Summer/Shrine/Sweets (TTP)
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本編
序幕/神代小蒔/再会


東京/全国高等学校麻雀大会選手権会場

 

 

 夏になると、いつも彼らのことを思い出す。

 

 神代小蒔は、鳴り止まぬ蝉の声を聞きながら空を見上げた。八月の空は高く、どこまでも青い。照りつける太陽の光はまばゆく、すぐに日傘の中に顔を隠した。

 

 ――あの日も、こんなに暑い日だったでしょうか。

 

 自然と口元がほころび、同時に胸に疼痛が走る。どうしても、どれだけ時間をかけてなお、癒えない古傷だ。

 

「小蒔ちゃん、こっちよ」

 

 名を呼ばれ、小蒔は足を止めていたことに気付いた。

 声の主を探せば、その姿は既に遠くに。慌てて小蒔は駆け出し、途端に転げた。びたん、と痛い音が鳴った。

 

「うう……」

「大丈夫? ちゃんと足元を見ないと」

「ご、ごめんなさい」

 

 走り寄ってきたのは、小蒔にとって姉のような存在である石戸霞だ。彼女の声色には、労りと厳しさが入り混じっていた。

 情けなく思いながら、小蒔は霞の手に助けられて立ち上がる。まだ鼻が痛い。霞の後ろには他の六女仙――薄墨初美、狩宿巴、滝見春の三人が控えており、皆心配げな視線を送っていた。

 

 ――うう、情けないです。

 

 天然だのなんだの言われて、どのコミュニティでも愛されている小蒔であったが、本人はその点をかなり気にしていた。と言っても、昔はそうでもなかった。

 

 意識が変わったのは、高校に入って麻雀へと打ち込むようになってからだ。

 彼女は全国強豪の永水女子のエースなのだ。

 昨年から引き続き活躍を期待され、仲間からも信頼を寄せられている。それに応えようと奮起するのは、頑張り屋の彼女らしい心がけだ。

 ただ、未だ行動が伴っていないのも事実だった。

 

「霞ちゃん」

「どうしたの? 膝、擦りむいた?」

「違います」

 

 首をふるふると振って、小蒔は言った。

 

「今年も、やってきましたね」

「……ええ、そうね」

 

 全国高等学校麻雀大会――インターハイの舞台、東京。

 この日のために、一年間研鑽を磨いてきたのだ。昨年為し得なかった、頂きを獲るために。

 

「今年は勝つですよー」

 

 初美が朗らかに笑い、

 

「精一杯頑張りましょう」

 

 巴が握り拳を作り、

 

「……ん」

 

 春がこっくりと頷く。

 

「うふふ。皆も気合十分ね。さて、それじゃあ今日の目的を果たしに行きましょう」

 

 微笑む霞が先導し、永水女子の面々はインターハイ会場のビルに入る。

 遠方ということもあり、念のため早くに東京入りした彼女らは、少し時間を余らせていた。根を詰めすぎて練習するのも駄目と判断した結果、明日の開会式を前に、会場の下見をしようと初美が言い出したのだ。

 

 要は、東京観光の一環だ。さして深い意図があったわけではない。

 自動ドアをくぐると、クーラーで冷えた空気が流れ込んできた。寒暖差が激しい。

 会場は、同じ目的なのだろう、女子生徒の姿で溢れていた。ちらほらと、小蒔も去年見た顔があった。

 

 昨年の大活躍で永水女子の名前は売れている。彼女らの登場に、会場はいささかざわめいたようだった。

 

 だが、敢えて近寄って来ようとする者はいない。地理的な事情、霧島神境の秘匿主義の方針から、永水女子は他校との練習試合をほとんど行っていない。全国区常連の学校同士などは相互利益のため綿密な連携を採るのが常だが、麻雀強豪としては新興の永水はそのようなパイプも持っていなかった。必然、親しい知人は限られてくる。

 

 制服の違う生徒が仲睦まじげに歓談する様子は、小蒔にとって新鮮であり、少し羨ましい。

 

 だが、その程度は些末な引っかかりだ。

 自分には霞ちゃんたちがいる。それで十分だ。

 小蒔は自らに言い聞かせ、一歩歩みを進めた。

 

「……小蒔?」

 

 そのときだった。

 

 聞き慣れない声に、小蒔は名前を呼ばれた。反射的に、彼女は振り向いた。

 そこに立っていたのは、やはり見覚えのない少女だった。

 

 永水女子の面々は、派手な格好は望まない。化粧っ気は薄く、歳分不相応なまでに落ち着いた装いを求めている。霧島神境の者としての意識もあったが、皆「イマドキ」の女子高生の趣味とは合わないのが現状だった。

 

 一方、突然声をかけてきた少女は正に「イマドキ」の女子高生らしい格好だった。袖が長めのカーディガンに、短いスカート。ツーサイドアップにした髪は艶やかで、日々の手入れが覗える。派手すぎず、それでいて魅力を際立たせる化粧は決して小蒔には真似できない技術だ。ほんのりと良い香りが漂ってくる。

 同性の小蒔も、一目で「可愛い」と言いたくなるような少女だった。

 

 だが、やはり思い出せない。去年は見ていない、知らない制服だ。

 そんな小蒔の困惑を敏感に感じ取ったのだろう、少女は自らの胸に手を当て、

 

「ほら、あたしよ。新子憧。奈良の新子神社の。覚えてない?」

 

 瞬間、小蒔の脳裏に電流が走った。同時に、霞たちも驚きの声を上げる。

 

「憧ちゃんっ? あのときのっ?」

「良かった、思い出してくれたみたいね」

 

 ほっと、少女――新子憧は安堵の息を漏らした。

 

「久しぶりね、小蒔。会えて嬉しいわ」

「わ、私もです」

 

 差し出された右手を、おずおずと小蒔は握り返す。

 すぐに小蒔は気付いた。憧の指は、すっかり麻雀ダコで凝り固まっていた。

 

「もしかして、憧ちゃん……」

「もしかしても何もないでしょ。私もインターハイに出るの、団体戦で。あーあ、やっぱり知らなかったか。シード校のエースは格が違うもんね」

「そ、そんなことっ」

「冗談よ、冗談。相変わらず小蒔は真面目ね」

 

 苦笑しながら、憧は小蒔の頭を撫でる。うう、と小蒔がしょんぼりする傍ら、霞が前に出た。

 

「憧ちゃんは今も奈良に? 確か奈良は、今年は晩成じゃなくて……」

「そう、あたしたち阿知賀女子が県大会を突破したわ」

「凄いですよー!」

 

 初美の歓声に、憧は「ありがと」と満足気に頷く。彼女はこの中で年少の部類に入るが、タメ口も許される気安さが彼女たちの間にはあった。

 

「今年の阿知賀は一味違うから。全国で戦えるのを楽しみにしてるわ」

「私もですっ。憧ちゃんとこうして会えるなんて夢にも思いませんでした」

「運命ってのは分からないものね」

 

 しみじみと憧は言って。

 それから、寂寥の色濃い声で呟いた。

 

「もう、八年前になるのね」

「そうですね」

 

 小蒔は眉を寄せて、首肯する。

 ――そうだ、彼女と出会ったあの夏から、もうそれだけの時間が経ったのだ。

 即ちそれは――彼とも隔絶していた時間を意味する。

 

「これであいつがいれば」

 

 小蒔の心中を覗いたかのように。

 

「あいつがいれば、皆揃うのにね」

 

 憧が、言った。

 どくん、と小蒔の心臓が跳ねた。何か喋ろうとしても、上手く言葉になってくれない。胸が締め付けられるように痛む。

 

「ま、こんなところにあいつがいるわけないか」

 

 一方の憧はからっと笑う。控えめな小蒔としては、彼女の明るさが羨ましく、眩しかった。

 

「あたしは夜からミーティングあるからあんまり長居はできないんだけど、折角だからどこかでお茶していかない?」

「ええ、是非そうしましょう。私たちは特に用事もないもの」

 

 霞が代表して同意する。小蒔はやや遅れて、「はい」と頷いた。

 近場でゆっくりできる場所を探そうと憧がスマートフォンを取り出したのと同時、

 

「あっ」

「わっ」

 

 彼女の肩と、近くを通り過ぎようとした少女の肩がぶつかった。憧の手から零れたスマートフォンが床を滑る。

 

「ごごごごめんなさい!」

 

 憧とぶつかった少女は、セーラー服を身に纏っていた。胸元のスカーフの色は赤。彼女はがばりと頭を下げて、狼狽した様子で何度も謝る。逆に憧は恐縮してしまい、

 

「ううん、私がこんな入口の近くに立っていたせいだから。怪我してない?」

「はい、何とも」

 

 セーラー服の少女は、ショートカットの髪を揺らしながら頷いた。

 

 そんな彼女を見ていると、小蒔はどことなく親近感が湧いた。やはりおそらくインターハイに出場する選手だろうか。珍しくないセーラー服は、しかし憧の阿知賀と同じく見覚えのないものだった。

 

 ともかくとして、憧と少女は互いに謝り合っている。床に落ちたスマートフォンはそのまま。電子機器類にはとんと疎い小蒔だったが、それが精密機器であることは知っている。誰かに踏まれないうちに拾い上げようとした。

 

 ――だが。

 

 先んじて、それを掴み取った者がいた。

 小蒔は見上げる。それだけの身長差があった。

 彼はスマートフォンを手にし、ショートカットの少女に呼びかける。低く、それでいて不思議とよく通る声だった。

 

「咲、頼むからちゃんと前向いて歩いてくれ。他校と面倒起こしたら、部長に怒られるの俺なんだぞ。意味分かんないけど」

「きょ、京ちゃん。ごめんなさい」

 

 小蒔の心臓が、先ほどよりも強く高鳴る。

 

 ――成長を果たした後も、残る面影。心に焼き付いた光景。

 

 直感に、実感が伴わない。

 

「うちの連れがすみません、これ」

「あ、ども」

 

 彼が、憧にスマートフォンを手渡す。受け取った憧は、ふと彼の顔を見上げて。

 そのまま、固まってしまう。

 

「……京、くん?」

 

 小蒔が何とか声を絞り出し、

 

「京、太郎?」

 

 憧がそれに追随する。

 その反応に、彼は「えっ」と言葉を詰まらせる。

 それからゆっくりと二人の顔を見渡して、目を丸くした。

 

「……もしかして」

 

 ――ああ、こんなことがあるのだろうか。

 こみ上げてくるものを抑えるように、神代小蒔は口を手で覆う。

 

 

「小蒔ちゃんに、憧?」

 

 

 動揺を通り越し、新子憧は顔を真っ赤に染め上げる。間に挟まれた宮永咲は、きょろきょろと三人を見比べるばかり。

 

 彼は――須賀京太郎は、嬉しいような、苦しいような、悲しいような、複雑なものが入り混じった表情を浮かべて。

 

 放たれた言葉は、確かに彼女たちの耳を打った。

 

 

 

 

 

 ――三人の出会いは、八年前の夏に遡る。

 

 

 

 

 

 

 




次回:一/神代小蒔/東京迷宮・前


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一/神代小蒔/東京迷宮・前

東京/???

 

 

 生まれて初めて九州を出て東京を訪れる際、小蒔は母と三つの約束を交わした。

 

 一つは、保護者たる父親の言うことをよく聞くこと。元来小蒔は我が儘を言う性格ではないが、旅先というのは気分が高揚してしまいがちだ。まして東京という街には危険や誘惑はいくらでもある。無用なトラブルに巻き込まれぬよう、父の庇護下に置かれるのは当然のことだった。

 

 もう一つは、同行する六女仙――石戸霞、薄墨初美、狩宿巴、滝見春から離れないこと。特に霞とは行動を常に供にするよう強く命ぜられた。小蒔と一つしか歳は変わらないが、霞は小蒔の母から信頼を寄せられていた。

 

 

 神代小蒔、このとき8歳。小学三年生の夏だった。

 

 

 今も昔も素直な性格の彼女は、「よいですね」と念押しする母親に、しっかりと頷いた。背く理由も発想も、小蒔にはなかった。

 

 しかし、電車を乗り継ぎ飛行機に乗り、降り立った東京で――

 あっという間に小蒔は、三つの約束のうちの二つを破ってしまった。

 

 父は言った。「私の後をしっかり着いてくるように」。

 霞は言った。「はぐれないように気を付けて」。

 

 小蒔は確かに了承した。

 が、今彼女は独りである。知らない街、知らない駅のホームのベンチに、小蒔はぽつんと座っていた。時間帯は穏やかな午後、それとは裏腹に小蒔の胸中は荒々しく波がうねっていた。普段はおっとりとして多少のことでは動じない彼女であるが、流石にこの現状には頭を抱えざるを得ない。

 ――どうしてこうなったのでしょう。

 飛行機から降り、都内に向かうため電車に乗り込んだところまでは良かった。そのときは確かに、父も六女仙もそばにいた。

 

 誤算は想像を超える人混みだった。何か、大きな催し物があったのだろう。不運にも、小蒔たちはそれとかち合ってしまったのだ。

 

 人の波に六女仙と分断され、父の背中も見失い、流れに押されるまま名前の知らない駅で降りてしまった。あっという間の出来事だった。

 

 そして小蒔は独りとなった。

 

 小学生の小蒔は、このとき初めて「冷や汗をかく」という経験をした。だからといって、何も嬉しくはないのだが。

 

 この状況、決して小蒔だけの責とは言えない。父も六女仙も、不注意であった。携帯電話を小蒔に持たせたわけでもなく、はぐれた際の取り決めもしていなかった。しかし真面目な小蒔は、「母との約束を破ってしまった」という一念で自分を責めるばかりになり、結果思考の回転はずっと遅くなる。視野が狭くなり、これからどうして良いかさっぱり分からない状態だった。

 

 地下鉄のホームはどこか薄暗く、陰気な空気が漂う。小蒔の気は滅入る一方で、いよいよ涙腺が緩みそうになった。小蒔は必死でそれを堪える。泣いてはいけない。私が悪いのだから。自分にそう言い聞かせ、必死で目を瞑る。一滴たりとも涙を落としてはならない。そうしてしまえば、もう歯止めが利かないと彼女は知っている。

 

 だがもう、そのやせ我慢も限界に達しそうだった。鼻がつんと痛くなって、指先が震える。

 

 嗚咽が漏れそうになった、その瞬間。

 

「――なぁ」

 

 頭上から、声が降り注いだ。

 

 はっと、小蒔は俯いていた顔を上げる。

 そこにいたのは、野球帽を被った少年だった。小蒔には読めない英語のTシャツに、カーゴパンツという装い。年齢は、小蒔と同じくらいだろうか。

 

「君ら、もしかして迷子?」

「えっ」

 

 小蒔は戸惑った。どうしてこの少年は自分の状況を簡単に言い当ててしまったのか。

 そしてもう一つ。

 

「君ら……?」

「ん。そっちの君も、そうじゃないの?」

 

 少年が指差した先、こちらも小蒔と同じ年頃だろう、少女が頬を染めてベンチに座っていた。短めの髪を、両サイドで縛っている。彼女もシャツ一枚に短いズボン、そして裸足にスニーカーと、ラフな格好だ。

 彼女の存在に、小蒔はこれまで全く気付かなかった。

 

「……そうだけど?」

 

 小柄な少女は、そっぽを向いてつっけんどんに言う。小蒔にも分かった。照れ隠しだ。

 

「だったら何? 笑いに来たの?」

「いや、俺も人を笑える状況じゃない」

 

 少年は、至って真面目な顔で首を横に振る。小蒔が小首を傾げて訊ねた。

 

「どういうことですか?」

「実は俺も迷子なんだ」

 

 言って、少年は小さな悪戯が成功したときのように笑った。一瞬小蒔はぽかんとして、それからくすりと微笑んだ。隣の少女も、「なによそれ」と文句を言ったものの、結局は二人に釣られて笑っていた。

 

「俺は須賀京太郎」

 

 少年が名乗り、

 

「私は神代小蒔と言います」

 

 小蒔が丁寧に頭を下げ、

 

「あたしは新子憧」

 

 少女も笑顔で応える。

 

 いつの間にか、小蒔の瞼の奥からは、涙の気配が消えていた。重石が外されたように、心が軽い。

 

「ここは一つ迷子同士で協力しようぜ。誰か一人でも大人と合流するか連絡つけば、他の二人も何とかしてくれるだろ。どう?」

 

 京太郎の提案に、

 

「お、お願いしますっ。是非っ」

 

 小蒔はすぐさま食い付いた。実現性があるかはともかく、独りの心細さにこれ以上耐えられそうになかった。

 

「新子さんは?」

「ん、それでいきましょ」

「じゃ、ドーメイ成立だな。さっさと出発しようぜ」

「出発ってどこによ?」

「まずはここを出ないと話にならないだろ」

 

 言って、京太郎はさっさと歩き出す。慌てて小蒔はその背中を追った。憧も、「ちょっと待ちなさいよ」と言いながら、着いていく。

 

 階段を昇り、改札口に辿り着く。

 京太郎は躊躇なく、傍に居た駅員に声をかけた。どちらかと言えば引っ込み思案な小蒔には到底できない真似だった。何よりこんな勝手の知らない都会では、落ち着いて行動できない。憧と二人で、成り行きを見守るのみ。

 

 少しして、京太郎は二人を手招きした。小蒔たちはそれに応じる。

 

「事情説明してきた。改札、通してくれるってさ」

「あ、は、はい」

 

 自分の切符でこの駅から出られるか分からない。そんなことにも思い至ってなかったことに気付いて、小蒔は恥ずかしくなった。

 

「でも、ここから出てどうするのよ。電車で移動したほうが良くない?」

 

 憧がせっつくように訊ねる。

 

「二人とも、自分の目的地が分からなくて困ってたんだろ? 俺も乗り継ぎとかよく分からないし、余計迷う自信がある。たぶん親父もはぐれた場所くらい見当ついてるだろうから、無闇に動くよりさっさと交番に行って保護してもらったほうが良いだろ」

 

 すらすらと京太郎が答えて、憧は「……確かに」と頷いた。小蒔も、それよりも良い提案をできる気がしなかった。

 

「交番はどこにあるのよ」

「今駅員さんに訊いた。地図もくれたよ」

 

 京太郎に抜かりはなかった。小蒔は溜息しか出ない。そのしっかりぶりは、霞にも劣らないのではないか。

 

「須賀くん、須賀くん」

「なに? 神代さん」

「須賀くんは何年生なんですか?」

「二年だよ」

 

 京太郎はしれっと答える。自分よりも年下という事実に、小蒔は少なからずショックを受けた。古典的石が頭に降ってくる。

 

「あたしと同級生だ。神代さんは?」

 

 憧に訊ねられ、一瞬小蒔は答えに詰まった。だが、結局彼女にサバを読むという手管は使えず、正直に答えた。

 

「私は三年生です……」

「お、先輩だ」

 

 本来ならば一番年長である自分がこの場を取り仕切り、引っ張っていく立場ではないのだろうか。小蒔はそう自問するが、今更お姉さんぶる自信はなかった。

 

 京太郎を先頭に、切符だけ駅員に渡して三人は改札を通り抜けた。

 

 階段を昇って外に出てみれば、すぐに強い熱気が襲ってきた。単純な気温を論じるなら、小蒔の住む鹿児島のほうが上のはずだ。しかし同じ熱気でも、東京のそれは質が違う。そびえ立つビル、隙間ないアスファルト、あらゆる条件が街に熱をこもらせる。まして山中にある霧島神境は年中ある程度ひんやりとした空気に包まれており、小蒔は特段暑いのが得意というわけでもなかった。

 

 広い道路に目を向ければ、走り去る車の数は途方もない。鹿児島市内のように、のんびりと走る路面電車の姿は当然あるはずもなく。複雑怪奇に設置された信号は、小蒔に「車の運転は絶対に無理」と確信させるに充分だった。

 

 何もかもが別世界。本当に同じ日本という国なのか。

 

 先に激しく揺れ動いていた感情と、物理的な熱、感心と混乱、様々な要素が混じり合い、小蒔の足はふらついた。

 

「っと、危なっ」

「わわっ」

 

 ともすれば、歩道から転げ落ちそうだった。寸でのところで京太郎が小蒔の腕を引っ掴み、歩道側に引き寄せる。

 

「大丈夫? 神代さん。気ィ付けて」

「あ、ありがとうございます。少し気分が悪くなって……」

「交番まで結構遠いみたいだけど、どこかで休憩してくか?」

 

 京太郎の提案に、憧が「賛成」と応えた。

 

「あたしジュース飲みたい。コンビニ寄ろコンビニ」

 

 言うがまま、憧は空いている小蒔の左手を取った。

 

「ね、良いでしょ神代さん。ちゃんとあたしと須賀がエスコートするから。須賀、神代さんの右手は任せた」

「了解したぜ、新子」

「えっ、えっ、えっ!」

 

 京太郎と憧に挟まれる形になった小蒔は、戸惑いの声を上げる。だが二人は抗議させる暇も作らず、歩き出した。普段から姫様と慕われている小蒔ではあったが、このような扱いは初めてだった。

 

「実際またふらつかれても怖いからね。ここはあたしと須賀に任せてよ」

「……ごめんなさい、面倒をおかけします」

「面倒なんかじゃないって。どうせ俺たちイチレンタクショーなんだから、一緒に楽しく行こうぜ」

 

 京太郎は小蒔の弱気を笑い飛ばす。

 彼の笑顔を見ていると、どういうわけか小蒔の胸は暖かくなった。理屈はさっぱり分からない。しかし、それはとても嬉しい事実だった。

 

 憧の手からも、しっかりと温もりが伝わってくる。京太郎とはまた違う、穏やかな、女の子らしい優しさ。

 

 京太郎も憧も、さっき初めて出会ったばかりの相手だというのに、小蒔はとても居心地が良かった。

 

 彼女たちは地下鉄出口の向かいにあったコンビニに行き、それぞれ思い思いにジュースとお菓子を買う。買い食いという小蒔にとっての非日常は、これまでとは違う意味で彼女をどきどきさせた。

 

 三人はコンビニの近くにあった公園に寄って、三人並んでベンチに座る。もちろん並びは憧、小蒔、京太郎の順。コンビニでの戦利品を分け合う姿は、既に迷子には見えない。

 

「――なに、それじゃあ須賀も神代さんも東京の人じゃないの?」

「俺は長野から来たんだ。昔の友達に会うんだって親父が言ってさ。半ば無理矢理連れられてきたんだけど、この有様ってわけ。そういう新子は?」

「あたしは奈良よ。一昨日まで来る予定じゃなかったんだけどね、ちょっとトラブっちゃって。東京なんて中々行く機会がないから嬉しかったんだけどねー。神代さんはどこ出身なの?」

「鹿児島です、九州の。えっと、場所は分かりますか?」

 

 小蒔の場合、二年生までの授業では地図帳を使っていなかった。本州でもないし、京太郎たちが知らなくとも無理はない。恐る恐る訊ねてみると、予想外に食いつきが良かった。

 

「分かる分かる! わー、あれでしょ桜島あるとこだ! すごい、じゃあ飛行機で来たのっ?」

「ええっ、初めて乗りましたっ! とても雲が綺麗でした! 途中で虹も見えて、それも輪っかの!」

 

 初めての経験を、小蒔は喜び勇んで話し始める。彼女の場合、自慢気にならないのが人徳と言えよう。

 こうなると、他愛もない身の上話でも三人は盛り上がる。話題はあちこちの方向に飛び交った。各々の友人について、学校のこと、夏休みの予定、家族、趣味――どんな些事でも、互いの話は新鮮で聞いていて飽きが来ない。

 

 ――しかしながら。

 

「もしかして神代さん、雪見たことない? 鹿児島って暑いところだもんね、中々降らないか」

「は、灰なら降りますよ……」

「え、ほんと? それはそれで見てみたいな」

 

 彼らは話しに夢中になる余り。

 

「俺は奈良の鹿見てみたい。マジであんなに人懐っこいの?」

「餌付けされてるからね。奈良に来たら案内してあげるわよ」

「あ、私も行ってみたいですっ。鹿、可愛いですよねっ」

 

 大事なことを、失念していた。

 

 自分たちの置かれている状況。自分たちが、迷子であるということに。また、その余裕が周囲の人間に彼らが迷子とは思わせなかった。

 

 ゆっくりと陽が傾き始め、丁度良い具合に小腹が埋まり、木々が強い陽の光を遮って。

 最初に意識が落ちたのは、憧だった。こてんと小蒔の肩にもたれかかり、心地よい寝息を立て始める。

 普段と違う立場に、小蒔は舞い上がった。こういうとき、真っ先に眠って霞に助けられるのがいつもの彼女だ。

 

 しかし、それも長くは持たなかった。

 憧の呼吸のリズムを聴いている内に、小蒔もまた、船をこぎ始める。

 

「神代さん、眠いの?」

「まだ、平気です……。もっとお喋り、しましょう……」

 

 そう答えたところまで、小蒔は覚えている。

 

 次に彼女が意識を取り戻したとき、彼女の頭は京太郎の膝の上にあった。

 

「お、新子。神代さん起きたぞ」

「神代さんおはよー。よく眠れた?」

「はい……」

 

 ゆっくりと小蒔は起き上がる。やや寝惚け気味だが、すっかり眠気はとれていた。男の子に膝枕をしてもらっていた事実に気付き、赤面するのはもう少し後になってからのことだった。

 

 寝惚け眼で、小蒔は空を見上げる。

 

 あれだけ青々としていたはずの空は、既に赤味が差している。さっと、小蒔の顔から血の気が引いた。

 

「い、今何時ですか……?」

「五時回ったところ。流石にそろそろ交番行かないと不味い。下手したらソーサクネガイ出されてるかも」

 

 淡々と答える京太郎を前にして、小蒔は呼吸を落ち着ける。先に眠っていた憧はしゃきっと立ち上がって、いますぐにでも歩いて行けそうだ。

 

「しかも、あれ見て」

 

 憧が指差した先、遠くに見えるビルのさらに向こう。

 どんよりとした黒い大きな雲が、こちらに向かって動いている。どうなるかなんて、わざわざ言及する必要はなかった。

 

「行こう」

 

 京太郎が短く言った。異論を挟む余地はない。

 三人は、公園から駆けだした。

 

 

 

 




次回:二/新子憧/東京迷宮・後


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二/新子憧/東京迷宮・後

東京/???

 

 

 新子憧の生家は神社である。しかしながら彼女自身、信心深い人間かと問われれば首を傾げざるを得ない。神事の手伝いや参拝客の案内などは進んで行うが、巫女服に袖を通す時間は短いし、家業の手伝い以上の意識はなかった。

 

 加えて歳の離れた姉が神社の実質的な跡継ぎであり、両親は憧に未来を強制するような言動はとらない。憧もまた、神職に就きたいという希望は今のところ持っていなかった。不遜を気取るつもりはないが、それが憧の率直な気持ちだった。

 

 そんな彼女も、跡目である姉を羨ましがるニュースが、夏期休暇を前にして飛び込んできた。

 

 何でも、東京で神職が集まりそれなりの規模の勉強会が開催されるという。地域活性化、観光誘致、祭事のクローズアップ――神社という施設に求められるものが増え続ける中、各地域の宮司が集まって意見交換するのが重要である、というお題目だ。企画者たちの目的の七割は神道科の同窓会らしいが、憧には関係のないこと。

 

 重要なのは、泊まりがけで東京に行けるという話だ。しかも四泊五日という大盤振る舞い。この旅に、神職に就くため修行を始めている姉が父と同行するのは自然な流れであった。父の監視役とも言う。

 

 正直羨ましい。

 でも、行けないのはしょうがない。

 

 無い物ねだりをするよりも、割り切って親友の穏乃と遊ぶほうが良い。そうスパッと切り替えられるのが憧の長所であった。

 

 しかし状況はころっと変わる。

 夏休みに入ってすぐ、姉が夏風邪をこじらせてしまったのだ。まともに立つこともできない有様で、旅行など到底無理であった。

 諸々の手配は二人分済んでおり、キャンセルするのも勿体ない。

 

 そんな事情から、憧にお鉢が回ってきた。

 

 姉の苦しそうな顔を見れば素直に喜べないものの、東京を観光できるのだ。穏乃には悪いが、憧に断る選択肢はなかった。

 

 久々に乗る新幹線で、憧は東京へ。

 

 野山に囲まれた土地とは違う環境。

 父に手を引かれるのは恥ずかしい、と可愛らしい反抗心を見せ。

 

 そして、見事に迷子となった。

 

 ――暗くなった空。勝手の知らない街。不安が渦巻く要素ばかりで、つい俯きそうになってしまう。

 

 そうならないのは、ひとえにここで見つけた仲間のおかげだった。

 

 憧の右にいるのは、白いワンピースに身を包んだ少女。ほっそりとした腕、その肌は染みや傷、焼けた後の一つもない。一目見たとき、思わず溜息を吐いてしまったくらい綺麗な子だった。まるでお伽噺から出てきたお姫様だ。こんな子は、奈良の学校中探したっていないだろう。憧がそう確信するのは速かった。

 

 彼女の名は、神代小蒔。

 

自分と比べればちょっと大人しすぎる気もするが、すぐに仲良くなれた。穏乃にも紹介したいぐらい良い子だ。

 

 憧は、彼女と並んでコンビニの軒先で雨宿りをしていた。

 降り出した雨は強く、冷たい。それでいて夏特有の湿度は憧の気分を滅入らせる。すぐにでも移動したいのはやまやまだが、これが地元ならまだしも、右も左も分からない街で闇雲に突っ走るわけにはいかなかった。まして隣の小蒔は見るからにお嬢様だ。彼女が自分の足に着いてこられるとは思えず、ほっぽり出すなんてもってのほかだった。

 

「――雨、止みそうにありませんね」

 

 ぽつりと、小蒔が小さな声で呟いた。ともすれば独り言に聞こえる。

 

「そだね」

「新子さん、そこ、濡れませんか? もっとこっちに寄って下さい」

「あ、うん」

 

 水滴が僅かに靴に当たっているのを、小蒔は見逃さなかったようだ。おっとりとしているようで、目聡く、そして心優しい。

 

 憧の肩が、小蒔の肩に触れる。反射的に憧が隣を見れば、小蒔は穏やかに笑っていた。それだけで、心の不安が小さくしぼんでいく。この広い街で、彼女に出会えたのは憧にとって僥倖以外の何物でもなかった。

 

 ――そしてそれから、もう一人。

 

「お待たせ。傘買ってきた」

 

 憧と同じ歳の少年、須賀京太郎。

 

 親とはぐれてしまった憧と小蒔に話しかけてきた男の子。見た目は腕白だが、憧が思った以上に思慮深く、前へ前へと先導してくれる。彼がいなかったら、もしかしたら自分はまだ地下鉄のホームに残っていたのかも知れない。憧はそう思う。

 

 彼は、クラスの男子とはどこか違って見える。何だかそれが癪で、気を抜けばすぐに憎まれ口を叩きそうになった。喧嘩をしている場合ではないと言うのに。

 

「ありがとうございます、須賀くん」

 

 小蒔が目を細めてお礼を言った。それを見た京太郎は、でれっと鼻の下を伸ばす。憧は何だかイラッとした。

 

「……須賀。傘、一本だけしか見えないんだけど」

「しょーがないだろ、金ないんだから。新子だって分かってただろ」

「そりゃあそうだけど」

 

 三人に残されたお小遣いをかき集めても、大した額にはならなかった。数時間前、無計画に買い食いした自分たちを恨む他ない。それでも目の前の降りしきる雨を見れば、心許なさが先行する。

 

 京太郎は、買ってきたばかりのビニール傘を憧に向けて突き出す。

 

「ん」

「なによ」

「新子が持って」

「なんであたしなの?」

「この中で一番小っこいだろ、新子が。真ん中担当な」

「……分かった」

 

 一度京太郎の頬を抓ってから、憧は傘をひったくるように奪い取った。痛い、という京太郎の抗議は無視した。

 

 ともかくとして、今度は憧が中心となって三人が並ぶ。右に京太郎、左に小蒔。小学生三人とは言え、傘一本では流石に手狭だ。できる限り憧は縮こまろうとする。

 

 そのとき、傘を持っていた右手に京太郎の指が触れた。一瞬びくりと憧の体が震え、彼女は文句をつけようとするが、京太郎は至って真面目な表情で今度は憧の左手を指差した。

 憧は小さく嘆息してから、傘を左手に持ち替える。

 

「この道を真っ直ぐだ。行こうぜ」

「はい」

「オッケー」

 

 京太郎の号令で、三人は出発する。そろそろこの迷宮のような街を脱出しなければならない。

 

 傘に雨粒が当たって弾けていく。雨の勢いが弱まる気配はなく、憧の手にもその衝撃が伝わってきた。

 

 道路に水溜まりが生まれ、車が通る度水しぶきが上がる。

 

「……ねぇ、別の道行かない?」

「でもこの地図細かい道まで載ってないんだよ」

「水かけられるのも嫌でしょ。大体の方向は分かってるんだから行けるって」

「ん……じゃあそうするか」

 

 憧の提案で、三人は裏路地に入る。

 ビルは横風を防いでくれた。風が強くなり始め、安物の傘は軋んでいたので幸運だった。これなら悠々と歩いて行ける。

 

 ――という予感は、すぐに打ち砕かれた。

 

「……迷った」

「……迷ったわね」

「……迷いましたね」

 

 三人揃って、愕然とする。

 

 交番の位置が分からない。元来た道が分からない。どこを進めば広い道に出られるのかも分からない。暗くなる一方の時間帯、雲に覆われて残された陽の光も届かない、岐路ばかりの裏路地。地図はとうの昔に役に立たなくなっている。

 

 土地勘のない子供が安易に入って良い場所ではなかった。

 

 またしても、憧は後悔する。

 

「あたしのせい」

 

 自らの迂闊な提案のせいで、事態を悪化させてしまった。責任感の強い彼女は、憧は自分を責める。二人に申し訳が立たなくて、傘を持つ手に自然に力が籠もった。

 

「あたしがこっちに進もうなんて言わなかったら――」

「それは違います」

 

 しっかりとした声で否定したのは、小蒔だった。憧が俯かせていた顔を上げる。小蒔は真摯な面持ちで、憧の瞳を見つめていた。

 

「新子さんだけのせいじゃありません。ずっと二人にばかり任せていた私にも責任があります。だから、そんな顔をしないで下さい」

「でも、京太郎は止めたのに」

「関係ねぇよ」

 

 食い下がろうとする憧の頭に、京太郎の手が置かれる。

 

「こんなになるなんて、俺も予想できなかった。ちゃんと考えてなかったんだ。だから、新子と神代さんだけの責任でもない。もっと言えば、俺が二人をさっさと起こしておけば良かったんだからさ」

「須賀……」

「だから泣くなって」

「な、泣いてなんかないっ」

 

 憧が京太郎の手を振り払う。その様子を見ながら、小蒔が優しく笑った。

 

「では、三人で三等分ということで」

「もう、それで良いわよ」

 

 ふん、と憧は鼻を鳴らす。

 

「とにかく、ここはもう破れかぶれでも歩くしかないでしょ」

「ええ、頑張りましょうっ」

 

 小蒔が握り拳を作る。そんな彼女の姿を見るだけで、萎れた元気が元に戻るようだった。気力を振り絞り十分余り歩き詰め、三人はどうにかこうにか路地を脱出する。

 そこから憧は地図を必死で読み込んだ。失態を取り戻すと言わんばかりに、集中力を発揮する。彼女は遠回りながらも、軌道修正を図った。

 

「あの銀行が地図のここだから……こっちね」

「了解」

 

 憧のナビゲートは的確だった。京太郎が先導していたときよりも、ぐんとペースが上がる。元々彼女は頭脳明晰で記憶力も良い。冷静になればこの程度、やってのけられないわけがなかった。

 

 そして、ついに三人の視界が交番の姿を捉える。

 

「やったっ!」

 

 憧が歓声を上げる。京太郎と小蒔も、ほっと胸を撫で下ろす。

 その気の緩みが、憧の足を滑らせた。本来そのようなドジを踏むタイプではないし、運動神経も良い彼女であったが、濡れた足元と二人に挟まれた状態が悪かった。

 

「いったぁ……」

「新子さんっ、大丈夫ですかっ。膝、擦りむいてますっ」

「ヘーキヘーキ、いつも山でこのくらい――」

「いけませんっ」

 

 ぴしゃりと小蒔は言い放ち、白いハンカチを取り出した。見るからに高級品のそれを、彼女は惜しげもなく憧の膝に巻き付ける。

 

「ひとまずは、これでなんとか」

「……うん。ありがと、神代さん」

「新子、立てるか」

「ん」

 

 傘を拾い上げていた京太郎が、憧に手を差し伸べる。憧は素直に掴み取ったが、

 

「痛っ」

 

 小さく悲鳴を上げた。

 すぐさま京太郎が憧の足首に手を添える。

 

「捻ったな、こりゃ。歩いちゃダメだ」

「こ、交番はすぐそこなんだから行けるわよ」

「バカ。捻挫舐めんな」

 

 バカとは何よバカとは――と、憧は言い返したかった。だが、できなかった。

 

「ほら」

 

 京太郎が、憧に背中を見せて腰を下ろしていた。

 

「早くしろ」

「……うん」

 

 京太郎は、軽々とまではいかないが、憧をおぶった。憧が軽いというのもあったが、元々年の割に彼は体格に恵まれていた。傍らの小蒔が傘を持つ。

 

「しっかり掴まってろよ」

「うん」

 

 ぎゅっと、憧は京太郎の首に手を回す。

 

 彼の背中はあれだけ雨に打たれていたのに、熱を帯びているかのように暖かい。

お互いの服はぐしょぐしょで気持ち悪いはずなのに、不思議と不快にならない。

 

 どくん、どくん、と憧の心臓が痛いくらいに強く鼓動をする。自分で自分を制御できない感覚が彼女を包む。

 

 ――あれ、なに、なにこれ?

 

 顔が熱い。目が潤む。呼吸が速くなる。

 

 隣に目を向ければ、小蒔が傘をさしてくれていた。目が合うと、彼女はにっこり笑った。それで少し、憧は落ち着きを取り戻した。

 

 進む速度は当然落ち、自分の足で歩けないもどかしさ。ここに来てまた足を引っ張ってしまった情けなさ。

 すぐにでも降ろしてもらいたい。京太郎に休んでもらいたい。

 

 それらは全部、憧の嘘偽りない気持ちだった。

 

 しかし一方で、彼女は――

 もっとずっと、こうしていたいと思っていた。

 

 自分がそんな益体もないことを望んでいると気付いて、憧はまた羞恥に見舞われる。

 

「新子、もっとちゃんと掴まってくれ。ずり落ちそうだ」

「ふきゅっ」

「新子?」

「わわわわわかってるわよっ」

 

 悲しくなるくらい狼狽して、腕が痛くなるくらい京太郎にくっついて。

 憧の口が、京太郎の耳元にかかる。

 

「…………アリガト」

「どういたし、ましてっ」

 

 憧を背負い直しながら、京太郎は笑った。小蒔はしっかりと、憧を濡らさぬよう傘を高く掲げる。それで自分が雨に晒されようとも、彼女が気にする素振りはなかった。

 

 

 かくして三人は交番に到着する。

 

 傷を負い雨に晒され服はぼろぼろ。そのあんまりな姿に駐在していた巡査は驚き、あれやこれやと世話を焼いてくれた。

 乾いたタオルで頭と体を拭いて、三人はようやく一息ついた。

 

 既に全員迷子としての情報は出回っていたようで、それぞれの保護者とも連絡がつき、すぐに迎えが来る運びとなった。

 

 その間京太郎たちは名前や住所の聞き取り調査を行われ、分かる情報は全て用紙に記入していったのだが――

 

「あれ?」

 

 巡査の一人が、首を捻った。

 

「君たち三人とも、今日初めてたまたま偶然出会ったんだよね。出身地もばらばらで、お互いのことは何も知らなかった。そうだよね」

「はい、そうですけど……なにか?」

「いや、それがね……」

 

 巡査が注目したのは、三人がそれぞれ書いた目的地名の欄。住所は分からなくとも、それだけは三人ともしっかり覚えていた。

 

 小蒔は年齢にそぐわないくらいの達筆で。

 憧は女の子らしい、丸みを帯びた文字で。

 京太郎は少し雑で読みづらい走り書きで。

 

 

「皆目的地が一緒って、どういうことだい?」

 

 

 同じ神社の名前が、踊っていた。

 

 

 

 

 




次回:三/神代小蒔/夜宴


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三/神代小蒔/夜宴

東京/東京大神宮

 

 

 交番に辿り着く直前、小蒔は歩みを進めるのに躊躇いを覚えた。

同行する憧は足を怪我し、彼女を背負う京太郎も決して楽ではないだろう。一刻も早く休める場所に辿り着くべきだと言うのに、行きたくないと本能が訴えかける。思慮深い小蒔らしかぬ気持ちの芽生えに、本人が一番当惑した。

 

 たった数時間の付き合いが、小蒔の心を激しく揺らした。

 

 憧ともっとお話ししていたい。

 京太郎の傍で、ずっと佇んでいたい。

 

 こんな気持ちを抱くのは、初めてだった。幼い時分より供に過ごしてきた六女仙は、そこにいるのが当たり前になっている。これからもずっと一緒だと確信できる。しかし、京太郎たちは違う。そんな当たり前は通じない。

 

 巫女として修行を積んできた小蒔は非凡な経験と才覚を有しているが、それでも箱入り娘であるのも確かである。二人との冒険は何もかもが初めて尽くしだった。彼女にとって、忘れられない思い出になるのは当然だ。

 

 だからこそ、名残惜しい。

 

 ここでお別れしてしまえば、二度と会えなくなるかも知れない。そう思うと、きゅっと喉の下が締め付けられる。独りでいたときと似た、それでいてもっと苦みを伴った寂しさ。

 

 それが良い意味で裏切られたのは、小蒔にとって全くの考慮の外であった。

 

 

「――小蒔ちゃん!」

 

 迎えに来た車で、ようやく小蒔が目的地たる東京大神宮に到着したのと同時。

 車を降りた小蒔に、霞が駆け寄ってきた。弱まっているとは言え、雨はまだ降っている。彼女はそれでも構わず、傘を投げ捨て小蒔を抱き締めた。

 

「大丈夫? 危ない目に合わなかった? 怪我してない? こんなに汚れちゃって……」

「か、霞ちゃん……」

「心配していたのよ。ずっと」

 

 霞が小蒔の肩に顔を埋める。

 彼女のこんな姿を見るのは初めてで、小蒔は困った。平時であれば、ずっとおろおろしてばかりでいただろう。

 しかし、今日の小蒔は少し違った。すぐに落ち着きを取り戻して、霞に囁く。

 

「ごめんなさい、霞ちゃん。ご迷惑をおかけしました」

 

 霞の髪を手櫛でときながら、小蒔は彼女の体を抱き締め返す。ふと気付けば、初美たちがやや意外そうに小蒔たちの様子を見つめていた。小蒔は苦笑を浮かべて、

 

「皆も、ごめんなさい。ずっとお待たせしてしまいました」

「良いのですよー。姫様が無事なら」

 

 初美がいつもの無邪気な笑顔で言った。巴も春も、同意するように頷く。そこでやっと、小蒔は元の居場所に帰ってきたのだと感じた。

 丁度そのタイミングで。

 

「あのー……」

 

 小蒔の背後、車の後部座席から声がかかる。

 

「神代さん、そろそろあたしたちも降ろしてくれない?」

「あっ、ご、ごめんなさいっ。どうぞ、新子さん、須賀くん」

 

 小蒔は霞の手を引いて、道を空ける。これも普段とは違う光景だった。

 まず京太郎が、そして彼の手に引かれて憧が車を降りる。霞たちにとっては知らない顔。だが、小蒔は気後れなく接する。

 それどころか、

 

「あー、疲れた。早くお風呂入りたーい。ねね、神代さん一緒に入ろ」

「ええ、是非ともっ」

「あ、今須賀エッチなこと考えたでしょ?」

「し、してねぇよバカ。俺はさっさと御飯食べたいんだ。な、神代さんだって、お腹空いただろ」

「言われたら急にお腹空いてきました……」

 

 三人は親しげな様子を見せつける。どちらかと言えば人見知りするタイプの小蒔として認識していた六女仙は、口をぽかんと開けてしまう。

 

 最初に我に返った巴が訊ねる。

 

「姫様、その子たちは……?」

「ええっとですね」

 

 説明を求められた小蒔が答えるよりも早く、父から声がかかる。早く屋内に入るように、とのことだった。

 大人の影は三つ。小蒔、憧、京太郎、それぞれの父親だった。

 

「後で、ゆっくり紹介しますね」

 

 小蒔は余裕を持って答える。霞たちは、頷く他なかった。

 

 

 ◇

 

 

 境内には、団体客が宿泊することのできる施設があった。ちょっとした旅館みたいなもので、小蒔たちは大浴場で一息つく。

 

 それから通されたのは、小学生用として宛がわれた大部屋の寝所だった。部屋の隅には布団が積まれ、テーブルの上には食事が用意されていた。

 

「あ、須賀くんこちらです」

「……お、お邪魔します」

 

 男湯に入っていた京太郎が、浴衣姿で合流する。小蒔の手招きで、京太郎はおずおずと彼女の隣の席に着く。

 

「ええと、それでは改めて紹介しますね」

 

 小蒔、憧、京太郎の向かい側に、六女仙が座る形となる。

 

「こちら、須賀京太郎くん。長野の須賀神社の一人息子さんです。私の父の同期生とのことで、今日は私たちと同じ立場で――この、合同勉強会に参加するためいらっしゃったそうです」

 

 小蒔は我がことのように、誇らしげに語る。

 

「私が迷子で困っていたとき、助けてくれたんです。とても……ほんとうにとっても…………お世話になりました」

 

 最後に少し、俯き顔をうっすら赤らめながらも、小蒔は言い切った。

 一言二言、京太郎が霞たちと挨拶を交わすのを聞きながら、小蒔は呼吸を整える。

 初めから、「お世話になった」と小蒔は言うつもりだった。だが、はっきりと言葉にする段階になって、口を衝いて出そうになったのは「格好良かった」という賛辞だった。

 

 何も意識していなかった頃なら、さらっと言ってしまったのかも知れない。しかし今の小蒔では、どうにも無理そうだった。

 

「……それから、こちらは新子憧さんです。新子さんも私たちと同じ立場です」

「で、あたしも一緒に迷子になってたってワケ」

「姫様がお世話になりました」

「ううん、むしろあたしが助けられたくらいだから。気にしないで」

 

 巴のお礼に、憧は手をひらひら振って応える。照れくさそうだった。

 

「でも、凄い偶然」

 

 春がぽつりと言った。確かに、と霞が頷く。

 

「目的地が同じ場所だったから、近い場所で迷ったんでしょうね。……いずれにしても、新子さんと須賀くん。本当にありがとう。小蒔ちゃんが無事だったのは、二人のおかげよ」

「いや、ほんと、俺は全然大したことしてないから」

「そんなことありませんっ!」

 

 京太郎の謙遜を、小蒔は反射的に否定した。彼女自身意識したよりも大きな声で、しかもその場に立ち上がって。

 皆が呆気にとられる。付き合いの長い六女仙でさえも、ぽかんと口を開けていた。

 

「……そんなことはありませんので…………」

 

 今度ははっきり赤面し、小蒔はさっとその場に座り直す。

 

 霞たちは、「もしかすると」「ふんふむ」「ですよー」「黒糖」などと話し合うが、悶える小蒔の耳には入らない。

 

 ――どうしてこんな風になってしまうのでしょう。

 

 小蒔は自問するが、答えが返ってくるわけもない。京太郎が絡むと途端に平静を失ってしまう。昼間はもっと穏やかに過ごせていたのに、どういうことだろう。時間を置いて落ち着いたら、真っ直ぐに彼の顔を見られなくなってしまっていた。

 

 正体不明の感覚に振り回されっぱなしで、小蒔は困り果てる。それでいて、不思議と嫌な気はしないのがもう訳が分からない。

 

「とりあえず御飯食べちゃうですよー」

 

 初美がにやにや笑いながら言った。小蒔はほっとしながら箸を持つ。食事に集中していれば、京太郎のことを考えずに済む。

 

「あ、テレビ点けて良い? はやりんの麻雀講座始まっちゃってる」

 

 言うよりも早く、憧はテレビのリモコンに指をかけていた。六女仙からすれば食事中テレビを見るなど以ての外ではあったが、各家庭で文化は異なる。厳格な霞も、恩人の憧が相手となると注意できなかった。

 

 きらびやかなBGMと共に、牌のおねえさんが画面の中で踊る。麻雀を嗜む小蒔もよく知るアイドルだ。

 

 憧は純粋に麻雀講座を楽しんでいるようだ。おねえさんの説明を熱心に聞いている。

 

「新子さんも麻雀するの?」

「お姉ちゃんがやっててね。お姉ちゃん、一応インハイ団体戦も出たことあって、ちょくちょく打って貰ってるんだ」

「私たちも打つのよ。折角だから滞在中にいつか打ちましょう」

「うん!」

 

 六女仙ともすぐに打ち解けた様子で、憧は笑顔で頷く。

 

 京太郎はどうなのだろう、と小蒔は彼のほうを盗み見る。彼も麻雀を打つのなら、一緒に打ってみたい。

 

 ――と、彼女は思ったのだが。

 

 京太郎が牌のおねえさんを見る目は憧のそれと明らかに違って、完全に頬が緩んでいる。

 

 小蒔はむっとする。

 むっとした自分に気付いて、小蒔は首を傾げる。むっとする要素が今、どこにあったのだろうか。やはり京太郎が絡むと訳が分からない。

 

「……須賀くんは、麻雀するんですか?」

 

 とにかく彼の視線をテレビから引き剥がしたくて、小蒔は話しかける。

 

「んー? 麻雀は全然やったことない。そこまで手が回ってないから」

「では、他に何かお稽古事を?」

「今はサッカーと野球とバスケとハンドボールやってる」

「見事に体育会系、しかも節操ないわねあんた……」

 

 憧の突っ込みにも京太郎は意を介さない。

 

「親父がやりたいことはなんでも今の内にやっとけって言うんだよ。絞るのは後からで良いし、その内やりたいこともやれなくなるときがあるからって」

「だからってもうちょっと別のことやっても良いんじゃない? これからはね、人生頭が良い人が勝つのよ」

「なんだよ。鍛えてたおかげで新子背負えたんだから、感謝して欲しいくらいなのに」

「そそそそれは今関係ないでしょっ」

 

 憧がそっぽを向く。そんな二人がおかしくて、小蒔は笑った。やっぱりこの二人と一緒に過ごす時間は楽しい。

 

 食事を終えると、皆で後片付けし、布団を敷く。

 

「林間学校みたいで楽しいですよー」

「あ、あたし枕投げしたい!」

「良いですよー! やりましょー!」

「いけません」

 

 流石に霞が憧と初美を止める。

 そんな三人を尻目に、京太郎は「それじゃ」と小蒔に手を振った。

 

「俺親父の部屋に戻るから。また明日な」

「あ……」

 

 踵を返し、去って行こうとする京太郎。

 彼の浴衣の袖を、小蒔は思わず指先で摘まんでいた。くるりと京太郎が振り返る。

 

「神代さん? どうした?」

「す、須賀くんもこの部屋で泊まりましょうっ」

 

 ――ああ、私は何を言い出しているのでしょうか。

 

 小蒔はすぐさま自分の発言を後悔した。京太郎は目をぱちくりとさせ、「意味がよく分からない」という顔をしていた。

 

 だが、意外にもこの意見は通ってしまった。

 女子ばかりの部屋に男子一人、という状況に一番躊躇を覚えたのは京太郎自身だった。こんなことがクラスメイトにバレでもしたら、からかわれるのは目に見えている、と。もっとも、バレる筋などないのだが。

 

 しかし六女仙たちが了承し、憧も賛成はしないが反対もしない態度を見せると、京太郎はそれ以上逆らえなかった。

 

 布団を並べて、皆床につく。

 電気を消してからも七人はあれやこれやと話していたが、長旅の疲れも手伝って一人、また一人と眠りに落ちていった。

 

 こういうとき、真っ先に眠るのは自分だろう。そう小蒔自身思っていたのだが、彼女は中々寝付けなかった。

 

 原因は、お昼寝が長かったのと――そしてもう一つ。

 

 隣の布団に入った、京太郎の存在だった。

 

 寝息だけが、部屋を支配する。

 

「……須賀くん、起きてますか?」

 

 小蒔は、京太郎の背中に向けてダメ元で話しかけてみる。返事はすぐに返ってきた。

 

「ん、起きてるよ」

「今日は、本当にありがとうございました」

「も、もうお礼は良いって。耳にタコができるくらい聞いたよ」

「でもやっぱり……嬉しかったから」

 

 今こうしているときでさえ、小蒔はホームでの孤独感を思い出せる。そこから救い出してくれたあの声を、掴んでくれたあの手を、無碍に扱うことなどできない。

 

「明日、もっと遊んでくれますか?」

「当たり前じゃん。親父たちだって遊びに来たようなもんなんだぜ、この旅行。楽しまないのは損だよ損。そうだ、明日は東京観光しようぜ。今日はゆっくり街を見て回る余裕もなかったし。新子と、石戸さんたちとも一緒にさ」

「――はい」

 

 小蒔は布団のシーツにぎゅっと掴み、頷く。

 

「どこへでもついて行きます、京太郎様」

「さ、様?」

 

 突然の敬称に京太郎が狼狽え、小蒔の側へと寝返りを打つ。二人の鼻先がぶつかり、どちらからともなく顔を逸らした。

 

「きゅ、急にどうしたんだよ」

 

 京太郎に訊ねられても、小蒔は上手く言葉を繰れない。だが、これが正しいのだと彼女は思っていた。細かい理屈よりも、直感が告げていた。

 

「いけませんか」

「うーん……神代さん俺より年上だし、俺そんな呼び方されるキャラでもないし、長ったらしくて無骨というか」

「では、京様で如何でしょう」

「よし。まず様から離れよう」

 

 京太郎にそこまで拒絶されると、小蒔としても再検討せざるを得ない。出てきた妥協案は、

 

「……京くん」

「ん、ん?」

「京くん」

「はい」

「京くんでお願いします」

「……ああ、うん、それで良いと思う」

 

 やや投げ槍だったが、了承は得た。呼び方一つで、小蒔は彼との距離が縮まった気がした。

 

「私のことは、小蒔とお呼び下さい」

「年上を呼び捨てにするのはちょっと……じゃあ、小蒔ちゃんで」

「はい」

 

 名前を呼ばれると、首元がくすぐったい。でも、それが心地よい。

 多幸感に包まれながら、小蒔は眠りに落ちた。

 

 

 ◇

 

 

 霧島神境の巫女の朝は早い。憧もまた日々規則正しい生活を送っており、彼女たちの起床に合わせるのは難しいことではなかった。

 

 ただ一人、京太郎だけが起きてこない。ずっと、起きてこなかった。

 

 

 

 




次回:四/新子憧/献身と指先


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四/新子憧/献身と指先

東京/東京大神宮

 

 

 京太郎が起きてこない。

 

 事態が深刻であることに最初に気付いたのは、憧だった。そろそろ起きないと朝食の時間に間に合わないと告げられ、彼女は京太郎の掛け布団を引っ剥がした。「いつまで寝てるのっ!」と悪戯心に満ちた声は、急速に萎んでいった。

 

「す、須賀……?」

 

 顔は真っ青。額に浮かぶのは玉のような汗。呼吸は荒く、苦しそうに顔を顰めている。

 

 

 往診を依頼した医者の見立てでは、ただの風邪。ただし体力がかなり落ちているので、薬を飲んで安静にゆっくり休むべしとのこと。

 

 ついでに看て貰った憧の足の怪我は、大したことはなかった。ただ、未だ少し歩きづらいのも確かである。こちらも無理な運動は控えるように、とのお達しだった。

 

 本来であれば、東京を訪れた憧の目的は父の付き添いである。日中行われる勉強会への参加や、社務所の手伝い諸々を務める予定であった。だが、憧は父に全ての予定をキャンセルするよう頭を下げた。昨日の時点で迷惑をかけており、我が儘を言える立場でないというのは彼女自身重々承知であった。

 

 それでもだ。

 臥した京太郎の看護を務めたかった。

 

 昨日一日、ずっと彼は気を張っていたはずだ。女の子二人を引っ張り鼓舞し、途中憧たちが眠ってしまったときもずっと起きていた。

 

 それに、あの雨。

 

 京太郎は、できる限り憧と小蒔が雨に濡れないようにしてくれていた。交番に辿り着いたとき、一番の濡れ鼠は彼だった。最後の行程では、背負ってまで歩いてくれた。

 

 彼が風を引いてしまった責任の一端は、自分にある。――憧がそう思うのは、自然な流れであった。

 

 結局、娘の真剣な眼に負けた憧の父は、苦笑しながら許可を出した。

 

「……ふぅ」

 

 京太郎のおでこや脇を冷やし、憧は小さな溜息を吐く。

 

 時刻は午前十時半を回ったところ。仰向けに眠る京太郎の胸は、ゆっくりと上下する。肌の汗を拭き取るときに熱は、異常なまでに高く感じてしまう。本当に休んでいるだけで大丈夫なのだろうか、憧は不安になってくる。

 

 昨日は七人で泊まった広い部屋に、今は二人きり。当然彼女たちの間には沈黙のみで、時計の針が進む音ばかりが部屋の中に木霊する。漂う香りは自分の家と似ているようで違って、普段の生活環境とは異なることを強制的に意識させられる。

 

 憧は膝を抱えて、じっと京太郎の顔を見下ろした。

 

「……ごめんね」

 

 彼に向けた言葉は、部屋の中に吸い込まれて消える。元気になったら絶対文句を言ってやる、と強い決意をしながらも、憧は自分の膝に顔を埋めた。

 

「ただいま戻りました」

 

 細い声とともに、障子が開けられる。憧は顔を上げた。もう慣れ親しんだ友人が、そこに立っていた。

 

「お帰り、神代さん」

「ごめんなさい、お一人で任せてしまって」

「ううん、このくらいヘーキ。神代さんのほうは?」

「はい、車を出して頂いたので問題なく」

 

 小蒔はスーパーのビニール袋を掲げて頷いた。中身は食材だ。

 

「台所、借りてきますね」

「あ、あたしも手伝う」

「新子さんは京くんを看ていて下されば……」

「さっき寝付いてしばらく起きそうにないから。一人じゃ運ぶのも大変でしょ?」

 

 言って、憧は立ち上がる。小蒔は「では、お願いします」と頷き、廊下を渡っていく。憧は彼女の背中を追いかけた。

 

 憧と同じく、小蒔も京太郎の看病をすると言って聞かなかった。たおやかな彼女らしからぬ強情さに、大人たちも驚いていた。

 

 詳しい話を憧は知らないが、小蒔の扱いが霞たちとは違うというのは、なんとなく察せられた。呼称は「姫様」で、そこにからかいは微塵もない。数多くいる大人たちも、彼女に対しては何かしらの敬意を払っているようだった。

 

 そんな姫君が、京太郎の看病を申し出たのには都合が悪い人間もいたのだろう。やんわりと考えを改めるように諫める人間もいたが、小蒔は頑として譲らなかった。

 

 さらに彼女は、霞たちが手伝うと言っても聞く耳を持たなかった。押し問答の後、霞が折れた。初美たちの驚いた顔が印象的だった。

 

