あたしの兄貴がこんなにモテるわけがない (powder snow)
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第一話

「ねえ、あんた。エロゲー買ってきてよ」

「――はあ!?」

 

 喉を潤そうとリビングまで降りてきたら、ソファでくつろいでいた妹が開口一番こんなことを言いやがった。

 

 俺の名前は高坂京介。

 平凡という名の代わり映えのしない毎日を愛する、ごく普通の高校生だ。

 非日常な世界? 刺激に満ち溢れた日々?

 

 ――悪いけど俺はごめんだね。

 

 出来るなら一生関わりたくない世界だ。

 夢がないと言われようとも、俺は普通に安寧な人生を全うしたいと考えている。

 普通に勉強して、普通に遊んで、普通に進学して――いつかは就職して、結婚したりするのかもしれない。もちろんそんな先のことは分からないけど、俺が如何に平凡な毎日を望んでいるのかは伝わったと思う。

 

「……悪い、桐乃。今何て言ったのかよく聞こえなかったんだが……?」

「ちょっ、聞いてなかったワケ? だからエロゲー買ってきてっつってんの!」

 

 そして、まったく遠慮もなしに悪態を吐いてくれてるのが、俺の妹である高坂桐乃だ。

 ライトブラウンに染めた髪にピアス。綺麗に伸ばされた爪にはマニキュアと、いまどきの女の子らしいオシャレな格好をしている。

 学業優秀、容姿端麗、スポーツ万能。更にはティーン誌でモデル活動なんかもやってたりする。

 兄である俺が言うのもなんだが、ほぼ完璧超人と言っても良い。

 

「おまえ正気か? 何処の世界に兄貴に向かってエロゲー買ってこいつう妹がいるよ!?」

「なによ、恥ずかしいとでも言うつもり? っていうか、可愛い妹がこうして頭下げて頼んでるんだから、素直に“はい、買いに行かせて頂きます”くらい言えないの?」

「あのなぁ桐乃。可愛い妹ってのは兄貴にエロゲーを買いに行かせたりしねーと思うぞ」

「そんなことは聞いてない。行くの、行かないの、どっち?」

「だから行かねーって!」 

「――チッ!」

 

 これ見よがしに不満顔を晒しながら、盛大な舌打ちをかましてくれる我が妹。

 っていうか、これ普通に怒って良い場面すよね?

 

 そう――この妹と深く関わっちまったばかりに、俺の平凡で安寧な人生は、一風変わったヘンテコリンなものへと路線変更されてしまったのだ。 

 

「……フン。あの時は買いに行ってくれたくせにさ……」

  

 唇を微妙に尖らせながら、桐乃が何やらぶつぶつと呟いている。

 一見して完璧超人に見える我が妹なのだが、実は世間に隠している裏の顔が存在する。それは『妹もの』と呼ばれるジャンルに傾倒するオタクだったのだ。

 ちなみに、そんじょそこらを歩いているライトなオタクを想像してもらっては困る。

 子供向けアニメから果てはエロゲーまで。妹ものなら幅広く網羅する、ガチもガチの筋金入りのオタクなのだ。

 

 そんな妹に『人生相談があるの』と言われたのがほぼ一年前。

 それが全ての始まりだった。

 

 実にこの一年間、色々なことがあったさ。

 趣味の話が出来ない桐乃に友達を作ってやったり、親バレした時に趣味を止めさせると激昂する親父(鬼のように怖い)と対決したり、親友との仲を取り持つ為に変態のレッテルまで貼られたりな。

 ついこの間なんかはアメリカくんだりまで迎えに行ってやったりもした。

 けど勘違いしてもらっては困る。

 俺は妹のことが大キレーなのだ。日常会話すら交わさない冷戦状態も経験したし、お互いの存在そのものを無視し合っていた頃もある。

 あの『人生相談』以後少しはマシになったものの、以前として仲が良いとはお世辞にも言い難いし、向こうもそう思ってるはずだ。

 だけどアニメ見て笑ってる桐乃や、友達と馬鹿やってる桐乃を見てるのは……その、気分的に悪くない。

 繰り返すが、妹のことは大嫌いである。

 それでもあいつは俺の大切な妹なんだと、そう思っていた。

 

「じゃあさ、あたしも一緒に……行ってあげる……」

「あ? 今なんつった?」

「だから! あたしも付いて行ってあげるって言ったのっ! あんた一人で買いに行くのが恥ずかしいんでしょ? なら……これで問題ないじゃん」

「いや、そういう問題じゃねえから……」

 

 さっき怒鳴ったと思ったら急に赤くなったりして、本当に忙しい奴である。

 

「つーかさ、おまえネット通販っていうの? そういうのでエロゲー買ってるんじゃなかったっけ?」

「普段はそうなんだけど……今回は特別って言うか――き、急にやりたくなったの! 何か文句あるワケ!?」

「文句はねえけどさ、単純に不思議つーか、疑問に思ったんだよ」

 

 俺が妹を嫌いなように、こいつも俺のことを嫌ってるはずだ。

 なのに“一緒に行って”までエロゲーを買いにいかせようとするのが理解できない。他に手に入れる手段があるんだから、わざわざ俺に頼むなんてどーかしてる。

 そんなことを考えていたら、桐乃があさっての方向に視線を向けながらこう付け加えてきた。

 

「……ほら、あたしこないだまでアメリカにいたじゃん。エロゲー買うなんて当然無理だし、新作の情報だって入ってこなかった。だから……さ、その……」

「あー、そういやそうだわな」

 

 確かノーパソのHDに“ぱんぱん”になるまでエロゲをインストールしていったにも関わらず、向こうではプレイすら満足に出来なかったらしい。

 桐乃曰く「このあたしが積みゲーするなんて……!」ってくらいだから、相当フラストレーションも溜まりまくったことだろう。

 んで、帰国後ネットを見ていたら留学中に発売した新作を発見。

 どーしてもやりたくなった。我慢仕切れなくなったってところか。

 

 ――ったっくよ、しゃあねえな。

 

 正直、気は進まない。

 何が悲しくて、休日潰してまで妹の為にエロゲーを買いに行かなきゃならんのだ?

 ふざけんなって怒鳴りたい気分だね。

 だけど“そういう理由”があるならミジンコ程度の気持ちだけど理解できなくはない。ちょっとだけ妹の為に時間を割いてやろうって気にもなるさ。 

 

「……で、そのエロゲー? すぐにやりたいの、おまえ?」

「え? あ、あったりまえじゃん! アリスプラスの新作だよ? きっと神ゲー。今すぐにでもプレイしたいに決まってるっしょ」

 

 大好きな物が手に入るかもしれない。

 光明が見出せたのがそんなに嬉しいのか、桐乃の表情が思い切り軟化した。というか輝きだした。

 

「買ってきてくれんの?」 

「ああ、分かったよ。買ってきてやる。――で、本当に付いてくる気なのか、おまえ?」

 

 タイトルさえ教えてくれれば十分だ。わざわざ兄妹揃って買いに行くこともないだろう。

 てか妹と一緒にエロゲー買いに行くなんて罰ゲームでも嫌すぎるだろ!

 そう思っていたのに桐乃の奴は

 

「うん。間違えたらシャレになんないから付いて行く」

「……マジか!?」

「なにその返事? あたしと一緒に出掛けるのがそんなに嫌なワケ?」 

「嫌つーか、妹と一緒にエロゲー買いに行くなんて拷問レベルの所業だろ! つーかさ、オマエは平気なのか?」

「あたしは……どうしてもそのゲームがやりたいし、嫌だけど、すっごい嫌だけど我慢してあげてんの! か、勘違いしないでよっ! それだけ早くエロゲーやりたいだけなんだから!」 

「おまえな……ああ、もうクソッ! へいへい、わーったよ。分かりました。一緒に連れてきゃいいんだろ、連れてけば!」

 

 半ばヤケクソ気味に叫びながら了承の意思を見せる。

 だってよ、反論しても無駄な雰囲気だし、これ以上文句を言い続けたらまちがいなく蹴りが飛んでくる。

 だけど勘違いってなんだよ。

 一緒にゲーム買いに行くだけだぞ。訳わかんねーって。

 

 だが、そんな俺の返事が御気に召さなかったのか、子供みたいなふくれっ面になる桐乃。

 しかし意中の物が手に入る喜びには代えられないのか、直ぐに機嫌を取り戻すや

 

「ふひひ。楽しみ。じゃあ三十秒で支度して!」

「はえーよっ!!」

 

 ほんっとうに傍若無人な妹様だぜ。

 兄の存在をいったい何だと思ってやがるんだ?

 けどさ、こんな妹の我侭に付きあってやる俺も相当なもんなんだろうなって、なんか他人事のように思っていた。

 

【挿絵表示】

 

 

 

 玄関を出て、門扉のところで待つこと暫し。

 

「遅えぞ、桐乃っ!」

 

 人には三十秒で支度しろとか言ってやがったくせに、こいつキッチリ三十分待たせやがった。

  

「女の子は準備に時間がかかんのっ」 

 

 準備だぁ? たかだが買い物に行くぐれーで入念にメイクしやがって。

 あいつに言わせりゃ「これでもアタシ読モだよ? ファッションに気を使うのは当然っしょ」くらいに考えてるんだろうが、待たされてる俺の身にもなれってんだ。

 

「うし。じゃあ、行こっか」

 

 そして隣に並んだ妹の第一声がコレですよ。

 待たせてごめんの一言もなし。

 いや、そもそも期待はしてなかったけどな。

 

「……」 

 

 俺は桐乃の姿を一瞥してから、スタスタと駅に向かって歩き出した。

 エロゲーを買うんだから当然行き先は秋葉原だろう。なのに桐乃が付いて来る気配がしない。おかしいなと思って振り返ってみれば、まだ玄関先でぽつんと佇んでいる始末。

 なにやってんだ、あいつは?

 

「おい桐乃。どうしたんだ? 秋葉原に行くんじゃないのか?」

「…………」

「なにか忘れ物でもしたか?」

「…………………………別にィ」

 

 フンっと不満気に鼻を鳴らしてからようやく桐乃が歩き出す。

 時々こいつは、何処にスイッチがあるのか突然不機嫌になりやがる。

 本当、我が妹ながらよくわからん奴だ。

 

 そんなこんなで俺と桐乃はエロゲーをゲットするべく秋葉原へ向かったのだが――なんとこのイベント、すんなりとゲームを買って終わりという訳にはいかなかったのである。

 何故なら、秋葉原でばったりと黒猫と沙織に遭遇してしまったからだ。

 

 

  

 



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第二話

 黒猫といったらどんなものを想像するだろうか。

 毛並みの良い愛らしい猫? それとも最近流行りのソーシャルゲーム?

 残念ながらどちらも違う。俺が黒猫と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、ある一人の少女のことだ。

 

 その女の子――本名、もとい人間としての仮初の名は五更瑠璃。

 

 黒猫とは、彼女曰く魂の名前。

 

 陶器のような透明感のある肌。切れ長で憂いを帯びた瞳。そして腰まで伸びた艶やかな黒髪。

 気品があり、楚々として、見目麗しい。

 正しく桐乃とは対極に位置するような純和風の美少女である。

 ただし、普通の服を着て黙って突っ立っていればと付け加えねばならないが。

 

【挿絵表示】

 

「……何かしら、その瞳は? あなた――とても失礼なことを考えているのではなくて?」

「気のせいだろ」

 

 黒猫の“紅い瞳”が俺を真っ直ぐに射抜いてくる。

 ちなみにコイツは純粋な日本人だ。その目が赤いのはいわゆるカラコンってやつだな。

 

「気の所為ですって? 納得のいかない答えね。さてはあなた“嘘”を吐いているわね。他ならぬ私の使い魔がそうだと囁いているわ」

「ドコにいんの、使い魔っ!?」

「三次元と四次元の隙間から常にあなたを監視しているの。だから――ククク、注意なさい。あなたの行動は常に私に筒抜けになっているのよ」

 

 ――フッと、妖しげな含み笑いを漏らす黒猫。

 

 お分かり頂けただろうか。

 彼女は絶賛“厨二病”を発症中である。誰もが通る道とはいえ、このレベルは傍から見ていると痛い。

 それを如実に現すように、黒猫の服装はゴシックロリータを体現したかのような漆黒のドレス姿である。通称ゴスロリ。しかも驚くことにこれは彼女の“私服”だそうだ。

 まあ、俺個人としては黒猫のこの格好結構気に入ってるんだけどさ。

 それに本当は心の優しい、友達思いの良い子だってのも知ってる。

 

 桐乃の友人であり、俺の友人でもあり、学校では先輩、後輩の関係に当たる。

 黒猫はそんな女の子だった。

 

「はは~ん。さては黒猫氏『あなたのこと(京介)が気になって気になって仕方ないから、常に見ているのよ』と仰りたい訳ですな? こんな可愛い妹に慕われて、いやはや京介氏も隅に置けませんなあ!」

「な、なな、何を言い出すのかしらこのぐるぐる眼鏡は? 妄言も程ほどになさいっ」

 

 極度のあがり症で恥かしがり屋の黒猫が、沙織の言葉に煽られて頬を赤く染めていく。

 実に可愛い反応だが、誰が誰の妹だって?

 黒猫か? もしかして黒猫のこと言ってんのか!?

 

「はっはっは! どうやら拙者の“翻訳”が思わず図星を突いてしまったようですな。半ば想像だったのですが……これは失敬、失敬! それと京介氏、拙者も黒猫氏もれっきとした年下。いわゆる妹キャラですぞ?」

「……だから?」

「萌えませんかな?」 

「俺、妹属性とか持ってないからね!?」

「またまた、心にもないことを仰る。京介氏のステータス画面にはシスターコンプレックスの項目が刻まれているではござらんか」

「どうやって見たの、俺のステータス!?」

「いやぁ~そこは企業秘密でござるよ」 

 

 と、豪快に笑い声を上げているのが、沙織・バジーナ(ハンドルネーム)である。

 典型的なオタクファッションに身を包み、背中にはリュックサックを背負い、顔には大きなぐるぐる眼鏡を装備している。

 大きな身長に似合って面倒見が良く、俺達はこいつに世話になりっぱなしだ。

 いつかその借りを返したいと思っているが、現在進行形で借りばかり増えていってる有様で、少しばかり申し訳なく思っている。

 もちろん、この沙織も俺と桐乃共通の友達であり大切な仲間だ。

 

 そんなやり取りを演じながらアキバのメインストリートを歩く。

 今この場にいるのは俺と黒猫&沙織の他に、もちろん桐乃の姿もある。だが先程からずっとムスっとした表情を晒しつつ押し黙ってやがるから、思わず存在を忘れそうになっていたところだ。 

 

 一応、現在の状況なんかを軽く説明しておこうと思う。

 俺と桐乃はエロゲーを買う為に秋葉原までやってきていた。

 出発時は何処となく不機嫌だった妹も、道中ですっかり機嫌を取り戻していて、ここに到着した時には、はしゃいでいると言っても良いくらいの上機嫌に変身していたものだ。

 兄妹揃っての久しぶりの秋葉原。ここ独特の雰囲気が肌に合うんだろう。

 

「う~ん、この空気! やっぱアキバは最高だよねっ!」 

 

 なんて言ってたっけ。

 そしていざゲームショップへ向かおうかと足を踏み出したとき、冒頭で紹介した黒猫&沙織に出会ったという寸法だ。

 この出会いは正しく偶然の賜物だが、二人とも桐乃の初めてのオタク友達である。

 文字通り悪態を吐き合うくらい仲が良い。

 特に桐乃と黒猫の関係は見ていて微笑ましく――本人達は絶対否定するだろうが、もう親友と言っても良い間柄だとさえ思ってる。桐乃がアメリカから帰って来た時、真っ先に空港まで向かえに来たのも黒猫だしな。

 

 そんなことを考えながら、横目でチラっと桐乃の様子を伺ってみる。するとやっぱり仏頂面を下げたまま歩いていた。

 何処で不機嫌スイッチが入ったのか分からんが、そうむくれるな妹よ。

 おまえは本当に良い友達を持ったと思うぜ。兄として嬉しく思う反面、羨ましく思うくらいだ。

 まあ桐乃と黒猫は互いにぶつかることも多が、喧嘩するほど仲が良いって昔から言うしな。

 

 そうこうしてると、何やら視線のようなものを感じたのでふと足を止めてみた。

 誰かに見られてるのか? と首を巡らせてみれば俺を見つめていた黒猫と視線が合ってしまう。しかも、さっき沙織にからかわれた影響が残ってるのか、少し頬を紅潮させたままの黒猫は……何ていうか、仕草が妙に色っぽく見えてしまうのだ。

 

「……な、何かしら。そんなに見つめられていると……先輩から新手のスタンド攻撃を受けているんじゃないかって、勘ぐってしまうじゃない」

「いや……別に。なんでも……ねえよ」

「……」 

 

 俺の答えが気に入らなかったのか、黒猫がプイっと横を向いてしまった。

 これで互いの視線が切れてしまったわけだが、何故だか妙に“意識”してしまう。

 自然と心臓が高鳴り、生唾を飲み込みたいくらいに喉が渇いてきた。

 黒猫の長い髪。フリルの付いた漆黒のドレス。そんな姿が目に焼き付いて離れない……って、な、なにを意識してんだ俺は。

 落ち着けって!

 そう自身に叱咤した時、思いもかけず“あの言葉”が脳裏に蘇ってきた。

 

『――“呪い”よ。あなたが途中でへたれたら……死んでしまう呪い』 

 

 耳たぶまで真っ赤にしながら伝えられた言葉。

 背中に添えられた手の感触。そして――

 今は何も触れてないのに、頬のある部分がカっと熱くなった気がした。

 その部分に指を伸ばし、そっと撫でてみる。

 

「く、黒ね――」 

 

 名前を呼んでみようか。

 そう思った次の瞬間――右足首のアキレス腱辺りに凄まじい激痛が走った!

 

 

 

「いってえええええええぇぇぇ――ッッッ!!!」

 

 ここが人通りの多いメインストリートなのも忘れて絶叫する。

 それくらい容赦のない蹴りだった。

 一体何処の誰がこんなことをしやがったんだ――と考え始め、僅か0,1秒で犯人を特定する。

 俺に対して全力で蹴りを放つ奴なんざぁ、この世に二人しかいねぇ!

 

「い、いきなり何しやがる、桐乃っ! アキレス腱を全力で蹴り上げるとか、歩けなくなったらマジどーしてくれんだ!?」

「フンッ! あんたが黒いのに“でれぇ~”としてるからでしょっ! サイッテー、マジ、キモイ! 妹の友達に欲情すんなっ!」

「よ、欲情なんかしてねーよ! ドコを見てたらそんな結論になんの!?」

「じゃあなんで顔赤らめてんの? どうせここがアキバだからってエロシチュとか妄想してたんでしょ! あ~キモイ!」

「し、してねーよ!」 

「してたじゃん、にやけ顔でさ。そうやってあんたは常々エロい妄想ばっか――――――って、ハッ!?」

 

 どうやら桐乃。喋りながら何事かを考えついたようだ。

 驚きの表情を張り付かせたまま、ジリジリと俺から距離を取っていく。

 

「ま、まさかアンタ……脳内妄想の中で黒いのにだけじゃなく、沙織や、あ、あたしにまでエロいことしてたんじゃないでしょうーね!?」

「はあ!?」 

「きっとあんたのことだから、拘束して縛ったり……無理やりエッチなコスプレさせたり、果ては嫌がるアタシたちに眼鏡を掛けさせたりして――」

「んな妄想してるわけねーだろーがっ!」

 

 そんな考え方するおまえの方がキモイつーの!

 っていうか、普段妹にどーいう目で見られてんの、俺!?

 ちょっと傷付いたわ! 

 

 そんな俺達のやり取りに、なんと黒猫が割って入ってきた。

 

「あら、居たのね、あなた。珍しく大人しいから置物が歩いてるか“沈黙の呪文”でも受けているのかと思っていたのに」

「はあ? いたのって……最初っからずっと一緒にいるじゃんっ! その言い方、マジむかつくんだけど……!」

「へえ“むかつく”ねえ。それは今の私の台詞に対してかしら? それともあなたの“兄さん”が私や沙織と親密になっているのが気に喰わない? ああ――当然それも含むのでしょうけど、本心は二人きりのところを邪魔されたのに腹を立てているのではなくて?」

「な――ッッ!」

 

 あろうことか、今度は桐乃と黒猫が喧嘩をおっぱじめやがった。

 ワナワナと桐乃の身体が震えている。

 怒りを堪えているのか、頬が急速に紅潮していった。

 

「大体あなたここまで何をしに来たのかしら? わざわざ“兄さん”と二人きりで」

「――げ、ゲーム買いに来たつったじゃん!」

「どうせ妹もののエロゲーでしょ?」

「なに、悪いの? あたしがエロゲー買ったら悪いの?」

「別に悪くはないわ。ただ、あなたがアキバまで直接エロゲーを買いに来るなんて珍しいなと思ったのよ。いつもはネット購入でしょ? もしかしてkonozamaでも喰らったのかしら? アッハッハ! だとしたら良い気味ね。あれほど密林の利用は計画的にと――」

「何言ってんの? あたしがkonozamaなんて喰らうわけないじゃん。今日買いに来たのは新作じゃなくって比較的新しいゲーム。残念でした。勘違いしないで」

 

 えっと、そこ重要なの?

 っていうか、このざまって何だよ? アニメ用語かなんかなのか!?

 時々だが桐乃達の会話には俺の知らない言葉が混ざることがある。

 ……今度ググるか。

 

「つーかさ、あんた達なんでコイツと仲良くなってんの? アタシがいない間になにかあったワケ?」

「痛ってーな、おい!」

 

 “コイツ”の部分で蹴りくれやがったぞ、このアマッ!?

 だが俺の文句など何処吹く風とばかりに無視して、桐乃が黒猫に詰めよって行く。

 

「そこんとこキッチリ、説明してもらうかんね」

「そう言われてもねぇ。私と先輩の関係なんて……どう伝えれば良いのかしら。うまく言葉には出来ないわ。ねえ“きょうちゃん”?」

「え? そこで俺に話し振る――!?」

 

 クスクスと含み笑いを漏らしながら、甘い声で黒猫が囁いてくる。

 てか絶対こいつ、今のこの状況を楽しんでやがるな。それに“きょうちゃん”て何だよ。

 お前の口からは初めて聞いたわ!

 

「……なに、あんた。この黒いのに“きょうちゃん”って呼ばせてんの? あーヤダヤダ! めっちゃキモいんですけど!」

「呼ばせてねーし! それから黒猫もあんまこいつをからかうなよ! 主に被害受けんの俺なんだぜ!? つうかさ……頼むから勘弁してください」

「――フッ。どうにも“久しぶり”だから、少し調子に乗ってしまったようね」 

  

 怒れる妹がゲシゲシと何の遠慮もなく俺のことを蹴っ飛ばしてくれる。

 もしかしてこいつ、兄のことをサンドバックか何かと勘違いしてんじゃなかろーな?

 由々しき事態だ。それとなく今度釘を刺しておこう。

 

「あー、きりりん氏。実はこれには訳がありまして────」 

 

 と、そこでようやく傍観者を気取っていた沙織が間に入ってくれた。

 

 そして雪解けのように解ける俺たちの誤解。

 簡単に説明すれば、桐乃がアメリカに行ってる間、俺のことを心配してくれた黒猫と沙織がちょくちょく遊びに来てくれていたのだ。

 その経緯もあって仲良くなった訳だが、桐乃から見たら、帰国したら突然自分の友達と大嫌いな兄貴が仲良くなってるわけだから、そりゃ気分が良いはずがない。

 友人思いの桐乃のことだ。

 どうせ黒猫や沙織が俺に取られたとか思ってむくれていたんだろう。

 口は悪いが、本当に黒猫や沙織のことは大事に思ってるからなぁ桐乃のやつ。

  

「……はあ。助かったぜ沙織。けどさ、出来ればもっと早く止めに入って欲しかったんだけど」

 

 これが消耗しきった俺の本心だ。

 もうちょっと遅ければ、俺のアキレス腱は断裂していたに違いない。

 

「いやはや、申し訳ない京介氏。あまりにも眩しい光景だったので、拙者、つい見惚れてしまいましてな」

「は? 見惚れてた?」

「ええ。失ってしまったかと覚悟した光景が戻ってきたのです。あまりにも嬉しくて――つい、見惚れてしまいました」

 

 そう言った沙織が、俺から黒猫、そして桐乃へと視線を移していく。

 

「改めまして――お帰りなさい、きりりん氏。拙者はきりりん氏と黒猫氏と京介氏の三人がいる光景が大好きなのですよ。もう二度と失いたくないと思うほどに」

「……なに言ってんの? 三人じゃなくて四人でしょ。ばかじゃん……」

 

 照れたようにそっぽを向く桐乃。

 だけどあいつの気持ちはよくわかる。それはきっと黒猫も同じ気持ちのはずだ。

 

「桐乃の言う通りだ。三人じゃない。そうだろ沙織?」

「……きりりん氏、京介氏」 

「よぉし! 今日はこの四人で限界まで遊び倒すか!」

「あら、あなたにしては良い提案ね。もちろん乗ったわ」

「……黒猫氏まで……」

「あ、その顔嬉しいんだ? あたし達と遊べるのが嬉しいんでしょ~? どうしよっかなー? これでもあたし忙しい身だしぃ~」

「は? 何言ってんだおまえ? これから家に篭ってずっとエロゲーやるつもりだったんだろーが」

「うっさい!」

 

 照れ隠しに桐乃が蹴りを放ってくるが、それを俺はひらりとかわしてやった。

 そうそう何度も蹴られてたまるかってんだ。

 

「……なに、その顔? なに得意気になってんの?」

「へ。別に~」 

 

 得意げにもなろう。

 だってよ、こうして友達と遊べて、この場所へ“戻って来れて”嬉しいのは桐乃も同じだからだ。

 そう思ったら、自然と頬の筋肉が緩んじまったのさ。

 

「……キモ」

「本当ね、気持ち悪いわ」

 

 って、ええ? 今黒猫にもキモいって言われた?

 ちょ……それはマジ凹むんだけど。

 

「あはは。拙者……拙者……実はとても良い店を知っておりまして。皆の心遣いに感謝し、拙者の知識を総動員して今日はとことんアキバを楽しんでいただきますぞ!」

 

 沙織が少し涙ぐんでいるように見えたのは、きっと気のせいだろう。

 その後の俺たちは、沙織の提案通りアキバを拠点にして遊びまくった。

 もちろん、色々とここの事情に詳しい沙織が大活躍だったのは言うまでもない。

 桐乃の欲しがっていたゲームも買えたし、当初考えていたよりも楽しい一日になった。

 帰る時にみんなが笑顔で別れたことは言うまでもないだろう。

 

 

 あと余談ではあるが、この日桐乃が買ったエロゲーを後日、俺が泣きながらフルコンプすることになるのは、また別の話である。

 ……言っとくけど、俺がやらせてって頼んだんじゃないからね?

 

 

 



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第三話

「ご相談があるんです、お兄さん」

 

 閑散とした公園の片隅に落ち着いた少女の声が響く。

 その声の主は、俺の目の前に立ちながら涼やかな表情を浮かべていた。

 

 彼女の名前は――新垣あやせ。

 

 桐乃の同級生であり、ティーン誌を飾るプロのモデルでもあり、一応は俺の知り合いに当たる人物だ。

 黒猫を桐乃の裏側(やましい意味じゃねえぞ)の親友とするならば、あやせは表側の親友ってところか。

 

「その台詞、何度目だっけな?」

 

 清楚で可憐な黒髪の美少女。

 性格は明るめで礼儀正しく、何事にもキッチリと線を引くタイプ。潔癖というべきか、融通が利かないというべきかは人によって感想が異なるだろう。

 ただ見た目だけならもう俺の趣味ど真ん中ドストライクで、彼女のことを“ラブリーマイエンジェルあやせたん”と呼ぶことに対して、俺は一切の遠慮も呵責も持ち合わせていない。

 ちなみにこのあやせと出会ってからというもの、エロゲーの最初の攻略ヒロインは黒髪ロングの娘からにするという不文律が、俺の中に出来上がってしまったのは言うまでもない。

 

「なんですか、その嫌そうな声は? わたし、まだ何も言ってませんけど?」

「あのね、お前と関わって大変な目に遭わなかったことないからね!?」

「……え? そうでしたっけ?」

 

 え? って自覚なしかよ、このアマァ!

 

「思い出すのも恐ろしい出来事が過去にいっぱいあったろーが!」

 

 文字通り思い出すのも恐ろしいので回想シーンはカットする。

 

「んー」

 

 ほっぺに人差し指を当てながら、可愛くちょこんと小首を傾げるあやせ。

 「そんなことあったかな?」と考え込む素振りは、まさしく俺のラブリーマイエンジェル。

 あやせたんマジ天使。

 

「着拒なら解除しましたよ、お兄さん」

「アレは加奈子の件でチャラだろ。正当な報酬つーか、等価交換だ」

「それは……そうですけど」

 

 あやせにしては珍しく言葉を濁し、言い淀むようにして視線を外した。

 はっきり言ってこの女は思ったことを口にするのを憚るようなタマじゃない。例えそれが俺への殺害予告だとしても笑顔でしれっと言ってのけるだろう。

 なのに、何なんだこの煮え切らない態度は?

 いったい何を企んでやがる?

 本能から危険を察知した俺は、思わず半歩だけ後ろへと下がっちまった。

 

「――――どうして後ろへ下がるんですか、お兄さん?」

「いや……怖いから」

「は?」

 

 想定外の台詞を受けて、あやせがキョトンと目を瞬かせる。

 呆気に取られたその表情を見て、どうやらこの場で俺を殺害する意思はなさそうだと胸を撫で下ろした。

 

「……んなことより、俺に何か相談があったんじゃねーの?」

「そ、そうでした。ですがお兄さん。その前に一つだけ訊いても良いですか?」

「訊くって何か質問でもあんの? ま、いーけどよ」

「大したことじゃないんですけど……お兄さん、どうして着拒されたことに半年も気付かなかったんですか?」

「え?」 

 

 これまた妙なことを訊きやがる。

 あやせはある事件の折に、俺のことを『近親相姦上等の変態鬼畜兄』だと誤解したままなのだ。とある理由からその誤解を解くことが出来ない俺は、こいつに嫌われまくってると思ってたんだが……。

 事実、出会う度にバカだのスケベだの変態だのと罵られてるわけで、挙句の果てには蹴りくれた上に死ねですよ?

 だから何の用もなしにあやせ宛に電話をかけるのは憚れたのだ。

 だけどさ、俺こいつのこと結構好きなんだよね。

 可愛いし。可愛いし。マジ可愛いし。

 それだけに着拒された件を知った時はショックでさ、往来でさめざめと大泣きしたもんさ。その場にいた麻奈美には鼻水まみれの顔見られるし、本当この世の終わりかと思ったね。

 

 そのあやせが何でわざわざ着拒の件を蒸し返す?

 

 まさか――この女!?

 

 その時、京介(俺)に電流走る。

 まさしく天啓だった。

 ある考えが脳裏に浮かんだ瞬間、俺の身体は指先一つに至るまで“その考え”に支配されちまっていた。思わず、握り込んだ拳がふるふると震えちまうくらいに。

 

「理解したぜ、あやせ。おまえには随分とおまえに寂しい思いをさせちまってたんだな。俺が悪かったよ」

「……あの、お兄……さん?」

「そうか。――そうだったのか。おまえ、俺のことが好きだったんだな!」

「え? …………えええええええぇぇッッッ!???」

 

 ズズいっと近寄る俺から今度はあやせが後退さった。

 ――フッ。全力で照れてやがるぜ。

 

「アレだろ? そんなこと訊くってことは、おまえ俺に電話掛けて欲しかったんだろ? 気付けなくてごめんな」

「ど、どうして今の話の流れからそういう結論になるんですか!? お兄さん、頭の中身大丈夫ですかッ!?」

「照れんなよ、マイハニー。今までの辛辣な行動はぜ~んぶ愛情の裏返しだったんだな。だけどもう大丈夫。万事オッケーだ」

 

 俺は両腕を広げ、極上の笑顔を浮かべながらあやせの元へとにじり寄って行く。

 きっとあいつからは、麗しの白馬の王子様が花束を持って自分を迎えに来ているような光景に見えているはずだ!

 

「ジュテ~ムッ! さあ、あやせ! これから二人で愛の逃避――――ごほあッッ!!」

 

 ハイキック……だとッ!?

 あの時に勝るとも劣らない一撃が、俺の顔面を側面から襲う。

 直撃を受けた俺は、大回転キリモミ状態となって空中を吹っ飛び、地面に落ちた後は砂塵を巻き上げながら転がっていく。

 

「……な、何をするんだ、あやせたん!?」

「あやせたん、じゃありませんっ! 突然発情して……ブチ殺されたいんですか、この変態ッ!」

「え? だって電話……」

「かけて欲しくなかったから着拒したんですっ! 当たり前じゃないですか! 質問したのは……その、少し疑問に思っただけで深い意味なんてありませんっ! ばか! エッチ!」

 

 顔を真っ赤に紅潮させながら怒鳴り散らすあやせ。

 罵詈雑言ここに極まれり。

 その姿を見ていると、とても俺のことが好きだとは思えない。つーか、好きだったらそもそも圓明流ばりの蹴りなんてくれないよね?

 

 ――ちっくしょおおおおおっっ!!

 

 普通はさ、あんな甘えたような声で『お兄さん、どうして私に電話してくれなかったんですか? ずっと……ずっと待っていたのに』なんて言われたら誤解するよな?

 俺のこと好きかもって期待しちゃうよな?

 

「……ぐ……うッ」 

 

 襲いくる走馬灯を必死に振り切り、痛む頬を押さえながら何とか立ち上がった。その僅かな時間を利用して、精神の均衡を平常まで持ってくる。

 簡単に説明すると、今の俺は幾分冷静になり、物事を多角的に見つめられる程度には回復したということだ。

 さっきの俺は一種の錯乱状態に陥っていたんだと思う。

 あやせに好かれてるかもしれない。そう考えた瞬間、あらゆるリミッターが外れたのだ。

 

「いきなり悪かったよ、あやせ。けど今の蹴りは流石に冗談じゃ……」 

「お、お兄さん! それ以上近づいたら、半径一メートル以内に近づいたら……鳴らしますから!」

「鳴らす……だって!?」

「これを見てくださいっ」 

「なあっ!? そ、それは――!?」

 

 あやせがこれ見よがしに突きつけている卵型の白い物体……って、それはいつぞやの防犯ブザーじゃねえか!

 手榴弾よろしくピンを引っこ抜けば辺りに爆音が鳴り響く代物である。

 ちなみにこの公園のすぐ裏には交番があったりする。

 アレが鳴らされるイコール俺の人生終了って寸法だ。

 

「やめろ、あやせ! 俺を……社会的に抹殺するつもりか!?」

「お兄さんがいけないんですよ! いつもいつもセクハラしてきて……。この前なんてわたしに、け、結婚してくれーなんて言って……迫ってきて」

「心配すんな。ありゃマジだ」

 

 ブウウウウウウウウ――ッッッ!!!

 

 途端、辺りに防犯ブザーの音が大音量で鳴り響く。

 この後俺が『ブザーの音を止めてくれ! おまわりさんが来ちゃうでしょ!?』と、あやせ様に対して泣きながら五体投地礼をしたのは語るまでもないだろう。

   

 

 

「……相談事というのは、桐乃のことについてなんです」

 

 図らずも騒ぎになってしまったので、少し場所を移すことにする。

 俺達は公園を出て、近くにある遊歩道の脇に据えられているベンチに座ることにした。

 

【挿絵表示】

 

「ま、そんなこったろーと思ったよ。おまえが俺に相談する事柄っていや大概は桐乃のことだしな」

 

 先に腰掛けていたあやせの隣に座りながら(自己防衛の為、若干距離は離れている)俺はさっき買っておいた缶コーヒーを差し出した。

 

「ほらよ」

「え?」

 

 俺の意図が掴めないとばかりに、あやせが目を丸くしている。しかし再度差し出された缶コーヒーを見てようやく合点がいったようだ。

 あやせは「ありがとうございます」と礼を述べながら、両手で缶コーヒーを受け取る。その際の仕草はすごく自然で、ありていに言えばめちゃくちゃ可愛かった。

 動作の一つ一つが絵になってるっていうか、一瞬マジでドキっとしたもんさ。

 

「で?」 

「……お兄さん。最近の桐乃、少し様子がおかしくないですか?」

 

 コーヒーを一口啜ってから、あやせが今日の本題を切り出してきた。

 

「そうか? 別に普通だと思うけどな」

「その普通なのがおかしいんですよ」

 

 あやせが横を向き、俺に視線を合わせてくる。

 身長差があるからか、あやせが丁度俺を見上げるような格好になった。

 

「ほら、桐乃ってアメリカに行ってたじゃないですか。でも留学途中で帰ってきてしまった。――ああ、勘違いしないでくださいね。私は桐乃が帰ってきてすごく嬉しいんです。もう二度と離れ離れになりたくないって思ってます。でもそれとは関係なしに、目的を果たせなったことは辛いんじゃないかなって……」

「目的、か」

「……その為の留学だったはずですよね?」 

「ま、言いたいことはわかるけどよ……」

「桐乃、すっごく優しい子なんです。友達思いで頑張りやで、それでいて弱音一つあげない強い子で」

 

 あやせに言われるまでもなく、そんなことは俺が一番良く分かってる。

 あいつは人一倍頑張るくせにその努力を他人には見せたがらない。勉強だって、スポーツだって、優秀なのには訳がある。その成果もあって俺なんかじゃ足元にも及ばないスゲー妹になっちまったが、辛い事は辛いし、その事で心が痛くない訳じゃないんだ。

 あいつだって……まれに泣くことはある。

 

「だから、本当は辛いのにわたし達のことを思って無理してるんじゃないかって。泣きたいのに我慢してるんじゃないかって、そう思ったんです」

「まあな。おまえの言う通り普段のあいつならそうするだろうよ。けどなあやせ。今回は本当に違うんだ。なんつーか、うまく言えねえんだけど、今の桐乃は無理もしてないし我慢もしてない。見てくれ通りのあいつだと思う」

 

 実際、俺も不思議だった。

 だって無理やり俺が連れ帰った格好になるんだぜ?

 大金叩いて留学したのに俺が全て台無しにしちまった。桐乃はその事に対して絶対に恨み言は言わないだろう。だけど昔みたいに言葉も交わさない冷戦状態に戻っちまうかもって覚悟すらしてたんだ。

 あの時は“ああ”するのが最善だと思ったからそうしたし、そのこと自体は後悔しちゃいない。

 なのに、拍子抜けするくらいあいつは以前のままで――いや、ちょっとばかり優しくなったような気さえするくらいだ。

 伊達に生まれてからずっと兄妹やってる訳じゃない。

 だから、今あやせが何を考えているのか、大体は把握できる。

 

「心配すんなよ、あやせ。桐乃なら――あいつなら大丈夫だ。少なくとも今回のことに限って心配はないはずだ」

「本当、ですか?」

「ああ。逆にあっちで無理してたんだよあいつ。――弱音を吐いたら今まで勝ってきた人達に申し訳ないってな。んで無理して、体調崩して、遅れた分を取り戻そうとしてまた無理してさ。だから俺は連れて帰ってきた。それがあいつの為になるって思ったからな」

 

 それだけが“桐乃を連れ帰った理由”じゃないが、選択は間違ってないって思ってる。

 

「結局さ、あいつも自分なりに納得した上で帰ってきてんだよ。だからあやせが心配してるよーなことはない……と思う」

「……だと、良いんですけどね」

 

 苦笑いのような微妙な表情を浮かべてから、あやせがすっと視線を上げた。それに釣られて俺も空を見上げてみる。

 夏を目前にした空には雲ひとつなく、晴れ晴れとした光景が何処までも広がっていた。

 まるで目的に向かって突き進むあいつのように、澄み切った青空が。

 

 ――ああ、眩しいな、ちっくしょう!

 

 あやせは本当に桐乃のことを心配して俺に相談しに来たんだろう。

 ちょっとばかり思い込みの強いところがあるけど、あやせは桐乃のことを一番に考えてくれている。

 こういうのを親友って言うんだろうが――黒猫といい、あやせといい、本当に桐乃は良い友達を持ったよ。

 

「……」 

 

 それからしばらく視線を上げていたあやせだったが、一度大きく頷いてから俺へと目線を戻してくる。

 

「わかりました。お兄さんがそこまで言うなら信用することにします」

 

 柔和な微笑みに、もう翳りの色は見られない。

 

「そっか。役に立てたか、俺?」

「少し、ですけどね。話して良かったって思いましたよ。なんて言いますか、お兄さんでも役に立つことあるんだなって」

「うっせえ」 

「フフ。それじゃお兄さん、わたしそろそろ行きますね」

 

 今日の目的を達成したあやせが、すっくとベンチから立ち上がる。

 そして数歩分歩いてから――くるりと俺の方向へと振り返ってきた。

 

「どうした? 忘れもんか?」

「いーえ。もう一つ相談事があったのを思い出したんです」

「ま、マジで!?」

「もう、そんなに驚かないでください。ちょっとだけ傷つきましたよ?」

 

 あやせが心外だとばかりにぷうっと頬を膨らませる。

 けどすぐに表情を軟化させると

 

「お兄さん。桐乃を見ててあげてください。気にかけてあげてください。さっきの相談と被るんですけど、まったく無理してないってことはないと思うんです。悔しいけど、桐乃の一番近くにいるのはお兄さんですから」

 

 それからあやせは自身のスマホを取り出して

 

「ですから、桐乃に変化を感じたら私に教えてくださいね。どんな些細なことでも結構ですから」

「それってさ、おまえに電話かけてもいいってことか?」

「……イヤですけど、我慢します。これも桐乃の為ですから仕方ありません」

 

 照れたように目線を外すあやせ。

 正直、俺は桐乃のことなんかどーでもいいんだけどよ、あやせにこうまで言われたらイヤとは言えねえ。

 俺は軽く頷いて了承の意思を示してやった。

 

「分かったよ。ちょくちょく連絡する」

「ち、ちょくちょくなんて言ってませんっ! あくまで……定期的に連絡してくださいって言ってるんです!」

 

 べーっだとばかりに可愛く舌を突き出してから、あやせは“今度こそ行きます”と、駆け足でこの場を去って行った。

 そんな彼女の後姿を視界の隅から消えるまで追っていく。

 そして完全に見えなくなってから立ち上がり――ふと気になって自分の携帯電話を取り出してみた。軽く指先で操作し、アドレスからある番号を呼び出してみる。

 

「…………ま、いっか」

 

 少し迷った挙句、俺はパタンと携帯を折りたたみ、やや乱暴にポケットに仕舞い込んだ。

 どうせこれから顔を付き合わせるんだ。

 態々電話することもないだろう。

 そう思った俺は、手にしていたコーヒーの空き缶をゴミ箱へ投げ捨ててから、家路に着くために歩き出した。

 

 

    



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第四話

「あれ、閉まってるぞ」

 

 いつもなら自動で開くはずの扉が開かない。

 

 ――おかしいな。

 

 そう思った俺は、透明な扉越しに中を覗き込んでみる。

 普段なら蛍光灯で明るく照らされた室内の光が、玄関口まで零れてきているののに、今日は何故か薄暗い空間が見えるだけだ。

 まだ閉館時間前のはずなんだが……。

 

「あ、見てきょうちゃん。えっとね~、空調設備の工事がありますので、本日は午後三時を持ちまして閉館いたします。だって~」 

 

 ゆる~い感じで語りかけてきたのは、俺の幼馴染である田村麻奈実だ。

 ショートボブと眼鏡がトレードマークの女の子。だけどそれ以外特筆するべきところもなく、天然ぽい性格を除けば、何処にでもいそうな普通の女子高校生である。

 その麻奈実が自動ドアの脇に張ってあった紙を見つけ、残念そうにまなじりを下げた。

 

「これじゃぁ今日の勉強会、出来そうにないねぇ」 

 

 そうなのだ。

 こう見えて俺も受験生なので、放課後なんかに麻奈実と一緒に勉強会を開いたりする。

 別に妹とエロゲー買いに行ったり、黒猫や沙織とアキバで遊んだり、あやせたんと乳繰り合ってばかりじゃないんだ。

 そこんとこ大事なんで勘違いしないように。

 今日も麻奈実に勉強を見てもらおう――じゃない、一緒に勉強しようと図書館までやって来たってのに、タイミングが悪いぜ。

 

「さて、どーすっかなー」

 

 図書館での勉強会なんて俺達の間では既に恒例行事なのだが、臨時工事で早仕舞いしてるとは想定外だ。夏が近いこの時期だと、さすがに外でやる気にはならねーし。

 ここは静かな空間&冷暖房完備という実に素晴らしい環境を備えてんだが……どっか他にいいとこねーかな。

 そんなことを考えていたら、クイクイっと袖が引っ張られてることに気付いた。

 

「なんだ、麻奈実?」

「えっとねー、よかったら、家に……来る?」

 

 少しはにかんだように相貌を崩しながら、麻奈実が俺に代替案を提出してくれた。

  

【挿絵表示】

 

 

 

 そんなこんなで、俺達は連れ立って麻奈実の家に向かうことになった。

 ちなみに麻奈実の家は“田村屋”という和菓子屋さんを営んでいて、俺も小さい頃からよくお呼ばれしている。だから女の子の家に向かうからって変な緊張もしなければ、遠慮も発生しない。

 麻奈実の家族とも顔馴染みだしな。

 

「ただいま~」

 

 店は営業中なので、二人して勝手口から回り込んで家の中に入った。

 ちなみに店内で飲食することもできるので、よく買い物帰りの主婦さんなんかが、連れ立って井戸端会議に花を咲かせていたりもする。

 客層はお年寄りから若い女の子まで。本当、幅広い層に親しまれているのだ。

 

「お邪魔します」 

 

 後は勝手知ったる他人の我が家。

 俺は挨拶もそこそに靴を脱ぐと、板張りの廊下を麻奈実と並んでお茶の間まで歩いて行った。

 

「じゃあ、わたしお茶淹れてくるね~。きょうちゃんは座ってまっててー」

「あいよ」

 

 今時珍しい障子を開いてから、俺はカバンを部屋の隅に壁掛けにする。それを認めてから麻奈実が部屋を出て行った。

 すると、ちょうど入れ替わるようなタイミングでロックの奴が部屋に入って来た。

 

「お! あんちゃん、来てたのか!」

「ようロック! 相変わらず元気そうだな、このハゲは」

「元気も元気、超元気よ! 人生における新しい目標もできたしな!」

「目標? そうか。お前、定着したニックネームの変更諦めてなかったんだな」

「違う、違うって。俺さ高校入ったらバイトして、金溜めて、ギター買うんだぜ! えっへっへ。それまでは琵琶法師で我慢してやらあ!」

 

 そう言って、べべんっと何処から取り出したのか古風な三味線を弾いてみせるロック。

 って、こいつまた腕をあげやがったな。

 この威勢の良い小坊主は麻奈実の弟であり、俺にとっても……まあ弟みたいなもんだ。

 ちなみに俺が呼んでいるロックという名はこいつの本名じゃない。いわゆる魂に刻まれたソウルネームである。

 

「ふふ。相変わらず仲良いねぇ~」

 

 そうこうしている内に麻奈実がお盆を抱えて戻ってきた。

 廊下を通して俺達のやり取りが聞こえてたのか、クスクスと面白そうに笑っている。

 

「はい、どうぞ、きょうちゃん」

「サンキュー」

 

 麻奈実が俺の前にお茶を置いてから、すっと隣に腰を下ろした――と思いきや、ぽんっと拍手を打つと、再び立ち上がってしまう。

 

「どうした、麻奈実?」

「どうせならお茶菓子もあったほうが良いよね~。あのね、昨日作った新作があるんだ」

 

 再びパタパタと足音を鳴らしながら部屋を出て行く幼馴染。

 性格に似合わず忙しい奴である。

 すると突然、麻奈実が出て行ったのを見計らうようなタイミングで、テーブルの下から怨嗟のような低い声が響いてきやがった。

 

「――もう、素直にうちの婿になっちゃいなよ、きょうちゃん~」

「のわっああああっっ――!!?」

 

 テーブルの下から不気味に顔だけ突き出しているのは……なんと、麻奈実ん家の爺ちゃんだった。

 想定外な登場の仕方に、何処かの怨霊が化けて出たのかと思ったぜ。

 

「ど、どこから顔出してんの!?」

「ふっふっふ。きょうちゃんが来るのが分かったんでな。ここに隠れて驚かそうとしたんじゃ。どうじゃ? 驚いたじゃろ?」

「……心臓が止まるかと思ったッスよ」

「うっし! 爺の勝ちぃ! まあちょっとした年寄りのお茶目じゃな。――テヘッ」

 

 テヘッの部分で舌を突き出す爺ちゃん。

 かわいこぶりやがってこのジジイ…………殴りてええええええええええええええっっっ!!!  

 

「なにがお茶目ですか。それとお爺さん、きょうちゃんは高坂家の長男ですからねえ。どうせなら麻奈実に嫁に行ってもらいましょう。ほっほっほ」

 

 と、朗らかに響く優しい笑い声。

 俺が握った拳を解くべく、軽く瞑想しようとしていたら、麻奈実と一緒になって婆ちゃんまでもが茶の間に現れてしまった。

 

「何を言うとるんじゃ? 麻奈実の婿にといつも言う取るのはおまえさんの方じゃないか?」

「あたしは“どちら”でも構わないんですよ。きょうちゃんさえ良かったらねえ」

「まあなあ。もう家族同然みたいなもんじゃし、確かにどっちでも一緒かのう」

 

 フフフと顔を突き合わせて笑いあう爺ちゃんと婆ちゃん。

 ったくよぉ。

 この人たちは隙あらば俺と麻奈実をくっつけよーとしやがる。家に行く度に揶揄されるから耐性が出来つつあったんだが、最近は来る回数も減ってたのも手伝って……なんつーか、ちょっとばかり照れちまう。

 それは麻奈実も同じだったのか、部屋の隅からカバンを拾って俺に手渡すと

 

「もう~! こ、ここだと落ち着いて勉強出来そうにないから……私の部屋行こっ! きょうちゃんは先に行っててぇ」

 

 そう言いながら、俺の背中に手を添えて、ずいずいと部屋の外まで押し出して行く麻奈実。

 先にってことは、たぶんお茶菓子なんかを持って後から来るつもりなんだろう。そう思った俺は、麻奈実の言いつけ通り先に部屋まで行っておくことにした。

 

 

 

 コチコチコチと時計の奏でる音だけが室内に響いている。

 時折問題に関して質問したりするが、基本的に勉強中はあまり喋らない。俺も麻奈実もこういう時間を苦痛に感じない性質なんで、穏やかに時間だけが過ぎていく。

 勉強を始めて二時間くらい経った頃だろうか。麻奈実がペンをテーブルに置いて、腕を上にぐーと伸びをし出した。

 

「きょうちゃん。ちょっと休憩しようか」

「お、いいね。ちょうど疲れてきてたとこだよ」

 

 気心の知れた幼馴染同士。言葉は短くても意図しているところは伝わるってもんだ。

 その後麻奈実にお茶を淹れなおしてもらってから、二人して一口啜り、ほうっと息を吐いた。

 

「……はぁ~。こうしていると何だかほっとするねぇ~」

「相変わらず婆ちゃんみたいな奴だな。お茶飲んでほっと一息ってか?」

「違うよ~。きょうちゃんと一緒にいるとほっとするって言ったんだよぉ~」

 

 軽くほっぺを膨らましながら、ぽこぽこと叩いてくる麻奈実。

 これはこいつなりの怒りのポーズだが、どこぞの妹と違ってまったく痛くない。 

 

「まあ俺もおまえと居るとほっとはするな。なんつーか、こう田舎に帰って来たみたいな」

「えー、それって喜ぶべきなのかなぁ……どうなんだろ?」

「なんで? 同じ意味じゃん」

「男の子と女の子だと、ちょっと意味合いが違ってくるの!」

「そういうもんかね」

 

 他愛の無いお喋りが続く。

 麻奈実との間に流れる時間はいつもこんな感じだ。特別なイベントも起きなければ、怒鳴ったり喧嘩したり、ましてや本気で殴り合ったりすることなんてありえない。

 ただそこにいるだけで安心できる存在。いつも傍にいるのが当たり前のような。

 そんな関係がずっと昔から続いているんだ。

 

 ――けど、いつまで続くんだろう?

 

 ふと、そんなことを思った。

 考えることに意味はないと思いながら、思い描く。

 いつまで続けていられるんだろう。

 俺も麻奈実もいつまで“ここ”にいられるんだろうと。

 きっとこの場で幾ら考えても“答え”は出ないんだろーな。

 俺は今の関係に満足してるし、麻奈実もたぶんそうだと思う。出来ればずっと続けていきたい。そう思うくらいに居心地が良いのだ。

 そんな取り留めもないことを考えていたら、麻奈実がぽつりとこんな言葉を口にした。

 

「ねえ、きょうちゃん。一緒の大学に行けるといいねぇ」

「――そうだな。一緒の大学に行きたいもんだ」

 

 その為にも今は勉強しないと。

 俺は新たに気合を入れなおし、その証とばかりに軽くガッツポーズを取ってみる。

 

「うっし! じゃあ再開すっか!」

 

 それから勉強を続けるべくペンを手に取り、ノートに目を落とす。

 当然麻奈実もそうするだろうと思ったが、こいつはペンを取らずに逆に立ち上がってしまった。

 

「どうした?」

「ねえ、きょうちゃん。今日、晩ご飯食べていくよね?」

「え? もうそんな時間か?」

「うん。わたし色々と支度があるし……お婆ちゃんを手伝わないと」

「そっかー」

 

 チラっと時計を見てみたら既に夕方の6時を過ぎていた。

 高坂家では午後7時に食卓に付いていないと、問答無用で夕飯を抜かれてしまう鬼の仕来たりがある。事前に連絡入れてりゃ別なんだが……さて、どうすっかなー。

 今から帰れば余裕で時間には間に合う。間に合うが……正直、お袋の作る料理より麻奈実の作る飯の方がウマイんだよねー。

 もうちょっと勉強を続けたい気持ちもあるし、今日はこのまま田村家でご馳走になろうか。

 そんなことを悩んでいたら、戸口に立ったまま麻奈実が喋りかけてきた。ちなみにこっちに背中を向けていたので、あいつの表情が見えない。

 

「それとも……いつかみたいに……と、泊まっていく?」

「なっ!?」

「わたしは、良いよ」 

 

 俺と麻奈実は幼馴染だけあってよくお互いの家を行き来していた。

 お泊り会つーの? そういう行事も日常茶飯事だったのだ。けれど勿論それも子供の頃の話である。

 お互い大きくなってからはそういう出来事も無く、去年数年ぶりに俺が一泊したのが記憶に新しいくらいで……って、そういやあの時、何故だか桐乃が激怒しやがってよ。帰ってから宥めるのが大変だったぜ。

 別に何処で飯を食おうと俺の勝手だし、殊更気にする必要はねーんだが……。

 

「…………わりぃ麻奈実。ちょっち電話するわ」

 

 一言断ってから携帯を取り出して、相手を呼び出し――コールする。

 プルルルルル……ガチャ。

 何とワンコールで出やがった。

 

『なに?』

 

 この不機嫌な声は妹の桐乃である。

 って、あれ? 

 おかしいぞ。晩ご飯はいらないよって家に電話しようとしたはずなのに――なんで桐乃にかけてんだ?

 

『なに黙ってんの? イヤがらせ?』

「い、いや。違う。ちょっと連絡があったんだ」

 

 まあ、間違えちまったもんはしょうがねえ。桐乃からお袋に伝えてもらうってのもアリだろう。

 だけど何を察したのか、桐乃の方から詰問が飛んできた。

 

『ねえ、あんた。今ドコにいんの?』

「は?」 

『何・処・に・い・ん・の!?』 

「……麻奈実ん家だよ。それで今から――」

『はあ!? 地味子ンとこって……ちょ、マジ!? なんでそんなトコにいるワケ?』

 

 俺の言葉を遮るようにして桐乃が叫ぶ。

 その一方的な物言いに、つい俺もカチンときちまった。

 

『二人で何してんの? セツメイ』

「勉強してただけだっつーの! っていうか麻奈実をそう呼ぶなっつーたろーが!」

『……チッ! あんたはそうやってすぐあの女の味方してさぁ。めっちゃウザいんですけどォ』

「味方とかそんなんじゃねーよ。お前こそいきなり何怒ってんだ? 訳わかんねーよ」

『ど、どうせあんた“また”その女のトコに泊めてもらう気でしょ? マジ ウザイ!』 

「またって何だよ? つーかさ、俺が誰の家に泊まろうがお前には関係ない話だろーが。違うか?」 

『うっさい! 黙れ! しゃべんな! ムカツク!』

 

 なんなんだコイツ?

 てか、何でオレ桐乃と喧嘩になってんだ?

 

『……何で黙ってんの? 無視する気?』

 

 お、お前が黙れつーたんだろーが!!

 マジ頭にくるぜ、このアマはよぉ……!

 俺はギリっと音がするぐらい歯を食い縛り、携帯を強く握り締めてから……

 

「………………今から帰るから。俺の分の夕飯も用意しててくれってお袋に伝えてくれ」

『はあ? そんなことで電話してきたのあんた? ばかじゃん?』

「時間的に家からかかってくるかもって思ったんだよ。……じゃあな。用件はそれだけだ」

『……本当にそれだけ?』 

「そーだよ。文句あっか?」 

『――フン! べーっだ!』

 

 プチ。通話終了だ。

 しかし桐乃の奴、あれだけ怒ってたくせに最後だけ妙に声音が落ち着いてたな。言葉だけを見るとそーでもねーけど。

 

「……つーわけだ麻奈実。悪いけど帰るわ」

 

 携帯をポケットに直しながら麻奈実を振り仰ぐ。

 すると、こっちに向き直っていた麻奈実はふにゃっと相好を崩し

 

「うん。それなら仕方ないね。きょうちゃん。また今度食べにきてね~」

 

 菩薩のような笑顔で頷いてくれたのだった。

 

 

 

「……ただいまぁ」

 

 披露困憊した身体を引きずって、玄関からリビングへと直接顔を出す。

 すると、お袋が一番に俺を迎えてくれた。

 

「あら? 京介? あんた田村さん家でご飯食べて来るんじゃなかったの?」

「――へ?」

「桐乃がそう言ってたんだけど……だからあんたの分ないわよ?」

 

 そう言うお袋がテーブルに用意していたのは――――なん……だとッ!? 

 馬鹿な!? 高級感のある漆塗りの桶が三つ。

 ありゃ回らない寿司屋の特上握りセットじゃねえかあああああああああっっっ!!

 

「今日ねぇ夕飯作る時間がなくってさぁ……だから浮いたあんたの分を上乗せして特上にしちゃった。てへっ!」

 

 てへっじゃねええええええ!!

 桐乃の野郎……どういうつもりだ。俺は確かに夕飯を食うって言ったのに!

 

 結局俺の夕飯はカップめんに化けることになる。

 隣で美味そうに寿司を頬張る桐乃が悪魔に見えた瞬間だった。

 つーか、俺が何か悪いことしましたか、神様?

 ……ああ。こんなことになるなら麻奈実ん家で夕飯ご馳走になってりゃ良かったぜ。

 そう思って血の涙を流しても全て後の祭りであった。

 

 ――くそ、腹、減ったなぁ……。

 

 

 



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第五話

「どうかしら。シナリオとか評判の悪かった箇所を改善したから、多少遊びやすくなっていると思うのだけれど」

「……んー、そうだなー」

 

 カチカチっとマウスをクリックして、モニターに表示されているテキストを読み進めていく。

 今俺がプレイしているのは『強欲の迷宮』というパソコンで遊ぶタイプのゲームだ。ジャンルで言えばRPG要素を加えたノベルゲームになるんだが、なんと製作者の一人はここにおわす黒猫である。

 

「正直に言っていいか?」

「ええ。構わないわ」 

「――何処が変わったのか、サッパリ分からん」

「……でしょうね」

 

 残念そうというより、最初から期待してなかったわといった感じで溜息を吐く黒猫。

 ちなみにこのゲーム。『かおすくりえいと』というゲームコンテストで堂々“ベスト・オブ・クソゲー”という認定を頂き、更には某巨大掲示板にアンチスレまで立ったといういわくつきのゲームなのだ。

 

「……気ぃ悪くしたか?」

「別に。手を入れたといっても大幅に変更したわけじゃなし、最初からあなたには期待してないわ」

 

 ほらな。

 そう言いながら黒猫は、ベッドにうつ伏せになったまま、目の前にあるノートパソコンに指を伸ばしていった。

 

 説明が遅れたが、ここは俺の部屋である。

 以前学校の部活で作ったゲームに改良を加えたというので、黒猫と一緒にプレイする為に学校から直接俺の部屋に寄ったという訳だ。

 なので、お互い制服姿のままゲームをプレイしている。

 といっても俺は机の前に陣取りデスクトップで遊んでいるし、黒猫は定位置(俺のベッド)で寝転び、こっちのプレイに追従する形でテキストを眺めているだけだ。なので、一緒に遊んでいるという感じがまったくしない。

 こんなんで楽しいのかねー。

 俺は楽しいというより、ぶっちゃけると少しばかり緊張していた。

 だってさ、黒猫と部屋の中で二人きりなんだぜ?

 おかげでゲームをしながらでも、大部分の意識はベッドの方向を向いている始末だ。

 

「……やはり、もっとどぎついバッドエンドを増やしたほうが良いのかしら」

 

 その黒猫だが、ベッドにうつ伏せになったまま胸の下に俺のマクラを敷いて、頭の先にノーパソを配置するという格好でくつろいでいやがる。

 足をぷらぷらさせて、鼻歌まで歌いそうな雰囲気に見えた。

 繰り返すが、ここは俺の部屋だ。

 家の中にお袋がいるとはいえ、部屋の中で二人っきりっだっつーに……えらいリラックスしてやがるな、こいつは。

 学校からの帰り道はお互い意識してたのかあんまり会話が弾まなかったのに、室内に入った途端……というより、俺のベッドに横になった途端、雰囲気が変わったのだ。

 まったく、女の子というのはよく分からん。

 

「けどさぁ、おまえってまだこのゲームに手を入れてたんだな。やっぱ愛着があんのか?」

「ないと言ったら嘘になるわね。初めて“共同”で作ったゲームなのだし……。それにこの前、あの子と話して『強欲の迷宮』の改善案を出し合ったのよ。世間ではクソゲー認定されてしまったけれど、改善点があるのなら少しでも良いものにしたい。そう思ったの」

「そっか。色々考えてんだな」

「まあ、あの子としてはさっさと黒歴史にしてしまって、新しいゲームを作りたいのでしょうけど、もう少しだけ付き合ってもらうわ」 

 

 フフっと楽しそうに笑う黒猫。

 一緒にゲーム作りが出来る友達が出来て嬉しいんだろうな。

 ちなみに黒猫の言うあの子とは、ゲームのもう一人の製作者である赤城瀬菜のことだ。

 

 赤城瀬菜――黒猫のクラスメイトで俺の後輩。んでもって同じ部活の仲間でもある。

 

 眼鏡を掛けた委員長タイプの娘を想像してもらえば分かりやすいが、特性を一言で言ってしまうならば超の付く変態だ。

 当初は黒猫との折り合いが悪く、事ある毎にぶつかり合っていたのだが、今では良い友達になっているようで一安心である。

 その瀬菜の兄貴に赤城浩平という奴がいるが、俺と違って重度のシスコン野郎なので、あろうことか実の妹を溺愛していた。

 ――『瀬菜ちゃん可愛いねー! 瀬菜ちゃんはいい子だねー!』ってなもんだ。

 俺にとっちゃぁ気心の知れた悪友だが、そこだけは本当理解できないね。

 

「ねえ、先輩。ちょっとこのシーンを見てほしいのだけれど」

 

 寝転んだままの姿勢で首だけ傾け、自分の隣をぽんぽんと叩く黒猫。

 そのジェスチャーの意味するところは――もしかして隣に寝転べってことっスか、黒猫さん。

 実はこうして俺の部屋で黒猫とゲームをするのは初めてじゃない。というか、強欲の迷宮の製作には俺も携わっていた(大したことはしてないが)ので、並んでプレイしたこと事態はあるのだが……。

 

「……どうしたの? こうしてプレイするのは初めてではないでしょう?」

「いや……そう言われてもな」

 

 想像していただきたい。

 ここは俺の部屋で、俺のベッドに横になってる年頃の女の子が隣に寝そべれという。

 それが意味するところは、黒猫と並んで――顔を付き合わせてゲームをするということだ。

 正直言って照れるし、なんつーか、恥ずかしいなんてもんじゃねえ。

 それに“以前”とは決定的に違うことが一つだけあった。

 

「あら、柄にもなく照れているのかしら先輩? それとも“兄さん”と呼ばないと一緒に遊んではくれないの?」

「ちょっ、おま――ッ!?」

「ねえ、兄さん。私と一緒にゲームをやりましょう?」

  

 いつかそう呼んでいた時のように“兄さん”と呼ぶ黒猫。その声はしっとりとしていて、妖艶な響きを持っていた。

 寝そべったままの姿勢でしなを作り、流し目を寄越し、濡れた舌で唇を舐める。蠱惑的な色を滲ませながら微笑む黒猫は――年下の女の子とは思えないほど色っぽかった。

 そんな黒猫の仕草が俺の視線を釘付けにし、心臓を鷲づかみにして離さない。手には変な汗が滲んでくるし、どうにも落ち着かない気分になってくる。

 けどな、一連の行動を見て確信したことが一つだけある。

 それはコイツはこうやって俺をからかって、あたふたする反応を見て楽しんでやがるんだろうということ。黒猫なりの冗談、遊びなんだろうけど……本当、時と場所を選べってんだ!

 俺が“勘違い”したらどうする気だよ。

 しかし、からかわれてるんだと分かったらちょっとだけ心が落ち着いた。気持ちにも幾分余裕が出てくる。

 俺は椅子から立ち上がり、少しの距離を歩いてから、そっとベッドの脇に腰を下ろした。

 

「……これでいいのか?」

「…………」

 

 返事はなし。

 黒猫はディスプレイに視線を戻していてこっちを見ていなかった。仕方ないので、俺も身体を伸ばしディスプレイの前まで顔を突き出すことにする。

 そうすることで、俺と黒猫の顔が至近距離で並ぶ事になった。

 

「――あ」

 

 そこで初めて気付く。

 黒猫は耳まで真っ赤にしながら、唇をきゅっと強く結んでいた。

 

「黒……猫?」

 

 俺の声に応え、彼女が振り向く。

 紅潮した頬。そうして、俺と黒猫の視線があった。

 いつもの紅い瞳ではなく、彼女が本来持っている漆黒の瞳。その目を見た瞬間、以前黒猫が俺にかけた“呪い”のことがフラッシュバックする。

 頬に触れた柔らかい感触。

 あのとき感じた熱いものが再び胸の内に蘇り、俺の心を占拠していって――

 

「えっと……」 

「……先輩。あ、あの女は……いつ頃戻って来るのかしら?」

「あ、あの女? 桐乃のことか? 確か仕事のうち合わせがあるから遅くなるかもって言ってたけど……」

「そ、そう……。遅くなるの……」

 

 心なしか、黒猫の瞳がうるんで見える。

 ――や、やべえぇぇ。

 思考が一直線になってやがる。どうにも視界いっぱいに広がる黒猫のことしか認識できてない。

 落ち着け! 落ち着けよ、俺!

 黒猫は……こいつは学校での後輩で、桐乃の友達で、俺の……俺の……なんだ?

 脳裏にこれまでの情景が浮かんでは消え、また浮かんでは消えていく。何か喋るべきなのは分かるんだが、言葉がうまく口を吐かない。

 

「あ、えと、く、黒猫……?」

「……な、なにかしら?」 

「その、さ。このまえの……ことなんだけど――」 

 

 そこまで口にした時、まるでそれ以上語らせないとばかりに、玄関から黄色い声が響いてきた。

 

 

 

『ただいまー。外、ちょー暑かったよねぇ。部屋に行ったらすぐ冷房入れるから』

「き、桐乃っ!?」

 

 玄関から聞こえてくる妹の声を聞いて、反射的にガバっと身を起こしちまった。

 黒猫も相当驚いたようで、目をぱちくりさせ、俺の枕を抱えたまま跳ね起きている。

 

【挿絵表示】

 

『お邪魔しまぁ~す。ねえ、桐乃。お母様に挨拶した方がいい?』

 

 どうやら桐乃の奴が帰って来たらしい。しかも誰か友達を連れて帰ってきたみたいで、かすかな話し声が聞こえてくる。

 その声に耳を澄ませば、どうにも聞き覚えがあることに気付いた。

 

「……マジかよ」

 

 脳内モンタージュに成功した俺が導き出した答えは――新垣あやせ。

 考えられる上での最悪のパターンだった。

 

『……桐乃?』

『あぁ、ごめん、ごめん。挨拶はいいや。それより早く部屋いこっ』

 

 続いてトントントンという軽い足音が聞こえてくる。

 桐乃達が二階を目指して歩き出したのだ。

 

 ――つーか、これやばくね?

 

 恐らく桐乃と一緒にいるのはあやせだ。

 この俺があやせたんの声を聞き間違える確率は、ヤムチャがスーパーサイヤ人に変身し、フリーザをノーダメージで倒す確率よりも低いので間違いない。

 客観的に考えれば、俺は俺の友達と部屋で遊んでるだけであり、そして桐乃も自分の友達を家に連れてきただけで、そこに何の問題も発生しない。

 特にやましいことはしてないし問題ないはずなんだが……何故だろう、猛烈に嫌な予感がしやがる。

 

「……どうやらあの女が帰って来たようね。けれど、もう一つ出現したこの邪悪な気配は……なに?」

 

 可哀想に。黒猫も怯えている。

 

「たぶん、俺の知ってる奴なんだけど――って、あああぁっっッ!?」 

 

 そこで俺は現在展開されている事態の更なる問題点を発見しちまった。

 そういや黒猫とあやせってお互い面識あったっけ? 

 ……いや、無かったような気がする。

 つーかこれは直感だが、黒猫とあやせは顔を会わせない方が良いような気がした。

 何故かと問われると困るんだが、二人の相性はあまり良くない――いいや、ここは敢えてはっきり言おう。

 たぶん二人の相性は最悪だ。会えばきっと喧嘩になる。

 

「どうしたの、先輩?」

「……悪い、黒猫。少し静かにしててくれ」 

 

 だから俺は人差し指を口元に当てて、黒猫に静かにして欲しいという意思表示を示した。俺の態度を少し訝しんだものの、黒猫は言われた通りに口を閉じてくれる。

 腕の中にある枕をぎゅっと抱きしめながら。

 続けて響く複数の足音。

 その足音は階段を上りきり、俺の部屋の扉の前へ至り――結局は何事も無く通り過ぎ、桐乃の部屋の中へと収まってくれた。

 

「……ふう。行ってくれたか」

 

 安堵の溜息を吐いたのも束の間、すぐに桐乃の部屋からドアの開く音が届いた。

 続いて

 

「じゃあ、あたし飲み物取ってくるから、チョット待ってて!」

 

 という桐乃の声が響く。

 たぶん人数分のジュースかなんかをキッチンまで取りに行く気なのだろう。幸い黒猫の存在は気付かれていないはずだし、俺達は再び息を殺して気配を断った。

 妹をやり過ごした後に頃合を見て、状況の脱出を図ればオッケーだろう。

 多少の音は響くだろうが、なーに外に出るだけだ。

 何も問題はない。

 室内からの返事を待ってから桐乃が行動を開始する。

 先程の言葉通りまず部屋を出て、廊下を歩いて行き、階段へと差し掛かったと思った瞬間――――あろうことか、バタンッ! という大音量を立てながら俺の部屋の扉が……開いちまった!!

 

「げえっ! 桐乃ッッ!?」

 

 思わず出た叫び声。

  

「あ、ああ、あんた……アンタねぇ……ソコで……なにやってんのっ!!」 

 

 怒声を浴びせながら戸口で仁王立つ我が妹。

 その姿が、俺には伝説にある大魔神に見えた。

 

 

 



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第六話

「あ、あんた……アンタねぇ……そんなトコで……なにやってんのっ!!」

 

 大魔神という者が存在するなら、きっと目の前にいる妹みたいな顔をしているんじゃないだろうか。

 そんなことを考えてしまうくらい桐乃は怒っていた。

 

「……ば、馬鹿な。何故――バレた!?」

「げ、玄関に黒いののクツがあったから……もしかしてと思って来てみればあんたぁ……!」

 

 拳を握り締めながら、ぷるぷると怒りに身を震わせている我が妹。

 その視線はベッドに腰掛けている俺と黒猫を真っ直ぐに刺し貫いていた。

 

「い、いや、違うんだ桐乃。これはな……ちょっとした行き違いつーか……きっとお前は何か盛大な勘違いをしている……!」

「勘違いってナニ? 何かやましーコトでもしてたわけ?」

「してねーよ! てか……だから違うんだって! 俺はただ、黒猫と一緒にゲ――」 

 

 妹のあまりの怒気に押され、俺はベッドから立ち上がるや、そのまま彼女に浮気現場を見られた彼氏みたいな釈明を始めちまった。

 だが当の桐乃は聞く耳持たぬとばかりに部屋に押し入って来ると、俺の襟元に手を伸ばしてギュウッと締め上げる。

 

「――ぐえっ!」

「な・に・が違うっての? あたしが居ない間に女連れ込んだよーにしか見えないんですケド!?」 

「なに……人聞きの悪いこと言ってんだっ!? ちょっと黒猫と一緒に……遊んでただけじゃねーか」 

「それがキモいっつってんの! アンタさぁ、妹がいない間に妹の友達を部屋に連れ込んで……は、恥ずかしくないワケ!?」

「はあ? 黒猫はもう俺の友達でもあるんだ。別に部屋に呼んだっていいだろーが!」

「じゃあなんでコソコソと隠れるよーなコトしてたわけ? っていうかー、黒いのと遊ぶなんてあたしは一言も聞いてないんですケドぉ?」  

「何でいちいち説明しなきゃなんねーんだよ! 俺は妹の許可とらなきゃ友達も呼べねーのか!?」

「うっさい! あんた、黒いのと……ベッドで仲良く並んで座ってたじゃん! ほんとキモい! マジ死んでよね!」

 

 売り言葉に買い言葉。

 なるべく穏便に事を終わらそうと思った俺の目論見は、木っ端微塵に吹っ飛んじまった。

 確かに桐乃の言う通り、コソコソしてたのは認めるさ。

 だけどそれは、黒猫とあやせが会ったら喧嘩になっちまうだろうなっていう老婆心からきたもんであって、決してやましい気持ちがあるから隠れてた訳じゃない。

 きちんと言葉を弄すれば分かってもらえるはずなのに、この妹ときたら兄の話を聞きゃしない。 

 だけど……まあ、少しは桐乃の気持ちも分かる。

 きっとコイツは混ぜて欲しかった、一緒に遊びたかったんだと思う。口では色々言ってるが桐乃は黒猫のことが大好きだし、俺に友達を取られたみたいで面白くなかったんだろう。

 じゃなきゃここまで怒る理由が思い当たらない。

 そう考えれば、ここは兄である俺から折れるのもやぶさかではなくなってくる。

 俺は大きな溜息を吐いてから、未だ襟元にある桐乃の腕をそっと掴んだ。

 

「……あのなぁ、桐乃。ちょっと落ち着けって。ちゃんと説明すっから」

「――フンッ!」

 

 桐乃はぷいっとそっぽを向きながら俺の手を払いのける。だけど声音を落としたのが効いたのか、何とか話を聞く態勢にはなってくれたようだ。 

 これで誤解が解ける。

 そう思ったのも束の間、俺が説明を開始するよりも先に、桐乃がベッドに座ったままの黒猫に視線を移した。

 

「……じゃあアレの説明」

「アレ?」

 

 桐乃に釣られてベッドを見てみれば、黒猫が俺のマクラをぎゅっと抱き締めながら、顎をマクラの上部に乗せているという実に珍妙な光景が見えた。

 つーか、何してるんスか、黒猫さん。

 昼ドラを見てるお袋の如くリラックスしてる態勢じゃないッスか。

 ……実は少し前からこの態勢になっていたらしいのだが、色々と切羽詰っていた俺はこのことに気付けていなかったのだ。

  

「――フッ。私の何処に問題があるというのかしら? あるのだとしたら是非聞きたいものねぇ」

 

 状況が楽しくて仕方が無い。

 そんな感じの実に嬉しそうな表情を浮かべながら、黒猫が桐乃に挑戦状を叩き付けている。その挑戦を受け取った桐乃は、第一声から豪快な啖呵を切った。

 

「良い度胸してんじゃん。なに? もしかしてあたしに喧嘩売ってんの?」

「どうしてそういう捉え方をするのかしら。私は状況に何か問題があれば説明しなさいと言ったのよ?」

「へぇ~。じゃあ言わせてもらうケド、なんでアンタ人ん家のベッドで我が物顔でくつろいでんの? マジむかつくんですけど」

「あら、そんなにいけない事かしら?」 

「駄目に決まってんじゃん! それに……その“ぎゅっ”てしてるやつ!」

 

 八重歯をむき出して桐乃が睨み付けていたのは、黒猫が抱いている俺の枕。

 だが当の黒猫は何のことを言われているかわかりませんとばかりに、頭にはてなマークを浮かべている。

 

「ぎゅ?」 

「こ、こいつの枕っ! なに大事そうに抱えてんの? ばっちいから捨てた方がいいよ、ソレ?」

 

 おいおい、酷い言われようだなぁ!

 俺の枕はばっちくないぞ!

 ってか、どさくさに紛れて兄を足蹴にするんじゃない。

 

「フッフッフ。語るに堕ちたわねぇスイーツ(笑)ここは誰の部屋かしら? このベッドは? この枕はあなたの兄のものだと記憶しているけれど?」

「だ、だからっ?」

「あなたが怒る筋合いはないでしょうということよ。それとも“怒らなければならない理由”でもあるのかしら?」

 

 そう言った黒猫は、これみよがしにマクラを“ぎゅっ”とするや

 

「あぁ……! ここが兄さんのベッド! これが兄さんのマクラ! なんて……なんて素晴らしいっ! はぁ、はぁ、はぁ――――くんか! くんか!」

『――なあああぁぁっッッ!?』  

 

 枕を抱いて匂いを嗅ぐ“真似”をする黒猫。その光景を見た俺と桐乃の絶叫が見事に重なった。

 つーか、何してくれてんだこの黒猫は!? 

 恐らく桐乃を挑発する目的でやってるんだろうが……正気か、マジで正気なのか!?

 けど挑発効果は抜群だったようで、怒りの為か、桐乃の頬が急激に紅潮していく。

 

「こ、このクソ猫っ! なにふざけたことやってんの? ぶっ殺されたいワケ!?」

「だから何を怒っているの? 先輩が怒るのなら分かるのだけれど、あなたには一切関係ない話しでしょう? それともこの行為は真実であり、あなたの隠れた趣――」 

 

 ――プチン。

 

 あ、桐乃がキレた。

 桐乃は僅かに腰を落とすや、一瞬の溜めを作り込み――――あろうことか、黒猫に向かって“ジャンピングニーパッド”を放ちやがった!

 手加減は一切無し。全力で放たれた桐乃の膝が、マクラを抱えたままの黒猫を捉える。

 

「ぐ……はぁ!?」

 

 見事に直撃。

 かろうじて枕でブロックした黒猫だったが、威力に押され壁際まで吹き飛ばされている。

 つーか、友達に対してなんて技を放ちやがるんだコイツは。俺と黒猫に対してだけはいつも全力全開だよな!

 ホント……我が妹ながら恐ろしい。

 

「……まさか、たかだか人間風情の攻撃が、この私の防御結界を上回るなんて――ッ!?」

「なぁにが防御結界よ!? ただのマクラじゃん。つーかさ、さっさとソレ離せっつってんのっ!」

 

 ボカスカとパンチを繰り出す桐乃の連続攻撃を、防御結界(俺のマクラ)で防ぐ黒猫。

 二人とも容赦なく扱うので、枕の寿命が心配になってくる。っていうかさ、こいつら枕が俺のだって忘れてね? 

 シーツもぐっちゃぐちゃだしよぉ……もう勘弁してくれ。

 そう思ったからか、無謀にも俺は普段なら止めないだろう痴話喧嘩の間に入っちまった。 

 

「おい、桐乃! 黒猫! もうやめろって。喧嘩すんなってっ!」

「うっさいっ!」「うるさいわねっ!」

 

『……ぐ…ほあっ!!』

 

 まったく同じモーションで枕を投げつける桐乃と黒猫。投げつけられた枕は見事俺の顔面に直撃した。

 さすがは親友。さっきまで喧嘩してたとは思えない絶妙のコンビネーション……。

 

「痛ってーな、おい! なにしやが…………」

「元はと言えばあんたが悪いんでしょ!?」   

 

 どうやら桐乃の怒りはまだ収まっていないらしい。一度は黒猫に向かった怒りの矛先が、再度俺の方へと向いちまった。

 しかし俺には、桐乃に言い訳するとか説明するとか、そんなことに意識を向ける余裕がまったくこれっぽっちも無くなっていた。

 何故かって?

 それはな――

 

「だいたいアンタはいつもいつも…………って、なに? ドコ見てんの?」

 

 どうやら桐乃も俺の様子がおかしいのに気付いたらしい。

 マシンガンのように放っていた文句を収めると、俺の視線を追ってゆっくりと後ろへ振り返り――その光景を視界に納めた。

 

「え? あや……せ?」

 

 凍り付いたような桐乃の声。

 そう。俺達が見たものとは、半開きになった戸口に半身を隠しながら、中の様子を伺っている新垣あやせの姿だった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「これはどういうことですか、お兄さん?」

 

 天使のような声で、天使のような笑顔を貼り付けながら、あやせ様が部屋の中に入ってくる。

 普段なら大いに歓迎するところだが、今は状況がそれを許さない。つーかぶっちゃけると、俺はかなりマジでビビッていた。

 だってこの女、目が笑ってねーんだもん!

 

「……いや、違うんだあやせ。これはな、違うんだよ?」

「また妙なことを言いますね。違うって何に対して違うんですか? まるで“この部屋でいかがわしいことをしていたように見えるけれど違うんだよ、あやせ”という風に聞こえます」

「ななな、何を言っとるのかね? そんなわけないじゃないですかー。あっはっは……」

 

 俺の乾いた笑いだけが室内に響いている。

 あやせの正体を知っている桐乃も少し顔が引きつっているし、状況が分からない黒猫だけがぽかんとしていた。

 

「あのさ、あやせ。あたしが戻ってくるのが遅いから様子見に来たんだよね? ごめん! もう用事は済んだからさ、部屋戻ろっ!」

「ごめん、桐乃。ちょっとだけ黙ってて欲しいかな。今はお兄さんとお話ししたいから」

「は……はい」

 

 状況を打開しようとした桐乃の提案は、にべもなく断られた。

 そうっすよねー。あやせさんに睨まれたら“はい”としか言えないっすよねー。

 

「では、お兄さん。一つだけ聞いてみたいことがあるんですけど、答えてくれます?」

 

 お願いという名の命令を受けた俺は、もちろん了承の意を示した。

 

「この部屋の状況から察するに……お兄さん、女の子を部屋に連れ込んだんですね?」

「ち、違う! それは断じて違うぞ、あやせ。さっきはそれを説明しようとしてだな――」

「連れ込んだんですよね?」

「――はい」

 

 俺が頷いたと見るや、あやせの様子が一変した。

 

「いやらしい! いやらしい! いやらしいっ! わたしに“あんなこと”を言っておきながら、早速別の女を連れ込むなんて……この変態ッ!」

「だから違うって! 桐乃もお前もなんでそんな風に解釈すんの? 黒猫とは一緒にゲームして遊んでただけで、やましいことなんてなんもしてねぇよ!」

「嘘ですね! だってお兄さんが女の子と二人きりでいてエッチなことをしないなんてありえません!」 

「どんだけ信用されてねーの、俺!?」 

「今までの行いを思い起こした上で、まだわたしに信用されてるのだと思うのでしたら病院に行くことをお勧めします。それに、わたし達が戻って来るまで部屋では二人きりだったんですよね?」

「そりゃそうだけどよ……」

「ほら、認めた! さっき桐乃が“ベッドで仲良く並んでた”って言ってましたし、お兄さん――本当は密室で“なに”をしてたんですか?」 

 

 あやせの瞳から光彩が消えていくように見えたのは、俺の気のせいだろうか。

 しかし、ベッドで云々~辺りの話しを知ってるってことは、あやせの奴、相当前からいたってことか? 

 さすがに戸口付近にずっといたら気付くと思うんだけど……もしかして桐乃の部屋まで話が筒抜けだったか? 

 確かに壁は薄いけど、細かい内容までは聞こえないはずなんだけどなぁ。

 ぴたっと壁に耳を当ててない限りは。

 幾ら桐乃の為とはいえ、そこまではしねーとは思うが……。

 

「二人きりなのをいいことに、いかがわしいことをしたに決まってます。バカ! えっち! 変態! いっそ――――死んでください」

 

 不確定要素に対してそこまで言うか……?

 怖ぇーよ。マジ怖ぇーよ、この女。

 だがそれ以上に恐ろしい事態が直後に発生することになる。なんと桐乃があやせに待ったをかけたのだ。

 

「ちょ、あやせ。なにもソコまで言うことなくない?」

「え……?」

「だ、だからコイツも悪気があってやったわけじゃないじゃん? 何もなかったって言ってたし、つーかさ……その、チョットかわいそうかなーって」

「でも明らかにウソだよ?」

「黒いのを連れ込んだのはマジだと思う。ケドその先……っていうか、そんな度胸コイツにあるわけ無いじゃん。言っちゃえば未遂? みたいな」 

「……桐乃」 

 

 正直我が耳を疑ったね。

 桐乃が俺を擁護するとか夢でも見てんのかと思った。けど全身に鳥肌が立ったところを見るとどうやらマジらしい。

 言い方に腹は立ったがな。

 

「……な、なに見てンの、あんた! 別にあんたの為に言ったわけじゃないし……こっちくんな!」

「いってえなぁ!」

 

 別に近寄っちゃいないんだが、何故か桐乃に蹴られちまった。それを見た黒猫はなんかクスクスと笑ってやがるし……。

 しかし、このやり取りで分かったことがある。

 それはこの言動には裏があるということだ。

 桐乃が嫌いな俺を擁護する理由なんてカケラもねえ。なら考えられるのは、桐乃はこの場を穏便に収めて、はやく部屋に戻りたかったということだろう。

 あやせはオタク趣味を嫌悪しているし、黒猫と接触させたくなかったのかもしれない。

 ようし、これで得心いったぜ。

 ここは妹の案に乗っかって、俺も場を収める努力をするか。

 

「――あやせ。お前が桐乃と遊ぶのを邪魔されて怒ってるのは分かるよ? けどよ、このままこーしていても時間は減っていく一方だ。誤解されるようなことした俺も悪いけどさ、ここは収めちゃくれねえか?」

「……お兄さん?」

「お前が心配してるよーないかがわしいことも無かったと断言する。なあ黒猫?」

「ええ。“まだ”無かったわね」

 

 更に誤解を招くような言い方してんじゃねーよ!

 だが、あやせは納得しないまでも、追及は諦めてくれたようだ。

 

「ふう。仕方ありませんね。この場でこれ以上追求しても埒が明きそうにないですし……桐乃にああまで言われたら諦めるしかないですよね」

  

 可愛く嘆息するあやせ。その瞳に光彩が戻った。

 だが、その矛が完全に収められた訳では無かったようで、あやせは俺から視線を外すと、面識がないはずの黒猫の方へと矛先を向ける。

 

「そして――――あなたが“あの”黒猫さんですか?」

「……そうね。ハンドルネーム、黒猫よ」

「はじめまして。わたしは新垣あやせと申します。桐乃の親友で、そこのお兄さんとは顔見知りです」

 

 まあ間違っちゃいねえ。 

 

「この女の……親友ですって?」

「はい。――たった一人の親友です。それにしても黒猫さん。クロネコなんて名前をよく恥ずかしげも無く人前で名乗れますね。そういうの厨二病って言うんでしたっけ? 早く卒業したほうがいいですよ」

「……言ってくれるじゃないの、スイーツ2号。うまく擬態しているようだけれどこの私は騙せないわ。あなた――身体の内に醜悪なバケモノを住まわせているようねぇ。……クク、とってもおぞましいわ」   

 

『……フ。フフフフフ』 

 

 天使のようなあやせの微笑みと、妖艶な黒猫の薄笑み。

 互いに相手を見つめて笑い掛けているのだが……これって、仲良くしようね! っていう挨拶じゃないですよね?

 おいおいおい。お互い自己紹介しただけなのに、いやに険悪じゃねーか。

 

「初対面でこういうことは言いたくないんですけど、あなたとはお友達になれそうにない気がします」

「あら、奇遇ねえ。私も同じことを考えていたわ」

 

 なにこの雰囲気?

 なんで会っていきなり喧嘩おっぱじめようとしてんの、この二人?

 あまりの超展開に俺も桐乃も絶句してしまい、声をかけるタイミングを逸していた。

 そして、突然形成されてしまった魔空間。この世界をぶちこわしてくれたのは、なんと第三の闖入者だった。

 

 

 

「桐乃ぉ~。ジュースまだかよー?」

 

 廊下から俺の部屋へ差し掛かり、おやっという表情を浮かべたのは

 

「か、加奈子!?」

「ありゃりゃ? もしかして修羅場かぁ? うひひ。面白そうーじゃん」

 

 ……まさかこいつも来てやがったとは。

 廊下から部屋に押し入って来た女の子は、桐乃とあやせの共通の友達である来栖加奈子だった。

 見た目は桐乃達と比べると随分幼く、もう〇学生にしか見えない。こいつを攻略対象にした瞬間、俺は間違いなくロリコンの烙印を押されてしまうだろう。

 いやいや、俺、加奈子に興味ねーし、ロリコンじゃないからね?

 その加奈子は室内をぐるっと見回した後、軽く桐乃にメンチを切りやがった。

 

「つーかさ、ジュース取りに行くだけでどんだけ人待たせてんだっつーの。あやせも途中でいなくなるしよぉ。いくら温厚な加奈子だっていい加減キレるゾ。お?」

 

 ちなみに俺と加奈子に“直接の面識”はないが、ある事情から違う人物としての面識ならあるという困った事態になっていた。

 その辺りはあやせしか知らないので、何とかこいつを誘導して欲しいんだが……。

 果たして願いが通じたのか、あやせが加奈子に両手を合わせペコっと頭を下げた。

 

「ごめーん、加奈子。桐乃を向かえに来たんだけど、なんかお兄さんが“ジュースだけじゃなくてケーキもあったほうがいいよな”って言ってくれて、それで買いに行ってもらうところだったんだ」

「へぇ。桐乃の兄貴チョーイイやつじゃん。――じゃあ、加奈子ぉ~ショートケーキとモンブランとチーズケーキとシュークリームお願いしまぁす」

 

 甘ったる~いぶりっこボイスで四つも頼みやがったこのクソガキはおいとくとして、これで何とか場を抜け出せそうである。

 予想外の出費になるが……あやせの機転を無駄にする訳にもいかねーし、仕方ねえ。

 俺は了解したと片手を上げて応え、部屋を出て行こうと歩みだした。

 もちろん、その後ろから黒猫もついて来る。

 

「……フン。落ち着いたら説明聞かせてもらうから」

 

 通り抜けざまに桐乃がそんなことを呟いた。

 けど、もう説明することねーんだけどなぁ。けどこいつ納得しないんだろうなー。

 っち。頭が痛いぜ。

 

 そして家を出て、ケーキ屋へ向かう道すがら。

 

「ごめんな、黒猫。色々とぶち壊しになっちまってさ」

「そうね。この埋め合わせはいつかしてもらうわ」

 

 そう言ったものの、黒猫の表情から非難めいたものは感じ取れなかった。それどころか、少し楽しそうな表情を浮かべて

 

「それに、今日は“敵”を確認できただけでも良しとするわ。私もそうだけれど……あの女も色々と災難ね」

「それってどういう意味だ、黒猫?」

「フフ。先輩は随分と深い業を背負っているということよ」

「あん?」 

 

 結局、黒猫は微笑むだけで、それ以上の答えは返してくれなかった。

 

 その後、黒猫にもケーキを買ってやってから俺達は別れることにした。

 別にいらないわよ、と随分照れていたが、桐乃達に買ってやって黒猫に買わない理由はないだろう。

 ちなみに自分の分のケーキは買っていない。

 あ? 何故かって? 

 そりゃもちろん加奈子が四つも頼みやがったからだ。予算をオーバーしたんだよ。

 あのクソガキ。覚えてろよ。

 

 

 



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第七話

「ふむふむ、そういうとても面白い……ではなく、大変なことがあった訳ですなぁ」

「ああ。で、どー思うよ、沙織?」

「ハッハッハ! そうりゃぁもう全面的に京介氏が悪いでござる。どれくらい悪いかと言うと、皆にジャンピング土下座しなければいけないくらいの失態ですぞ?」

「ま……マジかよ?」

 

 現在俺は、沙織と連れ立って秋葉原まで来ている最中だ。

 何故かと言えば――実は俺の部屋にあるパソコンは沙織から貰ったものなんだが、そいつをチューンアップする為の部品を買いに来たという訳だ。

 よく分からんのだが、内部の部品を色々取り替えることでPC性能を上げることが出来るらしい。

 俺としては現状で全く不満などないんだが、沙織には色々と世話になってるし、こいつ自身の買い物に付き合うくらいの気持ちで付いてき。

 パソコンの知識は皆無なんでその方面での手助けは出来ねえが、そんな俺でも荷物持ちくらいは可能だ。

 

「拙者としては今京介氏から聞いた話しから判断するしかないのですが、率直にそう思った次第で」

「けどよ、桐乃が怒ったのは遊びに混ぜて欲しかったのと、黒猫が俺に取られたみたいで腹が立っただけだろ? あやせも――ああ、あやせってのは桐乃の友達な――桐乃が俺に食って掛かって構ってくれないから、その怒りを俺にぶつけただけだろうし……」

「ほうほう。――それで?」

「黒猫には悪いことしたけどよ、俺としては場を収めようと努力したんだ。俺に非はないとは言わねーけどさ、全面的に俺が悪いってのは納得いかねえぞ」

 

 そう吼える俺の言葉を受けた沙織は、口元をωふうにして笑うと

 

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「ンッフッフ。そういうところは実に京介氏らしいですなぁ。鈍感というか……優しすぎるというか」

「え?」

「黒猫氏に悪い事をした。それと同じくらい他の人に対して申し訳ない気持ちがあるのでしょう? きっと黒猫氏の訪問は突然決まったもので、きりりん氏に伝える時間は無かった。その所為で怒ったきりりん氏の余波を受けた友人の心配までなさって。京介氏は皆に楽しんで欲しかっただけなのに、と」

「……ちげーよ。特に桐乃に対しては怒りの感情が大部分を占めてるね。あいつさえ突撃して来なけりゃあそこまで大騒ぎにならなかったんだ」

 

 そうだ。全ての元凶は桐乃の野郎だ。

 あやせにはあらぬ誤解をされるし、加奈子のヤツにはケーキせびられるしよぉ……って、いかんいかん。思い出していたら段々と腹が立ってきやがった。

 さすがに俺がムスっとしてたら同行してる沙織に悪い。

 そう思って隣を見てみたら、沙織が眩しいくらいの笑顔を浮かべていて。

 

「……なんだよ、その意味ありげな笑みは?」

「いやいや、出来れば拙者も“混ぜて”欲しかったなぁっと思っただけですよ。聞いているだけでも本当に楽しそうで――羨ましい」

「冗談はやめてくれ。あれ以上俺の部屋が異界化したらもう手に負えねえよ」

 

 あそこに沙織まで加わったら、肉体よりも先に精神が朽ちるね。

 ストレスで間違いなく胃にマッハで穴が開く。俺はまだそんな理由で入院したくねぇぞ。

 

 そんなこんなで俺達は並んで秋葉原を散策しているわけだが、形だけを見るとカップルで行動していることになる。となると“デート”なんて単語が頭の中に浮かんだりするが、沙織はいつものオタクファッションに身を包んでいるので、そんな色っぽい雰囲気は微塵も感じられない。

 主な目的はPCパーツの買い出しだし、専門的知識が皆無な俺は沙織にくっ付いて行くしかないしな。

 

「どーする沙織? そろそろ昼時だし飯でも食ってから回るか?」

「そーですなぁ。買い物は体力勝負なところもありますし、腹ごしらえをするのも悪くはありません……っと、京介氏? 聞いておられますかな?」

「……っ!?」 

 

 話しを振っておいて失礼だとは思う。けど沙織にゃ悪いが、途中からまったく相手の言葉が耳に入っていなかった。

 何故なら、秋葉原には絶対いてはいけない人物を目にしてしまったからだ。

 

「……あれは、お、親父……か!?」

「え? 京介氏のお父上ですか?」

 

 グレーのスーツに身を包んだ恰幅の良い体格。一見して分かる近寄りがたい極道ヅラ。そらもう一般人ならまず避けて通るだろう怖い雰囲気が全身から滲み出てしまっている。

 刑事という職業柄、普段は困ることはないんだろうが……。

 通りを隔てて向こう側なので距離はあった。けど絶対見間違いなんかじゃなく、アレは俺の親父だと断言できる。

 一昔前の頑固親父を想像して、更に10倍怖くしたような人物を思い浮かべてもらえば分かりやすいだろうか。

 ちなみに怒った親父が相手だと、桐乃ですら一言も言い返せず借りてきた猫のように大人しくなっちまう。まあそんだけ俺達にとっては怖ぇ親父なんだよ。

 

「京介氏、そのお父上は何処におられるのです?」

「ほら、あそこの通りで突っ立てるヤクザっぽいのがいるだろ? あれが親父だ」

 

 沙織に指差して親父の存在を教えてやる。

 場違いに目立っているので、この説明でも一発で分かるだろう。

 

「はて? 何をしているのでござろう? 何やら探し物をしているような雰囲気ですが……」

「親父は刑事だからな。捜査で来たのかもしれんが――動きが微妙に怪しいな」

 

 親父と秋葉原なんてまったく接点がねえ。

 パソコンとか機械にゃそれほど詳しくないし、勿論アニメオタクでもなければゲーマーでもない。親父が求めるものがここにあろうはずがないんだが……。

 無論、俺もそれほど秋葉原には詳しくないから“何か”あるのかもしれねーが、親父の子供である高坂京介としては、もう違和感バリバリである。

 と、そこまで考えて一つ思い当たる事項があった。

 秋葉原との関連性ではなく、いるはずがないという方向性で。

 

「……あれ? そういや親父今日は非番じゃなかったっけ? 仕事休みじゃねーか」

「ほっほう。それは何やら事件の香りがしますな!」

 

 キラーンと目を輝かせる沙織。

 まったくもって、ひとごとである。

 

「あ! 京介氏! お父上が行動を起こしましたぞ!」

 

 沙織の言葉通り親父が動いた。といっても通りかかった女の子に声を掛けただけだが。

 

 ――もしや、ナンパしやがったか!? 

