女体化して女子大に飛ばされたら初恋の人に会えたけど、面倒な運動にも巻き込まれた。 (斎藤 新未)
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平和に生きていたはずだったのに

「透、透、と、お、るー!」

 大学の正門を出ようとしている俺の背後に、今日もまた安い焼酎で潰したダミ声が浴びせられた。

 振り向くと、全身迷彩柄に身を包んだロン毛のトドのような男が、俺に向かって転びそうになりながら走ってくる。

 一年生の中でも有名な左翼男、安本だ。

 今日は会いたくなかった。だって、今日はアマゾンで注文しておいた漫画の新刊が届く日だから。

 美少女戦士カラキダヨーコ。

 コミケで出会った当初から、メジャーデビューした今でもこの作品の大ファンなのである。

 しかし、見つかってしまったのだから仕方ない。

うんざりしながらも、それを表情に出すことなく真顔を貫く。

「なんで逃げるんだよ。お前みたいなやつがいるから日本はダメになるんだよ」

 安本の理不尽な罵詈雑言をスルーする能力は、この半年間でだいぶ身についた。

 確かに、俺は大学デビューに乗り遅れた。

 講義室ではいつも左の窓側一番前をキープしている。

 友だちができないというか、誰かが声をかけてくれるのを待っていたのだが、みんなシャイなのかなかなか声がかからず、今に至る。

 安本も、俺と同じたまだ。

 ただしこいつの場合は、自分から寄っていっても逃げられてしまう。

 だからまあ、話を聞いているふりくらいなら、してやってもいいと思っている。

「で、なかなかレベルの高いAVが手に入ったから見にこいよ」

「……。しょうがないなぁ」

 美少女戦士とてんびんにかけたが、ギリギリ三次元に軍配があがった。

 最近興味が薄れつつあったが、まだ、生身の女性にも興味はあるのだ、俺は。

 

 安本のことは、別に嫌いじゃない。

 ただ、とにかく暑苦しい。

「もう一度安保闘争みたいな大規模な事件を起こさないと、日本はダメになるんだよ!いいのか集団的自衛権を認めて!」

 言わんとしていることはわかる。

 でも、俺たちが動いたところで何も変わらないということを、こいつはわかっちゃいない。

 安本の父親やおじさんは、「学生運動」を本格的に行ってきた世代らしい。

 安本が、学食で缶チューハイ片手によく言っていた。

 俺も、フォークソングが好きな親父から、学生運動について何度か話を聞いたことがあったが、今を生きる俺にとって、学生運動なんて遠い昔のおとぎ話でしかなかった。

 ヘルメットをかぶりゲバ棒を持って、機動隊と戦いながら「革命」を叫ぶ、だと?

 俺は見たことがないけど、ゲバ棒というのは角材に釘を打ちこんで作る金のかからない武器のことらしい。

 そんな痛そうなものを振りまわすなんて、なんて野蛮で、なんて非現実的な人たちなんだろう。

 だから初めて安本に出会ったときは、衝撃的だった。まだこんなヤツが存在していることに、ほんの少しの感動を覚えたほどだ。

 絶滅危惧種を見つけたときのような、そんな感動。

 でも、もう時代が違うんだよ、と言いたい。

 というか、そもそも、何かを変えるために動くとか、面倒くさい。チャンネルを変えるためにリモコンに手を伸ばすことすら面倒くさいのに、世の中なんて変えられるはずがない。

 学生運動とか関わりたくないし、できれば家で猫を愛でながら漫画を読みふけりたい。それだけで俺は幸せだし、十分平和だ。

 なんてことは、もちろん言えない。言ったら面倒くさい話が倍増するだけだから。

 だから俺は、安本の話をいつでも右から左に受け流す。

 

「は?ここ?」

 安本に連れてこられたのは、大学の真裏にある築50年はたっているであろうボロアパートだった。

 たしか、安本は駅前に住んでいたはず。

「そうだ、ここだ。さあ入れ」

 安本がドアを開けると、玄関とも言えないコンクリートがむき出しのスペースに、何人もの靴がぐちゃっと置かれているのが目に入った。

 10人、いや、20人程はいるだろう。

 室内から男たちのがなり声が聞こえ、なんだか、ものすごく嫌な予感がした。

「俺、帰る」

 と言ったときにはもう、安本に室内に押し込まれていた。

 嫌な予感は見事に的中。

 2DKくらいの間取りいっぱいに、安本のような暑苦しい男たちが集まっていた。

 中央では、ヒゲをはやした30歳くらいに見える男が仁王立ちし、木の棒を振り回しながら演説をしている。

 その周りにひざまずくような格好で男たちが群がり、口ぐちに何かを叫んでいる。

 「そうだそうだ」とか、「ひっこめ」とか、いろんな怒号が飛び交っていて、誰が味方なのか敵なのかがまったくわからない。

 人の隙間を縫うように、タタミの上に銀色の灰皿がいくつも置かれ、山いっぱいのタバコが差し込まれ、室内は煙と、怒号と、熱気に包まれていた。

 

 俺の、AVは?

 っていうか何これ?

 ドラマか映画の撮影か何か?

 いろんな感情を通り越し、ポカンとしている俺を、安本は玄関のすぐワキに座らせた。

 なぜか正座をしてしまった俺の耳元で、安本が興奮気味に囁く。

「明日、デモを起こすぞ」

 

 どうでもいい。

 心底どうでもいい。

 

 どうでもいいから、早く家に帰って、猫をひざに乗せながら漫画を読ませてくれ。

 俺はいつもにも増して、鼓膜にバリアを張った。

 いつもにも増して、壁のシミを穴があくほど見つめた。

 男たちは身ぶり手ぶりで、日本がどうなる、政治がどうなる、俺たちの将来はどうなる、と暑苦しく語っている。

 全く、時代錯誤もいいところだ。

誰も俺のことに気づかないのが、逆に居心地が良いと思い始めてきたその時、壁のシミのななめ下あたりに、女の子たちが何人か固まっているのが見えた。

そして思わず

「ふへぇ!」

 と間抜けな声をあげてしまっていた。

「どうした?」

 幸いにも、この間抜けな声に気づいたのは安本だけだった。

「いや、なんでもない」

 安本はすぐに、俺のことはもう見えていないかのように、中央の男に夢中になっていた。

 俺は漫画みたいに、目をゴシゴシこすり、頬をつねってみた。

 でも、目の前の光景は醒めることはない。

 俺が座っている向かい側、ダイニングの奥の方に、中学のときに転校してしまった、花梨ちゃんらしき女の子が座っていたのだ。

 ふわふわの天然パーマと、色白で華奢な体。

 そしてあの頃よりもだいぶ育っている胸を、前に座っている男の肩越しに凝視した。

 

 たぶん、花梨ちゃんだ。

 いや、間違いない、花梨ちゃんだ。

 花梨ちゃんもまた、安本同様、中央の男の演説に夢中になっているようだ。

 なんで、あの花梨ちゃんがこの汚いアパートにいるんだ?

 なんで、安本みたいに胡散臭い男を見つめているんだ?

 胸が熱くなるような再会なのに、俺は戸惑いを隠せなかった。

 もう一度確認するけど、本当に花梨ちゃん?

こっち向いて。いや、やっぱり向かないで…。

 なんて思っている最中、俺の視線があまりにも熱かったのか、バチッと花梨ちゃんと目が合ってしまった。

 花梨ちゃんの目は、徐々に丸くなっていく。

 やっぱり、帰ろう。

 そう思って立ち上がろうとしたとき、膝がガクン、と折れ曲がり、頭から畳に突っ込んだ。

 突然のことで全く反応できずにいると、金属を擦り合せたような、甲高い音がキーンと頭中に響き渡る。頭が割れるように痛み、体中から汗が噴き出した。

 なんだこれ。

安本、助けてくれ。

 口だけ動かしてみたが、声にならず、まるでシャッターを閉めるみたいに、俺の意識は失われた。



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どうやら異世界に来たらしい

 花梨ちゃんとは、中学の二年間同じクラスだった。

 たしか、風紀委員会が一緒になったのが仲良くなったきっかけだったっけ。

 よく笑う、可愛い子だなぁって思っていて、気づいたらいつもいつも目で追いかけていた。

 これが、俗に言う、恋なのか。

 そう気づいたときには、花梨ちゃんはすでに、転校してしまっていた。

 転校する前日、花梨ちゃんに呼び出されて、砂場と鉄棒だけがある近所の公園に行った。

 そこで「好き」だって。あの花梨ちゃんが俺のことを、「好き」だって言ったんだ。

 何のことかわからなかった。

 俺の周りでは女子に「好き」だと言われることは都市伝説のようなものになっていたから、調子にのって「俺も」と言った瞬間に、クラスのリア充グループが爆笑しながら陰から出てくるんだろうな。そう思っていた。

 だから俺は、この時も、右から左へ受け流してしまった。

 口を真一文字に結んで、周囲をうかがっていたけど特に何も起きなくて、花梨ちゃんが走り去ったときに、ようやく何かとんでもないことをしでかしたような気がしていた。

 明日、話しかけてみよう。

 そう思っていたのに、次の日は目すら合わせることができなくて、花梨ちゃんはいなくなってしまった。

 ああ、俺にもそんな時があったんだなぁ。

 甘い。実に甘い。

 いや、苦い。

 

「苦い!」

 俺は口いっぱいに広がる苦みに耐えきれず、勢いよく起き上がった。

 口元からは粉がこぼれていた。

 寝ている俺に、誰かが薬を飲ませてくれたようだった。

 すると突然、ふわふわの体が俺を包みこんだ。

 華奢な体は力いっぱい俺を抱きしめ、ふんわりと漂うシャンプーの香りが鼻孔をくすぐる。

 俺はなすすべなく、体は無意識に万歳状態になっている。

 満員電車の中みたいに。

 思考回路はもちろん停止状態だ。

 

 万歳したままゆっくりと周りを見回すと、安本に連れてこられたアパートの一室のようだった。

 四畳半ほどのこの部屋は、敷き詰められた布団でほぼ埋まっているが、部屋の隅には何人かの荷物がまとめて置かれ、本や、雑誌や、新聞などが無造作に畳の上に積み重ねられている。

 恐る恐る俺を抱きしめている相手を見つめると、その人はぐしゅぐしゅと泣いているようだった。

「あの」

 呼びかけると、その人は俺の胸に顔をうずめながら、涙にぬれた瞳で俺を見上げてくる。

「良かった、本当に良かった」

 キラキラと光る瞳で見つめられ、また気を失うかと思った。

 それは、まぎれもなくあの花梨ちゃんだった。

「か、花梨ちゃん。どうして」

「花梨ちゃん?やめてよ、私、カレンだよ」

 カレン?

「トーコ、お願い、私にだけ教えて。なんで、死のうと思ったの」

 トーコ?

「いや、死のうと思ったわけじゃ」

 喋っていて気づいた。

 自分の声が、鼻から抜けるように高く、気持ち悪い。

 よく見ると、万歳している腕も細く、ひとまわりほど小さくなった手の平からは、白くて細い指がのびている。

 まるで、女だった。

 他人のような手をまじまじと見つめながら、つぶやく。

「なんか、俺、女みたい」

 花梨ちゃんが、不安そうに俺の顔を覗きこむ。

「記憶喪失とかじゃないよね」

 布団の横に転がっていたハンドバッグの中に手をつっこみ、シルバーの手鏡を俺に向けてくれる。

 言葉を失うというのは、こういうことなのだろう。

 鏡を見つめたまま何度か口をパクパクさせ、鏡の中の女が同じように口をパクパクさせているのをただぼんやりと見つめる。

 たしかに、顔立ちは俺だ。ただ、明らかに男とは言いがたい丸みを帯びている。

 親戚中に、「透は女だったら良い人生だったろうに」と同情のように言われたことで、何度も妄想してきた顔、そのままだった。

 首からつづく鎖骨に、そして膨らみのある胸。

 本当に、ふんわり膨らんでいるくらいだが、こんなふくらみさっきまでの俺にはなかったはずだ。

 どうしてこんなものが、俺に付いているんだ?

 俺は半ばパニックに陥り、ただただ自分の胸をわしづかみにしていた。

「トーコ?」

 不安げな声で呼ばれ、慌てて手を離す。

 反射的にまた万歳の体制になってしまった。

 トーコ?

 それは女の名前だろ?

 混乱冷めやらぬうちに、ふすまが開き隣りの部屋から人がなだれこんできた。

 男ばかりのむさくるしい室内だと思っていたのに、なだれこんできた人たちはなんと全員女だった。

「トーコ!」

「トーコ、死んだかと思った!」

「良かった、トーコ生きてる!」

「アキさん、トーコが目を覚ましました!」

 誰かが叫ぶと、ドアの向こうからガタイの良い女が顔を覗かせた。

「もう大丈夫?」

 アキと呼ばれた女はニコリともせず、ガラスのような瞳を俺に向ける。

「…うん」

 うなづいた瞬間、何人かのツッコミがかぶる。

「『はい』でしょ!」

 俺が「はい」と曖昧に言いなおすと、アキは静かに顔を引いた。

 改めて、周りを見渡してみる。

 間取りや室内の雰囲気を見るに、ここは気を失ったあのアパートのようだが、こんなキラキラした世界ではなかった。

 もっと煙たくて淀んでいたはずなのに、ここはまるで、ハーレムじゃないか。

 女たちは全員俺を「トーコ」と呼び、そして惜しげもなく上半身の膨らみを俺に押し付け、抱きしめてくれる。

 こんな状態で、俺の下半身が大人しいはずがない。

 誰にも気づかれぬよう、布団の下からそっと自分の下半身に手を這わせてみる。

 そして

「なるほど」

 と極めて冷静な一言が漏れた。

 俺は、いつどこでどう間違ったか、本当に女になったらしい。



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女子大学の運動に巻き込まれたらしい

「しばらく安静にしてた方がいいよ。さっきまで死にかけてたんだから」

 部屋やアパートの外をウロウロしていた俺に、カレンが優しい一言をかけてくれる。

 俺は素直にうなづき、もう一度誰もいない四畳半の部屋に戻った。

 そしてふと、開けられた窓から外を見て、息をのんだ。

 そこには、俺が通っている大学がいつものようにそびえ立っている。

 しかし、校舎には「花巻女子大学」という立派なプレートが掲げられていたのだ。

 俺は座ったまま、首と目線だけをゆっくりと動かす。

 さっきは気づかなかったが、部屋の隅には荷物と一緒にヘルメットが置かれ、ゲバ棒も添えられている。

 枕元の壁には、赤い文字で「ダリア連合軍」と書かれた大きな旗が砂壁いっぱいに張られていた。

 どうやらここは、女子大に通う女子たちの、学生運動のアジトらしい。

 しかも、俺がさっきまでいたアパートにそっくりだ。

 というよりも、置かれている物や人が違うだけで、記憶に新しい壁のシミまで一致する。

 それが丸々女の世界になっているのだ。

 

 すぐに、混乱はトキメキに変わった。

 だって、ずっと縁がないと思っていたこんなに大勢の女の子たちに、囲まれているんだから。

 しかもみんな、俺の目を見てくれる。

 目を見て話してくれる。

 名前を呼んで、抱きついたりもしてくれるのだ。

 こんな幸せ、今まであっただろうか。

 妄想のしすぎて頭がおかしくなってしまったのか?

 それとも、俺の本当の姿はこっちだったのか?

 冴えない大学生、花田透という人物は、トーコという乙女が妄想した夢だったのか?

 そうであってほしい。

 だって、こっちの方が断然楽しい。

 なにはともあれ、どうあがいてもこの状況は変わらないようなので、この世界をとことん楽しむことにした。

 何よりも、ここには花梨ちゃんにそっくりなカレンがいる。

 

 しかし、自分のことを知るためにももっとデータは必要だ。

 胸ポケット、ケツポケットをさすっている俺を、隣にちょこんと座ったカレンが訝しげに見つめる。

 衣服には上着とズボンにいくつもポケットが付いていて、ジッポやハサミやペンなどがありとあらゆるところに入っている。

 トーコはどうやら、整理整頓が苦手なようだ。

 それは俺によく似ている。

 そのとき、ズボンの内側についているポケットの中で、何か硬いものが指先に当たるのを感じた。

 太ももの裏側についた深いポケットは、膝あたりまで続いている。

 ズボンの内側についているなんて珍しい、と思いながら、ズボンの中に手をつっこみズルズルと手を伸ばしていく。

 その奥に潜んでいるものは、ひんやりと冷たく、何かの金属のようだった。手のひらで包みこんでみて、思わず

「これって…」

 と声が漏れた。

 漫画や映画でしか見たことがないけど、俺の記憶が正しければ、これはたぶん拳銃だ。

 しかもこんなところにしまっているあたり、あやしすぎるだろう。

 俺はしばらくその拳銃らしきものをポケットの中で握ったまま、動けずにいた。

 

「何探してるの?」

 慌ててその硬いものをポケットの奥深くに押し込む。

「スマホとかあるかなって」

「スマホってなに?」

「携帯電話」

「携帯…電話…?」

 うそだろ。携帯電話もないというのか。

「トーコ、変なの」

 カレンが俺のおでこに、コツンとおでこを軽くぶつけた。

 心臓が口から飛び出るかと思った。俺は出もしない心臓を一生懸命飲み込む。

「熱はないみたいだね」

「うん、びっくりするくらい元気だよ俺」

 ひきつりながら笑顔をつくる俺に、カレンは優しくほほ笑む。

「そう、なら良かった。でも記憶が曖昧だね。それが心配」

 俺がずっと夢にみてきた笑顔だ。

 この笑顔にはもう永遠に出会えないだろうと、何年も前に諦めたというのに。

 

 そういえば、俺を「俺」と呼んでも何も指摘されないことにふと気づいた。

「俺って、いつも自分のこと俺って言ってたっけ」

「言ってるよ。男と比較されるのヤダからって」

 なるほど、トーコはそういうタイプの女ということか。

 正直、俺が苦手なタイプの女のようだ。

「トーコ、ちょっといい?」

 顔をあげると、部屋の入り口に、オカッパに鉢巻きをした女の子が立っていた。

 くりんとした目を俺に向けてから、カレンに向ける。

 カレンは、

「私、行くね」

 と言ってそそくさとその場をあとにしてしまった。

 あ、行かないで…

 と言う隙もなく、オカッパ女はカレンと入れ替わりに俺の隣りに座る。

「ねえ、どうするの」

 オカッパは慎重に周りをうかがいながら、俺に顔を近づけてくる。

「え、なにが、どうするって」

 オカッパ鉢巻きは、思い切り顔をしかめ、そしてため息混じりに言った。

「本当だ。トーコ、記憶が飛んでるんだ。かわいそうに」

 記憶が飛んでいると思ってもらえると本当に助かる。

 女の子に囲まれ笑いをかみころしているこの状況で、「俺はトーコじゃない。花田透だ」なんて言ったらどうなることか。

「そう、記憶飛んでて。えっと、君は…」

「嫌だ、それもわかんないの?ハルだよ。ハル」

「そうそう、ハル。違うんだ、ちょっとまだ意識がぼや~っとしててね」

「じゃああのこと覚えてないの?明日のバリ封を阻止しようっていう計画」

「バリ、封…」

「バリケード封鎖!大学の5階を封鎖して立てこもるの!ちょっと待って、そこまで記憶ないわけ?」

「…覚えてるよ」

 ボク、何もわからない。おうち、帰りたい。

 そんな言葉をぐっと飲み込んだ。

 まさか、こんな素晴らしい世界に来てまで、やっかいな学生運動に巻き込まれようとしているのか。

 しばらく花の園を堪能したら、恐らく同じ場所にあるだろう家に帰ってみようと思っていたのに。

 しかも、俺が阻止するだと?そんな大それたこと、できるはずないだろう。

「アキさんはもうやる気だよ。今やってどうするのって言ってたの、トーコだよ。こんな少人数でバリ封したところで、核兵器開発がストップするはずないって。日本の戦争は避けられないって!」

 ちょっと待て。ここは日本か?

 ハルとやらが言っていることは、どこか遠くの国のお話のようだ。

「ごめん、一回整理させて」

 俺は、記憶が錯乱していると思われているのをいいことに、全てを詳しく教えてもらうことに成功した。

 

 この国は、俺も知っている日本で間違いないようだ。

 タイムスリップなんてこともなく、2015年。

 でも、平成ではなく、共成5年だという。

 そしてここからが全く予想だにしなかったことだが、20年前にアメリカとの戦争が勃発し、3年かけて日本が勝利をおさめたらしい

 そして勢力を拡大しようと、日本は核兵器開発をすすめ、さらに他の国にも戦争をふっかけようとしているのだとハルは言う。

 

「こっち来て」

 ハルはダイニングに出て、テレビの前に俺を連れて行く。

 テレビの前にはいつの間にか女子たちが集まっていて、みんなで熱心に見入っていた。

 ドラマを見ている雰囲気ではない。

 ある者は仁王立ちで、ある者は腕を組み、ある者は涙を流しながら見入っている。

 「ピリピリ」という音が聞こえてきそうなほどに、空気が張りつめているのがわかる。

 テレビ画面には、どこかの大学の屋上で、拡声器を使って演説をしている学生が写しだされている。

 大学の下には大勢の学生や取材陣がつめかけており、下から消防車によって放水されていた。

 学生は、びしょびしょになりながらも必死に何かを叫び続けている。

「うわ、ひでー…」

 ぽつりとつぶやいた俺に、ハルがいきなりビンタをした。

「しっかりしてよ!明日は私達があそこにいるんだよ!」

 え、無理。

 声には出さないが、顔には出てしまったんだろう。

 女子たちが、不安気な顔で俺をじっと見つめていた。

 その視線に耐えられなくなり、俺はもう一度四畳半の部屋に逃げ込む。

 しかしハルは容赦なく俺を追いかけてきて、耳元で続けざまに囁いてくる。

「アキさんをあのままにしておいていいの。これじゃ犠牲者が出る。もう一度トーコの説得が必要なの。明日までに、なんとかしないと、誰かがアキさんに殺される」

 もうやめてくれ。

 頼むから、そんな物騒なこと言わないでくれ。

 俺はあぐらをかき、目を閉じ、座禅のポーズをする。

 困ったときは座禅に限る。

 これは、母さんから説教をくらっているときの親父の逃げポーズだった。

「ちょっと、ふざけないでよ」

 やっぱり、母さんと同じ反応である。

「でも、俺にはどうすることも」

 ハルに噛みつかれるほどの勢いでまくしたてられているときに、ドアの向こうからこちらをじっと見つめている視線とぶつかった。

 思わずぎょっとしてしまった。その女は漆黒のロングヘアをなびかせ、真っ黒なマスクをしていたのだ。

「椿さん」

 ハルに、椿と呼ばれたマスクの女は、俺を人差し指だけで手招きした。

 ハルにケツをバシッと叩かれ、俺は思わず駆けだした。

 どうやらここでは、アキと椿は絶対的存在らしい。

 なにはともあれ、椿にこの場を救われた。



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よくわからない研究室

 アパートを出て、先をぐんぐん歩いていってしまう椿を小走りに追いかける。

 沈みかけている夕陽とあいまって、椿の背の高さとスタイルの良さが俺の目をくぎ付けにする。

 なんともいえない薄気味の悪さを覗いたら、誰もが振り返る美人だろう。

 こんな女性と話すチャンスなど今後一切ないだろうから、意を決して話しかけてみた。

「風邪ですか?」

 すると椿はその場に立ち止まり、眉をひそめて俺を見る。

 ヤバい。何か気に障ることを言ってしまったようだ。

 マスクに触れるのはNGな人なのか。

「あ、風が強いですねって」

 椿は俺の目をじっと見つめ、そして何事もなかったかのようにまた歩き出した。

 この人、ちょっと怖い。

 マスクが黒いってだけで怖いのに、目つきもまるでヘビのように鋭い。

 漫画の世界だったら、こういう女に限って最終的にいいヤツなのだが、なぜだろう、この人に救われる気が全くしない。

 「一人や二人殺してそうな目」という表現を見るが、なるほど、核兵器の開発をしているような日本だ。

 この人ならマジで一人や二人殺しているかもしれない。

 椿の後ろ姿を見ながら、背筋に走る悪寒をぐっとこらえ、学校名は違えども、この半年間通っている見なれた校舎に入っていった。

 

 俺が連れていかれたのは、ハルが「明日立てこもりをする」と言っていた5階だった。

 5階は研究室と資料室が主で、学生の姿は全くない。

 夕闇に溶ける独特の雰囲気が、そこには漂っていた。

 連れて行かれた廊下には、アキが立っている。

 アキの横では、メガネにショートカットという、いかにも優等生な「園子」が俺を睨みつけていた。

 一度も話したことはなかったが、金魚のフンみたいに常にアキにくっついているからよく目立ってはいた。

「園子さんが離れないからアキさんに話しかけにくい」と誰かがぼやいているのをさっき見かけたばかりだった。

 

「連れてきたよ」

 椿はアキに、俺を引き渡した。

 人影のない校舎の中でのこのシチュエーション。

 まさか、俺はこの女たちにボコボコにされるんじゃなかろうか。

 俺の不安をあおるように、三人の冷たい視線が俺に絡みつく。

 難しい顔をして俺をじっと見つめたまま、動かない。

「あ、あ、あの、なんですか」

「静かに」

 アキが俺の口をふさぐ。

 三人は、俺の肩越しに廊下のずっと奥の何かを見ているようだった。

 ガチャガチャという派手な金属音が廊下に響き、俺もゆっくりと首をひねる。

「マキナエだ」

 椿が小声で言い、俺たちは近くにあったロッカーの陰に身をひそめた。

 廊下の奥では、白髪の老人がドアに鍵を閉めているのが見える。

 教授らしいが、俺が知っている大学にはあんな白髪でチビな教授はいなかった。

 鍵は一つだけではない。

 ジャラジャラと手元にいくつも抱え、背伸びをしたりかがんだりと、上から下まできっちりと閉めている。

 目を細めてそれを見ていた園子が、

「上部に1、通常位置に2と南京錠が1、下部左右に1ずつ。奥にももう一枚扉があるみたい」

 と早口で言う。

 そんなにも鍵をかけてどうするというのだ。

「大事なものでも置いてるんじゃないですかね」

 俺の一言に、アキが不機嫌そうに言った。

「そんなこと、みんなわかってる」

 

 マキナエがエレベーターに乗ったのを見計らい、俺たちはマキナエが鍵をかけていたドアの前まで急いだ。

 そこには「物理化学研究室」という無機質なプレートが掲げられている。

「どうだ?簡単には開かなそうか?」

 アキが、鍵穴を覗きこんでいる園子に問いかける。

「4つはいけそうだけど、他はかなり特殊だね。みてよ、この南京錠」

 園子は、自分の指よりも明らかに太いチェーンを、ジャラリと持ちあげて見せた。

「やっぱりここに核兵器の研究資料がまとめられているんだろうなぁ」

「え!?」

 すっとんきょうな声をあげてしまい、思わず口をふさぐ。

 アキは呆れた表情を浮かべ、鼻で笑った。

「どうしても連れて行ってほしいというから連れてきたのに、なんだその反応は」

「あ、ごめんなさい。その、あの」

「頭がおかしいらしい。みんな騒いでる。倒れてから、トーコがおかしくなったって」

 俺のかわりに、椿がスラスラと暴言を言ってのけた。

 アキは黙り込み、俺をじっと見つめたが、ぷいと顔を背け、園子と椿だけに話しかけた。

「明日はどうにかしてここを死守したいが、鍵がこれだけ頑丈なら、常に見張りがいなくても大丈夫そうだな」

「そうね。この南京錠のカギはかなり旧式だから、マキナエ本人しか持っていないと思う。マキナエが来ない限り、ここは開かないはず」

 と園子。

「ここを担保にすれば、警察も私達には手を出せないだろう」

 アキは薄笑いを浮かべ、踵を返した。

 そしてすぐに、立ち止まった。

 そこには、エレベーターに乗り込んだはずのマキナエが立っていたのだ。

 アキが息をのむのが聞こえたようだった。

 しかし、マキナエ本人はいたって能天気に俺たちの顔を見回す。

「あれ?みんな、帰ったんじゃないの?もう遅いから帰りなさい?って、中学生じゃあるまいしね~。ふぇふぇふぇ」

 マキナエはほとんど歯がなく、笑うと歯の隙間から声が漏れてしまうようだ。

「教授」

 椿が一歩前に出る。

「なんじゃい?」

「さようなら」

「うん、さようなら~。ふぇふぇふぇ」

 椿がアキの背中を押し、園子があとを追う。

 俺も胸をなでおろし、その後ろについていこうとした時。

「トーコくん」

 突然、筋張ったひょろい腕につかまれた。

 こいつ、うら若き乙女にセクハラか。

 思わずマキナエの顔を覗きこむ形になってしまったとき、マキナエが耳打ちをした。

「その後、どうだい?」

 すきっ歯が目の前でむき出しになり、背中に虫が這うような寒気がした。

「その後…?」

 つぶやく俺を尻目に、マキナエはまたふぇふぇふぇと笑って、去っていった。

 アキたちを振りかえるが、今のやりとりに気づいていないようで、さっさと前を歩いている。

 俺も慌ててその後を追った。

 男勝りなトーコのことだ。

 考えにくいが、トーコはマキナエのセクハラにあっていたんじゃないだろうか。

 しかも、相当気持ち悪いセクハラに。

 今の笑いには、そんな意味が含まれているような気がした。



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女子の園だけど不穏な空気

 その日の夜、アキから召集がかかり、俺たち「ダリア連合軍」はアパートに集まっていた。

 昼間にはいなかった女の子たちも集まり、昼間に増してアパートはにぎわっている。

 ざっと数えて、30人はいるだろうか。

 ポーカーフェイスを保ちながらも、俺は幸せに浸っていた。

 ダイニングと二つの和室に、女の子たちがおしくらまんじゅうしている光景は、まさに絶景。

 その絶景を堪能すべく、俺はギリギリアキが見える、六畳和室の一番後ろを陣取った。

「トーコ!」

 玄関でキョロキョロしていたカレンが俺を見つけ、女子たちをかき分け俺に近づき、そして離れないよう腕をからめてくる。

 ああ、神様。

 ありがとうございます。

 これ、ずっと妄想していたデートの待ち合わせシーンです。

 ふと思う。

 俺がトーコになったのは、やはりこのためだったのだろうか。

 花梨ちゃんを忘れよう忘れようとしていたことで、それが反動となりこんな世界に迷いこんでしまったのか。

 考えてもムダなことはわかっているけど、いつかきっとここにいる意味を考えなければならない時が来るだろう。

 その日のために、この記憶はしっかりと刻み込んでおかなければならない気がした。

 とはいえ、今が一番幸せ。今この時が一生続きますように。

 

