたはずだ。

 そして一夏も、シャルがこういった急な無茶振りにはとても弱いことを、ここ数日で確信できるレベルで見てきた。

 だが、戦う前の彼女からは、そういった素振りは一切見えず――

 

「何があっても、絶対に勝てる奥の手が、あったから」

「その通り。お姉さん、分の賭け事は嫌いなの」

 

 でもさっきは、奥の手を使う間もなかったから、本気で危なかったけれど。とだけ補足して、

 

「今の状況、どっちが勝っても可笑しくないもの。流石に私の『奥の手』も、もう使わざる得ないわ」

 

 人差し指を立てた右手を、そっと、楯無は正面の一夏へと向け、

 

「だから、これが貴方に与えられた最後のチャンス」

 

 冷淡に、ただ事務報告のように、楯無は宣言する。

 

「あと一回、あと一回の攻撃で、一夏くんが私に一太刀浴びせられなかったら、私はこの『奥の手』を使わせて貰うわ」

「そ、そんな……」

 

 不可能だ。こんなのもはや賭けですらない、一方的な通告だと一夏には思えた。

 この試合が始まってから数え切れないほどに振り回した雪片の重みが覚えている、全て防がれ、いなされ、潰され、返された剣閃の記憶。

 どれをとっても、有効打には程遠い結果しか残せていない。

 唯一、防御不能だと弾きだした特攻は……特に、強烈な返しを叩きつけられた。

 歯を食いしばり、雪片を杖代わりに立ち上がろうとしながらも、瞳に浮かぶのはもはや闘志ではなくハッキリとした――恐れ。

 自分の一身に、大切な人の運命を背負わされた恐怖だ。

 動かない、動けない一夏を見下すように、腕を組みながら楯無が軽く溜め息をこぼす。

 

「正直ね、私、貴方には少し失望しているのよ」

「ッ……」

 

 今まで優しく、飄々とした態度を崩さなかった清流の底から覗く、確固とした岩盤。

 一夏は初めて、更識楯無という女性の、冷たく暗い――確かな怒りに触れているのだと理解した。

 

「貴方、ヒメちゃんを護りたいんですってね?」

「そ、そうです! 俺は、キリを」

「じゃあ、さっきの、最後の攻めは何?」

「最後の攻め……ですか?」

 

 最後の攻め――つまり、彼女が責めているのは、あの上空からの肉弾。

 

「特攻に近い体当たり――自分の損傷も、いや下手をすれば撃墜すら、省みて無かったわよね」

「でも、時間を稼ぐには……あれぐらいしか、俺には」

「履き違えないで」

 

 言葉が詰る。これ以上、戯言を抜かすなら、その喉を潰してやると告げかねないほどに、鋭く切れる赤い目が燃え上がる。

 

「私がね、貴方に期待したのは、あの子だけの盾であり、剣となってくれることなのよ。あの子の捨石になる事だなんて誰も、あの子すら、望まないわ」

「俺が、捨石、ですって」

「そうじゃなければ何なのかしら? ただ言われた事を守るために、自分の身体すら簡単に捨てようとする――捨石以外に、なんて呼べばいいのかしら」

 

 容赦の欠片もなく叩きつけられた暴言は、反論の余地もなく、どうしようもないほどに、正しい。

 

「『護る』という言葉はね、軽々しく我が身を捨てられる人間が吐いていい言葉じゃないの」

 

 一夏よりも、遥かに昔から、重く、そして多くのモノを背負い、戦い、この国を護って来た『更識』の長たる彼女が語るは、脈々と受け継がれてきた確固たる信念。

 

「『護る』ということは、どれほど傷ついても、泥を被っても、血に塗れても、立ち続けること、護り続けることにこそ意味があるの。決して『楯』が、護るべきモノより先に、倒れてはならないわ」

 

 國の楯なる我等に、楯は無し――故に、『楯無』。

 自身を護る者がいない過酷な生き様を歩むことは、険しいと思うが、後悔は無かった。

 しかし気付けば、必ず護ると幼き日に誓ったもう一人の妹は、楯の外側にはぐれてしまっていて……あの時ほど、彼女は『楯無』の名を悔いたことは無かった。

 

――だから、あの子の味方であり続けると、誓ってくれた貴方は……私の希望。

 

 今の楯無に出来るのは、この小さな希望が、いつかどんな闇すら打ち倒す輝きとなるように、正しき道を説き、徹底的に鍛え、更なる高みへと導くことのみ。

 そのためにはまず、彼が持つ全てを見極めなくてはならない。

 

「だから、示しなさい」

 

 両目を薄く閉じ、胸に手を当てて、

 

「今度こそ、今の貴方の全てを――あの子を『護る』ための全てを、私に示すの」

 

 この国の守護者たる『楯無』の名を背負う少女は、

 

「来なさい。あの子だけの――王子様♪」

 

 またいつもの茶目っ気溢れる、人を喰ったような笑みを浮かべた。

 そんな彼女の笑みが、一夏の中で、重なる。

 絶対に護りたいと、全てを賭ける価値があると思えた夢と、重なる。

 

――ああ、そうだったのか。

 

 頭から、身体から、恐怖や疲労が拭い去られていく。

 白式を通じて、雪片を握る手に、無限に思える力が溢れだしてくる。

 

――簡単な、ことだったんだ。

 

 俺の夢、キリを護るという夢。

 俺は何があっても護り抜く。そこに立ちふさがる壁がある。

 たかが壁と共倒れするなんて、こうして言われてみれば、あまりにもバカげていた。

 壁がある。キリが向こうに居る。俺には剣がある。

 この壁には、鈍い俺に、大切なことを気付かせてくれた恩があるけれど――今は、邪魔だ。

 

「スゥ……はぁぁぁぁぁ……」

 

 深呼吸する。エネルギーの残量を確かめる。戦法を選ぶ。

 真っ直ぐに、丹田に力を込めて見据える。

 雪片弐式を、上段に構え振り上げる。

 

「いい顔になったわね、一夏くん」

「……ありがとうございます、楯無さん」

 

 笑顔には、笑顔を返す。

 あとは、この壁に最大限の感謝を込めて――斬り捨てて、キリの所へ向かうのみ。

 白式の巨大な脚が、地面を抉るように蹴り飛ばした。

 

(あら……?)

 

 疾走。

 ブースターは使わない、両足を使った原始的な距離の詰め方に、楯無は眉をひそめた。

 おおよその狙いは分かってる。通常の斬撃をほぼ全て防ぎきったこちらに一撃を与えるなら、零落白夜しかない。

 防御不可な最強の一刀、それに全エネルギーを回すために、ブースターを使わないのは納得できる。

 だが、それならばなぜ、彼は――

 

(零落白夜を起動しない?)

 

 未だに雪片弐型の、本来の姿を見せないのか?

 もし最後まで使わないつもりなら、足を使うメリットなどない。

 楯無の疑問を余所に、白式は走る、走る、二十メートル程度の間合いを、あっという間に詰めていく。

 そして、攻撃が届く間合いが、あと十メートル程となった――その時。

 一夏が、大きく左足を上げ、土が噴き上がるほどに、力強く踏み込む。

 明らかにあと十メートルは近付かないと、刃が届かない位置で。

 

(……そこで、振り下ろす?)

 

 一夏が何を狙ったのかは分からなかったが、それから楯無が行った一連の動きは、本人にとっても「なんとなく」としか形容しがたいモノだった。

 なんとなく右足を後ろに運び、なんとなく身体を開き、なんとなく、

 

「零、落……白夜ァァァァァァァ!!!」

 

 避けたルート上に、天すら斬り裂くほどに長大な蒼刃が、叩きつけられた。

 

(い…………っ!!?)

 

 無我から帰還すると同時に――致命の一撃が鼻先を掠めて行った戦慄が、楯無の全身に走る。

 

(なにが、今のは……なに!?)

 

 初起動から今まで、一度も欠かすこと無く洗い続けてきた白式の、どの戦闘記録にも存在しない一撃。

 この土壇場で文字通り飛びだした切り札が、楯無の平常心を一瞬にして奪い取る。

 

(ワンオフ・アビリティ!? いえ、白式にそんな反応は無かった!)

 

 追いつめられた白式が、唐突にワンオフ・アビリティを覚醒した――可能性を否定。何度か直に見たことはあるが、アレが覚醒したならば、もっと白式から力強いエネルギーが迸るはずだ。

 

(つまり、あれは技……技巧によってもたらされたモノと考えるのが自然)

 

 技巧と考えれば――ある程度の合点がいく。

 振り下ろしたままの体勢で、あの一撃を回避されたことが信じられないような表情を浮かべる一夏に、楯無が問う。

 

「今の……一夏くんがやったのよね?」

「え…………あ、はい」

 

 やはり、そうか。疑念が確信に変わる。

 あえて徒歩で間合いを詰めたこと、零落白夜を振り下ろす瞬間に起動したこと、今は雪片弐型から伸びるエネルギー刃が、楯無も知る本来の発動前――おおよそ二倍ほどの長さに戻っていること。これらから導き出される、戦闘理論。

 

(なるほど……事前に出力を全て雪片弐型に回しておいて、振り下ろす瞬間に最大出力で発動――貯めた余力を全て刀身の長さに使うことで、瞬発的に何倍にもリーチを伸ばす、か)

 

 通常形態の鞘に隠された、零落白夜という名の白刃を、確殺のタイミングで抜き放つ。

 ベースになったのは、おそらく居合の技とみて間違いないだろう。攻撃の瞬間まで間合いを読ませないという着眼点が、非常に良く似ている。

 貪欲に既存の間合いを食い潰し、防御不能の名のもと、一撃で屠る――白式ではなく、彼自身が編み出した必殺剣。

 楯無を持ってしても初見で避けられたのは、幸運以外の何物でもないと言わざる得なかった。

 つまり、である。学園最強の生徒会長は、ロシア代表候補は、一七代目楯無は、たった数か月前に初めてISに乗ったような素人に――

 

(く)

 

 それを悟った瞬間、楯無の薄桃色の唇は歪み、

 

「ふっ、ふふふっ」

「え……?」

 

 腹の底からわき上がる激情を押さえきれず、

 

「あははははははははっ! 最っ高、あなた最高よ一夏くんッ!!!」

 

 本人もいつ振りかと覚えていないぐらいの大爆笑と共に、一夏の大健闘を褒め称えた。

 

「え、あ、ど、ありがとう、ございます?」

「もーっ! 反応薄いわよ、もっと胸を張りなさいな!」

「いたっ、痛いです楯無さん!」

 

 歓喜を隠そうともせず駆け寄り、バンバンと白式の背中を叩く楯無。

 

「で、でも、俺、最後の一撃、結局外しちゃって」

「なに言ってんのよ、一夏くん! 貴方は間違いなく当てたの」

「えっ?」

「分からない? 私はね、アレを『足を動かして』避けちゃったのよ?」

 

 彼女が何を言いたいのか、一夏は一瞬だけ首を傾げ、

 

「あっ……ハンデ」

「そう! ハンデを破っちゃった以上、私の負けよ一夏くん。見事だったわ」

 

 あの場から、足を動かさない。

 自らが戦闘前に課したルールを破った以上、もはやどんな言い訳も存在せず、する気も更々ない。

 予測だけとはいえ、一夏は確かに、彼女を――学園最強を上回ってみせたのだ。

 ここまで濁さずストレートにはやし立てられれば、いくら唐変木な一夏でも徐々に現実感が沸き出て行き、当惑していた表情は歓喜の色に綻んでいく。

 

「や、やった……俺、やったんだ! やったんですね! 楯無さん!」

「うんうん! まさか一夏くんがここまでやれるようになってただなんて……本当に」

 

 情熱的に、ISの上からでも隠せないほどのプロポーションをしならせながら、一夏の腕に身体を絡みつけた。

 

「お姉さん、惚れちゃいそう。ぽっ」

「ちょ、こ、困りますよ楯無さん。お、俺には」

「なぁに和気あいあいやってんだそこォ!!!」

 

 もう完全に祝勝ムードに入っていた二人への活は、未だに死闘が続いている遥か上空から降って来た。

 

「まだ試合中だろうがぁぁ! なぁにイチャコラやってんだテメェら!?」

「ちがっ!? ちちち違うんだキリ! ここここれは、その、お前との約束忘れたりとかって訳じゃ」

「あらやだ、嫉妬かしら? ねー、一夏くん?」

「ちっげーよ! なにやってんのか知んねーけど、そういうのは模擬戦の後にしろってんだ後に!」

 

 と、吠えるだけ吠えて、「待たせたな!」と、律儀に待ってもらっていたシャルルと再び戦闘に没頭していく姫燐。

 二人の戦いも、ほどなく決着が付くだろう。

 

「ん……あれ? でも俺が勝ったんだから、もうキリ達が戦う必要、ないよな?」

 

 模擬戦のルールは、どちらかの戦闘不能だ。

 自分が楯無に勝利した以上、勝敗は決したと言える。

 

「んーーーーーーーー……実は、それなんだけどね、一夏くん」

 

 だがここで、今までハイテンションで彼を褒めちぎっていた楯無が、一転して目を逸らし、とても申し訳なさそうな表情で唸った。

 

「実はね、私達の賭けに使ってる、あの写真一式なんだけれどー……」

「はい、キリが子供の頃の奴ですよね?」

 

 何度も彼女がチラつかせていた、幼い姫燐の色々とあられもない黒歴史を現代にまで残すメモリアルの数々。当然、インパクトの塊すぎて一夏も覚えている。

 

「あれ、私のほんっとうに大事な宝物なのよ。絶対に手放したくないの」

「分かります。思い出は大切ですもんね」

 

 一夏も、家族の写真は千冬によく言われていたこともあって大切にしているので、楯無の意見には深く共感できる。

 

「でもね、あの子にアレを渡しちゃったら、間違いなく全部処分しちゃうでしょ?」

「まぁ……確かに」

 

 あの写真に対する彼女の狼狽っぷりから考えて、もし手に出来たら速攻でひとつ残らず処分してしまうだろう。勿体なかろうが、それはもはや彼女の物なのだから誰も文句は言えない。

 

「他にも色々あってね、だからね、そのね、一夏くん。本当に、申し訳ないんだけどね」

「はい」

「あとでね、貴方のお願いね、なんでも一つ、聞いてあげるから……」

「はい?」

「『奥の手』……使わせて貰うわね?」

「…………はぃ?」

 

 と言って、楯無は最後まで後ろめたそうに、右掌を上空に――いまだ、シャルルとの戦闘に意識を集中してる姫燐に向けた。

 

「ほんっとうに、ごめんなさい」

「ッ!!?」

 

 理不尽を責める暇すら無く、奥の手が、姫燐に向けられた。

 もはや零落白夜を使った瞬間に敗北する程度のエネルギーしか残っていない一夏には、楯無を妨害することなど不可能。

 奥の手が見当もつかない以上、自分に出来る事など余りに少なかったが、むしろ今は迷う必要が無い分、そちらの方がありがたい。白式のスラスターに残りの全エネルギーを込め、勢い任せに一夏は飛び立つ。

 

「危ないッ、キリぃぃぃぃぃ!!!」

「あん? おアァァぁぁぁぁぁぁ!!?」

 

 未だ戦闘中だったブリッツ・ストライダーの腰元に、無我夢中のまましがみついた一夏は勢い任せにブーストを吹かせ、そのまま姫燐を壁際まで押し込んでいく。

 

「ぼぶぁ!」

「どうだっ……!?」

 

 壁に叩きつけるに近い荒っぽさだったが、何も襲いかかって来ないことから、奥の手を回避できたことを一夏は確信する。

 まだ安心できないが、只でさえ分からない『奥の手』を、不意に打たれる形だけは避けられたはずだ。

 

「なっ、てめっ、こっ、こここのバカ! 何しやがんだ!?」

 

 急に抱き締められ、壁に押し付けられた形になった姫燐が、真っ赤になりながら白式の装甲を叩き猛抗議を飛ばす。

 

「ごめん、キリ! だけど、こうでもしなきゃ楯無さんの奥の手が……」

「はぁ、かた姉だぁ!? かた姉なら、あそこで……」

 

 そう言って、姫燐が指差した先には、

 

「………………」

「なんか、両手合わせて、めっちゃ謝ってるんだが」

「へ?」

 

 あれから変わらない位置で、何の武装も展開せずに、ただ只管に一夏に謝り続けている楯無の姿があった。

 

「だ、だけど楯無さん、奥の手を使うって確かに……」

「なんでも良いからさっさと離しやがれ! じゃないと……あ」

「ん?」

 

 見上げるように固まった姫燐の視線を追い掛けた先には、

 

「…………ふふっ」

 

 天使のように満面の笑みを浮かべながら、グレネードランチャーをこちらに向けているシャルの姿があり、

 

「お暑いね、お二人ともっ♪」

 

 ポンッと、軽い音と共に、グレネード弾が発射される。

 互いに密着し合うような体勢である上に満身創痍の二人には、これを避けられるはずも、迎撃できるはずもなく……爆音がアリーナに響くと同時に、試合終了のアラームも鳴り響いた。

 

 

                ●○●

 

 

「こんのドアホーーーーーーッ!!!」

「ごめんなさぶゼロッ!!!」

 

 模擬戦が終わってから終始無言のままであったが、互いにピットに帰還してISを解除し終わった瞬間、助走をつけた姫燐の全力ドロップキックが一夏の横っ面に炸裂した。

 

「な・ん・で・あんなタイミングでオレを壁ドンしやがった!? アレか? あん時の乳繰り合いはオレを売る相談でもしてたってのか!?」

「違う違う違ガガガガガ……!」

 

 倒れ込んだまま跨られ、マウントを取られた状態で首根っこをシェイクされながらも、一夏は精一杯の自己弁護を続けていく。

 

「あ、ああでもしないと、キリが危ないと思って……」

「あぁん!?」

「だって楯無さん、奥の手を……」

「どう! 見たって! かた姉なんにもして無かったじゃねぇかぁぁぁぁぁ!!!」

「で、でも確かに使うってアバババババ!」

 

 一夏の身体を俯けに転がし、姫燐は流れるような動きで顎に手を回して引っぱるプロレス技――キャラメルクラッチを極めた。背骨や腰に大ダメージを与える関節技であり、当然むちゃくちゃ痛い。

 しかも、今の涙と鼻水と絶望の未来で色々と見えていない姫燐には、手加減という概念が消滅している。

 

「ほんと……お前も見てただろ……シャルの武装には爆発物が何種類かあったんだ。あんなの相手に固まってたら、ああなるに決まってんだろ……」

「ヒューッ……そう……ヒューッ……こと……ヒューッ……のか」

 

 ギリギリと締め上げられホワイトアウトしかけた意識の中で、爆発的に回転率を上げていく思考が、散らばったキーワードの中から『奥の手』の正体を組み上げていく。

 何もしてこない『奥の手』、纏まった相手を倒すのが得意なシャル、そして他ならない自分自身の思考と、

 

「……んだよ?」

 

 跨りながら関節技をかけ、涙ぐんだジト目で見降ろす彼女。

 

(してやられた――ハッタリだったんだ)

 

 姫燐に危機が迫れば、自分が何もかもを投げ出して庇いに向かうだろう――それを利用するのが、楯無の『奥の手』だったのだ。

 一人の注意を完全に外すことができ、相方の足を引っ張りに走らせることができる。心の奥底まで完璧に読まれ切っていなければ思い付きも、実行に移すこともできない、これ以上に無いほどの奥の手た。

 つまり、今回の敗因は、他の誰でも無い、彼女の足手纏いにしかならなかった……

 

「お、おい、一夏?」

 

 ぐったりとしたまま抵抗をやめ、流石にやり過ぎたかと手を離しても、まだ俯けのまま動かない一夏に少し血の気が引く。

 まだ、ちゃんと息をしているのかと耳を彼の口に近付けていき、

 

「……何をしとるんだ貴様らは」

「あらあらあら……良いところにお邪魔しちゃったかしら?」

「ふひッ!!?」

「ふごぉっ!!?」

 

 プシューと空気が抜けるような音と共に開いた扉から出てきた千冬達とのエンカウントに、反射的行動で一夏の背中を思いっきり叩きながら、その反動で姫燐は立ちあがった。

 

「わっ……わわっ、さっきは茶化すつもりで言ったけど、ふ、二人とも、ホントにアツアツだったの……?」

「アツアツじゃねぇ! シャル、お前あれをどう見たらアツアツになるんだよ!?」

「ああっ、少女漫画チックよねぇ……運動で火照った身体、行き場のない高揚感、男女二人なにも起きない筈がなく……」

「少女漫画じゃねぇ! つかそれもうちょっと読者層上の漫画の展開だろ!?」

「娘よ……暴力はいけないぞ暴力は」

「暴力なんぞ振るって……たけど、急にマトモなコメントふってくんじゃねぇよ! あーもーめんどくせぇー!」

 

 飽きもせずに姫燐を弄り倒す一同のノリに、千冬は心底ついて行けませんといった様子で転がり腰を押さえる弟を立たせ、姫燐の横に並ばせる。

 

「勝負はホワイトの勝ちだ。色々と悶着があったようだが、最初からルール外の取り決めなど、この私が認めん」

「だよなぁ……ハハッ……」

 

 フラッと魂がエクトプラズムしたように卒倒しそうな姫燐を、背後から優しい抱擁が受け止め、

 

「つまり、賭けは私の勝ちってことね、ヒっメちゃーん……♪」

「ひぃっ!?」

 

 ピッチリと肌に密着したISスーツ越しで強調された、きゅっと引きしまった腰と、豊満に育った胸を、なでまわすように楯無は両手を這わした。

 

「お、織斑先生! こ、この賭けもルール外の取り決めに……!」

「知らん、個人の賭け事は私の管轄外だ」

「いやぁぁぁぁぁせんせぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」

 

 まるでブッダが垂らした糸が千切れたようなカンダダのように、自分を救ってくれると信じていた絶対神に見放され、絶望の底に叩き落とされる姫燐。足掻こうとも、女郎蜘蛛はガッチリとホールドを解かない。

 

「負けたら言う事、なんでも聞いてくれる……だったわよねぇ?」

「い、言ったけど、言ったけどぉ……」

 

 勝てば破格の景品が待っていたギャンブルも、負けてしまえば相応のリスクを背負うのみ。

 品定めするかのように姫燐の顎を軽く持ち上げ、吐息がかかる程の至近距離で、勝者は敗者の耳元で彼女の今後を勘定していく。

 

「んー、お姉さん迷っちゃうなぁ……ヒメちゃんならきっと、何をさせても、可愛いに決まってるもの」

「やめっ、かた姉、ほらオレの親も見てるんだぞ……!? あんまり無茶苦茶なこと言い出すなら、親父が黙って……」

「ん? ああ、楯無くんになら別に構わないよ。楯無くん、娘をよろしく頼む」

「まぁ!? おじさまを『お父様』とお呼びしないといけない日が来るだなんてっ♪」

「迷いなく娘売りやがったなこのクソ親父ィ! こうなったら通報だ! とにかく通報してやる! このシスコンクレイジーレズをレズ罪か何かで警察にでも突き出して」

「あら、私がその取り締まる側だけれど?」

「腐りきってやがんな国家権力ッ!」

 

 高笑いを二重に響かせながら、姫燐弄りを全力で愉しむ二人に、あっちが本当の親子ではないのかとシャルは苦笑いしつつも、

 

(なんだか、ちょっと羨ましいな)

 

 その少し喧しくとも、確かなぬくもりがそこにある家族のふれあいに、淡い羨望を覚えてしまう。

 が、同時に、

 

(代わりたくは無いけど)

 

 と、まっとうなコメントもしっかり心の片隅に残しながらだったが。

 

「よし、お姉さん決ーめたっと♪」

 

 パッと楯無は姫燐から手を離すと、『決定』の二文字が描かれた扇子を開き、口元に当てるいつもの仕草を取りながら、

 

「ヒメちゃん、あなた部活動、どこにも入っていなかったわよね?」

「あ、ああ、そうだけど……」

「うんうん。じゃあ、はいこれ」

「ん?」

 

 IS学園の校章が掘られた、丸い水色のバッチを彼女に手渡した。

 

「なんだこれ?」

「生徒会員証。生徒会の人間が付けるように義務付けられているバッチよ」

「……生徒会員証?」

 

 そんなものを、生徒会長直々に手渡された意味なんて考えるまでもないが、反射的に姫燐は聞き返してしまう。

 

「今から、生徒会長権限において貴方を私達、IS学園生徒会の役員に任命しまーす♪」

「なっ!? ちょ!?」

 

 せいぜい、犬耳と首輪をつけられ満足するまでご奉仕でもさせらるのかと――即座にこんな考えが浮かぶほどにトラウマが根深いのだが――思っていたが、まさか過ぎる大抜擢に、思わず拒否の言葉が飛び出す。

 

「ノーだっ! なんでオレが、そんなシチめんどくさそうなモンにならなきゃ」

「あら? じゃあ代わりに、今後は私と虚と本音ちゃんで考えた、この168cm用特注のヒラヒラでスケスケでミエミエのカスタマイズ制服で学校生活を……」

「ワカリマシタ、ツツシンデオウケシマス」

「はい決定っ♪」

 

 ちょっと残念だけど、これは次の機会に。と、どこからか取りだしたおぞましい改造制服を畳んで適当な所に置くと、

 

「ええいっ、歓迎のハグ!」

「わぶっ」

 

今度は真正面から姫燐の身体を母が子を抱くように優しく抱きしめて、

 

「ふふふ、今後ともずーっとよろしくね、ヒメちゃん」

「はぁぁ……はいはい、分かりましたよ。生徒会長さま」

 

 心からの笑顔で、不機嫌な子猫の頭をなでた。

 なでられる方も、まんざらでは無さそうに眼を細めるが、

 

「わぁ、朴月さん気持ちよさそう……」

「パパにも、たまには甘えて欲しいなぁ……キリ」

「……もういいか? 貴様ら」

「ッ!!?」

「あぁん、もう少し」

 

 バッチリ観客が居たことを思い出して、夢見心地から一瞬にして現実に復帰し、楯無を力任せに引きはがした。

 

「っ、つつつったく、しょうがねぇなぁ! そんなにオレの力が必要だってんなら、貸してやるが……ふっ、オレはレアだぜ。報酬は」

「では、織斑先生におじさま。ヒメちゃんの部活動や、新しいIS登録の続きなんですけれどー」

「……いつか絶対に泣かす……」

 

 しかし、復讐の誓いを胸に秘めつつも、同時に撫で下ろしたのも事実だった。

 テキパキと事務処理を始めた大人組と、貰ったバッチを見比べて、あれが一時の冗談などではなく、本気で自分を生徒会へ入れるつもりなんだと姫燐は改めて悟った。

 あのかた姉にあれだけ言ったのだから、もっと言葉に出来ない想像したくもない目に合う事も覚悟していた姫燐であったが、流石にこのような真面目な結末が待っているのは予想外であった。

 

「模擬戦お疲れ様、朴月さん。朴月さんも要る?」

「ん、あぁ、さんきゅシャルル」

「そこに座って待ってようか」

「悪いな」

 

 ハッチに無造作に置かれたコンテナに座り、スポーツドリンクの蓋をあけながら、どこかシックリしないといった風な姫燐に、シャルは首を傾げる。

 

「あ、ごめんね。あんな風に、動けない所を狙っちゃって」

「いんや、模擬戦だからな。気にしてねぇよ。お前がオレなら、もっと早く爆破してたぐらいだ」

「あはは……じゃあ何を考えてたの?」

「ん、なんか、こう……手際良すぎねぇか? って思ってな」

「手際?」

 

 聞き返すシャルに、手にもった生徒会役員の証明であると言うバッチを手で転がしながら、改めて思い返す。

 

「いや、こんなもんまで事前に用意してたってことはさ。かた姉、多分だけど『どんな手を使っても』、ハナからオレを生徒会に引き込むつもりだったんだろうなって」

「そうなの?」

「ああ……結局、勝負がどう転んでも、こうなってたんじゃねぇのかなって思ってさ」

「生徒会に入るの、やっぱり嫌なんだ? 堅苦しいの嫌いって言ってたし」

「いや、ちょっと違うな」

「?」

 

 自分を、新しいISを受理すると言うこのタイミングで、かた姉が放課後の殆どを過ごす生徒会に引き入れた理由――姫燐には嫌というほど心当たりがあった。

 

(お膝元での、監視目的……か)

 

 傷跡が消えた――それでも不安と影は消えない――右腕に、そっと手を添える。

 

「ちとビックリしたけど、冷静に考えりゃ悪い事ばっかりでもねぇしな。オレも生徒会室にいつも居た方が、いざという時『安心』できる」

 

 きっと、あの人なら、本当にオレがオレじゃなくなっても、必ず止めてくれる。

 そのための『保険』も、渡してくれるように頼んであるのだから。

 口に出そうになった言葉ごと、スポーツドリンクで飲みこんでいく。

 

「それって、どういう?」

「なんでもねえさ、っと?」

 

 シャルの質問をはぐらかして目を逸らした先に、先程からずっと同じ場所で立ちっぱなしの男が見えた。

 俯いたままで、拳を強く握り締め続けている姿からは、自分の不甲斐なさや、頼りなさ、弱さを強く悔んでいるのが、ありありと感じられる。

 

「……ったく」

「朴月さん?」

 

 世話焼けんなぁとめんどくさそうに――それでいて少し口元を綻ばせながら――姫燐はよっこいせと立ちあがると、その肩へと強引に手を回した。

 

「おいこら、暗いんだよ顔が。ドリンクがマズくなる」

「……キリ」

 

 やはり、死人のような表情とテンションをしていた一夏に、姫燐は一抹の責任感から精一杯のフォローを入れていく。

 

「まぁ、確かに今回は負けたさ。誰かさんのせいでな」

「……本当に、ごめん」

「いんや、オレも正直、今回は作戦ミスった。お前があんな真似する前に勝負決められなかったし、反省はお互い様さ」

 

 バンバンと荒っぽく肩を叩いても、やはり暗黒星人のままな一夏に、あの時の――屋上で独り、震えていた時の自分が重なった。

 

――めんどくさいのも、お互い様かねぇ。

 

 見つけた彼との共通点は、どこか下らなくて、後ろ向きで、自嘲する。

 

「でも……俺、キリの期待に応えられなかった」

「あぁ? んなもん、もう気にしてねぇよ。幸い、賭けの代償も、思ったより遥かに悪いもんじゃなかったしな」

 

 そう言いながら、姫燐は彼の前で貰ったバッチを転がす。

 

「ま、ちょっと画像収集とか編集の、お楽しみの時間を持っていかれただけさ。最近、箒と同室になってからはご無沙汰だったしな。丁度いいっちゃ丁度いい」

「これは……?」

「ん? あぁ、生徒会のバッチだとよ。かた姉がオレに入れとさ」

「……そう、そうか……!」

 

 瞬間、曇っていた一夏の瞳に、光と活気が急速に戻っていった。

 

「ありがとうな、キリ!」

「お、ようやく元気でたか」

 

 なんだかんだ手が掛かるが、笑ってさえくれればそれだけで多少の苦労に充分に見合う報酬になる。

 もし、自分に弟が居れば、こんな感じなのだろうかと姫燐は思った。

 

「礼なんていらねぇよ。それより、こっから時間あるよな?」

「ちょっと行ってくる!」

「課題点洗うぞ、オレ達はまだまだ強く…………えっ?」

 

 姫燐の手を振りほどき、一夏が走る。

 行き先は、大人達とハッチから出て行こうとしていた、水流のようにしなやかな後ろ髪を揺らす、その背中。

 

「楯無さん!」

「んんっ?」

 

 あとはお若いお二人でと、気を利かせ早めに場所を変えようとしていた所で呼びとめられ、眉をしかめつつ楯無は振り向いた。

 

「どうしたのかしら、一夏くん?」

「確か俺の言う事、なんでも一つ、聞いてくれるんですよね?」

「はぁ!?」

「ええっ!?」

 

 特に驚いたのは戦闘に集中して話を聞いていなかった姫燐とシャルであり、戦闘の会話は全て聞いていた千冬と永悟は、それぞれ溜め息と興味深そうな様子で顎ひげを撫でる。

 そして当の言い出した本人は、『当然』と書かれた扇子を開き、あえて胸を押し上げるような腕の組み方で、いつも通りの挑発的な調子を崩さず答えた。

 

「ええ、貴方と私の約束だもの……お姉さんで出来る範囲なら何でもいいわよぉ?」

「なっ、てめっ、いつそんな約束取り付けたんだよ一夏!?」

「そうだよ! 不潔だよ一夏!」

 

 周りの誤解が進むガヤなど気にも留めず、一夏は真剣で沈痛な趣きを崩さず、腰を垂直に曲げ、

 

「俺を……俺を鍛えてください! 楯無さん!」

 

 楯無に頭を下げ、直談。

吐き出された言葉からは、浮ついた雑音を吹き飛ばすほどの、重みが満ちていた。

 

「…………えっ? あの、一夏くん?」

「俺……俺、今回の模擬戦で痛感したんです……もっと、もっと強くならないといけないって。こんなんじゃ……キリの足を引っ張ってるようじゃ、ダメなんです!」

「お、おい、オレはもう気にしてねぇって一夏」

「違うんだッ!!!」

「っ……!?」

 

 初めてぶつけられた強い否定の言葉に、姫燐の身体が竦む。

 彼女が許しても、誰が許しても、他ならない一夏自身が、この結果を許さない。

 今の彼を突き動かしているのは、自分への怒り、焦り、悔み、憤り……これら全てひっくるめ一言で言うならば、それは織斑一夏と言う男の意地に他ならなかった。

 

「ごめん、キリ。でも俺……このままじゃ、ダメだ。ダメなんだよ」

 

 今のままでは、姫燐を護れない。

 それどころか、足手纏いにしかならない。

 そんな現実を文字通り叩きつけられてしまった以上、黙っていられる訳が無い。

 彼女に降りかかる災いが、次はいつ――もう、この瞬間に襲来してきてもおかしくないならば――自分に残された時間はあまりにも少なかった。

 

「お願いします、楯無さん! 俺に……俺に、貴方の技を教えてください! 貴方に並ぶほどの、護る力が欲しいんです!」

「え、えっとね、確かに『なんでも』とは言ったけど……」

「そ、そうだよ一夏! 本当に、それでいいの?」

 

 あまりに性急な申し出をする一夏をたしなめる様に、言葉を濁す楯無とシャルが気にかけるのは――ただ先程から無言の、赤髪の少女。

 しかし、そんな二人の憂慮とは裏腹に、姫燐はニカッと歯を剥きだして、

 

「ヒヒッ……確かにそれは、ナイスアイデアかもなっ!」

「あだっ!」

 

 サッパリとした態度で、思いっきり一夏の曲げたままの腰を引っ叩いた。

 

「オレからも頼むよ、かた姉。こいつマジ弱過ぎて、オレも相当骨折れてんだよ。かた姉が鍛えてくれるなら安心できるってもんさ」

 

 カラカラと口元に弧を描きながら、姫燐も軽薄な調子で、頭を軽く下げる。

 

「だからさ、暇な時で構わねぇから、一夏のこと任せていいかな? 強くしてやってくれよ、それが……コイツの夢にも繋がるんだ」

「………………」

 

 楯無は瞳を閉じて腕を組み、無言で熟考するような仕草を取り――そして、

 

「……分かったわ、一夏くん。ヒメちゃん」

 

 重々しく、二人の頼みを承知した。

 

「実を言うと、ちょうど良かったわ。一夏くんの生徒会入りも、織斑先生や虚と検討していたもの」

「えっ、そうだったんですか?」

「予定より随分前倒しになりますが、構いませんよね、織斑先生?」

 

 楯無の目配せを受け、千冬も持っていた端末を手早く操作し、半透明の立体ディスプレイを表示させる。

 

「このデータを白式に送っておく。軽い取り決めが書かれた誓約書のようなものだ、目を通しておけ。正式な手続きは後日改めて行う」

「じ、じゃあ……!」

「ええ、貴方も私の生徒会に歓迎するわ。織斑一夏くん」

「あ……ありがとうございます、楯無さん!」

 

 感極まった形相で、一夏は再び深々と頭を下げた。

 

「これからは生徒会の仕事を手伝ってもらうことになるし、私もそれなりにお仕事があるから、いつでも、っていう訳にはいかないけれど……出来るだけ時間は空けておくわ」

 

 どこか複雑そうな――まるで、誰かに遠慮しているような様子こそ最後まで抜けなかったが、これほどまでに心強い師匠を得たことに、一夏の鼓動は高まっていく一方だった。

 自分よりも織斑一夏を知っているこの人ならば、確実に俺を高みへと導いてくれる。今まで夢に立ちこめていた、『霧』が晴れていくような感覚。

 

「……良かっな、一夏」

「キリ。いや、これもキリの口添えのお陰だよ」

「なに言ってんだ、動き出したのはお前さ」

「おわっ……と?」

 

 子供のように無邪気に瞳を輝かせる一夏の肩を、軽く楯無に向かって押し出す。

 そんな彼女の横顔は――優しさに、満ちていた。

 

「んじゃ、オレはお先に、親父と新しい相棒の調整とかの相談してくるわ。いこうぜ、親父」

「おいおい、キリ?」

 

 永悟のネクタイを掴み、引きずるように姫燐は背を向けて出口へと歩き出す。

 

「な、キリ、ちょっと待っ」

「今日はお疲れ。また明日、学園でな。一夏」

「むぅ……では諸君、また会おう」

 

 晴れやかな足取りで、姫燐と永悟は自動扉を開き、ハッチを後にした。

 

「…………ねぇ、一夏。後でちゃんと、朴月さんに…………」

 

 その後ろ姿を見送った後、人一倍、こういった機微に敏感なシャルが、一夏に耳打ちをしようと顔を近づける。

 

「…………っ!」

「え? あっ、一夏!?」

 

 全てをシャルが言い終わらない内に、一夏はハッチから飛び出していく。

 

――なんだ、やっぱりアツアツじゃないか。

 

 なんでこれで、あと一歩に気付かないのかなぁ。

 振り返ると、『純情』の扇子を開いた楯無も、少し自信は無かったが織斑先生も、どこか自分と同じような笑みを浮かべているように、シャルには思えた。

 

 

               ○●○

 

 

「確かに、実戦中に完璧なイメージを制限時間込みで作り出すのは、難易度がいささか高すぎたようだ」

「……ああ」

「君の要望通り、イメージのプリセットや、外付けの武装はすぐに用意しよう。しばらくここのラボを借りれないか、ミス・千冬にもかけ合っておくよ」

「……分かった」

「つまりだ、パパも当分の間、このIS学園にお世話になると言うことなのだが」

「……そっか」

「本当に、あれで良かったのかい? キリ」

 

 着替えを済ませ、第二アリーナを後にしてから、落ち着ける場所に行こうとIS学園のカフェテラスに二人で座り、注文の品が来てもなお動かなかった姫燐の瞳が、初めて永悟の顔を正面から捉えた。

 

「何がだよ」

 

 不機嫌そうに、温くなったブラックコーヒーを口元に運ぶ。

 

「パパはキリと一夏くんの間に、この3カ月近く何があったかは知らないが……あの時の君は随分と、辛そうに見えた」

 

 いつもよりも、遥かに強烈な苦味が、口中に広がる。

 

「確かにキリは4年前から、父である私の眼から見ても、随分と変わった。だが」

 

 雑に置かれた姫燐のブラックコーヒーに、永悟は、共に運んでくれていたミルクと砂糖を全て加えながら、

 

「人一倍傷つきやすいのに、人に心配かけるのはそれより嫌で、辛い時に限ってだんまりになる所は……まったく変わらないね」

 

 姫燐が一番好む、甘々な、一番飲みやすいカフェオレへと変えてやった。

 

「……うっせえよ」

 

 文句だけはいいながらも、勝手にカフェオレにされたことには何も言わず、また口に運ぶ。

 先程までとは比べ物にならない飲み易さになったカフェオレを、姫燐はあっという間に全て飲み干す。

 

「私の分も飲むかい?」

「いらねぇ、ガキじゃあるまいし」

「くっぷぷ……」

 

 口元に茶色いヒゲを作っておきながら、ガキじゃないと言い張る姿がおかしく、笑みがこぼれ、手にしたカプチーノも少しテーブルにこぼしてしまう。

 

「んだよ……どいつもこいつも」

「一夏くんも、かい?」

「………………」

 

 開きかけていた口が、また再びへの字に閉じる。

 

「楯無くんから、君達が学校ではひときわ仲が良いことは聞いているよ。まさか、男の子と一番仲良くしているとは、流石の私も計算外だったが」

「………………」

「寂しいのかい? 彼が楯無くんの所へ行って」

「なっ!」

 

 思わず席から立ち上がり、テーブルに手を叩きつけた娘の姿は、長年の経験がなくとも自分の言葉を肯定しているのだと確信させるには充分だった。

 姫燐も、それが分かっているのか、失敗したように椅子に座り直し、

 

「そりゃ……なんか、モヤっとしたけどさ」

「ふむふむ」

「けど、これで正解じゃねぇか……」

 

 握り直したのは、右腕。

 あの時の傷跡が消えても、消えない疑念と恐怖の証。

 

「……親父も、聞いてんだろ」

「ああ、ウチに黒い服を来た連中が沢山やって来たね」

「っ……」

 

 鎮痛に、右手が握り締められる。

 

「そのために、コアは一度完全に初期化し、まだまだ問題点が残るフレームごと急造したんだ。学園と楯無くん達の立ち会いの下、ヴァルキリー・システムみたいなモノも仕込んでいないことは実証済み。これで間違いなく、ISは白になった」

「でも……オレは……オレはどうなんだよ……?」

 

 声の震えが、とうとう隠せなくなってくる。

 それでも今は事務的に、永悟は事実を述べて行く。

 

「学園側には、テロリズムという極度の緊張状態に突如陥ったことによる錯乱ということで、話はついている。そもそも、テロを許したのは向こうの落ち度だからね。割とすんなりと」

「そうじゃねぇよ……そうじゃねぇんだ……」

 

 永悟が述べたことが事実として世に出回っていても、姫燐の中にある真実は違う。

 アレが表に出れば、朴月姫燐は塗りつぶされ、代わりの何かが、空っぽになった身体中に澄みわたって行くのだ。

 研ぎ澄まされた刃物のような、あの透き通る害意が。

 

「報告は楯無くんから受けている。テロリストが君をキルスティンと呼んだそうだね」

「…………」

「無論、君は君だ。私のたった一人の娘だ。産まれた時からずっと見てきた私が断言する。それに世界には、三人ほどそっくりな人間が居るとも言うがね。だが……これはあくまで仮説ではあるが、なぜこのような現象が起こるのか、私には心当たりがある」

「ッ!?」

 

 まさかの言葉にガタリと、もたれていた姫燐の背筋が前のめりになる。

 

「パパは研究者といっても、一定の所属を持たないフリーランスで、色んなところに顔を出しているのは知ってるだろう?」

「ああ、この前はどこ行ってたんだっけ……ドイツだったか?」

「その通り。そして君のIS――『ストライダー』のコアは、そこのクライアントから譲り受けたモノなんだよ」

「……オイ待て、初耳だぞ。それ」

 

 機動実験のためといわれていたが、まさか国外からの受注で自分の父が動いていたというのは姫燐も初耳であった。

 それが意味しているのは、この父親が、本来なら国家間で厳正に取り扱われているコアを、勝手に国外に持ち出しているという事実に他ならない。

 知らない間に、とんでもない犯罪行為の肩棒を担がされているのではないのかと察し始めた姫燐に、断りを入れるように永悟は説明を加えていく。

 

「まぁ、完全に白と言えば嘘になる。だが、相手は信頼できるよ。楯無くんにも事前に話は通していたし、どっちの法にも接触しないよう、手段は選んでいる」

「なるほど……そこはいつも通りなんだな」

「ああ、いつも通りだ」

 

 フラッと遊びに行くような感覚で、海を越えて研究機関に知恵を貸しに行き、何カ月も家に帰らない。永悟の稼業は、大黒柱というにはあまりにフリーダムが過ぎたが、それが朴月家の日常だ。

 ここは今更、特に問い詰めるほどではない。

 

「だが……そのコアの由来が、少しね」

「やっぱりなんか違法品か、コイツ」

 

 首元にぶら下がった、稲妻を纏った太陽のチャームが付いたチョーカーを突く。

 

「正確には、少し違う」

「じゃあ、なんだよ」

「元々、そのコアはね。盗品だったんだ」

「…………はぁぁ!?」

 

 白と言えば嘘になるどころが、ド直球にブラックな一品であったことに一瞬反応が出遅れたが、ここからの詰問を制するように永悟が先に口を開く。

 

「ドイツ側のゴタゴタでね、君のストライダーは、元々高官の手によってどこかの組織に横流しされていたコアの一つだったそうだ」

「はぁ!? なんじゃそりゃ!? とんでもねぇ大事件じゃねぇか!」

「だから、『だった』のだよ、キリ。それはごく最近、ドイツ軍が極秘裏に奪還したものだ」

「いや、それでも……極秘裏? てことは、これ一般的にはニュースにもなってないんだよな?」

「ああ、全てドイツ内部で処理された事件だ。世間一般に公開されれば、ドイツという国の基盤が揺るぎかねんからな」

「ははーん……」

 

 謎の組織に横流しされていたISコア――万が一そんな事件が表沙汰になれば、ドイツのIS事業発展は、遅れをとっているフランス所の話ではなくなるだろう。

 それはISが舵を取る、現代の国家間のパワーバランスに大きな楔を打ち込む結果を招くだろう。単純な、一国家の不利益で収まる話では無い。

 

「つまり、この一連の騒動は『無かったこと』にするしかねぇって訳か。それが例え、『無くなってたコアは、実は道楽科学者に預けてました』っていう、無茶苦茶なこじ付けだったとしても」

「その通り、賢い娘だ」

 

 いつの間にか、国家存亡どころか、軍事バランスの危機に関わっていた父親に、姫燐は机に突っ伏し、呆れの溜め息を壮大に吐き出した。

 

「で、そんなヤバ気な一品が、オレの身体にどう影響を及ぼしたってんだよ」

「うむ、実はね……このコアは結構な長期間、その組織のトップエージェントが使っていたと言われているんだ」

「……おい、まさか、そいつの名前って……」

「名前までは不明だ。だが、彼女はあらゆる工作に精通しており、戦闘技術も相当な腕前を誇っていたそうだ――当然、IS戦もね」

 

 自分の中に蠢く影。その正体が、おぼろげながらに輪郭を現していく。

 

「……本当に、すまなかったと思っているキリ。まさか、あれほど念入りにリセットをかけたISコアが、あのような現象を引き起こすとは」

「まだ……親父が悪いって決まった訳じゃねぇよ、推測だろそれ」

 

 心の底から申し訳ないと頭を深々下げる永悟とは対象的に、姫燐はどこか冷徹に、それだけでは説明しきれない違和感を覚えていた。

 もし、キルスティンが、ISコアに残っていた奴の心の残骸ならば――……アイツ等は、なぜオレのことを……――?

 考えようと、思い出そうとするほどに、二度と帰れない場所に堕ちていく時ような悪寒が身体中に駆け抜けていくような気がして、

 

「……ケッ、止めだ止めだ。だったらもう安心じゃねぇか、もう一回念入りにリセットかけたんだろ?」

 

 姫燐は、いつもの調子を取り戻すように、鼻で笑い飛ばした。

 

「キリ……やはり、そのISは私が持ち帰り……」

「……イヤだ。色々考えたけどオレには……やっぱりコイツが必要だ」

 

 飄々とした科学者の顔では無く、一人の親として、子を思う一心から出した提案は、その子に一蹴される。

 

「確かに、コイツはヤバい代物かもしれねぇ。だけど、オレには約束も、割とデカい借りもある。そして、奴等がまた来る可能性もな」

 

 この力を捨てて、一介の生徒として慎ましくやっていくことだって、誰も止めはしない。

 だが、それでも、この学園に、約束を交わしたアイツに、明確な悪意を持ってやってくる連中は確かに存在するのだ。

 ならば――力がある人間が、怯えている場合では無い。例え、これがどのような力であっても。

 

「だからまだ、捨てらんねぇよ。頼んでおいた機能もしっかり積んでくれてるんだろ?」

「……ああ、起動キーは楯無くん達や、ミス千冬に手渡しているよ」

「なら大丈夫だ。あの人達、割とそういう趣味持ってそうだしな」

「まったく……こう言う部分は、誰に似てしまったんだろうなぁ」

「さぁな、コンパクト貸そうか?」

 

 軽口を叩きながらも、所詮は強がりなのは誰が見てもハッキリ分かるほどに、姫燐の声には覇気が感じられなかった。

 それでも彼女は、怯えながらだろうと自分の意思で選んだのだ。

 力を恐れるのではなく、利用するために、強がってでも必死に変わろうとしている。

 親であろうと、それを止める権利など無いのかもしれない。

 だから、

 

「分かった、私からはもう何も言わないよキリ。ただしあと一つ」

「まだあるんじゃねぇか……」

 

 もうこれ以上、自分が娘にしてやれることはきっと、人生の先輩としての、ささやかな助言ぐらいしかないのだろう。

 

「一夏くんには、あとでちゃんと謝っておきなさい。あれはよくない」

「…………オレは、間違ったことはしてねぇって思ってる」

 

 今までのどこか、様々な事と戦う覚悟を固めていた重い表情とは打って変わって、この話題になった途端、姫燐に、年相応の少女のような迷いが宿った。

 

「師匠としても、パートナーとしても、オレなんかより、絶対にかた姉の方が良いに決まってるし……ああするのが正解じゃねぇか」

「それは……果たして本当にそうだろうか?」

「……えっ?」

 

 カプチーノを飲みながら、永悟は姫燐に疑問を投げかける。

 

「コーヒーには、実に色んなモノが合う。ミルクを含めれば口当たりはマイルドになるし、砂糖を添加すれば甘みが強くなる」

 

 このカプチーノだって、またベストだと永悟は続けた。

 

「だが、正解は人それぞれだ。人によってはミルクや砂糖を嫌うし、君のように全部入れる方が好きな子だって居る。それは、人も同じだよ」

 

 カプチーノを置いて、震える姫燐の右手をすくう。

 

「君にだって、彼にとっての正解は、まだ分からないんだろう?」

「でも……こんなオレだぞ……?」

「そんな君じゃなければ、ダメという可能性もある。実際、今までこんな君と、彼の居心地は、悪くなかったんだろう?」

 

 ピクリと、腕に走る鼓動が、もう心配はいらなさそうだと永悟にメッセージを送った。

 

「自信を持つんだ。少なくとも、私の正解は、いつだって君と母さんだけだよ。キリ」

「……ふん、くっせぇセリフ吐きやがって……分かったよ」

 

 これ以上、見透かされるのは気に食わないと言わんばかりに手を振りほどくと、そのまま姫燐はテーブルに置かれたベルを叩いた。

 

「当然、全部親父のおごりだよな?」

「ああ、存分に親の脛をかじってくれたまえ」

 

 余裕の表情を浮かべる永悟の言い分にそっぽを向くように姫燐は、外から差し込む夕暮れを見上げ、

 

「今度さ、母さんも連れてきてよ。久しぶりに、会いたい」

「……ああ、約束しよう」

 

 永悟も娘と同じように、沈んでいく夕暮れに彩られる小道を眺めながら――少しだけ驚いたように眉を上げ、カプチーノを一気に飲みきった。

 

「ふむ……さてさて、私は早速、作業に取り掛かるとしよう」

「あ? おごってくれるんじゃねぇのかよ」

「安心したまえ、代金はちゃんと置いていくよ。では、また明日にでもな」

 

 そそくさと、微妙に急くように永悟は代金だけ置いて席を立つ。

 

「……あれ、なんか多くないか親父?」

 

 しかし、その代金はおかわりを入れた二人分としても、あと一人分ぐらいは余裕で払えるほどに多く、姫燐は首をひねる。

 

「いやいや、これでいいんだ。ちゃんと一夏くんに、すぐ謝るんだよ?」

「はぁ? ハイハイ、ちゃんと分かってますよって」

 

 小言は良いからさっさと行ってこいよと、娘にシッシッと追い払うようなジェスチャーを向けられても、髭面は嫌そうな顔ひとつせず、心底愉快そうな笑みだけ浮かべて店を出た。

 

――なるほど、娘があそこまで気にかける訳か。

 

 そしてそのまま、ISスーツを着たまま、息を切らして誰かを必死で探しているような少年の下へと、悠々とした足取りで向かって行った。

 




 よい子の諸君! 机を片付けると、むしろ置いた場所が分からなくなるから嫌だとか言う輩が居るが、その置いた場所を忘れると誰も見つけられなくなるから整理整頓はちゃんとしような!

 シャル編のプロットを失くした作者との約束だ!