 

 と思った諸君は甘い。

 親父はお袋一筋なので、俺の親父が浮気などしようはずがない。

 

「……あー、予想通り逃げられたな」

「強面ですからなぁ京介氏のお父上は。この分だとお声も相当怖いのでは?」

「ああ。猫なで声の親父とか全く想像できねえよ」

 

 その後何人かに声をかけていたが、全員に体よく断られ逃げられた模様。

 

「京介氏。一つ提案なのですが、此処は思いきってもう少し近づいてみませんか? じっとしていても埒が開きません」

「……そうだな。この際仕方ねえか。けど出来たら顔を合わせたくないんで“コッソリ”と行こう」

「了解でござる」

 

 親父に気付かれないように大回りで近づいていく。親父も親父で何やら切羽詰まっているらしく、あまり周りを見る余裕がないようだった。

 結果的に、親父の少し後方のポジションを取る事が出来たのだが……

 

『あぁ、君。すまないが、この付近にメイド喫茶という場所が――』

 

 ぐはぁああああああああああっっ!!

 

 耳に飛び込んできた予想外の言葉に、俺は思わず近くの路地裏に逃げ込んじまった。

 だってさ、親父の口から“メイド喫茶”なんて言葉が出ると思わねーもんよ。取り乱して見つかるのがオチだ。けど何とか身を隠しはしたが、この先どうするべきなのか頭が混乱しちまって何も考え付かない。

 マジで心臓がバクバク言ってるぜ。

 ええいっ、落ち着け、京介。

 アレはきっと何かの聞き間違いだ。そうだ。俺の親父が往来でメイド喫茶なんて言葉を発するはずがないじゃないか。

 胸に手を当てて、大きく深呼吸。

 すー、はー。ふう、何とか落ち着いた。

 そうこうしていたら、ひょっこりと沙織が路地裏に顔を出してきた。

 

「ここにおられたのですか京介氏。少し探しましたぞ」

「あ……ああ、悪ぃ。ちょっと冷静でいられない事態が起こってな……」

 

 説明する俺を手で制して、沙織が皆まで言うなと大きく頷いている。

 

「どうやら親父殿はメイド喫茶の場所を探しておられるようです」

「……マジか、それ?」 

 

 残念ながら俺の聞き間違いじゃ無かったようだ。

 つーか、何やってんだよ、親父……。 

 

「間違いないでしょう。先程通行人に話しかけているのを聞きましたから。――京介氏、お父上がメイド喫茶を探される心当たりなどござらんか?」

「そう言われてもな……親父とメイド喫茶なんて秋葉原以上に接点がねーよ」

「ならばお父上個人ではなく、他の可能性を考慮してみては如何でしょう? 例えば誰かの為に行動しているとか考えられませんか?」

「――ふむ」

 

 言われて考える。

 親父がメイド喫茶を探すなんてことはありえるはずがない。ないが……現実として起こっているのだから、これを無視する訳にはいかないだろう。

 なら、考えられる理由はたった一つ――――桐乃だ。

 以前親父は頼んでいないのにサブカルチャー関連について調べていたことがあった。

 そのおかげで助かったことがあるのは事実だが、あれも要は全部桐乃の為だったはずだ。

 「何も知らないくせに適当なことを言ってんじゃねえ!」そう言った俺の言葉を受け止めて、桐乃の趣味を認めていないなりにも、理解しようと努めてくれたのだ。

 もしかして今回もそうなのかもしれない。

 その考えを沙織に披露したら

 

「良いお父上ではござらんか。きっとお父上なりに娘の趣味を理解しようとしてくれているのでござるよ。見ると聞くでは大違い。自ら体験して初めて分かるものもある。大人な考えだと拙者は思いますが」

「……まあな。親父にはそういうところがあるけどさ。でもあの親父がメイド喫茶ねぇ……」

「心配なのでござるか、京介氏? いや、気になるといった方がよろしいか。ならばこうしましょう」

 

 沙織の考えはこうだ。

 ――自分がそれとなくメイド喫茶の場所を親父に教えるので、先に入って様子を伺おうというもの。

 教えるメイド喫茶の場所は、いつも俺達が利用しているあそこだ。

 

「周りは閑静な住宅街ですし、あの場所ならばお父上も気兼ねなく入って頂けるかと。如何ですか、京介氏?」

「けどいいのかよ沙織? 買い物とか何か用事があったんじゃねーの? 俺は別にいいんだけどよ……」

「放っておいて無くなる訳ではござらんし、買い物などまた今度でよろしいではありませんか。それよりも京介氏はお父上が気になるのでしょう?」

 

 結局俺は、沙織の言葉に甘えてこいつの案を採用することした。

 

 

 

 カフェ『プリティガーデン』は白を基調としたログハウス風の外観をしている。

 落ち着いた町並みにもよく合っていて、一見しただけではここがメイド喫茶だとは誰も思わないだろう。

 俺と沙織は先に店内に入っていて、後から訪れるであろう親父を待っていた。

 ちなみに店内の様相は木目調の普通の喫茶店である。ややアンティークがかった調度品が置いてあったりと趣味も良い。これで店員さんが普通なら近所でも評判の喫茶店になっていたことだろう。

 

「お帰りなさいませ、ご主人様っ!」

 

 ドアベルの“からら~ん”という音に合わせて扉が開いた。

 その先にいたのは正しく俺の親父、高坂大介で――――って、いきなりドアを閉めやがった!?

 バタンッ! と閉じる扉の前でメイドさんが立ち尽くしている。 

 ……分かるぜ、分かるぜ親父。その気持ちはよぉ。

 いきなりフリルの付いたエプロン姿のメイドさんが笑顔で迎えにきたら、脳が状況理解を放棄するよな。見なかった事にしたいよな。

 けどうちの親父は一度決めたことは貫き通す昔気質の男だ。

 果たして数分後、再び運命の扉が開く。

 

「お帰りなさいませ、ご主人様っ!」

 

 まるで動じず、再度駆け寄って行くメイドさん。“てってって”という擬音が付くような可愛らしい駆け方だった。

 対する親父の形相は……完全に引きつっている。きょどっていると言ってもいいくらいだ。

 まさしく場違い。

 しかしメイドさんは接客のプロ。そんな思いはおくびにも出さずにこやかに話しかけていく。

 

「お一人様ですか、ご主人様? お煙草はお喫みになりますか?」

 

 メイドさんに案内されて親父が連行されていく様はまるでドナドナ。

 あんな哀愁漂う親父の背中は初めて見たよ……。

 

「こちらの席へどうぞっ」 

 

 促され席に付く親父。

 幸いにも親父の席は、俺達からは良く見えるが、あちらからは観葉植物が邪魔になって見えにくいという、行動を観察するには絶好の場所となっていた。

 こればっかりは運にも左右されるから……正直ラッキーだったぜ。

 俺は日頃の自分の行いに感謝しつつ、親父の観察を続けた。

 

「こちらがメニューになります。ご主人様はここは初めてですよね? 呼び方のオーダーはありますか?」

 

 来たな、ここでの最初の難関。呼び方のオーダーがっ!

 この店ではメイドさんに何と呼ばれたいかをリクエストできるのだ。

 例えば定番である『ご主人様』から『旦那様』『~ちゃん』『~くん』などその種類は様々だ。

 俺はこの最初のイベントで失敗し、あろうことか『おにいちゃん!』と呼ばれることになったのだが、当時接客してくれたメイドさんの陰謀のような気がしないでもない。

 つーか、親父を接客してるメイド……あの時のメイドに似てるな。

 

「……呼び方? 選べるのか?」

「はい! お好きな呼び方をリクエストしてくださいねっ」

 

 お? 親父の奴どうやら呼び方をリクエストするみたいだ。

 どうせ「何でも構わん」とつっけんどんに応対するもんだと思ってたんだが――意外だな。

 郷に入れば郷に従えってことか。

 だが次の親父の台詞は、長年親子をやってきた俺でさえ我が耳を疑うものだった。

 

「では……ぱ、パパと呼んでもらおうか」

 

『ぶっはあああああぁぁぁぁ――――っっっ!!!』

 

 ぱ……パパだと!?

 馬鹿な。あの厳格な親父がパパなどと……ありえん。これはギャグなのか? それとも夢なのか? 

 あまりに予想外な出来事に、思わずジュースを吹き出しちまったじゃねえかあああああっっっ!!

 

「……きたないですなぁ、京介氏。ほれ、これで口元を拭いてくだされ」

「ゲホ……ケホ……ッ。あ、ああ。すまん沙織。驚きすぎて……呼吸が止まっちまったよ……」

 

 借りたハンカチで口元を拭う。

 その時、ハンカチから良い香りが漂ってきた。

 こいつも、女の子なんだな。 

 

「洗って返すよ」 

「いえいえ、お気になさらず。それより男性はみな子供と申しますが、お父上も童心を忘れておらぬようで」

「童心でメイドさんに“パパ”なんて呼ばせねーよ……!」

 

 もしかして親父の奴、桐乃にパパって呼ばれたいのか?

 あいつ、いつもは“お父さん”って呼んでるからなぁ。

 

「じゃあパパ! ご注文は決まったかなぁ?」

 

 急に砕けた口調になったメイドさんに対して、親父がメニューに載ってる品の説明を求めていた。

 まあ『らぶらぶオムライス』だの『メイドさんの手作りカレー』だの食い物の想像は付くが『スピリット・オブ・サイヤン』とか『超神水』とかは飲み物は普通分かんねーわな。

 結局親父は『スピリット・オブ・サイヤン』と『このサンドイッチはパパの為に作ったんじゃないからねっ!』という品を注文していた。

 まあぶっちゃけ普通の野菜ジュースとサンドイッチである。

 その後、普通に食事を堪能した親父は、やや顔を赤らめながら店を後にして行った。

 

 

 

「おや? 秋葉原に戻るようですな、お父上」

 

 やや中心地を外れているプリティガーデンから来た道を戻っていく親父。

 てっきり駅にでも向かうもんだと思ってたんだが、付近に車でも停めてるのかもしれない。

 仕方ないので俺も沙織と一緒に尾行を続けていく。

 親父は普段訪れないオタク街が珍しいのか、キョロキョロと辺りを見回しては立ち止まっているので、バレないように後を付けるのは苦労した。

 もし慣れない場所で気が散っていなかったら、すぐに見つかっていたことだろう。

 それから幾許か歩き、親父がメイド喫茶の次に選んだ店は――人が大勢行き交う本屋だった。

 

「……き、京介氏。ここは……その、ちょっとまずいのではござらんか? お父上はそういった方面の知識はあまりないのですよね?」

「ああ。確かにここは注意しないとマズイな。展開によっては桐乃への風当たりが強く――最悪だと、また騒動になりかねん」

 

 何をこんなに危惧してるかって?

 それはこの店がヤバイ店だからだ。

 何も知らない一般人がうっかり足を踏み入れると、心に傷を負うことすらある。

 

「……けど、止めるわけにもいかねーしよ……上に行かねーように祈るしかねえか」

 

 親父が入った店は一見すれば普通の本屋に見える。だがそれは一種の擬態、カモフラージュなのだ。

 本屋の看板を掲げているが、扱っている商品は多岐に渡り、漫画や小説だけじゃなく、ゲームやDVD、はてはフィギアなんかも売っていたりする。

 だから賑やかな一階部分は総合アミューズメント施設に見えなくもない。

 しかし、真に恐ろしいのは二階から上。

 いわゆるアダルトコーナー、R-18の品々がひしめいているフロアだ。

 エロゲーはもちろん、同人誌や同人ゲームなどのエロいブツが来訪者を待ち受けている。こんな場所に親父が入ろうもんなら…………うああああああ、か、考えただけでも恐ろしい。

 

「き、京介氏っ!」

 

 切羽詰った沙織の声に振り向けば――げげえっ、親父の奴、階段に向かってるじゃねーか!!

 

「どど、どうしよう沙織っ!?」

「どうしようと言われても、拙者には……どうにも……」

「――くそっ!?」

 

 一歩、一歩と、確実に階段へ近づいている親父。

 阻むものなど何もなく道は広がっている。いっそ何か事件でも起こんねーかなあ。

 つーか、そっちへ行くんじゃねえ! 

 行くんじゃねえっ! 階段を上るんじゃねえええええええええええええ!! 

 果たして、必死の祈り(呪い?)が通じたのか、親父は階段には上らずに近くにあったゲームコーナで足を止めた。

 そして陳列されているゲームを一枚手に取る。

 

「……あ? 何を手に取ったんだ?」

 

 一頻り眺めたあと、親父は手に取ったゲームを棚に戻し、今度は出口へと向かって行った。

 結局親父は、一階フロアをぐるりと眺めただけで店を後にする。

 どうやら、何となく中に入ってみただけのようだった。 

 安堵した俺は親父の後を追おうと歩き出し……その途中で何となく気になったので、親父が手に取ったであろうゲームに視線を落として見た。

 

「な――ッ!?」

 

 そしてタイトルに絶句する。

 

「……“パパと恋しよっ! 娘めいかぁEX”だとッ!? バカなぁああっ!?」

 

 驚愕のあまり手が震えているのが自分でも分かった。

 俺は慌ててゲームを手に取りパッケージの裏を見る。そこには以前桐乃にやらされたゲーム「妹と恋しよっ!」と同じ会社の名前が刻印されていた。

 つーことは、これ元はエロゲーか?

 あまりの出来事に呆然と佇む俺。しかし、目の前に広がっている光景から脳内が別の可能性を導き出した。

 ここは所謂今週発売した新作ソフトを陳列しているコーナーである。

 パパと恋しよっ! の隣にはドラクエ無双やらモンスターハンターやらetcが並んでいた。きっと親父はこっちの健全なソフトを手にとっていたに違いない。

 遠目だから俺が見間違えたのだ。

 精神の安定を図る為だろうが何だろうが、もう……そういうことにしといてくれ。

 

 

 

「どうやら、お父上の秋葉原探索は終了したようでござるな。家へ戻るおつもりのようです」

 

 沙織の言葉通り、親父は近くにあった駐車場へと入っていく。

 どうやらここで俺達二人の刑事の真似事もお開きのようだ。

 

「……ふう。ありがとな沙織。色々つまんねーことに付き合わせちまってよ」

「いやいや。つまらないなどと言わないでくだされ。拙者も十分に楽しめました。それに――京介氏と二人きりでの散策。まるでデートしているみたいで心躍りましたぞ?」

「なに言ってやがる。デートならもうちっとましな格好して来いってんだ」

「おやぁ? 拙者のこの格好はお気に召さないと?」

 

 にやりと笑って沙織がシャツの両肩を摘んで見せる。

 

「そうは言ってねーよ。けどな、もしデートするんならそれらしい格好があるだろうってこった。例えば清楚なお嬢様みたいな格好とかよ」

 

 どうにも俺の周りには俺をからかって遊ぼうとする奴が多すぎる。

 沙織のやつがデートだと言ってからかってきやがったので、俺もやりかえしてやった。

 なのに沙織は

 

「わかりましたわ。京介さんが望むのなら――もし“本番”がやってくるのなら、その時にバッチリお見せ致しましょう」

 

 なんて深窓の令嬢みたいに、優雅な仕草で笑い掛けてきやがったのだ。

 そのあまりにも自然な動作に、俺は思わず沙織の“演技”に突っ込みを入れるのを忘れてしまった。

 

 

 

「……たっだいまー」

 

 玄関の靴を見て親父が帰ってきているのを確認した。

 取りあえず今日の出来事は秘密にしておこう。そう思ったものの、やはり親父とは顔が合わせずらい。

 恐る恐る様子を伺いつつリビングを覗いてみたら……桐乃がソファに腰掛けながら、何やら電話している光景が目に飛び込んできた。

 どうやら辺りに親父の姿は無いようだ。

 安心した俺は、リビングへ入りそのままキッチンへ直行。それから冷蔵庫へと手を伸ばす。

 慣れないことしたせいか喉がカラカラだったのだ。

 中からペットボトルの麦茶を取り出しコップへと注いでいく。それを一気飲みしながら、横目で桐乃を様子を眺めてみた。

 

「……なあ桐乃」

「なに?」

 

 俺が茶を飲み終わった頃合で、桐乃も電話を切ったので声をかけてみる。

 すると案の定、めっちゃ不機嫌な返事が返ってきた。

 

「あたし忙しいんだけどぉ、話しがあんなら早くしてよね」

 

 スマホをスリープモードに戻しつつ、テーブルに置いてあったジュースに手を伸ばす桐乃。

 その妹に向かって俺はある提案をしてみることにした。

 なんつーか、道すがら色々と考えていたのだ。

 

「あのさぁ、桐乃。おまえ親父のこと“パパ”って呼んでみる気ねーか?」

「ぶっはあああああぁぁぁぁ――――っっっ!!!」

 

 一秒の間すら置かず、盛大にジュースを吹き散らかしてくれる桐乃。

 ジュースが気管に入ったのか、ケホケホと盛大に咽返っている。

 いや……気持ちはすげえよく分かるから、怒りゃしねーけどよ。

 

「な……なに言い出してンのアンタ? 外で頭でも打ってきたワケ?」

「いや、そう呼んだら親父が喜ぶんじゃねーかなって、ちょっと思っただけだ」

「はぁ!? ンなことあるわけないじゃん。うちのお父さんが……パパって、今さら、あたしも恥ずかしいし……」

 

 桐乃はそっぽを向きながら、ゴニョゴニョと語尾を濁らせている。

 まあ最初から期待してなかったし、断られたら諦めようと思っていた話である。

 この話題はこれで終わりにしよう。

 そう思った俺は桐乃が吹き散らかしたジュースを吹き取ってから、そそくさと部屋へと戻って行った。

 

 その後は夕食を食べ、家族団らんへ。

 風呂上りに見た親父がやけに上機嫌だったのは、今日の酒が美味かったからだろうか。

 赤ら顔をニコニコと、やたら嬉しそうに歪めていやがったよ。

 

 

 



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第八話

『────キモ! 馴れ馴れしくすんなっ。喋んな、むかつく、バカじゃん!?』

『ぼ……僕にどうしろっていうの……?』

『死ねばいいと思うよ? ケド……今日はみやびがいないんだし、仕方ないからアンタで我慢してあげる。――感謝しなさいよねっ!』

 

 画面に大写しされた“りんこ”というキャラクターに、思いっきり罵倒される“京介”。

 このゲームではお馴染みのシーンであるとはいえ、実際にプレイしている俺からすればムカつくことこの上ない。本当、この“りんこ”ってキャラは兄のことを何だと思ってるんだ?

 ユーザー舐めてんじゃねぇの?

 

「……ふう。ちょっと休憩すっか」

 

 小さく溜息を吐いてからマウスを操作して、画面上でゲームデータをセーブする。

 それから大きく腕を伸ばして、うーんっと思い切り伸びをした。

 

 今俺は自分の部屋でエロゲーをプレイしている最中である。

 タイトルは『妹×妹~しすこんラブすとーりぃ~猛将伝』略してしすしす猛将伝だ。

 ゲーム内容はテキストを読み進めつつ選択肢を選んでいき、ストーリーを分岐させていくという至って普通のアドベンチャーゲームなのだが、目指すものは実妹の攻略というある意味とってもイカれたゲームなのである。

 猛将伝の名が示す通り以前出たゲームの続編で、あるエンディングの後日談を描いた一種のファンディスクのようなものだが、新ヒロインが追加されていたりとユーザーに配慮した作りになっていた。

 ちなみに元となった“しすしす”は桐乃の中で殿堂入り神ゲーと化しており、世間でも屈指の泣きゲーという高評価を得ている作品なのだが、俺はどうにもヒロインの一人であるこの“りんこ”が好きになれず、数あるエロゲーの中の一つといった認識しか抱けていなかった。

 

「でもなぁ、やらねぇと桐乃がうるせえし……」

 

 チラリと壁越しに妹の部屋を見やる。

 最近は顔を合わせる度に進捗状況を聞いてくのがうっとおしくて堪らない。あいつからしたら同じゲームをプレイした者の感想を訊きたいんだろうが、俺の感想なんてあてになんのかねー?

 実際に妹のいる兄としちゃあ客観的な意見なんて出せるわけねーし、色眼鏡でものを見てる自信もある。

 けどまあ、俺も黒髪ロングのキャラは好きだし“みやび”の方なら攻略してやらんでもない。

 そういう理由でこんな時間(学校が終わって夕食までのひととき)にエロゲーをやってるという訳だ。

 空いた時間にちょくちょく進めとかねーと、何時終われるか分からないしな。

 

「仕方ねえ。もうちっとだけ進めとくか」

 

 そう思って再びマウスに手を伸ばしかけた時、ドンドンという遠慮のないノックの音がドアから響いてきた。

 

「ねぇ、いるんでしょ? ちょっち話しがあるんだけどォ」

「うわぁッ!?」

 

 ノックしたのは形式ばかりと、俺が返事を返すよりも先に桐乃が扉を開いて押し入って来る。

 どうしてエロゲーをやってるのに鍵をかけなかったかって?

 ――フッ。

 残念なことに俺の部屋には鍵が設置されていないのだ。もちろん桐乃の部屋には鍵はかかる。この差は我が家のヒエラルキーの結果ともいえるだろう。

 

「い、いきなり入ってくんなっつってんだろーが!」 

 

 一応忠告するが、馬の耳に念仏。

 遠慮なしに踏み入ってきた桐乃は、俺がエロゲーをプレイしてるらしいと推察すると“にまあ”っと口端を持ち上げ、腹が立つくらいの極上スマイルを浮かべやがった。

 

【挿絵表示】

 

「なにあんた? 学校から帰って即行エロゲーやってんの? 超ヒマじゃん!」

「うっせえ! お前がやれやれ言うからだろーが。別に好きでやってんじゃねーよ」

「そんなこと言って、ホントは先の展開が気になって仕方ないんでしょー?」

 

 にひひと笑いながら桐乃がデスクへとにじり寄って来る。

 俺は慌てて背中でディスプレイを隠そうとするが、桐乃は素早く横から画面に大写しされている“りんこ”の姿を盗み見たようだ。

 それから何を得心したのか、まるで自らの舎弟が忠実に命令遂行出来たのを褒めてやるように、腕組みかましてうんうんと頷きやがった。

 ……念の為に言っとくが、俺が兄でこいつが妹ですよ?

 

「一応は言われた通りにやってるようだケド、え~と、りんこりんが出ててこの台詞ってことは…………はぁ? まだぜんぜん序盤じゃん!? ねえこれってどういうこと? それとも二週目か三週目でもやってんの?」

 

 あろうことか、我が妹はゲームキャラの台詞だけで進行状況を推察しやがった。

 これだから極めし者は困る。

 しかも完全に正解を言い当てているので惚けても無駄なのだ。

 仕方なく俺は事実だけを簡潔に述べることにした。 

 

「……まだ一周もしてねえよ」

「ハァ!? あんたそれマジで言ってんの? あたしが貸してからどれくらい経ってると思ってるワケ?」

「まだそんなに日にち経ってねーだろーが」

「三日もあれば普通コンプ出来るっしょ? あんたにはそれ以上の猶予期間をあげてんだからさァ、もっと真剣にやってくんないと困るわけよ」 

「何でお前が困るんだよ! つーかさ、俺にどーしろっての?」

「――死ねばいいと思うよ?」

 

 この妹――うぜええええええっっっ!!

 ゲームやってないくらいでここまで言うか?

  

「てかさァ、あんたストーリーとか気にならないワケ? しすしすだよ? あの神ゲーの続編だよ? ファンなら垂涎ものっしょ!?」

「だから俺はシスコンじゃねえの! 妹攻略するゲームなんかに興味ねえんだよ!」 

「なにその言い種? めっちゃうっざい! あたしはあんたがやりたいだろうからって即行クリアしたってのに、あんたがクリアしないと感想訊けないじゃん?」 

「別にやらねーとは言ってねえだろうが。そのうちクリアすっからさ、もう少し待ってくれ」

「もう少しっていつ? 明日?」 

  

 あのなぁ桐乃。何でもお前を基準にして語るんじゃない。

 確かにお前はモデルやったり、陸上やったりと色々なことをこなしながらでも、エロゲを早期コンプするぐらい時間の使い方がうまい奴だ。けどな、お前に出来るからって俺に出来るとは限らないんだぜ? 

 第一俺は“しすしす”のファンじゃねえし、人にはそれぞれペースってものがあってだなぁ…………と、そこまで考えて、こいつはこんな不毛な言い争いをする為に来たのだろうかという疑問が頭の中に浮かんできた。

 

「……話題を換えよう、桐乃。でさ、おまえ何しに来たの? わざわざここまでエロゲーの進捗状況を確認しにきたんじゃねえんだろ?」

「そ、そうだった……。あんたのムカツク顔みてたら、つい」

 

 ついで喧嘩売ってんじゃねーよっ!

 これだから現実の妹はよぉ!

 

「ん。――これ見て」

 

 そう言いながら、桐乃が一枚の紙を突き出してきた。

 見るからにぺらっぺらで随分とみすぼらしい印象を受ける。

 

「あぁ? なんだこれ。ええっと、縁日――祭りのお知らせ? 日にちは……今日じゃねーか」

「そ。近所の神社でやるんだって。まだ季節はずれだし規模も小さいけど屋台とか出るらしーよ。実はあたしも今日知ったんだけどねえ」

 

 にひひと笑いながら桐乃がチラシの中に書いてある開催場所を指し示す。

 そこに書いてある名前を見て、知っている場所だと思った。

 確かにここからだと歩いていける距離にある。しかし、こんなものをわざわざ俺に見せてどうしようってんだ?

 一瞬小遣いでもせびる魂胆かとも思ったが、俺よりこいつのが金持ち(悲しいことにな)だし、そういう訳でもねえんだろう。

 

「もしかしてあやせ達と出掛けるのか? それとも黒猫と行くのか? どっちでもいいけどあんま遅くなんじゃねーぞ。親父に怒鳴られるからな」

「…………ち、ちがッ……!?」

 

 遅くなるぶん親父に取り成して欲しいのかと思ったが、桐乃の表情を見るにそうでもないらしい。

 おかしいな。祭りに行きたいわけじゃねえのか?

 

「どうした桐乃? いきなり黙ってよ?」

「……あ、あたし今日知ったっつったじゃん。あやせ達も忙しいんだから、そんな急に都合付くわけないし……」

「へえ、そうなのか。そりゃ大変だな」

「大変だなって……それだけ?」 

「それだけって、他に何か言いようあるか? 俺には“関係ない”話しなんだしさぁ」 

「…………か、関係なッッッッ!!」 

 

 桐乃が誰と遊ぼうと――女友達と遊んで来ようと俺には関係ない。

 第一、口出ししようもんなら逆に蹴られるだろ?

  

「も、もういいっ! あんたなんか……アンタなんか――――じゃえっ!!」

「痛ってーな、何しやがる!?」 

 

 いきなり激昂した桐乃が俺のふくらはぎを蹴り上げやがった。

 それが痛いのなんのって……つーか、何で口出ししてないのに俺が蹴られんの?

  

「……おまえさあ、いきなりなにキレてんの? 俺が何かしたか?」 

「もういいっつったでしょっ!」 

 

 俺の問い掛けなんぞなんのその。桐乃は完全無視を決め込むや、持っていたチラシを俺に投げつけてから部屋を出て行きやがった。

 ――バタンッ! 

 と盛大な音を立てて閉まるドアから、桐乃の怒り具合が伝わってくる。

 今のやり取りの何処に桐乃の怒りポイントがあって、あいつをああまで刺激したのか俺にはさっぱり分からない。ゲームを進めてなかったことが腹立たしかったのかとも思ったが、そういう流れでも無かったよなあ。

 そう。この時の俺は妹の真意にまったく気付けていなかったのだ。

 何故かって? 

 だってさ、俺のことを嫌いなはずの桐乃があんなことを頼みに来るなんて、まったく想定していなかったからだよ。

 

 

 

「お袋~。今日の飯なに?」

 

 階段を下りてそのままリビングへ。

 時刻は現在午後7時前で、もう少ししたら待望の夕食タイムである。

 お袋はちょうど台所に立って最後の調理を済ませたところだったようで、手を洗いながらも俺の方へと振り返ってくれた。

 

「あれ、京介? 今日は夕飯いらないんじゃなかったの?」

「は? なんで?」

「だって桐乃があんたと一緒に縁日に行って屋台を冷やかすからいらないって……違うの?」

「なん……だと?」 

 

 桐乃が俺と一緒に縁日に行く? 

 まったくもって初耳な事柄に、頭の中がハテナマークでいっぱいになった。

 もちろん、俺は桐乃とそんな約束を交わした覚えはない。

 ないが――そこでふとポケットに入っていた雑な感触に気付く。取り出してみれば、それは先ほど桐乃が持ってきた縁日のチラシだった。

 激昂した桐乃が投げつけていったものを、思わず拾ってポケットに捻じ込んじまったらしい。

 改めて手に取りチラシを眺めて見る。

 それほど大きな催し物ではないのだろう。実にチープな作りで書いてある。添えられてあるイラストも小学生が書いたような稚拙なものだった。

 けど、見ているとなんとも言えない懐かしさにも似た感覚が湧き上がってくる。疲れるまではしゃぎ回っていたあの頃の感覚や情緒が、素っ気無いチラシに中に溢れているような気さえした。

 

「縁日……か」

 

 そういえば、昔は桐乃を連れてよく遊びに行ったもんだ。

 正確には俺と幼馴染の麻奈美の後ろに桐乃がくっ付いて来てたんだが、あの頃はまだあいつにも可愛げがあったように思う。

 そういや、いつの頃からか俺達の間に桐乃が存在することは無くなっていた。そうなる原因があったようにも思うが、今はちょっと思い出せない。

 とにかく小さい頃からにぎやかなことが好きな奴だったよ。足が遅くてどんくさいわりに、ちょこまかと背中を追いかけてきてさ。

 

「……ん? 待てよ」

 

 セピア色の光景の中に感じる矛盾。

 今考えたことに何か引っかかりを感じたのだ。

 足が遅くて、転んでばっかりで、俺の背中を追いかけていた。

 スポーツ万能で、全国有数の陸上競技者で、留学までしたスゲー妹。

 

 同じ――高坂桐乃のはずだ。

 

 あいつ……昔は足が遅かったんだっけか?

 確かそんなような事を言っていた記憶がある。

 あれはアメリカに行く直前に、あいつの部屋で一緒にエロゲーをプレイしてて、それから――

 

「京介」

 

 だが、再び思考を巡らせる前にお袋が声をかけてきた。

 おかげで、一度広がりかけた考えが霧散する。

 

「簡単なものだったらすぐに作るけど、どうする? 桐乃のぶんも作ったほうがいいのかしら?」

 

 夕飯……屋台。お祭り――か。 

 

「……あー、やっぱいいわ。悪ぃお袋。ちょっと桐乃と出掛けてくる」

「はいはい。あんまり遅くならないのよぉ~。お父さんが心配するからね」

「了解」

 

 片手を上げてお袋に了承の意思を示し、そのままリビングを後にした。

 

 

 

 そして桐乃の部屋の前で立ち尽くす。

 先程のアレはあいつなりのアピールだったんだろう。曰く――自分を縁日に連れていけと。

 きっと急なことで友達との予定があわなくて、でも祭りには行きたくて、仕方なしに身近にいる俺に声をかけたのだ。

 一人で祭りに行っても空しいだけだし、気持ちは分かる。

 けどよ桐乃。それなら最初から素直にそう言えってんだ。

 俺のことを嫌いなはずの桐乃が態々俺の部屋まで来て“一緒にお祭りに行こう”なんて言いだすとは、まったくもってこれっぽちも想定してなかった。

 だから先程はそこまで考えが及ばなかったのである。

 もし「どうしても縁日に行きたいの。一人じゃ心細いから一緒に行って」なんて言やあ、俺だって鬼じゃない。

 あいつの為に骨くらい折ってやるさ。

 

「……ったくよぉ。素直じゃねえ妹を持つと苦労するぜ」

 

 格好としてこっちから折れることになるが、気付かなかった俺にも非はあるだろう。

 それに俺もまんざら祭りに興味がないわけじゃねえし、特に屋台関連の魅力は心に響くもんがある。

 何よりもう夕飯の当てがねえんだ。縁日に行って何か腹に入れねーと“しまり”が悪い。

 俺は意を決して妹の部屋の扉をノックしようと右手を上げて――そこでふとゆる~い幼馴染の顔が浮かんできた。

 麻奈実だったら、今からでも予定が空いてるかもしれない。

 さっき思い出した光景のせいかもしれないが、三人で縁日を回るのも悪くねえ、なんて考えちまった。

 りんご飴をちろちろと食べていく麻奈実を想像したら、なんとも言えず心が和んだ。

 

「……そうだな。試しに電話してみっか」

 

 持ってきていた携帯を取り出し、アドレスから麻奈実の番号を呼び出す。

 なんならロックの奴を加えてもいい。同じ騒ぐなら人数が多い方が楽しいだろう。

 そう思っていざボタンを押そうとした矢先、以前桐乃と交わしたやりとりが脳裏に浮かんできた。

 

『――桐乃。やっぱおまえ、麻奈実のことが嫌いなの?』

『………………別にィ………………』

 

 含みがあるのが丸分かりの態度。

 なんでか分からないが、桐乃は麻奈実を苦手にしている節があるのだ。 

 

「んー、ちょうど麻奈実ん家も夕飯を食べる頃合か。まあ、無理に誘うことはねーわな」

 

 そう結論付けると、俺は携帯をパタンと閉じポケットに仕舞い込んだ。それから意を決して、目の前にある扉をコンコンと控えめにノックする。

 それから暫し、何故か中からの応答は無かった。 

 

「桐乃ぉ~! いるんだろ? チョット開けてくれ。話しがある」

 

 ノックでは埒が開かないと、無反応な扉めがめて大きめの声で呼びかけてみる。室内にいるのは間違いないんだから聞こえていないわけがない。

 果たして、一分ほど後に扉が開いた。

 いつもは俺の額を撃ち抜かんばかりの勢いで扉をオープンする桐乃だが、今回は割りと普通に開けてきた。ので、防御態勢を取り構えていた俺は、桐乃の行動に些か拍子抜けしてしまう。

 

「……なに? なんか用があんの?」

 

 目元を手の甲でゴシゴシと擦る桐乃。

 ん? もしかして寝てたのか?

 

「あ、いや。その……さ」

「……?」 

 

 やべえ。桐乃を縁日に誘おうと決意したものの、肝心の第一声を考えていなかった。  

 さっき関係ないと大見得切った手前、改めて誘うっつうのは妙に気恥ずかしいもんがある。

 

「……なんで黙ってんの? もしかしておちょくりに来たワケ?」

 

 ほら。桐乃も俺の怪しげな行動に不信を抱きはじめたじゃねーか。

 どうする? 何気ない感じで遠まわしに言ってみるか。

 ……いや、駄目だ。

 こいつも“俺と同じ”なら気付きゃしねーだろう。それに時間も押している。あまり悠長に構えてはいられない。

 仕方ない。ここはやはり男らしく――真正面からっ!

 

「――ぐッ!」

 

 奥歯を噛み締め、腹の底に気合を入れる。

 俺は半ばやけくそになりながら、ポケットから例のチラシを取り出すや桐乃の眼前に突きつけてやった。

 

「き、桐乃! 縁日に行こーぜッ!」

「……………………はぁ!?」

 

 丸っきり状況が理解出来ないと、桐乃の目が点になりアホ面をさらけ出した。

 

「さっきのチラシ見てたら無性に屋台の焼きそばとか食いたくなっちまってさぁ! フランクフルトとかお好み焼きとか、ああいうところで食うと妙にうまいだろ? それに金魚掬いつーの? そういうのもあるんだろうし……だから」

「もしかしてアンタ、あたしと一緒に出掛けたいって言ってんの? その……お祭りにさ」

 

 馬鹿なのこいつ? って感じで眉根を寄せる桐乃。

 こいつからしたら今さらだわなぁ。けど、ここは兄として引くわけにはいかない。

 

「おうよ! 男一人で屋台冷やかすとか寂しいじゃねーか。お前でも……いないよりゃマシだ」

「なに、その言い方? それが人にものを頼む態度なワケ?」

「そう言うなよ、桐乃。――な? ここは俺を助けると思ってよ?」

「………………」  

 

 一旦言葉を切って、腕組みしながら何やら考え込む桐乃。

 それから一分くらい経った頃合だろうか。桐乃は腕組みを解き、地面を指し示しながらこう言い放った。

 

「――土下座」

「……は?」

「土下座して詫びるってんなら、許してあげる」

 

 ……。

 …………。

 すまん。あまりのことに一瞬言葉を失っちまった。

 

「あの……桐乃さん? 土下座って、今ここでっすか?」

「あたりまえじゃん。あたしにィ~、一緒にィ~、お祭りに行って欲しいんでしょォ~? それくらい出来るよねェ~?」 

 

 ――――うぜええええええええええええええええええええッッッ!!! 

 

 けらけらと目の前で笑う妹がうざくて堪らない。

 何で俺はこんなことまでされてこいつの為に縁日に行こうとしてんだ?

 一瞬で怒りがmaxになった俺は、ふざけんなと怒鳴り返してやった。

 

「あのなぁ、桐乃! どうして俺が土下座までしなくちゃなんねーんだよ? 一緒に縁日に行こうって言っただけじゃねえか!」

「ハァ? 悪いけど、あたしにはそう言う権利があんのっ。そういう返答するってことはさ、あんた申し訳ないって気持ちが足んないんじゃないの?」 

「何で俺がお前に対して申し訳ないって思わなきゃなんねーの? お前こそこうして誘いに来た俺に対する感謝の気持ちがないんじゃねえの? “有難う。一緒に行きますわ、お兄様”くらい言えやっ!」

「うわ、キッモ! あんた現実に“お兄様”なんて言う妹がいると思ってるワケ? ばかじゃん?」

「例えだよ、例え! それくらい素直になれって意味だよ! だいたい俺シスコンじゃねーし」

「黒いのに“兄さん”とか呼ばせてたじゃん? アレはなんなわけ?」

「ば――あれは黒猫が勝手に呼んでただけだ。そんな昔のこと蒸しかえしてんじゃねーよ!」

「どうだか~? 実は今でもコッソリ呼ばせてんじゃないの? 本当キモい! マジキモい!」

 

 そんなやり取りが十分くらい続いただろうか。

 お互いこれが何も生み出さない不毛な行為だと気付いたので、取り合えず今は祭りという重要案件について話すことで一致した。

 

「……分かった。あんたがそんなにあたしと一緒に行きたいって言うなら行ってあげる。感謝しなさいよねっ!」

「へいへい。もうそれでいいよ」 

 

 ここで口答えしたらまた不毛な口喧嘩の始まりだ。

 俺はぐっと堪えて、桐乃の言う通りに頭を垂れてやった。

 それを見た桐乃は満足したのか、そりゃあもう嬉しそうに相好を崩して、室内にあるクローゼットを振り返った。

 

「じゃあさ、あんた先に下で待っててよ。実は浴衣を“用意”しておいたんだよねェ~」

 

 つーか、めっちゃ疲れた。縁日に誘うだけの簡単な案件のはずなのに……本当に疲れきっちまったぜ。

 けど、楽しそうにクローゼットへ向かう桐乃を見ていたら、ちょっとだけだがあいつを誘って良かったと思った。

 偶には兄妹で祭りもいいかもしれない。

 そう感じるくらいには。

 

   

 

 



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第九話

「へぇ~! いっぱい人いるじゃん! もっと寂れてるとかと思ってたけど」

「そうだなぁ。屋台も結構出てるし、思ったより楽しめそうだ」

 

 俺は今、桐乃と並んで神社を目指して歩いている。

 目的地はまだもう少し先だが、道路を挟むようにして幾つもの屋台が展開されている様はまさにお祭り。辺りからは威勢の良い掛け声や、はしゃぎ回る子供達の声が耳に飛び込んできていた。

 騒がしいのは苦手だが、こういう祭り特有の喧騒は嫌いじゃない。

 なんつーか、ここにいるだけで“イベント”に参加している気分になって心が躍るからだ。

 視線を飛ばせば、行き交う沢山の人々――家族連れやカップル、会社帰りなのかスーツ姿のリーマンなど、誰もが楽しそうに笑顔を浮かべている。

 きっと、みんな俺と“一緒”なのだろう。

 だから蒸し暑い中でも、こうして集まってきているに違いない。

 

「んー、良い匂い! もうね、夕飯食べてないからお腹ぺっこぺこっ。何から食べよっかなー? 定番の焼きそばは外せないとしても、せっかく来たんだしぃ、やっぱ色んなもの食べたいよねっ!」

 

 目を輝かせた桐乃が、屋台を迎え撃つべく臨戦態勢を整えていた。

 行く前は散々ごねていた癖に、本当に現金な奴である。

 ちなみに桐乃は、自分で言っていたように自前の浴衣を着て来ていた。兄である俺が言うのもなんだが、ピンクを基調とした花柄の浴衣がマジ似合っている。

 伊達に読モはやってねえってことだろうが、腹が立つくらい何を着ても似合う奴だよ。

 その辺りウソは吐けない性分なんで、浴衣似合ってるぜってな感じであいつに伝えたらさ、どうしやがったと思う? 

 何と急にそっぽを向くや、暫く目も合わせてくれなくなったんだ。

 信じられねえだろ? 折角俺が褒めてやったってのに。

 まあ、妹に何を期待してた訳じゃなし、この程度は慣れっこだけどよ。

 

「……桐乃。食べ歩くのは良いけどよ、あんま食うと太るぞ?」

「女の子に向かって太るとか言うなっ! これでも普段節制してるんだから……チョットくらい大丈夫……なハズ」

 

 僅かに視線を落とし、腰周りを気にする桐乃。

 今は浴衣の帯で隠れてるが、かなりスリムなウエストをしてるはずだ。

 モデル業の為に体型を維持しなきゃなんねーのか知らんけどさ、コイツは普段食わなさすぎんだよ。

 それなりに運動してるっつーのによ。

 だから、こんな日くらい羽目を外しても罰は当たらんと思う。

 それにさ、多少太ったところで俺は気にしねーし。例えばこいつが食いすぎて“キリノデラックス”になったとしても、本人が幸せなら良いとすら思うね。

 けど、桐乃に限ってはない話しだろうし、間違ってもそのことを口にしようとは思わねーがな。

 

「さぁって、何処から回ろうかなぁ~? クレープとかァ~、チョコバナナとかァ~、あっ、たこ焼きなんかもいいかもっ!」

「言っとくけど奢らねーからな。自分で食う分は自分で払えよ」

「ハァ? あんた何言ってんの? サイッテー! 女の子に払わせるとかマジありえないし」

「今月は色々と出費が重なって金がねーんだよ! つーかさ、何で俺が払わなきゃなんねーの? おかしいだろ!」

 

 この俺の台詞に対する桐乃の回答は盛大な舌打ちだった。 

 

「超ウザい。あんたさァ、さっき自分で言った台詞をもう忘れたわけ?」

「あぁ?」

「何でもしますから、お願いですから縁日に付いて来てくださいって言ったよね? ケチケチしてさぁ、誠意ってものが足んないわけよ」

「俺の台詞を勝手に脳内変換してんじゃねーよっ!」

 

 思わず張り上げた声に興味を引かれたのか、周りにいた人達がこっちに注目してきた。

 傍目に見ればカップルが痴話喧嘩している風に見えたのかもしれない。クスクスとした嘲笑が聞こえてくる。

 これは……ちょっと恥ずかしい。

 

「……フン。あんたのせいで笑われちゃったじゃん。セキニン、取りなさいよね」

 

 さすがに桐乃も恥ずかしかったのか、少し頬を赤くしながら唇を尖らせている。見てくれだけは可愛いので、まるで俺が苛めているような光景だ。

 懸命な人なら気付いてくれてると思うが、苛められてるの俺だからね?

 

「責任っつったってよぉ、具体的にどーすりゃいいの?」

「そんなのはあんたが考えなさいよ。それとも甲斐性だけじゃなく決断力もないわけェ? あー、最悪。マジダサい」

「お前な……」

「なに、文句あんの? あんならハッキリ言えば?」

 

 ぐ……ぐ、ぎぎぎ……ががががあああァァァ――――ッッッ!!!

 

 こ、このクソアマはよぉ、言うにことかいて甲斐性なしのダサオだとぉ? 

 ――ふっざけんじゃねえぞ! 

 好き勝手言いやがって、兄を何だと思ってやがる……って、実際は何とも思ってねえんだろうなぁ。きっとそこいらにある石ころ程度にしか認識してねーんだろう。

 俺もこいつのことは嫌いだが、桐乃には輪をかけて嫌われてる自信があるね。

 なら、何でこいつの我侭に付きあってやってるかって?

 そりゃやっぱ――桐乃が妹だからだろう。

 妹が泣いてたり、寂しそうにしてたら、黙って手を差し伸べてやるのが兄の役目だと思ってる。結果、ウザがられようが、押し付けがましいと罵られようが構やしない。

 だってさ、他の誰よりも俺がそうしてーんだからよ。

 だから俺は、爆発しかけた気持ちを押し殺し、少しだけ引いてやることにした。

 ここまで付きあってきた自分の頑張りを、無駄にしたくねえしな。

 

「……わあったよ。じゃあ縁日に出てる屋台ん中からお前が好きな物を一つ選んでくれ。それを買ってやる」

「一つ? 何でもいいの?」

「ああ。けど一個だけな。無い袖は振れねえし、俺も夕飯食ってねえんだ。時間も惜しいだろ?」

「……分かった。それでいい」

 

 俺の提案を受けて、コクンと頷く桐乃。正直もっとごねられると思ったが、意外に素直じゃねえか。

 その桐乃だが、急に首を振ってキョロキョロと辺りを見回し始めた。

 きっと俺に奢らせるブツを物色しているんだろうが、その視線が屋台の切れ目に来たところでピタっと止まった。

 

「あれ、あそこに見えるのって階段? 上にも何かあんの?」

 

 桐乃と同じところに目をやれば、なだらかな石段が高台へと続いてる様が見てとれた。

 そこも通路なのか、幾人もの人が行き来している。

 

「たぶん上に本殿があるんだろ。そこの境内とかにも屋台が出てんじゃねーの?」

「へえ。なら当然行くっきゃないっしょ! 十分吟味しないと良いもの買えないもんね!」

 

 にひひと極上の笑顔を浮かべる桐乃。

 どうやら十分に吟味した上で買わせるつもりのようです。本当にありがとうございました。

  

「じゃあさ、あんた――とりあえずソコの屋台で飲み物買ってきて」

「は?」

 

 桐乃が石段近くの屋台を指差している。

 どうやらその店では、キンキンに冷やされたペットボトルを売っているようで、幾人かの客の姿も見えた。

 

「飲み物って、そんなんでいーのかお前? えらい安いつーか……ま、俺は別に良いんだけどよ」

「ナニ言ってんの。こんなの利子でしょ利子。ブツクサ言ってないでさっさと買ってきてくんない? あたしィ~、さっきからメッチャ喉が渇いてんですけどぉ~?」

「……へいへい、言われた通り買ってくりゃいいんだろ。ちょっと待ってろ」

 

 ここで逆らったらまた喧嘩になっちまう。

 そう思った俺は、大人しく飲み物を買いに行ったのだった。

 

「ナニコレ?」

 

 で、買ってきての第一声がこれ。

 桐乃に手渡したのは、緑茶のペットボトルとうちわが一枚。うちわは店員さんがオマケでくれたものだ。

 何でこれで疑問系が返ってくんの?

 

「これだと両手が塞がンじゃん! ――サイアク。あんたさぁ、もうちょっと色々と考えられないワケ?」

「塞がったって別に問題ねえだろ? 邪魔になるつーんならバッグもあるしよ。それにうちわがあった方が何かと便利だと思うぜ」

「気配りが足んないっつってんの! フンッ! もういい。あたし――先に行くから」

「おい、桐乃ッ!」

 

 ズンズンといかり肩になって、石段へと向かっていく桐乃。

 これはさすがに、何で桐乃が怒り出したのか見当もつかねえ。けどほっぽり出すわけにもいかないので、俺は慌てて桐乃の背中を追いかけて行った。

 

「待てって、桐――――痛っええええぇぇッッ!!」

 

 横に並んだ俺を待っていたのは、妹の強烈な肘撃ちだった。

 

 

 

 石段を上りきった先は、予想通り境内になっていた。

 奥まったところにある本殿まで石畳が続き、そこまでの比較浅い部分に屋台と休憩スペースが設置されてある。ここも下に劣らず大勢の人で賑わっていて、屋台を物色するのにも苦労しそうだ。

 ちなみに謝り倒したおかげで桐乃の怒りは沈静化している。

 変わりに俺の心の中で何か大事なものが砕け散ったがな……。

 

「とりあえず一通り見て回ってから――って、あれぇ?」

「どうしたぁ桐乃?」

 

 桐乃の視線が境内の一角で止まっている。

 何故かと言うと、そこに見知った顔があったからだ。

 

「あれ、もしかして……黒猫か?」

 

 どうして疑問系だったかと言うと、黒猫の格好がいつもと全然違ったから。

 特徴的なゴスロリ姿でもなければ制服姿でもなく――縁日に相応しい浴衣姿だったからだ。

 

「……あ」

 

 彼女の名を表したような瑠璃色の浴衣。流れるような黒髪を風に靡かせ佇む一人の少女。

 時折、月明かりに照らされて彼女の横顔が浮かび上がる。その姿を見て、俺はおとぎ話に出てくるかぐや姫みたいだなぁなんて思っていた。

 

【挿絵表示】

 

「あら?」

 

 当の黒猫も俺達の存在に気付いたようだ。

 それからどちらからともなく歩み寄り、比較的人通りの少ない箇所で落ち合う。

 

「よお! 黒猫。おまえも来てたんだな」

「そういう先輩も来ていたのね。まあ、家が近所なのだから、あなたがこの場に居ても不思議はないけれど」

 

 そう言ってから、桐乃の方へと視線をやった黒猫は

 

「まさかこの女と一緒だなんて。可哀想な先輩。とうとうダークサイドに堕ちてしまったのね……」

 

 と述べ、盛大な溜息を吐いた。 

 

「は? ナニソレ? あたしがここにいちゃいけないっての?」

「なら逆に訊くわ。“兄さん”が大嫌いなはずのあなたが、どうして兄妹で縁日に来ているのかしら? ほら、説明できるものならしてごらんなさい」

「そッ……それは……」

「フッ。それは?」 

「そんなの……どーだっていいじゃんっ! つーか、こいつが泣いて頼むから仕方なく付いて来ただけだしぃ、特別な意味なんてあるわけないっしょっ?」

「ククク。その割には随分と気合の入った格好をしているようだけれど、それにも意味はないのかしら?」

「この浴衣はお母さんが用意してくれてたのっ! じゃなきゃあたしがこいつと出掛けるのに……わざわざ浴衣なんか着るわけないし……」

  

 出会いがしらの漫才――もとい、桐乃と黒猫が楽しそうにじゃれあっている。

 毎度お馴染みの光景だが、本当に仲が良いよなぁこいつらは。

 

「けどさァ、そういうあんたも浴衣着てんじゃん?」

 

 そう言った桐乃が、黒猫の浴衣姿をじーっと凝視している。

 しばらく眺めてから、桐乃は率直な感想を述べはじめた。

 

「へぇ? 結構似合ってンじゃん! あんたさぁ、みてくれだけは純和風だから、前々からそういうの似合うと思ってたんだよねぇ」

「い、いきなり何を……もしかして莫迦にしているのかしら?」

「違うって。普通に褒めてるだけじゃん。その色とかさァ、あんたに超似合ってるし」

「……あなたに褒められると、何か裏があるんじゃないかって勘ぐってしまうわ」

 

 照れたように頬を染めて、ついっとそっぽを向いてしまう黒猫。

 別に桐乃は、黒猫をからかおうと思って言ったわけじゃなく、素直な感想を述べただけなのだ。その辺りウソを吐けないのが、俺達が兄妹たる所以なのだろう。

 実際、黒猫の浴衣姿ってのは絵になってるしな。

 

「本当、本当。雰囲気といい、色合いといい、お前の名前にピッタリで似合ってるよ」

「そ、そう。……なら、ここは素直に礼を述べておくわ。――ありがとう、先輩」

 

 納得したのか、黒猫が嬉しそうな表情を浮かべる。

 その時の仕草とか声音が妙に女の子らしくて、心臓がドクンと高鳴った気がした。

 そう思ったのも束の間、今の言葉の中から“ある疑問”を見つけ出した桐乃が俺に噛み付いくる。

 

「チョト待って。ねえ、あんた今なんつったの?」

「あぁん? 別におかしなことは言ってねえだろうが。黒猫に浴衣が似合うって話で――」

「そこじゃない。今さ『お前の名前にピッタリ』って言ったよね? これってどういうこと?」

 

 ああ、そっか。

 こいつってまだ黒猫の本名を知らないんだった。あまりにナチュラルすぎてスルーしていたが、実際俺も、黒猫の本名を知ったのはつい最近なのだ。

 具体的に言うと、桐乃がアメリカに留学してから、黒猫が後輩として学園に入学して来たあたりなんだが……。

 俺は黒猫に伝えて良いかと視線で問う。だが黒猫は俺を手で制すると 

 

「そういえば、あなたには伝えていなかったわね。――五更瑠璃。これが私の人間としての仮初の名よ」

「……へえ。ふーん。ふーん。そうなんだ。で、何であんただけ知ってんの?」

「偶々そういう機会があったってだけだ。それに同じ学校に通ってる後輩で同じ部活の仲間だぞ? 名前くらい知ってても変じゃねえだろうが」

「後輩に仲間ぁ~! フーンッ。だからってさ、一緒に登下校したり、黒いのを自分の部屋にあげて“イチャイチャ”したりして良いと思ってるワケ?」

「ばッ――いつ俺が黒猫とイチャイチャなんかしたよ?」

「ついこの前、黒いの部屋に連れ込んでたじゃんっ! 惚けんな、むかつく、ばかじゃん?」 

「あれは誤解だったろ? てかさ、お前はいちいち話しが飛躍しすぎなんだよ。ちっとは冷静になれや」

 

 もう滅茶苦茶だな、こいつ。どんだけ黒猫のこと好きなんだつーのね。

 本当に俺は黒猫とイチャイチャなんかしてねーし。

 ……そりゃ、ほっぺにキスはされたけどさ。

 あれは俺もよく分からんつーか、こっちが理由を教えて欲しいくらいで……。

 そんなことを考えていたからだろうか、自然と視線が黒猫の方を向いてしまう。そしたら、黒猫が桐乃に向かってぺこっと頭を下げる光景が飛び込んできた。

 

「ごめんさい。名前――隠していたわけじゃないのだけれど、結果的にあなたには嫌な思いをさせてしまったようね。悪かったわ」

「なっ!?」 

「許してくれるかしら?」 

「……べ、別に気にしてないし。それに名前を訊かなかったあたしも悪いんだしぃ……って、ああ、もう! この話しは終わりっ! 終了!」

 

 素直に黒猫に謝られるとは思ってなかったのだろう。

 桐乃は照れた自分を誤魔化すように、腕をぶんぶん振りながら話しを切った。

 けれど最後に一言だけ、黒猫に向かって

 

「――ふん。五更瑠璃ね。いい名前じゃん」

 

 笑顔を沿えて、そう付け加えていた。

 

 

 

「で、あんた一人で来てんの? ぼっち?」

 

 また訊きにくい事柄を平気で聞いてくれる奴だ。

 桐乃が黒猫に「仕方ないから一緒に遊んであげよっか?」と詰め寄っている。しかし、黒猫には別の意味で断られてしまった。

 

「あなた達と同じよ。――ほら」

 

 そう言って黒猫が通り向こうを指差す。

 そこに設置されていたのは公衆トイレだった。

 祭りという特性上多くの人が利用しているようで、順番待ちしている人の姿が見える。そんな人ごみを縫うようにして、女の子が二人、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。

 

「……もしかして、お前の妹たちか!?」

「ええ、そうよ」

 

 肯定の意味を示し、こくんと頷く黒猫。

 初見で推察できるくらい、その女の子たちは黒猫にそっくりだった。

 

「あの大きい方が日向(ひなた)で小さい方が珠希(たまき)。縁日に行きたいってせがむものだから、仕方なく連れてきてあげたのよ」

 

 黒猫の言う上の妹――日向ちゃんは、見た目は小学校高学年くらいで、後ろ髪をうなじの辺りでお下げにしていた。髪の色は黒猫よりも少し明るめだろうか。

 姉と違ってとても活発な印象を受ける。

 下の妹――珠希ちゃんは、幼稚園の年長組みか、小学校にあがり立てくらいの小さな女の子だった。

 こっちは前髪ぱっつんのおかっぱ頭で、黒猫をそのままミニサイズにしたような感じである。

 一見して分かるくらい、二人は桐乃の好みドストライクに見えた。

 だが、当の桐乃の反応は大人しいもので、突っ立ったまま小さく震えるのみである。

 もしかしてトイレでも我慢してんのか?

 そう考えるくらい、俺はまだ自分の妹を甘くみていた。

 加えて、黒猫の妹という新たな登場人物を向かえ、桐乃の態度を鑑みる心の余裕が無かった。

 だから『い、妹……! 妹……っ! ひなちゃん……たまちゃん……ッッ!』という桐乃の呟きを拾えず、あの惨劇を向かえることになる。

 

「お待たせ、ルリ姉ぇ~って、あれ?」

 

 到着するや。ロリ猫……じゃなかった。日向ちゃんが目をくりくりさせながら、俺と桐乃を交互に見つめてくる。

 あっちも予想外の人物の登場に面食らってるってところか。

 とりあえず自己紹介でもするかと口を開きかけた時、事件が起こった。

 

「い――妹っ! あぁぁぁっっ! か、可愛いよぅぅぅ~~~~~~~~~~~~!!」

「ひ、ひゃあっ!?」

 

 あろうことか、獲物を見つけた肉食獣の如き俊敏さで、桐乃が日向ちゃんと珠希ちゃんに跳びかかったのだ。

 哀れ、黒猫シスターズ。

 二人は桐乃の両腕に組敷かれ、そのまま“ぎゅうっ”と抱きしめられる格好になった。

 もう満面の笑みを浮かべながら、きゃーきゃーと声を出しながら頬ずりしまくる桐乃。

 その姿は、とても人様にお見せできるようなものじゃない。

 ――クッ! 俺としたことが失念していたぜ。

 桐乃が、並みのオタクなら裸足で逃げ出すくらいの、重度の『妹』オタクであることを! 

 

「わ……ぷ……」

 

 手をバタバタとはためかせ、猛獣の手から逃げようと試みる珠希ちゃん。

 しかし桐乃は逃がすまいと全身を使って相手を拘束する。すりすりすりと頬ずりをかまし、ほっといたら舐めかねない勢いである。

 もうね、猫可愛がりとかそんなレベルじゃないよね。

 最悪、トラウマになるレベルだよこれ。

 

「………………な、なにをしているのあなたは!? 妹たちを……離しなさいっ!」

 

 あまりのことに茫然自失していた黒猫が復活した。

 素早く桐乃達に近寄ると、無理やり引き剥がそうとする。

 

「ちょ、邪魔すんなっ!」

「当然邪魔するわよっ! 私の妹よ? 早く……離・れ・な・さ・いっ!」

 

 桐乃の腕を掴み、力づくで引き剥がす。

 何とか妹を救い出した黒猫は、猛獣が再び襲いかからないように素早く身体を滑り込ませ、桐乃との間に壁を作った。

 

「小癪なっ!」 

 

 その壁を越えようと、桐乃が軽いフットワークを活かし左右から身体を割り込ませようとする。しかし、黒猫も必死の形相を浮かべながら身体をずらし、桐乃の行く手を遮っていく。

 

 ――アタック! アタックッ! アタァァァァックッ!

 ――ブッロク! ブロックッ! ブロォォォォックッ!

 

 桐乃の攻め手を、あらゆる手段を講じて跳ね返す黒猫。

 ああぁ、もう。

 二人とも浴衣を着てきたっていうのに、本気の取っ組み合いなんて演じやがってよぉ。もう色々と残念なことになってんじゃねーか。

 黒猫なんか普段の飄々とした態度はドコへやら。すっかり“お姉ちゃん”の顔になってやがるし。

 

「……ぜえ、ぜえ。はあ……はあ。い、いい加減諦めなさい。特別な力を持たないあなたでは、夜の眷属である私を倒すことなど叶わないのだから」

「この引きこもりオタクがぁ……! 火事場の馬鹿力ってわけ? や、やるじゃん……!」

 

 掴み合った姿勢のまま睨み合う桐乃と黒猫。

 結局この痴話喧嘩は、あと五分ほど続くのであった。

 

 

「……まさかこんな酷い目に遭うなんて、予想もしていなかったわ」

「悪ぃな、黒猫。あいつにもよく言って聞かせておくからさ。勘弁してくれ」

 

 結局、最後まで傍観してた俺だったがそれには理由がある。

 どうせ俺が言ったところで聞きゃしねーし、被害がこっちに飛び火するだけだ。

 俺だって学習するんだぜ。 

 

「別に先輩が謝ることではないわ。ただ、あの女の危険性を再認識させられただけよ」

「はぁ? チョット撫でてただけじゃん! 減るもんじゃないんだから、ケチケチすんなっつうの」

「魂の尊厳が減っていくのよ。あなたの邪悪なオーラに当てられたら心に傷を負うことになるわ。迷惑だから、もう妹たちに近寄らないで頂戴」

「人を害虫みたく言うなっ!」 

 

 再び桐黒戦争が勃発しようとした矢先、傍から眺めていた日向ちゃんが輪の中に入ってきた。

 

「ねぇねぇ、ルリ姉ぇ。もしかしてぇ、この人がいつも電話で喧嘩してる“ビッチさん”?」

『なっ!?』

 

 俺と桐乃の声が綺麗にハモった。

 今なんつったこの娘?

 ビッチ――だと?

 

「わぁ! 写真で見たことあったけど実物は初めて見たよ~。さっきはいきなりで驚いたけど、よく見ると綺麗な人だねぇ。で、こっちが“ビッチお兄さん”なわけだ。けど……平凡っていうか、あんま似てないね」

「悪かったな、平凡でよ! つーか、俺には高坂京介って名前がある。頼むから“ビッチお兄さん”はやめてくれ」

「あっ! その名前知ってるっ! 確かこの前ルリ姉が言ってた運命の相手で、契りを結――――」

 

 ガシッ! っと黒猫が日向ちゃんの頭を鷲づかみにする。

 まるで、最後まで言わせてなるものかと。

 

「――フッ。……クックック。それ以上無駄に囀るようだと、徹底的に教育を施すことになるけれど、良いのかしら?」

「え? な、なんかルリ姉……めっちゃ怒ってる?」

「そう見えるなら、それは誰の所為かしらね?」

「だってルリ姉“……ふっ。莫迦にしないで頂戴。現世における彼の名前は京介。契りを……”ててて、痛いってルリ姉っ!?」 

 

 うわー。

 日向ちゃんの物真似、黒猫にそっくりじゃねーか。一瞬、黒猫が喋ってるのかと思ったぜ。 

 

「どうやら何を言っても無駄のようね。どうしたら口を閉じてもらえるのかしら?」 

「に……にゃああぁぁ――っっ!!」

 

 冷笑を浮かべながら、日向ちゃんに“教育”を施す黒猫。

 ギリギリと音が鳴るくらい、掴んだ手に力を込めているのが傍目に見ても分かった。

 やっぱこいつんとこも“姉妹”なんだな。

 

 結局その後は、俺と桐乃に黒猫シスターズを加えた五人で縁日を回ることになった。

 道中色々あったが、結果だけを言えば楽しかったと断言できる。

 桐乃も珠希ちゃんに「おねぇちゃん」なんて呼ばれて機嫌直してたしな。ちなみに珠希ちゃんは、俺のことも「おにぃちゃん」と呼んで慕ってくれる。

 その姿が、もうめっちゃかわいくてさ、桐乃の気持ちが少しだけ理解出来た瞬間だったよ。

 あ、念の為に言っとくが、俺はロリコンでもシスコンでもねーから。

 そこんとこは誤解しないように。

  

  

 



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第十話

「――これは、どういうことですか、お兄さんっ?」

「……いや、違うんだあやせ。これはな……違うんだよ?」

「まったく同じ台詞を先日聞いたような気がしますけど、一応理由を伺いましょう」

 

 光彩の消えたあやせの瞳が真っ直ぐに俺を貫いている。

 そのあまりの威力に気圧されて、俺は一歩だけ後ろへと下がってしまった。

 

 ここはあやせとの密会――もとい、彼女から相談事を受ける際によく利用する公園だ。

 俺ン家の近くにあるので便利なんだが、すぐ裏側には交番が立っているのが玉にキズ。

 一度ならずもあやせに通報された結果(冗談抜きで本当に防犯ブザーを鳴らしやがった)あやうく俺は、妹の友達の手によって社会的に抹殺される寸前まで追い詰められた。

 マジで信じらんねえ。

 本当、怖え女だよ。俺は何もしちゃいないってのによ。

 

 そんなあやせと俺が、何故にこの公園で向かい合っているかと言うとだな『お兄さん、ご相談があるんです。放課後いつもの公園に来てくれますか?』なんて、甘~い声で熱烈なラブコールを受け取っちゃったらさ、もう行くっきゃないだろ?

 ――例え罠だと分かっていても、男には進まなきゃいけない時がある。

 既にチョット後悔してるのは内緒だ。

 

「……何を訊きたいっていうんだ、あやせ?」 

「分かりきった事を聞かないでください。どうして“この場”にこの人が居るんですか? ――当然ッ納得の行く説明をしてくれるんでしょうね、お・兄・さ・ん?」

 

 氷水を浴びせられたって今より凍えることはない。そう断言できるくらい、あやせの声は冷たいものだった。

 まるでツララを投げつけられたように、サクっと俺の心に突き刺さるあやせの言葉。

 だが今の俺以上に、あやせの攻撃対象に晒されている可哀想な人物がいた。

 憎悪の篭ったあやせの視線。その視線を真っ向から受け止めている人物が、俺の隣に立っているのだ。

  

「――ふっふっふ。何なのかしら、その殺意の篭った眼差しは? まるで“この女なんか、この世からいなくなってしまえば良いのに”とでも言いたげね。嗚呼、おぞましい。とてもおぞましいわ、貴女」

 

 あやせの視線を受け止めてるだけでも凄いのに、きっちり言い返した人物とは――

 そう。

 何を隠そう、あやせと視線に火花散らしているのは――――制服姿の黒猫だったのだ。

 

 どうしてこのような異常な状況に陥ったのか、説明せねばなるまい。

 事の発端は放課後。

 俺が教室で赤城とくっちゃべっていた時に届いた、一通のメールが全ての始まりだったのである。

 

 

 

「そういや高坂、おまえエロゲーに精通してたよな?」

「その言い方に異論はあるが、ここは敢えてスルーしよう。で、何だ? 欲しいエロゲーでもあんのか?」 

「――いや」

 

 一旦言葉を切った赤城は、言い出しにくそうに口をもごもごとさせている。

 これは非情に珍しい光景だった。こいつは思った事を口にするのを躊躇うような男じゃない。だが、エロゲーに興味を持つような男でもないはずだ。

 俺は暫し、親友の心の平定を待ち、次に来るだろう言葉に備えていた。

 だが――――

  

「……なあ、高坂。お前さ、ホモゲーに興味はないか?」

「悪いな赤城。チョット急用を思い出した。もうお前と会うことは二度とないだろう」

「いや、待てってっ! お前は壮絶な勘違いをしているっ!」

 

 ガシッ! っとその場を逃げ出そうとした俺の肩を、ホモ……じゃなかった、赤城が掴み止めた。

 

「離せええええっっ! 俺は正真正銘ノンケだよっ! まったく、これっぽっちもその世界に興味はねえっ!」

「いいから聞けって。俺もホモに興味はねえよ! これは瀬菜ちゃんに絡んだ話なんだっ!」

「……あの腐れ外道の?」

 

 ――プチン。

 

 瞬間、赤城の形相が鬼へと変化した。

 奴は間髪入れず俺に詰め寄るや、襟元に両手を伸ばし首を絞めに掛かる。

 

「ぐ……」 

「――おい、高坂。今、なんつった? 誰の妹が腐れ外道だと?」

 

 瞳から光彩を消し、静かに怒りの炎を燃やす赤城。

 やば。思わずこいつの地雷を踏み抜いちまったぜ。 

 

「……あ、赤城」 

 

 ――赤城浩平。

 俺の級友であり、悪友であり、親友でもある。

 同年代の中ではずば抜けた運動神経を持っている奴で、所属してるサッカー部ではエースの称号を欲しいままにしている。しかも整った顔立ちを誇っていて、世間一般では勝ち組に属するといっても過言ではない。

 だが、この男のある性癖が、そのプラスの部分全てを相殺……いや、台無しにしていた。

 

「瀬菜ちゃんはなぁ……瀬菜ちゃんは、決して人の道を外れちゃいねえ! ちょっと他人には言いにくい趣味を持ってるだけだっ!」 

「それを世間では腐女子っつーんだよ! つーか、その辺のことはお前が説明してくれたんじゃねーか!」

 

 即ち――赤城浩平は重度のシスコンである。

 赤城は俺の襟元から手を離すや、ぐっと拳を握り込み何やら熱く語り始めた。

 

「俺だってなぁ、俺だって瀬菜ちゃんの趣味が少し特殊な部類に入るのは分かってるよ。それで肩身の狭い思いをしてるのもな。だからこそ俺なりに手助けしてやったりしてんじゃねーか。その辺の苦労とかさ“お前なら”分かってくれるだろ?」

 

 赤城のシスコンぷりは常軌を逸していて、妹の為に秋葉原までホモゲーを買いに行くくらい朝飯前で、妹が欲しがってるという理由だけでSMグッズまで仕入れるという邪悪っぷりだ。

 その関係かそっち系統の知識は相当なもんで、こいつ自身はホモじゃない……と信じているが、最近はその確信が揺らぎつつあるのも事実である。

 

「高坂、お前なら――」 

「生憎と分からねーよ。俺はお前ンとこと違って兄妹仲が良くねえからな。妹の為に苦労なんざしたくもねえ」

「………………」

「なんでそこでジト目になるんだよッ!?」

「いや、お前さ……妹の為に色々やってるらしいじゃんか。いつだったか、秋葉の深夜販売で――」

「うあああああああああああぁぁぁぁぁ――――ッッ!!!」

 

 くっそ。思い出したくない記憶を掘り起こしてくれる奴である。

 いつかの日、こいつとバッティングした――

 何が悲しくて、寒空の中、自転車で三十二キロも走破しなきゃならなかったんだ俺は?

 全部、桐乃の我侭の所為じゃねーか。

 汗だくになって、必死こいてペダル漕いでよぅ……。

 

「……その話は忘れようぜ」 

 

 赤城は妹に振り回されるのを楽しんでいるようだが、俺はまったく楽しくなんかねえ。

 そこがこいつと俺と“決定的”に違う点だった。

 

「まあいいや。それでよ、高坂。あるホモゲーについてなんだが――」

 

 赤城が話しを蒸し返そうとした時、俺の携帯からメールの着信が入ったことを知らせるアラームが鳴った。

 ポケットから携帯を取り出し、内容を確認してみれば──なんと! 送信者は新垣あやせ。

 その名を見た瞬間に、赤城の話しとか他のこととかが地球の彼方まで吹っ飛んでいった。

 ふっ。当然だろう?

 なにせ、あやせたん>>>>>>>>>>>>>>>~超えられない天使の壁~>>>>>>>>>>>>>>>ホモゲーだ。

 他に構っている時間はない。

 あやせたんマジ天使!

 

「悪い赤城。本当に急用が出来た。話しはまた今度にしてくれ」

「おい、高坂――ッ!」

 

 足早に廊下に出て、早速メールを確認する。

 そこには簡単な挨拶と一緒に、もう少し後で電話する旨が書かれていた。何やらあやせからお願いがあるようだが、詳しい話はその時にとういうことだろうか。

 なんだ、あやせの奴。照れやがってよ。俺の“準備”ならいつでも万端なのに。

 だから当然、俺はあやせからの電話を待つまでもなく、こっちから掛けてあげることにした。

 

 短縮を呼び出し、コールする。

 プルルルルッ! プルルルルッ!

 ――ピっ。

 ツーコールで天使が出てくれた。

 

「おう、あやせ。俺だ、京介。メール見たぜ。んでよ、話しって何だ?」

『ちょ……早すぎますよ、お兄さん。こちらから電話するって書いてませんでしたか?』

「書いてたよ?」

『どうしてそこで不思議そうな声出すんですかっ! ……まったく、私にも色々と準備が……』

 

 ぶつぶつと言葉を濁すあやせ。

 背後から聞こえる音から推測すると、こいつもまだ学校にいるようだった。

 

【挿絵表示】

 

『まあいいです。お兄さんの性格を考慮に入れてなかった私のミスですし。それに、ギリギリですが何とかごまかし……じゃなかった。間に合いましたし』

「あん?」

『……こちらのことなので、気にしないでください。じゃあ、お兄さん。これからいつもの場所に来てくださいますか? とてもとても大切なお話があるんです』

「大切な――お話だと?」

 

 まさか、遂にキタのか?

 あやせからの告白イベントがっ!? 

 

『その間……何かよからぬことを考えましたね? メールにも書きましたけど、お願いというか、ご相談があるんです』 

「……んだよ、また人生相談か?」

『今、すっごく落ち込んだような声出しましたけど……。お兄さん、私に何を期待してたんですか?』

「いや、俺はてっきり告白とか、デートのお誘いかなぁってwktkしてたんだけどさ……ただのお願いとか、ねーわ」

『わ、私がお兄さんを、で、でで……デートに誘うわけないじゃないですか! 告白とか――もっとありえません! もう、すぐそっちの方向へ話しを持っていこうとするんですから……』

「普通、期待するだろ?」 

『普通はしませんっ! 本当、ド変態なんですから……。あまりしつこいと――ブチ殺しますよ?』

「お前こそ、すぐに俺を殺そうとすんじゃねーよっ! ……チ。まあいいや。で、俺に何をやらせるつもりなわけ?」

『詳しい話しはお会いしてからということで。では、お待ちしていますね、お兄さん』

 

 ――ピッ。通話終了だ。

 

 取り合えず会ってみなければ話が始まらないのは分かった。

 嫌な予感はするが……あやせをほっぽって帰るという選択肢はないので、今から公園に行くしか道はない。

 

「しゃあねえな。チマチマとあやせフラグを構築して好感度を上げて行けば、そのうちイベントに突入すっだろ」

 

 そう思って携帯をポケットに捻じ込んだ時、廊下の先で俺のことを見つめていたであろう人物と、バッチリ目線が合ってしまった。

  

「……え? く……黒猫?」

 

 きょとんと目を丸くする黒猫。

 その姿が、何処となく寂しげに見えたのは、俺の気のせいだったのだろうか。

  

  

 



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第十一話

「え? く、黒猫……か?」  

 

 人気の絶えた廊下の先で、ぽつんと一人佇んでいたのは――黒猫だった。

 だけど、少し様子がおかしい。

 彼女は驚愕したように目を見開き、じっと俺のことを直視している。しかし、やおら視線を地面に落とすと、そのままの姿勢できゅっと唇を噛み締めた。

 その姿が何とも言えず寂しそうに見えちまったから、俺はもう一度だけ彼女の名を呼んでみることにした。 

 ――けれど、黒猫からの返事は返ってこない。

 その代わりとでもいう風に、彼女はスカートの裾をぎゅっと握り込むや、プイっと俺から顔を背けちまった。

 拒絶……されたのか? 

 そう思ったものの、黒猫はその場から移動する訳でもなく、黙り込んだまま“そこ”に佇んでいる。

 

「え……と」 

 

 場の雰囲気に飲まれたのか、俺の口からも言葉が出てこなくなる。気軽に軽口を叩きあう間柄なのに、今は何を伝えるべきなのかまるで分からないのだ。

 廊下に佇む俺と黒猫。

 奇妙な沈黙が場を支配し、二人の間に見えない壁が出来ちまったような錯覚を覚える。

 

『……ファイっオー! ファイっオー! ファイっオー!』

 

 遠くから聞こえる運動部の掛け声だけが、耳に届く唯一の音だった。

 放課後とはいえ、まだまだ大勢の人が学内にいるはずなのに、この空間だけ切り取られてしまったような不安感が胸を掻き乱す。

 

「――黒猫」

 

 そんな不安を吹っ飛ばすように、もう一度彼女の名前を呼んでみた。

 黒猫の声が聞きたい。

 いつものように厨二病全開の答えでもいい。この際、罵倒だって構わない。ただ――何でもいいから応えて欲しかった。

 願いが通じたのか、黒猫が顔を上げる。

 そして何か口にしようとするも……結局、何も言わず口を閉じてしまった。

 視線が宙を彷徨い、色々と逡巡しているのが見て取れる。

 

 こんな黒猫を見るのは――初めてだった。

 

 いつも飄々としてて、確固たる自分を持っていて、それでいて頼りになる“姉”の部分も持っていて。桐乃のことで悩む俺の背中を、そっと押してくれたこともあった。

 それほど長い付き合いじゃない。けどこいつのことは、俺なりに理解してるつもりでいたのだ。

 だからなのか、見た事もない黒猫の姿を前にして、俺は内心で激しく動揺しちまっていた。

 こいつとの間に沈黙が訪れるのは“慣れてる”はずなのによ。

 どれくらいの時間、そうやって佇んでいたのか。しばらくしてから、やっと黒猫が口を開いてくれた。

 一度だけきつく瞳を閉じ、何か決意したような素振りを添えて。

 

「こんなところで何をしているの、先輩? 何やら電話をしていたようだったけれど」

 

 それは魔法の言葉だったのだろうか。

 普段と“まったく変わらない”黒猫の声音が、俺の金縛りを即座に解いてくれる。

 

「あ、ああ。ちょっとメールを貰ってな。それで確認の電話してただけだ」

「へえ、そうなの。――で、その電話の相手というのは誰なのかしら?」

 

 後ろ手に腕を組んでから、黒猫がゆっくりとした足取りでこちらに近づいてきた。

 表情に薄笑みすら浮かべ、状況を楽しんでいるようにも見える。その姿からは、先程まで寂しそうに佇んでいた面影は微塵も感じられない。

 まるで、さっきまで俺が見ていた黒猫の姿が幻覚だったとでもいうように。

 

「で、電話の相手っつたってよ……どうしてそんなこと聞くんだ?」

「気になるからに決まっているじゃないの」

「へ?」 

 

 一歩ずつ、確実に俺と黒猫の距離が近くなっていく。

 そして気が付けば、彼女は俺の目の前に立っていた。

 もう目と鼻の先くらい――そんな位置から上目遣いに俺を見上げた黒猫は

 

「言いたくないのなら、私が当ててみましょうか、先輩」

 

 そう言って、怪しく微笑んだのだ。

 

「――新垣あやせ。あの女の親友だとのたまったビッチよね?」

「き、聞いてたのか、おまえ!?」

「ふっ。以前言ったでしょう? 次元の隙間から常にあなたを監視している使い魔がいると」

「聞いてたんだな?」 

 

 俺の質問に対しだんまりを決め込む黒猫。

 しかし、俺が黙ったまななのを受けて

 

「……少し、聞こえてしまったのよ。通りがかったら先輩が話をしていて……云わばこれは不可抗力よ。その、盗み聞きするつもりでは無かったわ」

 

 と、ばつが悪そうに視線を逸らした。

 まあ、往来で電話してた俺も悪いし、別に聞かれたからって困る話しをしてた訳じゃない。だから黒猫を責めようなんて気持ちは、これっぽちも無かった。

 ただ――ぶっちゃけると、あやせと黒猫は基本的に相性が悪い。

 もう、最悪と言ってもいいだろう。

 重度のアニオタである黒猫と、そういうものを毛嫌いしているあやせ。その証拠に、こないだなんてお互いほぼ初対面にも関わらず、いきなり喧嘩をおっぱじめようとしやがった。

 だから黒猫にあやせと電話してたと知られて、少し驚いただけだ。

 深い意味は……ない。

 

「そうか。じゃあ大体のところは分かってんだな?」

「ええ。先輩が今からあのビッチに会いにいく――でしょ? 電話していたあなたの姿“ニヤニヤニヤニヤ”していて、とても見られたものでは無かったわ。正直、不愉快よ」

「……まあ、会いに行くっつうのは間違っちゃいねえけどよぉ」

 

 黒猫の言葉に何やら棘を感じるのは気のせいだろうか。

 というか、やっぱりあやせもビッチ扱いすんのな! 

 

「別に普通に電話してただけで、にやけてなんかいなかったぞ、俺」

「それは嘘ね。頬は緩みっぱなしだし、声は上ずってるし、デレデレして、みっともないったらありはしなかったわ。もしかして先輩は――――女なら誰でも良いのかしら?」

「お前ね、しれっと人聞きの悪いこと言ってんじゃねーよっ!」 

 

 なんつーか、やたらと黒猫が絡んでくる。もう絡み猫と呼んでやってもいいくらいだ。

 その態度が桐乃を彷彿とさせやがるから、なんか妹と会話してる気分になってくる程だ。

 

「本当、破廉恥な雄ね」 

「破廉恥って、頼むから、そっちの話題から離れてくれ……」 

「……ふんっ。どちらにしても、その様子では私の望みは叶わないようね。残念だわ」

「望み?」 

「私は先輩を部活に誘いに来たのよ。本当なら、あなたに新しいゲームをプレイして欲しかったのだけれど……」

「お? こないだのゲームにまた手を加えたのか?」

 

 違うわ、と黒猫がかぶりを振った。 

 

「新しいゲームだと言ったでしょう。瀬菜と一緒に新しいものにも着手していたのよ。完成はしていないのだけれど、キリの良いところまで出来たから……」

 

 ちょっと不満気にまなじりを下げる黒猫。

 仕草が一々可愛いが、その後に盛大な溜息を吐いてくれた。

  

「けれど、あなたに予定があるのなら仕方ないわ。諦めましょう。テストプレイはまた後日ということで納得するわ」

 

 そう言った黒猫が、当たり前のように俺の隣に並び立つ。そして俺の顔を見上げる黒猫さん。

 これで黒猫のリアクションは終わり。

 もちろん俺には、黒猫が何を意図しているのか、まったくさっぱり分からなかった。

 

「何を不思議そうな顔をしているの、先輩? あのビッチのところへ行くのではなくて?」

「そりゃそうだけどよ……。なあ黒猫。一体何がしたいんだ、おまえは?」 

「――先輩。時間は有限なのだから、次に起こす行動が決まっているのならさっさとなさい。私はそれほど暇ではないわ」

「……もしかして、付いてくる気かッ!?」

「ええ。もう“遠慮”しないと決めたの。デスティニーレコードを遂行し『理想の世界』を実現する為には、避けては通れない相手なのだから」

「はあ? デステ……なんだって?」 

 

 また黒猫が訳の分からんことを言い出した。

 時々こいつはスイッチが入ると、常人には理解しがたい文句を並べることがある。その一つ一つに何か意味があるんだろうが、今の俺には察することすら出来い。

 もう少し情報が集まれば違うんだろうが……とにかく、こいつがあやせとの密会に付いてくる気だというのだけは理解できた。

 

「デスティニーレコードよ。――そうね。そう遠くない未来に、先輩はその意味を知ることになると思うわ」 

「マジで?」

「ふふ。愚図で鈍間で察しが悪くて、莫迦で怠惰でその上スケベで――――なのに困ってる相手は見捨てておけない。自分がいくら傷ついても構わない。相手を思いやる優しさがあって、気遣ってくれる。本当に……罪深い男だわ、先輩は」

 

 黒猫の声音がとても優しかったから、だから馬鹿にされたとは思わなかった。

 その真意は測れなかったけれど。

 

「だからあの女も……」 

 

 黒猫は呟きと一緒に小さくほうっと溜息を吐くと、俺の隣の位置から数歩だけ前に歩みを進めた。

 それから、その位置で立ち止まるや、くるりと振り返り

 

「心配しなくていいわ、先輩。あのビッチの話が私に関係ない事柄だったなら、すぐにでも帰らせてもらうから。その可能性は限りなくゼロに近いでしょうけれど」

「……何で分かんだよ、そんなこと?」

 

 俺だってあやせの話の内容が何だか知らないっつうのによ。

 だが当の黒猫は、自信たっぷりにこう言い切った。 

 

「闇の眷属だけが持つ直感、一種の危機管理能力が警鐘を鳴らしたのよ」

「け、警鐘?」 

「ええ。世間一般で通じる言語で云うのなら“女の勘”かしらね」

 

 最後に黒猫は、照れたようにはにかみながらも、大きく一度頷いたのだった。

 

 

 

 そんなこんなで、この公園に黒猫が同席している訳なんだが……予想通りっつーか、あやせと黒猫は、開口するよりも先に険悪な雰囲気を醸し出していた。

 相性が悪いのは分かるけどよぉ、もう少し仲良くできねーのかなぁ、こいつらは。

 

「……取り合えず、黒猫もあやせも落ち着いてくれ。何でいきなり喧嘩腰で会話が始まってんだよ? そんなんじゃ仲良くなるものもならねーぞ」

 

 ここはやはり俺が二人の仲を取り持つべきだろう。

 そう思って声をかけたら――あやせと黒猫から同時に思いっきりキツイ目線で睨まれた。 

 ……こ、怖えよぅ。

 

「少し黙っててくれますか、お兄さん。あなたの説明じゃ埒が明きそうにないので、黒猫さんから直接訊くことにしましたから」

「――フッ。良い度胸ねぇスイーツ2号。もしや宣戦布告ということかしら? 面白いわ」

 

 視線に火花を散らしながら、不敵に笑みを浮かべるあやせと黒猫。

 美少女が二人、笑顔で睨み合う光景というのは非常に心臓によろしくない。ありていに言ってしまえばめっちゃ怖いのだ。

 近くにいるだけで感じる謎の圧迫感。まるで二人を中心にして嵐が巻き起こっているような錯覚すら感じる。

 そのあまりの迫力に、俺は思わず生唾を飲み込んじまった。 

 

「では単刀直入に伺います」

 

 先攻はあやせ。 

 

「黒猫さん――ああ、本名は知らないので、不本意ですがそう呼ばせて頂きます――どうしてあなたが、桐乃のお兄さんと一緒にこの場に現れるんですか?」

「あら? 察しがつかないかしら?」 

「分からないから聞いているんですよっ。是非、納得のいく説明をしてください」

「勿論、貴女と先輩を二人きりにさせたくなかったからよ」

「なっ――?」

 

 あやせが絶句する。

 そんな回答を返されるとは思わなかった。予想外だとばかりに、あやせの表情に驚きの色が滲んでいる。

 

「い、意味が分かりません……。第一、わたしが呼んだのはお兄さんだけですよ? そこに付いて来るなんて……非常識じゃないですかッ!?」

「非常識ですって? 莫迦なことを言わないで頂戴。あなたこそ妹のことに託けて兄を呼びだすなんて非常識だと思わないのかしら? 道すがら先輩に訊いたのだけれど、これまでにも何度か呼び出しているようねぇ?」 

「か、仮にそうだとしても……わたしとお兄さんが会うことと――桐乃のことを相談することと“あなた”が、どう関係するって言うんですっ? まったくの無関係じゃないですかッ!」

「本当にそう思う? だとしたら相当に期待外れだわ、貴女。私は――新垣あやせと先輩が二人きりで会うと知った時、心が凍ったもの」

「……っ!」

 

 目を見開き、唇を噛み締めるあやせ。悔しいという感情がここまで伝わるような表情だった。

 黒猫は、そんなあやせを畳みかけるべく、攻撃の手を緩めようとしない。

 

「危険だと思った。安穏と構えていては大切なものを失ってしまうかもとさえ思ったわ。あのタイミングで通りかかったのは僥倖だったと思う。お蔭で、こうして貴女と話しをする機会が得られたのだから」

「そう……ですか」

 

 小さく呟いてから、瞑目するあやせ。 

 それから納得いったとばかりに頷き、そっと目を見開いた。

 

「黒猫さん。やはりあなたは――わたしの“敵”なんですね?」

「今頃気付いたの? 私はとっくの昔に周知しているものと思っていたけれど」

「ええ、気付いてましたよ。初めて会ったあの時から」

 

 言われっぱなしでたまるか。

 そう宣言するように、あやせが胸を張った。 

 

「もっとも、あの時は黒猫さんって、厨二病全開でとても痛い人だなぁと思っていたので、そちらに強く意識を奪われていただけです。正直言うと関わりたくありませんでした」

「な……なんですって?」

 

 今度は黒猫が大きく目を見開いた。

 あやせが反撃を開始した……という訳だか、微妙に話しの方向性がズレてきているような……?

 

「言い回しとか一々回りくどいですし、桐乃がいつも言っている“邪気眼電波女”という言葉の意味をようやく理解できましたよ」

「じゃ、邪気眼……で、で、電波女……ですっ……て?」

「友達になれないと思ったわたしの勘も、まんざら捨てたものではないですね。邪気眼電波女――フフ。あなたには、とても良く似合ってますよ!」

 

 ニコっと微笑み、まるで新しいアクセサリーが似合ってるよ~とでも言うように、黒猫を褒め称えるあやせ。

 相手の嫌がる点を確実に突いてくるこの手法はまさに悪魔。

 可哀想に。黒猫も顔色を無くして絶句している。

 

「……クっ。フ……フフッ。言ってはならぬことを平然と。やはり私の見立てに間違いはなかったわ。まさに悪魔……ね」

 

 ぐぐっと拳を握り締める黒猫。

 こいつの悔しさが伝わってくる実に良いポーズだった。

 その姿勢から黒猫は、握りこんでいた拳を柔らかく開くと、掌を上に、自身の前でワイングラスを持つような形へと移行させる。 

 

「……っふ。もう止めることは叶わない。この溢れる負の想念――どうしてくれようかしら」

 

 嫌味を言われたまま黒猫が引き下がるとは思っていなかったが、やはり戦闘は続行されるようである。

 その証拠に、黒猫は眉間に皺を寄せガンを飛ばすようにしてあやせを睨み据えていた。そして当然の如く“ガン”を真っ向から受け止めるあやせ。

 果たしてここに、視線に火花散るバトルフィールドの第二段階が形成されてしまった。

 

「――つーかッ! マジやめろよ二人とも! こんなところで喧嘩してんじゃねーよっ!」

 

 このままだと殴り合いにまで発展しかねない。

 そう懸念した俺は身を挺して二人の間に割って入った。

 

「何をするの、先輩? そこに居ては私が召喚する地獄の炎の巻き添えを喰らうわよ?」 

「そうです。邪魔をしないでください、お兄さん。言って分からない相手なら、私もそれなりの手段を取らざるを得ません」

「いや、お前が言うとさ、マジで洒落になってねーからっ!」

 

 黒猫の地獄の炎~云々は言葉のあやだが、あやせの“手段”というのはたぶん冗談じゃない。

 よくて傷害。最悪の場合、殺人事件にまで発展する可能性がある。もしそうなったら、当然目撃者である俺も消されることになるのは、火を見るより明らかだ。

 裏に交番があるとはいえ、そんなものはあやせに対して何の抑止力にもならないだろう。

 黒猫の身を守りつつ、俺自身の身も守る。その為には、こいつらをこれ以上争わせるわけにはいかねーのだ。

 俺は改めてあやせに向き直り、真剣な表情で語りかけた。

 

「あのさ、あやせ。お前に無断で黒猫を連れてきたのは悪かったよ。謝る」

 

 こいつらが争っているのは、お互いの相性が悪いのもあるが、根底に当たる原因はたぶん──桐乃だ。

 お互いが桐乃の親友同士で、同じくらい桐乃のことを大切にしてくれている。

 云わば、これは桐乃を巡った争いという訳だ。

 あやせは桐乃のクラスメイトであり、モデル仲間であり、あいつの表の面での親友だ。

 黒猫はあいつのオタク仲間であり、同じ趣味の話題を気兼ねなくぶつけ合える仲間だ。いうなれば裏の面での親友。

 どっちの世界も桐乃は大切にしてるし、実際優劣はないんだろう。だからこそ、こいつらは互いを認められないんだと思う。

 けどさ、お互いの内面を知れば、そんなわだかまりも少しづつ氷解していくんじゃないかって甘い期待も抱いているだぜ? 

 だってさ、二人とも友達思いの優しい娘なんだ。

 ぶつかりあっても、仲良くなれないなんてことは――ないんじゃねーかな?

