やさぐれIGO (76)
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出会い

 0.

 

 

 アイツと初めて出会ったのは、高校卒業間近に迫った冬の終わり際。俺の祖父『進藤平八』の葬式後の事だった。

 俺がまだクソガキだった頃、クソ親父が不倫し他所に女を作って家庭を崩壊させた後。両親のどちらにも引き取られなかった俺は父方の祖父である平八の家で暮す事に成った。両親の別離により荒んだ俺の面倒を嫌な顔一つせずに好々爺然とした絵に描いたような親代わりをする祖父に口では反抗的な態度を取ってはいたが内心では感謝の念で一杯だった。そんな祖父と非行少年時代を過ごしていた俺だったが、またしても終わりは迫ってきていた。

 高三の秋ごろから体調を崩しがちに成り布団の中から殆ど動かなくなった祖父、俺が生まれる以前に祖母は既に他界しており日中は近所のおばさんが稀に様子を見に来てくれる程度だった。冬の終わりが近づく頃。詰まる所一月の終わりの日、卒業式を目前にしたその日に祖父は心筋梗塞を引き起こして倒れ、様子見に来たおばさんが救急車を呼び病院に搬送するも時既に遅く。頭が真っ白になった俺は、その後どうやって葬式まで過ごしていたのか自身でも分からないが気が付けば葬儀は終わり、憎き両親が醜い争いを繰り広げている光景が視界に入っていた。

 遺産相続だ。生前祖父は暇つぶしだと言って株に手を出しビギナーズラックが働いたのかどうかは知らないがそこそこに利益を生み出したらしく、倒れる寸前までパソコンを手放すことは無く朝早くから寝るまで噛り付く様に睨みを利かせていた。その結果、生まれ出たのが五千万という大金だった。

 酷く汚い罵り合いをこれ以上祖父と暮した家で見たくなかった俺は金はくれてやるからさっさとこの家から出ていけと手荒く追い出し、遺言書を預かっていた弁護士と話し合って家の権利書をもぎ取った。

 その後、空虚な一人暮らしが開始して一か月が経った頃。遺品の整理をするべく、ガキの頃に『あかり』と共に過ごした蔵へと入ったのだ。中は薄暗く、小さな剥き出しの豆電球がぶらりと一つ垂れ下がっているのみで日中とは言え埃っぽい蔵は薄気味悪い雰囲気を醸し出していた。

 一階には秘蔵の酒だとか言って自慢していた酒瓶やら巻物等良く解らない物品が所狭しと置かれており、これは骨が折れそうだと溜息を吐いた俺だったが、そう云えばと不意に祖父が至極大切そうに磨いていた古びた『碁盤』が脳裏を過った。祖父が大切にしていた物を出来るだけ身の回りに置いておきたいと思っていた俺は陽がどっぷり暮れる頃二階の奥深くに鎮座するソレを見つけた。

 先ず、ソレを見た時に感じたのは違和感だった。祖父は丹念に幾度も磨き上げていたであろうにも関わらず『何故か』ソレの表面には血痕の様なモノが不気味に浮かび上がっていた。よもや祖父が吐血した痕ではなかろうかと恐る恐る薄らと埃が積もる盤上を撫で上げた。

 目線を碁盤から上げると眼前には人形の様に美しき人型が目を伏せ嘆きの声を小さく呟いていた。気配も無く、突如としてにまるで『幽霊』の如く現れた和装の人型に驚いた俺は思わず『誰だお前は』と驚愕と疑心の声をあげていた。奴は驚きを隠さず、涼やかな透き通った声で『見えるのですか』と嬉しさを多分に膨らませた子犬の様に目をぱちくりと瞬かせる。

 あ、嗚呼。と少々どもりながらも返答する俺だったが奴は何やら神に感謝の祈りを捧げると俺に向かって飛びかかった。突然の事に身動きすらできなかった俺は奴が俺の身体に触れたその瞬間に意識を失う事と成った。

 

 

 

 1

 

 

 

 目が覚め、意識を定着させ暫くすると奴は自身を『藤原佐為』と名乗り平安時代を生きた亡霊であると告げた。己の身の上話を聞いてもいないにも拘らず話し始める藤原に辟易としながらも適当に聞き流しておけばいいやと結論付けては厄介なモノを遺して逝った祖父を少しばかり恨んだ。

 藤原の過去話をかいつまんで説明すると何やら重要な囲碁の対局中にイカサマされ負けて入水自殺を図り、しかし囲碁をもっと打ちたいという思念が碁盤に宿り『虎次郎』こと『本因坊秀策』に憑りついたは良いものの秀策が病に倒れてしまったためにまたしても亡霊と成り今度は俺に憑りついたという訳だ。

 長々と続けられる話しにイラついた俺は奴に向かってこう言ってやったのだ。『ふざけるな。どうしてお前の都合に付き合わされなければ成らない』と奴は所在無げに俯き、下唇を噛み締める暫し逡巡し『でしたら』と口を開いた。白を基調とした紫紺の和服を肌蹴る様にして病的なまでに白地の肌を曝け出した。濡れた様に艶やかな腰元まで届く黒の髪と曝け出された白のコントラストが誘惑的な色気を醸し出す。

 胸元には白色のサラシできつく巻き豊満な胸部を目立たせない様にと圧し潰すようにしている。サラシに手をかけた所で、見惚れるほどに美しい芸術品の如き肢体に息を呑んだ俺だったが頭を振って『そういう事をして欲しい訳じゃない』と怒鳴りつけた。『ですが』と言葉を続けようとした藤原に溜息を一つ吐いて降参を告げる。ただし、と続けて力量を計るためにネット囲碁からだと藤原を言い包めた。