「トーコ」

 その幸せなひとときをぶち壊す、ドスのきいた声がカレンとは逆隣りから聞こえた。

 オカッパ鉢巻き、ハルだ。

 ハルは小さな目をさらに細めて俺にじりじりと近づいてくる。

「結局、アキさんに言えなかったんだね」

「う、うん」

 アキとはまともな会話すら交わせていないが

「人の言うことを聞くような人じゃないでしょ」

 となんとなくそれっぽいことを言ってみる。

 するとハルは意外にも

「そうなんだよね」

 と神妙な面持ちでうなづいた。

 

 ダイニングの中央にアキと園子が立ち、そこを取り囲むように女子たちが座っている。

 豆電球ひとつだけともしたアパートは薄暗く、みんなの真剣な面持ちに影を落としている。

「ついにこの時が来た」

 アキの声は小さく低いのに、よく通る。

「ここにいる人は全員、明日参加ということで、いいわね」

 園子の淡々とした声に、女子たちは周りの様子をうかがいながらも、各々うなずいている。

 ハルが俺の脇をつついたが、無視した。

 この状況で物申す人なんて絶対にいないだろう。

 嫌だと思ったら、抜ければいいんだから。

 

「あの!」

 俺は「マジか」とため息をついた。

 立ちあがったのは、ハルだった。

「トーコから一言あるようです」

 ハルはそれだけ言うと座りこみ、俺のワキをガンガンこづいてくる。

 俺は気づかないふりをした。

 前傾姿勢になり、アキと目が合わないよう思い切り体を丸める。

 しかし、

「トーコ。お願い」

 というカレンのマシュマロのような声に、俺はつい立ちあがってしまっていた。

 前を見ると、アキの冷たい視線とぶつかった。

 恐る恐る周りを見まわすと、ほとんどが俺から目をそらしているが、5人ほど、俺を真っすぐ見つめてくる女の子がいる。

 そんな視線を見ていたら、ハルがここまで俺に固執する理由が、なんとなくわかった気がした。

 たぶん、トーコは密かに仲間たちに慕われていたのだろう。

 俺の言うことだったら、もしかしたらアキに響くかもしれないと、ハルや、今俺を真っすぐ見つめている子たちは思っているに違いない。

 しかし、俺は残念ながら花田透だ。

 密かに慕われているような、トーコにはたぶんなれない。

「…特にありません」

 これだけ言うと、脱力するようにその場に座りこんだ。

 ハルの顔は、怖くて見れなかったが、しばらくすると隣りから人の気配が消えた。

 恐る恐る隣りを見ると、ハルはどこかに行ってしまっていた。

 誰かに頼られるなんて、そんな慣れないことは全力で避けたい。

 たとえ俺がトーコだろうと、目立つようなことは絶対にしたくない。

 安心してふとカレンに目をやると、カレンは見たことのないような顔で俺を見ていた。

 今にも泣きだしそうな、いや、怒りだしそうな、潤んだ瞳で俺をじっと見つめている。

 なんとも言えない恥ずかしさが、胸の奥底から湧き上がってきた。

 しかし、どうすることもできない。

 俺はただ目をそらし、ひざに顔をうずめた。

 トーコ、俺はお前を恨む。

 どれだけ慕われているかしらないが、俺のハードルをあげないでくれ。

 誰にも期待されないから今まで息をしてこられたのに、これじゃムダに失望されるだけじゃないか。

 

「じゃあ、具体的な計画について、ロッカ」

 園子が言うと、茶髪のくせっ毛を頭のてっぺんで無理矢理まとめた、ぽっちゃりとした女がアキの横に立った。

 場違いにニコニコしながら、みんなを見渡してから一言。

「みんなごはん食べた?」

 彼女の丸い声に、張りつめていた空気が緩む。

「腹が減ったら戦はできないから、お腹すいたら私に言ってね。食料はどっさり持っていくつもりだから」

「ご飯はあとでですよロッカさん。今は計画について」

 今まで一番前で黙りこくっていた女の子が、茶々を入れる。

 彼女はこの中でも、一番小柄だった。

 チョコマカと動き回って、大声でその名を呼ばれていたからよく覚えている。

 たしか「マツリ」という名前だ。

 ハルと同じように、大きくてくりんとした目が印象的だけど、マツリの目はウサギやリスなんかの小動物のそれのようで、可愛らしさがある。

「はいはい。じゃあ、アキさんに任された計画についてお話しますね」

 この二人が絡むと、なんだかさっきまでの空気があまりにも重苦しく感じる。

 みんなの表情も、さきほどまでとは打って変わって明るいものだった。

「明日は、朝5時に学校集合です。来た人から、5階の階段にどんどん机やテーブルを積み上げてください。エレベーターは6時にスイッチ切っちゃうので、それまでには絶対に集合すること。警察や報道陣への呼びかけは、彼らが集まり次第屋上で開始です。その都度また声をかけますね」

 まるで、小学校の先生が、遠足の前日に生徒たちに明日の確認をしているようだ。

「よくわかっていると思うけど、命の保証はありません」

 ほんわかとした空気からは考えられないほどの、あまりの内容の重さに、俺は胃もたれを起こしそうだった。

「それから例の物理化学研究室のこと。今日アキさんたちが偵察に行ったようですが、やはりクロに間違いないだろうということでした」

 女の子たちがざわつき始める。

 俺はこっそりとカレンに「どういうこと?」と解説を求めた。

 ほんの少し、俺に違和感を抱いているであろう表情を浮かべたものの、カレンは丁寧に教えてくれた。

 マキナエがいたあの研究室には、国を背負う核兵器開発計画の計画書などが置かれているのではないか、というのがダリア連合軍の見解だという。

 ロッカの父親は警視庁長官であり、ロッカたちには言わないが核兵器開発について詳しく知っているらしかった。

 その父親が、「花巻女子大学で核兵器開発の研究が行われている」と明言しているのを、ロッカが聞いてしまったらしい。

「これも、伝えておきたい」

 そう言って前に出てきたのは、椿だった。

 ざわついていた女子たちは、水を打ったように静まり返る。

 椿は一呼吸おいて、そして一気に話し始めた。

 

「私の父が研究者だということはみんな知っていると思う。父は、マキナエとまだ交流がある。そんな父が、言っていたことがある。『あの人が、世界を変えてしまうかもしれない』って。だからアキが言う通り、マキナエが出入りしているあの研究室に、研究資料がまとめられていることは間違いないと思う。もしかしたら核兵器の一部も。そうなったら警察や政府はこの大学に手を出せないはず。そして、私達の訴えも飲んでくれるはず」

 

 静まり返った一同が、椿の言葉に合わせ力強くうなづいている。

「だからみんな、あの研究室は絶対に死守して」

 椿の一言に、女たちは「はい」と返事をした。

「あと、忘れてはならないこと」

 横から口を開いたのは、アキだ。

「私たちは、女の代表であるということ。日本で唯一ともいえる女子大学の学生なんだ。この機会に、女の必要性を訴えようじゃないか」

 アキの声に、一同は口ぐちに「そうだそうだ!」と声をあげ始める。

「女が教育を受けてどうするんだ、なんて言わせておいていいのか?あいつらは、女の賢さをわかってない!そうだろ?」

 誰かが突然床を叩きだし、びくっとする。

 一人だけじゃない、この部屋にいる全員が興奮し、床を叩いたり叫んだり立ちあがったりしている。

「私達で変えよう、この国を!」

 近所中に響き渡るほどの「はい!」という賛同の声で、アパートが揺れた。

 みんなの顔を、後ろから見渡した。誰もが、真っすぐにアキを見つめ、まっすぐに何かを信じている。

 まるで、俺が知っている60年代、70年代の学生運動そのものだった。

 あの頃は、みんなが「革命」を信じて運動をしていたって、親父はなつかしそうに言っていた。

 少しの感動と、そして大きな不安が俺を襲った。

 こんな一丸となった女子たちの中で、俺はいつまでやっていけるのだろうか。

 

 椿とアキが元の位置に座り、みんなが再びざわつき始める。

「あ、トーコ。火炎瓶の準備は大丈夫?」

 突然ロッカに呼ばれて焦ったが、カレンが変わりに

「大丈夫です。明日の朝から調合します」

 と答えてくれた。

「でも。ニトロ火炎瓶は威力が強すぎるので、専用の部屋がないとちょっと危険かも」

 カレンの物騒な一言に、ロッカは軽くうなづく。

「そうだね。じゃあ朝一で私が準備しとくね」

 ロッカは俺に何の疑いもなくほほ笑んでくるので、俺もうなづきながらほほ笑み返してみた。

 トーコは、武器の準備までしていたのか。

 ニトロというのは、ダイナマイトの原料のニトログリセリンのことだろう。

 火炎瓶ならガソリンがあればなんとかなるが、ニトログリセリンをどうやって入手したんだろう。

 たしか、危険物の取り扱い免許か何かが必要なはずだ。

 俺はようやく、とんでもなく危険なことに巻き込まれつつあることを実感した。



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まずい物を持ってた

 夜9時。

 パソコンもスマホもないこの世界は、とても静かだった。

 家が近い子は帰り、泊りのみんなは近所の銭湯に出払ってしまっていて、俺は一人、敷かれた布団の上でぼんやりと窓の外を見上げていた。

 窓の外に浮かんでいるおぼろ月を、こんなに恨めしく思うことはあっただろうか。

 こんなチャンスは滅多にない。

 いやいや、どう転んだって俺が俺である限りは絶対にありえないことだ。

 

 俺が、女子と一緒にお風呂に入れるなんて。

 

 このチャンスを逃すまいと誰よりも早く銭湯に向かった。

 罪悪感が俺を襲ったが、罪悪感を持ったところで俺は今女なのだ!

 まさに銭湯に戦闘態勢で臨んだのである。

 しかし、だ。

 途中であまりの緊張から強烈な腹痛が俺を襲った。

 高校受験のときも、大学受験のときもそうだった。

 ダメ男のパターンとして「緊張するとお腹が痛くなる」という項目があるらしいが、まさに俺のことだ。

 そしてカレンに背負われ、またこの布団に逆戻りをしてしまった。

 情けない。これはもう、ただただ情けない!

 あまりの不甲斐なさに涙があふれそうになったとき、玄関のドアが開いた。

 俺は慌てて目をこすり、ドアの方に顔を向ける。

 マツリだ。

 マツリは少し戸惑うように顔を伏せたが、すぐに俺を見てコロっと笑った。

「トーコ、お腹大丈夫?まだ完治してなかったのかな?」

「もう大丈夫。だいぶラクになった」

 マツリは俺の言うことを聞いているのかいないのか、靴を脱いで、まっすぐ俺の方へ歩いてくる。

 そしてなぜが、目の前に正座した。

「えっと、どうしたの?」

 真っすぐ俺の顔を覗きこむマツリにたじろぎながら、少し上体を反らす。

 それでもマツリは、ぐいぐいと俺の顔を覗きこんでくる。

 なんだかこの感じ、遊びたがっているうちの猫にそっくりかもしれない。

 こうしてまじまじと見つめると、本当に小動物のようでとても愛らしい。

「なになに、どうしたの。遊びたいの?よしよし」

 なんておどけて手をさしのべてみると、マツリは顔を赤くして

「違うよー。やめてよー」

 と一生懸命手をバタバタさせる。

 思った以上の可愛い反応に、俺のニヤニヤはとまらない。

 しかしすぐにマツリは真剣なまなざしに戻り、俺の顔も思わず引き締まった。

 マツリに手を掴まれたと思ったら突然グッと引き寄せられ、小さな手に包み込まれる。

「え?」

 マツリを見ると、マツリは俺の手をしっかりと握り、うつむき加減で早口に言った。

「すごく心配だった。変な薬飲んで死にそうになったとか聞いて。本当に本当に心配で。ずっと話したかったんだけどずっとカレンが横にいるし。話しかけたら申し訳ないかなとか思ったんだけど。でも、腹痛で引き返したって聞いて。良かった。話せて。明日、がんばろうね」

 マツリはそこまで一気にまくしたてると、俺の手を放り投げるように勢いよく離し、そして玄関まで走り、あっという間に外へ出て行ってしまっていた。

 しばらく、開けっ放しの玄関のドアをぽかんと見つめてしまう。

 なんだ、今の?

 なんとなくわかっていたけど、あの子は本当に変わった子かもしれない。

 肌寒いのでドアを閉めようと立ちあがったとき、またパタパタと足音がして、そして一瞬マツリの顔が覗き、バタンっと大きな音をたててドアが閉まった。

 俺はもう一度座り直す。

 やっぱりどうしたって、変な子だ。

 でも俺の胸は、思いのほか高鳴ってしまっていた。

 

 中学校の修学旅行のとき、転校してしまった花梨ちゃんを想いながら床についたっけ。

 リア充グループが部屋の真ん中で好きな女の子の話をしているときに俺は、隅で美少女戦士の漫画を読みながら頭の中は花梨ちゃんでいっぱいだったっけ。

 さすがに、あの部屋に花梨ちゃんがいたら…なんて恐れ多くて妄想すらしなかったけど、妄想すらできなかったその光景が今、現実のものになっている。

 四畳半の部屋に布団を敷き、狭い部屋に5、6人の女子が横になっている。

 さっきから背中が痛いけど、寝返りをうつのが怖い。

 だって隣りにはカレンがいるんだから。

 寝返りをうってカレンと目があったらどうしよう。

 というか、こんな狭い部屋で寝返りをうったらカレンに触れてしまうのではなかろうか。

 そうだ、この狭さじゃ仕方ない。

 触れてしまってもそれは事故だ。

 事故にかこつけてすやすやと眠っているカレンに触れてみるか…。

 いや、そんなことできるわけがない。

 そんなことになってしまったらもう、平常心ではいられない。

 ちょっと待て、そもそも今も、平常心ではないじゃないか。

 俺は、ギンギンに開いてしまっている目を、ギュッとかたくつむった。

 眠れるわけはないのだけど、目をつむっているだけでも体力が回復するとテレビで見たことがある。

 部屋中、甘すぎる寝息に包まれ、俺の腕はかすかにカレンの体温を感じている。

 平常心、平常心…と口の中で何度もつぶやいていたとき、ふすまが静かに開くのを感じた。

 全員寝静まったというのに、誰がこの部屋に用があるのだろう?

 もしかして、他の部屋の誰かのイビキがうるさいとか?

 たしかに、俺も親父とは一緒の部屋に寝るのはキツイからなぁ…

 

 と無理矢理そんなことを考えていたとき、この部屋に入ってきた誰かが、俺の脚に触れた。

 え?

と驚いている隙もなく、突然ズルズルっとズボンを脱がせられてしまった。

「ちょっと」

 思わず上半身を起こし、俺の足元にいるけしからんヤツを見る。

 そして目が点になってしまった。

 アキだったのだ。

「え、あの、えっと」

 戸惑いすぎて言葉が出てこない俺の口を、アキが片手でふさぐ。

 そして途中まで脱がせていたズボンをすっかり脱がしきってしまった。

 ちょっと待って、これどういう状況?

 百合妄想がふくらみかけたとき、アキが俺のズボンから何かを取り出した。

「私に隠せると思ったか?」

「え?」

 アキは俺の口から片手をはずし、そしてもう片方の手に持っている小さな拳銃を俺に向ける。

「あ、それ」

「どこで手に入れた」

 入手先なんて知っているはずもなく、もごもごと口を動かしていると、隣のカレンが寝ぼけた声で

「どうしました?」

 と起き上がった。

「これは没収する」

 アキはそう囁くと、拳銃を自分のポケットにしまい、さっさと部屋をあとにした。

 そういえば、スマホを探そうとしているときに、拳銃らしきものを見つけていた。

 結局何なのか確かめなかったが、あれが本当に拳銃だったというのか。

 カレンを見ると、カレンはすでに寝息をたてていた。

 普通の大学生が、拳銃などを手に入れられるはずがない。

 日本が戦争をするような国だったとしても、それは変わらないはずだ。

 トーコは、一体どこで手に入れたというのか。

 俺は、このトーコという人物に、徐々に恐怖を感じるようになっていた。



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火炎瓶を作った

 バリケード封鎖決行日。

 まだ朝日も出ていない暗い道を、俺たちは歩いていた。

 カレンに渡されたヘルメットとタオルとゲバ棒一式を見ながら、俺は深い深いため息をつく。

 布団がカレンの横だったことと、アキとのやりとりが気になったことで、ほとんど眠れなかった。

 俺、いやトーコは自分のズボンの隠しポケットのような所に、小さな拳銃を隠していた。

 そしてそれをアキに没収されたのだ。

 このトーコという人物に、俺は恐怖を感じ始めたのだが、俺の前を歩いているカレンの小さな後ろ姿を見ると、ここから離れてはいけない気がした。

 そもそも、トーコに恐怖を感じて逃げだしたところで、トーコからは逃げられないのだ。

 だって今、トーコは俺自身なのだから。

 

 俺とカレンは、すでに大勢の女学生たちが集まっている「花巻女子大学」の5階へと上がっていく。

 1階の入り口と、5階の入り口にはすでにたくさんの机やイスが積み上げられており、崩れないように針金でグルグル巻きにしてあった。

 全員が揃ったら通路用に空けておいたスペースにイスや学校の備品を投げ入れ、仕上げに、防火戸を閉め、鍵もしっかり閉めて誰も入ってこられないようにするらしい。

思ったよりも本格的で、朝一から面喰ってしまった。

 やっと一人通れるような隙間をカレンとくぐり抜ける途中、服が何かに引っ掛かり天井まで積み重ねてある机がぐらつく。

 慌てて壁にへばりつき、揺れが安定してから引っかかった部分に目をやった。

 机を固定している針金は、よく見たら有刺鉄線だった。

 どうやらその刺に、ひっかかってしまったらしい。

 これ、かなり強力なバリケードだけど、俺たちも危ないんじゃないか?

 よく見たらカレンの前を歩く女の子も壁にへばりつきながら歩いているようで、仲間内ですら危険な状態だった。

 これじゃあ逃げるのも一苦労だ…

 と俺は性懲りもなく、逃げるときのことを考えていた。

 

 俺とカレンが向かったのは、「武器製造室」の手書きの板が置かれている、講義室Cだった。

 5階には、講義室がAからCまであり、講義室Cの隣りには、マキナエが出入りしていたあの研究室がある。

 講義室は、俺が通っていた大学と全く同じ作りだった。

 AからCまでの全ての講義室が、100人程度が座れる、大学としては中規模な作りになっている。

 武器製造室の教壇周辺には、すでにロッカとマツリを始めとした10人ほどの女の子たちが俺たちを待っていた。

 待っていた、というよりも何やら瓶を手にもち黙々と何かを作っているようだ。

 テーブルには瓶とガソリンが入ったポリタンクが置かれ、講義室の壁際にはコンクリートブロックが無造作に積まれている。

「遅いよ~二人とも」

 マツリが俺に駆けよってくる。

「ごめんごめん」

「トーコがなかなかトイレから出てこなくて」

「まだお腹、治ってなかったの?」

「まあ」

 実はアパートを出る前、みんなが出払ったあとにお腹が痛いふりをしてしばらくトイレにこもっていた。

 どうにか逃げだそうとありとあらゆる方法を考えてみたのだが、カレンがずっとドアの外にいて、逃げるに逃げられなかったのだ。

「じゃあ二人もきたから、どんどん火炎瓶作っていこう」

「火炎瓶?」

 思わず声が漏れ、あわてて口をふさいだ。

 そういえば、この武器はトーコからの提案だった。

 機動隊が入ってこられないよう、武力をもって臨むのだと、トーコは声高らかに言っていたらしい。

 まったく、ジャンヌ・ダルク気どりかよ。

 俺がトーコとなった今、ただただ過去のトーコは恐怖と鬱陶しさの固まりである。

「トーコ、みんなに指示出してくれない?」

 マツリが俺の顔を覗きこむ。

「指示?」

「一応材料はトーコに言われた通り準備したんだけど、みんな火炎瓶の作り方がわからなくて手探りでやってるの」

 思わず、「わからないって何がわからないの?」と口に出してしまうところだった。

 火炎瓶とは、瓶にガソリンを入れ、さしこんだ布に火を着けて投げる簡易的な武器のことだ。

 簡単すぎる武器のはずなのに、女子たちを見渡すと、ガソリンを瓶に入れてみてはこぼしたり、瓶ごと落として割ってしまいパニックになったりしている。

 俺は、心の中でガッツポーズした。

 そうだ、女子たちは武器づくりなんて今までしたことないだろう。

 俺は子どもの頃、水とペットボトルで火炎瓶の真似ごとをしてよく母親に怒られたことがある。

 今まで散々劣等感を感じてきたが、俺が見る限り今ここにいる子たちは間違いなく、俺よりも武器作りに劣っている!

 

 ようやく挽回できる兆しが見えてきた。

 テーブルに布を敷き、その上で瓶にガソリンをポリタンクから注ぎ入れようとしている女子に話しかけた。

「それじゃあ効率が悪いよ。みんなで一斉に作るんじゃなくて、ガソリンを運ぶ人、瓶に入れる人、布をつっこむ人、並べて保管する人、あとはコンクリートブロックを持ちやすい大きさに砕く人に分かれて」

 俺の一声に、女子たちは声を掛け合いながら担当に分かれていく。

 今まで、俺の一声に女子が動くことなんてなかった。

 俺がどんなに的確なことを言おうが、女子たちはなぜか「そんなの無理」と呆れていた。

 それからはもう女子にアドバイスすることなんてやめようと思っていたのだが、ようやく、俺の言うことを聞いてくれるときが来たのだ!

 見たかあのときの女子!俺は間違っていないぞ!

「ガソリンは外にあるの?どんどん詰めていくから、どんどん持ってきて。で、ガソリンを入れるポンプはないの?じょうごもないの?ないなら、下の階の研究室から魔法瓶とか急須とかを拝借してそこから注ぎ入れないと、これじゃ周りにドボドボこぼすだけでしょ。並べる人。瓶の周りのガソリンはしっかり拭きとってね。じゃないと布に火をつけた瞬間持っている人にも燃え移っちゃう。あ、コンクリートを割る時は布を乗せた方が飛び散らなくて良いよ」

 俺は次々に指示をした。

 気づくと、女子たちは忙しいほどに動きまわり、そしてあっという間に100以上の火炎瓶が出来上がっていく。

 隅の方では、コンクリートブロックは両手で簡単に持ちあげられるほどの大きさに砕かれている。

 ガソリンを運んでいたカレンが、

「トーコ、やっと調子戻ってきたね」

 と笑顔で言って通り過ぎて行った。

 正直、武器作りでしか活躍できそうにないことはわかっているからこそ、複雑な気分である。

 自分がこんなにも適応能力が高いことに密かに驚いているが、トーコになってから1日で俺は、花田透だったあの頃が逆に夢だったのではないかと思い始めていた。

 大学や、大学の周りの道や公園、安本に連れて行かれたボロアパートなど、見ている風景は透だったあの頃とほとんど変わらないのに、そこに俺が知っている安本やクラスメイトたちがいないことを当たり前だと思えるようになってきた。

 カレンがこんなにも近くにいる今、漠然と「透に戻らなくてもいいや」なんて思い始めている俺がいる。

 

「トーコ、ちょっといい?」

 現場監督気どりの俺に、ロッカが心配そうな顔を向けてきた。

「どうしたんですか?」

「ニトロ。どこに置く?」

「ああ…」

 そうだった。

 ニトログリセリンという、ダイナマイトの原料となるとんでもなく危ないやつがこの校内にすでにあるのだ。

 トーコは、何を考えてそんな危険なものを用意しようと思ったのだろう。

 機動隊と戦うだけなら、ガソリンを使った火炎瓶やコンクリートのブロックとか、そのくらいで十分なのに。

「それ、誰も触れないように隅の方に置いて、『危険』とか書いておいてくれます?ニトロって触れるだけでも危ないですから」

「そうね。わかった」

 ロッカはニコッと笑顔をつくると、窓際へと歩いていく。

 ロッカの進行方向に視線を向けると、窓際の一番隅に、ひっそりと段ボールが一箱置いてあった。

 あそこに、この部屋ひとつはふっとばしてしまうニトロが置いてあるのだろう。

 

 午前8時。

 アキから召集がかかり、俺たちは講義室Aに集まった。

 教壇にはあのアパートから持ってきたであろうテレビが置かれている。

 窓にカーテンが敷かれていることで室内は薄暗いが、すでにロッカが学校の電気を全て止めたようで、学校全体にうす暗さが漂っている。

 昨日、あのアパートに集まっていた見知った顔の女子たちばかりだったが、その友だちなのか、新しい顔もチラホラ集まり、全員で50人ほどが講義室に集まっている。

 大勢の人達の中から、ハルが俺だけを見つめて真っすぐとこちらに向かって来た。

「おはよう」

「おはようじゃないよ」

「え、なにかな」

 昨日から何度も思い知らされているが、本当に、苦手だ。

 トーコは本当にこの子と仲が良かったのだろうか。

「トーコがアキさんに何も言ってくれないから何人かはボイコットしたよ」

「こんなに集まっているのに?」

「本当は、100人は集まる予定だった」

 それは言いすぎだろう。

「ほとんどの人がトーコに期待していたのに。トーコがそんなんだからこんなに人数減ったんだよ」

 申し訳ないが、知ったこっちゃない。

「全てをトーコ頼りにしていいの?」

 ハルの前に立ちはだかったのは、カレンだった。

「トーコは、私達の前に現れてくれた救世主だった。ほんの1ヶ月前までは、ダリア連合軍は決裂寸前だったんだよ?それをトーコが、アキさんに代わって1年の私たちを説得して、だから今私達はここにいる。今この人数が集まってるのも、トーコのおかげなんだよ?」

 図星だったようで、ハルは固く口を結んだ。

 そうだったのか。

 全員が全員アキを信頼して集まってきたということではないのか。

 トーコ、お前やっぱりすごいやつだったんだな…。

 ますます、俺はトーコでありながら、トーコという存在を遠くに感じていた。

 

 教壇にはアキが立ち、そしてその両脇では園子と椿が俺たちに睨みをきかせていた。

 アキが静かに口を開く。

「すでに、多くの教員と学生が外に集まっている」

 カーテンを少しだけ開けてみると、教員と、学生、そして近所の住民だろうか。

 校舎の下に集まっている人たちが皆、5階を見上げていた。

「きっと警察側にももう情報がわたっているはずだ。顔を見られないように、顔を隠すこと。屋上はどこから狙われているかわからないから、むやみに出ないこと。武器は各講義室に配置すること。昨日伝えた定位置を極力守ること。非常時には私から声をかける」

 アキの一言一言に、女子たちが強くうなづいている。

 アキを見つめる目は、真剣そのものだった。

 トーコが大勢の人たちに慕われていたとはいえ、アキの信頼は確固たるものなのだろう。

 アキの話をぼんやりと聞きながら、俺はただただ、トーコがどんなヤツだったのか、ということを思い描いていた。

「では、全員配置に!」

 アキが声を張り上げ、女子たちは一斉に動き始めた。



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演説って楽しいかも

 カレンに手を引かれ、アキ、園子、椿に続き屋上に向かっていた。

 俺は、屋上で演説をするメンバーの一人なのだという。

「無理、絶対無理。俺は何もできないボンクラです。生まれてきてごめんなさい」

 口の中で何度も何度も見えない誰かへの謝罪を繰り返す。

 屋上に上る階段の前で、アキたちは首から下げているタオルでしっかりと口元を隠す。

 これは俺も知っている、典型的な学生運動のスタイルである。

 俺もそれに従いタオルで顔を覆った。

 

 カレンはもう、俺には目を向けていなかった。

 呆れることも疑うことも忘れ、ただ真っすぐ前を向いている。

 しかし俺はというと、腰が引けてしまいどうしても屋上へ登る階段に一歩踏み出せない。

 だって、俺が何をどう訴えるんだ?拡声器?あれ避難訓練でしか見たことがないよ。

 カレンはそんな俺の手を無理矢理引っ張り、そして振り返り言った。

「絶対にこの世の中に勝とうね」

 可愛らしい外見とは裏腹の、力強く、野心に満ちた目だった。

 俺は引っ張られるがまま、屋上への階段を上っていく。

 屋上は、カーテンで閉ざされた校舎内とは打って変わって、太陽の光を受け輝いていた。

 眩しい朝の日差しが、容赦なく俺をあぶり出す。

 拡声器を手にし、そのまま屋上のヘリへとアキが歩いている。

 残りの俺たちは、入口周辺で待機していた。

「我々は、ダリア連合軍である」

 アキの声が、広いキャンパスに響き渡った。

 さきほどカーテンの隙間から見た光景を思い出す。

 あの時ザワついていた大勢の学生と大人たちは今、一斉にアキに注目しているのだろう。

「戦争を好む国家に異議を申し立てるべく、我々はストライキを起こす」

 一呼吸置いたあと、

「この大学には、世界を破滅させるための国家機密が眠っている」

 という声には、大勢のどよめきが俺の元にも届いた。

「この国家機密を我々はすべて破壊する。交渉には応じたいと思っている」

 そしてアキは、下に集まっている人たちに向かって「戦争反対」と「女性の人権」について切に訴えていた。

 強風と爆音が聞こえ空を見上げると、上空をヘリコプターが飛んでいる。

 

 こんな状態で、何を話せばいいんだ。

 俺には訴えることなんて何もないし、今叫びたいのは、美少女戦士カラキダヨーコの新刊を読んでからせめてトーコになりたかったということだ。

 そうだ、あのとき安本についていかなかったら、俺は今頃新刊を3度は読んでいることだろう。

 今頃、美少女戦士になった夢をみて気持ちのいい朝を迎えられていたはずなのに!