 希望的観測かもしれない。けど俺はそう思いたかったんだ。 

 

「この件に関しては全面的に俺が悪い。だから責めるなら俺にして、取り合えず矛を収めちゃくれねーか?」

「……お、お兄さん?」

「それに相談……つーか、お願いだっけ? そういうのもあるんだろ? このまま喧嘩してても仕方ねえだろう?」

 

 俺の言葉を受け止めてくれたのか、あやせは考え込むように視線を落としてから、軽く握った右手を口元へと運んでいく。

 動作の端々が絵になってるし、仕草がまた可愛い。憂いを帯びた表情もマジでラブリーだ。

 普段の俺ならあやせたんマジ天使! と飛びつくところだろうが、今は傍に黒猫もいるので自重した。

 褒めてくれ。

 

「黒猫さんがこの場にいる理由は、私なりにですが納得しています。ですが……」

 

 チラっとあやせが黒猫へと視線を送る。

 あやせが黒猫の存在を認めたのには驚きだが――この視線の意味は、ここにいる理由は納得したが、相談事は聞かれたくないということだろう。

 そう察した俺は、次に黒猫の方へと振り返った。

  

「あやせはお前がここに来た理由を納得したと言った。だから黒猫。お前も矛を収めてくれ。無理やりにでも喧嘩したい訳じゃねえだろ?」

「そうね。その件については私なりの言葉を弄した訳だし、蒸し返すつもりはないわ。けれど、それだけじゃないのでしょう?」

「ああ。元々はあやせが俺に相談したいことがあるってのが発端だ。その事についてあやせはお前に聞かせたくないらしい。だからさ、悪いけどちょっと席を外して――」

「フフン。聞こえないわねぇ。残念だけれど、私は席を外すつもりはないわ」

「おいっ!?」

 

 予想外。

 こういうことには融通の利く奴だと思っていたのに、黒猫は頑なに首を振った。

 

「他人に聞かれたくない話しかもしれないだろ? 俺は人の悩みとか吹聴する気はねーし、あやせが拒めばおまえが望んでも聞かせるつもりはねえぞ」

「厭よ」

 

 こ、子供みたいに駄々を捏ねやがって。

 

「それこそ非常識じゃねえか。俺は認めねえ」  

「ふん。いいわ。どうしても排除したがるというのなら――私にも考えがある。最後の手段を行使するのみよ」

「あぁ? 何だよ、最後の手段て?」

「……ぁ」

 

 我ながら少し大人気無かったとは思う。

 けどチョット頭にきていた俺は、怒気を含めて黒猫に言葉を叩き付けてしまった。その所為か、黒猫がビクっと身を竦めてしまう。

 そんな姿を見ていたら、悪いことをしちまったと急激に凹んできた。だから謝罪の言葉を掛けるべく口を開きかけたんだが……その前に黒猫が鞄から携帯電話を取り出した。 

 ……何をする気なんだ、黒猫の奴?

 

「の……除け者にされたら、寂しいじゃない」

「だから?」

「寂しくて、寂しくて――――きっと私は、あなたの妹にこの件を通報してしまう気がするわ」

「それだけはマジでやめてくれぇえええええ――――ッッ!!!」 

 

 これみよがしに携帯電話を突きつけてくる黒猫。

 桐乃に……電話するだと?

 馬鹿なッ!? 

 俺があやせが二人きりで会っていたという事実をアイツに知られた日にゃあ……ああああああああああっっ!!!!

 きっと桐乃は烈火の如く怒り狂う。

 頭にハチマキ巻いてそこに蝋燭を突っ立ててさ、日本刀持って追いかけてくるんだ。もちろんハチマキには『京介許すまじっ』とか書くんだぜ?

 

「うわああああああああああ――――!!」

 

 マ、マジで洒落にならねえ!

 そんな企みは全力で阻止してやる! つーか、俺が生き残る為にはするしかねえ!

 

「や……止めろ黒猫。おまえは────最終戦争(ハルマゲドン)を起こすつもりか?」

「フフフっ。それが厭だと言うのなら私がこの場に同席することを認める事ね。ほらほら、もう短縮ダイヤルを呼び出してしまったわ」

「――今すぐ携帯を仕舞うんだ、黒猫! はやく通話ボタンから指を離してくれええええぇぇぇっっ!!」

「あぁ……素敵よ、先輩。とても心地よい声音だわ。闇に侵食された今の私には、とてもとても甘美に聴こえる」  

 

 黒猫の嘲笑と俺の悲痛な叫びが公園に木霊する。

 つーか、こいつ性格が豹変してね? これじゃ黒猫じゃなくてまるで闇猫だよ。

 そんな嵐が逆巻くような世界の中で、一人じっと考え込んでいたあやせが全てを沈める言葉を放った。

 

「分かりました。黒猫さんにも同席してもらいます」

「……へ?」「認めるの?」

 

 俺と黒猫が同時にあやせを振り仰ぐ。

 それを受けて、あやせが大きく頷いた。

 

「黒猫さんにも聞いてもらいましょう。まったくの無関係――という訳でもありませんし。この際、仕方ありません」

 

 桐乃を巻き込む訳にもいきませんからと、付け加えるあやせ。

 それから軽く咳払いして、改めて俺の前まで歩み寄ってきた。

 

「……こほん。お、お兄さん」

 

 続けて掛けられた言葉を、俺は一生忘れることはないだろう。

 照れたように頬を赤らめるあやせ。

 彼女は僅かに逡巡した後、意を決したように俺を見据えて

 

【挿絵表示】

 

「あ、あの――たった今から、私の彼氏になってくれませんか?」

 

 そんな夢のような言葉を呟いたのだった。

 

 

 



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第十二話

「お兄さん――たった今から、私の彼氏になってくれませんか?」

 

 その台詞を聞いた瞬間から、俺の中にある全ての思考がストップした。あまりの衝撃に、時間すら止まってしまったかのような錯覚さえ覚える。

 身体は指先まで動かないし、喉から声すら搾り出せない。

 脳内には、あやせの天使のような美声だけがリフレインしていた。

 

 ――大好きです、お兄さん。

 ――初めて会った時から、いいなって思ってたんです。

 ――ハンサムで優しくて頼りがいがあって……もう自分でも、この気持ちを抑えることができません。

 

『――“ですから、お兄さん。私の彼氏になって下さい”――』

 

 今あやせはそう言ったはずだ。

 幻聴なのだろうか?

 いや。俺は確かに聞いた気がするし、目の前で佇むあやせの頬は紅く上気している。照れているあやせの様子を見るに、きっと、今までの辛辣な態度は愛情の裏返しだったのだ。

 恥ずかしいからこその裏腹な態度。

 状況を理解するにつれて、身体の奥から熱い思いが溢れてくる。

 

 俺は……何て大馬鹿野郎なんだッ!

 

 あやせの気持ちに気付いてやれず、随分と寂しい思いをさせちまった。

 その事実に思い至った時、俺の中にあるスイッチが、撃鉄を起こすようにカチっと音を立ててONになった。

 

「――あやせ」

 

 思いの丈を込め、愛おしい天使の名前を呼ぶ。

 するとあやせは、恥ずかしがっているのか半歩だけ後方へと後ずさった。

 愛い奴だぜ。

 

「俺さ、大学卒業したら一生懸命働くよ。何処に就職出来るか分かんねーし、最初は苦労かけるかもしんねーけど……精一杯頑張るから」

「だ、大学って、お兄さん高校生じゃないですか?」

「ああ、そうだよ。けど来年には無事大学生になってるはずだ。んでよ、在学中は目一杯勉強して、良いトコ就職すっからな!」 

「…………あの、お兄さん。頭大丈夫ですか? いきなり何の話しをしてるんです……?」

「何って将来設計のことじゃねーか。やっぱ結婚前提で付き合うなら大事なことだろ?」

「…………………………は?」 

 

 心底驚いたという風にあやせが目を見開く。

 正に目が点。

 目の前の男が何を言っているのか理解出来ない。というか、信じられない。そんな風に顔面から血の気が引いているのがはっきりと伝わってきた。

 一般的に見ればドン引きのポーズである。

 しかし、俺とあやせは相思相愛。

 きっと俺が、先々を見据えた答えを返してきたので、まだ心が対応出来ていないだけだろう。

 ――フッ。

 まさか、夜な夜な寝る前に夢想していた『ラブリーマイエンジェルあやせたんと付き合えたなら、俺は今後どう行動すべきかプランA~Z』が、こうも早く役に立つ日がくるとは。

 備えあれば憂いなしとは、よく言ったものだぜ。

 俺はこれ見よがしに前髪を掻きあげると、あやせに向かって極上スマイルを浮かべた。

 

「驚いてんのか? まあ無理ねえか。実際、俺も同じくらいびっくりしたしよ。――まさか、お前が本当に俺のことを好きだったなんてな」  

「な……なな、何を……言って、お、お兄さん! 取り合えず落ち着いて下さい! とにかく、わたしの話しを最後まで聞いて――――」

「照れんなよ、マイハニー!」

「……ひっ!?」 

 

 腕を伸ばし、あやせの右手を掴み取る。

 それからゆっくりと胸の前まで引き寄せると、彼女の掌を慈しむように両手でやさしく包み込んであげた。

 まるで教会で祈りを捧げるようなポーズだが、俺のぬくもりを直に伝えることで、天使を安心させてあげたかったのだ。

 

「き、き……きき」 

「緊張してんのか? だが、全部俺に任せとけば安心だぜ! まずは式場の予約をしてだな――」

 

『きゃあああああああああああああああっっっっ──────!!!』

 

 一体何が起こったのか。耳を劈く天使の悲鳴が辺りに木霊する。

 

「ぐぅ――あや」 

 

 いきなり絶叫したあやせは、俺が握り込んでいる右手をぐいっと上に引き上げた。それに引っ張られ、図らずも子供がバンザイするような格好になってしまう俺。

 これで、完全に無防備な状態を、あやせの前に曝け出しちまうことになった。

 一瞬、生命の危機を知らせるシグナルが脳内に鳴り響くが────時、既に遅し。

 

「このッッッッッ変態ッッ!!!」 

 

 叫ぶと同時にあやせが動く。

 あやせは右手を振り上げた格好のまま左足から踏み込むと、そのまま流れるような動作で身体を沈み込ませた。そして、がら空きになっている俺の鳩尾に向かって

 

「ぐっ……はぁッッッ!?」

 

 ば、バカな――!? 肘撃……だと!?

 

 身体の中心からバラバラにされるような衝撃が俺を包み込む。

 信じられねぇことに、あやせは一切の躊躇なく、人体の急所に向かって肘打ちを突き入れやがったのだ。

 

「……ぅ。い、いきなり、なにを……あやせ……たん……?」

「うるさい黙れ変態ッ!」 

 

 必死に天使の名を呼ぶも、罵倒が返ってくるばかり。しかも、あまりの痛みに立ってられなくなった俺は、そのまま大地へと膝を付いてしまった。

 そこへ待ってましたとばかりに追撃がくる。

 程よい高さへと落ちた俺の顔面側頭部に向かって、旋風のような廻し蹴りが――

 

「死ねええぇぇぇッッッ――――!!」 

「ぶほああああああああああああああっっっ…………!!!」

 

 瞬時に視界が暗転し、鮮血が舞う。

 哀れ、高坂京介は、無慈悲な鬼女の一撃によって、空中へと吹っ飛ばされたのである。

 くるくると回転しながら空を舞う様は、まさに人間砲弾。

 しかも間の悪いことに、吹っ飛ばされた進行方向、俺の視界の先に、鞄を抱えて佇む黒猫の姿が映ったのだ。

 このままでは黒猫にブチ当たってしまう――そう懸念した矢先、再び顔面に鈍い衝撃が襲ってくる。

 

「ぐ…へ……」

 

 見事に鞄で迎撃された俺は、そのまま大地へと落下する。

 無様に大の字になって仰向けに倒れ込む俺。

 そんな俺を心配したのか、黒猫が俺の頭の上――俺を見下ろすような位置まで歩いてきた。

 

「……あ、あまりの展開に絶句して行動が遅れてしまったけれど……これで少しは目が覚めたかしら、先輩?」

「く、黒猫……?」

 

 やや興奮気味の黒猫の声が耳に飛び込んでくる。

 蹴られた衝撃の所為か、一瞬状況把握に時間がかかったが、俺を見下ろす黒猫の顔を見ていたら少し気分が落ち着いてきた。

 あやせの言葉を受けて妙に高揚していたテンションが、波が引くように沈静化していくのがはっきりと分かった。

 恐らくさっきまでの俺は、一種の暴走状態に陥っていたんだと思う。あやせに告られたことにより有頂天になって、普段は絶対入らない心の奥底に封印していたスイッチが入っちまったのだ。

 いわゆる、若さ故の過ちってやつだろう。

 黒猫の言葉じゃないが、確かに目が覚めた。

 今の俺はかなり冷静になっていて、物事を多角的に捉えられるくらいには回復していた。

 

「……なあ、黒猫」

「なにかしら?」 

 

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 ちなみに俺は、大地に寝そべった状態で黒猫を見上げている。んで、黒猫は制服姿であり、当然スカートを穿いているわけだ。

 何が言いたいかというとだな、もう少し黒猫が前にくりゃパンツが見える……じゃなく、見えそうなのだ。

 だから俺は、あやせに事情を問い詰めるよりも先に、そのことを指摘してやろうと思った。

 

「あんま言いたくねえんだけどよ……」

「何を口篭っているの、先輩。そんなのあなたらしくないわね。それとも鞄でぶった事に対する恨み言を云うつもりなのかしら。だとしたらお門違いね。残念だけれど、あれは一種の自己防衛機構が働いた結果であり――」

「ちがう、ちがう。もっとシンプルな話しだよ」

「シンプル……というと、もっと単純な話しだということ?」

 

 柳眉を寄せて考え込む黒猫。その際に少しだけスカートが翻った。

 ………………。

 ……………………。

 …………………………。

 今の沈黙に特に意味はないので、深読みはしないように。 

 

「……あのな、黒猫。――おまえ、もう少し近づいたらパンツ見えんぞ」 

「な――ッッッ?」

 

 ぼっと、瞬間湯沸し機のように頬を真っ赤に染める黒猫。次いで彼女は、身の危険を感じたようにもの凄い勢いで後退りしていく。 

 まるで俺から、何かよからぬことをされたような反応である。

 このまま冤罪にされては困る。そう思った俺は大地から半身を起こしつつ、一応無実のアピールをしておいた。

  

「……あ、ああ、あなた……あなたには“恥”という概念はないのかしら……?」

「あ?」 

「わ、私のスカートの中を覗き見てましたなんて告白を……本人を前にして平然とするなんて……。もしかして、私まで毒牙にかけるつもりだったのではないでしょうね?」

 

 貞操を守らねばとばかりに、両肩を抱き防御のポーズを取る黒猫。

 つーか、毒牙って何だよ、毒牙って!?

 俺、めっちゃ紳士なのにっ!? 

 

「な、何言ってんだよ、黒猫! 俺はただ……見えそうだよって忠告しただけじゃねーかッ。つーか、毒牙にかけるとか妙な言い掛かりをつけてんじゃねーよ!」

「よく言うわ先輩。先程まで、不細工に顔を歪めてあのビッチに言い寄っていたのは誰だったのかしら? みっともなく発情して――本当に、いやらしい雄だわ」  

「あ、あれは、その……不可抗力つうか、一種の錯乱状態だったつーか、見えない力に支配されたつーか、兎に角、俺にもどうしようも無かったんだよ!」 

「ふんっ。少し誘惑されたくらいでホイホイ誘いに乗って。先輩は、本当に女なら誰でも良いの?」 

「んなワケねーって!! 普段俺をどういう目で見てんの!?」 

 

 事は俺の人格に関わることなので全力で否定する。

 しかし何と云うか、随分と黒猫の態度がトゲトゲしく、かつ氷のように冷たい気がするのは気のせいなのだろうか。普段のこいつも毒舌だけど、方向性が違う気がするぜ。

 

「……こんなことになるなら、私が……先にしておけば……」 

 

 何やらぶつぶつと呟いてるしよぉ。

 てか、そもそも何でこんな事態になってんだっけ? 

 その理由を考えようとした時、頭に鈍い痛みが走った。その痛みが、あやせにブッ飛ばされた事実を思い出させてくれる。

 

 ――そうだ。そもそもの原因はあやせじゃねーか。

 

 あいつが俺に彼氏になってくれって言って、それで俺がやさしく話しを聞こうとしたら、いきなり蹴りくれやがってよ。おかげで黒猫には罵られるし、妙に鼻がムズムズすると思ったら鼻血まで出てきやがるし……最悪だぜ。

 取り合えず、いつまでも地面に座っている訳にもいかないだろう。

 そう思った俺は、痛む顔面を押さえながら、身体を起こそうと腰に力を入れた。

 丁度、その時である。

 何かを警戒しながらも、黒猫がそそくさと俺の側まで近づいてきた。

  

「……先輩。鼻血が出ているわよ。みっともないから、これで栓でもしておきなさい」

「あ、ああ。……すまん」

 

 相変わらず視線は冷たいが、黒猫がポケットティッシュを差し出してくれた。

 俺はそれを受け取ってから数枚取り出し、鼻の周りを拭って血の跡を綺麗に拭き取る。幸い怪我は大したことは無かったようで、それで鼻血は止まったようだ。

 それから俺はゆっくりと立ち上がると、改めて自分の置かれた状況を確認すべく、辺りに視線を這わせてみる。

 まずここは、家の近所にある公園だ。

 少し離れた位置ではあやせが荒い息を吐いている。黒猫はと云えば、俺が視線を向けた途端ぷいっとそっぽを向いてしまった。どうやらまだ怒りは沈静化していないらしい。

 仕方ないので、騒ぎの元凶であるあやせに話しかけようとしたら――

 

「ち、近づかないで、変態ッ!」

 

 なんて風に、盛大に罵声を浴びせられてしまったのだ。

 

 

 

「な――何言ってんだ、あやせ? 確かさっき、俺に彼氏になってくれつったよな?」

「言ってませんっ!」

「は? いや、俺は確かに聞いたぞ。お前が俺に彼氏になってくれ――」 

「わ、わたしはお兄さんのことが大嫌いなんですよ? わたしがお兄さんの彼女になるなんて、そんなこと――現状では、ぜえっっっっったい、ありえませんから!」

「……(゜Д゜) ハア!?」

 

 今の言葉にはさすがの俺も目が点になった。

 こいつは一体何を言っているんだ? 元々おかしな女だったが、突発健忘症にでもなりやがったか?

 つーか、人に肘鉄から廻し蹴りのコンボを喰らわしといて、罪悪感のカケラも感じてねえようだなぁーオイ!

 これにはさすがの俺も頭にきたぜ。

 

「ふ、ふざけんじゃねーぞ、あやせ! 大切な話しがあるっつうからよ、こちとらわざわざ時間作って会いに来てやってんだ。冗談か? からかってんのか? まさかこんな仕打ちされるたぁ思わなかったよっ!」

「お兄さんがいけないんですよ! 最後まで話を聞かないからっ!」

「最後まで? あの話に続きがあるっつうのかよ?」

「ええ、そうですよっ。わたしはお兄さんに彼氏の“ふり”をお願いしたかっただけなのに……!」

 

 これまた妙な単語が聞こえてきやがった。

 彼氏になって欲しいじゃなく、彼氏のふり――だと!?

 それだと、全く話しが変わってくるじゃねーかっ!

 

「か、かか、彼氏のふりだぁ!? だったら最初っからそう言えやっ!!」

「言おうとしましたよ! なのにお兄さんがいきなり発情してぶち壊したんじゃないですか!?」

「発情なんか、し、してねーよ!」

「いいえ。みっともないくらいハッキリとしてましたっ!」 

 

 売り言葉に買い言葉。俺だけじゃなく、あやせのテンションもガンガンに上がっているようだ。

 その証拠に、あやせは顔を真っ赤に紅潮させながら、大声でまくし立ててくる。 

 

「将来設計とか、結婚とか――挙句の果てには式場の予約なんて口走って……この超ド級変態ッ! 通報しますよ……!」

「面と向かってあんなこと言われたら普通勘違いすんだろうーが。あやせ――てめえは男の純情を弄びやがったんだ」

「仮に勘違いしたとしても、いきなりあんな突拍子もない行動は取りませんよ普通。それにわたしに告白されたと思っていたなら、お兄さんは相当なチャラ男ってことになりますよねっ」

 

 そう言うや、あやせは“キッ”ときつい視線を黒猫の方へと投げかけた。

 

「だって、わたしと……こ、恋人同士になったと思っていたのに、その直後に黒猫さんとイチャイチャしてっ! 本当にいやらしい! 汚らわしい! この――浮気者っ!!」

「浮――ッッ!? い、イチャイチャなんかしてねーよ! 何処を見てたらそういう結論になんの!?」

「さっき、わたしの目の前でしてたじゃないですか! 直に見てたからそういう結論に帰結したんですよ! 不潔です、お兄さん!」 

「……言いたい放題、好き勝手言ってくれんじゃねーか、あやせ。もしかして何を言っても俺が怒らないとでも思ってんのか?」

「ふんっ! 凄んでも怖くありませんよー! お兄さんなんか大ッッッ嫌いッ! いーだ!」 

 

 白い歯を剥き出して、俺を威嚇して見せるあやせ。

 このアマァァ……人が大人しくしてたら調子に乗りやがって――キスしちまうぞ、コラぁ! 

 けど、そう思うと同時に、全く違う感情が心の奥底で芽生えかけるのを俺は感じていた。

 確かにあやせの態度には滅茶苦茶腹が立っている。けどその姿を見ていたら、怒っているというよりも、拗ねているという風に感じちまったのだ。

 まるで、癇癪を起こして唇を尖らせている時の桐乃に似ているような……。

 

「…………」 

 

 あやせは俺の事を近親相姦上等の“変態鬼畜兄”という色眼鏡で見ている。

 それについては、ある事情から否定することが出来ないので、俺の行動の端々を害意あるものとして受け取っちまうのは、ある意味仕方ない部分ではある。

 言うなれば、あやせなりの自己防衛なのだ。

 やりすぎだとか、いきすぎだとか、人を殺すつもりかとか思わないでもないが、納得しないでもない。

 今回の件に関しては、勘違いして暴走した俺にも非はあるし、何より相手は妹と同い年の女の子だ。ここで喧嘩してても仕方ないだろう。そう思ったのだ。

 

「……あやせ」

 

 あやせは俺の妹じゃない。

 けど、妹の大事な友達なのだ。ならここは“兄貴”である俺から折れるのが筋というものだろう。

 

「その、勘違いして……悪かったよ」

「……え?」

「まさかお前から彼氏になってくれなんて言われると思って無かったしよ、素直に嬉しかったんだ。だから柄にも無く舞い上がっちまったんだ」

「お兄さん……?」

「だ、だから、アレだろ? 俺に頼みがあるんだろ? 彼氏のふりだっけ? とりあえす理由を聞いてやるから……話せよ」

 

 あれだけ言いあいしておいて、こっちから謝るのはかなり気恥ずかしいもんがある。

 それでも勇気を振り絞って言ったのに、なんとあやせの奴は――あははと笑い出しやがったのだ。楽しそうに、何か吹っ切れたかのように。そして何故か、黒猫も一緒になって笑い声をあげてるじゃねーか。

 息がぴったりとはこのことか。

 こいつら、めっちゃ仲悪いはずなのによ……。

 

「……ふふっ。先輩にも随分と可愛いところがあるのね。もしかして、日々妹に調教されている成果が出ているのかしら?」

「調教って、勘弁してくれ、黒猫……」

 

 俺が桐乃に調教されてるなんて恐ろしいことを思いつくんじゃありません。

 なのに、あやせには大変受けがよろしかったらしく

 

「桐乃の調教成果かどうか分かりませんが、まさかこうも素直に頭を下げられるとは思っていませんでした。そうですか。お兄さんって“そういう”人なんですね」

 

 うんうんと、満足そうに頷くのだった。

 

「分かりました。理由をお話しましょう。……というか、わたしからお願いするんですから、是非、聞いてください」

 

 実は……そう言ってあやせが語った真相は、驚くべきものだった。

 

 

 

 

 あやせから真相を聞いた次の週末である。

 休日である本日、俺は駅前にある某コーヒーショップの片隅に陣取っていた。

 テーブルを囲んでいる人数は四人。

 まず俺の対面にいる女の人が、にこやかに笑顔を浮かべながら自己紹介してくれた。

 

「始めまして。藤真美咲です」

 

 カジュアルなレディーススーツ姿。見るからに出来るキャリアウーマンといった感じの美咲さんは、そう言ってからテーブル上に自身の名刺を差し出してくれた。

 そこには『株式会社エターナルブルー代表取締役』との肩書きが記されている。

 

「へえ。あなたが“赤城京介”くん? あやせちゃんから話しは聞いているけれど……」

 

 美咲さんが俺とその右隣に座っているあやせを交互に見つめた。

 それから一呼吸置き、ゆっくりと俺の左隣へと視線を移す。

 

「こちらの方は?」

「私は……こちらにいる京介兄さんの妹の――黒猫です」

 

 口調を擬態したゴスロリ姿の黒猫が、控えめにそう囁くのだった。

 

 

 



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第十三話

「……と、いう訳なんです」

 

 一頻り話し終えてから、あやせがほうっと小さく息を吐いた。

 それから口元に右手を添えて、ンンっと軽く喉を鳴らす。その仕草は実に可愛いが……話しの内容があまりにも予想外だったもんで、俺はすぐさま反応を返してあげることが出来なかった。

 ふと隣の様子を窺ってみれば、黒猫も絶句している。

 そんな俺達の様子を不審に思ったのだろう。あやせが小首を傾げながら俺のことを覗き込んできた。

 

「あの……お兄さん。わたしの話、聞いてました?」

「……あ、ああ。ちゃんと聞いてた。ただ、まったく想定してない内容だったからさ、少し固まっちまってた……」

 

 あやせの話しを要約すればこうだ。

 彼女は桐乃と同じく読者モデルをやっている。

 これだけ可愛いんだから、その人気は推して知るべしだが――ある日、彼女を専属モデルとして雇いたいと言う人物が現れたのだ。

 名前は――藤真美咲。

 元々はトップモデルとして活躍していたが、現在は某有名メーカーの取締役兼デザイナーを勤めるという、ある意味大人版桐乃みたいな人である。

 その話自体も決して怪しいものじゃなく、それどころか、オファーを受けたあやせが驚くほどの好条件を提示してきたらしい。けれどあやせは、ある“事情”が絡んでくるので、スカウトを光栄に思いつつも、首を縦に振ることは出来なかったのだ。

 その事情とは、活動の場が主に“海外”になってしまうということ。 

 

「藤真社長の話は魅力的です。女の子なら誰だって憧れるような素敵なお話でした。……だけど、オファーを受ければ、日本を離れることになっちゃうから……」

 

 寂しそうに、つと視線を地面に落とすあやせ。

 あやせの言いたいことが十二分に伝わってくる。

 即ち、日本を離れるということは=桐乃と離れるということ。二人がお互いをどれだけ大切に思っているかなんて、今さら俺が語るまでも無い。 

 

「桐乃がアメリカに行っている間、わたしすっごく寂しかった。もう、胸が張り裂けそうでした。桐乃――折角日本に戻って来てくれたのに……わたしの方から離れるなんて、そんな選択出来ません」

 

 きゅっと唇を噛み締め、あやせが辛い胸の内を明かす。

 その表情はとても憂いを帯びていて――なんだか、今にも泣き出しそうな、そんな感じがした。 

 

「だから、俺に彼氏のフリをして、話を無かったことにしてくれと?」

「――はい」

 

 頷き、顔を上げたあやせの表情には、少しだけ力が戻っていた。

 まるで俺には――お兄さんには弱いところは見せませんよ、という風に。

 

「藤真社長は業界でもかなり顔の利く人ですから、出来るだけ穏便に断りたかったんです。あまり事を大きくしたりして……間違っても桐乃に迷惑掛けたくなかったし……だから、だからッ、お兄さんにお願いしたんですよ!」

 

 桐乃と離れたくない気持ちを優先したのだろう。

 咄嗟にあやせは、話を断る口実として『どうしても離れたくない人――“彼氏”がいるので、お話をお受けすることはできません』そうのたまったそうだ。

 勿論、あやせに彼氏はいない(その事実が確認出来ただけでも来た甲斐があったってもんだ)ので、急遽代役としての彼氏が必要になってしまい、仕方なく俺に白羽の矢を立てたという訳である。

 

「来週末だっけ? その藤真社長ってのに会うから、一緒に行って説得してくれっつうんだな?」

「断りきれなかったというか、納得してくれなかったというか……一度、直に彼氏に会わせて欲しいという話になりまして……」 

 

 もう日時と場所は決定してるから、だから彼氏になってくれと言ったんだそうだ。

 しかし、役とはいえ彼氏になってくれと頼むからには、少しくらいは気があるんじゃねえの? と期待しちまう俺がいる。

 だってよ、まったくその気が無かったら、そんな発想自体浮かばねーよな。

 無邪気に俺がそんなことを考えている間に、フリーズしていた黒猫も復活したようだ。

 固まりながらも俺達の話は聞いていたようで、その間に抱いた疑問をあやせにぶつけている。

 

「面白い話ね。けれど一つだけ疑問があるのよ。ねえ、質問したら答えてくれるかしら?」 

「……なんですか、黒猫さん?」 

 

 無視する訳にもいかないと思ったのか、あやせが首だけ巡らして黒猫に応対する。 

 

「フッ――あなたの話は理解した。断り方が適切だったとは思わないけれど、ここは不問にしましょう。今は百歩譲り、藤真美咲という人物に話を通すのに“彼氏役”が必要だと仮定するわ」

「えっと……ちょっと仰ってる意味が分かりません。もしかしてまた邪気眼を発症ですか? それなら後にして欲し――」

「良いから聞きなさい」

 

 ピシャリと黒猫が言い放つ。

 その影響で一瞬場が静まったが、逆に好都合と黒猫が俺を指差した。

 

「疑問は一つよ。――どうして、この男なのかしら?」

「……ですから、何のことを言ってるんですっ!? わたしにも分かるように“ハッキリ”とした言葉で口にしてください。遠回しに言われても時間の無駄です」

「あら、惚けているのかしら? それとも答えられない?」

 

 フフと笑った黒猫は、 

 

「でも、そうねぇ。あなたが望むのなら人間にも分かりやすい言語に直してみましょうか」

 

 そう言葉を紡いでから、優雅に両腕を広げ――千葉のなんちゃらというポーズである――あやせを見据えた。

  

「あなたは“態々”先輩に彼氏役を頼んだ。それは何故なのかということよ。あなたは先輩が嫌いなのでしょう?」

「黒猫さん?」

「何度もそう口にしているわよね?」 

「……ええ、そうですね。黒猫さんの言う通り、お兄さんのことは大嫌いですよ」

 

 念を押されるまでもありませんとばかりに、キッパリと断言するあやせ。

 ある意味これは即答である。

 っていうか…………ちったあ口篭れよ。

  

「故に尚更疑問に思ってしまう。嫌いな人物に彼氏の役を頼むなんて考えられないじゃないの。それにあなたは交友関係が広いのでしょう? 彼氏役を頼めそうな男友達くらい他にいるのではなくて?」

「い、いませんよっそんな人ッ!」

 

 こっちの質問に対しては全力で否定するあやせ。

 けれど、あやせはそれで黒猫が何を問いたいのか理解したのだろう。

 ムスっとしながらも、黒猫が望む答えを口にする。

 

「わたしがお兄さんに彼氏のフリを頼んだのはですね――ありていに言って何かと便利だと思ったからです」

 

 悪びれもせず、そうのたまってくれやがった。

 もしかして、これって俺に対する精神攻撃の類なのだろうか。

 なんつーか、二人の話を聞いているだけでマジ凹んでくるんだけど……。

 

「ほら、他の人だと角が立つじゃないですか。後々、色々とフォローとか大変そうですし。その辺りお兄さんだと、一切後腐れないかなぁなんて」

 

 悪気はないんですよ、とばかりに“てへっ”と舌を突き出すあやせ。

 可愛い笑顔を添えているが、俺の気持ちなど寸毫も気にしないその心根はまさに悪魔。しかも黒猫がちったあフォローしてくれるかなと期待したのに、あいつはあいつで何やら頷いて得心してやがる。

 

「成程。先輩が優しいから利用するというわけね。確かにこれ程のお人よしは別次元を含めてもそうはいないでしょう。……妙に納得した気分だわ」

「利用するなんて人聞きが悪いです。わたしは純粋にお兄さんに“お願い”してるだけですよ」

 

 天使のような笑顔で断言するあやせ。

 ――はははっ! お願いね!

 俺が断らないと確信してるだけに性質が悪ぃよなぁ、この女はよぉっ!

 

「きっと半分は本音で本当なのでしょうね。そしてあなたの読み通り、先輩はこの話を断らないわ」

 

 そうでしょう? と黒猫が俺に視線を投げかけてくる。それを受けてあやせも俺を見た。

 ……チっ! ああ、そうだよ!

 完全に行動を読まれてるというか把握されてるというか……。こいつらの言う通り、俺はこの話を受けようと思ってる。

 便利だとか後腐れねえとか利用するなんて無茶苦茶言われてもな。

 何でかって?

 そりゃ……他ならぬあやせの頼みだし、何よりこいつがいなくなったら桐乃の奴が悲しむ。

 いつかの時――桐乃が居なくなった時のあやせや黒猫、沙織のようにな。

 

 ――ああ、勘違いすんじゃねえぞ。

 

 別に桐乃の為ってわけじゃなく、半分は俺の為なんだ。

 あやせが居なくなったら桐乃の機嫌が悪くなるだろ? んでよ、そのとばっちりを受けるのは一番身近にいる俺なんだ。

 そんなのは断然願い下げだね。

 それに彼氏のふりっつっても、ちったあ役得もあるだろうし(腕ぐらい組んでも罰は当たるまい)この先の予行演習にもなるだろう。

 だから俺は、あやせのこのお願いを快く引き受ける事にした。

 

「……わあったよ。お前の彼氏って肩書きでその藤間社長ってのに会えば良いんだよな?」

「引き受けてくれるんですか?」

「あんな話を聞かされたら断れやしねえよ。……その代わり、何かしらの礼は期待してっからな」

 

 労働に対する対価。当然の要求だろ?

 なのにあやせは真顔で 

 

「――そうですね。そうだお兄さん! チョコボールって好きですか?」

「俺はそこら歩いてるガキンチョかよっ!?」

 

 まあ、嫌いじゃねーけどよ。

 それにその後、最高の笑顔でありがとうございますって付け加えられちゃあ、俺にはもう何も言えなかったよ。 

 

【挿絵表示】

 

  

 

 とまあ、そんな感じで俺達は藤真社長(堅苦しいからこれから心の中では美咲さんと呼ぶ)と対面してるわけだ。

 何で黒猫が同席してるかって?

 実はあの後「先輩一人だとどんな大ポカをやらかすか分からないから、私も同席してあげるわ。――ああ、心配はいらない。相手に不審がられない程度の案は秘めてあるから」とフフフと笑ったのだ。

 何でか知らねーけど、あやせとの件に関して黒猫はやたらと首を突っ込みたがる。さすがに無茶だと断ろうと思ったが、最終兵器である携帯をチラつかせられたらどうしようもねえ。

 あやせ様にお伺いを立てたら、あやせと黒猫が直で話をすることになり(喋ってた内容は聴こえなかった)結局、あやせが折れる形でこういう無茶な展開になったというわけである。

 美咲さんはオーラみたいなもんでプレッシャーを放ってくるので、隣に黒猫が居てくれるのは心強いというか、安心感はあるんだが……。

 

「妹さん……? へぇ――あまり似てない兄妹ね」

 

 俺と黒猫を交互に見つめ、目を丸くする美咲さん。

 はっきり言って他人なんだから似てないのは当然だ。けど、それを暴露する訳にはいかない。幸いなことに美咲さんは、兄妹という設定ではなく、別の部分に興味を持ってくれたようだ。

 

「けれど黒猫なんて変わった名前ね。失礼だけど本名かしら?」

「いいえ。これはハンドルネーム――言わば通り名みたいなものです」

 

 ちなみに普段通り喋って毒を吐いてもいけないので、目上の人に応対するのも含め、黒猫には口調を擬態してもらっている。

 以前も経験したが、こいつは意外と器用な奴なのだ。

 

「本名は教えてもらえないの?」

「残念ですが、通常の人間には発音が不可能なのでお教えすることはできません。この場はどうぞ黒猫と――」

「あらあら、面白い娘ねぇ。ちょっと興味が出てきたわ」

 

 クスクスと笑いながら、美咲さんがカップのふちを指でなぞる。

 その指先は綺麗な朱色に彩られていた。

 

「いいわ。この場は黒猫ちゃんと呼びましょう。どういう思惑があってこの場に同席しているのか知らないけれど、本題とはあまり関係ないしね」

 

 フフっと、口元に軽やかな笑みを浮かべてから、美咲さんが黒猫から視線を切った。

 その次の標的は――目の前にいる俺。

 深遠を見据えるような眼差しが目の前から突き刺さってくる。

 さて、ここからが本番だ。

 これからの展開を想像して、俺は思わずゴクリと喉を鳴らしてしまう。

 

「じゃあ本題に入らせて貰うわね。京介くん。あなた、あやせちゃんから詳しい事情は聞いてるのかしら?」

「……概ねは。あやせをスカウトして外国に連れていきたいとか?」

「そうよ。けどねぇ、あなたを理由にして断られてしまったの。その辺りも理解してる?」

「――はい」

 

 目力があるというのか、口調は軽いが、美咲さんの言葉には有無を言わせぬ迫力が込められている。

 その事実が、これが決して雑談の類でないことを俺に教えてくた。

 

「結構。じゃあ単刀直入に言うけれど――京介くん。あなた、あやせちゃんとは別れて欲しいの」

 

 予想外にも直球できやがった。それもど真ん中ストライク。

 もっと世間話を交えながら話を振ってくるかと思ってたんだが、どうやら見込みが違ったらしい。子供である俺を舐めているのかとも思ったが、たぶんこれがこの人のやり方なんだろう。

 誤魔化し効かない分手強いが、俺にはこういう展開の方がやりやすい。

 

「また、いきなりッスね。早急というか強引というか……そういう話しはもっと段階を踏んでやるべきじゃないですか?」

「強引にもなるわよぉ。だって横恋慕してるわけではなく――ビジネスの話をしてるんだし」

 

 惚れた腫れたの話をしてるわけじゃないのよと、美咲さんが釘を刺してくる。

 この場に措いては正論だが、その言い方が癇に障った。

 

「迷惑ですと言ったら、納得してくれますか?」 

「当然しないわね。現時点での障害はあなた一人なわけだし、京介くんさえ身を引いてくれれば全部丸く収まるの」

「それはあなたにとって丸く収まるだけですよね? 少なくとも俺にとっては収まる話しじゃない」

「あらら、若いわねぇ。不満が率直に顔に表れてるわよ?」 

「別に隠す必要のないことっすから。彼女と別れろって言われて不満に思っちゃ駄目ですかね?」 

「いいえ。想定内の反応だわ。だからこそ、今日この場を設けてもらったのだけれど……そうよね、あやせちゃん?」

 

 ここで初めて美咲さんがあやせに話しを振った。

 別に無視してた訳じゃないんだな。

 

「……は、はい。ですけどお兄――じゃなくて、京介さんは……」

「そんなに緊張しなくて良いのよ。ほら、もっとリラックスして」

 

 優しい声であやせに語りかける美咲さん。

 対するあやせの反応は、美咲さんの言うように随分緊張しているように見えた。どうも席に付いた時から大人しいと思ってたんだが、今のやり取りを見て確信した。

 それは――怒った親父を前にした時の、桐乃の反応に似てるってことだ。

 きっとあやせにとって藤真美咲という人物は畏怖の対象に当たるんだろう。

 仕事関係でもかなり上位に当たる人物なんだし、こうして席を同じにしてるだけで緊張しちまうのも無理からぬことだ。

 誰にだってそういう人物はいる。

 心細くて誰かを頼りたい。そういう思いがあったからこそ、俺をこの場に連れて来たんだろうな。

 間違ってるのかもしんねーけど、そういう風に考えたら妙にあやせが可愛く思えてきた。今まで見えてなかった、気付かなかった部分を垣間見たような気がしてよ。

 

「……取り合えず、はいそうですかと別れる気はありませんよ。もっと納得出来る材料を下さい」

 

 だから身体を張ってでも、この話を無かったことにしてやる。

 そう思っちまった。

 少なくとも、あやせが“それ”を望む限りはな。

 

「材料?」 

「例えば、外国へ連れて行くって簡単に言ってますけど、学校はどうするんすか? あやせはまだ学生ですよ?」

「当面は考慮するわよ。けど最終的には向こうで通ってもらうことになると思うわ」

「……当面っていつまでですか?」 

「そうねぇ。やっぱり卒業するまでかしら。こっちに居てもちょくちょく離れることになると思うから早い方が良いのだけど――勿論、それに関してはうちが全面的にバックアップするし、親御さんへの説得もするつもり。あやせちゃんが希望するなら私生活での支援もさせて頂くわ」

「……随分と用意がいいんすね」

「それだけの価値をあやせちゃんに見出しているということよ」

 

 さらりと言ってるけど、これってスゲーことだよな?

 しかし、卒業までか。時間的には一年もない。

 

「けど、やっぱ早急すぎますって。強引つーか、もっと時期を待っても良いんじゃないんですか?」

「確かに今日明日決めなければいけない案件ではないわ。けれど、安穏と構えてもいられないのも事実。私としては出来るだけ早く行動を起こしたいのよ」

「えっと、こんなことプロであるあなたに言うことじゃないと思うんですけど、モデルってあやせだけじゃないですよね? 例えば他の人とか……他のモデルさんじゃ駄目なんすか?」

 

 そう言ってから、あやせが気を悪くしちまったかもと思って隣を盗み見た。

 すると、じっと俺のことを見ていたであろうあやせと視線が合ってしまう。

 気を悪くした素振りは無く――それどころか、逆に信頼されているような、そんな真摯な表情を見せるあやせ。

 美咲さんではなく、俺を見ていた?

 この先の展開が不安なのか、俺が心配なのか、それとも――

 

「駄目じゃないわよ。正直言うとね、幾人かの候補はいるのよ。目を付けてる娘もいるし、たった一人で送るわけでもないわ。でもね、あやせちゃんの優先順位が高いのも事実なの」

 

 そう言ってから美咲さんがあやせの方へと視線を移す。

 試すような眼差しからは、大人の余裕が感じられた。

 

「気を悪くしたかしら?」

「……いいえ。わたしよりもずっと凄い人を知ってますし、過大評価だとさえ思ってまいます。ですから、別に気を悪くしたりは……」

「今の言葉、聞き捨てならないわね。あやせちゃんなら向こうでも十分やっていける。少なくとも私はそう確信してるのよ。これでも自信は沸かないかしら?」

「お気持ちは……嬉しいんですが、やっぱり、わたしは……日本を離れたくないんです」

「彼氏に止められたから?」

「それは――」 

 

 思った通りあやせと美咲さんの相性は悪い。というか、立場上ハッキリとした言葉で断りずらいんだろう。このまま言葉を交わしていた押し切られるか、なし崩し的に話が進んでしまうか。

 そんな危険性さえ感じられた。

 だからあやせは間に人を入れたかったのだろう。例え嫌ってる俺でもここに居ないよりはマシだと。

 その考えを肯定するように、あやせがチラっと俺に目線を寄越した。

 あれは助けて欲しい――桐乃流に言うなら何とかしろ! のサインに違いない。

 

「ま、待って下さいって! だからまず俺に話を通してですね――」

「はいはい。彼女のことが心配で溜まらないのね、京介くんは。分かったわ」

 

 仕方ないわねぇとばかりに嘆息して見せる美咲さん。

 それから彼女はテーブルのコーヒーに指を伸ばし、カップを軽く揺らしてから薄紅に塗られた唇をつけた。

 

「――ん。じゃあ攻め手を少し変えてみましょう。京介くん、あやせちゃん。今度は私の質問に答えてくれないかしら?」

 

 カップを元の位置に戻して、いざ仕切り直し。

 美咲さんは両肘をテーブルに付くと、優雅な仕草で指を組んで見せた。それから手の甲を台に見立て、そこに顎を乗せると

 

「ねえ、お互いのどんなところを好きになったのか――私に教えてくれない?」

「…………は?」 

「あやせちゃんと京介くんは恋人同士なのよね? 良い機会じゃない。相手に対する気持ちを言葉にしてみせて」

 

 これは美咲さんの作戦なのか、或いは宣戦布告なのか。

 第二ラウンドは、俺も予想しなかった方向へと突き進もうとしていた。

 

 

 



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第十四話

「言葉にって……え? いきなり何を言ってんすか……?」

「フフ。単純に興味があるの。京介くんがどれくらいあやせちゃんことを好きなのか知りたいのよ」

「そんなこと……急に言われても、困るっつうか……」

「照れちゃう? けどね、女の子って当たり前の事実でも、思いを言葉にしてもらえると嬉しいのものなのよ。それとも、あやせちゃんのことそれほど好きじゃないのかしら?」

「もちろん、そんな事ある訳ないッス――ッ!」

 

 即答だった。

 今の立場上そう答えるのがセオリーなのは勿論だが、深く考えるまでも無く、言葉が勝手に口を付いていた。

 

「あやせのことは――大好きですよ。俺の彼女なんだから当然でしょう?」

 

 そして、改めて意識した言葉を口にすることで俺の中でスイッチが入った。

 ……ああ、勘違いすんじゃねーぞ。

 いつもの変態スイッチじゃなく、あやせの彼氏役として構築してる“赤城京介”としての自分を強く意識したって訳だ。なんせ今の俺はあやせを守る立場だからな。

 その辺は弁えてるさ。

 

「良いわね、その断言の仕方。男らしくて好感が持てるわ。けど、それで終わりじゃないわよねぇ?」

 

 テーブル越しに、試すような視線を投げかけてくる美咲さん。

 一筋縄ではいかないっつーか、俺の答えに満足してないのか、この質問から簡単に解放してくれる気はないようである。

 ――オーケイ。

 そっちがその気なら、俺も臨戦態勢になってやろうじゃねえか。

 俺とあやせが如何にラブラブかってところを見せてやる。こういう状況下なんだから、あやせも協力してくれっだろ。

 

「……ごほんっ」

 

 軽く咳払いをしてから、俺は右隣にいるあやせの方を窺ってみた。 

 なんというか、心なしかあやせの頬が紅潮してる気がするが、今が一番重要な場面だ。きっと緊張でもしてるんだろう。

 そう思った俺は、慎重に言葉を選びながら美咲さんに対する攻め口上を繰り出していった。

 

「俺があやせと出会ったのは、妹が友達として家に連れて来たのがキッカケでした」

「妹――っていうと、黒猫ちゃん?」

「……そうです」

  

 勿論、あやせを連れて来たのは桐乃だが、ここは“そういうこと”にしておかないと話が繋がらない。

 俺は美咲さんに対して軽く頷いて見せる。

  

「そん時にちょっとした事件があって落ち込んでたんですけど、帰り際にあやせが俺の処まで来て気遣ってくれたんスよ。正直嬉しかったし、めちゃくちゃ可愛い娘だなって思いました」

「……よ、よくそんな恥ずかしい台詞を本人を前にして言えますね……!」 

「フッ。偽らざる俺の本心だからな」

「本心って――!?」

 

 その様子はまるで瞬間湯沸し器。

 急速に頬から耳まで真っ赤に染めたあやせは、何か言おうと口をパクパクさせていた。しかし思ったように言葉が続かないのが悔しかったのか、そのままプイっと横を向くや唇を尖らせて押し黙っちまった。 

 照れてんのか、怒ってんのか分かんねーけど、あんまりやりすぎて“ボロ”が出ても困る。

 からかってる訳じゃねーが、なんせあやせには突発的に暴力を振るう癖があるからな。

 

「ま、半分は妹の為だったんだろうけど、素直に良い娘だなって。アイツもいい友達を持ってんだって兄として安心したりしましたね」

「へぇ。その様子だと京介くんの一目惚れだったってわけ? あやせちゃんはその時のこと覚えてる?」

 

 何処か楽しそうな雰囲気で美咲さんがあやせに話を振る。

 それを受けて、横を向いていたあやせがこちらに向き直った。

 

「も、もちろん……覚えてます。だってあの時はすっごく緊張してましたから」

「へ? 緊張してたの、おまえ? 全然そんな風には見えなかったけどなぁ」

「……もう。あの時のわたしはお兄さんのこと優しくて良い人そうだなぁって思ってましたから。面識もありませんでしたし、声を掛けるのに結構勇気を振り絞ったんですよ?」

「そのワリにはおまえの方からメアド交換しようって言い出したじゃねーか」 

「ですから、初めてお会いした時は……その、ちょっといいなって思ってって――」

「マジでッ!?」 

 

 は、初耳だぞ!?

 

「きゃあっ! ち、ちょっとお兄さん! こ、興奮しすぎですってっ!」 

  

 勢い込んで突っ込んじまった俺の顔をあやせが両手を使ってぐいぐいと押しのける。

 グ……! しまったっ!

 俺としたことが、想定外の嬉しすぎる言葉を受けて思わず演技を忘れてしまったようだ。

 ここは自重せねば。バレたら色々と大変だからな。 

 

「……わ、悪ぃ。あん時の気持ちなんて始めて聞いたからよ……」 

「さ、最初は穏やかで優しい雰囲気の人だなって――仲良くなりたいなって思って……今は……その、大嫌……じゃなくて、ちょっと違った印象を抱いてますけど……」 

「へえ。ちなみにさ、違った印象ってどんなの?」

「そ、それは――そんなこと“ここ”じゃ言えませんっ。というか、今のお兄さんには絶対教えてあげませんよーだっ!」  

 

 俺に向かってべーっと舌を突き出してみせるあやせ。それからつんとした態度で視線を切った。

 その一連の動作は実に絵になっていて、ラブリーマイエンジェルあやせたんと呼んで差し支えないだろう。

 つーか、マジで可憐だった。

 

「なあ、あやせ。思いを言葉にするってとっても大事だと思わないか?」 

「思いは秘めるものですよ、お兄さん」 

 

 ――フ。全力で照れてるな、あやせのやつ。

 

 しかし、良い感じで話が噛み合ってるんじゃなかろうか。

 あやせも俺に合わせてくれてる感じだし。まあ、ラブラブって会話じゃねーけどよ、お互い本心を喋ってるって気がして美咲さんにも良い印象を与えてるだろ。

 そう思って美咲さんの様子をチラ見する。

 するとあのお姉さん、何やらニヤニヤニヤニヤと目を細めて俺達の様子を眺めていやがった。

 うーむー。

 何を考えてるのかいまいち読めねー姉ちゃんだから、ここはもう少し弾みをつけて畳み掛けとくべきだろうか?

 

「どうしたんですか?」 

 

 黙り込んだ俺を怪訝そうな表情で見つめるあやせ。

 俺はその視線を真っ向から受け止めつつ、ゴクリと唾を飲み込んだ。ここが勝負処と決め付けて、ラブラブに相応しい言葉でしめようと思ったのだ。

 

「あやせ」 

 

 そしていざトドメの言葉を切り出そうとした瞬間――なんの前触れも無く、唐突に左腕に針を突き刺したような激痛が走りやがった。

 

「いっっっっ痛えええええええええぇぇぇ――ッッッ!!!」

 

 店内に響き渡る男の絶叫。突然奇声を上げた俺に皆の視線が集中する。

 ううう……一体何が起こったかって? 

 左腕――正確に言えば、左肘の付け根辺りの肉を思いっっっ切り抓られたのだ! 

 こう爪を立てて、ぎゅっとなっ!

 勿論、この場で犯人に該当する人物は一人しかいねえ! 

 俺は涙目になりながらも“そいつ”の方向へと向き直った。

 

「おいっ黒猫ッ!?」 

「――あら、兄さん。突然奇声を上げてどうしてしまったの?」

「お、お前が“ぎゅううっ”て肉を摘み上げたんじゃねーか! めっちゃ痛かったんだぞ!」

 

 マジで俺涙目。 

 

「何を言っているの。私は袖口にホコリが付着していたから取り除いてあげただけよ。感謝されても非難される言われはないと思うのだけれど」

 

 そう、しれっとのたまい惚けてみせる我が妹――もとい、黒猫。

 なんつーか、端的に言うとご立腹。怒っていた。

 まったくよぉ。何を原因にして怒ってるのか知らねーが、擬態していた口調まで砕けてきてるじゃねーか。

 

「身嗜みはキチンとしておかないとね、兄さん。――ああ、どうやら私の行為が話しの腰を折ってしまったようね。気にせず続けて頂戴」

 

【挿絵表示】

 

 そう言って、黒猫が目の前にあるコーヒーに手を伸ばしていく。それから、この件は終わりよとばかりに軽く一口啜って喉を鳴らした。

 けれど、思いの外コーヒーが熱かったのだろう。黒猫の眉根がきゅっと寄る。

 名前通り猫舌なのかもしれない。

 ……まあいい。

 黒猫が茶々を入れたのが良いアクセントになったのか、場の雰囲気が落ち着いたのは確かだ。

 ここは一気に話を纏めしまう方向性で行くことにしよう。

 俺は佇まいを直し、改めて美咲さんを正面に据えて視線を合わせた。

   

「……聞いての通り俺とあやせはラブラブなんです。外国に連れて行くとか絶対認めないし、断固反対ですね!」

「ラブラブという雰囲気には見えなかったけれど、相性が良いのは分かったわ。羨ましいくらい仲が良いのね“あなた”達」

 

 ほれ見ろ?

 一種の才能だろうが、俺の演技力は世界を舞台に活躍する有名デザイナーの目すら誤魔化せるようだ。

 ここはもう一押ししておくのが吉か。

 

「めっちゃ仲良いっスよ! まあ、思い込みが激しくて融通が利かない部分もあるし、乱暴というか、しょっちゅう蹴られたりしてますけど」

「し……しょっちゅうなんて蹴ってませんっ!」

 

 心外ですとばかりにあやせがいきり立つ。憤慨してると言ってもいい。

 だが――この物言いには俺も反論があるぜ。

 

「何言ってやがる、あやせ。先日も――ついこの前だって俺を蹴り飛ばしてくれたじゃねーか。いつだったかはキリモミ回転状態でぶっ飛んだんだぞ?」

「あ、あれは……お兄さんがわたしにセクハラを仕掛けてきたからじゃないですかっ! 言うなれば一種の自己防衛ですよっ」

「自己防衛だぁ? あれはそんな域を超えてんぞ。それに一連の行為は……ちょっとしたスキンシップつうか可愛いお茶目じゃねーか。断じてセクハラなんかじゃねえよ……!」

「お兄さんがお茶目とか言っても全然ッ可愛くありませんよっ! いつだったか、私に裸同然の服を着ろと強要したくせにっ! エッチ! 変態!」

「あん時はだな……おまえが『タナトス・エロス』EXモードのコスプレをしたら、さぞかしエロくて人気が出るだろうと俺なにり苦心した結果の提案だったんじゃねーか! そん時も言ったがエロは絶対強えーんだよッ! 俺は間違ったことはしちゃいねえっ!」

「つ、遂に開き直りましたねッ! この変態っ! そうまでしてわたしのエッチな姿が見たいんですか!? 通報……通報しますからねっ!」

「馬――ッ昼間の喫茶店でなんつう事を口走ってんだっ!? お前が相談してきたからから俺は――」

「……もしかしてお兄さん。わたしの裸見たくないんですか?」

「めっちゃ見たいよ――ッッッ!!! って、そうじゃなくてええええええッ!」

 

 ――うああああああああああああッッッッ!!!

 

 何だこの展開は? どうしていきなりこんな会話になってんだ?

 一体俺は何処でルート分岐を間違えたっていうんだ!?

 あと一応弁解というか説明しておくと、EXモード云々というのは、あるコスプレ大会の賞品をゲットする為にどうしたら良いかという件に関して、悩んだ末に俺が導き出した答なのだ。

 桐乃が一番喜ぶプレゼントはなんなのかというあやせの相談に対し、大会の趣旨を深く理解した結果そう結論付けたんだが……今でもあの提案は間違っていなかったとの自負がある。

 全てはあやせと桐乃の為であり、俺の願望なんて一ミリも…………入ってない。

 だから俺は変態でもシスコンでもないのだ。

 そこんとこ大事なんで、勘違いしないように。

 

「――クスクス。あはははは。面白いわねぇあなた達」

 

 アルトな声に振り返って見れば、美咲さんが口元に手を当ててころころと笑っていた。

 ……いや、あれは必死に爆笑を堪えてるんじゃなかろうか。

 なんか目尻に涙すら浮かべてるし。

 

「ねえ、あやせちゃん」

「は、はい!」

 

 一頻り笑って落ち着いたのか、美咲さんがあやせに話しかけている。

 続けてこんな事を言い出したのだ。

 

「もしかして、二人はまだプラトニックな付き合いなのかしら?」

「――え?」

 

 一瞬美咲さんの質問してる意味が分からず、きょとんとする天使。

 しかし、言葉の意味を解した途端、頬を真っ赤に染めて絶句してしまった。そこに更に追い討ちを掛ける藤真美咲エターナルブルー代表取締役。

 てかさ、何言い出してんのこの人?

 

「もう京介くんとキスくらいは交わしたの?」 

「キ――スッ!? なッッ……なな、なにを……言って……」

「フフフ。ねえ、あやせちゃん。一つ対案があるのだけれど、私の前で京介くんとキスして見せてくれないかな?」

「はぁ――?」

 

 な……なんたる爆弾発言。つーか、この姉ちゃん頭おかしいんじゃねーの!?

 初対面の人物に対してキスしてみせろとかさ――本当にありがとうございます。

 

「ここでして見せてくれたら、それだけの絆があるってことで私も納得しちゃうかも?」

 

 妖艶な笑みを浮かべ俺とあやせとを見つめる美咲さん。

 っていうか、アンタ絶対からかって状況を楽しんでるよな! 

 めっちゃ目が輝いてるもんよ! 

 本当いいよなあ傍観者は気楽でよぉ!!

 

「じ、冗談はやめてください! こんな場所でキスなんて……出来るわけないじゃないですか!」

 

 バンッ! とテーブルを叩いて立ち上がる俺。

 一瞬喜んじまったが、冷静に考えれば考えるほどあり得ない。

 美咲さんは冗談のつもりで言ったんだろうが、この発言内容はマズイのである。なにがマズイって、発言したのは俺じゃないのに何故か俺の所為にされてあやせにブッ飛ばされるパターンが目に浮かぶからだ。

 それでは全てが水の泡。

 ご破算。水泡にキス――じゃなくて帰す。

 

「なあ、あやせからも何か言ってくれよ!?」

 

 激怒していたら宥めようと思い、様子を窺いつつあやせへと向き直る。

 するとどうだろう。そこはかとなく顔が赤いものの、どうやら怒っているという雰囲気では無かった。

 オカシイ。この態度は絶対におかしい。

 この女――一体何を企んでやがる?

 

「あの……あやせ、さん? 黙り込んで……一体、どうしたんスか?」

 

 慎重にあやせの思惑を確認する。

 ちなみに俺は立ち上がっている為に、自然と座っているあやせを見下ろす格好になっていた。

 対するあやせは上目遣いに俺を見上げ(←めちゃ可愛い)

 

「……出来るわけないって、わたしとキスなんかしたくないっていうことですよね、お兄さん」

 

 なんて拗ねたように言いやがった。

 

「――は?」

「ですから、お兄さんはわたしと……き、キス、なんてしたく……ないんでしょう? そうハッキリ言いましたよね、今!」

「いや、そういう意味じゃないっつうか――もしかして俺とキスしたいの、お前?」

「し、したいなんて言ってませんっ! わたしは意思を確認しただけです!」

「なん……だと!?」 

 

 ぐうううっ! 

 れ、冷静になれ、京介。嬉しい言葉に舞い上がる前に状況を鑑みろ。

 一瞬リミッターが外れ掛けたが、必死に思い留まる。今は恋人同士の演技をしているだけだ。

 だが、この台詞の真意は掴みづらいぜ。

 敢えて仮定するならば、こいつは桐乃に並々ならぬ執着を抱いているから、キス云々も恋人ごっこの一環であり、留学話をチャラにする為の作戦て訳だろう。

 しかしよぉ、あやせ。はっきり否定しないとあの姉ちゃんに無理やりキスさせられっぞ?

 チラリと美咲さんの様子を盗み見る。

 予想通りというか、実に楽しそうにこちらを眺めている様は、俺を苛めてる時の桐乃に酷似している。

 

「ほらほら、京介くん! あなたがしゃんとしないから彼女が拗ねてしまったわよ?」

 

 発破かけてんじゃねーよ! つーかさ、俺にどうしろっての?

 選択肢はそんなに多くねえんだぞ!

 ……仕方ねえ。一応脳内シミュレートを開始してみよう。

 

『あやせにキスをする →変態と罵られブッ飛ばされる』

『あやせにキスをしない→この話を断る方向に持っていけない』

 

 ――もう詰んでんじゃねーかっっ!!!

 人生オワタよ!! 

 

「……ならいいですよ?」

「へ?」

  

 囁くような声に振り返れば、あやせが俺のことを見つめていた。

 

「その、ほっぺになら……キス、してもいいですよ?」

 

 き、聞き違いじゃなければキスしていいって言ったのか?

 そこまでしてお前は――桐乃の為に……!

 

「か、勘違いしないでくださいね! これは……その」

 

 分かってる。桐乃の為だって言うんだろ? しかし心なしかあやせの瞳が潤んでる気がする。

 俺はどうすればいい? どうすればいいんだ!?

 教えてくれっ!

 

「あやせ……!」

 

 拳を握り込み、じっとあやせを見つめる。

 彼女は俺の答えを待っているんだ。なら俺は……その気持ちに応えるべきだろう。

 やましい気持ちからそう思ったんじゃないぜ。真摯にあやせの思いを汲んだ結果そう思ったんだ。

 ぎゅっと瞳を閉じてから数秒待ち、それから開眼する。

 だが意を決したその時、俺の背後――背中の辺りから圧倒的なまでの殺気が溢れてきて……

 

「うっひいいいいいいいいィィィィィィ――――ッッッ!!!」

 

 再び店内に響き渡る絶叫。

 それだけじゃなく、あまりの背筋の冷たさに俺は思わずその場で二メートルほど跳び跳ねちまったほどである。

 

「ぐわおおおおお……」 

 

 背中をさすりさすり慌てて振り返って見れば、そこにはお冷の入ったコップを手にした黒猫の姿が――!?

 

「あら、御免なさい兄さん。手が滑ってしまったわ」

 

 状況から推察される結果は一つだけ。

 

「な……なな、なにしやがる黒猫ッ! おまえ俺の襟元から冷水流し込みやがったな!!」

「手が滑ったと言っているじゃない」

「嘘吐けっ! どうやったら立ってる俺の襟元に氷水が零れてくるんだよ! ありえねえだろうが!」

「――フン。あなたがあの女にデレーっとしてみっともなく鼻の下を伸ばしているからよ」

「の、伸ばしてなんかねえよっ!」 

「いいえ。伸ばしていたわ。だから私が闇に堕ちかけている精神を正しい方向へと導いてあげたの。――ここは深く頭を垂れて、私に感謝するのが筋というものではなくて?」

「ちょ、おま――仮にも兄貴になんてこと要求してんの!?」

「あら、可笑しいわね。この家では兄は妹の下僕なのでしょう?」

  

 こ、コイツはぁ……いけしゃあしゃあとのたまいやがって……!

 言うに事欠いて下僕だと? 温厚な俺じゃなかったらお前、縛り上げられてんぞ! 亀型に!

 しかし、どうにも黒猫の奴あやせと絡むと凶暴性が増す気がするぜ。

 もしかして何らかの危機感知能力が発動でもしてんのか?

 

「――なにしてるんですか、黒猫さん? あなたは“妹”なんですよ?」

 

 そして氷のように冷たい声音が木霊する。

 その声を聞いた瞬間、何故だが心臓を冷たい手で鷲づかみにされたような感覚に囚われた。

 

「あやせ?」

「お兄さんは黙っててくれます? 今、ちょっと黒猫さんとお話がありますから」

 

 えっと、めっちゃ怖い目で睨まれたんだけど……やっぱ怖えええよ、この女!

  

「自分のしたことが分かってるんでしょうね?」 

「ええ。もちろん理解しているわ」

「妹ですよ?」 

「妹ね。けれどこの現世には兄のことを愛して止まない。兄が好きで好きで溜まらない。そんな妹も存在するのよ?」

「な……!?」

 

 あやせの瞳からスっと光彩が消えた。

 そしてゆっくりとした動作で席を立つや、俺を挟んで黒猫と睨み合いを始める。

 

「兄のことを大好きな妹ですか。それ、すっごく興味がある話題ですね。黒猫さん。それって一体誰のことなんです?」

「さあ? 誰のことかしらね。私は世間一般の例えを出しただけよ」

 

 えっと、俺を挟んでいきなり形成されたこの空間はなんでしょう? 

 魔空間? 異空間?

 何で二人ともいきなり喧嘩おっぱじめようとしてんの? 俺の理解できる範疇超えてるよ!

 つーかよ、兄のことを大好きな妹なんて存在してる訳ねえだろうがっ!! 

 あ、いや……理屈では“存在”してるのは分かってんだが、どうにも妹と聞くと桐乃のことが頭にチラついて全否定したくなってくるんだ。

 だってよ、あの妹ときたら、愛想は無いわ、口は悪いわ、兄を足蹴にするわ、挙句の果てには死ねだのキモイだ散々悪態吐きやがるし。きっと何処ぞの鉄仮面みたく、妹より優れた兄なんて存在しねえとか思ってんだぜ?

 少なくとも俺があいつに嫌われてるのは確実だ。

 

「もしかして黒猫さん。わたしの邪魔をするつもりですか? だとしたら――」

 

 なんでスプーンを握り込むんスか、あやせさん?

 アナタが持つと凶器に見えるのは、それが不思議スプーンだから?

 

「莫迦ね。状況を知っているのに邪魔なんてする訳ないでしょう。私はただ――この女にからかわれてるあなた達を不憫に思って手を差し伸べてあげただけ。特にみっともなくあたふたする兄さんの姿は見られたものでは無かったわ」

 

 そう言って、黒猫が美咲さんの方へと視線を移す。

 けど、悪かったなみっともなくてよ。

 

「あらあら。本当に面白い娘ねぇ。正直言えば、ちょっとからかい過ぎたかなって思わないでもないけれど――」

 

 苦笑を浮かべながらも、美咲さんが黒猫からの視線を受け止めている。それから柔らかく相好を崩すと、自身の腕時計へと視線を移していった。

 見るからに忙しい人のようだし、きっと次の予定でも入っているんだろう。

 

「ねえ、京介くん。もう一つだけ質問に答えてくれるかしら?」

「……まだ、何かあるんすか?」 

 

 正直、またかと思わないでもない。

 だが今の話の流れを危険なあやせと黒猫の二人から奪えるなら応えてやろうって気にもなる。 

 

「あやせちゃんに対する答えは貰ったわ。不完全だけど私なりの回答は得た。だから、次は妹さん――黒猫ちゃんに対する気持ちを答えてくれないかしら?」

「……え?」

「だから、黒猫ちゃんのことをどう思ってるのか教えて欲しいのよ」

 

 これは予想外。というか全く相手の意図が分からない。

 この人は何を言ってるんだ? ここでどうして黒猫のことを持ち出す?

 

「あの……いまいち言ってる意味が掴めないんスけど……」

「文字通りそのままの意味よ。ね、これが最後だから――」

 

 愛想良く片目を瞑ってみせる美咲さん。

 って言ってもよ、黒猫のことをどう思ってるかって、そんなのどう答えたら良いんだ? 

 今の黒猫は妹であって俺の知ってる黒猫じゃない(という設定)だ。

 

「最後って言われても――」

 

 暫し沈黙が続く。

 

「そうですね……」 

 

 そして、暫く考えて、俺は思ったまま、心のままの言葉を口にすることにした。

 こればっかりは嘘を吐いてもすぐにバレちまうだろうからな。

 

「正直言って、こいつ――“妹”のことは大嫌いですよ」

「せ…………兄さん?」 

「口うるさいし、偉そうだし、事あるごとに突っかかってくるし、兄のことをサンドバックか何かと勘違いしてんじゃねーかってくらい乱暴に扱うし」

 

 俺の言葉に一瞬怯んだ黒猫だったが、すぐに言葉の“本意”を掴み、俺の言いたいことを察したようだ。

 

「すぐにキレて喚き散らしたり、無理難題を押し付けてきたり、俺としちゃ良い迷惑なんスよ」

「そうなの? そういう雰囲気には見えないけれど……?」

「それは“アイツ”のことを知らないから言えるんです。本当、滅茶苦茶な奴なんですよ。けど、それでも俺にとっちゃ妹なわけで――アイツが色々と頑張ってるのも知ってるし、努力してるのも知ってる。色んなもんに興味持って、好きになって、一生懸命生きてるのが傍目に見ても眩しいくらいで。そういうところは素直にスゲエって思えるし、兄として応援してーとは思ってます」

「……成程。京介くんは良いお兄ちゃんというわけね」

「そんなんじゃねえけど……なんつーか、妹ってのは兄貴にとってはいつまでも妹なんですよ。どんなに悪し様に扱われようが、あいつが泣いてたら泣き止ませるのが俺の役目で……」

 

 そこまで言ってから、改めて黒猫に視線を合わせた。

 

「いつだったか、妹の為に夏の思い出作ってやろうとあるイベントに出掛けたことがあるんですよ。けど、嫌われてる俺じゃ大したことは出来なくて。それを助けてくれた奴がいた。妹にはあやせ以外にも親友がいて――おかげでアイツに楽しい思い出作ってやることが出来ました」

「……そんなことあったかしら?」

「去年の夏コミだよ。お前なら覚えてんだろ?」

 

 他ならぬ黒猫は当事者である。

 忘れてるわけがない。 

 

「妹――お前の良いところをいっぱい発見したし、アイツも楽しそうにしてた。力を貸してくれた友達にも感謝してる」

「……きっと、その友達は自分のやりたい事をしただけで、感謝なんていらないと言うと思うわ」 

「だろうな。けど、そいつ等と知り合えて良かったって思ってる。おかげでお前……妹との関係も少しは良くなったからな」

「ふんっ……勝手に言ってなさい」

 

 ぷいっとそっぽを向く黒猫。

 照れているのか、少し耳たぶが赤色に染まってみえた。

 ……ま、我ながら纏まった言葉じゃねーけど、言いたいことは言ってやった。

 

「えっと、何が言いたかったかというと、妹のことは嫌いだけど友達と遊んだりしてる妹は憎めないってか……あー! うまく言えねえ!」 

 

 こんなんで美咲さんが納得してくれればいいんだが……。

 

「不器用なのね、京介くん。けれど、何となく言いたいことは伝わったわ。黒猫ちゃんのことがとても大切なのね?」

「……まあ、妹ですから。黒猫のことはそれなりには」

「莫迦ね」 

「馬鹿で結構。兄貴ってのはそういう生き物なん――――ぐあおおおおおおおおぉぉぉッッッ!!!」

 

 三度、店内に響き渡る絶叫。

 靴の防御を越えて、爪先から鋭利な刃物で貫かれたかのような激痛が襲ってきやがった。

 

「あ……、あや……せ?」

 

 涙目になりながら状況を確認する。

 どうやら俺は爪先を思いきり踏みつけられたようだ。他ならぬあやせに。

 それも遠慮も容赦もなしに。

 

「――よく回る口ですね。この浮気者。二度と軽口を叩けないように縫い付けちゃいましょうか」

 

 え? 何で怒ってんの?

 女って何で急に怒ったりすんの?

 訳わかんねーよ!!

 

「フフフ、アハハハ。本当に面白いわね、あなた達」

 

 俺ののたうち回る姿が可笑しかったのか、クスクスと笑いながら美咲さんが席を立つ。

 

「色々な“状況”は飲み込めたわ。こんな状態じゃおいそれと日本を離れてられないわよね、あやせちゃん?」

「えと……」

「ああ、心配しないで。取り合えずこの案件は白紙にするから。けどあなたへの評価を下げたって訳じゃないからその点は安心してちょうだい」

「――はい、ありがとうございます」 

「京介くんや黒猫ちゃんにも興味が出てきたし、今度は是非プライベートで会いたいものね」

 

 優雅な仕草で伝票を手に取った美咲さんは、俺達をゆっくりと見回してから

 

「うん。若いっていいわ」

 

 そう言って支払いを済ませ、颯爽と歩いて行ったのである。

 

 

 後日あやせから聞いた話しによると、本当にあのやり取りで留学の件は白紙になったらしい。幾人か他のモデルの候補もいるといっていたから違う人物に白羽の矢を立てたのだろう。

 正直、色々あって疲れたけど、最後にあやせに最高の笑顔をプレゼントされたら文句は言えねえよな。

 まあ、悪くない一日だったよ。

 

   

 




今回のお話で一区切り。物語の第一幕が下りた感じでしょうか。
今後はもう少しだけ踏み込んだ内容になっていく予定であります( ̄^ ̄ゞ


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第二章
第十五話


「――あら、38度。顔が赤いからおかしいと思ったけど、やっぱり熱があるみたいね、京介」

「……あ?」

 

 俺から取り上げた体温計を眺めながら、お袋がふうっと小さく嘆息を吐いている。

 リビングに降りてテーブルに付くなり体温計を渡されたから、何事かと思ったら……38度だぁ?

  

「これは風邪かしらねぇ」 

 

 もう一度体温計を確認してから、お袋が付けていたエプロンを外していく。その姿を目で追いながら何気なしにリビングを見渡してみれば、どうやらこの場に居るのは俺とお袋だけのようだった。

 あと二名、本来この場に居るべき人間の数が足りない。

 

「お袋ぉ、桐乃は?」

「桐乃? あの娘なら学校に行ったわよ」

「……学校って、もう? ちょっと早くね?」

 

 チラリと時計を確認する。

 思った通り、まだ遅刻を心配するような時間帯じゃない。

 

「あの娘、部活の朝練があるからって早めに出たのよ。お父さんなんか仕事の関係で桐乃より早く出ちゃったし」

 

 ……ふむ、なるほど。

 それで朝食がテーブルに二人分しか用意されてないわけだ。

 我が高坂家では、親父の方針で基本的に家族全員で食事を取らなければならない決まりがある。けどまあ、何やかんやで朝食は全員揃わないこともあるし、さして珍しい光景じゃないんだが……。

 なんか、今日はあんま食欲わかねえなぁ。

 

「……んー、悪ぃお袋。折角だけど今日は朝メシいらねえわ」

「――ちょっと、京介っ! 何処行くの!?」

「何処って……学、校だ……け……ど……」

 

 ――ガタンッ! と大きな音がリビングに響き渡る。

 

 喋りがてら椅子から立ち上がろうとした時、不意にフラついてテーブルに身体をぶつけちまったのだ。

 立ちくらみか……って、あ……れ? おかしいぞ?

 何だか身体がやたらと重いし、思ったように動かせない。

 つーか、全体的に熱っぽい気がするが……あー、そういやさっきお袋が熱があるとか何とか言ってたが、本格的に風邪でも引いちまったか?

 

「ほら、京介。大人しくそこに座ってなさい。母さん、すぐに用意するから」

「用意って……なんの?」

「なんのって、病院に行く用意に決まってるじゃないの。あんたはそのままの格好でいいから、しばらく座って待ってるのよ」

 

 そう言って、制服姿の俺を見下ろすお袋。

 いや、ちょっと熱っぽいってだけで、そんな大袈裟にするようなもんじゃねえだろ。

 そう思った俺は、大丈夫だとアピールする為に、テーブルに手を付きながらも何とか立ち上がった。

 

「……心配ねえって。ちょっとした風邪だろ? こんなの学校で寝てたらすぐに良くなる……と思う。言うほど気分も悪くねえし……」

「単に起き抜けだからそう感じてるだけよ。無理したら悪化するに決まってる。ねえ、京介。病気の時くらい素直に母さんの言うこと聞いときなさい。その方が色々と得するから」

 

 肩を押さえつけるようにして俺を無理やり座らせるお袋。

 つーか、得するって何に対してだよ?

 もしかして部屋に鍵付けてくれたり、小遣いでも増やしてくれんの?

 

 なんて叶わないであろう願いを心の中で育みながら、お袋をジト目で眺めていたんだが――結果として、このお袋の判断は正しかったということになる。

 何故かって?

 時間と共に体調が悪化して、病院から戻ったらそのままぶっ倒れちまったからだよ。

 だから、ベッドに潜り込みながら思ったもんさ。

 普段はチャラけた部分もあるけど、顔色見ただけで息子の体調不良を見抜くくれーは、しっかり母親してるんだなってな。

 

 

「悪いけどどうしても抜けられない用事があるから、母さん戻るの夕方頃になるけど……大丈夫、京介?」

「……病院で薬も貰ったし、大人しく寝てるから大丈夫だよ。つーか、前々から楽しみにしてたイベントごとだろ? ご近所付き合いも大切なんだってこの前言ってたじゃねーか」

「それは、そうなんだけどねぇ」

「ただの風邪だって医者も言ってたし、心配ねえよ。……帰りに美味いもんの一つでも買ってきてくれりゃ十分だ」

「あら、生意気言っちゃって。随分と頼もしくなったものねぇ。小さい頃は母さん、母さんってそりゃ可愛いかったもんだけど――」

「……いつの頃の話だよ。つーか、記憶にねえ」 

「フフ。それじゃあ出掛けてくるけど、何かあったら電話してくんのよ?」

 

 なんてやり取りがあったのが十分前で、今俺は一人寂しくベッドに横になっている。

 まあ、病気の時なんて寝るくらいしかやることがねえし、実際かなり体調も悪い。さっき飲んだ薬が効いてきてるのか、悪寒が無くなった代わりに猛烈な睡魔が襲ってきてる始末だ。

 だから……俺は……一瞬後には、泥のように深い眠りに……ついていったのだった。

 

 

 ――そして、脳裏に映るセピア色の光景。

 

 

 モノクロ映画のような視界の中に、いつかの俺の姿があった。

 小さな手足に小さな身体。今とは随分違うちっこい姿に変な違和感を覚えたが、すぐにこれは夢なんだと気付く。

 何処か懐かしさの漂う室内に目を見張る。

 小奇麗に整頓されたその光景には、確かに見覚えがあった。

 そう――ここは桐乃の部屋だ。

 机の上にはパソコンもないし、雑多な品物も溢れていない。けど、よくよく思い出してみれば、ここが昔の桐乃の部屋なんだって気付くことが出来る。

 今とは違って、昔の俺達はそれなりに仲の良い兄妹だったのだ。

 お互いの部屋を行き交うくらいには。

 しかし視界の中の俺は、別に桐乃の部屋に遊びに来た訳じゃなさそうだ。

 目に映る“ちっこい俺は”態々ベッド脇に椅子を持ち出して、そこから眠っている小さな桐乃の姿を見下ろしていた。

 

「……けほ、けほ」

 

 眠っていたと思った桐乃が、突然苦しそうに表情を歪めて乾いた咳を繰り返した。

 風邪を引いた人間特有の赤い顔。額に汗しながら呻く妹の姿に“当時”の心境がまざまざと蘇ってくる。あの時の俺は柄にもなく妹を心配して――じゃない。辛そうな妹の姿に随分と心を痛めて……じゃねえ。

 ……あれ? オカシイな。

 あの時俺は風邪を引いた桐乃の事を心配して傍に付いていたはずなのに、どうにも“現在”の桐乃が目の前をチラついて、当時の心境を全否定したくなってくる。

 今と違って昔の桐乃にはまだ可愛げがあったんだ。兄を罵倒することもなければ、目を合わせる度にウザそうにガンを飛ばしてくることもない。ましてや足蹴にするなんて想像もできねえ。

 見てくれも金髪じゃねーし、本当、どうして“ああ”なっちまったのか理解に苦しむぜ。

 ……と、話しが逸れた。

 だから当時の俺は兄として妹の心配をするのは当然だったのだ。

 

「大丈夫か、桐乃?」 

「……うん。ちょっとしんどいけど……だいじょぶ」

 

 鼻をすすりながら桐乃が声を絞り出す。それに続けてこいつは 

 

「……それよりごめんね、お兄ちゃん」

 

 なんて、小さな声で呟きやがった。

 

「あたしが……熱だしちゃったから……兄ちゃ、遊びに、行けな……ケホッ! ケホッ!」

「無理して喋ろうとすんじゃねーよ。お前は風邪を治すことだけ考えとけ」

「でもぉ……」

「でもじゃねえ。じゃねーと、もう遊びに連れてってやらねーぞ」

「……うー」

 

 桐乃はばつが悪そうに目線を逸らすと、そのまま両手で布団を持って顔をその中に隠しやがった。――と思いきや、すぐに鼻先まで顔を突き出すと

 

「……怒ってない?」

 

 なんてか細い声で呟いたのだ。

 その台詞を聞いて思いだす。確か当日は家族で遊びに行く予定があったんだが、急に桐乃が熱を出した所為でおじゃんになって急遽中止の運びになったのだ。

 俺だってまだ子供だったし、すっげえ楽しみにしてた分ちょっとばかり不機嫌になったりもしたが……こんな妹の姿を見たら怒るに怒れねえだろ。

 つーかさ、病気ばっかりはどうしようもねえ。

 だから俺は、出来るだけ優しい声音であいつに答えてやったっけ。

 

「怒ってねえよ」

「……ほんと?」

「嘘吐いたって仕方ねえだろ」

「ほんとにほんと? 怒ってない?」

「怒ってねえったら怒ってねえよ。てか、いい加減しつこいぞ、桐乃!」

 

 けど桐乃が何度も何度も同じことを聞きやがるので、ちょっと語尾を強めたら、あいつまた布団の中に引っ込みやがった。それでも次に布団から顔を出した時には、安心したような、ほっとしたような笑顔になってたっけ。

 相変わらず苦しそうだったけど、その表情を見てたら怒らずに良かったって思ったよ。

 そんなこんなで妹の看病をしてたわけなんだが、突然クイクイっと袖口を引っ張られて――

 

「……喉、かわいた」

「あ?」

「お水、飲みたいな」

「水?」

「うん」 

「……わあったよ。ちょっと待ってろ」

 

 唇を尖らせながらも二階の部屋から一階へ降り、そして台所まで行って冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。

 いや……なんつーか、こう甲斐甲斐しく働く昔の俺って結構健気だよな。

 しかも妹の――桐乃の為に動いてるんだぜ? 

 正直、驚きの光景だぜ。

 今だったらぜってえやらねえ……やらねえとは思うが、ちょっとばかし戯れに“場面”を想像してみるとしよう。

 

『――水』

『あ?』

『なにその返事? もしかして持ってくるのが嫌なの?』

『……嫌っつうか、お前が何のこと言ってるかわかんねえんだけど?』

『はァ? 水って言ったら喉が渇いてるに決まってるっしょ。つーかさ、あたし病人なんだけどォ? その辺りあんたが自然に気を回してくんないと困るわけよ』

『あ、あのなぁ……俺は相手の心が読めるエスパーじゃねえんだぞ? 喉が渇いたんなら最初からそう言えや』

『だから、最初に言ったじゃん? ほら、さっさと取って来なさいよ。まったくグズっていうかノロマっていうか、本当使えないんだから……!』

『ンだとッ!?』

『アンタさぁ、可愛い妹が風邪引いて寝込んでんだよ? 少しは労ろうとか優しくしようとか思わないワケ?』  

『それが弱ってる病人の態度かよ!? てか、何で俺がお前の看病なんかしなきゃなんないわけ? あまりにもナチュラルすぎてスルーしてたけどよ、必要性がねーだろーが』

『ちょ……それ、マジで言ってんのアンタ? ――サイアク。いっぺん死んでくれば?』 

 

 ……。

 ………。

 …………いかん。想像してただけなのに無性に腹が立ってきやがった。ここは一旦深呼吸(夢の中でアレだが)して落ち着くとしよう。

 

 ――ふう。あやせたんマジ天使!

 

 しかしだ、一連の会話劇は俺の想像の産物に過ぎないが、似た状況下なら全く同じような展開が起こると断言できる。つーか、できちまうのが悲しいところだ。

 もしくは看病なんてされたくない! と顔も合わせてくれないかのどっちかだろうなぁ。

 まあ風邪なんかじゃなく“本当に調子が悪い”時はしおらしくなることもあるにはあるが――それは激レアな状況なだけに、そうそうお目にかかることもないだろう。

 

「ぷはぁ!」

 

 おっとと、下らないことを考えてたら、昔の桐乃が水を飲み終わったようだ。

 両手でコップを持ってこくこく喉を鳴らして飲む様は、我が妹ながら可愛くて仕方ない(一応言っとくが俺はシスコンじゃない)んだが、何故か昔の俺は仏頂面でその様子を眺めている。

 うーむ……こん時の俺って何考えてたっけな? 

 いまいち思い出せねえんだけど……

 

「もう一杯飲むか?」

「ううん。いい」

 

 にひひと笑いながらコップを差し出す桐乃。それを受け取った俺に対してあいつは

 

「あのね、お兄ちゃん」

「ん?」

「あたしね……優しくって頼りになるお兄ちゃんのこと、大好――――」

 

 太陽みたいな眩しい笑顔で、桐乃が伝えた言葉――それは……

 その後の肝心の言葉が聞き取れない。

 やがて夢の中の光景がフェードアウトしていき――なんの脈絡も無く、唐突に目が覚めてしまった。

 

 

 

 そして覚醒する俺の意識。

 見開いた目の前――文字通り目と鼻の先には、お互いの鼻がくっ付くくらい顔面どアップになった現実の桐乃の姿が……。

 瞳と瞳、目線がばっちり至近距離で交差する。

 

「ち、ちがッッッ――!!!」

 

 がばっと音がするくらいの超速度。

 桐乃はメチャクチャ慌てふためきながらも、前屈みになっていた身体を跳ね起こし、そのままベッドから素早く距離を取っていく。しかし、室内で移動できる距離などたかがしれている。

 あいつはすぐさま壁に行き当たり背中を遮られてしまった。

 

「あ……!」 

 

 退路がないことに気付き愕然とする我が妹。

 そしてそのままの姿勢で、引きつったような表情を隠すように両腕で俺の視界を遮った。

 

「ち、違う! これは……その……!」

 

 何をテンパってんのか視線が縦横無尽、右往左往していやがる。しかも混乱が拍車をかけているのか、明晰なはずの頭脳も打開策を見つけられないとばかりに、口元を引きつらせながら額に玉の汗をかいていた。

 つーか、何で俺の部屋に桐乃がいるんだ?

 てかさ、制服姿のまま何してんの? 

 

「なあ、桐乃」

「な……ッ、なに?」

「お前さ、何でここに……って、まあいいや。取りあえず、今、何時よ?」

「へ……?」

 

 お袋と病院に行って、泥のように爆睡して……それからどうしたんだっけ?

 ゆっくりと身を起こしながら携帯で時間を確認しようと衣服をまさぐり……パジャマ姿なのを思いだす。携帯は机の上だし、ここからだと時計が見えない。

 だから桐乃に時間を聞いたんだが……あれ? 何か変なこと言ったか俺? 

 当の桐乃は、まるで呆けたように棒立ちになったまま俺を見つめている。

 起き抜けで思考がうまく回らねえが、まずは時間の確認だろ?

 だが桐乃からの返答は無く、互いに無言のまましばらく時間だけが過ぎていった。

 

 どれくらいそうしていたんだろう。

 ふと桐乃が安堵とも落胆とも取れる大きな溜息を吐いた。

 それから――

 

「……三時ちょっと過ぎ。つーかさ、あんた大丈夫なの? なんかボーっとしてるけどさ?」

 

 あん? ぼーっとしてんのはお前じゃねえか――と反論したかったが、確かに起きたばかりで頭がうまく働いてねえ。

 しかし、もう三時か。

 病院から帰って即効寝たんで、かなりの時間寝てたことになる。その間に何処か懐かしい夢を視てた気もするが……残念ながら起きたと同時に内容を綺麗さっぱり忘れちまっていた。

 

【挿絵表示】

 

「――ねえ」

「病気つーか風邪引いたんだよ。んで朝から寝てた」

「……それは知ってる。お母さんからメール貰ったから」

 

 ほほう。お袋の奴、桐乃にまでメールするとは随分と心配性じゃねーか。

 それでコイツがここに居るって訳か。大方学校から帰って俺がどれだけ弱ってるか確認しに来たんだろう。

 やっと得心したぜ。

 トラップでも仕掛けられてなきゃいいが、残念ながら俺の部屋は鍵がかからねえからなぁ……とそこまで考えて、やっぱりおかしいという事実に気付く。

 何故なら、三時というこの時間帯に桐乃が家に居る訳がないのだ。

 

「――って、おまえ部活はどうしたよ? この時間だとまだ学校のはずだろ?」

「ぶ、部活っ!?」

「おう」 

「あー、その……な、なんかさ、顧問の先生が出張とかでいなくて、今日はナシ。無くなったの」

「マジで?」

「嘘吐く理由無くない?」

「ま、そりゃそうだけどよ……」

 

 なーんか桐乃の物言いが引っかかるぜ。喉元に魚の骨が刺さったみたいな違和感。けど思い出せねえってことは大したことじゃないんだろう。

 コイツの言う通り、嘘を吐く理由なんてないだろうし。

 

「ねえ、アンタさぁ。本当に大丈夫? 熱とかあんの?」

 

 部屋の隅っこに立ったままだった桐乃が、ゆっくりとでベッド脇まで近寄ってきた。

 ちょっとまなじりを下げて心配してそうに見えるのは、きっと俺が風邪引いてるからそう見えるだけだろう。

 

「熱あんならさ、まだ寝てなきゃ駄目じゃん」 

「……どうだろうな。病院行って薬も飲んだしよ……朝より随分マシになったような気がする。気分もそんなに悪くねーし」

「ふーん。あ、そう。ねえ――チョット動かないでよ」

 

 桐乃がぐいっと身を乗り出しつつ俺を覗き込んでくる。

 そしてそのままの姿勢で腕を伸ばし、そっと俺の額に添えやがった。

 

「なっ!?」

「動くなっつったでしょ」 

 

 妹の突然の行動に驚いたものの、ひんやりとした掌の感触が気持ち良い。

 それにこうされていると、何だか安心するつーか、心が休まってくる気がする。きっとこれも風邪の所為。単なる気の迷いなんだろうけど……。

 なんつーか、悪くねえな。

 

「……これさ、熱、下がってんじゃない?」

「ふぅん。分かんのか、おまえ?」

「えっと……たぶん」

 

 たぶんって、分からねーのにやってたのかよ! つーか、熱を測るポーズをやりたかっただけですよね!

 照れ笑いを浮かべつつ手を引っ込める桐乃にそう突っ込みたかったが、何故か言葉が口を吐かなかった。

 突っ込みどころで口篭るなんて、やっぱ病気の時は調子でねーよ。

 

「なぁんだ。思ったより元気そうじゃん。心配してソンし――」

 

 桐乃が溜息を吐きながら何事か呟いた――と思いきや、いきなり言葉を切りうんうんと頭を振り出した。

 いきなり何してんだ、こいつ? 

 

「どうした桐乃? 外で頭でも打って来たか?」 

「ンなワケないじゃんっ! つーか、別にアンタのこと心配して帰ってきた訳じゃないんだからね!」

「怒鳴るなよ……。んなの分かってるって」 

 

 この言葉に対する反応は、何故かムスっとした表情だった。だが、桐乃は唇を尖らせながらも

 

「……ま、いいや。でさ、アンタ喉とか渇いてない? なんだったら飲み物でも持ってこようか?」

「あ? なんで?」

「いや、起き抜けだったら何か飲みたいんじゃないかなって……」

 

 確かに喉は渇いてるが、何でコイツがそんなことを気にかけてんだ?

 もしかして何かよからぬ事でも企んでんのか?

 

 ――ハッ!?

 

 もしや、あやせとの密会がバレたんじゃあるまいな!?

 それでこの機会に俺を亡き者にしようと計画し……。

 優れた直感が脳内で危機を告げる。

 俺は僅かでも桐乃から距離を取ろうとベッドの中で後ずさった。 

 

「……まさか、おまえ、飲み物の中に何か入れる気じゃないだろうな?」

「は?」

「いや、俺が弱ってるのを利用して抹殺――殺すつもりだろ?」

 

 何を言ってるのか分からないとばかりに、桐乃の目が点になる。続けて、わなわなと震えだす我が妹。 

 

「あ、ああ、アンタねぇ……一体、あたしのことナンだと思ってるワケ?」

 

 桐乃の全身を黒いオーラが包み込む。

 これは色々違う意味で怒ってんな……。

 

「わ、悪ぃ。ちょっと勘違いしたみたいだ」

「ハァ? 勘違いってナニ? もしかしてアンタ、やましいことでも考えてたんじゃないでしょうね?」

「いや、だから悪かったって。機嫌直せって!」

 

 平身低頭。取りあえず謝り倒して妹のご機嫌を取る。

 しかし、病気の時すら容赦ねえなこの妹は。

 

「フンっ。どうやら調子が悪いみたいだしィ、今日はこれくらいで許してあげるけど――――ねえ、お茶でいいの?」

「は?」

「だから! 喉渇いてんでしょっ!? あたしが折角気をつかって下まで行って取ってきてあげるっつってんのに、ナニその返事? 嫌なの?」 

「そんなんじゃねえけど……何でまた怒ってんの、おまえ?」

「怒ってないッ!」

 

 いや、どう見ても怒ってんじゃん!

 けれど、どうやら飲み物云々をどうにかしないと話が進まないのは理解出来た。

 

「……飲み物なら机の上にポカリがあるけどよ、それより腹が減ったな」 

 

 思えば朝から何も食べていなかった。

 ぐっすり眠って体力が回復したのか、喉の渇き以上に空腹を覚えちまった。腹が何か寄越せと騒ぎやがる。

 

「昼ごはん食べてないんだ?」

「ずっと寝てたって言ったろ? お袋が簡単なもん用意してくれてるはずだけどよ……」

 

 食べやすいものを作っておくと言っていたので、台所に何かあるはずなんだが。

 それを聞いた桐乃は不承不承頷きながら

 

「わかった。取ってくる」

 

 言うや、踵を返し廊下へ出るべく扉へと歩き出した。

 丁度その時である。

 我が家への来客を告げるインターホンが、部屋の中に鳴り響いたのは。

 

 

 



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第十六話

「見てくるから、ちょっと待ってて」

 

 そう言って桐乃が部屋を出たのがおよそ五分前。

 ――一体誰が尋ねて来たんだろう?

 一瞬お袋が帰って来たのかとも思ったが、身内なら態々インターホンを鳴らすわけがない。つーことは、まったくの他人か、または高坂家の知人が尋ねて来たことになるが、配達や勧誘の類なら応対した桐乃が戻ってくるのが遅すぎる。

 なら、ここで問題になってくるのは、果たして“誰”の知り合いが尋ねて来たかということだ。親父やお袋の知人だとしたら、やはり対応に時間がかかりすぎてるように思う。

 だったら俺か桐乃の知り合いか?

 桐乃の友達だとすればあやせか加奈子辺りが頭に浮かぶが、俺だったとしたら……やはり麻奈実だろう。

 幼馴染の麻奈実なら、学校を休んだ俺の様子を見に来るとか十分過ぎるほどにありそうだしな。と、そこまで考えを纏めた瞬間、脳裏に真っ赤な危険信号がけたたましく鳴り響いた。

 

「……やべえ」 

 

 もし尋ねて来たのが麻奈実ならば、今頃玄関で桐乃と鉢合わせてるはずである。

 それってさ、まずくね? っていうか、実際に超マズイだろっ!

 何故か桐乃は麻奈実の奴をすっげー敵視してる(以前麻奈実が尋ねて来た時なんか、親の仇でも見るような目で睨んでた)し、その場に居合わせた俺は、マジで亜空間に迷い込んだのかと思ったくらい居心地が悪かった。

 麻奈実はいつも通りふにゃっとしてたが、とにかく桐乃の態度が最悪だったのだ。

 

「こりゃおちおち寝てなんていらんねーぞ……!」

 

 がばっと布団を剥ぎ取り、そのままの勢いでベッドから飛び降りる。

 桐乃が麻奈実を追い返すくらいならまだいい。後で俺があいつに謝れば済む話だからな。だけど口論の末に喧嘩なんてことに発展しやがったら……。

 ――うわああああああああああああっっっ!!!

 思わず両手で頭を抱えちまった。

 年齢的には麻奈実の方が上だが、あいつが桐乃に喧嘩で勝つ姿なんてまったく想像できねぇ! リアルサスペンスドラマじゃねーんだし、撲殺された幼馴染の姿なんて見たくねーぞ俺は!

 ……まあ、冷静に考えりゃ、あやせの奴なら兎も角、桐乃に限ってそこまでの事態に発展するとは思わねーが……風邪を引いてる所為かどうにも嫌な想像ばかり頭を過ぎりやがる。

 ともかく事態を確認する上でも一刻も早く現場に辿り着かなければッ! 

