鷹が如く (天狗)
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1.プロローグ

 千六百年、関ケ原。

 

「明日、我ら西軍は徳川率いる東軍とぶつかることと相成った!」

 

 侍大将の男が声を張り上げ、目前で整列する兵卒に声をかける。

 

「恐ろしいか!」

 

 兵卒の一人がごくりと生唾を飲み込む。野晒しの陣に冷たい風が吹く。

 

「逃げ出したい者はおるか!」

 

 誰も声をあげない。

 

「お前たちは、敵を恐れず、逃げ出しもせぬ強き武者か!」

 

 おお、と兵卒が声を上げ、足を踏み鳴らし、槍の石突で地を突く。

 

「ならば飲め! 食え! 英気を養い、一人でも多くの首級を挙げよ!」

 

 兵卒の怒号がさらに大きくなり、侍大将は満足げに(きびす)を返すと天幕のなかへ入って行った。

 

 

 

 闇夜。月明かりも雲に隠れ、陣の各所に焚かれた篝火(かがりび)の明かりが、僅かに周囲を照らしている。兵卒の多くは飯を食い、酒を飲み交わしている。見回っている者は少数だ。

 見回りの一人が口笛の音に気づく。それは不思議なことに、集められた馬の飼葉のあたりから聞こえた。酒の入っていた見回りの男は、無警戒にそちらへと近づく。見えるはずもない飼葉の中身を覗き込もうとしたその瞬間、首筋を鋭利な刃物で貫かれ、飼葉の中へと引きずり込まれた。呻き声一つ上げずに殺害された男と入れ替わるように、飼葉の中から現れたのは、足先から頭のてっぺんまで黒装束で覆われた男だ。左手に手甲を嵌め、腰に小太刀を一本差している。手甲には零れる水滴のような紋章が刻まれている。

 黒装束の男は素早く天幕に向けて駆ける。姿勢を低くし、足音も立てずに走るその姿は、誰に見とがめられることもない。

 やがて天幕に辿り着くと、それに背を預け、意識を集中する。聴覚を、嗅覚を研ぎ澄ます。そうすると、天幕の内側で活動する者たちの影が視覚に映し出される。槍を持った鎧姿の男が二人。床几(しょうぎ)に座り、酒を飲んでいる男が一人。その男の傍で酌をする小姓が一人。

 黒装束の男は手甲に右手を触れ、針を三本取り出すと右腕を左から右に一閃させる。三本の針は天幕を突き破り、それぞれが二人の男と小姓の首筋に突き刺さった。三人は即座に意識を失い、その場に崩れ落ちる。

 

「なんだ! お前たち、どうした!」

 

 床几に座っていた男が立ち上がり、狼狽した様子で声を上げる。黒装束の男は逆手で小太刀の柄を握り、抜くのと同時に天幕を一閃。開いた穴へ飛び込むと、目の前には侍大将の後姿。その男の首めがけて左から右へ小太刀を振るった。頸椎の隙間を通った刃は過たず侍大将の首を切り落とした。

 どさり、と残った侍大将の体が崩れる。黒装束の男は兜ごと侍大将の生首を持つと、踵を返して天幕の外へ駆けて行った。

 その場に残ったのはひとつの首なし死体。侍大将の首から噴出する血に塗れた男二人と小姓は、暢気(のんき)に寝息を立てて眠っていた。

 

 

※   ※   ※

 

 

 東都大病院。

 澤村遥は季節の花を飾りつけた花かごを持ち、入院患者の面会者用の入口へ向かった。まだ午後四時を過ぎた頃だが、年が明けて一月も経っていないこの時期では、もう太陽が傾いて辺りを赤く染めている。

 昨年の十二月にアイドル引退を宣言した彼女は、忙しかった日々に別れを告げた。それでもまだ沖縄に帰り、普通の女子高生に戻るための準備を始められていない。大阪に戻り、アパートを引き払うための準備も、沖縄の高校に転校するための書類作成も、まだ何もできていない。その最たる理由は、東都大病院に入院している男の傍を離れる気になれなかったからだ。

 ガラス戸を開けて中に入ると、巻いていたマフラーを外した。病院内は暖房がよく効いていて、防寒具を身に着けたままでは汗をかいてしまう。入ってすぐそこにある警備員室を覗く。珍しい事に誰もいなかった。遥は首を傾げながらも、いつものようにカウンターに置かれている用紙に、自身の名と面会する患者の病室の番号、時刻を記入する。

 エレベーターホールへ向かって歩いている時、ふと、違和感に気づいた。看護婦や他の面会者、入院患者など、普段はよく見る人たちが誰もいないのだ。人っ子一人いない。

 遥の胸に不安感がこみ上げてくる。嫌な予感が脳内に警鐘を鳴らす。

 彼女は少し足早になり、エレベーターを呼ぶ。そうしても早く到着するわけがないのだが、何度も上階を示す三角形のボタンを押してしまう。

 ようやく一階に到着した事を告げるベルが、その室温に対して寒々しい音をホールに響かせた。遥は素早くエレベーターに乗り込み、目標の階があるボタンを押す。

 彼女は今までに何度もこの予感に襲われた事がある。とても普通とは言い難い人生を歩んできたせいか、確信があった。この先、確実に何か悪い事が待っている。そしてそれは、自身が「おじさん」と呼ぶ大切な人に関わる事なのだ。

 目標の階に到着し、遥は嫌な予感が当たった事を確信した。廊下に倒れるスーツを着た強面の男。関東最大の極道組織である東城会の構成員だ。この階は個室のみで構成されており、裕福な入院患者のために用意されている。遥が面会に来た男も、現在の東城会六代目会長、堂島大吾が入院の手配をしたために、この階の病室に入院しているのだ。

 そして、目の前で倒れている構成員は彼の護衛のためにいたはずの男だ。

 遥は男に駆け寄り、その肩を揺すった。

 

「大丈夫ですか!? 何があったんですか!?」

 

 男はうめき声を返すばかりで、質問に答えられない。周囲に血痕はなく、重症ではないようだ。そこでようやく、遥はこの階の照明が落とされているのに気付いた。視界に広がるのは、窓から差し込む夕日の赤だけだ。

 パンパン、と二発の銃声が聞こえた。

 遥が弾かれるように振り返った廊下の先には、彼の病室がある。

 彼女は花かごを投げ捨て、そちらへ向かって駆け出した。そこに行けば危険なのはわかっている。自分が行っても、できる事は何もないであろう事も理解できる。しかし、行かない、という選択肢を彼女は選べなかった。理性ではなく感情が、想いが遥を突き動かしているのだ。

 目的の病室のすぐ近くまで来た時、黒スーツの男がスライドドアごと倒れた。男のスーツの襟には東城会を示すピンがついている。彼は立ち上がる事ができないのか、腹を押さえて痛みに耐えている。近づいてくる遥に気づいた。

 

「お嬢っ! 来ちゃいけません! 逃げてください」

 

 男は絞り出すように、遥に叫んだ。彼は何度やめてほしい、と言っても遥を「お嬢」と呼ぶ事をやめなかった。そんな陽気な男が今は脂汗に塗れ、必死に警告、いや、懇願している。

 

「奴は危険です! 逃げてください!」

 

 吠える男の顎を、何者かが蹴り飛ばした。男は意識を失ったのか、それっきり動かない。

 遥は男に駆け寄ろうとしていた足を止め、激しく動悸する胸を抑えた。

 侵入者は、これ以上ないほどに不審であった。

 全身を覆う白いローブ。そのフードを目深に被っており、顔は見えない。両腕に金属製の籠手をつけており、丸みを帯びた三角形の紋章がついている。ベルトにも同じ紋章がついており、夕日に照らされて輝いていた。

 身長は成人男性の平均よりも少し高い程度だろうか。その体格から、男性である事は判断できる。

 何らかのコスプレをしているのだろうか、とも思うが、アニメやゲームに詳しくない遥には判別できない。ただ、躊躇なく人の頭部を蹴る事ができる男が、ただふざけてあの格好をしているわけではないのであろう。

 

「……あなたは、誰ですか? 何でこんな事するんですか?」

 

 男は遥を一瞥すると、グローブの嵌められた手で拳銃を拾い、構成員の男に銃口を突きつけた。

 

「澤村遥だな。 丁度良い、お前にも来てもらう」

「……どこにですか? おじさんは無事なんですか?」

「当たり前だ。 俺はあいつを助けに来たんだからな」

 

 遥には男の発言の意味が全く理解できなかった。護衛を打ち倒し、拳銃を突きつけるような暴挙を行う男が、助けに来ている。言動が一致していない。返事に詰まり、遥はただ男を睨みつける。

 

「事は一刻を争う。 早く決断しろ」

 

 男は見せつけるように、ゆっくりと銃の撃鉄を上げた。

 

「……わかりました。 連れて行ってください」

 

 返事を聞いた男は撃鉄を戻し、銃を放ると病室に入って行った。慌てて遥も彼の後を追う。病室の前に倒れる護衛の男とその傍に転がる拳銃に眼を向ける。この銃を拾ってローブの男に向けても無駄なのだろう。難なく対処できる自信があるからこそ、男は拳銃を捨てたのだ。

 病室には、心電図の定期的な音が響くだけで、驚くほど静かだった。壁に二発の弾痕が残り、廊下では気を失った男が倒れている殺伐とした雰囲気とは、対称的だ。同時に遥は、ローブの男の気配が驚くほど希薄なのに気づく。衣擦れの音や足音が聞こえない。まるで、映画に登場する熟練の忍者か暗殺者のようだ。

 ローブの男が向かった先はベッドの脇に置かれている車椅子だ。本来、寝たきりであるこの病室の主には不要な物だが、元々備え付けられている。

 遥はベッドに駆け寄ると、ベッドに寝る男の安否を確認した。

 彼はいつも通り、安らかな寝息をたてている。一月前、降りしきる雪の中で会話して以来、彼の落ち着いた声を聴いていない。閉じられたままの瞼は、優しい瞳を遥に向けてくれない。整えていた顎髭は、慣れていない遥の失敗のせいで全て剃ってしまった。病衣に包まれている(たくま)しかった肉体は、少し痩せている。

 遥は布団から、動かせないために冷えている彼の手を握り、それを温めるように擦る。

 

「おじさん……」

 

 東城会四代目、伝説の極道、堂島の龍。様々な異名を持つ最強の男、桐生一馬。

 彼は一ヶ月間、意識を取り戻すことなく、眠り続けていた。

 

「どけ」

 

 男は遥の肩を押しのけると、心電図の電源を切り、桐生につけられているコードを外す。自身よりも大柄な桐生を軽々と抱え上げると、彼を車椅子に座らせた。

 

「これを持て」

 

 点滴棒から栄養補給を目的とした点滴のパックを外し、遥に持たせる。彼女はそれを受け取ると、慌ててパックを高く上げた。下げたままでは、点滴が落ちないかもしれないからだ。医療に関する詳しい知識を持たない彼女には、これが正しいのかどうかもわからない。

 

「行くぞ」

 

 男は車椅子を押して歩き出す。男は全て命令口調で話しているが、尊大な態度には感じられない。遥は今までに極道の組長や上の立場の人間を何人も見て来たが、そんな人間に共通する偉そうな風格が見受けられないのだ。まるでロボットを相手にしているような、機械的な印象を受ける。

 

 

 

 エレベーターが到着したのは、地下一階だ。機材搬入用の駐車場にローブの男は車を停めていたようだ。男は黒のワンボックスの車に近寄り、バックドアを開ける。既にシートが倒されており、桐生を寝かせるためであろうマットが敷かれている。事は男の計画通りに進んでいるようだ。

 男は車椅子から桐生を抱え上げると、遥が持っている点滴パックを取り上げ、後部座席のドアの上部にあるアシストグリップに引っかけた。

 

「乗れ」

 

 遥は大人しく男の命令に従い、靴を脱いでバックドアから車に乗り込む。

 

「携帯電話を渡せ」

 

 遥はコートのポケットから携帯電話を取り出すと、ぎゅっと握りしめた。これがなくなると、助けを呼べなくなるかもしれない。

 

「電源を切るだけじゃ駄目ですか?」

「駄目だ。 電源を切っても微弱電波を受信されれば居場所が特定される」

 

 遥は諦めて携帯電話を渡す。この男には通じないかもしれないが、持っていないと嘘をつけば良かった。男はドアを閉めると、すぐに運転席に乗り、エンジンをかける。

 車はゆっくりと動き出した。外は既に日が暮れていて、暗くなっていた。動悸は落ち着いているが、遥の胸に込み上げる不安感は消えない。

 

 

 

 黒のワンボックスが病院の敷地を出てすぐの事。一台の白いセダンとすれ違った。セダンのドアには細長い台形を組み合わせて三角形にしたマークが描かれており、その下部に「Abstergo」と社名が書かれていた。



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2.アサシン教団

 ローブの男が運転する黒いワンボックスは、住宅街を走っていた。後部座席にいる遥は、寝ている桐生の手足の指先を擦り、献身的に温めていた。車内は暖房で温められているが、病室と違って暖かい布団はない。遥のコートを上にかけてはいるが、何もしなければすぐに冷えてしまうだろう。

 

「桐生一馬の保護に成功した。 澤村遥も一緒だ」

 

 運転席から男の声が聞こえ、遥はそちらに視線を向けた。彼は携帯電話で何者かに報告しているようだ。

 

「ああ、何も問題はない。 二時間もしない内に神室町につく」

 

 男は電話を切った。

 

「神室町に行くんですか?」

「そうだ」

「教えてくれるんですね」

 

 あっさりと回答した男を少し意外に思い、遥は思わず声に出した。

 

「先ほどとは状況が違う。 俺は何も隠すつもりはない」

 

 男の声はやはり機械的で、感情を感じさせない。

 

「あなたは誰なんですか?」

「鷹村啓介」

「どうしてこんな事するんですか?」

「俺たちの目的を果たすために桐生一馬が必要だからだ」

「俺たち……何かの組織なんですか? 東城会の?」

 

 遥は神室町の組織といえば、東城会を連想した。桐生の古巣ではあるが、東城会に関係する出来事で彼女に良い思い出は無い。東城会で世話になった人物は、極道としてではなく、あくまでも個人として接してくれる人たちだった。

 

「いや、ヤクザとは関係ない。 俺たちの教団の仲間が神室町にいるだけだ」

「教団?」

 

 何かの宗教の組織だろうか。何にせよ、白いローブを纏い、拉致するような人間がいる宗教がまともであるはずがない。遥はこれから起こる事を想像して身震いした。

 

「なんの宗教なんですか?」

「……宗教とは少し違う。 俺たちに神はいない。 あるのは導師と一つの教えだけだ」

「それは?」

「真実などなく、許されぬことなどない」

 

 なんと虚しい教えだろうか。天国も地獄もなく、行いを罰する神もいない。何を信仰し、何を目的に生きているのだろうか。

 

「……教団の名前はなんですか?」

「アサシン教団」

 

 遥が桐生の病室で感じた事は正鵠を射ていた。彼は正しく暗殺者(アサシン)であったのだ。

 

「私たちをどうするつもりなんですか?」

「アニムスシステムに接続し、秘宝の在り処を探す手伝いをしてもらう」

 

 手伝い、ということは無闇に傷つけられる事はないのだろう。だが理解不能な部分が今の一文に多々ある。アニムスシステム。秘宝。存在を知らないものを探す手伝いなど、自分たちにできるのだろうか。さらに、桐生は未だに意識が戻っていない。彼に何をさせようと言うのだろうか。

 

「そんな事、私にできるわけがありません。 ましてや、おじさんは……」

「お前には期待していない。 お前が秘宝の在り処を突き止められる可能性は一パーセントにも満たないだろう。 だが、桐生は違う。 そいつにはなんとしても意識を取り戻し、俺たちに協力してもらう必要がある」

 

 はっきりと期待していない、と言われると腹が立つ。それにこの一ヶ月間、医者がどんなに手を尽くしても彼の意識は戻らなかったのだ。

 

「お医者さんにできなかった事があなたたちにできると思えないけど」

「脳と遺伝子の研究に関して、俺たちは世界の最先端と並んでいる」

 

 遥のとげのある言い方も、啓介の神経には何の影響もないようだ。それよりも、遺伝子、とはどういう事だろうか。それも今回拉致された事に関わりがあるような言い回しだ。啓介の話し方はとても分かり辛い。質問に答える気はあっても、理解させるつもりはないのだろう。

 遥はため息をつくと、質問を打ち切る事にした。彼に自分や桐生を傷つけるつもりはなく、基本的に隠し事をするつもりがない事はなんとなく理解できたのだ。目的地が神室町であるならば、東城会のシマであり、遥もよく知っている街だ。助けを呼ぶ方法はいくらでもあるだろう。

 桐生の寝顔は病室に居た時と変わらず安らかで、それだけは遥のささくれ立った心が癒されるような気がした。決して自分の望んだ状況ではないが、一緒にいられるのだ。決してこの手を離すまい、と遥は桐生の動かない手を握り締めた。

 

 

※   ※   ※

 

 

 東城会本部。その一室にて、堂島大吾を中心とした東城会の幹部が勢揃いしていた。

 

「何やて!? 桐生ちゃんが拉致られたやと!」

 

 声を荒げているのは東城会直系真島組組長、真島吾朗。素肌の上に蛇柄のジャケットを羽織り、左目は眼帯をつけている、異様な風体の男だ。

 

「は、はい! 我々がついていながら、申し訳ありません!」

 

 椅子に座る幹部たちに囲まれて土下座しているのは、桐生の護衛についていた男たちだ。

 

「やったんはどこの組のモンや!」

「わかりません! 全身白い服を着て、フードで顔を隠してました。 相手は一人だったんですが、恐ろしく強ェ奴で」

「ハジキまで使ってたった一人に逃げられんなや! このボケがぁ!」

 

 真島が男の襟をつかみあげると、首が締まったのか彼は苦しそうに呻いた。大柄な男が激昂する真島の肩を掴み静止する。

 

「まぁ、待てや。兄弟」

 

 真島を兄弟と読んだ男は東城会直系冴島組組長、冴島大河だ。着物を身に着け、丸坊主から髪を伸ばしている途中なのか、髪型は不格好だ。

 

「あぁ? 止めんなや」

「まずは話聞くんが先やろ。 今は一刻も早く桐生を見つけなあかん」

 

 真島は舌打ちすると、乱暴に男の襟を離した。彼は首を撫で、せき込んでいる。

 

「ほんで、遥ちゃんとは連絡取れたんか?」

 

 せき込んでいる男の隣で、青い顔をしているもう一人の護衛の男に、冴島が問う。

 

「まだです。 病院の駐車場のゴミ箱でお嬢の携帯電話を見つけました。 恐らく、四代目と一緒に……」

「ほうか、男一人で桐生と遥ちゃんの二人を抱えて逃げられるとは思えへんな。 相手が他にもいたんか、遥ちゃんが自分からついていったかのどっちかや」

「あの子なら、桐生ちゃんの命を盾にされたら大人しゅうついてくやろ。 どこの誰だかわからんが、正面から東城会に喧嘩売られて、半端じゃすまさへんぞ」

 

 どかっと椅子に座り、真島は皮手袋の嵌められた拳を握りしめる。

 

「近江の仕業とは考えられへんか?」

「いえ、恐らく関係ないでしょう。 今の近江連合に桐生さんを狙っている余裕はないでしょうし、奴らもうちと同じく、今頃組織の足場固めで奔走しているはずです」

 

 会長である大吾は落ち着いた様子で冴島の予想を否定した。

 

「防犯カメラは調べたんだな?」

「はい。 ですが、鉄砲玉の姿は映っていませんでした」

「……『サイの花屋』に依頼するしかないか」

 

 通称「サイの花屋」。彼はあらゆる情報に精通し、見返りに高額の情報料を受け取る。神室町に根城を構える情報屋である。

 

「そんなら俺が花屋に話つけたるわ」

 

 真島とサイの花屋には深い交流がある。また、花屋はこれまでに幾度か桐生の依頼を受けた事があり、桐生から受けた恩もある。無碍にはしないだろう。

 今後の行動――サイの花屋に依頼する、という事だけだが――が決まり、解散しようとした時、ノックの音がした。

 

「入れ」

 

 大吾が短く言い、ドアが開く。現れたのはやはり強面の男、東城会の構成員だ。

 

「失礼します。 四代目の拉致について情報を持っている、という人物が会長との面会を望んでいます」

 

 にわかに室内がざわつく。

 

「誰だ?」

「はい、それが……アブスターゴ社の社員だと言う事です。 その筋の者ではなく、堅気です」

「……通せ」

 

 アブスターゴ社と言えば世界的な大企業だ。主力としている製薬業だけでなく、電化製品や建築、果てはゲームなどの娯楽業界でも成功を収めている。

 なぜそのような企業の社員が桐生と遥を拉致した犯人に関して情報を持っているのか、この場にいる誰もが知る由もなかった。

 

 

※   ※   ※

 

 

「起きろ」

 

 遥が眼を覚ますと、車は地下駐車場に停められていた。車が二台停められる程度の広さだ。啓介との会話を諦めてから一度車を乗り換え、彼があらかじめ用意していた桐生の点滴の換えを一度行ったあと、遥は寝入ってしまっていた。東都大病院から神室町までそれほど離れていないが、国道などの大通りを避けて走っていたため、やけに時間がかかった。

 彼女は慌てて起き上がると、靴を履き、車を降りた。啓介は手早く桐生を車椅子に移している。

 

「ここは、どこですか?」

 

 目的地が神室町である事は聞いていたが、到着した先が地下室では、神室町のどこなのか全くわからない。遥は寝入ってしまった事を後悔した。

 啓介は遥に点滴パックを押し付けると、桐生の車椅子を押す。

 

「神室劇場の地下だ」

 

 啓介は駐車場の脇にあるエレベーターに乗り込む。エレベーターは坑道などで使われる簡易的なもので、通常のビルに設置されている物とは勝手が違った。形状は箱ではなく籠。レバーで上下の設定をし、緑と赤のボタンで動作と停止を操作するようだ。啓介は遥が乗ったことを確認すると、緑のボタンを押した。

 箱状ではないせいか、機械音がやけにうるさく聞こえる。

 会話もできない騒音の中、しばらくしてエレベーターは停止した。左右にスライドするシャッターを開けると、長い廊下がある。打ちっぱなしのコンクリートがむき出しで、寒々しい。照明である蛍光灯も僅かに壁面を照らしている程度だ。

 遥たちが到着する前に、廊下の先にある両開きの鉄製の扉が開いた。奥の部屋の方が明るいのだろう。扉を開けた主の姿はシルエットしか見えない。

 

「お疲れ様、啓介。」

 

 シルエットの主は女性のようだ。

 

「ああ」

 

 啓介は短く返事をする。誰に対してもこの調子なのだろうか。女性がこちらに歩み寄って来ると、やがてその姿がはっきりと見えるようになった。歳は三十代後半だろうか。長い黒髪を背中に垂らしており、白衣を身に着けている。体は引き締まっており、妙齢の美人だ。赤い口紅が妖艶さを引き立たせていた。

 

「あなたは、澤村遥さんね」

「あ、はい。 えっと……」

 

 遥は思わぬ美人との出会いに困惑していた。今までの経験では、このような場所に連れてこられたら強面の男たちが雁首揃えているに違いない、との予想とあまりにかけ離れていたからだ。さらに、女性は慈しむような、優しげな眼差しと声音で語りかけてくる。

 

「ごめんなさいね。 突然こんなところに連れて来られて怖かったでしょう。 でも安心して。 私たちはあなたたちの敵じゃない」

 

 遥は彼女に出会ってようやく、啓介の「助けに来た」という言葉を、ほんの少しだけ信じてもいい気持ちになってきた。

 

 

 

 廊下の奥には、広大な部屋があった。敷地の面積は神室劇場とほぼ同じ広さはあるのではないだろうか。その中心に、何やらさまざまな機械を取り付けられたベッドが二つある。そのベッド自体も機械化されており、寝るための物だとは思えない。その周りには複数のモニターが設置されており、「Animus system」と表示されている。

 

「うわぁ……」

 

 今まで見た事もない景色に感嘆の声が漏れる。室内に何台も設置されている機械類の用途が遥には全くわからない。スパイ映画に出てくるオペレータールームのような洗練さはないが、秘密結社のアジトと言われれば納得してしまう。

 呆然としている遥の持つ点滴パックを女性がそっと取り、点滴棒に提げる。その時になって彼女は気づいたのか、上げっぱなしで疲労した二の腕を揉んだ。

 

「点滴ぐらいもってあげなさいよ。 気が利かないわね」

「その方が逃げる心配がない」

 

 確かに、桐生の点滴を放り出して逃げるなんて事を、遥にできるわけがない。相変わらず冷血な判断を下すこの男を、遥はむっとして睨みつけた。

 

「澤村さん、ごめんなさい。 彼も悪気があって言ってるわけじゃないのよ」

「構いません。 会ってからそれほど時間は経ってませんが、鷹村さんに人間らしさを期待できない事はわかっています」

「そうね……」

 

 女性は悲しそうに少し眼を伏せた。

 

「自己紹介をしてなかったわね。 私は吉川優子。 脳神経外科医よ。 今回は桐生さんのバイタルチェックを中心に、彼の回復のサポートをするわ」

「サポート……ですか?」

 

 桐生を目覚めさせるのならば、脳の専門家である彼女こそが主役になりそうだが。

 

「ええ。 彼の治療にはあの――」

 

 優子はベッドを指さした。

 

「アニムスを使うわ。 そしてその専門家が……ドクター!」

 

 優子が呼びかけると、モニターの裏で機械を操作していた老人が顔を出した。白髪のもじゃもじゃ頭、額につけたゴーグル、くたびれた白衣。

 

「南田さん!」

 

 遥は口に手を当てて驚いた。彼とは一月前に出会ったばかりなのだ。その時は、インナーファイターというゲームを遥に紹介し、高額なプレイ料金を取る変わった研究者だったはずだ。

 

「あら、知り合いだったの?」

「ん、ああ。 君か。その節は世話になったね。 おかげで良いデータが取れたよ」

 

 そう言って南田はにっと笑った。

 

「もしかして、IF8のテストプレイヤーって澤村さんの事だったんですか?」

「ああ、その通りだ。 君は魔法少女になるのを嫌がったからね。 街中でスカウトしたのだ。 私の見立て通り、彼女は実に優秀なテストプレイヤーだったよ」

「あの……南田さんがどうしてここに?」

「ふむ、それを説明するためには君もプレイしたIF8が一体どういう経緯で開発されていたのか、という事から話さなければならない」

 

 調子に乗ってきたのか、前に出て話し出そうとする南田を優子が制した。

 

「その前に、休憩してからにしましょう。 澤村さんも疲れたでしょう?」

「あ、いえ、私は――」

「問題ないだろう。 車の中でもよく眠っていた」

 

 遥の台詞に割り込んできたのはいつも通り一本調子な啓介の声だ。むっとする遥の視線も全く意に介していない。

 

「そうなの。 さすが伝説の極道に育てられた少女ね。 でも今は休んだ方がいいわ。 疲れも溜まっているでしょうし、桐生さんのチェックもしないとね」

 

 優子はそう言うと、点滴棒を押して歩き出した。その後に車椅子を押す啓介と遥がついていく。

 

「ひっひっひっ、わたしはもう少しマシンを調整してからにするよ」

「どうぞ、ご勝手に」

 

 嬉々として機械をいじる南田に、優子は冷たく言い放つ。彼女は遥たちが入ってきた扉から見て、右側の壁面についているスチール製のドアを開け、中に入って行った。

 

 

 

 遥たちが入った部屋は、意外と生活感に溢れていた。ベッドが二台設置してあり、二人掛けのソファの前にはテーブルも置かれている。簡易的なハンガーラックには、優子の物であろう衣服がかけられている。他に寝袋が床に敷かれたマットの上にあり、その周囲には南田の物であろうごちゃごちゃとした私物や工具が乱雑にちらばっている。テーブルの上に、紙皿が袋ごと置いてある。流しとコンロは設置されているが、調理器具は見当たらない。小さな冷蔵庫の上に電子レンジが置かれているところを見ると、料理はしていないように見える。

 ベッドの傍まで車椅子を押した啓介は、やはり軽々と桐生を抱え上げると壁沿いのベッドに寝かせた。優子が手早く点滴を交換し、心電図などの設置を始める。その手際は手慣れたものであった。

 どうやら本当に彼らは自分たちを傷つけるつもりはないらしい、と遥は安堵のため息を吐いた。

 カチリ、と金属音がした。そちらに視線を向けると、啓介が両腕に身に着けている籠手を外している。それをテーブルに置き、ベルトを外してローブを脱いだ。露わになったのは、二十歳前後の青年だ。暗殺者の正体が自分とさほど変わらない年齢の青年であった事を知り、遥は息をのむ。

 ローブを脱いだ啓介は白のTシャツ、黒いパーカーにジーンズとラフな格好をしており、お洒落にこだわりがないのか、髪は乱れてあちこち跳ねている。顔立ちは整っているが、感情の抜け落ちたその表情のせいで近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。彼はパーカーの袖を捲ると、二十センチほどの棒状の物に、バンドが二つついたものを右腕に巻いた。

 

「……それは?」

 

 啓介が手首を返すと、棒の先から銀色の刃物が飛び出した。

 

「アサシンブレード。 アサシン教団に伝わる、象徴とも言える武器だ」

 

 暗殺のための武器。殺されるその瞬間まで武器の存在を知らせず、刺し殺す。優子と南田の朗らかな様子に対して、この男の異質さは際立っている。

 彼は刃を収納し、袖を戻すと部屋を出て行った。既に部屋から出て行った啓介の背中を幻視しているかのように、遥がドアを見ていると、優子が声をかけて来た。いつの間にか、部屋には桐生の鼓動を示す心電図の音が鳴っている。

 

「……怖いわよね」

「え?」

「アサシン教団は確かに、代々人を殺す技術を磨いているわ。 でも、その力は無闇矢鱈に振るわれるものではないの」

 

 遥は何も答えられない。結局、殺人と言う手段を用いる者たちがまともであるはずがない。だがそれを軽々と口に出すのは(はばか)られた。

 

「彼らが一般市民の味方である事は間違いないわ。 アサシンの掟の中にこういうものがあるの。 『汝、己の剣を罪なき者に振るうな』 何があっても彼らは一般の人々を傷つけるような事はしない」

 

 だが、それを信じても良いものだろうか。強大な力を持つ東城会の大幹部たちが一般市民を攻撃することはほとんどないだろう。しかし、末端に行けば行くほど、彼らの信念は薄れていく。

 

「啓介は生まれたその時からアサシンとして育てられたの。 どうかそれだけは、信じてあげて」

「……教えてくれませんか? あなたたちの事」

 

 遥は顔を上げ、正面から優子の瞳を見た。

 

「まだ私は、アサシン教団がなんなのか、どうしておじさんを拉致したのか、何も理解できていないんです」

「ええ、もちろん」

 

 優子は嬉しそうに微笑んだ。

 

「でも、まずシャワー浴びてからにしない? 澤村さんもそのまま寝るのは辛いでしょ?」

 

 思えば、暖かい病院の廊下を駆け、冷や汗も散々かいている。落ち着くためにも暖かいシャワーを浴びられるのなら、そうしたい。

 

「はい、いただきます。 ……おじさんの事、よろしくお願いします」

「任せなさい」

 

 優子はおどけて自身の胸を叩いた。遥もようやく微笑むと、眠り続ける桐生の頬を撫でた。

 

 

※   ※   ※

 

 

 ローブを脱いだ鷹村啓介は中道通り裏のコンビニで弁当を中心とした食料品を買い込んでいた。もう夕食には遅いが、買い出しを担当する啓介は桐生の拉致、という仕事が入っていたため、このような時間になってしまった。

 ボタンを押すと開くタイプの自動ドアを通り、店外に出る。四人分の弁当と飲料、数冊の雑誌と二つに分けられたコンビニ袋はそれなりに重いはずだが、体重九十キロ近い桐生を軽々と抱えられる彼にとっては、大した重さではない。

十字路を北に曲がり、進んでいくと男の怒声が聞こえた。

 右を向くと路地があり、その先に(うずくま)る壮年の男を蹴りつけている二人の若者の姿が見える。啓介に彼らの事情などわかるはずもないが、神室町では日常茶飯事の光景だ。鼻血をだらだらと流し、泣きながら許しを請う壮年の男に対し、若者は愉悦の表情を浮かべている。

 啓介は無表情のままコンビニ袋を路地の陰に置くと、パーカーのフードを被り、背後から男たちに近づく。壮年の男性を蹴り続けている男の背後で、彼から財布を奪ったのであろう若者が中身を(あらた)めている。啓介は最初の標的をこの若者に定めると、背後から口に左手を回し、声を出させないようにする。さらに右腕を首に回し、頸動脈を締め上げると、若者は静かに意識を失った。

 

「はぁはぁ、ダッセェ親父だな! 喧嘩じゃ赤ちゃんにも負けちゃうんじゃないの? なぁ!」

 

 背後にいるはずの仲間に声をかけるが、返答はない。不思議に思って振り返ろうとすると、首を締め上げられ、背後に投げつけられる。コンクリートに全身を打ち、彼もまた、意識を失った。

 一瞬で、音も立てずに二人を倒した啓介は、被害者であった壮年の男性に眼を向ける事もなく、置きっぱなしにしていたコンビニ袋を拾い、その場を去って行った。

 蹲っていた男性は暴力の雨が止んだ事に気づき、顔を上げる。その場に転がっていたのは自分を蹴りつけていた二人の若者。何があったのか見当もつかないが、逃げるなら今のうちしかない。彼は自分を救ってくれた者が何者なのか欠片も知る事なく、盗られた財布を拾い上げると、すぐさま逃げ出して行った。

 

 

※   ※   ※

 

 

 啓介がアジトに帰るのと、遥がシャワーを終えて出てきたのはほぼ同時であった。彼女が寝室の向かい側にあるスチールドアを開いたちょうどその時に、啓介が重い鉄製の扉を開いて帰って来たのだ。エレベーターの音は大きく、シャワー室で着替えていた遥の耳にも届いた。遥たちが初めてここに来た時、優子はこの音を聞いて迎えに出たのだろう。彼女は優子のものである黒のジャージを身に着けているが、優子よりも身長の低い遥は袖と裾を捲りあげていた。スリッパを履いている。

 

「あ、おかえりなさい」

 

 シャワーを浴びて気が緩んでいたのか、遥はごく普通に啓介に声をかけた。それに対して彼は頷いただけだ。

 

「そろそろ晩飯の時間かね?」

 

 機材の整備に一段落ついた様子で、南田が顔を上げる。

 

「ああ」

 

 啓介はやはり短く答えると、寝室に向かった。南田と遥もその後について行く。

 

「おかえりなさい、啓介。 いつもありがとう。 ちょうど澤村さんも上がったところだし、ご飯にしましょうか」

 

 寝ている桐生の傍で、クリップボード上の用紙に何やら記入していた優子が振り返る。彼女はクリップボードを心電図の乗った台に置くと、遥の手を引いてソファに座らせた。南田はテーブルの傍の地べたに座る。啓介は優子にビニール袋を渡すと、ドアの近くの壁に背を預けた。彼は立ったままのようだ。

