今日も、この世界は平和だ (てと)
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01 エピローグ(1)
白い空間だった。
ただそこにあるのは、二つの椅子と一つのテーブルだけ。それ以外には何もない。本当に何もなく、白で塗り潰されているだけなのだ。
そんな奇妙な場所に、俺はいた。気づけば、椅子に腰かけていたのだ。そして、いつ現れたのだろうか――見知らぬ青年が一人、対面の椅子に座っていた。
金髪の西洋人だ。歳は二十を過ぎたくらいだろうか。その碧眼の瞳は俺へと向けられ、口元には微笑が形作られていた。
「初めまして。私の名前はローラン・シャルル」
流暢な日本語だった。いや、そういうふうに“聞こえた”だけだ。おそらく実際には、彼は別の言語を口にしていたに違いない。だがこの時、俺にとってそんな疑問は些細なものだった。
ローラン・シャルル。彼はそう名乗った。ローラン、と俺は口にし、そして彼に尋ねた。ここはどこなのか。どうして俺は、ここにいるのか。
そんな質問をあらかじめ予想していたのか、ローランはよどみなく回答した。
「ここは二つの世界の狭間。時間にも空間にも囚われない、虚無の世界だ。通常、ここには誰もやってくることができない。だが――たまに、きみのような人物が紛れ込んでくる。肉体を失い、魂となった存在が、ふらりとここに彷徨いこむ。そして往々にして、ここに来るのは特別な力を持ち、そして“あちらの世界”の知識を持った人間だ。たぶん、もしかしたら……私が知らず知らず、そういった類の人間を引き寄せてしまっているのかもしれないが」
ローランが口にしたことは、ある部分は理解できていた。
俺は覚えていた。不慮の交通事故で、自らの肉体が死を迎えたことを。彼の言葉を信じるならば、肉体を失った俺はもはや魂だけの存在となり、この空間にやってきたらしい。
そしてローランの言う、「特別な力」と「“あちらの世界”の知識」。後者についてはわからないが、前者についてはなんとなく心当たりがあった。
俺には奇妙な力があった。言うなれば、超能力とか魔法とかいう類だ。
最初に気づいたのは、中学の頃だった。退屈な授業の最中、俺は消しゴムを床に落としてしまった。消しゴムは前方の座席の下にあり、ぎりぎり手を伸ばせば届きそうだった。俺はシャーペンを持ったままの右手を、机の下に伸ばした。シャーペンの先端で消しゴムをこちら側に転がせば、すぐに手に取れると考えたのだ。こっちに来い、と思いながら消しゴムを引き寄せようとした時――その現象は起こった。
動いたのだ、消しゴムが。
シャーペンを当てて、消しゴムを転がしたわけではない。その前に、消しゴムが勝手に手前に引き寄せられたのだ。物理法則に反した、ありえない現象だった。
それをきっかけに、俺は自分に特別な力があることを知った。とはいえ、いわゆる“念力”と呼ばれる程度のものでしかなかったが。おまけに理屈はわからないが、長年使っていたあのシャーペンを手に持っている時しか念力は使えなかった。
大層な能力ではないものの、おそらく「特別な力」とは、そのような超常的な力を指しているのだろう。だが……「“あちらの世界”の知識」とは? すぐには思い浮かばなかった。
「きみは知っているはずだ、“向こう側”を。現に目にしたわけではないが、ある書物から、“あちらの世界”の情報を得ている。多少の脚色はあるが、それらの大方は事実だ」
――知っているだろう、ハルケギニアという名前の土地を。
その言葉を聞いた時、俺は大いに戸惑った。まさかフィクションだと思っていたものが、ここで唐突に出てくるとは予想外すぎたのだ。
それでも、得心できる部分はあった。もし俺の「力」が「魔法」だったとすれば、あのシャーペンが俺にとっての「杖」だったと理解することができる。それにあれを読んだ時、どこか不思議と惹かれるところがあったのだ。もし俺がメイジの血を引いていたのだとしたら、本能的に共感していたのかもしれない。
「馬鹿げたご先祖様だよ。あんなものを、わざわざ地球に遺すなんてね。でも――嫌いじゃない。私はあらゆる時代の担い手を“見て”きたが、幾多もの苦難を乗り越え、生き抜いた彼らとその仲間たちがいちばん気に入っているんだ」
笑いながらそう言ったローランだったが、その顔はすぐに真剣なものになった。
「……だからこそ、心残りでもある。そんな彼らの努力も、結局は実らなかった。大陸は大隆起とたび重なる戦争で荒れ、ハルケギニアの民にとっては最悪の結末を迎えた。私はそんな世界で生まれ、いつしか究極とも呼べる虚無の境地に達した。時間と空間という概念を超越し、世界を観測できる存在となった。そう――私は観測者となったのだ」
そして、と続けるローランの言葉には、どこか寂しそうな声色が含まれていた。
「代償として、私はこの場所に囚われる身となった。ここは入るのは簡単でも、出るのは極めて難しいところだ。……まったく、初めからわかっていれば、こんなところには来なかったんだがね」
苦笑まじりに嘆息するローランに、俺はふと湧いた疑問をぶつけてみた。
ここから出ることが困難ならば、迷い込んでしまった俺はどうすればよいのか。まさかローランと同じように、俺もここに留まりつづけなければならないのか。
そんな質問に、ローランは「いや」と否定の言葉を述べた。
「きみの場合は、存在が希薄な状態でここにやってきた。よほど死後の念でも強くないかぎり、いずれきみの魂は自然消滅するだろう。実際、これまで何人かはここに留まることを選択したが、皆しばらくして消えていった」
死後の念、か。あまり生前のことを気にかけていない今の自分を考えると、この魂が消えるのもそう遠くはないのかもしれない。それでも、ローランのように延々とここに閉じ込められることよりはマシなのかもしれないが。
……それにしても、ローランは奇妙なことを言ったな。
――これまで何人かはここに留まることを選択した。
ということは、ここに留まらない何らかの選択肢があったということか? それならば、その選択肢とは?
俺がその質問をすると、ローランはイタズラっぽい笑いを浮かべた。まるで、聞いてくれるのを待ちわびていたかのようだった。
「そう、きみが虚無を使わずともここに来れたように、希薄な存在ならばここの出入りは不可能ではない。私の虚無の力によって手助けすれば、きみだけ“外”に送ることも可能だろう。あるいは、その魂を“何か”に再結合させることもできよう。長き時によって蓄えられた私の精神力ならば、それだけの虚無を使うことはできる」
反魂――そんな言葉が思い浮かんだ。生まれ変わりなど信じていない人間だったが、こんな超常的な状況では考えを改めなければならないようだ。
なるほど、ローランが俺の魂をふたたび人の身に戻せるとしよう。だが、その目的とはなんだ? わざわざ有限の精神力を消費してまで、俺に何をさせようと言うのだ?
俺はそのことをローランに尋ねた。すると彼は真摯な顔つきに変えて、おもむろに口を開いた。
「――誰も救われない悲劇など、もうたくさんだ」
悲劇――それが意味することは、なんとなく察しがついた。ハルケギニアの辿った道筋、そして報われなかった虚無の担い手たち。そういったものを指しているのだろう。
ローランは俺の顔を見つめていた。その眼差しに込められているのは、ある種の期待だった。
「そして私は見てみたいのだ、彼らが不幸にならない結末を」
……そうか、そういうことか。ようやく、俺はローランの意図が理解できた。
じつに単純なことだった。そう、彼は悲劇が気に入らないのだ。だから、その筋書きを変えたいのだ。
「たとえ自己満足な改変だとしても、観客が私ただ一人だとしても、その舞台劇を心残りなく見届けたい。そのために――」
――役者になってほしい。
そんなローランの願いに、俺は静かに頷いた。
◇
物語を根底から覆すのは、並大抵のことではない。たとえ魔法の才に恵まれた身体に生まれ変わり、これから起こるであろう未来を知っていたとしても。
始祖暦6219年。それが俺の誕生した年だった。ハルケギニアにとって重大な転換点を目前にした時代だ。
初めにそれを知った時、俺は不安と焦燥を抱かざるを得なかった。あまりにも時間がなさすぎたからだ。たとえ知識や経験があっても、行動を起こすには肉体の成長が必要だ。地方領主の子弟という有利な出自とはいえ、これからのことを考えると楽観はできなかった。
目下、懸念すべきは次代のガリア王のことだった。俺の持っている知識では、遠くないうちにジョゼフが王位につくことになっていた。問題は、彼がハルケギニアを戦乱の渦に巻き込むほどの狂気を持ちうるということだ。できることならば、それを防がなければならない。
幸いながら、俺が生まれたのはガリアの土地。そして貴族――メイジであるという身分。ガリア王周辺に近づくための手段としては、もっとも単純で効果的なものが一つあった。
そう、騎士である。東薔薇花壇騎士団、西百合花壇騎士団――あるいは、“北”花壇騎士団でもいい。幼い頃から魔法の訓練に身を置き、すでに十の齢でスクウェアに達していた俺にとって、騎士となることは高いハードルではない。騎士として名声を高めれば、王家の人間との邂逅も十分に実現可能だろう。
とはいえ、考慮すべき事案はジョゼフだけに留まらない。その先には“大隆起”への対処という難題が待ち構えているし、それに絡んだロマリアの動きにも注意しなくてはならない。前途は多難というわけだ。
いかに“知識”を活かし、“舞台”で活躍をするか。
俺はそのことをずっと考えてきた。
――王都に行き、騎士となるまでは。
後にして思えば、それらはまったくの杞憂だった。俺の考えは、じつに滑稽だったと言えよう。
俺は大事なことを忘れていたのだ。
そう――役者は一人ではないということを。
◇
「――遅いッ!」
穏やかな春の日差しのもと、理不尽な怒鳴り声が浴びせられる。
つきそうになった溜息を我慢しながら、俺はゆっくりと口を開いた。
「…………予定の時刻には遅れずに、参ったはずですが」
「どうせなら三十分くらい前に来ていなさいよ。気が利かないわね」
「……申し訳ございません」
相変わらず無茶を言うな、このお嬢さんは。まあ、彼女の性格なんて騎士になってから痛いほどわかっていたことなのだが。
俺は使い魔の火竜に命令し、その尻を地に着かせ、背に乗りやすいようにして、彼女に言った。
「それでは、お乗りください――イザベラさま」
「言われなくとも、そうするさ」
どこか嬉しさが見え隠れするような口調で、イザベラは俺の後ろに座った。たぶん、これから会う相手が楽しみで仕方ないのだろう。そう考えると、ちょっとかわいいとも思える……のか?
そんな疑問に苦笑しながら、使い魔に行き先を伝える。火竜は承知の一鳴きをすると、目的地へと疾駆を始めた。
しばらく無言のまま空の旅を続けるなか、なんとなしに俺は口を開いた。
「ところでイザベラさま。最近の魔法の練習具合はいかがですかな?」
何も会話がないというのも気まずいので、とりあえず話題を出してみたわけだが、ぴしりと空気が張り詰めて余計に気まずくなった気がする。
……この小娘、もしかして何も進展していないのかよ。
「イザベラさま――」
「あー、うっさいうっさい! だいたい、練習してもちっとも変わらないんだから、仕方ないじゃないか!」
「そんなことを言っていたら、宮廷のやつらを見返せませんよ。それに、ちゃんと実力はついてきているではないですか」
「……ふん。明日からはちゃんとやるさ」
ぷいとそっぽを向いて、イザベラは答えた。
いつだったか、宮廷を出歩くイザベラの目付け兼護衛として俺が随従していた時、魔法の苦手な彼女を前にして悪意ある皮肉を叩いた貴族がいた。
……それはイザベラにとって、さしてめずらしいことでもなかったようだった。才のないジョゼフの、才のない娘イザベラ。それが宮廷での、彼女に対するほとんどの人間の見方だった。才のあるシャルルの、才のある娘シャルロットと比べられていたこともあってか、とくにイザベラは見下されがちだった。
当時、俺は東薔薇騎士団に入ったばかりで、そういう宮廷事情には詳しくなかった。おまけに、そういった才能云々の非難を好まぬこともあって、柄にもなくその貴族に皮肉で仕返ししてしまったのだ。
今にしてみれば迂闊で思慮に欠けた行動だったが、結果的にはよかったと言うべきか。その時のおかげで、俺はいたくイザベラから気に入られたようで、その後はほとんど専属の従者のような扱いになっていった。花壇騎士がそれでいいのかとも思うが、周囲からは「あの面倒くさい娘を御してくれる騎士」と見られたせいで、呆気なく黙認されたというわけである。
まあ、それも悪くはないと、俺は思っていた。イザベラに近づけるならば、その父であるジョゼフにも近づけると打算的に思っていたからである。……“あの時”までは。
今となっては、ジョゼフのことなんて、もうどうでもいいことだろう。いやまあ、イザベラの父親として重要ではあるのだが。
……もう少し、娘のことに関心を持ってくれれば、と思う。それでも、“前”よりは親子らしくなったと言えるのかもしれないが。
「……はあ」
「何? 信用できないってわけ?」
「いえ、違いますよ。ただ、なんというか――」
――夢のようだ。
あるいは、今でも信じられないのかもしれない。
このハルケギニアで起こったこと。
俺なんか足下にも及ばない、“彼ら”の行なったこと。
「……夢のよう? 何が? ああ、わたしみたいな美人に従僕できているってこと?」
ふふん、と艶やかな青髪を掻き上げるイザベラ。……そりゃまあ、確かに美人だが、自分で言うなよとツッコミたい。
俺は苦笑しながら呟いた。
「平和がいちばん、ってことですよ」
やがて、リュティス東端に位置する宮廷群が見えてきた。目的地は、ガリア王――シャルルのいるグラン・トロワではなくて、そこから少し離れたプチ・トロワ。
その薄桃色の宮殿の、中庭の芝生の上に降り立った俺たちは、一人の少女がこちらへと駆け寄ってくるのを見た。
長く、美しい髪。その色は、ガリア王家の血筋を示す、空のような青だった。
彼女は俺の後ろにいるイザベラを見つけると、はつらつとした笑みを浮かべて叫んだ。
「――イザベラ姉さま!」
「ったく、お前はいっつも忙しないね」
お前が言うなよ、それは。まあ顔を少し背けているのを見ると、照れ隠しのようだが。
王女として自由があまりないこともあってか、やはりシャルロットはイザベラと会えることが嬉しいようだ。同じように、この数ヶ月でいろいろと変わったイザベラも、数少ない“身内”と遊べることが大切だと理解している。
だが、妹想いなのも大概にしてほしいところではあるが。この前、シャルロットを宮殿外のリュティスに連れだして周囲を騒がしてくれたのは、記憶に新しいことだ。
……それでも。
やっぱり、平和だよなぁ。
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02 エルフと吸血鬼(1)
アベルという男について、エルザは彼の性格と思考を明確に捉えることができない。
善人でお人好し、という面も強いが、それ以上に彼は変人であり奇人であった。いや、そもそも純粋な“人”ではないのだから、そう見えるのも当然なのかもしれないが。
彼の生い立ちは、詳しくは知らない。だが彼自身から聞いた話をまとめると、ある程度の彼の歩んできた道筋が見えてくる。
ガリアの辺境の森、その奥深くでは、かつて、魔獣、幻獣、そして亜人などを対象にした研究が行なわれていた。なぜそんな場所で? という疑問の答えは簡単だ。とても他人に軽々しく言えないような、非道徳的で残虐極まりない生体実験が繰り返されていたからだ。
アベルという男は、そこで生まれた。
いや、“生み出された”と言うべきなのかもしれない。
吸血鬼とメイジの特質を備えた、強靭で強力な生命体。
吸血鬼、と言えばハルケギニアにおいて、人間から恐れられている妖魔として名高い。寿命と生命力は人間を軽く越え、そして吸血鬼の“餌”は人間なのである。彼らからしてみれば、エルザのような吸血鬼は悪夢のような存在だろう。
とはいえ、万能、というわけではない。太陽の光が苦手で昼に出歩くことはむずかしいし、生存に必要な“食糧”は限定的で、人間を襲わざるを得ない。しかし、その時には吸血鬼側にも危険がある。
貴族――メイジである。平民と違って、彼ら貴族は“系統魔法”を使える。とくに高ランクのメイジが相手となると、いかに吸血鬼といえども一筋縄ではいかない。実際のところ、精霊に働きかけやすい森の中でもなければ、正面からやりあったのならメイジのほうに分があるだろう。したがって、気を抜いて平民を食らおうものならば、貴族に目をつけられ討伐される可能性が高くなる。
そんなわけで、吸血鬼には長所と短所があるし、人間――メイジもまた同様である。
そこで研究されたのが、人に近しい容姿や知性を持った吸血鬼を利用し、その長所だけを受け継いだメイジを作り出す、ということだった。
長い寿命、優れた身体能力、高い生命力。それらを持ちながら、人間と変わらず昼に出歩け、“血”以外の食べ物で栄養を摂取でき、そして――メイジのみに許された系統魔法を使うことができる。
そんな夢のような、新しい人種を創り出せた研究員たちは、どんなに喜んだことだろうか。だが、その苦労はすぐに水泡に帰すことになった。
『いやあ、あの時は大変だったぜ。オレもまだ魔法自体はライン程度の実力しかなかったからな。幻獣やら、よくわからん
あっけらかんと言うアベルの話を、エルザは胡散臭げに聞いていたこと思い出す。
生地であるその研究所で、ある程度、成長して力をつけたアベルは、研究員たちに反旗を翻した。捕獲されていた獣や、実験によって作り出された合成獣を解き放ち、研究のために囚われていた亜人たちを連れて森から脱出したのだ。
その後、国から派遣された騎士たちによって逃げ出した合成獣などは駆除されたものの、研究所の施設と人員の被害が大きすぎて研究は破棄されたらしい。唯一の成功例たるアベルの研究内容も、脱出時の彼の工作によって資料がすべて焼き払われた。つまり、人間と吸血鬼を理想的に組み合わせた亜人の存在は、もはやこのアベルひとり以外にありえなくなったわけである。
その後、アベルはハルケギニアを流浪するうちに、身寄りのない吸血鬼や獣人などの亜人を拾って伴うようになった。それらは規模を広げ、やがて未開の土地を探して出して、人間たちから隠れて暮らせる“村”を作った。
エルザも、ガリアとゲルマニアの間にあるアルデラ地方の広大な森の奥に存在する、その村で生まれた吸血鬼だ。父と母は旅をするうちにアベルと出逢い、勧誘されて村に移り住んだとのことだった。
ところで吸血鬼と言えば、その食事は人間の血液である。人間のいない村で、どうやって血液を供給するのか? ――簡単だ。作り出せばいいのだ。つまり……“錬金”という、メイジの業である。
土系統の、メイジで言うところのスクウェアクラスの力を持ったアベルは、その強力な錬金魔法で水を血液に変えることに成功したのだ。そのおかげもあって村は安寧を守りつづけ、今も皆が平和に暮らしている。
アベルの過去についてエルザが知っているのは、それくらいだ。おそらく彼は、村のなかでもかなりの年数を生きた人物に数えられるが、個人的な出来事についてはそれ以上を語ろうとしない。あるいは、長く生きすぎて忘れているのかもしれないが。
さて、そんなアベルだが――今、彼はタクト型の杖を持って砂いじりをしていた。
曇天の夜で真っ暗闇だが、夜目の利くエルザにとってはその顔を認識できる。人間における二十歳に達するかというくらいの顔立ちは、どこか楽しそうな表情をしていた。これから“とんでもないこと”を行なうというのに、この余裕はなんなのだろうか。
アベルの後ろ、バカでかい背嚢は時折、もぞもぞと動いたりする。……“中の人”も大変だなぁ、とエルザは感じた。
「うっし、準備完了」
やがて、そう言って立ち上がったアベルは、ルーンを唱えて杖を振り下ろした。と同時に、地面の土が盛り上がり、徐々に形が作られる。“クリエイト・ゴーレム”――意のままに操れる人形を作り出す魔法だ。
ただし、アベルのゴーレムは明らかに通常のものとは違った。ゴーレムと言えば、土や岩、あるいは鋼鉄などの身体を持たせた人形というイメージが強い。しかし、いまここに現れたゴーレムは……等身大で、風貌、外見がまったく人間と同じものだった。
むろん、並みの土メイジではここまで精緻で複雑なゴーレムは作り出せない。もはやここまでくると「ゴーレム」というよりは「ガーゴイル」であるが、そんな代物をいとも簡単に創造するあたり、アベルのずば抜けた能力が窺える。
アベルは同じようなゴーレムを数体作り出すと、それらの下僕を街のほうへ向かわせた。市街に紛れ込ませ、いざと言う時に動かすつもりなのだろう。
「さぁて……オレたちも行くか」
しばらくして、アベルは街――王都ロンディニウムを見据えて言った。暗闇に包まれた郊外のこの場所と違って、深夜とはいえ、あちらは生活の光がそれなりに灯っている。
自分たちの目的地は、ロンディニウムの街? いや、違う。
正確には……その先にある王宮――ハヴィランド宮殿だ。
現アルビオン王国の君主、ジェームズ一世の住まう地へ。
◇
事前に王宮の警備ルートを把握していたことと、信頼できる内通者が複数いたことで、王宮には予想以上に簡単に侵入することができた。
いま、アベルとエルザがいるのは、王宮最上階にある雑用具を保管しておくための倉庫だった。この部屋の入り口には、重要度が低いこともあって、警備がいなかった。つまり、王の居室へ侵入する足がかりとしては最適というわけだ。
アベルは腕を組みながら、うろうろと倉庫内を歩きまわっている。もちろん、考えなしの無意味な行動ではない。足から伝わる床の感触で、下の階の情報を読み取っているのだ。吸血鬼の優れた五感と、土メイジとしての超感覚を持っているからこそ、可能な芸当だった。
「……よし、始めるぜ」
小さく呟いたアベルに頷き、エルザは彼のそばに近寄った。
それを確認したアベルは、杖を取り出してルーンを唱えた。
そして行使されたのは、錬金の魔法。
アベルの目前の床、そこの直径一メイルほどの円形に、淡い光が浮かび上がった。
一瞬後、光が消え去ると、その部分にあったはずの床も消え失せていた。
……正確には違う。床に開けられた“穴”の先を見れば、砂が積み重なっていた。つまり、床部分を砂に錬金したのだ。
だが、これを王宮の人間が知ったら卒倒しかねないだろう。ふつう、このような王宮では、ほとんど全ての場所に“固定化”などの魔法的補強がなされている。しかもそれは、スクウェアの土メイジが処置することが大抵だ。
どういうことかと言うと、アベルは、スクウェアの土メイジの仕掛けたであろう“固定化”をいとも簡単に崩した、ということだ。末恐ろしい魔法の力である。
「んん、どうした?」
「……凄いなって呆れてたの」
「褒めても何もやらんぜ? ま、ただの人間と違って魔法を練習する時間だけは大量にあったからな。……それでも、“アイツ”のインチキっぷりに比べたら、オレもまだ尋常だがな」
肩をすくめて言ったアベルに、エルザは内心で愕然としていた。
このアベルよりインチキなひと? ……本気で、想像できない。
アベル以外に秀逸なメイジといえば、しばしば定期的に“村”を訪れているアルフォンスという水メイジの少年が思いつく。たしかにアルフォンスも、そこらのスクウェアを軽く凌駕するような魔力や、“特殊な身体”を持ってはいるが、それにしたって、アベルがそこまでの物言いをするほどではなかったはずだ。アベルの交友関係が異常に広いということは知っていたが、まさか彼がそこまで言うような人物がいるとは思わなかった。
今度、その人のことを聞いてみよう。などと戦慄とともに思いながら、エルザはアベルに抱えられた。
「フル・ソル・ウィンデ……」
レビテーション。その魔法で、ゆっくりと開けた穴から下の階へ。
砂にまみれた床に着地したところで、エルザはアベルの腕の中から降りた。
この部屋は、窓際に執務机、中央に高級なソファーとテーブルが置かれていた。執務室兼応接室のようなものだろうか?