 そう思って部屋の扉へと腕を伸ばしかけた瞬間、まるで自動ドアのようにすうっと目の前で扉が開いていった。

 

「……何してんの、アンタ?」

「へ?」

「ちゃんと寝てなきゃ駄目じゃん。風邪引いてんだからさ」

 

 開いた扉の先、目の前の空間に立っていたのは妹の桐乃だった。

 だけどちょっとばかし様子がおかしい。

 具体的にドコとは言えねーんだが、なんつーか声のトーンが少し下がってる気がする。嫌なことがあったってよりは、間が悪いというかバツが悪いって感じで……。

 

「ほら、さっさと戻るっ」

 

 ぴっとベッドを指差しながら俺を促す桐乃。んで、そのまま俺を押し退けながら部屋に入ると、そのままドア際に立ち尽くす。それから背後を振り返るや「どうぞ」と小さな声で呟いた。

 

「よう! 高坂。お前が風邪引くなんて珍しいじゃねーか。ナントカは風邪引かないっつうけどよ、やっぱありゃ迷信だったんだな」

「……な、何で、お前……が?」

「あん? なんでって見舞いに来たに決まってんだろーが」

 

 部屋に押し入りながら威勢の良くのたまったのは――なんと、俺の級友である赤城浩平だったのだ。   

 

 

 

 あー、今なんつったコイツ? 聞き違いじゃなけりゃ見舞いって言ったのか?

 赤城の発した言葉の意味を理解するにつれ、頭の中がハテナマークでいっぱいになった。だってよ、仮にコイツが風邪を引いて学校を休んだとしよう。でだ。俺が赤城の見舞いに行くかっつうと絶対に行かねえと断言できる。

 それはコイツもまったく“同じ”はずなのだ。

 なのに態々家まで見舞いに来ただと? 

 まったくもって意味が分からん……っていうより、正直気持ち悪い。

 

「――フッ。高坂。その顔は驚いてやがるな。だがな、サプライズはこれだけじゃねえんだぜ」

 

 ニヒルを気取りながら赤城が振り返る。その行為を受けて、ヤツの背後から第二の闖入者がひょっこりと顔を現した。

 

「えへへ。こんにちは高坂先輩。どうやら思ったより元気そうですねえ」

「げっ!?」

 

 笑顔で挨拶をしてくる赤毛の少女。

 身長は女の子にしては高いほうか。スリムな体型ながら胸は大きめで、とても活発な印象を受ける。トレードマークは眼鏡と大きな胸。委員長然とした佇まいから真面目な娘を想像させるが……それは明らかなフェイクだ。

 本性は超の付くド変態。……いや、変態という言葉すら生ぬるい。こいつは一般人が足を踏み入れると即死するという腐界の住人。

 そう。

 第二の闖入者とは――赤城浩平の妹である赤城瀬菜だったのだ。

 

「おまえ……」

 

 まったく予期していなかった来訪者に言葉が出てこない。思考が追いついてこないのも風邪の所為だけじゃないだろう。

 つーか、何だこの状況?

 赤城兄妹が揃って俺の見舞いだと? 

 訳が分からん。

 だがこれで桐乃のテンションが下がってた理由は理解できた。兄貴の方とは面識があったと思うが瀬菜とは初対面のはずである。だから、まだうまく距離感が掴めてねえんだろう。

 人見知りはしねえ奴だけど、なんつっても相手は年上にあたるしな。だが俺は、更なる来訪者がいるだろうとは全く想定していなかった為、次の瀬菜の言葉に度肝を抜かれることになった。

 

「ふっふっふ。高坂先輩、実はお見舞いに来たの私達だけじゃないんですよ?」

「なん……だって?」

「喜んでください。真打の登場です!」 

 

 じゃじゃーん! そう言って瀬菜が後ろの人物へと呼びかけた。

 お待たせしました、五更さんと。

 

「お邪魔……するわ」

「く、黒猫っ!?」

 

 現れたのは制服姿の黒猫。

 彼女は鞄を胸の前で大事そうに抱え、何処か遠慮がちに室内へと入ってきた。

 

 

 こうして形成される異空間。

 現在この部屋の中には合計五名もの人間が犇いている。あんま広い部屋じゃねーんでそれなりに窮屈だが、このまま黙っていても話は始まらない。

 ざわついた心を落ち着かせる意味も込めて、一応各々の立ち位置を確認しておくとしよう。

 まず俺はベッドに横になりながら、布団を膝掛けにしつつ半身を起こしている。本来なら病人である俺は寝てなきゃ駄目なんだろうが、体調はかなり良くなってるんで短時間なら問題ない範囲だろう。

 そんな俺の目の前で床に胡坐をかいてるのが赤城(兄)だ。部屋に来るのは初めてじゃないからか、えらくリラックスしてやがる。なんつーか、室内を目線で物色する様が手に取るように分かるのだ。

 幾ら探しても食い物なんかねーのによ。

 その赤城の左隣、俺から見て右側に黒猫がちょこんと座っていた。知っての通り黒猫はこの部屋によく遊びに来る。なのに赤城と違って落ち着き無く見えるのは緊張してるからだろうか。

 こいつ、案外人見知りだしな。

 で、問題の瀬菜の奴だが、こいつは俺から見て左側(赤城の右隣)に陣取ってニヤニヤしながら部屋を見回していた。

 もう一人、可愛い方の妹はといえば(ルックスだけなら一番可愛い)何故か部屋に帰る様子もなくここに居座っていやがった。場所的には瀬菜の後方、やや離れた位置で椅子に腰掛けている。

 なんつーか、机に肘を付きながら所在なげに黄昏てんだが……何やってんだ、こいつ?

 

「へえ。高坂先輩の部屋って思ったより普通なんですね。拍子抜けしたというか、ちょっとガッカリです」

「ガッカリって……お前は俺の部屋に何を求めてんだよ」

 

 最初に声を発したのは赤城瀬菜。

 何かを期待していたが、自分勝手に落胆したらしい。

 

「え? だって思春期真っ盛りの男子高校生の部屋ですよ? 先輩が健全な男子高校生なら“そういう”アイテムの一つや二つ転がってると思うじゃないですか」

「仮に持ってたとしても、普通に転がってるわけねーだろーが」

「じゃあ隠してるんですか? 具体的に言うとBL関連の本とかグッズとか。いわゆる耽美小説とか」

「あるわけねーだろッ! つーかそんなもんが“健全な男子高校生”の部屋に存在するわけねぇ!!」

 

 あってはいけない。決してあってはいけないブツだ。仮にあるとしたら文字通り真逆のブツだろう。しかし、俺の返答を受けた瀬菜は意外そうな顔を晒して

 

「あれぇ? 高坂先輩ってホモ肯定派でしたよね?」

「お前、脳みそまで腐ってんのなッ!?」

「えっへへ。そんなに褒めないでください」

「褒めてねーよッッ!!」 

 

 ったくよぉ。相変わらずコイツは頭わいてんな。

 価値があるのは眼鏡とでけーおっぱいくらいのもんだと断言して差し支えない。

 

「とまあ、冗談はここまでにして。意外と綺麗に整頓されてるんですね。もっと散らかってるのかと思ってましたよ」

「そうか? 普通こんなもんだろ?」

「うーん。私も“普通”がどの程度をさすのか分かりませんけど、想像していたよりずっと綺麗にされてます」 

 

 意識したことはねえけど、瀬菜が整頓されてるっつうならそうなんだろう。

 何しろ、こいつ自身が綺麗好きっつうかかなりの潔癖症だし。

 

「なるほど。いつでもお兄ちゃんを連れ込める態勢を整えてるわけですよね!」

「お前はもう窓から飛び降りて帰れっ!」 

 

 ちなみにコイツは見ての通りのド変態だが、時と場所、いわゆるTPOは弁えてる。

 普段はそういう方面を他人にはひけらかさないし、見せようとはしない。その反動って訳じゃねえんだろうけど、こうして“事情”を知ってる面子の前ではあけっぴろげになるようだ。

 その問題児、赤城瀬菜の目がキラリと光った。

 どうやら何かを見つけたようである。急ぎ奴の視線の先を追ってみると、本棚の下に置かれている長方形のケース状のものを捉えているようだ。

 

「これ高坂先輩のですか?」

「あん?」

 

 興味が出たのか、ぐっと伸びをするようにして手を伸ばす瀬菜。そしてそこにあったケースを取り出し俺に見せつける。

 何を見つけたのかと思えば、瀬菜が取り出したのは『星くず☆うぃっちメルル』のDVD。

 

「あは。先輩ってこういうの好きなんですか?」 

 

 星くず☆うぃっちメルル。

 簡単に説明すると児童向け魔法少女アニメのタイトルなんだが、無論このDVDは俺の持ち物ではない。誰のものかと言うと桐乃の物なんだが、借りたまま返すのを忘れていたらしい。

 ちなみに第三期の一巻だ。

 なに? 三期ってことは一期と二期は見たのかって?

 ああ、見たよ。無理やり桐乃に見せられたからな。

 もちろん桐乃はメルルの大ファンであり、公式のイベント毎にもきっちり参加してたりするヘビーユーザーである。

 

「あー、それ妹のだよ。ほら、そこにいる」

 

 そう言って隅っこで黄昏てる桐乃を指差す。それを受けて瀬菜が驚いた顔をした。

 

「え? この綺麗な人って高坂先輩の妹さんだったんですか!? 全然似てないですね?」

「うっせえよ! どいつもこいつも妹紹介する度に似たような反応するのやめろよな!」

 

 綺麗な妹に似てないってことは……うん、精神安定の為に考えるのを止めよう。

 ……ぐすん。

 俺が思考の彼方へと現実逃避間してる間に瀬菜は興味が出たのか桐乃の方へと向き直っていた。

 

「えと、赤城瀬菜です。高坂先輩の後輩で……いつもセクハラされてます」

「おまえ、さらっと嘘吐くんじゃねーよ!」

 

 なんつう自己紹介をしやがるんだコイツは。

 俺の清廉で潔癖なイメージが壊れんだろーが。しかし、そのやり取りで緊張が解れたのか、桐乃も瀬菜に合わせて自己紹介を始めた。

 

「高坂桐乃です。その……ウチのが変態でごめんなさい」

「あははは。もう半分くらいは諦めてますよ。それより桐乃ちゃんって呼んでもいいですか?」

「あ、うん。好きに呼んで。じゃあ、あたしも瀬菜ちゃんって呼んでいい?」

「いいですよー。えへへ。これからよろしくね、桐乃ちゃん」

「こちらこそ。よろしくね、瀬菜ちゃん」

 

 ……何なんだろう、この光景は。

 こいつ等一瞬で打ち解けてやがるじゃねーか。もしかして相性が良いんだろーか。

 一般的な社交的挨拶を交わしただけなのに、どうにも一抹の不安が胸を締め付けて離れてくれない。

 何故だか滅茶苦茶悪い予感がしやがるのだ。

 ――頼む。頼むぞ、瀬菜。

 頼むからうちの妹にお前の“趣味”を伝染させるのだけは止めてくれよ? 腐女子化した妹なんて見たくねーぞ俺は。

 そんなことを俺が願っているとも知らずに、二人は親交を深めていく。

 

「ねえ、桐乃ちゃん。桐乃ちゃんってメルルが好きなんですか?」

「もう超っっっ好きっっ!! あれ神アニメだよね!!!」

 

 …………。

 ………………。

 誰に対しても触れてはならない、決して押してはならないスイッチというものがある。

 それは地雷だったり、テンションを爆上げするスイッチだったりするんだが――今、瀬菜は、後者である桐乃のテンション爆上げスイッチを押してしまったようだ。

 人間誰でも好きなものを語るときは饒舌になるもんだ。それは桐乃だって例外じゃない。というより、スイッチを押された桐乃は簡単には止まらない、止まってくれない。暴走するダンプカーと同義と言っても過言ではないのだ。

 予想的中と言うべきか、やはり瀬菜は、桐乃の爆走トークに撒き込まれていく。結果、あれよあれよという間に二人は手の届かない遠いところまで行ってしまった。

 ああ、合掌。

 と、俺が心の中で手を合わせていたら、まるでタイミングを見計らっていたかのように、俺の目の前に一冊のノートがすっと差し出されていた。

 

 

 いつの間に鞄を開いていたのか。

 黒猫がそこから取り出したノートを俺へ差し出していたのだ。 

 

「先輩。これ、ベルフェ……田村先輩から」

「麻奈実から?」

「ええ。あなたに渡して欲しいと頼まれたのよ」 

 

 おずおずと差し出されたノートを黒猫から受け取った。

 実はこのノートはデスノートで、ページを開いたら俺の名前が書いてある……なんてことは勿論なく、本当に何処にでもある普通のノートだった。

 麻奈実の使ってるノートらしく丁寧に扱われてるのが分かる。パラパラと捲ってみれば本日の授業内容が特別分かりやすく書き写されていて、俺の為に余分に板書してくれたんだろうことに気付けた。

 コピーしたら楽なのにって、そういうことを考えない辺り麻奈実らしいつーか。

 

「自分で渡したらどうなのと突っ撥ねたのだけれど、どうしても外せない用があると託されてしまったのよ」

「そっか」

 

 黒猫の言う通りだとしたら、麻奈実の奴が気を回したのかもしれない。あいつ自身も桐乃に良く思われてないのは気付いてるだろうし、それで黒猫にノートを預けたのだろう。

 無駄な衝突、無益な争いとか嫌う奴だし。

 最近、特にあいつには世話になりっぱなしだな。今度礼がてら麻奈実に飯でも奢ってやるとするか。ああ見えて食欲旺盛な奴だし、こういう場合は奮発しても罰は当たるまい。

 

「ま、ありがとよ黒猫。助かったわ」

 

 しかし、黒猫も黒猫で律儀な奴である。わざわざノートを届けるためだけにここまで来るなんてよ。

 けどこれで一つ目の疑問が氷解した。

 それは何故この場に赤城の野郎がいるのかということ。恐らく麻奈実が黒猫に頼み事をした現場に瀬菜の奴も居合わせたんだろう。

 その後、黒猫が誘ったのか、それとも瀬菜が興味本位で付いて来たのかまでは分からねーけど、大事な妹が俺の家に行くことを知った馬鹿兄貴が部活をぶっちぎってまで付いてきたのだけは間違いない。

 保護者きどりなんだろうが、この行動原理を見れば妹を溺愛するただのシスコン野郎だと断言できよう。

 実際、こいつは妹の為ならなんだってする奴だ。赤城家と高坂家は全く同じ家族構成だが、こいつの心情だけはいつまで経っても理解出来ないね。

 

「あの……それで、先輩」

「ん?」

 

 ノートを渡してほっとしたのか、黒猫の表情が軟化している。けれど落ち着かない雰囲気はそのままで、ありていに言ってしまうならモジモジしているのだ。

 もしかしてトイレでも我慢してんのか? 

 そう思ったものの、どうやら違ったようだ。

 黒猫は辺りに視線を走らせながら言うか言うまいか逡巡している様子だったが、やおら伸びをして中腰になると、俺に身体を寄せて耳元で小さく“ごめんなさい”と囁いたのだ。

 

「え?」

「その、今日学校を休んだのは……先輩が風邪を引いてしまったのは私の所為なのでしょう?」

「は? 何言ってんだお前?」

「だって……昨日、喫茶店で……その、お水を襟元から流し込んでしまったじゃない。だから先輩は……」

 

 唇をきゅっと結んだまま、頬を真っ赤に染め謝罪する黒猫。目線は右往左往していて、本当に申し訳ないという風に見える。

 ……そうか。

 こいつ俺が風邪引いたのは自分の所為だと思ってやがったのか。だからここに来た時から大人しかったんだな。きっと罪悪感で行動を縛っていたのだろう。

 言葉遣いやら服装はアレだが、根は真面目な普通の女の子なのだ黒猫は。

 そのことに気付いた途端、何ともいえない思いが込み上げてきて、それがそのまま表情に笑みとなって現れちまっていた。

 

「……せ、先輩?」 

「馬鹿な奴だなあ、お前」

「なっ! た、確かに馬鹿な真似をしたと思っているわ。けれど、あの時は先輩があの女と親しげにしていて、私のことを蔑ろに……」

「違う違う。どうやら俺が風邪引いたの気に病んでるようだけどよ、これは俺が悪いんだ。だから昨日の喫茶店の件とかまったく関係ねえよ」

「……どういうこと?」

「いや、実はな。昨日風呂上りにパンツ一丁でエロゲーやってたんだけど、どうにも熱中しすぎたみたいでよ、長時間その格好のまんまだったんだ」

「ぱ、ぱぱ、パンツ一丁って――ッ!?」

 

 何を想像したのか、黒猫の頬が急激に紅潮していく。

 

「は、恥を知りなさい。そんな格好でエロゲーなんて……」

「だな。いくらこの季節とはいえ上にシャツくらい着るべきだったと猛省してる。まあよ、だから……なんつーか、お前が気に病むことは何もねーんだよ。実際、全部俺が悪いんだ」

「……それが事実なのなら……確かにあなたの言う通り自業自得だわ」

「おう。こりゃ完全に自業自得だ。だから気にすんな」

 

 黒猫に視線を合わせながらキッパリと断言する。

 今日は学校帰りにそのままこちらに寄ったからだろうか。黒猫のやつはいつも付けているカラコンは嵌めていないようだ。だから瞳の色は名前と同じ黒色で、心なしか潤んでいるように見えた。

 だから、そのことに気を取られ過ぎていて、次に黒猫が言った台詞を聞き逃すことになる。

 声音が小さかったのも影響して。

 

「……本当に、優しいのね、先輩」

「あ、今なんか言ったか?」

「フフ。知ってた事実と想いを再確認しただけよ。――精々覚悟することね、先輩。これからは今までのように甘い対応ではなくなるのだから」

「あん? いまいち言ってることが理解できねーんだが……」

「私も覚悟を決めたということよ」

 

 そう言って、柔らかい笑みを浮かべる黒猫。

 さっきまでとは違いとても良い表情だが――相変わらずこいつの台詞には意味不明な箇所が多々あるな。言い含められたような気もするが……まあ、大したことじゃねえんだろう。

 何にせよこれで一件落着だ。

 そう思ったのも束の間、今まで黙したままほとんど喋らなかった赤城(兄)が唸るような声でこう呟いた。

 

「やはり付いてきて正解だったぜ。瀬菜ちゃんを一人にしなくて本当に良かった」

 

 そう言った赤城が手にしていたものは――

 

「って、それ俺のエロ本じゃねーかあああああああああああああっっっ!!!」

「高坂。お前って相変わらず眼鏡の娘が好きなのな」 

「か、返せぇ!!」 

 

 奪い取るようにして赤城からブツを回収する。

 コイツ――やけに大人しいと思ったらエロ本読んでやがったのか!?

 

「しかも隠し場所がベッドの下なんてよ。こりゃ見つけてくださいって言ってるようなもんじゃねーか」

「だからって勝手に読んでんじゃねーよ!」

「これくらい普通だろ?」

「TPOだよ、TPO! 時と場所を考えろってんだ! 大体お前俺の見舞いに来たんだろーが。もうちっと謙虚に振舞えや」

 

 二冊目を取り出し読もうとする赤城から、再度エロ本をふんだくる。

 もちろん表紙は眼鏡っ娘だ。

 

「何言ってんだ高坂。俺はお前の魔手から瀬菜ちゃんを守る為に来たんだぜ? 云わばナイト様ってところだ」

「ほう、そりゃご苦労なこった。けど無駄足だったな。俺はお前の妹に興味なんかねーよ」

「こんな表紙のエロ本持ってんのにか? 全員眼鏡かけてんじゃねーか」  

「たまたまそういう類の本を手に取っただけだろ?」

 

 懲りずに三冊目に手を伸ばした赤城の腕を叩き落とし、奴の侵攻を阻害する。だが赤城は、手を引っ込めはしたものの、俺が奪い返したエロ本を指差しながら

 

「けどよぉ高坂。眼鏡っ娘超特集とかいう本を持ってる奴に言われても説得力がねーぞ。なんせ瀬菜ちゃんは“まじりっけなし”の眼鏡っ娘なんだから」

 

 しかも超美人だ。そう付け加える赤城(兄)。

 だが、その台詞には聞き捨てならない部分があった。

 別に瀬菜が美人じゃないと言ってるわけじゃないぜ。ありゃきっちり可愛い娘に分類できる。

 俺が聞き咎めたのはその前の台詞だった。

 

「赤城。ちょっとそこに正座しろ」

「正座だぁ?」 

「そうだ。――なあ赤城。お前は一つ大きな勘違をいしている。眼鏡さえかけてりゃすべからく眼鏡っ娘かというとそうじゃないんだ」

「あん?」

「眼鏡は素晴らしいアイテムだ。ただの視力矯正道具に留まらず、それを見る者にある種の恍惚感さえ与えてくれる神のアイテムだ。確かにお前の言う通り、眼鏡を掛けている子を眼鏡っ娘と表現するのは間違いじゃないんだろう。だけどそれは眼鏡っ娘に対する冒涜だ。侮辱してるに等しい」

「お、おい高坂。お前……どうしたんだ? 言葉遣いがおかしくなってんぞ?」

「どうしただって? 俺は至って正常だ。いいから黙って聞け赤城。俺は今、神の心理を説いているんだぞ」

 

 そう言うや、俺は手にしていたエロ本のページを見開き、どーんと突きつけるように赤城に見せ付けた。

 そこには黒髪ロングの娘が恥らいながら眼鏡を掛けている図が光臨なされている。

 

「いいか? 眼鏡を掛けることによって、その人物は本来自身が持っているイメージを大きく変換することが可能なんだ。例えば知的に。或いはミステリアスに。大仰な眼鏡を掛けることによってドジッ娘を装うことすら可能だろう。それがどういうことを示しているか分かるか? 即ちバリエーションは無限大! 一粒で二度美味しい。その眼鏡っ娘に対して貴様はどう言った?」

「ついに友達を貴様呼ばわりしやがったなッ!?」

「――“まじりっけなしの眼鏡っ娘”――果たしてこれは赤城瀬菜に対する呼称として正しいのか? いや、答えは否だ!」

「分かった! 分かったから落ち着けって高坂! お前風邪引いてんだろ? 無理すんなって」

「この程度の説法、無理の範疇には入らない」 

「いいから、一度深呼吸して落ち着けって! お前は今入ってはいけない領域に足を踏み入れてるぞ!」 

「……む」

 

 確かに赤城の言う通り今の俺の体調は万全じゃない。それどころかかなり悪い部類に入るだろう。少し興奮したせいか頭がくらくらしてきた気もする。

 ううむ。ここは言われた通り一度深呼吸してみるとしよう。

 すーはー。すーはー。

 ……落ち着いた。

 仕方ねえな。本当ならこの程度の解説はまだ序盤に過ぎないのだが、今日はこのくらいで許してやることにしよう。本気で眼鏡っ娘について語りだしたら夜が明けちまうしな。

 悔しいがこの辺りが潮時ってところか。

 そう思ってエロ本を片付け始めると……何故か黒猫が少し俺から距離を取っていた。

 ???

 

「どうした、黒猫?」

「…………い、いえ。どうやら私は真剣に眼鏡を掛けることについて検討しなければいけないようね」

「なんで?」

「――気にしないで頂戴。こちらのことよ。それより良いの? あちらを放っておいても」

 

 あちら?

 そう思いながら黒猫が指差した方向に視線を移してみる。するとハイテンションな状態で会話を続ける桐乃と瀬菜の姿が飛び込んできた。

 別におかしなところはねーと思うが、こりゃまた短時間で随分と仲良くなったものだ。

 

「……って、ちょっと待てえええええいッッ!!!」

「あれ、高坂先輩。どうしたんですか?」

 

 瀬菜が会話を止めてこちらを振り返る。そうすると自然に桐乃もこっちを向く格好になったわけだが……あーまあいいや。

 どうして俺が会話に割り込んだかと言うとだな、こいつらの会話がすっと耳に飛び込んできたんだよ。

 簡単に説明すると、桐乃曰く“メルルのDVD貸してあげるよ”ってなもんだ。

 何処がおかしいかって? まあこれだけなら何も問題ない。ノープロブレムだ。問題はその次にある。瀬菜がじゃあお返しに私の“とっておき”を貸して上げるね、と言ったんだぞ?

 いいか、瀬菜のとっておきだ。断じて認められるわけねえじゃねーか!。

 俺は桐乃の兄として、妹が腐界に足を踏み入れるのを阻止する必要がある。

 

「瀬菜。頼むから俺の妹を遠い世界へ連れて行こうとしないでくれ」

「え? 遠い世界?」 

「あ、いや。こっちのことだ」

 

 コホンと咳払いして場を仕切りなおす。

  

「実はちょっと体調が悪くなってきたみたいなんだ。折角見舞いに来てくれたのに悪いけどよ。そろそろお開きっつうことでいいか?」

 

 俺の言葉に一瞬、桐乃が眉を潜める。もっと瀬菜とお喋りしたかったのだろうが、今日はちょっとばかりしおらしい。最終的には俺の体調を慮ってくれた。

 桐乃は分かったと頷くや、みんなに撤収を促し始める。

 

「じゃあせなちー。また今度会おう。あ、メルルのDVD持ってっていいよ」

「ありがとう。じゃあ私は桐乃ちゃんに貸すブツを厳選しとくね。大丈夫。入門編から貸して上げるから」

「入門編? へ、へえ。そりゃ……楽しみ……かも」

 

 入門編という言葉から何かを感じ取ったのか、桐乃の頬が若干引きつっている。

 桐乃――その直感、お前の感性は正しい。

 兄を罵倒するような妹でも怒らないから、そのままこっちの世界へ戻って来なさい。

 

「じゃあ、お邪魔したわね、先輩。精々ゆっくりと養生なさい。私も影ながら復調するように祈っておくから」

「ありがとよ。つっても悪魔に祈るのは勘弁な」

「さあ、どうかしらね。何せ私は千葉の堕天聖黒猫よ。あまり期待はしないでおいて」

 

 フフフと邪悪そうな笑みを浮かべる黒猫。けど、こんなのはいつものやり取りだ。

 ちょっと名残惜しいが、今日は解散だな。そう思った俺は、玄関まで皆を送ろうとベッドから這い出すことにした。

 

「あ、そうだ高坂」

 

 だが歩き出してすぐ、ちょうど先頭を行っていた赤城が、部屋の出入り口にさしかかったあたりでおもむろにこっちを振り返ってきた。

 そして耳を疑う言葉を俺に向かって放ちやがった。

 

「ほら、こないだアダルトデパートに行った時に買ったDVDあったろ。あれさ、いつになったら渡してくれんだ?」

 

 その時、高坂京介に電流走る。

 同時に脳内には雷鳴が轟き、悪寒というのか背筋に冷たい汗まで伝ってきた。

 ……この場でなにを言い出してんだ、こいつは?

 

「――アダルト?」

「――デパート?」

 

 そして室内に木霊する女子達の重く暗い声音。

 まるで練習したかのように息をぴったりと合わせ、桐乃と黒猫が同時に俺を仰ぎ見た。

 二人は俺の前を歩いていたのだが、そのままの態勢で首だけを巡らせ(ギギギギギという擬音が聞こえたような気がする)俺を睨み付ける。

 その感想を一言だけ述べようか。

 もう、目が超怖えええっ!!

 

「なあ高坂よぉ」 

「ディ、DVD? なんのことを言ってるんだ、赤城?」

 

 誤魔化す声に張りがなく、若干引きつってるのが分かる。

 けど後には引けない。

 

「何だ、忘れたのか? ほら、あの田村さん似の女優が出てるエロいやつだよ」

「赤城ぃぃぃぃぃぃ――ッッ!!!」

 

 縮地を使って赤城に近寄り(一瞬で桐乃と黒猫を追い抜いた)奴の襟元を手繰り寄せ、がばっと顔を近づけた。

 こうすれば多少声が小さくても相手に聞こえるからな!

 

「……お前、今の状況分かってんのか?」

「状況?」

「TPOだよTPO! 今ここでその話をしたらあいつ等にバレるだろーが!」

 

 先日俺と赤城と二人でアダルトデパート(いわゆるエッチなお店)に行った際、二人で金を出しあってエロいDVDを購入したのだ。

 その時色々と二人ではっちゃけたのだが、それはまた別のお話である。

 

「けどよぉ、バレるっつってもよ瀬菜ちゃん知ってるし」

 

 ――クッ! そうだった!

 赤城はアダルトデパートでなんと妹にボンテージっつう常識を疑うような土産を買ってだけじゃなく、手にしていた定価七十万の等身大美少女人形(ラブドール)のカタログまで見られたんだった。

 そりゃ瀬菜は周知だろうよ。つーか、そん時よく自殺しなかったなコイツ。

 

「三分の一とはいえ俺も金を出したんだ。少なからず所有権はあるはずだろ?」

「いいから黙れ。それにあれは俺のDVDだ」

「馬鹿言ってんじゃねえよ。俺は断固自分の所有権を主張するぞ。パッケージ、かなりエロかったもんよ」

「……分かった。譲歩しよう。赤城、俺の持ってる他のDVDで手を打たねーか?」

「おいおい高坂。お前の持ってるの殆ど眼鏡っ娘ものじゃねえか。つーか、アレをそんなに独り占めしたいのか?」

「独り占めも何も俺のだって言ってんだろうが」 

「――チッ。わあったよ。俺も譲歩するとしよう。何なら一晩貸してくれるだけでもいいんだぜ?」

「だから――――え?」

 

 会話に夢中になっていたら、背後からぽんぽんと肩を叩かれた。

 えっと、恐る恐る振り返ってみれば――何故だろう。異様に引きつった笑みを浮かべた桐乃と黒猫が突っ立っている。

 ほのかに立ち上って見える青いオーラ。もしかして今の会話、全部聞こえていたのでしょうか?

 

「ねぇ先輩。その田村先輩に似ている女優が出ているDVDに付いて詳しく話を聞きたいのだけれど?」

「えっと、何のことでしょう?」

「惚けても無駄よ。私の耳は先輩のことに関してはとびきりの地獄耳なのだから。全部把握しているわ」 

 

 ……駄目だ。全部聞かれていたようだ。つーか、黒猫の奴なんでそんなに怒ってんだ? 

 

「ねえ、アンタさ。そのDVDついてあたしも聞きたいんだけどォ。つーか絶対聞く」

「……桐乃。もしかして怒ってる……のか?」

「全然。あたしが怒る理由なんてないしー。とりあえずさぁ、アンタそのDVDをあたしの目の前に持ってきてよ」

「つかぬ事を聞くが、聞きますが、仮に俺がそれを持ってきたとして……どうするつもりだ、桐乃?」

「――もち、叩き割る!!」

 

 ひぃぃ!

 

「あら、叩き割るだなんて勿体無い。そんなことをしても無意味だわ」

「黒猫……!」

「ククク。それだけで済ますものですか。そうねぇ。この世界から一片も残らないように燃やしてしまうのが一番かしら。赤い炎でじっくり溶かすように燃やし尽くすの。……ああ、先輩。今の私は煉獄の炎すら召喚可能なようよ」

 

 少しずつ距離を取っていたら、知らない間に桐乃と黒猫に壁際まで追い詰められていた。

 そんな俺の窮地を横目で眺めながら、ばつが悪そうに頭をかく赤城。 

 

「あー。悪いな高坂。もうすぐ飯の時間なんで……帰るわ」

「待てやこらああああああああああああああああっッッ!!!」

「何言ってんの? 待つのはアンタのほうじゃん。どさくさに紛れて逃げようとすんな!」

 

 妹にアキレス腱に蹴り入れられました。

 

「ねえ、先輩。どういう目的を持ってアダルトデパートまで赴いたのか。その辺りの事情も窺いたいのだけれど?」

「うん。それ超大事だよね。言っとくけど説明を終えるまで逃がさないかんね」

「……待て桐乃。落ち着け黒猫。俺は病人だぞ? 風邪を引いて――」

「だから――なに?」

 

 俺はきっと、その時見た桐乃と黒猫の瞳の色を生涯忘れることはないだろう。

 

「じゃあな高坂。また明日学校で会おうぜ」

「おじゃましました、高坂先輩! ゆっくり休んでくださいね」 

 

 ゆっくりって、心安らかに休めると思ってんのかコイツはよっ! 

 ――ってか、あああああああ、帰らないでええええええ!!

 しかし無常にも赤城兄妹はそそくさと揃って部屋を出て、トントンと階段を下りていったのだ。

 明日か。俺に明日が……あるといいなぁ。

 

 ちなみに、翌日の俺がどうなったのか。無事に学校へ行けたかどうかは察してくれ。

 

 

 



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第十七話

 こんにちは。槇島沙織です。

 あぁ、皆様には“沙織・バジーナ”と名乗ったほうが通りがよろしいかもしれませんわね。

 ぐるぐる眼鏡に、チェックのシャツをジーンズにタックイン。背中には大きなリュックを背負い、丸めたポスターを装備する。あの如何にもな『典型的オタクファッション』に身を包んだ沙織・バジーナですわ。

 え? 喋り方がいつもと違う?

 ふふふ。私は本来こういう喋り方を致しますのよ。

 あの拙者口調は一種の演技といいますか、私には口調や呼称をまったく別なものとして“使い分ける”習慣がありますの。

 本来ならバジーナと名乗るからにはサングラスを装備するのが良いのでしょうが、とある理由からこのキャラだけは変える訳にはいかないのです。

 大尉と名乗っていても、チェックのシャツを赤色にする訳にもいかないのです。

 京介氏に“修正”されても嫌ですしね。

 ということで、本日は私が語り部を勤めさせていただきますわ。

 ……とと、ちょっとお待ちください。

 あなた、今そっとブラウザをバックなさろうとしましたわね?

 そんなに私の語りが嫌ですか? 面白くなさそうですか? 

 今戻ると後悔……いえ、大きな声で泣き喚く事になりますわよ。

 

 ――主に、私が。

 

 えーん、えーん、ですわ。

 あら? 大きな身体して泣き真似しても可愛くないですって?

 言ってくださいますわね。

 確かに今のは冗談ですけれど、こう見えて私、凄い泣き虫でしたのよ。

 今でこそSNS内のコミュニティで主催者なんてしてますけれど、昔は対人恐怖症に近いレベルでの人見知りでしたの。

 けれど、人見知りと人が嫌いなのは似ているようで違うのです。

 

 ――世の中に人の来るこそうるさけれ、とはいふもののお前ではなし。

 

 『今の私』には大切なお友達ができました。

 きりりん氏に黒猫氏、そして京介氏。大切な大切な私のお友達です。けれど、だからこそ、素の自分を彼等の前に曝け出していないことが少々……いいえ、違いますわね。とても心苦しいのですわ。

 騙している訳ではありません。

 ただ、私は怖いのです。

 素顔の自分を曝け出すことによって、楽しい今の関係を維持できなくなったりしたら……と。

 そう考えると折角絞り出したの勇気も萎んでしまいます。

 京介氏など事あるごとに私を頼ってくださいますが、基本的に私は臆病で弱虫なのです。友達を失うことが怖い。“また”自分の居場所を無くしてしまうことが怖いのですわ。

 けれど、それももう潮時でしょう。

 近く私は素の自分をみんなに知って貰おうと思っています。

 

 ――と。そう勢い込んでみたものの、果たしてそういう機会は訪れるのでしょうか。何と言いますか、私、みんなに少々ハブられているような気がするのです。

 家が遠いということも関係していると思うのですが、それにしても冷たいと思うのですわ。

 

 例えば、友人関係の中で重大な出来事が起こったのに“まったく”相談してくれないとか。

 例えば、その人にとっての理想郷、最終理想像の中に“私だけ”いないとか。

 例えば、アメリカ留学や引っ越したりする重大事を“内緒”にされるとか。

 ……ああ、いけません。いけません。ただの想像なのに腹が立ってきました。

 というか、いたるところで“皆さん”私をハブりすぎですわっ!

 

 きりりん氏、黒猫氏、そして私。

 三人で一組のはずなのに(三国志でいえば関羽、張飛、趙雲のようなものですわ)とっても蔑ろにされている気がしますの!

 これって私の勘違いでしょうか?

  被害妄想でしょうか?

 いいえ。絶対に違うと断言いたしますっ!

 証拠といいますか、一例としての参考資料を提出したいと思います。

 下の図はそれぞれの名前をGoogle検索かけた結果ですわ。

 

 高坂桐乃   約 3,810,000 件

 黒猫(俺の妹)約 3,990,000 件

 槇島沙織   約 38,100 件

 

 えっと、自分で提出しておいてなんですが思い切り凹んでしまいました……。流石にあのお二人に敵うとは思っていませんでしたが、まさかこれほどの大差がつくなんて……。

 というかっ! 幾ら何でもこの差はないんじゃありませんっ!?

 皆さん、どれだけ私のことが嫌いなんですのっっ!!

 この分だと、どーせ『カメレオンドーター』も読み飛ばされたのでしょう? 

 ヒドイですわっ!! 横暴ですわ! 私を主役にしやがれですわっ!

 ああ、もう、ドス黒い怒りが込み上げてきましたわ。

 負の想念といいますか、この分だと私が殺意の波動に目覚めるのも、そう遠くない未来なのかもしれません。

 フフフフフフフフフ。

 殺意の波動に目覚めた沙織VS俺妹ヒロインズ。

 私を怒らせると、しょーりゅーけーんにかめはめ波ー! インド人を右に、ですわよ!

 全員もう即座にタヒりやがれですわああああああああああっっ!!

 ああ……いけない、いけない。

 私としたことが少々取り乱してしまったようですわね。コホン。閑話休題。

 この辺りで話を元に戻すといたしましょう。

 えっと、どんな話をしていましたっけ? 瞬獄殺コマンドの確認でしたかしら?

 そんなことを考えていたら、槇島家のメイドがそっと声をかけてきました。

 

「お嬢様、朝食のご用意が整いました」

「あら、ご苦労さま。それで、本日のメニューはなにかしら?」

「はい。デニッシュクロワッサンとスマートチーズのサラダ、それにアッサムのミルクティです。簡単なもので良いとのことでしたので。デザートはご用意致しますか?」

「いいえ。それだけで結構ですわ」

 

 ふふ、びっくりなされました?

 形の上で私は一人暮らししていますが、色々と当家のメイドが世話を焼いてくれるのです。ですから、私のような半端な者でも一人暮らしが出来るのですわね。

 家事、炊事、掃除、洗濯。

 もっと精進せねばっ! ですわ。

 そう思った時、私のスマホから着信を知らせる“颯爽たるシャア”のメロディが流れてきました。

 早速手に取って発信者を確認。

 ディスプレイには京介氏──高坂京介との名前がありました。

 

 

「これはこれは京介氏。こんな時間にどうされましたかな?」

『よお、沙織。こんな朝早くに悪いんだが、今、ちょっと時間あるか?』

「ほほう。その口振りですと何やら拙者に頼みがあるご様子。そうではござらんかな?」

『あ、いや。頼みってほどじゃねーんだが、今週の日曜なんだけどさ、お前予定とかある?』

「予定……でござるか?」

『ああ。もし空いてんなら付きあって欲しいところがあるんだけど』

 

 ええ?

 これってもしかしてデートのお誘い……なのでしょうか。

 私と一緒に出掛けたいということですわよね??

 

「とりあえず予定などはござらんが、もしかして京介氏。日頃の感謝を込めて拙者を映画にでも誘ってくださるとか?」

 

 願望めいた言葉を口に出してしまいました。

 けれど叶うことはないでしょう。これは冗談であり、一種の言葉遊びみたいなものですわ。

 予想と致しましては、大方、アキバ関係のショップにでも付きあって欲しいといったところでしょうか。

 なのに――

 

『おぉ! 良く分かったな! スゲエな沙織。もしかして超能力でも使ったか? えっと、こういうのなんつーんだっけ……サトリ?』

「え?」

『いやまあ、冗談なんだけどよ』

 

 高鳴った鼓動が一瞬にしてチクリとしたものに変わります。

 それは、どちらが“冗談”なのですか?

 気になります。とても気になります。思わず手にしているスマホをぎゅうっと握り締めてしまうほどに。

 

「じ、冗談とは人が悪いですなぁ京介氏。そんなことの為に朝から電話を掛けてきたのでござるか?」

『いやいや、冗談っつーのはそっちじゃなくてだな、俺はお前を映画に誘おうと思って電話したんだ』

「ほ、本当でござる……か?」

『嘘吐いてどうすんだよ。日頃の感謝を込めてって訳じゃねえけど、世話になってるのは事実だしな』 

「……それって、もしかしてデー」

『実はな、急遽桐乃と黒猫を映画に連れてかなきゃならなくなってよ。どうせなら沙織も誘おうって話になってさ。それで電話したんだけど……って、どうした沙織?』

「…………」 

『今、何かすげえプレッシャーみたいなもん感じたんだけど……』

 

 それはきっと私の負の想念ですわ。

 この距離でそれを感じ取れる京介氏はNTかもしれませんわね。

 

「別に大したことではござらん。それよりもいまいち話が見えてこないのでござるが……実際どういうことなのです、京介氏?」

『あ、いや、詳しく説明すると長くなるんで割愛するけど、ある事情から桐乃と黒猫をもてなさなきゃならなくなったんだ』

「もてなしですか。はっはーん。さては京介氏、何か失敗をやらかしましたかな? ハッハッハ。浮気現場でも目撃されてしまいましたか?」

『んなワケねーだろーが! つーか、浮気も何も俺には彼女自体いねーよ』

 

 ……うーん。

 本当、こういう方面には鈍いんですのね、この人は。

 これはもうエロゲの主人公クラスの鈍感さですわ。

 

「いやいや。案外、京介氏が望めばすぐに彼女ができるかもしれませんぞ?」

『からかうなって沙織。自分がモテねーのは自覚してるよ。ま、とりあえず日曜は暇なんだな?』

「そうですな。予定といえばその日はガンプラを組もうかと思っていたくらいで」

『ガンプラ……だと?』

「……失礼。MG 1/100 RGZ-95リゼルを組もうと思ってござった」

『別にガンプラの種類に興味なんかねーよ!!』

 

 フフフ。

 相変わらずのナイスな突っ込みですわ。こればかりは他の人間には中々真似できませんわね。

 

「という訳で、さしあたっての急用はござらん。しかし京介氏。そのイベントは中々難関だと思うでござる」

『あ? どういうことだ?』

「気付きませんかな? 考えてみてくだされ。拙者ときりりん氏、それに黒猫氏の三人を連れて映画に行くのでござろう?」

『ああ』

「なら、絶対に何の映画を見るのかが問題になってきますぞ」

『え? お前等で勝手に決めりゃいいじゃねーか。俺は別に何でも構わねーし』

「いえいえ。確実に京介氏が選ぶ事になります。知っての通り我々はオタクでござるが、その好みは千差万別。三者三様でござる。下手な映画を選べば京介氏の命に関わるかと」

『マジか……!?』

「幸いといいますか、今期のアニメ映画は豊作でござるからなぁ、選択肢が全部ハズレということはないでござろう」

『……仮にだが、アニメ以外の映画を選んだらどうなるんだ?』

「無論、京介氏が死ぬだけでござる」

 

 もちろん冗談ですけれど。

 しかし、京介氏なら絶対にアニメ映画を選ぶと思います。先程何でも良いと仰っていましたけれど、それは主体性がないからではなく単に相手の好みを慮ってのこと。

 基本的にお人好しなんですわよね、京介氏は。

 

「ただ、この面子での鉄板ともいえるメルルとマスケラは今期の映画には含まれてござらんから……」

『メルルはともかく、マスケラの映画化はねーんじゃねーの? だってマスケラは打ち切りで終了したじゃねーか』

「京介氏。間違ってもそのことを黒猫氏の前では言わないように」

『……だったな。あいつマスケラの熱狂的なファンだし、あの黒猫がマジでブチ切れてるところなんて初めて見たよ』

 

 誰しも心に秘めた大切なものがあるものです。

 それを馬鹿にされたら怒るのは当然ですけれど、少し大人気ないといいますか、黒猫氏のマスケラに対する思いはいきすぎな気がしますわね。

 何事にも節度を持って望みませんと。

 

『けど、アニメ映画なぁ……悪いけどすぐには思いつかねーよ』 

「では僭越ながら、拙者のオススメを三作品ほど述べさせてもらってよろしいか?」

『おお! そりゃ助かる。さすが沙織だな。頼りになるぜ』

「ニンニン。それほどでもござらん。それに最終的に選ぶのは京介氏ですからなあ。拙者は選択肢を与えるだけでござるよ」

 

 言いながら、近くにあったノートパソコンをネットに繋ぐ。

 頭の中にも情報はありますが、間違っていたら大変ですものね。

 

「まずは“劇場版魔法少女リリカルなのは The MOVIE”などが候補に入るかと」

『魔法少女ものか? タイトルからすると桐乃が好きそうな感じだが』

「メルルの元になったと言っても過言ではない作品ですぞ。この映画はテレビ版の一期を映画に合わせて作り直したというものでござって、魔法少女ものでありながらバトルシーンが秀逸で圧巻の作りでござる。京介氏の言う通りきりりん氏なら大満足していただけるかと」

『……ふむ』

「しかも主人公の中の人がメルルと同じなのもポイントでござる」

『そりゃ確かに桐乃が喜びそうだ』

 

 心なしか、声が喜んでいますわね。

 本人は否定してますけれど、京介氏は妹のきりりん氏が大好き、超の付くシスコンですから。この映画が選ばれる確率は高そうです。

 そう思いながら、次の候補をディスプレイに映し出す。

 

「次は“劇場版Fate/staynight Heaven's Feel”など如何でござろう?」

『お、なんだか響きが格好良いな!』

「こちらもテレビアニメからの発生でござって、簡単に言いますとテレビ版とは違うルートを映画化したという」

『ルート? なんかエロゲーみたいだが……』

「詳細は割愛させてもらうでござるが、分かりやすく言えば設定を重視した伝奇活劇、京介氏の言う通り厨二心をくすぐるバトルアニメでござる」

『なるほど。黒猫の好物っぽいな。バトルなら俺も好きだし』

「まあ、興味があるのでしたら黒猫氏に直接聞いてくだされ。さぞやたっぷりと設定を聞かせてくださるでござろう」

『……そうだな。気が向いたら……な』

 

 本当はゲームからの発生なのですけれど、そこまで言及するのは野暮というものですわね。

 さてさて。

 それでは私の本命を勧めさせていただきましょう。できれば京介氏にはこの映画を選んで欲しいのですけれど。

 ここは私の口車……ではありませんわね。話術の冴えに期待していただいて。

 

「最後にオススメするのは“劇場版機動戦士ガ○ダムUC”でござる」

『沙織……なぜ、これだけ伏字にした?』

「なんとなく……いえ、念の為でござる」

 

 大人の事情ですわ。

 

「これは一年戦争から脈々と受け継がれてきた宇宙世紀を元とした作品でござって、昨今のテレビ版ガ○ダムとは一線を画したまさにモビルスーツ愛にあふれる映像がところせましと流れる様はまさに圧巻の一言。それでいてストーリーは往年のガ○ダムを彷彿とさせ、作り込みは……」

『あ、いや。沙織。さすがにガ○ダムは知ってるぞ。あの“ロボットアニメ”な。つーか、いっぱいありすぎて区別つかねえんだけど、どれも“一緒みたい”なもんじゃねーの?』

 

 ――プチン!

 

「京介氏。今、なんと仰いました?」 

『……は?』

「ロボットアニメ? 一緒みたいなもの? どの口がそんなことを言いやがりましたか?」

『いや……沙織? お前怒ってんのか? めっちゃ声音が低いんだが……』

「怒ってる? いえいえ。私は別に怒ってなどいませんわ。ちょっとばかり激怒しているだけです」

『…………』 

「ふう。仕方ありませんわね。京介氏にも分かるように説明させていただきます。ちょっとその場に正座なさってください」

『あ、いや……その……』

「正座するッ!!」

『はいぃぃっっ!!』

 

 え? 先程黒猫氏のマスケラの想いに対して何か言ってなかったかって?

 そんなものはちゃぶ台返ししてどっかにうっちゃってやりましたわ。人には触れてはならない逆鱗というものがあるのです!

 

「とりあえず、一年戦争がどうして起こったのかから始めましょう。良いですわね、京介氏?」

 

 学校? ああ、そんなものもありましたわね。

 大事の前の小事です。うっちゃりましょう。

 とにかく、これで語りを続けることは不可能になってしまいましたので、四人でのデートのお話はまた後日。

 それでは皆様、ごきげんよう。

 

 

   



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第十八話

「ねえ、きょうちゃん。本当に良いの?」

「おう。何頼んでもいーぞ。普段世話になってる分も込めてっから、メニューの端から端まで制覇したっていい」

「もう……! 幾らわたしでもそんなに食べられませんっ。というか~、きょうちゃんから見てわたしってそんなに食いしん坊かな?」

「うむ。相当に食いしん坊だな」

「……そ、即答されちゃった!?」

 

 ガーン! という擬音がつくような感じに顔色を変化させているのは、眼鏡がトレードマークの垢抜けない女の子――もとい、俺の大切な幼馴染である田村麻奈実だ。

 いつもふにゃっとした笑顔を浮かべていて、殆ど怒ることがない。というより怒りという感情を何処かに置き忘れているんだろう。口調もおっとりとしていてゆる~い感じなので、一緒にいるだけで無条件に安心できちまう。

 そんな存在だ。

 こういうのをお婆ちゃん属性っつうのかね。

 

「半分は冗談だけどよ、さっきも言った通り日頃の感謝も込めてっから遠慮すんな」

「わたし、大したことしてないと思うんだけど?」

「おまえにとっちゃそーでも俺にとっちゃ違うんだよ。まあ、こっちで勝手にそう思ってるだけだから、今回は大人しく奢られとけって」

 

 言いながらテーブルを挟んで目の前に座る麻奈実にメニューを突き出した。それを見た麻奈実は目をぱちくりとさせるも、直ぐにえへへ~っとを相好を崩し“きょうちゃんがそこまで言うなら”と、両手でメニューを受け取った。

 と、ここで現状を簡単に説明しておこう。

 俺達が顔を付き合わせているのは、学校の近くにあるお好み焼き屋の片隅である。

 こないだ風邪を引いた時にノートを届けてもらったお礼(実際に持ってきてくれたのは黒猫だが)がてら、メシでも奢ろうと学校帰りに立ち寄ったという訳だ。

 昼時はとうに過ぎ、夕飯までも間があるという時間帯。

 もっと空いてるかと思いきや、意外にも店内は結構な込み具合いを見せていた。

 ぐるりと周囲を見回せば、俺達と同じ制服姿の高校生やらちょっと年上っぽい大学生と思しき一団、はたまた遅めの昼食を取っている最中なのか、スーツを着込んだサラリーマンの姿も見えた。

 更に店内には、お好み焼き屋特有の香ばしいソースの匂いが充満していて、否応無しに俺達の食欲をそそってくる始末。

 よ~し、決めたぜ。

 今日は夕飯を気にしない方向性でガッツリと食べていこう。

 そう腹を据えた俺は、麻奈実に手渡したメニューの変わりに壁にズラリと並んだ“お品書き”を眺めつつ思案することにした。

 

「さぁて、なにを食べっかなー。豚玉にイカ玉に……えっと、お好み焼きだけでもかなり種類があるじゃねーか。ヤキソバっつう手もあるけど、やっぱ王道は外せねえか」

「なんか目移りしちゃうね~。もんじゃ焼きとか、もだん焼きとかもあるし~……あ! たこ焼き発見!」

 

 相変わらず口調はゆるいが、メニューを見る目は活き活きとしている。

 まだまだ花より団子……つーか、コイツに限っては一生花より団子なのかもしれねえな。

 外見とかに気を使ってない訳じゃないんだろうが、桐乃みたくお洒落になった麻奈実とか全くもって想像できねえしよ。分相応つーか、ま、コイツには“こっち”が似合ってるってことだわな。

 結局俺はオーソドックスなお好み焼きを頼み、麻奈実はミックスモダンを頼んで、粛々と注文した品物が到着するのを待つことにした。

 

「――お待ちどうさまッ! 鉄板熱くなってますから気を付けてくださいね!」

 

 待つこと暫し、女性の店員さんが大きなコテらしきものにお好み焼きを乗せてやってきた。それからテーブルの中央にある鉄板の上に移し変えていく。

 途端、じゅう~じゅう~という音と共に美味そうな匂いがここまで漂ってきた。

 

「注文は以上でよろしいですか? どうぞごゆっくり!」

 

 威勢の良い掛け声を残し颯爽と去っていく店員さん。エプロン姿が実に様になっている。

 

「じゃあ食うか。麻奈実、箸取ってくれ」

「はい、きょうちゃん」 

 

 対面の麻奈実から箸を受け取った俺は、それを親指で挟み込み両手を合わせた。

 いわゆる“いただきます”のポーズ。

 という訳で、食事の前恒例の儀式を済ませた俺は、勢い良く箸を振りかざしつつ目の前のお好み焼きに挑んでいった。

 

 

 

「……はふ、はふ。う~ん、おいしいねぇきょうちゃん。これであのお値段って……えと、かなりりーずなぶるだよね!」

「だな。ボリュームもあるし、活気があって雰囲気も良い。こりゃ流行るはずだわ」

 

 鉄板上で適当な大きさに獲物を切り分け、塊を一気に口まで運ぶ俺に対し、麻奈実は全体を綺麗にカットしてから、端から順々に自分の取り皿まで選り分け、それを摘んで食べていた。

 実に対象的なスタイル。

 お好み焼きが熱いからか、ちまちまと食を進めていく幼馴染。その姿がリスか何かの小動物を思わせるが、食欲は非常に旺盛だと注釈しておこう。

 見ていて実に微笑ましい光景だが……って、おい麻奈実。急いで食うからほっぺたにソース付いてんぞ。

 

「きょうちゃん。ほっぺたにそーすが付いてるよ?」

「おおっと」

 

 奇しくも同じ愚を犯していたとは……何たる失態。

 すっと目の前に差し出された紙ナプキンを麻奈実から受け取り、ごしごしとソースを拭き取っていく。とそこでこいつも自分の頬にソースが付いてるのに気付いたらしい。

 ちょっとばつが悪そうにはにかみながら、新しいナプキンに手を伸ばしていった。

 二人して顔を突き合わせながら、こうゴシゴシとソースを拭き取ってる姿は何処となくシュールだが、もしこれが恋人同士なら“絵”になってるのかねぇ。

 俺と麻奈実がってのはあんまり想像できねーが、仮にこれがあやせとだったとしたら――『お兄さん。ほっぺたにソースが付いてますよ。もう、だらしがないんですから……』なんて言いながらも、ぴたりと寄り添って拭き取ってくれたり……しねーわな。

 きっと冷静に状況だけを指摘だけされるのがオチか。

 むう。ならば逆のパターンを想像してみるとしよう。

 俺があやせのほっぺに付いたソースを、華麗に拭き取ってやるよと手を伸ばしたと仮定する。

 ……。 

 …………うん。

 問答無用で蹴り上げられるか、熱された鉄板に顔面を押し付けられる光景が目に浮かんだ。つかさ、お好み焼き屋って金属製のコテとか熱い鉄板とかあるしよ、実はかなりの危険スポットなんじゃねーか?

 あらぬ言いがかり(セクハラをしたとの濡れ衣を無理やり着せられて)を理由にして“焼き土下座”を強要とか、あの女ならマジでやりかねん。

 将来的にあやせと出掛けることになったとしても、こういう場は選択肢として除外しておくほうが無難か。なにせスプーンすら凶器に変貌させちまうような女だし。

 そんなことをつらつらと考えていたら、対面の麻奈実が

 

「そうだ。きょうちゃん。もうすぐ修学旅行だけど、準備とか済ませてる?」

 

 なんて想定外のセリフを切り出してきた。

 

「修学……旅行?」 

「その様子だと、もしかして忘れてたりした?」

「な、なに言ってんだ。修学旅行だろ? うん。勿論覚えてるさ!」

 

 というか、麻奈実に言われて思いだした。

 俺の通ってる学校では受験生に配慮してか、修学旅行は夏休み前に行われるのが風習つーか慣例で、それは今年も例外じゃない。とはいえ日程が目前に迫ってる訳でもないし、遠く外国まで足を伸ばす訳でもない。

 忘れてたっつっても、現段階で全く問題にならないレベルだ。

 たぶん。

 

「あー、確か行き先は京都だっけか? 最近はなにかと忙しかったしよ、これといって特別な用意はしてねーな」

「駄目だよぉ。きょうちゃんはいつも直前になって焦って用意したりするじゃない? 大事な物とか忘れちゃうかもしれないよ?」

「大丈夫だって。それに何か忘れても向こうで買えば済む話だし、手に入らない物だったら最悪我慢すればいい」

「もう~。そんなこと言って泣き付いてきても、わたしは知らないんだから」

「いつ俺がおまえに泣きついたよ?」

「そんなこと言って良いの~? 小学校の運動会の時とか、ほら中学の時の修学旅行でも、きょうちゃんパンツを持ってくるの忘れてさ――」

「は?」 

 

 一旦食べる手を止めてから、両方の指を使ってパンツの形を空中に描いていく麻奈実さん。

 

「あの時きょうちゃん、旅館に着いてから“大変だ麻奈実! 俺のパンツがカバンに入ってないっ!”って大騒ぎしたのわたし覚えてるもん」 

「あ、あれは……俺はちゃんと用意したんだ! ……それを桐乃の奴がだな……。つーか、ここでその話はやめてくれっ!」

 

 その他諸々、大勢いっぱいの人が周りにいるんですよ!? 

 

「いーえ、やめません。だってまた忘れちゃったら大変だよ? 今度はきょうちゃんが困っててもわたしは貸してあげないんだから」

「貸すって――お前な、そんな言いかたしちゃったら、一部の人にあらぬ誤解を招く原因になるじゃねーかっ!」

 

 当時の俺の名誉の為に言っとくけど、借りたのはお金のことだから。

 決して現物じゃないから。

 ちなみに俺のパンツをカバンから抜き取った犯人は妹の桐乃だ。どうしてそんな悪戯をしたのか問い詰めても、絶対に口を割らなかったので今もって原因は不明である。

 俺の中での七不思議に数え上げられている事件だ。

 

「あん時は……その、助かったよ。感謝してる。だからもうその話はやめよう。な?」 

「そう思うなら、教訓としてしっかりと胸に刻み込んでおくように」   

 

 ぷうっと軽くほっぺを膨らませ、俺を威嚇してみせる幼馴染。麻奈実なりに怒ったぞというポーズなんだろうが、何処ぞの妹や圓明流の使い手と違ってまったく怖くない。

 しかも色々小言を口にしながらも最後には助けてくれるのがこいつらしいつーか……ま、有難い話なんだけどよ。長い付き合いとはいえ女の子に頼りきりじゃ流石に格好悪いよな。

 こいつは俺が困ってると不思議と察してくれて――黙って優しく手を差し伸べてくれる。

 まるで亡くなった婆ちゃんのように親身になってくれる。いつまでも“このまま”じゃいけねーと分かってはいるが……この居心地の良い空間を無くしたくない。

 そう思ってしまっている。

 そんなことを考えていたら、麻奈実が表情を軟化させながらこんなことを言い出した。

  

「けど、確かにきょうちゃん最近は特に忙しそうだったね。一緒に帰れないことも多かったじゃない? もしかして桐乃ちゃんのこととか関係あったりする?」

「桐乃? 何でここであいつのことが出てくるんだ?」

「この前悩んでることがあるって言ってたでしょ? きっと桐乃ちゃんのことかなぁって。きょうちゃんは昔から“良いお兄ちゃん”だったしね~。だからいろいろあったのかなぁって」

「別に。そんなんじゃねーよ」 

「ふふ。わたし――きょうちゃんと桐乃ちゃんは絶対仲良くなれるって思う。それこそ昔みたいに」

「――昔、か」 

 

 こいつの言う昔とはあの頃のことなんだろうな。俺と桐乃、そして麻奈実の三人が並んで遊んでいた――――最後に三人揃って遊んだのは何年前になるのか。

 俺が中学に入った頃には、もう桐乃とは険悪になる予兆があったように思う。ちょい前までの冷戦状態ほどじゃねーけど、少しづつ距離が離れていった時期に当たる。

 兄妹。三歳違いの、俺の妹。

 

「……まあ、桐乃のことっつうか、あいつを中心にした物事つーか、あと黒猫とかあやせとか、その辺り合わせて諸々大変だったってのはあるな」

 

 脳裏に過ぎる様々な出来事。

 夜中に桐乃に叩き起こされてからのまさかの人生相談。

 それから今まで実に色々なことがあった。

 妹の為に親父と大喧嘩を繰り広げたと思ったら、あいつの為にあやせに変態のレッテルまで張られたりした。

 渦中で黒猫に出会い、沙織と出会って――中でもこないだの美咲さんとの一件は、下手したらあやせが外国に留学しかねないという危険な話でもあった。

 何とか話を白紙に戻すことに成功し事なきを得たが、これから先に何かないとも限らない。あの姉ちゃん裏で何を考えてるかいまいち読めねー人だったし。

 ちなみにこの件は桐乃には秘密にしてある。

 俺とあやせがあいつの知らないところで会っていたとか知られた日にゃ大変なこと(被害を受けるのは俺だ)になるし、あやせも桐乃には心配をかけたくないからと口止めされている次第だ。

 バレた時には問答無用で修羅場だろう。

 

「…………」 

 

 思わず阿修羅と化した妹の姿を思い浮かべてしまい、小さく身体を震わせた。いつぞやのカ●ビアンコム事件の再来は心底ご免蒙りたいし、エロ動画ハンターの称号はそろそろ返上してしまいたい。

 そういや、加奈子のマネージャーになった件も桐乃には秘密だし、うっかり“ボロ”を出すと大変なことになるぞ。

 こりゃ気を引き締めとかねえと。

 

「そっか。大変だったんだねぇ。お疲れ様――きょうちゃん」

 

 多くを語らずとも察してくれる。

 我が幼馴染はまるで菩薩のような微笑を浮かべながら、頭を撫で労るように、ゆっくりと頷いてくれたのだった。

 

「けど黒猫さんやあやせちゃんの面倒まで見てるなんて、きょうちゃんらしいというか、ちょっと節操がないんじゃない?」

「ちょ、おま!? 節操がねーって……折角俺が心の中で感謝してたっつうのに台無しじゃねーか!」

 

 折角良い話にして纏めようと思ったのに! 

 

「でも少しくらい釘を刺したくもなるよぉ。う~ん、どう言ったらいいのかな? 今まで近くにいたきょうちゃんが遠くへ行っちゃったような……何だかわたしだけ置いてけぼりにされたような、そんな風に少し寂しく感じることがあるんだ」

「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ。俺がおまえを置いていく訳ねーだろうが。いいか麻奈実。俺とおまえの距離ってのはちょっとやそっとじゃ変わらねえ。違うか?」

「……うん。そうだねぇ。ずっと変わってないねぇ」

 

 そうさ。俺と麻奈実の関係は簡単には変わらない。文字通り年季が違うんだ。

  

「でも黒猫さんやあやせちゃんとは変わったんだよね? それはちょっと――羨ましいかな」

「羨ましいって……おまえな、それなりに毎回酷い目に遭ってんだぜ? こちとら順風満帆な平穏な生活を望んでるってのによ。桐乃の人生相談からこっち休まる暇がねえ」

 

 まあ、役得もあったがな。

 黒猫達に出会わなきゃ、漫画だのゲームだのコミケだのという、いわゆるサブカルチャー的な楽しみを知ることも無かったろうし、共通の話題が出来たおかげか、桐乃との距離が縮まってきてるのも事実だ。

 相変わらずあいつは俺に悪態を吐きやがる。俺も妹のことは大キレーだ。けどそこはやっぱり兄妹だからな。口も聞かなかった冷戦状態の頃に比べれば、良い関係になってきたと言えるだろう。

 親父もお袋も安心したのか、心なしか嬉しそうにしてるし。

 

 ――と、少し話が反れるが、麻奈実が黒猫を“さん付け”で呼び、あやせを“ちゃん付け”で呼ぶのには理由がある。

 

 麻奈実と黒猫は単に学校での先輩後輩という間柄でほとんど接点がないが、なんとあやせと麻奈実はリアル友達同士なのだ。

 ちょっと不思議だろ? 

 読者モデルもこなす超絶美人、ラブリーマイエンジェルあやせたん。そしてこのおっとりを地で行く垢抜けない俺の幼馴染。一体この二人の間にどんな接点があって仲良くなったんだっつうのね。

 絵面はまるきりお婆ちゃんとその孫なのに。

 ちなみにこの件も、俺の中では七不思議に数えあげられている。

 

「そうだ。ねえきょうちゃん」

「ん?」

 

 そんな埒も無い事に脳裏を占拠されていたら――心を読んだ訳でもあるまいに、麻奈実が攻勢に転じやがった。

 

「あのね、きょうちゃんと黒猫さんが学校で少し噂になってるて――知ってた?」

「なん……だと!?」

 

 ちょうどお茶を飲もうと口元に湯飲みを運んだタイミングでの爆弾発言。それを受け俺は思わず盛大に噴き出してしまっていた。

 ゴホゴホと咳き込みながら慌てて胸を叩く。話をしながら食を進めていたのが仇になった訳だが……つーか麻奈実さん、今なんと言いました? 

 俺と黒猫が噂になってるだって?

 

「噂って、どんな噂だよ?」

「えっとねぇ、高坂に年下の彼女が出来た、みたいな?」 

「……それ、マジで言ってんのか?」

「うん。あくまで学校内での噂だけどねえ。ほら、こういう話ってみんな好きでしょ? 結構広まってるよ」

 

 俺にハンカチを差し出しながら麻奈実がコクンと頷いている。

 冗談の類じゃねえよなあ。こいつがこういう関係の話で嘘を吐くはずねえし。こうしてハッキリ言われてみれば、心当たりがないこともない。

 例えば――足繁く黒猫を教室まで向かえに行ったり(ゲー研のこととか)

 例えば――昼飯を一緒に食べたり(今は改善したが、昔はよく一人で飯食ってたりしたんだよあいつ)

 或いは――下校する時に一緒に帰ってたりしたら(沙織と一緒に遊ぶ時とかな)

 外部からはそう見えたのかもしれない。

 

「…………」 

「きょうちゃん、こういう噂には疎いから知らないかなぁって思ってたけど、やっぱり気付いてなかったんだ」 

「……ああ。全然。まったっく。これっぽっちもな」 

「ほら、黒猫さんて目立つじゃない? きょうちゃん一緒の部活にも入ってるし、やっぱり周りからはそう見えるんじゃないかな?」

 

 そう言いながら麻奈実が少し声のトーンを変え 

 

「――“三年の高坂は二股を掛けている”――なんて話もあるくらいだよ?」

「ふ、二股どころか彼女すらいねーよっ!」

  

 世間様は俺をなんだと思ってんの!? 

 モテない非リア充ですよ、チクショー!!

 

「黒猫さんのことをどう思ってるの? なんて訊かないけど。あやせちゃんのこととか、きっとこの先大変だと思う」

「何でここであやせが出てくんだよ? 黒猫のこと話してたんじゃねーのか?」

「さあ、なんでだろうねえ。だけど一つだけ確かなのは、きょうちゃんは稀にみる“お馬鹿さん”だってことかな」

「ひでーな! 確かにお前に勉強見てもらったりしてるけどよ、こう見えて俺だって頑張ってるんですよ!」

 

 妹に無理やりエロゲーやらされたりしながらも、合間を見て勉強してるんだよ、本当に。

 なのに麻奈実は 

 

「だからきょうちゃんは“お馬鹿さん”だって言ってるんだよ」

 

 なんて言いやがる。 

 

「お前な……」 

 

 若干俺の幼馴染が刺々しくなってる気がするのは、はたして俺の気のせいだろうか? もしやあやせと付き合うようになって感化されちまったんじゃあるまいな? 

 あいつ俺のこと死ぬほど嫌ってるし。

 それともこれが噂のベルフェゴールさんッ!?

 

「でもねきょうちゃん。わたしはいつでもきょうちゃんの味方なんだよ。だから何かあったら何時でも相談してね?」

 

 子供を諭すような、赤ちゃんをあやすような優しい声音。

 はっきり言って麻奈実が俺に何を伝えたいのか分からない。それでも茶化していないことだけは感じ取れる。

 だから俺は、真剣に答えることにした。

 

「ああ。そん時は――困ったことがあったらそうさせてもらう。ありがとな、麻奈実」

「うん」 

「けど今はこのお好み焼きを先に片付けようぜ。熱いうちに食わねーと味が落ちるぞ」

  

 冷めちまったら折角の美味いもんが台無しだ。

 そう思って食事を再開しようとした矢先、不意に俺の携帯電話が軽快な着信音を鳴り響かせる。

 

「……一体誰だ?」

 

 ポケットから携帯を取り出し、ディスプレイに視線をやる。そして、その段階で一瞬固まってしまった。

 何故かって? そりゃディスプレイに全く予想していなかった人物の名前が表示されていたからだよ。

 画面に表示されていた名前は――伊織・F(フェイト)・刹那。

 あのフェイトさんだったのである。

 

 

 

 



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第十九話

 ――伊織・フェイト・刹那。

 

 最初に一言断っておく。

 驚くべきことに、この厨二病全開の痛々しい名前は“彼女”の“本名”なのである。

 簡単にどんな人かと説明すると――年齢的には二十代半ばくらいか。ぱっとみ中性的な雰囲気を持っている理知的な美人で、パンツスーツの似合う大人の女性だ。

 女の人にしては背はかなり高く、スレンダーな体型をしている。俺の知り合いの中で例えるなら、この前出会った美咲社長に雰囲気が似ているかもしれない。

 しかし、彼女を説明する上でどうしても外せない言葉がある。

 それは――伊織・フェイト・刹那は人間の“クズ”だということだ。駄目人間と言い換えてもいい。

 なに? 人を評するには言葉使いが悪いだって?

 悪かったな。この人との間には“色々”とあったんだよ。

 桐乃が留学する遠因の一つにもなったし、俺がゲー研で『エロゲーを作ろうぜ!』なんて口走ったのは、他ならぬこの人にそそのかされたからだ。

 年の近い友人って訳でもないし、出来ればあまり関わりたくない知人の一人。

 それが俺にとってのフェイトさんだ。

 

「……もしもし」

 

 少しだけ迷ったものの、結局俺は彼女からの電話に出る事にした。無視するという選択肢もあったけど、フェイトさんがどんな用件で俺に電話を掛けてきたのかが気になった。

 若干悪い予感はしたが、もし桐乃に関わる話だったら後で困る。

 この場に麻奈実がいるから気は引けたが、話だけ聞いて手短に終わらせれば問題ないだろう。

 

『ふふ。お久しぶりね京介くん。元気にしてた?』

 

 耳に響くアルトな声音。間違いなく電話の相手は俺の知る伊織・フェイト・刹那だった。

 ミドルネーム――未だに耳慣れない名前だが、以前クォーターだと本人が言っていた記憶がある。きっと祖父母のどちらかが外国の人なんだろう。

 

「まあ元気っちゃあ元気ですけど……いきなり電話してきてどうしたんです? 何か俺に用でもあるんすか?」

『あら? 用が無ければ電話をしてはいけないの?』

「はあ?」

『――フフフ。ねえ、京介くん。今、私がドコにいるか当ててみて? 正解したらご褒美をあげるわよ?』

「…………えっと、意味分かんないんで、もう電話切ってもいいっすかね?」

『ちょっと、まだ何にも用件話してないじゃない!』

 

 受話器の向こう側で血相? を変えるフェイトさん。

 ならさっさと本題に入ってくださいよ。そう思ったのも束の間、彼女は若干声のトーンを落とすと

 

『じゃあこう言い換えましょう。――京介くん。見事ボクを見つけ出すことが出来れば、お姉さんがとってもイイことをしてあげよう。それもとびきりエッチなやつだ。なに礼はいらないよ。労働に対する当然の対価というやつだね」

「……非常に言いにくいんすけどフェイトさん。そこはかとなく“昔”に戻っちゃってます」

『あらら、私としたことが。どうしてか最近ぽろっと口調に出ちゃうことがあってねぇ。これもキミ達に影響を受けた所為かしら?』

 

 それ、間違いなく黒猫の影響です。

 

『ま、エッチなご褒美云々は冗談だけど――たしか京介くんは妹萌えだったかしら。なら“お兄ちゃん”って呼べばご褒美になるわよね?』

「どんな罰ゲームですか、それ!」

  

 あ……頭が痛くなってきやがった。

 遥か年上のお姉さんから“お兄ちゃん”なんて呼ばれてるのを誰かに見られた日には、俺の存在そのものが社会的に抹殺されてしまう。

 つーかさ、何でみんな俺をシスコンだの妹好きだのと勘違いしてんの? 

 要因があるなら納得もするが、そんな要素は皆無だろうが。

 ちっとばっかし妹もののエロゲーやってたり、知り合いに年下の女の子が多いってだけで、妹好き属性など微塵もないと断言できる。

 全く、理解に苦しむ現実だ。

 

『そういうの、現実逃避って言うのよ京介くん』 

 

 何処に突っ込んでんだよ、アンタッ!?

 それとも心の声が口に出てたのか!?

 

『はいはーい。タイムリミットが近づいてまーす。万一時間切れの場合は、京介くんの身に最大級の不幸が振りかかる結果になるかもしれません』

「じ、冗談でもやめてくださいよ、そういうの。それでなくても嫌なことがあって落ちこんでんスから」

 

 アダルトデパート訪問の件で、桐乃と黒猫に吊るし上げられたのは記憶に新しい。

 いや、本当マジで怖かったし。

 

『ふふん。残念だけど冗談じゃないわ。だって京介くんにはハッキリと女難の相が出ているんですもの。きっと近いうちに修羅場にでも巻き込まれるんじゃない?』

「……修羅場ってどういう意味の修羅場っスか?」

『知らないの? 修羅場って言うのはね、元は阿修羅と帝釈天とが戦う場所のことで、転じて凄惨なる戦いの場所をさす言葉よ。現在では男女間の痴情のもつれからくる争いのことを指すのが一般的ね。若いからって二股とかかけてると後が怖いわよぉ?』

「いやいや二股とかかけてねーし! つーか彼女いねーし! というかそんなこと聞いてんじゃないっすからねっ!」

『嘘おっしゃい。ほら、あなたの妹さんという設定の娘がいたじゃないの』

「設定って……」

『ほら、私達が初めって会った時の』 

「あれは、その……色々事情があったつうか……とにかく違いますから! 変に勘ぐらないでください!」

 

 もしかして俺フェイトさんに苛められてんの? 

 修羅場とか一番俺に縁のない代物ですよ。というか“女難の相”が出てるって、向こうから俺の顔でも見えてるのかっつうのね。

 

「ね、ねえきょうちゃん。あの人ってもしかして……」

「んあ?」

 

 そんな益体も無いことを考えていたら、対面に座っている麻奈実が恐る恐るといった風情で俺の背後を指差した。それに釣られて振り返ってみれば――

 

「げえっ!?」

「はぁーい。やっと気付いてくれたようね」

 

 スマホを片手に器用にウインク。

 俺達と同じように鉄板付きのテーブルに陣取っていたフェイトさんと、バッチリ目線が合ってしまった。

 

 

 

「……ビックリして心臓が止まるかと思ったッスよ。いきなり電話してきたと思ったら同じ店の中で飯食ってんすから」

「それには私も同意見ね。遅めの昼食を取っていたら入り口から見覚えのある顔が入ってくるんだもの。いつ気付いてくれるかなぁって思って見つめていたのに……京介くん、あまり周りに感心ないみたいだったから」

 

 そう言って対面に座ってみせるフェイトさん。軽くスマホを振って見せているのは気付かなかった俺に対する当て付けか。

 ちなみに今は俺と麻奈実とフェイトさんの三人で同じテーブルを囲んでいる。どうせなら一緒に食べようということになり、彼女がこっちに引っ越してきたのだ。

 その折に麻奈実とフェイトさんは、互いに簡単な自己紹介は済ませてあった。

 

「こんにちは。田村麻奈実です。えっと、きょうちゃんのお知り会いの方ですか?」

「ええ。伊織・フェイト・刹那よ。京介くんとは……そうね。因縁浅からぬ仲というやつになるのかしら」

「ふえ? い、因縁浅からぬ仲?」 

「真に受けるな麻奈実。フェイトさんはただの知人だ。こっちから電話かけたこともねえ間柄だよ」

「相変わらずキツイわね京介くん。お姉さん、ちょっと傷ついちゃったわ」

「この程度で傷つくような玉ですか。それと俺の幼馴染に余計なこと吹き込まないでください」  

 

 ったくよ、どんな自己紹介だっつうのね。

 けど初対面で喧嘩をおっぱじめた黒猫とあやせとは違い、思ったよりも二人は打ち解けて会話を交わし始めていた。麻奈実は誰とでも仲良くなれる奴だし、フェイトさんだってそれなりに大人だ。

 剣呑な雰囲気を醸し出すことはないだろう。

 

「ふぅん。でも京介くんの幼馴染さんねぇ……」

「あの、なにか顔に付いてますか――その、そーすとかっ?」

 

 幼馴染というフレーズが興味を引いたのか、フェイトさんがじーっと麻奈実の顔を見つめている。

 特別目を引くような容姿はしてないはずだが…………もしやフェイトさん、眼鏡萌えとかじゃなかろうな?

  

「あなた、麻奈実さんって呼んでもいいかしら?」

「はい。構いませんけど……」

「初対面でこう言うのもアレだけれど――麻奈実さんって何処かラスボス臭いわね」

「ら、らすぼす!?」

 

 ラストに君臨するボス。略してラスボス。RPG等で最後に待ち構えている敵のことである。

 麻奈実はどっちかっていうと敵っつうより宿屋のお婆ちゃんって感じだと思うんだが……。

 

「そう。ラスボス。麻奈実さん実は裏で糸を引いていて、最後に美味しいところだけを持っていこうとしてないかしら?」

「い、一体なんのこと~!? ふぇええ……きょうちゃ~ん」

 

 助けてくれとばかりに麻奈実がこっちを振り仰いでくる。 

 若干涙目になっている我が幼馴染。可哀想なので助け舟を出して話題を代えることにした。

 

「けど、少しだけ安心しましたよ。フェイトさん思ったより元気そうなんで」

「安心って、どうして?」 

「こうやって店で飯が食えるってことは、それなりに状況は改善したんですよね?」

 

 以前会った時、彼女は極貧に喘いでいた。

 というかぶっちゃけてしまえば、派遣切りに遭ったフェイトさんはろくに飯も食えない状況に陥っていたのである。“このままだと餓死しちゃうかも”なんて呟いちゃうくらいどん底まで堕ちていたのだ。

 その哀愁漂う背中があまりにも可哀想だったんで、飯を奢ったりしたんだが……。

 

「あん時は年収がフリーザ様第一形態の戦闘力と拮抗してたみたいッスけど、一回変身するぐらいのパワーアップは遂げたんですか?」

「フフン。あまり私を舐めないで欲しいわね、京介くん!」

 

 冗談で言った言葉に対し、パンッとテーブルを叩くことで返してくるフェイトさん。

 薄い胸を張っている姿は何処か誇らしげだ。

 

「一回変身したフリーザ様の戦闘力って、確か100万以上は確実よね?」

「え? まあ、そんなもんスね」 

「――聞いて驚かないで。年収100万どころか遂に借金が53万を超えちゃった。――てへっ」

 

 てへっじゃねええええええぇぇぇッッ!!

 可愛く舌を突き出しても駄目ッ! 駄目ッ! 

 アンタさ「やるだけやってみるつもり。私に出来る事を――精一杯」って格好付けてたよね? 

 それ見て社会人って大変だな。格好良いなって思っちゃったよ!

 

「ほら、私って一人暮らしで頼れる身内もいないじゃない? 派遣の仕事はクビになっちゃったし、中途採用試験を受けたら超圧迫面接で死ぬかと思ったし……当然試験も落ちちゃって、公園の野草なんかで飢えを凌いだ時期もあったくらいよ」

 

 それって某黄金伝説に出れるレベルじゃ?

 つーか益々ダメ人間っぷりに拍車がかかってるんじゃねーかこのお姉さん。

  

「そんな状況で暢気にお好み焼きなんて食ってていいんですか? 金とか大丈夫なんですか?」

「心配してくれてるのね、京介くん。ありがと。でも大丈夫。実はこの前――桐乃ちゃんからお金を借りたところだから」

「は?」 

 

 き、桐乃から金を借りた……だと? 

 この姉ちゃん、なに人様の妹から勝手に金借りてんの? もう大人としてのプライド捨てまくりですよね!? 

 不義理したら例え年上でもはっ倒しますから。

  

「だから今それなりにリッチなのよねぇ。こうして会ったのも何かの縁だろうし、ここの払いは私が持つわ!」

 

 そう宣言するや、颯爽と財布を取り出すフェイトさん。

 目が――瞳が輝いている。

 いや、それ元々桐乃の金ですよね。奢られてもいまひとつ有り難味がねえっつうか……。

  

「あ、あれ? おかしいわね。まだ諭吉さんが何人か……」

 

 なのに急にフェイトさんの面に影が差した。ガサゴソと財布を覗き込む彼女の顔色が、だんだんと青白いものに変化していく。

 一体何が彼女をそこまで苦しめているのか。

 その答えは――

 

「ごめんなさい、京介くん!」

 

 ぱんっと空中で両手を合わせ、頭を下げてくるフェイトさん。続き彼女は臆面も無くこう述べた。

 

「……食事代、貸してくれない?」

 

 ――駄目だコイツ。早くなんとかしないと。

 草原かどっかに埋めちゃうのもアリかもしれない。

 そう思ってしまった俺を誰も責めることは出来ないんじゃねーかなぁ。

 

「ち、違うのよ。使っちゃったとかそんなのじゃなくて……計画的に使おうと思ってあまり財布にお金を入れないようにしていたの! なのに諭吉さん勝手に歩いていなくなっちゃうから……って、な、なによその冷たい目は? 確かに借りて速攻FXで溶かしちゃったりしたけど、まだまだ挽回できるはずなの! だからここの代金はすぐに返せると思う!」

 

 熱弁を奮うフェイトさんが哀れで哀れで堪らない。

 

「いえ……もう諦めてますんで。というか元々こいつに奢るつもりで来てましたし、少しくらい出費が増えても変わりゃしねえっすよ」

「そ、そう? 悪いわね。ならもう一品くらい頼んじゃおうかしら」

「なん――だと!?」 

 

 怒りの為か、握った拳がぷるぷると震えている。本気で女を殴りたいと思ったのは桐乃に次いで二人目だよ!

 結局フェイトさんにもう一品追加してあげてから、俺達は店を出ることにした。

 

 

 

「ごちそうさま、きょうちゃん。とっても美味しかったねぇ」

「ああ。今度はロックの奴でも連れてくるか。三人でまた来ようぜ」

「それいいねぇ。あの子もきょうちゃんに会いたがってるし、休日にでも話してみるよ」

 

 嬉しそうに表情を緩める麻奈実を見て、少しは恩返しが出来たようだと満足する。

 

「じゃあお店の手伝いもあるし、わたし帰るねー」

「おう。気を付けて帰れよ。んでもって途中で買い食いとかすんじゃねーぞ、麻奈実」

「もう。いくらわたしでもそこまで食いしん坊じゃありませんよーだ」

 

 ぷうっとほっぺを膨らませ、怒ったように背中を向ける麻奈実。そしてそのまま数歩進み――途中でくるりと振り返ってきた。

 

「ばいばーい」

 

 ぶんぶんと手を振る姿は年齢より随分幼く見える。

 昔はよく見た光景だ。

 一緒に遊んだ別れ際にこうやって手を振りあったもんだっけ。懐かしさに背中を押されたのか、自然と俺の手も上がりかけて――無理やりそいつをポケットに捻じ込む。

 結局俺は、角を曲がって麻奈実の姿が見えなくなるまで、あいつの背中を視線で追っていた。

 

「さぁて、俺も帰るとするか」

 

 反動を付け、持っていた鞄を肩掛けにする。そのタイミングを見計らったかのように、後方から甲高い女の子の声が響いてきた。

 曰く――高坂くん、と。

 一瞬麻奈実が戻ってきたのかとも思ったが、呼ばれたのは苗字の方だ。

 どっか聞き覚えのある声に振り返る。

 

「おーい、高坂くーん!」

 

 てってってと駆け足で近寄ってくるお下げ髪の女の子。

 年齢的には小学校高学年くらいで、動作の端々から快活な印象を受ける。周りに人気はないので、俺のことを呼んだと思うんだが、確かこの子は……。

 

「やっぱり高坂くんだ。ひっさしぶりーってほどでもないか。元気だった?」

「お前、確か黒猫の――」

「妹の日向だよ。なんか地味で見覚えのある背中が見えたから走ってきたんだけど、やっぱ冴えないね。キングオブ普通、みたいな?」

「普通で悪かったな! つーか会っていきなりそれはねえだろ」

「ごめんねー。でも別に高坂くんが特別かっこ悪いとかそういう意味で言ったんじゃなくって、なんていうかさ、ハードルが高かったから。そのぶん評価も厳しくなっちゃたんだよ」

「ハードルが高いって、なんで?」

 

 妙なことを言いやがる。

 何で黒猫の妹が、それもほとんど面識のない俺へのハードルを上げてんだ?

 

「だってルリ姉が――たぶん高坂くんのことだと思うんだけど、ベタ褒めしてたからさ。どんな人なんだろうって想像くらいするじゃん?」

「く、黒猫が? 俺のことを褒めてた……? マジで?」

「うん。あたしはてっきりルリ姉の脳内彼氏のことだと思ってたんだけど、ほらこないだのお祭りで会ったじゃん。そん時の反応を見て“きゅぴーん”ときたんだ」

 

 女の勘っていうやつよね。と胸を張る日向ちゃん。つーか、脳内彼氏とか実の姉に対して容赦ねえなこの娘。

 おそらく彼氏云々ってのは、黒猫が小説の設定でも考えてた時のことなんだろうが…………褒められてたって聞かされると、なんつーか気恥ずかしいもんがあるな。

 

「あれぇ~? 高坂くんにやけてる~。ルリ姉に褒められて嬉しいんだ?」

「に、にやけてなんかいねえよ! 俺は……いつもこういう顔をしてる」

「もう、素直に喜べばいいのに。男のツンデレなんてみっともないだけだよ?」

「うっせえよ!」

「にひひ。というわけであたしは悪くない!」

「開き直んなや!」

 

 いい性格してるぜ全く。まあ嫌味が全然含まれてないし、俺も言葉ほど怒っているわけじゃない。というより会話のテンポが良く人懐っこいので、日向ちゃんの相手してると楽しくなってくる。

 まるで年の離れた妹が出来たみたいな感覚。見た目も黒猫に似てるしな。

 そう思っていたら

 

「――京介くんってシスコンじゃなくてロリコンだったの?」

「うわああああッ!!」

 

 突然背後から掛けられた声に心臓が跳ね上がった。

 

「フ、フェイトさん!? いつからそこに!?」

「いつからって、今出てきたところよ。けどねぇ京介くん。小学生は駄目だと思うのよ。だって犯罪になるのよ? キミも特殊な性癖を持って苦労しているかもしれないけれど――」

「待った! 待ってくださいフェイトさん! 一体なんの話をしてるんですか!?」

「だから京介くんがロリコンだって話。知らないかもしれないけど、小さい女の子とのわいせつな行為は淫行といって法律で罰せられる可能性が――」

「俺はこの子と話をしてただけですってば!」

「話をしてからどうするつもりだったの? 取りあえず落ち着きなさい京介くん」

 

 お前が落ち着けフェイトッ!

 その後フェイトさんに十五分かけて日向ちゃんの素性と事情を説明した。しかし道端で小学生女児と話していただけで犯罪者扱いされるとは思わなかったぜ。

 

「高坂くん。友達は選んだほうがいいと思うよ?」

 

 そしてどうして俺は小学生女児にぽんぽんと背中を叩かれているんだろう。

 そこはかとなく悲しくなってくるシチュエーションである。

 ――と、そこで日向ちゃんが左手にハンカチに包まれた四角い物体を持っているのに気付いた。

 この形状と大きさは……弁当箱か?

 

「あ、これ?」

 

 俺の視線から意図を読み取ったのか、日向ちゃんがその包みを掲げる。

 

「実は今からルリ姉んトコにこれを届けに行くところだったんだ。なんかバイトで今日は遅くなるらしくってさ」

「バイト? 黒猫の?」

「うん。興味ある? なんなら高坂くんも一緒に来ちゃう? そんなに遠くない場所だしさ」

 

 快活な笑顔を浮かべながら、日向ちゃんはそう言ったのだった。

 

 

  

 



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第二十話

「ここって古本屋……か?」

 

 駅前から少し脇道に逸れ、住宅街へ向かう道すがら。その途中にその店はあった。

 古書店というとどうしても古臭い印象を受けてしまうが、外から見る分には普通の本屋とそう変わらないように見える。ただ雰囲気というのか、肌で感じる微妙な差異が、俺に古書店だと直感させたのだ。

 小奇麗な雑居ビルの一階を占拠する本の群れ。ぱっと見はコンビニみたいな外観をしているので、外からでも中の様子を窺うことが出来た。

 整然と並べられた本棚と幾人かの客の姿。それほど大きな店じゃないけど、清潔感があって入りやすそうだ。

 

「日向ちゃん。ここで黒猫が働いてんの?」 

「そうだよ。この店のオーナーさんがお母さんの知り合いらしくって、そんでルリ姉が手伝わせてもらってるんだって。なんかね、前のバイト先も本屋だったんだけどクビになったからって」

「え? それマジで?」

「うん。だってルリ姉“……っふ。どうやら人間風情には私の力を使いこなすことは出来ないようね。残念だけれどこの邂逅は無かったことにしてあげるわ”って涙目になってたもん」

「は、はは……」

 

 不覚にも乾いた笑いしか出てこない。

 なんつーか“その場面”がありありと想像出来ちまうのが悲しいところだ。器用なやつだし、根はすごくいい娘なんだけど、黒猫のやつ接客とか苦手そうだしなぁ。

 

「じゃあ行くよ。高坂くん、準備はいい?」

「オーケイ。心の準備は出来ているぜ――ってなんで気合入れてんの?」

「いやー、その方が盛り上がるかなって」

 

 あははと快活な笑い声をあげながら、日向ちゃんが入り口へと向かっていく。それに続く形で俺も店内に入って――

 

「いらっしゃいま…………」

 

 来店客を発見した瞬間、くるりと回って背中を向ける店員に出くわした。

 

「やっほールリ姉! お弁当持ってきたよー」

「お、お前、黒猫か?」

 

 見覚えのある後姿。学校から直行したのか、制服の上からエプロンを羽織った状態で縮こまっている。右手に持っているのはダスターだろうか。もしかしたら掃除中に出くわしたのかもしれない。

 しかし一番俺の目を引いたのは黒猫の髪型だった。

 あろうことか黒猫は、後頭部で髪を結わえポニーテールに変身していたのだ。

 

「ど、どうして先輩がここに……いるの?」

「あ、それあたし。高坂くんと偶然道端で会っちゃってさー。なんか面白そうだから連れて来た」

「なん……ですって!?」

 

 ギギギという擬音が聞こえてきそうなほど、ぎこちない様子で振り返ってくる黒猫。どうやら日向ちゃんの姿を探しているようだが、彼女が俺の背中に隠れてしまったので、バッチリ俺と目線が合うことになる。

  

「あ――う……」 

 

 そして何故か黒猫が固まってしまった。心なしかほっぺが紅く染まって見える。 

   

「よう黒猫。普段と髪型が全然違うから、一瞬お前だって分かんなかったぜ」

「ち、違うのよ。これは……その、掃除をしている時は邪魔になってしまうからくくってしまうの。……先輩が似合わないというのなら元に戻すわ」

「いやいや、戻さなくていい!」

 

 両腕を頭の後ろへと回し、髪を解こうとする黒猫を慌てて制止した。

 正直に言えば似合ってないどころじゃない。めちゃくちゃ似合っていた。髪がアップになったことで普段隠れているうなじ辺りが見えたりして、色っぽく感じたくらいだ。

 女って生き物は、どうしてこう髪型一つで印象が変わるもんかねぇ。

 

「へえ。似合ってるじゃん、そのポニテ。お前髪が長いんだからさ、もっと色んな髪型に挑戦してもいいと思うぜ」

「そ、それはどういう意味で言っているの? 私の普段の髪型への駄目出しなのかしら?」

「違う違う。いつもの髪型も好きだぜ。けどなんつーか、お前の新たな一面が見られて嬉しいっていうの? ここに来て良かったって思った」

「な――!?」

 

 大きく目を見開いたと思ったら、マッハな勢いで目線を逸らし黒猫が俯いてしまった。きゅっと唇を結んで、羽織っているエプロンの裾を握り絞めている姿は、思いのほかに可愛らしい。

 耳なんかほんのりと桜色に染まっているし、こいつを照れさせて遊ぶ桐乃の心境が少しだけ理解出来た瞬間だった。

 まあ、黒猫のやつは極度の恥ずかしがりやだし、バイトしてる姿――地味なエプロン姿を見られて照れてるだけなんだろうけどな。

 仕事着なんだからそんなこと気にしなくて良いのによ。

 

「あまり……見ないで頂戴。恥ずかしいわ……」

 

 そして再び俺に背中を向ける黒猫。

 その名の通り馬の尻尾みたいなポニーテールが俺の目の前で揺れている。

 漆のように艶やかな黒色の髪はとても滑らかで、ふとこいつの髪に触ってみたいという衝動に駆られてしまう。しかしセクハラ先輩の汚名を返上する為にもここは自重した。

 

「あれぇ~、ルリ姉なんか良いことでもあったのー?」

「ひ、日向!?」

 

 もう姉の怒りは収まったとみたのか、盾代わりにしていた俺の背中から這い出てくる日向ちゃん。

 それからニマニマと邪悪そうな笑みを浮かべつつ、ぐるぐると黒猫の周りを回りだした。 

 

「とっても嬉しそうにしてるよねぇ?」 

「し、してないわっ!」 

「嘘だぁー。だって大好きな人から褒められたら嬉しいじゃん? それとも思わぬ出会いに心がときめいちゃったとか?」

「事実無根なエピソードを捏造するのはやめて頂戴、日向」

「えー? ならどうして顔を紅くしてんのさ? めっちゃ照れてるじゃん! この前ルリ姉が言ってた運命の相手ってさ、どう考えても高坂くんだよね? ほら黒き獣がどうとか言ってたやつ」

「……なな、なんのことかしら。そんな事実は記憶にないわねぇ……。白昼夢でも見ていたんじゃないの?」

「へぇ、ルリ姉。そういう態度に出るんだ。出ちゃうんだ。ならあたしにも考えがあるよ」

 

 こほんと喉を鳴らしてから、日向ちゃんが右手を胸に添え演説者のポーズを決める。

 それから黒猫の声音を真似て――

 

「――“そうね。とてもかっこよくて、優しくて……頼り甲斐のある人よ。けれど彼はとても鈍い人だから、はっきり言葉を尽くさないと伝わらな”――――」

 

 ガシッ! と黒猫が日向ちゃんの頭を鷲づかみにし、言動を封じた。

 なんか以前にも見た事あるような光景だが……さすがは姉妹。日向ちゃんの声真似は姉にとてもよく似ていた。

 でも今の台詞、解釈次第じゃ……いや、いつもの黒猫の設定だよな……?