 優子が電子レンジに中華弁当を入れ、温める。電子レンジはコンビニなどにあるものと同じく高出力であるらしく、二分もかからずに次の幕の内弁当を温める。

 そうして十分も経たずにそれぞれの手に弁当が行き渡った。最初に中華弁当を渡された南田は既に半分ほど食べ終え、日本酒を飲み始めている。啓介は立ったまま菓子パンを食べていた。遥に手渡されたのは幕の内弁当だ。

 

「いただきます」

 

 一緒に食べ始めたのは優子と遥だけである。アサシン教団の男性陣は協調性という物が皆無なのだろうか。

 

「ああ、そうだ。 君にアニムスシステムの話をしなければならなかったね」

「あ、お願いします」

 

 酒を飲んでやや上機嫌になった南田が言う。

 

「ドクター、ちょっと待って。 アサシン教団の説明もしないと」

「ほう、君はどちらを先に聞きたい?」

 

 遥は思案しつつ、桐生と啓介に視線を向ける。本音を言えば桐生の意識が本当に回復するのか、その方法を知りたいが、その前に彼らが信用できる組織なのかを判断せねばならない。

 

「……では、アサシン教団について、お願いします」

「わかったわ。 澤村さん、世界史は得意かしら?」

 

 優子は微笑むと、説明を始めた。

 

 

 

 彼女の説明は客観的な視点に終始していた。まるで歴史の教科書を読みあげているようによどみなく。遥の知識が足りないようであれば、補足として説明し、熟練の教師のようにわかりやすい話し方だった。

 アサシン教団の始まりは紀元前にまで遡った。遥も知る歴史的な人物も彼らの標的になっていた。クレオパトラ、チンギス・ハーン、始皇帝。そしてアサシン教団の現在に至るまでの敵、テンプル騎士団。

 彼らの戦いの構図は一貫していた。支配者と彼らに協力するテンプル騎士団。自由を求める市民と彼らに協力するアサシン教団。アサシン教団に属するはずの優子は、決してテンプル騎士団を一方的に悪であるとは言わなかった。遥が、彼女自身で考え、答えを出すためのであろう。

 それはアサシン教団に伝わるたった一つの教えが関係している。

 

「真実などなく、許されぬことなどない」

 

 現代のアサシン教団の礎を作った大導師、アルタイル・イブン・ラ・アハドが唱え、後に最強のアサシンと呼ばれるエツィオ・アウディトーレが信条とした。

 アジトに移動するまでの間に、啓介から聞いたものと同じだった。

 「真実などない」統治に、市民意識に、正しい答えなどない。我々は常に学び、考え、文化を、文明を育てなければならない。

 「許されぬことなどない」行動するのは自分自身である。その結果、どのような結末を迎えようとも、その責任を負うのもまた、自分自身である。

 アサシン教団の歴史を聞く前と後では、その言葉の印象がまるで違った。

 そして現在の世界の状況。西暦二千年に現代のテンプル騎士団であるアブスターゴ社によって、世界各地のアサシン教団の拠点が襲撃され、ほぼ壊滅状態となった。生き残ったアサシンたちは潜伏し秘かに連絡を取り合い、再起の時を待つ。

 誰も知らぬ内に世界が激変したのは去年の十二月十二日。アサシン教団のデズモンド・マイルズの活躍により、大規模な太陽フレアによって起こるはずであった滅びは防がれるが、その結果「かつて来たりし者たち」のジュノーによって世界はコントロールされ、アカシック衛星網を打ち上げたアブスターゴ社によって人民は常に監視されている社会の構築が完了してしまった。

 

「世界が一つの企業によって監視されてるなんて……陰謀論とか、都市伝説みたいで」

「信じがたいわよね。 でも事実よ。 世界にはアブスターゴ社の製品が溢れ、彼らが知ろうとすれば、手に入らない情報はまずないわ」

 

 半信半疑である遥の様子を見て、優子はタブレットを取り出した。音声ファイルを再生する。

 

「これはアブスターゴで被検体十六号と呼ばれているアサシンが発見し、デズモンドに残したファイルよ」

 

 再生された音声は英語であるが、親切にも字幕が表示されている。音声より遅れているように見える。再生された英語を即座に翻訳するアプリケーションでもインストールされているのだろうか。

 ある男性がオペレーターに対し、クレームをつけているようだ。テレビに突然、男性自身の家族の個人情報が表示され出したらしい。オペレーターはすぐに修理をよこす、と伝えた。業者の行動は迅速で、まだ電話中であるにも関わらず、到着した。その後、破壊音や暴力的な音が響き、電話は切られた。

 

「これを信じるかどうかは、あなたに任せるわ」

 

 遥は表情を青褪めさせている。暴力的な状況に触れる経験が多かった遥には、この電話の男性が演技ではない、と否応なく理解できてしまったのだ。

 

「……じゃ、じゃあ、あの『かつて来たりし者たち』ってなんですか?」

「確かに、SF染みているわよね」

「ここからはわたしが説明しよう!」

 

 元気に酒の入ったコップを掲げたのは南田だ。

 

「古代人と秘宝、アニムスシステム。 これらは切っても切れないものだからな」

 

 既に酔っぱらっている様子の南田に不安を抱きながらも、遥は頷いた。



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3.アニムス

「『かつて来たりし者たち』とは約七万年前に地球を支配していた者たちだ」

 

 食事を終えた一同は寝室を出てアニムスの設置してある大部屋に移動した。優子はキャスターに座り、南田と遥はモニターの前に立つ。啓介は鉄扉の横の壁に背を預けて立っている。警戒のためか、出入り口の近くにいるようだ。

南田がキーボードを操作すると、モニターに何らかの施設内を縦横無尽に駆ける全裸の男女を映しだした。彼らは黄金に輝く球体を手に入れる。

 

「彼らがアダムとイヴ。 我々人類の祖先だな」

 

 遥は食い入るように映像を見つめる。僅か四十秒ほどの映像だが、CGや合成には見えなかった。もっとも、現代の発達したCG技術ならば、これだけの映像を作り上げる事ができるのかもしれないが。

 

「『かつて来たりし者たち』は超常的な技術を持っていた。 彼らは奴隷として人類を作り出し、その意思を自由に操るために『POE』、エデンの果実を用いた。 『かつて来たりし者たち』が作り出した秘宝は数多(あまた)あるが、エデンの果実には強力な洗脳効果があった。そしてその存在と効果は、現在も確認されている」

 

 次にモニターに映し出されたのは、どこかのビルのロビーであろうか。エレベーターから降りてきた外国人の青年に向かって殺到する警備員だ。

 

「これは去年の暮れに撮影された映像だ。 アブスターゴに潜入したアサシン、デズモンド・マイルズがエデンの果実を使用する様子を監視カメラが捉えていた」

 

 デズモンドが黄金に輝く球体を掲げると、そこから強烈な光が発せられ、警備員たちは彼に触れる事もできずに倒れていく。

 その光景に遥は言葉を失う。今までにも信じられないような光景はいくらでも見て来た。目の前で大切な人が殺される瞬間だけでなく、ミレニアムタワーが爆破された時にはその場に居合わせている。奇想天外な物で言えば、大阪城の内部に黄金の大阪城が存在しているのも目撃している。

 しかし、今見ている映像はこれまで経験したどれよりも群を抜いていた。科学技術以上の何かの存在が、はっきりと映し出されているのだ。

 

「……あなたたちは、これを探しているんですか?」

「ひっひっひっ、少し違う。 我々が探しているのはエデンの果実ではなく、別の秘宝だ」

「別の?」

 

 首を傾げる遥を楽しそうに南田は見る。

 

「秘宝を破壊するための秘宝。……草薙剣(くさなぎのつるぎ)だ」

「草薙剣?」

「日本に伝わる三種の神器の一つだ。スサノオが倒したヤマタノオロチの尾から出てきたとされている。現代では熱田神宮のご神体となっているが、それは偽物だ。草薙剣は日本の統治者に利用されてきた。歴代の所持者の中で判明しているのは邪馬台国の卑弥呼、飛鳥時代の聖徳太子、平安京の安倍晴明と言ったところだな」

「有名な人たちですね」

「ああ、日本に限らず、世界中に秘宝の力を利用して統治していた者はたくさんいる。 ジョージ・ワシントン。 アドルフ・ヒトラー。 ナポレオン・ボナパルト。 ジャンヌ・ダルク。 J・F・ケネディ。 マハトマ・ガンディー。 彼らの中には秘宝を所持していたがために、テンプル騎士団やアサシン教団に暗殺された者もいる」

 

 次々と出てくる歴史上の人物の名前。これではまるで、秘宝がなければ人類の統治は成されない、と言われているようだ。

 

「アサシン教団は代々、秘宝を封印するために存在していた。 アルタイルもエツィオも秘宝の封印に生涯を捧げたのだ。 それは日本でも変わらない。 日本にアサシン教団の支部が設置されたのは西暦千五百年を過ぎてからだ。 中国のアサシン、ユン・シャオが日本に訪れ、秘宝を保護している一族と出会い、アサシン教団に勧誘した。 アメリカの原住民と同じく、アサシン教団やテンプル騎士団と関わり合いのなかった彼らは、むしろ彼らと比べて純粋な秘宝の守り手であっただろう」

 

 南田がモニターに映し出したのは、アメリカの先住民であるモホーク族の生活だ。木で組まれた家で生活するインディアンである。

 

「ちょ、ちょっと待ってください! この映像は、いつ撮影されたんですか?」

 

 ビデオカメラなど存在しなかった時代に、このような映像を残せる技術などあるわけがない。現在でもアメリカでこのような生活をしている人たちがいるのだろうか。南田はニヤリと笑う。

 

「ひっひっひっ、そこで出てくるのが――」

 

 南田は機械化されたベッドを指さす。

 

「この、アニムスだ」

 

 一体このベッドで何ができるのだろうか、遥は首を傾げた。

 

「秘宝の所在と使用方法を知るために、テンプル騎士団はアサシンのDNAに残された先祖の記憶を辿るための道具を作り出した。 このアニムスはまさにそれ。 先祖の記憶を覗き見るための装置なのだ」

「先祖の……記憶」

「ああ、さらに辿り、人類誕生の秘密と『かつて来たりし者たち』の存在を確認する事ができるのだよ」

 

 興奮した様子で南田は語り続ける。

 

「わたしが開発したインナーファイターシリーズもこの技術の一つだ。 アニムスには一つ、致命的な欠点がある。 それは流入現象――先祖の記憶が被験者の人格に影響を与えてしまう現象――による被験者の人格の崩壊だ」

「人格の崩壊……それじゃあおじさんは!?」

 

 桐生を救うための装置に、そのような危険な欠点があるとなれば、遥には到底承服などできない。

 

「まぁ、焦るな。 彼を救うための話はこれからだ。 アニムスが開発された当時、テンプル騎士団と協力関係にあったある男がその技術を持ち出した。 そしてそれをわたしの所へ持ち込んだ」

 

 次にモニターに表示されたのは、歴代のインナーファイターシリーズの設計図だ。

 

「私はアニムスの欠点を潰すため、プレイヤーの直近の戦闘の記憶のみを利用する事にした。それによってメンタルへのフィードバックは限りなく零に近くする事ができた。――まぁ、そういう経験のないプレイヤーには恐竜と戦う事になる者がいたが――そのために、プレイヤーを選ぶゲームになってしまっていた。 しかし、それもIF8で解決できたが、それは今は関係ないな」

 

 南田は顎に手を当て、自身の作品の反省点を考えていたが、思考を元に戻す。

 

「インナーファイターシリーズの特徴には、フィジカルへのフィードバックの大きさがある。 それは君も経験しているのではないかね?」

 

 遥は頷く、確かにIF8をプレイすると身体能力が上がっていたのだ。

 

「アニムスとインナーファイターを組み合わせたこの装置こそが、桐生一馬の自意識を刺激し、肉体を活性化させるために不可欠なものなのだ!」

 

 南田は拳を振り上げ、声高に宣言するが、他の者たちとテンションが合わないようだ。啓介はその場で微動だにしておらず、優子は無視してキーボードを叩いている。どうやら桐生の診察記録をパソコンに起こしているようだ。

 

「えっと、つまり、おじさんが意識を取り戻すためにご先祖様の記憶を辿るって事ですよね」

「うむ」

 

 南田は周囲の反応を気にせず、自信満々に頷く。

 

「それって最近の記憶じゃ駄目なんですか? その方が流入現象の影響も少ないんじゃないでしょうか?」

「……ふむ、その通りだ。 彼の意識を取り戻すためならば、その方が確実だろう」

「それなら!」

「いや、それはできない」

 

 口を挟んだのはただ傍観している様子だった啓介だ。

 

「どうしてですか?」

「俺たちには時間がない。 ここもいつテンプル騎士団に発見されるかわからない。 桐生の意識の覚醒のためだけに時間をかける事はできない」

「勝手な事言わないでください! 私は別に、おじさんを助けてくれるのが、あなたたちじゃなくても構わないんです! ……テンプル騎士団でも……!」

 

 遥の叫びを聞き、優子は沈痛な表情を見せた。彼女が桐生を大切に思う気持ちが心に響き、そうしてやりたい思いもある。しかし、アサシン教団に時間がないのも事実。教団の目的のためには、確実だが時間のかかる回り道よりも、少々の危険はあるが、時間のかからない近道を選ばなければならない。ケースバイケースだが、病院からアジトまで移動した方法とはわけが違う。

 

「テンプル騎士団に草薙剣を狙う理由はない。 秘宝を壊す秘宝など、奴らにとって存在自体が許されない物だ。 奴らなら秘宝の発見よりも、永遠に見つからぬよう桐生を殺害する方を優先するだろう」

 

 睨み合う遥と啓介。しかし、啓介の瞳に相変わらず感情の色はない。

 

「……澤村さん、秘宝の行方を追うためには、被験者自身の意識が必要不可欠なの。 秘宝発見のきっかけとなるシークエンスを発見し、被験者がそのシークエンスとシンクロ――同期していくことによって、その先の記憶に辿り着ける。 それだけでも、どれだけ時間がかかるのかわからないわ。 私たちは決して桐生さんを無闇にアニムスに接続するんじゃない。 彼のバイタルは私がチェックし、危険がある場合は必ず止めるわ」

 

 遥は苦しそうに己の胸に手を当てる。泣いてもどうにもならない事はわかっている。今は涙を零す時ではない。

 

「……説明を、続けてもらえますか?」

「ああ、もちろんだ」

 

 南田がにこやかに答えた。

 

「さて、先程の話に、先祖の記憶とのシンクロには被験者の自意識が必要だと聞いたね。 今回、君に来てもらったのは、より安全に彼の自意識の覚醒を促すためだ」

「安全に……」

「そう。 まず、君にアニムスと接続してもらい、彼の先祖と出会うシークエンスを見つけ出してもらう。 そこで彼をアニムスと接続させ、君の意識が憑依した人物と交流する事によって意識の回復を試みるわけだ」

「え? ちょっと待ってください。 私とおじさんのご先祖様は、知り合いなんですか?」

 

 血がつながっていないのにも関わらず、普通の親子以上の関係を築いている二人の先祖が知り合いである。絆とは、なんと因果なものであろうか。

 

「その通り。 君たちだけでなく、そこにいる鷹村くんの先祖も関わりがある。 君がいなければ鷹村くんのデータを使うつもりだったが、彼の先祖もアサシンだ。 戦闘続きで、極度の興奮状態にあるデータでは彼に悪影響が出るかもしれなかった。 彼にとって、君がこの場にいる事は、とても重要な事なのだよ」

「それで私も連れて来たんですね」

「ええ、啓介くん一人で桐生さんに加えて澤村さんまで拉致する事は大きな危険が伴ったわ。 でも、あなたが大人しくついて来てくれて、本当に助かったの。 ……もちろん、こんな手段を使わずに連れて来られたら、それが一番だったのだけれど」

 

 優子の表情は複雑そうだ。

 

「正面から話を通そうとしたら、アブスターゴ社から隠れる事が難しくなってしまうからですね……」

「その通りよ」

「あれ? でも、だとしたらどうして鷹村さんはあの格好で行動していたんですか?」

 

 その質問に答えたのは、啓介だった。

 

「テンプル騎士団と東城会に、アサシン教団の仕業だと知らしめる必要があった。 一つは時間稼ぎのためだ。 数か月前まで俺たちは大阪に支部を置いていた。 テンプル騎士団はまず関西方面を中心に探すだろう。 二つ目は、東城会と近江連合がつい最近まで抗争状態にあった事だ。 それによって一般人にも大きな被害が出た。 今回の一件が近江連合の仕業であると、勝手に推測された場合、東西は再び戦争状態に陥る事になるだろう。 それを防ぐためだ」

 

 説明とはいえ、遥は啓介がこれだけ長く話すのを初めて聞いた。

 

「ああ、そうだ。 それに関して、わたしたちが所持する秘宝を見せてやらんとな」

 

 南田が言うと、啓介がネックレスを外しながら近寄ってきた。それを遥の眼前に掲げる。それは幾何学模様の入った正方形であった。中央に、同じく正方形の穴が開いている。漢字の「回」と同じ形状だ。

 

「これは?」

「日本に伝わる秘宝の一つ。三種の神器、八咫鏡(やたのかがみ)だ。それを身に着けると機械技術に検知されない、という効果をもたらされるんだ。 つまり、防犯カメラなどに映らなくなる。 『かつて来たりし者たち』の技術らしく、現代科学では全く解析できん。 押しボタンや車の運転に支障はないが、自動ドアが反応しなかったり、車の自動ブレーキ便りだと反応せずにそのまま轢き殺される、という欠点があるがな。 あと指紋認証やタッチパネルも無理だ。 あぁ、まだある。 デジカメには映らないが、フィルム式のカメラやテープ式のビデオカメラには普通に映る。 面白い技術だな」

「はぁ……便利なのか不便なのか……」

 

 困惑する遥に向けて、南田はいつの間にか手にしていたデジタルカメラで写真を撮る。

 

「ほれ、見てみろ」

 

 デジカメを差し出され、遥はモニターを覗き込む。そこには、困惑している様子の遥とキャスターに座って微笑む優子が写っている。彼女たちの間に写るはずの啓介の姿は見えず、彼の姿で隠れるはずの鉄扉がはっきりと映っていた。

驚く遥の様子に、優子はくすりと笑った。

 

「さて、説明はこれぐらいかしら。 何か質問はある?」

「あ、はい。 一つだけ」

「何かしら?」

「テンプル騎士団は秘宝の破壊を望まない……だから、おじさんの命を狙う可能性がある事はわかったんですけど、アサシン教団はどうなんですか? 秘宝の守り人であるあなたたちが、どうして秘宝を破壊するための秘宝を探しているんですか?」

 

 ひっひっひっ、と南田が笑う。答えたのは、真剣な面持ちの優子だ。

 

「一年前までなら私たちも秘宝の破壊なんて考えなかったわ。 でも、状況は変わった。 『かつて来たりし者たち』であるジュノーと、秘宝を利用してアカシック衛星網を確立したテンプル騎士団の支配から解放されるためには、破魔弓を使ってエデンの果実を破壊するしかないの。 アサシン教団としての目的は変わらないわ。 市民の自由を守る事こそが、わたしたちの信条なの。 そのためには、秘宝の破壊すら厭わない」

 

 優子の瞳には狂気的な色が浮かんでいた。それを直視した遥は僅かに怯む。本当に彼らに桐生を任せてもいいのだろうか。しかし、彼らの様子を見るに、確かに桐生を助けるつもりはあるようだ。正直なところ、遥にとって世界の行く末などどうでもいい。彼女の望みはただ一つ。桐生が回復し、また沖縄で家族と暮らす事なのだ。

 

「……わかりました。 おじさんを助けるためなら、協力します」

「ありがとう。 今日はもう遅いから、作業は明日から始めるわ。 明日に備えて、ゆっくり休んで」

 

 狂気的な色はなりを潜め、優子は優しげに微笑んだ。遥は彼女から目を逸らし、頷く。

 

 

※   ※   ※

 

 

「初めまして、堂島大吾さん。 私はこういう者です」

 

 土下座する二人の東城会構成員を無視し、集う幹部たちの視線を意に介さず、青年はにこやかに挨拶すると大吾に名刺を差し出した。大吾は座ったままそれを受け取り、名刺を見る。「アブスターゴ 日本支社 企画開発部 仲本純一」と記されていた。

 

「……それで、大企業の社員さんがどうして四代目の情報を?」

 

 青年は三十代半ばの爽やかな短髪で、目鼻立ちが濃く、眼鏡をかけている。外見だけ見れば平凡なサラリーマンと大差ないが、東城会の面々を前にしてこの肝の据わりようは、とても常人だと思えない。

 

「失礼。 我々の持つ情報は桐生一馬さんの行方に関してのものではありません」

 

 その言葉に、真島が殺気を込めた視線を向ける。冴島は兄弟分である彼が暴走しないよう、いつでも動けるように身構えていた。

 

「では、何を?」

「はい、我々は桐生一馬さんを拉致した組織に、心当たりがあります」

「何やと!? 桐生ちゃんさらったんはどこの誰や!」

 

 真島がいきり立つ。しかし、仲本と名乗る青年は少しも表情を崩さずに大吾から眼を離さない。

 

「おそらく犯人は『アサシン教団』と呼ばれる秘密組織です」

「アサシン……?」

「ふざけた事ぬかしてんじゃねぇぞ、コラァ!」

 

 幹部たちがざわつく。怒号が飛び、不埒者を排除せんと立ち上がる。

 

「監視カメラの映像はご覧になりましたか?」

 

 大吾は、「鉄砲玉は映っていなかった」と証言した構成員を見た。

 

「ま、間違いなく映っていませんでした! 防犯カメラの調子が悪かったようで――」

「今すぐ映像を持って来い」

「は、はい!」

 

 男は慌てて室内を飛び出て行った。

 

「で、あなた方はどう今回の事件をお知りになったのですか? まだ世間どころか、警察にも知られていないはずですが」

「はい、疑問に思うのも当然の事だと思います。 ある筋の情報によって我々はアサシン教団が桐生一馬さんを狙っている事を知り、急遽、彼の保護に動いていたのです」

「では、私たちに連絡をいただければよかったのでは?」

「失礼ながら、アサシンを相手に何人集めようと、相手にならないでしょう」

 

 仲本の態度は慇懃無礼で、挑発的だ。その態度と同じく、何か問題が起こっても対処できるだけの準備をしているのだろうか。

 

「それは、我々に喧嘩を売ってるんですか?」

「いいえ、紛れもない事実です。 さらに、人数が多ければ多いほど、アサシンの侵入を容易にするでしょう。 加えて言えば、あなた方の連絡先を調べ、あなた方の準備が整うのを待つ時間もありませんでした。 実際、我々が到着した時には既に桐生一馬さんの姿は消え、組員さんは眠っていらっしゃいました」

「てめぇ……!」

 

 土下座していた男が憤怒の表情で立ち上がろうとするが、それをいつの間にか近寄っていた冴島が制した。

 

「あんた、少し極道なめすぎやないか?」

 

 仲本の発言に腸が煮えくり返っているのは冴島も同じだ。一般人なら腰を抜かすほどの覇気だが、仲本はやはりにこやかに受け流す。

 

「いいえ、そのようなつもりはありません。 ただ、我々が桐生さんを救出するためには、あなた方の協力を得るのが不可欠だと考えているからです」

「ほう、あんたの言い方やと、桐生の救出はあんたらが主導していくつもりに聞こえるなぁ」

「失礼、口が過ぎました。 我々にとっても桐生さんの救出は最重要案件です。 アサシン教団の情報を持つアブスターゴと、関東に三万の構成員を持つ東城会。 この両者の協力が事件の早期解決に役立つ、と考えています」

「ちょい待てや。 桐生ちゃん探すために人数が欲しいってんなら、素直に警察に話通した方がええやろ」

 

 真島が口を挟む。

 

「確かに。 我々は既に日本全国に網を張っています。 防犯カメラ、クレジットカード、診療記録。 どれかで桐生さんか澤村さんの姿を捉えられた場合、居場所の特定は容易いでしょう。 しかし、関東の神室町と関西の蒼天堀。 この二か所には、大きな穴が開いています」

 

 人差し指と中指の二本を立て、真島に示す。

 

「特に神室町では、以前の宗像警視監の事件が後を引き、警察も手を出しづらい。 さらに、神室町の防犯カメラは何者かによって管理され、アブスターゴの力をもってしても映像を入手する手段がありませんでした」

 

 その人物に心あたりがある大吾、真島、冴島は得心がいった。神室町を網羅する監視カメラを手中に収めているのは、情報屋「サイの花屋」だ。ジングォン派の攻撃を受けた経験から強化したセキュリティを破れず、警官を利用した人海戦術も行えない。

 

「なるほど。 どうも、アブスターゴというのは真っ当な企業とは言い難いようですね」

 

 大吾が呟く。

 

「組織が大きくなれば敵も増える。 正当な取引が通じない相手にはそれなりの手段を使う。 あなた方なら、よくわかると思いますが」

「……アサシン教団というのが、どのような組織か知らないが、あんたの話を聞いた限りでは四代目の救出のためにアブスターゴの力を借りる必要があるとは思えない。 うちの人間を使って探せばそれで済む話だ。 悪いが、今回の話は――」

 

 バタン、と大きな音を立てて扉が開く。先ほど病院の防犯カメラの映像を取りに行った男が戻ってきたようだ。

 

「し、失礼します! 映像、持ってきました!」

 

 騒々しい部下の行動に、大吾は不機嫌そうに舌打ちをすると、部屋の隅に設置された大型テレビに向けて顎をしゃくった。男は相変わらず落ち着きなくブルーレイディスクの再生を始める。

 

「防犯カメラの映像を見て頂ければ、アブスターゴの力が必要であると、理解していただけると思いますよ」

 

 映像は東都大病院の個室フロアの廊下を映したものだ。桐生の個室の前に一人、エレベーターの前に一人、構成員の男が立っている。病院内にも関わらず、煙草を吸っている男が上昇するエレベーターに気づき、空き缶に煙草を捨てる。

 エレベーターのドアが開き、男は少し驚いた様子を見せるが、すぐに何やら話し出す。おそらく、この階を利用する事は出来ない、と話しているのだろう。

 突然、男の顎がかちあげられ、腹に打撃をくらったように背後の壁に打ち付けられる。

 ここで映像を見ていた幹部衆は眉を潜めた。

 男を攻撃した人物の姿が映っていないのだ。

 桐生の個室前で警備していた男が拳銃を取り出し、エレベーターの方へ向ける。やはり、銃口の先には誰も映っていない。突然、照明が落ち、廊下を照らす灯りは夕日だけになった。よく見てみると、壁に取り付けられた照明のスイッチが点灯を示す緑から消灯を示す赤へと変わっている。誰かがエレベーターを操作したのだろうか、エレベーターのドアが閉まり、下降する。

 護衛の男が発砲するが、姿の見えない襲撃者に銃ごと右腕をひねりあげられ床に叩きつけられる。出来の悪いパントマイムを見ているようだ。

 桐生の個室のスライドドアが自然に開き、閉じる。すぐに意識を取り戻したのか、護衛の男は銃を拾い上げると、よろよろと桐生の個室へ向かった。

 エレベーターのドアが開き、澤村遥が現れる。彼女はエレベーター前に倒れている男に近づくと、少しして弾かれるように桐生の個室の方へ顔を向けた。持っていた花かごを捨て、そちらに走り出す。

 遥が到着する前に、個室のスライドドアごと男が倒れる。彼は遥を発見すると何やら声をかけているが、突然顎が跳ね上がり、意識を失ったようだ。遥が後退(あとず)さる。男の傍に落ちていた銃が消え、少しすると突然中空に現れ、床に落ちる。

 遥がおそるおそる、と言った様子で桐生の個室へ入って行った。

 しばらくすると、独りでに動く桐生を乗せた車椅子と彼の腕につながる点滴パックを持った遥が出てきた。

 彼らがエレベーターに乗ったところで、映像が終わる。

 

「……何やこれ」

 

 呆然とした様子で真島が呟く。

 

「おい、防犯カメラには何も映っとらんて、お前言うてへんかったか?」

 

 立ち上がった真島に気圧され、映像を再生していた男は後退さった。

 

「は、はい! あまりにも……おかしい映像なんで、幹部の方々に報告するような事はないかと……」

「それを、お前が、判断すんなや! ボケがぁ!」

 

 皮手袋を嵌められた真島の拳が振るわれ、頭部を思いっきり殴られた男はそのまま昏倒する。

 

「どうでしょう? 東城会の方々には是非、事の解決に我々と協力していただきたいのですが?」

 

 目の前で躊躇なく暴力を振るわれる光景が繰り広げられたのにも関わらず、仲本の様子に変わりはない。

 

「……条件があります」

「なんでしょう?」

「桐生一馬と澤村遥。 アブスターゴがこの両名を発見した場合、必ずその身柄を我々に預けてもらいたい」

「約束しましょう」

 

 渋い顔の大吾に対して、仲本は満面の笑みを浮かべた。



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4.シークエンス0

 翌朝、目を覚ました遥は体を起こした。同じベッドの優子は、まだ眠っており、遥が起き上がった事で僅かに身動ぎした。床の寝袋で寝ていた南田はいびきをかいている。啓介はソファで眠っている。こうして眠っているところを見ると、普通の青年と何の変わりもない。地下であるため、日の光は差さないが、壁掛け時計には午前六時を回っている。

 桐生はいつも通り、穏やかに眠っている。定期的な心電図の音にも異常は見られない。遥は昨夜、正しい点滴の交換方法を教えてもらった。新しい物に点滴を取り換えると時計を見ながら点滴の出る速度を調整する。

 

「おはよう、おじさん」

 

 声をかけ、桐生の手足をマッサージする。冷えた指先が暖まるのを感じると、桐生が生きているのを実感し、安心できた。

 遥はテーブルの上のコンビニ袋に視線を向ける。昨夜と同じく、朝食もコンビニ弁当で済ませるつもりなのだろうか、と予想した。寝ている面々を起こさないよう、室内を物色し、サングラスとキャップ、マスクを見つけた。持ってきている財布にそれほど金額は入っていないが、キャッシュカードがある。それらを身に着け、そっとドアを開ける。

 足音を殺して鉄扉に近づいた時、背後から声をかけられた。

 

「どこへ行くつもりだ」

 

 驚いて振り返ると、眠っていたはずの啓介が立っていた。遥は驚きのあまり、声も出せない。

 

「質問に答えろ」

「あ……朝ごはんを、作ろうと……。 コンビニ弁当ばっかりじゃ、体に悪いから。 コンビニでも食材は売ってるし、ドンキホーテに行けばガスコンロとお鍋は買えるから!」

 

 説得しようとしているのか、遥はだんだんと早口になり、声も大きくなる。答えを聞いた啓介は顎に手を当て、思案する。

 

「金は?」

「現金は少ないけど、キャッシュカードがあるから」

「駄目だな。 キャッシュカードの利用記録から居場所がバレる。 神室町中にある監視カメラにお前のその姿が映れば、素顔を隠しているお前の正体に感づく者も現れるだろう」

 

 理路整然とした啓介の反論に、遥はぐうの音も出ない。寝室のドアを開く音がした。欠伸をしながら、優子が現れる。

 

「何を揉めてるの?」

「あ、吉川さん……」

「朝食の材料を買いに行こうとしていたようだ」

「あら、澤村さん、料理できるの?」

「はい、人並み程度ですけど……沖縄では子供たちの分も作ってたし」

「なるほど、それは非常に魅力的ね。 ここにいる人員は誰一人欠けるわけにはいかないから、健康には気を付けたいわ。でも、今まで料理ができる人がいなかったから」

 

 遥は首を傾げる。啓介と南田はともかく、優子まで料理ができないとは思わなかった。調理器具がないのは仕事が忙しいからなのだと、勝手に予想していたが、外れていたようだ。

 

「それじゃあ、啓介に買って来てもらいましょう。 必要な物をメモしてもらえれば、大丈夫よね?」

 

 啓介に向かって問うと、彼は頷いた。

 

「なら決まりね。 手作りのご飯なんて本当に久しぶり。 楽しみだわ」

 

 本当に楽しそうに優子は話す。

 

「あ、ちょっと待ってください。 どうして鷹村さんは出歩いて大丈夫なんですか?」

「昨日話した秘宝のことはおぼえてるでしょ? それと、アサシン独自の技術によるものね」

「技術?」

「ええ。 群衆に紛れて身を隠す技術よ」

「へぇ、そんな事が……」

 

 遥は啓介を見る。確かに、彼は驚くほど気配が少ない。先ほども背後に立たれていたことに声をかけられるまで全く気付けなかった。

 

「あの、それって私が身につけることはできますか?」

 

 遥の提案に優子は驚いて目を見開く。

 

「あなたが……」

 

 優子が啓介に視線を向けると、彼は話し出した。

 

「……IF8のデータを見た限りだが、身体能力は悪くない。 パルクールまで習得するのは時間がかかるだろうが、群衆に身を隠す程度であればIFと組み合わせたアニムストレーニングで訓練を受ければ、短期間で習得できる可能性はある」

 

 桐生や秋山など、彼女が世話になった者たちと比べれば当然劣るが、彼女の身体能力もまた、一般のレベルを超えている。ダンスで培った体力やリズム感、高い運動神経にも恵まれている。

 

「そう、なら、気配を消す術を身につければ彼女も外に出られるわね」

「駄目だ。 予期せぬ危険に晒される可能性があるだけでなく、逃亡される可能性も高い。 何より、俺たちにメリットがない」

「メリットならあるわ。 アニムスに接続してもらう以上、被験者の精神的な安定は必要不可欠よ。 それに、料理を作ってもらうのなら、献立を考える彼女自身に食材を選んでもらうのが一番じゃない?」

 

 優子の話を聞いて、遥は嬉しそうに眼を輝かせ、うんうんと頷いている。

 そもそも、彼女に逃亡する気は毛頭ない。桐生の生殺与奪は、アサシン教団に握られていると言っても過言ではないのだ。

 

「澤村さんも逃げるつもりはないみたいだし……それと、危険の察知に関しては、あなたが一緒にいれば問題ないでしょ?」

 

 啓介は珍しく渋面を作ったように見える。それがほんの一瞬のことだとはいえ、彼の感情が漏れる瞬間を遥は初めて見た。

 

「わかった。 だが、でかけるのは技術の習得ができれば、だ。 お前に才能がなければ、大人しくここにいるんだな」

「はい!」

 

 遥にはどうしても外に出たい理由があった。もちろん、ずっと地下にいては息がつまる、という理由もあるのだが、彼女には連絡を取りたい人物がいた。今でこそ状況は落ち着いているが、いざという時のために遥個人として外部に協力者が欲しい。そのためには、連絡手段のない地下室を出る必要があった。

 

「それじゃあ、今朝はまだコンビニ弁当の残りもあるし、啓介にはとりあえず調理器具を買って来てもらおうかしら」

「そうですね。えっと、お鍋とフライパンとまな板と包丁と……お砂糖お塩お酢お醤油、胡椒、みりん――」

「待て。 やはりお前には、一刻も早くアニムストレーニングを受けてもらう」

 

 遥の買い物リストを途中まで聞いてから、啓介は止めた。その様子は、少し慌てているように見える。

 

「あら、急に乗り気になったわね」

「合理的な理由を説明されれば無闇に反対などしない」

 