アベルは今までしょっていた背嚢を床に置くと、手の動きでエルザに合図した。
(これ、任せた)
エルザは了解し、背嚢を慎重に優しく抱きかかえた。“中身”がアレなのでちょっと重いが、吸血鬼であるエルザからすれば大きな問題はない。……人間で言うと外見五歳児くらいの少女が、自分以上のデカい荷物を持っている光景は、少しシュールであるが。
ふたたび、アベルはゆっくりと部屋をうろつきはじめた。今度は時折、壁に手を当てている。およそ一分ほど、周囲の索敵を行ないおえると、東側の壁の前に立って杖を持ち上げた。
(作戦どおりに、な)
アベルのささやきに頷く。
その次の瞬間、小声で唱えられた錬金が、壁を土に変えた。
大量の砂が流れるなか、アベルは瞬時にべつの魔法を唱える。
サイレント――音を消す風魔法だ。アベルはその魔法を器用に使い、外の衛兵へと音が漏れぬよう、居室の外周だけに沿って展開させた。
そして、堂々と部屋へと侵入するアベル。その気配に気づいたのか、向こうに見える天蓋付きの豪華なベッドの中で眠っていた男が、もぞもぞと身体を起こしはじめた。
「ん……な、なんじゃ……?」
「こんばんは、陛下」
にっこりと笑ったアベルは、腰からナイフを引き抜いた。刃渡り二十サントほどの凶器が、薄く光を放つ。
それを見て事態を察したジェームズ王が、恐慌したように叫ぶ。
「衛兵ッ! 侵入者じゃッ! 誰か……ッ!?」
一瞬で距離を詰めたアベルが、か細い王の腕を掴み、その首に銀光の刃を擬した。
「無駄な抵抗はおやめください。ここの声は、向こうには届きません。それより……今日は、お願いがあって来たのです」
絶望を悟ったのか、ジェームズは大きく深呼吸すると、アベルを厳しく睨めつけて口を開いた。
「お願い? ただの脅迫じゃろうに」
「ま、どちらでも構いません。さて、肝心の内容についてですが……。陛下、モード大公のうわさはご存知ですか?」
その言葉を聞いて、ジェームズは顔を赤らめた。
ジェームズ王の弟、モード大公のうわさ。それは、彼がエルフの愛人を匿っているのではないかということだった。エルフはハルケギニアの人間から“仇敵”として認識されており、王家の血筋を引く貴族がエルフと交際しているなど、あってはならぬことだった。
ジェームズは、怒りを抑えきれない様子で叫んだ。
「おぬし……あやつの差し金か! エルフの女などのために、このわしの命を狙うとは……!」
「命を狙う? ご冗談を! 私は陛下に、改心していただくために来たのです」
「……なんじゃと?」
訝しむジェームズを尻目に、アベルはエルザに目配せをした。それを受けて、エルザは隣に置いていた背嚢の口を開ける。
もぞもぞ、と背嚢がうごめいたあと、ぷはっ、とその口から頭が飛び出てきた。
「……だいじょうぶ?」
「う、うん」
エルザの問いかけに首を縦に振った少女は、背嚢から全身を這い出した。
ずっと狭い中に隠れていたせいで疲労が溜まっているのか、ふらふらとしながらも、ようやく彼女は立ち上がった。そして頭をすっぽりと覆うようなフードを外す。
――流れるような美しい金髪。吸いこまれそうな翠緑の瞳に、整った顔の輪郭。まだ幼いながらも発育はよいらしく、ふくよかな胸が目立っている。
それだけならただの美少女、なのだが、一つだけ決定的な違いがあった。
なぜなら、その耳が……。
「――エルフッ!」
青ざめた顔で、ジェームズは叫んだ。びくり、とエルフの特徴である長くとがった耳を持つ少女は震えた。
「正しくは、ハーフエルフですな。陛下の姪である、ティファニアさまでございます」
「知らぬ! そんな姪を持ったことなど認めぬ! おのれ……あの愚かな弟め……!」
「……やれやれ」
どこか悲しそうな声で呟くと、アベルはティファニアを呼び寄せた。
ゆっくりと、恐る恐る、ハーフエルフの少女は伯父のジェームズ王のもとへ近づく。
「ティファニア、例の魔法を頼む」
「…………」
「きみと、きみのご両親のためだ。それに、陛下を殺すわけでもないさ。頼むよ」
「……うん、わかった」
意を決したティファニアは、顔を強張らせながらも、懐から細い杖を取りだした。
王家の血を引く彼女も、魔法を使うことができる。だが、それは一般的なメイジの使う四系統とは少し違っていた。
失われたとされる、伝説の系統――虚無。
「ナウシド・イサ・エイワーズ……」
透き通るような声が響き渡る。ティファニアは目を閉じ、ルーンを詠唱する。
「……ハガラズ・ユル・ベオグ……」
彼女以外は、誰もが聴衆だった。刃物を突き付けられたジェームズのみならず、アベルとエルザも黙ってその音色に耳を傾ける。
「……ニード・イス・アルジーズ……」
紡がれる調べは、まるで歌のようだった。一般の魔法と比べて遥かに長い詠唱を、ティファニアは淀みなく諳んじる。
「……ベルカナ・マン・ラグーズ……」
――詠唱が完了した。室内を沈黙が支配する。
ジェームズはこれから起こることに恐怖し、顔色を失っている。アベルとエルザは、ただティファニアが虚無の魔法を解放するのを待っている。
「……ごめんなさい」
気兼ねのためかそんなことを口にしながらも、ティファニアはついに杖を振り下ろした。
その瞬間、ジェームズのいた空間が歪んだように見えた。数秒後、歪みがもとに戻ると、そこには呆けた姿で宙を見上げるジェームズがいた。
“忘却”の呪文。
その虚無は、相手の記憶を奪い、改竄することも可能とする強力な魔法だ。
だが、それだけでは十分ではない。記憶を奪ったところで、またモード大公の周辺の事実に気づかれたら、それで終わりである。
だから、そうさせないための方法をアベルは計画していた。
ぼうっとしているジェームズの顔を、アベルは自分のほうに向かせた。
そしてルーンを唱え、ジェームズに魔法をかける。
「……陛下。モード大公のエルフの妾と、その娘について、かならずその身を守っていただきたい。お願い申し上げます」
「あ……あ、ああ……」
呆然と頷くジェームズの瞳には、怪しげな魔法の光が宿っていた。
だが――虚無と組み合わせるとなると、話は別だ。忘却によって記憶を不確かにさせられている状態の相手ならば、いともたやすく、強力な制約がかかるだろう。そうして今、アベルはモード大公と彼の愛人であるエルフのシャジャル、そして二人の間の娘であるティファニアに危険が及ばぬよう、ジェームズに魔法をかけたのである。
最後に、アベルは“眠りの雲”でジェームズの意識を落とし、ベッドに横たわらせた。
「完了だ。あとは戻るだけだな」
そう言って、アベルは懐から一枚のカードを取りだすと、目立つようにテーブルの上に置いた。
エルザがそのカードを覗くと、書かれている内容が見てとれた。
『もっと優秀な土メイジを雇っておくことをオススメする。 土くれのフーケ』
……よくわからないが、アベルが偽名を使う時はどうもこの「フーケ」という名前を好んで用いているようだ。
その由来について尋ねたみたことはあるのだが、一言だけ「個人的な趣味」と答えられただけだった。さっぱり意味がわからない。まあ、その辺が彼らしいと言えば彼らしいのだが。
「さぁて、面倒が起こらなうちに、さっさと……エルザッ」
突然、激しい剣幕でアベルは叫んだ。その視線は、自分たちが侵入してきた壁の穴に向けられている。
そちらのほうを見ると……杖を構えた衛兵らしきメイジが、こちらに敵意を発していた。
おそらく、なんらかの理由で入り口に使った倉庫の異変に気づいたのだろう。そして、そこに開けられた穴を降り、今ここにいるアベルやエルザを見つけたというわけだ。
メイジは、ルーンを唱えながらこちらの居室に入ってこようとしていた。彼が向こうの部屋とこの部屋をつなぐ壁の穴を通り抜けようとした時――その下にあった砂が盛り上がり、一瞬で穴をふさいだ。
アベルが魔法を使ったのだ。しかし即席の対処のため、すぐに破られるだろう。それにサイレントの魔法はすでに解除されているため、今の騒ぎを聞いた外にいる衛兵が、早々に駆けつけてくるに違いない。
そうなると、脱出経路は限られる。アベルとエルザは、どうすべきかを即時に理解した。あとは、わけがわからずおろおろとしているティファニアをどうするか、だが。
「テファ、フードをつけてオレにしっかりと掴まれよ。エルザ、お前は背中に」
そう言いながら、アベルは“エア・ハンマー”の魔法で近くにあった窓を吹き飛ばした。
ガラスが割れ、窓枠ごと外に飛び散るなか、居室の扉が開かれる音を耳にする。衛兵が来たのだろう。
エルザはアベルの背中に飛び乗った。彼の腕には、フードを被ったティファニアがしっかりと抱かれている。
ルーンが聞こえた。そして、杖を振り下ろす音。次いで来るのは、侵入者たる三人を殺そうとする魔法。
それが届く前に、アベルが窓から飛び出した。
独特の浮遊感。ティファニアが声にならない悲鳴を上げる。地面が迫りくる途中で、アベルは杖を振った。
同時に、風の流れが変わった。飛行の魔法――フライによって、三人は空中を飛翔していた。
「すぐに降りて、街に紛れるぞ」
だるそうな声色でアベルが言った。どちらも子供の体躯とはいえ、エルザとティファニアの二人を連れて飛行するのは面倒なのだろう。それに、このまま飛行していても、すぐに追っ手に見つかってしまう。
しばらくして、王都ロンディニウムの石造りの街に降り立った三人は、郊外へ向けて駆け出した。エルザは自分の足で走ることになるが、身体能力の劣るティファニアは依然としてアベルの胸のうちだ。こうなるとどうしても目立つわけで、この奇妙な三人組を見るたびに、街の道行く人々が何ごとかと驚くのも無理からぬことだった。
「チッ、来たか」
後ろからメイジの追っ手が来ている。距離はかなり近い。街の通りを走りながら、杖を振り上げてルーンを唱えているのが見えた。
どこか路地にでも逃げ込めればよいのだが、生憎と確認できるかぎりではそのようなところはない。そうこうしているうちに、追っ手に追い付かれてしまう。そして、射程圏内に辿り着いたメイジは、魔法を放とうとして……。
「出番がないのが一番だったんだが、まあ仕方ない」
呑気に言ったのはアベルだ。
魔法は放たれていなかった。なぜなら、その追っ手へと人影が、突如としてタックルをかましたからである。人影、といっても人の形をしているだけで、正確には別物だ。それはゴーレム――アベルが事前に、ロンディニウムの街に潜ませていた人形だった。
「さあて、こうなると屋敷に帰るには手間をかけなきゃならんぞ。覚悟しておいてくれ」
モード大公の屋敷に戻るにしても、この騒ぎがいったん収まって、情報を収集してからでなければならない。そうなると、ひとまず身を隠せる安全な場所が必要となる。
潜伏場所の候補となるのは、サウスゴータだろうか。
とはいえ……そのサウスゴータの街へ行くにしても、ロンディニウムから追っ手である捜索隊が出されるだろうから、そいつらに足跡を見つけられないようなルートで迂回する必要がある。
つまり、なんにしても、時間と労力をかけなければならないわけだ。だというのに――
「……ずいぶん、楽しそうじゃない?」
先程のアベルの口調がやたらと上機嫌で、不審に思って彼の顔を見遣ると、その口にはやはり笑みが浮かんでいた。まるで、この事態を嬉しがっているかのように。
エルザの問いに、アベルは悪びれる様子もなく答えた。
「なぁに、“口実”ができたからな。これでしばらく、“外”を見物することができるだろ?」
やっぱり……とエルザは呆れた。そもそもアベルの実力なら、あれほど騒ぎを起こさずに事を済ませることはできたはずだ。だが、あえてそうしなかった。――ティファニアのためだ。
エルフの耳を持つティファニアは、今までまともに“外”に出ることができなかった。人間にとって、エルフとは恐怖であり脅威である“敵”だ。もし部外者にエルフ耳を目撃されようものなら、どんなトラブルになるかもわからない。だからずっと、ティファニアは屋敷の中だけで生きてきた。
だが、そんなティファニアにもようやく機会が巡ってきた。それがアベルの存在だ。この規格外の超人ならば、何があろうとハーフエルフの少女を傷一つつけることなく、外に連れ歩くことができる。モード大公もそれを理解し、アベルにティファニアを預けたわけだ。
だがまさか、モード大公もアベルがこんなふざけた人物だとは予想外だっただろう。わざと騒ぎを起こし、それを言い訳にして、ティファニアに外界を見学させるなどとは。
「よーし、テファ。今まで、お前が見たことないような場所に行ってみようぜ。飯も、屋敷じゃ出ないようなものを飲み食いしよう。期待しておけよ?」
ふてぶてしさ極まりない発言である。だが当のティファニアはというと、「ほんと? ……うん、楽しみっ」などと目をキラキラさせている。そりゃこれまでの境遇を考えたら、当然の反応である。
「……はあ」
この先、疲れそうだなぁ……とエルザは溜息をついた。
◇
結局のところ、モード大公の屋敷へ戻るのに一週間近くもかかってしまった。
サウスゴータの街に着くのに三日、そこで潜伏しながら王宮の状況を把握するのに三日、そしてようやく安全を確認して、今、モード大公の屋敷に来た――というのが、“建前”だ。現実はこの一週間、三人で堂々と人前を練り歩いて遊びふけっていたのだが、人のよいモード大公ならアベルの嘘を丸々信じこんでしまうだろう。このアベルという男、じつに人でなしである。……いや、確かに半分は吸血鬼なのだが。
ところで、王都ではいまだに“土くれのフーケ”のうわさで持ちきりらしい。なにせ王宮のなかでも王の居室に侵入し、しかもそこから無事逃げおおせたのだから、人々の話題に上らぬわけがない。
曰く、侵入者は三人。黒髪で中肉中背の青年がリーダーのフーケであり、黒髪の幼女と金髪の少女を連れている。なんでも王から特別な財宝を盗み取ったのだとか。
民衆のうわさはそれほど間違ってはいない。少なくとも三人の容姿については、そのとおりだ。しかし侵入時のアベルとエルザは髪の色を染料で変えていただけなので、実際の今の髪色は、アベルが栗毛でエルザは金髪である。ついでに、財宝を盗んだというのはまっぴらなデタラメであるが、こういう尾ひれがつくのは仕方のないことだろう。
それより重要なのは、王宮が事件をどのように把握し、どのような対処をすると決めたのかだ。だが、これはかなり僥倖な結果となった。サウスゴータの太守に頼んで念入りに確認してもらったのだが、侵入者のなかにエルフの少女がいたという情報は一つもなかった。おそらく、曇天の夜中だったのでティファニアの耳の形に気づく者がいなかったのだろう。
ジェームズ王も忘却の効果があったようで、侵入者についてはまったく知らず、自分への危害もなかったと述べている。
王宮のなかから盗まれたものがなかったことと、王の居室に残された“フーケ”の書き置きもあってか、結局、「実力を誇示したいだけの変人による仕業」ということになったようだ。
……エルザとしては、「変人による仕業」というのはとても正解だと思った。
「おい、今なんか変なこと考えただろ」
隣に座るアベルが、じとりとエルザに目を向けた。こういうところが、やたらと鋭いのだ。エルザは「……気のせいだよ」と明後日のほうを見て言った。
そんなくだらないやり取りをしているうちに、やっと屋敷の主人がこの客室に姿を現した。……と、いうか、飛び込んできた。いくらなんでも焦りすぎである。
「お、おお、アベル殿! ご無事で何よりです! ところで……テファは?」
「今、ここに参ったのは私とエルザだけです。ティファニアお嬢さまは、本日の深夜に紛れて、サウスゴータの街からこの屋敷までお連れする予定です。彼女は現在、太守殿にお預かりいただいておりますので、ご安心を」
たぶん、今頃は太守の娘であるマチルダという女性が遊び相手になっているのだろう。彼女は幼い頃からティファニアと接しており、二人は姉妹のような関係だった。
アベルの返答を聞いて、落ち着きを取り戻したモード大公――だったのだが、またすぐに興奮した様子で言葉を捲し立てた。
「そ、そうだ! アベル殿に伝えておかねばならぬことがありまして。じつは……貴殿にお会いしていただきたい来客の方が、この屋敷に来ていらっしゃるのです」
「……来客、でございますか?」
「うむ、そうです。少々、お待ちください」
モード大公は使用人に、“彼ら”をお呼びしろと告げた。
使用人が客室から出て行ったのを見届けてから、アベルはモード大公に尋ねた。
「その方々は、どのようなお人なのでしょうか?」
「む、それは……いや、なんと言えばよろしいか」
モード大公は困ったように、言葉を濁した。
「その、まあ、私が説明するより、彼らから説明を聞いたほうが早いかと」
「……ふむ。わかりました」
怪訝そうに眉をひそめながら、アベルはテーブルに出されていたお茶に口をつけた。
その直後、客室の扉が開いた。そこから二人の若い男女が部屋に入ってくる。
どちらも美しい金髪を持ち、容姿も目を奪われるほどに端麗だった。
年上らしい男のほうは十五歳を過ぎたくらいの外見だが、線の細い顔立ちは中性的な色合いが強い。その煌めく金の長髪は、首筋辺りでゴム紐で縛られ、首元には新緑色のスカーフが巻かれている。
彼よりも少し年下と思われる少女のほうも、赤いスカーフをお揃いで首に巻いていた。一緒に立ち並ぶ姿は、まるで兄妹のようだ。
……うん? とエルザは首を傾げた。少女のほうが、どこかで見たことのあるような容姿をしていたからだ。とくに、その絹のように細く艶やかな金髪は、どこかで見覚えが――
モード大公は、新しく登場した二人の名前を口にした。
「ご紹介します。“東方”からいらっしゃった、アーディドさまとファーティマさまです」
なぜかアベルが、口に含んでいたお茶を盛大に噴き出した。
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03 エルフと吸血鬼(2)
ファーティマ・ハッダードがアーディドと出会ったのは、まだ自分が幼く、そして孤独だった頃だ。
当時、ファーティマには友達と呼べるような者が誰もいなかった。子供たちからは「裏切り者の一族」と言われて疎まれた。いや、子供たちだけではない。大人たちですら、皆が皆、ファーティマとその家族や親族のことを白眼視していた。
なんで、わたしがこんな目に――そう思って、思い浮かぶのは、顔も知らぬ叔母のことだった。ファーティマは親から聞かされていた。わたしたちがこうなったのは、すべてシャジャルという女のせいだと。彼女はエルフを裏切り人間のもとについたが、当然その大罪は国に残された一族にも影響を及ぼした。反逆者を出したハッダード一族は国から追放すべきだ――そうした意見が“評議会”で議題に上がるほどに。
幸いにして、その案はぎりぎりの票差で否決されたという。それでも、だからといって今までどおりに生活できるわけがなかった。一族はほかのエルフたちのほとんどから蔑まれ、まるで自分たちが罪人であるかのように扱われていた。
――だからファーティマも恨んでいた。叔母のせいでわたしは、と。
ある日の夕方、ファーティマがアディール郊外にある自宅に外遊びから帰ると、見知らぬ少年が居間にいた。どうやら来客らしいが、ファーティマたちの一族の事情から、ほかのエルフたちとの親交はこれまでほとんどなかったので、誰か他人が家に来るということに珍しさと驚きを覚えた。
少年に応接していたのはファーティマの母だった。母はファーティマに少年のことを嬉しそうに紹介した。彼はアーディドと言い、評議会に所属する議員の祖父を持つような、首都アディールでも名の知れた一族の生まれらしい。
そんなアーディドがこの家に来たのは、シャジャルの裏切り――エルフでありながら人間に与し、国を捨てて
ファーティマは理解できなかった。名高い家柄のエルフが、「裏切り者の一族」とまで言われるような自分たちに、なぜ関わるのか、なぜ助けるのか。
その疑問を口にして、ファーティマは母から窘められた。しかしアーディドはそれを気にせず、淡々と述べた。
『不当に差別されるあなたたちを支援することの、何がおかしいのか。あなたたちは何一つ、悪事も道徳に反する行為もしていない。だから、あなたたちが遠慮する必要はない』
ファーティマより少し年上といった程度なのに、ずいぶんと大人びた話し方をする少年だった。しかし、その言葉には強く籠められた真摯さが感じられた。とくに、今まで親族以外にこんな態度を取られたことのなかったファーティマにとっては、それは新鮮で印象的だった。
その日以来、アーディドは定期的にファーティマの家を訪れるようになった。その際に、彼は生活に必要な物資を持ってきてくれただけでなく、ファーティマの遊び相手にもなってくれた。また、簡単な勉学を教えてくれたり、魔法について指導してくれたりもした。
アーディドは優れた魔法の“行使手”だった。当時は比較対象がほとんどいなかったせいでわからなかったが、今ならば、彼は全エルフの中でも頂点に座するであろう天才だと言うことができる。
アーディドが言うには、精霊との契約においてもっとも重要なのは、あまねく存在する精霊の力の大小、偏りを感じ取り、そこに生じている“流れ”に沿って、彼らに語りかけることらしい。……それ以上に詳しい説明もされたが、はっきり言ってファーティマには理解できなかった。とにかく、彼は「精霊の力の流れ」を正確に把握できるようで、それによって強力な“契約”を交わすことができるらしい。
それ以外にも、アーディドはこの国――ネフテス国以外の場所の話もよくしてくれた。どうやら彼は、時折この付近にやって来る東方の商人に接触して、いろいろと人間の国についても聞いているらしい。それまで人間の国についてはたった一言「敵国」としか教えられてこなかったファーティマにとって、ガリア王国やロバ・アル・カリイエなどの様子を聞くことは、何よりも楽しく興味深かった。
そんな日常を続けて、年月が過ぎて……。
全てが一変したのは、アーディドと出会ってから八年後のことだった。
家のドアを誰かがノックした。その日はアーディドが訪問してくる予定だったので、彼だと思ったファーティマはすぐにドアを開けた。だが、そこには見知らぬ青年のエルフがふたりいるだけだった。
だれ? とファーティマが誰何する前に、彼らは一枚の紙面を目の前に差し出した。そこに書かれた文の下には、評議会の決議を示す印が捺されていた。
『評議会でお前たち一族の拘束が決定した。“ネフテス国に対する反逆を企てている”という理由でな。まあ、大人しくするんだな』
呆然とするファーティマを退けて、おそらく評議会から派遣されてきたのであろう
その時の居間には、母のほかにファーティマの叔父も来訪していた。騎士たちはファーティマに言ったことを再度、母と叔父にも宣告した。
『――ふざけるなッ!』
母はファーティマと同じように憮然としていたが、叔父は激怒した。それに対して、騎士たちはサーベルの柄に手をかけて従うよう脅しをかけた。
それでも、叔父は臆さなかった。ずいと前に進み、家から出ていくように怒鳴る。しかし騎士たちも、命令なので退くことはできぬと強く言うばかりだった。
やがて感情が昂ったせいか、叔父はとうとう騎士たちに手を出してしまった。軽く小突く、程度ではあったのだが、それでも騎士は怒り狂った。
『……この“裏切り者の一族”めッ!』
一瞬の出来事だった。抜刀し、素早く突き出されたサーベルは、狙い違わず叔父の腹部を貫いた。
騎士がサーベルを引き抜くと、叔父はばたりと人形のように倒れた。その血に塗れた叔父の姿は、ファーティマにとっては今でも忘れられない。
『……先に仕掛けてきたのはコイツのほうだ。こうなりたくなかったら、大人しくしておけ』
冷たい声でそう言い、騎士たちはファーティマたちに外へ出るように促した。
だけど、動けなかった。叔父が目の前で突き刺されたことのショックも大きかったが、もし彼らに大人しく従ったとしても、反逆罪の疑いが取り消されることに、一縷の希望も抱けなかったからである。民族反逆罪は……死刑。
……もう、終わりだ。
そう諦めた時だった。
彼が現れたのは。
『――邪魔だ』
アーディドの一言で、暴力的な風が二人の騎士を壁に打ちつけた。一瞬、彼らはうめき声を上げたが、すぐに動かなくなった。気絶したのだ。
精霊による力だった。室内であるのに、これほどまでに強い風を行使できるのは、行使手がアーディドだったからだろう。
アーディドは無言で、倒れている叔父のそばに近寄った。そして、左手を傷口のほうに持っていく。
すると……アーディドの薬指にはめられた指輪の、青い宝石が溶けだした。ぽたぽたと傷口に垂らされるその液体は、叔父の身体に沁み込んでいき――
『傷はふさがった。命に別状はないだろう』
その宝石は、おそらく水の精霊石だったのだろう。単独で精霊の力を凝縮することのできる行使手は数少ないが、アーディドの実力ならば水石を作りだすことも容易なはずだ。
アーディドは、珍しく暗い声色で言葉を続けた。
『……申し訳ないことをした。あなたたちを排除しようと画策したのは、俺の祖父だった。俺があなたたちの一族と交流していることを嫌って、祖父はそのような暴挙に出たのだろう。俺も迂闊だった』
ファーティマも、母も、事情を呑みこむまでしばらく時間がかかった。そして、ようやく理解して先に発言したのは、母のほうだった。
『どう、してくれるの……!? こんなことになって! 評議会まで完全に敵に回って、もうおしまいよ!』
ヒステリックに叫ぶ母に、ファーティマは何か失望のようなものを感じた。アーディドの祖父が評議会議員だと聞いて、母は喜んでいたではないか。なのにいま、こうしてアーディドを責めるのは、どこか卑怯なように思えた。
母の言葉を聞いたアーディドは、少し考えてから、決心したように口を開いた。
『おそらく、ハッダードの一族でアディールにいる者は、もう拘束されているだろう。そして俺には、評議会の決定を覆す政治的な権力は持ち合わせていない。だが……一つだけ、別の手法はある。“力ずく”で議会側を脅迫すれば、拘束された一族の解放くらいは望めるはずだ。ただし、以後ネフテス国に在住することはむずかしくなるだろう。いちおう、衣食を保障できる当てはあるが……』
どちらにせよ、このまま何もしなければ反逆者として投獄されるのだ。だとしたら、アーディドに従うしかない。
しかし、アーディドの言葉には不明な点が二つあった。すなわち、「“力ずく”での脅迫」と「衣食の保障」である。母がそれについて詳細を聞くと、アーディドはとんでもないことを平然として言い放った。
『アディールの中心部の“契約”を奪えばいい。要求を呑まねばすべてを破壊すると脅せば、かならず従うだろう。捕らえられた一族を解放したのちは、風竜を用意させ、それを使って“東”を目指す。そこで、いずれかの
あまりの発言に、ファーティマも母も唖然とした。アーディドは、たった一人で国全体を相手取り、堂々と亡命を図ろうと言ったのだ。こんなことを思いつくのは、普通に考えれば狂人かよほどの愚者であろうが、しかしアーディドはそのどちらでもなかった。
彼はそれを実現させられる、稀代の天才だった。
それからのことは、まるで空想のような出来事だった。
アーディドはファーティマと母、そして目を覚まさせた叔父を連れて、そのままアディールに向かった。当然ながら、それまでに騎士たちに見つかり、攻撃されもした。だが――騎士たちの行動は、すべて無駄だった。魔法を使おうにも一瞬でアーディドに契約を奪われ、精霊を支配されるのだ。そして騎士たちが近づこうとすれば、精霊たちがアーディドを守るために彼らを吹き飛ばす。
まさに、鉄壁だった。それがいっさい破られず、カスバ――評議会本部にまで難なく到着したのだから、もはや呆れ笑いしか浮かばない。当然ながら、ほかの騎士や評議会議員たちにとっては悪夢でしかなかったであろうが。
ファーティマたちが評議会本部の中に入ると、それを出迎えたのは、議員とおぼしきエルフの一員を伴ったネフテス国統領、シャーワルだった。
『……まさかこんなことになるとはな。いくらなんでもやりすぎではないか、アーディドよ』
『あんな決議がなぜ通された?』
『知っているだろう、最近の評議会は浅慮な過激派どもが幅を利かせていることを。きみが私に懇願した“あの時”のように、上手く議員に根回しするほどの力はないのだ』
シャーワルは目を伏せ、アーディドはどこか苦々しそうな雰囲気を漂わせた。二人が交わした“あの時”が何を指しているのか、この時のファーティマには理解が及ばなかった。
『……まあ、きみの反抗のおかげで、きみの横暴な祖父殿は失脚せざるをえなくなることは喜ばしい。評議会でもっとも影響を持ちながら、強硬な排他主義を崩さない彼には、こちらも頭を痛めていたからな。むろん、この騒ぎで私も統領としての座を失うことになるだろうが……あとは、きみに任せることになるだろうな、テュリュークよ』
シャーワルは隣に控えたエルフに、ちらりと目を向けた。テュリュークと呼ばれた彼は、複雑そうな表情で頷く。それを確認してから、シャーワルは視線をアーディドに戻した。
『それで、要求は?』
『拘束されたハッダード一族の解放。それに食糧といくらかの金品、そして風竜の用意を』
『
『
皮肉げに述べたアーディドに、シャーワルは呆れたような溜息をついてから、「わかった」と言った。
その後は、驚くほどスムーズに事が進んだ。アーディドの要求どおり、評議会の決議によって拘束されていた一族は解放され、全員が無事に評議会本部に集められた。なかには人間の国に亡命するということに難色を示す者もいたが、こういう事態になった以上、最終的にはアーディドの案に全員が賛成した。
そして十分な頭数の風竜と、食糧およびいくらかの金品も用意された。あとは、このネフテス国を飛び去るだけである。アーディドに続いて、皆は評議会本部の入り口から外へ出た。ややこしいこともこれでようやく終わりか、と安堵したファーティマの胸に銃弾が飛び込んできたのは、次の瞬間であった。
だが銃弾が胸を抉る寸前、その凶弾は強力な精霊の力によって進路を捻じ曲げられ、真っ直ぐと来た道を戻っていった。そしてすぐに、銃弾を放ったらしき男たちの胸に穴が開いた。
アーディドの行使していた“
『では、行こう』
自滅した彼らには目もくれず、アーディドは風竜に乗り込んだ。ファーティマたちも少し遅れて、アーディドに続いた。その間に襲おうとするエルフは誰もいなかった。もはやアーディドをとめることはできないと悟ったのだろう。
アーディドの風竜には、ほかにファーティマと父母が乗った。準備が整うと、タイミングを合わせてすべての風竜が飛び立った。少し遅れて、下方から「アーディドッ!」と叫ぶエルフの声が響いた。ファーティマはアーディドのほうを見たが、彼は何事もなかったように顔を前に向けていた。もしかしたら、さっきのはアーディドの親族だったのかもしれない。だけど、そのことを確認する気にはなれなかった。
高度が上がるにつれて、生まれ育った国の首都の姿が小さくなる。もはや、ここに戻ることはできないのだ。そう思うと少し不安がこみ上げ、それを振り払うようにファーティマはアーディドに尋ねた。
『人間の国にわたしたちが行っても、大丈夫なのかな……?』
『少なくとも俺の知る商人は、人間だろうがエルフだろうが利益があれば付き合うという性格だ。それでもエルフの特徴は目立つから、隠しておいたほうが無難かもしれないが』
そう言って、アーディドは首元のスカーフに手をかけた。すると突然、そのスカーフは生物のようにうごめき、次の瞬間にはアーディドの耳が――人間特有の短く丸みのある耳に変わっていた。
どうやらそのスカーフには意思が付与されており、風の精霊の力も宿されているようだ。これを使えばつねに“変化”の魔法を行使させて、人間と同じ姿を取れるらしい。
『人間の姿に化けるのは、いやか?』
『ううん、そんなことはないよ』
アーディドに会ってから、人間についてはいろいろと聞いて知った。その人間像とファーティマの知るエルフを比べてみると、あまり違いはないように思えた。ほかのエルフたちは人間を蛮人と呼び、劣ったものとして見下しているが、本当にそうなのかは疑問が尽きない。
それにファーティマたちの一族が同じエルフたちから受けた仕打ちは、あまりに理不尽だった。もはやファーティマには、エルフという自分の種族をそこまで価値づけることができなかった。
だけど、「人間に化けなければいけない」ということには、ファーティマは少し残念な気持ちだった。それは人間が嫌いだからというわけではない。
――エルフとしてそのまま、いがみなく人間と一緒にいられる世の中だったらいいのに。
そして、ふとファーティマは思い出した。人間と一緒にいることを望み、国を捨てた叔母のことを。
昔は何も考えず、ただ見知らぬ彼女のことを恨んでばかりだったが、こんなことになった今のファーティマには、別の感情が湧いていた。
彼女は今、どうしているのだろうか。
人間と暮らして、幸せでいるのだろうか。
もしできるのなら、会って聞いてみたかった。
そして、どうして自分の国を捨ててまで、人間に付いていったのかも知りたかった。
そんな想いを抱いてから、六年が経って……。
ファーティマがアーディドの部屋を覗くと、そこには室内を整理している彼の姿があった。
「…………」
ファーティマは意外すぎる光景に驚いた。アーディドの部屋は最近いつも怪しげな
「どうしたの、急に?」
そう尋ねると、アーディドは整頓作業の手を休めて振り向いた。
「ファーティマか。そろそろ、頃合いだと思ってな」
「……頃合い?」
妙な言葉に、ファーティマは首を傾げた。ただの掃除をするのに頃合いと言うのも、何かおかしい。
どういう意味かと聞いたファーティマに、アーディドはとんでもないことを言いだした。
「近いうちに、ガリア王国のほうへ行くつもりだ」
あまりに唐突過ぎて、ファーティマは一瞬、思考停止してしまった。
「……ガ、ガリアぁ? どうして、そんなところに……?」
そうは言ったものの、そういえばアーディドがたまにガリア語の勉強をしていたのを思い出した。それに大陸西方――ハルケギニアに存在するメイジの“系統魔法”についても、彼はいろいろと調べていたはずだ。
「やらなければならないことがある。そのために、“アレ”に時間を費やしていたのだからな」
アレ、とはおそらく、アーディドの作っている奇妙なマジック・アイテムのことだろう。芋虫のような外見をしたそれは、風石が近くにあると自動的にそこへと這いより、風石を食らって精霊の力を霧散させるのだという。
しかしファーティマは、なぜそのようなものを作るのか、アーディドから教えられていなかった。利便性の高い風石を破壊させる必要性にも思い当たらない。だが、彼にとっては何よりも重要なものらしい。
「……どれくらいの間、向こうにいるの?」
「わからない。場合によっては、五年以上かかるやもしれない」
「そ、そんなに……!?」
予想外の回答に、面食らってしまう。五年以上……となると、この地にやってきてからの時間より長くなる可能性もあるのだ。
ファーティマにとって、アーディドはもはや家族同然だ。長い別れになるとわかってしまっては、すぐに受け入れられるものでもない。
何を言うべきなのだろうか。ファーティマが困惑して立ちつくしていると、やがてアーディドがおもむろに口を開いた。
「向こうでは、きみの叔母――シャジャルにも会おうかと思っている」
「……え?」
もう何度、驚かされているのだろうか。
シャジャル。顔も知らぬ、ファーティマの叔母。彼女がいなければ、今頃はそのままネフテスで暮らしていただろう。だけど彼女がいなければ、アーディドやここの人間たちにも出会わなかったかもしれない。
そんなファーティマの人生を左右した彼女に、アーディドは会うのだと言う。
「どう、やって? 彼女がどこにいるのかも……」
「心当たりはある。おそらくアルビオンという浮遊大陸の国の、モード大公のもとにいるだろう」
ほとんど確信に近い口調だった。西方の人間世界に行ったことないアーディドが、なぜそんなことを知っているのだろう。疑問を口にしてみたが、アーディドはその理由を教えてくれない。
だがその代わりに、彼はファーティマに問う。
「――シャジャルに会いたいか?」
せこい質問だった。
だってそんなふうに言われたら――頷くしかないだろう。
「……会いたい。会って、話してみたい」
「それを実現させたかったら、すまないが俺に付き合ってもらいたい。長旅にはなるだろうが、まあ、つまらなくはならないはずだ。向こうはこの地とはかなり文化が違うし、何よりも、ファーティマにとってよい経験になるはずだ」
そして、いつもほとんど表情を動かさないアーディドが、久しぶりに微笑を浮かべた。
「俺と一緒に来ないか、ファーティマ?」
ファーティマは強い意思で答えた。
「……うん、行かせて。シャジャル――わたしの叔母のところへ」
執筆した当初は原作20巻までしか出ていない状況でした。
そのため21巻に合わせ、ハッダード一族の境遇描写に修正を加えています。
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04 エルフと吸血鬼(3)