 たった一人、憧だけが一緒に看病することとなった。言葉を交わさなくとも、「二人で」というのは憧も小蒔も互いに分かっていた。

 

 台所での小蒔の手際は、あまり料理をしない憧からすれば見事の一言だった。米をとぐのも、卵を割るのも、憧には真似できない。憧は小蒔が「お嬢様」だと、侮っていたことに気付かされる。

 

「神代さん、料理上手なんだ」

「よく霞ちゃんたちと一緒に作ったりするので、ある程度は」

 

 憧の賞賛に、ちょっと照れ臭そうに小蒔は苦笑いした。

 

「これである程度かぁ」

 

 小蒔がとても大人びて見える。憧にとっては実際年上なのだけれども。羨望と憧憬の情が憧の中に浮かんだ。

 

 とにもかくにも、憧に手伝える部分は少なかった。自分たちが食べるおにぎり作りの手伝いと、精々食器を用意するくらい。

 

 京太郎のために小蒔が作ったのは、卵粥だった。二人で協力して部屋に運び込む。

 準備が整ったところで、京太郎が体を起こした。憧たちはすぐに傍へと駆け寄った。

 

「京くん!」

「須賀!」

「ん……おはよ、二人とも」

 

 起き抜けでどこかぼうっとした声ながらも、京太郎は微笑んで言った。その顔は、まだ血の気が少ない。

 

「悪ィ、迷惑かけて」

「迷惑だなんて、そんなこと」

 

 小蒔が首を横に振る。その瞳は潤み、京太郎とは対照的に頬は朱に染まっていた。

 

「須賀、食欲ある? 朝ご飯食べてないでしょ、あんた」

「うん、ちょっと食べる」

 

 承知しました、と小蒔が頷きお粥が入った椀を手にする。彼女はれんげで一掬いし、京太郎の口元に持っていく。

 

「えっ」

「はい、あーん」

「じ、自分で食べられるって」

「あーん」

「……あーん」

 

小蒔に全く引く気配はなく、躊躇いがちではあったものの、京太郎は粥を口にした。恥ずかしそうにしていた彼の表情は、すぐに輝く。

 

「あ、美味し」

「良かった」

 

 小蒔はほっと胸を撫で下ろす。それからもう一掬いして、京太郎に差し出していく。今度は京太郎も、すぐにかぶりついた。

 

「……良いなぁ」

 

 ぽつりと呟いた憧の独り言は、二人の耳に入らなかった。小蒔の立場が、無性に羨ましかった。だが、お粥は彼女が作ったものだ。その資格は自分にない。

 と思っていたら、

 

「小蒔ちゃん、ちょっと」

 

 障子を開けて、霞が部屋に入ってきた。彼女は起きた京太郎を認めると、

 

「あ――須賀くん、起きたのね。調子は……あんまり良くなさそうね。ゆっくり休んでね」

「どうもです」

「小蒔ちゃん、ちょっと良いかしら。おじさまが呼んでるの。そんなに時間はとらせないからって。ごめんなさいね」

「分かりました。……はい、新子さん。お願いしますね」

「え、えええっ」

 

 お粥を手渡され、憧は顔を引きつらせる。小蒔は急いで霞の後を追っていった。

 取り残された憧は、お粥とれんげを手に京太郎へ向き直る。

 

「あ、新子?」

「…………ほら。食べさせて上げるから」

「いや、そんな嫌なら無理しなくても。自分で食べられるくらいには元気だから」

「嫌じゃない」

 

 憧は、京太郎の言葉を強く否定して。

 

「嫌じゃないから……ほら、冷めない内にさっさと食べなさいよ」

 

 お粥をすくい、京太郎とは目を合わせず、憧はれんげを押し付ける。れんげは小刻みに震えていた。京太郎はもう一口食べてから、訊ねた。

 

「これ、新子と小蒔ちゃんが作ったの?」

「……あたしはなにもしてない」

「そっか。ありがとな、新子」

 

 憧の答えを、京太郎は謙遜と捉えたらしい。憧はそれ以上否定できず、京太郎と正面から向き合わないまま俯いた。

 

 それからゆっくりと、お粥の中身は減っていった。半分くらい胃の中に入り込んだところで、京太郎は、

 

「ちょっと休憩させてくれ」

 

 ストップをかけた。安心したような、残念なような、自分でも整理できない複雑な感情を持て余したまま、憧はれんげを置いた。

 

「さんきゅ、美味しいよ」

「ううん、……別に、このくらい」

「このくらいじゃないだろ。さっきもずっと傍にいてくれたの、新子だろ」

「お、起きてたのっ?」

「いや。なんとなく、そんな気がした。違った?」

「……違わないけど」

 

 恥ずかしくて、どうしても京太郎と視線を合わせられない。今や彼に背中を向けてしまっている。もうこの場から逃げ出したい。

 それでもどうしても気にかかることがあり、悩みに悩んだ果て、憧は京太郎に訊ねた。

 

「ね、須賀」

「なに?」

「なんであんた、神代さんのこと名前で呼んでるの? 神代さんも、いつのまにかあんたのこと『京くん』って呼んでるし」

「んん……なんか、小蒔ちゃんがそうして欲しいって言うから」

「ふーん」

 

 自分でもびっくりするくらい、硬質的な声が出た。後ろで京太郎がびくりと体を震わせるのが分かった。

 

「なんだよ」

「二人だけ、ズルい」

「ズルいって言われてもな」

「ズルいものはズルい」

「えぇー……」

「ただいま戻りました」

 

 押し問答の最中、小蒔が部屋に戻ってきた。憧と京太郎、二人して「お帰り」と声を揃えて言った。

 

「挨拶回りをしてきました。今日はもう、ずっとここにいて良いと」

「別に、遊びに行ってきても良いのに」

「京くんを放ってはいけません」

 

 それだけは有り得ないとばっさり切り捨てて、小蒔は京太郎の傍に座る。

 

「ここにいます」

「……ども、ありがと、小蒔ちゃん」

「はい」

 

 やっぱりズルい、と憧は思った。

 

「神代さん、あたしも神代さんのこと名前で呼んで良い?」

「えっ? も、もちろんです! じゃあ私も新子さんのこと……」

「憧って呼んで」

「はいっ」

 

 小蒔は顔を輝かせて頷いた。それから憧は京太郎を指差して、

 

「あんたも」

「……オーケー、憧」

「…………うんっ、よろしく京太郎!」

 

 憧は、何だか久しぶりに笑った気がした。

 この三人でいられるのが、嬉しい。不思議な、見えないもので結ばれている気がして、心地よかった。

 

 昼前になり、憧も丁度お腹が空いてきた。

 小蒔と一緒に握ったおにぎりを食す。自分が握ったものは、小蒔のそれに比べて形がいびつで、京太郎から見えないよう隠しておく。

 

「でも、本当にごめんなさい京くん。こうなってしまったのは私のせいです」

「あたしたち、でしょ? 小蒔」

「憧ちゃん」

 

 小蒔の謝罪に訂正を入れ、憧は言った。小蒔がいると、少し素直になれる。

 

「昨日の夜も疲れていたのに、女子会に付き合わせちゃったもんね。ほんとにゴメン」

「いーよ。このくらいで風邪引くとは、俺も思ってなかったし。うーん、鍛え方が足りなかったかなァ」

「あれだけ雨に打たれたんだから仕方ないでしょ」

「日常茶飯事だよ、あのくらい」

「それはそれでどうなのよ」

 

 軽口を交えつつ、三人はしばし談笑に興じた。途中食欲を取り戻した京太郎は、小蒔と憧に食べさせて貰って、結局卵粥を完食した。

 

 しかし、それでも京太郎の顔色は優れない。

 

 小蒔に促される形で、京太郎は再び床に臥した。

 間もなく、彼は静かな寝息を立て始める。先ほどまでよりも幾分か、楽になっているようだった。憧はちょっとだけ、ほっとした。

 

 一度部屋を出て、小蒔と共に食器を片付ける。

 

「ありがと、小蒔。あたしじゃお粥、作れなかった」

「いいえ、私こそ。憧ちゃんがいてくれなかったら、不安できっと、何にも手がつかなかったと思います」

「……だったら、良かったかな」

 

 憧たちが部屋に戻ると、京太郎はちゃんと眠っていた。寝苦しくもなさそうで、二人は揃って一安心する。

 

 安心したら、今度は憧まで眠たくなってきた。

 と思えば、小蒔もうつらうつらとしている。

 

「布団、敷こっか」

「……はい」

 

 憧がそう提案すると、小蒔は恥ずかしげに笑った。

 

 示し合わせたわけでもなく、憧たちは京太郎の両隣に布団を敷いた。小蒔の集中は既に切れかかっていたようで、ころんと布団の上に転がると、すぐに眠ってしまった。その様子は微笑ましくて、六女仙たちが彼女を大切にしている理由が、憧にもちょっと分かった気がした。

 

 それにしても、と憧は思う。

 

 京太郎が風邪で倒れたとき、小蒔はずっとおろおろしていた。ともすれば泣き出しそうなくらいだった。

 

 しかし、京太郎を前にして、彼女はそんな素振りを一切見せなかった。風邪で弱っている相手に、不安を与えないようにしていたのだろう。そんな彼女のおかげで、憧も京太郎の前で取り乱さずに済んだ。

 以前、宿題で国語辞典をめくった記憶がある。そのときたまたま見つけた献身という言葉を、憧は覚えていた。たぶん、この言葉の意味が「これ」なのだろう。

 

 小蒔の様子を窺うと、眠る彼女の右手が京太郎の左手を握っていた。憧はどきりとした。

 

 二人は、すやすやと眠っている。起きる気配は、欠片もない。

 

 襲いかかる午睡の気配に抗って、憧は迷う。迷いながら、京太郎の手元を見た。自分の手と比べて、少し硬そうな指先。

 

 ――二人だけ、ズルい。

 

 それが言い訳だとは気付かないまま、憧は京太郎の指先に手を伸ばした。

 

 

 

 




次回:五/神代小蒔/デート


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五/神代小蒔/逢瀬

東京/東京大神宮

 

 

 京太郎の風邪は、翌日には完治した。幸い、看護を務めた小蒔と憧に感染ることもなかった。

 おかげで小蒔は朝から上機嫌だった。鼻歌交じりでおひつから御飯をよそい、京太郎に差し出す。

 

「はい、どうぞ」

「さんきゅ、小蒔ちゃん」

「いえ」

 

 お礼を言われるだけで、小蒔は照れてしまう。お茶碗を手渡すとき、指が触れ合っただけでどきりとする。未だ理由は分からないが、小蒔はこの気持ちを気に入っていた。

 

「ねね、小蒔、京太郎」

 

 京太郎を挟んで隣に座る憧が、箸を片手に話しかけてきた。憧の口元は楽しげに釣り上がっている。昨日は少し陰のあった彼女も、すっかり元気を取り戻したようで、小蒔も安心した。

 

「今日は午前中、二人ともやらなくちゃいけないことあるのよね」

「はい、そうですけど」

「だったら午後から東京観光しない? あたし、友達に買って帰るお土産探したいし。霞さんたちも一緒に、みんなで。どう、だめかな?」

「いえ、だめなわけがありませんっ」

 

 小蒔は顔を輝かせて笑った。東京観光は、一昨日の晩に京太郎とも約束していた。

 

「京くんも、良いですよね?」

「当たり前。俺だってそのために来たようなものだし」

「では決まりですねっ」

「決まりではありません」

 

 ぴしゃりと小蒔を叱りつけたのは、霞だった。

 

「小蒔ちゃん、夏休みの宿題はやったの?」

「……あの」

「昨日、須賀くんの看病で一ページも進んでいないでしょう?」

「…………その」

「一昨日は迷子で。それとも私も見ていないところでやっていたのかしら?」

「………………ごめんなさい」

 

 しゅんとなる小蒔の隣で、京太郎が声を上げた。

 

「じゃあ、皆でぱぱっと終わらせちゃおうぜ」

 

 憧もまた、京太郎に同意する。

 

「ちゃんと終わらせれば行っても良いんでしょ? 霞さん」

「ええ、もちろんよ」

 

 それが正解、と言わんばかりに霞は片目を閉じて微笑む。小蒔はほっと胸を撫で下ろした。隣を見れば、京太郎と憧が親指を立てていた。やっぱり二人は頼りになる。小蒔は改めてそう思った。

 

 年長者として京太郎と憧の勉強を見てあげようとした小蒔であったが、自分の宿題で手一杯であった。さらに言えば、憧は一人でも凄い速度で算数のテキストを終わらせてしまうくらい、学業優秀だった。京太郎は京太郎で、絵日記という勉強とは関係ない宿題をやっていた。

 

 結局無事に用事も宿題も終わらせたのは、午後二時過ぎ。

 

 霞の許可も出て、遠くに行きすぎないという条件の下、七人は社を出た。

 電車に揺られ、辿り着いたのは東京駅。地元の駅よりもずっと広いはずなのに、人で溢れて狭く感じる。自分たちの住む街とあまりに違う光景に小蒔は感心していると、歩いてきた人とぶつかりそうになった。

 

 こういうとき、小蒔の手を引くのはいつも霞の役目だった。

 

 だというのに、今日に限って霞は一歩後ろについていた。他の六女仙も同様である。小蒔の手をとったのは、京太郎と憧だった。

 

 普段と違う感覚に戸惑いながらも、小蒔は彼らに着いていく。彼らとなら、小蒔はどこにでも行ける気がした。

 

 東京駅を背景に記念写真を撮った後、一行は皇居の周りを散策することとした。当然中には入れないが、天照大御神が祀られる宮中三殿がある。全員が神社の関係者として、近くまで赴きたいと思うのは自然の流れであった。

 

 皇居周辺は駅よりもずっと人が少なく、空気も澄んでいる気がした。小蒔は一息つきながら、ゆっくり歩を進める。

 

「姫様」

 

 道中、巴が小蒔の耳元に囁いてきた。

 

「どうかしましたか?」

「私たち、今から少し席を外します」

「えっ」

「須賀くんと二人きりで、しばらくどうぞ」

「えっ、えっ」

「ああ、近くにいますから安心してください」

 

 見れば、初美が憧を誘って出店のクレープ屋に向かっている。遠くで春は何故かガッツポーズをとっており、霞までひらひら手を振っている。

 

「ど、どうしてそんなこと。皆で歩けば良いのでは……?」

「まぁまぁ。姫様だって、嫌ではないでしょう?」

 

 巴の眼鏡がきらりと光る。

 言われた小蒔は目を白黒させ、結局何も言い返せなかった。それでは、と初美たちの元に向かう巴の背中を追えない。

 

「あれ、憧たちは?」

 

 先頭を歩いていた京太郎が事態に気付いたときには、他の五人の姿は消え失せていた。時既に遅し。

 

「……す、少しの間、別行動しましょうって」

 

 小蒔が絞り出すように言った。

 

「なんだ、相談もなしに。憧の仕業か?」

「い、いえ」

 

 うちの身内の仕業です、とも小蒔は言えない。

 

「まあ良いや。行こうぜ、小蒔ちゃん」

「……はい」

 

 京太郎の一歩後ろ、影を踏まぬよう小蒔は着いていく。

 

 思えば、京太郎と二人きりになるのは初めてではなかろうか。迷子になっていたときはずっと憧がいたし、神宮に到着した後も六女仙が傍にいた。看病のときだって、やはり憧とセットだった。

 

 急に日射しが強くなった気がした。汗が滴り落ちる。日傘を用意すれば良かった、と小蒔は後悔した。ときどき振り向いて話しかけてくる京太郎の目から、逃れたい。どんどん体温が上昇しているのを自覚する。

 

「でも、小蒔ちゃんたちも大変だよなー。巫女としてもう勉強始めてるんだろ?」

「大変……なんでしょうか。物心ついたときからずっとそうだったので、よく分かりません。それに、不自由ばかりではありませんし、好きなこともやっていますよ。京くんは、跡を継がないんですか?」

「んー」

 

 京太郎は顔を顰めてから、言った。

 

「俺、一人っ子だし、そうなるのかなって思うときもあるよ。親父は何も言ってこないから、勉強とかはまだまだだけど」

 

 でも、と彼は続ける。

 

「この旅行に参加させたのも、そういうの、俺に考えさせるつもりなのかなーって思った。結局親父は酒飲んでばっかりだけど。……ま、嫌とかそんなのはないかな」

「それでは……須賀神社に残る、と」

「スポーツ選手って言うのも捨てがたい」

 

 京太郎は屈託なく笑う。冗談半分、本気半分と言ったところだろう。それでも彼なら、叶えてしまえそうだ――小蒔はそう思った。

 

「小蒔ちゃんは、他になりたいもの、ないの?」

「なりたいもの、ですか」

 

 今度は京太郎から訊ねられ、小蒔は戸惑った。

 

 一番に思いついた単語を京太郎の前で口にするには恥ずかしく、彼女は考え直す。両手の指を胸の前で絡ませ、逡巡した末で、出てきたのは一つの答えだった。

 

「……そうですね。なりたいもの、ではありませんが。麻雀をもっと、やり続けたいなと思っています」

「麻雀かー。流行ってるもんな」

「はい。最近、皆でやり始めたんです。京くんもスポーツに疲れたら一度やってみてください。とっても面白いゲームですよ」

「分かった。覚えとく」

 

 小蒔は顔をほころばせて、頷いた。

 

「そんで小蒔ちゃんは、どれだけ強いの?」

 

 京太郎の何気ない問いかけに、またもや小蒔は言葉を詰まらせる。

 

 単純な技術の話を論ずれば、霧島神境の巫女の中でも小蒔は下から数えたほうが早いだろう。だが、彼女には群を抜いた特殊な能力があった。

 

 

 ――憑依体質とも言える、神降ろしの力。

 

 

 それを使えば、同年代筆頭の実力を誇る霞や初美でさえも上回ることができるのは近頃の実践で証明済みだ。もっとも、小蒔はそのときの記憶はないのだが。

 

 小蒔がこの力を有するのは、現在霧島神境の秘匿の一つとされている。例え京太郎が神道に関わる人間であっても、安易に教えるわけにはいかない。

 

「まだまだ、修行中の身です」

「そっか。じゃ、俺のハンドボールと同じだな」

 

 京太郎に秘密を作るのは、心苦しい。いつか彼に全てを打ち明けられれば良いな、と小蒔は思う。そのための手段は限られていて、それに彼女が気付くのはもう少ししてからだった。

 

 しかし、実際のところ。

 

「お互い、頑張ろうぜ」

「はい」

 

 小蒔の口から、彼女の秘密について京太郎に語られることは、終ぞなかった。

 

 

 ◇

 

 

 二人は堀に住むサギやカルガモを眺めながら、ゆっくりと皇居周りを一周する。終えたときには、既に陽が傾き始めていた。

 

 どこに隠れていたのか、そこで小蒔は霞たちと合流した。終始表情を変えない春を除いて、六女仙たちはにやにやしている。

 

 若干不機嫌そうだったのは、憧。しかし彼女も小蒔の姿を認めると、すぐに表情を明るくし、抱きついた。それから京太郎の肩をばしばし叩いた。

 

「そろそろ帰りましょうか」

「えー、まだ遊びたいですよー」

「だめ」

 

 霞が一切の文句を撥ね除けて、一同は帰路につく。

 

 帰りの電車では、憧と初美が京太郎を独占していた。憧たちに何やら尋問されている京太郎を、小蒔は心配げに見つめる。

 

 だが、彼女にそんな余裕はなかった。

 

「姫様、姫様」

「は、はい?」

 

 巴ががっしり小蒔の肩を掴み、目前には霞と春。

 

「須賀くんとのデートはいかがでした?」

「でっ……」

 

 小蒔は顔を真っ赤にして、絶句する。くすくす、と霞は妖しく笑う。

 

「短い時間だったけど、楽しめたかしら?」

「そ、そんなつもりは」

 

 ――どきどきしてばかりで、それどころではなかった。小蒔の感想はそれしか出てこない。だが、霞や巴がその程度で満足するわけがなかった。

 

「さあさあ、姫様」

「教えて頂戴、小蒔ちゃん」

「黒糖、食べる?」

「ううううう……」

 

 あれやこれやと邪推されながらの帰り道は、小蒔をぐったりとさせるには充分だった。最後はやはり、京太郎と憧に手を引かれながらの到着だった。

 

 お風呂を貰い、小蒔たちは晩ご飯を頂く。

 

 普段ならもう眠る準備をするところであるが、今は京太郎と憧がいる。小蒔は暇を惜しんで彼らとお喋りしたかった。

 

 考えないように、考えないようにとしていたが、もう一緒にいられる時間は少ない。京太郎たちと過ごす期間は、あっという間に過ぎ去ろうとしている。

 明後日には鹿児島へ帰らなくてはならないのだ。飛行機の出発時刻を考えれば、当日の朝はゆっくりしていられないだろう。

 

 迷子になったときに味わったのとは違う種類の、焦燥感。

 

「小蒔、麻雀しよ麻雀っ」

 

 それも、背後から抱きついてきた憧の体温を感じれば、吹き飛んだ。

 

「はい、是非っ」

「負けないわよー」

 

 憧といういつもと異なる面子と囲む卓は、新鮮で小蒔を夢中にさせた。ラスを引くのはほとんど小蒔であったが、それでも楽しかった。

 

 ルールの分からない京太郎は参加を固辞し、あぶれた面子と将棋を指していた。途中、小蒔も一局彼と指したが、あっという間に詰まされてしまった。憧も同様で、彼女は何度も京太郎に挑戦した。その度に京太郎は返り討ちにしたが、参戦した霞の手によって彼の連勝記録は打ち止めとなった。

 

 そこで、時刻は九時を回る。ぽーん、と掛け時計が音を鳴らした。

 

「そろそろ、寝ましょうか」

「え、霞さん勝ち逃げかよ」

「京太郎くんは病み上がりでしょう。あんまり遅くまで起きてちゃいけません」

 

 霞の言葉に、京太郎は不承不承と頷いた。

 小蒔もしょんぼりとするが、どう考えても霞が正しい。京太郎の体調を慮っていなかった自分に気付き、彼女は一人恥じ入った。

 

「それに、明日はお祭りがあるでしょう? 私たちもお手伝いしないといけないわ」

「……お祭り?」

「ええ。まさか、忘れていたわけではないわよね?」

 

 ぶんぶん、と小蒔は首を横に振った。実際は忘れていた。背後で京太郎が、「忘れてた」と正直に呟いて、憧に頭を叩かれる。

 

「ちゃんと仕事さえすれば、夜にはちゃんと縁日で遊べるから。ね? 京太郎くんたちとも一緒に」

 

 最後に添えられた言葉は、あまりに甘美な誘いだった。小蒔はすぐさま立ち上がる。

 

「お休みしましょうっ、いますぐにっ」

「寝るだけなのに、気合たっぷりですよー」

 

 初美が茶化して、部屋が笑いに包まれる。

 

 小蒔は気にせず、マイペースに布団を敷いていく。もちろん、京太郎の両隣は自分と憧のものだ。

 

 寝支度を整えながら、小蒔は明日をまだかまだかと待ちわびる。まるで遠足の前日、昂ぶりはそれ以上。明日が終わってしまえば、なんてもう考えない。お祭りを全力で楽しめば良いのだ。そうしなければきっと、お別れなんてできっこない。

 

「京くん憧ちゃん、明日は頑張りましょうっ」

「もちろんっ」

「とーぜんね」

 

 おー、と三人で拳を振り上げる。その様子を、霞たちは微笑ましく見守っていた。

 

 眠る前、歯を磨くために小蒔は部屋を一旦出る。それに続く影が、一つ。

 

 後を着いて来たのは、春だった。平時から物静かな彼女は、この旅行中も特に感情を表にしていない。ただ、小蒔には彼女が楽しんでいることは充分理解していたし、京太郎と憧を気に入っているのも伝わってきた。

 

「姫様」

 

 歯ブラシを片手に、春はいつもの能面で語りかけてきた。

 

「はい? なんですか?」

「先に謝っておく。明日はちょっと、ごめんなさい」

 

 言われた小蒔は、何のことかさっぱり分からず、上機嫌な笑顔のまま首を傾げた。

 

 

 東京の夜が、更けていく。

 

 

 




次回:六/新子憧/祭りの夜に


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六/新子憧/祭りの夜に

東京/東京大神宮

 

 

 神社の娘として、お祭りという行事は面倒の一言に尽きる。新子憧の率直な気持ちはそれだった。

 

 地元商工会との綿密な打ち合わせ、警察消防署との連携に参加者への注意事項の周知徹底、境内の管理、市議会議員への挨拶回り、関係各所との折衝、エトセトラ、エトセトラ。祭りが終わったらもう来年の祭りの準備を始めなければならないほどだ。

 

 もちろんまだ幼い憧が重要な仕事のほとんどに関わることはないが、祭りが近づけば家の中はてんやわんやである。何かしらのしわ寄せは必ず来るし、憧から積極的に準備を手伝わなければ怒られる。

 

 さらに言えば、祭りの当日もゆっくりしている時間はさほどない。なのに、級友たちは祭りを思う存分楽しんでいるのだ。誘いを断るのも面倒だし、話題にも入って行きづらい。

 自分の役割を終わらせた後――既に祭りが終盤に差し掛かった頃、親友の穏乃が夜店での戦利品を片手に声をかけてくれるのが憧の常だ。彼女に愚痴を聞かせて、また明日。彼女にとっては、そういう日。

 

「京太郎のところは、どう?」

「俺んとこも大体同じだよ。そりゃうちは憧や小蒔ちゃんところに比べたら零細神社で祭りも小さいけどさ。サボろうもんなら、親父にどやされる」

「やっぱりそうよね」

 

 巫女服に着替えた憧は、京太郎の答えに苦笑いする。彼もまた、今日は袴に袖を通していた。

 

「確かに、お祭りの日はいつも大変ですね。神境の者皆で働かねばなりません」

 

 同じく巫女服姿の小蒔が同意する。いつも一つに束ねているおさげは、今は二つ。

 

「それに比べたら、今日は楽なものだったわね。ほんと、こんな祭りは大歓迎よ」

 

 関係者やお歴々の皆様方を、目的地までご案内する。憧たち三人に任された今日の役割は、それだけだった。多少勝手が分かれば問題なくこなせたし、子供が案内役を務めると言うだけでお客様は満足してくれる。「お小遣い」と称してお金を渡そうとしてくる人までいて、それを断ることが一番大変であった。

 

 三人は、宿の縁側に並んで腰掛けていた。

 

 ちりん、ちりんと風鈴が音を鳴らす。夕方から夜に差し掛かろうとする時間帯、しかし夏の陽はまだ高く、空気は熱せられたまま。鈴の音は、憧の胸に清涼を与えてくれた。

 

 やや離れたところからは、祭りらしい喧噪が聞こえてくる。笛と太鼓の音はどこの祭りも同じだな、と憧は思った。

 

 切り分けられた西瓜に塩を振って、食む。口の中に広がった甘みは、憧の頬を緩めさせた。隣の京太郎は勢いよく齧り付き、その向こうの小蒔は女の子らしく口をほとんど開けずに食べていた。その違いがあまりにもおかしくて、憧は笑ってしまった。

 

「京くん、口元」

「あ、さんきゅ、小蒔ちゃん」

 

 さらっと小蒔がハンカチを取り出し、京太郎の口元を拭う。こういうことをさらっとやってのける小蒔を、憧は羨ましく思う。自分は精々憎まれ口を叩いて注意するくらいだ。

 

 甲斐甲斐しく京太郎の世話を焼く小蒔に、面倒だなんて感情は一切見られず、むしろ嬉々として取り組んでいる。

 

 ――小蒔は、京太郎のことをどう思っているのだろうか。

 

 昨日は、気付けば京太郎と小蒔は二人きりになっていた。自分一人、初美たちと一緒にいた。初美たちが悪いわけじゃない。彼女たちと遊ぶのも楽しい。だけど、京太郎と小蒔の二人から引き離されると、途端に心がもやもやする。

 

 今も、小蒔と京太郎は仲睦まじくじゃれ合っている。

 

 ――考えすぎるといけない。

 

 憧は頭を振って、残っていた西瓜を平らげた。

 

「ごめんなさい、待たせたわね」

 

 丁度そのタイミングで、背後から声がかかる。振り向けば、霞たち四人が立っていた。全員、やはり巫女服だ。

 

「でも、これで後は全部自由時間よ。早速お祭りに行きましょう」

「その前に霞さんたちも西瓜食べていけば? まだ余ってるよ」

「うふふ。良いの、後で頂くから」

 

 京太郎の提案をあっさり蹴って、霞は小蒔の手を取り立ち上がらせる。

 

「お祭りの日にゆっくりできるなんて、早々ないもの。時間が勿体ないわ」

 

 いつも泰然自若と構える霞が、珍しく急かしてくる。言っていることは、憧とほとんど同じ。京太郎と小蒔が可笑しそうに笑った。

 

「霞さんに大賛成」

 

 京太郎の頭を軽く叩いてから、憧は立ち上がる。

 

「折角の機会、楽しまないと損よね」

「行くですよー!」

「憧ちゃんの言うとおりですね」

「黒糖、食べてく?」

 

 そして、一同は縁日へ。

 立ち並ぶ夜店の数々、道一杯の人集り。用意する側の人間としてよく知っているはずの光景は、しかしどこか違って見える。

 

 お給金という名のお小遣いによって、財布の中はいつになく一杯だ。かき氷もりんご飴も買い放題である。

 

「小蒔小蒔、何から食べる?」

「わ、私たこ焼き食べたことないんです。是非ともっ」

「じゃ、たこ焼きからねっ」

 

 憧と小蒔が先頭を切って歩く。その後ろを京太郎、やや離れて六女仙が続く。

 二人はそれぞれたこ焼きを注文する。先に小蒔の分を受け取り、憧が自分の分を待っていると、

 

「はい、京くん」

「じ、自分で買って食べるから」

「遠慮なさらず、どうぞ」

 

 先日のお粥のときと同じように、小蒔が京太郎の口にたこ焼きを持っていく。小蒔は無邪気な様子で、善意だけでやっているのは憧にも分かる。

 けれども、京太郎がそのたこ焼きを食べた瞬間、憧の心はかき乱れた。

 

 ――あたしも。

 

 受け取ったお皿を片手に、京太郎へ近づいていく。

 

 ――あたしも、京太郎に。

 

 ふらふらと、憧の足が進む。

 そこで、がしりと腕を掴まれた。はっと意識を取り戻し、憧は振り返る。手の主は、初美だった。

 

「あっちのわたあめも美味しそうですよー!」

「あ――」

 

 このパターンは、昨日も味わった。すぐに憧は直感した。このまま京太郎と小蒔から、引き離されてしまう。

 

 ――違う。

 

 あの二人が、二人だけになってしまう。

 

 自分はそれが嫌なのだと、憧はようやく理解した。しかし、初美の力は存外に強く、憧では抗えない。

 

 だが、初美を止めた人間が別に居た。

 初美の肩をがっしり掴み、連動して憧の足も止まる。

 

「は、はるるー?」

「ダメ」

 

 春だった。これまでほとんど発言してこなかった彼女の突然の行動に、憧は目を白黒させた。霞や巴も、戸惑いの声を上げている。

 

「姫様、こっち」

「は、はい」

 

 春に手招きされ、小蒔は素直に傍に寄ってくる。春は初美の肩を抑えたまま、さらに小蒔の手を取った。

 

 それから憧に向かって、抑揚のない声で言った。

 

「行って」

「な、なにを」

「は、はるる。どうしたんですかー、打ち合わせと違うですよー」

 

 初美たちの抗議に、春は首をゆっくり横に振った。

 

「フェアじゃ、ない」

 

 その春の言葉で、憧の視界はかぁっと赤く染まった。

 

「行って」

 

 春は、重ねて言った。

 

 憧は走った。たこ焼きの一つが落ちてしまうのも気にせず、京太郎の腕を引ったくるように掴んで、無理矢理人混みをかきわけ前に進んだ。

 

「お、おいっ。小蒔ちゃんたちほってどこ行く気だよっ」

「うるさいばかっ、着いて来なさいよ!」

 

 言葉とは裏腹に、憧に向かう宛てなどない。

 

 

 ――クラスメイトの女の子が、隣のクラスの誰某くんが良いだとか、最近よく噂している。学年が上がって、そういう子が増えてきた気がする。早熟な子なんかは、付き合っている男の子がいるらしい。

 

 憧からすれば、信じられない話だ。よく穏乃と一緒に聞き役に回っているが、決して自分の話はしない。できるはずもなかった。

 気になる男子なんて、いなかったのだから。

 

 夜店から離れ、辿り着いたのは社の奥。

 

 一般人は立入りを禁止される区域で、当然人気はない。荒くなった息を落ち着けて、憧は連れてきた京太郎に向き直る。

 

 京太郎は突然の憧の暴走に、驚いているようだった。

 

「だ、大丈夫か? すげー息切れてるぞ」

 

 それでも彼は、労りの声をかけてくる。

 

「うるっさいっ」

 

 なのに、出てくるのは反抗心に満ちた言葉ばかり。

 

 こんなこと、思っていないはずなのに。本当は、違うことを伝えたいのに。

 

 ――ああ。

 

 そうだ。認めよう。認めざるを得ない。認めてやろうじゃないか。心のどこかで「理解できない」と小馬鹿にしていたクラスメイトたちと、自分は同じだと。

 

 

 ――新子憧は、須賀京太郎が好きなのだと。

 

 

 大事な小蒔に負けたくないと、思ってしまうくらいに大好きなのだと。

 

「憧……?」

 

 気遣わしげに京太郎が憧の顔を覗き込もうとしたその瞬間。

 

 遠くで、花火が打ち上がる。

 

 はっと、憧と京太郎は空を見上げた。どん、どん、どん、と連続で夜空に花が開いた。とても、美しい花だった。

 

「すっげー。うちじゃ絶対無理だこれ。いやでも見せ方の問題か……?」

「流石東京、お金あるわね……何とか低予算でも作れないかしら」

 

 若干ずれた感想を二人は抱きつつ、しばし花火を鑑賞した。お腹まで響いてくるような音の衝撃が、心地よい。

 

 少し時間が経ったことにより、憧は平静を取り戻す。

 

 自分のしでかしたことが恥ずかしくて、顔から火が吹き出そうだった。感情のままに動くなんて、合理的な自分らしくない。憧は、その場にうずくまりたくなった。――春が悪い。あんな急に、全て見透かしたことを言ってくるなんて。何も興味がなさそうな顔をして、とんだ食わせ者だ。

 

「で、なんだよ憧、何があったんだよ」

「うっさい!」

「なんだ、今日は特別当たりがきついな」

 

 へらへらと笑いおってこの男、と憧は京太郎を憎らしく思う。そう思いながらも、彼のおおらかさを愛おしく感じるのだ。

 

 ――ああ、これは重症だ。

 

 憧は自覚しながら、手元の容器を確認する。六つが入っていたはずのたこ焼きは、どこに落としてきたのか、もう残りは一つだけになっていた。

 

 憧は迷いながら、しかし、手は止まらない。

 

「……京太郎」

「なんだよ」

「はい、あーん」

 

 花火がもう一輪、空に咲いた。

 

 

 ◇

 

 

 祭事は全て終わり、夜店も撤収の準備を始めた頃。

 

 合流した七人は、宿に戻ってきていた。終始顔を真っ赤にした憧は初美たちにからかわれたが、反抗できなかった。

 

 小蒔は相変わらず無垢に笑っていて、憧には彼女が何を考えているのか分からない。怒っているのか、悲しんでいるのか。心配になった憧に、そっと春が耳打ちしてきた。

 

「問題ない。これで平等」

「は、春あんたね――」

 

 素知らぬ顔で、春は巴のところに歩いて行く。振り上げた拳の落としどころを失い、憧は溜息を吐いた。今日のところは、彼女に感謝せねばならない。

 

「なァ、花火しようぜ!」

 

 声をかけた京太郎が手に持っていたのは、コンビニで売っている花火セットだった。打ち上げ式のものはないが、量だけは充分にある。

 

「さっきまで散々見てたのに……どこでするのよ」

「手持ち花火には手持ちの良いところがあるだろ。ここの庭でやっても良いって。ちゃんと許可はとってきた。あ、霞さんバケツありがと」

「いいえ、私もこういうの、やってみたかったの。霧島神境じゃあんまり騒がしいのは好まれないから」

 

 相変わらず手際だけは妙に良い。憧は再び溜息を吐いて――いつもの笑顔に戻った。

 

「しょうがないわね、付き合ってあげるわよ。ね、小蒔」

「は、はいっ。私も是非是非やりたいですっ」

「ははー、承知しました、お姫様方」

 

 京太郎が冗談めかして頭を下げながら、封を開けた。姫と言われた小蒔が照れ臭そうに俯く。本気ではない発言と知りながら、憧も嬉しかった。

 

 ススキ花火を両手に暴れる初美や、絵型花火を興味深そうに見つめる霞。春はネズミ花火を無計画にばらまいて、巴は変色花火に目を奪われる。

 

 楽しいな、と憧は純粋に思った。

 

 厳しい中に、優しさを忍ばせる霞。一緒にお腹を抱えて笑い合える初美。皆よりもちょっと大人で頼りになる巴。よく分からないけれど、よく分かってくれている春。

 

 そして、京太郎と小蒔。

 

 もしかしたら、小蒔とは喧嘩するときが来るかも知れない。考えたくない未来があるのかも知れない。

 

 でも、それでも大切な友達だ。親友であり続けたい。

 

 二人ともっと、一緒にいたい。皆とずっと、一緒にいたい。穏乃に思うような気持ちと同じ感情を、憧は彼らに抱いていた。たった数日の付き合いは、しかし憧の心に強く刻みつけられていた。

 

 京太郎たちも、同じ気持ちでいてくれたらな――憧は目を閉じて、そう願う。

 

 あっという間に花火は数を減らして、残りは三本の線香花火だけになった。

 

 憧と、小蒔と、京太郎。

 霞たちに譲られて、三人が線香花火を手に取る。

 

「大きい花火も綺麗だけど、これも良いわね」

「だろだろ。ええっと、こういうのを何て言うんだっけ」

「風情がある、ですね」

「それそれ!」

「京太郎が風情とか語っちゃうの?」

「何だよ文句あるのかよ」

「ふ、二人とも喧嘩しないで」

 

 ちりちりと、光が地面に落ちてゆく。

 

 これが消えれば、今日が終わる。

 今日が終われば――お別れだ。

 

 分かっていたこと。分かっていても、納得できないこと。年齢に見合わず聡い少女である憧でも、割り切れない。

 

「小蒔」

「はい?」

「京太郎」

「どうした?」

 

 ありがとね、と憧が呟いたのと同時。

 線香花火は、その輝く僅かな時間を終わらせた。

 

 ああ、と憧は思い出す。――穏乃へのお土産、買っておくのを忘れていた。

 

 

 

 




次回:七/須賀京太郎/ずっと
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七/須賀京太郎/ずっと

東京/東京大神宮

 

 

 夏休みは、スポーツクラブの練習と合宿と試合の予定で埋め尽くす。

 

 そんな京太郎の計画は、夏休みが始まる一週間前に、「東京に行くぞ」という父親の一言で粉砕された。普段は自由気ままにやりたいことをやっている京太郎であったが、このときばかりは父親に逆らえなかった。

 

 東京という響きにはそれなりに魅力はあったが、それよりもチームメイトたちとボールを追いかけているほうが楽しい年頃だ。決して彼は乗り気ではなく、溜息を吐きたくなった。

 

 しかし、けれども。

 その気持ちは、東京で出会った友達が忘れさせてくれた。

 

「京……くん……」

「京太郎……」

 

 両隣から名前を呼ばれて、京太郎は身体を震えさせた。

 

 がばりと起き上がってみれば、すぐ近くで小蒔と憧がすやすやと寝息を立てている。寝言のようだった。二人とも京太郎の布団まで侵入してきていた。

 

 訳も分からずどきどき高鳴る心臓を抑え付け、京太郎は深呼吸する。

 時刻は午前四時半。既に空は白んでいる。

 

 ――ほとんど、眠れなかった。

 

 大会の前日も、合宿の最中でも、京太郎はいつも通り眠ることができる。そこまで神経は細くないのが彼の自慢だった。

 

 なのに、今日はどうしても眠れなかった。

 

 小蒔と憧と、ずっとお喋りして。霞に怒られても、声を潜ませ話し続けて。

 

 やがて限界を迎えた二人が先に眠りに落ちても、京太郎はずっと目が冴えたままだった。一瞬だけ意識が落ちたのが、ほんの三十分前。

 

 今更眠れないと考えた京太郎は、立ち上がった。

 洗面所に向かって、顔を洗う。

 

「――おはよう、京太郎くん」

 

 隣から、声をかけられた。霞だった。

 

「あ、おはよ、霞さん」

「早いわね」

「霞さんこそ。びっくりしたよ」

「ごめんなさい」

 

 くすくすと霞は笑う。

 

 彼女は、小蒔にとって親友であり姉のような存在だ。京太郎は決して口には出さないが、彼も彼女を姉のように感じていた。ちょっと、おっかないところも含めて。

 

「よく眠れた? ずうっと小蒔ちゃんたちとお話していたみたいだけど」

「そ、そこんとこは大丈夫。小蒔ちゃんも憧も今はぐっすりだよ」

 

俺は寝てないけど、なんて言ったら怒られそうだったので京太郎は誤魔化す。霞にどこまで通じているのか分からないが、正直にはなれなかった。

 

「京太郎くん」

「どしたの? 歯磨き粉、切れた?」

「ありがとう」

 

 京太郎は目を瞬かせる。霞の意図が、分からなかった。

 

「小蒔ちゃんのこと。この旅行中、ずっと一緒にいてくれて」

「なんだ、そんなことか。俺だって小蒔ちゃんたちと遊んでて楽しかったから、お礼言われることじゃないよ」

「でも、小蒔ちゃんは京太郎くんと憧ちゃんだから、楽しかったと思うの」

 

 霞の言葉には、熱が籠もっていた。

 

「良かったら、これからもずっと小蒔ちゃんと友達でいてくれる?」

「霞さん、ほんとに小蒔ちゃんのお姉ちゃんみたいだな」

「似たようなものよ」

 

 京太郎は歯ブラシをくるくる振り回して、答えた。

 

「良かったら、も何もない。小蒔ちゃんと憧と俺は、ずっと友達だよ」

「――ええ。ありがとう、京太郎くん」

 

 頭を下げて、霞は部屋に戻って行った。

 

 彼女とも、もうじきお別れだ。後数時間もすれば、帰りの飛行機に乗り込んでいるだろう。京太郎も、帰路につかなければならない。

 

 京太郎が部屋に戻ると、小蒔と憧が寝惚け眼で呆けていた。その様子がおかしくて、京太郎は少し笑った。

 

 ――霞さんは、俺にありがとうなんて言ってきたけれど。

 

 本当に感謝しているのは、自分のほうだ。京太郎はそう思う。風邪を引いたとき、二人は懸命に看護してくれた。熱で意識が朦朧としていても、だからこそ、傍にいてくれた安心感は忘れられない。

 

 翌日回復した京太郎に向かって、父親は珍しく神妙な顔つきで「身体に異常はないか」と訊ねてきた。病気にかかったら「鍛え方が足りん」、「気合で治せ」などと怒り出す父親としては、それこそ異常な対応であった。自分がどれだけ弱っていたのか、京太郎は思い知らされた。

 

 それだけではない。

 

 東京で過ごした時間。一緒に宿題をやった。一緒に観光した。一緒に社務所の仕事を手伝った。一緒夏祭りに行った。一緒に花火を鑑賞した。

 

 全部、忘れがたく、失いたくない記憶ばかり。

 

 小蒔と憧。

 

 それに、霞、初美、巴、春。

 

 皆女の子ばかりで、ちょっと気恥ずかしい気持ちはあるけれど。――京太郎は、そんな記憶を与えてくれた彼女たちに、感謝してもし切れない。

 傍にいるとどきどきして、共に迎える明日にわくわくした。

 

 この日の朝食は、昨日までと空気が違った。かちゃかちゃと食器と箸がぶつかり合う。ほんの僅かな咀嚼音が、無闇矢鱈と耳に鳴り響く。

 

 左に座る小蒔の表情は、暗い。「おはようございます」の一言以来、口を開かない。

 右に座る憧は、澄まし顔ではいるものの、何度も箸でおかずを掴み損ねている。食のペースも、ずっと遅い。

 

「小蒔ちゃん、ちゃんと荷物はまとめてる?」

「は、はい。それはもうしっかりと」

 

 霞に訊ねられ、小蒔はやや慌てて答えた。そのまま霞は京太郎と憧に視線を送る。

 

「京太郎くんと憧ちゃんは?」

「ん、問題ないよ」

「同じく、すぐにでも……出発できるから」

 

 憧の声は尻切れ蜻蛉で、静かな部屋に飲まれていった。

 

 あれだけ元気な初美も、今日は沈黙を保っていた。巴は迂闊に言葉を発さない。春はいつも通りの無表情――その中に、京太郎は微かな寂しさを垣間見た気がした。

 

 食事を終え、食器を洗い、お世話になった部屋を全員で掃除する。

 

 皆、もっと手早く出来る器量の持ち主ばかりであろう。なのに、遅々として清掃は遅々として進まなかった。

 

「早く終わらせないと、間に合わなくなるわよ」

 

 見かねた霞がそう声をかけても、小蒔の手は動かない。憧の足も、動かない。しかし霞は怒らず、ふぅっと小さな吐息を漏らした。

 

 どうにもならない、どうにもできない。

 

 そんな空気を断ち切るように立ち上がったのは――

 京太郎だった。

 

「小蒔ちゃん」

「は、はいっ」

「憧」

「な、なによ」

 

 名前を呼ばれた二人が、京太郎のほうへと振り向く。彼は至って真剣な顔つきで言った。

 

「俺、もっと二人と一緒にいたい」

 

 京太郎は、思いつくまま、心のままに言った。

 

「もっともっと、遊んでいたいよ」

 

 言われた二人は――声も出ない。小蒔も憧も、顔を真っ赤にして絶句している。しかし、京太郎は構わず続けた。

 

「もちろん、霞さんたちとも。――そう思ってるの、俺だけ?」

 

 そんな、京太郎の問いかけに。

 固まっていた小蒔と憧は、顔を見合わせる。

 

 それから二人は、ぎゅっと目を瞑って叫んだ。まるで、涙を堪えるようだった。

 

「私もっ! もっと一緒に遊びたいですっ!」

「あたしだって、そんなの、……当たり前でしょ!」

「よし、分かった」

 

 二人の答えに、頷いて。

 京太郎はずんずんと歩き出す。そのまま部屋を出た。彼の後を、慌てて二人が追った。

 

「あんた、どこ行くのよっ」

「親父たちのところ」

「な、なんのために?」

「そりゃもちろん、ジカダンパンするためだよ」

 

 京太郎はなんでもないことのように答えて、父親の部屋の戸を引いた。

 

 部屋の丁度、京太郎、小蒔、憧それぞれの父親が揃っていた。すわなにごとか、と彼らは京太郎に視線を送る。

 

 臆することなく、京太郎は切り出した。

 

「親父」

「なんだ」

「小蒔ちゃんと憧ともっと遊びたい。このままお別れするのは、嫌だ」

 

 駆け引きも何もあったものではない。直球の要求に、部屋が静まり返った。

 最初に手を叩いて笑い出したのは、憧の父だった。次に小蒔の父が笑い声を噛み殺し、立ったまま動かなくなる。

 

 深い、深い溜息を吐いたのは、京太郎の父。

 

 彼は、一度息子の頭に拳骨を振り下ろしてから。

 

「しょーがねーな」

 

 と、息子とよく似た笑顔を浮かべたのだった。

 

 

 ◇

 

 

 夏休みの後半、八月の最後の週。

 

「――須賀神社に、皆でお泊まり? 二泊三日?」

「はいっ」

「凄いのですよー、私たちも行って良いのですかーっ?」

「もちろんだぜ、はっちゃん!」

 

 いえーい、と京太郎は初美とハイタッチを交わす。戦果を伝えられた霞は呆れ気味の苦笑を浮かべたが、小蒔が憧と抱き合う姿を見ているうちにどうでもよくなったらしい。巴と春を引き込んで、盛り上がる初美たちともみくちゃになった。

 

「このまま恒例行事にしちゃうのですよー!」

「次の冬休みは霧島神境にしましょうっ」

「じゃあ、春休みは奈良ねっ。シズにあんたたちのこと紹介しなくちゃっ」

 

 次から次へと子供たちの計画は立てられていく。先ほどまでのお通夜の空気は、欠片ほども残っていない。

 

 良かった、と京太郎は安心した。

 

 小蒔にも、憧にも、暗い顔は似合わない。彼女たちが悲しいと、京太郎も辛くなる。まるで、心が繋がっているみたいだった。

 

 だから、二人には笑っていて欲しいのだ。今みたいに、純粋に、何の憂いもなく笑っていて欲しい。

 

「……はい、ひとまずここまで。掃除の続き、やりましょう」

 

 ぱん、と霞が手を叩いて場を取り仕切る。かく言う彼女の頬も、少し赤い。

 今まで何をやっていたのか、というくらいのペースで部屋の掃除は終わった。掃除中も、笑い声と未来を語る言葉は途絶えなかった。

 

 お世話になった人たち全員に、皆で挨拶に回る。

 

 それから駅へと向かう車に荷物を詰めて、京太郎は一息ついた。

 

 去年の夏休みは、終わりに近づくにつれ憂鬱になったものだ。宿題にほとんど手を付けていなかった、というのもあるけれど。やはり、休みの終わりはもの悲しかった。

 

 だけど、今年は違う。

 

 小蒔と憧たちが、やってくる。

 

 たったそれだけで、京太郎の心は湧き踊る。小蒔たちの前では絶対に見せられないが、小躍りしたい気分だった。

 そのくらい、京太郎は皆が好きだった。大好きだった。

 

 ――あ、これ、やばい。

 

 目の奥が、熱くなる。急激に、視界が狭まる。

 

 再会を約束したとは言え、一ヶ月以上はお別れだ。もうずっと一緒にいた気がするくらい、小蒔と憧が傍にいるのは当たり前になっていた。

 

 もっとどっしり構えていよう。彼女たちにみっともないところは見せたくない。――そう思うくらいには、京太郎は「男の子」だった。

 

 なのに、溢れ出る感情に理性が追いつかない。小蒔たちから悲しみの色は消えたというのに、こんなことでどうする。京太郎は自分に言い聞かせるが、油断すると震えた声が喉から絞れてしまいそうだった。

 

「京くん」

「京太郎」

 

 背後から、名前を呼ばれる。

 

 京太郎は大慌てで目元を拭って、振り返った。小蒔と憧が、ちょっとびっくりしたような顔で立っていた。

 

「京太郎、あんたもしかして……」

「泣いてなんかいないからな」

 

 憧の言葉を遮って、京太郎はそっぽを向く。憧は、微かに笑った。

 

「うん。京太郎は強いから、泣いたりなんかしないもんね」

「ばかにしてるのかよ」

「ばかにしてたら、こんなところにいないわよ」

「……ふん」

 

 鼻を鳴らす京太郎の前に、小蒔が歩み出た。

 

「京くん」

「なに、小蒔ちゃん。そろそろ行かないと不味いんじゃないの」

「そうですね。……でも、その前に一つだけ、お願いを聞いてくれますか」

「お願い?」

 

 はい、と小蒔は安らかに頷く。そして、憧の右手をとった。

 

「私と憧ちゃんの、お願いです」

「……良いよ。聞いてやるよ」

「あの、まだ何も言ってませんが」

「小蒔ちゃんたちのお願いなら、しょーがねーもん」

 

 父親を真似た京太郎の物言いに、小蒔たちは笑った。京太郎も、笑った。

 

 それぞれの出発点に向かう前、小蒔と憧の先導で、一同はある場所に向かった。道中で、彼女らの意図に気付いて京太郎ははっとした。

 

 ――そこは、三人が出会った場所。

 

 名前も知らなかった、地下鉄の駅。

 

「流石にホームじゃ迷惑をかけちゃうか」

「入口を背景にして……」

「ちゃんと駅名の看板入るようにしてね」

 

 小蒔と憧は、てきぱきとポジションを確保する。彼女らの手は、しっかりと京太郎の手に繋がれていた。

 

「ま、記念ってことで」

「思い出ということで」

 

 憧と小蒔が悪戯っぽく言って、京太郎ははぁ、と溜息を吐く。

 

 カメラを手にした霞が、「準備は良いかしら?」と声をかけてくる。はぁい、と憧が元気に返事をした。

 

「京くん」

「なに、小蒔ちゃん」

「私、ずっとこの場所を覚えています。迷子になっていた私たちが助けられた、この場所を」

「あたしも覚えてるから」

 

 憧が、小蒔の言葉を引き継ぐ。

 

「だから、もしもまたあたしたちが道に迷ったらちゃんと探しに来てよね、京太郎」

「そもそも迷うな、ばか」

「もしもの話よ」

 

 そんなもしもは要らねぇよ、と京太郎は呟いた。そうでもしないと、また胸の中が苦しくなりそうだった。

 

 左手は小蒔。

 右手は憧。

 

 強い力で握り合い、カメラの前で三人は笑顔を見せる。

 

「……俺も」

 

 ――俺も、ずっと覚えてる。そう、ずっとだ。

 

 決して色褪せずに、記憶に残る。残してみせる。

 

 カメラを構えた霞に、もう一度、今朝と同じことを訊ねられた気がした。

 

 ――良かったら、これからもずっと小蒔ちゃんと友達でいてくれる?

 

「当たり前だよ」

「京くん?」

「京太郎?」

 

 ぐん、と京太郎は両手を振り上げる。カメラのシャッターが、切られた。

 

「小蒔ちゃんと、憧と、俺は――ずっと、友達だっ!」

 

 

 

 




次回:幕間/宮永咲/見知らぬ顔


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幕間/宮永咲/見知らぬ顔

長野

 

 

 宮永咲は文学少女である。

 

 本に目覚めたのは、いつだったろうか。最初の記憶は、慕っていた姉が読み聞かせてくれた絵本だ。内容はもう思い出せないが、とてもわくわくしたことだけは覚えている。ひらがなを覚え、カタカナを覚え、漢字を覚え、図書室の本を読み耽った。姉と軋轢が生まれ、家庭内に不和が生じると、ますますのめり込んでいった。

 

 小学校から中学校に上がると、目には見えていなかった女子間の「格差」は、しかしより顕著になった。咲のような部活もしない、派手でもない、黙々と本だけ読んでいるような少女は、自然と教室の端に落ち着く。クラスで人気の男の子と付き合っていたり、麻雀が強かったりする女の子だけが、女王として君臨できるのだ。前者はともかく、後者ならば咲にも可能な手法であった。

 

 さりとて咲は、そんなものを目指しているわけもなかった。

 

 ほどほどに目立たず、無視されるわけでもなく、疎まれるわけでもなく。ただ、ゆっくり本を読めれば良い。友達はほとんどいないが、構わなかった。中学生になって最初の梅雨には、咲が望む世界は構築されていた。

 

 ――その日は、しとしとと雨が降る日だった。

 

 お気に入りの校舎裏の木陰は使えず、放課後、咲は仕方なく教室で読書に耽っていた。昨日の夜、盛り上がったタイミングで睡魔に抗えず寝落ちしてしまったのだ。授業中、ずっと続きが気になって仕方がなかった。こういう日に限って、教師から雑用を押し付けられて休み時間もろくにとれなかった。

 

 もう私を止める者などいない。妙な高揚感でページをめくっていた。

 

 彼が現れたのは、そんなときだった。

 

「よっ。何読んでんだ?」

 

 見知らぬ顔だった。

 

背がすらりと高く、やや軽薄そうではあったが、そこそこに整った容姿をしていた。だからといって、咲はときめきなどしなかった。いきなり声をかけられて、強めたのは警戒心であった。

 

「……どちら様ですか」

「ひっでぇな。体育の授業で一緒になってるだろ。隣のクラスの須賀だよ。須賀京太郎」

 

 知らなかった。そもそも体育の授業など、開始十分で疲弊して隣のクラスを気にかける余裕はどこにもない。

 

「で、何読んでるんだ?」

「……ゲーテ」

「ふぅん、ゲーテ。……面白いよな」

 

 あ、こいつ何も知らないな、と咲は直感した。後に確認したところ、やはり彼は何も知らなかった。――「ゲーテ? 食べ物?」。殴ってやろうかと思った。

 

 一言二言、言葉を交わすと、須賀京太郎はあっさり去って行った。一人、咲は教室に取り残される。何だったのだあれは、と咲は首を傾げた。意味がさっぱり分からなかった。

 

 最初は、ただの気まぐれだろうと咲は考えた。

 

 だが、それからも須賀京太郎は咲に声をかけてきた。

 

「よっ。今日は何読んでるんだ?」

「お前、腕ほっそいなァ。ちゃんと飯食ってるのか?」

「なァ、俺にも読める本ある?」

 

 鬱陶しい。貴重な読書時間が奪われる。――当初、咲はそう思っていた。授業の合間の休憩時間も、お昼休みも、京太郎はさらっと現れて、好き勝手喋っては帰って行く。咲は咲であまり人と喋らないものだから、上手く会話を繋げられなかった。

 

 しかしこうなると、咲も彼を意識してしまう。

 

 体育の授業、サッカーで活躍する京太郎を見た。バスケで活躍する彼を見た。野球で活躍する彼を見た。――活躍するところしか、見ていない。

 

 しかも本職はハンドボールだと言う。一年生ながらレギュラーで、県下でも注目の選手とされているらしい。

 

 当然、スクールカーストでは最上位の部類だ。麻雀は確かに人気競技だが、運動ができる男子というのも確かにモテる。京太郎が咲の元を訪れなかった休み時間、ふと隣の教室を覗けば、男女に囲まれて馬鹿騒ぎをしている彼を確認できた。

 

 そんな彼が、どうして自分を気にかけるのか。やはり、咲には理解出来なかった。

 

 しかしある日、数少ない級友から、咲はこう訊ねられた。

 

「ねえ、宮永さん。宮永さんって、須賀くんと付き合ってるの?」

 

 咲は、大慌てで首を横に振った。誤解だデマだゴシップだ。必死になって、説得した。三十分かけてようやく納得してくれたらしい級友は、しかしさらにこう言った。

 

「でも、須賀くんは宮永さんのことが好きなのかも。だって、ずっと話しかけてくるじゃない」

 

 咲は、顔を真っ赤にした。全くもって、予想外の展開だった。そういうのは、本の中の世界でだけ起こるものと思っていた。空想力はあっても、想像力が足りていなかった。その日、咲はお風呂場でのぼせてしまった。

 

 ――まさか、須賀くんが、自分を?

