神水戦姫の妖精譚(スフィアドールのバトルログ) (きゃら める)
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第一部 序章 アライズ!
第一部 天空色(スカイブルー)の想い 序章


序章 アライズ!

 

 

 僕が尾行者に気づいたのは、本当に偶然だった。

 ちょうど角を曲がろうとしたとき、視界の隅に微かな光が見えた。

 十一月も終わりに近づいたこの時期、様々な形の家が並ぶ住宅街はすっかり夜の帳が下りていて、例年より寒くなるのが早い今年は、商店街からも遠いこの辺りとなると人通りはほとんどなくなる。

 そんな道を歩いてるときに、けっこう遠くの暗がりに見えた光は、いつもなら気になるようなものでもないのに、僕は目だけでそちらの方を見ていた。

 ――スマートギア?

 街灯の光をさけるようにポールの影に、角を曲がる一瞬人影が見えた。

 背が高いことはわかったけど、それ以上のことはわからない。

 姿を隠すように足下近くまで長さのある黒っぽいコートを羽織っていて、フードまで被っているのが見えただけだ。

 十二月早々にも雪が降るかも知れないなんて言われてる寒さだから、そんな格好をしていてもおかしいというわけじゃないけど、フードの奥で街灯か何かを反射して鈍い赤色の光を発したのは、スマートギアだと確信があった。

 尾行者が近づいてくる前にと思って、僕は手早くデイパックのポケットのファスナーを開けて、自分のスマートギアを取り出す。

 スマートギアにはヘルメット型から最新のでは眼鏡型のまであるけど、僕のはオーソドックスな形のもの。額と後頭部で固定するバンドに網膜投影型のディスプレイを内蔵した水色のゴーグルのようなディスプレイ部が取り付けられていて、さらに密閉式のヘッドホンまでがセットされている。

 それだけだったらかなり昔からあるゲーム用なんかで売られてたヘッドマウントディスプレイに過ぎないけど、スマートギアには外部カメラや集音マイク、スピーカーなんかの他に、ポインティングデバイスの機能がある。

 バンドに取り付けられたセンサーから脳波を受信してポインタを動かすことができるものだけど、慣れてくればキーボードの代わりにキー入力ができたり、同時に複数のポインタの操作やさらに精密なことができたり、応用すれば声を出さずに喋ることができるイメージスピークも使える。

 コンピュータや携帯端末のマンマシンインターフェイスをすべてひとつに集約したようなもので、僕にとっては必須なデバイスだけど、いかんせん慣れがけっこう必要なのと、割と高いので普及しているとは言いがたい。

『何してんの? おにぃちゃん。歩きながらスマートギアを使っちゃダメなんだよ』

 バンドをいつも通りのテンションで固定して、ヘッドホンを耳当たりのいい場所に動かし、跳ね上げていたディスプレイ部を下ろして胸ポケットの携帯端末に接続して電源を入れた直後、僕の耳に響いたのはそんな舌っ足らずな感じのある女の子の声。

 僕が所有してるAI、リーリエの声だ。

 僕の携帯端末と自宅に設置してあるリーリエのシステムとは常時リンクしているから、スマートギアを使い始めれば一発でわかってしまう。

 搭載された高精細なカメラでディスプレイには実視界が投影されてるからそんなに危なくないはずだけど、スマートギアを歩きながら使用することには罰則こそないものの、禁止されてる。移動を感知すると操作もロックされるように仕込まれてるけど、そんなものはもちろん解除済みだ。

『んなこと言ってる場合じゃない、リーリエ。誰か尾けてきてるみたいなんだ』

 声には出さず、イメージスピークでリーリエに返事をしつつ、ディスプレイ内に表示されてるポインタを思考で操作して、必要になりそうなアプリを次々と起動していく。

『ホント? もしかして例の通り魔さん?』

『たぶん。背面カメラの監視は頼んだ』

『うんっ』

 スマートギアの後ろ側にあるカメラをオンにして、権限を通信先のリーリエに委譲する。

 人通りの多い道への最短ルートを表示させた地図で確認しながら、僕は身体の前に回したままのデイパックの主気室のファスナーを開けて手を突っ込む。中に入っているハードケースのロックを手探りで解除して、感覚頼りにその中身の生体認証スキャナに指を滑らせた。

 ――気のせいだったらいいんだけどね……。

 認証が成功し、ケースの中身とリンクが確立された旨を告げる表示が視界の隅に現れる。

『リーリエ、アリシアとリンク。近くにエリキシルソーサラーがいないか確認してくれ』

 まだ鞄の中に入っているピクシードール、アリシアの操作権限をリーリエが遠隔操作できるように許可を出し、アリシアに搭載された機能を使うように指示した。

 人も車も増える国道は角をふたつ曲がった先。直線距離にして三十メートルとない。

 誰か普通の人とすれ違うなりあればいいのに、と思いつつもそれも叶わず、僕は早足でいつもより闇が濃いように感じる街並みを歩いて、近くの十字路に近づいていった。

『あ、ダメッ! おにぃちゃん!!』

 リーリエの警告が僕の耳に届いたときにはもう遅い。

 角を曲がった先に待ち受けていたのは、さっきちらりと見えた尾行者。

 僕よりも頭半分くらい高そうな背を地面に裾が届くかってくらい長いコートで隠し、目深に被ったフードで顔も見えないそいつは、僕のファンでも尾行趣味の変態でもないだろう。

 たぶんこいつは、ここ最近この辺りを騒がせてる、ピクシードールを持ってる奴を狙ってくる通り魔だ。

 そしてこいつこそが、アリシアに搭載しているスフィアを狙うエリキシルソーサラーだ。

 そのことはスマートギアのレーダーの表示で、確認することが出来ていた。

 ――逃げるか?

 いまいるのは十字路の真ん中だ。逃げようと思えば道は三本もある。

 でもたぶん無駄だろう。

 別に太ってたりしないというかむしろ痩せ形だけど、高校と買い物に行く以外は引きこもり生活している僕は、運動が苦手だ。

 さっきまで後ろにいた尾行者が僕の前に立ち塞がってるってことは、それだけの距離を走ってきたってこと。その上肩があんまり動いてない様子から見ると、息ひとつ上がってないんだろう。

 そんな奴から逃げ切れる自信なんて、ひと欠片もなかった。

 ――戦うしかないか。

 いきなり襲って来ずに待ち構えていたってことは、あっちもそのつもりなんだろう。

 デイパックに手を入れて、僕はアリシアを取り出す。

 身長は標準的な二十センチ。

 白いレオタードのようなソフトアーマーの要所要所を水色のハードアーマーで覆っていて、眠るようにまぶたを閉じている女の子型の人形。

 防御用のヘルメットを被せてる余裕はなさそうだから、アーマーと同じ水色のツインテールの髪も、少し丸っこいデザインのフェイスも露わなままだ。

 幼児向けの着せ替え人形にも見えるそれは、ただの人形なんかじゃない。

 僕がひとつひとつのパーツを選び、組み上げたロボット。エルフ、フェアリーという規格のサイズがあるスフィアドールと呼ばれるロボットの中で一番小型な、ピクシードールと呼ばれるサイズの人型ロボットだ。

 超高性能人型ラジコンとでも言うべきスフィアドールだけども、僕のアリシアには他のドールにはない特別な力がある。

 そしてそれは、たぶん通り魔が持っているだろうドールにも、だ。

『仕方ない。リーリエ、戦うよ。アリシアのコントロールは任せた』

『うんっ』

 リーリエが応えるのと同時に、アリシアのまぶたが開き、三センチ足らずの表情が引き締められる。横たえていた身体を素早く起こして僕の手のひらに立ったアリシアは、モバイル回線を通していまはリーリエがコントロールしている。

 スマートギアの中に表示されてる三回線分のモバイル通信のモニターのすべてが、通信量増大によって緑から黄色に跳ね上がった。

 実視界の見える範囲が減るのも構わず、僕は同時に四つのポインタを操作してバトルに必要なアプリのウィンドウを視界に配置した。

 見ると通り魔の方も、懐からピクシードールを取り出している。

 そこまでして隠す必要があるのかと思うほどだけど、そのドールは通常のアーマーの上に、黄色いレインアーマーを被せてあって、本来の外観はまったくと言っていいほど見えない。

 ゆっくりとした動作でドールを地面に立たせたそいつに、僕は今更ながらに声をかける。

「あんたが通り魔なのか?」

「……」

「なんでまた、今回はいつもみたいに無理矢理奪わずに戦うことにしたんだ?」

 僕が通り魔と呼んでいるように、こいつはいままでに二度、持ち主が怪我をするのも厭わず、ピクシードールを奪うために突き飛ばしたり殴ったりしてきた。本来なら強盗と言うべきなんだろうけど、こいつは金を取ることはなく、奪った荷物は適当なところに放置している。ただし、ピクシードールだけは壊していたが。

 目的不明ながら被害者に怪我をさせてることから、ニュースなんかでは通り魔と言う報道がなされていた。

 それがなんで今回は戦う気になったのかはわからないけど、沈黙したままドールにファイティングポーズを取らせたのがこいつの意志の表れだろう。

「フェアリーリング!」

 僕の声に反応して、音声入力を受け付けたエリキシルバトルアプリが効果を発揮した。

 僕と通り魔の間のアスファルトに出現した金色の光。

 輪となって広がった光は、僕たちを通り超して円形のリングのようになった。

『勝つよ、リーリエ!』

『大丈夫! 絶対負けたりしないよっ』

 リーリエの強い意志を感じる返答に、僕は覚悟を決め、そしてあのときエイナに告げた願いを込めて、叫ぶ。

「アライズ!」

 手のひらに微かな感触を残して、リーリエにコントロールされたアリシアが、二本のテールをなびかせながら跳んだ。

 その瞬間、アリシアが強い光に包まれる。

 同時にアライズしたんだろう、通り魔の足下でも発生した光。

 目が開けていられないほどの光によってスマートギアのダンパー機能が発動し、視界がほとんど真っ暗になる。それもほんの一瞬の出来事。

 羽のようにふわりと地面に着地したとき、アリシアはもう二十センチの人形ではなかった。

 身長約百二十センチ。子供のほどの大きさになったアリシアは、ピクシードールじゃない。

 エリキシルドール。

 アリシアの着地と同時に、リーリエは髪をなびかせながら同じように百二十センチとなった通り魔のドールに向かって地を蹴った。

『先手ひっしょーぅ!』

 舌っ足らずな声を響かせつつ、アリシア=リーリエが、五メートルの距離を一気に詰める。

 いま、命の水エリクサーを賭けた戦い、エリキシルバトルの火ぶたが切って落とされた。

 



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第一部 第一章 ブリュンヒルデ
第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第一章 1


第一章 ブリュンヒルデ

 

       * 1 *

 

「くそ。なんでこんながっちりこびりついてるんだ」

 僕はホテルの厨房かと思うほどの広さと設備のキッチンで、皿を相手に格闘を続けていた。

 一週間分も溜め込んだ店屋物の食器にはソースや食べかすがこびりついていて、しばらく水に浸けていたというのになかなか落ちてくれない。

 ――まぁ、今日はこんなことしに来たわけじゃないんだけどさ。

 キッチンこそかなり良い設備をしてるけど、明治だか大正に建てられたという煉瓦造りのお屋敷にやってきたのは、皿洗いのためなんかじゃない。

 なくなってしまったアクセサリを探してほしいという屋敷の主の依頼を、断ることができなかっただけだ。

 探す間に見つけてしまった洗い物を放っておくのはどうにも忍びなくて、僕は皿洗いに没頭していた。食器洗浄機くらい置いておいてくれよ、と思うけど、実家の用事で明後日までお休みだというここの優秀な専属メイドは、たぶんそんなものがなくても食器を溜め込んだりはしないんだろう。

「……しかし、見つからないな」

 失せ物の捜索の方は、僕で見て回れるところは終わっていて、後はリーリエに任せてあった。いまもリーリエは、アリシアを操ってどこかそこら辺の、人の目線では見つけにくい場所を探し続けていることだろう。

 でも、ディスプレイを跳ね上げてヘッドホンだけを耳につけてるスマートギアからは、まだ発見したという声は聞こえてこない。

 そんなとき、外部音声集音モードをオンにしてあるヘッドホンから聞こえてきたのは、微かなモーター音だった。

『もうやだっ』

 スマートギアを通して愚痴を垂れ流しながら僕の足下にやってきたのは二十センチサイズの、アリシア。

『ぜんぜん見つからないよぉ、おにぃちゃん。もう暗いところも狭いところもイヤだよぉ』

 ちょっと舌っ足らずな幼い感じの口調で、イヤホンマイク越しにリーリエの愚知の言葉が響いてくる。

 大口径の一輪バイク型の機動ユニット「スレイプニル」に乗って足下までやってきたリーリエの操るアリシアに、僕はしゃがんでエプロンで水気を拭った手を差し出してやる。

 スレイプニルに内蔵されてる補助バッテリと接続されたケーブルを自分で外して、リーリエはぴょこんと手のひらに乗っかってくる。

 汚れることも考慮して、どうせ機敏な動きが必要になる場面もないだろうからと、アリシアには専用でつくってもらった全身防御タイプのハードアーマーを着せてやっていた。

 メイドがいない間にどれだけ汚れてたというのか、アーマーはいろんなところに埃なんかがこびりついてしまっている。

 水色のツインテールはピクシードールの一番の熱源であり、運動の制御や指令の送受信に使われる「スフィア」の冷却器を兼ねているから仕舞うわけにはいかず、猫か犬の耳にも見える追加センサーがついたヘルメットから飛び出している。

 鬱陶しそうにヘルメットを脱ぎ去った下から現れた少し丸っこくて幼さを感じる顔は、頬を膨らませていた。

「もうあと探してないのはそこの食料庫ぐらいなんだから、文句言うなよ、リーリエ」

『だってぇー。……お兄ちゃんこそ、そんな仕事頼まれたわけじゃないんでしょう? こっち手伝ってよぉ』

「仕方ないだろ。夫人にはいろいろ恩があるんだから、これくらいは」

 ピクシードールを動かすのに使われているのは、旧来型のロボットのようなモーターとは違い、電気のオンオフにより収縮と伸張を行う人工筋だ。

 ある程度のパワーを確保するためにはそれなりの太さが必要になるから、人間の縮尺とは違い手のひらだけでも顔を覆えるような大きなサイズの両手を腰に当てて、さらにアリシアの頬を膨らませるリーリエ。

 集音マイクは搭載してるけど、ペット型やいわゆるお人形サイズのフェアリードールや、人間に近い百二十センチを基本サイズとしているエルフドールと違い、充分な音量の出せるスピーカーを搭載するスペースのないピクシードールのアリシアから声がしてるわけじゃなく、あくまでアリシアを遠隔操作しているリーリエがスマートギアを通して僕に声をかけている。

 怒ってるはずなのにどこか可愛らしさの抜けないリーリエの声を聞いていると、たまに僕自身もアリシアがリーリエの本体のように思えちゃうこともあるくらいだった。

『少しくらい手伝ってよぉ』

「わかったわかった」

『むぅ~』

 納得していない様子のリーリエは唇を尖らせながらも、手にしたヘルメットを装着した。

 汚れを軽く指で拭って綺麗にしてやった後、僕はしゃがんでアリシアを床に近づけてやる。

 手のひらから飛び降り、リーリエは手早く補助電源ケーブルを背中の充電ポイントに接続して、スレイプニルにまたがった。アリシアと同時にスレイプニルにもリンクしたリーリエは、厨房の奥の食料庫へと続く扉に向かって移動を開始した。

 足で引っかけないように気をつけながら、さすがにピクシードールでは開けることができないサイズの扉を開けてやる。

『何かあったらぜーーーったい助けに来てよっ』

「わかってるって」

 ヘルメットの下で頬を膨らませてるだろうリーリエが食料庫の中に入ったのを確認して、僕は洗い場に戻りながら跳ね上げていたスマートギアのディスプレイを下ろした。

 ――しっかし、リーリエはあっという間にあれを使いこなしたな。

 リーリエが自分の端末として動かしてるアリシアのフェイスパーツは、一昨日取り付けたばかりの新型だ。

 ある程度サイズのあるフェアリーやエルフサイズのドールでは初期の頃からあるものだけど、ピクシードールの可動型フェイスパーツ、いわゆる表情をつくれる顔はほんの一年ちょっと前まで製品化されていなかった。

 潜在的な需要があったのか製品化されてすぐヒット商品となり、ヒューマニティパートナーテック、HPT社の「ヒューマニティフェイス」と言えばピクシードールに触れる人なら知らない人はいないくらいのパーツとなり、他社の参入も始まってるくらいの状況だ。

 ただ「リリースマイル」と呼ばれる自然な笑みをつくることができるヒューマニティフェイスは、他社の追随を許さない売れ行きを誇っている。

 そしてそのヒューマニティフェイスの原型をつくったのは、僕だ。

 二年ほど前にちょっとしたきっかけで試作品をつくり、HPT社に勤める叔父さんに持ち込んで製品化したのが始まりだったわけだけど、いまでもバイトと言うには大きすぎる金額をもらいながら開発の手伝いを続けていた。

 けれどフルオートで制御されるピクシードールはもちろん、セミコントロールやフルコントロール用のフェイスコントロールアプリはメーカー純正のものから、サードパーティや個人制作のものまでいろいろ出ているけど、行動にあわせてうまく動かせてるものはないと言っても過言じゃない。

 いまアリシアに装着しているのは新しい配置の極細埋め込み人工筋により、「頬を膨らませる」や「唇を尖らせる」って機能を実装した僕手製の、まだ市販されていない新型モデル。

 リーリエはその新しく追加された機能を、あっさりと使いこなしていた。

 ――やっぱりリーリエは、違うな……。

 リーリエによるアリシアの制御は、フルオートに分類されるべきドールの制御方法ではあるけれど、やはり普通のフルオートとは一線を画していた。

 スマートギアの表示の左側に大きめなウィンドウで、アリシアに搭載しているカメラの映像を表示している。食料庫の照明は点けていないから、暗視機能による視界は白黒だ。

 スレイプニルに搭載してある赤外線ライトで見える視界内には、実家に帰る前にメイドが処理していったのだろう、ほとんど食材のない棚や、何が入ってるかわからない樽なんかがあるだけでたいした物はなく、広大な空間が広がっている。

 その広大さは当然だろう。

 食料庫は四メートル四方程度の広さしかないけど、人間の六分の一程度のサイズであるピクシードールの視点で見ると、体育館ほどのスケールになってしまう。

 残っている洗い物に手を伸ばしながら、僕はアリシアのボディの状態と同時に、リーリエがコントロールするスレイプニルの動きに合わせて動く白黒の表示に注目していた。

 ――さすがに第四世代パーツは性能だけじゃなく、耐久性も低いな。

 バトルをやるわけじゃないからたいした補助制御は必要ないけど、使い込んだ第四世代の人工筋の出力が不安定になるのを避けるために細かに調整を入れながらそんなことを考えてるとき、何か光るものがあるのに気がついた。

『いま、何か光らなかったか?』

 イメージスピークでリーリエに呼びかけつつ、カメラの映像をプレイバックしてみると、壁沿いに置かれた棚の隙間に、赤外線ライトを反射して光るものがあるようだった。

『なんか嫌な予感がするぅ』

『嫌な予感って……。一応画鋲銃を装備しておけよ』

『うん』

 画鋲銃は本来人が使う用のネイルガンの一種で、わずかに頭部が大きくなってる無頭画鋲を打ち出して掲示物を貼り付けたりするための道具だ。それをばらしてちょっと改造して、ピクシードールでも使える形の銃に仕立て上げたものを、護身用でスレイプニルに搭載してあった。

 スレイプニルを下りたらしいリーリエは、壁に寄って棚の隙間へと近づいていく。

 風通しのためか十センチは優にありそうな隙間に、リーリエがアリシアと同時にリンクしているスレイプニルを動かし、可視光に切り替えたライトを照射する。

 強い光に照らし出されたのは微かに動く複数の影と、たくさんの赤い光。

「あ……」

 と呟くのもつかの間。

『きゃーーーーーーーっ!』

 耳をつんざく悲鳴がスマートギアのヘッドホンから響いた。

 棚の隙間にいたのは、ネズミ。

 ライトの光に驚いたんだろう。五匹のネズミたちは一斉に棚の隙間からアリシアのいる方向に飛び出してきた。

『きゃーーーーっ! きゃーーーーーー!!』

 頭が痛くなりそうなほどの悲鳴を上げながらも、リーリエの視界では飛び出してくるネズミたちに向けて照準のポインタが出現している。

 俊敏なネズミを避けるように素早く後退をしつつ、リーリエは正確無比な射撃を浴びせかける。

 微かな悲鳴を上げながら、画鋲を命中させられたネズミたちは食料庫の闇へと消えていった。

 ――命中数十五。距離五十から八十センチからだったら、まぁまぁか。だけど……。

 元々画鋲銃は壁に押しつけて使う道具で、多少命中精度が上がるように手を加えてはあるにしても、離れた距離から装弾されてる二十発に対して十五発の命中なら上々の結果と言ってもいい。

 でも一発二発命中させれば撃退できそうなネズミ相手に、状況に関わらず正確な射撃をしつつも全弾撃ち尽くしてしまうのは、リーリエの性格に問題がありそうだった。

 ――まぁ、ネズミにとっては不幸な事件だったかも知れないけど。

 G相手なら必殺の威力がある画鋲銃も、ネズミの皮膚相手だと痛いと感じる程度か、刺さってもすぐに抜け落ちる程度だろうから、そんなに気にすることでもないけど。

『やだっ! もう帰るぅ』

『ドブネズミ相手じゃなかっただけマシだろう』

 今回いたのは大きさからすると小型のクマネズミのようだった。

 もし飢えた大人のドブネズミだったら、画鋲銃を無視して突っ込んできて、奴らの体重じゃあピクシードールなんて押し倒されてボディにかじりつかれていてもおかしくない。

『あんなのだったらスレイプニルぶつけて逃げるよっ!』

『勘弁してくれ。それ、高いんだから。……ん?』

 文句を垂れつつも周囲を見回しているリーリエの視界の中で、まだ光るものが残っていることに気がつく。

『リーリエ、そこ』

 ポインタでそれを指示すると、ものすごく警戒した動作でリーリエが近づいていく。

 ゴミに紛れてほとんど埋まっていたが、そこにあったのは確かに指輪だった。

『やたっ。はっけーん!』

 まるで人間のような本当に嬉しがってる声に、僕もまた安堵の息を吐いていた。

 

 

「お疲れさま。克樹君」

 ノックして入った部屋から掛けられたのは、柔らかい感じのある女性の声。

「少し待っていてね」

 執務室、なんだろうけど、小さい会社の事務所に使えそうなほどの広さがある部屋に、僕は一歩足を踏み入れる。

 沈み込む感触のある絨毯とか、棚の上に並んだ調度品とか、壁に掛けられた絵画だけでも一般人の僕にとっては圧倒されそうになると言うのに、いくらするのかも予測のつかない重厚な応接セットとか、年代物の執務机とかは、もう別世界の代物のように見える。

 執務机に就いて、一品ものだろう金などで品の良い装飾の入ったワインレッドのスマートギアを被っている女性が、この屋敷の主、平泉夫人。

 ビジネスで紙を使う機会が減っているからまだこの部屋はマシな状態だけど、洗っていなさそうなカップなんかがいくつも机の上に並んでいたりした。

「本当にもう、あの子がいないと不便で仕方ないわね」

 生まれも育ちもお嬢様のこの人に言っても仕方ないんだろうけど、夫人はいくら何でも生活能力がなさ過ぎだ。

 身だしなみは自分でできるらしく、輝きを放っているような長い黒髪とか、部屋着にするのはどうだろうと思うじっくり眺めてみたくなる胸元の開き方をしている黒いイブニングドレス風の服とかはきっちりとしている。さすがに手をつけなかった寝室の洗濯物は、明後日の予定と言わず今日にもメイドが帰ってきた方がいい状況になっていたけど。

「お待たせしちゃったわね。どうぞ座って」

 スマートギアを外した下から現れたのは、二十代と見まごうばかりの若く整った顔。

 確か年齢は三十代半ばか後半くらいだったはずだけど、夫人の黒く深い瞳に見つめられて、思わずゾクッとするなんとも言えないざわめきが起こるのを、僕は止めることができなかった。

 二年前に行われたスフィアドールの初めての全国的なお祭りであり、メインイベントでもあったピクシードール同士のバトルトーナメント。コントロール方式によって三部門に別れていたそこのフルコントロール部門決勝戦で出会った夫人とは、そのとき以来いろいろお世話になっていて、ちょくちょく頼み事をされたりする関係だった。

 今年高校に入ったばかりで、学校以外はあんまり出歩くことのない僕だけど、夫人には借りが多すぎて、今回みたいな捜し物なんていうたいしたことのないお願いでも断るのは難しい。

 彼女を知る人の間では黒真珠なんてあだ名される夫人は、僕よりも高い百七十センチを越える身長と、モデル並みのプロポーションを見せつけつつ、勧められて座った応接セットのソファの僕の正面に、優雅な動きで腰を下ろした。

「あの、これでいいんですか?」

 右手に包み込むように持っていた指輪を夫人に見せる。

「えぇ。これよ。本当にありがとう、克樹君」

 主にリーリエが苦労して発見した指輪は、どう見ても安物、というよりオモチャだった。

 お祭りの縁日辺りで手に入りそうなプラスティック製で、銀色のメッキも所々剥げていて、アクセサリならいくらでも持っていそうな夫人が身につけるものではないように思えた。

「これはあの人との思い出なのよ。いろいろあって最初あの人との関係は私の家族にも、あの人の家族にも認めてもらえなかったのだけど、そんなときにこっそりふたりで行ったお祭りでもらったものなの」

 僕の手から優しくつまみ上げ、自分の手のひらの上に指輪を乗せて愛おしそうに目を細める夫人。

「あの人の墓参りに行って帰ってきた後、着替えをしている間になくなってしまったのよ」

『ネズミが持って行っちゃってたんだよ!』

 外部スピーカーをオンにしておいたスマートギアから、リーリエの声が発せられた。

「そう。リーリエちゃんが見つけてくれたの?」

『うんっ』

 僕からじゃ見えないけど、僕の肩の上で脚をばたばたとさせてるリーリエは、たぶんアリシアに満面の笑みを浮かべさせてることだろう。

「ありがとうね、リーリエちゃん」

『んっ』

 手を伸ばした夫人に頭をなでてもらって、リーリエは満足そうな声を上げていた。

「でも本当に、リーリエちゃんはあの子に似ているのね」

「……まぁ、そういう性格付けをしていますから」

 ソファに腰を落ち着かせた夫人の、僕の奥底を覗き込んでくるような視線から目を逸らす。

 ピクシードールを含むスフィアドールのコントロール方式は主に三種類ある。

 スフィアドール全体として一番多いのはフルオートと呼ばれる、自律行動型で、エルフやフェアリーではコンパクトなシステム本体を内蔵してることもあるけど、高精度なフルオートは主に外部システムと近距離通信か、ネットを経由で接続した専用システムで行う。

 現在のアリシアも、リーリエというシステムで制御しているから、フルオートシステムで動かしていると言ってもいいと思う。

 バトル向けの機敏な動きができるのはかなり大型で高性能なシステムが必要になるから、一般のピクシードールでフルコントロールを使ってる人は少ない。

 自作要素が強く、バトル向けが多いピクシードールでは現在のところセミコントロールが主流で、基本方針を事前に組み上げておいて、随時必要となった動作を手元の端末やスマートギアで指示していくのが一般的だ。

 ロボットの制御用としては恐ろしく高機能なスフィア。ピクシードールでは頭部に搭載されてるスフィアが多目的な処理装置をしているからこそ、セミコントロールではかなり複雑なことでも携帯端末程度の性能があれば行えるし、意外に複雑なコマンドを使ってかなり精密な動きもできる。

 現在のピクシードール同士を戦わせるピクシーバトルでは、大半の人がセミコントロールだ。

 それからもうひとつ、フルコントロールというタイプがある。

 スマートギアを使って、スフィアドールのすべての動きを脳波によってコントロールするものだけど、セミコントロールに比べてかなりの熟練が必要な上、上手くできない人は頑張ってもできないし、他の制御方法より精密な動きも可能だけど、専用システムが必要なフルオートほどではないにしろ、高価なスマートギア前提のフルコントロールは、割合としては大きくない。

 二年前にスフィアカップで僕が参加したのは、フルコントロール部門。

 そのとき僕はアリシアのオーナー、クリエイトマスターであって、ソーサラーと呼ばれる操縦者ではなかった。

 夫人は、アリシアの元々のソーサラーを知る人物のひとりだ。

「私もリーリエちゃんみたいなのが手に入るならほしいと思うのだけど、可能かしら?」

 意識してるんじゃないかと思うけど、いたずらな瞳でそう問うてくる夫人。

 夫人の財力をもってすればリーリエを運用しているシステムのハードウェアそのものは手に入れることは容易い。実際僕は一度リーリエのシステムを手に入れるために夫人を頼っているのだし。

 ――でも、そんなことできない。できるわけがない。

「すみません。リーリエは試験運用してるシステムなので」

「そう。それは残念。別口でエレメンタロイドのシステムも購入可能かどうか訊いてみたことがあるのだけど、ダメだって言うのよ」

「エレメンタロイドを? それはまた無茶な」

 エレメンタロイドと言えば、エルフやフェアリー、ピクシーといったスフィアドールを生み出すこととなったロボット用制御コンピュータ「スフィア」をつくり出したスフィアロボティクス社、SR社の子会社で絶賛開発、試験中の人工個性と称されるAIのことだ。

 現在のところエレメンタロイドは一個体だけが発表され、エイナという名前で3Dの映像や、映像と同じ形にデザインされたエルフドールを使ってアイドルのような活動を行っていたりする。

 アイドルとしても「精霊」エイナなんて呼ばれて人気は高いけど、技術的にも恐ろしく高度なエレメンタロイドは、二年前のスフィアカップの司会として発表されてからも、まだ二号システムや他社による同等のシステムが完成したという話は聞いたことがない。

 もしピクシードールのソーサラーとして人工個性を使うことを考えてるなら、理由が見えない。

 もともと夫人は恐ろしく強いフルコントロールソーサラーなんだ、そんな物が必要になるとは思えなかった。

 ――まぁ、リーリエの使い方はそれだけじゃないけど。それにリーリエとエイナは……。

 半分無意識のうちに、僕はパーカーのポケットに右手を突っ込んでいた。

 そしてその中に入れてあるものを、強く握りしめる。

「まだそんなものを持っているの?」

 そう言った夫人が、手を伸ばして僕の右手を服の上から優しく包み込む。

「止める権利は私にはないけれど、あまりお勧めはできないわ」

 たしなめるように厳しく顰められた眉をしながらも、服の上からでも感じる夫人の柔らかい手の感触に、僕は右手の力を緩めていた。

「それに気をつけなさい、克樹君」

 厳しい顔のまま、夫人は言う。

「貴方が通り魔に遭遇しないとも限らないのだから」

「例の、ピクシードールを壊したって言う?」

「えぇ。昨晩、二件目の事件が起こったわ」

『リーリエ、事件記事を検索』

『うん』

 すぐさまリーリエに事件のことを検索させる。

 スマートギアのディスプレイを跳ね上げたままだから、時を待たずして見つかった記事の内容をリーリエが読み上げてくれる。

 襲われたのは高校生男子のソーサラー。後ろから接近されてることに気がついて抵抗したものの、殴られた拍子に街灯に頭をぶつけて全治数日の軽傷。奪われたピクシードールは近くの公園の茂みで頭部が壊された状態で荷物と一緒に発見されていた。

 ――一件目とほぼ同じか。

 一件目も二件目も財布などは抜き取られていないから金銭目的ではなく、何故かピクシードールが破壊されて発見されているという内容は共通してる。盗みが目的なのかどうか不明なため、記事では被害者が怪我していることから通り魔という呼び方がされていた。

「貴方が通り魔に襲われてしまったとき、どうなってしまうのかとても心配よ」

 少し寂しそうにも見える夫人に、僕は入れたままだった手をポケットから出した。

「もし怖かったり寂しかったりしたら、この家に泊まっていってもいいのよ? 私ができる限りもてなすから」

 生活能力のない夫人にいったい何ができるんだ、と思ったけれど、右手を包んでいた手が僕の身体をなで上げつつ、顎に添えられる。

「明後日までは、この家にいるのは私だけなのよ?」

 魅惑的な笑みと誘いに思わず頷きそうになる。

「が、学校もありますからっ」

『ダーメ! おにぃちゃんはあたしのなの!』

「残念ね。でも克樹君にはあまり女の子関係で良くない噂も聞くのよ? 不満があるならいつでもいらっしゃいね」

 どこまで本気で言ってるのか、夫人は誘うような視線を僕に向けてくる。

 いろんな業界に人脈と情報網を持っているらしいことは知っているけど、どんなところから僕のことなんて調べてくるのか。

 空恐ろしいものを感じながら、僕はできるだけ夫人から距離を取るように背中をソファに押しつけた。

「でも今日は本当に助かったわ。それに、貴方の顔も、見ておきたかったしね」

 夫人の真意はどこにあるというんだろうか。どこか疲れたような笑顔を浮かべている夫人の瞳には、悲しげな色が浮かんでいるように思えていた。

 



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第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第一章 2

       * 2 *

 

 師走の足音がし始める時期ともなると、さすがに夕暮れも早くなる。

 急行が止まる最寄り駅に着いた僕は、日が傾くに連れて落ちてきた気温に、コートの前をかき合わせて改札から続く階段を下りて駅前広場へと降り立った。

 小学校の頃は交通量の割に二車線の上に幅もたいしたことのなかった国道は四車線に拡張され、それと同時に区画整理されてできた駅前の広場には、ずいぶんな人だかりができていた。

 歓声とヤジが飛び交う人だかりの向こうは見えないけれど、大型の車に搭載された移動型のモニターに表示されているのは、ふたりの人間のバストアップ姿と、四角いリングだった。

「ローカルバトルか」

 スフィアドールの第四世代パーツ普及が始まるのと同時に行われた第一回スフィアカップ。世界大会になると予想されている第二回スフィアカップについてはいまのところ開催の目処は立っていないけど、第一回大会以降、人気のあったピクシードール同士のバトルは、SR社の協賛を得て週末ともなるといろんなところで行われるようになっていた。

 スフィアカップのときには別れていたフルコントロール、セミコントロール、フルオートの部門には分かれていない小規模なバトルらしい。

 大型モニターの片隅に表示されているトーナメント表を見てみると、どうやらこれから行われるのが決勝戦らしかった。

『なになに? ピクシーバトル?』

 スマートギアを被ってないときはいつも耳につけてるイヤホンマイクから、リーリエが声をかけてくる。

「これから決勝戦が始まるところ。見るか?」

『うん、もちろんっ』

 さすがに小型のイヤホンマイクにはカメラは搭載してないから、僕はデイパックからスマートギアを取り出して、イヤホンマイクの代わりに被る。

 こう暗くなってくると暗視野視界になってカメラ越しじゃ見えにくいからディスプレイは下ろさず、外部カメラだけを起動してリーリエに共有設定を入れてやる。

『どっちが勝つかなぁ』

 興味津々らしいリーリエは、カメラの映像から早速二体の解析を始めてることだろう。

 僕もまたモニターに映し出されたふたりと二体のことを、人混みから少し離れたところで観察する。

 右手の少し小太りな感じの男が操っているのは、目測で十八センチサイズ、標準よりも小型ながらその身体つきから予想するにパワー重視のドールだ。

 アニメか何かに出てきそうな布地までついたピンク色を基調にしたハードアーマーはかなりの重装で、身長よりも長い斧と槍を組み合わせたような形状のハルバードを構え、開始の合図をいまかいまかと待っている様子だった。

 モニターに映し出された顔はヘルメット型のスマートギアで見えないし、たぶん新しく商品が出てきつつある第五世代パーツを使ってるだろうピクシードールのユピテルオーネという名前にも憶えはなかったけど、表示されたソーサラーネームは確か、都内のローカルバトルに出ては上位入賞を果たしているセミコントロールのやり手だったはずだ。

 対する左手のピクシードールは、僕がこれまでにまったく見たことのないタイプだった。

 目測だけど二十五センチドールと思われる身長は、発売済みの第四世代パーツ、これから発売される予定の第五世代パーツを使ってもあまりできる組み合わせじゃない。

 腰に剣を佩き、シンプルな濃紺に染め上げられたハードアーマーは少し古臭い感じのあるデザインで、スピード重視なんだろう、黒色のソフトアーマーの露出部分は多めだった。それに――。

 ――Fカップバッテリ?