『ねっと囲碁とは何でしょうか?』と小首を傾げ顎元に手を当てて疑問の声を上げる藤原に実際にやって見せた方が早いだろうと藤原を伴い蔵から母家へと移動し、祖父の遺したノートパソコンを立ち上げた。どこぞの会社のロゴが映し出されると藤原は驚きの声を上げてぺしぺしと右手にいつの間にか握った扇子でノートパソコンに触れはじめる。画面が切り替わり俺と祖父が家の前でツーショットを決めるホーム画面が映し出されると藤原は『面妖な』とこれまた古めかしい言葉をポツリと呟いてまだかまだかと、ネット囲碁を心待ちにしている。

 暫くして完全に立ち上がり、インターネットへとアクセスし検索サイトからネット囲碁が出来るサイトへと繋げて諸々の初期登録を済ませるとユーザー名をどうするかと藤原に振り返って聞こうとするも早く早くと急かされたために適当でいいかと『sai』と打ち込み対局者を待った。時刻は既に十時を回り、倒れ伏していた事を鑑みるに腹具合と相談して取りあえず一戦だけだと告げると打ち捨てられた子犬の如き目で此方を縋る様に見つめ始める。そんな藤原に顔を引き攣らせているとぴこんという軽快な音を立て、対局相手が現れる。しめたと藤原を囲碁が出来るぞと促すと表情を一変させ瞳をキラキラとさせては対局を楽しみにしている。

 先手後手がランダムに決定され、此方が黒。即ち先手と成った。藤原に何処に打てばいいと振り返ると静かに両の目から涙を流し、頭を振り『行きます』と言って十七の四、右上隅小目を扇子で指し示した。

 

 

 

 

 

 2

 

 

 

 結果から言って藤原は勝利した。ただ、不満が有るとすれば対局者が途中で諦め試合を投げたことだ。百うん十年振りの対局に藤原は少し残念そうにしていた。そんな顔をする藤原に何故か腹が立ち、飯を食ったら飽きるまで打たせてやるよと口約束をし、それが仇と成って明け方までノートパソコンに向かってマウスを動かし続ける羽目に成った。余計な事を言わなければよかったと心底後悔したのは言うまでも無いだろう。

 藤原はド素人の俺からしても綺麗な盤面を生み出していた。どんな相手でも対局し、勝ちを譲らない様は見ていて爽快感すら感じるほどだ。肩口から画面をのぞき込む様に密着する藤原にドキリとした事は幾度か有ったが彼女の真剣なしかし何処か楽しげな横顔を見る度に『嗚呼。コイツは本当に囲碁が好きなんだな』と感じ取れた。

 藤原の相手をしている事でぽっかりと穴が開いた様な気がしていた心がいつの間にか藤原佐為という不思議な存在で埋め尽くされていた事に気が付いたのは何時の事だったか。今日も今日とて藤原に急かされ彼女が好きだという囲碁を打つ。楽しげな彼女の横顔を俺だけが見ていられる。そんな小さな幸せがずっと続けばいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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2話

 

 3

 

 

 

 物凄く強いネット囲碁師が居る。プロ棋士『和谷義高』が負けたと言い出した事から始まった正体不明の棋士探しは大いに囲碁界を騒がせた。ハンドルネーム『sai』と『zelda』詰まる所和谷との対局棋譜を彼の師である『森下茂男』を始めとする名だたるプロ並びに研究生達に見せた所爆発的に広まった噂である。今日も今日とて森下研究会に置かれたノートパソコンの前には人だかりが出来ていた。その隣ではボードに今現在を以って打たれている『sai』の対局が張り出されていた。

「しかしなぁ。どうしてコイツはネットの世界に閉じこもっているんだ? これだけ打てるのならプロにだって……ううむ」

「そこなんスよねぇ。このsaiって奴一体何考えてんだか全く分かんねぇし」

「和谷、saiも良いがオレと対局してくれよ。皆saiのことが気になって誰も相手してくれないんだ」

「伊角さん! もう少しだけ待って貰って良いですか? もう少しで終わりそうなんスよ。そうだ、伊角さんも見て下さいよこれ!」

「おいおい、和谷。ボードにも張り出されてるんだぞ? 全く……にしても本当に以前お前が言っていた秀策に似ているな。何者なんだコイツは」

 ソレが解ったらどんなに良い事かと和谷は苦笑交じりに『そうっすね』と返す。パソコンの中、盤上には黒白に彩られた電子の碁盤が映し出され『sai』の勝利がその上を塗り潰すようにポップした。

「嗚呼、終わっちまった。和谷、伊角と打つんだろう? サッサと行ってやれよ」

「そうっスね。よし、伊角さん! 打ちましょう」

「はぁ。お前のその言葉遣い早めに如何にかした方が良いぞ」

 伊角と呼ばれた黒髪の青年と幼さを残した明るい茶髪の少年和谷は手ごろな空いた席に着き碁石を握った。『お願いします』の掛け声と共にパチリと一際大きく響いた。

 

 

 

 

 4

 

 

 

 

 カチリカチリとマウスのクリック音と嬉しそうに微笑む女性の声がヒカルの鼓膜を打つ。ノートパソコンに向かい操作するヒカルの隣には白装束に身を包み込んだ妙齢の美しい女性が座しており食い入るように画面をじっと見つめていた。

