サンドイッチ (ネーマ)
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サンドイッチ

 なんだか困ったことになったのかも。

 

 

 大人たちが騒いでいる。

 みんなわたしを心配させないように「大丈夫だよ」「任せておきなさい」なんて言っているけれど。

 何がどう「大丈夫」なのか、どんな根拠や自信があっての「任せておきなさい」なのか、誰も具体的に言ってはくれない。

 五歳の子供なら大人の言うことは無条件に信頼するだろう。いや、信頼なんて言葉も知らないかしら。

 でもわたしは五歳ではなく一四歳なのだから。      

 戦闘は終了した。同盟軍は勝利した。我が軍は銀河帝国から祖国を守り切った。

 そう発表はされたけれど、それは真実だったのか───少なくとも負けていないことはわかる。わたしがこうして無事でいることが何よりの証拠。

 本当に勝利したのかはわからない。帝国軍を撃退できたのかも。

 軍部発表は正しいこともある。

 そんな認識は持っていない方が幸せかもしれない。

 軍人の父はけっして軍の機密を家族の前で漏らすことはなかったけれど。わたしももう一四歳なんだから。      

 勝利して一度引き上げた部隊は、何故か戻ってきた。

 逃げ戻ってきた、という表現の方がより正しい。

 撃退したはずの帝国軍に包囲されているらしく、軍部はわたしたち民間人を安全に脱出させてくれると言うけれど……

 その責任者があの人なの?

 司令官が指揮をとるべき、とまでは言わないけれど中尉? 司令官はリンチ少将で、その間には大尉も少佐も中佐も階級としては存在するんだし、まさか少将の次に偉いのが中尉だなんてわけはないわよね。

 階級も低いし、年もずいぶんと若そう。というか、軍服を着ていなければ軍人には見えないわ。

    

 

 ひとつ狂うとすべてが狂うものだな   

退役まで記録統計室にいてもよかったのに。別に階級も少尉のままでも生活には困らない。

 中尉にしてくれなんて頼んでないし、昇進と前線勤務と選択させてくれたのなら、私は伍長に降格でも喜んで受け入れたのだが。

 それにしても……我が司令官がここまで大胆、というか、予想外のことをしてくれるとは思わなかった。

 艦橋に座っているだけで給料がもらえるなんて、そんなうまい話があるわけないとは薄々思ってはいたが。

 まったくもって司令官としての義務感を持ち合わせているのか、問いただしたくもあるが、その時間も惜しい。

 いや、自分が指揮を取ると言い出さなかったことを評価すべきなのか?

 とにかくだ。

 なりたくてなったわけではないが私も軍人であるし、民間人を護るのは軍人の責務だ。非戦闘員はただちに戦場から脱出させるべきで、そこに反論の余地はない。

 その責任者に何故私が選ばれたのか───納得のいく説明を受けたくはあるが、やはり今は何よりも時間が惜しい。

 昇進を望みはしないが、今ばかりは自分の階級が中尉なことを少し恨む。

 私より上の階級の者がいないわけでもないのに、三〇〇万人の民間人は中尉が責任者では自分らが軽んじられたと思っているだろう。

 四の五の言っても始まらない。

 帝国軍がこのまま退却する確率は極めてゼロに近い。脱出用の船はかき集めればどうにかなるだろうが、艦艇は二〇〇隻、将兵は五万で、民間人は三〇〇万人。

 問題はこの事実だ。

 

 

 いくら「心配しなくていいのよ」と言われても、目を閉じているわけでも、耳を塞いでいるわけでもないのだから。右往左往する人々や、様々な声はどうしても耳に入ってくる。

 脱出用の船の割り当てがあるというので集められ、待機するように言われて何時間経ったのだろう。「いつ脱出させてくれるんだ」

「うちに忘れ物をしたんで取りに帰らせてくれんか。大切な形見なんだ」

「ぐずぐずしていて帝国軍に攻め込まれたらどうしてくれる」

 荷物の持ち出しは厳禁で、身の回りの物だけ、鞄一つだけにするように言われた。旅行中のわたしは最初から荷物が少ないから良いけれど、急かされて荷造りしたたった一つの鞄の中に、本当に持ち出したい大切なものが全部入っているわけはないもの。

 まだ騒いだり文句を言える人は良い方だと思う。良いというか、余裕があるわ。待ち疲れて床に座り込んでいる人も多い。

 