トリステイン王国の首都――トリスタニアに着いて、まず目に入ったのは大通りの人混みだった。都市の住人だけでなく、他所からやってくる商人や旅人も多いため、通行の中心となるこちらの表通りは、歩くだけで他人と肩がぶつかってしまうほどにごった返していた。
「行くぞ」
そう言って歩きはじめたアーディドのあとを、慌てて追いかける。
ファーティマがこの地――ハルケギニアをアーディドと旅して、半年ほどになった。これまではずっとガリアに滞在し、主要な都市や街を転々としていた。基本的にはアーディドの魔法研究が主で、ファーティマはそれを手伝ったり、ガリア語の勉強をしたりしていた。言語はまったくのゼロからスタートだったが、今ではなんとか簡単な会話ならできるくらいにはなっていた。
「へぇ……」
大通りの街並みを見渡していると、自然に楽しくなってくる。ガリア王国の首都であるリュティスと少し違って、トリスタニアはおしゃれな感じがいっそう強い。とくに何度か見かけた喫茶店などは、時間があったらどれも入ってみたいほどだ。
そんなことを思っていると、先導していたアーディドが路地に右折した。大通りを名残惜しく感じながら、ファーティマもそれに続く。
そこから出た通りを進んでいくと、だんだんと外観がごみごみしてきた。安っぽそうな酒屋や、よくわからない店などが多くなってくる。とはいえ、そんな店を眺めるのもまた面白いのだが。
そこそこ歩きつづけて、ふとアーディドが立ち止まった。目的地に着いたのだ。目の前にある店の看板は、そこが秘薬屋であることを告げている。
この旅を続けるための資金源は何か、というと、アーディドの作りだす精霊石である。とくにハルケギニアにおける水石や土石の価値は格段に高く、それらを売り払えば、そこらの貴族の資産など軽く越えてしまうほどだろう。
といっても、一介の旅人がそんな大層な価値の代物を持ち合わせているなど、奇妙なことこの上ない。悪い意味で、目立ってしまう。だから精霊石といっても、極端に高価すぎない程度の小さな粒を精製して売り歩いていた。それくらいなら、「事情があって手に入れた」とでも言って通用するというわけだ。
今回もそうして、トリスタニアに滞在するのには十分な路銀を確保した。そして秘薬屋を出たアーディドとファーティマは、次の店に向かうことにした。
歩いて数分。着いたのは――武器屋である。
なんだかんだで、旅をするうえでナイフなどの小型の刃物は必要になる。今回はそれらを新調するというのが目的だ。
薄暗い店内に入ると、すぐに「いらっしゃい」と店主の声が聞こえてきた。
「本日は、どのようなご用件……で?」
店主である中年の男性は、アーディドとファーティマを見て、ぽかんとした表情を浮かべた。おそらく、二人の外見が予想以上に若かったからだろう。
年上であるアーディドでさえ、まだゆうに少年と呼べるほどの見た目である。ましてや、ファーティマはそれよりも幼い。
本当はどちらも人間における“子供”の年齢をとっくに過ぎているのだが、他人からすればそんなふうに見えるはずもない。
「これはこれは、見目麗しい若旦那とお嬢さま。いったい何をお求めでございますか?」
店主は急にへりくだったような口調で尋ねてきた。客が貴族の子女であると勘違いしたのかもしれない。まあ、べつに悪い気はしないので、ファーティマとしては構わないのだが。
「旅路に使える万能型のナイフを。とくに“固定化”のかかっているものがよい。品物はあるか?」
「旅路に? ……あ、はい、もちろんですとも! 今すぐに持ってきますので、少々お待ちを」
まさかこの二人が旅をしているなど思ってもいなかったのか、一瞬ながら店主は目を瞬かせたものの、余計な詮索はせずにすぐカウンターの奥のほうへ消えていった。
その間に、ファーティマは店の棚などに展示された剣などを眺めた。傭兵稼業もメジャーなハルケギニアでは、こうした武器の需要は多く、またその種類も豊富だ。剣一つとっても形状や装飾がさまざまで、見ているだけでも楽しい。
と、その時、妙な声が店内に響き渡った。
「おい、兄ちゃん! あんた、ただの“人間”じゃねえな?」
びくり、とファーティマは店のカウンターのほうを振り向いた。
そこには、アーディドが立っていた。だが、それ以外に人影は見えない。さっきの声は店主のものではなかったのだから、誰かもう一人いるはずなのだが……。
ファーティマが混乱していると、店主が奥から焦ったように飛び出してきた。
「こら、デル公! 気易くお客さまに話しかけんじゃねえ! ……これは失礼しました」
「いや、構わない。それよりも、“それ”は――インテリジェンスソードか?」
アーディドの言葉で、ファーティマはようやく合点がいった。
インテリジェンスソード。つまり、意思を付与された剣だ。たんなる意思を付与された物ならば、アーディドとファーティマが首に巻いているスカーフもそうだ。だが、“しゃべれる”ほどの力を付与するとなると、相当な高位の行使手などでないと不可能な芸当だった。
ハルケギニアの系統魔法が意思の付与においてどれほど技術力があるのかわからないが、これまで見てきたガーゴイルなどが言葉を発したことがなかったのを考えると、やはり会話能力を持たせたものは稀有なのだろう。そんな代物が、こんな武器屋に置いてあるとは驚きだった。
「へえ、そうでございます。ご迷惑おかけして申し訳ありません。本当は倉庫にでも閉じ込めておきたいのですが、とある客と契約を結んでおりまして……」
その瞬間、アーディドの雰囲気が変わった気がした。本当に微妙な変化だったが、長年一緒にいると、その辺りのことが感じ取れる。どこか、驚きを抱いたような感じだった。
「……契約、とは?」
「もう五年近くも前ですが、とある男性がこのインテリジェンスソードを持ってきて、『この剣を店に置いてほしい』と言ってきたんです。それも剣を売るのではなく、向こう側が“金を払って”ですよ。おかしな依頼でしょう? まあそういうわけで、私も喜んで引き受けたんですが……こいつが、ひどくやかましい剣でしてね。こっちもあの男性との約束があるから、店先に出しておくしかない。まったく、困ったもので」
ため息をついた店主に、インテリジェンスソードは「おい、ずいぶんな言いようじゃねえか!」と抗議の声を上げる。なんだか人間臭い剣だな、とファーティマはくすりと笑った。
「デルフリンガー、か」
「へっ? どうして、その名前を……」
「この剣は売っているのか?」
「え、あ、いや。じつはその男性との契約の内容はまだありまして……。『条件を満たした人間以外には売らない』というもので」
「その条件とは?」
アーディドがここまで興味を示すのはめずらしい。たしかに、これほどの意思の付与は貴重だ。とはいえアーディドならば、実現させることも不可能でないはずだが……。
そんなことを思っているうちに、店主は“条件”とやらを口にする。
「“名前”ですよ。とある名前を持つ者ならば、それを売ってもいいとの約束なんです。まあ、その名前は絶対に言えませんが――」
「サイト、か」
「……………………驚いた。もしかして、その“サイト”さまですか?」
店主どころか、ファーティマも驚いていた。なぜ、アーディドは答えがわかったのだろう? もしかして、その男性に心当たりがあった? いやしかし、それまでの会話からして、男性のことは知らない口振りだったはずだ。
混乱するファーティマを余所に、アーディドは納得したように口を開いた。
「いや、別人だ。ただ、その男性とやらがどんな人物か、なんとなくわかったのでな。さて、この件は時間がないので次の機会にさせてもらおう。また明日にでも、話を聞きに来るかもしれないが」
そう言って、アーディドは話を本筋――ナイフのことに戻した。店主も思い出したように、持ってきたいくつかの品物をアーディドに紹介する。
それから何度か会話のやり取りをして、ようやくめぼしいものを見つけられたようだ。二本のナイフを購入して、アーディドとファーティマは店を出た。
さっきのインテリジェンスソードのことは気になったが、なんとなくアーディドには聞きにくい雰囲気だった。結局、それには触れずに、宿屋を探すことになった。
通りを歩いていると、いくつか宿を経営している店は見つかるが、なかなかいいところがない。ある程度の質を求めるとなると、やはり裏通りのチクトンネ街よりも、表のブルドンネ街のほうが見つけやすいのかもしれない。もう日も暮れてきたので、早いところ宿を決めたいところだ。
そういうわけで、大通りのほうへ戻ろうとする途中――
「待て。少しいいか?」
唐突にアーディドがそんなことを口にしたので、ファーティマは慌てて彼のほうを向いた。
アーディドの横には、十七歳くらいの少女がいた。黒髪を肩ほどで切り揃えており、タレ気味の目はどことなく愛嬌を感じさせる。
先程の言葉は、おそらく彼女に向けて言ったのだろう。少女はアーディドに体を向けると、怪訝そうに眉をひそめた。
「なんでしょうか?」
「宿を探しているのだが、どこかよいところはないだろうか」
「宿屋ですか? それなら……わたしが働いている、『魅惑の妖精』亭とかはどうですか?」
「…………それは、よさそうだ。ぜひ案内を頼みたい。ところで、きみの名前を教えてくれないか?」
「あ、はい。わたしはダルシニって言います」
アーディドが額に手を当てて、ため息をついた。……凄く、レアな光景だ。こんな彼の姿、初めて見た気がする。
ファーティマが内心で愕然としているうちに、アーディドはさらにとんでもないことを口にした。
「――吸血鬼が酒場で働く、か。どうにも、予想外のことが立て続けに起こるな」
「――どうして、わかったんですか?」
冷たい殺気に、ファーティマは震えそうになった。
……吸血鬼? 彼女が? 人間にしか見えないが、しかしうわさどおりならば、吸血鬼の姿は人間と変わらないはず。それに、ダルシニは自分が吸血鬼であると認めるような返答をしたのだ。
彼女は――吸血鬼。人間たちが何よりも恐れる、人血を啜る亜人だ。
そんな吸血鬼を前にして、アーディドは平然と口を開いた。
「気配が人間と違った。それと……“名前”だな」
そう言った瞬間、ダルシニの殺気が唐突に消えた。それどころか、困惑したような表情で尋ねた。
「……名前? もしかして、アベルさんかレティシアさんの知り合いですか? それとも、アルフォンスさん?」
人名が並べられるが、ファーティマの知らない名ばかりだ。それはアーディドも同じだったようで、彼は首を振って答えた。
「その者たちの顔は知らないが、まあ、関係がないとは言いきれないな。もしかしたら――」
同郷の者かもしれない、とアーディドは言った。
……同郷。生まれた土地が同じ。そうすると、アーディドの郷里はネフテス国のはずだから、さっきの名前の者たちはエルフとなるかもしれないのだ。
だが、それはおかしい。顔も知らないアーディドが、なぜ彼らを同郷などと言いきれるのか。少し前にあった武器屋での件といい、今日のアーディドの様子は少し変だった。
「詳しい話は、酒場のほうでするとしよう。案内をしてもらえるか?」
「いろいろと聞きたいことはありますけど……そうですね。ここじゃ落ち着けませんし。それじゃあ、行きましょうか」
とにもかくにも、場所を移すことに決まったようだ。ずっと歩きっぱなしで疲れていたので、ファーティマもそれには賛成だった。
……吸血鬼のダルシニ、そして彼女の挙げた名前の人々、そしてアーディドとの関係。気になることは多すぎだが、何よりも安んじて座れるところが欲しかった。
そうしてエルフと吸血鬼という人外の三者は、『魅惑の妖精』亭を目指すことになった。
◇
今まで経験したことのない未知に遭遇したとき、誰しもが冷静にいることはむずかしいだろう。
アーディドならば可能なのかもしれないが、少なくともファーティマには無理なことだ。今もまさに、あまりの光景に意識が一瞬ながら飛びそうになってしまった。
というか、その、なんだろう。なんでこの給仕の娘たちは、こんなに際どい格好をしているのだろう。いくらなんでも……その、見ているこっちが恥ずかしくなってしまう。
「わたしは店長に話してきますね。宿の部屋も融通しておきます。……また、あとで」
ダルシニはそう言いながら手を振って、カウンターの奥へ行ってしまった。
残されたアーディドとファーティマ、そこへ給仕の娘の一人がやってきた。やっぱりこの女の子も、フリルのついた可愛らしい服でありながら、露出が多くやたらと扇情的な格好である。おそらくこの店の方針なのだろうが、店長の顔を見てみたいとファーティマは思った。
「ご案内しますわ、お二方」
にっこりと笑顔で、女の子は席に誘導してくれる。
席に着いてからは、ファーティマたちは適当に料理と飲み物を注文した。そしてちょっとした話をして十分後、注文の料理を盆に乗せて、給仕がやってきた。
「ご注文の品でございます、お客さま」
微笑を浮かべてテーブルに料理を置くのは、ダルシニだった。通りで会った時と違って、豊満な胸を強調した服装は、男性にとってかなり魅力的に映ることだろう。
といっても、ファーティマは女であるし、アーディドはそういう事柄にまったくと言っていいほど無関心なので、ここではあまり関係のないことではあるが。
「さて……ちょっと相席させてもらいますね」
「仕事はよいのか?」
「店長から許可を貰っているから、大丈夫です」
そう笑って、ダルシニはファーティマの隣に座った。
「うーん……何から話しましょうか? 自己紹介は、ここに来るまでに済ませましたし」
ダルシニの言うとおり、道中に名前などの情報交換は行なっていた。もちろん、ファーティマとアーディドがエルフだということも、ダルシニには知らせてある。彼女も人間から恐れられている吸血鬼という種族なだけあって、ファーティマたちがエルフだとばらしても、驚きこそすれど、とくに怯えや敵意を持つこともなかったようだ。
「それでは、先程きみの言った者たちについての詳細を教えてほしい」
「アベルさんたちのことですね。いいですよ」
ダルシニは一呼吸置いて、話しはじめた。
語られたことをまとめると、以下のようになる。
アベルは、吸血鬼と人間のハーフという特殊な亜人である。彼は吸血鬼や獣人など、ハルケギニアで孤立しやすい亜人たちをまとめあげ、彼らを束ねて人里離れた森の中に村を作った。ダルシニも三十年ほど前に、双子の妹と一緒に“とある貴族”に捕らえられていたところをアベルたちに救われ、それから彼の村の一員になったとのことだ。ダルシニが今この酒場で働いているのは、個人的な希望と、トリスタニアの情報を常時収集するためらしい。
レティシアは、今はトリステイン魔法学院で教師として働いているメイジである。ダルシニがレティシアと出会ったのも、アベルに助けられたのとほぼ同時期だったとのことだ。彼女は非常に優秀な“風”の使い手で、アベルにも並ぶほどの才を持つメイジであるという。また、
そしてアルフォンスは、ガリアの王宮で医者として雇われているほど腕の良い水メイジである。そんな彼もやはりアベルたちと関わりがあるらしく、定期的に“村”に訪れては、住民の治療や水の秘薬の補給などをしているらしい。とはいえ、アルフォンスはガリアにいることがほとんどなので、彼についてはダルシニはそれほど詳しくないという。
その三人について言えることは、全員がハルケギニアでも希少なスクウェアクラスのメイジであることだろう。つまりは……天才というやつである。
そしてレティシアという女性は、アーディドと同じように風石について研究を行なっているらしい。それも考えると、やはりアーディドには、彼らとの何かしらの共通点があるのかもしれない。
考え込むようにしばらく黙って聞いていたアーディドだったが、ダルシニの話が一段落したところで、ようやく口を開いた。
「そのアベルは、今はどこに?」
レティシアはトリステインの魔法学院、アルフォンスはガリアの王宮。しかしアベルの現在の所在については、ダルシニはとくに言及していなかった。
「アベルさんなら、今はアルビオンのほうに出かけています。でも……さすがに、アルビオンのどこへ行ったかについてまでは教えられません。アベルさんたちと関係のある人だとはわかるんですが、今日会ったばかりですし……」
「アルビオン、か。時期を考えると、モード大公のところか?」
一瞬、絶句したような表情をダルシニは見せた。
「……そうです。でも、どうしてそれを?」
どうやら正解らしい。……こうも立て続けに起こると、じつは予知能力でも持っているんじゃないか、とファーティマは疑ってしまう。
アーディドは、相も変わらず涼しげな顔で言った。
「理由は言えない。だが、そのアベルたちも同じように、知らないはずのことを知っていたりはしなかったか?」
「……思い当たるところはありますね。わかりました、深くは聞かないことにしましょう。それで……アベルさんのことですが――」
もはや隠さず教えるべきだと判断したのだろう。ダルシニは、彼女の知るかぎり全てのことを話した。
アベルがアルビオンに行くことを決めたのが三ヶ月前。そのついでとして、彼は村で生まれ育った若い吸血鬼のエルザという少女を、外の世界を見学させるために同行させているらしい。そしてつい一週間ちょっと前までは、アベルとエルザはトリスタニアに滞在していたとのことだ。予定どおりならば、二人はトリスタニアを出てからはラ・ロシェールへ行き、定期便の“フネ”を利用して、すでにアルビオンに入国しているはずである。
「アベルさんは、シティオブサウスゴータに行って、そこでモード大公に関する所用を済ませると言っていました。具体的な内容についてまでは、知らされてはいませんけどね。……もしかして、アベルさんかどんな用事だったか、アーディドさんは知っているんですか?」
「モード大公の妾はエルフの女性だ。おそらく、彼女に関することだろうな」
どくん、とファーティマの胸の鼓動が高まった。
アーディドがモード大公の名を口にしてから予感はしていたのだが、やはり大公の妾――シャジャルに関係することのようだ。
モード大公と、シャジャル。
もともとその二人は、このトリステインにある程度滞在したのちに、アルビオンへ行って顔を合わせる予定の人物だった。
二人について、アーディドは何かを知っているようだった。それはつい先程、アベルという男性の行き先を言い当てたことからも、うかがうことができる。とはいえ、アーディドはその内容について「会えばわかる」と、これまで頑なに口を閉ざしてはいたのだが……。
「ファーティマ、予定を変えることにしよう」
「……え?」
突然そんなことを言われて、思わず聞き返してしまった。
だが、すぐに思い至る。アベルがモード大公のところへ行ったのを聞いて、“予定を変える”というのは、どう考えても一つしかないだろう。
まだ先のこと。
そんなふうに思って、心積もりもできていなかったことが。
急速に間近なものとなる。
「明後日にはトリスタニアを出る。行き先は、ラ・ロシェールからアルビオン、そして――モード大公のところだ」
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05 エルフと吸血鬼(4)
「よお、嬢ちゃん」
徐々に離れゆく地上をぼんやりと眺めていると、ドスの利いた粗野な声を後ろから投げかけられた。
ファーティマが振り向くと、そこにはボロボロのコートを纏った二十半ばほどの男がいた。腰のベルトには鞘に収められた剣が佩かれており、その風体と合わさって、すぐに男が傭兵の類であるとわかる。
「……なんですか?」
いきなり声をかけられたことに戸惑いながらも、ハルケギニアにおいて公用語であるガリア語でファーティマは答えた。
「いやいや、ちょいと気になってな。なんでアンタらみたいな小奇麗な坊ちゃん嬢ちゃんが、こんな安い貨物船に乗っているんだい?」
「えっと…………アルビオン行きのフネが、これしかありませんでしたから」
「ふぅん。だが、どうも妙な話だな。船長に聞いたんだが、もともとこのフネは出航予定がなかったらしい。ところが一人の男が交渉を持ちかけてきて、急遽、アルビオン行きになったとか。その男ってぇのは……お嬢ちゃんの相方のことだろ?」
雑な話し方と耳慣れない訛りで言葉を理解するのに時間がかかったが、どうやら男はアーディドについて言っているようだ。
ラ・ロシェールからアルビオンへ向かう場合、多くのフネは『スヴェル』の夜――双月が重なる日の前後に船出を予定する。アルビオンがハルケギニアに最接近するのが、『スヴェル』の夜の翌日だからである。運航距離が短いほうが風石の消費が少ないため、その日に出航が集中するのは道理と言えるだろう。
今回はそうした時期から外れてしまっていたので、ラ・ロシェールに着いた当初、運悪くアルビオン行きのフネは一つもなかった。だが、のんびりと次の便を待っているわけにもいかない。そこでアーディドは、すぐにフネを出せないか船長たちに交渉を持ちかけたというわけだ。
ちなみに交渉材料はというと、握り拳に近い大きさの土石だった。採掘量の少ない土石は、風石などと違って格段に価値が高い。その程度の大きさでもどれだけの価値があるか、もはや語るに及ばないだろう。
ちなみにフネの乗客はファーティマ、アーディド、そしてこの男の三人だけだった。もともとこの男はアルビオン行きのフネを待っていたらしく、運よく便乗した形となったようだ。
「見たところ……密命を帯びた貴族様ってぇところかい? 興味深いぜ。旅の肴に、ちょいと話してくれねぇかね?」
男は軽薄そうに笑う。
「おぉっと、ダンマリかい? なぁ、ちっとくらい、おしゃべりしても大丈夫だと思うぜ。オレは他言しないし、誰かが聞き耳を立てているっつーワケでもねえしさ」
「…………」
と、いうか……ファーティマには男が何を言っているのか、途中から把握しきれなかったのである。
単語はなんとか拾えるのだが、どうにもこの男の話し方は雑で早口なうえに、おそらくゲルマニア方面のものであろう訛りが混じっているのだ。ガリアで公用語を少し学んだだけというファーティマにとっては、男の言葉を理解するのはあまりにもハードルが高すぎた。
「あの――」
「何をしている?」
言葉が聞き取れない、ということを伝えようとした時、別の声が割って入ってきた。
今まで船内にいたアーディドが外に出てきて、こちらの船首のほうへ移動してきたのだ。
「おや、お坊ちゃん。なぁに、ちょいとこのお嬢ちゃんとお話をしようと思っていただけでさ」
「彼女はまだガリア語を少ししか使えない。その話し方では聞き取れないだろう」
「なんだって? ……どっから来たんだい、アンタたち?」
男は怪訝そうに眉をひそめた。
ハルケギニアでガリア語を使えないのは、アルビオンやゲルマニアに住む一部の平民くらいのものだ。そうなると、ファーティマたちがいったいどこから来たのか、疑問に思うのも当然だろう。
アーディドは淡々と男に答えた。
「“東方”からだ。こちらには、少し用事があるのでな」
「東方? ……つーことは、メイジじゃないのか?」
胡散臭そうに、男は目を細めた。その瞳には、どこか侮りの色が帯びた。
アーディドは黙って懐から、鉛筆のように細長い杖を取り出した。そして何かを小さく口ずさんで杖を振ると、男の顔の横を突風が過ぎ去った。
突然のことで不格好に体勢を崩した男を見ながら、アーディドは杖をしまった。
「メイジでないと思うのは勝手だが、妙な気は起こさないほうがよいだろう」
「あ、ああっ。わかってるって……」
男は焦りと怯えの入り混じった声で答えた。おそらく、アーディドのことを“メイジ”とはっきり認識したせいだろう。
当然ながら、実際は違う。ハルケギニアでは“先住魔法”と呼ばれる精霊の力を、たんに杖を持ちながら行使しただけである。しかしそれでも、メイジではない男を騙すには十分だったのだろう。
「さて、ファーティマ。サウスゴータまでの行程について話しておきたい。船室のほうに来てもらえるか?」
「あ、うん……わかった」
ファーティマが頷いたところで、男はおもむろに口を開いた。
「……なあ、アンタたち。サウスゴータに行くんなら、気をつけたほうがいいぜ」
その男の言葉に、ファーティマもアーディドも彼のほうに目を向けた。
「気をつけたほうがいい」――明らかに、なんらかの危険があることを含んでいる。サウスゴータの土地で、不穏な出来事でもあったのだろうか?
自分の発言が注目されたことに気分をよくしたのか、男は得意気に話しだす。
「ちょっとしたウワサなんだが、どうもサウスゴータ地方の領主であるモード大公と、国王のジェームズ一世との仲が険悪になってきているらしい。お取り潰しもありうる、ってほどの話だ。もしかしたら、一戦起こることもあるかもしれねぇ。……ま、だからこそオレはこの船に乗ることを決めたんだがな!」
男は笑いながら、腰の剣を揺らした。なるほど、傭兵として戦争の匂いを嗅ぎつけたというわけらしい。
それにしても、モード大公とジェームズ一世との関係の悪化はここまで知られているようだ。おそらく……エルフの愛人――シャジャルに絡んだ話なのだろう。
本当に、大丈夫なのだろうか?
そう思ってアーディドの顔を見ると、彼は不敵な笑みを浮かべていた。
「安心するといい」
どこか確信めいた声色で、アーディドは言った。
「戦は起こらないだろう――“彼”がいるかぎりな」
◇
ファーティマたちを乗せたフネがアルビオン大陸に着いたのは、丸一日近い時間が経ってからだった。時期の悪い唐突な船出だったということを考えると、かかった時間も致し方ないところだろう。
入港した大陸東部の商港から、二人はひとまずロンディニウムを目指すことにした。王都で事前に、アルビオン国王とモード大公との対立に関する情報を集めておくためだ。状況がわからないままサウスゴータに向かうよりはよいだろう、というアーディドの考えだった。ファーティマにしてみても、まだシャジャルと会うことに対して心の準備が追いついていなかったので、反対する理由もなかった。
そうして雇った馬車で王都に着いた頃には、もう太陽が沈みかけていた。さすがに情報収集というわけにもいかず、その日は宿屋探しで一日を終えることになった。
翌日。ベッドから身を起こしたファーティマが最初に目にしたのは、窓際で椅子に腰かけて新聞を読んでいるアーディドだった。
「一昨日、ここで面白い事件があったようだ」
そう言って、アーディドは新聞に書かれていることを教えてくれた。
記事によると、おととい深夜、何者かが王宮に侵入した事件があったらしい。幸いにも王に危害はなかったが、市民の目撃証言によると、どうやら犯人は二人の子供を連れた男だったとのことだ。……子連れの侵入者? わけがわからない。だが、王宮の警備兵に捕まらずに逃げ果せたということは、相当な実力者だったのだろう。
「彼かもしれないな」
新聞を置いて席を立ちながら、アーディドはそう言った。
彼――それを指すのは、今のところ一人しかいまい。アベルだ。子供、というのは片方は吸血鬼の少女なのだろう。もう片方のほうは、よくわからないが……。
「でも……何をしに王宮に?」
王に危害を加えなかったということは、別の目的があったのだろうか。だとしたら、それはいったい?
「さて、な。直接、聞くのが一番だろう」
「……アベルさんの居場所はわかるの?」
「サウスゴータに戻ってくるはずだ。――彼女を連れているならば」
アーディドはあえて詳細を口にしようとはしなかった。けれども事態について、すでに大方の予想がついているのだろう。
そのことを無理に聞くつもりもなかった。ここ数日の会話で理解したが、アーディドはモード大公絡みの出来事について、一介の旅人では知りえないような情報を持っている。なおかつ、その出所はファーティマにすら話すつもりがないようだった。
気になると言えば気になる。しかしアーディドも意外と頑固な性格だから、教えてくれと言っても無理だろうなとは思う。
ふいにアーディドが新聞を置き、席を立った。
「外に出る?」
「ああ。明日の出立のための準備をしてくる」
「わたしも付いていったほうがいい?」
「ファーティマには、すべきことがあるだろう?」
「……うん、そうだね」
自分のすべきことなんて、決まっている――心の整理だ。
ふっとアーディドが笑みを浮かべたのも束の間、すぐに彼は部屋を出ていく。
その背を見送りながら、ファーティマは「ありがとう」と呟いた。
◇
翌日、正午前にファーティマたちは王都を後にした。
道中、衛兵による検問が敷かれていた。宮殿で起きた事件の影響だろう。とはいえ、エルフの特徴的な耳も隠せていたし、犯人と目される三人組とはまったく外見も違っていたので、大して手間取らずに検問を抜けることができた。
その後、夕暮れまで街道を進みつづけ、ファーティマたちは中継の宿場町で一夜を過ごした。
明くる日は朝早くから出発し、正午となってようやくサウスゴータの土地に踏み入ることができた。そこからさらに
「……つかれた」
大通りに面した宿屋の一室。荷物を置くなり、ファーティマはベッドに倒れ込んだ。ふかふかとした感触が、急ぎ旅で溜まった疲れを癒してくれる。今日は珍しく高い宿だった。これからの大事に備えて、アーディドが気を利かしてくれたのだろう。
「ねえ、アーディド。明日にはモード大公のところに行くの?」
「屋敷の場所はすでに把握している。だが――心積もりは十分か?」
「……わからない」
柔らかい枕を抱きしめる。アルビオンに入国してからずっと考えてきたが、それでも準備は完璧とはいいがたい。
早くシャジャルに会って話をしたい。そう思う反面、どう向き合えばいいのかという戸惑いは依然として残っていた。
一昔前の自分であったら、叔母に対して憎悪と憤怒を込めた罵声を浴びせていただろう。けれども、今のファーティマは違う。アーディドと出会い、新しい世界を知った自分は、価値観というものが大きく変わっていた。
許せるかもしれない。そんな気持ちがどこかにあった。
人間との恋に堕ちるなんて、愚かなことだと最初は思っていた。けれども、シャジャルにとってモード大公は特別な存在であったのだろう。何よりも替えがたく、何よりも大切な。たとえば、そう、ファーティマにとってのアーディドのように。
聞いてみよう。どんな事情を経て、モード大公を選んだのか。シャジャルにとって、彼はどれほどの存在だったのか。種族の偏見もない今のファーティマならば、理解できるかもしれない。
「アーディド」
「どうした?」
「明日、がんばってみる」
「そうか」
その夜、ファーティマはぐっすりと眠ることができた。
◇
「何者ですか? ここは大公様のお屋敷です。用がなければ――」
「モード大公にお伝え願おう。エルフのシャジャルについて話があると。我々はネフテスからやってきた」
「……しばし待たれよ」
アーディドが答えた瞬間、衛兵の目つきが鋭くなり、警戒心と緊張感が最大限になった。
屋敷の人間はすべて事情を知っているのだろう。今の発言で、ファーティマたちをエルフの遣いと判断したに違いない。これで門前払いとなることもなくなったはずだ。
衛兵は近くにいた使用人を掴まえると、何事かを耳打ちした。それから数分後、騎士らしき風体の二人がやってきて、屋敷への案内を申し出てきた。
先頭と後尾に立つメイジに挟まれながら、ゆっくりと庭を歩む。重々しい雰囲気ではあるが、すでにアーディドは周囲の精霊を支配下に置いているので、ファーティマたちに危機が及ぶ心配はなかった。
そのまま屋敷まで辿り着くと、次いで応接間に通された。それから五分経って、部屋に入ってきたのは初老の男性だった。
モード大公――ではない。どうやら彼は執事らしかった。ひとまず要件を聞こう、ということだろう。
「それでエルフの使者どのは、どのような話をしにきたのですかな?」
「俺たちは使者ではない。そして隣のファーティマ、彼女はハッダードの一族――シャジャルの親族だ。親戚を訪問しにきただけで、大それた話をしにきたわけではない」
「……シャジャル様の。なるほど」
執事は小さく頷くと、ふたたび質問を口にする。
「親族ということは、あなたがたはエルフですか?」
その疑問はもっともだろう。親戚と言うが、二人ともエルフの特徴的な耳は隠したままだった。
アーディドは首にかけたスカーフを机の上に置いた。ファーティマもそれに倣う。
スカーフに込められた“変化”が解かれ、人間ではないエルフの耳が露わになった。その様子を見た執事が、驚愕の色を顔に浮かべる。
「……フェイス・チェンジの魔法ですか?」
「同様の効果を持つ“先住の力”だ。“変化”と呼ばれる先住魔法の効果が、これには込められている」
「なるほど、便利なものですな……。
「モード大公、そしてシャジャルとの面会を許可してもらえるなら、このスカーフを贈与してもよいのだが」
執事の目が細くなった。
「……とても魅力的な品物です。この地でそれがあれば、エルフでも安全に外を出歩けるでしょう」
「これがなくとも、平穏でいられる世の中であればよいのだがな」
「私も同意見ですな」
苦笑する執事。ファーティマの考えも、この二人と同一であった。
ハルケギニアにおいて、人目に付くところでは、ファーティマもアーディドもつねに“変化”の効果で耳を隠さなければならなかった。それほどまでに、西方の人間世界ではエルフ敵視が根付いているのだ。
アーディドからは、モード大公とシャジャルの間にはティファニアという一人娘がいると教えられた。つまりハーフなわけだが、どうやら娘にもエルフの長い耳は遺伝しているらしい。……なぜアーディドがそんなことを知っているかは、相変わらず謎だけれども。
とにかく、この地の人間にとって、エルフの証である耳はそれだけで迫害の対象になる。シャジャルはもちろん、ハーフといえどもティファニアでさえ、素の姿で外出することはできないだろう。シャジャルならば“変化”を行使するのは可能だとは思うが、それでも精霊の力を持続させるのには限度がある。
だからこそ、アーディドが強力な契約によって作り出す、恒久的な“変化”の魔道具は、彼らにとっては喉から手が出るほど欲しいものであるはずだ。
「……さて、一つ重要なことをお聞きしましょう」
ふいに、執事は真顔で言葉を投げかける。
「――エルフにとって、シャジャル様は“敵国に与した裏切り者”でございましょう? あなたがたは、それについてどう考えておられるのですか?」
それは警戒の言葉だった。
当然だろう。遠路はるばる、危険を冒してまでエルフがやってきたのだ。裏切り者を始末しにきたのではないか――そう疑うのは仕方がなかった。
「その事実を確かめにきたのだ。シャジャルはエルフの工作員として、アルビオンに潜入していた。だが、そこで人間のひとりに肩入れし、途中で任務を放棄したため、ネフテスの民は彼女を裏切り者と認定した。――俺たちが知る情報は、その程度に過ぎない。本当に『裏切り』と呼ぶに値するほどの状況と行為だったのかも不明だ。だからこそ、真実を知るために、ここに来た」
「…………」
「少なくとも、隣にいるファーティマだけでもシャジャルに会わせてもらえないか?」
執事はしばし黙考したのち、おもむろに口を開いた。
「……少し、お待ちいただけますか? 大公殿下に取り次ぎいたします」
そう言って、彼は部屋から出ていった。
しばらく静寂が続き、なんとなく心配になってきたファーティマは、アーディドに尋ねた。
「……会えるかな、モード大公やシャジャルに」
「拒否するのなら、無理やりにでも顔を合わせるだけだ」
「へ?」
「すでに屋敷中の精霊とは契約を交わしている」
「…………」
恐ろしいことを飄々と言うアーディドだった。たしかに、彼なら実力行使で面会できるだろうが……そうならないように祈りたい。
内心で別の心配が芽生えるなか、やがてドアが開いた。先程の執事とは違う男性が姿を現す。
人の好さそうな印象だった。歳は四十前後だろうか? 着衣は一見しただけで高価なものと分かるから、おそらく――モード大公だろう。彼は少し困惑したような、曖昧な笑みを浮かべていた。
「これはこれは、遠いところからよくぞいらっしゃいました」
見かけに違わず、物腰も丁寧だった。むしろ腰が低い、という感じすら受けるほどだ。大公の地位にある人間らしからぬ印象だった。
まずは無難に、それぞれ自己紹介と簡単な会話を交わすが、意外なほど雰囲気は良好に進んでいった。
そうして当たり障りのない前置きをそこそこ済ませると、モード大公の顔が少し強張ったものになった。
「本題に入りましょう」
ファーティマも居住まいを正した。アーディドは相変わらず平常を保ったままだったが。
「シャジャルと会いたい、ということでしたか。そのことについては、構いません。ですが……彼女を害することだけはご容赦ください」
「そのつもりだったら、疾うに事は終わっている。安心するといい」
「でしょうな」
モード大公は苦笑を浮かべた。
「シャジャルから聞かされました。屋敷の“契約”がすべて奪われた。それほどの行使手から逃れる術はない、と。しかし、あなたがたは話し合いを希望されている。ならば信じようと思ったのです」
なるほど、どうやらシャジャルは、精霊がアーディドの支配下に置かれたことに気づいていたようだ。
こうしてモード大公が一人で話し合いの席に出向いたのも、抵抗が無駄と悟ったからなのだろう。……あれ? これ脅しみたいなものじゃないの?