「(はわぁー、この『のーとぱそこん』と『ねっと囲碁』は凄いものですねぇ……ヒカル)」

「嗚呼、そうだな。どういう原理で出来ているのか俺には分からないがこうしてあるのだから凄いものだ。所で藤原いつまでも俺はこうやって時間を気にせず打つことが出来る訳じゃない。後一週間もすれば大学が始まるし、な」

「(ええっ!? もう打てないのですかぁ!?)」

「待て待て。打たないとは言ってないだろ。ただ、対局数を少し減らせと言ってるんだ。俺も目が疲れるしさっきも言ったが学校も始まるんだからネット三昧とはいかないんだよ」

 そんなーと項垂れ腰元まで届く長い黒髪を垂らして落ち込む藤原に悪いなと声掛けてあと一週間は付き合ってやるさと励ます様に『何故か』触れ合う事の出来る藤原の頭を撫でるとじゃあもっと打ちましょうと次を急かす様にパソコンを扇子で突く。

「はいはい、分かったよ。ん、対局申し込み? 国籍は日本。どうする藤原、受けるか?」

「(ええ、勿論受けます)」

「オーケー、始めよう。今度のは強い奴だと良いんだが」

 そうですね。と小さく返答する藤原の目は既に臨戦態勢に入っており切れ長の瞳を薄く細めて相手がどの様な手を魅せてくれるのかと期待に胸を膨らませていた。『ぴこん』という軽快な音と共に黒石が盤上に置かれ『sai』の対局が再び幕を切った。

 

 

 

 

 

 5

 

 

 

 

「あ。やべぇ食材切らしてたの忘れてた。藤原、悪いけど一旦ネット囲碁は切り上げてスーパー行くぞ」

「(はい? 『すーぱー』とはなんでしょう? 囲碁に関連しますか?)」

 どこまでも囲碁好きな藤原に軽い頭痛が走るも駄々を捏ねられても困るので適当に言葉を濁しながら色々な雑貨を売っている店だと返答する事で興味を誘導し囲碁から遠ざけようと試みる。

「興味があるならついて来るか? ……いや、その前にお前は俺から離れる事が出来るのか? 一応憑りついているんだろう?」

「(行きます! 離れられるのかと聞かれると……うーん、難しいみたいですね。精々一〇尺(三メートル)程度ではないでしょうか?)」

「そうか、まぁ迷子ならない範囲なら丁度良いというか都合が良いというべきか」

「(むっ。ヒカル! 迷子になるだなんて些か失礼ですよ!)」

「いいや、もしお前が自由に移動できるなら碁会所やら囲碁に関係する場所だったらフラフラとタンポポの綿毛みたく飛んでいきそうだ」

 胸を抑え『うぐっ』と図星を突かれた様にオーバーなリアクションを取る藤原を見ていると自然と笑い声がくつくつと喉元から響いている事に気が付いた。そんな俺を見て機嫌を損ねたのか不満げにふくれっ面をしてそっぽを向き始める藤原のご機嫌を取る様に『食材買ったら碁に関する本でも買ってやるよ』と声かけると彼女の機嫌は如何やら反転した様で『さぁ行きましょう』と急かし始める始末だった。財布を斜め掛けの鞄に突っ込みガス栓の確認と戸締りをして進藤家から外へと出る。最寄りのスーパーはそれ程遠くない位置に出店しておりご近所では『近くて安く安全』の三点揃った評判の良い店だ。

「(ね、ヒカル! ヒカルってば!)」

「(なんだ、どうした藤原?)」

「(誰かの視線を感じます。家を出てからずっとです)」

「(…………ほっとけよ)」

「(え? いえ、しかし……分かりました。何やら事情が有りそうですね)」

 テレパシーとでも言えばいいのか俺と藤原は脳内で伝えたいと思ったことを送受信する事が出来る様だった為に余計な事をするなと釘を刺しつつ歩を進める。誰の視線かだ何て解りきっている。『彼女』だ。『彼女』は俺に負い目を感じてある種の病気に近しい状態に陥ってしまっていた。誰にもどうすることも出来ない『彼女』の事を思い出すと胸が苦しくなる。

 道中幾分か気分が悪くなりはしたが無事目的地であるスーパーに到着しカップ麺や冷凍食品を買い物籠に放り込みそそくさと会計へと足を向けようと振り返った時だった。『彼女』が声を掛けて来たのは。亜麻色の綺麗なストレートヘアに以前会った時よりも大人びた顔立ちになった美女と美少女の狭間で揺れる『彼女』は親しげに近づいて来る。

「ヒカル、偶然だね。……『また』そんなの食べてるの? ダメだよ栄養に気を付けないとっ! 今度、ぅうん今日から私が……」

「……悪いが、藤崎。もう……俺に関わるな。その方がお前のためだ」

「ど、どうしてそんな事言うの? ヒカル。私は……ヒカルの為に!」

「お前は俺に負い目を感じているだけだ。ガキの頃に起きた『詰まらない出来事』にいつまで足を取られているつもりだ? 俺はお前の助けがなくても大丈夫だといつも言っているだろう」