 

「ククク……フハハハ……そうなのね日向。あなたそんなに毎日ニンジンとピーマンを食べたいの。日々の献立を考えなくても良い分私は楽だけれど」

「いや、ちょっとそれは……。っていうかルリ姉! 胃袋を人質にするのってひどくない!?」

「あなたが無駄に囀るからよ。それが厭だというならそれを置いてさっさと家に帰りなさいっ」

 

 そう言うや、黒猫は日向ちゃんが持っていた包みを強引に奪い取った。その隙を使って黒猫ホールドから逃げ出す日向ちゃん。

 実に息のあった姉妹である。

 

「なんかさ、あたしお邪魔虫みたいなんで帰るねー。高坂くーん! ルリ姉のことよろしくねぇ~!」

「ひ、日向っ」

 

 黒猫の射程範囲外へ逃げてから、日向ちゃんが捨て台詞を吐いて去って行く。

 それを怒ろうとしたのか、包みを手にしたまま右腕を振り上げる黒猫。でもすぐにそれに気付き、恥ずかしそうにはにかみながら、そっと腕を下ろした。

 

「……ごめんなさい先輩。日向が迷惑をかけてしまったようね」

「いや全然。明るくていい娘じゃねえか。それに弁当届けてくれたろ?」

「そうね」

 

 柔らかい笑みを浮かべ、手にした包みを眺める黒猫。その表情を見てたら、やっぱりこいつもお姉ちゃんなんだよなって、そんなことを思っちまった。

 

「……えと、興味があるの?」

「へ?」

「――これ」

 

 そう言って包みを掲げる黒猫。別に弁当を見てたわけじゃねえんだが、どうやら勘違いされちまったらしい。

 

「……まあな。女の子の手料理っつたら男の夢の一つだし。興味はあるぜ」

「そ、そう」

「けどよ、弁当が必要なほど遅くまでバイトしてんのか? 危なくね?」

「今日はたまたま棚卸しが入っていて……それで遅くなるの。だから日向にお願いして作ってきてもらったのだけど――ああ、普段の食事は私が用意しているのよ」

「家事とかもしてんの?」 

「ええ。下に妹が二人いるから。スキル的に田村先輩には敵わないでしょうけれど」

「十分スゲーじゃん。桐乃なんてほとんど家事とかしねーしよ。いや……俺もしねーけど」

「フフ。あの女らしいわね。けれど機会がなかっただけじゃないかしら。何事もそつなくこなすあなたの妹のことだもの。努力すればすぐに身につくはずよ」

「そういうもんかね」

 

 いつも喧嘩ばかりしている桐乃と黒猫だが、それは本当に仲が良いからだ。互いに悪態を吐きながらも、相手のことを良く理解しあっている。

 そういうの、ちょっとばかり羨ましい気がするぜ。

 

「……機会があれば、先輩にも作ってあげるわ」

「マジで? 期待しちゃうよ俺」

「駄目よ。あなたに食事を提供するには相当な魔力を消費するの。だから――期待しないで待っていなさい」

 

 はいはい邪気眼乙。けど、こういう邪気眼ならわりと歓迎するぜ。

 

 

 そんなこんなで黒猫と店内にいるわけだが、相手は仕事中である。あまり邪魔をする訳にもいかないので素直に帰ろうと思ったのだが、折角本屋に来たのだ。

 騒ぎ立てた迷惑料ってわけじゃねえけど、一冊くらい買って帰るのもありだろう。

 

「なあ黒猫。なんか一冊適当に見繕ってくんねえかな?」

「いきなりどうしたの先輩? エッチな本ならあちらの隅に置いてあるわ」

「お前な……俺のことをなんだと思ってんの!?」

「あら? 先輩の不名誉な二つ名をこの場で高らかに謳い上げてあげましょうか? さぞや衆目を集めることでしょうねぇ」

「それお前も注目されちゃうからね!」 

 

 クククと悪魔めいた笑みを浮かべる黒猫にすかさず突っ込みを入れる。どうやら随分と調子が出てきた様子だが、お仕事中ですからね黒猫さん。

 

「私、それほど先輩の好みに精通しているわけではないのよ?」

「お前が面白そうだと思う本ならなんでもいいよ。漫画でも小説でも」

「……そう。じゃあ少し待ってて頂戴」

 

 やや思案してから黒猫が歩き出した。気になるんで黒猫を目線で追っていたんだが、本棚の角を曲がった辺りで見失うことになる。

 そして待つこと暫し、黒猫は一冊の文庫本を持って戻って来た。

 

「なにこれ?」 

 

 受け取った文庫本の表紙には、作品名らしきアルファベットと、眼鏡を掛けた黒髪のお姉さんのイラストが描かれていた。 

 

「えっと……アール・オー・ディー? 小説か?」

「R.O.D――READ OR DIEね。一般的にライトノベルに分類される書籍になるわ。……先輩、黒髪で眼鏡の女の子が好きなのでしょう?」 

 

 事実無根であると言い返せないところが悲しかった。

 

「……ま、ありがとよ。じゃこれ買って帰るわ」

「――ククク。内容に感銘を受けたなら是非二巻も買って頂戴」

「シリーズ物かよっ!」

 

 後日、結局全巻を揃えることになるのだが、それはまた別のお話である。

 

 

 

「やっべ。降ってきやがった」

 

 本屋を出て家路に着く途中、突然空から大粒の雨が降ってきた。一瞬戻ろうかとも思ったが、かなり歩いてきていたので今から戻ってもびしょ濡れは免れない。

 仕方ないので、近くにあった店の軒先まで避難する。

 

「……ゲリラ豪雨ってやつか。すぐ止んでくれるといいだがな」

 

 濡れた髪やら肩やらを手で叩きながら灰色の空を見上げる。しかし雨脚は勢いを増すばかりで止む気配は一向に見られない。

 こういう集中豪雨ってやつはドバっと降ってパッと止むのが普通なんで、少し時間を潰してれば落ち着くと思うんだが……。

 

「あんだよこの雨はー! 超ビショ濡れになったじゃんかよー」

 

 そう考えていたら、両手で頭を抱えた小学生が俺と同じ軒先に飛び込んできた。

 綺麗な茶髪のツインテール娘。多少口調は荒々しいが、俺と同じく雨宿りに避難してきたらしい――って、こいつは小学生じゃねえ!?

 

「あ? なに見てんだよテメエ? 透けブラでも期待してんのかっつーの」

「お前――来栖加奈子!?」

「なんで加奈子の名前知ってんの? どっかで会った?」

 

 メンチを切るような仕草で俺を睨みつけてくる加奈子。

 この様子だと、こいつ俺のことを完璧に忘れてやがるな。歌の歌詞とか台本とかは瞬時に暗記できるくせに……って、そういや興味ねえ事柄にはまったく記憶力が働かないんだっけか。

 加奈子にとって“桐乃の兄貴”ってのはその程度のもん(道路に落ちてる石ころみたいなもん)なんだろうな。

 クソガキめ。ケーキ四つも買ってやったってのに!

 

「おい、なんとか言えヨ。気になんだろぉ~」

「悪い。人違いだった」

「はあ? さっき思いっきり加奈子の名前呼んでたじゃんかぁ。教えろヨー」

「じゃあ言い直そう。人違いじゃなく勘違いだった」

「ブッ飛ばすゾ、テメー!」

 

 威嚇してくる幼女を軽くいなす。

 加奈子が俺のことを忘れてるならこれ以上関わる必要性がない。というか、下手に会話して俺がこいつのマネージャーだったと気付かれると色々面倒なことになるのだ。

 あやせからは口止めされてるし、忘れてるとはいえ、桐乃の兄貴が加奈子のマネージャーと同一人物だと断定されるわけにはいかない。

 桐乃は未だ同級生にオタ関連の趣味は秘密にしているのだ。

 

「我侭言ってないで、もうすぐ暗くなるから大人しく家に帰りなさい」

「なに急に先生見たいなこと言い出してンだヨー! つーか大雨降ってんじゃんか!」

「知らないのか? 馬鹿は風邪引かないんだぜ」

「だれがバカだこらぁ~ッ!? 可愛いからって舐めてんじゃねーゾ!」

「そんな幼児体型に興味なんて沸かねーよ!」

「ンだとこらぁーっ!」 

 

 癇癪を起こす加奈子を尻目に、俺は雨に濡れた髪をかき上げながらこいつに背中を向けた。もうこれ以上会話しないぞという拒否アピール&雫が目に入って超痛かったのだ。

 なのに加奈子は

 

「オイおまえ。ちょっとソコでしゃがんでみせろヨ」

「は? なんで?」

「いいから、しゃがめって言ってんだろ!」

 

 強引に俺の服を引っ張って、無理やりに座らせようとする加奈子。って、こいつは俺に何を求めてんの? 

 まさか土下座!? 

 この雨の中で土下座させようってんじゃねえだろうな!?

 だが予想に反して加奈子は、姿勢の低くなった俺の髪に手を伸ばすや、強引に髪型をオールバックへと変えていく。

 

「あぁぁ!! やっぱマネージャじゃん!?」

 

 最も恐れていた叫び声は、雨音に消されることなく辺りに響き渡った。

 

 

  



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第二十一話

「えっとぉ~、加奈子このチーズケーキのセットが食べたいなあ。ねえ頼んでもいいでしょ~、マネージャー?」

 

 妙に甘ったるい声を出しながらメニューの端っこを指差す加奈子。そこには美味しそうなケーキの写真が記載されているのだが……俺が断らないと確信しているのか、既に満面の笑みである。

 

「もうすぐ晩飯の時間だろ? ドリンクだけにしとけって」

「へっへ。加奈子様舐めんなっつーの。こんなの別腹にきまってんじゃん」 

 

 俺の返事をYESと解釈したのか、加奈子は大きく手を振って近くにいたウェイトレスさんを呼び止めた。

  

「すいませーん。このケーキセットください。あ、ドリンクはミルクティーで。マネージャーはなんにすんの?」

「……じゃあホットコーヒー」

「かしこまりました。チーズケーキのセットがお一つとホットコーヒーがお一つですね? 少々お待ちください」

  

 注文を復唱してからウェイトレスさんが去っていく。その後ろ姿を眺めながら、俺は大きく溜息を吐いた。

 仕方ない。軽く現在の状況なんかを説明しておこう。

 懸命な人なら今までのやり取りで気付いたろうが、ここは喫茶店の中である。加奈子に正体がバレた後、半ば強引に近場の店まで連れ込まれたのだ。

 あのまま逃げ出すという選択肢もあったが、後々面倒なことにもなりかねない。そう思った俺は、雨宿りも兼ねて加奈子の避難に付きあったという訳だ。

 

「とりあえずさぁ、なんで加奈子のこと無視しようとしたわけ? スッゲー気分悪いんだけどぉ~」

 

 対面で唇を尖らせながら、加奈子が偉そうに踏ん反り返っている。ほっといたらテーブルの上に足を投げ出しかねない勢いだ。

 見た目はツインテールのロリっ娘がふくれっ面を晒してるだけなんで、全くと言っていいほど怖くないシチュエーションなんだが、うっかり対応を間違えるとあやせ様に粛清されてしまうので心中穏やかじゃない。

 

「別に無視しようとした訳じゃねーよ」

「嘘だぁ! 加奈子のこと知らないフリしようとしたじゃんか!」

「あれはだな……」

「あ~! 分かったぁ!」

 

 何か閃いたのか、加奈子はにひひと意地悪そうな笑みを浮かべて

 

「アレだろ? 加奈子にセクハラして事務所クビになったから顔合わせづらかったんだべ?」

「はぁ?」

 

 一瞬にして目が点になる。

 こいつ今なんつった? 

 俺が? 加奈子に? セクハラしたって? 

 一体何の冗談だ? 

 

「きゃははは。別にさぁそんなこと気にしなくても良かったのによぉ。マネージャーってセクハラ敢行するわりに小心者なのな」

「だ、誰だよ!? そんなデタラメ吹聴しやがったのは!?」

「えー? デタラメなの? あやせがそう言ってたんだけど」

 

 あ、ああ、あやせええええええェェェ――ッッ!

 どういうつもりなんだ、あの女? あいつはどうしても俺を性犯罪者に仕立て上げたいの!? 

 鬼なの? 鬼なのかッ!? 

 桐乃でもここまではしねーぞ! 

 俺の沽券に関わるからはっきりキッパリと否定するが、今加奈子が言ったような事実は一切存在しない。

 流言飛語もいいところである。これは今度あやせに会った時に、強気に出てでもキッチリ話をつけなければッ!

 

「ま、ぶっちゃけどっちでもいいんだけどォ、辞めるなら一言くらい相談しろよな。いきなりすぎんだっつうの」

「……俺にも色々と事情があったんだよ。そこは察してくれ」

「ふーん。事情ねぇ。じゃあ一応聞くけどよぉ、おまえ加奈子達のマネに復帰する気とかあんの?」

「復帰?」

 

 予想外の申し出に思わず問い返してしまう。

 一瞬冗談でも言ってんのかと思ったが、加奈子の表情を見る限りそうじゃないらしい。普段ふざけた態度を取っちゃいるが、根っこの部分では凄く真摯な奴なのだ。  

 

「そ。おまえにその気があんならヨ、加奈子が口利いてやってもいいんだべ?」   

「口って……お前にそんな権力あんのかよ?」

「ひひ。こう見えてあたし売れっ子だしー、事務所も加奈子のこと無視できないと思うんだよねー。おまえって加奈子のファン第一号じゃん? やっぱアイドルとしてファンは大事にしとかねーとな!」

 

 にっと白い歯を見せながら笑う加奈子。それは子供のように無邪気な笑顔だった。

 ……もしかして、こいつ。

  

「お前さ、俺のこと心配してくれてんの?」

「はァ? ち、ちげーよ! これは、アレだ! ブリジットの奴が寂しがってたからよ、そんで言っただけ! あたしはどっちでもいいんだけど、あいつおまえのこと気に入ってたし……」

「ブリジットってあの金髪の――」

 

 ブリジット・エヴァンス。

 以前開かれたメルルの公式コスプレ大会で、最後まで加奈子と優勝を争った外国から来てる女の子だ。今では加奈子と二人でちょくちょくコスプレアイドルとしてイベントに参加してたりするらしい。 

 

「そっか。サンキュな。けど今年は受験があるし、悪いけど遠慮しとくわ」

「受験って、マネージャーって学生だったの?」

「おう。だから来年の今頃は晴れて大学生になってるはずだぜ」

「ってコトは今は高三かぁ。あたしの三つ年上だ」

 

 三歳の年齢差。当たり前だけど、桐乃と同じ年なんだよなコイツ。

 

「じゃあよ“その気”になったらいつでも加奈子に連絡しろよな。待ってンから。――んじゃ、携帯出して」

 

 そう言って加奈子は、自分の携帯を取り出して俺に突き出してきた。

 これって番号交換しようってことだよなぁ。

 

「……ちょっと待ってくれ」

 

 少しだけプロフィール欄を弄ってから番号を交換する。こいつにはマネージャーの“赤城浩平”と名乗り出ていたので“高坂京介”のままじゃ送信できなかったのだ。

 しかしこの心配は杞憂に終わる。

 何故ならこのバカは、俺の名前をすっかり忘れ去っていたからだ。

 

「ンだよ、この元マネージャーっての? 本名教えろよなー」

「始めて会った時にちゃんと名乗ったじゃねーか。忘れちまったのか?」

「……しょうがねえじゃん。あん時は冴えない兄ちゃんだなーって思って聞き流してたんだし。一生リーマンで、それも課長止まりなんだろーなって思った」

 

 案外ヒデーなこいつ。

 

「けどおまえ言ってくれたじゃん? 加奈子にアイドルの才能あるかもってさ。実はアレ結構嬉しかったんだよね!」

 

 照れたように頬を赤くしてはにかむ加奈子の姿からは、いつも見せる“ぶりっこ”のようなわざとらしさが感じられなかった。

 本当に素直に思ったことを伝えてくれている。

 そう感じた。

 何だよ。コイツ、こういう表情もできんじゃねーか。 

 

「ねえマネージャー。今度は忘れねーからさ、もう一度教えてよぉ~」

「……そうだな。俺の名前は、赤城――――京介だ」

 

 だからって訳じゃねえけど、下だけは本当の名前を名乗った。

 俺と桐乃が兄妹だって関係さえバレなきゃいいわけだし、苗字を名乗らなきゃこのバカは気付かないだろ。

 

「きょうすけ、キョウスケね。ね、それってどんな字書くの?」 

「京都の“京”に介錯の“介”で京介。うやうやしい方じゃねえからな」

 

 テーブルに人差し指で字を描きながら加奈子に説明する。それを見つめていた加奈子は可愛らしくウインクしながら

 

「――ん。覚えた。暇見つけて電話してやっからよ、ちゃんと出ろヨな」

 

 にひひと嬉しそうに笑ったのだった。 

 

 

 

 注文していた品がテーブルに届いたタイミングで俺の携帯が鳴った。

 一瞬目の前の加奈子がイタ電でも掛けてきたのかと疑ったが、チーズケーキと格闘するのに忙しそうでそんな素振りは見られない。

 そういや、さっきお好み焼き屋でも似た状況で電話が掛かってきたよなぁ……。

 念の為に店内を見回してみる。けれど何処にもフェイトさんらしき駄目な大人の姿は見られなかった。

 これで安心と、携帯を開いてみたら――

 

「げッ!?」

 

 表示されていた発信者の名前は――新垣あやせ。

 本来なら喜び勇んで電話に出る場面だが、今対面には加奈子がいる。

 

「んあ? 電話か?」

 

 興味があるのか加奈子が顔を上げてくる。しかしそれも一瞬のことで、すぐさまケーキとの格闘に戻っていった。

 こいつがいるからって遠慮する必要なねえんだが(あやせと加奈子は友達だしな)なんか悪い予感がしやがるのだ。

 もしかして加奈子に俺がマネージャーだってバレた事実をあやせが知ったとか?

 いやいやいや、さすがにそれはねえだろ。如何にあやせ様だろうと、こんな短時間で真実まで辿り着くのは不可能だ。

 俺の衣服に盗聴器でも仕込んでれば話は別だが……フェイトさんのように、たまたま同じ店の中にいたという可能性も捨て切れない。

 俺は生唾を飲み込みながら、獲物を狙う肉食獣のように眼光だけは鋭く光らせ、慎重に辺りの様子を窺った。 

 

「……よし、いない。大丈夫だ」

 

 ほっと一息。俺は額の汗を拭ってからエンジェルコールを受け取った。

 

「もしもし」 

『…………随分と出るまでに時間がかかるんですね、お兄さん。いつもならすぐに出てくれるのに』

「ちょっとばかり立て込んでてよ。……っていうかお前なんか拗ねてね?」

『は? す、拗ねるだなんて意味が分かんないです! どうして私がお兄さんが電話に出てくれないからって拗ねないといけないんですか!』

「そう怒んなよ。なんつーか、ちょっとそう思っただけで深い意味はねえよ」

 

 電話に出た時のあやせの声音が、拗ねた時の桐乃に似てたからそう感じただけだ。

 

「で、何か用なの?」

『…………やっぱりおかしいです、お兄さん。どこかで拾い食いでもしたんですか?』

「するわけねーだろーが! っていうかさすがにそれはヒドクね?」

『だっていつものお兄さんなら、もの凄っっっいハイテンションで電話に飛び出てくれるじゃないですか。“結婚してくれー”みたいなセクハラ的な発言もありませんし。ハッキリ言ってありえませ――――ハッ!?』

 

 電話の向こうからあやせが息を呑む気配が伝わってくる。

 

『もしかして……お兄さんのニセモノ!?』

「んなわけねーから! どう判断したらそういう結論が出てくんのッ!?」

『至極真っ当に判断した結果ですが? もし本物だというのであれば、今から言う私の質問に答えられるはずです』

「……質問?」

『はい。極々簡単な二択問題です。お兄さん。答えてくれますか?』 

  

 何かまた妙な流れになってきやがった。

 あやせが何を考えてこういう行動に出たのかさっぱり見当がつかねえ。それでも“質問”とやらに答えないと、これ以上イベントが進まないのは理解できた。

 

「……取りあえず言ってみろよ。本物の俺なら答えられんだろ?」

『ええ。間違いなく答えられるはずです』

 

 一呼吸置いてから、こほんと小さく喉を鳴らす音が携帯越しに聞こえてきた。

 それを聞いただけであやせの可愛い仕草が脳裏に浮かぶ。本当、声といい容姿といい、俺の好みの真ん中ストライクなのに、あの暴力癖さえなきゃなあ。

 

『そのですね……例えば大好きな物が二つあったとして、どちらかを選ばなきゃいけない状況に陥ったとします』

「二者択一ってことか? 欲しいもんが二つあっても金がねえとか?」 

『物じゃないんですけど……あのですねお兄さん。これはあくまでアナタが本物であるかどうかをテストする為の質問ですから、勘違いしないでくださいね』

「しねーって。っていうかまだ疑ってたのな、お前……」

『当たり前です。この前なんて“俺さ、大学卒業したら一生懸命働くよ。何処に就職出来るか分かんねーし、最初は苦労かけるかもしんねーけど……精一杯頑張るから”なんて口走ったのに、開口一番でセクハラ発言しないなんて、ニセモノに決まってます』

 

 あやせの中での俺の評価って……。

 どうやら株は未だもって大暴落中のようである。

 ぐすん。

 

「アレはその……悪かったって。だからもう忘れてくれ」  

『頼まれても忘れられそうにありませんねっ。もうおぞましくって毎晩夢に見るくらいですからっ!』

「お前は俺を苛める為に電話掛けてきたのか!? 頼むから早くその質問とやらに移ってくれ!」 

『そ、そうでした。質問そのものは至ってシンプルです。えっと、わ、私と桐乃だったら……もしお兄さんがどちらかを選ばなきゃいけない場面がきたとしたら、どっちを選びますか?』

「――――――――はい?」

『ですから、私と桐乃のどっちが好きかって聞いているんです!』

 

 想定外で予想外で理解範疇外の質問が飛び込んできやがった。

 桐乃とあやせのどっちが好きかなんて質問に答えるのは簡単だ。

 だが――落ち着け、京介。

 これは“俺が本物である”と証明する為にあやせが出した質問だ。

 こいつは俺のことを『近親相姦上等の変態鬼畜兄』だと誤解している。もちろんこれには海よりも深い訳があるのだが、とある理由からこの誤解を解くわけにはいかず、今もってあやせの認識は変わっていないはずなのだ。

 即ち、あやせの中での俺は“桐乃が大好きの変態兄貴”であり、ここでは世間一般でいう真っ当な兄妹関係は想定されていない。ならばここで答えるべき内容は、当然“桐乃の方が好き”ということになるだろう。

 しかしだ。本当にそう答えて良いものだろうか。

 今、俺の目の前には加奈子がいる。

 ケーキを貪り食うのに夢中で俺の話なんざ聞いちゃいねーだろうが、万一にでも桐乃という単語を聞きとがめられると面倒なことになるのは間違いない。

 それにあやせは俺が桐乃へ近づくのを阻止しようとしている立場なので、桐乃が大好きだと答えた日にゃ問答無用でぶち殺されかねない。

 いつだったか貰ったメールには、ハッキリと“桐乃に手を出したらブチ殺します”とまで書かれていたのだ。

 ならば“あやせが好き”だと答えたとしよう。

 ……うん。これは想像するまでもなく答えが出ている。

 きっとセクハラ野郎の烙印を押された上で半殺しにされてしまうのだ。

 でさ、今気付いたんだけど、これって悪魔の問答じゃね?

 どう答えたところで俺は酷い目に遭っちゃうじゃん!?

 それともセクハラ野郎の烙印を押されるのが証明になんの!? それともあやせの奴、本当に俺を苛める為だけに電話掛けてきたんじゃなかろうな!? 

 うえええん。助けてバジえもん――もとい、バジーナさぁぁぁん!

 

「なあ、さっきから誰と電話してんの? 一緒にいんだからさぁー、目の前にいるあたしの相手しろよー」

 

 マズイことにケーキを食い終わった加奈子が暇を持て余しはじめた。

 このまま放置すると更に事態が悪化しかねない。そう思った俺は。ちょっと静かにしてろとジェスチャーで加奈子に伝えると、何とか話題を変えるべく口を開きかけた瞬間――冷たく凍った氷のような言葉に身を貫かれることになる。

 

『――――お兄さん。そこに誰かいるんですか?』  

「……え?」

『いるんですね? もしかして一緒にいるのって、あの“電波女”じゃないんですか?』

「で、電波って……黒猫のこと……か?」

『そうです。あの忌々しい泥棒猫と一緒にいるんですね。そうか――だからすぐに電話に出なかったんだ』

  

 何故だろう?

 受話器の向こうから金属を握り込むような音が聞こえた気がした。

 

「ち、違う違う! 誰も一緒にいねえ……ってわけじゃねえけど……」

『やや、やっぱり! 不潔ですお兄さん! そこ何処ですか? 私もすぐに行きますから場所教えてください!』

「待て! 落ち着け! それに外、大雨降ってっから!」

『関係ありません。早く場所を教えてください。もう玄関まで降りました』

 

 どうやらかなりヤバイスイッチが入ってしまったようだ。質問に答えなかった俺をニセモノと判断して始末しに来るとか。

 いくらあやせでもそれはねえと信じたい……。

 

「誰と電話してんだよぉ~。あたしの知ってる奴ー? 今言った黒猫ってなんの話だよぉ~?」

 

 目の前の加奈子は加奈子でうるさいし――って、こいつ腕を伸ばして俺の服を引っ張り始めやがった。

 仕方ないので一旦携帯を耳から離し、加奈子に電話相手があやせだと伝える。

 

「あ、あやせ!? なんであやせと電話してんの!? つーかあたしはここにいないから! 聞かれてもぜってえ教えるなよな!」

 

 あやせの名前を聞いた途端、加奈子が顔色を青くしながら首を振り出した。

 勿論これは至って正常な人間の反応である。

 俺も加奈子もあやせサマの恐怖は身を以って知っているからな!

 

『……どうやらお兄さんは、本気で私を怒らせたいようですね?』

「そんな気は毛頭ねえよ! というか落ち着けってあやせ。お前が勘ぐってるような要素は微塵もねえから」

『なら早くその場所を私に教えてください。一緒にいるの黒猫さんなんですよね?』

「加奈子だよ! 来栖加奈子ッ! お前の友達のっ!」

「ああああああぁぁぁぁっっー! 裏切りやがったなテメェ!」

 

 許してくれ加奈子。俺も命は惜しいんだ。

 結局その後、加奈子に携帯を渡して直接事実を説明してもらうことになった。どういう経緯で二人が一緒にいるのかを直接問い質すと言われたのだ。

 そりゃもう従うしかないっすよね。

 

『……事情は窺いました。もう本当ドジなんですから』

「し、仕方ねえだろ。あんなタイミングで加奈子に会うとは思わねえし」

『対応の仕方がマズかったって言ってるんです! でも桐乃との関係はバレてないんですよね?』

「ああ。それは大丈夫だ。たぶんこいつバカだし」

「誰がバカだこらぁ~! おまえのせいで加奈子がお仕置きされたらセキニンとれよなぁ~っ!」

 

 その心配はいらんぞ加奈子。

 だってお前がお仕置きされた後なら、もうこの世の人間じゃなくなってるはずだからな。

 そしてきっと俺も殺されるんだ。口封じの為に。

 

「……で、結局何の用事だったんだよ、あやせ。俺に用があるから電話掛けてきたんだろ?」

『そ、そうでした。でも加奈子もいるみたいですし仕切り直します。今夜電話してもいいですか?』

「構わねえよ。勉強してると思うから夜中まで起きてるだろうし」

『そんなに遅くならないと思いますけど……でもそれなら勉強の邪魔になっちゃうかな』

「いいって。というかお前の声が聞けたらリフレッシュすると思うし、むしろ歓迎だ」

『もう、またそんな調子の良いこと言って……通報しますよ?』

「警察も忙しいんですから、そんな簡単に通報しようとするんじゃありませんっ!」 

    

 とまあ、こんな感じで話がまとまり切りもいいのでお開きとなった。

 集中豪雨の特徴らしく店を出る頃にはすっかり雨も上がっていたので濡れる心配もない。

 あとこれは些事だが、加奈子のケーキセットは俺の奢りである。今日は麻奈実、フェイトさんに続いて三人目の奢りになった。

 俺はかなり軽くなった財布を眺めながら、心の中で一人涙を流す。

 くそ、次は奢らねえからな。

 

 

 

「ただいまぁ~」

 

 家に辿り着いた時、時計の針は午後の九時を過ぎていた。色々あって遅くなったが、取りあえず部屋に戻って荷物を置こう。

 そう思った時、二階からドアの開く音が聞こえてきた。

 

「桐乃か?」

 

 続いてトントンと階段を降りる音が響き、程なく桐乃が姿を現した。段上ですれ違うわけにもいかないので、このままあいつがリビングに入るのを待つことにした。

 

「遅かったじゃん。もう夕飯終わっちゃったよ」

「だろうな」

 

 我が高坂家では午後七時に食卓に付いていないと、問答無用で夕飯を抜かれてしまうという鬼の仕来たりがある。

 当然遅刻した俺の分の飯は用意されてないはずだ。

 

「カップメンくらいならあるけど、食べる?」

「いや、外で食ってきた。腹が減ったら適当にコンビニでなんか買って食うわ」

「ふーん。食べてきたんだ」

 

 ん? 何してんだこいつ。

 桐乃は階段を降り終わった姿勢で佇み、全くその場を動く気配がない。

 そこに突っ立てられると上れねえんだけど。

 

「どうした桐乃? 何か用か?」

「アンタ今外で食べてきたって言ったけど、一人じゃそういうことしないよね? 誰と一緒だったの?」

「あん? 何でそんなこと聞くんだ? お前に関係ねえじゃねーか」

「かんッ……」

 

 一度口を開きかけたのにも関わらず、桐乃はそれを無理やり閉じた。

 その代わり少しだけ表情が険しくなっている。

 

「……どうせ地味子んトコでしょ? 隠すなっつうの」

「麻奈実をその名で呼ぶなっつったろうが。なあ桐乃。絡むなら後にしてくれねーか。こっちは疲れてんだよ」

 

 腕を組み仏頂面を晒す妹を前にして途方に暮れる。

 桐乃の奴、明らかに不機嫌みてーだがその原因が分からない。

 俺をゲームに付き合わせようとして肩透かしくらったとか、そんな感じか?

 ったく。しゃあねえやつだな。 

 

「……ほら、この前俺が寝込んだ時に黒猫がノート持ってきてくれたろ? あれ麻奈実のなんだよ。その礼がてら一緒に飯食ってきただけだ」

 

 桐乃が何を怒ってるのか分からねえが、今聞きたい話は想像出来る。だから掻い摘んで今日の出来事を話すことにした。

 いつまでも廊下で突っ立ってられねえし。

 

「……何処で?」 

「学校の近くにあるお好み焼き屋。そんで帰り際に黒猫の妹に会ってさ、あいつのバイト先に連れてかれたんだ」

「え? くろいののバイト先って……ううん。それより会った妹ってひなちゃん、たまちゃんどっち?」

 

 そこ重要なのな。

 

「大きい方だよ。で帰ろうと思ったらあの大雨だろ? 雨宿りしてたらこんな時間になっちまったってだけの話だ」

「そっか」

 

 フェイトさんや加奈子に会ったことは話さなかった。若干心苦しいものがあったが、こればかりは仕方がない。

 あやせから電話があったことも内緒にしなきゃなんねーし……って、最近桐乃に対して秘密が増えたような気がするぜ。

 ……って、あれ?

 そう考えた途端、若干気持ちが落ち込んできた気がした。

 疲れてるからか?

 だが俺とは反対に桐乃は納得したように頷くと、壁のように塞いでいた場所からやっと身体を動かした。それから俺に背中を向けて歩き出す。

 さっきまで近かった距離が離れていって――何故か俺は、用もないのに背中から声をかけて桐乃を呼び止めていた。

 

「き、桐乃ッ」

「なに?」

 

 振り返った桐乃と目線が合った。けどかける言葉がみつからない。

 当然だ。だって初めから言葉を用意していなかったんだから。 

 

「……いや、なんでもねえ。呼び止めて悪かった」

「へんなやつ」

 

 リビングの扉が開いて桐乃の姿が飲み込まれる。

 俺はしばらく桐乃が消えた扉の先を、何故かぼーっと眺めながらその場に突っ立っていた。

 

 

 

 



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第二十二話

「あなたは一体何を考えているの。これから私達が作るものはカレーなのよ?」

「知ってるよ? だから一緒に食材選んであげてんじゃん」

「選んでって……その手に持っているのものはなに? 何処からどう見ても椎茸じゃないの」

「シイタケってきのこっしょ? うちのカレー、時々マッシュルームとか入ってるよ?」

 

 俺達は今大型スーパーの食料品売り場にいる。

 今の会話は前を行く桐乃と黒猫の話が耳に飛び込んできたものだ。

 

「あのね、きのこというカテゴリーは一緒であっても、マッシュルームと椎茸はまったく別の物よ。……先輩、あなたからも何か言って頂戴」

 

 あなたの妹でしょう? そういうニュアンスを含めた問いと共に、黒猫が振り返ってきた。

 だが、この問いに対する返答は簡単だ。 

 

「別にいいんじゃねえか? カレーって何入れても美味いし、なんつっても最強だしな」

「最強……ですって?」 

 

 開いた口が塞がらないとばかりに、目を見開いて硬直する黒猫。その直後に小さく息を吐くと、ぷるぷると小刻みに震えだした。

 

「……っふ、ふふ。素晴らしいチャレンジ精神だわ。けれど素人が料理で冒険するのは、とても愚かしい行為だと言わざるを得ないわねえ」

「おまえ素人じゃねえじゃん。この前家でもよく料理してるって言ってたじゃねーか」

「それはそうだけれど……椎茸を入れて作ったことなんかないし……」

「大丈夫、大丈夫。あたしも手伝ってあげるからさ。なんだったらこっちのキウイも入れてみない? 南国風カレーとか如何にもって感じで美味しそうじゃん!」

「椎茸だけで結構よっ」

 

 全くこの兄妹ときたら……と口にしながらも、黒猫は俺が持っている買い物かご(カートに乗せている)に椎茸のパックを投入した。

 なんのかんの言いながら桐乃の希望を取り入れるあたり、実にコイツらしいと思う。

 まあ桐乃の手伝い自体は阻止するとして、黒猫に任せておけば大惨事は起こるまい。そう確信しながら、俺はかごの中の食材を並べ直した。

 

「やっぱカレーっていったら付け合わせにサラダも必要だよね! 出来合いの物を買ってもつまんないしィ、ここはあたしが一肌脱いで――」

「おい待て、桐乃」

 

 サラダと口にしながら、何故か鮮魚コーナーへ赴こうとする妹を制止する。その声を受け立ち止まった桐乃は、やや不満気に眦を下げながら俺をねめつけてきた。

 ちなみに妹の桐乃は、普通のクッキーを石炭に変貌させる程度の料理技量を備えているので、俺の行為は賞賛に値するものと思ってもらいたい。

 食卓に暗黒物質(ダークマター)が上るのはご免被るぜ。

 

「……なに? アンタ何か文句でもあんの?」

「文句なんてねーよ。ただサラダにまで手を回す余裕はねえと思うんだ。俺は料理の役には立たねーし、黒猫を手伝えるのはお前だけなんだぜ?」

 

 言いながら、完成品のサラダをかごの中に放り込む。

 先に既成事実を作っちまえばこっちのもんだ。

 

「カレーつっても材料切ったり下ごしらえは必要だろ? 沙織は沙織でやることがあるみたいだしよ、黒猫のサポートはお前にしか頼めないんだ」

「え?」

「これでも頼りにしてんだぜ、桐乃」 

「そうなんだ……。あ、あんたがそこまで言うなら……黒いののサポートしてあげてもいいんだけどぉ」

 

 若干照れくさそうにもじもじと親指を合わせながら、桐乃がすっと目線を逸らした。

 っへ。我が妹ながらチョロイ奴だぜ。

 

「お前と黒猫が作ったカレー、きっとうめえんだろうなぁ! 想像するだけで涎が出てくるってもんだ!」

「っち。しょうがないなぁ~~~~。ホントはあたしも積極的に料理製作したいんだけどぉ、そこまで頼られたら嫌とは言えないしぃ、今回だけはサポートに徹してあげる!」

 

 勘違いしないでよねってなもんだが、これで桐乃の誘導はうまくいった。料理の味に関する部分に携わらせなければ(材料切るくれーなら)深刻な問題は起こさねえだろ。

 

「……先輩がそこまで期待してくれているのなら、少しだけ張り切ってあげてもいいのよ?」

 

 なんて、黒猫まで照れていたのは全くの想定外だったが。

 

 

 

 ――と、どうして俺達がこんなことをしているのかと言うとだ、説明する為には少しだけ時間を遡ることになる。

 その日、俺達は朝から集まりアニメ映画を観に行っていた。

 参加者は俺と桐乃と黒猫と沙織。

 とある理由から俺が二人を映画に連れていくことになり、それならばと沙織も誘って四人で出発することにしたんだ。

 知っての通り三人ともオタクだが、それぞれ趣向が違うので、観る映画にはかなり気を使ったのは言うまでもない。

 

「うっひゃぁ~~~~! 映画超面白かった! もうね、大! 満! 足!」

 

 映画館を出るなり、桐乃が嬌声にも似た奇声をあげ周囲の目を引いている。

 正直、近くにいる俺達からしたら迷惑この上ない行為なんだが、こうなった桐乃が簡単に止まらないことは、俺も含め黒猫も沙織も知っていることだ。

 

「ねえねえ、最後の展開とか超ありえなくない? 引き裂かれた二人が再び巡り合うなんて、もっっっっう最高だよねっ! 萌えるっていうか――燃えた!」

「最高ですって? ご都合主義も甚だしい無理やりなハッピーエンドじゃないの。こんなアニメを観て喜ぶのは訓練された萌え豚だけよ。マスケラの重厚さを見習って欲しいものだわ」

「そんなこと言ってぇ~、あんた最後のほう涙ぐんでたじゃん?」

「あれは、その、目に……ゴミが入っただけよ。きっと空調設備が壊れていたのね」

「ぬっふっふ。相変わらず黒猫氏は素直じゃありませんなぁ。顔に“とても満足したわ”と書いてありますぞ?」

「な、何を言い出しているの、このぐるぐる眼鏡は……。妄言もほどほどにしなさい。闇の眷属たる私が……あんな子供向けアニメを見て満足するわけ……」

 

 かぁっと頬を紅潮させながら言い訳を並べ立てる黒猫。

 黒猫言語マスターの俺からしたら、『とても面白かったわ』と言っているようにしか聞こえない。

 

「面白かったら面白かったって素直に言えばいいのに、ばかじゃん?」 

「実際良く出来たアニメでしたなあ。燃えあり、且つ萌えもあり。ストーリーに一本筋も通っていて、声優さんもキャラにバッチリ合っていたでござる」

「ねー! ヒロインを演じていた声優さんメルルの一期に出てたよね? 実は前から目を付けてたんだ!」

「……確かマスケラにも出ていたわね。一話限りのモブ役ではあったけれど」 

「ん~~~! アンタにしては良い映画選んだんじゃん。仕方ない。しゃくだけど今日だけは特別に褒めてあげる」

「何で兄貴が妹に“特別”に褒められなきゃなんねーんだよ……」 

 

 両手を腰に当て、尊大な態度で俺を見据える桐乃。顔はにこやかだが、とても他人を褒める態度とは思えないあたり、どうやら絶好調の様子だ。 

 まあ、三人とも楽しそうなんで、この映画を選んで良かったとは思うがな。

 やっぱりこいつらは揃って集まってる時が一番輝いて見える。

 桐乃も黒猫も沙織も、誰はばかることなく自分の趣味を全開にして、思い切り語り合える相手なのだ。

 楽しくないわけがない。

 

「そういえば先輩。これからどうする予定になっているのかしら? まだ時間は余っているけれど」

「いや、特に決めてねえけど……」 

「じゃあさゲーマーズとか色々冷やかしに行ってみる? あたし欲しいゲームがあるんだよねぇ」

「どうせ妹もののエロゲーでしょう? それならヨドバシかソフマップでPC用品でも見ていた方が有意義だわ」

「そういやあんた新型のペンタブが欲しいとか言ってたっけ?」

「ええ。もうすぐ夏コミだし、価格相応の品があれば買い替えもやぶさかではないわ」 

「別に一箇所に絞る必要とかねえし、全部回ったらいいんじゃねえか?」

 

 遠出して来ているとはいえ、早朝から出発したのでまだまだ日は高い。映画を観た後のプランは考えていなかったが、解散するという選択肢はなさそうだ。

 

「けど俺腹減ったよ。先に何か食おうぜ」 

 

 メシでも食いながらゆっくり相談しよう。

 その案に対して、意外にも反対意見を述べたのは沙織だった。

 

「待ってくだされ! 実は拙者、折り入って皆にお願いしたいことがあるのでござる」

「お願いって、どっか行きたいところでもあんの?」

 

 あまりこういう事に対して自己主張しない沙織の言葉に、俺達は暫し耳を傾ける。だが言葉を濁しもにょもにょと喋る沙織の態度に誰もが眉根を寄せた。

 俺達の知っている沙織・バジーナは、こんな風に言葉を濁したりせず、それどころか強引に話を進めるタイプだ。

 自分のことじゃなく他人のことについてとの注釈は付くが――万事全て拙者にお任せくだされ! ってなもんで、ついつい俺達も沙織に頼る癖がついてしまっていたほどなんだが……。

 勿論、このままじゃ駄目なんだと戒めてはいるんだぜ。

 

「そのですね……せ、拙者……拙者の……」 

  

 だから沙織の頼み事なら大抵の事は引き受けるつもりでいる。

 それは桐乃も黒猫も同じはずだ。

 

「なに? めっちゃ言い難いことなわけ?」

「そうでもないのでござるが……恥ずかしいというか……」 

「――っふ。何を遠慮しているの? それだけの図体をして縮こまっていても見苦しいだけだわ。それとも自分の身体を使ってサイコガン○ムの変形機構でも再現しているつもりなのかしら」

「さ、サイコ――!?」

「あ、それあたし達が始めて会った時にも言ってたよね? サイコガン○ムとかビグなんとかって。普通のガン○ムとは違うの?」

 

 初対面の沙織に対して、黒猫は“サイコガン○ム”か“ビクザム”とでも名乗りなさい、と言い放ったのだ。

 当時の俺も桐乃もいわゆるガン○ムには詳しくなかったので、いまいち想像出来なかったんだが、今なら黒猫の言わんとしたことが理解できる。

 分かり易く言うとでっかいガン○ムだ。

 桐乃は今でもあんま詳しくねえけど、今の俺は一年戦争から脈々と続く系譜を、他ならぬ沙織から“無理やり”レクチャーされたおかげでそれなりに詳しくなっていた。

 

「ふーん。それってデストロイガン○ムとは違うわけ? 聞いてたら頭ん中からそれが出てきたんだけど」

「違うわ。まったくの別物よ。はっきり言うとパクリね」

「そこはオマージュと言ってくだされ、黒猫氏……」

 

 得意分野の話が出てきたからか、沙織に若干の気力快復の兆しが見えた。

 そこで再び注目が彼女に集まり――沙織は大きく咳払いしてから

 

「じ、実は――拙者の家に皆を招きたいのでござる!」

 

 と、予想外の発言を放ったのだった。

 

 その後はもう仰天の連続だった。

 まず沙織の家が超ヤバイ。何がヤバイって

 

「え? ここって全部お前ん家なの? マジで?」

「拙者の家と申しますか、このマンション自体が両親の持ち物でして、それを拙者が間借りしているのでござる」

「それって、このマンション全部が“私の部屋”ということになるのではないの?」

「ええ、まあ」

「うわ、リアルお嬢様じゃん!? なんかチョット悔しいぃ!」

「……とんだブルジョワだわ」

 

 高級住宅街の中心地。そこに立つ瀟洒で綺麗な高級マンション。

 なんか学校に通うという名目で親元を離れる際、用意されたのがこの“部屋”だったらしいのだ。ちょこちょこそんな片鱗は見えちゃいたが、まさかここまでの金持ちだとは思わなかった。

 金ってのはあるとこにはあるもんだぜ。

 で、当然の如く部屋自体はあまりまくってるのだが、そこはオタク! 

 金持ちでもやることは変わんねえつーか、金持ちだからこそ度が過ぎてるっつうか、もうありとあらゆる部屋がオタ部屋と化していたのだ!

 まず最初に桐乃が壊れた。

 

「……え? なに? 信じらんない!? ここって超天国|(パラダイス)なわけ!?」

 

 部屋中に散りばめられたガラスケース。そこに収められていたのは無数の美少女フィギアだった。

 大きな物から小さな物まで。その種類は千差万別。

 中には桐乃の奴が大好きなメルル関連も集められていて、あいつは時間にして十分以上もそのガラスケースにカエルのようにへばりついていた。

 

「うへへぇ。じゅる。うぅ~~メルちゃん可愛いよぉー。なにこれ、なにこれ!? あたしを殺す気!? 殺す気なの!?」

 

 だらしなく目尻を下げ、うへうへ笑う姿は我が妹ながら実に気持ち悪い。

 こいつ仮にも自分がモデルだってこと忘れてねーか? 

 って、あ~あ、よだれ垂らしやがって。ファンがそんな姿見たら幻滅すっぞ。

 

「ヤバイヤバイヤバイヤバイ! ここ超ヤバイって! もう本当ヤバすぎぃぃ!」

 

 どう考えてもヤバイのはお前である。

 

「決めた! あたし今日からここに住む!」

「ふざけんじゃねえ!」

 

 次に壊れたのは黒猫だった。

 

「…………ここはどういうコンセプトの部屋なのかしら?」

「率直に言うとゲームセンターでござる。アーケードゲームからコンシューマまで色々と揃えて……おや黒猫氏? ゲーマーとしての血が疼きますかな?」

 

 比較的古いゲームが集められているのか、そこはまるで子供の頃にタイムスリップしたような感覚が味わえる部屋だった。

 電源は入っていないが、ゲーセンにあるような筐体が壁際に並べてあり、一角にはブラウン管テレビ(わざとそうしているらしい)が集められ、往年のゲーム機がキッチリと繋げられていた。

 スーパーファミコンにゲームボーイ。後はちょっとわからねえが、黒いのやら灰色のやら白いのやら、とにかく一杯盛り沢山だ。

 

「この、黒いゲーム機はなに?」

「それはメガドライブでござる。何かとネタにされるSEGAでござるが、海外ではSNES(スーファミの海外名らしい)ともタメを張れるほと売れたハードですぞ」

「これが伝説の……。確か合体した際には三つのACアダプターが必要だと聞いたけれど……初めて見たわ」

 

 合体? ゲームハードが合体すんの? んな馬鹿な。

 

「良くご存知で。メガドライブ、メガCD、そしてスーパー32X。一つのゲームをする為にコンセントを三つも使用するとは、いやはやSEGAはユニークでござるなぁ」

「是非、プレイしてみたいわ」 

 

 桐乃と同じように目を輝かせながら、いそいそとゲーム機を組み立てて行く黒猫。その後も目に入ったゲーム機の説明を沙織に求めては狂喜乱舞していた。

 こいつもやっぱ根っこからゲームが大好きなんだな。

 ソフトを選ぶ目がキラッキラしてるもんよ。

 

 

 とまあこんな感じで部屋を見て回る度に誰かしらはっちゃけるもんで、気付いたらかなりの時間が経過していた。

 そうなると当然腹も減ってくる。

 ここで冒頭に話が繋がる訳だ。

 朝から遊び倒した俺達の集大成として、夕飯も自分達で作ろうということになり、三人で近所のスーパーまで買い物に来たというわけ。

 ちなみに沙織は、部屋の片付けやらなんやら用事があるというので、マンションに居残っている。

 

「ん、あんたこれ持って」

 

 買い物を済ませスーパーを出た直後、桐乃が俺の目の前にビニール袋を突き出してきた。

 食材以外にもお菓子だとかジュースだとか、かなり好き勝手買い物しまくったので、結構な荷物量になり、それぞれ一つずつ大きな袋を提げていたのだ。

 

「なんで俺が――」

「あんた男でしょ? こういう時くらいしか役に立たないんだからさぁ、文句言わないで持ちなさいよ」

「……へいへい。謹んで持たせて頂きますよ、お嬢様」

「うっわ。お嬢様とか、キモいっつうの!」 

 

 俺は今たぶんこいつを殴っていい。許されるはずだ。

 

「ふふ。そうやって日々妹に調教されているのね先輩は。私も真似てみようかしら」

「お前も桐乃に影響受けてんじゃねーよ……つーか、頼むから止めてください」

 

 家で桐乃にいびられるだけでも限界っだてのに、その上学校で黒猫にまで苛められたら、俺の心が休まる暇がねえ。

 一気に弓兵レベルまで磨耗しちまうよ。

 そう思いながら、俺は受け取った袋を左手に纏め、空いた右手を黒猫の前に差し出した。

 

「え?」

「そいつもよこせ。ついでだし持ってやるよ」

「い、いいわよ、私は。第一先輩に持ってもらう理由がないし……」

「ついでだって言ったろ。二つも三つも変わりゃしねーって」

 

 半ば無理やり黒猫から袋を奪い取り、そそくさと歩き出す。

 後であーだこーだと言われると面倒だしな。

 だから俺は、後ろで黒猫が“ありがとう”と呟いた言葉を、耳で拾うことが出来なかったのだ。

 

 

 



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第二十三話

「おかえりなさい。京介さん、きりりんさん、黒猫さん。お待ちしておりしたわ」

「えっと――すいません。部屋、間違えました」  

 

 両手をドアノブに添えて、音が鳴らないようにそっと扉を閉める。

 沙織の部屋に帰って来たと思ったら知らない人が中にいた。何を言っているのか分からねえと思うが、俺も何を言っているのか分からない。

 なんてポルナレフやってる場合じゃねえか。

 単純に入る部屋を間違えたんだろう。

 マンションという構造上周りには似たような扉が並んでるし、なにせ始めて訪れた場所だ。表札もかかってないしな。

  

「なにやってんのアンタ? そんなトコで突っ立ってられると中に入れないんですけどォ?」

 

 軽く舌打ちしながら、桐乃が肩で俺を押し退けてくる。それからドアノブに手を伸ばし、そっと扉を開いて――暫し固まった後、おもむろに扉を閉じた。

 

「えっと……沙織の部屋って何処だっけ?」

「二人とも何を言っているの? この部屋で合っているはずよ」

 

 どいて頂戴、と黒猫が扉の前に立つ。

 それから慎重に扉を開いていき――

 

「あの、皆さま、どうして扉を閉めるんですの?」

「え? あ、あなた……」 

 

 そこにいたのは深層の令嬢もかくやという超絶美人だった。

 立てば芍薬。座れば牡丹。歩く姿は百合の花。もうホント全身から、たおやかで、淑やかで、いわゆる“お嬢様”っつうような清廉なオーラが放たれているんだ。 

 

「……黒猫さん。京介さん。きりりんさん」 

 

 若干涙目になりながら、お嬢様がオロオロし始めた。

 その仕草は小動物を見てるみたいで可愛いらしいが――翌々考えれば、さっきも今も俺達の名前を呼んでいたような気がする。

 あれ? 何でこの姉ちゃん俺達の名前知ってんだ? 

 使用人ってわけでもねえだろうし。ということは、もしかして……。

 

「お、お前……沙織なのかッ!?」

 

 マジで? え? マジで!?

 

「はい。わたくしは皆さんの良く知る沙織・バジーナですわ」

 

 困惑する俺達を尻目ににっこりと微笑む沙織さん。

 って、思わず“さん”を付けたくなるくらいの別人に成り変わっていた。

 まずトレードマークのぐるぐる眼鏡を掛けていない。それだけならさほど問題じゃねえんだが、コイツの場合根本から違って見える所為で、もう“変身”したようにしか感じられないのだ。

 服装もいつもの野暮ったいオタクファションじゃなくって清楚なワンピースに着替えてるし、髪型もサラサラしててすっごく綺麗だし……つーか、こいつ滅茶苦茶スタイルいいな。

 ゲームとか漫画でさ、眼鏡を取ったら実は美人でしたって展開あるじゃん? 

 それを軽く超越しちゃってるからね、沙織の場合。バジーナだった頃の面影なんて全然ないし、心なしか声まで違って聞こえやがる。

 一言で表現するならヤバイ。二言使えば超ヤバイ。

 

「……驚きすぎよ、先輩」

「いや、だって、普通驚くだろ!?」 

「それは否定しないけど、沙織も女の子なのだから自重しなさいということよ」

 

 むう。黒猫に叱られてしまった。

 このクラスのメタモルフォーゼになると度肝抜かれるのは仕方ねえと思うんだが――確かに桐乃も黒猫も唖然としていたが、俺ほどは取り乱してはいない。

 やっぱ男から見た女の子の印象と、女から見た女の子の印象は違うのかもな。

 

「ねえ。それってもしかしてコスプレなワケ?」

「いいえ。これが本来の“わたし”の姿なのです」

 

 軽く佇まいを直してから、優雅にお辞儀をしてみせる沙織。次いで彼女は、高らかに宣言をするように俺達を前にしてこう述べた。

 

「始めまして皆さま。わたくし槇島沙織と申します」

 

 

 

「……なにこれ? 意外にムズイ……じゃん」

「そうじゃないわ。包丁ではなく持っている野菜のほうを動かすのよ。無理に押し切ろうとすれば指先を怪我をすることになるわよ」

「えー? それで皮が綺麗に剥けんの?」

「慣れれば簡単よ。ほら、ちょっと貸してみなさい」

 

 リビングのソファに陣取りながら、台所に立っている桐乃と黒猫を流し見た。

 ここは沙織のマンションにある一室。間取りはリビングキッチンになっていて、ソファでくつろぎながらでも料理する二人の様子を窺うことができた。

 並んでエプロンを羽織り(エプロンは沙織に借りた)料理する様は、見ていて実に珍妙である。例えるなら、親父が家の大画面で萌えゲープレイしているようなもんだ。

 お兄ちゃ~んとか呼ばれて顔を赤らめてる親父とか想像できねえだろ?

 俺だって桐乃が台所に立つ姿なんか見たことねーし。黒猫は料理自体は得意らしいが、そんな姿なんざ拝んだこともない。学校でのあいつを知ってる分イメージできねえってもんだ。

 けどさ“悪くねえ”とは思ったよ。

 今も黒猫は桐乃の手に自分の手を重ねながら、丁寧に野菜の皮剥きをレクチャーしている。桐乃も色々文句を並べながらも、取りあえずは黒猫の言う事を聞いているし。

 

「ちょ、ちょっと待って! 今んトコもう一回やって!」

「焦らないで。ゆっくりでいいのよ。――と、ほら出来たじゃない。御覧なさい。この人参の皮はあなたが剥いたのよ」

「へ……へえ。結構綺麗に剥けるもんなんだ。なんていうか、思ったより簡単……じゃん」

「あら、頬の筋肉をそんなに緩めて。もしかして嬉しいのかしら?」

「ハァ!? な、なに言ってんの!? 野菜の皮剥きくらい――こんくらいアタシなら出来て当たり前だしィ、嬉しいとかないっつうの!」

「あらそう」

 

 素っ気無い反応だったが、黒猫の声音はとても優しい雰囲気に満ちていた。

 桐乃も自分で切った人参を眺めながら、満更でもない表情を浮かべている。

 

「……でさ、この人参、ちゃんと料理に使うんだよね?」

「当たり前じゃないの。食材を無駄にすると罰が当たるわ」

「罰って、あんたさ、もっとこう他にうまい言い方とか出来ないワケ?」 

「ククク。どうやら手放しで褒めて欲しいようねえ。なら相応の働きをしなさいな。そうすれば、栄誉ある“堕天聖”の称号を分け与えてあげてもいいのよ?」

「いやいや、称号とかマジでいらないし。つーかさアンタが名乗ってる“千葉の堕天聖”とかめちゃダサくない? 悪いこと言わないからさ、それ名乗るのやめたほうがいいよ」 

「な、なんですって……。たかだかマル顔モデルが言ってくれるじゃないの。いいかしら? あの名前には千枚の葉が優雅に舞い散るという意味が込められていて――」

「はいはい邪気眼乙! つーかマル顔モデル言うなっ!」

 

 ははは……。本当に相性最高だぜこいつら。

 お互い文句を言い合ってはいても、その言葉の中に隠しきれない“親愛”が混じっているのだ。

 この様子ならカレー作りは任せておいても大丈夫だろう。

 そう思った俺は台所から目線を切って、対面に座っている沙織・バジーナならぬ槇島沙織に視線を向けた。

 彼女は上品な姿勢でソファに腰掛けながら、さっきまでの俺と同じように黒猫達の様子を目で追っている。けれど俺の視線に気付いたのか、沙織も顔を正面に戻して俺に向き直った。

  

「きりりんさんと黒猫さん。相変わらず仲がよろしいですわね」 

「喧嘩ばっかしてるけどな。けど最近はアレでじゃれあってるようにしか見えなくなったぜ」

「ですわね。初対面から意気投合してましたし。相性が良かったのでしょう」

 

 俺と同じようなことを言いやがる。

 まあ出会いからして俺達は四人一緒だったし、考え方も似てくるんだろう。

  

「けどさ、さっきはマジで驚いたよ。おまえがまさかこんな絵に書いたようなお嬢様だったなんて」

「そう言って頂けると、勇気を振り絞ってこの姿を晒した甲斐があるというものですわ」 

 

 綺麗に形作った手を口元に沿え、クスクスと微笑む沙織。

 気品のある優雅な微笑みだった。

 およそ他人がやったら、これこそ芝居がかった仕草になるだろうが、こいつの場合“こっち”が本来なんだとばかりに様になってやがる。

 

「これでいつぞやの約束は果たせましたでしょうか」

「約束?」

「あら、お忘れですの? 京介さんが仰ったんですのよ。清楚なお嬢様然としたわたしを見たいと」

「あー。二人して親父を尾行した時のことか。まあ確かに言ったけどよ」

 

 正直ここまで変化するとは予想していなかったつうの。

 あん時言ったのは半分冗談みたいなもんで、まさか本当にご令嬢だったとは想定外だ。というか、改めて見てもスーパー○イヤ人級の美人だな、沙織の奴。

 物腰も柔らかいし、笑いかけられるだけで思わずドキっとしちまうくらいだ。

 

「ですが、少しだけ安心しました。本当のわたし――この姿をみなさんに曝け出すことで距離を置かれてしまうんじゃないか。そんな風に考えていましたから」

「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ。どんな格好してたっておまえはおまえだろ? 沙織・バジーナも槇島沙織も、全部ひっくるめて“沙織”なんだ」

 

 俺達に自分の正体を明かしたのは、本当の自分を知ってもらいたかったからだと沙織は言った。

 そりゃ最初は驚いたさ。桐乃も黒猫も目を剥いてたしよ。

 でも俺達は友達なんだ。あいつらもすぐに今の沙織を受け入れてた。

 そんくらいのことで俺達がお前から距離を取ったりするわけねえよ。

 

「桐乃の奴も黒猫もさ、俺と同じこと言うと思うぜ。それに……なんつーか、おまえのことが分かって嬉しかったし」

「京介さん……」 

 

 感極まったように瞳を潤ませる沙織。白魚のような指先を絡めながら、真っ直ぐに俺を見つめてくる。

 って、これはヤバイ。

 元々沙織には良い印象しか抱いていなかったのに、ここにきてこの変貌はヤバすぎる。今まで意識してなかった分、色々と女らしい部分が目に付いてきて……。

  

「沙織、俺――――ってっ痛ええッ!?」 

「き、京介さん!?」

 

 言葉の途中で突然脳天に激痛が走った。

 今の一撃は後方からの斬撃。そう確信して後ろへ振り返ってみれば、何故かおたまを手にした桐乃の姿が目に飛び込んできた。

 

「いきなり何しやがる桐乃!?」

「あんたマジキモい。ちょっと沙織の素顔が美人だったからって目の色変えちゃってさ。デレデレしすぎっだっつうの」

「で、デレてなんかいねーよ! つーかお前、今“おたま”で殴ったろ!? メチャクチャ痛かったんだぞ!?」

「――フッ。いやらしいオスは粛清されて当然よ。そういうのを自業自得と言うのよ、先輩」

 

 桐乃の後ろから黒猫まで現れた。

 てかなんでこいつら怒ってんだ? 

 意味分かんねえ……。

  

「反省の色なしと。もう一発いっとく?」 

「待って。鞭ばかり与えるのはナンセンスだわ。やはりここは飴も同時に与えないと」

「アメ?」

 

 飴と言って小鉢を差し出してくる黒猫。その小鉢には、何故か生タマネギの千切りがこんもりと盛られていた。

 

「えっと、なんスかこれ……」

「なにってカレーの“味見”に決まっているじゃないの。さあ先輩、美味しく召し上がりなさい」

「断じてこれは“カレー”じゃねえええええッッ!!」 

「クスクス、あはは――」

 

 俺達のやり取りを見ていた沙織がいきなり爆笑しだした。

 いやいや、笑ってねーで止めてくれよ! このままだと生のタマネギ大量に食うことになっちゃうでしょ俺!?

 そう思っていたのに、沙織は何処からか取り出した“ぐるぐる眼鏡”を装着するや

 

「本当は食事の後に切り出そうと思っていたのでござるが、明日は祝日ですし、皆で拙者の家に泊まっていかれては如何ですかな?」

 

 なんて爆弾発言を放ちやがったのだ。

 

 

  

 料理を担当したのが桐乃と黒猫なら、食後の後片付けは俺と沙織の担当になる。という訳で俺と沙織は並んで台所に立ち洗い物に従事じていた。

 桐乃と黒猫はリビングで雑談中だ。

 ちなみに今の沙織は眼鏡を装着したまなので、以前と同じござる口調に戻っている。姿形は清楚なお嬢様のままなので、俺の中での違和感がMAXに増幅されてはいたが。

 

「ったく親父の奴。桐乃が友達の家に泊まるって言った時は反対してたくせによ、俺が一緒だと分かった途端OK出しやがって」

「それだけ京介氏が信頼されているということでござるよ。黒猫氏も明日は両親が一日家にいるということで残ってくださるし、拙者はもう少しこの時間が続くことが嬉しくてたまらないでござる」

「そいつには同感だけどよ。なんとなく釈然としねえな」

 

 きゅっと蛇口を捻って水を止める。

 ちなみに桐黒合作カレーは、妹の手が入っているにも関わらず滅茶苦茶美味かった。

 感想の述べた後の、やたらと得意げな桐乃の表情と、少しはにかんだように照れる黒猫の対比が忘れられない。

 まあ、概ね“楽しい”食事会だったよ。

 

「さてっと。洗い物も終わったし、この後どうするんだ、沙織?」

「もちろん遊び倒しましょう! 普段と違い時間の制限がござらん――と言いたいところなのですが、その前に京介氏。お風呂に入られてはどうですかな?」

「風呂?」

 

 唐突な言葉に眉根が寄る。 

 

「はい。今日の疲れを洗い流してくだされ。勿論、京介氏の後に拙者達も入らせて貰うでござるよ」

「それなら別に俺は後でも構わねえけど」

 

 分かってないでござるなぁとばかりに、俺の目の前で人差し指を振る沙織。

 自分でチッチッチと擬音まで付けている拘りぶりだ。

 

「女の子には色々と準備があるのでござるよ。ささ遠慮召されず、ドドーンと男らしく入ってきてくだされ!」

「……じゃあ先に入らせて貰うわ。サンキュな沙織」

「いえいえ。――――どうぞ、ごゆっくり」

 

 別れ際に見た沙織の表情は、何か悪戯を思い付いた子供のように輝いて見えた。

 

 

 

「ふう。さっぱりしたぜ!」

 

 風呂から出るや、用意されていたバスタオルを頭から被り込む。

 気分爽快。今日一日の疲れが吹っ飛ぶこの感じが最高だ。しかも沙織ん家の風呂が想像以上に広くて綺麗だったので、思わず長風呂しちまったほどだ。

 入る前は沙織の表情が気になって(リビングにいた桐乃と黒猫も不敵な表情を浮かべていた)いたから、正直リラックスできるか不安だったが、どうやら杞憂に終わったようだ。

 悪戯を仕掛けてくるんじゃねーか、なんて考えた俺が馬鹿だったってことだな。

 

「あれ? おかしいな」

 

 なのに身体を拭き終わった後で強烈な違和感が俺を襲う。

 脱衣所に入る前と後で決定的に違う場面があったのだ。

 

「えっと」

 

 ……。

 辺りを

 ………。

 よく

 …………。

 観察する。

 ……………。

 

「って、俺の服がねええええええっ!!?」

 

 え? 何で服がねえの? ちゃんと畳んで篭の中に入れといたのに!?

 辺りに視線を飛ばし服を物色する。篭を引っくり返し、物陰を探して、更に風呂場の中までも確認したが、やはり俺の服は見つからなかった。

 

『――さ、沙織! いるか沙織! 一大事だ! 俺の服がなくなったッ!」』 

 

 こうなっては仕方ないと、脱衣所から大声で助けを呼んだ。

 今の俺は素っ裸なのだからここから出て行くという選択肢が選べない。

 

「なんでござる、京介氏~?」

 

 幸い沙織は近くにいたようだ。

 俺は緊急事態が発生したんだと伝え、掻い摘んで服がなくなったことを報告する。

  

「服でござるか? 申し訳ござらん。実は手違いで京介氏の服を洗濯してしまいまして」

『せ、洗濯だって!?』

「はい。ですが既に代わりの服は用意してありますので、それを着て来てくだされぇ~」

『ちょ……!?』

  

 足音の響きから沙織が遠ざかって行くのを感じた。それから少し待ってみたものの、何の反応も得られない。

 って、マジかよ。

 果たして沙織の言う通り、見慣れない服が一式、脱衣所の隅に綺麗に畳まれた状態で置かれていた。

 一応その服を確認する。

 

「え? なんでマントとか入ってんの? これってコスプレ衣装じゃね?」

 

 正直言うと、若干引いた。

 しかしこれを着ないと脱衣所から出たくても出られない。バスタオル一丁作戦もあるっちゃあるが、結局俺の服はないわけで、一時凌ぎにもならない愚作だろう。

 つーか、タオル捲いてリビングまで行ったら、間違いなく桐乃にはっ倒される。

 

「背に腹は代えられない……か。仕方ねえ。男には覚悟決めなきゃならねえ時が必ず訪れるって、親父も言ってたしな」

 

 きっとそれが“今”に違いない

 俺は拳をぎゅっと握り絞め、心の中で勇気という名の撃鉄を起こした。

 断腸の思いだが、本当マジで着たくねえんだけど、コスプレするしかないようだ。

 

「えっと、どれから着りゃいいんだ……?」 

 

 難解な服装なんで、一つ一つの部位を確認してから着込んで行く。

 そして数分後。アニメマスケラの主人公“漆黒”となった俺が脱衣所に君臨することになった。

 鏡に映った自分を観た感想は。

 

「やべええええええッ! 俺超かっけえッ!」

 

 本物? これマジでヤバくね?

 コスプレをすると気が大きくなるのか、普段なら絶対しないポーズとか決めちゃったりして

 

夜魔の女王(クイーン・オブ・ナイトメア)――貴様の慟哭、喰らわせて貰うッ!」 

 

 風呂上りで全身から漂っている湯気がオーラを模してる。

 

「フッフッフ――ハッハッハッ!」

 

 こうなってくると脳も冴え渡ってくる。沙織達の作戦は読めた。

 余興としてコスプレした俺を見てからかおうって魂胆に違いない。

 誰が言い出したのかは知らねえが、俺がやられっぱなしで終わると思うなよ。これだけ似てる俺を見れば逆にあいつらの予想を上回れるに違いない。

 

「いやぁ我ながら凄い才能だぜ。待ってろよ桐乃ッ! 黒猫ッ! 沙織ッ! おまえらの度肝を抜いてやるからな!」

 

 そして満を持して登場した俺を待っていたのは――三人娘の笑いの渦だった。桐乃なんか床を転げ周りながら爆笑しやがるし……本当、散々な目に遭ったぜ。

 ちなみに、寝巻きとして支給されたジャージに即効着替えたのは言うまでもないだろう。

 ぐすん。

 これ、トラウマになったりしねえだろうなぁ……。

 

 

 

 夜中になってふと目が覚めてしまった。

 覚醒しきっていないぼうっとした思考のまま辺りに目線を走らせる。そして見覚えのない情景からここが自分の部屋じゃないんだって気付いた。

 そっか。今日は沙織のマンションに泊まったんだっけ。

 仰向けに寝たまま天井を視界の中心に捉える。

 目に映るのは見慣れない模様と豪華な照明器具だけ。当たり前だが、そこに馬乗りになった妹の姿はないし、頬も叩かれてもいない。

 ――人生相談。

 あれ以来夜中に目を覚ましちまうと、どうしてもあいつのことが頭を過ぎってしまう。

 普段はすぐ隣の部屋で眠っている俺の妹。

 今は沙織や黒猫と一緒に対面の部屋で過ごしているはずだ。 

 品行方正、成績優秀、スポーツ万能、眉目秀麗。雑誌のモデルをやりながら、書いた携帯小説はベストセラー。まったく何処の完璧超人っだつうのな。

 けど俺にとっちゃ昔から変わらない、妹の高坂桐乃だ。

 兄の顔を見れば悪態を吐きやがる。ちょっとしたことですぐ怒る。挙句の果てには問答無用で足蹴にしやがる始末だ。

 まさに傍若無人ここに極まれり。

 アニメが好きで、ゲームが好きで、漫画が好きで。趣味のエロゲーを語らせれば何時間でも喋っていられる。

 そんな妹と言葉も交わさない“冷戦”も経験した。

 その頃に比べれば――互いに無視しあっていた時期に比べれば、随分と距離も縮まったと思う。

 それを俺は嬉しいって感じているんだ。

 けど勘違いしないでくれ。俺は桐乃のことは大嫌いなんだ。それでもやっぱりあいつはたった一人の俺の妹だからな。かわいいなって思っちまう時もあるさ。

 とまあ、こんな風に益体もないことを考えちまう訳なんだが、結局は朝になったら忘れちまう程度の些細な思索だ。

 だから俺はいつものように毛布を被り、再び眠っちまおうと目を閉じた。だがどうしてか今日だけは目を瞑っていても睡魔が訪れてこないのだ。

 慣れない環境に戸惑っているのか、まだ精神が高ぶっているのか。身体は疲れてるはずなのに一向に寝付ける気配がない。

 

「……しゃあねえ。水でも飲んでくるか」

 

 何かしらのリアクションを取れば落ち着くかもしれない。そう思った俺はベッドから身を起こすと、喉を潤すべく歩き出した。

 まず扉を開き廊下に出る。

 目指すはリビングキッチンだ。

 その時ふと気になって、桐乃達が陣取っている部屋に視線を向けた。

 一瞬夜中までガールズトークを炸裂させてんじゃねーかと疑ったりもしたが、辺りに音は無くしーんと静まり返っている。

 どうやら三人とも大人しく眠ってるようだ。

 俺は起こしちまわないように足音に気をつけながら、ゆっくりと女子部屋の前を通り過ぎ、そのまま目的の部屋へと進入を果たす。

 そこは、さっきまで騒いでいたリビングキッチン。

 まず俺は電気を点けようと壁際に手を這わせ――室内が綺麗な青色で染められていることに気付いた。

 壁に面した大きな窓から、淡い月の光が射し込んでいるのだ。光量的には心許ないが、電気を点けなくても室内の造形を把握出来る程度の明るさは確保されている。

 

「はは。神秘的っつうか、黒猫がいたら宵闇の加護がどうこうとか言い出すんだろうな」 

 

 辺りに視線を巡らせる。

 最初に目に飛び込んできたのは部屋の主役であるダイニングテーブルだ。夕飯時にはこいつを囲んでみんなでワイワイと騒ぎあった。

 食事風景としちゃあちとうるさ過ぎたが、偶にはああいうのも悪くないだろう。

 風呂の後には桐乃と黒猫がソファでじゃれあっていた(アニメのことで口論となり、キャットファイトにまで発展しやがった)し、沙織は沙織で面白がって茶々入れまくるしで、俺の突っ込みスキルがフル稼働状態だったぜ。

 桐乃と黒猫と沙織と一緒になって遊び倒す。一年前なら想像も出来なかった出来事。この四人の誰が欠けても成し得なかった光景だろう。

 その時、壁際に這わせたままの右手がスイッチを探り当てた。

 けどそれ以上指が動かない。

 感傷ってわけじゃねえけど、電気を点けた途端、それらの光景が目の前から消えるような気がして躊躇われたのだ。

 

「ま、いいか」

 

 月明かりだけを頼りに、キッチンにある冷蔵庫を目指す。そしてちょうど部屋の真ん中辺りまで来た時、頬を撫でる風の感覚が変わったことに気付いた。

 誰かが部屋に入ってきたのか?

 気配を頼りに振り返ってみる。すると、室内に入りかけた姿勢のままこっちを見つめる人影と目線が合ってしまった。

 その人影も先に室内に誰かいると思っていなかったのか、俺を見て動きを止めている。

 目を凝らしてみる。

 腰まで届く長い黒髪。桐乃や沙織ほど大きくない体躯。いつもと違って飾り気のないパジャマ姿は思いのほか新鮮に映った。

 

「黒猫、か?」

「……先輩? あなたも飲み物を取りにきたの?」

 

 あなたもってことはこいつも同じか。

 まあ喉が乾いた以外に夜中にここまで来る理由はねえよな。

 

「悪い黒猫。そこの右手にスイッチがあるから電気点けてくれ」

「……厭よ。私は夜の眷属。月光を全身に浴びている時こそ本領を発揮できるの。人工の光によってその機会を無為にしてしまうのは心が咎めるわ」

「はは……。夜中でも相変わらずなのな、おまえって」

「フン。先輩にデリカシーがないだけよ」

 

 そう言った黒猫が、ふいっとそっぽを向いてしまう。

 電気点けてくれって言っただけなのに意味が分からん。

 けどこいつも何か飲みに来たんだろうし、ついでだから一緒に用意してやるか。そう思った俺は一旦黒猫から視線を外すと、キッチンまで歩き付近を物色した。

 沙織は自由に使ってくれていいと言ってたが、本当に何でも揃ってるな。

 

「なあホットココアでいいか?」

「え?」

「何か飲むんだろ? ついでだし作ってやるよ」

 

 黒猫をリビングで待たせ、その間にホットココアを作る。といっても牛乳にココアパウダーを混ぜて、レンジでチンしただけの即席のものだ。

 これでもコーヒーや紅茶よりも覚醒成分が薄いって聞いたことがあるし、眠れなくなることはないだろう。

 リビングに戻り席に着く。それから対面に座った黒猫にカップを差し出した。

 

「ほいよ、お待たせ」

「……ありがとう」

「結構熱くなってから気をつけろよ」

 

 両手を差し出しながら丁寧にカップを受け取る黒猫。それからゆっくりと口元へと運んでいき、舌を軽く付けた段階できゅうっと眉根を寄せた。

 

「だから熱いって言ったじゃねーか」

「……うるさいわね。呪うわよ」 

 

 軽く睨み付けてから、黒猫は“ふー、ふー”と息を吹き掛けながらココアを冷ます作業へと没頭していく。

 そして冷めた頃合を見計らって、コクコクと喉を鳴らしながら飲みはじめた。

 つーか、この仕草可愛いな。

 服装が普段と違うパジャマなのも手伝って、より魅力的に見えやがる。

 

「なあ黒猫。それって沙織に借りたのか?」

「え?」

「だから、その服」 

「服…………って、ハッ」

 

 指摘されて始めて気付いたのか、黒猫は慌てたように胸元を押さえながら、身体をくの字にして小さく丸まった。

 その状態から目線だけ俺に寄越し

 

「あまり……見ないで頂戴。恥ずかしい……から」

「そう言っても暗くってあんまり見えてねーぞ」

「それでも……駄目。生地が薄くって……身体のラインが出てしまっているもの」

「よし、分かった! 今すぐ電気を点けよう!」

「点けたら先輩の目を潰すわ」

「冗談、冗談だって!」

 

 ぷくーと膨れる黒猫に軽く頭を下げる。

 極度の恥ずかしがりやである黒猫をからかうには、それなりの技術がいるのだ。 

 

「でも似合ってる――つうのも変かもしれねえけど、いつもと違うから新鮮に感じるぜ」

「そ、そうかしら?」

「ああ。つーか、やっぱ似合ってるわ。もっとおまえの色んな格好が見たいって気になるくらいにな」

「……あ……う……」

 

 かあっと頬を紅くして黒猫が俯いてしまった。それからテーブルに置いたカップに視線を落とす。

 

「せ、先輩の……漆黒コスも、似合っていたわ」

「マジで? 桐乃にはめっちゃ笑われたんだけど……」

「少なくとも私は格好良かったって思ったわ。ほ、本当よ?」

「はは。サンキュな。その言葉で少し救われたぜ」

 

 お世辞なんだろうけど、褒められると悪い気はしねーよな。

 その後は、互いに言葉を交わさずにココアを飲む時間だけが過ぎていった。

 けど嫌な沈黙じゃない。俺と黒猫の間にはこういう時間がよくあったのだ。桐乃がまだアメリカに留学していた頃、ゲー研の部室や俺の部屋で――よくあった。

 だから俺は、この雰囲気を懐かしいとさえ感じていた。

 たぶん黒猫もそう思っているんじゃねえかな。脈絡もなくそんな思いに囚われてさえいた。

 その時、不意に黒猫が顔を上げる。

 沈黙が破られたのだ。

 

「ねえ、先輩」

「なんだ?」

「……あ、あのね、ずっとあなたに……言わなければと思っていた言葉があるのよ。今伝えておかないと――後悔しそうだから」

 

 薄暗い部屋の中では相手の表情の細部までは見えない。それでも黒猫が何か大切なことを言おうとしているのだけは感じられた。

 予感とでも言うのか。自然と心臓の鼓動が高鳴っていく。

 

「言葉……?」

 

 身動ぎをする気配から、黒猫が頷いたことが分かった。

 そして――

 

「ありがとう、先輩」

「え?」

 

 唐突に告げられたお礼の言葉。まったく想定していなかった展開に、間抜けにも俺は聞き返すことしか出来なかった。

 

「今日、とても楽しかったわ。……ううん。今日だけじゃない。“桐乃”に会ってから、沙織と会ってから、あなたと出会ってから――私はいつだって楽しかった」

 

 一言一言、ゆっくりと噛み締めるように、黒猫が言葉を紡いでいく。

 決して流暢とは言えない。それでも喋るのが苦手なこいつが、必死に思いを言葉にしている。

 

「始めてみんなで夏コミに行った時、あなたの家でアニメの鑑賞会を開いた時、レンタルルームを借りてあなたを励ました時、……メイド服を披露した時は恥ずかしかったけれど、どれもとても楽しかった」

 

 真っ直ぐな言葉が俺の貫いていく。それに合わせて、身体が熱くなっていくのを感じた。

 

「だから、ありがとう先輩」

「俺は、別に……なんも特別なことはしちゃいねーよ。ただ一緒に遊んでただけじゃねーか」

「それでも私は嬉しかった。――私の小説が貶された時、あなたは本気で怒ってくれたわ。私が高校に入学してトラブルを抱えた時、先輩は気にかけて心配してくれたわ。縁日で会った時、浴衣が似合ってるって、褒めてくれた」

 

 言ってて恥ずかしくなってきたのか、黒猫がだんだんと俯いていく。

 それでも目線だけは決して俺から逸らそうとはしない。

 

「どれも私にとってとても大切な出来事。だから先輩には、ありがとうって、伝えたかったの」

 

 最後に黒猫は、最高の笑顔を添えてそう言った。

 正直、思考が纏まらない。

 黒猫の真摯な思いに中てられたのか、頬が急激に熱くなってきやがるし……いや頬だけじゃない。早鐘のように鼓動を打ち続ける心臓から、全身へと熱い血液が送られているのだ。

 その中でも一際強く、右の頬が熱くなる。

 かつて黒猫にキスされた――

 

「あなたに出会えて、良かった」 

 

 脳は沸騰したように煮立っている。まともに呼吸が出来ないほど息が苦しい。驚きが次の驚きを呼んで、頭の中の混乱に拍車を掛ける。

 だからだろうか。

 俺は黒猫に対してストレートな質問をぶつけてしまっていた。

 

「い、いきなりそんなこと言われたら、俺だって男だ。正直“勘違い”しちまうぞ」

「か、構わない……わ」

「構わないって――!?」 

 

 ここで始めて黒猫が視線を逸らした。

 耳まで真っ赤にしながら唇を結び、必死に何かに耐えている様子に、あの頃の黒猫の姿が重なった。

 脳裏に蘇ってくる短い一言。

 ――呪いよ、と。

 

「……」 

「く、黒猫。おまえ、もしかして、俺のこと……好きなの?」

「好きよ」

 

 声音は小さく、それでも即答で――

 

「――好きよ。あなたの妹が、あなたのことを好きな気持ちに負けないくらい」

 

 彼女は、いつかとは少しだけ違う答えを俺に返してきた。

 

  

  



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第二十四話

 ――好きよ。

 

 可愛らしい唇が紡いだのは呪いの言葉。そのたった三文字の言葉が、俺の脳内で繰り返されている。

 それに伴って体温が急激に上昇したような浮遊感を感じた。

 激しく脈打つ心臓の鼓動が、目の前にいる黒猫にまで聞こえてやしないか、なんて考えまでが脳裏を過ぎったほどだ。

 暗闇の中で、じっと何かを待つように俺を見つめてくる黒猫。

 いつもの特徴的なゴスロリファッションでもなく、見慣れた学校の制服姿でもない。今まで一度も見た事がないパジャマ姿に見惚れて、まるで時間が止まったかのような錯覚さえ覚えた。

 黒猫は宵闇の眷属だなんて嘯いていたけど、月明かりを全身に浴びる彼女は――綺麗だった。

 

「黒……猫」 

 

 やっとの思いで一言だけ口にした。それに対し彼女は瞳で応えてくる。

 真摯に、真っ直ぐに。けれど少しだけ潤んだ瞳を向けてくる彼女。

 早く何か言わないと。

 そう思っていても肝心なその後の言葉が続いてこない。それでも無理やり唾を喉の奥まで押し込んで、何とか話せる態勢だけは作った。

 

「えと、さ、今のって……」 

 

 別に黒猫は俺のことが好きだと“告白”してきた訳じゃない。今言った台詞は、いつかも口にした“言葉遊び”みたいなものだろう。

 なのに顔が紅潮してくるし、胸が高鳴ってくる。

 暗闇の中で女の子と二人きり。それも慣れないシチュエーションが加わってる所為なのか平常心が保てない。けど意識するなっていう方が無理な話だ。

 

 ――あなたの妹が、あなたのことを好きな気持ちに負けないくらい。

 

 普通に考えれば言葉通りの意味なんだと思う。即ち、桐乃が俺のことを好きって程度には好きって意味だ。

 以前の俺はそれを黒猫なりの冗談なんだと受け取った。だって桐乃が俺のことを好いているとは思えない。桐乃と黒猫は出会ってからの時間は短くても、お互いを良く知る親友同士だ。

 だから冗談交じりにからかわれたんだろうと。

 けれど、でも、今回は――

 あの時とは少しばかりニュアンスの違う黒猫の言葉と、あの時とは違う俺の心境がそれを否定してくる。

 

「っ……」 

 

 なあ、黒猫。

 今のってどういう意味なんだ? 

 そんな短い言葉が発せない。相手の真意を問い質すには、舌の上に乗せるしかないというのに。

 

「せ、先輩――」

「く、黒猫――」

  

 意を決し、言葉を発したのは奇しくも二人同時だった。

 だから俺も黒猫も驚いてしまって後が続かず――ちょうどその時だった。

 まるで見計らっていたかのように、バタンッ! という大きな音が室内に響き渡ったのは。

 

「……え?」

「今の……音って?」

 

 二人して一斉に音のした方向へと振り返る。

 視線の先にあったのは俺達が歩いてきた方向――廊下へと通じる扉だけ。それも閉じられた扉だ。他に変わった様子もなく、誰かの姿が見えることもない。

 風で扉が押されて閉じてしまったのか? 

 最後にこの部屋へ入ってきたのは黒猫だが、彼女が扉を閉めていたかまでは覚えていない。もし開いていたなら風を受けて閉まった可能性もある。

 だけど……。

 そんな自分の推測を確かめるよりも早く黒猫が動いた。

 彼女は自身の前にあるカップを手に取ると、静かに席を立つ。その流れの中で俺の前にあるカップまで手を伸ばすと、取って部分に指を絡めた。

 少し歩き、俺の隣で立ち止まる彼女。その一連の動作に自然と目線が吸い寄せられる。

 今、黒猫は立っていて、俺は座ったままで。だから俺達の関係には珍しく俺が黒猫を少し見上げる格好になった。

 彼女の手の中にある二つのカップ。それを黒猫は少し掲げて

 

「夜中なのに思わず長居をしてしまったわね。けれど今回はこれでお開きにしましょうか。明日の朝も早いのだから、部屋に戻って休みましょう、先輩」

 

 そう言った黒猫がゆっくりとした足取りでキッチンの方向へと歩いて行く。けれど途中で一旦歩みを止めた彼女は、その場でくるりと振り返ると

 

「カップは私が洗っておくから、先輩は先に戻っていて頂戴。――ココアありがとう。とても美味しかったわ」

 

 薄暗い部屋の中で距離が開いてしまっては、相手の表情の細部まで窺うのは難しい。なのに柔らかい雰囲気というのか、黒猫が柔和に微笑んだのがハッキリと伝わってきた。

 

「おやすみなさい、先輩。また明日、ね」

 

 

 

 興奮して眠れないんじゃないか。そんな考えも杞憂に終わったようで、思ったより早く俺は眠りに落ちることが出来た。

 昨日は朝からの映画鑑賞から始まって沙織宅の訪問、それから深夜まで色々とみんなではっちゃけたのだ。疲れが溜まっていても不思議じゃない。

 さっき黒猫に真意を問い質そうとした時になった音。それについても気になったが、色々と考えを巡らせている最中に意識が落ちていたのだ。

 窓は閉まっていたと思う。

 だから風を受けての開閉は考え難いんじゃないか……いや、廊下側まで確認していないから一概には言えないけど――なんて詮無いことを悩んでいたのだ。

 今にして思えば誰かがあそこにいたのかもしれない。

 俺と黒猫がそうだったように、ふと、夜中に目が覚めて。

 

「おはよう、先輩。昨夜はよく眠れたかしら?」

 

 起き抜けの頭を覚醒させる為に洗面所へ。その後でリビングへ行った俺を迎えたのは黒猫だった。

 既に黒猫は昨夜のパジャマ姿からいつものゴスロリ姿へと戻っている。けれどそれを見た俺は、何だか勿体無いような、それでいて安心したような不思議な感覚を覚えてしまった。

 

「まあな。やっぱ疲れてたのか、あの後すぐ眠っちまったよ」

「そう。良かったわね」

「おまえはどうだ? よく眠れたか?」

「ええ、おかげ様で。同人誌の締め切りなんかで徹夜には慣れているけれど、一睡も出来ないと流石にこの後困るもの」

 

 ふわふわしたような感覚が全身を包んでいる。

 どうしても黒猫を前にすると昨夜の出来事が思い出されてしまうからだ。けれどいつもと変わらない彼女の姿が、普段通りの日常へと俺を導いてくれる。

 

「困るって?」

「今日も色々と遊び倒すのでしょう? あなたの妹がやたら張り切っていたわよ」

 

 そんの黒猫の言葉通り、少し遅れて来た桐乃は、部屋に入るなりハイテンションな様子で巻くし立ててきた。 

  

「おっはよー! ねえねえ今日はドコに行く? 実はあたし行きたいトコがあるんだよねぇ。昨日はさ、なんだかんだで秋葉散策が途中になっちゃったじゃん?」

「おまえ、朝から元気だな……」

「当然っしょ! あ、買い物したら荷物持ちはあんたの役目だかんね」

 

 両手を腰に当てたまま胸を張ってポーズを決めてくる我が妹。必要以上に元気な以外は、普段の桐乃と変わらなく見える。

 化粧もバッチリ決めているし、グッスリ眠ってリフレッシュした感じ満載だ。

 もし昨夜のあの場にこいつがいたのなら、何かしらリアクションがあっても良さそうなものなのに。

 

「おはようでござる、お三方。昨日は良く眠れましたかな~?」 

 

 続けて現れた沙織の様子も普通(お嬢様スタイルにぐるぐる眼鏡装備というチグハグな格好ではあるが)で、これまたおかしな点は見られない。

 とすると、昨夜のアレはやはり風の仕業だったのだろうか。

 

「うん、バッチリ眠れたよ。寝心地も抜群だったし、もう最高っ!」

「ふふふ、喜んでいただけたようでなによりでござる。ではでは朝食を取りながらこれからの予定――作戦会議と洒落こみますかな?」

「それはいいのだけれど、もうあのお嬢様口調には戻らないの? 見た目と口調との違和感が凄いわよ」

 

 俺が胸に抱いていた疑問を黒猫が代弁してくれる。

 果たして沙織は

 

「バジーナでいた時間が長かったですからなぁ。こちらの方が喋り易いと申しますか……まあ、京介氏が望むのでしたら、すぐにでもスタイルを変えますが」

「なんで俺に聞くの!?」

「さて、どうしてでしょうね。気になるのでしたら、今度じっくりとご自身の胸にでも聞いてみてください」

 

 なんて、眼鏡を外しながら微笑んだのだ。 

 

 そんなこんなで、今日も朝からいつものと同じように俺と桐乃、黒猫と沙織の四人で遊び倒すことになった。流れとしては昨日の続きみたいな感じで街へ繰り出し、各々が希望する場所を回っていくような感じだ。

 フィギアショップなんかでは桐乃がはしゃぎ回っていたし、ゲーセンでは黒猫が格ゲーの対戦台に座って連勝を重ね(松戸ブラックキャットの異名は伊達じゃない)て、沙織が一般人は知らないような隠れた店に連れていってくれたりと、俺達の間では恒例になりつつあるシチュエーションを展開していく。

 けど、そんな中でも気になること――なんつーか、やっぱり自然と黒猫の姿を目で追ってしまう瞬間があった。楽しそうに笑う黒猫の姿に、昨夜の彼女を重ねてしまう。

 ふと目線が合った時には、二人して目を逸らしたり。それ以外は概ねいつも通りの楽しい一日(桐乃の宣言通り荷物持ちにされたりしたが)だった。

 しかし“変化”は唐突に訪れた。

 それも最後の最後、俺達の別れ際にだ。

 心地良い疲れを感じながら駅前に集まる俺達四人。本来なら電車で帰る俺と桐乃、黒猫を沙織が見送る格好になるんだけど、何故か桐乃が黒猫を呼び止めたのだ。

 

「ねえ、ちょっち話があるんだけど」

 

 ゆっくりと桐乃を振り仰ぐ黒猫。その表情には、驚く俺や沙織と違って、まるで“予想していたわ”とでも言うように穏やかな笑みが浮かべられている。

 

「ちょうど良かったわ。私もあなたと二人きりで話したいと思っていたところよ」

「へえ、奇遇じゃん」

 

 腕を組んで鷹揚に頷く桐乃。

 それから桐乃は黒猫に近づくと、目線で駅とは反対方向を指した。

 

「あたしが何を話したいか気付いてる感じじゃん?」

「気付いてるというか予想がつくというか。この場で話せるような内容じゃないのでしょう?」 

「まあね。じゃあどっかその辺りの店に入ろっか」

「ええ、いいわ」  

 

 桐乃の提案を受け、黒猫がコクンと頷く。

 それを合図にして、二人は肩を並べて歩き出す……って、おいおいチョット待て!

 

「桐乃! 黒猫! 二人して何処に行こうとしてんだよ? これから帰るんじゃなかったのか?」

 

 辺りは既に茜色一色に染まっている。

 ちょっと時間を潰すだけで、高坂家の鉄の掟(午後七時に食卓に付いていないと問答無用で飯抜き)に抵触するだろう。

 まさか二日続けて外食って訳にもいかねえし、それはあいつも重々承知のはずなんだが。

 

「アンタは先に帰ってて。あ、ご飯はいらなってお母さんに伝えといてくれる?」

「いらないって、なんで――」

「たぶん、遅くなるからさ」

「遅くなるって……おい、桐乃ッ!?」

 

 俺の返事を待たず、人ごみの中へと消えていく二人。

 後には呆然とした表情を貼り付けた俺と、複雑な面持ちで佇む沙織だけが残されていた。

 

 

 

 結論から言えば。桐乃の奴は食事の時間になっても結局帰ってはこなかった。

 親父がやたらと不機嫌になっていくのを眺めながらの食事は酷く味気ないもので、俺はお代わりもせず早々に飯を切り上げることになった程だ。

 それから三時間後の夜十時を過ぎた辺りになって、やっと桐乃が家に帰ってくる。

 その時俺はちょうど風呂上りで、玄関から入ってきた桐乃と鉢合わせる格好になった。

 

「――うん。今家に着いたから一旦切るよ。……うん。スグに掛け直すから」

 

 歩きながら電話していたのか、耳にスマホを当てている桐乃。だが、それをバッグに仕舞い込むや、親父やお袋に挨拶もせず二階へ上がろうとする。

 

「おい桐乃! 親父もお袋も心配してたんだぞ。挨拶ぐらいしてけよ」

「あれ? アンタいたんだ?」

 

 一応は立ち止まりましたってな調子で、階段に足を掛けたまま振り返ってくる我が妹。位置関係の所為でいつもと違って俺が妹を見上げる格好になった。

 

「いたのかって……」 

「ナニ? 用があんなら早くしてよ」

「だから親父に報告しろって。おまえがいないから目茶機嫌悪いんだぞ」

「ごめん。今ちょっち忙しいからさ、後で」

「待てってッ!」

 

 俺の制止に対しムっとした表情を浮かべる桐乃。だけど何とか妹の動きを止めるのには成功した。動作の端々から苛立ちが伝わってくるが……ってか、こいつさっきまで黒猫と一緒にいたんだよな?