 ヒルデという名前のドールの胸を覆うブレストアーマーは、女性にするとFカップはありそうなサイズをしていた。

 ピクシードールの胸部にはバッテリが内蔵されていて、バッテリサイズによって胸のサイズが決定される。もちろんのことながら、本来数字で表示されるバッテリ容量をカップで呼ぶのは正式なものじゃなくて、ほぼすべてが女性型のピクシードールにおいて、ブラのカップサイズを想定してのよく使われる通称だ。

 カップサイズの大きいバッテリを搭載すれば稼働時間は延びるけど、ピクシードールのパーツの中で比較的重量の大きいバッテリは、大きければ大きいほど重心を高くすることになり、動作の安定性が失われていく。

 より女性らしいボディラインにするためにブレストアーマーだけ膨らませてる、いわゆる「偽カップ」なら別になるけども。

 もしあれが偽カップではなく、本当にFカップバッテリを搭載しているのだとしたら、あのドールは第三世代か、第四世代初期の消費電力の大きいパーツを使っているのかも知れない。

 ソーサラーネームのサマープリンセスというのも、たぶん僕と同じくらいの歳だろうポニーテールのちょっと可愛い感じの横顔にも、憶えはない、と思う。

 スマートギアを被らず年代物になりそうなフルタッチの携帯端末を手元に構えている様子から見てセミコントロールだろうことはわかるけど、リングに真剣な目を向けている彼女がローカルバトルとは言え決勝戦にまで勝ち上がってくることができる実力の持ち主なのか、ただの運でここまで勝ち上がってきたのかは判断できない。

『どっちが勝つと思う?』

『わかんないの? おにぃちゃん』

 リーリエの得意そうな声が聞こえるのと同時に、試合開始のゴングが鳴らされた。

 正直、僕には勝負の行方は予想できなかった。

 宝石のような結晶をコアとする、過去にない画期的なクリスタルコンピュータ「スフィア」をロボット用に開発、発表し、フレームと人工筋の塊のようだった第一世代スフィアドール。

 SR社と協力企業によって開発が進められ、エルフ、フェアリー、ピクシーの三サイズが制定された第二世代。

 仕様が公開され一気に参加企業が増え、目が飛び出るほど高かったもののわずかながら市販の始まった第三世代。

 低価格化による普及を目的とし、性能低下を許容して一般にも手が届くようになってきた第四世代を経て、今なお高くて一般人では買えないエルフや、安いもののペットドールとしてレディメイドがほとんどのフェアリーと違い、主にパーツ単位で販売され、バトルなんかに使われるピクシーの二十センチという標準サイズは、決して仕様だけで決まったものじゃない。

 フレームの強度や耐久性、人工筋の出力などのバランスによって現在のところ二十センチサイズが最適とされてきたものだ。

 多少ばらつきがあるにせよ、現行パーツで組み立ててバトル用に実用になりそうなサイズは二十三センチが最大。

 それを越える二十五センチのヒルデというドールに、どこまでの性能があるかは戦いを見てみなければわかりそうもなかった。

 ゴングは鳴ったものの、二体はすぐには武器をぶつけ合うようなことはなかった。

 ユピテルオーネは威嚇するように指を使ってハルバードを身体の前で回転させている。

 ――やっぱり第五世代パーツだな。

 ピクシードールの手は人間のそれより縮尺としては大きいのが常だけど、それにしてもユピテルオーネの指は太い。刃を引いていない飾りとは言え、けっこう重量があるはずの金属製のハルバードを手ではなく、指でもって回している。

 指用の人工筋でそこまでパワーがあるのは、バトル向けとしては暗黒時代とまで呼ばれることのある性能が低いパーツの多い第四世代パーツではなくて、つい先週発売されたばかりの第五世代パーツの人工筋が組み込まれてるからだと思う。

 ヒルデの方と言えば、スピードタイプだと思うのに、自分からは仕掛けたりせず、身体の半分を超えるだろう洋風の長剣を右手で持ち、それを突き出すように半身に構えて相手の出方を窺っているようだった。

 先に仕掛けたのはユピテルオーネ。

 回転させていたハルバードを腰だめに構えたかと思った瞬間、ヒルデに向かってジャンプするかのように一直線に跳んだ。

『終わるよ』

『え?』

 攻撃が始まったのと同時に、確信の籠もった声でリーリエが言った。

 ドールの動きを追うようにモニターにはメインの表示の他に、四方向のカメラからの映像が同時に映し出される。

 武器のリーチを利用した攻撃はたぶん、避けられたり逸らされたりしても次の動きにつなげるための布石。

 重量級の武器による攻撃をまともに受ければ、ピクシードールの背骨にあたるメインフレームですら破損しかねない。

 ユピテルオーネにとってはクリーンヒット一発で終わる戦い、のはずだった。

 剣の先でわずかにハルバードの軌道をずらしたヒルデ。

 次の攻撃に移るだろうと思われたユピテルオーネだったけど、さらにヒルデに向かって突っ込んでいく。

 ――左手?

 別方向のカメラでは、空いていたヒルデの左手がわずかに動き、身体をかすめるように突き出されたハルバードの先端に近い柄を掴んで引き寄せてるのが見えた。

 ユピテルオーネのソーサラーが口元を引きつらせたときには、二体のドールはほぼ衝突する距離まで接近していた。

「あ……」

 一瞬見えなくなるほどの素早い動きで、ユピテルオーネに腰を落としながら背を向けたヒルデは、滑り込ませた右肩を軸にして腰を跳ね上げさせた。

 ――背負い投げ?

 武器を持ったピクシードール同士の戦いではついぞ見たことがない、柔道の技が繰り出されていた。

『ふっふーん! やっぱりヒルデって子が勝ったねっ』

『どっちが勝つか先に言ってなかったじゃないか』

 リーリエに突っ込みを入れつつも、たぶん予想していた結果なんだろうと思っていた。

 ――セミコントロールでここまでできるのか?

 ドールの動きを細かに操作できるフルコントロールならともかく、動きをコマンド入力で操作するセミコントロールであんなことができるなんて、僕もさすがに驚いていた。

 スピードタイプだろうにあまり積極的に動かなかったことには疑問を感じるけど、あんな戦いができるなら確かにローカルバトルで優勝できてもおかしくはないだろう。

 決着のついたモニターでは、サマープリンセスとヒルデの勝利を称える表示と同時に、リングの様子が映し出されていた。

 投げ飛ばされたとは言え、けっこう柔らかいリングに叩きつけられた程度でピクシードールが壊れることはない。絶妙なタイミングで繰り出された背負い投げは、リングの端だったことも相まって、ユピテルオーネをリングアウトに追い込んでいた。

 勝利した女の子は、満面の笑みを浮かべてポニーテールを左右に揺らしつつ観客に愛想を振りまいている。

 ――どこかで見たことがあるような気がするな、あいつ。

 この距離じゃモニターに映し出された顔もよくは見えなかったけど、正面から見た彼女の顔つきには、なんとなく憶えがあるような気がしていた。

『ね、おにぃちゃん。飛び入り参加募集してるよ。行く?』

 さすがは商店街の客寄せイベントとして開催されたローカルバトル。盛り上げるためなら決勝戦の後でも飛び入り参加を募集するらしい。飛び入りに勝てば追加の商品を約束されているらしい女の子が、観客に挑戦的な視線を向けていた。

『僕はもうこの手のバトルはやらないよ』

『……そっか』

 リーリエならさっきみたいな攻撃でもたぶん反応はできるだろう。

 でもいまの劣化した第四世代パーツを組み込んでいるアリシアでは、相手の潜在的な力も考慮すると、どこまで戦えるかは未知数だ。せめて手配中の第五世代パーツを組み込んでからにしたい。

 それだけじゃなく、僕はスフィアカップ以降、ピクシーバトルに参加したことは一度もなかった。

 僕にはもう、戦う理由はなかったから。

 リーリエと言う、新たなソーサラーを得た後も、それは変わらなかったから。

 ――でもこれからは、そういうわけにはいかないんだろうな。

 僕はあのとき、エイナに願いを伝えた。

 それは戦いに参加する意志を表明するものだ。

 これから僕が参加することになるのは、ローカルなピクシーバトルなんて小さな規模の戦いなんかじゃない。

 たぶん僕は、この先あの通り魔とも戦わなくちゃいけないんだろう。

『もう終わりみたいだよ』

 飛び入りが出なかったらしい会場では、終了の宣言も終わり、撤収が始まっていた。

 ヒルデというドールには興味はあったけど、もう帰ってしまったのか、人混みにはあの女の子らしい姿は見つけることができなかった。

『帰ろう』

『うんっ』

 いつの間にか空が茜色に染まる下を、スマートギアをデイパックに放り込んだ僕は家に向かって歩き始めた。

 



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第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第一章 3

       * 3 *

 

「エイナ?」

 それはちょうど、アリシアの交換パーツをスマートギアを使って調べてるときだった。

 リーリエがコントロールするアリシアの動きをもっと良くして上げたいとは思っていたけど、とくにバトルをするわけじゃないから、性能と耐久力と一緒に価格も上がった第五世代パーツにするのも気が引けて、処分特価が始まりつつある第四世代のままでいいか、なんてことを考えていた。

 スマートギアに表示された映像付きの音声着信の相手は、「エイナ」と表示されていた。

 登録名をニックネームにするのなんて珍しいことじゃないから、番号非通知の着信が僕の知り合いの誰かかと思うけど、そもそも僕の通話用番号を知っている人なんて数えるほどしかいないし、その中でニックネームで通話してくる奴なんてひとりもいない。

 エイナと言えばエレメンタロイド、人工の「精霊」エイナのことくらいしか思い付かないけど、自律行動が可能な人工個性と言えど、僕に電話してくることなんてあり得ない。

 家ではスマートギアを被りっぱなしのことが多いから、必要なとき以外照明も点けてなくて、部屋の中は薄暗い。棚や机が床面積の大部分を専有していてあまり広くなく、ドールパーツや試作フェイスパーツでごちゃごちゃしてる中で、僕はワタワタと慌ててしまう。

 フルメッシュのオフィスチェアに座り直して、慌てる必要なんてないことを思い至る。

 とくに通話に応じる必要なんてないと思ったけど、十コールでも切れない着信に、僕は少し興味を引かれていた。

 ポインタを思考で操作して、こちらの映像をオフにした状態で着信ウィンドウの応答ボタンをクリックする。

 アニメか何かのキャラクターのように整えられたセミロングのピンク色の髪。若干大きめに見えるものの、リアルな人間に近いサイズの目は笑みを浮かべ、でも少し不満そうに薄ピンク色の唇を尖らせている女の子は、確かにエレメンタロイド、エイナの姿だった。

『やっと出てくれましたね。でも何故カメラオフなんです?』

 着信にはカメラ映像ありでの応答を求めているのはわかっていたけど、見知らぬ相手にこっちの映像を送る気なんて起きない。

 姿こそエイナだけど、これはたぶんアバターだ。

 音声着信の映像をエイナに差し替えるアバターは、エイナを管理しているエイナプロダクションから販売されていたし、自力で3D映像を造り上げたものを頒布したり無料で提供してたりするデータはネットに溢れかえっていた。

 ――たぶん誰かのいたずらだろう。

 僕にこんないたずらを仕掛ける相手は思い付かないものの、片付けていない部屋を見られずに済んだことだけは確かだった。

『別に構わないだろう。それで君は誰で、いったい何の用なんだ?』

『スマートギアを使っていらっしゃるんですね。仕方ないですね……。それならば、よっ――と』

 エイナの姿をした誰かは、言いながら映像が映し出されている通話ウインドウの縁に手を掛けた。

「は?」

 思わずイメージスピークをするのを忘れ、僕は声を上げていた。

 女性らしい起伏は大きいものではなく、どこか中性的な感じのボディライン。そのラインを活かしつつ、ひらひらやふわふわとした装飾の多い、髪の色と同じピンク色の服を身につけたエイナの姿が、ウィンドウから飛び出してきて、僕の目の前にある机の上に腰掛ける。

 身長はたぶん、エルフドールを意識しての、百二十センチ程度と子供サイズだった。

 僕のスマートギア越しの視界では、いままさに、目の前にエイナが座っているように見えていた。

「な、なんだこれ!」

 僕の家の端末には通常の通話ソフトしか入れてないから、ウィンドウから飛び出すような映像が実現できるはずもない。

 まさか本当に目の前にエイナが現れたのかと思って、僕はスマートギアのディスプレイを跳ね上げてみる。

 でもそこには誰もいない。

 少し前まで見ていたのと同じように、片付けられていない机があるだけだ。

 あくまでエイナはスマートギアの表示上で、通話ウィンドウから飛び出してきているだけだった。

『ダメですよ。その状態ではわたしと話せませんよ』

「リーリエ! セキュリティチェック! クラックされてる可能性がある!!」

 ギアのマイクを瞬間オフにして、僕は部屋に設置されてるリーリエ用の集音マイクに向かって呼びかける。

 いつもならすぐに応答があるはずのリーリエからは、何の返事もなかった。

『すみません、音山克樹さん。いまはその子とは話ができないようにしています』

 ディスプレイを下ろして、マイクをオンにする。

 再び視界に現れたエイナは、くっつくほど顔を近くに寄せて笑みを浮かべていた。

 もう少しで唇と唇が触れてしまいそうな距離に、僕は急いで部屋の一番後ろまで身体を遠ざける。

『ふふふっ。その反応が見れたなら、充分ですね』

 唇に右手の人差し指を当ててさも楽しそうにしているエイナ。

 そんな様子を無視して、僕は問う。

『……何をしたんだ?』

『そうですね。魔法を使った、と言ったら信じてくれますか?』

 魔法、という言葉を聞いて、僕は顔をしかめていた。

 そんなものは存在しない、なんて一笑に付すことはできない。少しばかり、心当たりがあったから。

『今日は特別なスフィアを持つ貴方に、あるバトルへの招待をするために来ました』

 いま僕が持ってるピクシードールに搭載しているスフィアは、確かに特別なものと言えた。

 第四世代スフィアドールの宣伝を兼ねたスフィアカップの中で行われたピクシーバトル。その上位入賞者にのみ授与された、当時の次世代型スフィアだった。

 SR社が開発したスフィア自体、かなり特別なものと言ってもいいかも知れない。

 特殊な製造方法で製造した宝石のような結晶に電気を通すことによって演算を行うクリスタルコンピュータと呼ばれるものをコアとして、主に人型ロボットの小脳として機能するよにつくられている。もっと多くの分野に使えそうなクリスタルコンピュータだけど、どういう事情なのか、SR社はあまり原理などは公開せず、おそらく相当高い演算能力を持っているだろうにも関わらず、スフィアドール用のものしか出荷を行っていない。

 スフィアを発表するまでは全くの無名で、発表のほんの数年前に日本で起業したスフィアロボティクス社に対抗して、ロボット関連企業がスフィアと同等のものの開発に取り組んだり、スフィアをばらして解析しようとしたけれど、今のところ技術供与を受けた会社以外からは同等だったり同様だったりする製品は登場していない。

 その中でもスフィアカップの地区大会の三部門それぞれの一位と二位の人だけに配られた次世代型スフィアは、最初に開発されて以降制御系統の増加の他は進化のなかったスフィアを大きく変えるものだと宣伝されていた。

 その次世代型スフィアも第五世代スフィアドール発表と同時に量産出荷が開始されているけれど、SR社から直接先行してもらうことができたアリシアに搭載した次世代型スフィアは、確かに量産のものとは違う特別なものと言えた。

『そのスフィア、エリキシルスフィアを持つ人の中で、資格を持つ人だけがこのバトルに参加することができます』

 どんなに精緻でリアルな3D映像と言っても、人工物に過ぎないはずのエイナの目は、でも微かに笑みを浮かべ、僕の目を真っ直ぐに見据えて奥底を覗き込んでくるようだった。

『エリキシルスフィア?』

『そのスフィアは、命の水エリクサーを生み出す力を持ちます』

『命の水って、いったい……』

『エリクサーは命に関わる大きな力を持つ水です。それを得ればあらゆる病を治し、望むならば死して塵となった者であっても、復活させることが可能です』

 本当にエイナの言ってることが魔法というか、ファンタジー染みてきた。

 ハッキリ言って信じることなんてできない。

『もちろんこのバトルのことも、エリクサーのことも、公に晒すようなことはあってはなりません。そんなことをしようとした時点で、バトルへの参加資格を失います。詳しいことは、こちらのマニュアルをご覧ください』

 言ってエイナの左手に現れたのは、書類を示すアイコン。

『それからこちらのアプリをインストールしてください』

 肩の上に掲げた右手には「エリキシルバトルアプリ」というアプリ名と 、それのインストールの可否を問うボタン。

 ――非常識だ。

 命の水エリクサー、エリキシルスフィア、それから、魔法。

 どれをとっても現実離れしすぎていることを、僕は信じることができない。

 ――でも……。

 エイナから視線を外して、僕は考える。

 エイナの言うエリクサーが命に関わる奇跡を起こせるというならば、僕が望んで止まないこともまた、可能になるだろうか。

 ズボンのポケットに右手を突っ込む。

 そこにある堅い感触を確かめていた。

 二年の間に触り慣れてしまったもの。

 それを使う機会が得られるときを、僕はずっと待ち続けていた。

 使うべき相手を、ずっと探し続けていた。

『もし、もしもだよ、エイナ。こんな望みは、エリクサーで実現可能なの?』

『聞かせていただけますか?』

 ふんわりと笑うエイナに、僕は僕がずっと抱き続けていた望みを告げる。

 それを聞いて、笑みに影を落とし、複雑な表情を浮かべるエイナだったけど、少し考えるように目をつむった後、言った。

『克樹さんの望みは、エリクサーによって実現可能です。ただし、条件があります』

『それは何?』

 その条件を聞いた上で、僕はエイナに言う。

『わかった。僕はエリキシルバトルに参加する。どうすればいい?』

『細かいことはこちらのマニュアルを。それからアプリのインストールを』

 言われた通りにマニュアルのファイルを受け取って、アプリのインストールを開始する。

『エリキシルドールとそれを操るエリキシルソーサラーと戦い、スフィアを集めてください。そうすれば命の水は得られ、克樹さんの望みは叶います』

 インストールされたアプリがアリシアとのリンクを完了したことを告げる。視界の少し下に現れたアプリのメインウィンドウにあるのは、音声入力を求める表示。

『いま貴方の胸の中にある願いを込めながら、「アライズ」と唱えてください。そうすれば、エリキシルスフィアに秘められた力が解放されます』

『うん』

 子供のような背格好で、でもどこか大人びた顔をしたエイナは、何故か泣きそうな表情をしているようにも見えた。

 エイナから無理矢理視線を外して、彼女が座っている左側とは反対のところに置いてある、充電ベッドに寝かせたアリシアのことを見、僕は叫ぶ。

「アライズ!」

 アリシアが光に包まれるのと同時に、少し浮き上がるように動き、床の上に着地する。

 光が収まったときいたのは、エイナと同じ百二十センチ、エルフドールサイズのアリシア。

 そうして僕は、エリキシルバトルの参加者、エリキシルソーサラーとなった。

 



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第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第一章 4

       * 4 *

 

「ちょっと克樹。よくのうのうと寝ていられるわね」

 頭の上から振ってきた声に、机に突っ伏していた身体を起こす。

 寝不足でくらくらしてる頭を振って惚けていた意識をすっきりさせようとする。

 ――すげー眠いな。

 いつの間にか昼休みに入っていたらしい。

 教室の中はざわざわと騒がしく、机をくっつけて弁当を広げる女子がいたり、早速購買からパンを買ってきたらしい男子が机の上に座ってダベっていたりした。

 昨日の夜はいまアリシアに取り付けてる新型フェイスパーツの製品化テスト版の作成と構造図をつくっていたから、寝たのは明け方近くになっていた。

 外はコートを着てても寒いが、教室内はエアコンが効いていて快適だ。寝不足の日に寝るのに最適な温度にされれば、誰だって寝るだろう。

「ちょっと聞いてるの?!」

「何だ、遠坂か」

「何だじゃないでしょ!」

 目を三角にして怒っているショートカットの女子は、同じクラスに生息する遠坂明美。

 立候補者がいなかったから推薦によって決まったクラス代表を務める程度にはクラスに信任の厚い女の子で、確か陸上部か何かに所属するスポーツ少女だ。

「あんたねぇ、今日日直だったの忘れたの? あんたが遅れてきたからワタシが代わりにやったのよ!」

「そりゃどうも」

 昼飯のつもりで持ってきたゼリードリンクはお腹が空いて二時間目に飲み終えていたし、購買に食べ物を買いに行くのも面倒臭くなって、僕はもう一度机に突っ伏そうとする。

「こら克樹! 寝ようとするなっ」

「なんだよ。ご褒美でもほしいのか?」

 少し前屈みになって睨みつけてくる遠坂の身体を、上から下までじっくりと眺めてみる。

 短くしてるスカートに包まれたスポーツ少女らしいお尻の具合はともかくとして、地味な深緑の上着の下に着ているブラウスは、ジャンパースカートの形状の関係でけっこう胸が強調されるようになってて、清楚な感じの夏服とは別の方向で男子に人気があるというのに、遠坂のそこは中学の頃とあまり変わっているようには見えない、一抹の寂しさがあった。

「いいぞ。その寂しい胸を大きくしてほしいなら、ご褒美と言わずいつでも揉んでやるぞ」

 両手を挙げて指をわきわきと動かして見せてやる。

「ば、莫迦!」

 隠すほどもない胸を両腕でガードして逃げ腰になる遠坂が面白くて、僕は手を伸ばしてさらに追い打ちをかける。

「ほらほら、どうした? その手をどかすんだ」

「……まったく、またそういうことを言うんだから、克樹は。そんなだから女子から嫌われるんだよ?」

 恥ずかしがって赤くしていた顔に不満そうな表情を浮かべて、遠坂が睨みつけてくる。

「ほっとけ」

 僕は確かにクラスどころか学校中の女子にエロい奴と話が通っていて、声をかけてくる女子はおろか、男子で仲良くしてる奴もほぼいない。幸いというべきか、いまのところ停学なんかは食らったことはなかったが、注意だけなら保護者に何度か行ってるはずだ。

 そんな中でも遠坂は僕に声をかけてくる希少動物に分類される女子だが、中学の頃からちょっとした縁があって知り合いの彼女とは、意地悪をするにもどうにもやりづらい。

「克樹、あのね――」

 机に手を突いて説教を始めようとする遠坂。

 彼女の説教は長くなる上、耳に痛いから嫌いだ。

 そっぽを向いてやり過ごそうと思ったとき、新キャラが登場した。

「よぉ。何をもめてるんだ? ご両人」

「あぁ。こいつが日直の仕事さぼってね」

「なるほどな。まぁ音山。クラス委員様の言うことはちゃんと聞いた方がいいぞ」

 現れたのはずいぶん背の高い男子。

 背の高さの割に身体は細身に見えるが、首の太さを見るとたぶん運動部、それも格闘系の部活に入っているような気がした。

「あんた誰だ?」

 運動部らしい短い髪のそいつは、僕の声に唖然とした顔をする。

「……あんたねぇ。もう半年以上も同じクラスにいてクラスメイトすら憶えてないわけ?」

 呆れたように額に手を当てて、遠坂は左右に首を振る。

「女の子の顔と名前とスリーサイズと各部の感度ならともかく、男子の情報なんて記憶容量の無駄遣いにしかならないな」

「本当にこいつは、相変わらず……」

「ま、まあいいんだけどな。オレもいままで声かけたことなかったわけだし」

 少々詰まりながらも爽やかな笑顔のそいつは、許可もしてないのに自己紹介を始めた。

「オレは近藤誠。空手部に入ってる。運動部繋がりってことで遠坂とは割と仲がいいんだが、まぁなんかいまはトラブってたみたいだったからな」

「わざわざうちの空手部に入るために隣の県から独り暮らしまでして来てるんだよ、近藤は。大会でも注目されてるんだから」

 確かうちの陸上部は弱小の上、部員も少なくて、高校には必要な部活だからってことで存続してるうようなところだったはずだ。そんなだからグラウンドの優先順位も低くて、他の部活が校庭を使ってる時間は体育館なんかを間借りして使ってるときもあったような、気がした。

 対して空手部は、所属してる人数こそ多くはないものの、全員がかなり強くて、大会ではけっこういい成績を収めてるなんて話を聞いたことがあったし、たまに校舎にどこかで優勝したって横断幕が掛かっていたり校内ニュースで報告があったりした、ような気がした。

「何? 彼氏? じゃあ毎日胸をも――」

「違うわいっ!」

 激しく机を叩いて僕の声を遮った遠坂は、いまこそ殴りかかろうとするみたいに握った右の拳を震わせていた。

「そんで近藤某さんは僕に何か用?」

 頬を引きつらせてる遠坂のことは放っておいて、近藤の方に話を振ってみる。まぁ僕と遠坂のやりとりに割って入っただけだろうから、用事なんてなさそうだけど。

「あぁ。ちょっと音山に訊きたいことがあったんだ」

「訊きたいこと?」

 会話に割って入っただけだと思っていたら、そうでもなかったらしい。

 でもクラスで一度も話したことがないような奴に訊かれて応えられるうようなことがあるかと思うと、疑問を感じる。

 念のため耳につけてあるイヤホンマイクの集音マイクをオンにしようと思ったけど、リーリエに確認しないといけないようなことが出てくることは思えなかったので、やめる。

 冬の濁った空には似つかわしくない爽やかな笑顔を浮かべていた近藤が、眉を顰めつつ真面目な顔をした。

「この学校にはソーサラーは何人くらいいるのかな、って思ってな」

「ソーサラー?」

 何でまたそんなことを、と思う。

 いったい最初に誰が言うようになったか知らないけど、スフィアドールの操縦者をコントロール方式を問わずソーサラーと呼ぶようになったのは、第二世代の頃だったらしい。

 スフィアドールに関わる人間にとってその言葉は極々当たり前のものではあるけれど、一番家庭に普及しているフェアリードールはフルオートのものがほとんどで、それを操る人間や所有者をソーサラーと呼ぶことは滅多にない。

 ピクシードールの、特にバトルに参加する操縦者をソーサラーと呼ぶことが多いけど、第四世代で安くなったとは言え、完成品、いわゆるレディメイドのピクシードールでも十五万を切るのがやっと。バトル仕様のパーツ一式では二十万を下ることは滅多にない。その上ピクシードールなんて趣味の範疇に入るものだから、決して一般的と言えるようなものでもない。

 その程度には一般から隔絶されてるソーサラーという言葉が、その手のことには疎そうな近藤のような奴から出てくるのに少し違和感を覚えていた。

「ここのところ出没してる強盗ってか、通り魔? がさ、ソーサラーを狙ってるってニュースでやってたからな。人数は多くねぇけど空手部の人間でせめて学校の奴くらいは守ってやれないか、なんて話が出てるんだよ。オレじゃあ誰が持ってるかなんてわからねぇから、詳しそうな奴に訊いてみればわかるかな、って」