「で、でも! あの、その……私は、ヒカルの」

「悪い、な。俺の事は忘れてくれ……(多分、初恋だったよ。あかり)」

 踵を返し藤崎から逃げる様にして呆然とする彼女から離れる。隣には藤原が悩ましげな顔をしながら追随していた。

「(良いのですか? 彼女はヒカルの事が……)」

「(ん、アイツさ。俺みたいなのには勿体ない位に器量よしで良いヤツ過ぎるんだよ。……だからこそ、アイツには幸せに成って欲しいんだ)」

「(ヒカルが、あの娘を幸せにすればいいじゃないですか)」

 藤原の言葉に自嘲気味に苦笑を浮かべると首をゆっくりと横に振って無理だと告げる。『俺が隣に居ると彼女は不幸に成ってしまうだろう』と。続けて『あかりは優しすぎて意思の弱い俺では共依存してしまう』のだと藤原を説き伏せる。

「(なんて、報われない……ソレで本当に良いのですか? ヒカル)」

「(仕方がないんだよ。藤原。何も知らないクソガキだった俺だったなら。もしかすれば『あかり』とそういう関係に成っていたのかもしれないな)」

 乾いた笑いを上げ疲れ果てた老人の如き重い足取りで自宅までの道を只管に歩いていく。藤原は何かを考える様に黙していたが、この時ばかりはつい先ほどまでの騒がしかった自室が途轍もなく恋しく思ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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3話

 

 

 6

 

 

 

 

 色とりどりの熱帯魚が優雅に泳ぐ水槽を背に大人びたおかっぱ頭の青年と趣味の悪い白スーツ姿の一見チンピラにも見える金髪に色の入った眼鏡を掛けた優男がコピー紙片手に悩ましげな表情を浮かべながら会話を交わしていた。

「これが、例のネット棋士ですか……」

「嗚呼。どうしても君の意見が聞きたくてね。『アキラ』君はどう思う? 一部ではコンピュータなのではないかというふざけた意見まで上がる始末だ。しかし、」

「有り得ません。先ず定石が古すぎます、仮にコンピュータのソレだとすれば最適解を弾き出すはずです。しかし……この棋士は気が遠くなるほど長い年月を囲碁に費やした様な錯覚すら思わせる。そんな気さえするんです」

「嗚呼。俺も概ね同意見だ。コイツはコンピュータなんかじゃあない。それ以上の化け物だ。……一度御手合わせ願いたいものだな」

「抜け駆けはさせませんよ? 『緒方』さん」

 不敵に笑みを浮かべて『ライバル』の様に睨み合う二人は競う様に緒方と呼ばれた青年のデスクトップパソコンの中映し出された、公式からネット囲碁最強の称号を与えられた正体不明の棋士『sai』の無敗の三〇〇連勝を記念とした『オフ会』が開催される旨が告知されるページを見つめていた。

「来ますかね。saiは?」

「こうして告知までされているんだ。来ないとは考えられんし考えたくないな」

「この日、緒方さんは確か手合いが有った筈でしょう? ボクが代わりにsaiと打ってきますよ」

「ハッ! アキラ君。俺がこんなに面白そうなイベントを逃すとでも思うか?」

「いえいえ。ですが、緒方プロともあろうお方が正体不明のプロともアマともしれない輩の為に対局をすっぽかす筈ないですよね? saiの事は後でじっくりとお話ししますからどうぞごゆるりと相手方の失礼にならない様に思う存分打って差し上げて下さい」

「(このクソガキ!)まぁ、確かに私用で出ないというのも些か不味いだろう。……仕方がない今回ばかりは引き下がるとするか」

「ええ。ぜひそうしてあげてください」

 にこりと愛想よく笑う『塔矢アキラ』に額に青筋を浮かべながらも兄弟子としての体面を守る為に口元をひくつかせながらも俺の分まで頼むぞと声を掛ける『緒方精次』に気を良くしたのかより深く笑みを浮かべる塔矢は失礼しますと緒方の部屋を後にする。

 塔矢が去った後、緒方は『あのクソガキィ!』とイラつきを発散させる如くコピー紙が積まれた品の良い木製のデスクを力いっぱいに叩いた。衝撃によって散乱する黒白に彩られた棋譜の全てがsaiが打った物であり緒方がどれ程saiとの対局を心待ちにしていたのかが如実に表れるというものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 7

 

 

 

 

 

 大学に入り勉学もバイトも無事に軌道に乗った頃。一通のメールが届いた。ソレは普段藤原にせがまれて打ち続けているネット囲碁の運営からの招待状であった。『sai』宛のソレは以前『公式ユーザー』として登録しないかと持ちかけられた送り先と同一であり今回送られてきた内容は大規模な『オフ会』の参加願いだった。交通費と決して少なくない日当も出る事から俺自身としても特に拒否する事情も無く、また藤原も現物と対局相手を見ながら打ちたいという願い出からオーケーの返事を書いて送ると今週末の日曜日に指定場所まで来て貰いたいとの返答がすぐさま帰って来た。藤原はあれからしばらくの間『彼女』の事が気がかかりに成っていたが最近はまた囲碁に没頭しており今回の事で完全に吹っ切れてくれると願いたいものだ。

「藤原。取りあえずこの一週間マナーや碁石の握り方と置き方、基本的な語句は頭と身体に叩き込んだが正直俺は堅苦しいのは苦手なんだ。困ったときは頼んだぞ?」

「(はいっ! 任せてください! 『おふ会』とやらに行けば強者と打てるのでしょう? でしたら私に任せてください)」

「嗚呼。頼りにしてるよ」

 ルンルンと鼻歌まじりに嬉しさを表現しているのか舞を披露する藤原。その姿は桜を思わせた。儚さと怪しげな色香を振りまく夜桜の如き一瞬の幻想の様な煌めきを感じさせる。気が付けば藤原の舞は終わっていて、呆然とする俺に心配そうに大丈夫かと声かける藤原の日本人形の如く整った美しき貌が目鼻の先、触れそうな位置に前のめりに座していた。