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第30話「生徒会役員共の一存(前編)」

「朴月ちゃーん? ねねっ、週末予定ある?」

 

 明日から、学生にとって何よりも待ち遠しい土曜日を控えた放課後。

 誰にも気付かれずに教室から退散するという姫燐のスニーキングミッションは、3秒という金メダル級のタイムで失敗に終わった。

 

「ひっ!?」

 

 動揺に足が竦む。僅かなタイムロス。

 しかし、既に獲物をロックしたハイエナの群れにとって、子羊の退路を奪うにはその一瞬で充分すぎた。

 

「どこへ行こうと言うのかね? 朴月ちゃん」

「君はー完全にー包囲されているー、諦めたまえー」

「逃さん……朴月ちゃんだけは……」

「あっ、いや、オレ、その……」

 

 たった一人の生徒を大勢で囲む、学園ドラマとかによくある陰湿な光景が展開される。

 ただ、姫燐の場合はドラマとは違い、危ないのは貞操だ。

 イジメられるのと、着せ替え人形。どちらがマシかと姫燐はふと考え、どっちにせよイジられていることには変わりないと迷妄を振り切り、何とかこの場を治めるための嘘を脳髄から絞り出す。

 

「わ、悪りぃな、お、オレ、こっから部活があるんだよ……だから」

「えー、朴月ちゃんって帰宅部でしょ? この前、織斑君が言ってたよ」

 

 遠巻きに、これは女子特有のスキンシップなのか、それにしては只ならぬ邪念を肌で感じてはいるのだがと、止めるかどうか判断しかねオロオロとしていた一夏に、姫燐の「オレを売ったのか!?」と糾弾するアイコンタクトが突き刺さる。

 

「あ、ああ! そうだそうだ、オレ、これから親父に呼ばれてて……」

「朴月博士なら、確か今日は織斑先生と、学園のセキュリティプログラムを見直すって言ってなかったっけ?」

「だな。今日はそのために織斑先生が出れず、山田先生が担任としての業務を受け持っていたからな。かなり本格的にやるらしく、明日も出れないとの事だが……」

「おお! やっぱり凄い人なんだねぇ、朴月ちゃんのお父さん。とっても、忙しいんだねぇ」

「箒ぃ……シャルルゥ……!」

 

 恨めしげに、しょうもない嘘の矛盾点をあっさりと暴きだした二人を睨む姫燐。

シャルは少し申し訳なさげに目を逸らすが、逆に箒はどこ吹く風と口元を僅かに綻ばせながら話題を逸らす。

 

「いやしかし、お前の父がこの学園に来ていると朝礼で聞いた時には驚いた。あとで一度、ご挨拶に向かわせてもらった方が良いだろうか?」

「いらねーよ別に。つか、オレのISの改修やるんじゃねぇのかよ親父の奴」

 

 と、彼女も口では愚痴りながらも、頭では納得はしていた。

 大方、IS学園の機材をレンタルするために、その頭脳を取引材料に使ったのだろう。

 敷地を使わせてもらう前に、大家に家賃を支払うのは当然のことだ。

 しかし、女の園のIS学園に、いきなり中年が一人放り込まれることになるこの現状。クラスでも多少なりともの抵抗を覚える者が多いのではないかと、姫燐は憂鬱に思っていたが、

 

「朴月ちゃんのお父さんって、どんな人なのかな? やっぱり、身長とか高くてスマートなの?」

「うーん、私は既婚者とは思えない、ちょっと耽美でクール系のお人と見たね。眼鏡と七三でキチッと決めてる感じの! でも朴月ちゃんみたいに、攻められるのに弱いの!」

「えー! 朴月ちゃんのイメージとちがーう! もっと少し毛深いぐらいのワイルド系だって! じゃなきゃ、あそこまでの小動物オーラは出せないよ!」

 

 自分も含め、えらく言いたい放題言われているが、割りと受け入れられている現状にはホッとしつつ、それでも注意が逸れたこの好機を逃さぬよう、即時撤退を決めるための条件(鞄)を探すが、

 

「姫燐、鞄は私が持とう。利腕が動くようになったからといって、まだ負担は控えた方が良いだろう?」

「……ハ、ハハッ、どうもご親切に」

 

 とても良い笑顔で既に自分の鞄を確保していた、あの日以来、なにか剥けてはいけない皮が剥けたルームメイトに、姫燐は戦慄を覚え苦笑する。

 

「お、おまっ、お前は普通に土日も剣道部あるだろ……? だから週末は関係」

「いや、私も今週末は、部を休ませて貰えるように言ってある。お前達と、出かけられるようにな」

「えっ?」

 

 そんな箒の言葉に一番驚いたのは姫燐では無く、遠巻きに一人罪悪感に沈んでいた一夏であった。

 

(箒が、部活を休んでまで? 友達と?)

 

 自分が知っている昔の箒も、ここで再会した箒も、本当に昔と変わっていないと一夏は安心感を覚えていた。

 それは彼女の良い部分も、悪い部分もひっくるめた評価だ。

 質実剛健。飾り気はなく、慣れ合うこともせず、常に緊張した空気を張り詰めている怖い人。

 それが、この学園で箒を初めて知った人の評価だろう。

 だが、一夏は違う。一夏は昔の、ISなど存在しなかった頃、ただのごくごく平凡な少女だった時の、本当の彼女を知っている。

 彼女はただ、すごく人見知りをしやすいだけなのだ。更に真面目でもあるため、目的があるなら黙々と一人で熱中していってしまう。

 それが他人には無関心で刺々しい、冷淡な人間のように映ってしまっているだけなのだ。

 本人がそんな自分の性分をどう思っているのかまでは、流石に一夏にも分からなかったが、

 

「ふふふっ、何処へ行こうか姫燐。恥ずかしながら、私はこんな時にどういった場所へと出掛ければ良いのか、あまり詳しくないんだ」

 

 しかし、こんなにも楽しそうな表情で、友人との外出を待ち焦がれる彼女を見てしまえば、もはやこのような分析など野暮でしか無い。

 そう結論を出した一夏は、良い方向へと向かい始めた幼馴染を微笑ましく見つめる。

 

「ただ私は、お前とならどこでも構わないと思っている。どこでも、とても愉しそうだ」

「アイエエエ……アイエエエ……」

 

 ただ、彼の結論は、箒は『楽しんでいる』というよりは、『愉しんでいる』と言った方が正しいという事だけは、綺麗に的を外していたが。

 

「でも、そろそろ時間だよな」

 

 一夏としても彼女たちの和気あいあい? に、水を差すようなことはしたくなかったが、少し約束の刻限が迫って来ている。

 席を立ち、さてどうやってこの女性熱帯雨林から姫燐を連れだすかと思案したところで、

 

「ぴぴー、ぴぴー、はなれてー。みんなーはなれてくださーい」

 

 先にのほほんとした力の抜ける声が、ぶかぶかの袖をオーライオーライと振りながら、熱暴走しかけている人混みを散らしていった。

 

「ほ、ほんちゃぁぁん……!」

「ほ、本音? 一体どうしたんだ」

「はーい、ほっきーごめんねぇ。きりりんはね、今日の放課後は生徒会室に行かないといけないんだぁ」

「生徒会室、だと?」

 

 役員以外は立ち入りできない生徒会室に用事があるという事実が半分、姫燐が本音を「ほんちゃん」と呼びながら縋るように彼女の後ろへと隠れたことが半分、教室中に動揺が走っていく。

 

「なぜ、姫燐が生徒会室に呼ばれないといけないんだ?」

「そうですわ! き、ききキリさんからあだ名で呼んで貰えるだなんて貴女は、貴女は一体ッ!?」

 

 説明を求める外野は一端置いておき、閉じているのか開いているのか分からない目で何かを促す本音の視線に、姫燐は安堵と観念の溜め息をついて、ポケットから昨日貰ったバッチを取り出す。

 

「ほら、オレ今日から、生徒会役員なんだよ。そこの一夏と一緒にな」

 

 と、一転して視線を向けられた一夏も、同じバッチを持っていることを確認すると同時に、一瞬のほほんと冷めかけていた熱がまたA組中にぶり返していく。

 

「な、なんだってー!?」

「異議あり! 朴月ちゃんも織斑君もA組の共有財産なのよ! いくら生徒会だからって横暴よおーぼー!」

「訴えるしか無いわね! そして勝つしかないわね! 法廷で会いましょう!」

「こうなりそうだから言いたくなかったんだよ……てか勝手に共有財産にすんな」

 

 自分達のここ最近の生き甲斐を奪われてなるものかと、徹底抗戦の構えを見せるA組であったが、そんな放課後バトルフィールドとは別の次元に生きているのかと思うほどいつも通りに、本音はのほほんと袖から一枚のプリントを取り出し、

 

「コレねぇ、みんな知ってるかもだけど、今度の夏に行く臨海学校の予定表なんだけどぉ」

「ワッツ?」

「ここにね、自由時間ってあるでしょー?」

 

 なぜ、本音がまだ二ヶ月近く先のイベントの予定表を持っているのかよりも、素直に夏の一大イベントのスケジュールが気になるA組の生徒たちは、いったん目の前の問題は置いておき、こぞって一枚のA4用紙に詰め寄る。

 

「実はねぇ、うちの学園って、毎年臨海学校は、花月荘っていう海がすっごい近くの民宿に泊らせてもらうんだぁ」

 

 海。浜辺。水着。肌色。次々と脳裏を掠める真夏のアバンチュールに、A組の生徒たちの眼光が瞬き、獲物の背筋が凍る。

 

「でねぇ、わたしがいっつもお洋服を買う行き付けのお店にね。今度、新しい水着を一杯入荷するから、『反応』も見たいし、出来ればたっくさんお客さんを連れて来て欲しいって頼まれてるの。代わりに……」

 

 口調は変わらず。しかし、そっと袖を口元に手を当て、まるで心底からドス黒く沸きだす愉悦を隠すかのように――

 

「お店、その日は、『何があってもいい』ように、私達の貸し切りにしてくれる――って」

「取引成立よ! 行って良し朴月ちゃん!」

「1ミリも良くねぇぇぇぇぇ!!!」

 

 自らの意思0%で生徒会とA組という、組織間のトレード素材にされている自身の境遇に対する理不尽に姫燐は叫ぶが、

 

「はーい。それじゃあみんな、行ってくるねー」

「あちょ、だから力強っ! 異議あり異議あり! なんだよこの展開! チクショウ! マトモなのはオレだけか!?」

「そ、それじゃあ、みんなまた明日な」

 

 異常であれど、民主主義によって可決した決議に対する異議など認められるはずもなく、あれよあれよと嵐に揉まれるボートのように姫燐は流されていき、A組の扉が閉じられると共に、その声は掻き消えて行った……。

 

               ○●○

 

 日が少し傾き始めたものの、まだ少し蒸し暑さが残る廊下は、放課後の解放感に酔いしれる者、その後すぐに続く部活動への準備を進める者、特に理由もなく教室で同級生と無駄話に華を咲かせる者と、十人十色で溢れていた。

 特別な才気に溢れたり、血のにじむような努力を続けた人間だけが集まるIS学園といえど、この特有の活気に溢れた慌ただしさは、自分が過ごしたごく普通の中学校と変わりなく、一夏はほんの少しの懐かしさと癒しを覚える。

 

「オレはどこで間違えた……? 何を間違えたんだ……? どこか……ズレた場所が思い出せないんだ……」

 

 たとえ、それが隣で今にもタイムリープマシンがあれば飛び付きそうな形相で歩く姫燐へ、かける言葉が見つからないがための、只の現実逃避であるとしても。

 

「そうだ、樹海に行こう……静かな場所がいい……」

 

 あ、これは本格的にダメそうだ。

 これ以上いけないと一夏は、ここ最近妙に慣れてきた、他人へのフォロー力を行使しようとするが、

 

「大丈夫、ひめりんはなーんにも間違えてないよ」

 

 それに先んじて、教室から姫燐の手をずっと握り続けていたのほほんとした声が、その腕に優しく抱きついた。

 

「ほっきーもみんなもね。それだけ、ひめりんの事がとっても大好きなだけだよぉ」

「うるせぇ、お前ほんと何なんだよ……煽るだけ煽りやがって、無責任によぉ……」

「じゃあ、責任、取ったら良いの?」

「良い訳ねぇだろ」

「ぶー……」

 

 と、露骨に嫌な顔をしながら愚痴りつつも、絡んだ腕を払おうとはしない辺り、二人の間には一朝一夕ではない、自分の知らない絆が見え隠れしていると、蚊帳の外で一夏は思った。

 

「それにしても、二人ともいつの間にそんなに仲良くなったんだ?」

「あー? ……あ、そっか、お前にはまだ話してなかったか」

「そだねぇ、おりむーにはまだだったねぇ」

 

 軽いアイコンタクトも含み、この事を知っているのが箒だけであることを確認し合った二人は、自分達と生徒会、そして『楯無』のことについて軽く説明をしていく。

 あの、のほほんと穏やかな姿勢を崩さないクラスメイトが、昨日自分を徹底的にボコボコにした『楯無』の一員であることや、自分よりもずっと昔から姫燐の事を知っている友人同士であったことに、一夏は戦慄に近い驚きを隠せなかった。

 確かに自分は人の機微には疎いが、それでも能ある鷹は本当に爪を隠すのだと、また一夏は一つ、身を持って得難い経験を得る。

 

「んー、いっぱいお喋りしたら喉乾いちゃったなぁ。お姉ちゃんにココア淹れてもらおっと」

「そんぐらい自分で淹れろって。うつ姉に余計な仕事増やすなよ」

「じゃあ、ひめりんのココアがいいっ! すっごく飲みたい!」

「だから自分で淹、れ、ろ!」

 

 ……ただまぁ正直、半信半疑ではあるのだが。

 などと、一夏が狐か狸に化かされているのではないかという表情をしている内に、本音の足が、見慣れない扉の前で止まった。

 

「ささ、二人ともバッチを襟に付けてー」

「はいはい」

「付ければいいのか、のほほんさん」

 

 言われるままに慣れない手付きで、二人は制服の襟に水色の丸いバッチを付ける。

 そして、いつの間にかバッチを既に付け終えていた本音が扉に近付くと、電子音と共にIS学園の紋様が淡い光を放ち始める。

 

「うぉ、なんかかっけぇ」

 

 妙にSFチックなギミックをした扉の前で、軽い感動を覚える姫燐を余所に、生徒会室の扉が軽い音を立てて自動で開かれた――途端、

 

「およっ?」

「んぇ?」

 

 中から飛び出る腕。引っぱり込まれた姫燐と本音。そのままプシューと閉じる扉。

 二人とは一歩離れた位置に居た一夏は、イリュージョンのように綺麗な置いてけぼりを受け、空に手を伸ばし目を丸くしたまま……、

 

「い……いやいやいや! 大丈夫か二人とも!」

 

 急いで我に帰り、自分も自身のバッチを扉にかざして、一気に室内に突入した。

 複数の椅子や机が合わせて大きなテーブルのように見立ててあったり、コーヒーメーカーが置いてあったり、掲示板のようなものがあったりと、置いてある物自体は自分も良く知るような生徒会室と同じように見える。

だが、木製の机には色合いに高級感溢れる深みがあったり、掲示板のようなモノはよく見たら凄まじく薄いモニターであったりと、そのグレードだけは、明らかに自分の生活基準を何段階もランクアップさせたような雰囲気を醸し出していたが――今はどうでもいい。

いざとなれば、いつでもISを展開させられるよう、腕に力を込めながら周囲を警戒する一夏の目に飛び込んできたのは、

 

「キリ! のほほんさん! 無事……か?」

「あ……あぁ、まぁ」

「おりむー、なんかドラマの刑事さんみたーい」

 

 部屋の一角で、とりあえず怪我などはしていなさそうな、どうしたもんかと困惑したような堅い表情の姫燐と、こちらの心配など露知らずなコメントを残す本音。

 そして、

 

「……………………」

 

 そんな二人を両腕で、強く抱きしめたまま不動な、見慣れない女生徒の背中だった。

 

「あ、あのー……貴方は?」

「…………………」

 

 自分の声にも無反応、ただ無言無心で二人をギュッとし続ける見知らぬ人物をどうすればいいのかと一夏は視線で訴えるが、

 

「だいじょうぶだよおりむー、もうすこしで完了するから」

「か、完了?」

 

 人を抱きしめて何が完了するのだろうかという当然の疑問に答えるように、スッと姫燐と本音を放した女生徒は、几帳面に居服や眼鏡の乱れを整えると一夏の方へと振り返り、

 

「はぁぁぁ……すみません。久方ぶりの充電だったので、つい」

「じゅ、充電?」

 

 何を充電しているのか、ハグで回復するのか、そもそも人間には充電しないといけない器官は無かったように一夏は保健体育で記憶しているが、改めて相対してみて気付いた事実のほうが重要そうなので、一端この疑念は置いておくことにする。

 

「貴女、たしか弾のDVDを運んできてくれた……」

「はい、その節は上手く行きましたか? 織斑君」

 

 一度だけだが、自分は確かにこの女生徒――三年生の先輩と出会い、そして間接的にだが、かなり世話になったことがあったのだ。

 

「は? お前、なんでうつ姉のこと知ってるんだ?」

「あ、ああ、オレもビックリしたんだけど……」

 

 自分の二つ上とは良い意味で思えない、おだやかで理知的な雰囲気。のほほんさんと同じ少し赤っぽいブラウンの髪の色をしているが、ポニーテールにし、カチューシャで眼鏡にかからないよう前髪をあげているため、寝ぐせのように外に跳ねる後ろ髪をそのままにしている彼女とはかなり違う印象を受ける。

 

「あれれー? お姉ちゃん、おりむーと何かしてたのー?」

「ええ、正確には少しアドバイスした程度、だけれど」

「あ、ああ! だからあの時!」

 

――妹達がいつもお世話になっています。

 ようやく一夏は、彼女がなぜ自分にこの台詞と共に、菓子折りまで持って来てくれたのかを理解した。

 

「あ、ありがとうございます、あの時のクッキー! シャルからもお礼を言っておいて欲しいって、ええっと」

「布仏虚。IS学園三年生の整備科所属、生徒会では会計を担当してるの」

「整備科?」

 

 いつも通り聞き慣れない言葉にキョトンとする一夏に、いつも通り姫燐が横から小声で解説を入れていく。

 

「IS学園はな、二年から整備科っていう別クラスが一つ作られるんだよ。ドンパチじゃなくて、ISの整備や開発、研究を専攻して学ぶためのな」

「そんなクラスがあったのか……」

「ちなみに、虚はそこの主席。機体を弄ることに関しては、私より上なんだから」

「す、すげぇ……あの楯無さんより……」

 

 そして、いつも通りいつの間にか、水色の髪をして大きく『自慢』と書かれた扇子を広げる女性が二人の背後におり……、

 

「うわぁ! 楯無さん!?」

「うぉ!? かた姉!?」

 

 いつも通りのオーバーなリアクションで飛び退いてくれる二人に、楯無は満足げに扇子を畳んだ。

 そんな様子を「仲良しだねぇー」とコメントしながらナチュラルに姉に抱きつく本音と、「ええ、本当に」と抱きつく妹を撫でる虚。それをジッと見つめ、ピロンと私に良い考えがあると言いたげに、

 

「んっ」

 

 と、楯無は満面の笑みで、大きく両手を横に広げて一夏と姫燐の前に立ちはだかった。

 

「んっ、じゃねぇよ。やらねぇぞ」

「あの……楯無さん、流石に男女でそれは……」

 

 片や露骨に嫌そうに、片や顔を赤らめて目を逸らしながら、要するに自分が全力でそそられる表情を浮かべる妹と弟(予定)を前にして、自制することの無粋さを何よりも理解している人間が更識楯無だ。

 この後の展開を脳裏に走った一筋の光で察した義妹と、古い人類のように鈍い弟(将来)の背後へと音も無く移動し、豊満な身体を押し付ける肉ハグを敢行する。

 

「んもー! 相変わらず可愛らしいんだから二人ともー!」

「やーめーろー! 可愛くねェし離せコラ!」

「たたた、楯無さんストップ! き、キリ、キリが近っ!」

「おほほほほ!」

 

 両方とも別のベクトルで真っ赤になりながら、離してくれるよう暴れるなり懇願するが、それは猫の遊びに全力で応えてやっているのと同じように相手を喜ばせるだけであり、更に、

 

「む~、お嬢様だけずるーい!」

「あ、せっかくなので私も再充電を……」

 

 別の肉食獣の好奇心にも火を付けてしまう、悪循環へと繋がっていく。

 更に二名が追加された猛烈で熱烈な歓迎会は、新人達のなんかが色んな意味で折れる寸前に終了するという、異様に完璧な調整を以って終わることを今はまだ知らない一夏と姫燐は、ただされるがままに悲鳴を上げ続けるしかないのであった。

 

 

              ○●○

 

 

「さって改めまして、私達の生徒会へようこそ。お二人とも」

 

窓を背にした、一番奥の『生徒会長』と書かれた札が置かれた席に座り楯無は、フル充電が完了した非常につややかな頬の前で、「満悦」と書かれた扇子を開いた。

 

「……あ~……」

「………………あっ、はい」

 

 対象的に、絞られつくされた出涸らしと化して、椅子の背もたれに身体を投げ出す姫燐と、教会の懺悔室にでも座っているかのような神妙さで俯いたままの一夏は、理由こそ違えど両者とも最低のテンションで返事をする。

 

「あらら、少々やり過ぎたかしら?」

「大丈夫だよぉお姉ちゃん。ひめりん最近はね、いっつもクラスでこれぐらい可愛がって貰ってるから。こんな感じに」

「待てこらテメェ……」

 

 のほほんとブカブカの袖で器用にスマホを操作し、納められた画像を対面に座る姉に見せようとする隣の席の腕を阻止するため、姫燐の身体に僅かな活力が戻った。

 

「ごめんなさいね、織斑くん。ちょっと悪乗りが過ぎたかしら」

「あ、いえ、虚さんや楯無さんは悪くないんです。悪いのは節操がない……」

 

 と、そこまで言いかけて、一夏は露骨に、隣に座る虚から視線を逸らして言葉を濁す。

 これ以上は、誰も何も追求しないという密約をアイコンタクトで結ぶ優しい空気が、生徒会室に満ちた。

 

「じゃあ、さっそくなんだけれど、まずお二人には軽くこの生徒会について軽く説明しときましょうか」

 

 話の流れを変えるように扇子を閉じ、楯無は開口一番目に、

 

「ザックリ言っちゃえば、この生徒会は『更識』の学校内での拠点でね。だから、普通は私達の身内じゃないと入れないの」

 

 かなりとんでもない秘密を、さらっとぶっちゃけた。

 

「……え、それって……良いんですか?」

「いいのいいの。学園側も了承済みだし、学園のお願いも、国家間のややこしいことに影響が及ばない範囲で聞くって条件で契約してあるからWinWinな関係よ」

 

 むしろそれで更識を数年間も雇えるんだから、相当破格の条件なのよ? と、軽々言ってのける楯無の言葉に、一夏は改めて彼女たちが、ただ単純に腕っ節だけではない、本当の意味での『強者』であることを思い知らされる。

 そして同時に、そんな組織へと勢いだけで入ってしまった自分が、酷く場違いな人間であるように感じてしまい、一夏は申し訳なさげに手を上げ、

 

「お、俺なんかで、なにかお手伝い……できるんでしょうか?」

「ん? ……あぁ、そういうこと」

 

 自信なさげな態度に納得がいった楯無は、カラカラと笑い、

 

「安心して一夏くん。流石に貴方に更識のお仕事を手伝ってもらうつもりはないわ。むしろ、貴方にこっちも手伝ってもらうと困っちゃうのよ」

「あ、ああ、やっぱり俺じゃ力不足」

「違う違う。これに関しては、ヒメちゃんだって同じ」

「オレもなのか?」

 

 声にはしていなかったが、「結局何をさせられるのか」という部分は一夏と同じく気になっていた姫燐も、目を丸めて尋ねる。

 

「そ、実は学園側が出した条件なんだけど、実はもう一つあってね」

 

 と、言いながら、楯無はテーブルに置かれた『生徒会長』の札に手を当て、

 

「生徒会室を占領するんだから、当然生徒会のお仕事もちゃんとすることも、条件の内だったのよ」

「え、でも、そんなこと出来るんですか?」

 

 国家を影から護る一族の首領に、IS学園の生徒会長。

 スケールも何もかもが違いすぎるが、どちらも二足のわらじで易々とやれるような仕事ではないことぐらいは一夏でも分かる。

 更に、自分達を除けば、生徒会は見たところ、楯無に布仏姉妹の三人しか居ない様に見える。

 のほほんさんが自分達と同時期に入学したことを考えると、実質的には二人だ。

 それで二つの組織を回すなんて、到底無理なんじゃないかと一夏には思えて仕方が無い。

 が、

 

「無理を通して道理を蹴飛ばすのなんて、慣れっこよ慣れっこ」

「ちなみにお嬢様は、これに加えてロシアの代表操縦者も現在兼用しています」

「なるほど、三足のわらじ履いてるって事か。やっぱ人間じゃねぇ」

 

 即座に悪口の報復として裏回りからのほっぺをムニムニされている姫燐を横目に、深く一夏は納得する。

 

「ただ、それも最近すこーしだけ、厳しくなってきてねぇ」

 

 必死の抵抗をする小動物を、力任せにホールドしながら優しく撫でるという矛盾技をシレっと披露しながら、似合わない溜め息が楯無からこぼれた。

 

「前までは有難いことに暇――もとい、平和だったから、問題無かったんだけど、ほら、最近あれこれ学園が騒がしくなってきたじゃない?」

「…………っ」

 

 その理由に、借りてきた猫のように大人しくなった姫燐をこれ幸いと撫でまわす楯無の横から、すかさず虚が自分達の現状を補足していく。

 

「更識は現在、あのテロリスト達の追跡に加え、学園警護の強化、更なる特殊重兵装配備の認可などなど、とてもお嬢様や私抜きでは判断が難しい事柄や、事態に追われています」

「そんな感じで、ぶっちゃけたお話、生徒会のお仕事まで手が回らなくなっちゃってるのよ」

「へっ、その責任は自分で取れってことかよ」

「もぅ、この子は本当に」

 

 オシオキと言わんばかりに耳を唇で弄ばれ、黄色い悲鳴を上げる姫燐から出来るだけ眼も心も逸らすように、自分達の役割を理解した一夏が心身を埋め尽くすように声を上げる。

 

「つまりは! 俺達、生徒会の仕事を手伝えば良いんですね」

「その通り。話が早くて助かるわぁ」

 

 もはや完全にお人形のような扱われ方をしていた姫燐も、今度こそ力ずくで楯無を振り払い、彼女の鼻っ柱に指を突きつけ、

 

「じゃあさっさとその仕事を寄こせ! オレはなにすりゃいいんだ!?」

「そうねぇ、ヒメちゃんには、放課後いつでもここに居て貰って、私専用の愛玩妹に……」

「ではなく、ヒメちゃんには、査察をお願いしたいと思ってるわ」

「査察だぁ? どこの」

 

 割とマジなトーンだった楯無にはあえて触れないようにし、姫燐はもう一人の姉から頼まれた視察という仕事に小首を傾げる。

 

「部活動よ、ヒメちゃん。IS学園生徒会には週に一度、部活動に査察を入れ、その活動内容に審査を入れる仕事があるの」

「部活の予算割り振りをしているのも、ここでは生徒会なのよ。だから、ちゃーんと部活を頑張っているのか、追加の予算を下ろしてあげるのか、無駄遣いしていないか、そういったことを全部の部活を回ってチェックして来てもらって欲しいの」

「オレは別にかまわねぇけど……」

 

 楯無が言いかけていた恐るべき内容以外ならば、雑用を頼まれても文句を言うつもりはなかったが、思った以上にガッツリと金銭と責任が関わってくる話になると流石に少し躊躇が産まれてしまう。

 しかし、それも見越していたように、楯無はまた自分の席に座ると『心配無用』と達筆に書かれた愛用の扇子を口元で開いた。

 

「安心してヒメちゃん、いきなり一人で行けなんて言わないわ。心強いパートナーも一緒よ」

 

 と、楯無は視線を、先程からずっと無言で、姉に淹れてもらったホットココアに夢中になっていた、

 

「んぇ?」

 

 口元にココアの茶色いヒゲを付けている、頼り甲斐があるのほほんとした今回のパートナーに向けた。

 

「心……強い……?」

「ほんと! 今日はひめりんと一緒に行っていいの、お嬢さま!」

「ええ、二人で楽しんでらっしゃい、本音ちゃん」

「やった~! ひめりんとデートだぁ!」

「マジかよ……」

 

 いつもの閉じてるのか開いているのか分かり辛い眼を、この吉報にぱちくりと輝かせ、すぐさま姫燐の腕に抱きつく本音。

 そんな無邪気そのものな本音の仕草にも、最近の経験から既に邪念を感じずには居られないが、自分一人では査察など出来ないのもまた事実。

 半分諦めに近い境地で、姫燐は深々と溜め息と共に了承する。

 

「じゃあ、さっそくお願いして貰っても良いかしら? 一夏くんは私と虚と一緒に、会計の方を手伝ってもらえる?」

「分かりました、楯無さん」

 

 そそくさと会計の準備を始めた三人を余所に、姫燐もどっこらせと本音が抱きついているため物理的に重い腰を立ち上がらせる。

 

「にへへぇ、ひめりん早く早くっ」

「へいへい、あとひめりんは止めろ」

 

 自分の手を引く、相変わらずマイペース極まりない友達と、四年ぶりの小さなお出かけ。

 

(ま……悪くは無いけどな)

 

 あれだけ散々な目に合わされても、やはりどうしても心底から嫌いになることができないのほほんとした卑怯者。

 これは相手が上手なのか、それとも自分がちょろいのか。ぶかぶかの袖で器用に生徒会の腕章を付ける本音を見つめて、姫燐はふと考える。

 

「はい! これ、ひめりんの分」

「ん」

 

 ここだけはハッキリさせておかなければ、今後、どんな目に遭わされるか分かったもんじゃないと、手渡された首輪を、今日は外してある待機形態のブリッツ・ストライダーを巻くように首へと――

 

「いい加減にしろよ、お前……」

「むみゃ~♪ いふぁいよふぃめりん~♪」

 

 手を回したギリギリのところで気付いた姫燐は、即座に首輪をゴミ箱に投げ捨て、そのニヤけ面を横に引っ張った。

 割と手加減なしで引っ張っているのに、心なしか今日一番嬉しそうな声で折檻を受け入れるのほほんとした愉快犯のことが、なおさら姫燐は分からなくなる。

 

(ったく、絶対に昔はこんなんじゃなかったのになぁ……)

 

初めこそ徹底的に他人のふりをした自分への仕返しかと思っていたが、こうやって直接手を上げてみて改めて底が知れない、明確で不鮮明な布仏本音という少女の腹の内。

これは仕返しなんかじゃない、ならば何がしたいのか?

雰囲気や立ち振る舞いは4年前とそこまで変わらないというのに、気が付けば、同じ姉を持つ姉妹同然だった友人のことが、姫燐には何も分からなくなってしまっていた。

だが、それは、自分だけじゃなく、本音もきっと……

 

――ひめりんが近くに居るのに、すっごく遠くに居るみたいで……――

 

「……お互いさま、ってことかね……」

「ふぃめりん……?」

「なんでもねぇよ」

 

自分を含めた誰にも聞いて欲しくない独り語を誤魔化すように、とりあえずもう少しだけ引っ張っておくことにした。

 

 

              ○●○

 

 

 ちゃんとした腕章を腕に巻き、姫燐と本音がまず最初に向かったのは、武道系の部活が集中している道場であった。

 剣道、空手、柔道などなど、ルールこそ違えど、交錯し合う気合を込めた掛け声や、互いの技や身体をぶつけ合う激しい音、胴着や武具特有の汗と染物が混ざり合った匂いは変わらない。

 女であれど互いに全力をぶつけ合うからこそ、この瞬間だけは胴着の乱れや汗で濡れる下着になどにも無頓着になるものだ。

 

(悪くねぇ……悪くねぇぞ……)

 

 つまりは眼福。

 ピッチリとボディラインを強調するISスーツとは違い、露骨でこそないが、胴着の隙間からチラチラと覗く無地のスポーツブラや、首筋や胸の曲線を伝う汗粒、身体をぶつけ合う事で押しつぶされて形を変える胸。ベクトルこそ違えど、どれも中々にグッドなエロスだ。

 今までは堂々と入れば見学かと思われて勧誘されそうで、こっそり覗くのは流石にそこまで性欲に従順にはなれずに見送ってきたが、今回は別である。

 

(そう、オレは生徒会のお仕事で視か……じゃなくて視察に来てるのだ)

 

 だからこういう風に、堂々と、誰にも責められず、品定めするようにジッと公務を果たすことができるのだ。合法、全て合法である。

 本音も道場に到着するなり、「ひめりんはゆっくりしててねー♪」と言い残して何処かへ行ってしまったので、やることが無い以上は、ヤルことは一つだけ。自分を止められる者は誰もいない。

 最近はゴタゴタが続き、気付けば誰かが自分の隣に居たため、こんな天国を堪能することも忘れていたことが、悔やんでも悔やみきれなかった。

 

(最高かよ生徒会……)

 

 そんな久方ぶりに煩悩全開で、神聖な道場に煩悩を持ちこみまくるクソレズの首が、ある部活の所でぴたりと止まる。

 

「うーん、デカい」

 

 顔は面を付けているので分からないが、剣道の銅を付けているのにハッキリと分かる、明らかに一人だけ浮いたレベルの見事な巨乳。姫燐の口から思わず品の無いコメントが漏れるが、

 

(ん? 待てよ、剣道部ってことは……)

 

 見事な巨乳を誇るルームメイトも剣道部であったことを思い出したのと、ちょうど試合を終えて面を外したデカい彼女が、視線を送る姫燐に気付いたのは同時であった。

 

「姫燐? 姫燐か?」

「あ、やっぱ箒だったか」

 

 汗を拭くのもほどほどに、珍しい来客に目を丸めながら箒は姫燐の腕にかかった腕章に視線を落す。

 

「生徒会の……視察? そういう仕事を任されたのか」

「そ、ちなみに本音の奴も一緒」

「ふむ、なるほど。人と接するのが上手いお前達なら、確かに適任かもしれんな」

「ん……ま、まぁな」

 

 こういう、裏表無くストレートに人の長所を褒めてくる所や、よく見る制服やISスーツとは違う、凛とした胴着姿の井出達。そして武道を嗜んでいる人間特有の、緩み無い女丈夫といった表現がしっくり来る振る舞い。

 少しだけ姫燐のツボからは外れているが、それでも少しクラっとしたのを、自分でも認めざる得なかった。

 

「どうした、少し顔が赤いぞ?」

「い、いや、なんでもねぇよ。それより、部活は良いのか?」

「ああ、さっき私の練習試合は終わったからな。少し休憩を挟むところだったし、お前がせっかく来てくれたのに、何の持て成しもしないのはな」

「そこまで気を使わなくて良いって。どうせこっちも仕事だし、持て成すっても、毎日部屋で顔合わせてんだろうがオレ達」

「ふふっ、それもそうか」

 

 今度は年相応の少女のように朗らかな笑みを浮かべた箒に、またもや胸キュンポイントが高まっていた姫燐の横から、ひょこりと小柄でのほほんとした声が割りこんできた。

 

「やっほ~、ほっきー」

「ああ、本音」

「ん、もう視察終わったのか?」

「殆どね~、剣道部が最後だよぉ」

 

 まだそこまで時間は経っていないように思ったが、もうやる事をほぼ全て終わらせたとのほほんと言い切った本音の言葉に、少し姫燐の眉が浮いた。

 

「もうそこまで終わったのかよ?」

「だって、ゆっくりしてたらお夕飯の時間になっちゃうでしょ? それまでに、もっとのんびりして、お菓子とか食べたいしぃ」

「……一応確認するが、手は抜いてねぇよな」

「ひめりーん。わたしだってやる時はやるんだよぉ?」

 

 疑惑に腕を組む姫燐と、頬を膨らませる本音のやり取りをクスクスと箒は眺めながら、

 

「では、時間を取らせるのは申し訳ないな。少し待っていろ、部長を呼んで」

「んんー、もう居るよ篠ノ之」

 

 ベリーショートに切りそろえた、女子にしては少し大柄の黒い胴着を着た部員が、背を向けて行こうとした箒を呼びとめた。

 

「部長」

「こんにちわぁ、部長さん」

「こ、こんちわっす」

「ん、新入りかい。本音ちゃん」

「そうだよぉ、きりりーって言うの」

「ちげぇよ。っと、初めまして、オレ、朴月姫燐って言います。今日から生徒会の役員やってるんです」

 

 頭を下げ、ぎこちなく挨拶する姫燐に、「朴月……朴月……」と、部長は頭の隅っこに引っかかる何かを模索するように呟き、

 

「ん、ああ! 朴月って、篠ノ之のルームメイトの」

「そっす、アイツのクラスメイトで部屋も一緒の」

「愛くるしい奴って、最近いつも篠ノ之が自慢している……」

「箒てっめぇぇぇぇ!!!」

 

 瞬間湯沸かし器のように真っ赤に沸騰した姫燐に胸倉を掴まれても、ハッハッハとすがすがしいドヤ顔を浮かべながら、

 

「ほら、愛くるしい奴でしょう?」

「ほうほう、いつも言うだけはあるな」

「うんうん、すっごい可愛いよねぇ~」

「愛くるしくねぇ! なに人の知らねぇ所で大ウソこいてくれてんだこの野郎!」

 

 ブンブンと胸倉をシェイクさせても、まるで効果が無いように箒は部長に涼しい顔で、

 

「このように少々狂暴な所はあるんですが、落ち込んだ時はこれが嘘のようにしおらしくなりましてね。そこが、ぎゃっぷ萌え、と言うんですか。またイジらしいんですよ」

「さっすがほっきー。きりりーをよく見てるねぇ」

「そんな言葉どこで覚えやがった! いや教えたのオレか!?」

 

 と、己の迂闊さに頭を抱えて座り込んだ姫燐を横目に、箒は着崩れた胴着を直し、

 

「普段は隙の無いように振舞っているつもりでも、寝顔は特に、頬を突いても起きないぐらい無防備なんですよ。ちょっと待っていてください、携帯のカメラに撮ってあるんで」

「へ…………!? !?!?」

「ええっ!? いいないいなー! わたしにも見せてー!」

 

 無許可に寝顔まで盗撮されていたショックにもはや声すら出すことが出来ず、ロッカールームへと軽やかな足取りで向かう箒と、後を追いかける本音の背中に、姫燐はただ手を伸ばすことしかできなかった。

 

「はは……災難だね、朴月ちゃん」

「ちゃんは……止めてください……」

 

 もはや初対面の人にも、ちゃん付けで呼ばれるようになってしまった己の不甲斐なさに、どんどん生気が肩から抜け落ちていく姫燐の様子を、まじまじと眺め部長は唸る。

 

「……君は、凄いな」

「はいィ?」

 

 なんの嫌味かとしかめっ顔を上げる姫燐だったが、彼女がからかう目的では無く、感嘆したような表情でこちらを見下ろしていたことに気付くと、その剣幕を引っ込めた。

 

「いや、気に障るようなことなら悪いんだけどね。ちょっと聞きたいんだけど――」

「けど?」

「君、もしかして篠ノ之の彼女さん?」

「ブボッッ!?!」

 

 あまりにも不意打ちかつ、図星に限りなく近いようで遠い質問に、気官の変なところに入った姫燐が猛烈にむせかえる。

 

「あ……やっぱそうなの?」

「ちち、違げーですってよ! アイツとオレはそんなんじゃなゴゲホッ!」

 

 反論がまた変なところに入り、悶絶する姫燐の反応をテンプレ的ツンデレリアクションと見たのか、部長は腕を組みながら頷き、

 

「いやいや、別に非難するって訳じゃなくてね。というかこのご時世で、女同士を否定する方が時代遅れだし、この道場内だけでもデキてるのが何組か」

「だーかーら! マジで違うんですって! アイツ、オレとは別に好きな奴、ちゃんと居ますし!」

 

 思い人が別にいると聞いて、流石に自分の予想が外れていた事を察した部長は、誤魔化すように後頭部を掻きながら謝罪する。

 

「あはは、ごめんごめん。惜しいとこ突いてると思ったんだけどな」

 

 割と本当に惜しいのが余計心臓に悪い。

 

「なんすか、唐突にもう」

「いや、まぁ朴月ちゃんも、身近に居たんだし分かると思うんだけどさ――篠ノ之の奴、本当に変わったなって」

 

 口にした『変化』は、悪い方向に行った訳ではない。むしろ正道へと無事に立ちかえった教え子を見るような、そんな安堵が乗った口調で部長は続けた。

 

「いや、むしろアレが素なのかな。そこまでは分からないけど、ウチに入部したての時は凄かったんだよ?」

 

 私達も悪かったんだけどさ。と前置きをして、部長は入部したての彼女を、今は笑って語れるようになった過去を思い出す。

 

「無口で無愛想で、そのくせ無敵。入部したてなのに、一応部長のあたしでも一勝も取れやしない」

「アイツ、そんなに剣道強かったんですか」

 

 いつも一夏相手にブチ切れて、竹刀や木刀を激情的に振り回している姿しかイメージに無い、割と失礼な箒への認識を姫燐は改めさせられる。

 

「そこからさ、自分の腕を誇って、こっちを見下してくれるなら、まだマシだったかな」

「マシっすかそれ……?」

「ああ、まだマシ。部の全員に勝ったのに、無表情で居られるよりはさ」

 

 箒が入部した初日、前々から箒の噂を聞いていた部員の一人が、彼女に練習試合を挑んだのが事の発端であった。

 その部員を文字通り瞬殺してしまい、プライドを傷付けられ、再試合を申し込んだ彼女をまた瞬殺。見ていられなくなった他の部員が交代で試合を申し込み、そして完封され、次もまた――

 

「ほんと、次元が違うって言葉を、織斑先生と生徒会長以外に使う日が来るとは思わなかったわ」

「は、はぁ……」

 

 ルール無用とはいえ、よくそんな相手に一回勝てたものであると、姫燐の額にじんわりと汗が浮かぶ。

 

「そんな異次元を人に見せつけたのにさ、当の本人は防具を外せば心ここに非ずって表情浮かべて、息一つすら乱してなくて。……そん時、みんな悟っちゃったんだよ。『やっぱりあたし達と篠ノ之は、住む世界とかが根本的に違うんだな』って……ほら、篠ノ之は、あの『篠ノ之』の妹だしさ」

「…………」

 

 部長が言わんとしていることは、姫燐にも何となく理解できた。

 彼女が自ら望んで手にした訳でもない、篠ノ之の名字が持つ意味は、この学園――いや、この世界において、あまりにも重すぎる。

 

「そっからは、もう誰もあの子に、何も言えなくなったよ。そしてあの子も、私達に何も言わなかった」

「あの野郎……ッ!」

 

 先程とは別の青筋が、姫燐のこめかみに浮かび上がった。

 

――人の事を心配だどうこう言う前に、テメェがまず心配されるようなことしてるんじゃねぇっての……!

 

 この一件は箒も、部長も、部員も誰も悪くない。誰も悪くないからこそ、余計に腹が立つ。

 ようは、互いに互いが、少し勘違いをしているだけなのだ。たったそれだけのことで、自分の友人が孤独になっていい訳が無い。

 

「アイツ……アイツは、悪い奴じゃないんです!」

 

 気が付けば姫燐は、声を張り上げ部長に詰め寄っていた。

 

「確かに箒は、不器用だしヘタレだし剣バカだしヘタレだし人を最近ペットか何かと勘違いしてるような奴ですけど! それでも……」

 

 パッと思い浮かんだのは日ごろの愚痴であったが、それでも、彼女は、篠ノ之箒は、

 

「オレみたいなのを……本気で心配してくれる、すっげぇ良い奴なんですよ……」

 

 彼女は確かに、親しい人間の中では、唯一『あの事情』を話していないし、自分の異常性をまだ、知らない。

 だが、そんな落ち込んでいる理由すら分からない、あまつさえ一度は突き離そうとすらしていた奴にさえも、箒は嫌な顔ひとつ見せず、ただ心配して、何か自分に出来ない事はないかと奔走すらしてくれていた。

 どうしようもない不器用さが証明する、実直さと誠実さを持つ少女。

 そんな彼女のためならば、姫燐は胸を張って、頭を下げられる。

 

「だからお願いします、部長さん! 一回、箒とちゃんと話をしてやってくれませんか!」

「あ。うん、朴月ちゃん?」

「なんなら、オレがいくらでも証明してやります。何から話しますか! ルームメイトになってから、毎朝ちゃんと起こしてくれる所からいきましょうか!?」

「うん。やっぱ君、可愛いわ」

「はぁ!?」

 

 いきなり話を逸らされた姫燐の青筋には更に血が昇っていくが、対象的に部長はにこやかな笑みを浮かべ、「分かるわ」としきりに頷く。

 

「いやさ、朴月ちゃん。あたし最初に言ったよね? 篠ノ之は『変わった』って」

「え……?」

 

 そういえばそんな切り口から始まった話であった事を、姫燐も思い出す。

 

「いやはや、やっぱりそういうことかぁ。あたしの勘も鈍っちゃいないなぁ、うん」

「いや、え、何一人で納得されてるんですか部長さん」

 

 何が「やっぱり」なのか、そして何か猛烈に嫌な予感を感じながら、姫燐は恐る恐る続きを尋ねる。

 

「ほら、よくあるじゃん。キレたナイフみたいにツンケンしてた子が、ある日女が出来てからは、急に性格が丸くなるっていうの」

「は、はぁ……ぁ」

 

 部長が何を言いたいのか、分からない。

 こういうことに察しは悪くないはずなのだが、今、この瞬間に限っては、まるで既に出ている答えを、脳が処理するのを全力で拒んでいるかのように、頭が回らない。

 平たく言えば、現実逃避していた姫燐の背後から、

 

「で、これがこの前、部屋に誰も居ないと思っていて、ポーズと決め台詞を一人で練習している時の姫燐です」

『やーん、かわいいー!』

 

地獄への誘いは、先程まで話題の中心であった彼女を中心にして、スマホ片手に群れを成して姫燐へと接近して来ていた。

 

「数日前に一緒に見たアクション映画の決めゼリフで、目を輝かせながら見入っていましたからね。ぜひ、モノにしたいと思っていたのでしょう」

「もー、卑怯ね。地道にコソ練してるとか可愛過ぎかよ……」

「ちなみに、帰ってきた私に気付くとすっ転んで、慌てて口笛を吹きながら床掃除をするフリをしていました」

「こんなイケメンなのに……尊い……ぽんこつ尊い……」

「篠ノ之ぉ。アンタ当然、そっちの目を輝かせてる時の姫燐ちゃんも用意してあるんでしょうね」

「先輩……私をあまり侮らないで頂きたい。当然それもこっちに」

「待てや篠ノ之ォ!!!」

 

 思わず呼び捨てで炸裂した咆哮と共に振り上げた拳を、部長が咄嗟に掴み取り、そのまま羽交い締めして姫燐を拘束する。

 

「ま、まぁこういう訳だ朴月ちゃん! 今、篠ノ之や部員達を取り巻く環境は、今はごらんの通り非常に良好だから」

「ナンデ!? なんでオレの盗撮写真で心一つになってんだ!? つか、いつのまにそんな写真撮りやがった箒ィ!」

「この消音機能を付けてもらった私のスマホでだが?」

「サイレンサーだとぉ!? そんなの、素人がちょっと改造したぐらいじゃ」

「頼んだら本音が一晩でやってくれたぞ」

「布仏ェェェェ!!!!」

 

 身内に居た共犯者の存在にも思わず呼び捨てで叫び狂いブチ切れるが、箒はそれすらも自分にじゃれてくる大型犬を可愛がるようにホッコリしながら、シャッターをタップしていく。

 

「安心しろ、姫燐。他の奴には見せるだけで、本音にもデータは渡していない」

「ふっざけんじゃねぇぞテメェ! 盗撮とかやっていい事と悪い事が……が……」

「ん?」

 

 と、ここに来て、盗撮うんぬんに関しては、昔おもいっきり一夏の盗撮しまくり、その写真をバラ撒いてオイシイ思いをしてきた自分に、人の事を悪く言う権利が全くないことを姫燐は思い出した。

 因果応報。悪因悪果。天罰てき面。

 見事に当初の勢いが消えて、青ざめながら口をパクつかせる姫燐の耳元に、部長がなだめるように小声で囁いた。

 

(いや、ほんとうに申し訳ないし、気の毒だとは思うけど……少しぐらい見逃してやってくれないかな朴月ちゃん)

(少し!? あれで少しですか!? 冗談はやめてくださいよほんと!)

(悪いとは思ってる。思ってるけど、頼むよ! 篠ノ之が、あそこまで心を開いてくれたのは君のお陰なんだから!)

(そ、そうなんすか……?)

 

 少しだけ朴月ちゃんと話をつけてくると、姫燐を集団から遠ざけながら、部長はこれまでのあらましを、出来る限り彼女を刺激しないよう話し始めた。

 始めは、あくまで世間話のつもりだったのだ。

 いつも休日は一番早くに道場に来て鍵を開けたり窓を開き、どんな日も最後まで残って道場の掃除や後片付けを黙々とやってくれている彼女の事を、部員達も理解こそ出来ないが悪印象だけは持っていなかったのだ。

 かといって中々話す切っ掛けも話題も見付からず、悶々としていたある日の部活終わり――傍から見ても、箒が明らかに上機嫌だった日があった。

 

(ほんと、一週間ぐらい前の日だったんだけどね)

(一週間前……?)

 

 一週間前に、箒がやらた上機嫌になるようなイベントなんぞあったかどうか、姫燐は思い返し――

 

――ふむぅ――

 

(ど、どうした朴月ちゃん!? なんか凄い油汗吹き出しながら震えてるけど!?)

(いいいいや、いやいや、問題ないダイジョブっすほんとマジつづ、続け、続けてくださいまし)

 

 真新しいトラウマに唐突にメスを入れられ、身体中が恐慌状態一歩手前になるが、なんとか持ち堪え、話しの続きを聞き入った。

 

――な、なんか今日は機嫌いいなー、篠ノ之?

 

 我ながら、堅く平凡な切り出し方だったと部長は語るが、箒は少し驚いたような顔をして、まずは部活中に弛んだ表情をしていた自分を自戒するような言葉を吐いたそうだ。

 相変わらず糞真面目な彼女の態度に部長は苦笑いを浮かべるしかなかったが、

 

――確かに、今日は……良いことがありました。

 

 躊躇いがちで、言葉を選んでいる感じは抜けきれなかったが、その日確かに、彼女は初めて自分自身の事を話してくれたのだ。

 切っ掛けさえ掴んでしまえば、あとはもう芋づる式である。

 根掘り葉掘り、ずるずると、あれやこれや、会話を続けて行くうちに――

 

(ど、う、や、っ、た、ら、ああなるんですかねぇ……!?)

(本当にごめん。ごめんとは思ってるけど……正直)

(正直、なんです)

 

 これは言っていい事なのか、躊躇するような趣きで、

 

(正直、隙だらけで、あざとすぎる君も少しは悪いと思う……)

(……ゴハっ)

 

 心の急所に、至近弾をぶち込んだ。

 もはや吐血すらしそうな勢いで白目を剥いて固まった姫燐を連れ、次の部活へと向かうのほほんさん達を見送る剣道部員達は、後に聞けば皆、一様に艶やかな笑みを浮かべていたという……。

 




気付いたら箒がえらいことになっていました、本当に申し訳ない。


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第31話「生徒会役員共の一存(中編)」

「もうやだ帰りたい」

 

 もはやHPもMPも使い果たした冒険者のように、ハイライトと意思の光が消えかかった、亡者めいた懇願が姫燐の口から溢れだす。

 

「まだまだ、お仕事は始まったばっかりだよぉひめりん?」

 

 そんなテンション最低な連れを、鼻歌まで交えた上機嫌さで引っ張っていく本音の姿は見事に対象的であった。

 

「いやでも、部屋戻っても箒居るし……そうだ生まれ変わろう、トラックとかにぶつかってファンタジー異世界転生俺TUEEEしてハーレム作ろう」

「ひめりんなら、きっと素敵なお姫様になれそうだよねぇ」

「お前ホントもう……やめて……」

 

 随分と欲望がダダ漏れな自殺願望を、黒歴史で押し留めるファインプレーを決めつつ、二人の足取りが次の目的地で止まる。

 こうなったらもう仕事に逃げるしかないと気合を入れ直し、姫燐は手持ちのリストから、これから査察する部活動の名前を読み上げた。

 

「ここがテニス部のハウスだな」

 

 とはいえ、今もボールを打つ快音が響くテニスコートがすぐ隣に見えている上、眼前の部室には小奇麗な看板もかかっているため間違いようは無いのだが、これは気持ちと気分と気合の問題であるため、特に本音も何も言わずに扉をノックする。

 

「はぁい? どなたですの?」

 

 中から聞こえてきた、育ちの良さが一発で分かるような通りが良く穏やかな声。聞き慣れてはいるが、この場所から聞こえるのは予想外だった姫燐の整った眉が上がる。

 

「あら? 本音さんに……キ、キリさんッ!?」

「セシリア? あれ、お前テニス部だったのか? ていうか、その格好」

「ひゃい!? ちが、そのこれは!?」

 

 そんなにおかしな所はないのに、指摘しただけで顔を真っ赤にして頬に手を当て、視線を逸らされたのが気になり、姫燐は改めてセシリアの服装をまじまじと観察する。

 いつものフワッと横に広がったロールヘアーを今日は運動用にポニーテールに纏めており、服装も普段の淑女然と改造したドレスのような制服とは大きく異なり、運動用の半袖でミニスカートな純白のテニスウェア。

そこに品の良いブルーのサンバイザーとリストバンド、有名ブランドのシューズをしっかり装備した、テニスウェアとしてはオーソドックスな外見でありながらも確かな気品を感じさせる、実に彼女らしさを保ったままに新しい魅力を伝えてくれる着こなし。

ようは、問題無しで、よく似合ってると口にしようとしたところで、

 

「も、もうしわけありませんわ、キリさん……ただ今、休憩時間でして、その、わたくし先程まで練習試合を……」

「ん?」

 

 モジモジと恥ずかしげに、若干距離を取ろうとするセシリアに、姫燐は少しだけ小首を捻ったが、

 

「あぁ、そういう」

 

 彼女がなぜ自分と距離を取ろうとしているのかを察し、姫燐は制服のポケットからハンカチを取りだすと、

 

「ほら、ちょっと動くなよ?」

「ひょえぃ!?」

 

 逃げられる前に大きく一歩を踏みこみ、顔をセシリアの鼻先まで近付けると、彼女の頬に伝う大粒の汗を、そっと拭き取ってやった。

 

「別に気にしねぇよ、汗の臭いなんぞ」

「あ……その、キリさ、距離ちかっ」

「そら六月に外で思いっきり運動してたら、汗だってかくさ」

 

 セシリアが先程から気にしていたのは、激しい運動の直後であったため、身体中に張り付いていた汗の事だったのだ。

蒸し暑い六月の気候もあって、テニスウェアの上からセシリアの身体のラインがハッキリ分かるほど流れている汗は、当然それなりに臭いこそする。

女性なら自分の体臭には、細心の注意を払うのは当然のことであったが、姫燐はそれを同じ女性として理解しながらも、ニッと爽やかに笑い飛ばすのだ。

 

「これは、セシリアが頑張ってる証拠だろ? オレは好きだぜ」

「キリさっッッ!?!?」

 

 頑張ってる奴がさ。と、姫燐は言った『つもり』で、ニカっと白い歯を剥きながらハンカチを仕舞うが、

 

「え? お、おい大丈夫か?」

「ふふぇあい……」

 

 顔を真っ赤にしてフラフラと、今にもダウンしてしまいそうなセシリアに、まさか熱中症にでもなってしまったのだろうかと姫燐は勘ぐりながら、椅子に座るようセシリアに言うと近くの自販機からスポーツドリンクを急いで買ってくる。

 

「ほら、セシリア」

「は、はい……このような、ふつつか者ですが……」

 

 買いに行っていた間にタオルもちゃんと出しており、渡したドリンクも問題なく飲んでいるが、何を言っているのか少々怪しい姿に、姫燐の心配の色が若干濃くなる。

 

「……………」

「ん? どうしたんだよ。まだ、どっかしんどいのか?」

 

 汗も引き、水分補給も終えたのに、まだどこか思い詰めたような、何かを言おうか言うまいかを判断しかねているような様子のセシリアに声をかけつつ、輪護も対面に座る。

 

「ぁ……いえ、身体のことでは……ある意味、身体的な事ではありますが……」

「は?」

「…………その、キリさんは、あの転校生について、何か気付いた所というか……いえ、どう思ってらっしゃったり……とか?」

 

 何でもハッキリと口にするセシリアらしからぬ歯切れの悪さで、恐らくシャルルのことについて尋ねてきたセシリアに、イマイチ要領を掴みきれない姫燐が足を組んで聞き返す。

 

「気付いた所とか、どう思ってるかって言われても……具体的に言うと、どういう感じに?」

「い、いえ! ととと、特にこれといった意味はありませんのでしてっ!?」

 

 意味が無いと意味深なキョドりっぷりで言われても説得力がないが、とりあえず望んでいる答えかどうかは分からないが姫燐は答えを絞り出す。

 

「んー、まず、可愛いよなシャルル。あれで男とかマジかよって思うほど」

「おとっ!? そうですわよね! 殿方らしくありませんがシャルロっ、シャルルさんは間違いなく殿方ですわよっ!?」

「シャルロ……? いや、そこまで断言されなくても分かるけど……」

 

 何が何やらといった様子で姫燐は、やっぱり分からん時があると頭を掻くが、セシリアの心中はそれどころでは無いほどに、気が気でなかった。

 

――どどど、どうしましょう……やはり、シャルロット・デュノアの件、キリさんにも打ち明けて相談した方が……。

 

 そう、彼女はあの晩、デュノア社の影に気付いてしまったもう一人の生徒なのだ。

 今までは後日に改めて名乗られたシャルロットに加えて、なぜか一夏にまで一緒に頭を下げられ、二人からこの秘密を誰にも明かさないで欲しいと言われていたため、姫燐はおろか担任である千冬や真耶にすら黙秘を貫いてきたセシリアではあるが、

 

――そもそも、たった三人で、三年間も隠し通せる訳がないじゃありませんの……!