「どういう見立てだよ」

 セール品なんかでレディメイドのピクシードールが十万を切ったなんてこともあるから、高いにしてもオモチャとして持ってる人間は校内にもいるんじゃないかと思う。

 ただ基本的に友だちづきあいをしない僕が、そんなこと知ってるわけがない。

 どういう考えで僕に訊いたのかはわからないが、僕から言えることはとくにない。

「克き――」

 何か言いたげな遠坂をひと睨みして口を噤ませてから、僕はため息を吐き出した。

「僕には友達がいないんだ。誰がソーサラーかなんてこと、知ってるわけがないだろう」

「そっかぁ。ふたり目の被害者はここの生徒だったらしいし、絶対オレが通り魔をぶちのめしてやろうと思ってたのに」

 悔しそうに舌打ちする近藤の暑苦しさに辟易する。こういうタイプの男は基本的に嫌いだ。

「なぁ、もし情報があったら――」

「おーい、音山。客だぞ」

 知らないことをさらに追求しようとする近藤の声を遮って、廊下の方から名前も憶えてない男子に呼ばれて僕は席を立つ。

「克樹! 掃除のゴミ捨てはあんたがやるんだからね!」

「へいへい」

 背中に浴びせかけられた遠坂の声に適当に応えて、僕は呼んでるという奴のところに机を縫って向かった。

「あれ?」

 廊下に出てみたが、僕のことを呼んだらしい人物の姿はなかった。前を見ても後ろを見ても、僕に視線を向けてる人物は見当たらない。

「おい、客って?」

「あ? いや、いまそこにいたんだが」

「誰もいないぞ。誰だったんだ?」

「別のクラスの女子だと思う。名前は知らないけど、ポニーテールの女の子だったぞ。……またお前、何かやったのか?」

「いや、そんな憶えだったら両手両足でも足りないぐらいだが、ポニーテール?」

「お前はーっ!」

 じゃれつこうとする名も知らぬ男子の顔を掴んで遠ざけつつ、僕は首を傾げていた。

 近づいてくる女子にはさっき遠坂に言ったみたいなことを言うのはいつものことだったが、ポニーテールの女子というのには憶えがない。

 まぁ女子の髪型なんてちょくちょく変わったりするものだから、何かやった奴の中に僕に恨みを持ってるやつがいてもおかしくはない。

 でも僕の頭の中には、学校内じゃない、別の場所で見た女子のことが思い浮かんでいた。

 ――まさかな。

 エリキシルバトルに参加したものの、いまのところ僕以外のエリキシルソーサラーに出会ったことはない。マニュアルにもどうやって出会ったらいいかなんてことはとくに書いてなかったから、僕はあえて積極的に探そうとはしていなかった。

 思い浮かんだのはついこの前駅前で見たローカルバトルの優勝者。

 スピードタイプだと思われる長身ドールを使い、絶妙なセミコントロールによって勝利を収めたポニーテールの彼女。

 若干不吉な予感に苛まれつつも、予鈴の鳴った教室の中に戻って自分の席に向かった。

 



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第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第一章 5

       * 5 *

 

「ちっくしょ」

 遠坂の監視から逃れられずに、僕は校舎裏のゴミ捨て場にゴミを捨てに来ていた。

 ゴミ箱は昇降口の辺りに置いておけばクラス名が書いてあるんだ、明日の朝にでも誰かが教室に持っていってくれるだろうと思って、そのまま帰れるよう鞄も担いできていたが。

 遠坂から逃げ回っていたためにずいぶん遅い時間になって、校舎裏には同胞のゴミ捨て要員は誰もいない。

 二階から下りてくるだけでも僕の細腕じゃ苦労したゴミ箱に愛着があるわけじゃないが、いつ天気が崩れるとも限らない空の下に置き去りにしていくにはちょっと不憫で、ため息を吐き出しつつも指に引っかけて持ち上げる。

 そうして僕が振り返ると、行く手を阻むように立っていたのは見覚えのある女子だった。

「ふむ……」

 ゴミ箱を地面に起きつつ、腕を組むような格好で顎に手を当てて、僕は少し離れたところに立ってるその子を上から下まで眺めてみる。

 髪をポニーテールにまとめていて、ちょっと顔が小さめで丸い感じがあるからか、普通よりも大きく見える二重の目が、僕のことを睨みつけてきていた。

 どうやら遠坂よりも胸にボリュームはあるらしいが、上着が少し大きめなのか体型は判断しづらい。

 何より特徴的なのは、短いスカートの中まで伸びている、うっすらと肌の色が透けて見える黒のストッキング。

 パンティ近くまで長さのあるストッキングなのか、パンティストッキングなのかが問題だったが、あえて僕はそれが後者だと思うことにした。

 ――たぶん、そうなんだろうな。

 肩をこわばらせ、鞄を提げていない右手を強く握って微かに震わせている彼女。

 恨みがあるかのように、でも同時に恐れているかのような色が浮かんでる瞳が、ただひたすらに僕のことを見つめてきていた。

 僕を待ち伏せた理由に思い当たるものはあるけど、それを口にしたりはしない。

「どこを見てるのよ」

「いや、まぁそれはいいとして、告白なら早めに言ってくれ」

「違う!」

 女子が男子を人気のないところで待ち伏せるシチュエーションと言ったら告白かと思って、それを想定した言葉をかけてみたが、違ったらしい。

 色白な顔を真っ赤に染めて、何かを堪えるように食いしばった歯を僕に見せつけてくる。

「それで何の用だ? サマープリンセスさん」

「……音山克樹。アタシと戦いなさい」

「いきなりベッドの上でのバトルに誘うとは斬新だね。これから僕の家に行くかい?」

「だから違うって言ってるでしょ! あんた、ふざけてるの?!」

 地面を激しく蹴りつけるサマープリンセスの様子が意外と可愛らしい。

 思わず吹き出しそうになるのを堪えながら、僕は改めて待っていた理由を問う。

「それで、今日の御用向きは?」

「アタシと戦いなさい、音山克樹。もちろん、エリキシルバトルで、よ」

 とくに根拠はなかったけど、何となく予感はあった。

 そろそろエリキシルソーサラーに出会うんじゃないかと。

 彼女がどうやって僕を特定したのかはわからない。でもできればこの場は逃げたい。アリシアの新しいパーツはまだ届いてない。

「今日はドールを持ってきていないんでね、また今度でいいかな?」

「そんな嘘に騙されるわけないでしょう?」

 言って彼女はローカルバトルのときにも使っていた古い携帯端末を僕に示した。

 目をこらして見ると、そこにはエリキシルスフィアの距離が表示されていた。

 距離は二メートル弱。ちょうど僕の鞄を示してる。

 ――そんな機能があったのか。

 エリキシルバトルアプリについてはどんな風に動くのかは調べていたけど、英語でもないよくわからない言語で書かれている設定項目がかなりあって、調べ尽くしてるとは言いがたかった。

 それに僕が興味を引かれたのは主にアライズしたアリシアに関わることで、アライズ時にどんな変化があるかについてを中心に調べていた。

 日本語化されていない、たぶんけっこう深い階層の設定項目に、レーダーのオンオフをするところがあったんだろう。方向表示はないみたいだから、ある程度距離があれば逃げることも可能そうだけど、ここまで近づかれていては言い逃れもできない。

 ――仕方ないか。

 諦めて、僕は鞄からスマートギアを取り出して被り、アリシアを起動させる。

『リーリエ』

『うん、聞いてた。大丈夫、あたしは戦えるよ』

 放課後になってからオンにしてあった集音マイクで聞いてたんだろう、スマートギアからの呼びかけに、リーリエはいつもより少し緊張した口調をしつつも、そう言ってくれた。

 リーリエがアリシアとのリンクを確立したのを確認して、僕は地面に立たせる。

 それに応じるように、女の子もまたヒルデをアリシアに対峙させた。

『ねぇ、やっぱりあのヒルデってドール』

『うん、たぶんね』

 あの後、僕は彼女の使うピクシードールについて少し調べてみた。

 情報があまりなかったから正確なことはわからなかったけど、予想が正しければあれは、すごく貴重で、そして高い性能を秘めたドールだ。

『ちょっとやばいけど、全力でいくよ』

『うん。わかった』

 アリシアのコントロールはリーリエに任せて、僕はアリシアの身体情報に関するプロパティウィンドウを次々と開く。正面以外の視界に並べられた四枚のウィンドウに四つのポインタを同時に操作して、必要が来る瞬間を待つ。

「フェアリーリング!」

 女の子の声と同時に、僕たちの真ん中に現れた金色の光が広がって、円形の闘技用の空間をつくり出す。

 このフェアリーリングの中にいる限りは、外からは認識しづらく効果があるんだそうだ。建造物の破壊とか大きなことがあるとさすがにダメらしいけど、中で戦っている程度だったら見えていても認識できなくなるというものだった。

 ――まさに魔法だよね、これって。

「さぁ、いくよ」

 女の子のかけ声に、お互いにフェアリーリングの縁まで下がって、僕と彼女は同時に叫ぶ。

 お互いの、願いを込めながら。

「アライズ!」

 

 

 アライズによって百二十センチ、僕の肩ほどのサイズになったアリシアが斜め前に立つ。

 ピクシードールだったときよりもわずかにほっそりしたような身体つき。首から下のソフトアーマーはレオタードのような白色をし、上半身と腰、肘から下と膝から下を覆っているのは、水色のハードアーマー。身長と胸部のアーマーの形状も相まって、Cカップバッテリなのにどこか身体つきは幼さを感じる。

 戦闘を想定していなかったからヘルメットはなく、ハードアーマーと同色の水色の、ゆるりと下ろした両肘の辺りまで長さのあるツインテールが、微かな風になびいていた。

 斜め後ろからだとよく見えないけど、戦闘を前にして本当の人間のように引き締められた顔は、でも微かにその口元に笑みが浮かんでいた。

 ――本当に、あいつに似てるな。

 性格が似てるのは、最初のときから把握していた。でもここまでリーリエとあいつが似てる理由を、僕は思い付くことができない。

 わかっていても、あのときのあいつと同じ身長になったアリシアを見ると、もやもやとしたものが沸き起こる。

 舌打ちしたくなる気持ちにアリシアから目を逸らして、今回の対戦相手を見る。

 ローカルバトルのときにも見た、黒いソフトアーマーと、スピードタイプに見える形状をしながらアリシアよりも身体を覆っている面積の広い濃紺のハードーアーマー。

 二十五センチドールなだけあって、アライズして百五十センチサイズになったヒルデは、ソーサラーの女の子とほとんど同じくらいの身長があった。

 ――それに、あのフェイス……。

 アライズするまでは気づかなかったけど、ヒルデの口元には微かに笑みが浮かんでいた。

 アリシアとは少し違う丸みを帯びた顔は、サマープリンセスに似ていた。

 ――やっぱりそうか。

 頭部の複合カメラの上を覆っているヒルデのアイレンズが、まるで本当の目であるようにきらりと光る。

『リーリエ。防御主体のバトルセットへ。あの剣には気をつけろ。たぶん飾りだと思うけど、あのサイズの金属の棒に殴られたらシャレにならない』

 ピクシードールの武器は武器としての形状は精緻だが、しょせんオモチャの範疇だ。六倍サイズに大きくなってもそれは変わらないだろうと思う。

 でもあのサイズの、たぶん二キロか三キロはあるだろう重量の棒で思いっきり殴られたとしたら、ただで済むわけがない。

『気をつける。先に仕掛けるよっ』

 肘から手首までの手甲に接続した、ドールの繊細な指を覆う形状のナックルガードを両手に構え、リーリエは空手に似た構えを取ってすり足でヒルデに接近していく。

 リーチは剣の分だけあちらが上。

 でも懐に入ってしまえばリーリエの勝ちだ。

 たぶんここからがヒルデの間合いだろう、と思ったところに踏み込んだ瞬間、攻撃が来た。

 胴の真ん中を狙った伸びやかな突きは、リーリエの素早い反応によってツインテールの片方を揺らすだけに終わった。

 その動きを予想していたように、新しい動作指令を端末に打ち込む女の子により、ヒルデが右脚を軸にして身体を回転させ、斬撃を加えてくる。

 ――その程度の動きが通じるかっ。

 左から来た横薙ぎの斬撃を、リーリエは腰を落としつつ左腕の手甲で上方に流して凌ぐ。

 がら空きになった胴体に拳が決まる、と思っていたのに、予想に反してリーリエは大きく跳んで後退してきた。

『お、おにぃちゃん。鉄の棒じゃなかった……』

『は?』

 右腕でファイティングポーズを取りながらも、僕に見せるように左腕をこちらに向けてくるリーリエ。

 剣を受け流したその手甲は、一部がざっくりと切り落とされていた。

 その下のソフトアーマーには達していなかったからよかったものの、もし受け止めようとなんてしていたら、腕ごと切り落とされていたかもしれない。

「は、反則だ! 真剣なんてダメだろう!!」

「何言ってるのっ。ピクシーバトルでもレギュレーションに沿った武器なら使っても大丈夫じゃない。武器を使ってないのはそっちの選択でしょ。文句言われる筋合いはない!」

 確かに彼女の言う通りなんだが、納得できるもんじゃない。

 たぶん一度アリシアを戻して武器を持たせてから再アライズさせてやればいいんだろうし、どうやらアライズの継続時間はドールのバッテリ容量から計算されてるみたいだから、アライズのときにけっこうバッテリを食うらしいことを除いても、武器を持ってるならやり直しても良さそうな気はした。

 持っていれば、の話だ。

 基本、格闘スタイルが得意なリーリエは、武器を装備して戦うことはできるけど、よほど相手が悪くない限り武器を持って戦うことはなく、今日も持ってきてはいなかった。

 エイナと出会ったのはつい二週間前で、これが僕にとってはエリキシルバトルの初戦なんだから、勝手がわからないのは仕方ないと言えば仕方ない。

 そしてたぶん、サマープリンセスもまた初めてのエリキシルバトルだ。

 ヒルデの操作こそ鮮やかだったけど、肩に力が入っているのが五メートル近くある距離からでも見える。

『どうしよう……』

 アリシアの動作には見せていないものの、弱気な声を上げるリーリエ。

『あんまりやりたくなかったけど、必殺技で決める。それとヒルデの動き、解析できてる?』

『うん』

『見せてくれ』

 相手の動きに注意を払いつつ、自宅にあるリーリエの本体の方で解析したヒルデの動作映像とその結果を表示する。

 ――やっぱり、ヒルデには弱点がある。

 最初に構えと動きを見たときから感じていたことだけど、動きを解析して見つけた弱点をリーリエに指示する。

『もう一度剣を受け流せるか?』

『うんっ。できるよ!』

『よし、一気に決めるぞ』

『うん!』

 結局自分からは仕掛けてこなかったヒルデに向かって、リーリエは地を蹴って飛び込むように接近する。

 アリシアのボディから送られてくる情報では、大きな動きを開始した人工筋の電圧がパワーを絞り出すために上がっていく様子が表示されていた。

 リーリエの踏み込みに対応してだろう、半歩分すり足で下がったヒルデが、右手の剣を左上方に振り上げ、避けにくい腰の辺りに向けて振るってきた。

 ほとんど地面すれすれにまで上体を倒しながら、リーリエは右から来る剣撃を左手のナックルガードを使って、剣の腹を押し上げるようにしてかいくぐる。

『リーリエ、電光石火!』

『うん!』

 剣がリーリエの身体を通り抜けた瞬間、僕は構えていたポインタを同時に操作した。

 アリシアの姿が、ブレたように残像を引く。

 リーリエが行動予測をしてくれていて、スマートギアのカメラを高速対応に切り替え済みで、その動きを何度も確認していたからまだかろうじて僕の目にも捉えられた。

 たぶんスマートギアを使っていないサマープリンセスには、リーリエが一瞬消えたように見えていただろう。

 閃きにしか見えなかった凄まじいヒルデの剣速。

 凌いだ剣先が十センチ動く間に、リーリエはヒルデの間合い奥深くに踏み込んでいた。

 一メートル半の距離を瞬間移動のような速度で移動したリーリエが、広げた両足でブレーキをかけるのと同時に、振りかぶった右手をヒルデの左肩に叩き込んだ。

『よし! ……が、まずいか?』

 性能の低い第四世代の、それも使い込んで劣化した人工筋を駆使したから当然と言えば当然なんだけど、限界を超えた左右の腿の人工筋のうち何本かが伸張エラーと発熱エラーを発している。発生した熱が冷めればおそらく大丈夫だけど、すぐにはもう一度電光石火を使うことはできないはずだ。

 ヒルデは片膝を着きつつも、まだ剣の構えを解いていなかった。

 リーリエの拳を受けた左肩は、人では、もちろんピクシードールでもあり得ない角度になってしまっている。

 少なくとも脱臼はしてると思うし、その状態になったらばらして人工筋を接続し直さない限りは元には戻らないけど、戦闘が継続できないほどのダメージではない。

 左腕をもぎ取るくらいのダメージになっていればさすがにそれ以上の戦闘継続は不能だったろう。でもそれができなかったのは、劣化した第四世代パーツが原因だ。

 アライズしてもドールの性能を引き継ぐものだというのは、いろいろ調べている間に確認済みだ。

『油断するなよ、リーリエ』

『わかってる、おにぃちゃん』

 腿の不調を隠しつつ構えを取ったリーリエだったが、その心配はなかったみたいだ。

「ヒルデ?」

 よろよろとした足取りでヒルデに近づいた女の子は、構えを取ったまま自分のドールを背中から抱きしめた。

「ダメだよ……。こんなになったらママを生き返らせてあげることができないよ……」

 目に涙を溜めてしゃくり上げ始めた彼女の意を汲んだように、剣を下ろすヒルデ。

「か、カーム」

 喉に言葉を詰まらせつつもアライズを解除する女の子の言葉で、戦闘は終了となった。

 僕のエリキシルバトルの初戦であり、母親の復活を願う女の子との戦いは、たぶん僕の勝利によって幕を閉じた。

 



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第一部 第二章 ファイアスターター
第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第二章 1


第二章 ファイアスターター

 

       * 1 *

 

「おーい、ヒルデ借りるぞ。状態をチェックする」

 アリシアもバッテリを消耗してるはずだから充電してやりたかったが、とりあえず鞄から取り出して机の上に置いて、僕は女の子が左手に大事そうに持っていたヒルデを奪い取るように受け取って充電ベッドに寝かせる。

 背中の辺りにある無接点充電ポイントの位置がずれていたらとちょっと心配になったけど、問題なく充電が開始され、家のシステムともリンクが確立された。

 スマートギアは使わずに、しばらく使った憶えのない液晶ディスプレイの電源を入れて、スマートギアと同じBICデバイスの一種であるポイントマットに右手を乗せてポインタを操作し、ピクシードール用のチェックアプリを走らせる。

 ヒルデの破損で泣き始めた女の子はその場では泣き止んでくれず、そのまま放っておくのも何だから、学校からそんなに遠くない僕の家に無理矢理引っ張って連れてきていた。

 僕はヒルデの所有者じゃないから個人に関わるものを中心に多くの情報はマスクされていたけど、それでも状態についてかなりの情報を得ることができた。

「ヒルデは、大丈夫なの?」

 鼻をすすりながらも、彼女は僕を押しのけるようにディスプレイを覗き込んでくる。

「まぁ、だいたい予想してたことだけど、やっぱりって感じだね」

「ダメ、なの?」

 ピクシードールに詳しくないのか、表示されてる情報を理解できなかったらしいその子が、また目に涙を溜めながら問うてくる。

 どう答えたものかと頭をかきつつ、僕はまず最初に確認するべきことを訊いてみる。

「ヒルデの正式な名前は、ブリュンヒルデで間違いない?」

「え? う、うん」

 ピクシードールは好きな個体名を決めて本体に登録することができるけど、その情報は個人情報とともにマスクされて見ることができない。

「じゃあやっぱり、君が夏姫か。浜咲夏姫」

「どうしてアタシの名前を?」

 サマープリンセスっていうソーサラーネームからバレバレじゃないか、と思わなくもないけど、苗字まで知っているのは、彼女とは間接的に関わったことがあるからだ。

「ヒルデのフェイスパーツ、君に似てるよね?」

 少し丸くて小顔なフェイスは、こうして両方を近くで確認すると、本当によく似ていた。

「うん。そういう風につくってもらった、ってママが言ってたもん」

「それをつくったの、僕なんだ」

「え?」

 それは一年と少し前のことだ。

 リーリエが可動を開始し、アリシアを動かせるようになった頃、ちょっと普通じゃない状態だった僕は、リーリエのコントロールでアリシアに笑顔をつくらせることはできないだろうか、なんてことを考えていた。

 人工筋やその周辺の事柄、ソフトアーマーの作成方法について知っていたのもあって、可動型フェイスパーツはあんまり時間も掛からず形にすることができた。

 いまと違ってHPT社から開発報酬をもらってなかったその頃の僕にはいろいろ試すだけの資金がなくって、まともに可動はするけどまだ満足できない試作品のいくつかをネットのオークションで売って資金をつくることを考えた。

 意外と高値がついたのは良かったんだけど、そのとき落札に漏れた人から、写真から可動型フェイスパーツをつくることができるか、という連絡を受けた。

 けっこうよい金額を提示されて受けることにした依頼の主が、浜咲春歌という女性。そしてその写真の女の子が、浜咲夏姫だった。

「じゃあ浜咲さんは……、えっと、夏姫のママは、亡くなったんだ?」

「うん……。去年、過労だったって……。倒れて意識がなくなって、そのまま」

 また大粒の涙を目に溜めた夏姫。

「ヒルデは、どうするの? ヒルデがないと、アタシ……、アタシ、ママを生き返らせてあげることができないっ」

 こぼれてきた涙を手の甲で拭う夏姫に、僕はどうしていいのかわからないでいた。

 自分で泣かせるならともかく、最初から泣いてる女の子ってのはどうにもやりにくい。

「まぁ、直せないことは、ないよ」

「え……、と、本当?」

 どういう意図の問いなのかいまひとつ定かじゃないけど、僕は驚いたように目を見開く夏姫に頷いて見せる。

「ここじゃあ修理もできないんだけどね」

 使い古したものも多いけど、ピクシードールのパーツはひと通りくらいなら揃えてある。

 でも、ヒルデの修理はここではできない。

 普通のパーツではどうにもならないくらい、ヒルデは特殊なピクシードールだったから。

「よかったっ。よかった! ヒルデ、修理できるって! これでアタシ、まだママを生き返らせること、できるよっ」

 泣き止んだらしい夏姫は、眠ったようにまぶたを閉じて充電ベッドに横たわっているヒルデに向かって呼びかけている。

 ――んー。

 そんな様子を見て、僕は少し悩む。

 ――でも教えておくべきことは、ちゃんと教えておくべきだよなぁ……。

 悩むのを途中でやめて、僕は夏姫に後ろから近づいていく。

「え? え? な、何?!」

「うおっ。けっこうあるじゃん」

 後ろから夏姫に抱きついた僕は、彼女の胸を両手で掴む。

 大きめの上着越しじゃよくわからなかったけど、夏姫の胸は意外に大きいし、ブラをつけてると言っても弾力も申し分なさそうなもみ具合だった。

「こ、こら音山! やめ……。か、克樹! やめて!」

 嫌々と首を動かすのに合わせて揺れるポニーテールの先端が、弱々しく僕の顔をなでる。顔の前を黒い髪が行き交う度にシャンプーかなんかだろう、いい匂いが漂って、身体が熱くなっていくのを感じる。

「いったい、あんた、何を、する、つもりよ!」

 僕の両手を掴んで止めようとする夏姫の手を逆に掴み上げて、後ろに引っ張る。抵抗できずに床に倒れ込んだ夏姫の上に、僕は覆い被さるように乗っかった。

「何って、夏姫も女の子だったらわかるだろ? 女の子が男の家に来るってことは、どういうことかって。幸い両親が帰ってくることがないからね、朝までだって大丈夫さ」

 両腕を両手で押さえ込んで、両の太ももの上に腰をのせて逃げられないようにする。

「やだっ。そんなつもりないもんっ。やめて! やめてよーっ」

 逃げ出すこともできなくなった夏姫は、涙があふれそうになってる目をぎゅっと閉じて、僕からできるだけ遠くに逃げるかのように首を大きく逸らせる。

 両手がふさがってるから仕方なく、僕は膝でもって夏姫のスカートをめくり上げていく。

 いつもは点けていない照明を点けているから少し明るいけど、僕が覆い被さってて影になって、めくれ上がっていくスカートの中身がよく見えてるわけじゃない。

 それでも徐々に露わになっていく黒いパンティストッキングと、それが包んでいる肌のきわどいところは、充分僕の目を釘付けにするくらいには見えている。

 堪えるように引き結んだ唇。

 僕の膝の動きに反応してか、涙があふれてる目を時折きつく閉じたり緩めたりする。

 少し小柄だけど女らしい身体つきの夏姫の全身から、シャンプーとは違う女の子らしい良い香りが漂ってきて、僕の鼓動は否応なく高鳴っていく。

 ――やべっ。ちょっと真面目に可愛いぞ、これ。

 新境地が見えそうになりつつも、スカートが隠された部分に到達しようとしていた。

 横の方から見えてくる、ストッキングの下のパンティライン。

 白か、それに近い単色のだろう。

 フリルなんかがあしらってある可愛らしいそれがストッキング越しに見えてくることに、僕の興奮は一気に膨らんでいった。

 ――あ。

 女の子の大事なところが覆われている部分まで見えてくると思ったとき、不意に忘れていたことを思い出す。

 ――まずい。

 と思ったときにはもう遅い。

『あ、らーーーい、ずっ!』

 スマートギアではなく、部屋に設置したスピーカーから響いた舌っ足らずな声。

「やめ――」

 言い終える前に後頭部に激しい衝撃を感じて、その重さと勢いで夏姫の胸に顔を埋める。

 ――マジで柔らかい……。

 なんてことを思いながら、遠のいていく意識を抵抗することなく手放していた。

 

           *

 

「も、もうやめて!」

 胸に顔を埋めてきた克樹に、夏姫は必死で抵抗しようと両手で彼の肩を押す。

「あれ?」

 いつの間に掴まれていた両手の力が緩んでいたんだろう。

 解放された両手を見て、夏姫は思わず首を傾げていた。

 恐る恐る胸に顔を埋めたままの克樹のことを見て見ると、微動だにする様子がなかった。

「何が、起こったの?」

 そう思って顔を上げたとき、克樹の上に女の子が座り込んでいるのが見えた。

『んーと』

 何かを考えているらしい女の子は、ずいぶん幼さを感じる表情をしていた。

『あ! えぇっと、この雌ブタ! おにぃちゃんはあたしのなんだから、誘惑したらダメなんだよ!』

「め、雌ブタ? 誰が! って。……あれ? 何か、ヘンじゃない?」

 次の言葉を考えているらしく明後日の方向を見ながら軽くうなり声を上げている女の子。

 豊かな表情の彼女は克樹の妹かと思った夏姫だったが、違っていた。

 ――この子、エリキシルドールだ。

 上半身を覆う水色のハードアーマーと、同じ色をしたツインテールの髪。それから唇に当てた人差し指は、手袋をはめたどころではなく、指三本分ほどの太さがあった。

 彼女は、さっき戦っていた克樹のドールそのものだった。

「あなたが、克樹のドール?」

『うんと、この子はアリシア。あたしはリーリエだよっ』

 アリシアがドールで、リーリエがソーサラーということなのだろうか。

 にっこりと笑うその表情はドールであるはずにも関わらず、アライズして子供ほどのサイズになってるのもあって、小学生かそれくらいの女の子にしか見えなかった。

 そして彼女の側には、他に人がいる気配はない。

 ――リーリエって名前の、フルオートシステム?

 フルオートシステムの中には、喋ったり人のように振る舞うものが存在していることは、夏姫も知っていた。

 しかし本当に人間のように見える自律行動システムを見たことは、一度もなかった。

 ――うぅん。ひとつだけある。エイナだ。

 自分でも作詞作曲をするという人工個性のエイナは、歌声が好きだったので販売されてるアルバムは携帯端末にほとんどダウンロードしていたし、動画サイトでライブの映像が無料配信されたときにはよく見ていた。

 ライブなどでエイナが操るエルフドールは、ピクシーバトルで見たことがあるフルオートドールと違って、表情や振る舞いが人間のようだと思ったのを、夏姫は思い出した。

 いま目の前にいるリーリエは、まるでエイナが操るドールのような、人間とほとんど変わらない自然さがあった。

 ――っていうか、なんで勝手にアライズしてるの?

 直前までイヤらしいことをしてきていた克樹が、アライズと唱えた様子はなかった。それなのに、いまリーリエはアライズして克樹の背中に座っている。

 いったい何が起こっているのか、夏姫には理解することができなかった。

『おにぃちゃんを誘惑してあたしから奪いに来たんだったら、えぇっと、絶対に許さないんだからねっ』

 誰かに言わされているようなたどたどしい言葉が、おそらく部屋のどこかに設置されているスピーカーから響いていた。

 口は言葉の形に動いているから声のする位置のズレに違和感はあるけれど、確かにいま目の前でリーリエが喋っているようにも思えた。

「その前に! 重いからどいて。できたら克樹もどかしてくれる?」

『うんっ、わかった』

 お願いすると素直に聞き入れたリーリエは、ひょいと床に下り立って、さらに克樹の首の後ろの辺りを掴み、軽く持ち上げて椅子に座らせた。

『それでおねぇちゃんは、何?』

 たぶんつくり物なのだとは思うけれど、アライズすると本当に人間のものと見違えるほどになる瞳にあどけない疑問の色を浮かべ、立ち上がって服装を整えた夏姫にリーリエは軽く首を傾げながら問うてくる。

「えっと、アタシは浜咲夏姫。さっきあなたと戦った、ヒルデのソーサラー、かな?」

『うん、それはわかってるよー。でもおにぃちゃんとはどういう関係なの?』

「どういう関係って言われても……」

 問われて夏姫は答えに詰まって、軽く握った拳を唇に当てながら考え込む。

 克樹のことは先日、エイナからエリキシルバトルへの招待を受けるまでは名前もほとんど憶えていなかったし、顔は今日教室で確認するまでまったく知らなかった。

 ただ今日克樹に戦いを仕掛けたのは、アリシアに内蔵されているエリキシルスフィアを奪うためであり、夏姫にとって彼は敵で、おそらく彼もまたそう認識しているはずだった。

 ――でもこいつ、ヒルデのスフィアを奪おうとしてないのよね。

 戦いが終わってからいままで、克樹はヒルデからスフィアを奪おうとする素振りを一度も見せなかった。

 エリキシルバトルの参加者だということは強く願ってる望みがあるということであり、スフィアを集めなければその望みは叶わないはずなのに。

 いったい彼が何を考えているのか、夏姫には想像することができなかった。

『おにぃちゃんの恋人だったり、する?』

 細めた目で見上げてくるリーリエは、先ほどの言わされているような言葉ではなく、本当に人間の女の子が心配しているような、不安そうな表情をしていた。

「違う違うっ。こんな女の子に突然襲い掛かってくるような奴、彼氏にするわけないでしょっ。こいつとは今日初対面だよ」

『そっか! よかったー』

 心から安心したように、胸に手を当てて、――息はしていないのだろうけれど、安堵の息を吐くような動作をするリーリエ。

 ――いったい、この子はなんなの? それに、あなたは何を考えてるの?

 椅子にぐったりと身体を預けて白目を剥いてる克樹を見、夏姫は思う。

 ――あなたはいったい何を望んで、エリキシルバトルに参加したの?