「(本当に大丈夫ですか? ヒカル。体調が優れないのであれば明日は止めておいた方が……)」

「いや、何。大丈夫だ。そんなに心配するなよ。ほら、明日は思う存分打っていいから今日はもう寝るぞ? (お前に見惚れていたからだなんて言える訳ねぇだろ)」

「(……ええ。分かりました)」

『おやすみ』と交わして布団に潜り込む俺だったがつい先ほど見た藤原の姿が余りにも美しく、初めてであった時のあの陶器の様な『ありのままの姿』が頭の隅にちらつき中々眠る事が出来なかったのは致し方がない事であろう。

 

 

 

 

 

 8

 

 

 

 招待状を受付のお姉さんに見せるとすぐさま俺達は運営をしている『小畑』と呼ばれる茶髪の好青年を絵に描いたような人物と相対する事と成った。一通りの挨拶を交わし終えると感謝の言葉を告げられる。

「こうして会うのは初めてだね。初めまして『sai』ボクがプロデューサー兼取締役の小畑茂だ。今日は来てくれて本当にありがとう」

「いえ。これ程大きなオフ会を私という個人の為に開いてくださった事感謝致します」

「いやいや。君がオーケーの返事をくれなかったら今回のこれは成立しなかったんだしそう固く成らないでほしいな。それに実はボク個人が、君の事が知りたいと思ったから屁理屈捏ねて無理やりねじ込んだんだ。……君とは良き友人として接してほしいかな?」

「……そうですか。では、俺は何をすればいいんだ? 確かメールではエキシビションマッチを行ってほしいとか書かれていたが?」

「へぇ。ソレが君の本性かい? さっきのよりも余程ボク好みだよ。……そうだね。開会式を終えてから君の紹介をして、次に此方が用意した最新のコンピュータと対局。その後討論会を開いて、会場の中から君が対局したい相手を選んでエキシビションマッチを行い、解説し閉会式をして締めだ。全力の君の力を会場の皆に存分に魅せてくれたまえ。期待しているよ? 『sai』」

「まぁ、期待に応えられるかは分からないが負ける気は毛頭無いさ。前の様に時間切れで負けなんて詰まらない結果だけは止めてくれよ?」

 ははは。と苦笑いを浮かべて善処するよと応える小畑。時間まで会場内を自由に見回っていてくれと続けられる言葉に了解と返し退室する。小畑は愛想よくひらひらと手を振って見送り楽しんでくれと声かけた。

「(ヒカル。『こんぴゅーた』とは、あの、以前の?)」

「(嗚呼。やたらと次の手が遅かったアレだよ。お前、結構苦手だったよな? 大丈夫か?)」

「(ふふっ。心配しているのですか? 大丈夫ですよヒカル。以前は有耶無耶に成ってしまいましたが、今回は必ず勝ちます)」

「(そうかい。ソレを聞けて安心したよ。まぁ、藤原の負ける姿なんて想像できないからなぁ。それより、時間まで会場内の物販コーナーとか見てみるか? 囲碁関連の物が目白押しだと思うぞ)」

「(はいっ! ぜひぜひ! 行きましょうヒカル!)」

 右腕を引っ張って早く早くと急かす藤原に苦笑を浮かべると行くかと一声入れて歩き出す。暫く歩くと会場へと繋がる大扉にたどり着く。中へと入り右回りに見て回る事にして手始めに扇子売り場にやって来た。藤原は色とりどりの扇子にはしゃぎ回り平安時代のソレ比べて多様に変化した色合いと材質に驚きの声を上げていた。とある一角で足を止め、じっと見つめる藤原にどうしたんだと念を飛ばすと俺に似合いそうな物を見つけたと返答が帰って来る。

「(これです。どうでしょうヒカル。一度手に取って見ては如何です?)」

「(へぇ。良いんじゃないか? 良い『センス』だな、藤原。お前の見立てなら間違いないだろうし、うん。買うよ)」

 藤原が勧める扇子は白地に淡い小さな桜の枝が描かれた上品な作りの物だった。自己主張せず控えめに咲くソレは何処か藤原を彷彿とさせ一目で気に入ってしまった。会計へと向かい決して安くは無い金額を支払うと『お揃いだな』と扇子を見せ合って笑い合った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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4話

 

 

 

 

 9

 

 

 

 

「えー、皆さま大変長らくお待たせいたしました。これより公式によるネット囲碁、オフ会の開催を宣言し、数多くのご来場並びに……」

 お決まりの前口上をつらつらと並べ始めた小畑の脇で衝立の裏に隠れる様にスタンバイしている俺に目配せすると一呼吸おいて『特別ゲスト』の紹介をすると言い放ち壇上に上がる様に指示が入る。言われるがままに移動し小畑の隣に立つとスポットライトの白々とした明かりが照射され会場内の注目が一挙に集まるのが分かった。

「紹介しよう。皆が血眼になって探し続けていた存在。彼が無敗伝説を更新中の最強のネット棋士『sai』だ。今回のオフ会には少し無理を言って参加して頂いた。さぁ、自己紹介頼んだよ? sai」