 そうか、これはきっと夢だ。

 トーコだって、いわば美少女戦士のようなものではないか。

 もう朝。もうすぐ目覚める。

 俺はまた透になって、平平凡凡と生きて行くんだ。

 

 しかし、アキに渡された拡声器の重みはあまりにもリアルで、屋上に立たされた俺の頭の中は真っ白になってしまった。

 ヘリコプターのバタバタという爆音も、俺の脳みそに突き刺さるというのに、一向に目は覚めない。

 いつの間にかキャンパスいっぱいに集まっている人たちを目の当たりにして、これは間違いなく現実なのだということを実感せざるを得なかった。

 訴える言葉を一言も描けないまま、俺は拡声器のスイッチを入れる。

 長い沈黙のあと、

「マイクテスト」

 とだけ呟いてみたが、俺の情けない一言はキャンパス中に響いてしまった。

「トーコ!大丈夫?」

 後ろで、カレンが叫ぶ。

 大丈夫、俺に任せて。

 そう背中で語ってみたい。と涙目で思った。

 

 もう一度ノープランで口を開きかけたとき、俺の丁度下の窓が開き、垂れ幕のようなものが放たれた。

 そして、

「戦争反対!」

 というハルらしい女子の声があがった。

 俺はとっさに叫ぶ。

「戦争反対!」

 声が裏返ってしまった。

 すると、今度は大勢の女子たちの声があがった。

「戦争反対!」

 俺はもう一度叫ぶ。

「戦争反対!」

 今度も声は裏返ったが、さっきよりもさらに多くの女子たちの声がこの床の下から聞こえてきた。

 女子たちの「戦争反対」コールが、大学中にこだまする。

 俺はただ、無我夢中で「戦争反対」を繰り返し叫んでいた。

 何度叫んだことだろう。

 声を出しながらも緊張のあまり意識が遠のき始めたとき、誰かに拡声器を取り上げられた。カレンだった。

 俺は、助かった、とばかりに屋上の入り口に戻っていく。

 足には力が入らず、転びそうになりながらなんとか歩いていった。

 背後で、カレンが細い声を張り上げる。

「みなさんも、イメージしてみてください。大切な、家族や友だちや恋人が、戦火で焼け死ぬ姿を。私達日本人は、20年前の戦争で、政府の自己満足によるむごい仕打ちを食らったのではありませんか。もう一度、同じ過ちを繰り返すのですか」

 カレンの表情は見えないけど、なんだか泣きそうな声だった。

 もしかしたら、泣いているのかもしれない。

 隣りを見ると、アキもまた沈痛な表情を浮かべていた。

 園子も、椿もそうだった。

 この国では、いや、同じ日本なんだけど、共成5年だというこの国では、俺が生まれる頃に戦争が始まり、そしてまだ幼いうちに終戦したらしい。

 ここにいるみんなは、そのとき失った大切な誰かについて、大人になるにつれて真剣に考えるようになったのだろう。

 もしかしたら、トーコも親を亡くしているのかもしれなかった。

 俺はというと、戦争で亡くした親戚は確か一人くらいはいたはず。

 ただ、もちろん会ったことはない。

 しかも生まれてこのかた、身内が亡くなったことがない。

 両親はおろか、おじいちゃんおばあちゃんは4人とも健在である。

 唯一高校のときに、先輩の誰かが自殺したことがあったが、顔を見たことがあるだけだったから悲しみはなく、この前までいたあの人がこの世から消えた、ということについてただ不思議な感覚を味わっただけだった。

 俺って幸せだったんだなぁ。

 と、こんなところで思い知らされたのである。

 カレンの演説には、学校の下からのパラパラと拍手が起こっていた。

 バリケード封鎖には参加していない学生も、カレンと同じ想いを抱いているのだろう。 

 

 演説を終えた俺とカレンは、アキたちよりも一足先に講義室Aに戻った。

 講義室Aでは、全員がただ静かに上から聞こえてくる椿の声に耳を傾けていた。

 俺とカレンに気づいた女子たちは、何も言わず、肩や頭をポンっと叩いてくる。

 中には、涙を浮かべている人もいるし、すでに号泣している人もいる。

 教壇に置かれたテレビは消音になってはいるが、朝のワイドショーが、リアルタイムで花巻女子大学を放映しているのがわかる。

 テレビには、屋上で演説をする椿の姿と、それを見上げている大勢の人たちが写しだされていた。

 俺は窓からじっと外を見つめているハルを見つけ、声をかけた。

「ハル、ありがとう」

 ハルは、熱心に椿の声に耳を傾けていたことで少しばかりビクッと体を弾ませたが、俺に気づくとすぐに口の両端をあげる。

「困っていたらお互いさま。それより、体もう大丈夫なの?」

「うん、もう大丈夫」

 そしてハルはまた、窓にしがみつきカーテンの隙間から外の様子をうかがいながら、椿の声に耳をすませた。

 その様子を見ていて、なんとなくわかった。

 この子は、とにかくガムシャラなのだと。ガムシャラすぎて、時々独りよがりになっては憤慨して。

 全く、こんな性格はさぞかし疲れるだろう。

 でも、こんなハルのことを嫌いではない、と思う自分がいた。

 

 椿の演説は、俺にとって「?」でしかなかった。

 量子化学による分子構造から見た世界がどうかとか、重水素と三重水素の異次元的活用法だとか、資源から無限なエネルギーを製造することで訪れる平和だとか、なんとなく平和を訴えているんだろうなとは思うものの、全くもって聞きやすい話ではない。

 この人、ものすごく恐ろしい人だと思っていたけど、小難しいことを並び立てながらもあまり現実味のないことばかりを口にしている気がする。

 もしかしたら、いやまさかとは思うけど、戦後世界を生きながらも非現実的な空想を愛するいわゆる中二病なのだろうか。

 マスクも黒かったし。

 透の世界では、というかこの言い方もおかしいが、とにかくつい最近黒いマスクが流行り始めたが、まだまだ俺は黒いマスクをつける人は中二病かギャング的な何かと思っている。だから目を合わせることに気が引けたりもしていた。

 周りを見てみると、みんな熱心には聞いているものの、やはり全ては理解しきれていないようだ。

 目を泳がせている女子もいる。

 ハルに、

「椿さんの言ってることわかる?」

 と恐る恐る聞くと

「わかるわけないじゃん」

 と潔い返事が帰ってきた。

 そうか、椿は方向性は違えども、同士なのかもしれない。

 きっと仲良くはなれないけど…。

 

 あくびをかみ殺したときに、プツっと椿の声が途絶えた。

 カーテンの隙間から窓の外を見ていた女子たちと、教壇のまわりでテレビを見ていた女子たちが口ぐちに「来た」と声をあげている。

 俺も、ハルの横から外を覗き見る。

 正門から校舎の入り口にかけて、整列した機動隊がこちらに向かって来ているところだった。

 ヘルメットをかぶり、大きな鉄板のような盾を持っている。

 きっと、あの制服の下には防弾チョッキなどを身にまとっているのだろう。

 機動隊が出動するにはやけに早いと思ったのだが、それがこの大学に国家機密が眠っているという疑いに拍車をかけた形となった。

 室内が興奮で満たされたときに、園子が講義室に駆けこんできた。

「全員戦闘配置に!」

「はい!」

 全員の返事が響き渡った瞬間、俺はカレンに手を引っ張られていた。

 俺の記憶が曖昧だから導いてくれているのかもしれないし、俺が逃げないようにつかまえているだけかもしれない。

 どちらかはわからないが、とりあえず俺が行き先に迷うことはなかった。



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機動隊と小競り合い

 俺とカレンは、講義室Cの武器製造室担当だった。

 まだまだ材料が余っている武器をひたすら作り続け、そして講義室AとBに運んでいく。

 危険すぎるニトロを守るのも、俺の役目だった。

 C講義室の担当はロッカ。俺たちにきびきびと指示を出す。

 ニコニコしていたロッカの表情が引き締まっているということに、俺の気も引き締まる。

 俺はカレンと組み、火炎瓶が詰め込まれているビールケースを台車に乗せ、隣りの講義室Bに運ぶ。

 Bでは、窓を開けてハルが拡声器を使って「侵入は認めない。交渉には応じる」と同じ言葉を何度も叫んでいた。

 Aからも、何人かが同じ言葉を叫んでいるのが聞こえる。

 しかし、機動隊は全く聞き耳を持たない。外から「突入!」という男の声と、大勢の足音が聞こえてきた。

 ハルに火炎瓶を渡しながら外を覗き見ると、2、30人はいる機動隊が校舎にどっと走り込んでくるところだった。

 しかし、校舎の入り口にはしっかりと鍵を閉め、机や備品を積み重ねて有刺鉄線で固めた頑丈なバリケードもはっていた。

 機動隊はそこから入ってこられず、ドアや壁を叩きながら右往左往していた。

 ハルが

「攻撃!」

 と叫ぶ。

 すると、ハルを始めとする女子たちが火炎瓶の布部分にライターで火をつけ、下の機動隊に向かって放り投げた。

 いくつもの火炎瓶は「パリン」と小気味いい音をあげ、そして思いのほかすさまじく燃え上がっている。

 地面の上で燃え盛っている炎から、機動隊は散り散りに後ずさる。

 とはいえ、ガソリンが燃え尽きると火も消えてしまう。

 それ以上進めないよう、火が途絶えないように次々と火炎瓶を投げていった。

 俺も、講義室Bの火炎瓶を途絶えさせてはいけないと、また武器製造室に走る。

 武器製造室では、さきほどコツをつかんだ製造係たちが鬼気迫る様子で次々と武器を製造していた。

 火炎瓶ひとつであんなにパニックに陥っていた女子たちが、その数時間後には武器製造マシンへと成長しつつあった。

 女子の底力はスゴイ、の一言に尽きる。

 屋上からは、アキが拡声器を使い、外に集まっている大人たちや学生、機動隊や警察関係者に訴える声が校内にも響いていた。

 俺はそんな中で、夢中になって火炎瓶の運び屋をこなしていた。 

 

 透だった頃、こんなにも走ったことはあっただろうか。

 みんなで一丸となって、何かに夢中になったことはあっただろうか。

 いや、高校にさかのぼっても、中学にさかのぼっても、実は小学校でもこんなことなかった。

 人よりも頭ひとつ劣っていると小二で早々と気づいてしまった俺は、それからの人生目立つことなくただひっそりと息をしてきたようなものだった。

 部活も帰宅部だったし、テニス部や野球部が練習に熱中している様子を横目に俺は通学路を行き来していた。

 あんなに汗をかいて何が楽しいんだろう、と思っていたが、汗をかくことがこんなにも楽しいなんて。

 なにより、ここは女の子の園である。

 女の子たちが汗を流しながらひとつの目標に向かって必死になっているというのは見ていて気持ちがいい。

 いや、なんだかおっさんのような気持ちではあるのだが、この中にいられることへの優越感が俺を奮い立たせていた。

 

「トーコ、ブロックも持ってきてくれない?あいつら、消火器出してきやがった」

 火炎瓶を渡しながら、ハルに言われた。

「本当だ。ひきょう者!」

 なんとなく、興奮して、ヤジのような言葉を下で火消しに翻弄している機動隊たちに投げかける。

 と同時に、俺は思い切り火炎瓶を投げつけていた。

 俺が投げた火炎瓶は、消火器で消火作業をしていた機動隊の頭に直撃した。

 思わぬ事態に、俺もハルも息をのむ。

 頭に火炎瓶を食らった機動隊の一人は、火がついてしまったヘルメットをぶるぶるんと振りその場に倒れそうになっていたが、周りの仲間によりすぐに消火された。

 この一瞬で、全身にぶわっと冷や汗が出る。

「よかった」

 心の奥底から漏れた俺の言葉に、ハルは、

「殺しちゃったら意味ないからね」

 とぽつりとつぶやいた。

 

 ダリア連合軍の防御が意外にも厚かったことで、機動隊は一時撤退した。

 テレビの情報によると、マスコミと警察側にはすでにダリア連合軍がニトログリセリンを入手していることが知れ渡っているようだった。

 そこで、むやみに攻撃をすると爆発してしまうということから、撤退に至ったとレポーターは伝えている。

 しかし機動隊は諦めたわけではなく、学校の隅で整然と待機し、警視庁長官からの命令を待っているようだ。

 

 武器製造室で座りこんでいる俺のお腹がグーと鳴る。

 室内の時計を見ると、すでに午後3時を回っていた。

 機動隊との戦いに夢中になって気づかなかったが、実はもうこんな時間なのだ。

 それは、お腹もすくわけだ。

「おにぎり食べなよ」

 隣りに座りこんでいたカレンが、俺にアルミで包まれたおにぎりを手渡してくれる。

 カレンもまた、アルミを開き、大きなおにぎりを頬張った。

 カレンの顔をよくみると、頬と鼻にススがついている。

 それに気づかずおにぎりを頬張るカレン。

「おいしい」と頬を緩めるカレン。

 可愛すぎる。

 あまりにも幸せすぎて、このまま昇天してしまいそうだ。

 

 俺も大きな口を開け、おにぎりを頬張った。ほんのり塩加減のシャケおにぎりだった。

「これ、カレンが作ったの?」

「そうだよ。トーコがトイレに行ってる間にね」

 あの15分ほどの間にこれを作っていたのか。

 今となっては、「逃げなくて良かった」という気持ちが勝る。

「おいしいよ」

「ありがとう」

 神様、何度も言わせていただきますが、ありがとうございます。

 俺はこのシチュエーションを長い間待ち望んでいたのだ。

 これが、太陽の光が降り注ぐ芝生の上だったらどんなに幸せだったことか。

「これから、どうなるのかな」

 カレンが、周囲に座っている人たちに不安を悟られないよう、小さな小さな声で俺に囁いてくる。

 俺は、俺の頭で考えられるだけのことをそのまま伝えた。

「ニトロがあるってことがわかってるから、攻撃はしてこないと思う。アキさんとか椿さんが言ってる、国家機密ってのも守らないといけないだろうし」

「そうだけどさ、本当は、朝の時点で防衛省の人か警視庁の人が来て交渉をする、っていう計画だったんだよ。でも、そんな動きも全然ないじゃない」

「俺は、それは、あんまりにも短絡的な計画だと思うけどな。何人ものお偉いさんの許可を通過してやっと動けるものなのに、午前中に動けるなんてことはないと思うよ」

 俺の一言に、カレンが面くらっている。

 そういえば、昨日から情けない発言ばかり繰り返してきたから、なんとなくなりにもハッキリと発言していることに、カレンは驚いているのだろう。

 案の定、

「トーコがトーコっぽくなって良かった」

 とカレンが笑顔を見せた。



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少女を人質にするらしい

 午後4時。

 召集がかかり、俺たちは講義室Aに集まっていた。

 教壇ではアキと、珍しくロッカが立ち、二人とも神妙な面持ちで言葉を交わしている。

 隣りにいたカレンが、

「うそ、まさか、あの作戦に」

 とつぶやく。

 そのつぶやきがあまりにも不安気な色を出していたものだから、俺の心もザワついた。

 しばらくアキとロッカがやり取りをしていたが、アキがこちらを向き、声をあげた。

「これより、人質作戦にうつる」

 室内は、ほとんどが予想していたのだろう、悲しみを受け入れる、ため息とも言えぬ声があちらこちらからあがる。

「人質のあてはあるの?」

 俺はカレンに聞く。閉ざされた5階の中に、学生運動に参加していない人間が紛れ込んでいるとは思えない。

 どこからどうやって人質を確保するというのだろう。

「ロッカさんの妹だよ」

「妹?」

「そ。ロッカさんの妹のアイリ。どこかでずっとテレビを見ているはずだから、彼女だけにわかる合図を送るの」

 アキの横のテレビに目を向けると、屋上で園子がなぜかホースで水まきをしている姿が映しだされていた。

 血が流れたわけでもなく、汚れているわけでもない。

 しかしあれが、テレビを常に見ているであろう、アイリへの合図だった。

 

 完璧に封鎖されてしまった5階へは、普段の通路は使えない。

 機動隊の目を盗み、正門とは裏側から縄梯子を伝ってアイリはやってきた。

 アイリは、白いワンピースに赤いカーディガンを羽織っている、典型的なお嬢様だった。

「皆さまはじめまして。ロッカの妹の、アイリです。本日はどうぞよろしくお願いいたします」

 アイリはか細い声で歌うように言うと、丁寧に一礼した。

 ロッカが一歩前に出る。

「アイリは、人一倍反戦運動に関心があって、本当はダリア連合軍に入る予定だった。でもこの日のために、人質になるために全く無関係を装ってきてくれた。アイリとはよく外で落ちあって、この日のことをずっと話してきたの。お父さんに可愛がられるように勉強も頑張ってトップをとり続けてきたし、普段の生活もいい子すぎるほどに過ごしてきた。すべては、この日のために。私達の要望が、警察側、政府側に受け入れられるように。アイリは、形は違えど、立派な戦士よ」

 皆から、大きな拍手が起きる。

 俺も手のひらが痛いほどの拍手を送った。

 小柄で大人しそうなアイリは、どこからどう見ても、この中に混じって学生運動をするタイプではない。

 それとも、そういうふうに自身をつくりあげてきたということか。

 きっと、父親の言いつけを守って夜7時以降は外出できなかったろうし、家にいる間はずっと勉強してきたんだろうな。

 想像するだけで吐き気をもよおす生活である。

 

「ではこれより計画に入る」

 アキはそう言い、ロッカとアイリと園子を従えて講義室を出ていった。

 俺たちは皆、不安を押し殺してそれぞれテレビで様子をうかがっていた。

 

 ほどなくして、花巻女子大学のバリケード封鎖を生中継しているカメラが、屋上に向けられた。

 ヘリコプターから撮っているのか、遠くからではあるが、ハッキリと4人が見える。

 誰かがテレビのボリュームを上げ、ヘリコプターに乗り込んでいるであろうレポーターの興奮気味な声が聞こえてきた。

「なんということでしょう。ダリア連合軍にのっとられた大学の屋上に、ぽつりと女の子が一人、立ちつくしております。あの様子から見ると、仲間というわけではないようですが、まさか、人質ということでしょうか。見てください、後ろ手が縛られているようです。大変なことになりました。ダリア連合軍が、人質をとりました!」

 なんて的確にダリア連合軍の思惑を伝えてくれるレポーターだろう。

 テレビ画面では、ロッカがアイリの手元を自由にし、拡声器を渡す姿が映っている。

 そして、アイリの声が、外から聞こえた。

「私は、花巻女子大学に通う1年です。レポートを提出しようと思い、朝早く大学に来たところを、拉致されました」

 アイリは淡々と語り、そして一呼吸おいて涙声で言った。

「お父さん、ごめんなさい。でも、このままだと私、殺されます」

 俺がお父さんだったら、今から全速力で助けにいくと思う。

 こんな可愛い娘を放っておく父親なんて、一体どこにいるというんだ。

 ダリア連合軍の勝利が、見えた気がした。

 

 ダリア連合軍は、しばらく沈黙を貫いた。

 機動隊も、まだ指示が出ていないのか、キャンパスの脇に並んで立っているだけで、何もしかけようとはしてこない。

 学生や近所の人たちのキャンパスへの立ち入りは禁じられ、夕方の大学とは思えないほどの静けさに包まれていた。

 しばしの休戦状態となり、割ってしまった瓶を片づけたり、バリケードの強度を確認したりした。

 

 みんながゆっくりと活動をしている中、俺は眠い目をなんとかこじ開けなければならなかった。

 緊張の糸が切れたことで昨日からほとんど感じなかった眠気に襲われていたのだ。

 たぶん、今眠っておかなければ今日これから大変なことになるだろう。

 危険な状態に瀕したときに立ち向かえるよう、今寝ておいた方がいいだろう。

 という言い訳をつけ、俺は武器製造室の一番後ろの席にゴロンと横になった。

 幕板が目隠しになっているタイプの机は、イスに寝転がってしまえば前からは見えない。

 こういうときにはとても便利である。

 顔を伏せる前に、教壇の方でキョロキョロと俺を探しているであろうカレンの姿が目に入った。

 申し訳ないが、少しだけ寝させてもらいます…。

 目を閉じ、ぐいぐいと眠りに吸い込まれそうになったとき、すぐそばから声が聞こえた。

「ごめんね、アイリ」

 ロッカの声だ。

 目を開けると、俺の姿に気づいていないのか、俺のすぐ前の席にロッカとアイリが座ったところだった。

「いいの。こうやってちゃんと話すの半年ぶりだね。それより姉ちゃん、ちゃんとやってるの?」

 アイリの強気な言葉に、思わず起き上がりそうになる。

 さっきまであんなにか弱そうに振る舞い、震える声を出していたのに、今ではロッカよりも低くしっかりとした声を発している。

 ここまで演技派だったとは、全く恐れ入る。

「大丈夫。アキも園子も椿もいるし」

「でも姉ちゃん、あの人たち苦手だって言ってたじゃん」

「うん、まあ、今でも苦手というか、むしろ嫌い。だって、こんな計画をたてるような人たちだよ?鬼だよ」

 そう言って二人はフフッと笑う。

 今、聞いてはいけない話を聞いている気がする。

 でも、ここで起き上がったところでタイミング悪すぎだろう。

「でも思った通りに動いてくれる人たちだよ」

「そうだね、こっちがその気になれば危険なこともやってくれそう」

 あのニコニコしたロッカが、アキや椿たちをこんな風に思っているとは思わなかった。

 人それぞれ裏表はあるというけれど、ちょっぴりショックである。

 一体この姉妹は何をたくらんでいるのだろう、と内心ドキドキ聞いていたのだが、なんてことはなかった。

「これで、お父さんも私たちのことちゃんと見てくれるかな」

 これが、アイリの本音だった。

「姉ちゃんが学生運動を始めてからお姉ちゃんのこと完全無視じゃん?私にだけ理想を押し付けて」

「ごめんね、一人で辛かったよね」

「そうじゃないの。私は私で戦ってるし、姉ちゃんは姉ちゃんで戦ってるからお互い様。姉ちゃんも、いない人みたいに扱われて辛かったでしょ?」「そんなことないよ。アイリの方が辛いだろうって思ってたから」

 俺は、ゆっくりと目を閉じる。

「きっとこれが終わったらさ、お父さんもアイリのことちゃんと考えてくれて、ピアノとバレエと英会話もやめさせてくれると思う。やめられたら、どこに行く?」

 ロッカが、ウキウキとアイリに話しかけている。

「私、渋谷に行ってみたいの」

 アイリは、東京に住んでいながら、渋谷にも行ったことがないというのか。

 なんとなく、「渋谷は危ないところだから行ったらダメだ」と言っている父親の様子が浮かぶ。

 全く、いつの時代の父親だ。可愛すぎる娘のことを溺愛しているのはわかるが、それはやりすぎだろう。

「渋谷か。いいね。買い物いっぱいしようか」

「テレビではちょっと見たことがあるんだけど、どのお店がいいのかな」

「832ができたから、一緒に行こうよ。私も、これが終わったらアイリと行こうと思って、まだ誰とも行ってないんだ」

「ああ、テレビで見たよ!どんなお店なの?」

 109なら聞いたことがあるが、832?あの交差点にあるあの建物だろうか。

 ハチサンニ。ヤサニ。野菜?ああ、八百屋か…と、自分の頭の鈍り具合に思わず苦笑してしまう。

「ハチミツっていう、ハチミツみたいな、可愛い服だけ置いてあるお店なんだよ」

「へ~行ってみたい!」

 ハチミツとは、なるほど。ただ、ハチミツみたいな可愛い服という表現が俺にはさっぱりわからない。

 俺には到底理解しがたいジャンルの洋服なんだろう。

 

 二人はそれから、カラオケに行ってみたいとか、アイドルショップにも行ってみたいとか、とりとめがないほどに、バリケード封鎖が終わったあとのことを語っていた。

 なんてことはない、仲の良い姉妹の会話だった。

 俺はそのくすぐったくも心地良い、優しい会話をこもり歌に、いつの間にか眠りに落ちていた。



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間違いが始まった

 どれだけ眠っていただろうか。

 しっかり暗くなってしまった室内で、ヘリコプターの音と、カレンの声で目が覚めた。

 一瞬、カレンなのか花梨なのか、そして自分が透なのかトーコなのか混乱してしまったが、目の前にいるのはカレンで、そして俺はトーコだった。

「もう、なんでこんなところにいるのよ。早く行かないと」

 寝ぼけ眼をこすりながら、講義室内の時計を見ると、もう夜の7時をまわっていた。

 起き上がると、武器製造室はすっかり整えられていて、またしても女子の世界にいる素晴らしさを目の当たりにする。

 男だけでバリケード封鎖をしたら、きっとこんなキレイにはいかないだろう。

 

 カレンに連れられ、講義室Aに急いだ。

 廊下に出た途端、2人の機動隊と、女子たちに囲まれたスーツの男が講義室Aに入っていくのが目に入る。

 カレンが慌ててタオルで口にマスクをするのにならい、俺も慌ててタオルで顔を隠す。

「あれ、誰?」

 校内には女子しかいないと思っていたため、俺はその男に釘づけになってしまった。

 背が高く痩せ形、ちょび髭をたくわえ、めいっぱい胸を張って歩いている。

「警視庁長官だって」

 さきほどのヘリコプターの音は、彼らが屋上に降り立った音なのだろう。

 俺たちは、その警視庁長官のあとから室内に駆けこんだ。

 教壇には、アキ、園子、椿、そしてロッカとアイリが立っている。

 ダリア連合軍の皆も、タオルで顔を隠し、教壇を囲むようにして集まっている。

 機動隊員たちを睨みつけ、今でもとびかかる勢いである。

 俺は、なんてときに寝てしまっていたのだ。

 あまりの間の悪さに、アキが警視庁長官と挨拶を交わしているのを横目に、隠れるように一番後ろにまわった。

 

「こちら、警視庁長官の橋野井さんだ」

 アキの声に、何人かが中途半端におじぎをする。

「えー、みなさん、こんばんは」

 橋野井は、笑みすら浮かべながら、俺たちをなめるように見まわした。

「女がこれだけ集まっているのは、素晴らしいですね、なかなか体験できません。ん~、いいニオイ」

 そいつはジョークなのか本気なのか、一人一人の顔を品定めするように見ていく。

 あまりにも屈辱的な対応に、一番前にいたハルが、怒りを抑え切れず橋野井に殴りかかろうとする。

 しかし機動隊員に銃を向けられ、周りの女の子たちが慌ててそれを抑えた。

「中には、野蛮な子もいるんですねぇ」

 と橋野井は嬉しそうに笑う。

「橋野井さん。要件ですが」

 アキが冷静に口を開き、橋野井は

「おっと失礼」

 とわざとらしくおでこをペチっと叩く。

 昭和すぎるリアクションに、笑いをこらえなければならなかった。

 カレンに「あの人コントみたいだね」と話しかけようとしたが、カレンは怒りに満ちた顔で橋野井を見つめている。

 どうやら、この室内で笑いをこらえている不謹慎なヤツは俺だけだった。

 

「えー結論から言いますね」

 橋野井の言葉に、一同はゴクリと息をのむ。

 いよいよ、このバリケード封鎖の目的が果たされようとしているのだ。

 バリケード封鎖が解かれたら、俺も早く家に帰りたい。

 両親が透と同じなのか、そして健在なのか、猫を飼っているのか、美少女戦士カラキダヨーコの漫画があるのかは知らないが、とにかくすぐにでもここから出たいと思った。

 まだまだ、確かめたいことが山ほどある。

 しかし、橋野井が発したのは、予想外の一言だった。

「我々は、あなたたちの要求は一切聞き入れません。明日の朝までにここから出て行かないと、本格的に攻撃を開始します」

 室内が、どよめきに揺れた。

 そのどよめきに合わせるように、機動隊の銃が俺たちに向けられる。

 俺も、カレンも、言葉を失っていた。

 朝早く起きてあんなにも準備をしたのに。

 機動隊と戦って、危険な思いもしたのに。

 アイリだって、わざわざこの日のために辛い生活を送ってきたというのに。

 

 アイリが、ロッカに後ろ手につかまれながら、一歩橋野井に近づく。

「私は、私はどうなるんでしょうか」

 屋上で話していたときの、あの震える声である。

 そうだ、人質がいるのに要求に応じないとは、どういうことだ。

 見殺しにするというのか。

「解放されたら、そのままお帰りください」

 橋野井の言葉はあまりにも人ごとで、あまりにも事務的なものだった。

「あの、お父さんにも伝わっていますでしょうか」

 アイリは諦めず、橋野井に食い下がる。

 しかし橋野井はあっけらかんと言った。

「伝わっていますよ。あなたのお父様は、見殺しにして構わない、と言っております」

「見殺し…?殺されてもいいって、そうお父さんが言ってるんですか?」

「ええ、その通りです」

 ウソだろ。

 あまりにも信じられない言葉に、愕然としてしまった。

「うそでしょ…」

 隣りのカレンも、俺と全く同じ反応だ。

 カレンだけじゃない。室内中が、戸惑いの声に包まれていた。

 冷静に口を開いたのは、アキだった。

「この大学にある国家機密。あれがどうなってもいいのか」

 すると、橋野井がダリア連合軍一同を見渡しながら言う。

「ええ。この中に、我々の犬がいますからね」

 そして、楽しそうに笑い、踵を返した。

 今、確かにハッキリと「犬」と言った。

 「犬」とは、一体どういうことなのだろうか。

 

 帰ろうとしている橋野井に食い下がったのは、アイリだ。

 後ろ手に縛られながらも、体当たりで橋野井の進行方向をふさぐ。

「助けてください。お願いします。お父さんにもう一度連絡してください」 

 アイリらしい、迫真の演技だと思った。

 女好きらしい橋野井のことだ。

 あの涙に、もしかしたらコロっとやられるかもしれない。

 しかし橋野井は首を振る。

「いいえ、お父様に絶対に見殺しにしてくれとお願いされています。恥さらしの娘二人などいらないと。息子だけで十分だと言っておられました」

「ウソです。もう一度、話をしてください。いいえ、私に話をさせてください」

 アイリは、ひざまずいて橋野井に懇願する。

 橋野井はしばらく、泣き叫ぶアイリを口元に笑みをたくわえながら見つめていた。

 そしてスーツの内ポケットに手を入れる。

 涙をふくハンカチでもさし出すのかと思いきや、橋野井が取り出したのは拳銃だった。

「黙りなさい」

 

 パン。

 

 乾いた音が響いて、アイリが不自然につんのめり、背中から倒れた。

 