 



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第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第二章 2

       * 2 *

 

 飲み終えたゼリードリンクの殻を上着のポケットに突っ込んで、僕は優しく後頭部を触ってみた。

「くおっ」

 昨日リーリエの膝蹴りを食らったその部分は、コブこそ引いたものの、触るとまだ鋭い痛みが走るくらいだった。

 ――まさか邪魔をするのにアライズまでしてくるとは……。リーリエめ。

 リーリエが邪魔しにくることは想定していたことだったが、相手がエリキシルソーサラーとは言え、まさかアライズまでするとは思っていなかった。

 必要に応じてエリキシルバトルアプリの権限はリーリエに渡すようにしていたけど、襲撃の可能性を考え事前にアライズの権限を渡して、それを解除するのをすっかり忘れていた。

『あれでよかったんでしょ? おにぃちゃん』

 口には出していないのに、僕の考えを見透かしたようなリーリエの声がイヤホンマイクから聞こえてくる。

「まぁ、そうなんだけどね」

 スマートギアはつけていないからイメージスピークは使えず、マイクにかろうじて入る程度の小声で僕は答えていた。

 昨日は目が覚めたら夏姫はもうヒルデとともにいなくなっていたから、今日の昼休みは彼女の来襲に備えて教室から待避して、屋上に来ていた。

 声だけなら適当な言い訳で済ませるところだけど、アライズしたリーリエを見られているんだ、いろいろ問い詰められそうな気がしていた。

 昼休みには解放されてる屋上には、コートを着ないと寒くて堪えられそうにない気温だと言うのに何が楽しいのか、設置されたベンチでお弁当を広げてる女子連中とか、校庭でやればいいのにボール遊びを始めた男子たちがちらほらといる。

 このまま予鈴が鳴るまでここで過ごして、午後の授業が終わったら速攻帰って夏姫をやり過ごそう、と空を見上げたとき、僕が座ってるベンチの前に立つ人影が現れた。

「まったく、人が探してるってのに、なんで逃げるみたいにこんなところにいるのっ」

 正面を見てみると、怒った顔をした夏姫が立っていた。

「なんだ、昨日の続きがしてほしくて僕のこと探してたのか?」

「違う!」

 夏姫が張り上げた大声で、屋上にいる奴らの視線が一気に集まってくる。

「ちょ、ちょっとこっちに来なさい!」

 僕の腕を掴んで無理矢理引っ張る夏姫。

 引き摺られながらまだ僕たちのことを見ている奴らににんまりとした笑みを浮かべてやるが、ほとんどは「またか」という表情を浮かべてるだけだった。

 こんな風に女の子の逆鱗に触れて口論になるのは、高校に入って何度目だったか。

「リーリエって、いったい何なの?」

 ふたつある階段室の片方の影まで僕を連れ込んだ夏姫は、真面目な顔をしてそう言った。

「まだ開発中の人工知能とドールの新型フルオートシステムの組み合わせの産物」

 さらりと僕はそう言ってのける。

 その答えはあながち間違いでもない。

「本当に?」

 アライズしていない状態だったらそれで言い逃れもできたんだろうけど、自分でアライズしたリーリエを見られているんだ、疑問を感じるのも仕方ないところではあるだろう。

「だってあの子の表情とか仕草とか、エイナみたいだったよ」

「エイナに会ったんだ?」

「うん。だってエリキシルバトルに招待されたときに……。あなたも同じじゃないの?」

「いや、そうだったけど、他の参加者がそうかどうかは知らなかったから」

 何しろ自分以外のエリキシルソーサラーに会うのは夏姫が初めてだったから、他の人がどうだったかなんてわかるはずがない。

「そんなことはいいから、リーリエよ。リーリエ」

 話を逸らす作戦は失敗したらしい。

 可愛い顔に似つかわしくないシワを眉根に寄せながら睨みつけてくる夏姫に、どう対応したらいいのかを悩む。

『どうするの? おにぃちゃん』

「んー。適当にごまかす。それに、ヒルデのことも気になってるし」

『直すの? あの子』

「もったいないしな」

『……んっ。よかったぁ』

 ぼそぼそとリーリエとやりとりし、不審そうな目を向けてきている夏姫に言う。

「まぁなんだ。ヒルデのことはどうするんだ?」

「それは……」

 それまでの勢いを失って口ごもる夏姫。

「直し、たいけど、ピクシードールパーツって意外と高いし……。それに、あの――」

 僕もそんなに高い方じゃないから身長差はわずかだけど、少し潤んだ瞳で見上げてくる夏姫に、言う。

「ヒルデはそこらのショップで売ってるパーツじゃ修理できないよ」

「そうなの?」

 昨日も思ったことだけど、夏姫はあれがどれくらい特殊なドールであるのか、母親からほとんど聞いていなかったらしい。

 本当にころころと表情の変わる夏姫だったが、いまはどうすればいいのかわからないらしく、顔の全部をゆがめて下を向いていた。

「じゃあ、どうすればいいんだろう……」

「まぁ、修理の相談ができそうなとこ知ってるから、連れてってやるよ。それにリーリエのことも、もう少し詳しく教えてやる」

「本当?!」

 灯りが点いたように明るい表情になって目を輝かせてる夏姫。でもすぐに雲がさしかかる。

「どうして、あなたはそんなことを?」

「デートしよう、って誘ってるんだぜ、夏姫」

「えぇ?!」

 びっくりしたような顔をしてヒルデも顔負けな素早い動きで後退りする夏姫に、思わず笑ってしまいそうになる。

「デートって、そんな……。っていうか、呼び捨て?!」

「だってほら、浜咲っていうと、僕にとっては夏姫のママの方が印象が強いし、だったら名前で呼ぶのがいいかな、って」

「そうかも知れないけど! でもほら、もう少し呼び方があるでしょう? アタシたち、まだ友達とかそういうのじゃないんだし」

「夏姫ちゃん? 夏姫さん? んー。やっぱり、夏姫が一番しっくりくるな。それに男女がふたりきりで出掛けるってのは、デートだろう?」

「違う! か、買い物でしょ? 買い物! ただの買い物!! か……、克樹! こら!!」

 予鈴が鳴って、僕は教室に向かうために階段室の扉に足を向ける。

 顔を真っ赤にした夏姫が小走りに追いかけてくるけど、こっちも早足になって追いつけないように距離を取る。

「じゃあ日曜の二時、駅前でな」

「こら待った! ただの買い物だからねーー!!」

 必死に主張する夏姫に、僕は思わず笑い声を漏らしていた。

 



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第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第二章 3

       * 3 *

 

 二時十分。

 晴れ渡る空の下、僕はもう待ちくたびれ始めていた。

 そんなに広くない駅前ロータリー側の階段の下。そこには駅に向かう人ばかりでなく、待ち合わせの人もけっこういたが、みんな僕を置いて待ち人がやってきては去って行く。

 天気がいいのは良いことだけど、その分放射冷却がきつくてロングコートの前をしっかり閉めていても寒いものは寒い。夕方には曇ってきて雪の可能性まであるって言うんだから溜まったものじゃない。

 ポケットに手を突っ込んで小さくなりながら、まだ来ない夏姫をひたすら待つしかなかった。

「ごめーんっ! 遅れた!!」

 二時十五分になってやっと、息を切らせながら夏姫が走ってきた。

『遅いよぉ。おにぃちゃんが風邪引いちゃう』

 音量を絞ったイヤホンマイクの外部スピーカーから、リーリエが夏姫に向かって文句を言う。

「遅れるなら遅れるって言ってくれ。コンビニにでも入って暖まってりゃよかったよ」

「こういうときは『いまきたとこ』とか言うんじゃないの?」

「テレビの見過ぎだ。っていうか、デートじゃないんだろ?」

「そりゃそうだけど……。今日に限ってランチメニュー目当てのお客さん多くて、バイト抜けるタイミングなかったんだもん」

 不満そうに頬を膨らませてそっぽを向く夏姫。

「バイトって、うちの学校、バイト禁止だろ」

「いろいろあんのよ、アタシにも」

 バイト禁止の校則なんていまどき絶滅危惧種に入る珍しさだけど、家庭の事情がある場合なんかは申請すれば許可が出る。

 夏姫の母親は死んでいて、父親はたぶんいるんだろうけど、エリキシルバトルに参加するくらいだ、それなりに家の事情もあるんだろう。

「しかし、お前なぁ……」

 丈の短めの茶色いダッフルコートの下は、ふわっと裾の広がったミニスカートタイプの落ち着いた赤系のワンピースに、白いセーターを重ねている夏姫。

 白いニーソックスとスカートの間に見える絶対領域は輝かしいばかりだったが、この前の今日でこんなデートっぽい格好ってのはどうなんだろう、と思ってしまう。

「やっぱり出掛けた後は僕の家に来るか?」

「何言ってんのよっ」

「だって買い物とは言え、そんな短いの着てくるか?」

 夏姫の警戒心の無さにちょっと呆れてしまう。

「ふっふーんっ。そこのところは考えてきてるんだから!」

 言ってスカートの前をめくり上げる夏姫。

「おぉ! おぉー?」

 そこに現れたのは、フリル。

 スカートの下にさらに何枚かのスカートを履いてるようなフリルの塊によって、そのさらに下にあるだろうパンティはひと欠片も見ることができない。

「アンダースコート履いてきたんだから。最近流行ってるんだよ? これ。これで見たくても見えないでしょ」

 得意そうに言う夏姫に、部屋に連れ込んで脱がせちゃえば、とか、彼女なりに考えてきたんだろうがめくって見せる必要はないだろう、とか思うが、周りを軽く見回して彼女の醜態が見えないように気をつけつつ、僕は前屈みになって顔をアンダースコートに近づける。

「んー。いや、これもなかなか。見えはしないけど、しかし……」

『何見てるのぉー? おにぃちゃん。あたしも見たーい』

「いやいや、これはリーリエにはまだ早い」

『ぶー』

 イヤホンマイクにはカメラはついてないからリーリエには見えてない夏姫のスカートの中を、僕はじっくりと見聞する。

 白のニーソックスと白のアンダースコートの間にできる絶対領域の広さは広すぎず狭すぎず申し分なく、ニーソックスから少しはみ出した感じの太ももの肉も、細めの夏姫の脚ならちょうど触り心地良さそうな感じだった。

 何よりスカートのように外から見えるものじゃなく、見えても大丈夫なものにしてもフリルの下にはすぐパンティがあるんだと想像すると、ストッキング越しに見えたものとは違う何かしらの興奮を感じる。

「こ、こら! そんなにじっくり眺めるな!」

 さすがにじっくり見られると恥ずかしかったのか、顔を朱に染めながらめくっていたスカートを戻して夏姫は僕から距離を取った。

「ふふんっ。僕の勝ちっ」

「いったいなんの勝負よ! っていうか、今日はアタシをどこに連れていくつもりなの?」

 まだ顔の赤さが抜けない夏姫が、たぶん話を逸らすためだろう、目的地を訊いてくる。

「秋葉原。ヒルデのパーツが手に入りそうなのは、あそこのショップ以外にはないからね」

 急行電車に乗って終点駅で降り、電車を乗り換えて山手線を半周ほどしてやっとたどり着いた秋葉原。

 駅周辺は幾度か行われた開発によってすっかりビジネス街の様相を呈しているけど、少し行けば相変わらずの欲望の街だ。

 電化製品やコンピュータ用品はもちろん、アニメやゲーム関連のショップ、今なお残る電子部品やオーディオショップなどコアな人向けの店が雑多に並んでいたりする。

 日曜の今日は様々な人が駅前を行き交っているけど、その中を縫って僕は再開発から取り残されたようなガード下の小規模店舗が集まる区画に、夏姫を連れて入っていく。

 安全性を考えてつくられたのか怪しい古びた階段を上がって、営業中なのかどうかもわからない店が並ぶ廊下を抜けて一番奥、がらくた置き場なんじゃないかと思うような店の区画へと向かった。

 入った店はけっこう広い区画を取っている割にバックヤードが大きく取ってあるから店舗スペースは狭く、そこには金属部品から人工筋から、何に使うかわからないケーブルやらフレームやらが棚と言わず壁と言わず、所狭しと並べられていた。

 入り口に掲げられた煤けた看板を見て、夏姫が首を傾げる。

「ピクシークラフトワークス?」

「うん。秋葉原で現存する最古のロボットショップにして、日本で一番最初にピクシードールのパーツを取り扱い始めたお店だよ」

 僕が生まれる前の時代には、一時期ぼこぼこと産まれたという話を聞いたことがあるロボット専門店だけど、その頃のショップはすっかりなくなって、いまでもその頃から営業しているのはこことあと数店のみだ。

 自作要素の強いピクシードールが現れて、第四世代でかなり手頃な価格になったときにラジコンショップや大手量販店のオモチャコーナーでも取り扱うようになったのもあって、スフィアドールを中心にロボットを扱うお店は増えたけれど、ここほど多くの実績とマニアックさを残した店は他にない。

 ピクシードールのパーツを取り扱い始めた店は、早いところでもほとんどは第三世代からだったけど、取り扱いを開始して店名まで変えてしまったこの店では、市販されなかった第二世代パーツをメーカーから直接取り寄せて取り扱うほどの熱の入れようだった。

「よぉ、珍しいじゃないか、克樹。お前が直接来るのは何ヶ月ぶりだよ」

 僕たちの声を聞いてか、バックヤードから姿を見せたのは、作業着にエプロンを着けた、そろそろ引退を考えないといけないだろうくらいの歳の厳つい顔をした親父。

 いつもはネット越しに話をすることが多いし、注文したパーツも発送してもらっているから、しばらくピクシークラフトワークス、PCWに脚を踏み入れてなかったことを思い出す。

「久しぶり。今日はちょっと用事があってね」

「そっか。お前が注文してたパーツ、全部じゃないが届いてるぞ。……て、言うか、お前が女連れって、あー、今晩は確実に雪だな」

 僕の後ろで物珍しそうにスフィアドール以前の、モーターとフレームの塊のロボットなんかを眺めてる夏姫を認めて、親父は小さい目を精一杯丸くする。

「届いたパーツって?」

「人工筋がひと揃い。予備分は注文殺到でまだ届いてないな。フレームもまだ一部だけだ。でも例のメインフレームも含めて来週中には揃うと思うぞ」

「そっか。じゃあ裏を貸して。それから……、夏姫。ヒルデを」

 前に行くように促すと、パーツを眺めてた夏姫が、大きめのショルダーバッグからピクシードール収納用の小型アタッシェケースを恐る恐る取り出して、カウンターの上に置いた。

 ロックを解除して開けた瞬間、親父は声を上げた。

「ナンバー四か!」

「うん。やっぱりそうだよね」

「え? え?」

 ひとりだけわかっていない夏姫が、僕と親父のことを交互に見ておろおろとしていた。

「こいつの修理用のパーツがほしいんだ」

「また無理難題を押しつけやがって」

 文句の声を上げながらも、親父はこれ以上ないくらいの笑みをその顔に浮かべていた。

「あの、ね? どういうこと?」

 唇に軽く拳を当てて居づらそうにしている夏姫に、僕と親父はふたりして笑みを向けた。

 

 

 スフィアドールの第三世代が始まったのは、いまから五年くらい前のこと。

 外観も内部構造もいまとほぼ同じになったのはその頃で、しかし一部のメーカーからレディメイドやパーツが販売されていたけど、主に研究者向きのもので、ピクシードールだとどんなに安いものでも最初は一体五十万を下ることはなかった。

 一般への普及を目指して低価格化が目標となり、第四世代では第三世代までの厳密で厳格な規格をかなり緩和するのと同時に、パーツの認定基準はかなり引き下げられた。

 すべてのスフィアドールのスフィアはSR社かライセンス生産を受けた会社のものだから、スフィアが認識しないパーツを内部に組み込むことはできない。

 そんな低価格化が期待されてる時期に登場したピクシードールが、ヴァルキリークリエイション社、VC社で開発されたヴァルキリードールシリーズだった。

 規格緩和によって性能低下が危ぶまれ、実際そうなった第四世代パーツと違って、第三世代の基準を、それも最高レベルでクリアした上、様々な独自規格を組み込まれたヴァルキリードールの試作型は、第三世代はもちろん、各社がしのぎを削った第四世代ドール、今年から登場し始めた第五世代ドールよりも遥かに性能が高いと言われ、奇跡のピクシードールとさえ呼ばれている。

 第五世代の最高のパーツで組み立てられたSR社純正のリファレンスドールですら、いまだ試作としてつくられた五体の「オリジナルヴァルキリー」には敵わないだろうと言われるくらいに。

 しかし安価な第四世代パーツも登場しつつある三年弱前に、ヴァルキリードールの市販パーツは高すぎた。

 性能主義者やバトルマニアにはある程度売れたし、いまでも未使用パーツは市販価格以上で取引されてたりするけど、市場的には失敗と言える結果となった。

 開発費がかさんでいたこともあり、VC社は去年の初めにSR社に吸収合併される形で消滅し、しかしヴァルキリードールによって生み出された技術はそれにより、性能と価格のバランスを目指した第五世代ドールの中に取り入れられて息づいているとも言われている。

 その頃には開発機としての役目を終えていたオリジナルヴァルキリーは、一号がスフィアロボティクスで凍結保管され、二号が開発中の事故で廃棄、三号がある個人によって所有されるなど、合併前の混乱に伴って逸散してしまっていた。

 残りの四号と五号の行方は不明になっていたけど、四号はどうやら開発者のひとりだった浜咲さんの手に渡って、夏姫に受け継がれていたみたいだった。

「そんなにすごいのだったんだ、ヒルデって」

 僕と親父による説明を聞いて、夏姫が唖然とした顔で呟いていた。

「性能だけならいまでもフルオーダーメイドのドール顔負けだと思うがよ、かなり使い込んでるな、こいつは」

 充電ベッドに寝かせたヒルデから得た情報を見て、親父は顔を顰めていた。

 僕も一度確認したけど、ヒルデの状態はかなり悪くなっていた。

 スフィアとスフィアを取り付けるスフィアソケットについては世代による機能差はあっても、ほとんど劣化することはない。ピクシードールのもうひとつのコアパーツと言える背骨の部分、メインフレームについても、そんなに劣化するものじゃないし、とくに開発機であるヒルデは相当耐久性の高い素材が使われているから問題はなかった。

 でも開発用の耐久性の高いパーツを使っているとは言え、伸縮する人工筋は使い続ければ劣化するし、人工筋の力を受け止める手足や肩、腰といったサブフレームもまた劣化によって交換が必要となるパーツだ。

「賞品目当てにローカルバトルとか、けっこう参加してたからね……」

 驚いたのもつかの間、消沈して夏姫は目線を下に向けていた。

 僕と夏姫が戦った時に見つけた弱点も、ヒルデの劣化によるものだ。

 右手の剣を前に出した半身の構えは、それが戦闘スタイルであるのかも知れなかったけど、剣を振り回したときに左腕でバランスを取る動きをしなかったのは、もうヒルデの左腕がほとんど上がらない状態になっていたからだろう。

「直る、の?」

「直るのは直る、が……。スフィアロボティクスのFラインしかないな、こいつは」

「やっぱりそうなるだろうねぇ」

 僕も自分で調べてみたけど、ヒルデは第三世代規格のピクシードールだけあって、第三世代との互換性をあまり考慮されなかった第四世代パーツや、第四世代までの互換性しか考えられていない第五世代パーツのほとんどは使うことができない。

 ヒルデに使えるパーツを入手する方法は二つ。

 フルオーダーでいま使っているものと同じか、第五世代基準のパーツで互換性のあるものをつくる方法。

 この方法は専門のフルオーダーメーカーに頼まなくちゃいけないし、ほぼ一品ものになるから、ヒルデの性能も考えると金額は天井なしだ。

 もうひとつは、いま販売されてるパーツの中で、ヒルデに使えるパーツを探す方法。

 幸いSR社が研究用などでいまなお使われている第三世代ドール向けのパーツをつい先月から販売開始していた。

 ただしこれも研究用途向けだから性能も耐久性も高いが、価格も第四世代パーツに比べて高いものが多い第五世代パーツの中でも群を抜いて高価だ。

「いくらくらい、かかりそう?」

「ちょっと待ってろよ」

 親父がアナログな液晶電卓を叩いて表示した金額に、夏姫は「ひっ」と悲鳴を上げる。

 Fラインのパーツが使えるだろうことは、事前にわかっていたことだった。だから別に近くのお店でオーダーすればよかっただけのこと。

 今日、わざわざPCWに出向いたのは、それ以上の理由があったからだ。

「ねぇ、あの捜索依頼って、まだ有効?」

「捜索依頼って……。あれか」

 オリジナルヴァルキリーは性能の高さだけじゃなく、希少性からコレクターズアイテムとして求める声はけっこうあったりする。

 ネットオークションでは偽物が問題になったり、個人制作のナンバー一のレプリカがけっこういい値で取引されてたりするけど、たいていはただの物好きによる取引に過ぎない。

 その中でひとりだけ、真剣に行方不明のナンバー四とナンバー五を探してる人物がいる。

 日本でも、いや世界でも有数のスフィアドールコレクターであり、ナンバー三を個人所有している人物だ。

 その人物とは僕は面識はなかったけど、親父とは親交があるから、PCW宛てに捜索願いが出てることは前に話に聞いていた。

「確かにあいつならいい値で買い取ってくれるだろうな。その上壊れていても、一部のパーツだけでも事情を話せば許してくれるだろう。ただお嬢ちゃん、いいのか? こいつはさっき聞いた通り、ママの形見なんだろ? 全部じゃないとは言え、手放しても」

 そこをどう判断するかがわからなかったから、彼女をここに連れてくるしかなかった。

「ねぇ、克樹。アタシ、どうしたらいいんだろう」

 困ったような、泣きそうなような顔で、夏姫は僕のことを見つめてくる。

「直接は知らないけど、その人は真摯なコレクターの人だから、ヒルデのパーツを預けるくらいのつもりでいいと思うよ」

「でも、でもぉ……。ヒルデはママの形見で、だからアタシは……」

 両手で僕のコートの裾を掴んで、鼻をすすり始める夏姫。

 ヒルデは夏姫のものなんだから、夏姫が判断するしかない。

 けど僕は、僕の思うことを口にする。

「夏姫のヒルデは、買って軽く動かして後は飾っておくだけの、オモチャなのか? それとも戦うためのバトルピクシーなのか?」

「アタシのヒルデは……」

 僕の言葉に、夏姫はじっと僕の瞳を見つめてくる。

 まだ悩んでる様子だったけど、さっきとは違う、強い光が宿り始めてる。

「あのバトルを、まだやめるつもりはないんだろ?」

「……うん」

 頷いて目を閉じ、夏姫は大きく息を吸う。

『ねぇねぇ、おにぃちゃん。あたしも、あたしもー』

 耳元で言うリーリエの言葉に、外部スピーカーをオンにする。

『ねぇ夏姫。ヒルデが直ったら、またあたしと戦ってくれる? この前のバトルは楽しかったし、もしヒルデが完全でも、あたしは絶対また勝つから!』

「うん……。うん。ヒルデを直して、また戦おう、リーリエ」

『うんっ』

 気持ちが定まったんだろう、目を開けた夏姫が、僕に、そしてたぶんリーリエに向かって、笑顔を見せる。

「その人に、ヒルデのパーツの買い取りをお願いしてもらえますか?」

「よっしゃ。じゃあ新しいアーマーをつくれるくらいの交渉はしておいてやろう。さすがにアーマーの方も劣化してたからな。できるだけいまと同じデザインでつくってやるよ」

「親父はアーマーのデザイナーでもあるから、かなりいいのができると思うよ」

「……はい。じゃあ、お願いします」

 深く一礼して顔を上げた夏姫は、少し寂しそうな瞳の色をさせながらも、笑みを浮かべていた。

 



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第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第二章 4

       * 4 *

 

 親父の「パーツが届いたら連絡する」という声に送られて店を出た僕たちは、もうひとつの目的地に向かった。

 秋葉原から地下鉄に乗って数駅。

 駅前の雑踏を通り過ぎると閑静な住宅街が広がる街並みを、そろそろ暗くなりつつある空の下、足取りが軽くなってスキップでもし始めそうな夏姫と一緒にしばらく歩く。

「次はどこに行くの?」

「まぁ、着いてくればわかる」

 たどり着いた庭付きの一戸建ては、豪邸と言ってもいい規模の大きなものだった。

 遠慮なく門扉を開けて縁石を踏んで玄関に近づいていく。

 呼び鈴を鳴らすと、すぐさま応答があった。

「いらっしゃいませ、克樹様」

 たぶん門扉を開けた時点で僕が来たことに気づいたんだろう、開いた玄関から現れたのは、エプロンつきのワンピース、メイド風の格好をした女の子。

「こちらの方は?」

 後ろに立つ夏姫を見て、メイドが小首を傾げる。

「僕の……、恋人?」

「と、も、だ、ち!」

「うん。友達の浜咲夏姫」

「かしこまりました。浜咲夏姫様ですね。ようこそいらっしゃいました」

 怒りの声を上げる夏姫を気にした様子もなく、微笑みを浮かべているメイドは大きく玄関を開いて家の中に僕たちを招き入れてくれた。

「ねぇ克樹。なんか、あの人……」

 スリッパを出してもらってメイドの後ろに着いて行ってるとき、夏姫がこっそりと僕の耳にささやきかけてくる。

 背は百四十五センチといったところだろうか。屋内用の靴を履いてるから実際の身長は百四十センチ程度のはず。

 お尻近くまであるずいぶん長い髪をほとんど揺らすことなく歩いているメイドに夏姫が感じた違和感に、まだ何も言ってあげたりはしない。

「こちらでお待ちください。いまお茶を持って参りますので」

 平泉夫人の家のものほどじゃないけどけっこう高そうな応接セットや超大型テレビ、チェストなんかが置いてあるリビングに通してくれたメイドは一礼して下がろうとする。

「それよりもショージさんは? アヤノ」

「今日はお休みでいまは寝ていらっしゃいますので、起こして参ります」

「お願い。それとショージさんが前に使ってた端末って、そこの引き出しだったっけ?」

「はい。もしお持ちになりたいということでしたら、主にご相談ください」

「わかってる」

 しっかりとした受け答えをしてにっこりと笑った後、アヤノはもう一度礼をしてリビングから出て行った。

「ねぇ克樹。えぇっと、なんかこんなところまで来ちゃってるけど、ここはショージさんって人の家で、あのアヤノって人は、……んーと、その人の奥さんか、家政婦さんかなんか?」

「どう思う?」

 チェストの引き出しの中を探る僕の側にやってきた夏姫に、意地悪な笑みを向ける。

「よしあった。これだ」

 引き出しに雑多に仕舞ってあった小物の中から携帯端末を掘り出すのに成功して、僕はそれを夏姫に手渡す。

「え? これって?」

「今年初めに発売されたけっこう新しい端末。ショージさんは新しいもの好きで、新しいの出たら買い換えちゃう人だから、たぶん使っても大丈夫だと思うよ。夏姫の端末、さすがにそろそろ古くて、ヒルデのコントロールをするにしても性能がぎりぎりだっただろ?」

「これが目的でここに来たの?」

「まぁそれもあってね」

 そんな話をしているときに、ポットとティーカップをお盆に乗せてアヤノが入ってきた。

 ソファに座って注いでもらった紅茶をひと口飲むと外が寒かった分、身体の中が暖まっていくのを感じる。

「ねぇアヤノ。そのボディはいつから稼働を開始したもので、AHSのバージョンはいまいくつ?」

「このボディは先週からこちらで稼働している百四十センチタイプの試作型です。AHSのバージョンはシリーズ四のプレビューリリース五に更新しております」

「え?」

 僕とアヤノのやりとりを聞いて、夏姫は驚きの声を上げている。

 それは当然のことだろう。

 何しろアヤノは、エルフサイズの、スフィアドールなんだから。

「すごい……。ちょっとヘンな感じはあったけど、こんなに自然なのもあるんだ」

「AHS、アドバンスドヒューマニティシステムの製品化前のものだからね。少し話をする程度だったらほとんど見分けは付かないと思うよ。それから、リーリエのシステムも、これに近い試験的なフルオートシステムを使ってる」

「あ……、そうなんだ」

 納得しているのかどうなのか、ソファから立ち上がった夏姫はアヤノの周りを回って物珍しそうに眺めている。

 AHSはスフィアドールのフルオートシステムのひとつで、コンパクト版はエルフやフェアリーの内蔵コンピュータに搭載されていたりする。いまのアヤノが使っている家政婦モードはもちろん、オフィス用や受付嬢用などの派生も多いフルバージョンともなるとかなりの処理能力が必要だから、専用システムがHPT社によって用意されていて、ネット経由でサービスとして提供されていた。

 その機能は所有者の指示通りにドールを動かすことはもちろん、まるで人間のように気遣ったり手伝いをしたりといったことも含み、AHSによって実現しているフェイスコントロールは最も自然な表情をつくると言われて評判が高かった。

 本体は高価であるものの、メンテと電源供給を怠らなければ人間以上に働くことが可能となったエルフドールは業務用途では広がりつつあり、多くの企業がそのフルコントロールシステムの提供を始めている。その中でもAHSはとくに先進的なものとして、スフィアドール業界でも知られているものだった。

 ――これで納得してくれればいいんだけど。

 リーリエのシステムとAHSは姉妹、というより親子と言ってもいいほど近いものではあるし、アヤノは僕が最後に見たときよりもさらに人間に近い反応を見せるようになっていた。

 これで夏姫もリーリエのことを納得してくれるだろう、とは思っていた。

「この家はAHSやスフィアドールの開発をしてるヒューマニティパートナーテックの技術部長で、僕の叔父の音山彰次さんの家だよ」

「ヒューマニティパートナーテックって、ヒューマニティフェイスの?」

「うん」

 機能や性能には関わらないパーツではあるけど、ピクシードールのフェイスは見た目に関わる重要なパーツ。ピクシードールのことにあまり詳しくない夏姫でも、ヒューマニティフェイスとその販売元くらいは知っているらしかった。

 SR社以上に新興の会社だけど、いまピクシードールに触れるなら、SR社の次に名前が挙がるほどの有名な会社になってるんだから、当然と言えば当然だろう。

「それと、克樹の保護者でもある。……ふわぁ」

 いつの間にやってきたのか、リビングの入り口に立つショージさんはそう言った途端に大きなあくびをした。

 僕よりもちょっと背が高いくらいの小柄だけど、存在感だけはこの前教室で会った近藤よりも大きく見えるショージさんは、ジーンズにアイボリーのセーターとラフな格好で、ソファに座りながら自分の分のお茶をアヤノに要求する。

「それでどうした、今日は。どうせあいつらはまだ家に帰ってこねぇんだろ?」

「まぁね。別にそのことは気にしてない」

 親とは、もう一年以上も会っていない。それぞれ別の場所にいるらしいということは話に聞いていたけど、特に興味もなくって、眼鏡の向こうから見つめてくるショージさんから視線を逸らした。

「しっかし、お前が彼女を連れてくるとはなー!」

「ち、違います!」

「ほほぅ。これはなかなか……」

 夏姫の声も聞こえていないかのように、否定の声を上げて立ち上がった彼女を上から下まで値踏みするように眺めるショージさん。

「いい子捕まえたじゃないか。どーせお前のことだ、毎日この子と――」

「いやぁ、けっこう手強くて、もう少し強引なのがいいかなぁ、と」

「な、何言ってんのよ! ふたりともっ!!」

 男同士の冗談に顔を真っ赤にした夏姫が割り込んでくる。

「あぁそれと、この端末、夏姫にあげてもいい?」

「それか。あぁ、構わんぞ。もう使わんと思うし。克樹の彼女に俺からの少し早いクリスマスプレゼントってことで。俺はこれを買ったしな」

 アヤノから夏姫について聞いているだろうショージさんは喉の奥で笑い声を上げつつ、あっさりと端末の譲渡許可をくれる。それから掛けてる眼鏡をつまんで示した。

 よく見てみると、微かに色づいているレンズと、太めの蔓は、確かついこの前ニュースで発売開始と言っていた眼鏡型のスマートギアだ。

「またそんなものを……。どーせまたすぐに飽きて使わなくなるクセに」

「いいだろう、別に。俺には彼女だっていないんだし」

「先月は受付の女の子と付き合ってなかった?」

「……もう別れた」

「相変わらず早いね」

 僕の父親の弟だから、三十そこそこのショージさんは、オモチャにも女性にもたいてい飽きっぽい性格をしてる。女性関係についてはたぶん別の理由がありそうだと思っていたけど、けっこう軽い性格をしているのは確かだ。

 ただし、AHSやスフィアドールの開発については恐ろしく熱心な上、天才的な技術と応用力の持ち主で、現在のHPT社を支えている人物のひとりだったりもする。

「夏姫。アヤノに所有権の委譲と環境の移行を手伝ってもらっておいて」

「あ、うん」

「こちらへどうぞ」

 アヤノの側に寄っていった夏姫を横目で見、ローテーブルを挟んだ正面に座るショージさんに顔を近づける。

「今日はもうひとつ、調べてほしいことがあって来たんだ」

「彼女に知られたくないってことは、大事な用事だな」

 察してくれたらしいショージさんも、テーブル越しに身を乗り出してくれた。たぶん僕たちの声が聞こえていただろうアヤノも、AHSの機能が発揮されてか、夏姫が僕たちに背を向けるような位置取りをしてくれていた。

「魔女の居場所を、探してほしいんだ」

「いまさら、魔女だと?」

「うん」

 魔女、という単語を聞いて、ショージさんは顔をしかめる。

「あいつにはできるだけ触れるな。それが幸せに生きるコツだ」

「うん。わかってる」

 心配するように少し細められたショージさんの目。

 その目に見つめられても、僕は自分の言葉を翻したりはしない。

 諦める気がないのがわかったんだろう、舌打ちしてさらに苦々しい顔になるショージさん。

「理由は?」

「言えない」

「俺にもか?」

「うん」

 睨みつけてくるような強い視線に、僕はしっかり視線を返す。負けないように、ではなく、むしろショージさんを射貫くくらいのつもりで。

 もう一度舌打ちした後、ショージさんは大きくため息を吐いた。

「わかった。探しておく。だがたぶん、奴はいまスフィアロボティクスにいるぞ」

「……やっぱり」

 僕の知る魔女があそこにいるだろうことは、ある程度予想していた。

 でもSR社はいまでは世界的なロボット企業で、開発拠点や事務所は世界中にある。魔女と会うためには、いまどこに出没するかを知らなくちゃいけない。

「ねぇ、男ふたりで顔寄せ合って、何の話?」

 所有権の委譲と環境移行が終わったんだろう、夏姫が不思議そうな顔をしていた。

「まぁ男同士の話だ。な? 克樹。それとも聞きたいか?」

「うっ……。やめておく」

 逃げ腰になる夏姫だったが、どういう意味を込めてだろうか、一瞬僕の方に視線を投げてきた。

「さぁみなさん。夕食はいかがですか? 下ごしらえはしてありますので、それほどお待ちいただかなくても準備が整いますよ」

 微妙な空気を吹き飛ばすように、アヤノがにっこり笑って言う。

「AHSって、料理をつくる機能なんてついてるの?」

「嘘……。スフィアドールって料理もできるの?」

「シリーズ四からはできるようになってるぞ。車の運転なんかもな。まぁ、できると言っても安全性とか法律とかの問題で、その機能は提供版じゃあオミットしないといけないがな。うまいぞー、アヤノの料理は」

 目を輝かせてる夏姫だけじゃなくて、さすがに僕も驚いていた。

 リビングからダイニングに移動するために扉をくぐる一瞬、夏姫が何か言いたそうな目を向けてきたが、僕はそれに気づかない振りをした。

 



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第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第二章 5

       * 5 *

 

「百合乃?」

 追いかけていた車が突然止まった。

 車の通りが途絶えた深夜と言っていい時間の国道で、車はハザードランプを点滅させて止まっている。

 自転車のペダルを必死で漕いで近づくと、運転席のドアともうひとつ、後部座席のドアが開いてるのが見えた。

 それから、歩道にぼろ布の塊のような、小さな影。

「百合乃ーーっ」

 疲れ果てた足をさらに酷使して、僕は車から降りた人物が小さな影に近づく前にその場所に駆けつける。

 勢いを殺さずに飛び降りるようにして自転車を投げ出し、その影に近づいて抱き起こす。

 お気に入りだった花柄のワンピースは、こすれてぼろぼろになっていた。綺麗に切りそろえられた髪も乱れていて、それから、いろんなところから血が出てきていた。

 手を伸ばそうとしていた男を睨みつける。

 首から頬にかけて火傷の跡のようなものがある貧相な顔をした男は、僕の視線に小さく悲鳴を上げて手を引っ込めた。

 ――こいつが、こいつが百合乃を!