「ミセス・グリーンヒル。昼食をどうぞ。お嬢さんもこちらへ」

 わたしはこれがどうも好きになれない。

 様々な箇所で、わたしはドワイト・グリーンヒル中将の子女として特別な待遇を受ける。

 官舎も広いし、今回母についてここに来る民間船の中でも「ミセス・グリーンヒルとそのお嬢さん」と呼ばれ、良い席で他の乗客よりも良い食事を提供された。

 父親が軍人だから、中将だから。父も何にもせずに今の階級についたわけではないから、父が受ける待遇には何も言わない。

 でもわたしは何もしていない。

 グリーンヒル中将のお嬢さんは、わたしの名前ではないわ。

 母を悲しませたくはないから、これまではそう呼ばれても返事をしたけれど。子供ではないから愛想笑いくらい返したけれど。

 わたしよりも小さな子供がおなかが空いたと泣いているのに、どうしてわたしが先に食べられるの? わたしだって空腹だけど泣くほどじゃないわ。まだ我慢ができる。

「わたしよりも、あそこで泣いている坊やに食事をさせてあげて。いいえ、あの子だけでなく、小さな子供やお年寄り全員に」

 どうしてそんな不思議そうな顔をしているのかしら。わたしの言ったことはそんなにおかしい? 子供とお年寄りが優先って、学校でも習うし、乗り物の中を始めとしてあちこちに書いてもあるじゃないの。

 わたしはまだ未成年で、保護者も一緒にいて、年齢としては子供だから?

「後でけっこうです」

「でも……」

 この少尉さんには泣いている子供の声が聞こえないのだろうか?

 乳幼児でも年寄りでもない私と母を優先する必要性が、この状況下であるとまだ本気で思っているのだろうか。

「どうしたんだ?」

 あら、この人は確か……

「あの……食事の用意ができたので」

「なら早く案内するんだ。おなかが空いたと泣いているじゃないか」

 動かないわたしたちに困っている少尉さんをその場に置いて、彼はすたすたと子供の方へと歩いていく。

「待たせてすまなかったね。なんせ人数が人数なもので……さあ、食事に行こう」

「うん」

 腰を屈めて男の子の肩に手をやると、赤ん坊を抱いている母親も一緒に促している。

「赤ちゃんのミルクもありますからね。さあ、子供とお年寄り、それから女性を案内して」

 そうよ。順番があるとすればそれが正しいわ。

 軍人にしては線が細くて頼りなさそうだの、とにかく中尉だなんてそんな若造で大丈夫なのか、軍は本当に我々を帝国軍から護る気があるのか、などなど散々なことをみんなに言われていた中尉さんを、わたしは少し見直していた。     

 

 