 

 言われてみれば、思い当たらないでもない。というか、十中八九そうなのではないか。しかし、こんな地味な私をどうして。

 

 ぐるぐると、咲の思考は同じところを回り続けた。その日から、しばらく京太郎の顔をまともに見ることができなくなった。だが、京太郎は咲に構い続けた。

 

 京太郎と咲が仲良くなることに、喜ばなかった人たちもいた。咲にとっては思い出したくもない記憶だ。ただ、京太郎が解決してくれたことだけは、しっかりと覚えている。

 

 二年生になると、同じクラスになった。席も近くて、同じ班にばかりなった。修学旅行では、肝試しのペアにもなった。

 

「京ちゃん、絶対に置いてかないでね」

「分かってるよ、安心しとけ」

 

 繋がれた手は大きく、暖かかった。言葉通りに、咲は安心できた。その頃にはもう、最初にあった距離は既に失われ、京太郎は咲にとって学内で最も気安い友人となっていた。

 

 だからこそ、咲は分かった。分かってしまった。

 

 京太郎が、自分に構う理由。

 

 ――彼は、自分を他の誰かに重ねて見ている。

 

 ちょっと間が抜けていて、放っておけないところ。

 変に意地を張ってしまって、素直になれないところ。

 

 ――きっと、そういうことなのだろう。

 

 だからといって、咲は怒らなかった。むしろ、京太郎には感謝をしていた。彼が、自分を陽の当たるところに連れ出してくれた。もちろん今も、目立つのは怖いのだけれど――そうしておかなかったらきっと、麻雀部には入れなかっただろう。大会の舞台になんて、とてもではないが耐えられなかっただろう。

 

 ――恋には、辿り着かなかった。

 

 強がりではなく、咲は心底そう思う。同時に、ちょっと残念だな、とも。

 

 そして高校生になった今も、京太郎は咲の友人だ。同じ麻雀部で、チームメイトだ。ずっと、縁の下で支えて貰っている。自分たちが麻雀だけに集中していられるのは、間違いなく京太郎のおかげだった。それは、先輩たちや和、優希も認めるところだった。

 

「京ちゃん、いつもありがとうね」

「なんだよ藪から棒に」

「むっ。人が折角お礼を言ったのに、その態度はなんなの」

「はいはい、こちらこそありがとよ」

 

 放課後、せっせと麻雀道具の整備をする京太郎と交わす会話は、心地よかった。中学時代、教室で交わしたときと、同じように。

 

 ――ここには、大切な仲間たちがいる。京太郎が、いる。

 

 夕陽が差し込む部室で、咲は幸福な一時を過ごしていた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 宮永咲は文学少女である。

 

 高校生になり、部活は始めたが、麻雀部だ。いかに人気競技、いかに練習が厳しいと言っても、文系の部活動。走ったり跳ねたり投げたりというのは、生来の運動神経のなさも合間って、からきしであった。

 

 ――だから当然、アスリートに叶うわけがない。

 

 膝を痛め運動部を引退したとは言え、須賀京太郎は元々体育会系の男子だ。彼が本気で走って、咲が叶うわけがない。

 

「待、って……! 京、ちゃん……!」

 

 息も絶え絶え。足は震える。

 

 夏の太陽は容赦なく照りつけ、あっという間に汗が浮かんでくる。制服が肌に貼り付いて、気持ち悪い。

 

 一度小さくなった彼の背中に追いつくのは、相当な労苦だった。

 

 咲がようやく京太郎を掴まえたときには、彼はとっくの昔に足を止めていた。だと言うのに、まだ肩で激しく息をしている。

 

 ――急に、どうしたと言うのだろうか。

 

 県予選を突破し、全国大会の切符を手に入れた清澄高校麻雀部は、今日からインターハイのため東京入りしていた。男子部員の京太郎は、出場権を持っていないけれども、着いてくるのは当然だった。一緒に戦う仲間なのだから。

 

 会場の下見をしたい、と言い出したのは咲だった。明日の開会式、迷わないようにしておきたかった。なんだかとても、迷いそうだった。

 

 優希は東京タコス巡りに出かけ、和は長旅の疲れで休みをとり、先輩たちは軽く打ち合わせ。咲に随伴するのに選ばれたのが京太郎だったのは、自然な流れであった。一人では、確実に道に迷う。

 

 しょうがない奴だな、咲は、なんて軽口を叩きながら京太郎は着いて来てくれた。一通り会場を見て回り、あやうくボイラー室に迷い込みそうにもなったが、とにかく下見は無事に終わった。

 

 問題は、会場を出るときに発生した。

 

 入口でたむろしていた女子の集団――やはり、彼女らもインターハイ出場者なのだろうか?――に、咲がぶつかってしまったのだ。

 

 自らの不注意を恥じながら、京太郎にフォローして貰う。いつものパターンだった。

 

 だが、京太郎の様子がおかしかった。

 

 彼は、確かに彼女たち二人の名前を呼んだ。そして、彼女たちも京太郎の名前を呼んでいた。しかも、どことなく仲の良さを窺わせる呼び方だった。

 

 だと言うのに、だ。

 

 たった一言。

 

 京太郎は、たった一言、「ごめん」と言って、走り出した。――逃げ出した。ほとんど自動ドアにぶつかるようにして、飛び出したのだ。

 

 あまりにも突然に行動に咲はびっくりして声も出なかったが、とにかく彼を追いかけた。共に、帰らなければならない。彼を一人にしてはいけない。――直感が、そう告げた。

 

 そうして走って、走って、走り続けた。ここ一年分くらいは走った。咲はそんな気がした。

 

 後ろを振り返っても、先ほどの少女たちが追いかけてきている様子はない。それにちょっとほっとしながら、咲は京太郎に訊ねた。

 

「どうしたの、京ちゃん。いきなり……なんで? あの子たち、友達じゃないの?」

 

 そう――古い、知人なのではないか。咲の疑問は当然だった。

 

「違う」

 

 京太郎は、頭を振った。

 ぞくり、と咲の背中が震えた。麻雀で強敵と対峙したときとはまた違う、震えだった。

 

「違うって……そんなこと」

「違うんだ」

 

 ――見知らぬ、顔だった。

 

 三年以上の付き合い。一緒に過ごした時間なら、一番だと咲は誇っている。彼のことを一番よく知っているのも、自分だと。

 

 しかし、見知らぬ顔だった。

 初めて見る、表情だった。

 

 京太郎は、吐き捨てるように、誰かに言い聞かせるように、言った。

 

 

「あいつらは――……友達なんかじゃ、ない」

 

 

 

 




次回:八/新子憧/続 東京迷宮・前

Summer/Shrine/Sweets、これより本番です。


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八/新子憧/続 東京迷宮・前

東京/阿知賀女子宿泊ホテル

 

 

 ホテルの窓から見下ろす東京の夜景は、確かに綺麗だった。八年前に来たときは、一度も観なかった光景だ。

 あの夏は、ただ父親に手を引かれて遊びに来ただけだった。

 

 今年は違う。

 

 仲間たちと共に、権利を勝ち取ってこの地に乗り込んできたのだ。様々な決意を胸に秘め、全国の強敵と麻雀で鎬を削り合うために。

 

 ――ダメだなぁ、あたし。

 

 憧は、窓に体重を預ける。こつん、と額がぶつかった。

 

 心が乱れている。先ほどまでのミーティングでも上の空だった。明日は開会式と試合組み合わせの抽選。早ければ明後日は第一試合だ。このまま試合に臨めるのか、甚だ疑問であった。

 

 憧は、このインターハイで数名の旧友と再会できることを期待していた。

 

 一人は、かつて同郷で共に麻雀教室に通っていた原村和。和がインターミドルで優勝したことがきっかけとなり、憧は阿知賀に進学したようなものだった。彼女との再会は、まだ果たしていない。できることなら、卓上で。それが、親友である穏乃の望みだ。

 

 他の子たちは、より個人的な因縁だ。

 

 神代小蒔を初めとする、鹿児島永水女子の面々だ。子供の頃、ほんの一週間程度の時間を共有した、大切な親友たち。この八年、ずっと疎遠になっていたが、いつも心の中でひっかかっていた。

 

 だから今日、彼女たちと再会できたのは僥倖以外の何物でもなかった。すぐに思い出して貰えなかったのは、むしろ良しとしよう。イメージチェンジ成功の証だ。

 

 ――小蒔はもっと、とても綺麗になっていたけれど。

 

 思わず溜息が漏れそうになるくらいだった。子供の頃の素朴な魅力はそのままに、そこはかとなく色気を漂わせていた。全くもって腹立たしいが、おもちのほうにも差がついていた。

 

 長らく途絶えていた小蒔との交流を復活させたかった憧は、彼女たちをお茶に誘った。

 

 しかし、そこで思いも寄らない、もう一人の友人との再会を果たしてしまった。彼の存在は、本当に予想外だった。

 

「憧ー? どうしたの、黄昏れちゃって」

 

 背後から声をかけられて、憧は振り返った。

 

 ベッドの上に腰掛けて、不思議そうにこちらの様子を窺っているのは、チームメイトで幼馴染の高鴨穏乃だ。阿知賀女子のムードメイカー。突っ走る彼女に冷や冷やさせられるときもあるが、憧とは気心の知れた仲で最も付き合いの深い友人だった。

 

「ホテルに戻ってきてからずっと、変だよ?」

「ん……ちょっとね」

 

 確かに集中できていないのは明白だったが、それでも憧は周囲に心配をかけないよう取り繕っていたつもりだった。だが、やはりと言うべきか穏乃には通じなかったらしい。

 

「心配事があるなら、聞くよ?」

「……シズ、あたしが昔東京に行ったときの話、覚えてる?」

「覚えてる覚えてる、あれだけお土産頼んだのに、憧、変なストラップしか買ってきてくれなかったやつだ」

「へ、変なところばっかり覚えていないでよ」

「ごめんごめん。で、それがどうしたの?」

 

 憧はどう話すべきか少し逡巡してから、口を開いた。

 

「鹿児島の、永水女子っているじゃない」

「シード校の? エースの神代小蒔さん、凄く強いよね」

「東京旅行のとき仲良くなったのが、その神代小蒔なの。あと、永水女子のチームメンバーも全員」

「ええっ、憧そんなこと一言も言ってなかったよねっ?」

「ゴメン」

 

 穏乃の反応はもっともだった。八年前も、穏乃に仲良くなった友達の話はしたが、名前までは言っていなかった。

 

 それから時が経ち、同じ学校の麻雀部員として活動していても、永水女子に憧が言及することはなかった。特に機会に恵まれなかったというのもあるし、憧自身、正直疎遠になっていた彼女たちを忌避する想いがあった。

 

「今日ね、たまたま会えちゃったの。和より先駆けてね」

「へー。でも良かったじゃん。憧、あのときすっごく楽しそうに東京で出来た友達の話してたもんね」

「ま、まぁね。確かに嬉しかったわよ」

 

 でも、と憧は気を取り直して続けた。

 

「もう一人……あの東京旅行で仲良くなった男の子の話もしたの、覚えてる?」

「ああ、憧の初恋の人」

「ふきゅっ」

 

 変な声が出た。

 

「なななななに言ってんのよシズっ! 誰がなんであいつに初恋とかっ! あたしそんなこと話してないでしょっ?」

「えー、その子の話をする憧を見てたらすぐに分かったよ? もう、ほんとご馳走様って感じだったもん」

「……く」

 

 妙に鋭いんだから、と憧は歯噛みする。何も考えずに山中を突っ走っているようで、その実よく人を見ている。だからこそ、頼りになる大将なのだけれども。

 

「でも、夏休みが明けたらぱったり話さなくなったよね。あのとき憧は怪我してるし暗かったしで、すっごく気になったんだけど、私も詳しく訊きづらくてそのままになったんだよなぁ」

「ほんと、よく覚えてるわね」

「そりゃあ憧のことだから」

 

 さらっと恥ずかしいことも言える素直さは、小蒔に通じるところがあって、憧は吐息を吐いた。自分にはない、そういうところを求めているのだろうか。憧は自己分析しながら、話を先に進めた。

 

「そいつともね、今日会ったの」

「ええっ? インハイ会場で? 男の子でしょ?」

「女の子と一緒だったから、たぶん、女子部の付き添いか何かだと思う」

「へーへーへー! 凄い偶然! ろまんちっくだ!」

「そうでもないのよね」

 

 うん? と穏乃は小首を傾げた。憧はちょっと迷ったが、結局端的に説明することとした。

 

「逃げられた」

「は?」

「会った瞬間、凄い勢いで走って逃げられたの。びっくらこいた」

 

 投げやりな気分になって、憧はベッドに自分の身を放り投げた。家のベッドとは違う、良いスプリングが体を跳ね返してくる。

 

「気まずいって気持ちは分からないでも、ないけれど」

 

 穏乃に向けられたわけではない言葉は、布団に飲み込まれていった。

 

「そもそもさ」

 

 長年の疑問を氷解させるため、穏乃は憧に訊ねる。

 

「なんで憧、永水の人たちとも、初恋の人とも、ずっと連絡取ってなかったの? 仲良かったんだろ?」

「私だってずっと連絡を取りたかったわよ」

 

 憧は口を尖らせる。

 

「でも、お父さんたちに禁止された」

「ええ、なんでっ?」

「あたしと、小蒔と、京太郎……その、男子の名前ね。皆の父親が、喧嘩してお互いに縁を切ったの。三人とも同じ大学の同期で、それこそあたしたちみたいに仲良かったって話だったんだけれど」

「縁を切るって凄い話だ……しかも大学同じって、もしかして憧ん家と同業?」

「そゆこと。傍目でも仲良さそうに見えたから、今でも信じられない」

 

 はー、と穏乃が嘆息した。

 

「なんでそんなことになっちゃったの?」

「あたしのせい……かも知れない。お父さんは、個人的な問題だって言ってたけど」

「なにやったの、憧」

 

 やはりここでも憧は、どう穏乃に聞かせるべきか悩んだ。そもそも、憧は当時の記憶があやふやなのだ。

 

「八年前、あたしたちは京太郎の須賀神社でもう一度集まったの。でも、そこで小蒔と京太郎とあたしは、事故に巻き込まれた……らしいの。……でも、気が付けばもう奈良の実家に戻っていて、お父さんは『奴らとは縁切りした』って言い出して。あのときは携帯も持ってなかったし、そのままになっちゃった。ちゃんと覚えていないのが、辛い」

「事故って、どういうの?」

「山で遭難」

 

 うひゃあ、と穏乃は驚きの声を上げた。普段から山をその身一つで駆け巡る彼女であったが、だからこそ山の恐ろしさもよく知っている。

 

「そりゃあお父さんたちも怒るんじゃないの? お前のところの子供のせいでー、とか。お互いのせいにしてさ」

「たぶん、そういうことなんだと思う。……なんだか違和感はあるんだけどね。縁切るくらいにまで、いくのかなって」

「お父さんにもう一度訊いてみたら?」

「なんだかそんな空気じゃなかった」

 

 そっか、と穏乃は呟き、

 

「だからその……京太郎くん? が、逃げた理由も分からないんだ」

「そ。もしかしたら、事故の責任を感じているのかも」

「神代さんのほうは?」

「今日は変な空気になっちゃって、そのまま別れて来ちゃった」

 

 なるほどなるほど、と穏乃が何度か頷いて。

 それから、彼女は憧に訊ねた。

 

「で、憧はどうしたいの?」

「え」

「お父さんの目の届かないところで折角再会できた友達でしょ? よく覚えていないんなら、今それを知るチャンスだよ。京太郎くんとも仲直りもできるかも」

「…………シズの言うとおりだ」

 

 やっぱり穏乃に話して良かった、と憧は思う。穏乃がいてくれて、良かった。自分でも自覚のなかった望みを、気付かせてくれた。

 

「うん。あたしはあのとき何があったのかちゃんと思い出したい。後、逃げ出した京太郎は一発殴る」

 

 決意を新たにして、憧は穏乃にお礼を言った。

 

「ありがと、シズ。おかげでもやもやしてたもの、晴れた」

「どーいたしまして」

 

 穏乃が歯を剥いて笑う。

 

「でも、インハイも忘れないでよー。皆で力を合わせて勝ち進んで、赤土さんを決勝に連れて行って、和と会わなくちゃ」

「分かってるわよ。和と一緒に、皆で遊ぶため阿知賀に進学したんだから」

「あー、もう燃えてきたー!」

「はいはいホテルの中で走らない」

 

 穏乃の浴衣の襟首を引っ掴み、憧はベッドに寝転ばせる。

 

「とりあえず、今日は寝ましょ。明日に疲れを残しちゃだめよ」

「はぁい」

 

 電気を消して、憧もベッドの中に潜り込む。

 

 ――目的地は決まった。ずっと引っかかっていた小骨が取れた気分だ。明日はできるなら、もう一度小蒔と話そう。小蒔も、もしかしたら自分の知らないことを覚えているかも知れない。そして、一緒に京太郎に会いに行こう。

 

 気持ちばかりが逸って、自分で言い出しておきながら中々寝付けない。

 

 ――京太郎、背、高くなってたな。

 

 昔は自分とさして変わらなかったのに。見た目はちょっと軽薄そうになっていたけれど、スマホを拾ってくれたときの物腰は柔らかく、昔と変わらない親しみを与えてくれた。

 

 落ち着いていた心臓が、またどきどきし始める。

 

 あれから、八年。

 

 おしゃれにも気を遣うようになり、中学に上がった頃からは色んな男子から声をかけられるようになった。だけど、ぴんと来る男子は一人もいなかった。

 

 ずっと、京太郎が憧の心を占めていたのだ。

 

 こんなところで出会えたのは、きっと麻雀の神様がくれた幸運だ。枕を抱きかかえて、ぐるぐるとベッドで転がり回る。

 

 ――格好良かったな。

 

 頬が緩む。どうしてもにやにやしてしまう。昔は無邪気に遊び回るだけだったけれど、今ならどうなるのだろう。

 

「デート、とか……」

「ん? 憧、何か言った?」

「な、なんでもない!」

「憧こそ、ちゃんと寝なよー」

 

 漏れ出てしまった独り言を穏乃に拾われて、憧はベッドの中で縮こまる。ひゃあ、と妙な声が出た。想像だけで赤面するとは思いもしなかった。

 

 八年経っても、彼への想いは色褪せていなかった。むしろ、ますます強くなっていた。今更そんなことに気付いて、憧の胸は一杯になる。

 

 ――やっぱり好きなんだ、あたし。

 

 告白、という文字が脳裏に過ぎり、憧の頭はさらに混迷する。

 

 それから、小蒔のことを思い出した。もしかしたら、彼女も今、同じ想いを床の上で抱いているのかも知れない。自分と同じく、京太郎と離れ離れになっていたのだから。そして彼女もきっと、一途に想い続けていたのだろうから。

 

 絶対に、もう一度会いに行く。

 

 そのときは、小蒔も一緒だ。恋敵と考えればおかしいのかも知れないが、憧はそうするのが正しいのだと思った。理論派な彼女らしくない、直感だった。

 

 隣で穏乃がすやすやと寝息を立て始めても、憧はもうしばらく眠りにつけなかった。

 

 

 

 

東京/全国高等学校麻雀大会選手権会場

 

 

「ぶちかませー!」

「灼ちゃんファイトー!」

「頑張ってー!」

「たかが抽選に大袈裟な……」

 

 壇上の抽選に向かう部長の鷺森灼を見送って、大声を出した阿知賀の面々は一息つく。

 

 いよいよインターハイの始まりだ。

 

 観客席から抽選の様子を見守るため、監督である赤土晴絵を先頭に一同は移動する。道中、偶然和に会ってしまったらどうしようと苦悶する穏乃と言葉を介しながら、憧は期待に胸を膨らませていた。上手くいけば小蒔とも、京太郎とも今日中に会えるかも知れない。

 

 向かい側から、女子生徒の影が見えた。道を譲るため、阿知賀の面々は少し右にずれる。

 

「――っ!」

 

 前を歩いていた赤土晴絵と松実玄の足が止まる。何事か、と憧が様子を窺うと、

 

「あっ」

 

 驚嘆の声を上げてしまった。

 昨日、京太郎と一緒にいたセーラー服の女子生徒がそこにいた。

 

 ――よくよく思い出せば、この制服。

 

 長野代表、清澄高校。――和と同じ、学校だ。どうして昨日のうちに気付かなかったのか。つまり、京太郎と和は同じ学校にいる。

 

 隣を歩く穏乃も、彼女が清澄の生徒であることに気付いたのだろう。意識が彼女へ向いている。当然だ、大将として闘わなければならない相手なのだ。

 

 だが、声をかけるにまでは至らない。どこに向かうつもりなのか、すれ違って彼女は歩いて行く。

 

「あのっ」

 

 だから、憧は必死に彼女を呼んだ。ここを逃すと、次の機会はいつになるか分からなかった。

 

 清澄の生徒はびくりと体を震わせてから、振り返った。それから憧の顔を見ると、「あっ」と可愛らしい悲鳴を上げた。

 

「昨日、会った……」

「ど、どうも。昨日は道塞いでいてごめんね」

「いえ、こちらこそ。電話、大丈夫でしたか?」

「うん、心配しないで」

「……」

「……」

 

 会話が、途切れる。声をかけた憧が、どう話を継げば良いか分からないまま動けない。いつもちゃっかりしゃっきりした彼女らしくなかった。

 

「そ、それでは」

 

 清澄の女子生徒は、軽く会釈して去ろうとする。

 

「待って!」

 

 憧は彼女を呼び止める。再び女子生徒は体を震わせた。

 

「あの……なにか?」

「昨日、貴女と一緒にいた男子のことなんだけど」

 

 途端、女子生徒は顔を強張らせた。憧は一瞬躊躇するものの、次の言葉を彼女にぶつけた。

 

「あいつ、須賀京太郎……よね。ねぇ、あいつは今どこに居るの?」

「……やっぱり、知り合いなんですね」

「うん。昔の友達なんだ」

 

 その言葉に、女子生徒は眉を寄せた。理解できない、不可解だ、そんな彼女の困惑が憧にまで伝わってくる。――いや、「やっぱり」とはどういう意味なのだろう? 憧には分からなかった。

 

 だが、とにかく憧は構わず続けた。彼に会いたいという気持ちが先に空転する。

 

「挨拶したくて。紹介してくれない?」

「…………」

 

 清澄の女子生徒は、答えなかった。人見知りする性質なのだろうか。大人数に取り囲まれて、気後れしているのかも知れない。

 

 一度二人きりにして貰おうか、と穏乃たちに声をかけようとしたとき。

 

「ごめんなさい」

 

 と、一言だけ残し。

 女子生徒は、踵を返して歩き去って行った。その足に迷いはなく、憧はぽかんと見送るしかなかった。気弱そうな外見とは裏腹に、強い意志を感じた。

 

「……あんの野郎」

 

 京太郎から、避けられている。それを理解してなお、憧の気持ちは萎えない。むしろ燃え上がった。

 

「丁度良いわ」

「あ、憧?」

「勝ち進んで清澄と当たれば、和と京太郎、どっちにも辿り着くわけだから一石二鳥よ。ううん、その前にでもとっ捕まえてやるんだから」

 

 憧はふふふふふ、と怪しく笑う。穏乃はそんな親友の様子に、ちょっと引いた。

 

 

 

 

 新子憧はまだ知らない。

 八年前に何が起こったのか。

 京太郎の身に何があったのか。

 新子が、彼に与えた影響も。

 彼女はまだ、何も知らない。

 

 

 




次回:九/神代小蒔/続 東京迷宮・中


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九/神代小蒔/続 東京迷宮・中

東京/全国高等学校麻雀大会選手権会場

 

 

 今日何度目かも分からない溜息を吐いて、小蒔は慌てて口を閉じた。ここは霧島神境の外。神代の姫君として相応しい振る舞いをしなければならない。ましてや、今日は多くのライバルがこの場にいる。弱みを見せる余裕などない。

 

 だが、心がついていかない。知った顔を求めて、この開会式の最中もあちこち忙しなく視線を送ってしまう。

 

 憧の姿は見つからない。

 昨日出くわした少女も、同様だ。

 

 引いては、京太郎も。――彼の場合男子なのだから、ここにいるほうがおかしいのだけれども。それでも小蒔は、探さざるを得ない。

 

 昨日一度彼の姿を認めたことで、小蒔の心はかき乱れた。長い、長い時間をかけて灰色になっていた想いが、色鮮やかに染め上げられた。

 

 それが、小蒔を苦しめる結果となっていた。

 

「清澄と阿知賀……ここからでは見えませんね」

 

 背後で、ぼそりと巴が呟くように言った。心の内を見透かされたみたいで、小蒔はどきりとした。

 

 昨日のうちに、京太郎と一緒にいた女子生徒の調べはつけてある。

 長野代表清澄高校一年、宮永咲。団体戦で大将を務め、個人戦でも代表選手としてエントリーされている。昨年のインハイで大活躍を見せた、龍門渕の天江衣との直接対決を制した実力者。どことなく、小蒔は彼女に近い匂いを感じた。

 

 京太郎との関係性は、同じ麻雀部に所属していること以上の情報はなかった。京太郎の情報が少なすぎた。彼も男子子の部で長野個人予選に出場していたが、残念ながら突破できなかったようだ。

 

 ――随分と、親しい様子だった。

 

 一言、二言会話を交わしているのを見ただけ。だけど、小蒔には充分理解できた。自分と憧の居場所は、今は、彼女のものであるのだと。

 

 きゅっと、小蒔の胸が締め付けられる。嫌な気持だ。自分にこんな感情があるのだと、ぎょっとさせられた。

 

「姫様? 顔色が悪いですよ」

「いえ、大丈夫です……」

「大丈夫そうに見えないわよ、小蒔ちゃん」

「……ごめんなさい」

 

 開会式が終わり、各校解散すると、六女仙に連れられて小蒔は医務室に向かった。阿知賀とも清澄とも、結局すれ違うことすらなかった。

 

 医務室のベッドで横になって、小蒔は天井を見上げる。

 

「――どうして京くんは、私たちに謝ったんでしょうか」

 

 呟かれた疑問に、六女仙ははっとする。

 

 昨日から、小蒔の口から彼の名前が紡がれることはなかった。

 否、この八年、長野の「須賀」の名は霧島神境では禁句となっていた。縁は切られ、須賀のことは全て忘れろという達しが下った。

 

 当然表向きの話であり、時折六女仙同士で京太郎が話題に上がることはあった。

 

 一方で、小蒔は父親の言いつけを諾々と守っていた。となると、六女仙も迂闊には話せなくなる。そうしているうちに、彼女たちの中でも京太郎の名は、遠い過去のものとなっていた。

 

 しかし。

 

 口にしなかったからと言って、全て打ち捨てたわけではない。むしろ、だからこそ想いはより強まっていく。そんなことは当たり前だと言うのに、六女仙は失念していた。

 

「京くんは、……どうして、なにも話してくれなかったんでしょうか」

「あの子は、責任感の強い……聡い子だったから」

 

 小蒔の、誰に向けたわけでもない疑問に答えようとしたのは、霞だった。

 

「きっとあの事故を、自分のせいだと思ってるんじゃないかしら。だから、小蒔ちゃんたちと顔を合わせづらいんだと思うの」

「でもあれは、鈍くさかった私の責任です」

「京太郎くんはそうは思わない、という話よ」

 

 この問答は、八年前にも行った。

 

 霞がもう一度諫めようとし、小蒔が遮った。

 

「分かっています。……ごめんなさい、心配かけて」

 

 小蒔はベッドから起き上がる。

 

「もう充分休ませて貰いました」

「まだ寝てても良いのよ」

「二回戦までに時間があると言っても、調整しないといけません。他校の動向も確認しないと」

「そのあたりの仕事は私たちがやりますから」

「いいえ、私もやります」

 

 ――麻雀に集中していれば。

 

 そうしてさえいれば、余計なことを考えずに済む。そうだ。今はインハイの真っ只中。京太郎のことを気にしてはいられない。

 

 かちり、と自分の中でスイッチが切り替わったのを、小蒔は感じた。

 

 泰然と、彼女は立ち上がる。

 

「宿に戻りましょう」

 

 初美と巴が、困ったように顔を見合わせる。彼女たちにとって最優先事項は神代の姫たる小蒔の心身だ。はいわかりました、と頷くわけにもいかない。

 

「京のことを、先に解決すべき」

 

 全く迷いなく言い切ったのは、春だった。その提言を半ば予測していた小蒔は、淀みなく反駁する。

 

「なんのために東京に来たと思っているんですか? この大会のために、多くの時間を費やし私たちは修練を積んできました。県予選で相対した方々の想いも背負っています。私情に走るわけにはいきません」

「姫様」

「そもそも解決するとはどういう意味ですか。霧島神境と長野の須賀の関わりは途絶えています。彼に関わることは許されていません。それともお父様の厳命に逆らうつもりですか」

 

 彼女らしくもない、強い口調だった。普段から飄々としている春が、鼻白む。場の緊張感が高まっていく。

 

「承知の通り、私も先ほどまで迷っていました。ですが今、吹っ切りました。彼も私たちと関わる気がないようです。ならば私たちが追いかける理由はないでしょう」

 

 しん、と部屋が静まり返る。

 

 答えたのは、霞だった。

 

「承知しました、姫様」

 

 普段彼女が使わない尊称で、小蒔を呼ぶ。それが、全ての答えとなった。小蒔は鷹揚に頷き、出立の準備を始めようとして、

 

 

「お邪魔しまーす!」

 

 

 しかし、ばたん、と乱暴に開かれた扉が彼女の動きを止めた。

 

 はっと、永水女子が一斉に扉を注視した。

 

「あ、憧ちゃん……? どうしてここに?」

「永水の人が医務室行ってたって話を聞いたから。どうしたの小蒔、貧血? 大丈夫?」

「そ、そんなところです。もう大丈夫ですから、はい」

 

 張り詰めていた空気が、一気に弛緩する。

 

 ――ああ、憧ちゃんだ。

 

 かつての友人、新子憧は磨き抜かれた美しさを伴って小蒔の前に現れた。だけど、その明るさと触れ合った手のぬくもりは、八年前のあの日からちっとも変わっていない。年下なのに、自分の手を引いて歩いてくれた、親友。

 

「小蒔、昨日あれから京太郎にまた会えた?」

「い、いえ、会っていません。でも――」

 

 もう良いんです、と小蒔は言おうとして、できなかった。

 

 憧の怒りに満ちた眼が、小蒔の目を射貫く。

 

「あの大バカ。小蒔まで放ってなにやってんのよ」

「京くんには……京くんの考えがあるんだと思います」

「だからなに?」

 

 ばっさりと、憧は小蒔の言葉を切って捨てた。小蒔は瞳を瞬かせる。

 

「あたしは納得してない。これっぽっちもあのときのこと、納得してない。だって、ほとんど覚えてないもの。納得できるわけない」

「で、でもインハイは……」

「? インハイも勝つわよ? 負けないからね、小蒔。でもそれはそれ、これはこれ。どっちもあたしが納得しなくちゃ、終われないわよ」

 

 全く容赦のない憧の物言いに、最初に笑ったのは初美だった。続けて霞と巴。春も、ふっと柔らかい笑みを浮かべる。

 

 無茶苦茶だ、と小蒔は思った。

 強突く張りだ、とも小蒔は思った。

 

 自分では決して持ち得ない鮮烈な輝き。羨むほど、眩い存在。

 

「でも、あたしも一人じゃちょっと不安なんだ」

 

 片目を閉じて、憧は悪戯っぽく笑う。

 

「だから、一緒に行こうよ小蒔。ここであいつを逃がしたら、もう二度と会えないかも知れないんだよ」

 

 彼女に釣られて――小蒔は微笑みを湛える。彼女の前で、自分を騙すことはできなかった。

 そして、彼女は六女仙を見回した。

 

「――ごめんなさい、皆」

「小蒔ちゃん」

「私、嘘をつきました。……やっぱり、私は京くんを追いかけたい。ごめんなさい、我が儘ばかりを言って」

「良いのですよー! そうこなくちゃいけませんよー!」

 

 初美ががたりと立ち上がる。

 

「私たちだって京太郎のことが気になるんですよー」

「そうです。会いに行きましょう、彼に」

 

 巴も同意する。永水女子のブレインとして冷静な彼女にしては珍しく声に熱が籠もっていた。

 

「ん」

 

 春は短く頷くが、握られた拳は硬い。

 

「分かったわ、小蒔ちゃん」

 

 目を伏せて、霞が満足気に頷く。もう、「姫様」などとは呼んでいない。

 

 ようし、と憧は気合を入れ直す。

 

「行こう、京太郎のところに!」

「はい!」

「……あ、その前に」

 

 憧はぽん、と手を叩いた。

 

「教えてくれない、小蒔。あの事故のときのこと、小蒔は覚えてる?」

 

 

 ◇

 

 

東京/阿知賀女子宿泊ホテル・エントランス

 

 

「結局、小蒔もちゃんと覚えてないのかぁ」

「ごめんなさい、憧ちゃん」

「謝らなくても良いって。あたしなんか、崖から落ちたことぐらいしか覚えてないのよ?」

 

 ひとまず場所を阿知賀女子の泊まるホテルに移し、小蒔と憧は八年前の出来事について話し合っていた。と言っても、話題はすぐに尽きた。

 

 ――須賀神社管轄の山で起きた遭難事故。

 

 確かにそれはあった。

 

 しかし小蒔には、京太郎と憧との三人で、なんとか下山しようと野道を歩いた記憶しかなかった。憧は何か覚えていないか、と小蒔のほうが期待していたくらいだ。

 

「でも、京太郎は私たちの知らないことを知ってるんだと思う。昨日の態度を見たら、ね」

「……正直なところ、私もそう思います。京くんが、私たちに隠し事をする理由は分かりませんが」

「あいつが逃げ出したのには、その隠し事が十中八九関わってるんでしょうね」

 

 あんにゃろめ、と憧は悪態をつく。その様子が懐かしく、小蒔は心が温かくなった。

 

「結局のところ、京くんに訊かないと分からないわけですね」

「そうなるわね」

「問題は――素直に話してくれるかどうか、ですね」

「そこんとこはもう、直球勝負でいくしかないでしょ。安牌なんてないわよ」

「はい」

 

 やはり、憧は頼もしい。彼女が友達で良かった、と小蒔が思っていると、

 

「……あのさ」

 

 彼女らしくない、歯切れの悪い声が小蒔の耳に届く。

 

「もう一つ、確認しておきたいことがあって」

「? はい、なんでしょう?」

「えっとね、その、今、小蒔は京太郎のこと、どう思ってるのかなって」

「……え、え、えっ」

 

 八年前ならいざ知らず。

 憧のその質問の真意が、分からないほど小蒔はもう幼くなかった。顔に熱が点る。指先が震える。どう答えるべきか悩んでいると、

 

「清澄の宿泊施設、分かりましたよ」

 

 巴たちが戻情報を携えて戻ってきた。永水女子の面々だけでなく、阿知賀女子も揃っている。小蒔はほっと安堵した。

 

 問うた憧も、何故か誤魔化すように席を立つ。

 

「あ、ありがと巴」

「いえいえ。阿知賀の皆さんも手伝ってくれましたから」

「憧のためだからねー! なんだってするよー!」

 

 もうシズ、静かにしなさい、と憧が阿知賀の一人に雷を落とす。憧のチームメイトたちに、小蒔は深く、深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます。縁も縁もない私のために、練習時間を削ってまで働いて貰って」

「いえいえいえ! 気にしないで下さい!」

 むふー、と鼻息荒くロングヘアの少女が謙遜する。憧のチームメイトの一人として紹介された、松実玄だ。

 

「憧ちゃんのためでもありますので!」

「そゆこと……」

「皆で協力したほうが、あったかいから」

 

 他の阿知賀のメンバーも、暖かい言葉をかけてくれる。

 彼女らの厚意に甘えてしまった形になった。この恩は必ず返そうと誓いながら、小蒔は一枚の紙片を受け取る。

 

「皆で行くと、流石に迷惑よね」

「私と、憧ちゃんだけで行きます」

 

 八人の少女たちは、しっかりと首肯を返した。

 

 

 ◇

 

 

 憧と手を繋ぎ、小蒔は東京の街を歩く。

 

 目的地は、清澄の宿泊施設。今日の抽選会は終わり、余程の事情がなければ戻っているだろう。どうやって宿の中にまで入り込むかは、出たとこ勝負だ。

 

 何度か休憩を挟みながら――体力的には、問題ないけれど――それでも前へ前へと進む。迷いや悩みは払いきれなくとも、今はこの道しかないと小蒔は確信していた。

 

 辿り着いた旅館を前にして、二人は足を止めた。

 

「……心の準備は良い? 小蒔」

「はい。大丈夫……だと思います」

 

 と答えながらも、小蒔はどうしても不安を隠せない。

 

 京太郎に会えるだけなら、まだ良い。いや、もちろん恐ろしさもあるのだけれど――もう一度会える喜びが、それを上回っている。

 

 ただもう一つの懸念が、小蒔の胸中に渦巻いていた。

 

 清澄大将、宮永咲。

 

 彼女と京太郎の関係が、小蒔は気になって気になって仕方がない。今そこが最重要ではないと分かっていても――心は勝手にざわつくのだった。

 

「ね、小蒔」

「憧ちゃん?」

「たぶん、今考えてること、同じだと思う」

「……みたい、ですね」

 

 ようし、と二人は気合を入れて。

 

 一歩、足を進めようとする前に、旅館の扉が開かれた。

 出てきたのは、男女一組。

 

 ――須賀京太郎と、宮永咲。

 

 小蒔の心臓が、高鳴った。不意打ちだ。

 

「京くん……」

「京太郎……」

「お前ら、なんで」

 

 びっくりしたのは、お互い様のようだった。京太郎と咲は目を丸くして、それから半歩、後退った。――二人の距離が、近い。手の甲と手の甲が、当たりそうだった。ずきりと小蒔の心が痛む。

 

「ご、ごめん京太郎! 突然押しかけちゃって!」

 

 取り繕うように笑顔を作りながら、憧は喋り出した。動揺で、小蒔は何も言えない。

 

「でもあんたも悪いんだから! 昨日なんで逃げちゃうのよ、折角久しぶりに会えたのに! ねぇ、どうしたのよ一体! あたしたちのことも、ちゃんと覚えてたわよねっ?」

 

 彼女の問いかけに――

 京太郎から、返事はない。彼は黙って、睨め付けるようにこちらを見ていた。それから逃れるように、憧は必死に言葉を繰る。

 

「今更忘れたなんて言わせないわよ? 三人でまた、東京で再会できるなんて凄い運命みたいじゃないっ? あんたのところの女子部、インハイ出てるのよね? あたしも小蒔もインハイに出るの、だから――」

「知ってるよ」

 

 底冷えした声だった。誰の声かと一瞬分からなかったくらいに、冷たい声だった。声変わりとかそういう話ではない。あの、ぬくもりのある京太郎の声ではない。

 

 京太郎は、言った。

 

「だから俺から清澄の情報を聞きだそうって魂胆か? 昔のよしみだとか言って」

「えっ……そ、そんなわけないでしょう!」

 

 憧の否定を、京太郎は全く意に介さない。

 

「お前にそのつもりがあろうがなかろうが迷惑なんだよ。男と女ってだけで疑う奴もいる。そうなった時点で、困るんだよこっちは」

「――っ、それは、謝るけどっ。でも、話くらい聞いてくれても良いんじゃないのっ?」

「お前の話なんて興味ないんだよ、新子」

 

 憧の表情が、凍る。

 

 

『神代さん、あたしも神代さんのこと名前で呼んで良い?』

『えっ? も、もちろんです! じゃあ私も新子さんのこと……』

『憧って呼んで』

『はいっ』

『あんたも』

『……オーケー、憧』

『…………うんっ、よろしく京太郎!』

 

 

 あの日交わした、呼び名の約束。小蒔にとっても、思い出深い記憶。――それが、あっさりと捨て去られた。ゴミのような扱いだった。

 

「こっちだって買い出しとか雑用があるんだよ、これ以上邪魔するな。――ほら、行くぞ咲」

「きょ、京ちゃんっ」

 

 咲の手を引いて、京太郎は憧と小蒔の間を強引に割って歩き出す。

 

 押し退けられても、憧は動かない。動けない。指一つ、動かない。まるで、石像になってしまったかのようだった。

 

 小蒔は振り返った。去って行く京太郎の背中に向けて、あらん限りの声を震わせる。

 

「京くん!」

 

 ぴたりと、京太郎の足が止まった。

 

「怒っているんですか、私たちのことっ。だったら謝ります、でも私たちはよく覚えていないんです、あの日のことをっ。だからっ」

「よく覚えていないことを謝るって?」

 

 顔だけ振り向いて、京太郎は嘲るように笑った。胸に、刃物を突き立てられたような痛みが走る。

 

 ――なに、これ。

 

 小蒔は呆然とする。

 

 ――知らない。

 

 あの日、この街で、最後まで零れなかったものが溢れ出す。

 

 ――本当に、この人は、京くん?

 

「神代のお姫様」

 

 どれだけ鈍感な小蒔でさえ、その呼称が皮肉だということは、すぐに分かった。

 

「俺は、あんたのそういうところが昔から大嫌いだったんだ。――だからもう、二度と近づいて来るなよ」

 

 ぼろぼろと。

 玉のような涙が、頬を伝う。一体どこにこんな量が溜まっていたのだろう――そんな疑問が、まるで他人事のように小蒔の頭を駆け巡る。

 

 けれども体は動かない。

 零れる涙は地面を叩くばかり。それを掬い上げる手はなかった。

 

 ――私は、どこで、何を誤ったのでしょうか。

 

 彼女の疑問に、答える者はいない。

 答えられる者は、去って行った。

 

 

 心配した永水と阿知賀の面々が迎えに来るまで、二人はその場で立ち尽くしていた。

 

 

 

 




次回:十/須賀京太郎/続 東京迷宮・後


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十/須賀京太郎/続 東京迷宮・後

 

 

 薄暗い、地下鉄のホーム。

 

 自分をここまで連れてきた、嵐のようだった人の群れは、既に影も形もない。まるで閉じられた世界のように、ホームは静寂に包まれていた。

 

 薄気味悪くて、心細くて、こんなところは一刻も早く抜け出したかった。不安が胸を蝕んで、誰かに構っている余裕なんてない。

 

 ――はずだったのに。

 

 視界に入ってきた、二人の少女。

 見るからに困り果て、今にも泣き出してしまいそうな女の子たち。

 

 見逃せなかった。

 無視することなど、できなかった。

 

 有らん限りの勇気を振り絞り、少年は彼女たちに声をかける。まるで、何でもない風を装いながら。

 

 ――ああ、そうだ、きっと。

 

 彼は、何度だってそうするだろう。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

東京/全国高等学校麻雀大会選手権会場 近辺

 

 これまでの人生で幾度となく父親に拳骨をお見舞いされた経験のある京太郎は、しかし頬を平手で張られるのは初めてだった。

 

 打たれた瞬間はさほど痛みを感じなかったが、すぐに頬は熱を帯び始める。じぃん、と頭の底まで響いてくる音があった。

 

 目の前には、荒い息を吐き、こちらを睨みつける巫女装束の少女。彼女の黒く、長い髪が強い風に煽られた。八年前は彼女のほうが背丈は高かったというのに、今は京太郎が見下ろす形となっている。

 

 ああ、この人が本気で怒るとこんな表情をするんだな、と京太郎は感慨に耽る。

 

 年長で、一番厳しく自分も他人も律し、皆をまとめ上げていた彼女。常に余裕を崩さず、感情を露わにするところなど京太郎は見たことがなかった。もっとも、付き合いなんて全部で一週間程度だったのだけれども。

 

「気は済みましたか?」

「……まさか」

 

 また殴られるのか、と京太郎は身構える。が、意外にも彼女はあっさり手を下ろした。もう二、三発は覚悟していたのに。やるならさっさとやればいいのだ。

 

「もっと手短にしてもらえませんか。これからうちの学校、試合なんですけど。いえ、もう始まってますね」

「知ってるわ。だからこうして掴まえられたんだもの」

「こっちの迷惑も考えて欲しいですね。先に行ってる部長たちに変な勘ぐりされたくないんです」

「貴方は、そんな世間体を気にするタイプだったかしら」

「八年経てば人は変わります。それに世間体なんて問題じゃない、うちだってチームの和ってものがあるんです」

 

 京太郎の答えに、彼女は――石戸霞は歯噛みした。ぎり、と鈍い音が京太郎の耳にまで届いた。――ああ、くそ、痛い。

 

「自分のエゴを貫くためなら、小蒔ちゃんを泣かせても良いの?」

「石戸さん、何を勘違いしてるんですか?」

「勘違い、ですって?」

「俺と、貴女たちは敵同士ですよ。どうして敵の心配をしなくちゃならないんですか」

「――っ」

 

 霞は、大口を開けて何かを叫ぼうとした。だが、寸前で思いとどまったらしい。

 

「……敵の前に、友達同士でしょう? そう思っていたのは、私たちだけだったということ?」

「そうなりますね」

 

 ――もっとだ。

 

 京太郎は、自らに言い聞かせる。こうなってしまったのは、失敗だった。自分の失敗は、自分で取り返さなくてはならない。

 

 ――もっと、徹底的に。

 ――心を、殺せ。

 

「だから、二度と話しかけないで下さい。重ねて言いますが、迷惑です」

「……そう」

 

 先ほど打たれたのとは逆側の頬を、叩かれる。全く予備動作が見えなかった。不意打ちに、京太郎はたたらを踏む。その細腕のどこにそんな力があるのか、京太郎は疑問に思う。

 

「あんまり顔は止めてもらいたいんですが。不審がられます」

「口が減らないわね。喋られなくなるまで殴って欲しいの?」

「勘弁して――」

 

 京太郎は、言葉を切った。

 平手を構えながら、霞は涙を流していた。流石に血縁、泣き顔が似ているな、と京太郎は思った。それ以上は、考えない。考えてはいけない。

 

「インハイ出場選手が他校の生徒に暴力を振るったと、報告するつもりかしら」

「女子相手に、そこまで陰険ではありませんよ。自首するというのなら、止めはしませんが」

「絶対にしないわね」

 

 霞は涙を拭い、言った。

 

「貴方を叩いても、罪悪感は芽生えなかったもの」

「そうですか。酷い人ですね」

「貴方にだけは言われたくないわ」

 

 霞は京太郎に背中を向ける。

 

「もう、何を言っても、何を訊いても――無駄みたいね」

「ええ。気付くのが遅いんですよ、石戸さん」

「京太郎くん」

「なんですか?」

「昔の貴方は素敵だった。小蒔ちゃんが羨ましくなるくらいに」

 

 でも、と霞は歩きながら続けた。

 

「今の貴方は、見るに耐えない愚物だわ」

 

 そうですか、と京太郎は軽く答えようとした。だが、できなかった。渇いた喉からは、言葉は生まれなかった。

 

 視界から完全に消えてなくなるまで霞の背中を見送ってから、京太郎はその場に腰を下ろした。

 

 ――疲れた。

 

 京太郎の疲弊をよそに、近くのインハイ会場からは歓声が聞こえてくる。今、清澄は一回戦の真っ只中だ。応援に行かなければならない。

 

「くっそ、これ絶対痕になってるだろ……」

 

 立ち上がりながら、京太郎は頬をさする。話している間はさほど気にならなかった痛覚が、いまになってずきずきと訴えかけてくる。

 

 ――霞さん、変わっていなかったな。

 

 大和撫子ぶりには、磨きがかかっていたけれど。実に見事な成長を遂げ、どきりとさせられたけれど。その芯は、全く変わっていなかった。妹想いの女の子。

 

 ――でも、彼女も危うい。

 

 京太郎は頭を振る。――切り替えろ。今は、部を支えることだけに集中しなくては。

 なんて考えていると、目の前から信じられない人物が歩いてきた。

 

「京ちゃん」

「咲、お前なんでここに……試合中だろ」

「大将戦までは時間あるから」

「でも、優希の応援は」

「部長も染谷先輩も和ちゃんも、皆京ちゃんの様子気にしてたよ。誘惑されてないかー、とかそんなんだったけど」

 

 京太郎は、溜息を吐いた。――俺が心配かけてどうするんだ。

 それから咲に向かって、

 

「それにしてもお前よく一人で来れたな」

「…………うん」

「その間は迷ったな」

「ちょ、ちょっとだけ」

「やっぱり」

 

 はは、と京太郎は笑う。

 

 ――咲は、京太郎に何も訊いてこない。小蒔のことも、憧のことも。頬の痕も気付いているだろうに。

 

 京太郎が、「訊かないで欲しい」と態度で示せば彼女はそうしてくれる。久たちも何かしら異変を感じ取っているだろうに、沈黙を保っているのは、やはり咲が取りなしてくれているのだろう。

 

 京太郎はそうやって、咲に甘えていた。

 

 しかし、彼女が甘やかすのを止めるのは、そう時間はかからなかった。

 

 

 ◇

 

 

東京/清澄高校宿泊旅館

 

 インターハイ六日目。

 

 清澄高校はインハイ一回戦を快勝し、二回戦に臨んだ。対戦校は、姫松、宮守、そして永水。

 

 京太郎はいつも以上に応援の声を上げた。対戦相手の顔と名前は見ないまま――ずっと点数だけを追いかけながら。

 

 途中、何度か危うい場面はあったものの、清澄は準決勝に駒を進めた。実績でいえば番狂わせという結果であったが、京太郎は当然と思っていた。純粋に喜んだ。

 

 一方で、二位通過した学校の名前は無視した。考えてはならないと、何度も自分に言い聞かせた。

 

 半荘計十回という長丁場、必然長期戦になりがちなルールではあるが、この日は進行が早く三時過ぎに決着は着いた。

 

 ゆっくり休めることは良いことだ。もっとも、京太郎のここでの役割は基本雑用だ。宿に戻ってきた後は、準決勝で戦う相手の牌譜集めと整理、足りない雑貨購入、その他諸々の仕事がある。

 

 決してうんざりなどしない。むしろ有り難かった。男子部員である自分が役に立てる。麻雀が弱くても、縁の下の力持ちになっているという自負が生まれる。レベルの高い女子の試合で勉強すれば、来年はきっと自分もインハイに出られる。

 

 ――なんて、嘘ばっかりだ。

 

 働いている内は、余計なことを考えずに済む。辛いことも苦しいことも――誰かの涙を思い出さずに済む。

 

 ネットで入手できる牌譜をありったけ印刷し、ポジション毎に分けていく。ついでに対戦中の映像が見つかったのなら全てフォルダ分け。全国の舞台での最新情報だけは絶対に忘れない。ここ二、三ヶ月で大分慣れた作業だった。

 

 だが、ある名前が目に入った途端、京太郎は反射的に牌譜を握りつぶしてしまった。やってしまった、と後悔するが、もう一度印刷しようにも手が動いてくれない。これまで機械的にこなし続け、順調だった仕事はさっぱり進まなくなった。

 

 気付けば京太郎は、旅館内のコインランドリーで、椅子に腰掛けていた。ごうん、ごうん、と音を立てて回る乾燥機を、何をするわけでもなく眺め続ける。はたから見れば馬鹿みたいな光景なんだろうな、と京太郎は思う。思っていても、体は動かなかった。

 

 ひたり、と左頬に冷たいものが当たる。ゆっくりと、京太郎は彼女を見上げた。

 

「……なんだ、咲か」

「むっ。なんだ、はないんじゃないの、京ちゃん」

 

 幼馴染の宮永咲が、ペットボトルのお茶を携えて立っていた。彼女は、何の断りもなく京太郎の隣に座る。京太郎は彼女の持つお茶に視線を向けた。

 

「それ、俺にくれるんじゃないのか」

「失礼な京ちゃんにはあげません」

「俺だって疲れてるのに」

「私も今日は疲れたんだから」

「……ああうん、お疲れ咲。やったな」

「ありがと、京ちゃん。はい、京ちゃんもお疲れ様」

 

 ペットボトルを手渡す咲の表情は柔らかく、京太郎はほっとする。麻雀をやっているときとは違う、彼女の素顔。お茶に口をつけながら、もうちょっと頑張れそうだ、と彼は気合を入れ直す。

 

「ねぇ、京ちゃん」

「ん?」

「京ちゃんって麻雀弱いよね」

 

 直球な発言に、京太郎は咽せる。なんとか息を整えてから、咲の頭をかきたてる。

 

「お前、もうちょっと容赦しろよ。最近勝ってるからって調子乗ってないか?」

「ちょ、ちょっと止めてよ、もう。京ちゃんが麻雀弱い理由、知りたくないの」

「俺が弱い理由?」

「うん。最近気付いたんだ」

 

 そいつは面白い話だと、京太郎は興味を示した。何かと手のかかる咲ではあるが、雀力は自らと比較する必要もない。アドバイスをくれるというのなら、有り難く頂戴しよう。

 

「京ちゃんってさ、危険牌引いたらすぐに顔に出るでしょ。良い手が入っても、喜んでるのがすぐに分かるし」

「む」

「要するにね」

 

 咲は、京太郎の顔を見ずに言った。

 

「演技、下手だよ、京ちゃん」

「――」

 

 その言葉の真意を、改めて問う必要はなかった。

 

「……だったらもっと、練習しないとな」

「時間がかかりそうだね。別の方向で努力したほうが良いと思うよ」

 

 京太郎はペットボトルの中身を全部呷ると、強い力で握りつぶした。彼が咲に対して、こんなにも苛立ちを覚えたのは初めてだった。

 

「何が言いたいんだよ」

「どうしてあの子たちにあんなことを言ったの?」

「……思ったことを言っただけだ」

「京ちゃんは、女の子を泣かせるようなことを思ったりしないよ」

 

 分かった風な口を利くな、なんて京太郎には言えなかった。家族を除けば、彼を一番理解しているのは間違いなく彼女なのだから。

 

 だから、京太郎は逃げる。逃げ回る。

 

「あいつらは、敵校の生徒だぞ。どうしてお前があいつらの心配するんだよ」

「京ちゃん」

 

 咲は、その柔らかい声で言った。

 

 

「私は、京ちゃんの話をしているの」

 

 

 京太郎は、項垂れる。敵わない、と思った。咲という少女を、未だにどこかで侮っていたのかも知れない。

 

「ちょっと、冷たい言い方だけど……私もあの子たちのことはよく知らないから。気にかける理由は、ないよね。でも、京ちゃんがあんな辛い顔してるんだもん。放っておけないよ」

「余計なお世話だ」

「私に最初に余計なお世話を焼いたのは、京ちゃんのほうでしょ」

 

 ねぇ、と咲は語りかける。

 

「京ちゃん、ずっと私を通して別の誰かを見ていたでしょ?」

「……そんなこと」

「怒ってないよ。感謝してるくらいなんだよ。京ちゃんに助けられたことは、間違いないんだから。――それで、神代さんと新子さん、どっち? それとも、両方?」

 

 咲の声色は、とても楽しげだ。痛いところを突かれて肩を落とす京太郎を、とことんいじめぬくつもりのようだった。

 

「好きなら、会いに行ってあげて」

「……俺が会ったら、あいつらを苦しめることになる」

「それは、京ちゃん一人で考えたことなんじゃないの?」

 

 ダメだよ、と咲は京太郎を諫める。

 

「一人じゃ、ダメだよ。一人で考えたって、良いことなんかないんだから。それに、京ちゃんだけの問題じゃないんでしょう? 三人の、問題なんでしょう? だったら、一緒に考えなくちゃいけないよ」

 

 がつん、と頭を殴られた気分だった。痛くて痛くて、吐き出しそうなくらいな痛みだった。

 

「私も、一人じゃ絶対に進めない。皆がいるから、お姉ちゃんのところに進もうって思えるの。怖くて、仕方ないけれど。それでも、牌に触れるのは皆のおかげ。――京ちゃんのおかげなんだよ」

 

 ――ああ。

 ――なんで、そんな甘い言葉を吐くんだ。

 

 京太郎は両手で顔を覆う。そうでもしなくては、色々なものがこぼれ落ちそうだった。これまでの覚悟を、八年間の忍耐を、全て台無しにされてしまう。

 

 なのに、それなのに。

 

 そちらに惹かれている自分が、いるのだ。京太郎は、愕然とする。

 

その道は、正しくない。間違っている。誤りなのだ。――分かっているはずなのに、惹かれてしまう。

 

「私、まだお姉ちゃんとどんな話をすれば良いか分からない。どうすれば仲直りできるのかも。だから、牌で語るしかないって、そう思ってる」

 

 でもね京ちゃん、と咲は立ち上がり、言った。

 

「私の手をとって、私の前を進んで、私をここに来たきっかけを作った京ちゃんなら。きっと、私に別の道を示してくれるって――信じてる」

 

 彼女は、それ以上言葉を重ねることはなく、コインランドリーを出て行った。

 

 京太郎は、しばらく動けなかった。迷いと悩みは深い。足にまとわりつく呪いのような枷は、簡単は外れない。

 

 だが、彼は立った。

 

 ――行かなければ、ならない。

 

 彼女たちの元に。

 

 

 ◇

 

 

 京太郎は駆けだした。着の身着のまま、進み出す。陽は、傾き始めている。

 

 旅館を飛び出す。彼女たちの宿泊先など知らない。当てもなく、この広い街で会えるわけがない。それでも行かなければならなかった。溢れ出る感情が叫んでいた。

 

「――京!」

 

 背後から、自らを呼ぶ声があった。

 

 振り返れば、肩で息をする滝見春がこちらを見つめていた。一歩遅れて、同じように息を切らした巴が続く。八年前は聞けなかった、熱の点った声で春は言った。

 

「姫様と、憧がいなくなった」

「え……?」

 

 すぐには、彼女の言っていることが理解できなかった。

 

「姫様は、今日の試合が終わってから、すぐにいなくなって。憧も、今日ふらりとホテルから出て行った後、連絡がつかないらしくて。今、阿知賀の人も、一緒に探していて。でも……全然見つからなくって……!」

「お願い、京太郎くん」

 

 途切れた春の言葉を、巴が引き継ぐ。

 

「一緒に探して欲しいの」

 

 京太郎の頭は混乱する。――なんで、どうして、あの二人は。意味が分からない。なんで、こんなタイミングでいなくなってしまうんだ。なんで、ずっと、そうなんだ。

 

 まとまりのない想いが溢れ出て、呼吸が荒くなる。

 

「春、巴さん」

「京……」

「絶対に、見つけ出す」

 

 今度こそ、京太郎は駆けだした。呆然とする二人を置き去りにして、走り出した。もう彼が、振り返ることはなかった。安堵した春が、膝を着いて涙を流したことも京太郎は知らなかった。

 

 ――考えろ、考えろ。頭を回せ。

 

 二人が行きそうなところ。東京という広い街で、彼女たちが望む場所。

 

 皆で寝泊まりした大神宮。

 

 お土産を探してはしゃぎまわった東京駅。

 

 堀を眺めて共に歩いた皇居。

 

 走って、走って、走り続けた。軋む膝の痛みなど、無視だ。悲鳴を上げる肺も、無視だ。この一年、最低限の運動しかしていなかった自分を呪う。それでも京太郎は、進み続けた。

 

 だが、二人の姿はどこになかった。インハイ会場にまで足を伸ばしても、いなかった。夜を迎え、月が空に浮かんでも足取りは掴めなかった。道中、再会した初美と連絡を取り合いながらも、進展はなかった。

 

 体力の限界を超え、京太郎は立ち尽くす。

 

「どこにいるんだよ……!」

 

 熱帯夜の空気が、京太郎の肌を撫でる。汗だくになった体と、疲弊した精神。畜生、と歯噛みする。ぎりぎりと、嫌な音が鳴る。血が、口端から流れ出た。

 

 夜の東京の街に女の子一人だなんて、危険すぎる。無事に保護されれば良いが、そんな幸運を望むだけなんて嫌だった。

 

「教えてくれ、二人とも……!」

 

 八年前の、彼女たちの顔を思い浮かべる。

 

 幸せだった。京太郎にとって、二人は幸福の象徴だった。一緒にいて、安心する。一緒にいると、嬉しい。――ずっと一緒に、いたかった。

 

 思い出の中の二人は、いつも笑顔だ。左を見れば小蒔がいて、右を見れば憧がいる。――ああ、そう言えば、あの日もそうだった。この街で、別れたあの日。

 

 ――京くん。

 

 ふと、名前を呼ばれた気がした。

 

 ――私、ずっとこの場所を覚えています。

 

「……あ」

 

 ――迷子になっていた私たちが助けられた、この場所を。

 

「ああ……!」

 

 ――あたしも覚えてるから。

 

「ちく、しょう!」

 

 ――だから、もしもまたあたしたちが道に迷ったらちゃんと探しに来てよね。

 

 知らない街の、知らない名前の駅。そのホーム。

 彼女たちが俯き、涙を堪えていた場所。

 

 だけど、今は知っている。

 

 知っている街の、知っている名前の駅。

 京太郎は、再び走り出した。

 

 約束を――守りにいかなければならない。

 

 

 ◇

 

 

 薄暗い、地下鉄のホーム。

 

 自分をここまで連れてきた、嵐のような感情は、今も胸の中で渦巻いている。対照的に、まるで閉じられた世界のように、ホームは静寂に包まれていた。

 

 薄気味悪くて、心細くて、こんなところにいてはいけない。こんなところは、人の心を蝕んでいく。

 

 ――だから。

 

 視界に入ってきた、二人の少女。

 見るからに困り果て、今にも泣き出してしまいそうな女の子たち。

 

 見逃せなかった。

 無視することなど、できるわけがなかった。

 

 あらん限りの勇気を振り絞り、少年は少女たちに声をかける。何でもない風は装えない。罪科を背負い、彼女たちの前に立っているのだから。

 

「……ごめん」

 

 二人は、顔を上げた。

 

「ごめん……!」

 

 京太郎の声は、激しく震えていた。油断すれば、すぐに嗚咽が漏れ出るだろう。だが、その資格はない。京太郎は限界まで自分を律する。

 

 少女たちはふらりと立ち上がった。限界まで溜まった涙は、すぐに堰を切った。

 

 なんで、も。

 どうして、も。

 

 問う言葉はない。

 

 殴られる覚悟で立っていた京太郎の体に、二人の体がぶつかった。とても軽く、そして重かった。

 

「ずっと、会いたかった。ずっと、こうしたかった」

「はい……!」

「うん……!」

 

 京太郎の胸に、二人の少女は顔を埋める。ぐしゃぐしゃにシャツは濡れて、それでも京太郎は気にせず彼女たちを抱き締める。

 

「酷いこと言って、ごめん。逃げ出して、ごめん」

 

 京太郎の言葉に二人は頭を振る。そして、彼女たちも強く京太郎の体を抱き締め返した。京太郎の視界が、歪んでゆく。もう、我慢できなかった。

 

「小蒔ちゃん、憧」

 

 昔、伝えたかった、あの言葉。恥ずかしくて、口にできなかったこの言葉。

 

「大好きだ」

 

 この道は間違っている。きっと、彼女たちを傷付ける。

 それを分かっていながら、しかし京太郎は、彼女たちを抱く力を緩めなかった。緩めることなど、できなかった。

 

 

 

 ――三人の別れは、八年前の夏に遡る。

 

 

 

 




次回:幕間/石戸霞/ペイン


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幕間/石戸霞/ペイン

 

 殴られたほうよりも、殴ったほうが痛い。

 

 そんな言葉は、卑劣な言い回しだと石戸霞は思って生きてきた。どう考えても、殴られたほうが痛い。殴った側に芽生える罪悪感を、正当化させる方便だ。そもそも暴力に訴えかけた時点で、どんな大義名分も実を失う。

 

 彼女はそれを、頭の上では分かっていた。ドラマの中のヒロインたちは、簡単に男性に手を上げるが、霞にはその気持ちが今一分からず感情移入できなかった。

 

 ――だというのに、彼女は自分の感情に任せるまま、動いていた。

 

 大切な小蒔が涙する姿を見て。

 大切な友人が苦しみに喘ぐ姿を見て。

 どうしても、黙っていられなかった。

 

 これが、取るに足らない相手ならば霞はここまで怒りもしなかっただろう。二度と小蒔たちに近づけないよう処置し、綺麗さっぱり忘れてしまう。それが最善策だ。

 

 なのに、今回ばかりはそうはいかなかった。

 相手が、あの須賀京太郎だったから。

 

 八年前、訳も分からず引き離され、自分たちの前から姿を消した男の子。六女仙と、小蒔と、憧と、一緒に夏を過ごした少年だった。

 

 訊きたいことは山ほどあった。あの事故のとき、六女仙は皆蚊帳の外だった。鹿児島に追い返され、小蒔が再び目覚めるまで不安で胸が塗り潰された。

 

 あのとき、何があったのか。八年間、何をしていたのか。

 どうして、小蒔を傷付けたのか。彼女を痛罵する必要が、どこにあったのか。傍目にも、京太郎は小蒔のことが好きだったはずだ。憧のこともそのはずだ。二人を傷付け、平気な顔で他の女の子たちと共に歩く姿は、霞の心をかき乱した。

 

「京太郎くん」

「……石戸さん」

 

 声をかけたとき、露骨に嫌そうな顔をされた。ずきり、と胸が痛んだ。小蒔のような種類でなくとも、霞は彼に好意を抱いていた。

 

 清澄の部長に断って、彼を連れ出し、最初の一言二言は、まだ穏やかだった。――久しぶり、元気だった? ――ああ、本当に穏やかだった。

 

「どうして、小蒔ちゃんを泣かせたの?」

 

 気持ちばかりが逸り、段階を踏まないまま霞は訊ねた。他にも訊ねるべきことは沢山あった。だが、彼女にとって全てに優先するのは小蒔だ。

 

 京太郎は、せせら笑って答えた。

 

「鬱陶しいんですよ」

 

 気持ち悪いものが、胸の中にせり上がる。

 

「ああいう甘えてばっかりの女は反吐が出るほど嫌いなんです。今も、こうして文句を言いに来たのは石戸さんだ。自分一人で来れないんですか。こっちだってインハイ真っ只中なんです、昔みたいな子守はもうこりごりなんだ」

「……何を、言ってるの?」

 

 信じられなかった。彼がこんな言葉を吐き出すなんて、霞の中では有り得ない。

 次に彼が小蒔に言及したとき、霞は耳を塞ぎたくなった。頭が理解を拒否しようとする。だが、彼は立て続けに言った。聞くに堪えない罵倒。顔を赤くするような歪んだ欲望。嫌悪感で肌が粟立つ。

 

 そして、挑発するように京太郎の指が霞の口元に伸びる。

 

 反射的に、霞は彼の頬を打っていた。

 打った瞬間、後悔した。自分が信じられなかった。これまでの自己評価が、一瞬でひっくり返った。

 

 二度目には、もう躊躇いはなかった。そうするのが当たり前のことように、腕が鞭となっていた。

 

 彼と別れたとき、石戸霞という人間は崩れ去っていた。

 

 宿泊施設に戻り、霞は部屋のテーブルに突っ伏す。かつてない霞の雰囲気に、六女仙たちも声をかけあぐねていた。それを良いことに、霞は部屋を一人陣取る。

 

 ――痛い。

 

 彼の頬を叩いた両手が、痛い。

 

 そんなはずはないのに。あれほど馬鹿馬鹿しいと思っていた考え――実に身勝手な言い分が、心を支配する。

 

 ――どうしてだろう。下郎を小蒔の傍から排除した。それだけだ。自分がこんな想いをする必要はないはずだ。あんな男はもう忘れれば良い。そうだ。小蒔にも、そう言い聞かせよう。

 

 嫌悪していたはずの、自分を正当化する詭弁。それが引き起こす痛みに、霞は浸っていた。浸り続けたい気分だった。

 

 なのに、心のどこかで引っかかる。

 

 それは、許さないと。――許されないと。

 ふと、思い出すのは、かつてこの街で彼と交わした会話。

 

 

『良かったら、これからもずっと小蒔ちゃんと友達でいてくれる?』

『良かったら、も何もない。小蒔ちゃんと憧と俺は、ずっと友達だよ』

 

 

 ――どうして?