 遥と優子は顔を見合わせて微笑む。遥はようやく啓介の人間らしい部分を垣間見れたことから、優子は、それを引き出した遥への感謝の気持ちからである。

 

「――だが、俺は決してお前から眼を離しはしない。 勝手な行動は慎むことだ」

 

 空気が緩んだのはほんの一瞬だけ。即座に緊迫した空気に、遥は現状を理解させられた。自分は今、アサシンの監視下にあるのだと。

 

 

 

 ひっひっひっ、と不気味に笑いながら、上機嫌な南田はアニムスの調整をしている。二台のアニムスに遥と啓介が寝かされていた。緊張を隠せない様子の遥かだが、啓介は慣れており、眼を閉じてアニムスが起動するのを待っている。

 

「昨夜説明した通り、まずは君の先祖と桐生くんの先祖、二人の共通するシークエンスを探す。 それと並行して啓介くんをアニムスにシンクロさせ、君にアサシンのスキルの一つを習得する訓練を行う」

「はい」

 

 緊張しているのか、遥はじっとりと湿った掌をジャージで拭った。

 

「ひっひっひっ。 では、眼を閉じてリラックスしてくれ。 アニムスを起動する」

「は、はい!」

 

 彼女はとてもとてもリラックスなどしていない様子で、ぎゅっと眼を閉じた。耳元で機械音が鳴り、次第に意識が白く塗りつぶされる。

 

 

※   ※   ※

 

 

 いつの間にか背を預けているアニムスの感触がなくなり、自身が地面に立っているのを感じる。遥は眼を開き、ぼんやりと周囲を見回した。

 視界に広がる景色は、白と水色で構成されていた。地面には波打つ格子が彼方から自分の方に断続的に向かってくる。遥はそれに驚き、格子を避けようとするが、それは遥にぶつかることなくすり抜けた。衣服は黒いジャージであり、現実で着ているものと同じである。

 

『澤村さん、聞こえる?』

「吉川さん!?」

 

 突然、空間に優子の声が響いた。遥は顔を宙に向け、名を呼ぶ。

 

『今、ドクターが接続可能なシークエンスを探しているわ。 その間に彼と――』

 

 遥の隣に白く輝く粒子が集まり、人型を形作る。現れたのは、黒いパーカーにジーパン姿の啓介だ。

 

『群衆に紛れる技能の訓練をしてもらうわ』

 

 前方に先ほど啓介が現れた時よりも多くの粒子が集まり、百人近い群衆が現れる。その姿は現代日本人である。その中に数人の警察官がおり、あたりを警戒するように見回している。

 

『彼らはアイドルとしての澤村さんを知ってる。 彼らにあなたの存在を察せられないようになる事が第一の関門ね』

 

「まず俺がやるのを見ていろ」

 

 彼は特にそれまでと変わった様子もなく、普通に群衆に向かって歩いて行った。フードも下げたままだ。

 

「た、鷹村さん!」

 

 遥が大声を出したのも無理はない。彼が群衆の中に一歩足を踏み入れた瞬間、彼女はその姿を見失ってしまったのだ。啓介の一挙手一投足を見逃さぬよう注視していたのにも関わらず、である。

 

「……何だ」

 

 群衆の中から啓介が不機嫌そうに声をかけながら出てきた。

 

「ご、ごめんなさい。 あなたの姿を見失っちゃって」

「……なら、ついて来い」

 

 啓介は暫し逡巡すると、遥について来るよう指示した。今度こそ、見逃さぬようにしなければ、訓練を打ち切られてしまうかもしれない。遥は気合を入れてついていった。

 そのつもりだったが、群衆の中に入って少しすると二人の間を市民に横切られ、次の瞬間には見失ってしまっていた。

 

「鷹村さん!」

「またか」

 

 いつの間にか目の前にいた啓介に彼女は驚き、息をのむ。同時に周囲の人たちが遥の存在に気づき、ざわめき始める。

 

『リスタートするわ』

 

 一度瞬きをすると、遥と啓介は最初に立っていた位置に戻されていた。非現実的な現象を目の当たりにし、これはシミュレーションであると再確認させられる。

 

「……ごめんなさい」

 

 啓介はため息をつくと、左手で遥の右手を取った。彼女は驚いて振り払おうとするが、その手は強く握られており、離れない。彼はそのまま遥の手を引き、群衆の中に入って行った。

 すぐさま、遥の存在は感づかれ、ざわめきが広がる。

 

「しっかり歩け」

 

 啓介に引っ張られる形で歩いていた遥は、少し足を速め、啓介と並ぶようにする。

 

「周りにいる奴らを観察しろ。 お前が認識できる者は、目立っている者だ」

 

 遥は周囲を観察する。遥にカメラを向けようとしている者、腕を組んで歩くカップル、酔っ払い、群衆をかき分けて歩く強面の男たち。彼らは全て、目立つ者たちだ。

 

「あ、澤村遥だ――」

「プリンセスリーグの――」

「ヤクザに育てられたって言う――」

「男と一緒に歩いて――」

 

 群衆のざわめきが大きくなる。

 

『リスタートするわ』

 

 再びスタート地点に戻される。

 遥は詰めていた息を深く吐き出した。

 

「俺の衣装を変えてくれ」

『了解』

 

 輝く粒子が啓介に集まり、彼の服装が変わる。遥と初めて会った時と同じ、アサシンの衣装だ。

休む間もなく、再び啓介は遥の手を引いて歩き出した。

 

「俺を見ろ。 目線はどこを向いているか、歩き方に迷いはないか、邪魔な者をどう押しのけるか」

 

 啓介の視線はまっすぐ前を向いているが、ぼんやりと、何を見ているのか判断できない。群衆の流れに逆らわず、まっすぐ歩く。前を歩く者が遅い場合、そっと肩に手を当ててどかす。どかされた者は啓介を振り返りもしなかった。

 

「きゃっ」

 

 携帯電話を見ながら歩いていた女性に背中を押され、遥はバランスを崩し、小さく悲鳴をあげた。彼女が倒れぬよう、啓介が遥の手を引っ張り上げる。

 

「今のって――」

「電撃引退の――」

「やっぱり男が――」

 

『リスタートするわ』

 

 ちょっとした失敗でスタート地点に戻されたことに、遥は肩を落として落ち込んだ。

 

「今の一般市民の話を聞いていたか?」

「え、えっと……ごめんなさい。 わからないです」

「周囲の会話を聞いて情報を集めるのもアサシンの技能だが……今はそこまで求めていない」

 

 謝るな、ということだろうか。

 

「二十代のキャバクラ嬢の女がこう言っていた『やっぱり男がいたから、クビになったんだね』と」

「え、違っ! 私はそんな理由で引退したんじゃなくて――」

「問題はそこじゃない」

 

 啓介の発言を勘違いした遥が必死な様子で否定しようとするが、彼に止められた。遥は少し恥ずかしそうに頬を赤らめる。

 

「女はこんな姿をした俺を、ただの男だと言ったんだ」

 

 改めて啓介の格好を見ると、不審者以外の何者でもない。 こんな姿の男が少女の手を引いていたら通報される可能性もあるだろう。

 

「みんな、あなたの格好を認識していなかったってことですか?」

「そうだ。 ただぼんやりと、その体格だけを見て男だと判断したんだ。 これがお前に習得してもらう技能だ」

 

 そう言うと啓介は遥から手を離した。彼女は掌を見つめ、ぎゅっと拳を握る。そのような技術を自分に身につけられるのだろうか。胸に込み上げる不安を、握り潰す。辛い事は今までにたくさんあった。乗り越えなければならない高い壁も、何度も越えて来た。啓介は確かに、習得できる可能性があると言った。

 それなら、ただ頑張るしかない。

 

「絶対に、やってみせます」

 

 決意の込められた遥の眼に、啓介は見入っていた。この少女はただ守られるだけの弱者ではないのだ、と気づかされる。

 

 

 

『リスタートするわ』

 

 それから遥の訓練の回数は二桁に及んだ。群衆に紛れていられる時間は徐々に長くなって行ったが、第二の関門である警官の眼を欺くことができなかった。群衆の中に配備された警官――彼らの眼は、遥を探すテンプル騎士団と東城会の眼だ。彼らに見つかるようでは、外に出るなど、夢のまた夢だ。

 

『――訓練はそこまでにしましょう』

「そんな!」

 

 遥は顔を上げ、宙に向かって叫ぶ。

 

「あと、少しなんです! もう少しだけ――」

『ドクターがシークエンスを発見したわ。 目的を見失わないで。 澤村さん、あなたの目的は桐生さんを目覚めさせることよ』

「……すいませんでした」

『謝ることないわ。 あなたの集中力には驚かされた。 私の眼から見ても、技能の習得はそう遠くないと思う』

「ありがとうございます」

 

 遥は照れ臭そうに笑顔を浮かべる。

 

『それじゃあ、啓介くんの接続を解くわね』

「あ、ありがとうございます! あの、またお願いします」

 

 啓介から粒子が散り、徐々にその姿が薄らいでいく。何度やってもできない遥に、彼は匙を投げてしまわないだろうか。

 

「ああ」

 

 彼の返答は短いが、確かに肯定の言葉であった。遥は安心し、頭を深く下げた。

 

 

※   ※   ※

 

 

 男の悲鳴が聞こえた。乗っている駕籠が下ろされ、駕籠かきの逃げる音、助けを呼ぶ声が響く。

 

「どうした、何かあったのか!?」

 

 父の声が聞こえた。そのすぐ後に、悲鳴。

 

「早く逃げなさい! お前たち!」

 

 切羽詰まった母の声。悲鳴と倒れる音。すぐに兄の悲鳴も聞こえた。

 ただ、手を握り締めて震えることしかできなかった。何が起こっているのかはわからないが、とても恐ろしいことに違いない。

 駕籠の(すだれ)が細く開けられ、月明かりとともに編み笠をかぶった男が顔をのぞかせる。夢中だった。このままでは殺されてしまう。

 男の腰に差された、鈴の付いた脇差を奪い、鞘から抜く。舗装された街道に血に塗れた刀を提げる二人の男がいる。この暗さの中、二つの駕籠から血が流れ、無残な姿で倒れている母の姿が眼に映った。中央の男は刀を抜こうとしない。

 振り返り、駆ける。震える足を無理矢理動かして、弾けそうな心臓と肺の訴えを無視して、ただ駆ける。

 

『澤村さん!』

 

 頭の中で声が聞こえ、遥は足を止めた。

 

「はぁ、はぁ」

 

 息が切れる。見ると、うっすらと月明かりに照らされた彼女は、桃色の着物を着ていた。

 

「これは……どうして」

 

 遥は己の手を月明かりにかざす。小さくなっている。

 

『澤村さん。 あなたは今アニムスに接続し、先祖の記憶にシンクロしているの』

「あぁ、そうだった」

 

 遥は耳を押さえ、脳内に響く優子の声を聴く。そうする事で先祖の記憶に呑まれそうになっていた自身の現状を、しっかりと再確認する。

 澤村遥。澤村由美の娘。桐生一馬に育てられ、先月アイドルを引退した。今はアサシン教団と協力し、桐生一馬の意識を回復させるため、アニムスに接続している。

 

『落ち着いたようね。 道の先にエクスクラメーションマークが見えるかしら? そちらの方へ向かってほしいの』

「はい」

 

 遥は優子の指示に従い、歩き出す。現実の遥かは、着物を着て歩くのに慣れていないはずだが、何の違和感もない。

 

『歩きながら聞いて。 これは啓介のデータから判明しているものだけど……今あなたに伝えるべきことだけ伝えるわ』

「はい」

『その娘はたった今、家族を殺されたばかり。 襲撃からたった一人逃れられたその娘は、これから京都の祇園に辿り着き、桐生さんの先祖と出会う事になる』

 

 いよいよ、桐生を救うための第一歩を踏み出すことができる。遥は脇差を握り締めた。

 

『どう出会うのか今はまだわからない。 でも、それは澤村さんと彼女とのシンクロ率を上げていくことでいずれわかるわ。 とりあえず今はエクスクラメーションマークの示す場所へ向かってもらい、その娘の行く先を見てもらうわ』

「わかりました。あの……この娘はなんて名前なんですか?」

 

 暫しの沈黙の後、優子は答えた。

 

『奇縁……というのかしら。 その娘の名前は遥』

「え?」

 

 まさか、自分と同名であるとは、思いもよらなかった。

 

『そして遥がこれから出会う桐生さんの先祖の名前は、桐生一馬之介』

「ふふふ、何だか冗談みたいですね」

『ええ、そうね。 現代のあなたと桐生さんは出会うべくして出会った……運命のようなものを感じるわ』

 

 優子との会話が、先程までの暗澹(あんたん)とした気持ちを晴らしてくれる。先ほどまで恐怖で震えていた少女「遥」の気持ちを、現代の澤村遥の意識で完全に上書きすることができた。それと同時に、少女に同情の念が湧く。遥自身も似たような経験をしているのだ。当然のことだろう。

 

「吉川さん、これからこの娘は、どうなっていくんでしょうか?」

『ごめんなさい。 それはまだ教えられないわ。 シンクロ率を高めていくためにも、澤村さんには遥ちゃんと感情の共有を――その娘と同じように驚いたり、笑ったりしてほしいの』

「そうなんですか……」

 

 遥は少女の胸の内へ意識を向ける。ぽろぽろと零れる涙と共に湧き上がるのは、復讐心。家族を殺され、他に頼る者のいないこの少女に、幸せな結末が訪れるよう、遥は心の底から願った。

 

 

※   ※   ※

 

 

「はぁ、やる気が出んのう」

 

 虚ろな目をして真島吾朗は煙草をふかした。がつがつと白飯をかき込む目の前の大柄な男をぼうっと見る。

 

「どないしたんや、兄弟。 昨日まではあんなに荒れとったやないか」

「どうしたもこうしたもあるか。 『本命は大阪だと考えています。 東城会の方々には、情報屋へのつなぎと、構成員の方の配備をお願いします』……かぁ! イケ好かん奴や!」

 

 真島が乱暴に煙草を揉み消すと、目の前の男、冴島大河は大皿から焼き網へホルモンを豪快に移す。

 

「……あいつ、ただモンやないな。 仲本、言うたか」

 

 冴島の口調が真剣なものを帯びると、真島の眼もしっかりと冴島を見据える。

 

「ああ、あれは間違いなく堅気なんかじゃあらへん。 かと言って、極道ともちゃう」

「せや。 東城会の面々前にしてあの落ち着きようは、自分がどんだけ危ない場所にいんのか理解できん馬鹿か――」

「自分一人の力でどうとでもできる自信があるか、のどっちかや」

 

 冴島の言葉を真島が引き継ぐ。そして二人とも、後者こそが正解であると考えている。

 

「ま、今はあいつ個人の話をしとる場合じゃあらへん。 アサシン教団っちゅう奴らから桐生と遥ちゃんを助け出さんと」

「ああ、それもアブスターゴの連中よりも先にな。 しっかし、どうなっとるんや。 関西の件が終わったかと思うたら、今度は変な宗教と大企業の対立や」

 

 真島が天井を仰ぐ。一か月前の事件では、二人もその渦中にいた。冴島は服役していた網走刑務所で兄弟分である真島の死を知り、脱獄し、事件の真相を追う立場であった。真島は桐生の大切な娘である遥の命をたてにとられ、身動きできずにいた。

 

「ほんまになぁ。 せや、花屋との連絡は取れたんか?」

「それがさっぱりや。 ウチのもんを賽の河原に行かせたが、もぬけの殻やったらしい」

「……つまり、花屋もこの件に関わってると見て、間違いないな」

 

 情報屋であるサイの花屋がその拠点を変えることはほとんどない。この十年間でも、一時期ミレニアムタワーに移動していたが、その後はまた賽の河原に戻っている。

 

「ああ、あいつの力が借りれんとなると、こっちは人海戦術で何とかするしかない。……はぁ、また堅気追い出して東城会の組員、神室町に詰めさせよか? この店みたいに」

 

 真島が手を広げ、店内を示した。彼らの行きつけの店である焼肉屋「韓来」は現在、彼ら二人のためだけに貸切になっており、一般客の姿はない。

 

「そらあんまりお勧めでけへんな。 あれは相手が出てくるのが分かっとるから打てる手や」

 

 焼けたホルモンを皿に取り、冴島は次々と口に入れていく。真島も一つ取り、食べる。

 

「……はぁ。 アサシン教団なんて怪しい宗教は当たり前やが、アブスターゴも信用でけへん。 情報屋は行方知れず。 八方ふさがりやないか」

 

 ため息を吐いた真島は、ひどく不味そうにホルモンを噛みしめた。

 

 

※   ※   ※

 

 

 江戸時代の少女、遥はある農村に辿り着き、脇差の持ち主を捜した。ある老人によると、それは人殺しである「宮本武蔵」の物であるらしい。己の家族を殺害した犯人の名前が分かった。彼女は刀の(つば)に付いていた桃色の鈴を取り、それを懐にしまった。

 再び遥は歩き出す。どこへ向かえばいいのか。家族を失い、親族を知らぬ彼女に、既に頼れる者はいなかった。既に夜は明け、家族が殺されてから二日目の夕方になっている。

 

「おや、こんなところに一人で、どうしたんだ?」

 

 清水寺の傍にある林道を通った時のことだ。遥はある一人の男に話しかけられた。男は白髪の老爺で、胸に大きな傷跡がある。

 遥は俯き、ぎゅっと刀を握り締めた。男は刀に視線をやり、遥の目線に合わせるように膝を地面につく。

 

「……腹、減ってるか?」

 

 男は肩にかけていた小物籠から笹の葉に包まれている握り飯を取り出し、遥に差し出した。途端に遥の腹が鳴り、彼女は恥ずかしそうに腹を押さえた。

 

「はっはっはっ、なぁに、遠慮することはない。 わしは旅の僧だ」

 

 男が坊主であると聞いて警戒心が緩んだのか、遥はようやく男の顔を見た。優しげな眼をした男は、心配そうに遥を見ている。彼女がこくりと頷くと、男は立ち上がると遥の背を押し、清水寺の方へ歩いて行った。

 

 

 

 男が旅の僧であるのは事実であったらしく、清水寺の宿坊の一室を借り、そこに腰を降ろした。遥は男からもらった握り飯を食べると、男にこれまであったことを洗いざらい喋っていた。

 家族が殺されたこと。下手人から刀を奪ったこと。刀の持ち主は「宮本武蔵」という名であること。

 男は口を挟まず、ただ遥の話に頷いているだけだった。

 

「今日はもう遅い。 今晩はここに泊まりなさい」

 

 全てを聞き終えた男は、遥に休むように言った。

 

「朝になったら、祇園に向かうんだ。 そこに桐生一馬之介という男がいる」

「桐生……一馬之介」

「そうだ。 その男が、お前の力になってくれるだろう」

 

 布団に入った彼女は、すぐに寝入ってしまった。一日中歩き通しで、ようやく胃に食べ物を入れることができたのだ。無理もないだろう。

 翌朝、目が覚めると、布団の脇に食料の入った風呂敷と、刀袋に入れられた脇差が並べられていた。そして一枚の地図。目的地である祇園を丸で囲んだ、詳細な地図であった。

 彼女はそれらを手に取ると、再び歩き出した。

 

『さっきの人は、いったい誰だったんでしょう? また、会えるのかな』

 

 現代の遥は、先祖の記憶をトレースしながら、モニターしているであろう優子に問いかける。

 

『彼の名前は柳生石舟斎。 歴史好きなら知っていて当然の人ね』

『そんなに有名な人に助けられたんですね』

『ええ。 でもこれは偶然ではなく必然。 彼はあなたに会うために、あの場にいたのよ』

『どういうことですか?』

『これは後になってからわかることだから、詳しくは言えないけど……遥を見守ってくれている人がいる。 彼女は決して、孤独ではないのよ』

『そうなんですか……少し、安心しました。 この娘にも私みたいに、助けてくれる人がいるんですね』

 

 少々、安堵している現代の遥と同様に、江戸時代の遥の歩調も活力を取り戻していた。人の優しさに触れ、助けてくれる人の当てができたのも一つの要因だろう。しかし、その瞳に宿るものは、決して明るいものばかりではない。自分の家族を殺した男、宮本武蔵。彼女がその名を忘れることは決してあり得ないことだろう。



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5.祇園の龍

 京都洛外。祇園唯一の出入り口である大門のある町である。この時代の建築らしく、木造の家が並んでいる。今まで裕福に暮らしていた遥には、全くと言っていいほど縁のない町であった。様々な店があり、路地に入ると賭場もある。今のように日中でも決して治安が良いとは言えない。

 遥は石畳の敷かれた大通りに出ると、豪奢に飾り付けられた高い塀につながる大きな門を見つけた。大門(おおもん)の正面まで歩き、立ち止まる。門は棒を持った守衛に守られており、固く閉じられている。見ると、高級そうな着物を着た男が二人連れで守衛に話しかけている。守衛は彼の顔を確認すると、門を開け、男を中に招き入れた。

 遥は自分一人で入れてもらえないだろう、と予想する。目的地はもう目の前なのに、すっかり立ち往生してしまった。

 しばらく門前を右往左往していると、河原町へとつながる大通りの向こうから、強面の男たちが大勢の少女を引き連れて歩いてきた。少女たちの中には、泣いている者が多い。祇園、という地がどのような場所なのか、遥はその詳細を知らないが、金に困った両親などに売られる者がいるらしいことは聞いたことがある。

 あの娘たちに紛れていれば、中に入れるかもしれない。遥は決意すると、男たちが守衛と話している隙を狙って、少女たちの列の最後尾に並ぶ。

 閉じられていた門が開き、最前列の少女が男に背中を押され、中に入っていく。一人二人と中へ入り、いよいよ遥の番が来た。

 男は彼女の姿を見ると、一瞬、怪訝そうな顔をする。その衣装だけを見れば、遥は貧しそうには見えない。桃色の仕立ての良い着物を着ており、髪を結いあげて(かんざし)を差しているのも彼女だけだ。

 しかし、ここまで歩き通していた遥の髪はほつれ、着物は泥に塗れていた。俯き加減の様子も他の少女たちと同じように、暗い雰囲気を纏っている。

 男は遥の背を押すと、大門の中へ入れた。

 無事、中に入れたことを安堵する間もなく、遥は目の前の景色に圧倒された。

 そこは、洛外と違い、煌びやかさで溢れていた。まだ日が出ているのにも関わらず、数多(あまた)吊るされた提灯には火が灯され、二階をつなぐ真っ赤に塗られた橋には色とりどりの傘が広げられていた。建物の至るところに金箔が貼られ、贅沢の限りを尽くしている。

 

「ここが……祇園」

 

 思わず呟く。

 

「ほら、さっさと歩け!」

 

 意図せず立ち止まっていた遥は、乱暴に背を押され、たたらを踏んだ。彼女は素直に歩き出し、泣いている少女の隣に並ぶ。

 下卑た表情の老爺が端から順に少女の顎を掴み、顔を上げさせ、品定めしている。老爺が気に入った少女は別の男に腕を引かれ、列を離れる。気に入られなかった少女は乱暴に顎を離され、その場に残された。

 やがて老爺は遥の正面に立つ。彼女の顎を上げ、眼を見る。

 

「ほう……これは」

 

 一目で彼女を気に入ったのか、老爺が彼女の腕を引こうとすると、遥はそれを振り払った。

 

「ああ?」

 

 それを不快に思ったのか、老爺は彼女を睨みつける。

 

「お嬢ちゃん、お前は売られたんや。 そこら辺、理解できて――」

「桐生一馬之介という人を探しています」

 

 自分の置かれた立場を理解できず、反抗する娘たちは多い。この娘もその手の者か、と老爺が声をかけようとした時、少女の口から意外な人物の名前が飛び出した。

 

「桐生って……掛回(かけまわ)りの?」

「掛回り、というのは分かりません。 私は、桐生一馬之介という人に会いに、祇園に来たんです」

 

 老爺は付き従えていた大柄な男に目線をやると、男が遥の腕を掴む。

 

「いや! 離して!」

「お嬢ちゃん、どこでその名を知ったんか見当もつかんが、そいつは他の掛回りにとっちゃあ商売敵だ。 それに、お前が誰だろうと関係あらへん。 お前は売られてきた娘と一緒に大門を通った。 その結果は他の娘とおんなじや」

 

 無理やり腕を引かれるのに抗い、その小さな体にどれだけの力を隠していたのか、遥が男の方へ体当たりするとその手は離れた。

 

「てめぇ……」

「おい! 何があった!」

 

 男が凄むのと同時に、騒動に気づいた細面(ほそおもて)の門番が近寄ってきた。老爺はそれを見て舌打ちすると、男に声をかける。

 

「行くで」

 

 問題になるのを嫌ったのか、老爺と掛回りの男はその場を去って行った。

 

「おい! お前! こんな場所で暴れるんじゃない!」

「桐生って人に会わせてください!」

 

 興奮しているのか、遥の答える声も大きくなってしまっている。

 

「こっちに来い!」

 

 細面の門番は声を荒げる。いつの間にか周囲に野次馬が集まっており、遥はきょろきょろと視線を動かす。門番は遥の腕を掴み、何処かへ引っ張って行こうとする。

 

「やめて!」

「おら! こっちへ来い! 言うこときかねぇか!」

 

 遥は門番の手を振り払い、主張する。心なしか、門番の表情もうんざりしているように見える。

 

「早く、桐生って人に会わせて! いや! やめてって言ってるでしょ!」

「ちょっと待ってくださいよ、桐生の旦那!」

 

 探し求めていた名を呼ぶ声が聞こえた。遥ははっと顔を上げ、声の聞こえた方を見る。そこには、龍の描かれた銀色の着物を羽織っている大柄な男の後姿があった。

 彼女は門番の手を再び振り払うと、そちらへ駆け寄る。

 

「桐生さん……ですか?」

 

 男は振り返らない。

 

「あなたが、桐生さん……ですか?」

 

 遥が再び問いかけると、男はゆっくりと振り返り、答えた。

 

「ああ、そうだが……?」

『おじさん!』

 

 振り返った男の顔は、現代に生きる桐生一馬と瓜二つであった。

 

「おじさん! おじさん……!」

 

 少女、遥が彼を呼び、その腹に抱きつく。

 周囲の景色にノイズが走り、歪む。

 

「眼を覚ましてよ! ……早く、沖縄に帰ろうよ。 みんな……みんな待ってるんだよ」

 

 桐生は動かない、ノイズはさらに歪み、彼の顔もだんだんと見えなくなる。

 

『接続を切るわ』

 

 平衡感覚が崩れるほど視界は歪み、眼を開けていられない中、優子の声が脳内に響いた。

 

 

※   ※   ※

 

 

 遥はゆっくりと眼を開けた。

 涙で滲む視界には、コンクリートの天井と、心配そうにこちらを見つめる優子の顔。

 

「……ごめんなさい。 ちょっと、混乱しちゃって」

「大丈夫よ。 今日はここまでにしましょう」

 

 遥は目元に滲んだ涙を拭うと、体を起こした。

 

「よくやったわ。 桐生さんと共通するシークエンスを発見できた。 これで明日にでも、彼をアニムスに接続して治療を始めることができる」

 

 優子は柔らかい手つきで遥の頭を撫でる。それだけで、混乱していた気持ちが落ち着いていく。

 

「はい!」

 

 遥はようやく笑みを浮かべると、嬉しそうに頷いた。

 

 

 

 昼食の席に啓介の姿はなかった。遥より先にアニムスとの接続を終えた彼は既に食事を済ませ、外に出ている。朝、昼、晩と食事を買いに行くついでに、神室町に何か変化がないか、と偵察を行っているのだと南田が言っていた。

 いつも通りのコンビニ弁当を半分以上残し、遥は食事を終えた。早食いなのか、食べ終えた南田は早々にアニムスをいじりに部屋を出ており、優子も遥より先に食事を終え、桐生の体を調べていた。心電図をチェックし、瞼を開けて眼球にライトを当て、口を開けて舌を見る。遥には何をしているのか全く分からないが、彼女の様子を見ていると、異常は出ていないようだ。

 

「どうしたの? ほとんど残してるじゃない」

 

 彼女が食事を残したのはこれが初めてだ。優子は心配そうに遥に問う。

 

「ごめんなさい、何だか食欲がなくて」

「そう……少し衝撃的な体験をしたからかしらね。 体調が悪かったらすぐに言ってね」

「はい、ありがとうございます」

 

 遥はアニムスとの接続を切った後、昨夜洗濯し、既に乾いていた普段着に着替えていた。赤いインナーに白いパーカー、デニムスカートと黒いタイツ、茶色いブーツを履いている。

 彼女は桐生が寝ているベッドの傍にスツールを移すと、そこに座り、彼の手を握った。

 

「待っててね、おじさん」

 

 いよいよ明日には桐生を助けられるかもしれない。それを思うと、否応なく焦りが生まれる。先ほど、午後から桐生の治療を始めることはできないのか、と優子に聞いたが、それは無理だと答えが返ってきた。午後には、桐生をアニムスに接続させる必要があるらしい。何でも、彼が記憶の海で迷子にならないように檻を作る必要があるのだ、と南田は語った。

以前、デズモンドが意識を失った際、彼を覚醒させるためにアニムスに接続したことがあったそうだ。その間、アニムスを管理しているスタッフはデズモンドの意識をモニタリングするのに、非常に苦労したらしい。それを防ぐために、遥と啓介のデータを使って檻を作り、桐生の意識をロストしないようにする、とのことだ。

 アニムスの専門家である二人の意見を聞き、素人である遥は納得せざるを得なかった。

 

 

 

 遥が桐生の手を握ったまま、ぼんやりとしていたのはどれほどの時間だっただろうか、相変わらず轟音を響かせるエレベーターの音で彼女は我に返った。啓介が帰って来たのだろう。

 

「ヤクザの数が増えている。 アブスターゴと東城会が接触したようだ」

 

 寝室のドアを開けて、開口一番に啓介はそう報告した。炊飯器の入った段ボール箱を脇に抱え、ごちゃごちゃと調理器具の押し込まれたドンキホーテのビニール袋が提げられている。

 

「だが、アブスターゴのスイーパーの姿は見当たらない。 俺たちの狙い通り、大阪を重点的に探しているんだろう」

 

 彼は段ボール箱とビニール袋をガス台の前に置くと、続けて言った。

 

「了解。 澤村さんのシンクロは順調に進んだわ。 もし彼女の体調に問題がなさそうなら、アニムストレーニングの続きをやってほしいんだけど……」

 

 優子は心配そうに遥を見る。昼食を残した上、さっきまで呆けていたのだ。無事にアニムストレーニングをこなせるか不安になるのも当然だろう。

 

「大丈夫です! やらせてください」

 

 遥は気丈に答える。確かに体調は万全とは言い難いが、自分だけが何もせずにいるのは、不安と焦りで精神的に耐えられないのだ。

 そんな彼女の悩みを理解しているのか、優子はそれについて追及せず、頷いた。

 

「なら、桐生さんをアニムスに接続している間、澤村さんにはトレーニングを続けてもらうわ。 ……そろそろ行きましょうか」

 

 優子は腕時計を見ると、ドアに向かった。

 

 

 

「ドクター、準備は出来てる?」

 

 アニムスの傍に屈み込んでいる南田に、優子が話しかけた。彼はひっひっひっと相変わらず不気味に笑いながら立ち上がる。

 

「ああ、バッチリだ。 桐生くんを連れて来てくれたまえ」

「啓介、お願い」

 

 優子は頷くと、啓介に頼む。

 少しして車椅子に乗った桐生とそれを押す啓介、点滴棒を押す遥が現れる。啓介が桐生をアニムスに寝かせると、甲高い音とともにアニムスが起動する。各部が青く発光しており、その光はどこかIFに似ていた。

 遥は手を組んで胸に手を当て、その様子を見守っていた。

 モニターに表示されている人型の隣に、様々なデータが流れる。自分の時も同じような表示が出ていたのか、それとも意識のない桐生だからなのか。考えても答えなど出ないのだが、遥の思考は止まらない。

 優子は食い入るようにそのモニターを見つめており、南田は二重螺旋(らせん)が二つ表示されているモニターの前でキーボードを打っている。こちらは先ほど言っていた檻を作っているのだろう。

 

「お前は隣のアニムスを使え。 モニタリングは俺がする」

 

 啓介はそう言うと、桐生の隣のアニムスを顎で示した。

 

「はい。 よろしくお願いします」

 

 指示に従い、遥はアニムスに横になる。甲高い起動音を聞き、閉じた視界が白く染まった。再び、アニムストレーニングが始まる。

 

 

※   ※   ※

 

 

「釣りはいいよ」

 

 タクシーの降車時に多めの金額を渡し、ワインレッドのジャケットを着た無精髭の男、秋山駿は東都大病院に訪れた。

 昼を過ぎて既に日は昇りきっているのだが、欠伸をし、後頭部をかくその様子は気怠さで溢れている。普段からだらしがなく、規則正しい行動をとらない彼だが、週に二度はここを訪れていた。

 一応、東都大病院に入院している桐生一馬の見舞いに来ているのだが、秋山には別の目的があった。

 それは桐生のためにほとんどの時間を病院で過ごしている澤村遥を心配し、彼女の話し相手になることだ。遥は一ヶ月前に、母親代わりとも言える大切な女性、朴美麗を亡くした。秋山自身もその事件の渦中におり、当時遥が所属していた芸能事務所「ダイナチェア」の人員不足のため、遥のマネージャーの真似事までしていた。

 それ故、秋山は彼女の気持ちの浮き沈みを間近で見ていた。桐生はまだ生きているとは言え、意識が回復していない。彼女は立て続けに二人も大切な人を失ったのだ。

 美麗が亡くなった時は、その真相を探る、という目的のために行動することができた遥だが、桐生の時は違った。彼が回復する為に彼女にできることは何もなかったのだ。そのせいか、遥は己の心身を省みず、献身的に桐生を介護していた。

 彼女の様子があまりにも痛々しく、話し相手程度しかできないが、秋山は桐生の見舞いと称して遥のケアをしていた。

 右手に提げた紙袋には、彼もよく利用している「韓来」の焼き肉弁当が入っている。昼食には遅いが、夕食にでも食べてもらえれば幸いだ。外見にそぐわず、意外と健啖家である遥ならば喜ぶだろうと思っての選択だ。

 面会者用入口へとまっすぐ向かった秋山は、カウンターに置いてある面会者管理用の用紙をいつも通りに無視し、エレベーターホールへと進む。

 

「あ、秋山さん」

 

 声をかけてきたのは看護師の女性だ。人当たりが柔らかく、話題の豊富な秋山はそこかしこで知り合いを作る。彼女もその中の一人だ。

 

「桐生さんなら、もういませんよ」

「え? どういうこと?」

 

 退院か転院か。つい数日前に彼を見舞った時にはそのような話題は欠片も出ていなかった。仮に突然、それが決定したのだとしても、遥から連絡が来るはずだ。

 

「それがよくわからないんですけど、今朝にはもう退院されてたそうです。 誰に聞いても事情を知ってる人がいないし、あのフロアは立ち入り禁止になってしまって……。 まぁ、暴力団関係の方なので、うちの病院で深入りするような人は……ね」

 

 東都大病院は東城会から多額の寄付を受けていることもあり、その設備は充実しているが、それ故に事件の舞台になることが少なくない。

 

「そっか……。 教えてくれてありがとう。 こっちで色々調べてみるよ」

「はい。 あの、気を付けてくださいね」

「わかってる。 あ、それと遥ちゃんは今日来たかな?」

 