 捕まえようと手を伸ばす前に、顔を引きつらせたそいつは、車に引き返していって乗り込み、スリップ音をさせながら去っていった。

「おにぃちゃん?」

「百合乃!」

 いつもの少し間延びした、でもいつもと違ってものすごく弱々しい呼び声に百合乃のことを見ると、苦しそうにしながらも笑っていた。

「来てくれた、んだ」

「当たり前じゃないかっ。……だから、だからもう大丈夫だっ。すぐに病院に連れて行ってやるから、それまで我慢するんだ!」

 百合乃を抱いていない左手でポケットの中を探ってみるけど、携帯端末はどこかで落としたのか、見つからなかった。車の通りも多くないここじゃ、すぐには救急車を呼ぶこともできそうになかった。

「おにぃ、ちゃん?」

 苦しそうに震える手を伸ばしてきた百合乃が、僕の頬に触れる。

 暖かいその手を握って、僕はもう、百合乃のことをハッキリ見ることができなくなっていた。

「許せない……」

 百合乃を掠って、こんなことをした奴のことを、僕は許せなかった。

 殺してやりたかった。

 いや、絶対に殺すと、百合乃の手を握りながら、僕は誓っていた。

「嬉し、かったよ、来て、くれて。それだけで、あたしは、充分、だよ……」

「何言ってるんだっ! 助かるっ、お前は僕が助けるから!」

 本当に嬉しそうに、いつものあの、ふんわりとした笑みを浮かべる百合乃。

 でもそれが本当に、僕には悲しかった。

 流れ出す血は止まりそうもなかった。

 小学六年生にしても成長の遅い百合乃は軽かったけど、いまはいつもよりもさらに軽くなってしまっている気がした。

「ありがとう、おにぃちゃん。いままで、本当に、ありがとう……」

「百合乃! ダメだ。しっかりするんだっ」

「だから、さようなら」

「あぁ!」

 百合乃が口をすぼめて、僕の言葉を待つ。

 いつも何か言ってほしいことがあるときは、こいつはこうするんだ。

 言いたくない。でも、言わないと、こいつは納得しない。だから、だから僕は――。

「さようなら、百合乃。僕も、僕も本当に、ありがとう……」

 涙がこぼれてきて、もう目を開けていられなかった。

 百合乃の顔をずっと見ていたかったのに、でも僕は、彼女の顔をちゃんと見ていることができなかった。安らかに目を閉じる百合乃の顔が、あふれた涙で見えなくなっていた。

 頬に伸ばされていた手の力が失われて、腕がくたりと地面を叩く。僕は物のように力を失ってしまった百合乃の身体を両腕で抱き寄せる。

 まだかすかに動いている音がする心臓はでも、いまにも止まりそうだった。

「どうかしたのかしら?」

 そう声をかけられて振り向く。

 いつの間にやってきたのか、赤いスポーツカーが止まっていた。

 降りて側にやってきていたのは、女性。

 夜の闇に沈む黒い髪をなびかせて、黒い瞳の周りの白目がまるで光ってるようで、そしてその笑ってるみたいにつり上げられた鮮やかな紅い唇は、まるでいまの状況を楽しんでるかのようだった。

「魔女……」

「ふふっ。失礼ね」

 思わず呟いてしまった僕の言葉を笑うその女性。

 会社帰りか何かなのか、黒いスーツ姿の女性が百合乃の方に目を向ける。

「その子、怪我をしているのね。いいわ。近くの病院まで連れて行ってあげる。車に乗りなさい」

「う、うん……」

 何となく、不安に思った。

 すぐに百合乃を病院に連れて行ってあげないといけないのはわかってるのに、僕は彼女の誘いに乗ることに、なんでか恐怖を覚えていた。

 それでも、背に腹は代えられない。僕は魔女に誘われて、車に乗り込んだ。

 

 たぶん僕はそのとき、その車に乗るべきじゃなかったんだと思う。

 それが魔女との最初の出会い。

 あのあと起こったこと、起こされたことを考えれば、僕は後悔をしない日はないと言ってもいいくらいだ。

 でもおそらく、僕が僕であり、百合乃が百合乃である限り、いつかは魔女に出会っていたのかも知れない。

 たぶんあいつとの細い関係を断ち切ることは、できないんだろうとは思う。断ち切れないように、僕が望んでしまっているから。

 ただもう一度魔女と直接対面したいとは思わない。

 会って良いことがあるとは思えない。

 でも僕は魔女との再会を望んだ。

 今回のことは、いやもしかしたらもっと以前から、魔女は仕込んでいたのかも知れない。

 それを問いただすために、僕は魔女と会わなくちゃならなかった。

 



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第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第二章 6

       * 6 *

 

「アタシの家、ここだから」

 ショージさんの家で食事をしてずいぶん遅くなってしまったから、僕は駅から夏姫の家の近くまで彼女を送っていくことにした。

 いつ、例の通り魔が出てくるとも限らなかったから。

 振り返った夏姫がそう言った場所にあったのは、ずいぶん貧相なアパートだった。

 一軒家とマンションが混在する街並みの中にあって、このアパートは他と見劣りするほど古そうで、そう遠くないうちに取り壊しにでもなりそうな雰囲気を醸し出していた。

「今日は本当にありがとうね、克樹」

 街灯の下で、夏姫はにっこりと笑う。

 この前あれだけ僕を、……そして男を怖がらせるようなことをしたというのに、あんまり堪えている様子がないくらいだった。

 ――まぁ、仕方ないんだけどさ。

 ヒルデの修理の目処をつけたり、携帯端末を新しいのにしたりしたんだから、この状況は仕方ないと言えば仕方ない。

 家にすぐ入っていくと思った夏姫は、何かを考え込むようにしばらくうつむいていた。

「……ねぇ、なんでアタシのエリキシルスフィアを、奪おうとしないの?」

 真っ直ぐな目で、夏姫は僕のことを見上げてくる。

「克樹はアタシに勝った。アタシのスフィアを奪い取って集める権利がある。違う?」

「さて、ね」

 その質問に、僕は曖昧にしか答えない。

 目を細めて僕の側から離れた夏姫は、街灯の真下に立って背を向ける。

「魔女って、何?」

「聞こえていたのか」

「うん」

 問われても、話す気はない。

 ショージさんも言っていた通り、魔女には本来触れるべきではないから。

 だから僕は、沈黙を守る。

 しばらく僕の言葉を待つように黙り込んだ後、彼女は唐突に話を始めた。

「うちのパパはね」

 振り返った夏姫は、寂しそうな笑みを浮かべていた。

「どうしようもない人だったの。うぅん。たぶん本当は、運がなかっただけなの。勤めてた会社が倒産しちゃって、次の仕事がなかなか見つからなくて、お酒におぼれるようになって……。それでママが働くようになったの」

 母親との思い出を懐かしむように、夏姫は目を閉じる。

「ママはけっこうすごい人でね、結婚するときに仕事も辞めちゃったんだけど、その後もスカウトの人が来るくらいだった。仕事を再開して、ヒルデなんかをつくってたんだけど、ママもたぶん運がなかったんだね。会社がなくなっちゃうときに、それまでもあんまり帰ってこれないくらい忙しかったのに、ほとんど会えないくらいになっちゃった……」

 VC社の経営難が発覚したのは、確か二年前のスフィアカップの少し前だったはずだ。すぐに多くの企業が助け船に名乗りを上げたそうだけど、条件の問題で難航したらしい。

「そんなときに会社で使い古したのを買い取ってきた、って言って、ヒルデをアタシにくれたの。それでスフィアカップにママと一緒に出て、地区大会で優勝もできなかったけど、それがたぶん、ママとの一番の思い出。だからヒルデは絶対手放したくなかったし、エイナが現れてママを生き返らせられるって聞いたときは、絶対生き返らせるんだ、って思った」

 話してる間に涙を浮かべ始めた夏姫。

 開いた瞳はもうゆらゆらと揺れていて、涙はいまにもこぼれ落ちそうになっていた。

「でも、でも克樹にも、願いがあるんだよね? 生き返らせたい人? それとも他のこと? わかんないけど、何か願いがあるから、エリキシルバトルに参加したんだよね?」

「……うん、そうだよ」

「だったらやっぱり、アタシのスフィアは克樹には必要なものだよね?」

 近づいてきた夏姫が、僕の服を掴む。

 涙をいっぱい溜めた目で、彼女は言葉を紡ぐ。

「スフィアは、買えるよ。パパはどこかに行っちゃって、最低限の生活費が振り込まれるだけだからきついけど、ヒルデで普通のバトルをしたいだけなら、新しいスフィアを買えばいい。ママの復活を諦めたくなんてないけど……、克樹がスフィアを奪わない理由がわかんない。何かを考えてるのはわかるけど、どんなことを考えてるのかはわかんないよ」

 夏姫はエリキシルバトルから脱落したいわけじゃないんだろう。

 でも、敗者であるという自覚だけは、ちゃんとあるんだろうと思う。

 負けたら自分の願いが叶わなくなることがわかっていて、その覚悟を決めた上で、僕に戦いを仕掛けたんだろう。

 強く握った両手を細かく震わせ、血が出そうなほど唇を噛んだ夏姫は、僕の目をじっと見つめてくる。僕の答えを待っている。

 だったら僕は、僕なりに彼女の覚悟に応えてやりたいと思った。

「夏姫。君はエリキシルバトルのことを、エリキシルスフィアのことを、どう思ってる?」

「どう、って?」

「死んで身体もなくなった人を生き返らせられるっていうエリクサーなんて、現実にあり得ると思う?」

 命に関わるあらゆる奇跡を実現するというエリクサー。

 錬金術によって不老不死を目指してつくり出そうとされてたというそんなものが、現実に存在してるなんて、僕には思えない。

「でも、ヒルデは大きくなるし……」

「うん。確かにそれはあるんだけど、本当にそれは魔法だよね」

 ヒルデやアリシアが巨大化するだけじゃない。飾りに過ぎないはずの剣が現実のものとなり、それからたぶん二体の瞳も、機能を保持しながら人と同じ輝きを持つようになる。

「このバトルには、仕掛け人がいる」

「それが、魔女?」

「うん。僕はその魔女がエリキシルバトルの主催者だと考えてる」

「魔女っていったい、何なの?」

「それについては、いまは詳しくは言えない。もしかしたらそのうち魔女と対峙することになるかも知れないけど、いまはまだ、言うべきじゃないと思ってる」

 納得した様子ではなかったけど、夏姫はそれ以上追求はしてこなかった。

「魔女は命の水をエサに、僕たちソーサラーを募った。じゃあ、魔女の目的はなんだ? 命の奇跡を起こしうる力さえもエサにして、魔女はいったい何を得ようとしてるんだ? それはたぶん、エリクサーよりも大きな力を持つものなんじゃないか?」

「そう……、なのかも」

「そう思うから、僕は僕なりのやり方で戦っていくつもりだ。夏姫のスフィアも奪ったりはしない。……でももし、僕が夏姫のスフィアを必要になったときには――」

 しがみつくようにしてる夏姫の両肩に手を置いて、僕は彼女に笑いかける。

「もう一度戦おう。完調のヒルデと、僕とリーリエのアリシアで」

 まだ残っていた涙を手の甲で拭って、夏姫もまた笑う。

「そのときは、絶対負けないよ? 完調のヒルデはもっともっと強いんだから」

「わかってる。それにアリシアもまだ第五世代パーツへの更新が済んでない。それが終わったら、この前よりもさらに強くなるよ」

「楽しみにしてるっ」

 一歩僕から離れた夏姫は、大きく息を吸って、ゆっくりとそれを吐き出した。

「じゃあそうなるまでは、アタシは克樹の手伝いをするね」

「邪魔するなよ?」

「ふーんだっ。誰に言ってるの?」

 ちょっと幼さを感じる、でも元気の良さそうな笑みを浮かべる夏姫。

 たぶんこれが本来の彼女なんだろう。

 あかんべーと舌を出してから、彼女はアパートに向かって歩き始める。

 でも振り向いて、言う。

「ねぇ……。克樹の願いって、何?」

 求めるように、すがるように、そしてどこか寂しそうに、夏姫の瞳が揺れる。

「ゴメン。それは言えない」

「そっか……。じゃあそのうち、言えるようになったら、教えて」

「あぁ」

 少し寂しそうにしながらも、笑顔で夏姫はアパートの階段を上っていった。

 部屋に入る彼女に手を振って、すっかり曇ってしまった空の下を歩き始める。

「僕の願いは、夏姫みたいにいいものじゃないよ」

 



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第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第二章 7

       * 7 *

 

 音山克樹を見つけたのは、本当に偶然だった。

 すっかり日が暮れて人気がなくなった街を歩いているとき、偶然彼が路地を通り過ぎていくのを発見した。

 克樹は周囲に気を配っていなかったらしい。

 変わらぬ歩調で歩いて行くのを、しばらく後ろから足音を忍ばせて追いかける。

 この先しばらく行けば、国道に出る。彼の家は確か、それを越えて少し行った辺りだ。

 ――いましかない。

 肩に担いでいた鞄を開いて、中からフード付きのコートと、飾りの付いた紅いスマートギアを取り出し、標識のポールの影にできるだけ身体を隠して身につける。

 克樹が角を曲がった。

 その先には十字路と、さらにその先は国道につながらない袋小路。

 ――後ろから仕掛ける?

 早足で歩きながら、少し考える。

 音山克樹はスフィアカップの地区大会優勝を収めるほどの実力者。

 彼のピクシードールもまた、かなりの性能を持っているだろう。

 それから戦闘スタイルは、格闘タイプ。

 エイナは確か、戦って集めろと言っていた。

 その意味がどういうことなのか詳しくはわからなかったが、戦うことも必要なのかも知れない、と思っていた。

 手袋をはめた手を、強く握りしめる。

 ――やれる。

 そう思った。

 だから彼を先回りするために、全力で走り始めた。

 走りながら鞄の中に仕舞ってあったピクシードールを取り出す。

 レインアーマーを被せてしまっているからかなり不細工な姿となってしまっているが、それも仕方ない。

 正体を知られるわけにはいかなかったから。

 音山克樹が曲がった路地を越えて、次の曲がり角を曲がる。ほとんど全力で走って、おそらくそこに現れるだろう次の角を曲がって、息を整えた。

 予想通り、音山克樹はそこに現れた。

 逃げるなら追いかけて殴り倒すかと思っていたが、必要はなかったらしい。彼は鞄から自分のピクシーを取り出し、手のひらの上に立たせた。

 それに応じスマートギアにリンクの確立が済んでいるのを確認し、ドールを地面に立たせた。

「あんたが通り魔なのか?」

「……」

「なんでまた、今回はいつもみたいに無理矢理奪わずに戦うことにしたんだ?」

 返事をする気はない。ここはもう、戦場なのだから。

 戦いの意志を示すために、黄色いドールに構えを取らせる。

「フェアリーリング!」

 意志を受け取ってくれたのだろう、音山克樹がフェアリーリングを張った。

 彼がドールに向かって頷くのを見て、ほんの微かな声で、そして願いを込めて、唱える。

「アライズッ」

 黄色いドールが光に包まれるのと同時に、音山克樹のドールもまた光に包まれた。

 水色をしたドールは、子供ほどのサイズへの変身を終え着地するのと同時に、ツインテールをなびかせながら突撃してきた。

 

 

 ――どこまでやれる?

 今日PCWに届いていた第五世代の人工筋は組み付け済みだった。

 両腿の人工筋はもちろんだけど、アライズのテストをしていたのもあって、他の人工筋も限界に近い状態だったから交換せずににはいられなかった。

 でも人工筋はある程度使って慣らしをしないと、ちゃんと動くようなパーツじゃない。組み付けたばかりの人工筋は、ほんのわずかだけど反応が鈍いのが常だ。

 それにまだベンチテストもやっていないパーツは、公開仕様通りの性能を発揮するのか、どこまで耐久限界があるのかもわかったものじゃない。

 リーリエの先手必勝の突撃に対し、冷静な動きを見せる通り魔のドール。

 右の手首に左手を添えて、まるで銃でも撃つようにリーリエに向けた。

『避けろ! リーリエ!!』

 何となく感じた嫌な予感に、まだ二メートル近く距離があったにも関わらず、そう指示していた。

 その直後、レインアーマーの隙間から発射されたのは、炎だった。

「か、火炎放射器?!」

 かなり広い範囲に広がった炎を、リーリエは身体にかすめるだけで回避していた。

『あつ、あつっ!』

 敵から距離を取って悲鳴を上げるリーリエの声は、ただの軽口じゃない。

 炎がかすめた左上腕の人工筋は、たいしたことないものの温度が上昇していた。

 あの火炎放射器の火力がどの程度かはわからないけど、まともに浴びるのはあまり良くない。アライズした状態のピクシードールのハードアーマーやソフトアーマーを一瞬で溶かすほどではないと思うけど、人工筋は熱が溜まると伸縮速度も、パワーも落ちていくことになる。

『あれに当たるなよ、リーリエ』

『うん、わかってるっ』

 応えてリーリエは再び敵に襲い掛かる。

 腰を沈めての突撃。

 向けられた火炎放射器の発射のタイミングを読んで、水色の髪に炎をかすめさせながらも横に跳ぶ。

 家の壁を蹴って一気に接近しようとしたリーリエだが、敵の反応も早い。

 懐に入る前に向けられた右手から、三度目の火炎が発射された。

『ダメッ。近づけない。あいつけっこう速いよ!』

『わかってる』

 スフィアカップでもローカルバトルでも火炎放射器なんてレギュレーションエラーだから対応なんて考えたことなかったけど、たぶんあいつのタイプは近接射撃タイプなんだろう。思っていた以上に反応速度も高かった。

 ――でも、内蔵式火炎放射器?

 まさかたった二十センチくらいしかないピクシードール用の火炎放射器が商品化されたなんてことは、過去にはなかったはずだ。

 僕の画鋲銃と同じく自作品なら別だけど、ヒルデの剣のようにどこかで販売された商品が、アライズによってあれだけの効果を発揮するようになっただけかも知れない、と思う。

 ――もしかして、あれって。

 思い当たるものがあるにはあったけど、いまの戦闘で役に立つことじゃない。

 四度目の火炎もどうにか回避して、僕の側まで待避してきたリーリエに言う。

『仕方ない、リーリエ。疾風迅雷を使う』

『大丈夫なの?』

『この際仕方ない。弱めに使うから、動きは任せた』

『うんっ』

 僕の意に応えて、愚直にも三度目の突撃を敢行するリーリエ。

 火炎放射器の射程は約二メートル。

 距離が三メートルになったところで、僕はリーリエに指示を飛ばした。

『疾風迅雷!』

『うんっ!』

 高速モードに切り替えてあるスマートギアの中で、リーリエが残像を引いた。

 突撃速度を数倍に上げ、発射された火炎放射の下をくぐってリーリエが敵に接近する。

 疾風迅雷の効果の一秒弱の間に突き出された右腕の内側に入り込んだリーリエが、身体を起こす動作にあわせて右手の拳を敵の腹に叩き込もうとする。

 ――なんだって?

 まるでその動きを読んでいたかのように、右手首に添えられていたはずの左手がリーリエの拳を払っていた。

 そのまま動きを止めず、リーリエは左のナックルガードで敵の横っ腹を狙う。

 火炎放射の構えを解いた右肘が、リーリエの攻撃を叩き落としていた。

 ――なんだ、この反応速度。

 二度の攻撃を防がれても動きを止めることがなかったリーリエが、わずかに身体を反らして折り曲げた膝を持ち上げる。

 頭を狙った蹴り上げは、引き戻された敵の左手によって受け止められていた。

『いったん離れろ、リーリエ!』

 指示を出すまでもなく、リーリエは残った左足で地面を蹴って敵から距離を取る。それと同時に、敵もまた跳び退っていた。

『すごいよ。たぶんあたしと同じ格闘タイプだよ、この子』

 ドールの性能が高くて、ソーサラーとしての能力も高く細やかな指示を先読みして瞬時に行える夏姫みたいなタイプならばともかく、常人の反応速度すら超えるリーリエの攻撃は、一般人の目で捉えるのが困難なほどに速く、射撃管制のためにセンサーとリソースを割いたピクシードールで早々反応できるものじゃない。

 それを不意の接近でも三度も防いで見せたレインアーマーの敵は、おそらく射撃タイプではなく、その中身は格闘タイプのピクシードールだ。

 たぶんフルコントロールだろうと思われるソーサラー自身、相当の腕だろう。

 ――まずい。こいつ、全国レベルの強さだ。

 スフィアカップの地区大会で夫人のドール破って優勝をしたアリシアだけど、それはかなり辛勝と言っていい勝利だった。結局僕が全国大会に出ることはなかったんだけど、あの頃のアリシアでは全国大会でさほど高いところまで至ることはできなかっただろう。

 リーリエの動きに対応して見せたあのソーサラーの強さは地区大会レベルじゃなく、映像で見たことがある全国大会で勝ち抜けるくらいの強さだと感じた。

 ――どうする? 撤退でもするか?

 慣らしていない上、ポテンシャル不明の人工筋でこのまま戦い続けるのは得策じゃない。さらにまだ更新をしていずそのままの第四世代のサブフレームは、ヒルデとの戦いとさっきの疾風迅雷で遊びが出始めていて、限界が近かった。

 隙を見つけて逃げ出すことも考えるけど、もし追いかけられたら僕の遅い脚じゃ逃げ切れるとは思えない。

 その心配も、杞憂に終わった。

『あ、援軍』

『え?』

 リーリエの声とほとんど同時に、僕の耳に聞こえてきたのは女の子の声。

「克樹ー!!」

 すぐ側までやってきたその声に、通り魔はレインアーマーのドールのアライズを解いて、僕たちに背を向けた。

『逃げちゃうよ。追う?』

『いや、やめておこう。全力で戦える状態じゃない』

『ん……。そうだね』

「か、克樹。だいじょう、ぶ? レーダー起動してみたら、近い距離にふたつ反応があったから、たぶん、一個は克樹だろう、って、思って」

 僕のところまでやってきた夏姫が、両手を膝について荒く息を吐く。

 そんなんじゃ戦えないだろう、と思いつつも、素直に感謝する。

「ありがとう、助かった。ちょっと危なかったんだ」

 半分無意識のうちに夏姫の頭をなでようとした手を払いのけられながら、僕はもう見えなくなった通り魔が消えた方向をじっと見つめていた。

 ――あいつは、いったい誰だったんだろう。

 僕がエリキシルソーサラーだと目星を付けて戦いを仕掛けてきたんだろう通り魔。

 正体につながる情報はあまり得られなかったけど、ただひとつ確かなことがある。

 ――あいつもまた、エリキシルバトルに参加を決めた、強い願いがあるんだよな。

 




 主要な登場人物が出揃ったので、おさらいまでに登場人物一覧をば。年齢などは第一部時。

音山克樹(おとやまかつき)
 十六歳、高校一年生。セミコントロールソーサラー。エリキシルソーサラー。人工個性「リーリエ」のおにぃちゃんにして、ピクシードール・アリシアのオーナー。故・百合乃を妹に持つ少年。ある想いを秘めてエリキシルバトルに参加する。

浜咲夏姫(はまさきなつき)
 十六歳、高校一年生。セミコントロールソーサラー。エリキシルソーサラー。VC社に勤めていた母親を過労で失い、父親の少ない仕送りで暮らす貧乏少女。母親の復活を望みエリキシルバトルに参加する。ピクシードール・ブリュンヒルデのソーサラー。

リーリエ
 克樹を「おにぃちゃん」と呼ぶ人工個性。アリシアのソーサラー。性格は百合乃に似ている。

モルガーナ
 魔女。

音山彰次(おとやまあきつぐ)
 克樹の叔父。三十代。HPT社開発部長他、多数の肩書きを持つスフィアドール業界の有名人。リーリエの秘密を知り、モルガーナに想うところある人物。名前の読みは「あきつぐ」だが、克樹には「ショージさん」と呼ばれている。

平泉夫人(ひらいずみふじん)
 三十代の資産家女性にしてスフィアカップ地域大会準優勝を納めたフルコントロールソーサラーの猛者。様々な業界や人物に影響力を持つ。克樹とは歳の離れた友人。

エイナ
 スフィアドールの核となるスフィアを開発したSR社の子会社、人工個性専門のプロモーション企業エイナプロダクションに所属する唯一の人工個性アイドル。克樹たちをエリキシルバトルに誘うなど、謎が多い。アイドルとしての人気は高く、二つ名には事欠かない。

PCWの親父(おやじ)
 本名不明。克樹も知らない。おそらく五十代。秋葉原の隠れたロボットショップ「ピクシークラフトワークス」の店主。技術、知識ともに高く、克樹曰く「日本で一番のピクシードールアーマー職人」。

遠坂明美(とおさかあけみ)
 十六歳、高校一年生。克樹のクラスメイトにして、小学校の頃からの付き合い。陸上部所属。お節介焼き。

近藤誠(こんどうまこと)
 十六歳、高校一年生。空手部所属。

顔に火傷のある男
 年齢不詳。正体不明。百合乃を誘拐し、死に至らしめる結果をもたらした人物。

故・音山百合乃(おとやまゆりの)
 営利誘拐事件の被害者となり亡くなった克樹の妹。アリシアの以前のソーサラー。スフィアカップ地域大会フルコントロール部門優勝者。

故・浜咲春歌(はまさきはるか)
 夏姫の母親。VC社がSR社に吸収合併される時期に過労にて死去。ピクシードールだけでなくスフィアドール全般の優秀な開発者だった。克樹にブリュンヒルデの可動型フェイスパーツを夏姫似でつくることを依頼した。

 いまのところ作中に登場している、名前が出てきている人物は以上かと思いますが、もし抜けがあったらどこかで指摘していただければ幸いです。
 設定などについては概ね小説本文内に記載してあるので、別途資料などをまとめる予定はありません。もしほしいという方がいらっしゃいましたら言っていただければ検討します。


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第一部 第三章 リーリエとエイナ
第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第三章 1


第三章 リーリエとエイナ

 

       * 1 *

 

「アタシたちで通り魔を捕まえよう」

 元々そういう性格なのか、昼休みに入ってすぐ僕の教室にやってきた夏姫は、屋上の人目のつかないところまで引っ張ってきたかと思うと、そう言った。

 相変わらずスカートの丈は短いし、黒のストッキングは僕の好みに合わせてくれてるんだろうか、と思うけど、たぶんそんなことではなく、普通に寒さ対策だろう。

 だったらスカート丈を標準のにすればいいのに、などと階段室の影で吹きっさらしではないものの、放射冷却でかなり寒さを感じる屋上で僕はこっそり息を吐いていた。

「やだ。面倒臭い」

「……あんたねぇ」

 僕の答えに呆れたように、夏姫はつり上げていた目尻を落とした。

「わかってるの? 克樹がエリキシルソーサラーだってのはもうあっちはわかっちゃってるんだから、近いうちに絶対もう一回襲いに来るよ」

「僕は学校と用事があるとき以外はあんまり家の外に出ないし、家のセキュリティはリーリエもいるからかなり堅い。アリシアを持たずに早めに家に帰るようにすれば問題ないさ」

「自分が襲われたっていうのに、何とも思わないの?」

 声を抑えつつも激高していた夏姫は、僕の言葉に呆れきったため息を漏らした。

 戦ってみてわかったことだけど、通り魔は相当強かった。

 火炎放射器もさることながら、リーリエの攻撃を防いだあの近接戦能力はかなりの脅威だ。

 少なくともアリシアの第五世代パーツが揃いきった上で、ベンチテストを終えてからでないと再戦なんてしたくなかったし、別に僕が直接襲われるのでなければ、もう一度戦いたいと思える相手でもなかった。

 ――それに、あいつにはあいつの戦う理由があるんだろう。

 どんなものかはわからないが、バトルに参加しているってことは、通り魔は何か願いを持っているということ。火の粉を被らない限りはその願いを邪魔する気にはなれなかった。

「アタシは許せないっ。願いを叶えるためって言っても、関係ない人まで襲うなんて!」

「たぶん僕と同じでレーダーの使い方を知らないんだろう」

「だとしても、せめてピクシーバトルを仕掛けるとか何か別の方法がありそうじゃない」

「エリキシルバトルのことは秘密ってことになってるんだ。レーダーの使い方を知らないんじゃ、手当たり次第にドールを奪ってみるしかないだろう」

「克樹はどっちの味方よ!」

 威嚇するように並びのいい白い歯を見せつけながら夏姫は僕を睨みつけてくるが、取り合うつもりはない。

「いいよ、もうっ。アタシはアタシで、通り魔のこと探すから!」

 強い口調で言って僕に背を向ける夏姫。

「無理するなよ。相手が男で後ろから襲われたらどうにもならないこと、わかってるだろ?」

 ひくりっ、と肩を震わせ、振り返った夏姫は汚いものでも見るみたいな目を向けてきた。

「もちろんわかってる! だから気をつけるよっ。……でも、あいつもエリキシルソーサラーなら、戦って勝って、スフィアを手に入れれば、ママの復活に一歩近づけるもん」

「やるならせめてヒルデの修理が終わってからにしろよ。修理と調整の仕方はPCWの親父に聞けば教えてくれるはずだから」

「克樹は何にもしてくれないんだね!」

 怒ったようにそっぽを向いて、夏姫は行ってしまった。

『いいの?』

 それまで黙っていたリーリエが、イヤホンマイクから声をかけてくる。

「いいも悪いも、仕方ないだろう。夏姫も通り魔も、自分の願いを叶えるために自分ができることをしてるんだ。僕が水を差すようなことじゃない」

『ん……。でも、おにぃちゃんにも、願いはあるんでしょう?』

 エイナによって遮断されていたから、リーリエには僕の願いは知られてないだろうし、話してもいない。願いを叶えるならばリーリエの力を借りるしかないけど、それがどんな内容であるかを話そうとは思っていなかった。

「それよりもお願いしてた情報は出てきたか?」

『ぜんっぜん見つからないっ。情報足りなすぎるよー』

 ショージさんに聞いた魔女の居所。

 SR社にいるのはわかったけど、それだけじゃ会いに行こうにも情報が足りなすぎる。

 リーリエには僕が知る限りの魔女の外見やモルガーナという名前なんかを伝えて、SR社の社員が写っていたりする画像や名簿を探してもらっていたけど、見つけた写真をマッチングするにしても捜索対象の写真一枚ない状況では、有効な情報を得るのは難しいだろうと思っていた。

 ――夏姫も通り魔も魔女に、モルガーナに踊らされてるだけなんだ。

 エリクサーをエサに、それ以上のものを得ようとしてるだろう魔女、モルガーナ。

 僕はあいつによって二度と踊らされたいとは思わなかった。

 ――僕がエリキシルバトルを仕掛けるとしたら、自分で踊ることを決めたときだけだ。

 白い息を吐き出しながら、僕は左手を強く握りしめていた。

 



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第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第三章 2

       * 2 *

 

「まったく、あいつと来たら……」

 下駄箱から靴を取り出し上履きを履きかえた夏姫は、思わず愚痴の言葉を漏らしていた。

 ――本当に、何を考えてるの?