なんだか自分が悪役側になったような気分になるファーティマだった。
「感謝する。……ああ、それと一つ。要らぬ不安は除いておこう」
思い出したかのように、アーディドは付け加えた。
「――俺は、アベルと志を同じくするものだ」
その言葉が意味するところを、ファーティマは理解できなかった。
しかしモード大公にとっては、何よりも有意な発言だったのだろう。彼は驚いた表情をすると、すぐに安堵の息をつき、そして嬉しそうに「それはよかった!」と笑顔を浮かべたのだった。
もともとシャジャルの人物については原作であまり触れられておらず、21巻でようやく多少の情報が出た程度です。
そこでは、「ティファニアの母親は、エルフの国から単身、ハルケギニアにやってきて、アルビオンの大公のお妾さんになったという」と地の文で語られています。
その描写に則り、ここではシャジャルが国からの密命を帯びて単身でアルビオンに潜り込んでいたが、そこで大公と出会って恋に落ち、任務を捨てて国を裏切ったという形にしています。これならば、シャジャルがネフテスに帰還しないことから調査隊のエルフが送られ、そこでシャジャルが任務放棄し大公の妾になっていることが発覚し、それが国に報告されたことによってシャジャルの裏切りが知れ渡り、ハッダードの一族に追放命令が下された――ということで納得がいくかと思います。
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06 エルフと吸血鬼(5)
モード大公との対談をひとまず終えたファーティマたちは、案内された客室で休息を取っていた。
話の流れは非常にスムーズで、順調に進んでいった。アーディドがアベルとの面会を希望したところ、モード大公は、アベルが遠からず屋敷に戻ってくることを理由に、それまでファーティマたちが屋敷に滞在することを勧めたのだ。
もちろんアーディドはそれを断らず、ファーティマも受け入れるほかなかった。自分だけ帰ります、だなんて言えるわけがない。
そうして、少なくとも数日の滞在が決まったのだった。
「…………はあ」
が、ここでの問題はファーティマの内にあった。
屋敷に留まるということは、当然ながら、シャジャルとは何度も顔を合わせることになるのだ。お互いに複雑な事情があるだけに、もしもファーストコンタクトで双方の関係を上手く築けなかったら……えも言えぬ気まずさを持ちつづけるハメになりそうだ。
「不安か?」
「……少し」
あと十分もしないうちに、ファーティマはひとりでシャジャルの私室に赴くことになっていた。もう先方にはそのことを伝えてあるので、いまさら予定を変えるわけにもいかない。
そもそも生い立ちが孤独だったせいでもあるが、ファーティマ自身はコミュニケーションが上手いほうではない。どんな話から切りだして、どう会話を進めていこうとか、てんで考えられずにいた。
これが怒りや憎しみの言葉をぶつけるだけだったのなら、どんなに楽だったのだろうか。けれども今の自分は、そんな強い負の感情は抱いていない。
……時間だ。
遅刻するわけにもいかない。覚悟を決めて、ファーティマは前に進むことにした。
部屋を出ようと、ドアノブに手をかけたところで――
「ファーティマ」
声をかけられて振り返る。
そこには、優しげな笑みを浮かべたアーディドがいた。
「難しく考えなくてもいい。自分の気持ちに素直に話すだけでいい。時間は十分にあるんだ。――行ってこい」
「……ありがとう」
ファーティマも笑顔で返して、部屋を出た。
廊下にはすでに使用人が待機していて、ファーティマの姿を認めると一礼し、シャジャルの部屋へ案内すると言ってきた。ファーティマはその使用人に従って、屋敷の廊下を進んでいった。
歩きながら、ふとファーティマは不思議な気持ちになった。
どうして、自分はここにいて、顔も知らぬ叔母に会おうとしているんだろう。
そもそもの話、ファーティマはシャジャルとの邂逅など思い描いてすらなかった。たしかに彼女のせいで、ファーティマの人生は大きく左右された。しかし、すでに彼方の世界に消えていったシャジャルという人物は、自分との関わりを持ちえない遠い存在だった。叔母を恨んでいた子供時代でさえ、実際に会ってどうこうしたいなどと思うはずもなかった。
そんな中で、可能性を持ち出してきたのはアーディドだった。
彼はシャジャルの位置を正確に把握し、西方への旅路を計画し、そしてファーティマに話を持ちかけてきた。シャジャルに会わないか、と。
そしていま、現実にファーティマは彼女と顔を合わせようとしている。
たしかに、シャジャルという人物には普通以上の感情を抱いてはいた。それは以前だったら憎しみであったし、エルフ社会を抜け出してからは純粋な興味でもあった。けれども……それだけだ。その感情が行動に移るようなことは、決してなかった。
むしろ、「ファーティマとシャジャルの邂逅」というのは――アーディドが望んだことだったのではないか。
かつて見たことのない先程の彼の表情を思い出すと、そんな考えがよぎってしまうのだ。
「着きました」
案内人の声に、ファーティマはハッと我に返った。いつの間にか、目的の部屋の前に到着していたのだ。
「あ、ありがとうございます」
慌てて礼を言うと、使用人も一礼して、そのまま去っていってしまった。
独り、残されたファーティマは大きく息をついた。
……何も思い浮かばない。
結局、対話のシミュレーションは皆無だった。まあ、相手の顔どころか性格すらも碌に知らないので当然かもしれないが。
ようするに、こんなところで足踏みしてないで、前に進むしかないということだ。
もう一度、大きく呼吸する。
意を決して、ファーティマはドアをノックした。
「――どうぞ、お入りください」
やや間があって、玲瓏な響きが中から発せられた。穏やかで、優しい印象の声だった。
「……失礼します」
心臓が高まるのを感じながら、ファーティマは入室を果たした。
――最初に抱いた感想は、綺麗だな、というものだった。
絹のように流れる金髪に、碧く透き通った瞳。
先程の声に違わず、その容姿も美しく、温和な印象を受けるものだった。
柔らかい笑みを浮かべながら、シャジャルは口を開いた。
「初めまして、ね」
その言葉は、ハルケギニアに来てから久しく耳にしていなかったエルフ語によるものだった。
「……その、はじめまして。ファーティマです」
ファーティマもガリア語から母国の言語に切り替えた。アーディドとの会話でさえ、基本はガリア語で行っていたので、こうしてエルフ語で会話するのはなんだか新鮮な気持ちだった。
「私はシャジャル。あなたにとっては――叔母に当たるわね」
親族関係を口にした瞬間、シャジャルの口元から微笑が消えた。
代わりに浮かんだのは、申し訳なさの滲んだ顔色だった。
「……ごめんなさい。私の勝手のせいで、一族の方々には迷惑をかけたでしょうね」
「――ええ。ハッダードは裏切り者の一族と呼ばれ、疎まれるようになりました」
ファーティマは事実を言った。
そんなことない、などと嘘は言えなかった。シャジャルの行動のせいで、残された親族者が多大なる苦労を被ったのは厳たる事実なのだ。
かつては誰もがシャジャルを恨んでいた。もちろんファーティマも。それは否定しようがないことなのだ。
「……一族はいま、どうしていますか?」
「東方で生活しています。不自由はしていません」
「それは――」
シャジャルは狼狽した様子を見せた。
「国を……追放されたのですか?」
「みんなで逃げ出しました。民族反逆罪を受け入れるわけにはいきませんでしたから。……だれも死んでないので、安心してください」
「それでも……」
シャジャルの体は小刻みに震えていた。その心中を罪悪感が支配しているであろうことは、容易に察せられた。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい……」
「…………」
謝罪の言葉を口にするシャジャルを見つめながら、ファーティマは口を閉ざした。
こうして彼女と対面して、会話して……ファーティマには、ある感情が湧き出ていた。
それは決して喜ばしい類のものではない。不満、苛立ち、落胆――それらが混ざり合ったようなものが、ファーティマの胸の奥から生まれてくる。
自分がここに来たのは、なんのためだったのか。
彼女から謝罪の言葉を聞くため? ――そんなものでは、断じてなかったはずだ。いまさら謝罪などされても、得られるものは何もない。
――知りたい。そう、シャジャルのことが知りたくて、ここまでやってきたはずだった。
彼女が今、どうしているか。
人間と暮らして、幸せでいるのか。
どうして自分の国を捨ててまで、人間に付いていったのか。
そんな疑問、興味に応えてくれることを、ファーティマは期待していたはずだ。
だからファーティマは、シャジャルに教えてもらいたかった。
あの人の好さそうなモード大公が、シャジャルにとってどれだけの存在だったかを。人間世界で生きると決めてからの、彼女の辿ってきた道筋を。あるいは、この地でもうけたという一人娘の話題だって構わない。なんだっていいのだ。
「――ごめんなさい」
ただ、その無意味な謝罪以外だったらなんでも。
「…………もういい」
無意識に、そんな言葉が漏れていた。
濁った昏い感情に耐えきれず、ファーティマは声を張り上げてしまった。
「聞きたかったのは、そんなことじゃないッ!」
冷静になって話を進めればいいのに。自分の考えをきちんと伝えて、シャジャルに話してもらえばいいのに。
頭ではわかっているはずなのに、ファーティマはできなかった。その自分の愚かさがさらに苛立ちを募らせ、いっそう感情に支配される。
気づけば、ファーティマは部屋を飛び出していた。背後で名を呼ぶシャジャルに振り返ることすらせず。
無我夢中で走ったくせに、間違えず自室に戻れたのはなぜだったのだろう。自分でもよくわからない。
とにかく部屋に駆け込んだファーティマを出迎えたのは、ベッドのそばで立っていたアーディドだった。
アーディドはこちらに気づくと、普段と変わらない表情で「ファーティマ」と名前を呼んだ。
その慣れ親しんだ彼の姿を見て、いつの間にかファーティマは彼の胸に飛び込んでいた。
あまりに唐突な行動だったせいか、アーディドはその勢いを受けきれず、二人もろとも後ろのベッドへと倒れ込んだ。
そんな状況でも――なお平静な表情で、「どうした」とアーディドは尋ねる。
「……どうしてかな。もうあの人を恨んじゃないと思ってたのに。でも、あんなふうに謝る姿を見て、耐えきれなかった」
「シャジャルの態度に怒りを感じた?」
「うん……」
残された一族の顛末を聞いて、罪悪感に苛まされる彼女の様子に我慢ならなかった。
あんなに悲痛な謝罪をしているのに、それを許せなくなった自分は狭量なのだろうか。
アーディドにそのことを訪ねてみると、「いや」と彼は否定した。
「ハッダードの状況を初めて知って、彼女は動揺した。――それを覚悟していなかったからだ」
――ああ、そっか。
シャジャルに対する怒りの本質を、ファーティマはようやく理解した。
彼女は浅はかすぎたのだ。国を捨てたとき、残された一族がどういう扱いを受けるか見通せていなかったのだ。だからこそ、ファーディマの話を聞いて彼女はあれほど狼狽えた。
つまるところ、彼女には行為に対する覚悟が足りなかった。そんな半端な覚悟によって、ハッダード一族の人生が翻弄された。ファーティマは、そのことに堪らなく腹が立ったのだ。
自身の感情に理解が及ぶと、ファーティマは少し冷静になれた。「ありがとう」とアーディドに礼を言って――彼を押し倒したままなことに気づく。
恥ずかしさが押し寄せ、ファーティマは慌ててアーディドの胸元から離れた。我ながら子供みたいだった、と顔を赤くしてアーディドの隣に座りなおす。
「……どうしたらいいかな。あんなふうに飛び出してきちゃって」
間違いなく、ファーストコンタクトは大失敗だったと言えるだろう。碌な会話もできていなかった。自分の愚かさが嫌になってくる。
「――最初に言っただろう?」
体を起こしたアーディドが、諭すような、柔らかい口調で語る。
「素直に話せばいい。ファーティマが感じたことを、隠さず相手に伝えればいい。言葉にして、ファーティマの思いを理解してもらえばいい」
「……うん。わかってはいるんだけど……上手くいくかな」
自分が思っている以上に、ファーティマというエルフは感情的で未熟な存在なのだろう。さっきまでの行動からして、それは否定しようがない事実だった。
また些細なことで失敗するかもしれない。さっきみたいに、感情を抑えきれずに逃げ出すことがあるかもしれない。
そんな心配をファーティマは口から零した。
「そのときは――」
アーディドは笑った。
優しさと、暖かさと、そしてほんの少しからかいを込めて。
「――また、俺の胸に飛び込んでくればいい」
◇
それはなんとも奇妙な対談だった。
アルビオン王家に連なる大公の屋敷、その一室に集った四人が全員、人間の敵と目される種族だとは、いったい誰が信じられようか。
エルフが二人、吸血鬼が一人、ハーフ吸血鬼が一人というのが、その四人の内訳だった。字面だけ見れば人間にとって恐ろしいことこの上ないが、実際の様子はと言うと平穏としか言い表しようがないものだった。
「……なるほど、それでアルビオンまで来たわけか」
アーディドたちがこの地にやってくるまでの経緯を聞いたアベルは、どこか呆れを含んだような声色で呟いた。それもそのはずだろう。単身で国を相手取って易々と亡命を果たしたというアーディドの話は、傍から聞いただけでは信じられるものではない。
――だが、このアーディドという少年を実際に目の前にして、エルザはそれが真実であると理解せざるを得なかった。
それはひとえに、エルザが先住魔法の使い手だったからである。先住の力とは、すなわち精霊の力であり、エルザも周囲の精霊の気配を感じ取ることができる。そしてもし、精霊が他者に掌握されている場合は、その事実にすぐ気づくことができる。
現在、この空間の精霊はすべてアーディドに支配されていた。――文字どおり、“すべて”だ。通常、精霊を操る力は自身に近いほど強まり、遠いほど弱まる。そのため一方の行使手が、もう一方の行使手の周囲にある精霊に干渉しようとしても、相手の支配によって容易に撥ね除けられるのが普通だ。
だというのに、いまエルザがたった数サントの傍にある空気中の精霊に働きかけようとしても、一切の手応えがなかった。アーディドがそれすらも完全に制しているからである。実際には起こりえないだろうが、もしアーディドが殺意をもって精霊に命令を下せば、エルザの周囲にある大気はすべて牙を剥き、ほんの一瞬にしてこのちっぽけな吸血鬼の命は消失させられるだろう。
――化け物だ。
人間から恐れられる妖魔のエルザでさえ、そう思ってしまった。これが長年に渡って契約を積み重ねてきた場所であるならまだしも、アーディドはつい先日この屋敷を訪れただけに過ぎない。その事実がいっそう、彼の異常さを物語っていた。
アーディドはその実力によって亡命を成功させたと言うが、ともすればエルフの国を独力で潰すことさえ可能だったのではないか。そんな思いを抱かせるほどに、アーディドという少年は異次元の力の持ち主だった。
「にしても、とんでもないやつだなぁお前」
呑気な口調で言うアベルに、今度はエルザが呆れた顔をした。普段、アベルは系統魔法しか使わないが、当然ながら先住魔法も心得ているはずである。だからアーディドの途方もない力を理解しているだろうに、彼からは少しも動揺の様子が見えない。ふつう自分よりも圧倒的な存在を前にしたら、危機感や緊張感といった感情を多少なりとも抱くものではないだろうか。
――いや、もしかしたら。
アベルがこれほど平常心を保っていられるのは、彼ならばアーディドとも比肩しうる、あるいは超越しうる、規格外の化け物だからではないか。
そんな根拠もない考えが、エルザの頭には過ってしまった。
「その言葉はきみにも返そう。ティファニアを連れて王宮に侵入したらしいな?」
「……ああ。あの子にはちゃんと伯父と会わせておきたかったからな」
「それで結果は?」
「当然ながら拒絶しかなかった。ま、この世界の貴族としては普通の反応さ」
「致し方ない。我々エルフも、多くの者は人間を蔑視し、敵視している。種族間の問題はつねに世界に遍在しているものだ」
「偏見も差別もない付き合いができればいいんだがな。――モード大公とシャジャルのように」
ふいにアベルの目線が、ファーティマのほうへ向いた。
びくりと緊張した様子の彼女に対して、アベルは穏やかな笑みを浮かべる。
「――シャジャルとは仲直りできたかい、お嬢ちゃん?」
「え、あ……は、はい。初対面では少し失敗してしまいましたが、その後はちゃんと話し合って、和解することができました」
「もう恨んではいない……ということかい?」
「――はい。たしかにシャジャルの行動で一族の境遇は一変しましたが、アーディドのおかげで誰も死なずに済んだし、東方での生活にも不自由はありませんでした。何より彼女は――本心から謝罪をしてくれました」
真摯な表情でそう答えるファーティマに、アベルはどこか満足げな頷きを見せた。
「明日には、ティファニアもこの屋敷に着くだろう。そうしたら、きみはあの娘ともゆっくり話をしてくれないか。いとこと会えれば、彼女もきっと喜ぶ」
「ぜひとも。わたしもティファニアと会うのを楽しみにしています」
世辞ではなく心の底からそう思っているのだろう。ファーティマの言葉には期待が籠められていた。
エルザは、この屋敷で初めてティファニアと顔を合わせた時のことを思い出した。吸血鬼と知っても少しも恐れる様子もなく、彼女はエルザと親しくなろうと接してきた。屋敷に引き籠って暮らすしかないティファニアにとっては、女子の友達ができることは何よりも大切で嬉しいことだったのだろう。
……もっとも“女の子”なのは見た目だけで、エルザの年齢はティファニアと遥かにかけ離れていたわけだが。年齢の齟齬は吸血鬼だけでなくエルフも同様で、ファーティマも外見は少女だが、齢はとっくに二十を超えているだろう。たぶんファーティマも、ティファニアに話を合わせるのに苦労するだろうなぁ……と、実体験からエルザは内心で彼女に同情を寄せるのだった。
「さて……」
一息置いて、アベルは視線をアーディドに戻した。その表情は真剣みを帯びていた。
「わざわざハルケギニアに来たのは、別の目的もあったんだろう?」
「もちろん。根本の問題を解決しなければ、世界の結末は変わらないままだ」
「それで、お前は何か手段があるのか?」
アーディドは言葉の代わりに、懐から小瓶を取り出した。そこに入っているのは――とんでもない代物だった。
芋虫のような姿のそれは、瓶の中でもぞもぞと蠢いている。それだけではただの気味の悪い幼虫にしか見えないが、しかしエルザはすぐに、その中に込められた異様な力を感じ取ることができた。
――恐ろしいほどの精霊の力と意思が吹き込まれている。
高度な先住魔法の使い手は、物体に意思や特別な能力を持たせたりすることができる。この芋虫もアーディドが作りだしたマジック・アイテムなのだろう。ただ、その質が尋常ではなかった。一目で分かるほどに強力なこの魔道具……いったい、何に使うというのか?
「……くく」
笑い声が漏れた。隣を見遣ると、アベルが口を笑みに歪めていた。
「いや本当に――とんでもねぇやつだ。オレもそのやり方は考えたが、系統と先住の魔法を組み合わせても、実用に堪えるものを作るのは無理だと思っていたんだぜ? だが……」
「俺が作製したこれならば、可能だろう?」
「ああ、十中八九な。もっと数を用意することはできるか?」
「少し時間はかかるが、問題はない」
こんな途轍もない力が込められたモノを量産できる? もはや次元が違いすぎて、エルザは唖然とした。
そんな彼女をよそに、アベルとアーディドは二人でどんどん会話を進める。そのやり取りを耳にしても、いったい何について話しているのかさっぱり不明だ。いい加減に分かるように話をしてくれ、とエルザが口を尖らせて言うと、ようやくアベルが頭を掻きながらエルザに顔を向けた。
「ああ、お前も知っているだろう? 大陸西方では地中の風石の蓄積が著しく、いずれは大地が大規模に隆起してしまう。――このアルビオンのように」
アベルの言った内容は、ハルケギニアでは一般的に知られている重大な案件だった。この大陸に住まう者の一員として、エルザもその問題については概要を理解していた。
「三百年くらい前に、トリステインの
「あ、その研究者、オレね」
「はっ!?」
さも事もなげに言うものだから、エルザは変な声を出してしまった。まあ、たしかにアベルの系統魔法は超一流なので、そういった職を経験していても不思議ではないが……。
アベルの経歴に驚きと珍しさがあるものの、その話はとりあえず置いておき、エルザは確かめるように尋ねた。
「えっと……そのマジック・アイテムが、風石問題を解決する鍵となる――ということ?」
「そのとおり。こいつを起動させれば、勝手に地中に潜って、肥大化した風石を食い散らかしてくれる。……そうだろう?」
アベルが視線を向けた先には、アーディドがいた。彼は静かに頷く。
「どれだけ凝縮された風石でも破壊することができる。その機能は実験で確認済みだ。そして一度、動作させれば数年は持つだろう」
「数年――って、それで十分なの?」
エルザは首を捻った。この風石破壊機がどれだけの速度で風石を処理できるのかは分からないが、それでもハルケギニアの地中に形成されている風石は、非常に広範囲かつ膨大だと言われている。本当にこんな小さな虫のようなものをバラ撒いただけで、問題を解決できるのだろうか?
その疑問は、あながち間違いでもなかったらしい。エルザの指摘に、アーディドは首を振った。
「いいや、足りないだろう。百年くらい地道に続けていけば、大隆起を防げるかもしれないが」
「ず、ずいぶん気の長い……」
エルザは顔を引き攣らせた。エルフや吸血鬼の寿命は人間と比べて遥かに長いが、それでも百年という年月は果てしない。
ただ、アーディドの言い方からすると、何か秘策があるようだ。エルザは再確認の言葉を口にする。
「何か別の方法がある……ということ?」
「ああ。先程の年数は、魔法に縁のない人間が適当に地面に放った場合の話だ。“適切な使用者”が、ありったけの魔力を籠めて起動させれば、通常よりも何倍もの効果と持続を発揮するだろう」
「――適切な使用者?」
思わずオウム返しした。たしかにマジック・アイテムの中には、魔法の使えない平民よりも、魔力を持ったメイジのほうが強力に使いこなせるものがある。ただ、所持者の力に左右されるのにも限度というものがあるだろう。どれだけ高位のメイジや行使手であろうと、そこまで差異が出るとは信じがたかった。
不審な顔をするエルザに、アーディドとアベルは同時に笑った。まるで、答えなど明白ではないか、と言うかのように。
彼らは口を揃えて、その使用者の名を答えた。
『――ミョズニトニルン』
それが、この大陸を救う者の名だった。
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07 微風の騎士(1)
ジャン・コルベールという男にとって、もっとも大きな人生の転換点と言えば、あの15年前の
当時、まだ若輩ながらもコルベールはその実力を買われて、魔法研究所実験小隊の隊長に任ぜられていた。そしてあの日、ある村で発生した疫病の蔓延を防ぐために住人をすべて焼き討ちにせよという命令を受け、コルベールは隊を率いてアングル地方へと向かった。
忌避感や罪悪感がなかったというわけではない。これまで数多くの汚い仕事をこなしてきたが、それでもまだ、コルベールは人の心を失ってはいなかった。
だが、この任務はこなさなくてはならない。そうしなければ、疫病が広まってより多くの命が失われるのだ。
そんなふうに自分を説得して、コルベールは村へと続く街道を闇夜の下、黙々と歩んでいた。
しばらくして、村が見えてきた。
時刻は、住人の寝静まった深夜である。灯りはほとんど見えない。だが、あと少しすればこの村は明るく照らされることになるだろう。焼き討ちによる、無情な炎の灯りによって。
隊員に作戦の確認をしてから、任務を実行せんと村のほうへ歩みを進めて――
人影が見えた。
暗闇に紛れるかのような出で立ちだ。長い黒髪に漆黒のマント。
もし相手がその気であったのならば、コルベールたちはこの者の気配を察知することすらできなかったであろう――そんな確信めいた思いが、なぜかあった。
だが、いま、その吸い込まれそうな碧眼は強い意思の光を宿して、己の存在を知らしめるように、こちらを見つめている。
風がそよいだ。
そして、前方にいる人物は一歩こちらへ歩み寄った。
コルベールは戦慄した。相手のその動作を理解するのに、数秒以上の時間がかかったからだ。
相手の動向にはたしかに注意していたはずだ。しかし、その動きは
「実験小隊の者たちだな?」
やがて鈴のような美しい声が響いた。
そこでコルベールは初めて気づいた。目前にいる人物は、どうやら女性らしい。しかも、目を凝らして顔立ちを見ると、かなり若い。20歳前後……コルベールと年齢があまり変わらないくらいだ。
「……あ、ああ。そうだ。それを知っているということは、アカデミーの関係者かね?」
やっとの思いで、コルベールは口を開いた。気を抜くと、震えてしまいそうだった。それほどまでに、彼女の存在は気迫に溢れていた。
「そうだと言えばそうだが、今回は“国王の遣い”として参上した。――魔法研究所実験小隊に告ぐ。任務は中止だ。これは王命だ」
突然のことで若干、頭が混乱しながらも、コルベールは女性に尋ねかえした。
「いったい、どういうことだ? それに……きみがその“国王の遣い”であるという証拠は?」
コルベールがそう言うと、女性は懐から何かを取り出しながら近づいてきた。思わず身構えるが、彼女が手にしているのは一枚の文書のようだった。
「王の署名が入っていることを確認せよ。文面もよく読むように」
文書を手渡されたコルベールは、空いた片手に杖を持って“ライト”の魔法で光を灯した。
文頭から末尾までこぼさず目を通したが、なるほどたしかに、今回の任務は中止であるという内容で、最後に王宮から発行されたことを示す捺印がされている。
コルベールはそれを確認しおえると、文書を女性に返却した。それと同時に、改めて彼女の姿を間近で見る。
腰には剣拵えの杖。無駄な装飾はまったくなく、実用一辺倒のようだ。漆黒のマントは、ライトの魔法で照らされたおかげでようやく細部を確認できた。その意匠からすると、どうやら魔法衛士隊のものらしい。
――魔法衛士隊に所属する女騎士。
数は少ないが、魔法衛士隊に女性がいないわけではない。女人禁制が解かれたのは、まだほんの15年前のことだ。
当時、エスターシュ大公が謀反を企てるという事件があったのだが、それを解決したのは魔法衛士隊の隊員と、メイジの協力者たちだった。その協力者の中に、二人の女性がいた。彼女らは魔法衛士隊の隊員を凌ぐほどの実力を持ち、エスターシュ大公の事件でその強さを知ったかつての王フィリップ三世は、伝統であった魔法衛士隊の女人禁制を廃止してまで、二人を騎士に迎えたのだという。
その二人こそ、騎士ならば誰もが知る人物。『烈風』の二つ名を持つカリーヌと、『微風』の二つ名を持つイヴェットである。
いま、コルベールの目の前にいる女性――その存在感は、伝説的な騎士に劣らぬほどである。とはいえ……『烈風』や『微風』とは別人だろう。この女性騎士はどう見積もっても20歳そこらで、あの二人とは年齢が食い違うからだ。
……余計なことに思考を傾けすぎた、と反省しつつ、コルベールは口を開いた。
「……なるほど、あなたの言うとおりのようだ。しかし、我々はどうすれば?」
「トリスタニアに戻られよ。後日、また諸事に関する連絡がなされるだろう」
「……疫病については、このままでもよいのかね?」
それが気になって、コルベールは女性に尋ねた。
たしかに文書には、任務を中止するという旨が書かれている。しかしその理由については、いっさい触れていなかったのだ。もし疫病が蔓延したら、とんでもないことになってしまうはずだ。だからこそ、本来は何も言わずに命令に従ったところなのだが、こうして聞いてしまった。
しかし女性の答えは、納得のいくものではなかった。
「それについては、答えられぬ。きみらは黙って戻りたまえ」
「……しかし――」
「隊長殿」
コルベールが食い下がろうとした時、隊員の一人が前に歩み出てきた。それは……メンヌヴィルという、コルベールと同じような年頃の士官貴族だった。
「こんな女、信用できませんよ。どうせさっきの文書だって、偽物に決まっている」
そう言って口元を歪めるメンヌヴィルを見て、コルベールは気分が悪くなった。どうにも、この男は好かない。任務で人を殺す時はいつも、楽しそうにしていたからだ。おそらく、いまこうして進言しているのも、焼き討ちをできなくなるのがつまらないだけなのだろう。
「きみは黙っていろ、メンヌヴィル」
「おいおい隊長殿、オレは真っ当なことを言っただけで――」
ざわ、とコルベールは全身に鳥肌が立った。
……動けない。それは恐怖によるものだった。隣にいるメンヌヴィルも同様なのか、黙りこんで女性に目を向けたままだ。
底冷えするような魔力。こんな強大なものを、はっきりと明確に感じたのは初めてだった。これと比べたら、自分など赤子と変わらない程度でしかないのではないか。それほどまでに、女性の発するメイジとしての覇気は圧倒的だった。
「命令だ、隊長。いますぐ、トリスタニアに戻られよ」
「…………あ、ああ。わかった。そうしよう」
もはや逆らう気力すらなかった。どうしようもなく、彼女の言葉に頷くしかなかった。
だが……メンヌヴィルは、そうではなかったらしい。よほど不満と反発が強かったのか、これほどの相手を前にしても、敵意を剥き出しにする。
「納得いかないな! 帰るのはお前だよ、女!」
「……命令に逆らうのかね? それは王国に対する反逆となるが」
「――上等だ!」
淡々と述べる女性の様子に怒りが沸点に達したのか、メンヌヴィルは杖を抜いてルーンを唱えた。
まずい、と思った時にはすでに、メンヌヴィルは詠唱を終えて杖を振っていた。さすがこの部隊に所属しているだけあって、メイジとしての技量は一流だった。こうなってしまっては、完成した魔法はもはや止められない。
膨れ上がった火球が、女性に飛翔する。
そして、そのまま彼女の身体を燃やし尽くす――直前、火球は突如として掻き消された。
炎が霧散して姿を現したのは、杖を振り払った格好の女性だった。
……動きが見えなかった。ルーンの詠唱も聞こえなかった。どれほどの手練で杖を振り、どれだけの技巧でルーンを詠唱したのだろうか。まさに驚異の早業だった。
「……牙を向けるか、よかろう。では――きみに私の風を披露しよう」
その物言いに余計に怒り狂ったのか、メンヌヴィルはさらなる魔法を唱えはじめた。そして杖を振るう――前に、メンヌヴィルの身体は吹き飛んでいた。
吹き付ける強烈な風の余波にたじろぎながらも、コルベールは自分の目と耳を疑っていた。なぜなら、いま彼女が使った魔法は……風の初歩の初歩、“ウィンド”のスペルだったのだ。それは、微弱な風を吹かすだけの魔法だったはずだ。しかし彼女の手にかかれば、人をも簡単に吹き飛ばすような暴風を起こす、強力な攻撃魔法となるようだ。
改めて、コルベールはこの騎士を恐ろしいと感じた。
「……今回の件は、不問にしておこう。気絶した彼は、誰かに運ばせてやるとよい」
「…………」
コルベールは黙って頷いた。すぐに後方の隊員たちに、撤退命令をかける。そして、倒れているメンヌヴィルを運搬する人員を指名してから、最後に女性のほうを向きなおった。
「それでは……私は、これで――」
「待ちたまえ、コルベール隊長」
背を向けようとしたコルベールに、女性が声をかける。再度、彼女のほうに身体を向けると、女性は一瞬だけ何かを考え込むように目を閉じたのち、コルベールに問いかけた。
「きみは、いまの立場に満足しているか?」
「…………」
どう答えるべきか、コルベールは迷った。たしかに、この汚れ役をすべて受け入れているとは言いがたい。しかし、なぜ女性がこのような質問をしたのかも疑問だった。
コルベールは言葉を見つけられず、黙り込んだ。女性は、しばらくして口を開いた。
「きみに見せたいものがある。隊はそのまま帰して、きみは残ってほしい。頼めるか?」
女性の意図が見えない。だが、“見せたいもの”が気になった。この任務に対して思うところが大きかっただけに、何か少しでも真実が見えるのなら、試してみたかった。
コルベールは頷き、先に帰還するよう小隊に命じた。
その場に残るのは、コルベールと女性だけとなった。お互いに、まだ言葉はない。ただ夜風が、静かにそよいでいた。
「――来たか」
そう呟き、女性は村の東方の草原に目を向けた。
「ついてくるがいい、コルベール隊長」
女性は早足で移動しはじめた。慌てて、その後を追う。
「いったい、何があるというんだね?」
「ロマリアに買収された下郎が遣わした犬どもだ。本来は、きみの部隊がその“犬”だったのだが――それが阻止されたのを知って、代替品を雇ったのだろう」
「なんだって……?」
きな臭い話に眉をひそめるコルベールに、女性は足を進めつつ詳しく説明した。
伝染病はまったくの出鱈目で、新教徒の多い目障りな地方の村を焼き払うための口実であったこと。それにはロマリア宗教庁の圧力があり、とくにトリステイン高等法院長のリッシュモンはロマリアから多額の賄賂を受け、みずからが中心となって村の焼き討ち計画を立案したこと。しかし事の真相を知ったトリステイン王は、これを回避するために任務を中止とし、いまコルベールの目前にいる女性をこの地へ送り込んだこと。そして――さらにそれを察したリッシュモンは、独自に傭兵たちを雇ってここへ送り込んだであろうということ。
「それでは……私は……」
コルベールは顔を青くした。一歩間違えれば、まったく無実の人間を大勢、焼き殺すことになっていたのだ。そのことの恐怖で震えそうになるが、同時に、こんな任務を立案したリッシュモンに怒りの炎が湧き上がる。
「……我々の部隊の代わりが来るということは、フライの魔法でも使って急いだほうがいいのではないかね?」
早足ではあるものの、女性の移動速度は緊急事態と言うにはあまりにも遅すぎる。そのことにコルベールは焦燥を抱き、女性に問うた。
だが、この騎士に限ってそのような心配は無用であるということを、コルベールはすぐに思い知った。
「さて、片はすぐにつくか」
女性は唐突にそんなことを言った。なんのことか、と訝しむコルベールに、女性は進路の先を顎で示した。
そちらをよく目を凝らして見る。暗闇の中……かすかながら、人影が見えた。数は多い。10、20……いや、少なくとも30はいる。しばらく進むと、さらにはっきりと様子がわかるようになった。どうやら、戦闘がもう始まっているようだ。片方は、女性の言うようにリッシュモンの送ってきた部隊なのだろう。それでは、その部隊を相手取っているのは……?