 ということは、今電話してた相手も黒猫なのだろうか。

 

「ナニ? 用があんなら早くしてよね」 

 

 何故か猛烈に嫌な予感がしやがる。

 明確な根拠がある訳じゃねえけど、心がざわめくのだ。

 だからだろうか。俺は唐突に桐乃に対して馬鹿げた質問を投げかけていた。

 

「なあ、おまえさ、黒猫と喧嘩とか……してないよな?」

「はァ?」

 

 いきなり何言い出してんのコイツ? みたいな感じで桐乃がキョトンとした表情を浮かべている。かと思いきや、今度はいきなり破顔すると、あははと豪快に笑い出した。

 

「してない、してない。別に黒いのと喧嘩する理由なんか……ないし。これは、その、ちょっと大事な話があっただけ」

「大事な話?」

「そ」 

 

 そう言って桐乃が一度閉まったスマホを取り出し、耳に当てる仕草をする。

 先程すぐに掛け直すと言っていたから、まだ終わってないよという示しだろうか。

 

「ホント、喧嘩なんかしてないからさ、だから心配すんな、兄貴!」

「え?」

 

 兄貴と口にしながら微笑む桐乃。

 聞き違いか、見間違いかと確かめるよりも早く、あいつはダンダンと音を立てながら二階へと上がって行った。

 

 

  

 




今回で第二章が終了。お話として一区切りといったところでしょうか。
次回から少しづつ壁を乗り越えていくような感じになっていくと思います。


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第三章
第二十五話


『――上手に焼けましたぁ~!』

 

 軽快なBGMと共にファンファーレが鳴り響き、こんがりとお肉が焼けたことをプレイヤーに知らせてくれる。

 それを現すように、画面内のキャラクターが、骨のついた大きな肉の塊を天空へと掲げていた。

 

「ククク。これくらいの業は千葉の堕天聖と呼ばれる私からすれば児戯に等しいわ。目を瞑ってたって“こんがり”と焼けてしまうもの」

 

 誇らしげな表情で肉を掲げているプレイヤーAさん――仮にここでは黒猫と呼ぶ――が、陶酔したように甘美な声を発しながら、隣にいるプレイヤーBさん――仮にここではあやせと呼ぶ――に蔑んだような視線を送っていた。

 

「ほらほら、どうしたの? この程度のゲームなんて簡単にこなしてみせるのでしょう?」

「……だから、今やってるじゃないですかっ。気が散るんであまり話し掛けないでください!」

 

 真剣な面持ちで画面を食い入るように見つめるあやせさん。

 彼女が手に持った携帯ゲーム機を操作するのに合わせて、先程と同じく軽快なBGMが流れ出す。

 

「えっと……音楽が終わってからだから――ええいっ!」

 

 タイミングを合わせ、ポチっとボタンを押すも……結果は生焼け。

 失敗を告げる演出と共に、画面内のキャラクターが落胆したように俯いていた。

 

「あうう……」 

 

 現状を説明すると、ここは俺の部屋の中である。で一体何をしているかといえば、携帯ゲーム機で協力プレイをしている最中なのだ。

 遊んでいるゲーム名は『モンスターハンター』

 かなり有名なゲームなんで聞いたことがある人も多いだろうが、簡単に説明すると、フィールド上に散らばったアイテムを採取しつつ、徘徊するモンスターを倒し素材をゲット。それらを合わせて新たな装備を入手し更なる強敵へと挑んでいく。

 とそんな感じのアクションゲームである。

 

「あらあら。どうやら生焼けになってしまったようねぇ。その前は真っ黒に焦がしていたし――こんがり肉すらまともに入手できないなんて、モンハンをプレイする資格以前の問題よ」

  

 勝ち誇ったように微笑みながら、黒猫(超玄人)があやせ(ド素人)を見下ろしている。

 その視線の圧力に耐えながら(身体がぷるぷる震えてた)も、何とかあやせは肉焼きを再開していく。

 

「……ぐぐっ。お、お兄さん! 音楽が終わった直後にボタンを押せば良いんですよね!? きちんと押してるのに……壊れてますよ、このゲーム!」

「あ、いや。若干のタイムラグがあるんだよ。ほらよっく画面みてみ? 肉の色が茶色に変わった瞬間を狙って押せば大丈夫だ」

「え? 音楽じゃなくって画面ですか? ……って、ど、どど、どうしたら――」

「ほら、余所見してっと機を逃すぞ――って、今だ!」

「ええいっ!」

 

 タイミング良くボタンをぽちっとな。 

  

『――上手に焼けましたぁ~!』

「きゃあ! 上手に焼けちゃいました!」

 

 画面上のキャラクターが誇らしげに肉を掲げている。

 ったくよぉ。

 肉が焼けたくれーで嬉しそうに目を輝かせやがって――めっちゃ可愛いじゃねえか。

 もう気付いてるかもしれないが、一応説明しておこう。

 この場にいる人物は全員で三名。

 まず家主である俺と『松戸ブラックキャット』の異名を取る凄腕ゲーマーの黒猫。そしてまったくのゲーム初心者でもあるあやせの三人だ。

 どうしてこんな珍事が発生しているかというと、発端はあやせの相談事。

 

『――お兄さん。ご相談があります』 

 

 例の如くいつものフレーズで始まった相談事というのは――桐乃と一緒にゲームをして遊びたい、というものだった。

 オタク趣味を蛇蝎の如く毛嫌いしているあやせだが、どうにかそっち方面でも桐乃に歩み寄ろうとは考えていたらしい。

 事実、あまり如何わしくないもの(メルルとか)については話したりしてるらしいのだ。

 しかし肝心の知識が皆無なあやせでは、一向に桐乃との溝を埋めることが出来ず途方に暮れていた。

 もっと仲良くなりたいけど、歩み寄り方が分からない。

 桐乃の裏の親友とも言うべき黒猫の存在が、あやせの焦りを生み出していた可能性も考えられる。

 今まで親友は自分一人だと思っていたのに、桐乃には全く違うベクトルの趣味を持つ友達がいたのだ。そっち方面で対抗したくなったとしても無理からぬことである。

 そこで“ライト”な部類から馴染んでいきたいというあやせの為に、今日という日を設けたのだ。

 いきなりエロゲーをやらせるという荒療治もあったが、これはいわば劇薬に相当する。用法用量を守らず、対処方を間違えるとえらいことになってしまうだろう。

 その点モンハンなら、いわゆるオタクやゲーマー以外にも浸透してるし、桐乃も楽しんでプレイしていていた。

 俺も無理やり付き合わされた経験からそれなりのレベルに達していたし、これならあやせを手助けすることも可能だ。

 そう判断し、休日の朝から部屋に集まってモンハンをプレイしているという訳である。

 幸いあやせが携帯ゲーム機を所持していた(仕事関係で貰ったらしい)おかげで、初期投資も小額で済んだ。

 ちなみに親父とお袋は揃って出掛けているし、桐乃は部活の練習で家にはいない。なので現在この家の中にいるのは俺と黒猫、そしてあやせの三人だけになる。

 もしこれがエロゲなら、何らかのイベントに突入してもおかしくないシチュエーションと言えるだろう。

 

「フン。やれば出来るじゃないの。じゃあ今度はこのツルハシをあげるから、そこいらで鉱石でも掘っていなさい。ハッキリ言って戦闘の邪魔だから」

「じ、邪魔!?」

「そうよ。あなたは画面端で卑しくツルハシを振るいながら、私と先輩が華麗に協力して敵を屠る様を目に焼き付けておくといいわ」

「わ、わたしだって戦えますよっ! 除け者にしないでください!」 

「その程度の魔力ではこの戦いには付いてこられないと言っているの。大人しく引っ込んでいなさいな、スイーツ二号」

「す、スイーツ……二号!?」

 

 ちなみに一号の称号を頂いたのは桐乃だ。

  

「けれどそれだけだと流石に可哀想だから、戦闘後に素材を剥ぎ取ることだけは許可してあげる。――ククク、この私の慈悲に感謝することね」 

「……もしかしてわたしは、明確に喧嘩を売られているんでしょうか?」 

  

 すっと瞳から光彩を消して、何故かゲーム機を逆手に持ち替えるあやせさん。

 

「いやいやいや! 黒猫が言いてーのは、装備の整っていないあやせだと敵に攻撃を当てられただけで死んじまうから、ここでしか手に入らないアイテムを今のうちに入手しとけってことで……だから、リアルファイト始めようとしてんじゃねーよっ!」

 

 本当、おっかねえ女だぜ。

 だがまあ黒猫の言動はあれだが、案外面倒身が良くて初心者のあやせを助けてくれている。

 アドバイスも的確だし、ことゲームに関しちゃこいつ以上に詳しい知り合いはいないので、この場に呼んで正解だったとは思う。

 最終的に桐乃を交えてプレイすることを加味すれば、多人数で遊ぶこと自体予行演習になって良いだろう。

 後は俺が二人が喧嘩しないように目を光らせていれば事無きを得るはずだ。

 

「――フフ。またつまらないものを切ってしまったわ」 

 

 不敵な笑みを浮かべる黒猫。

 そうこうしている内にボスモンスターを打倒し終え、このゲーム待望の剥ぎ取りタイムがやってきた。

 簡単に言うとだな、目標の敵を倒したのでご褒美にお宝をゲット出来るって寸法だ。もちろん健気にツルハシ振ってたあやせにもその権利はある。

 

「おーい、あやせ。もうこっちに来てもいいぞ。んでそこに倒れてる敵から素材をゲットするんだ」

「はい、お兄さん。えっとこうガリガリってナイフを垂直に突き立てるんですよね?」 

「……ああ。間違っちゃいねーが、なんでそんなに嬉しそうなんだ?」

「え? クリア出来たからに決まってるじゃないですか。……と、あら? なにやらアイテムを手に入れましたね。これって、逆鱗?」

 

 なんだと?

 

「げ、逆鱗ですって?」 

 

 黒猫も絶句している。

 

「どうしたんですか? 二人ともそんな唖然とした顔をして?」

「……いや、それレアなんだよ。めっちゃ出にくいアイテムなんだ」

「へえ、そうなんですか。じゃあラッキーっていうことになりますね!」

 

 特に感慨もなくあやせが頷いている。

 強敵との初戦で逆鱗ゲットするとは、あやせ恐ろしい娘。

 お祝いに今度コゲ肉をプレゼントしてやろう。

 

「……フ、フフフ。私がそのアイテムを手に入れるのに狩った竜の数を教えてあげましょうか? 96匹よ、96匹! ――いっそ呪い殺してやろうかしら」

 

 まあ、おまえの気持ちも分かるが、落ち着け黒猫。

 よく言うだろ? モンスタハンターには物欲センサーが内臓されてるって。

 無欲の勝利ってやつだ。

 ……ぐすん。

 

 ってな感じでそれから三時間ほど、俺達はモンハンをプレイし続けた。

 ちなみにあやせと黒猫の二人は床にクッションを引いて座ってプレイしている。黒猫がいつものようにベッドに腰掛けようとした瞬間、あやせがマッハで待ったをかけたのだ。

 その後何故か睨み合いになり(空中に火花散ってて怖かった)結局、二人して床に座ることに落ち着いたらしい。

 あのやり取りの中に何の意味があって、どうして二人並んで座ってんのかは意味不明だ。

 俺はというと、椅子に座った状態でプレイしているので、二人を見下ろすような格好になっていた。

 服装次第では胸の谷間が覗ける位置関係だが、黒猫はいつものゴスロリだし、あやせも肌がまあり露出しない服装なのでハプニングが起こり得るはずもない。

 一応言っとくが、覗きたいってことじゃねーからな。

 あくまで位置関係を説明しただけで他意はない。

 

「慣れてくると結構楽しいですね、このゲーム。爽快感というか、切った感触がたまりません」

「……思ったより上達が早いわね、この女。アクションゲーム初心者ということだけれど、戦闘行為そのものと相性が良いのかしら?」

 

 幾つかの武器を試した結果、あやせの琴線に触れたのは太刀や双剣といった刀剣類だった。

 片手剣は攻撃力が物足りない。大剣は動きがもっさりしているということでお気に召さなかったようだが、現在使用している双剣はえらく気に入ったようだ。

 嬉々とした様子で獲物を振り回し、モンスターを粉微塵に切り刻んでいる。

 この分だと太刀も気に入るだろう。

 黒猫はゲーマーらしくあらゆる武器を使いこなすので、俺達の武器や敵の特性に合わせてその都度獲物を変えていた。

 しかもだ。

 

「モンハンはスタミナ管理が重要よ。双剣を使うなら尚更ね」

 

 という風にあやせにアドバイスも忘れない。

 犬猿の仲だったはずだが、やはり間にゲームが介在すると心まで優しくなるのだろうか。

 とは言うものの、一言二言と余計な言葉を付け加えることもあって、その度にあやせがリアルモンハンを始めようとしやがるので、仲介役である俺のストレスが凄い勢いで加算されているのを付け加えておこうと思う。

 つーか、この二人に挟まれたままほっとかれたら俺は入院する自信があるね。

 それか悟りを開いて仏陀になる。

 聖なるお兄さんってやつだ。

   

「――あ、そうだ。お兄さん。ペイントボール余ってませんか? ちょいちょいっとボスにぶつけちゃってください」 

 

 おっと、あまり考え事ばかりもしてられねえ。

 今は狩りの真っ最中だった。

 そう思った時、目線はゲーム機に固定したまま黒猫が、あやせに対して質問を投げかけていた。 

 

「ねえ、あやせさん。一つ質問があるのだけれど、答えてくれるかしら?」

「なんですか黒猫さん? 今ちょっと忙しいんですけど」

「すぐに済む話よ。ねえ、あなたのそのマイキャラクター、どうして名前が“京介”なのかしら?」

 

 ピククッ! とあやせの肩が反応する。 

 

「どうしてこの男の名前を付けているの? 画面内のキャラクターは自分の分身とも言える存在よね」

「それがどうかしましたか?」 

「あなたは先輩のことが大嫌いなはずよね? なのに京介というキャラクターを使用している。疑問だわ。是非納得のゆく説明をして欲しいのだけれど」

「そ、それは……その、なんとなく……といいますか……」

「なんとなく? 無意識に名前を付けてしまうほど先輩のことを意識しているというの?」

「そんな馬鹿なことあるわけないじゃないですかっ!」

 

 馬鹿な事と、力一杯全力で否定してくれやがりました。

 

「じゃあどうして“京介”と名付けたの? あなた、あの女とゲームをするのが目的なら、レベルアップの為に家に帰った後でもモンハンをプレイするのでしょう?」

「……ちょうど携帯できるゲームですし、空いた時間にちょこちょこやろうとは思ってますけど」

「なら、想定内の出来事のはずよね?」

「だから、何のことですっ!?」

「想像して御覧なさい。部屋の中で一人画面の“京介”と向き合うあなた。頬をうっとり桜色に染め上げて、ニヤニヤニヤニヤ笑みを浮かべながら悶え転がる様をっ!」

「へ、変態ッ! そんなお兄さんみたいな真似……わたしがする訳ないじゃないですかっ!」  

 

 ひでえ侮辱だ! 俺だってそんなことしねーよっ!

 やってんのは主に桐乃だ。

 

「あ、あり得ません。わたしが……その、お兄さんと同名のキャラを見て、よ、喜ぶなんてこと……」

「参考の為に一つ教えておいてあげるわ。そういう行為を“萌える”というのよ!」

「も、燃え!?」 

「漢字が違うわね。草冠に明るいで“萌え”よ」

 

 考えるのではござらん。感じるのです。その先に“萌え”はあるのでござるよ。とは俺の友達の言だ。 

 

「ごく一部では草冠に湯で“蕩れ”というセンシティブな言葉を使う人もいるけれど、一般的にはこちらの“萌え”を使うわ。まあサブカルチャーの世界では常識ね」

「そんな常識求めてませんよッ!」

「勿体無いわね。あなたには素養があると思っていたのに」

「そ、素養って……冗談でもやめてください」 

 

 心底嫌そうに眉を潜めるあやせ。

 少しは歩み寄りを見せてるとはいえ、まだこっちの世界には抵抗があるのだろう。 

 

「わたしは……お兄さんが嫌いだからキャラクター名に“京介”って付けたんです!」

「嫌いだから? 色々と不可解な答えだわ」

「だって、わたしはゲーム初心者なんですよ? アクションゲームだと聞いていましたし、その、殴られたり吹っ飛ばされたりするのかなぁって。その点“京介”という名前ならどんな理不尽な行為が起きても一切心が痛みませんし」

 

 おいおい、なんだよあやせさん。その理屈はよ!? 

 幾ら何でも酷すぎじゃね?

 

「へえ、殴られても蹴られてもボコられても“京介”ならオールオッケーってこと?」

「ええ、そうとってもらっても構いません」

 

 ……なんつーか、こいつら妙なところで息合うよな。

 具体的に言うと、俺を苛める時とか。

 あんまり苛められると俺、泣いちゃうからね?

 

「納得していただけましたか?」 

「まさか。そんな逃げ口上で納得するものですか。喋る気がないのなら、喋りたくなるように仕向けるまでよ」

 

 フフと口端を上げ、邪悪な笑みを浮かべる黒猫。

 あやせに対して更なる猛攻でも仕掛けようというのか――って、そろそろ仲裁に入らねえと火の粉がこっちまで飛んできそうだな。

 俺は経験則からそう判断した。

 

「やめろって黒猫っ。今日は三人で仲良くモンハンで遊ぶ約束したじゃねーか。あんまりあやせを煽んじゃねーよ」

 

 黒猫は生粋のゲーマーだ。

 その特性を利用し、注意を画面側へと引き戻す作戦を実行する。

 

「ほらあやせ。シビレ罠を設置してやっから、ボスが罠にかかったらそこに大タル爆弾を設置するんだ。さっき黒猫に教えてもらったろ?」

「は、はい!」

「……」 

 

 俺の言葉に導かれ、二人が手元の画面に視線を落とす。

 なんとか誘導成功か、そう思った時、タイミング良く画面の中で敵が罠にかかった。

 一応説明しておくと、シビレ罠というのは網にかかった敵を行動不能状態にするアイテムであり、敵は完全に無防備になる。

 それを利用して捕獲したり、爆弾で大ダメージを与えたりするんだが――あやせが敵の側に大タル爆弾を設置した瞬間、それは起こった。

 

「……え?」

 

 画面内に轟き渡る爆発音。

 大タル爆弾は、罠にかかった敵と一緒に“京介”を華麗にフッ飛ばしていた。

 哀れ、火達磨になって地面を転がる京介。

 そしてクエスト終了を告げるファンファーレが鳴り響いた。

 

「…………」 

 

 見事敵を討伐したキャラクターがガッツポーズを決めている。

 しかし火達磨になった京介は、木製の荷台で運ばれスタート地点まで戻されていた。

 

「あら、ごめんなさい。つい手が滑ってしまったわ」

 

 寒々しく響くのは、黒猫の謝罪の言葉。

 こいつは今、京介を撒き込むのを承知で、飛び道具を使い大タル爆弾を起爆させやがったのだ。

 もはや鬼の所業である。

 

「く、黒猫……さん?」

 

 ちなみに、クエストクリアから一分間は素材を剥ぎ取るサービスタイムが与えられるのだが、スタート地点に戻されたキャラは時間内に敵を倒した地点まで急行し、素材を剥ぎ取らねばならない。

 マップを把握してない初心者では、とても不可能な芸当だろう。

 

「フフフ。残念ね、あやせさん。折角強敵を倒したというのに素材をゲットできないなんて。――アッハッハ! 勝利の咆哮を聞きながら悲嘆に泣きくれるといいわ」

「わ、わざとやったんですか……? わたしが退避してないのを知っていて……?」

「莫迦ね。手が滑ったと言っているじゃない」

「ぐ……ぐぐぐぐ……!」   

 

 いかん。あやせ様が他人にお見せ出来ない顔になっている。

 

「こン――――の、泥棒猫っ! 即刻この家から叩き出しますよっ!」

「誰が泥棒猫よっ! それに叩きだす権利なんてあなたにはないでしょう!」

 

 すっくと立ち上がり、激しく睨み合うあやせと黒猫。

 視線に火花散る佇まいは、どちらも臨戦態勢そのものである。

 

「って、喧嘩すんじゃねーよ二人とも! モンハンをやる時は常に冷静に……てーか、頼むから止めてくれえええぇぇ――ッ!」

 

 魂の叫びが功を奏したのか、若干の精神的ダメージを引き換えにしてリアルモンハンを阻止することには成功した。

 つーか、当初の目的は何処いったんだよ二人とも……。

 ゲームしてる時より活き活きしてんじゃねーか。

 

 

「さぁて、少し休憩でもすっか。どうする? 昼時だし外に飯でも食いにいく?」 

 

 さすがに朝からぶっ通しで遊んでいたせいか、かなり身体が疲労していた。

 予定では夕方までがっつりプレイするはずだったんだが、予想外の出来事でつまらん体力を使ったってのもある。

 想像以上に腹が減っていた。

 

「そうですね。慣れないことをしたせいか目が疲れてきました。休憩を貰えると有難いです」

「じゃあ近場で適当に見繕うか。それか疲れてんならお開きにしてもいいし。あやせ、もうある程度のコツは掴めたろ?」

 

 慣れない作業ってのは肉体的にも精神的にも疲れる。

 俺も初めて桐乃にエロゲーやらされた時は苦労したもんだ。 

 

「い、いえ。わたしの為に時間を割いてもらってるんですから、もう少し続けたいです。あ、黒猫さんは帰ってもらって結構ですけど」

 

 黒猫に向かって、つんけんした態度で視線を飛ばすあやせ。

 さっきのことをまだ怒ってんのか知らないが、黒猫に対する言葉が妙に棘々しい。つーか黒猫が居なくなったら俺と二人きりになるって分かって言ってんのかねぇ。

 それとも趣味の圓明流を試す機会とか、蹴り飛ばす隙でも窺ってんの?

 そんな他愛も無いことを考えていたら、黒猫が遠慮がちに声を掛けてきた。

 

「……ねえ、先輩」

「ん、なんだ黒猫?」

「あの、ね」

 

 うつむき加減に目を伏せ、もじもじする黒猫。

 心なしか頬が紅潮している気がする。

 

「お弁当を……作ってきたのだけれど、良かったら、食べる?」

 

 そう恥ずかしそうに言いながら、手縫いっぽい布に包まれた品を差し出したのだった。

 

 



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第二十六話

 場所を高坂家のダイニングに移し、そこで黒猫の作ってくれた弁当を広げることにした。

 ずっしりと中身が詰まっているような重厚感。その包みの結び目を解き、俺は目を見開いて驚く。

 中身はなんと三段重ねの重箱だったのだ。

 一段目には海苔が捲かれた俵型のおにぎりがひしめき合い、二段目にはレンコンの天ぷらや鳥肉と野菜の煮付け、そして卵焼きが綺麗に敷き詰められた状態で収められている。

 三段目にはプチトマトを添え物に、待望のから揚げやらエビフライ、それからタコさんウインナーが鎮座なされていた。

 見た目に手作り感は溢れてるが、超豪華と言っていいラインナップである。

 

「こりゃ、すげえな」

 

 感嘆の声を上げながら席に付く。

 ちなみに俺はいつもの定位置に座っていて、対面には黒猫が、そして黒猫の隣にはあやせが座っていた。いつもは家族で囲んでいるテーブルを黒猫やあやせと囲むっつーのは、なんていうか妙に気恥ずかしいもんがある。

 

「これって全部おまえが作ったの?」

「ええ。思ったより早く目が覚めてしまって。どうせ朝食は作らねばならないのだから、そのついでにと思って」

 

 ついでに――ね。

 普段料理しねえ俺が言うのも何だが、これってかなり手間がかかってんじゃなかろうか。少なくともチンして終わりってレベルにゃとても見えねーし。

 この前のカレーといい、黒猫のやつかなり料理スキルが高いのな。

 本人は謙遜してたが、もしかしたら麻奈実に匹敵するレベルかもしれん。

 そんな超豪華な黒猫弁当を見てたら、自然と口内に唾が滲んできやがった。やっぱ女の子の手料理を頂けるってのは、どんな場面でも嬉しいもんだぜ。

 

「……迷惑だったかしら?」

「なに言ってんだ。めっちゃ嬉しいよ。つーか、早く食いてえ」

 

 さっきから催促がてら、腹の虫がグーグー鳴ってるもんよ。

 その音が聞こえた訳じゃなかろうが、黒猫は“もう、子供みたいよ先輩”と言いながら、どうぞ召し上がれとご馳走を解禁してくれた。

 

「じゃ、いただきます」

 

 手を合わせてから、早速から揚げに箸を伸ばす。 

 

「おお、こりゃうめえわ」

 

 黒猫の料理は外見は良いが味は最悪という謎コンボもなく、見た目通りうまかった。まさに家庭の味って感じで、優しい味付けが舌に心地良い。

 こういうところ俺は正直なんで、例え女の子の手料理といえどマズかったらマズイとハッキリ言っちまう。料理関係じゃねえけど、小さい頃は麻奈実の奴にそれで泣かれたことがあったっけ。

 まあ、今は深く気にすまい。

 当の黒猫はというと、自分は料理には手を付けず、じっと俺の動向を観察している。

 作った手前、感想とか気になんのかね。

 

「煮物とかどうかしら? 型崩れには気を配ったのだけれど、硬くはない?」 

「全然。やっぱ俺の好みとしては肉だけどよ、これなら毎日でも食えるぜ」 

「本当? 先輩の好みに合う?」

「おう。味が染みてて超うめーよ。それにおにぎりの中にも色々と具が入ってんのな」

「……ええ。左から昆布、野沢菜、高菜ね。海苔が縦に撒いてあるものには何も入ってないわ」

 

 自分の料理が褒められて嬉しいのか、それとも恥ずかしいのか。頬を赤く染めた黒猫がおにぎりを順番に指差していく。

 その仕草が妙に女の子っぽいというか色っぽいので、ついつい視線が吸い寄せられた。

 色白で繊細な指先。

 桐乃みてーにネイルとかしてねーけど、綺麗な手してんだなぁこいつ。

 

『……』 

「おにぎり一つっても凝ってんだな。――っと、この卵焼きなんかモロ俺好みの味だぜ」

「良かった。卵焼きはよく家で作るから」

「じゃあこれって五更家の味ってわけだ。こないだも思ったけどおまえって意外と家庭的なのな」

「妹達の世話をしていたら自然と出来るようになったのよ。まだまだ田村先輩の域には程遠いわ」

 

 そういや夏祭りで遭遇した時、妹達にせがまれて連れて来たとか言ってたっけ。なんのかんの言いながら、こいつ家では良いお姉ちゃんやってんだろうな。

 

『…………』

「こんだけ出来りゃ十分だろ。少なくとも俺は満足してる」

「そ、そう。なら良かったわ。けれどそれだけ素直に賞賛されてしまうと……正直、照れてしまうわね。先輩のことだからお世辞という線も捨て切れないけれど」

「世辞じゃねえって。俺はそこんとこ正直だからマズけりゃマズイって言うしよ」

「そうなの? でも先輩なら色々と文句を述べながらでも最後まで食べてくれる気がするわ。――それは私の見立て違いかしら?」

 

 口元に手を添えながら、黒猫がころころと可愛く喉を鳴らす。

 愉しそうに目を細める様は本当に子猫みたいで――見ているこっちまで気分が高揚してくるほどだ。

 それに、こないだの夜のことがあってから、なんというか妙に黒猫のことを意識しちまってる自分に気付いていた。

 

「どうしたの先輩? 私の顔になにかついてる?」

「いや、別に……なんでもねえよ」 

 

 つと目線を逸らす。

 それに気付いたのか気付いていないのか、黒猫は良かったらこれも食べてみて、と俺にレンコンの天ぷらを勧めてきた。

 

『………………』 

 

 箸を伸ばし天ぷらを口へと運ぶ。 

 

「――んぐんぐ。うん。これもウマイ。けど俺としちゃそっちのウンイナーの方が気になるんだが」

「どうして? これは何の変哲もない普通のウインナーよ?」

「いやいや形が“タコさん”になってんじゃん。おまえがゴスロリ着たままウインナーに包丁入れてる絵面を想像すると、色々シュールだなって」

「ば、莫迦ね。幾ら私でもこれを着たまま料理するわけないでしょう。割烹着くらい用意するわ」

「へえ。ゴスロリの上から割烹着着るんだ」

「え?」

「その服だと料理しづらいだろ? 油とか飛んだら染みになるしよ」 

 

 俺の言っている意味が分からないとばかりに黒猫が目を丸くしている。けれど、俺の言葉の真意を理解した途端、ハっとしたように目を大きく見開いた。

 

「……せ、先輩?」

「ん? 家でもそれ着てんだろ?」 

 

 あれ、黒猫の奴拗ねちゃったのか?

 なんか微妙に口先が尖って見えるんだけど。

 

「……私とこの服装をどうしても結び付けたいようだけれど、もしかして先輩は私がゴスロリ以外の私服を持っていないとでも思っているの?」

「思ってる。つーか、似たような服いっぱい持ってんのかなって」

「なん……ですって?」 

「だっておまえの私服ってゴスロリ以外あんま見たことねーし」

 

 あ、黒猫が固まった。

 でもよ、実際こいつのゴスロリ以外の私服って殆ど見た記憶がねえんだよ。

 桐乃に言わせると同じゴスロリでも細部が違ってたり、中に着てるブラウスとか変わってたりしてるらしいから、同じような意匠の服が何着かあるんだろうけどな。

 

『………………………………』

 

 まあ黒猫はコスプレにも拘りがあるみたいだし、そこはポリシーっつうの? そういうのがあるんだろう。

 実際似合ってるし、俺もこの服装見慣れてるから、他の格好した黒猫とか見たら逆に違和感を感じるかもしれん。

 そんなことを考えていたら、当の黒猫が邪悪そうな笑みを浮かべるや、大仰な動作で腕をピーンと伸ばし始めた。

 

「――クックック。こうまで私の矜持を傷つけてくれた御莫迦さんは先輩が始めてよ」

「……その台詞回し、どっかで聞いたことあんぞ」 

「黙らっしゃい。……えーと、そう。――どうやらあなたには私の真の姿を見せなければいけないようねぇ」

 

 一度崩れた芝居を立て直し、黒猫が妖艶な笑みを浮かべる。

 つーか真の姿って、おまえ変身でもすんの?

  

「少なくとも三回は変身する予定よ」

「三回ってフリーザ様かよ!?」

「フフフ。遂に闇の衣を脱ぎ捨てて更なる境地へと至る時がきたようね。覚悟なさい先輩。そうなった私は以前のように甘くはないのだから」

「……い、意味が分からん。というか具体的にどう変わるんだよ?」

「堕天聖から聖天使へのクラスチェンジを果たすのよ。昇華という訳ね。ああ、その時の先輩の反応が今からとても愉しみだわ」 

 

 堕天聖から聖天使だと?

 こいつのイメージカラーはもう黒で統一されちまってるからなぁ。果たしてどう変わるつもりなのやら。傍目から見て痛々しい姿じゃなけりゃ良いけど。

 

「最後にはゴールデンになるわ」

「ゴールデンってスーパーサ○ヤ人かよっ!?」 

 

 金色猫は簡便してくれ。っていうか色々と調子が出てきたな黒猫の奴。

 ありていに言ってめっちゃ楽しそうである。

  

「な、何かしら、その一言ある瞳は? 私のクラスチェンジに……興味がないとでも言うの?」

「いや……まあ、見せてくれるもんなら見てえけど。こないだの浴衣とか沙織ん家で見た服とか超似合ってたし」

「……そ、そう」 

 

 素に戻ったように目をぱちくりとさせた黒猫が、俺から視線を切って俯いてしまう。

 その状態から小声で

 

「……なら考えておくわ。期待しないで待っていなさい」

 

 なんて、頬をピンクに染めながら呟いたのだった。

 

『………………………………………………………………………………………………』 

 

 あ、やべえ。

 何がヤバイってありていに言って黒猫が可愛すぎる!

 こいつ普段はつんと澄ましてっからあんまり意識しねえですんでるけど、基本めちゃ美人なんだよね。

 それがこんな可愛い仕草を見せ付けられた日にゃほっぺにキスされたこと思い出しちまって……って、上目遣いでこっちに目線をくれた黒猫と視線がバッチリあっちまった。

 そして互いに暫し沈黙。

 

「……」

「……」 

 

 結局なにを語るべきか思いつかなかった俺は、色々と誤魔化す為に急いで食事を再開した。

 

「い、いやあ、この弁当マジ最高ッ!」 

 

 おにぎりを頬張りつつ煮物をかっ込み咀嚼する。

 そこから更にから揚げに箸を伸ばした瞬間……。

 

「いっッッッッッッ!?」

 

 プスっという音と共に、右手の甲に鋭い痛みが走ったのだ。

 

「痛えええええええええぇぇぇ――ッッッ!!!」

 

 絶叫しつつも患部に目を移せば、そこには鋭く尖ったお箸の姿が。

 一体誰がこんなことを――って考えるまでもなく犯人は明確だ。

 何故なら俺に対してこんなことをする奴は、知り合い中探しても二人しかいねえからだ!

 

「いきなり何しやがる、あやせ!」

「あら? ごめんなさいお兄さん。から揚げを取ろうと思ったら“偶然”にも刺さっちゃったみたいです」

「ぐ、偶然だぁ!? 箸が垂直に突き立ってんじゃねーか! どう見ても故意だろっ!」

 

 つーか割り箸ってこんなに尖ってたっけ?

 

「うーん。これは不幸な事故ですね。ニアミスです。まあ、一部地域では天罰とも言いますが」

 

 天罰って、俺は何も悪い事してなくね!?

 

「わたしを放置したまま“いちゃいちゃいちゃいちゃ”してるからですよっ! もう最低。不潔ですっ」

「い、いちゃいちゃなんかしてねーよ! 俺は普通にメシ食ってただけで――」

「今、普通って言いました? そうですか。お兄さんの中では“アレ”が普通の光景なんですね。なら仕方ありません」

 

 そう言ったあやせは、何処からかメモ帳を取り出すと

 

「良い病院を紹介しますから、お兄さんはそこで精神を矯正されてきてください」 

「相変わらずナチュラルにひでえこと言うよな、おまえ!?」   

「お兄さんには言われたくありませんよーだ! 嘘つきは即刻地獄に堕ちて舌を抜かれちゃってください!」 

「嘘つきって……もしかして怒ってんのか?」 

 

 さっきまで仲良く三人で遊んでたのに、何でいきなりブチ切れてんの?

 

「怒ってません! 怒ってませんよっ! どうしてわたしが……お兄さんのことで腹を立てなくちゃいけないんですか!?」

「聞いてんのはこっちだって!?」

 

 ったく、桐乃の奴もいきなりキレたり仏頂面になったりするしよぉ。

 女心と秋の空とはよく言ったもんだぜ。

 

「取りあえず落ち着いてくれ、あやせ。つーか原因は分からん謝る。俺が悪かった! だから機嫌直せって」

「まったく誠意が篭ってませんね」 

 

 つんっとそっぽを向くあやせ(←仕草はめちゃ可愛い)

 もう俺にどうしろっての!? 

 

「ですがわたしも鬼って訳じゃありませんし、お兄さんの意思は汲み取りたい思います。ですから――罰を受けてください」

「は?」

「だから罰を受けてくれれば許してあげるって言ってるんですっ」 

「なん――だと?」 

 

 罰!? この女、一体俺に何をさせるつもりなんだ?

 まさか趣味の圓明流の実験台になってとか言い出すつもりじゃなかろうな? 

 もし虎砲とか放たれたら死んじゃうよ、俺。

 けど話の流れ的に断れる雰囲気じゃないし……まあ、あやせ本人も鬼じゃないって言ってたし、ここは覚悟を決める場面なのか。

  

「……分かった。取りあえず罰とやらの内容を言ってくれ。俺に出来ることなら前向きに検討させてもらう」

「本当ですか?」

「ああ。男に二言はない!」

 

 死んでくださいって言われたら困るから、検討するって言葉を使ったのは内緒だ。

 

「じゃあ……その……お、お兄さんには今度わたしの作ったお料理を食べてもらいますっ!」

「……はい?」 

「ですから、わたしが作ったお料理をですね……お兄さんに……」 

「えっと、料理っておまえが作んの? 俺の為に?」 

「は、はい」

 

 思い切り身構えていた分拍子抜けする。

 あやせのことだから正拳からハイキックへのコンボあたりは覚悟してたんだが……。

 黒猫も「……なんだか雲行きが妖しくなってきたわね」と眉根を寄せているし。

 

「実はわたしの家って結構厳しくて、しつけって言うんですか? そういうので家事全般をお母さんに習ってるんですけど……」

 

 あやせを見てると確かに家が厳しいんだろうなってのは想像がつく。

 年齢の割りにしっかりしてるからな。 

 

「お料理っていうのはやっぱり食べてくれる人がいて、初めて評価が出来るものじゃないですか。習った成果を試したいといいますか……」

「あー、要は俺に味見して欲しいってことか。それならお安い御用だぜ。つーか大歓迎だ!」

 

 まさかラブリーマイエンジェルあやせたんの手料理を頂ける機会が巡ってくるとはな。俺にとっては罰ゲームどころかご褒美に入る範疇の出来事になる。

 生きてて良かった。

 あやせも俺のOKが出てほっとしたような笑顔を浮かべている。――っと、俺の視線に気付いたのか、一度軟化させた表情を再び硬化させたあやせは

 

「けど勘違いしないでくださいね! これはあくまで罰で……わたしがお兄さんに手料理を食べてもらいたいとか、黒猫さんのお弁当に対抗してるとか、そんなんじゃないんですから!」

「分かってるって。日頃の成果を試したいってだけなんだろ? 別に勘違いなんかしてねーよ」

「…………」

 

 あれ? 俺何か間違ったこと言った?

 なんかあやせのほっぺがぷくっと膨らんでんだけど? 

 

「これは……敵ながら僅かばかり同情するわ。あやせさん」 

「同情って、なに言ってんだ黒猫? 俺の受け答えってそんなにマズかったか?」

「っふ。先輩の業の深さは筋金入りということよ。……まあ私も他人事じゃないのだけれど」 

「……さっぱり意味が分からん」

 

 これだからと言わんばかりに、黒猫とあやせが同時に盛大な溜息を吐いた。それから互いに目線で何やら語り合っている。

 こいつら基本的に仲が悪いのに、妙なとこで連帯感があるんだよな。

  

「お兄さんの……鈍感」

「え? いま何か言ったか?」

「死ねって言ったんですっ! この変態! 嘘つき! 浮気者っ! いーっだ!」

 

 唇を真一文字に結びながら、不機嫌な猫みたく俺を威嚇してくるあやせ。

 対する黒猫もまた“先が思いやられるわね”とばかりに軽く肩を竦めるのだった。

 

 

 

  



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第二十七話

「いやぁ、さすがに暑いわ」

 

 夏休みを目前に控えたある休日。俺はいつもの面子(桐黒沙織の三人)に混じりながら秋葉原まで出て来ていた。とはいっても別件でこっちに来る用事があったんで、それまでの付き添いみたいな感じなんだが。

 

「んぐんぐ……っぷっはぁ」 

 

 ペットボトルのお茶を直飲みで煽りながら、比較的静かな場所にあるベンチに腰掛ける。

 ちなみに今この場にいるのは俺一人だけだ。

 桐乃も黒猫も、そして沙織も、各々ちょっとした所用を片付ける為に各地へと散っている。んで俺はというと、集合場所に指定されたエントランスで一人涼んでいるという訳だ。

 しかし初夏も過ぎ去り夏も本番を迎えた猛暑日である。

 物陰に身を隠し夏の日差しを避けたくらいでは、茹だった思考は簡単にクリアにはなってくれない。仕方ないので自販機で買ったお茶を片手に、俺は辺りを眺めながらぼーっとダレていたという訳だ。

 時間的には昼時を少し回ったあたり。けれどさすがは休日の秋葉原と言うべきか。

 視界の中では大勢の人々が所狭しとひしめきあっている。しかもそれぞれせわしなく動き回っているので、慣れてない人だと真っ直ぐ歩くのにも苦労するだろう。

 真夏の青空と灼熱の太陽。そして人いきれ。

 体感温度の上昇は留まることを知らず、水分補給は欠かせない。けれどそんな人々の“熱さ”が一種祭りのような熱気を伴って行き交う人々の気分を高揚させているのだ。

 ただここにいるだけなのに、何だか楽しくなってくるような、そんな不思議な感覚。

 

「京介氏~!」

 

 と、そんな詮無いことを考えていたら、人込みの間を縫って沙織が姿を現した。

 沙織は丸めたポスターを握ったままの右手をぶんぶん振りながら、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。

 ちなみに今日の格好は“バジーナスタイル”であり、あのお嬢様スタイルは封印中のようだ。もっともあの格好で歩いていたらモデルのスカウトやらナンパやらで声をかけられて、本人は難儀したかもしれないが。

 

「いやぁお待たせしたでござる。っと、もしかして拙者が一番乗りでござるかな?」

「ああ。桐乃も黒猫もまだだ」

「そうでござるか。きりりん氏はともかく、黒猫氏は時間的に戻っているかもと思っておりましたが」

 

 そう言いながら沙織が手うちわで首筋に風を送りつつ、ゆっくりと俺の隣に腰掛けてくる。

 

「しかし暑いですなぁ。すっかり夏も本番といった感じで」

「俺はもうちょい涼しくなってくれても一向に構わねえんだが」

「そんなことを言っていると、夏コミ当日が“超の付く猛暑日”になってしまうやもしれませんぞ?」

「いや、それはちょっと……」

「そんな気構えでは“戦場”で生き残ることはできないでござるよ、京介氏」

  

 当然、今年も参加されるのでしょう? と沙織が確認してくる。

 

「二日目にゲー研の一員としての参加が決まってるからな。もしかしたら三日目も……」

 

 夏コミ――沙織は戦場なんて揶揄したが、そう言っても差し支えないくらいの大きな催し物だ。実際毎年熱中症で倒れる人も少なからず出ている。

 それでも、いやそれ以上に“得られる”ものがある為、人々は集うのだ。

 求めるものがそこにあるから。

 二年前には名前を聞いた程度の浅い知識しか持っていなかった。

 人が大勢集まるお祭りなんだろうな、くらいの認識しかなくて――それが一年前に初めて一般参加し、今年はなんとサークル参加が決まっている。

 もし桐乃の人生相談がなかったら夏コミに参加することもなく、きっと全く違う夏休みを迎えていたはずだ。

 そう考えると、ちっとばかり複雑な心境に陥ってしまう。

 

「拙者は一日目から制覇するつもりでござるから、二日目には京介氏のところにも顔を出すでござるよ」

「そうか。まあ大したもてなしもできねえと思うけど、歓迎するぜ」  

  

 今日集まった四人は一年前に夏コミに参加したメンバーと全く同じ面子だ。

 ここにいる俺と沙織。黒猫は同じゲー研の仲間だし、うまく桐乃を誘えれば今年も一緒の面子で集まることも可能だろう。

 出来れば来年も一緒に……なんて考えるのはちょっと気が早すぎるだろうか。

  

「楽しみにしてると黒猫氏にもお伝えくだされ……っと、もうそろそろ戻ってきても良い頃合なのですが」 

 

 桐乃は買い物、沙織は受け取る品があると、そして黒猫は行く場所があるのでとそれぞれ別行動を取っていた。

 その中でも黒猫の拘束時間は比較的読み易い部類にあった。 

 

「なあ沙織。黒猫ってイラストレーターか誰だかのサイン会に行ってるんだっけ?」

「ええ。正確にはあるアニメのキャラデを手がけた方でござるが」

「キャラデ?」

 

 耳慣れない言葉に思わず聞き返す。

 

「キャラクターデザインの略称でござる。アニメやゲーム等の登場人物を容姿から服装に至るまでデザインする役職のことですぞ」

「へえ。けどそれって結構大変そうだな」

「キャラクターを一人の人間として生み出す最初の作業ですからなぁ。表情一つ、仕草一つとってもそれが全ての根幹になるわけですから、生半可な実力では勤まりますまい」

 

 うんうんと頷きながら、沙織が携帯していた鞄からスマホを取り出した。それから少し画面を弄ってから、俺にディスプレイを見るように促してくる。

 そこには―― 

 

「なっ!? 女――っていうか、ゴスロリだと!?」 

「小笠原綸子氏。冬アニメのえくそだすっという作品のキャラデ&総作画監督を勤めた人物でござる」

 

 スマホに映し出されていたのは妙齢の女性で、見るからに気品溢れている美しい人物だった。ただその服装があまりにも目を引くっつうか、ぶっちゃけるとゴスロリ姿だったのである。

 それも黒猫ばりに気合の入ったやつ。

 

「……えっとさ、これってコスプレしてるわけ?」

「噂では普段からこの服装を着用していると聞き及んでおります。業界内でも有名な方――実力的にもですが――ですから、おそらく真実ではないかと」

「あはは……。いるところにはいるんだな、似たような趣味を持ったやつって……」

 

 このシックなゴスロリさんの前に黒猫が立つ。

 向かい合う二人のゴスロリ少女――もとい、そんなシュールな姿を想像してしまい、思わず苦笑いが漏れた。

 

「詳しく知りたければググってくだされ。一般的なアニメファンの中でも名前が通ってる方ですから、経歴程度ならすぐに出てくるでござろう」

「けどよ、そんな有名人なら当然人気あるんだろ? サイン会とかめっちゃ人来るんじゃね? チケットとか取れたのか?」

「ああ、それなら心配はござらん。BDBOXを予約すれば初回封入特典としてチケットが手に入る仕組みでして」

「え? 黒猫が買ったの? そのアニメのBOXを?」

「いえいえ、購入したのは拙者でござるよ。放送されたアニメのBDは基本的に全て購入しておりますので」

「マジか……」

 

 そういや沙織って超の付く金持ちだったっけ。

 しかも立派なオタクだ。

 こいつなら幾らグッズを購入しても置き場所に困ることもないだろうし、それどころか映像作品専用の部屋すら用意している可能性もある。

 なにせマンション丸々一つ自分の部屋だっつう話だしな。

 

「さほど興味がない拙者が赴くよりも興味がある人に行ってもらった方が先方も嬉しいでござろう。それに黒猫氏は絵も描けますから」

「黒猫の奴、絵もシナリオも書けるしスクリプトも打てるんだよな。もしかして将来は“こっち系”に進むのかな、あいつ」

「どうでござろう。今はまだ趣味の段階でしょうし、そこまで考えてないのでは? それよりも今心配するべきは京介氏の進路ではござらんかな?」

 

 ニンニンと眼鏡の奥をキラリと光らせて、沙織がニヒルな笑みを浮かべている。

 

「勉強の方は捗っておりますかな? 進学するのでござろう?」

「まあな。これでも毎日こつこつやってんだぜ。こういうのは積み重ねが大切だからさ」

 

 積み重ね云々は親父の受け売りだが。

 

「ほほう。それはこれから始まる夏休みも問題なく満喫できるよ~宣言と受け取っても?」 

「もちろんそうだ……と言いてえのは山々なんだけどよ、追い込みもかけかなきゃなんねーし、休んでばかりもいられねえかも……」

 

 高校生活最後の夏休み。

 本音を言えばそりゃもう思いきり遊びたいって気持ちがある。だがここで手を抜くと痛い目を見るのは自分自身だ。とはいうもの、改めて辛い現実を突きつけられてしまった俺は、若干ブルーな気分になって落ち込んでしまった。

 

「きりりん氏も黒猫氏も、そして拙者も京介氏を応援しているでござる。なにか出来ることがあれば遠慮なく言ってくだされ」

「沙織……」

「なんといっても拙者達は同じ趣味を持つ仲間でござるからな! 苦しい時は助け合う。当然でござるよ」 

「ああ。サンキュな。頑張るぜ」 

 

 沙織に励まされて、ぴんと背筋が伸びる思いがした。

 今が踏ん張りどころなのは間違いないのだから、出来るだけのことはしておこうと。それに万が一に落ちでもしたら、桐乃にどんなこと言われるか分かったもんじゃねえ。

 

「あら。それは殊勝な心がけね、先輩。でも少しくらい羽根を伸ばしても罰は当たらないんじゃなくて?」

「黒猫?」

 

 俺達の背後――斜め後ろからかけられた声に振り向けば、そこに佇んでいた黒猫と目が合った。

 彼女の隣には満面の笑みを浮かべたまま紙袋を抱えている桐乃の姿もある。

 

「と、なんだ桐乃も一緒か」 

「ちょうどそこで黒いのと会ってね。――ん」

 

 抱えていた紙袋を地面に下ろしてから、桐乃がまるで握手でも求めるかのように右手を差し出してきた。

 もちろん俺にはその行為の意味が分からない。分からないから、率直に思ったままの気持ちを言葉にして現す。

 

「なにしてんの、おまえ?」

「ハァ? あたし暑い中荷物抱えてここまで歩いてきたんだよ? 喉が渇いてるに決まってるっしょ」

「だから?」

「だからって……冷たい飲み物寄越せって言ってんのっ」

「そんなの用意してねえって。欲しかったらそこの自販機で自分で買ってこいや」

「うっわサイアク。これだから気の効かない男は……。あんたそんなんじゃ彼女の一人も出来ないかんね」

「うっせえ。ほっとけって」

 

 多少の自覚くれーあんだよ。

 確かに飲み物の一つくらい用意しとこうとか思ったさ。けどいつ戻ってくるか分かんねえんだし、常温保存だとすぐ温くなっちゃうだろ?

 

「いいじゃないの別に。どうせこれから皆で食事に行くのだから。喉を潤すのなら店に入ってからでも遅くはないわ」

「……そうだけど、なんていうの? 気持ちの問題ってやつ? なんかムカツクの!」

 

 なんか知らないけどムカツク、なんて理由で因縁つけられる俺の身にもなってくれ。

 そんな理不尽な桐乃の物言いに黒猫がフォローを入れながら、揃ってこちら側に回り込んでくる。

 実は先日の一件(沙織の家に泊まっての帰り道、桐乃が黒猫を呼びとめた)以来、俺の中でもしかして二人が喧嘩してんじゃないかっていう密かな心配事があったわけだが

 

「でさ、サインちゃんと貰えたわけ?」

「勿論よ。黒猫さんへと名前まで書いて貰ったわ」

「……そこ本名じゃないんだ」

「あら、私の名前は千葉の堕天聖黒猫よ」

「……」 

「忘れているのならもう一度説明するけれど、千枚の葉が優雅に舞い散る様を――」

「いやいや別に忘れてないから。つーか邪気眼乙」 

 

 なんていつものようにじゃれあう二人を見ていたら、杞憂に終わったようだと安堵する。

 少しだけ胸のつかえが取れた気分だ。

 

「なに笑ってんの、あんた?」

「別に」

「…………ま、いいや。取りあえずそれちょうだい」

 

 正面まで回ってきた桐乃が俺の右手あたりを指差した。そこにはペットボトルのお茶が握られているわけだが。

 

「ちょうだいって、これ飲みかけだぞ? そんな冷えてねえし」

「喉が渇いたっつってんでしょ! いいから寄越すっ!」

「ちょ、おま……」

 

 桐乃に半ば強引にペットボトルを奪われた俺は、降参の意思を示すように大きな溜息を吐いた。って、早速うまそうに飲んでやがるな、こいつ。

 本当、傍若無人な妹様だぜ。

 そんな俺と桐乃のやり取りを横目に、黒猫がベンチに腰を下ろしてきた。

 

「それで先輩。さっきの会話の中で私の名前が聞こえた気がしたのだけれど、沙織と噂話でもしていたのかしら?」

「聞こえてたのか?」

「まあ、少しね」

「噂話っつうか、おまえって絵も描けるし他にも色々出来るだろ? だから将来はそっちの道に進むのかなって?」

「え?」

 

 少し意外そうに目をしばたたかせる黒猫。

 どうやら想像していた内容とは違ったらしい。

 

「……そうね。もし進めるのなら進みたいという気持ちもあるけれど、そこまで深くは考えていないというか……」

「ほう。その物言いですと、他になりたいものがあるのですかな、黒猫氏?」

「どうかしら。今は一つの目標に向かって邁進しているところだから、他にあまり目を向ける余裕がないのよ」

「余裕がないって、締め切りに間に合わねえとかそんな感じか?」

「違うわ」 

 

 夏コミ前だからてっきり創作作業に追われているのかと思ったが、意外にも黒猫は否定の言葉を口にした。

 

「私にとってとても大切な――」 

 

 やや伏目がちに目線を落とし、唇を噛む黒猫。きゅっという擬音がここまで聞こえてきそうな表情。

 だがやおら顔をあげると、真っ直ぐに俺を見据えて

 

「デスティニーレコードの遂行よ」

 

 なんて、難解な答えを返してきた。

 

 

 



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第二十八話

「はぁ!? 地味子んトコ行くって、なんで!?」

 

 桐乃の奏でる黄色い声が耳元で炸裂する。

 三人が戻ってきてこれから食事にでも行こうか。そんな提案にやんわりと断りを入れたらこれである。

 

「元々こっちで落ち合う予定だったんだよ。つーか麻奈実をその名前で呼ぶなって言ってるだろ」

「…………てかさ、こっちで誰に会うとか聞いてないんですケド」

 

 納得がいかないのか、桐乃は不満顔を隠そうともせず俺をねめつけてくる。

 そうは言っても本来の予定は麻奈実と一緒に秋葉原を散策するってもので、桐乃達とは偶々目的地が同じだったので一緒に出てきたってだけの話だ。

 確かに誰に会うかまでは伏せていたけど、予定があることは伝えていたんだぜ。

 

「京介氏。今の話を総合すると、その麻奈実さんという女の子……で良いのでござるかな?」

「ああ」 

「その女人とこれから会ってデートをしにいく、ということで拙者の見解は間違っていませんか?」

「は?」

「ですから、麻奈実氏とデートをしに行くのでござろう?」 

「ち、ちげーよ。ちょっと飯食いに行って、それから秋葉原を見て回ろうかなってだけで……」

「ほうほう。京介氏はデートではないと仰る。しかしそういう行為を世間一般ではデートと評するのではござらんかな? 古風な言い方をすれば逢引とも言いますが」

「逢引って……」

 

 冗談なのか本気なのか、沙織は悠然と腕を組みながら口元を意味ありげに綻ばせている。

 けどな沙織、麻奈実は俺の幼馴染なんだから、こんなのは日常茶飯事なんだよ。もしこれがデートに入るつうんなら、麻奈実とは昔から何度もデートしてきたってことになっちまう。

  

「一緒に遊ぶってだけで、深い意味はねえって」

 

 もう一度念押しした段階で、今まで押し黙っていた黒猫が口を挟んできた。

 

「ねえ先輩。ベルフェ……じゃなくて、田村先輩とは二人きりで会うの?」

「なんで?」

「良いから、答えて頂戴」 

「別に二人きりってわけじゃねえよ。赤城の奴も一緒だ。おまえも会ったことあるだろ? ほら、瀬菜の兄貴の」

「あぁ、先輩のクラスメイトの……」

 

 以前俺が風邪で寝込んだ折りに、赤城兄妹が揃って見舞いに来てくれたことがあった。その時に家にいた桐乃と、一緒に来てくれた黒猫は赤城(兄)と面識を持ったはずだ。

 

「成程。三人で集まるから“一緒に遊ぶ”ってわけね」

「まあ遊び回るってより、麻奈実に秋葉を案内するってのが近いけどな。なんかあいつこっちを色々と見て回りたいんだってよ」   

「そう。色々と、ね」 

「……そっか。地味子だけじゃないんだ」

 

 黒猫の呟いた言葉を拾って、桐乃が溜息を吐いている。というか、さっきまでの勢いは何処へやら、いきなり毒気が抜けたように声のトーンまで下がっていた。

 

「ま、俺がいない方が気兼ねしねーでいいだろ。つうわけで行ってくるわ」

 

 待ち合わせ時間が迫っていたので、半ば強引に話を切り上げて歩き出すことにする。このまま話し込んで遅刻しちゃ本末転倒だからな。けど、歩きかけた俺の背中から沙織の声が届いて――

 

「京介氏ー! 勘違いめさるな。あなたがいることで拙者達が気兼ねすることなどないでござるよ。我等は同じ趣味を持った友達ではござらんか」

 

 振り返った俺の目に飛び込んできたのは、腕を組みながら、やや不満気に眦を下げた桐乃と、仕方ないわねとばかりに、嘆息しながらも笑顔で見送る黒猫と、ぶんぶん腕を振りながら、いってらっしゃいと挨拶をする沙織の三人姿だった。

 三者三様の見送り方だが、共通していたのは沙織の言葉を肯定しつつも若干照れている、そんな柔らかな雰囲気だった。

 

 

 

「日替わり定食が三つですね。少々お待ちください」

 

 てな訳で、俺と麻奈実、そして赤城の三人が集まり、まず腹ごしらえをしようということで手近な店に入ることになった。

 そこはいわゆるチェーン店ではなく、一見さん状態で選んだ定職屋さんだったのだが、内装が木目を基調としたカフェのような佇まいなので、常連だけの選ばれた空間のような閉塞感は感じなかった。

 それどころか、開かれた雰囲気が心地よく、慣れ親しんだ場所にいるような居心地の良ささえ感じられた程だ。

 俺達は店内の比較的隅っこに置かれた丸テーブルに陣取ると、水を運んできた店員さんにメニューで一番目だっていた品を注文したところである。

 ちなみに各自の位置関係は、ちょうど丸テーブル上に三角形を描くようにして座っていた。

 

「でさ麻奈実。なんで秋葉原なわけ?」

 

 軽くお冷で舌を湿らせながら、ずっと疑問に思っていたことを率直に尋ねてみた。

 それに対して麻奈実は、楽しそうに目を細めながら

 

「えっとねぇ。なんでだと思う、きょうちゃん?」

 

 と逆に質問を返してきた。

 

「なんでって、それが分かんねえから聞いてんだけど」

「もう。少しくらい考えてから答えて欲しかったな」

「っつってもなぁ……」

「もしかしてだが、田村さんさ、高坂の影響を受けて悪の道に嵌っちまったのか?」

「あのな赤城。俺を諸悪の根源みたく言うな」

「そうは言ってもよ、田村さんってこっち方面の知識とかあんまねえだろ? それが急に秋葉原を回りたいとか、どう考えてもお前の悪影響を受けたとしか考えられん」

 

 赤城もアニオタってわけじゃないが、妹である瀬名の影響(かなりヤバイ方向だが)を受けてそれなりの知識は備えていた。

 けど麻奈実は違う。

 テレビから流れてくる程度の浅い知識はあっても、自ら好んでこっちの世界に関わるような奴ではない。だから赤城の台詞自体に反論の余地はあったが、言わんとしていることが俺と重なっていた為に文句を挟まなかったのだ。

 

「その辺どうなの、田村さん?」 

「そうだねぇ。きょうちゃんの影響っていうか、確かにきょうちゃんは無関係じゃないかも」

「え? マジで?」

「うん。だってさ、きょうちゃんここ一年くらいでよく秋葉原で遊ぶようになったじゃない? だから興味があったんだ。ここがどういう場所なのか。実際にきょうちゃんが遊び回った箇所を自分でも歩いてみて、そして肌で感じてみたいって思ったの」

「……でもよアニメやゲームに興味がない奴が回っても、そう楽しいもんじゃねえと思うぞ」

 

 偉そうなことを言える立場じゃないのは分かっている。

 俺だって桐乃や黒猫、そして沙織に連れ回られたくらいの知識しか持ってないのだ。ここを深く知る人物なら麻奈実でも楽しめるスポットを紹介できるのだろう。

 でも俺の知る範囲で麻奈実を楽しませるのは難しいと思っている。どうせ遊ぶなら他の場所のがいいはずだ。

 そう思ったのに麻奈実はゆっくりと首を振った。

 

「きょうちゃんが何を見て、何を感じて、何処を歩いていたのかが知りたいんだよ。昔はよく一緒に遊んでたから、そんなのは知ってて当たり前だったけど、最近はそうでもないでしょ?」

「……まあな」

 

 近頃はどうしても桐乃を中心とした人間関係の中で動くことが多くなっていたのは認める。桐乃がアメリカに行っている間は、黒猫の問題を解決したりと、これまた麻奈実との接点は薄くなっていた。

 学校に行けば毎日顔を合わせていたが、幼馴染として過ごした日々から考えれば密度は薄い。

  

「それがね、ちょっと寂しいなって」

「馬鹿なこと言うなよ。お前が一緒に遊びたいってんなら俺はいつだってつきあってやる」

「本当? でも黒猫さんや桐乃ちゃん、あやせちゃん達の“お願い”とかち合っちゃったら?」

「それは……」

 

 麻奈実の問い掛けに即答できないことに少なからずの驚きを覚えた。

 昔の俺なら――桐乃の人生相談を受ける前の俺なら迷わず答えただろうに。

 

 ――あんたに、人生相談があんの。

 夜中に頬を張り倒され、無理やり眠りから起こされた俺が見たものは、馬乗りになって佇む妹の姿だった。

 

 ――お兄さんに、お願いがあるんです。

 何度、公園に呼び出されてその台詞を聞いたことだろう。

 

 ――勝手にしたら? もう、諦めたわ。

 おまえのことが心配だからお節介を焼くよ。そう言った俺にあいつが返してきた言葉。

 

 幸い、麻奈実の言ったような状況に陥ったことはない。けど実際そうなった時、俺はどう行動するべきなのだろうか。

 そんな事を考えていたら、赤城の奴が凄まじい妄言を伴って乱入してきた。

 

「なあ高坂よ。もしかしてだけど、お前って二股かけてんのか?」

「………………いきなり何を言い出してんだ赤城? 拾い食いでもして頭でも壊したか?」

「仮に拾い食いしたとしても壊すのは腹だろ。いや、実際してねーけどな!」

「ならキャトルミューティレーションでもされたのか。可哀想に。地球は青かったか?」 

「お前は親友をなんだと……まあいいや。今の田村さんとのやり取りを聞いててそう思っただけだ。他意はない」

 

 俺と麻奈実との話を聞いてそう思ったのなら、病院に行くことを勧めるぞ赤城。

 

「二股どころか、俺に彼女がいねえのはお前が一番良く知ってるだろ」

「おう。確かに直接お前からそういう話を聞いたことはねえ。けどよ、学校で噂になってんぞ。ほら、あの目立つ年下の女の子……五更さんとか言ったっけ?」

「……」

 

 以前麻奈実にちらっと聞かされた俺と黒猫が噂になってるってアレのことだろうか。

 確かに状況証拠的にそう見える節があるのは認めよう。けど黒猫とはあいつが入学してくるより前からの知り合いだったからで――と、その辺りを説明しても色々と突っ込まれると話が長くなる。

 そう思った俺は少し矛先を変えることにした。 

 

「というか、そもそもお前は今日ここに何をしに来たんだ? お前だって秋葉原散策が好きってわけでもねえだろ」

 

 本来は俺と麻奈実の二人で出掛ける予定だったのだが、偶々近くにいたこいつが俺も一緒に行くぜと名乗りを上げたのだ。

 特に断る理由もないので受け入れたわけだが、赤城が何を求めてこっちに足を伸ばしたのかまでは知らなかった。

 

「ああ、それな。瀬菜ちゃんに買ってきて欲しいもんがあるって頼まれたからだ。えーと夏コミだっけ? それに備えてゲーム作ってんだよ瀬菜ちゃん。どうだ凄いだろ!」

「ああ、凄い凄い」

「だからこっちに来る時間も惜しいってさ。そういう理由なら兄貴である俺が一肌脱ぐしかねえだろうが」

 

 まあそんなこったろうと思ったよ。

 赤城は俺と違って超の付くシスコンだから、妹の頼みならパシリくらい平気でやってしまう。去年のクリスマスには深夜販売のホモゲーを買う為に数多の女子に混ざって列に並ぶ程の猛者なのだ。

 本当、俺には絶対真似できない芸当だね。

 

「そっか。あの腐れ外道の頼みなら仕方ないな」

「おぉぉい高坂ッ! 誰の妹が腐れ外道だってッッッッ!!!」 

「――ぐっ!」

 

 しまった。率直な感想がするりと口から漏れてしまった。

 赤城は俺の台詞を聞いた途端、烈火の如く目の色を変えると、テーブルに載り出す格好で立ち上がり両腕で俺の襟首を締め上げた。

 その力は正に万力。

 怒りに我を忘れるシスコン兄貴は、俺を締め落とさんと腕に力を込めている。

 地雷を踏みぬいた結果でだが……確かに今のは俺の失言だった。けどよ少しばかり導火線に火を付けるのが早すぎるだろ。

 男として、もう少し落ち着いて話を聞いてだな――

 

「高坂、お前の妹のマル顔モデルだってそう大差ねえだろうがッ!」

「表出ろや赤城ィィィィィッッ!! 誰の妹がマル顔モデルだとぉぉぉっっ!!!! 面白れえっ! 勝負つけてやらああああっっ!!」

 

 すぐさま赤城の腕を取り動きを拘束すると、そのまま額で相手の顔面を狙って頭突きをかましてやった。しかし赤城も同じく額で受けてきた為に結果は痛み分けとなる。 

 

『グワッ!!』 

 

 短い悲鳴が重なり、二人の距離が離れた。

 そこでタイミングを見計らったかのように、麻奈実が仲裁に入ってくる。

 

「やめなさい二人とも。他のお客さんの迷惑になるから」

 

 図らずも店中の注目を集めていたわけで、もし麻奈実の仲裁が無かったら問答無用で追い出されていたことだろう。

 仕方ないのでどちらからともなく謝ることでこの場は丸く収まった。

 危うく第三次大戦が勃発するところだったが、麻奈実を本気で怒らせるともっと大変なことになるから仕方ない。

 ちなみに瀬菜と桐乃は裏の趣味を分かち合う友達同士であり、たぶん瀬菜から兄貴である赤城に妹の情報が色々と渡っているのだろう。

 

「お待たせしました。こちらが当店自慢の日替わり定食になります。ごゆっくりどうぞ」

 

 俺と赤城が再び席についた時、ちょうど注文していた品が運ばれてきた。

 あの程度のいざこざは日常茶飯事とばかりに、華麗にスルーした店員さんの鮮やかな笑顔がとても眩しかった。

 

 

  

「お、うめえじゃん、コレ」

 

 どんぶりに盛られた白飯にお味噌汁。主役は大皿に盛られたレタスの上に鎮座する厚切りのとんかつ。副菜に野菜の煮物とボリュームは抜群だった。

 他にも小鉢に鶏肉とほうれん草の和え物あり、小さくカットされたお豆腐ありと箸休めも完璧。

 当然の如く漬物もついている。しかも値段の方もかなりリーズナブルで、味次第では大満足の一品間違いなしであろう。

 

「この煮物も美味しいねぇ。やっぱり使ってるみりんが違うのかな?」

 

 その問題の味も赤城や麻奈実の台詞が示す通り、十分及第点のようだ。

 俺もさっきからぐうぐう鳴ってる腹の虫を大人しくさせるべく箸を手に取った。

 まず攻めるべきはやはり主役のとんかつだろう。

 切り分けられた黄金色の一片を箸で取り、おもむろに口に運ぶ。するとカリっという香ばしい音と共に豚肉特有の旨みが口の中いっぱいに広がっていった。

 

「おぉマジでうめえ。揚げ加減が抜群で食感も最高だ」

 

 空腹を抱えた高校生の前にごちそうを用意すればどうなるか。

 もはや説明は不要だろう。

 俺達は会話もそこそこに箸を進めていき、程なく完食。そして食後のお茶を一服しつつ腹が満たされた幸せに浸っていた時、麻奈実が素朴な疑問なんだけど、と質問を投げかけてきた。

 

「あのね、きょうちゃんも赤城くんも妹さんがいるじゃない?」

「ああ」

「それがどうした?」

「もしもだけど、桐乃ちゃんや瀬菜さんが彼氏を紹介しますって男の子を家に連れてきたらどうする?」

『――なんだその鬱設定は!? そんな愉快な奴が現れたら問答無用でぶっとばすに決まってんだろ!』

 

 赤城は重度のシスコン野郎で俺とは全く性癖が違うわけだが、奇しくも台詞が一言一句かぶってしまった。

 全く、世の中には恐ろしい偶然があったもんである。

 

「けどその仮定は全くの無意味だな、麻奈実」

「どうして?」

「花より団子。桐乃にはまだはええよ」

 

 正確には彼氏よりもエロゲーってところだが、そういう兆候は見られない。これでも一緒に住んでんだから、何かしら変化があれば気付くはずだ。

 

「赤城くんはどう?」

「瀬菜ちゃんに彼氏はいない! 今はその事実のみが大切で仮定の話に興味はねえな」

「おう、赤城。気が合うじゃねえか」

「高坂もそう思うか!」

 

 ハッハッハと高笑いを木霊させつつ、ガッチリ空中で握手を交わす。

 さっきは全面戦争に陥りそうになったが、やはりこいつは俺の親友だぜ  

 

「相変わらずだねえ、二人とも」

 

 そんな俺達を麻奈実が微妙な表情を浮かべながら見つめている。だがその後に“でも妹って、いつかは兄の下を離れていくものなんだよ”と冗談まがいに付け足した言葉が、妙に胸の奥に引っかかってきた。

 

 その後を少し語るならば、食事を終えた俺達は三人で秋葉原を色々回ることになった。

 ライトな空間からちょっとダークなところまで。

 まるで一年ちょっと前の俺がそうだったように、麻奈実は目を白黒させていたけれど、思惑に反して楽しんでくれていたと思う。

 今日は楽しい休日だった。

 そう断言できるくらい三人で過ごした時間は有意義なものだったと付け加えておこう。

 

 

   



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第二十九話

 ……なんなんだろう、この状況は。

 俺の両隣から放たれてくる無言の圧力。

 左右から同時に襲いくるプレッシャーは既に強化人間かニュータイプのレベルに達していて、小鹿のようにか弱い俺の心を押し潰そうと試みてくる。

 その圧倒的なまでの力に耐えかね、俺は遂にその場で身体をくの字に折り、頭を抱えることになった。

 

「あら、どうしたの兄さん。随分と顔色がすぐれないけれど」

 

 右隣から放たれる艶を含んだ声音。

 俺のことを“兄”と呼んだものの、この問い掛けは妹の桐乃のものじゃない。

 誰のものかといえば……。

 

「もしかして車に酔ったのかしら? 意外と軟弱なのね。その程度の力ではこの先の戦いで生き残ることなど不可能よ」

 

 そう言った彼女は、自身が下げているバッグを漁り、中から何やら掌サイズの小箱を取り出した。それを赤い瞳でじっと見つめてから、俺の目の前にゆっくりと差し出してくる。

 

「なんだ、これ?」 

「状態異常を回復できる魔法の秘薬。あなたに理解できる言語に直すと“酔い止め”になるのかしら。乗る前に飲むタイプの物だから、効き目は保障しかねるけれど……」

「いや、大丈夫だ。気持ちだけ貰っとくわ。サンキュな“黒猫”」 

 

 そうなのだ。

 俺の隣にちょこんと座っているのは、いつものゴスロリ服を着込んだ黒猫である。カラコンも装着済みで、佇まいは俺が見慣れた黒猫そのものだ。

 その彼女が、どうして俺を兄などと呼んでいるのかというと――

 

「――お兄さん。忘れているかもしれませんけど、黒猫さんはあなたの“妹”なんですよ? そこのところキッチリ理解して、履き違えたりしないでくださいね」

 

 今度は俺の左隣から、冷気を帯びたような冷ややかな声音が降り注いだ。

 本来なら天使の歌声のような美声の持ち主なのだが、何故か今は、触れれば怪我をしてしまう薔薇の棘を彷彿とさせる険の篭り方だ。

 

「……分かってるよ。自分の妹のこと忘れるわけねーだろ」

「どうだか。今だってみっともなく鼻の下伸ばしてたじゃないですか。黒猫さんを見る目もなんか優しそう……じゃなくて、いやらしい感じでしたし」

「別に伸ばしてなんかいねーよ! つーか口を開く度に俺を変態みたく言うんじゃねえ!」

「へえぇ。いっちょ前に否定するんですか? けれど、まったく、これっぽちも信用出来ない言葉ですよね、フンッ!」

 

 可愛く鼻を鳴らしながら、ぷいっとそっぽ向いたのは――俺の天使てもあり天敵でもある新垣あやせ。その行動の最中で、軽く肘で俺を小突いてきたりする。

 ……さて、この異質な状況、ご理解頂けただろうか。

 俺は車の後部座席に座った状態で、なんと左右をあやせと黒猫に挟まれているのだ。

 ああ、なんて恐ろしい地獄絵図。

 正直この状態を維持され続けると、現地へ到着する前に俺の精神が先に磨耗しきっちまうんじゃないかと心配になってくるぜ。

 なに? 美少女二人に囲まれて両手に花。地獄じゃなく天国の間違いじゃないかって?

 馬鹿も休み休み言ってくれ。

 そう思う奴は今すぐ此処に来て俺と変わってくれってんだ。喜んで席を譲るから。

 

「うんうん。相変わらず仲が良いのねぇあなた達。それだけ楽しそうにして貰えると、こちらとしても誘った甲斐があるというものだわ」 

 

 そして運転席から響いいてくるのは、透明感のあるアルトな響きだ。

 なんと驚くなかれ。

 俺達三人を乗せたまま車を走らせているのは――以前出会った株式会社エターナルブルー代表取締役の藤真美咲さんなのである。

 

 ――事の発端は土砂降りの雨が降りしきる中で加奈子と再会した日に遡る。

 

 雨宿りがてら加奈子と喫茶店に避難してた時に、あやせが掛けてきた電話が分岐点だった。

 簡単に要約すると、美咲さんが俺とあやせ、そして黒猫を自身の所有する別荘へ招待したがっているという内容で、それを聞いた時は、はっきり言って目が点になるくらい驚いたもんだ。

 当初はあやせが冗談でも言ってんのかと疑ったくらいで、その場で三度確認した程である。

 だってそうだろ?

 俺と美咲さんの間にプライベートで連絡を取り合うような接点なんてないし、どっちかっていうと“敵”に分類される間柄だったはずだ。

 なのにあやせから断りの連絡を入れるのが困難なほど向こうが乗り気で、結果として、なし崩し的に今回の状況に押し込まれてしまったらしい。

 ――週末に黒猫ちゃんも連れて遊びにいらっしゃいな。

 あやせとしては俺から断る方向へ話を持っていって欲しかったらしいのだが、旅行の特典として豪華ディナー&温泉入り放題をつけられたら個人的に心が傾くってもんだ。

 黒猫が断ったら諦めるしかなかったんだが「そうね。先輩が行くのなら……一緒に行ってもいいわ」と承諾されてしまい、現在に至るという訳である。

 

 あと忘れてる人もいるだろうから説明しておくと、美咲さんはあやせを外国にスカウトして連れていこうとしていた危険人物だ。

 その目論見は俺の華麗な活躍でご破算にしてやったのだが(あやせから真摯に頼まれちゃNOとは言えねえわな)付随する問題はそこだけじゃない。

 実はその渦中、設定上とはいえ俺とあやせは“恋人同士”ということになっていて、黒猫はなんと“俺の妹”という位置づけになってしまっているのだ。

 しかも美咲さんは、俺達をからかうことが楽しくてしょうがないのか「私って助手席に人がいると落ち着かないタイプなのよ。だから京介くんはあやせちゃん達と一緒に後部座席に座ってね」と、無言で助手席に陣取ろうとした俺を無理やり後部座席へ追いやってくるし。

 一応“赤城京介”という偽名を使用して保険を掛けてはいたが、これじゃ健康な胃も痛くなってくる。

 

「……でも、どうして俺達を招待しようだなんて思ったんです? いまいち納得できないっつうか、釈然としないっつうか」

「急に休みが取れちゃってねぇ。一人で過ごしてもつまんないじゃない? そこでふと京介くんとあやせちゃんのことを思い出しちゃったのよ」

「一度会っただけの俺なんかのことを覚えててくれたのが驚きですよ」

「かなり印象深かったからね京介くんは。その京介くんとあやせちゃん、そして黒猫ちゃんの三人を交えてもう一度話をしてみたかったってのが本音かしら」 

「けど、折角の休日なのに迷惑じゃないんスか?」

「全然。逆に楽しみにしてたくらいよぉ。それに以前別れ際に言ったでしょう? 今度はプライベートで会いましょうって」

 

 運転中なので表情は窺えないが、声音からは本当に楽しみにしていたように感じ取れるくらいの明るさが込められていた。

 つってもなぁ……この人何を考えてるかまるで読めねえ姉ちゃんだし、額面通り受け取って良いものかどうか。

 まあ地位も名誉もある立派な大人(フェイトさんには是非見習って欲しい)だし、変なことは起こらねえと思うが……。

 

「あ、そうそう。現地であと二名ほど合流する予定だから仲良くしてあげてね。相手も京介くん達と同じくらいの年齢だから、きっと話が弾むはずよ」

 

 なんて重大な事実を現地に向かう車中で暴露するくらいには信用の置ける人物だ。

 

「それ、初耳なんすけど……」

「当たり前じゃない。私も初めて伝えたんだから」 

 

 ……もはや何も言うまい。

 しかし現地で二人合流するだって? 

 黒猫の奴は大丈夫だろうか。

 実はこう見えて結構人見知りする奴なんだよこいつ。俺がフォローすれば問題ねえ範囲で収まるとは思うけど……。

 

「どうしたんですか、お兄さん。私の顔に何か付いてます?」

「いや……」

 

 視線が自然とあやせの方向を向いていた。

 今更説明することもないだろうが、あやせと黒猫の仲の悪さは折り紙付きだ。恐らく親友である桐乃を取り合ってのことだと思うのだが、文字通り犬猿の仲と言ってもいいくらいである。

 まあぶっちゃけると、今回の話を受けた裏には、あやせと黒猫の仲をもっと良くしたいという思いもあったのだ。

 一緒に過ごすことで仲の良い友達同士になって欲しい。なんて目論見があったりする。

 あやせも黒猫も本質的には友達思いの優しい娘だし、きっかけさえあれば仲良くなれると思うんだよ。

 この前も三人一緒にモンハンで遊んだんだしよ。

 色々悶着はあったけど、俺の努力の甲斐もあり少しづつだが距離は近くなっていっている……気がするのだ。

 今回の旅行中にもう少しだけでも打ち解けてもらえりゃ、俺が赤い弓兵ばりに心労で磨耗しちまうこともないだろう。

 そう思った直後、車が停車する時に感じる軽い浮遊感が俺を襲ってきた。

 どうやら目的地に到着したようだ。

 

「お待たせ。珍しくもない普通の避暑地だけど、付近一帯は私有地だから思う存分くつろいでちょうだい」

 

 そちらから先に降りてくれるかしら、と美咲さんが運転席から促してくる。それを受けて俺達は、あやせから順番に車外へと身を躍らせた。

 

「わあ、綺麗!」

 

 外の展望を目にしたあやせが、感嘆の声を上げている。

 けど、それも無理からぬことだ。

 車の外は、普段俺達が暮らしている街とは全く趣きの違う別世界が広がっていたのだから。

 

「……こりゃ、すげえな」

 

 まず目に飛び込んできたのは草木を彩る緑色だ。それも生命の香りが漂うような力強い緑。

 木々が何処までも連なっていて、生い茂る葉の隙間から木漏れ日が差し込んできている。木陰の下は実に涼しそうだし、芝生の上に寝転びたいって衝動に駆られたほどだ。

 ふと振り返ってみれば、海原を真っ二つに割るモーゼの十戒のように、林の中を延々と並木道が続いていた。耳を澄ませれば小鳥のさえずりが聞こえてくる。

 都会の喧騒は遥か遠く、空は何処までも青い。

 俺達が走ってきたアスファルトの道路でさえ、自然という世界に溶け込んでしまったような錯覚を覚えるほどだ。

 

「今にもエルフが飛び出して来そうな趣きがある世界ね。優しさが溢れているような、とても繊細な感じ」

「はは。エルフってなんだよ、それ?」

「知らないの、先輩? エルフは森を司る妖精のことよ。とても自然を愛する種族なの」

「それくらいなら知ってるぞ。金髪で耳が尖ってて美人で、あとすんごい長生きで、攻撃する時に弓使ったりな」

「概ねその認識で間違っていないわね。ならこれは知っているかしら? 先輩がイメージするような“エルフ”像を形作ったのは、ロードス島戦記という書物に出てくるキャラクターが初出なのよ。ディードリットというのだけれど、彼女の持つイメージがその後の小説やアニメ、ゲーム業界を席巻するなんて、クリエイター冥利に尽きる出来事なのでしょうね」

「へえ。さすがに詳しいんだな、黒猫」

「この程度の知識は常識の範囲内よ。良かったら先輩にも貸してあげるから読んでみて頂戴。名作よ」 

「そっか。じゃあ機会があったら頼むわ」 

 

 嬉しそうに語る黒猫の姿に、エロゲーについて力説する桐乃の姿が重なった。

 やっぱオタクって奴は自分の好きなものについて語る時は饒舌になるし、機嫌も良くなる。

 慣れたって訳じゃねえけど、そういうのを聞いてる時間も悪くねえ、そんな風に思えるようになった。

 

「あと勘違いしているようだけれど、エルフにはちゃんと男性も存在しているのよ?」

 

 なんて付け足すあたり、本当に好きなんだろうなぁこいつ。

 

「はいはい。一先ず雑談は終わりにして先に荷物を置いちゃいましょうか。コテージすぐそこだから」

 

 ぱんぱんと拍手を打ち鳴らし、美咲さんが俺達の注目を集める。それを確認してから、彼女の指がすうっと水平に移動した。

 自然にそれを目線が追うと――

 

「…………すげえ」 

 

 彼女の指差した方向には、ロッジ風の立派な建物が聳えたっていた。てかコテージっつうよりもはや別宅って感じだ。

 門構えも立派だし作りも重厚で、なにより単純にばかでかい。

 ぱっと見ただけだが、三階建てなんじゃなかろうか。

 

「隣に建ってるコテージまで結構距離があるからね、大声上げて騒ぎ立てても迷惑にならないわよぉ。どう京介くん、嬉しいでしょ?」

「なんで俺に話振るんスかね?」

「さて、どうしてかしら。女の子の嬌声って結構遠くまで響くものなのよ?」

 

 クスクスと笑いながら美咲さんが先陣を切って歩きだす。

 やっぱこの姉ちゃん、俺達をからかって楽しもうとする悪癖があるよな。

 こりゃ相手の玩具にされねえように気をつけないと。

 

「あぁ、そちらから周り込んでちょうだい。スロープになっていて玄関まで上れるから」

 

 そうこうしている内にコテージへと到着する俺達。

 美咲さんの指示通り回り込んで上って行ったのだが、玄関口で彼女が言っていた“現地で合流する二名”の人物に遭遇することになる。

 

「お待ちしていましたよ、美咲さん」

 

 まず現れたのは男性アイドルもかくやという爽やかなイケメン野郎だった。

 やや小柄だが、スラっとした体格に清涼感を漂わせる雰囲気。一見すると女の子にも見える線の細さだが、キッチリ喉仏が出ているのを俺は見逃さなかった。

 声も通りが良く、大抵の女の子なら好印象を抱くだろう。

 だが俺は、その男を前にした途端、脳内の中で赤いシグナルが鳴っているのに気付いた。

 即ち――油断するな。コイツハキットテキダ。と。

 そのイケメンがゆっくりと俺の目の前まで歩いてきた。

 そしてやおら右手を差し出しながら 

 

「初めまして。僕は御鏡光輝と言います。あなたが赤城京介くんですよね? お噂はかねがね美咲さんより窺ってます。そしてそちらの女の子が妹の黒猫さん?」

 

 声を掛けられた黒猫が、ぱっと俺の身体を盾にするようにして引っ込んだ。その状態からおずおずと顔だけ出して軽い会釈を返す。

 袖口は、ぎゅっと黒猫に掴まれていた。

 チラっと横目でこいつの表情を確認するに、どうやら相手のことを警戒しているようだ。

 少し失礼な態度と思わないでもないが、イケメンは気分を害した様子もなく次の人物――あやせへと視線を移していく。

 

「こんにちは新垣さん。こうして会うのは結構久しぶりじゃないですか?」

「……御鏡、さん?」

 

 あれ? 今のやり取りって……もしやこのイケメンとあやせって知り会いなのか?

 だがその事実確認を行う間もなく、二人目となる人物がイケメンの後ろから現れた。

 

「あやせぇ~? ンだよぉ。やっと来たのかヨ~」

 

 ――げえ!? この間延びした声は!?

 

 今まで寝ていたのか、ふわ~と欠伸をしながら現れたのは――なんと来栖加奈子!

 あまりにも予想外の人物の登場に、一瞬俺の思考が完全に止まってしまう。

 その間に加奈子はゆっくりとした足取りで俺達の前へと姿を現し、そしてあやせではなく俺の姿を見てピタリと動きを止めた。

 

「へ?」 

「……」 

 

 暫し見つめ合う俺と加奈子。

 そして――

 

「あああああああ――ッッッ! マネー……」

 

 俺がヤバイと思うよりも速く“あやせ”が動いた。

 加奈子が俺をマネージャーだと呼ぶよりも先に、あやせが加奈子の懐へと飛び込むと、人体の急所である鳩尾へ肘撃を放ったのだ。

 たぶん角度的に俺以外には見えなかっただろうけど……。

 

「……あや、せ……テメエ……いきな、り…なにしやが……」

 

 ガクッ!

 哀れ加奈子はその場でノックダウン。落ちるようにして気を失ってしまった。

 

「あれ加奈子? どうしたの加奈子? 大丈夫、加奈子?」

 

 加奈子の両肩に手を乗せたまま、ガクガクと前後に揺さぶるあやせ。

 一見すると加奈子を心配しているように見えるが、俺にはその行為が、ちゃんと加奈子が気を失っているかを確認している作業に思えて仕方なかった。

 

 

 



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第三十話

 俺達は美咲さんに連れられて、別荘内の廊下を歩いているところである。

 今回の旅行は一泊二日の日程になっているので、今日の寝床――もとい、寝室まで案内してくれるらしいのだ。

 別荘は外から感じた通りの三階建てで、調度品も豪華なら内装も綺麗。リビングから上へと続いているお洒落な螺旋階段なんかも設えてあり、全体的にとても趣きのある作りになっていた。

 今歩いている廊下も横幅が広く、並んで歩いていても手狭に感じないくらいである。部屋の数も結構ありそうだし、こりゃ寝室の内装にも期待できそうだ。

 ちなみに急な“貧血”で倒れた加奈子は、一階リビングのソファで絶賛お休み中である。

 あやせ曰く――たぶんスグに目が覚めると思いますよ、お兄さん――とのことだ。

 本当、大事なくて良かったぜ。

 

「さあ、着いたわよ。遠慮なんていらないから、自分達の部屋だと思って存分にくつろいでちょうだい」

 

 そう言い放ちながら廊下の一番奥で美咲さんが立ち止まった。それから彼女は、目の前にある扉を片手で開け放つと、優雅な動作で脇のスペースへと身体を移す。

 俺達に中を見ろってことだろう。

 そう予想した俺は、首を伸ばすようにして室内の様子を探る。だが目に飛び込んできた光景は、俺の想像していたものとはちょっと違ったものだった。

 まあ、ぶっちゃけると何の変哲もない寝室ではあるんだが――飛び抜けて目立った調度品も置かれていないし、突飛な構造をしてるわけでもない。

 ただ部屋の主役である“ベッド”が凄まじい存在感を放っているだけなのだ。

 

「……えっと、なんスかこれ?」

「何ってあなた達の寝室だけど?」

 

 何を驚いているの? てな感じできょとんとする美咲さん。

 いやいや、寝室なのは一目瞭然なんスけど……どうしてベッドが“二つ”あるんですかねぇ?

 しかも一つはダブルベッドサイズで、ご丁寧に枕が二つ揃えて並べてあるとかっ!?

 

「みさ――じゃなくて藤真さんッ!? 今あなた達の寝室って言いましたよね!? じゃあここって黒猫とあやせの部屋ってことッスか?」

「違うわよぉ。ここは京介くんとあやせちゃん、そして黒猫ちゃんと合わせて三人の部屋に決まってるじゃない。あと堅苦しいから私を呼ぶ時は美咲で結構よ?」

 

 なんて茶目っ気たっぷりなウインクを添えて、俺に笑顔を振り巻いてくる美咲さん。

 なんつーか、地獄の鬼が泣きすがる亡者を、金棒で煮立った鍋に突き落とす時なんかに浮かべそうな笑みである。

 横目で確認したら、あやせも黒猫も引きつった表情を浮かべながら、部屋の中を凝視して固まってやがるし……って、さすがに見過ごせない状況だと悟ったのか、いち早く復活したあやせが美咲さんに食ってかかった。

 

「み、美咲さん。これって冗談ですよね? だってわたしとお兄さんが一緒の部屋で……ね、寝るだなんて、嫌……じゃなくて駄目です!」

「駄目って、どうして?」

「どうしてって……そんなの決まってるじゃないですか!?」 

 

 チラリとダブルベッドに視線を送るあやせ。

 枕はキッチリと隙間のない状態で真横に並べられている。

 

「別に変じゃないでしょう? だって京介くんとあやせちゃんは恋人同士じゃない。黒猫ちゃんは京介くんの実の妹だし。一緒の部屋でも問題ないはずよ」

「そ……れは……そうなんですけど……」

「うふふ。遠慮なんてしないで。ほら、三人で仲良く長い夜を楽しんでちょうだいな」

 

 口元に人差し指を添えた状態で妖艶に微笑む美咲さん。それからあやせの緊張を解すようにぽんっと軽く肩を叩いた。

 当のあやせも何とか反論しようとするのだが、建前で“そうなっている”事実を付きつけられてしまっては二の句を告げない。

 だがここで引き下がったら俺と一緒の部屋に押し込められると思ったのか、話を黒猫に持っていくことで事態の打開を図ろうとした。

 

「黒猫さんも黙ってないでなんとか言ってください! このままだとあなたもお兄さんと一緒の部屋で寝ることになっちゃうんですよ? そんなの嫌ですよね?」

「……そうね。確かにあやせさんと兄さんが一緒の部屋で寝るなんてことは看過できないわ。――妹として」

「え?」

 

 自分とは違う意味のニュアンスで否定され、あやせの眉根が怪訝そうに寄った。

 

「黒猫さん?」

「考えてご覧なさい。あなたと兄さんが一緒の部屋で寝る――しかもこの部屋の装いを見るに同じベットで寝ることを想定されているようね。そんな破廉恥な展開は断じて認めるわけにはいかないわ」

「い、今はそういうことを言っているんじゃなくってですね――」

「まあ聞きなさい。私はあやせさんと美咲さん、両者の意見を折衷した案を提出しようとしているのだから」

「……折衷って、要は代案ってことですか?」 

「そうよ。ここにはダブルベッドとシングルベッドの二つが存在しているわよね? まずその二つあるベッドの距離を出来るだけ離すのよ。――ああ、出来れば壁際にくっ付けるくらい離してしまうのが理想かしら」

 

 胸元に手を添えて、若干芝居がかったポーズを取りながら、黒猫があやせをねめつけている。

 前々から感じてたことだが、黒猫の奴あやせが絡むと妙に自己主張するというか、前向きになるというか、少し豹変しやがるな。

 普段は人見知りで極度の恥ずかしがり屋の癖に、一度スイッチが入ると周りが見えなくなるっつうか……。

 そういやゲー研連中でエロゲー作った時も、プレゼンでとんでもねえこと口走ってやがったしなぁ。

 基本的な部分ではノリの良い奴なのである。

 

「距離を離す……ですか?」 

「ええ。そうすればベッドとベッドの間に空間が出来る。その空間に適当な調度品でも並べてしまえば擬似的に部屋を分けることが出来るじゃないの」

「ベッドの間に壁を作るってことですか?」 

「そう。そして片側のベッドには兄さんが寝て、もう片方にはあやせさんが寝るの」

「……黒猫さんがなにを言いたいのかいまいち理解できませんけど、その案の場合あなたは何処で寝るんです?」

「決まってるじゃない。勿論兄さんと同じベッドで寝るのよ」

「なああっッ!?」

 

 どんな場面を想像したのやら。あやせの顔が急激に真っ赤になっていく。

 

「ダメ、駄目、駄目えぇッッ! そんなの絶対に駄目です! そんな……エッチなこと、わたし許しませんから!」

「エッチ? エロいということ? あらあら。これはまた語るに堕ちたわねぇ、新垣あやせさん」

「なにがですか!?」 

「私とそこにいる男は兄妹なのよ? その兄妹が一緒のベッドで寝るという行為の何処にエッチな要素が含まれているというのかしら? どう見ても健全な行為じゃないの」

「あ、ああ、あなたが……それを言うんですかあああ――!」

 

 黒猫が俺の妹であり、あやせが恋人であるというのは勿論ただの設定だ。

 設定のはずなんだが……黒猫の奴、本気で言ってんじゃねえよな?

 

「っふ。新垣あやせ――あなた先程その男と一緒に寝るのは嫌だと言ったじゃない。その意思を汲んだ私の案を認めないとでも言うつもり?」

「ぐっ」

 

 ズビシッ! と威勢よくあやせを指差す黒猫。

 対するあやせは、苦虫を噛み潰したような渋面を作りながらも、半歩前に出ながら反撃する。

 

「それは……わたしとお兄さんはプラトニックな付き合いですから! そういうのはまだ早いんです!」

「でもベッドは二つしかないわ」

「ならお兄さんには廊下で寝てもらうことにしましょう。風邪を引く季節でもありませんし、これなら何処からも文句が出ないはずです」

 

 出るよ! めっちゃ出るよ! 主に俺から!

 

「悪くはないけれど、それは少し可哀想な気がするわね。懲罰でというならまだしも今日はまだ何の変態行為もしていないのだし」

「……だからと言って黒猫さんとお兄さんが一緒に寝るなんて絶対認めませんから」

「ふう。頑固なのね。あれも嫌、これも嫌では纏まる話も纏まらないわ」

「あなたにだけは言われたくありませんよ――こンの、泥棒猫ッ!」

「ど、泥棒……猫、ですって? この女、一度ならず二度までも……!」

 

 煽られた黒猫があやせをキッと見据える。その視線をあやせは真っ向から受け止めた。

 瞬間、形成される特殊空間。

 あやせと黒猫を中心にして発生した謎の圧迫感が俺を包みこんだ。

 絵面的には美少女二人に挟まれている構図なんだが、その二人が仁王立ったまま視線に火花散らせてるとくれば心中穏やかではいられない。

 例えるなら暴風雨の真っ只中に放り込まれた小動物の心境といえようか。

 

「どうやら言葉を弄しても伝わらないようねぇ。ならば地獄の業火を召喚し、焼き尽くすまでよ」 

「いいですよ。受けて立ちます。ここじゃなんですから、表へ出ましょうか」 

「――待て待ていっ! っていうか黒猫もあやせも一旦落ち着けって! 到着早々喧嘩おっぱじめようとしてんじゃねーよ!」

 

 このまま二人のバトルを長引かせては大変なことが起きる。主に俺の身に。そう直感した俺は、身体を張って二人の間に割って入る事にした。

 

「つーかさ黒猫。おまえは俺と一緒に寝ることになっても平気なのか?」

「………………え?」

「だってよ、話の流れ的にそうなっちまうんじゃねえのか? ……その、一緒のベッドでよ」

 

 俺に指摘されてその“現場”を想像してしまったのか、黒猫は瞬間湯沸し機じみた速度で表情を真っ赤に染め上げていく。

 

「あ……ち、違うのよ。今のは先輩とこの女が一緒に寝るのを阻止しようとしただけで…………深い意味はないと言うか……、勿論平気じゃないし、かといって嫌という訳ではないのよ? ………………って私は何を口走って……!?」

 

 はわわと身振り手振りを交えながら、言い訳らしき台詞を並べ立てる黒猫。視線も右往左往しているし口元も引きつり気味になっていた。

 ありていに言って完璧にテンパってやがる。

 

「……うふふ。あはは。やっぱり面白いわねぇあなた達。見ていて飽きないわぁ」

 

 俺達のやり取りを眺めていた美咲さんが、クスクスと楽しそうな笑い声を上げている。しかも突如、口の端っこを意地悪そうに持ち上げるや、とんでもないことを言い出しやがったのだ。 

 

「ねえ、それならいっそ三人で一緒に寝ちゃえばいいんじゃないの?」

「――え?」

 

 突然感じる軽い浮遊感。

 黒猫の様子に目を奪われていたからか、俺は美咲さんが取った突飛な行動に対処することが出来なかった。

 それはあやせも黒猫も同じだったようで、唖然とした表情を貼り付けたまま“俺と一緒”に空中に身体を投げ出されている。

 

「どーん!」

 

 なんて擬音を後追いで口にする美咲さん。

 何をされたかっつうと、美咲さんに仲良く三人一緒に背中を突き飛ばされたのだ。

 

「いきなりな……って、うわぁ!?」

 

 まるで紐が絡まりあうように、ごちゃまぜ状態になってダブルベッドに倒れ込む俺とあやせと黒猫。

 奇しくも美咲さんの言った通り、三人仲良くベッドの上に寝転ぶことになってしまった。

 ちなみに、俺が一番下で二人の下敷きになっている体勢に近い。

 

「……お、重い……」

「重い!? 女の子に向かってなに言ってるんですかぁ! 全然重くなんてないです!」

「いや、マジで潰れ…………る」

「ちょ――お兄さん! 手! 当たってます! 当たってますから!」

「すまん……あやせ。何とか調整……すっから、ちょっち我慢してくれ……」

 

 超密着状態のまま何とか位置を調整しようともがき動く。

 だが、今度は黒猫側から駄目出しが入った。 

 

「う、動かないで頂戴、先輩! その状態から足を伸ばされるとスカートが……脱げ……ちゃ」

「でも動かねえと、右手があやせの――」

「おお、お兄さん!? どさくさに紛れてドコ触ってるんですか!? エッチ! ド変態! 通報しますよ!? 殺しますよ!?っていうか死ね!」

「そんなこと言われても……よ……」

「話を訊いているの先輩!? 足を伸ばしては駄目だと……ああぁ!」

 

 ――あちらを立てればこちらが立たず。

 もうね、ムニュって挟まれて揉みくちゃにされた状態でさ、温かいやら柔らかいやら良い匂いがするやらで脳が訳が分からん状態になっていた。

 あらゆる意味でフルバースト。

 ていうかさ、こんな極限状態を俺一人の力で改善するとか無理じゃね?

 そう結論付けた俺は、唯一自由に動ける美咲さん相手に目線で必死に助けを求めた。

 なのにこの姉ちゃんときたら――

 

「京介くん。さっきも言ったけれど、防音に関しては心配いらないからはっちゃけちゃってもOKよ」

 

 なんて親指立てながら扉を閉めようとしやがった。

 し、信じらんねえ!

 

「ちょっと待てえええええええッッ!!」

「フフフ。落ち着いたら下りてきてね。昼食にしたいから。――あ、そうそう。私ってプライベートでは結構融通の効くほうなのよ? 職業柄口は堅いしねぇ」

「この期に及んでなに言ってんスか!? つーか俺の話を聞いてえええええええええッッッ!!!」

 

 ――バタン。

 俺の台詞は完全に無視される形で、美咲さんは無情にも扉を閉じて去って行った。後に残ったのは、とっても幸せな状態――もとい、大変な状態になったまま取り残される俺とあやせと黒猫。

 扉が閉じられたことにより室内は薄暗くなっていて――

 その後どうなったかって?