 意地悪気に微笑んでマイクを差し出す小畑に小さく溜息を吐いて受け取り、口を開く。隣には『頑張って! ヒカル!』と応援する藤原の健気な姿が見え、程よく緊張を解してくれる。

「ただいま紹介に預かったハンドルネーム『sai』だ。生憎と俺はネット碁しか触ったことが無い類の人間故、碁に対する作法には少々疎い。失礼の無い様心掛けるが気に障るようなことが有れば遠慮なく言って欲しい。小畑氏この後はどうすれば?」

「うん。まだ時間もある事だし何点か質疑応答をして貰えるかな?」

 了解と首肯して騒めく会場の中、真っ直ぐに伸ばされたスーツの袖が見えるおかっぱ頭の青年の元へマイクを持ったスタッフが駆け寄り彼に手渡す。感謝しているのか礼儀正しくお辞儀して受け取り顔が見える位置まで誘導されスポットライトが彼にも当てられた。

「『sai』色々と貴方にはお聞きしたいことがあります。が、一つだけという事でしたのでこれだけは聞いておきたい。始めて貴方が打ったという定石は余りにも古すぎる。そこからの水を得た魚の如き成長……貴方は、一体何時から碁を?」

 嘘偽りは許さないと剣呑な強い光を湛えた両の瞳は俺を捉えて離さない。チラリと隣へ視線をやって興味深げに青年を見る藤原を想うと自然と口から微笑と言葉が飛び出していた。

「……フッ、千年前からとでも答えておこうかな?」

「ッ!」

 目を見開き、困惑としかし合点がいった様に息を呑んで黙す青年を尻目に己の役目を遂行すべく質疑応答を再び進行する。

「さて、次の質問がある方…………」

 

 

 

 

 

 

 10

 

 

 

 

 無難な質問を適当に答えた後、メインイベントの一つであるコンピュータとの対局の時間が迫ってきていた。檀上には特設ステージが組み上げられ既に大型のCPUが搭載されたデスクトップパソコンが置かれ、碁盤を挟んだ向う側には小畑が座しコンピュータから算出された位置に碁石を配置する役を買って出たらしい。

 此方としても僅かではあれど見知った顔と対面して打つことが出来る為に幾分か気が楽だ。置き間違いだけには注意しなければと気合を入れ藤原に『勝つぞ』と念を飛ばす。彼女からの返答は『当然です!』と気合十分な物だった。

「準備は良いかな? sai。お手柔らかに頼んだよ?」

「さっきは全力で来いと言っていただろう? どれだけ向上したのか楽しみにしてるよ」

「くくっ。失言だったね。では」 「嗚呼。」

 

 

        『お願いします』     

 

 

 先手は此方。黒を握り藤原が指し示すお決まりといっても過言ではない初手。右上隅小目へと打つ。返す刀でコンピュータから弾き出された座標へと小畑が不慣れな手つきで慎重に白を置く。木目は次第に黒と白に埋め尽くされていく。薄く笑みを浮かべながら小畑を手玉に取る様に彼方此方と黒で彩る藤原。そんな彼女の逞しい姿に此方も微笑みを湛え、心底楽しそうに打つ藤原を勝たせてやりたいと強く、強く願った。

 対局中盤、長考が増え始めたコンピュータを心配そうにのぞき込む小畑とスタッフを視界の隅に留め、盤上を何となしに眺めていた。初めはただの線が入っていただけの盤にはまるで宇宙の開闢の如く、碁盤という『無』から『星々』を生み出している様な錯覚すら感じる。『棋士』という存在は盤上の神と称しても過言ではないのかもしれない。……藤原佐為は『神の一手』を極めるために碁を打ち続けていると言った。だが、俺からすれば彼女ら棋士は少なくとも盤上では思い思いの星々を生み出す神のごとき存在だ。そこに貴賤は無く、打たれた数だけの宇宙が広がるのだろう。

「(ヒカル? ヒカルッ! 聞こえていますか? 此方の番ですよ?)」

 盤面を見つめて動かなくなっていたらしい俺を不安げに見つめる藤原にくすりと笑って大丈夫だと念を飛ばして告げる。

「(少しばかり考え事をしていただけだ、悪かったな。……行くぞ)」

「(物思いに耽るのは構いませんが、気を付けて下さいね?)」

 藤原によって扇子で指し示された線と線の交点へと手早く打つ。コンピュータはソレを読んでいたかのように小畑を伴いすぐさま打ち返し盤上で殴り合いの攻防を繰り広げる。藤原の顔に数瞬影が見えた気がしてついお節介を焼いてしまう。

「(藤原。相手はコンピュータだ。最適解を算出する事で最も効率の良い手を打つ絡繰り人形だと思え。正確無比というのは往々にして『虚』に弱い。つまり)」

「(……。ヒカル。ありがとうございます)」

 次手。俺が置いたその一手にコンピュータは困惑し、しかしその一手を無視して所定の位置へと置く様に小畑に指示を出した。藤原は笑みを深め、次を指し示した。

 

 

 

 

 

 

 11

 

 

 

 

 

 

 

 終局間近。モニタを通して見ていた、先ほど質問していたおかっぱ頭の青年が驚愕に目を剥く姿が人波の中に存在していた。

 互角だと思われていた盤上はあの奇をてらったかのような一手により姿を変え、白を大きく喰らっていた。コンピュータ側にはミスらしいミスは無かった筈であった。しかし、中盤に見せたあの一見悪手とも取れる一手が起死回生のソレとなって白へと牙を剥いたのだ。盤上の形勢をひっくり返す事は難しいだろう。現にコンピュータは長考に入ってからかなりの時間が経過している。これ以上の進行は不可能だと思った小畑プロデューサーは『参りました』と負けを認め、『sai』の勝利を大々的にモニタに映し出した。ヒカルは『ありがとうございました』とお辞儀をして討論に移るスタッフを背に休憩を取るべく裏方へと移動していく。