 

 なぜ彼女を匿うのかという理由理屈はシャルや一夏の口から説明されていたため、セシリアも承知はしていたが、納得できるかと言われれば、それは別問題である。

 頼みこまれた以上、無碍には出来ないが、そもそも客観的に見てセシリアからすれば彼女の事を黙認する理由が無いのだ。シャルロットもそこは理解しているのか、自分に出来る事なら何でもすると負い目に似た約束をしてくれては居るが、

 

――この事……責任問題には、なりませんわよね……?

 

 万が一発覚してしまった時に考えうるリスクはメリットを遥かに上回る、セシリアにとっては想像もしたくない程のモノばかりであった。

 自分はセシリア・オルコットであると同時に、イギリスの代表候補生――即ち、国家の代表候補なのだ。

そんな存在が、デュノア社の、下手をすればフランスという国家の暗躍を知っていながらも黙認していたと露呈してしまえば、祖国イギリスとの国際問題に発展してしまう未来など火を見るよりも明らかで、本当に最悪の場合、この責任を言及され、代表候補生の座もふいに、専用機も没収。代表の座に賭けるオルコット家の存亡にすら飛び火しかねない。

 それほどまでに、シャルロット・デュノアという『女性』の存在はセシリアにとって、特大級の地雷なのだ。

 

――かといって、無責任に突き離すのも……。

 

 合理的に考えればセシリアに選択の余地などまるで無い二択であるが、ここで躊躇ってしまうのが、彼女と言う人間の甘さであり、美徳であった。

 愛する母との死別、唐突に現れた無慈悲な父、会社の道具となるようへの教育。

 一夏が彼女の境遇に納得できなかったように、両親を事故で亡くしているセシリアもまた、シャルロットの境遇には共感と義憤を覚えずには居られなかったのだ。

 自分と同じように――彼女もまた、幸せを掴み取るべき……いや、絶対に掴み取らなくてはならない。でなければ、あまりにもこの世は残酷だ。

 そう思うと――自然に思えてしまうから――セシリアはこうして頭を抱えるしかなく、せめて相談ぐらいは出来るような、頼れる存在が無性に欲しくなってしまう。

 故に、思わず自分が最も信頼する姫燐に中途半端な声をかけてしまったのだが、

 

「おっとっと……これは、そういうことかー……?」

 

 ハッと、姫燐を置いて顔を俯け、黙考してしまっていたセシリアの首が上がる。

 

「キ、キリさん!? わ、わたくしったら、せっかくキリさんがお話を聞いてくださっているのに……」

「いやいや、繊細な問題なんだろ? 口にし辛くったって仕方ねぇさ」

 

 話題を振っておいて勝手に押し黙る無礼も、まったく気にしていないと言った風に、姫燐は立ち上がるとセシリアの肩を優しく叩いた。

 

「あんまり気にすんなよ、オレとお前の仲じゃねぇか」

「キリさん……!」

 

 多少の非礼は笑って許す。女性ではあるがまさに紳士の鑑といった態度に、胸のキュンキュンがストップ高し続けているセシリアの様子を見て、姫燐は何かを確信した風に頷き、

 

「いつでも相談になら乗るぜ。『恋バナ』とか、まさにお姉さんの専売特許みたいな奴だしなっ!」

「えぇ、ありが………………恋バナ?」

 

 ちょっと待てと、凍りついたセシリアの表情とは裏腹に、全部分かってるってと言いたげなドヤ顔を崩さないまま、姫燐は妙にテンション高く自前の大きい胸を叩いた。

 

「そうだよなぁ、シャルル可愛いし性格良いし強いし、分かる。超分かる」

「き……キリ、さん……あの?」

「くっ……オレとしても、相手がシャルルじゃなければ、大手を振って応援したいところなんだが……」

「あのっ! キリさん!?」

「いーや! それでもお姉さんはあえて言うぜっ!」 

 同年代に恋バナを相談されると言うお姉さんポジション的憧れのシチュエーションに遭遇し、微妙に自分の世界に旅立ってしまっている姫燐には、致命的な勘違いを訂正しようとするセシリアの声も全く届かず、

 

「お姉さん、お前とシャルルのこと応援するからなっ! セシリアっ!」

 

 快晴の浮かれ顔で、姫燐は会心のサムズアップをセシリアへと手向けた。

 

「もし、何かあるなら全力でサポートするからさ。いつでも相談してくれよ? なんなら、いいデートスポットとか紹介して」

「…………ね、ねぇ、きりりん?」

「お? 終わったか、本音」

 

 うっすら目を開き、珍しくすごく何かを言いたげな表情で、いつの間にか居なくなっていたのに、いつの間にか傍に立っていた本音に姫燐は気付く。

 

「悪いな、なんかお前に任せっきりで」

「う、うん……それは、良いんだけどぉ……」

「じゃ、さっさと次行こうぜ。あんま時間かけると、かた姉達に心配かけちまうかもだしな」

「その前に、せっしーに……」

「おっと、そうだった」

 

 本当に珍しく、若干青ざめているように見える本音の様子になど気付く素振りも見せず、ハイテンションのまま姫燐は硬直するセシリアの背中を叩き、

 

「じゃあなセシリア! これからはライバルみたいなもんだけど、恋も部活も、お互いに頑張ろうなっ!」

「あわわわわぁ…………」

 

 片やあっはっはと高笑いすら残して行きそうなほどの能天気さで、片や解体に失敗した爆弾から即座に撤退するような切迫さで、テニス部の部室を後にする二人。

 入れ違いに、さっきまでセシリアと練習試合をしていた部員が入ってくる。

 

「ねぇちょっと、オルコットさん? さっきの練習試合なんだけど、流石に集中力欠けすぎじゃない。ちょっと腑抜けてんじゃ……」

「誰が……」

「は?」

 

「誰が、腑抜けで、間抜けで、お笑い草……ですって?」

 

「………………ひぇっ」

 

 ぐるりと覗く、怒髪の頂点を通り越した、般若の能面。

 その後の部活で響く、悪鬼と化した彼女のラケット捌きからは、まさしく鬼の慟哭のような衝撃音が鳴り止まなかったという……。

 

 

                 ○●○

 

「てなことがさっき、テニス部であってなー、鈴」

「鬼か……」

 

 ラクロス部の号令とボールが飛び交う、IS学園のグラウンド。

 鈴は部室に案内するなり、部長がいきなり片方の胸だけはあるちびっ子と二人っきりで話を進め始め、まるで即席の二人組からあぶれたようになっていた姫燐を、部活紹介と言う名目でグラウンドに連れ出していた。

 

「いやー、セシリアが恋だなんて、青春だよなぁ」

「……ちなみに、お相手は?」

 

 その流れで話題は、一般生徒には無縁な生徒会の活動についてになり、先程行ったと言うテニス部の視察について鈴は尋ねていたのだが、

 

「おっと、そいつはプライベートって奴だ。お姉さんの口からは言えねぇから、気になるならセシリアに直接聞いてみな」

「あぁ、うん、今ので大体分かった」

「えっ、なんで、すげぇ」

 

 セシリアの奴、かわいそ……。と、自分のとは別ベクトルに鈍感な彼女の想い人に、鈴は心底同情しながら肩を落とす。

 

「ていうか、アンタって最近まで帰宅部だったんだ。運動部の一つぐらいには所属してるもんだと思ってたんだけど」

「あー、いや、それはな」

 

 バツが悪そうに、隣を歩く鈴から目を逸らす姫燐。

 

「こう、やっぱリサーチって大事じゃん? 三年間のキャンパスライフに打ちこみ続けるモンなんだからさ。ちゃんと念入りに調査しきってから……」

「まさかとは思うけど、調査って要は自分好みの女の子が居るかどうか調べてた、って訳じゃないわよね?」

「んーふー♪」

 

 逸らした顔から脂汗が吹き出す様子に、一夏もセシリアも、よりにもよって真正のコレにとか、難儀よねぇと鈴は露骨な溜め息を隠そうともせず、

 

「危なーーいっ!!!」

「へ?」

 

 だからこそ、唐突に横面に向けて飛来してくる、誰かのミスで飛んで来たラクロスボールに対して、鈴は素っ頓狂な声を出すぐらいの抵抗しか出来なかった。

 反射神経で認識できても、身体が間に合わない完全な不意打ち。

 軟式野球ほどの硬度とはいえ、人一人の頭に当たれば、只では済まない勢いがついたボールは――

 

「おっと」

 

 いつの間にか、自分を庇うように立っていた姫燐によって、いとも簡単に素手でキャッチされ、

 

「おーい、気をつけろよー」

 

 そのまま、何事も無かったかのように、何度も頭を下げる部員達の元へと投げ返されていった。

 

「…………ぁ」

 

 鈴がこの突発的な危機を、彼女に救われたことを悟れたのは、これら一連の動きが流れるように終わった後の事であった。

 

「……あ、ありがと」

「ん、怪我とかしてねぇな、鈴?」

 

 本当に、何者。

 口では礼を言いながらも、鈴の胸中には当たりかけたボールのことよりも遥かに強く、警戒の鐘が鳴り響いたままであった。

会話に没頭していたという条件は同じはずなのに、この反応の差。

体格、経験、実力。鈴は、自分の前に立ちふさがってきたそれらのハンディキャップを、常に負けん気と共に乗り越えてきた。

しかし、唐突な強襲を自然体で処理してしまう、この姿。

眼前で痛みを飛ばすように手を振る彼女から感じるのは、反骨精神ではどうにもならないような――まるで、認識している世界からして違うかのような、猫と虎のどちらが強いかを比べてしまうような、どうしようもない達観に似たような感覚を感じてしまうのだ。

 そして、それを裏付けるような――キルスティンという名の、影。

 鈴の小さな口が、意を決したように、開く。

 

「……ねぇ、アンタ。昔からそんな反応とか良かったの?」

「え? そだなぁ……」

 

 不意に尋ねられた昔の自分に、姫燐は頭を掻きながら、脳裏に仕舞われた記憶を引っ張り出して行く。

 

「まぁ、昔から親譲りで反射神経は良い方だったな」

「親って、確か今居るっていう、朴月永悟博士だっけ?」

 

 父親。つまり、男である永悟が、この学園にしばらく滞在するというのは全校生徒に連絡が行き渡っていない方が不自然なので、姫燐は鈴の口から父親の名前が出てきても特に驚きはせず訂正する。

 

「うんにゃ、親父はそこまでだけど、母さんの方が良くてな」

「へぇ、珍しいわね。母方の方からなんて」

「あぁ、なんたって戦闘機のパイロットだったからな、母さん」

「戦闘機……戦闘機ですって!?」

 

 シレっと口から出てきたとんでもない職に、思わず姫燐の方へと首が向く鈴。

 

「そうそう、今はISが主流だからお払い箱ってことで、引退して専業主婦やってるけどな」

「そ、そうだったのねアンタ……」

 

 血筋が全てを決める訳ではないが、それでも彼女の、デタラメなISを力づくで制御する様な無重力下での、飛び抜けたバランス感覚は、まさに天性のモノであったのだと鈴は納得する。

 

「昔はそこそこ有名人だったらしいぜ? なんか、ルフトなんとかだったかな、二つ名で呼ばれるぐらいには」

「戦闘機乗り、か……アタシ達のご先祖様みたいなもんだしね」

 

 そう言って、鈴は何気なく空を見上げた。

 自分が子供だった時、この空を自由に駆け巡っていたのは、ISではなく、ジェット戦闘機という存在だったのは、彼女も歴史の授業で習ったことがある。

 古くから人類が夢見た『翼』の体現者として、飛行機は今も飛んではいるが、それはあくまで旅客機としてであり、戦闘機というカテゴリはISが歴史の表舞台に登場して以来、その存在価値を大きく落して久しい。

 無論、研究が進まなかった訳ではない。

 選ばれた適性を持つ女性にしか操れず、生成方法すら不明なブラックボックスに軍事を委ねるなど愚の極みだと、怒声を揃えて異を唱えた当時の軍事関係者達によって集められた、潤沢な資金と天才と呼ばれた技術者たちの努力は、戦闘機に凄まじい発展と進化をもたらした。

 それらの中には、旅客機にも転用された画期的な技術も少なくは無かったが――それでも航空力学という絶対不変のルールに抗えない戦闘機と、既存の概念全てを裏切って見せたISとでは、余りにも埋め難い差があったのだ。

 世界中の天才が、たった一人の天災に屈したのだと――誰もが口にせずとも、暗に悟った瞬間……戦闘機という存在は、空の王者から従者へと、その存在を変えていった。

 

「で、ウチの母さんは、ISが主流になっていく空軍を嫌って軍を退役したって訳」

「でもそれ、よく許したわよね、ここの入学」

「そこはまぁ……親父と、大分悶着あったらしいけどな」

 

 詳しくは姫燐も知らないが、納期三日前より修羅場だったよとは、親父の言葉である。

 

「ほんと女の子しか居ないからって、普通親と修羅場ってまで入学する?」

「おいこら、流石にオレもそれだけで入学は決めねぇぞ……」

「え、そうなの?」

 

 心底意外そうに目を丸める鈴に、姫燐は彼女が抱いている自分のイメージに軽く頭を抱え、

 

「だったらわざわざ難関なIS学園じゃなくて、普通の女子校行くっての」

「それもそうよね。じゃ、どうしてここを選んだのよ」

「んー、あえて言うなら……もっとカッコよくなれる気がしたから、かな?」

「えぇ…………」

 

 女漁りと似たようなもんじゃないと、軽蔑が混ざり始めた鈴の視線に、慌てて姫燐は補足を加え始める。

 

「待った! 確かにちょっと言葉足らずだった! 気になったんだよ、母さんが見てた世界がさ!」

「母さんの……見てた世界?」

「あぁ、オレの母さん。自慢じゃねぇけど、すっげぇカッコいいんだぜ? 親父が本気でメロメロにされたぐらいにはな」

「アンタの母親ねぇ」

 

 姫燐の少し悪戯っ気がある整った顔立ちや、高い身長に、女性の魅力が詰まったプロポーション。女として持つモノを全部持っている人間の親となれば、持たざる者である鈴としては、少し興味が沸いてくる。

 

「どんな感じなのよ、アンタの母さんって」

「写真がありゃ手っ取り早いんだが……そうだなぁ、アレだ、見た目っていうか、雰囲気は織斑先生が似てる。アレをもうちょっと表情豊かにした感じ」

「あー、軽い千冬さんみたいなタイプねぇ」

 

 なるほど。確かに軍人をやっていた程の女傑であった事を考えれば、あの人のような雰囲気が近くなるだろうと、鈴は頭で、髪が姫燐のようになった千冬をイメージする。

 

「昔は親父と一緒に、そんなカッコいい母さんが大好きってだけだったんだけどさ。よく空を見ていた母さんの眼差しは、一体何を見てたんだろうって思ってな」

 

 母親と言う存在をどう思うかと聞かれれば、姫燐は『英雄』という言葉が一番しっくり来ると思っている。

 誰よりも強く、たくましく、優しく。そんな存在に護られる自分を、誇らしく思えるほどに高潔な人であると幼い姫燐は思っていた。

 一番憧れたのはかた姉の姿であっても、姫燐は今でも、自分を抱きながら果てしなく続く空を見上げていた母の姿を、鮮烈に覚えている。

 記憶の中で、無邪気に何を見ていたのか尋ねる幼い自分に、母は微笑んで手を伸ばし口ずさむのだ。

 

――あの空が、待っている気がしてね。

 

 いま思い返しても意味はサッパリ分からないが、ふと進路を決める時に、姫燐が思い出したのがこの言葉だったのだ。

 あの時、母さんには何が見えていたのだろうか。この空には何が待っているのだろうか。

 そんな疑問が胸に沸いた瞬間、自分の進むべき――いや、飛び立つべき道が、姫燐には見えた気がした。

 

「ま、今はその答え合わせの真っ最中ってとこさ。全然、見えてこねぇけどな」

 

 そう笑い飛ばしながらも、諦めや妥協といった影は微塵も感じられず、まだまだ飛び続けるさと笑顔で語る少女の横顔。

 心地よく吹きぬけていく風のように、気持ちが良い姫燐の言葉に、鈴も自らが抱いていた邪念はこの瞬間だけは無粋でしか無いと肩と顔の力が抜けていく。

 

「あとは、そうだなぁ……もう一つあるんだが理由」

「他にもあるの?」

「ああ、これはずっと思ってたことなんだけどな……」

 

 急に顎に手を当てて、シリアスで神妙な顔つきになった姫燐に釣られるように、鈴も思わず息を飲み、

 

「ISスーツって、マジドスケベじゃん? あんな性的な格好を年中着て授業する所なんて、ここを置いて他にねぇからな……」

「………………」

 

 とりあえず、その無駄に大きい尻に、渾身のタイキックをぶち込んだ。

 

                 ○●○

 

「いたた……鈴の奴、ちょっとしたジョークだってのに本気でやりやがって」

「ひめりん、大丈夫ー?」

 

 一通りの運動部を視察し終えた二人の珍道中は、放課後の校内へと舞台を移し、残った文芸部を目指して足取りを進めていた。

 ラクロス部から既に数カ所回ってはいるが、未だに痛みが取れない尻を引きずる姫燐を、心配そうに本音が見上げる。

 

「くっくっく、別に構わねぇさ。これでオレのヒップが更に大きくなったら、絶対にアイツの可愛そうな身体付きの前で煽りたおしてやる……」

「大丈夫そうだねぇ♪」

 

 残酷極まりない仕返しを邪悪な笑みと共に画策する様子を見て、まだまだ大丈夫だと確信した本音は、軽やかな足取りで次の部室へと向かっていく。

 

「ひめりーん、はやくはやくー♪」

「お、おい、お前なぁ」

 

 姫燐が半分のほほんと引っ張られるような形で辿りついた次の部室には、『調理室』のプレートが付けられていた。

 

「調理室ってことは、料理部か。一夏の奴が目の色変えそうな部活だな」

「実はわたしも大好きなんだよぉ? お料理」

「……あぁ、だろうな」

 

 確かに食べる方はお前大好きだからな、と、もう大体何が言いたいのか分かってる姫燐は塩対応で、調理室の扉を軽くノックして開く。

 

「お邪魔しまーす。生徒会の使いなんですけどー」

「やっほーみんなぁ、頑張ってますかなぁ?」

 

 今日はお菓子作りでもしていたのか、調理室の中からは焼けた砂糖やバターの甘ったるく、女の子なら誰しもが思わず心奪われてしまいそうな香りが漂っており、

 

「本音さま!」

「本音さまだ! 本音さまがいらっしゃったぞ!」

「お待ちしておりました、本音さま!」

 

 そんな姫燐の余韻を一瞬で吹き飛ばすように、部員たちは各々の作業を投げ出すと一斉に本音へと殺到し、降臨した神にでも敬うかのように跪いた。

 

「うむぅ、みなの者、くるしゅうないぞ~」

 

 明らかに上級生も混ざっているのに、いきなりどこの殿だよと言いたくなるような口調でのほほんと胸を張る本音。

 その隣で呆然とする姫燐を余所に、エプロンを付けた部長らしき年長の部員が、恭しく大きな皿に乗せられた貢物を本音へと差し出す。

 

「本日のレシピ――リクエストされていたミルクティーシフォンケーキ、1ホールでございます。どうぞ、お納めください」

「おぉ~! おっきぃ~!」

 

 先程から部屋に漂っていた甘い香りの正体はこれであったらしく、姫燐の素人目で見ても、もはや学校の部活でちょっと作るようなモノとは別次元に気合が入った出来のケーキを、満面の笑みで本音は受け取り、

 

「部長さん、またまたケーキ作り上手になったねぇ」

「いえいえ、私などまだまだ。これも本音さまの応援あってこその賜物……それよりも、今月の部費に関してなのですが……」

「あい分かった、便宜をはかろ~う。そちもワルよのぉ~」

「いえいえ、本音さま程では……」

 

 顔を寄せ合い、あくどい高笑いをシンクロさせる生徒会と調理部の官僚に、そろそろ頃合いかと、

 

「おいコラ、なに堂々と汚職してんだお前ら」

「あうんっ」

「あだぁ!」

 

 姫燐は頭上から思いっきり、断罪の正義チョップを振り下ろした。

 

「ほ、本音さま、こやつは一体!?」

「ええ~い、殿中で抜くのはご法度であるぞ~」

「黙れ、あとそろそろその口調止めろ」

 

 スッと姫燐が二発目を額に入れる構えを取ると、本音は口を尖らせながらも部長にケーキを再び渡し、別の部員が促すように引き出した椅子にちょこんと座った。

 

「きりりん? きりりんは、わたしがお菓子で買収されちゃうような子に見える~?」

「見える」

 

 即答である。

 だが、本音は気に障るような素振りは見せず、腕を組み視線で糾弾する姫燐をとりあえず隣に座るように促し、

 

「まぁまぁ、まずはどうぞどうぞ」

「おいしいよ~」

「……まぁ、いただきます」

 

 席に着いた姫燐の前に、上品な小皿に切り分けられた先程のシフォンケーキが部長から差し出される。

 せっかく出された物を無碍に断るのも不躾であるし、なによりも先程から単純に刺激され続けていた小腹と女の子の本能から、姫燐は警戒しながらもフォークを手に取った。

 生地は史上の羽毛のようにふわりとフォークを飲みこみ、一口サイズに分けられたシフォンケーキを口に運んだ瞬間――姫燐の背中に、電流走る。

 

「……本音」

「うんうん?」

 

 フォークを思わず落した仕草から、堕ちた事を確信した本音は真剣一色な表情の姫燐へと、身を乗り出すほどにうっすら目を開いた顔を近付かせ、

 

「一夏の奴、生徒会辞めさせてこっちに入れさせないか? レシピ盗ませて毎日これ作らせようぜ」

「その手があったかぁ~!」

 

 自分の一歩上を往く彼女の提案に、目を輝かせて同意した。

 

                ○●○

 

 絶品のシフォンケーキを本音や部長、他の部員と平らげた姫燐が、食後の紅茶を堪能しながらも落ち着いて他の部員から聞いてみれば、この部長は割かし真面目に功績を叩き出している人物であるらしく、予算が多めに下りるのは別に袖の下というわけではないらしい。

 あの姉がそんな分かりやすい不正を許すとも思えないし、これも部長が拘って淹れたらしい、姫燐でも違いが分かる紅茶の味からも判断するに、本当の事なのだろうと納得する。

 

「では、本音さま。こちら、いつもの会長殿や副会長殿の分になります」

「うむぅ、話は通しておくぞよ~」

 

 しかし、まさかとは思うが、末端ではなく本丸にまで根深く不正腐敗の根が行き渡っているのではないかという懸念も、捨てきれはしなかったが。

 紅茶も飲み終え頭に糖分も回ったことだし、色んな意味でそろそろ任せきりではなく、やり方を聞いてみるかと、お土産を受け取る本音へと二発目のチョップを振りおろそうとした――その瞬間、

 

「ん?」

 

 姫燐は閉まった扉の小窓に、いつの間にか映っていた人影の存在に気が付いた。

 数秒待ってみても、不審な影は一向にノックも入って来るような様子も見せず、ただ廊下に立って不動のまま。

 それに、なんとなくこのシルエットに見覚えがあった姫燐は、

 

「悪い本音、ちょいお花摘み」

「は~い」

 

 と、それとなく席を外し、あえてもう一つの、反対側の扉から物音を立てない様に出ると、調理室のプレートを見上げ胸に手を当てたまま、まるで気付く気配が無い背中を軽く叩いてやった。

 

「よっ、何してんだよシャルル」

「ひゃわぃ!? ほ、朴月さん!?」

 

 分かりやすく跳ね上がる肩を押さえ、姫燐は自分の唇に指を立てると、予想通りであった影の正体に小声で話しかける。

 

「シッ、デカい声出したら見付かって騒がれるぞ? こっちだ」

「う、うん……!」

 

 未だお茶会に夢中な調理室から離れ、人通りの少ない階段へと姫燐はシャルルの手を引いて案内する。

 汚れなど気にせず階段に座る自分とは対照的に、立ったまま壁に背を預けるシャルルを見上げ、姫燐は悪戯っぽく気さくに話しかけた。

 

「で、何してたんだよシャルル。覗きか?」

「のぞっ、そんな一夏みたいな破廉恥な真似しないよ!」

 

 顔を赤くしながら――なんか、詳しく聞いた方が良いような事を口走った気がしたが――否定するシャルルに萌えながらも、緊張がほぐれた様子に満足して本題を尋ねる。

 

「じゃあ、調理部に何か用事でもあったのか?」

「よ、用事とかって訳じゃないんだけど……あそこも、今日は一夏が生徒会で居ないから、ちょっと一人で散歩してみようって、たまたま通りかかっただけで……」

 

 歯切れが悪い様子で、また胸に手を当て――よく見ると、夕焼けに反射して光を放つ何かを握りしめているように見えた姫燐は、そちらの方を先に聞いてみることにした。

 

「その手の奴、ネックレスか?」

「あっ、うん……これはね」

 

 シャルルの柔らかそうな白い掌に握られていたのは、楕円形の蒼いエナメルでコーティングされた、優しげに微笑む聖母が刻まれたチャームネックレスであった。

 

「メダイユっていう、フランスのお守りでね。聖母さまが奇跡を起こしてくれるって言う言い伝えがあるんだ」

「へぇ。メダイユって言うのか、初めて見るな」

 

 立ち上がって、夕陽を反射してきらめく、新品のメダイユをまじまじと興味深そうに眺める姫燐。

 

「日本じゃ、そんなにメジャーじゃないんだね。フランスだと、結構一般的なお守りなんだけど」

「こんなの持ってたんだなシャルル。首は確か、いつもはIS巻いてるよな」

「うん、僕も……実はこれ、誰のメダイユか分からないんだけどね。今朝気付いたんだけど、本国で準備して貰った荷物の中に入ってたんだ」

「へ? そうなのか」

 

 このメダイユにシャルルが気付いたのは、改めて一夏に手伝ってもらいながら、荷解きをしていた最中のことであった。

 今となっては自分の私物なんて目覚まし時計ぐらいで、あとは全てデュノア社から支給された色気のない必需品ばかりであったため、唐突に出てきた見覚えのない新品のメダイユに戸惑いこそ覚えたモノの、

 

「昔、母さんの付けてたメダイユに少し似てたから……ちょっとだけ、借りてるんだ」

 

 母の葬儀の時に、共に土の下へと眠りについた別のメダイユのことを思い出してしまい、元の持ち主には少し罪悪感を感じながらも、持ち主を特定する方法も返す手段も分からないため、シャルルは少しだけ借り受けることにしたのだ。

 独り善がりでちっぽけなセンチメンタルと言えばそれまでだが、こうして握りしめていると感じる不思議な温もりは、冷めた心と背中に、思い出と言う力を流しこんでくれているように、シャルルには思えていた。

 

「昔ね、母さんと一緒に料理を作るのが好きだったんだ」

「シャルルも料理するのか? ウチの男性陣、ホント女子力高けぇな」

「えっ? ……あ、う、うん! そうなんだ、母さんがあんまり身体が頑丈じゃ無かったから、負担をできるだけ減らしてあげたくて」

 

 よく出来た子だよ全くと感心する姫燐に、うなじを流れる冷や汗をさり気なく指で拭きとるシャルル。

 

「それを抜いても僕自身も料理がけっこう好きだし、もし部活するなら調理部が良いかなぁって」

「ほほう! マジかマジか……ふんふん」

 

 思わぬ言葉に、姫燐の頭に設置された打算モードのスイッチが、勢いよくONに弾かれる。

 

「じゃあシャルル? よければさ、毎日、オレの味噌汁を作ってくれないか?」

「え、毎日ってなると、うーん……ミソスープは作ったことないしなぁ……」

 

 期待した答えこそ返って来なかったが、完全に袖にはされない悪くは無い反応に心中でガッツポーズを決めながら、

 

「まぁ、今のはジャパン流のジョークなんだが、ここの部長さん、料理かなり出来るんだよな。話も好きなら合いそうだし、新しいレシピとか、特にケーキの作り方とか、色々と教えて貰えるんじゃねぇか?」

「うん……」

 

 姫燐の欲望が若干滲みでている紹介に、どこか遠慮しているような浮かない様子でシャルルは返事をする。

 そういう顔をされてしまうと、途端に心配性にスイッチが切り変わるのが朴月姫燐の性分であった。

 

「……あー、またなんか地雷踏んだか?」

「ち、違うよ! 朴月さんは悪くないよ! だ、だって……」

 

 あの場所に、母の面影を追う『シャルロット』の居場所は、あってはならないから。

 とは、誰よりも優しい彼女にだけは言えず、シャルは咄嗟に思い付きの嘘を吐き出してしまう。

 

「も、もう日本料理は、一夏に教えて貰ってるんだよ! ミソスープも、今度教えてもらう予定なんだ!」

「え、そうだったのか?」

「うん、だから部活に入るのはまた、もう少し落ち着いてからでいいかな? 心配しないで朴月さん」

「なんでぇ……アイツ、一言もそんなこと言ってなかったけど」

 

 一瞬、ハリボテな嘘の隅を突かれたかとシャルルの胆が冷えるが、どことなく面白くなさそうに鼻を鳴らす姫燐の仕草は、

 

「ま、仲良くやれてるなら、それでいいけどさ」

 

 どことなく玩具を取られて拗ねる子供のように、シャルルには見えた。

 

「意外と意識はしてるのかな……?」

「そいや普段は、部屋とかで二人で何してるんだ? アイツ全然その辺り話さねぇんだよ」

「あはは、それは……」

 

――気軽に話したら、ボロ出すって自分でも分かってるんだろうなぁ……。

 

呟きを覆い被すように向けられた姫燐の質問に、シャルルは苦笑いしながら目を逸らす、

 心遣いは有難いが、アフターケアが少し出来ていない彼の課題点をまた一つ見つけながらも、そこをフォローするのは自分の役割だとシャルルは判断し、改めてシャルは自分と彼の生活を思い返してみた。

 この学園に転校してきてから、まさに怒涛の一週間と少し。

 自己紹介からいきなりA組特有のテンションに揉まれ、姫燐と出会い、セシリアに決闘を挑まれ、性別を一夏とセシリアに暴かれ秘密を共有し、技練習にも付き合い、タッグの模擬戦をして――なんとも、一日一日がとてつもなく濃いイベント塗れだが、それでも息をつく時間ぐらいはあるものだ。

 

「えっと、大体はその日受けた授業の、補習みたいなのもやってるかな」

「へぇ、その辺もちゃんと勉強してるんだなアイツ」

 

 知力もまた、紛れもない力であると痛感する一夏の熱心さに、所詮は『貰いモノ』の知識であっても期待に応えられるならばと、シャルは自身の知識を惜しげもなく彼に教授していた。

 間違いなく彼に足りておらず、そして自分が教えられる強さの一つを、特にタッグ戦があったあの日から、一心不乱に遅くまで一夏は磨き続けている。

 

「だから、最近たまに眠そうにしてるのか」

「うん、すっごく頑張ってるよ。あとは、そうだなぁ」

 

 無論、鍛錬ばかりではない。

 同じ部屋で共同生活を送れば、自然と日常的な家事も共に行うことも増えていく。

 

「他には、朝食と夕食はたまに二人で作ってるし、家事は当番でやってるかな」

「ほんほん」

「基礎トレーニングも、最近は朝に篠ノ之さんと三人で一緒にやることが多いね」

「あー、だから箒の奴……」

 

 毎朝うっきうきで出掛けていた箒のテンションが、最近少し低くなっているのはそこに起因しているのだろうと、姫燐は察した。

 もしやと推察するが、最近の自分へのどう考えても行き過ぎた『可愛がり』は、彼女なりの一種のストレス発散であるのかもとすら思えてくる。

 そう考えると同情できる部分もあり、彼女の暴挙にも多少は寛容に――

 

「なれないな、うん、ねぇわ」

「ど、どうしたの朴月さん?」

「あ、いやこっちの話。他には?」

「他には、えーっと……」

 

 ここは少しばかり誇張を加えてでも、正体を悟られない様にする意図も含め、自分と彼が仲の良い『男同士』であることをアピールしておこうと、なんとなく面白くなってきたシャルは指折り、

 

「汗かいたら、一緒にお風呂とか入ったりするかな」

 

 さらっと、何でもない事のように、そう、言い切った。

 

「ほん…………ほ…………もおおおおお!?!?!」

「へ?」

 

 いきなり投下されたトンデモ無さ過ぎる大爆弾は、姫燐の精神的均衡を、一瞬にして吹き飛ばし大恐慌へと陥れた。

 自分の口走ったことが、どのような意味を持つのか――それを理解し切れていないシャルは、姫燐に肩を力任せに掴まれても困惑することしかできない。

 

「お、おおおままま、お前ら、一緒に風呂入ってるのか!? いつも!?」

「え? え? そ、そんなに変な事なのかな……?」

 

 シャルとしては勝手に風呂場に入ってきたとあの過去を、違和感がないよう自然に改変したつもりであったのだが、姫燐からしてみれば不自然の塊でしかない二人の蜜月に、思考回路がショート寸前に暴走を続けてしまう。

 

「いや、ちょ……え、ナチュラル? ナチュラルに二人でかっ!?」

「そ、そういうものじゃないの……日本では?」

 

 事前にシャルが日本に馴染むため仕入れていた知識では、日本人は同性なら共に湯浴みをすることは、そういった専門施設が随所に作られるほど、別段珍しいことではないと記憶していたのだが、

 

「いやいやいや、マジなのか……ガチなのか……!?」

 

 それはあくまで温泉などと言った公衆浴場のみの話であり、個室の風呂は同性だろうと一人ずつ入るのが普通であるという点を、シャルはモノの見事に勘違いしてしまっていたのだ。

 当然、赤の他人の野郎同士が特に理由も無く、一緒に個室風呂に入るような裸の付き合いをしていれば、薔薇な関係と疑われてしまっても仕方が無い訳で、

 

「嘘だろ……オレですら箒と風呂入るのは妄想で留めてるぞ……」

 

 そろそろ煙が出始めそうな頭を抱え、ブツブツとうずくまり始めた姫燐の尋常ではない様子に、自分がとんでもない爆弾発言をしてしまったことだけはシャルにも分かる。

 完全な自滅で後に引けなくなってしまったシャルであったが、ここで全ての間違いを訂正してしまえば、当然の帰結として理由の追及が始まるだろう。そうなってしまうと、話は自分の秘密へと直結してしまいかねない。

それだけは回避しなければと、なんとか体裁を取り繕うため、テンパった頭であたふたと先程と同じ言い訳を思い付き――思い付いて、使い回してしまい、

 

「え、っと! 一夏、一夏にそう教わってね! こういうのが日本の文化だって!」

「はぁぁぁぁぁぁぁぁ!!? 一夏からだとぉ!?」

 

 さらに、とんでもない大穴をあけてしまう。

 自分の失言が本当にシャレになっていないことに気付くには、シャルは織斑一夏という男が築いてきた唐変木の歴史を、まだ完全に理解しきっていなかった。

 

「ちょま、待て待て待て!!? 嘘だろキャラ作ってたのかアイツ!? まさかあの唐変木さを!?」

「ほ、朴月さん?」

「だから箒や鈴から、あんだけ露骨にアプローチされてもスルーしてたってのかよ!? いや待て、この前提が覆れば、こんな桃園にぶち込まれても問題一つ起こさない枯れ具合にも説明がつくのか……ついちまうのか!?」

 

 ポーズと表情を目まぐるしく変えながらも、大混乱からド真剣な真顔へと変わっていき、徐々に虚構の現実を本気で受け入れ始めた姫燐の勘違いを訂正できる人間は、喜劇的かつ非劇的にここにはおらず、

 

「……オーケー、分かった。安心してくれ、シャルル」

「あ、朴月さん、その」

「この問題は、本当にデリケートな奴だからな。安心しろ、オレは同性愛に理解がある。一回、一夏とはオレが真剣に話しとくから。ていうかするから」

「でりけーとって、同性愛ッ!!?」

 

 今までにないぐらい真摯な態度でまた肩を掴まれ、ここでシャルも、ようやく自分の迂闊な嘘が、収集がつかない方向へと転がり始めていることを理解する。

 

「ち、ちが、同性!? 一夏は絶対にそういうんじゃなくて!」

「違うんだ、シャルル。オレは別に、一夏を責めたりしてるわけじゃなくてさ」

 

 責められる言われがないので当然であるが、姫燐は確かに怒っているわけでも、ドン引きしているわけでもなかった。ただ――

 

「ちょっと、ショック……でな。なんで一言でもいいから、オレに話してくれなかったんだ、って」

 

なぜ、今の今まで自分に――言ってしまえば同類である自分だけには一声でいい、相談や話をしてくれなかったのかと、姫燐は言いようのない寂しさや、やるせなさを感じずには居られなかったのだ。

 

「ほんっと……気付いてやれなかった、オレも間抜けなんだがな」

 

 掌で目を隠して、姫燐は天井を見上げる。

 同性愛者は、自然の摂理に逆らう存在である。

 それは、どれだけ世間が認めようと、自由の権利をかざそうとも、捻じ曲げられない単純な事実だ。だからこそ、姫燐は自分の性癖を自覚し始めてから、この事実を常に忘れずに生きてきた。

 自分だけの問題なら露見はしてもいいが、秘めた恋心で誰かに迷惑だけはかけたくない。

 その一心で、自分好みの同性が多いIS学園だろうと、姫燐は自分の性癖をオープンに語る事だけは決してしないように心掛けてきたのだ。

 

――それでも。

 

 それでも、下世話な話題であろうとも、誰かと本心から語り合いたくはなってしまうのは、言葉と言葉で通じ合える人間の性というモノなのだろう。

 自分の性癖を受け入れてはいないが、認知はしている鈴との会話は、それだけで姫燐にとっては得難い機会でもあったように、そういったことはいつまでも胸に押し留めておけることではないのだ。

 要は、ガス抜きなのである。

溜め続けてしまうと、染み付いて、離れなくなってしまう孤独という猛毒を抜くための。

 誰にも秘密を共有できない、女しか居ない学園生活――それは自分にとっては天国でも、相反する……いや、自分以上に本心を語らなかった彼にとってはどうだったのだろうか?

 アイツは、織斑一夏は、自分が想像するよりも、ずっとずっと、哀しく、孤独な存在であったのだろうか?

 あんなに一緒に居たのに、いざとなってみればアイツのことが何も分からない自分が、どうしようもなく不甲斐ない。

 

――だから、なのかね……。

 

 こんな自分とも根気強くヨロシクやってくれているのは、男っぽい立ち振る舞いだから、女なのに女が好きな性癖で、女らしくないからなのかとも、姫燐には思えてしまう。

 だったら、尚更カッコいい自分がなんとかしてやらねぇと。

そう、思い直す――ほんの少し、心の、どこか片隅で、

 

――もし、オレが普通に女らしかったら、アイツは今みたいに、オレの隣に居てくれなかったんじゃ…………。

 

 過った、そんな僅かな可能性をぶっ潰すように、姫燐は壁に額を叩きつけた。

 

「ど、どうしたのっ!?」

「……悪い、ちょっと真剣に頭冷やしてくる。また明日な、シャルル」

「ま、待って待って! 一夏は、一夏は同性愛者じゃなくて、絶対に朴月さんのことが……」

 

 何かを必死に訴えるシャルルの声も、全く耳に入って来ないほどに、赤くなった額と、

 

「……ちくしょう。なんか、なんかすっっげぇ、モヤモヤするっ……!」

 

 同じくらい赤くなった目尻を振り払うように、姫燐は手洗い場にめがけ、一心不乱に廊下を駆け抜けていった。

 




シャルが男だと思ってた頃の一夏はどうみてもホモだったし、ま、多少はね?


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第32話「生徒会役員共の一存(後編)」

ちょっと頑張って挿絵なるモノを作ってみました。


――じゃあまず、名前と年齢を教えてくれるかな?

 

「朴月姫燐、16歳っすね」

 

――へぇ、若くて可愛いね。

 

「可愛くねぇ。じゃなくて、確かに自分で言うのもなんスけど、ビジュアルにはそこそこ自信ありますね。主にクールさとか、カッコよさで」

 

――身長とか体重はいくつ?

 

「身長は165cm、体重はトップシークレットで」

 

――3サイズは?

 

「いや……いやいや、流石に言わなくて良いっすよね?」

 

――じゃあ、恋人とかは居るのかな?

 

「絶賛募集中って言っときます」

 

――一番、触られると良いポイントはどこかな?

 

「は? いや、ちょい待て、なんでそんなん言う必要が」

 

――じゃあ初体験は

 

「待てやコラ! 一体なんのインタビューだこれ!?」

「おやおや、何かおかしかったです?」

 

 と、座っていた椅子を転倒させる勢いで喰いかかった姫燐に対し、対面に座っていた新聞部の、紫の柔らかに広がるロングヘアをした赤ふちメガネの上級生は、至極真面目な表情で小首を捻った。

 

「ほぼ後半全部だよ! なんだあのAぶ……その……如何わしい感じのインタビュー内容は!?」

「これはインタビュー内容としては、10代から20代の女性に聞く内容としては、ごく一般的とお聞きしたのですますが?」

「いや確かにそういうの、冒頭によくあるけど……あーもう! どうなってんだよ部長さん! なんなんだよこの人!?」

「あはは……」

 

 仕事内容を見せるとのことで、部室内にあった一室に案内された筈なのに、これはいったい何の仕事なんだと、同じく一室に居た部長に喰ってかかる姫燐。

 顔見知りである新聞部の部長は、遠い目をした苦笑いで姫燐の肩を掴むと、抱き寄せて小声で耳打ちを始める。

 

(いやね、この子はパーラ・ロールセクトちゃんって言って、エジプトから来てる二年の子なんだけど、ちょっとその、日本の文化とか言葉とか知識とかがね? こう、ユニークっていうか、独特っていうか……本人もそれを自覚してるから勉強のために新聞部に入ってるんだけど……)

(いくらなんでも、インタビューが独自製法すぎやしませんか!?)

(その……ちょっと、ね。たまに言う事が滅茶苦茶だし、声を荒げたくなるのはひじょーにかかるんだけど、ほんのちょっとだけでいいから、パーラちゃんには寛容になってあげてくれないかしら……?)

(なんすか、弱みでも握られてるんすか)

(その、ね。こんな話、出来るだけ人にはしたくないんだけれど……)

 

 完全に疑心暗鬼の目で部長を睨む姫燐だったが、

 

(パーラちゃんね、今年の二月ごろに、自分も巻き込まれる事故で、ご両親を亡くしたばかりなの)

(……そうは、見えなかったです)

 

 率直な感想と、若干の悔いが、粗ぶった自立神経を収めていく。

 

(そうは見えないよねぇ、やっぱり……冬休みで本国に帰郷していた時ことでアタシも知ったのは新学期になってからだったんだけど、とんでもない目に合ったにも関わらず、ケロっとした顔で部室に来てね……)

 

 只でさえ辛い時期なのに無理しなくていいと、部長は彼女を抱きしめながら、やんわり部活はしばらく休んでも大丈夫だと伝えたのだが、それでも彼女は懐から――痛々しい磨り傷が、未だ、残ったままの――携帯端末を取りだし、微笑んだのだと言う。

 

――メールにありましたですます。『入学式後は全員、特ダネを握って、部室に集合! 新部長の言う事は絶対厳守ッ!』って。

 

 それは、自分にとっては、只の悪ふざけだったのだ。

 ただ、新学期からは新しく部長になることが決まり、何かそれっぽいことをしなくてはならないと思い付きのままに後輩の部員達に押し付けた、身勝手な発破。

 それを、たったそれだけを律義に守る為に、彼女はあらゆる辛さを押し込めて、億尾にも出さずに、この部室に来た。私の部活に来てくれたのだ。

 

(だからね、私はあの子が何をしようとも、えこひいきだって言われても、胸を張って代わりに頭を下げてやるわ。この子は、この子だけは、何があっても、私が支えてみせるって――あの時、決めたから)

 

 軽薄で、薄情で、悪い笑みがよく似合う新聞部部長が見せた、たった独りを守り抜くという決意の横顔。

 なんとなく姫燐にはどこか、その姿が――自分の協力者である少年の面影と被る。

 こうなってしまえばもう誰も憎めないのは、姫燐という人間の、天性の性であった。

 

(はぁ……分かりましたよ。オレも出来る限りは文句言わない方針でいきます)

(本当にありがとう、朴月ちゃん……あ、でもでも、それはそうとしてさっきの結構雰囲気とかソレっぽくて、結構良かったとアタシは思うんだけ)

「さっきから、きりりーと、何を、お話してるのかなぁ、部長さん?」

「ひゅお!? いやいやいや! なんでもないなんでもない!」

 

 黙ってぶかぶかの袖で器用にリストにチェックを入れていた本音が、ぬぬっと二人の間にいつも通りの――気のせいか、姫燐にも一瞬、五寸釘でも喉に当てられたような怖気が走ったが――のほほんとした笑顔で割り込み、可愛らしく顎に手を当てて、

 

「んー、これじゃあかいちょーに、新聞部はよかったよーって報告は、ちょーっとむずかしいかなぁ?」

「ちょ、ま、待って待って! 前回の査定でも引かれたし、これ以上部費削られたらホントやってけないよウチ!? 只でさえ『前の一件』で先生達からも目を付けられてるってのに!」

「前の一件って……」

 

 他の部員の手前、前の一件と部長はボカしていたが、その一件に姫燐は他でも無い当事者としてガッツリと心当たりがある。

 五月に行われたクラス代表戦。一夏と鈴が試合を行い、謎の無人機が乱入し……そして、アイツ等が現れた、あの事件だ。

 長身で、青灰の長髪で隠した、黒き角膜に浮かぶ黄金の双眸を持つリューン・セプリティス。

 対象的に発色が悪く背が低い、薄桃の髪を小さく両サイドで纏めた、病的に白い肌が特徴だったトーチ・セプリティス。

 そして――キルスティンという、もう一人の自分。

 あんなことが起こるなど予期できる筈もなかったが結果的に、合意の取引とはいえ第三アリーナのデータの複製を渡していた彼女にまで、迷惑をかけてしまったのは事実である。

 

「その、部長さん。前の一件は、ほんと、すみませんでした。オレのせいで」

「うぇ!? い、良いの良いの! 朴月ちゃんは何も気にしなくて!」

 

 痛々しい趣きで頭を下げられても、全く気にする必要はないと部長は手を振る。

 

「記事にされたことようにね、起こってしまったことは仕方ないの。でも記事だって、乗せる事は重苦しいことばっかりじゃないわ。ほら、ワイドショーだって動物紹介とか割とどうでもいいコーナーだって流すでしょ? あれみたいに暗い話題ばっかりで、ずっと引きずり続けるのは構成上よくないっていうかそういう……雰囲気で、ね?」

 

 それはもう、どっちに非があるのか分からないぐらいの必死な形相で。

 

「部長さん……そっすね、ダメですよね。いつまでも、引きずってちゃ」

「あはははは……」

「良かったですますね、ぶちょー。朴月姫燐が生徒会の身内になったって聞いてから、ずーっと生徒会側から圧力とか報復とか制裁が来るんじゃないかって、気が気でなくて四苦八苦胃薬常備薬でぶるぶるーっと」

「パーラちゃん、ちょっとシャラップ。思い出すだけで結構クるから……」

「いや、かたね……会長はそんなことしませんって、何だかんだ優しい人ですし」

 

 姫燐の断言こそが、あの人が身内をどれだけ大切にしているかを示しているようで余計に怖いのだが、ここで胃薬に手を出す訳にはいかず、自然を装ってお腹に手を当てる部長に変わり、パーラが今度はボイスレコーダーを手に姫燐に詰め寄った。

 

「ではでは、ぶちょーに変わって、私がお仕事するです」

「えー……まだやるのかよ……」

「ご安心を、今度は真面目にやるのです」

「シレっと真面目にやってなかったの暴露したなオイ」

 

 反射的に頬をつねりそうになるも、部長の話と、部活内容を査察するというのが自分の仕事である以上、グッとこらえてまた椅子を用意し、パーラの対面へと座る。

 この学園ではそんなに普段からつけている人がいない、フワッとここからでも香る、花の蜜のような香水のせいもあるのか、どうにも慣れず落ち着かない気分のまま、レコーダーのスイッチは押され、姫燐へのインタビューが再開される。

 

「ではでは――朴月姫燐さんは、確か専用機持ちなのでしたです」

「ん、まぁ、そう……ですね」

「特に代表候補生というわけでもないのに、何故です?」

「IS研究者してる親父のコネです。行くならついでにデータ取ってこい、って感じに渡されました」

 

 これは変えようもない事実なので、臆面もなく言い切る。

 そんな姫燐の毅然さも含めて興味深げに、パーラも唸りながら手元のメモへとペンを滑らせていく。

 

「ほうほう。では、ISに搭乗したのは、入学してからが初めてで?」

「いや、親父のところで、数年間テストパイロットの真似事みたいなのはやってましたね。適性はAだったんで」

「テストパイロットですとな。では、あの卓越したIS操縦技術は、その時に身に付けたと!」

「大体の操縦技術は、そこでほぼ独学なんで卓越って程じゃ、って、あれ……オレそんな大舞台で暴れたっけな?」

「ご謙遜を。かのイギリスの代表候補生、セシリア・オルコット氏いわく、あのクラス代表戦を襲撃した謎のIS、撃退は貴女のご尽力あってこそとの事ではないですか」

 

 そういえば、そんな内容でセシリアが、思いっきり全校生徒に吹きこみまくっていた事を姫燐も思い出す。

 事実は噂より奇なりであるのだが、訂正する意味も利益もないため、当たり障りのない返答に留めることに決め、

 

「でもこれ、オフレコっすよ? 学園の外には、オレは居なかったって事になってるらしいですし」

「んー……ぶちょー?」

 

 どうしますー? と呑気極まりないパーラのアイコンタクトとは反して、大慌てで部長は、鉄骨渡りでもしているかのような形相で、指を交差させ×の字を作る。

 

「ダメダメダメっ! 今回は出来るだけ無難かつ穏便な方向性よ、パーラちゃん! ちり紙にもならないようなクッソ退屈な記事になっても、今回はすっぱ抜きとか下世話とかスクープとか、そういうの禁止! 全っ面禁止ッ!」

「あいあいさー、ぶちょーの命令は絶対ですので」

 

 普段、どんな記事書いてるんだこの人達……と、査察素人である姫燐をしても、この部活大丈夫なのかよと不安が先行してくるが、

 

「『あの事』も取材しない方針なのですかねー?」

「ちょまッ!!?」

「……あのことー?」

 

 ぶかぶかの袖を口元に当て、横で成り行きを見守っていた本音の瞳が、ゆっくりと、うっすらと、見開かれた。

 無言、不動、笑みさえ浮かべているのに、背中からは得体のしれないプレッシャーを醸し出す幼馴染の姿は、隣の姫燐をしてもおっかなさで生唾が口内に溢れだしてくる。

 

「ふーん……部長さーん? わたし、『あの事』ってどんな事なのか、と~っても気になるなぁ~?」

「あわわわわ、わか、わ分かりましたッ! 洗いざらい吐きます! 吐きますし、こんなこと記事にする予定すらなかったことだけは先にご承知くださいぃッ!!!」

 

 権力に屈した報道屋に、もはやプライドなどあるはずもなく、残像を残し、空を切る音すらしそうなほどの勢いでペコペコ頭を下げたおす部長の姿。

ここまで来ると半笑いで、どんな根も葉もない下らないゴシップが飛び出すのやらと逆に面白くなってきた姫燐だったからこそ、

 

「正直これはアタシも流石にガセだと思ってるんで、パーラちゃん以外には黙ってたし、公言するつもりとかも一切ないんです! 信じて」

「実はあの事件、襲撃してきたISは『無人機』で、しかも『他の襲撃者まで居た』らしいって奴ですますね」

「ちょ……なんで先に言うの……」

 

 唐突に襲いかかった真実を、どうしても笑い飛ばすことが出来なかった。

 

「あっ、アハハハハ、そんな訳ないですよねぇ~! 大体、無人で動くISって時点で眉唾ですし、その上ほかの襲撃者まで居ただなんて、これが事実だったら、今頃もっと、世界規模で大騒ぎになってないと絶対におかしい……し……?」

 

 不意に押し黙ってしまった、生徒会役員の二人。更に一人は当事者。

人を観察して記事を書く人間の哀しい性は、この沈黙の意味を完璧に察し取り、理解できてしまい……、

 

「えっ……えっ? うそですよね、ははは、こんな、まさか、これ……マジネタ……」

「部長さん」

「はいぃぃぃ!!?」

 

いつもどんな時でも、怒っている時でも、泣いている時でも、人を露骨に追い詰めている時でも消えなかった、のほほんとした雰囲気が――完全に、消える。

 

「そのこと、どこで聞いたの」

「そそれは」

「いいから、答えて。いま、すぐに」

 

 淡々と、有無を言わさぬ冷淡さが、部長の荒れ気味の胃を絞り上げた。

 俯いていた頭からは、表情は読み取れなかったが……今は、それが幸いに思えて仕方が無い。

 遮る前髪の奥底に、潜んでいる『モノ』を万が一にでも直視してしまったら――一生に刻まれるか、一身を刻まれるか――その程度の差異しか感じさせない悪寒が、胃を飛びだし、喉元を逆流してくる感覚に見舞われ、

 

「はやく、答えない、なら」

「あ……ぁ」

 

 ぬ、と、余らせていた袖口から、白子のような手が覗く。

 普段、誰も目にすることのないであろう、彼女の薄桃色をした爪先が、真っ直ぐ、ただ真っ直ぐに、口すら金縛りに合ったよう動かない部長の眼球へと伸びていき――

 

「ほんちゃん」

 

 向かう腕を、もう一人の生徒会役員が、鷲掴みで止めた。

 

「やり過ぎだ」

「でも、ひめりん」

「二度は言わない。続けるなら、加減はできねぇぞ」

 

 握り締めた本音の袖に、シワが出来る。

 

「これはもう織斑先生や、かた姉達の管轄で、オレ達の仕事は部活動の視察だ。違うか」

 

 粛々と平坦な声で、姫燐は正論と事実を簡潔にぶつける。

 しかし、普段の軽さなど微塵も感じさせない程に、本音の腕に入った力は、硬く、頑ななままだ。

 

「どうして、ひめりんの事、なんだよ?」

「違う、これは『学園全体』のことだ。オレ個人の問題じゃない」

「違わないよ。これはっ、これはひめりんの……っぁう……!?」

 

 機械めいた反射で、姫燐は本音の腕を、問答は無用と捻り上げる。

 

「ここまでだ。悪い、部長さん。あとでちゃんと言っときますんで」

 

 選んだ言葉は気さくだというのに、一切の抑揚がない謝罪の言葉。

 これは、本当に先程と同じ少女なのか。

 一種の制御不能な激情であった本音とは正反対なまでに、躊躇なく規律的な――暴力。

 朴月姫燐が、まったくの不意討ちに見せた一面が、助けられた形の部長すら、隣に立つパーラの肉体すらも、恐縮させ、強張らせる。

 

「っ……ひめ……りん……」

「……ごめん」

 

 苦悶の呻きに、一言であったが確かな謝罪を込めて姫燐は手を離し、拘束を解く。

 

「ごめん、ほんちゃん。だけど、オレが止めた理由も、分かるよな」

「だって……だって……」

 

 無論、いくら『更識』である以上、聞き流せない流言が鼓膜を叩いたから――だけで、あそこまで我を忘れるほど、この幼馴染は短気、短慮では無い。

 だからこそ、それをよく知っている姫燐は、内心ひどく狼狽を隠せず、ただ、思ったままの言葉をぶつけてやる事しかできなかった。

 

「それに、オレは……あんなほんちゃんは、見たくない」

「っ……!!」

 

 息を短く吸うと本音は、扉を普段からは考えられないような荒々しさで開き、俯いたまま新聞部を飛び出していった。

 姫燐はそんな背中を無言で見つめ続け、

 

「……とりあえず、部長さんに、パーラさん。こっからのことで、先に確認したい事がいくつかあるんで――答えてくれませんか」

 

 上への報告に必要な最低限の状況把握、事実確認、緘口令――眼前にある『任務』を、最優先とし、片付けることを選んだ。

 

 

               ○●○

 

 

『まもる』とは、なんなのか。

 更識に連なる家系に布仏本音が産まれ、育ち、物心がついた時から、それは自分に課せられた『しめい』だと、彼女は周囲の人達に教えられた。

 しめいを果たすために必要なことを学ぶ日々は、確かに少し窮屈ではあったものの、愛情は確かにあると悟っていた本音は、そんな大人達も、自分を可愛がってくれる二人の姉も、自分と一緒に努力する同い年の『かんちゃん』も大好きだったから、特に不平不満を抱く事はなかったが……。

 しかし、たびたび、こう、思う事はあったのだ。

 

――なんで、まもらないといけないの?