 

 どうして、自分は彼を見なかった? 霞は愕然として、テーブルから顔を上げる。

 

 小蒔が泣いた。その事実だけで、霞は突っ走った。他の全てをなげうって、他の何もかもを気にかけず。

 

 小蒔を免罪符にして、思考を放棄した。

 

 その結果――須賀京太郎という人間を、見ようとしなかった。

 

 考えればすぐに分かるはずだ。八年前、あの長野での遭難事故――そのときあった全てを、京太郎だけが知っている。そこに彼が、自分たちを拒絶する理由があるのは明白だ。

 

「確かに、酷い人、ね……」

 

 彼に言われた言葉を反芻する。彼にその意図はなくとも、ぐさりと霞の胸に突き刺さった。

 

 けれども。

 

 八年前のことを知っているのは、彼だけではない。

 

 遅くはない。そのはずだ。

 

「初美ちゃん」

「は、はいですよー」

 

 こっそり自分を窺っていた親友に、声をかける。

 

「携帯電話――とってくれない?」

 

 

 

『彼と会ったのか』

「はい」

 

 電話口から聞こえる厳かな声色は、霞を緊張させる。普段は人の好い親戚筋ではあるが、このときばかりは空気が違う。

 

 どのような事情があるにせよ、霞は霧島神境の禁忌に足を突っ込んだのだ。その禁忌を定めた張本人――小蒔の父親を相手に。

 

「彼は……須賀京太郎は、人が変わっているようでした」

『そうか』

「ですが……」

『彼に近づくな』

 

 霞の言葉を遮って、彼は言った。有無を言わさぬ迫力だった。一瞬鼻白んだ霞は、しかし立ち向かう。

 

「何故ですか」

『知ってどうする。もう一度言おう、霞。とにかく君と小蒔は彼に近づくな。彼は、君たちにとって危険過ぎる』

「……私も、ですか?」

『そうだ。他の六女仙はそれに尽力するように』

 

 まるで意味が分からなかった。背後に控える初美たちも、眉根を顰める。話がさっぱり見えてこない。

 

『では切るぞ』

「お待ち下さい!」

 

 霞の悲鳴は、相手の指の動きを止めた。電話口の向こうで、息を飲む気配があった。霞が小蒔の父に、異論を唱えたことなどほとんどなかった。

 

「詳しい理由も知らず、小蒔ちゃんを守ることはできません。私自身もです。何故、教えてくれないのですか。私たちが納得できないことくらい、分かるでしょう……!」

 

 知らず、声に熱が点る。相手の顔が見えないのがもどかしい。

 しばらくの沈黙の後。

 

 答えは、返ってきた。

 

『……彼が、そう望んだからだよ』

「彼? 京太郎くんが?」

『小蒔に嫌われたくない。新子の娘に苦しんで欲しくない。……そう泣いたそうだ』

 

 矛盾している。ならば、何故京太郎は小蒔たちを傷付けた? そんな霞の疑問に、小蒔の父はすぐに答えてくれた。

 

『嫌われるよりも、君たちを守れないほうが辛い。そんなところだろう』

 

 溜息が、霞の耳に届く。

 

『すまなかった。こうなってしまった以上、確かに何も説明しないのは不誠実だった。……小蒔に話すかどうかは、彼と共に決めよう。私も、須賀と新子に連絡をとる』

「縁を切ったのではなかったのですか」

『子供に気付かれないように立ち回ることなど、難しくとも何ともない』

 

 悪びれもせず言ってのける小蒔の父に、霞は深呼吸して応答した。

 

「…………教えて下さい。私たちと京太郎くんの間に、何があるのか。京太郎くんの力とは、なんですか」

『――――』

 

 語られた話を受けて。

 

 霞は、携帯電話を持つ手に力を込めた。――否、自然に込められていた。そんな、都合の悪い話があってもいいのか? ばかばかしくて、ふざけている。だが、小蒔の父は冗談や嘘を言うタイプではない。これが、真実なのだろう。

 

 全てを理解した、そのとき。

 くらり、と霞は目眩に見舞われた。

 

「霞ちゃん!」

 

 初美に体を支えられる。

 

 霞は、京太郎の意図を察する。

 彼がなぜあんな言葉を吐いたのか。どうして自分たちを拒絶したのか。

 

 ――殴られたほうよりも、殴ったほうが痛い。

 

 どちらが痛いかなんて、もう霞には分からないけれども。

 彼女の両手は、後悔の痛みで塗れていた。

 

 

 ◇

 

 

 インハイ六日目、Bブロック二回戦。

 

 連荘がほとんど起きず、非常に早い進行となったこの戦いは、一位永水、二位清澄、三位姫松、四位宮守という順位で大将戦まで回ってきた。守りに長ける霞はその持てる力を尽くしたが、結果的には一位抜けとなったのは清澄だった。僅差の二位で、永水は準決勝に駒を進めた。

 

 明後日には、もう一度闘う相手。互いの健闘をたたえ合うにはまだ早い。

 

 だが、霞は清澄の大将、嶺上使い――宮永咲に話しかけざるをえなかった。控え室に戻ろうとする彼女の肩に、手を置く。

 

「宮永さん」

「はい?」

 

 彼女は、再会したあの日、京太郎と共にいた女の子。仲も随分良さそうに見えた。

 

「お願いがあるの」

「……京ちゃんのことですか?」

 

 すぐに見抜かれてしまった。彼女は警戒心を露わにして、霞に向き直る。

 

「そう、なのだけれど。……お願い、彼と話をさせてくれないかしら」

「自分で会いに行けば、良いんじゃないでしょうか」

「たぶん、もう簡単には会ってくれないから……」

 

 霞の声が萎んでいく。

 咲の目が、怒りに震えていた。

 

「嫌です」

 

 霞の与り知らぬところではあるが――宮永咲が、婉曲的な物言いではなく、ここまではっきりと拒絶することは珍しかった。

 

「京ちゃんは、貴女たちに会うと辛そうにしてます」

「それは――」

「そんな貴女たちと京ちゃんを、どうして私が取り持たなければならないんですか」

 

 一切の反論を許さない、強い口調だった。

 

 霞が小蒔を守るように。

 彼女もまた、京太郎を守っているのだ。それをどうして、霞が責められよう。

 

 ――しかし、それでも霞は諦められない。

 

「このまま別れたら、京太郎くんだって不幸になる」

「どうして貴女にそんなことが分かるんですか」

「彼は、嘘を吐いている。そうでしょう?」

「京ちゃんが望んでいるなら、私はその嘘を守ります。京ちゃんに、これ以上傷付いて欲しくない」

 

 懇願を振り払う咲へ、なおも霞は語る。

 

「その嘘も、京太郎くんを傷付けているはずよ」

「…………」

 

 咲は、黙り込む。彼女も、京太郎の現状を良しとは思っていないだろう。霞の言葉に、納得するところがあるはずだ。しかし、言い負かしたらそれで良い、という事態ではない。彼女に道を作って貰わなくてはならないのだから。

 

 やがて、咲は口を開いた。

 

「何を言われても、私が貴女たちを京ちゃんに会わせることはありません」

 

 すっと、咲は背中を向ける。

 

「……京ちゃんが、自分の意思を変えない限りは、絶対に会えません」

 

 言葉を尽くした霞は、去って行く彼女を見送ることしかできなかった。

 

 

 この後、宮永咲が悩みもがきながら、されどそれをおくびにも出さず京太郎の背中を押したのを、霞が知るのはずっと後になってからだった。

 

 

 ◇

 

 

 二回戦が終わった数時間後。

 小蒔がいなくなったことに最初に気付いたのは、巴だった。

 

 

 

 




次回:十一/神代小蒔/山岳迷宮・前


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十一/神代小蒔/山岳迷宮・前

「――良いですか、小蒔。霧島神境を出る前に、私と三つの約束をして下さい」

 

 真正面に座る母は、幼い小蒔に優しく語りかける。

 

「一つ。お父さんの言うことをよく聞きなさい。絶対に勝手をしてはなりませんよ」

「はい、お母様」

 

 小蒔は頷く。

 

「二つ。霞ちゃんたちから離れないで。できる限り行動を共にしなさい」

「はい、お母様」

 

 小蒔は頷く。

 

「三つ。これが一番大事なこと。――神境の外で、決して神を降ろしてなりません。貴女の力は強大で有りながら、まだ未熟。何があっても、この約束だけは守って下さい」

 

 はい、お母様――小蒔は三度、しっかりと頷いた。

 

 

 ◇

 

 

 飛行機と特急電車を乗り継いで、小蒔は初めて長野の地に降り立った。生憎の曇天ではあったが、小蒔の心には未だ雲はない。

 

「お久しぶりです、憧ちゃんっ」

「久しぶり、小蒔! 霞さんたちも!」

 

 まず最寄り駅で合流したのは、先月東京で出会った親友、新子憧だった。一本早い電車で先に到着していた彼女は、小蒔たちを待ってくれていた。いえーい、と憧が伸ばしてくる手に、慣れないながらも小蒔は応じた。彼女のこの雰囲気が、たった一ヶ月ぶりだというのに酷く懐かしい。

 

「元気だった? こっちは夏祭り終わって、やっとゆっくりしてるところ」

「私も同じです。宿題も昨日終わりました」

「あたしは一昨日終わらせたよー。さあて、京太郎はちゃんとやってるかな?」

 

 にやにやと楽しげに笑う憧も、やはり懐かしい。小蒔はほっとした。時間が空いたことで、変に距離感が生まれないかと小蒔は危惧していたが余計な心配だったらしい。

 

 憧が六女仙とも次々と挨拶を交わす傍ら、小蒔の父も憧の父も旧交を温めていた。東京に行ったときに小蒔は初めて知ったのだが、京太郎の父親を含めた三人は、神職という立場を抜きにしても親交が深い仲ということだった。そういった縁も、小蒔の心を躍らせる。運命、なんてロマンチックな言葉が思い浮かぶ。

 

「小蒔ちゃん? そろそろ出発するわよ?」

「は、はいっ」

 

 ぼうっとしていたら、霞に声をかけられてしまった。小蒔は慌てて皆の元に駆け寄ろうとし、転んだ。憧と霞に助け起こされ、小蒔は赤面する。

 

 駅から須賀神社まで、直通のバスが出ていた。憧と席を共にして、夏休みにあった出来事を話し合う。プールに行っただとか、算数の宿題が難しかっただとか、とりとめのない話が、相手が憧というだけで煌めきだす。とても楽しかった。

 

 バスに揺られて三十分ほど。

 一行が辿り着いたのは、須賀の社に続く石段だった。

 

 ――ここを登れば、京くんに会える。

 

 京太郎との再会を前にして、小蒔の胸の内で昂揚と不安がない交ぜになる。憧のときと同じように挨拶ができるだろうか。京太郎は、ちゃんと自分のことをちゃんと覚えているだろうか。有り得ない、と分かっている仮定さえ生まれてしまう。

 

 ぶんぶんと頭を振ってから、小蒔は木々のアーチに覆われた石段に足をかけた。夏の草木の香りが、鼻をつく。

 

 初美と憧が駆け上がろうとし、霞に怒られていた。小蒔はくすりと笑いながらも、歩みは止めない。結果、先頭に立っていたのは彼女だった。

 

 石段を登りきった先、現れた赤い鳥居を小蒔はくぐった。

 

 境内の空気は、やはり同じ神の社、霧島神境とよく似ていた。ほっと、直感的に小蒔は安心する。まるで、自分の家のようだった

 

 だが、その安堵は一瞬で崩れ去った。

 

「あ。久しぶり、小蒔ちゃん」

 

 拝殿に続く道の端、京太郎が何でもない様子で立っていた。快活に笑って、片手を上げる。――なぜ、いきなり、こんなところで――当然だ、ここは彼の家なのだから。

 

 理屈では理解していても、小蒔の心は追いつかない。きゅっと胸が締め付けられて、頭がくらくらする。

 それでもなんとか声を絞り出そうとして、

 

「ひ……」

「ひっさしぶり、京太郎!」

 

 脇から躍り出た憧が先に手を振った。

 

「おー、憧も! 久しぶりー!」

「ほら、小蒔も!」

 

 憧に手を引かれて、小蒔は京太郎の元へ駆け寄る。どきどきと、心臓が痛いほど早鐘を打っていた。

 

「いえーい!」

 

 と、憧が掲げた掌に、京太郎も合わせようとする。ほら、と憧に促され、小蒔もおずおずと右手を伸ばした。

 

「い、いえーい!」

 

 彼らと手を打ち付け合う。先に憧と一緒に経験しておいて良かった、と小蒔が安心したのも束の間。

 

 京太郎と指が触れ合った瞬間、

 

「っ?」

 

 びりりと、電流が走った――気がした。思わず手を引っ込める。京太郎も不思議そうに自分の手を見つめている。同時に触れた憧は、なんともないようだった。

 

 京太郎が首を傾げ、

 

「なに? 静電気? 夏なのに?」

「ひゃうっ」

 

 確かめるように、彼は小蒔の手を握りしめた。おかげで小蒔の口から甲高い悲鳴が生まれる。今度は何ともしなかったが、違う意味で彼女は体を震わせた。

 

「きょ、京くん」

「ん?」

「手、離して貰えますか……」

「ああうん、ごめん」

 

 京太郎は平気な顔をしているが、小蒔はもう限界だった。湯気が出そうになるくらい、顔が熱い。一ヶ月前は、ここまで緊張しなかった。もっと無邪気に触れ合えていた気がする。空いた時間が、彼女の心境に変化をもたらしていた。

 

 京太郎が一行を客間に案内すると、各々の父親たちはすぐに別室に引っ込んだ。彼らは彼らなりに仕事があるらしい。

 

 ともかくとして、様々なしがらみから解放された子供たちとしては思う存分遊ぶしかない。

 

「京太郎、ちゃぁんと宿題終わらせたんでしょうね?」

「今年はカンペキ。クラブも休みもらったから、この三日間はずっと一緒に遊べるぜー」

「やたっ」

 

 憧の短い歓声に、小蒔も声を合わせたかったが、上手く言葉にならない。荷解きをしながら、背後の二人の会話に聞き耳を立てるだけになっていた。

 

「頑張って、姫様」

 

 巴に囁かれて、小蒔はさらに体を縮め込む。――東京から戻ってからこっち、六女仙たちはずっとこの調子だ。「頑張れ」だの「期待してます」だの小蒔に言ってくるものの、具体的に何についてかまでは言及してこない。そこがまたいやらしいのだが、彼女たちは純粋に小蒔を応援しているらしく、反応に困るばかりであった。

 

 すう、と一度深呼吸してから。

 小蒔は二人に話しかけた。

 

「きょ、京くん。憧ちゃん」

「うん? どうしたの、小蒔」

「あの、これ。二人にお土産……みたいなものです」

 

 小蒔が二人に手渡したのは、袋に詰められたクッキーだった。京太郎は目を瞬かせ、憧は「わあ」と喜ぶ。

 

「もしかして、これ小蒔の手作り? 凄い!」

「はい。鹿児島名産のお土産は別に、父が持ってきていますので」

「なんだ、そこまで気にしなくても良いのに。でも、ありがと小蒔ちゃん! 食べて良い?」

「もちろんです」

 

 と答えながら、小蒔は内心びくびくしていた。口に合わなかったらどうしよう、そんな不安ばかりが湧いて出てくる。

 

 リボンを解き、クッキーをひとつまみする京太郎の指を小蒔は注視する。一挙手一投足見逃さない、という心持ちであった。

 

 さくり、と音を立ててクッキーは京太郎の口の中へと飲み込まれていった。

 

「うまっ。これほんとに手作り?」

「は、はいっ」

「この間のお粥のときも思ったけど、小蒔はほんと料理上手よね」

「いえ……それほどでは」

 

 京太郎と憧に褒められて、謙遜しながらも小蒔は顔をほころばせる。――良かった。家庭料理はともかく、体力も要するお菓子作りに関しては、彼女もさほど経験がなかった。霞たちと一緒に練習した甲斐があったと言うものだ。

 

 京太郎の案内で、小蒔たちはひとまず境内を見て回る。神社の建築物は当然見慣れている小蒔であったが、京太郎の実家というだけで心躍る風景に見えた。

 

 やがて雨が降り出して、一同は屋内に退避する。

 

 あちゃあ、と京太郎が困り顔を作った。

 

「どうしたの?」

「今日の夜は、近くのお寺まで肝試しするつもりだったんだよ。仕方ない、今日は諦めるか」

「肝試しってあんた、本気でやるつもりだったの?」

「夏に合宿と言えば肝試しって相場が決まってるんだよ。この日のために、頑張って準備したんだぞ」

「変なところで努力しないでよ、もう」

 

 言い争う京太郎と憧を尻目に、小蒔はほっと安心した。怖いものは苦手だ。巫女だから心霊現象の類のものは得意だろう、というのは偏見である――小蒔はそう声を大に主張したい。京太郎には申し訳ないが、肝試しなどもってのほかだ。

 

 しかし、話は小蒔の思わぬ方向に突き進む。

 

「でも、確かに夏と言えば怪談話よね」

「涼める」

「じゃ、代わりと言っちゃなんだけど晩ご飯の後はホラー映画でも見る?」

 

 えっ、と小蒔が戸惑うよりも早く、

 

「良いですよー」

「映画なんて久しぶりですね」

「怖くなかったら承知しないわよ、京太郎!」

「親父がホラー映画好きだから、面白そうなの拝借するよ」

「それは楽しみだね」

 

 皆が盛り上がってしまう。

 

 最早、小蒔が異論を挟む余地はなくなって――

 気が付けば、彼女は須賀家のリビングの中央に座らされていた。ご丁寧に部屋は電気を消して薄暗く、外の雨音が雰囲気を醸し出す。ご丁寧にも引っ張り出されたホームシアターセットの臨場感は、小蒔の緊張を否応なく高めた。

 

 おどろおどろしいBGMと共に始まった映画は、あっという間に小蒔を寒気立たせた。こんなときいつも助けてくれる霞は、どういうわけか今日は後ろで控えている。頼れない。

 

 震える小蒔の指先に、暖かいものが触れた。はっと顔を上げる。――隣に座る、京太郎の手だった。

 

 彼の視線はスクリーンに注がれていて、無意識の行動のようだった。たまたま手を動かした先に、小蒔の指があっただけ。小蒔は振り払わなかった。昼間手を握られたときは、離して欲しいと頼んだというのに、自分でも現金だと思う。

 

 ――でも。

 

 小蒔の指が、勝手に動いて京太郎の指を絡め取る。伝わってくる体温が小蒔の恐怖を和らげてくれた。鼓動が早まる理由がどちらかなんて、もう分からなくなっていた。京太郎と一緒なら、肝試しでも良かったかも知れない――なんて考えは、流石に血迷っているだろうか。

 

 気付けば映画はいよいよ佳境を迎えていた。主要な登場人物のほとんどが幽霊――小蒔はちゃんと見ていなかったので正体はよく分からないが――に呪い殺されてしまい、二人残された男女が、呪いを解くために古い屋敷に乗り込む。

 

 序盤では険悪だったはずの二人が、どこか仲睦まじげな雰囲気を漂わせていた。呪いを解く鍵はどこ吹く風で、お互いの身の上話を始める始末。

 

 こんなことをしていても良いのでしょうか、と小蒔が突っ込みを入れたくなるほど男女の空気は緩んでいる。

 

 あっ、と小蒔はか細い悲鳴を上げそうになった。スクリーンの中の二人は見詰め合うと、どちらかともなく顔を寄せ、唇を重ねた。大人っぽい空気が小蒔をどきどきさせる。霧島神境の情操教育では、普段許されないシーンであった。

 

 ちら、と隣の京太郎を窺ってみれば、若干退屈そうである。彼が期待するのはホラーのみのようだった。

 

 やがて映画はあっさりと、救いのない結末を迎える。後味は悪かったが、当然と言えば当然の結果と言えよう。それよりも小蒔にとって重要なのは、絡み合った指の行方であった。

 

「あー、終わった終わった。結構怖かったな」

「あ……」

 

 京太郎はさして気にする様子もなく立ち上がると、片付け始める。もちろん、小蒔との繋がりは断たれてしまう。小蒔が京太郎に対して、明確に不満を覚えた初めての瞬間だった。

 

 皆であれやこれやと感想を言い合っている内に、寝支度を始めるに良い時間となっていた。

 

 社務所の中に用意した部屋に、今回も皆で床を共にできるということで、小蒔はわくわくする。用意して貰った布団は、京太郎の匂いがした。

 

 前回と同じように、布団の中でのお喋りに興じようと小蒔は考えていたが、あっさりと彼女は眠りに落ちてしまった。無自覚な疲れが溜まっていたらしい。

 

 ――普段なら、そのまま朝を迎えていただろう。

 

 ぱちり、と小蒔の目が開く。部屋の中も外も暗くて、皆の寝息だけが聞こえてくる。時計を見れば、午前一時過ぎ。ふつうなら熟睡している時間帯。うまく寝付けられなかったのは、枕の違いのせいだろうか。

 

 こてん、と小蒔は寝返りを打ってみる。

 

「……京くん?」

 

 隣で寝ていたはずの、彼がいない。

 小蒔は上半身を起こす。他の皆は、やはり眠っている。京太郎だけがいない。きちんと締められていたはずの戸が、少し空いていた。

 

 お手洗いに立ったのだろうか、とも思ったが、しばらく待っても京太郎は戻ってこなかった。

 

 ――先ほどの映画のせいで、部屋の外に出るのが怖い。

 

 しかし、京太郎の行方も気になる。意を決し、小蒔は立ち上がった。戸を引いて廊下に出ると、強めの雨音が聞こえた。

 

 屋外までには出ていないだろう、という小蒔の読み通り、京太郎はあっさり見つかった。

 

 社務所の窓口の椅子に座って、京太郎はぼうっと外を眺めていた。

 

「京くん」

「っ、こ、小蒔ちゃんっ?」

 

 小蒔が声をかけると、京太郎はびくりと肩を震わせて振り返った。驚かせてしまった。

 

「ご、ごめんなさい」

「や、うん、気にしなくても良いから」

 

 気まずそうに、京太郎が顔を逸らす。二人の間に、ぎこちない沈黙が落ちた。

 先に切り出したのは、小蒔だった。

 

「あの……どうしたんですか? 眠れないんですか?」

「ん、ちょっと」

 

 ばつが悪そうに、京太郎は笑った。彼にしては、歯切れの悪い回答。不思議に思った小蒔が一歩近づくと、京太郎はがたりと椅子を揺らした。動揺しているのは明らかだった。

 

「……京くん?」

「違う、違うからっ」

 

 避けられた、と思う小蒔が悲しげな眼差しを送ると、京太郎はぶんぶんと頭を振る。

 

「その……どきどきして寝られなくて」

「どきどき? 映画のせいですか?」

「……映画自体じゃなくて、ずっと、小蒔ちゃんと手、繋いでたから、だからその……」

 

 京太郎が目を逸らして、尻すぼみする声を出している内に――

 一気に、小蒔の頭は沸騰した。気付かれていた。意識されていた。しかもそのせいで、眠れなかったと言うのか。

 

 何なのだこの状況は、考えもしなかった――喜び、困惑、様々な感情が渦巻いて、小蒔も二の句を継げなくなる。

 

「ごめん、もう寝る」

 

 恥ずかしげに京太郎が椅子から立ち上がる。

 脇を通ろうとする彼の腕を、小蒔は掴み取った。――掴み取ってしまった。体が勝手に動いている。

 

「小蒔ちゃん?」

 

 思い浮かべるのは、映画の一幕。クライマックスでの、主人公とヒロインの例のシーン。

 

 はしたない、と母には怒られそうだけれども。今までの自分なら、大した感想は生まれなかったのだろうけれども。

 

 今の小蒔は、「あんな風に」と憧れてしまっていた。

 

 そっと――本当に、そっと――彼女の唇が京太郎の頬に触れる。

 

 映画そのままはハードルが高かったものの。

 彼女は、やり遂げた。やり遂げてしまった。舞い上がった気持ちが、そうさせた。

 

「――ぁ」

「――ぅ」

 

 赤くなった京太郎の顔を見て、小蒔は自分のしでかしたことの大きさに気付く。

 

「ごごごごごめんなさい!」

 

 京太郎からすぐに距離を取って、彼女は寝所に戻った。逃げ出したつもりだが、京太郎もここに戻って来なければならない。顔を見せないように小蒔は布団に潜り込み、枕を抱き締める。もう完全に頭は恐慌状態であった。

 

 明日、どんな顔で「おはよう」と挨拶すれば良いのか、小蒔には見当も付かなかった。

 

 

 その一部始終を、彼女に目撃されていたことに、小蒔は気付かなかった。

 

 

 




次回:十二/新子憧/山岳迷宮・中


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十二/新子憧/山岳迷宮・中

 

 できる限り、平然と。

 

 憧が京太郎と再会するにあたり、心がけていた言葉である。正直長野旅行は楽しみすぎて、移動する一週間前から彼女は浮かれていた。何度も穏乃に不審がられてしまったが、何とか誤魔化した――誤魔化せていなかったのに気付いたのは、八年経ってからであったが。

 

 ともかくとして、あまりに「会いたかった」などとがっつけば京太郎が調子に乗りそうだったので、憧は自重する道を選んだ。

 

 一ヶ月前、この気持ちに気付く前――そのときと、態度が変わらないように気を付ける。と言っても、自然と憎まれ口を叩いてしまうのは最早性分なのかも知れない。穏乃に対してもそういうところがあると、憧は自覚していた。結局、憧は再会した後も、変わらない振る舞いで京太郎と接していた。

 

 ――それが、いけなかったのだろうか。

 

 小蒔はいつも自分の前を歩いていると、憧は思う。自分と同じように京太郎の隣にいながら、自分よりも京太郎の近くにいる。素直な彼女は、憧が越えられない壁を容易に越えてしまう。

 

 彼女のことは、大好きだ。

 

 今更憎くなったり、疎ましく思えたりはしない。京太郎と小蒔、どちらも同じくらい大切な友達なのだ。

 

 でも、だけど、だからこそ。

 

 深夜、小蒔が京太郎の頬に口づけするところを目撃してしまったとき。

 

 憧の心はかつてなく、ざわめいた。起き上がった小蒔を追いかけなければ良かったのだろうか。あるいは、先に自分が京太郎を追いかければ良かったのだろうか。そうしたら、自分は小蒔と同じことをしたのだろうか。

 

 堂々巡りの考えを、無理矢理打ち捨てて。

 

心にひっかかりを抱えたまま、憧は長野の朝を迎えた。

 

 

 ◇

 

 

長野/軽井沢

 

 前日からの小雨は、今日も変わらず降り続けていた。予報によれば、長野は今夜ピークを迎え、朝方には晴れるという。

 

 避暑の意味も兼ねて予定されていた軽井沢観光は、雨天決行となった。夏休み期間とあって、雨でも軽井沢の町は多くの観光客で賑わっている。

 

 憧は、京太郎の差す傘に入って観光街の舗装道を歩いていた。初めて会った日と、少しだけ似ている。

 

 小蒔は憧たちの十数メートル後ろで、霞たちとともに町を見て回っていた。憧と京太郎、どちらの傍にも彼女は寄ってこない。

 

「ねぇ、京太郎」

「どした?」

「小蒔と何かあった?」

 

 憧が質問した途端、京太郎は視線を泳がせる。何があったかなんて、憧は当然知っている。こんな問いかけは意地が悪い、と思いながらも、彼女はせざるを得なかった。そうしないほうが不自然だから。というのは建前で、京太郎の気持ちを確かめたかったのが、憧の本音である。

 

「……別に、何も」

「嘘。じゃあどうして小蒔を避けてるの?」

「どっちかって言うと、俺のほうが避けられてるだろ」

 

 確かに、と憧は頷きたくなった。今朝からこっち、小蒔は京太郎の顔をぽーっと見つめては、彼と目が合う度に顔を背けている。あるいは京太郎から話しかけようとする度、霞たちの影に隠れようとするのだ。こうもあからさまだと、誰だって気付く。霞たちは苦笑するばかりで、助け船を出すのはまだのようだ。

 

 昨夜の一件は小蒔から仕掛けたものであり、決して京太郎の意思ではなかったと安堵する一方で、彼女のいじらしい姿がまた憧の胸を打つ。男の子はああいうタイプが好みだとクラスメイトからよく聞いていた。一歩間違えれば、あざといだとか言われて嫌われるのだろうが、少なくとも小蒔の場合そうは見えない。

 

「言っておくけど、喧嘩なんてしてないからな」

「あんたはともかく、小蒔は喧嘩なんてしなさそうだもんね」

「俺だって、お前らを避けたりなんか絶対しないって」

 

 京太郎の言葉に自分も含まれていることに気付いて、我ながら単純だと思いながらも、憧は嬉しくなった。

 

「原因は何にせよ、小蒔ときちんと仲直りしてね。旅行中ずっと気まずいのは、嫌だから」

「……ん。分かったよ」

「よろしい……」

 

 ――少なくともその間は、京太郎の隣は独占できる。

 その事実に気付いて、憧は体を硬直させた。

 

「憧? どうした?」

 

 傘から憧の体がはみ出そうになって、京太郎が足を止めた。喉から出かかった変な声をなんとか押し込んで、憧は彼に追随する。

 

「な、なんでもない」

「あんまり雨に濡れたら風邪引くぞ」

「気を付けなきゃいけないのはあんたのほうでしょ。一ヶ月前のこと忘れたの?」

「問題なし。あんな不覚をとったのがおかしいんだよ。ふつうなら、全然平気なんだよ」

 

 根拠のない自信を振りまく京太郎に、憧はくすりと笑った。呆れてしまうような物言いでも、彼なら許してしまえる。自分でも重症だな、憧は自嘲した。

 

 傘を打つ雨音が、心地よい。

 さりげなく、憧を傘の内側へ誘う京太郎の気遣いが嬉しい。

 

 行き交う人々から向けられる、微笑ましいものを見る視線は、憧をちょっとだけ得意気にさせた。そういう風に見られるのだとも、自覚する。

 

 目に付いたお土産屋に入って、京太郎とああでもない、こうでもない、と話し合うのが楽しかった。誰にも邪魔されない、二人だけの時間。

 

 雨で視界が悪いはずの世界が、色づいてゆく。

 

 ――ああ、長野に来て良かった。

 

 たったこの数十分だけで、憧はもう満足だった。胸焼けしそうで、ともすれば苦しくなる感情を、しかし彼女は受け入れる。

 

 ガラス細工の工芸品を、興味深そうに覗き込む京太郎の横顔を、憧はそっと窺った。昨夜、その左頬に小蒔の唇が触れた――思い出すと、心臓の辺りにずきりと痛みが走る。

 

 京太郎は精緻なガラス細工に目を奪われていて、隙だらけだった。

 

 ――今、なら。

 

 自分の中に生まれたその考えに、憧は一人動揺する。彼の頬に、釘付けになっていた。

 

「京くん、憧ちゃん」

 

 陳列棚の向こう側からか細い声で呼びかけられ、憧はびくりと体を震わせた。

 

 小蒔が顔を赤らめて、立っていた。彼女の肩をがしりと掴んでいるのは、初美と巴だった。どうやら、ようやく背中を押されてきたらしい。

 

「私も一緒に見て回っても、良いですか?」

 

 彼女の問いかけに、憧は。

 少しばかりの残念な気持ちと、やはり彼女がいなければ、という期待を入り混じらせて、

 

「もちろんっ」

 

 笑顔で答えた。

 

 それでも小蒔は指をもじもじさせて、京太郎は気まずそうに目を逸らしている。

 

 仕方ないなぁ、と彼女たちの手を取ったのは、憧だった。二人を憧が引き連れる形で、軽井沢の町を巡る。京太郎も小蒔も最初は戸惑っていたが、徐々にいつもの空気を取り戻しているようであった。

 

 この関係の脆さを理解しながら、憧はもうしばらくはこのままでいたかった。自分が望まなくても、変化してしまうときが来るのかも知れない。自分から望んで変えようとする日が来るのかも知れない。

 

 いや、その日は必ず訪れる。

 

 だからこそ、憧は大切にしたいと願った。もしも明日壊れたとしても、後悔のないように。

 

 それがどれだけ難しいことか、理解しないまま。

 

 

 ◇

 

 

長野/須賀神社

 

 軽井沢から戻ってきた憧たちは、長野最後の一夜を過ごしていた。

 

 予報通り雨足は強まりを見せ、結局長野の星空は一度も見えなかったものの、屋内で小蒔や京太郎、霞たちと過ごすだけで充分楽しい。出発前は、二泊三日という言葉はとても長く聞こえたが、時間は溶けるように消えてしまった。

 

「次はうちか霧島神境、どっちにする?」

「年末年始はどこも忙しいでしょうから、避けたほうが無難かしら」

「じゃあ春休みかー。遠いなー」

「シルバーウィークならどうでしょう? 今年は結構長い連休だったと思うんですが」

 

 全員で、次の旅行の企画を打ち立てる。その希望が父親たちに通るか定かではなかったが、夢を膨らませずにはいられなかった。前回、再会を約束して寂しさを紛らわせたように、今回もそうしていたのだ。

 

 喧々諤々の議論の末、次回の集合場所は新子神社に決定し、一行はようやく布団に入る。普段ならもう、眠っている時間だった。

 

 疲れていると自覚のあった憧ではあるが、いざ寝る段階になって、目が冴えてしまった。今日も小蒔と京太郎が二人きりになったらどうしよう、という不安が降って湧いたのだ。

 

 だが、それは杞憂のようだった。

 

 小蒔はすやすやと眠り、目覚める気配はない。京太郎は起きているようだが、布団から出ようとはしていない。

 

 布団の中から、京太郎の首筋を覗く。ただそうしているだけで、どきどきした。

 

「なぁ、憧」

「ふきゅっ」

 

 突然京太郎が寝返りを打ってきて、目と目が合う。見つめていたのがバレたと思った憧は、慌てて布団の中に引っ込んだ。

 

「ど、どうしたの」

「明日さ、皆帰る前に行きたいところあるんだけど」

「い、行けば良いじゃない」

「憧と小蒔ちゃんに来て欲しいから。だめ?」

「……おっけー。行く」

 

 声を上擦らせながら、憧は応じた。

 急な不意打ちは止めて欲しい。話の内容もろくに頭に入ってこないではないか。自分だけこんなに困ってしまうのは、不公平だ。

 

「憧」

「な、なによ」

 

 なおも名前を呼ばれ、憧の頭は混乱の極みだ。

 しかし京太郎は、歯切れが悪く、

 

「……なんでもない」

「ちょっと、言いかけて止めるなんて気になるでしょ」

「なーんーでーもーなーいー」

 

 何なのだもう、と憧は憤慨する。布団の中から手を伸ばして、京太郎の頬を抓り上げる。おいこら止めろ、と京太郎が暴れるが、悪戯心に火が付いた憧はもう片方の手も伸ばした。

 

「ちゃんと言え、このこのっ」

「痛い、この、離せっ」

「言うまで離さないっ」

「このやろっ」

 

 京太郎も反撃に出て、お互い頬を引き伸ばし合う。揉み合い押し合い、京太郎が憧の布団の中に入り込む。

 

 可能な限り声を押し殺した二人のじゃれ合いは、くすぐりに切り替えた憧が優勢に持ち込んだ。だが単純な腕力では普段から鍛えている京太郎が上。

 

 最終的に、憧は京太郎に組み伏される形となった。

 

「――」

「……」

 

 反撃に出ようとしていた憧は、動きを止める。京太郎も、動かなくなる。憧の肌に京太郎の肌が触れて、上昇した彼の体温が伝わってきた。彼の吐息が、憧の頬にかかる。

 

「……寝るか」

「……うん」

 

 どちらからともなく、二人は離れた。よそよそしく、京太郎は自分の布団に戻っていく。

 しばらく憧が眠れなかったのは、当然であった。

 

 

 

 ――翌朝は、打って変わって空は晴れ渡った。

 朝食を摂った後、しかし出発までやや時間はある。帰り支度を終わらせたところ、

 

「小蒔ちゃん、憧」

 

 憧は小蒔と共に、京太郎に手招きされた。

 

「どうしたの?」

「昨日言っただろ。行きたいところあるって」

 

 そのまま京太郎はずんずん歩き出す。二人は顔を見合わせてから、彼の後を追った。――六女仙や親たちは、神社に残して。

 

 京太郎は一度須賀神社から出て、しばらく歩いた後、別の山に分け入った。山道は、子供三人で充分に並んで歩ける幅はあったが、あまり使われていない様子だ。

 

 少し不安になったのだろう、小蒔が訊ねた。

 

「どこに行くんですか?」

「俺のお気に入りの場所。あんまり人が来なくて、良いところなんだ」

 

 雨上がりの空気を肩で切って、京太郎は二人の前を進む。もう、と憧は頬を膨らませ、京太郎の背中を追った。

 

 道はどんどん細くなる。右手側は山の壁。左手側は崖に、鬱蒼した森が広がっている。奈良の山と毛色は違うが、憧にとっては慣れ親しんだ風景でもある。流石に、この崖を降りる気には全くなれないけれども。

 

 知らない山だからか、憧はかなり長く歩いた気がした。体力のない小蒔は少し息を切らせ、京太郎と憧の二人に手を引かれる。

 

「まだなの? 京太郎」

「もうすぐもうすぐ」

 

 その言葉から、十分余り。

 木々で遮られていた光が、急に憧の目に差し込んだ。一度、瞼を閉ざす。

次に彼女が目を開いたとき、広がった光景。

 

「――わぁ」

 

 憧は、笑みを零した。後ろで小蒔も歓声を上げる。

 

 ――長野の美しい嶺たちを、一望できる丘。連なる山は、神秘的とも言える厳かな雰囲気を漂わせる。圧倒的な大自然は、人の心を打つには充分だった。

 

「きっれー!」

「凄い……」

 

 自然と、憧と小蒔の足は動いていた。霊山に住まう彼女たちでも――だからこそ、強い感銘を受けた。

 

「だろ?」

 

 京太郎が得意気に笑う。流石の憧も、「うん」と素直に頷くばかり。小蒔は見惚れて言葉が出てこない様子だ。

 

 京太郎は一本だけ立っている木へと、静かに背中を預ける。そのまま彼も、山を眺めていた。きっと、いつも彼はそうしているのだろう。憧は、何となく察した。

 

 小蒔と肩を並べて、憧はしばしの間山を見つめる。澄んだ空気が心地よい。

 

 ぐるりと他の山も見て回ろうと、憧は丘を移動する。

 そこでふと気付いた。かなり細くはあったが、さらに上へ続く山道がある。

 

 ――京太郎は、まだ一人で山を眺めている。

 

「ねね、小蒔」

「はい?」

 

 憧は、思いついた悪戯を隣の小蒔へと耳打ちする。

 

「もっと上に行けるみたいだし、行ってみない? ほら、あそこの道」

「それじゃあ京くんも」

「あいつぼうっとしてるし、今のうちに隠れて驚かせよ」

 

 昨夜の腕力で負けた意趣返しだ。慌てふためく京太郎の姿を見てみたかった。

 でも、と小蒔は渋る。胸元に手を当て、悩ましげに息を吐く。その仕草は可愛らしくて、ついつい従ってしまいそうになる。実際のところ、普段の冷静な憧なら「そうだね」と納得するところだったろう。

 

 しかし、今日の憧は違った。

 

 思い返されるのは、小蒔が京太郎に口づけした瞬間。

 

 ぎゅっと唇を噛んで、憧は意地悪く言った。――小蒔にそうしたのは、初めてだった。それが、全てを分けた。

 

「怖いんだ?」

 

 皮肉混じりの声は、小蒔を驚かせるとともに、意地を張らせた。

 

「そんなこと、ありません」

「じゃあ、行こう」

「……はい」

 

 憧は、京太郎に気付かれないよう静かに、小蒔を伴って脇道に入る。

 

 見た目以上に細い道は、想像以上に長く続いていた。ゆっくりと、確実に進んでいくが、中々開けた場所に辿り着かない。

 

 だが、このくらい奈良の山でもよく通る。問題ない。

 憧はそれが過信と気付かず、ずんずんと山道を歩く。

 

 ――そう、昨夜までの雨のせいで、憧が考えているよりもずっと地面はぬかるんでいた。

 

 ずるり、と彼女の足元が滑る。

 

「きゃっ」

「憧ちゃんっ」

 

 眼下に広がるのは、斜面ながらも勾配はかなり急、下は森の緑一色。人気など、見込めるはずはない。絶対に落下してはならないと、何とか傍の岩に手をかけて、憧は踏み止まった。――危うく、踏み外すところであった。

 

「……ふぅ、危なかった」

「や、やっぱり戻りましょう」

「……うん。ごめん、そうだね」

 

 涙目になった小蒔の提案を、流石に憧は受け入れる。やっと、冷静さを取り戻した。

 

 ――なんで、あんな意地悪言っちゃったんだろう。

 

 胸を妬く気持ちを、心のひっかかりを、無視できなかった。割り切れるものではないと、彼女は知らなかった。憧は、自分の言葉を悔やんだ。

 

 ――だが、真の後悔は、次の瞬間にやってくる。

 

 がらら、と音を立てて土と石が空から振ってきた。

 

「え……?」

 

 小蒔と一緒に、山の壁を見上げる。

 土石流、というにはほど遠い。

 

 だが、「それら」は確実に小蒔と憧に降り注ぐ。土と石の群れ。小規模ながら、崖崩れが発生していた。

 

 立ち位置が悪かった。飲み込まれた小蒔が先に、あっさりと足を踏み外した。

 

「小蒔!」

「憧ちゃん!」

 

 手を伸ばす。ぎりぎりで掴み取り、しかし憧の足場は崩れてゆく。

 

 浮遊感。

 血の気が引いた、小蒔の顔。

 空を舞う砂の一粒一粒が、はっきりと見て取れる。

 

「小蒔ちゃん! 憧!」

 

 最後に彼女の耳に届いたのは、必死で呼びかける男の子の声だった。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 八年後。

 憧と小蒔が断片的に覚えていたのは、京太郎を含めた三人で山を登ったこと。

 そして、崖から落ちた瞬間。

 

 その二つのみであった。

 

 

 




次回:十三/須賀京太郎/山岳迷宮・後


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十三/須賀京太郎/山岳迷宮・後

 子供のご多分に漏れず、京太郎は夏休みが好きだ。スポーツに打ち込むようになって、その傾向はさらに顕著になった。

 なおかつ、今年はまた一味違う。

 

 小蒔と憧、霞たちが長野に来る。

 

 去年はぎりぎりまで放置していた夏休みの宿題も、あっという間に終わらせた。後は、彼女たちとの思い出を絵日記につけるだけ。迎える準備も万端だ。男友達にうっかり話してしまったら、随分とからかわれてしまったけれど、京太郎は気にしなかった。

 

 皆に――二人に会えるのだから。

 

 その、大切な再会の終わりが、自分のせいで苦々しいものになるなんて、彼は想像もしなかった。

 

 

 ◇

 

 

 腕に走る痛みが、京太郎を目覚めさせた。

 

 背中を預ける地面は硬く、ごつごつとしていて寝心地が悪い。

 

「……あれ」

 

 どこで眠ってしまったんだっけ――寝惚けた頭が上手く働かず、寝転んだまま京太郎はしばらく呆然としていた。――家ではない。どうしてこんなところで眠っていたのか。もしかしたら、夢なのだろうか。

 

 しかし、右腕がずきずきと訴えかけてくる痛覚は本物だ。これが、現実であると認識する。

 

 土と木々の匂い。

 虫と鳥の鳴き声。

 世界は、暗い。

 山。森の中。

 

 断片的な情景と記憶がかちりと嵌まり合い、京太郎は一気に覚醒する。

 

 ――気を失う直前、京太郎は彼女たちを追いかけた。

 

 そう、いつのまにかいなくなっていた憧と小蒔。ようやく見つけたその先で、彼女たちとともに崖崩れに巻き込まれたのだ。

 

「憧! 小蒔ちゃん!」

 

 叫び、京太郎は立ち上がる。

 途端、バランスをとれずに彼はその場に転んだ。

 

「うぐっ」

 

 右腕とは別、自覚のなかった左足が痛む。折れては――いないだろう。大量出血も見られない。だが、ひびくらいは入っていそうだ。よくよくみれば、体中あちこちが擦過傷でまみれている。

 

 自分の体ばかりを気にしていられない。

 

 転んだまま京太郎は、もう一度叫んだ。

 

「憧ッ! 小蒔ちゃんッ!」

「んん……」

「京……くん……?」

 

 か細い二つの呻き声が、京太郎の耳に届く。

 

 ほとんど這うようにして、京太郎は声のあった方向に向かった。

 剥き出しの土の上、小蒔と憧は、互いをかばい合うように折り重なっていた。服があちこち破れてしまっている。

 

「大丈夫、二人ともっ?」

 

 二人の肩を揺する。彼女たちはなおも呻いていたが、やがて目を開ける。

 

「京太郎……あれ、あたしたちどうしたの……」

「確か……憧ちゃんと山を登っていて……」

 

 そこで二人ともはっきりと意識を取り戻したらしい。さっと、憧の顔から血の気が引く。

 

「あたしたち、もしかして」

「あの崖から、落ちたんでしょうか……」

 

 不安そうに小蒔は空を見上げるが、背の高い木々が太陽を遮っている。今が何時なのかも分からない。

 

 だが、彼女の言葉は状況を正確に言い当てていた。

 

 三人は、人里離れた山の中に放り出されてしまった。それがどれだけ過酷なことか、子供の彼らでもすぐに理解できた。

 

 三人の間に、しばらく沈黙が降りる。

 

「ごめん」

 

 静寂を打ち破った京太郎は、声を震わせながら謝罪する。

 

「俺が、こんなところに連れてきたから」

「止めて!」

 

 憧の制止は、ほとんど悲鳴染みていた。

 

「あたしがっ、あたしが小蒔を無理に誘ってっ。あんな道に行かなきゃっ」

「違う、そもそも俺がッ」

「あたしがっ」

 

 京太郎にとって、憧の自責は到底認められるものではなかった。そもそもの責任はどう考えても自分にある。危険も伝えなかった。雨の後のぬかるみも考慮していなかった。

 

「だから……!」

「違う……!」

 

 原因のなすりつけ合いにならないだけマシだったが、何の解決にもならない言い争いだということには変わりない。水分と体力を徒に失うだけだ。だが、感情的になった京太郎は自分を止められない。憧にもその気配はなかった。

 

 そのまま閉じる気配のなかった二人の口は、

 

「そこまでです」

 

 小蒔の掌で塞がれた。

 

「こ、小蒔ちゃん?」

「二人の気持ちは分かります。ですが、憧ちゃんを止めず、鈍くさくて崩落に巻き込まれた私にも責任があります」

「でも、小蒔……」

「ですから」

 

 なおも言い募ろうとする憧の肩を抑え、小蒔は笑った。この状況で、彼女は優しく微笑んで見せた。

 

「三人で、三等分ということで」

「……小蒔ちゃん」

 

 いつか、東京でも彼女は同じ言葉を口にした。その言葉と微笑が、京太郎の心の重石を幾分か軽くしてくれた。焦燥感はそのままに、彼は冷静さを取り戻す。

 

「二人とも、怪我してない?」

「擦り傷はありますけど……はい、大丈夫です」

「あたしも、大丈夫。京太郎は?」

「右腕がちょっと痛いけど、それだけ」

 

 京太郎は、左足の怪我を黙っておくことにした。今は、そうすべきと判断した。

 

「京くん、私たちを庇ってくれたんですね」

 

 京太郎の右腕をさすりながら、小蒔は辛そうに言う。

 

「間に合ってれば、一番良かったんだけど……いや、もう言っても仕方ないな」

 

 森は暗く、今何時かも分からない。気を失ってからどのくらいの時間が流れたのかも。誰も、時計を持っていなかった。

 

 京太郎はすくりと立ち上がる。左足の痛みは無視した。痛みには慣れている。なんでもない振りをするんだ、と彼は自分に言い聞かせた。手近に落ちてあった木の枝を杖代わりにすれば、歩くこともできそうだ。

 

「……移動しよう」

 

 考えた末、京太郎はそう提案した。座ったまま反論したのは、憧だった。

 

「テレビで見たことあるんだけど、遭難したときはその場を動かないほうが良いって。そうしたほうが良いんじゃないの?」

「ここに来るとき、俺この山に来たこと誰にも言ってないんだ。親にも教えてない場所だったし、道中すれ違った人もいなかった。運が悪かったら、見つかるまで時間がかかる」

 

 それで、と京太郎は一度言葉を切った。

 

「この、裏山側は野犬が出るって話を聞いたことがあるんだ。せめて、身を隠せる場所に移動したほうが良いと思う」

 

 捜索されるまでに野犬の群れに遭遇したら、ひとたまりもない。大人でさえ徒手空拳で挑む相手ではない。子供三人など鴨が葱を背負っているようなものだろう。

 

「……でも、正直憧の言うとおりだとも思う。素人判断は止めたほうが良いかもしれない」

「小蒔は、どう思う?」

 

 憧に訊ねられる前から、小蒔は考え込んでいたようだ。かつてない張り詰めた彼女の表情に、京太郎も緊張する。

 果たして小蒔は、

 

「少なくとも、ここは離れたほうが良さそうです」

 

 と、答えた。どうして、と憧が訊ねるよりも早く、小蒔は立ち上がった。

 

「嫌な予感がします」

 

 根拠は何一つなかったが、有無を言わさぬ迫力が彼女にはあった。自然と憧も立ち上がる。

 

「行こう」

 

 京太郎を先頭に、三人は歩き出した。地面はやや傾いている。降るように、彼らは進んだ。左足はやはり痛いが、我慢できないほどではない。

 

 慌てず、急がず、歩を進め――

 数分経った後のことだった。

 

 後方から、轟音が聞こえた。

 

「う、わッ?」

「な、なにっ?」

 

 振り返ったその先、よくよく目を凝らせば大きな岩がいくつも転がっているのが見えた。さらには砂の海が広がっている。先ほどまで、自分たちがいた場所に。

 

 本格的な崖崩れだ。ごくり、と京太郎が唾を飲み込む。

 

「……俺たち、まだ運が良かったのかもな」

「ううん。小蒔が言わなかったら、あれに巻き込まれていた」

「小蒔ちゃん、どうして分かったの?」

「い、いえ。本当に、嫌な予感がしただけです」

 

 答える小蒔の顔も青ざめている。嘘は言っていないようだ。

 

 京太郎は、自分が神社の息子であることは重々承知していたが、父親も含めて須賀家に霊感や神通力の類といった才覚はないと考えていた。

 

 しかしながら、神道の世界でも霧島神境の血筋は別格、という話は耳にしたことがある。小蒔が第六感を働かせた、と言うのなら信じてしまえる。

 

 何よりも。

 

 さっきの小蒔は、不思議な空気を漂わせていた。まるで、彼女が彼女でないような――そんな、奇妙な感覚。

 

「小蒔ちゃん」

「はい?」

「……ううん、なんでもない。――憧、もう少し崖側から離れよう。また崩れるかも知れない」

「うん、分かった」

 

 安易な進路変更は、簡単に道に迷わせる。しかし、非常事態にそこまで京太郎の頭は回らなかった。今目の前にある危機から脱するのが最優先となる。

 