――風だ。
草原の夜風と同化して駆ける“彼女”は、近づく者を容易に跳ね除け、逃げる者を容赦なく打ち倒す。
敵は、剣や弓で武装した平民から、杖を持ったメイジまでいる。だが、振るわれる剣は“彼女”の持つ杖によって防ぎいなされ、飛来する矢や魔法は“彼女”の風で吹き飛ばされる。
一方的だった。圧倒的だった。
敵の数など、“彼女”にとってはなんの障害にもならない。どれだけの数を持ってこようが、“彼女”には指一本触れることすら叶わず、風に呑まれるだけであろう。
「終わりだ」
コルベールの“目前にいるほうの彼女”は、そう呟いた。
その言葉どおり、“向こうの彼女”の放った風の槌は、最後の敵をねじ伏せた。雇われた傭兵であろう男たちが倒れ伏す様は、まさに死屍累々といったところだろうか。そんな中で、戦闘を終えた“彼女”はこちらのほうへ歩いてきた。
「コルベール隊長か」
お互いの顔がよくわかる位置にまで来た時、“彼女”はそう口を開いた。コルベールは若干の緊張を抱きながら頷いた。
そこには、まったく姿形の同一な女性が二人いた。
双子、というわけではないだろう。彼女は風の使い手で、それも並大抵のスクウェアをも凌駕する実力を持つメイジである。とすれば、答えに至るのは簡単だ。
――遍在。分身とも言うべき存在を作りだす、風の高位魔法。
実際に見るのはこれが初めてだが、コルベールははっきりとその脅威を認識した。彼女の遍在が、一人であれだけの力を発揮できるのならば、それが複数人となったらどうなるのか。コルベールがこれまで見てきた優秀なメイジたちがどれだけ集まっても、それを打倒する光景は思い浮かばなかった。
「リッシュモンの思惑は潰えた。今後、やつの罪状を暴いていけば地位の剥奪は免れぬだろう。それともう一つ――今回の件で、実験小隊の解隊が決定された」
突然の宣告に、コルベールは面食らった。それにかまわず、彼女は説明を続ける。
「解隊の理由は、一部の人間に私利目的で利用されることを防ぐためだ。その代わりに……再度、管轄を調整して新しい部隊を再編成する予定になっている。さて――」
そこで彼女はいったん言葉を切り、コルベールを見つめた。その瞳に宿る強い光は、これから発する言葉の重要性を示していた。
「きみはどうするのだ? きみが望めば、ふたたび再編された部隊のリーダーとして働けるだろう。だが……それ以外の道もある」
「……それ以外の道?」
自分が持っているものなど、メイジとしての能力くらいなものだ。それを生かすとなると、進む道は軍しかない。
だがそうは思っているものの、やはり抵抗感は残っていた。またどこかで一歩でも踏み誤れば、今回のような任務を知らずのうちに遂行してしまうかもしれない。
そうなったときに、自分の心は正気を保てるのだろうか。
それを考えると、どこか薄ら寒く、恐怖が込み上げてくる。
「ああ、そうだ。おそらく、きみの天職となるであろう道がある」
「それは……?」
「――教師だよ、ミスタ・コルベール」
とんでもない回答を口にして、彼女は初めて僅かながらも笑った。平時なら、その美しい容貌と相まって思わず魅了されてしまいそうだったが、それよりも彼女の呈した“天職”が余りにも意外すぎて困惑してしまった。
教師? 自分が?
「本日をもって、私は魔法衛士隊を引退するつもりでね。代わりに、トリステイン魔法学院の教師として着任することになっている。そのついで、と言ってはなんだが……きみも雇ってもらえばよかろう。私も学院長とは多少の縁があるので、それくらいは通せるはずだ」
「……私の魔法は、燃やすことしかできない。破壊の炎を子供たちに教えて、なんになると言うんだ?」
「そうでもなかろう。火は生活の灯りであり、料理の基礎であり、製鉄の要である。その利用方法は、“風”などよりよっぽど多彩だ。そして、きみにはそれを教える能力が備わっているはずだ」
確信めいた口振りだった。なぜそこまで言いきれるのだろうか。
……だが、内心ではそこまで反発はなかった。
教師。ただ殺しの技術だけが求められる軍とは、まさに対極の職業だ。それでも惹かれるものがあるのは、心のどこかで殺しを厭っているからなのかもしれない。
この申し出を受け入れれば、まだ自分は普通の人間に戻れるかもしれない。
そう思った時には、もう口は動いていた。
「本当に、よいのなら……ぜひとも、お願いしたい」
「もちろん、歓迎しよう。……ああ、そういえば、まだ私の名は教えていなかったな。私は――」
一瞬、彼女は何かを言いかけたが、すぐに思い出したかのように言い直す。
「騎士としての名はやめておこう。……私の名前は、レティシアだ。よろしく頼む」
そう言って、彼女――レティシアは、繊手を差し出した。
……果たして自分は、正しく道を歩み直せるのだろうか。不安と期待を抱きながらも、コルベールはレティシアと強い握手を交わした。
――それが、15年前のこと。
あれから年月は過ぎ、気づけばコルベールはもう40手前の歳になっていた。とくに女性との縁もなく、教職一筋でずいぶんと長くやってきた。あの小隊で行なってきたことと比べると、嘘のように静穏で平凡な毎日だ。
それでも、つまらない日常ではない。貴族の子弟を相手に、教育をどのようにすべきか悩むことも多いが、“火”の利便性やその使い方を教えたり、自分でさらなる研究を重ねたりするのは面白くて仕方がないほどだ。
あの時、レティシアがコルベールの天職は教師であると言っていたが、こうして見ればまさにそのとおりだ。彼女には感謝してもしきれない。
「む……もうこんな時間か」
いつの間にやら時計の針が進んでいたことに気づき、コルベールは研究の手を休めた。窓の外を覗くと、そろそろ陽も沈みそうな頃合いだ。
今日の学院の見回り当直はコルベールだった。早めに切り上げて、その準備をしなくてはならない。
コルベールは鍵を手に取り、研究小屋を出た。そして施錠していると、背後に何者かの気配を感じた。慌てて振り返ってみると、そこには授業を終えてきたと思われるレティシアの姿があった。
「驚かせたか? すまない」
「ああいや、気にしていませんよ。それより、研究小屋に何か用事でも……?」
「そうではないが、先にきみに伝えておこうと思ったことがあってね」
何か急な言伝だろうか。そんなことを考えながら、レティシアの顔を見る。
――その顔は、いまだに若やかな美女の相貌だ。
年齢にすれば、20半ばに達するかどうかといったところか。コルベールが初めて出会った時、彼女は少し年下に見えた程度だったが、今では歴然とした差がついてしまった。
学院長のオールド・オスマンも15年前からほとんど変わってないように見えるが、レティシアの場合はもとが若いだけに、歳の取らなさがさらに目立った。実際にいま何歳なのかをはっきりと聞いたことはないが、これまでのレティシアの話から察すると、どうやら40歳はとうに超えているようだ。何も知らない者からすれば、彼女がコルベールより年上だとは到底思いつかないだろう。
いったい、どのような方法で若さを保っているのか。さすがに気になって尋ねてみたこともあったが、「知り合いに腕のよい水メイジがいるのでね」と答えられるだけだった。最近、頭が薄くなってきたコルベールにとっては、ぜひとも紹介してもらいたいばかりである。
そんな個人的なことを思い浮かべていたせいで、コルベールは彼女の言葉への反応が遅れてしまった。
「明日から一週間ほど、私はトリスタニアに滞在する。その間、きみの研究を手伝うことはできないので、連絡をしにきたというわけだ」
……一週間? ずいぶんと長いものだ。それほど費やす予定とは、どんなものなのだろうか。それに、その間の授業も通常どおりあるはずだが、どうするのか。
そんな疑問がお見通しだったのか、コルベールが口を開く前に、レティシアはつらつらと言葉を続けた。
「授業の代理はギトーくんに頼んである。さすがに、遍在で代任するというわけにもいかんのでな。なに、彼は若いが知識と実力は十分にあるから大丈夫だ。まあしかし、もし何か困りそうだったら、きみが彼を助けてやってくれると助かる」
ギトーとは、今年に着任したばかりの新人の教師だ。ほんの数年前まで、ギトーはトリステイン魔法学院の生徒だっただけに、コルベールも彼に対する印象は多く残っている。
知識と実力は十分にある、というレティシアの言葉は間違いないだろう。ギトーは、学生時代にすでにトライアングルに達しており、現在ではスクウェアにまで至っている。性格面にしても、むかしはひたすら風の系統を信奉していたものの、ある日、レティシアの知り合いである土メイジの青年に模擬試合で圧倒されたことから、今ではその考えも改められたようだ。レティシアの言うとおり、経験の少なさ以外は、十分に信頼に値する人物である。
「……なるほど、ミスタ・ギトーのことは了解しました。何かあれば、私も力になりましょう。ところで……よろしければ、トリスタニアへは何をしに?」
「研究の件で、少しアカデミーのほうと連絡を取りたくてね。それと、知人にも会う約束を」
研究――おそらく、風石に関することだろう。風石の発する各効果や、地中に形成される過程、あるいは各地の埋蔵量予想などについて、レティシアは研究を重ねていた。アカデミーの研究者とも交流があるらしく、連携して取り組んでもいるようだ。
そして知人、というのも気にならないわけではない。レティシアの知り合いというと真っ先に思い浮かぶのが、やはりあの土メイジの青年だ。驚異的な身体能力に、恐ろしいほどの判断能力、そして卓越した魔法の使い方。レティシアに並び立てる彼の姿を見て、当時のコルベールは、なんと自分は微力なことかと思い知らされた。
湧き上がる興味を抑えきれずに、コルベールはレティシアに尋ねた。
「知人、とは……」
レティシアは、どこか楽しそうな声色で答えた。
「アベル――私の親友だ」
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08 微風の騎士(2)
あれは幼かった頃の出来事だが、今でも明瞭に覚えている。というのも、あの二人のメイジの印象はかつてないほどに大きかったし、何よりも人生の分け目であったからかもしれない。
アングル地方。その中の小さな村で生まれたアニエスは、ある日、海岸近くで若い女性が倒れているのを見つけた。彼女はヴィットーリアという名前だった。敬虔なブリミル教徒でもあった彼女は、“実践教義”が広まっていたアニエスの村で、すぐに受け入れられた。加えてヴィットーリアは“水”系統を得意とする優秀なメイジでもあり、村人たちは簡単な怪我や病であればすぐに治してもらえることに歓喜した。
アニエスも一度、熱を出してヴィットーリアに診てもらったことがあった。魔法の凄さを初めて思い知ったのは、まさにその時だった。あれだけうなされていた高熱は、彼女の“
それからアニエスは、しばしばヴィットーリアのところへ自分から遊びに行くようになった。ロマリアが出身地であるらしい彼女は、アニエスに縁もなかった遠い土地の話をよくしてくれた。
そして月日が過ぎ……始祖暦六二二二年、アニエスが三歳の頃。
村長からの連絡により、正午手前の時刻、村人全員が広場に招集された。そこには村長と、隣に二十歳くらいの若い男女が二人いた。
村長は村のみんなに説明した。この付近に大規模な野盗がやってくるかもしれないので、日没後は絶対に外を出歩かないようにしてほしい。隣にいる男女はどちらも強力なメイジで、この村を守り、野盗を討伐するためにやってきた。彼らはしばらく、この村に滞在することになるので、無礼のないようによろしくお願いする。
……だいたい、このような感じだった“らしい”。というのも、あとで両親から確認した話なのだ。何分あの頃の自分は幼かったので、村長の話は聞いていたものの意味も理解できずに、「とにかく凄いメイジの二人が来た」という程度の認識だった。そんなわけで大して緊迫感も持たず、アニエスはいつもどおりに生活していた。
村にやってきたメイジの二人は、栗毛で人の好さそうな雰囲気の青年がアベル、黒髪で美人だけど少し厳粛な空気をまとった女性がレティシア。その二人に初めて正面から顔を合わせたのは、アニエスがヴィットーリアの住まう家を遊びに訪ねた時だった。
屋内に入ると、例の二人が椅子に座っていた。ヴィットーリアに促されて、アニエスは人見知りしながらも自己紹介をした。
「……こ、こんにちは。わたしのなまえ、アニエス」
その時、一瞬ながらも二人は驚いたような顔をした。些細なことだったので、それがなんだったのかはもうわからないが。
とにかく、それからは世間話のような他愛のないもので時間が進んだ。あっという間に日暮れ近くなり、そして最後の別れ際、ヴィットーリアはアベルに一つのものを手渡した。
それは指輪だった。しかも単なるありふれたものではない、明らかに貴重で高価そうな、大きなルビーが美しく光る指輪だった。
どうしてあげちゃうの? と、アニエスが聞くと、アベルは笑って答えた。
「こいつは大切なものだからね。悪い人に持っていかれないように、オレが預からせてもらったのさ」
ヴィットーリアも静かに頷いていた。なんだか理由がわからず、あんまり納得はできなかったものの、アニエスはそれ以上聞かなかった。
その日の深夜。
アニエスは急に目を覚ました。寝なおそうとするが、なんだかいやな胸騒ぎがして眠れない。そのうち、ふと話し声がわずかながらに聞こえた。家の中ではなく、外からだ。
誰だろうか? 気になって仕方なくなり、アニエスはベッドから抜け出した。
家のドアを開けると、話し声ははっきりと聞き取れるようになった。そこで気づいた。この声は――アベルとレティシアのものだ。
「……アニエス?」
家を出てきたアニエスの姿を見つけて、アベルが近づいてきた。
「どうしたんだ、こんな時間に?」
「なんだか、いやな感じがして、ねむれなくて。そしたら、おにいちゃんたちの声がして……」
アニエスがそう言うと、アベルは表情を真剣なものに変えた。
「……そうか。なら、少し散歩でもするか? “いいもの”も見られるぜ」
その言葉にアニエスは少し悩みながらも、アベルの言う“いいもの”がどうしても気になり、小さく頷いた。
それからしばらくして、レティシアは二人と別れてどこかへ行ってしまった。残った二人、アニエスはアベルにおんぶされて、夜の村を散歩していた。
ふと、アベルが足をとめた。そしてすぐに、何かに気づいたかのように体の向きを変えた。
「どうしたの?」
「ん……待っていたものが来たみたいだ」
何も聞こえなかったのに、どうしてそんなことがわかったのだろうか。今度はそんな疑問をぶつけてみると、アベルは「足音が聞こえたからさ」と答えた。もちろんアニエスには、そんなものは聞こえていなかったので、なおも不思議で仕方がなかった。
杖を取り出したアベルは、ルーンを素早く唱えると、アニエスに注意をした。
「さてと、落ちないようにな」
次の瞬間、アニエスの視点が高くなった。アベルが飛行の魔法で宙に浮いたのだ。突然のことに手を離しそうになってしまったが、すぐにアベルが体の向きを横に傾けてくれたので、なんとか落ちずに体勢を持ちなおすことができた。もう落ちそうにならないように、しっかりとアベルにしがみつく。
「それじゃ、行くぜ」
地上から五十サント程度の高度を保って、アベルは東へと進みはじめた。
それほど高くはないとはいえ、空を飛んでいるということにはかわりない。当然ながら初めての経験に、アニエスは声にならない感動を覚えた。これが……魔法の力。
やがて村を出て、草原の広がるところまでやってきた。そこでアベルが着地する。
「あれ、見えるか?」
ふと、アベルが一方を指差して聞いた。アニエスはそちらのほうを向いて目を凝らすが、暗くてよく見えない。とはいえ、誰かが複数動いているようなことは、辛うじて判断できた。
よくみえない、とアニエスが言うと、アベルはルーンを唱えた。そして彼が杖を一振りすると、アニエスの目に奇妙な熱が一瞬帯びた。それが冷めると……驚くべきことに、まるで昼間のように辺りの暗がりを“見る”ことができるようになっていた。
アニエスが感嘆の声を上げているうちに、ふたたびアベルが魔法を詠唱する。“暗視”の魔法に次いでアニエスにかけられたのは、遠方をも瞭然と把握できるようになる魔法だった。
その二つが合わさって、アニエスはようやく、アベルの指差した方向で行なわれていることを確認することができた。
あれは――レティシアだ。
三十以上もの人影がある中で、その姿はよく目立っていた。なぜならレティシアはたった一人で、ほかの全員と戦っていたからだ。
しかし劣勢の様子は、いっさいなかった。彼女の“風”は、敵のすべてを超越していた。武装した傭兵やメイジたちは、彼女に指一本触れることもできずに、次々と倒れていった。
呆然とその光景を眺めているうちに、もう敵はいなくなっていた。最後に立つのは、レティシアが一人だけ。
「あれが例の野盗ってやつさ。レティシアが、悪いやつらを退治したんだ。ま、これで一安心だろう」
隣に立っていたアベルが肩をすくめて言った。
「さぁて、そろそろ家に戻ろうか。アニエス」
名前を呼ばれて、アニエスははっとした。そこでようやく、彼方のレティシアからアベルのほうに視線を移すことができた。
「……どうだ、アイツの“風”を見た感想は?」
面白そうにアベルが聞いてきた。アニエスは少し考えてみたものの、上手く言葉もまとまらなかったので、たった一言だけ。
「うん……すごい」
それしか言えなかった。メイジの力が平民には遠く及ばないとはわかっていたが、先程の光景はヴィットーリアに病を治療してもらった時以上に、そのことを実感させられた。
アベルの言った“いいもの”とは、レティシアのことだったのだろう。そう思って、アベルにお礼を言うと、彼は苦笑のようなものを浮かべた。
「本当は別のことについて言ったんだけどな……」
「べつの?」
首を傾げたアニエスに、アベルは「あー」と少し言いづらそうにしながら、それを答えた。
「見せたかったのは、まあ……。――物語の分岐点、ってことさ」
人生を一つの物語とするならば、それはまさに分岐点だった。アベルとレティシアがいなければ、もしかしたらあの野盗によって村は襲撃され、最悪の場合には、自分の人生という物語がバッドエンドを迎えていたかもしれないからだ。
そして今、アニエスという人間は、平凡で平和な日常を送りつづけている。
これからも、とくに変わり映えのない毎日になるのだろう。そう思っていたのだが、やはり物語の転機は前触れもなく訪れるのが決まりのようだった。
その日、家に帰宅したアニエスを出迎えたのは、久しぶりに会う人物だった。
年齢は見た目二十歳ほどで、髪は少し癖のある栗毛。青年の口元には、どこかイタズラっぽい笑みが浮かんでいる。
「よう、二年ぶりだな」
「アベルさん……? あ、ええと……いらっしゃい?」
“あの日”以来、アベルは不定期にアニエスの住む村を訪れていた。だがアベルの言うとおり、最後にアニエスが彼と顔を合わせたのは二年前だった。もともと、アベルが村にやってくるのはとくに決まりもなく出し抜けだっただけに、次はいつになるのかと思っていたが……こうも唐突に現れたので驚いてしまった。
「ちょっとした用事でこの近くまで来たんでな。つっても、まあ、明日には出なきゃいけないんだが」
話を聞くと、本当に“ついで”で立ち寄ったらしい。もっとゆっくりしていけばいいのに……とは思うが、用事があるのなら仕方ない。
それにしても、とアニエスは改めて思う。
この青年の見た目はいつ見ても変わらない。物語に出てくるような不老の人間が、まさにこのアベルというメイジだった。今ではもう、アニエスの歳はアベルの外見年齢と変わらないほどになってしまった。これからも自分が年を取りつづけるのに対して、彼はこれからも変わらぬままなのだろう。
「あー、そうそう。先にヴィットーリアのところに寄っていたんだが、あいつのところに何冊か本を置いておいたぜ。前回よりは数が少ないけどな」
「本当ですか……! いつもありがとうございます、アベルさん」
アベルの言葉に、喜色を隠さず反応する。それだけアニエスは本が好きだった。ヴィットーリアが読み書きを教えてくれて、アベルが村に来るたびに本を持ってきてくれたおかげで、小さい頃から読書をよくしていたのだ。
本は、王都や大きな街に行かなければ入手できない。しかも、ただの寒村の住民にとっては非常に高価なものだ。だからアベルの持ってきてくれる新しい本は、とても貴重だった。しかし、こうして本を貰うたびに、アニエスは思うことがあった。
「はぁ……自分で本を買えたら、いいんですけどね」
「んー、そうだな……。本は自分で欲しいものを選んで買ったほうがいいだろうしなぁ」
「それもありますけど……その、やっぱり本屋とお金がないのが……って、アベルさんにこんなこと言っても仕方ないですよね」
わざわざ貴重な本を寄付してくれているアベルの前で、これ以上は愚痴っても申し訳ないだけだろう。そう思ったのだが、アベルは「ふむ」と少し考えたあと、何かを閃いたように口を開いた。
「じゃあトリスタニアに行ってみるか?」
はい? と、アニエスはぽかんとした。トリスタニア――王都に行く……?
「明日から、トリスタニアへ向かう予定だからさ。ついでに、一緒に来てみるか? 好きなだけ本を選べるぜ。なぁに、金も気にしなくて構わんよ」
子供っぽい笑みを浮かべてアベルはそんなことを言う。
「え、でも……」
「一度も行ったことがないんだろう? いい社会勉強にはなると思うぜ。まあ、都合が悪いなら気にしなくてもいいが」
「えっと、今は村の仕事も忙しくないので、わたしの問題はないんですけど……」
というか、すごく行きたかった。トリスタニアといえば、トリステインで最大の都市だ。そこを訪れてみたくないわけがない。けれども、いつも世話になっているアベルに、そこまでしてもらうことにも気が引ける。
そのことをアベルに告げると、彼は意外なことを口にした。
「オレのことは気にするな。というより、こっちとしても来てくれたら嬉しいんだよな。――“アイツ”に成長したお前の姿を見せられるしな」
「アイツ?」
すぐに人物が思い当たらず、首を傾げる。
そんなアニエスを見て、アベルは笑いを浮かべた。
「アイツ――レティシアのことさ」
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09 微風の騎士(3)
朝、小鳥の斉唱にアニエスを目を覚まされた。
毛布を綿布でくるんだ簡易枕から頭を起こす。……髪にすごい寝癖がついている。慣れない寝床だったせいかもしれない。あとで直しておこう。
「よう、目が覚めたか」
アベルが荷物を探りながら言った。どうやらアニエスよりかなり先に起きたようで、彼の使っていた毛布や枕などはすでに片づけられていた。
「おはようございます、アベルさん。……寝癖、ひどいですか?」
「ああ、早めに直しておいたほうがいいぞ。……いっそのこと、髪を短くしたらどうだ? ばっさり肩口ぐらいまで切るとかさ」
「遠慮しておきます。気に入っているんですから、この髪」
腰までとはいかないまでも、アニエスの髪は背の中ほどくらいまでは長さがあった。ヴィットーリアから髪が綺麗だと褒められたのが理由で、かなり小さい頃から髪を伸ばしていたのだ。
「……そうか、そうだな。やっぱり、そっちのほうが似合うぜ」
どこか感慨深そうに呟くアベル。真正面から言われたものだから、なんとなく気恥ずかしくなって、アニエスは馬車から降りた。
朝日が眩しい。周りを見渡しても、街道から外れた草原なので、人の姿はどこにもない。聞こえるのは小鳥のさえずりだけだった。
「ほれ」
アベルが馬車の中から、桶を放り投げてきた。隣に転がってきたそれを、アニエスはしっかりと地面に置いた。アベルがルーンを唱える。コンデンセイション――周囲の空気などから水分を集める魔法だ。すぐに水の塊が宙に生成されて、ゆっくりと桶の中に入っていった。
桶に満たされた水を使って顔洗いと寝癖直しを終えたアニエスは、馬車の中に戻る。そこではアベルが、皿の上にパンと干し肉を置いて待っていた。
ちなみにこのパンと肉、保存する時はさっきの魔法を使って水分を抜いてカラカラにし、食べる時は逆に水分を戻して食べやすくしている。魔法ってすごく便利だ、とアニエスはここ数日で改めて思いなおしていた。
朝食後、各自用足しなどを済ませてから、馬車に乗り込み出発の準備をする。ちなみに御者はガーゴイルで、なんと車を引く馬もガーゴイル。しかも造形があまりにも緻密すぎて、本物との見分けはほとんどつかないレベルだった。これを作ったのもアベル自身らしい。なんというか、もう驚くのもバカらしくなるほどである。たぶん、やろうと思えばなんでもできるんじゃなかろうか、この人は。
「んー、今日の夕方くらいには着くか」
アベルは懐中時計を眺めながら、暇そうに呟いた。
ということは……あと半日もせずに、トリスタニアに着くわけだ。それほど日数もかからずあっさり来れただけに、なんだかあまり実感が湧かない。
「……レティシアさん、元気でしょうか?」
とくに話題がなかったので、そんなまとまりのないことを振ってみる。
アベルは「あー」と半笑いを浮かべながら口を開く。
「あいつは変わらねぇな。学院でずっと教育と研究ばっかりやっているよ」
「トリステイン魔法学院ですよね? やっぱり、すごい大貴族の子弟たちが学んでいるのかな」
「まあ、な。下級貴族は基本的に、軍学校や位の低い魔法学校に行くしかないからな。……そうだな、何年か前に学院に行った時の話でもしようか。その時、レティシアの教え子に風のトライアングルの生徒がいて……」
貴族の話なんてこれまでまったく縁のなかっただけに、アベルのしてくれた魔法学院や生徒たちの話はとても面白かった。それ以外に、学院で働く平民なども、自分とはまったく違った生活や考え方を持っているのが興味深い。同じ魔法の使えない平民であっても、農村や漁村などの地方で暮らしている平民と、都市部で労働して暮らしている平民とでは、まるで別物なのだ。働いて得たお金を好きなものに使えることが羨ましい反面、仕事や人間関係が大変そうだとも感じる。
そんなふうに、アベルの話を聞いて、色々なことを思ううちに――
「さて、見えてきたぜ」
空が赤くなりはじめた頃。
街道の向こうに、王都の街並みが姿を現した。
……いよいよ、到着である。こうやって目の前にすると、胸が高鳴りだす。我ながら田舎者だな、とアニエスは苦笑した。
それからなんの障害もなく、馬車は王都へ近づいていった。郊外の建屋が増えてくるなか、突然、アベルが立ち上がる。
「降りるぞ。準備しろ」
「え? ここでですか?」
「馬車の扱いが面倒だからな。徒歩で行ったほうが楽だ」
促され、あまり多くない荷物を持って馬車から降りる。アベルも積み荷を整理してから、大きめの背嚢を背負って地に足を付けた。
それから彼は指をぱちりと鳴らした。すると、御者は馬に命令して馬車を反転、向こうに去っていってしまった。
「……大丈夫なんですか、アレ?」
「護衛がいるから、メイジが集団でも来なきゃ問題ないだろう」
あれじゃ盗みに入り放題なんじゃないか、と思っていたら、まったく平静にアベルはそう言った。
そういえば、馬車の中には剣や槍などを持った人形が何体も置いてあったのを思い出した。アベルに聞いたら、あれは“
アニエスは、あの小さな人形が盗賊を薙ぎ倒す光景をイメージした。……シュールすぎである。まあ、アベルが大丈夫だと言うのなら大丈夫なのだろう。
それから三十分ほど歩いて、アニエスたちは王都内へ本格的に足を踏み入れた。
「うわぁ……」
「どうだ、トリスタニアは?」
「人も、建物も……段違いですね」
自分の村とは比べるまでもない。それどころか、道中に立ち寄ったいくつかの街と比べても、その規模は格が違いすぎた。
通りに面する建物、道を行く人々、それらの数はめまいがするほどに多い。おまけに建物の種類も人々の服飾も、田舎では見ることのできないほど多様で豊富だ。
本当に、見ているだけで楽しくなる。が、そういうわけにもいかないだろう。もう日が暮れているので、早く泊まる場所を確保しなくてはならない。
「アベルさんの知人って、どこに住んでいるんですか?」
「チクトンネ街――まあ、大通りからちょっと外れたところだな。ここからそう遠くはないところだ」
そう言って前を進むアベルについていく。
当初から、トリスタニアではアベルの知人の住まいにお邪魔する予定になっていた。その人物とアベルは仲も親しく、急遽、同行することになったアニエスも、気にせず受け入れてくれるだろうとアベルは言っていた。
「――ここだ」
十数分の徒歩を経て、ふとアベルが立ち止まった。彼の向いている建物のほうを見ると、そこは乾物屋のようだった。……その店の主人が、例の知人? 疑問を口にしてみると、否の言葉が返ってきた。どうやら、この建物の三階を間借りしているらしい。
とりあえず店に入る。いらっしゃい、と店主が言ってから、ようやく客がアベルだということに気づいたらしく、目を見開いた。
「おや、アベルさん……ずいぶんと久しぶりだね。彼女なら、ついさっき出かけちゃったよ。仕事場だろうね」
「あー……やっぱりか。仕方ないな。荷物だけ預かってもらっていいか?」
「ああ、構わんよ。置いといてくれ」
アベルは背嚢を、アニエスは手持ちの荷物を全て、店主に預けて外に出た。
どうやら例の人は、夜から酒場の給仕として働いているらしい。酒場の場所はわかっているとのことなので、そこまで歩いて行くことになった。
徐々に裏通り深くに入っていき、雑多で怪しげな店が増えていく。それはそれで面白くはあるので、いろいろと眺めながら歩いていると、すぐに辿りついたようだ。
『魅惑の妖精』亭。
それが、この酒場の店名のようだ。かなり人気のある店らしく、いま見ても人の出入りが激しいのがわかる。
「さぁ、入るぞ。……あまり驚くなよ?」
なぜか笑いながらそう付け加えて、アベルは店内へ。アニエスも慌てて、彼のあとを追った。
最初に感じたのは、店内の賑やかさだった。あれだけ客入りがあるのだから、騒がしいほどなのも当然だろう。
そして、すぐに気づく。客……ではない。料理を運んでいるから、あれは店の給仕だ。……あれが給仕? なんだか目眩がして、アニエスは頭に手を当てた。
「な、なんなんですか、これ……」
「見てのとおり、ただの酒場さ。ちっとばかし、給仕の服装が特殊だがな」
嘯くようにアベルは答えた。口振りからすると、アニエスの反応を見て楽しんでいるようだ。
はあ、とため息をついて、ふたたび給仕たちの姿を見てみる。全員が若い女の子で、しかも露出度の高い破廉恥な格好をしている。なるほど、道理で、人気があるわけである。
「あら? あら? あらあらあら~! アベルさまじゃないの!」
そんなことを思っていると、ぞわりと背筋が凍るような声色が聞こえてきた。そちらのほうを向くと……何か奇妙な生き物がいた。いや、頭がフリーズしていただけで、よくよく見てみるとそれは人間の中年男性のようだ。しかし、はだけた胸を上気させて興奮している姿は、なんというか気持ち悪いの一言に尽きる。
「久しぶりだな、スカロン」
「ホントね! もっといっぱい遊びに来てもいいのに……」
親しげに話すアベルと男性――スカロンの姿を見て、アニエスは衝撃を受けた。いったいアベルって、どんな交友関係を持っているんだろう……。
そんなふうに思っていると、店の奥から一人の女の子がやってきて、スカロンに話しかけた。
「店長、とりあえず席に案内しましょう? 周りのお客さんが引いてますから」
「あら、ごめんなさいね。あたくしったら、つい興奮しちゃって……」
スカロンは「またあとでね、アベルさま」とウィンクを残して去っていった。な……なんか寒気が。なんだったんだろうか、アレは。
とにかく、あのスカロンをなんとかしてくれた給仕の子には感謝したいくらいだ。その女の子はというと、アベルを見て、微笑を浮かべた。
「ご案内しますね。アベルさん」
「ああ、頼む」
やはりこの子とも知り合いなのだろうか。そんなことを思いながら、案内されたテーブル席にアベルと向かい合って着席する。
アベルに促され、メニューを開いて料理を決める。それから給仕に注文して、一段落ついたところで、アベルはゆっくりと口を開いた。
「さっきの娘――ダルシニが、オレの言っていた知人だ」
「……へ?」
予想外の言葉に、アニエスは呆けてしまった。
これまでのアベルの話を聞いたかぎりでは、その“知人”は何十年も前からの知り合いだったはずだ。しかし、あのダルシニという女性は、十代半ばにしか見えなかった。明らかに年齢が食い違う。
……いや、その矛盾はアベルに関係するかぎりで、矛盾ではないのかもしれない。彼だって、アニエスが小さな時からずっと外見が変わってないのだ。同じように、ダルシニという女性も、ああ見えてアニエスよりずっと年上なのかもしれない。
なんだかややこしいなぁ、と内心で思ったものの、それ以上は深くこだわらないことにした。いちいち気にしていたら、この規格外のメイジ――アベルには付いていけないのだから。
そんなふうに悟りの域に達しながらも、アニエスはアベルの雑多な話に耳を傾けることにした。
トリスタニアの地理や、面白い店、一度は見ておくべき観光ポイントなど。ほかにも、王宮についての与太話や、ダルシニやスカロンについても語ってくれた。
時間を忘れそうになりかけていたところで、ちょうど給仕が料理を運んできた。
「お待たせしました」
聞き覚えのある声。顔を上げると、やはりダルシニだった。彼女は料理とワインをテーブルに並べると、一度カウンターの奥へと戻り、しばらくして再度こちらのほうへやってきた。その手には、ワインのような赤い液体が注がれたグラスが握られている。
ダルシニはグラスをテーブルに置いてから、「お邪魔します」とアニエスの隣の空席に腰を下ろした。
「初めまして、ですね。ダルシニって言います」
「あ、はい。わたしはアニエスです」
初対面の相手に戸惑いながらも、自己紹介をする。ダルシニはくすりと笑うと、グラスに入った飲み物に口をつけた。……この中身、なんなのだろうか。赤い色をしているが、ワインとも少し違うようだ。
アニエスは疑問には思ったが、それを敢えて聞く気にもならず、アベルとダルシニの会話に黙って意識を集中させる。
「ま、予想はついているだろうが……。このアニエスがトリスタニアを出るまで、お前の部屋に泊まらせてやってくれないか?」
「うーん、それは構わないんですけど。でも、あの部屋で寝泊まりできるのって二人が限度ですよ?」
「オレは別のところに泊まるさ。そうだな……“
「……たしかに、そうですね」
ダルシニは苦笑を浮かべて頷いた。
アニエスは、あのインパクトの強い店長のアベルへの態度を思い出した。なるほど、あれならアベルが言えばなんでも配慮してくれそうな様子である。……自分だったら、あんまり頼りたくない相手だけど。
それからアベルとダルシニは、事務的な情報のやり取りを進めていった。中には、アニエスにはよくわからない会話もあったが、いちいち話の腰を折るのも悪いかな、と黙って鶏肉のソテーを口に入れていた。
しばらくして、大方の連絡が終わったのか、アベルは会話をアニエスのほうへ持ってきた。
「さて、長話を聞かせてすまなかったな。アニエス、お前のほうで何か聞きたいこととかはあるか?」
「え、あー……」
聞きたいこと、といきなり振られたものだから咄嗟に言葉が出ない。それでもアベルはこちらの言葉を待っているので、アニエスは少し考えてから、口を開いた。
「……本屋、ってどこら辺にあるんでしょうか?」
アベルが小さく噴きだした。……何も笑わなくてもいいじゃないか。アニエスは若干赤面してしまった。
「いや、すまんすまん。最初に本っていうのが、お前らしいと思ってさ。……そうだな。明日の朝、オレが案内してやるよ」
明日、という言葉に反応して、ダルシニが尋ねた。
「そういえば、レティシアさんがこっちに来るのって明日ですよね?」
「ああ、そうだぜ。昼過ぎに待ち合わせってことにしているから、まあ書店巡りはそれまでの間ってところだな」
「……レティシアさん、か」
久しく見ていない彼女の名前を呟く。
レティシアの姿を最後に見たのは、もう十年ほど前のことだった。アベルと連れだって村を訪れた彼女の顔は、相変わらず見惚れてしまうほど端麗だったことが印象に残っている。
……そういえば、レティシアの年齢はいくつだったのだろうか。アベルほどとはいかないまでも、やはり年齢とは不相応な若さを保っていた気がする。
もしかして、メイジってみんなあんな感じなんじゃ……と、勘違いしてしまいそうだ。実際は、そんなことは稀なんだろうけど。
「さて、と」
アベルとアニエスが皿の料理を平らげ(ダルシニは結局、ワインらしきものを飲んでいただけだった)、談笑もそこそこしたところで、アベルは立ち上がった。
「オレはスカロンと話してくる。お前らも帰りの支度をしておくといいぜ」
さすがに長旅だったから疲れただろ? アニエスに、そう言葉をかけるアベル。たしかに、ここ数日の日中はずっと馬車に揺られていたので、疲労はそれなりに蓄積していた。
先にアベルが店の奥へ去っていき、次いでダルシニも椅子から腰を上げた。
「わたしは着替えてきますね」
さすがにこの姿のままだと帰れないので、とダルシニはその魅惑的な服飾を指でつまんで苦笑した。……なるほど、こんな服装のままで夜の街を出歩いたら、たしかにいろいろとマズいわけである。
ダルシニも見送り、一人残されたアニエスは、改めて店内を見渡した。
給仕の女の子は相変わらず露出の高い服装をしているが、さすがに自分の目が慣れてきたのか、最初と比べたら抵抗感も薄れてきた。まあ、こういう趣向の店も、需要を考えたら“アリ”なのかもしれない。結局のところ、村にいた時の価値観だけではダメなのだ。どこか本を読むことにも似ている。新しい本を読むことによって知識を深めるのと同じように、見知らぬ文化を受け入れることにとって見識を深めることができるのだろう。何事も、頭ごなしに拒絶していては進歩しないのだ。
そうなことを思いながら、周りを眺めていると、アベルとダルシニが一緒に帰ってきたようだ。
最初に口を開いたのは、普段着に着替えたダルシニだった。彼女は柔和な笑みを浮かべて、アニエスに言った。
「準備がよろしければ、わたしの借り家に戻りましょうか」
「はい。……ああ、そういえば、アベルさんのほうは大丈夫でした?」
「おう、問題なかったぜ。申し出た瞬間にOKを出してもらえたよ」
アニエスの頭に、気色悪いほどの喜色を浮かべたスカロンの姿が思い浮かんだ。……こ、怖すぎる。
「あ、あはは、よかったですね。……ええと、それじゃあ――また明日に、ですね」
「ああ。明日は日の出の時刻になったらそっちを尋ねるから、よろしく頼む」
日の出……。それを聞いて思ったのは、ちゃんと起床できるかということだった。それなりに疲れが溜まっているだけに、ともすれば寝過ごしてしまうのではないか。
そんなアニエスの心配を見通してか、ダルシニが笑いながら言った。
「わたしが朝まで起きているから、心配いりませんよ。仕事上、いつもは夜中に働いて、日中は家で寝ていますから」
ああ、なるほど、と納得する。こういう酒場で働いているから、普通と違って昼夜が逆転する生活なのだろう。都市ならではだなあ、としみじみする。村では、そんなのは絶対にないことだ。
「じゃあ、店を出ましょうか」
にっこりと笑顔を浮かべて、ダルシニが言った。「はい」とアニエスは頷く。
最後に、アベルにもう一度別れの言葉を述べて、二人は『魅惑の妖精』亭をあとにした。
◇
「ダルシニさん」
ベッドに横になってから、アニエスはふと気になったことを尋ねた。
「……ダルシニさんって、アベルさんとどんな関係なんですか?」
その質問に、テーブルで魔法照明を点けて読書をしていたダルシニが、興味深そうにアニエスのほうを向く。
「あら、気になりますか? ――もし、恋仲だったら、どうします?」
「…………冗談ですよね?」
「ふふふ、冗談ですよ」
くすくすと笑うダルシニに、アニエスは呆れ気味の視線を向けた。
まあ……そりゃそうだろう。あの悠然かつ超然としたアベルと恋仲になれる女性がいたとしたら、それこそ驚愕である。少なくともアニエスには無理な話である。
「関係、か。そうね――」ダルシニはおもむろに口を開く。
「仲間、っていうのが、いちばんしっくりしますね。アベルさんはわたしたちを全力で助けてくれる。だから、わたしたちも彼を助けたいと思っている。まあ、そんな感じですね」
――わたし“たち”。
それは、ダルシニのような人間がほかにもいるということだろう。しかし、よく納得できることだった。アニエスだって、アベルには助けられ、それから何度も――いや今も、世話になっている。きっと、アニエス以外にもアベルに助けられている人は、たくさんいるのだろう。
あの人らしい、とアニエスは思った。
「……わたしも、何かできないのかな」
「あはは、気にしなくても大丈夫ですよ。アベルさんは好きでやっているだけなんですから」
それはわかっていた。だけど、助けられっぱなしというのも、それはそれでヤキモキしてくるものである。
――村に帰るまでに、少しでも役に立てることはないかな……。
そんなことを考えながら、アニエスは眠りについた。
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10 微風の騎士(4)
大通りに面した日当たりのよい喫茶店。その中の窓際テーブル席で、アニエスはアベルと向かい合って腰を下ろしていた。
アベルの隣の椅子には、中身がぱんぱんに詰まった革のバッグが置いてある。もちろん中身は――すべて本である。
「……しっかし、よく買ったなこれだけ」
「うっ……す、すみません」
アニエスはしゅんと小さくなってうなだれた。本屋を巡っているうちに、あれもこれも欲しいと言っていたら、いつの間にかバッグに入りきらないほどになっていたのだ。しかも、これだけ買ったのなら金額も相当なほどになったはずだ。興奮しすぎて見境をなくしていたことが、ひどく申し訳なかった。
「いやいや、いいさ。それにまあ、今日はこれが限度だが、なんなら明日も本の買い物に付き合うぜ?」
「ほ、ほんとうですか!?」
興奮して、がたりと椅子から腰が浮かぶ。直後、恥ずかしさが込み上げて赤面しながら着席する。
こほん、と一息ついてから、
「いや、その、これ以上は申し訳ないですし……」
「素直になれっつーの」
「…………あの、じゃあ……お願いします」
やはりというかなんというか、好物の誘惑には勝てないのであった。
そんな漫才のようなやり取りを終えて、しばしの歓談。そして五分ほど経ったところで――
「待たせたな」
――彼女が現れた。
美麗に整った顔立ちに、艶やかに流れる黒髪。見た目は20半ばの年齢といったところだが、滲み出る風格は老練のメイジをも凌駕するほどだ。
そして漆黒のマントを羽織り、剣拵えの杖を腰に提げたその凛然とした姿は、誰もが騎士を連想するだろう。
しかし実際は違う。彼女の職業は――教師だ。
レティシア。それが彼女の名前。
「いや、それほど待ってはいないさ。そうだな……彼女の隣に座るといいだろう」
「では、失礼しよう」
レティシアは優美な仕草で、アニエスの隣の席に座った。思わず、緊張して鼓動が早くなる。
「あ、あの……」
「久しぶりだな、アニエス」
微笑とともに、レティシアは優しい口調でそう言った。彼女との邂逅は数少ないが、それでもこのような態度は極めてめずらしいものだとわかる。
アニエスも、声が上擦り気味になりながら挨拶する。
「お久しぶりです、レティシアさん。10年振り、ですね」
10年。たしかに10年だ。しかし、彼女は明らかに歳の取り方が小さかった。この人も、やはり普通のメイジとは一線を隔しているというわけなのだろう。
そこまで考えて、あれ? とアニエスは疑問を抱いた。そういえば、レティシアがアニエスの姿を見て驚いた様子がない。アベルと一緒に来ていることを、事前に知っていたんだろうか?