 

 と。

 今にして思えば、周りの人間がみんな強かったのも、原因の一つであったと思う。

 しかし、それでも本音は事実単純に考えて、わざわざ他者が他者を『まもる』ことなんて不合理ではないのかと思えて仕方が無かったのだ。

 更識に産まれた宿命だと理由はあれど、大好きなかんちゃんは、まもるための力をつける修行でよく泣いていたのを……それも、道場の裏手や、自分の部屋で、決して誰かに見せようとせず泣いていたのを、少女は今も忘れられない。

 だから、疑った。

 

――みんながまもる必要なんてないぐらい、自分から強くなっちゃえば、しめいなんて必要なくて、かんちゃんは泣かずにすむのに。

 

 疑問は、深々と刺さった銛の穂先だ。刺されば、そう簡単には抜けやしない。

子供心に……いや、本音という少女は、抱いてしまった疑問を簡単に割り切れるほど、短絡的に、簡潔的に思考を纏める事ができなかった。

 それを大人たちは、「本音は物覚えが際立って良いし、応用も得意だ」と、褒めてくれはしたが、それと同じぐらい叱られたことだって消えてくれないのだから、本音にとっては良いも悪いもおあいこと言った所であったが。

 なんにせよ、解決法を考えれば考えるほど、答えを探せば探すほど、知識達は自分の疑問がどれだけ、幼稚で世間知らずであったかは教えてくれはしたが――それでも、一度たりとも子供の頃の本音を納得させる事ができなかった。

 

――大切な人を泣かせてまで、『誰か』はそんなにまもらないといけないの?

 

 自分自身も、布仏本音という人間は酷く不合理で、不便な性質であると自覚できたのは、いつだったかは覚えていない。

そんな頭を沸騰させていくエラーを処理する方法も、同じぐらいの時に、いつの間にか自覚できていたからだ。

 

――まぁ、いっか。

 

 割り切れないのならば、忘れてしまえばいい。

 読み込みにエラーを起こすコードを、さっぱりとデリートしてしまう魔法のコマンド。

 頭がぐしゃぐしゃになりそうなことが起こってしまう度に、本音は実行を繰り返し、肩の力をふっと抜くのだ。

 あとは無駄に使ってしまった養分を、甘いお菓子で補充し、自分のペースを維持したまま、大好きな人達の期待に応え続けていけば、世界はつつがなく続いていく。

しめいの意味なんて、どうでもよくなってくる。

 そんなことを考えている時間があるなら、泣いてしまった分まで、かんちゃんを笑顔にしてあげる方法について考えていた方が、ずっとずっと意味があって、重要で、本音はそれでよかったのだ。

 

――はじめまして、えーっと、ほんねちゃん、だよね?

 

 あの日、までは。

 

――わたしはね、ヒメって言うのっ! あ、本当はもう少し名前が長くて……。

 

 綺麗で長くて赤い髪に、ひらひらとしたドレスを着た、初めて『守りたい』と思ったあの子に、会うまでは。

 

――え……ほんちゃん……なの、か?

 

 そしてまた、この学園で、忘れられない、忘れたくないあの子と、再会するまでは。

 

 

                ○●○

 

 

 いつまで、どこまで走っていたのだろうか、なんて、月並みながむしゃらの感想が本音の頭を掠めたのは、肺から酸素の要求がピークに達してからであった。

 どこかの教室の扉へとよりかかる。

混濁した意識は一瞬で膝から力を狩り取って行きそうであったが、深呼吸で収穫を無期限に引き延ばして行く。

 走り続ける訳は一つ。思考が澄んでいくごとに、頭が正常に仕事をこなそうとする度に、

 

――オレは、あんなほんちゃんは、見たくない。

 

「っ……ぅ……!」

 

 拒絶、された。今まで必死に隠していた『わたし』を、拒絶、された。

 体を巡る全てが、逆流して破裂してしまいそうなほどに、見えない何かに貫かれていく。

 ひめりんは悪くない。これは当然だ。わたしは期待を裏切った。だから、せかいが崩れるのは当然の事なんだ。

 QEDは示された。だから、終わりだ、終わって、お願い、はやく、耐えられなくなるまえに。

 

「ぁ……ぅあぁぁ……!!」

 

 また、走る。

 思考を再びかき交ぜるためにだけに、走る。

 前も見ず、後ろも見ず、己も見ず。邪魔な考えを捨てるためだけに、逃げ出す。

 ふと、冷徹な部分が囁いた。

こんな無様な真似をしなくても、あの一言さえ言ってしまえば、今まで何度となく縋ってきた魔法を唱えさえしてしまえば……、

 

――ひめりんとの時間を、嘘にしたくなかったんだ……。

 

 ダメだ、ダメだダメだダメだ。

 嘘にだけは出来ない。忘れる事だけはしたくない。

 あの子の事だけは、どんなことですら切り捨てたくなんてない!

 だったら、わたしは…………どうしたらいいの?

 

「きゃ!?」

「……は……っ」

 

 ……出口のない迷走が辿りついた先は、これまた実に在り来たりで、チープな展開であった。

 

「いたた……」

 

 曲がり角から、不意に出てきた人影への激突。

 人影が抱えていたのであろう、多数の資料や、細々とした機材が床に散乱し、本音も当人も互いに尻もちをつく形で転倒してしまう。

 どこまでも無様、どこまでも月並み、どこまでも些末事でありながらも――ぶつかった影だけは、本音を、今まで以上の絶崖へと突き落としていく。

 

「え……本音……?」

 

 見間違える筈もない。

 楯無と同じ、澄んだ湖水のようなショートボブとは反対に、大人しげに垂れた赤い瞳。この歳の少女としては実に平均的な身体付きであるが、所々にしっかりとついた筋肉や、工具を日常的に扱う人間特有のマメが散見される両手。

 今は伊達眼鏡をつけていても、産まれた時から家族同然に過ごして来た、自らの主を見間違えるほど、本音の頭も鈍りきってはいなかった。

 

「……かん、ちゃん……」

 

 更識簪。

 楯無の妹であり、更識の次女。自分が産まれた時から、仕えることを義務づけられた――だというのに、一時期の姫燐以上に疎遠である――大好きな、ご主人さま。

 

「ど、どうしたの……その顔……一体、何があったの?」

 

 普段は本音の事を、徹底的に避けるようにしている簪であったが、どんな時でものほほんとしている従者に――家族に、ここまで生気が消え失せ、頬を陰らせ、輝きのない瞳で見つめられて、平静でいられる訳がない。

 散らばったパーツや書類になど目もくれず、座り込んだまま動かない本音へと屈みこみ、肩を掴む。

 

「なんでも……ないよ、かんちゃん……ちょっと、お腹、空いただけ……」

「そんな訳ないでしょう! ねぇ、本音、ちゃんと答えて」

「ほんちゃーん! どこだー! おーい!」

 

 たとえ遠ざけていても大切な家族の大事に、心配の色を隠さず憂いていた唇が、聞こえてきた久方ぶりに聞く声に、強く引き締められる。

 

「っ! やっと見つけた……ぜ……」

 

 アラートが鳴らされた兵士のように、怨敵を前にした英雄のように、略奪者を前にした被害者のように、簪は本音を力強く抱き寄せ、こちらへと駆け寄ってくる女を、貫くような視線で睨みつけた。

 

「朴月……姫燐ッ」

「……久しぶりだな、カン」

 

 安堵に撓んでいた姫燐の立ち振る舞いが、一瞬の硬直を得て、同じく宿敵へ出会った様な緊張を宿し、簪と本音の前へ立ちつくす。

 

「そのあだ名で呼ばないで。朴月姫燐」

「そうかい、じゃあもう一つの方で呼んでやった方がいいか?」

「そっちで呼んだら、本気でぶつから」

「おぉ、こわっ。眼鏡なんぞかけてるのに、昔より迫力出てるじゃねぇか」

 

 売り言葉に、買い言葉。

 どちらも譲歩することも、理解することも拒むような、断崖のように開き切った、浅からぬ溝。誰の目で見たとしても、因縁浅からぬ何かを感じられずにはいられない緊迫感が、両者には漂っていた。

 

「つーか、昔っからオレを叩くのに遠慮なんて可愛いこと、したことねぇだろお前」

「ふん……そっちこそ、あんなにカワイイカワイイしてたお姫様は卒業? 今度はオレだなんて、ゴスロリ趣味から厨二病に鞍替えしたの?」

「てめぇ、四年前から確実に罵倒がパワーアップしてやがるな……ほっんと、可愛くねー」

 

 痛い所を突かれても、ここで隙を見せればさらに追撃してくるのが更識簪であると、過去の苦々しい経験で理解している姫燐は、どっちにしろコイツには用が無いと意識を切り替える。

 

「ほんちゃん、悪かった。一回、話聞いてくれないか」

 

 ピクリと跳ねる身体。

 それを抱きしめた両手で感じ取った簪は――事を察し、その嫌悪を今まで以上に膨れ上がらせた。

 

「あなた……本音に、なにをしたの」

「………その前に、確認させろ。お前、なんで生徒会に入ってない」

「話を逸らさないでッ!」

 

 激怒のままに簪は、姫燐のアンダーシャツの襟首へと掴みかかる。

 

「質問に質問で返さないで……これ以上、ふざけた態度ではぐらかすのなら……」

「これは前提条件の話だ。お前に、その質問をする権利があるかどうかのな」

「どういうこと……?」

 

 襟首を締め上げているというのに表情も身体も反抗の一つすら見せず、簪とはまさに正反対の冷淡さで、姫燐は簪を問い質す。

 

「もう一回聞くぜ。コイツにはIS学園と、生徒会――『更識』の問題が絡む。お前が、生徒会役員じゃない一般生徒のお前が、そのことをオレから問い質せる権利があるのか?」

「更識の……問題……ですって……?」

 

 当然あるに決まっている。自分は他でも無い、更識簪なのだから。

 ……とは、口が裂けても、言えない。言ってはならない。

 一身上の都合で、更識のIS学園における拠点である生徒会に所属していない自分は、傍目から見ても、事実としても、更識の義務を放棄していると言っても過言ではないのだからだ。

 しかし部外者はお前も同じではないかと、簪の返しを予測していた姫燐は、制服につけた青いバッチを見せつける。

 それが何を意味しているか――知らない簪ではない。

 

「うそ……なんで、あなたが……お姉ちゃん達しか入れない生徒会に……」

「まぁ、色々あったんだが……その色々も含めて聞く。お前、この前の第三アリーナの件……なにも、知らないんだよな?」

「ば、馬鹿にしてるの。乱入してきたテロリストのISを、信じられないし信じたくないけど、あなたが自分の専用機を使って倒したんでしょ……!? 自慢話のつもり……!?」

 

昔の姫燐を知る簪にとっては信じがたい話ではあったが、彼女のクラスである一年四組でも、しばらく話題にならない日がなかったため、嫌でも耳に残ってしまった、この噂。

だが、それだけでは足りない。隠された真実がある事を、簪は知らない。

簪の震えた声色は、彼女は『隠す側』の人間ではなく、『隠される側』の人間であると、姫燐に確信させるには、充分な返答であった。

 

「……なるほど、分かった。詳しく聞きたいなら、かた姉の所に行け。オレからは、何も言えない」

 

 できれば、言いたくない。というのが、姫燐の本心ではあるが、まるで余所者を追い払うかのように冷たくあしらう彼女の言い草を、はいそうですかと聞き分けられるほど、簪は姫燐の事を認めてはいなかった。

 

――なによ……それ……。

 

 お姉ちゃんが認めていようと、虚さんが認めていようと、本音が認めていようと、簪は……血の繋がりが無くとも、自分を差し置いて、あの人に妹と認められている『ヒメちゃん』の事を――なにひとつとして、認めてはいなかった。

 

「……さい……」

「あ?」

「うるさい、うるさい、うるさいッ! あなたが……他人のあなたがっ……お姉ちゃんを気安く呼ばないでっ!!!」

 

 神経を掻き乱すヒステリーのまま、簪は姫燐を突き飛ばすと、右手を平たく構え、激情のままに振り被る。

 やはり遠慮の欠片すら感じられない一発が来る。

止めるにしても、避けるにしても、出がかりの今に行動するのが一番ではあったが、

 

――ああ、ビンタか。コイツを喰らうのも随分久しぶりだなぁ。

 

 と、姫燐は抵抗する素振りすら見せず、ただその軌道を冷めた視線で追い掛けたまま、遠くない未来に頬へと走るであろう鋭痛に身構えることを選択した。

 昔とは違い、この程度を止めてやるのは今となっては簡単であったが、そうすれば余計に話が抉れるのは目に見えていたからだ。

 一発ぶっ叩かせてやりゃ、少しは冷静さを取り戻すだろと姫燐はタカを括り、頭に血が昇りきった簪にも躊躇はない。

 言わば、両者合意の上で、つつがなく取り行われるはずであった暴力は、

 

「やめてっ! かんちゃん!!!」

 

 二人の間に、両手を広げて割り込んだ、乱入者の顔へと、いまさら誰も止められる筈もなく――

 

無人の廊下に、乾いた破裂音が、響いた。

 

「ぇ…………?」

「…………なっ」

 

 茫然。ただ、平手打ちの前に割って入り、当然の帰結として腕で殴打され、倒れ込んだ本音を、同じ何が起こったのか理解しきれないままの双眸で、二人が、見下ろす。

 そのまま、数秒が経過したか、しないか――現実に戻ってくるのは、微動だにしておらず、達観すら入っていた姫燐の方が圧倒的に早く、

 

「…………てめぇ」

 

 とうとう自分以外にも――よりにもよって、姫燐にとっても簪にとっても家族同然の本音に手を上げた簪に、どこか真剣味を欠いていた、簪へと向ける目が変貌する。

 それはまるで、抜き放たれた『刀』のように鋭く透き通る――見境のない憤怒よりも遥かに研ぎ澄まされた、的確な報復のみを目的とした……害意。

 

「なん……わたっ……本音……どうし……て……」

 

 加減はしてやるが、仕返しを覚悟して無いとは言わせない。

 動揺を隠そうともしない、無防備なみぞうち。

その一点に、姫燐の意識が集中していき――手が、拳を、

 

「とぉ~う♪」

「おぶぅ!?」

 

 作った刹那、のほほんとした掛け声と共に繰り出される腹部への顔面ダイブによって、姫燐の集中は雲散霧消とキャンセルされていった。

 

「こーらー、喧嘩はダメだよぉ。かんちゃん、ひめりん」

「いや……喧嘩って、お前……」

 

 先程までの落ち込みようが嘘のように、いつも通り過ぎるほどいつも通りな本音に、今度は姫燐が困惑を隠すことができず、

 

「むー、せーっかく久しぶりにみんな揃ったんだから、ケンカしないで一緒に、生徒会室でお菓子でも食べようよぉ。とーっても美味しいシフォンケーキ、貰っちゃんたんだぁ」

 

 未だ、自分がやってしまった事のショックから立ち直れていない簪にも、

 

「だから」

 

本音はのほほんと簪の手をとって、微笑みかけた。

 

「ほら……かんちゃんも、一緒に、ね?」

 

 まだ赤みが残る、その頬で。

誰よりも優しく。

何もかもを、許すように。

こんなにも尊い少女に手を上げてしまった人間の、無能さ、狭量さ、醜悪さを……暴きだすように。

 

「あぁ……うぁぁ……アアアアアアア!!!」

「あっ、待って!」

 

 限界点。

簪は錯乱したまま床に散乱した私物も放置し、居てはならない場所から、自分の罪科から逃げ出すように、何度も体勢を崩しながらも廊下の闇へと消えていく。

 

「お願い! 待って、行かないで、かんちゃん!」

 

 必死に呼びとめる本音の声も虚しく足音は一切止まらず遠ざかっていき――再び、廊下には静寂と、やんわりと浮かび始めた月明かりだけが戻ってくる。

 

――やっぱり、まだカンの奴……。

 

 自分と一夏を含め、『五人』しか居ないと言う生徒会の実情から、なんとなく察してはいたが、最近は自分の事で手一杯であったし、こちらから触れるのも憚られていた事であったため、姫燐は今まで簪の事には誰にも触れないようにしてきた。

が……こうして見せつけられてしまっては聞かない訳にもいかず、ならばせめて話題の切り口に有効活用させてもらおうと、姫燐は尋ねる。

 

「カン、まだ皆と上手くいってないのか」

「…………うん」

 

 姫燐に背を向け、走り去っていった廊下の虚空を見つめたまま、本音は頷く。

 

「ひめりんがウチに来れなくなった後もね、ずっとずっと……どうにかしなきゃって、おじょうさまも、お姉ちゃんも……わたしも思って、思ってるのに、ね……」

 

 自嘲が込められた沈黙。

 姫燐も、全ての事情を理解してる訳では無かったが、一年間更識と家族ぐるみの付き合いをしていて――更識簪という少女が抱える、鬱屈とした内面は知っていた。

 優秀すぎる姉。凡俗な自分。期待と優しさを際限なく与え続ける周囲。

 そこに、負担と負い目と不甲斐なさを感じるなと言う方が、酷な環境。

自己の意味を保つために、周囲を遠ざけ、猜疑を向けて、気付かないフリをして自分の殻に閉じこもる。

 姫燐が初めて出会った時から、簪はハッキリ言って、健やかで健全とは言い難い性格をしていたと、今改めて思う。

 

「努力は、今もしてんだろ?」

「そうなの、いっつも独りで、すっごい頑張ってる」

 

 そこも変わりないんだなと、姫燐は独りごちる。

 

「毎日すっごいすっごい頑張っててね……今は、日本の代表候補生なんだよ、かんちゃん」

「代表候補。スゲェじゃねぇか」

 

 そこは素直に、旧知の間柄の躍進に驚嘆する。

 いくら簪が日本国家とも関わりが深い『更識』とはいえ、家のコネだけでなれるようなモンでもないし、彼女の性格上、死んでもそれだけには頼らないだろうというのは、想像に難しくない。

 彼女の努力は本物と言っていいだろう。

 

「だけど、あの様子だと、出した成果も自分では納得できかねてます。って感じか」

「………………」

「既にロシア代表のかた姉には、遠く及ばないって」

 

 ただ、他ならぬ彼女自身が、それを否定してさえいなければ、の話ではあったが。

 

「ったく、四年前からめんどくささまでパワーアップしなくても良いだろうに……誰かが悪いって訳でもねぇのによ……」

 

 言いたいことも、言うべきことも、いくらでもある。

 だが、それで簪が口を、心を開くかと言われれば……姫燐には多分、違う気がした。

 

――他人のあなたが、お姉ちゃんを気安く呼ばないで!

 

 自分が楯無に『妹』と呼ばれるようになった瞬間から、この声は、どのような意味を持っていても、アイツの心に訴えかける力を失くしてしまっている。あの時の言葉で、それを姫燐は確信していたからだ。

 家族ではもう、彼女に巣食う孤独を抜いてやることが出来ないのであれば……、

 

「はぁ……どうしたもんかねぇ」

 

 これは確かに、優秀な姉達でも頭を抱えるわけだ。

 やれやれといった風体で姫燐は後頭部をかき――今は、どうにもできないことよりも気掛かりなことを優先する事にする。

 

「それよりも、さっきの大丈夫だったか?」

「あ……うん、大丈夫だよ。もう痛くないし」

「ほら、念のため見せてみろよ」

「いたっ……」

 

 口だけでは信用できないため、少し強引に手を握って振り向かせようとして――先刻、自分のせいで、まだ痛みが抜けきっていない個所に触れてしまい―――咄嗟に、姫燐は手を離した。

 

「……新聞部ではごめん、ほんちゃん」

 

 実際のところ、自分が簪のことをどうこういう資格など、ハナからありはしないことを思い知らされ、沈痛な趣きで姫燐は本音の背中から距離を取る。

 

「痛かったよな……?」

「うん……痛いよ」

 

 そっと、袖の上から本音は手首を握る。

 

「けれど、ひめりんは……どうなの?」

「オレが?」

 

 どう、と聞かれても、先程の一発は本音が庇ってくれたし、他に痛い思いなどした覚えがない。それに、本音の痛みに比べれば、自分の痛みなど些事たることだ。

 

「別にどこも怪我してねぇし、どうだっていいさ。そんな事よりも、お前の」

「どうだって良くないっ!!!」

 

 振り返る本音の瞳に溢れかえっていたのは、透明な、雫。

 

 ……我ながら、どうしてこう、鈍いのか。

 

 姫燐はようやく、ここに来てようやく、こんな姿が似合わない彼女に、ここまでさせてようやく、

 

「なんで……また、そんなこと言うの……?」

 

 本音はただ、最初から――学園でも、更識でも、ましてや平和でもない。

 

「ひめりんだって、痛いよね……? わたしや、みんなと同じように……痛いことをされたら、痛くないわけ……ないよぉ……」

 

 この身を。

この、朴月姫燐のことだけを案じ、いつもの自分を曲げてまで、怒りを露わにしていたことに気付いた。

 

「………………それは」

 

 第三アリーナの戦闘での傷も癒え、万全に等しい現状。痛覚は当然残っている。

 いや、こんな機械的な受け答えをしてしまえば、それこそ本格的に脳内外科への緊急入院を勧められかねない。

 とっさに答えられない姫燐の沈黙に、もはや歯止めが効かなくなった混迷が、雪崩のように本音の口から溢れだしていく。

 

「確かにひめりんは昔から……ずっとずっと、辛い事を抱え込んじゃう子だったけど……最近のひめりんはおかしい、おかしいよぉ……」

 

 際限なくこぼれ落ちていく涙と、嗚咽。

 

「なんで、ひめりんから傷つこうとするの……? 全部全部、自分が悪いってことにしちゃうの……? どうして、そんなにひめりん自身を大切にできないの……?」

「オレが、オレを……」

 

 どうして。どうして。どうして。

 捨て鉢になっているように、思われてしまっているのは、なぜ、と問われ――まったくの不意打ちであった脳裏を掠めるのは、

 

――キルスティン……隊長?

 

 ほかでもない朴月姫燐を、まるで……信用できていないから。

 無意識を意識するための自問自答が弾きだした答案に、姫燐は今すぐ花丸をつけて破り捨ててやりたい衝動に駆られた。

まったくもって、厚顔無恥の極みだ。

 己の能力を全く信じられない人間。

 己の存在自体を疑っている人間。

 そこにいったい、なんの違いがあったのか。

 

「そんなに……わたし、今のひめりんにとって……痛いって気持ちも、一緒に出来ないぐらい……本当のことも言ってもらえないぐらい……頼りないのかな……?」

 

 違う、それだけは絶対に違う。

 なのに、口は油が切れたようにロクに動かず、伝えなきゃいけないことを伝える役目を果たそうとしない。

 

「だから……だから、かんちゃんも……わたしを……わたしを……」

 

 ならば、今はどこまでも恥知らずを貫くべきなのだろう。

 どこまでも、どこまでも、今この瞬間だけは朴月姫燐であると、なんの根拠もなく信じて――

 

「いらな……ぃ」

 

 いつの間にか大きく体格差をつけていた、本音のか細い身体を、抱きしめる。

 

「ひめ……りん?」

「………………」

 

 まだ、唇は職務を放棄したまま。

 ならば仕方が無いと、朴月姫燐は彼女の名前だけをさえずりながら、それを続ける。

 

「ほんちゃん……」

「ひ、ひめりん……?」

 

 もっと強く、本音の身体を抱き寄せる。

 

「んっ……」

 

 互いの足が絡み、胸が押しつぶされ、熱い吐息が耳元をくすぐる。

 力だけの無作法な抱擁は、本音に少なからずの負担をかけたが、すぐに甘い痺れに飲まれて消えていった。

 これが恋人同士であろうものなら、口づけの一つでもしてやるのが一番手っ取り早く、狡賢い手法なのだろうが――オレとほんちゃんはそうじゃないと、姫燐はようやくマトモに動くようになってきた唇で、朴月姫燐の嘘偽らざる本心を尽くしていく。

 

「うん……やっぱり、ほんちゃんは柔らかくて、あったかい」

「ふぇ……?」

 

 密着した四肢から伝わる熱、感触、鼓動、いのちの証達。

 本音の全てを両手にかき抱きながらも、それよりも遥かに大きくて優しい、こころ。

 それら全てひっくるめ、彼女を独占できている――それだけで、今だけは、くだらないこと全てを忘れてしまえそうになる。

 幸せだ。これを幸せと言わずして、なんと呼ぶのだろう。

 

「オレさ、ほんちゃんが好きだ」

 

 姫燐は、のほほんと皆がほっ、と一息つけるような、止まり木のような安らぎを皆に与えられるこの少女のことが、間違いなく好きであり、

 

「だから、オレにはほんちゃんが居ないと困るし、必要だし、いつだって、笑顔でいて欲しいんだ」

 

 思わず、そんなエゴを押しつけてしまいそうになり――実際、押しつけてしまったのは、不徳の到りだったが。

 

「でも……オレ、今はこんなんだからさ……またほんちゃんに、気付かない内にたくさん心配させちまったよな」

 

 本音の首がうなずく。

 

「もう心配すんな……って、言えたら、楽なんだけどな」

 

 恥に恥を重ねても、流石に出来もしないマニフェストを掲げるほど無恥には成れない。

 だから別の、少しだけ譲歩した約束を、ここに誓おう。

 

「でもさ……代わりに約束しないか。これからは、変な遠慮だけは無しにしようぜ」

「遠慮……?」

「ああ、お互いにな」

「な、何の事かな……ひめりん?」

 

 ちょっとだけ、意地悪げな饒舌で、姫燐は指摘してやった。

 

「おまえ、身内以外が居るとオレの呼び方を『きりりー』って変えてるだろ? 律義にひめりんじゃなくて」

「あ、あははー……」

「アレも、オレのためにやってくれてたんだよな」

 

 これは頭が正常に回っていた時に、既に察していたことであった。

 彼女はあの日――自分と幼馴染であることは、周囲に黙っていてくれと頼んだあの日から、ずっとこのルールを自分に貸し、護り続けていてくれたのだ。

 

「今までありがとうな、ほんちゃん」

「あっ……」

 

 本音の頭を、最大限の感謝と共に、優しく撫でる。

 

「でもさ、今後はそういうの、無しにしないか」

「それで、ひめりんは……いいの?」

「ああ、それでいい」

 

 多少――いや、多分にクラスで半永久的にネタにされるのは目に見えてるが、今は、自分と過去を確かに結び付けてくれる、それが良いし、

 

「オレも、今度からずっと、皆の前でも本音じゃなくて、ほんちゃんって呼ぶよ」

「ひめりん……」

「何もかもがって訳にはいかないけどさ……少しずつで良いから昔みたいに、言いたい事を言い合おう。笑いたい事を笑い合おう。怒りたい事を、怒り合おう」

 

「それがきっと……家族って奴だと思うからさ」

 

 ああ、きっと、それが出来ていれば、オレ達なら……これから、なにがあっても大丈夫だから。

 

「うん……うん」

 

 姫燐の約束を受けて、いっぱい、いっぱい本音には言いたい事があった。

 もう無理しないで。わたし達を頼って。ずっと一緒に居て。

 たくさんの言葉が胸の奥から溢れだしてくる。

 だが……今はあえて黙っておこう。

 いま、胸の内を余さず開いてしまったら、

 

――でもね、ひめりん。

 

 彼女をきっと、

 

――わたしが、きりりーって呼んでた理由、それだけじゃないんだよ……?

 

とてもとても、困らせてしまうだろうから。

 

 

                 ○●○

 

 

 色んな事があって大分遅れてしまったが、姫燐と本音は生徒会室への帰路を歩いていた。

 新聞部にもう一度足を運んで頭を下げ、そこに置き忘れていたお土産のシフォンケーキを手に、もう片方の手には柔らかい本音の手を握って。

 初仕事の収穫は、これ以上に無いほど充分。

あとは――あの事を含めた――報告だけだ。

 

「ねぇねぇ、ひめりん」

「ん、どした、ほんちゃん」

「ううん、呼んでみただけぇ」

 

 なんじゃそりゃと姫燐が笑う。釣られて、本音ものほほんと笑顔を浮かべる。

 

「さって、新聞部はかた姉達に任せるとしてだ。オレ達は、カンの事でも考えとくか」

「そうだねぇ」

 

 そこまで真面目に議論するつもりではなかったが、まだ生徒会室までは少々距離がある。

 いずれは本格的に解決しないといけない問題だとしても、話題のタネに使ってはダメという道理はない。

 

「うーん、うーん。ひめりんみたいに、ぎゅーってすれば、かんちゃんも素直になってくれるかなぁ?」

「おっ、案外悪くねぇかもな。ただ、アイツ割と凶暴だしなぁ。本来はオレじゃなくて、ああいう奴にこそ首輪がひつよ……」

「どうしたの?」

 

 ふと、押し黙った姫燐の顔を、本音が不安げに覗く。

 

「あ、いや、なんでもねぇ……は、言わない約束だな」

 

 と、訂正を加え、どこか安堵したような力の抜けようで、目を閉じた。

 

「初めてほんちゃんと話したことも、確かカンの事だったよなって思ってさ」

「うん……! 覚えてて、くれたんだぁ」

 

 荘厳で広大な和風建築であった、更識の実家。

 そんな中に、ひょっこりと現れた、可愛らしいドレスのお姫様。

 始めは本音をしても、我が目を疑ったものであった。

 

「あれ? だけど、なんでカンの事になったんだっけ……?」

「ふふふ、それはねぇ~」

 

――あれ? どうしたの? どこか痛いの?

 

 その光景を、今でも本音は、ハッキリと思いだせる。

 簪に何もしてやれない自分の無力さに愛想を尽かし、部屋の隅で膝を抱えていた時――あの子は、気が付けば目の前に立っていたのだ。

 暗い暗い、ただ見えない底に引きずられるがままだった自分の前に、眩いばかりの光を、背に受けて。

 初対面だというのに、状況も良く分かっていない相手に、いま思えばただ胸の内を吐き出したくて無体な相談をしたけれど、あの子はにっこりと笑って、手を引いてくれたのだ。

 

――だったら、ヒメも一緒に、そのかんちゃんって子と仲良しになるっ!

 

 無理だよ。何度も頑張ったけど、無理だったの。

 諦めかけていた自分は、あの子を同じ底へ引きずりこむような言葉で否定したけれど、

 

――トライ&エラーだよ! パパがいつも言ってるの。

 

 ほの暗い泥など、まったく気にしないと言わんばかりの無敵の笑顔で、

 

――目標が見えてるなら、百回の失敗は笑って誤魔化していいの。

 

 わたしの手を、いまと同じように取って、

 

――気にせずに、また百一回目へと走りだせば、絶対に成功が待ってるんだって!

 

 その通りに、縁側を走りだしたんだ。

 

――だから、一緒にいこっ! ほんねちゃん!

 

 あの子の足取りは、大人やおじょうさま、お姉ちゃん達と違って、酷く不安定で危うく、ドレスの裾を今にも踏んでしまいそうだったけれど、どんなお菓子よりも本当に眩く、輝いていて、自然に、思っていたのだ。

 

 きっと、更識のご先祖様が、『誰か』に刻まれたように。

理由理屈なんて超越して、わたしも、この子を守りたいと、心に刻まれてしまったのだ。

 わたしの使命は、色褪せずまだ――いや、もっと鮮やかで強い想いになったまま、永遠に消えないのだろう。やがて来る、全ては望み通りにならない結末が来る日まで。

 それでも、いい。

 

「それは、なんだよ?」

「ふっふっふ~、内緒だよぉ~♪」

「はぁ!? 今更それはねぇだろ!?」

 

 ないしょのまま。多分、一生ないしょのまま。

 更識の使命のように、誰にも知られないように、ないしょのまま。

 

――ほんとうに大好きだよ。わたしだけの、ひめりん。

 

 本音は微笑みながら、姫燐の手を離して、彼女の一歩前へと、駆け出して行った。

 

 

                 ○●○

 

 

「ようやく戻って来れたなぁ……あー、疲れた」

「お疲れだねぇ~」

 

 数時間前と同じように、姫燐と本音は、ようやく目的地である生徒会室の前へと帰って来れていた。

 いや、正確には同じでは無く、一夏は室内に残ったままだ。

 

「そいや、一夏の奴は何だっけ、会計手伝えって言われてたっけ」

「うん、そうだよぉ。おりむーも頑張ってるかなぁ~」

 

 苦笑しながら、姫燐は一夏の処理能力を案じた。

 流石にもう終わってるとは思うが、あいつの頭なら、きっと今頃頭から本当に煙が出始めているだろう。

 口からエクトプラズムを吐き出しながら、次からは自分と仕事を変わって欲しいと懇願する一夏の姿を期待し、姫燐は扉にバッチをかざして、扉を開き――

 

「虚さん。先月度の整備科の追加機材申請の奴、終わりました」

「ごくろうさま、織斑くん。ごめんなさいね、また溜まってた帳簿なんだけれど」

「はい、次は……生徒会の費用運用に関してですね」

「ええ、お願いできるかしら。織斑くん」

「了解です、虚さん」

 

 姫燐の視界に飛び込んできたのは、口元を凛と引き締めながら、電卓を片手で弾き、ボールペンを一切迷いのない手つきで帳簿に滑らせる、予想とはまるで結びつかないワークマンと、それに秘書のように付き従う虚の姿。

 

「は、は~い、お帰りなさいヒメちゃん。本音ちゃん」

 

 そして、どこか場違いさを感じ、所在なさげに会長席へと座っているだけの楯無の姿であった。

 一夏達も、楯無の声で姫燐達が帰ってきた事を気付いたように、視線を帳簿から外し、

 

「あ、おかえりキリ。視察の方は無事に終わったのか?」

「あ、ああ……概ね」

「本音、ヒメちゃんと上手くやれた?」

「う、うん。お姉ちゃん」

 

 そうか。そう。と形式上の返事を済ませ、再び一夏と虚は会計作業へと没頭していく。

 あまりに予想外すぎた――本音にとってもそうであったのか――光景に、入口で茫然と突っ立ったままの二人に、楯無が仲間を見つけた羊のようにそそくさと駆け寄っていった。

 

「あのね……その、言いたい事は分かるわ。一夏くんの適性は、この更識楯無の目をもってしても見抜けなかったし」

「……どこに頭をぶつけたんだ、一夏の奴。パソコン?」

「そうじゃないのよ……」

 

 もし妨害すれば、ペン先が自分に飛んで来そうと思えるほどの迫力で作業する二人を邪魔しない様に、楯無は出来る限りの小声であらましを説明し始めた。

 

「その、ね。私達が一夏くんに、会計をお願いしたのは聞いてたわよね?」

「うん、まぁ」

 

 実際、部屋に入る前に本音と確認しあっていたので、そこは特に齟齬はない。

 

「本当はいま、虚がやっているみたいな雑務の方をやってもらうつもりだったんだけれど……」

 

――あ、俺。そういうのならやれますよ。

 

 と、一夏があっけらかんに言ってのけたのが、事の発端だった。

 

「なんでも……織斑先生がこういう、家計のやり繰りとか、資産の管理とかが、その……ちょっと、得意じゃ無かったらしいのよ」

 

 なんでも……の後に周囲を念入りに確認し、だいぶ言葉を選んでいたように見えた楯無が続ける。

 

「ほら、一夏くんって、親族が織斑先生しかいらっしゃらないじゃない? だから、一夏くんが今まで、そういうのを全部、子供の頃からまるっと引き受けてたらしくて……」

「ああ、なった……のか」

 

 改めて三人で、姿勢よく机に向かい、涼しい顔で電卓とペンを、まるで指揮者のように、一切の淀みなく振るい続ける一夏を見やった。

 確かにその姿は、一朝一夕では到底身につかないような熟達を嫌でも感じさせ、普段の頼りなさがまるでフェイクにすら思えるほど洗礼されきった、無駄とそつのなさだ。

 今すぐIS学園の制服ではなく、代わりにビジネススーツと伊達眼鏡でも着せてやれば、大企業に勤める若き敏腕商社マンと言い切ってやっても、見抜ける人間はそうはいないだろう。

 

「わ、私だって手伝おうとしたんだけど……私より早いって虚が」

「楯無さん」

「は、はいっ!? な、なにかしら一夏くん」

 

 急に声をかけられ、背中を刺されたような心地で、動揺を隠せない返事を楯無は返してしまうが、当の一夏はまるで関心を示さず要件を告げる。

 

「このT会費とか、I会費って書いてあるのは何ですか?」

「あ、いや、それは、そのー……」

「ああ、それは会長が勝手につけた隠語よ織斑くん」

「う、虚っ!?」

 

 一瞥だけした虚の目が、にこやかな曲線で「とうとう年貢の納め時ですね」とだけ告げ、

 

「T会費は『緑茶葉費』、I会費は『あんらく堂期間限定、絶品芋ようかん費』の略なの」

「なるほど」

 

 一夏もまた、春風のようにさわやかな笑顔で応じる。

 

「い、一夏くん? あなたは何か誤解しているわ。これは更識が、この学園で潤滑かつ豊かな活動をするために必要不可欠な会費で、そう、これはきわめて政治的に重要な」

「全カットし、消耗品の所に纏めておきますね」

「ナイスよ、織斑くん」

「いーやぁぁぁぁ!!!」

「す、すげぇ……あのかた姉に、膝をつかせやがった……」

 

 学園最強――ここに、陥落す。

 

「う、虚ぉ! 貴方なら私の懐事情、知ってるでしょう!?」

「はい、重々承知しておりますよ。たとえ頭首であろうとも学生であるうちは、財産を私用で浪費することは一切認めず、更識ならば限られた資源であろうと最大限最効率の運用をしてみせよ――前頭首の大変ありがたいお言葉です」

「だからって、いまどき華をトキメク女子高生が、月一のお小遣いだけでやっていけると思う!?」

「今までは黙認していましたが、それが会費着服の言い訳になるとお思いですか。更に言わせて頂ければ、私はやっていけております。実によい機会ですのでいい加減、毎月欠かさず購読している雑誌類を少々減らしてみては」

「わ、私から、恋野きらめき先生や、ブリリアント麗子先生まで奪おうというの!? 次号はとうとう切子ちゃんが誰に告白したか分かるっていうのに!?」

「あーあーきこえなーい……オレは何もきいてなーい見ていなーい……」

 

 完全無欠と芳信する姉の、もうなんというか、見なかったことにした方が互いの明日のために素晴らしい光景に、耳も心も姫燐は完璧に塞ぎ、

 

「あ、のほほんさん。このお菓子費って言う奴、これも全部、今後は消耗品から落すことになるから領収書、ちゃんと作ってくれるか。当然、無くなったらその月、他の消耗品は買えなくなるし、お菓子は自費になるから、そのつもりで食べてくれよ」

「え、ええーーーーっ!!?」

 

 まるで情け容赦ない構造改革の嵐は、のほほんとした腐敗も容易く飲み込んでいった。

 IS学園生徒会――そのあんまり長くない歴史に打ち込まれていた楔は、確実に不正の根を焼きつくし、あるべき姿を取り戻そうとしていたのだった。

 彼が打ち出した改革が、後世の評論家たちにどう映るのか――は、姫燐にとってハイパーどうでもいいことだったが、

 

――それは、それとして、だ……。

 

 アイツとは一回、改めて腹を割って話さないといけない。

 楯無と本音に足元へ縋られようとも、一向に仕事をする手を止めない一夏から、本当の聞きだしてやると、姫燐は改めて決意するのであった。

 

 

                    ○●○

 

 

 閉鎖されて久しい第三アリーナは、これからが暑さの本番である六月だというのに、苔むすほどの冷たさと、静寂さに満たされていた。

 侵入者達のテロリズムを許した場所であるから――だけが閉鎖の理由では無く、単純に競技アリーナとしての役割を果たすのに、不十分なほど破損が激しいことが主だった原因だ。

 割れた天井のバリア。数多の焼け跡。金属に抉られた壁。

 大なり小なりあれど、どれもが未だ応急的な処置のみで、手つかずのまま放置されている。

 他にもIS学園には似たようなアリーナがいくつもあり、第三アリーナが使用不能でも行事には一切の不都合が無かったこともあるが、一番の訳はやはり、アリーナのど真ん中にポッカリと空いた大穴であった。

 これは二人目の乱入者達が、海中からドリルのようなポッドで侵入してきた痕跡であり、孤島の上に建てられたIS学園ならではの盲点と言えた穴だ。

 塞ぐにしても大規模な工事が必要になるため放置されてはいるが、今後はセキリュティの見直しによって、海中からの接敵にも対応できるよう、設備やシステムを再構築していく予定である。

 ……そう、これから、そうする『予定』なのだ。

 

「…………………っと」

 

 大穴から、ダイバースーツと一式の装備を纏った小さな影が、這い出てくる。

 影は慣れた手つきで装備一式を脱ぐと穴の中へと投げ捨て、あらかじめ持っていた耐水バッグへと入っていた別の装備へと着替え始めた。

 下着を変え、インナーを着こみ、スカートを履いて、最後に純白のブレザーを羽織る。

 最後に、荷物から小さな鏡片を取りだし、自分の姿を改めて観察。

 目立つだけの薄桃色の毛、無駄に白いだけの肌、ガキみたいな身体つき。

 そして、小さなチョーカー……待機状態の、IS『ハイロゥ・カゲロウ』。

 

「問題。なし」

 

 IS学園の小奇麗な制服に袖を通している以外は、実にいつも通りのトーチ・セプリティスの姿であった。

 鏡片とバッグも同じように奈落へと投げ捨てると、一息。トーチは懐から、端末に保存した一枚の写真データを、立体表示モードで開いた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 最後に三人で撮った写真。

 映っているのは、自分と、青髪をした写真からでもやかましい相棒。

 そして、最後に、下手クソな笑顔を浮かべてくれた、もう一人。

 

「キルスティン、隊長」

 

 死んだと聞かされていた、誰よりも尊敬すべき、敬愛すべき、崇拝すべき、我等の隊長。

 玉砕するつもりで襲撃したあの日、自分達に立ちふさがった敵であろうとも、多少容姿が変わっていようとも、二人してその姿を見間違えるはずがない。

 あれから誰かがIS学園から退学処分を受けたとの報告はない。

 ならば、絶対にここにいる。私達の全てはここにいるのだ。

 それが例え、予想すらつかないような形だとしても……。

 

「絶対。……確かめる」

 

 自分だけの任務をトーチは胸に刻み込み、最低限しか設置されていないセキリュティを当たり前のようにすり抜け、IS学園内部へと、侵入を果たした。

 




 これを書き終った記念に単発ガチャったら、のほほんさんの☆5シーンが出てきっと大丈夫だと思ったので、今回は新党のほほんの皆さまからは逃げません。
 だけどかんちゃんファンからは逃げます。

 挿絵はいかがでしたでしょうか。
 ちょっと工夫を凝らして、以前姫燐を作ったツールで、オリジナルな3人の外見を作ってみました。え、なにそれ知らないってお方は、過去の自分の活動報告「出来ちゃった(はぁと)」をご覧ください。
 これで次回からは外見描写を軽くしても大丈夫だなっ!
 反響次第でまたやるかもです。


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第33話「Human Torch Seeker」

 この日のIS学園は、実に休日に相応しい快晴だった。

 陽はまだ頂点を通り過ぎていないが、規則正しい生活を送る学生達にとっては、まさに活動日和と言わんばかりに、思い思いの時間を過ごしている。

 休日らしく鋭気を養う者。自己鍛錬を続ける者。友人と青春を謳歌しに出掛ける者。愛機のメンテナンスに明け暮れる者。部活動に精をだす者。

 それぞれが、それぞれ。平和で穏やかな時の中で、世界を彩るピースであり続けている。

 

――はぁ…………。

 

 だが、そんな平穏において、桃色の髪を揺らし、表面上は限りなくリラックスして――実際は臨戦態勢をとりながら――心の中で溜め息をつき、歩道を歩く少女が、独り。

 どうにも気分が優れない。

 先程から幾度も自分とすれ違って行く、人、人、人の群れ。それらが、一様に朗らかな笑顔を浮かべ、通り過ぎる自分を一瞥すらしようとしないからだ。

 

――まさか。ここまで無警戒とは。

 

 産まれた土地とは違う水を飲むと体調を崩すことがあるように、少女――IS学園に潜入を試みている不法侵入者――トーチは、まさにこのたわみ切った空気がどうにも耐えがたかったのだ。

 昨晩、第三アリーナから侵入を果たし、セキリュティを『炙って』安全地帯を確保し待機。その後、日が昇り、生徒達が活動を開始したのを見計らってトーチは一般生徒として学園に紛れ込んだのだが……、

 

――不審。泳がされてる……?

 

 仮にもISを多数所有している施設とは思えないほど、誰も彼もが警戒の欠片すら見せず、能天気が服を着て歩いているような有様が、どうにもトーチの平静を掻き乱して行くのだ。

 当然、不法侵入をしている身からすれば、有難いことには違いない。

 この程度のことで表情や態度に出るほど素人ではないし、この身もISも、こういった潜入工作に特化している。

 しかし、それでも、この緩やかに流れていくだけの時間が、彼女が生きてきた時間と等価値であるとはどうしても思えなかったし、認められなかった。

 ここには――火が、ない。

 

――放火。してやろうかな。

 

 目についた、真っ直ぐに伸びる小奇麗な施設の壁に手を当て、愚考する。

 そうすれば――無論、目的からすれば論外なのだが――少しはこの甘ったるく腐った臭いも、故郷に近い、嗅ぎ慣れた空気に変わるだろう。

 

――失笑。何を、いまさら。

 

 トーチは、濁りきった双眸で壁を――瞳の奥に仕舞いこんだ、自らの過去を、見つめる。

 トーチと名乗る前の彼女が生まれた場所は、どこぞの研究機関の失敗作である相棒の出自と比べれば、実に平凡だった。

 この青く美しい地球上に、いくらでも存在する実に平凡な――紛争地帯が、生まれだ。

 限りなく横たわるのは、砂と、瓦礫と、炎。

 生物学上、居たのであろう両親の顔より、それらの方がよほど鮮烈に思い出せる。

 学校と呼べた場所は全て土台を残して消え去ったか、どっちかの軍の拠点になって久しかったため、教育なんて高等なモノは受けた覚えが無い。

 だから、一体どうして、何処のどいつが、何のために、あの紛争を始めたのかだなんてトーチにとっては今も分からないし、同じように興味も無かった。

 ただ、そうしなければ生きていけないから、忍び、盗み、奪う。

小柄なトーチの役目は、主に忍びこむ事と盗み出す事であったが……今にして思えばこの頃から、これらに関してだけは天賦の才と呼べるものがあったのが、自分の幸運と、そして、

 

――運命。私の、なんて、言うのだろうか。

 

 灰と、煙と、焼死体だけを残して、なにも残らず焼け落ちた集落の、唯一の生き残りになれたのも、別の場所へと盗みに入っていたからであったし、仲間達の復讐なんてことを実行に移し、軍人たちがひしめくキャンプに潜入できたのも、この才能があったからこそ。

 自分の集落であった場所で何かをチェックしていた軍人の隙を突き、バギーの裏に張り付き、入り込んだ施設で、トーチはいくつかの真実を知る。

 

 新兵器。テスト。第三世代。成果。上々。

 

 最奥の一室で行われていた、一応は自分達の味方側だと公言していた方の野戦服と、人種すら見慣れない白人で上物のスーツを着た男の会話。

 それを天井から眺めていた当時のトーチでは、節々に聞こえてきた単語しか理解できなかったが……只一つの真実は、次の瞬間、理解できた。

 軍人が嗤う。スーツが嗤う。せせら嗤いながらスーツは軍人に、見たこともないようなケースから金を――それも、途方もない大金を、渡したのだ。

 

――なんだ。コレは。

 

 子供であろうと、コレの価値は分かる。

 コレを奪うために、コレと交換するために、少女は幾つもの修羅場を潜ってきたのだ。

 だが、コレはいつだって、既に持っている人間から奪うモノだった。

 故郷にはコレが絶望的に不足しており、奪った端から蜃気楼のように消えていく。

 あそこには、奪うモノなど何もなかった筈だと――今にして思えば、随分と可愛い事を考えていたなと、トーチも嗤う。

 

 誰であろうとも、どれほど貧しかろうとも、生きている限りは奪えるモノが、たった一つは必ずあることぐらい、知らない訳ではあるまいに。

 

 無学ではあるが聡い少女が、この真実に気付くのに、時間はかからなかった。

 ふざけている。狂っている。腐っている。

 まさか、自分の家は、仲間は、命は……コイツらに誰の合意も得ずに買い叩かれ、そして惨たらしく奪われたというのか――?

 

――あ……ぁ、あああアアアアアァァァ!!!