 学校中に響き渡るほどの、悲鳴があがる。

「アイリ!」

 ロッカがアイリに駆けよる。

 前の方から、大勢の女子たちがパニックに陥り後ろに向かって走ってくる。

 その背中に向かって橋野井が大声を張り上げた。

「こうなりたくなければ、夜明けまでにここを出ることだ。そうでなければ、あなたたちはもうここから出られないでしょう」

 橋野井は、まるで楽しんでいるようにスキップでアイリをまたぐと、足取り軽やかに講義室をあとにした。

 機動隊が2、3発天井に威嚇発砲をし、そして背後を確認しながら、橋野井に続く。

 講義室内は騒然とし、皆部屋の後ろの方にかたまっていた。

 

 俺はというと、ただ茫然とロッカとアイリを見つめていた。

 アイリは、真っ白な顔をして額から血を流している。

 ロッカは顔のタオルをはぎ取り、そのタオルでアイリの血を拭く。

 しかし血はどんどん溢れていき、タオルはすぐに真っ赤に染まってしまう。

 なすすべなく、ロッカはアイリをただただ強く抱きしめる。

 「アイリ、アイリ」と何度も叫ぶが、アイリはもう動くことはなかった。

 カレンが、俺の腕をギュッとつかみ、俺は自然とその手を握り返していた。



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内輪揉めが始まった

 講義室は、静寂に包まれた。

 ヘリコプターが去っていく音を聞き、それから長い間すすり泣く音だけが室内に溢れている。

 ロッカはあれからアイリを抱きしめたまま動かない。

 ブツブツと何かをアイリに囁き続けているのは聞こえるが、アキや椿の声にも耳を傾けず、その場を動こうとはしなかった。

 皆もまた、この部屋から出られずにいる。

 後ろの方にかたまってしゃがみこみ、泣き崩れている人もいる。

 カレンは、俺の横で震えていた。

 そんなカレンにかける言葉を探し、なるべく動揺を隠すように強い口調で言った。

「早く、ここを出よう」

 しかしカレンは、

「今出たらあいつらの思うツボだよ。ダメだよ、今さら逃げるなんて」

 と息荒くまくしたてた。

 その言葉に、俺はなすすべなく黙りこむ。

 カレンはやはり、誰よりも野心の強い人だった。

 俺は今すぐにでもここを逃げだしたい。

 トーコがハルに言っていた通り、やっぱりこんな少人数でのバリケード封鎖では戦えなかったのだ。

 

 テレビを見ていた誰かが言う。

「もう、花巻女子大学のことどこも報道してないよ」

 その一言に、何人かがテレビの前に集まる。

 そして口ぐちに「本当だ」「なんで」と悲鳴のような声をあげた。

「報道規制だ」

 椿が言う。

「警察側が、私達を排除することを決めたんだ。私達は、もうここから逃げられない」

 椿の発言は、的を射ていると思う。

 警視庁長官である橋野井が、拳銃で殺人を犯したのだ。

 きっとあの時、俺たちを見限ったのだろう。

 そしてその事実は同時に、俺たちをここから出さないという意志表示となった。

 

「逃げるなら今だと思う。まだ攻撃は開始されていない。外も暗いから逃げられる可能性は高い。どうする?」

 椿からの投げかけに、一同は顔を見合わせそれぞれ相談をしているようだった。

 カレンを見ると、カレンは真っすぐ椿を睨んでいる。

 さっき言った通り、カレンはまるで逃げる気はないのだろう。

 しかし結論が出る前に、教壇の方で奇声が上がった。

 ロッカだった。

 ロッカが、アキにつかみかかっているのだ。

「なんでアイリが殺されなければならないの。あんたがこんな計画たてたからだ、なんでアイリがこんな目に」

 ロッカは、涙でぐしゃぐしゃになりながらアキを床に押し倒す。

 しかし心身ともに弱っているロッカはすぐにアキと園子によって取り押さえられてしまった。

 

 アキがロッカの胸倉をつかみ、そして拳が顔面を直撃する。

 血を吐き出し、床に強く叩きつけられた。

 女子たちの小さな悲鳴が聞こえたが、アキはおかまいなしに何度もロッカの顔面を殴る。

 ロッカの顔はすでに腫れあがり、鈍い音とともに、頬の骨が歪んだ。

 明らかに戦意喪失状態のロッカだが、アキはまだ許してはいない。

 自分の手に付着した血をぬぐい、園子に続けるよう指示を出した。

 園子は言われるがままロッカに近づき、そして思い切り腹を蹴りあげる。

 ロッカの重たい体が一瞬浮くほどの威力だった。

 ロッカはさらに吐血したが、すでに意識を失っているようだ。

 しかし園子は、その近くに座りこんでいた子の手を引っ張り立たせ、ロッカを殴るよう指示を出した。

 そして、

「みんなもロッカに制裁を加えて。アキに殴りかかるなんて裏切り者もいいところでしょ」

 と信じられないことを訴えだした。

 そしてさらに信じられないことに、大勢の人が立ちあがったのだ。

 俺は巻き込まれたくなく、机の下に顔をうずめた。

 そんな俺に、涙を浮かべたハルが駆けよってきた。

「ねえ、トーコ、どうにかしてよ。なんとか言ってよあいつらに」

 俺は、首を横に振る。無理だ。俺に何ができるというんだ。

 カレンも同じように、ただただ床を睨んでいる。

 すぐに、折れた骨の上からさらに殴る音が生々しく響き、そして誰かがブロックを投げつけたのか、「ボコッ」とコンクリートが崩れる鈍い音が響く。

 俺は、ハルの手をつかみ、見つからないように机の下に引っ張り込んだ。

 ハルも危険を感じたのか、その場でうずくまり、ただただ涙を流しているだけだった。

 ロッカを殴り蹴るその音は、アキが

「もういい」

 と言うまで続けられた。

 

 顔をあげると、血だらけのロッカが横たわっていた。

 園子たちがロッカを持ちあげ、アイリの横に並べて寝かせる。

 指先がまだ動いているのでかろうじて息はしているのだろう。

 しかし、もうロッカの顔は原型をとどめていなかった。

 アキが、血だまりの横に立つ。

 そしてじっくりと講義室内を見渡し、言い放つ。

「この中に、裏切り者がいる」

 今日何度目のどよめきだろう。

 ため息や悲鳴が入り混じり、皆混乱しているようだった。

「橋野井は、この中に我々の犬がいる、と言っていた。推測するに、そいつが研究室内の国家機密を持ち出したあと、警察側は一斉に私達を攻撃するのだと思う。そんなことにならないよう、まずは裏切り者をあぶりださなけらばならない」

 アキはそう言いながら、俺たちの方に歩いてくる。

 そして俺の横でピタッと止まり、言った。

「裏切り者は、トーコだ」

 え?俺?

 皆も、「信じられない」という顔をしている。

 カレンも、ハルもだ。

 ハルがアキの体にも怒りにも触れないよう言葉を選び、でも噛みつくように言う。

「トーコは裏切り者ではないと思います。何でそう思うんですか。聞かせてください」

 ハルの言葉に、アキは大きくも冷たい目を俺に向けた。

「こいつは、銃を隠し持っていた」

 そして、昨日の夜アキに取り上げられた銃を、アキが俺の前に掲げる。

「そうだろ、トーコ」

 徐々に強くなる皆の疑いの目に、俺はうなづくことも、否定することもできなかった。



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組織が分裂してしまった

 アキは、銃を俺に向け、じわじわと迫ってくる。

「正直に言え。あいつらの犬とは、どういうことなんだ?」

 周りからの痛いほどの視線を浴びながら、なんとか声を絞り出す。

「俺は、何も知りません。拳銃も、なんで持っていたかとか、そういうの知らないし」

 喋れば喋るほど、俺の自信はなくなっていく。

だって、俺が知らなくたって、トーコ本人は知っているのだから。

「だったらなんでお前がこの拳銃を持っているんだ」

「だから、それは、知らないんですって」

 トーコはこんなに情けない声を出すヤツだろうか。

 俺はどんどん、トーコのことを情けないヤツにしてしまっている気がする。

 

 それ以上口を開かずにいると、俺に向けられていた拳銃がおろされた。

 安心したのはつかの間、アキからとんでもない一言が発せられた。

「みんな、トーコも動けないようにしてくれ」

 その言葉が、俺へのリンチ命令だということは明白だった。

 俺は、ゆっくりと一人一人の顔を見ていく。

 疑いの目ばかりが俺に向けられていた。

 しかしその中には、アキへの疑いの目も少なからずあった。

 ゴンっ。

 と後頭部に衝撃が走り、後ろを振り返る。

 振り返ると、そこには一度も会話したことのない子が俺を睨んでいた。

 ロングヘアで、小柄で、興奮しているのか怯えているのか、ぶるぶると震えている。

 その子が、手に持っていたゲバ棒で俺に殴りかかってきたのだ。

「千鶴、やめろ!」

 呆然としている俺の代わりに、ハルが俺と千鶴の間に入る。

「トーコがダリア連合軍を裏切るわけないよ。だって、私たちをダリア連合軍に引きこんでくれたのはトーコなんだよ?それが、なんで裏切る必要がある?最初から裏切ろうと思っているんなら、私たちをひきこむ必要はないでしょ?」

 ハルの言葉に千鶴は目を泳がせ、口元をひくつかせる。

「あ、いや、違うんです、命令だから、と思って」

 そして素早く、アキの後ろに隠れてしまった。

「だったら拳銃を手に入れた経緯をきちんと説明して」

 前に出てきたのは、園子だった。

「……気づいたら、あったんです」

 俺がボソボソと口を開くと、前にいたハルが俺をこづいた。

 そして小さな声で

「ちょっと黙ってて」

 と囁くと、一歩前に出て、アキに、園子に、みんなに呼び掛けた。

 

「正直に言う」

 ハルの目はとても強く、ずっと先を睨んでる。

「私は、これはアキさんがトーコをはめるために用意したものだと思う」

 講義室の空気が固まった気がした。 

 なんてことを言うんだこいつは。

 カレンも同じことを思ったようで、ハルをなんとか止めようとしている。

「ハル。やめよう。そういうこと言うの」

 しかしハルは聞かない。

 

「私は、アキさんを信じていないわけじゃない。でも、トーコを疑うのは絶対に間違っている。私は、今の腐った日本をどうにかしたいと思った。でも、ダリア連合軍でデモやバリ封を起こすのは正直いって、不安だった。独裁思考のあの人に本当についていけるのか、それが不安だったんだ」

 ハルはアキを容赦なく指さし、そしてしっかりと見つめた。

 アキは何を考えているのか、無表情でハルのことを見つめ返している。

「でもトーコから、『みんなそう思っているから人が集まらない。たとえ不安があったとしても、動かないでどうする。不安なときこそ動くんだ』って説得されて、ダリア連合軍に入った。トーコは本気で、この世の中を変えたいと思ってるんだよ!そんなトーコが、政府の言いなりになるとは、私は思わない!みんなどう思う?」

 ざわついていた一同だったが、今は無言で床や壁を睨んでいる。

「私は、まずはダリア連合軍で革命を起こさないといけないと思う!指揮者を、みんなで引きずり降ろすんだ!」

 ハルは汗をかいていた。

 よく見ると、指先も震えている。

 なんだよ、ハル。

 お前、めっちゃいいヤツじゃねーか。

 俺を助けるために、なんでそこまでできるんだ。

 ハルの説得にうなづいた子も確かにいた。

 でもここから見る限り、ハルの意見に賛同している子は少数だった。

 

 しばらく沈黙が続き、俺の横で風を切る音が聞こえた。

 顔をあげると、ハルが目の前で園子が振りかざしたゲバ棒をしっかりと受け止めていたのだ。

 その瞬間、講義室内の空気が一気に動く。

 カレンがゲバ棒を持っていた園子を突き飛ばし、俺とハルの手を引き、出入り口に向かって走り出す。

 後ろを振り返ると、マツリが園子からゲバ棒を奪おうとしている。

 そこに何人かが群がり、マツリと数人が力を合わせ、そして園子からゲバ棒を奪った。

 予想外の出来事だった。

 こんなにも、トーコを支持してくれる人は多かったのか。

 講義室を出る瞬間、アキの冷たい視線と、ぶつかった。

 

 俺たちは、武器製造室となっている講義室Cに駆け込んだ。

 かろうじて月明かりがカーテンの細い隙間から室内に注ぎ込んでいるだけのうす暗い武器製造室に入っていくのはとても危険なことだと思ったが、むしろこれは自分たちの身を守るためでもあった。

 入り際にAを振り返ると、マツリを始めとした女の子たちがこちらに向かって走ってくるところだった。

 マツリと、20人ほどの女の子たちが、俺たちに続いてCに滑り込む。

「あとはアキ派だから!」

 マツリの言葉に、女の子たちが機敏に動き、ドアに鍵をかけ、ゲバ棒をドアにつっかえ棒のようにし、さらに机とイスをドアの前に積み上げていく。

 

 マツリが、まだ呆然としている俺の元へ駆け寄ってきた。

「トーコ、大丈夫だった?」

「俺は、大丈夫。みんなは?」

「みんなも大丈夫。あっちはひるんでて、手を出せるような状態じゃなかったから」

「だよね」

 ハルが口を開く。

「まさかこんな大勢に裏切られるなんて、思ってもないもんね、アキさんは」

 俺たちは、ドアの前に机やイスを一生懸命になって積み上げている20人ほどの女の子たちを見た。

 そのほとんどが、1年生のようだ。

 思えば、トーコが劇薬を飲んで目を覚ましたときに、あの和室になだれこんできてくれたあの子たちだ。

 トーコはやはり、これだけの人に慕われていたのだ。

 ドアの外側から、何人かがドンドンとノックする音が聞こえたが、開かないことがわかったのか、すぐにノックは鳴りやんだ。

 そして、園子の声が外で響く。

「ここに逃げ込んだやつら全員、我々ダリア連合軍の裏切り者、国家の犬だと断定する。全員、総括するべし!」

 総括。

 俺も聞いたことがある言葉だった。

 本来の意味は、全員をまとめることだが、たしか学生運動では「反省」という意味が含まれており、そしてそれは「リンチ」を意味したはずだ。

 ここでは同じ意味なのかはわからないが、みんなの顔を盗み見ると、泣きだしそうな子もいる。

きっと、ここでも「リンチ」と同じような意味で使われているのだろう。

 

「これからどうする」

 ハルが座席に座り、俺たちもそれにならうように後部座席周辺に座りこんだ。

 みんな、俺を見ている。

 きっと俺の指示を待っているんだろう。

「なあトーコ、どうする?」

 ハルもまた、俺の顔を覗きこんできた。

「どうするって…」

 子どもの頃から、女の子は守るものだと父親に教わってきた。

 でも、こんな状況ではなすすべなく、女の子たちの顔を見返すしかなかった。

 

「ねえトーコ」

 俺の隣りに座っていたカレンが、ぽつりとつぶやく。

「なに?」

「本当に、その拳銃はどうしたの?」

 みんなの視線が俺に集まる。

 みんな、真実がようやく明かされることを待ち望んでいるようだが、残念ながら俺は本当に知らないのだ。

 だから

「知らないんだ」

 とハッキリと答えた。

 そして

「本当のトーコだったら知ってるかもしれないけど」

 と思わずつぶやいてしまった。

全員の声には届いていないようだったが、カレンが

「どういうこと?」

 と吐き出すように言う。

 俺は、どう説明していいかわからず、ただ首を横にふりうつむくしかなかった。



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逃げようとしたけど、うまくいかない

 しばらくして、マツリが張りつめた空気を壊した。

「思い出しちゃったんだけど、

ハル、トーコはアキさんにはめられたって言ってなかったっけ」

 ハルは苦々しい表情を浮かべながら口を開いた。

「いや、私も確信はあったわけじゃない。トーコも記憶が抜け落ちてるから…正直なところはわからない」

 みんなも小さくではあるが、うなづいている。

「でも、最近のトーコに対するアキさんの態度を見ていると、やりかねないと思ったのは確かなの。トーコはアキさんに代わって、ダリア連合軍を引っ張ってくれる人だと私は思う。でも、私たちみたいな、心では密かにトーコがトップだと思っているような、そんな奴らが多いこともアキさんは気づいてる。だからおもしろくないんだと思う」

 今度はみんな、大きくうなづいた。

「ロッカさんにあんなことする人だもん…」

 カレンのつぶやきに、さらに沈黙が深まる。

「ここを、出たい」

 誰かがぽつりとつぶやく。

 それを皮きりに、みんなの本音が一気に溢れだした。

「アイリはなぜ殺されたの?」

「ロッカさんも、死にかけてる」

「アキさん、絶対おかしいよ」

「なんでみんなも手を貸したの?」

「私はやってない」

「でも、やらなきゃ自分もやられる」

 そして

「ここにいたら、どっちにしろ死ぬ」

 マツリの一言に、室内は静まり返った。

 

「トーコ」

 ハルの呼びかけに、再び注目は俺に集まった。

「私たちに指示を出してくれない?」

「そうだよ、武器の準備しているときは、あんなにてきぱき指示出してたじゃない。私はこうなったら、ここを逃げだしてもいいと思ってる。トーコはどう思うの?」

 カレンがすがりつくように、俺に問いただしてくる。

「えっと…」

 口を開いてみたものの、どうすればいいのだ。

 本当にここから逃げられるのか?

 アキと戦う?

 それとも警察側に降参する?

 何が正しいんだ。

 そしてこんなときトーコだったら、なんて言うべきなのだろう。

 俺はみんなの視線に耐えきれず、そして下を向いてしまった。

「残念だよ」

 カレンの声はむしろ、残念というよりも、軽蔑の色を含んでいた。

 カレンの中でも、葛藤しているのだろう。

 トーコがもしも本物のトーコじゃないとしたら、じゃあ一体こいつは誰なのか、と。

 

「脱出しよう」

 ハッキリと口にしたのは、ハルだった。

「橋野井を見たでしょ?警察があんなことするなんて、不祥事もいいところだよ。だからあいつらはもう、私たちを出さないつもりなんだと思う。そして、アキさんも私たちを出さないつもりでいる。マツリとカレンが言う通り、なんとか脱出するしかない」

「でも、どうやって?」

 誰かの疑問にハルは俺を見たが、すぐに目をそらした。

「よし、カーテンを伝って4階に降りよう。全部はずすと外の警察にバレるから、静かに静かに、一枚だけね」

 ハルに指示された子たちは、机の上に乗り、肩車をして少しずつカーテンを外していく。

 

 その間に、いざという時のため、俺たちは武器の準備をした。

 廊下の外側で待っているであろうアキたちに脱出がバレる前に、なんとか下の階に出なければならない。

 もちろん警察に見つからないよう、静かに計画は実行される。

 講義室Bにも、昼間の残りの武器が少し残っているはずだが、ここに比べたらだいぶ少ないはずだ。

 そしてなんといってもここには、ニトロがある。

 横から視線を感じて目をやると、マツリが俺のことを見つめていた。

 目が合うと、ニコニコしながら俺に近づいてきた。

 

「トーコ、体調まだ悪いみたいだね」

「あ、ああ」

「脱出できればいいね」

「そうだね」

「トーコにもしものことがあったら、私がトーコを助けるから」

「……」

「私にも、最強の武器がある」

 マツリはまた愛嬌たっぷりの笑顔を振りまき、そして武器作りに戻っていった。

 マツリは、いい子なのには間違いないのだが、どことなく怖いところがある。

 少しばかり得体が知れず、何かが俺を不安にさせる。

 

 一枚が取り外されたカーテンの隙間から、月の光が煌々と室内を照らし、みんなの不安気な顔を映しだしていた。

 これからの動きについて、ハルが小さな声でみんなに指示を出している。

 カーテンを窓枠にしっかりとくくりつけてまず一人が下に降り、4階の窓を蹴破ったら、順番に下へと移動していくという作戦だ。

 恐らく蹴破った瞬間にアキ派にも警察側にもバレるだろうから、そうなったら残りの者で応戦する。

 すっかりハルはこの場を取り仕切り、俺はみんなの一番後ろでぼーっと突っ立って、その光景を見ていた。

 カレンも先頭を切り、武器の準備をしている。

 昨日までは、中学生の頃の花梨の印象ばかりが先行して、かよわくただ可愛らしい女の子だと思っていたが、芯がしっかりとしていて、俺なんかと比べ物にならないほどの強さを感じる。

 カレンをじっと見つめていると、目が合った。

 が、すぐに視線をはずし、黙々と作業を続けている。

 もう、俺は愛想をつかされてしまったのだろう。

 わかっていたけど気づかないふりをしていたこと。

 今までカレンが俺に優しくしてくれていたのは、俺がトーコだったからというのを痛いほどに実感してしまった。

 今ここから脱出することができたとしても、俺はこの先どうやって生きて行ったらいいのだろうか。

 昨日からの出来ごとがまるで夢だったかのように、突然漠然とした不安が俺を襲った。

 

「トーコ!」

 ハルの呼びかけに、ハッとする。

 気づくと、全員が俺を見ていた。

「え、なに?」

「なんでこんな時にぼーっとしていられるんだよ。作戦実行だ、わかってんのか?」

「あ、うん!」

「これ持って」

 ハルに手渡された火炎瓶を、ギュッと握りしめる。

「みんな、準備はいいね」

 全員がうなづき、窓が開かれた。

 

カーテンから4階に降りるのは、身軽ながら力が強い、1年生の光という子だった。

ショートカットで運動神経の良さそうな、いかにもスポーツ少女タイプである。

 脚力に自信があるらしく、「一発で窓を破る」と鼻息荒くカーテンに手をかけた。

 その時、廊下側からドアを蹴破ろうとしている音が聞こえてきた。

ドアはガンガンと音を立てて揺れ、周りに積み上げた机とイスが少しずつ崩れて行く。

「気づかれたか。光、お願い」

 ハルの一声に、光は窓の外へと消えていく。

 後ろでは、何人もがドアに体当たりしているらしく、机がすっかりと崩されてしまい、あとは鍵を破るだけの状態になってしまっていた。

ドアを抑えようとしている子たちも立ってはいられないほどに、ドアはすでにガタついていた。

「みんな、応戦の準備」

 ハルの声に、それぞれ火炎瓶を手にする。

 カレンも、ドアのすぐそばにたち、火炎瓶とブロックを抱えていた。

 俺はというと、そんなカレンの側に行くこともできず、火炎瓶を握り閉めながら窓際に立ちつくしていた。

 

「光、まだ!?」

 マツリが窓を覗く。しかし、

「光…?」

 すぐに表情が凍る。

「どうした?」

 ハルの不安気な声に、マツリは反応せずただ窓の外を見降ろしている。

 嫌な予感に襲われ、俺も恐る恐る外を見てみる。

「いない…」

 窓の外では、ただカーテンがぷらぷらと風に揺らされているだけだった。

 そして、そのずっと下では、目を見開いたままの光が横たわっていた。

 手足は不自然に折れ曲がり、頭から、みるみる真っ赤な水たまりが広がっていく。

「なんで、どうして」

 そう言って皆が窓際に近づいていき、俺は思わず叫んだ。

「伏せて!」

 と同時に、窓際に立った子の額から、赤い血しぶきが弧を描くようにして舞い上がった。

 悲鳴をあげながら、皆は崩れ落ちるようにしてその場に伏せていく。

「警察が、こっちを狙ってる!」

 俺の声に、マツリが遺体をどうにか押しのけながら、隙間のないようにカーテンをしめなおした。

 廊下側でも異変を察したようで、少しだけ静寂が訪れる。

 しかしすぐに、ドンドンとドアへの体当たりが再開された。



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仲間同士で闘争するなんて

「どうする、ねえ、どうする」

 誰かの上ずった声が響く。

「表側がダメなら、裏側から出るしかない。マツリ、そのカーテン外して」

 ハルの指示で、マツリは窓の外から見えないよう、窓枠の手すりに固く結ばれたカーテンを外していく。

マツリの手は大きく震えていたが、徐々にカーテンはほぐされていった。

 ハルがほふく前進をして、マツリに近づく。

「私が、これを廊下の窓枠にくくりつける。みんなは火炎瓶であいつらを威嚇して。あいつらが離れているすきに、一人ずつ降りて行く。いいね」

「でも、全員降りられるかどうか」

「わからないよ。でもこれしかないでしょう!」

 ハルの切羽詰まった声に、一同は押し黙った。

 

「トーコ、いいね?」

 何かの義理だろう。

ハルは必ず俺に確認をとろうとする。

 俺も、ハルの言う通りでしかもう逃げ道はない気がしていた。

「もちろん」

 パニックに陥っている皆を不安にさせないよう、俺はなるべくハッキリとうなづいてみせた。

「無事に出られたら、またイチからやり直そう」

 ハルは、真っすぐと俺を見て言う。

 俺も、力強くうなづいた。

 

 ドアの鍵は、もうほとんど壊されていた。

 ドアが大きくゆがみ、隙間からアキ派たちの様子がうかがえる。

 10人くらいがドアに群がり、全員でドアを蹴破っているようだ。 

 ドアの前に、ハルがしゃがみこむ。

 その後ろを囲むように、火炎瓶を持った5人が立つ。

 俺はというと、火炎瓶を握りしめながらも、なるべく後ろの方でしゃがんでいた。

 怖くて腰が抜けそうなのもあるが、部屋の隅におかれたニトロを守らないといけない気がしたのだ。

 

 いよいよドアが破られそうになり、ハルが鍵に手をかけた。

 そして叫ぶ。

「実行!」

 ドアが開き、ハルの後ろに並んでいた火炎瓶隊が一斉に火炎瓶を投げた。 

 火炎瓶は派手な音をたて、廊下を燃やす。

 アキ派は短い悲鳴をあげながら両脇に散り散りになったが、

「突入!」

 というアキの声と同時に、何人かが燃え盛る火をくぐり、こちらに向かってきた。

 それを食い止めるように、室内から廊下に向かって次々と火炎瓶を投げて行く。

 あっという間に出入り口付近の廊下が火に包まれた。

 煙が立ち込めており、視界がぼやけてきた。

「私が窓を開ける!」

 ハルが叫び、廊下に走り出た。

 カレンをはじめとする5、6人がその後ろをついていく。

 そのとき、火災報知機が反応し、天井からシャワーが注がれた。

「早く!」

 カレンの声が廊下にこだまする。

 ハルの援護にまわっているカレンの手にはもう、火炎瓶やゲバ棒は握られていなかった。

 俺は床に置かれている火炎瓶を箱ごと持ち上げ、カレンの元へと走る。

 しかしカレンの背後で、園子がゲバ棒を振り上げているのが見えた。

「カレン伏せて!」

 俺は一か八か、カレンめがけて火のついた火炎瓶を投げる。

 カレンは一瞬驚きの表情を見せたが、ギリギリのところでなんとか火炎瓶をよけしゃがみこんだ。

 俺が投げた火炎瓶は、園子の顔面にクリーンヒットする。スポーツなんてほとんどやったことのない俺だったが、こういうコントロールだけは妙にいいのだった。

 あとは力と協調性が伴っていたらきっと、野球でもうまくいっていただろうに。

  

 園子の声は、まさに断末魔の叫びだった。

「ぎゃああああ」

 という地の底からわき上がるような声をあげ、その場に倒れ込み手足をバタバタさせる。

 カレンはあっけにとられて俺を見つめたが、すぐにカーテンを結んでいるハルのサポートにまわった。

 

 園子の周りには数人のアキ派が集まり、自分の服などを使って顔をはたき、髪で燃え上がった火をなんとか消そうとしていた。

 火は、天井から降る水のおかげですぐに消火されたが、園子の顔は赤くただれかけている。

「園子、こっち」

 背後からアキが手をさしのべて、どこかに園子を連れて行った。

 園子は目を開けずに、アキに手を引かれるがまま歩いていく。

 アキ派もすぐに応戦にかかる。

 俺もいくつもの火炎瓶を持ち、廊下に出た。

 女の子たちが頑張っているのに、俺が縮こまっていてどうする。

 とにかく、誰よりも、カレンを守らなければという想いが俺の体を突き動かしていた。

 

 廊下では、かすかに残っている火の向こう側、こちらに来れずに立ちつくしているアキ派と、窓枠にカーテンを結びつけているハルとカレンにゲバ棒で立ち向かっているアキ派がいる。

 俺もそれにならい、カレンにゲバ棒で殴りかかっている者の背中を、思い切りゲバ棒で殴った。

 倒れはしたものの、すぐに俺に襲いかかってくる。振り下ろされたゲバ棒をガードし、そして隙をつきもう一度殴りかかった。

 気づいたら、周りでも同じようにゲバ棒での対戦が繰り広げられていた。

 いつのまにか立ちつくしていたアキ派たちは講義室Cになだれこみ、待機していた子たちに殴りかかったのだ。

 どこかで火炎瓶が割れ、火が燃え盛り、そしてシャワーによってすぐに消火される。

 しかしまた火炎瓶が割れ、というのが繰り返し行われていた。

 ついさっきまでは、ひとつになって学生運動をしていた女の子たちが、今は暴力をもって対立している。

 なんだか不思議な光景だった。

 ハルは、カーテンをなんとか結び終えたらしかったが、アキ派に食い止められ、進めずにいる。

 それを、カレンとマツリとでサポートしているようだった。

 

 その時、俺の横を素早く駆け抜けるヤツがいた。

 その子は、アキ派だろうか。

 さっきまで講義室C内ではみかけない顔だったが、ハルが結んだカーテンにしがみついた。

「何するの!」

 ハルが、なんとかカーテンを奪い返そうとしたが、遅かった。

 そいつはカーテンにつかまると、下へ下へと降りて行く。

「こんなところ、もういられない!早くここを出る!」

 半ばパニックに陥っているのか、水を浴びて寒さに耐えられなくなったのか、声が大きく震えている。

 それを見ていた他の子たちも、我先にとカーテンに群がった。

 しかし、カーテンは水を含みかなり滑り易くなっている。

「ダメ、危ない!」

 ハルが叫ぶが、遅かった。

 3人が次々とカーテンをつかみそこね、5階下の地面にたたきつけられた。

 さきほど見た光景と同じように、すぐに地面は血だまりとなった。

「こっち!」

 それを見た誰かが、今度はCを通りすぎ、B、そしてAの向こう側にあるバリケードが張られた場所へと走る。

 トーコ派だけじゃない。アキ派の何人かもそれに加わり、ここから逃げ出そうとしているのだ。

 俺は、何人かに殴りかかられながらも、なんとかそれをかわし、彼女たちのあとへついていく。

 後ろを振り返ると、カーテンからの脱出を諦めたトーコ派がそれを追いかけてくるところだった。

 ハル、マツリ、カレンの顔もそこにはあった。

 しかし、あんなにも頑丈に積み重ねたバリケードだ。

 防火戸を開けたとしても、すぐには通り抜けることはできなかった。

 先頭の人たちが、足で思い切りバリケードを蹴っている。しかし有刺鉄線が足にささり、苦戦しているようだった。

 