その件について尋ねると、どうやらレティシアは先にダルシニのところに寄っていて、ある程度のことを聞いていたらしい。ならば、アベルと相席していたアニエスを見ても、すぐに誰かわかったのも当然だろう。
それでも、少し気になったので、アニエスは彼女に興味本位で聞いてみた。
「あの、レティシアさん。わたし……10年前と比べてどうですか? やっぱり、あまり変わっていないんでしょうか……?」
「いや――率直に言うと、驚いたな」
思いがけぬ返答に、アニエスは「驚いた?」と聞き返した。
「そうだ。“思い描いていた姿”と違っていてね」
いったい、どんな姿だと思われていたんだろう。気になって、さらに質問を重ねると、レティシアは少しの間、考え込むように目を閉ざした。
しばらくして、彼女はおもむろに口を開き、
「気分を害したら、すまない。私としては――もっと、精悍で中性的な外見を予想していた」
へ? と、アニエスはぽかんとした。……精悍で中性的? わたしが? 好奇心が強くて少々お転婆だ、と村で言われたことはあったが、“男らしい”というようなことを言われたことは今まで一度もなかった。
「……アベルさん、なんで笑っているんですか?」
向かいで腹を抱えてくつくつと笑っているアベルに、アニエスはじとりとした目線を送った。
「くはは、いや、なんだ。やっぱりなぁ、と思ってな。ま、気にするなよ」
やっぱり? それに、気にするなと言われたほうが気になる。……のだが、レティシアは肩をすくめるだけで、さらにアベルが「さて」と話題を変えようと切り出したので、これ以上は聞けなくなってしまった。
……あとで、アベルさんにまた聞いておこう。そう心に決めて、次の話に耳を傾ける。
「レティシア。アカデミーとの研究と調査は、どの程度まで進んでいる?」
「ある程度の風石の生成地域と埋蔵規模については、だいぶ調査が完了してきた。が、問題はその処理だな。採掘可能なところは採掘すればよいが、地下深いところで風石が生成されている場合は、なんとかして穴を掘って破壊していくしかあるまい。その方法にしても、現状では労力がかかりすぎであるし、人手が足りぬな。――
「言っても仕方ないさ。“担い手”に頼る方法だと、彼らに負担がかかりすぎるし、安定性にも欠けるからな」
それは百も承知だ、とレティシアが返す。
「このまま風石処理の技術が進まなければ、試算だとあと100年で隆起が始まる。まあ、実際は問題意識が高まるにつれて対策も進むだろうから、まだまだ猶予はあるがね。それまでに、風石の生成速度をこちらの処理速度が上回れるか、だ」
「オレの“村”でも、“系統”以外の方面からちっとは進めてはいるが……どうにもな」
はあ、とアベルはため息をつく。
「――やっぱ、“虚無”かねぇ」
「さっきと発言が違うではないか。本当にどうしようもない場合を除いて、別の方法の模索に尽力すべきだろう」
「……まあ、な」
アベルはお茶の入ったカップに口をつけると、腕組みをして考え込むように口を閉ざした。
レティシアも、そこでいったん会話を区切ると、給仕を呼んで自分の分の飲み物を注文する。
「……あの」
なんとなく、暗い雰囲気のまま無言が続くのがいやなので、発言してみる。
「風石とか隆起って、もしかして――“大隆起”のことですか?」
ハルケギニア大陸の大隆起。それについては、アニエスはいくつかの書籍から多少の知識を持っていた。
遡れば、今から300年ほど前、とある魔法研究者が膨大な資料と理論をもとに提唱したのが、この問題の始まりだった。風石の性質、ハルケギニアの地中深くに風石が生成されていることの証明、そして浮遊大陸アルビオンと風石の関係性。その研究者はこれらを論じて、知識人たちに大陸大隆起の危険性と現実性を知らしめた。それから大隆起に関して研究する人々は多くなり、実際に大量の風石が地中で発見されたことなどの経緯から、今では目下、各国が緊急に取り組むべき問題であると認知されている。
アベルは「そうだ」と頷いて続ける。
「オレとレティシアも、けっこう前からそれを調べていてな。とはいえ……あまり進展がないのが実状だ。まあ、まったく解決策がないってわけでもないんだが」
「その解決策じゃ、ダメなんですか?」
「うーん……その方法だと、ごくわずかの特殊な人間に頼らざるを得ないんだよな。おまけに、ハルケギニア全体で見たら風石の埋蔵量はかなり大きいから、下手をしたら“彼ら”を一生に渡って除去作業に従事させなきゃならなくなる。国からすれば少数の犠牲で国土を守れる最適な手法かもしれんが、“彼ら”を知っているオレやレティシアからしたら、正直なところ、そっちの方面には進みたくない」
そこで、アベルは困ったように頭を掻いた。
「今のところは、風石除去に特化したマジック・アイテムの開発ができればベストだな。たとえば、自分で地面を掘って風石を破壊する
「問題点はもう一つ。風石を破壊した時、風の力が一気に放出される。もし、それらの力が地中で大量に励起した場合、大隆起にはならないにしても、ある程度の地殻変動が起こる可能性を否定できぬ。ごく微量を徐々に破壊していけば問題はなかろうが、そうすると多大なコストと長期的な管理が求められる。……微妙なところだな」
アベルに続いて説明したレティシアは、つい先程に運ばれてきたお茶に口をつけた。
……なんというか、かなり専門的だ。重大な問題だとはわかっているが、あまり自分が口を出せる内容でもなさそうだ。
そんなアニエスの考えを見越したのか、アベルは苦笑して、
「ま、この話はあとでもできるさ。そうだな……レティシア、学院のほうはどうだ?」
「どう、と言われてもな。あまり変わらぬよ。コルベールくんは相変わらず研究熱心だし、ギトーくんも良き教師になりつつある。……ああ、忘れていた。“ヤツ”も変わっておらぬよ。相変わらず私の尻をなでようとして、肘鉄を食らっているな」
「……100年前から変わっていねぇな、あのジジイ」
呆れ顔でアベルは呟いた。……さらりと、すごいことを言ったような。
「100年前って――」
「ん、ああ。トリステイン魔法学院の学院長が、300年は生きているっつー話でな。たぶん、それぐらい前から変わっていないんだろうなってわけだ」
微笑を浮かべるアベルの様子は、「それで納得してくれ」というようだった。なんとなく察して、アニエスはそれ以上を聞かなかった。
それからは、大した内容もない世間話が続いた。頻繁に他国を旅で回っているアベルは、各国の情勢について語ったり、魔法学院で教師をしているレティシアは、入学している貴族や教えている科目について軽く触れたりした。アニエスも、自分の村が今も変わりないことや、家族やヴィットーリアについて取りとめもなく話した。
そんなこんなで、気づけばかなりの時間が経っていた。
「さて」とアベルは外の低くなってきた陽を確かめて、
「そろそろ、お開きにしようか。……で、このあと、お前はどうする?」
聞かれたレティシアは、すでにどうするか決めていたのか、すぐに答えた。
「アカデミーへ向かうつもりだ。エレオノールやヴァレリーとも久しぶりに会っておきたい。きみのほうは?」
「オレはヴィヴィーの家に寄っていく。彼女がよければ、食事にでも誘うつもりだ。んで、お前も来るか?」
「ふむ、そうだな。とくに急用でも入らなければ、私もお邪魔しよう。それで食事する店は――いつものところか」
「ああ。ダルシニも仕事でいるしな。そんじゃ、今から3時間後、『魅惑の妖精』亭で」
何やら聞き覚えのない人名がいくつか出てきたが、やはり彼らの知り合いらしい。さすがに根掘り葉掘り二人の知人について質問するのも悪いので、アニエスは黙って聞いていた。
それからレティシアとのあらかたの確認を終えて、アベルはアニエスのほうに顔を向けた。
「ってなわけで、オレもここで別れることになるが、ダルシニの借家までの帰り道はわかるか?」
「あ、はい。通りはだいたい覚えたので、迷わず戻れると思います」
「なら、大丈夫だな。まだ家にダルシニがいるだろうから、困ったり聞きたいことがあれば、彼女に尋ねるといい。夕食も、『魅惑の妖精』亭に行けば特別に出してもらえるよう頼んであるぜ」
その他もろもろ、アベルの細かい説明が終わると、三人は喫茶店を出た。日が沈みはじめていたが、それに伴って街灯も点きはじめたので、故郷の村のような暗さはない。ちなみに、全部が魔法の使われた照明である。本当に便利だ。
さて、道端で二、三言を話してから、それぞれは別れることになった。アベルは貴族たちが多く住む住宅街のほうへ、レティシアはアカデミーのある西のほうへ、そしてアニエスは――ダルシニのいる家へ。
トリスタニアの地図を隅まで覚えたというわけではないが、乾物屋までの道順はそこまで複雑ではない。なので、とくに不安もなく通りを歩いて――
「――――」
何か、いやな気配を感じて立ち止まる。なんだろう……だれかに、見られている? でも、なんでわたしが――そう思って、今朝アベルから忠告されたことを思い出す。トリスタニアは人が多いだけあって、雑踏に紛れて物取りをする輩がけっこういるらしい。とくに田舎者のアニエスなんて、盗っ人からすれば完全なるカモでしかないだろう。
所持しているのは少額とはいえ、アベルから貰ったお金だ。盗まれました、と言ってもアベルは気にしないだろうが、そんなことになったらこっちが恥ずかしくて仕方ない。絶対に盗まれないようにしよう――そう決心して、アニエスは用心しながら足を速めた。
それから十分後、幸いにして物取りに遭うこともなく、アニエスは帰宅することができた。建屋に出入りする際、家主である主人に挨拶をして、三階に上がる。ドアにはロックがかかっていなかったが、いちおうノックで中の人の返事を聞いてから、アニエスは部屋に入った。
「おかえりなさい」
小さめのバッグに荷物を入れていたダルシニが、アニエスを見て「あら?」と首を傾げた。
「アベルさんは?」
「知人のところを訪ねると言ってましたよ。ええと……たしか、ヴィヴィーさんだったかな」
「ああ、ヴィヴィアンさんですね」
その名前に反応して、ダルシニは笑顔を浮かべた。ヴィヴィー、というのはやはり愛称で、名前はヴィヴィアンらしい。それにしても、その人とはどういう関係なんだろう?
ちょっと気になって訪ねてみると、ダルシニはどう答えたらいいのかと困り顔になった。
「うーん、なんと言えばいいんでしょうか? 私にとっては、かなり前からお世話になっている方なんですけど……恩人? みたいな?」
いや、そんな疑問形で返されても。
などと思いながらも、詳しく話を聞いてみると、どうやらアベル、ダルシニ、レティシア、そしてヴィヴィアンは、それぞれ“かなり前”にあった出来事からの知り合いらしい。……“かなり前って”、何年前? と具体的に聞いてはいけない気がしたので、あえてアニエスは尋ねなかった。
与太話もそこそこに、今度はダルシニがアニエスに尋ねた。
「そういえば、アニエスさんはこれからどうしますか? わたしはお仕事で『魅惑の妖精』亭に行くんですけど……」
言われて、アニエスはどうしようかと困った。夕食を取るつもりなら、今からダルシニと一緒に行けばいい。けど、その後は? 先に帰宅してからは、とくにすることがない。強いて挙げるとするならば、買ったばかりの本を読むくらいだろうか。……でも、せっかくトリスタニアに来てするのが読書というのも、アレな気がする。
そんなふうに悩むアニエスの様子を見て、ふとダルシニが天啓得たりというかのように、ぽんと手を叩いた。
「そうだ! それじゃあ、お店で体験勤務でもしてみませんか?」
「へ?」
「大きな街ならではの仕事ですから、きっといい経験になりますよ! それに働いた分は、すぐにお金にして渡してもらえるよう店長に言いますし!」
「はい?」
「というわけで、一緒に行きましょう」
「あの――」
って、よくわからないうちに腕がっちり掴まれているし!?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください! お仕事って……“アレ”ですよね!?」
アレ。そう、アレである。飲食店の仕事なら皿洗いもあるだろうが、ダルシニが言っているのは間違いなく“アレ”のことだろう。
アニエスは、自分があのきわどい衣装をまとって男性たちに接客するのを想像した。
……ない! 絶対にない! 無理だって!
いやよいやよとわめくアニエスに向かって、ダルシニはにっこりと満面の笑みで言った。
「働いて貰ったお金で、好きな本を買えますよ?」
……アベルのお金で大量に本を買ってもらっていただけに、その言葉でアニエスの拒否権は一瞬で消え失せた。
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11 微風の騎士(5)
「トレビアン!」
「…………」
奇妙な声色の叫びとともに腰を振る、中年オカマのスカロン店長。そんな彼の言動は見るに堪えがたいが、それ以上にアニエスは自分の姿が直視できなかった。
目の前の鏡には、アニエスの全身が映っている。胸元が大きくはだけたキャミソールに、太ももが大きく露出したフリルのスカート。どちらもアニエスの長い金髪に合わせて、穏やかで温かみのある黄色を基調とした衣装だった。……いや、衣装? 下着って言ったほうが正しいんじゃないの?
そんなふうに突っ込みたかったが、ほかの女の子たちがもっと過激な姿なのを見ると、マシな部類なのだろう。いまさら逃げ出すわけにもいかないので、諦めてやるしかないのだ。がんばれ、アニエス! と自分で自分を応援した。
「アニエスちゃん、よろしくね! 元気に働いてらっしゃいな!」
「……………………はい」
スタート地点からどん底の暗さであった。しかし、やらねばならぬのである。すべては本のためである。
厨房の控え室から出ると、そこで待っていたダルシニがいた。彼女は、店の給仕である“妖精”となったアニエスの姿を見て、「まあ」と楽しそうな声を上げた。
「すごくかわいいですよ! 思わずお持ち帰りしたくなるくらいに……うふふ」
「……あの、ダルシニさん?」
アニエスは戦慄した。なんだかヤバい雰囲気が、ダルシニから感じられる。っていうか、なんで頬を赤くしているの!?
いろんな意味で身体の危機を感じて、アニエスは「じゃ、じゃあ注文を聞いてきます!」と急いで表の店内に脱出した。
――が、そこに待っていたのは本当の苦難であった。
とりあえず、お客さんの食べ終わった食器でも回収しようかと考え、店内を見渡す。そうしているうちに、近くのテーブルにいた男性客がアニエスに声をかけた。
「きみ、いいかい?」
「は、はい」
内心であたふたとしながらも、なんとか平静を保ってテーブルへ向かう。男性客はマントを羽織っているから、貴族なのだろう。しかし、アニエスは王都の事情には詳しくないため、貴族といっても相手がどれほどの身分なのかも判断がつかなかった。
迂闊に機嫌を損ねるとまずいな、と思いつつも、なんとか注文をメモすることができた。そして厨房へ戻ろうとしたのだが、直前で男性客に呼び止められた。
「ちょっと待ってくれ。見ない顔だが、新入りかい?」
「えーと、まあ、そんなところです」
早く行かせてくれ、と本心をぶっちゃけるわけにもいかず、曖昧に答える。しかし、男性客はアニエスに興味を持ったのか、なおも話しかけてくる。
「いつからこの店に?」
「……今日からです」
「なに! ということは、ちょうどきみの初日に来店できた僕は運がいいようだね! ところで……きみは、どこら辺に住んでいるんだい?」
アングル地方の村です、と答えるのもどうかと思ったので、とりあえずダルシニの住んでいる借家を答えた。
「ほう、なんだ近くじゃないか! フフフ、どうやら僕たちは気が合いそうだね」
たかだか家が近いだけで何言ってんだコイツ、と本音を叫びたくなった衝動を抑え、アニエスは適当に頷きながら「そ、そろそろ注文を届けに行きますね」と苦笑して、逃げるように厨房のほうへ戻った。
「き、きつい……」
どんよりとした顔色でしゃがみこむ。たかだか1人の注文を取るだけでこれであった。
そんなアニエスに、皿洗いをしていた12歳ほどの少女が声をかける。
「あのー、大丈夫ですか?」
アニエスは顔を上げた。ハルケギニアではあまり馴染みのない深い黒の髪と瞳を持った、かわいらしい少女が、心配そうにしている。
スカロンの愛娘、ジェシカだった。最初にこの子とスカロンが親子だと言われた時、アニエスは「子は親に似る」という言葉が嘘であると確信したのは余談である。
アニエスは深呼吸して、立ち上がった。
「うん……。まだ、がんばれるよ」
「いや、アニエスさんのことじゃなくて、お客さんの注文のことなんですけど」
そっちかよ! と突っ込みたくなったのを抑えて、アニエスは「……いまから行きます」と厨房の料理人に注文を伝えて、また接客に戻ることになった。
それからおよそ一時間ほど経ち、仕事にも慣れてきて、かつ胃もきりきりと痛みだしたころ、ようやく見知った顔の客が来店した。
彼は初老の女性を隣に連れ立って、ぐるりと店内を見回していたが、すぐにアニエスの姿に気づいて歩き寄ってくる。
普段ならば絶対に着ないような服装のアニエスを見て、彼――アベルはくつくつと笑いながら、
「似合っているぜ、アニエス」
「……それは、どうも」
溜息をつきながら、空席に案内する。二人が着席したところで、アベルが先に口を開いた。
「紹介するよ。オレの友人の、ヴィヴィアンだ」
女性――ヴィヴィアンはにっこりと笑みを浮かべて名乗った。
「ヴィヴィアン・ド・ジェーヴルよ。あなたのことは、道中でアベルから聞いたわ。よろしくね」
「は、はい。よろしくお願いします」
その気品を感じさせる仕草と声色に、緊張して思わず震え気味な声で返答する。
アベルの知人とはいえ、この女性も貴族なのだろう。失礼のないように気をつけないと、と改めて意識する。
「では……ご注文が決まったら、また呼んでください」
一礼して、踵を返す。「がんばれよー」と茶化し気味なアベルの声が後ろから聞こえた。こ、こっちの苦労も知らないで……。
といっても、散々世話になっている恩人相手に強く出られるわけもないので、がっくりと肩を落としながら仕事に戻るアニエスであった。
――と、その時。
「なあ、嬢ちゃん」
一人の男性客に呼び止められ、アニエスはそちらのほうを向いた。
「酒を頼む。ついでに……酌もな」
そう言ったのは、30代後半と思しき男だった。体はかなり鍛え抜かれており、軍人か傭兵といった風体だ。その男から妙に剣呑な威圧感を覚えて、アニエスは少しびくつきながら注文を承った。
そして酒を届けて、男の持つグラスに注ぐ時も、やはり心中は落ち着かなかった。
男は目を細めて、アニエスを見つめている。だが、それは決して好色の視線ではない。まるで、獲物を見抜く猛獣のような……。
――考えすぎだ。
アニエスは余計な思考を自制した。この男が傭兵の類であったのならば、そういう鋭い視線が平常のものとなっているのかもしれない。だいたい、なぜ先日ここに来たばかりの自分が睨まれなければならないのだろうか。
酒を注ぎおえて、アニエスは軽くお辞儀をした。
「……それでは、わたしはこれで」
「ああ、ありがとよ」
にぃ、と男は笑った。蛇のように冷たい笑いだった。
何か背筋に冷たいものを感じて、アニエスは逃げるように立ち去った。
◇
レティシアが店にやってきたのは、そのすぐ後のことだった。料理の注文を承りにきたアニエスを見て、彼女は一瞬だけ驚いたような顔をして、
「……似合っているな、アニエス」
微笑とともに、そんなことを言った。なまじアベルと違ってからかいの色がなかっただけに、どう反応すればよいのかと困ったくらいだった。当のアベルはというと、そんな二人のやり取りを見て、相変わらず小さく笑っていたが。
その後、いったん給仕の仕事を休憩して、アニエスもアベルたちと一緒に食事を取ることになった。ちなみに、これはダルシニに「アベルたちと食べてきたらいかがですか?」と言われたことによるものだった。そして「仕事を中断しても大丈夫なのですか?」と聞いたら、「いいんじゃないですか?」と適当にしか思えない言葉を返された。さすがに不安になってスカロン店長にも聞いたら、「アベルさまのお友達なんでしょ? 行ってらっしゃいな!」と快く許可されてしまった。
どうやらアニエスひとりが抜けたところで人手に困るということではないらしい。だったら、あんな恥ずかしいことよりも皿洗いをさせてくれればよかったのに、と内心で愚痴りながらも、アニエスは自分の分の料理を携えてアベルたちのテーブル席に向かった。
目当てのテーブルでは、アベルとレティシア、そして二人の知人であるヴィヴィアンが、食事をしながら談笑していた。その中で、やってきたアニエスへと先に声をかけたのはアベルだった。
「お、来たか。仕事はいいのか?」
「……いちおうは」
そう受け答えながら、空いているアベルの隣席に腰を下ろす。真向かいにはレティシアが、斜向かいにはヴィヴィアンが座っている。
アニエスは改めてヴィヴィアンの姿を見据えた。年齢は50代の半ばくらいだろうか。その黒髪には白髪が混じっているものの、まだ艶やかさも感じさせる。眼鏡の奥の碧眼は、理知と穏健の両方が宿っているように見える。
ふと、ヴィヴィアンと目が合った。アニエスは慌てて頭を下げた。
「えっと……お邪魔させていただきます、ジェーヴルさん」
「歓迎するわ、アニエス。それと……わたしのことは、ヴィヴィーでいいわよ」
「へ? い、いや、そんな、貴族の方に――」
「アベルとも親しいあなたとの関係に、貴賎は必要ないわ」
まさか貴族の人間にそこまで言われるとは思っていなかったので、驚きが大きかった。だが……よくよく考えたら、今まで何気なく話をしていたレティシアだって貴族の一員なのだ。この場でヴィヴィアンにだけ余所余所しくするのも、かえって失礼なのではないだろうか。それに、本人もこう言っているのだ。
「それでは……ヴィヴィーさん、よろしくお願いします」
「ええ、楽しく食事をしましょう」
にっこりと笑った彼女につられて、アニエスも笑みを浮かべた。
それからは、皆でゆるりと談話しながらの食事となった。その話題はといえば、ヴィヴィアンがあまり知らないアニエス自身のことや、逆にアニエスの知らないアベルたちの昔話のことだった。
アベル、レティシア、ヴィヴィアン、そしてダルシニやその双子の妹のアミアス、そして魔法衛士隊の騎士たち……。かつて王都を騒がせたエスターシュ大公の謀反の事件は、そうした多くの人物が関わり合って解決されたらしい。ところどころで話に“ぼかし”もあったが、たぶんアニエスといえども知られるとまずいことなのだろう。だから、あえて深くつっこむことはしなかった。
それでも、聞かされた話はとんでもなく大きな出来事で、まるで――フィクションの物語のようだった。さながら、アベルやレティシアは
「おっと、もうこんな時間か」
皿から料理もなくなり、話もきりよく終わったところで、アベルがそう声を上げた。
「店も混んできたし、今日はこの辺にしておこうか。……アニエス、お前はどうする?」
アベルに聞かれて、アニエスは少し考えてから答えた。
「そうですね……。わたしは、もう少しお店で仕事をします」
なんだかんだで、こうして料理を提供してくれたりと便宜を図ってくれているのはスカロン店長だ。恩返し、というほど大層なものではないにしても、多少の手伝いくらいはしたいと思っていた。
「ん、そうか。なら、オレはヴィヴィーを屋敷まで送ってくる。レティシア、お前は?」
「私は自分の宿に戻る。もし何か用事があれば、『銀の酒樽』亭を訪ねたまえ」
「了解。じゃ、これで解散だな」
そうして、それぞれは別れることになった。簡単な挨拶とともに、三人が店を出るのを見送ってから、アニエスはまた仕事に戻ることになった。
それから、数時間して……。
「つか……れた……」
本日の労働を終えて、アニエスは店員の控え室で死にそうになっていた。やたらと口説いてくる男や、体に触ろうとする男に対応するのに、ひどく精神的に疲労したのだ。たしかにチップはいくらか貰えたものの、アニエスにとってはまったく割に合わない内容としか言いようがなかった。
「初日でこんなにチップを貰えるなんて、すごいじゃないですか! この調子でいけば、すぐに本もいっぱい買えますよ!」
ニコニコと笑いながらそう言うダルシニがどこか怖い。というか、本の件を出されると断れないのをわかっていて言っているんじゃなかろうか。
おそるおそる、アニエスは顔を青くしながら尋ねた。
「あの……つかぬことを伺いますが、この仕事って、明日も――」
「もちろん、しますよね?」
有無を言わせぬ満面の笑みだった。……まるで鬼のようだ、とアニエスは絶望した。
「ふふ、今日みたいに勤務時間は少なくしてくれるように店長に言っておきますから、大丈夫ですよ」
「……はあ、わかりましたよ」
諦めのため息とともに、アニエスは頷いた。
トリスタニアに滞在するのは、どうせ一週間程度の予定だ。それくらいの期間なら、がんばればリタイアせずになんとかこなせるだろう。それに……自分で稼いだお金で本を買いたいというのも、たしかにある気持ちだった。
ダルシニは、相変わらず嬉しそうな顔をしながら言った。
「今日は疲れたでしょうから、先に帰っていてください。明日のことは、またあとで話しますので」
「ダルシニさんは?」
「わたしは、もうちょっとお店に残って仕事をします。でも、そんなに時間はかかりませんので、心配しないでください」
そう言って、ダルシニは借家のカギをアニエスに手渡した。
どうしようかと一瞬だけ迷ったが、ダルシニがこう言っているし、それに疲れているのも間違いではなかったので、アニエスはその言葉に従うことにした。
「ありがとうございます。それじゃあ、お先に失礼します」
ダルシニに礼を述べて、アニエスは帰路につくことにした。
――店を出て気づいたのは、思った以上の寒さだったということだ。
風邪を引いたらいけないし、早く帰ろう。そう心中で呟いて、チクトンネ街の通りを進む。
「なあ、あんた」
ふいに、声をかけられた。
振り向くと、どこかで見たことのある人物がいた。この男は、確か……。
アニエスが思い起こすよりも早く、男は思いもよらないことを言い放った。
「あんたの知り合いがいただろう? そいつのことで、少し話がある。なに、すぐに終わるさ。ついてきてくれないか?」
「……話、ですか?」
「ああ、そうさ。他人に聞かれると、まずい内容でな。……ついてこい」
アニエスの返事も聞かずに、男はすたすたと裏通りへと続く道に入っていってしまった。
……どうしよう。
アニエスは困惑した。
見知らぬ相手だったが、あの男はアニエスの知り合い――おそらく、アベルたちのことについて、話したいことがあるらしい。
男はというと、二の足を踏むアニエスには目もくれずに歩いている。このままだと、見失ってしまうだろう。
話とはなんなのだろうか? 男は、他人に聞かれるとまずい内容だと言っていた。そんなことを、ここで聞き逃してしまっても大丈夫なのだろうか?