 三〇〇万人の民間人───文字にしてしまえば一行だ。

 しかし生きている三〇〇万人は食事をするし、眠る場所も確保しなければならないし、トイレも必要だ。

 まだ直接攻撃を受けたわけではないから、負傷者がいないだけ良かろう───などと思う余裕がないのが本当のところだ。もちろん、口が裂けても言えることではない。

 とにかく軍船でも民間船でも、三〇〇万人を乗せて脱出できるだけの船を用意しなければならない。

「中尉、XXブロックで食事が足りないと騒ぎが起きています」

「中尉、REブロックでトイレが詰まったそうです」

「中尉、家族とはぐれてしまったという老人が来ています」

「中尉───」

「うるさい! 一食抜いても死ぬわけじゃないし、トイレは隣のブロックのを使用させろ。迷子の管轄はここじゃない」

 しまった、と思ったが遅い。家族とはぐれたという老人が怯えて私を見ていた。

 私の声が特別大きいわけではなく、本部の場所が悪いのだ。

「大丈夫ですから。ええ」

 何が「ええ」なのやら。笑顔を見せても時すでに遅し、だ。

 軍隊には統率が必要だし、命令は上から下へ伝えられるべきではあるが、子供だって考えればわかるようなことをいちいち私に報告しにくる。

 いや、彼らが悪いわけではない。

 これまでそれを徹底させられていたからだ。上官の指示を仰がずに動いて、こっぴどく叱られてきたのだろう。

 時と場合により、各自の判断で迅速に動くことも必要だが、なんせ今回は不測の事態だ。対民間人のマニュアルはあるが、戦争難民でもなく、また三〇〇万人というのは……

 すべてにおいて桁違いなのだ。

 軍人なら食事やトイレくらいで文句を言うな、と一喝で済む。あるいは難民キャンプなら民間人も少しは状況を見てくれるだろう。戦時下で物資も人員も足りないことも。

 しかしまだ攻撃を受けたわけでもない。包囲されているのもここからは見えない。

 昨日までは普通に生活していた人たちだ。食べ物に不自由もしていなかった。住居だってある。

 そこから持ち物は鞄一個で、それ以外を放棄させられた。ただちに船に乗せられて脱出ならば、それも諦めがつくだろうに、ただ集められただけだ。

「中尉、いったいどうしたものでしょうか」

「どうしたも何も……彼らの不満はもっともだよ。何ら生活に困っていなかった人間が、差し迫った危機も感じられないのに、資産を捨てさせられ、食事やトイレにも不自由な軟禁生活なんだ」

「いっそ、帝国軍が一発撃ってくれたら……」

「そうなったら暴動だ」

 冗談でも言ってくれるな、と唇に立てた人差し指を押し当てる。そう、まったくもって冗談ではない。

「文句も言うだろうが、言われた箇所から動かずにいるのは、命の危険を感じていないからだよ。もしも攻撃を受けていたら、早く逃げさせろ、早く撃退しろ、我々を守れ、税金泥棒───と言われるだけならいいさ。乗船を争って大変な騒ぎになって死人が出るだろう。それも女子供が押し潰されてだ」

「想像したくないですね」

「だろう? 戦場が悲惨なのは戦場だからだ。私だって味方を捨て置くことはしたくないが、戦場では仕方ないこともある。置いていかれる方だって覚悟があるさ」

「それだって、何度も体験したいことじゃあないです」

「とにかく今以上に騒がせたくはない。食事の後に何が必要か、わかっているだろうな?」

 もちろんトイレ問題を除いてのことだ。これが察せられないようでは後が思いやられる。

「人間の三大欲求ですね。食欲が満たされたら、次は睡眠でしょう。さすがに三つ目のヤツは……」  「ご名答。手分けして振り分けに当たってくれ」

「はいっ、わかりました」

 敬礼して去ろうとする大尉を呼び止める。

「臨機応変に。なんでも私まで許可を得に来なくて良いから。そんなことをしていたら三〇〇万人中二〇〇万人は徹夜だ」 

 

 

 今夜の寝場所が知らされたようだわ。

「こちらの部屋になります。ご案内はできませんが」

 言葉と一緒にカードキーが差し出された。ああ、ホテルが提供されたのね。部屋番号が分かれば案内はなくても平気よ。 廊下に案内図もあるんだし。

 母と二人で一部屋、しかもツインルーム。部屋は広くはないし、壁も薄いけれど、バスルームもあるわ。

「早く休みなさい」

「ええ……でも、何だか隣が騒がしいの」

 両側の壁に接してベッドが置かれている。部屋の中程にいるとそうでもないけれど、ベッドに横になるとがやがやと声が聞こえてきて。隣も同じツインルームのはず。

 まさか。

 飛び起きて廊下へ。隣の部屋のドアを叩く。

 そうよ、どうして不思議に思わなかったの。

 食事の順番だって大変だったのよ。旅行中のように寝泊りできるわけがない。母娘の二人きりでツインルームを独占できるなんてどうしてわずかな間でも不思議に思わなかったんだろう。

 開いたドアの中は思った通り、大人と子供を併せて八人もの人がいた。わたしたちが使うのと同じ広さのツインルームの中に。

 急いで反対側の部屋のドアも叩く。同じ…… 

「あなたと、あなた、そうあなたたちよ、こっちの部屋にいらっしゃい」

 両側の部屋から二人ずつ、これで六人ずつになったわ。すべての部屋を確かめたわけではないし、これ以上は無理だけど。

 一つのベッドに三人で眠るのは快適とは言いがたいけれど、四人よりはマシなはず。

 わたしは母と寄り添って、頭と足を互い違いにしてナタリーというお姉さんが一緒に眠った。

 いくら母が一緒でも、男性と一つベッドは、ね。そのくらいは特権として認めてもらってもいいと思うわ。          

 

 