 襲い掛かってきたと思ったら、ヒルデの修理に必要なパーツのことを教えてくれたり、でもエリキシルバトルには積極的に参加する様子を見せない克樹。

 開発中のAHSだというリーリエについてもまだ何か秘密にしていることがある様子があるし、夏姫には彼が何を考えているのかよくわからなかった。

「夏姫ー。いま帰り?」

「これからバイト。明美は部活はなかったの?」

 昇降口の扉をくぐったところで声をかけてきたのは、隣のクラスの遠坂明美。

 クラスは違っていたが、受験のときに隣の席になったのが縁で仲良くなって、いまでも夏姫は彼女とよく話す間柄だった。

「今日は朝練だけ。それに通り魔のことを警戒して、部長が放課後の練習はしばらく控えるって」

 ジャージが入っているらしいスポーツバッグを示して、明美は夏姫の隣に並んでくる。

 バイトをしている喫茶店は学校の最寄り駅の向う側で、少し遠くに住んでる明美は電車通学をしている。帰りが一緒になったときには、駅までは並んで歩くのはいつものことだった。

 サッカー部が練習している校庭の横を通って校門を抜けたところで、眉を顰めた明美が声をかけてきた。

「ねぇ、ちょっと聞いたんだけどさ。克樹となんかもめてたって、本当?」

「え? と……、それは、その――」

 どう応えていいのかわからず、夏姫は言葉を詰まらせる。

 エリキシルバトルのことを明美に話すわけにはいかなかったし、違うクラスでこれまでとくに接点のなかった克樹との間柄を、どう説明してすればいいのか言葉が思い浮かばなかった。

「まぁちょっと、あいつとはいろいろあって……」

「もしかして何かされた?」

「え?」

 エイナから特別なスフィアを持つ者がエリキシルバトルの参加者だと聞いて、スフィアカップの上位入賞者だろうと目星をつけてチェックしたときに、克樹が同じ学校に通っているということを知った以外には、彼がどんな人物なのかを調べたことはなかった。

 克樹と同じクラスで、彼の顔を確認するときに何か言い争いをしていた明美は、克樹のことを自分以上に知っているのだろうと夏姫は思った。

「何かされたといえば、されたんだけど……」

「やっぱりねっ。まったくあいつは、凝りやしないんだから!」

 心配そうな目を夏姫に向けてきていた明美は、今度は克樹に対してだろう、頬を膨らませて怒った様子を露わにする。

 明美の態度からすると、克樹は他にも夏姫にしたようなことをやってるんだろうと思う。

「あいつ、いつもあんなことしてる、の?」

「エッチなこと言ってくるのはいつものことだし、胸を触られたとか、スカート覗かれたなんて子は、けっこういるんだよ? むっつりスケベだったりストーカーじゃないからまだマシっちゃマシだけど、隙を見せたらどんなことされるかわかったもんじゃないんだから! ……もしかして夏姫、あいつに襲われちゃったり、した?」

「ち、違うっ。み、未遂だから! 大丈夫、たいしたことない!」

「未遂でもされてるんじゃないっ。本当、あいつはしょうがないんだから……」

 怒って頬を膨らませつつも、明美は少し考え込むようにうつむく。

 もしかしたら明美も、夏姫がされたようなことをされたことがあるのかも知れなかった。

「……もう二度と、隙を見せたらダメだけど、未遂で済んでるんだったら、あいつのこと、あんまり責めないでほしいんだ」

「どういうこと?」

 横断歩道を渡って駅に続く国道沿いの歩道を歩きながら、明美はしばらく口を噤んで表情を曇らせていた。

 普通なら、あんなことをされたら誰かに相談するだろうし、最後までされていたらどうするか悩むだろうけれど、未遂だったりしたら学校なり警察に訴え出るのが筋だろう。

 夏姫だって、エリキシルバトルのことがなかったらそうしていただろうと思っていた。

 ――でもあそこには、リーリエがいたんだよね。

 あのときはリーリエがアライズして克樹を気絶させたために助かったけれど、あのときの彼はそうなる可能性を全く考えていなかったのだろうか、と思ってしまう。

 どちらにせよ、責めないでほしいと言う明美の真意は夏姫には推測することができなかった。

 顔を上げた明美は、真剣な顔で問うてくる。

「克樹の側にはもう二度と近寄らない? それともまだ何か、あいつの近くに行く用事があったり、する?」

「それは、その……」

 克樹はエリキシルバトルの敵ではあったが、一度は負かされた相手で、再戦こそ誓いあっているものの、彼がスフィアを必要とするときまでは手伝うと宣言してしまっている。

 ヒルデの修理に必要な状況を揃えてもらった恩もあるし、いまは敵と言えるほどの強い気持ちはなかった。

「いまはあいつとは、その……。事情があって――」

 友達である明美にハッキリと事情を話せず、夏姫は言葉を濁らせる。

 怒っているような瞳で夏姫のことを見つめてくる明美。

 思い切って言ってしまおうか、と思いつつも言い出すことができず、夏姫が黙ったままでいると、そんな心中を察してくれたのか、ため息を吐いた明美が口を開いた。

「これは本当は、ワタシの口から話していいことなのかどうか、わからない。でも夏姫がまだあいつの側に行くって言うんだったら、話しておくべきだと思う」

 うつむいてためらう様子を見せつつも、同じ方向に歩く人、すれ違う人が近くにいないことを確認してから、明美は話してくれる。

「克樹の側に寄ることは、ハッキリ言ってお勧めしない。隙を見せたらあんなことをする奴だし、前にワタシも後ろから抱きつかれたとき、怖かった。あいつのことも、他の男の人のことも……。必死に逃げようとしたのに、たいして運動もしてないあいつからワタシ、逃げられなかったの。だからしばらく男性不信にもなった」

 ――やっぱり明美も、されたんだ。

 そう思った。

 けれど同時に疑問を感じる。

 もし男に無理矢理襲われたりしたら、たとえ未遂だったとしても、元々親しい相手だったとしても、二度とそいつの側に寄ろうとだなんて思わない。

 事情でも、ない限り。

「でもあいつは、怖がらせるのが目的なんだと思う。男は怖いものだ、って。隙を見せたら襲われるものなんだ、って」

「なんでわざわざそんなこと、するの?」

 普通であれば、男の子は女の子に好かれたいと思うものだと考えていたし、そのためにいろいろする男の子だって多い。強引に迫ってくる男子がいるのも確かだったが、嫌われるために襲う理由なんて、夏姫は思い付くことができない。

 少し悲しそうな目で夏姫を見た明美が、先を続ける。

「あいつには妹がいたの。百合乃ちゃんって。二歳年下のすごく可愛い女の子。ワタシの親は児童館の職員で、あいつの親は共働きで家に帰ってくるのも遅かったから、百合乃ちゃんは児童館によく来てたのね」

 明美は空を仰ぐ。

「百合乃ちゃんはよくできた子で、ワタシも親の手伝いをやらされてることが多かったんだけど、あの子はわたしのことを手伝ったりしてくれたりしたの。家に引き籠もってるばっかりだった克樹をたまに引っ張ってくることもあって、あいつとはそのときからの付き合い。昔から面倒臭がりだったけど、百合乃ちゃんの前ではけっこういいお兄ちゃんだったんだよね」

 その話を聞いて思い付く。

 詳しく見て回ったわけではないにしても、克樹の家には彼の他に誰かが住んでる様子はなかった。そしてリーリエは、彼のことを「おにぃちゃん」と呼んでいる。

「でも二年とちょっと前に、百合乃ちゃんは亡くなったの」

「亡くなった? どうして?」

 いまにも泣きそうな目で、口元を歪ませた明美が言う。

「営利誘拐の被害者だったの。あいつの家、両親がけっこういい会社に勤めてたりして、あたしの家と違って余裕があって、それが原因だったと思うんだけど、誘拐に遭った百合乃ちゃんは、身代金の受け渡しも失敗したりして、連れて行かれる途中に犯人の車から落ちて……。ちょうど誘拐されるとき、克樹が一緒にいたの。道を教えてほしい、って車に乗った男に言われて、ちょっとあいつが目を逸らした瞬間に車に連れ込まれたんだって」

「……そんなことが、あったんだ」

「うん……。中三のときはほとんど学校にも出てきてなくて、それでも成績はよかったから高校には進めて、でも学校に出てくるようになったら、いまみたいな感じだった」

 涙は流していないのに、泣いてるような表情の明美。

 彼女の顔を見ていて、夏姫は思う。

 ――もしかして明美って、克樹のことを……。

 思ってしまってから首を振ってその考えを振り払う。いまはそんな話をしてるのではない。

「たぶんあいつは、女の子に男は怖いものだ、ってことを教えようとしてるのかも知れない、って思う。方法に問題あるし、最悪あいつ、停学とか退学とか食らいそうな気がするんだけど、百合乃ちゃんが亡くなって以来、あいつの家は両親も帰ってこなくなっちゃったみたいだし、けっこう自暴自棄のところもあるんだと思う」

「……そっか」

 唐突に感じた克樹の行動と、その後の彼の様子の理由が、少しわかった気がした。

 この先も隙を見せてはいけないと思うけれど、いままで以上に彼のことを憎めそうにないと、夏姫はうつむきながら考えていた。

「百合乃ちゃんが亡くなってからたぶんピクシードールいじるのもやめちゃったんだろうし、あいつ本当、家に引き籠もって何してるんだろ」

 思考を切り替えたのか、明美が少し怒ったような顔に戻って言う。

 明美の言葉に反して、克樹はいまもピクシードールに触れているし、最新の情報にも詳しい。彼がやめる理由を、夏姫は思いつけなかった。

「え? やめちゃった、って、そうなの? どうして?」

「うん、聞いてないけど、たぶんそうなんじゃないかな? あいつ自身もけっこう上手いセミコントロール? のソーサラーだったけど、あいつのドールを動かしてたの、百合乃ちゃんだったし、あの子はその筋では注目されてたすごいソーサラーだったしね」

「え?」

 確かに克樹はアリシアのオーナーであって、リーリエがソーサラーというべきか、フルオートシステムとして操っているけれど、それは以前からのことではなかったのかと思う。

「その百合乃ちゃんって、そんなにすごいソーサラーだったの?」

「うん。ワタシも見たことあるけど、本当にすごかったよ。フルコントロールでドールを操ってダンスをさせながら、自分も一緒に踊ることができたりしたの。そういうことができる人ってたまにいるらしいんだけど、あの子はもっとすごかった。ものすごく鮮やかに、本当に人間みたいな動きをピクシードールにさせることができて、克樹がスフィアカップの地区大会だったっけ? で優勝したときも、ソーサラーはあの子だったんだ」

 ドールを操りながら自分も動けるソーサラーというのは、セミコントロールでは無理なことではなかったし、フルコントロールでもそういうことができる人がいるというのは、テレビのネタとして登場することもあったので、夏姫も知っていた。

 夏姫自身はいまひとつフルコントロールに必須なスマートギアを使い慣れることができなかった上、いまは買って試せるほど懐に余裕がなかったが、フルオートでならともかく、ドールの動きを確認しなければならないセミコントロールやフルコントロールでそんなことができる人がどういう思考回路になっているのか、想像することもできなかった。

「一度だけ、児童館でピクシードールを使って人形劇をやったことがあるんだけど、そのときの百合乃ちゃんはひとりで二体のドールを操ってたの」

「そんなこと、できるの?」

「他にできる人を見たことないけど、あの子はそんなことができたの。さらにあの子、変声機能なんかで声も変えて、二体のドールを動かしながら別々の人間が操ってるみたいに本当に鮮やかに動かして、別々の声を同時に出させたりできてたんだ」

 スマートギアは脳波でポインタを動かして様々な操作が可能なことは知っていたし、熟練者になると思考の速度で文字を打ち込むこともできれば、応用して声を出すことや、複数のポインタをそれぞれの指で動かすように同時に操作できるということも知っていた。

 ただフルコントロールですらかなりの高等技術で、ソーサラー人口では少ない部類に入るほど。熟練者になると、フルオートはもちろん、セミコントロールでも達し得ないほどの細やかな動きが可能になるものではあったが、ドールをフルコントロールしながらソーサラーが動けるだけでも信じられないのに、同時に二体のドールを操作するなんてこと、夏姫には頭の構造がどうなっているのかもうまったく理解できなかった。

「もしかして夏姫が克樹の側にいるのって、ピクシードール関係のことで?」

「あ、うん。そう。いまでもあいつ、ピクシードールはいじってるし、詳しいし、アタシのドールがこの前ちょっと壊れちゃって、たまたまあいつが詳しかったから、相談してたりとか、そういうこと」

「そっか。でも本当、あいつには隙を見せちゃダメだよ?」

「わかってるって」

 納得したようにうんうんと頷いた後、子供に注意するかのように優しい怒り顔をする明美。夏姫はそれ以上追求されなかったことに安心して笑顔で応えていた。

「あ、でも、夏姫ってソーサラーなんだ?」

「うん。いまは壊れてるから動かせないけど、あいつに紹介してもらったお店にもうすぐパーツが届くんだ」

 明美とは勉強のことやファッションのことで話すことはあったけれど、これまでピクシードールのことについてはとくに機会もなかったから、話したことはなかった。

 何を思ったのか少し考え込んだ後、明美が言った。

「ワタシも安いのを一体持ってるんだけど、この前また動かしてみようと思ったら人工筋? だっけ。あれが劣化してるってメッセージが出てきちゃったの。もし夏姫がお店とか知ってるんだったら、今度行くときにでも一緒に連れてってくれない?」

「それは別に構わないけど……」

 かなりマニアックなお店だったPCWで、聞いた限りバトル用ではないドール向けのパーツを取り扱っているかどうか不安に思う。

 ――いいお店、克樹に聞けばいいか。

 注意された直後だけれど、隙さえ見せなければ大丈夫だろうし、克樹がいつもイヤホンマイクをつけているのはリーリエとつながっているためだろう。克樹に恋人ができることをよく思っていないらしいリーリエに助けを求めれば、もし危険なときでも助けてくれそうだと思った。

「わかった。たぶん今週中にもパーツは届くと思うから、今度の日曜にでも一緒に行く?」

「うん。空けておくね」

 駅が近づいてきて、家が多かった街並みには商店が増えてくる。それと一緒に人通りも増えてきていた。

 明美の話を聞いていて、夏姫は考えていた。

 ――リーリエって、もしかして、百合乃ちゃんと何か関係があるの?

 新型AHSだと言われたけれど、それにしても人間らしい振る舞いを見せるリーリエ。

 そしてものすごいソーサラーだったという百合乃。

 人間のソーサラーとフルオートシステムに何か関係があるとは思えなかったが、あのリーリエの自然さは、関連があると言われた方が納得できる気がした。

「じゃあワタシはこの辺で。またね、夏姫」

「うん、また」

 駅のロータリーに入って明美と別れ、ひとりになった夏姫は高架下の道をバイト先に向かいながら考える。

 ――もしかして克樹が願っているのは、百合乃ちゃんの復活?

 夏姫が母親を失っているように、克樹もまた百合乃という妹を失っている。

 もし叶えたい願いがあるとしたら、それは百合乃の復活かも知れない、と思っていた。

 ――でも本当にそうなのかな?

 克樹は何か含みがあるように自分の願いを言わなかった。

 恥ずかしかっただけかも知れないとも思うが、そうでない何かが、あるような気もしていた。

 ――ねぇ克樹。本当にそのうち、あなたの願いを教えてくれる?

 真っ直ぐに前を見て歩きながら、夏姫はここにはいない克樹に向かってそう問うていた。

 



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第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第三章 3

       * 3 *

 

「リーリエ、検索結果を表示」

 学校が終わって家に帰ってきた僕は、早速自分の部屋に籠もって椅子に座り、自宅用のスマートギアを被る。

『魔女の情報だったらぜんぜん見つかってないよ?』

「いや、一昨日頼んだもう一つの方」

『あ、うん。待ってね』

 ついこの前のフェイスパーツ作成の後片付けをやりきってない雑多の机の上を覆い隠すような感じで、薄暗い部屋の中を大きなウィンドウが表示される。

 エリキシルスフィアである可能性があるのは、スフィアカップ地方大会の三部門で一位と二位に授与された、当時次世代型と呼ばれたスフィアだろうと思う。

 スフィアカップ以外でも配られてる可能性はあるが、それに関する情報はリーリエに探してもらったが、ハッキリしたものは見つからなかった。

 だからまずはそのスフィアを持っている人物を、表彰のときの情報から集めていた。

 ――まったく、夏姫の奴め。

 おそらく夏姫は、宣言通り自分で通り魔を探そうとするだろう。もしかしたら近藤と同じように見回りでも始めるかも知れない。

 具体的な方法は聞いていなかったが、危ないことをするだろうことは想像に難くない。

 せめてここ最近出没している通り魔くらいは探してみようと思ったが、意外と上手くいきそうにはなかった。

『やっぱりちゃんとした情報が少ないから難しいよ、おにぃちゃん』

「まぁ、仕方ないだろうなぁ……」

 エリキシルバトルの参加資格は、次世代型スフィア所有と同時に願いを持っていること。

 生き返らせたい人が側にいることを考えて、次世代型スフィアを持っている人の側にいると思われる人間の死亡に関する情報があるか否かで絞り込んでみたが、可能性が高いと言える人物は見つからなかった。

 事故や事件ならともかく、人が死んだという情報がネットに流れることは多くない。

 所有者の住所までがわかってるわけじゃないから、絞り込もうにも可能性だけだったらほぼ全員と言っていいくらいになるし、ヘタに条件を追加すると全員がノーマッチになってしまう。

 ――いや、ひとりだけ、可能性が高い人がいるか。

 情報不足で絞り込み切れない情報しか表示されていないウィンドウを閉じて、椅子の背もたれをリクライニングさせて天井を眺める。

 ――夫人の旦那さんは、亡くなってたんだったな。

 僕と、それから百合乃のアリシアとスフィアカップで戦い、どうにか勝つことができた平泉夫人は、スフィアカップのフルコントロール部門二位となって、次世代型スフィアを授与されている。

 旦那さんを病気で失っている彼女は、エリクサーを望んでもおかしくなかった。

 さらにモデル並の百七十センチを越える身長の夫人は、ヒールのある靴を履けば通り魔とも近い背丈になる。

 ――この前呼ばれたのも、そういうことだったのかも知れないな。

 いくらメイドが休みを取っているとは言え、この前夫人が僕を呼び出した理由がわからない。もしかしたら僕がエリキシルソーサラーになっているかどうかを確認するためだったとしたら、腑に落ちる気がしないでもなかった。

「いやでも、違うよな……」

 夫人は僕から見て、大人としてものすごくしっかりした女性だ。

 能力としてはものすごいショージさんはいろいろ問題あるし大人らしい大人には思えないこともあるけど、生活能力こそ問題はあっても、夫人の振る舞いは僕の知る限り一番大人らしい大人と思えた。

 ――まぁ、人の内面なんてわからないものだけど。

 夏姫のことですら話を聞くまではよくわからなかった僕にとっては、人の内面なんて想像することは難しかった。

『誰か思い当たる人でもいるの? おにぃちゃん』

「いや、なんでもない」

 問うてくるリーリエに思い付いたことを話さずにいつつも、近いうちに会いに行ってみようかと思っていたりもした。

 そんなことを考えてるときに、呼び鈴が鳴った。

『あ、ショージさんだ』

「どうしたんだろ。開けてやってくれ」

 ホームセキュリティにも接続しているリーリエの声に、僕は鍵を開けるよう指示する。

 ――そう思えばそろそろだったか。

 出迎えようと椅子を立ったところで、ノックもなしに部屋の扉が開いた。

「よぉ克樹。時間があったからメンテに来たぜ」

 いつもの不適な笑みを見せながら、スーツ姿のショージさんが立っていた。

 

 

 一階の元々客間だった一室には、いまは人が寝起きできるようなスペースはない。

 温度を一定に保つために稼働しているエアコンが微かな音を立てているその一室にあるのは、天井近くまで高さのあるラックに収納されたコンピュータ群。

 そのコンピュータ群こそが、リーリエの本体のひとつだった。

 専用のネット回線でバックアップ用に同じものがもう一セット、ショージさんの家にAHSの開発のために並行して解析なんかもされてる奴が設置されている。

 それぞれの状態はネット経由で監視することもできるけど、ハードウェアの情報の一部は直接出向かないと確認できないものもある。

 だから三ヶ月に一度、ショージさんはわざわざ家に来てメンテナンスをしてくれていた。

「いまのところとくに問題はなさそうだな」

 旧式のディスプレイとキーボードがセットされたコンソールには、進行中のチェックプログラムの状況が表示されている。

 簡易チェックがひと通り終わって、詳細チェックに入った頃、ショージさんはそう言った。

「まぁ、この前UPSとか更新したばっかりだし、そんなにすぐに不調は出ないよね」

「油断してるときにこそ、こういうものは壊れたりするんだがな」

 チェックを終えて、ショージさんはディスプレイを畳んで引き出しのようになっているコンソールをラックに収めた。

 僕もコンピュータには詳しい方ではあるけど、こうした大型システムについてはほぼ無知と言っていいし、それにリーリエを動かしてるシステムはかなり特殊なものだった。

 昔、ショージさんが大学にいた頃に研究していた、コンピュータ内に人間の脳を擬似的に構築する研究成果のひとつである、シミュレーションに特化した特別製のコンピュータ。大学の研究が中止されてずっと仕舞われていたものを買い取って、僕の家とショージさんの家に移設していた。

 それの購入の際に平泉夫人の財力に頼って以来、僕はあの人に頭が上がらない。

「はい。コーヒー」

「ありがとよ」

 メンテナンスが終わる頃を見計らって淹れてきた湯気の立つカップを受け取って、ショージさんは口を近づける。少し寒さを感じる温度に保たれた部屋で、ショージさんは座った椅子からすぐに立とうとはしなかった。

 しばらくカップの中身を眺めてから、ショージさんは言う。

「何でまた、いまさら魔女に会いたいんだ?」

「……」

 この前も問われたことだけど、僕はその質問に答えることができない。

 積極的に参加してるとは言えない状況だけど、僕はエリキシルバトルの参加資格を失うつもりはなかったから。

「まだ百合乃の、リーリエのことで、思うことがあるのか?」

「……それは、ないわけではないけど」

 百合乃を助けるために乗り込んだ魔女、モルガーナの車。

 そのときおかしなところに連れ込まれたとかではなくて、病院には連れて行ってもらった。

 ただしどう手を回したのかはわからないけど、モルガーナもまた手術室の中に入っていった。

 すべての処置が終わり、集中治療室のガラス越しに百合乃のことを見ながら医者から回復不能と告げられた後、その場に現れたモルガーナが僕に手渡したのは、何かのディスクだった。

「情報の欠損が激しいから、貴方にあげるわ」

 そう言い残して去って行った疲れた表情のモルガーナが、百合乃に何をしたのか、そのときの僕にはわからなかった。

 百合乃の葬式が終わり、元々家族としての形をあんまり成していなかった僕の家は、百合乃を失ったことで離散することになった。百合乃の元に帰ってきてる感じのあった父親と母親は家に帰ってくることはなくなり、僕がふたりと連絡を取ることもなくなった。

 経済的な繋がりはいまも途絶えたわけじゃないし、離婚をしたわけでもないけど、中学三年になってテストのとき以外一度も学校に行かなかった僕を生活指導と進路指導のために教師が呼び出すに至った頃、両親の代わりとして現れたのはショージさんだった。

 強引で明け透けなショージさんとは両親と違ってウマが合ったのもあって、そのディスクのことを相談してみると、僕じゃ中のファイルのフォーマットすらわからなかったのに、一発でそれを看破した。

 その中身は、どうやってディスクに収めたのかはわからないけど、百合乃の脳情報。そしてそれの使い方もまた、ショージさんは知っていた。

 その後、百合乃の葬儀にも来てくれた平泉夫人に頼み込んで大学のコンピュータ群を買い取って、その情報を使えるようにショージさんがしてくれたけど、その情報は百合乃の性格を残しながらも、僕との記憶はひと欠片も残っていなかった。

 モルガーナの言った情報の欠損が原因なのかどうかは調べても結局わからなかったけど、あのとき別れを終えた百合乃は戻ってくることはなく、百合乃の脳情報から産まれた個性は、リーリエという名前を付けて僕の側に置くことにした。

 そうして産まれたリーリエと、脳情報を勝手に取り出された百合乃のことで、モルガーナのことをいまも恨んでいることはたぶん、ショージさんも気づいている。

「俺も大学時代、魔女に関わって知り合いをひとり死なせてる。いや、原因はあいつと直接関わりがないのかも知れないが、あいつが原因だと俺は思ってるよ」

「人が、死んでる?」

「まだお前には話したことがなかったな」

 カップを傾けてひと口コーヒーを飲み、深くため息を吐くショージさん。

「俺が大学で研究してた脳の仮想化についてはいまさら説明することでもないな。いまと違って高精度で脳波を受信できるスマートギアみたいなものはなくて、大型の機械で脳の情報を取り出していたんだが、充分な情報を取り出すためには希有な才能が必要だった」

「希有な才能?」

「たぶん、百合乃ちゃんと同じ、スマートギアに深く適合できるようなものだと思う」

 百合乃のスマートギアとの適合は、僕から見ても異常と言えるものだった。

 百合乃にとってスマートギアを使ってリンクしたピクシードールは自分の一部のようだったし、離れたところにある手足のようにあいつはアリシアを動かしていた。

 いまの、リーリエと同じように。

 そのショージさんが言う被験者も、同じような才能を持っていたんだろうか。

「成果はぼちぼち上がっていたんだが、コンピュータで脳の再現をするのに必要な情報を取り出すためには、けっこう飛んでもない時間が掛かるってのはわかってた。それを解消するために脳に電磁波を照射して無理矢理脳波を増幅するなんて無茶な方法を考えられたりしてたんだが、被験者の負担を考えてそれは行われなかった。……そのはずだった」

「でもそれが、行われていた?」

 疲れたように額に拳を当てて、ショージさんは目をつむる。

「わからん。それができるようには機材の改造はしていなかったはずだし、俺も他の奴らも被験者の負担を考えてその方法は否決した。ただ共同研究の相手として参加していた企業の奴だけは、――いや、企業から派遣されたという形で現れた魔女だけは、その方法を採るように言ってきていた。あるときその被験者は自宅で倒れて意識を失い、死んだ。原因は不明ってことになってる。その後研究成果は出資もしていた企業が全部持って行っちまった」

 目を開けて、ショージさんは僕のことを真っ直ぐに見つめてくる。

「あいつが、魔女がやったんだろう、って俺は思った。最初からあいつは信用できなかった。あいつの目は、いつも何かをあざ笑っているように思えてた。あいつに関わるなら、踊らされてる可能性を考えなくちゃならない。あいつはそういう奴だと、俺は思ってる」

「うん、僕もそう思う」

 百合乃のことを考えれば、モルガーナがそういう奴なんだろうということは僕にも理解できる。

 でももう、僕はエリキシルソーサラーになってるんだ。もしエリキシルバトルの主催者がモルガーナなのだとしたら、もう僕はあいつから逃げていることはできない。

 ショージさんの射貫くような視線を、僕は逸らさずに射貫き返す。

「まぁ、リーリエがある限りは、お前はあいつのことを忘れられないだろうとは思うがな」

 睨んできていた目におそらくモルガーナに向けてだろう怒りを込めて逸らしたショージさん。

 おそらくショージさんもまた、彼女に恨みを持ち続けてるんだろうと思う。

「言うべきかどうか迷ってはいたんだが、お前はあいつへの気持ちを乗り越えて行かなければ先に進めないだろう。……魔女のいまの居場所がわかった」

「本当に?!」

 思わずコーヒーをこぼしそうになりながらも、ショージさんに詰め寄っていた。

「出現場所がわかっただけで、接触できるかどうかはわからんぞ?」

「どこなの? それは」

 早く情報がほしくてつかみかかりそうな気持ちになってる僕を抑えるように、ショージさんは冷めてきたコーヒーを飲み干してから言った。

「あいつはエイナの側にいる。いまツアーで回ってるエイナのライブ、あるだろ?」

「うん。全国ツアーのだったよね」

「あぁ。それに魔女が同行してる。あれはスフィアロボティクスのプロモーションも兼ねてるから、各地のスフィアドール関係者とか出資者にチケットが配布されてたりするんだが、先週の大阪ライブのときに偶然うちの大阪支社の奴が撮った写真に、あいつが写ってた」

 胸ポケットから取り出した携帯端末を見せてくれるショージさん。

 そこに写っているのは、スタッフカーに乗り込もうとしている笑顔のエイナ、いやエイナが操ってるだろうエルフドールと、幾人かのスタッフや車を取り囲むファンの連中。

 それから顔は切れてるものの、車の後部座席に座ってる女性の、笑みの形につり上げられている紅い唇。

「モルガーナだ」

「あぁ。顔は切れて写ってないが、俺もそうだと思う」

「リーリエ、次のエイナのライブ会場の場所と会場図を」

『うん、待っててね』

 頭に被ったままだったスマートギアのディスプレイを下ろして、僕はリーリエに検索してもらった情報を見る。

「無理だぜ。そこの会場であいつと会うのは」

 次回のライブ会場は中野のニューサンプラザ。

 旧中野サンプラザ近くに建てられたそこは、イベント会場にもなっている場所だった。

「ここって……」

「だから言ったろう。チケットでもないとそこに入り込むのは無理だ」

 リーリエがネットの海から探してきた会場図や情報。

 モルガーナに会えるとしたら控え室に行くしかなさそうだったけど、そこに至るためには地下にある会場にチケットを持って中に入って舞台裏に入り込むか、一般向けとは違う階層にある関係者専用の駐車場から入るしかなさそうに見えた。

 地上階にある関係者専用の入り口は、警備員もいる上、セキュリティカードを持っていないと開かないゲートが設置されている。

「チケットは持ってないの? 関連企業には配られてるんでしょ?」

「残念ながら俺の会社に回ってきた分は、大阪の奴らで使い切っちまった」

「リーリエ。エイナの東京ライブのチケットが入手できないかどうか検索」

 すぐさまリーリエに指示を飛ばすけど、返ってきたのは旗色の悪い返事だった。

『うぅーん。チケットは完売。オークションとかも見てみたけど、ぜんぜんないよ』

「無理だろ。人気だからな。一般チケットは全席発売一分後には完売だ。ダフ屋規制が厳しくて、オークションにも出回りゃしない」

 ディスプレイを跳ね上げて、指を噛みながら僕は方法を考える。

 せっかくモルガーナと会える場所がわかったのに、方法がないんじゃどうしようもない。

「そんなに会いたいなら俺の方で誰か持ってる奴がいないか当たってみるが、難しいと思うぞ? 社内でも誰が行くかでもめるくらいだからな」

「僕は僕で方法を考えてみるよ」

「俺としちゃあ、あいつにはあんまり関わってほしくないがな」

 僕にカップを押しつけるようにして立ち上がったショージさんは、「気をつけろよ」と言い残して部屋から出て行った。

 僕にはもうその言葉は聞こえていない。

 ただひたすらに、魔女と会うための方法を考えていた。

 