 俺は思い出し、講義室Cへと踵を返した。

 あれがあれば、あんなに頑丈に積み上げられたバリケードも崩すことができるだろう。

 しかしその直後、何かが崩れる音がした。

 それはまるで、地響きのように学校中に響き渡る。

 ゴゴゴゴゴゴゴ、とこれでもかと天井まで積み重ねてあったバリケードが崩れ、階段側ではなく、廊下側へと崩れ落ちてきたのだ。

 何人がその雪崩に巻き込まれたことだろう。

 机やイスの隙間から、何人ものうめき声が聞こえる。

 振り返ると、すぐそこに机に押しつぶされた誰かの足が見えた。

「カレン!」

 思わず、名前を呼んでいた。

 しかしカレンはまだ俺の後ろにいたようで、

「なんで、どうして」

 と悲痛の声をあげて俺の元へと駆け寄ってきた。

「崩れた、全部」

「うそ…」

 ハルも、マツリも、なすすべなくそこに立ちつくすしかなかった。



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バリケードは崩れ、教室は爆発

 バリケードは、崩れてもバリケードだった。

 なんとか山を越えれば4階の階段に辿りつけるかもしれないが、仲間がこの下に埋まってしまった今、この上をのぼる気にはなれなかった。

 それに追い打ちをかけるように、机とイスの山に火炎瓶が投げ込まれた。

 瓶は派手な音をたてて割れ、赤い炎をあげて燃え盛っている。

 火炎瓶を投げたのは、アキと、園子だった。

 園子は顔を真っ赤に腫らしながらも、かろうじて目を開けているようだ。

 二人は、屋上への階段を降りながら、崩れたバリケードに向かって火炎瓶をもう一本投げた。

「何するんですか」

 俺の問いかけに、アキは

「この山を越えようとバカな気を起こすやつが現れないように」

 とためらうことなく言ってのける。

 その時、屋上から降りてくる二つの足音が聞こえた。

「ここから出ることは許されない。逃げようとするものは皆、犬とみなす」

 アキと、園子だった。

 園子は顔を真っ赤に腫らしながらもかろうじて目は開いており、その目は俺を真っすぐ睨んでいる。

 俺は思わず顔を伏せた。

 

「何人巻き込まれた」

 アキの冷静な声が、俺をとらえる。

「たぶん、10人は」

 恐る恐る答える俺に、アキはニヤリと笑ったようだった。

 そして手にしていたもう一つの火炎瓶に火をつけ、投げ込みながら言った。

「バカばっかりだ」

 燃焼材料となるものが山となった今、天井から降り注ぐシャワーでもその燃え盛る火の勢いには敵わず、シャワーは徐々に弱まっていった。

「みんな、ここに集まっているのか?」

 アキの声に、俺は少しだけ振り返り、人数を確認する。

 カレン、ハル、マツリ含む10人ほどがそこに立ちつくしていて、俺は首を曖昧に傾けた。

「たぶん、Cにまだ何人か」

 誰かがぼそっとつぶやく。

「逃げよう」

 そして俺、カレン、ハル、マツリ以外が、講義室Cへとかけ出していった。

 恐らく、光ともう一人が外から狙撃されたことを知らない、アキ派の誰かだろう。

「あそこからは逃げられない!」

 俺が叫ぶが、誰もこちらを振り向きもせずに、一直線に走っていく。

「私、止めてくる」

「私も」

 カレンと、マツリがあとを追いかける。

 俺も駆け出そうと思ったが、その場で燃え盛る瓦礫の山と化したバリケードの山を見つめているハルが気になり、駆け出すことができなかった。

 

「なあ、ハル」

 アキの声に、ハルは睨むようにしてアキを振り返る。

「なぜ、みんな逃げたがるんだろう」

「どっちにしろ死ぬって、わかったからじゃないですか」

「死ぬ?」

「アキさんについていたって、殺されるんだ」

「それはどういう意味だ」

「アキさんは、戦争反対とか言いながら、本当は戦争が大好きですよね」

「……」

「あなたは日本をどうしたいんですか?」

「おい、ハルやめろよ」

 しかしハルは俺の声が聞こえていないように、目を血走らせてアキを睨みつけている。

「自分の好きなように操りたいんですよね?周りの人間も、日本も。そんな人に、平和を訴えられたくない!」

 

 パンっ。

 一瞬の出来事だった。 

 

 俺の目の前で、ハルが胸から血しぶきをあげながら壁に叩きつけられ、そしてその場に崩れ落ちた。

「アキ」

 園子が、アキが手にしている拳銃を奪う。

 アキは呆然としている様子で、そのまま階段に座り込んでしまった。

「おい、何してんだよ…」

 仰向けになって倒れたハルの顔を見ると、いつでも顔を真っ赤にして叫んでいたハルの顔は、真っ白になっていた。

 苦しそうにむせ、そして口から泡のような血をゴボゴボと吐き出す。

「ハル」

 ハルにかけより、無我夢中で血が溢れ出ている胸を押さえた。

「ハル、ハル」

 一生懸命話しかけるが、ハルは俺のことを見てはくれない。

「なあ、ハル、ハル。ここから出るんだろ、なあ」

 その時

「ダメ!危ない!」

 というカレンの叫び声が、講義室Cの前から聞こえた。

 そして、爆音とともにCのドアが吹き飛ぶのが見えた。室内から、粉々になった何かが吹き飛んでくる。

 その中には、ピンク色をした肉片とも思える何かがたくさん混じっていた。

 

「うそだろ…」

 すぐに察した。

 ニトロだ。

 誰かが、ニトロの箱を倒すか落とすかして、爆発させてしまったのだ。

 カレンとマツリはかろうじて講義室Cの前に倒れ込んでいたが、顔や手足に怪我を負っているらしかった。

 俺は、カレンの元へ走ろうと立ちあがったが、すぐに後頭部を殴られた衝撃で、その場に倒れ込んだ。

 すっかり油断していた。

 園子だ。

 振り返ると、顔の皮膚がただれた園子が、鬼のような形相で俺を睨んでいる。

 そして容赦なくもう一度、思い切り脳天からゲバ棒を振りおろしてきた。

 頭から熱いものが吹き出すのを感じながら、その場に崩れ落ちた。



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犬ってなんだ?

 全身の痛みで、目が覚めた。

 目を開けると、額を撃ち抜かれたアイリの青ざめた顔が飛び込んできて、思わず飛び起きた。

 室内はまだ薄暗く、夜は明けていないようだ。

 周りを見回すと、隣にはカレンとマツリが後ろ手に縛られ疲れ切った顔で座っていた。

 その逆隣にはアイリの遺体が寝かされ、それにすがりつくようにロッカが横たわっている。

「アイリはもしかしたら渋谷より代官山が好きかもしれないな。すごくキレイな町なんだよ。明日、一緒にいこうか」

 ロッカはアイリの顔を見つめながら、ほほ笑みさえ浮かべ、ブツブツとつぶやき続けている。

 

 ここは、講義室Aだろうか。

 室内前方の壁際に寝かせられており、アキ、園子たちは教壇の周りで何やらこれからの作戦をたてているようだった。

 今までどこかに隠れていたのか、椿と、ぶるぶる震えながら俺を殴った千鶴もいた。

「よかった、無事で」

 マツリが小声で話しかけてくる。

「だいぶ身体がガタガタだけど」

「トーコはかなり園子さんにやられてたから」

「やっぱり」

 手足を見ると、数え切れないほどのアザがびっしりと刻まれている。

「ハルは」

 俺の問いには、マツリも、カレンも黙り込んでしまう。

 答えを聞きたくなくて、矢継ぎ早に次の質問をした。

「みんなは?無事な人は、他にもいるんでしょ?誰か脱出できた?」

 しかし、この質問にもマツリとカレンはうつむいてしまう。

 まさか、ここまで最悪な事態が起きてしまうとは、予想もしていなかった。

 唐突に、ニトロが爆発した瞬間のあの光景を思い出す。

 間違いなく講義室C内は目もあてられぬ状態になっているのは避けようのない事実だった。

 

 アキが、俺が目を覚ましたことに気づき、こちらに近寄ってくる。

「おはよう」

 俺は無言でアキを睨み返す。

 こいつはよくもこんな涼しい顔をしていられたもんだ。

 ロッカをリンチに合わせ、仲間同士を対立させ、そしてハルを撃った。

 ハルが言った通り、戦争反対をうたいながら、本当は誰よりも戦争が好きなのかもしれない。

 争いによって血が流れることが、こいつの大好物なのではないだろうか。

 

「もう一度聞く。橋野井が言っていた、国家の犬について教えてほしい。あいつらが奪い返したい国家機密は、やはりあの研究室にあるということで間違いないのか?」

 そんなこと聞かれたって、俺は知らない。

「知らない」

 ハッキリと言った。

「じゃあ、質問をかえる。何が目的で、ダリア連合軍に入った?」

 この質問には、俺も答えられる気がした。

「戦争反対を訴えたくて」

 俺の答えに、アキが苦笑する。

 でも、俺は間違っていないと思う。

 ハルは「トーコがこの大勢の仲間たちを集めた」と言っていた。

 俺は、トーコは、戦争反対を訴えるためのデモをもっと大勢でできるよう、ハルやカレンなどのたくさんの仲間たちを集めたのだ。

 ダリア連合軍をつぶすために加盟したというのなら、もっと早くから仲間たちを増やして、裏切るための計画をたてていることだろう。

 

「他に目的があるんだろう?」

 アキのすごみが効いた質問にも、

「ありません」

 としっかりと目を見て答えることができた。

「らちがあかん」

 アキが首を横にふった瞬間、突然カレンがうしろ手にしばられたまま土下座した。

「アキさん、申し訳ありませんでした」

「どうしたんだよ、カレン」

「私は、トーコに言われるまま裏切りの手を貸してしまいました」

 

 言葉を失った。

 突然、何を言い出すのだ。

「でも、トーコは本当に他には仲間はいません。全部、自分でやろうとしたことなんです。私は、止めましたが、ほとんど脅されているようなもので。こうするしかありませんでした。申し訳ありません。お願いですから、もう一度ダリア連合軍に入れてください。お願いします!」

 額を床にこすりつけるほどの勢いである。

 マツリも、カレンの寝返りには困惑しているようだった。

 しばらく無言でカレンを見つめていたアキだったが、

「ダリア連合軍に戻ってどうするんだ」

 と言う。

 カレンが

「もう一度、平和を訴えたいんです。アキさんと」

 とアキを真っすぐ見つめる。

 カレン、何を言っているんだ。

 さっきまではずっとトーコを信じてきたじゃないか。

 確かに、今のトーコはカレンの知っているトーコじゃないけど、それでも、そんな裏切り方あるか?

 

 アキが黙り込んだその時、突然ロッカがけたたましい声で笑いだした。

 俺たちも、園子や椿たちも一斉にロッカに注目する。

「アイリ、そんな歌うたの?よく知ってるよねそんな歌。それ、私が中学生の頃の歌だよ。アイリはまだ小学生だったのに、よくこんな歌うたえるね。上手いよ。アイリ、上手い~」

 ロッカの目は、目の前のアイリの遺体ではなく、どこか遠くを見ているようだ。

「気味が悪いな」

 アキはそう吐き捨てるように言うと、カレンの体を触る。

 ポケットなどに武器が入っていないか、ボディチェックを行っているらしかった。

 武器などがないことがわかると、アキはカレンを縛っていた紐をほどき、カレンを自由にした。

 解放されたカレンは、もう俺たちのことを見ることはなく、教壇の方へと戻っていくアキのうしろについて、真っすぐ歩いて行った。

 思わずマツリと顔を見合わせたが、何と言ったらいいかわからなかった。

 顔は確実に、ひきつっていたと思う。

 カレンの後ろ姿を見て、ようやく理解した。

 俺は、カレンに見捨てられたのだ。

 俺はたぶん、アキか、もしくは警察に殺されるだろう。

 

 その場に倒れ込むように寝そべる。身体が痛くて痛くて仕方ない。

 もしかしたら、骨折くらいはしているんじゃないだろうか。

 寝そべって目を閉じると、涙が一筋伝っていった。

 ああ、帰りたい。花田透に。

 安本のうざい話を聞きながら、家に帰って、マンガを読むんだ。

 親とも少しだけ会話をして、温かいお風呂に入って、温かい布団で眠る。

 そしてまた大学に行って、おもしろくもない講義を聞いて…

 想像すればするほどに、そんなどうでもいいような日々が愛おしくてしかたなかった。

 俺はもう一生、ここから、そしてトーコから出られないのだろうか。



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こんな状況で告白されてしまった

 目を開けると、アイリの向こう側のロッカとバチッと目が合った。

 ロッカの目はどこか遠くを見ているわけでもなく、真っすぐ俺を見ていた。

「ロッカ…さん?」

 俺の囁きに、ロッカはしっかりとうなづく。

「父親は、たぶんこの大学もろとも吹き飛ばすはず。警察の不祥事は、全力でつぶすような人だったから」

 気づいたマツリが、声を一生懸命抑えながら興奮した様子で言う。

「ロッカさん、なんで、普通だ。どうしたんですか」

 そしてロッカはゆっくりと座りなおした。

 アキたちの様子をうかがいながら、俺の後ろ手に手をのばしてきた。

 暴れながら、いつの間にか手の縄はほどいていたのだ。

 隠し持っていたバタフライナイフで、俺のナイフを切る。

 そのまま俺の手の中にバタフライナイフが落とされ、俺もアキたちから目を離さないようにしながら、マツリを縛っている両手の縄を切った。

 

「ロッカさん、これからどうするんですか」

 俺の問いに、ロッカは早口で答える。

「もうすぐ朝日がのぼる。朝日がのぼったら、警察側は本格的な攻撃をしかけてくると思う。その前に、逃げだすのよ」

「ロッカさんは…」

 俺の問いかけに、ロッカはただほほ笑んでみせた。

「私が合図をするから、逃げて」

 ロッカは力強くそう言うと、またあの遠くを見る目つきに変わり、笑いながら叫ぶ。

「アイリ、あれ?いつの間にそこにいたの?そこ危ないからこっち来なさい」

 ロッカは、真っすぐ窓を見つめていた。

「やめろ!気味が悪い!」

 椿がロッカの視線から逃れようとするが、俺も無我夢中で一芝居うつ。

「あ、でも、本当に何かが窓の外にいるような…」

 アキたちは顔を見合わせ、そして窓際へと恐る恐る近づいていく。

 そして

「今よ」

 ロッカの合図で、三人同時に立ちあがった。

 俺とマツリは出入り口へ、ロッカはアキめがけて走っていく。

 ロッカも出入り口に走るのではないかと少しの希望を持っていた俺だったが、ロッカは全く別の計画をたてていた。

「ロッカさん!」

 ロッカは、重たい身体を揺らしながら、全速力でアキめがけて突進していく。

 そしてそのまま窓ガラスを突き破る、派手な音が学校中に響いた。

 俺は室内を出るときに、その姿を見届けた。

 アキの手を引っ張り、ガラスを突き破って外へと走り出たロッカは、まるで天使のようにほほ笑みすら浮かべて、飛び立ったのだ。

 

 俺とマツリは、とにかく走った。

 講義室Bに逃げ込もうと思ったが、すぐに園子たちに見つかる気がして、屋上への階段をのぼっていく。

 身体の痛みに耐えながら階段を上っていると、マツリが手を差し出してきた。

「大丈夫?」

「ありがとう」

 俺はマツリの手を握りしめ、一歩一歩階段を駆け上がっていった。

 屋上に出ると警察に見つかり、どうなるかわからない。屋上への扉を背もたれにし、そこに座りこんだ。

 これからどうするべきか、すぐにでも話しあわなければならない気がしたが、ロッカが自らを犠牲にして、ダリア連合軍の独裁者であるアキを連れて行ってくれた。

 しばらくこのままでも、園子やカレンは俺たちを見つけ出してどうこうすることはないだろう。

 もしかしたら、一緒に脱出する方法を考えられるかもしれない。

 しかし、カレンが俺に向けた背中が蘇り、俺の思考はストップしてしまった。

 

「カレンのこと?」

 マツリは俺の心を見透かしているみたいに、少しだけ笑みを浮かべている。

「うん。カレン、どうしてあんなこと言ったんだろうと思って」

「のちのち、助けるつもりだったんじゃない?」

「そうなの?」

「え!違うの?」

 マツリが素っ頓狂な声をあげる。

「いや、自分が言ったでしょ今」

 この子やっぱりつかめないな~と思いながら苦笑すると、マツリは少しだけ寂しそうにほほ笑み、言った。

「だって、トーコとカレンはいつだって深い絆で繋がってるじゃん。中学からの幼馴染だっていうのはわかるけど、それよりもっと深い絆。見ててわかるもん」

 

 そうだったのか。

 じゃあ、あれはカレンの作戦だったのだろうか。

 トーコだったら、あれはカレンの作戦として受け止められたのだろうか。

 俺はあのせいで、身体だけじゃなく心もズタボロになってしまったというのに。

「なーんてね」

 マツリは、舌をペロッと出してみせる。

「え?」

「ちょっと知ったかぶりかも」

 マツリは人懐っこい笑顔で笑ってから、言った。

「カレンに、すごくヤキモチをやいてるの、私」

 

 マツリの顔を覗きこむと、頬が真っ赤に染まっている。

 そして、ようやく気づいてしまった。

「あのね、トーコ。ずっと言えなかったんだけど」

 マツリは、ニコニコとしている顔をすっと真顔に戻し、息を吐くように言った。

「好き、なの。トーコのこと」

 そして両手で顔を覆うと、足をバタバタさせてみせる。

 

 トーコにとってはどうか知らないが、俺にとってはドストライクである。

 こんな可愛い子、トーコはずっと放っておいたのだろうか。

 いや、そもそもそういえばトーコは女だ。

 マツリの想いを知る機会なんて、今こうして打ち明けられない限りは、ないだろう。

「だから、逃げよう、二人で」

 マツリの真剣なまなざしが俺の心を大きく揺さぶった。

 

 そうだ、今なら絶好のタイミングだ。

 まだ朝日ものぼっていないからうまく逃げれば警察に見つかることもないだろう。

 アキが落下したとはいえ、園子や椿がまだ俺たちを探しているかもしれない。

 見つかる前に、やはりここから逃げ出した方がいいだろう。

 

 でも、カレンを置いて?

 逃げる方向に傾きかけていた俺の心は、見事にカレンの笑顔によってグイッと引き戻されていた。

 カレンにあんな仕打ちをされたとはいえ、やっぱりカレンを置いていくなんてことはできなかった。

 心に誓ったことを思い出した。

 トーコになってカレンがこんなにもそばにいる今、絶対にカレンを離さないと。

 

「あの、俺、やっぱり」

 あいまいな返事をしていると、全てを言う前にマツリがフッと笑った。

「わかってるよ、トーコはカレンを置いてはいけないよ」

 マツリは、俺よりもトーコとカレンのことをわかっていた。

 無理矢理笑顔をつくっているマツリが痛々しくて、顔を見ていられなかった。



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嘘みたいな死

 誰かの走ってくる足音が近づく。

 俺たちは身構え、いざとなったら屋上へ飛び出す体勢をとった。

 しかし、ひょっこりと顔を出したのはカレンだった。

「良かった、トーコ」

 カレンは心底安心した様子で、俺に駆けよってくる。

 カレンに触れられ、俺が少しだけ後ずさると、カレンは俺の手を握り締めて言った。

「ごめんね、ああするしかなかったの。あとで助けようと思ってたの。ごめん、だから私を置いていかないで」

 どうやら、マツリの言う通りのようだ。

 カレンは、涙を浮かべたキラキラとした目で俺を見て、必死に訴えてくる。

「ほらね、言ったでしょ、トーコ」

「…うん」

「カレン、ロッカさんたちは?」

 マツリが、俺も気になっていたことを聞いてくれた。

「ロッカさんは…」

 カレンが首を横に振る。

「てことは、アキさんは?」

 マツリの声が一層不安に染まる。

「…園子さんが、寸でのところで助けた」

 あのタイミングで助けるとは、園子の信念は尊敬に値する。

 自分がどうなろうと、アキを救おうとする園子に対し、少し美しさすら感じてしまった。

「じゃあ、戻っても同じことだね…」

 マツリがうつむき、俺も必死に頭を働かせてみる。

 

 たしかに、アキがいるのなら先ほどと状況は何も変わっていない。

 アキと、話しあうことはできないだろうか。

 警察がこれほどまでに俺たちのことを狙っているのだ。

 ここは、力を合わせないと全滅してしまう。

 

「早くどうにかしないと、アキさんが来ちゃう!」

 カレンの声に、マツリは心を決めたように顔をあげる。

 そこに、複数人の走っている足音が聞こえる。

「どうするの、ねえ」

 俺が口を開きかけた時、突然マツリに背中を押され、俺はカレンを巻き込む形で階段を転げ落ちていた。

 骨折しているかもしれない腕と肩に激痛が走る。

 階段を見上げると、マツリは俺を見降ろし、そして顔を真っ赤にしながら必死に口を開いた。

「必ずここから出られるようにしてあげる!私はトーコを守るって決めたんだから!何かあったら、ポケットに入ってる武器を使って!」

 そう言って、マツリは屋上へと出て行ってしまった。

 

「マツリ、マツリ!」

 マツリは、何をする気なのだろう。

 少しだけ違和感のあったケツポケットに触れてみると、太めのろうそくのようなものが入っているようだった。

「これ、ろうそく?」

 俺がつぶやくと、ポケットに触れたカレンが言った。

「違う、これは」

 

「おい」

 カレンの声は、アキの声に打ち消された。

 寝そべったまま顔をあげると、そこにはアキと園子と椿と千鶴が立っていた。

 冷静な先輩3人と、相変わらずぶるぶる震えている千鶴。

 千鶴も椿も、手足に全く傷を負っていないところを見ると、やはりさきほどの乱闘には参加していなかったのだろう。

 椿は一人、講義室で待機している様子がうかがえるが、千鶴はどこかに隠れて身体を震わせていたのかもしれない。

 

「マツリは?」

 椿の声に、カレンが

「屋上に」

 と答える。

「アキ、どうする?屋上に出るのは危険すぎる」

「そうだね、戻るよ」

 アキの一声に、4人は踵を返した。

 俺はカレンの肩を借り、なんとか立ちあがる。

「カレン、ありがとう、助けてもらって」

 アキたちに聞こえないように小声で言ったつもりだったが、カレンの表情は全く晴れず、そして突き放すように言った。

「私は、あなたを助けようと思ったわけじゃない」

「え?」

「トーコにそっくりなあなたを死なせることがどうしてもできなかった」

 

 カレンは、もう確信してしまったのだ。

 俺が、トーコではないことを。

 幾度となく葛藤を繰り返した結果、俺を助けることがトーコを助けることでもあるのだと思ったのだろう。

「そうだよね、ごめん」

 もう、弁解の余地はない。

 これから何をどうカレンに説明したらいいか、考えながら俺たちは講義室Bに入っていった。

 

 講義室Bは乱闘の会場にはならなかったため、比較的整頓された状態だった。

 武器はまだいくつか残っている。

「カレン、トーコの手足縛っといて」

 アキの命令に、カレンは少しも抗うことなく従う。

「ちょっと待って、アキさん、話し合おう。このままだと、全滅するだけだ」

 俺の声に、アキは全く聞き耳を持たない。

 無言のまま、教壇周りに身を寄せ、腰をおろした。

 カレンに手足を縛られながら痛みに顔をゆがめている俺を見て、カレンは悲しそうな顔をする。そして耳元で囁いた。

「本物のトーコはどこにいるの」

 あばらも折れているのだろうか。

 俺は痛みをこらえながら、なんとか首を横に振ってみる。

「知らない」

 手足を縛るカレンの手に力が入る。

「いてっ」

「あんたは誰なの」

「…それは、言えない」

 男だなんて言ったら、俺はどうなることだろう。

 まず体が女であることを指摘され、余計にカレンを混乱させてしまうだけだ。

 

 カレンが乱暴に俺を縛り終えたとき、屋上から拡声器を使って喋る、マツリの声が聞こえた。

「私、ダリア連合軍1年のマツリといいます」

 マツリの声は、まだ薄暗いキャンパスにこだました。

 アキが、窓の外から見えないよう、慎重に窓際へと走る。

「あいつ、何をする気だ」

 マツリの行動は、全く予想だにしないことだった。

 マツリは俺を守ると言っていたけど、一体何をするつもりなのだろう。

 俺も、耳だけは窓側を向けるよう、痛む身体をなんとかずらしてみる。

 

 しかしマツリは、さらに予想だにしないことを言いだした。

「私は、子どもの頃から、この国の犬として働いてきました」

 アキや園子たちが一斉に俺を見る。

 俺は、その視線から逃れるように目をそらした。

「お母さんに言われたんです。犬になっておけば、いざ戦争が起きたときに国家に助けてもらえると。だから、月に1度か2度くる命令に従って、武器の密造をしたり、売春組織に参加させられたりしていたました」

 外で、銃声がこだまする。

 しかし、マツリの声は、震えながらもまだ続いている。

「私の体は、国によって汚されました!私のような生徒が、この学校には何人かいると聞いています!」

 また、銃声がこだまする。

今度は、1発ではなかった。何発かが明らかにマツリの体をとらえている。

「私は」

 マツリがかすれた声を絞り出す。

「この国を恨んでいます」

 それだけ言うと、声はやんだ。

 一瞬外がざわつき、アキが慌ててカーテンを開ける。

 その瞬間、窓の向こうを何かが落ちていくのが見えた。

 

 拡声器と。

 そして、マツリだった。

 マツリの顔は少しほほ笑んでいて、逆さになりながらも俺をまっすぐ見つめているようだった。

 

 閃光が走る。

 爆音と、爆風が窓の外で巻き起こる。

 すさまじい爆風に窓が割れ、アキたちは全員しゃがみこんだ。

 俺は、まばたきもせずその光景を見つめた。

 マツリは、ダイナマイトを身体に巻いていたのだろう。

 閃光は一瞬にしてダイナマイトを燃やす。

 マツリの体は、俺たちの目の前で八つ裂きにされ、木端微塵になった。

 ただの肉の塊だ。

 挽肉のようにあのマツリが、こんなに簡単にもバラバラになってしまった。

 赤い液体が窓やその周りにべったりとこびりつき、マツリが着ていた服と、ダイナマイトらしきものの破片が俺の鼻先に転がった。

 マツリ…。

 声を出そうにも、声の出し方を忘れてしまったように、何も出ては来なかった。

 外は静まり返り、何の物音もしない。

 焦げくさいような、生臭いような臭いが部屋中に充満している。

 

 マツリは、警察を巻き込んで心中を図った。

 しかし、警察側に辿りつく前に銃撃に合い、空中でダイナマイトが爆発しきってしまったのだ。

 あまりにも、無念な最期だった。

 鼻先に飛んできた、マツリの服の一部を見つめながら、俺は泣いていた。

 つい数分前まで、顔を真っ赤にさせて、手足をバタバタさせながら、トーコを想っていた子。

 そんな子が、今はこんな姿になってしまった。

 俺の心の奥底から、今まで感じたことのないドロドロとした熱いものが込み上がってくるのを感じた。

 このままではいられない。

 なんとしてでも、マツリの遺志を晴らさないと。

 

 皆はただ茫然と、個々でこの状況を理解しようとしていた。

 窓側でしゃがみこみ、俺をじっと見つめていたアキと目が合う。

 直に浴びたのだろう。顔から服にかけて、赤いものが飛び散っていた。

 アキは、笑っていた。

「やっぱり、あいつは犬だった。犬だったんだ。裏切り者は死んで当然だ」

 背中を伝う寒気を感じながら、アキが静かに狂っていく様子を、俺はただ見つめていた。



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どの子にも裏がある

 夢でありますように。

 起きたら、安本に誘われたアパートで目覚めますように。

 うざいやつらばっかりでいいから。

 また、目立たない場所でただ息をしているだけでいいから。

 

 全身全霊で願いながら、ゆっくりと目を開ける。

 目の前には、木端微塵になったマツリの服の破片が転がっている。

 窓は割れてイスや机がそこら中に倒れ、赤いものが飛び散り、荒れ果てた講義室が広がっていた。

 やはり、夢なんかではなかった。

 目を覚ました瞬間に、これほどまでの絶望に襲われたことはあっただろうか。

 講義室内は皮肉にも、カーテンの隙間から穏やかな朝日がそそぎこんでいる。

 長い夜が明けてしまった。

 橋野井は、「夜明けまでにここを出ること」と言っていた。そうでなければ、アイリのようになると。

 そろそろ警察という名の殺戮軍隊も、動き出している頃ではないだろうか。

 早くここを逃げださなければ、俺たちは間違いなく殺される。

 窓際に座りこんでいる、アキ、園子、椿、カレンに目をやる。

 みんな、疲れ切った様子で黙りこみ、それぞれがどこか一点を見つめているようだった。

 

 あれ?あと一人いたような…

 と思ったとき、かすかに、すぐ近くから誰かのすすり泣く声が聞こえてきた。

 ギンッと痛む頭をゆっくりと持ちあげて、できる限り視線を泳がせてみる。

 すると、俺が寝ている頭側、すぐそばで千鶴がひざを抱えて泣いていた。

 しばらくの間、名前を思い出せずに彼女のことを見つめてしまった。

 千鶴は俺の視線に気づくとビクッと身体を震わせたが、すぐにまた元の体勢に戻った。

 そして抑揚のない声で口を開く。

「おはようございます」

「…おはよう」

「身体、大丈夫ですか」

「うん、まあ」

「怒ってるでしょ」

「え?」

「私のこと」

 しばらく何のことか記憶の糸を手繰り寄せ、アキが俺を裏切り者だとののしったときにゲバ棒で不意打ちをくらったことを思い出す。

「ああ。あれは痛かった」

「違いますよ、そのことじゃないですよ」

 千鶴に関する記憶の糸は、そこでプツリと途切れている。

 アパートにいたときも一言もしゃべらなかったし、いたことすら気づかなかったほどだ。

 恐らく、俺ではなくトーコとのやり取りの中で何かがあったのだろう。

「俺、どうも記憶喪失らしくて。だからたぶんそれ、覚えてない」

 俺はつとめて明るく言う。

 しかし、千鶴は俺の顔を見て目を丸くした。

「本当に、覚えてないんですか」

 訝しげに俺を覗きこむ。

「うん、ない」

 千鶴から目をそらし、頭を床につける。

 ひんやりとした床は、ズキズキと痛む頭に心地よかった。

 