 ええと、これで民間船が何隻になったんだ? いや、何隻足りないのか、そっちが大切だな。そうか、船の大きさによって乗船人数も違うんだ。

 ああ、ジャン・ロベール・ラップがいてくれたら───

「中尉。確認をお願いします」

「予定していた軍用船がだめになりました」

「修理中の民間船ですが、航行には支障はなく、客室の装備基準が問題だそうで」

 ああっ、まったくもうっ

 手足と頭があと五人分は必要だ。

「それは大尉に確認してもらうように言ったはずだ」

「非常時に出せない軍用船なんか意味がないだろうが。動かないなら別だが、そうでなければ出させろ」

「航行に問題がなければいいんだ。客室にエアコンがなくてもけっこう」

 こんなことまで私の判断を仰ぐのか? ラップでなくてもいい、アッテンボローの奴でもいいから! ずっとこの調子でイライラするなという方が無理だ。

「中尉」

「大尉に任せてある」

 だから声の主が、その大尉であることも気づかなかった。

「ああ、すまない。大尉だったのか。何か大尉に判断できないことが?」

「いえ……そうではなくて、少し休憩を取られた方がよろしいかと」

「休憩? ああ、この任務が終わったらたっぷり休憩するよ」

 今はまだ暴動には至っていないが、帝国軍に包囲され、ひとところ───というには広いし点在しているが───に収容されている、先日まではそれぞれが自由に健康に暮らしていた民間人が、この状況に長期間耐えられるとは思えない。少人数でないのもここまでいけば、不安の連鎖を呼びやすい。

 脱出作戦は始まったばかりなのに、食事の配給や、休む場所の手配は遅れた。最初に食事を始めた者と最後の者とでは、最長で半日近い開きがあったとの報告もある。人並みの寝場所が全員に与えられたはずもない。

 一人が起こした騒ぎはすぐに膨れ上がり、この人数の軍人ではどうしようもなくなる。武器は携帯していても、威嚇であっても、民間人相手には使用してはならないと命令してあるが、暴徒に踏み殺されても無抵抗でいろとまでは言えない。

 一刻も早く船をそろえ、脱出の手段が整っていることを知ってもらわなければ。脱出の機会はまだ未定であったとしても。

 

 

 朝食は昨夜の残りが配られて、お姉さんの家族と一緒にロビーに並んだ。

「なんせ六人分だから、昨日一人で運ぶのはちょっと大変だったの。うちはまだ弟が小さいから」

 ベッドの中で少しだけ家族の話を聞いた。 

「駐在で家族全員で引っ越してきていたのよ。駆逐艦に乗っていて、今は連絡が取れないんだけど」  お姉さんは心配そうだった。朝食の為に並ぶよりもお父さんが無事かどうか、そちらが知りたいでしょうに。

「留守が多いから、その間は私が父親代わりなのよ」

 わたしより三歳しか上でないのにお姉さんは笑っている。 

 ホテルの調理室の手伝いを集めていると聞いて、お姉さんはそちらに行ってしまった。わたしは……自慢ではないけれど、料理は苦手というか、したことがないから。

 手伝いたい気持ちはあっても、こんな時に不慣れな人間がいても邪魔になるだろう。

 だからわたしはポットに湯を入れて、粉ミルクと一緒に配ることにした。赤ちゃんを抱いて列に並ぶのは大変だろうし、これならわたしにもできる。たっぷり湯を入れたポットは重たかったけれど。

「ありがとう。助かったわ」

「昨日はなかなかミルクがもらえなくて困ったの」

 そんな声を聞くとポットは少しも重たくないし、湯を取りに戻る時には走り出すくらいだった。

 それにしても、部屋で眠ることができない人があんなにいたなんて。毛布があってもロビーでは体が痛かったでしょうに。

 お姉さんたちが手狭でもベッドのある個室だったのはお父さんが軍人だからなのかしら?