 

 

 

「あのさぁ~、なんでほっぺにもみじ色した手型が二つも付いてンの?」

 

 場所を階下のリビングに移した俺達を加奈子が迎える。

 どうやら上へ行っている間に見事復活を果たしたようだ。

 ちなみに美咲さんは御鏡を連れて特注弁当――贅を凝らした特別仕様らしい――を車で受け取りに行っている最中である。

 近場なのでそれほど時間はかからないらしいが、これ幸いとこの間を利用して、俺達の事情を知らない加奈子に簡単な説明はし終えていた。

  

「……ちょっと階段で転んだんだよ」

「ドコの世界に階段で転んでビンタの痕付けるバカがいるんだヨ?」

「分かってんなら聞くんじゃねーよ!」

「どーせエロいことしようとして叩かれたんだべ? 京介って見るからにスケベそうだしィ~。あ、ロリコンだったっけ?」

「YESロリータNOタッチ! ってちげーよ! 俺はロリコンでもシスコンでもねえ!」

 

 全く失礼な奴だぜ。

 さっきのアレの原因を作ったのも美咲さんだし、一人の純然たる紳士として断固抗議する場面だ。まあ俺に責任が皆無だとは言わねーが、精々あって三割ってところだろ。

 そんな風に脳内分析していたら、加奈子があやせに向かってメンチを切りだした。

 

「ってゆうかさぁ、出会っていきなり友達に肘鉄喰らわすとかヒドクね? 跡が残ったらどーしてくれンだよぉ~」

「え? 肘鉄って何のこと?」 

「惚けんなよー。加奈子のこと思いきり打ったじゃんか。何か気失ってる間に川に流されそうになる変な夢見てさぁ、寝覚めとか超わりーしよぉ」

 

 むくれる加奈子に対して、あやせは“そんなことあったかな?”ってな感じで首を傾げている。

 しかし夢の中に出てくる川って……もしかして三途の川じゃねえだろうな?

 戻って来れて良かったな、加奈子。

 

「確か加奈子って貧血で倒れたんだよね? 何か勘違いしてない?」

「ハァ!? ンなワケねーじゃん! だいたいあやせはいつもいつも加奈子のことさァ――」

「ううん間違いない。わたし確認したもん。――ね、加奈子。貧・血・で! 倒れたんだよね?」

「ぁ――――ぅ!?」

 

 加奈子の台詞を遮る形であやせが上から言葉を被せる。その際、瞳から光彩を消し去り、ゆっくりとした動作で獲物に近づく様はまさに大型猫科の肉食獣。

 対する加奈子は、怯える草食動物よろしく小さく身体を縮めていた。

 しかし一寸の虫にも五分の魂。

 加奈子は無謀にもあやせに向かって反撃を試みた。

 

「に、にじり寄って来ても怖くなんかねーかんな! 加奈子様ナメんな!?」

「ねえ加奈子。あんまり強情張ると――――埋めちゃうよ?」 

「………………あれ? おっかしなー。ナンか貧血で倒れたような気がしてきたゾ? ……ウン。アタシカラダヨワインダッタ」

 

 五分の魂など一瞬で燃え尽きる。

 あの傍若無人台風みたいな加奈子を以ってしても、あやせにだけは逆らえない。

 つーか逆らってはいけないのだ。そのことを俺は身を以って知っている。

 あやせ様に面と向かって逆らう人間なんて、そうそうお目にかかれるもんじゃ……って、そういや黒猫がいたな。

 単純な戦闘力じゃ比べるべくもないが、あやせに一歩も引かず渡り合っていたりする。怖いもの知らずって面もあるんだろうが、なんかあやせも黒猫には一目置いてるっぽい感じがするし。

 そう思って黒猫に視線を移してみる。

 黒猫はあやせと加奈子のやりとりをじっと見つめているが、特に口を挟む素振りは見えない。

 ……っと、俺の視線に気付いたのか、黒猫がこっちに向かって顔を上げてきた。

 

「どうかしたの? 私に何か恨み言でもあるかのような瞳だけれど。それともまた頬を打って欲しいのかしら?」

「……悪かったって。けどありゃ不可抗力だった面もあるだろ? もう許してくれよ」

「ふふ。どうやら反省はしているようね。いいわ。あなたが破廉恥なのは前世から育まれた怨念みたいなものだもの。定められた運命だと思って諦めるわ」

「怨念レベルのスケベ野郎だってのか?」

「あら、自覚がないのかしら?」

 

 酷い言われようである。

 これって名誉毀損で訴えても良いレベルじゃね?

 

「部室で時々、瀬名の胸を盗み見ているの、知ってるのよ?」

「スンマセンしたああああぁぁ――――!!!」

 

 いや、違うんだよ。

 何かすげえ自己主張しやがるから、ついつい目が吸い寄せられるっつうか、盗み見るつもりはないけど気付いたら見てるっつうか……。

 おっぱいってすげえよな。

 

「なあなあ京介ー。その黒っぽいのってお前の妹なんだよなー?」

「え? ああ。そうだけど?」

 

 あやせに許されたのか、復活した加奈子が俺と黒猫の会話に入ってきた。

 簡単に事情は説明してあるが、黒猫とのことを突っ込まれると色々面倒なので割愛して話してあるのだ。だから加奈子は黒猫を俺の妹だと思っている。

 全部説明すると桐乃のことまで話が及ぶかもしんねーし。

 なのにこいつは……。

 

「マジで? なんか兄妹って感じじゃなくね?」

「ど、どの変がよ?」

「んー、うまく言えねーんだけどよぉ、なーんかぁ雰囲気とか違うんだよねぇ」

 

 なんて核心を吐く言葉を吐きやがる。

 事実として完全に他人なんだから見破られても不思議じゃねえが、バ加奈子に指摘されるとは思ってなかった。

 あやせもそう感じたのか

 

「……興味あるの、加奈子?」

「んー? 興味っつうか、妹じゃなかったら厄介かなーって」

 

 厄介って。意味が分からんぞ。

 だがその言葉に当の黒猫が反応した。

 

「っふ。そこのメルルもどき。今の言葉、どういう意味で言ったのか説明してもらえるかしら?」

「だッ、誰がメルルもどきだこらぁー!」

「というより――あなたこの男を“京介”って呼んでいるけれど、それはどうして?」

「あ、それわたしも気になってました。どういうこと加奈子?」

「だってぇマネージャーって呼んじゃ駄目なんでしょぉ~? じゃあ名前で呼ぶしかないじゃんかあ」

「……気色悪いからやめてくれるかしら」

「なんでお前に駄目出しされなきゃなんねえんだヨ! ねぇ京介~。別に名前で呼んでも良いんでしょう~?」

 

 急に猫なで声(色っぽくはない)を出しながら、ぴとってな感じで加奈子がくっ付いてきた。

 瞬間、それを見たあやせと黒猫の額に青筋が立つ。

 

「――先輩。そのメルルもどきをこちらに渡して貰えるかしら?」

「――お兄さん。どうして親しげな名前呼びを許しているんです?」

 

 ここで俺に飛び火してくんのかよ。

 道端に転がってる空き缶の如く存在感を消してやり過ごそうと思っていたのに……。

 

「それはだな……」 

「ヘへんッ! 呼びたきゃ自分達も名前で呼べば良いじゃんかよー。なあ京介ぇ」

「……頼む加奈子! 俺をこれ以上渦中に巻き込もうとしないでくれ……!」

「何を言っているの? 先輩は当時者でしょう?」

「お兄さん。わたし達と加奈子のどっちの味方をするんですか?」

 

 急に息がピッタリと合わせ、あやせと黒猫がコンビで俺に迫ってくる。

 二人とも微妙に笑顔なのが更に怖い。

 

「……落ち着けって。別にそんな怒るようなことじゃねえだろ? 加奈子の言う通りマネージャー呼びを止めさせたのは俺達なんだし」

「苗字で呼ばせればいいじゃないですか!」

「っつってもよぉ……」

 

 今の俺は“赤城京介”ってことになってるしなあ……。つーか、美咲さんとかフェイトさんとかも京介って呼ぶのに、何で加奈子にだけ反応すんだ?

 

「どうしてか胸がムカつくから嫌なのよ」

「あら、珍しく意見が合いましたね、黒猫さん」

「本当に。癪だけれど――これは共闘するフラグかしら?」

 

 互いに頷き合うや、にじり、にじりと近づいてくる黒あやコンビ。

 いつの間にか俺と加奈子は壁際にまで追い詰められていた。

 

「あーん、京介ぇ~。たすけてぇ~。鬼女どもが苛めるぅ~」

『――誰が鬼女よッッ!!』 

 

 あやせと黒猫の絶叫がまったく同じタイミングで重なった。その絶叫に対し驚いた俺は、素早く頭を抱えてうずくまることで対抗する。

 打撃技に対しては無敵を誇るカリスマガードのポーズである。

 情けねえが、ほっぺに刻まれた二つの赤色もみじが俺の精神を薄弱にしていたんだ。

 だが、俺が恐れるような事態はいつまでたっても訪れてこない。

 不審に思い、恐る恐る顔をあげれば……。

 

「……えっと、そこで何をしているの、京介くん?」

 

 玄関の扉を開いて顔を出していた美咲さんと、バッチリ目線が合ってしまった。

 きっと買出しから戻って来たんだろう。

 ――フッ。

 状況を説明しよう。

 あやせと黒猫と加奈子に囲まれながら(一色触発っぽい雰囲気)一人頭を抱えて床にうずくまる俺。

 傍から見る分には実に珍妙な光景に映ったことだろう。

 その状態を見た美咲さんは、軽く咳払いをしてから

 

「ねえ、京介くんって――Mなの?」

「違うううううッッッ――――!!!」

「あなたも特殊な性癖を持って苦労しているかもしれないけれど、やっぱり時と場所は選ばなきゃ駄目だと思うのよ」

「頼むから俺の話も聞いてぇぇ!!」 

 

 結局、美咲さんの誤解を解くのに昼食を食べ終わるまでの時間いっぱいかかったのは痛恨と言えよう。

 だって豪華な弁当を味わう暇が残らず消し飛んでしまったのだから。

 ……ぐすん。

 

  



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第三十一話

「ふう、いい湯だったぜ」

 

 自販機で購入した缶コーヒーを手にしながら、出てきたばかりの脱衣所を振り返る。すると今から温泉に入りに行くだろう家族連れの姿が目に飛び込んできた。

 父親と母親、そして兄妹らしき二人の子供達。

 子供の年齢は小学校高学年くらいだろうか。

 背格好からしてたぶん兄なんだろう男の子が、妹から柄物のタオルを奪っている光景に目が吸い寄せられる。

 その兄貴がタオルの柄を指差しながら、ニヤニヤと笑っているのを見るに、どうやら妹を面白半分にからかっている様子だ。対する妹の方は、若干目尻に涙を浮かべながらも、ぐっと手を伸ばし“お兄ちゃん返して”と必死に訴えている。

 だが兄は、タオルを掴んだ腕を更に上に伸ばし、身長差を利用して妹の手からタオルを死守していた。

 タオルに描かれているのは今流行りのアニメキャラか。

 結局は両親に窘められタオルは妹の手に戻るのだが、叱られて拗ねたように唇を尖らせる兄貴と、その兄貴に向かって真っ赤な舌を突き出す妹の姿に、ふと昔の俺と桐乃の姿が重なって見えた。

 

 ――お兄ちゃん、一緒にお風呂入ろ!

 

 なんて言って無理やり押しかけてきてたっけ。

 まあ語るのも恥ずかしい子供の頃の思い出ってやつなんだが、きっと桐乃の奴は覚えてねえんだろうなぁ。

 まだ兄妹仲が良かった時分の話だけど、あいつ小さい頃は一人で頭洗うのが下手でさ、毎回俺に手伝わせてたんだよ。

 そのくせ目に雫が入って痛いだの、もっと優しくしてだの言って喚くし。

 すぐのぼせるくせに中々湯船から上がろうとしなかったり、本当、毎回付き合わされるこっちの身にもなれってんだよな?

 けど今更こんなことを蒸し返したら、問答無用で蹴りの一つでも飛んでくるんだろう。

 ――キモイ、死ね! なんて罵倒付きでよ。

 

 と、少し話が逸れたか。

 そんな埒もないことを考えている間に、例の家族連れは脱衣所の中へと姿を消していた。

 混浴ってわけじゃなく、少し進んだ先で男女別に別れてるんだが――視界から興味の対象が消え失せたことで、手の中でぎゅっと握りこんでいた缶コーヒーの存在感が増した。

 水滴を帯び始めた表面から伝わるひんやりとした感触。

 俺はプルトップを押し開くや、そのまま一気に喉の奥へと中身を流し込んでいく。

 

「っぷは。やっぱ風呂上りはコーヒー牛乳に限るよな!」

 

 まろやかな牛乳の甘みとコーヒーの苦味のバランスが絶妙で、身体の内側を流れる冷たい感触は風呂上りの火照った身体に心地良い。

 さて、一息吐いたところで軽く現状を説明しておくとしよう。

 今俺が立っている所はいわゆるホテルのロビーに当たる場所だ。といっても正面玄関から離れた端っこの部分で、目の前には大浴場へと繋がる廊下が続いている。

 

「うちにも当然お風呂はあるけれど、どうせなら広々とした空間でゆったりと温泉に浸かりたいわよね?」

 

 という美咲さんの言葉が発端となり、ここ(宿泊客じゃなくても所定の金額を払えば温泉が利用出来る)にやってきたというわけだ。

 距離的にも別荘から車で十分くらいと近く、女性陣は一も二もなく大賛成。何故か御鏡の奴が少し渋ってやがったが、結局は全員一緒にここまで来たという寸法になる。

 施設も混浴じゃなかったのが唯一の不満(実際混浴だったら、今頃俺は血塗れ状態で湯船に浮かんでいた可能性がある――犯人は言わなくても分かるよな?)だったくらいで、様相を含め大満足の一風呂だったと言えよう。

 

「お待たせ、京介くん」

 

 そうこうしてる間に御鏡の奴が遅れて脱衣所から姿を現した。

 昼食後に付近を散策したり、川辺で水遊びをしたりと一緒に遊んだ経緯もあり、女性陣を含め御鏡ともそれなりに距離が近くなっていた。

 初対面で敵だと断じた俺だが、話してみると意外と良い奴だったのである。

 

「遅かったな。女じゃあるめーし、髪なんか適当に乾かしときゃいいじゃねーか」

「はは。京介くんらしいワイルドな考え方だね」

 

 美少女のように朗らかな笑顔を浮かべる御鏡。

 だが幾ら美形でも野郎に微笑みかけられて喜ぶような趣味は持ち合わせちゃいないので、俺はつっけんどんな態度でこう言い放った。

 

「うっせえ。お前が一々細けえんだよ」

 

 短い時間だが御鏡と接した俺の感想は、こいつはよく気がつく野郎だってことだ。

 目端が効くってのか、色々なところを良く見てる印象がある。かといって引込み思案って訳でもなく、自分の意見はキッチリ言うし行動にも移す。

 スマートで気配りが出来る爽やかなイケメン――やっぱ、女の子にはこういう奴のがモテるんだろう。

 線が細いってのも女にゃ受けるポイントだろうし。

 言うなれば、俺とは正反対に位置してる男ってことになるか。

 

「取りあえず座らない? 美咲さん達が出てくるまでもう少し時間がかかりそうだし」

 

 そう言って御鏡が自販機脇にある長椅子を指差した。

 確かに突っ立ったままってのもしまりが悪い。そう思った俺は御鏡の案に乗って椅子に腰を下ろすことにする。

 提案した御鏡も、俺に続いて腰を下ろしてきた。

 

「そういやさ、お前こっちに来るの少し渋ってたよな? 温泉とか嫌いなの?」

「ううん。好きだよ。大きいお風呂とか最高だと思う」

「だったら何で?」

「だって温泉だと――覗けないじゃない?」

「…………は?」

 

 えっと、今なんつったコイツ? 

 覗くって何を……って誰をですかね!?

 

「こういう旅行には付き物のイベントだと思うんだ、僕。ほら、物語の主人公とかがうっかり女風呂に特攻しちゃうようなシチュエーションってよくあるでしょ?」

「よ…………く?」

「だけどこういう施設だと見つかった時に洒落にならなくて、最悪の時は犯罪行為になっちゃうから」

 

 僕、まだ捕まりたくないよと嘯く御鏡。

 ……勘違いしてるみてーだが、見つからなくてもそれはれっきとした犯罪行為だよ!

 ちなみに俺の親父は警察官で刑事だからな!

 

「でも美咲さんの別荘内だと軽いお茶目程度で許して貰えるかもしれ――」

「何言ってんのお前!? 正気か!? っていうか馬鹿なの? 死ぬの!?」

「なんだい死ぬだなんて。大袈裟だなぁ京介くんは」

「いやいやマジで言ってんだって!」

 

 こいつはあやせ様の恐ろしさを知らないからこんなことが言えるんだ。

 覗き――なんて行為をした日には、俺達は一瞬でひき肉ミンチの肉塊に変えられてしまうだろう。

 そして山中に埋められるんだ。

 

「えー? 京介くんは見たくないの、女の子の裸。それもとびきりの美女と美少女が揃ってるんだよ。こんな機会はそうそうお目にかかれないと思――」

「ちょ、おま、声が大きいって!」

 

 いきなりとんでもないことを口走り出した変態……もとい御鏡の顔面を、両の掌で押さえ封殺する。

 こんな話が外部に漏れたら大変なことになってしまうからだ。

 

 正直言えば俺だって思春期真っ盛りの健全な男子高校生だ。

 女の裸には興味がある。つーかありまくる。

 エロ本だって持ってるし、エロDVDだって所持している。インターネットで動画の一つや二つ検索したりもしたさ。

 ここに来ている女の子達――あやせや黒猫、そして加奈子が美少女だってのにも頷こう。美咲さんだって元モデルの超絶美人だし、スタイルも抜群だ。

 だから見たいかと問われれば、即座にYESと答える自信がある。

 けどさ、そう思うのと実際に行動に移すのは違うだろ。

 仮に絶対にバレないにしても、覗きなんて行為は彼女達に対する裏切り行為に相当する。

 少なくとも俺はそう思っていた。

 

「んー! んー!」

「おっと」

 

 少し力みすぎたのか、御鏡が顔を赤くしながら俺の腕をタップするように叩いていた。流石に可哀想になった俺は、様子を見ながら腕の力を緩め御鏡を解放することにした。 

 

「……ふう。何をそんなに憤っているんだい? 取りあえず落ち着いてよ京介くん。口元押さえられると苦しいし」

「お前が落ち着け、御鏡ィィー!」

「僕は至って冷静だよ。それにほら、某有名ゲームの主人公もさ、意思とは無関係に身体が勝手にシャワー室へ向かったりするじゃないか」

「ああ、あのツンツン頭でモギリが趣味の――って、ゲームと現実を一緒にすんじゃねぇぇッ!」

 

 そいつは大○隊長だから許されるんだよ!

 つーか、こいつってゲームとかやる奴なのか? 

 そういう風には見えねえが……。

 

「あはは。本当に落ち着いてよ。ごめん。謝る。今までのは僕なりの冗談だからさ」

「……へ? 冗談?」

「うん。基本的に僕は“二次元の女の子”にしか興味ないからね」

 

 やんわりと俺の手を押し返しながら御鏡が苦笑する。

 ――って、今コイツとんでもない爆弾発言しなかったか?

 

「……二次元って、あの二次元か? アニメとかゲームとかの」

「そう。その二次元」 

「ってことは、お前ってオタなの?」 

「そうだよ。けど僕ってオタク関係の友達が一人もいなくて。それで兄さんに相談したら――男同士が心底仲良くなるにはまずエロい話題から入るべき――ってアドバイスを貰ったんだ」

「馬鹿野郎っ! そうするにしても段階っつうもんがあるだろうが!」

「僕もそう思ったんだけどね、兄さんの強い押しがあったから」 

「……お前の兄貴ってある意味変態だな!」

「いやあ、それほどでもあるかなぁ」

 

 なんて言いながら、御鏡はあははと朗らかな笑みを浮かべている。

 別に俺は一言も褒めてねーけどな!

 

「ん? ちょっと待て御鏡」

 

 そこまで会話して一つの違和感を感じるに至った。

 何でこいつ俺がそういう方面に詳しいって知ってんだ?

 御鏡と俺は今日が初対面である。

 事前に美咲さんから俺が来ることを聞いていたとしても、詳しい趣味なんか分かるわけがない。だがこいつは事前に兄貴からアドバイスを貰っていたと言う。

 昼からこっち一緒に過ごしていたとはいえ、そこまで突っ込んだ話をした覚えもない。

 その辺りを御鏡に問い質したら、こいつは少し早まったかなという苦い表情を浮かべた。

 

「隠しててもしょうがないから正直に言うけど、京介くんのこと、個人的に少しだけ調べたんだ」

「……は? 調べたって、何で!?」

「新垣さんの彼氏さんってのがどんな人物なのか気になっちゃってね。――美咲さんからちょっとした事情は聞いていたんだけど詳しくは分からないし……って、調べたって言っても別に興信所とか使った訳じゃないよ。ちょっと知人に聞いた程度だから安心して」

 

 むう。安心しろって言われてもまだ話自体がよく飲み込めん。

 誰かに俺のことを聞いて、それで俺がオタ関係に詳しいって知ったってことか? 

 

「本名は高坂京介くん、だよね?」

 

 突然俺の本名を告げられ、一瞬心臓が跳ねた。

 こいつの前では赤城京介としか名乗っていないのに。 

 

「なん……で、それ……」

「京介くんてさ、桐乃さんのお兄さんなんでしょう?」

「…………ぁ」

 

 思考が追いつかず沈黙してしまう。

 

「この業界広いようで狭い部分も多いから。桐乃さんとは美咲さんの紹介で知り合って――年齢が近いのもあって少し仲良くなりました」

「…………」

 

 今度の沈黙は“どう答えれば良いか”咄嗟に考え付かなかったから押し黙った。

 更に御鏡は続ける。 

 

「色々話すうちにお互い兄さんがいるのが判明して、それでちょっとずつ“兄”について話していって、それで僕の中で美咲さんが言っていた赤城京介くんと桐乃さんのお兄さんの京介くんとがイコールで結ばれたわけです」

「……じゃあ桐乃は知ってんのか? その、今回の事とか美咲さんの事とか」

「京介くんが美咲さんや新垣さんと関わってるってことは話してないよ。純粋に兄について話してただけだしね。勿論美咲さんにも“高坂京介”くんのことは言ってない。だけど――」

 

 少し声を潜め脱衣所辺りに視線をやる御鏡。

 それに釣られて目線を向けたが、特に誰の姿も見えなかった。

 

「美咲さんは気付いてるんじゃないかなぁ? 伊達にあの若さでエタナーの取締役やってる訳じゃないからね。凄い人なんだよ」

「じゃあ色々知ってて俺達をここに呼んだってことか? もしかしてあやせのスカウトの件、諦めてねえとか?」

「どうだろ? でもそれはないと思うよ。今回の旅行はプライベートなものだし。京介くんや黒猫さんのことを気に入ってるのも本当だと思う」

「じゃあなんで?」

「たぶん、気付かない振りしてる方が色々と面白くて楽しいからじゃない?」 

「…………あの姉ちゃんっ」 

 

 御鏡の答えを聞いてある意味納得する。

 色んな意味で油断のならない姉ちゃんだと思っていたが、確信犯だったってことか。しかも知らないフリをしているなら、こっちから突っ込むのはやぶ蛇になりかねないので突っ込み難い。

 正に掌で弄ばれるお猿さんの境地。

 そしてその思いは、別荘に戻ってからすぐに現実のものとなって俺に襲いかかってくるのだった。

 

 

 

「じゃあそろそろ飲み会を始めましょうか、京介くん!」

「…………えっと…………下へ降りて来るなり何を言い出してんスか?」

 

 リビングでくつろいでいたら、突然現れた美咲さんがとんでもない事を言い出した。

 俺達はホテルで温泉を堪能した後、美咲さんオススメのレストランで夕食をご馳走になってから(超豪華ディナーは本当だった)別荘まで戻って来ていた。

 美味い飯を食って満腹になり、心爽やかな気分で雑談に興じていた皆の視線が美咲さんに集中する。

 ちなみにこの場には俺を含め、あやせ、黒猫、加奈子、御鏡と全員が勢ぞろいしていた。

 

「なにってお昼から色々遊び倒して、その疲れを温泉で癒して、お腹いっぱいご飯も食べた。あとやることと言ったら飲みながらの雑談くらいじゃない?」

「それマジで言ってんスかね?」

「勿論。外に出れば輝くばかりの満天の星空が迎え、自然が奏でるオーケストラが耳に心地良い。流石に外で飲もうとは言わないけれど、こういう日はグラスを交わして親睦を深めるのがスマートな大人の夜の過ごし方なのよ」

「……言いたいことは分かりますけど、まったく理解出来ない提案ですよね?」

 

 ぐるりと周囲を見渡すまでもなく、ここに居る人物は美咲さんを除けば全員未成年だ。

 お酒は二十歳になってから。最早常識である。

 なのに美咲さんは、不敵な笑みを浮かべながらすらっと伸びた人差し指を軽く振ってみせる。

 

「チッチッチ。文句を言う前にこれを見ることね、京介くん!」 

 

 そう宣言した美咲さんは、リビング中央にあるテーブルに、これ見よがしにデンッと瓶状の物体を置いたのだ。

 その瓶の中には透明な液体が並々と詰まっていて……って、これもろ一升瓶じゃねえかああああっっ!

 

「み、みみ、美咲さん……!?」 

「そんな顔しないの。これ、お酒じゃないから」

「馬鹿な!? どっからどう見ても日本酒――」

「ふふん。銘水川神水。正真正銘ノンアルコールのただの“水”よ。けれどこの水はちょっと特殊な品で――なんとアルコールを摂取せずとも場の雰囲気だけで酔えるのよ!」

「場酔い……だと!?」

「その通り。ちょっと場の雰囲気に酔い易くなるだけで至って健全な飲み物なの。念のため繰り返すけれど、至って健全な飲み物なのよ!」

 

 大事な事なので二回言いました的に語句を繰り返す美咲さん。

 一升瓶を誇る姿が何処か寒々しい。

 

「まあ物は試しよね。ちょっとだけ飲んでみなさいな。一口飲めば私の言っていることが本当だって分かるから」

 

 全員をテーブルに集め、それぞれの前にグラスを差し出し、並々と川神水を注いでいく美咲さん。

 見た目は完全に無色透明な液体であり、外からは水か酒かの判断は付かない。けれどお酒独特のあの匂いは漂ってこなかった。

 俺は恐る恐るグラスに手を伸ばすと、まず舐めるように舌だけでチロっと味わってみる。

 …………うん。マジでこれただの水だわ。

 念の為もう一口含んでみても感想は変わらない。黒猫やあやせも俺と同様の感想を抱いたようだ。

 

「……本当に普通のお水みたいですね。というより喉越しが良くって美味しいくらいです」

「ただの水なのに場の雰囲気で酔えるなんて、何らかの魔力でも込められているというの? けれどあやせさんの言う確かに美味しいわ」

「ま、あたしは酒でも構わねーけどな!」

 

 加奈子なんてくいーと一気にグラスを空けつつ、きゃははと楽しそうに笑っている。

 つーか加奈子の奴ちょい前までタバコとか吸ってやがったし(あやせに“ごめんなさい。私はとても反省しています。二度とタバコは吸いません”と約束させられた)酒とか飲み慣れてんじゃなかろうか。

 今は真面目にアイドルやってるみたいだし、禁酒? してるのかもしんねえけど。

 というか飲んでたらあやせ様に粛清され山に埋めらてる可能性のが高いか。

 

「知る人ぞ知る銘水よ。口当たりが良いから女の子でもとても飲み易いの。じゃあ誤解も解けたところで乾杯といきましょうか!」

 

 こうしてアルコールを介さない酒盛り? が幕を開けたのだった。

 

 ★☆★ 酩酊レベル 1 (あくまで場酔いです) ★☆★ 

 

「乾杯っ~!」 

 

 空中でグラス同士がぶつかり合う甲高い音が響く。

 学生でも打ち上げをやったりするので、こういう作法は心得ているのだ。その後は各々グラスを手元に戻し、まず一杯目を飲み終えた。

 そのタイミングを見計らっていたように、美咲さんがすっくと席を立つ。

 

「さて、私はキッチンに行って簡単な料理を用意してくるわね。箸休めも無しに飲み続けるのは辛いでしょ?」

 

 さすがは元人気モデル。ちょっとした動作の全てが絵になっている。

 今も立ち上がりざまに片目を瞑りながら、俺達に愛嬌を振り巻いていた。それを見ていた御鏡は、何か思いだしたように目を見張ると、彼女の後に続くように席を立つ。

 

「じゃあ僕も少し席を外します。……ああ、自室に行ってくるだけですから、皆さんは気にせず続けていてください」

 

 結局美咲さんはそのままキッチンへ。御鏡はすぐに戻ってきますと階段を登って上の階へ消えて行った。上には御鏡に宛がわれた部屋があるので、何かを取り行ったのかもしれない。

 だがここで考えていても答えは出ないので、奴の言う通り気にせず、この間を利用して現在の立ち位置なんかを説明しておくことにしよう。

 参加人数は全員で六名。

 三人づつ横並びにテーブルに付いている形になり、俺の両隣には黒猫とあやせが。対面には加奈子と御鏡、そして美咲さんが席を取っていた。

 今は御鏡と美咲さんが席を空けているので、対面には加奈子が一人で座っていることになる。

 

「なあなあ京介ぇ~。よっく見てみ? 加奈子のグラス空になってんゾ」

 

 その加奈子が自分の前にあるグラスに目をくれながら何やら要求し始めた。

 でも意味が分からないので率直に応えることにする。 

 

「おう。空になってんな」

「オウ! じゃねえよ。それくらい言わなくても分かンだろ~? オラさっさと加奈子のグラスに酒注げヨ」

「アホ。これは酒じゃねえ。ただの水だ。それに自分の手が届くじゃねーか」

「え~。こういう時は誰かが気を回して注ぐもんじゃねーの? その態度、元マネージャーとしてありえなくね?」

「おまえいつまで俺をこき使う気だよ……。確かにマネージャーとして色々やってやったけど、あれはだな――――っち。まあいいや」

 

 ったく。しょうがねえ奴だな。

 面倒くさくなった俺は、溜息を吐きながらも一升瓶に手に伸ばすと、対面から差し出されていたグラス中に液体を満たしていく。

 それを見た加奈子はにひひと笑いながら、快活な態度で礼の言葉を述べる。

 

「さんきゅ、京介!」 

「あんまガブ飲みすんなよ? また腹ぷよぷよになんぞ」

「うっせ。今の加奈子のスタイル見たらテメー気絶すっかんな。覚悟しとけヨ? お?」

「何の覚悟だよ。つーかお子様体型なんかに興味ねえっつうの」

 

 俺の好みとしてはやっぱ女の子は出るとこ出てねーと。

 そう思ってあやせを見てみれば、何故か目が合ってしまった。

  

「べ、別に俺はなんもやましい事なんか考えてねえからなっ!」

「……わたしなにも言ってませんけど?」

「ぐッ!?」

 

 しまった! 

 追求されてもいないのに自ら語り出してしまうという墓穴を掘ってしまう。 

 

「もしかして、なにかやらしいことを考えていたんですか、お兄さん?」

「か、考えて……ません」

「本当ですか?」

 

 半眼で睨まれるも、無言で押し通す。

 まさかあなたの胸を見てました、なんて口が裂けても言えるわけがねえ。

   

「……まあいいですけど。お兄さんって基本的に加奈子に甘いですよね?」

「え?」

「甘いですっ。甘やかしてます」 

「そうかぁ?」

「色々文句は言いますけど、結局は加奈子のお願いを率先して聞いてるイメージがあるんですよ」

「そんなことねえだろ。俺コイツに対して気を使ったりしてねえし」

 

 なんつーか、感覚的には男友達みてーなもんだ。

 そういう意味じゃあやせや黒猫とは全然違った接し方をしてるとも言える。安心できる幼馴染、麻奈実なんかとも違う存在だ。

 じゃあ俺にとっての加奈子は何なんだという疑問が頭をもたげてきた。

 

「お兄さん。念の為確認しておきますけど、ロリコンじゃあないんですよね?」

「ちげーって! まあ状況に流され易いってのは否定できねえからよ、そう見えるのかもしんねえけど……」

 

 一応言っとくが、状況に流され易いってのはロリコンって意味じゃなく、お願いを聞くってイメージな!

  

「先輩は優しいから。優しすぎるから。それが時に甘く見えるのかもしれないわね」

「……うーん。単に優柔不断なだけかもしれませんよ黒猫さん。お兄さん、エッチですし」

 

 優柔不断とそれは関連性ゼロだろ!

 ……ゼロだよな?

 

「エッチなのは否定しないわ。けれど“大嫌いなはずの妹”の願いを、全身全霊を使って叶えてげるような豪気さも持ち合わせている。我武者羅に走り回る姿とか、文句を言いながらでも奔走して問題を解決してくれたりね」

「それは、確かに」 

「眩しいわよね、実際。そんなところに私は――」

 

 ハッとして、陶酔するように呟いていた言葉を慌てて飲み込む黒猫。

 それから彼女は、無理やり途中で止めた口上の変わりに、手にしていたグラスの中身を一気に呷った。

 コクコクと可愛らしく喉が鳴る。

 そして中身を全て飲み干した黒猫は、少し顔を紅くしながら空になったグラスを俺の前に差し出してきた。

 

「――私にも注いで頂戴、先輩」

 

 何を言いあぐねたのか追求したい気持ちもあったが、加奈子に注いでやって黒猫に注がない訳にもいかない。

 俺は苦笑しながら瓶に手を伸ばすと――ってな場面で、あやせからもグラスがにゅっと差し出されてきた。

 

「お兄さん。私にもお願いします」

「……へいへい」

 

 左右から同時に突き出される空のグラス。

 俺は半ば諦めの境地で、それこそ長年勤めた執事の如く彼女達のグラスに中身を継ぎ足していった。

 これで俺の飲み会での立ち位置が決定されてしまった気がするが、まあ深くは考えまい。

 どうせ“慣れて”いるんだ。

 そうこうしている内に、美咲さんと御鏡が戻ってくる。

 宴はまだ始まったばかりだ。

 

 

 



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第三十二話

 ★☆★ 酩酊レベル 2 ★☆★  

 

「え? これって本当にお前が作ったの?」

「そうですよ。こう見えて僕の本職はアクセサリーデザイナーですからね」

 

 テーブル上に酒……じゃなかった。川神水(繰り返すがノンアルコールの水だ!)とおつまみと一緒に、光り輝くシルバーアクセが収められた箱が鎮座なされていた。

 見るからに高そうなクオリティを誇っているそのアクセは、どれも女の子が好みそうな意匠が施されている。その中から無造作に一つだけアクセを取り出した御鏡は、楽しそうに目を細めながらそれを眺めていた。

 

「でもさ、お前ってモデルじゃなかったっけ? それがなんでアクセ?」

 

 当然の疑問が口を吐く。だがその質問に対する答えは、御鏡のいる対面からじゃなく俺の右隣から発せられた。

 ラブリーマイエンジェルことあやせたんである。

 

「お兄さん。そこの御鏡さんは美咲さんお抱えのファッションモデルでありながら、エタナーの別ブランドを任されているデザイナーでもあるんですよ」

「……え? マジで?」

「はい。有名な賞なんかも取っちゃってる本物さんです。個人的な付き合いは“皆無”なので全て見聞きした程度の話ですけど」

「ほらほら京介くん。そこに“EBS”ってエンブレムがあるでしょう? それはエターナルブルー・シスターの略称で、御鏡くん個人のブランド名でもあるの」 

 

 あやせの説明を美咲さんが引き継ぐ形で補足した。

 ちなみにテーブル上に並んでいる料理は美咲さんが用意したもので、彼女が戻ってくると同時に御鏡が二階から箱を持参して降りてきたという訳だ。

 俺達にアクセを披露する為に部屋まで取りに戻ってたんだろうが――御鏡の奴、趣味でファッションモデルをやりながら本職としてアクセサリーデザイナーを営んでるだって?

 しかも俺と同い年の高校生の身でだ。

 正直信じられんねえ。

 別にあやせや美咲さんの話を疑ってる訳じゃねえんだが、全く現実感の沸かない話に脳の処理が追いついていかないのだ。

 つーか、何てファンタジーだよ。

 

「どうしたんですか京介くん? 僕の顔に何かついてます?」

「……いや」 

 

 全く気負うことなく朗らかな笑顔を浮かべる御鏡。そんなこいつを見ていると、心の奥に小さな針で刺したような痛みが拡がってくのを感じた。

 俺達は同じ高校生なのに、こいつはもう働いていて社会的にも認められている。

 雑誌を飾るファッションモデルでありながら、個人ブランドを持つデザイナーでもある爽やかなイケメン野郎。しかもそれを笠に着ることなく自然に振舞いやがるのだ。

 ああそうか。この痛み、認めたくねえがハッキリ分かる。

 ――これは劣等感だ。

 ちょい前まで、こんな感覚を嫌というほど味わっていた俺だからこそ即座にそれが理解できた。

 一番身近に御鏡にも劣らないすげえ奴がいたからな。

 凡庸な俺とは違って“そいつ”は何でもそつなくこなしやがる。

 勉強だってスポーツだって、その他のなんだって、俺がいくら頑張っても絶対に勝てないくらいの高みに行きやがるのだ。しかも俺のすぐ隣に存在しているので嫌でも周りから比較され続けるオマケつきだ。

 それも、来る日も来る日も――毎日毎日な。

 正直言えば悔しかったし、惨めだったし、滅茶苦茶腹も立った。

 なんで“妹”ばっかり、なんて思ったことも一度や二度じゃない。

 自分で言うのもなんだが理不尽な憤りだろう。けど、そう感じる原因の一つに“壁”の存在があったんだと思う。俺とあいつとの間に聳え立ってたでっけえ壁だ。

 ソイツがあったからお互いの姿が満足に見えなかったし、声も遮られてうまく相手に届かない。

 だから、すれ違う。

 けれどひょんなことからその壁にも綻びが出来始め、少しづつ崩れてきて、気が付けば向こう側が覗けるくらいには風通しが良くなっていた。

 不思議なことに相手の姿が見えるようになってくると、この変な感覚も薄れてくるんだよ。

 もちろん全くなくなる訳じゃねえけど、嫌で雑な感覚ともうまく付き合えるようになってくる。

 ……って、何が言いてえかというとだな、昔の俺なら御鏡との間に自分から壁を作って距離を取ってっただろうが、今なら仲良くなれるっつうか、うまく付き合えていけそうな気がするっていうか――

 

「ねえ、先輩」 

 

 そんなことを考えていたら、くいくいっと左手の袖口を引っ張られた。

 首を動かすと、真摯にこちらを見上げている漆黒の瞳と目があう。

 黒猫である。

 

「……本当に居るところには居るのよね。完璧超人みたいな人間が。私の身近にも似たような女が存在しているから、あなたの気持ちは良く理解できるわ」

 

 そう言ってから、黒猫はゆっくりとした動作で対面へと視線を滑らせていく。

 そこに居るのは有名デザイナーである御鏡。

 エターナルブルーの取締役である美咲さん。

 そしてコスプレアイドルとしてブレイク中の加奈子だ。

 

「あの女だけじゃないわね。この場にいる人間達は私から見れば手の届かないような凄い肩書きを持っている人物ばかりよ。そんな中にちっぽけな自分が存在してるなんて、考えるだけでも狂おしくて、切なくて……少しだけ心が痛くなるの」

「……おまえ」 

「っふふ。あまり言いたくないけれど、暗い負の感情が沸き上がるのが抑えられないのよね。嫉妬心に身が焼かれる思いがするわ」

 

 マイナスの感情である嫉妬という言葉を吐く割りに、黒猫の表情は何処か吹っ切れたような穏やかさがあった。

 

「“昔”の私ならそれこそ“リア充は死ね!”なんて呪いの言葉を臆面もなく吐いたのでしょうけれど――今は“それはそれ”と思えるようになった」

 

 みんなの視線が黒猫に集中している。

 誰も口を差し挟もうとしないのは黒猫の台詞に興味を示しているからか。

 

「成長……したのでしょうね。私は――――わたしは、自分がこうも変われるなんて思いもしなかった。想像すらしていなかった」

「黒猫」 

「……まあ、自分自身の成果というよりも、誰かさんの影響を受けた感は否めないけれど」

 

 そう述べた黒猫は、両手で握ったグラスに視線を落としつつ自嘲気味な笑みを浮かべていた。しかし、周囲の視線が自分に集中していることに気付いたのだろう。慌てて顔をあげると、何かを誤魔化すようにぐいっとグラスの中身を煽っていく。

 コク、コクと小さな喉が鳴るのに合わせてグラスの中身が減っていく。そして黒猫が飲み終えるのを待っていたかのようなタイミングで、美咲さんが声をかけてきた。

 

「ねえ、黒猫ちゃん。一つだけいいかしら?」

「なに……かしら?」 

「あなたは私達を特別な人間だと思っているようだけど、それは違う。もし違って見えるとしたら、それは立っている場所が違うだけのことなのよ」 

「……立場が違うと言いたいのかしら? けれどそれは“既に持っている”人間だから吐ける言葉ね。どう足掻いたって、逆立ちしたって私達凡人はあなた達には敵わないのよ」

「敵うとか敵わないとかの話じゃないの。いいかしら。立っている場所が違うということはね、見える景色も違うということよ。――そうね。例えばここにいるあやせちゃんや加奈子ちゃん。それに私だって黒猫ちゃんのことを羨ましいと思うことがあるかもしれないわ」

「わ……私を羨むなんて……」

 

 そんなことありえないわ、と言わんばかりに黒猫が目を見開く。それから罰が悪そうに目線を美咲さんから逸らした。

 今の話の流れ、何となくだが美咲さんの言いたいことは伝わってきた。けれどそれより黒猫の言動に微かな違和感を感じたというほうが大きい。

 なんていうか、妙に自己評価が低くなっているというか、厨二病感が薄まっているというか。

 らしくねえっつうのが本音だけど――どうやらこの場でそう感じたのは俺だけじゃなかったようだ。あやせがテーブルに身を乗り出しながら(間に俺を挟んでいるが)黒猫に詰め寄って行く。

 

「ふうん。随分と殊勝なことを口にするじゃないですか、黒猫さん。ですがそんな負け惜しみみたいな言い方、あなたに似合いませんよ」

「事実負け惜しみだもの。なんとでも仰いな。けれどさっき言ったようにそんな感情ともうまく付き合えるようになってきたところよ」

「……うまくつきあうとか“らしく”ないんじゃないですか、黒猫さん」

「どういう意味かしら」 

「そのままの意味ですよ。ほら、いつもの邪気眼……でしたっけ? そういうの発祥したらどうです?」

「言うわね、あやせさん。けれどそういうあなたはいつも以上に攻撃的じゃないの。それにあなた“ああいうノリ”嫌いなんじゃなかったの?」 

「ハッキリ言って張り合いがないんですよ。それとももう酔っちゃいましたか?」

「……酔ってないわよぉ。酔うわけないじゃない。だって私達が飲んでいるのはただのお水なのだし……」

 

 とか言いながらも若干呂律が妖しくなっているのは気のせいなのだろうか。心なしか頬も紅く染まって見えるし。

 もしかしてマジで酔っ払ってんのかもしれない。

 普段のこいつなら自分のことを凡人だとか言い切るはずねーしな。堕天聖とかノリノリで言っちゃう奴だぞ。

 

「はいはーい! こっち注目~!」

 

 そんな折、ぱんぱんと拍手を打つ軽快な音が耳に飛び込んできた。

 首を巡らせれば陽気な笑顔が飛び込んでくる。

 美咲さんである。

 

「折角の親睦会なのだからもっと楽しいお話をしましょうよ。ねえ御鏡くん」

「はい?」

「うふふ。景気付けも兼ねてアクセサリーの一つでもバーンと女の子にプレゼントしちゃいなさいな」

 

 軽くウインク一つ。美咲さんが御鏡に無茶振りをする。

 だが当の御鏡は

 

「プレゼントですか? はい、勿論いいですよ。実は僕もそのつもりで持ってきたんです」

 

 そう言って御鏡がアクセの詰まった箱に手を翳した。 

 

「是非お好きなのを貰ってあげてください」

「え!? マジで? アクセくれんの!?」

 

 やはりというか、こういう話に一番に興味を示したのは加奈子だった。

 コイツにしてはやけに大人しいというか静かだと思っていたが、どうやら今まで料理を貪り食うのに夢中だったらしい。

 

「ええ、どれでも一つだけプレゼントします。――新垣さんもどうぞ。自分で言うのもなんですが、それなりに価値のある品ばかりですよ」

「…………ありがとうございます。そうですね。とても良い品のようですし、遠慮せず頂くことにします」

 

 こうしていきなり変なイベントが勃発した。

 けどそこはやっぱり女の子というべきか。

 加奈子もあやせも目を輝かせながら身を乗り出していく。運ばれてきた当初から興味もあったのだろう。クラスメイト同士、アクセを選びつつ息を合わせて談笑しだした。

 ありていに言って実に楽しそうである。

 と、そこで黒猫がその輪に加わっていかないのに気付いた。何をしているのかといえば、チラチラとアクセに視線をやりつつも、縮こまったまま動こうとしない。

 けど興味がないって様子にも見えないのだ。

 

「何してんだ黒猫? おまえも選べよ。いいんだよな御鏡?」

「もちろん」

「ほら、いいってよ。折角の機会だ。遠慮すんなって」

「……でも、こういうのはきっと私には似合わないわ……」

「そんなことねえだろ。例えば――」

 

 腕を伸ばし箱の中から一つのアクセを取り上げる。

 掴み上げたのはロザリオの意匠が施されたネックレス。チェーンが通常の物とは逆に付いていて、厨二心をくすぐる作りになっていた。

 

「ほら、こういうのとかおまえ好きじゃね?」

「え? そうね。どちらかと言えば……嫌いじゃないわ」

「よし。じゃあ貰っとけ」

「あ……」

 

 未だ迷いを見せる黒猫に半ば強引にアクセを握らせる。

 こうでもしないと自分から動かないと思ったからだ。

 黒猫は俺の顔を眺めつつ逡巡する様子を見せたものの、小さくコクリと頷くと大事そうにアクセを両手で受け取ってくれた。

 

「ありがとう先輩。大切に……するわ」

「馬鹿。礼を言う相手が違うだろ」

 

 黒猫の笑顔が眩しくて、半ば照れ隠しに御鏡に視線をやったら――何故か、他の箇所から絶対零度クラスの冷たい視線に貫かれることになる。

 

「え?」

 

 グサっと突き刺さったのは二組の視線。

 そう。何故かあやせと加奈子にキっと睨まれていたのだ。

 

「…………えと」 

「ふん」

 

 視線をあやせに向けるも、可愛く鼻を鳴らした彼女はぷいっとそっぽを向いてしまう。

 その姿勢に無言の圧力というか、怒気を感じたのは気のせいだろうか。

 

「もしかして怒ってんのか……?」

「怒ってません! 怒ってませんよ!」 

 

 えええええ!? めっちゃ怒ってんじゃん!

 それを裏付けるように、あやせは少し乱暴な仕草で手にしていたアクセを元の位置に戻した。

 

「あのぅ……どうして一度手にしたアクセを箱に戻すんスか……あやせさん?」

「さあ、どうしてでしょうね。ところでお兄さん。一つお願いがあるんですけど」

「はいぃッ! なんでしょう!?」

 

 何故か身体が勝手に直立不動の姿勢を取り、敬礼のポーズを決めていた。

 これが防衛本能の成せる業か。

 上官に逆らえば鉄拳制裁が飛んでくる。それと同質のものを今のあやせに感じたんだが――あやせはちょっとムっとした表情を維持しつつも、上目遣いに俺を見て(←めちゃ可愛い)

 

「私にも一つアクセサリーを見繕って欲しいんです。……駄目、ですか?」

「へ? それって俺にお前用のアクセ選べってこと?」

「はい。たった今黒猫さんには選んであげましたよね? なら当然私にもその権利があるはずです」

「権利ってほど大層なもんじゃねえだろ」 

「いいえ。じゃないと不公平です。ねえ黒猫さん?」

「それは……」

 

 黒猫が言葉に詰まっている。だが実際俺もどう不公平なのか理解できんのだから無理もない。

 

「両手に花ってかっ! なーんか京介モテモテみたいじゃん。けど実際は違うんだかんな。調子に乗って勘違いすんなヨ」

「茶化すなよ加奈子。それくらい分かってるっつうの」

「よしよし。んじゃさぁ加奈子の分も任せちゃおうかな~アクセサリー」

「はぁ!? おまえの分も俺が選ぶのかよ」

「ったりめーじゃん! にひひ。超似合うやつ期待してっかんな!」

 

 ……全く訳が分からん。

 何であやせも加奈子も俺に自分用のアクセの選定を頼むんだ? 

 こういうのに疎い(自覚がない訳じゃない)俺に頼むよりさ、欲しいもん自分で選んだ方がよくね? 

 もしくは美咲さんか御鏡に頼んだ方が確実だろう。

 

「ほらほら京介くん。女の子をあまり待たせるものじゃないわよ。男ならビシッっと決めちゃいなさい!」

「……なんで煽ってくるんスかねぇ……」 

 

 全く持ってひとごとである。

 結局あやせと加奈子の分までアクセを選ぶ羽目になったのだが、その最中、美咲さんは酒を片手に、ニヤニヤニヤニヤと目を細めて楽しそうに俺を見つめていたのだった。

 

 ★☆★ 酩酊レベル 3 ★☆★

 

「って、それマジもんの酒じゃないっすかあああああああっっ!!」

 

 そうなのだ。

 美咲さんは“アルコール”を片手に談笑に興じていたのである。

 

「ノープロブレムでしょ? だって私大人だもん」

「だもんって……」

 

 アルコールは二十歳になってから。

 そういう面で言えば問題ないっちゃ問題ないんスけど……言動の方は要審議っすね。

 

「フフフ。じゃあ良い感じで場も盛り上がってきたことだし、そろそろ本題に入りましょうか!」

「本題……だと!?」

 

 まさかこの姉ちゃん。場がこなれるのを待っていつぞやのスカウトの話を蒸し返すつもりなんじゃねえだろうな?

 こっちが正確な判断が出来ないのをいいことに、押し込もうって魂胆じゃ!?

 だがこの懸念はあさっての方向へとすっ飛んでいくことにある。幸か不幸か美咲さんの話題は俺の想像と全然違っていたからだ。

 

「ねえみんな。ぶっちゃけ御鏡くんと京介くんだったらどちらが好み?」

「………………は?」

「いやねえ京介くん。女性陣に聞いてるのよぉ。兄妹だとか恋人関係だとかはこの際抜きにして、率直なところを聞いてみたいわね」

「あ、アンタ酔ってんですか!? 正気ッスか!? つーかこれってイジメにしかなんないよね!?」

 

 世の女性達はホモとイケメンが大好物。

 ……いや、これが真実かどうかはさておき、爽やかイケメン野郎の御鏡(肩書きも凄い)と比べられるなんて新手の拷問にしか感じねーわ!

 

「さあレッツパーティッ! 今夜は無礼講でいきましょう! 大丈夫大丈夫。結果は内緒にしておくから」

「内緒ってモロバレの全部筒抜けじゃないっスかッ!?」

「黙らっしゃい! 私の見立てだと京介くん結構好い線を行くと思うわよぉ。じゃあ……あやせちゃんから」

「はいっ?」

 

 名指しされるもお目目をぱちくり。あやせはきょとんとしている。しかし次第に事の重大さに気付いていったのか、一瞬後には頬を真っ赤に紅潮させることになった。

 

「わ、わたしですか?」

「そうよ。あやせちゃんは京介くんの彼女なんだから結果は分かりきってるんだけど……取りあえず100点満点で採点してみましょうか」

「採点って……」

 

 俺をチラ見、御鏡をチラ見、二人を見比べた後であやせが沈黙してしまう。

 俺としてはこのまま黙りこくってもらって、この話をうやむやにして欲しかったのだが、どうやらあやせさん。美咲さんの話に乗る事にしたようだ。

 

「……そうですね。御鏡さんは至って普通の好青年ですから……平均点の50点くらいでしょうか。お兄さんは……その、わたし的にですけど……」

 

 もしかしてあやせさん、酔ってらっしゃるのか。

 潔癖だからこういう話題には大反対しそうなもんなのに、意外にもスラスラと答えている。 

 

「点数。点数ですよね。100点満点なら…………きゅうじ……」

 

 御鏡が50点なら俺は一体何点になるのか。

 一度気になってしまうともう好奇心は押さえられない。自然と視線があやせの仕草を追っていた。すると丁度点数を言いかけたあやせとバッチリ目線が合ってしまう。

 途端まるで自らの失言に気付いたとでもいうように、慌てて両手で口元を覆ってしまうあやせ。

 迷った時間は一秒弱か。

 彼女が出した答えとは――

 

「きゅ、9点です! 9点!」

「9点だぁ!?」

「お兄さんみたいな変態には9点でも十分過ぎますっ! というか、どうしてそんな子犬が何かを期待するような目でわたしを見るんですかぁ!」

「み、見てねーよ!」

「いいえ。見てました。舐め回すようにわたしのことを……! お、おぞましい! どうせ高得点とか期待してたんでしょう? バカ! エッチ! ド変態!」

「酷くね!? 俺まだなにもしてねーのに、これって酷くね!?」

 

 つーか9点ってなんだよ9点って! 

 そりゃちょっとくらい期待しちゃったけどよ、こういう場合男なら仕方ねえだろ!?

 それが悪口雑言の罵倒が返ってくるなんて……あやせの奴、設定忘れて素に戻ってやがんな!? 

 

「いいえ。むしろ酷いのはお兄さんの方ですっ! セクハラまがいのことばかりしてると通報しますから!」

「こ、今回はまだなにもしてねーだろうが!」

「まだってことはやっぱりセクハラするつもりだったんだ……! この超弩級のへんた――」

「とか言いながら猛烈な勢いで俺から距離を取るんじゃねーよ!」

「あらら。成程ねぇ。あやせちゃんはアレね? 所謂ツンデレっていうやつなのよね?」

「仮にそうだったとしてもツン100%のデレ0%です!」

「それってもうただ嫌われてるだけじゃねーかっ!?」

 

 ナニコレ!? 訳分からん。

 あやせとは恋人同士って設定なのに……やっぱ俺を苛める儀式か何かなのか!?

 

「あやせちゃんの京介くんへの評価は超弩級変態ということね。――ふむふむOKOK。じゃあ次は加奈子ちゃんいってみましょうか」

「アンタもさらりとOK出してんじゃねーよ!」 

「お姉さん、次も期待してるから」

「もうやめてえぇぇl! 京介(俺)のライフはゼロだから!」

 

 俺の魂の叫びが室内に木霊する。

 だが嘆願も空しく、この流れを止めるには至らない。

 

「ひひ。率直な感想だけ言うから覚悟しろヨ」

「な、なんだよその笑みは……。まさかおまえこの機会に日頃の恨みを晴らそうと――」

「恨みってナニ? なんか加奈子に恨まれるようなことでもしたのかよ?」

「し、してねーけどよ、その笑顔見てたら何か企んでんじゃねーかなって……」 

「うっせ。腹黒のあやせみたく言うな。こう見えて加奈子様は超純粋なんだから…………ぐへえっ!!」

 

 ぐへえ! などと女の子らしくない悲鳴を上げて加奈子が椅子から転げ落ちた。円盤よろしく、巨大な皿がブーメランのように飛んできて加奈子のこめかみに直撃したのだ。

 幸い紙タイプの物なので致命傷には至らなかったようだが……。

 

「あーやーせええええっっ!!!」

「あら、いやだ。窓でも空いてたのかな? お皿が飛んでくるなんて物騒。加奈子大丈夫? 生きてる?」

「何が物騒だよ! 物騒なのはテメエだよ! 生きてるっつうの!」

「………………雹でも使えば良かったかな?」

「このアマ微塵も悪いと思ってねー! チクショー! 後で覚えてろよぉ!」

 

 こめかみを摩りながら何とか椅子に座りなおす加奈子。取りあえずこの場は話を進めることにしてあやせへの追求は後に回すことにしたらしい。

 実に大人な対応である。。

 

「……まあいいや。んじゃぱぱっと点数だけ言うけどさぁ、外見だけで見れば御鏡が40点、京介が75点くらいかなぁ」

「ん?」

 

 きっと心を抉りにくるだろうと更なる口撃に身構えていた俺は、思わぬ高評価に目を丸くする。

 御鏡よりも点数が高い? もしかして加奈子って俺LOVEなのか?

 

「あら。外見だけってことは内面は考慮してないの?」

「だって御鏡の兄ちゃんのことはあんま知らねーし。こういう場合公平じゃねーべ?」

「律儀なのねぇ。ということは京介くんに対する本当の点数は75点じゃないわけだ」

「……う。べ、別にいいじゃん! ちゃんと答えたんだからさー。じゃあ次そこの電波な!」

 

 追求を逃れる為か、話を黒猫の方へと持っていく加奈子。

 何のことはない。今の話の流れからすると本来の点数はもっと低いんだろう。きっとこいつのことだ。形だけでも高得点にして後で俺に何か奢らせようって魂胆に違いない。

 残念だがその手には乗らねえぞ。

 御鏡より高得点を付けてくれたからって、俺はケーキセット以上のものは奢ってやらんからな。

 あと黒猫のこと電波って呼ぶのはやめてやれ。結構傷つきやすい奴なんだ。

 

「…………」

 

 その黒猫さんだが、グラスを握った状態で固まっていた。

 言うべき言葉は決まっているが、言い出す勇気が出ないといった風情である。話の流れは分かっているはずなので、自分が何を名指しされたか把握してるはずだが。

 

「黒猫?」

 

 先を促す形になったのは、心の何処かで期待する部分があったからだろう。

 三人の中じゃ黒猫との付き合いが一番長いし、一緒に遊んだ回数も一番多い。学校でも先輩後輩の間柄だし、そうそう悪い評価はされねえはずだ。

 まあ、こいつが“素直”にその点を評価に加味してくれるかは未知数なんだけどな。

 

「トリ、期待してるわよ、黒猫ちゃん」

「…………フン。掌で踊らされている感じがして癪だけれど、この場は舞台に上がることにしましょうか」

 

 軽く咳払いをして、黒猫が俺を見つめた。 

 

「そうね。両者に敢えて点数を付けるとしたら――20点と100点という数値になるのかしら」

「へぇ。100点、ね。これまた極端な評価になったものね。けれど肝心な部分が抜け落ちているわよ。どちらが黒猫ちゃんにとっての満点を得たのかしら?」

「……内緒よ。というより今はまだそれを口にすることが出来ないの。呪縛されているから」

「呪縛?」

 

 美咲さんの追及を曖昧な言葉でかわす黒猫。その表情から冗談の類でぼかしてるわけではなさそうだ。

 だが思わぬ人物が追求の手を伸ばした。

 あやせである。 

 

「今はということは、何れその機会が訪れるということですか、黒猫さん?」

「興味あるの?」

「大いにあります」

「そうね。ならYESと答えておくわ。……悔しいけれど、あなたには知る権利があるでしょうから」

「…………わかりました」

 

 よく分からん会話を交わしながら目線を交錯させる黒猫とあやせ。だがいつものように喧嘩に発展することなく、どちらからともなく視線を外していく。

 後に残ったのは各自の手の中にある空になったグラスのみ。けれどそれにもすぐに中身が注がれていく。

 どうやら宴はまだもう少しだけ続くようだ。

 

 



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第三十三話

 ★☆★ 酩酊レベル MAX ★☆★

 

「――お兄さんはぁ、ど・ん・か・ん! すぎるんですうぅっ! そうは思いませんかぁ黒猫さん~?」

「そうね。それについては全面的に同意するわ、あやせさん。もう先輩の朴念仁レベルはカンストしてしまっているんじゃないかって密かに疑ってるくらいだもの」

「あはは、珍しく意見が合いましたねぇ。さあさ、もっと飲んでください!」

「ありがとう。こちらもお返しするわ」

 

 ってな感じで互いのグラスに液体を注ぎ合うあやせと黒猫。もうね、二人ともさっきからかっぱかっぱとグラスを空けまくり、浴びるように飲み続けている。

 いくら水だからってちょっと飲みすぎじゃね? 

 つーか朴念仁レベルってなんだよ?

 

「それにしても美味しいですねぇこれ。すぅーと喉の奥へ滑り落ちる感じが最高です。なんだか身体も火照ってきて……良い気持ち」

 

 ふうと息を吐きながら、あやせが襟から人差し指を差し込みつつ、開いた胸元に向かって手扇でぱたぱたと風を送っている。

 ちょうど位置関係が隣同士なんで、そこが良く見えるのだが……。

 

「……ちょっとお兄さん、どこ見てるんですか?」

「べ、別に。どこも見てねえよ」

「嘘つき。視線の行き先くらいわかりますよ」

「いや……それは……」 

「ふふ。本当にバカでスケベでド変態なんですから……。でもときどき妙に優しかったりするんですよねぇ」

 

 とろんとした半眼になりながら、あやせが少し俺にしなだれかかってきた。

 肩に感じる重さとあやせの体温。

 本来ならすぐさま蹴りが飛んできそうなシチュエーション(あやせの方からもたれかかってきたとしてもだ)だが、酔っ払っている効果なのか、特にそこから攻撃される様子はない。 

 

「察しが悪くてどんかんで……。でも頑張ってる背中を見てたら……わたし……」

 

 瞳を潤ませたあやせが、至近距離で目を合わせてきた。

 身長差があるのであやせが下から覗き込む格好になったのだが、その純粋なヤバ可愛い破壊力に心臓が自然と高鳴ってくる。

 

「……お兄さん」 

 

 桜色に染まった頬や艶やかに動く唇が色っぽい。そんなあやせへ自然と俺の視線が固定されていく。

 その時、右手の甲にふんわりとした感触が覆いかぶさってきた。

 慌てて目線を落として見れば、あやせの手が覆いかぶさっていて――

 繊細で綺麗な指先。

 その指がゆっくりと動き出し、俺の手の甲を舞台に見立てて優雅なダンスを踊りだした。

 

「あやせ……? 一体、なに、を……」

「お兄さんはどうしてそんなに優しいんですか? どうしてわたしに優しくしてくれるんですか? どうして――誰にでも優しくするんですか……?」

 

 女を感じさせるような艶のある声が、耳から直接脳内に入り込み精神をかき乱す。

 さっき高鳴った鼓動はさらに加速度を増していき、それに合わせ頬が急激に紅潮していくのが分かった。

 

「答えてください、お兄さん。返答次第では……わたし……」

「っ……」

 

 手の甲で遊んでいた指先がすっと離れていった。それを名残惜しいと思う間もなく、今度は手首の方へと移動していき、そのままぎゅっと握り込んできた。

 子供をあやすような優しい握り方に若干戸惑う。そんな俺の仕草を楽しむようにあやせが笑って、そのまま握りこんだ俺の手をゆっくりと自身の方へと引き寄せていく。

 添えられたのは、彼女の胸元。

 ゴクリと生唾を飲み込んでしまったのは、極度に緊張している所為だろう。

 衣服越しにあやせの体温が感じられて、その暖かさが縄となり俺の身体を縛っている。

 正直、あやせの行動が、意図が読めない。

 

「お兄さん……」

 

 俺の名を呼び、俺の腕を抱えたままあやせは――

 

「優柔不断なお兄さんなんて――――噛んじゃいますからぁっ!」

「痛ってぇえええええっっっ!!!」

 

 脈絡もなく、いきなり俺の腕に噛み付いてきやがったのだ。

 

「な、何しやがる、あや――――やめて! マジ痛いってっ!」

「ほふぃしゃんがひへなひんれすよ。ほかのほんなのこひデレデレひてー」

「なに言ってるか分かんねーよ! 噛み付くか喋るかのどっちかにしてくれっ!」

「……がぶ、がぶ」

「俺が悪かったッ! 頼むから噛むのを止めて!」 

 

 ありていに言ってめちゃ痛い。つーかマジ痛い。てか、これ腕に歯型残っちゃうんじゃねーの?

 とりあえずこの究極あやせホールドから脱出しないことには命に関わる。そう直感した俺は、黒猫に助けを求めるべく彼女を振り仰いだんだが――

 

「ずるいわ、あやせさん! 私も先輩に噛み付きたい!」

「は?」

「覚悟なさい先輩! 私はすっぽんのように一度噛みついたら離れないわよ!」 

「お前までアホなこと言ってんじゃ……って、いてえええええええええっっ!!」

 

 どこにそんな瞬発力を宿していたのか。

 神速の動きで俺の左腕を取った黒猫は、先程のあやせよろしく、まるでリンゴにかぶり付くように歯を立ててきやがった。

 

「しぇんぱいがかいひんするまれ、ひゃなさないからー」

「お、お前もかよぉぉ!」

 

 え? ナンなのこの状況!?

 何で俺があやせと黒猫に噛み付かれなきゃならんの!?

 全くもって理解不能だわ!!

 

「あははは。もう~両手に花状態ねぇ京介くん。羨ましいわぁ。隅に置けないわぁ、こンの色男!」

「そこ! 唯一の大人! 笑ってないで助けてくださいよ!」

 

 俺の不幸がこの人にとっての幸福なのか。

 美咲さんはお腹を抱えながらバンバンとテーブルを叩いている。目に涙を浮かべてまで爆笑する様は、とても大会社の偉い人には見えない。

 つーかアンタ一応は保護者代わりだろうが! 

 本当、洒落なんねえなこの姉ちゃんわ!  

 

「……ぐ。こうなったら……加奈子! 助けてくれ加奈子~!」

 

 美咲さんじゃ駄目だ。そう理解した俺は対面にいる加奈子に助けを求めた。

 こいつはこの中じゃ比較的“しらふ”に近い。きっと俺を助けてくれるはずだ。

 そう思ったのも束の間

 

「京介~。そこのから揚げ食べないなら加奈子が貰っちゃうよん」

「何でこの状況で平常運転なんだよ! これ! これが見えてねえのか!?」

「んあ? 塩でもふりかけりゃ離れんじゃね?」

「塩ってナメクジかよ!?」 

 

 こいつも駄目だああああ!

 クソ! これであと残っているのは御鏡だけじゃねーか。そう思って視線を移してみれば、御鏡が座っていたところが空席になっているではないか。

 この修羅場にあいつ何処に行きやがった?

 そう思った瞬間

 

「京介く~~ん!!」

「ぐえっ!?」

 

 突然背後からチョークスリーパをかけられたのだ。

 その見事な技の冴えに危うく意識を持っていかれそうになったが、必死の思いで繋ぎ止め慌てて振り返る。

 

「御鏡、お前いきなり……って、何で半べそかいてんだよ!? 顔面ぐしょぐしょじゃねーか」

「……京介くん。僕たち友達だよね? ね? 仲良くしてくれるんだよね?」

「ハァ!?」

「あのね、Fateは文学、CLANNADは人生、しすしすは真実の愛なんだよ(キリッ)」

「キリッじゃねーよ!! てか一切話に脈絡がねえ! お前まで酔ってんのか!?」

「僕はね京介くん。きっといつか二次元の壁を越えてみせるよ。だから見てて」

「見ててじゃねえ! あと女の子ならいざ知らず男に抱きつかれて喜ぶ趣味はねーんだよ! さっさと離れやがれ!」

 

 身体を揺すってへばりつく御鏡を振り落とそうとする。だが意外なところ(具体的に言うと俺の左腕にへばりついている黒猫)から安堵の溜息が零れてきた。 

 

「……良かった。先輩、ホモじゃなかったのね」

「あ、当たり前だろうがっ! その風評の元は瀬菜なのか!? 言っとくが俺は女の子が好きなんだよっ! 断じてホモじゃねえ!」 

「……えっと、そういうの、ノンケって言うんですよね、お兄さん?」

「そうだけど、何処でそういう知識仕入れてくんのおまえは!?」

「ノンケ。ノンケねぇ。それは嬉しいのだけど、さっきのその言い草では、やっぱり先輩は女の子はら誰でも良いの――」

「ちっがーう!!!」

「まあ! 女の子なら誰でもなんて……お兄さん、不潔です。……がぶ、がぶ」

「ああ、もう! 三人ともいい加減離れてくれー!!」

 

 結局三人が酔い潰れて動けなくなるまで、俺が解放されることは無かった。

 この飲み会で得た教訓は――酔っ払いに常識は通用しない。

 ただ、それだけだった。

 南無……。

 

   

 ★☆★ 酩酊レベル ??? ★☆★ 

 

 

 盛大に酔いつぶれてしまったあやせと黒猫を部屋まで送り届けた後、俺は酔い覚ましにと別荘の外へと出掛けていた。

 この季節でも夜になると幾分涼しくなるのか、それともここの気候のせいなのか。

 頬を撫でていく夜風が火照った身体に実に心地よい。

 

「ん~!」 

 

 ぐっと腕を伸ばし全身の緊張を解いていく。

 その時、自然と上がった視線が夜空に輝く満点の星空を捉えた。視界いっぱいに広がる星の海原は、都会にいる時には決して見えなかった代物だ。

 深く呼吸すれば草木の生の匂いが感じられる。耳を澄ませば虫達の奏でるコーラスも聴こえてくる。格好付けるわけじゃねえけど、ここには普段目にしない確かな自然があるのだ。

 些細な変化なのかもしれない。けれど自分でも驚くくらい感動してしまっている事実に気付いて、思わず苦笑してしまった。

 あいつがここに居たら何て言い出すんだろう、なんて思っちまったからだ。

 ったく、全く柄じゃねえ。

 

「うへー。さすがに飲みすぎかなー。ちょっとフラフラする」

 

 なんて声音に振り返ってみれば、加奈子がゆっくりとこちらに向かって歩いてくるのが見えた。そしてそのまま俺の隣まで進んでくる。

 他の面子――御鏡の奴は何だかんだで酔い潰れやがったし、美咲さんは居残って(俺達を気遣ってくれたのかもしれん)自ら宴の後片付けを買って出てくれた。

 あやせと黒猫は絶賛同じベッドでお休み中(目が覚めた時の反応がちょっと楽しみ)のはずだし、期せずして加奈子と二人きりになっちまったわけだ。

 といっても、相手が女の子だからって緊張するような間柄でもない。

 こいつのマネージャーに扮している時は散々一緒にいたのだ。

 

「京介ー、こんな時間にドコ行くんだよ? なんか用事でもあんの?」

「特にねえけど。ちょい酔い覚ましに散歩でもしよーかなって」

「ふうん。散歩ねえ。ま、いいけどよ。あんま遠くまで行って帰れなくなってもしんねーよ?」

「……お前、俺のことバカだと思ってるだろ?」

「そんなんじゃねーけど、京介ってどんくさそうじゃん? いかにも道に迷いそうだなーって」

「ほっとけ。つーかバ加奈子に言われるとは世も末だぜ」

「だ、誰がバカな子だこらぁ~! こう見えて最近は色々ちゃんとやってんだかんな!」

「ちゃんとって?」

「……う。ベンキョーとかいろいろだヨ」

 

 ばつが悪そうにちょいと唇を尖らせる加奈子。しかしこいつバ加奈子とバカな子をかけたのに気付いてやがらねーな?

 つーか、こいつが勉強とか似合わないにも程がある。

 

「あ、その目は信じてねえな」

 

 一丁前に憤慨したというポーズを取ってこちらを威嚇してくる加奈子。……だが、こいつがやっても全く迫力がないので、お子様が駄々を捏ねている風にしか見えない。

 

「なんかさー、あやせ経由で知り合ったおばさん――あたしは師匠って呼んでんだけど――が色々と教えてくれんだよねー」

「おばさん?」

「うん。眼鏡かけた昔ながらの優しそうなおばさん。なんか合う度にお菓子とかくれるし」

「おまえ、それ餌付けされてるだけなんじゃ……?」 

「にひひ。そこはやっぱ加奈子が可愛いからじゃね?」

「すんなり受け入れてんなよ。で、なんで師匠?」 

「ベンキョーとかみてくれてんの。あと最近は料理も教わってんだぜ? 師匠、料理が超上手でさー」

 

 加奈子はまるで自分のことのように、その師匠なる人物を誇っていた。

 どうやら相当気にいってるらしい。

 こいつの面倒を好んで見たがるなんて、また物好きな人物がいたもんだ。けどあやせの紹介ってことは変な人じゃなさそうだし、俺が心配することもないだろう。

 

「だから今度京介にもご馳走してやんよ。未来のスーパーアイドル加奈子様の手料理だべ? 感謝しろヨ?」

「そりゃ光栄なことで」 

 

 手料理、ね。

 ちょい前にも似たような話を聞いた気もするが……兎にも角にも、こいつなりに頑張ってんだな。

 見た目や言動がちょい遊んでる風だから誤解されやすい面もあるが、根っこの部分じゃすごい真摯な奴なんだよな加奈子の奴。

 なんのかんの言いながらブリジットちゃんの面倒みてやったり、桐乃とも仲良くやってるし。

 そんなやり取りの後、少し会話が途切れてしまい、二人で歩くだけの時間が続いた。

 隣を行く加奈子のツインテールが、視界の端でひょこひょこと揺れている。

 それを目印にして歩幅を合わせて歩いた。

 どれくらいそうしていたのか。道なりに進んでいた俺達の目の前に開かれた空間が現れる。

 木々を壁代わりに配置したような円形の空間だ。花壇やベンチの類が設置されているところをみると小さな公園、みんなの憩いの場ってところか。

 そのまま園内の中央まで進み、ベンチに腰掛けようかと思案する。

 軽い散歩のつもりだったので、あまり時間を潰さずこのまま帰るべきか迷ったのだ。

 一応加奈子の意見も聞いてみようか。そう思って振り返ったタイミングで、加奈子の方から俺に声をかけてきた。

 

「なあ京介。オマエんトコってさー、親と仲いーの?」

「何だよ突然?」

「んー。実はさ、あたし家出中なんだよね。親とスゲー仲悪くってさ」

「は……?」

 

 いきなりの爆弾発言に言葉が詰まる。

 家出って……加奈子の奴、桐乃と同い年だぞ。

 

「あ、別に放浪してるとかそんなんじゃねーから。姉貴が社会人で一人暮らしててさ、ソコで世話んなってんの」

「それマジで言ってんのか?」

「うん。色々あって気付いたら飛び出してたんだ。ほらぁ、あたしってこんなじゃん? やっぱ親から見てもはみ出してるように見えるらしくってさー」

「それで喧嘩の末に家出したって?」

「まあね。あんま親同士も仲良くなくってさぁ、家にいてもムカつくことばっかだったし、ま、遅かれ早かれ……ってやつ?」

「決定事項かよ。俺としちゃ家出ってこと自体肯定したくねーんだけどな……」 

 

 親子喧嘩、口論の末に飛び出したってところか。

 我の強いこいつのことだ。一度行動した手前引くに引けなくなったってとこだろうが――何となく啖呵を切る加奈子の姿が容易に想像出来ちまうのが悲しいところだ。

 まあ、加奈子には加奈子の言い分があるように、両親には両親の言い分があったんだと思う。

 お世辞にも加奈子は“真面目な女の子”にゃ見えねえし、実際タバコを吸ってた時期もある。親の立場からすれば色々言いたくもなるだろう。

 けどそれらを全部含めて来栖加奈子なわけで、いきなり頭ごなしに全否定されたら反発もしたくなる。実際問題として第三者である俺が口を挟める事柄じゃないんだが……もし加奈子に相談されたなら力になってやろうとは思う。

 ただこういう家庭内の事情っつうのは難しい。

 複雑な内情が絡んでたりする場合、正論が正解に直結しない場合があるからだ。

 

「……大丈夫なのかよ。その、色々とさ」

「うまくやってんよ。けど正直言うと姉貴がいなかったらヤバかったと思う。逃げ込める場所があったってのもそうだけど、あたしが転がり込んだ時も説教とか一切しねーし、それどころか生活費とか全部面倒みてくれんの」

「へえ。姉ちゃんとは仲良いんだな」

「おう。話も合うし面白いし、姉妹ってよりダチに近い感じかなぁ」 

「そっか。それだけ大事に思われてんだろ。良い姉ちゃんじゃねーか」

「あったりめーじゃん! なんつってもあたしの姉貴だかんな! けどさぁ結構いい加減つーか、抜けてるとこがあるっつうか、基本アホなんだよねー」

 

 ふむ。コイツにアホ呼ばわりされるとは、一体どんな姉ちゃんなんだろう。

 聞いた感じだと家出した妹の面倒をみれるくらいちゃんとした社会人らしいけど……ちょとだけ加奈子の姉ちゃんってのに興味が出てきたぞ。

 

「社会人ってことは働いてるんだよな。なにやってる人なの?」

「漫画家。詳しくは知んねーけど、なんか書いてた漫画がアニメにもなったみてーだし。結構売れてんじゃね?」

「そりゃ……すげえじゃねーか!」

「にひひ。アレでも一応自慢の姉貴だし。顔もあたしに似てっから結構かわいいよ?」

 

 いや、生まれた順番からいって似てるのはお前の方だろ。

  

「けどさっきも言ったけど基本アホっぽいんだよねー。家事とかも面倒くさがってあんまやんねーし。ソコんトコはあたしが世話してやんねーと大変なんだよね」

「ははは……。お前も色々と苦労してんだな」

「苦労とかそんなんじゃねえけど。たださ、最近思うんだよね。姉貴の面倒みたり、師匠に色々教わってるとさ、親とうまくいかなかった原因とかあたしにもあったんだろうなって」

 

 かなりヘビーな話をしているわりに加奈子の表情があっけらかんとしているので、重苦しい雰囲気にならずにすんでいる。

 それについてはちょっと助かったってのが本音だ。

 生まれた時からずっと家族揃って暮らしてる俺には“実感”ってものがまるで沸いてこないからだ。想像くらいは出来る。けど言葉を尽くしてもありきたりの感想しか口を付かないに違いない。

 そんなものを加奈子が求めてるとも思えないし、俺もそういうことを軽々しく口にはしたくない。

 だから俺は、最初に加奈子に質問されたことに率直に答えることで応えようと思った。

 

「そうだな。親とは別に仲悪くはねーと思う。そりゃ時々口論もするし、結構意見とか食いちがったりするけど、夕食とか家族揃って食べるのが当たり前だし、気に掛けてもらってるのは感じてる」

 

 桐乃の件で親父に殴られたり、お袋にぞんざいに扱われたりもするが、そこにはきちんとした愛情が下敷きになってるのは理解してるつもりだ。

 妹ばっかり優遇されてるとか、妹ばっかり溺愛されてるとか、妹ばっかり信用されてるとか色々不満もあるけどよ、やっぱそこは兄貴だからな。

 仕方ないって部分もあるさ。

 

「そっか。京介んトコって四人家族だっけ?」

「ああ。親父とお袋と俺と…………」

 

 言いかけてハっと気付く。

 そうだ。加奈子には俺と桐乃が兄妹だってことを話していないんだったと。

 あやせの件とかマネージャになった経緯とかの説明はしたが、桐乃のことに突っ込まれるとやっかいなことになる(妹は友達にオタ趣味を知られたくない)かもしれないと、説明を省いていたのだ。

 この旅行中は黒猫が俺の妹ってことになってんだが……。

 少し悩み、結局俺は加奈子には真実を話すことにした。

 

「すまん加奈子。一つお前に聞いてもらいたい話があるんだ」 

「――え? なんだよ、突然……?」

「大事な話なんだ。聞いてくれるか?」

「……え、あ、うん。別にいいけどさぁ、大事な話ってここで?」

 

 驚いたという風に目を丸くした加奈子が少し身を強張らせている。さっと目線を逸らしたりと落ち着きがなくなっているのは、悪い話だと思ったからだろうか。

 けどここまで言っておいて臆してはいられない。

 俺は意を決すると。まずは俺の本当の名前は高坂京介であり、加奈子の友達である高坂桐乃が実の妹なんだと説明する。

 

「ハ、ハァァ!? 桐乃の兄貴ィッ~!?」 

 

 流石に驚いたのか、素っ頓狂な声を上げながら加奈子が半歩後ずさる。だがすぐに複雑そうな表情を浮かべるや、ぐいっと俺に詰め寄ってきた。

 

「大事な話ってソレかよ~!?」

「……ああ。黙ってて悪かったよ」

「べ、別に怒ってねーけどよ。ふーん。そういう話か。やっぱねぇ。京介にしてはおかしいと思ってたんだ。あたしを人気のないところまで連れてきて大事な話とか……驚いてソンした」

「おまえが勝手についてきたんだろ?」

「うっせ」 

「それに損ってなんだよ? てか、おかしいって思ってたって……気付いてたのか?」

「ん?」

 

 あれ? 何でここで疑問系が返ってくるんだ?

 こいつ桐乃のことについて気付いてたんじゃねーのか?

 暫し考え込み、加奈子がぽんと拍手を打つ。

  

「……あ、そっちね。だってあの黒猫って奴あきらかに京介の妹じゃねーし。なんかあるなーとは思ってた。でもさー、なんで教えてくんなかったわけ?」

「……桐乃のことに突っ込まれたくなかったんだよ」

「それってもしかして桐乃がオタだってこと?」

「な!? し、知ってたのか!?」

 

 今度は俺が驚かされた。

 桐乃は自分がオタだってことを“表”では秘密にしているはずなのだ。

 オタクを誇ってないってことじゃなく、オタクに対しての世間の風当たりが強いことを認識してるから、変な軋轢を生まない為に自衛してるわけだ。

 あいつが自分からそれをバラす訳ねーし、一体いつバレたんだ?

 去年の夏コミの時、あやせにオタバレした時の悶着(思いだすのも恐ろしい)が脳裏をよぎり、冷や汗をかく。

 

「うーん。知ってたつうか桐乃の奴ちょくちょく加奈子のライブに来てるじゃん? あれだけ目だってりゃ嫌でも気付くっつうの」

「ライブ?」

「メルルのイベント」 

「……ははは。そういうこと、か」

 

 渇いた笑いが零れていく。

 加奈子はアニメ“星くずうぃっち☆メルル”の主人公にソックリなのだ。外見だけじゃなく声まで。もう画面から飛び出してきたんじゃないかってほどそっくりで――桐乃はそのメルルの大ファンである。

 で、加奈子の出るイベントには基本オタクと子供しか集まらない。

 その中ではっちゃけまくってたら――そりゃバレるわな。

 

「そのこと桐乃は知ってんの?」

「知らないんじゃね? 言ってないし。けど加奈子のライブが見たいなら一声かけてくれりゃ良い席用意してやったのになー」

「おまえ桐乃がオタだって知っても何とも思わねーの?」

「マジキメエって思うよ?」

 

 このガキ即答しやがった。

  

「でもだからなにって感じだけど。それよか桐乃をからかうネタが出来て超楽しいかも」

 

 桐乃を弄り倒す案でも考えてんのか、意地の悪そうな顔を浮かべながら加奈子がほくそ笑んでいる。だが軽蔑したり距離を置こうって表情には見えない。 

 いつかの誰かさんとは大違いである。

 

「じゃあ友達止めようとか……思ったり……」

「はぁ? なんでそんくれーのことで友達止めなきゃなんねーの? バカじゃん?」

 

 それはあやせ様はバカだということでしょうか。

 

「桐乃がオタとかイメージ全然ちげーけど、京介の妹なんだったら納得かなぁ」

「そこ逆だからね!? 俺をこっちの道に引きずり込んだの妹の方だから!」

 

 今でこそそれなりに“こっちの道”に詳しくなった俺だが、あの人生相談がなかったら“こっちの世界”とは縁も縁もなく過ごしていたに違いない。

 黒猫や沙織と知り合うことも無かったろうし、あやせや加奈子と仲良くなることも無かっただろう。

 そう考えれば、あいつにもちっとは感謝してやらんでもないという気持ちにもなってくる。

 平凡とは程遠い日々。

 今まで見た事も無かった世界。

 傍から見ればちょっと変わった世界だけど、そこは思いのほか居心地が良くて――本当、平穏な毎日を願っていた俺が悪くないなんて思う日が来るなんて想像もしていなかったぜ。

 

「とりあえずは納得した。でさ京介。もう一つだけ聞きたいことがあるんだけどぉ」

「ん?」

「聞いてもいい? 出来ればちょっち真剣に答えて欲しいんだケド」

「何だよ改まって」

 

 先程までの雰囲気は何処へやら。いつになく真面目な表情を浮かべた加奈子が俺を見上げている。

 今度はこいつが大事な話があるってことか?

 もしかしたら家出の件の続きかもしれない。そう思った俺は加奈子と向き合う形で姿勢を正した。

 気持ちの整理を付けているのか、加奈子は口元をもごもごと動かしながら発する言葉を選んでいる風だ。だが意を決したとばかりにぎゅっと目を瞑ってから

 

「京介ってさ、今決まった彼女とかいねーよな?」

「……何だよ。聞きたいことってそれか?」

「いいから答えて」

「ああ。いねーよ。つーか彼女とかいたことがない」

「ふうん。そう、なんだ」

 

 自分から話題を振っといて興味なさげな返事をする加奈子。

 一体どういう了見だ、こいつは? 

 桐乃のことを黙っていた仕返しに俺をからかおうって魂胆なのか?

 そう思って加奈子を見ていたら、こいつは地面に落ちていた小石を蹴り上げながら 

 

「――じゃあさ、好きな女の子とかいないの?」

 

 と、静かな声音で問うてきた。

 

 

   



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第三十四話

「ちょっとアンタ、これってどういうこと!? キッチリ説明してもらうかんね!」

「……ぐうっ!」

 

 妹に無理やりリビングから連れ出された俺は、有無を言わさない勢いで壁際に押し込まれてしまった。その際、襟元をぎゅうっと締め上げられてしまったので、うまく声が出せない状態に陥っている。

 

「なんでアンタとあやせが仲良くリビングで談笑してるワケ? チョット本気で意味分かんないですケドぉ?」

「それは、だな……」

「ナニ?」 

「…………まずはちょっと落ち着けって……桐乃……」

「フンッ」

 

 落ち着いて欲しいという俺の申し出に対する妹の答えは、更に首元を絞め付けられるという形で返ってきた。下手するとこのまま“逝っちゃう”かもしれないくらいの手加減無しの攻撃である。

 まあ、それくらい桐乃は怒っているわけだが。

 

「あんたさァ、またあたしの友達に手ぇ出したっての!? マジ信じらんない! つーかいい加減ウザいから今すぐ死んでくれない?」

「……だから違うんだって。ちゃんと説明っすっからよ……取りあえずこれ、外して……くれ……!」

 

 格闘技なんかで絞め技をタップする要領で、首元にある桐乃の腕を軽くポンポンと叩く。その行為で少しは冷静さを取り戻してくれたのか、桐乃は渋面を作りながらもそっと襟元から手を離してくれた。

 しかし負けを認めるようで決まりが悪かったのか、離した腕をそのままの下ろさずにガシっという勢いをつけて腕を組み直す。

 尖がる唇に剣呑な目つき。更に下方から威圧するような姿勢で俺を睨んでくる桐乃。

 その様はさながら仁王像のようである。

 

「……」 

「あんたがそんなに頼むんなら仕方ないから聞くだけは聞いて上げる。でも内容次第じゃ土下座しても許してあげないから」

「土下座って、そんなヒデーことしてないからね、俺!?」

 

 やっと解放された安堵感に精神を囚われることなく、俺は一先ず安全圏まで妹から距離を取った。それから深呼吸を折り混ぜつつ状態回復に勤しむ。

 その時間を利用して、どうしてこういう状況に陥っているかの説明しておこう。

 現在の俺は世間一般でいうところの夏休みに突入している身の上である。

 全ての学生の憧れ。待望の長期休み。

 受験生とはいえそれなりに自由ある生活が待っているわけだが――まあそれは桐乃やあやせ、黒猫や沙織も同じ境遇なわけだ。

 そんな折り、あやせが以前言っていた(モンハンした日に黒猫が弁当作って来てくれた時のこと)料理を俺に食ってもらいたいという案件で、俺ん家を訪問する手はずとなったのだ。

 約束していた手前、断ることも出来ず、かといって桐乃がいる時にあやせを呼ぶわけにもいかない。

 何とか妹のいないタイミングを見計らい、昼食を兼ねて午前中に来てもらうことになったわけだが――なんとあやせさん。桐乃のいない時に一人で訪問するのは憚れたのか、麻奈実を伴って現れたのだ。

 まあ俺としちゃ麻奈実が居て困る理由もないので、取りあえず二人を家に上げ、お茶でも振舞おうとした時に――急遽、桐乃が帰還してきたという訳である。

 簡単に纏めてみると

 あやせと麻奈実が訪問してくる→お茶がてらリビングで雑談する→直後桐乃が帰宅、リビングに突入してくる→俺とあやせが談笑しているのを発見して発狂→上記に至る。

 という訳だ。

 まったく言い訳……じゃねえ。現状説明すら満足に許して貰えないとは、傍若無人な妹様だぜまったく。

 

「――つう訳で俺はなんもやましいことなぞしていないと断言できる。理解したか、桐乃」 

「ハァ? 全然意味分かんない。なんであやせがアンタの為に料理を作ってあげなきゃなんないワケ? もしかしてまた変な事やらかしたんじゃないでしょうね?」

「ちゃんと今の話を聞いてたか? あやせは家の躾けっての? そういうので料理を勉強してるから、日頃の成果の確認の為に作りに来ただけだって言ったろ」

「じゃあナニ? 要はアンタは実験台ってこと? それならチョトは納得だけど、あたしがいない時に一人で家に来るなんておかしくない?」

「おいおい桐乃さんよ。アンタの目は節穴かい? ちゃんとあやせの隣には麻奈実もいただろうが」

 

 俺の台詞を聞いた桐乃がハっとしたような表情を浮かべ、身を強張らせた。

 忘却の彼方にあった重要事項を指摘されて思い出した風である。

 

「そういや……すっごく地味っぽいのがいたような気がする……」

「気がするって、ちゃんといたんだよ! つーか今まで忘れてたのか!?」

「帰っていきなり衝撃的な光景を目にした影響でさー、地味子のことなんか宇宙の彼方に吹っ飛んでったんだと思う。つーかさ、なんでウチに地味子がいんの? 嫌がらせ?」

「あやせと麻奈実は仲の良い友達同士なんだよ。それで一緒に来てて――って、いい加減、麻奈実をその名前で呼ぶのはやめてくれ」

「またソレか。あんたは“昔っから”あの女の味方ばかりしてさ。……正直、超ウザイですけど」

「あいつは俺の大事な幼馴染だからな。庇ったって当然だろうが。それに麻奈実は何処ぞの妹様と違って優しいし、料理は上手だし、一緒にいると安心するし。優先すんのは当たりまえ――」

「――うるさい。死ねっ!」

「ぐええっ!?」

 

 手加減なんぞまるでなし。

 ゲージ100%を使った超必並みの蹴りが妹から飛んできた。しかも器用に急所であるアキレス腱を狙って放つもんで始末が悪い。

  

「あのさぁ、アンタもうちょいデリカシーってもんを持ったほうがいいよ。そんなんだから彼女の一人も出来ないんだって」

「うっせえ。ほっといてくれ……」

 

 蹴られた箇所を摩りながら一人涙目になる。

 いや、マジで痛いんだって。

 そうやって塞ぎこんでいたら、何を思ったのか桐乃は突然顔面をぐいっと近づけてくるや、下から覗き込むような姿勢で俺を睨みつけてきた

 ……あ、いや。睨むっつうより観察するっていうか、兎に角、強引に目を合わせてきたのだ。

 

「なん……だよ?」 

「やっぱオカシイ。いつもならもっとマシンガンのように文句を言い返してくるじゃん? やけに大人しいっていうか……ねえ、もしかしてなんかあった?」

「別になんもねえよ。つーか今蹴られたトコが痛いんだって……」

「ウソ。そんなヤワじゃないっしょ」

 

 あのなぁ。お前は俺を鋼鉄か何かで出来てるとでも思ってんのか? 

 

「この際だからぶっちゃけるけど、あんたこの前泊まりがけでどっか行ってたじゃん? そこから戻ってきたあたりで少しおかしくなった気がするんだよね」

「そんなこと…………ねえよ」  

「ううん、なんか時々ボウフラのようにぼーっとしてるしさ。そこそこ図体がでかいから家にいると嫌でも目につくんだよね」

「……ボウフラは呼ばわりはねえだろ。つーか、とてもさっきデリカシーがどうとか言ってた奴の台詞とは思えん」

「女の子はいいのっ!」

 

 今の世の中、男女平等じゃないんですかねぇ。 

 

「最近夏休みに入ったばっかだろ? それでぼーっとしてるように見えただけじゃね?」

「違う」

「やけにはっきり断言するじゃねえか。そんなにベッタリ俺のこと見てたの?」 

「は……ハァ? ンなわけないじゃん! キモ! つーか自意識過剰すぎ!」

「だっておまえが変なこと言うからよ」

「言ってないっ! もういい! 心配してソンしたっ!」

 

 そう言い放ってから、桐乃が目線を切った。

 まあ、強ち桐乃の指摘も的外れじゃなかったんだが、認めてしまって深く突っ込まれると色々と困るので誤魔化したのだ。

 だって、原因を訊かれても俺自身答えようがなかったから。

 最近頭を悩ませているのは――

 

 

 

「――じゃあさ、好きな女の子とかいないの?」

 

 思いがけない加奈子からの問い掛け。

 呟く声のトーンからはふざけているような様子は見られないし、茶化しているような感じでもない。だから少し戸惑った。

 女の子はこの手の話題が好きだから、純粋な興味本位から聞いているだけかもしれないけれど。

 

「なんで、そんなこと……」

 

 聞かれて殊更困るような質問ではない。

 だってクラスでもこういう話題はよく出てくるし、誰と誰が付き合っているなんて噂話はよく耳にしたりする。好みの女の子のタイプとか、赤城とふざけて言いあったりもした。

 なのに、声が少し震えていたのに驚く。

 

「んー。やっぱ気になるからかな。京介に彼女がいないとしてもさ、好きな子の一人や二人いたとしても不思議じゃねーべ?」

「そりゃ、そうだけどよ」

「今、気になってる子でもいいんだけど。いたら教えて……欲しいかなって」

 

 強気な加奈子にしては珍しく押しの弱い言い方だった。

 いつもなら“教えろヨ、コラ”くらい言いそうなもんである。

 

「なんならさー京介の好みのタイプでもいいんだぜ? 例えばツインテールの似合うロリ可愛い女の子とかどうよ?」

 

 少しおどけてポーズを決める加奈子。

 普段オタク達の前でアイドルやってるだけあって、実に愛嬌溢れる可愛いポーズである。

 ツインテールでロリ可愛いとか、いつもの俺なら“そりゃお前じゃねーかっ! 俺はロリコンじゃねーよ”なんて突っ込みを入れる場面なんだろう。

 なのに

 

 ――好きよ。

 ――あなたの妹が、あなたのことを好きな気持ちに負けないくらい。

 

 不思議と、そんな台詞が脳裏を過ぎった。

 あの時のアレはあいつなりの言葉遊びだったのだろうか。

 直接聞こうと思った。確認しようとはした。けど結局邪魔が入って真意を問い質すことは出来なかった。

 いつか掛けられた“呪い”に対しての答えもまだ得ていない。

 いや――本当にそうだっただろうか。

 あれからもあいつに特に変わった様子は見られなかったし、俺に対しても普段通りに接してきていたと思う。そりゃ少しくらい親密になったりもしたが、あくまで友達としても距離感だ。

 居心地の良い空間と、笑いの絶えない楽しい日常。

 もしかして俺は、それに甘えて答えを出すのを避けてきただけなんじゃないだろうか。

 変化を恐れていたのか、逃げていただけなのか。それとも答えを出すことによって傷つくことを恐れてしまったのか。

 ……分からない。

 それにどうして俺はこんなことを考えているのだろう。今考えるべきことは別のことで――加奈子の簡単な問い掛けに答えてやらないといけないのに。

 俺の好みのタイプだっけ?