急に不安を込み上げてきて、アニエスは思わず男のあとを追ってしまった。
人影のない、狭い路地。
そこで、男は待ち構えていた。
――杖を手にして。
目前の光景に、怖気で背筋が凍りそうになる。
アニエスが状況を理解するのと、男が口を開くのはほぼ同時だった。
「間抜けで助かったよ」
冷笑を浮かべて、男は杖を振った。
逃げなければ!
反射的に踵を返した直後、視界が霧のようなものに包まれて、強烈な眠気に襲われた。
「う、あ……」
地面に倒れ伏す。男がこちらに歩み寄る音がする。いったい、何をするつもりなのだろうか。激しい恐怖を抱いたが、それもすぐに睡魔に呑まれていく。
ふと、怒鳴り声が聞こえた。かろうじてそちらに目を向けると、ぼやけた視界に銀色の髪が映った。
怒声を上げたその銀髪の人影に、男は杖を振った。
アニエスが意識の最期に耳にしたのは、何かが爆ぜるような音と、少女の悲鳴だった。
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12 微風の騎士(6)
騎士に憧れていた。
だから家を飛び出して、都へ向かったのだ。
あの『烈風』のようになろうと。
しかし、それはあまりにも愚かな幻想だったのかもしれない。
王都――トリスタニアには着けた。それはいい。
だが、それからどうすればいいのか、まるでわからなかった。魔法衛士隊を訪ねようにも、門前払いを食らった。酒場で騎士と思しき者に話してみても、嗤われるだけだった。
『――女が騎士だとよ!』
そう言われた時は、危うく杖を引き抜きそうになってしまった。
だが、男の反応もそれほど不自然ではないのも確かだ。魔法衛士隊の女人禁制が解かれたのはつい最近だし、今でも女騎士の数が少ないのは事実。
だが……伝説として語り継がれている、二人の騎士はどちらも女性だった。
『烈風』のカリーヌ。
『微風』のイヴェット。
もっぱら有名なのは、『烈風』のほうだろう。カリーヌについての武勇伝は数多い。イヴェットも素晴らしい力量の騎士だったらしいが、不思議なことに具体的な活躍については聞かない。
だから、好きなのは『烈風』のほうだった。その強烈な風で敵を吹き飛ばした逸話の数々を聞いて、そんな風の使い手になりたいと思った。
だけど、なりたいと思っただけで、なれるとは限らないのだ。
……実家から持ち出した金は底をついた。
これから、どうして生きていけばよいのだろうか。
自分が持っているのは、魔法の力だけ。
しかし、この力を使えば金を稼げるのは知っている。
たとえば、そう。
スリをしたり、強盗をしたり――
――そんな、くだらない迷い事を思い浮かべた時だった。
傭兵のような風体の男が、何か女性に話しかけていた。すぐに、男は裏道に入っていく。女性は逡巡したのち、慌ててそのあとを追っていった。
いやな予感がした。同時に、くたびれた自分の足が勝手に動いていた。まだ残っていた理性と良心が、そうさせたのかもしれない。
二人に見つからぬよう、一つ隣の路地を辿ってこっそり二人をつける。
そして、目にした。男が、“眠りの雲”の魔法を女性にかけるのを。
「何をしている!」
反射的に叫び、杖を抜く。
本来ならば、その時点で即座に攻撃魔法の一つや二つを浴びせておくべきだったのだろう。
だが、お遊びのような“騎士試合”しかしたことのないような自分には、そんな判断ができなかったのだ。
男はこちらに気づくと、ためらいもなく“炎球”を放った。あまりにも、ごく自然な動作。そこには、人を傷つけることに対する忌避は欠片もなかった。
「あ……」
このままだと、死ぬ。
恐怖に駆られて、精一杯に放った魔法は、“ウィンド”だった。ただ風を吹かすだけの魔法だ。
きっと、あの『烈風』であったのなら、この程度の炎球など“ウィンド”で吹き飛ばすことができたのだろう。
だが、ここにいるのは、まるで力のない、騎士にすらなれない小娘なのだ。
――微弱な風が、炎球に当たる。
その瞬間、炎球が爆発した。爆風で吹き飛ばされ、地面に頭を強く打つ。
何かを考える間もなく、意識は闇へと落ちていった。
◇
「起きたか」
彼女が目を覚まして、すぐに耳にしたのはその言葉だった。
ここは……どこかの個室だろうか?
自分はいま、ベッドに寝ている。そして、視界の端っこ、すぐ近くで男が腕組みをしてイスに座っている。
男の顔のほうに、目を向ける。
――ぶるり、と体が震えそうになった。
下手をしていたら、小さく悲鳴を上げていたかもしれない。それほどまでに、男の顔には異常があった。
それは……眼だ。眼が紅い。何かの病気とも思えるほどに、ひどく充血していた。そして同時に、覚醒した意識がもっと大きな異常に気づかせる。それは、男の身からは滲み出る魔力だった。怖気を催すような強大な魔力が、その身から発せられているのだ。
だが――徐々に状況を把握してきた脳が、そんな思考をやめさせる。常識的に考えて、この男性が自分を助けてくれたのだろう。こんなふうに怖がるのは、あまりに失礼というものだ。
落ち着いて、改めて男の顔を確認する。歳は……二十くらいだろうか。栗毛の下の顔は、「さて、どうしたものか」というような困った表情をしている。その血走った眼と、威圧されるほどの魔力さえ除けば、ただの人のよさそうな青年である。
しかし……困っているのは、こっちも同じだ。いったい、どうなっているのだろうか。具体的なことは何もわかっていなかった。
気まずい沈黙が続くなか、男は観念したように口を開く。
「何から話すべきかと考えていたんだが、むずかしいな。……とりあえず、きみの名前は?」
「あたしの名前……」
「おいおい、忘れたとか言うなよ?」
首を振る。自分の名前を忘れるわけがない。
だが……トリスタニアに来てからは、偽名を名乗っていたのだ。この場合は、そちらを述べるべきなのだろう。
「……カリーヌ。それが、あたしの名前」
――言ってから、カリーヌは心中で自嘲した。
『烈風』に憧れてその名前を使っていたくせに、実際は犯罪者に魔法一つで昏倒させられたのだ。これで騎士を目指しているなど、恥ずかしくて言えたものではないだろう。
「カリーヌ、ね」
その名前に、男はとくに言及しなかった。まあ、ありふれた名前ではある。そこにあえて突っ込むようなことは、普通はしないだろう。
「オレはアベルだ。で、昨夜は何があったんだ? きみが倒れていたのを見つけて、知人の宿――この『魅惑の妖精』亭に運んできたんだが」
なるほど、あのあと犯罪者の男は、気絶したカリーヌを放置していったらしい。あくまで目当ては眠らせた女性のほうで、わざわざトドメを刺す必要もなかったのだろう。そのおかげで命が無事だったわけだが、明らかに自分が軽視されていたということに、カリーヌは腹が立った。
「……女の人が、男に襲われていました。それを助けようとして……」
「逆にやられたってわけか。で、その女の人っていうのは、長い金髪の娘だったか?」
「そうです。……知り合い、ですか?」
「まあな」
アベルは肩をすくめた。知人がさらわれたというのに、あまり動揺は見られない。どうしてなのだろうか?
カリーヌの疑問を余所に、アベルは次の質問をしてくる。
「傷の痛みとかはないか?」
「え? 傷?」
アベルが何を言っているのかわからず、カリーヌは怪訝な顔をした。
傷、といっても。痛みひとつ感じない。……痛みひとつ感じない?
いや、待て。あんな至近距離で炎球の爆発を食らったのだ。多少は傷がなければ、おかしいのではないか?
カリーヌは後頭部を擦った。あれだけ強打したというのに、たんこぶ一つできていない。偶然では説明できない不自然さだった。
どういうことだ、と呆然としているカリーヌに、アベルが説明する。
「いや、オレが見つけた時に、けっこうな怪我をしていたからさ。ここに連れてきて、ついさっきまで治療をしていたんだ」
「治療……ということは、水メイジの方ですか?」
「いや、本職は“土”だ。それ以外の系統も、それなりに使えるがな」
そう言いながら、アベルは近くのテーブルの上に置いてあった手鏡を手に取り、カリーヌに渡した。
「元の顔と変わっていないか確認しておきな」
「元の顔……って!?」
物騒な物言いに、カリーヌは慌てて鏡を見た。
……安心した。慣れ親しんだ銀髪はそのままだし、顔の形も変わっていない。というか……むしろ、肌がきれいになっているような気さえしてくる。今年で十七歳になるはずだが、ほっぺに触れてみると年不相応に柔らかい。ど、どういうことなのだろうか……。
「火傷が目立ったからな。ま、ちゃんと治せたのなら安心だ。“栄養剤”を飲んでがんばった甲斐があったぜ」
にぃ、と悪戯げな笑みを浮かべて、アベルはそう言った。
そうとう大きかったであろう負傷を、半日足らずで完全に治癒させる……。この人、本当に水メイジではないのだろうか? それに栄養剤って?
いろいろと疑問が湧き出たが、それらを口にする前に、新たな人物が部屋に入ってきた。
「あ、起きたんですね」
カリーヌとそう変わらない年齢の女性だった。肩口辺りで切り揃えられた黒髪と、豊満な胸が特徴的だ。
彼女は「初めまして。わたしはダルシニです」と笑顔を浮かべながら自己紹介をした。カリーヌも、ダルシニに自分の名前と世話になった礼を述べた。
それが終わった頃合いを見計らって、アベルはダルシニに話を切り出した。
「ダルシニ、あれからほかに、わかったことは?」
「あまりないですね。まあ、アニエスさんが人攫いに遭ったことは、確実でしょうけど」
「トリスタニア南西部の郊外は、すでに“人形”がすべて調べ終えたがハズレだ。あとは北東部を虱潰しに探させるとしよう」
「あの、すみません」
どうにも合点がいかず、カリーヌは部外者ながらも話に割って入った。
「アニエスさん、というのは、さっきアベルさんが言っていた知り合いの方ですよね?」
知人が攫われたというわりには、この二人には焦燥がほとんど見えなかった。まるで、すべてが大事に至らないと確信しているかのようだ。
カリーヌの問いに、アベルが答える。
「ああ、そうだ。二日前あたりから連続して人攫いが起こっているようだが、おそらく、犯罪に手を染めたどこぞの傭兵団の仕業だろうな。アニエスが襲われたのも、そいつらによるものと考えられる」
「でも、それでは……トリスタニアから逃げられたら、足取りが掴めなくなってしまうのでは? 人攫いの現場を取り逃がしてしまった、あたしが言うのもなんですが、悠長にしている場合ではないと思いますけど」
「ん、逃げられるってことはないから大丈夫だ。トリスタニアからの街道には、一昨日からすべての箇所に“見張り”がいるんでな。そいつらからの反応がないってことは、まだトリスタニア付近にいるってことだ」
――見張り? まさか、衛兵か何かが動員されていたのだろうか? いや……それも、おかしな話だ。二日前と言ったが、街の衛兵の様子には少しも慌ただしさがなかったように思える。それに、アベルの口振りからすると、まるで“使い魔”のような何かが動いているように聞こえる。
カリーヌがさらなる問いかけを行なおうとした時、ふたたび部屋のドアが開かれた。
この部屋に現れた、四人目の人間とは――
「アベルさまぁっ! とんでもない手紙がウチに来たわよっ!」
――いや、これは人間ではないのかもしれない。むしろ新種の亜人と言ってもよろしいのではないのだろうか。体を女々しくくねらせて、女言葉で叫ぶ中年男性の姿は、カリーヌにとって奇天烈極まりなかった。
「スカロン、手紙とは?」
アベルは冷静に尋ねた。このオカマの名前はスカロンと言うようだ。アベルもダルシニも、この人物と知り合いなのか、とくに驚いた様子もない。
「コレよ……。読めばわかると思うわ」
アベルは、四つ折りにされただけの紙片を受け取った。その文面をさっと確認しおえると、紙をダルシニに渡して、スカロンへと口を開いた。
「この手紙はどこから?」
「10分くらい前に、お店の妖精さんが傭兵のような男から『店長に渡せ』と言われて、受け取ったみたいよ」
「なるほどね」
その会話の間に、ダルシニも文章を読み終えたらしい。今度は「読んでみますか?」とカリーヌのほうへ紙を差し出した。
カリーヌは頷きながら、その紙を手に取った。丁寧な文字ではないが、内容はしっかりと読み取ることができる。そこには、こう書いてあった。
『お前の店の給仕……長い金髪の娘は、オレが攫った。
娘を返してほしければ、昨夜、この店に来ていた黒髪の女騎士を連れてこい。
オレに、そいつと決闘をさせろ。そうすれば、娘は無事に返してやろう。』
手紙の最後には、時刻と場所の詳細が書かれていた。それによると、昼過ぎ、トリスタニア東のほうにある森の中で、差出人は待っているとのことだ。
「罠ですよ、これ」
手紙を返しながら、カリーヌは断言した。条件を呑めば、攫った人間を無事に返してやる――そんな犯罪者の言葉、どう考えたってウソに決まっている。
ところが、そんなカリーヌの指摘に反して、アベルは「いや、どうかな」と目を細めて腕組みをしていた。
「“アイツ”を指定して、決闘を希望すると言っているんだ。普通の人攫いだったら、わざわざ騎士と思われる人物を誘き寄せたりするはずがない。それに……ちょっと、思い当たるところもあるんでな」
「思い当たるところ?」
ダルシニが首を傾げて、聞き返した。アベルは、壁時計の時刻を確認しながら頷いた。
「ああ。まぁ、それに関しては、本人に話を伺うのが一番だけどな。アイツは……魔法衛士隊のところから、そろそろ戻るころか」
思わず、カリーヌはぴくりと反応してしまった。「魔法衛士隊」という言葉を聞いたからだ。ということは――その“黒髪の女騎士”とやらは、魔法衛士隊に所属しているのだろうか。
そう考えたら、確認せずにはいられなかった。カリーヌは興奮気味に、アベルへと質問を口にした。すると、彼は笑って、
「現役じゃなくて、元隊員だけどな。いまは、アイツは教師をしている。まあそれでも、衛士隊にはよく顔を出しているようだがな」
まさか、こんなところでチャンスが巡ってくるとは。カリーヌは胸のうちで歓喜した。元とはいえ、魔法衛士隊の騎士……それも女性ということは、有益な話を聞ける可能性が高い。騎士を目指す身としては、ぜひとも会っておきたかった。
「――騎士に興味があるのか?」
カリーヌの語調などから考えを読みとったのだろうか。アベルは、ほほえみながら聞いてきた。
「あ……はい。ちょっと話を聞いてみたいな、と」
騎士になりたいのだ、とは言えなかった。これまでさんざんバカにされてきて、恥ずかしかったのかもしれない。ここにいる人たちならば、笑うことなんてないのだろうとは思うが、それでも臆すことを禁じえなかった。
「そうか。なら、事件が解決したら、アイツとゆっくり話すといいだろう。……さて」
アベルは、改めてカリーヌを見据えて口を開いた。
「俺たちはこれから一階に降りるが、きみはどうする? 休みたければ、まだベッドで寝ていてもいい。もし腹が減っているなら、何か温かいものを出すこともできるが」
それを聞いて、カリーヌは大いに迷った。べつに体調はもう万全なので、横になる必要はない。そして、金欠で昨日からロクに食べていないせいで、空腹であるということも事実。しかし……ここまで世話になって、食事まで頂くというのも、なんと情けないことか。
一瞬間に悩み抜いた末、カリーヌは苦渋の決断を述べた。
「い、いえ。それほどお腹が減っているわけでもありませんので、そこまで――」
「わかりやすいウソだな。きみが起きてから、二回ほど腹の虫が鳴っていたぞ」
あっさりと見抜いたアベルが笑った。カリーヌは恥ずかしくなって、顔を少し赤らめた。この人には、どうにもかなわなそうだ。
……それにしても、お腹が鳴ったことをは確かなのだが、どうしてわかったのだろうか? 自分でもほとんど気づかないような、小さい音でしかなかったのだが。もしかして、このアベルという青年、とんでもなく耳がよかったりするのだろうか。
そんなことを考えているうちに、アベルは立ちあがってスカロンのほうへ顔を向けた。
「と、いうわけだ。食事の手配を頼めるか、スカロン?」
「もちろんよ。妖精のように可愛い女の子のために、美味しいものを出してあげるわ!」
にっこりと、スカロンがウインクしてきた。「あ、ありがとうございます」と、カリーヌは苦笑しながら答えた。そういうえば、このオカマ――スカロンは、この宿の店長であるようだ。ひとは見かけによらないなぁ、と心の底から思った。
とにもかくにも、それからカリーヌは一階に降りることになった。ベッドから降りて踏み出した足は、予想外に軽やかだった。この快調さは、やはりアベルの“癒し”の魔法によるものなのだろうか。ますますアベルが土メイジだとは思えなくなってしまう。
カリーヌはそんなことをぼんやりと考えながら、アベルたちの後ろに続いて、『魅惑の妖精』亭の階段を下りる。
酒場となっている一階に着いて目にしたのは、カリーヌの常識を軽く越えた光景だった。
「…………」
絶句するとはこのことか。
酒場では、うら若い娘たちが破廉恥な服を着て給仕をしていた。あんな格好、カリーヌがしたら恥ずかしさで悶死してしまうだろう。ともすれば、ここは売春宿なのではないか、と失礼ながら考えてしまう。家を飛び出たとはいえ、貴族の子女であるカリーヌにとっては、この光景は刺激が強すぎた。
「おい、行くぞ」
棒立ちしているカリーヌに、アベルが声をかけた。はっとして、彼のほうへ目を向ける。よく見ると、その口元が笑いを堪えるように微動していた。……カリーヌがこういう反応をすることを、わかっていたらしい。
ため息をつきながら、アベルに追従する。善意の数々を享受している以上、店のことで文句を言う資格はカリーヌにない。諦めて、この光景に慣れるしかないようだ。
案内されたのは、隅っこのテーブル席だった。そこに座って待つように言われたので、とりとめもなく店の様子を眺める。したたかにチップを貰う給仕などを見て、ちょっと感心していると、横から声をかけられた。
「お待たせしました」
笑顔で料理を持ってきたダルシニだった。肉と野菜の入ったスープに、薄くスライスされたパンの二皿だが、腹をすかせたカリーヌにとってはご馳走だ。料理を受け取り、感謝の言葉を口にすると、我慢できずにスープを口にする。やわらかい具とコクのあるブイヨンが、体と心を温めてくれた。
「ところで」
食事の最中、ダルシニが唐突に難問を投げかけた。
「――カリーヌさんのお家は、どこなんですか?」
ぐっ、とパンを喉につまらせそうになる。スープでそれを胃に押しこんで、深呼吸をする。それから「あー……」と言葉を探してどもっていると、ダルシニは事情を悟ったかのようにほほえんだ。
「いえ、言いづらければ答えなくてかまいませんよ」
「……すみません」
よくよく考えれば、カリーヌがどのような人間か、アベルやダルシニたちからすればすぐに見通せるだろう。メイジでありながら、金もなく腹を空かせており、家の所在も明かせない。家出して都にやってきた田舎者の典型である。
おまけに、先程の「魔法衛士隊」の言葉に対する反応からして、もうバレバレであった。
「――騎士になりたいんですね」
ふふ、とダルシニは笑っていた。どこか、懐かしむような色が含まれていた。
カリーヌは隠すことを諦めて、うなだれるように頷いた。
「はい。……でも、そんな簡単にいきませんでした。もう、お金もありませんし、どうしようも――」
「そうとは限りませんよ」
確信したような、強い言い方だった。どうして、そんなことを言えるのだろうか。ちょっと反感を覚えて、言い返そうとしたが、ダルシニはすでに席から腰を上げていた。
彼女は意味深に目配せをして、「それでは、わたしはこれで」と去っていった。
そして、入れ替わるようにして――その女性が現れた。
艶やかな黒髪に、強者の光を宿した碧眼。漆黒のマントに加えて、腰に差しているのは剣拵えの杖だった。
年頃は二十半ばといったところだろうか。しかし、外見年齢に見合わない覇気がそこにはあった。
……この人は強い。本能で理解させられた。
「きみがカリーヌか」
ふいに発せられたその言葉に、「はい!」と反射的に声を上げる。カリーヌは自身がそうとう緊張していることに気づいた。だが、それも当然だ。なぜなら、この人は――
「そいつが、オレがさっき言っていた人物だよ」
遅れてアベルがやってきた。彼はカリーヌの対席に座ると、「お前も座れ」と女性に言った。
「レティシアだ。よろしく頼む」
女性――レティシアは、そう名乗ると、カリーヌの隣席に腰掛けた。心臓の鼓動が大きくなるのを感じる。この人が、魔法衛士隊の騎士だったという人物。なるほど、それに値する実力があることは明らかだ。
「さてと、先にコイツを読んでもらおうか」
アベルが紙片をレティシアに渡す。誘拐犯が送ってきた手紙である。
それに目を通すと、レティシアは「ふむ」と呟いた。
「アニエスを攫ったのは、“火”の使い手だったな。――犯人の顔や出で立ちは、見ているかね?」
いきなり聞かれて、カリーヌはびくりとしたが、なんとか返答する。
「は、はい。長身で体は鍛えられていました。白髪が目立ちましたが、たぶん四十くらい……だったと思います。服は革のコートを着ていて、杖は鉄製のメイスを使っているようでした」
「そうか。情報提供に感謝する」
レティシアは目を細めていた。どこか、昔を思い出しているような雰囲気だった。犯人に、心当たりでもあるのだろうか?
「アベル、きみの“人形”は何か見ていなかったのか?」
「いや、何も。こればっかりは運が悪かったな。……アニエスに、一体くらい見張りをつけときゃよかったか」
「悔やんでも仕方あるまい。いずれにせよ、この手紙の指定に従うしかなさそうだな」
つまり、敵の意のままに動くということである。そう考えると危険極まりないことであるはずなのだが、少しも顔色を変えない二人を見ていると、不安や心配といったものが不要であるようにも思えてくる。
「何か、策があるんですか?」
カリーヌが試しに聞いてみると、アベルは余裕の笑みを浮かべた。
「手駒をもう動かしている。いざとなったら、そいつらがなんとかしてくれるさ」
ということは、すでに援軍か何かを要請しおえたということか。具体的な内容は教えてくれなかったが、その様子からすると何も恐れはなさそうだ。
それからアベルとレティシアは、細かい点などを打ち合わせたのち、時間を確認して席から腰を上げた。人攫いの要求に立ち会うためには、そろそろ出発しなくてはならない。
当然ながら、ここでいったんお別れだと思っていたのだが――
「お前も来るか?」
そのアベルの言葉に、カリーヌは驚いてすぐに反応できなかった。犯人にあっさりと昏倒させられたような身なのだから、宿に残っていろと言われるものだと思っていたのだ。
「……あたしなんかを連れていって、大丈夫なんですか?」
それが心配だった。認めるのは悔しいが、自分の実力はあの男に到底及ばないものだった。これでは足手まといになりかねない。
だが、そんな不安を吹き飛ばすかのように、アベルは言う。
「手紙には『一人で来い』なんて書かれてないんだ。だったら、一人や二人、連れがいたって問題ないだろ? それに……きみは、部外者ってわけでもないしな」
たしかに、それは間違いではない。しかも犯人の顔を見たのは、カリーヌだけなのだ。ならば、同行する名分はあると言えるのかもしれない。
それに……本心では、一緒に行きたかった。それは、あの男に雪辱を果たしたいから――というよりも、もっと別の目的があった。
見てみたいのだ。元魔法衛士隊の騎士であった、レティシアの力を。
彼女があの男を打ち倒す、その勇姿を。
そう思ったら、口を開かずにはいられなかった。
「それなら、お願いします。――あたしも連れていってください」
騎士に憧れる銀髪少女が、原作の誰なのかわかったら、あなたは間違いなくゼロ魔マニアです。
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13 微風の騎士(7)
退屈な毎日だった。
ここ十数年の人生を振り返っても、そのような感想しか出てこない。
境目はあの日の出来事だった。アングル地方での、村の焼き討ち……それを愉しむはずだったメンヌヴィルは、突如として現れた女騎士によって任務の中止を宣告された。その不満から女騎士に攻撃を仕掛けたが、彼女の“風”によってメンヌヴィルは一蹴された。
あの屈辱は忘れていない。まだ若き日の頃だったとはいえ、自信のあった己の炎をたやすく掻き消されたのだ。そのうえ一撃で昏倒させられて……気づいた時には、トリスタニアへ撤退する道中だった。
アイツを焼き殺したい。
そんな復讐心を抱いたものの、実行することはできなかった。たかが一小隊の隊員という身分では、あの女騎士の足取りが掴めなかったからだ。
ほどなくして、実験小隊は解隊させられた。メンヌヴィルは、大手を振って人を焼くことができなくなった。そうなれば、王国の犬として甘んじる必要は何もなかった。傭兵となったメンヌヴィルは、戦争を渡り歩いて人間を燃やしつづけた。そして、いつの間にか傭兵団の頭となり、その名を畏怖によって轟かせた。
だが、その傭兵稼業もだんだんと厳しくなってきた。戦争がまったくないとは言えないが、どれも小規模なものばかり。人を殺すことによって稼げる金にも、限りが出てきた。メンヌヴィルも人間である。人を焼いても腹は膨れないし、食糧を手に入れる金が必要だった。
そうして手をつけたのが、人攫いだった。女子供は高く売れた。金は手に入ったが……メンヌヴィルの心は、満たされなかった。
人を焼きたい――いや、違う。
ようやく、メンヌヴィルは気づいた。傭兵として戦争に参加して、敵を炎で炙った時でさえ空腹は満たされなかったのだ。本心が求めているのは、ただ一つだった。
――あの女を焼きたい。
その想いは、時が経つにつれて強くなっていった。しかし、ただの傭兵となったメンヌヴィルにとって、もはや女騎士を探し出すことは不可能に近かった。
だからこそ。
あの時――トリスタニアの大通りで、ふと目を向けた喫茶店に忘れもしない顔を見つけたのは、果てしもない幸運だった。
奇妙なことに、あの女の容姿は十五年前とほとんど変わっていなかった。別人か、と目を疑ったものの、しかし否であるとすぐに確信できた。
それは――気配が同じだったからだ。常人のメイジでは遠く及ばない、どこかこの世のものではないような、そんなえも言われぬ気配を本能的に感じ取れたのだ。
一瞬、メンヌヴィルは復讐心を湧きあがらせ――すぐに抑え込んだ。
相手があの女だったからだ。並みのスクウェアを凌駕する風メイジ……そんな敵に対して殺気を放とうものなら、すぐに気づかれてしまう。ここで失敗すれば、もう二度と見つけることができないかもしれない。そんな思いが、メンヌヴィルに慎重をもたらした。
そうして思いついたのが、あの女の知り合いを利用することだった。喫茶店のテーブルで同席していた、ほかの二人の男女。あの女と相応の親しさを持っている人物ならば、どちらかを人質にでも使えないかと考えた。
そして選んだのは――長い金髪の娘のほうだった。栗色の髪の男のほうは、明らかにあの女と同類の匂いを放っていたからだ。おそらく相当な腕であろうメイジと、どう見ても素人な娘とを比べたら、後者を狙うのは当然のことだった。
結果的にいえば、人質を取るという作戦は成功だった。金髪の娘を攫う際に、予想外な邪魔が入ってきたものの、それも即座に昏倒させることができた。その後は、着用していたコートで娘を覆い隠し、フライの魔法で空中を移動。夜更けで外に出ている人間も少なかったおかげか、誰にも騒がれず、無事に郊外――都から少し離れた森へ辿りつけた。
「大将、その女は……?」
森林の浅いところに設けた傭兵団の野営地に戻った直後、仲間にそう聞かれて、メンヌヴィルは「追加商品だ」と事なげに答えた。
「ああ、それと急用ができた。明日の予定を少し変更する。よく覚えておけ」
翌朝には、攫った女たちを乗せた馬車とともにトリスタニアを発つことになっていたのだが、その前に“とある人物”と邂逅するということを、メンヌヴィルは仲間に伝えた。彼は不審な顔をしていたが、「その時になればわかる」というメンヌヴィルの強い言葉に圧され、しぶしぶ納得してほかの仲間にも連絡をしにいった。
仲間をだます形となったわけだが、メンヌヴィルに罪悪感はなかった。そもそも利害の一致から協力していただけの連中である。あの女を焼き殺すという目的が果たせれば、メンヌヴィルにとって彼らはどうでもよい存在だった。
そして……翌日。
金髪の娘が働いていた酒場に手紙を届けたあと、メンヌヴィルは立ち会い場所である森の中に移動していた。
メンヌヴィル以外、この場には傭兵仲間が一人と、人質である金髪の娘だけしかいない。仲間には、ここで待ち合わせ人と「交渉」をするのだと伝えていた。もちろん訝しまれたが、どうせ今回の目的がバレたら関係も終わりなのだ。だからこそ、なかば脅迫するような形で、無理やりこの仲間を付き添わせていた。
「大将、本当に交渉なんて大丈夫なんですか? 相手が誰だか知りませんが、もし衛士なんかを連れてこられたら……」
「オレに焼かれたくなかったら、黙っていろ」
愚痴る仲間に、メンヌヴィルは冷たく言い放った。仲間はそれで口を噤んだ。命令を聞かなければ、本当に殺されることを理解しているのだろう。
メンヌヴィルは、己の杖を握りしめた。得物は無骨なメイスだった。これで敵を殴り殺したこともあるが、やはりメインは炎の魔法である。メイジから平民まで、男から女子供まで、人間から亜人まで。どんな相手も平等に焼いてきたし、その回数は数えきれないほどだった。
そうして磨いてきた技術を、ここで最大限に発揮させる。そして、あの女を焼くのだ。焼き殺すのだ。復讐という名の炎で。
メンヌヴィルの心のうちで、激しい憎悪の感情が燃えていた。強い感情こそが、魔法の源である。かつてないほどの魔力が体に巡るのを覚えながら、メンヌヴィルは静かに立っていた。
ふいに、風がそよいだ。
メンヌヴィルは、ぶるりと震えた。それは歓喜だったのか、恐怖だったのか、それとも両方か。いずれにしても、一つだけ理解することができた。
――あの女が、来た。
風に乗って、忘れもしない匂いが鼻孔をつく。メンヌヴィルは口を笑いに歪めた。ようやく、念願が叶うのだ。
「レティシア、さん……」
手足を縛られている人質の娘が、そんな名前を呟いた。そうか、レティシアか。それが、あの女の名前か。
向こうから歩んでくる女騎士――レティシアの姿を見つめながら、メンヌヴィルはますます口元を歪ませた。
「た、大将ッ! あいつら、メイジじゃないですか!?」
隣にいた仲間が混乱した様子で叫ぶ。
たしかに、目的のレティシア以外にも、連れが二名いるようだった。そのどちらも杖を携えていることから、メイジであるとわかる。
メンヌヴィルは、その二人の顔に注視した。片方は、あの時の喫茶店にいた栗毛の青年。もう片方は――
その人物が誰なのかに気づいて、メンヌヴィルは眉をひそめた。それは昨夜、金髪の娘を拉致する際に、邪魔しに入ってきた銀髪の小娘だった。だが、あれは炎球の爆発で重傷を負わせたはずだ。それなのに、ああして顔に傷一つないというのは……水の秘薬か何かで、完治させて戻ってきたというのだろうか?