 

 喉から血が吹き絞られるほどの、絶叫。

 これが潜入で犯した、初めての失敗。

 ただ忍び込むことが得意なだけの少女が、軍事施設の奥深くで、反抗も、逃走の手段もなく発見される。

 この瞬間、間違いなくトーチと名乗る前の自分が死ぬ事は――避けようもない未来となった。

 

――運命。ああ、だから、これは運命だ。

 

 逃げる、逃げる、逃げる。

 大人たちが通れない、あらゆるルートを駆使して逃走。

 銃弾が頬を掠める。怒声が肌を揺らす。殺意が心を突きぬける。

 もはやどう足掻いても死から逃れられない少女が、無様であろうがなんであろうが逃げまどう。

 しかし、どれだけ腐っていようが、相手は軍人だ。

人を追い詰め殺すことに、少女の何倍もの時間を費やしてきた連中だ。

 慣れぬ標的であろうとも、つぶさに逃走ルートを割りだし、出口を塞ぎ、袋小路へと追い込んでいくのは、造作もないことである。

 そして同様に、すばしっこく逃げ回る鼠の右足首を、拳銃で撃ち抜くことも、また。

 どれほど少女が非凡な才能を持っていたとしても、逃げるための足を損傷すれば、宝の持ち腐れに過ぎない。

 すぐさま撃ち抜いた男の通信機から朗報は基地全体へと広がり、切迫したチェイスは瞬く間に、加虐のみを目的としたハンティングへと様変わりを果たした。

 明らかに緩やかになったが、しかし止まる事だけはない死神の手を振り払うように、少女は一歩進むごとに激痛を発する足首を引きずり、進む。

 満足な医療施設が存在せず、あったとしても利用するための金もない足は、じきに二度と動かなくなるだろう。

 それでも、滅びゆく定めの瞳から、意思の光が潰えることだけはなかった。

 なぜならば、

 

――ちがう。こんな筈じゃない。

 

 宿しているのは、否定。

 

――こんなのは、認めてやらない。

 

 宿しているのは、反骨。

 

――金と引き換えにされるために、私は今日まで生きてきた訳じゃない。

 

 まだ、少女は、死んでいない。

 

――お前らだけには、くれてやらない。

 

 殺される訳にはいかない理由に、このくそったれな世界に産まれた意味に、

 

――私を引き換えにしていい存在ぐらい、私が、私が決めてやる……絶対にッ!

 

 しがみ続ける限り、少女に立ち止まると言う選択肢はありはしなかった。

 烙印のような誓いが身命に刻まれた瞬間……いつの間にか逃げ込んでいた一室に置かれていた、『それ』は、光を放った。

 初めに過った推察は……光っているから、神。

 いや、違う。大人たちが信仰する神は、誰にも救いは与えず、決して姿も見せずに、殺し合うための武器だけを与え続けている。

 次に過ったのは……翼があるから、鳥。

 これも、違う。鳥に人のような手足はない。そして何よりも、金属で出来ていない。

 最後に過ったのは……金属だから、兵器。

 やはり、違う。兵器なら産まれてこの方、何度も何度も見てきたが、あれは決して――人間を体内へと招くように、呼びはしないのだ。

 

――呼んでいる……そう、これは、誰かを呼んでいる。

 

 改めて見てみれば、腕は脚にまで届くぐらい長大という異形であり、鋼の肌には真新しい泥と、煤と、血がこびり付いていた。

 ごく最近、数多の骸を築き上げてきたのは疑いようもなく、まさしく悪鬼の形相と言って、差支えない。

 まさかと、少女が察した可能性。

 ならば、どれほど躊躇おうとも……自分はこの痕に触れなくてはならない。認めなくてはならない。

 これが一体、『何であるのか』を知るために――少女は、肌に触れ、

 

――……ああ、お前は、そうなんだ。

 

 少女は、その瞬間、今度こそ完全なる死を迎えた。

 

――お前、殺したな。

 

 フラッシュバックのように浮かぶ、蹂躙。

 見知った顔が、勝手知ったる集落が、自分を産んだ人間が、全て『こいつ』の腕から吐き出される灼熱に飲まれ、燃え落ちていく。

 

――みんな、燃やしたんだな。

 

 続いて浮かびあがってくるのは、計画。

 こいつは第三世代。対軽歩兵、もしくは対民間を想定して開発されたプロジェクト。

 テストとして他の場所でも、何度も、何度も、何度も、何秒で非武装の人間を沈黙させられるかを計測させられた。

 

――だから、お前は……望むんだな。

 

 そして、最後に浮かびあがったのは願いだ。

 こいつは願っている。

心の底から、縋るように、泣き喚くように、他の誰でも無い私に懇願しているのだ。

 

 

――もっと、もっと……さらに大勢の人間を、殺させろと。

 

 

 下衆だ。愚劣だ。悪魔だ。

 こいつは神以下であり鳥以下であり兵器以下の存在だ。

 疑いようもなく、だからこそ――運命なのだ。

 奇しくもその望みは、少女だったモノがやらなくてはならない事と、奇跡的に合致していたのだから。

 

――……了解。お前は、これから私になる。

 

 瞬間、穢れた装甲から一際強く、眩く、祝福のように放たれた光は、大口を空けた獣のように新たな主を一瞬で飲みこみ、

 

――そして、私はこれから……お前になる。

 

 彼女は、自分が産まれた世界を、誰が作り出したのかは知らない。

 だが、終わらせるのは、彼女達であった。

 

 施設を、機材を、兵器を、人を、金を、燃やす。

 少女を抑えつけていた全てを、超常の機身と化した『二人』が焼きつくす。

 いくつもの命をこの国で奪ってきた銃砲火器が自分達に向けられても、浮かび上がるのは冷笑。防御の必要すらなく、少し炙ってやれば仕手ごと銃は溶け落ちる。

 これはまさに、子供の火遊びであった。

 戯れれば戯れるほど、次から次へと、遊び甲斐がある連中が飛び出してくる。

 軍団、迫撃砲、装甲車、戦車、戦闘機――燃やしていい奴等が、自分から火に釣られる虫のように飛びこんでくる。

 今まで出来なかったのが不思議でならないほど、当然の飛翔と共に、燃やし、溶かし、炙り、焦がし、堕とす。

 気付けば、遊んでいた連中の軍服や装備のデザインが変わっており、それは施設の連中が対敵していた、もう片方の軍隊のモノだと彼女達は察したが、些事は無し。

 同様に、雁首そろえて灰にする。それだけだった。

 

――はっ、アハハ、ハハハハハハハハハッ!

 

 いつまでそうしていたのか、いつまでもそうして居たかったのか。

 何もかもを燃やし尽くした果てにあったのは、当然のように、砂と、瓦礫と、墓標のように昇る黒煙。

 それだけが残った。それだけの――誰にも脅かされずに、銃声もなくただ静かで、奪う必要も奪われるモノもない世界。

 

 少女だった存在が、考えうる限りの楽園が、ここにはあった。

 

 だから、もう彼女達の片割れには、動く理由が無かった。

 さらに、もう片方も、動くだけの力が残されていなかった。

 ならば……良し。

 あとは、ここまま、急速に重みを増していく目蓋が閉じるままに、眠らせて欲しい。

 しかし、多くの命を踏みにじってきた代償は、彼女達にそんな安穏な終わりを、許してはくれなかった。

 

――見事な継戦能力と、ステルス能力だ。ここまで発見に手間取るとはな。

 

 閉じかけていた目蓋が開くと、二人ぼっちだった、砂と、瓦礫と、炎の楽園に、その存在は居た。

 鋼鉄の四肢に、鉄の仮面、黒金の翼を持った、人のような何か。

 神か、鳥か、兵器か。やはりまた、片割れは判断が付かなかったが、もう片方の彼女は瞬時にそれが自分と同じモノであることに気付き――恐怖した。

 何もかもを破壊した。粉砕した。蹂躙した。しかし、これは、これだけは無理だ。

 自分より弱い奴を相手にすることしか想定していないこの身では、同類を破壊する事を想定しているコイツだけには絶対に勝てないのだと、本能的な警鐘が心臓を打つ。

 

――三日三晩、暴れまわった割に、まだ怯える元気がある、か。

 

 先制。動物反射的に、今までそうしてきたように、彼女達は左腕を上げる。

 吹き上がる業火は、例え見たこともないような存在ですら、同様に焼き焦がす――

 

――遅い。

 

 はず、だった。

 もはや神速。一つになってから劇的に良くなっていた筈の『目』でも、黒い機影を捉えることは敵わず、懐に潜られみぞうちに何かを叩きつけられる。

 人体の急所であろうとも、戦車の主砲すら弾いてみせた自分達にとって、この程度のダメージなど些細……と、繋がっていた彼女達の意識は、腹に撃ちこまれた何かから全身に奔る稲光に、文字通り焼き切られることになる。

 

――剥離剤(リムーバー)……思ったよりは、使えるようだな。

 

 全身に奔る激痛、痺れ、繋がっていたモノ全てが断裂されていく感覚。

 あれほどまでに一つであった半身は、いとも簡単に片割れを吐き出し、呼びもしなければ動きもしない、ただの鉄塊と化した。

 

――標的の完全沈黙を確認。任務、完了。

 

 うつ伏せになったままの耳で、彼女は冷たく呟く声と、妙に小うるさい、見境なくはしゃぐ子犬のような歓声を聞いた。

 

――お見事です、隊長ッ! 鮮やかなお手並み、このリューン伍長、感服仕りましたッ!

――ほざけ、動きからしてやはりこいつは正規のパイロットではなく、ド素人だ。それに、おれ達は軍属じゃない、階級はもう捨てろ。

――Ja!(了解ッ!)

 

 何かを喋っているが、アレから剥がされると同時に、無意識に理解できていた言葉が急に分からなくなった彼女にとっては、ノイズとさして変わらない。

 

――それよりも、こんなド素人の発見になぜここまで手間取ったのか。分かるか。

――いえ、さっぱり!

――……データはお前にも見せた筈だがな。こいつは民間人を虐殺するためだけの第三世代だ。目視以外で観測できない程の完璧なステルス装置など、どこの会社も開発に成功したとは聞いていない。嫌でも目立つ火炎放射機なんて物を使うコイツの設計思想とも、大きく外れる。

――となると。これは、どこぞが『開発した』のではなく、『生まれた』と考えるべきかとッ!

――そうだ。データと外見の差異といい、こいつは間違いなく、この圧倒的短期間に第2形態まで移行し、ワンオフ・アビリティーまで発現させている。前例は間違いなく無いだろう。

――ではっ!

――ああ、決めた。

 

 会話がようやく終わったのか、鉄仮面がこちらを見下すように、耳元に足をつける。

 どうやらアレは傷を塞ぐ役目も果たしていたのか、右足首からとめどなく自分が流れ落ちていく感覚しか、もはやロクに感知できない。

 怖気と不快感にまみれた余命だったが、それも長くは続かないだろう。なにより、自分を倒した存在が、存命を許さない。

 しかし、彼女は忘れていたのだ。

 常にこの世は、自分の拙い予測など、いとも簡単に越えていく事を。

 次の瞬間、小さな身体を襲ったのは、鋼鉄の腕から振るわれる死ではなく、

 

――予定変更だ。これからお前達の全ては、おれのモノだ。

 

 機鋼を解いた内に秘められていた、柔らかで暖かい、人肌の抱擁であった。

 ここで終わっていれば、少女の人生は静かに、穏やかに、消し炭のようにあっけなく終わっていたのだろう。

 だが、そうはならなかった。

 運命は、彼女をこんな安穏の中で終わらせはしなかった。

 次に目を覚ました瞬間から少女は、新たな名前を与えられ、様々なことを――特に、自らの半身がISと呼ばれる比類なき兵器であることを――知り、任務を与えられ、矮小な盗人だったころとは比較にならないほどの地獄を往くこととなる。

 しかし、この地獄は少女にとって――トーチにとって間違いなく、楽園などよりも遥かに暖かで澄み渡る場所であった。

 

――任務だトーチ、やれるな。

 

 砂嵐が止まない世界に差し込んだ、誰よりも強く、何よりも公平で、そして真っ直ぐに自分を信じてくれる光に、あれほど頑なにしがみ付いていた心を明け渡すのは、時間の問題でしかなかった。

 そんな存在が、私達の全てに価値を見出して、余すことなく使い潰してくれると言ってくれた。

 完璧だ。完璧な存在だ。

 この人に全てを捧げ尽くす以上の幸福が、どこにあるというのだろう。

 自分がこれほどの幸福に包まれる日が来ようとは、トーチは思ってもおらず、

 

――キルスティン……隊長。

 

 だからこそ、奪われた時の絶望に耐えることなど、出来ようはずもなかった。

 いつの間にか、右手を当てていた壁には、無意識に作られていた握り拳の筋道として、爪痕が刻まれている。爪よりも硬い壁を力任せに抉った代償として、剥がれかかった鋭痛が走る。

 

――僥倖。まだ、痛いと思える。

 

 標を失い、砂嵐も光も無い暗黒で腐り落ちていく感覚に比べれば、なんと鮮やかで甘美か。

 遠い日のように、また――いや、あれよりも遥かに耐えがたく――私の全ては奪われようとしている。

 幸いと言える事に、あの日の少女と、トーチ・セプリティスは、まるで違う生き物であり、手段があり、全てはまだ完全に手の届かない場所に逝った訳ではない。

 ならば、やることは、一つだけだ。

 

「……奪還。必ず、奪い返す……」

 

 この爽やかな腐臭が漂う場所から、本当にあるべき場所へと、取り戻すのだ。

 例えそれが、かつて唾棄した連中と同類に堕ちる結果を招こうとも、必ず――。

 トーチの瞳は、相変わらず鈍光を宿している。

 しかし、意志の炎だけは、決して尽きることを知らずに、燃え盛り続けていた。

 

 

                     ○●○

 

 

 かといって、彼女が選択した方法は、以前のような無軌道なテロリズムと比べれば、実に穏便で計画的な手段であった。

 指定されたポイントへの『仕込み』を終えた次の行動は、既にトーチの脳髄に反復されている。

 間諜として、基礎中の基礎。即ち――

 

(収集。まずは、情報を)

 

 隊長を取り戻すのは最終目的として、駆け抜ける道筋を定めなくてはならない。

 トーチは自分が、どのような険しい道筋であろうとも完遂できると断言できる自信と自負、そして覚悟を抱いていたが、意を決して進んだ道が、実は即断崖絶壁で下には水玉模様の牙が生えた空腹かつグルメな食人植物が大口を開いていただきますをしていた――では、大間抜け以外の何ものでもない。

 だからこその、遠回り。周囲を見渡し、目的地、周囲、障害、全てを見渡す。

 決して多くはないが、そのための時間も、手段もある。

 そのために『仕込み』を急ピッチで済ませたのだから――改めて、呼吸を整えて、先程からずっとそうしているように、トーチはIS学園の散策を続行した。

 

 陸路から隔絶された孤島に建造された学園とはいえ、根底は人間が通うために作られた学び舎なのだ。今まで何度か潜入したことがある学校と、潜入工作の際の注意点も含めて、差異は多くない。

 外側から侵入する手合いへのセキリュティは流石としか言いようが無かったが、一度侵入さえ出来てしまえば、あとの敵は油断と不意だけだ。

 

 潜入工作……それが、今のトーチが最も得意とする業だ。

 基本は少女であった時からやっていたことの延長線であることも理由だが、それだけで単なるコソ泥とは次元が異なる難易度の工作をやってのけれはしない。

 訓練を積んだ。才能があった。運が味方した。

 無論、どれもトーチは否定しない。純然たる事実と受け止めた上で――なお、自分が世界トップレベルであろう要所への潜入を、こうも易々と成功させているのは、あの日からずっと自分の半身であり続けているISの存在あってこそだと確信している。

 

 第三世代機――ハイロゥ・カゲロウ。

 ワンオフ・アビリティーは、『コラージュ・フラム』。

 

 この機体が放つ炎は、触れたあらゆる電子機器に、誤った情報を『張り付ける』事ができる。

 監視カメラの映像を弄ることもできれば、電子ロックをだまくらかし開帳させ、レーダーすらも炎をISに纏うことで狂わせることができる。あくまで張り付けているだけのため、用事が終われば剥がれて消滅し、痕跡は微塵も残らない。

 ISに直接当てられれば、ハイパーセンサーすらも騙せるのだから、その性能は折り紙つきだ。

 あらゆる事をオートマチックとする事を命題にしてきた現代社会において、この能力はまさに天敵と呼ぶ他になかった。

 他に類を見ず、今後も産まれる事は無いであろう、『潜入工作特化型』のIS。

 人を燃やすだけしか能が無かったISは、発想と、研鑽と、工夫によって、その悪辣さに更なる磨きをかけていた。

 この機体に、潜入出来ない場所などありはしない。

 

(当然。人相手には、意味がないけれど)

 

 しかし、裏返せばこんな反則技が通用するのは、電子機器に対してのみ。

 人間相手には効果がなく、仮に効果があったとしても唐突に人を火で炙るなどという奇行に走れば、潜入工作もクソもない。

 つまり、ここまでは半身の仕事であり、ここからは彼女自身の手腕が問われる場面だ。

 そして、発揮する必要は――向こうから、歩いてやってきた。

 

(対象。発見)

 

 ターゲット。セシリア・オルコット。

 イギリスの代表候補生。ISは、ブルー・ティアーズ。

 交戦経験あり。しかし、こちらはISのバイザーを展開していたため、顔は割れていない。

 状況を更に纏める。

 時間は昼下がり。学園のカフェから一人で出てきた事を鑑みるに、昼食を終え、単独行動中。

 実力はさておき、色んな意味で爆発力には目を見張るものがあるが、顔色が悪く、足取りの覚束なさから万全ではない可能性、大。

 万が一の際、逃走、排除、もしくは人質にするのは容易。

 これらを総合し――仕掛けるなら今と、トーチは判断した。

 呼吸を整え、足を早め、『モード』を切りかえ、接近。

 金色のロールが揺れ、気だるげにこちらを視界に入れるが――遅い。

 何事かと、セシリアが口を開くよりも早く、トーチは彼女の懐へと素早く飛びこみ――

 

 

「わーっ! 本物のセシリア様ですぅー!」

 

 

 頭の悪さフルスロットルな、おもっくそ黄色い声を上げながら、その腰に抱きついた。

 

「はひぃ!?」

 

 物思いに耽っていた所を、唐突に見知らぬ――本当は敵同士であるのだが――女生徒に抱きつかれ、曲がり気味であった背筋に、セシリアは力をピンと込め直す。

 

「えっ、あ、あの……どちらさま、ですの?」

「はわわっ、すみませぇん。わたしったら」

 

 そう言いながら、トーチはハッと我に帰ったように、セシリアから距離を離し、頭をペコリと下げる。

 

「ごめんなさい。わたし、憧れのセシリア様にお会いできたのが嬉しくって、つい」

「あ、憧れのセシリア……様?」

「はい! 名門貴族であり、イギリスの代表候補生! 誰もが羨む最新鋭第三世代のパイロット! わたし、あなた様の熱心なファンなんですぅ」

 

 自分よりも幼く見える少女に瞳をキラキラと光らせながら、露骨さすら滲み出るほどにおだてあげられ、まさに英雄でも見上げるような趣きで上目使い。

 その様を、セシリア・オルコットは鼻で笑う。

この程度のことで、誇り高い淑女を自称するセリシアは、

 

「――ふっ、ふっふっふっふーん。ま、まぁ、いまさら言われるまでもない、当っ然のことですけれど? なかなか見る目をお持ちのようですわね、貴女」

 

 ふわっさぁと後ろ髪を掻き上げて、渾身のドヤ顔を披露してみせた。

 

――ちょっろ。

 

 こういう露骨なのに弱いタイプだとは思っていたが、欺いている側のトーチをして若干の警戒心すら芽生えそうなほどに、すんなりと眼前の存在は警戒心を解いたようであった。

 そんなトーチの複雑な心情などいざしらず、さっきまでの落ち込みっぷりが嘘のようにセシリアは続ける。

 

「そうですとも、そうですとも。なんだか最近、わたくしの高貴高潔潔癖な淑女としてのイメージが損なわれているからなのか、だからあの方にも、他人に移り気してしまうような不埒な輩だと思われてしまうのか思い悩んでおりましたが……。

ええ、そうですともっ! ちゃんとこうして、わたくしの事を『的確に』評価してくださる方も居るのですわ! あの方ならきっと誤解だと分かってくれますとも! なにを憂う必要があったのでしょう!」

 

――……これ。長くなる奴だ……。

 

 この世の春が来たように、ぐるぐるとターンしながら一人人生を謳歌している様子に、ここはマトモに付き合えば延々と時間だけ取られて実りが一切ないお花畑だと判断したトーチは、何とか話題を切り換えようとして、

 

「あ、あのぉ……」

「ふふふっ、どうなさいまして? サインならいくらでも差し上げますわよ?」

「いえ、サインはいいんですけど……」

「どこに書いてさし上げましょうか? そうですわ、よろしければ、その制服の背中にでも」

「だからサインはいいんですけど……」

 

 情報収集する相手を完全に間違えた。

 一切の予断なく、トーチは自分のミスを認める。

 

「あら、そういえばペンが手持ちにありませんでしたわね。チェルシーに今度、良いブランドの物を取りよせさせなくては」

「あ、あのっ! セシリア様の事も私、尊敬しているんですが」

 

 嘘では無く、ある意味、ここまで自分の世界に入り浸れる部分を皮肉交じりではあるが、

 

「もう一人、実はセシリア様と『特に仲睦まじい方』も、わたし」

「まっ! キリさんの事もですのッ!?」

 

 話題逸らしのために適当にカマをかけてみたトーチであったが、思わぬ手応えに、頭痛寸前に弛んでいた意識が覚醒する。

 セシリア・オルコットは、あの戦場に居た。

 ならば必ず、キルスティン隊長についても何か知っている筈だと目論んだ接触だったが、コイツが今『キリさん』と呼んだ人間の事。

 間違いないだろう――確信に変えるため、最後の質問を投げかける。

 

「キリさんって……朴月、姫燐さんの事ですよねぇ?」

「ええ、そうですわ。わたくし、あの方をあだ名で呼ぶ事を、直々にお許し頂いておりますのよ?」

 

 なぜ人をあだ名で呼んで良いだけで、コイツはここまで胸を張れるのかは分からないが、やはりセシリアは朴月姫燐と一定以上の親交があるようであった。

 この任務に就く際に頭に叩きこんだIS学園に在住している人間のリスト。そこには当然、最も警戒すべき専用機持ち達のリストも含まれていたが、トーチが関心を示したのは元よりたった一名だけであった。

 

――朴月姫燐。1―A所属。専用機、シャドウ・ストライダー。

 

 外見やスペックはかなり変化していたが、間違いない。

 あの時のISは、前々から駆っていたキルスティン隊長の専用機『ストライダー』だったのだ。

 最初こそ顔が似ていただけの別人という可能性も捨てきれずには居たが、ここまで一致しているならばパイロットは当然、隊長以外に居らず、そう考えれば代表候補生ですらない一介の学生には、不相応すぎる戦闘力や判断力も納得できる。

 だとすれば、尚更なぜ自分達のことを――

 

(暴訣。そのために、ここに居る)

 

 真実へと繋がる糸。待ち焦がれたそれを、トーチは慎重に手繰っていく。

 

「わたし、実はまだ、朴月さんと直に会話したことがなくて」

「まぁ、そうですの。全世界中の殿方が参考にすべきぐらい素敵な方ですから、快くお話ぐらいしてくださりますわよ?」

「だ、だったら……セシリア様は、朴月さんは今日、どこに居るかご存じですか?」

 

 ちょっと不安げに目を伏せ、人畜無害な小動物オーラを纏い、

 

「今日は――」

 

 内面で、嘘でも付こうなら喉笛噛み切ってやると言わんばかりに牙を剥き、

 

「えーっと、確か――あっ」

 

 トーチは、セシリアの碧眼を真っ直ぐに見据え、

 

「言い出した身で申し訳ないですけれど、今日は学園には居らっしゃりませんわね。キリさん」

「…………そう、ですか」

 

 思わず強張りかけた目蓋を、全力で自制せざるえなかった。

 

「クラスの皆さまと、本日は外にお出かけに行っておりますの」

「帰りは……何時になるか分かりますか?」

「いえ、そこまではわたくしには……寝込んでいる間に、出発してしまっておりましたし……」

「そうですか……なら、仕方ないですよね」

 

 深い失望感が襲いかかるが、予想できていたケースではあると自らを奮い立たせる。

 本来ならば近距離なり遠距離なり、直接接触して確かめるつもりであったが、街に出てしまっているとなればこのプランは白紙にするしかない。追い掛けて街へ繰り出すのはノープランすぎる上、いまIS学園から離れてしまうと『任務』に支障が出てしまう。

 ならば、もう一つの方法に切り替えるしかないと、トーチは改めてセシリアに尋ねた。

 

「でもでも、わたし実はセシリア様にも、まだ聞きたい事がありましてぇ」

「わたくしに?」

「はい! どうしても、先程から気になっていた事なんですけど」

 

「セシリア様は、姫燐さんのことを――どんな方だと思ってらっしゃるんですか?」

 

 トーチの次のプラン――と、言うほどでもない、単純な指針――それは、やはり情報収集であった。

 ただし今度は、居場所ではなく、朴月姫燐という人間についての情報収集だ。

 プロファイリング。対象の人格や行動を統計学的に纏め、幾重ものパターンに照らし合わせて人物像を暴きだす、近代捜査手段の一種。

 現状ではこれぐらいしか出来ない。その簡易的モドキを、トーチは試みるつもりであった。

 

――とはいえ。

 

 なにか、なにか自分は、とても重大な見落としをしていないか……?

 と、心のどこかが実行を躊躇っていた訳をトーチは、

 

「何度もお話しますけれどキリさんの魅力を一言で語るのは大変困難でして、レッドカーペットより優美な赤い髪はいつだって清潔なシャンプーの香りがしておりますしぱっちりと開かれた琥珀色の瞳は英国王室に献上された宝石よりもなお輝かれていてお肌も瑞々しくてまるでウェッジウッドの陶器のようにお美しく鍛えながらも無駄は一切ないお身体もまた今すぐ彫像を作らせ大英博物館にて大々的な展覧会を開く価値がいえ開くべきですわわたくしがイギリス代表になった暁には必ずや」

 

 引きずられるがままに同伴させられた喫茶店のテーブル席で、嫌というほど噛みしめていた……。

 

――……コイツ。ほんと……コイツ……。

 

 こんなお花畑に肥料を追加してしまうと、もう手がつけられない脱出不能の樹海になることが、分からなかったとは言わせないと、己の迂闊さをトーチは呪った。

人物像を聞いていたはずなのに、気付けばドン引きモノの将来の展望にまで脱線していたマシンガントークは、止まるどころか加速すら続けている有様。

 自分には実は潜入諜報の才が微塵も無かったのではないかと思わずには居られないほど募る、今すぐISを起動し口に指を叩きこんでやりたい衝動との戦闘も、いい加減に限界が近い。

 

「す、すみません、セシリア様……ちょっと、その、これから友人と『予定』がありまして」

「あら、そうですの? まだキリさんの魅力の半分も語っておりませんのに……」

 

 これは拷問に使えると、内心で最大クラスの評価を下しながらも、トーチは演技では無くガチのゲッソリとした表情で席を立つ。

 そもそもの話、コイツに拘る必要はあったのだろうかと余計に頭痛を広めていくが、

 

「あっ! キリさんと言えば、これを外しては語れませんわ!」

 

 もう本当に勘弁してほしいと、トーチは出口へと脱兎する足を止めず、

 

「笑顔」

 

 耳だけを一応傾け、

 

「キリさんはいつも、笑顔がとても素敵なお方ですのよ」

 

 外へのあと一歩を踏み出す――前に、振り返る。

 

「一応」

「はい?」

「一応。感謝、しておく」

「へっ?」

 

 最後の最後に、ようやく有益な事を喋った性質の悪いスピーカー女に捨て台詞だけ残し、感謝以外の渦巻く感情を処理するため、速やかにトーチは喫茶店を後にした。

 

 

                ○●○

 

 

 笑顔。

 作って向けてやったことは数え切れないほどあるが、ふと、誰かに向けられた事は常に何が楽しいのか分からない相棒以外からは、殆ど無いことにトーチは気付いた。

 それは、長年手足として従っていたキルスティン隊長からも、同様である。

 

――笑顔。……隊長が?

 

 常に鉄面皮で、平静を崩さず、冷酷にトドメを叩きこむ。

 残酷でありながらも同時に、只人ならぬ力の行使者として、言い代えようのない美しさすら感じさせる隊長には、まるで似合わない代物だ。

 

――解離。あまりにも、違い過ぎる。

 

 頭痛と戦う話半分だったとはいえ、セシリア・オルコットの話を思い返せば思い返すほど、朴月姫燐はキルスティン隊長とはまるで似ても似つかない人物像で通っているようであった。

 それだけであるならば、自分と同じように人格設定を使い分けているだけ……で、理屈は通るのだが、

 

――異常。感じては、いたけれど。

 

 そもそも、なぜキルスティン隊長が、我々に死んだとまで報告し、IS学園なぞに潜入しなくてはならないのか? ここがトーチにとって――潜入工作のプロとして、最も不可解で仕方のない部分であった。

 

――適任。隊長より、私のほうがずっと。

 

 こう言った任務は、昔からずっと自分に任されてきた。

 自分が得意であったからであり、同時に自身を飾り付けない隊長が不得手な分野であったからだ。

 これを隊長に命令した奴がどういった考えの元に判断したのかは分からないが、そいつはとんでもない愚物であるとしかトーチには言いようが無い。

 しかし、そいつが愚物ではなく、自分の理解を越える思惑を抱いていたとしたら……?

 

――……不足。まだ。

 

 真実を暴きだすには、ピースが足りない。

 この学園に散らばっているモノも、あの組織に隠されているのであろうモノも、まるで足りない。

 この手は、隊長に届かない。

 簡単に行くとは思っていなかったが、それでも焦り憤る頭に詰まっていくガーベッジに歯噛みを堪え切れず、負荷限界を越えた奥歯が、

 

――通信……?

 

 血を吹き出す寸での所で、ISに直接送られてきた通信が、トーチの意識を現実へと引き戻した。

 

――……なんですか。

 

 当然、潜入中の通信など言語道断であるが、IS同士の通信なら心中で返すだけでも出来るため、送ってきた相手へと応答を返すトーチ。

 どうせ言ってくることは分かりきっていたため、心底鬱陶しそうなイントネーションを隠さずに出たのが余計に気に食わなかったのか、ヒステリックな金切り声が脳内へ反響していく。

 

――別に。言われた仕込みはやった。後はどこで潜伏してようと私の判断。

 

 やはり想像通り、こめかみに青筋立てているのが丸分かりの声で返される。

 

――そう。だから別にセシリア・オルコットと接触していても、バレなければ一緒。仕込みが終わればずっと隠れている必要性は、必ずしもない。

 

 それは命令違反だとガミガミ意識を叩かれるが、やはりトーチに反省の色はない。

 お前にとっては『これから』が本番であっても、こちらにとってはキルスティン隊長のこと以外はどうでもいいのだ。

 ついでに組織の任務も果たしてやっているのだから、後はもう好きにすればいい。

 ここから先は何があっても指示通りに動いて貰うと吠える相手へと、最後に、

 

――了解。リーダー。

 

 トーチは一ミリも心が籠っていない一声を送り、通信を閉じた。

 言われるまでも無い。出来れば朴月姫燐本人に接触したかったが、それが望めそうにない以上は無理をするつもりはなかった。

 あとは時間まで、ずっと『ここ』に潜伏していればいい。

 やっと一息つけると、心中でついた溜め息は、

 

 

「……そこに誰か居るのか?」

 

 

 一瞬で引っ込み、代わりに驚愕と戦慄がトーチを襲った。

 脊髄を駆け巡る対処法。

 声の質、声色、距離、周囲の状況、確認、認識――候補抜擢。

 暗殺、却下。逃走、不可。無視、不可能。

 以上を総合し――行動、決定。

 

「あ、あはは……バレちゃいました?」

 

 もうこれ以上『行動開始』まで、ここで時間を潰すことはできない。

 どこか観念したように、冴えない少女を演じ、トーチは隠れていた雑木林の草むらから、『彼』の前へと姿を現した。

 

「うおっ、本当に居た」

 

 なんだその自分が一番驚いたと言わんばかりの反応はと、内心で毒づきながらも目を丸くする上半身裸の男へと向き直る。

 

――織斑、一夏。

 

 こいつもまた、あの時の第三アリーナに居て、一度は暗殺しようと目論んだこともある人間だ。

 あの時は後先を考えるつもりが無かったためどうでも良かったが、今は事情が違う。

この学園で出会ってはいけない人間のトップ3に入る、危険人物だ。

 

「あ、俺、織斑一夏って言うんだけど……って知ってるよな。えーっと、君はどうしてこんな雑木林の中に?」

 

 いくらでも身柄を欲しがる人間が居ながらも、単身で人気のない場所に来て、誰とも知れない人間へと無警戒に近付いてくるコイツ自体は、そう言うほどの危険性はない。

 しかし、コイツに迂闊に接触することで広がるであろう、世界すら揺るがす波紋の影響は別だ。

 今、この学園の戦力と事を構えるわけにはいかない以上、万が一にでも騒がれてしまえば――間違いなく、詰む。

 セシリアの時よりも遥かに神経を尖らせつつ、トーチは己を設定した人格へと切り替える。

 

「あはは、実は私、故郷が街より自然が多い所で。ちょっと気持ちがワーってなった時とか、こういう緑に囲まれると落ち着くっていうか」

「ああ、分かる分かる! 俺も学園のいかにも最新設備って雰囲気よりも、こういう自然に囲まれた所の方が好きなんだよ、ったた……」

 

 屈託のない笑顔を途中でしかめながら、一夏は手持ちの鞄の中から、湿布を取りだして打身を負った個所へと張り付けていく。

 

「その打撲、どうしたんですか?」

「あ、いや大したことじゃないんだけど……ちょっと、さっきまで先輩に生身で稽古をつけてて貰っててさ」

 

 トーチが知るよしも無かったが、一夏はこの休日を利用して、先程まで道場で、さっそく楯無に約束していた修業をつけて貰っていたのだ。

 

「稽古……にしては、中々激しかったようですが」

 

 だが、トーチの目をしても稽古後というよりは、実戦後と言った方がしっくり来るほどに打撲跡が多く、率直に言って手加減の兆しが見えなかったが、

 

「あー、うん……かなり、容赦なかったよ」

 

 稽古が始まってから、常に楯無は満面の笑み――まるで報復の時は今と言わんばかりの――を崩さず、大人げなく畳に投げ飛ばされまくった帰結として、ボロボロになった身体へと一夏は苦笑いと共に湿布を張っていく。

 

「でも、これも俺が望んだことだから構わないし、その時に早速助言を貰ったんだけど、『観』を養いなさいって言われてさ」

「カン……? 直感のことですか」

 

 言わんとしていることがイマイチ分からず小首を傾げる少女に、一夏はどう説明すれば分かりやすいかと腕を組んで、

 

「違う違う、観察の観、だな」

「観察力……のことですか」

「ああ、それで合ってると思うぜ」

 

 古来より、武道は『観』の概念を重視する傾向がある。

 常人には見えぬモノが観えている――つまりは、故事にあるような『一を聞いて十を知る』武人になれという理念だ。

 実戦では、一にすら満たない刹那に判断力を試される局面が、幾度も襲いかかる。

しかし、たとえ一瞬であろうと、観えているモノが多ければ多いほど、選択肢はいくらでも足元を照らし始めるものだ。

 打ってくる手が多い人物と、少ない人物。

 相対した時に脅威なのは、とうぜん引き出しの多い前者だ。

 

「だから、俺も早速やってみようって、いつもは人が来ないから筋トレに使ってるココでやってみたんだけれど」

「そ、そうなんですねー、だから私のことも」

「ああ、なんか何時もと、ちょっとだけ違う気がしてさ」

 

 口では気の抜けた返事を返しながらも――トーチの心中は、この学園で行動を開始して以来、最も凍りついていた。

 

――なんだ。それは。

 

 どれほど鬱憤を心中に抱えていようと、心身に刻まれて久しい隠密の技が鈍ることは無い。夜までここで隠れきるつもりで、通信中も一切の油断なく隠れていた――間違いない。それは間違いないと言うのに。

 

――真逆。そんな「やってみよう」で私の潜伏を見破ったというのか。

 

 訂正せざるを得ない。

 この男自身も、充分すぎるほどに危険人物であると。

 

「いやまぁ、女の子が『ちょっと隠れてた』のを見きった所で、何なんだって感じなんだけどな――っと?」

 

 バッグの中から鳴りだしたコールに、一夏は急いで上着を着て、携帯を中から取りだす。

 プライドには激しくカツンと来てはいたが、今すぐこの場から離れなければならないトーチにとっては僥倖。

 今のうちに別の待機ポイントへと退避するため、トーチはじりじりと完全にこっちから注意が逸れた一夏から距離を取り、タイミングを見計らって浮いた足が、

 

「もしも――どうしたんだ、キリ!?」

 

 完全に、地へと縫いつけられた。

 

「おい! 助けてって、今どこに居るんだよ!? 今日、確か皆と出掛けてたよな!? オイ!?」

 

 助けて。キリが。朴月姫燐が。キルスティン隊長が。

 受話器に向けられた織斑一夏が発した情報は、トーチの思考へと着火し、瞬く間に理性を焼き払った。

 

「織斑一夏ッ!!! どういうことだ! 状況はどうなってるッ!?」

「ええっ!? いや、それは俺が聞きた」

「代われッ! 私が把握した方が早い、寄こせッ!」

「いっ、いやいやいや!」

 

 突然、先程までの緩い雰囲気とは一転した鬼気迫る勢いでしがみ付かれ、携帯を奪われそうになり、当惑するしかない一夏。

 しかし――こちらも『これだけは』誰にも譲ってやる訳にはいかないと何かが触れた瞬間、『それ』は覚悟となって、身体の芯まで貫くように力を与えていった。

 

「ッ――安心しろッ! キリは俺が護るッ!」

「なッ……!?」

 

 それは、護ると誓った協力者へと。

 そして、もう一人の見知らぬ少女へと宣誓する言霊だった。

 私が気迫で負けた――トーチが、自ら無意識に一夏から手を放していた事実に気付くのは、もう少し後の事になる。

 

「だから、今……駅前のカラオケのトイレだな! 分かっ――えっ?」

 

 迷わず白式を展開しようとしていた一夏の張り詰めた肩から、ふっ、と力が抜けた。

 まるで、押し込んだ邸宅の住人に、のほほんとお茶と茶菓子を差し出されてしまった時のように拍子が抜け、

 

「あっ、のほほんさんに箒? えっ、心配いらないって……は? 罰ゲーム?」

 

 なんとなく、「あー、また無謀な賭けに負けたんだな……」と、状況を察し始めた一夏は、

 

「……アッハイ。じゃ、店にあまり迷惑かけないようにな……」

 

 亡骸に向けるように片手で合掌し、そのまま通話を切った。

 本人には言い辛いが、カッコつけて不必要にリスクを背負う癖は治して欲しいなーとか、今度おいしい物つくって愚痴きいてあげようかなーとか、オカンめいた思考が過る一夏であるが、

 

「……結局。どう、なった……?」

「え、ああ、心配はいらないと思うぞ。いつもの悪ふざけ? みたいなもんだし」

 

 口ではそう言ったが正直、今まで聞いた中で二番目に声が震えていたし、最後まで聞こえていた「お前ら全員剥きコラ作って一夏に押し付けてやるからなぁぁぁ!!!」とか斬新な脅し文句に自分も巻き込まれているっぽいのが、いくばか気になったが、多分大丈夫だろう、多分。

 と、この部分は沈黙は金だと黙っていると、眼前の少女は深々と安堵のため息をつき、とりあえずは落ち着いたようであった。

 なら、今が丁度いいだろうと一夏はジャージの乱れを整えながら、

 

「で、君は、誰……っていうか、キリの知り合い? 初対面だよな俺達?」

「………………」

 

 当然の疑問を口にした。

 本当は初対面ではないどころか、殺されかけたことすらある間柄なのだが、あの時はずっと顔を隠すISを展開していたのと、声も――先程、取り乱した時以外は――判別し辛いように作っていたため、気付けないのも無理ではない。

 あそこまで意味深に喰いかかってしまった以上、はい初対面で貴方と私は乾いた街角で運命的にすれ違った事すらありません。では通用しないだろう。

 しかし、

 

「何故」

「えっ?」

「護る……? 朴月、姫燐を……お前が……?」

 

 そんな必然的コミュニケーションの道筋すら未だに見えていない程、今のトーチは混乱の極みにあった。

 質問に質問で返される形ではあるが、何故――と問われてしまえば、一夏は答えない訳にはいかない。

 今まさに、自分が全てを削って磨き続けている知識、身体、能力――その全ての『理由』を口ごもっているようでは、彼女を含めた何もかもを無意味に貶めるように思えるからだ。

 

「ああ、それが俺の夢なんだ。護ってやりたいんだよ、アイツを」

「……何故。だ?」

 

 だが、少女は納得しかねるといった様子で、より一層、一夏を強く睨みつけるばかりであった。

 

「あ、あれ?」

 

 自分としては、この上なく簡潔に伝えたつもりだったのだが、どうにも伝わっていないような反応に小首を傾げるしかなく、

 

「何故。と、私は聞いている……」

「だ、だから俺はキリを護るのが夢」

「朴月姫燐を護る理由じゃない! 私は、なぜ朴月姫燐を護りたいと思ったかを聞いているんだ……!」

 

 何故、姫燐をこんなにも護りたいのか。

 決して避けて通ることは許さないと言わんばかりに、また、この宿題が一夏の前に立ちふさがった。

 

「な、なんで俺が、キリを護りたいって思ったかって……」

 

 自覚したのは、あの日、襲撃者達がやってきた屋上。

 今でも鮮明に思い出せる、ボロボロになりながらも強がるキリを、涙を流すキリを、壊れそうなキリを、これ以上、誰にも傷つけさせず、誰よりも護り抜きたいと抱き締めた夕暮れの景色。

 そこに理由があったとするならば、自分をずっと護ってくれていた千冬姉のように、護りたいと夢見ていた『誰か』が『キリ』に置き換わってしまったから――

 

――いや……違う、それは、絶対に違うよな。

 

 こんな小難しいことなんて、あの時は考えていなかった。

 胸を焦がし、揺らし、震えさせるこの覚悟を突き動かしている理由は、きっとこんな小賢しい理屈ではなく――もっと簡単な、シンプルな事なんじゃないかと思えて仕方が無い。

 正解が指をすり抜けていく感覚がしていても、何かは口にしなければという葛藤から、ポツポツと声が絞り出されていく。

 

「俺は……キリの笑顔を護りたくて……キリに泣いてほしく無くて……ずっとずっと、傍に居てやりたいって思って……」

「了解。分かった、もう理解できた、いい加減にしろ」

 

 だが、彼の人となりを知らないトーチからしてみれば、そんな唐変木の苦悩など、分かりきった解答をひたすら遠回しに喋っているようにしか映らず、じれったさを隠そうともせずに、

 

 

「お前。ようは朴月姫燐の事が好きなんだな。一人の女として」

 

 

 ド直球に、結論を叩きつけた。

 

「…………………………えっ? 俺が……キリを、好き?」

 

 好き。俺が、キリを、友ではなく、協力者でもなく、一人の……女性、として。

 

 今日はこんなにも快晴であったが、夜からは天気が崩れると予報されている。

 風雲急を告げる風の中。

 大事な、大切な、大変な答えが、とうとう男の胸中で、確かな形を作ろうとしていた。




 ISABの今回のイベント、皆がみんなの身体つきについて意識するとか最高かよ……ポイント抑え過ぎだろ……。


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第34話「第一回ホモ会議」

「というわけで、第一回『ホモ会議』を始めたいと思いますにゃわん」

 

 ハイ拍手、と、姫燐に彼女の部屋へと連れ込まれるなり宣誓され、丸テーブルの対面からまずは何から問い質そうかと、鈴は頭を抱えた。

 

「えー、本会議はどんな意見や質問だろうと、自由な発言が許可されているにゃわん。多面的な角度から、この度の問題を」

「なんでアンタ、ネコミミとイヌミミ付けて、妙チキな語尾してんのよ」

「禁則事項だ貴官にはその質問をする権限はない今度余計なことを言うと口を縫い合わすにゃわん」

 

 最初のセリフを秒で反故にした犬猫耳のたわごとに付き合ってられるかと、さっさと自分の部屋に帰ろうと足に力を入れた矢先、緑茶が入った湯呑みが置かれた。

 出された物を無下にするのも無礼であると緑茶に口をつけていく鈴だが、どうにもこの会議には強烈なツッコミ所があるように思えて小首を傾げていると、姫燐と自分の所にも同じように湯呑みを置いた箒もテーブルへと座り、鈴が尋ねたいことの一つを代弁しはじめる。

 

「いや、私も良く分からないんだが。ホモと言われても、私達がいったい何を会議するんだ?」

 

 台詞では理知的に、そして手ではしきりにスマホをタップしつつ尋ねる箒。

 

「一夏のことだよ、一夏の。あと、これで五時間経ったよな? な?」

「一夏の? ふむ、名残惜しいが外しても構わないぞ。そういう罰ゲームだったしな、名残惜しいが」

 

 と、箒の許可を得て、妙な語尾と両耳を投げ捨てる姫燐を余所に、一夏の事と言われ、何が言いたいのか何となく察し始めた鈴はテーブルに肘を置いて、呆れ気味に、

 

「ああ、ようは一夏がホモかもって奴?」

「そうだ、オレはお前達の意見を真剣に聞きたい」

「そうよねぇ。昔もアンタみたいなこと言い出すの、多かった多かった」

 

 うんうんと昔を懐かしむように唸る鈴だが、更に昔から一夏を知る箒にとっては寝耳に水としか言いようがない。

 大げさに驚きこそしないものの、いったい何を言い出すんだと眉にシワが寄せられ、

 

「一夏がホモなど……当たり前のことではないか?」

「ぶーーーーーーっ!!?」

「げほっごほっがほっ!!?」

 

 さらっと、とんでもない爆弾発言をぶちまけた。

 口に含んだ緑茶を吹き出しむせ出し、のた打ち回る二人に、急いでハンカチを用意する箒だったが、自らの発言の何がいけなかったのか心底分からないと、眉をしかめつつも落ち着いた頃を見計らい、改めて問い直す。

 

「なぜだ? 一夏はホモだろう」

「なぁっ!? いや言い出したのオレだけども! 知ってたのかよ!?」

「んん? 知っているも何も、一夏とて人の子だ。ごく自然的なことではないのか?」

 

 いったいどういうことなのだ。自分のルームメイトは、まさかここまで同性愛に理解があるどころか、下手をすれば「男の人は男の人と恋愛すればいいと思うの」とか今にも言い出しそうなほどのご腐人であったのかと目を白黒させる姫燐とは対照的に、

 

「……あー、箒。一応きいておくわね。私たちもホモだと思う?」

「!!?」

 

 レズはホモというごく限られた界隈の格言が、まさかごく一般的な理論と化していたのかと戦慄する姫燐は捨てておいて、箒に尋ねる鈴。

 

「だからそうだろう。皆、ホモ・サピエンスに属する霊長類ではないか」

「あっ」

「やっぱりね……」

 

 どうやら互いの認識にズレがあったことを悟った姫燐と鈴は顔を見合わせると、無言でジャンケンを始め、

 

「うっし、任せた」

「はぁぁ、分かったわよ」

 

 と、本格的に?マークが頭上でラインダンスを始めた無垢なポニーテールへと、底なし腐界の先触れを説明しなくてはならないという貧乏くじを引いてしまったツインテールは、できるだけ刺激しないよう、マイルドに、オブラートに、概要の半分を優しさと共に伝えていくが……、

 

「なぁぁぁっ!? いっ、いいい一夏が、一夏がおおおお男にしか恋愛感情を抱けないだとぉぉぉぉぉぉぉ!!?」

「あーもー、うっさいわねぇ」

 

 顔を怒りと羞恥と怖れによって真っ赤に染め上げ、机をバンバンと叩き始めた箒に、やっぱりこういう役回りは苦手だと鈴はうんざりとした様子でバトンを渡す。

 

「ほら、議長。ようやく本題よ」

「あいよ、ご苦労」

 

 軽く二回ほど手を叩き、いったん静まれと混迷の極みに陥った箒を、言い聞かせるように姫燐は諭し始めた。

 

「オレ達が話してるのは、あくまで可能性の話だ。まだ決まったわけじゃない」

「当たり前だろうがっ! そんなは……破廉恥なこと、あってたまるか!」

「だから落ち着けって。否定するも肯定するも、意見を出し合ってからだろ? そのための会議なんだしよ」

「う……むぅ……それはそうだが……」

 

 冷静かつ的を得ている姫燐の言葉に、ヒートアップしていた意識は不承不承といった体であるが落ち着いていき、ようやく本当の意味で箒もこの会議の席につく。

 

「じゃ、改めて第一回ホモ会議を開催するぞ。当然議題は、『一夏の奴はホモなのか?』だ」

「はーい、改めて一言いいかしら?」

「発言を許可する、ミス・ツインテール」

 

 なんだかんだノリが良い鈴は、上げていた手でわざとらしく咳ばらいをし、

 

「さっきも言ったけど、一夏がホモなのは有り得ないと思うわ」

「ほうほう、根拠は?」

 

「当たり前だろう! 一夏はそんな変態ではない!」と、ノリが悪い野次はスルーし、鈴は腕を組むと、

 

「だって、ウチの学校でも散々言われてた事なんだけど、一夏が本当にホモなら、とっくに彼氏の一つや二つ作ってるに決まってるじゃん。って」

「かかかかかか彼氏ぃぃぃぃぃ!!?」

「ん……いや、確かに」

 

 脳天を直接えぐられるようなパワーワードに悶絶する純粋っ子とは対照的に、割とド腐れなダメ頭をしている姫燐は、鈴の意見も一理あると腕を組んだ。

 眉目秀麗。気は優しくて家事完璧。オマケに簿記までやれるとくれば、こんな優良物件、そうはいない。恋愛対象として放っておくとすれば、ノンケか自分のようなレズぐらいで、ホモな方々にも大層おモテになるだろう。

 そんなアイツならばと、確かに思う反面、姫燐はこうも考える。

 

「けれどそりゃ、ふつーにアイツが恋人とか作るつもりが無かったってだけじゃねぇの?」

「うっ……それを言われるとそうなんだけどね……私も正直、その線については考えないようにしてたし……」

 

 そう、これはあくまで『彼氏が居ない理由』であって、『一夏がホモではない理由』にはなり得ないのだ。

 鈴も、自分で自分を誤魔化していた節があったため、真っ向から論破されてしまうと嫌でも真正面から向き合うことになってしまうが、

 

「お、お前たち!? なぜ一夏が男が好きという前提で話している!?」

 

 と、ここで未知の世界に震えることしか出来ていなかった箒が、凛とした勢い任せで口火を切り始めた。

 

「ありえん! まるで話にならん! 一夏は普通に女好きだ!」

「おお、言い切るねぇ。根拠は?」

「根拠だと!? 根拠は、根拠、こんきょ……」

 

 さっそく勢いがすべて圧し折られ、箒の脳裏は記憶の海へと出航を始める。

 初めて出会った時から、同じ学校に通っていたころ、さらにこの学園で再開してからの時間。それら全てを、一つ一つをたどる巡礼の旅。

 

「しょ、小学生のころから、同級生から上級生にまで告白されっぱなしだったぞ!」

「それ一夏の意思関係ねぇだろ」

「わ、私と同じ部屋になると聞いたときは、少し戸惑っていた!」

「お前以外も全員女だし、誰でもそうなったんじゃねぇの」

「入学して最初のころ、倒れた拍子にお前の胸に触っていた!」

「いや、それはラッキースケベって奴で……っておい待て、オレ知らねぇんだけどソレ」

 

 と、出てくる推察すべてが、あっけなくぶった斬られていき、しかしそれでも認めるわけには絶対にいかないと箒は唸り声を上げ、

 

「だ、だが、むしろなんでアイツがホモなのだ!? 普通に考えて、そっちのほうがよほど荒唐無稽ではないか!?」

「まぁ、そうよねぇ。そっちこそ、なんか根拠でもあんの姫燐?」

「ああ、そうだな……根拠ってほど確かなことじゃないが、疑惑があるからこうしてお前たちにも意見を聞きたかったんだよ」

 

 そういって、姫燐は重々しい表情で以前、生徒会の活動中に聞いた、シャルルが一夏と『よくしている』と言っていたことの概要を話し始める。

 内容を聞き入るうちに、二人して赤くなっていた表情は徐々に青ざめていき、姫燐が話し終える内には、もはや死人と変わらぬ黄土色へと変貌を遂げていた。

 

「な、なによそれ……他はまだしも、野郎同士で一緒にお風呂ですって……日本の文化とか見え透いた嘘までついて……!?」

「う、うらやまけしからん……! わ、私と相部屋だった時はどれも一度たりとてなかったぞ!? デュノアに一体ナニをしているのだ一夏の奴は……!?」

 

 織斑一夏の生態としては異常ともいえるアプローチを受け、何年も一緒だった自分たちよりも遥かに段階を、よりにもよって男に踏破されている圧倒的敗北感は、少女たちの淡い恋心とか女としてのプライドを容易く圧し折っていき……、

 

「やっぱりあたしって、女としての魅力ないのかな……発育悪いし、童顔だし、胸ないし……胸ないし」

「それだと胸だけはあるのに袖な私はどうなる……男以下……男以下の魅力しかないのか私には……」

 

 自分でも大概ショックであったことを、よりにもよってずっと以前から慕い続けていた乙女たちに暴露するのは姫燐も若干胸が痛んだが、それはそれとしてと、そっと二人を抱き寄せると、

 

「いやいや、オレだって衝撃だったのは間違いないけどよ……そこで卑屈になっちゃいけねぇよ二人とも」

「姫燐……」

「アンタ……」

 

 フッ、と姫燐は普段よりも二段階ぐらいイケメンオーラをマシマシにした微笑みを浮かべ、

 

「魅力がない? 馬鹿言っちゃいけねぇ。誰かがそれに石ころのように気づかなくても、オレからすれば、お前らの魅力はまばゆい宝石のようにハッキリと映ってるさ。そう、ショーケースの中じゃない、オレの腕の中で、なによりも」