「拳銃ですよ」

 千鶴の、囁く声が上から降ってきた。

 拳銃。

 トーコのポケットに入っていた、あの拳銃のことか。

 思わず、もう一度頭を持ちあげていた。

「あの拳銃が、どうした」

 俺の反応が、あまりにも意外なものだったのだろう。

 千鶴は俺の顔を穴があくほど見つめたが、すぐにクククと笑い始めた。

「何がおかしいんだよ」

「本当だ、本当に覚えてない」

 気持ちの悪い笑い方をするヤツだった。

 ひとしきり声を押し殺し肩を震わせて笑うと、もう一度俺を凝視して言った。

「あれ、私から取りあげたんですよ、トーコさん」

 言葉を失ってしまった。

 拳銃と千鶴がまず結びつかないだけでなく、トーコが千鶴から拳銃を奪ったという事実。

 トーコは、拳銃を手にして何がしたかったというのか。

 しばらく頭の中を整理して、順を追って質問してみる。

「その拳銃は、どこで手に入れたの」

「もらったんです。おじさんに」

「おじさん?」

「警察のおじさん。私も、売春組織に売られた犬ですから」

 ああ、もう脳みそが限界だ。

 もう一度頭を床につけ、爆発しそうな頭を冷やしてみる。

 視線の先、アキたちは相変わらず虚空を見つめて、じっと黙りこんでいる。

 俺たちがひそひそと話をしていることに、全く気づいていないようだった。

 

「マツリが言ってた、あれと、同じ?」

 ようやく口を開いてみたが、何をどう質問したらいいかわからず、うまく言葉を選べない。

しかし千鶴はタガが外れたようにペラペラと話し始めた。

「まさかマツリさんも犬だったとは、知りませんでしたけどね。私たち犬は、お互いのことを知らないんですよ。変な趣味のおじさんもいますからベッドで他の女の子と一緒になることもありますが、犬はしょせん犬です。相手のことなんて覚えていません」

 なんて声をかけたらいいんだろう。

マツリや千鶴は、俺たちが想像もつかないような生活を、今まで送ってきたのだ。

「マツリさんは頭がいいから武器の密造に関われたけど、私は頭も悪いし要領も悪いから身体をもてあそばれるくらいしかできなかったんです。それでも、戦争になったときに家族を守れるならそれでいいかなって。我慢、してきたんですよね」

 千鶴は、真顔だった。

 真顔なのに、とめどなく涙があふれている。

 まるで心を持たない石造が涙を流しているようで、これ以上触れてはいけない領域がそこにはあるような気がした。

「拳銃、いざというときのために持っておいたんですが、トーコさんが、見つかったらアキさんに何をされるかわからないから私が持ってるって。言ってくれたんですよ。千鶴は元々大人しい子なんだから、持ってることがバレたらあまりにも怪しまれるよって。でも私だったら、なんか持ってそうでしょ?って、そう、言ってくれたんですよ?」

 俺は何を言ったらいいかわからずに、開きかけていた口を閉じ、思いを巡らせた。

「トーコさん、ごめんなさい」

 千鶴の涙が、俺の顔にも落ちてきた。

 かける言葉はどうしても見つからなかったが、それでもひとつだけ聞いておきたいことがあった。

「なんで、このバリケード封鎖に参加した?やっぱり、俺が誘ったのか?」

 千鶴はせきこみながら息を落ち着かせ、また抑揚のない声に戻り、言う。

「それもあったんですが、ちょっとだけ、何かを変えられるかもしれないと思ったから」

「橋野井に、国家機密を持ち出すように言われていたわけじゃ」

「ないです。私は何も聞いてません。私も、たぶんマツリさんも、何かを変えたくて参加した。ただそれだけです」

「じゃあ、橋野井が言っていたのはどういうことなんだろう」

「あの混乱の中で誰かがすでに持ちだしている可能性もあります」

「あのタイミングで?だって、研究室はたしか頑丈な鍵がかかってたはずだ。それを、あの中で持ちだすなんて」

「もう私たちしか残っていませんが、全員の死体を確かめたわけじゃないですよね。誰かが合いカギを託されていて、国家機密を持って無事に逃げ出せていたとしても、おかしくないです」

 たしかに、千鶴の言う通りだった。

 俺たちはあの混乱の中で、自分を守ることで精いっぱいだった。

 マキナエが出入りしていたあの研究室は、凄惨なニトロの被害にあった講義室Cの隣にある。

 あれからCについて俺たちは何も触れようとしなかったが、もしかしたら、誰かがあの時、研究室まで辿りつけたのかもしれない。

 

 あらゆる可能性を考えていたとき、千鶴が予想外のことを口走る。

「それか、あの四人のうちの誰かですよね」

 かわらず虚空を睨んでいるアキ、園子、椿、カレンを見る。

 なるほど、これから研究室に向かう可能性もあるということか。

 しかし、できれば考えたくなかった。特に、カレンについては。

「いいこと教えてあげます。おじさんたちが言ってたこと」

 しばらくの沈黙のあと、千鶴が言う。

「一ヶ月後に、戦争が始まりますよ」

「……」

 なんで、という言葉を飲み込んだ。

千鶴自身もきっと、戦争が起こることについて話すおじさんたちに、なんで、なんて聞けなかっただろう。

「もう、止められないです。私もよくわかりました。もう、止めることなんてできないんですよ」

 千鶴は一気にまくしたて、そして息を整えてから言う。

「トーコさん、警察に降伏しませんか、一緒に」

「え?」

「もう国家機密が持ちだされているのだとしたら、いつ攻撃されてもおかしくないです。もう外は明るいから、窓から逃げたとしても、また撃たれて死にます。だったら、警察に助けてもらいましょう。私は、犬なんですもん。犬は、国家に守ってもらえるから犬なんです。だからトーコさんも、この際犬になりましょうよ、ね?」

 千鶴はとんでもないことを口にしながら、しかし本気で俺を説得しようとする。

「犬の生活は、楽しいですよ。私からは何もしなくてもいいんですよ。遊ばれるだけなんです。じっとしていればすぐ終わりますよ。ねえ」

 千鶴の熱い息が俺の頬を撫で、俺は重たい上半身を持ちあげた。

 アキたちが一斉に俺を見るが、特に話しかけるでもなく、皆それぞれ視線をそらす。

 あちらはあちらで、ぽつりぽつりと計画を練り始めたようだ。

 耳を澄ましてみると、アキが

「まずは武器をここに全て集めよう」

 と言っている。

 これからどうするか。警察側とどう戦うか。そんな途方もない計画を、アキたちは企てようとしていた。

 本当に、途方もないと思った。

 外にはどれだけの警察が待機していて、どれだけの戦闘力をもって俺たちに臨もうとしているかはわからない。

 しかし、何人かが狙撃されたところをみると、凄腕のスナイパーが数人いることは間違いなかった。

 ヘタに動けば、俺たちごとき数分で全滅してしまうだろう。

 ここは、立ち向かっている場合ではないだろう。

 5階から逃げ出すのは諦めて、何人もの仲間が犠牲になったあのバリケードの山を越えて、1階に下りて校舎を抜け出すほかなかった。

 ただ、1階から出られたとしても、校舎を抜け出せるか…

 

 俺の思考回路を遮断するかのように、千鶴が入りこんでくる。

「犬になれば、家族も守ってもらえますよ。マツリさんみたいに武器製造とか、人体実験とかに参加させられることもありますが、それで命を落とした人は聞いたことがありません。ちょっと我慢すれば、私たちは守ってもらえるんです」

 千鶴は、必死だった。

 目は血走っていて、マツリの血だろうか、顔に血が転々と飛び散っていることにも気づいていないようだった。

 

 この子はきっと、一人では何もできない子なんだろう。

 誰かが指示を出して、それについていくことが当たり前。

 それが、身体に染み込んでいるらしかった。

 しかし、彼女のこれまでの生き方を聞かされると、それを否定する気にもなれなかった

 辛い目にあってきたことはよく考えなくてもわかることで、そもそも、目立たないようにただひっそり生きてきた 俺が、何かを言う立場ではないだろう。

「どうですか、トーコさん。いい作戦だと思うんです」

 徐々に興奮して声が大きくなってきている千鶴の気持ちを抑えるためにも、俺はうなづいた。

「そうだな。そうしようかな」

「本当ですか!良かった!」



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一人で逃げるわけにはいかない

「ねえ」

 千鶴の大きくなった声に反応したのは、椿だった。

「何話してるの」

 隣で、千鶴の体が硬直するのがわかる。

 俺は必死で頭を回転させ

「俺が眠っている間にあったことを、少し聞いてました」

 と言う。

 椿は少しの間千鶴の顔を見ていたが、

「千鶴、ちゃんとトーコのこと見ててね」

 とだけ言い、目をそらした。

 カレンは、俺のことを見ていた。

 何か言いたげにも見えたが、椿が目をそらすと、すぐにカレンも俺から目をそらしてしまった。

 

 俺たちは、アキたちの様子をうかがいながら、警察に降伏する方法を相談し始めた。

 千鶴が言うには、千鶴は幼い頃から売春組織に出入りしていたといい、警察の人間とは特に長い付き合いになるという。

 橋野井とも顔見知りだし、ほとんどの人間と会ったことがあるため、千鶴がヘルメットとタオルをはずし、降伏する意思を示しながら屋上に出れば絶対に攻撃されることはない。

 それに俺もついてくことで、一緒に救い出されると。

 

 千鶴は信じているが、俺はそうはいかなかった。

 千鶴が助かる可能性は、ゼロではないだろう。

 俺はゼロだ。絶対に屋上に出た瞬間殺される。

 しかし、この手足を縛りつけている縄をどうにかするためにも、ここは千鶴に合わせなければならなかった。

 

「わかった。それでいこう」

 全くわかっていないのに、うなづいてみる。

「良かった。トーコさんがいてくれたら、絶対安心です」

 千鶴は心底安心したのだろう。

先ほどまでの硬い表情とはうってかわって、心からの笑顔になっていた。

思えば、千鶴の笑顔を見たのはこれが初めてだった。

あんな気持ち悪い笑い方していたやつが、こんなにも優しく笑えるんじゃないか。

 そんな千鶴を利用しているような気がして心が痛んだが、それでも自分の身を守るためには千鶴にこの縄をほどいてもらうしかない。

「とりあえず、この縄をほどいてくれないかな」

 千鶴は素直にうなづき、ポケットからカッターナイフを取り出した。

 アキたちが熱心に話しあっているのを確認しながら、ゆっくりと縄を切っていく。

 手足の縄が切れ、俺の体はラクになったが、アキたちに気づかれないように身動きはとれなかった。

「せーので、走りますか?」

 計画を急ぐ千鶴を制止する。

「ちょっと待って、もう少し計画練ろう」

 すぐに走り出すわけにはいかない。それじゃ俺は死に急いでいるようなものだ。

 

 その時、アキたち四人が立ちあがった。

 手足の縄が切れているのがバレないよう、俺は正座をし、両手をうしろ側で組む。

「どこに行くんですか」

 俺が聞くと、カレンが答えた。

「武器を集めるの」

「まだ残ってるの?」

「わからない。でも、Cに行ってみる」

「Cって」

 Cは、ニトロの大爆発を受けた講義室だ。

 何人もの仲間たちが肉片になったあの場所に、武器など残っているはずがなかった。

「あんなところに」

 俺の言葉を、アキが遮る。

「トーコにみたいに拳銃を隠し持っているやつがいたかもしれないからな」

 アキが俺を一瞥し、そして四人は講義室Bを出て行った。

 

 作戦を実行する、絶好のタイミングだ。

「トーコさん、今ですよ、今」

 みんなでCに行くのだとしたら、Aの横にある階段から屋上まで誰にも見つからずに行くことができる。

「早く」

 俺たちは立ちあがり、音をたてないよう、静かに歩き出した。

 

 講義室Bの入り口から廊下を覗きこみ、四人の後ろ姿に目をやる。

 四人とも、外から狙撃されないよう、かがんで歩いてた。

 夜の間は表側にしか見張りはいなかったようだが、今は裏手でもスナイパーが今か今かと待ち構えているかもしれないのだ。

「早く行きましょうよ」

「ダメだよ。今出たら見つかる」

 気持ちばかりが先走ってしまっている千鶴を片手でなんとか制し、息を殺して四人の様子をうかがった。

 四人は講義室Cを覗きこみ、そしてゆっくりと足を踏み入れて行く。

「もう大丈夫でしょ?ねえ」

 千鶴の腕をつかみ、講義室Bを抜け出した。

 

 スナイパーに狙撃されることなく、そしてアキたちに見つかることもなく、無事屋上への扉に辿りつくことができた。

 千鶴は無我夢中でヘルメットやタオルを外していく。

 そしてようやく、ただ突っ立っている俺に気づく。

「どうしたんですか、トーコさんも早く」

 千鶴にせかされ、俺は決めていたことを告げた。

「俺は行かない。一人で、無事に帰ってくれ」

 逃げたがっている千鶴を屋上まで無事に送り届け、その後は何事もなかったようにまたあの場所で縛られているかのように座っていようと思っていた。

 やはり、カレンを置いてはいけない。マツリにもそう誓ったのだ。

 しかし、一歩踏み出した瞬間、首根っこを掴まれた。

「うぐっ」

 またもや不意打ちをくらい、ヒキガエルのような声が漏れる。

「ダメですよ何言ってるんですか!一緒に逃げようって約束したじゃないですか!」

 千鶴は我を失っているようで、俺の上着をつかんだまま思い切り振りたくってくる。

「ちょっと、離して、苦しい」

「お願いですから一緒に逃げてください。お願いします!」

 その声を聞きつけてか、誰かがこちらに走ってくる足音が聞こえる。

 もう、見つかってしまった。

 このまま何事もなかったように戻る俺の計画は、もろくも崩れ去ってしまったのだ。

 また、どうするべきかすぐに考えなければならなかった。

 ただひとつ言えることは、

「屋上には絶対に出ない!」

 ということだった。

 

 しかし、千鶴は我を失い尋常じゃないほどの力を発揮してしまっている。

 上着の首周りをつかむ手にはさらに力が入り、俺の首をしめていた。

 やめろ。

 そう言いたいのに、声が出ない。

 頭に血がのぼり、意識を失いかけた時、視界に飛び込んできたのは、カレンだった。



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やっぱり逃げられない

「何やってるのよ!」

 カレンはまっすぐこちらに走ってきて、そして千鶴を思い切りビンタした。

 千鶴の手からは力が抜け、上着から手が離された。

 俺はその場にうずくまる。

 息をするとピーピーと喉から変な音が聞こえる。

 危うく、意識が飛んでしまうところだった。

「千鶴が、トーコを連れてきたの?」

「ち、ち、ちがう。ちがうの」

 千鶴の声は大きく震え、あまりの動揺に扉に派手に背中をぶつける。

「じゃあなんで手足の縄が切れてるのよ」

「知らないよ!」

 逃げ場を失った千鶴の、ヒステリックな叫び声が廊下にこだました。

「トーコ」

 カレンが、俺をまっすぐ見た。

「屋上に出てどうしようと思ったの。出たら殺されるんだよ。お願いだから、生きてよ!」

 カレンの意外な言葉に、俺もまっすぐとカレンを見つめ返す。

「なんで、俺のこと…」

 するとカレンは、表情を緩めて言った。

「私、ずっと考えてた。でも、考えても全然わからなくて…」

 一度目を伏せてから、つま先から頭のてっぺんまで、じっくりと視線を這わせる。

「今のトーコは、絶対トーコじゃない。でも、この手とか、足とか、顔とか。やっぱりトーコだから。それにほら、ここにあるホクロ。これはトーコのホクロなの」

 手、足、顔に触れて、そして首筋に触れ、俺の顔を愛おしそうに見つめている。

 涙を浮かべたその大きな瞳に、吸い込まれそうだった。

「あのとき変な薬を飲んで、記憶が混乱しているだけなら、私が元に戻すから。今は人がかわったような気がするけど、きっとまた記憶が戻るはずだから」

 

 アキたちがこれからのことを相談していたあのとき、カレンはずっとトーコについて考えていたのかもしれない。

 どんなに確認しても身体はトーコなのに、記憶がなくなっただけじゃなく、まるで別人のように性格まで変わってしまっていたトーコ。

 あの薬のせいで、精神になんらかの異常をきたしたのではないか。

 これが、カレンなりの答えのようだった。

 

「だから、死なないで。お願いトーコ。一緒にここを出よう」

 カレンは顔をくしゃくしゃにして俺にしがみついてくる。

 何と答えたらいいかわからず、そっと肩に手を置いた。

 クククク。

 また、あの嫌な笑い声が聞こえた。

 見上げると、千鶴は、俺たちを見て気味の悪い笑顔を浮かべていた。

「何がおかしいんだよ」

「だって、逃げられるわけないもん」

 カレンは勢いよく千鶴を睨みつける。

「逃げられる!逃げるのよ!」

「カレンさんは、犬ですか?」

「…違う」

「だったら逃げられませんよ。私は保護してもらいますけどね」

「待って、千鶴は犬だっていうの?」

「そうですよ。国家のために働いてきた、犬ですよ」

「そんな…。じゃあ、国家機密はもう?」

「いいえ。私が持ちだしたわけじゃありません。でも、警察がまだ攻撃してこないところを見ると、あなたたちの中に犬がいそうですね。カレンさん。もう一度聞きますが、違うんですか?」

 その時、カレンは何かを思い出したように天井を仰いだ。

 その沈黙に俺は、違和感を抱かざるを得なかった。

 まさか、カレンが本当に…?

 

「カレン…?」

 しかしカレンは強い目線で俺を見返す。

「私じゃない。私は、そんなことしない」

 何かがひっかかったが、ウソではないことを信じるしかない。

「家族のところに、帰りたくないですか」

「…帰りたいよ」

 カレンがつぶやくように言い、俺も父親と母親の顔を思い出した。

 父親は俺と違っていつも冗談ばかり言っている人で、母親はそんな父によく頬をふくらませていた。

 ケンカすんなよ、うざいなぁって、よく思っていたはずなのに。

 今はただ、あのケンカをまた見たくて見たくて、涙が出そうになる。

 

「だったら、カレンさんも犬になりましょうよ。私、これから警察に降伏しますから、一緒に行きましょう。ただ身体をもてあそばれるだけで苦しい事なんて何も」

 千鶴の言葉をカレンが遮った。

「千鶴は、またその生活に戻るの?」

「え?」

「身体をもてあそばれるだけのその生活に、戻りたいの?」

 千鶴は、その質問を予想していなかったようだ。

 口をポカンと開け、言葉の意味すらできていないかのようにカレンを見つめている。

「そうだよ」

 俺も意を決して口を開く。

「そんな生活やめろよ。マツリも…なんで、自分の身体を大切にしないんだ。家族のためって、そんなことして家族が喜ぶのか!?」

 切実な思いだった。

 しかし千鶴は小さく笑う。

「だって、家族に売られたんですよ、私」

「…逃げだそうって思わなかったのか?」

「思いませんよ。小さい頃からそんな生活が当たり前だったんだから。ご飯を食べたあとに歯を磨くみたいに、朝になったら新聞を取りに行くみたいに、火曜日の夜になったらホテルに行く。これが、当たり前のことだったから。みんながそれをしていないって知ったときは、本当に驚いて…」

 千鶴は、声をつまらせた。

「驚いて、それから、うらやましかった…」

 大粒の涙が、千鶴の目からこぼれた。

「今まで、誰かに言ったことは」

「言えないですよ。こんなこと」

 俺は一歩千鶴に歩み寄る。

「俺に相談しろよ。俺だったら、トーコだったら、お前の悩みちゃんと受け止めてたよ」

「そうなんでしょうか」

「そうだよ」

「それなら、トーコさんと、友だちになっておきたかった」

「何言ってるんだよ。友だちだろ?」

 千鶴は小さく、でも嬉しそうに笑った。

 俺はさらに一歩歩み寄る。

「警察に降伏なんてしないで、一緒に逃げだす方法を考えよう。逃げ出したら、そんな生活捨てようよ」

 しかし千鶴は、今度は力なく笑う。

「ムダです」

「なんで」

「言いましたよね、一ヶ月以内に戦争が起きるって」

「戦争!?」

 カレンが、声をあげた。

「はい。戦争。しかも、ただの戦争じゃないです」

「…というと?」

「ずっと揉めていた国あるでしょ。あの国が日本に原子爆弾を落とします。そこから日本が反撃します。その戦争で、日本人の3分の1が死にます」

「ちょっと、ちょっと待って」

 思考も口も追いつかず、うまく舌が回らない。

「なんで、そこまで?攻撃されることまで」

「すべては、国際レベルで計画していること。知っていますか?この宇宙に、人間が棲める星など地球の他にないんです。今、世界中の資源が減少していて、生活が追いつかない状況になっています。だから、人口削減を図るためにと、国際会議で決まったらしいです」

 俺とカレンは、言葉を失ってしまった。

「だからこれから、世界各地で戦争が起こりますよ。みんな死にます。みんなみんな」

 また千鶴は肩を震わせて笑って、そして泣いていた。

「私は行きます。家族を守らないといけないので」

 そうして千鶴は、静かに屋上への扉を開けた。

 ヘルメットとタオルを置き、そして外へとゆっくり歩いていく。

 

 俺たちはもう、なすすべがなかった。

 千鶴の小さな背中が、さらに小さくなっていく。

「そういうことだったのか」

 いつから聞いていたのか、アキと園子と椿が姿をみせた。

「みんな死ぬ、か…」

 椿が眉をしかめ、千鶴の後姿を見送る。

 千鶴の話が本当かはわからない。

 でもここにいる全員、多少なりとも、救いようのないような絶望感を抱き始めたのは間違いなかった。

 屋上に出た千鶴は、大学の正面に向かって両手を大きく振っている。

 飛び上がっているところを見ると、顔見知りの誰かを見つけたのだろうか。

「園子、椿、戻ろう」

 アキがそう言って踵を返す。

 俺とカレンはアキたちを追いかけることもできず、その場に立ちつくしていた。

 その時、

 

 パスン。

 風を切る音が聞こえた。

 

 屋上にもう一度目をやると、千鶴がゆっくりと背中から倒れていく。

 その音を聞きつけ、アキたちも屋上の入り口へ慌てて戻ってきた。

 屋上では、追い打ちをかけるように何発もの銃声と同時に、千鶴の顔、胸、腹、足から血が吹き出し、まるで操り人形のように身体を折り曲げながら崩れ落ちていった。

 しばらく、俺たちはその場を動けなかった。

 その光景はまるでスローモーションのように頭の中を流れ、我に返ると、確かな絶望が俺を襲った。

 アキたちが一斉に走りだす。

 俺とカレンも、その背中を追いかけた。

 身体を丸めて疾走する。

 とりあえず、講義室Bへ。



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少しでも希望を

 肩で息をしながら、室内に滑り込む。

 もう、一刻の猶予もなかった。

 降伏=死、だということがわかったし、あれだけ大勢のスナイパーが待ち構えていることもわかってしまった。

「アキさん」

 ゼーゼー言いながら、声を絞りだす。

「なんだ」

「なんとか、脱出しませんか」

「…園子、トーコを縛っといてくれないか」

「うん」

 園子が、フラフラしながら立ち上がる。

 せっかく千鶴に解いてもらったのだ。絶対にまた同じ状況に戻ってたまるか。

 こちらに歩いてくる園子に向かって、

「そんなことしている場合ですか」

 と冷静に投げかけた。

「見ましたよね!今!」

 俺の絶叫とも言える声に、

「…ああ」

 とアキが答える。

 園子は俺とアキを見比べ、そしてその場に座った。

「千鶴は、自分で自分を犬だと認めた!絶対警察が助けてくれるって、信じてた。でも、そんな千鶴もあんな姿に…。もう、何をしてもダメなのわかりましたよね?警察に反撃しようとしたって、もしも降伏しようとしたって、すぐに殺されて終わりです」

「ああ」

 アキの力ない声が室内にぼんやりと響く。

「私も、脱出するのが先決かと」

 カレンが口を開き、そして椿も

「賛成」

 とうなづく。

 

 アキはしばらく床を睨んだ後、苛立たしげに拳で床を殴った。

「私たちは何のためにダリア連合軍を立ち上げたんだ。平和を訴えるためだよ。なんで、平和を否定する連中の前でしっぽを巻いて逃げださなきゃならないんだ」

 アキは、戸惑っているのだ。

 千鶴が言った言葉に。

 そして自分が負けを認めなければいけない状況だということに。

 ようやく、この現実を受け止めるときがきたようだった。

 

「アキさん。俺はあなたを許しません。でも、今は力を合わせて逃げるしかないと思います」

 繰り返し床を拳で叩いていたアキの手が止まる。

「…許さない?私を?」

「大勢の仲間を集めておきながら、内ゲバを起こし仲間たちを死なせた」

「内ゲバ?なんだそれは」

「内ゲバですよ。こうやって学生運動をしている学生たちが、仲間割れを起こして内紛を起こす、まさに現状そのものです!」

 しかし、アキの目にはまだ疑問が浮かんでいる。

「最初のうちはただの小競り合いだった内部紛争が、そのうち殺し合いになって、そして戦争になった。死者は100人は出たって聞いています」

 

 言いながら、ハッとした。

 俺が生きてきた世界と、アキが生きている世界は違う。

 もしかしたら、この世界では「内ゲバ」という定義すらないのかもしれない。

 俺が知っている世界では、内ゲバを起こし死亡者が何人も出るという悲惨な歴史がしっかりと刻まれている。

 しかし、この世界では例え悲惨な内ゲバが起ころうとも、政府や警視庁が隠ぺいしてきたのではないだろうか。

 まさに今の俺たちみたいに。

 

「内ゲバなんていうもの、見たことも聞いたこともない。トーコ、お前はなぜそんなことを知ってるんだ?」

 俺は咄嗟に

「アキさんが知らないだけで、そういう事実はあるんです」

 と答えた。

 アキは一呼吸置いた後、静かに言った。

「同じようなことが、今までにあったなんて、知らなかった。仮にこれを内ゲバというなら、これは必要な内ゲバだった」

「必要だった…?」

 何かが俺の中ではじけた気がした。

 俺は立ち上がり、怒りにまかせてアキの胸倉をつかんだ。

 アキは、ここ数日おとなしかった俺が突然激昂したことに、驚きを隠せないようだった。

 園子が俺につかみかかってくるが、俺はアキしか見えていなかった。

 

「なぜハルを撃った?ハルは、本当にこのダリア連合軍のことを想って行動してたやつだったのに。アキさんのことだって慕ってたんだよ。アキさんが独りよがりの行動をしているからそれに抗議した。ただそれだけのことなのに、なんであんなこと…」

 

 友だち想いで、革命を熱く信じてやまない戦友を想い、目頭が熱くなる。

 

「マツリだってそうだ。あの時逃げ出せていたら、あんな死に方しなかった。犬は死んで当然だって、あんた言ってたよな?マツリは犬だったけど、なんとかそれを抜け出したくて、今の日本を変えたくてダリア連合軍に入ったんだ!ダリア連合軍のために一生懸命やってきたあの子を、あんな死に方させて、悲しくないのかよ。千鶴も、ロッカさんも、アイリも、みんなみんな!」

 

 園子はもう、俺につかみかかることをやめていた。

 アキは口を真一文字に結び、俺の目を見つめている。

 俺は、アキから手を離し、流れる涙をゴシゴシとぬぐった。

「すまなかった」

 アキが、静かに口を開く。

「私も、全部…後悔している」

 アキは、荒れ果てた室内を見渡し、そして土下座をするように深く頭を下げた。

「私は、うちの家族が、一族が許せなかったんだ」

「一族?」

「うちは、政治家一家だから。日本のため、国民のためだと言いながら、自分たちの損得でしか動かないやつらが今この日本を牛耳っている。そんな政治体制、おかしいだろう」

 

 アキは再び拳で床を殴る。気づけば、アキの拳は皮がむけ血がにじんでいた。

 

「そんな国家を正すために、私は家を抜けだし、ダリア連合軍を立ちあげたんだ。だから国家の犬が紛れ込んでいるのなら、まずはそこから洗浄することは当たり前だろう。ただ、こんなことになるなんて、思っていなかったんだ」

 悔しそうに床につっぷしているアキに向かって、椿が言う。

「内部洗浄は、正しい判断だったと思う。アキは、間違ってない。ただ、みんなの団結が甘かったんだ。だからこんなことに」

 俺たちは、今までの出来事を思い返すように押し黙る。

 アキの家族のことや想いを知ることができて、アキがやったことは絶対に許すことはできないが、これ以上責める気にはなれなかった。

「俺、わかったんです」

 沈黙が続き、口を開いた。

「平和を訴えることは絶対に必要なことだと思う。こんな世の中、どうかしてるし。でも、戦争の計画が進んでいる今、まずは一番近くにいる守らなきゃいけない人を守るべきなんだ。このままじゃ、全員死んで終わりです」

 アキが、ゆっくりと顔をあげる。

「ここを生きて抜けだしてから、また平和を訴えましょうよ。無事に抜けだしたら、戦争のこと、警察がやってきたこと、これを全部世間に知らしめてやりましょう」

 

 俺は、必死だった。

 何より、カレンを助け出したかった。

 俺と二人で生きて行こう、なんてことは言わないから、カレンがまた両親に会えるように、とにかくここを抜け出すんだ。

 そしてまた、生きる方法を見つける。

 そういう生き方が、この世界では必要なのだ。

 平平凡凡と生きてきた俺がこの戦争だらけの世界で生き残れるかはわからないが、でも、死ぬわけにはいかない。

 生きる意味を考えていた年頃もあったけど、ようやく答えが出た気がする。

 生きることに理由なんてないのだ。

 