 ――何時間、歩いただろうか。

 いよいよ左足の痛みが酷くなってきた。

 右腕も、相当辛い。

 

 夏で良かった、と京太郎は安心する。額から流れ落ちる汗を、誤魔化せる。

 

 どのくらい歩いただろうか――京太郎は、左耳にせせらぎの音を捉えた。

 

「川だ!」

「やったっ」

 

 憧が走る。彼女は冷たい水をすくい、ごくりと飲んだ。

 

「生き返るーっ。綺麗な水だよ、これっ」

「ああ、ほんとだ……。助かった」

「美味しいです」

「もしかしたら川伝いに降って行けば、戻れるかな」

「きっとそうだよ!」

 

 憧が歓声を上げた。彼女の表情に、希望の灯が点る。小蒔もほっと、安堵した。

 

「帰れるんですね、私たち」

「うん、俺が憧も小蒔ちゃんも……絶対に、家に帰すから」

 

 京太郎は、声の震えを隠して言い切った。彼女たちに不安を与えてはならない。守らねばならない。守りたいのだ。

 

 二人は、京太郎の大切な友達だ。大好きな、女の子たちなのだ。

 

 その気持ちの正体を判別するには彼は幼すぎたが、そんなものは関係ないと言わんばかりに、彼女たちの前を歩く。

 

 ――きっと、助かる道がこの先に待っているはず。

 

 その考え全てが甘く、愚かであることを、京太郎はすぐに思い知らされた。

 

 川沿いを突き進んだ先、急に森を抜けた一行は、西日に襲われる。もうこんな時間になっていたのか――驚きながら、闇に慣れていた彼らの目が眩んだ。

 

 それでも京太郎は、うっすらと目を開ける。

 この先にあるはずの、救いの光景を求めて。

 

 だが、

 

「……そんな」

 

 憧が、膝から崩れ落ちる。

 

 川は、消えていた。

 否、川は滝へと変貌していた。とてもではないが、飛び込んで助かる高さではない。

 

 あまりにも短慮であった。ぎゅっと、京太郎は木の枝を掴む手に力を込める。血が滲むのも、いとわなかった。二度、三度深呼吸して、叫び出したい感情を全て抑え込んで、京太郎は二人に言った。

 

「ここは危ない。戻ろう」

「……もう、歩けないよ」

「大丈夫だ。ほら」

 

 弱音を上げる憧の手を引っ張り上げる。体中のあちこちが痛かった。全部、我慢した。

 

「きょう……たろ……」

「安心しろ。憧は俺が絶対守るから。小蒔ちゃんも」

「……はい」

 

 ひたり、と小蒔の体が京太郎にくっつく。彼女の鼓動が伝わってきた。それが、京太郎の心を奮わせる。

 

 夕陽は今にも沈みそうだ。もう、夜まで時間はない。それまでに安全な場所を確保しなくてはならない。

 

 彼女たちを伴って、もう一度歩き出そうとし、京太郎は息を呑んだ。

 近くの茂みが、がさりと動いた。

 

 まさか、という願いと。

 やはり、という納得が、京太郎の胸に同時に去来する。

 

 うなり声を上げながら、森の中から一匹の犬が現れる。首輪など、当然あるわけがなかった。二匹目、三匹目と続く。

 

 ひっと、憧が短い悲鳴を上げた。当然だ。野犬たちの目は、いずれも鋭く輝いている。口を開けば獰猛さを象徴する犬歯が覗き見え、荒々しい唾液が飛び散った。

 

 弱肉強食という四字熟語を、夏休み前の国語の授業で習ったことを、京太郎は思い出していた。自分が今、どちらの立場に立たされているかなんて、今更言及する必要もない。

 

「小蒔ちゃん、憧」

 

 決意を秘めて、京太郎は背後の二人に囁いた。

 

「二人で、逃げろ」

「な、なんで、京太郎はっ?」

「足、怪我してるから。もう走れない。俺がなんとかあいつらを引きつけてみせるから、その内に」

「何で今そんなこと言うのっ。無理だよ囮になるなんてっ」

「やってみなくちゃ分からない!」

 

 憧と問答してはいられなかった。ぶん、と木の枝を勇ましく振るう。

 京太郎自身、この選択が自棄であることは分かっていた。それでもやらなければ、という強い意思に彼は突き動かされる。

 

 しかし、そんな彼の肩を、

 

「京くん、憧ちゃん」

 

 そっと、掴む手があった。

 

「小蒔?」

「小蒔、ちゃん……?」

「ここは、私に任せて下さい」

 

 一体何を言い出すのか――京太郎は、ぽかんと口を開けてしまう。自分にも無理なことを、小蒔にできるわけがない。この状況に限っては、そう断言できた。

 

 そんな疑問をすぐに汲み取ったのだろう。

 

 小蒔は、小首を傾げて微笑んだ。

 

「心配しないで下さい。私には――女神様たちがついていますから」

 

 その言葉の意味を問うよりも先に、小蒔に手を握られる。

 

「でも、少しだけ不安だから……こうしていて下さい」

 

 獲物たちの反撃を警戒していた野犬たちが、にじり寄ってくる。完全に追い詰めたと、彼らは判断したのだ。

 

「お母様、ごめんなさい。約束を破る小蒔を、どうか許して下さい」

 

 京太郎の耳に、小蒔の小さな小さな懺悔が、届いた。

 

 ――同時。

 

 ばちり、と京太郎の手に稲妻が走った。

 

 

 

 

 

 ――圧倒、であった。

 

 小蒔の小さな体から、輝きが溢れ出す。生暖かい風が、京太郎の頬を撫でた。訳も分からず、体が震える。

 

 一歩、小蒔が前に進む。

 一歩、野犬たちが後ろに下がる。

 

 もう一歩、小蒔が前に進む。

 もう一歩、野犬たちが後ろに下がる。

 

 さらに一歩、小蒔が前に進んだ。

 今度は下がらず、野犬たちは低いうなり声を上げる。それは、野生としての意地だったのだろうか。

 

 襲いかからんとする勇猛な野犬がいた。

 その直前、彼は前足をもつれさせ、その場に倒れた。

 

 吠えようとした怯える野犬がいた。

 叫びは叫びにならず、喉はひゅうひゅうと音を立て、その場に倒れた。

 

 逃げようとした賢しい野犬がいた。

 踵を返そうとしたところまでは良かったが、四肢から力は失われ、その場に倒れた。

 

 ――なんだこれは。

 

 京太郎は、呆然とその光景を見届ける。野犬たちが、ばたばたと倒れていく。――こんなことが、あり得るのか? 京太郎の疑問に答える者はいない。

 

 なによりも。

 

 まるで、小蒔の存在感が違う。繋がれた手から伝わってくる体温が、違う。あの、小蒔の柔らかい空気が霧散している。

 

 ばたり、と。

 

 隣で憧が、糸が切れた人形のように、倒れ伏せた。まるで、他の野犬と同じように。

 

「あ、憧っ?」

 

 京太郎は駆け寄ろうとする。が、できなかった。自らの右手を掴む、小蒔の左手に阻まれる。その手が、京太郎の動きを許さない。

 

「こ、小蒔ちゃんっ? 憧が、憧がっ!」

 

 恐慌状態の京太郎へと――小蒔が振り返る。

 

 その仕草。

 その表情の作り方。

 その立ち居振る舞いの全て。

 

 どれも、京太郎の知らないもの。神代小蒔という少女が、これまで一度も見せなかったもの。

 

 もしも京太郎に充分な語彙力があったのなら、それを「妖艶」と形容しただろう。

 

「――誰だ、お前」

 

 彼女の口角が、釣り上がる。

 

「小蒔ちゃんじゃ、ないな……!」

 

 京太郎の指弾に。

 神代小蒔を器に降りた神は、高笑いを上げた。絶対に小蒔が上げない、聞くに堪えない笑い声だった。

 

 憧は、ぴくりとも動かない。彼女に意識が戻る気配は、ない。

 

 京太郎の背中に冷たいものが走る。

 その彼の手を、小蒔は引いた。

 

 突然の行為に、京太郎はつんのめり、小蒔の胸に抱き込まれ、

 

「ん――!」

 

 そのまま、唇を重ねられた。

 

 目を見開き、暴れ、もがく京太郎の体を小蒔は抑え込む。腕力では決して負けないはずなのに、全力で抵抗しているというのに、京太郎は全く振り払えなかった。

 

 たっぷり一分はそうした後、小蒔はようやく京太郎を解放する。だが、彼の体は抱きかかえたままだった。これは自分のものだと主張せんとするばかりに。

 

 呆然とする京太郎の首筋に、小蒔の息がかかった。

 

「――――」

 

 囁き声が、耳に届く。

 

 その意味を問う前に、京太郎の視界は暗転した。

 

 

 

 

 




次回:十四/須賀京太郎/夏の終わり、夏の始まり



※今回は子供たちの行き当たりばったりな下山を描いており、登山時・道に迷ったときの注意点等をあえて無視している箇所が多々あります。また、川沿いを歩くのは大きなリスクを伴います。本内容は登山を否定するものではありません(最近あまり登れていませんが、個人的には山、好きです)。


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十四/須賀京太郎/夏の終わり、夏の始まり

 入日影が差し込む病室、窓際のベッド。京太郎はそこに横たわり、ぼうっと窓の外を眺めていた。体のあちこちが痛み、まともに動かなくて、そうするしかなかった。

 

「なんだ、目、覚めてたのか」

 

 頭上から、太い声が降ってくる。見慣れた顔が、そこにあった。

 

「……親父」

「おう。お前、診察が終わったと思ったらまたすぐに眠っちまったからな、焦ったぞ。母さんは後で来るそうだから、もう少しゆっくりしとけ」

 

 京太郎の父は、手近にあったパイプ椅子を引き寄せ座る。ぎぃ、と椅子が鳴いた。

 ――そうだ。京太郎には、確かめなければならないことがあった。

 

「小蒔ちゃんと、憧は」

 

 恐る恐るといった様子で、京太郎は父に尋ねる。

 

「無事なのか?」

「ああ」

 

 その質問を予見していたのだろう、父は淀みなく頷いた。

 

「さっき、連絡があった。怪我も大したことはない。まだ意識がはっきりしないところはあるが、じきに元通りになるとさ」

「良かった……」

 

 じわり、と京太郎の眦が濡れる。

 

「すぐ会いたい。この病院に二人ともいるんだろう?」

「……京太郎」

 

 父は、首を横に振った。京太郎の表情が、硬直する。

 

「まず、ことの一部始終を俺に説明しろ。大体察しは付いているが、お前の口から説明がないとどうにもならん部分がある。警察にも話さなくちゃならないんだ、予行演習と思え」

「……分かった」

 

 京太郎は、素直に頷いた。もっともな要求だった。酷く怒られると覚悟しながら、小蒔と憧を連れて山を登ったところから彼は話し始める。

 

 いつのまにか二人がいなくなったこと。

 彼女たちを追いかけ、崩落に巻き込まれたこと。

 森の中を彷徨い、川沿いに山を降ったこと。

 辿り着いた先が、滝であったこと。

 

 ――そこで、野犬の群れに襲われたこと。

 

「……それから、小蒔ちゃんが変になったんだ」

 

 思い出しながら、京太郎は身震いする。

 

 あのときの彼女は、小蒔でありながら小蒔でなかった。自分でも何を言っているのか理解できなかったが、そうとしか言い表しようがない。ばたばたと倒れていく野犬たち。同じく意識を失った憧。そして――

 

「親父は、何か知ってるのか?」

「聞かされている」

 

 京太郎の父は、霧島神境の巫女たちの神降ろしについて、語った。

 

 神をその身に宿した巫女たちは、尋常ならざる力を発揮できること。神代小蒔は、何世代遡っても例を見ないほどの才覚を宿した巫女であること。

 京太郎たちを助けたのが、その力であること。

 

 ああやっぱり、と京太郎は納得する。やはりあれは、小蒔ではなかった、と。経験を踏まえれば、信じるに値する話だった。同時に、混乱していたとは言え助けてくれた相手を邪険にしたことを悔いた。お礼を言わなくてはならない。

 

「小蒔ちゃんに会いたい」

「ダメだ」

 

 即座に切って捨てられ、京太郎は眉根を寄せる。

 

「なんでだよ。無事、なんだろ?」

「ようやく無事と言える状態になった……と言ったところだ」

「じゃあ、時間を置いて」

「それもダメだ」

 

 否定する父に、怒りよりも先に京太郎は困惑を覚えた。自分の父は、もっとはっきりさっぱりした性格で、こんな迂遠な話し方はしない。

 

「京太郎」

 

 父は、京太郎の目をはっきり見据えて、言った。

 

「お前はもう、神代小蒔に会ってはならない」

「え……?」

「霧島神境からも、申し入れがあった。俺はそれを承諾した。――今日より我々は、彼らに近づいてはならない」

 

 わなわなと、京太郎の肩が震える。彼は、必死で感情を抑えていた。

 

「俺が……俺が、小蒔ちゃんを危ない目に合わせたから?」

「それは違う。全く別の問題だ」

「じゃあ、どうして?」

 

 父はしばし考え込んでいた。どこから語り聞かせるべきか、悩んでいるようだった。

 やがて彼は、口を開いた。

 

「うちが、勧請された神社ってことはお前も知ってるな。うち自体は特に珍しくもない神社だが、大元を辿っていけば霧島神境にも負けない歴史と格を持っている」

 

 彼の声に、決してうぬぼれなどはない。

 

「霧島神境が神降ろしの力を持っているって話はさっきやったな。実は須賀の系譜も、類似の力を持っているんだ。俺たちは、その血筋を引いている。分家の分家、そのまた分家で出涸らしみたいなもんだがな」

「初めて聞いたぞ、そんな話」

「言ってなかったからな」

 

 悪びれず、父は続けた。

 

「霧島神境は、器を磨くことでより強い力を持つ神を降ろしてきた。須賀も同じやり方を採っていたが、どうにも霧島神境には敵わなかったそうだ。――だから、彼らは別のアプローチを考えた」

 

 声を細めて、京太郎の父は言った。

 

「神に捧げる供物を用意したんだ」

「神に……捧げる……?」

「本来、人の器に神が降りている状態は普通じゃない。荒ぶる神は、いつまでもそこにいられない。だから、彼らの猛々しい怒りを鎮める役割を持つ人間を作り出した。……簡単に言えば、一人で神を降ろしていたところを、他の人間がサポートする形だな」

 

 それは、神を「祓う」とは真逆の発想。神をその場に留め繋げる力。

 

「神様が気に入る雰囲気、空気って奴なのか。そういうものを持った人間を抽出し、須賀は血縁に加えていったんだ」

 

 ここまで話されて、勘付かないほど京太郎は鈍くなかった。

 

「俺に、そんな力があるって言いたいのか」

 

 小蒔がその身に降ろした神。彼女は、異常なまでに京太郎への執着を見せていた。それだけは、京太郎自身も肌で感じていた。

 

「言いたいんじゃなくて、あるんだよ」

「本気かよ」

「ああ。事実、神代小蒔は数時間前まで神を宿したままだった」

「……え?」

「霧島神境の大人総出で、なんとか祓ったそうだ。次も同じことができるかどうかは、分からないそうだ。もちろん、こんな事態は初めてだ。彼女に降りた神を祓うのは、これまで問題になったことがないんだ」

 

 分かるか京太郎、と父は確かめるように訊ねた。

 

 

「神代小蒔は、二度と彼女に戻れなくなるところだったんだ」

 

 

 京太郎は、言葉を失った。

 

 小蒔が、いなくなる。彼女の微笑みが、彼女の優しさが、永遠に失われる。――そんなこと、信じられなかった。

 

「神の器として磨かれすぎた神代小蒔と、神の供物としてのお前は、噛み合わせが悪すぎる。神を降ろさなければ良い、という問題ではない。今回のような事故がまたあるとも限らん。幸い、神の視界にでも入らない限りお前の力は発揮されない」

「だから……近づくなって?」

「……そうだ」

 

 父とて、本意ではないのだろう。仲の良い子供を引き離すことに、良心の呵責を感じないわけがない。だからといって、妥協する人間でもなかった。彼は、あえて厳しい言葉を京太郎に浴びせかける。

 

「お前は、彼女にとって抱えきれない爆弾なんだ」

 

 ぎり、と歯噛みしたのはどちらだったか。あるいは、両方だったのか。

 

 シーツが破れそうになるくらい、京太郎の手に力が込められる。感情の奔流が、痛みさえ忘れさせた。

 そして、湧いて出てきた疑問が一つ。

 

「親父」

「なんだ」

「どうして、そんな俺を小蒔ちゃんと会わせたんだ」

 

 その質問を受け、父は露骨に嫌そうな顔をした。

 

「気分の良い話じゃないぞ」

「どうせ、最低の気分だ」

「……少なくとも一ヶ月前まで、お前にそんな力はなかった。言っただろう、俺たちは分家筋も分家筋。血なんて薄れきって、そっち方面の才能なんてからっきしだ。神職の仕事くらいならできるけどな。――まぁ、きっちり『検査』もしていた。そこは間違いない。あの時点で、神代小蒔と会っても何ら問題はなかったはずなんだ」

 

 ならば何故、と京太郎が言い募る前に、父親は答えを明示した。京太郎が、考えもしなかった名前だった。

 

「新子の娘だ」

「……憧が? なんでここで憧が出てくるんだよ」

「新子んところもな、何代か前によそから宮司をとって、神霊的なセンスはゼロの家系なんだ。だが、新子の山と社は違う。あそこはそれこそ霧島神境に負けず劣らずの力を有している。そこで生まれ育った新子憧は、言い換えれば新子の社そのものなんだろう」

「新子の、社……?」

「そうだ。あそこはな、人の持つ特異な力を芽吹かせ、安定させる性質を有しているんだ。きっと将来、新子憧の周囲には、大なり小なり『力』を持った人間が集まっているはずだ」

 

 その推測が、阿知賀女子学院麻雀部という形で京太郎の前に現出することを、当然このときの二人はまだ知らない。

 

 お前はその影響を受けたんだろう――溜息混じりに、父は言う。

 

「本来ならそう簡単に影響を受けたりはしないんだが……かなり根が深い肉体的、精神的接触があったはずだ。一ヶ月前、お前、彼女と会った次の日に寝込んだろう? あれはただの風邪じゃない。突然目覚めた力に、お前の体がびっくりしてついていかなくなったんだ。――そうだと確信したのは、俺もついさっきだが」

 

「……憧に、会ったから」

「そうだ。お前は神の供物として目覚めた」

 

 もう、京太郎の頭は混乱の極みだった。

 

 ――どうして、こうなったんだろう。

 

 ただ、二人と遊んでいたかっただけなのに。二人が、大好きなだけなのに。こんな、お互いがお互いを刺すような関係だったなんて。

 こんなこと、おかしい。どうして、自分たちがこんな目に遭わなければならないんだ。

 

 京太郎は項垂れる。

 

「このこと、二人に話したの?」

「……いいや。彼女たちもまだ目覚めたばかりだからな。言っていないはずだ」

「話さないで」

 

 京太郎は、父に頼み込む。これまでの我が儘なんて比じゃないくらい、必死になって頼み込んだ。

 

「小蒔ちゃんに、嫌われたくない。――もう、会いたいなんて言わないから」

 

 それは、子供らしい願いだった。

傍にいれば自らを傷付けてしまう存在を、優しい小蒔でも望むとは、彼には思えなかった。

 

「憧にも、話さないで。あいつは何も悪くない、でもきっとあいつ、自分を責めて、苦しむと思う。――あいつとも、もう会わない。絶対に、言わないから」

 

 それは、半分本音で半分嘘だった。

 もしも彼女に会ってしまえば、彼女に甘えて全てを打ち明けてしまいそうだったから。何もかもが、瓦解しそうだったから。

 

 決して、彼女たちを慮っただけの結論ではなかった。京太郎自身傷付きたくないという逃避が、そう決めさせた。弱い、彼の答えだった。

 

 だが、少なくとも、京太郎の父にはそれを責めたりはできなかった。

 

「色々言ったがな、京太郎。今までの話はほとんど俺の言い訳だ。見通しの甘かった俺たち大人の責任だ。だから、お前が罪悪感を覚えることはない。辛い想いをさせた、すまなかった」

 

 優しく、頭を撫でられる。父にそうされたのは、本当に久しぶりだった。だが、今まで貰ったどんな拳骨よりも、痛かった。

 

「山で迷ったことも、言ってしまえば俺の監督不行届だ。お前は最後まであの娘たちを守ろうとしていたんだろう? 神代も新子も、お前を恨んじゃいない。ひとまず、俺たちが喧嘩したってことで距離をとろうと思っている」

 

 そんな言葉を聞きたいのではなかった。

 

 彼の真の望みは違う。違うのだ。

 

 だが、彼はそれを求めない。求めてはいけない、と決意する。

 おそらくきっと、それは世界で最も頑なな決意だった。

 

 父は、母が病室に来るまでずっと、息子の頭を撫で続けた。

 

 日が沈む。

 夏が、終わろうとしていた。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 それからの京太郎は、全てを忘れてより一層スポーツに打ち込むようになった。中学に入ってからは、ハンドボール一本に絞り、最後の県大会では見事な成績を収めるに至った。

 

 だが、足の古傷のせいで、彼は膝に過剰な負担をかけていた。医師から、もう激しい運動はできないと宣告された。ショックはショックであったが、過去の経験からすれば耐えられないほどではなかった。

 

 スポーツ推薦の目が失われ、高校はどこに行くか悩んだが、中学で仲良くなった友人が清澄に行くと言ったので、なんとなく着いていくことにした。特に、深い理由はなかった。

 

 入学式を終えて体育館を出ると、部活の勧誘の海にでくわした。上背があるため運動系からの勧誘は激しかったが、当然全て断った。

 

 人の波を抜け出した先で、京太郎は声をかけられた。またか、と一瞬うんざりしたが、京太郎は声の主に興味が湧いた。

 先ほどの入学式の壇上で挨拶をしていた、学生議会長だったのだ。

 

「ねぇ、君」

 

 彼女は、嗜虐的な笑みを浮かべて、京太郎を誘った。

 

「麻雀に、興味ない?」

 

 その単語を耳にして。

 京太郎は、いつか、誰かと交わした会話を思い出した。

 

 ――スポーツに疲れたら一度やってみてください。

 ――とっても面白いゲームですよ。

 

 果たして、あのとき自分は何と答えたのだろうか。京太郎は自問する。だけどきっと、『やらない』なんて、連れない返事はしなかったはずだ。

 

 ――なら、行こう。

 

 京太郎は議会長の背中を追いかけた。いつか、誰かが語った面白さを、確かめるために。

 

 

 夏が始まる。

 少女たちの戦いが始まる。

 その先に、望んで止まなかった、そして決して成就してはならなかった再会が待っていることに、このときの彼はまだ知らない。

 

 

 




次回:幕間/高鴨穏乃/フローレス


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幕間/高鴨穏乃/フローレス

東京/全国高等学校麻雀大会選手権会場

 

 

 白糸台、大星淡の和了をもって、インターハイ女子団体戦Aブロック準決勝は決着した。

 

 研ぎ澄まされていた高鴨穏乃の集中が、ゆっくりと解かれてゆく。――勝った、という実感が彼女を包み込んだ。すぐにでも走り出したい気持ちはひとまず置いておき、

 

「ありがとうございましたっ!」

 

 彼女は深く、対戦相手たちに頭を下げた。

 

「ありがとうございました」

 

 千里山と新道寺の大将も、悔しさを滲ませながら挨拶を交わす。いずれも実力は全国上位クラス。経験の差で言えば、間違いなく彼女たちに一日の長があった。もう一度戦えば、手も足も出せず負ける可能性だってあるだろう。

 

 だが、この場を凌ぎ、一位抜けという栄誉をもって決勝に駒を進めたのは穏乃たち阿知賀女子学院だ。

 

 対面の大星淡は肩を戦慄かせ、親の仇を見るかのように穏乃を睨み付けていた。戦いを終えたばかりだと言うのに、戦意は欠片も損なわれていないようだ。――構わない。どの道明後日には、再び相見える相手だ。

 

 いち早く席を離れ、たまらず穏乃は駆けだした。誇るべき戦果を、大切な仲間たちに持ち帰るために。

 

 控え室に戻ると、自分のジャージを着込んだ親友、憧が一番に迎え入れてくれた。

 

「わーはー!」

「いぇい!」

 

 両手をぱちん、と合わせる。――ああ、良かった。今はいつもの彼女だ。穏乃はほっとする。それを敏感に感じ取ったのだろう、憧は、

 

「だから大丈夫だって。昨日は心配かけたけど、中堅もプラス収支で終わらせたでしょ」

「なら、良いんだけど。その昨日が問題だったからなー。いつの間にかいなくなってたんだもんなー」

「うっ……だから、それは、ほんっとごめん」

 

 数少ない、穏乃が憧をやり込められる材料。正直なところ、全くもって笑えない事態だったが、そういうものこそ笑い飛ばしてしまえば良いのだと、穏乃は本能で知っていた。

 

 須賀京太郎に連れられて帰ってきた憧は、明るい顔を取り戻していた。

 

 だが、やはりまだ憧はどこか無理をしている気がする。疑惑ではない。長年の付き合いと、野生の勘がそう穏乃に告げていた。

 

 と言っても、昨夜憧は「インハイに全て集中する」とはっきり宣言した。だから少なくとも彼女は今、須賀京太郎の話題は出してこない。だから穏乃はそれに準ずることとした。他の仲間たちも、同じだった。

 

 決勝の舞台を確認し――赤土晴絵の決意を聞き届けて――宿への帰路に就こうとしたとき、見知った顔が穏乃たちの前に現れた。

 

「憧ちゃん、おめでとうございます!」

「ありがと小蒔っ」

 

 真っ先に駆け寄ってきた二つおさげの少女、神代小蒔が憧と抱き合う。小蒔の背後には、永水女子の四人が控えていた。

 

 彼女たちと憧が古い知り合いであったのが切欠となり、穏乃たちもここ数日あれやこれやと共に過ごす内にすっかり打ち解けてしまった。ひょっとすると、明後日決勝で戦うかも知れない相手ではある。しかしそんなことは関係なく、むしろそうであって欲しいと穏乃は望むくらいだった。――和だけじゃなくて、一緒に楽しく遊べる相手が増えたら嬉しい。彼女の思考はいつもシンプルで、前向きだ。

 

 彼女たちも明日の準決勝があるだろうに、遅くまで残って観戦してくれていた。賞賛と激励が飛び交う。

 

 憧の様子を窺っていて、微妙に出遅れてしまった穏乃も輪の中に入ろうとする。

 直前、彼女の足が止まった。

 

 永水女子の内の一人が、穏乃と同じく出遅れていた。赤土晴絵を除けば、この場で最も長身の女子。

 

 穏乃は、喜ぶ八人の脇をすり抜け、彼女の傍へと近寄った。ひっかかるものがあった。

 

「お疲れ様です、石戸さん」

「……高鴨さん。おめでとう、大将戦、凄かったわ

 穏乃が声をかけた瞬間、霞は少し戸惑いを浮かべたものの、すぐに柔和な笑みを浮かべた。

 

「ありがとうございます。でも、私自身はマイナス収支でしたし、まだまだです」

「そんなことないわ。状況はかなり綱渡りだったもの。ゴールまできちんと辿り着けたのは、高鴨さんが正しく打ち回した結果よ」

 

 真正面から褒められて、穏乃も照れ臭くなってしまう。普段なら調子に乗って憧に突っ込みを入れられる場面であろうが、今日の穏乃は冷静だった。戦いの中で鋭敏になった感覚を、まだ引き摺っているのかも知れない。

 

「石戸さん、ちょっと」

「え?」

「少し、付き合って貰えませんか」

「……構わないけれど」

 

 なおも歓談を続ける少女たちを残し、二人はエントランスに出る。途中、霞が自動販売機でジュースを買ってくれた。恐縮しながら穏乃はそれを受け取る。

 

「それにしても、制服姿の高鴨さんも可愛かったわ」

「私としてはジャージのほうが落ち着くんですけどね。どうしても憧が制服着ていけって」

「憧ちゃんと、ほんとうに仲が良いのね」

「付き合い長いですからっ。中学のときとかは離れてましたけど、やっぱり一番の友達です」

「それじゃあ、憧ちゃんと、小蒔ちゃんと、……京太郎くんのこと、やっぱり気になる?」

 

 率直に霞から問われ、穏乃は頬をかく。

 

「あー、それは、まぁ」

 

 複雑極まった関係らしいが、事情はまだよく聞いていない。もしかしたら、憧自身もまだきちんと把握していないのかも知れない。関心が向くのは当然だ。

 

「確かに私は全部知っているけれど――」

「ああ、いえ、違うんです。そうじゃなくて」

 

 けれども、穏乃は首を振った。

 

「その話は、憧から聞きます。……私がここで聞いちゃうのは、なんとなく違う気がするんで」

「……そう。じゃあ、どうして私を呼んだの?」

「あー」

 

 穏乃は苦笑を深める。

 

 全くもって、余計なお世話だろう。それでも穏乃は、声をかけずにはいられなかった。

 

「涙の跡が、見えちゃったので」

 

 はっと、霞は目元に指を伸ばす。

 

「ちゃんと、隠したつもりだったのだけれど」

「あ、やっぱりそうだったんですね」

「……かまをかけたの?」

「ごめんなさい、でも、ちょっと様子が違うなって思って」

 

 ほんの僅かな違和感。出会って数日の相手だ、見落として当然のこと。だが、穏乃は見逃さなかった。そして、見過ごせなかった。

 

 霞は、大袈裟な苦笑を作る。

 

「一緒に卓を囲むときは気を付けないといけないわね」

「お手柔らかにお願いします」

「それはできない相談ね」

 

 霞の纏っていた空気が緩むのを、穏乃は感じ取った。

 

「ありがとう、高鴨さん。大分肩に力が入ってたみたい」

「わ、私はまだ何もしてませんよ」

「いいえ。対戦校の生徒にお節介を焼こうとするなんて、それだけでおかしくて笑ってしまうもの」

「……もしかして私今、馬鹿にされてます?」

「まさか」

 

 くすくす、と霞は笑う。もう、と穏乃は抗議の声を上げた。それを見た霞はさらに笑みを深める。

 

「本当に感謝してるし、本当に怖い相手だと思ってるもの」

「うーん、友達に怖いって言われるのも」

「友達……」

「あ、ごめんなさい、先輩に」

「いいえ。そう言って貰えて嬉しいわ」

 

 でも、と切り返しながら、霞は缶ジュースの縁を指でなぞる。

 

「今のままでは、私たちは相容れないかも知れないわね」

「……どうしてですか?」

 

 穏乃の認識としては、霞は既に友達だ。仲間の危機に共に手を取り合ったのだ、友達の友達だなんて遠い関係のつもりはない。こうして会いにきてくれたのだから、永水女子の彼女たちも同じだと、穏乃は信じていた。正直言って、ショックである。理由を訊ねずにはいられない。

 

「だって……高鴨さんの一番大切な友達は憧ちゃんでしょう?」

「そう言われると照れちゃうんですけど、でも玄さんも宥さんも灼さんも、みんな大切です」

「そうではなくて」

 

 霞は、首を横に振った。

 

「私たちと……もっと言えば、小蒔ちゃんと比べたら、という意味よ」

「……友達を比べるようなことは」

「でも、どちらかの味方をするなら、高鴨さんは憧ちゃんを味方するわよね」

 

 穏乃は黙り込む。

 霞の意図は分からなかったが、言わんとするところは、なんとなく理解出来た。

 

「どんな結果になろうとも、小蒔ちゃんがどんな結論を出そうとも……私はあの子の味方をするわ」

「それって……あの、須賀くんのことですか?」

「もちろん」

 

 憧の初恋の人。

 そして同時に、神代小蒔の想い人でもある男の子。

 

 穏乃は憧からの話を聞いたのと、少し見かけた程度の知識しかない。すらっとした長身でそれなりに女子受けしそうな顔つきだったが、穏乃はそのあたりとんと疎かった。

 

 けれども、憧の想いがどれだけ真剣なのか、どれだけ一途なのかは、穏乃もしっかり理解しているつもりだ。

 

「高鴨さんも、中立で、とはいかないでしょう?」

 

 霞に心中を言い当てられ、穏乃はどきりとした。

 

 神代小蒔を蔑ろにするつもりはない。だが、穏乃が出すべき結論は、やはり一つだった。

 

「――はい」

「ね。やっぱり私たちは敵同士」

「みたいですね」

 

 言葉とは裏腹に、二人の間には笑顔が零れる。

 

 穏乃は、右手を霞に差し出した。

 

「大将として、戦えることを祈っています」

 

 霞はその手に応じ、

 

「必ず会いに行くわ」

 

 はっきりと、頷いた。

 

 

 ◇

 

 

東京/阿知賀女子宿泊ホテル

 

 

「もーお腹いっぱいー。動けないー」

「こらシズ、ジャージのまま布団に入らない」

「ちょっとだけー」

「あんたそう言って眠っちゃうでしょ」

 

 憧に布団から引き剥がされ、穏乃は床に寝転がる。それから彼女は、憧に訊ねてみた。

 

「明日、和やみんなの試合見に行く?」

「……ん。あたしはホテルで観戦するから。晴絵にもそう言ってある」

「そっか」

 

 言外に込めた意味を、きっちり憧は汲み取ったようだ。

 穏乃は、目を伏せ、語りかけた。

 

「ねー、憧」

「なによもう。お風呂、先に入っちゃうわよ」

「私は憧の味方だからね」

 

 鞄の中に突っ込んでいた、憧の手が止まる。

 

「なにがあっても、味方だから」

「……いきなりどうしたのよ」

「どうもしてないよ」

「もう。変なこと、言わないでよ」

 

 萎んでいく、憧の声。穏乃が立ち上がり様子を窺うと、彼女の背中が、少し震えていた。

 

 ――ああ、もう。

 

 いてもたってもいられなくなり、穏乃はその肩に腕を回した。

 

「し、シズ?」

「大丈夫だよ、憧」

「大丈夫って、何の話よ」

「さぁ? 何の話だろ」

「あんたねー……」

「でも、大丈夫」

 

 理由も根拠もなく、穏乃は憧に囁いた。囁き続けた。

 

 自分にできることなんて、たかが知れている。穏乃はそう思う。

 けれどもこうして、ともにいることぐらいならできた。――そうしよう。自分は彼女の味方で在り続けよう。

 

「憧」

「なに?」

「明後日、みんなで遊ぼう。和と、神代さんたちと、――須賀くんと」

「……うん」

 

 二人はしばらくそのままで、それ以上一言も発さずに、室内は沈黙に支配された。

 

 

 ――最後の最後、その瞬間まで。

 私は憧の傍にいよう。

 

 瑕疵なき願いを胸に秘め、肩に回す腕の力を、穏乃はもう少しだけ強めた。

 

 

 




次回:十五/新子憧/残響


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十五/新子憧/残響

 ――夢かと思った。

 

 

 二回戦を終えた小蒔と会ったのは、たまたまだった。六女仙も伴わず、ふらふらとインハイ会場近くを歩いている小蒔を見つけて、憧は泣きそうになった。小蒔もまた、今にも涙を落としそうだった。

 

 二人の間に会話はなかった。

 

 けれども、お互いの気持ちは痛いくらいに理解し合っていた。

 

 どこにぶつけて良いかも分からない感情。誰に訊ねれば良いかも分からない問題。いっそ告白したら振られてしまった、くらいシンプルな話であればどれだけ良かったか。

 須賀京太郎からの拒絶は、憧の心に深い爪痕を残した。

 

 どうしてあの日のことを覚えていないのだろう、と後悔するばかりだった。あの日、自分たちは京太郎を怒らせるようなことをしでかしてしまったのか。それはもう、取り返しの付かないことなのか。

 

 答えなど、憧には見つけられなかった。探す気力もなかった。

 苦しくて苦しくて、裏切られた、と呪詛を吐きたくなる。八年間再会を願っていたのは自分だけだったのか、と。

 

 けれども、それでも。

 

 心のどこかで、京太郎を信じている自分がいた。

 

 気が付けば小蒔と共に、人気の少ない電車に揺られていた。

 

 どちらからか、誘ったのだろうか。

 それとも、期せずして同じ場所を目指したのだろうか。

 

 行ったところで何も変わるはずがないというのに――あの日、彼と出会った場所を、憧は追い求めていた。冷静ではなかった、なんて言い訳が通じないのも憧は重々承知していた。だとしても、そうせずにはいられなかった。

 

 ――かつて彼が、自分を見つけてくれた場所。もの悲しい、地下鉄のホーム。

 

 醸し出す空気は、八年前と全く変わっていなかった。多少外装が綺麗になっていたり、広告が入れ替わっていたりする程度。

 

 何もかもが、酷く懐かしかった。

 

 小蒔とベンチで腰掛けて、来るはずのない待ち人を待つ。

 どこまでも虚しくて、どこまでもくすんだ時間だった。

 

 だからこそ、であろう。

 二人の膝に、黒く、長い影が差したとき、心臓が飛び跳ねそうだった。

 

 

 ――夢かと思った。

 

 

 泣きそうな顔をして、息を切らせて、指先を震わせて。

 

 けれども、八年前と同じように、京太郎は憧の前に現れた。――来てくれた。

 

 涙で前が見えなくなり、もう頭の中はぐちゃぐちゃで、憧は彼に抱きついた。もう二度と離さない、そのつもりで彼の背中に腕を回す。

 

 このまま時が止まって欲しいという憧の願いは、当然叶わなかった。

 

 

 ◇

 

 

東京/永水女子宿泊施設

 

 夜空を見上げれば、星々が瞬いている。憧にとっては、それが当たり前の光景だ。

 けれどもこの東京という街では、その当たり前が通じない。客室の広縁から覗ける空は、黒く塗り潰されている。代わりに街明かりが煌々と輝いていた。

 

「――はい。はい。そうですね」

 

 後ろから聞こえてくるのは、小蒔の弾んだ声。耳を塞ぐべきなのだろうか。憧は悩むが、手は動かない。人の電話でのやりとりほど気になってしまうものはない。

それも、京太郎と小蒔の会話だ。気にするな、というほうが無理な相談だ。先に部屋を出て行った霞たちの流れに乗れなかったのが悔やまれる。小蒔からは、「出て行って欲しい」なんて要求は一つもなかったのだけれど。

 

 今更彼女の脇を通り抜けるのも、はばかられた。一瞬たりとも、僅かたりとも二人の邪魔をしてはならないと、憧は心に決める。

 

 くすくすくす、という小蒔の控えめな笑声。

 電話口から僅かに漏れ出る京太郎の低い声。

 

 誰にも聞こえない溜息は、憧の口から生まれた。

 

「はい。それじゃあ、お休みなさい。ありがとうございました、京くん」

 

 十五分程の、短い通話。小蒔はあっさりと、電話を切った。

 

「ごめんなさい、憧ちゃん。お待たせしました」

「ううん」

 

 憧が客間に移ると、小蒔は頬を上気させ、愛おしそうに携帯電話を胸元に寄せていた。その所作が、憧の胸を衝く。

 

「憧ちゃん、今からホテルに帰るんですよね」

「えっ、あっ、うん」

「京くんが外で待ってます。憧ちゃんを送って帰るって」

「そ、そっか。うん、分かった。ありがとう」

 

 と言いながら、憧は動けない。動き出せない。満足気に微笑んでいる小蒔を見て、訊かずにはいられなかった。

 

「……ね、小蒔」

「はい?」

「このままで、良いの?」

 

 ぽかん、と小蒔は呆ける。憧はたたみ掛けるように、口を開く。

 

「京太郎と顔も合わせられなくて。一緒にいちゃいけなくて。――ねぇ、本当に良いの? さっきの話、全部納得できたの?」

 

 憧は自らが感情的になっていることを理解しながら、強い口調を止められなかった。問いかけられた小蒔は、そっと、目を伏せる。

 

「理解はしました。納得は、できていません」

「だったら」

「けれど、今は」

 

 はっきりと、小蒔は答えた。

 

「京くんと、こうして繋がっている。それだけで充分なんです。八年間ずっと離れていたんですから。嫌われていなくて、良かった。大好きだって言って貰えて、嬉しい。――本当に、それだけ。これ以上の幸福を求めるのが、怖いくらいなんです」

「でも」

 

 続く言葉を、憧はうまく発声できない。

 

「でも……!」

 

 小蒔を直視できず、顔を俯かせる。

 

「憧ちゃん」

 

 小蒔の掌が、憧の頬に触れた。

 

「憧ちゃんがいなかったら、なんて私は絶対に思いません」

「……小蒔」

「そんな世界は、私は要りません。それに、憧ちゃんがいなくても同じ結果になっていたかも知れません。だから――悲しい『もしも』の話は止めて下さい」

 

 ――言わせてしまった。

 言わせて、しまった。

 

 優しい小蒔は、きっと自分を否定しないだろう。心の中でそんな打算があったのではないかと、憧は自問する。

 

「京くんが、待っています」

 

 そっと、憧は背中を押される。

 

「行って下さい」

「……ここではい分かりましたって言えるほど、あたしは単純じゃないわよ」

「私には、もう言えることはありません。京くんも、憧ちゃんに会いたがっていました」

 

 問答は、それ以上続かなかった。小蒔の勝ちだった。

 

 唇を噛んで、憧は歩き出す。

 扉の前で、彼女は立ち止まった。

 

「小蒔」

「はい?」

「この間は、ごめんね」

 

 謝られた小蒔は、わけがわからず首を傾げた。

 

「何の話ですか?」

「自分の気持ちも言わずに、小蒔の気持ちを聞こうとしてた」

 

 憧は小蒔に振り返り、言った。

 

「あたしは、京太郎が好き」

 

 たったその一言を発するだけで、憧の体を熱くする。本人に告げたわけでもないのに、鼓動が早まる。

 

 小蒔はどうなの? ――もう一度、そう訊ねるつもりだった。

 

 けれども、憧は逃げるように部屋を出た。沈黙した小蒔を前にして、いてもたってもいられなくなった。

 

 部屋を出たすぐ先、廊下で霞が待ち構えていた。

 京太郎と共に、八年前の真実と、自分たちの関係を語り聞かせてくれた人物。とは言っても、彼女もつい先日まで知らされていなかったと言う。

 

「小蒔ちゃんの電話、終わった?」

「うん、終わった」

「そう。憧ちゃんは、一旦ホテルに帰るのよね。気を付けてね」

「……京太郎が、送ってくれるらしいから」

「彼なら今、ロビーにいるはずよ」

「ありがと、霞さん」

 

 どうしても、素っ気ない返事になってしまう。昔はもっと、砕けた調子でお喋りできたというのに。彼女の顔を、まともに見られなかった。

 

 小蒔も霞も、京太郎と会えないのに、自分は傍に近寄れる。当たり前のように、許される。それがたまらなく、辛かった。

 

 呼び止めようとする霞の声は耳に届かないふりをして、憧は早足で立ち去った。

 エレベーターで階下に降り、ロビーの端に京太郎の姿を見つけたとき、憧はようやく理解した。

 

 ――だから彼は、自分に真実を教えなかったのだ。

 こんな風に苦しむことを、予見していたのだ。

 

「京太郎」

「憧」

 

 名前を呼ぶと、京太郎は少しばつが悪そうに笑った。

 

「ホテルまで送ってく」

「……うん」

 

 憧は、こっくりと頷いた。

 昔と比べて、随分と見上げなくてはならなくなった。無性に腹立たしくもあり、同時にそうするたびにどきどきする。

 

 空調の効いた宿を出ると、夏の熱気が憧を包み込む。きらびやかな繁華街からは離れており、薄暗い路地はいつか迷子になった日のことを思い出させた。

 

 しかしあのときとは、致命的に状況が変わってしまった。

 憧と京太郎の間にいた彼女が、いない。その隙間が、そのまま二人の距離になっていた。

 

「ごめんな、憧」

 

 謝られてばっかりだ、と憧はうんざりする。

 

「なんであんたが謝るのよ。遭難したことだってあんたのせいだけじゃないでしょ」

「そうじゃなくて」

 

 歩きながら、京太郎は言葉を選んでいるようだった。

 

「……本当は、憧にはきっちり説明しておくべきだったんだよ」

「でもそれは、あたしのために」

「違う」

 

 京太郎は足を止め、言った。

 

「俺は憧に会うのが怖かったんだ」

「――」

「憧に会ったら……全部吐き出してしまいそうで、そうなってしまうのが怖くて、会いたくないって、言ったんだ」

 

 その挙げ句――と、京太郎は不甲斐なさを滲ませながら続ける。

 

「突然会って、テンパって、結局傷付けるような言動しかとれなかった。……謝っても許されることじゃないって、分かってる。でも、ごめん」

「……はぁ」

 

 憧は、深い溜息を吐き。

 それから精一杯背伸びして、京太郎の頬をつねった。

 

「痛い」

「ん。これでチャラにしてあげる」

 

 さっぱりと言い切って、憧は先に歩き出した。京太郎は慌てて追いかける。

 

「憧」

「もう言わないでよ。本当にもう、なんであたしたち、謝り合ってばかりなんだろうね。こんなことしたくて、会いたかったわけじゃないのに」

 

 夜風に憧の髪がなびく。いつか、彼に再会したときのため手入れを怠らなかった。化粧も覚えて、着飾る術を身につけた。

 冗談っぽく、憧は京太郎に語りかけた。恥ずかしくて、顔は合わせられない。

 

「こんなに可愛くなった女の子に再会できて嬉しい、とかそういう感想はないの?」

「憧は昔から可愛かったよ」

「ふきゅっ」

 

 一瞬で頭がのぼせ上がった。背後から押し殺した笑い声が聞こえてくる。この野郎、と憧は抗議の手を振り上げようとし、

 

「でも、言うとおりだな。憧、もっと可愛くなっててびっくりした」

 

 できなかった。のぼせ上がるどころではなく、くらくらする。

 

 気が付けば、彼の腕が近くにあった。

 

「なぁ、覚えてるか? 軽井沢でも、こうして二人で歩いたよな」

「あのときは、雨、降ってたわよ」

「あれ、そうだっけか」

「うん。あんたがずっと、傘持っててくれて。色んなお店を見て回ったわ」

 

 こうして思い出話ができる日を、ずっと夢見ていた。

 こうしてまた、肩を並べて歩ける日を心待ちにしていた。

 

 そっと、憧の右手が京太郎の左手に伸びる。触れた瞬間、びくりと京太郎が震えた。言い訳するように、憧はお願いする。

 

「ホテルまでで、良いから。昔、みたいに」

 

 京太郎は、黙ったまま手を開く。憧の指先と彼の指先が、絡み合う。――最後は憧が、ぎゅうっと強く握りしめていた。

 触れ合える喜びに、代えられるものなんてない。

 

「そう言えば、言ってなかったわね」

「なんだよ」

「清澄団体戦優勝、おめでとう」

「阿知賀こそ準優勝、おめでとう」

「……上から言われると腹立つわね」

「おい、お前が言い出したんだろうが」

 

 京太郎の突っ込みにも、憧はおどけるばかり。

 

「あんた、明日以降も東京に残るのよね」

「ああ。咲と和の個人戦の応援があるしな。憧はどうするんだ?」

「ここで仲良くなった人も多くてね。明日からは別の宿に移動して、インハイ終わるまで残ることにしたの。来年以降のために勉強したいしね」

 

 応援も勉強も、本当だ。同時に言い訳だった。彼ともっと一緒にいたかったから、東京に残った。我が儘を貫いたのだ。

 

「それじゃ、帰る前までにまた東京観光、するか」

「えっ」

「なんだよ、そのくらいの余裕もないか? さっき話した、軽井沢のときみたいに二人でさ」

「……ううん」

 

 まさか京太郎から誘ってくるとは思っておらず、憧はびっくりした。二人で――二人きりで、デートができる。嬉しくないはずがない。

 

 ――だからこそ。

 だからこそ、憧は訊ねることを決めた。

 

「京太郎は」

 

 簡単には触れられなかった核心へと、触れながら。

 

「京太郎は、小蒔に会えなくて良いの?」

「もう会わない」

 

 その質問を予測していたのだろう。

 京太郎は、迷わずに断言した。

 

「この間で、最後だ。もう小蒔ちゃんとは、会ったりしない」

 

 いくつもの想いが込められた決意に、憧は息を呑む。だが、彼女は重ねて訊ねた。

 

「あたしは、良いのかって訊いたのよ」

「良くないのは、小蒔ちゃんがいなくなってしまうことだろ」

 

 だから、と京太郎は言う。

 

「――もう、会わない」

 

 誤魔化されている。彼は、自分の望みを言っていない。言いたくないのだ。もっと強く追求すれば答えてくれるかも知れない。

 

 しかし、憧はそうしなかった。

 

 聞きたくなかった。言わせたくなかった。彼が誤魔化すままに、流されようとしている自分がいることに気付いた。

 

 それと同時に。

 黒ずんでいてはっきりと掴めなかった感情の正体が、はっきりする。

 

 ――ああ。

 

 最低だ、と自覚しながら。

 

 ――そうか、あたし。

 

 酷い女だ、と思い知らされながら。

 

 ――喜んでいるんだ。

 

 小蒔と京太郎は、もう会えない。そして、もう会わない。嘆くべき関係性。その切欠を作ったのは、自分だ。

 

 だというのに、喜んでいる。

 

 だって――

 こうやって、京太郎の隣を独占できるのだから。あの、軽井沢旅行のときのように、小蒔が割り込んでくることはない。笑顔で迎え入れる必要もない。

 

 彼の気持ちが、最早どちらに向いていようが関係ない。傍にいられるのは自分だけ。彼への想いを遂げられるのは、自分だけ。肌を触れ合わせられるのは、自分だけ。

 

 ――こうして、手を引き寄せて、彼を抱き締められるのも、自分だけ。

 

「あ……こ?」

 

 心臓が痛い。

 息が荒ぶる。

 目元がじんじんする。

 見上げる彼の顔は朱に染まり、憧はどきりとした。きっと、自分はもっと酷い有様だろうと理解しながら。

 

「きょう……たろう」

 

 告げるべき想いは、ただ一つ。

 

 八年間、ずっと胸に秘めてきた。他の誰に声をかけられようとも、ぶれることはなかった。彼だけを、想ってきた。

 

 一音目を紡ぐため、舌が動き出した、そのとき。

 

 

 ――フェアじゃ、ない。

 

 

 過去からの言葉が、憧の脳裏に響いた。あのとき彼女の背中を押したその言葉が、今は彼女を縛り付ける。

 京太郎の背中に回した手を下ろす。繋がれていた手も、解かれた。二歩、後ろに下がって距離を取る。

 

 代わりに出てきたのは、全く別の言葉。

 

「京太郎」

「な、なんだよ」

「本当に――もう二度と、小蒔と会えないって思ってるの?」

 

 京太郎の答えは、やはり頑なに。

 

「当たり前だろ。小蒔ちゃんは神様の器で、俺はその供物。もう、会っちゃいけないんだよ」

「あたしは、気付いたわよ」

 

 敢えて憧は会話を噛み合わせず、言った。彼女の意図が伝わったのか、伝わらなかったのか――京太郎は、怪訝そうに眉根を寄せる。構わず、憧は彼に言った。

 

「本当は、あんたも気付いてるんじゃないの」

「気付いてるって……何の話をしてるんだよ」

「決まってるじゃない」

 

 ああ、と憧は悔やむ。悔やまずになど、いられない。されど彼女は言った。

 

 

「あんたと小蒔が一緒にいられる、可能性に」

 

 

 これが正答なのかどうかなんて、分からない。誰にも分かるはずがない。

 それでも憧は――迷いながらも、苦しみながらも、京太郎にその道を示した。

 

 

 




次回:十六/神代小蒔/きみの声


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十六/神代小蒔/きみの声

 ――繋いだこの手を、離したくない。

 

 

 憧と二人の逃避行は、家出など考えたこともなかった小蒔にとっては、自分でも信じられない衝動的な行動だった。

 

 京太郎が迎えに来てくれなかったら――きっと、ずっと寂れたホームで悄然としたままだったろう。小蒔はそう思う。

 

 京太郎と憧と三人で、電車の座席に腰掛ける。かたんことん、と揺れる音が小気味よかった。

 

 すっかりと赤くなった目で、京太郎と繋がれた手を小蒔は見つめる。京太郎が、強すぎるくらいの力で握りしめてくれている。八年前と変わらない安心感が、彼の手を通して小蒔の内に伝わってくるようだった。

 

 じろじろと見られているのに気が付いて、小蒔は顔を上げる。大学生くらいの男性たちと目が合ったかと思えば、すぐに逸らされてしまった。

 

 世間知らずの姫君を自覚している小蒔であったが、今の自分たちが好奇の視線に晒される理由はすぐに分かった。

 

 京太郎の逆側の手は、憧の手に繋がれている。

 

 少なくとも兄妹には見られないだろう、と小蒔は察する。三人揃って外見も雰囲気も違いすぎる。幼い頃ならまだしも、高校生にもなって三人の男女が手を重ねているのは物珍しかろう。

 

 だからと言って、恥ずかしがって小蒔が京太郎の手を振り払うことはなかった。自分のほうから、握り返したくらいだった。

 

 京太郎に手を引かれるまま宿に戻ってみれば、六女仙と阿知賀女子の面々が待ち構えていた。

 

「小蒔ちゃん!」

 

 八年前、この街で迷子になったときと同じように、霞に強く抱き締められた。けれども霞の顔は、八年前と同じようにとはいかなかった。不安だけでは、済まなかった。

 

 怒られるよりも、辛かった。

 

 霞だけではない。六女仙のみんなにも、阿知賀のみんなにも、心配をかけた。自らの感情的な行いが、彼女たちを傷付けてしまった。

 

「ごめんなさい」

 

 憧と一緒になって、枯れ果てた声で全員に謝る。それで足りるわけでもないが、できることはそのくらいだった。

 

「いいんですよー」

「無事で良かった」

「気にしないで下さい」

 

 慰めの言葉を浴びながら、小蒔は隣の京太郎が動く気配を感じた。

 

「……今日のところは、俺はこれで」

「京くん、でも」

「もう大分遅いだろ。日を改めて、八年前のこと、ちゃんと話すよ。――話すから」

 

 言って、京太郎は繋がれていた手を離そうとする。憧のほうは、思い切り抱きついていた高鴨穏乃の膂力もあって、すぐに引き剥がされていた。

 

 けれども、小蒔は。

 

 

 ――繋いだこの手を、離したくない。

 

 

 ここで、離してしまえば。

 ここで、離れてしまえば。

 

 もう二度と、京太郎と顔を合わせることはない。

 

 予感ではなく、小蒔は確信した。京太郎の顔を見れば分かる。京太郎の体温を感じれば分かる。彼の意思が、伝わってくる。

 

 だからこそ、彼女は――

 

 彼に殉ずる。

 

 自らの望みよりも、京太郎の覚悟に。それこそが、神代小蒔と在り方であると信じて。

 

 

 ◇

 

 

東京/永水女子宿泊施設

 

 未だ使い慣れない携帯電話を手に、小蒔は目を伏せ、予告されている彼からの着信を心待ちにしていた。

 

 ――あの夏の日、何が起こったのか。

 

 全てを教えられ、全てを理解したとき、まず小蒔の心に訪れたのは、安堵であった。

 

 京太郎と再会し、拒絶され、小蒔の目の前は真っ暗になった。世界が終わってしまったように感じた。大袈裟ではなく、彼女は本気でそう思った。盲目的な想いは、しかしだからこそ、八年間小蒔の中で生き続けていた。

 

 京太郎の「理由」を知って、彼女が安寧を取り戻すのは当然であった。

 

 しかし。

 

 次に小蒔の中に湧き上がった感情は、全く別のものであった。

 

 手元の携帯電話が震える。見れば、登録されていない電話番号。慌てて小蒔は受話ボタンを押した。

 

「もしもし、小蒔です。京くんですよね」

『ああ、うん、そう』

 

 ぎこちない返答をもらう。先ほどまで、京太郎も携帯電話のスピーカーを使って霞の説明に補足を入れていたので、もちろん小蒔と会話を交わしている。

 

 けれども、そのときも他の六女仙はもちろん、憧も一緒だった。こうして二人だけで話すのは、本当に久しぶりだった。

 

『――……その』

 

 かけてきた京太郎が、煮え切らない態度だ。改めて話すのが面映ゆいのは、小蒔にもよく分かる。よく分かるが、今日の小蒔は違った。

 

「京くん」

 

 だから先手をとったのは、彼女であった。

 

「私、怒っています」

『え?』

「本当に、京くんに怒ってるんですからね」

『……うん。本当に、悪かった。嘘でも、酷いことばっかり言って』

「そっちじゃありません」

『え、えぇ?』

 

 考えが噛み合わず、小蒔は珍しく声を荒げた。京太郎の困惑をよそに、彼女は言った。

 

「私が京くんを嫌うなんて、どうしてそんなことを思ったんですか」

『――俺は、小蒔ちゃんにとって』

「ばか」

 

 息を呑む音が、電話の向こうから聞こえてくる。小蒔が京太郎にそんな言葉をかけたのは、初めてだった。

 

 小蒔はたたみ掛けるように、語りかける。

 

「京くんが私にとって、どんな存在でも。私が京くんを嫌うなんて、有り得ません。有り得るはずがないでしょう。――だからもう、勘違いするのは止めて下さい」

 

 長い、長い沈黙の後。

 

『ごめん、小蒔ちゃん』

 

 真摯な京太郎の謝罪があって、

 

「許します」

 

 随分と演技めいた首肯を、小蒔が見せた。

 京太郎にも、言いたいことはあっただろう。彼なりの理由があることは、小蒔にだって分かっていた。

 

『ありがとう、小蒔ちゃん』

「はい。これで、仲直りです」

 

 けれども二人は、これで全てのわだかまりを解消させた。そういう道を選んだ。

 

「京くん、京くん」

 

 弾む声で、小蒔は話しかける。

 

「まだ、お話できますか?」

『俺は構わないけど、小蒔ちゃんは明日から個人戦あるだろ』

「明日の力を補充しておきたいんです」

『……小蒔ちゃんが、そう言うなら』

 

 照れ臭そうな京太郎の声。小蒔は気にせず、言った。

 

「この八年間、何があったか聞きたいです」

『それを語るには、ちょっと時間が足りなさすぎるだろ』

「少しずつで良いですから。――そうですね、京くんが麻雀を始めた理由を知りたいです」

『り、理由かぁ……いや、大した話じゃないと思う』

「まさか京くんに限って好みの女の子がいたから、なんてことありませんよねっ。そういえば清澄の副将の原村さんって、どことなく昔一緒にテレビで見た牌のお姉さんに似てますよねっ」

『お、おう。そりゃもう真剣に麻雀を究めたいという野望があったんだよ、うん。決して邪な気持ちなどなかったです、はい』

 

 それに、と京太郎は多少言い訳がましく付け加える。

 

『昔さ、たぶん小蒔ちゃんだったと思うんだけど……俺に、麻雀、勧めてくれなかったっけ?』

 

 ――ああ。

 

 覚えている。小蒔は、はっきりと覚えている。大した会話でもなかった。けれども京太郎に関することで、彼女が覚えていない事柄など、一つとしてなかった。

 

「そんなことも、ありましたね」

『結局俺は、小蒔ちゃんに会いたかったんだ』

 

 どきりとして、小蒔はすぐに返事ができなかった。

 