「それは、この前見ていた映画の台詞ではなかったか?」

「……なにー……よりも……かがやい……てー」

 

 ドッ、と脂汗を浮かべながら、消え入りそうなボリュームで言葉を詰まらせる非常に締まらない姿に思わず、

 

「ぷっ……なによそれアンタ、ダッサ」

「くく……いや、私はいいと思うぞ。お前らしくて」

「ダ……ダッサは……酷い……ダッサは……」

 

 弱ったこの機に乗じて口説くつもりだった二人よりも、禁句に触れられたせいで遥かにダメージを負い、部屋の隅で体育座りし始めた背中を見やって、鈴もなんとなく肩の力が抜ける。

 

「まったく、一夏もアレのどこがいいんだか」

 

 どうにもこうにも三枚目が抜けきらないというか、女なのに女にモテようとして、微妙にスベっているのに、いつだって全力で、一生懸命で、真剣にやっているから薄っぺらさより微笑ましさのほうが前に出てきてしまう。

もしやとは思うが一夏は、一見しっかりしているように見えて、実は誰かが面倒見なきゃ危うい、庇護欲がくすぐられるようなのがタイプだったりするのだろうかと、鈴の頭に過る考察が(千冬さんもそんな感じだし)と、危険なボーダーラインを飛び越えかける寸前で――

 

「って、そうじゃん! アンタじゃんアンタ!? 一番の根拠!?」

「あん……?」

 

 そもそもこの会議の主催者自身が、議題を完全否定していることにようやく気づいた鈴は、飛び上がるように立つと同時に、その丸まった背中を力強く指差した。

 

「あんた、一夏から惚れられてんのに何よこの会議!? どんな茶番よ!?」

「……はぃ?」

「……な……」

 

 空になっていた湯飲みの、ごとりという落下音。

 

「それは、どういう、ことだ鈴?」

「……? あっ、しまっ」

 

 それは、この妙に心地よく思えていた関係を終わらせる亀裂を入れてしまうような楔を、頭に上った血流のまま口に出してしまった、彼女の迂闊さを露呈させ、

 

「な、なぁ、鈴は何を言っているんだ、姫燐? お、お前なら、わかるだろう?」

 

 額面通りに受け取ってしまえば、たぶん、生まれてから一番、心を預けた友人が、抱き続けていた、ずっと追い焦がれていた想いを――裏切る? 認める? 奪われる? 祝福する?――もう二度と修復できないほどに、ぐちゃぐちゃにしてしまうことを、認めなくてはならない。

 だから、尋ねる。自分よりよほど頭が回ると信頼している、その友人自身に。

 否定してほしくて。ただ――私などが、姫燐と女を競って勝ち目などあるのかと――絶望したくなくて、縋るにも似たような問いを、箒は吐き出さずにはいられなかった。

 

「頼む姫燐……なにか、言ってくれ」

 

 望みどおりにさえずってくれるなら、どれだけ心がこもっていなくても構わないという箒の切望は――

 

「いや、ないない。だってオレ、レズだし」

 

 届いた上にものっすごく軽いノリで、明後日の方向に否定された。

 

「……れず?」

「そ、ホモの反対。格調高く言うと百合。女だけど女の子が性的に大好きって奴」

「お前が?」

「うん、そう。ちなみに一夏と鈴も知ってる」

 

 点になった目のまま、自然に鈴へとスライドされる首。

 コクコクと、張り子の寅のようにスイングされるツインテール。

 

「ということは、お前は一夏のことは?」

「ダチとしては大切だけど、恋愛対象としては思いっきり外れてます」

 

 平手を挙げて言い切られ、さらに今度は鈴のほうへと向いて続ける。

 

「アイツがオレに惚れてるって、それこそ荒唐無稽だっつーの。アイツならいくらでも候補いるっていうのに、なんでその中でよりにもよってオレみたいなレズ野郎を選ぶんだよ? ないないない」

 

 腹を抑えながら、ケラケラと笑い飛ばし、

 

「まぁ? オレとしても好みには結構うるさいし? まず料理洗濯掃除家事ぜんぶ文句言わずにやってくれる子がいいだろ? 身長は特に気にしねぇけど、体系は細すぎるより肉がちゃんと付いてるほうがベネ。乳も大きければ大きいほど好み。性格は守ってあげたくなるぐらい可愛げがあるのがいい、それでいて芯はしっかりとしていて自分の意見もちゃんと持ってるほうがベストだ」

「そ、そこまでハッキリとしているのか」

「そりゃま、人生のパートナーだぜ? 妥協なんて論外だ。だけどまぁ、そうだなぁ……」

 

 いつの間にか正座までして聞き入っていた箒の顎を、そっと優しく、壊れ物に触れるように持ち上げると姫燐は、心根を見通すように顔を近づけ、のぞき込み、耳元でささやく。

 

「そういう点では割と箒って、クリアしてるんだよ……なぁー?」

「それは、どういう……っ」

 

 女を食い物として見ている捕食者だけが醸し出す、貪りつくすような妖艶さ。

いまだに同性愛ということを言葉でしか理解できていなかったことを表すように、呆然と動かない箒の、私服の上からでも存在を誇張して止まない胸のたわわな果実へと、姫燐はもう片方の手を……

 

「はいそこまでー」

「あいたたたぁ!?」

 

 伸ばしかけたところで、ビッグなドリームを掴み取ろうとした右手は、風紀と貧乳の人権の守護者によって、いとも簡単に捻りあげられた。

 

「ちょ!? 鈴待てマジ痛いんだがああああ」

「黙って聞いてりゃアンタ割と全力で女にケンカ売ってるわね!? 家事したくないとか、共同生活を舐め腐ってるとしか言いようがないわ、このダメ亭主候補ッ!」

「し、したくないとまでは言ってねぇだろ!? ただ、やっぱ人間適材適所ってもんが」

「そういう家庭にすら無駄に効率求めたがる輩が、家事をやってくれている人間への日々の感謝をアッサリ忘れて『あー、専業主婦は楽で良いよなぁ』とか抜かしやがって夫婦円満にヒビ入れていくのよっ! 覚えときなさい!」

「わかった! 分かったからコブラツイストはやめろ! マジ痛いんだからなそれ!?」

 

 と、コブラツイスト特有の絡みつくような、顔と顔が近づくような姿勢になって、

 

(ごめん、フォローありがと)

(あいよ)

 

 小声で、一瞬の会合――そのまま、続行。

 

「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!!! 分かった部屋の掃除ぐらいは月一でやるからぁぁぁ」

「月っ!? アンタほんと、一回マジシメといた方が良いみたいねぇぇ……?」

 

 このゴキブリハウス量産機は、一度徹底的に私生活を管理してやらないとダメなのかと、青筋の赴くままに技は苛烈さを増していき、

 

「箒っ! あんたも同室なんだから、一回コイツにガツンと言ってやりなさいよ!」

「…………」

「聞いてん……のっ……」

「うぼぁっ」

 

 急に技を解かれ、顔面から床に崩れる姫燐――のことは、今はどうでもよく。

 鈴の視界を支配したのは、無言を貫いたままだった箒の趣き。

頬を赤らめ、目をそらし、口元に掌を当てた、その姿。

あってはならない。だというのに甘美な動悸を抑えられず、葛藤を始めた揺れる瞳。

これらを纏めて何というのか――などと、無粋極まりない発想、鈴にはとうてい思い浮かばなかった。

 

「いってぇ……こりゃあばらが数本いっちま……どした箒?」

「っ!? あ、ああ、なんでもない、なんでもないぞ二人とも!?」

 

 関節技では痛めようのないあばらを抑えながら、一度は言ってみたかった映画の台詞を懲りずに吐き出していた姫燐の首が、きょとんと傾く。

 

「す、少し、飲み込めずに居たんだ。その、姫燐が、れ、レズ、だと言うことを」

「あぁ……そうだな」

 

 バツが悪そうに立ち上がり、流し台へと姫燐は自分の湯飲みを運ぶ。

 箒にいらぬ心配をかけてしまったのが理由とはいえ、このカミングアウトは、姫燐にとっても本意とは言い難かった。

 

(ったく、女々しいな)

 

 結局は、いつかは言うことだろうと心中でなじっても、選択を間違えたとは思わなくても、箒の顔を見られないのは、やはり自分も今の関係に居心地の良さを感じていたからなのだろう。

 箒は、今まで隠してきた本当の自分のことをどう思うのだろうか。

 否定するだろうか、軽蔑するだろうか、拒絶されるだろうか。

 捻った蛇口からあふれ出す水のように、簡単に流すことは出来ない憂い。

 しかし同時に、姫燐は失念していたのだ。

 箒にとってもまた、共に重ねてきた時間は心地よく、そして、

 

「おい、姫燐」

「んぁ?」

「水洗いだけで湯飲みを置くのは、いつも止めてくれと言ってるだろう?」

「あっ……」

 

 まだまだ、こうして、隣で積み上げて行き続けたいと願っていることも。

 

「……正直、驚きはしたが、嬉しかったぞ」

「へ?」

「お前の――友達のことが、また一つ分かったのだからな」

 

 隣で微笑み、スポンジを握る箒の姿は、思わず眩暈がしそうなほどに眩く、

 

「……ふっ、ふん。こっからはもう隠さねぇからな。オレはそこら辺、節操がねぇんだ。今日からは夜中、隣に警戒せず眠れると思うんじゃねぇぞ?」

 

 思わず直視できずに、悪ぶって逸らしてしまい、

 

「ああ、覚悟しておこう。そうやって私の知らない世界を見せてくれるから、お前の傍はいつだって楽しくて仕方がないんだ」

「あ……あぅ……」

 

 その程度で逸らし続けることなどできない、真っ直ぐな閃光として、姫燐の胸を貫いた。

 

「んっ、どうしたんだ姫燐? 顔が赤いぞ?」

「うっ、うっせぇ! お前も実は大概タチ悪りぃな!?」

 

 真っ赤な髪以上に朱が差した姫燐の頬をのぞき込もうと、放漫な身体も整った顔も無造作に近づけてくるレズ特効持ちの天然ジゴロ。割と一夏のことをどうこう言えないぐらいに、人をヤキモキさせるその仕草は、まさに天性の魔性と言えた。

 

(……そのまま、くっついてくんないかなー。あの二人)

 

 また一つ、篠ノ之箒という人間のヤバい扉が開きかけてる背後で、強烈なライバルが二人仲睦まじく消える結末を夢想しながら、鈴は温くなってきたお茶を、できるだけこのイチャコラが長引くようにチマチマと口に運ぶ。

 が、それはそれで本題がいつまでも片付かなさそうであると、鈴は一気に中身を飲み干した湯飲みでテーブルを鳴らし、ポンコツ議長の代わりに本題への軌道修正を図り始めた。

 

「それで、決議はどうすんのよ?」

「へっ、決議?」

「アンタねぇ……結局、一夏がホモだったとしても、そっからどうするつもりなのよ。まさか考えなしとは言わないわよね」

「あ……あぁ、そりゃ考えてるっての! お姉さんを舐めんな!」

 

 正直、今更お姉さんとか自称されても不安しか募らないが、洗い物を箒に任せると、姫燐はいそいそと部屋の片隅に置いてあった紙袋をつかみ、またテーブルに腰を下ろした。

 

「ふふん、アイツがホモじゃないか確かめるなんてToo easy。 楽勝って奴さ、オレ達ならな」

「む、それは……今日、買っていた奴か?」

「そそ、昼間いっかい別行動したろ? そん時に買って来た」

「…………オレ『達』?」

 

 用意周到かつ当たり前のように自分も巻き込まれている口ぶりに、嫌な予感がリミットブレイクしていく鈴を他所に、姫燐はふふんと胸を張りながら、「ちょいと値は張ったがな」と袋の中に手を突っ込み、

 

「げっへっへ……コレを着てる子に反応しねぇ奴は、もう確実に男じゃねぇよホモ野郎だよ間違いねぇげっへっへ」

「着てるってことは、服か……?」

「そう! こいつこそ、全野郎が夢に見てるけど、実際女の子に着せるのは彼女にでも躊躇う衣装ナンバー1(当社調べ)!」

 

 御大層な前振りと共に、三人分の中身を取り出した。

 

 

「バニィィィ……ガールッ! こいつ着て、一夏の部屋に突撃するぞ、お前ら!」

 

 

 ポカンと口を開いたままフリーズした箒の代わりに、覚悟していた分、まだ辛うじて余裕のある鈴は、ため息のように言わなければならないことを口にした。

 

「……それ、アンタが見たいだけでしょ……」

「そうでもあるがッ!!!」

 

 こうして第一回ホモ会議は、さらなる波乱を確約し、ギラついたクソレズの欲望丸出しの決議を出す形で――その幕を閉じたのであった。




 PCがぶっ壊れたので新しいPC君から初投稿です。
 そしてなぜISABは新しいPC君でもメモリの中がパンパンだぜと出るのでしょうか。謎なのだ……。


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第35話「君が掴んだ夢」

 どれほど美しく景色を染め上げようと、シャルロットは夕暮れという景色が嫌いだった。

 公言するほど毛嫌いしているわけでもないが、鮮やかなその朱色は、もうすぐ何もかもを飲み込んでいく、孤独な孤独な夜へと移ろう警告色であるのだから――

 

「……………」

 

 やはり、手放して好きになれそうもない。

 

「それでもいいよね……母さん」

 

 掌に乗せたメダイユへと、そっと呟く。

 シルバーメタルの聖母様は、自分へと柔らかで慈愛に満ちた笑みを向けてくれていて、そんな姿が思い出にしかもう居ない母と重なった瞬間から、自然とこのようにメダイユに話しかけるのは、シャルの日課の一つになっていた。

 ベランダへと吹くそよ風が、まるで愛娘を愛でるように、少女の髪と、少しだけジャージからはだけさせた胸元を撫でる。

 

「今日はね、学校は休みだったから、手紙を書いてたんだ」

 

 宛先は、遥か遠く――それでもまだ、母よりは近い場所に居て、しかし誰よりも遠くに居るように思う、

 

「うん……父さんに宛てて」

 

 もう一人の、肉親へと。

 

「いつも送ってる社への報告レポートじゃ、読んでもらえないかもしれないから、直筆で出そうかなって思って……書いてみたんだ、私なりに」

 

 実父へ送るというのに、浮かれた様子など微塵もなく、ただ不安げにシャルは続ける。

 

「読んで貰えるとは、私も思ってないけどね……でも」

 

 それでも、手紙を送ろうとシャルが決意したのは、この学園で出会った朴月姫燐という友達の一声と――優しい家族に囲まれた彼女への、羨望。

 

「父さんも……私が幸せだったら、嬉しいのかなって……ちょっと、思って」

 

 どれだけ離れていても、家族が笑って暮らしていることは、とても嬉しいこと――それは、父にとっても同じなのだろうか?

 産まれてから一度も顔を合わせず、妻である母さんの死に際も看取らず、自分に望んでいないものを押し付けるだけ押し付けて、この学園へと放り込んだ父にとっても同じなのだろうか。

 望む答えが返ってこずとも、求める権利ぐらいはあってもいいはずだ。

 自分たちが――血のつながった、親子であるならば。

 

「こうして考えると、ほんと酷いよね父さんって。なんで母さんは、こんな父さんのことを好きになったの?」

 

 からかうように、シャルはクスクスと鼻を鳴らす。

 反して、どこか決意を秘めたような強さも、胸に宿しながら。

 

「……うん、私も実はね、あの手紙にも書いたんだ」

 

 シャルが手紙に書いたのは、社に送るレポートとは全く関係のない、他愛ない学園生活や、そこそこできた友達のこと、日本のことや一夏が作ってくれた食べ物のこと、それから――

 

「なんで父さんは、母さんを好きになったの……って」

 

 自分で口にしときながら、なにいい年にもなって幼子のようなことを抜かしているんだと自嘲してしまうが、

 

「じゃあね、そろそろ頑張ってみるよ」

 

現実問題としても、シャルは今、割と早急に知りたかったのだ。

 現在進行形で、後ろを振り向けば待ち受けている、

 

「ぬおおおおおおおおおおおお…………俺は……俺はぁぁぁ……」

「一夏、もういいー?」

「い、いやいや待ってくれ!? 俺とキリはライブよりプラスなラブなんだ!」

 

 この、ベッドに籠りながら、男と女の恋愛感情に真正面から迷走している友人へと贈るボキャブラリーを、少しでも増やすためにも。

 シャルはメダイユをポケットにしまい、気を入れなおすようにジャージのジッパーを引き上げた。

 

 

                     ●〇●

 

 

 今日は楯無さんとトレーニングに出かけると言って、夕方に帰ってきた矢先、実は空には天空に浮かぶ城があるのだと知った時のような、愕然とした形相を浮かべ、一夏はこう呟いてきた。

 

――俺……キリのことが好き……なのかもしれない……。

 

 うん、知ってる。と、シャルが反射的にぶった切り掛けた言葉を飲み込み、えぇーそうだったんだーびっくりーと心が一ミリも籠っていない反応をしても、まるで気付かないまま一夏は項垂れ、

 

――で、でも……や、やっぱ違うかも……。別に俺、アイツを護りたいって思ってるだけで……女の子として好きって訳じゃ……。

 

 は? と思わずキャラ崩壊寸前の真顔でキレそうになってしまったシャルの反応に、肝と一緒に頭も冷えたのか、

 

――ちょ、ちょっとだけ一人にしてくれないか!? 相談したいこと纏めるから!

 

 と、頼み込まれ、シャルも丁度よかったため、自分の日課のためにベランダに出たのが十分前。

 そして帰ってきた答えは、先ほどの通り。

 

「えーっと……全く意見は纏まってなくて、ライブとかプラスとか、よく分からない方向に突き進んでるのしか分からないんだけど?」

「だ、だって、そうだろ……? そもそも、俺は……アイツの協力者なんだぞ」

 

 姫燐からも直接聞いたように、確かに一夏と姫燐は互いの夢を叶えるために支えあう『協力者』の関係であることはシャルも知っている。

 

「俺はアイツのために強くなるって誓ったし、キリは素敵な恋人が欲しいって言ったんだ……なのに、俺がキリのことを好きになるって……おかしいだろ!?」

「えっ」

 

 真剣に何がおかしいのか分からず、疑問符しか浮かばないシャルに、一夏はいつもとは別ベクトルに空回る思考で結論を出す。

 

「だって……キリが好きなのは女の子なんだぞ……? 男の俺がこここ恋人になったところで意味ないし、そもそも好きになっても……それこそ無意味だろ!?」

「てことは、一夏にとって姫燐は、好きになっても意味が無い程度の子なんだね」

「そんなわけないだろ!? 馬鹿いうなシャル!」

 

 うっわー、バカに馬鹿って言われたーと、意地の悪い返しをしたせいだとはいえ、若干カチンと来てるシャルのことなど気にも留めず、一夏は指折り数えてまくし立てる。

 

「だってキリは、いつも元気だろ? めちゃくちゃ強いだろ? それで優しいだろ? いっつも誰かのことを気にかけてるだろ? でもちょっと傷つきやすいだろ? 最近は特に大変なのに、みんなに心配かけたくないからって気丈にふるまってるだろ? こんなにも頑張ってる子を好きになっても……好きに……なった……?」

「どう? 納得できた?」

 

 今日は特にアップダウンが激しい一夏に、辛抱強くシャルは尋ねるが、

 

「い、いや、やっぱり違うかも……だって俺、千冬姉も好きだし……」

「あーもー、めんどくさいなぁ」

 

 そろそろ本格的に張っ倒してやりたい衝動が混ざってくる。

 

「なら聞くけど、一夏は織斑先生と恋人になりたい?」

「そうは、別に思わないけど……姉弟だし」

「じゃあ姫燐とは?」

「い……いやいやいや! それとこれとは違うだろ!?」

「ほら、違うじゃん。織斑先生への好きと全然違う」

 

 ぐぬぬと、先ほどから口にしたことすべてを完全論破されて、色んな意味で茹ダコになってまた頭を抱えだした一夏とは別に、シャルもシャルで頭を抱えたい衝動に駆られていた。

 どうしてこう、決まり切っている結論を、しょうもない理屈で遠ざけようとするのか。

 

「大体、なんでそんなに必死になって、否定しようとするの? 嫌じゃないんでしょ?」

「嫌とか否定とか……そうじゃない、そうじゃなくて……」

「そうじゃないなら、どういうことなの?」

 

 いい加減はっきりしろと、ジト目気味に詰問されても一夏の中に渦巻いているのは、

 

「分からない……本当に分からないんだ」

 

 あの茂みに隠れていた少女に指摘された瞬間から、この一言だけであった。

 

「胸がじんじんするし、頭はまともに回らないし、今までこんなこと一度もなかったんだ。こんなの……初めてなんだよ」

 

 これが女の子を、男として好きになるということなのか。

 織斑一夏が、どれだけ奇跡的で致命的な唐変木であろうとも、男と女は恋をして、愛し愛され、結ばれて、子孫を存続させていく存在であることぐらいは当然知っていた。

 しかし、祝福されてしかるべきこの現象に、一夏は困惑以外の感情を見出せない。

 

「そっか……じゃあ、一回ハッキリと『好き』って口にしてみたら?」

「え……?」

 

 彼の苦悩が本物だと悟ったシャルは、今までとは対照的に、自らをゆっくり見つめなおすよう、一夏を優しく諭し始めた。

 

「お母さんが昔、私に教えてくれた方法なんだ。迷った時とか、悩んだ時は、そういうのをいったん全部取り除いて、ハッキリと口に出してみるんだ」

「全部……取り除いて……」

「そう。それで、口に出してみたとき……そこに違和感を感じなかったら、きっとそれがその人にとって、間違いなく正解なんだって」

 

 友の頼もしい助言を受けて、揺れ動き、浮つき続けていた心が、ようやく落ち着きを取り戻し始めていた。

 

「分かった……やってみる、シャル」

 

 腰を下ろしていたベッドから立ち上がり、箒から借りて来ている木刀をクローゼットから取り出し、青眼に構えた。

 無論、振るいはしない。刀を構えたまま不動を保つことこそが、織斑一夏を最も効率よく研ぎ澄ますセットアップなのだ。シャルも察して口を閉ざし、神妙に彼を見守る。

丹田に力を込め、呼吸を清まし、刀身に心胆を乗せる。

 一刀に総てを落とし込むプロセスは、一夏を容易く一種のトランス状態へと導いていく。

 

――キリ……朴月、姫燐。

 

 浅く閉じた瞼の裏に、太陽のような笑顔を浮かべる女の子の姿が浮かび上がる。

 出会ってからの約三ヵ月、共に夢を追いかけ続けた日々が走馬灯のように駆け抜けていく。

 ただ彼女だけを想い――今だけは護りたいと思う夢すら、振り払う。

 あとに残るのは、胸の中の彼女と、無我の自分。

 完全に研ぎ澄まされたと、我ではない何かが確信し――振るう代わりに、カッ、と瞳を見開き、言霊を放つ。

 

「俺は……キリが……キリのことが……!」

「あ? オレがどうしたんだよ一夏?」

 

 瞬間……ずいっと、横から覗き込むように、思い浮かべていたビジョンが実像となって、一夏に語り掛けてきた。

 

「つか、何やってんだお前ら? 部屋で木刀なんぞ構えて」

「う、うぇぇぇ!? ほほほ朴月さん!?」

 

 続いて飛び交う、シャルの驚愕交じりの悲鳴。

 当然、二人して見えているものは、幻覚でも妄想でもなく、

 

「よっ、シャルル。ノックしても返事が無かったから勝手に邪魔してるぜ?」

 

 よく見知った、能天気な挨拶をする本人以外の何物でもなかった。

 

「えっ、そうだったんだごめ……どうしたのその恰好ッ!?」

「おふふっ、気付いたか? 気付いたろ?」

 

 しかけたイタズラに、最高の反応をしてくれた時のような、小憎らしい笑みを浮かべて、気取ったようなポーズをとった。

 

「ばばば、バニースーツ!? 朴月さん、どうしたのそんな服!?」

「ザッツライト! どうよ、似合うだろー?」

 

 欲情的な紺のレオタードに、健康的な太ももにしっかりと絡みついた網タイツ。ポップなうさ耳や尻尾と、そこにシックな燕尾のついたベストを纏った、今すぐにでもカジノ辺りで看板を張れそうな、完璧なバニースタイル。

 アダルティックで抜群のプロポーションを惜しげもなく露わにしながらも、いつも通りの堂々としながらも飄々とした姿勢を崩さないスタイリッシュな姫燐の姿は、同性であるシャルをしても、正直ドキッとさせるものがあった。

 そんなシャルを非常に満足気な様子で見やりながらも、背で二回ほど、背後の誰かを呼ぶように姫燐は手を鳴らす。

 

「ほれ、お前らもさっさと入って来いよ。廊下にいつまでも居ると、他の連中にも見られるぞ?」

「う、うむ……ぅ、ま、待て! やはりまだ機というか覚悟が……」

「あ、アンタねぇ……ええい、どうにでもなれ! 行くわよ箒!」

 

 と、二人で渡れば怖くない理論で、鈴は箒の手を強引に引っ張り、室内に突入した。

 

「し、篠ノ之さんまで!? それと確か……中国の代表候補の子も!?」

「や……夜分遅くに失礼する、デュノア……」

「鈴よ、凰鈴音。格好についてはそういう趣味趣向じゃなくて、そこでキモい笑い方してる奴のせいだって先に断言しとくから」

「おっふふふ、アーイイ……遥かにイイ」

 

 まだ羞恥が抜けきっておらず、ガッツリ開いた胸元から色々とこぼれ落ちるのを防ぐよう猫背気味になってモジモジと目をそらす箒と、もう半分以上開き直っていて、小ぶりながらも無駄が一切ない引き締まったボディラインを、惜しげもなく披露する鈴。

 姫燐も含め、全員同様のバニースーツながら、三者三様と断言できるまったく別々の魅力を醸し出しており、シャルも思わず感嘆してしまうほどであった。

 

「これ、朴月さんがみんなの分用意したの? こんなスーツ、結構高いんじゃ」

「大丈夫大丈夫。まだまだあるのに、親父がテストパイロット代ってまた小遣いくれてな。思わず奮発しちまった」

「……オイこら。てことはアンタ、自分のだけちょっと格好いいデザインしてるのワザとね? わざとアタシ達の分には、そのジャケット付けなかったわね?」

 

 んーふー♪ と、少しだけ胸元を隠すようなジャケットの燕尾を揺らしながらも、まさにウサギのようにぴょんぴょんと軽くステップしながら、木刀を構えて固まったままであるメインターゲットへと姫燐は近づく。

 

「よー、いーちかくーん?」

 

 完全に肉食獣のソレな笑みを浮かべ、恰好だけの草食獣は高慢で豊満な自覚を隠そうともしない前かがみで顔を覗き込む。

 

「どーよコレ? お前に見せるためだけに買って来たんだぜぇ? コメントの一つぐらいお姉さん欲しいんだけどよーなー?」

 

 しかし、男のリビドーを全力で挑発するような仕草を網膜へ焼きつけさせても、口をキュッと結んだまま、無言の剣士は不動。湖水のように澄んだ空気を崩さなかった。

 

「……お、おい、一夏? 起きてるよな? 反応ぐらい返せって、おい」

「この何事にも揺らがぬ境地……まさか、明鏡止水だとでも?」

「知っているのか、箒!」

「ああ……無の境地とも同一視されることもある、悟りの一種でな。明鏡とは曇りなき心を意味し、止水とは揺れ動くことのない五体のことを指す。どのような窮地に陥ろうとも、決して淀むことなく剣を振るうことができると言い伝えられる、武の極致だ」

「お、おお……割とよく分かんねぇけど、とりあえずかっけぇな!」

「男子三日会わねば刮目せよと言うが、一夏め。いつの間にか、ここまでの領域へとたどり着いていたとは。流石だ……」

 

 と、なんだか別の漫画のようなノリで目を輝かせる二人とは対照的に、

 

「…………ねぇ、あれ……気絶してんじゃないの、一夏の奴」

「うん……多分、びっくりしすぎて」

 

 リアリストな女子二人は、彼女たちの夢と一夏の名誉を傷つけないよう、互いに小声で事実を確認しあったのだった。

 

 

                      ●〇●

 

 

「『美少女にはバニースーツを着せよ』。実は日本には、古来からこんなことわざがあってな、シャルル」

「そ、そうなの……?」

「はいそこ、ちょっと信じかけない」

「う、うむ。大丈夫だ私も信じかけていないぞ、うむ」

「そこは頼むから、日本人として目を泳がせないで言い切って欲しかったわね」

 

 女三人寄れば姦しいとは故事に言うが、実は女が四人囲んでいるちゃぶ台は、実に華やかに会話の花が咲き誇っていた。

 

「いやいや、もし嘘だとしても、やっぱりバニースーツは着せるべきなんだって絶対」

 

 内容は乙女チックとはかけ離れ、実におっさん臭く下世話ではあったが。

 発端は、やはりというか当然というか、今も彼女たちが身に纏っているコスチュームについてシャルが尋ねたことであった。

 

「シレっと嘘だって認めてまでアホな主張通そうとしてんじゃないわよ」

「ぼ、僕もそこまで拘る部分じゃないと思うけどなぁ……確かに似合ってるけど」

 

 中国代表候補とフランス代表候補の反応は、実に真っ当で渋いモノであったが、

 

「いや……しかし、姫燐の意見にも一理あるのかもしれん」

「おっ、ほら見ろ! 箒はオレの味方だぞ!」

「はぁ!? アンタ正気!?」

 

 日本で生まれ育った箒がここで、姫燐の意見を支持するように挙手する。

 

「このような恰好……ま、まぁ正直、サイズは少々小さいし、デザインは破廉恥だとは思うが……姫燐が用意してくれなかったら、一生着ることなど無かっただろうからな」

 

 それは、箒の中で確かに芽生えつつある、新たな価値観であった。

 この世は、まだまだ自分の知らないことで満ち満ちている。

 今までは興味すら、気付きすらしなかった未知の数々は、一度臆病な手を引かれて触れてみれば、あまりにも極彩で、大きくて、温かくて――見識を深めるこの過程は、いつも、たった今この瞬間も、豊かな何かを箒の胸にもたらし続けてくれている。

 だから――箒は最近、常々こう思うのだ。

 

「こういうのも、一度ぐらいなら悪くないだろう?」

 

 彼女が掴んだ、新しいライフスタイル。

 それを教えてくれた張本人と同じぐらい、箒は今の自分を気に入り始めていた。

 

「箒……お姉さんは嬉しい! よくここまで成長したなぁ!」

「お、大袈裟だぞ姫燐。この程度、いわば心境の変化という奴だ」

 

 自分が変わろうと思えた切っ掛けに、屈託のない笑顔で抱き着かれ、気恥ずかしさから、思わず、戒めようとしている素直じゃない性分が顔を出してしまう。

 

「そうだよ、そういうチャレンジ精神が人生とオレには大切なんだよ! な、実はな? まだまだお前に似合いそうなコスチュームが一杯あってな? 今度ええやろ? 一度だけ、一度だけだからさ!」

「む、むぅ……? わ、分かった、お前がそこまで勧めるなら……」

「言ってることは否定しないし、別に止めはしないけど、ソイツの言うこと何でもかんでも鵜呑みにするのだけはそろそろやめときなさいよ、箒」

「とか言いつつ、お前も着てくれたくせに」

「ええそうよ悪い!? 私もどーせ一夏をダシにされたらチョロイわよ! 出し抜かれると思ったらジッとしてられないわよ! 文句ある!?」

「あははっ、三人とも本当に仲がいいんだね」

 

 逆ギレした鈴が、純情武士子へのセクハラに勤しんでいた姫燐のベストに掴みかかり、三人団子になったようなバニー集団は、どことなくシュールでありながらも確かな絆を傍目からも感じさせる。

 

「べっつに! アタシにとって、こいつらはライバル! それ以上でもそれ以下でもないわ!」

「安心しろ、オレにとってもお前は貴重なちっぱい担当。それ以上でもそれ以下でも、ってこれよりダウンしちまったら本格的に乳じゃなくて板かプププぷブォ!!?」

 

 持たざる者特有の怨恨が籠った右ストレートが直撃し、ダウンした姫燐を一端他所に、嘘だとわかった以上はどういうことなのかと、空いている箒へとシャルは向き直り尋ねると、

 

「む、むぅ……じ、実はだな……い、一夏が……男と男で……お前とだな」

「んんっ、僕? 一夏?」

 

 箒も改まって意識してしまうと、どれだけ前向きに捉えようが今の自分の露出多可すぎる恰好には、やはりどうかと思う部分が強いようで紅潮して縮こまってしまうが、

 

「んー。ああ、なるほど。大体わかったよ」

 

 不器用の通訳に定評があるシャルは、概ね事態を理解して、

 

(一夏に見せに来たんだよね、その衣装)

「ふひゃい!?」

 

 いきなり距離を詰められ耳元でささやかれた上に、意図の一端を的確に撃ち抜かれ、箒の白い肩が跳ね上がった。

 

「うん、とっても着こなせてると思うよ。篠ノ之さん、朴月さんにも負けてないぐらいすごくスタイル良くて普段からしっかりしてるから、間違いなく僕より似合いそうだし」

「そ、そうか……?」

「そうだよ、そう思うよねー」

 

 と、シャルは首をベッドの方へと向けると、

 

「一夏?」

「ふぉうっ!?」

 

 膨らんでいた布団が、電気ショックでも浴びたかのように跳ね上がった。

 

「おっ、起きていたのか一夏!?」

「あ、ああ! いま、ちょうどいま起きたんだよ! ハハハ……」

「うん、そういう事にしとくよ」

 

 実際は、先ほどからピクピクと――特に姫燐が喋るたびに――布団が蠢いていたため、シャルからすれば面白いぐらいに丸分かりであったのだが、息子を見守る母のような面持ちで口を閉ざす。

 

「悪い悪い、いま起きるか……」

「んぁ、起きたのか一夏」

「らヴぃ!!?」

 

 と、起こしかけた体を急速反転させ、再び精神的安全地帯への避難を決行する異様な姿に、バニーガールたちは小首を傾げざる得なかった。

 

「ねぇ、ほんとどうしたのよ一夏。流石に変よ、今日のアンタ」

「ほ、本当に熱でもあるのか……?」

 

 うん、恋って微熱にうなされてるのは間違いないねと、乾いた笑みを浮かべるシャルだが、

 

「ふふふん……? これはこれは、そういうアレかぁ……?」

 

 もう一人、天使とは真反対の邪悪スマイルを浮かべて布団をめがけて唸っている女が一人。今からロクでもないことをしますよと口元で宣誓する、朴月姫燐その人である。

 

「うっしっし♪」

「き、姫燐?」

 

 ひとしきり唸り終わった姫燐は、意気揚々と立ち上がると、一夏のベッドの横に立つ。

 

「一夏ぁ? どうしたんだよさっきからお前さぁ?」

「き……キリ……」

「今日は……来たらマズかったか?」

 

 台詞はしっとりとして感傷的だが、ミリも隠そうとしない卑しさ全開のニヤつきがもう色々と台無しである。

 しかし、顔が見えていないというか、見れない一夏にとっては、また自分の迂闊さが彼女を傷つけてしまったのかと、不必要なまでに深刻に受け止めてしまい、

 

「違う! そういうことじゃ……嬉しい! キリが俺に会いに来てくれて、嬉しいのは嬉しいんだ! とても!」

 

 結構な口の滑りっぷりを披露してしまうが、割と一夏のことを笑えない鈍感っぷりでこれを華麗にスルーすると、

 

「ふーん? なのに顔は見せてくれなくて、茶の一つも出さねぇで布団に籠るってのか?」

「うぐ……そ、それは……悪い」

 

 またまた意地の悪い質問で、一夏を追い詰めていく。

 

「それに、だ。お前、自分がやってることの意味が分かってんのかぁ?」

「お、俺がしてることの意味って……」

 

 いまお前の顔を見ると、爆音で鼓動する心臓が本当に壊れてしまいそうだからと、正直に一夏が告白するよりも先んじて、

 

「女がやってきてるってのに、男がベッドから動かないって事の意味だよ、意味」

「……へっ?」

「つまり、今お前はなぁ……」

 

 彼女が言う意味がまるで分からず、疑問符が突き刺さった胴体に、

 

「このオレを、ベッドに誘ってるってこったぁぁ!!!」

「おぶぉ!!?」

 

 渾身のバニーフライングボディプレスが炸裂した。

 

「オラオラァ! 固くなってるぜぇ一夏ァ!」

「むごっ、むごぉーーーー!!?」

 

 そのままシーツごと包むようにガッチリと、それでいて柔らかな肢体で抱きしめられ、声にならないくぐもった悲鳴が内側から鳴り渡る。

 

「ほれほれ、逃げ場なんてねぇぞぉ?」

 

 もはや半分パニックになりながらも、怪我だけは絶対にさせないように加減を心得て抵抗する一夏であったが、マウントを取られ、しかも手足でガッチリとシーツ上から拘束されてしまった現状から脱出するにはあまりにも半端で力不足。

 結果、殆どなすがままに、姫燐のワガママボディを堪能させられてしまう。

 

――間違いねぇ!

 

 顔を見せた瞬間気絶。起きてるのに顔を出さない。意地でもオレを直視しようとしない。

 どれもが、今まで付き合ってきた一夏のパターンから逸脱している今日の現状に、姫燐はある答えを確信しつつあった。

 

――こいつは……こいつ絶対に……!

 

 織斑一夏は、間違いなく、この朴月姫燐が――

 

 

――バニー萌えだなッ!!!

 

 

 ……着ているバニースーツ大好き人間なんだなと、救いようがなく勘違いしていた……。

 

(いやー、分かる、超わかるマン。自分でも結構エロカッコよくキマったって思ったしなぁ♪)

 

 いつもはこんな女体パラダイスで涼しい顔をしているアイツが、ここまで取り乱しているのだから、自分は間違いなく萌えの急所をぶち抜いたのだろうと、姫燐は残念なことに疑問すら抱く余地無く信じ切っていた。

 本当に効果が抜群なのはバニースーツではなく、自分自身である可能性など微塵も考えておらず、色んな意味でノーガードなセクハラを続けていく姫燐。

 胸を押し付け、手を這わせ、足を絡ませ、

 

(……やっぱ鍛えてんだなぁ、これ本気で抵抗されたら振りほどかれちまうかも)

 

 以前、抱き着いた時とは比べ物にならないぐらいガッシリとしてきた肉体に感嘆しながらも、それはそれとして性的ハラスメントは一切緩めないが。

 しかし当人としてはホモチェック半分、イタズラ半分でやっていることであっても、被害者からしてみればたまったものではない。

 

(近い柔らかい暖かい匂い甘い声が近い圧が凄い息が近いィ!!!)

 

 シーツ越しに姫燐という存在すべてを味あわされている現状は、今現在の一夏にとって、控えめに言っても生殺しの拷問であった。

 意識がショートしかけるほどのスパークが全身を突き抜けていき、完全にフリーズした体は、異様にやかましい心臓以外まるで動かせないまま縮こまる。

 もはやされるがままで、なすがまま。どこまで行くのか被害者は無論、加害者も割と考えていない不健全的一方通行同伴は、

 

「な、なにやってんのよ姫燐んんんんんッ!!?」

 

 外部からの接触により、さらに混迷を極めようとしていた。

 大胆かつ不適で、不潔なプロレスごっこを急に始めた姫燐の背中に、マジギレ気味な中華的検閲は引きはがすよう腕を伸ばすが、

 

「んんっ? そうだ良いこと思い付いた」

 

 と、無駄に発達した反射神経で掴み取られてしまい、

 

「ほい、もう一名追加入りまーす」

「なっ、ふぎゃ!?」

 

 そのまま力尽くで引き寄せて抱き込まれ、軽々と鈴は、一夏と姫燐の間にサンドイッチされてしまった。

 

「あ、わわわわわわわ……!!?」

 

 ミイラ取りのミイラにされてしまい、今度は鈴が一夏と同じ目に合う番であった。

 好きな男と、シーツ一枚と薄くピッチリとしたバニースーツ程度の薄着で、ベッドのうえ寄り添いあう。

 間違いなく、鈴にとっての歴代レコードを、大幅に更新する距離感の近さ。

 

(ほれほれ、こんな機会滅多にないんだし、今のうちに堪能しとけって、な?)

 

 余計な老婆心をひけらかし、後ろからは当て付けのようにあれこれ大きいウサギがこちらを圧迫してくるが、後ろがパックリ開いたバニースーツだと、その感触を地肌で受けることになり、それがまた妙に背徳的で鈴のあれこれをチリチリと炙っていく。

 

――あ……これ、ヤバい奴だ……。

 

 と、鈴の危ないスイッチが入りかけてても、一夏は銅像であり、姫燐は鈍感、残り二人も現状についていけずオロオロしているだけとくれば、もう爆発するしかねぇと未来は収束した……、

 

「はっはっは、そう照れんなよ。お姉さん、女は肉食系でナンボだと思うぜぇ?」

「そうかしら? お姉さん、女の子には慎みも必要だと思うわぁ」

 

 かに、思えた。

 

「と、く、に、破廉恥な服装で、男の子も女の子も困らせちゃうような小悪魔な妹ちゃんには、ね」

「え、げぇっ!? かたねぎゃぁぁぁぁぁぁ!!?」

「楯無さん!?」

 

 本日二人目の不法侵入者は、自分より体格がいいように見える姫燐を軽々とベッドから引き離すと、即座に隣のシャルが使っているベッドへ、共になだれ込んだ。

 

「はーい、お説教にお仕置きの時間よぉヒメちゃん。なんでかは、分かるわよねぇ?」

「や、やめっ、そこに指入れんなぁぁっ!」

 

 今日はガチだと言わんばかりに、いつも張り付けている茶目っ気たっぷりの笑みではなく、反省を促すような呆れ顔で、バニースーツの谷間に指を滑り込ませていく楯無。

 

「もう、こんな露出ばっかりの節操ない格好でベタベタと引っ付いて……あんまり一夏くんを困らせちゃダメじゃないの」

「……自分はそういうの大好きな癖にゃぁぁぁ!!?」

 

 割と都合の悪い反論を、右腕ごと姫燐の谷間に埋め込んでいく。

 

「私はいいの。更識当主であり、生徒会長であり、ロシアの代表操縦者。そしてなにより、お姉さんだからセーフなの」

「うっわズりぃー……」

 

 お姉さん万能論に白い眼を送りながらも、正座を言い渡されしぶしぶと従う姫燐。

 楯無も対面に正座して扇子を開く。文字はまさしくこれから行う『説教』の二文字であった。

 

「まず最初になんだけれど、別にお姉さん怒ってるわけじゃないのよ?」

「それ怒ってるやつの常套句だよな」

「無論、これからのヒメちゃんの態度次第だけれど」

 

 目にも止まらぬ早業で頬をつねり、「ふぁい」と素直な返事を引きずり出して続ける。

 

「お姉さんはね、ヒメちゃんのことがとってもとっても心配なの」

「はぁ」

「ヒメちゃんってば、昔から行動力に溢れてて、元気いっぱいでとっても可愛らしいけれど、同じくらい何をするのか分からないし、危なっかしいし、ちょっと天然さんだし……」

「いやいやいや……昔は仮にそうだったとしても今のオレは前とは」

「ふむ、正鵠を得た見解だな」

「さすがお姉さんだね、朴月さんをよく見てる」

「お前らッ!!?」

 

 この学園からの付き合いにも色々と酷い見られ方をしていて、少なからずショックを受けながらも今回は素直にはい、はいと言い切れない理由がある。

 面白半分なのは否定しないが、これのもう半分は重要な検証でもあるからだ。

 

「でも、かた姉。オレだってなんも考え無しでこんなことしてる訳じゃ」

「でもじゃありません。まずは一夏くんと鈴ちゃんにごめんなさいでしょう?」

 

 なのに、こうも真っ向から頭ごなしに否定されれば、相手がかた姉であっても――いや、相手のことを誰よりも認めているからこそ、認めてもらえない事には、どうにもカチンとくる物があった。

 

「ふん……べっつにー、アイツら喜んでたと思うけどな、オレは」

「ヒメちゃん!」

「確かに、オレはアンタにとっちゃ『色々と』悩みの種かもしれねぇけどよ。私生活までアレコレ口出しされる言われは無いっての!」

「そ、それは……」

 

 いつの間にか正座を解いて胡坐をかいていた姫燐から、今までにないほど拒絶され、普段はいくらでも詭弁を並べられる楯無の舌が縺れてしまい、

 

「ふんっ、前々から思ってたけど、とにかくかた姉はオレ達をガキ扱いしすぎなんだよ。相手のプライドとか考えずにさ」

 

 代わりに姫燐の、怒り交じりの感情的な否定は止まることを知らず、日頃の鬱憤をぶちまけるような形にも発展していってしまう。

 更識でもない、生徒会長でもない、ロシア代表でもない、一人の姉へと投げかけられた憤りに何を諭し、どう導いてやるべきなのか。

 

「そんなんだから……」

 

 答えに行き詰まった楯無の胸に、それは、

 

「カンの奴にも避けられるんじゃねぇか」

 

 核心を突く棘になって、深々と、突き刺さった。

 

「……………ふん」

 

 ちょっと言い過ぎた。とは思うが、間違ったことも嘘も言ってないと、意固地に鼻を鳴らして姫燐は目をそらす。

 楯無の方も無地になった扇子で顔を隠して無言を貫き、表情が伺い知れない状態であり、会話はこれで途切れてしまった。

 後に残ったのは、重苦しい静寂と、事情を知らないため何も言えない外野たち。

 こういう時に真っ先に空気を入れ替えてくれる二人が起こしてしまった ケンカは、このまま互いに溝を残したまま……、

 

「キリ」

 

 終わってしまうかに、見えた。

 

「……あん?」

 

 ゆらりと、横に立っていたのは、意外にもずっとシーツに籠っていたはずの一夏だった。

 

「な、なんだよ……」

「…………」

 

 彼らしからぬ、表情筋が死んだ真顔で見下ろされ、不機嫌よりも先にうすら寒いものを感じ取りながらも、腕を組んで睨み返す姫燐。

 

「オ、オレは間違ったこと言ってねぇからな。お前はカンに会ったことないだろうけど」

「そこは、いい」

 

 楯無に関しては確かに、一夏も姫燐の言い分に納得できるものがあったので、口を挟む気はない。

 しかし、そこにはなくとも、この一件だけは口出ししない訳にはいかなかった。

 

「俺が、一言、言いたいのは、だ……」

 

 大きく息を吸い込み、吐きだし、

 

「ああいう事を急にされると、危ないってことだ」

 

 抱き付くことの何が危ないのかと姫燐が聞き返す前に、一夏は喰らい付くような機敏さで、

 

「それってどういう」

「反省して……もらうからな」

 

 

 姫燐を――力任せに、抱きしめた。

 

 

「ぶっ……」

 

 不意打ちすぎる、自分よりも体格の優れた男からの、強烈な抱擁。

 正面から受けてしまったそれは、姫燐の柔らかな身体など軽々と押しつぶし、制服越しとはいえ、バニースーツ越しとはいえ、熱によって溶け、二人という根幹を越えて一つになってしまったかのような錯覚を容易く引き起こしていく。

 

「ぉぐっ……!」

 

 痛みに喘ぎが漏れるが、苦痛など感じてしまう前に、五感が畳みかけるような『男』という情報に飲み込まれていく。

 零の匂い、肉の固さ、呼吸のリズム、心臓のドラム。

 異性に抱きしめられるなど、父親以外には当然のように初めてな姫燐にとって、そのどれもが耳元で絶叫されるような鮮烈さを伴って感知されていく。

 

「どうだ……何もできないだろ」

 

 耳元で囁かれる、聞きなれているはずの声すらも、麻酔薬のように自由を奪うが、それでも異常の中で切り離された冷静さが、どこかで確かに納得した。

 これは、確かに危険である。

 己が溶かされていき、踏み込み過ぎれば二度と戻れない確信があるのに、その帰結を感情的な何かが否定しない。

 本能的な危機と――甘美であった。

 

「俺も、今度同じことされたら、加減できるか分からないからな……」

 

 瞬間、半身が引き剥がされたような凍えが、地肌に刺さる。

 一夏が自分の身体を放したのだと彼女が理解するには、ほんの僅かだが時間を有した。

 

「今後は……もう少し自重してくれ」

「あ、へ…………はい……」

 

 へにゃりと、骨格を引き抜かれてしまったかのように動かない体で、部屋の外へと出ていこうとする一夏を呆然と見送る。

 姫燐も、箒も、鈴も、シャルも、楯無すらも。

 全員が全員、眼前で繰り広げられた現実を処理しきれず、出ていく男を止める女は誰一人として、いなかった。

 すっかり夜になり、人通りがなくなった寮の廊下を、一夏は早足で歩く。

 

――ああ……そう、だったんだな。

 

 まだ全身で覚えている残り香が、霞かかっていた世界を払拭して、織斑一夏の欠け落ちていた部分を余すところなく満たしていく。自分が向くべき方向を指し示している。

 半ば衝動的に掴み取ってみた、彼女の総て。

 たった一度だけでは飽き足らない、何度でも求めてしまうこの衝動が、答え以外の何だというのか。

 

――やっぱり俺は、キリが……好き、だったんだな。

 

 愛しき人を護る。

 織斑一夏の夢はようやく、ただ一人のための剣へと、その姿を孵ようとしていた。

 




 やりたいイベントが多すぎてまるでシャル編が終わらんぞ!