 ひきつっていたアキの顔はみるみる冷静さを取り戻し、そして言った。

「そんなのわかってる」

 俺の知っている、アキだった。

「しかし、まずは国家機密をどうしても手にしたい。担保になるのはもちろんだが、どんな計画が進んでいるのかが気になる。その情報を手に入れることができたら、戦争反対を訴えるだけじゃなく、もしかしたら今度こそ戦争を止められるかもしれない」

 アキの目が輝く瞬間を見た。

「どうにかしてこの国が滅びていくのを止めたい。その戦争を止めるための、戦いを私たちはしなくちゃならないんだ」

 その目を見ていたら、なんとなく腑に落ちた気がした。

 ハルが言っていた「戦争反対を訴えながら本当は戦争好き」という言葉。

 たしかにアキにぴったりだと思った。

 でもアキにとっては、戦争を止めるための戦争は欠かせないものだった。

 アキもアキで、大切なものを守るために、必死の想いで戦いに挑んでいるのだろう。

「じゃあ、どうしますか」

「そうだな…」

 アキが中腰で立ちあがる。

「とりあえず、研究室がどうなっているか見に行こう」



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チョコレートの裏切り

 講義室Cの前は燦々たる光景が広がっていた。

 廊下にまで赤い水たまりができあがっており、黒ずんでしまった肉片がそこら中に散らばっている。

 衣類、ゲバ棒、机やイスなど、ありとあらゆる破片が散らばっていた。

 廊下だけでも吐き気がするのに、室内は見る気もしなかった。

 俺は、出入り口に近づき中を見ないよう、そっとドアを閉める。

「さっき、中に入ったの?」

 横を這ってきたカレンに問いかけると、カレンは首を横にふる。

「入りかけたけど、私は無理だった」

 良かった、カレンがそこまで強くなっていなくて。

 しかし、俺の前をほふく前進のように這っていくアキ、園子、椿はほぼ動揺せず中に入っていったことだろう。

 その様子が目に浮かぶようだ。

 研究室の前に辿りつき、俺たちは身体を起こす。

 

 研究室の前はエレベーターになっていて、窓もないため外から狙われる心配はなかった。

 日の当らない研究室周辺は、どことなくひんやりとしており、不気味な雰囲気が漂っている。

 部屋のドアには相変わらず、南京錠が頑丈にかけられていた。

「園子、どうだ」

 園子は、ズ太い南京錠をジャラリと持ちあげ言う。

「開けた形跡はないけどな…」

 そして他の鍵穴も覗きこみ、うなずく。

「うん、あの状況だったら普通の人間は焦るか、恐怖に襲われるかして、鍵穴のまわりを傷つけると思う。それが傷なんてなにもない。だから、あの時誰かが開けたというのは考えにくいね」

「そうか…じゃあ、まだこの中に国家機密があるというわけだな」

 俺たちは黙り込む。

 が、すぐに思い出して、ケツのポケットに触れる。

 あった。マツリが俺に遺してくれた、ダイナマイトだった。

 これだったら、扉をふっとばすことができるのではないだろうか。

 しかし、まだアキたちにこの存在を伝えることには気が引けた。

 もしかしたらこの中に、国家機密を持ち出すよう命令されている犬が残っているかもしれないのだ。

 ダイナマイトの存在を伝えることで、自分に危険が及ぶ可能性が頭をよぎり、俺はもう一度ダイナマイトをポケットに押し込んだ。

 

「園子、鍵、開けられないか?」

「南京錠以外はいけると思うんだよね」

 いけるのか…それだけでもびっくりしたが、園子はすぐに実行に移った。

 髪につけていたピンを3本取り、そしてそれを鍵穴に差し込む。

 手先で少々角度を調整したかと思ったら、すぐに「ガチャッ」と音をたてて開いた。

「すごい!園子空き巣になれるな」

 あまり感情を見せることのない椿だったが、この神業ともいえる技術にはさすがに感心したようだった。

「これくらい楽勝だよ」

 園子は少しだけ照れくさそうに、しかしそれがバレないよう早口で言う。

「それに、鍵はここだけじゃない。上部に1、通常位置にもうひとつと南京錠、下部左右に1ずつ。奥にはもう1枚扉がある」

「でも、そのペースなら全部いけそうじゃないですか?」

 カレンが恐る恐る言うと、園子はうなづいた。

「少し時間がかかるし、奥の扉はどんな鍵の形状かわからないけど、やるしかない」

 そしてすぐに座りこみ、また同じようにして鍵穴にピンを差し込んでいく。

 4つ目までは順調だった。

 まるで職人のように、手先の角度だけで開けてしまうのだから大したものだ。

 しかし、南京錠がどうしても開かない。

 ずっと中腰だった園子がとうとう、ペタンと腰をおろした。

 園子の集中を削がないようなるべく物音をたてずにいた俺たちも、全員でふーっとため息をついた。

 

「集中力が、続かない…」

 園子が初めて嘆いた瞬間である。

「よくやったよ。ちょっと休んで」

 アキが珍しく、園子に優しい声をかける。

 そういえば、園子の顔に火炎瓶をクリーンヒットさせてしまった時も、アキは園子に優しく手をさしのべていた。

「あの二人、小学生の頃からあんな感じらしいよ」

 俺があまりにも二人のことをじっと見ていたからだろう。

 カレンが3人には聞こえないように、そっと教えてくれた。

「いじめられっこの園子さんと、番長みたいなアキさん。ずっと仲が良くて、園子さんがいじめられるといじめた相手のこと、殴りに行くんだって。それで高校も退学になりかけたとか」

「へー」

 人は見かけによらないと言うが、このことに関しては見かけ通りである。

 本当に絆でつながっているというのは、こういう二人のことを言うのだろう。

 

「二人も食べる?」

 気づくと、椿が俺たちに食べかけの板チョコをさしだしてくれていた。

「お腹がすくと集中力が途切れやすくなるから。その点、チョコはいい」

「ありがとうございます」

「全部食べていいから」

「はい!」

 カレンは嬉しそうに、板チョコをパリッと割り、そしてその残りを俺にも手渡してくれる。

 俺はそれを受け取りながら思った。

 そういえば、椿がマスクをとったところを一度も見たことがなかった。

 この機会に見られるのではないかと、園子たちと言葉を交わしている椿をじっと観察する。

 しかし椿はアキと園子、俺とカレンにチョコを渡し、自分では食べていないようだった。

「いい人だよね、椿さん」

「そうなんだ。悪い人にしか見えないんだけどな」

「ああ見えて優しいんだよ」

「ふーん」

 チョコをぺろりとたいらげてしまったカレンが、俺の手元を見て言う。

「あれ?まだ食べてないの?チョコ好きでしょ?」

 実のところ、俺はチョコレートが苦手だった。

 一度ももらえなかった、バレンタインの呪いだろうか。

 子どもの頃には何度か食べてみたことがあったが、もう10年以上食べていないと思う。

「食べておいた方がいいよ。これから長いかもしれないし」

 たしかに、食べておいた方がいいんだろう。

 でも、こんな時に甘ったるいものを食べる気にはなれない。

 そこらへん、スイーツ好きの女の子はスゴイ。

 腹が減っている時に甘いものが食べられるなんて…。

 って女の子に言ったら「意味わかんない」と言われたことがあるからもう言わないようにしているけど。

 

「よかったら、食べる?」

 俺の一言に、カレンが絶句した。

 そこまで驚くか?と思ったが、トーコがチョコ好きだとしたら、カレンのこの反応もわからなくもない。

「いいから、食べて」

 カレンを喜ばせたい、というちょっとの下心もあいまって、俺はそのチョコをカレンに押し付けた。

あの時カレンにおにぎりをもらっていなかったら、たぶん苦手なチョコでも食べていただろう。

 カレンは

「ありがとう」

 ととびきり明るい声で言って、嬉しそうにチョコを頬張った。

 チョコを渡しただけでこんな笑顔が見られるなら、いつでもどこでもチョコを渡したいものだ。

 

 それからすぐに鍵開けは再開されたが、なんだか様子がおかしいことに気づいた。

 中腰で南京錠を開けようとしている園子の足元がフラフラしている。

 アキを見ると、目を執拗にしばしばまたたかせていた。

 突然、カレンがその場に倒れた。

「カレン?」

 必死に呼びかけるが、返事がない。

 そして立て続けに、アキがその場に崩れ落ち、園子もドアに額をぶつける勢いで倒れてしまった。

「これは…」

 3人とも眠っているらしかった。

「寝てる?」

 俺がつぶやくと

「そうだよ」

 と椿が返事をする。

 椿を見ると、俺のことをまっすぐ見つめていた。

「なんでトーコは無事なの?」

「……」

「チョコレート、食べなかったの?」



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同じ境遇の人がいた

 理解が追いつかなかったものの、ようやく合点がいった。

 椿が、チョコレートに睡眠薬をしこんでいたのだ。

「チョコ、嫌いだから」

「好きだったはず」

「…今は嫌いで」

「まあいい」

 椿はそう言うと、くるりと踵を返し、つかつかと研究室の前を離れていく。

「どこに行くんですか?頭上げて歩いてるの、危ないですよ」

 俺の声を椿は全く無視し、講義室Aの方へと歩いて行ってしまう。

 予感はあった。

 アキさえも取りみだすこの状況の中で、椿は恐ろしいほどに冷静だった。

 この場からなんとか逃げだそうと翻弄する俺たちを監視するかのように、いつもそばにくっついていた。

 自分は何もしないのに。

 ここにじっとしていることはできず、椿を追いかけた。

 

 椿が入っていったのは、講義室Bだった。

 アキたちを眠らせて、これから何をするというのだろう。

 この場所に、何の用事があるというのだろうか。

 講義室Bを覗くと、椿は教壇の脇に転がっている金庫に鍵を差し込んでいる。

 その様子を隠れて見ていると椿が俺を見ずに言う。

「なぜ何も言わないの」

 俺は言葉を選び、言う。

「言うことがないからです」

 すると椿はフッと笑った。

「まあ、そうね。私がアキたちを裏切ったのは一目瞭然だからね」

「犬なんですね」

「トーコは違うの?」

「違いますよ」

「…犬だと思ってた」

 金庫が開き、椿が手にしていたのは、A4サイズほどのアタッシュケースだった。

「それは、何ですか」

「そんなところに突っ立ってないで、こっちに入ってきな」

「でも」

「外部の見張りに見られるのも嫌だから」

 俺は椿から目を離さぬよう室内に入り、静かにドアを閉めた。

 室内はカーテンがしっかりと閉められており、外からは少しも見えないようになっている。

 椿が口を開く。

「パソコンというものを、見たことはある?」

「パソコン?」

「ああ、知らないでしょ」

 その逆だ。

 この世界にはパソコンすらないと思っていたが、あったことに驚いているのだ。

 

 椿がアタッシュケースを開くと、片面はキーボードになっており、もう片面はパソコンの画面になっているようだった。

 慣れない手つきでようやく電源ボタンを見つけ、電源をつけた。

「パソコン、あったんですね。しかもそんなタイプの」

 椿は目を見開き、俺を凝視する。

「なんだ、知ってるんだ」

「あ、ええと」

「使ったことは?」

「…あります」

「ふぅん」

 椿は訝しげに俺を覗きこんだが、すぐに口を開く。

「なら、教えてほしい」

「何をですか」

「パスワードを入れろって出てる」

「いや、それは俺はわからないです」

「なんだ、わからないんだ」

「いや、パスワードはその所有者じゃないとわからないですよ。あ、でもちょっと待てよ」

 俺は二日ぶりに触れるパソコンに懐かしさを覚えながら、椿に近づく。

 椿は、パソコンの中身を見られることに対し少し警戒心を示したが、しかし俺が慣れた手つきでキーボードをたたき始めると、感心した様子でパソコンを俺に託した。

 

 子どもの頃に、父親が使っていたパソコンのおさがりを使っていたことがある。

 あの頃のパソコンは、パスワードを忘れてしまったときでも、秘密の質問なんかではなく、直接起動させる方法が あったはずだ。

 まさか、こんなところで俺のオタク知識が役立つなんて。

「トーコ、あんた、本当にただの大学生?」

「そうですけど」

 軽快にキーボードをたたく俺に向かって椿は戸惑いながらも興味深々に話しかけてくる。

「どこで、パソコンに触れる機会があるの。これはまだ、日本でも2台しかないのに」

 俺の手が止まる。

「2台…?」

「ええ。国会に一台と、そしてここに一台」

 俺は、とんでもないことをしてしまったらしい。

 青ざめたときには、遅かった。パソコンは「ブイーン」と音をたててホーム画面を映し出す。

「…なんで知ってるの。パソコンの起動の仕方を」

「……」

 どう説明したらいいのかわらかなかった。

 まさか、「平成27年から来た」なんて言えないだろう。

 しばらく上手いウソを探していたが、椿は特にそれ以上問い詰めるようなことはせず

「じゃあ、これを消す方法はわからない?」

 と画面の中にいくつもあるひとつのフォルダを指差した。

 そこには、「共成5年度人口削減計画書」と書かれている。

「これを?」

「うん。消す」

「ちょっと待ってください。人口削減計画書って、千鶴が言ってたやつですか?」

「そう。このパソコンには、国家機密がつまっている」

 なんということだろう。

 こんなにもすぐ近くに、俺たちが探していた国家機密があったというのか。

 しかもこんなに小さな、パソコンの中に。

「なんで、こんなところに国家機密が」

「核兵器に関する会議はマキナエがいるこの大学で行われていることが多い。これを持ちだすこともできずに、ここに保管するようにしたらしい」

「危険すぎる」

「普通はそうだよね。でも、パソコンなんて他の連中は見たことがないから。これはいわば金庫よりも硬いシェルターみたいなものなの」

「じゃあ、あの研究室には何があるんですか?」

「それは私も知らない。ほら早く、消して」

 俺は椿に言われた通り、削除の手順をふむ。

「でも、これを削除して大丈夫なんですか?持ってこいって言われてるんですよね?」

「まあね。でも、持ってこい、としか言われていない」

 思わず、笑ってしまった。

「椿さん、やりますね」

「これくらいやらせてもらわないと。日本の、いや世界のお偉いさんたちはどうかしてる。こんな計画、消しちゃえばいいんだよ」

 

 画面に「削除」マークが出る。

 そこをクリックしながら思った。

 いくらここで削除したとしても、もう一台にデータが残っている可能性は高いし、そもそもデータを消しただけではこの計画が消えることはないだろう。

「計画は実行されるかもしれない」

 俺の心を読むように、椿が言った。

「でも、何もせずにはいられない」

 全く、その通りだった。

「バレたら怖いですね」

「その時はその時。でも私はパソコンなんて使えない。そして、この日本でもパソコンを使えるやつは限られた人数しかいない」

 椿が俺を見つめていることに気づいたとき、「削除が完了しました」という文字が出た。

「消えたね」

「そうですね」

 椿は電源ボタンを押し、一仕事終えたようにその場に座り込む。

 俺も、その横に静かに腰をおろした。

「私がここから出たら、この大学は爆破されるよ」

 きっとそうなんだろうと思っていた。

「逃げられないよ」

 それも、なんとなくわかっていた。

「子どもの頃、同じような光景を見たことがあるけど、あの時もたしか日本は変わらなかった」

「同じようなというと?」

「デモをして、バリケード封鎖をしている大学生たち」

「あの頃も、そんなことありました?」

「…それが、どこをどう調べてもなかったんだよ」

「……」

「でも、私はたしかに、子どもの頃にテレビで見させられていた。母親の先輩が死んだっていう、デモの映像を。たぶん、録画したものだと思うけど」

「死んだんですか?デモで」

「国会議事堂でデモをして、その中で一人、機動隊との衝突で死亡したんだ」

 身体中から、脂汗のようなものがにじみ出るのがわかった。

「それ…」

 俺の声は震えていた。

「それ、安保闘争のときの」

「安保闘争?」

「1960年の」

「…何もないんだよ」

「え?」

「私も調べた。でも、何もなかったんだ」

 

 どういうことだ。

 絶対にこちらの世界では起こっていないはずの安保闘争の記憶が、椿にはあるのだ。

「他には、何か覚えてますか」

 俺は、自分がこちらの世界に来た何かのヒントになるのではと思い、必死に椿から聞きだそうとした。

 椿はしばらく考えこみ、そして突然歌を口ずさみ始める。

「戦争を知らずに、僕らは育った」

 俺も、聞いたことのある歌だった。

「知ってます」

「本当に?」

「はい、知ってるんです!」

「これ、子どもの頃母親がよく口ずさんでいた歌で、でも私たち戦争ばっかり経験しているのに、なんでこんな歌があったんだろうって、ずっと不思議に思ってたの。初めて会った、知っている人に」

 少しの希望が、確信に変わった。



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皆を助けたい

「じゃあ、私そろそろ行くから。頑張って逃げだして」

 椿はそう言うと、立ち上がろうとする。

でもここで逃がすわけにはいかない。

せっかく、何か知っていそうな人に出会ったのだから。

 

「待ってください。俺、まだ話したいことがあるんです」

「悪いね。こっちも、命がほしいから」

「…俺、平成27年という年号から来ました」

「は?」

 案の定、椿はぽかんとして俺を見つめる。

 しかし時間がない。核心だけを伝えることにした。

 

「本名は花田透。二日前、気づいたらあのアパートにいました。女になっていました。俺が生きてきた世界では、戦争はとっくの昔に終わって、日本人は平和に過ごしています。戦争はもう起きてません」

「戦争がない…?」

「はい、俺は、戦争を知りません。椿さんがさっき歌ってた歌、俺の世界の歌です。絶対にこっちの世界でそんな歌生まれるはずない。そうですよね?」

 椿は、浮かせていた腰を、ペタンと降ろす。

「なるほど」

 そして何度も口の中で「なるほど」を繰り返し、点と点をつなげているようだった。

 正直、こんなにもすぐに受け入れてもらえるとは思ってもいなかった。

「信じてくれるんですか?」

 考えこんでいる椿に恐る恐る尋ねると、

「私も、こっちで生きてきて、ずっと違和感を抱えてきたからね。ようやく、信じることはできないが納得する答えに出会った気がしてね」

 

たしかに、すぐに信じることなんてできないだろう。

 でも、椿からなんとかヒントを引き出したい。

「その違和感がある記憶は、いつまであるんですか?」

「…小学3年の夏だよ」

 ハッキリとした答えがかえってきて、面喰ってしまった。

「どういうことですか?」

「私は、小学3年の夏に倒れた。ずっと、寝込んでいたんだ。気づいたら、記憶が混濁しているし、こんな姿になっていた」

 そしておもむろに口元に手をもっていき、マスクをはずした。

 思わず、短い悲鳴のようなものが出てしまった。

 口は、マスクでギリギリ隠れるくらいの位置まで避けていた。

唇と皮膚はただれ、本来の赤みはなく灰色や茶色に変色してしまっている。

 

 椿はすぐに

「ごめんね、こんなものを見せてしまって」

 とマスクをつけなおす。

「いえ。それより、それは」

「何かの薬を飲んでこうなったらしい。でも、それ以前の記憶が全くないの」

 ピンときた。

 トーコも、たしか「劇薬」を飲んだのではなかったか?

「劇薬?」

「さあ」

「教えてください!お願いします!」

 俺の勢いに押されながらも、椿はブンブンと首を振った。

「知らないんだ、本当に。父親が何かを知っていたようだけど、教えてくれなかった」

 間違いない。

 トーコが飲んだ劇薬に、秘密が隠されているんだ。

 俺が黙り込むと、椿はタイミングをはかったように立ち上がる。

「でも、そういう話は嫌いじゃない。ぜひ生き延びて、またその話を聞かせてよ」

 椿は俺に背中を向け、そしてまた振り返った。

「これ、良かったら使って」

 椿が手にしていたのは、拳銃だった。

 椿は拳銃を握り締めている俺を残し、講義室をあとにした。

 

 俺はしばらくの間、椿が去っていった後の講義室Bでじっとしていた。

 一人きりになると恐ろしいほどの静けさが漂っていることに気づく。

 普段はザワザワしているこの大学が、ここまでの静寂に包まれたことはあっただろうか。

 立ち上がろうとしたその時、かすかに誰かがしゃべっている声が聞こえて、俺はさらに耳を澄ました。

 それは、男の声だった。

 この校内に、男がいる?

 あまりにも予想外のことで、俺は恐怖に打ちひしがれそうになったが、その正体を確かめるべく、ほふく前進で声の方へと進んでいく。

 

 声は、講義室Aからだった。

 拳銃をかまえて、中を覗きこむ。

 カーテンを締め切り、暗闇につつまれている室内は、ロッカが窓を破ったことで風が入ってきていた。

 青白くなったアイリの遺体がすぐそばに横たわっている。

 この中に男が…?

 全神経を集中させてから、気づいた。

 その声は、教壇の近くに転がっているテレビからだったのだ。

 テレビはかろうじて映像を映し出しており、レポーターらしき男のシルエットが映っていた。

 なんだ、驚かすなよ。

 胸をなでおろし、拳銃をポケットにしまった。

 カレンたちがいる研究室の前へと戻ろうとする。

 しかし、レポーターの言葉に、耳を疑った。

 

「学生たちが所持していた爆発物の誤爆により、全員死亡したと伝えられている、花巻女子大学の正門前まで来ております」

 全員、死亡?

「現場となった校舎ははるか遠くに見えておりますが、安全のためこれ以上近づけない状況となっています」

 

 そのとき、ヘリコプターがバタバタと音をたてて近づいてくるのがわかった。

 俺は中腰になり、これから起こるかもしれない何かに備える。

 しかし、ヘリコプターの音は大学の屋上で止まり、そしてすぐにまた動き出した。

 どういうことか考えあぐねていたが、恐らく、椿が迎えのヘリによって今飛び立ったのだろう。

 

 俺ははじかれたようにその場から走り出す。

 この大学から国家機密が持ちだされた今、ここを残しておく必要はなかった。

 レポーターが伝えているように、警察側は本当に「全員死亡」にさせるつもりだろう。

 早く、アキと園子とカレンを起こさないと、俺たちはすぐに末梢されてしまう。

 

 中腰で廊下を走りながら、どれだけの機動隊が待ち構えているのかと、チラリと窓から大学の裏手を覗いた。

 その瞬間、窓が割れ、風を切る音とともに壁に穴が開いた。

 窓の外から、ずっと狙われていたのだ。

 ドキドキする胸を押さえながら、外から見えないよう、這いつくばるほどにかがみこむ。

 しかし今度は、講義室Aから爆発音が聞こえ、開いていたドアから、テレビの残骸が飛び散ってきた。

 間違いない。

 殺される。

 かがんだ姿勢で、死ぬ気で走る。

 背後から焦げくさい臭いが漂ってきて、振り返ると講義室Aから煙が上がったところだった。



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研究室を捜索

 研究室の前ではさきほどと変わらず、アキ、園子、カレンが眠っていた。

「おい、起きろ!爆破させられるぞ!早くここを逃げ出さないと!」

 身体をゆすっても起きないので、容赦なくアキの顔をビンタした。

 少し眉をしかめたアキに、もう一度ビンタをくらわす。

「アキさん、起きてください!学校が爆発します!アキさん!」

 アキはゆっくりとまぶたを持ちあげ、目の奥で周囲を見回す。そして目を見開いた。

「どうして」

「椿さんです。椿さんが、国家機密を持ち出しました」

「椿が…」

 アキはこの状況を理解しようと、眠っている園子とカレンに目を落とし、必死に考えようとしているようだった。

 そして慌てて研究室の扉を見る。

「鍵が開いてないじゃないか!どうやってここから国家機密を持ち出したんだよ」

 講義室Aから、もう一度爆音が聞こえる。

 その音で、園子が目を覚ましたようだった。カレンも、ゆっくりと目を開けようとしている。

「…どうしたの」

 しかしアキは園子の言葉を無視して、俺の胸倉をつかんだ。

「おい、お前ウソを言ってるな。椿が私たちを裏切るはずないし、研究室も開いてない!お前、私たちを逃がした後に、ここから国家機密を持ち出すつもりだな」

 アキの怒りをあおらないよう、ゆっくりと口を開く。

「椿さんも最後まで戦っていました。椿さんも、平和を訴えるために、最後の最後まで政府にあらがいました。でも、椿さんも自分の命を守らなければいけなかったんです」

「仮にだ、仮に、もし椿だとしても、どこから国家機密を持ち出したというんだ」

「講義室Bです」

「は?」

「講義室のBの金庫の中に、国家機密が入っていたんです」

「……」

 アキは全く理解できていないようだった。

「椿さんから聞いた話です。日本には2台のパソコンがあり、その中に国家機密が入っていたんです。その1台が、講義室Bの金庫の中に」

「パソコン…?あんな小さな金庫の中に、国家機密が入るわけないだろう。資料は膨大な量に及ぶし、場合によっては武器のサンプルだって保管しているはずなんだ」

 

 パソコンを知らない人間に、データがどうのこうのと説明しても、さらに混乱するだけだろう。

 俺はしばらく考えこみ、そして言った。

「とにかく、国家機密は椿さんが持ちだし、この研究室に国家機密が眠っていないことは確かでした」

 アキは、大きく顔をゆがめ、なんとかその事実をつっぱねようとする。

「じゃあ、ここには何が入っているというんだ。こんなに頑丈に鍵を締めて」

「それは俺もわかりません。でも、聞こえますか、爆発の音。そしてこの煙の臭い」

 アキも、園子も、カレンも、皆講義室Aに目を向ける。

 遠くに見える講義室Aからは、もくもくと煙が立ち込め、天井を伝ってこちらにも煙が迫ってこようとしていた。

「あれは…」

 カレンの不安気な声に、俺が答える。

「国家機密が持ちだされたから、この大学内に残されたありとあらゆる証拠を、あいつらが消そうとしているんですよ。報道陣はもう、この大学内に生存者はいないと伝えています。学生たちが所持していた爆発物が誤爆して全員死亡したって。これはどういうことかわかりますか?」

 

 そしてまた、講義室Aから爆音が上がった。

 園子はまじまじとその様子を見つめ、カレンは短い悲鳴を上げ身体を丸めた。

 アキは、ただ茫然と俺の顔を見つめている。

「だから、早く脱出するんです、アキさん!」

 アキは何か言いたげに口を開いたが、俺がそれを遮断する。

「ある程度爆弾を投げ込み炎が消えたら、そのうち武装した奴らが突入してくるでしょう。どこに隠れていたって、もう逃げられません。1階では警察が待ち構えているかもしれないので、このエレベーターから逃げましょう。たしか、1階で止まっていたはずだ。ケーブルを伝って下りれば、1階におりられます。待ち構えているとしてもきっと階段の前で、エレベーターの前の警備はゆるいはず」

「ダメだ」

 なんとかアキに喋るすきを与えないようまくしたてたが、今度はアキに遮られた。

「どうして」

「絶対にここには国家機密が保管されている。見てみろ、Aにしか攻撃をしていないだろう。研究室に傷をつけないためだ。だから、ここにいれば爆破されることはない。園子、今のうちに鍵を」

 パソコンという物を知らないアキにとって、俺が言っていることは全く信用ならないことだった。絶対に、この中に国家機密が残されている。そう信じて疑わない。

 園子は少し迷っていたようだが、信頼するアキの言うことを聞かないわけにはいかない。

「わかった」

 そううなづくと、また頑丈な南京錠の突破にとりかかった。

 

 カレンは、不安そうに講義室Aを見ている。

 Aからはさきほどよりも激しく煙が立ち上り、火が燃え盛っているのが見えた。

 南京錠にピンを突っ込む園子の手は、小刻みに震えている。

「開きませんよね」

 俺の言葉に、園子がビクッと身体を震わせた。

「どいてください」

 園子が俺を振り返る。

 俺は、マツリから託されたダイナマイトを握りしめていた。

 もうこうなったら、この扉をこじ開けて、中を見てアキを納得させるしかない。

 そして俺も、この中に何があるのかは少し気になっていた。

 

「何をする気」

「扉をふっとばすんです」

 園子は、自分ではもう南京錠を開けることはできないとわかっていたのだろう。

 俺が手にしているダイナマイトを見ると、扉から離れた。

「園子」

 アキの声に、園子が言う。

「たぶん、ダイナマイトの方が確実」

 アキは園子の話なら聞くようだった。

 アキも園子にならい扉から離れる。

 カレンもそれを見て、俺の後ろに回り込んだ。

「いきますよ」

 俺たちは床にはいつくばるようにして、扉を見つめる。

 ポケットに入っていたライターで図太いろうそくのようなダイナマイトに火をつけ、扉の前に転がした。

「伏せて!」

 俺の声に、全員が顔を伏せる。

 すさまじい爆音とともに、爆風が俺たちを襲った。

 爆風は扉の破片を容赦なく俺たちに叩きつけ、そしてしばらくしておさまった。

 恐る恐る扉を見つめると、扉はほとんど吹き飛んだようだった。

 かろうじて残っているドア枠と、まだつながっている南京錠のチェーンがゆらゆらと揺れている。

 

 俺たちは急いでドアにかけよる。

 表面のドアは吹き飛んだようだが、その奥に、分厚い鉄板のようないかにも重たそうなドアがあることがわかった。

 俺は、ポケットから拳銃を取り出して、やっと繋がっている程度のチェーンめがけて発砲した。

 発砲の反動で狙いがずれ、弾は鉄扉にするどく食い込み、火薬のにおいがした。

 俺はまたすぐに狙いを定める。

 拳銃を握って肩に力をこめ、反動に備えた。

 今度はうまくいったようで、チェーンは、キンっと金属音をあげ周囲に飛び散る。

 安堵しながらも、なぜか指にしっくりと馴染む拳銃に戸惑っていた。

 もしかしたらトーコは拳銃をいじったことが何度もあるのではないだろうか。

 

 気づくと、アキたちが訝しげに俺を見ている。慌てて俺はポケットに拳銃をしまう。

「これはさっき椿にもらったんだ。ずっと持っていたわけじゃないから、勘違いしないで」

 俺の弁明に、皆はそれほど興味がないように目をそらした。

 