 看護師は首を傾げると、首を横に振った。

 

「ちょっとわからないですね。 面会シートに書いてあるかもしれません。 あの娘は律儀に毎日書いてましたから」

「そっか、見てみるよ」

 

 秋山は看護師に手を振って別れると、来た道を戻り、警備室の前の記入シートを取った。

 今日の日付のページに遥の名はない。用紙を(めく)り、昨日のシートを見る。記名欄を指でなぞる。遥は午前中に一度訪れており、昼過ぎに一度出かけている。そして、午後四時。遥が面会に来た時刻は書いてあるが、帰った時刻は空欄になっていた。

 秋山の眼に真剣な物が宿る。彼は足早に病院を後にし、外に出ると、携帯電話を取り出す。発信履歴から遥の名を探し、電話をかけた。

 短い発信音の後、「電源が入っていない」とのメッセージが流れる。彼は電話を切ると、すぐさま次の名を探す。冴島大河。東城会の大幹部であり、秋山の知る者の中では最も事情に詳しいと思われる人物だ。何度かコール音が鳴り、留守番電話につながる。

 

「もしもし、秋山です。 少しお聞きしたいことがあるので、メッセージを聞いたら連絡をお願いします」

 

 一応メッセージを残しはしたが、彼はまともに話が聞けると思っていない。彼らの行方に東城会が関わっているのだとしたら、冴島の口から言えないことの方が多いだろう。

 もちろん、彼の取り越し苦労であることを期待してはいるのだが。

 秋山は続けて電話をかける。今度はすぐにつながったようだ。

 

「もしもし? 久しぶり、秋山だよ。 ……ああ、まだ分からないんだけど、桐生さんと遥ちゃんが厄介ごとに巻き込まれてる可能性があってね。 ……それで、聞きたいことがあるんだ。 昨日の午後四時過ぎ、東都大病院で何かあったか知ってる? ……そっか。 いや、なら調べてもらおうかな。 ……悪いね。 ……じゃあ、連絡してもらえる?」

 

 礼を言って電話を切ると、秋山は敷地外に向けて歩き出した。とりあえず、今できることはこの程度であろうか。思案しながら歩いていると、ふと立ち止まる。

 

「あぁ、タクシー呼ばなきゃ」

 

 スラックスのポケットから先ほどしまったばかりの携帯電話を取り出し、秋山はこの短時間で四度目の電話をかけた。

 

 

※   ※   ※

 

 

 遥は群衆の中を歩いていた。周囲の人たちは誰一人として彼女に意識を向けることはなく、皆自由に移動し、立ち止まり、会話にふける。

 群衆に厳しい視線を向ける警察官の姿がある。遥はあえて警察官の目の前でたむろしている若者の輪に入る。彼らの会話に入ることはないが、彼女がその輪の中にいるのが当たり前だと、警察官にも若者にも思わせる。いや、思わせるのとは少し違う。あまりにも自然で、遥がその輪の中にいること自体に違和感がないのだ。

 少しして警察官が移動を始める。遥は若者の輪を外れ、周囲の人たちが元アイドルである彼女を認識する前に、警察官の背後を通って別のグループの輪に入った。その中を通り、移動するサラリーマンの輪に入る。

 視界の右端に鷹村啓介が設定したゴール地点である、淡く輝くサークルを捉える。しかし、そちらに視線を向けることはしない。先ほどの挑戦では、その視線の動きが違和感となり、即席握手会が始まりそうになってしまったのだ。ゴール地点の周辺は特に配備されている警察官が多く、気を抜くことができない。

 ゴール地点に近づくとサラリーマンの輪を抜け、輝くサークルに一歩、足を踏み入れた。胸の内から喜びが溢れるが、それを外に出さない。ただぼんやりと、気配を消してその場に(たたず)む。

 

『……合格だ』

 

 しばらくして空間に啓介の声が響いた。遥はそれまで溜めていた喜びを爆発させるように両手を高く突き上げ、叫ぶ。

 

「やったぁ!」

 

 彼女が二度目のアニムストレーニングを始めて既に三時間が経過していた。一般市民の眼を欺くことは午前中にあっさりとクリアできたのだが、江戸時代の遥とシンクロする寸前まで挑戦していた警察官攻略は段違いの難易度だった。

 それを何度も挑戦し、ようやくクリアすることができたのだ。

 彼女は以前、桐生に「ボクセリオス」というゲームの攻略やバッティングセンターで全打席ホームランを頼んだことを思い出した。遥の無茶なおねだりにも関わらず、彼は何度も挑戦し、クリアする姿を見せてくれた。その経験があるからだろうか、彼女も桐生と同じく、どんなことでも諦めることが大嫌いなのだ。

 ましてや、この挑戦は誰に頼まれたわけでもなく、自分自身の希望で挑戦していることだ。最初から諦めるという選択肢はない。

 遥は満足感からか、顔中に笑みを広げ、その場で大の字に倒れた。

 

『大丈夫か? バイタルに異常はないようだが』

「ふふふ、大丈夫ですよ。 ちょっと達成感に浸ってるだけです」

 

 相変わらず啓介は人の気持ちを察するのが苦手なようだ。

 

『接続を解くぞ』

「わかりました。 お願いします」

 

 遥は立ち上がると、汚れているはずもない尻をはたく。仮想現実であることは理解しているのだが、条件反射のようなものだろう。

 先ほどまでいた群衆が粒子となって散り、自身の体も発光し始める。彼女は眼を閉じ、意識が現実に帰るのを待った。

 

 

 

 遥が眼を覚ますと、啓介は黙々とアニムスを停止させる作業をしていた。

 

「澤村さん、おめでとう」

 

 やはり最初に祝いの言葉をかけてくれたのは女医の吉川優子であった。彼女は桐生のバイタルをチェックしつつ、遥の様子も気にかけていたようだ。

 

「ありがとうございます」

 

 遥は恥ずかしそうに微笑み、礼を言う。隣でアニムスに接続している桐生は長時間に及ぶことを考慮したのか、いつの間にか毛布をかけられていた。

 南田は集中しているのか、遥が目覚めたのに気付いている様子はない。一心不乱にキーボードを叩いている。

 

「桐生さんなら大丈夫よ。 でも、やっぱり澤村さんのデータとシンクロさせるのは明日ね。 今日は檻を作るだけで終わりにするわ」

「わかりました。 ……これで、私も外に出られるんですよね?」

 

 遥は少し心配そうに優子に問う。技術を習得できたとは言え、外出の許可はアサシン教団の判断で決まる。神室町に極道者が増えているという報告を昼に聞いたばかりだ。遥から見れば、習得できているつもりであっても、彼らから見れば外での活動に不安があるかもしれない。

 

「ええ。 アニムストレーニングに設定されている警察官の警戒レベルは最高設定のものよ。 スイーパーの眼がない今のうちなら、問題なく行動できるでしょう」

 

 それを聞いて、遥はほっと安堵のため息を吐く。

 

「それじゃあ、早速晩御飯の買い物に行ってもいいですか?」

「あら、休まなくて大丈夫なの? 仮想現実でのトレーニングとは言え、IFを組み合わせたアニムスでは脳だけじゃなく、肉体にも疲労がたまっているはずよ」

 

 遥は立ち上がり、その場で軽く屈伸をしてみた。確かに、疲労感はある。しかし、ダンスのトレーニングで鍛えられた体は、この程度で音を上げるものではない。

 

「大丈夫です。 それに早く現実で試して、忘れないようにしたいんです」

「そう……啓介、いいかしら?」

「ああ、構わない。 ただし、外では俺の指示に従え。 勝手な真似をすれば、二度と許可は出さない」

 

 脅すような口ぶりだが、感情がこもっていないせいか、恐れは感じない。しかし機械はあらかじめ入力されたプログラムから外れるような動きをしない。遥が彼の指示を無視すれば、間違いなく外出の許可を取り消すだろう、と遥は胸に刻んだ。

 

「……それじゃあ、準備をしてきて。 桐生さんの方が終わったら、私とドクターでベッドに戻しておくから」

 

 緩んだ空気を緊迫させるのは、もはや啓介の特技と言える。優子はそれに慣れているのか、何でもないように話を先に進めた。

 

「はい、わかりました」

「澤村さん」

 

 啓介が先に寝室へ向かい、遥も後を追おうとすると、優子に呼び止められた。

 

「どうしました? あ、晩御飯のメニューで何か?」

「ふふ、それも魅力的だけど、あなたに頼みがあるの。 啓介のことで」

「鷹村さんの?」

 

 優子は啓介がいる寝室のドアへ視線を向ける。その表情はどこか、寂しげだ。

 

「ええ。 ……あなたに、あの子を人間にして欲しいの」

 

 よく分からない頼みに、遥は首を傾げた。

 

「あの子……啓介はね、幼い頃からアサシンの訓練を受けて来た。 悲しいことに学校にも行ってなかったわ」

「そうなんですか……」

 

 遥も同情したのか、眉を潜める。

 

「だからね、あの子は普通の楽しみを知らない。 遊んだこともないし、アサシンの使命から外れた行動を取ったこともないわ」

 

 アブスターゴが設立し、アサシン教団は追い詰められていた。さらに導師がダニエル・クロスに殺害され、各拠点は壊滅状態に陥った。そんな状況だったからだろうか、日本のアサシン教団支部はたった一人の子供であった啓介に厳しい訓練を課し、人間としての感情を奪って行った。

 そうして成長してきた啓介は、アサシンの使命を遂行するためだけのロボットと化してしまったのだ。

 優子は彼を思ってなのか、悲痛な表情で遥にそう語った。

 遥に語っていないことであるが、優子自身も啓介の育成に関わっている。アサシン教団の吉川優子として彼の成長を誇りに思っている反面、一人の人間として彼から奪った多くの物を返してあげられたら、と願っているのだ。

 

「……でも、私に一体、何ができるんでしょう?」

「普通にしてくれればいいのよ。 できれば、彼と楽しく過ごして欲しいの。 幸いなことに、ほとんどの神室町の監視カメラはこちらで抑えているわ。 アサシンの技能を身に着けたあなたたちなら、この街にある大抵のお店で普通に遊ぶこともできるでしょう」

 

 遥は沈黙し、思案していた。優子が遊んでもかまわない、というのならそうなのだろう。彼女がアサシン教団の不利になることを進んでさせるわけがない。だが、何より問題なのは遥自身が啓介と楽しく遊んでいる姿を全く想像できないことだ。

 

「澤村さんにある程度の自由を許すよう、私から啓介に言っておくわ。 だから、できるだけ、お願いできないかしら」

「……わかりました。 でも、あまり期待しないでくださいね」

「それだけで十分だわ。 ありがとう」

 

 遥の返答を聞き、優子は嬉しそうに微笑んだ。



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6.信じる心

 神室町における夕方は、徐々に人が増えてくる時間帯だ。これから出勤する者が多く、遊びに来る大半の者たちはそれらの人に金を落としにやってくる。日が沈めば、神室町は欲に支配される。それぞれが自己中心的になるせいか、そこかしこでトラブルが起こり、けが人も絶えない。

 そんな街の欲に塗れた時間だからこそ、群衆に紛れて活動するアサシンにとって、これほど行動しやすい場所はない。

 

「緊張するな。 トレーニング通りにやれば何の問題もない」

 

 行き交う人で溢れている中道通りを南に向かって、澤村遥と鷹村啓介の二人は並んで歩いていた。

 

「わ、わかってます」

 

 啓介のアドバイスを理解してはいるものの、固く拳を握っている遥は緊張を隠しきれていない。やはり仮想空間とは違い、現実の人間を相手にしていると、どうしても意識してしまう。

 彼女は胸元に提げられたネックレス――出発前に啓介から渡された秘宝「八咫鏡(やたのかがみ)」に手を当てた。己の姿がデジタル製品に認識されなくなる、という効果がある。

 

「本当にこれ着けて意味あるんですか?」

「当たり前だ。 確かに監視カメラはうちが抑えているが、一般市民が持ち歩く携帯電話によってテンプル騎士団に盗撮や盗聴される可能性があるからな」

「携帯電話でそんなことができるんですね。 私が持ってて大丈夫なんですか?」

「ああ。 俺は顔が割れてないからな」

 

 彼との会話で、遥は徐々に落ち着きを取り戻していった。 機械的な返答しかしないとは言え、こちらの事情を知っている者が傍にいる、というのは頼りになる。

 少しの間沈黙し、トレーニングに沿って街を歩く。彼女は元々、街中で普通に行動しても一般の人に気づかれることは少なかった。それでも今のように群衆に紛れて歩いていて自分の顔に注がれる視線が全くない、ということはなかった。以前の自分は人の視線に対してどれほど鈍感だったのだろうか、とアイドルとしての自覚が足りなかったことを思い知らされる。

 ふと、左の歩道沿いに「クラブセガ」があるのに気付く。落ち着いて周囲を見れば、どこの店も桐生と行った店ばかりだ。プロント、喫茶アルプス、スマイルバーガー。彼女も桐生も大食いであるためか、飲食店ばかりなのが少し恥ずかしい。

 中でも、劇場前と中道通りにあるクラブセガでは、桐生とよく遊んだ。ふいにそのことを思い出し、悲しみと同時に「必ず彼を助ける」という闘志が湧き上がる。

 

「ゲームセンターに行きたいのか?」

 

 はっきりと視線を向けていたわけではないが、啓介には気づかれたようだ。

 

「あ、いや、別に――」

「吉川から話は聞いている」

「吉川さんから……? なんて言ってたんですか?」

 

 遥はそこで吉川優子に頼まれていたことを思い出した。「啓介を人間にして欲しい」という頼みだ。

 

「過度にストレスを受ける環境におかれている為、お前の先祖とのシンクロ率に影響を与える可能性がある。 そのため、適度にストレスを発散させろ、と」

 

 つまり、アサシン教団の目的のために、ある程度のガス抜きを啓介は命じられたわけだ。お互いの目的は真逆だが、そのためにやることは同じだ。優子は遥が活動しやすいよう、啓介にそう頼んだのだろう。ならば、彼女がその話に乗らないわけにはいかない。

 

「それは嬉しいですけど……いいんですか?」

「ついて来い」

 

 啓介は少し足を速めると、クラブセガの角を曲がって中道通り裏へ入って行った。遥もそれについて行く。

 中道通り裏は人通りが少ない。特に、クラブセガの真裏に当たる路地裏はそうだ。啓介はそこで携帯電話を取り出し、どこかへ電話をかけた。

 

「俺だ。 東城会の監視下にない神室町の店舗を知りたい。 ……ああ、感謝する」

 

 啓介が電話を切ると、すぐにメールを受信した。通知音やバイブレーションは鳴らないように設定している。

 

「このゲームセンターは問題ないようだ」

 

 クラブセガの裏口に向かって先に歩き出す啓介に遥は慌てて声をかける。

 

「ここ、裏口ですよ」

「スタッフに見つからなければいいだけだ」

 

 啓介は己の能力に自信があるのか、遥の心配など全く気にかけていない。彼は躊躇なくドアを開けると、店内に入って行った。

 

 

 

 遥の心配の甲斐もなく、誰の目に留まることもなく彼らはプレイコーナーまで到達した。店内には様々なゲームが設置されており、最近は懐かしいゲームが流行っているのか、初期のバーチャファイターもある。

 アサシン教団に拉致された自分の今の立場で、まさかゲームセンターに来られるとは夢にも思わなかった。そのギャップのせいか、遥はしばし呆然と店内を眺める。

 

「ゲームセンターでゲームをしないのは普通のことか?」

 

 啓介が遥に問う。滅多に出ない彼からの質問に、彼女は現実に引き戻された。啓介は心底不思議そうな様子である。

 

「あ、そうですね。 とりあえず……何しましょうか?」

「お前が決めろ。 俺はゲームなどやったことがない」

 

 本当に若者の遊びについては世間知らずなようだ。彼は気配を消しつつではあるが、興味深げにゲーム機を見渡している。

 

「じゃあ、バーチャファイターやってみます?」

「……あれか」

 

 バーチャファイターが何かわからなかったのであろう、啓介は店内をぐるりと見回すと、「Virtue Fighter」という文字をすぐさま発見し、筐体(きょうたい)へ歩み寄る。

 その様子がゲームをするのに乗り気なように見えて、遥は少々意外に思った。

 

「やらないのか?」

 

 筐体の前に立つ啓介が振り返り、遥に問う。彼女は慌てて近寄り、筐体の椅子に座った。

 

「鷹村さんは向かいの席に座ってください」

 

 彼は遥の言う通り、向かいの席に座る。周囲の人の真似をして、百円玉を筐体に入れた。彼女も同じように硬貨を入れ、対戦を始める。それぞれ操作キャラクターを選択する。遥は女性キャラクターを選択し、啓介は適当に選んでいるのか、カーソルを動かすこともなく決定ボタンを押した。

 このゲームは蒼天堀のクラブセガにも設置してあり、遥は稽古の息抜きでたまに遊んでいた。それに対し、啓介は全くの素人だ。キャラクターの動きを確認しているのか、技を出そうと右往左往している。向かい側に座る啓介の表情を遥から見ることはできない。しかし、キャラクターの不器用な動きが彼の心情を表しているようで、くすりと笑いが漏れた。

 これまで散々脅された仕返しなのだろうか、遥は手加減せず、今まで練習してきた技を繰り出す。結果、第一ラウンドはパーフェクトゲームで遥の勝利に終わり、第二ラウンドに突入する。

 最初から第一ラウンドを捨てるつもりでやっていたようで、ボコボコにされながらも操作の練習をしていたのか、第二ラウンドでは啓介も少しずつ技を出せるようになっていた。それでも周囲のプレーヤーを覗き見て真似た動きなど、経験者には通用しない。やはりこのラウンドも遥の勝利で終わった。

 遥は対戦台の横に顔を出し、にやにやと笑いながら啓介の様子を見る。彼はいつも通り無表情だが、いつもより口の端が下がっているように見える。付き合いの浅い遥でも、啓介が悔しがっているのだろうと読み取れた。

 

「もう一回やります?」

「いや、他のにしよう」

 

 遥の問いに、啓介は憮然として答えた。

 

「じゃあ、次はあれにしましょう!」

 

 徐々に楽しくなってきたのか、遥は元気よく「太鼓の達人」を指さした。啓介はさりげなく周囲の様子を伺うと、二人に注意を払っている者がいないのを確認する。彼女は確かに軽い興奮状態であるが、群衆に紛れられるよう、きちんと気配を消しているようだ。

 

「ああ」

 

 先導する遥についていき、啓介は二本のバチをとった。彼女が硬貨を入れ、曲を選択する。啓介は全く知らない曲であるが、一昔前に流行したアニメの主題歌だ。

 遥は難易度を「むずかしい」に合わせ、太鼓を叩く。ここで啓介は眉に皺を寄せた。彼女は彼がゲームなどしたことがない、というのを知っている。にも関わらず、高い難易度を選択するのは嫌がらせなのか、自己中心的なのか。そもそも、啓介はゲームをやりたくてやっているわけではない。ただ男女でゲームセンターに来て、片方は見ているだけ、という状況が目立ってしまうだろうと考えて遥に付き合っているのだ。

 ゲームが始まり、遥は楽しそうに太鼓を叩く。初めてプレイする啓介だったが、格闘ゲームよりはやりやすいらしく、順調に点数を伸ばしていた。途中、遥が「連打ー!」と声を上げていたのも参考になる。ゲームの結果は、得点で遥に及ばないものの、無事にクリアできた。

 

「もういいか?」

 

 二度目のプレイが終わり、啓介は遥に問う。

 

「あ、あとあれだけ……」

 

 遥が指さしたのはUFOキャッチャーだ。中には様々な人形が入っている。啓介が頷くと、彼女は嬉しそうに歩いて行った。

 さっそく硬貨を入れ、アームを動かす。遥が狙っているのは「ジャンボブンちゃん」という人形だ。アームは人形を掴むが、少し浮いただけで落ちてしまう。彼女はあからさまに落胆し、二度三度とプレイするが、取ることができない。

 

「あぁ……」

 

 遥の口からため息が零れる。啓介は彼女の肩を軽く押してどけると、硬貨を入れた。

 

「鷹村さんもやるんですか?」

 

 彼女は意外に思ったのか、啓介に問う。

 

「ああ、そうじゃないと不自然だからな」

 

 周囲のカップルを見れば、プレイしているのはほとんど男性で、女性はそれを横で見ている人たちが多い。遥は納得するのと同時に、少し恥ずかしくなった。思えば、一緒にゲームセンターで遊んだ異性は桐生を除けば啓介が初めてだ。

 群衆に紛れなければならない今の都合上、カップルとして振る舞うことに否やはないが、デートの経験がない遥には少し難易度が高い。

 啓介は迷いなくアームを動かし、ジャンボブンちゃんを狙う。大きな人形は僅かずつだがゴールに近づいていた。そして最後のチャンスである三度目。啓介が操作したアームは過たず人形の胴体を挟み、安定して持ち上げる。

 

「もう少し!」

 

 遥は先ほどまで恥ずかしがっていたのを忘れて、両手を胸の前で組む。

 人形はゴールの上部まで来ると、アームから離れ、取り出し口へと落ちて行った。

 

「やった! 鷹村さん、すごい!」

 

 人形を取り出し、遥は無邪気に喜ぶ。人形を啓介に渡そうとすると、手を振って断られ、胸に抱くようにかかえた。

 

「俺がお前にゲームで勝てたのはこれだけだったな」

 

 少々気分が高ぶっていたのか、啓介は珍しく遥に雑談を振った。

 

「お前じゃない」

 

 しかし、遥はその話題に乗らず、啓介を見つめて言う。

 

「私は遥。 お前じゃない」

 

 名前で呼べ、ということなのだろう。遥の意図を察した啓介はため息をつく。

 

「行くぞ」

 

 遥に背を向け、啓介は客用出入り口から出て行く。彼女は少し寂しそうに眉を下げると、彼の後を追った。

 

 

※   ※   ※

 

 

 喫茶アルプス店内。夕食前の時間帯のせいか、店内は比較的空いていた。奥のテーブルに座り、男性向けファッション誌を広げて読んでいるのは、秋山駿だ。彼はある人物との待ち合わせにこの店を利用していた。煙草を灰皿に押し付け、腕時計を見る。そろそろ来る時間だ。

 出入り口のドアが開いたことを示す、ベルが鳴る。秋山がそちらへ眼を向けると、スーツの上に青いジャケットを着た青年、谷村正義が入店した。

 

「谷村くん、こっちだよ」

 

 秋山が軽く声をかけると、きょろきょろと店内を見回していた谷村は彼を発見し、歩み寄る。

 

「お久しぶりです、秋山さん」

「ホント、久しぶりだね。 伊達さんとは上手くやってる?」

「あの人、滅茶苦茶ですよ。 命令は聞かないし、時間は守らないし」

 

 谷村は心底うんざりしたように話しているが、そこに嫌悪の感情はない。

 

「ふ、君も似たようなものだと思うけど」

「上が頼りないと部下がしっかりするって本当ですね」

「『神室町のダニ』と呼ばれてた君から、上司の愚痴を聞ける日が来るなんてね」

「やめてくださいよ。 少なくとも、伊達さんぐらいの年になったらさすがに落ち着いてますって」

 

 二人は顔を見合わせて笑った。

 

「ところで、例の話だけど」

 

 秋山が本題を切り出すと、谷村は胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。

 

「……秋山さん、この件、ちょっと臭いますよ」

「どういうこと?」

「まず、昨日の午後四時過ぎ。 確かに東都大病院の近隣住民から百十番通報が二件ありました。 でも付近の交番の駐在に出動命令が出ていません」

「つまり?」

 

 秋山も煙草に火を点け、先を促した。

 

「何者かが止めたってことです。 駐在の巡査は何も聞いていませんでした。 俺も疑問に思って東都大病院まで行ってみましたが、通報のあった時刻に勤務していた医者や看護師は揃って休み。 勤務中のスタッフの話は噂の域を出ませんでした」

「病院ぐるみで何か隠している、と。 入院患者は?」

「ええ。 聞いてみると、昨日の夕方ごろ、爆竹を鳴らしたやつがいたそうです」

「爆竹?」

 

 谷村は煙草を揉み消す。

 

「通報を受けた刑事、と名乗る男が説明して回っていたそうです」

「偽物か」

「十中八九そうでしょう。 なにせ、交番に出動命令が出ていないんですからね」

 

 秋山も煙草を揉み消すと、既に冷めているコーヒーを啜る。

 

「で、問題の桐生さんの病室にも行ってみたんですが……」

 

 苦虫を噛み潰したような谷村の表情を見て、秋山はカップを置く。

 

「業者が壁紙の張り替えをしてる最中でしたよ。 もちろん桐生さんの姿はなし」

「なるほどねぇ。 となると、爆竹じゃなくて銃声だったってとこかな」

「警察と病院、それと――」

 

 谷村が窓の外に眼を向ける。中道通りは既に暗くなっているが、街灯が歩く人々を照らしている。雪が降り出したのか、街灯に照らされてきらきらと光を反射している。一般人の中に明らかに堅気ではない者たちがいる。神室町で極道者の姿を見ることは珍しいことではないが、今日は普段よりも明らかに多い。

 

「ヤクザが多い。 東城会も絡んでますね」

「はぁ……」

 

 秋山は深くため息を吐くと、残ったコーヒーを一気にあおった。

 

「あの二人は、今度は何に巻き込まれたんだ」

 

 沈黙した秋山と谷村は、窓の外を北に向かって歩く少女と青年の二人組に気づかなかった。もちろん、彼ら二人だけではない。彼らを探して歩いている極道者も、彼らが群衆に紛れている限り、発見することはできないだろう。

 

「……さて、それじゃあ俺は警察と東城会を中心に調べてみようと思います。 伊達さんにも連絡しておきます」

「そうだね。 伊達さんも遥ちゃんのことは気にしてたから、遅かれ早かれ気づくことになるだろう。 俺は壁紙を張り替えてたっていう業者を調べてみるよ。 弾痕を隠していたのなら、その業者も何か知っているはずだからね」

 

 二人は席を立つと、店外で別れる。秋山は煙草に火をつけ、自身の経営する会社「スカイファイナンス」へ向かって歩く。

 中道通りを西に曲がり、第三公園の前を通る。そこで呻き声が聞こえた。

 第三公園はビルに挟まれた小さな公園で、ガラの悪い若者がたむろしていることが多い。秋山がそちらへ視線を向けると、三人の男が倒れていた。いずれもスーツ姿で、胸に見覚えのあるピンを付けている。東城会のものだ。

 桐生たちについて何か情報を得られるかもしれない、と考え、彼らの方へ近づくと、秋山はしゃがみこんだ。

 

「もしもーし、こんなとこで寝てたら風邪引いちゃいますよ」

 

 男たちから返事はない。呻き声をあげているのは一人だけで、他二人は完全に気を失っているようだ。よく見ると、意識のある男は両耳から血が出ており、鼻が折られているせいか、口元は血に塗れている。鼓膜を破られているようだ。気を失っている男たちに視線を向けると、一人は足を折られ、もう一人は下顎を砕かれている。

 彼らを倒した相手は、随分と容赦のない者だったようだ。

 これでは話を聞くのに時間がかかるだろう。時間をかければ、そのうち彼らの仲間や警官が現れる。喧嘩自慢が集まる神室町で極道者やチンピラが伸されていることはよくあることだ。面倒事に巻き込まれる前に情報を得られる可能性は低い、と判断した秋山はその場を離れることにした。

 

 

※   ※   ※

 

 

 遥と啓介の二人はクラブセガを出た後、ドンキホーテで足りなかった調理器具を購入し、食材を見て回った。ある程度揃え、店外へ出る。二人は片手に一つずつ、黄色いビニール袋を提げている。

 

「あ、雪だ」

 

 頬に当たる冷たい感触に気づき、遥は空を見上げた。街灯に照らされて舞い散る雪が輝いている。雪を見ると、どうしても一か月前の光景が脳裏をよぎる。全身傷だらけで、腹部から出血した桐生が路上に倒れている場面だ。

 あの時話したように、確かに今、一緒にいられているが、桐生の意識だけは遠くへ行ってしまって未だに帰ってこない。

 

「おい」

 

 歩みが鈍っていた遥を啓介が急かした。彼は中道通りを北上し、天下一通りへと向かう路地で曲がろうとしている。監視カメラをテンプル騎士団に抑えられた場合に備え、複数の移動経路を利用して拠点を容易に辿られないようにするためだ。

 

「あ、ごめんなさい」

 

 慌てて彼を追う。路地を曲がり、第三公園の前を通った時、女性の助けを求める声が聞こえた。

 

「やめてください! 何言ってるんですか!」

「いやぁ、俺らが探してる奴とあんたの格好がぴったり一致してるんだよ。 ちょっと話聞かせてくれねぇか」

 

 女性は居酒屋の呼び込みをしていたのか、白いベンチコートを着ている。彼女に絡んでいるのはスーツを着た強面の三人組。パンチパーマの男、巨漢、やせ細った男。東城会だ。

 

「だいたい、白い服の人なんていっぱいいるでしょ! 警察呼びますよ!」

「おお、怖い怖い。 俺らはただ話を聞きたいってだけなのによ」

「むしろ警察の代わりに捜査してんだよ。 どっかの鉄砲玉がうちの組に喧嘩売ってるらしくてさ。 おかげで下っ端は大変よ。この神室町で二人も探さなきゃいけないんだから」

「白い服の鉄砲玉と、可愛い女の子。 あ、君、両方とも当てはまってるね」

 

 彼らは啓介と遥を探しているらしい。だが、真面目にやるつもりはないようだ。仕事にかこつけて威圧的にナンパをしているようにしかみえない。彼らは一様に下卑た表情を浮かべているからだ。

 遥はその様子を見て、足が止まってしまった。自分たちの件がなくとも、彼らは凶行に走っていただろう。しかし、そのきっかけに自分のことを利用されているのを知ってしまうと、責任を感じてしまう。男たちは今にも女性を連れ去ってしまいそうだ。

 彼女が意を決して第三公園の方へ行こうとすると、啓介に肩を掴まれた。

 

「何をするつもりだ」

「あの人たちを止めるんです」

「今の自分の状況を理解していないのか?」

「わかっています。 でも放っておけません」

 

 第三公園の様子を覗き込む野次馬は徐々に増えている。だが、彼らの中に女性を助けようと動く者の姿はない。誰かが彼女を助けなければ、神室町で不幸になる人が一人増えてしまうのだ。

 

「いや、わかっていない。 お前がここで目立つ行動をとれば、俺たちは終わりだ。 今のアサシン教団に戦える人間は俺しかいない。 数の差で押しつぶされるぞ」

「……アサシン教団の人には申し訳ないと思います。 でも、おじさんだったら、ここであの人を助けないはずがありません」

「それで桐生が殺されてもかまわないんだな」

 

 遥にとって桐生の生命は強力な切り札だ。啓介はそう考え、彼女の行動を縛ろうとするが、効果はなかった。遥は意思の強さを感じるその大きな瞳を、真っ直ぐ啓介に向ける。

 

「それでも、私はあの人を助けます」

 

 しばし睨み合い、言葉での説得を諦めた啓介は遥の肩から手を離す。納得してくれたのか、と彼女が礼を言おうとすると、彼は遥の手を取り、第三公園の反対側にある空き地に引き込んだ。抵抗する間もない力強さであった。

 

「離してください!」

 

 ビルに囲まれた僅かな広さの空き地は、人気が全くない。第三公園の騒ぎのおかげか、遥の声は誰に聞き咎められることもなかった。

 啓介は先ほど買ったばかりの食材を地面に放ると、遥をビルの壁に押し付けた。はずみで、彼女もビニール袋を落としてしまう。

 

「お前が俺たちの邪魔になるのなら、俺はここでお前を殺す」

 

 啓介は手首を返すと、袖口から刃を出した。アサシンブレードだ。

 

「流入現象で桐生の人格が崩壊してもかまわない。 廃人になった桐生をアニムスに縛り付け、秘宝の場所を特定できればあいつも用済みだ」

 

 アサシンブレードを遥の首筋に当てる。その感触は、頬に当たる雪よりもずっと冷たい。

 

「……あなたは、弱い人なんですね」

 

 遥は死の恐怖に屈することなく、なお強い意志を込めて啓介の瞳を見る。彼女の言葉には、どこか憐憫の情が籠っていた。

 

「何?」

「私の知る強い人たちは、決して人を殺そうとしませんでした。 殺せば目の前の壁は一つなくなるかもしれません。 でも、そうしませんでした」

 

 啓介は眉間に皺を寄せ、困惑の表情を浮かべる。彼が見せる、初めての種類の感情だ。

 

「何が言いたい」

「おじさんは、自分を殺そうとした人も、信じました。 その人も後になって人を信じる心を知りました。 ここで私を殺してもかまいません。 でも、そうすればあなたたちは絶対に目的を達成することはできない」

「お前に何がわかる」

「わかります。 私の知る強い人たちは、みんな信じる心を持っていました」

「黙れ」

 

 啓介は遥の首に刃を喰い込ませる。血が一筋流れた。

 

「そして、人を信じる心をもった人たちだけが、夢を叶えられるんです」

「黙れ!」

 

 叫ぶ。誰に対しても心を閉ざし、任務を遂行する機械として育てられた男の顔が歪む。その声に込められた感情は怒りか、それとも恐怖か。

 

「目の前で苦しんでいる人に手を差し伸べられなくなった時に、私は死ぬの。 絶対にあなたには殺されない」

 

 彼女に迷いは全くない。刃を首に当てられ、白いパーカーの襟が血で赤く染まろうとも、遥の意思はまっすぐに突き立ち、折れない。

 啓介は舌打ちをすると、彼女から手を離した。

 

「ここで大人しくしていろ。 絶対に動くな」

 

 パーカーのフードをかぶるとすぐに背を向け、第三公園に向かって歩き出す。啓介の意図を察した遥は、深々と頭を下げた。

 

「ありがとう……」

 

 

 

 白いベンチコートを着た女性は、腕を振り上げると、パンチパーマの男の頬を張った。パン、という高い音が公園に響く。

 

「てめぇ……やっちゃったなぁ。 おい!」

 

 男は拳を振り上げる。その動作に一般人の、それも女性に対する手加減など微塵も込められていない。

 だが、男の腕が振り下ろされることはなかった。気配もなく、男の手首を掴んだのは黒いパーカーのフードで顔を隠している男、啓介だ。

 

「あぁ? 何のつもりだてめぇ」

 

 啓介は答えず、男の手を逆に捻ると、鼻に頭突きを入れる。

 

「兄貴!」

 

 他二人の男が騒ぎ出す。巨漢は傍に会った角材を拾い、背後から啓介を殴打しようと振りかぶった。啓介は振り下ろされた角材をアサシンブレードが仕込まれている右腕の内側で受けると、巨漢の膝に蹴りを入れた。彼の膝は通常とは逆側に曲がり、一目で骨折していることがわかる。

 

「ぎゃああ!」

 

 巨漢が膝を押さえて転がり回る。やせ細った男が内ポケットからバタフライナイフを取り出し、刃を出して構えた。

 

「やっちまえ!」

 