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第36話「そして暮れゆくアフター・グロウ」

 六月も半ば。ジメジメとした気候だとしても、湖を中心に作られた、IS学園庭園内かけられたこの橋の上は、ひんやりとした冷風が頬を撫でる人気スポットだ。

 しかし空模様は、夜からは強い雨が降るだろうと言っていた天気予報通り、分厚い雲が立ち込め、煌びやかな星々を覆い隠し始めている。

 となれば、こんな時に外で風に当たりにくる人間は酔狂と呼ぶ他なく、確かに織斑一夏の胸中は、酔いしれ狂ってしまいそうであった。

 首から提げた片翼のネックレスを胸で握りしめ、手摺にもたれ掛かる。

 街灯が照らすその井出達は、どこか触れがたい、神秘的な冷たさが宿っていたが、

 

「キリ……」

 

 唇から続いていくその内側には、この瞬間にも溢れんばかりの愛情の熱が沸き立っていた。

 

「俺が好きで……アイツを愛していた、か……」

 

 かといって、頭も逆上せ上っているかと問われれば違い、

 

「ああ、ようやく納得できたよ……全部さ」

 

 目の前に広がっていた複雑な迷路が、一瞬で全て吹き飛んでしまったかのように、思考はどこまでもクリアに澄み渡っていた。

 無意識に浮かび上がる笑み。

 それは、どうして今までこんな簡単で大切なことに気づけなかったのかという自嘲が多分に含まれており、

 

「いや、ほんと笑うしかないんですよ――楯無さん」

「あら……?」

 

 振り向いて、こちらに近づいていた人影に、思わず同意を求めてしまう。

 完全に不意を打たれた形で声をかけられた楯無は、目を丸くし、

 

「お姉さん、割と気配を消してたつもりだったんだけれど」

「今日の修行の成果……って奴ですかね。観えた気がしたんです」

 

 見るのではなく、『観る』。

 水面に刺したわずかな影を観ていた一夏は、誰かが自分に近づいてきていることを、事前に察知出来ていた。

 それが楯無であると分かった訳は――なんとなく、と言葉に出来なかったので黙っておくが。

 

「ふぅ……あんな程度のアドバイスだけで気を掴まれちゃうだなんて」

 

 一夏の成果を、呆れるでもなく、褒めるでもなく、

 

「今日はお姉さん、ほんとダメね……」

 

 今はそんな余裕もないと、楯無は一夏の隣に立って、手摺に深いため息を吹きかけた。

 

「楯無さん……」

「さっきはごめんね、一夏くん……正直、助かったわ」

 

 それを言いに追いかけて来たのだろうかと一瞬脳裏を過るが、どうやら違うようだ。

 俺とはまた別の理由で、楯無さんも頭を冷やしに来たのだと。

 鈍い一夏ですら察せるほど、今の楯無からは、いつもの飄々とした雰囲気や、只者ではないと語らずとも語り掛けてくるような覇気が、まるで感じられなかった。

 

「さっきって、キリのことですよね」

「ええ……」

 

 少し、言い淀むような、こんな事を聞くのもどうかと躊躇うような、僅かな間。

 変なところで会話が途切れようとも、続きを催促せずに待ってくれる一夏を、横目でもう一度だけ楯無は見やって、

 

「一夏くんにとってね……織斑先生って、どんなお姉さん?」

 

 もう一つの名の心金を、ほんのわずか、さらけ出した。

 

「俺にとっての千冬姉、ですか?」

 

 会話の内容がガラッと変わっても、一夏は嫌な顔一つせずに真剣に考えこみ、

 

「やっぱり非の打ち所がない、理想のお姉さん?」

「いえ、それはまったく」

 

 楯無の問を、バッサリと叩っ斬った。

 

「洗濯物はいつも脱ぎ散らかしてますし、洗い物はたまにしかしてくれないですし、掃除すると大体なにか壊しますし、何度湯冷めするって言っても風呂上りはパンツとタオルでふら付きますし、愛好してるビールを買い忘れてると自分のせいなのに途端に不機嫌になりますし、理想かどうかって言われると大分違いますね」

「えっ……えっ、ちょっ」

「それに本当に偶になんですけど、学園でもシャツがちょっとシワ寄ってる時がありまして、アレ絶対にクリーニングとか洗濯に出さずに前の日着てた奴をそのまま」

「ストップ! 一夏くんストォォップ!」

 

 知った者は例外なく消されそうな、この世で最も危険な最高機密をマシンガンで語り始めた一夏の口を大慌てで戒め、楯無はまるで肉食獣の巣に放り込まれた時のような切迫さで周囲を見渡し……、

 

「一夏くんごめんなさいね。質問が悪かったわね、聞き直すわね、お願いだからこれ以上言わないでね」

「あっ、はい」

 

 悪意はないのが分かっていても、心臓に悪すぎる一挙手一投足に、久方ぶりに止まらない冷や汗をぬぐいながら、もう一度仕切りなおす。

 

「一夏くんは、織斑先生のこと、お姉さんとしてどう思ってる?」

「姉として、ですか」

 

 それこそ、一夏には迷う必要などありはしない。

 先ほど散々こき下ろしたが、それでもやはり彼にとって織斑千冬は、

 

「大切な家族、ですね。ちょっとズボラでも、やっぱりこんなに胸を張って自慢できる姉さんは、千冬姉だけだって思いますよ」

「そう……本当に織斑先生が大好きなのね、一夏くんは」

 

 微笑ましさを宿した柔和な笑みが浮かび……すぐに、沈み込み、

 

「こんなにも弟さんに好かれて……私とは、大違い」

 

 どこか観念したような様子で、抱えてきた、抱え込むのが辛くなってしまった心情を吐露した。

 

「やっぱり、私ってお姉さんとして、ちょっとダメなのかも」

「前に言ってた、簪さんの事ですか?」

「ええ、少し前も、ヒメちゃんとまた喧嘩しちゃったらしいのよ、簪ちゃん」

「えっ……キリが簪さんと?」

 

 昔はいつも虐められていたという事は聞いていたが、今の怒りはするが喧嘩は滅多にしない姫燐が、未だにそこまで突っ掛かる簪という少女に、どうしてもいい印象は抱けない一夏であったが、

 

「あっ、勘違いしないであげてね。簪ちゃんはね、とってもいい子なの」

「そうなんですか?」

「そうなのよぉ。ちょっとだけ引っ込み思案だけれど、愛らしいし、私の十倍ぐらい真面目だし、辛い鍛錬にだって絶対に根を上げないガッツもあるし、好きな先生にはファンレターを欠かさず毎号送るし、握手会にはいっつも三時間前には並ぶし、ブログだって毎週日曜日はちゃんと更新してるのよ?」

「え、あ、それはすごい? です、ね」

 

 後半の方はなにが凄いのかイマイチ分からなかったし、不仲であるはずなのにどうしてそんなにプライベートに詳しいんだろうと疑問も過ったが、簪さんが彼女にそこまで愛情を注がれる存在であるのは間違いないだろうと一夏は頷いておく。

 

「責められるなら、それは私。私がもっと、しっかりしないといけなかったのに……」

「楯無さん……」

 

 楯無と、簪と、姫燐の関係性。

 既に一夏は、健全とは言えなかった彼女たちの過去を、初めて会った時に教えてもらっていた。

 

「簪ちゃんから逃げて、ヒメちゃんに甘えて……大切にしていたつもりだったのに、そのヒメちゃんにまでとうとう嫌われちゃって……」

 

 一度落ちた石が、歯止めなく転がっていくしかないように、陥った自己嫌悪はどこまでも止まることが無く、

 

「ほんっと……ダメダメねっ、お姉さん失格だわ、私」

 

 ケラケラと、救いようのない無能を笑い飛ばすように、楯無はおどけてみせた。

 そして、次の瞬間には、またいつも通りに背筋を伸ばして、

 

「……聞いてくれてありがと、一夏くん。吐き出したら……ちょっとスッキリしちゃったわ、もう大丈夫」

 

 お姉さんとして出来損ないであろうとも、どこまでも『楯無』を全うするために、見えざる糸で身体を動かす人形師は、一夏に背中を向けて歩き始めた。

 その後ろ姿は、空ろで、悲しく、傷だらけで、それでいながらも立ち止まる選択肢が許されない。彼女に賭された宿命の重さを表しているようで、

 

「待ってください、楯無さん」

 

 だから、このまま放っておける訳が無かったのだ。

 この、織斑一夏という心優しい青年には、特に。

 

「一夏、くん?」

 

 後ろ手を掴まれて楯無は振り返るが、一夏が触れたいのは、ここではない。

 楯無の裏側に潜む、かた姉に、一夏はどうしても言ってやらねばならない言葉があった。

 

「俺は……理想のお姉さんって何なのか、妹さんとどうやって接すればいいかなんて、さっぱり分かりません」

 

 誰かの姉でもなく、妹も居ない自分には、きっと彼女が納得できる答えなんて用意できない。

 しかし、これは、これだけは間違いなく一夏は断言してやることができる。

 

「でも、キリは、絶対に楯無さんの――姉さんのことを嫌いになんてなっていません」

「えっ……?」

「言わせてください、これだけは、絶対です」

 

 同じく姉を持つ弟として、彼女をずっと見てきた存在として、家族を心から愛する男として、絶対の自信をもって言い切れる。

 

「で、でも私、ヒメちゃんの言うこと聞いてあげなくて、喧嘩しちゃって……」

「そもそも弟や妹っていうのは、普通こんなもんです。俺だって千冬姉と口喧嘩ぐらいたまにしますし、俺のダチ……兄貴なんですが、そいつに至ってはしょっちゅう妹さんに罵倒されながら蹴り飛ばされてますよ」

「け、蹴り飛ばされてるの!? 妹さんに!?」

「はい、割と日常的に」

 

 簪や姫燐にしょっちゅう蹴り飛ばされる自分を一瞬イメージし――まるで実感が湧かない、想像もつかないような光景が繰り広げられる家庭の存在に、カルチャーショックが止まらない楯無。

 

「でも、そんな風に喧嘩しても、やっぱり最後には嫌いにならずに仲直りしてるんです」

「それは、どうして?」

「ま、まぁ、口ではうまく説明できないんですけど……そうしなきゃって、みんな自然に思うんですよ」

 

 と、一夏は後ろを振り向いて、

 

「……なぁ、そうだろ? キリ」

「えっ……?」

 

 着の身着のままなバニースーツのまま、こちらへと小恥ずかしそうな足取りで近づいてきていた赤い髪の少女へと、語りかけた。

 

「……言うんじゃねぇよ、バー……じゃなくて」

 

 コソコソと近づいていたのがバレてバツが悪そうに、一夏も、楯無も直視しようとはせず――しかし足取りは迷いなく、真っ直ぐに近づいてきて、

 

「その……二人とも……ごめん、なさい」

 

 ボソッと、そうしなければならないことを、姫燐は口にした。

 

「俺はもういいよ。ほら、だから楯無さんに」

「わ、分かってるって……」

 

 改めて姫燐は、一夏に背中を押される形で、まだ状況を掴み切れていない楯無の前に立って、

 

「オレ……その、自分のやってること、重要な事だって思ってたから、それをかた姉に否定されて……つい、ムキになっちゃって……かた姉が心配してくれてるの、分かってたのに」

 

 ぽつり、ぽつりと、冷静さを取り戻した頭で反省し、

 

「カンのことは、オレも悪いのに……ほんと、言い過ぎた。ごめん、かた姉」

 

 今度は、真っ直ぐに楯無を見て、許してほしいと呟いた。

 

「………………」

 

 その瞳が、楯無の中で過去と重なる。

 四年前のお姫様と、さらに昔、本当に昔のまだ――目の前に居てくれた頃の、簪の瞳。

 やり直そうと、一緒に居ようと、家族なのだからと、確かな愛が繋いでくれていた、あまりにも尊く、遠い、思い出の瞳。

 戻れるのだろうか。戻る資格があるのだろうか。

 建前と臆病と逃避の沼に旋毛まで浸かっておきながら、妹たちの前で、厚顔にもまだお姉さんを名乗れる資格があるのだろうか。

 答えは――

 

「楯無さん」

 

 既に、彼が示してくれていたではないか。

 

――ええ……そうね、そういう事、なのよね。

 

 彼がうまく口に出来なかった解答を、楯無の心は既に悟り始めていた。

 きっと、妹たちが求めているのは、完璧なお姉さんじゃないのだと。

 臆病でも、ズボラでも、足蹴にされようとも、ただ求められているのは――確かな絆と、愛であり、そこに完璧さを気取る必要など無いのだと。

 ならば、こうして迷うことすら過ちであるならば、

 

「ヒメちゃんっ!」

「わぶっ!?」

 

 楯無は姫燐の体を抱き寄せ――強く、強引に、不格好に抱きしめた。

 

「ごめんなさい、私こそごめんなさいねぇ! ヒメちゃん、ヒメちゃんヒメちゃん!」

「ぢょ、かた姉痛い痛い痛いっ!」

 

 更識十七代目頭首のガチなハグは粗雑で、割と手加減がなく、もはやプロレス技めいた締め技と化していたが、

 

「分かった、分かったから! な、お互いこの件はもう水にだだだだだ!」

「ええ、ええ! お姉さんも、もうぜんっぜん気にしてない! ずっと大好きよ、ヒメちゃぁぁん!」

 

 消えることのない絆は、確かに伝わっていると、一夏には見えた。

 

「一件落着……で、いいのか、これ」

 

 割と本気で痛がっているのに気づいてなさそうな楯無の様子に、これはこれで別の喧嘩に発展しそうな予感は感じているが……まぁきっと、この姉妹ならもう大丈夫だろうと、一夏は微笑ましさを感じながら、やはり逆上した姫燐を宥めることにした。

 

                   ●〇●

 

 慣れると意外とこの季節、胸元が涼しくていいかもしれない。

 などと、自分でも若干アホなことを考えている自覚はありながらも、鈴は未だバニースーツのまま一夏の部屋で、出された緑茶をすすっていた。

 ちゃぶ台に頬杖を突き、どうでもいい内容のテレビを見ながら湯飲みをあおる姿は、バニースーツの魅力が完全に消えるほどにリアリティある中年めいていたが、不思議とそれが醜いと思えないのは、凰鈴音の持つ稀有で世俗的な魅力であると言える。

 

「な、なぁ……鈴」

「なによ」

 

 一方箒は、胡坐をかいている鈴とは逆にきちっと正座を崩さず、緊張したような面持ちでせわしなく目を泳がし、同様に未だ着たままのバニースーツにむっちりと押し込められたままのワガママボディが窮屈で息苦しくて仕方ないといった様子であり、

 

「い、いつまで、私たちはこの姿で一夏の部屋に居るんだ……?」

 

 控えめに言っても、アレなお店の一室で客待ちをしているようにしか見えなかった。

 もう色んな意味で目に毒な衣装の箒とは悲しいほどに対照的に、同じデザインでも部屋着か何か程度しか思えなくなってくる鈴は、不快感を隠そうともせずお茶を一気飲みし、

 

「知らないわよ。議長に聞きなさい議長に」

「ぎ、議長は一夏と更識会長の後を追って出ていったまま、戻ってこないではないか……!」

 

 今回の作戦を強行した議長こと姫燐は、すでに現場を捨てて別行動したまま音信不通。

 残された実行部隊たちは、それぞれの思惑によって命令に背くことも出来ず、この場に立ち往生するしかなかったのだ。

 

「あー、最悪。一夏の性癖なんて、確かめるまでもなかったじゃないやっぱり」

 

 鈴は、もはや絶望的な戦局を改めて見せつけられ若干投げやりになっており、

 

「そ、そう、だな。いいいい一夏の奴、姫燐が言った通り、こういう服がすす好きなのだな……」

 

 箒としても、あそこまではいかなくとも、好きな男に今の頑張っている自分を褒めて欲しいという、いじらしい乙女心から、まだ着替えたくないとこの場に留まる選択をしていた。

 だが、鈴からしてみれば、その無知故のいじらしさは、同じぐらいに……痛ましい。

 

「……箒、ちょっといい」

「な、なんだ、急に改まって」

 

 だらけきっていた態度を一転させ、真っ直ぐに自分を見つめてくる鈴。

 剣呑な何かを感じ取って、箒は背筋を今まで以上に張り詰める。

 

「あんたさぁ、今もほんとに一夏のことが好きなの?」

「あ、当たり前だ! 急になんなのだ、いったい」

「じゃあさ、一夏が姫燐の奴とあんなにイチャイチャしてても、どうとも思わないわけ?」

「む……それは……」

 

 どうとも思わないかと尋ねられた本心は、そんな訳がないと叫ぶ。

 姫燐が居る場所が、彼の一番近くが、自分だったらどれほど喜ばしく幸福か。

 遠く眺めているだけなのが、どれほど悔しく惨めかなどと、言われなくても分かっている。

 

「正直、不思議でね。少し前は一夏とちょっといい雰囲気になってたら、問答無用で実力行使に出てたじゃない。どうしちゃったのよアンタ?」

 

 だから嫉妬を燃やし、その仄暗い炎が盛るまま、狂悦を伴う刃となって一夏や姫燐を傷つけるのは――

 

「……違う、と思ったんだ」

「何がよ」

 

 なにが正しくて間違いなのか。その判断を直感的かつ瞬時につけられる人間は確かに存在し、箒も同じく、細かい建前や理屈で正否を問いかけるより先に、既に確かな答えを本能的な感性が用意してあるタイプであった。

 

「私も……姫燐と共に居るのは好きだからな……一夏をそれで責めるのは、なにか違うと思ったんだ」

 

 こうして口にしてみて――箒は、我ながら驚きすら感じてしまうほどに、少し前は一夏以外のことを何も考えていなかったと自嘲する。

 幼少期に一夏と別れ、転校を繰り返し、篠ノ之の名に指差され……他人に怯えるだけの毎日が生み出した、厳めしさと頑なさだけの、張子の虎。

 ありのままの篠ノ之箒を見てくれるのは彼しか居ないんだと決めつけた、空虚なコケ脅し。

 そんなくだらない思い込みごと、あっさりと自分を創り変えてくれた、可愛らしい魔法使いが居る。

 魔法、そう、まるで魔法のように。

 友達、クラスメイト、剣道部員。

 彼女が開いてくれた道の先は、どこまでも鮮やかで、華やかで、暖かで。

 空っぽだった本当の自分なんて、どうでもよくなるほどに満たされていて……。

 

「む、むろん、一夏のことは今でも好きだ。だが……姫燐は違うだろう?」

「まぁ、そりゃそうなんだけど……レズだし、アイツ」

「そうだな、れず? だ」

 

 まだ慣れない単語であるが、意味は忘れるはずがない。

 同性愛者。女性なのに、女性が恋愛対象として好きな人種。

 彼女からそれをカミングアウトされた時、箒は驚くよりも先に、友を理解できたと嬉しく思うより先に、何よりも――深い安堵を、覚えていたのだから。

 

「だったら、なにも問題はない。あの二人が付き合うことは絶対にないんだ。そう思えば、犬のじゃれ合いみたいなもので、なかなか愛らしいものだろう?」

 

 あれも写真に収めておくべきだったなと一人頷いて、

 

「だから、変わらないさ。これからも私たちは――なにも」

 

 鈴に向かって、そう、箒は言い切った。

 

「…………そ、アンタがそれでいいなら、私は何にも言わないけどね」

 

 それっきり言い捨てて。

 もう興味は失せたと言わんばかりに、鈴はまた湯飲みへと手を伸ばし、テレビに向けてすすり始めた。

 

(大丈夫……)

 

 ……この世には、直感的にモノの区別を付けられる人間がいる。

 

(変わっていないんだ、私以外は、何も)

 

 箒もそういった分類の人間であり、自分の願いからは、致命的に歪な何かを感じ取っていたが……彼女は、それを黙殺することに、決めた。

 鈴と話したことで、若干緊張もほぐれ、何よりも単純に喉が渇いたため、箒も淹れてもらったお茶へと口をつけ、

 

「む、美味いな」

 

 いい意味で意表を突かれた舌が、自然とコメントを残した。

 

「これはお前が淹れたのでは無かったな、鈴」

「違うわよ、それ淹れたのは」

「二人とも、ごめんね。やっと出来たよ」

 

 奥から聞こえる、このお茶を振舞ってくれた本人の声と、甘く香ばしい焼き菓子の臭いに、箒と鈴は二人して振り向く。

 

「はい、スコーン。チョコを溶かすのに、ちょっと時間かかっちゃって」

「ほう、顔文字か」

「なかなか凝ったことするじゃない」

「えへへ、プレーンじゃちょっと味気ないかなって」

 

 シャルが持ってきたスコーンには、スマイルマークがチョコで可愛らしく描かれており、見た目としても味としてもなかなか洒落が効いたアクセントとなっている。

 早速、鈴が一つかじってみて、

 

「……これ、まさかアンタの手作り?」

「うん、そうなんだ。昼にちょっと食べたくなったから作ってみたんだけれど……ごめんね、変な味した?」

 

 形が不揃いであったことや、鈴も慣れ親しんだ一般的な薄力粉やマーガリンの味がしたための推測であったが、

 

「いやいや、普通に美味しいわよ? ちょっと驚いただけ」

「良かった。一夏たちの分は別にしてあるから、どんどん食べてね」

「む、確かに美味いが、いいのか? なかなか手間がかかっていそうだが」

「実は案外そうでもないんだよ? 予熱が必要だから、オーブンは必要だけどそこは調理室でちょっと貸してもらってね」

「ふむ、ふむ」

 

 と、つらつら淀みなく、スコーンの簡単な作り方を解説し始めるシャルルに、二人とも思わず興味津々と聞き入ってしまい、

 

「チョコペンだって、小さめのビニール袋があれば必要ないんだ。コツはちょっといるけどね」

「なるほど、なるほど……」

「普通に参考になったわ。普段スイーツは作らないんだけど、そんなに簡単なら今度アタシもやってみようかしら」

「なにか分からないことがあったら、いつでも聞いて。僕も時間があったら手伝うから。あ、お茶のおかわりも持ってくるよ、またグリーンティーでいいよね?」

「へっ? あ、そのぐらい自分でや……行っちゃった」

 

 二人の湯飲みが空であることに気づいたシャルルは、そそくさとまた洗い場へと戻っていった。

 ただ私情で部屋に居座っているだけの人間に、この至れり尽くせりっぷり。

どことなく背中がむず痒くなってきたバニーガール達は、互いに小声で緊急円卓会議を開始する。

 

(ね、ねぇ……アタシ達、シャルルに何かした……?)

(い、いや、別段心当たりはないが……)

 

 どこかの貴族ことフランス代表候補なら気にもかけなかっただろうが、こういった献身に慣れ親しみが皆無である一般ピープルな二人からすれば、彼の言動に何か裏を勘ぐってしまうのは無理らしからぬことであった。

 

(じゃあアイツ、なんであんなウッキウキでニッコニコなのよ……正直怖いんだけど)

 

 初めは鈴も、シャルルは男卑女尊な世相に負けるような輩であり、率先した奉仕も男である自らを貶めるが故かと考えもしたが、

 

(……単に、世話好きなだけではないのか?)

(やっぱり……そうなるわよね。アレ、絶対に素よね)

 

 彼の仕草や立ち振る舞いからは、後ろ暗い媚や卑屈さなどが皆無であり、至極単純に好きなことを好きだからやっている人間特有の、満ち満ちた活力のようなものを二人とも感じ取っていた。

 無論、それ自体を悪く思うつもりは無いが、どうにも、それは、

 

(なんていうか……アイツ、本当にデュノア社の一人息子なの? このスコーンも、人にレシピ教えられるぐらい、めちゃくちゃ作り慣れてるみたいだし。お菓子作りが趣味の御曹司?)

 

 シャルル・デュノアという男が掲げている看板からは、どうにも相応しいと思えない言動ばかりであった。

 

(むぅ……そういう人間も居る……というには、少し、な)

 

 最近はいくばか人を肯定的に捉えるようになってきた箒もさすがに、ここまで大きな略歴と人柄の食い違いには眉をしかめてしまう。

 一度疑念が纏わりついてしまったら、些細な機微にすら目についてしまうのが人間の性であり、

 

(そもそも……男というのは皆、バニーガールを前にすれば正気を失うモノではないのか? だというのに、シャルルはずいぶんと平静を保っているように思うが)

(それ正直かなり曲解してるけど……そこも、ちょっと変よね)

 

 語れるほど経験豊かな訳でもないし、姫燐の言うことを真に受けている訳でもないが、少なくとも自分たちが、俗な言い方だがエロい恰好をしているぐらいの自負は鈴にもあった。

 客観的に見ても、自分はともかく箒は、もう神聖な学び舎に居ていいレベルを遥かにぶっちぎっていると言っても過言ではないだろう。

 だというのに、男なら大なり小なり色めき立つはずの衣装に、シャルルが明確に反応したのは最初だけであり、

 

(……まさか、な)

(まさか、ね)

 

 数々の状況証拠が弾き出してしまった『まさか』が、二人の脳裏で同調し、視線が交錯する。

 

(もしかして……アタシ達、結構ヤバいことに気づいちゃったんじゃないの)

(いや、しかし……だとしたら、なぜこんなことを?)

(そこも含めて……ヤバいってことよ)

 

 社内や世間ならともかく、この世界有数の重要拠点であるIS学園が、なんの身辺調査や身体検査もなく、彼を受け入れるわけがない。

 だというのに、シャルルは当然のように男であると扱われ、学園に通っている。

 この、第二の男性操縦者が見つかったという一件。相当に根が深いのかもしれないと、鈴の背筋に嫌な汗が伝う。

 

(とにかく、この件はすぐにでも千冬さんに相談しましょう。あの人なら、絶対に大丈夫だと思うし)

(ああ、そこは同意するが……)

(なによ)

 

 と、箒の眼差しが、揺れる金髪の背を捉え、

 

(シャルルを……どうする?)

 

 完全に臨戦態勢に入った呼吸を整えながら、鈴に尋ねた。

 

(このまま、二人して背を向けるか。ISを装備している人間に)

 

 箒の言わんとしていることを理解した鈴は、迂闊だったと自分も頭を本格的に切り替える。

 

(どう動いても……一番怖いのは、人質を取られることね。寮ならいくらでも居るし、悪いけど、一度装着されたら即座にダウンを取れるような武装は甲龍には無いわ。あったとしてもそんな威力の火器、ここじゃ使えないし)

 

 箒が残る。鈴が残る。二人して出ていく。

 どの選択にも、相応のリスクが伴う。

 

(今は何もせず、姫燐や一夏たちが帰ってくるのを待つ……というのも一手だが?)

 

 そうなれば、状況は一気に優勢になるが、

 

(悪いけど、却下。もし更識会長まで帰ってきた場合が不味いわ)

(なぜ会長が戻ってくると不味いのだ)

(……そっか、アンタは普通に知る訳ないわよね。あの人が『更識』だってこと)

 

 鈴は、楯無が公にしていない三つ目の顔こと『更識』の長である事を、第三アリーナ襲撃事件の際、彼女から直々に事情聴取を受けたことが切っ掛けで知っていたのだ。

 その際に、更識について簡単な説明を受けはしたが――鈴が抱いた率直な感想は、胡散臭いの一言であった。

 今回は特にそうだ。日本政府直属だか対暗部用暗部だか何だか知らないが、結局シャルルの入学を許している所から、この一件にだって、どんなふうに、どれだけ絡んでいるのか分かりやしない。

 そんな直感めいた不信感を、どう箒に伝えたものかと思案するが、

 

(……詳しいことは後で教えてくれ。ようは、信用ならないんだな)

(へぇ……話が早いじゃない)

(余計な問答は不要だろう。お前も、どうせ同じことを考えているだろうからな)

(一応聞いとくわ、どんな?)

 

 鈴の問いかけに、箒は牙を剥く狩人の笑みを浮かべ、

 

(千冬さんに相談する前に、はぐらかされないよう決定的な証拠が欲しい……だろう?)

 

 鈴も、以心伝心と、まったく同じ笑みで返した。

 先手を取って首元のISを奪い、拘束し、服を剥ぎ取って、写真に収める。

 もし万が一、これが自分たちの勘違いであったならば、誠心誠意を込めて謝罪しよう。

 しかし、勘違いで無かったならば………、

 

(タイミングは、任せるわ)

(承知した)

 

 自然に、音を立てないように、いつでも飛び出せる姿勢を二人は取る。

 これから先、自らに降り掛かる受難のことなど知る由もないシャルは、ただ、日本の六月は虫が多いなぁとか呑気に思いながら、付けっぱなしのテレビに耳を傾けていた……。

 

                ●〇●

 

「楯無さん……実は俺、キリのことが好きなんです」

「あ、うん。それがどうかしたの?」

「……ライクじゃなくて、ラブな意味で」

「ええ、知ってるけど」

 

 本人としては、今度はこちらから相談したいことがあるんですと勿体付けてからの、衝撃のカミングアウトのつもりだったのだが。

 今更そんなこと君以外は知ってたよ? みたいな反応をされ、自業自得だがちょっと傷ついた心を隠しながらも、一夏は楯無に改めて相談を持ち掛けていた。

 着替えともう一つの理由で、自分の部屋にいったん戻っていったキリが、念のためまだ帰ってこないのを確認しながら、

 

「その……だから俺、もっとキリのことが知りたいんです。今までより、ずっと」

 

 好きな子のことを誰よりも知りたいと思うのは、実に健全な恋愛感情であり、主旨を理解した楯無は愛用の『純愛』とまた文字が変わっている謎扇子をバサッと開き、

 

「いいわねぇ、青春よねぇ、甘酸っぱいわねぇ……」

 

 と、微笑ましさと喜ばしさを頬一杯に滲ませ、口元を仰いだ。

 

「よろしい! 英断よ一夏くん、ヒメちゃんのことでお姉さんが知らない事なんて何もないわ! 生年月日から趣味趣向、スリーサイズに将来の夢まで、なんだって教えてあ・げ・る♪」

「あ、あんまりキリが怒らないレベルでお願いします」

 

 この人のことだから、文字通りなんだって知っていてもおかしくないため、一応レベルの釘だけ刺しておいて、

 

「あの、とりあえず……『ボナンザ』って何ですか」

 

 さっきから気になってしょうがない単語の意味を、真っ先に尋ねることにした。

 

「キリ、楯無さんを振り払った後『暑っ苦しいからボナンザでも抱いてろよ、もう!』って、さっき自分の部屋に取りに戻った奴なんですけど……」

「ボナンザはボナンザよ、ボナンザであり、それ以上でもそれ以下でもボナンザはないわ」

「えー……と、つまり……どういうことですか」

 

 と、ボケなのかマジなのかよく分からない真顔のボナンザ解説に、脂汗が止まらない一夏の様子を、心底愉快そうに楯無は眺めながら、

 

「ふふっ、ワンちゃんのぬいぐるみよ。ほら、この写真にも写っているでしょう?」

 

 指の間から手品のように、昔の写真を取り出した。

 写真は以前見せてもらった物と同じ、和風の屋敷を背景に、ピンクと白のフリフリドレスを纏った少女が、寸胴体系な犬のぬいぐるみを抱きながらはにかんでおり、

 

「あ、コイツがボナンザだったんですね」

「ええ、そう。私が昔、プレゼントしたの、九月一三日のお誕生日おめでとうって」

 

 と、楯無は写真を眺め、

 

「まだ……大切にしてくれてたのね」

 

 あふれ出る愛おしさを込めて、遠い思い出の頭を、指で優しく撫でた。

 

「ところで、ボナンザってどういう意」

「昔っから、可愛いものが大好きだったのよヒメちゃんったら。いっつもボナンザをぎゅっとして手放さなくて」

「あ、はい」

 

 結局、なぜ犬のぬいぐるみがボナンザなのかは流されてしまったが、シャルに一目惚れしていた今といい、趣味趣向は昔と変わっていないんだなと一夏も納得する。

 

「やっぱり、昔から可愛いのが好きだったんですねアイツ。前途は多難、か」

「あら、どうして?」

「俺、どう見ても可愛いなんてタイプとは違うじゃないですか」

「ふふっ、そんなこと気にしちゃうの? いじらしいわねぇ」

 

 お姉さん的には、そういうとこすっごく可愛いと思うけれど。と、フォローされても、やはり目下最大のライバルの前では霞んでしまうように一夏は思い、

 

「いえ、流石に俺よりシャルの奴のほうが、ずっと可愛いとは思いますから……」

「シャルル君? ……ああ、それなら大丈夫よぉ」

 

 と、楯無は問題ないと一夏を慰め、

 

「まぁ、ちょっとした事情があるんだけれど、シャルル君なら大丈夫。自信を持ちなさいな」

「え……ちょっとした、事情って……」

 

 シャルが抱える、ちょっとした事情には、一夏も強烈な心当たりがあった。

 改めて思えば、鈍感な自分でも気付けてしまったことが、この人にはバレていないと思い上がるなど、到底できるわけがない。

 

「……その、楯無さん。シャルのこと、なんですけれど」

「一夏くん」

 

 一声。

 それは、確かに自分を気遣った、優しさに満ちた声であったが、

 

「一夏くんは、気にしなくていい事よ。大丈夫だから、ね?」

 

 君はこれ以上踏み込まなくていいと、明確な一線を引いてくれているのだと、一夏は悟った。

 

「……分かり、ました」

「そう怖い顔しないで、悪いようにはしないから。約束するわ」

 

 そこまで約束された以上、もっと多面的に事態を観測しているであろうこの人に、ただの一学生に過ぎない自分の口から意見することなど、何もないのだろうと押し黙るが、

 

「その……だから、余計に前途が多難なんですが」

「あら、どうして?」

「だって……俺、キリと互いに夢を叶えるために協力し合うって約束してるんですけど……」

「あらあらあら、ロマンチックじゃない♪ お姉さんに任せてくれれば、今すぐにでも呼び出しから告白、その後の夫婦生活までプロデュースしてみせるけど」

 

 とはいえ、今はそのロマンチックが、何よりもの障害であり、

 

「あ、いえ……そこまでは。多分、俺が告白してもうまくいかないでしょうし」

「ううん? そんなの、やってみなくちゃ分からないじゃない」

「ははは……だって、そりゃ」

 

 思わずため息と共に零してしまう。

 

「キリって同性愛者じゃないですか……男の自分じゃ、性転換でもしないとどうにも」

 

 と、半笑いで同意を求めた楯無の表情は、

 

 

 

「……………………どういう、こと、いちか、くん」

 

 

 

 そんなことは、そんなことだけは絶対に有り得てはならないと、茫然自失に凍り付いていた。

 

「ヒメちゃんが……同性って、うそ、嘘よっ……だって、ヒメちゃんはだって!?」

「え、まさか……知らなかったんですか、楯無さん?」

 

 朴月姫燐は同性愛者である。

 彼女とある程度親しい人間ならば知っているだろうと思っていた前提を、まさか互いを家族と呼び合う楯無が知らなかったとは夢にも思わず、一夏も狼狽が隠せなかったが、

 

「ありえない、ありえないわ……! だって、約束したもの! お別れする前に私とっ!」

 

 一夏の両腕に縋りつき、いつ如何なる時でも優雅で気丈な彼女とは思えぬほどに、楯無は取り乱す。

 それはまるで、信じていたものに裏切られた、哀れで無力な、一介の女のようで、

 

「お、落ち着いて、落ち着いてください楯無さ」

「約束、したのよ……ヒメちゃんが、私に……」

 

 約束を。

 四年前、別れの日に、確かに二人は約束を交わしたはずだったのだ。

 

「次に会うときは、絶対に素敵な『王子様』を見つけてくるねって、確かにっ!!!」

「王子、様……だって?」

 

 王子様――つまりは、男。

 同性愛者である姫燐が、交わすわけがない約束。

 楯無が知るヒメちゃんと、今ここに居る朴月姫燐との、決定的な差異。

 それはなぜなのか、それは何を意味しているのか、それは何を壊し崩してしまったのか。

 単なる趣向と性癖の変化で済ませてはいけない訳が――すぐ、そこにまで、やってきていた。

 

 ――ピリリリリリッ、ピリリリリッーー

 

 聞き慣れない、無機質な携帯端末の着信音。

 ハッと我に返った楯無が、抜く手も見せずに端末を取り出し、一夏から背を向け、

 

「虚、どうしたの」

 

 聞き返すでもなく、質問するでもなく、報告を受け取るような冷淡さでとった電話が、

 

 

「虚……? 何が、虚……虚ッ!?」

 

 

 一方的に、打ち切られる。

 胸騒ぎ――なんて、能天気な言葉では、言い表せないほどの悪寒が、一夏の心臓を凍てつかせていく。

 

「今の、虚さん……ですよね。一体、なにが」

「……虚には今日、学園外での任務を命じていたわ。そこで何かが――っ!?」

 

 再び、楯無の掌で音を鳴らす通信端末。

 しかし、着信音が先ほどとは違い、虚ではないことを確信しながらも楯無は通話を操作し、

 

「私よ」

 

 と、彼女が電話を始めてから――五秒。

 

「分かったわ、追って」

 

 通話を切り、再び一夏へと向き直った時には、妹との関係性に悩む、ありふれたお姉さんの姿は消え失せており、

 

「一夏くん。これから更識の名において、あなたに白式の全武装展開、およびこの付近一帯での戦闘行為を許可するわ。全霊を尽くして、自衛に徹しなさい」

 

 代わりに一夏へと命令したのは、私を捨て、全ての害を断つと誓った、切り刻むような冷然を纏う――故国の楯。

 

「待って……待ってください! 虚さんは」

「布仏虚は『もう居ないもの』と判断する。聞きなさい、一夏くん」

 

 長年連れ添ったであろう友すら、眉一つ動かさずに切り捨てる判断を下し、『更識』は畳んだ扇子で一夏を指し、

 

「あなたがこれから取る行動の全責任は、更識が負うわ。だから、私がこれから『もう安全だ』と言うまで――手段を選ばないで」

 

 手段を選ぶな。

 今まで数多く受けてきた楯無の助言の中でも、それは最も異常でありながら――現状が異常であるならば、俗識を破り捨てた狂気こそが正常であるのだと、心のどこかが有無を言わさず納得させられる。

 どこに力を入れればいいのか分からない一夏の掌を、雨粒が叩く。

 やがて降るだろうと予報されていた雨。

雨は月明りを覆い、臭いを洗い流し、些細な物音を打ち消す。

天は、意図せずに造り始めていた。

闇が喚き、蠢き、暗躍するのに最適な、悲劇の舞台を――……。

 

 

                   ●●●

 

 

《番組の途中ですが、フランスで大きな爆発事件がありましたので、緊急のニュースをお伝えします》

 

 シャルが振り向いたのは、耳を傾けていた番組が、唐突に無機質なニュースに切り替わった音であった。

 白熱灯が照らす、少しは慣れてきた一夏と自分の部屋。

 次に、目に入ったのは、箒と鈴の姿だった。

 先ほどまで、二人でお喋りをしながらお茶を飲んでいた二人は、今、

 

「…………」

「…………」

 

 床に、倒れている。

 こちらに向かおうとしていたような様子で倒れたまま――空ろに目を見開き、半開きになった口から涎を垂らし、軽い痙攣を繰り返している。

 まるで、観客席にいる自分たちは、静粛にするのがマナーだと言わんばかりに静まり返った二人を他所に、ニュースは続く。

 

《先ほど、フランスのISに関連したフレームやパーツ、武装の製造、販売などを手掛けている大企業、デュノア社の本社ビルが爆破され、現在も炎上しており消火活動が難航しているとの――》

 

 フランス。デュノア社。爆破。

 ただ淡々と読み上げられる、不可解な――頭が、処理することを拒否する文字の羅列達。

 さて、ここまでが冒頭のあらすじであると、キャスターは大きめに息を吸い込み、現地から配信されているLIVE映像が映し出される。

 

《爆発した場所――最上階、社長室――推測されており――》

 

 なんで。そんな、どうして。

 いったい、どうして、こんなことになっているの。

 どうして、私の居場所が燃えているの。

 砕けているの。

 崩れ落ちているの。

 

《――社長である――アルベール・デュノア氏の安否はーー現在不明となっており――》

 

「父……さん……」

 

 テレビが父の名を読み上げたのが釣り針だったように、引きずり上げられたシャルの思考も動き出し、

 

「……父さん……父さん、父さんッ!!!」

 

 救いの神へと飛びつくように、シャルは持ち込んだ自分の手荷物から通信機を引っ張り出す。

 社へと直接繋がる、緊急時にのみ使うように言い渡された通信端末。

 震える指で何度もボタンを押し間違えながらも、ようやく繋いだ回線は――意味を成さないノイズしか、シャルの耳に届けない。

 

「お、落ち着くんだ私……まだ、分からない。父さんの安否は、まだ」

「死にましたよ、Mr.アルベールは」

 

 代わりに、正確に、正鵠に、残酷に。

 聞きなれない声が、通信機を落としたシャルへと宣告する。

 

「社長室ごとISで吹き飛ばしたんで、Mr.アルベールは間違いなく死にました。彼は大変な傑物でありましたが、所詮は無力な男。あっさりバラバラのグチャグチャになったと、組織の者が確認済みです」

「あ、ぁ、あ……」

 

 知っている。シャルは彼女を知っている。

 ふわりとした淡い紫の長髪、赤い淵の眼鏡、そして蠱惑的な華の香水。

 しかし、口調と、奥に覗く目つきは、

 

「ああ、可哀そうなシャルロットちゃん。貴女はこれで、また、天涯孤独になってしまいました」

 

 家畜を見下す、愉悦と本性を隠そうともせず。

 組み合わっていく現実は、一夏やセシリアに正体が露見した時など比べ物にならない警鐘を鳴らしているというのに、

 

「でも、辛いのはここまで。貴女はもう、何もする必要はありません」

 

 身体は、ピクリとも、動かない。

 

「まぁ、以前仕込ませてもらった神経毒のせいで、何もできないが正解なんですが」

 

 以前、彼女と出会った時に痛みを感じた場所と同じ、指が発している鈍痛以外は、もはや自意識すら曖昧なまま、

 

「ほら、これも、これからの貴女には不要な物」

 

 待機形態で首に吊るしていた、ラファール・リヴァイブ・カスタムⅡを下げる紐が――シャルル・デュノアを繋ぎ止めていた首輪が、その意味を失ったようにあっさりと引きちぎられ、床に捨てられる。

 

「ああっ、この時を待ち望んでいました。莫大な遺産で肥え太り、お金でパンパンに膨れ上がった、哀れな哀れなメス豚ちゃん」

 

 疑問など、もう浮かばない。

 

「とっても無様で、とっても滑稽で、とーってもーー美味しそう」

 

 どれほど酷いことを言われても、どれだけ酷い現実が起こっているのだとしても、確かに辛いなどと思えないまま、内臓をゴッソリと引っこ抜かれたような倒錯のまま、

 

「正直あんまりにも傑作すぎて、もう少し堪能したいところなのですが、時間も余りないもので――《ファウトレース・ワスピアー》」

 

 破壊者の機甲が展開される光と、その光をぶち破って表れた大量の蟲の羽音だけを残して――今度こそ全てを失った抜け殻の意識は、ここで途絶えた。




シャルロット編、佳境突入です。


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第37話「光り待つ道へ」

 旧約聖書には、バベルと言われる塔が登場する。

 人々が己の英知によって天に届かせようと建てられ、最終的に神の怒りによって破壊されたそれは、神域を越えようとした高慢への断罪だったと言い伝えられている。

 神の存在が傀儡化して久しく――しかし、天空すら凌辱する超科学を手に、神が一人の女の姿を借りて再臨したこの現代で、創世記は再び繰り返されようとしていた。

 

――慈悲深き、我らが聖母マリアよ。

 

 アルベール・デュノアは、年季が入った聖母のメダイユを片手に祈りを捧げる。

 デュノア社の最上階に用意された絢爛な社長室には、彼の他には誰もおらず――それどころか、社には今、人間が誰一人として残っておらず、人が居住する空間にあるべき熱が絶無。

 アルベールはその静寂に、深い安堵を覚えた。

 今頃、中隔に関わっていた社員達は、国が手厚く保護してくれているはずだろう。

 多くの人間の願いを、時には命ごと踏みにじってきた男が、最後に人の善意を信じなくてはならないなど滑稽にも程があったが、それでも今まで、この愚物を信じてついてきてくれた者達の行く末を案ずる資格ぐらいはあるはずだ。

 

――私はあまりにも、あまりにも罪深き男です。

 

 一度手にした成功の残光を追い求め過ぎたあまりアルベールは、非道な研究も、実験も、検証も、利益のため社員のためにと許可を下してきた。

 形勢は不利であったが、恐れはなかった。

 世界情勢の一翼を担う自分ならば、どんな禁忌すら赦されると思い上がった。

 その救いようのない高慢が――致命的な過ちを、招いた。

 

――私は、間違いなく、地獄へ堕ちるべき悪魔です。

 

 ISを用いた、非武装の民間人への鎮圧を想定とした、データ収集。

 今まで誰もが触れ得なかった、触れることを考えようともしなかった禁忌を、前人未踏、希少価値、国家癒着などという文字の羅列だけで許可した罪が、デュノア社の総てを歪めていった。

 第三世代試作機と、付随していたISコアの、現地での紛失。

 それは、遅れていた他国との第三世代開発競争に、致命的な遅延をもたらす――だけでは済まなかったのだ。

 罪が、もっと罪深き者たちの寄せ餌となっていくかのように、

 

――アルベール・デュノアだな。

 

 奴らは始めに、少女の姿となって、この場所に現れた。

 

――私はあの村の生き残りだ。

――お前たちが行っていた検証の全容は掴んでいる。

――あのISは今、我々の手中にある。

 

 憎悪と、憤怒と、恩讐の炎で形を変えた試作機を、少女は見せつけるように展開し、

 

――こちら側の要求は、既に纏めてある。あとは、分かるな……アルベール……!

 

 デュノア社は、奴らの手に堕ちた。

 あとはもう、絡めとられ転がり落ちていった記憶しか、アルベールには無い。

奴らの提唱した、狂気の理論を実現するための道具と化したデュノア社は、表面上はアルベールの指示のもと、止めることなく業を積み上げていき――バベルの塔は、とうとう禁断の領域へと届いてしまった。

 いつしか、あの篠ノ之束から『世界を奪い返す』などという妄執が、おぞましいリアリティを伴う確信へと変化してしまうほどの……成層圏を突き抜けた、領域に。

 アルベールは、まさに自分の器というものをありありと思い知らされ、その恐怖に屈した。

 恐怖に膝を折られた人間の行動パターンなど万国共通で限られており……アルベールは降りることを選択した。

 当然、彼にそのような自由などある訳もなく、首輪を首ごと取り外す結末を予見できていたとしても、人類がこの盆暗の命一つ程度で踏み止まることができるというならば……。

 

――ああ、ですが、聖母よ。このような悪鬼にすら、等しく慈悲を授けてくださるのならば、

 

 ドアが、けたたましく打ち鳴らされる。最後のセキュリティが破られようとしている。

 今更、我が身など惜しくもないが――しかし、未だに願いだけはある。

 遠い遠い、面影の中で生きる、愛した妻の面影を強く残した――

 

――娘を、私の家族を、どうか――

 

 アルベールの祈りは、ドアを室内ごと破壊する爆音と共に、掻き消えていく。

 この世から、跡形も残らずに、永遠に。

 

                     ●●●

 

 なにが、起こってやがる。

 頭蓋を撃ち抜くような衝撃が、姫燐からぬいぐるみを抱きとめる力を奪っていく。

 自分の部屋に戻り、要件を終わらせ、そういえば箒たちの事を忘れていたと、一夏の部屋を覗いた先に待っていた――異常。

 デュノア社の崩壊を放送するニュース、倒れたまま動かない箒と鈴、そしてISだけを床に残して消えたシャルル。

 何もかもが、尊き平穏と日常の破壊者であり、眼前に広がる未知の恐怖。

 取り乱し、泣きわめき、途方に暮れて立ち尽くす――べきなのだろう。

 そんな他人事の感想だけを残して、

 

「……………」

 

 姫燐の頭は澄み渡る雪原のように数多の余白を作りながら、急加速的に冷え始めていた。

 書き込む、書き込む、書き込む。

 キャパシティに、現実と現状を書き込んでいく。

 そうして出来上がったプランニングを、姫燐は、

 

――往く、か。

 

ごく自然に、慣れ切ったもののように、心中へと呑み込んだ。

 まず、第一に――索敵。

 ボナンザを引っ掴み、躊躇いなく部屋に投げ込み……反応、なし。

 動体トラップの類は仕込まれていないと確認し、神経を尖らせながら、真っ先に箒と鈴に駆け寄る。

 

「……………生きてる、な」

 

 どうやら神経毒の類を盛られたようであり、浅い痙攣を繰り返してはいたが、回復に少し時間がかかる以外に、命に別条があるタイプではない――なぜ分かる?――と確認。

 本当に、良かった。掛値のない安心を……今は捨て去り、姫燐は自分の携帯端末を取り出す。

 連絡先は、当然一つ。

 

「………かた姉は出ない、か」

 

 先ほどまで、散々暇をしていた筈なのに不通であることを鑑みるに、既に更識として状況を把握し、問題解決に動いているとみて良いだろう。

 となれば、更識からの助力は得られないだろうし、事態を不用意に引っ掻き回すのは、姉達の足を引っ張るだけになる。

 しかし、箒達をこのままにもしておけないと、姫燐は瞬時に別のダイヤルを回した。

 コールが数回――相手は、歓迎と歓喜を隠そうともせずに、電話に出る。

 

《も、もしもしキリさん! やや、夜分いかがなさいまして?》

「セシリアか」

 

 更識の関係者を除いて、姫燐がこういった有事の際――偶に起こす暴走さえ除けば――特に信頼を置く友人であり、背中を預けるに足る存在は、愛しき人の聞き覚えがある声色から、何かを察して振っていた尻尾を収める。

 

《……何かありましたの?》

「すぐに医療スタッフを連れて、できるだけ騒ぎを大きくしないよう一夏達の部屋に来てくれ。箒と鈴を頼む」

《っ、分かりましたわ》

 

 特に驚きも聞き直しもせず、どちらかと言えば歯噛みするような、まるで予見していた事態を防げなかった事を悔いるような様子であったが、今は気に掛けることではない。

 電話を切った姫燐は、続いて床に落ちたペンダント――待機形態のラファール・リヴァイブ・カスタムⅡを拾い上げた。

 千切れた首紐以外に、目立った損傷はなく、部屋には抵抗したような痕跡もない。

 ナイフや銃など比べ物にもならない、比類なき武装であるこれが剥ぎ取られている以上、シャルルは今回の加害者ではなく、遺体も無いことから、誘拐された被害者と見るべきだ。

 箒や鈴にもそういった痕跡が無いことから、第三者が全員に毒を盛り、無抵抗のうちにISを剥ぎ取りシャルルを誘拐した……という線が固いはずだ。

 動機は、おそらく今、テレビがやかましい程に放送しているアレだ。

 

「デュノア社が爆破、アルベール・デュノア社長が行方不明、か」

 

 偶然な訳がないタイミング。

 敵は、国を跨いで同時に行動を起こせるだけの組織力を持つ相手であり、あちらは世間への陽動――もしくは何らかの口封じとみて間違いなく、本命はこちらのはずだと姫燐は推理する。

 目的は不明。だが、デュノア社が持つIS関連の利権や利益は、それらよりも何倍も希少なIS本体を捨てていった以上、犯人たちにとっては不要な物とみて良いはずだ。

 全世界が渇望するコアを不要と捨てられる組織が、なぜシャルルだけを連れ去るのか。

 そして、仕掛けてきたのは、やはり『アイツ等』なのか。

 

「可能性は、高い、な……」

 

 一度、世界有数の重要拠点であるIS学園への侵入を果たした、あの犯罪組織の存在。

 朴月姫燐を、キルスティンと呼び慕った、あの二人の存在が――

 

「ぎっ……ぃぃぃ……」

 

 激しい頭痛。脳髄の奥底を、力づくで引きずり出されるような不快感。

 緊急事態にも揺れ動かなかった己を、内側から全否定するような衝動。

 泣け、喚け、お前らしくみっともなく取り乱せ。

 それが朴月姫燐なんだと言い聞かせても、頭痛が余裕を取り除いていくごとに、削り取っていくごとに、顔を出すのは、

 

「甘ったれるな……敵が、居る……敵が居るんだぞ……!」

 

 倒れるのは己ではなく敵が先だと糾弾する、恐怖を燃やし尽くすような、闘志。

 戦意が心身に焼け付けば焼け付くほど、自分を覆っていた何かがボロボロと崩れ落ちていく錯覚が生じ――その内面が、空気の流れを、鋭敏に感じ取った。

 

――外。

 

 開けっ放しだったドア。

 その向こう側を、誰かが通り過ぎた気配。

 飛び掛かるように、姫燐は入り口を潜り、左右を確認して、

 

「――――ッ」

 

 格納庫の方角へ消えていった影を――残酷なまでに押し寄せる憧憬を押し殺しながら――くすんだ様な桃色の後ろ髪を追い掛け、床を蹴り飛ばした。

 

                   ●●●

 

 IS学園の格納庫は、本来出入りする際には、厳重なパスが必要になる。

 ISコアは無論、その気になれば、軽い戦争でも行えるほどの銃砲火器が大量に詰め込まれている一室のため、当然とも呼べる措置だ。

 身分証明書替わりになる生徒手帳は無論、入退室のたびに厳密な記録が付けられ、必ず部屋で待機している警備職員の認可も受けないといけない。

 

「………誘導された、か」

 

 が……その職務を一身上の都合で放棄させられたゲートを、姫燐は何事もなく潜り抜け、より一層の警戒を強めた。

 二十四時間動いているはずの機材さえ灯りがともされていない、誰一人として――警備職員の気配すらしない――暗がりの鉄床を歩く。

 行きすがりに、作業台に置いてあった大振りのレンチを掴む。

 じっくり眺め、軽く回す。護身用、または無力化用として、申し分ない強度と重量を手に感じながら、コツ、コツと金色の目に鋭さを宿して、歩んでいく。

 もし、敵の装備がこちらの想定通りならば、この程度の武装は何の意味すら持たないが――今はこれでいいと、迷いなく進んだ先に、

 

「光……」

 

 一区画だけ、何かが点灯している場所を見つけた。

 

「ふん」

 

 これよみがしに、誘導を目的とした罠であったが、臆せず、意にも関せず、姫燐は歩を進める。

 IS相手には途方もなく無力で無意味なレンチを持って、絶好の隙を作ってやっても仕掛けて来ない上、そもそも生身の一人を無力化したいならば腕部一つ展開してやって組み伏せてやれば、罠など使わなくとも一瞬でケリは付けられる。

 それらを考慮し、殺すわけでもなく、捕らえるためでもなく、アイツはコレを見せたいがために、オレをここに誘導したのだと推測を立て――行動。

鬼が出ても蛇が出ても、自分の冷徹さは揺るがないと、どこかで確固たる自信が訴える。

 淀みなく、しかし警戒を怠らない歩調で、詳細が分かる距離まで……到着する。

 目に飛び込んできたのは、ディスプレイを空間に表示する、ボタンほどの大きさの空間映像媒体だった。

 別段、技術が進んだ今なら珍しくもなんともないそれは、一枚の写真を写しているだけのそれは、戻ることのない過去の一ページを切り取ったそれは……調子が良さそうな背丈の高い女と、不健康そうだが僅かに微笑む小柄の女と、そして、

 

「……お前が……キルスティン、なのか……?」

 

 朴月姫燐と全く同じ顔をした人間を、映していた。

 ボサボサ気味でセミロングの、燃え上がるような赤髪。

 不機嫌と退廃を滲ませながらも、荒ぶる獅子のように鋭く力を宿した黄金の目。

 キルスティン。そうだ、コイツがキルスティンだ。

 間違いない。そして朴月姫燐には、このような写真など取った覚えがない。

 確信する――確信しろ――コイツと、オレはこの瞬間、間違いなく別人である――本当に?――ことが、判明した。

 あとは、その事実を飲み込むだけだ。

 この、まるで、久しぶりに鏡を見ただけのような――暴力的な既視感ごと。

 

「ぐ……お……ぇ……ぁ……!」

 

 異常事態ですら不屈であった膝が、急速に力を失くし、重いボディブローを受けたかのような強烈な吐き気に見舞われ、女はその場に蹲る。

 なぜだ。なぜ、こんなものが存在するんだ。ここに写っているのは誰なんだ。

女は、産まれ落ちて初めて、自らの聡明さに苦悶する。

理路整然に、いや、そんなにも深く考えるまでもなく、誰がどう考えても、この身に相応しい名前は、平穏な世界で生きてきた朴月姫燐などではなく、

 

「キルスティン、隊長」

 

 いま、背後から投げかけられた、忌み名の方ではないか――と。

 

「先駆。謝罪を。他ならぬ貴女に、炎を向けてしまった愚行を」

 

 前回とは比べ物にならぬほど、そして無関心を常とする彼女とは思えないほど、意思の光と、溢れんばかりの禍福を声色に乗せながら、

 

「そして、あくなき感謝を。貴女がどんな形であれ生きていてくれた、この事実に」

 

 自らを産み落とした母を労わるように、姫燐の背に触れようとした無防備な足取りが――こめかみを砕きかけたレンチの一振りに、静止する。

 

「……おれに、触るな」

 

 内心の舌打ちを隠そうともしない血走った双眸で、姫燐は――いや、もはや写真の中と変わらぬ、幽鬼めいた形相の女は、薄桃色の少女をしかと捉えていた。

 鈴と似たり寄ったりな、しかし確固たる目的のために鍛え上げられた、貧清という表現がしっくり来る肢体。どこからか調達したのか身に纏ったIS学園の洒落た制服いがい飾り気など微塵も感じさせないが、だからこそ偽りようがない危うさを孕んだ立ち振る舞い。

 そして、ISで隠すことのない、初めて――初めて見るはずの、対敵の表情は、

 

「……感服。する他にありません、お見事です隊長」

 

 溢れ滲み出る、隠し切れないほどの光悦を、浮かべていた。

 

「一歩。踏み込みを違えていれば、私は確実にISを纏う間すらなく無力化されていました。窮地であっても機を掴み取ろうとする判断力、この拙い口では見事としか言い表せません」

 

 仮にも殺されかかったというのに、惜しみない賛辞を飛ばす姿は、結果的には外したこともあって嫌味とすら受け取られかねないほどに素っ頓狂であったが、別段、女は感慨も抱かない。

『こういう奴』なのだから、今更どうこう言うほどのことではないと優先順位をつけ、距離を取ってレンチを握りなおす。

 

「わざわざ口にするのも億劫だが、言っておく。勘違いは、迷惑だ」

「Ja。ご指摘通り、正しい認識に努めます、隊長」

 

 意のままに返事をしているというのに、ここまで人を不愉快にさせる稀有な才能に、今すぐレンチを叩きつけてやりたい衝動を抑え、女は続ける。

 

「シャルルを誘拐したのはお前らか」

「肯定。我々の現段階での、一応のリーダーが八分前に実行に移しました」

 

 多分の不承不承が含まれた表現を訝しむ間もなく、さらなる情報を引き出すため、女は口を動かしていく。

 

「どこだ」

「不明。後ほど、別働が指定したポイントで合流となっています」

「なら、お前は何が目的だ。撤収しない所を見るに、撹乱と足止めか」

「いえ……それは、アレらがやります」

 

 と、少女が首を向けた瞬間、沈黙していたディスプレイの一つがうたた寝から目覚めたように、IS学園の外の様子を映し出した。

 静かな……今はまだ、表面上は平穏を装う夜のしじまに、影が浮かんでいる。

 IS学園を絶えず照らす灯りも、雲に阻まれた月光も届かない暗がりに佇んでいた影は、歪ではあるが辛うじて人型を保っていながらも、ピクリともせず無機質なまでに不動の形相で――

 

「馬鹿な――」

 

 女が、それを正確に認識した瞬間、切り替わってから初めてと言っても過言ではない、血液が凍り付くほどの戦慄が走り抜けた。

 人と呼ぶにはあまりにも肥大化した両腕、まばらに付いた五つの眼光、そして草原を踏みしめず、僅かに浮遊し、万有引力に逆らい滞空を成し遂げている両足。

 その黒鉄の存在に、女は動揺を隠せないながらも、筋道は通っていると即座に納得できた。

 アイツらは確かに、あの時、自分が破壊した鉄屑を回収していたのだとーー!