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第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第三章 4

       * 4 *

 

 ひとつ大あくびをして、僕は体育座りをしている身体をさらに小さくする。

 ニクラス合同の体育の授業ではサッカーの試合が行われていたが、僕は校庭の端のベンチで体調不良を理由に見学だ。

 こんな寒い中、汗をかくようなことをするなんて風邪を引いて当然のこと。莫迦らしくてやっていられない。

 校庭を半分に分けるように張られたネットの向こうでは、女子が元気良さそうにバレーボールに興じていたが、僕がそちらに目を向けることもない。

 動かなければ動かないで寒くて、ベンチに座って身体を縮込ませているだけだった。

 どうせ僕の運動神経はたいしたことがないから、とくに文句を言われることもないし、見学はいつものことだったから体育教師も文句のひと言だけで済んでいた。

「何してんのよ、克樹」

 そんなことを言いながら近づいてきたのは、夏姫。

 ジャージの上だけを羽織って下はショートパンツの彼女の生足は、それはそれで見栄えがいい。

「うん、悪くない」

「まったく、相変わらずあんたは!」

 文句を言いながらも、夏姫はベンチの僕の隣に座る。

「僕は体調不良で見学だ」

「どうせ仮病でしょう?」

 ショージさんに話を聞いてから、ひと晩中エイナのライブチケットを入手する方法がないか探していてほとんど寝ていないから、眠くて仕方ないって意味では体調が悪いというのは確かだったが、あえてそのことは言わなかった。

「夏姫こそ何やってるんだ。見学じゃないだろ」

 どうやら七チームか八チームあるらしく、女子の方を見ると他にも試合待ちらしい奴がいるのが見えた。

 ――だからって、僕のところに来ることはないだろ。

 そう思いながらもちらりと夏姫の方を見てみると、真剣な顔で考え事をしてるらしかった。

「ねぇ克樹。あんたのさっきみたいなのって、ジェスチャーなの?」

「ジェスチャー? なんだよ。僕は単純に女の子が好き――」

「百合乃ちゃんのこと、聞いたの」

 僕の言葉を遮って言った夏姫が、いつになく真面目な目をして僕のことを見つめてきていた。

「いったい誰から……」

「明美から。もし克樹の側にいるつもりだったら、って言って教えてくれたの」

「ったく、あいつ、口が軽いな」

 夏姫と遠坂が知り合いだったとは知らなかったし、遠坂にとくに口止めをしたことはなかったが、しておけばよかったと今更ながらに思う。

「あんたが女の子にあぁいうことを言うのは、女の子に男が怖いものだって教えるためだろう、って明美は言ってたよ」

「さぁね」

 夏姫の視線から逸らして明後日の方向に顔を向ける。

「昨日の夜、三人目の被害者が出たのは、知ってる?」

「あぁ」

 どうやら通り魔はもう一度僕を狙ってきたりはしなかったらしい。

 学校の最寄り駅近くの中型家電店から出てきた会社員の男性が、帰り道に襲われていた。

 前の事件と同じように荷物が奪われ、壊されたピクシードールも発見されていたし、荷物を奪われまいと抵抗したときに殴られて会社員は軽い怪我をしたと、チケットを探す傍らリーリエが見つけたニュース速報を教えてくれた。

 通り魔が何を考えているのかはわからなかったが、エリキシルスフィア探しを諦める気がないことだけは確かだった。

「アタシは、やっぱり許せない」

 強い怒りを込めた瞳で、夏姫は言う。

「もしかしたら次はアタシの知り合いが襲われるかも知れないし、最悪大怪我をすることもあるかも知れない。そう思ったら、通り魔のことが許せないよ」

「……」

「これ以上被害者を増やさないためには、そいつのエリキシルスフィアを奪うしかないと思う」

 やめておけ、と言おうと思ったが、口からその言葉は出てこなかった。

 夏姫は夏姫の考えで、どうにかしようと考えてる。それを止める権利は僕にはない。

「いまのまま犯行を重ねれば近いうちに警察だって犯人に気づくだろ。警察だって無能じゃない……、とは言わないが、まぁあんまり危ないことはするなよ」

 百合乃を誘拐した犯人は、未だに捕まっていない。そのことを考えたら警察の捜査能力に疑問を覚えなくもなかったが、何度も犯行を重ねればいつかは捕まるだろうと思えた。

 それに夏姫が動いて犯人の標的にされるようになったら、彼女の方が危険だろう。

「明日にはパーツが届いたって連絡がPCWからあったの。週末には取りに行く。その後はアタシ、通り魔を探すよ」

 何でわざわざ僕にそんなことを言うのか、と思うが、こいつはもしかしたら僕の性格を把握しつつあるのかも知れない。

「――」

 夏姫に何かを言おうと思って口を開いたが、なんて言っていいのかわからなかった。

 ――まったく、僕に心配なんてさせるなよ。

 じっと見つめてくる夏姫に心の中で文句を言いつつ、僕は考え始めていた。

 もう少し、通り魔の正体について調べてみようと。

 

         *

 

 何かを考え始めたらしい克樹の様子を、夏姫はじっと見つめていた。

 ――こういうときは、悪くないんだけどな。

 顔はこちらに向けてきつつ、視線はどこかを彷徨わせている。

 PCWでヒルデを直すかどうか迷っていたときに見せてくれた瞳も、その後エリキシルバトルについて話してくれたときの瞳も、考え事をしてる様子のいまの瞳も、真面目なときの克樹の瞳は決して嫌いではなかった。

 ――いまなら、訊いてもいいかな?

 明美から聞いた百合乃の話。

 アリシアのソーサラーであったという百合乃は、いまの克樹にとってリーリエのような存在であったのではないかと思う。

 亡くなってしまった百合乃のことを想って克樹はエリキシルバトルに参加したのではないか、と夏姫は考えていた。

「克樹はもしかして、百合乃ちゃんの復活を願って、エリキシルバトルに参加したの?」

 強い瞳で睨まれた。

 触れてほしくない話題だろうことはわかっていた。

 でも夏姫は、克樹がどんな願いを持ってエリキシルバトルに参加したのか、知りたかった。

「どこまで話したんだ、あいつは」

 ひとつ舌打ちして、苦々しそうな表情を浮かべる克樹。

「もし、もしそういうことだったら、アタシは克樹のこと、手伝うよ。アタシだってママを生き返らせたいから、もしエリクサーを手に入れられるのがひとりだけなんだったとしたら、最後は戦うことになるかも知れないけど……、でもそれまでは、アタシは――」

「違う」

「え?」

 少し怒ったような瞳をしつつも、克樹は言う。

「僕が願っているのはあいつの復活なんかじゃない」

「じゃあなんで?」

「……僕は百合乃と別れを済ませてる。僕はもしあいつが復活させられるとしても、それを願ったりはしない。僕はもう、あいつの死を受け入れてるんだ」

「だったらじゃあ、リーリエちゃんは、何なの?」

 罵声が飛び出しそうな表情をしつつも、克樹はそれを押し殺したような声で言った。

「リーリエは百合乃の脳の情報からつくった人工個性だ。たぶん、エイナと同じ」

「エイナと、同じ?」

「あぁ。エイナをつくったのは、百合乃の脳の情報を取り出したのと同じ、魔女だ。エイナがエリキシルバトルの招待に現れたのも、そういうことなんだと思う」

 魔女という言葉は少し前にも聞いていたが、よくわからなかった。

 克樹にとって、いま浮かべてる強い怒りを覚える対象だということだけはわかった。

「それにリーリエには弱点がある。だから僕はあまりバトルに参加したいとは思ってない」

「弱点なんてあるの?」

「リーリエの本体は僕の家にある。リーリエがアリシアを動かすためには、ネット回線が必要だ。それもかなり膨大な通信帯域が必要だから、モバイル回線一本じゃ足りなくて、外で動かすためには最低で三回線を束ねて動かしてる。開放空間なら山の中にでも行かない限りは大丈夫だけど、地下とか建物の奥とか電波が遮られる場所では、僕は戦えない」

「……そっか」

 いまどき携帯端末に電波が届かない場所というのはほとんどないと言って良かったが、学校では授業中、校内ネット以外は遮断されるし、確かに地下街や建物の中では電波が届かない場所もあった。

「よかったの? そんなことアタシに話して」

「リーリエとの約束を破るような奴じゃないだろ? 夏姫は」

 微かな笑みを浮かべて言う克樹は、おそらく信頼してくれているんだろうと思う。

 その信頼に応えるためにも、リーリエとした再戦の約束を果たすためにも、弱点を突いた戦いをしたいとは夏姫には思えなかった。

「僕がオーナーで、ソーサラーじゃないってことを知ってる奴ならわかることだしな」

「えー」

 信頼してくれているというのは勘違いだったのか、とも思ったけれど、唇を尖らせた夏姫の顔を見る克樹が浮かべた笑みは、信頼を否定するものではなかった。

「なんだよふたりとも。こんなところでイチャついてるんじゃないぜ」

「せっかく愛の語らいをしてるんだから邪魔するなよ、近藤」

「違う!」

 不意に現れた近藤がにやけた笑みを浮かべているのに、夏姫は恨みを込めた視線を投げかけていた。

「それより呼んでるぞ、あっち」

 言われて見てみると、試合が終わったのか、自分を手招きしている人が見えた。

「ごめーん、すぐいくー!」

 大きな声で謝りつつ、夏姫はベンチから立ち上がる。

 挨拶するように手を上げた克樹に笑みを見せてから、夏姫は待っている女子の方に走り出した。

 



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第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第三章 5

       * 5 *

 

「いったいどういう風の吹き回しだ、克樹。日を置かずお前が直接顔を見せるなんて」

「別にいいだろ」

 バックヤードの作業台の上に置いたアリシアにパーツを組み付け終えて、新しくつくってもらったソフトアーマーとハードアーマーの装着も終わっていた。

 ネットでの取引が多いから大丈夫なんだろうけど、僕の他に客がいないのか、バックヤードに姿を見せたPCWの親父は僕のことを珍獣を見るかのような目を向けてくる。

 注文していた残りの第五世代パーツが届いたということで、僕は学校が終わってすぐにアリシアを取りに帰って、急いでPCWを訪れていた。

「リーリエ、アリシアとリンク。動かしてみてくれ」

『うん』

 デザインはいままでとあまり大きく変わらないが、新しく手に入った素材でつくったソフトアーマーとハードアーマーはかなり防御力も上がっているはずだ。さらにヒルデとの戦いを教訓にして、手甲については軽量な素材であるものの、金属製のものに急遽変更してもらっていた。

 曖昧な注文だったのに、使用するパーツからサイズを計算してつくる親父の腕も相変わらず凄まじい。装着には少し苦労するけど合い具合は完璧で、新しいパーツを組み付けているのに、ストレッチのような動きをしているアリシアの動きには全く無理がない。

 フルオーダーにしろセミオーダーにしろ、ピクシードールのアーマーをつくらせたら親父の右に出る人は、日本中を探してもいないだろう。

 この後は家に帰ってからリーリエにいつも通りのベンチテストをやらせて、人工筋とフレームのポテンシャルを確認する作業がある。

 ――これでやっと、あの通り魔と対抗できるか、な?

 たぶんあのときはまだ本領を発揮していなかっただろう通り魔とどの程度戦えるかはわからなかったが、再戦を考えられる程度の準備は整った。

「あのお嬢ちゃんは今日は連れてこなかったのか」

「夏姫なら今日はバイトだってさ。週末に来るって言ってたよ」

 かなり選んではいるけど、手頃な価格で人気のある第五世代パーツを注文してる僕と違って、夏姫のFラインのパーツは在庫さえあればすぐに届く。

 どうやらもう早速完成間近らしいヒルデ用のアーマーも、バックヤードの棚に飾り付けられるように置いてあった。

「またバトルにでも参加するつもりか? お前は」

 訝しむように目を細める親父に、僕は適当に返事をしておく。

「まぁフルオート部門で参加するなら、リーリエを使えば圧勝だろうけどね」

 ピクシーバトルのフルオート部門の参加者は、熟練を必要とするフルコントロールよりもさらに少ない。

 フルコントロールのように練習でどうにかなるものじゃなく、フルオート用のシステムを組み上げなければならないのだから、その部門で参加するソーサラーは主に大学とかの学校関係か、開発能力の高い企業ばかりだ。

 その状況も、もう少しするとAHSのバトル向けバージョンがサービスとして提供されるという話もあるし、同種のフルオートソーサラー向けサービスは今後増えていくらしいから、変わっていく可能性のある状況だった。

「そのまま反復運動でデータを取っておいてくれ」

『わかったー』

 オンにしてあるスピーカーからの声に、僕はバックヤードから店の表へと出る。

 表に出たところに置いてあるディスプレイでは、僕の他にお客さんがいないからだろう、テレビの映像が流れていた。

 ちょうどCMが次のに移り、画面に現れたのはエイナだった。

 たぶんいつかのライブでの映像だろう。マイクを持たず、まるで本当の人間のような豊かな表情で、白とピンクに染め上げられたフリルの多い服を身につけて歌を歌うエイナ。

「本当にエイナは、……いや、リーリエちゃんとあの子は似ているな」

 カウンターに頬杖を突いて映像を見ながら、振り返ることなく親父は呟くように言う。

 元々僕がピクシードールを始めたきっかけは、百合乃だった。

 百合乃がほしがって父親が買い与えたのが最初で、僕がいじるようになって、スマートギアを使って百合乃がソーサラーとなってバトルに参加するようになって、よりよいパーツを求めてPCWに行き着いた。

 親父は百合乃のことを知っていたし、可愛がっていた。

 ――でもエイナは、誰の脳情報を使って生み出された人工個性なんだろう。

 もしエイナがリーリエと同じものだとしたら、エイナもまた人の脳情報を使って生み出されたものなのかも知れない。

 けど僕は、誰のものであるのか思い当たる人物がいなかった。

 新しいエイナのアルバムを宣伝するCMが終わり、画面が切り替わる。

「なぁ親父。ファイアスターターの回収状況っていま、見せてもらえる?」

「ファイアスターターの回収状況?」

 内蔵型ファイアスターター、ピクシードールに搭載するライターは、あるドールマニアが自主制作したものをPCWで取り扱っていた商品だ。

 小規模ながらある程度の数がつくられて、販売もされていた。

 でもあるとき一部のロットに腕のアーマーの下に内蔵する着火部と、腰か背中に取り付けるタンク部とを接続するチューブに品質の低いものが見つかり、ガス漏れを起こす可能性が判明したため、念のため親父が全回収することになったものだった。

 ピクシードールが手に持って使う外装型のライターならいまでも販売されてたりするけど、着火トリガーを内部機構に接続したタイプの内蔵式ファイアスターターは、僕の知る限りここで販売していたものしかないはずだった。

「一応顧客情報だ。軽々しく見せられるか」

「回収情報流すの、僕だって手伝ったじゃないか」

 舌打ちしながら、親父はレジの前の端末を空けてくれる。勝手知ったる他人の端末、という感じで必要な情報を表示して、僕はリストを上から下まで眺めていく。

 内蔵式ファイアスターターを販売していたのは二年半前から約一年間。回収情報を流すようになったのは販売中止から少し経ってから。

 販売数は五十四。回収数は四十九。未回収五個のうち四個は購入者が廃棄ということになっていた。

「ねぇ、この回収不能ってのは、何?」

「あぁ、そいつはピクシードールごと処分しちまって、状態不明の奴だ」

 購入者は隣県の女性らしい名前。椎名梨里香。

 ――あれ? この子って……。

「リーリエ、椎名梨里香って子の――」

「その必要もないだろ。お前だって知ってる子だ」

「え?」

 親父に言われて記憶を掘り返してみる。

 PCWで百合乃の他に僕が知る女の子。

 それほど記憶をほじくり返す必要もなく、思い出すことができていた。

「あぁ、あの子か」

 記憶から掘り出せたのは、二度ほど会ったことのある、落ち着いた感じの、僕と確か同い年の女の子だった。

 ずいぶん線の細い子で、見た目は美人な普通の女の子だったのに、この店で僕や百合乃とかなりハードなピクシードール話をしていた憶えがある。

 そして彼女は、隣県のスフィアカップのフルコントロール部門で優勝し、確か全国大会でも三回戦くらいまで行っていたような気がした。

 他に未回収のファイアスターターの所有者はひとりを除きかなり遠くに住んでいて、引っ越しでもしてきていなければ通り魔ではないと思われる。

 隣県に住んでる椎名さんのファイアスターターが何かの理由で使われたのだとしたら、今回の事件に符号しそうだった。

「なんでこれ、回収できてないの?」

「亡くなったんだ。一年ちょい前か。回収のために電話を掛けたときに両親が出てな、元々身体が弱かったんだそうだが、病気が悪化してそのままだったってよ」

「……そうなんだ。でも椎名さんの、――確かガーベラだったよね? ピクシードールは?」

「彼氏に形見として譲っちまって、その彼氏も引っ越しちまって連絡取ってないそうだ」

「そっか」

 亡くなっているなら、エリキシルソーサラーではあり得ない。

 元より椎名さんの身長は僕と同じくらいで、身長百八十センチ前後の通り魔にはなり得ない。

 ――じゃあやっぱり、犯人は……。

 廃棄により未回収の中には、平泉夫人の名前もあった。

 あの人はあの人で、こういう小物が好きな人だった。

 おそらくフルコントロールだろう操作方法と、背格好、ファイアスターターの所持の可能性と、夫人には符号する点が多すぎる。

「なぁ克樹。お前、何を始めたんだ?」

「何をって……。別にとくには」

 振り返って眉を顰めてる親父のことを見る。

 不審そうな目を向けてきている親父は、具体的な内容まではわかってなくても、感づいているだろう。

 急いで第五世代パーツを手配したことも、手甲のハードアーマーを金属製に変更したことも、先日と今日店に来たことも、それからファイアスターターのことを調べてることも。

 もう三年近く付き合いのある親父とは、どうもやりづらい。

「まぁいいけどな。でも気をつけろよ? お前だっていつ通り魔の被害者になるとも限らない。アリシアが壊されたら、リーリエちゃんが泣くだろ?」

「うん、気をつけるよ」

 バックヤードの作業台の上で屈伸運動を続けるリーリエをちらりと見て、僕は親父に向かって頷く。

 ――しかし、犯人は誰なんだ?

 エリクサーのためとは言え、夫人が犯人だとはあまり思えなかった。

 夫人以外の未回収のファイアスターターを所持している可能性のある人物が近くに転居してきたか、自分でファイアスターターをつくった人物が犯人かも知れなかったけど、それだと僕では犯人特定はお手上げだ。

 たぶん、エリキシルバトルを続けるからにはいつかは僕に再戦を挑んでくるだろうけど、それまでの間に誰かが、もしかしたら夏姫が襲われるかも知れないと考えたら、あまり想像したい事態じゃない。

 ――何か見落としはないか?

 そう考えながらも、思い付くものがない。

 エイナのライブチケットの件もあるし、やることが山積みだった。

 




●スマートギアなど舞台設定について

 ここまでお読みいただいている方はおわかりかと思いますが、神水戦姫の妖精譚(以下SDBL)の世界は近未来を舞台としております。
 年代的にはいまから10~20年ほど先の時代を想定しており、現在にはない様々なガジェットを登場させています。スフィアやスフィアドールについては物語の根幹となる秘密に関わる事柄になるためここでは語りませんが、舞台設定について少し語らせていただきます。

 スマートギアは、とくに克樹が使用しているものは現代でも存在し、大手家電メーカーが販売しているヘッドマウントディスプレイにヘッドホンを組み合わせた形状を想像していただければわかるかと。機能的にはヘッドマウントディスプレイ、ヘッドホンに加え、脳波を受信する機能を持ち、作中でも説明があった通り、マウスなどのポインター機能、応用してキーボード入力、使い慣れると声を出さずに通信相手と会話をする機能などを持ちます。形状は克樹が使用しているヘッドマウントディスプレイ型の他に、ユピテルオーネのソーサラーが使用していたヘルメット型、ショージが持っていた眼鏡型などが存在しています。
 ポインター以外の機能についてはあくまでアプリで実現しているもので、ポインターの拡張機能として位置づけられています。
 スマートギアのBCIデバイスはSDBL世界では割と一般的なデバイスであり、一番使用されているのは手のひらを置いてポインターやキーボード操作を行うBCIパッドです。使用には若干の慣れが必要であることもあり、普及と言える段階には至っておらず、趣味のインターフェイスとされています。
 スマートギアはよくSF世界に登場する脳や神経に情報を送信するニューラルデバイスとは異なり、映像は目を、音は耳を介するもので、現在のヘッドマウントディスプレイとニューラルデバイスの中間的な技術で製造されています。
 使用時の視界は、基本としては内蔵した外部カメラによる実視界にウィンドウが開かれる形となり、完全にディスプレイモードでの使用も可能です。一般的に認知されているデバイスでもあるため、SDBL世界の日本では公道上での使用については法律による制限があり、歩行時や車両での走行時の使用は禁止されています。
 実際のところ、現在でもポインター操作を使用するところまでのスマートギアはつくることができるかもしれませんが、キーボード操作や疑似発声ができるかどうか、どうやってスフィアドールをフルコントロールしているか、といった点については気にしてはなりません。そうした点については創作物ということで突っ込み無用です。

 他に携帯端末、据置端末といった言葉が登場していますが、SDBL世界ではコンピュータは現在のものと異なり、OSという概念が消滅しています。端末は契約により使用することができるようになる環境を呼び出すためのデバイスであり、携帯、据置に関係なく、生体認証を行った場所に自分の環境を呼び出して使用することができる世界となっています。

 スマートギアや携帯端末、据置端末については、割とわたしの書く現代もの(極近未来もの)では一般的に使用している設定で、他の物語でも同様の設定を使用していることがあります。


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第一部 第四章 モルガーナ
第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第四章 1


第四章 モルガーナ

 

       * 1 *

 

 今日は比較的暖かかったから、薄茶色のセーターと焦げ茶くらいのミニスカートに、白の冬用ジャケットを重ねていた。

 どうやらストッキングが好きらしい克樹のためではなかったが、黒のストッキングを履いた夏姫は、彼の家の玄関に立って呼び鈴を鳴らした。

 しばらく待っても、応答はない。

 晴れていれば気持ちよかっただろうが、薄曇りの日曜の昼に近い午前中、さすがに克樹も起きているかと思っていた夏姫だったけれど、どうやらまだ寝ているらしい。

 思えば彼は、学校と用事があるとき以外家に引き籠もっていることが多いと、彼自身言っていた。休日ともなれば生活がだらしなくなって昼まで寝ているのかも知れなかった。

「むー。どうしよ」

 まだ充分に時間があったが、今日はPCWにヒルデのパーツを取りに行くついでに、明美のドールのパーツを見に行く予定で、駅で待ち合わせていた。

 どうせならば克樹も一緒に、と思っていたが、当てが外れてしまったかも知れない。

「そうだ」

 ふと克樹の叔父の家に行ったときのことを思い出した。

「ねぇ、リーリエ、いる?」

『何? 夏姫。おにぃちゃんなら寝てるよ』

 彰次の家でもそうだったらしいが、リーリエもまた玄関カメラに接続されているようだった。

「まだ寝てるの? あいつ。日曜だからって何してんのよ、まったく」

『昨日も遅くまで起きてたからね。でももうすぐ起きる時間だけど』

「だったら入れてよ。外だと寒いんだもん」

『むー』

 不満そうなうなり声を出しながらも、カチャリという音がして玄関の鍵が解除された。

「お邪魔します」

 密やかな声をかけながら、夏姫は玄関で靴を脱いで、二階にある克樹の部屋へと向かった。

 前に入れてもらった部屋の前に立ってノブを回そうとしたとき、頭の上から声が降ってきた。

『そっちは作業室。寝室は隣だよ』

「なにあいつ、寝る部屋は別なの?」

 広い家だとは感じていたが、この前連れ込まれた部屋には机と棚くらいしかなかったからどこで寝ているのかと思っていた。まさか寝室があるとは想像もしていなかった。

 何となく罪悪感を覚えつつも、夏姫はあまり音を立てないようにしながら寝室のノブを回して扉を開けた。

 機能性重視とでも言えばいいだろうか。家具はほとんどなく、収納はクローゼットくらいの部屋の真ん中で、キングサイズのベッドの上の克樹は安らかな寝息を立てていた。

 起こすべきか、と思ったけれど、とりあえず近づいていって、ベッドに腰を下ろす。

 意外に寝相がいいらしい克樹は、布団の乱れもとくになく、いつもとは違う子供のような顔で眠り続けていた。

 少し長めでクセの強い髪。運動をあまりしていないからなのか、布団から出ている右手は女の子でも珍しいくらいの細くて長い綺麗な指をしていた。

 ――こいつ、けっこう睫毛長いんだな。

 よく見てみると、閉じられた克樹の睫毛は女の子のそれのような長さをしていた。

 ふてくされていたり顰めていたりしないあどけない表情の克樹は、こうして見ると意外に可愛らしく思えた。

「こら、起きろ」

 頬を軽くつついてやると、くすぐったいのか寝たままで頬を掻く。

「ふふっ」

 面白くなって、夏姫は左右の頬を交互につつく。それにあわせて克樹が頬を掻いたり、夏姫の指をどけようとしたりする。

『もうっ! 何やってるの? あたしのおにぃちゃんに触らないで!』

「少しくらいいいじゃない。アタシだって、こいつにいろんなところ触られたし、見られたりしたんだから」

 文句を言うリーリエに、夏姫は天井辺りにありそうなスピーカーに向かって文句を言い返す。

「……ねぇ、リーリエ」

『なぁに? 夏姫』

 さらに言おうとした文句を飲み込んで、夏姫はリーリエに訊いてみる。

「リーリエにとって、克樹って、どんな人?」

 言ってからなんでそんなことを訊いてみたんだろうと思う。

 人工個性がどんなものなのかはわからなかったが、人間ではないリーリエにそんなことを訊いても、思ってるような返事があるはずがない。

 ――でも、リーリエだったら、どうなんだろう?

 作詞作曲を手がけると言う、まるで人間のようなエイナと同じなのだとしたら、リーリエにも心があるのかも知れないと思っていた。

『んーーーーっ。あたしにとっておにぃちゃんは、あたしをつくってくれた人で、あたしを大切にしてくれる人で、それから、いつも一緒にいてくれる人、かな?』

「――うん」

 姿がなく、声だけがするリーリエの返事に、夏姫は内心驚いていた。

 本当に克樹の妹のような、そんな気さえする言葉だった。

『でもおにぃちゃんって、けっこう寂しがり屋だし、ちょっとだけど、頼りないところもあるんだよねぇ』

「克樹が、寂しがり屋で、頼りない?」

 思い返してみても、彼にそんなところがあるようには思えなかった。情けないところなら、いくらでもありそうだったが。

『うん。あたしがいつも側にいるから滅多にないけど、ひとりでいるのは嫌いみたい』

「へぇー」

 意外なように思えた。

 学校では孤立しているらしい克樹に、そんな一面があるなんてことは、まだ短い間の付き合いでは想像することすらできなかった。

 あんな風に突っ張っていられるのは、いつもリーリエとつながっているからだろうか、と思ってしまう。

 こんなに話していてもあどけない寝顔で眠り続けている克樹の顔を見てみる。

 安心し切った顔で眠っていられるのも、リーリエがいるからなのだろうか。

 胸に手を当てた夏姫は、もうひとつ、胸の中に訊きたいことがあることに気がついた。

 言おうかどうしようか迷って、思い切って口にする。

「ねぇ、リーリエ。リーリエは、克樹のことが、好き、なの?」

 姿がないから問われたリーリエがどんな顔をしているのかはわからない。アリシアがここにあればそれがわかったのかも知れないが、考え込んででもいるのか、少しの間返事はなかった。

『好き、だよ。あたしは、おにぃちゃんのことが好き。大好き。おにぃちゃんが望んでることがあるなら、それがあたしにできることなら、どんなことでもしたいと思ってる。でも……、でもね? おにぃちゃんの心の中にはいまでも――』

 そこまで言って、リーリエは突然言葉を切る。

『あ、起きるよ。夏姫、離れて』

「え?」

 リーリエが言った瞬間、ベッドのヘッドボードに置いてあった目覚まし時計が鳴り始めた。

 ぱちりと目を開けた克樹の右手が、素早く動いた。

「ひっ」

 声にならない悲鳴を上げて、夏姫はこれ以上ないくらい身体を強ばらせる。

 枕の下に入れられた右手が伸びてきたと思った瞬間、夏姫の首筋に冷たいものが押し当てられていた。

 鋭利な感触のあるそれは、おそらくナイフ。

 そして克樹が夏姫に向けてくる視線は、ナイフよりも鋭く突き刺さってくるものだった。

「……なんだ、夏姫か」

 今度はちゃんと目を覚ましたらしい克樹が、右手を首筋から離して慣れた手つきで折りたたみナイフの刃を収納する。何事もなかったのかのように大あくびをしながら目覚まし時計のアラームを止め、身体を起こした。

「な、何するのよ!」

 緊張が解けた夏姫は思わずベッドからずり落ちつつ、克樹に文句の言葉を浴びせる。

「人が寝てるときにいたずらするのが悪い」

 ぱっと見た限り板ガムくらいにしか見えないサイズだったが、克樹の右手にあるものは確かにナイフだった。

「いったいなんでそんなもの持ってるのよ」

「気にするな」

 いつになく強い視線で言われて、夏姫はそれ以上聞けずに押し黙る。

「リーリエ。チケットは?」

『ダメ。やっぱり見つからないよ』

「そうか。じゃあ直接行ってどうにかするしかないか……」

 真剣な顔をして考え込んでる様子の克樹の顔から、おそらく何かをしようとしていることだけはわかった。

「それで夏姫は……。まぁいいか」

 腕を組んで考え込んでいた克樹が夏姫の方を見たと思ったら、顔を見ているわけではなさそうだった。

「莫迦! どこ見てんのよっ」

「いや、見せてくれてるのかと思って」

 尻餅をついた格好のままだったことに気づいて、夏姫はスカートの中が見えないように座り直す。

 ――まったく、さっきはあんなに可愛かったのにっ!

 いつも通りの克樹の様子に文句を言いたくなるものの、でも少し安心する。

 ナイフを突きつけてきていたときの克樹は、本当に人を殺しそうな表情をしていたから。

「リーリエ。勝手に知らない人を家に入れるな」

『だって夏姫が外寒いって言うからー』

「誰が知らない人だってぇ?」

「それはともかく、夏姫は何しに来たんだ」

 言葉を制するように言われて、さらに言い返してやろうとした言葉を飲み込む。

「今日、PCWにヒルデのパーツを取りに行くついでに、明美のドールの人工筋が劣化してるって言うから、一緒に行く予定なの」

「遠坂のドールか……。あいつのは第四世代中期の安物ピクシーだから、PCWじゃ取り寄せないとパーツないぞ。買うんだったら秋葉原駅前の大型量販店の方が安いし、ドールを持っていけば案内してくれる」

「そうなんだ」

 立ち上がって居住まいを直してから、また何か考え込み始めたらしい克樹に、思い切って言ってみる。

「……あ、あのね、克樹も一緒にどうかな、って」

「今日は用事がある」

 一瞥をくれただけでとりつく島もない返事。

「あっそ」

 夏姫のことを気にしている様子のない克樹に、頬を膨らませながら背を向けた。

「あんまり遅い時間にならないように気をつけろよ」

 言われて振り向くと、顔こそ向けてきていなかったが、目だけは夏姫のことを見ていた。

「心配してくれるの?」

「うるさいっ」

 恥ずかしがってでもいるのか、そっぽを向く克樹に思わず笑ってしまいそうになる。

 ――本当はたぶん、いいお兄ちゃんなんだろうな。

 百合乃の前ではちゃんとお兄ちゃんをしていたという克樹。

 自分のことを心配してくれる様子もそれに近いもののような気がして、何故か少し複雑なものが胸にわだかまるけれど、嬉しかった。

「もし何かあったら連絡するから、そのときは助けに来てね」

 克樹の連絡先は携帯端末に登録済み。

 そんなことにはならない方がいいと思いつつも、そっぽを向いたままの克樹にそう言って、夏姫は部屋を後にした。

 

 

『何しに来たの? 夏姫は。おにぃちゃんをデートにでも誘いに来たの? もうっ』

 文句を言い続けるリーリエの声を聞き流しつつ、僕はベッドから出て服に着替える。

 どうにかエイナのライブチケットが手に入らないかと思って今日までいろいろ手を尽くしてみたけど、方法は見つからなかった。

 ショージさんからも連絡はなく、どうやら空振りだったらしい。

 エイナのライブツアーは今日がファイナルステージ。今日を逃すと次のツアーでもモルガーナが同行するとは限らないから、ラストチャンスと言えた。

 ――仕方ない。行ってどうにかするしかないか。

 少し強引な手段でもいいからモルガーナと会う機会さえつくれれば、と思う。

 会って何ができるかというのは疑問だったけど、会わなければ始まらないのも確かだった。

 着替えを終えて寝室を出た僕は作業室に入る。

 スマートギアを被って夕方のライブまでにまだできることがないかと考え始めたとき、音声着信の音が鳴り響いた。

「……はい」

『起きていてくれたわね、克樹君』

 通話の相手は平泉夫人。

 もしかしたら通り魔かも知れない彼女。

『今日これから時間はあるかしら? あまり時間は取らせないと思うのだけど』

 音声だけだからどんな表情をして言っているのかはわからない。

 でもこのタイミングでの誘いを、僕は断ることはできなかった。

「夕方からは用事がありますから、その前までになりますが」

『えぇ。それで構わないわ。それじゃあ早めに来てね』

 通話終了の表示に切り替わって、ウィンドウが消える。

 ――いったいどんな用事なんだ?