 パンチパーマの男が血液の吹き出す鼻を押さえながら命令し、立ち上がる。

 やせ細った男は腰だめにナイフを構え、啓介に体当たりするように駆けた。啓介は男の顎を蹴り上げると、ナイフを持つ右手を捻りあげ、投げる。地面に叩きつけた拍子にゴキリと音が鳴り、男の腕を折った。最初の蹴りで既に意識を失っていたのか、男は悲鳴ひとつ上げない。

 振り返りざまにパンチパーマの男の両耳を掌で叩く。その一撃は三半規管に影響を与え、男の足がふらついた。啓介は男の股間を蹴り上げると、さらにもう一度振り返り、倒れている巨漢の腹を踏みつける。

 あっという間に男三人が地に伏せられた。痩せ細った男と巨漢は意識を失い、パンチパーマの男はただ呻き声を上げ続けている。

 その容赦の無い光景に、助けられた女性は礼を言うことも忘れてしまった。集まった野次馬も沈黙している。

 啓介はパーカーのポケットに手を突っ込むと、爆竹を取り出す。指を擦り合わせることで導火線に火を点け、野次馬に向かって投げた。

 野次馬の足元で炸裂する爆竹に、その場にいる全員の意識が向けられ、悲鳴が上がる。

 一体なんのつもりなのか、と女性は先ほど啓介がいた場所に視線を向けると、彼の姿は既に影も形もなくなっていた。

 

 

 

 傍のビルの窓枠に手をかけ、啓介はものの数秒で屋上まで登る。彼の狙い通り、野次馬たちは啓介の姿を見失ったようだ。彼は助走をつけてビルの手すりに足をかけ、跳ぶ。天下一通り裏の路地を挟んだ隣のビルは五メートルほどの幅があるが、啓介はためらいもなく跳び、見事に着地した。

 流れるような動作でビルの壁面に手をかけ、落下。窓枠から雨樋に跳び、それを伝って地面に降りる。

 その様子をハラハラと見守っていた遥は、彼が無事に降りられたことに安堵し、ため息をついた。

 

「行くぞ」

 

 ドンキホーテのビニール袋を拾い、彼が向かったのはビルの裏口だ。鍵がかかっていたのか、ポケットからピッキング道具を取り出し、開錠する。天下一通り裏に出ずにこの場から離れるためには、ビル内を通過するしかない。

 

「ありがとう」

 

 遥は泥棒のような真似をする彼に礼を言った。

 

「お前のためじゃない」

「それでも、ありがとう。 それと、ごめんなさい」

 

 ものの数秒で鍵が開き、ドアが開く。

 

「……俺は、俺の、アサシン教団のやり方を間違っているとは思わない」

 

 彼の絞り出すような声を聴き、遥は胸に手を当てた。

 

「だが、お前の言葉を無視するのも違うのだと思った」

 

 啓介はフードを外して振り返り、遥を見た。

 

「遥、お前は俺たちを信じられるか?」

 

 初めて彼が、遥の名を呼んだ。彼女は笑顔を浮かべると、嬉しそうに頷く。

 

「信じるよ。 だから鷹村さんも、私を信じて欲しい」

「啓介だ」

「え?」

 

 啓介は遥の願いに答えず、己の名を名乗った。

 

「お前が俺に遥と呼べ、と言ったんだ。俺だけ鷹村さんでは不自然だろう」

 

 彼の顔は無表情だ。群衆に紛れるためだけの呼び方の変更ではないと、信じたい。

 

「うん、啓介」

 

 遥が自身の名を呼ぶのを聞くと、啓介は先にビルの中へ入って行った。



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7.服部半蔵

 澤村遥と鷹村啓介がアサシン教団のアジトへと帰った時、桐生一馬は既に寝室へと移されていた。アニムスが設置されている大広間で作業している者はいない。エレベーターの音が聞こえたのか、心配そうな表情を浮かべた吉川優子が寝室から出てきた。ジャージに着替え、髪が濡れているところを見ると、シャワーを浴びた直後らしい。

 

「おかえりなさい。 ……何か問題があったようね」

 

 優子は啓介のパーカーについた血の染みに気づいた。よほど彼の腕を信頼しているのか、返り血であると判断したようだ。

 

「大した問題じゃない。 ブレードを使っていないから、即座にアサシンの仕業であると気づくのは難しいだろう」

「そう……なら良かったわ」

 

 返り血を浴びるほどの戦闘をしたのだ。余程のことが起こったのだろう。しかし、普段ならばありのままを説明する彼が、何か隠している。その原因となり得る者は一人しかいない。

 優子は遥に視線を向けた。彼女の視線を受け、遥は「あっ」と声を出して口を押えた。

 

「ごめんなさい。 啓介は私のために――」

「俺は遥のために戦ったわけじゃない。 必要なことをしただけだ」

 

 啓介は無表情のまま先に歩きだし、寝室へ入って行く。先ほどのやり取りを聞いて、優子が何も感づかないはずがない。彼女は優しげな微笑みを遥に向けた。

 

「ありがとう、澤村さん」

 

 優子の感謝の意味がわからなかったのか、遥は首を傾げた。

 

「え? なんでですか?」

「あら? 忘れていたのかしら。 啓介を人間にしてほしいってお願いしたの」

「あ――」

 

 優子に頼まれていたことを遥は再び思い出し、忘れていたことを申し訳なく思った。

 

「でも、それでいいのかもしれないわね。 変になんとかしようと思うより、あなたは自然体でいる方が他人に良い影響を与えられそうだわ」

「……ありがとうございます。 でも、啓介を混乱させてしまったみたいで」

 

 優子は遥の肩に手を置き、心から嬉しそうに微笑んでいる。

 

「いいのよ。 苦悩するのは人として当たり前のことだもの。 むしろ、本当なら私たちがやらなきゃいけないことをあなたに押し付けてしまって、申し訳なく思うわ」

「いえ、いいんです。 ……お腹空いてますよね? すぐご飯作ります」

「うわぁ! ありがとう! 本当に楽しみだわ!」

 

 彼女は余程楽しみにしていたのか、遥からドンキホーテのビニール袋を奪うと、寝室へ向かった。あまりにも嬉しげなその後ろ姿は、今にもスキップを始めそうだ。

 遥は苦笑すると優子のあとを追い、晩御飯のレシピを頭に思い浮かべた。

 

 

 

 手早く米を洗い、炊飯器のスイッチを入れる。鍋に湯を沸かし、野菜を洗う。エプロンを付けた遥の料理の手際は実に手慣れたものであり、優子は手伝うこともできずに彼女のことを見守っていた。

 

「吉川さんもお疲れですよね。 ゆっくりしてていいですよ」

 

 キャベツをまな板に載せ、トントントンと小気味いい音を響かせながら遥は言った。言われた優子は眉尻を下げ、情けない顔をしている。

 

「そう、ごめんなさいね。 私も何か手伝えればよかったんだけど」

「大丈夫ですよ。 私、アサガオでは十人分作ってたんですから。 四人分なんて軽いもんです」

 

 振り返った遥の朗らかな様子に、優子は思わず微笑んでしまう。彼女の進言を素直に受け入れ、優子はソファに座ると昨夜、啓介が買って来た雑誌を広げた。そんな二人の様子を晩酌しながら見守っていた南田はひっひっひっと不気味に笑った。

 

「……なんですか、ドクター」

「いやぁ、遥くんは男の理想を体現したような女性だね」

「そうですね。 人当たりが良くて、家事ができて、元アイドル。 完璧です」

「それだけじゃないぞ。 運動神経が良く、頭も良くて理解力もある。 何よりまだ若い」

 

 優子には南田の言い口が挑発的に聞こえる。彼女は勉学一辺倒の人生を送ってきたせいか、家事ができず、運動神経も悪い。一度結婚を経験しているが、上手く行かず、数年で離婚してしまった。それ以来、恋愛などのロマンスからは遠ざかっている。

 上機嫌に料理をする遥の鼻歌が聞こえてきた。

 優子は彼女に視線を向けると、少しだけ嫉妬してしまう。アサシン教団の一員として生きてきた今の人生を後悔などしていないが、純粋に女として羨ましいのだ。

 それを南田も理解して優子をからかっているのだろう。

 

「ま、ドクターに何を言われても響かないですけどね」

「ひっひっひっ、権力も金もないジジイだからな」

 

 そう自虐的に言った南田は、過去に勤めていた会社でゲームクリエイターとして活躍し、退職後はIFシリーズの制作に全てを注ぎ込んだ。高額なプレイ料金はそのほぼ全額が開発費用になり、南田自身はギリギリ生活できる程度の額しか受け取っていなかった。一年前にアサシン教団から資金提供を受けられなければ、開発を終えるどころか、その不健康な生活のせいで死んでいてもおかしくなかっただろう。

 

「しかし、若いと言うのはそれだけで宝だな。 啓介くんもこれからさらに成長するだろう」

「ええ、そうあってほしいと思うわ」

 

 二人は遥の鼻歌と部屋に漂う美味しそうな食事の香りに浸る。殺伐としたアサシン教団のアジトが、遥がやって来たことによって居心地の良い空間に変わっているのを実感した。

 優子はベッドで寝ている桐生に視線を向ける。意識のない状態でも、彼の五感は生きている。彼もきっと、自分の愛する娘の鼻歌を聞き、料理の匂いを堪能しているだろう。

 もはや日常になり、意識しなくなった心電図の音は定期的なリズムを繰り返している。

 

 

 

 啓介は熱いシャワーを浴びながら、ぐるぐると脳内を巡る遥の台詞について考えをまとめようとしていた。

 誰も信じられない者は夢を叶えられない。

 今のままでは、啓介はテンプル騎士団に勝てない。

 アサシン教団の行動規範は民衆とともにあることだ。今の自分はどうであろうか。人の気持ちを理解しようとせず、目的を達成するために必要な任務をこなす機械だ。私的な感情を完全に廃し、戦闘、工作を効率的に行えるよう徹底的に教育された。

 そのせいか、啓介にはやりたいことも夢もない。今の自分はテンプル騎士団を滅ぼし、市民の自由を守るためだけに生きているのだ。

 遥の言うことが事実であるのならば、自分にはまだ学ばなければならないことがある。

 

「そのためには……」

 

 啓介は呟くと湯を止め、シャワー室を出た。バスマットに立ち、バスタオルで濡れた体を拭う。彼の身体は鍛えられているが、無駄な筋肉は一切ついていない。潜入、暗殺、工作を主な任務とするアサシンは身軽であることが必須だからだ。その肉体には無数の傷跡が残っている。物心つく前から繰り返されてきた、死ぬ寸前まで追いつめられる厳しい訓練の結果だ。

 彼はそれを誇らしく思うことも、醜く思うこともない。

 ふと、返り血を浴びたパーカーに視線をやる。血を落とすために別で洗濯するから、と遥に言われ、他の洗濯物を避けて床に置いたものだ。彼女は料理だけでなく、アジトでの家事全般を引き受けるつもりらしい。確かに、今までいた三人では必要最低限の部分以外の家事にほとんど手をつけていない。シャワー室の他に洗濯機、トイレ、洗面台が設置されているこの部屋も、綺麗好きな人間から見れば汚いだろう。ましてやアニムスが設置されている大広間では、隅の方に埃がたまっている。

 正直、彼女がやってくれれば助かる。衛生面で見れば、劣悪と言って差し支えないからだ。

 現在のアサシン教団日本支部を実質的に動かしているのは啓介だ。大抵は優子の提案を彼が選択し、受け入れることによって行動の指針が決まる。思えば、アサシン教団の実利的な面だけを考えてそうしてきたが、優子や南田は本当に自分の選択に納得し、ついて来ているのだろうか。

 啓介は学ぶ必要がある。かつてアサシン教団日本支部支部長として日本の裏の歴史を支えていた、自身の先祖の生き様を。

 

 

 

 寝室は暗い雰囲気で満ちていた。ドアを開けて入室した啓介はその空気に触れ、眉を(しか)める。

 

「遅い!」

 

 ドアを開けた啓介の姿を認めた瞬間、南田が怒鳴った。彼はテーブルの傍の床に直に座っており、向かい側のソファに座っている優子も、彼と同じように不機嫌な様子で腕を組んでいる。テーブルの上には豚の生姜焼きと、キャベツの千切りやプチトマトが色とりどりに盛られたサラダの器が並べられている。

 啓介がシャワーから上がったのに気付いた遥は、茶碗に白米を盛り、みそ汁をよそう。

 

「遅かったわね。 いつもならカラスの行水みたいにすぐ出るのに。 ほら、早く座って」

「ああ、少し考え事をしていたんだ。 なぜ先に食べ始めていないんだ?」

 

 優子は不満そうに言うと、ドア側のスツールを指さした。彼は素直に従い、疑問を口にする。

 

「遥くんが、全員揃うまで待てと言うんだ。 君が長々とシャワーを浴びていたおかげで我々はお預けをくらっているんだよ」

 

 そこへ白米とみそ汁をお盆に載せた遥が、テーブルにそれらを並べる。

 

「南田さんなんか摘み食いしようとして大変だったんだよ。 やっぱりご飯はみんな揃って食べないと。 はい」

 

 啓介の向かい側にあるスツールに座ると、遥は手を合わせる。箸を取ろうとしていた優子も彼女に合わせ、慌てて手を合わせた。

 

「ほら、手を合わせて」

「あ、ああ」

 

 既に箸を手に取り、食べ始めようとしていた南田は鬱陶しそうに手を合わせ、啓介も珍しく困惑した様子でそれに(なら)う。

 

「いただきます!」

「いただきます」

 

 遥の号令に合わせ、一同が唱和する。美味しそうな食事の香りに刺激され、既に空腹の限界だったのか、優子と南田は勢いよく食べ始める。啓介も彼らから一歩遅れて箸を取った。

 

「美味しい」

「うん、こりゃうまいぞ」

 

 優子と南田の感想を聞いて満足そうに頷くと、遥は啓介を見た。彼はみそ汁の椀を取り、啜る。啓介は感想を言わないが、豚の生姜焼きに白米、と次々に箸をつけているところを見ると、口に合ったのだろう。

 彼らの反応を見て嬉しそうに微笑むと、遥も食事を始めた。

 

 

 

「ごちそうさまでした」

 

 一同が食事を終えると、遥はそれぞれの食器をお盆に集め、流しで洗う。久々に食べた家庭的な料理のせいか、優子と南田は幸せそうな表情で、気怠そうに食後のお茶を飲んでいる。

 

「話がある」

 

 そんな空気など関係ないのが啓介だ。彼の声を聞き、優子と南田の二人は啓介を見る。

 

「アニムスに接続したい。 シンクロ率を百パーセントにする」

 

 啓介の話を聞いた二人は目を見張った。確かに啓介のシンクロ率はそれほど高くない。彼がやりやすいよう、効率的に行動していたため、次のシークエンスに進めるための最低限のシンクロ率しか達成していなかったのだ。彼の記憶の中に秘宝の在り処を示すシークエンスが無い以上、彼をアニムスに接続する意味を見出せない。

 

「アサシン教団を最終的に勝利に導くために、それが必要だと判断した」

「まだ発見していないシークエンスがあるということか?」

「いや、違う」

 

 南田の質問を彼は即座に否定する。

 

「それじゃあ、澤村さんの影響かしら?」

 

 優子はどこか嬉しそうに啓介に質問した。彼は少し思案する様子を見せると、頷く。

 

「……そうだ。 明日は桐生と遥をシンクロさせる。 俺が接続するのはこれからでも構わないな?」

 

 普段ならば問答無用で決定を告げる啓介であるが、今回は彼らの許可を求めている。これから自身をアニムスに接続することが、アサシン教団にとって必要なのかどうか僅かな迷いがあるからだ。

 

「もちろん」

「さて、わたしは啓介くんのデータを先に起こしておくよ」

 

 優子は笑みを浮かべて頷く。南田は立ち上がると、部屋を出て行った。あっさりと啓介の希望を叶えてくれると言う二人の様子に呆気にとられ、彼は動き出すのが遅れてしまう。

 

「どうしたの?」

 

 一人、片づけをしていた遥が啓介に問う。

 

「……いや、少しは反対意見が出ると思ったんだが」

「それだけ吉川さんたちがあなたを信頼してるんでしょ。 ふふ、そんなことにも気づかなかったんだね」

 

 遥の笑い声を聞き、どこか居心地の悪い気がしたのか、啓介は足早に部屋を出て行った。

 

 

※   ※   ※

 

 

 乱暴に投げられた生首は畳の上を跳ね、ある男の前で止まった。外では雨が降り出し、屋根を打つ音がやけにうるさい。行燈の明かりで生首が照らされる。西軍の侍大将のものだ。

 

「なんのつもりだ? 正重」

 

 (かみしも)を羽織り、月代(さかやき)を綺麗に剃りあげた三十代半ばの男、服部半蔵が無表情のまま問う。

 正重と呼ばれた男は全身黒装束を身に着けており、左腕につけられた籠手に零れる雫のような紋章――アサシン教団の紋章が刻まれている。正重は鉢金ごと頭巾を外すと、二十歳の男が見せるには少々幼い、挑発的な笑みを半蔵へ向けた。

 

「これで俺も一人前の(しのび)だと認めざるを得ないんじゃないかと思ってね。 兄上」

 

 正重は腰に差された小太刀を外し、畳の上に胡坐をかいて座る。横柄な彼の態度に対し、半蔵は相変わらず無表情のまま背筋を伸ばし、正座を続けている。

 

「そんな命令はしていない」

「指示を出される前に組織にとって有益な行動がとれる。 有能である証じゃないか」

 

 雑に切られた総髪を乱暴に掻きながら、正重は半蔵の顔を覗き込むように見る。

 

「だからお前はいつまで経っても半人前なんだ。 これ以上勝手な行動を取るようなら、こちらにも相応の考えがある」

「脅してんのか?」

 

 ニヤニヤと笑みを浮かべていた正重の表情が変わった。目付きに剣呑な意思が宿り、木立を持つ手に力が入る。彼の言葉とは裏腹に、相手を威圧しているのは正重の方だ。半蔵は全く意に介した様子もなく、淡々と言葉を続ける。

 

「お前は忍の在り方を理解していない。 どれだけ技を磨いたとて、忍を率いる器とはなりえん」

「服部家は既に他の武士と変わらないだろうが! 此度の戦で徳川は天下を取り、太平の世になってしまう! そうなれば、俺の立身出世の機会は永久に失われる!

 俺らは! 今! 伊賀同心を関ケ原に集め、手柄を挙げるべきなんだ!」

 

 正重は畳を強く拳で叩き、叫んだ。暖簾に腕押し、糠に釘。正重の慟哭(どうこく)を聞いても半蔵の表情筋はぴくりとも動かない。

 

「もう行け。 戦が終わるまで屋敷を出ることは許さん」

 

 憤怒の形相で半蔵を睨みつけた正重はもう一度強く畳を叩くと、乱暴に襖を開け、部屋を出て行った。

 少しして、開いたままの襖から静かに男が入ってくる。長刀を背負い、冷たい目をしている美青年だ。

 

「弟殿は随分と(いら)ついているようだな。 半蔵」

「お見苦しいところをお見せしました。 佐々木殿」

 

 男の名は佐々木小次郎。当代随一の剣豪である。彼は未だ床に転がっていた生首を掴むと、庭先へ放り投げた。

 

「構わん。 報告を聞こう」

「結城秀康様の居場所、警備の状況に変わりはございません。 襲撃に参加する者は?」

「そちらは天海と丸目が行っている。 それなりに腕のある者を揃えたそうだ。 計画通り、二名を除いて陽動。 本命の二名は宮本と真島という男だ」

 

 話ながら小次郎は半蔵の向かい側に座る。

 

「秀忠様の教育も順調だ。 計画が成り、家康様が隠居されれば日の本は天海の思うままになる。 ……それで、半蔵。 秘宝は手に入れたか?」

「こちらに」

 

 半蔵は背後から細長い桐箱を滑らせ、小次郎の正面で蓋を開ける。

 中には金色の剣が入っていた。所々に空いた丸い穴をつなぐように溝が走っている。

 

「ほう。 これが秘宝、草薙剣(くさなぎのつるぎ)か」

 

 小次郎は剣を手に取り、掲げた。

 

「このような物で人を操れるなど、信じられんな」

「それだけではございません」

 

 半蔵は小次郎から剣を受け取ると、剣先を天井に向けた。剣の文様が発光し、剣先から光の波動が広がる。波動はやがて剣先に収束し、目にも止まらぬ速度で天井の一点へ真っ直ぐ伸びた。

 

「ぐっ!」

 

 天井に大穴が開き、木片と共に黒装束の男が落下した。

 

「正重。 度が過ぎたな」

 

 落下した男、正重は抜身の小太刀の柄を握った手で脇腹を押さえている。そこから(おびただ)しい量の血液が流れ出ており、瞬く間に畳を血で染めた。

 その出血量のせいで気を失っていてもおかしくないが、彼は憎々しげに半蔵を睨んでいる。

 

「兄上! 秀康様の暗殺に加担するなどと……一体何を考えている!」

「秩序のためだ。 お前こそ、刀を抜いて天井裏に潜み、何をするつもりだった」

「ふ、大方、お前を殺して次の服部半蔵にでもなろうとしたのだろう。 出世欲に目が眩んで知らずとも良いことを知ってしまったな」

 

 小次郎はゆっくり立ち上がると、背負った長刀を抜いた。

 

「ふざけるな! 仕えるべき主君のお身内を謀殺するつもりか! それが武士の……忍のやることか!」

「天海の世になればお前の望む出世も思うがままだぞ。 弟殿」

「そんな形の出世など望んでいない!」

 

 叫ぶと同時に正重は血を吐く。刻一刻と命が漏れ出ている。

 小次郎が長刀を振り上げるのと同時に、煙幕を床に叩きつけ、背後に跳んだ。籠手から針を取り出し、投げる。

 腹に穴が開いているのにも関わらず、針は正確に小次郎と半蔵へ飛んだ。小次郎はそれを長刀で弾き、半蔵は人差し指と中指の二本で受け止めた。

 小次郎は白煙の中に飛び込むと、長刀を振り下ろす。視界が悪い中でも過たず捉えられ、正重は小太刀に腕を添えてそれを受けた。彼は弾き飛ばされ、襖を倒して庭に投げ出された。

 正重は泥に塗れ、さらに血を吐き出した。地を這い、必死に小次郎から離れようとしているその姿は無様と言う他ない。

 

「小次郎殿」

「なんだ?」

 

 先の一太刀を受けられたのが不満なのか、声をかけてきた半蔵を、小次郎は不機嫌そうに振り返った。

 

「身内の始末は私がつけます」

 

 半蔵は発光し続ける草薙剣を持ち、庭へ降りた。小次郎は息を吐くと、刀を納める。

 

「正重」

 

 朦朧とする意識の中、重い(まぶた)を無理やり持ち上げ、正重は半蔵の姿を捉えた。

 

「戦国の世を通して、お前が何も学ばなかったことを、私は兄として残念に思う」

 

 半蔵は正重の首めがけ、草薙剣を振り下ろした。

 

「……弟の生首を手にしても顔色一つ変えんか」

「お目汚し、失礼いたしました」

「既に秀康様は打ち取られたことだろう。 俺は生き残りを処分できたか確認しに行く」

「御意。 では、秘宝は私が天海殿へ確かにお届けしておきます」

 

 

 

 瞼に刺さる日の光を感じ、正重はゆっくりと眼を開けた。

 

「うっ……」

 

 脇腹に手を当て、痛みに耐えつつ体を起こす。どうやら彼は治療され、布団に寝かされていたようだ。裸の上半身にサラシが巻かれ、負傷していた脇腹はうっすらと血が滲んでいる。

 周囲に視線をやると、箪笥などの家具がない殺風景な部屋だ。二面は土壁で、残る二面は襖で仕切られている。角部屋のようだ。枕元に自身の忍び装束と小太刀の他、籠手などの装備がまとめて置かれていた。

 牢獄でなく、装備もそのまま。正重を保護した者は彼を警戒していないようだ。立ち上がろうと足に力を入れるが、上手く立てない。血を失いすぎているらしく、頭もくらくらする。

 周囲の様子を探ろうと、視覚以外の五感に神経を集中させた。「タカの眼」だ。この能力を使うと壁の有無に関わらず、その場に存在する人の動き、狩りの標的の動きが手に取るようにわかる。

 タカの眼が発動し、襖の向こうに何者かが立っているのを認識した瞬間、その襖が開いた。

 正重は体を転がすことで無理やり移動し、小太刀を手に取った。すぐさま逆手に抜き、襖を開けた人物を睨む。

 

「そう警戒しなくとも良い。 服部正重殿」

「貴様……丸目長恵(まるめ ながよし)か!」

 

 正重に丸目長恵と呼ばれたのは髭を生やした壮年の男だ。彼は着流し姿で刀を差しておらず、武装していない。彼は入室すると、畳に膝を付き、まっすぐに正重の眼を見た。

 

「結樹秀康様をどうした! ……まさかもう、身罷(みまか)られたのか……?」

 

 悲痛な表情を浮かべた正重の問いを聞き、丸目は訝しげに眉を上げた。

 

「ご存知なのか。 秀康様は天海の計画通り、討たれた」

「貴様も天海の計画に加担していたのだろう! 俺は知っているぞ!」

「私の立場では!」

 

 丸目も怒鳴り返す。その手は固く握られ、己の力が及ばないことを確かに悔いていた。

 

「私の立場では止められなかったのだ」

「……どういうことだ?」

 

 次に訝しげな表情をしたのは正重だ。彼は未だに小太刀を構えつつ、問う。

 

「どうやら正重殿には私の知る全てをお話ししなければならないらしい。 一度刀を納め、聞いて頂けないだろうか」

 

 そうして丸目は畳に手を付き、深く頭を下げた。正重は半蔵と小次郎の会話を思い出し、丸目の態度を観察する。丸目が秀康の暗殺に関わっているのは間違いないが、その計画の成就を彼は望んでいなかったようだ。迷いつつも、正重は丸目の話を聞く必要があると判断し、小太刀を鞘に納めた。

 

「……聞こう」

「かたじけない」

 

 丸目は顔を上げると、再び正重の眼を見る。

 

「私は確かに天海の手先として動いているが、その本質は違う。 私の目的は、柳生石舟斎殿と結託し、天海の野望を阻み、秀康様の弟である秀忠様を天海の手から救い出すことにある」

「柳生石舟斎……あの、剣豪の?」

「そうだ。 天海の身内に潜入できたのは柳生の者でも私だけだった。 私一人では、秀康様をお救いすることも、計画を阻むこともできなかった」

 

 一本調子な口調ではあるが、丸目の握られた拳は震えていた。その怒りの矛先は天海か、それとも自分自身か。

 

「秀康様を暗殺した者は二人。 宮本武蔵と真島五六八だ。 彼らは暗殺の標的が誰か知らずに下手人となった。

 本来ならば私が彼らを殺し、それで此度の事件を終わりにする計画だったのだが……。 失敗した。 二人は逃亡し、現在も行方はつかめていない」

「つまり、その二人に罪はない、と」

「ああ。 私はこれから二人の行方を探し、見守るつもりだ」

 

 南光坊天海のような強大な権力を持つ相手と戦っているのだ。ただ事実を公表して解決することはできない。唯一敵方に潜入できている丸目を失えば、柳生の者はもう打てる手がなくなってしまうのだ。

 

「……私が石舟斎殿に報告へ向かう途中、山道で倒れている正重殿を発見した。 腹に穴が開き、半死半生の状態であったが、無事、意識が戻ったことを嬉しく思う」

「治療は、お前がしてくれたのか」

「ああ、生きるか死ぬかはお主次第であったがな」

 

 正重は居住まいを正すと、丸目に頭を下げた。

 

「感謝する。 ……だが、なぜ助けを?」

「お主が服部家の中でも上位の者であることが分かったからだ。 その衣装を見てな」

 

 丸目は顎で忍装束を示す。正確には、アサシン教団の紋章が刻まれた籠手をだ。

 

「顔を見て、現当主、服部半蔵正就殿の弟である正重殿であることに気づいた。 それだけだったが――」

「俺が、秀康様の暗殺計画を知っていた」

「そこで、こちらとしても訊かねばならぬことがある。 半蔵殿と天海は、つながっていると見て相違ないな?」

 

 丸目の質問を聞き、正重ははっきりと頷いた。

 

「想像するに、正重殿は半蔵殿の計画を知ったことで殺されかけ、寸でのところで逃げられた、というところか?」

「いや――」

 

 正重は己の首筋を撫でた。あの時、降りしきる雨の中、半蔵は剣を振り上げ、それを正重の首に振り下ろした。

 

「俺は、首を落とされたはずだ」

「どういうことだ?」

 

 目の前の正重には、確かに首がある。そもそも、殺されたのならばここにはいないはずだ。

 

「……わからん。 いや、秘宝だ」

「秘宝?」

「草薙剣。 確かにそう言っていた。 それには人を操る力があると」

「何を言っているのだ?」

 

 顎を撫でた丸目は心底理解できないようで、眼を眇めている。

 

「この腹の傷も草薙剣によるものだ。 種子島に似ていたが、違う。 剣先から光のようなものが――」

「それは剣なのか、鉄砲なのか、どっちなのだ」

 

 正重も混乱しているのか、話がまとまらない。そこで、再び襖が開く。

 

「なんだ、起きてるのなら声をかけてくれればいいじゃないか」

「石舟斎殿」

 

 丸目は現れた老爺の名を呼ぶ。彼は微笑み、正重を見た。

 

「あなたが、柳生石舟斎……」

「ああ、お前は服部正重だな。 無事で何よりだ」

「お心遣い、感謝いたします」

 

 正重は石舟斎に向けて深く頭を下げた。

 

「いや、気にするな。 五日も寝こけていたんだ。 さすがに心配したぞ」

「……は? 今、五日、と申しましたか?」

「ん? 丸目から聞いていなかったのか? 正確には、お前がここに運び込まれてから五日だ。 丸目が助けてからだともっと経っているぞ」

 

 正重は丸目に視線を移す。彼は頷いただけだ。

 

「……では、ここは」

「柳生の里だよ。 戦国は既に終わり、徳川の世となったも同然だ」

 

 正重が意識を失っている間に、時代は大きく動いていた。



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8.忍の使命

 鷹村啓介がアニムスに接続している間、吉川優子とドクター南田はモニターに向かい、彼のサポートをしていた。自分だけ何もできないのが我慢ならなかったのか、洗濯を終えた澤村遥はかねてからするつもりであった掃除に取りかかっている。

 おそらく南田の物であろう、ボロボロの白衣を雑巾代わりに、シャワー室の洗面台にある鏡を拭いていた。

 鏡には水垢がこびりついており、昨日今日ついた汚れではない。アサシン教団の拠点は元々大阪にあった、と啓介が言っていたことを考えると、この汚れだけでもアサシン教団がこの施設を使用する以前に誰かが生活していたことが分かる。

 遥は歯磨き粉を直接水垢のひどい部分につけると乾いた雑巾で拭った。アサガオでの生活のために家事について色々と勉強したことがここでも役立っている。こうすると、しつこい鏡の水垢が取れるのだ。

 ほとんど曇っている状態だった鏡の汚れが取れ、遥の顔が映る。

 沖縄で暮らしていた時のように家事をこなしているせいか、彼女は自分の口角が上がっているのに初めて気づいた。にわかに眉間に皺が寄り、表情が険しくなる。鏡を拭くために上げていた腕をだらりと下げ、遥は鏡に映る自分の眼を見つめる。

 本当に笑っていていいのか。アサシン教団を信じる、とは言ったが、ただ唯々諾々と彼らに協力することが自分にとっての最善だとは思わない。確かに、彼らはテンプル騎士団の手から桐生と遥を救い出してくれたのだろう。桐生の意識を回復させるために全力を尽くしてくれているのだろう。それらは信用できる。

 しかし、アサシン教団の目的はテンプル騎士団を打倒し、市民の自由意思を守ることだ。それは世界にとって大きな選択であり、その勝敗は世界の行く末を決定づけるものだ。しかし、遥が守りたいものはもっと小さな世界なのだ。

 

「はぁ……」

 

 とはいえ、今の遥には彼らを信じることしかできない。なるべく早く桐生を回復させ、彼が秘宝の在り処を特定し、解放してもらう。一刻も早く沖縄に帰るのだ。

 彼女は無性に桐生の顔を見たくなり、洗面台の下の収納に掃除用具をしまうと、シャワー室を出て行った。

 

 

 

 大広間ではアニムスに接続している啓介の他に、ヘッドマイクを付け、モニタリングしている優子しかいなかった。ここにいない南田は、恐らく寝室にいるのだろう。彼が一人で外に出るとは考えにくい上、エレベーターの音も聞いていない。

 

「啓介の調子はどうですか?」

 

 遥が声をかけると、彼女の接近に全く気付いていなかったのか、優子は少し腰が浮くほど驚いた。彼女は遥を振り返ると、慌ててモニターの向きを遥に見せないように変えた。

 

「――びっくりしたぁ……。 アニムストレーニングを受けたせいか、澤村さんの気配も啓介並みに抑えられているわね」

「ごめんなさい。 意識しなくてもできるように、こうして歩く癖をつけようとしてて……」

「いいのよ。 こっちこそごめんね。 少し残酷なシーンだったから」

 

 モニターに手をかけたままの優子が苦笑して言った。

 

『兄上! 秀康殿の暗殺に加担するなどと……』

 

 スピーカーから男の怒号が聞こえてきた。声の質は啓介にそっくりだが、その感情的な様子は似ても似つかない。

 

「啓介のご先祖様の……。 あの、私も見せてもらっちゃダメですか?」

「……いいの? ちょっと、いや、かなり刺激的な内容だけど」

「大丈夫です。 慣れてるって言ったらアレですけど、私も色々経験してきたので」

「それもそうね。 あなたにも、私たちが探している秘宝を見てもらった方がいいかもしれない」

 

 優子は再び苦笑するとモニターを元の位置に戻した。キーボードを操作し、画面を分割すると、現在啓介が追体験している映像の隣に忍び装束を来た男性の全身画像が表示される。

 

「彼が啓介の先祖、服部正重よ。 忍者で有名な服部半蔵の一族なの」

「そうなんですか!? 偉い人の子孫なんですね」

「服部半蔵は襲名性でね。 一般的に服部半蔵と言えば、正重の父親である二代目の服部正成。 彼の目の前で秘宝を使用したのが兄であり、この時三代目半蔵を襲名している正就。読みは同じだけど、字が違うわ」

 

 正重の全体画像の上に動画が再生される。半蔵が天井裏に潜む正重に剣先を向け、そこから光線を発射する。木片もろとも落下した正重は腹から血を流している。一人称視点で映し出される映像は映画やゲームなど相手にならない程、リアリティに溢れていた。

 

「これが秘宝、草薙剣(くさなぎのつるぎ)。 この世に存在する他の秘宝と同じように、これも物理的な距離に関係なく影響を与えることができるのよ。 能力が破壊に特化している分、エデンの林檎ほどの洗脳効果は強くないし、知識を与えるような機能もないわ」

 

 動画が消され、優子と遥は現在、啓介が追体験している場面を見る。

 正重が長刀を持つ男に弾き飛ばされ、庭に放り出された。

 

「彼は佐々木小次郎。 もちろん知ってるでしょ?」

「はい、宮本武蔵と巌流島で戦った人ですよね」

「歴史上の人物をそのままの姿で見られるなんて、歴史学者やファンは垂涎(すいぜん)物ね」

 