 

「ゴーレム。組織内で、アレはそう呼ばれています。そして――」

 

 画面が、一定の間隔で次々と移り変わる。

 映像はそれぞれ別々の、学園内でも滅多に人が立ち入らないような場所ばかりを映し――しかし、そのどれにも巨腕のゴーレムは映りこんでいた。

 

「アレを、量産したのか――いや、出来たのか……!?」

 

 映像は八カ所。背景から推察するに、おそらくこのIS学園を取り囲むように。

 計八機の無人IS――ゴーレムは、今、誰にも知られることなくIS学園を包囲していた。

 

「いくらなんでも早すぎる。オマケに、ISコアを八個も用意しただと? こんな包囲も、事前に悟られずに出来るわけがない」

「受容。差し出がましいですが、眼前の事実は、早いうちに受け入れることを推奨します」

 

 どれほどまでに道理が狂っていても、眼前で無理が通ってしまっている以上は、そんなものは引っ込む以外にない。

 一度あの無人機と戦った記憶と経験が、万が一アレが八機同時に暴れ出した場合の最悪をシュミレートするのには、何の労も必要としなかった。

 

「安及。不用意な接近や、この学園からの逃走がなければ、ゴーレム共は何事もなく消えるよう命令されています」

「……ここまで大がかりな仕掛け。戦争でもする気か、お前ら」

「それを実行部隊の自分が答えたところで、隊長がご納得いただけるとは思えません」

 

 確かにそうだ。往々にして、実行部隊が下された命令の意図を伝えられないということは、あらゆる軍隊での日常茶飯事。尋問にもかけていない発言の信憑性は限りなく薄いだろう。

 頭の撓み指摘され、向けられる視線が更に殺意で鋭さを増そうとも、彼女にとってそれは、永遠に再開することは無いと嘯かれた存在を、再び全感覚で認知できる奇跡に他ならない。

 しかし、女にとってこの連中はこびりつくような悪夢でしかなく、

 

「分かった、もう一度――効果的に聞き直す」

 

 ため息と共にレンチを捨てると、制服のポケットへと手を入れ、

 

「お前は、何が目的だ」

 

 中に仕舞っていた、彼女が本当にアテにしていた凶器――待機状態のラファール・リヴァイヴ・カスタムⅡを見せつけるように取り出した。

 今度ばかりは感嘆を口にするよりも先に、少女の鍛え上げられた肉体と思考が条件反射的に自らのISをいつでも展開できるよう身構えさせる。

 

「なぜ速やかに撤収せず、おれに接触した。ゴーレムとの戦闘経験がある、おれの暗殺も任務の内か」

 

 手中のISは、無機物でありながら確かな脈動を感じ取れ、本来の主でなくとも力を発揮することを躊躇わないだろう。一夏の部屋でこのペンダントに触れた瞬間から、女はそれを察知し、自らのISが手元にない現状と合致したことから、切り札として確保していたのだ。

 

「身体に聞いてやろうか。おれはここで一戦交えようと、一向に構わんからな」

 

 一見は鉄火場へと誘う危険な挑発に思えても、確かな勝算と打算に裏打ちされた女の決定事項めいた恫喝は、一片の迷いもなく冷然。

 確かにあんなものを用意してきた作戦には驚かされたが、こいつ等はどういう意図にしろ、IS学園での騒ぎは出来る限り大きくしたくないのだと、当たりはつけていたからだ。

 デュノア社の爆破という大事件を隠れ蓑に動いたことや、逆にゴーレム共は誇示するわけでもなく、一般生徒ではまず目につかないような位置で秘密裏に配置していること。

 更に、言ってしまえば今回のデュノア社絡みの騒動では、完全に蚊帳の外であったはずの自分への接触が、女の中でおおよその見当を創り上げていた。

 

「……やはり、また命令無視か、お前」

「………ッ」

 

 ようやく、敵地にあって一言一言の交流に笑みを絶やさなかった少女の表情に、渋い図星が刻まれる。

 やはり、プラン外の行動。元からこの誘拐は、自分との戦闘など考慮しておらず、接触すらおそらくコイツの独断だったのだと確信する。

 女の理解の範疇を越えた愚行は、矢次に疑問を脳裏に浮かび上がらせ、

 

「分からんな。おれなんぞに、なぜそこまで執着する?」

 

敵は俯いたまま、答えない。

対敵の心中など、出し抜くための関心こそあれ興味など欠片も無いが、その愚行の中心として振り回されるフラストレーションだけは、いい加減に明確な暴力衝動となって外部へと溢れかけていた。

 

「やはり――手足の一つでも吹き飛ばしてやった方が喋りやすいか」

 

 冷たい格納庫に響く、なお冷血な決別。

 女は、たとえ一戦交えようと、コイツだけは逃がすつもりはなかった。

 あの日から、朴月姫燐を絶えず侵し続ける苦悩に、いい加減引導を叩きつけてやると――その果てが、尊き日常を根底から破壊するものだったとしても?――女は……姫燐は、それでも、引き金を引くと決意を宿す。

 悲壮な覚悟の殻を満たしていくのは、学校の、友達の、家族の、協力者の、顔、顔、顔。

 笑っていた。怒っていた。泣いていた。彼らの、何よりも暖かな、生きている証。

 奪わせない――こんな連中に、誰一人奪わせはしない。

 この力で護るのだと、敵を倒すのだと、親しき者たちのためなのだと、

 

「…………なぜ」

 

 ――決断を下す、その、寸前。敵の瞼からは――

 

「なぜ。命令してくださらないのですか……隊長」

「……え?」

 

 透明な血涙が、零れ落ちていた。

 あってはならない。絶対に。こいつは朴月姫燐にとって敵以外の何物でもない。

 斬って捨てなければならない存在のはずなのに、この敵が流す涙は、

 

――なんで……また、そんなこと言うの……? ひめりん――

 

 本音が流した涙と、被さって見えてしまって――女が、己の不覚を悟ったのは、敵に懐へと飛び込まれてからであった。

 身体と身体がぶつかる、密着状態のゼロ距離。

 これではISを展開することも間に合わず、ナイフでも使われていたのならば間違いなく致命傷を受けていたが――現実は、とことんまで女の浅はかな予想を裏切った。

 受けて然るべき痛みは、襲い掛かってこず。

 凶器を握っていなければならない敵の両手は、首に回され。

 互いに拒絶を紡ぐはずの口は――

 

「…………っ」

 

 愛する人へと送るような、柔らかな口づけで、塞がれていた。

 ファーストキス。姫燐にとっては間違いなく散らされたはずの純潔が、どこかで慣れを訴え、そんなことよりも、身長に差があるせいで背伸びをしなければ自分に届かない、目の前の少女が暴力的にまで愛おしく思え、仕方がない。

 更なる重なりを求めようと、少女は舌で、姫燐の口内へと踏み込もうとして――その当惑にうつろう瞳を見やり――悲しげに、唇が離された。

 

「隊長……やはり私たちのことを、何も、覚えていないのですね……」

 

 違う。人違いだ。

 初志貫徹しなくてはならない主張が、まだ濡れた唇の裏で、浸され、溶かされ、堅牢さを失っていく。

 

「口づけ……手解きを仕込んでくださったのも、貴女なのですよ……?」

 

 覚えがない。というか出来ない。

 などと、思っているのは朴月姫燐だけであり、貴女なら出来ると、少女はあやすように頬を撫でる。

 

「隊長のご命令ならば……今すぐにでも組織を裏切ることだろうと……貴女が望みさえしてくれるならば……私は、何もかもを捧げて、叶えてみせるのに……」

 

 無念。真に定めた主を失った飼い犬に価値はなく、無駄で無益で無様で、ひたすらに無念な生き様が耐えきれぬと、少女は涙する。

 朴月姫燐からしてみれば、酷く身勝手で勘違い甚だしい願い。

 しかし、裏を返してしまえば、彼女もまた大切な存在を、一心に想い続けているだけであり――それが、朴月姫燐が護ろうとしていた人たちが抱いているそれと、どれほど差異や貴俗があるというのだろうか。

 

「おれ……は……」

 

 懐の少女を見下ろす相貌が、欠け落ちたように色を失いながらも、胸に湧き上がる黒く澱んだ情のままに抱きしめようとした――

 

「そこまでだ」

 

 刹那、彼女を引き戻したのは、朴月姫燐にとって最も身近な男の声だった。

 

「恐縮だが、私の娘から離れて貰えないかね、バッドガール?」

 

 陶酔から一瞬で覚めた少女は飛び下がり、整備室の入り口で仁王立ちしていた壮年の博士へと、懐から取り出したサイレンサー付きの拳銃を向ける。

 

「おや……じ?」

「やぁ、娘に悪い虫が付くのが我慢ならない君のパパだよ、キリ」

 

 余裕綽々で能天気に煙草へと火をつける、ISも装備できない軟弱で脆弱な男の額に、9mmのパラベラム弾を叩きこむのはトーチにとって朝飯前の距離であったが、

 

「更に、君の王子さまもご一緒だ」

「キリ、大丈夫か!!?」

「チッ……!」

 

 続いて部屋に飛び込んできた、既に純白の機甲を腕部展開した例外中の例外だけは別だと、即座に銃を引っ込め、IS――『ハイロゥ・カゲロウ』を頭部バイザーと両碗に展開する。

 シルエットが一度、自分たちの命を狙った機影へと近づいたこともあって、もはや問答無用と飛び掛かろうとした一夏の足が、

 

――敵をよく観なさい、一夏くん。

「ッ!!!」

 

 師の教えを思い出し、急ブレーキで踏み止まる。

 

――しまった、こいつの武装は……!

 

 グレーに近い、くすんだ青の巨腕。

 そこから噴き出すのは、至極単純な弾丸やビームでは無いのだ。

 

――火炎放射器ッ!

 

 前回の戦いのときでも見せた、一瞬で全方位を囲んでいた鎮圧部隊を炙れるほどに高出力なそれを、万が一にでもこんな閉所で使われてしまったら、自分はともかく生身の二人は……?

 最悪のイメージを現実にせずに回避できた安堵と、敵の気まぐれ次第で未だに災厄はいつでも引き起こるという危機に、歯噛みして一夏はトーチを睨みつける。

 だが、安堵と危機を同時に味わわせられていたのは、なにも彼だけではなかった。

 

「……英断。よく踏み止まってくれた、私のISは非武装の人間への配慮が難しい」

 

 バイザーの奥に流れる冷や汗を気取られぬよう、トーチは淡々と賛辞を贈る。

 

「警告。私のハイロゥ・カゲロウは、ほぼ全ての戦闘行動に火炎を使う。この場で仕掛けてくるなら、相応の犠牲が必ず出ることを承服してもらいたい」

 

 彼女にとってもこの警告は強がりに等しく、同じISの攻撃を凌ぐのであれば相応に装備を使わねばならず、それが他ならぬ隊長を巻き込む危険性を孕むならば、甘んじてその刃を受けねばならなかった。

 どちらも迂闊に動けぬ、膠着した状況。

 火薬が大気中に満ちているような、危うい沈黙を打ち破ったのは――今もっとも非力な男であった。

 

「……分かった、行きたまえ」

「朴月博士っ!?」

「仕方あるまい、どちらにしても手詰まりだ。ならばせめて、この場の全員が無傷で済む方がいくばかマシだろう?」

「感謝。賢明な判断」

 

 最後にホログラムと、隊長を見比べて、

 

「再会。楽しみにしております、隊長」

 

 格納庫の奥に広がる闇へと、呑み込まれていく敵の背中へと、

 

――待て。

 

 反射的に飛び出しかけた言葉を、女は飲み込んだ。

 もし、その命令で、本当にアイツが立ち止まってしまったら、

 

「アイツ、まさか昼間の……!? 何もされてない、よな。キリ」

 

 姫燐の無事を心から喜んで破顔する協力者と、キルスティンの事を心の底から慕うアイツは、殺し合わなければならなくなって――あってはならないおぞましさが、急速に膝の力を奪い去っていく。

 

「おおっと。怖かったろう、キリ。もう大丈夫だ」

 

 崩れ落ちた身体を、永悟が――父が受け止め、背を優しく叩く。

 

「一夏くん、しばらくISは展開したままで頼む。また戻ってくる可能性も捨てきれないからね」

「わ、分かりました」

 

 格納庫の狭さでは万全に振り回せない雪片ではなく、両腕の装甲で徒手空拳を振るう構えのまま辺りを警戒しはじめた一夏を、憔悴しきった目で姫燐は追いかける。

 

「なんで、親父も一夏も」

「なに、今の緊急事態は我々も掴んでいてね。カメラも全て沈黙させられていて、ミス千冬の指示のもと、一夏くんを護衛に格納庫の様子を見に来たのだよ」

「他の生徒は、抜き打ちの避難訓練って形で、騒ぎにならずに避難してもらってる。なのに、キリだけ見つからなくて……ジッとしてられなくてさ」

 

 ここは数多くのコアが眠る、IS学園の中でもひと際重要な施設だ。

 誰かが様子を見てくる必要があったため、最近はそこを拠点に構えて居たため機器と地理に明るい永悟と、専用機という形でISを携帯していた一夏が選ばれたのだろう。

 

「しかし、やられたね。ここをクラッキングされた状態では、厳重に格納されている他のISは動かせないだろう。デュノアくんと鈴音くん以外の専用機持ちが無事だったのは不幸中の幸いだが」

 

 となると、現状でISを動かせるのは、かた姉と一夏とセシリアだけになるのかと、姫燐は納得する。縦横無尽なスペースが無いと本領発揮できないブルー・ティアーズで室内戦は非現実的なため、消去法で一夏が護衛に選ばれたのだろう。

 ただ、懸命に外の状況を把握しようと努めているのは、ぐじゅぐじゅに爛れきった内面から目をそらす現実逃避に他ならなかったが。

 

「シャルル……箒と鈴と、シャルルは」

「篠ノ之嬢と凰鈴音くんなら大事ないよ。しかし残念ながら、シャルルくんは安否不明だ。楯無くんが追っているはずだが、通信もどうやら強烈なジャミングをかけられているようでね」

 

 ならば――やることは一つだけだと、姫燐は父の手を払って、再び両足に力を込める。

 

「オレも……助けに行く」

「ダメだ」

 

 が、それよりも遥かに力が籠った、父の腕に抱き止められる。

 

「行かせろ、オレなら戦える」

「ダメだ。今の君は、絶対に戦わせられない」

 

 親としても当然、危険な場所へと娘を行かせることに反対し、そして同様に一人の大人としても、今の姫燐を戦場になど向かわせられる筈が無かった。

 

「君は今、シャルル君を助けたいのではなく、身体を動かしたいだけだ。煮詰まった課題を忘れるため、一時的なストレスの発散法として、ちょうど目の前にあった他人の課題に手を貸そうとしているに過ぎない。それは無茶や無謀より、更に質が悪い欺瞞にすぎないよ」

「……………」

 

 友の命を名目にしようとしていた醜悪さを一瞬で暴き立て、しかしなお娘を慈しむように、残酷なまでに的確な診断は続く。

 

「何もかもを忘れて、君は休みなさい。あとは、私たちが何とかしよう」

 

 永悟の白衣とスーツにしみ込んだ、懐かしい紫煙の臭いを吸い込むたびに、重しを詰め込まれたように姫燐の身体は、父の両腕に沈み込んでいく。

 男から注がれる無上の親愛は、この世でただ一人、娘である朴月姫燐だけが受け取る温もりだから――こそ、

 

「親父、ブリッツはどこだ。格納庫にはあるんだろ」

「……なるほど、では案内しよう」

「えっ、朴月博士?」

 

 その快諾に一番反応を示したのは、今までの会話から、絶対に引き留めると思っていた一夏だった。

 しかし、永悟は聞き分けのない子を納得させるためと、仕方なさそうに姫燐の身体から離れ、暗がりであろうと迷うことなく、円筒状の半透明なカプセルへと歩を進めた。

 

「ご覧の通りだよ、キリ。前回の模擬戦のデータも反映させ、より実践的にブラッシュアップされた私の『ブリッツ・ストライダーF(フォルテ)』は、この中だ」

 

 一夏も、永悟が快諾した理由を納得する。

 格納庫は今、外を映している一つのスクリーン以外の全機能を停止させられている。

 それは当然、このカプセルを開く手段も存在していないことを意味していたからだ。

 

「それに、私が君に渡したのはあくまで『ブリッツ・ストライダー』であって、『ブリッツ・ストライダーF』ではない。私の物は、今の君にはどうあっても託せないな」

 

 そう、意地が悪く御託を並べても、

 

「調整自体は終わってるんだな」

「……ああ、保証しよう」

「分かった」

 

 意にも関せず、姫燐は先ほど投げ捨てたレンチを拾いなおし、カプセルの前へと立ち直る。

 

「無意味だよ。人間の腕力で、その高性能プラスチック爆薬による発破すら想定しているカプセルは破壊できない」

 

 聞く気はないと渾身で打ち付け、当たり前のように、弾かれる。

 

「さ、その辺にしたまえ。手が痛む」

「…………」

 

 忠告を無視して、もう一度打ち込む。

 当たり前のように、弾かれる。

 

「もう一度、言った方がいいかね。君は、今シャルル君を助け出したいのではなく――」

「ああ、そうだよ! シャルルの事なんて今は考えられねぇさ!」

 

 何度も言われるまでもない。

 シャルルの安否など、この身が――彼の家族を殺した連中の一味かもしれないキルスティンが、案ずる資格なんてない。

 しかし、朴月姫燐だとしても、キルスティンなのだとしても、女には確かめなくてはならないことがあった。

 

「オレは……結局誰なんだよ……! なんであのチビの言うことが、こんなに心にクるんだよ!? 分からねぇ、分からねぇ分からねぇ分からねぇ!!!」

「キリ! 君は他でもない、この私の」

「理屈じゃねぇんだよ!!!」

 

 レンチを投げ捨て、女は慟哭する。

 

「他にもアイツ、仲間が居るって言ってた……だったら、アイツもそいつらもふん捕まえて知ってること全部全部全部吐かせてやるんだよ! オレが一体何なのか、いい加減にな!!!」

「君一人では無理だ! 聞き分けなさいッ!」

「るせぇ!!! アンタに『おれ』の何が分かるってんだ!」

 

 分かる訳がない。朴月姫燐の親である朴月永悟に、キルスティンの苦悩など分かる訳がない。

 どちらかが、では、もう女は止まれない。

 どちらもが、納得できなければ、もう女は安息を得られない。

 キルスティンには決して届かない言葉しか投げかけることができない永悟では、もはや彼女を救えない。

 朴月姫燐でもない、キルスティンでもない、ぐちゃぐちゃな女に、心を許していい存在など、誰一人としていなかった。

 だから――

 

「――一つだけ、確認させてくれ、キリ」

 

 男は、彼女だけの協力者になると、誓った。

 

「キリは、アイツ等を捕まえて確かめたいんだよな。自分の事を、ちゃんと」

 

 唐突に割って入った確認に、苛烈な言い争いをしていた女も永悟も押し黙る。

 

「ああ……そうだ」

「そのために、このISが必要なんだよな」

「……ああ」

「分かった――キリ」

 

 道は定まった。

 この力は彼女を護るためにあり、同時に――彼女を阻む壁を断つためにある。

 だから、一夏はカプセルに歩み寄る。

 白式を纏った右腕から、雪片を取り出す。

 そして、

 

 

「な……まさか、待ちたまえ!! 一夏くーー」

 

 

 両手で構え、袈裟懸けに振り下ろす。

 たったそれだけでプラスチック爆弾にすら耐える堅牢さを誇るカプセルは、まるで飴細工のように、あっさりと砕けて散った。

 中には無傷の専用機が、チョーカーの形をして、荘厳に佇んでいる。

 

「いち……か、お前」

「さあ、選んでくれ」

 

 岐路だった。

 何も知らずに今まで通り、これからもただ影におびえて生きていくか。

 下手をすれば二度と戻れないかもしれなくても、影を暴きに戦いへ赴くか。

 どちらも、痛みを伴う道だった。

 だけど――

 

「オレは、キリの選んだ方についていく」

 

 一夏は、優しい眼差しで、女を見ていた。

 朴月姫燐でもなく、キルスティンでもない、自分が契った協力者がどの道を選ぶのかと、どこへ往こうとも独りにはしないと、力と強さと信頼を、奥に秘めながら。

 

「どこまでも俺は、キリの協力者だから、な」

 

 呆気に取られていた女の――キリの中に、何かが流れ込んできた。

 空虚で、孤独で、荒れ狂う何かに引きずられるままだった心に、一つの標のように打ち込まれたそれは、ただ真っ直ぐだった。

 真っ直ぐ、そこから離れないと、君に寄り添い続けると、愚純なままに在り続けてくれた。

 そんな――真っ直ぐな光だった。

 

「オレは――行くよ、親父。確かめてくる」

 

 気が付けば、奈落へと突き落とされていくような焦燥感は消えていた。

 アイツがオレを繋ぎ止めてくれたから――カプセルの中のISを選んだ手に、力が湧き上がる。

 使命ではなく、命令でもなく、本能でもない。

 人の熱を伴った、無限の力が全身に満ち溢れていく。

 

「アンタのことも、もう一度、胸張って呼べるようになりたいから」

「キリ……」

「だから、待ってて――パパ」

 

 永悟の肩を通り抜けて、これよりキリは戦場に向かう。

 その隣を、何も言わず一夏が寄り添う。

 だが、その前に、立ち止まり、

 

「一夏、ちょっとこっち向け」

「どうしたんだ、キ――」

 

 強く結ばれた一夏の唇に、柔らかい感触が触れた。

 それ以外に一夏が認識できたのは、今まででもっとも近いキリの顔と、体温と、吐息だけで――

 

「……朴月姫燐なら『今のはノーカン! 雰囲気に流されて、なんかそれっぽくカッコつけただけだからな』って、お前に顔真っ赤にしながら言うんだろうな」

 

 なのに唇を離した彼女は、そんな風に他人事で、

 

「だから全部終わらせて、無事に帰って来て、ちゃんと言うからな――お前に、この学園で」

「……ああ!」

 

 だから、一夏も今は考えないことにした。

 それは皆が無事に帰ってきた後に、思いっきり慌てふためきながらやることだと思ったからだ。




 拙作に変な小説が一つ増えていますが、なに気にすることは無い。
 コウボウ・エラーズというではないか。


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第38話「夜闇の標」

 酷い凍えだった。

 六月とはいえ、雨が混じる夜風に直接撫でられているから。

 冷たいコンクリートの床に寝転がされているから。

 人気が全くない、熱気が酷く欠けている場所だから。

 それとなく理由は浮かび上がるけど、結局のところ他でもない自分自身から熱量が失せているのだから、こんなに寒いんだろうとシャルロットは結論付けた。

 

「ここ……は……?」

 

 シャルロットが薄く瞳を開くと、広がっていたのは夜の埠頭であった。

 海が見え、波の音がして、大きなコンテナが沢山積み重ねられている。

 その一角に、簡素なシートで屋根を作り、本当に一応レベルで雨風を凌げるようにされた拠点。

 状況を把握しようとしていると、インスタントのバーナーで、ポッドの湯を沸かしている女と目が合った。

 

「むっ、目が覚めたでござるか」

 

 ブルーグレーの髪を目元が隠れるまで伸ばし、後ろで結われてはいるが、大した手入れはされていない女性らしくない井出達。

 ジャケットを纏った野戦服からは、かなり良いスタイルをしているのが見て取れるが、

 

「ぐっもーにんでござるよ、シャルロット・デュノア。お加減はいかがでござ?」

 

 珍妙な喋り方や、軽すぎるノリがどうにも距離感を掴みかねる。

 そんな不可思議な女性ではあるが、『シャルロット』の名前を口にした瞬間、彼女が『シャルル』にとってどういう人間なのか理解するには全く労しなかった。

 

「お前が……父さんを殺したの……?」

「いんや、拙者は違うでござるよ。ぶっちゃけ、デュノア社襲撃の手筈はよく知らないでござ」

 

 お湯が沸いたことを確認し、インスタントのコーヒースティックを取り出すと、用意して居た二つのコップへと溶かしていく女。

 

「拙者たちの任務は、あくまで誘拐。シャルロット・デュノアを指定された時間にIS学園から連れ出せ……それだけでござる」

 

 無関係とは言わないでござるけどね。と一息つきながらも、

 

「誘拐なら深夜か早朝にやればいいのに、わざわざこんな中途半端な時間を指定したことは謎だったんでござるが、まさかこんな手筈になってたとはでござるよ」

「……………………」

「まぁ、こんな話を今更しても仕方ないでござろう? と言う訳で――」

 

 女は、人間の首すら容易く両断できそうなほどの、大きなナイフを取り出す。

 そのまま、シャルロットへとゆっくり近づくと、

 

「ほら、あのタイプの毒なら、もう動けるはずでござるよ」

「…………え?」

 

 ジャージの上から彼女を縛り付けていたワイヤーを、全て切り裂いた。

 予想だにしなかった行動に目を丸めながらも、シャルは身体を起こしてみる。

 全身に鉛を詰め込まれている癖に、風船が脳みその代わりになったような嫌な浮遊感はあれど、確かに身体は動いたため、身を起こすシャル。

 そこに、そっとホットコーヒーが差し出される。

 

「ま、とりあえず一杯どうぞどうぞ」

「……………」

 

 無言でシャルロットは、女からコーヒーを受け取る。

 口にする気は起きないが、コップから伝わる熱はそれだけで凍えた身体に染み渡った。

 

「…………どうして」

「なに、これから交渉を始めるというのに、手持ち部沙汰というのもアレでござろう? 先に状況説明から始めようでござるか」

 

 交渉。全てを奪ったくせに、今更なにを交渉するというのか。

 能天気にコーヒーを飲む女は、シャルに浮かぶ当然の疑問をマイペースに置いてけぼりにして、

 

「一つ、お主はこのままだと、間違いなく死ぬ」

 

 指を一本立てながら、死の宣告を下した。

 

「拙者たち的にはお主はどうでもいいんでござるが、ウチの一応のリーダーがお主を――シャルロット・デュノアを是が非でも殺したがっているんでござるよ」

「……………」

「……で、二つ目」

 

 無反応のシャルロットを置いて、立ち上がる二本目の指。

 

「拙者は、お主をここから逃がす用意がある」

「……………」

「あっ、言ってる意味わかってないでござるでしょ? 拙者うそつかなーい」

 

 口にはしていないが、シャルも理解はできている。

 この女性は、このままだと殺される運命のシャルロット・デュノアを助け出す用意があると言っているのだ。

 

「拙者たちの任務でござるが正確には、必要なのはシャルロット・デュノアの身柄ではないのでござるよ。あくまで誘拐は、本来の目的を達成するための手順として、最適であったから」

 

 誘拐が最適な手段の、目的。

 身代金がベターであるが、それを出資する相手は既にこの世には居ない。

 シャルの疑問に応えるように、

 

「『オムニア』」

 

 そっと女は呟いた。

 

「……この単語に聞き覚えはあるでござるか?」

「オム……ニア……?」

「お主の脳に刻まれた、デュノア社の全てを記録した生体データベースーーそこに、『オムニア』という単語があるかどうか聞いてるのでござるよ」

 

 ああ、そこまで知っているんだと、シャルは思い起こす。

 父が自分を引き取った時、真っ先に施した手術――脳へと直接、多国籍の言語やデュノア社についてやISのこと、実戦に纏わる情報を刻み、即興で会社の戦力へと改造した、あの手術の事を。

 

「………知らない」

「嘘をついても、身のためにはならない……と、カッコよく言いたい所でござるが、こりゃマジっぽいでござるなぁ」

 

 特に動揺も関心も浮かべないシャルの仕草に、女もこれは参ったと頭をかく。

 

「本当に知らないんでござるか、オムニア?」

「……どういった物なの、それ」

「いや、拙者たちも何かまでは分からないんでござるが……本社から全破棄された、それについての情報を、シャルロット・デュノアから引き出して来いって任務でござるから」

 

 朧気ながらシャルにも、今回の事件の顛末が見えてくる。

 オムニア――デュノア社が壊滅したのは、それの情報を彼女たちの組織に出し渋り、あまつさえ完全に消去したから。

 どうしてもオムニアの情報が必要な奴らは、代案として、デュノア社の情報を全て記録している自分を誘拐したのだと。

 だが、

 

「…………やっぱり、知らない。聞いたこともない」

「うむむ……お主に刻まれた情報が古かった……? いやしかし、研究自体は結構昔から……ということは、意図的に抜かれた……?」

 

 頭を悩ませながら右往左往していた女であったが、これは自分のキャパシティで処理できる問題じゃないと判断すると、

 

「じゃ、死ぬほど尋問したけど、シャルロットは知らなかった。という事にしとくでござるか。決定!」

「……………」

 

 あっさりと路線を変更して、思いっきり嘘の報告をすると決定づけた。

 

「あ、ちなみに、オムニアの事についてはこれさえ聞ければ後始末が楽になるからで、拙者的には本気でどうでもいいんでござるよ。だから」

 

 こちらが本命だと言わんばかりに、三つ目の指が、立つ。

 

「これからの私の質問に、嘘偽りなく答えること……それが出来ないなら、もうお前に用事はない」

 

 座るシャルの顔を見るように、しゃがみ込みながら向けられる、髪の奥に秘められた暗夜に浮かぶような満月の瞳――更にその奥で眠る、殺戮者の本性を覗かせて、尋ねる。

 

「朴月姫燐という女を知っているか?」

「朴月……さん?」

 

 なぜここで急に、彼女の名前が出てくるのか分からず、死んでいたシャルの声色に困惑が宿る。

 

「知っているな」

「うん……知ってる」

「話せ。どんな人物か、なんでも構わん」

 

 果たして何の意味があるのか分からないが、ぽつぽつと、彼女の顔を思い浮かべながら、シャルは口を開いた。

 

「明るい子、かな……」

「明るい、だと? それは物理的にか」

「どうやって物理的に明るくなるのさ……普通に性格のことだけど。明るくて、誰にでも優しくて、いっつも元気な子だよ」

「明るく? 誰にでも優しく? 元気? ……朴月姫燐が?」

 

 いきなり思わしくない答えであったのか、女は少し考えるような仕草の後、

 

「では……強さはどうだ?」

「強さって……ISの? 一度だけ戦ったけど……すごく強かった、かな……たぶん、即興で戦えるようにされた私なんかより、ずっと……」

「ふっ、それはそうだろうな、流石だ……」

 

 今度は納得いく答えだったのか、うんうんと何度も頷き、

 

「あとは、そうだな……性的趣向はどうだ?」

「せいてき……」

 

 他人には黙っていて欲しいと頼まれていたが、シャルは朴月姫燐の性癖を、他ならぬ本人から聞き及んでいた。

 普段なら義理立てして黙っているところなのだが、そこまで考えられない今の彼女は殆ど反射的に、質問に答えた。

 

「女の子が大好き……らしいよ、性的な意味で」

「ふむぅ……」

 

 それが最後の質問だったのか、立ち上がって思案に耽る女。

 これらの質問が何を意味していたのか、シャルにはまるで分からなかったが、

 

「うむ、よし、これで拙者から聞きたいこと終わりっと」

 

 女はまた、カラっとした奇妙な喋り方に戻り、手に持っていたコーヒーを飲み干した。

 

「さ、それじゃあさっさと準備するでござるか」

「え……準備……?」

「そそ、アイツが帰ってくる前に、さっさと偽装するから立ち上がるでござるよ」

 

 女の手が、シャルへと差し伸ばされる。

 ISも捨てられ、あまりにも無力な現状にとって、彼女の手は間違いなく救いの手なのだろう。

 それでも、シャルロットは、女の白い掌をただ、見つめ続ける。

 

「あ、やっぱり信じてないでござるなー? まま、無理もないことでござるが、実はお主を助けるのには、有益な情報の礼以外にも、アイツへの嫌がらせも兼ねてるっていうでござるかー」

「いいよ……このままで」

「………………」

 

 饒舌に回り続けていた女の言葉が、止まる。

 

「もう……私は、このままでいい」

「……マジで死ぬ――殺されるでござるよ? お主」

「うん……たぶん嘘じゃないんだろうね……その言葉」

 

 彼女がどういった人間なのか測り兼ねるシャルであったが、しかしシャルロット・デュノアと言う人間がどういった生き物なのか、彼女は嫌と言うほど知っていた。

 弱い女。

 誰かに縋らないと生きていけない女。

 自分の脚で立てない、弱虫。

 

「だけど、もう……いいんだ……殺されても、生かされても……私の家族は居ないなら、もう、どっちも変わらない……同じなんだ……」

 

 宿主を失った寄生虫が辿る、当然の帰結。

 しかし、彼女が寄生虫と決定的に違うのは、次の宿主を探すわけでもなく、心中しても良いとすら思っていること――そう思えた相手が、もう居ないという事実に容易く打ちのめされて、がらんどうになってしまったこと。

 

「……だから、ありがとう……ごめんなさい」

 

 せっかくリスクも承知で生かしてやると言った相手が、こんな意気地なしだと分かったら、やはり怒るだろうか、失望するだろうか、軽蔑するだろうか。

 なんとなく過った、シャルの予想は、

 

「…………そっか、分かった。それも良いかもしれないでござるな」

 

 掛けねない憐れみを宿した共感と同情に、覆される形となった。

 

「もう一つ、助けてやろうと思った理由、なんとなくでござるけどね。他人の気がしなかったんでござるよ、お主」

「……………」

 

 女は、果てしなく続く夜の海を――その向こう側に行ってしまった、己の過去を眺め、

 

「無責任でござるよなぁ……こんなにも広い世界に、産まれ方も選ばせてもくれないのに、なんの標もなく放り出しておきながら……生きろ、だなんて……」

「…………」

「やっとの思いで見つけた道標すら、一瞬で奪い取っていく癖に……」

 

 この人も、自分と同じなのか。

 だったら、なんで貴方は今、こうして自分の脚で立っていられるのと、口が自然と動きそうになった、瞬間。

 雨音に交じって、耳障りな大量の蟲の羽音が、鼓膜を叩いた。

 

「…………チッ、無駄話が過ぎたか」

「あらあらあら。これはどういうことですます?」

 

 こんな気候や埠頭で発生するはずのない、羽蟲の柱から別の女が現れる。

 ふわりと揺れる紫のロングヘア、ズボンタイプのIS学園二年生の制服、そして今は、赤渕の眼鏡を外した、己の邪悪さを隠そうともしない鋭利な銅の双眸。

 今度の女は、シャルにも見覚えがあった。

 

「私がちょーっと本部と連絡してる間に、シャルロットちゃんの縄は切れてて、手にはコーヒーまで持ってて、二人っきりの秘密のお茶会ですまして?」

「あー、これはそう、あれでござ。フランス流の常識的会談スタイ――ッ」

 

 女の右頬が、出し抜けに殴り飛ばされる。

 

「っ!?」

「誰の許可得て動いてんだよ、あぁ?」

「……………」

 

 今までのどこか人を喰ったような言動とは違う、完全に見下した奴隷でも扱うように女の襟首を掴み上げる。

 パーラ・ロールセクト。下劣で凶暴な本性をさらけ出した自分達の現時点でのリーダーを、口元から流れる血すら拭わず、後ろで手を組みながら女は不動で睨む。

 

「この豚の拘束解く意味、マジでねぇだろオイ? なに企んでやがった、アタシの部下の癖に」

「別に。どっかの誰かさんの毒のせいで、オムニアについて尋ねる前に衰弱死しそうだったでご――っ」

 

 今度は、溝内にパーラの拳がめり込む。

 

「豚の尋問は、セーフハウスに戻ってからアタシがやるって手筈だったよなぁ? それに、このアタシが毒の配分間違えるとでも思ってんのか、ええ!?」

「ぐっ……ぁ!」

「ったく、これで『セプリティス』名乗れるんだから、世話ねぇよなぁ!」

 

 溝内へと膝まで打ち込み始めた陰惨な私刑に、僅かではあれ心を通わせた人間が合わされていて黙っていられるほどシャルは、弱虫でこそあれ薄情にも恥知らずにもなれなかった。

 

「や、やめて……!」

「はぁ?」

「………なっ」

 

 女の僅かに覗いた眼が、何をしていると訴える。

 パーラに、サディスティックな笑みが宿る。

 僅かに、シャルの声色に命が戻る。

 

「わ、悪いのはせ、セプリティスさんじゃない……私が、そう、誘導したの……」

「……へぇ? ほー? ふぅん?」

 

 興味深げな様子を繕いながら、しかし家畜が面白い台詞を喋ったと喜悦の内心を隠そうともしないまま、パーラは女性を解放するとシャルへと歩を進める。

 

「やっぱり妾の子だけありますねぇ。売女の才能だけは一人前と言った所です?」

「っ……!」

「あっ、今だけはどれだけ立場を理解してない、無礼な口を利いてもいいですますよ? 後々のお楽しみが、その分募っていきますのでぇ」

 

 拘束が解けているというのに、絶対者の余裕を崩さない態度。

 ならば、望み通りに利いてやると、望まないであろう言葉を投げかけてやる。

 

「オムニア……なんて、私は知らない……お前達の任務は、絶対に失敗する」

「……ふぅん」

 

 ちらりとパーラは、我関せずと不動の姿勢を保つ部下を横目にし、

 

「そんな筈は無いんですますよぉ。シャルル・デュノアくんは、オムニアについての情報を取引材料として、IS学園の厳しい審査を通り抜けたんですから」

「えっ……!?」

「……何っ?」

 

 二人とも別々の意味で、自分すら知らされていなかった情報に、驚きが口から漏れる。

 

「だ・か・ら、貴女が持ってない訳がないんです……たとえ、貴女自身が知らされてなかろうと、ね」

「私にも知らされてない方法で……?」

 

 とはいえ、IS学園での活動方針や、連絡方法などの必要な知識は全て頭に刻まれたし、荷物も私物で用意した目覚まし時計以外は、社が用意したと言っていた通りの物しかなかった。

 それ以外にあった物など、シャルには心当たりが、

 

「……っ!?」

 

 あった。

 そういえば一つだけ。

 ジャージのポケットに入ったままの、なぜ荷物に入っていたか分からないままだった――謎のメダイユが。

 

「ほうら、やっぱりあるんじゃないですか」

 

 マイクロチップなら、確かに掌に収まる程度のメダイユにも隠せるだろう。

 毎日祈りを捧げていたマリア様の背後に潜んでいた、陰謀の影。

 

(どうして……?)

 

 シャルロットには、分からない。

 

(どうして、私にこんな物を託したの……父さんッ!?)

 

 こんなにも危ないものを、娘に託す親の気持ちが、心の底から分からない。

 

「ふふふっ、もう言い残すことがないんです? それじゃあ、あとは時間まで……一足先に、メス豚の悲鳴でも愉しむとしましょうか」

 

 女の腕が、鋼鉄の機甲へと変わり、毒々しいグレーと紫が混ざり合った装甲の隙間から、ワラワラと機械で出来た虫共が湧きだしてくる。

 

「ひっ……!」

「……悪趣味」

「あらあら、貴方達には分からないんですます? こんなにも……アタシに忠実で、有能で、余計なことをしない、ファウトレース・ワスピアーの蟲たちの愛らしさがよぉ?」

 

 ぼそりと女が呟いたように、パーラが纏う専用機――ファウトレース・ワスピアーは異常で悪趣味なISと言えた。

 暗殺から誘拐、尋問や破壊工作に直接戦闘。そのどれもを、機械で出来た数多の蟲を従えて行うこの専用機は、国家の威信を賭けた誇りや優美さなど欠片もなく、ただただ不気味なまでの脅威とおぞましさを讃えている……。

 

「オムニアの情報と在処だけ引き出せれば、あとは目立つ所以外はどうでもいいしなぁ。手始めに爪ぐらいから……」

「帰還。緊急事態」

 

 瞬間、暴風と熱風を纏いながら、別のISが彼女たちの前に降り立った。

 炎を纏ったブルーグレーの装甲。異様に巨大な両腕。顔を隠すようなバイザー。

 ハイロゥ・カゲロウ――トーチ・セプリティスが纏う専用機だ。

 

「あぁん? 緊急事態ぃ? てか、テメェなんでアタシより帰還がおせぇんだよ? 先に脱出してる手筈だったろうが」

「何があったでござるか、トーチちゃん」

「包囲。どうやら、更識に囲まれてる」

「なっ……!?」

 

 今まで余裕を崩さなかったパーラの表情が、トーチの報告に初めて強張る。

 更識――日本が誇る、対暗部組織。闇を狩るために産まれた、闇の狩人たち。

 日陰に生きる悪魔たちすら震え上がらせるその名が、既に自分たちの眉間を既に捉えているという。

 

「ば、馬鹿なッ!? どうやってツケられた!? コラージュ・フラムは学園中に貼ってただろうが!? アタシの装甲にも纏っていたはずだ!」

「てことは、肉眼とかで物理的に観測されたんでござろうなぁ。今戻ったトーチちゃんが追尾されていたにしては、包囲が早すぎることを考えると……」

「違う。そもそも私がここに戻ったら、既に包囲されていた。可能性としては誰かさんが逃げ出す際に既に見つかっていたか、最初からマークされていたか」

「ああ、なるほどぉ。拙者はここから一歩も動いてないしぃ、トーチちゃんがドジった訳でもなぁい。と、なるとぉ……?」

「て、テメェら……何が言いてぇ……あぁ!?」

 

 トップのドスを利かせた怒声も、どこ吹く風と二人の部下は淡々と状況を確認し合う。

 

「予定されてた離脱ポッドの発射艇はおそらく、もう差し押さえられてる。ここから逃げ出すだけなら、私のハイロゥ・カゲロウがあれば問題ない。けど」

「……奴が、居るんでござるな」

「正解。包囲の中に更識楯無が居る、コイツを無視しての離脱は自殺行為」

「更識……楯無ッ……!」

 

 ロシアの代表操縦者、学園最強――いや、その様な眩い勇名すら欺瞞に過ぎない。

 秩序の名の下、対象を日陰よりなお深き闇の中へと葬る、暗殺組織の長。

 出し抜くことはできたとしても、直接戦うとなれば専用機を纏おうと間違いなく勝てないと、潜入していた数ヵ月で思い知らされていたパーラは親指の爪を噛み潰し――閃く。

 

「ISは更識楯無のだけだな?」

「肯定。他はIS学園に押し込めてきた」

「よし……なら行ってこい。お前達二人ともな」

 

 下された命令に、二人の眉間が疑問と嫌悪を隠さずに歪む。

 

「……リーダー殿は?」

「あん? どうしてアタシが、あんな化け物の相手しなくちゃならねぇんだよ?」

「作戦。最悪の場合、リーダーも戦う前提のチーム分けだったはず」

「はぁ~? 作戦が作戦通り進む……なんて、可愛く信じてるような新兵ちゃんだったっけかお前らぁ? 分かるだろ、このメス豚の確保が最優先なんだ、脱出艇が使えなくなった以上、お前らのISじゃ生身は運べない。やるなら、アタシしかねぇ訳だ」

「…………この、人」

 

 傍から見ているシャルロットでも、開け透けて分かる。

 この女は口では理路整然と正統性を訴えているが、内心では仲間を平然と捨て駒にし、自分が助かることだけしか考えていないことが。

 

「…………分かった」

「了解。急ぎ足止めしてくる」

「なっ……」

 

 だというのに、当の本人たちは文句ひとつ言わず愚直にYESを示して、背中を向けてしまう。

 ダメだ。このままでは、ダメだ。

 彼女たちは自分にとって敵であっても、死んでほしいとまでは思わない。

 これ以上、自分なんかのために誰も傷ついて欲しくない。

 

「待っッ!?」

 

 悲痛な思いと共に二人を呼び止めようとした足が、長身の女性から投げられた大型ナイフによって停められる。

 降りしきる雨を受け、足元に突き刺さるナイフと同じ――いや、それ以上に冷たく慄然とした力を込めて、死地に赴く女の瞳は、

 

「じゃ、後はせいぜい頑張るでござるよ」

「はっ、せいぜい期待してるぜぇ、『セプリティス』共よぉ」

 

 なぜか、最後までパーラではなく自分を見つめていたような――シャルロットには、そんな風に思えて、仕方がなかった。

 

 

                   ●●●

 

 

 張り付くような雨が降る夜のしじまを、二機の異形な機影が切り裂いていく。

 片や、氷を操る、竜のようなシルエットと背部ユニットをワインレッドの装甲で背負ったIS『撃龍氷』。

 片や、炎を纏う、巨大な腕とワンオフ・アビリティであらゆる電子機器をねじ伏せるグレーブルーのIS『ハイロゥ・カゲロウ』。

 あの無能から十分な距離を取ったことを確認して、撃龍氷の兜から覗く口元が感極まった思いの丈を唇に乗せた。

 

「いやぁ、拙者たちって幸せ者でござるよなぁ。トーチちゃん」

「……祝福。いい浮気相手を見つけたのなら、全く構わない。独占できるおめでとーぱちぱち式には呼ばなくていい」

「はなぁっ!? いやいやいやいや!!! このリューン・セプリティス、いつだって誓って心も体も隊長一筋でござるよ!!?」

「ふーん。その割には、かなり入れ込んでたみたいだけど」

「いっ、いや、違っ、シャルロット相手のあれは浮気とかそういうのでは……」

 

 自分でもちょっと自覚していたためか、お調子者な相棒が珍しく喉を詰まらせたような態度で慌てふためくのが面白く、トーチも饒舌に語る。

 

「言分。分かってる、私たちは間違いなく幸せ。隊長がまだ、同じ空の下に居てくれるんだから」

「おっ! じゃあやっぱり」

「ほぼ確定。朴月姫燐は、キルスティン隊長。ただ……」

 

 ほぼ、と保険を掛けた懸念の中身を、トーチは吐露する。

 

「私のこと、やっぱり何も覚えていなかった。そして多分、リューンのことも」

「……マジでござるかぁ」

 

 誰よりも大切な人が、自分達の事を何もかも覚えていない。

 死していたよりは遥かにマシで、前回の襲撃でも様子がおかしかったことから覚悟こそしていたが、確定した事実として突き付けられると――

 

「これは結構……堪えるでござるなぁ」

「……うん」

 

 打ちのめされてしまいそうな悲しみを叩きだすために、声色と共に話題も切り替えるリューン。

 

「まま、この辺は後で考えるとして、こっからどうするでござる?」

 

 一分一秒。アレと同じ空間に居るどころか会話すら御免だったので、あんな命令であろうとさっくり呑み込み、飛び出した二人は実のところ全くのノープラン。

 アレのための命令なんぞ始めから聞く気など毛頭なく、楯無と戦うかどうかすら決めていなかったのである。

 

「……どっちにせよ。どう転んでも更識楯無に既に捕捉されている以上、コラージュ・フラムがあっても無視はできない。やるかやられるか」

「はぁぁ、やっぱり更識楯無の相手するのは確定なんでござるなぁ」

 

 わざとらしく溜息をつくリューンであるが――その内で燃え上がる戦意は、微塵も萎える気配がなく高ぶり続けていく。

 

「招待状は?」

「大丈夫。送ってある」

「じゃあ、来てくれるんでござるな。隊長も」

 

 隊長に会える。

 また、この暗い海のような培養槽の中で、出口もなく溺れていた自分を導いてくれる。

 あの時のように――

 

――なるほど、何を大層に保管していたかと思えば……その両目。失敗作か。

――こんな所で燻ぶっているぐらい暇なら、おれと来るか。

――おれがお前を兵士らしく、余すことなく使い潰してやる。

 

 この呪われた両目に意味を与えて、兵士として使い潰してくれるとまで、約束してくれた、『拙者と私』が産まれた時のように――。

 

「負けられないでござるな、誰だろうと」

「信用。リューンがもし居なくなっても、その時は私が隊長を支えるから安心して負けていい」

「それ。そっくり返すでござるよ、トーチちゃん」

 

 隊長の次に頼もしい相棒との軽口を楽しんでいる内に――もう一つの機影が見える。

 積み上げられたコンテナの上で腕を組み、ただこちらを鮮血のように真っ赤な瞳で見据えている。

 こちらの飛来を察知し、IS――ミステリアス・レイディを完全展開して待ち構えているのは明白であった。

 

「あらあら、赤と青のIS……どうやら、当たりの方が来てくれたみたいね。お姉さんツイてる♪」

 

 やんわりとした、真綿のように軽々しい声色。

 先手は取れるだろうが、相手に会話の意思があることが分かった以上、こちらの方がより時間を稼げると、リューン達も距離を取ってコンテナに着陸する。

 

「やぁやぁ、お初にお目にかかりますかな? あー、拙者たちは」

「リューン・セプリティスにトーチ・セプリティス。機体はそれぞれ、中国から稼働データと引き換えに違法貸付されたフレームとコアで造られた第三世代『撃龍氷』、デュノア社で研究され中東での事件の後、行方不明になっていた第三世代『ハイロゥ・カゲロウ』」

 

 つらつらと述べられるパーソナルデータが示した、表情と身体を戦慄に強張らせる二人を満足気に見やり、楯無は続ける。

 

「ええ。貴女達には、私の学園を土足で荒らした罰を受けて貰わないと、って思ってたから。機体は特に念入りに調べさせてもらったのだけど、間違っていないようね♪」

「……流石。更識は伊達じゃない、と」

「やあねぇ、褒めても何も出ないわよ? それに、個人的な興味も多分に含まれてたしね」

「拙者たちに?」

 

 思い当たる節はいくらでもあるが、もっと大局を見据えるべき立場に居る彼女からすれば、あまりにも木っ端の構成員に過ぎないと自覚しているリューンはおどけてみせる。

 

「いやー、とうとうあの更識のトップにお目を付けられてしまうとは。確かに拙者たち、壊したモノと泣かせた女は数知れず。どうやら染みついた悪名も、中々捨てたもんじゃないようでござるよぉトーチちゃん」

「同意。ただ、女泣かせが得意なのは隊長で、お前は笑われるのが関の山だけど」

「そこはせめて、笑わせたと言って欲しいでござるなぁ……」

 

 などと、これから戦う比類なき強敵を前にしても普段のテンションを崩さない二人を前にして楯無は、

 

「ええ……そうね」

 

 笑みが失せた、獲物を絞め殺す蛇の冷血を宿した眼で、うるさい蛙どもを睨みつける。

 

「貴方たちのせいでね、泣いている女の子が居るのよ」

 

 更識とも、暗部とも、暗闇とも、なんの関係も罪もなく、ただ優しい女の子。

 だというのに、その子はいま、とても多くの傷を負って、誰にも理解できない苦悩に苦しみ、見えない涙を今も流し続けている。

 全てを狂わせた、この女達が現れたあの日から、ずっと。

 

「……ほほん? その意趣返しも兼ねてるって訳でござるか?」

「迷惑。その女に言っておいて、『弱いお前が悪い』って」

「……そうね……弱さは、罪なのかもしれないわ」

 

 楯無も、承知している。

 どれだけ平穏を取り繕うと、いざとなればこいつ等のような外科手術によって全てを歪める世界において、弱いことはそれだけで許されない事なのかもしれない。

 

「けれど、貴方達に、あの子を弱いと言う資格なんてない」

 

 けれどあの子は、お姫様のような自分の弱さなんて自分が一番知っているのに、憧れて、強がって、強がって、いつか本当に強くなろうと頑張っている。

 そんな懸命な姿が、他でもない更識楯無を、こんなにも私情に走らせるまで強く惹き付けたのだから。

 

「こんな弱者の常套手段(テロリズム)でしか、何かを変えられない貴方達なんかには、ね」

「…………」

「……ほざくか、更識」

 

 今度は、リューンとトーチが笑みを失う番であった。

 

「貴様に何が分かる……そうするためだけに産み出された人間の、何が」

「ええ、心配しなくても、これから分かる予定よ。貴方達を捕らえて、全部聞きだすもの」

「貴様ッ……」

「気付かなかったかしら、パーラ・ロールセクトは、貴方達をおびき出すために泳がせていたのよ? こうして捉えた以上、絶対に洗いざらい吐いてもらうわ。組織の実態、背後関係、コネクションに出資者、そして」

 

「キルスティンとかいう、ネズミの正体も、ね」

 

 決定的な――決定的な亀裂が、両者の間に、走った。

 

「ネズミと、抜かしたか……私たちの、隊長を……!」

「ええ、頭にドブ。も付けた方が良かったかしら?」

「……いい。リューン…………もう、いい」

 

 ハイロゥ・カゲロウの腕が炎を覆う。

 撃龍氷の手に、氷の両剣が出現する。

 そして、ミステリアス・レイディの周囲に水流が纏われる。

 

「もう、こいつは――ここで焼き殺す」

 

 闇に生きる者たちが、超常の機身を纏って、暗い雨空へと躍り出る。

 絶対的な殺意に惹かれ合ってぶつかり合う、三つの閃光を瞬かせながら……。

 




 リューン回でしたけどオリ展開にオリキャラ中心の話とか大丈夫なのか、コレガワカラナイ。


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