『未練を切り捨てたつもりでいて。でも、小蒔ちゃんや憧がやっていた麻雀に出会って、同じことをやりたくなった。まさか、二人がインハイに出てるとは思わなかったけどさ』

「私たちからすれば、女子の大会にいた京くんのほうが不思議でしたよ」

『そいつは間違いない』

 

 記憶にあるよりも、低くなった京太郎の笑い声が聞こえてくる。けれども、変声期を過ぎた後でも笑い方は変わっていない、と小蒔は嬉しくなった。

 二人はその後も麻雀について語り合う。

 

 今日の決勝戦のこと。

 明日から始まる個人戦のこと。

 清澄の選手――特に宮永咲と原村和のこと――のこと。

 

「京くん、強いんですか?」

『強かったら男子のインハイに出てるよ。いやこれから、これからだから!』

「ええ、きっと京くんなら強くなれます」

 

 時に冗談を交えつつ、時に笑顔を零しつつ、小蒔は京太郎の声に耳を傾ける。

 

 どきどきした。

 わくわくした。

 

 八年前の興奮が、そのまま蘇るみたいだった。京太郎と過ごす時間は、小蒔にとってやっぱり幸せ以外の何物でもなかった。それを再確認できて、良かった。

 

 今日は早く眠らなければならない、と分かっていても。

 

 彼の声という誘惑に、小蒔が抗えるはずなどなかった。京太郎もそうであって欲しい、と小蒔は願う。

 

 麻雀の話題は、しばらく続いた。

 

 しかし、二人は決して、ある言葉だけは口にしなかった。麻雀を同じく志す者同士なら、必ず口にするであろう、あの言葉。

 

 ――共に、卓を囲もう。

 

 二人にとっては、遠すぎる言葉。

 

『小蒔ちゃん』

「はい?」

『俺はもう……小蒔ちゃんに会わない』

 

 京太郎は、小蒔を慮り。

 

「京くん」

『うん』

「分かりました。私も、京くんに会いたいなんて、言いません」

 

 小蒔は、彼の気持ちを汲み取る。

 

 そうしなくてはならない、充分な理由があった。京太郎は、己に課せられた理に逆らうつもりはない。ならば、小蒔はそれに従うまで。

 

『そろそろ、終わりにしようか』

「……そうですね」

『電話なら、いつでもできるだろ』

 

 そう言われても、名残惜しいものは名残惜しい。――京太郎はまた、自分を慮ってくれている。そう思えば、「もっと」という希望は飲み込む他ない。

 

『憧、そっちにまだいるだろ?』

「ああ、はい。いますよ、すぐ近くに」

『あいつ送って帰るから、そう伝えてくれ』

「承知しました」

 

 では、と通話を終えようとして、京太郎が止めた。

 

『明日、頑張ってくれ、小蒔ちゃん』

「京くんは、宮永さんや原村さんの応援はしなくて良いんですか?」

『うっ……そこは、その……勘弁してくれよ』

「冗談です。誰を応援したって、怒ったりしませんよ」

『小蒔ちゃん、昔より意地悪くなってない? 憧の影響か?』

「さぁ、どうでしょう」

 

 くすくすくす、小蒔は笑う。気分はすっかり昂揚していた。

 

『それじゃあ』

「はい。ーーさようなら」

 

 電話を切り、ふぅ、と一息吐く。終わるときは、あっさりとしたものだった。

 

 それから、広縁に出ていた憧に向かって声をかけた。

 

「ごめんなさい、憧ちゃん。お待たせしました」

「ううん」

 

 憧が、部屋に戻ってくる。表情に、影が差していた。

 ひとまずは、京太郎から頼まれた言伝を憧に伝えなければならない。

 

「憧ちゃん、今からホテルに帰るんですよね」

「えっ、あっ、うん」

「京くんが外で待ってます。憧ちゃんを送って帰るって」

「そ、そっか。うん、分かった。ありがとう」

 

 憧は頷いた。が、動き出そうとはしない。しばらくの間を置いて、

 

「ね、小蒔」

 

 代わりに彼女は、声をかけてきた。

 

「はい?」

「このままで、良いの?」

 

 一瞬、質問の意味が分からず、小蒔は首を傾げた。堪えかねたように、憧は口を開く。

 

「京太郎と顔も合わせられなくて。一緒にいちゃいけなくて。――ねぇ、本当に良いの? さっきの話、全部納得できたの?」

 

 ようやくここで、憧の言いたいことを小蒔は理解した。

 彼女の気持ちは、痛いほど分かる。彼女の想い、彼女の悔恨、彼女の罪悪感、全て小蒔は正しく把握していた。

 

「理解はしました。納得は、できていません」

「だったら」

「けれど、今は」

 

 はっきりと、小蒔は答えた。

 

「京くんと、こうして繋がっている。それだけで充分なんです。八年間ずっと離れていたんですから。嫌われていなくて、良かった。大好きだって言って貰えて、嬉しい。――本当に、それだけ。これ以上の幸福を求めるのが、怖いくらいなんです」

 

 それが、正直な気持ちだった。京太郎とも、会わないと誓い合った。だからもう、「これ以上」を追い求めたりはしない。

 

「でも、でも……!」

 

 振り絞るような憧の声に、彼女が言わんとすることを小蒔は察する。項垂れてしまう憧に、小蒔は思わず立ち上がっていた。彼女の頬へと、勝手に手が伸びていた。

 

「憧ちゃん。憧ちゃんがいなかったら、なんて私は絶対に思いません」

「……小蒔」

「そんな世界は、私は要りません。それに、憧ちゃんがいなくても同じ結果になっていたかも知れません。だから――悲しい『もしも』の話は止めて下さい」

 

 ――ちゃんと、言えた。

 

「京くんが、待っています」

 

 小蒔は、憧の背中を押す。自分にできないこと。自分が果たせないこと。――全て、彼女ならできるのだから。

 

「行って下さい」

「ここではい分かりましたって言えるほど、あたしは単純じゃないわよ」

「私には、もう言えることはありません。京くんも、憧ちゃんに会いたがっていました」

 

 見ている小蒔が痛くなるほど、憧は唇を噛む。彼女は、自分の鞄を引っ掴むと出入り口に向かって歩き出した。

 

 が、憧は扉の前で足を止める。

 

「小蒔」

「はい?」

「この間は、ごめんね」

 

 突然の謝罪に、小蒔は小首を傾げた。

 

「何の話ですか?」

「自分の気持ちも言わずに、小蒔の気持ちを聞こうとしてた」

 

 小蒔へと振り返った憧の表情は、小蒔が見たことのないものだった。そして、次に彼女から発せられた言葉は、小蒔の胸を貫いた。

 

「あたしは、京太郎が好き」

 

 小蒔が答える前に、憧は出て行った。ぽかんと、小蒔は彼女を見送った。さようなら、の一言もかける隙はなかった。

 

「……知ってました」

 

 小蒔の独り言は、静まり返った部屋の中に消えていった。ふぅ、と彼女は溜息を吐く。

 

 ――これで良い。

 

 小蒔は、思う。

 

 ――自分はもう、彼の隣にはいられないけれど。

 

 憧が、京太郎の傍にいてくれるなら。何の心配もない。二人が一緒にいてくれるのなら、安心だ。三人ばらばらよりも、ずっと良い。京太郎も、憧のような女の子が近くにいれば幸せだろう。

 

 そう、京太郎は自らを、小蒔を傷付ける存在だと称した。けれども小蒔からすれば自分こそが、京太郎を傷付ける存在だと思う。自分がいなければ、彼はあんなにも苦しむことはなかったのだ。

 

 ――だから、これで良い。

 

 うん、と小蒔は頷いて。

 

 ぽたりと、雫が畳に落ちた。

 

「……え?」

 

 それがなにか、小蒔はすぐに理解できなかった。

 二滴目、三滴目と、続けて落ちていく。

 

「あれ……?」

 

 自分の目からこぼれ落ちる水滴は、小蒔を酷く狼狽えさせた。こんなはずではないのに、ちゃんと、割り切ったはずなのに。全てを憧に託したと言うのに。

 

 なのに、どうして。

 

 どうして、泣かなければならない。

 

「うううう」

 

 小蒔は、嗚咽を漏らす。

 察した霞が間を置いて部屋に戻ってくるまで、彼女の涙は止まらなかった。

 

 

 




次回:十七/須賀京太郎/選ぶべきもの


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十七/須賀京太郎/選ぶべきもの

 ――友達なんかじゃ、ない。

 

 

 その言葉は、京太郎自身に向けたものだった。彼女たちへ背中を向けた自分に、友達を名乗る資格はない。そう思って、八年を過ごしてきた。

 

 だから彼女らへの愛慕など、忘れたはずだった。

 

 なのに、二人を抱き締め、二人と繋がって――いかに自分の覚悟が薄っぺらかったか、京太郎は思い知らされた。

 

 二人を彼女たちの仲間の元へ送り届け、手を離すとき。京太郎の胸に去来した感情は、寂しさなんて一言で言い表せるものでは、とてもなかった。

 

 未だ涙が枯れない憧。

 きっともう、これが最後の小蒔。

 

 断腸の思いとは、こういうものを指すのだろうな、と京太郎は一人納得しながら、彼女たちから手を離した。

 

 一人宿に戻った京太郎を、他に誰もいないロビーで待っていたのは、咲だった。京太郎はどきりとした。そう言えば、誰にも言わずに出てきてしまった。

 

「お帰り、京ちゃん」

 

 しかし咲は、いつもの笑顔を京太郎に向ける。彼女は先んじて、言った。

 

「京ちゃんの仕事はみんなで手分けして終わらせておいたから。部長もそんなに怒っていなかったけど、明日謝っておいたほうがいいよ」

「……悪い。さんきゅ、咲」

「どういたしまして。夏休み明けたら、学食で何か奢ってね。後、優希ちゃんはタコス十枚って言ってたよ」

「あーはいはい、了解」

 

 ほっと、京太郎は一安心してから、改めて咲にお礼を言った。

 

「ありがとな」

「ど、どうしたの?」

「咲のおかげで、一番大事なことは、たぶん守れた」

「……そっか」

 

 咲は、安堵の息を吐く。胸元に添えられた彼女の右手が、ぎゅっと強く握られる。

 

 本当に、咲のおかげだった。彼女も色々と抱えて東京に来たのは、京太郎だって知っている。実際のところ余裕もないだろうに、気遣ってくれた。咲だけではない、他の麻雀部のみんなもそうだ。

 

「もう寝ようぜ。明日は休みだけど、明後日は準決勝だ」

「そうだね」

 

 京太郎は歩き出し――咲が着いてこないことに気付いて、立ち止まる。

 

「どうした?」

「結局、あの二人は……京ちゃんの、お友達?」

 

 少しだけ悲しそうな微笑みとともに、咲は京太郎に訊ねた。

 京太郎は、すぐに答えられなかった。

 

 

 ――友達なんかじゃ、ない。

 

 

 あのときの回答を、翻す権利が自分にあるのだろうか。彼女たちの友達と、自分が名乗っても良いのだろうか。彼女たちを泣かせてしまった自分は、許されるのだろうか。

 

 京太郎の自問に答えられるのは、彼女たちだけ。しかしこの場に二人はいない。

 だから結局、これは願望だ。

 

「――ああ。小蒔ちゃんと、憧と、俺は……友達だ」

 

 笑ったのは、精一杯の虚勢。すぐにでも見抜かれてしまいそうな、はりぼて。

 けれども咲は、

 

「うん」

 

 と、満足そうに頷いた。

 それだけで、京太郎は救われる想いだった。

 

 

 ◇

 

 

東京/永水女子宿泊施設

 

 インターハイ女子個人戦初日。

 

 長野県代表として、清澄からは宮永咲と原村和が出場している。調整相手としては役者不足の京太郎ではあるが、応援という重要な役目が彼にはあった。団体戦のように控え室で、とはいかないが、会場の観客席で声援を送るつもりだ。

 

 しかし、京太郎は他の部員と連れ添って宿を出ることはなかった。

 

 神代小蒔も、インハイ個人戦の選手だ。彼女と顔を合わせられない京太郎は、時間をずらして会場に赴く予定だった。

 

 最初の半荘が始まったことをテレビで確認して、京太郎は宿の門をくぐった。

 そこで待ち構えていたのは――滝見春。彼女もまた、京太郎の古い友達。

 

「春? どうしてここに? 小蒔ちゃんとはっちゃんの応援は?」

 

 成長した胸部をつい凝視してしまいそうになり、京太郎は顔を赤らめながら視線を逸らして訊ねた。彼女は八年前と変わらないマイペースさで、答える。

 

「少し付き合って、京」

 

 けれどもその目は真摯で、京太郎に逆らう余地を与えない。

 

「分かった」

「ん」

 

 歩き出す彼女の隣に並ぶ。落ち着き払った春の雰囲気は、八年前から変わっていなかった。

 

「黒糖、食べる?」

「一個もらうよ」

 

 差し出された懐かしい砂糖菓子を、噛み砕く。渋い甘みが口の中に広がった。夏の熱気も合間って、水が飲みたいと思ったら、春がペットボトルを手渡してきた。

 

「春は相変わらずだな」

「京も相変わらずで良かった」

 

 そんなことない、と京太郎は言おうとした。八年前と同じようにはいられなかった。しかし春は、さらりと続けて言った。

 

「姫様と憧が、大好きなまま」

 

 京太郎は、先ほどとは違う理由で頬を染める。僅かに先行する春は、随分と機嫌が良さそうだった。してやられた気がして、京太郎は彼女の頭に手を乗せる。

 

「二人だけじゃなくて、春も、巴さんも、はっちゃんも、霞さんも、俺は大好きだよ」

「……そう」

 

 かり、と黒糖が砕けた。間を置いてから、京太郎は訊ねる。

 

「なぁ、どこに行くんだ?」

「うちの宿」

「……それって」

「姫様はちゃんと個人戦に行っている」

 

 先回りして答えられ、京太郎は何も言えなくなってしまう。

 

 永水女子の宿に辿り着き、彼女らが泊まる客室の入口まで案内される。

 春は戸に手をかけ、それから言った。

 

「京」

「なんだよ」

「さっきの言葉。ちゃんと、言ってあげて」

 

 がらりと戸が引かれ、客間の奥に座る彼女の姿を認めたとき、京太郎は反射的に引き返しそうになった。が、春に背中を押されて部屋に入り込んでしまう。続けてぴしゃりと戸が閉められた。逃がすつもりはないようだった。

 

 京太郎は観念して、彼女の傍へと歩み寄る。

 

「霞さん……どうして」

「ごめんなさい、京太郎くん。春ちゃんに無理を言ったのは私だから、怒らないであげて」

 

 巫女の装いの石戸霞は、努めて穏やかに語りかけた。座布団を勧められ、京太郎は机を挟んで彼女の前に座る。

 

「……霞さん」

「言いたいことは分かってるわ。でもまず、私に謝らせて」

 

 京太郎が止める間もなく、霞は額を畳につける。

 

「ごめんなさい」

 

 それは違う、と京太郎は言いかけた。彼女に殴らせるよう仕向けたのは、自分だ。誰も彼もを悪し様に罵り、挑発した。例えそこに目的があっても、非情に過ぎる言動であったのは間違いない。そもそもの原因は、迂闊であった自身にある。

 

 しかし、畳につけられた霞の指先が震えているのを見て、京太郎は彼女の謝罪を受け入れた。

 

「大丈夫。これっぽっちも痛くなんかなかったから。だから顔を上げて」

「……ありがとう、京太郎くん」

 

 ゆっくりと、霞は面を見せる。

 

「謝らないといけないのは俺のほうだよ。酷いこと言って、ごめんなさい。それと、お礼も言わないと」

「お礼? どうして?」

「俺一人だったら、小蒔ちゃんたちにきちんと説明できなかったと思うから。昨日は、ほとんど霞さんが話してくれただろ」

 

 ああ、と霞は頷いた。それから彼女は少しばかり、苦笑する。

 

「京太郎くんが秘密にしていたことを、無理矢理暴いて知ったことよ。結局私は、貴方の覚悟を踏みにじってばっかりね。小蒔ちゃんのためと言い訳して、自分のことしか考えていなかった」

「だけど、霞さんにも知る権利はちゃんとあったよ」

 

 決して、彼女も無関係ではない。むしろ当事者の一人と言っても差し支えないだろう。こうして二人だけで対面している時点で、危険な目に遭っているのだ。彼女もまた、人ならざるものを降ろせる身。京太郎の存在が、悪影響を与える可能性は充分に考えられる。

 

 だが、だからこそ直接顔を見せることで霞は謝意を見せた。彼女の覚悟こそ、自分のそれよりもずっと尊い――京太郎は、頭が下がる思いだった。

 

「自分のことしか考えていなかったのは、俺のほうだよ。逃げただけだった。……霞さんとは、小蒔ちゃんとずっと友達でいるって、約束したのにな」

「……そんな話も、したかしらね」

 

 とぼけるように呟いて、霞は目を伏せた。

 

「でも、今はちゃんと、友達って言ってくれるんでしょう?」

「うん。大切な、友達だ」

「なら、良いの。それで、良いの」

 

 噛み締めるように言った霞の表情は、京太郎の胸を締め付ける。

 

「傍にいてあげて、なんて言わない。だけど、小蒔ちゃんを忘れないであげて。……勝手なことばっかり言って、ごめんなさいね」

 

 でも、と霞は首を振って、

 

「私は小蒔ちゃんの味方でいるって、決めたの。神代と石戸がどうこうというわけではなく……何があっても、あの子だけの味方でいると、決めたから」

「別に、気にしやしないよ。それに言われなくって、小蒔ちゃんを忘れるわけがない」

「憧ちゃんを、選んでも?」

「――」

 

 何の捻りも加えずに、霞は真っ直ぐに訊ねてきた。あまりの直球ぶりに、京太郎も思わず言葉を失う。

 

「二人の気持ちに気付いてない、なんて言わせないわよ?」

 

 このときばかりは意地悪げに、霞は可愛らしく首を傾げて釘を刺した。

 

「……あの」

「私に答えても仕方ないわよ?」

「……そうっすね」

「乙女の気持ちを弄んだら、承知しないから」

「……肝に銘じておきます」

 

 くすくす、と霞は笑った。――本当に久しぶりに、彼女の楽しそうな笑顔を見た。八年ぶりの、もう一度見られるか分からない笑顔。

 

 彼女との思い出も、京太郎は捨てようとしていた。春も、巴も、初美も。全部、捨て去ろうとしていた。

 

 全てが全て、間違っているわけではない。少なくとも今、小蒔と霞に会ってはならないのは確かだ。

 

 それでも自分は選ぶべきものを間違えた。そう、京太郎は今一度確認する。

 

「私の用件は、これで終わり」

 

 寂しそうに、霞は言った。

 

「個人戦の前に時間をとらせてごめんなさいね」

「いいや。俺もちゃんと霞さんと話せて良かった。心残りが、ちゃんと消えた」

 

 京太郎は立ち上がり、霞を見下ろして言った。春から頼まれたことだ。

 

「ありがと。大好きだよ、霞さん」

「――っ、もうっ」

 

 びくりと霞の体が震えて、京太郎は笑った。霞は顔を赤らめ、むくれて京太郎を見上げる。年齢より大人びた雰囲気を漂わせる彼女が、年相応に見えた。

 

「先に、行きます」

「……ええ。手間をとらせたわね」

 

 彼女と連れ添っては、ならない。

 

 京太郎はその場を去ろうとし――

 背後から抱きすくめられ、足を止めた。

 

「かっ、霞さんっ? ちょ、あの、これっ」

 

 背中に当たるふくよかな感触に、京太郎は激しく狼狽える。耳元で、霞が囁いてきた。

 

「仕返しよ」

「だ、だからって、あの、あ、当たってるからっ」

「でも、これが最後かも知れないでしょう?」

 

 振り上げられた京太郎の腕が、ぴたりと止まる。

 

「貴方は私にとっても、可愛い弟分なんだから」

「霞さん……」

「そう言っても、許してくれるかしら」

「……当たり前だよ」

 

 ぎゅっと、強く抱きすくめられ、京太郎はされるがままになる。彼女の呼吸と鼓動の音が、聞こえた。

 

 京太郎は、唇を噛む。

 確証のないことなど、京太郎は口にするつもりはなかった。このまま、立ち去るつもりだった。けれども、気が付けば言ってしまっていた。

 

「霞さん」

「なにかしら」

「憧に宿題を出されてるんだ」

 

 霞の戸惑いが、体越しに伝わってくる。

 

「宿題?」

「俺が、小蒔ちゃんや霞さんと一緒にいられる方法について、考えてこいって」

「……そんなものが、あるの?」

「少なくとも、憧は思いついたみたいだ」

 

 本当は京太郎自身も――その可能性を、考えなかったわけではない。

 

 けれどもそれは、可能性としてはか細すぎる。叶うかどうかなんて分からない。どれだけ時間がかかるかも分からない。夢物語と笑われても仕方ない話だ。少なくとも今までは、試みることさえできなかった。

 

 そして今は。

 試みることが許されるのか、京太郎には分からなかった。

 

「憧と、答え合わせをしてくるよ」

「……分かったわ」

 

 そっと、霞は了承する。

 

「憧ちゃんに……ああ、それから、宮永さんにもよろしく伝えてくれる?」

「咲にも? どうして?」

「結局あの子は――私を助けてくれたみたいだから。感謝してもしきれないわ」

「だったら直接言ってくれれば」

「それは無理。私、嫌われちゃったみたいだもの」

 

 霞はくすりと笑い、そしてようやく腕の拘束を解いた。団体戦の大将同士で、何かしらやり取りしたのだろうか――京太郎に詳しいことは分からない。しかし、自分のためだったということは、察せられた。

 

「分かった、ちゃんと伝えとく」

「ありがとう、京太郎くん」

 

 京太郎は最後に振り返ろうとして、止める。今振り返っては、ならなかった。

 彼は霞に背中を向けたまま、言った。

 

「また、霞さん」

「――ええ。またね、京太郎くん」

 

 その挨拶を最後に、京太郎は部屋を出た。

 戸の傍には、春が控えていた。

 

「何だ春、ずっとそこにいたのか」

「ん」

 

 短く答えて、春は廊下を歩き出す。京太郎は慌てて彼女の後を追いかけた。

 

「霞さんは――」

「一人になりたいときもある」

「……そっか」

 

 付き合いの長さも深さも、春のほうが断然上だ。彼女がそう言うなら、京太郎もそれに従うまでだった。

 

 再び夏の東京を、春と共に歩く。向かうは、インハイの会場。寡黙な春に倣って、というわけではないが、気分良く話す気にもなれず、京太郎は押し黙っていた。

 

「憧は」

 

 だから、話しかけてきたのは春からだった。

 

「憧は、強かった」

「……そっか。春は、憧と中堅戦で直接やりあったもんな」

「ん。でも、憧は悩んでた」

 

 春は、続ける。

 

「きっと今でも、悩んでる」

 

 声援が遠くから聞こえてきた。インハイ会場が、近い。京太郎は足を止め、春は首だけ振り向いた。

 

「京」

 

 それ以上、春は何も言わなかった。

 

 京太郎は頷いて、再び歩き始める。

 

 もう一度、彼女たちと向き合うために。

 ――選ぶべきものを、選ぶために。

 

 

 ◇

 

 

 京太郎の携帯電話が、震える。電話の着信だった。

 

「――もしもし」

『もしもし、京太郎?』

「憧」

 

 凛とした、それでいて明るい彼女の声。未だに聞く度に、懐かしさが京太郎の中で湧き上がる。嬉しくて、けれども照れ臭くて、ついつっけんどんな口調になってしまう。

 

「どうしたんだよ、こんな夜遅くに」

『どうしたもこうしたもないでしょ』

 

 もう、と憧は呆れながら、京太郎に問いかける。

 

『この間の約束、覚えてるんでしょうね』

「ああ、当たり前だろ。ちゃんと、覚えてるよ」

『良かった』

 

 古い幼馴染は、声を弾ませて言った。

 

『デートよ、京太郎』

 

 

 




次回:十八/新子憧/愛を謳う


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十八/新子憧/愛を謳う

東京/全国高等学校麻雀大会選手権会場 入場口

 

 どうして彼に恋をしたのだろう。新子憧は、自問する。

 

 頼りがいがあるからなのか。優しかったからなのか。格好良かったからなのか。あるいは全部ひっくるめて好きになったのか。

 

 何もかも今更で、しかし憧は考えずにはいられない。

 

 彼を好きになってしまったせいで、例えようもない苦々しさを味わった。

 彼を好きになってしまったせいで、大切な友達を、大切な友達のままにできなかった。

 

 だけど、それでも、どうあっても――彼を好きにならなければ良かったと、憧は思えない。相反する感情が胸でうずき、彼女は自ら辿ってきた道を反芻する。

 

 見つめるは、紫紺の空。ゆっくりと、陽が沈もうとしていた。

 

 もうすぐ約束の時間だった。当然問いに対する答えなど出るはずもなく、憧は行かなければならない。

 

 その前に。

 どうしても、会っておかなければならない相手がいた。

 

「――憧ちゃん」

「小蒔」

 

 一日にわたる戦いを終え、会場から出てきた神代小蒔と、憧は向かい合う。小蒔に随伴していた六女仙たちは、一礼の後、黙って二人から離れていった。

 

 会えば、いつも笑顔を咲かせた二人。性格も、麻雀の打ち方も全く違うのに、どういうわけか気が合った。好きになった。親友同士になれた。――少なくとも、憧はそう思っている。しかし彼女の今の表情は、固い。

 

 強い風が吹き、周囲の木々が揺らす。聞こえるざわめきは、憧の胸の内を表しているようだった。

 

「明日、優勝争いに絡めそうね」

「……はい、なんとか」

 

 用意していたはずの賛辞は、ほんの短い言葉に変わり果ててしまう。小蒔は俯き、ぽつりと答えたきり、何も言わなかった。

 

 夜に近いと言っても、季節は夏。気温は昼間からさっぱり落ちていない。しかし、二人の間にある空気は、冷たい。喧嘩など、していないはずなのに。

 

「……ねぇ、小蒔。昔、この街で出会った日のこと、覚えてる?」

「忘れるわけがありません」

 

 探るような憧の問いかけに、小蒔は即答する。

 

「京くんと憧ちゃんが、私の手を引いて歩いてくれたこと。――この先もずっと、忘れません」

 

 

 ――ああ。

 綺麗だな、と憧は思った。どこまでも真っ直ぐで、どこまでも頑張り屋で、どこまでも綺麗な女の子だと、憧は思った。

 

 だから彼女は、答える。

 

「あたしも、覚えてる」

 

 神代小蒔という少女に、負けないために。

 

「京太郎に背負われて、小蒔に傘差して貰って、みんなで交番に行ったこと。――絶対に、忘れたりなんかしない」

 

 あの夏は、三人だった。三人、揃っていた。

 

「一緒に京くんの看病もしましたね」

「お粥、小蒔が作ってくれたのよね」

「東京観光も行きました」

「お祭りにも、参加したわ」

 

 今はもう揃わない、三人の思い出。

 

「小蒔たちと一緒に食べた西瓜、美味しかったわ」

「ええ。あんなに甘い西瓜、もう食べたことありません」

「……そうね」

 

 語らいは、長く続かなかった。

 一時、静寂が二人の間に落ちる。

 

「憧ちゃん……」

 

 意を決したように先に口を開いたのは、小蒔だった。

 しかし、憧はそれを制する。

 

「ね、小蒔」

 

 もう、彼女から言わせてはならない。あんな悔しい気持ちは、一度で充分だ。

 

「あたしも、小蒔がいてくれて良かったって、思ってる。これから先、どうなろうと……あたしたち三人が、三人で良かったって――きっと、そう思う」

 

 憧は、微笑んだ。彼女の中に渦巻く感情は、それを許せるはずがない。しかし彼女は、微笑んで見せた。

 

 そして、憧ははっきりと宣言する。大切な、絶対に負けたくない親友に向けて、毅然と言い放った。

 

「先に、行くね」

「――はい」

 

 真正面から、小蒔は相対する。その姿は、思わず憧が羨んでしまうほど美しかった。

 だから、憧は言わずにいられなかった。

 

「あのね」

「なんですか?」

「大好き」

 

 一間、小蒔はぽかんと呆けてから、答えた。

 

「私も、です」

 

 二人は、何の含みもなく笑い合った。――笑い合えた。

 

 

 ◇

 

 

 この夏、憧が東京を訪れた理由はインターハイに出場するためである。当然学校の代表として参加しているため、期間中外出する際はできる限り制服を着用するのが望ましい。ジャージ姿で大将戦に臨もうとした穏乃にも、憧は制服を貸し与えた。

 

 当然着回し出来るよう制服は数着用意してきたが、私服はホテルの中で着る程度と考え、色気のないものを最低限持参するのみであった。荷物の量を考えれば、当然の判断である。遊びに来たわけではないのだから。しかし、阿知賀女子の中でもお洒落に関しては一家言を持つ彼女にとって、致命的なミスとなった。

 

 京太郎との、デートである。

 

 予想外の展開と言ってしまえばそれまでだが、それでも半月前の自分を憧は恨まざるを得ない。生半可な準備は、本来許されるものではなかった。せめて一着、いや上下揃えなくても良いから、あるいは小物の一つでも――彼女の後悔は深い。

 

 個人戦が始まってからは、自腹で宿をとっている。当然貯金はどんどん削れていき、東京で新しい服を見繕うのもままならない状況だった。

 

 絶望する憧に向かって、あっけらかんと言ったのは、一緒に東京に残っていた穏乃だった。

 

「制服デートで良くない?」

 

 憧は目から鱗が落ちた。逆転の発想である。実に男子高校生が好みそうなワードではないか。

 

 もちろん制服は特急でクリーニングに出した。持てる技術全てを注ぎ込んで、着飾った。団体戦でテレビに映るときよりも気合を入れた。

 

 なのに。

 だと言うのに。

 

「なんであんたは私服なのよっ!」

「ええっ、いや、なんでって言われても」

 

 インハイ会場の最寄り駅で落ち合って、開口一番憧に責められた京太郎は、困惑するしかない。

 

 ぱりっとした空色のワイシャツに、ジーンズ。シンプルな組み合わせではあるが、清潔感があって実に好印象だ。高校生として気取りすぎてもいなくて、憧としてもそこのところに文句はない。ないのだが、予想外の手に振り込んでしまったときと同じ感覚に、憧はとても腹が立った。

 

「そんなに変な格好だったか……?」

「そういうわけじゃなくてね……ううん、もういいや。あたしが悪かったから」

「なんだよ、気になるな。はっきり言ってくれよ」

「良いったら良いの!」

 

 憧は、京太郎の腕を取る。もう離さないぞと言わんばかりに、強く。

 

「ほら、あんまり時間ないのよ。東京観光はできなくても、遊べるだけ遊ぶんだから。行こ!」

「……はいはい。分かったよ、どこへなりとも着いていくよ」

「うむ、くるしゅうない」

 

 鷹揚に頷く憧と、笑う京太郎。

 

 ファストフードで軽く夕食を済ませると、憧は駅前で目に付いたゲームセンターに足を踏み入れた。恥ずかしがる京太郎を写真シール機に引き込んで、憧はとびきり可愛らしい写真を撮る。麻雀ゲームの筐体では、憧が無双の強さを見せつけた。ふふん、と憧は勝ち誇る。二人プレイのガンシューティングに挑戦すると、京太郎はとんでもない反射神経を発揮し、先にゲームオーバーになった憧を置き去りにしてクリアしてしまった。元体育会系は伊達ではなかった。今度は京太郎が、ふふんと勝ち誇った。

 

 ふつうの、デートだった。ふつうの高校生がやるような、デート。憧は、初めての経験だったけれども。

 

 意外と京太郎が手慣れていて、憧はついつい訊いてしまう。

 

「こういうところ、よく来るの?」

「んー? 中学のときはそれなりに。高校入ってからめっきり遠ざかってたな」

「ふぅん」

 

 憧が意味ありげに視線を送ると、京太郎は「なんだよ」と文句をつける。

 

「彼女と一緒に、とか?」

「いたことねぇよ。部活仲間とだよ、全員男」

「あ、そうなんだ」

 

 何でもない風に言い捨てて、憧は京太郎から顔を背ける。そのまま、別のゲームへ興味を示す振りをした。

 

 そうでもしなければ、緩みきった頬を見せてしまいそうだった。――つまり、京太郎にはこれまで彼女はいなかった。女の子とのデートも初めて。幼い頃のあれやこれやは、カウントしないでおく。

 

 こんな些細なことでも喜んでしまうあたり、完全に参っている。憧は自分を笑ってしまいそうになるが、仕方ないものは仕方ない。好きなものは、仕方ない。

 

「それにしても、京太郎が麻雀始めたとわねー。あれだけスポーツ少年だったのに」

「毎日叩きのめされてるけどな。いやほんと強いんだよなあ、みんな」

「確かに、清澄の環境は初心者に厳しいかもね」

 

 一通りゲームを楽しみ終えると、憧の先導で二人は電車に乗り込んだ。道中の他愛のない雑談は、当然と言うべきか、麻雀の話題となる。

 

「折角清澄には和もいるんだし、練習試合もしたいわね」

「そもそも俺はお前が和と友達だってことに驚いたよ」

「それはこっちの台詞。ほんっと人の縁って分からないものね」

「ああ。――憧とも、またこうして遊べるとも思ってなかったよ」

「……うん」

 

 けれども、意図してか――京太郎の口からは、彼女の名前が出てこない。今日も、明日も卓上で戦う彼女の名前は出てこない。

 

 仕事帰りのサラリーマンが溢れる電車の中で、京太郎に庇われながら憧はドアを背に立つ。身長差のせいで、彼の胸元に顔が埋まりそうだった。少しだけ、汗臭い。しかし憧は、決して嫌だとは思わなかった。心臓が痛いくらい、強く鼓動する。

 

 地下鉄を乗り継いで、憧たちが辿り着いたのは、皇居の近く。

 

「懐かしいな、ここ」

「あ、やっぱり京太郎も覚えてる?」

「当たり前だろ。みんなで来たよな、あの夏に」

「うん。みんな、一緒だった」

 

 堀の傍を、生暖かい夏の夜風を受けながら、憧が先を歩く。着いてくる彼の足音は、きっちり憧の耳に届いていた。

 

「でも、二人だけで、どこかに行ってた人たちがいるのよね」

「……そんなことも、あったかな」

「あったわよ。あたしはちゃんと、覚えてるわよ」

 

 羨ましくて、ちょっぴり悔しくて。――新子憧は、あの日を忘れたことなんて、なかった。あの日だけではない。京太郎と彼女が近くにいたときのこと全部、ちゃんと覚えている。彼女を妬む気持ちも受け入れて、覚えているのだ。

 

「だからあんたとこうやってここを歩くのは、ちょっとした意趣返し、かも知れない」

 

 堀に映る月が綺麗で、憧は立ち止まる。京太郎も、足を止めた。

 

「京太郎」

 

 憧が、振り返る。彼女の長い髪が、ふわりと舞った。

 二人の近くには、他に誰もいない。堀に住む鳥と虫の声、それから車が通り過ぎる音だけが、静かな夜を彩っていた。

 

「宿題の答え合わせ、しよっか」

 

 笑顔で切り出したのは、彼女の精一杯の強がり。

 

「――ああ」

 

 京太郎は、頷いた。彼の目に迷いはない。――彼は、答えを出してきたのだ。

 

「小蒔ちゃんの、神を降ろす力は消せない。色んな意味で、無理だ。だから何とかするのは俺のほう、なんだろ」

「……うん」

「となれば、一つだ」

 

 京太郎は、一度言葉を切ってから。

 はっきりと、答えを口にした。

 

 

「――俺も、神を降ろす力を得る」

 

 

 そうだろう? と京太郎が確認してくる。が、憧は頷けなかった。唇が、勝手に震えていた。

 

 構わず京太郎は、続けた。

 

「須賀本家にある、神代と同質の力。そいつがあれば……供物としての力は失われるかも知れない。あるいは、宿した神が供物としての俺を占有するかも知れない。そうすれば、他の神は手出しできず、結果供物としての力は発揮されないかも知れない」

 

 どこまで行っても、「かも知れない」。確証など、どこにもない。想像と予測による、小さな小さな光。されど、小蒔と京太郎にとっては、希望の光だ。

 

 なおも憧は黙り込み、語るは京太郎ばかり。

 

「それに、そもそも俺にそのセンスがあるかも分からない。俺が須賀の血筋を引いてるのは確かだけど、神を降ろす力まで受け継がれているかは、分からない。――事実、憧に出会って初めて、俺は供物の力を得たんだから」

 

 最後の言葉は、憧に歯噛みさせる。だが、それでも彼女は何も言えなかった。

 

「もしかしたら、神代の指導の元で、身につけられるかも知れない。けれどもいつになるかは分からない。才能があったって、一生身につかない可能性だってある」

 

 傾いた土地の上に、塔を打ち立てるような愚行だ。暴挙だ。加えて上手く全てを積み重ねたとしても、願いが叶う保証はどこにもないのだ。

 

 そんな道を選ぶほうが、どうかしている。

 

 どんな夢を叶えるよりも、可能性は低い。そう見積もっても、差し支えない。

 

「……才能は、あると思う」

 

 絞り出した声は、憧の口から発せられた。

 

「遭難したときのこと、小蒔とあたしは覚えていないという結果は同じだけど、過程が違うでしょ。小蒔の場合、長い時間神を降ろし続けた影響で。あたしの場合、神様の力で眠らされたから、よね」

「……そう、聞いてるけど」

「でも、あんたは? あんたもあたしと同じように眠らされたんでしょ? でも、あたしよりもずっと早く目覚めた。記憶も失っていなかった。きっと、神様の力に耐性がある。――須賀の血脈は、あんたの中に受け継がれてる。……あたしはそう思う。昨日、お父さんに訊いたら、同じことを言ってた」

 

 京太郎の表情が明るくなる。希望の第一歩となる、言葉だった。可能性は、繋がっている。

 

「憧、俺は――」

「待ってッ!」

 

 京太郎の言わんとするところを、憧は大声で遮った。びくりと京太郎の巨躯が震える。

 

 ――聞きたくなかった。言わせたくなかった。分かっていた。

 彼が、容易にその道を選ぶことを、知っていた。でも、聞きたくなかった。聞いてしまえば、終わってしまう。この胸に点った想いが、潰えてしまう。

 

「まだ、答え合わせは終わっていないわよ。それだけじゃ、満点はあげられない」

「え……」

「ちょっと、こっち来なさいよ」

 

 憧の手招きに、京太郎は素直に応じた。ふらふらと、傍まで近寄ってくる。

 

「屈んで。耳貸して」

「なんだよ、他に人なんて……」

「良いから」

 

 有無を言わさない憧の物言いに、京太郎は顔の高さを彼女に合わせる。

 

 その一瞬の隙を狙って。

 

 憧は、自らの唇を、彼の唇に押し付けた。

 

「あいたっ!」

「痛っ!」

 

 そして、歯がぶつかった。

 

 二人して、口を押さえて悶絶する。

 

「な、な、な、憧、おま、なにして……」

「うるさい!」

 

 顔を真っ赤にして、憧は吠えた。目に涙が溜まる。

 

「あんたの供物としての力は、あたしの影響で目覚めたんでしょ! だったら新しい力を目覚めさせるには、あたしがいればきっと普通にやるより可能性が高い! 早い!」

「お前、憧――」

「お父さん、こうも言ってたわ。新子の社の影響を直接受けるより、あたしを経由するほうが可能性が高いって。事実、一度は成立しちゃってる。しかもたった数時間の出来事でよ!」

 

 喚く憧は、止まらない。

 

「肉体的、精神的接触……そういうことよ。あたしがいることで、現状を、変えられるかも知れない。ううん、きっとそうよ。だから」

 

 もう、自分でも何を言っているのかよく分からない。分からないが、憧は、体当たりするように京太郎に抱きついた。突然の行動に、それでも彼は、彼女の体を支える。

 

「あたしを――」

 

 力を込めて、精一杯彼の体を抱き締める。熱い。自分の体か、それとも彼の体か。きっと、どちらもだ。

 

 はらりと、憧の髪が京太郎の肩に落ちる。

 

 今だ、と憧はもう一度顔を近づける。これが、最後の機会だと――自分に残された最後のチャンスだと、彼女は知っていた。

 

 けれども、希望は成らなかった。

 

 ぐい、と大きな掌で肩を押される。距離が生まれる。

 

「憧」

 

 一度顔を伏せ、しかし京太郎は面を上げ直した。目をはっきりと合わせ、彼は言った。

 

 

「小蒔ちゃんに会うために、お前を踏み台にするような真似は、できない」

 

 

 それが、彼の「答え」だった。

 彼の選んだ、道だった。

 

 違う、だとか。

 そうじゃない、だとか。

 

 憧の中で言葉が生まれは消え、生まれは消えてゆく。踏み台でも良かった。道具として扱われても良かった。そう言いたかった。

 

 けれどもそれを言えば――京太郎を、苦しめる。苦しめてしまう。

 

 知っていた。

 京太郎の一番近くにいたのが、誰なのかを。

 

 知っていた。

 京太郎が会いたくて会いたくて、仕方なかった相手を。

 

 知っていた。

 京太郎がかけてくれたあの言葉は、自分が望んだものと違う意味なのだと。

 

 知っていた。

 それでも新子憧は、諦められないことを。彼のことが、大好きなのだと。

 ――彼を恨むことなんて、できないのだと。

 

 誰かに向けた、か細い声が彼女の口から生まれる。

 

「ば……か……」

「うん」

「ほんっと、ばか……」

「うん」

「ばかで、ばかで……なんで、あんたみたいなばか、なんで、もう……」

「うん」

「あたしの……ばか……」

 

 京太郎の手が、憧の頭に添えられる。漏れ出る嗚咽は、止められず。しかし、彼女の最後の意地は、落涙を許さなかった。

 

 ずっとずっと、憧の傍に、京太郎は寄り添った。

 

 

 ◇

 

 

「お帰り、憧」

 

 宿の入口に、穏乃が立っていた。いつものジャージ姿は、よく知らない街でも憧を安心させてくれる。

 

「ただいま、シズ」

 

 憧は、微笑んだ。そうするのが正しいと、思った。このまま一緒に宿へ戻ろう、そう思った。

 

 けれども、憧の予想に反して。

 

 親友は、すたすたと目の前に歩いてきたかと思うと――がばりと、憧の体を抱きすくめた。

 

 言葉はなかった。

 たった、その一つの行動だけがあった。

 

 憧の瞳から、堰を切ったかのように涙が溢れ出す。もう、止められなかった。止められるはずがなかった。

 親友の肩に、憧は全てを預けた。

 

 

 




次回:十九/神代小蒔/夢を謳う
次々回:終幕/須賀京太郎/桜花、憧憬


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十九/神代小蒔/夢を謳う

 夜は更け、少女たちの戦いは終局を迎えようとしていた。

 

 吐く息は荒く、既に満身創痍。激闘に次ぐ激闘を乗り越え、あらゆる手段、あらゆる力を総動員して、彼女はここまで辿り着いた。

 

 高校生最強の雀士を決める、この決勝卓に。

 

 頂点を獲る可能性が残されたのは、たったの四人。麻雀の競技人口を考えれば、正にこの卓につけるのは奇跡的な確率と言えよう。

 

 選ばれし者とも言える彼女たちは、しかし全員ここで満足できるはずもない。

 

 目指すは一着のみ。他は、何も要らない。

 意地と意地のぶつかりあい。

 

 ――その果てで、彼女の指から牌が滑り落ちた。誰かが息を呑む。

 

 狙い撃ったかのように牌を倒したのは、

 

「ロン」

 

 前年度インハイチャンピオン、宮永照。

 

 彼女の手を確認するまでもない。下馬評通りの実力を見せつけた彼女は、しかし想像以上に食らいつかれ、疲労が色濃い。

 

 神代小蒔は、卓上から指を膝元に戻し、ゆっくりと一礼する。

 

 インターハイ女子個人戦は、ここに決着した。

 

 

 ◇

 

 

東京/全国高等学校麻雀大会選手権会場

 

 表彰式はつつがなく終了し、すぐに会場の撤収作業が始まった。

 

 記者たちからのインタビューから解放された小蒔は、ふぅ、と溜息を吐く。

 

 ――それから。

 団体戦の開会式から数えると、二週間もの長い時間を過ごしたこの場所に、彼女は改めて深く頭を下げた。自然と、そうしていた。

 

「私たちは、これで最後ね」

 

 霞たちが、それに倣う。彼女と巴は寂しげに微笑み、初美は僅かに涙ぐんでいる。

 

「ひとまず今日は、宿に帰ってゆっくり休みましょう。姫様と初美はお疲れ様でした」

 

 巴が皆を促し、会場を後にしようとする。

 

 小蒔は今一度立ち止まり、ぐるりと周囲を見渡した。

 

 探そうとした彼女の姿は、ない。闘牌の最中では、考えようとしなかった。だが、こうして落ち着いてしまえばもう無理だった。

 

 彼女は今日もどこかで、自分を応援してくれたのだろうか。

 

 それとも――彼の傍に、いたのだろうか。

 

 胸にひっかかるものを、打ち消せない。――だめだ。考えてはいけない。もう自分は、諦めたのだから。夢見てはいけないのだから。小蒔は自らに言い聞かせ、立ち去ろうとする。

 

 しかし、足が動いてくれない。

 

 先ほどまでは、何の問題もなかったのに。ぴくりとも、動いてくれないのだ。

 

「小蒔ちゃん?」

「な、なんでもありませんっ」

 

 名前を呼ばれ、ようやく硬直から解き放たれる。

 

 気遣わしげな霞の視線から逃れるように、小蒔は歩き出した。――その彼女の前に、巴が携帯電話を差し出してきた。

 

「憧ちゃんからです」

「えっ」

 

 心臓が、跳ねた。画面には、確かに彼女の名前が踊っている。

 恐る恐る、小蒔は電話をとった。

 

「もしもし」

『ああ、小蒔。あたしよ』

 

 外にいるのだろうか――受話口の向こう側からは、憧の声に混じって風の音と雑踏が聞こえてくる。

 

『お疲れ様、試合見てたわ。惜しかったね』

「いえ……まだまだ未熟と、思い知らされました」

『何言ってるのよ、あれだけチャンピオンに肉薄できたんだから。凄かったわ』

 

 おめでとう、と憧は惜しみない賛辞を送ってくれる。しかし小蒔は、携帯電話を握る手に力を込めた。

 

「あの――」

『次は秋の新人戦ね。もう一度小蒔たちと戦いたいわ』

「そう、ですね」

 

 小蒔の言葉を制して、憧はマイペースに語りかけてくる。

 

『あたしもあんな場所で打ってみたいって、思ったんだから。羨ましいな』

「……そう、ですね」

 

 同じ相槌を、小蒔は繰り返す。

 

 ――羨ましいのは、自分のほうだ。なんて、口が裂けても言えない。言ってはならない。認めては、ならない。

 

 けれども、憧は。

 

『小蒔が、羨ましいよ』

 

 小蒔の心をざわつかせる言葉を、放ってくる。

 

『本当に、羨ましい』

 

 それはまるで、呪詛のようだった。

 挑発と言い換えても良い。意図して彼女は言っている。意図して彼女は、小蒔を煽っている。

 

「――私、だって……!」

 

 言い募ろうとしたのは、何だったのか。必死に感情を堰き止めて、小蒔は口を閉ざした。打ち捨てたはずの望みを、拾ってはならないのだと。

 

 しかし、憧にとっては、その声で充分だったようだ。ふっと、緊張感が消え去る。電話の向こうで、憧が笑った気がした。

 

『うん』

 

 誘導されたことに気付き、小蒔は目を見開く。

 

『これで心置きなく、奈良に帰れる』

「憧ちゃん?」

『またね、小蒔』

 

 通話は、一方的に切断された。味気ない電子音が、小蒔の耳を打つ。

 しばしの間、小蒔は呆然としていた。

 

「姫様」

 

 巴に呼びかけられ、反射的に小蒔は笑った。そうして、誤魔化そうとした。六女仙たちは、深く追求してこなかった

 

「帰りましょう」

 

 改めて霞が言って、一同は帰路に就く。

 既に慣れ親しんだ客間に戻ると、小蒔は机に突っ伏した。――疲れた。本当に疲れた。

 

「小蒔ちゃん、お風呂、どうするの?」

「私は、後で」

「そう……」

 

 答える言葉も短い。

 

 霞たちは部屋付きの風呂ではなく、外の露天風呂に出かけていった。一人、小蒔は客室に取り残される。そうして欲しいと、彼女自身が望んだことだった。

 

 頬と机をくっつけたまま、小蒔は何をするわけでもなく、そこにいた。時計の秒針が進む音だけが、室内を支配する。

 

 どれだけの時間、そうしていただろう。

 

 霞たちがそろそろ戻ってきてもおかしくないくらいには、小蒔は動けないでいた。疲労を考えればそのまま眠ってしまいそうであったが、彼女の目は冴えていた。

 

 シャワーだけでも浴びてしまおうか、と小蒔が考えたときと同時。

 

 こんこん、と戸をノックする音が聞こえた。

 

 霞たちが帰ってきたのだろうか、と小蒔は立ち上がりかけ、聞こえてきた声に全身を硬直させた。

 

「ごめん、ください」

「きょう……くん……?」

 

 呆けながら。

 足元をふらつかせながら。

 

 しかし、小蒔は引き寄せられるように戸へと近づく。締められた鍵には――触れられない。触れてはいけない。

 

「小蒔ちゃん」

「京くん、なんですか。どうして、ここに」

「巴さんたちに頼んで、入れて貰った」

「そうではなくて。そうじゃ、なくて……!」

「うん。分かってる」

 

 触れ合っては、ならない。

 顔を合わせては、ならない。

 

 本来なら、この状況も許されてはならないだろう。彼自身が許さないだろう。けれども彼は、やってきた。彼女の傍に、やってきた。

 

 声が、言葉にならない。

 

 どれだけ危険な行為であっても――神代小蒔の心は、歓喜に踊る。彼がすぐそこにいるという安心感が、全てに勝る。

 

 扉を挟んで、二人は並び立つ。

 

 この最後の一線は、決して開けてはならない天岩戸。

 

「今日の試合、もうちょっとだったな。でも、初心者目線だけどさ、チャンピオンを追い詰めていたと思う」

「……憧ちゃんにも、同じことを言われました」

 

 くすりと小蒔は笑う。笑ってしまった。

 

「ありがとうございます、京くん。来年こそは、勝って見せます」

「ああ。凄く期待してる。小蒔ちゃんなら、きっと勝てるさ」

「はい」

 

 渇水した大地に、潤いが染み渡るようだった。直接顔を合わせられなくても。その手を握りしめられなくても。充分だった。

 

 しかし、

 

「俺、明日、長野に帰るんだ。小蒔ちゃんは?」

「……私も、明日鹿児島に帰ります」

 

 この距離も、すぐに失われる。

 

 小蒔は扉に手を伸ばす。反対側で、京太郎もそうしている気がした。

 

 ――ああ。

 

 彼が、愛しい。狂おしいほどに愛しい。望んではいけない「これ以上」を、望んでしまいそうになる。

 

「その前に、聞いて欲しいことがあるんだ」

 

 京太郎の真摯な声が、小蒔の意識を現実に引き戻す。

 

「聞いて欲しいこと、ですか?」

「ああ。大切なこと」

 

 扉の向こうで、京太郎が大きく深呼吸した。

 

「俺と、小蒔ちゃんがもう一度会える可能性」

「――っ」

 

 小蒔の心に、衝撃が走る。

 

「あのな、小蒔ちゃん」

「待って!」

 

 小蒔は必死になって、京太郎の言を遮った。息を呑む音が、聞こえてきた。

 

「待って……下さい……!」

「小蒔、ちゃん? どうした」

「言わないで」

 

 彼が何を言おうとしているのか。

 予想がついた。想像がついた。

 

「言わないで下さい……!」

 

 何故ならば。

 その可能性に真っ先に気付いたのは、小蒔だったのだから。

 

 しかし、京太郎は謝りながらも言った。

 

「ごめん、小蒔ちゃん。言わないと、いけない」

 

 ――自らが、神を降ろす力を得られれば。

 共に過ごせる可能性は、あると。彼は語った。まさしく小蒔の考えと、同じだった。

 一縷の希望だ。

 

 成就すれば、どれだけ良いだろう。どれだけ嬉しいだろう。幸福なんて一言で、済ませられないだろう。

 

 けれども、あまりにも低い可能性だ。

 

 京太郎にその才覚があるとは限らない。

 素養があったとしても、開花するとは限らない。

 身につけられたとしても、本当に供物としての力を打ち消せるとは限らない。

 

 ないない尽くしである。

 

 そんな道に、京太郎を進ませるなんて――小蒔には、許容できなかった。その修行が、決して生半可なものでもないと、彼女は知っている。終わりさえ見えない迷路に、地図一つ持たないまま飛び込む愚挙だ。

 

「俺は、やるよ」

「いけません」

「小蒔ちゃんに、もう一度真正面から会うために」

「いけません……!」

 

 制止の声が、震える。

 

「昔、親父に言われたんだ。やりたいことはなんでもやっとけって。その内やりたいこともやれなくなるときが来るって。……これ、昔小蒔ちゃんに言ったっけか。とにかくさ、そう覚悟して、色んなことに挑戦してきた。麻雀も、そうだ。――でもな」

 

 京太郎は、一度言葉を切って。

 

 穏やかな声のまま、続けた。幼い頃のように、あどけなく彼は言った。

 

「俺は、幸せだよ。他のやりたいことなんて全部霞んで消えちゃうくらいに――本当に、やりたいことが生まれたんだから」

 

 ぽろぽろと。

 小蒔の瞳から、玉のような涙が零れる。

 

「好きだよ、小蒔ちゃん」

 

 声を押し殺して、小蒔は泣く。

 

「ずっとずっと、好きだった」

 

 その根源は、どこから来ているのか。悲しみか、怒りか――あるいは喜びか。ぐちゃぐちゃになった感情は、小蒔から冷静さをはぎ取ってゆく。

 

「待たなくて良い。俺が、勝手にすることだから。俺が、勝手に会いに行くだけだから」

 

 ――突き放せ。

 

 頭の奥で、声がした。

 

 そうしなければならない。自分のために、彼の人生を縛るようなことがあってはならない。彼にはもっと、素敵な未来があるはずだ。

 

 そうだ。新子憧と寄り添う未来。そんな未来を、彼は望めるのだ。何の憂いも苦しみもない、美しい未来だ。

 

 可愛くて、凛として、賢くて、自分にないものを沢山持っている少女。彼女と手を取り合って欲しいとさえ、小蒔は心の底から思っている。羨んでしまうのと、同じくらいに。

 

 だから――突き放さなければならない。

 

 迷惑だと。

 余計なお世話だと。

 

 彼の選ぶべき道を、正しい道へと戻すために。

 

「私は」

 

 ――言え。

 言うのだ。

 

 為すべき責務を果たすため、震える喉を叱咤する。

 

「私は――」

 

 堅牢な意思は、崩れない。小蒔には自信があった。こうなることも、心の何処かで予感していた。覚悟していたのだから。

 

 ――なのに。

 

 

「ずっと、お慕いしておりました……!」

 

 

 結局出てきたのは、全く別の答え。

 

 彼をこの道に引き込む、あってはならない言葉。一生口にすまいと決めていた、燃え上がるようなその感情。八年間、胸に秘めてきた想い。

 

 彼女の答えを、軽率だと糾弾するのは容易い。

 

 しかし本当は、誰にも正しい道なんて分からないのだ。夢のような話だとしても、嘲笑うなんて誰にもできない。

 

「本当は……今すぐにだってこの扉を開けたい」

「私だって、そうです」

「でも、それはきっと正しくない」

「はい」

「誰からも認められるようになってから、会いに行く」

「はいっ……」

 

 膝から崩れ落ちそうになる体を、小蒔は必死で支える。

 

 姫様、姫様と呼び慕われる彼女であったが。

 お伽噺に出てくるような、王子様を待つだけのお姫様であり続けるのは、嫌だった。

 

「京くん、聞いて下さい」

「なに?」

「今日、私は負けました。全力を尽くした上での敗北です、後悔はありません」

 

 ですが、と小蒔は切り返す。

 

「未熟であったことは、確かです」

「――、小蒔ちゃんが未熟だなんて」

「いいえ。きっとまだ私は上を目指せます。目指さなくてはならないんです」

 

 小蒔は微笑んだ。未だに流れ落ちる涙にも構わず、優しく笑った。京太郎に見せられないのが、残念になるくらいに。

 

「待っているだけは、嫌です」

「小蒔、ちゃん」

「私の力を、もっと上手く扱えるようになります。――京くんが、私で良かったって思える人になってみせます」

 

 うん、と京太郎があちら側で頷いた。

 

 小蒔は自然と、戸に体重を預ける。ぎぃ、と僅かに軋む音が鳴った。

 押し返してくる力があった。微かな均衡が、二人の間で生まれる。

 

 ――今は、これが限界。

 

 二人を隔てる扉一枚、取り除けない。もどかしさとせつなさが、小蒔の胸の中で際限なく溢れ出る。

 

 だが、小蒔はこの運命を受け入れる。

 

 薄幸の少女などと、気取るつもりは毛筋ほどもない。目一杯抵抗して、その上で勝ち取ってみせると、小蒔は決意する。

 

「行って下さい、京くん」

「……ああ」

「私はもう、大丈夫ですから。泣いてなんか、いませんから」

 

 この程度の虚言は許して欲しい。そう思いながら、小蒔は京太郎を送り出す。

 

「行ってくる」

「はい」

「また、会おう」

「また、会いましょう」

 

 二人の声は重なり。向こうから伝わる力が、ふっと消えた。

 

 足音が、遠ざかってゆく。完全に聞こえなくなるまで、小蒔は戸にしなだれかかったままであった。

 

 だが、彼女は立ち上がる。支えなど不要と、強い意志を抱く。

 

 涙を拭う。両の頬を叩く。

 

 いつまでも、悲嘆に暮れている暇などない。既に賽は投げられたのだ。熱いシャワーで穢れを落とし――寝間着には着替えない。袖を通すのは、巫女服であった。

 

「ひ、姫様?」

 

 戻ってきていた六女仙たちが一様に戸惑う。

 小蒔の纏う空気が、いつもと違った。

 

「卓と、牌の準備を」

「え……?」

「今日の反省会を始めます」

「今から……ですか?」

「お願いします。付き合って下さい」

 

 下げられた小蒔の頭頂部を見つめ――霞がたおやかに笑った。

 

「やりましょう。いくらでも付き合うわ」

 

 他の六女仙たちも、続く。

 

「私も今のままでは悔しいですからねー、もっとがんばるですよー」

「宮永さんの今日のデータ、整理しますね」

「黒糖は……また後で」

 

 小蒔は――五人は、明日のことも忘れて牌を握る。

 もっと先、遙か未来を夢見て、今を精一杯戦う。

 

 

 




次回:終幕/須賀京太郎/桜花、憧憬


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終幕/須賀京太郎/桜花、憧憬

 別れの三月はあっという間に過ぎ去った。電車に揺られながら、京太郎は物思いに耽る。

 

 卒業式でわんわん泣く咲と優希をなだめるのは大変だった。最初は平静を装っていた和も、最後は堪えきれなかった。京太郎自身も、祝辞を伝えにわざわざ母校に戻ってきた先輩たちの姿を見て、思わず涙ぐんでしまった。