 映像の中で、秘宝を手にした半蔵が正重の元に近寄っている。正重はもはや立ち上がる力がないのか、泥に塗れ、必死に彼から離れようとしている。正重の視界が霞んでいるせいか、ぼんやりとした映像でも半蔵が秘宝を振りかぶるのがわかった。

 

「危ない!」

 

 遥は思わず声を出してしまう。半蔵が秘宝を振り下ろすのと同時に、映像がブラックアウトする。雨の音が続いているため、正重が眼を閉じた、ということが分かる。

 

「大丈夫よ。 正重がここで死んでいたら啓介は存在しないわ」

「あ、そうですよね」

 

 感情移入し過ぎていた遥は恥ずかしそうに頬に手を当てた。

 半蔵と小次郎の会話が始まる。どうやら半蔵は正重の生首を手にしているようだ。

 

「これってどういうことなんですか? 正重は生きているのに、どうして半蔵が首を持ってるんでしょう?」

「間違いなく秘宝の力でしょうね。 さっきは見せなかったけど、この庭には別の人物の首があるの。 それを正重の首だと小次郎に思い込ませてるのね。

 草薙剣の洗脳効果が弱いことがわかる一因がこれよ。 エデンの果実と同程度の洗脳効果があるのなら、首を斬るふりをする必要もないわ」

「……それって、半蔵は正重を死なせたくなかったってことですか?」

「おそらく、としか言えないけど、そうだと思うわ。 彼は最後まで自分の胸の内を語らなかったから」

 

 遥は真っ暗なモニターを見つめる。半蔵の話し方を聞いていると、正重よりも彼の方が今の啓介に似た雰囲気がある。なんらかの使命を己の人生の目的とし、感情を徹底的に廃している。

 やがて、半蔵と小次郎の会話が終わり、地面を打つ雨の音も聞こえなくなった。正重が意識を失ったのだろう。

 

「おめでとう、啓介。 シークエンス1のシンクロ率百パーセントを達成したわ」

 

 優子がヘッドマイクのスイッチを入れ、話す。

 

『次に進めてくれ』

「了解」

 

 啓介の声はスピーカーを通して聞こえた。思わず遥はアニムスに寝ているはずの彼を振り返る。眠っているように見えるが、意識は活発に動き、先祖の記憶を追体験しているのだ。

 

「不思議よね。 この場で寝ているはずの啓介と電話で話しているみたいに会話するなんて」

「本当に、不思議な感覚です。 ……おじさんの様子を見てきますね」

「ええ。 今日はもう遅いから、先に寝た方がいいわ」

「はい、おやすみなさい」

「おやすみ」

 

 優子に向かって軽く頭を下げると、遥は足早に寝室へ向かう。

 モニターの中ではシークエンス2が始まり、正重が目を覚ました。

 

 

 

 遥が寝室に入ると、携帯電話で話す南田の後姿が見えた。

 

「ああ、何も問題ない。 順調に進んでいるよ。 ひっひっひっ、早く彼が回復し、元気に暴れ回るところを見たいものだな。 ……そちらも上手くやってくれ」

 

 電話を切って振り返った南田は、遥の姿を見て驚く。優子が体験したものと同じく、遥の気配が感じられないせいで全く気付かなかったのだろう。

 

「おや、掃除は終わったのかい?」

「いえ、まだ少し手をつけただけですけど。 すいません、驚かせてしまって」

「なに構わないよ。 IFを組み合わせたアニムストレーニングが有効だという証明だからな」

 

 南田は嬉しそうに笑う。気配を消して入室してしまったせいで、アサシン教団に関わる会話を聞いてしまったかもしれないのだ。その保護下にあるとは言え、一般人である遥に知られてはならない物事もたくさんあるだろう。

 しかし、彼に怒っている様子は全くない。それを感じて遥は安堵の息を吐いた。もしかして、彼女が聞いても良い内容だったのだろうか。

 

「教団の方と電話していたんですか?」

「ああ、そうだ。 今、アサシン教団は新たにアブスターゴに潜入させる人物の選定をしていてね。 話していたのはその内の一人だ。 皮肉屋だが、なかなか面白い奴だよ。

 日本での作戦の成否によって今後のアサシン教団の動きは大きく変わる。 本部もこちらの進捗が気になるようでな」

「そうなんですか。 私が聞いても良かったんですか?」

 

 ひっひっひっ、と笑う。

 

「構わんよ。 正式にアサシン教団に所属していないとは言え、今は同じ目標に向かって協力する仲間だ。 話せることは話すさ。 もちろん、今回の件が解決した後に無事に暮らせるよう、隠していることもあるがね」

 

 南田は機嫌良さそうに後ろ手に手を振りながら部屋を出て行った。

 一月前と全く変わらぬ南田の様子を見て、遥は思わず微笑んでしまう。アジトの中で以前と変わらぬ日常を感じさせてくれる彼と会話をすると、なんとなく安心できるような気がする。

 遥は桐生のベッドに近よると、手足のマッサージを始める。アニムスとのシンクロが上手く行けば、明日にも桐生の意識が回復し、こうすることもなくなるかもしれない。

 穏やかに微笑み、彼女は眠気を感じるまでマッサージを続けた。

 

 

※   ※   ※

 

 

 服部正重は小太刀を模した木刀を逆手に持ち、丸目長恵と対峙していた。木刀を八双に構える丸目に対し、正重は開いている籠手を装備した左手を前に出し、木刀を持った右手は丸目の視線から隠すように背後に回している。

 籠手で敵の攻撃を受け、密着した状態で視界の外から急所を刺す、反撃の構えだ。アサシンブレードの存在を知らない敵の場合は、反転した構えになる。

 小太刀を前に出し、それで防御と攻撃を行いつつ、隙を見てアサシンブレードで喉を突く。今回は稽古であるため、アサシンブレードは使用していないが、それの存在を知る丸目が相手だからこそ、前者の構えを用いている。

 

「ふんっ!」

 

 木刀を上段に振りかぶり、丸目は強力な一撃を正重の額に向けて振り下ろした。その一振りは速く、重い。彼の実力を見誤っていた正重はそれを寸でのところで籠手で受けるが、小太刀での攻撃につなげられない。後方へ跳ぶと、舌打ちをして左腕に眼をやった。

 籠手を使用しているため、折れているわけではないが、僅かに動かすだけでも鈍い痛みが走り、指先まで痺れている。

 

「余所見している余裕があるのか」

 

 瞬く間に距離を詰めた丸目が横薙ぎに木刀を振るう。はっとして彼に視線を向けた正重は、木刀を前に出してそれを受けた。体を密着させ、震える左腕で自身の木刀ごと丸目の木刀を抱えるようにして捉える。鼻に頭突きを入れようとするが、丸目も同じように頭を突き出し、その威力を相殺した。

 

「やるじゃねぇか。 アサシンブレードがあればこの状態からでも殺せるんだがな」

 

 正重は冷や汗を垂らしながらも、挑発的に笑って見せた。

 

「それがないと分かっているからこその戦い方だ。 真剣ならば、最初の一振りでお主の左腕を切り落としている」

 

 丸目も正重を睨みつけ、低い声で忠告する。

 ふいに正重は右手に持っていた木刀を手離し、丸目の後襟を掴む。そのまま体を反転させて丸目に背を向け、まだ力の入らない左腕を丸目の右脇の下に差し込んだ。逆一本背負いである。丸目はその流れに逆らわず、地面に叩きつけられながらも、木刀を短く持ち直した。

 正重の下敷きになったまま、木刀を彼の喉元に突きつける。

 

「私の勝ちだな」

「いや、俺の勝ちだ」

 

 いつの間に拾っていたのだろうか、投げる直前に地面に落とした木刀を拾っていた正重は、それの切っ先を丸目のこめかみに突きつけていた。

 

「引き分けだな」

 

 柳生家の屋敷の庭に柳生石舟斎の声が響いた。低く落ち着いた声は、屋外でも良く通る。集中力が切れたせいか、夜中ではあるが春らしい暖かな風を感じる。深夜の柳生の里に、道場の方で門弟たちが稽古を受けている声が蘇るように聞こえ始めた。

 正重と丸目の二人は地面に正座して石舟斎の方を向く。

 

「石舟斎殿。 見ておられたのですか」

「ああ、他流派の達人同士の戦いというものは、見ていて実に楽しいな」

「引き分け、とはどういうことでしょうか。 どう見ても俺の勝ちだと思うんですが」

 

 悔しげに正重が言うと、石舟斎は大笑いした。正重はさらにむっとした顔になる。

 

「仮にお前たちの得物が真剣だったとしよう。 あの姿勢からお前は確実に頭蓋を貫けるか? 丸目もまた、刀を短く持ったことによって指を落としていたかもしれん」

 

 俯く正重に対し、丸目は凛として背筋を伸ばしたままである。喉に木刀を突きつけた時こそ自身の勝ちを確信していたが、正重の木刀を見て、引き分けであることに異論はないのだろう。

 

「正重。 お主は負けず嫌いの自惚れ屋だ。 ここに来て一年半経っても、それは変わらんか。 だが、丸目と引き分けられるなら、もう体の方は全快と見て相違ないだろう」

 

 正重は初めて石舟斎と出会った、一年半前のことを思い出す。彼からアサシン教団の使命を聞かされ、柳生の里にて体を休めるよう言われた日のことだ。

 

 

 

 柳生新陰流の門下生が食事の乗せられた膳を運んできた。布団に座ったままの正重は嬉しそうにそれを受け取ると、さっそく箸を取る。椀に山盛りにされた麦飯をかき込むと、山菜の煮物にも箸をつける。日々、稽古に勤しむ者が多い柳生の里であるからか、山菜は塩辛く味付けされていた。

 食事が口に合ったのか、味などどうでもよいのか、正重の箸は止まらない。

 

「石舟斎殿。 本当によろしいのですか? 病み上がりの者があのような食事をして」

(かゆ)じゃ腹が膨れんとあいつが言ったのだ。 ああいう若造は一度痛い目を見んとわからんだろう」

「しかし、腹に穴が開いておりました。 医者の話では胃の腑にも傷があるはずだと――」

 

 心配した様子の丸目と違い、石舟斎はにやにやと笑い、馬鹿な子供を見る目で正重が食事をする様子を眺めている。

 

「問題ない! 柳生の里じゃどうか知らんが、忍はいつ何時でも戦えるよう食える時に食っておくものだ。 ま、俺らのように幼い頃から鍛えられている者と比べられてもうぼぇあ!」

 

 話している途中で唐突に正重は麦飯を吐き出した。少量ではあるが、赤いものも混じっている。

 

「おい! 正重殿! やはり無理だったではないか!」

 

 丸目は慌てて部屋を飛び出して行った。恐らく、医者を呼びに行ったのだろう。

 自分の屋敷で粗相をされたことを気にもしていないのか、石舟斎は鷹揚に笑っている。だが、決して正重を介抱しようとはしない。

 室内にはしばらく正重の呻き声と石舟斎の笑い声が響いていた。

 

 

 

 苦い薬湯を飲まされ、新しい布団に寝かされた正重の枕元には、石舟斎だけが座っていた。

 

「お前は面白いな」

「……まだ、何か御用がおありですか?」

 

 ぐったりとした正重は決まりが悪そうに言う。

 

「秘宝についてワシが知っていることを教えてやろうと思ってな」

「秘宝……」

 

 正重の眼が俄かに力を取り戻す。石舟斎は相変わらずうつけ者の孫を見る優しげな老爺の眼だ。

 柳生の里と初代服部半蔵保長の出生地である伊賀は、それほど距離が離れていない。そのため、少なからず両者の交流はあった。伊賀者が秘密主義であるためか、多くを知っているわけではない。しかし「秘宝」と此度の件に関わりがあると思われる「アサシン教団」について僅かながら伝え聞いていた。

 伊賀者は代々、秘宝を守護する使命を担っていた。それがいつの頃からかは不明である。彼らに大陸から渡って来たアサシン教団が接触したのは、七十年近く前のことだそうだ。秘宝の守護を担う伊賀者と友好を深め、彼らを教団に勧誘した。

 彼らは一時期、互いの持つ武術を教授し合っていたらしい。その交流の中心となったのが、伊賀者で唯一大陸の言語を理解していた保長だ。

 保長は隠し刀と訳したが、南蛮人はアサシンブレードと呼ぶらしい。

 彼らの交流は十年ほどで突如として断絶する。原因は不明だが、それと同時期に保長は当時仕えていた室町幕府十二代将軍、足利義晴から離れ、三河の松平清康に仕えている。その頃から保長は服部半蔵と名乗り始めた。

 柳生の者が伊賀を訪れた時、不思議なことに伊賀者はアサシン教団のことを誰も知らなかった。残っていたのはアサシン教団から伝えられた武術と道具、紋章だけだ。彼らに話を聞くと、その紋章の刻まれた装備を身に着ける者は忍の中でも優秀な者、上忍に限られるということであった。

 おそらく、服部半蔵が秘宝を使い、彼らの記憶を改編したのだと思われる。

 

「……俺も疑問に思っておりました。 服部家の家紋とは違う、この紋章を身に着ける意味とは一体なんなのかと。 兄上は俺に何も教えてくれませんでした。 だから、関ヶ原のあの夜。 俺は自分の実力を兄上に見せつけるため、たった一人で敵陣に入り込み、侍大将の首級を獲ったのです」

「若いのぅ。 それで一人前だと認められると思ったか」

 

 布団に仰向けに寝たままの正重は天井を睨んだ。

 

「あの時は、それが最善だと思いました。 一人前だと認められれば、服部家で隠されていることを知ることができる。 ……何より、伊賀者を率いて関ヶ原で戦働きができると」

「ま、半蔵がアサシン教団のことを本当に知っていたのかわからん。 秘宝のことを知っていたのは間違いないがな」

 

 石舟斎は首を傾げて顎を撫でた。彼も半蔵の狙いを理解できていない。徳川家を裏切り、天海に付くことで一体何を得ようとしているのか。

 

「まぁ、その辺りは自分で調べるんだな。 それまでここでゆっくり体を休めると良い。 先ほどのような無茶をすると、何も知らんまま死ぬことになるぞ」

 

 にやりと笑って石舟斎は立ち上がり、襖を開けた。正重は布団の中で小さく頭を下げる。

 

「あぁ、そうだ」

 

 出て行こうとしていた石舟斎が振り返る。

 

「もし、己が半人前であると自覚できているのなら、丸目の仕事を手伝ってみるのも良い。 お前の忍としての技量は上忍に位置するほどのものだ。 こちらとしても、協力してもらえると有難い」

「……考えておきます」

 

 そうは言ったが、正重の居場所は伊賀にも三河にもない。彼は天邪鬼であるが故に、石舟斎の善意の提案を素直に受け入れられないのだ。

 それが分かっているのか、石舟斎は呵々大笑しながら部屋を出て行った。

 

 

 

 そして時は一年半後に戻る。

 腹に大穴が開いた傷跡こそ残っているが、正重はすっかり回復していた。柳生の里で門下生たちに交じって稽古を受けていたせいか、武術は以前にも増して力をつけていた。

 たまたま柳生の里を訪れていた丸目に誘われ、受けた稽古では、彼と互角と言ってもよいほどの実力であった。

 正重、丸目、石舟斎は客間へと場所を移していた。

 

「丸目の働きにより、宮本武蔵の居場所が分かった」

「……はぁ?」

 

 宮本武蔵。 関ヶ原の戦いの折、結樹秀康を暗殺した男だ。 彼は天海の陰謀に巻き込まれた人物だが、その話をするためにわざわざ自分もこの席に同席させられる意味を正重は見いだせない。

 石舟斎はそれを感じ取ったのか、苦笑した。

 

「まぁ、聞け。 正確には宮本武蔵が直前まで居た場所だ。 そうだな? 丸目」

「はい。 女の死体のすぐ傍に、これが残されていました」

 

 丸目は桃色の鈴が鍔に付けられた脇差を見せた。正重はそれが宮本武蔵の物なのだろうと当たりをつける。脇差を見た石舟斎は頷く。

 

「ワシは宮本の人となりを知るために会いに行く。 宮本の正確な居場所を知りたい」

 

 そこで、石舟斎は正重に視線を向けた。

 

「正重、お前に宮本の居場所を探ってほしい」

「俺が、ですか?」

「ああ、お前の『タカの眼』を借りたい」

 

 群衆の中から目的の人物を探し出せる他、残された痕跡から移動先を特定することもできるタカの眼を使えば、確かに宮本武蔵を探し出すのも容易だろう。柳生の里で暮らしている間に、この能力のことを石舟斎と丸目には既に知られている。

 

「わかりました。 承りましょう」

「行き先の見当がついたら丸目を使って連絡をくれ。 ワシもすぐに向かう。 急げよ」

「承知しました」

 

 丸目は畳に手を付き、深々と頭を下げた。彼がついて来ることを知って正重は嫌そうに顔を顰めた。彼は道を無視して木々を伝って移動するつもりだったのだ。丸目が一緒では、その移動手段は使えない。

 

「……集落までは馬を使うぞ」

「しっかりついて来いよ」

 

 二人とも石舟斎に頭を下げた状態で横を向き、睨み合う。

 その様子を彼はやはり楽しそうに眺めていた。

 

 

 

 正重と丸目が集落についたのは昼ごろであった。桜が咲き誇る田園地域であり、田舎ではあるが、それ故の良さがある。月明かりがそれらをうっすらと照らしていて、それもまた風情がある。

 

「宮本武蔵はあそこに住んでいたのか?」

 

 馬に乗り、全身黒尽くめの忍び装束を身に着けた正重が丸目に問う。彼の視線の先には柵に囲まれた平屋建ての家がある。人気はない。

 

「ああ。 女の亡骸は私が埋葬した。 男の方は山賊の手下共に引き渡した」

「男?」

「私が到着した時には既に死んでいた。 おそらく、宮本殿にかけられた賞金を狙っていたのだろう」

「ふぅん」

 

 彼らの事情に興味がないのか、正重は気のない返事をした。馬を降りると、提灯に火を入れ、家の庭に入る。すぐに大きな二つの血だまりに気づいた。

 そのうちの一つの傍に膝を付き、タカの眼を使う。家に近い方の血だまりに残る痕跡から、そちらに女の亡骸があったのだと分かる。もう一つは山賊のものだ。

 女の血痕の傍には刀が突き立てられた跡。その深さと大きさは、丸目が持っている脇差と一致する。そこから外に向かって点々と血痕が続いている。

 

「宮本武蔵は怪我をしているのか?」

「さぁ、私にはわからん」

 

 点々と続く血痕に沿って足を引きずるような跡がある。右足だ。

 それらの情報を統合し、タカの眼に反映する。

 小刀を投げられ、右太腿を負傷する宮本武蔵。彼を斬ろうとする山賊。その山賊を阻止しようとしたのか、脇差で背中を斬りつける若い女。山賊は彼女から脇差を奪い、腹を刺す。這って女の元へ向かい、抱きかかえる武蔵。彼は女の腹から脇差を抜くと、それを地面に突き刺し、足を引きずって道へ出る。右へ曲がり、山道へ入って行った。

 

「宮本の行き先はここを北へ進んだところだ。 足を怪我しているから、歩みは遅いだろう」

「確かか?」

「間違いない」

 

 あまりにも早く武蔵の行き先を突き止めた正重を丸目は訝しげに見る。だが、彼は自信満々に断言した。

 丸目もよく眼をこらしてみると、地面には微かに血痕が残っている。自身が注意深く観察しなければ気づかない痕跡を、僅かな時間で見つけ出すタカの眼の能力に驚愕する。

 

「この道の先なら、しばらく一本道だ。 途中で道を逸れない限り、石舟斎殿が会うのも難しくないだろう」

「なら、早く報告に行ってくれ。 俺は宮本の後を追う。 奴の死体を見つけたり、不可解な動きの痕跡を見つけたら報告する」

「頼む」

 

 正重は提灯を丸目に押し付けると、馬に乗らずに駆けだした。タカの眼の使用には集中力を必要とする。馬の操作に気を取られていては能力を行使することができない。

 彼は手近な木を駆け上ると、枝を伝って山道に入って行った。月明かりしかない闇の中でも迷いのない彼の動きは、猿のように滑らかであった。

 残された丸目は石舟斎へ報告に行く前に、庭の一角へ近づいた。そこには、丸目が埋葬した女の亡骸が眠っている。不自然に盛り上がった小山の傍で膝をつくと、手を合わせて女の冥福を祈る。

 宮本武蔵と真島五六八だけではない。彼女もまた、自分の選択により、人生を狂わせられた者なのだ。



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9.「武」と「暴」

 樹上で足を止め、服部正重はタカの眼を使用した。彼の視界の端に宮本武蔵の姿が黄色く浮かび上がる。鬱蒼と生い茂る木々に阻まれて武蔵から正重を発見することは難しいだろう。

 だが、正重は念のために距離をおいて彼の追跡をしている。彼の位置からだと武蔵の背中しか見えないが、そこから溢れだす気配が尋常ではない。武蔵は今、獣のごとく他者の気配に敏感になっているだろう。

 正重は込み上げる欠伸をかみ殺した。武蔵を発見してから既に一刻(二時間)は経過していた。襤褸(ぼろ)で縛っただけの武蔵の足は既に血が止まっており、その歩みもしっかりしてきている。恐るべき回復力だ。

 変化が訪れたのはある神社へ続く参道に到着した時だ。武蔵を狙った賞金稼ぎの男たちが彼を取り囲んだ。武蔵の実力を正重は知らないが、手を出す気はなかった。それは、集落への道中、丸目に言われたことが関係している。

 柳生の里として、表立って武蔵を手助けすることはできない。

 そう語った丸目は表情に悔しさを滲ませていた。正重としても、進んで武蔵を助けるつもりはない。知らなかったとは言え、主君の息子である結樹秀康を暗殺した下手人であることは確かなのだ。

 天海の狙いも、丸目の後悔も理解しているが、心で納得できていない。

 武蔵が刀を抜くと、賞金稼ぎの一団も刀を抜いた。戦闘が始まる。

 戦いに集中していれば自身に気づくこともないだろう、と正重は樹上を移動し、彼らの付近にまで近づく。

 迫る刀を打ち払い、胴を薙ぐ。両側から同時に攻められれば、後方へとんぼ返りし、右手の賞金稼ぎの首を切り落とすと、左手の賞金稼ぎの腹を突き刺す。その戦いぶりはお世辞にも洗練されているとは言い難いが、読みの速さ、確実に隙をついて力強く振られる剣の速さには眼を見張るものがある。

 おそらく武蔵に剣の師はいない。独学と才能であの域まで達したのだ。師がいない分、試行錯誤と(たゆ)まぬ努力が必要だったであろう。

 やがて、武蔵が最後の一人を斬り伏せる。詰めていた息を吐き出そうとして、正重は自身が武蔵の戦いに魅了されていたことに気づく。

 悔しげに顔を歪めると、生き残りの賞金稼ぎが立ち上がるのに気付いた。咄嗟に籠手から針を取り出し、投げる。針に塗られた麻痺薬は即座に効果を発揮するが、力なく振り下ろされた刀は武蔵の肩を浅く傷つけた。そこでようやく武蔵は背後の敵に気づき、振り向きざまに刀を斬り上げる。

 倒れた賞金稼ぎを後目(しりめ)に、武蔵は納刀し、斬られた肩に手を当てた。傷は浅いが出血している。そこへ背後から新たに四人の賞金稼ぎが現れた。

 

「ふふふ、もう満足に刀も振れんだろう」

 

 賞金稼ぎは嫌らしく笑うと刀を抜く。確かに、武蔵の体力はもう尽きかけている。正重は迷いつつ、懐から煙玉を取り出す。彼の実力ならば、煙で視界を覆っている間に賞金稼ぎの四人を殺し、姿を見られずに離脱することができる。

 しかし、それでは武蔵を助ける者の存在を彼に気づかれ、柳生の思いの邪魔になってしまうかもしれない。

 

「……うるさい奴らだ」

 

 低くしわがれているが、良く通る声が聞こえた。正重はタカの眼を使用し、声の聞こえた方を観察する。その正体に知り、ため息をついた。

 木の陰で横になっていたその男は、柳生石舟斎であった。

 彼の到着に正重は全く気づいていなかった。それほど武蔵の戦いに見入ってしまっていたのだろう。石舟斎は正重へ視線もくれずに、彼の未熟さを指摘しているようだった。

 石舟斎は「自身の眠りを妨げた」という理由で賞金稼ぎに絡む。突然の老爺の登場に彼らも戸惑っていたが、ついに刀を向けた。

 突きつけられた刀を人差し指と中指の二本で挟む。賞金稼ぎは振り払おうとするが、刀はぴくりとも動かない。

 柳生新陰流「無刀取り」だ。石舟斎の剣術は、最早刀を必要としない域まで達している。

 彼が刀を挟んだまま横に振ると、賞金稼ぎはあっさりと刀を手放し、地に投げられた。石舟斎が少し脅しただけで賞金稼ぎ達は脱兎のごとく逃げて行った。

 呆然としている武蔵を振り返り、石舟斎は傷の手当てを提案した。ふらつく武蔵を支え、彼は参道の先にある古い社へと向かう。

 おそらくこれから傷の手当てをしつつ、武蔵の「人となり」を知るために会話でもするのだろう。正重はこれからの行動を少し思案すると、再び樹上を駆け、二人の後を追った。二人が落ち着いて会話できるよう、警備を請け負うのだ。

 

 

 

 古い社の屋根の上に仰向けに寝転び、正重は腕を枕にして空を見上げていた。一応護衛のつもりでここにいるが、タカの眼は使用していない。長時間使用すればそれだけ疲労がたまる。使うのはなんらかの気配を感じた時でいいだろう。

 石舟斎から依頼された仕事は既に終わっている。もう柳生の里に戻っていいのではないか、と考えるが、正重の胸の中に引っかかるものがある。宮本武蔵の存在だ。

 正重は幼い頃から訓練を重ね、才が溢れていると周囲から評価を受けていた。自身もその評価は正しいと思っている。実際、正重と同世代で上忍に至った者はいない。兄の正就でも上忍として認められたのは二十も半ばを過ぎてからだ。自身は現、半蔵を超える才を持つ。その(おご)りが現在の彼の性格を作り上げた原因である。

 宮本武蔵はどうであろうか。師はおらずとも弛まぬ鍛錬を続け、不格好な戦い方ではあるが、丸目に認められるだけの腕を持っている。彼は荒削りの宝石だ。これからの生き方次第でいくらでも光り輝くだろう。

 自身でも驚いているが、正重は武蔵に嫉妬していた。幼い頃から鍛錬を続け、ここ一年は柳生の里という、武芸者として最高の環境で練磨してきた。それでも、武蔵の才を見れば霞む。達人の領域にいる正重だからこそ、一目、彼の戦いを見ただけで理解させられてしまったのだ。もし、宮本武蔵が自身と同じ環境にいたのなら、より多くの見識を得て、正重よりも強くなっていただろう。

 治療が終わったのか、石舟斎の吸う煙草の香りが辺りを漂う。同時に正重は社に接近する不審者の気配に気づいた。軽く舌打ちをする。またしても、何者かの接近を許してしまった。

 体を起こすと、タカの眼を使用して周囲を観察する。社を囲む森の中から四人の男が接近してくる。先ほど石舟斎を恐れ、逃げ出した賞金首だ。

 正重は腰に括りつけてある縄を取る。先に鉤爪(かぎつめ)のつけられたそれは、直接敵を殺傷するほどの威力はない。主に移動や拘束の用途がある。

 彼は鉤縄(かぎなわ)を高所にある枝に掛けると、振り子のように移動し、先にある枝に飛び乗った。器用に鉤縄を回収すると樹上を伝い、賞金稼ぎの元へ移動する。

 

「いいか? 宮本武蔵だけじゃねぇ。 あのジジイもぶっ殺すぞ」

「おう。 あんだけおちょくられて黙ってられねぇよ」

 

 賞金稼ぎ達は無警戒に会話しながら社へ向かっている。自分たちの存在に気づいている者がいるとは思ってもいないのだろう。

 正重は彼らの進行方向にある繁みに降りると、しゃがんで気配を消した。少しして男たちが通る。三人が通り過ぎたあと、最後尾の男の口を押さえつつ、喉にアサシンブレードを突き刺す。死体を繁みに引き込み、静かに寝かせた。傍に落ちている石を掴み、真上にある枝に鉤縄を引っかけ、一気に登る。

 

「おい、トシはどこだ?」

 

 賞金稼ぎの一人が男の不在に気づく。正重はそれに合わせ、適当な場所に石を投げた。

 

「大便でもしてんのか? おい! トシ!」

 

 大声を出せば武蔵たちに気づかれると考えたのか、男の一人は控えめに仲間を呼ぶ。だが、応える声は無い。

 

「ちょっと見てくる」

 

 石の落下した場所へ一人の男が移動した。他の二人はその場に残っている。正重は残った二人の内、後ろの男に狙いを定め、鉤縄を投げる。それは過たず男の首へかかり、彼は即座に枝から飛び降りた。

 

「ぐえっ」

 

 呻き声をあげ、男は首を吊られる。驚いて振り返った男の首に縄の端を締めつつ、アサシンブレードで腹を突く。縄を男の死体に縛り、固定する。首を吊られた男はしばらくもがいていたが、やがて動かなくなった。

 

「トシ、いねぇのか」

 

 最初に犠牲になった男を探していた男が声を上げる。生き残っているのが自分一人であることに、全く気づいていない。

 正重は気配を消して男の背後まで歩き、その背にアサシンブレードを突き刺した。背後から心臓を貫かれた男は、声も出さずに崩れ落ちる。

 タカの眼を使用し、正重は他に襲撃者がいないか探る。どうやら、他に社に接近する者はいないようだ。彼はアサシンブレードに残った血を男の着物で拭うと、社へ向かって歩き出した。

 

 

 

 正重が社に戻ると、ちょうど石舟斎が外に出てきたところだった。

 

「話は終わったのですか?」

「ああ、宮本は中で寝入っている」

 

 石舟斎はそう言って光る物を正重に向かって放る。危なげなく受け取ってそれを見ると、武蔵の戦闘中に正重が敵に向かって投げた麻痺針だ。石舟斎はいつの間にこれを回収したのだろうか。

 正重が石舟斎の登場に気づかなかったのは、彼の注意が散漫だっただけではないらしい。おそらく石舟斎は正重に気づかれぬよう、意図的に気配を消してあの場に現れたのだ。さらに、正重と武蔵が石舟斎に注目する中、誰にも気づかれずに麻痺針を回収してみせた。

 どうやら年老いているのはその見た目だけのようだ。彼の心根は若いままであり、忍である正重をおちょくっているのだ。

 

「……どうも」

 

 それに気づいた正重は不機嫌そうに眉を顰め、短く礼を言った。その様子を見て不敵に笑った石舟斎は話題を変える。

 

「お前は宮本武蔵をどう見る?」

「俺よりは弱い」

 

 当然それは石舟斎の求める回答ではない。天邪鬼が顔を出したのだ。それも見透かしているのか、石舟斎は楽しそうに笑うと、歩き出した。柳生の里とは反対方向の北だ。

 

「どちらへ行かれるのですか?」

 

 遅れて彼についていきつつ、正重は問う。

 

「祇園だ」

「祇園?」

「まぁ、お前みたいな青二才じゃ知らんだろうな」

「知ってます。 なぜ、祇園なのか訊いているんです」

 

 石舟斎と出会ってから一年半。誰もが憧れる武芸者への尊敬の意味を込めて敬語で話していたが、止めたくなる。苛つきを隠そうともせずに正重はさらに訊く。

 

「あそこは閉じた世界だ。 宮本が気に入れば、だが、正体を隠して暮らすにはちょうどいいだろう。 名を隠して生活すれば気づく者もおるまいし、賞金稼ぎのような者たちには逆立ちしても入れん場所だ」

「……なるほど。 それは分かりましたが、なぜ宮本と共に行かないのですか?」

「地図を置いて来たから自分で行けるだろう。 宮本と共に行かんのは、お前と話をしたかったからだ」

「俺と?」

 

 石舟斎は振り返り、正重と正面から相対する。その眼は普段の飄々(ひょうひょう)とした好々爺のものではなく、剣術を極める武芸者の眼だ。

 

「お前は、宮本武蔵をどう見る?」

 

 先ほどと同じ質問だ。

 

「俺は――」

 

 正重の開いた口が悔しそうに歪む。

 

「あいつに嫉妬しています。 よい師に導かれれば、容易くその業を吸収し、己の物とするでしょう。 ……俺の才など、あいつに比べればないも同然です」

 

 眼を逸らし、(うつむ)く正重の肩に、石舟斎は手を置いた。

 

「そう卑下するな。 ワシから見れば、お前も宮本も同じだ。 もし宮本が同じ立場でお前を見れば、似たような思いを抱くかもしれん」

 

 正重は俯いたままだ。

 

「技術の面で見れば、圧倒的にお前が(まさ)っている。 お前に足りないのは、心だ」

「心……ですか」

「ああ。 お前は何かを守るための戦いをしたことがない。 そうだな?」

 

 自身の過去を思い返すと、確かに誰かを守るための戦い、というものはしたことがない。そもそも、野心に満ち溢れていた正重は、守るよりも攻める思考の持ち主だ。

 

「宮本は関ヶ原以降、愛する者を守るために剣を捨てていた」

 

 正重は拳を握りしめた。あれほどの才の持ち主が、剣を捨てる。それは同じ武芸者として許容できるものではなかった。

 

「守るためには戦う力が必要でしょう? なぜ剣を捨てるのです」

「戦う力は敵を呼ぶのだ」

「ですが、宮本は守れなかった」

 

 石舟斎は腕を組むと、頷く。

 

「そうだ。 奴は、『武』ではなく『暴』であったからだ。 『武』と『暴』の違いは分かるか?」

「『武』と『暴』……」

 

 首を捻って考えるが、正重の答えは出ない。どちらも戦うための力だ。無理やり答えを出すなら、洗練された正重の戦法は「武」、武骨な武蔵の戦法は「暴」、であろうか。だが、石舟斎は戦法の話をしているわけではないだろう。

 

「ふふふ。 もちろん、お前も『暴』だ。 今はな」

「教えて頂いてもいいですか?」

「いやだ」

 

 突然、雰囲気を変え、子供のような返答をした石舟斎に、正重はぽかんと口を開ける。

 

「心の修業は師に教えられて学ぶものではない。 だが、弟子が『暴』に染まらぬよう導くのもまた、師の務めだ」

「石舟斎殿が、私の師であると?」

「お前が師だと思えばそうだ。 どうする? 導いてほしいか?」

 

 腹が立つ。だが、ここで拒絶すれば、石舟斎は二度と自身の成長に手を貸してくれないだろう。彼と同じ天邪鬼だから分かる。そう考えた正重は、一度深く深呼吸すると怒りを腹の底に沈める。

 

「よろしく、お願いします」

 

 たどたどしくそう口にすると、頭を下げる。

 

「なら、師として命じよう。 お前に宮本武蔵を陰から護衛してもらう」

「は?」

 

 思いがけない命令に、顔を上げた正重は再び唖然とする。

 

「丸目は天海に悟られぬよう、長く離れることができんからな。 いやぁ、丁度良かった。 丸目の穴をお前が埋めてくれれば助かる。 なに、週に一度でも良いのだ。 宮本の様子を見てやってくれ」