「あなたの分をもらってきたわ。お昼はまだでしょう?」

「ありがとう。これを配ってからね」 

 ホテルの調理室だからパン焼き機があるらしく、卵とハムを挟んだだけのサンドイッチはふかふかで美味しかった。もう二切れくらい食べたいけれどそれは我慢。

 こんなに美味しいサンドイッチ、一人でも多くの人に食べて欲しいから。

「よそに泊まった人の食事はどうなっているのかしら」

 独り言のつもりだったけれど、隣に腰を下ろしていたお姉さんには聞こえていた。

「そりゃあ、何か食べていると思うけど。泊まることを考えたらやはりホテルじゃないの?」

「でも観光地じゃないんだから、住人の人数よりも施設が多いわけはないし……」

「ああ……それは……」

 わたしでさえ考えたことだから、お姉さんはもっと早くに気づいていたと思う。わたしたち母娘が二人きりでツインルームを与えられていたことを知った時に。

「食料そのものが足りないわけではないから、あなたが心配することはないのよ」 

 最初に集められた時は無差別だったろうけれど、その後には脱出船の割り当てがあるからと名簿が作られた。わたしの父がドワイト・グリーンヒル中将であることがただちに知らされて、先に食事を提供されそうになったり、贅沢な部屋割りが行われた。

 そういえば昨日も自分の地位ならまだしも、親の地位で優遇されようとしていた人がいたわ。軍にたくさんの寄付をしている金持ちとか。

 そうか……きっとそんな人たちを見て、中将の家族であるわたしたちを皆と同じように扱えなくなったのね。

「昨夜もそうだけど、普通は黙ってベッドを占領しているものよ」

「あら、ではきっとわたしは普通ではないのね」

 ミルクと砂糖が入っていてもコーヒーはあまり好きではない。でも今はこれも我慢ね。

「わたしはいつも父に、有事こそ公私を区別し、私は捨てるべきだと言われているから」

「だとしても、あなたはまだ一四歳なのよ」

「もう一四歳だわ」

 わたしは胸を張った。

「だから食事の順番をきちんと待てるし、定員人数以上で眠るベッドが狭いと思っても、数が足りないのだから辛抱できる。こうやって猫の手程度でも手伝いだって」

 食事終了、とわたしは立ち上がった。

「まだ全員には配られていないみたい」

 調理室からサンドイッチを積んだワゴンが押されてくるのが見える。

 

「サンドイッチをどうぞ」

 わたしは中尉さんが食事はおろか、長い間腰を下ろすこともないのを見ていた。眉間にしわを寄せ、たまに頭をかき、書類にチェックを入れ、部下に指示を与え、苦情を訴える人には優しく応えているのを。

 驚いたような顔をしてわたしを見ているわ。

 わたしがグリーンヒル中将の娘だと知っているから? 将校の娘は非常時でも優遇されて当然なのに、サンドイッチを配っているのがそんなに珍しいの?

「ありがとう。君はもう食べたの?」

 その顔にはありありと疲れが浮かんでいるのに、わたしに笑いかけてくれる。この中尉さんはわたしが誰なのか知らないんだわ。

「私はまだおなかが空いていないし、他の人にあげてください」

 嘘つき、と思ったけれど、それは本当に思っただけ。誰も軍人に食事を運ぼうとはしていないし、どこかにこっそり豪華なランチを食べに行くところもわたしは見ていないもの。

「わたしはもう食べたから。具は卵とハムだけでもパンはここで焼いたからとても美味しいの」

 まだサンドイッチを受け取ろうとしない。

「軍人は体が資本でしょう? これも任務よ」

 最初よりも驚きに満ちた表情、それが戸惑いを交えた笑顔に変わっていく。

 そうね、体が資本だと知っていても、他人から、それも見るからに子供なわたしから言われるとは思っていなかったでしょうから。

「パンは焼きたてなのかい?」

「ええ、そうよ。焼いたのはわたしではないし、サンドイッチに作ったのもわたしではないけれど。食べたから味は保証できるわ」

 やっと受け取ってくれた。

 ああ、何か飲み物が必要ね。それにわたしがそばで見ていたら食べにくいでしょう。

 ミルクと砂糖はどうすればいいかしら。糖分は頭の栄養だから問答無用で入れてしまおう。ミルクは無しで。

 子供なら両方たっぷり入ってないと飲めないこともあるけれど、大人は違うわよね。普段はミルク入りが好きな人でも、無ければ無いでも飲めるはず。

 紙コップに入れたコーヒーは少し冷めている。持ち手もないから、熱いと持ちにくいし、これだけ人が多ければぶつかることもあるだろうし、冷めていたら火傷もしない……そんなことまで考えてコーヒーがぬるいわけではないだろうけど、昨日からコーヒーを注ぐ度、配る度にわたしはそんなことを考えている。

 あっ!