 ドア枠だけ残っている扉を、ゆっくりと開ける。

 そして、鉄の扉の全容を目の当たりにした。

「園子、これは開けられるか」

「……」

 園子は、言葉を飲み込む。

 ドアノブの上には、シルバーのボタンで、0~9までの数字が並んでいたのだ。

「これは…」

 何桁の、どの数字を入れればいいのかは全くわからない。

 しかし園子はその数字を覗きこみ、言った。

「使われている数字は、1と4と9」

「なぜわかる」

 アキの問いかけに、園子は数字を凝視し続けて言う。

「だいぶ使いこまれているからね。黒い文字が若干はがれている部分がある」

 園子は頭がキレる上、カンもかなりするどい。

 アキの隣でいつも神経を研ぎ澄ましているだけある。

 

「どうする、とりあえず押してみるか?」

「うん」

 園子は、その場にかがみこむ。

 よく見たところでわからないとは思うが、じっと数字を覗きこんだ。

「わかった」

「え、何がわかったんですか」

 思わず声を出していた。

「数字の黒い色がすれる角度で、指の動きがわかる」

 この人は、どこまで研ぎ澄まされた人なんだろう。

 昨日までは、アキの隣でじっとしているだけで何もできない金魚のフンのようなものだと思っていた。

 でも、実際は園子の知識をもってアキを動かしていたのではないかという気すらしてきた。

 

 園子は、ゆっくりと数字に手を伸ばす。

 押した数字は、1、9、4だった。

 しかし、ドアはうんともすんとも言わない。

 試しにドアノブを回してみるが、やはり開かなかった。

「そんな。これしかないはずなのに」

「順番を入れ替えてみろよ」

 園子はアキに言われた通り、今度は順番をかえ、4、1、9、と押してみる。

 しかしドアはビクともしなかった。

 そのとき、今度は講義室Bから爆音が聞こえた。

「今度はBか」

 研究室にまだ国家機密が保管されていると思っているアキは冷静だが、冷静に待っている場合ではない。

 そしてついに、Cにも爆弾が投げ込まれた。

 すぐそばで爆発音が上がり、強烈な爆風が俺たちの身体を吹き飛ばした。

 俺たちは壁にたたきつけられ、その場に崩れおちる。

 

「アキさん、もうダメです。もう逃げましょう」

「そうですアキさん、一緒に逃げましょう」

 俺とカレンがアキを説得するが、アキは聞かなかった。

「大丈夫だ。絶対に大丈夫だ。ここは安全だ」

「だから、安全じゃないんですって!」

 もう、いつここに爆弾が飛んでくるかもわからなかった。

 早いところ逃げないと死ぬ。

「カレン、俺たちだけでも逃げよう」

「でも」

「いいから」

 俺はアキと園子を置き、カレンの手を引っ張った。

「好きに逃げればいい」

 アキは、自分の考えを信じてやまなかった。

 

 俺たちは、研究室のすぐ前にあるエレベーターを見上げる。

 電気は付いていない。

「この扉をこじあけて、下に行くよ。できる?」

 カレンは、強くうなづく。

 しかしドアに手をかけたその時、エレベーターの電気がついた。

 エレベーターは1という数字をうつしだし、そして次は2を示す。

「ちょっと、これ」

 カレンの手を引き、一歩後ずさった。

 アキたちも俺たちの様子に気づいたようで、こちらを見ている。

「どうした」

「エレベーターで、誰かがここに来るようです」

「警察か…?」

「かもしれないですね」

 エレベーターの数字が3を示す。

「逃げよう」

「逃げるって、どこへ」

 周りを見渡すが、研究室の奥は行き止まり、Cは煙をあげ始め、Bから先はもう煙で何も見えなくなっていた。

 エレベーターの数字が4を示す。

 俺たちはもうなすすべなく、その場に立ちつくすしかなかった。

 チンっ。

 音と同時に、エレベーターの扉が開き、俺たちは身構える。

 銃を構えた機動隊がそこには乗り込んでいるのだろう。

 そう思った。



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原因が分かった

 しかし、エレベーターから出てきたのは、マキナエだった。

 ごほごほむせながら、

「なんじゃこれ煙たい」

 と情けない声をあげている。

 俺たちはしばし状況をつかめず、目を丸くしてマキナエを見つめた。

 マキナエは4人の視線に気づき、目を見開く。

「おー、生きてたか。もう全員死んでると聞いてたが」

 と声をあげ、そして鉄の扉がむき出しであることに気づく。

「あー!何をしているんだ」

 小さな身体でチョコマカと走り、園子の横に並ぶ。

 唖然としていたアキだったが、なんとか口を開いた。

「マキナエ教授、こんなところで何してるんですか」

「何してるってそりゃあわしの研究を守るために来たんだよ。テレビを見てびっくりしたよ!こんなことしてくれちゃって、困るんだよ君たち」

 そして園子が数字に手をかけているのを見て、慌てて言った。

「何回押した?」

「二回です」

 園子の冷静な声に、マキナエは胸をなでおろす。

「よかった、三回間違えていたら腕がちょん切れてたところだった」

「腕が…?」

「ドアの上にギロチンを仕込んでいてね」

 なんて恐ろしい仕掛けをしているんだこいつは。

 恐る恐る上を見上げるが、確かに妙な隙間がドア上部に開いていた。

 

「念のため、扉から離れていなさい」

 そしてマキナエは鍵に手をかける。

「私たちの前で開けていいんですか」

「まあ、もういいだろう。このままだとこの扉も燃えそうだからな」

「この中に国家機密が眠っているんですよね」

 アキの挑戦的な態度に、マキナエは目を丸くする。

「国家機密?」

「政府は、人口削減計画を実行するために核戦争を起こす。そのための国家機密じゃないんですか?」

 アキはかまをかけているようだが、マキナエは目を丸くしたままアキをみつめ、そして何がおかしいのか「ふぇふぇふぇふぇ」と笑い始めた。

「図星ですか?」

 マキナエはひとしきり気持ち悪く笑った後に、鍵に手をかける。

「答えてくださいよ」

 そしてマキナエはアキを振り返って言った。

「もっとすごいものを見せてやる」

 もっとすごいもの?

 核兵器に関わる国家機密以上にすごいものなんて、あるのだろうか。

「1、9、4、1」

 ボタンを押しながら数字を読み上げるマキナエに、園子が納得したようにうなづいた。

 

 1941。

 マキナエが生まれた年だろうか?

 俺が知っている歴史的にいえば、太平洋戦争で日本が宣戦布告した年だ。

 こっちの世界ではその年に何があったのか知らないが、なんて嫌な数字をパスワードにしているのだろう。

 考え込んでいる間に、マキナエが全身を使って重そうに扉を開けた。

 扉は、ギギギギギと古い音をあげ、ゆっくりと開いていく。

 

「これが、わしの研究だ」

 研究室内は、6畳ほどの小さなスペースしかなかった。

 壁上部に取り付けられた小さな窓から光が降り注ぎ、かろうじて物が見える程度の明るさである。

 壁中に色あせた本や資料が山積みにされていて、床にも書類が散らばっている。

 部屋の真ん中には、部屋を埋めてしまうほどの大きなテーブルが置かれており、そこにも書類が積まれ、瓶や実験用具などが雑然と置かれていた。

「研究って、これは一体」

 アキが、書類などをかき集め、必死に読みこんでいく。

「これ…」

 園子が手にしていたのは、『次元間における意識の移動』という書類だった。

「これが、戦争に関係あるのか?」

 アキが必死にマキナエにくらいつく。

「戦争?なんのことかな」

 とぼけているマキナエの胸倉をアキがつかんだ。

「政府や警察が、国家機密をこの大学に隠していると聞いた。お前も関わっているんだろう?だからこれが、国家機密なんだろう?」

「何言ってんだ。この研究はわしが個人的に行っているものだ。国家機密って…ああ、核兵器のことか。たしかにそれにわしも関わっているが、その国家機密はたしか講義室Bにあったろ?ん?」

 アキが、その場でふらつく。

「この研究はもっともっとすごいものなんだ」

「政府は、警察は、この研究室を守ろうとしているんじゃないのか」

「全く」

 マキナエはあっけらかんと言う。

「だからわざわざこんな危険なところに飛び込んできたんだよ、機動隊が止めるのを無視してな。政府は、わしの研究なんか見向きもしないからな。こんなにすごいのに」

「じゃあこれは、戦争には関係ないと?」

「まあ、ないね」

「でも、椿の父親が言っていたらしい。マキナエが世界を変えてしまうって」

「そんなこと言ってくれてたの?嬉しいな~」

 マキナエは歯のほとんどない顔でニタッと笑う。

「だから、それが核兵器のことかと」

「違うよ。わしが研究しているのは、『次元間における意識の移動』だ」

「……」

 全員、ぽかんとしてしまう。

 

「脳というハードが人類皆同じ物質に何らかの特定のパターンを発生させると、それが意識となり、他次元を認識することで移動することができる。他次元で同じ脳を認識するとそこに留まり、先住脳は意識として追い出され自分と同じ脳を探し始める。そうすることによって他次元での脳内移動が可能になるんだ!」

 

 アキが、マキナエの胸倉から手を離し、マキナエは床に転がった。

 しかしすぐに立ち上がり、そこらへんに散らばっている書類や瓶類を必死に集め始める。

 全員が戸惑っている中、テーブルの上に置かれた「劇薬」と書かれた瓶に目が留まった。

「やっぱり、あの劇薬」

 つぶやいたのは、カレンだった。

 カレンも同じように、劇薬の瓶を見つめ、そして俺を見つめた。

「あれを?」

「そう、トーコが飲んだ」

 俺の質問に、カレンはゆっくりとうなづく。

 もう一度、「劇薬」と書かれた瓶を見た。

 小さな、よくある栄養剤のようなタイプの瓶だった。

 よく見ると、同じ瓶は10本ほどテーブルの上や下に置かれている。

 

「なんでだよ!」

 突然、アキが叫ぶ。テーブルを拳で殴り、ひざまずいてしまった。

「私は、こんなもののためにここに残っていたというのか」

「アキ」

 園子が、アキの震える肩に手を置く。

「こんな、政府が見向きもしないような研究を、ただひたすらに私は信じて…あんなにも、血が流れた…」

 アキは、泣いていた。

 園子は何も言わず、アキの肩をさする。

 アキは、ギロリと俺を見る。

「疑って、申し訳なかった」

「いや…」

 目を真っ赤に染め、アキは俺に深く頭を下げた。

 そしてまた、講義室Bで爆発音がする。

 

「まただ。そろそろ出ないと、本当にまずい」

 研究室にも、煙が入ってきた。

 研究室には煙が通りぬける窓がないため、煙がこもってしまったら大変なことになる。

「アキさん、行きましょう」

 俺の言葉に、アキはきっぱりと答えた。

「私が奴らのおとりになる。お前たちはその間に逃げて、ダリア連合軍の事件を隠ぺいさせないよう、広く皆に伝えてほしい」

「アキ、何言ってるの」

 園子が、アキの腕をつかんだ。

「これから屋上に向かう」

「ダメだよ、絶対ダメ。そんなことしたらすぐに殺される」

「誰かが血路を開かねば、全滅する」

「それは…」

 アキの強い視線に、園子はうつむいてしまった。

「アキさん、何言ってるんですか!生きましょう!また生きて伝えていきましょうよ!」

 俺はなんとか説得したが、アキはすでに腹をくくったようだ。

「私は、責任をとらなければならない。ダリア連合軍が内部で対立してしまったこと、私が罪のない者たちを疑ってしまったこと、人をあやめたこと、こんなにも大勢の人たちが死んでいったこと。全部全部、私の責任だ。私は、学校に残り、ダリア連合軍の最後を見届ける。大丈夫だ、もしかしたら生き残れるかもしれないしな」

 アキは口の端をあげて笑ってみせたが、本人も生き残ることなんてできないことはわかっているはずだ。

 研究室には、どんどん煙が入ってきている。

 思わず、服の裾で口を抑えた。



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とりあえず、今は行かなきゃいけない

「お前たちはエレベーターで下るんだ。私が警察の気をそらしているうちに」

「アキ」

 園子が口を開いたが、アキは園子の顔を振りむきもせず、ドアに向かった。

 しかし園子がぐいとその腕を引きよせ、そして何かをアキの口元に当てる。

「な、なにをする」

 アキは、何かをのみ込みむせていた。

 園子の手を見ると、それは「劇薬」と書かれた瓶だった。

「これ、は…」

 すぐにアキが苦しみ始めた。

「あー飲んじゃった」

 マキナエがのんきな声をあげる。

「何してるんですか、園子さん!」

「トーコがこれを飲んだとき、死なずにしばらく意識を失っていたでしょ?だから、アキにもしばらく眠ってもらおうと思って」

 アキは、頭を両腕で抱え込み、大きく身体を震わせる。

ビクンビクンと痙攣し、我慢できずに

「わあああああ」

 と大声をあげる。口からは泡があふれ、白目をむいていた。

「あ、アキさん…」

 カレンが俺にしがみついてくる。

 園子は、大きく身体を震わしているアキを強く強く抱きしめる。

「アキ、大丈夫、もうすぐ終わるから。もうすぐ終わるから」

 そう、耳元で小さくつぶやいている。

 

「トーコ、カレン、アキを外に連れ出すの手伝って!アキは怒るかもしれないけど、私はアキを死なせたくないの」

 廊下から、バチバチと音が聞こえる。

もうそこまで火の手は迫っているようだった。

「わかりました」

 俺は、自分の経験からアキのその後が気になったが、何も知らない園子に言えることは何もなかった。

 カレンもうなづき、そして劇薬を手にした。

「そんなの置いて行きなよ」

「いいの、持っていきたいの」

「…わかった」

 マキナエを見ると、マキナエは煙の中でなぜか資料を読みこんでいた。

 

「おいおじさん!出るぞ!」

 マキナエは俺の声にハッとすると、俺に顔を向けた。そして

「ふぇふぇふぇふぇ」

 と大声をあげて笑い始めた。

 全く、気色が悪すぎる。一体なんだというのだ。

「お前、トーコじゃないよな」

 マキナエは笑いながら言った。

「……」

 思わず、絶句してしまった。

「まさか成功していたとは、思っとらんかったわ」

 マキナエは嬉しそうにテーブルに飛び乗り、そのまま俺の元へ走ってきた。

 ぐんっと、テーブルの上から顔をのぞかれる。

 人間離れしたぎょろりとした目が、俺の心を見透かしているようだ。

 

「なんなんだよ、早く出るぞ」

 マキナエの細い腕をつかんで引っ張るが、マキナエは動じず、俺に「劇薬」と書かれた瓶を見せる。

「俺は、ここに残るから良い」

「何言ってんだよ!この研究守るんだろ?一緒に運び出してやるから、早く!」

 廊下を覗き見る。

「あのエレベーター、まだ動いてるかもしれないから、さあ」

 もう一度手をぐいと引っ張るが、どうしてこんなにも力があるのだろうか。びくともしなかった。

 

「お前の名前は何だ」

「…トーコだよ」

「違う、本当の名前だ!」

 俺はマキナエの顔を見て、そしてカレンの顔を見た。

 カレンは、じっと俺を見つめている。

 神経を集中させて、俺の答えをじっと待っているようだ。

 とうとう、口を開いた。

 

「花田透」

 

 その瞬間、マキナエの笑い声は絶叫にもなり、机の上で飛び跳ね、資料は床にバラバラと落ちて行く。

「忘れもしない1941年。戦争が起こったあの年だ。俺はある現象に見舞われてこの世界に迷いこんだ」

「ある現象って」

 

「そうだ、『次元間における意識の移動』だ。あれからずっとこの現象を起こすための研究をしてきた。14年前は失敗だったな。一度意識は浮遊したようだったが、すぐに戻ってきてしまった。それに、被験者の口の周りが焼けただれて大変だったわい!しかしようやく成功だ!お前、トーコ、身体は傷ついてないな?身体はちゃんとトーコだな?」

 

 マキナエがテーブルで軽やかにステップを踏みながら俺の顔や身体を触ってくるものだから、俺は勢いよく一歩後ろに下がった。

 マキナエは笑い続け、そして気でも狂ったかのように、鼻歌を歌いながらかき集めた資料を破り捨てていく。

 

「とりあえず、出よう」

 園子はマキナエの話に戸惑いを隠せない様子だったが、今は話しこんでいる場合ではなかった。

 アキを背負い、扉から出て行く。

「カレン、行こう」

 カレンは重い足を引きずりながらも、ゆっくりと俺についてきてくれた。

 廊下に出る時、マキナエの鼻歌がやみ、マキナエを振り返る。

 マキナエはテーブルに仁王立ちして、「劇薬」を飲みほしていた。

 そして俺の視線に気づき、ドアまで歩いてきて言った。

「もう一度、向こうの世界で会おう。私の従順な犬、トーコよ」

 ドアは固く閉ざされた。

 

 廊下は、煙と炎で渦巻いていた。

 頬を熱風が撫でていき、目も開けていられなかった。

 講義室Cの出入り口は見えるものの、室内も、その先の廊下も見えない。

 階段までもう辿りつけないことは間違いなかった。

 

 必死になって、エレベーターのボタンを押すが、エレベーターの電源はすでに落ちていた。

 試しにドアを開いてみたが、エレベーターのかごははるか下、1階に戻ってしまったらしかった。

「さっき、マキナエ教授5階まで来ましたよね。そのあと誰かが操作したってことでしょうか」

 俺が口にした疑問に園子がうなづく。

「そうかも。だとしたら今、誰かが1階で待ち構えている可能性もなきにしもあらず。いや、まさかケーブルを伝って来るとは思ってないかな」

 危険なのは確かだが、火がすぐそこまで迫っている今、俺たちにはこの道しかない。

 このケーブルを伝って下に降りるしかないのだが、アキを背負っている園子が下に降りるのには無理がある。

 園子はすぐにそれを察したようだった。

 

「私が先に下に降りる」

「降りてどうするんですか」

「エレベーター内のインターホンで管理会社に助けを求める。生存者がいるってことを証明できるし、電源つけてもらったらアキを運べるでしょ?」

「でも、下で誰かが待ち構えていたら」

「これしかないじゃない!」

 今まで冷静だった園子が、声を荒げた。

 そして息を整え、ケーブルに手をかける。

「火の中に飛び込むよりは、助かる可能性は高いでしょ。何かあったら、アキをよろしく。絶対に助けてね、トーコ」

 園子はそう言って、ゆっくりと下に降りて行った。

 

 俺はぽっかりと開いた落とし穴のような空洞に顔をつっこみ、園子の様子をうかがう。

 園子は元々それほど運動神経が良くないのだろう。

 危なっかしく、時々滑り落ちそうになりながらも、少しずつ少しずつ下って行った。

 そしてようやく下に辿りつき、ジャンプしてエレベーターに飛び移る。

 園子は俺を見上げ、相当安心したのか、笑顔で手を振った。

 俺も手を振り返そうとしたその時、エレベーターの天井口がパカッと開き、園子が室内に落ちて行く。

 「あ」と思った時には、何十発にも及ぶ銃声が響き渡っていた。

 俺は慌てて首を引っ込める。

 下では、「上にまだ誰かいるのか!」と叫ぶ声が響いてくる。

 



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胸が痛む告白を受けた

「今のって…」

 カレンの不安気な声に、俺は何も答えられなかった。

 周囲は炎と煙に囲まれ、そして唯一の脱出口にも、敵があんなに待ち構えていたなんて。

 炎による灼熱地獄の中、俺はただ静かに絶望を確信した。

 どうにかカレンをここから連れ出さないと…

 と回らない頭で必死に考えてみるが、良い案など何も出てこない。

 

 恐る恐るカレンを見上げると、カレンは虚ろな目で横たわるアキを見降ろしていた。

「カレン?」

 

「この人もうアキさんじゃないんでしょ?」

「え?」

 

「トーコも、あの薬を飲んで別人になった。ってことは、この人も別人。だから別にアキさんを助ける必要なんてない」

 そして

「でしょ?花田透さん」

 と冷たい目で俺を見つめる。

「トーコはどこ?」

 

 答えることなど、できなかった。

 俺がトーコになっているのならトーコは俺になっているのかもしれないが、その世界がどこにあるかもわからないのだ。

 しばらく目を伏せ言葉を探したが、

「わからない」

 という言葉しか出てこなかった。

「私ね、気づいてたの、トーコが犬だってこと」

 

 思わず、顔をあげた。

「もしかしたら、何か大きなことを任されているから記憶喪失のふりをしているのかな、とも思ったし、それとも本当に記憶喪失になったかもしれないし、でも犬だから、最後に国家機密を持ち出すのはトーコなんだろうと思った。だから、最後までトーコとここにいようって、そう思ったの。でも、花田透…?それ誰よ」

 カレンは困惑しすぎて、笑みすら浮かべている。

 講義室Aの方で、ドドドドドドと校舎が崩れ落ちる音がする。

「説明すると長くなるから、とりあえず、出る方法を考えよう」

「ねえ、これ飲んでよ」

 カレンが俺の目の前に差し出しているのは、劇薬だった。

「トーコは、これを飲んでおかしくなった。これなの、トーコを奪った原因は」

 

 そうだ、これだ。

 トーコがこれを飲んだのがきっかけで、俺はこんな世界に迷いこんでしまったのだ。

 そして、気づいてしまった。

 もし今これを飲んだら、俺はもしかしたら花田透に戻れるかもしれない。

 そして、こんなことなどなかったかのように、また元の生活に戻れるのかもしれないのだ。

 俺は、カレンから渡された瓶を手にとった。

 しかし、ふと手が止まる。

 飲んだところでどうなる。

 トーコはきっとこの身体に戻ってくるだろうが、このままでは生き延びることはできない。

 俺は、自分は助かりトーコを殺すという道を選ぼうとしているのだ。

 

 瓶のふたを開けるのをためらい、カレンを見上げる。

 カレンは真顔でじっと俺を見つめていた。

 そして俺が飲むのをためらっているのを見ると、俺のズボンのポケットから拳銃を奪い取った。

 拳銃を俺に向けて言う。

「お願いだから飲んでよ。トーコを、私に返してよ」

「でも、トーコが戻ってきたとしても、このままだと死んでしまう」

「いいの。そうしたいの」

「でも」

 

「あなたと死ぬなんて絶対に嫌!」

 

 思わず、苦笑が漏れた。

 胸の奥がズキンと痛む。

 カレンの言葉は俺にとって、何よりも鋭い凶器だった。

 しかし、俺を花田透として扱うカレンを見ていると、花梨ちゃんとはまるで別人なのだということが身にしみてわかる。

 花梨ちゃんは俺にこんなひどいことを言ったことなどないし、目を見て「透くん」と呼んでくれる。

 そして、ようやくわかった。俺は、大きな思い違いをしていたのだ。

 

 俺はカレンに瓜二つの花梨ちゃんを重ね、花梨ちゃんとして扱ってしまっていた。

 俺はカレンを通して花梨ちゃんを見ているが、カレンにとって透は見ず知らずの男なのだ。

 そりゃあ、こんな冷たい目をするわけだ。

 

 

 思えば、トーコのことを信頼して武器のことを任せてくれたロッカ、

 

 俺を最高の戦友として最後まで助けてくれたハル、

 

 トーコのことを好きだと頬を赤らめながら言っていたマツリ、

 

 トーコと友だちになりたかったと言った千鶴、

 

 そして最後に大切な幼馴染を俺に託した園子。

 

 

 全員が、俺ではなくトーコを見て、トーコに話しかけていたのに。

 皆の顔、言葉、涙、笑顔が蘇る。

 ごめん、みんな。

 トーコに伝えなきゃいけない言葉、俺が全部もらってしまったよ。

 

 アキのせいなんかではなく、俺のせいでこんな大事に至ったのかもしれないという後悔さえ湧き上がってきた。

 フタに手をかけるが、回す勇気がない。

 火が、ついに研究室のドアをのみ込んだ。

 もう火は寸でのところまで迫っていて、身体中が燃えるように熱かった。

 カレンも、むせながら汗を流している。

 そして泣きながら言った。

「お願い、トーコと死なせて」

 

 カレンの嗚咽に耐えられず、俺は瓶のフタを開け、そしてドロッとした液体を飲みこんだ。

 すぐに胃の中から焼けるほどの熱さがこみ上げてくる。

 身体が裂けるように痛く熱く、頭がジンジンと痛み、割れたような錯覚に陥った。

 痛みや熱さを通り越し、もはや身体がなくなったかのような感覚に襲われたが、目だけはしっかりと開いている。

 そして、炎がトーコの足に燃え移るのを見ていた。

 みんなもきっと、命の炎が消える時、とんでもない恐怖と痛みを感じたことだろう。

 透に戻ったら、みんなのこと、きちんと弔うから。

 目の前が、真っ暗になっていく。

 

 カレンが、俺の隣に座った気配がしたその時、

「カレン」

 俺の意識とは関係なく、口が動く。

 初めて聞く、トーコの、やさしい言葉だった。

「トーコ」

「ここは…」

 カレンは俺を抱きしめ、目を手でふさいでいるようだ。

「目を開けなくていいよ。大丈夫だから」

「そうか、やっぱりあれは夢だったのか。カレン、ごめん」

「なにが?」

「夢の中で俺は、革命を起こそうとしていた。ここよりもずっときれいな世界で。何にも縛られていない、きれいな身体で」

「そっか」

「ごめん」

「いいよ」

 カレンの囁く声が耳元でし、そして頬に柔らかい唇が触れる。

 頭が真っ白になり、そのままシャットアウトしそうになった瞬間、

 パンっ

 と隣で発砲する音が聞こえた。



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戻ってきたけど、終わっていない?

 目を開くと、うす暗い室内だった。

 頭はひんやりと冷たく、身体が重い。

 目を泳がせると、天井が見えた。

 そして視界に突然、カレンの顔が飛び込んできた。

「あ、起きた!」

「カレン?」

 俺は思わず声をあげた。そして、自分の声が低いことに気づく。

「やだ、またカレンって言った?だから花梨だって言ってるでしょ?」

 カレンは、頬を膨らませている。

 ここがどこなのか、俺が誰なのかが思い出せず、俺はゆっくりと身体を持ちあげてみた。

 身体はなんだか重く、大きくなっている気がして、扱いにくい。

 そして気づいた。

 俺の見なれた手。見なれた腕。見なれたぺたんこの胸と、そして、見なれた股間!

 戻ってきたのだ、花田透に。

「ねえねえ、俺、男?」

 俺の妙なテンションに困惑しながらうなづく。

「そう、男男。おとといもずっとそんなこと言ってたよね?」

「そうか、やっぱり…」

 

 嬉しいことは間違いないのだが、複雑な感情が入り混じる。

 トーコは、俺と入れ替わりにあの身体に戻った。

 そして、あの銃声。カレンは、炎に焼かれ苦しむ前に、心中を図ったのだろう。

 深刻そうにうつむいている俺の顔を、カレンと同じ顔をした女の子が不思議そうに覗きこんでくる。

「なに、どうしたの?」

 俺が花田透だということは、目の前にいるのは、あの、花梨ちゃんだった。

「花梨ちゃん」

「ん?」

「花梨ちゃんだよね?」

「うん」

「会いたかった」

「……」

 花梨ちゃんはきょとんとした顔で俺を見つめ、そして恥ずかしそうにほほ笑んだ。

「本当だよ、死んじゃったかと思った」

 花梨ちゃんは、俺の背後に向かって呼びかける。

「みんな、透くんが目をさましたよ」

 

 なんとか体をねじって後ろを振り返ると、そこでは他の誰かも寝かされており、その周りに大勢の学生たちが集まっているところだった。

 周りを見渡す。

 あのボロアパートではなかった。

 なんだか見なれた場所。

 そう、整頓されているが、講義室だ。

 AかBかCかわからないが、俺はあの講義室の隅に寝かされていたのだ。

 安本が、俺にかけ寄って来た。

 なんだかこのこ憎たらしい顔が懐かしくてたまらず、

「久しぶりだなー!」

 と声をかけていた。

「は?そうか?なんだよ昨日までは『お前は誰だ』とか言ってたくせに」

「そうかそうか、そんなこともあったなー」

 

 しかしふと気づく。

 なぜ俺は講義室に寝ているのだろう。

 もう一度改めて周囲に目をやると、あちこちに布がつっこまれた瓶が置かれているのが目に入った。

 その隣りには、砕かれたブロックが置かれている。

 まさか、と思ったが、俺は今透なのだ。

 何度も自分の顔に触れてみるが、どうしたって触りなれた皮膚に鼻に唇がここにはある。

 しかし透なのに、なぜ武器が置かれた講義室に寝かされていたのだろうか。

 これじゃまるで、トーコの世界だ。

 

「なあ、安本。今どういう状況?」

「お前、バリ封中に突然倒れたんだぞ」

「バリ封?」

 聞き捨てならないワードである。

「そう。これから屋上で演説するぞってときにいきなりばたっと倒れやがって。明子さんも同じタイミングで倒れたから、ガス漏れでもしてんのかと思ったけど全然そんなことないし」

 安本はそう言って、さきほどから寝かされている誰かを指差す。

「明子さん、大丈夫かなぁ」

 花梨ちゃんも不安そうに寝かされている誰かを見る。

 

 明子さん。

 

 ものすごく、嫌な予感がした。

 そしてその明子が寝かされている周囲から、大きなどよめきが起こった。

「起きた!」

「目ざめた!」

「大丈夫ですか!?」

 俺が目を覚ましたときには花梨ちゃんと安本以外は俺のそばにいなかったが、明子さんとやらが目を覚ましたときには、20人以上の男女が一斉に集まってきた。

 俺も、重たい身体を持ちあげ、歩きだしてみる。

 トーコはだいぶ体重が軽かったのか、今は自分の身体がでかくて重くてしかたない。

 

「透くん、大丈夫?」

 花梨ちゃんが、肩をかしてくれた。

「ありがとう」

 照れくさくて、思わず顔を伏せてしまう。

 今は、花梨ちゃんがここにいる。

 正真正銘、俺がずっと会いたくてたまらなかった花梨ちゃんが、俺の顔を見て、俺の名前を呼んでくれているのだ。

 大勢の人たちの肩の間から、明子の顔を見た。 

 そして思わず

「アキさん」

 と声をあげてしまっていた。

 周りが、

「お前、いきなりアキさんってなんだよ。明子さんだろ」

 と小声で言うが、俺にとってはアキだ。

 だって、アキそのまんまの姿なのだから。

 明子は俺をじっと見つめたが、目を細め、言った。

「トーコ?」



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