 

 笑ってそう言うと、石舟斎は歩き出す。未だ混乱している正重は置いてけぼりだ。

 

「くそじじい」

 

 己の師となったばかりの人間を毒づくと、少し遅れて正重はついていった。

 

 

※   ※   ※

 

 

 大阪。蒼天堀。神室町と対を成す西の歓楽街だ。

 二日前の晩に東城会本家にて、並み居る幹部衆を前に一歩も退かずに交渉していたアブスターゴの社員、仲本純一は蒼天堀のバー「ステイル」で酒を飲んでいた。店内は薄暗く、客層も落ち着いた大人ばかりの店だ。仲本が飲んでいる銘柄は「山崎25年」。一杯五千円。一瓶買えば本体価格で十五万円という高級酒だ。

 相変わらず貼り付けたような笑みはそのままで、芳醇(ほうじゅん)な香りを楽しみ、一口含む。

 スーツを着、カウンターで酒を味わい、塩を振られたアーモンドをつまむ仲本の姿は惚れ惚れするほど様になっていた。

 仲本の背後でドアの開く音がする。入って来たのは黒髪をオールバックにし、黒のコート、黒のインナー、黒の革パンツ、黒のブーツ、黒の革手袋。さらにはティアドロップのサングラス。全身を黒一色で染めた怪しい風体の男だ。

 男はまっすぐカウンター席へ向かうと、仲本の二つ隣の席に座った。

 

「バーボン」

「銘柄は何にいたしましょう?」

「何でもいい」

 

 好みの酒はあるが、その銘柄にはこだわっていないようだ。バーテンダーはグラスに氷を入れると、カウンターの後ろにある棚から「ブラントン・シングルバレル」を取り出し、グラスに注ぐ。丸く形を整えられた氷が溶け、パチパチと音を立てる。

 それがカウンターに置かれ、亜門はグラスを掴むと一息に飲み干した。味わいも何もない。

 

「もう一杯」

 

 バーテンダーが再びブラントンを注ぐ。今度は手を付けず、そのまま置いてある。

 

「意外と銘柄に拘らないんですね」

「興味がない」

「なるほど、だからいつも同じ格好なんですか。 拘りではなく、興味がないから同じことを続ける」

 

 仲本の態度は東城会の幹部を相手にした時と同じく、慇懃無礼だ。対する男はそれに気を悪くした様子もない。

 

「それで、大阪の様子はどうでした?」

「アサシン教団の影も形も見当たらないな」

「そうですか。 残念です。 我々は彼らに一杯食わされたようですね」

 

 台詞とは違い、仲本の表情は怒りも悔しさも感じさせない。ただ笑みを浮かべ続けている。

 

「次はどうする?」

「そろそろ準備が整った頃でしょう。 明日には次の作戦に移りますよ。 彼らが澤村遥を連れて行ってくれたおかげで、我々にも打てる手が一つ増えました」

 

 男がブラントンを一口飲むと、それに合わせるように仲本も山崎12年を一口飲む。同調行為。共にいる者を信頼している場合、相手の口調や動作を真似てしまうことがある。仲本は男の信頼を得るために狙ってやっているが、男は彼に視線を向けようともしない。

 

「しかし……驚きましたよ。 あなたにアブスターゴのスイーパーに復帰して頂けるとは」

「気まぐれだ」

「そうじゃないことはわかっていますよ。 あなたと桐生一馬には深い因縁がある。 そうですよね? 亜門丈さん」

 

 仲本は自身が亜門丈と呼ぶ男に顔を向け、その反応を伺う。亜門の瞳だけがぎょろりと仲本を捉え、彼は薄く笑った。

 

「最強の一族を自称する俺が、たった一人の男に負け続けている。 勝ち逃げなんてさせない」

 

 亜門はそう言うと、獣じみた笑みを浮かべる。恐ろしい気配を感じ取ったのか、バーテンダーが拭いていたグラスを落としてしまった。店内にガラスの割れる音が響く。

 

「……し、失礼しました」

 

 治安の良くない蒼天堀で店を構えるバーテンダーは敏感に危機を察してしまう。圧倒的な強者の匂いを感じ取っているのだ。その匂いの元は目の前のサングラスをかけた客である。逃げ場はない。

 

「あなたの目的はアブスターゴの狙いと真逆ですが、今はあなたを頼らざるを得ません。 よろしくお願いしますよ」

「ああ、俺は、お前にも興味があるんだがな」

 

 そこで初めて亜門は仲本に顔を向けた。口の端はさらに吊り上り、獣らしさに磨きがかかっている。

 

「『武』と『暴』……。 あなたは間違いなく、『暴』の側ですね」

「どちらでもかまわない。 最強に至るためならな」

 

 そう言って亜門は席を立ち、店を出る。バーテンダーは会計を気にするよりも危険な男が店を去ったことに、安堵のため息を吐く。

 

「ああ、会計は私と一緒でお願いします。 すみません、お騒がせして」

 

 店内はようやく落ち着きを取り戻す。しかし、亜門と同等かそれ以上に危険な男がまだ残っていることに気づく者はいない。

 最強を目指す亜門の興味を惹く、穏やかな笑みを浮かべたこの男が、普通の会社員であるはずがないのだ。

 

 

※   ※   ※

 

 

 千六百三年。欲に塗れた金持ちの男たちが入り乱れる夕刻の祇園に一人、不機嫌であることを隠そうともせずに舌打ちを繰り返す男がいた。

 

「いらっしゃい! お客さん、何にしましょう?」

 

 祇園の大通り、祇園大路にある酒屋「中之蔵」に入ると、愛想の良い給仕が声をかけてくる。揚屋へ向かう前の景気づけだろうか、店内はほろ酔い加減の男たちでほぼ満席である。入店した男はたまたま空いていた手近な席に座ると、品書きも見ずに注文した。

 

「清酒と田楽をくれ」

 

 給仕は不機嫌な男の様子を全く気にしていないようで、店内の喧騒に負けぬ大声で調理場へ注文を伝えた。祇園にある大抵の店は高級志向であるが、唯一この店だけは洛外にある店と同じように大衆向けだ。洛外ほど汚くはないが、たまたま博打で儲けた金を使って祇園で遊ぼうとしているような者は、だいたいがこの店を利用する。

 男は指先で忙しなく机を叩き、酒が出てくるのを待っている。乱雑に切られた総髪の髪。袖口が通常よりも少し広い黒地の着物の背には、翼を広げ、雄大に空を飛ぶ鷹が色鮮やかに描かれている。(はかま)脚絆(きゃはん)を付けて裾を締めている。普通、着物の裾を脚絆の帯に絡げるのだが、そうせずに別の帯を締めている。銀糸で織られた帯には右腰の当たりにアサシン教団の紋章が描かれている。歌舞いた格好であるが、奇抜な格好をした者は祇園に溢れているため、悪目立ちすることはない。

 他の客の注文で忙しくしていた給仕がようやく徳利と猪口を男の机に置いた。

 男――二十三歳になった服部正重は乱暴に徳利を掴むと、猪口に注ぎ、一気に(あお)る。酒精が喉を通り、熱い息を吐くと、再び舌打ちをする。

 彼がここまで不機嫌なのには理由がある。

 師となった柳生石舟斎より命じられ、宮本武蔵の陰についてから約一年半。武蔵のあまりにも自堕落な暮らしに我慢ならなくなっていたからだ。

 

 

 

 武蔵は石舟斎とともに祇園で一晩遊んだのは一年半前のこと。石舟斎の狙い通り祇園が気に入ったのか、武蔵は「桐生一馬之介」と名を変え、博打で儲けた金を使って「掛回 龍屋」の店を構えた。祇園に存在するあらゆる店から依頼を受け、警護やツケの取り立てなどを代行する何でも屋だ。

 もともと腕っ節が強い桐生の評判は瞬く間に祇園中に広がり、店を構えて数日後にはそこそこ稼げるようになっていた。桐生は稼いだ金を博打や女遊びで使い、さらに数日後には悪名も轟かせる。

 この男を見守ることが石舟斎の命じた修行でなければ、正重は背後からアサシンブレードで刺し殺していたところだ。

 週に一度程度ではあるが、正重は桐生の姿を見かける度に己の腹の底に殺意が溜まっていく気がしていた。

 正重の歌舞いた格好には理由がある。祇園を出入りする以上、武具の持ち込みは認められない。彼の身体能力ならば祇園を囲む塀を越えて侵入することもできるが、そうしなかった。嫌でも週に一度訪れることになるのだ。わざわざ面倒な手順を使う必要はない。それに、小太刀がなくとも敵を制圧できる自信が正重にはあった。

 それでも万が一ということは考えられる。そのため、袖口の広い着物の下にアサシンブレードを身に着け、その他の装備も豊かに膨らんだ着物の中に仕込んでいる。

 頻繁に祇園を訪れる都合上、正重は洛外の長屋を一部屋借りていた。そこで洛外や祇園で活動するための装備と忍として活動するための装備を入れ替えている。ないとは思うが、泥棒に入られたり火事に巻かれたりしないよう、重要な物は鉄製の箱に入れ、床下に埋めてある。

 

 

 

「田楽、お待ちです!」

 

 相変わらず声の大きな給仕が器に盛られた加茂茄子の田楽を置く。箸でつまみ、一口かじる。味噌の香りが芳ばしく、しょっぱい味付けは正重の好みだ。柳生の里に長くいたせいか、彼はすっかり塩辛い味を好むようになってしまっていた。灘の清酒を飲み、ようやく気分が落ち着いていくのを感じた。

 この日も桐生の様子を見ていた。彼は昼前に起床し、小料理屋に依頼されたツケの回収を終えると、その足で賭場へ向かった。そこで一稼ぎしたのか、次は揚屋で遊女遊びだ。

 こうなったらしばらく出てこない。正重には気に食わない男の女遊びを覗き見る趣味はない。それ故、こうして中之蔵で酒を飲んでいるのだ。

 もう大分前からだが、これが本当に石舟斎の言う、心の修業になっているのか疑問に思う。怒りを抑える修行なのだとしたら、正重はやり遂げる自信がない。このままではどこかで爆発してしまうだろう。

 

「相席、かまわないか?」

「ああ」

 

 店内が混んでいる為、空いている席は正重の向かいの席しかない。新たに入ってきた客と相席になることは仕方のないことだ。

 しかし、向かいの席に座った男が誰か知って彼は後悔することになる。

 銀糸で織られた着物の背に龍が描かれ、虎皮の帯を巻いた男、桐生一馬之介だ。

 彼は頬に赤い紅葉を付け、厳つい顔である。おそらく、何かやらかして遊女に頬をはたかれたのだろう。

 正重の視線に気づいたのか、ばつが悪そうに桐生は指先で頬をかいた。

 

「これのことは気にしないでくれ」

「そんな奴は祇園に溢れているさ」

 

 正重の冗談を聞いて桐生は自嘲したように微笑む。給仕が注文を聞きに訪れ、「この客と同じものを」と彼は頼んだ。

 さっさと立ち去りたいところだが、食べ始めたばかりなのは正重の皿を見れば分かってしまうだろう。酒もまだ残っている。気に食わない男と向かい合って酒を飲むのは業腹だが、極力印象に残るようなことは避けるべきだ。

 

「あんた、随分洒落た格好をしているな」

 

 桐生が正重に話を振る。酒屋で相席になったのだ。会話をするのはごく自然なことだろう。

 

「あんたも見事な龍じゃないか」

 

 正重は己の情報を相手に与えぬよう、返事をする。とにかく早く食べ終え、席を立ってしまおうと田楽を口に運ぶ。

 

「ああ、これは旅の僧にもらったんだ。結構気に入っている」

「だろうな。 あんた、掛回りの龍屋だろ? 背中の龍を見てすぐにわかったよ」

 

 自慢するように着物の襟を引っ張った桐生は、そのままの姿勢で正重を見た。

 

「なんだ、知っていたのか」

「しょっちゅう祇園に来るわけじゃないが、それでも龍屋の噂は聞いている。 なかなか腕っ節が強いらしいじゃないか」

 

 桐生は口の端を下げ、気まずそうに頭を掻いた。龍屋の噂は良いものばかりではないからだ。

 

「……まぁ、それなりに自身はある」

 

 ふと、正重は以前石舟斎に言われたことを思い出す。「武」と「暴」。その違いは一体何か。あの時、彼は正重も宮本武蔵と同じく「暴」であると言われた。祇園を訪れてから一年半、正重から見て桐生は自堕落な生活を送っているようにしか見えなかったが、彼の中で何か変化はあったのだろうか。

 

「龍屋の旦那。 あんた、『武』と『暴』の違いってわかるか?」

「『武』と『暴』?」

「率直に思ったことを聞かせてくれ」

 

 質問を聞いた桐生はその眼を鋭いものに変えた。正重はそれを見て、彼は心底腐っているわけではないのだと悟る。桐生と名を変えた今でも、宮本武蔵は腹の底に獣を飼っている。

 

「どちらも同じだな。 戦うための力だ。 敵を倒す上で、その力が『武』と呼ばれるものであっても、『暴』と呼ばれるものであっても、結果は同じだ。 なら、その二つの本質は同じ、ということではないか」

 

 桐生の答えを聞いて、正重は薄く笑った。自身が考えているものと同じ答えだったからだ。桐生も正重と同じく、石舟斎の意図など知らない。

 

「ありがとよ。 参考になった」

 

 給仕が酒と田楽を桐生に運んできたのと丁度同時に正重は食事を終え、席を立つ。

 

「待て。 あんた、名をなんと言うんだ?」

「服部正重。 俺は貧乏でな。 二度と祇園に来られないかもしれん。 憶えててもいいことないぞ」

 

 そう言って後ろ手に手を振ると正重は店を出た。

 祇園大路を大門に向かって歩きながら、彼は思考する。思いがけず桐生と出会ってしまった。自分の立場を理解していたつもりだが、結局名を名乗り、情報を与えてしまった。相当、諸国の大名に詳しくなければ服部の名を知る者は少ない。桐生の育ちを考えると、自身の正体に気づくことはないだろう。それに服部正重と柳生の里、および丸目長恵との関係を知る者は柳生の里の外には存在しないはずだ。

 自身でも単純だと思うが、少し会話しただけで桐生への評価を上げてしまった。正重の突拍子もない質問に対し、誠実に受け答えする様は実に男ぶりが良い。まだまだ天邪鬼がでかい顔をしている正重にはなかなかできないことだ。

 だから、自身の名を偽ることはしたくないと正重が思ってしまっても仕方がない。

 そう自分を慰め、大門を出て洛外に入ると、自身が住む貧乏長屋へ足を向ける。

 もう夜になろうとしていることもあってか、洛外を歩く者は少ない。皆、仕事を終えて帰り道を行く者ばかりだ。

 正重は木戸番に挨拶し、長屋に入ると、自分が借りている部屋の戸を開ける。

 日も沈みかけ、だんだんと暗くなっているが、上り(かまち)に置かれた封書に気づく。宛名も差出人もない。この部屋を借りてから幾度かこのように手紙が置かれていることがあった。届く手紙は例外なく、柳生の里からのものである。

 燭台に火を灯し、中身を読む。

 

「兄上の居場所が判明。 すぐに参られたし」

 

 短い一文であったが、正重にとって重大な意味が込められている。鍵をかける習慣のないこの時代に重要な書面を送る場合、手渡しするのが普通だ。だが、基本的に柳生の里の者と外で接触するつもりはお互いにない。そのため、このように手紙を残し、双方にしかわからない言葉を選んで書いているのだ。

 差出人不明のこの手紙を読み、内容を理解できるのは正重だけだ。

 そして此度の知らせは、関ヶ原の夜から数えて三年。彼が待ち続けていたものだった。



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10.三種の神器

 長門国、巌流島。長門国と豊前国を分断する海峡上にあるこの小さな島に、数日かけて服部正重は辿り着いた。全身黒尽くめの忍装束。身に着けている籠手には伊賀忍者の上忍の証であるアサシン教団の紋章が刻まれている。

 燦々(さんさん)と降り注ぐ太陽の光が巌流島の全景を照らしている。巌流島は中央に岩山が(そび)えており、外側に行くにつれて段々と岩山の高さが低くなっている。

 切り立った岩山がそびえ立つこの島に船を寄せ、岩の陰に船を係留する。船を寄せた際、浜辺に立つ物見櫓(ものみやぐら)を見つけている。あそこからなら島の全域を見渡せるだろう。

 岩の上に身を伏せ、浜辺を見渡す。十名ほどの屈強な大工が中央の岩山の麓に大きな扉を取り付けている。岩山に穴を掘って内部に何らかの施設を建築しているようだ。大工たちは仕事に集中しているようで、こちらに視線を向けることもない。

 肝心の物見櫓には、弓を持った壮年の男と若い男、二名の衛兵がいる。集中力を欠いているのか、壮年の男は西側の大工の仕事を見ており、若者はぼうっと南側の海を眺めている。天井に半鐘(はんしょう)が取り付けられている。見つかれば即座にあれを鳴らされ、逃げ出すことも困難になるだろう。

 正重は大工と見張り、それぞれの視線に注意して行動し、物見櫓の下に辿り着いた。常備している鉤縄は使用せず、物見櫓の南側梯子(はしご)を登り始める。そのまま梯子を上れば、海を眺めている若い男の視覚に入ってしまうだろう。ある程度の高さまで登ると、彼らの足元、物見の塔の淵に手をかけ、ぶら下がる。そのまま東側に移動して若者の側面に回ると、片手でぶら下がったまま器用に籠手から睡眠薬を塗布した針を取り出し、顔を覗かせて二人の様子を見た。

 二人は会話もせず、やはりぼうっとしたまま正重に気づきそうもない。彼は若者の首を目がけて針を投げ、それが効果を発揮する前に顔を伏せる。さらに外周を移動し、物見櫓の北側へ回る。

 若者が倒れる音が小さく響いた。睡眠薬が効いたのだろう。その音に気づいた壮年の見張りはやはりぼんやりとした足取りで若者へ近づく。

 

「……どう、した」

 

 壮年の男は呂律(ろれつ)が回っておらず、その口調もゆっくりしている。正重は手すりを越えて物見櫓に侵入し、アサシンブレードを出した。すぐさま壮年の男を殺そうと思っていたのだが、どうも様子がおかしい。壮年の男の足取りはまるで白昼夢でも見ているかのように、ふらふらしている。

 正重はアサシンブレードを納めると、背後から壮年の男の首を絞め、意識を奪った。倒れた二人の顔をよく見てみると、どこか見覚えがある。

この場に服部半蔵がいるとなれば、二人は伊賀者であるかもしれない。正重は若者の首から針を抜くと、懐にしまう。

 物見櫓の手すりに足をかけ、さらに上に登る。ものの数秒で物見櫓の天辺に至ると姿勢を安定させ、タカの眼を使用した。

 巌流島全域の情報が視界に映し出される。自身がいる島の南側にあるのは、浜辺、大工が建設している大扉。いや、岩山の中腹に内部へ通じる大穴が空いていて、広くはないが水平に整えられた足場もある。北側には港が整備されている。複数の桟橋がかけられ、停泊している大型船から建築資材や兵器を運ぶ大勢の人足が見える。どうやら現在の巌流島は要塞と化しているようだ。島へ上陸するのに南側を選択したのは正解だった。北側へ回れば即座に発見されていただろう。

 巌流島の地形を把握した正重は、内部へ侵入するための経路を模索する。発見されずに侵入するには岩山の中腹の大穴が最も適しているだろう。しかし、あまりにもあからさまだ。普通の兵であれば長大な梯子でもなければ登れないだろうが、忍のような特殊技術を持つ者からすれば容易く侵入できる。

 正重は奥歯を噛みしめ、眉間に皺を寄せる。これは兄である半蔵の試練である、そう悟った。幼い頃から負けず嫌いであった正重が半蔵の前に再び現れると、彼は予期していたのだ。傍目には警備が万全であるように見せ、正重だけが侵入できるようにしているとしか見えない。

 鍵縄を取り出すと、正重は大穴の近くにある松の木に向かって投げた。物見櫓の天辺よりも低い位置にある松の木に鉤縄がひっかかり、自身の持つ縄の端を物見櫓に括りつけた。小太刀の鞘を縄にかけ、滑るように大穴へと移動する。

 

「やってやろうじゃねぇか」

 

 正重は罠だと知りつつ、だがその反骨心ゆえに大穴へ飛び込む。「くれぐれも気をつけるように」。そう当然の忠告をした柳生石舟斎の言葉など、すっかり頭から消えていた。

 

 

※   ※   ※

 

 

 京都洛外の長屋で手紙を読んだ正重は、すぐさま柳生の里へ向かった。そこで待っていたのは徐々に病に蝕まれている柳生石舟斎であった。

 以前、丸目長恵とともに宮本武蔵捜索の依頼を受けた部屋だ。立ち居振る舞いは相変わらず矍鑠(かくしゃく)としているのだが、会話の合間に時折咳をすることがある。

 

「久しいな。 正重」

「お久しぶりです。 石舟斎殿」

 

 正重が洛外に居を移してから、幾度か同じように手紙を受け取り、柳生の里へ赴いたことはあった。しかし、対面するのは直接天海の元で情報を収集している丸目ばかりで、石舟斎と会うことはあまりなかった。彼が病に侵されていると知ったのは一年前だ。正重は気づかなかったが、関ヶ原の戦いの以前からその兆候は表れていたらしい。石舟斎が旅の僧に扮して諸国を巡るのは、己の死期を悟ってのことだろう。彼の病状を正重に打ち明けた丸目は、そう語った。

 

「服部半蔵の居場所が分かった」

 

 予想していた言葉だが、正重は僅かに眼を見開いた。だが、表情は変わっていない。自分の取る行動は変わらないが、正重を生かした兄の意図が未だにわからない以上、その心には複雑な物が(うごめ)いている。

 

「どこに?」

「長門国、巌流島だ」

 

 長門国は京都から見れば西にある本州の端だ。巌流島、という地には聞き覚えがない。当然、そこで半蔵が何をしているのかも想像がつかない。

 

「秘宝は天海が使っている。 関ヶ原以後、長州藩藩主となった毛利秀就を秘宝によって傀儡(くぐつ)とし、巌流島を天海のためだけの要塞にしようとしているようだ。 それだけじゃない。 伊賀者は一人残らず操られておる」

「伊賀者が……」

 

 正重の父、服部正成の代から服部家の出身地は三河であるが、服部家は代々伊賀同心を率いてきた。祖父、服部保長の代から受け継いでいるものだ。以前、柳生の里に呼び出された時に伊賀には人っ子一人いない、と聞いていたのだが、操られてなんらかの任務に就かされているなどとは予想していなかった。

 どうやら半蔵は伊賀者ごと天海に売り渡してしまったようだ。

 

「それで、半蔵は巌流島で何をしようとしているのでしょう?」

「それをお前に探ってもらいたい」

 

 正重は拳を強く握りしめた。

 柳生新陰流の影響は全国に広がっており、多くの門弟を持つ石舟斎の情報収集能力は並ではない。それをもってしても得られない情報があるのならば、いよいよ忍である正重の出番だ。

 

「すぐに参ります」

「くれぐれも気をつけろよ。 お前の死の報など、聞きたくはない」

 

 病で気が弱っているのだろうか。石舟斎は若者を死地へ送ることを悔いているようであった。

 

「何がなんでも、生き残ってやりますよ。 師匠」

 

 正重はそう言って不敵に笑うと、兄の居場所へと駆けて行った。

 

 

※   ※   ※

 

 

 大穴の内部に侵入した正重はタカの眼で周囲の様子を探りつつ、ゆっくりと移動していた。洞窟は緩く下っており、暗く、長い。こまめにタカの眼を使用し、空間を把握しているからこそ明かりが無くても移動できている。

 やがて、巌流島の東側に当たる場所にある入り江に出た。その先はまた洞窟だ。そちらの脇に建築資材が積まれているところを見ると、ここでも何か作る予定なのだろう。正重は誰もいないことを確認し、先に進む。

 再び暗い洞窟を行く。今度の洞窟は短く、すぐに太陽の明かりが正重を照らした。この場所は高い岩山が断裂したように深い谷になっている。

 ここにも人影は見当たらない。

 先に通った入り江に建築資材が置いてあったことを考えると、日常的に人足が出入りしていてもおかしくない。やはり、正重の侵入を見越して人払いしていた可能性が高い。

 だが、彼に撤退の意思はない。罠だと知りつつも、危険に跳びこまなければ得られない情報はある。ただでさえ、柳生の持つ情報網でも入手しきれなかったのだ。貴重な情報を得る機会をみすみす逃すわけにはいかない。

 谷の先にあったのは扉だ。続く洞窟を塞ぐように設置されている。正重はその手前で立ち止まり、タカの眼を使用した。扉の向こうまで探るが、やはり人影はない。扉にそっと手を当てる。開いた。

 彼は侮られていると感じ、一度強く舌打ちをすると、中に入る。

 洞窟の内部は幻想的な光景が広がっていた。

 自然にできたものなのか、人工的なものなのか。知識のない正重には判断できないが、これまで通って来た洞窟とは違い、広場となっている。天井を抜けて空を見ることはできないが、細かい穴が空いているのか、太陽の光が降り注いでいる。洞窟の中央には湖がある。そこに、屋根つきの座敷が建てられていた。

 建築の計画を立てたのが天海なのか半蔵なのかはわからない。だが、半蔵が正重を待ち構えていると考えると、特にこの座敷の建築は急がれたのだろう。

 現に正重は感じ取っていた。水上に建てられた座敷の中央に、探し求めた男がいる。

 正重は橋を渡り、正面から堂々と閉じられた障子を開けた。

 

「待ちわびたぞ。 正重」

 

 最後に会った時と同じように(かみしも)を身に着け、月代(さかやき)を綺麗に剃りあげた服部半蔵が正重に背を向けたまま胡坐をかいている。

 

「久しぶりだな。 兄上」

 

 言いながら正重は逆手に小太刀を抜いた。抜刀の音を聞いたからか、半蔵はゆっくりと立ち上がり、振り返った。(たもと)を分かってから三年。半蔵の様子は驚くほどに変化がなかった。変わらぬままの無表情。顔の皺、毛髪の色や量にも変化はない。

 敬語を止めた正重の無礼な態度にも、反応しない。

 

「俺を待っていた、ということは、聞かせてくれるのか? 全てを」

 

 正重は半蔵の答えを既に予期しているのか、籠手を嵌めた左腕を前に出し、小太刀を背後に隠す構えをとった。対する半蔵はそもそも腰に刀を差していない。構えもとらず、殺気も発していない。

 

「それはお前次第だ」

 

 やはり、半蔵の答えは否であった。

 答えを聞いた瞬間、正重は懐に隠していた針を左手で投げる。同時に、小太刀を振りかぶって躍りかかった。柳生の里で身に着けた、一気に距離を詰めての斬撃だ。

 半蔵は頭部を狙って放たれた針を、首を傾げることで躱し、左腕を小太刀の軌道上に置いた。

 小太刀と腕がぶつかり、甲高い音を立てる。切れた着物の中には鈍く光る籠手。

 

「腕を上げたようだな」

 

 思いの外、強力な一撃に半蔵は僅かに眼を見開いた。初撃で勝負を決するつもりであった正重は舌打ちをして素早く後退する。

 

「今まで誰の世話になっていた?」

「誰が、話すか!」

 

 余裕綽々と言った様子の半蔵の態度に腹が立ち、正重は怒号と共に鉤縄を投げつけた。半蔵は半身になり、胸目がけて飛んでくる鉤爪を躱す。正重が手元の縄を振ると、先端の鉤爪が進路を変え、背後から半蔵の頭部に向かって襲いかかった。

 背後に目もくれず、半蔵は僅かにしゃがむことでそれを回避し、縄を掴む。

 

「……なぜ、俺を生かした」

 

 縄を引っ張り合いながら正重は問う。彼の記憶では、半蔵にこれほどの腕はなかったはずだ。彼はもともと慎重に戦う男であった。今のように擦れ擦れで敵の攻撃を回避するような戦いは初めて見る。

 

「お前が死ねば、服部家の血が途絶えるからだ」

「……どういうことだ?」

 

 半蔵の不可解な変化を観察するための時間稼ぎにした質問だったが、全く予想していない答えに正重は興味を惹かれた。

 身内の情でないことはわかっていたが、服部家の血が途絶える、とはどういうことだろうか。関ヶ原の時点で半蔵に子はいなかったが、正重が死んだとしても子を作ればいいだけだ。

 

「そう遠くない内に天海は秀忠様を家康様の跡継ぎに据える。 その時、天海が実権を握るのならば俺が、そうでないのならばお前が服部家の正統となる」

「天海の策が破られると思っているのか?」

「いや、万が一にもないだろう。 だが、いくつか懸念はある」

 

 会話を続けつつも、正重は縄をひっぱる手に力を加減して次の攻撃につなげようとするが、半蔵もそれを敏感に察知し、対応している。

 

「……宮本武蔵のことか?」

「よく調べているな。 そう、秀康様を手に掛けた宮本武蔵がまだ生きている。 佐々木殿からも逃げ延びたのだ。 それなりの腕の持ち主であろう」

 

 正重の持つ情報は柳生の者によって集められた情報だが、半蔵はそれを知らない。仮にそれを知ったとしても、大きな情報網を持つ者とつながりを得られていることを褒めこそすれ、乏しめることはしないだろう。

 

「それだけではない。 宮本武蔵を逃がしてから佐々木殿の眼が変わった。 天海の傀儡ではなく、一人の剣士として生きようとしている」

 

 それらがなぜ天海の策の失敗を予兆しているのか、正重にはわからない。

 

「兄上は天海を信用していないようだな。 なぜ、奴に協力する」

 

 これまで全く表情を変えなかった半蔵が、初めて口元を歪めた。それを見て正重は少し驚く。彼は今まで兄が僅かでも感情を露わにする場面を見たことがない。

 だが、それを見せたのも一瞬。半蔵は再び無表情に戻った。

 

「別に天海でなくても良かった。 強いて言えば、天海はテンプル騎士団とつながりがあったからだ」

「テンプル騎士団?」

 

 南蛮の言葉であるようだが、初めて聞く名だ。

 

「さすがにそこまで知らんか。 アサシン教団は知っているか?」

「ああ。 この紋章は、元はアサシン教団のものであると」

 

 正重の籠手に刻まれているものと同じものが、半蔵の籠手にも刻まれているはずだ。

 

「そうだ。 テンプル騎士団とアサシン教団はもう何百年も前から対立している。 理由は一つだ。 テンプル騎士団は秩序を尊び、アサシン教団は自由を尊ぶ」

「で、兄上は秩序を選んだ、ということか」

 

 正重の答えを聞き、半蔵は頷いた。

 

「自由を望んだ結果が、この長きに渡る戦乱だ。 徳川家が治めるこれからの時代は、秩序を重んじ、民を導かねばならん」

 

 強く縄を引っ張られ、正重は反射的に腕に力を込める。それを狙ったのか、半蔵は縄を持つ手を離した。会話に気を取られていた正重は思いがけず後ろに体を逸らしてしまう。

 正重の視線が自身から逸れた隙を狙って半蔵は距離を詰める。彼の瞳が半蔵を再び捉えた時には、既に目の前に迫っていた。正重から見れば、瞬間的に移動したように感じただろう。

 

「ぐっ!」

 

 半蔵に鳩尾(みぞおち)を拳で突かれ、正重は呻く。彼は続けざまに小太刀を持つ右手首を手刀で打つ。手放された小太刀は畳に突き立った。咄嗟に距離を離そうと突き出された正重の左手を掴み、逆一本背負いを決める。

 柔らかいはずの畳に叩きつけられたのにも関わらず、正重の背骨に激痛が走った。

 

「天海はテンプル騎士団から秘宝の一つを譲り受ける取引を交わした。 その条件が、東洋にテンプル騎士団に従属する国家を樹立することだ。

 知っているか? 正重。 南蛮では肌の色の違いで支配者と奴隷に分けられる。 当然、我ら東洋人も奴隷の側だ」

「ならっ! なぜそいつらに協力する! 言ってることが滅茶苦茶だぞ!」

 

 正重は背中の痛みに耐え、震える足で立ち上がった。

 

「戦国の世がようやく終わり、さらに外敵と戦う余裕など、この国にはない。 だが、秘宝があれば違う。 残念ながら、この国に存在した秘宝の洗脳効果は弱いものだった。

 現に秘宝の影響下から長期間離れると、巌流島に詰めている伊賀者のように夢現(ゆめうつつ)の状態になってしまう」

 

 物見櫓にいた伊賀者の二人は、洗脳が解けかけていたようだ。

 

「私は、秘宝を手に入れた天海からそれを奪い、外敵を排除する。 その後、徳川家を筆頭に諸大名を洗脳し、二度と戦など起こらない世を作る」

 

 自身の理想を語りながら、半蔵は満面の笑みを浮かべた。

 いつからなのか、正重には見当もつかないが、半蔵は既に狂っている。

 その理想こそ輝かしいものだ。しかし、支配者が死に、代替わりすればするほどその理想は歪み、いずれ破綻(はたん)する。

 

「正重。 そのために、服部家は残さねばならん。 服部半蔵の血を引く一族が日本を陰から支えるのだ」

 

 半蔵の理想を実現させてはならない。彼の腕ならば、愚鈍な天海に気づかれずに殺害することなど容易いだろう。天海の野望を阻止し、半蔵が秘宝を手に入れる前に殺さなければならない。

 そう考えた正重は、左手の籠手からアサシンブレードを引き出し、がむしゃらに躍りかかった。

 

「服部家の鍛錬は私が主導して行う。 私には情報の取捨選択を適切に行える手足が必要なのだ。 お前の使命は、服部家の血筋を増やし、絶やさないことだ」

 

 巧みな体捌きで触れることなく半蔵は正重の背後に回った。未だに痛みの残る背中にひじ打ちを入れられ、正重は再び呻く。

 

「三年前はわざわざ急所を逸らし、命を繋ぐように腹に穴を開けたのだ。 あそこから生き延びることができたお前の血筋なら、優秀な血族となるだろう」

「……気色の悪い夢想を、語ってんじゃねぇ!」

 

 正重は懐から煙玉を取り出し、それを床に叩きつける。その衝撃で破裂した煙玉によって、座敷は瞬時に白煙で満たされ、両者の視界を奪った。

 床に落ちていた鉤縄を拾い、下から上に向けてそれを振った。先端の鉤爪で半蔵の顎を狙うが、何の手応えもないことから躱されたことがわかる。鉤爪はそのまま天井の梁に引っかかった。

 正重は跳躍するのと同時に鉤縄を強く引っ張る。それによって彼はさらに高く上がり、半蔵の背後へと降り立った。

 素早くアサシンブレードを引き出し、半蔵の心臓目がけてその背を突く。

 手応えあり。正重の掌に生暖かい血の感触が広がった。

 

「兄上の野望が成ったとしても、命に限りあるかぎり、その治世は永遠ではない。

 眠れ。 安らかに」

 

 ゆっくりと半蔵の心臓に突き刺さったアサシンブレードを抜く。実の兄を手に掛けたのだ。正重は既に聞こえていないだろう兄に向って、哀悼の意を伝えた。

 

「それは違うぞ、正重」

 

 手に掛けたはずの自身の兄の声が聞こえ、正重は眼を見開いた。確実に心臓を貫いたはずだが、半蔵の裃に残る血痕は広がっていない。突き刺した際に吹き出た血は、既に止まっている。