――まあ、どうでもいいことだ。
メンヌヴィルは小さく首を振った。どうせ実力は大したことのなかった小物だ。いくら回復してきたって、また燃やせばよいだけである。
「大将、どうするんで――」
「黙れ」
メンヌヴィルは、喚く仲間に杖を突きつけた。
「人質がいるだろう。お前はそいつにしっかり剣を宛がっておけ。その間に、俺がアイツらを一匹ずつ焼いてやろう」
苦渋の表情を浮かべる仲間だったが、この状況ではそれしか方法がないと理解したのか、メンヌヴィルの言うとおりに小剣を金髪の娘の首に擬した。
メンヌヴィルは改めて、レティシアのほうに向きなおった。
「久しぶりだな。逢いたかったぞ……お前に」
「きみは、メンヌヴィルだな?」
ほぼ確信した声色で名前を言い当てられて、メンヌヴィルは一瞬ながら驚きを顔に出した。あれから十五年経って、外見もかなり変わっていたはずである。それでも判別できたというのは、我ながらに意外なことだった。
「覚えていてくれたのか? 嬉しいじゃないか」
「アニエスを解放してもらおうか」
メンヌヴィルのことなど興味ないとばかりに、レティシアは言い放った。あの金髪の娘がアニエスという名前なのだろう。
自分を軽視するような態度に鼻を鳴らしてから、メンヌヴィルは言葉を続けた。
「そう焦るな。手紙にも書いてやっただろう? ――オレと決闘をしろ」
「ふむ、よかろう」
顔色一つ変えずに答えるレティシアに、メンヌヴィルはさらなる憎悪を募らせた。そうして余裕ぶっていられるのも、今のうちだ。すぐに焼き殺してやる……。
心中で暗い炎を滾らせているメンヌヴィルを余所に、レティシアはいつもと変わらぬ涼しい顔で声を上げる。
「では、観戦者は一歩引いていただこうか」
「……ああ、そうだな。おい、下がっていろ」
メンヌヴィルの言葉の後半は、仲間に向けたものだった。二人以外の者たちは邪魔にならぬよう、それぞれ後方に退いた。
その場に残った双方は、十メイルほどの距離で対峙し、杖を構えた。いよいよ、待ちに待った、決闘という名の復讐の始まりである。
「こいつが地面に着いたら、決闘開始だ」
メンヌヴィルはエキュー硬貨を一枚取り出した。それを両者の中央へ向けて、指で空高く弾く。
木漏れ日に当たって煌めく金貨。昂揚した精神のおかげか、それの落下する映像がひどくスローモーションに見えた。
その一瞬間に、メンヌヴィルはレティシアの表情を覗いた。そこには、恐怖も焦燥も軫憂も見当たらなかった。ただ一つ、勝利の確信だけが表れていた。
金貨が着地する。
と同時に、メンヌヴィルは速やかにルーンを唱え、杖を振った。
詠唱が短いだけに、魔法は初歩的な火球の投擲だった。だがそれでも、憎悪の籠った炎は並々ならぬ威力を内包していた。
撃ちだされた火球がレティシアを呑みこむ直前――
暴風が唸りを上げた。
木の葉が吹き散るなか、メンヌヴィルは歯ぎしりをした。視線の先には、何事もなかったように立つレティシアがいた。
届かない。
あの程度の火力では、ヤツの風を打ち破れない。
もっと強力な炎を……もっと熾烈な炎を!
さらなる感情の昂りとともに、ふたたびルーンを唱える。
今度は球状の炎ではない。蛇のように地面を這い、敵の呑みこむ高熱の白炎だ。
メンヌヴィルの杖から放たれた炎の蛇は、弧を描きながらレティシアの側面へと襲いかかる。
だが――
「――強い炎だ。これほどの『火』の使い手を見るのは、久しぶりだな」
「オレも、お前を褒めてやるよ。お前のような『風』使いは、ほかにいない」
レティシアの“エア・シールド”の魔法によって、メンヌヴィルの魔法は完全にいなされていた。コントロールを失った炎の蛇は、レティシアの後方の木々に衝突し、周囲を派手に燃え上がらせる。
メンヌヴィルは薄く笑いを浮かべた。
「悪いな。山火事になりそうだ」
「……そうだな。大事になる前に、早く片をつけよう」
そう言ってから、レティシアは口元をわずかに動かした。ルーンを口ずさんでいるのだ。今度は防御ではなく、攻撃の魔法――こちらも対処しなければならない。
レティシアが杖を振ると同時に、メンヌヴィルは姿勢を低く構えた。飛来する風の音――速いッ!
横に跳んだのは、ほぼ反射的な行為だった。一刹那遅れて、先程までメンヌヴィルがいた地点を死の風が駆け抜ける。そして聞こえるのは、槌が樹木をへし折る轟音。――“エア・ハンマー”だ。それも異様に疾く、強力な。
だが、呑気に驚愕している暇はない。メンヌヴィルは地面を転がりながら詠唱し、立ち上がりながら杖を振った。
炎は真っ直ぐに進み、狙いどおりに目標を焼き払った。
「……なんのつもりだ?」
レティシアが冷めた口調でそう尋ねた。その視線の先には――メンヌヴィルがたったいま炎上させた木々があった。
「おっと、許してくれよ。手が滑ったんだ。わざとじゃない」
メンヌヴィルはおどけた仕草をしながら嘯いた。
そう、魔法を放ったのはすぐ傍らにある木に対してだ。炎の塊は幹に当たると同時に拡散し、隣接する木々にも引火する。
燃え広がる炎を横目に見ながら、メンヌヴィルさらに言葉を続けた。
「お前ほどのメイジなら、よく理解しているはずだ。戦いにおいて勝敗を決めるのは、それぞれの持つ魔法の技量や魔力の強さだけではない。たとえば――」
「地形や状況にも大きく影響を受ける、ということだろう?」
「……そうだ、言うまでもないことだったな」
雨が降っていれば、水メイジはすぐさま水を集めることができる。土壌が柔らかければ、土メイジは造作もなく土を操ることができる。風通しがよいところであれば、風メイジは自在に風を吹かすことができる。そして――
「火メイジのオレにとって、近くに炎があることは最高の条件だ」
そう、だからこの場を選んだのだ。可燃物が大量にある「森」というフィールドは、火メイジにとって非常に都合がよい。一度、火をつければ勝手に燃え広がってくれる。そうして得られる炎を利用すれば、大した精神力を要せず強力な攻撃を加えることができるのだ。
「悪く思うなよ。地形をどう活かすかということも、実力のうちだろう。――それとも、騎士さまはこういう戦法はお嫌いかい?」
茶化すように、メンヌヴィルは言葉を投げかける。だが、これも一つの戦略だ。会話を長引かせれば、それだけ火事は大きくなる。それはすなわち、メンヌヴィルにとってさらに有利に傾くということでもある。
「いいや、気にしないさ。私もきみの意見に同感だ。地の利をどれだけ活かせるかも重要だろう」
レティシアは相も変わらず、涼しい顔で返答する。この状況でも、焦った様子は少しも見当たらない。本当に余裕なのか、それともただの虚勢なのか――
……いいや。
メンヌヴィルは後者の考えを否定した。
虚勢などではない。十五年前も、そして今この時も、この女は変わらない。自らの力に絶対の自信を持っている顔をしているのだ。
――ああ、本当に腹の立つやつだぜ。その顔面を焼き焦がしてやりたい。
黒い感情が湧きあがる。それは純粋な憎悪だった。かつて抱いたことのないほどの、昏く燃え盛る憎悪。そして、それは――強力な炎となる。
「……ふざけるなよ」
メンヌヴィルは杖を掲げた。周囲の火炎を取り込みながら、巨大な火の球が形成される。当たれば一瞬で全身が炭化するような、凶悪な業火だ。もはや直撃せずとも、掠っただけで致命傷を負わせられるレベルだろう。
勝てる。この炎ならば、この女の風を打ち破れる。その確信があった。
「――もう命乞いもできんぞ」
「命乞いではないが、一つ質問がある」
唐突に、レティシアはそんなことを言いだした。一瞬、メンヌヴィルは面食らってしまう。誰がこの炎を前にして、質問などというものをしてくると思えようか。
メンヌヴィルが言葉を考えているうちに、レティシアは勝手にその質問とやらを口にした。
「――お前は、どれだけの人を殺してきた?」
……予想外だった。そんな間抜けなことを、どうして聞いてくるのか。それを知ったところで、どうなるわけでもないというのに。
――だが、まあ。
答えて構わないだろう。メンヌヴィルはそう判断した。質問への回答、それが冥途の土産だ。
メンヌヴィルは、にいっと口を歪ませた。
「――数えきれないほど、だ。人間も、亜人も、貴族も、平民も、男も、女も、大人も、子供も……多すぎて覚えちゃいないさ。オレにとって、人を焼くのは狐狩りをするのと同じことだ。狩った狐の数を正確に思い出すのはむずかしいな。……そんな答えで満足か?」
「ああ、十分だ」
レティシアは短く口にして頷いた。そして、
「――お前は変わらないんだな、メンヌヴィル」
その言葉の意味がわからなかった。
……変わらない? まるで、以前から自分のことをよく知っているような口振りだった。だが、それはおかしい。かつてレティシアと会ったのは、十五年前のあの一件の時だけのはずだ。あそこでは、彼女に反抗した事実はあっても、メンヌヴィルの殺人を愉しむ性向の露呈はなかったはずだ。
ならば、これまでにレティシアはメンヌヴィルのことを調べていた? だが、その可能性は低すぎる。各国を渡り歩く傭兵団の一員を、わざわざトリステインの騎士がピンポイントでマークしていたとは思えない。
「……どういうことだ」
睨みを利かせるメンヌヴィルに、レティシアは肩をすくめるだけだった。時間稼ぎの戯れ言か、それともこちらを混乱させるための出鱈目か。いずれにしても、無駄な足掻きには違いない。
――さっさと、終わらせてやろう。
メンヌヴィルの杖の先には、もはや球と呼びがたいほどに膨れ上がった炎の塊があった。これを敵に向けて振り下ろせば、炎はその巨体を広げて目標に突進するだろう。仮に対象が避けようとしても、この魔法には強力な誘導性が備わっている。さらに対象近くで爆発して炎を撒き散らすようになっているので、直撃せずとも爆風と爆炎で即死させることが可能だ。
いかにあの女騎士といえども、これを防ぐことはできまい。
「――きみは忘れているようだが」
不意に、レティシアはそんなことを口走った。メンヌヴィルが意識を向けた時、彼女はすでにルーンを唱えて杖を振るっていた――恐ろしい速度で。
「火の魔法を扱えるのは、火のメイジだけではない」
レティシアの杖の先に、炎が集まっていた。
その手法はメンヌヴィルとまったく同じだった。付近の燃え盛る炎を利用しているのだ。
――ばかな。
レティシアの言ったことは正しい。自分の系統以外の魔法も扱えるのは、基本中の基本だ。メンヌヴィルも、「火」とは正反対の「水」でさえ、初歩的な魔法なら行使することができる。
だが。
だが――こんな、ばかなことがあっていいのか。
メンヌヴィルの視線の先には、風メイジが造りだしたとは思えないほどの強力な炎の塊があった。
「お前は……風の系統じゃなかったのか!?」
動揺を隠しきれなかった。別系統のメイジが、本職の自分と同等――あるいはそれ以上の練度で火を操ったのだ。それは常識から外れた行為だった。
両者にランクの差があったのなら、まだ理解できる。だが、メンヌヴィル自身がトライアングル――それもスクウェアに迫るクラスのメイジなのだ。いくら女騎士が並外れたスクウェアメイジであろうと、メンヌヴィル以上の火の操作は至難のはずだった。
「そうだ。私の系統は風だ。だから――」
レティシアは杖を横に振った。
その瞬間、森が騒めいた。強い風が吹き荒れたのだ。
「火だけではなく、風も使わせてもらおう」
その言葉を発した時には、すでにレティシアの前には巨大な炎の渦ができあがっていた。尋常ではない魔法の形成速度だった。どれだけの魔力と精神力があれば、このレベルに達することができるというのか。メンヌヴィルは、この女騎士を既存のメイジの型にはめて考えていたことを後悔した。
「く、そッ!」
焦燥と恐怖。それらに支配されながら、メンウヴィルは自らの杖を振り下ろした。
撃ちだされる炎塊。本来ならば、それが向かう先にはレティシアがいるはずだった。
だが、いま、メンヌヴィルとレティシアの間にあるのは――
炎を宿した、巨大な竜巻だった。
並みのスクウェアスペルを凌駕すると形容しても過言ではないほどの、そびえ立つ灼熱の竜巻。
その強大な壁に、メンヌヴィルが造りあげた炎が激突する。
結果は――
「そんな……」
呑みこまれた。
メンヌヴィルの炎は、レティシアの風に引き裂かれ、彼女の炎に食い消されてしまった。
「そんな、ばかな……」
憮然と呟く。もはやその時には、避けようがないほど竜巻が接近していた。
風が身体を切り裂き、炎が血肉を焼き焦がす。
死の顕現に蹂躙されるなかで、最期にメンヌヴィルは彼女の声を耳にした。
「炎に焼かれて死ぬがよい、『白炎』よ」
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14 微風の騎士(8)
――冗談じゃねえ。
足場の悪い森の中を駆けながら、男は内心で毒づいていた。
そもそも今朝からメンヌヴィルの様子はおかしかった。あれは戦場を前にして浮かべる顔だった。だから本当にただの「交渉」なのか疑問だったのだが、案の定、メンヌヴィルが私闘のために仕組んだことだった。
それでも、倒すのに雑作もないような相手だったのなら男も安心できたのだが――結果はあれだ。
今まで、どれだけ苛烈な戦場でさえも、見たことのないような炎の渦。
それを目にした瞬間、男は悟っていた。メンヌヴィルは死ぬ、と。
そして傭兵としての経験の賜物か、自分はどうするべきかを男は一瞬で判断した。
すなわち、逃走である。
男は人質に宛がっていた剣を納めると、即座に反転して逃げ出していた。さながら脱兎である。だが、男の判断は正しかった。少しでも早く逃げ出していなければ、メイジでもない男は容易くやつらに捕まってしまったことだろう。
――あと少しだ。
方向感覚には自信があった。進むべき道筋は間違っていない。しばらくすれば、仲間たちの野営地に辿り着くはずだ。
その後は迅速に状況を伝え、ここから離れるべきだろう。北に逃げるか、南に逃げるか――いずれにせよ、のんびりしている暇は一刻たりともない。
どれだけ走りつづけたか。息切れする寸前のところで、男はようやく見知ったものの形を見つけることができた。
「……着いたッ!」
森の裾。街道からやや離れた目立たない位置。男たちはそこを拠点にしていた。
そしていま、男の視界には馬車の一部が映っていた。それは紛うことなく傭兵団のものであり、男が野営地に辿り着いたことを示していた。
「おい! とっとと――」
ずらかるぞ。そう言おうとしたが、男は絶句するしかなかった。
眼前の光景に頭の処理が追いつかない。数秒、その場に立ちつくし、そしてようやく思い出したかのように男は口を開いた。
「…………なんだよ、こりゃ」
――倒れている。仲間たちが全員。
そのほとんどは手足に傷を負っていた。流血の程度は少ないようで、死んでいる者もいないようだ。だが、なぜか皆、うめき声を上げながら地に伏している。
……仲間にはメイジもいたはずだが、こうも簡単に全滅させられるとは。いったい誰の仕業だというのか。
男はこの惨状に戦慄しながらも、仲間の一人に近づいた。意識はあるようで、苦しそうな顔色を浮かべながらも、こちらのほうに視線を向けてくる。
「おい、どうなってる! 何が起きた!?」
「…………ぐ、か、体が痺れて……毒、だ。あの、人形ども、め」
毒。なるほど、どうやら毒塗りの武器で仲間たちは襲撃されたようだ。どうりで、この程度の傷でも立てなくなるはずである。
だが、人形とはなんだ。ゴーレムのことだろうか。ということは――敵はメイジか?
「……くそったれ」
男は呟き、体の向きを街道の方面へ向けた。逃げるためだ。メイジ含めて十人以上はいた仲間を全員無力化した敵など、まともに相手をしていられない。その下手人がこの場に戻ってこないうちに、逃走しようと男は考えていた。
一歩。
疲労した足を踏み出したところで、男はその声を聞いてしまった。
「――どこへ行くんですか?」
女の、あどけない感じの声。だが、男に冷や汗を流させるには十分な一言だった。
この場で男を静止させるような発言をする――それは相手が、絶対的な自信を持っているからだろう。
……ついてない。自分の不幸を嘆きながら、男はゆっくりと振り返った。
そこにいたのは、まだ少女と呼んでいい年頃の女性だった。肩口で揃えられた黒髪に、柔和そうなタレ気味の目。傭兵である男とは、対極に位置するような容姿だ。
だが、そんな彼女が立っているのは、仲間たちが倒れているこの場なのだ。用心してもしきれない少女だった。
「……あ、あんたがやったのか」
上擦った声で、男は尋ねた。もちろん、これは時間稼ぎだ。質問に少女が答えている間に、逃走の算段を考えるつもりだった。
「わたしが? ――違いますよ」
一瞬、男は混乱した。少女から返ってきたのが、予想外の言葉だったからだ。
てっきり、この少女が下手人だと思っていた。だが、本人は否定している。ここで嘘をつく理由もないことから、彼女の言葉は本当なのだろう。
と、いうことは。
仲間たちをやったのは――
かしゃ、と何か音が聞こえた。
一つ――ではない。いくつもだ。かしゃ、かしゃと音を立てて、集団で近づいてくる。
男は抜剣して振り向いた。恐怖に駆られての行動だった。
「な」
なんだこれは。
眼前に映ったものを信じられず、男は言葉を失った。
身長は三十サント程度。手には剣や槍を持ち、それを構えて戦闘態勢を取っている。数は――十、どころではない。二十……いや、三十近くはいるだろう。
それは“
武装したアルヴィーの群れ。
今になって、少女の返答の意味がわかった。仲間たちをやったのは、こいつらだ。
逃げろ。
本能がそう命令した時には、もう遅かった。足首から鋭い痛みが伝わってくる。
いつの間に近寄ったのだろうか。人形の一体が俊敏な動きで男に這いより、一太刀を浴びせていたのだ。
たかだか十数サント程度の刃物の攻撃。しかし男は、それだけで身動きが取れなくなった。仲間の言葉を思い出し、男はようやく理解した。
――毒。
剣に塗られていたのであろうそれは、男の身体に強力な痺れをもたらした。
身動きが取れない。男が絶望するなかで、さっきの少女の声が頭上から響いた。
「安心してください。命に別状はありませんから。さあ――監獄が待っていますよ、犯罪者さん」
◇
圧倒的だった。
業火の熱気に当てられながら、カリーヌは立ちつくしていた。
額からは汗が流れ落ちてくる。熱さのせいだけではない。尋常ならざる魔法を目の当たりにして、かつてないほどの戦慄を抱いているのだ。
「これが……」
魔法衛士隊だった騎士の実力。
いや、違う。彼女を「魔法衛士隊」という枠だけで収めることは不可能だ。彼女は……スクウェアの中でも、さらに頂点に位置する最高峰のメイジなのだろう。あの『烈風』や『微風』のような、伝説級の存在だ。
「最強」と呼ぶに足りるメイジの実力。自分は、それを目の当たりにしたのだ。
溜まった唾を飲みこむ。憧憬を通り越して、抱くのは畏敬だった。
ああ、自分はなんと恐ろしい人と出会ってしまったのか。あの酒場で気軽に話をしてしまった事実さえ、恥ずかしく感じてしまう。
そして、このあと、自分はどうあの人に言葉をかけてよいのか――
「ったく、疲れさせやがってよー」
なんだか緊張感のない声に、カリーヌは脱力させられてしまった。
呆れて隣を見ると、杖を手にしながら伸びをしているアベルがいた。
「……アベルさん? どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたもないさ。あれだけ派手に燃やされたら、火事を防ぐこっちは苦労して仕方ない」
溜息をつくアベル。その言葉を聞いて――彼が何をしたのか、今更になって思い知った。
火が、消えている。
なまじ熱が残っていただけに、すぐには気づけなかった。だが、よくよく見ると、あれだけ燃え広がっていた木々は、ひとつ残らず消え去っていた。そう――文字どおりだ。
では、なぜ炎上していた木々はなくなったのか。簡単だ。――すべて土に変えられたからだ。
燃えるものが燃えないものに変わったら、それだけで炎は鎮火する。アベルはそれを実践したのだ。錬金――それも遠距離から、あれだけの範囲を、一瞬で。
――本職は“土”。
今になってカリーヌは、あの宿でアベルが口にした言葉の意味がわかった。
……なんだか、感覚が麻痺しそうだ。こんなにとんでもないメイジが、すぐそばに二人もいるだなんて。
自分と比べると悲惨なことにしかならないので、カリーヌはもう考えないことにした。
「あ、そういえば……」
人質の女性――アニエスさんは? そう思って向こうを見遣ると、レティシアがアニエスの縄を解いているところだった。
とくに怪我などは負っていないかったようで、拘束から解放されたアニエスはすぐに立ち上がり、レティシアと一緒にこちらへ歩み寄ってきた。
「よう、体は大丈夫か?」
軽い調子で声をかけるアベル。誘拐から救助されたばかりの女性に対して、よくそんなに事もなげに言えるものである。アニエスも呆れたような顔で、アベルに返答する。
「まあ、とくに怪我もありませんが……。ええと……とりあえず――」
アベル、レティシア、そして――カリーヌ。
アニエスはそれぞれの顔を見回してから、深々とお辞儀をした。
「ありがとうございます。助けに来ていただいて」
……もしかして、この感謝は自分にも向けられているのだろうか。だとしたら、すごく申し訳ない。自分は何もせず、ただ付いてきただけなのに。
内心で困っているカリーヌをよそに、アベルが頭を掻きながら口を開く。
「あー……そう言われると、こっちも頭を下げなきゃならん。お前が攫われたのも、こちら側が原因だからな」
「メンヌヴィルの目的は私だった。そのために、アニエス……きみが巻き込まれてしまった。すまない」
謝罪する二人に対して、アニエスは「いえ、気にしないでください!」と慌てたように言った。
それから彼女の視線は、思い出したかのように――カリーヌのほうへと向いた。
「あなたは……」
「あ……その、初めまして。カリーヌと言います」
「カリーヌさん、ですね。わたしはアニエスです。ありがとうございます、わたしのために……」
「いえ、あたしは何も――」
首を振るカリーヌに対して、アニエスは「そんなことありません」と微笑を浮かべた。
「その髪の色――わたしが意識を失う前に、たしかに目にしました。わたしを助けようとしてくれたんですよね?」
どうやらあの時、カリーヌがメンヌヴィルの前に躍り出たところをわずかに見ていたようだ。
……だが結局、助けるどころか逆に返り討ちだったのだ。誇れるようなことでもない。
なんとも言えず、赤面していると、ふと遠方から声が聞こえてきた。そちらを見遣ると、森の外で待機していたはずのダルシニが、手を振りながら近づいているところだった。
「――誘拐犯のお仲間たち、みんな確保しましたよ」
合流するやいなや、そんなことを事もなげに報告するものだから、カリーヌは唖然としてしまった。だが話を聞いてみると、どうやらアベルが用意した人形がどうにかしたらしい。手駒をもう動かしている、と彼が口にしていた言葉を思い出し、用意周到さに半分呆れそうなほど感心してしまった。
――そうして事件はあっさりと幕が引かれ。
連絡を受けて駆け付けた衛士たちによって、犯人たち傭兵団は身柄を確保された。攫われた人たちにも怪我はなく、みんな無事であったようだ。
事件の主犯だったこともあり、メンヌヴィルの遺体も担架を使って運ばれることになった。烈風に切り刻まれ、業火によって炭のようになった彼の姿は、死の苦痛を顕現するかのようで恐ろしかった。カリーヌは、それを直視することができなかった。
目を横にそらした先には、レティシアが立っていた。普段どおりの平静な表情に見えたが、その瞳には哀れみのようなものが宿っている。メンヌヴィルが決闘を画策したくらいなのだから、おそらく二人にはなんらかの因縁があったのだろう。それに対する興味はあったが――軽々しく尋ねるべきではないことくらい、カリーヌにはわかっていた。
「――ひとが変わるというのは、難しいものだな」
ぽつりと、レティシアの呟きが耳に入った。
その言葉の真意は捉えられないが、それでもカリーヌ自身、ひとが変わるのに困難が伴うのは身をもって知っていた。
どうして、自分は騎士になりたいと思ったのだろうか。
それはきっと、変わりたかったのだろう。つまらない地方での暮らしに甘んじて、刺激のない生活に体をうずめている自分が嫌だったのだ。都に出て、華々しく活躍する自分を夢見たのだ。物語に出てくるような、強くて恰好いい騎士になりたかった。
――けれども、それは難しいことだった。
トリスタニアに着いただけでは、コネも実績もない自分が魔法衛士隊に入れるわけなどなかった。地方の貴族として生きてきた世間知らずな小娘は、仕事で生計を立てることすら知らず空腹で困り果て、一瞬ながらも良からぬ方法で糧を得ることを頭によぎらせてしまうほどだった。
そしてメンヌヴィルに襲われていたアニエスを助けようとして、あっさりと返り討ちにされる失態を晒した。アベルに助けられなかったら、今ごろどうなっていたか。
レティシアとメンヌヴィルの決闘の行く末まで見届けて、カリーヌは痛感せざるをえなかった。自分は、はてしなく小さくてちっぽけな存在だった。単純なメイジとしての腕前だけではない。精神的な面でも、ここにいる誰よりも弱いのがカリーヌという少女だった。
「…………っ」
気付けば、目尻から涙がこぼれていた。それが本当に情けなくて、いやになりながら袖で顔をぬぐった。
「どうした」
隣にいたレティシアが、声をかけてきた。どこか優しさを含んだ声色だった。
カリーヌは心中を吐露した。こんなつまらない弱音を喋っても仕方ないだろう、という思いはあったが、それでも言葉は口をついて出てしまった。
聞きおえたレティシアは、ふっと微笑を浮かべた。カリーヌにとっては、初めて見る彼女の笑みだった。
「いいや、きみは強いさ」
「そんなこと――」
「アニエスを助けようとしたのだろう? 誰かのために、敵に立ちはだかることを自分の意志で選択したのだ。それは強さにほかならない。――きみは十分に騎士としての素質がある」
「……ぁ、ありがとうございます」
もと魔法衛士隊の人間、それも凄まじい力量のメイジからそんなことを言われたものだから、カリーヌはひどく赤面してしまった。お世辞なのかはわからないが、それでも彼女から素質があるなんて言われると、嬉しさが込み上げてきた。
弱々しい気持ちと悩みは、至極あっさりと消し飛んでしまった。変わろう、と思った。自分の意志で選択するのだ。強い人間となるために。騎士となるために。
そう、今日、この日が――
――カリーヌにとって、物語の分岐点となるのだった。
◇
――話がある。
事件後、『魅惑の妖精』亭に一晩泊めてもらった明くる日、カリーヌはレティシアからそんなことを伝えられた。
単純な世間話ではなく、改まった用件のようだった。どうやらレティシアは誰かと会う約束をしていて、カリーヌにはそれに付き合ってほしいらしい。
その面会する人物とは――ヴィヴィアン・ド・ジェーヴル。
かつて魔法衛士隊の隊長を務めていた貴族の家柄であり、隊長代理に就いていたこともある女性。
それを教えられた時、カリーヌは胸が跳ね上がるような思いだった。魔法衛士隊の隊員であったレティシアと、隊長代理であったヴィヴィアン。その二人の席に同伴することの意味は、馬鹿な田舎娘でも察することができた。
「初めまして。ヴィヴィアン・ド・ジェーヴルよ」
そして高級そうな喫茶店のテーブル席で、カリーヌは彼女と対面することになった。正面にヴィヴィアン、隣にレティシアという畏れ多い存在に囲まれて、心臓はバクバク鼓動を鳴らしていた。
「は、はじめまして……。えぇと――」
一瞬、カリーヌは逡巡した。本名を名乗るべきかと迷ったからだ。しかし、レティシアからは好きな名前でよいと言われていたので、それを口にすることにした。
「――カリーヌです」
名を耳にして、ヴィヴィアンの目はわずかに細められた。すべてを見通すかのようなブルーの瞳が、カリーヌを見つめた。
緊張しすぎて気絶してしまうのではないか。カリーヌは平静ではない頭で、なんとか自分のことを話した。故郷では騎士に憧れ、いつも騎士試合に興じていたこと。そして親に猛反対されるなか、ついに家出するように都にやって来たこと。けれども魔法衛士隊への入隊は叶わず、途方に暮れていたこと。
カリーヌの言葉を聞きおえたヴィヴィアンは、ふふっと笑った。どこか遠い昔を懐かしむような、穏やかな笑みだった。
「似ているわね」
「え?」
「いえ、こちらの話よ」
誰と似ているのだろうか。彼女は隊長代理を務めていたので、もしかしたらその時に、カリーヌと同じような入隊希望者を見たことがあるのかもしれない。
気になりつつも、尋ねることはしなかった。今はそんな雑談をする心の余裕もなかったのだ。
少し考え込むような仕草をしてから、ヴィヴィアンは鞄から便箋を取り出した。そして筆を走らせる。何を執筆しているのか理解したカリーヌは、よくわからない感情に呑みこまれた。歓喜か、感謝か、あるいは突然すぎる展開への困惑か。
一筆した手紙を、ヴィヴィアンはカリーヌの手元に差し出した。
「――紹介状よ。これがあれば、問題ないでしょう。すぐに正騎士に採用されることはないけれど、見習いとして経験を積めば、いずれ衛士隊の騎士になれるわ」
「あ――」
感極まるとはこのことか。言葉がうまくでなかったカリーヌは、いちどごくりと唾を呑みこんでから、思わず泣きそうになりながら口を開いた。
「ありがとうございます……!」
「礼に及ぶほどのことではないわ。……あなたが本当の騎士になれるかどうかは、あなた次第。がんばってね」
「はい……! が、がんばります……!」
まさか、こんなふうに騎士の道を授けられるとは。つい先日、困り果てていた状況からは想像もできない好転だった。
あの時、アニエスを助けようとしたことで、アベルに救われて、レティシアと知り合った。その
そう――
ほんの少しのことで、ひとの人生は変わるのだ。
一つの変化が、いろんなことへと伝わり、いろんなものを変える。
この世界は、そうやって移ろっているのだろう。
願わくば、多くの人々に良い変化がありますように。
紹介状を大切に受け取りながら、カリーヌは心からそんなことを思うのだった。
あとがき:
中途半端すぎたので、とりあえず『微風の騎士』の部だけはなんとか終わらせようと思い、更新しました。
このSSを考えたのはもう7年以上前で、いくつかプロットはテキストに残しているものの、さすがに記憶が少々薄れてしまっている部分もあります。また文体も少し変化しているので、違和を感じるかもしれません。非常に申し訳ないです。
この部において登場した「カリーヌ」ですが、外伝を読んだ方は「長い銀髪/騎士試合」というキーワードで気づいたかもしれません。タバサの冒険に出てきた、例の女頭目ですね。原作での彼女は犯罪に手を染めており、騎士になりたいという夢を抱きながらも挫折し、歪んだ形で騎士の真似事にこだわっていることが読み取れます。でも根っからの悪人というようには見えず、おそらく騎士としての道を歩めたら転落することはなかったのではないか。そう考えて、ここでは救済対象となりました。
この作品のコンセプトは救済であり、このあとに続く『終結の湖』という部では、ジョゼフやカトレアといった原作キャラクターが登場する予定でした。すでに『エルフと吸血鬼』で語られていますが、最終的にジョゼフが虚無の担い手としてシェフィールドを召喚。彼女はミョズニトニルンとして、風石食らいのマジックアイテムをハルケギニア全土にばらまき、大隆起問題に終止符を打つ――というのが『終結の湖』のオチであり、その後に続く『エピローグ』で後日談などを語る予定でした。
そんな感じでプロット自体はちゃんとあるので、もし反響があれば続きも書いていくかもしれません。何年かかるかはわかりませんが……。
何はともあれ、ここまで読んでくださって本当にありがとうございました。
これからもゼロ魔の二次創作がたくさん見られることを、私自身も心から願っています。
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