「ふぅ……。(何とか勝てたな。藤原)」

「(ええ。やはり相手にしにくいですね『こんぴゅーた』とやらは……ですが、ヒカルのおかげで勝てました。助言、助かりましたよ。ありがとうヒカル)」

「(別に、俺は何もしていないさ。お前に浅知恵を差し込んだだけだよ)」

「(いえ。ソレでも始めてヒカルと私で勝ち取った勝利です。それだけで嬉しいのです)」

「(そうかい。……まぁ、お前が嬉しいならソレで良い)」

 頬を照れくさそうに掻き静かに勝利を喜ぶヒカル。その姿に満面の笑顔を浮かべ、たおやかに笑う藤原。その後ろからは小畑が近づき『お疲れさま』とねぎらいの言葉をヒカルに掛け人当たりの良い笑みを浮かべた。

「いやぁ、参った参った。君用にチューンしたつもりだったんだけどまさかあんな隠し手があったとはね。恐れ入ったよ『sai』本当にプロじゃないのが不思議なくらいだよ。……強ちさっきの囲碁歴千年というのも間違いじゃないのかもしれないね?」

「さぁ? どうでしょうね? ところで、エキシビションマッチの件何ですが……最初に質問をして来たあのおかっぱ頭の彼を指名しても構わないか? 不都合が有ればそちらで用意して貰いたいんだが」 

「いいや、構わないよ。ただ、どうして『彼』何だい?」

「特に理由は無いさ。直感みたいなもんだ。あれ程ざわついていた会場の中真っ先に手を上げるクソ度胸。おまけに面白い質問までして来たんだ。一体どんな奴かと少し調べたらすぐさま出て来たぜ『塔矢アキラ』若干『一二歳』でプロに成った囲碁界の天才児。父親に一時五冠を保持していた『塔矢行洋』を持つエリートなんだって?」

「知っているのなら、尚更だよ。最高の対局を魅せてくれよ。『sai』ネット最強と囲碁界の天才児の対局だ。さぞや面白い物が見れるだろうな。期待しているよ」

「嗚呼。給料分は働くさ」

『頼んだよ』と肩を叩いて去っていく小畑を見送って対局相手のプロフィールを閲覧するために藤原と共にスマホを操作した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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5話

 

 

 

 

 

 12

 

 

 

 

 

 討論会とは名ばかりに解説そっちのけで『コンピュータ』が如何に人間の複雑怪奇な思考回路を模倣し、凌駕し得るかという可能性について熱弁する小畑を抑え込み、無事一通りの解説を終えた俺達だったが次のイベントである来場者の中から『sai』によって選出された『sai』とのエキシビションマッチを行う旨が会場内で告知されると来場者の多くはその目をギラギラとした飢えた獣の如く変貌させる。再び会場は大きく騒めき、誰を選んだのかと周囲の人と持論を交わしていた。

 場内はもしかして、と。己かもしれないと浮つき、逸る気持ちを胸にスタッフの動向を窺っている。暫くして目的の人物が壇上に上がると騒めきは殊更大きく高まった。ソレも当然の事、指名された相手は現役プロであると同時、若手の中で最も期待を集めそれに応え続けている優秀過ぎる逸材。『塔矢アキラ』六段その人だった。若き天才VSネット囲碁最強という対局カードは会場内のボルテージを上げ、どちらが上手かと固唾を飲んで対局開始を今か今かと待ち望む。

 壇上で短く会話を交わして対面に座し先手後手を決めると『お願いします』の合図と共に戦いの火蓋は切られ、黒を握ったヒカルが鋭く盤上右上部へと叩きつけた。

 

 

 

 

 

 

 13

 

 

 

 

 

 

『sai』という存在が実しやかに噂され出したのは今年の四月に入ってからだった。後期組の和谷プロが全力を出し切って負けた相手だと本人が正体を探るべく彼方此方で聞き回っていた最中、偶然にも兄弟子である緒方さんも対局し、信じられない事に中押しで敗したと聞かされたのが興味を持った切っ掛けだった。

 緒方さんは『sai』との対局から何かを掴んだのか、棋風を少し変えて勢いを付け直し棋力を更に向上させてみせた。当人は『sai』とのリベンジに燃え、熱心なファンの如く暇な時にはネット囲碁にログインしては『sai』の事を研究し万全の態勢で討ち果たすと意気込んでいた。そのチャンスが今回の『オフ会』だったのだが、生憎と運に恵まれず手合いの日と被ってしまった為にボクにお鉢が回って来たという訳である。

『sai』を名乗る彼は前試合のコンピュータ戦の様子から察するに本物であると思いたいが、ボクと同じ位の齢であれ程の碁を打つ人が居る事に驚きを隠す事が出来なかった。ボク自身、物心付く以前から碁と向き合って父に教えを乞うてきたからこそ今の自分が存在するのだと思っているが、彼は違う。アレはセンスもさることながら積み上げて来た年月そのものが別格なのだ。計り知れない数の選択肢の中から汲み取った一手を限られた時間の中で見つけ出し打ち合うのが常だ。しかし先のコンピュータ戦に於いて彼は常人から見て『有り得ない』程の先の先を読み、最良の手を尽くすコンピュータを凌ぎ打ち倒した。