 

 一年生からの、付き合いだった。四人で共に過ごした時間は長く、密度も濃かった。別れを惜しまない理由はない。――最後に四人で打った麻雀では、結局勝てなかったけれども。優希や和に成長を惜しみなく賞賛されたのは、面映ゆく、そして嬉しかった。

 

 みんなの進路は、ばらばらになった。

 

 とは言っても、咲たち三人は全員関東組。

 京太郎だけが一人、西側を目指していた。

 

 車窓から覗く雄大な山々は、長野のそれらと遜色ない。生地を離れてやってきたこの土地を、京太郎はすぐに気に入った。

 

 目的地に到着し、京太郎は電車を降りる。

 やや寂れた駅の雰囲気も、地元と似通っていた。ほっと、京太郎は一安心する。

 

 ポケットの中のスマートフォンが震えた。咲からの着信だった。

 

「もしもし、咲か」

『あ、京ちゃん。今、電話大丈夫?』

「ああ、電車降りたところだから」

『良かったぁ』

 

 安堵の声はいつも通りで、この間別れたとは思えない。すぐそこにいる感覚が、まだ残っている。

 

「どうしたんだ、もうお前横浜だろ? 今更迷子って言われても助けられないぞー」

『ち、違うよ。京ちゃんが無事に奈良についたか気になったの。京ちゃんこそ、迷子にならなかった?』

「電車に乗るだけで迷子には普通ならないだろ」

『…………』

「……お前、もしかして」

『違うの、こっちは路線とか色々複雑なの』

「長野から東京方面は、もう大会で何回も行っただろ」

 

 キャリーケースを引き摺りながら、京太郎は笑った。

 

「で、ほんとのところは用件なんだよ」

『……その、明日からいよいよ試合が始まるから。ちょっと不安で』

「そういうの、優希や和のほうが良くないか?」

『もう二人には連絡してたもん』

「お前、そういうとこ変わらなかったなー。打ってるときは、あんなに頼もしいのにさ」

 

 からかいながら、京太郎は改札をくぐる。相談を受ける代わりに、レディースランチを頼みたいところだ。もう、叶わない望みだけれども。

 

「でも俺、お前の初戦の相手もよく知らないぞ」

『京ちゃんに麻雀のアドバイスは求めてないから』

「さり気なく酷いなお前」

 

 仕返しと言わんばかりに、咲は楽しげに、厳しい言葉を京太郎に投げかける。京太郎も、笑って答えた。

 

「――お前なら大丈夫だよ。頑張れ、咲」

『ありがと、京ちゃん』

 

 幼馴染の弾む声が、正解だと教えてくれる。

 

『京ちゃんのほうも、頑張ってね。私には神職の修行は、よく分からないけれど』

「さんきゅ。まぁ、大学行きながらだけど精々頑張るさ」

 

 目的地に向かう次のバスが来るのは、もうしばらく時間がかかりそうだった。京太郎はベンチに座り込む。

 

『ね、京ちゃん』

「どうした?」

『昔、すっごく京ちゃんが落ち込んでたときなかった?』

「いつの話だよ、それ」

『さあ。でも、そのときに比べたら、今生き生きしてるなって』

 

 図星を突かれた気がして、京太郎は押し黙った。くすり、と微かに咲が笑う。

 

『だから、安心したの』

「……なら、良かったよ」

『うん、良かった』

 

 しばらく二人は思い出話に花を咲かせた。卒業式後の打ち上げでもあれやこれやと話したはずが、まだまだ物足りていなかったようだ。

 

 やがて、目的のバスがやってくる。京太郎はベンチから立ち上がった。

 

「それじゃ、な。そろそろ行くよ」

『うん。体には気を付けてね』

「ああ。応援してるぜ、宮永プロ」

『も、もうっ。その呼び方は止めてよっ』

「事実だろ、どうせこれからずっと呼ばれるんだし」

『そんなこと言ってると、京ちゃんが路頭に迷ってもマネージャーとして雇ってあげないよ』

 

 そいつは困る、と冗談めかして京太郎が言って、通話は終わった。京太郎は、一番後ろの座席を陣取る。

 

 他にバスへ乗り込んでくる人の数は、駅の規模の割にはかなり多かった。見たところ、京太郎と同じように引っ越してきたと思しき人間が大半を占めているようであった。

 

 出会いの四月。

 期待と不安が入り混じる、この季節。

 

 京太郎は先に進むため、もう一歩踏み出した。

 

 スマートフォンが、再び震える。今度は電話ではない。メッセージが届いていた。中身を確認して――京太郎は、微笑んだ。添付された一枚の写真には、五人の女性が並び立っていた。みんな、満面の、本気の笑顔。書かれた一文は、京太郎の心の中に、大切に仕舞われた。

 

 そのバス亭に降りたのは、京太郎一人だった。

 

 町から少し離れ、目の前には田園が広がっている。それらに背を向け、事前に調べておいた地図を片手に、京太郎は歩き出した。

 

 思えば、もしかしたらもっと早くここを訪れていたのかも知れない。そんな未来があったのかも知れない。

 

 奈良、阿知賀。

 幼馴染の、生まれ故郷。

 

 到着したのは、山の入口。社に続く石段は、京太郎の実家のそれよりもずっと広く長く、立派であった。格差を感じた。

 

 キャリーケースを抱えて、京太郎はゆっくり登る。

 

「うわ……すっげ」

 

 目に飛び込んできたのは、桜の木々。思わず感嘆の声を漏らしていた。

 

 桜吹雪が舞う。踏んでしまうのが勿体ないくらい、美しかった。

 

 京太郎は足を止め、しばしその光景に見惚れる。例年より若干早い開花が、彼を迎え入れてくれた。

 

 いつまでもそうしていたい気持ちを振り払って、京太郎は再び登り始める。それでも視線は、桜に注がれたままだった。

 

 たっぷり時間をかけて、山の中腹に差し掛かる。

 立派な鳥居が、目の前に現れた。その奥には、大きな社。

 

 鳥居をくぐって最初に出会ったのは、壮年の男性だった。知っている、顔だった。

 

「お久しぶりです、新子さん」

「やぁ。元気だったかい」

「ええ。親父にしこたま鍛えられたおかげです」

「あいつは昔から体育会系だったからな」

 

 彼は――新子憧の父親は、おかしそうに笑う。同じ宮司でも、親父とは違って穏やかな人だな、と京太郎は密かに思っていた。

 

 相談に相談を重ね、高校卒業後は京太郎が新子神社で修行を積むことになったのは、彼に誘われたからだ。正直なところ願ったり叶ったりの話で、京太郎は最終的に誘いを受ける運びとなった。

 

 まだ、目標には到達できていない。この三年弱、基礎固めに終始した。殻を破るには、やはり新子の力が必要だった。

 

「お世話になります。下宿先まで手配してくれて」

「ああ、気にしないで良いよ。男手が足りなかったんだ、私もそろそろ歳でね。君に働いて貰いたいという下心もあるんだから」

「なんでも言って下さい。お手伝いさせて頂きます」

「頼むよ」

 

 まずは彼に礼を述べるため、いの一番でここを訪れた。次は下宿先に移動しようと、京太郎が踵を返しかけ、

 

「待ちなさい。折角だから、お茶でも飲んでいったらどうだい?」

「良いんですか」

「構わないさ。――そっちの道を真っ直ぐ行けば社務所があるから。案内人を用意しておいた、ついでにうちの神社をゆっくり見ておくと良い。私は用事を済ませてから、後で行くよ」

「分かりました、何から何までありがとうございます」

 

 深々と京太郎は頭を下げ、指し示された道を進む。

 

 桜色の花弁が、境内でも舞っていた。綺麗だな、と空を眺めながら京太郎は歩く。木々がざわめく音が、心地よい。時間帯のせいか参拝客も少なく、社は静謐な雰囲気に包まれていた。

 

 京太郎は神社のこういう空気が、とても好きだった。実家を離れても、別の神社でもそれは変わらず、安心する。この空気を壊すような真似はまかり通らないと考え、京太郎は足音一つに気を遣う。

 

 社務所はすぐに見つかった。

 

 その前に、巫女服姿の女性が立っていた。――彼女が案内人だろうか。声をかけようと近づき、そして、

 

 

「って憧ぉっ?」

 

 

 静穏を、自らぶち壊しにした。

 

 よく見知った――どころではない。佇んでいたのは、大切な親友だった。昔馴染であった。身長は相変わらずだったが、以前会ったときよりもさらに大人びて、色気が増している。油断すれば、見とれてしまいそうだった。

 

「あ、京太郎。予定よりちょっと早かったわね」

「早かったわね、じゃねーよ! お前、東京の大学に行ったんじゃなかったのかよっ。そう聞いたから俺ここに来たんだけどっ?」

「ああ、東京のほうは蹴ったわ」

「はぁーっ?」

 

 素っ頓狂な声が、京太郎の口から次々と飛び出す。嫌ね、と憧は眉を寄せた。

 

「そんなに嫌がることないじゃない」

「い、嫌がるとかそういう問題じゃねぇだろ。お前、えぇ、ふつうあの大学蹴るか……? 受かったんだろ……?」

「学歴なんて関係ない! ……なんて気取るつもりはないけどね。あたしのやりたいことを考えたら、地元に残るのが一番だったから。というわけで今日からよろしく、学友さん。ほんと、あんたと同じ学校に通う日が来るとはね。昔は想像もしなかったわよ」

 

 あっけらかんと言い放つ憧に、京太郎は言葉を失う。堪えきれなくなったように、憧は笑い出した。

 

「あんたのその顔見られただけでも、サプライズにして良かったわ」

「……サプライズすぎるっての。お前、本気で何考えてるんだよ」

「考えてることなんて――やりたいことなんて、一つに決まってるでしょ。どうして分からないのよ」

 

 憧は、はぁ、と溜息を吐く。心底呆れてる様子だった。京太郎は、戸惑うばかり。

 

「あんたが小蒔と会いたがってるのと同じようにね。あたしもまた三人で揃いたいって、思ってるんだから。もう二度と揃わないなんて、嫌なんだから」

「――……憧」

「だから、そのためならどんな協力だって惜しまない。……別に踏み台にしろって言ってるんじゃないわよ」

 

 強気に、可愛らしく微笑んで、

 

 

「一緒に会いに行きましょ、小蒔に」

 

 

 憧は、右腕を伸ばして京太郎を誘う。その指先を京太郎は見つめ――彼女の想いを感じ取る。

 

「勝手なことばっかり言いやがって」

「勝手に先に行こうとしたのは、あんたのほうでしょ」

 

 ほら、と憧が促し。

 京太郎は、苦笑して。

 

 彼女のその手をとった。ぎゅっと握りしめ、憧が走り出す。京太郎は慌てて彼女の後を追う。キャリーケースはその場に置き去りに。

 

「あ、いつでも浮気してくれても良いのよ?」

「するかばかっ」

「えー、残念」

 

 憧はくすくす笑い、京太郎は顔を赤くする。

 

 二人は、目指す。

 憧れの、桜が待つ場所に。

 

 

 




次回(エピローグ):Summer/Shrine/Sweets


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Summer/Shrine/Sweets

東京/全国高等学校麻雀大会選手権会場

 

 夏になると、いつも彼らのことを思い出す。

 

 

「――決着! 決まりました! インターハイ女子団体戦優勝は、白糸台高校です!」

 

 熱の点った声で、アナウンサーは叫ぶ。観客の歓声にかき消されそうになるも、彼女は声を張り上げる。

 

「素晴らしい! 素晴らしい戦いでした! 白糸台はここ数年関西勢に押されていましたが、古豪、見事に復活です! ――宮永プロ、おめでとうございます! 母校の勝利に、一言お願いします!」

 

 アナウンサーに話を振られ、この決勝戦の解説を務めていたSリーグプロ・宮永照は、「はいっ」と明るく返事をする。

 

「私情を交えて失礼しますが、本当に嬉しいです。もちろん、全ての選手が素晴らしい打ち筋を魅せてくれました。正にインハイの歴史に残る一戦だったのではないでしょうか」

「そうですね。逆転に次ぐ逆転、どの学校も一歩も譲らず、本当に最後まで手に汗握らされました。今一度大きな拍手を送りたいと思います!」

「ええ……本当に良かったです」

「宮永プロ……」

 

 涙ぐむ照に、アナウンサーが微笑む。

 

「……それでは優勝校インタビューに移りたいと思います。まずは――」

 

 アナウンサーは、変化する画面に合わせて番組を進行させる。

 宮永照は、とても嬉しそうに目元を拭った。

 

 

 ◇

 

 

「お腹空いた」

 

 インハイ決勝戦の中継を終え、控え室に戻ってきた宮永照が、のっぺりとした表情で開口一番そう言った。

 

「お菓子が足りない」

 

 この夏相方を務めたアナウンサーは、深い溜息を吐く。番組中とは打って変わって砕けた口調で、彼女は照に向かって言った。

 

「あんた急にトーンダウンし過ぎよ、びっくりするわ。さっきまでほんとに感動してたの?」

「え……確かに感動してたし、思ったことを言っていた。本当に良い戦いだった」

「そうは全く見えないのよね……あんたの営業スマイル、かなり怖いわよ」

「よく言われる」

 

 照は気にする素振り一つ見せず、椅子に座った。アナウンサーはもう一度溜息を吐いてから、鞄の中からクッキーの入った袋を取り出して、照へと手渡す。

 

「流石新子アナ」

「褒めてもこれ以上何も出ないわよ」

 

 女子アナウンサー――新子憧は、照の対面に座る。無表情のままクッキーを噛み砕く照を見つめながら、憧は頬杖を突いた。

 

「美味しい。どこで買ったの?」

「あたしの手作りよ、それ」

「凄い」

 

 手短な賞賛に、憧は苦笑する。

 

「教えて貰ったレシピだけどね。――弘世さんに、あんたとの付き合い方聞いておいて良かったわ」

「菫に? 何て言ってたの?」

「まずはお菓子を常備することって言われたわよ」

 

 なるほど、と照は納得したように頷いた。それで良いのか、と憧は突っ込みたくなったが、どこか幸せそうな照を見ているとどうでも良くなった。

 

「……去年の江口プロと言い、なんであたしの相方はこうも特徴的というか、なんというか。ほんっと疲れるわ」

「新子アナ、高校時代に団体戦で江口さんと当たってなかった? あのときは仲良さそうだったけれど」

「よく覚えてるわね、そんなこと。もう八年も前の話よね」

「準決勝で私たちも一緒に当たったから。白糸台と、阿知賀と、千里山と、新道寺」

 

 ああ――と、憧は思い出す。あのときは、大変だった。本当にもう、大変だった。

 

「結局清澄に優勝とられちゃったのよね」

「もっと言えば、準優勝も阿知賀にとられた」

 

 恨めしげに言っているのだろうか――いまいち声に抑揚がなくて、感情が読み取れない。こういうときこそもっと営業スマイルを見せて欲しいものだ。とりあえず憧は、「ふふん」と勝ち誇っておく。

 

「あ……咲からメールだ」

 

 随分と型式が古い携帯電話を照が開く。へぇ、と憧が関心を示す。

 

「仲良いのね。咲とはアマ時代は別の学校だったし、今はリーグでライバル同士でしょ」

 

 宮永姉妹と言えば、今や日本を代表する若手の二大エースだ。国別代表戦では揃って出場するのが当たり前になっている。反面二人の所属チームは違うし、プライベートの話はめっきり聞かない。

 

「一時は疎遠になっていたけど、今はこうしてちゃんと連絡取り合ってる。白糸台優勝おめでとうって、今も言ってくれた」

「へぇー。宮永プロって二人とも喧嘩するようなタイプには見えないから、意外」

「人生色々ある」

 

 端的な言葉だった。しかし憧は腑に落ちた。どれだけ仲が良くても、どれだけ想い合っていても、離れなければならないときがある。

 ついでにあのことを咲に訊いてもらおうか、と憧が思いついたのと同時、照が真剣な眼差しで見つめてきていることに気付く。

 

「新子アナ」

「な、なに? どうしたの?」

「クッキー、もうないの?」

「ない! え、全部食べちゃったのっ? 早っ!」

 

 美味しかった、と照は満足気にお腹をさする。

 

「あんた、ヴィジュアルも大事な仕事やってるんだから気を付けなさいよ」

「新子アナ、菫みたいだね」

「弘世さんの苦労がよく分かるわー……」

 

 がっくりと憧は肩を落とすが、やはり照はどこ吹く風だ。それどころか、

 

「またこのクッキー、作って欲しい」

 

 と要求してくる始末。それでいて憎めないのだから、これが王者のカリスマなのかと憧は首を捻ってしまう。

 とにはかくにも、

 

「作ってって言われても、あんた明後日から欧州行脚でしょ? 渡せないわよ」

「明日がある。新子アナもオフでしょ?」

「残念」

 

 憧はしてやったりと笑い、手をひらひら振った。

 

「明日は先約があるの。昔の友達と、ちょっとね」

「同窓会?」

「んー、学校違うからね。ほら、永水女子って覚えてる? インハイで戦ったでしょ?」

「ああ……あの人たち、凄かった。よく覚えてる。友達だったんだ」

「うん。ずっと昔からのね。あの子たちと約束してるの」

 

 さて、と憧は席を立つ。

 

「もう遅いし、そろそろ帰ろっか。――解説お疲れ様でした、宮永プロ」

「うん。次回もよろしく、新子アナ」

「いやいや次は別のプロを希望しておくから」

 

 憧が容赦なく言い放つと、照は吹き出した。カメラの外では、珍しい姿だった。憧も釣られて、笑っていた。

 

 

 ◇

 

 

東京/東京大神宮

 

 憧が大神宮を訪れるのも、ほぼ毎年の恒例行事になっていた。

 

 うだるような暑さと、蝉の声。青々とした木々、荘厳な社。行き交う参拝客たち。例年通りのその光景に、日傘の影で憧はほっと息を吐く。

 

 初めて訪れた幼い頃、途方もなく大きく感じたご神木は、しかし今も圧倒される。これもやはり、変わらない。

 

 顔見知りとなった宮司と挨拶を交わし、社の奥に通して貰う。目指すのは、境内にある宿泊施設。

 

 かつて、「みんな」で寝泊まりした場所。

 経年劣化でそろそろ建て直しが必要らしく、憧は一抹の寂しさを覚えつつ中へと入る。

 

 既に、先客が訪れていた。

 

「憧ちゃん」

「こんにちはなのですよー」

「ん」

 

 巴と初美と春だ。いずれも変わりない姿の三人は、すぐに憧の元へと駆け寄ってくる。

 

「久しぶりね、みんな」

「昨日まで憧ちゃんの顔はテレビでよく見ていたから、私たちはあまり久しぶりという気はしませんね」

 

 巴に言われて、憧は困ったように笑う。

 

「柄じゃない仕事かな?」

「そんなことないのですよー」

「よく似合ってる」

 

 ありがと、と憧はお礼を言ってから、辺りを見渡した。

 

「他の二人は?」

「霞ちゃんは――」

「ここよ」

 

 奥から、霞がそろりと現れる。艶やかな美貌は、成人してからますます磨きがかかっているようだった。

 

「暑かったでしょう。すぐにお茶、用意するから」

「ああ、ごめん霞さん。ありがと」

「気にしないで。……最後に会ったのは、今年のお正月だったかしら。その後、お仕事のほうは順調?」

「何とかね。麻雀プロたちの相手は大変だけどね」

 

 半ば本気の冗談に、霞はあらあら、と微笑んだ。それから、

 

「今日は六人で、昔みたいに遊びましょう」

「……うん」

 

 憧は、複雑な気持ちで首肯する。六人、なのだ。

 

「小蒔ちゃんは、いつものところにいるから」

「分かった、すぐ会ってくる」

 

 憧は一人で、廊下を進む。懐かしい畳の匂いが、鼻をついた。ぎしぎしと軋む床の音まで、同じであった。

 

 かつて寝泊まりした部屋の障子を開ける。かけられた時計、箪笥もそのままだ。部屋の中に、彼女の姿はなかった。

 

 部屋を横断し、縁側まで進む。

 

 そこで憧は、庭の中央で佇む彼女を見つけた。

 

 かつて二つにしていたおさげは、一つになっている。どこか幼さを残した顔つきはそのままに、しかし年齢相応の雰囲気を漂わせ、見事に大人の女性に成長した。――というかまた胸大きくなったんじゃないの畜生と憧が心の中で妬んだのは、彼女だけの秘密である。

 

「小蒔」

「憧ちゃん」

 

 憧が声をかければ、満面の笑みで答えてくれた。――ああ、そこは昔のままだ。

 

「今年は無理なスケジュールになってごめんなさい。憧ちゃんは明日も仕事でしょう?」

「良いの良いの、むしろインハイのおかげで東京に残りやすかったし」

 

 二人は縁側に腰掛ける。

 霞が持ってきてくれた烏龍茶を片手に、近況を伝え合った。

 

「ほんっと宮永プロには困ったものよ」

「なんだか印象と違いますね。あの人はこう、凄い自律心があるというか、厳しい方というか」

「お、小蒔、八年前に負けたことまだ根に持ってたりする?」

「そんなことありませんよっ」

「どうだか」

 

 愚痴混じりに、憧は小蒔をからかう。小蒔は「もうっ」と怒りながらも、その表情から笑顔は絶えない。

 

「あれが八年前、ですか」

「でもって、ここで初めて一緒に遊んだのが十六年前」

「早いものですね」

「早すぎでしょ、もう」

 

 くすくす笑い合って、憧は空を見上げる。

 話題が尽きたわけではない。しかし、二人はしばしの間黙り込む。流れていく雲を、目で追った。

 

 その間が、憧の心を変化させる。

 

 ――言うまい、と決めていたはずが。

 

「これであいつがいれば」

 

 しんみりと、憧は呟いてしまう。

 

「あいつがいれば、皆揃うのにね」

 

 小蒔は少しだけ顔を伏せ、頷く。

 

 憧は、気を取り直すように言った。

 

「ま、あいつがここにいるわけないか」

「そうですね。だって――」

 

 小蒔の言葉が途切れる。それ以上、声にならなかった。

 

 憧も、押し黙り。

 蝉の声だけが、周囲に木霊する。

 

 場を取り直そうとして、憧は無理矢理笑おうとして、

 

「あいたっ」

 

 こつん、と後頭部に小さな衝撃が走った。何するのよ、と反射的に振り返り、

 

 

「あいつって、どいつのことだよ?」

 

 

 にやりと笑う彼の姿に、「はぁっ?」と憧は間の抜けた悲鳴を上げた。

 

「京太郎っ」

「京太郎さん!」

「や。久しぶりだな、憧」

 

 丸い西瓜を片手に、すっかり青年らしくなった幼馴染が立っていた。ぽかん、と小蒔が口を開けている。だから代わりに、憧が訊ねた。

 

「あんた、今日アメリカじゃなかったのっ?」

「咲と淡が気ィ利かせてくれてな。先に帰して貰ったんだ」

「だったらそう連絡しなさいよ!」

「サプライズだよサプライズ。たまには良いだろ、こういうのも」

 

 これには小蒔も、

 

「意地悪ですよ、京太郎さん」

 

 と立ち上がり抗議する。ぎゅっと彼の左手を取って、

 

「今年は揃わないんだなって、みんな悲しんでたんですから」

「だからこれ、お詫び。食べようぜ、昔みたいにさ」

 

 悪びれず、京太郎は西瓜をかかげた。憧は振り下ろそうとしていた拳を、ぴたりと止める。それから深い、深い溜息を吐いて、

 

「仕方ないわね、もう」

 

 と、微笑んだ。

 

 西瓜を切り分け、三人で縁側に腰掛ける。風が吹いて、ちりん、ちりんと風鈴が音を鳴らす。

 

 塩を振って食んだ西瓜は、例えようもない甘さを与えてくれた。京太郎は齧り付き、小蒔は口をほとんど開けずに食べていく。

 

「さっきまでインハイの動画見てたぜ。いやぁ、憧と照さんのコンビ凄い良いな。あっという間にファンになったぜ。来年も見たいよ」

「あたしは勘弁して欲しいわよ、正直ね……あの人の相手は大変なのよ?」

「宮永妹の相手をしている身からすれば、その苦労は理解出来るな」

「京太郎さん、京太郎さん。私はアメリカ遠征の話を聞きたいです!」

「もちろん! そうだな……まずは空港で噂の咲が迷子になったところから話さないとな」

「咲ちゃん、変わりませんね」

「あの姉妹はほんとにもう、手を焼かせるわね」

 

 幼い頃と、同じように。

 

 三人は、甘みに頬を緩ませながら語り合う。夏の眩い陽など関係ないように、三人は肩を寄せ合う。――触れ合った。

 

 

 

 夏になると、いつも彼らのことを思い出す。

 ――大好きな、彼らのことを。

 

 

 

                         Summer/Shrine/Sweets おわり

 




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幕外
幕外一/大星淡/コメットガールとイヴィルストーン・前


※ラブコメです。
※本編の空気を壊す可能性があります。ご了承下さい。
※本編とはよく似た別の世界のお話と解釈するのが良いと思います。


東京/全国高等学校麻雀大会選手権会場 団体戦決勝卓

 

 インターハイ女子団体戦Aブロック準決勝、白糸台が二位抜けで決勝進出。

 

 多くのメディアがこぞって書き立てた準決勝の記事を見つけたとき、大星淡は強く歯噛みした。どこの誰かも知らない人間に何を言われても気にならない。問題は――二位、という事実である。

 

 常勝白糸台の大将を務めながら、トップを許した。鼻差であろうと、先輩たちからフォローされようと、傷付いた淡の自尊心が癒えることはなかった。

 

 名誉を挽回するための手段は、ただ一つ――高鴨穏乃を叩きのめすことだけ。

 

 副将からたすきを受け取り、真っ先に決勝のステージに淡は降り立った。全ては、格好良く高鴨穏乃に宣戦布告するため。――大星淡、少々ネジが緩んだ子であった。

 

 扉が、開く。

 

 ――来た……!

 

 揺れるポニーテール。小さな体。丈の短いスカート。間違いない、高鴨穏乃だ。淡は彼女を指差し、大きく口を開け、

 

「いやー、石戸さんと戦うなんてどきどきしますね」

「ええ、私もよ。今日はよろしくね、高鴨さん」

 

 のほほん――とまではいかなくとも、和やかな空気で会話する穏乃に、淡はがくりと膝を落とす。

 

 穏乃の隣には、この卓唯一の三年生、石戸霞の姿があった。どうやら穏乃とは顔見知りらしく、二人の間に遠慮はないようだ。

 

 完全に機先を制された形となった淡は、ぎろりと霞を睨み付ける。しかし彼女の身体的特徴に目を奪わると、淡は再び膝を落とした。圧倒的だった。

 

 淡が一人悶えていると、四人目の選手が姿を現す。――空気が、変わった。

 

 ――テルの妹……!

 

 流石にプレッシャーが違う。ごくりと唾を飲み込むと、淡は猛禽類を思わせる笑みを浮かべた。敵同士にも関わらず馴れ合っている高鴨穏乃なんて、もうどうでも良い。彼女こそ自分のライバルに相応しい。淡は立ち上がった。

 

 が、

 

「あ……宮永さん」

「岩戸さん……」

 

 今度は咲と霞が目を合わせると、気まずそうにお互い顔を背けていた。

 

 二人は二回戦、準決勝と鎬を削り合った仲だ。淡の与り知らぬところで色々あったのだろう。しかし、彼女たちの間に流れる微妙な雰囲気はうかつに手を出せるものではなかった。ただ卓を共にしたというだけでは、こうはならない。

 

 全て、淡の思った通りに話は進まない。

 気が付けば、場所決めが始まっていた。

 

 

 ◇

 

 

 団体戦の表彰式が終わった途端、淡は走り出した。

 

 当てなどない。後ろからかけられた先輩たちの制止の声も、彼女の耳には届かなかった。とにかくもう、誰の顔も見たくなかった。――自分の顔を、見せたくなかった。

 

 敗北。

 

 その二字は、淡の心を大いに傷付けた。

 

 気が付けば、会場の外へと飛び出していた。走って走って、走り続けた。しかし彼女もまた文化部。息が切れると、途端に足が止まった。

 

 ぜいぜいと肩で息をしながら、目元を拭う。

 辿り着いたのは、どことも知れぬ公園だった。

 遊具も少なければ、街灯も少ない。

 

 急速に、淡の頭が冷えていった。

 

 どうしよう、と淡は内心焦った。東京住まいの彼女ではあるが、ここがどこかさっぱり分からない。当然帰り道など知るはずない。

 

「うう……」

 

 そこまで遠くまでは来ていないはず。とにかく歩き出そうと、一歩踏み出して、

 

「あうっ」

 

 足がもつれて、盛大に転げた。彼女自身、思っていたよりも足は悲鳴を上げていた。

 

「痛い……」

 

 思い切り膝を擦りむく。制服のスカートも汚れてしまった。淡は別の意味で涙目になった。何もかも、最低だ。立ち上がる気力も最早なく、淡は目を伏せて――

 

「おいお前、大丈夫か」

 

 かけられた声に、淡ははっと顔を上げる。

 すらりと背の高い男子が、そこに立っていた。どこにでもあるようなカッターと黒ズボンの制服。目を引くのは、自分と同じ金色の髪だ。心配そうに、こちらを見つめている。

 

「立てるか」

 

 差し出された大きな手に、

 

「……うん」

 

 淡は、素直に応じた。

 強い力で引き上げられる。簡単に立ち上がれた。

 

「膝、怪我したのか」

「あ……うん」

「そこのベンチ座ってくれ。ちょっと待ってろ」

「うん」

 

 淡は頷くばかりで、言われるがままにベンチに座る。

 彼は手元の鞄から、救急箱とペットボトルのミネラルウォーターを取り出した。

 

「ちょっと沁みるぞ」

 

 ミネラルウォーターで土埃を落とされる。つん、とした痛みが走ったが、淡は気にしなかった。彼は慣れた手つきで消毒液をかけて、絆創膏まで貼ってくれる。

 

「これで良し」

「……なんでこんなもの、持ち歩いてるの?」

「雑用係をやっててな。すぐ迷ったり転げたりする奴がそばにいて、念のため持ち歩いてるんだよ」

「変なの」

「変なんだ」

 

 彼が微笑み、淡は笑った。少しだけ、気が晴れた。

 

「……アリガト」

「どういたしまして」

 

 スカートの汚れを払いながら、淡はベンチから立ち上がる。――見上げなければならないほど、彼とは身長差があった。

 

「お前、白糸台の大将か」

 

 救急箱を片付けながら、彼は言った。特段淡は、驚きはしなかった。高校麻雀界ではちょっとした有名人であることくらい自覚している。宮永照の後継者。その肩書きも、今の淡にとっては虚しい響きだった。とにかく同年代の男子が自分を知っていてもおかしくはない。

 

「あんたはどこのどなた?」

 

 淡は訊ねた。矜持の高い彼女が、どこの馬の骨とも分からない他人に興味を示すのは珍しいことだった。

 

「清澄の、須賀京太郎」

「清澄……」

 

 ライバルの学校。半日前の淡なら、敵愾心を剥き出しにしただろう。しかも、負けたばかりの相手。だが、今更そんな気にはなれない。というより、彼を前にするとそんな気力が全く湧いてこない。

 

「なんで清澄のあんたがこんなところに? みんな、まだ会場にいるはずでしょ。折角……優勝、したのに」

「ちょっとな。今、あそこにはいられないんだ」

「どうして?」

 

 淡の質問に――

 困ったように彼は笑って、誤魔化すように夜空を見上げた。自然と、淡はそれに倣った。上弦の月が、浮かんでいた。綺麗だった。

 

 そっと覗き見た彼の横顔は、どこか泣いているみたいだった。涙なんて、一筋も流れてはいないのに。淡には、そう見えた。

 

「お前こそ、どうしてこんなところにいるんだ?」

 

 問われ、淡は迷った。本来の彼女なら、「あんたには関係ないでしょ!」と毒づくところであろうが、今回はそうはならなかった。

 

「負けて……飛び出して来ちゃった」

「そうか」

「笑わないの?」

 

 なんでだよ、と彼は不思議そうに訊ね返してくる。

 

「俺は全国の決勝なんて舞台、自分で立ってないからな。そんな奴が、そこで必死で戦ってた奴を笑うなんておかしいだろ」

「……そうなの?」

「そうなんじゃないのか、ふつう。……負かされた学校の人間に何を言われたってつまらないかも知れないけど、大将戦、凄かったぜ。つぅかもう無茶苦茶で俺には理解できなかったし」

 

 勝者は褒め称えられ。

 敗者は嘲笑される。

 

 そんな淡の価値観は、一瞬で打ち砕かれた。

 

「お前、マジで強いんだな。俺も打ちたくなったよ」

「ふ……ふーん」

 

 胸が、ざわつく。同時に、暖かくもなる。持て余した感情の置き所が、分からない。

 彼は、どこか悲しげに続けた。

 

「でもさ、逃げ出しても結局、また向き合わなくちゃならないんだ」

 

 それは、まるで自分に言い聞かせているみたいだった。

 

 高校百年生の私に説教とは片腹痛い、と高笑いするのが淡の常だろう。しかし彼の言葉は、強く淡の胸を打った。確たる裏打ちがあるみたいだった。

 

「ねえ」

「ん?」

「名前」

「名前がどうかしたのか」

「もう一回、名前、教えて」

 

 淡が訊ねて、彼は「酷いな」と苦笑した。

 

「須賀だよ。須賀京太郎」

「キョータロー」

「そう。お前は――」

「淡。大星、淡」

 

 淡は、花のような笑顔を浮かべた。実に楽しそうに笑った。

 

「キョータロー」

「おう」

「キョータロー、キョータロー」

「な、なんだよ」

 

 何度も名前を呼ばれて、京太郎は戸惑う。淡は気にしない。些事に彼女はかまけない。今彼女にとって大事なのは、この気持ちだった。

 

「ねー、キョータロー」

「うおっ」

 

 がばりと彼に抱きつく。迷いなど、淡になかった。

 

「な、なにするんだお前っ」

「えー、良いじゃん別に!」

 

 淡は歯を剥いて笑い、

 

「私と結婚するんだから、キョータローは!」

 

 と、高らかに宣言した。

 

 

 ――大星淡、自称高校百年生。

 若干、頭のネジが緩んでいる。

 

 

 ◇

 

 

東京/全国高等学校麻雀大会選手権会場

 

 個人戦初日の午前中、淡は快調に点棒を稼いだ。二日前は沈みに沈んでいた彼女とは打って変わって、調子が良かった。

 

 逆に心配になった白糸台部長・弘世菫が対局の合間に訊ねる。

 

「お前、変なものでも食べたんじゃないのか」

「もー、スミレ何言ってるのー?」

 

 しなを作って、淡は答えた。

 

「愛の力だよこれは!」

「……バカなのか?」

「おー、もしかしてスミレ妬いてる? 妬いちゃってる?」

 

 額に青筋を浮かべ、しかし菫は我慢した。この後輩に常識は通じないと彼女はよく理解していた。色んな意味で。

 

「実際何があったんだ」

「初恋もまだのお子様のスミレには分からないだろうなあ……」

 

 今度は菫は我慢しなかった。鍛えられた彼女の握力が火を噴く。――「痛い痛い、折角セットしたヘアスタイルが崩れる!」「どうせ対局中に勝手に崩れてるだろう!」「スミレのバカー!」。――二人は揃って運営に怒られた。当然である。

 

 昼休憩に入ると、淡は真っ先に対局室を飛び出した。

 

 探すのは、彼の姿。チームメイトたちの応援をする、と確かに言っていた。

 観客席までいの一番に辿り着くと、淡はあっという間に衆目を集めた。団体戦で敗北を喫したとは言え、王者白糸台の期待の一年生。美少女と言って差し支えない容姿。目立つ要素は揃っている。

 

 彼女は必死になって周囲を見渡す。

 

 群衆ではあるが、彼の身長は高い。充分に見つけられる勝算が淡にはあった。何より愛の力がある。淡は本気で信じていた。

 

「いたっ」

 

 彼もまた、目立つ髪色。

 

「キョータロー!」

「うおおおっ」

 

 抱きつくどころではなく、もはや飛びかかる領域で、淡は京太郎との距離を詰めた。京太郎の体幹がしっかりしているおかげが、投げ出されずに淡の体はしっかりと受け止められる。

 

「お、おま、お前大星、なんでここにっ」

「もー、大星なんて他人行儀に呼ばないでよー。淡で良いから」

「い、いや……」

「あーわーいー」

 

 可愛らしく拗ねてみせると、京太郎のほうが折れた。「……淡」と不承不承に呼んでいるのは丸わかりだったが、淡は些細なことを気にしない。ぱあっと顔を輝かせる。

 

「あのねあのね、今日はキョータローにお弁当作ってきたの!」

「は、はぁ? なんで?」

「キョータロー、サキたちの応援するんだよね? だから私が応援するキョータローの応援をしようと思って!」

 

 周囲の観客たちは思った。――言ってる意味が、さっぱり分からん。

 淡はやはり何も気にせず、四角い包みを京太郎に手渡そうとする。押し付けられる京太郎は困り果てて、

 

「あ、あのな大星――」

「淡」

「……淡、一応、俺たち敵校同士だし、こういうのはちょっと」

「えー、別に良いでしょ? 直接戦ってるわけじゃないんだし!」

「でも……」

「それに私たち、結婚するんだし! 予行演習!」

 

 周囲の人間が、一斉にざわめく。記者が一人もいなかったのは、京太郎にとっての幸運だった。が、当然彼は吠える。

 

「いやしねぇよ!」

「なんで?」

「なんでってお前、そりゃあ結婚ってのは好き合ってる者同士がするもんでな――」

「私はキョータローが好きだよ?」

 

 淡は、さも当然のように言った。恥じるところ一つ見せない、率直な感情表現だった。それから首を傾げて、彼女は訊ねる。

 

「キョータローは、私が嫌い?」

「き、嫌いってわけじゃないけど」

「だったら良いじゃん、いけてんじゃん!」

 

 京太郎は頭を抱える。――迂遠な言い回しは、逆効果だと彼はここで気付いた。それに、不誠実な態度は彼女にも悪い。

 

「……あのな、淡。俺は、別に好きな人がいるんだ」

「え……」

「だから、お前とは結婚……いや、付き合えない」

 

 これでどうだ、と京太郎は男らしくはっきりと答える。淡が真っ直ぐであれば、彼もまた真っ直ぐだった。野次馬たちも、これには唸った。

 

 しかし、肝心の淡には通じなかった。

 

「その子とは、付き合ってるの?」

「え?」

「片想いなの?」

「……付き合っては、いないけど」

「じゃあ大丈夫じゃん」

 

 あっけらかんと、淡は言い放つ。

 

「付き合ってたら、別れて貰わないといけなかったけど――片想いなら別に、良いでしょ? 浮気にはならないんだから。うん、浮気は良くないもんね!」

「い、いやそういう問題なのか? おかしくないか?」

 

 淡の理論についてゆけず、京太郎は困惑を深めていく。彼女が何を言っているのかさっぱり理解出来ない。

 

「そういう問題!」

 

 淡は胸を張って答えた。

 

「キョータローにこれまでに好きな人がいたって不思議じゃないもんね。そこは仕方ない」

 

 で、も、と一音ずつ区切って、彼女は言う。

 

「それは私と出会う前のお話! 出会えなかったら、好きになりようがないもんね! だけどもう出会っちゃった! 出会えたなら好きになれる! だからこれからキョータローに私のことを好きになって貰えば良い!」

 

 すげぇ、と野次馬の誰かが呟いた。何が「すげぇ」なのかよく分からないが、皆口々に呟いた。今の淡には、全てを押し切る謎の力があった。

 

「というわけで――結婚しよ、キョータロー」

 

 甘く、淡は囁く。狙ってはやっていない。彼女の作る仕草は全て、天然だった。無論京太郎の意思が揺らぐことはなかったが――退路を断たれつつあるのは、確かだった。

 

「ね、ね、キョータロー――」

 

 一歩、また一歩と淡がお弁当の包みを片手に距離を詰める。後退る京太郎。

 万事休すかと、思われたそのとき。

 

 

「待つのですよー!」

 

 

 彼女を止める、高い声があった。

 

 淡が振り向いた先、そこにいたのは珍妙な格好の巫女だった。矮躯にかけられたのは、はだけた白衣。襦袢は当然のようにない。緋袴はまるでミニスカートのように短く、足袋の代わりにニーソックスを履いている。

 

 淡にも見覚えがあった。――団体戦決勝で当たった永水女子の、副将。

 薄墨初美は、淡に向かって言い放つ。

 

 

「私が京太郎の彼女なのですよー!」

 

 

 まず、京太郎が「何言ってんだこいつ」という目で初美を見て。

 次に、淡が「何言ってんだこいつ」という目で初美を見て。

 最後に、初美自身が「何言ってんだ私」という苦悶の表情で自らの頭を抱えた。

 

 

 




次回:幕外二/薄墨初美/コメットガールとイヴィルストーン・後


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幕外二/薄墨初美/コメットガールとイヴィルストーン・後

東京/全国高等学校麻雀大会選手権会場

 

 インターハイ個人戦初日、そのお昼休み。

 

 どうも調子に乗りきれない薄墨初美は、外の空気を吸おうと選手控え室を出た。小蒔を一人残していくのはできなかったが、随行していた巴が代わりに控え室に残ってくれた。霞と春は、まだ宿だろう。――結果、彼女は一人単独行動をとっていた。

 

 外に出ればうだるような暑さが襲いかかり、初美はすぐに屋内へと引っ込んだ。飲み物でも買って帰ろうかと自動販売機を探していたら、彼女は小さな人集りを見かけた。

 

 何事かと初美が背筋を目一杯伸ばして、人と人の隙間から覗き見る。

 

 げっ、と変な声が出た。

 

 そこにいたのは、旧知の仲の京太郎。それから――ふわっとした黄金色の髪が目を引く少女だった。彼女の身を包むワンピースタイプの白い制服は、この場に人間なら誰しも知っている、白糸台のもの。一昨日も鎬を削り合った相手――その大将、大星淡だった。

 

 彼女は、何やら京太郎に詰め寄っている様子だ。トラブルでもあったのだろうか、と初美に緊張が走る。そもそもどうしてこんな組み合わせが生まれたのか、初美には皆目検討がつかなかった。

 

 しかし、事情はすぐに理解出来た。

 

「私はキョータローが好きだよ?」

 

 要は、淡が京太郎に言い寄っているのだ。あの男まーた女の子を引っかけやがって、と思う一方、

 

「……あのな、淡。俺は、別に好きな人がいるんだ」

「え……」

「だから、お前とは結婚……いや、付き合えない」

 

 京太郎は誠実に断っており、初美は一安心する。良かった。

 

 しかし、大星淡は全く気にしなかった。なおも京太郎に迫っていく。これは不味い、大いに不味いと初美は慌てた。

 

 京太郎にその気がなくても、他の女の子と噂が流れればあの二人が悲しむ。彼女たちが苦しむのは、初美も嫌だ。さりとて現状を京太郎一人では打破できないだろう。彼が悪いのではない。相手が悪すぎる。

 

 考える時間はほとんどなかった。とにかく話を要約すれば、片想いの状況が良くないのだ。当然、彼女たちのいずれもこの場に連れて来ることはできない。

 

 ならば、と。

 

「待つのですよー!」

 

 初美は飛び出し、言った。

 

「私が京太郎の彼女なのですよー!」

 

 言ってから、後悔した。完全に、勢い任せだった。ろくに考えずに叫んでいた。京太郎までもが、しらっとした目付きでこちらを見ていた。

 

「……キョータローの彼女?」

 

 疑わしげに、淡が初美に近づいてくる。

 

「あんたが? ほんとに?」

「当然なのですよー!」

 

 ここまでくれば自棄だ。するりと淡の脇を抜け、京太郎の腕に絡みつく。

 

「は、はっちゃんっ? なにをっ」

「事情は大体分かったのですよー」

 

 そっと、素早く耳打ちする。

 

「私に話を合わせるのですよー」

 

 京太郎の返事を待たず、初美は淡に向き直った。彼女の表情をよく読み取らなくとも、不機嫌なのはすぐに分かった。

 

「キョータロー! キョータローはさっき付き合ってる人いないっていったじゃん!」

「それは京太郎の思い違いですねー」

 

 初美は人差し指を横に振る。淡はあからさまにむっとして、

 

「そもそもあんた、何? 永水って清澄と全然関係ない学校じゃん」

「そうですねー。でも、私と京太郎は違うのですよー」

 

 挑発するように、初美は京太郎の腕を引き寄せた。「おいっ」という彼の抗議は無視。

 

「八年前、私と京太郎はこの東京で運命的な出会いを果たしたのですよー」

 

 嘘は言っていない。

 

「私たちはすぐに仲良くなって、色んなところに遊びに行ったのですよー」

 

 嘘は言っていない。

 

「遠い遠い京太郎の家に遊びに行くくらい仲が良かったんですよー」

 

 嘘は言っていない。

 

「それから一時期疎遠になってしまったんですねー。でもこのインターハイで奇跡の再会を果たしたのですよー」

 

 嘘は言っていない。

 

「京太郎の気持ちはすぐに分かったのですよー。私もずっと同じ気持ちでしたからー」

 

 多少の嘘には、目を瞑って欲しい。初美は思った。とにかくそれっぽく、頬を朱に染める演技をしておく。

 

「既に私たちの気持ちは通じ合っていたんですねー。ねー、京太郎? さっきの好きな人って私のことですよねー? 今から私たちが恋人同士なんですよねー?」

「え、あ、お、おう。そうだな、はっちゃんは俺の彼女! うん、そう!」

 

 ぎりぎりと京太郎の腕を締め上げ、初美は勝利を得る。どうだ、と勝ち誇った笑みを淡に向けると、彼女はぷるぷると肩を震わせていた。

 

「……認めない」

「んー?」

「あんたなんか、絶対認めない! キョータロー、なんでこんなちんちくりんが良いの! 私のほうがおっぱいもずっとおっきいのに!」

「ええー、いや、そりゃ俺も大きいほうが良い……あいたたたたギブギブギブ!」

 

 どこにそんな力が眠っているのか、初美の腕力に京太郎は悲鳴を上げる。色々な意味で、初美はそれ以上彼に喋らせるつもりはなかった。

 

 ――薄墨初美は、恋心を知らない。

 

 どうしてこんなに怒れるものかと首を捻りたくなるが、どもかく今はこの状況を打破しなければならない。

 

「分かってないですねー」

 

 やれやれ、と初美は肩をすくませた。

 

「その程度の理解で京太郎に告白したんですかー?」

「何が言いたいの、このちびっこ!」

「それなのですよー!」

 

 ぴしり、と初美は淡を指差す。

 差された淡は訳が分からず、目を白黒させる。

 

「ちびっこだから良いのです!」

「は、はぁ?」

「大星淡、残念でしたねー。あなたはこれ以上成長することはあっても、退行することはないのですよー。だから京太郎の好みには近づけないんですねー」

 

 おいまさか、と京太郎が突っ込むよりも早く。

 どゆこと、と淡の理解が追いつくよりも早く。

 

 初美は高らかに宣った。

 

 

「京太郎はロリコンさんなのですよー!」

 

 

 当然、衆人環視の中で。

 ――おそらく、この世で最も残酷な処罰の一つであった。

 

 

 ◇

 

 

 個人戦初日が終わって、夕暮れ時。

 初美は一人永水の輪から抜け出すと、約束の場所に向かった。指定されたのは、会場からほど遠くない喫茶店。

 

入口には、顔の青白い京太郎が立っていた。

 

「ご、ごめんなさいのですよー」

「あ、はっちゃん……」

 

 挨拶が謝罪となる。京太郎に覇気はない。

 

「京太郎が困っていたのでー、つい……」

「いや、ううん、はっちゃんは悪くない。はっちゃんは俺を助けてくれたんだもんな……」

「う、ううー。……あの子はまだ来てないのですかー?」

 

 話題を転換するため、初美は周囲を見回す。

 

 すると、走り込んでくる人影が一つ。髪を風になびかせ、現れたのは当然、大星淡だった。

 

「キョータローっ!」

「お、おいやめろばか!」

 

 彼女は笑顔で京太郎の胸に飛び込んだ。初美が呆気にとられていると、淡は飼い主にじゃれる猫のように京太郎へ頬ずりする。

 

「は、離れるのですよー!」

 

 初美は慌てて二人の間に割って入る。自分のことはさておいて、万が一にも彼女たちにこんな場面は見せられない。

 

「もう、邪魔しないでよ」

「か、彼女を目の前にしてよくそんなことできるものですねー」

「それ。私はまだ認めてないんだからね!」

 

 びしり、と淡は二人を指差す。

 

「やっぱりどう見たって二人が付き合ってるなんて考えられない! キョータローがロリコンなんて、信じられない!」

「事実は事実なのですよー」

「だったら証明して!」

 

 淡の声に、力が入る。

 

「恋人同士ってところ見せてよ! でないと絶対納得なんてしないんだから!」

 

 こめかみを押さえながら、京太郎が初美に囁いてくる。

 

「はっちゃん。俺、こういう展開何度か漫画で読んだことあるぞ」

「奇遇ですねー、私もですよー……」

 

 しかし――この話の進み方は、カップルを演じる二人が本当に両思いか、あるいは憎からず想い合っているべきではないだろうか。初美はそう考えるが、どのみち身から出た錆だ。受け入れるしかあるまい。京太郎自身も、迂闊な面があったと反省しているのか、これ以上逆らうつもりはなかったようだ。あるいは昼間に全ての体力を消耗したのかも知れない。

 

「で、俺たちは何をすればいいんだよ?」

「まずはこの喫茶店で、カップルジュースを飲んでみせて!」

 

 一つのカップに、湾曲した二本のストロー。当然形作るのはハート。

 なんだ、要求としては可愛らしいものではないか――初美は当初、そう思った。が、しかし、京太郎と向かい合って席に座り、いざジュースを間に置かれると体が硬直する。恋愛的な意味で好意を寄せていなくても、やはり相手は男の子。体付きもがっしりしているし、何も考えずにじゃれあっていた昔とは違うのだと意識させられる。

 

「じゃあ……いくぞ」

「は、はいなのですよー」

 

 ごくりと唾を飲み込み、初美は京太郎と同じタイミングでストローに口をつける。――想像以上に恥ずかしかった。店内全員が、自分たちを注目しているのではないか。いや自分なら絶対見る。そんな被害妄想に、初美は囚われる。

 

 ジュースの減りが、遅い。まともに喉が動かない。早く終わらせたいのに、終わる気配が全くなかった。

 

「――店員さん!」

 

 突然、京太郎の隣に座っていた淡が手を上げた。すわ何事かと見ていたら、

 

「ストロー、もう一本!」

 

 という謎の要求をしていた。まさか、と思っている内に、淡は受け取ったストローをカップに突き刺す。

 

「やっぱり私も飲む!」

「お、おう」

 

 困惑する京太郎をよそに、淡も懸命にストローを吸い始める。初美は思った。なにこれもう意味がわからない。

 

 店員に笑いを噛み殺されながら会計してもらったときは、初美は京太郎と一緒に泣きそうになった。一体これは何の罰ゲームだったのか。淡一人が、浮かれていた。

 

 喫茶店を出て、初美はすぐに訊ねた。

 

「こ、これで納得しましたかー?」

「まったくもって! 三人で飲んだんだからするわけないじゃん!」

 

 京太郎に肩を掴まれて、初美の衝動はなんとか抑えられる。

 

「次はねー、やっぱり恋人と言ったらスキンシップでしょ! こんな風に!」

 

 天下の往来だというのに、淡が再び京太郎に抱きついて、頬ずりし始める。「だから止めろ!」と京太郎が引き剥がしにかかるも、淡が甘い声を出した途端、彼女の肌に触れた京太郎の手から力が抜ける。

 

 ――男というのは全く……!