 

「なっ! どういうことだ!?」

「私はもう死ねないのだ。 この秘宝の力によってな」

 

 煙が晴れ、振り返った半蔵は着物を肌蹴(はだけ)て己の胸を見せた。

 彼の鳩尾の少し上のあたりに、握り拳ほどの大きさの勾玉(まがたま)が半分ほど埋まっている。以前見た草薙剣と似た文様が鈍く発光しており、二、三度明滅した後にその光が消えた。

 

「発見した秘宝は三つ。 一つはお前も知っている草薙剣。 もう一つは服部家に代々伝わる八咫鏡(やたのかがみ)。 これは秘宝を保管していた遺跡に入るための鍵だ」

 

 半蔵の首に麻紐を通した秘宝が提げられている。それは「回」の字と同形で、やはり他の秘宝と同じ文様が刻まれている。

 

「三つ目が八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)。 傷ついた生物の肉体を即座に修復する機能がある。 その代償か、私は子を成すことができなくなったのだ」

 

 彼の戦法が以前と違うのは、その秘宝が原因だ。半蔵は死を恐れることがない。だからこそ、慎重ではなく大胆に敵の攻撃を躱し、攻撃に移れるのだ。

 

「私の言うことがこれで理解できたか? 私の治世は永久(とわ)に続き、死を超越した私が一人で外敵を打ち払う。

 正重、私が秘宝を手に入れるその時まで、世の中の在り方について学べ。 お前が死ぬその時まで、共にこの国を支えようではないか」

 

 服部半蔵は既に人間ではない。死を超越し、永遠に生き続けられるのなら、彼が語った理想は実現できるかもしれない。しかし、満面の笑みを浮かべ、狂気に染まった半蔵の瞳に射抜かれている正重は、そう思えなかった。

 正重は凍えるような冷気が全身を駆け巡るのを感じた。彼は今、心底自身の兄を恐れていた。最早、化け物と呼んで差し支えない半蔵は、ニヤニヤと不快感を煽るような笑みを顔中に張り付けている。

 

「――断る!」

 

 恐れを振り払うかのように、正重は叫んだ。その宣言を聞いた瞬間、半蔵は以前までと同じ無表情に戻り、ため息をつく。

 

「馬鹿だ馬鹿だと思ってはいたが、まさかここまでとはな。 時代の流れを理解し、その裏側を聞いた今でも、お前は眼を閉ざし、耳を塞ぐ」

「ふざけるな! なぜそうも自分だけが正しいと思える!? 死を超越したことで誰よりも偉くなったつもりか!」

「もう良い。 お前には何も期待しない」

 

 半蔵の左手の裾からアサシンブレードが現れる。彼は迷うことなく正重の頭部めがけてそれを突き出した。背筋に痛みが残っているせいか、正重はそれを払おうとするが、その力は弱い。

 いや、先程投げられた時にも感じたが、半蔵の膂力は強すぎる。尋常ではなく鍛えられた筋力は、僅かにその矛先を逸らされはしたが、未だに正重の頭部を向いている。

 それでも何とか躱そうと、正重は首を捻った。

 正重の顔に到達したアサシンブレードは、彼の口腔(こうくう)内を通り、左頬を貫いた。

 

「あがっ!」

 

 奇妙な声を発した正重は、さらに頭部をのけ反らせ、畳を転がって後退した。

 素早く顔を上げた彼の口は耳の下近くまで大きく裂けており、だらだらと血を流している。血の味が口内を満たし、負傷のせいか味覚のせいか、吐き気を覚えた。

 

「私に協力しないのなら、お前は邪魔なだけだ。 今ここで、その命を――」

「お逃げください! 正重様!」

 

 突如、低い男の声が半蔵の言葉を遮って座敷内に響き渡る。同時に、煙玉が弾ける炸裂音とともに白煙が座敷内を満たした。

 僅かに見えた声の主の姿は、赤い鬼の面を付けた忍び装束の男だ。

 

「赤鬼。 洗脳が解けたのか」

 

 半蔵に赤鬼と呼ばれたその男は、生涯服部家に仕えることを誓った「五鬼衆」の一人、赤鬼だ。

 正重は頬に走る痛みのせいか、声も出せず、小太刀を拾いあげると無我夢中で座敷を跳び出た。

 

「お館様! 正気に戻ってください!」

「お前はまだ役に立つ。 (わめ)くな。 うっかり殺してしまうぞ」

 

 逃げる正重の背後から二人の会話が聞こえた。秘宝で操られている伊賀者の中には、抜きんでた実力を持つ五鬼衆もいたようだ。

 洞窟を出た正重は、血が全く止まる気配を見せない左頬を押さえつつ、走る。谷を越え、巌流島の東側の入り江に辿り着いた。

 痛みで思考が纏まらないせいか、タカの眼を上手く使えない。今にも背後から半蔵が襲い掛かってくるような気がする。

 正重の足はふらつき、朦朧とする意識の中で海中に落下した。

 

 

※   ※   ※

 

 

 さらに二年後。千六百五年。

 徐々に日が西に傾き、段々と空を赤く染める中、清水寺に続く石段に腰かけた柳生石舟斎は煙管で一服すると咳をした。

 いよいよ彼の病状も悪くなり、以前のように遠出をするのは難しくなっている。

 

「あと四半刻(しはんとき)(三十分)もしない内に遥様がここへ参ります」

「そうか、ありがとよ」

 

 石舟斎は僅かに頬を上げて笑うと、気配を感じさせずに現れた忍装束の男――服部正重を見た。

 

「いよいよ天海の計画が動き出した、ということでしょうか」

「ああ、ワシらは何としても奴の陰謀を砕かねばならん」

 

 覆面を首まで下ろした正重の左頬には、赤い蚯蚓腫(みみずば)れの傷跡がくっきりと残っている。

 

「遥様は宮本武蔵に任せる、ということですね?」

「桐生一馬之介、だ。 あいつが相応しいだろう。 丸目も、お前も、柳生の里も、陰で動かねばならんのだからな」

 

 苦虫を噛み潰したような顔をする正重を見て、石舟斎は楽しそうに笑った。

 

「お前が桐生を認めていないのはわかっている。 だが、無茶はするなよ」

「……承知しています」

 

 とても納得していないような表情で彼はそう答えた。

 やがて、汚れた着物を身に着け、脇差を抱えた少女――遥が暗い表情で歩いてくるのが見える。

 正重は素早く木陰に寄り、身を隠した。

 

「おや、こんなところに一人で、どうしたんだ?」

 

 遥は石舟斎を一瞥(いちべつ)することもなく、ただ俯いている。

 その理由を知る石舟斎は、何も知らぬふりをして懐から握り飯を取り出した。

 膝をついて遥と視線を合わせると、それを差し出す。

 

「……腹、減ってるか?」

 

 少女の腹が鳴り、石舟斎は呵々大笑する。病に侵されているのにも関わらず、彼はその様子を一切見せない。

 二人連れだって清水寺へ向かうと、正重は姿を現した。

 これから、遥が無事、祇園に辿りつくまで陰から護衛をする。

 桐生一馬之介は、彼女と出会って何かが変わるのだろうか。

 決して歴史の表に出ない、世界の行く末を左右する裏の戦争が始まろうとしていた。



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11.桐生一馬之介

 遅くなったので前回のあらすじ

 服部半蔵を追い、服部正重は巌流島に潜入した。
 そこで彼は兄と一戦を交え、半蔵は現在、秘宝の力によって不死の身に変貌していることを知る。口の端から左耳まで裂ける、という深手を負いながらも正重は生還した。
 千六百五年、江戸時代の少女、遥の進路を見極め、その先で柳生石舟斎と出会えるように誘導し、石舟斎は彼女に「祇園で桐生一馬之介という男に会え」と言った。
 正重も遥と桐生の行く末を見守るために祇園へ移動する。


 澤村遥が桐生一馬と共に鷹村啓介に拉致され、アサシン教団のアジトへ移動してから三日目の朝が訪れた。と言いはしても、地下にあるこの空間には日が差さない為、時計を確認しないと時間の感覚が狂ってしまう。

 遥がこの日作った朝食はハムエッグと味噌汁だけだ。それにご飯と納豆、サラダである。質素な物だが、手料理に飢えているアサシン教団のメンバーは美味そうにそれを平らげていた。今日の予定を考えてそわそわしていたせいか、一つだけ黄身を潰してしまった。

 朝食を食べ終えれば、いよいよ桐生一馬の治療が始まる。

 

 

 

「これから桐生さんの治療を始めるわ。 澤村さん、準備は良い?」

「はい! 大丈夫です!」

 

 気合が入っているせいか、女医である吉川優子への答えが大声になってしまった。遥の返事を聞いて、優子はくすくすと笑う。

 

「もっとリラックスして大丈夫よ。 私もサポートするから、頑張って」

「はい! ありがとうございます!」

 

 相変わらず遥の声は大きい。優子は微笑んだまま、後方にあるモニターに向かってキーボードを叩いているドクター南田へ顔を向けた。

 

「ドクター、檻の準備は?」

「バッチリだ」

 

 南田は不敵に笑ってそう答えた。遥は隣のアニムスで仰向けに寝ている桐生へ顔を向ける。彼はやはりいつも通り穏やかに眠っている。

 遥が待ち望んでいた桐生の治療が始まる。

 彼女のデータに桐生をアクセスさせ、現代の遥が憑依している江戸時代の少女、遥と交流することにより、彼の意識の活性化を促す。

 さらに、アサシン教団の目的である秘宝「草薙剣」の在り処を知る桐生の先祖、宮本武蔵のデータを追うことによって、その在り処を探る。

 その二つを達成してようやく、この場にいる者たちの目的を果たすことができる。

 エレベーターの音が広間に響き渡った。外の様子を探っていた鷹村啓介が帰って来たのだろう。

 彼は弁当を買いに行く必要がなくなった今日も変わらずに偵察に出かけている。昨夜、深夜までアニムスに接続していた疲れを全く感じさせない。朝食の席で聞いた話だと、順調にアニムスデータのシンクロ率百パーセントを達成しているらしい。

 入口の鉄扉が開き、啓介が姿を現す。

 

「おかえりなさい、啓介」

「ああ。 もう始めるのか?」

 

 優子の挨拶に返事をし、彼は整っている場を見て問う。

 

「早い方がいいからな。 君も会いたいだろう? 意識を取り戻した桐生一馬に」

 

 啓介の質問に答えたのは南田だ。彼は楽しそうにキーボードを叩きながら笑った。南田と桐生の付き合いはもう四年近くになる。インナーファイターシリーズのテストプレイに加え、改良するために惜しみなく投資してくれた桐生に恩を感じている。

 彼も桐生の復活を願う者の一人だ。

 

「……俺は秘宝の在り処を見つけられればそれで良い」

 

 それを聞いた遥が、桐生に向けていた顔を啓介に向け、むっとした表情を見せる。文句を言おうと口を開けるが、言葉にせず、結局閉じた。今は啓介と喧嘩している場合ではない。

 

「それじゃあ、澤村さん。 眼を閉じて」

 

 指示に従い、眼を閉じる。耳元でアニムスの起動音がし、遥の意識は数秒後に白く染まる。未だに慣れない感覚だが、気持ちが(たか)ぶっているせいか、不快ではなかった。

 

 

※   ※   ※

 

 

 遥が眼を開けると、碁盤の目のような線が波打っている空間であった。彼女の服装は桃色の着物。江戸時代の遥のものだ。身長も縮んでいる。

 彼女の隣に発光する粒子が集まる。以前、アニムストレーニングを受けた際に啓介が現れたのと同じ現象だ。徐々に輪郭を成し、現れた人物は桐生一馬であった。

 彼は眼を閉じたまま、直立不動である。

 

「おじさん……」

 

 今、声をかけても意味がないのはわかっている。しかし、遥は思わず呟いてしまった。

 彼は江戸時代の桐生一馬之介のデータをトレースすることによって、ようやく声を発し、物事を考えることができるのだ。

 遥は右手を伸ばし、桐生の左手を握った。幼い頃から何度もそうしてきたように、手をつなぐ。仮想空間であっても、彼の体温を感じた。久々に安心感に包まれる。思えば、彼とこうして手をつないだのはいつ以来だろうか。

 遠くの方から白い光がこちらへ向かってくるのが見える。

 これから江戸時代の遥の人生を追うのだ、と覚悟して眼を閉じる。

 遥の意識が再びブラックアウトする瞬間、右手を強く握られたような気がした。

 

 

 

「宮本武蔵を、殺してください」

 

 幼い少女から依頼の内容を聞いた桐生一馬之介は、目を見開いた。

 桐生の「金さえ払えば何でもやる」という台詞を聞いた少女は、意を決したようにそう依頼した。少女の目には憎しみの色が宿っている。

 少女から聞いた話では、彼女は家族を殺害され、下手人の脇差を奪い、その者の名を知ったようだ。

 「宮本武蔵」それが下手人の名だ。

 当てもなく彷徨(さまよ)っていたところを胸に大きな傷のある“おじさん”に助けられ、「桐生一馬之介を頼れば大丈夫」だと言われ、祇園を訪れた。

 

「いや、駄目だ」

 

 脇差を桐生に渡し、懇願する少女の依頼を彼は断った。

 理由の一つは「人殺しなんてするもんじゃない」ということ。

 二つ目は「払えるだけの金がない」ということ。

 もちろん、本当の理由は別にあるが、それを告げるわけにはいかない。何よりも、金がないと告げれば、それだけで少女は諦めると思っていた。

 ところが、少女は思いがけない行動をとる。

 たまたま通りがかった揚屋「鶴屋」の女将に己を売ったのだ。

 鶴屋の女将は彼女の頼みを快く受け入れ、連れて行った。

 龍屋から少し離れてから振り返った少女の瞳に、何が映っているのか、桐生にはわからなかった。

 しばらくして少女のことが心配になった桐生は鶴屋へ向かう。

 その裏口で鶴屋の掛回りをしている伊東と、祇園で唯一の太夫を務める吉野に出会った。

 彼らとの会話によって初めて少女の名前が「遥」であると桐生は知った。そして、遥は「お遥」という源氏名を与えられ、一両を与えられたらしい。

 再び龍屋へと戻り、夜になると祇園では禿(かむろ)であることを示す赤い着物に着替え、綺麗に汚れを落とされた遥が訪ねて来た。

 「お金を持ってきました」そう言って遥が桐生に差し出したのは、たったの一両であった。自身を一両で揚屋に売り、それをそのまま桐生に渡す。この少女は金の価値を知らない。

 渡された一両を見つめ、何も言わない桐生の様子に不安になったのか、遥は「足りませんか」と問う。金の問題ではない。人殺しとはお前の想像以上に重いものだ。自分の人生を棒に振るな。復讐しても死んでいった奴らは報われない。

 そう説得する桐生に、遥は険しい表情で叫んだ。そんなことは分かっている。でも許せない。

 桐生は話を打ち切り、遥に祇園を出るよう命令した。

 すると、彼女は言う。もうここしかない。私は一人ぼっちだ。

 その台詞を聞いた桐生は過去を想起する。彼がかつて愛した女「浮世(うきよ)」も同じことを言っていた。

 涙を流し、嗚咽を零す遥に、桐生は声をかける。本当に後悔しないのか。復讐をやり遂げてもお前はこの地に一生縛られることになるかもしれない。

 遥は涙を拭うと覚悟を決めて答える。

 

「はい!」

 

 彼女の意思の固さ、覚悟の程を理解し、桐生は答えた。

 

「この依頼、引き受けよう」

 

 涙声で礼を言い、深く頭を下げた遥は鶴屋へ帰ろうと踵を返す。

 

『澤村さん。 今よ』

 

 彼女を呼び止める声があった。この場にいない女性の声だ。

足を止めた遥を疑問に思ったのか、桐生は首を傾げる。もう話は終わったはずだ。いくら許可されているとは言え、遅くなると叱責される可能性がある。

 遥は振り返り、桐生を見る。眉根に皺を寄せ、先程とは打って変わって不安そうな表情をしている。

 

「おじさん……」

「おじさん?」

 

 突然「おじさん」と呼ばれ、桐生は面食らう。

 

「急にどうした? 早く帰らないと女将に――」

「おじさん!」

 

 少女の叫び声は悲壮感に満ちていた。桐生を呼ぶその声には、今朝初めて出会った相手だと思えない程の情愛が込められている。

 遥は飛びつくように桐生に抱きつくと、その胸元に顔を押し付けた。冷たい感触が腹へ流れる。

 

「おい、一体どうしたんだ? 後悔しているなら、俺が鶴屋の女将に言ってやるから」

「思い出して! おじさんが誰なのか、私が、誰なのか……」

 

 そう言って顔を上げた遥の顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。その顔に重なるように、誰かの顔が見える。

 昔、同じように自分の腹に抱きつき、「死なないで」と懇願した少女。どこの国のものか、白い服を着ており、自分と少女が立つ地面は黒く、固い。

 その少女の顔は目の前の遥と瓜二つだ。

 

「――やめろ!」

 

 頭の奥に痛みが走り、桐生は遥を突き放した。

 突き飛ばされた遥は土間に尻もちを付き、涙で頬を濡らしたまま桐生を見上げる。

 

「……なんなんだ」

 

 こめかみに手を当て、顔を(しか)めて桐生は呟いた。目の前で涙を流している少女を見ていると、胸に込み上げるものがある。罪悪感だ。

 少女を泣かせてしまったことがその理由ではないだろう。その程度で罪悪感を抱くような健全な人生を送ってはいない。

 ただ、遥を見ていると否応なく感じてしまう。大切な存在を自ら突き放してしまったような後悔だ。

 

『先に進めましょう』

 

 遥は立ち上がり、桐生に向かって深く頭を下げると、龍屋を飛び出て行った。

 

「あっ……」

 

 己の手が遥の背中を追って伸びているのに気づき、桐生の口から声が漏れた。それをそのまま力なく膝に降ろし、のろのろと立ち上がると、龍屋を出る。

 

「受けちまったか」

 

 横から声が聞こえた。

 

「大変だぞ」

 

 そこには、いつも通りの青い半纏を羽織り、腕を組んでいる伊東が龍屋の看板に背中を預けて立っていた。

 

「伊東さん、聞いてたのか?」

「ああ、全部聞かせてもらった。」

「そうか……。 なぜ遥は、あんなことを言ったんだか、わかるか? 俺はあいつと今朝初めて会ったんだ。 あいつは何を知っているんだ」

 

 憔悴(しょうすい)した様子の桐生が早口で捲し立てる。

 

「ちょ、ちょっと待て。 なんのことを言ってるんだ?」

「……え? いや、あいつが俺のことを『おじさん』って呼んだり、自分が誰なのか思い出せって」

 

 伊東は顎を撫で、首を傾げる。心底理解できない、と言った様子だ。

 

「お遥はそんなこと言ってねぇよ。 お前大丈夫か? お前、疲れてるんじゃねぇか?」

 

 気遣わしげな視線を向けてくる伊東に対し、桐生は表情を歪ませた。

 

「全部聞いてたんだろ? あいつがうちを出て行く前に言ってたじゃないか」

「あ? あの娘はお前が依頼を受けたすぐ後に礼を言って出てっただけじゃねぇか。 さっきお前が言ってたことなんて俺は聞いてないぞ」

「……どういうことだ?」

 

 遥があれだけ泣き叫んでいたのだ。すぐ外にいた伊東に聞こえなかったはずがない。伊東は桐生の肩を軽く叩き、励ますように言った。

 

「ま、依頼を引き受けたことには変わりねぇんだろ? とりあえず動くしかねぇな」

「あ、ああ」

 

戸惑っている桐生を安心させるように笑みを浮かべると、伊藤は後ろ手に手を振って去って行った。

 一人取り残された桐生は龍屋へ入ると畳に腰かけ、遥から受け取ったままの脇差を手に取り、思案する。

 彼女の言い分では、自分の正体を知っているはずだ。しかし、そうなると自分に依頼をしてきた意味がわからない。依頼を受けた時点でのあの問いかけは不自然であるし、「思い出せ」と言うことは桐生が自分の正体を忘れている、と遥が考えているように捉えられる。

 宮本武蔵の存在は罪だ。徳川家康の息子であり、豊臣秀吉に人質として送られた結城秀康を暗殺した。さらに、愛した人は宮本武蔵が傍にいたせいで賞金稼ぎに殺された。

 それ故、桐生一馬之介はここ、祇園で新たな人生を生きようと宮本武蔵の名を捨てたのだ。

 桐生が依頼を受けると決めたその時の遥に、嘘をついている様子はなかった。彼女の家族を襲撃した何者かが、自身が四年前まで持っていたこの脇差を所持していたのは間違いないだろう。

 どうにも気にかかる。突然、別人になったかのような彼女の姿と重なるように、桐生は彼女に良く似た別の少女の姿を幻視した。

 桐生は脇差を傍らに置くと、煙管に火を入れた。

 

「はぁ」

 

 ため息とともに煙を吐き出す。ともかく、今はこれ以上考えても答えなど出ないだろう。桐生は明日からの行動を思案しつつ、煙管を煙草盆に投げると、布団も敷かずに畳の上にごろりと横になった。

 

 

 

 遥は未だに流れ続ける涙を袖で拭いつつ、夜の祇園大路を歩いていた。

 

『澤村さん、大丈夫?』

 

 聞こえて来たのはモニタリングしている優子の声だ。

 

「……すいません、どうもこの娘の意識に引っ張られちゃってるのか、涙もろくなっちゃってるみたいで」

『いいのよ。 そのおかげで桐生さんに良い刺激を与えられているわ。 一瞬だけだけど、桐生さんの脳波が活発に動いたの。 大きな一歩よ』

「本当ですか!? ……良かったぁ。 私の、私たちのやってることは間違いじゃないんですね」

 

 立ち止まり、遥は笑顔を見せた。涙は既に止まっているが、目元は赤く腫れている。

 

『もちろんよ。 デズモンドの時とは違って、私たちは万全の準備を整えてから治療してるんだもの』

「あ、優子さんたちを信じてないわけじゃ――」

 

 鶴屋の裏口へ向かう路地を曲がった遥は、誰もいない路地で手を振って否定する。路地の先にある地蔵がその様子を見ているような気がして、恥ずかしそうに周囲を見回した。

 

『ふふふ、わかってるわ。 二日後、また遥ちゃんと桐生一馬之介が会話するわ。 さっきみたいに、彼の感情を揺さぶってあげて』

「わかりました。 アイドル時代は演技のレッスンも受けてたから、上手くできると思います」

『あら? 本当に演技だったのかしら。 澤村さんの脳波のデータでは――』

「調べなくていいですから!」

 

 そう言って遥は頬を抑えた。

 

 

 

 翌朝、桐生は伊東の助言を受け、河原町にいるという芸術家「本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ)」という男を探していた。

 苦労して通行証を手に入れ、四条大橋へ出る。広い川幅にかかる大きな橋は、多くの人々が行き交っていた。普段、祇園から出入りすることのない桐生には、馴染のない光景だ。

 以前、旅の僧に導かれ、祇園へ訪れた際に譲られた武者服を着た桐生は、少し観光気分に浸りながら橋を渡っていた。

 ふと、何でもない日常の風景に似つかわしくない殺気を背後から感じた。

 咄嗟に刀を抜きつつ、背後に向けて振るう。

 甲高い音を立て、刀は止められた。

 

「お前は……」

 

 左手を顔の右横に上げ、捲れた袖の下に嵌めている籠手で刀を受け止めた者は、口の左端から耳にかけて蚯蚓腫れのある男だった。黒い着物の下に脚絆を着たその男の姿に、桐生は見覚えがあるが、思い出せない。

 籠手の先から隠し刀が出ているところを見ると、即座に攻撃を選択した桐生の判断は間違っていなかったようだ。

 

「なんのつもりだ?」

「死ね」

 

 問答無用、とばかりに男は桐生の刀を打ち払うと、豊かな懐に隠していた小太刀を抜き、逆袈裟に斬り上げてきた。桐生は左手で脇差を抜き、それを受ける。

 

「待て! なぜ俺を狙う!?」

「お前が畜生にも劣る(くず)だからだ」

 

 桐生の怒声のせいか剣を打ち合わせる音が響いたせいか、周囲の町民たちが異常に気づき、悲鳴が上がる。

 桐生は右手に持った剣を男の頭部目がけて横なぎに振るうと、男は上体を逸らし、そのままとんぼ返りすることによって回避した。

 男に言われた言葉の意味を考えるが、暗殺者のような男に狙われる理由など、一つしかない。彼は恐らく、自身が暗殺した結樹秀康に縁のある者だ。

 その実力と身のこなし、発言から桐生はそう推測した。

 

「ただの賞金稼ぎじゃあないようだな」

「お前の首なんて興味ねぇよ。 俺はただ、お前に死んでほしいだけだ」

 

 桐生は左手に持った脇差の切っ先を男に向け、右手に持った刀を頭上に掲げる。他に類を見ない二刀の構えだ。

 見慣れない構えだからか、男は片眉を上げ、訝しそうに桐生を見た。常人であれば刀の重さに振り回され、まともに戦うこともできずにその命を絶たれるであろう。

 

「二刀か……。 それには少し、興味があった」

「何?」

 

 桐生が二刀を実践で疲労した機会は少ない。それを見たことがあったのか、やはり自身の正体を知っており、二刀の噂話でも聞いたのか。

 男は小太刀を逆手に持ったまま、上段から袈裟切りに切りつけて来た。その踏み込みは驚くほどに速く、距離を瞬く間に詰められる。

 桐生は二刀を交差させ、その交点で小太刀を受ける。予想した通り、それは軽量の武器だとは思えない程強力な一撃であった。

 

「事情を聞かせろ。 誰の仇討(あだう)ちなのか知らせずに憎い敵を討って満足できるのか?」

 

 男は答えず、左手の籠手に仕込んだ隠し刀で桐生の腹を突こうとした。桐生は力を込めて小太刀を跳ね上げると、右手の刀で隠し刀を払う。同時に左手の脇差を振るうが、それは小太刀に受け止められた。再び近距離で睨み合う。

 そこで桐生ははっきりと男の目を見た。その瞳に宿るのは憎しみではなく、怒りだ。

 

「……お前、衝動的に俺を殺そうとしているのか?」

 

 男は片眉をピクリと上げ、その口端を不機嫌そうに下げた。鍔迫り合いになっている刀に、力がこもる。

 つい最近の出来事で、何者かの怒りを受けるようなことを考える。ここに至るまでの間に、様々な暴漢に絡まれてきた。だが、その男たちとこの男ではあまりにも実力に差があり、戦法も全く違う。

 無様に負けたことへの仕返しであるとは考えにくい。

 となると、思い当たることが一つある。

 

「……遥のことか?」

「殺す」

 

 脇差にかかる重圧が消えたかと思うと、腹部に強烈な痛みが走った。男が蹴りを放ったのだ。

 

「ぐぅっ!」

 

 数歩後退りし、片膝を着いた桐生の目に隠し刀を仕込んだ左腕を振り上げ、躍りかかる男の姿が映った。

 殺られる、そう思った瞬間、ぴりぴりぴり、という御用聞きが鳴らす警笛の音が辺りに響いた。

 桐生の喉元で刃を止めた男は舌打ちをすると、背後を振り返った。洛外の方から橋に向かって十手を振りかざした男たちが駆け寄ってくる。男は懐から丸い球を取り出すと、地面に投げつけた。

 瞬く間に周囲に白煙が広がり、男と桐生の姿を覆い隠す。

 

「死にたくなければ、守りたければ強くなれ。 お前を殺したい奴は腐るほどいる」

 

 桐生が何かを言い返す前に、男の気配が消えた。薄らと晴れて来た煙の向こうには、御用聞きの姿が見える。桐生は踵を返すと、人込みを掻き分け、河原町へ向かって四条大橋を駆けた。

 

 

 

 御用聞きから逃れ、やっとの思いで当初の目的である本阿弥光悦の屋敷へ辿り着いた。芸術家である光悦の点てた茶を飲み、桐生の「人を捜している」という事情を聴いた彼は、茶室の地下に案内した。

 そこには、大勢の忍装束の男たちが頭を下げて控えていた。

 そこで光悦は、己の裏の稼業が「情報屋」であると告白した。それを知っていた伊東が桐生に光悦を訪ねるよう言ったのだ。

 宮本武蔵の居場所の情報が欲しい桐生に、光悦は仕事の依頼をした。「宍戸梅軒」に盗まれた収集品を取り返せ、と言う。

 すぐに宍戸が潜んでいるという、林道の先の洞窟へ向かった桐生は、そこで思わぬ再開を果たした。

 宍戸梅軒の正体はかつて共に戦った真島五六八であったのだ。しかし、彼は盗賊になる以前の記憶を無くしており、桐生の正体が宮本武蔵であることには気づかなかった。

 辛くも宍戸を倒した桐生は祇園で再び会うことを約束し、取り返した収集品を光悦の元へ届けた。

 早速、宮本武蔵についての情報を求めるが、光悦の持つ情報に「次々と道場破りを繰り返す宮本武蔵」の居場所はなかった。しかし、彼は本物の宮本武蔵の正体が、目の前にいる桐生一馬之介である、と看破していた。そもそも、宮本武蔵の手配書の人相書きを描いたのは光悦であったのだ。それ故、宮本武蔵が宮本武蔵を捜している、ということを不思議に思っていた。

 光悦は桐生から事情を聞くと、偽物の宮本武蔵が次に現れそうな場所を話した。「吉岡道場」。吉岡清十郎が師範を務め、代々足利将軍家の剣術指南役を務めてきた名門道場だ。

 翌日にでも吉岡道場へ向かうことを決めると、桐生は更に情報を求めた。

 

「あと一つ聞きたい」

「まぁ、普通なら別の依頼をするが、今日は気分が良い。 言ってみろ」

「感謝する。 聞きたいのは、ある男についてだ」

「どんな奴だ?」

「主に使う得物は小太刀だ。 さらに、左手の籠手に隠し刀を仕込んでいた。 その戦い方は、剣術家というよりも、暗殺に偏っている」

 

 桐生は昼間に戦った男の情報を語りつつ、無意識に蹴られた腹を撫でた。既に痛みを感じることはないが、思い出すと胃が疼く。

 

「忍か?」

「昼間の道中だから忍装束じゃなかったが、恐らく」

「なるほど。 ……一つだけ、心当たりがある」

 

 前のめりになった桐生を押し返すように手をかざすと、光悦は話し出した。

 

「下の忍を憶えているな?」

「ああ」

「あいつらは主に甲賀の忍びで構成されている。 その中に、お前が話したような戦い方をする者はいない」

「つまり、昼間に俺を襲撃した男はあんたの手の者じゃない、と」

「ふふふ、当たり前だ。 俺にお前を狙うような理由はない」

 

 おかしそうに笑う光悦を見て、桐生はそれが真実だと判断した。

 

「忍の里で大きな力を持つ里は、二つある。 俺が使っている甲賀と、伊賀の者だ」

「あいつは、伊賀の忍だと言うことか」

「そうだ。 お前の話じゃ推測しかできないが、隠し刀を使うのは伊賀者だけだ。 うちの忍にも使わせようと作ってみたが、粗悪品にしかならなかった。 刃が上手く出なかったり、少し使っただけで折れたりな」

 

 昼間の男との戦闘を思い出す。桐生は一度、刀で男の隠し刀を弾いたが、折れるどころか、曲がった様子もなかった。

 

「なるほど。 なら、奴は伊賀者で決まりか。 なぜ、俺を狙ったのかは分かるか?」

「伊賀者は関ヶ原の戦では徳川率いる東軍についた。 結樹秀康の仇討ちだと見て間違いないんじゃないか?」

「いや、どうもそれだけじゃないようだ。 断言はできないが、俺に偽物の宮本武蔵の仇討ちを依頼した少女に関係があると思う」

「その少女の名は?」

「遥」

 

 光悦はしばし腕を組んで考えるが、(かぶり)を振った。

 

「悪いが、心当たりがねぇ。 そっちについても調べてみるか?」

「……いや、今はいい。 これ以上あんたに借りを作るのも怖いしな」

「ははは、儲け損ねたぜ」

 

 楽しそうに笑う光悦を見て、桐生も笑みを浮かべた。しかし、その笑みはすぐに消える。

 

「それに、奴とはまた会うことになると思う」

 

 桐生は己の掌を見る。去り際に言われた男の台詞を思い出した。強くなれ。それを確かめるために、彼はまた桐生の前に現れるだろう。昼間の戦いでは手も足も出なかったが、次に会う時は奴の鼻を明かしてやろう。

 そう決意を込め、拳を握った。

 

 

 

 祇園に戻った桐生は龍屋にて、伊東に今後の行動の報告をしていた。

 明日、吉岡道場に入門し、直接果たし状を送りつけたという「宮本武蔵」の情報を得るつもりだと話す桐生に、伊東は吉岡道場についての情報を伝えた。

 入門するのに剣士としての格が必要だ、と話し、それを潜り抜けるために「祇園藤次(ぎおん とうじ)」に賄賂(わいろ)を渡すことを提案する。

 彼は鶴屋に足繁く通っているらしく、伊東は今夜、鶴屋に来るよう桐生に伝え、龍屋を後にした。

 桐生はすぐに賄賂となる二両を集め、鶴屋の裏口へ向かった。

 そこで見たのは、新造(しんぞう)である女二人が禿である遥をいびり、それを太夫である吉野が叱責している場面であった。

 吉野は遥にお座敷に戻るよう、声をかけると鶴屋へ入って行った。

 その直後に出て来たのは、いかにも遊び人風の男であった。一般客が裏口に出てくるとは考えにくい。恐らく、この男が祇園藤次であろう。

 藤次は泣いている遥に声をかけると、甘言を用いて彼女を籠絡しようとしていた。しかし、桐生に声をかけられ、遥は鶴屋に戻ってしまう。

 桐生は賄賂を渡し、吉岡道場への橋渡しを頼む。

 賄賂を受け取り鶴屋へ戻って行った藤次を見送った桐生は、視線を鶴屋の屋根の上に向けた。

 

「……」

 

 そこには、鬼気迫る形相で桐生を睨みつける、口の端から左耳にかけて傷跡がある男が満月を背にして立っていた。あの場面で藤次に声をかけなければ、奴は恐らく彼を殺すつもりであったのだろう。左手の籠手から隠し刀が飛び出たままになっている。

 男は何も言わず、背を向けてその場を離れて行った。

 桐生の目に、鶴屋から漏れる明かりに照らされ、男の背に描かれている鷹が浮かび上がっているように見えた。

 それがまた桐生の記憶を刺激する。確かに、あの男には会ったことがある。間違いなく、ここ、祇園でだ。

 そして、奴が遥と関わりがあるのもはっきりした。

 藤次と取引する必要があったため、遥と話すことはできなかったが、彼女の様子も気になる。昨夜のように狂乱した様子は微塵(みじん)も見られなかったが、揚屋で禿として働くのは辛かったのであろう。泣いていた。

 あの様子を見るに、遥があの男の存在を知っているとは思えない。そもそも、知っていれば桐生ではなく、奴に仇討ちを依頼すればいいのだ。

 考えることはたくさんある。

 ひとまず、桐生は明日の吉岡道場の入門試験と、自身の剣術の向上に意識を集中し、鶴屋を後にした。



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