 終局間近になって漸く気が付いた。あの妙手は完全に嵌り、遅行性の毒の様に白を蝕んだのだ。空恐ろしいと身震いをすると共に好敵手足りえる存在に歓喜した。そんな彼が直々にボク個人をエキシビションマッチに選んだのは神の采配か。はたまた悪魔の微笑か。質疑応答の際に対峙した彼は昼行燈とした態度を取り覇気が余り感じ取れなかったが、今。眼前に静かに座す彼からは途轍もない威圧感と真摯さが見て取れた。

 先番である黒を握り、一手一手に魂を込める様に打つ姿はどこか父を彷彿とさせる。相手が誰であろうと負ける気は毛頭ない。この対局を糧とする為に負けじと白を握る手に力を込めた。

 

 

 

 

 

 

 

 14

 

 

 

 

 

 

 俺と同い年が藤原と互角とは言わないまでも渡り合っている。その事が無性に悔しくて、ついつい碁石を握る手に力が入る。黒と白の陣地争いは熾烈を極めた。藤原の瞳は研ぎ澄まされた刃の如く剣呑な光を帯び、対面に座す塔矢プロを見つめていた。盤面は黒が優勢。このまま続けても藤原の勝ちは揺るがないだろう。が、しかし塔矢の両の目はまだ何か手が有る筈だと思考に没頭し、盤上を皿の様に眺め続けている。刻々と時間が過ぎ、頭を振って意識を戻した塔矢は一度体勢を整えて『ありません』と少しばかり悔しげに自身の負けを認め、俺と声を揃えて『ありがとうございました』と長きにわたる対局の終わりを告げる。

 直後。会場はこれ以上ない位の歓声を上げ、惜しみの無い拍手が俺達に向けて送られた。握手をしようと手を差し出す塔矢に応じると更に拍手と歓声が上がり、困った様に笑う塔矢と笑い合ってエキシビションマッチは終了した。続けて塔矢が現役プロという事も有り彼の主導で解説と論を交えて話し合いの場を作り上げた。

「『sai』今日は、君と打てて良かった。ボクを選んでくれてありがとう」

「気にするな。礼を言うのなら俺の方だ。現役の若手プロ相手に対局出来るなんざ思ってもみなかったし、おかげ様で火がついちまったみてぇだからな」

 チラリと隣を見ると藤原は興奮冷めやらぬといった状態で今にも騒ぎ出しそうだ。苦笑していると塔矢から再び声が掛る。

「火? ……まぁいいか。それで、君は、プロを目指すつもりはないのか?」

 瞼を降ろして暫しの沈黙の後、藤原の姿を再度目に焼き付ける様に見つめてから口を開く。

「……。なぁ、塔矢プロ。プロになれば、アンタみたいなのがゴロゴロ居るのか?」

「ん、嗚呼。ボク何かよりもずっと強い人は沢山いるだろうね。けど、ソレがどうかしたのかい?」

「だったら。(決めたぞ、藤原)」

「(何を、ですかヒカル?)」

 理解している筈なのに藤原は惚けたように疑問を口にした。

「(プロになればコイツよりも強い奴らがぞろぞろといるらしい。なら、さ)」

「(ですが、それは。私の望みであって、ヒカルには……)」

「(『関係のない事』だとは言わせないぞ。藤原。いいや……『佐為』これは他の誰でも無い『俺』が決めたことだ。俺の望みは、『お前の隣でsai(俺達)の碁を打つ』事だ)」

 そう、誰のためでも無い。俺の『進藤ヒカル』の初めての我が儘だ。仮に佐為が何と言おうが撤回するつもりはない。困惑し、考えがまとまらないのかもごもごと口ごもる佐為の目を見つめ語り掛ける。

「(佐為。お前は知らないだろうが、俺はあの日。お前と出会わなければお前と同じ様に入水自殺を試みようと考えていた)」

 ギョッとした様に驚愕を前面に押し出した表情を浮かべる佐為。彼女を安心させる為に『今はそんな事は考えていない』と念を押して落ち着かせる。

「(両親と疎遠に成った話しはしたよな? 嗚呼、それだ。そこから俺は『周りから求められるがままの姿』を演じ続けた。学校では『カワイソウ(非行少年)』な姿を祖父の前では両親と別れる以前の『我が儘なクソガキ』を演じ、もう長くないと悟った死に際の祖父を安心させるために国立大学にも入った。……そして、今は最強のネット囲碁棋士『sai』を演じている)」

「(嗚呼。それゆえに、『ヒカル』が決めたことで、貴方の本当の望みなのですね)」

「(お前と一緒に居て初めて思ったんだ。『sai』の碁を打ちたいと。だから……俺と共に碁を打ってくれないか? 藤原佐為でも無く本因坊秀策としてでも無い、俺とお前の『sai』としてッ!)」

「(…………ふふっ。そこまで言われては仕方が有りませんね。良いでしょう。私の負けです。『sai』としてどこまで行けるか、貴方と成らば『神の一手』を極めることも出来るやもしれません。ヒカル、しっかりと私の手を握っててくださいね?)」

 応! と返し、塔矢プロに向き直り決意を胸に声を出す。

 

「プロに成るにはどうすればいい。教えてくれ」

 

 

 日本囲碁界に新たなる巨大な嵐が近づき始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 第一部 了


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