「中尉さん!」

 そんな意味を込めて、卵とハムだけのサンドイッチだと言ったわけではないけれど、食事をする時間もなくて、今も最初は断ったくらいなのだから、もう少し想像力を働かせればよかった。

「コーヒーです。ぬるいから一気に飲んでも大丈夫です」

 サンドイッチを喉に詰まらせて目を白黒させていた中尉さんに差し出す。

 片手で食べられるといっても、食べていれば書類はめくれないし、人に指示することもできないのだから、急いで食べようとしたに違いない。

 そう、美味しいから、だけでなく、量的に足りないわたしには「よく噛んでゆっくり食べるのよ。少ない量でも満腹感が得られるから」とお姉さんが教えてくれたのとは逆で。

 コーヒーで喉に詰まっていたサンドイッチは胃へ押し流されたらしい。よほど苦しかったのね。紙コップが握り潰されているわ。

「コーヒーは嫌いだから紅茶にしてくれた方がよかった」

 えっ、何を言っているの、この人は……こんな時に。

 食事があるだけでも良い方で、しかもたった今まで息ができなくて、死にそうな顔をしていたのに。         

 

 まったく机上の空論とはうまいことを言ったものだ。

 戦術の前にまず戦略なんだが、その準備段階での躓きが多すぎる。

 いや、待て待て、難関はこの後なんだ。三〇〇万人の民間人をかき集めた船に乗せた後。そこまでは船の数と各定員、それに名簿を当てはめていけばよい。

 ただそれが荷物ではなく、意志のある人間であることを忘れてはならない。コンテナなら港に一週間だって放置しておけるのだが。

 幸いにして、まだ帝国軍からは一発の攻撃も受けていない。見上げても戦艦も見えない。だから危機感が薄い。

 しかし、だからおとなしく乗船を待ってもいる。

 もしここに、いや、それがたとえ人家も何もない場所、海であっても、一発くらえばパニックを起こした民間人で大変なことになるだろう。

 軍用船があるといっても戦艦ではないし、民間船にはビーム砲は装備されていない。もしすべてが戦艦でも数の勝る敵と正面から戦うなど愚の骨頂だ。

 かといって、民間人を乗せた船ですから通してください、と頼むわけにもいかない。

 うん? 

 なんだ?

「サンドイッチをどうぞ」

 女の子が話しかけているのは私だったのか。       

 やれやれ、どうにか船の数は揃った。少々、いや、かなり窮屈だがそれは辛抱してもらおう。

 戦略はどうにか整ったが、次は戦術だ。こいつばかりは敵の出方も重要だし……いや、出てもらっては困る。我々など道端の小石だと思ってもらわねばならない。

「中尉、昼間は大変でしたね」

「昼間に限らずいつも大変だよ」

「そうではなくて……サンドイッチですよ」

「なんだ、見てたのか」

 大尉が笑っているのは口では大変だと言いながらも、本当は違うんだな。まあ、いい。

「あの子に何て言ったんですか?」

「はあ?」

 とぼけたわけではない。

「さあ……ごちそうさまとか?」

 食事の後に何か言うならごちそうさまだ。

「それなら、あの子、あんな顔しませんよ」

「そう言われても……」

 私がさあ、と首を傾げてその話は終了した。後から、そういえばサンドイッチが喉に詰まったことを思い出した。たぶんそれにびっくりしたんだろう。

 

 

 ようやくハイネセンへ帰れる。

 船の準備ができて、全員が乗り込んで、一つのベッドに三人で眠るほどではないにしても、ギリギリまで詰め込んだから、快適な船旅には程遠かったけれど。

「もう少しだけ待ってください。必ず、皆さんを安全に脱出させますから」

 やっぱり民間人はお荷物なんだ。俺たちなんかどうでもいいんだろう。三〇〇万人は多過ぎる。掴みかかろうとして止められる人もいたし、罵る人はもっとたくさんいた。 

「お荷物だなんて思っていません。私の言うことを信じてください。今はまだ脱出する時ではないんです」

 いったい何度、中尉さんはそう言いに来たかしら。

 通信ではなく、部下に伝えさせるのでもなく、自分の口で。

 中尉さんの言う、その時期がくるまでの間に。

 

 そしてヤン中尉の言葉はその通りになったんだわ。       

 

 



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