 そりゃ黒髪ロングの清楚な感じの娘が好きなんだ。眼鏡をかけてりゃ尚いいね。あと最近プレイしてるエロゲーじゃそういう娘から攻略したりするんだぜ。

 そう口にしたら加奈子は傷つくだろうか。それとも京介は変態だのなんだのと言って笑い話にもっていってくれるだろうか。

 以前の俺ならきっと即答したろう質問。

 なのに今の俺は、こんな冗談めいた答えも言葉に出来ないでいる。

 

「あ……」

 

 沈黙したまま立ちつくす俺を見た加奈子が、何かを誤魔化すようにきゅっときつく唇を噛んだ。

 さっきまで浮かべていた笑みに翳りが見えたように感じたのは、気のせいだろうか。

 それとも俺の“ノリ”が悪かったから白けたのか。

 

「悪い、加奈子。ちょっとだけ考え事してたんだ。えっと好みのタイプの女の子だっけ? そりゃやっぱさ――」

「じ、冗談。冗談だって! えへへ。あたしも酔ってんのかなー? 軽い余興のつもりだったんだけど、京介ったらマジで考え込むんだもん」

「冗談、だったのか?」

「そ。でもチョットびっくりしたべ?」

 

 とさっきまでの雰囲気を吹き飛ばす勢いで加奈子がにひひと笑い出す。そこから間髪入れずに――俺が口を挟む間もなく――こう言い放った。

 

「んじゃさ、夏休み入ったら京介ん家行くから」

「は? なんで……」

「さっき言ったべ? 加奈子様の超ウマイ飯食わしてやっからヨ。今から楽しみにしてろよなっ!」

 

 決定事項だから。

 そういう意味を込めて加奈子が俺を軽く肘で小突いた。

 その後は、何事も無かったかのように会話が弾んで、夜の散歩はつつがなく終わって――――ピンポーン!

 

「……ん? チャイムの音?」

 

 唐突な鈴の音によって、半ば埋没していた思索から強引に現実へと引き戻される。 

 今俺の隣にいるのは加奈子ではなく桐乃で、ここは俺の家の中だ。

 ということは誰かが高坂家を尋ねてきたことになる。

 

「はい。どちら様ですか?」

 

 最初に動いたのは桐乃。

 妹は半ば固まっていた俺を置いたまま玄関まで赴くと、扉に手を掛けて――

 

「なあっ!?」

「おっ邪魔しまーす。ようっ京介! 約束通りメシ作りに来てやったぜ~」

 

 来訪者の姿を見て唖然とする桐乃。

 そんな桐乃を尻目に豪快な挨拶をぶちかましてきたのは、可愛い私服姿に身を包んだ来栖加奈子だった。

 

 

  



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第四章
第三十五話


 ★☆★☆★☆ 

 

「一体なんなわけ、この不思議空間は? マジ意味分かんないし。っていうか、あたし夢でも見てんの?」

「いい加減慣れろって。もうすぐ麻奈実の作ったメシが運ばれてくるんだから、諦めて覚悟決めとけ」

「覚悟とか、アンタに言われたくないっ!」

 

 桐乃にとっての不思議空間。それは現在の高坂家の状況そのものである。それを如実に示すように、ダイニングには五名もの人間がひしめきあっていた。

 一人は場の主役たる高坂京介。

 この中で唯一の男性である彼は、いつもの定位置に座って食事が運ばれてくるのを待っている状態だ。その彼の隣にいるのが妹の桐乃である。

 彼女はことあるごとに不満を爆発しようと試みるのだが、その度に兄にやんわりと窘められていた。とはいえ、その原因を作った京介に宥められても火に油を注ぐようなものである。

 現に桐乃は、京介に煽られたと判断したのか、我慢ならずにがぁーと吼えたてていた。

 

「ふふ、相変わらず二人とも元気だねぇ」

 

 そんな二人の様子を優しい眼差しで眺めながら、麻奈実が両手に土鍋を抱えた状態でキッチンから現れた。手にはピンクのクッキングミトン。

 どうやら鍋の中身はかなり熱いものらしい。

 

「うんしょっと!」

 

 緩い掛け声を付けながら麻奈実がテーブルの真ん中に土鍋を設置する。それからゆっくりと鍋の蓋を開いていき――途端、ほわっとした湯気が立ち上り、しょうゆベースの良い香りが部屋に充満しだした。

 

「きょうちゃん、肉じゃが好きだったよね。いっぱい作ったから! 沢山食べても平気だから!」

「おう、肉じゃがは好物だぜ。けど麻奈実。お前はいっつも俺が腹空かしてると思ってる節があるな」

「でも実際良く食べるでしょ、きょうちゃん」 

「そりゃぁ育ち盛りだからな。けどそういうところは死んだ婆ちゃんにソックリだっつうか……まあ、お前らしいよ」

「ええ? それって喜ぶところなのかな? 怒るところなのかな?」

 

 怒ると言いながらも、麻奈実はにこやかな表情を貼り付けながら、取り皿へと肉じゃがを分けていく。

 テーブルには高坂兄妹以外にも新垣あやせ、来栖加奈子の両名も席に着いていた。その二人が自身の前に並べられた小鉢の中身を見て感嘆の声をあげている。

 

「うへー。さすが師匠が作っただけあってめちゃ美味そう。同じ食材使ってんのに加奈子のと全然見た目違うし」

「そりゃお姉さんはその道のプロだから。同じ肉じゃがでも加奈子のとは違って当然でしょ?」

「……あの、あやせちゃん。わたし“ぷろ”とかじゃないからね。家で料理を作る機会が多いってだけで、別に本格的に勉強したわけじゃないし」

「そういうのをプロって言うんすよ師匠ー。実際師匠の作るメシ超うめーし。あたしも早くその域になりたいっス」

「加奈子ちゃんならすぐ上手に作れるようになると思うよ。知り合った頃に比べてどんどん上達してるしねえ。何より一度覚えたことは絶対忘れないもん、それ凄いと思う」

「ひひ。まぁ加奈子って天才肌の努力家だしー。師匠の教え方もウマイしー。それこそあやせ程度ならすぐ追い抜いてやんヨ」

 

 加奈子の追い抜く宣言を聞いて、ピクリとあやせの眉が動いた。

 どうやら挑戦状を叩き付けられたと受け取ったようである。

 

「へぇ。言うじゃない加奈子。さっき加奈子が作った肉じゃが、結構苦かったと思うんだけど? 少し焦げ目もあったし」

「……うっせ。ちょっとだけ火加減ミスったんだヨ」 

「ミスをしたってことはまだその程度の力量ってことじゃない。ねぇお兄さん、わたしが作ったシチューの方が美味しかったですよね?」

「え?」

 

 ここであやせが京介を味方に引き込もうと彼に軽く目線をくれた。

 あやせは当初の予定通り一番手で(日頃の成果を試す為に食事を作りに来た)料理を出していたので、既に彼は完食済みだったのである。遅れて家を尋ねてきた加奈子が二番手で作り、あやせの付き添いで来たはずの麻奈実がトリを勤める形になっていた。

 そのあやせが嘘は駄目ですよとばかりに念押ししてくる。

 

「え? じゃありません。お兄さん、さっきはうまい、うまいって言いながら食べてくれたじゃないですか」 

「……まあな。確かにあやせの作ったシチューはうまかったよ。こういう言い方はアレだけど及第点は十分越えてたと思う」

「ほら、加奈子。お兄さんもこう言ってるじゃない」

 

 加奈子に対し、少々のどや顔を晒すあやせ。

 どや顔も美人モデルがやると嫌味が減少し、絵になってしまうのが面白いところである。

 

「だからぁ今ベンキョー中なんだって。チクショー、覚えてろヨ。もっと色々師匠に教わって、夏休み明けにはリニューアルした加奈子様見せてやっかんな!」

「でも焦げてたって言っても食えねーってほどじゃなかったぜ、加奈子の料理もよ」

 

 苦笑いを浮かべながら、京介が加奈子の料理にフォローを入れる。はっきりマズいと口にしながらも、実際彼は加奈子の作った料理を残らず平らげていた。

 いつだったか妹が作った石炭クッキーに比べれば、十分に食える代物ではあったのだ。

 

「…………っ」 

 

 そんな彼等のやり取りを、桐乃は何とも言えない複雑な表情で眺めていた。

 彼女にとってあやせと加奈子が麻奈実と楽しく談笑するなんて光景は想像すらしていなかったし、そこに京介が加わるなんて天地が引っくり返ってもあり得ない事象だったのだ。

 あやせは京介のことを嫌っていたはずだし、加奈子に至っては路傍の石ころ程度で、友達の兄貴としてすら認識していなかったはずである。

 いくら“事実”として目の前で色々起こっていても、簡単に飲み込める事態では無い。

 

『――アンタさぁ、いつの間に加奈子と仲良くなったワケ? 早くセツメイ。あと事の次第によっちゃはっ倒すから』

 

 加奈子が高坂宅を訪れた際、友人の桐乃ではなく真っ先に京介の名を呼んだのを彼女は聞き逃さなかった。

 勿論すぐさま京介に説明を求め、簡単な経緯などは教えてもらっていたが、だからといって心が素直に納得してくれるはずもなく――それどころか、腹立たしくて堪らない。

 内緒にされていたという事実より、“あやせと加奈子にチヤホヤされている京介”という構図の方がショックだったのだ。

 もしも京介が無理やりに彼女の友達に手を出していたのならば、それこそ桐乃は京介をしばき倒し、丸めて、納戸の片隅にでも転がしていたことだろう。

 だが見えている光景からはそういったマイナスの要素は見えないし、それどころか仲の良い友人同士だと言われれば頷くくらいの親密さに満ちている始末だ。

 

 ――なによ、これ? 

 ――ワケ分かんない。

 

 あやせも加奈子も桐乃の大事な友人だ。

 京介に至っては生まれた時からずっと一緒にいる家族である。その三人が仲良くしている光景を見て、腹が立つなんて感情が沸くこと自体に桐乃は苛立っていた。

 だから戸惑う。自分の心の機微に思考が追いついていかない。

 その所為なのか、先程から桐乃はその輪の中に入っていこうとはしていなかった。幾ら突然の事態に動揺していたとしても、普段の彼女ならば、それなりに折り合いをつけ会話に入っていったはずなのに。

 桐乃はそれが出来る人間だし、相手も気心の知れた人物ばかりである。ちょっとばつが悪いならば、会話のとっかかりとして京介をダシに使ってもいいだろう。

 

「どうしたの桐乃ちゃん? さっきからすっごく難しい顔をしてるよ?」

 

 小鉢に乗せた肉じゃがを桐乃の前へと用意しながら、麻奈実が心配げに彼女を覗き込む。

 桐乃の様子を慮った優しい心遣い。なのに桐乃は麻奈実の存在を無視するかのように、慌てて横を向いて目線を切った。

 失礼な行為なのは彼女も承知している。だが行動に抑制が効かない。

 何故なら――その麻奈実の存在こそが、桐乃にとっての最大級のイライラの原因だったからである。

 

「おい、桐乃。返事くらいしろよ。折角麻奈実が気に掛けてくれてんのに」

「うるさい」

「あのなぁ……お前が麻奈実を快く思ってねーのは知ってるよ。けど少しくらいは仲良くなる努力とか、場の雰囲気とか考えて愛想良くしたらどうなんだ?」

「……」 

「何が原因でそうなったのか分かんねーけどよ、お前だって昔は麻奈実と仲良――」

「うるさいっつってんでしょ!」

 

 兄が余計なことを口走る前に無理やりに言葉を被せ、それを遮った。

 そんなこと改めて言われなくても彼女だって“分かって”いる。だが無視しっぱなしでは場の話が進まないと理解したのか、桐乃は麻奈実の差し出していた小鉢をそっと受け取ってから、軽く頭を下げた。

 

「――ありがとうございます。頂きます」

「えへへ。どうぞ。失敗はしてないと思うんだけど、桐乃ちゃんに気に入って貰えると嬉しいなぁ」

「……」

 

 社交辞令以上のコミュニケーショは取りたくない。そう言わんばかりに、桐乃は小鉢に視線を落としながら箸へと手を伸ばした。

 麻奈実も無理な軋轢を生みたくないのだろう。桐乃から他の皆へと意識をシフトさせていく。

 

「ふんっ」 

 

 陶器製の小鉢を通して伝わる確かな温かさ。

 用意された肉じゃがは型が崩れていることもなく、とても美味しそうな香りを漂わせていた。具材も主役の牛肉とジャガイモは元より、タマネギや人参、しらたきやさやえんどう等も入っていて、見た目に色鮮やかな作りになっている。

 まず桐乃はジャガイモもに箸を伸ばし、ゆっくりと二つに割ると、小ぶりな方を選んで口元へと運んでいった。

 

「……悔しいけど、美味しい」

 

 味が十分に染みたジャガイモは風味良く、口の中で蕩けるようだ。

 

「おぉ、やっぱうめえわ。素朴なんだけど優しい味わいっつうか、抜群に安定してるな」

「良かった。きょうちゃんに気に入ってもらえて」

「毎日食っても飽きない味付けっての? こういうの大好きだぜ」

「え? 毎日とか、大好きとか、それって……」

「べ、別に深い意味はないぞ! 毎日作ってくれって言ったわけじゃねーし、好きっつったのは料理の味のことでだな……」

「……きょうちゃん。毎日じゃ、嫌かな?」 

「い、いい、嫌とかじゃねーよ! 毎日食えるんなら……大歓迎だ。実際おふくろが作るメシよりうまいし」

「それ本当?」

「嘘は言わねえよ……」 

「うふふ、あはは。きょうちゃん顔まっかだよ~」 

 

 あたふたと弁解する京介の仕草が面白いのか、麻奈実は彼を指差しながらクスクスと笑っている。

 ちょっとした冗談を言ったら大物が釣れてしまった。

 そんな感覚。

 だがそんな展開が面白いのは麻奈実ばかりなようで 

 

「い――痛えっ!」

 

 突然京介の手の甲に針を刺したような痛みが走った。

 言わずもがな、犯人はあやせである。

  

「――お兄さん。お姉さんを困らせたら駄目じゃないですか。どうせそのままエスカレートして変態行為に及ぶんですから」

「いやいや、この状況で俺がそんなことするわけねえじゃん!?」

「信じられません。だってお兄さんには色々と前科がありますから」 

「おまえ、また人を犯罪者みたいに……つーか、そうやって手の甲に爪を立てられてると超痛いんだけど……」

「痛いって、こうですか?」 

 

 きゅっと可愛く抓るあやせ。 

 

「だから痛いってッ!? やめてアザになっちゃうでしょ! あとなんでそんなブリザードみたいな声で喋んの!?」

「さあて、どうしてでしょうね。お兄さん。ちょっと涅槃の彼方にでも行って考えてみたらどうです?」

「それってもう死んでる状態だよね!?」

「あのさぁ、前から思ってたんだけど、京介ってジゴロっての? そういう才能あんじゃね?」

「はぁ!?」 

 

 横からきた加奈子の発言に京介が目を剥いて驚く。 

 

「あのな、ジゴロって意味分かって言ってんのか、加奈子?」 

「知ってる、知ってる。アレだべ? 女から金をもらって生きてる男のことでしょ。にひひ。案外京介ってさ、将来誰かのヒモになってたりして」

「ヒデーこと言うなよっ! こう見えても俺すっげえ真面目に生きてるからね!?」 

「……」 

 

 再び桐乃の前で“いちゃいちゃ”が始まった。

 当の京介にじゃれあっている意識は一切ないのだが、傍から見ている分には十分“いちゃいちゃ”してるように見えてしまう。

 あやせと加奈子に挟まれて、つつかれたり肘鉄を喰らいながらも喜んでいるように見えてしまうのだ。

 だから桐乃は――

 

『――バシンッ!!』

 

 立ち上がりざま勢いに任せて、持っていた箸をテーブルに叩き付けた。その際に響いた大きな音が会話の一切を中断させる。

 場にいる全員が何事かと桐乃を見上げる。

 

「……どうしたの桐乃? わたしなにか気に障ることでも言った?」

 

 心配げなあやせの問い掛けに対し、ぶんぶんと頭を振ってみせる桐乃。けれどそんな程度で一度凍り付いた場の雰囲気は和らがない。

 加奈子は不審げに、京介は若干怒りの滲ませた視線で桐乃を見つめていて――そんな彼等が桐乃を追求するよりも先に、彼女はきつい視線で麻奈実をねめつけた。

 

「ねえ、ちょっと顔貸してくんない?」

「おいっ、桐乃っ!」

「あんたは黙ってて。……心配しなくてもそういうんじゃないから。話するだけだから」

 

 京介を制してから、桐乃は再度麻奈実を睨み据える。

 箸を叩き付ける際に立ちあがっていたので、彼女を見下ろす格好になっていた。

 

「話って、桐乃ちゃんが、わたしに?」

「そう。ここじゃなんだから上にいこ」

 

 そう言い捨てると、桐乃は麻奈実の返答を待たずダイニングを後にする。

 麻奈実は桐乃を見送った後で複雑な表情を浮かべるも、結局は桐乃の後に続くことにしたようだ。

 

「麻奈実」 

「大丈夫だよ、きょうちゃん。ちょっと桐乃ちゃんと話をしてくるだけだから」

 

 そう言い残してから、麻奈実は桐乃の後を追ってダイニングを出て行った。

 

 

 

「……よし。誰もいないっと」

 

 麻奈実を自室へ招き入れた後、桐乃は扉から頭だけを突き出した状態で辺りを見回して、廊下に誰もいないことを確認していた。それからゆっくりと扉を閉め、後から誰も入ってこられないように鍵を掛けた。

 京介の部屋に鍵は掛からないが、彼女の部屋には掛かるのである。

 これも高坂家のヒエラルキーの結果といえるだろう。

 

「えっと、女の子らしくってお洒落な部屋だねぇ。わたしの部屋とは大違いっていうか、桐乃ちゃんの部屋に入るの初めてかも」

「……どっか適当なトコ座っていいから」

 

 部屋の中央で立ち付くし、キョロキョロと周囲を見回していた麻奈実に桐乃がクッションを放り投げる。そして自分は乱暴にベッドに腰掛けた。

 取りあえずクッションを受け取ったものの、麻奈実は勝手が分からず佇むしかない。でもそれ以上桐乃からのリアクションがないのを見て取ると、彼女の真ん前になる位置を選び出し、すとんとその場に腰を下ろした。

 

「ねえ桐乃ちゃん。ロック……じゃないや。いわおのこと覚えてる? 桐乃ちゃんほどじゃないけど、あの子も大きくなったんだよ~。今度はうちに遊びにきて欲しいな。桐乃ちゃんが来たらみんなもすっごく喜ぶと思うし」

「……」 

 

 いわおと言うのは麻奈実の弟の名前である。そして桐乃の同級生でもあるのだ。

 固い雰囲気を和らげる為だろう。桐乃の既知である弟を話題に出し状況の打開を試みた麻奈実だったが、桐乃はそっぽを向いたままその気遣いをガン無視する。

 その反応を見て、仕方ないとばかりに小さな溜息を零してから、麻奈実は桐乃が望んでいるだろう話から入ることにした。

 

「それでわたしに話したい事ってなにかな?」 

「……アンタはアレでいいと思ってるの?」

「え?」

「だからアイツのこと! 今の状態でもいいと思ってるワケ?」

 

 やや声を荒げながら桐乃から麻奈実に詰め寄った。

 普通なら何のこと言っているか分からない聞き方だが、麻奈実にならこれで伝わると桐乃は確信している。なのに当の彼女の反応は芳しくない。

 麻奈実は軽く首を傾げ、きょとんと目をぱちくりさせているばかりだ。

 その反応に腸が煮えくり返る思いがしたが、ここで激昂してしまっては元も子もない。そう思った桐乃は、きつく唇を噛み締めて覚悟を決めた。

 

「……ま、“まなちゃん”はアレでもいいのかって聞いてんのっ!」

「っ!?」 

「あやせのこととか、加奈子のこととか。さっきの色々なの見ても何も思わないの!?」

「――まなちゃんかぁ。ふふ、随分と久しぶりの響きだね」

 

 “まなちゃん”という呼び方は、まだ高坂兄妹が小さかった頃、麻奈実と三人で遊び回っていた頃に桐乃が口にしていた麻奈実への呼称だ。

 これを言葉にするということはもうおためごかしは通用しない。

 お互い一線を越えて本音で話をしようということだと、麻奈実は理解た。

 

「やっぱり覚えててくれたんだ」

「忘れるわけないじゃん! あんなことされて――忘れられるわけないっつうの!」

 

 ばふっとベッドを叩く。

 

「アタシは“嫌”だった! あやせも加奈子も友達だけど、そんでもアイツと仲良くしてるの見るの超イヤだった! あやせ達だけじゃない。黒いのとか――まなちゃんといちゃついてんのも我慢ならなかった!」

 

 知らず声音が高ぶっていた。

 今まで言いたくても言えなかったことを言葉にして話せる。それも話題にしても問題ない相手に対して“ぶっちゃけられる”という思いが、桐乃の背中を後押しした。

 

「あたしとあいつはずっと喧嘩みたくしてて――それこそ口も利かなかったり、無視したり、自分でも嫌な女だって分かってたけど、どうしても我慢できなくて」

「桐乃ちゃん」 

「あいつとの距離がどんどん離れてるのに、どうしても近づくことが出来なくて。あいつも壁作ってたし……だから、ずっと、ずっとあたしは兄貴に嫌われてると思ってた。でも最近やっと昔みたいに話せるようになって、一緒に遊んだり、一緒にゲームしたり、一緒に出掛けたり出来るようになったの!」

 

 桐乃は兄に、京介は妹に、互いに嫌われていると思って日々を過ごしてた。

 その大きなすれ違いが、一つの人生相談を切欠にして再び交差し始めたのだ。

 

「嬉しかった。楽しかったよ。けどあたしはまた昔みたく戻るのが怖くて――なのにアイツはヘラヘラいちゃいちゃばかりしてっ!」

「それはきょうちゃんの悪いところだね。優しいだけなんだけど、誰にでも優しいっていうのは時に辛い事もあるよね」 

「…………あいつを“好き”だっていう娘も現れたし……あたしは! あたしは一番じゃなきゃイヤなの!」

「それは桐乃ちゃんの我侭じゃないかな?」

「仕方ないじゃん! そうなっちゃたんだから! アタシは兄貴なんて大っ嫌い! でも兄貴の一番じゃなきゃ嫌! だから――まなちゃんはどう思うのかって聞いてんのっ!」

 

 自分でも脈絡なく話してると桐乃は思った。それでも溢れてくる思いが自然と吐露させるのだ。

 こんな拙い話しかたで理解できるのは、小さな頃に三人で一緒に過ごした麻奈実か、京介のことと同じくらい桐乃のことを考えてくれている黒猫くらいのものだろう。

 

「そうだねぇ。正直に言っちゃえば悔しいって思いはあるかな」

「……え?」

 

 麻奈実の意外な答えに少しばかり桐乃は呆気に取られた。

 こうして詰め寄ったものの、彼女が正直に答えてくれるとは思っていなかったからだ。

 言わば八つ当たりに近い。

 そう理解していたし、そうしても大丈夫な人物として麻奈実を選んだ面もある。

 

「桐乃ちゃんでもそういう顔をするんだね」

「ち、茶化さないで!」

「別に茶化してないよ。わたしときょうちゃんはね、うんと小さい頃から一緒にいて、ずっと隣同士で歩いてきたんだから」

「幼馴染……」 

 

 幼馴染。その言葉の意味を桐乃は強く呪ったものだ。

 あくまで京介と麻奈実にとって桐乃は妹でしかない。その事実が突きつけられるように感じたから。 

 

「それこそ家族同然に付きあってきた。桐乃ちゃんも知らないような出来事もいっぱいあったんだよ?」

 

 思い出を慈しむように、麻奈実はそっと胸の前で手を重ねた。

 まるでそこに大切な何かがあるように。

 

「幼稚園から小学校。中学、高校とずっと一緒で、漠然とこのままそんな日が続いてくのかなぁって思ってた。一緒に大学に進学して、就職して、そしていつかは――」

「……」 

「でもね、去年の夏前辺りから、きょうちゃんの周りに色んな女の子が集うようになってきたんだ」

「去年の、夏……」 

 

 ちょうどその時期は、桐乃が京介に人生相談を開始した頃と一致する。

 

「黒猫さん。あやせちゃん。そして加奈子ちゃん。みんな可愛い子ばかりだし――悔しくないなんて言ったら嘘だよ」

「だったらなんでっ! なんでまなちゃ……麻奈実さんは笑ってられんの!?」

 

 すっくと立ち上がり、桐乃は麻奈実に詰め寄った。

 もし自分と同じ境遇なら笑っていられるはずがないだろうと。

 

「桐乃ちゃん?」 

「だってその髪、美容院行って切ったばっかりでしょ? 服だってこの夏でた新しいのじゃん」

「あはは……桐乃ちゃんには分かっちゃうんだ」

「読モ舐めんなっつうの。……たぶん京介のバカは気付いてないだろうけどさ」

「だよねぇ。きょうちゃんそういうとこ鈍いから」

「デリカシーゼロの鈍感野郎だよね、全く! でもさ、そうやって気合入れた格好で来るってことは……そういうことなんでしょ?」

「それは……」 

「どうして麻奈実さんは、あいつの隣で笑ってられんの?」

 

 桐乃は笑えなかった。

 それどころか、京介を好きだという人間が現れても素直に祝福してやることも出来なかったのだ。

 実の妹なのに。

 それが彼女の心をかき乱す。もしかしたら、こうして麻奈実と話をしているのは、ただ共感を得たかっただけなのかもしれないと桐乃は気付く。

 似た境遇であるはずの彼女と分かち合いたいから。

 敵であるはずの麻奈実すら求めなければいけないほど、追い詰められていたから。

 なのに麻奈実は、彼の隣で笑うのだ。 

 

「それはねぇ桐乃ちゃん。わたしにとって、たった一つの“例外”を除けば――きょうちゃんが幸せになることが一番の望みだから、かな」

「……なによ、それ?」

 

 予想外の答えに力を抜かれてしまった桐乃は、ぺたんと尻餅を付くようにその場に座り込んだ。

 これで麻奈実と膝を付き合わせる格好になってしまう。

 

「意味、分かんない。京介が幸せなら……それでいいってこと?」

「さっき言ったように悔しいって思いはあるんだよ? 実際にきょうちゃんが他の女の子と付きあったら歯噛みすると思う。わたしにとってきょうちゃんは大切な人で――家族同然に大事な人だから」

「だったら、なんでっ!?」 

「だからこそ、本当に好きな人と一緒になってもらいたい。そう思ってるの」

「……ヘンだよ。そんなの絶対変!」

「そうなのかな。――うん。きっとそうなんだろうね」

「バカじゃないの!? そんなの……ばかじゃん……」 

「もちろん、きょうちゃんにとっての大切な人がわたしだったら嬉しいと思う。でもきっときょうちゃんは――」

 

 でもと言葉を切るのに合わせ、そっと瞳を閉じる麻奈実。

 一呼吸置き、二呼吸置き、再び目を開いた後に続いた台詞は、さっきまでとまるで繋がらないものだった。

 

「桐乃ちゃん。さっきあいつを好きだって言う娘が現れたって言ったよね?」

「え?」

 

 繋がらない話に疑問符が沸く。

 けれど頭がクリアになり、質問の意味を理解した途端、先程の失言を麻奈実に突かれたのだと気づいた。

  

「それってさ、黒猫さんのことじゃないかな?」 

「なん……で、それ……」

「別に聞いたわけじゃないよ? ただ想像しただけ」

 

 面と向かう相手を落ち着かせるような微笑みに、さすがの桐乃も毒気を抜かれる。

 

「黒猫さんときょうちゃん、学校で噂になるくらいべったりだからね。さっきの話を聞いてそうじゃないかなって思ったんだ」

 

 事実、桐乃は、先日黒猫からそういう話を聞かされていた。

 

「黒猫さんはきょうちゃんのことと同じくらい桐乃ちゃんのことを大切に思ってるから、きっと誰よりも先に桐乃ちゃんに相談するんじゃないかなって思ったの」

「あんた、なんでそんなに知ったようなことばっかり……」

「ちょっとだけ似てるから、かな?」

 

 えへへと柔和な微笑みを残し、麻奈実がゆっくりと立ち上がる。

 これでこの場はお開きという意味だろうと桐乃は察した。正直、まだまだ話し足りないという思いがあったが、次の麻奈実の台詞には同意せざるえを得なかった。

 

「下に戻ろっか。きょうちゃんのことだから、そろそろ心配して突入してくる頃合だと思うし」

「……かもね」

 

 悔しいが麻奈実の言う通り、京介が業を煮やして突撃をかけてきてもおかしくないと桐乃も思った。それでなくても二人は仲が悪いと認識されている。

 しょうがないとばかりに溜息を吐いて桐乃も立ち上がる。入出時に扉に鍵を掛けたので、それを解除しようと思ったのだ。

 別に麻奈実でも鍵は回せるが、家主としてここは譲れないところだろう。

 扉までの距離を少し歩いて――

 

「ねえ桐乃ちゃん」

 

 だから、麻奈実が声を掛けてきた時、彼女は桐乃の後ろにいたのだ。

 

「わたしはきょうちゃんに好きな人が出来たら応援してあげたいと思う。祝福してあげたいと思うんだ。だってわたしにとって一番大事なのは彼の幸せだから」

 

 急ぎ振り返る。

 そうして桐乃の目に飛び込んできたものは

 

「――だからね、わたしきょうちゃんに告白しようと思ってるんだ」

 

 眩しいばかりの麻奈実の笑顔だった。

 

 

 

  




今話から少しづつですが物語の終わりへ向けて展開していく感じになると思います。
その為の一番手として桐乃と麻奈実の登場となりましたが、京介を介さないシーンを描く為にモノローグなしの三人称となっています。


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第三十六話

「これなんかどう? 夏らしくってお洒落だよ」

「白色のワンピース……ね。悪くないとは思うけれど、私に似合うかしら?」

「大丈夫、大丈夫! ほらアンタって外見だけは純和風で大人しい系じゃん? 髪も超綺麗だしさぁ、絶対似合うってっ!」

「……外見だけという部分に引っかかりを覚えるけれど、どうせならあっちの黒色の方が気になるわ」

「ダメ駄目! もっと明るい色選ばなきゃ印象に残らないっての」

「印象……」 

「それマジ似合うから! あたしのセンスを信じなさい」

 

 うんうんと満足げに頷きながら、桐乃が手に持っていたワンピースを黒猫に手渡している。対する黒猫は、少し躊躇うような素振りを見せたもの、結局桐乃からワンピースを受け取ると、試着室のある方向へと目線を流した。

 どうやら二人連れ立って洋服店に買い物に来ているらしい。

 

「……」 

「取りあえずは試着だよねぇ。ほら、ぼさっと突っ立ってないで、あっち行こっ!」

「え、あ――ちょ……」

 

 有無を言わさぬ行動力。

 桐乃は黒猫が何か文句を言い出す前に、彼女の手を取ると試着室へと引っ張って歩き出した。これくらい強引な手段に出ないと、黒猫が乗ってこないと思ったのだ。

 

「ん、そのバッグ貸して。持っててあげるから」

「まったく強引なんだから。でもありがとう。それじゃ行ってくるわ」

「ゆっくりでいいかんね」

 

 シャっと片手でカーテンを閉め、桐乃が試着室の中に黒猫を閉じ込めた。

 その名が示す通り黒色主体の服を好む黒猫だが、桐乃からしたら随分と勿体無いことをしているなというのが本音だった。

 素材がいいのだから、もっとお洒落を楽しめばいいのにと。

 定番のゴシックロリータも似合っているが、桐乃の見立てだと服装次第で“大化け”する逸材である。

 

「さてさて、どんな変身を見せてくれんのかな。超楽しみ」

 

 ふひひと含み笑いを噛み殺しながら、桐乃が中から聞こえる衣擦れの音に耳を澄ませる。ただ待っているのも暇なので、そうしながら頭の中で完成予想図を組み立てているのだ。

 

「ん?」

 

 次は一体どんな服を黒猫に着せてやろうか。なんて空想の中で遊び耽っていた桐乃だが、受け取ったバッグに何やら括り付いている物を発見し目を細める。

 

「これって……シルバーアクセ? ロザリオってのが黒いのらしいけど」

 

 軽く興味が引かれたのか、桐乃はもっとよく見てみようとアクセサリーに手を伸ばす。そして意匠を確認して軽い驚きの声をあげた。

 

「EBSじゃん。でも、どうしたんだろ、コレ?」 

 

 エターナルブルーシスター。有名なブランド品である。

 桐乃の見立てでは決して安価な品ではない。

 もちろん黒猫も女の子なのだから、アクセの一つや二つ持っていてもおかしくないが、ブランド品を好んでつけるような人物ではないと思っていた。

 もしかして誰かからプレゼントでもされたのだろうか。そう桐乃が思った時、控えめな勢いでカーテンが開かれた。

 どうやら黒猫の着替えが終わったらしい。

 

「ど、どうかしら……?」

 

 普段とは真逆の楚々とした佇まい。

 白を基調としたいでたちは、さながらシラユリのようである。 

 

「おほぉ! やっぱ似合ってんじゃん! 雰囲気がガラリと変わって清楚感に溢れてるしぃ」

「そ、そう? けれど少し露出が多すぎないかしら……?」

「全然! 今はそれくらいのがいいんだって。あ、帽子とか被ってもいいかも。麦わらとか夏らしいやつ!」

 

 にひひっと笑いながら、桐乃が両手で帽子を被る真似をする。黒猫はといえば、あまりにべた褒めされるので、恥ずかしそうに身体を縮こませていた。

 陶器宛らの白い肌にさっと朱色が指していく様は、彼女の仕草もあいまってとても愛らしいものになっていた。

 その様子があまりにも可愛らしかったので、桐乃は良作のエロゲー(もちろん妹もの)に出会った人のようににやけだす。

 

「ヤバ。マジ可愛いって。可憐っていうの? ひなちゃんもたまちゃんもアンタの妹なんだって再確認したわ」

「それ、どういう意味かしら?」 

「別にそのまんまの意味だけど? あ、それよりちょっとじっとしてて。写真取るから」

「や、やめなさい! よそ様の迷惑になるでしょう? というか私があなたより年上なの忘れてるんじゃないかしら?」

「ふふん。聞こえなーい! なんたって可愛いは正義っしょ!」

「全然答えになってな――って、ちょ、お願いだからやめて。私は……あなたの好きな妹キャラじゃないのよ」

「ふひひ。瑠璃ちゅわ~ん!」

「気色悪い声出さないで頂戴っ!」

 

 暴走する桐乃から必死に身をかわそうとする黒猫。

 もしこの場に京介がいたなら、ノリノリで突っ込みを入れていたことだろう。

 結局、黒猫が観念して、桐乃にポーズを取らされるまで、この二人のやり取りは続いたのだった。 

 

「……まったく、酷い目に遭ったわ」 

 

 そんなこんな一幕を経た後、疲れ切った表情を滲ませながら黒猫が試着室から出てきた。もちろん試着したワンピースは脱いでしまっているので、いつものゴスロリ姿に戻っている。

 

「けれど助かったわ。こんな頼み事を出来るのってあなたくらいだもの」

「どういたしまして。あたしで良かったらいつでも付きあったげるし。――って、ところでさ。このバッグに付いてるアクセどうしたん? 結構良い品のようだけど」

 

 そう言って桐乃がバッグに付いているロザリオを指差す。

 

「あぁ、それはあなたのお兄さんに選んでもらったものよ」

「はぁ? どういう経緯でそんな――つーか、あいつにンな甲斐性があったなんて……驚き」

「値段的にはタダよ。偶々そういう機会があってね。でも私は気に入っている。家にしまっておこうかとも思ったのだけれど、やっぱり身近に置いておきたかったから」

 

 日向ぼっこを楽しむ子猫のように目を細め、嬉しげにロザリオを見つめる黒猫。その幸せそうな姿を見て、桐乃の脳裏にいつかの光景がフラッシュバックした。

 ――それはいつものメンバーで沙織の家へ泊まりがけで遊びに行った日の帰り道。

 話があると桐乃が黒猫を呼びとめた後の出来事である。

 

 ★☆★☆★☆

 

 駅前で沙織と京介と別れてから、桐乃と黒猫は二人きりで話をする為に近くにあったドーナツ屋へと足を運んでいた。

 まずは軽食を注文し、店内で一番奥側にあるテーブルを選んで席に付く。

 位置関係は互いを真正面に見据えた状態。こうすれば相手の一挙手一投足が目に入ってくる。しかし席に付いてから幾許かの時間が流れても、一向に会話は進まなかった。

 お互い自身の前にあるドーナツに視線を落とし、口を開きあぐねている。

 自分の周りにある空気が重く感じられるような気まずい雰囲気。

 手持ち無沙汰を紛らわす為だろう。桐乃はドリンクに刺さったストローにそっと指を伸ばした。途端、グラスの中の氷が一気に瓦解して、カラコロと甲高い音を立てた。

 それに合わせるようにして――

 

「――私ね、あなたのお兄さんのことが好きなの」

 

 瞬間、桐乃の動作の全てが止まった。

 黒猫の告白と氷が奏でる音が重なったが、聞き間違える台詞ではない。

 

「す、好きって……」

 

 自分でも驚くくらい渇いた声しか出なかった。

 一瞬冗談の類かと“期待”したが、黒猫の表情を見るにその望みは薄い。

 桐乃はストローに伸ばしていた指をそっと離すと、そのままの手で直接グラス掴み取った。それから直飲みで一気に中身を飲み干していく。

 喉を潤すというには随分乱暴な飲み方だが、そうしないと次の言葉が搾り出せなかったのだ。 

 

「それって、どういう意味の……好き?」

「もちろん異性として好いているという意味よ」

「異性――」

「ええ。世界で一番、他の誰よりも、ずっと、ずっと、あなたのお兄さんのことが好きなのよ。出会ってまだ一年しか経ってないけれど、この気持ちは嘘じゃない。それだけははっきりと断言できるわ」

 

 真っ直ぐで強い黒猫の視線を浴びて、桐乃は溜まらずに目線を下げた。

 下唇を噛み締め、眉根を寄せて、それでも気持ちを奮い立たせて言葉を紡ぐ。 

 

「………………そっか。やっぱり、そう……なんだ」

「やっぱりって、気付いていたの?」

「薄々ね。あんたら見てたら、そうじゃないかなって。それに昨日の“アレ”見ちゃったし」

「そう。やはりあれはあなただったのね」

 

 月光に照らされた薄暗い室内の中で、京介と黒猫が語り合っている。

 あなたに出会えて良かったと、感謝の言葉を述べる黒猫。対する京介がその真意を問おうと口を開きかけたタイミングで――独りでに扉が閉じた。

 その際に響いた大きな音に驚き、二人の会話は中断されたが――これが、その答えである。

 

「べ、別に覗き見しようとしてたわけじゃなくってさ、あたしも水飲みに行っただけで――」

「分かっているわ。偶然なのでしょう? それにお陰様で、決心というか覚悟も出来たわ」

 

 黒猫がそっとストローに指を伸ばす。

 今度は氷が瓦解する音は響かなかった。

 

「聞いて頂戴。私はね、ずっと悩んでいた事柄があったのよ」

「悩み……ごと?」

「大切なものが二つあって、そのどちらかを選ばなければいけない。そのどちらをとっても後悔するような気がして……迷って、迷って、考えて――もう正直一生分悩み尽くした気分よ」

 

 二者択一。選べるのはどちらか一方だけ。 

 それは酷く残酷な選択肢だ。

  

「それでも結局は選べなくってね。思考の袋小路っていうのかしら? 迷い込んだまま出られないの。でもようやく一つの答えが見えた気がしたわ」

 

 安堵したような溜息を零しながら、黒猫は目の前に置かれているグラスの水滴を指の腹を使って伸ばし始めた。

 右へ伸ばしては左へ戻し。またその繰り返しで。

 まるで文字を書いているような仕草だが――最後に彼女は濡れた指はそのままに、軽くグラスを人差し指で弾いた。

 小さく響いたのは、黒猫の爪とグラスとが奏でた甲高い音色。 

 

「私はあなたのお兄さんのこと、どうしようもないくらい好きよ。――焦がれる、なんて言うけれど、本当にこの身が焼けてなくなっちゃうくらいに」

 

 そう思うに至った一つの切欠。

 それは桐乃が書いた小説の為に京介と黒猫の二人で出版社まで乗り込んだこと。

 ベテラン編集者を相手に大立ち回りを演じることになったが、結果として、それまで桐乃を間に通しただけの関係だった二人が、個人として深い繋がりを持った瞬間だった。

 桐乃が海外に留学した際には、互いに無くした溝を埋めるように急速に距離が近づきもした。

 

「さっきは偉そうに啖呵を切ったけれど、こんな気持ちになったのは始めてで……当初は随分戸惑いもしたわ。けれど彼に恋をしていると気付くのにそんなに時間はかからなかった。一緒の高校に通って、同じ部活に入って、同じ時間を過ごして――時には彼の行動に嫉妬したり。本当、莫迦みたいよね」 

「……ベタ惚れじゃん。でもさ、どうしてそんなことをわざわざアタシに言うワケ? あいつに……直接言ったら? きっと喜ぶと思うよ」

「あなたはそれで良いの?」

「え?」

「本当にそれで良いのかと聞いているの。私があなたのお兄さんに告白して……運よく付きあえたとして、あなたはそれに納得できるのかしら?」

 

 冗談を言っている風ではない。黒猫は真剣に問い詰めている。

 その事実に桐乃は戸惑った。

 

「……い、意味わかんない。あんたとあいつがどうなろうと“関係ない”し」

「それは嘘だわ」

「嘘とか……決めつけんなっ。だいたいあんたにあたしの何が――」

「分かるわよ。あなたが私のことを理解できるように、私もあなたの事が理解できる。だからこうして“最初に”あなたに言ったんじゃないの」

「っ!?」

 

 言葉を発すれば発するほど心がヒートアップしていく。

 桐乃は激情するように熱く、黒猫は静かに燃え盛る青い炎のように。

 

「今私が彼に告白して……付き合えることになったら嬉しいけれど、本当に、本当に、天にも昇る気持ちになるだろうけれど、きっと私は大切にしているものを一つ失ってしまうことになるわ」

「大切な、もの?」

「けれどそれじゃ駄目なのよ。だから私は欲張りになろうと決めた。自身が納得出来るように、望ましい結果を得られるように努力したい。そう思ったの」

「……それがさっき言ってた決心ってやつ?」 

「そうよ。こう見えて私は強欲なのよ。大切なものを失うくらいなら両方を手に入れる道を選ぶ。模索する」

 

 そこまで巻くし立てた黒猫は、高鳴る動悸を押さえ込むようにドリンクを一気に飲み干した。

 それから赤い舌で唇を濡らし、小さな吐息と共に

 

「――理想の世界へ至る道。今日はその第一歩なのよ」

 

 と、そう付け加えた。

 

「ねえ“桐乃”。もう一度聞くわ。私、あなたのお兄さんに告白しても良い?」

「…………ッ」 

 

 普通なら“良いよ”と即答するのが当たり前だろう。桐乃にとって黒猫は大切な友達で、京介は兄なのだ。

 なのに応援するよの一言が口から出てこない。

 焦る、焦る、焦る。なぜ焦っているのか分からなくて、また焦って。

 桐乃はそんな戸惑いと一緒に臍を噛んだ。

 

「あたしは……」

 

 やっとのことで身体の奥から搾り出した声も単発で終わってしまった。

 詰まる言葉と焦燥感から、ここから逃げられるものなら逃げ出したいと桐乃は思う。けれど逃げ道などどこにもありはしない。黒猫の視線はずっと桐乃に注がれたままなのだ。 

 どれくらいその状態が続いていたのか。

 突然黒猫は眦を下げると、申し訳なさそうにこう付け加える。

 

「ごめんなさい。少し性急に過ぎたわね。あなたにも考える時間が必要でしょうし」

「黒……猫?」 

「そうね、夏休みに入るまで。夏になったら答えを聞かせて頂戴。それまで色々と話をしましょう。――お互いが納得する答えが出るまでね」

 

 微笑んだつもりだったが、うまく笑顔を浮かべられたか黒猫には分からない。

 だって黒猫にも焦る気持ちがあったから。

 彼のことを好ましく思っている人物は一人だけではない。

 彼女の思い人は誠実で真っ直ぐな人間だけに、最初に告白した人物が優位に立ってしまうかもしれない。

 言わばアドバンテージ。それでも黒猫は、大切なものを失わない為に桐乃の答えを待つことにしたのだ。

 

 ★☆★☆★☆ 

 

「どうしたの? ぼーっとして?」

「ん、ちょっと考え事、かな」

 

 黒猫に呼びかけられ、桐乃の意識が現実へと引き戻される。

 どうやら思い出に没頭している間に黒猫は会計を終えていたようだ。

 左手にワンピースの入った袋を提げている。

 

「そう。今日これからの予定でも考えてた?」

「ま、そんなトコ」 

 

 歩きながら喋り、並んで店の外へ出る。途端、夏らしい眩しいばかりの陽光が彼女達の肌に突き刺さった。背後で自動ドアが閉じれば、店の中からの快適な空気も届かなくなる。

 黒猫は右手をひさしの変わりに頭上に翳して、顔のあたりに影を作った。

 都会だというのに、辺りからはひっきりなしにセミの鳴き声が聞こえてくる。

 

「ふう。世間はすっかり夏一色ね。私にとっては夏コミの季節だけれど」

「えっと、確か二日目と三日目に出るんだっけ?」

「そうよ。二日目はゲーム研究会の一員として。三日目は私個人のサークルとしてね」 

「もちろん冷やかしに行くかんね。あたしが寄稿したページもあるんだから、キッチリ売り切りなさいよ」

「任せなさい、と言いたいところだけど、実は完売したことないのよね。売れ残った同人誌を持って帰る時の切なさは、何度味わっても慣れないわ」

「は、はは……」

 

 黒猫の漂わせる悲壮感にさすがの桐乃もディスる気にもならないとばかりに、渇いた笑いが零れていた。

 

「去年の冬コミなんて九割以上売れ残っちゃってね、配送するお金ももったいないからカートに載せて帰ったものよ」

「なら今回はリベンジだね!」

「……そうね。そうなるといいわね」 

 

 そこでふと会話が途切れた。

 二人とも去年の夏コミを思いだしているのか、途端に口数が少なくなる。

 一年前はお互いまだ相手との距離感がうまく掴めず、探り合っているようなところもあったし、出会ってからの日も浅かった。それが今や互いを親友と思えるようになるまで距離が近くなったのだ。

 黒猫は友達を作るのが下手で、桐乃にとっては始めてのオタク友達で。

 気兼ねなく全力で趣味の話が出来る相手――叩き付けられる相手を得たこと、それが嬉しかった。

 

「ねえ」 

 

 桐乃が先に歩みを止める。遅れて黒猫が立ち止まり、二人の間に一歩分の距離が開いた。

 

「なに?」 

 

 先を行った黒猫が振り返る。

 

「良い夏になるといいね。思い出になるような――ううん、一緒に最高の思い出を作ろう!」

 

 桐乃の突然の申し出に最初は唖然とした黒猫だったが、すぐに表情を軟化させると

 

「了承したわ。けれど覚悟なさい。今年の夏は目一杯遊び倒す予定なのだから。生半可な覚悟だと置いていくわよ」

「そっちこそ」

 

 再び横に並ぶ桐乃と黒猫。

 真夏の日差しは、そんな二人をじりじりと暑く照らし続けていた。

 

 

 

 



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第三十七話

 並んで座った状態で、車窓から見える景色を眺めていた。

 茜色に染まる街並みはとても綺麗で、けれど高速で走る列車の影響か、感動を覚えるよりも先に景色は流れていってしまい、印象としては夕焼けが強く出ていたなぁくらいしか覚えていない。

 というより、もっと強く俺の関心を惹く事柄が間近にあったからだろう。

 この日の俺は黒猫と一緒に新宿まで出ていて、そこである種の大立ち回りを演じた後であり、今はその帰り道なのだが――色々ありすぎた影響か、疲れた黒猫がこくりこくりと船を漕ぎ出してしまったのだ。

 電車の走行に合わせるようにして身体を揺らす黒猫。そしていつしかこいつは、俺の肩先に頭を預けるようにして眠ってしまっていた。

 

「……」 

 

 漆を溶かし込んだような艶のある黒髪。その長い毛先が俺の袖口をチクリとくすぐる。すうすうと耳まで届く微かな寝息が、とても艶のあるものに聞こえたりもした。

 今日という日を迎えるまで俺達の間に大きな接点はなかったと言っていい。あくまでも俺と黒猫は妹を通しての共通の知り合いってだけの関係だったからだ。

 それがこの日を境にして文字通り一変した。

 桐乃の書いた『妹空』という作品とあいつの名誉を守る為に、俺と黒猫が出版社に直談判までしにいって。

 フェイトさんに出会ったり、色々なことがあったけれど、やはり“切欠”としては喜怒哀楽という感情の発露が胸の奥に響いたんだと思う。

 泣いて、笑って、怒って、悲しんで。

 今まで物事に対し斜に構えていると思っていた態度は表面的なもので、実際は年相応の少女そのままの、感情豊かな女の子なんだって認識させてくれた。

 それまで見た事もないような多彩な表情を見せてくれた黒猫。

 けどさ、何のことはない。

 それと同じ種類だけの感情を俺もあいつに曝け出していたのだ。

 

 ――どうして、あなたまで泣いているのよ?

 

 本当に情けない泣き顔は見られるし、土下座するみっともない姿は見られるし、客観的に見ても褒められたもんじゃなかったとは思う。けど実際に生の姿、感情、本音をぶつけ合ったおかげで心が触れ合った気はしたんだ。

 

「……ん……」 

 

 列車がカーブに差しかかった影響か、身体が微かに横方向に揺さぶられる。その影響もあって、隣にいた黒猫の身体がより強く俺の身体に押し付けられてしまった。

 腕と腕が触れ合い、肩には彼女の頭が乗せられていて。

 直接相手の体温が感じられる距離感に内心ドギマギしたりもしたが、反面そんな暖かさが心地よくて、俺もこのまま目を閉じて眠ってしまおうか、なんて思ったりもしたもんだ。けどそれを実行に移す前に隣から微かに身動ぎする所作を感じ取ってしまう。

 黒猫が目を覚ましたのだ。

 当然の如く、直前まで感じていた柔らかな感触は離れていって――俺は場違いにも、少しだけそれを名残惜しいと感じていたっけ。

 

「…………ごめんなさい。知らずあなたにもたれかかっていたようね」

「別にいいって。疲れてたんだろ? それに今日はおまえのおかげで何とかなったんだ。こんな肩でよけりゃ幾らでも貸してやるさ」

「莫迦ね。今更格好つけても様にならないわ。それに……その、この状態だと私のほうが恥ずかしいのよ」

 

 そう言った黒猫は、車窓からの景色に目線を向けるようにして、ぷいっと視線を逸らしてしまった。

 窓から射し込む夕日のせいなのか、ほのかに頬が赤くなっている気がしたのは、俺の勘違いだっただろうか。

 今となっては確かめる術はないのだが――

 

 

 

「……輩、先輩」

「ん……黒猫?」

「そうよ。黒猫よ。って、どうしたの先輩、さっきからぼーっとして。もしかしてこの暑さにやられてしまったのかしら?」

 

 隣に座っている黒猫が、少し不審げな眼差しで俺をねめつけてくる。といってもここは電車の中でもなければ、学校の部室でもない。当然俺の部屋でもないわけだが。

 なら何処かといえば、近場にある海浜公園に揃って出てきていたのだ。

 面子は俺と桐乃と黒猫。そして麻奈実を含めた四人である。

 とは言うものの、桐乃と麻奈実は現在揃ってソフトクリームの買い出しに行っていてこの場にはいない。

 半ば強引に桐乃が麻奈実を連れ去って行った(俺と麻奈実が買いに行こうとしたら何故か桐乃がしゃしゃり出てきた)ので、その二人の帰りをベンチに座って待っているという寸法だ。

 

「あー、ちょっと考えごとつーか、昔を思い出しててよ」

「え?」

「ほら、新宿にある出版社までおまえと乗り込んだことあったじゃん。兄妹って設定付けてさ」

「……ああ、あったわね、そんなことも」

「んで、こうしてベンチに並んで座ってると、あの時の帰りの電車の中でもこうしてたよなって思い出してたんだ」

「電車って、またつまらないことまで覚えているものね、あなた。あまり役にはたたない記憶なのだから、早々に忘れてしまいなさい」

「なに言ってんだ。全然つまんねえことじゃねえよ。大切な思い出ってやつだ」

「……」

 

 複雑な表情を晒しながら、黒猫があの時と同じようにふいっと視線を逸らしてしまう。

 目線の向かった先は正面で――そこには大勢の人々が笑顔で行き交う姿が見て取れた。各種アミューズメント施設も兼ね備えた海浜公園は、夏休みという水を得た魚のように活気付いている。

 

「厭ね、この時期は。何処へ行っても人、人、人の波ばかりで」 

「仕方ねえって。夏ってのはその存在自体がイベントみてえなものだろ」 

 

 特にこういう施設だと尚更だ。

 プールやテニスコート、各種運動施設にフラワーミュージアム。自転車を借りてサイクリングに勤しんでもいいし、園内を散策するだけでも目の保養になるだろう。

 とはいっても遊びに来たわけじゃなくて……あ、いや、遊びに来たのには来たんだが、別の目的があるっていうか……。

 ぶっちゃけるとこの機会を利用して桐乃と麻奈実の不仲を少しで解消できればいいのにという目論見があったのだ。

 正直、難題だとは思うぜ。

 それくらい桐乃の側に麻奈実に対しての拒否感があるからな。

 だからこそ、この開放的な空間の力を利用しつつ、園内を散歩しながら会話でもすれば、少しは深まった溝も埋まるんじゃねえか、なんて希望的観測を持ってここまで来たってわけだ。

 

「でも良かったの先輩? あの二人を一緒に行かせても」

「二人って桐乃と麻奈実のことか?」

「そう。こう言ってはなんだけれど、あなたの妹は田村先輩に対してあまり良い感情は持っていないわ」

「知ってるよ。露骨に悪態吐くくらいに嫌ってるのもな。昔はあいつもああじゃなかったんだが」

「……」

「けどこの前、麻奈実が家に来たあたりから少し態度が変わったつうか……」

「態度って、なにかあったの?」

「いやな、桐乃の奴が麻奈実を自室に連れ込んで何やら話し込んでて、その後からどうもあいつの様子がおかしいんだよ。麻奈実と距離を置いてるのは変わらねえんだが、相手を警戒してるっつうか、いつもなら視界に入れるのも嫌だってくらいなのに、逆に目線で追ってたりしてよ」

「いまいち要領を得ない答えね」

「俺がそう思ってるってだけだからな。けどなにかしらの変化があったなら今が好機だとも思うんだよ。おまえとあやせがそうだったように、一緒の時間を過ごすことで距離が縮まるんじゃねえかって」

「……別に私は特別あの女と仲良くなった覚えはないわよ」

「そうだっけ?」

 

 一緒に遊んだり、一緒にゲームしたり、一緒に旅行したりしたじゃねえか。そんな俺の思いを表情から読み取ったのか、黒猫が罰が悪そうに唇を尖らせる。

 

「私とあやせさんとの関係は置いておいて、先輩の思惑は理解したわ。そして何故今日私がここに呼ばれたのかもね。要は緩衝材でしょう? あなたの妹と田村先輩との」

「……おまえが一緒なら色々助かるかなって思ったのは事実だけど、実質的におまえを呼んだのは桐乃だぞ」

「そうなの?」

「ああ。麻奈実と一緒に出掛けるなら黒いのと一緒じゃなきゃ行かないっつってよ。あいつからしたら敵と対面するみたいなもんだし、味方が欲しかったんだろうけど」

「味方、ね」

 

 なにか含むものがあるのか、黒猫がつと唇を閉ざしてしまう。

 桐乃からしたら麻奈実とかなり仲良くなっていたあやせよりも、黒猫を間に入れた方が都合が良いって程度なんだろうが、そこが引っかかるのだろうか。

 けれど次に黒猫が口を開いた時に零れたのは、少し方向性の違った内容だったので、頭を切り替えるのに少しだけ時間を要してしまった。

 

「ねえ先輩。実はね、私も田村先輩にはあまり良い感情を持っていなかったのよ」

「え?」

「あなたの妹に色々と聞かされていたから。実際に会うまでははっきり敵だと認識していたくらいだもの」

 

 両手をベンチに突いてぐっと背筋を伸ばす要領で空を見上げる黒猫。そこには澄み切った真夏の青空が広がっていて、とてもネガティブな台詞が続くような雰囲気は感じられなかった。

 

「そういやおまえ麻奈実に対して初対面でベル……なんとかって言ってたっけ。確かおまえが書いた漫画の中にも登場してたよな」

「ベルフェゴールよ、先輩。七つの大罪に準えられる悪魔の一柱で“怠惰”や“好色”を司っているわ。あなたの妹から聞かされた内容を鑑みて、私なりに当て嵌めてみたのよ」

「……悪い、黒猫。さっぱり意味が分からん」

「誰かさんを怠惰に貶めようとしている元凶。そう認識していたの。今は少しばかり改善してはいるけれど……」

「少しかよっ!?」

 

 まあ入学当初の黒猫は誰に対しても壁を作ってたし、麻奈実に対して桐乃から先入観を植えつけられていたのなら、輪をかけて嫌っていたとしても頷ける。

 それも実際触れ合ううちにわだかまりも解けていったんだろうが、あやせほど麻奈実とは接していなかったからか、未だ桐乃の影響が強く残ってるってことか。

 怠惰とか、麻奈実とは正反対の属性だろ。

 

「でも意外ね。私も田村先輩とあの女の溝を埋めるのには賛成だけど、まさかあなたがこうまで甲斐甲斐しく動くなんて思わなかったわ」

「そうかぁ?」

「だってあなた“妹”のことが嫌いなのでしょう?」

 

 さっきの仕返しとばかりに黒猫が楽しそうに目を細めている。

 からかってやろうという魂胆が透けてみえる素晴らしい表情だった。

 

「それは――」 

「ああ、御免なさい。嫌いではなく大好きの間違いだったわね」

「……ちげえって。これは、なんつーか良い機会だなって思っただけで、別に深い意味はねえ」

「本当かしら」

「本当だって。それに兄貴ってのは元々そういうもんじゃねえか?」

「……」 

 

 思っていた内容とは別の答えを貰ったとばかりに、黒猫が目を丸くしている。

 けれどすぐに得心したとばかりに表情を改めた。

 

「ごめんなさい。冗談よ。そうよね。私達にとって妹とはそういう存在よね」

「黒猫?」

「妹のことが心配でたまらなかったり、つい過保護になってしまったり。それは特別珍しい感情ではなくて、好きとか嫌いとかを超越した一種の性のようなもの」

「……」

「見返りなんていらない。ただ笑ってくれてさえいればいい。腹の立つこともあるけれど、ね」

「……だな」 

 

 そういやこいつも“お姉ちゃん”だったな。

 俺から見たら年下の女の子でも、家に帰れば立派な姉貴なのだ。

 

「だからごめんなさい。少しからかう方向性を間違えてしまったわ」

「気にすんな。ってか俺も気にしてねえし。つーか、からかうって前提は覆らないのな!?」

「だって愉しいもの。こればかりはやめられないわ」

「ちょ、おま――」 

 

 普段黒猫をからかってる(反応が可愛いのだ)俺が言うのもなんだが、ここは反論しておくべきだろう。そう思った矢先、聞きなれた幼馴染の声が耳に飛び込んできた。

 

「きょうちゃ~ん」

 

 目を移して見れば、両手にソフトクリームを持った麻奈実と桐乃の姿が飛び込んでくる。仲良く並んでってわけじゃねえが、どうやら喧嘩してるような様子は見られない。

 まあ買い出しに行ったくれーで喧嘩になってたらこの先が思いやられるわけだが。

 

「お待たせ。はい、そふとくりーむ。ばにら味だよ~。桐乃ちゃんの持ってるのがね、すとろべりー」

 

 何故かドヤ顔で目線を移す麻奈実。

 一人でソフトクリームを四つは持てない。だから二人で買い出しに行ったわけだが、目線を向けられた桐乃はふんっと鼻を鳴らして答えただけで、黒猫にソフトクリームを手渡ている。

 それから改めて俺を見据え、軽くメンチを切りやがった。

 

「あたし達がこれ食べ終わるまでに行動指針を決めといよね。あんたが連れて来たんだから、エスコートくらいきっちりしなさいよ」

「へいへい。分かってますよ」

「返事が投げやり。やり直し。女の子に囲まれてるハーレム状態なんだからさぁ、もちっとやる気とか出せないわけ?」

「……分かってたけど、何処へ行っても傍若無人だよなお前は」

 

 とまあ前途は多難だが、これで一先ず出航する準備は整った。

 後は俺が舵の切り方さえ間違えなければ目的は達成される……はずだ。

 そう願いながら、麻奈実が買ってきてくれたソフトクリームにかぶりつく。

 それは甘くて、冷たくて。

 夏の風物詩は伊達じゃないって、場違いなことを感じてしまうくらいには美味かった。

 

   



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第三十八話

 

「師匠ー。あたし思うんだけどぉ、あやせって京介に気があるんじゃないんすかね」

「ふぇ!?」

 

 田村家の居間にて遅めの昼食を取ろうとしていた麻奈実と加奈子。その冒頭でいきなり加奈子が爆弾発言をかましてくれた。

 そのあまりにも想定外な内容に、さすがの麻奈実も絶句する。

 

「えっと、加奈子ちゃん。気があるって――」

「いやだなぁ師匠。好きってことっすよー。あやせが京介LOVEなんじゃないかってこと」

 

 大きめのちゃぶ台を挟んで対面同士に座っている二人。

 各自の前にはどんぶりとお椀――加奈子が作った親子丼と味噌汁が置かれていた。

 黄金色に輝く親子丼はとても美味しそうで、漂う香りだけでも非常に食欲をそそる一品となっている。とはいっても料理自体には麻奈実の手伝いが入っていたので、実質二人の合作的意味合いの強いものになっていた。

 

「……また、いきなりだね」

「そっすか? これくらい普通じゃね?」

「普通なのかなぁ? わたしなんか“じぇねれーしょんぎゃっぷ”っていうのを感じちゃうくらい驚いたんだけど」

「なに言ってんスか師匠。あたしとそんな年変わんねえじゃん」

 

 草を生やすという言葉があるが、それが当て嵌まるくらい加奈子は可笑しそうに笑い声を上げている。けれど相手を馬鹿にしたような嫌味が込められていないので、受け取り手である麻奈実にも怒りの感情が沸いてこなかった。

 元より、滅多な事で麻奈実は怒ったりなどしないのだが。

 

「でも加奈子ちゃん。わたしのことおばさん臭いってよく言ってたよね?」

「そりゃ見た目はマジでおばさんっぽかったし。会った当初は師匠のこともっと年上の人かと思ってたんすから」

「……それは、さすがにちょっと傷ついたかも」

「あ、でも最近は随分とマシになったんじゃねって思ってんすヨ。師匠ー、イメチェンとかしました?」

「うーん、いめちぇんというか、ちょっとあやせちゃんにお洒落のお手伝いなんかして貰ったりしてて。ほら、やっぱりわたし一人だと煮詰まっちゃうから」

「へー。師匠も色々とやってんすね」

 

 小さな身体に似合わない勢いで親子丼をかっ込む加奈子。自作ながら味には十分満足したようで、目が輝いていた。

 こういうところはまだ子供なのになぁ、なんて場違いな感想を麻奈実が抱くのも無理からぬ光景である。

 

「で、そのあやせなんすけど、ぜってー京介のこと好きだと思うんス」

「んー、そう思うってことは、それに至る経緯があったってことだよね? なにかあったの加奈子ちゃん?」

「なにかつーか、こないだあやせ達と旅行に行ったんすけど、そこで感じたっつうか、改めて思ったっていうか、まあ直感的にビビビっときたんすよっ!」

「旅行に行ったの? あやせちゃんと?」

「うすっ。他にも何人か一緒にいたんすけど――」

 

 美咲さんが京介、あやせ、黒猫、加奈子、御鏡を自身の別荘へ招待した時のことを、加奈子が麻奈実へ掻い摘んで話した。

 

「へえ、そんなことがあったんだ」

「あとそこで会った野良猫とかいう電波入った女も京介LOVEっすね。つーか、あいつ結構モテんだなぁ」

「それ野良猫じゃなくて、黒猫さんのことだと思う……」

 

 付けあわせに出しておいたお漬物をポリポリと口にしながら、麻奈実がなんともいえない微妙な表情を形作っている。

 あやせと黒猫が京介に対し好感を抱いていることは麻奈実も察していた。

 ゆるい口調とおっとりした性格から鈍く思われがちだが、頭の回転は速いほうだし察しも悪くない。よく言えば目端が利くし、悪く言えばめざといのだ。

 言葉を口にする時もよく吟味してから舌に乗せるので、人によっては腹黒いと揶揄する人もいるだろう。思ったことをすぐ口にする加奈子とはある意味正反対に位置しているともいえる。

 

「でも最近になってからだよ、きょうちゃんの周りに女の子が集まってきたのって。……あ、別に今までモテてなかったって意味で言ったんじゃないからね、一応」

「分かってますよー。まあ実際京介ってぱっと見ただけじゃ冴えない野郎だなって感想しか出てこねー奴だし。好みの差もあるとは思うけど、深くつきあってみて初めて魅力が分かる、みたいな?」

「ふふ、よく分かってるじゃない、加奈子ちゃん」

 

 相手の立場になって物事を考えられ、その上で自身の損得を抜きにして行動できる京介。

 今時では珍しいタイプ――直情的で、ひたむきで。時には勢いあまって暴走してしまうこともあるし、場合によってはそれをウザイと感じる人もいるだろう。

 けれど少なくとも麻奈実はそんな彼に好感を抱いていた。

  

「じゃあねぇ、この際だから聞いちゃうけど、加奈子ちゃんはどう思ってるのかな?」

「へ?」

「きょうちゃんのこと。気にはなってるんでしょう?」

「あー、それはー」

 

 加奈子にしては珍しく、問われた事に対して口篭る姿勢を見せた。とはいっても、誤魔化そうとか、悩んでいるとか、そういう感じではなく、どう言葉にすればいいのか分からないといった様子だ。

 単純に好き、嫌いとは答えられるが、それを麻奈実が求めているとは思えなかったから。

 結局加奈子は、暫し考えた後に、どうせうまく言葉には出来ないのだから、現状の気持ちをそのまま伝えてしまおうと開き直ることにした。

 

「京介ってさー、初対面ではほとんど印象にも残らない感じで、ぶっちゃけ一度きりの出会いならすぐ記憶から抹消してた程度の存在だったんすよ」

「本当にぶっちゃけたね……」

「にひひ。でもあいつ加奈子のマネージャしてて、そんで何回か顔合わせてるうちに馬が合うなぁって感じてて」

「ふむ、ふむ」

「結局加奈子にセクハラしたとかでマネージャーは首にはなったんすけど、その後付いたマネージャーがめっちゃ杓子定規な奴でェ、京介の良さを再認識したっつか、やっぱ気になるって気付いて」

「……えっと、きょうちゃんがセクハラ?」

「あ、興味あります、師匠?」

「あるけど、今は先を続けて」

 

 話の腰を折るといけないと思ったのか、麻奈実は取りあえず加奈子の爆弾発言をスルーすることにした。

 まあ実際はあやせが捏造した(当初加奈子はマネージャーが高坂京介だと気付いていなかった為に仕方なく)事件なので、彼の名誉の為に事実無根であると訂正しておく。

  

「恋心っての? そういうのじゃなくてダチの延長みたいに考えてたんだけど、なんか違うなって感覚もあって。んでこないだの旅行の時に京介に“好きな女の子いないの”って聞いたんすよ」

「また、思い切ったことをしたんだね」

「回りくどいのって柄じゃないっていうか、面倒臭くて」

「その質問にきょうちゃんは答えてくれた?」

「即答はしなかったなぁ。あいつ最初考え込んでて、それ見て“期待”しちゃってる自分と“怖い”って思ってる気持ちに自分で驚いたっていうか――」

「なるほど。そこできょうちゃんのことが好きかもって気付いたんだ?」

「えへへ、まあそうっすね」

 

 好きという言葉に対して、臆面もなく肯定できる強さを加奈子に垣間見る麻奈実。

 こういう精神の強さは、京介の周りにいる女の子の中では加奈子が一番だろうと素直に感心した。

 

「でも実際きょうちゃんと加奈子ちゃんって仲良いよね。こないだの料理対決の時に見ててそう思ったもん」

「でしょでしょ! 加奈子と京介ってぇ相性抜群だと思うんスよ! 一緒にいるとマジ楽しいし」

 

 にへらと笑って語る加奈子の姿からは、本当に京介と一緒にいるのが好きなんだという姿勢が伝わってくる。相性が良いと言った本人の言葉も間違いではないだろう。

 どちらかと言えば不良っぽい加奈子だが、年を経れば丸くなっていくだろうし、本人もそれを意識し始めている。その辺りも含めて京介とはうまく噛みあうのではないかと麻奈実は思っていた。

 

「で、そういう師匠はどうなんすか?」

「え?」

「またまた。京介のことっすヨ。最近師匠がイメチェンしてるのもその為なんじゃねーの?」

 

 加奈子に対して質問した時から、こう返ってくるだろうことは予想出来た。だから“うまく惚ける”ことも麻奈実には可能だったろう。

 フェアじゃないという見方も出来るが、情報の開示に関しては自身の操る手管の一環とも言える。

 なにせ相手は“恋敵”なのだ。

 しかし麻奈実は現在の状況をそのまま報告することにした。だって彼女の目的は、加奈子に競り勝つことではないから。

 

「それなんだけどね。実は明日、きょうちゃんと会う約束してるんだ」

「へ? 明日?」

「うん。一昨日、桐乃ちゃんや黒猫さん、そしてきょうちゃんと海浜公園に行ったのね、その帰り際に“大切な話があるから、二人きりで会ってください”ってお願いしたの」

「おおっー! ってことは京介を落としに行く覚悟を決めたんすね! 師匠、かっけえっす!」

 

 何故かハイテンションになる加奈子の様子を困った感じで見つめる麻奈実。

 なにかしらの反応を返されるとは思っていたが、こういう方向性は想定していなかったのだ。

 

「えと、加奈子ちゃん的にはいいのかな? ……その、わたしが、きょうちゃんに……」

「コクっても良いかってこと? 別に師匠がしたいならすればいいじゃんって感じだけど」

「本当に?」

「嘘吐いても仕方ねーべ。例え師匠が京介に告白しても、あたしのすることは変わんねーわけだし」

「っ!?」

 

 加奈子の台詞を受けて、改めて強い女の子だなと麻奈実は思った。

 精神的にタフだというのか、自身がするべきことをきっちりと自覚していて、尚且つ他人の影響を受け難いというべきか。

 要約すると、明日の結果がどうなろうと、自分も京介にアタックすると加奈子は宣言したのだ。

  

「あやせはダチだけど遠慮するつもりなんかないし、それに関しては師匠も同じっす。まあ、だからって他人の邪魔するとかはなんかちがくね? って思ってるんで」

「……そういうところ加奈子ちゃんらしいね」

「えへへぇ。明日の結果がどうなろうと、あたしは正面から行くだけっすヨ!」 

 

 決めるのは京介だべ、と胸を張る加奈子。

 だがちょっとした疑問が残るとばかりに、麻奈実に質問を続ける。

 

「でもなんでそう思ったんすか? どっちかっていえば師匠って受身ってか、見守るってタイプだったじゃないっすか」

「それはねぇ。桐乃ちゃんや黒猫さんと話して刺激を受けたっていうのもあるけど、一番はやっぱり後悔したくないからかな」

「ふーん。誰かに取られるよりも前に動こうって感じ?」

「…………タイミングの問題もあるよ。わたしたち受験生だしね」

 

 麻奈実としては、恋愛も大切だけれど、受験というイベントも決して疎かに出来ない物事だと認識していた。

 自分が動くことで生じる負荷の影響でダメージを受ける人物も出てくるだろう。そうなったとしても、今ならばまだ色々と修正する時間的余裕があるのではないか。

 そんな打算的な部分を抱いてしまう自分という人間に対し、麻奈実は苦笑を浮かべずにはいられなかった。

 

「うへぇ。それはあんまし考えたくねーなぁ」

「駄目だよ、加奈子ちゃん。あやせちゃんと一緒の学校に行きたいんだよね?」

「……それなりにはしてるっすよ、ベンキョウ。でも良いトコだし受かるかなー」

「じゃあこの後一緒に勉強しようか、加奈子ちゃん。こう見えても勉強教えるのには結構自信あるんだからっ」

「教えるの上手っすもんね師匠……って、今からってマジっすか?」 

「まじだよ。ううん、この後だけじゃなくって“これから”も、かな」

「……いいんすか。これからもなんて言っちゃって」

「どうして? 駄目な理由なんて何処にもないじゃない」 

 

 麻奈実の返しに加奈子が驚く。

 自分の勉強があるだろうとか、時間的な問題じゃなく、麻奈実の器の大きさに感心したのだ。 

 

「ねえ加奈子ちゃん」

 

 ゆっくりと瞳を閉じて、そっと胸元に右手を添える麻奈実。

 もし京介が自分を選んでくれたら、それが一番良い。どう繕ったって麻奈実だって女の子なのだ。そういう想いは消せはしない。

 けれど彼が加奈子を選んだとしても、麻奈実は笑顔で迎えることが出来る。

 だってそれが、彼女の真実の願いだから。

 

「これから泣いたり、怒ったり、傷ついたりする娘が出てくるかもしれない……ううん。きっと出てくるよね」

「師匠?」

 

 迷ってるというのなら背中を押そう。助けが欲しいなら手を差し伸べよう。

 彼のことが好きだからこそ“後悔”したくないと、強く、麻奈実は思う。

 

「それでも、最後にはみんなで笑ってられたら――それってとてもいいと思わない?」

 

 菩薩のように、朗らかな微笑みを浮かべながら、麻奈実が加奈子にそう言った。

 

 ★☆★☆★☆

 

「さて、もうひと頑張りすっか!」

 

 リビングに響く独り言。

 俺はポットへと手を伸ばし、用意していたカップへとお湯を注いだ。途端コーヒー独特の香りがふわっと辺りに漂い出してくる。後はそこにミルクと砂糖を加えればインスタントコーヒーの完成だ。

 ブラックも飲めねえわけじゃねえが、まろやかな味にしたほうが落ち着くのだ。

 俺はそれを持ったまま自室に戻ろうと歩き出す。

 その途中でソファに座って晩酌をしている親父と目が合った。ほんのり顔が赤くなっているが、親父は極道面なんで可愛さなんて微塵も感じられない。

 それに特に話す事柄もないので、俺はそのままリビングを後にする――というタイミングで背中から親父に声を掛けられた。

 

「どうした京介。これから勉強か?」

「ああ。夏休みだからって遊んでばかりもいられねえしな」

「ほう、それは良い心がけだ。学生は勉強が本分。夏だからとあまり浮かれて羽目を外すなよ」

「分かってるよ。卒業するまで親父に迷惑かけねーって」

 

 俺の台詞をどう受け取ったのか、親父はニヒルな笑みを浮かべると、目線でもう行っていいという風に合図してきた。

 言われなくても親父と長話するつもりはない。ということで、今度こそリビングを後にする。

 廊下に出てすぐの階段を昇り、最上段まで到達する。

 向かって右側が俺の部屋で、左側が桐乃の部屋だ。

 その桐乃は、メシが終わってからずっと部屋に引きこもったままだ。どうせこの夏新作のエロゲーでもやってんだろうが、いつものように騒がしくないのは有難い。

 キャーキャー黄色い声で騒がれると、勉強に集中出来ねえからな。

 そう思った矢先、部屋の中からメールが着信する音が聞こえてきた。

 慌てて扉を開いて中に入り、携帯を取ってメール内容を確認する。

 

 ――From 田村麻奈実

 

「ん? 麻奈実か」

 

 内容は明日の予定の確認だった。

 一昨日、海浜公園に行った時に、麻奈実から話したいことがあるから時間が欲しいと打診されたのだ。無論断る理由もないので受けた訳だが、律儀に時間を確認してくるあたり麻奈実らしいっつうか、心配性だよな相変わらず。

 俺は即答で『午後一時にいつもの公園だろ? 忘れてねーよ』と短文で折り返した。

 麻奈実の話したいことってのが気になったが、たぶん学校が休みになった煽りで下校時に行っていた勉強会が出来なくなったから、その辺のことを確認したいんだろうと当たりをつける。

 尚更勉強をサボる訳にはいかなくなったなと、持ってきたコーヒーに口をつけたタイミングで再びメールの着信音が鳴った。

 

「あれ?」

 

 たぶん麻奈実が書き忘れたことでも送って来たんだろう。そう思っていたので意外な発信者の名前に少し驚く。

 

『――明日、お暇ですか? とても大切な話があるので、宜しければお時間頂きたいんですけど、都合どうでしょう?』

 

 タイトルは――お兄さんへ。

 そして発信者名は、新垣あやせだった。

 

   




第一話から第十話まで挿絵を投稿致しました。
よろしければ御覧になってください。


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第三十九話

「それじゃあ行きましょうか。案内するんでわたしに着いてきてください」

「案内て、これから何処かに行くのか?」

「はい。駅を隔てて向こう側なのでちょっと距離があるんですけど」

「距離って……あの辺になんかあったっけ? 俺に話があるんだよな、あやせ?」

「はい。ですから誰にも邪魔されない場所に――わたしの家に来てもらおうと思って」

「なん……だと!?」 

 

 ――お兄さん、大切なお話があるんです。

 いつもとはちょっと違うフレーズで呼び出された俺は、あやせとの密会場所として定例となっている公園に来ていた。

 時刻は朝の九時を迎えたあたり。

 夏休みとはいえ、大通りから離れた場所にある公園にはあまり人の姿は見られない。

 慣れたシチュエーションではあるが、俺はあやせが人生相談――もとい、厄介な“お願いごと”でも吹っかけてくるのかと身構えていたのに、挨拶もそこそこに冒頭の台詞である。

 戸惑うなという方が無理な話だ。

 

「――そうだ。お兄さん、朝食はもう済ませました? なんだったら軽いものでも食べていきます?」

「いや、メシは食ってきたんだ。体力つけといた方がいいと思ってよ」

「そうなんですか。ちょっと残念です。駅近くに新しく出来たカフェがとても良い感じなんですよ」

 

 くるりとターンする要領で、少し前を行くあやせが俺を振り仰いできた。ひらりと翻るスカート。まるで俺に笑いかけるような朗らかな表情が眩しく映る。

 こうして歩きながらでも感じる所作、佇まいというのか、あやせの纏っている雰囲気がいつもと違ってふんわりしている気がするのは俺の勘違いなのだろうか。

 普段のトゲトゲしさが鳴りを潜めていて、歓迎ムード全開っつうか、可憐な動作にドキっとしたりして。

 ありていに言っちまうと可愛いのである。

 

「どうしたんですか、お兄さん? わたしの顔になにかついてます?」

「いや……」

 

 じっと見つめていたことを不審に思ったのか、あやせがちょこんと小首を傾げている。

 さすがモデルというべきか。その仕草たるや、思わず抱きしめてしまいたくなるほど愛嬌たっぷりで、俺を誘ってんじゃねーかって勘違いした程である。

 だがそう思うのと同時に――いや、それ以上に、俺の心の中であやせへの不信感が膨らんでいった。

 ――曰く、この女なにか企んでんじゃねーの?

 ってな具合だ。

 例えば普段のあやせなら、朝食の質問のくだりの時に俺が答えた“体力~”の部分に噛み付いてきてもおかしくない。

 

『体力をつけるだなんて……またいやらしいことを考えてるんじゃないですか!? この変態っ!』

 

 そんな罵倒と共に廻し蹴りが飛んできても不思議じゃねーし、仮に肉体言語に打って出られなくても、言葉攻めを喰らうのは確実だろう。

 なのに笑顔で迎えられるなんて、逆に気味が悪いってもんだ。

 

「……」 

 

 だってよ、俺はあやせに『近親相姦上等の変態鬼畜兄』だと認識されているはずなのだ。

 桐乃の為、あやせの為にあの時は他の選択肢が思い浮かばなかったんだが、結果としてあやせに嫌われ続ける原因になってしまった。

 事件以降あやせに“お願い”されることもあったりしたが、どれもこれも桐乃の為にという事情が絡んでいたし、その桐乃の一番身近にいる(相談できる?)のが偶々俺だったってことなんだろう。

 嫌いな俺を頼ってでも桐乃の役に立ちたいなんて、どんだけあいつのことが好きなんだっつうのな。

 黒猫に対してやたらライバル心むき出しなのも、桐乃を巡ってのことだろうし。

 まあ、この一年で少しづつあやせとの距離が縮まってきたのも事実だが、その“壁”がある限り、俺はあやせにとって“桐乃の兄貴”以上のポジションを出ることはないに違いない。

 

「あ、そっちの道を左に折れてください」

 

 いつの間にか隣に並んでいたあやせが、丁字路で左方向を指差す。

 公言通り自分ん家まで案内してくれてるんだろうが、前述の通りの関係である俺に愛想を振りまいてまでするお願いの内容を思うと、背筋が凍りついてくる。

 

『――お兄さん。加奈子と二人でイエティを探してきてください。桐乃が見たがってるんで発見するまで戻ってきたら駄目ですからね?』

 

 くらい平気で言いそうだしよ。

 つーかイエティ捜索とか絶対無理だし。

 それとも全く別の狙いがあるのか?

 桐乃に近づいたら“ぶち殺しますから”と宣言されている身からすると、些細な変化でも見逃すと命に関わってくる。

 例えばこういう可能性はないだろうか。

 俺を家に呼ぶ→不信感を持たれないように愛想を振りまく→密室に誘い込むことに成功→亡きものにする?

 ……。

 …………。

 ………………やべえ。この女ならマジでやりかねん。

 

「お兄さん。そんなにキョロキョロして何か探してるんですか?」

 

 というか本当に俺を家まで案内してんのか?

 例えば人気の無い場所まで誘いこんだ上で、後腐れなくサクっとやろうとしてるとか……。

 そう考えてみると、なんか駅から離れだんだんと寂れた区画へ進んでる気がするし。

 

「本当にどうしちゃったんです? 言い難いんですけど、いつにも増して挙動が不審ですよ?」

「いやな、お前が俺のことを後腐れなく○そうとしてるんじゃないかって……」

「………………………………………………は?」

 

 言っている意味が分からない。というか、言葉の内容が全く理解できないとばかりにあやせの目が点になる。

 すげえ。

 人間って本当に予測不能の事態に陥ると動きの一切が停止するのな。

 

「…………あの、お兄さん? 今の台詞うまく聞き取れなかったので、もう一度同じ内容を発言していただけますか?」

「だからよ、この機会を利用してお前が俺のことを○そうとしてるんじゃ――」

「――そ、そんなわけないじゃないですかっ!? 馬鹿ですかっ!? 死ぬんですか? わたしがお兄さんを○すだなんて……浮気でもしない限りありえませんっ!」 

 

 瞬時にゼロ距離まで接近するや、下方から伸び上がるような姿勢で詰め寄ってくるあやせ。

 その迫力はまるで阿修羅、仁王様、激おこである。

 

「わ、悪かった! 謝るからそんな大声出さないでくれ……!」 

 

 急ぎ両手を合わせ、即座に平謝りの体勢を築く。

 目と鼻の先――かなりの密着状態で喚かれてるわけで、正直言えば耳を塞ぎたかったのだが、こういう場合はそうも言っていられない。

 可愛い女の子から責められて喜ぶような性癖はねえし、傍から見れば痴話喧嘩を披露しているような光景だが、あやせを相手にそんなことを言ったら大惨事確定だ。

 

「だいたいお兄さんはわたしに対して必要以上に怯え過ぎてる気がします! わたしが何をしたって言うんですか!? 原因があるなら言ってください」

「い、言えって……もしかして自覚ねえの?」

 

 今度は俺の目が点になる。

 

「殴られたり、蹴られたり、鳩尾に肘鉄食らったりしたよ俺!?」

「酷い言いがかりですっ。あれは……その、わたし的には軽く撫でただけで……それに、原因は全部お兄さんのセクハラにあるんじゃないですか!」

「いやいや、普通は撫でただけで人は吹っ飛ばねえって!」

 

 いつぞやなんか、きりもみ回転状態でぶっ飛んだんだぞ。

 確かにお茶目なセクハラ発言はあったかもしんねーけどよ、あれは自己防衛の範疇超えすぎだろ。

 

「この際だから言わせてもらうが、その件に関しては断固抗議させてもらうぞっ。意義ありってやつだ」

「却下しますっ。審議もしませんからっ」

「ひでえ横暴だ! せめて検討くらいしても罰は当たら――あれ?」

 

 台詞の途中で押し黙る。

 なにも特別なことがあった訳じゃない。

 視界の隅っこあたり――向かい合ったあやせの肩先の向こう側に、見覚えのある人影が現れたのだ。

 丁度路地から姿を現して、俺達を見つけたような仕草。そして目と目が合った、そう思ったの矢先、そいつは再び路地の奥へと姿を消していく。

 

「……? どうしたんですかお兄さんっ。急に押し黙っちゃって?」

 

 俺と向き合っていたあやせには見えなかったのだろう。

 けれど俺の目線と態度から察したのか、ゆっくりと背後へと振り返り

 

「……別に何もありませんけど。もしかして事故でも目撃しました?」

「そういうんじゃなくて、そこの路地から知人が顔を出したんだよ」

「お知りあいの方ですか?」

「知り合いっつうか、まあ友達だな。沙織・バジーナつって桐乃や黒猫と一緒によく遊ぶ仲間だ」

「仲間……ですか」 

 

 例のお嬢様スタイルではなく、バジーナスタイルだったので見間違った可能性もあるが、あれだけの高身長を誇る女の子があんまりいないのも事実だ。

 いつもなら京介氏~と声を掛けてきても良さそうなのに。

 

「挨拶くらいしとくか。悪い、あやせ。ちょっとだけ待っててく――」

 

 まだ遠くへは行っていないだろう。そう思い駆け出そうとした矢先、強引に右腕をグイっと力強く引っ張られた。

 その行為により危うくバランスを崩してこけかける。

 

「……っと、何だよ急に。危ねえじゃねえか」 

「お兄さん。嘘吐きは泥棒の始まりですよ」

 

 ぎゅっと両手で俺の手首を握り込み、離しませんよとの意思を示すあやせ。

 

「今日は――“午前中は”わたしに付き合ってくれるって約束だったじゃないですか」

「そりゃそうだけどよ……ちょっと挨拶するだけだって」

「駄目です。認めません。さあ、お兄さん。そこの角を曲がればすぐにわたしの家ですから!」

「ちょっ!?」

 

 握りこんでいた手を離す変わりとでもいうように、あやせが強引に腕を組んできた。

 チェーンのように絡まる腕と腕。二の腕を通して伝わってくる柔らかな感触が、これが幻ではないと俺に認識させてくれる。

 突然の珍事に思考が沸騰し、セクハラ野郎呼ばわりされた挙句吹っ飛ばされるとか、余計なことを考える余裕すらなくて――そんな俺の反応を楽しむように、あやせが今日一番の笑顔で微笑んだ。

 

「――あ」 

 

 眩しいまでの微笑みを受けて、鼓動は一気に爆速へと加速する。

 

「さあ急ぎましょう、お兄さん。時間は有限なんですからね!」 

 

 戸惑う俺を半ば引っ張るようにして、あやせが歩みを進めて行く。

 勿論、目的地は彼女の家だ。

 

 

 ――と、そんな訳で俺は今新垣邸へと招かれていた。

 流石に沙織のような豪邸とまではいかないが、新垣邸は新築と見紛うばかりの綺麗な一戸建てで、手入れの行き届いた庭を見るだけで家人の品の良さが窺えてしまう。

 もし一人で訪問してきたのなら、インターホンを押すのすら躊躇してしまいそうな荘厳さがそこにはあった。

 

「……お邪魔します」

 

 玄関を越え、中へと誘われ、震える声で挨拶するも返答はない。

 誰もいないのだろうか。そんな憶測とともに視線を彷徨わすが、見覚えの無いひんやりとした空間は静まり返っていて、ここが他人の家なんだと再認識させてくれるばかりだ。

 そんな俺を気遣ってか、あやせは“こっちですよ”と俺を階段へと誘ってくれる。

 まずあやせが階段を上って――先を行く彼女の後ろ姿に視線が釘付けになってしまった。

 階段を一段上る度にスカートが翻るのだ。

 チラチラと覗く太股の白さに目が吸い寄せられてしまい、それにあわせて先程腕を組んだ時の柔らかな感触が脳裏に蘇ってきた。

 ――トン。トン、トン。

 先を行くあやせの小さな足音がやけに耳につく。

 ……俺だって男だ。こんな状況で意識するなと言う方が無理な話なのだ。

 だからこそ俺は、見たいという欲求を無理やり押さえ込み、目線を横方向へと切る事で意識を逸らすことにした。

 そこにある壁を凝視しながら精神の均衡を保つ。

 我ながらチキンな反応だと思うが、なんか卑怯な感じがしたんだよ。

 

「どうぞ。ここがわたしの部屋……です。あまり片付いてませんが、気にしないでください」

 

 階段を上りきり一つ目にあった扉の奥があやせの部屋だった。

 家の間取り的には俺の部屋と同じということになるが――片付いてないなんてとんでもないレベルで整理整頓されていて、比べるのが恥ずかしいくらいである。

 

「お邪魔……します」

 

 足を踏み入れた瞬間、シャボンのような心地よい匂いに包みこまれた。

 桐乃の部屋とも違った女の子らしい部屋の香り。

 壁際にはベッドが置かれていて、その近くには勉強机があるシンプルな間取りである。

 なんか学生らしいつうか、あやせらしい几帳面さが滲み出ている室内は、どちらかというと淡い寒色を基調としたカラーリングで纏められていた。

 そんな中にも幾つかカラフルなぬいぐるみが置かれているあたり、あやせも年頃の女の子なんだなって、変な感想を抱いてしまう。

 

「へえ。めっちゃ綺麗に片付いてんじゃん。想像通りっつうか、本棚に漫画とかもねえしよ。けどこれだと寝る前とかに退屈じゃね?」

「え? どうして寝る前に退屈するんです?」

 

 質問の意図が分からないとばかりにあやせがきょとんとしている。

 やっぱしつけとか厳しそうだから夜更かしとかしねえのかもな。

 

「でもコイツはちゃんと置いてあるじゃねーか。どうだ、ちっとはレベルあがったか?」

 

 そう言って俺は机の上に置かれてあった携帯ゲーム機を手に取った。

 俺とあやせと黒猫の三人でモンハンをプレイした、あのゲーム機である。

 

「そうですね。おかげ様で桐乃に驚かれるくらいには上達しましたよ。“あやせ、いつの間にモンハンをこんなに極めて……!?”って目を白黒させてましたもん」

「そっか。良かったじゃねえか」

 

 桐乃と一緒にゲームをしたい。

 その念願が叶って訳だ。

 

「そういう意味ではお兄さんと……黒猫さんに感謝してない訳でもないです」

「また微妙な言い回しだな。けど桐乃の奴もあやせと遊べて喜んでると思うぜ」

「ふふ。桐乃、本当にゲームが大好きなんですね。色々興奮してて“今度すっごい面白いゲーム貸したげるから!”“マジおすすめだから!”って薦められちゃいました」

「……ハハ。その場面がありありと想像出来ちまうのが悲しいところだぜ」

 

 あやせとゲームをしながらにやける妹の姿が瞼の裏に浮かんでくるが――頼むぞ桐乃。

 頼むからあやせをドン引きさせるような“ブツ”を渡すんじゃねーぞ。

 折角こっち方面への理解を得てきてんだ。またぞろ変な物渡してあやせを怒らせちまったら今までの苦労が水泡に帰しちまう。

 

「心配しなくても大丈夫ですよ、お兄さん。まだちょっと付いていけないところもありますけど、昔みたいに即座に怒って否定したりしませんから」

 

 俺の表情から考えを読み取ったのか、あやせが先回りしてフォローしてくれる。

 コミケの帰り道で桐乃の趣味がバレて即刻絶交なんて荒業かました頃からすると、あやせも随分と丸くなったもんだ。……いや、こっちの世界に触れて、理解をし、視野が広がったってことなんだろうか。

 考えようによっちゃあの事件がなければ今の俺とあやせの関係も無かった訳だし、複雑っちゃ複雑な心境なんだけどよ。

 

「そこにあるクッション使っちゃってください。――あ、なにか飲み物持ってこなきゃ。お兄さん、烏龍茶でいいですか?」

「ああ、構わねえよ。サンキュな」

「はい。チョット待っててください……と、わたしが居ない間にここで変なことしちゃ駄目ですからね? クローゼット漁ったりしちゃ駄目ですからね?」

「クローゼットって、俺がんなことする訳ねーだろうが!」

 

 ったく、酷え侮辱を受けた気分だぜ。

 俺をどういうレベルの変態だと思ってんだ。ちょっと眼鏡を掛けた娘が好きなだけの至って平凡な高校生なのに。

 

「え、エッチな本を大量に所持してたり……えっちなゲームをプレイしてるって……お姉さんから聞いてますしっ」

「はぁ!? なんで麻奈実の奴そんなこと知ってんのっ!?」

「事実ですよね?」

「…………はい、事実です」 

 

 素直に頭を垂れる。

 エロいブツの所持なんて健全な男子高校生としちゃ当然のことなんだが、胸を張って女の子に対して威張るようなことでもねえ。

 でも何で麻奈実の奴そんなこと知ってんだ……って、そういや以前桐乃の罠に嵌って色々暴露されたことを思い出す。

 けどなんでもかんでもあやせに話すのやめろよな。

 俺にも信用ってもんがあるんだ。

 …………あるよな?

 

 ってな感じであやせがドリンク&お菓子を持参してから雑談タイムが始まった。

 昨日こんなことがあった。今度始まる映画が面白そう。勉強はちゃんとやってますか。他愛も無い話題が大半で、相談されてるというより、友人とくっちゃべってるって感覚。

 そうこうしてる間に大分と“緊張”も解れてきた。

 だってそうだろ?

 女の子の部屋に招かれるなんてイベントに緊張するなって方が無理な話だ。

 桐乃の部屋に入るのとは訳が違う。あいつは妹だし、沙織の家に招かれた時も豪邸具合にドギマギしたものの、どっちかっていうとオタ色が強烈だった分、男友達の家に行ったような感覚が強かった。

 麻奈実の家とは付き合いが長いし、もう親戚ん家みたいな感じになっちまってる。

 しかもここは、あの新垣あやせの部屋だ。

 容姿だけなら俺の好みド真ん中ドストライク。トゲトゲしさが鳴りを潜めれば、可憐で可愛い世間で人気の読者モデルに変身である。

 そんなあやせが笑顔を浮かべながら対面に座しているなんて、自然と気分が高揚してくるし、まるで恋人同士みたいだなんて妄想も頭を過ぎるってもんだ。

 

「お兄さん――」 

 

 二人を隔てる“壁”一枚。

 それがなかったら日常的にこんな風に話したりできるのかもしれない。

 

「……あ」

 

 ふとお菓子を取ろうと伸ばした指があやせの指に触れた。お互いハっとして視線を上げる。すると至近距離にあやせの顔があった。

 目線が間近で交差する。

 同時に手を伸ばし前屈みの姿勢になっていたから、額を突きあわせたような格好になっていた。

 ちょっとしたアクシデント。ただそれだけのことなのに、それを切欠にして会話が途切れてしまう。

 

「わ、悪い」

「いえ、別に……」

 

 腕を戻しつつお互いが身体を離す。弾む会話が楽しくて知らず距離が近づいていたようだ。

 チラ見して確認すると、あやせは少し視線を外して唇を結んでいた。

 何処となく顔が紅いのは気まずいからかもしれない。またぞろ鉄拳制裁、殺人ハイキックが飛んでくる、なんてことはないだろうが、押し黙ったままってのもしまりが悪いだろう。

 そう思った俺は当初の目的を口にすることで状況の打開を図ることにした。

 あやせは俺に何か“話”があったはずなのだ。

 

「そういやあやせ、何か俺に話したいことがあったんだよな?」

「……え? は、はい」 

「また面倒なこでも起こったのか? けど今まで付きあってきたんだ。相談事があるなら乗るぜ」

「……」 

 

 この俺の問いに対して返ってきた答えは、全く想定していなかった類の話だった。

 




第十一話から十五話に挿絵を投稿致しました。
よろしければ御覧ください。

【挿絵表示】


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