 

 怒りに燃える初美は、最早やけくそで、淡の反対側から京太郎に抱きついた。思い切り、頬と頬を重ね合わせる。三人揃って、既に何をやっているのか分からなくなっていた。

 

 次から次へと降りかかる淡の要求に、初美と京太郎は応えた。――大体淡も巻き込んで、三人でカップルめいた行為をとらされる。

 

 三十分経った頃には、罪悪感も合間って、初美は疲労困憊になっていた。それは京太郎も同じのようで、既に言葉数は少ない。

 

「もうそろそろ諦めたらどうですかー?」

 

 投げ槍に初美が訊ねると、

 

「じゃあ次が最後ね!」

 

 と、一人だけ元気が有り余っている淡は言った。彼女の場合、大好きな京太郎と触れ合っているだけで幸せなのだろう。

 

「恋人と言ったら、やっぱりキスでしょ!」

「……本気で言ってるのですかー?」

「本気も本気!」

 

 流石にその一線だけは超えられない。何が何でも超えてはいけない。だが、淡は一歩も引く気がないようだ。

 

「あれ、できないの? やっぱり嘘なんじゃないの?」

 

 にやにやと淡が笑う。

 

 初美は助けを求めるように京太郎を見上げ、彼は頷き返した。そして京太郎は、真正面から淡と向き合う。

 

「淡」

「んっ? どうしたのキョータローっ」

「まず一つ言わせてくれ。――俺はロリコンじゃない」

 

 初美は色々突っ込みたかったが、止めておいた。彼にとっては重要なことだ。

 

「……ってことは」

「ああ。俺とはっちゃんは恋人なんかじゃない。流れでとは言え、嘘ついて、悪かった。キスは勘弁してくれ」

 

 謝られながらも、淡の目が煌めく。

 

「良いよ、許してあげる! 安心した、これでキョータローは私と結婚できるね!」

「いいや」

 

 京太郎は、ゆっくりと首を横に振った。

 

「好きな人がいるってのは、本当だ」

「――」

 

 淡が、押し黙る。京太郎の瞳は、真摯な色を帯びていた。単なる昼間の繰り返しでは、なかった。

 

「付き合ってはいないけど。付き合えないけれど――でも、とても大切な子なんだ。だから、お前の気持ちには応えられない」

「……キョータローは、その子に告白するの?」

 

 問われ、京太郎は一瞬鼻白んだ。初美は彼の顔を見上げる。――答えに、悩んでいるようだった。京太郎が何も言えずにいると、

 

「ちゃんと告白しないと、ダメだよ?」

 

 淡は、少し寂しそうな笑顔と共に、言った。

 

「付き合えないとか、関係ないよ。自分の気持ちを正直に言わなくちゃ」

「でも」

「私はね」

 

 京太郎の反駁に、淡は声を被せて言った。

 

「初めてこんな気持ちを持ったけど、キョータローに好きって言うだけで幸せになるよ。言う度に体の奥があったかくなって、とっても嬉しいよ。こんな気持ちを閉じ込めておくなんて、ダメ。絶対にダメだよ」

 

 ――薄墨初美は、恋心を知らない。

 

 霧島神境の男性は大人ばかり。学校も女子校。同年代の男子で一番近しいのが、京太郎だ。その彼も、姫の懸想相手なのだから手は出せない。出す気もないが。とにかく、結果、淡の言う気持ちなんて知らないまま育った。

 

 なのに、彼女の言葉は、初美の心の中にすとんと落ちた。彼女がそう言うのならば、そうなのだろう。

 

 あーあ、と淡は伸びをする。

 

「キョータローがはっきりしない限り、私は結婚できないんだから。早くしてね。――待ってるから。ずっと、待ってるから」

 

 そんな言葉だけ、残して。

 

 未練一つ見せずに、淡はその場を立ち去ろうとする。

 思わず、初美はその背中に声をかけていた。

 

「待つのですよー!」

「ん? なに?」

「そ、その……振られて、辛くないのですか? 悲しくないのですかー?」

 

 そんな、当たり前のことを訊ねてしまう。何を問えば良いか、初美自身、整理がついていなかった。

 

「うん、悲しいよ?」

 

 淡はあっけらかんと答える。あまりの真っ直ぐさに、初美も京太郎も言葉を失った。

 

「でもね」

 

 彼女は、微笑んだ。

 

 

「振られちゃった悲しみよりも、キョータローに出会えて、好きになれた嬉しさのほうがずっとおっきい。それだけ」

 

 

 初美は何も言えなくなった。

 代わりに京太郎が、淡に言った。形だけではない、様々な感情が込められた声だった。

 

「淡」

「ん?」

「ありがとう」

「うん! 言っておくけど、諦めてなんかないからね! 私からもまた会いに行くよ!」

 

 大星淡の満面の笑みは、彼女の名前の通り星のように輝いていた。

 

 

 ◇

 

 

東京/永水女子宿泊施設

 

 京太郎と別れ、宿に戻ってきた初美は、温泉で一緒になった霞に今日の出来事を報告した。大半が、愚痴混じりであった。

 

「お疲れ様、初美ちゃん」

「ほんとうに疲れたのですよー。もう大星淡とは関わり合いになりたくないのですよー」

「その割には嬉しそうね、初美ちゃん」

「……そんなことないのですよー」

 

 湯船につかりながら、初美はむくれる。あんな頭のネジが緩んでいそうな少女に感心してしまった、なんて口が裂けても言えなかった。

 

「ところで初美ちゃん」

「どうしたのですかー?」

「京太郎くんと、頬ずりしたって……」

「ああ、こう私の左のほっぺたと――」

 

 初美が説明し始めると、霞の顔が寄せられた。初美の左頬と、霞の右頬が触れ合う。

 

「…………なにしてるのですかー? 私は京太郎じゃないですよー?」

「ご、ごめんなさい」

 

 霞は顔を赤くして、足早に湯船を出て行く。

 

 

 ――薄墨初美は、恋心を知らない。

 

 されど今日、少しだけ分かった気がする。近づけた気がする。

 

 ただし。

 今思うことは、たった一つ。

 

「どいつもこいつもめんどくさいのですよー……」

 

 やさぐれ気味に、初美は独り呟いた。

 

 

 

                   コメットガールとイヴィルストーン おわり




次回:幕外三/原村和/暮れ泥む


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幕外三/原村和/暮れ泥む

長野/清澄高校

 

 校舎内に響く吹奏楽部の演奏。グラウンドから聞こえてくる運動部のかけ声。窓から差し込む斜陽。伸びる、人影。

 

 一定のリズムで足音を刻みながら、原村和は人気の少ない廊下を歩いていた。九月に入ってなお下がらない熱気で、彼女の肌はうっすら汗ばんでいた。一ヶ月後にはすっかり状況は変わっているだろうが、思い入れのあるこの夏服に袖を通す時間が残り少ないと思うと、和は一抹の寂しさを覚えた。

 

 校舎の端、最早見慣れた部室の扉の前で和は立ち止まった。鍵を差し込むと、抵抗がない。既に扉は開いていた。

 

 ノブを回すと、慣れ親しんだ香りが鼻をつく。シーリングファンが、ぐるぐると回っていた。一年生のときには一台しかなかった麻雀卓が、今は六台。部屋の一角を占拠していたベッドは撤去され、それでも手狭な状態だ。彼女たちが残した成績を考えればもっと広い教室への移転もすぐに承認されただろうが、和にはどうしてもその決断が下せなかった。――この部屋には、あまりにも思い入れが詰まりすぎている。

 

 さて、先客は誰だろうか、と部室を見渡す。すぐに見つかった。

 

「須賀くん」

「ああ、和か」

 

 一番端の卓、その窓際の席で、長身痩躯の同級生は、一つ一つ牌を丁寧に磨いていた。和は思わず苦笑した。

 

「今日は部活、お休みですよ」

「そう言う和こそ、どうしてここに? 和が休みに指定したんじゃないか」

「たぶん、須賀くんと同じ理由です。……一人で独占できるかと思ったんですけどね」

 

 悪戯っぽく微笑みながら、和は京太郎の上家に座った。嫌味にも聞こえるその一言は、しかし、付き合いの長さ分の親しみが込められていた。

 

「というか須賀くん、こんな日まで雑用ですか」

「先々代に仕込まれた習慣が未だに抜けないんだよ」

「手伝いましょうか?」

「ん、もうこれだけだから気にするな」

「いつもそんなだから、後輩たちが困るんですよ」

 

 京太郎は口を尖らせながらも、手を止めない。

 

「文句があるなら、先々代に言ってくれ。全部原因はあの人」

「あの人にはきっと暖簾に腕押しです」

「だろうな」

 

 二人は顔を見合わせて笑った。彼女がこの場所を去って久しいが、それでも彼女の名前は度々上がる。冗談めかして言っているが、彼もまた、彼女に感謝しているのは和もよく知っていた。

 ひとしきり笑い合った後、二人は小さな息を吐いた。

 

 和の胸を締め付けるのは、寂寥感だった。

 

 明日、二人は清澄高校麻雀部を引退する。

 

 夏のインターハイが終わった時点で、名目上でも書類上でも部を去った身ではあるが、引き継ぎ等々のため引退式は九月のこの時期まで引き延ばされた。それも、明日に迫っていた。この後にはコクマも控えているが、区切りはついてしまう。

 

「二年と半年か。長かったような、短かったような」

 

 京太郎の呟きは、牌と牌が触れ合う音と共に。

 

 和は目を伏せ、「そうですね」と頷く。

 

「初めてこの部室で会った日のこと、覚えてますか」

 

 思い返すように和が訊ねると、一瞬、京太郎の手が止まった。

 

「……どうだったかな」

 

 僅かな間の後、彼はとぼけるように言った。その態度が、珍しく和の嗜虐心に火を点けた。

 

「優希を、まじまじと見ていましたよね」

「そうだったっけか」

「そうでしたよ」

 

 ぎしり、と京太郎の椅子が悲鳴を上げる。

 

「しばらく、引っかかっていたんです。どうしてあんなに優希を気にしていたのかな、と」

「……分かったのは、最初のインターハイで、か」

「ええ。私と同じだったんだなって納得しました」

 

 今度は、和の椅子が小さく軋んだ。

 

「凄く、似てましたよね」

「似てるどころじゃない。姉妹かと思ったからな」

 

 再び二人は顔を見合わせて、笑った。誰と、なんて言うまでもない。今はもう、すっかり見た目は変わってしまった彼女のこと。

 

 半年近くも共に過ごしていたのに、思わぬところで共通点があったとは露知らず、当時は驚いたものだ。――京太郎が彼女との思い出を意図的に封じていたのは、それからもう少し経ってからだった。

 

 和はその全てを理解したわけではない。

 

 だが、当時の彼がどうしても譲れなかったということだけは、分かった。

 

「須賀くんは」

「ん?」

「……いいえ、なんでもありません」

 

 和が問いかけようとしたのは、今更に過ぎるもので。結局和は言葉を飲み込んだ。本当に知りたかったのなら、二年前、幼馴染が涙を流したと知ったときに訊ねるべきだった。それに、彼女たちの間には、容易に立ち入ってはならない。そんな気がした。

 

「この前、あいつと電話したんだけど。どうやら志望校、和と同じみたいだぞ」

「ああ、そうなんですか」

「あいつ成績良いみたいだし、きっと二人で合格するよ。――そのときはあいつのこと、よろしくな。俺が言うのも筋違いかも知れないけど」

「気が早すぎですよ」

「かも知れないな」

「でも、承りました」

 

 などと和は答えながら、内心冷や汗をかいていた。――実は志望校の話は、和も彼女とやりとりしている。その際、彼女が京太郎には嘘を吐いておくと宣言したことも、しっかり覚えている。どうやら彼女は、半年かけてサプライズを仕掛けるつもりらしい。もっともそれは、京太郎が奈良に来やすいようにする道作りでもあるのだが。

 

「……頑張って下さいね、須賀くん」

「え? なにが?」

「あ、ええと、いえ、その……須賀くんは、阿知賀に行くんでしょう? 今のところ咲さんや優希も関東方面に出るのが濃厚みたいですから、どうしても一人ですし。私には神職の修行は分かりませんが、きっと大変かと思って」

 

 ああ、と京太郎は頷いた。

 

「まぁ、最近ずっと親父にしこたま仕込まれてるからな。何とかなるだろ。……いや、向こうに行ってからが本番なんだけどさ」

 

 彼にとっては、人生を懸けた道なのだと言う。軽く言っているが、現在も続けている努力は並大抵のものではないはずだ。神事には門外漢の和でも、そのくらいは窺い知れた。

 

 それでいて、彼は部活にも欠かさず参加していた。

 一年生のときからずっと雑用を請け負って、かつ必死で練習して強くなった。部内リーグで学年最下位の成績ではあるが、決してそれは彼を侮って良い理由にはならない。「一度やり始めたことを、半端なまま放棄できないからな」。そう言って、彼は強くなったのだ。

 

 何事も論理的に考える癖のある和ではあるが――ときに論理を乗り越える意思の力を、見せつけられた想いであった。

 

「にしても、あれだよなー」

 

 全ての牌磨きを終え、京太郎は天井を仰ぎ見た。

 

「一度くらいは、頂点ってのを獲ってみたかった」

「女子団体戦は数えないんですか?」

「……卓についてないのは、ノーカウントで」

 

 京太郎が、目を逸らす。

 

「拗ねないで下さい。先々代も、先代も、影で言ってましたよ。須賀くんがいてくれて助かったって」

「……ほんとか?」

「ほんとです。ついでに、私もそう思っていますから」

「ついでかよ」

「ついでです」

 

 ひでえ、と京太郎が更に拗ねるのを見て、和はくすくすと笑った。

 

 意図せず、二人の間に沈黙が訪れる。

 開かれた窓から、爽やかな風が流れ込んできてカーテンが揺れる。休憩時間に入ったのか、野球部のかけ声が途切れた。

 

 いつもは賑わっているはずの部室が、嘘みたいに静かだった。

 

 室内が夕陽の紅に染まると、まるで世界の終わりだなと、和は思った。らしくない詩的な感想に、和自身笑ってしまう。

 

 それから二人は、麻雀部の思い出を語り合った。

 

 インターハイのこと。

 新人戦のこと。

 コクマのこと。

 卒業していった先輩たちのこと。

 合宿のこと。

 

 話し始めれば、きりがなかった。局の一つ一つ、対戦相手の一人一人、何一つとして忘れられない。喜ばしいことも、悔しいことも、全部が全部、かけがえのない思い出だった。

 

 一区切りついてから、京太郎は和へと向き直った。

 

「須賀くん?」

「明日まで、とっておこうかと思ってたけど。人前で改めて言うのも恥ずかしいからな」

「……どうしたんですか?」

「一年間お疲れ様でした、原村部長」

 

 その言葉に、少しだけ涙が出そうになったのは、彼女だけの秘密である。こういう不意打ちは、止めて欲しい。麻雀で勝ち得る賞賛とは違う、きっとここでしか手に入らない労りが、彼女の胸を打った。

 

「そちらこそお疲れ様でした、須賀副部長」

 

 自然と、右手を差し出していた。京太郎の大きな手が、それに応える。

 

「そろそろ帰るか」

「そうですね」

 

 と、二人が腰を上げたところで、

 

「邪魔するじぇ!」

「あ、和ちゃん、京ちゃん」

 

 ばたん、と勢いよく扉が開かれて、優希と咲が入ってきた。二人と二人は、目を丸くして向かい合う。

 

「のどちゃんたち、今日は休むのはずだじぇ」

「優希たちこそ、どうして」

「お休みって言われてもなんだか落ち着かなくて」

 

 困ったように咲が苦笑して答えた。

 

「さっきまで優希ちゃんの家にいたんだけど、戻って来ちゃった」

「咲さん……」

 

 和もまた、困りながらも微笑んだ。期せずして、心が通じ合えたのが嬉しい。

 咲の傍ら、優希が元気よく吠える。

 

「休みって言ったのに酷いじぇのどちゃん! さては二人きりで浮気かー?」

「そんなオカルトありえません」

「ないないそれはない」

「……もうちょっと慌てて貰わないと、寂しいじぇ」

 

 しょげる優希に、京太郎が笑う。

 いつもの、部室の光景だった。和が勝ち取り、守ってきた場所だった。――やはり、こうでないと。和はそう思う。

 

 彼女は三人に向かって、提案する。

 

「折角ですし、一局打っていきませんか?」

「良いの? 和ちゃん」

「のどちゃんも麻雀大好きだじぇ!」

「休みだったはずなのに、結局部活か」

 

 京太郎のぼやきに、和は「いいえ」と首を振る。

 

「部活ではありません」

「それじゃあ、なんだじぇ?」

 

 和はうっすらと微笑んで、言った。

 

「みんなで、遊びましょう」

 

 それは――かつて「彼女」が和に向けた放った言葉と同じ種類のものであった。あの教室で共に歩んだ記憶は、確かに刻まれたままだったのだろう。

 

 自然と出た言葉に、和は自分でも嬉しくなった。彼女との再会を待つ京太郎が、ちょっと羨ましくもなった。

 

 磨き上げたばかりの牌を広げる。一番古い麻雀卓へと、誰からともなく歩を進めた。からからと賽子が回る音に、耳を傾ける。触れる牌のぬくもりが、愛おしい。

 

 ――暮れ泥むこのときが、ずっと続けば良いのに。

 

 そんな夢想じみた望みに、和はそっと身を委ねる。

 

 

 

                               暮れ泥む おわり

 




次回:幕外四/???/? ?????


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幕外四/新子憧/続 献身と指先

 

 五月十七日、日曜日。

 

 この日――自分の誕生日を迎えるに当たって、新子憧は根回しを欠かさなかった。

 

 今更誕生会をやるような年齢でもない――もう十九になるのだ――のだが、穏乃あたりは企画してもおかしくない。玄も一緒になって乗りに乗るだろう。そうなれば宥や灼も巻き込まれる。最終的には、逃れられないところまで進んでしまう可能性は大いにあった。

 

 故に穏乃には強く言い聞かせた。「先約があるから、また別の機会に」と。実際には、先約などまだできていない状況で。穏乃にはにやにや笑われてしまったが、憧は気にしない。そんな余裕もなかった。

 

 四月の終わりから、彼に対してアピールはしておいた。もうすぐ五月ね、半ばに何かイベントはなかったかしら、十七という数字が好きなの――途中から露骨過ぎて思い返すと自分でもちょっと引くレベルであったが、ともかくとして、

 

「じゃあ、どこか美味いものでも食べに行くか」

 

 という言葉を引き出した。その日自室に帰ってから、憧は何度もガッツポーズを作った。

 

 ――誰に何を言われようが、好きなものは好きなのだ。もう仕方ないと、憧は割り切った。いつか冷めてしまうかと思いながら、しかしここまで来てしまった。恋敵兼親友とは、腹を割って話し合った。

 

 結果、憧は今、彼の傍にいる。

 そしてこの先は、願わくば彼女も共に、三人で。

 

 そんな、まだまだ遠い望みはともかくとして――誕生日くらいサービスしてもらっても罰は当たらないだろう、憧はそう考えた。

 

 加えて言えば、露払いの意図もあった。

 

 大学に進学して一ヶ月、しばらく女子校で過ごしていた憧にとって、男子の存在は空恐ろしかった。元々言い寄られることは多々あった。麻雀で全国の舞台に進出するようになってからは、さらにその傾向が顕著になっていた。通学途中でもよく声をかけられた。当然、一度も応えることはなかったが。

 

 大学でも、全国区のネームバリューと彼女の容姿は周囲の目を引いた。乱立する麻雀サークルはもとより、よく分からない部活からも勧誘があった。下心は透けて見え、対応に困っていたとき、助けてくれたのはいつも京太郎であった。

 

 しかし、京太郎は憧との仲を問われても、「幼馴染」と答えるばかり。結局、勧誘の時期が過ぎ去っても、憧は学内で見知らぬ男から声をかけられることが絶えない。形だけでも良いので「彼氏がいるアピール」をして、鬱陶しいこの状況を彼女は脱したかった。もちろんその彼氏役は、一人しか務まらない。この点については、京太郎と小蒔、二人からも同意を得た。

 

 それからもう一つ、問題があった。

 

 こちらは未だ小蒔に相談できていない、そして決して看過できない超重要事項である。緊急度でも危険度でも、前者よりも優先されるだろう。

 

 あの金髪の大将――いや、最後の夏は先鋒だったか。彼女が、わざわざ京太郎を追いかけて同じ大学に進学してきたのだ。プロのスカウトを蹴ってまで。これには憧も、開いた口が塞がらなかった。良いのか本当に。彼女が京太郎に特別な関心を寄せていることは、高校時代に既に知っていたが、まさかこれほどまでとは思わなかった。

 

「キョータロー、一緒に学食行こっ!」

「キョータロー、一緒にこの講義受けよっ!」

「キョータロー、一緒に図書館でレポート書こっ!」

「キョータロー、一緒に帰ろっ! え、もちろん私の家にだよっ!」

「キョータロー、一緒に……痛い痛い痛い、何するのアコー!」

 

 まさしく、目の上のたんこぶである。

 

 憧が彼の隣を歩いていても、平気で割って入ってくる。しかも、憧に勝ち誇った微笑みを向けて。――何て諦めの悪い娘だ。自分のことは棚上げし、憧は歯噛みする。

 

 彼女と憧の衝突は、既に幾度となく繰り広げられている。だが、決着はまだ着いていない。

 

 京太郎に正式に恋人ができたところで諦める玉とも思えなかったが、ともかくとして、何かしら楔を打っておく必要はあった。

 

 だからこその、彼とのデート。

 

 色々な目的が混じりに混じってしまったが、ともかくとして。

 

 ――目一杯お洒落して、目一杯楽しもう。

 

 十七日を目前にして、憧の気持ちの昂ぶりは、頂点に達した。

 

 

 ◇

 

 

 十六日、夜。

 新子憧は、季節外れの風邪を盛大にこじらせた。

 

 

 ◇

 

 

新子神社/新子憧・自室

 

 週の頭から、予兆はあった。こんこんと咳が出る。講義中いつの間にかぼうっとしている。爛漫娘との口喧嘩に覇気がなく、逆に心配される始末。――「大丈夫アコー?」。

 

 それでも、問題ないレベルと考えていた。わざわざ病院に行かなくても、市販の薬を飲んで眠れば元気になれると。

 

 誤算であったのは、重なったレポートの提出期限、所属する麻雀部の対外試合、家業の手伝い、その諸々の雑務の数々であった。前日の土曜日は入念に準備するために使い、当日の日曜日一日中フリーにする。その目標を達成するため、平日はこれでもかというくらい働いた。大学生とはこんなにも忙しいのかと思うくらいに。

 

 それがいけなかったのだろう。

 

 結局まともに休みをとることができず、ひき始めの風邪を放置した結果。

 

 憧は、ベッドの上でうんうんと唸っていた。

 

 頭が痛い。喉も痛い。体はだるく、指一本動かすのにも酷く疲れる。薬を飲んで無理矢理眠ろうとしても、あまりの息苦しさに何度も目覚めてしまう。結果ゆっくり休むこともままならず、疲労ばかりが蓄積する悪循環に陥っていた。

 

 カーテンの隙間から、陽の光が部屋に差し込む。

 

 ――十七日の、朝が来た。

 

 十九歳にもなって何をやっているんだろうか、と憧は自己嫌悪する。状況は、最悪だ。テーブルの上に姉が置いて行ってくれた水を、ごくりと飲む。潤いと同時に、喉に刺々しい痛みが走った。

 

 それから、憧はスマートフォンの画面を点灯させる。

 

 SNSのアプリを起動させ、彼の名前をタップする。開かれたメッセージウィンドウに一文字目を入力しようとして――憧の指は止まった。

 

 この状態で、外出などできるわけがない。自分の身が危ういし、何より京太郎や他の人に風邪をうつしてしまう可能性がある。本来なら、昨日中に彼へ謝罪して中止あるいは延期を申し出るべきだった。

 

 理屈の上では、憧はそう分かっていた。

 

 けれどもどうしても、彼女はその連絡をとれなかった。最後の最後まで、諦めたくなかった。自分がどれだけ恵まれた立場か分かっていても、それでも簡単には割り切れなかった。

 

 しかし、流石にもう引き延ばせない。京太郎も、そろそろ起床する時間であろう。「ごめん」から始まる文面は短く、されど憧には上手い言い回しが見つけられず、そのまま彼に送信した。

 

 ベッドに戻って、憧は布団を被る。

 

 怒っているだろうか、悲しんでいるだろうか。いずれにしても、彼からの返信を見たくなかった。

 

 思考が逃避に入ると、体も疲れを自覚したのか、憧の意識はふっと落ちた。

 

 次に目覚めたとき、まず刺激された五感は嗅覚だった。

 懐かしく、お腹を刺激する匂い。これは――

 

「卵……?」

「あ、起きたか」

 

 呟いた一言に返ってきたのは、低い、男性の声。この家にいる男と言えば、父親を除いて他にない。しかし、今の声は明らかに父と違った。

 

「え……」

 

 寝惚け眼でうっすらと見えた先にあったのは、

 

「きょ、京太郎っ?」

「ああ、寝てろ寝てろ。まだしんどいだろ」

 

 幼馴染の姿だった。

 

「なんでうちにっ?」

「なんでって、お前、風邪引いたって言ってきたじゃんか。だから見舞いに来てやったんだよ」

 

 ぶっきらぼうに言いながら、その声からは慈しみの色が感じ取られる。頭がはっきりしないまま、憧は上体だけを起こした。

 

「悪いな、勝手に入って。望さんには許可貰ったんだけど」

「う、ううん。そんなの、気にしなくて良いから」

 

 寝顔を見られたと思うと顔から火が出るほど恥ずかしいが、些末な話だ。――お見舞いに、来てくれた。心が小躍りしそうだった。予想していなかった展開に、心臓がばくばく鼓動している。

 

「もうお昼なんだけど、お腹空いてないか。昨日からろくに何にも食べてないんだろ」

「あ……う、うん」

 

 指摘されると、途端に空腹を感じた。体は正直に栄養を欲していた。

 

 京太郎はにやりと笑って、「だと思って用意しておいた」とテーブルからお盆に乗った鍋を取ってくる。

 

 匂いの正体は、これだった。

 

「卵粥」

「そ。結構出来良いだろ。自信作なんだぜ」

「これ、京太郎が作ったの?」

「ああ、台所借りてな。あんまりお粥は作る機会ないから不安だったんだけど、上手くいって良かったよ」

 

 相変わらず器用な男だと、憧は感心してしまう。小蒔に負けじと料理修行に勤しんできたつもりの憧であったが、京太郎も同等レベルであることを思い知らされた。これも例の、清澄の雑用で培われたスキルの一つだというのだろうか。

 

「……わざわざごめんね。あたしが色々無茶なお願いして予定空けて貰って、しかもその結果がこれで」

「何言ってんだよ、ばか。今更迷惑かけたって謝り合う仲でもないだろ」

 

 風邪で弱気になった憧の心を、京太郎は一笑に付した。

 

「それに昔さ。俺が倒れたときは、憧と小蒔ちゃんが看病してくれただろ」

「でもあれだって」

「俺、すっごく嬉しかったんだからな」

 

 京太郎は、憧に余計なことを言わせなかった。

 

「そばにいてくれて、安心した。美味しいお粥を食べさせてくれて、嬉しかった。あのときのお礼、まだちゃんとできていなかったからな。丁度良かったよ」

「京太郎……」

 

 卑怯な男だ、と憧は詰りたくなる。――何も、言い返せなくなるではないか。もう、胸が一杯になってしまうではないか。

 

「で、一応これ、あのとき作って貰ったお粥を再現したつもりなんだけど」

「分かった。あたしが直々に採点してあげるわ」

「あれ? あのとき憧が作ったんだっけ?」

「細かいことは気にしないの! ……ほら」

 

 追求を振り払い、憧は髪をかき分けほっそりと口を開く。

 

「え?」

「え、じゃないわよ。食べさせてくれないの?」

「え、そ、そういう流れなのか?」

「あんたのときは、食べさせてあげたでしょ」

 

 ――ああ、顔が熱い。だけど赤面していてもこれなら分からないな、風邪を引いていて良かったなと、憧は支離滅裂なことを思う。

 

 観念した京太郎はれんげを一掬いし、憧の口へと運ぶ。

 

 ぱくりと憧はかぶりつく。麻痺しているはずの舌から、ほのかな甘みが伝わってきた。

 

「美味しい」

「良かった。熱くないか?」

「大丈夫。もう一口」

「ん、ほら」

 

 こんなにも美味しいお粥は初めてで。

 憧は、あっという間に完食してしまった。つい先ほどまで風邪で苦しんでいたとは思えないくらい、旺盛な食欲だった。

 

 京太郎が食器を片付け、薬を持ってきてくれる。ちょっとだけ躊躇してから、憧は胃の中に風邪薬を流し込んだ。

 

 軽く京太郎と雑談し、やがて予想していた眠気が訪れる。

 

 もうちょっとこのままでいたい、という彼女の願いとは裏腹に、気付いた京太郎は「横になれ」と言ってきた。逆らう力は、残されていなかった。

 

「ね、京太郎」

「なんだ?」

「……まだ、帰らない?」

「……お前が残れって言うんなら。どうせ丸一日空けて来たんだ。最後まで付き合うよ」

「じゃあ、さ」

 

 憧は、布団の中から腕を伸ばす。

 

「手、握ってて、くれない?」

 

 我ながら、子供じみた要求だと思う。けれども、あの日あの場所で、手を握って一緒に眠ったことが忘れられなかった。ずっと、忘れられずにいた。

 

 嫌がられるだろうか、と京太郎の様子を窺うも、意外にもすぐに、

 

「ああ」

 

 と、応えてくれた。

 彼の指先と、憧の指先が重なり合う。昔とはすっかり変わった、ごつごつとした感触。でも、優しい感触。あの日と同じ、安心感。

 

 触れ合った手は暖かく。

 あっという間に憧を、午睡へと誘った。

 

 

 ◇

 

 

 次に憧が目覚めると、京太郎は布団に突っ伏して眠っていた。その寝顔は可愛らしくて、憧はくすりと笑ってしまった。

 

 もうちょっとこのままでいたいと思いつつも、時間が時間であったので、憧は彼を優しく起こした。

 

 少し心配を残しつつも、京太郎へ帰って行った。

 

 ほう、と一息吐く。嬉しいけれども、やっぱり緊張もする。

 それから憧は、触れ合っていた左手を見つめ、自然と相好を崩す。たぶん、人前では見せられない顔になっていただろう。

 

 散々な誕生日であった。同時に、最高の誕生日だった。意識のあった時間なんてさほどないだろうに、けれども彼女はそう思う。

 

 次に京太郎と顔を合わせるのが、恥ずかしくて少し不安ではあったが――些細なこと。第一悠長なことは言っていられない。あの天然抱きつき魔から京太郎を守らなければならないのだから、いつまでも風邪なんて引いてられない。

 

「憧ー? 入るわよー?」

「あれ、どうしたのお姉ちゃん」

 

 突然部屋に入ってきたのは、姉の望だった。

 彼女の手には、長方形と正方形の包みが一つずつ。どちらも綺麗な包装がされていた。

 

「誕生日プレゼントよ。京太郎くんが、渡すの忘れてたって」

 

 あいつ絶対に手渡すのに恥ずかしがったな、と憧は勘付く。しかし今は気になる点が、別にあった。

 

「なんで二つもあるの? そっちも、京太郎?」

 

 望は、微笑んで憧にプレゼントを渡す。

 

「もう一つは、神代さんから送られてきたものよ」

「……もう、小蒔ったら」

 

 電話で話したときも、そんな素振り一つ見せなかったと言うのに。自分よりも不意打ちがスマートだ。ずるい。

 

 後でお礼を言わなければ――憧は顔を綻ばせながら、二つのプレゼントを胸に抱く。

 なんだかまるで、また三人揃った気分だった。

 

 

 

                             続 献身と指先 おわり




誕生日ということで。


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幕外五/神代小蒔/夢の続きに

東京/東京大神宮

 

 庭先で戯れた花火を手早く片付け終えると、子供たちは就寝の準備を進める。

 神代小蒔、八歳。普段の鹿児島とは異なる環境、普段は触れない遊戯に、彼女は興奮冷めやらぬ様子でお風呂を出た。

 

 ――楽しかった。

 

 いつも傍に控えてくれる霞、初美、巴、春。

 

 彼女たちの存在はもちろん、ここで出会った二人の存在が、この東京旅行を鮮やかに彩ってくれた。

 

 明日のことを、考えたくなかった。帰りたくなかった。いや、二人を霧島神境に連れて帰りたいと思った。子供らしい、叶わぬ望みであった。

 

 昨日までなら、布団を敷き終えればすぐに眠るよう霞からの指示が飛んだ。守っていたかどうかは、さておいて。

 

 しかし今日に至っては、霞も口を挟むことはなかった。彼女もまた、名残惜しいのだろう。結果、一同は各々の布団の上に座って、雑談に興じていた。

 

 一際元気なのは、やはり憧と初美、それから京太郎だった。初美の冗談に大笑いする彼の横顔をそっと覗き見て、されど見つめ続けられず、小蒔は視線を自分の膝に落とす。先ほどからこれを繰り返していることに小蒔自身気付いていたが、どうしても止められなかった。そうしているだけで、充分胸が一杯になった。

 

 一人小蒔が黙りこくっている内に、話題は別のものに移っていた。

 

「将来の夢、ねぇ」

 

 ふんふむ、と霞が頷く。

 

「あんまり考えたことなかったわ。このまま霧島神境に残るつもりでいるもの」

 

 それは、昨日小蒔が京太郎と二人きりで交わした会話と同じ類であった。なりたいもの、希望。彼との会話を思い出し、小蒔はどきりとする。

 

「霞ちゃんは寂しいですねー。もっと大きな野望を持つのですよー」

 

 初美が挑発するように人差し指を振る。

 

「じゃあ、はっちゃんは何か夢があるの?」

「もちろんなのですよー!」

 

 京太郎の問いに、初美は拳を握った。

 

「ないすばでぃな巫女さんになって、もっと霧島神境をアピールして盛り立てるのですよー! この世知辛い不景気な情勢、引きこもったままこれまで通りとはいかないのですよー。変わらないためには変わり続けるしかないのですねー」

「現実的なのか俗物的なのかよく分かりませんね」

 

 初美の野望に巴が苦笑する。そんな彼女に向けて、今度は憧が訊ねた。

 

「巴さんは何かないの?」

「そうですね。将来の夢……とはちょっと違いますけど、世界中を旅して回ってみたいです。知識としては本を読んで貯め込んでいるつもりなんですけど、実体験してみたいですね」

「おー、なんだか大人な意見」

「はっちゃんとは違うな」

「聞き捨てならないのですよー、京太郎!」

 

 初美に飛びかかられて、京太郎が布団に倒れ伏せる。じゃれあう二人の姿は最早見慣れていて、みんな笑っていた。

 

「じゃ、次……春は?」

「……ん」

 

 しばしの間、春は考え込む素振りを見せて。

 きらりと、目を輝かせ、答えた。これまでにない真剣な声色だった。

 

「究極の黒糖を、作る」

「…………つまり、お菓子メーカーに就職ってこと?」

「ん」

「ぶれないなぁ、春は」

 

 初美を引き剥がし、京太郎が呆れたように、それでいて感心したように言った。春は全く意に介さず、自分の鞄から黒糖の袋を取り出そうとして、霞に手をはたき落とされた。お菓子を食べてはいけない時間だ。

 

「でも、京も気に入ったでしょ?」

「ああ、春のくれた黒糖ほんっと美味しかった! もっと食べたい!」

「なら、良かった」

 

 春がゆったりと微笑む。あまり見せない彼女の表情の変化に、京太郎が見惚れているのが小蒔にも分かった。京太郎を挟んで隣に座る憧と共に、「むむ」と小蒔は小さく唸った。その声は、誰にも届かなかった。

 

「霞ちゃんはほんとに何もないのですかー?」

「そうねぇ……うーん、私はやっぱり、みんなの夢が叶えば良いわ。見守って、お手伝いできたらそれが一番」

「優等生すぎるのですよー」

 

 口を尖らせる初美の頭を撫でながら、今度は霞が憧に訊いた。

 

「憧ちゃんはなにかあるの? 参考に聞いてみたいわ」

「夢、夢、夢ねー……。国語の授業でも作文を書けって言われて一番困ってるから。やりたいこととか、一杯あって決めきれないもん」

 

 憧は苦笑する。

 

「でも、ちょっとした希望みたいなものは、あるかな」

「なになに?」

 

 京太郎が身を乗り出し、憧は恥ずかしそうに少し俯く。

 

「……麻雀に、関われる仕事がいいかなって」

「あら、それはいいわね」

「具体的には何一つ決まってないんだけど」

「それじゃ、プロ希望だったり?」

「そこまで簡単になれるものじゃないわよ。たぶん、叶ってもきっと別の形になるかな」

 

 頬をかきながら、憧は言う。小蒔は感心してしまった。漠然とした自分の夢よりも、ずっとしっかりしている気がした。

 

「京太郎はどうなの?」

「俺は、神社継ぐか、スポーツ選手かな」

 

 その答えを、小蒔は既に聞いていた。自分だけが知っていること、なんて思い上がりはしていないつもりだったが、こうして周知されてしまうと彼女は何だかもの寂しくなる。正確に言えば、拗ねていた。

 

「どちらも素敵な夢ね」

 

 霞が朗らかに言うが、京太郎は首を捻る。

 

「スポーツ選手はともかく、神社を継ぐのは素敵かな」

「私からすればとても素敵よ。宮司さんって格好良いと思うし」

「それなら霞ちゃんは京太郎のお嫁さんになれば良いのですよー! 夢がないのなら丁度良いのですよー!」

 

 初美が、名案と言わんばかりに膝を叩く。あらあら、と霞はおっとり笑って、憧があわあわと口を開閉させる。

 

 ――堪らず、と言った様子で。

 

 ずっと黙っていた小蒔は、両手を胸に組んで目を閉じたまま、叫んでいた。

 

 

「だめですーっ!」

 

 

 叫んでから、はっと小蒔は我に返る。

ぐるりと辺りを見渡せば、京太郎と憧はぽかんとして、六女仙たちは――春までもうっすらと――からかい混じりの笑みを浮かべていた。

 

 かぁ、と顔が熱くなる。あの、その、この、と声が言葉にならない。

 初美が、ゆっくりと問うてきた。

 

「それじゃあ姫様の夢は、なんなのですかー?」

「……………………っ」

 

 答えられるはずもなかった。京太郎と二人きりのときでも、半分誤魔化したのだ。

 そもそも、初美とは同じ会話をした記憶があった。そのときには、何も意識せず話していた覚えがある。分かっていて、訊いてきている。

 

 追い詰められた小蒔は、

 

「お……」

 

 その一音目を口にする。

 

「お?」

「お……お……おょ……」

 

 ぐるりと視線に取り囲まれ、彼女は追い詰められ――

 しかし、結局。

 

「……おやすみなさいーっ!」

 

 がばりと布団の中に、小蒔は逃げ込んだ。暗闇の中で、耳と目を塞ぐ。心臓が痛いくらいに鼓動する。

 

 あの流れで、正直に「お嫁さん」と宣言するのは至難の業であった。しかも、京太郎の目もある。翌日六女仙たちからは謝られるのだが、珍しく彼女はしばらく拗ねることになる。

 

 それはともかくとして、小蒔ははっきりと自分の夢を自覚する。もちろん京太郎に語った話も嘘ではない。しかし、なりたいものと問われれば、やはりこちらであった。

 しかも彼女の中では、自覚なく、「誰の」まで決まっていた。

 布団の中で、小蒔は想像を巡らせる。

 

 お嫁さんになったら、長野に住むことになるのだろうか。霧島神境は、父は許してくれるだろうか。

 

 京くん、という呼び方は気に入っている。一番に心に出てきた言葉ではないが、充分しっくりきていた。

 

 しかし大人になったら少し子供っぽすぎやしないだろうか。特に夫婦だとなおさら。京太郎様も京様も却下されている。ならば――京太郎さん、だろうか。自分で思い描く夢に、恥ずかしさから小蒔は布団の中で身悶える。

 

 そっと耳を塞いでいた手を離すと、部屋の中は静かになっていた。どうやら他のみんなも床についたようだった。顔だけ布団から出すと、京太郎も既に横になっている。隣の憧と、小声で何やら話していた。

 

 ――ああ、もう。

 

 小蒔はそろりと腕を、彼の布団へと伸ばした。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

東京/東京大神宮

 

 髪に触れられる指の感触に、小蒔は目覚めた。

 

「あ……わり、起こしたか」

「いいえ……」

 

 瞼を開けた視界に広がるのは、暗い室内。時刻は午前四時半。太陽はまだ完全に顔を見せていないようだった。

 

 小蒔は体を起こして、隣の彼に微笑みかけた。

 

「――夢を、見ていました」

「夢? なんの?」

「はい。幼い頃の夢です。ここでみんなで、過ごした夢」

 

 あのときに比べたら、色々と変わった。自分の体は大きくなった。彼の声は低くなった。心は――どうだろうか。いくらかは、成長できたのだろうか。

 

「あのときも、こうしてみんなで眠りましたね」

「そうだったっけか」

 

 とぼける彼に、小蒔は追求する。

 

「もしかして、あまり眠れませんでした?」

「……だって、あのときから変わらず、みんな、同じ部屋だからな。そりゃ、緊張するよ。部屋は充分あるのに、これだもんな」

 

 正直に答える彼に向けて、小蒔はくすくすと笑った。――みんなはまだ、静かな寝息を立てている。二人だけで悪巧みをしているみたいで、小蒔はどきどきした。とても緊張して、とても楽しくて。あの日、彼女たちが自分をからかった気持ちが、少しだけ分かった。

 

 だからもう少しだけ、小蒔は大胆になる。悪戯を企む子供のように、大胆になった。夢の中の自分では、決してできかったこと。

 

 これは、成長なのだろうか、変化なのだろうか。いずれにしても小蒔は止まらない。誰にも、止められない。

 

「京太郎さん」

「なんだ?」

「愛しています」

「知ってる」

 

 二人は微笑み合って――

 どちらからともなく、唇を重ねた。

 

 

 神代小蒔は、夢の続きに夢を見る。

 

 

 

                              夢の続きに おわり

 




これにてSummer/Shrine/Sweets、全編終了です。


私が考えていたよりもずっと多くのアクセス、お気に入り、
感想、評価、コメントを頂き、本当にありがとうございました。
全てに返信できておらず心苦しくはありますが、
この場を借りてお礼申し上げます。

ここまでお付き合い頂いたこと、重ねてお礼申し上げます。

それではまたどこか別の機会にお目にかかれることを、
そして咲SSがもっと増えることを祈って。

2015/05/18 TTP


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幕外六/石戸霞/あなたのぬくもり

 長野の土を踏むのは、実に十年以上ぶりだった。

 清涼な空気は、霧島神境に通じるところがある。初めて訪れたあの日も、そう感じたものだ。古い記憶に浸りながら、石戸霞は一つ深呼吸をした。

 

 背後に控えるのは、狩宿巴と滝見春の二人だけ。あの当時と比べると、人数は半減した。心細くないと言えば、嘘になる。

 

 電車を降りて、バスの停留所に向かう。時刻表が古ぼけていた。時間の流れを、霞は今更ながら感じる。

 

 バスに揺られて、三十分。

 三人は、目的地へと辿り着いた。

 見上げるのは、須賀の社に続く石段。

 

 ――ここを登れば、彼に会える。

 

 霞の胸の中は、多くの不安と僅かな期待で一杯になる。足と地面がくっついてしまったかのように、動かなくなる。

 

「行きましょう」

 

 促したのは、巴だった。

 

「ん」

 

 最初の一歩を踏み出したのは、春。

 

 彼女たちに背中を押される形で、霞はようやく歩き始めた。そもそもここを訪れると決意したのは自分だ。どんな理由であろうと、臆してばかりではいられない。

 

 全ては、彼女のため。

 そして、彼のため。

 あるいは――自分のため。

 

 石戸霞は、石段に足をかけた。冬の時節、葉はすっかり落ちて、昔見た枝木のアーチは寂しいものになっていた。夏と比べて命の気配は薄く、まるで世界に三人だけ取り残された気分になる。

 

 石段の中腹で、霞はぽろりと零した。

 

「ごめんなさいね、付き合わせてしまって」

「どうしたんですか、今になって。それに私たちは付き合わされた、なんて思ってませんよ。あくまで自分の意思です」

 

 若干呆れ気味に巴が答え、春は無言のまま石段を登り続ける。霞は小さな溜息を吐いた。

 

 石段を登り切った先、迎えてくれたのは赤い鳥居。かつて訪れたとき、その先にいたのはあの少年だった。

 

 だが、今回出迎えてくれたのは違う人物。霞たちにとっても幼馴染で、大切な友達。

 

「憧ちゃん――」

「二ヶ月ぶり、霞さん、巴さん、春」

 

 巫女装束を身に纏う彼女からは、かつての少女らしさはほとんど抜け落ちて、代わりに年相応の落ち着いた空気を漂わせていた。

 

「遠いところ、お疲れ様。荷物、こっちで預かるから。泊まるところは、前と同じ」

「色々ありがとうね、憧ちゃん」

「好きでやってることだから」

 

 憧は微笑みながら、三人を社務所の客間へと案内する。

 何もかも、懐かしい部屋だった。たった二泊だが、霞は鮮烈に覚えている。捨て置くことなどできない思い出だ。

 

 記憶にあるよりもやや老けた彼の父と挨拶を交わし、ひとまず今日はこのまま休むことになる。時刻は既に夕方、旅の疲れも溜まっているだろうという配慮だった。――目的を果たすためには体調が万全であったほうが良い。逸る気持ちを抑え付けて、霞は了承した。

 

 憧が作ったという夕食は、とても美味しかった。ここで過ごしたときの思い出話に花を咲かせながら、彼女たちは笑い合った。

 

 四人で布団を並べて、横になる。

 いつもなら眠りに落ちている時間だったが、霞はなかなか寝付けなかった。春は早々に、巴もほどなくして静かな寝息を立て始める。

 

 何度も寝返りを打ちながら、霞は意識が落ちるのを待った。だが、どうにも目が冴えてしまっている。やはり緊張しているのだろうか。

 

 ふと、隣で眠っていたはずの憧が立ち上がった。

 

「霞さん」

 

 小さな声で呼びかけられ、霞も立ち上がる。

 

「どうしたの?」

「眠れないんでしょ? 実は私も。ちょっとお話しない?」

 

 着いて来て、と憧が部屋を出て行く。追いかけない理由もなく、霞も寝所を出た。

 憧は、社務所の窓口の椅子に座っていた。彼女が眺める先に広がるのは、暗闇ばかりである。

 

「大丈夫なの?」

 

 短く訊ねられ――霞はしっかりと頷いた。

 

「私は京太郎くんと憧ちゃんを信じてるから」

「あたしもかー」

 

 背中は霞に向けられているが、憧が苦笑したのはすぐに分かった。

 

「太鼓判を押したのは、京太郎くんをずっと見ていた憧ちゃんだもの」

「そりゃそうだけどね。責任、重大だな」

「もしも駄目でも、恨んだりしないわ」

「そんなもしもは、要らないから」

「……そうね」

 

 霞が須賀神社を訪れたのは、言うなれば「実験」だ。

 彼が、霞や霧島神境の姫にとって、本当に無害化されているかどうかの確認である。聞いた話を総合すれば、彼の修行は終わり十二分な結果も得られている。後は実際に問題ないか確認するだけ――ではあるが、いきなり姫と会わせるというのは、方々から待ったがかかった。何の実証もない内は、まだ危険であると。

 

 そこには政治的な意図が見え隠れしたが、反論する確かな材料もなかった。

 故に、霞は申し出た。

 

 ――私の身で確かめます、と。

 

 こんなときのための、自分である。姫と同質の力を持つ自分ならば、彼の結果を確かめるに相応しいだろう。――そのため、今回姫には黙ってこの地を訪れたのだ。

 

「憧ちゃん」

「なに?」

「……ごめんなさい、なんでもないわ」

 

 思わず無神経なことを訊ねてしまいそうになり、霞は口をつぐむ。憧はさして気にする様子もなく、

 

「霞さん」

「どうしたの?」

「霞さん、もしかしてあいつのこと、好きだった?」

 

 逆に、直球を投げてきた。思わず、霞の体が硬直する。

 

「ね、どうだったの?」

 

 重ねて、憧は訊ねてくる。霞は深呼吸を繰り返し、それから答えた。はっきりと、答えた。

 

「――いいえ」

「そっか。私の勘違いか」

 

 意外にも、それ以上の追求はなかった。

 

「霞さん」

 

 再び、名前を呼ばれる。

 

「明日はあいつのこと、よろしくね」

「……ええ。大丈夫、ちゃんと任されたわ」

 

 更けてゆく夜は、どこまでも静かだった。かつては笑い声で溢れていたというのに、とても信じられなかった。

 

「ねぇ、憧ちゃん」

「どうしたの?」

「今度また、霧島神境に遊びに来てね。そのときは私が料理を振る舞うわ」

「それじゃ、そのときはあいつも一緒ね。一杯作ってもらわないと」

「ええ、もちろんよ」

 ようやく二人は、微笑み合えた。

 

 

 ◇

 

 

 巫女装束に着替え、朝日を迎える。

 水垢離を済ませた春や巴も同じく、普段通りの巫女姿である。二人とも、表情は引き締められている。ここ数年に渡る彼と彼女の努力に、一つの審判が下されるのだ。

 

 憧に案内され、社の奥へと進む。

 

 通された広間には、既に見届け人たる老人たちが集まっていた。彼らに隙を見せてはならない。誰が味方で誰が敵かも分からない。姫のお相手が、小さな神社の跡取りでは相応しくないと考える人間も多いのだ。身勝手な、と憤る気持ちさえ鎮め、霞は静かに彼を待つ。

 

 待つこと五分。

 広間に、父親と共に彼が現れる。隣に佇む憧たちにも緊張が走るのが、霞にも伝わってきた。

 

 ――京太郎くん。

 

 心の中で、彼の名を呼ぶ。

 狩衣に袖を通した須賀京太郎は、最後に見た写真よりも幾分か大人びて見えた。直接会うのは、何年ぶりか。姫を差し置いて先に顔を合わせるのはとても心苦しかったが、それよりも大切なことがある。

 

 ぎゅっと、霞は拳を握りしめた。

 

 今すぐにでも、触れ合いたい。抱き締めたい。傍に引き寄せたい。沸き立つ感情を、彼女は理性で抑え付ける。そのようなことをしてしまえば、たちまち不適格の烙印を押されるのは間違いない。たとえ自らの想いであっても、そうは受け取って貰えないだろう。

 

「――霞さん。巴さん。春」

 

 彼から名前を呼ばれ、三人は居住まいを正す。久しぶりに聞く彼の声には、不思議な力が伴っていた。

 

「久しぶり。ほんっとうにさ。もう参ったね」

 

 けれども続いた声は、いつも通りのもので。

 ほうっと、霞は安心した。

 

「そうですね、会えて嬉しいです」

「ん、久しぶり」

 

 巴と春が懐かしむように微笑む。彼女たちは京太郎と会っても問題ない身である。だが、姫と霞の手前、彼女たちも京太郎に直接会うことは控えていた。

 

「今日はわざわざごめんな、霞さん」

「良いのよ」

 

 一歩、霞は京太郎に歩み寄る。

 

「京太郎くんが嫌だって言っても、きっと来たわ」

 

 もう一歩、霞は京太郎に歩み寄る。

 

「だから……今日で、終わらせましょう」

「……ああ」

 

 京太郎は頷き。

 霞は、自分の意思を剥ぎ取る。その身を、人ならざるものへと明け渡す。

 

 広間に走る痺れた空気。

 世界が塗り替えられていくような、尋常ならざる感覚。

 

 見守るだけの者たちが、おお、と感嘆の息を漏らしその場に膝をつく。

 

 ――それでも。

 

 その中心にいる霞は、彼の顔を見つめ続けていた。

 

 

 

 ――結論から言って。

 霞の身に、何ら問題は起こらなかった。いつもと同じように巴と春の手によって祓われ、それでおしまい。何かに乗っ取られることも、祓えないこともなかった。

 

 ひとまずは、一つの壁を乗り越えた。

 

 おそらくはまだ難癖をつける連中はいるだろうが、霞たちもいつまでも子供ではない。戦う手段を持ち得ているし、何よりも彼がいる。

 

 どんな障害だろうと、きっと彼なら乗り越えてくれる。彼女の元に、辿り着いてくれる。自分はそのサポートをすれば良い、霞はそう思っていた。

 

 憧たち三人が客間で休んでいる間に、霞は外の空気を吸ってくると言って、境内に出た。

 

 冬の風は冷たく、凍えそうになる。

 しかし、霞は室内に戻らなかった。――戻れなかった。

 

 彼が、いた。

 

 私服に着替えた京太郎は、どこにでもいる青年に見えた。霞は巫女装束のまま、彼の傍へと近寄る。すぐに彼も、霞の存在に気付いた。

 

「霞さん」

「おやっとさぁ、京太郎くん」

「俺はなにもしてないよ」

「今日の結果は、京太郎くんがずっと頑張ってきたおかげよ」

 

 霞が笑いかけると、京太郎は照れ臭そうに頬を掻いた。こういう仕草は、子供の頃からちっとも変わっていないなと、霞は思った。

 

 ずっと会いたかった。会って、色々なことを話したかった。隔絶していた時間と距離は、大いに霞の中にフラストレーションを溜めていた。

 

 けれどもこうして大手を振って会えるようになった途端。

 語るべき言葉が、見つからない。何を話して良いか、分からない。それは京太郎も同じのようで、二人はしばらく黙ったままだった。

 

「京太郎くん」

 

 霞は、何とか声を絞り出す。考えに考えた挙げ句、出てきたのは一つの問いかけだった。

 

「今でも小蒔ちゃんのこと、好き?」

「好きだよ」

「――」

 

 即答だった。何年経っても変わらないであろう、答えだった。それを分かっていたはずなのに、霞の心は大きく揺れ動いた。

 

「ずっとずっと好きだった。これからも、好きだよ」

 

 霞が黙りこくってしまったのを、言葉が足りないと感じたのか、京太郎は重ねて言う。

 

 その、確かな答えを聞いて。

 

「うん」

 

 ゆっくりと、霞は頷き。

 

 ――ああ、そうか。

 

 そして彼女は、ようやく理解する。

 

 ――私、そうだったのね。

 

 好きだなんて、今の今まで認めたことはない。昨夜の憧への回答は、本心からだ。そもそも小蒔と憧に割って入るつもりなんてなかったし、入れるとも思わなかった。大事な弟分として彼を見守り続けたい、そんな風に考えていた。それに、あの夏彼の頬を叩いたあの瞬間、彼を好きになる資格は失った。――そう、霞は自分に言い聞かせてきたのだ

 

 故に。

 彼女の恋は、始まってすらいなかった。

 

 ようやく今、認められたのだ。遅すぎる、始まりだった。既に、決着はついてしまっている。

 

 悲しい、とは霞は思わない。むしろ彼女の気持ちは晴れやかだった。心のどこかに引っかかっていたものがとれて、清々しかった。

 

「ありがとう、京太郎くん」

「え? お礼を言うのはこっちの――」

 

 京太郎の言葉が、途切れる。

 霞が、真正面から彼を抱き締めたから。かつて、背後から抱きすくめたときとはまた違う。体全てを押し当てて、触れ合う肌を通して想いのたけを彼に送り込む。

 

「か、霞さんっ? ちょ、あの、これっ」

 

 あのときと全く同じように動揺する彼がおかしくて、霞は笑った。けれども手から力を緩めたりなんか、しなかった。

 

「堂々と会えるようになったんだから、このくらいは良いでしょう?」

「いや、色々と、良くないです、はい」

「お姉さんの言うことは聞くものよ」

 

 少しだけ、彼から離れる。霞はまっすぐに京太郎の顔を見上げた。困惑している彼の表情は面白く、もっといじめたくなった。

 

 もっともこれ以上は不義理に過ぎる。霞はあくまで余裕を絶やさず、そろりと京太郎の傍を離れた。顔を真っ赤にした彼を見て、くすくす笑う。

 

「京太郎くん」

「な、なんだよもう」

「いつか、お願いできなかったこと、今お願いするわ」

 

 霞はそのまま笑いながら、言った。

 

 

「――小蒔ちゃんの傍に、いてあげて」

 

 

 彼女の願いに、京太郎はしっかりと頷く。

 

「ああ、絶対に。ずっと、傍にいるよ」

「うん。良かった」

 

 ほっと、霞は安心し。

 今度は憧たちも巻き込んで、彼のぬくもりを分け合うこととした。狼狽える彼を四人でいじめるのは、とても楽しかった。

 

 

 

                           あなたのぬくもり おわり

 




(いつの間にか)10万UA突破記念。

次作:ひとりぼっちの山姫は(完結済)
次々作:愛縁航路(連載中)


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幕外七/須賀京太郎/三分の魔法

 夏は過ぎ去り、秋もすっかり深まって、いつしか肌寒さを覚えるようになった。この春吉野に引っ越してきたと思ったら、もう冬の入口に差し掛かっている――瞬く間、という言葉を京太郎は噛み締めていた。

 

 乗客の少ない電車を降り駅舎を出て、見上げるのは吉野の山。つい先日までは深緑に塗れていたのに、既に葉は赤く色づき、中にはすっかり枯れ果てた樹木もある。美しくも物寂しい世界に、しばらく京太郎はその場に立ち尽くしていたが、

 

「なーに黄昏れてんのよ」

「っと。なんだよ、いきなり」

 

 背中を叩かれて、我に返る。振り返るよりも早く目の前に躍り出てきたのは、幼馴染の新子憧だった。

 

「ほら、さっさと帰るわよ。晩ご飯の支度しなきゃ。今日は鍋よ、鍋」

「はいはい、分かった分かった。そう慌てるなって」

 

 苦笑いしながら、京太郎は憧と連れ添って歩き出す。二人のそれぞれの手には、大きな買い物袋が提げられている。憧と同じ大学に進学してからこちら、休日は彼女と過ごす時間が一番長かった。土曜日の夕餉は、彼女の家で共にするのがいつの間にか不文律となっていた。

 

 今日もまた、いつもと同じ休日。

繰り返される、いつもの時間。

 けれども世界に、いつもはない。ふと気付けば、その姿を変えている。

 

「あれにさ」

 

 意図せず、口から言葉が零れていた。

 

「ん?」

「あれに、一度しか乗ったことがないんだよな」

 

 何かを誤魔化すように、京太郎は歩みを進めて言った。指差した先にあるのは、吉野山の玄関口とも言えるケーブルカー。丁度、上りと下りの車両がすれ違うタイミングであった。

 憧は目を瞬かせてから、京太郎の横顔を覗き込む。

 

「意外ね。ここに来てもう半年以上経つのに」

「初めて来た日に、記念に乗って以来なんだよな。いつも歩くか、迎えに来て貰ってるし」

「確かにそうね。私も暫く乗ってないや。シズに付き合ってても、ずっと歩き通しだし」

「そっか」

 

 軽く頷く京太郎の視線は、ケーブルに注がれたまま固定されている。

 一瞬の間があった。

その後、

 

「……乗る?」

 

 窺うように憧が訊ねてきて、

 

「……乗る」

 

 京太郎は、誘われるかのように頷いていた。

 

 券売機で二人分の乗車券を買い、改札をくぐる。斜面を見上げるホームに立つのは、京太郎と憧の二人だけだった。

 降りてきた箱形のケーブルカーにも、乗客の姿はなかった。必然、二人だけで乗り込むことになる。

 

 止まっていても揺れる車内には、四人がけの席が向かい合わせで一組ずつ。京太郎が山下側に腰掛けると、憧はその正面に座った。

 山間に沈みゆく西日が、二人を乗せるケーブルカーに差し込んでくる。昼の夜の狭間、静かな時間だった。

 

 出発の時刻になっても、結局他の乗客は一人も入ってこなかった。扉が閉じられ、二人だけを乗せたケーブルカーがゆっくりと動き出す。

 

「ねぇ」

 

 上り始めたケーブルカーの中で、先に口を開いたのは憧だった。

 

「なんだよ」

「なんだよ、じゃないわよ。どうしたの、あんた」

 

 どきりとした。心臓が飛び跳ねた。衝動的に顔を背けようとする京太郎だったが、じっと見つめてくる憧の視線からは逃れられない。元々この密室に、逃げ場なんてなかった。助けを求める相手も、いなかった。

 

「どうしたのって、別にどうしてもねぇよ」

 

 それでも京太郎が虚勢を張ってしまうのは、昔からの付き合い故か。彼女には――あるいは彼女たちには――格好悪いところを見せたくないという、子供染みた欲求。今更取り繕う関係でもないというのに。京太郎自身、悪癖だとさえ自覚していた。

 

「嘘ばっかり」

 

 そんな態度を取られても憧が微笑むのは、やはり昔からの付き合い故か。彼のことなら全て理解している――なんておこがましい言葉、彼女は決して口にしない。けれども、少なくとも隠し事なんて全くの無意味だった。

 

「もしかして、焦ってるの?」

「……ん」

 

 端的な憧の指摘に、京太郎は小さく頷いていた。頷かされていた。こいつには敵わない、と京太郎は白旗を上げる。

 

「もう、俺がこっちに来て半年以上だろ」

 

 ぽつり、と京太郎は自嘲気味に呟く。そう、彼はこの奈良阿知賀、吉野山に希望を抱いて引っ越してきた。そのためだけに、進学先を決定した。

 

「なのに、何一つ進展してない」

 

 全ては、彼女と再会するため。大手を振って、真正面から堂々と、誰にも文句を言わせず、彼女にもう一度会いに行くため。

 

 あの夏の日に隔たれた、彼女との関係。

 自らの存在は、彼女にとって危険なものになってしまった。それを解消するためには、自分の可能性に縋るしかなかった。

 その可能性が、その希望が、どこまでもか細いことは理解していた。否、理解していたつもりだった。

 

 ここのところ、変化の手応えを感じていないのだ。長野を飛び出したときと、何ら変わっていない。このままで良いのだろうか。このままの状態で彼女と再会するなんて夢を、叶えられるのだろうか。

 

「なあ、憧」

 

 三年前、誓った日には迷いなんてなかった。だと言うのに今は、疑問と不安が止めどなく溢れて仕方がない。

 

「俺は――小蒔ちゃんに、会えるんだろうか」

 

 言ってから、すぐに後悔が襲ってきた。

 その弱音を口にしてしまうと、現実になってしまいそうで怖かったからだ。だから、何でもない風を装って、この話題になるのを忌避してきたのだ。

 

 燃え上がるような色の紅葉がアーチを形作り、その下をケーブルカーがくぐっていく。美しい吉野山の光景も、俯く京太郎の瞳には映らない。

 

「ねぇ、京太郎」

 

 相手が憧だ、厳しい言葉で叱咤されることを覚悟していた。

しかし意外にも、彼女の声色はどこまでも優しかった。

 

「小蒔とまた会えたら、何がしたい?」

「いや、だから、会えるかどうか――」

「ごちゃごちゃうるさい。良いから答えなさい。ねぇ、あんたは何がしたいの?」

 

 一転、強い言葉で詰問される。

 彼女の意図は分からなかった。

 だが、答えなければならないと思った。深く考えはしなかった。反射的に、一番に思いついたことを口にしていた。

 

「西瓜」

「ん?」

「昔、あそこで食べた西瓜」

 

 思い浮かんだのは、あの縁側の光景。あそこで一緒に食べた、あの甘い西瓜。夏の風を受けて、祭り囃子を聴いて、他愛もないことで笑い合ったあの日。

 

「もう一度、一緒に食べたい」

 

 だって、あんなに美味しい西瓜はもう二度となかったから。

 

「食べたいんだ」

「うん」

 

 あまりに単純な望みに、しかし憧は頷き笑いかけてくれる。

 

「大丈夫よ」

「え……」

「きっと一緒に、食べられるよ」

 

 胸の内にあった澱が、すっと消えていく。

 見失っていた目標が――否、本当は定まっていなかった目標が、自分の中ではっきりとした。いつの間にか、自分が何をしたいのか、どうしたいのか分からなくなってしまっていた。

 

 がたん、とケーブルカーが大きく揺れ停止する。

山上の駅に、到着したのだ。

 

 京太郎は立ち上がり、座る憧を見下ろす。

 

「ありがとな、憧」

 

 彼女は何も言わず、小さく肩を竦めた。

 ケーブルカーに乗っていた時間は、たったの三分程度だっただろう。けれども三分前とは、何もかも違っていた。こんな短い時間で、僅かな会話で、彼女は全てを変えてくれた。

 

 まるで魔法みたいだ、と京太郎は感心してしまう。

 迷ったり、間違えそうになったりしたとき、彼女はいつも背中を押してくれる。小蒔もそうだと、嬉しそうに語っていた。

 

 開かれた扉から、京太郎は車外に出る。眩い夕陽に背中を向け、未だ座ったままの憧に向かって掌を向ける。

 

「憧」

「何よ」

 

 どれだけ目が曇っていたのだろうか。彼女の顔にも、翳りがあったのを見逃していた。彼女だって、ずっと不安だったのだ。いや、今も不安なのだろう。

 

「会いに行こうぜ」

「え?」

「お前が言い出したんだろ」

 

 情けなくても、腕を伸ばし続ける。それが今、彼にできる精一杯。

 

「一緒に会いに行こう、ってさ」

「――……ばか」

 

 憧は頬を染めて、恥ずかしそうに目を逸らして――それからゆっくり立ち上がり、彼の手を取った。

 

「行こう」

「うん」

 

 赤に染まる吉野の山を、二人は寄り添い登っていく。

 

 冬の寒さを乗り越えて、その先にある季節を迎えるために。

 もう一度、二人が三人になるために。

 

 

 

                              三分の魔法 おわり




今年の冬コミ(C91)に参加します。
配置は
12/30(金) 東地区“a”ブロック-42a
です。サークル名:愛縁文庫

頒布予定はSummer/Shrine/Sweetsの文庫本(フルカラーカバー+挿絵付)、
文庫本には短編(Summer/Shrine/Sweets関連)のペーパーを付ける予定です。
また、別途短編のペーパーも書き下ろす予定です。

表紙はこちら。

【挿絵表示】


短編1:幕外八/新子憧/愛縁なくとも
短編2:幕外九/神代小蒔/愛縁結びて
※内容は予告なく変更になる場合があります。

頒布物情報などは
○Twitter@ttp1515
○活動報告
○サークルブログhttp://blog.livedoor.jp/aienbunko/
などで告知予定です。

委託なども検討中ですが、現状未定です。
よろしくお願い致します。


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