 あえて訊かなかった用件。

 けれどもしかしたらいまの問題のひとつは解決する可能性があった。

「リーリエ、ベンチテストは?」

『終わってるよ』

 PCWでパーツを組み込んでから連日やっていた各パーツのベンチテスト。アライズしてのテストをやってる時間はなかったけど、ひと通りの情報は揃っていた。

 ――平泉夫人と戦って、勝てるのか?

 射撃戦から武器を使った白兵戦、格闘戦に至るまであらゆる戦闘をフルコントロールで使いこなす夫人は、百合乃がいたときでもかろうじて勝てたという感じだった。

 彼女もまた第五世代パーツに交換を終えていて、彼女が手に入れうる最高のパーツを使っているのだとしたら、リーリエをもってしても苦戦するのは必至だった。

 ――そもそもそういう用件なのか?

 平泉夫人が通り魔と決まったわけじゃない。

 でも、警戒するに越したことはない。

 デイパックにハードケースに収納したアリシアの他に、僕はいつもは持ち歩かないいくつもの装備を突っ込んでいた。

 



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第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第四章 2

       * 2 *

 

「どうぞ」

 ショージさんのところにいたエルフドールではなく、本物のメイドが淹れてくれた紅茶をひと口すするようにして飲む。

 こっちが緊張しているのに対して、余裕の笑みを浮かべている平泉夫人は、メイドが一礼して部屋を出た後、口を開いた。

「さて克樹君。今日呼んだのは、貴方がいまやっていることについて訊きたかったからよ」

 口元は笑みの形をしていたけど、その黒真珠のような瞳に宿っているのは、僕の心の奥底を見透かしてくるような光。

 応接室ではなく、執務室に通されてそこの応接セットのソファに座った僕は、これからバトルが始まるかも知れない可能性を頭の隅に置きつつ、夫人と対峙する。

「僕がやっていること?」

「えぇ。貴方はいま、エリキシルソーサラーなのね」

 前置きもなくそう言われて、僕はデイパックのポケットに手を伸ばしそうになる。

「待って、克樹君。違う、違うのよ」

 釈明の言葉を口にしつつも笑みを浮かべたままの夫人は、傍らに置いたハンドバッグに手を入れる。

 そこから取り出されてきたのは、一枚のカードだった。

 ローテーブルに置かれたそれを見て、僕は反射的に手を伸ばしていた。

「訊きたいことがあると、言ったでしょう?」

 僕が手を触れるよりも先に、夫人はカードを手元に引き寄せてしまう。

 そのカードはエイナのライブチケット。認証カードになっているそれには、一般向けのものではなくて、特別招待という文字が躍っていた。

「どうして貴女がこれを?」

「克樹君が探してると聞いたのよ。それから私は、スフィアロボティクスと、ヒューマニティパートナーテックの株主でもあるのよ」

 ――そういう繋がりもあるのか。

 あんまりに都合が良すぎるかも知れないけど、自分の趣味を兼ねつつも、成長分野であるスフィアドール関連企業に出資を行っているというのは、前に聞いたことがあった。

 特別鑑賞用チケットは業界関係者と、出資者向けに配布されていると、ショージさんも言っていた。たぶんショージさんが話を回してくれたんだと思うけど、夫人が持っているなんて僕は想像もしていなかった。

 ――そして夫人は、エリキシルバトルのことも知っている。

 エリキシルバトルのことを口にしつつも、チケットをちらつかせる夫人の思惑が、僕にはわからなかった。

「何のために、このチケットがほしいの?」

「……魔女に、モルガーナに会うためです」

 夫人をごまかすことなんて僕にできようはずもない。

 正直に、僕は僕の目的を話す。

「その魔女が、貴方の仇?」

 穏やかな口調なのに、怒っているかのような強い夫人の視線が、僕に突き刺さってくる。

「いいえ、違います。でもたぶん、関係しているんだと思います。どんな風に関係してるかまでは、わかりませんが……。そしてモルガーナは、エリキシルバトルの主催者なんだと、僕は思っています」

 僕の言葉に、夫人は突き刺さるような視線を逸らしつつ、少し考え込む。

 わずかに目を細め、珍しく眉根にシワを寄せている夫人は、どんなことを考えているんだろうか。

「なるほど、ね。いままで見えてこなかったところが、少し見えてきたわ」

「いったいどういう――」

「私も、会ったのよ、エイナに。そしてエリキシルバトルに誘われたわ」

 笑みを浮かべて、でも少し悲しそうな目をして、夫人は言う。

「エイナは言ったわ。例え焼かれて灰になって地に帰っていても、エリクサーがあればあの人は生き返ることができると」

「じゃあやっぱり貴女があの――」

「でも、私は参加しなかったの」

 デイパックから取り出したスマートギアを被ろうとした手が止まる。

「……なんで、ですか?」

 まだ微かに湯気の立つ紅茶をひと口飲んで、夫人は悲しそうな笑みを浮かべた。

「貴方の願いは、なんとなく想像がつくわ。それを訊く資格は、エリキシルバトルに参加しなかった私には権利はないけれど、あまりお勧めはしないわよ? そして私は、大人なのよ。あの人に生き返ってほしい。最愛の人にもっと側にいてほしい。そう思うけれど、死んだ人が生き返って良いことなんて、ほとんどないの。混乱と面倒が増えていくばかり。それを乗り越えてやっていくほどの元気は、もう私にはないのよ」

 旦那さんが亡くなってから、夫人はどれくらいの苦労をしてきたんだろう。

 両家の実家に反対されていた結婚をし、旦那さんを失った後、彼女はどれくらいの苦労を重ねて来たのかは、僕なんかじゃ欠片だって思い浮かべることはできなかった。

 いつもは若く見える夫人が、いまは年相応の、疲れた笑みを浮かべていた。

「もしかしたらだけど、克樹君。エリキシルバトルだけじゃなく、スフィアも、エイナも、スマートギアですらも、誰かによって仕組まれたものなのかも知れないの」

「スマートギアも?」

「えぇ。スマートギアが発売されたのは十年前、スフィアロボティクスとは全く関係のない会社からだったし、技術そのものは昔からあるものの発展型だったのよ。でもいまの形のスマートギアが登場したのはスフィアドールが発表されたのとほとんど同時で、ステップを踏んで発展していくはずの技術のいくつかを、飛ばしているように見えるのよ」

 スマートギアは僕が小学校に入ってしばらく経った頃には当たり前のようにあったものだから、そんなこと気にしたこともなかった。

 スフィアについては前々から疑問に感じるところはあったけど、まさかスマートギアまでがモルガーナの仕込みである可能性があるなんて、気がつかなかった。

「私も魔女については噂くらいしか知らない。でもとても恐ろしい人だということだけはわかる。それでも、貴方は会わなければならないの?」

 本当に心から心配をしている目で、夫人は僕のことを見つめてくる。

「はい。それでも僕は、モルガーナに会わなければなりません」

 しっかりと夫人の目を見つめ返し、僕はハッキリと答えていた。

「……そう。それなら、仕方がないわね」

 チケットを手に取った夫人は、僕の隣までやってきて、手渡してくれる。

「くれぐれも気をつけなさい。魔女という呼び名は、おそらく伊達ではないのだと思うわ」

「わかっています」

「それと、もし魔女に踊らされている人がいるなら、貴方が目を覚まさせて上げなさい」

 どういう意図なのかはわからない夫人の言葉。

 でもたぶん、夫人は魔女に踊らされることを拒絶したんだと思った。

「行ってきなさい、克樹君。今日の分の貸しは、いつかちゃんと払ってもらうわよ」

「わかっています。行ってきます」

 まるで母親に送り出されるように応えて、僕は夫人の屋敷を後にする。

 いくつか思い付いた通り魔の検索要素をリーリエに指示しつつ、傾きつつある日差しの下を駅へと急いだ。

 



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第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第四章 3

       * 3 *

 

 会場は静かな熱気に包まれていた。

 埋め尽くされた四千人規模の、ライブ会場としてはけっこう大きいホールは、全席指定で立ち見の人はなく、曲の構成も激しいリズムのものは少ないため立っている人もいない。

 それでも一番外に近い通路を歩く僕は、何とも言えない圧力のようなものを感じていた。

 ステージではこの距離からじゃハッキリ見えないけど、エイナが操るエルフドールが立ち、その後ろの超大型モニターでは黒いステージ衣装を身に纏い、マイクを持たずにピンク色の飾り立てられた髪を揺らしながら、観客に笑顔を振りまく様子が映し出されていた。

『これから歌う曲は、わたしの大切な人の想いを綴ったものです。その人はある人への想いを抱き、けれど伝えることができず、……亡くなってしまいました。その人が残した想いと記憶は、わたしにとっても大切なものです』

 ――人工個性にとって大切な人って、いったいなんなんだ?

 注目を集めないように通路灯しか灯っていない中を足音を忍ばせて歩く僕は、耳に入ってくるエイナの言葉にそんなことを思う。

 人工個性であるエイナは開発、研究のために造られたものであって、好きな人への想いを語るような日常会話をするような相手がいるんだろうか。

 でもAHSの開発のためにリーリエのデータを解析してるショージさんから聞いたことがある。

 リーリエはネットで情報収集をしたり、データをまとめたりしてるときよりも、僕と話をしたりして人とやりとりしてるときの方が経験値は多く、擬似的な脳に流れる情報量も多いんだと言う。

 エイナもリーリエと同じタイプの人工個性なのだとしたら、経験を積むためにそうした日常会話を誰かとしているのかも知れない。

 またリーリエはその才能がないのか、やったことがないからわからないけど、曲をつくったり詩を書いたりすることはない。でもたまに指示をしてないのにも関わらず、幼稚なものだけど絵を描いたりしてることがあった。

 曲をつくったり詩を書いたりしてるのは本当は人間で、あの歌声の正体は誰だなんて話が絶えることのないエイナだけど、彼女の疑似空間に構築された脳は、確かに想いを持ち、それを歌に込めているのかも知れない。

 ――本当にエイナがモルガーナのつくった人工個性なら、だけど。

『わたしのオリジナルの新曲です。タイトルは「想いの彼方の貴方へ」。あの人が残した想いが、あの人の愛した人へ伝わることを祈りつつ、歌います。聴いてください』

 ――え?

 エイナと、目が合った気がした。

 ふと顔を向けたステージに立つエイナが、真っ直ぐに僕を見ている、気がした。

 そんなはずはない。

 たとえ暗視機能のあるエルフドールの目だったとしても、この距離で人を判別するのは簡単なことじゃない。

 あのとき僕の前に現れたのは確かにエイナの姿をしていたけど、エイナ本人とは限らない。通話用アバターとしてエイナの姿は販売されていたし、結局痕跡を見つけることはできなかったけど、通話ウィンドウから飛び出すなんてのは魔法を使わなくても、クラッキングでもスマートギアの中だけでなら可能だ。

 通話の相手が本当にエイナで、彼女が僕を知ってるなんてことはさすがに思ってない。

 落ち着いた感じのメロディが流れ始め、エイナがその透き通るような、そして伸びやかな声で歌い始める。

 伝えたいけれど言えなくて、伝わっていないけれどその距離が愛おしく感じている女性の歌。いつかは伝わってほしいと、伝えたいと願いながら、けれどもそのときどんな答えが返ってくるのか、関係がどうなってしまうのかが怖くて日々を過ごしている少し切ない歌詞に、観客からはため息が聞こえてくるような気がした。

 胸に染み込んでくる歌声に聞き惚れてしまいそうになりながらも、僕はステージ近くにある左右のスタッフ用出入り口に目を向ける。

 両方とも警備のスタッフが立っていたけど、右手の扉に立つスタッフはエイナの歌に聴き入ってしまっているように見えた。

 ――よし。

 会場のほとんどすべての人がステージに釘付けになる中を、僕は素早くその出入り口に向かう。気づかれないように扉を開けて、身体を滑り込ませた。

 扉一枚隔てただけなのに、エイナの歌声はほとんど聞こえなくなった。

 ちょっと惜しい気はしたけど、ステージの静かな熱気とは違う、騒がしさを感じる舞台裏に続く通路に立って、追ってくる人がいないのを確認してから移動を開始した。

 ――さて、どこに行ったらいいのか。

 無事侵入はできたけど、魔女のいる場所がわかってるわけでも、当てがあるわけでもない。

 ADの人が羽織っていそうな上着を着てきたからか、それとも何かトラブルでもあったのか、スーツだったりラフな格好だったりと統一感のない人々が雑多に置かれた機材や移動式の棚を避けて小走りに行き交う中を歩いても、僕を見とがめる人はいなかった。

 とりあえず矢印で示された控え室の方に来てみたけれど、芸能人の公演とは違うからか、磨りガラス越しに灯りが点いてたり点いていなかったりするのが見えるいくつもの扉には、誰用の部屋かの表示はなかった。

 手当たり次第に探すしかないか?

 そんなことを考えていたとき、さすがにスマートギアを被るわけにはいかずイヤホンマイクだけの僕の耳に、リーリエの声が響いた。

『なんかレーダーにヘンな反応があるよ』

「ヘンな反応?」

『うん。この前のエリキシルスフィアのときと違って、よくわかんない』

「距離は?」

『直線距離で四メートルくらい』

 部屋の中であることを考慮して、僕は灯りの点いてるひとつの部屋の前に立った。

 ――間違いだったりしないでくれよ。

 微かに人の気配がするような気がする部屋の扉に手をかけて、祈りながらも僕は開いた。

「誰ですか? 貴方は。この部屋には誰も入らないよう言っておいたはずです」

 部屋にふたりいた女性のうちひとりが、持ち込んだものだろう三面のモニターから顔を上げて鋭い言葉を投げかけてくる。

 小柄で眼鏡をかけ、地味なスーツを着たショートカットの女性は、僕に言葉以上の鋭い視線を向けてきていた。

「ここは社内の機密に関わる情報があります。例え会場スタッフと言えどここに入ることは許されません」

 言って僕を外に出そうと近づいてきた女性に声をかけたのは、もうひとりの女性だった。

「ごめんなさい。その子は私の客よ。言いそびれていたわね。席を外してもらえるかしら?」

 部屋の照明の光を吸収しているような漆黒の髪を揺らして顔を上げたその女性。

 穴が空いているような黒い瞳の周囲の白目は、それ自体が光を放っているかのごとく白く、笑みの形につり上げられた唇は、鮮やかな紅色をしていた。

 ――モルガーナ!

 叫び出したくなる気持ちをぐっと抑え込み、歯を食いしばる。

 ズボンのポケットの中にあるナイフに伸びそうになる手を、必死に抑える。

 SR社かエイナプロダクションの社員らしい小柄な女性は、僕とモルガーナに不審そうな目を交互に向けながらも、それ以上何も言わずに退室していった。

 改めて僕のことを見たモルガーナは、クツクツと喉の奥で笑い声を上げた後、言った。

「二年ぶりかしら? 音山克樹君。お元気そうでなにより」

「貴女こそ。魔女は相変わらずご健勝のようで」

 僕の皮肉を込めた挨拶を気にした風もなく、モルガーナはさらに笑みを深くする。

「さて、前置きはなしにしましょう。これでも私は忙しいのよ。でも私を見つけ出し、ここまでたどり着いた貴方には、ご褒美をあげないといけないわね。私に訊きたいことがあるのでしょう? 克樹君」

 椅子から立ち上がったモルガーナは、両手を広げながら笑みを浮かべる。

 その吐き気をもよおすような顔に思わず目を逸らしそうになるけど、僕はいまその人を欺く瞳と、真実を語らない言葉から逃げるわけにはいかない。

「さぁ、何でも訊いてみるといいわ」

「だったら――」

「でも、質問はひとつだけよ。そして私の口は、貴方の訊きたいことそのものを語るものではないわ」

「くっ」

 僕の言葉を遮るように続けられたモルガーナの声に、僕はうめき声を漏らしていた。

「ふふっ。貴方が質問する前に教えておいてあげるわ。エイナを造ったのは私よ。そして貴方の前に現れたのは、本物のエイナ。さらに私が造ったのはエイナだけではない。エリキシルスフィアを含む、すべてのスフィアコアは、私が提供しているのよ」

 サービスとでも言うつもりだろうか。でも余裕の笑みを浮かべているモルガーナの気まぐれのおかげで、訊きたいことの半分ほどは知ることができた。

「さぁ、克樹君。何が訊きたいのかしら?」

 残っている質問で、どうしても訊きたいことはふたつ。

 ひとつは通り魔の件について。

 たぶん僕は、犯人を特定できたと思う。

 でも確信はない。

 夫人の家を出た後、残っている要素を調べていてそうだろうと思う人物はわかったが、ひとつだけ要素が欠けていた。

 それからもうひとつは、モルガーナの目的。

 魔女と呼ばれる彼女は、僕が最初に出会った二年前と、それからショージさんと付き合いのあった十数年前と、話を突き合せてみた限り外見が全く変わった様子がない。

 若く見えるだけだという可能性もあったけど、彼女が魔女と呼ばれる由縁は、その外見もひとつの要素なのだと思う。

 外見が変わらない理由は、過去に彼女は一度、エリクサーを得ているんじゃないかと僕は考えていた。

 エリクサーを得てなおエリキシルバトルなんかを主催する真の理由を、僕は訊かなければならなかった。

「さぁ、どうするの?」

 喉の奥に笑い声を含ませながら、モルガーナは僕を見下ろしてくる。

「僕が……、僕が訊きたいのは――」

 迷い、口にすべき言葉を喉のところで選んでいるとき、胸元で振動を感じた。

 わずかに頷いたモルガーナに、僕は胸ポケットに入れておいた携帯端末を取り出し、音声着信の相手を確認する。

 表示されていた名前は、夏姫。

 嫌な予感がした。

 何かすごく嫌な予感が。

 モルガーナに視線を飛ばすと、彼女は何かを知っているかのように、凄みのある笑みを浮かべて大きく頷いた。

 壁の方を向いて、僕は応答ボタンをタッチした。

 



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第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第四章 4

       * 4 *

 

「今日はありがと」

「うぅん、こっちこそ」

 学校の最寄り駅のひとつ手前で降りた夏姫は、同じ駅で降りた明美に手を振って別れた。

 明るいうちに帰ってくるつもりだったのに、PCWでヒルデのパーツを受け取って組み付けて、明美と一緒にメンテナンスの方法まで教えてもらっているうちに時間が経ってしまった。

 明美のドールのパーツは大型量販店ですぐに購入することができたが、帰りしなにデパートで春物の服を少し見に行ってしまったのもあって、駅前の商店街はすっかり夜の帳が下りてしまっている。

 商店街のある通りから外れて、明美が街灯があるにせよ暗い道を歩いて行くのを見送って、夏姫も家に向かって歩き始めた。

 ――今日、あいつは何してたんだろ。

 せっかく家まで誘いに行ったというのに、買い物に着いてきてすらくれなかった克樹。

 重要な用事があるらしいことはわかっていたが、どんな用事なのかは聞いていなかった。

 ――魔女とか言う人のところかな?

 朝会ったとき、克樹は深刻そうな顔をしていた。

 克樹にあんな顔をさせる相手は、彼にとってそれだけ重要で、そして何か強い想いを向けている相手なのではないかと思った。

 エリキシルバトルの主催者だという魔女と呼ばれる人がどんな人で、どんな目的でバトルを開催したのかは気になっていたが、それについては何か因縁がありそうな克樹に任せることにしていた。

 ヒルデを持っていくのに選んだ大きめのショルダーバッグから克樹の叔父からもらった携帯端末を取り出し、夏姫は少し迷う。

 夜でも明るい商店街を行き交う人とすれ違いつつ歩きながら、克樹のことを思う。

 ――もうあいつ、用事終わってるかな?

 彼の家はここからそう遠くない。

 顔でも見に行って、また家まで送ってもらおうか、と考える。

 出掛けていてまだ帰っているかどうかわからなかったから電話でもして確認してみようと端末の画面をみたとき、見慣れないアイコンが画面の隅に現れていることに気がついた。

「なんだろ、これ」

 不吉な予感を覚えて、夏姫はタッチパネルを操作してアイコンの意味を調べる。

 ――これって……。

 刻々と変化する数字の意味を知って、振り向いたのとほとんど同時だった。

 鋭いブレーキ音が、少し離れた場所から聞こえてきた。

「明美!」

 そうだという確証はない。

 けれど夏姫は自分の胸の中にわき上がってきた予感のままに、いま来た道を走って戻って、明美の歩いて行った道へと入る。

 見えたのは道に対して斜めに止まっている車と、倒れている人影。

 それから、少し離れた場所に立ち尽くしているコートを着てフードを目深に被った背の高い人物。

「明美っ」

 今日一日一緒にいたのだから見間違うはずもない。

 倒れている明美の側に駆け寄り、抱き起こそうとした夏姫だったが、伸ばした手は止まってしまう。

 意識を失って倒れている彼女は、たぶん頭からだろう、血が出ていた。

 出血量はそれほど多くないように見えたが、どこを打ったのかがわからない。頭を強く打っているなら、ヘタに動かすことはできなかった。

「そっ、その子があいつとぶつかって倒れてきて……」

 車から降りてきた男の人が真っ青な顔をして言う。

「早く、救急車を!」

 言われて思い出したように運転手の男は携帯端末を取り出した。商店街の方からも人がやってきて、少し遠巻きにしながらも明美を気遣う声をかけてくる。

 ――たぶん、明美は大丈夫だ。

 アスファルトを濡らす血はあまり大きく広がっていない。息も安定している。頭を打っていたとしても、それほど強くないだろう。

 そう、思うことにした。

 心配だったが、それよりも強く夏姫の胸を満たしているもの。

 ――許せない! 絶対に、絶対に許せない!!

 振り向いた夏姫は、通り魔を睨みつける。

 呆然とするかのようにまだそこに立ち尽くしていた通り魔は、左肩にスポーツバッグのような鞄を提げ、それから右腕には明美のショルダーバッグを抱えていた。

 夏姫の視線を受けて我に返ったのか、通り魔は背中を見せて走り始める。

「この子のこと、お願いします」

 言って夏姫はコートの後ろ姿を追いかけ始める。

 かなり脚の速い人物のようだったが、逃がす気はなかった。

 たとえある程度離れてしまっても、携帯端末に表示されてるレーダーの距離表示はそうそうには範囲外にはならない。

 通り魔をこのまま逃す気は、ひと欠片もなかった。

 走りながらも、夏姫は手に持っていた携帯端末の通話ボタンを押す。登録者リストから克樹を選び、コールボタンをタッチした。

 ――克樹、出て!

 一度、二度、三度、耳に当てた携帯端末からは無機質なコール音が流れる。

 揺れる鞄が邪魔にならないよう肘で押さえつけつつ、さらに続くコール音に唇を噛みしめる。

 携帯端末を耳に当てたまま、夏姫は街灯の向こうに消えて見えなくなってしまいそうな通り魔を、目を見開きながら追いかけ続けた。

 



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第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第四章 5

       * 5 *

 

「莫迦かっ。追いかけてどうするつもりだ!」

 思わず僕は叫んでいた。

『でも、でもアタシにできること、他にないもんっ!』

 息を切らせながらも、電話の向こうの夏姫はそんなことを言う。

『明美にあんなことしたあいつを、許せないもん!』

 簡単なものだけど、概要は聞いた。

 通り魔を追いかけるなんて正気の沙汰じゃない。

 確かに遠坂にできることはないかも知れないが、そうだとしてもせめて僕がいるときにしてくれればと思ってしまう。

 ――クソッ。どうする?!

 少し考えて、僕は言う。

「わかった。僕もできるだけ早くそっちに向かう。自分の位置を登録した人に送信する機能、あるだろ? それをオンにしておいてくれ」

『わかった。……できるだけ早く来てね、克樹!』

 それだけ言って通話は切れてしまった。

「ふふっ。やっぱり、もうすぐ次のエリキシルバトルが始まるのね」

 さも楽しそうに折り曲げた指を紅い唇に当てて笑うモルガーナを、僕は睨みつける。

「さて、どうするの? すぐにも相棒の元に向かうのでしょう? けれど質問をするならいまだけよ。次に会う機会をつくって上げる気はないしね」

 もうそれが性質なのか、モルガーナは悪意すら籠もっていそうな言葉を紡ぐ。

 でも、僕はもうするべき質問を決めていた。

「僕が訊きたいことはひとつだ。エリキシルバトルへの参加資格は、スフィアカップで直接エリキシルスフィアを受け取った人に限られるかどうか、だ」

 おそらく、こいつは名前を聞いても答えはしないだろう。もしかしたら参加者の名前すら把握していないかも知れない。だから僕は、少し遠回しな訊き方をした。

「直接受け取った人間である必要はないわ。現在のエリキシルスフィアの所有者、それが参加資格よ」

「わかった。それだけわかれば充分だ」

 モルガーナに背を向け、ノブに手をかける。

 すぐに夏姫の元に向かわなくちゃならなかった。

 でも中野から端末に表示されてる夏姫の居場所まで、普通の方法では三十分でもたどり着くことができない。

 どうするかを考えて扉を開けようとしたとき、僕はひとつのことを思い付く。

「モルガーナ。ひとつお願いがあるんだ」

「お願い? 貴方は私にそんなことができる立場にあると思っているのかしら?」

 厳しい言葉を使いつつも、彼女の目は笑っている。何を言われるのかを楽しみにしている表情だ。

「お前にとっても悪い話じゃない、はずだ。バトルへの参加者はできるだけ多い方がいい。少なくとも現段階では。違うか?」

「――聞きましょうか」

 たぶん、それはモルガーナの力をもってすれば可能なことだろうと思った。彼女の力はどこまであるのかはわからない。けど、魔法の力なんかじゃなく、彼女の影響力は僕の想像を超えるほどの大きいものであるように思えていた。

 だからひとつの願いを、それを願うことに意味があるかどうかはわからなかったが、僕は口にする。

「また難しいことを言う。けれど、わかったわ。私のできる範囲でとしか約束できないけれど、願いを叶えましょう。ただし、条件があるわ」

「その条件とは?」

「貴方が今日これから始まる戦いに勝つこと」

「だったら問題ないさ」

 言って僕は振り向かせた顔を正面に向ける。

「また会えるときを楽しみにしているわ」

 モルガーナの気色の悪くなる声に送られて、僕は控え室を出た。

 通路を走って入ってきたスタッフ用出口の前で、エイナの歌が続いていることを確認してくぐり、足音を忍ばせて会場の外へと向かう。

 外はすっかり日が暮れていたが、会場の正面入り口近くを行き交う人の数はけっこう多い。できるだけ人目のない建物の裏手まで来て、僕は肩にかけていたデイパックを下ろした。

 スマートギアを被って起動したまま仕舞ってあったアリシアを取り出す。

「リーリエ、出番だ」

『え? こんなところで?』

 タイル敷きの地面の上にアリシアを立たせたリーリエが疑問の言葉を口にする。

「あぁ、ここでだ」

 アリシアに拡張センサー付きのヘルメットを被らせ、さらに突っ込んできていた機動ユニット、スレイプニルと画鋲銃を取り出す。

『こんなこと、できるのかな?』

 画鋲銃をラッチに引っかけ、スレイプニルにまたがったリーリエが補助電源ケーブルを接続した。

 ピクシードールを巨大化させる時点でどういう原理でやっているのかわからないし、アライズ時の活動用エネルギーもどこから生み出しているのかよくわからない。

 でも内蔵バッテリから活動時間が計算されているのはいろいろ試している間に確認済みだったから、アライズするときにエネルギーを食うにしても、スレイプニルの補助バッテリも含められるならば可能、だと思えた。

 エリキシルバトルアプリを立ち上げた僕は、音声入力待ちのその画面に向かって、一度大きく息を吸った後、自分の願いを込めながら唱えた。

「アライズ!」

 光がアリシアだけじゃなく、スレイプニルからも発せられる。

 光が弾けて消えた後、現れたのは巨大化したスレイプニルを含むアリシアだった。

 大きくなるとよくわかるけど、実は左右二輪のスレイプニルのわずかな座席に僕は身体を滑り込ませる。

「アクティブ、パッシブともにセンサーは全開。道は任せる。できるだけ人に見つからないように急いでくれ」

『うん、わかった』

 補助電源ケーブルに触れないようにしながら、僕は巨大化しても小柄なアリシアの意外にほっそりしてる腰に手を回す。

『いくよっ』

 けっこう大きなモーターを音を響かせて、リーリエがスレイプニルをスタートさせた。

 ――すぐ行く! 夏姫!!

 



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第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第四章 6

       * 6 *

 

 何度か背中を見失いながらも、夏姫は通り魔を追いかけ続けていた。

「この辺りにいるはずだけど……」

 執拗に追いかけてくる夏姫を撒くためか、通り魔は木の多い公園へと入っていった。

 完全に日が落ちて、照明がちらほらあるだけの公園は木や茂みで見通しが悪い。

 それでも距離だけはエリキシルバトルアプリのレーダーでわかっていたから、接近されればすぐにわかる。

「出て来なさい! いるのはわかってるんだから!」

 動きのなくなった距離表示に、夏姫は広場になっているところの真ん中に立って声を張り上げる。

 ――わかってるのよ!

 急速に数字を減らす表示に、後ろからだと予測して通り魔のタックルを避けた。

 通り魔から距離を取りつつ、夏姫は言い放つ。

「貴方のやってることは克樹を襲ったとき以外は無駄だったの! エリキシルスフィアを見つける方法を知らなかった貴方は、無駄に人を傷つけてただけなのよ!!」

 フードの下でどんな表情をしているかはわからなかったが、通り魔は落胆しているらしく顔をうつむかせているようだった。

「だから、アタシと戦いなさい! アタシもエリキシルソーサラーなんだから! アタシは、明美にあんなことをしたあなたを、絶対に許さない!!」

 ショルダーバッグからヒルデを取り出して起動し、地面に立たせる。

 戦いに応じる気になったのだろう。通り魔もまた黄色いレインアーマーを被せた自分のドールをスポーツバッグから取り出していた。

「フェアリーリング!」

 夏姫の声に応じて、ふたりの間に現れた光が広場一杯に広がり、戦場を生み出した。

 ――絶対、あなたを倒す!

 決意を新たにしながら、夏姫は自分の願いを込めて唱える。

「アライズ!」

 同時に巨大化した二体のエリキシルドールは、互いに構えを取った。

 ――いくよ、ヒルデ。

 短い時間だったが、PCWに訪れてパーツを教えてもらいながらパーツを組み付けた後、明美の買い物に行く間を使って、店主にもらった慣らし用のアプリで人工筋の慣らしはしていた。

 少し自分でも新しいパーツによって変化したフィーリングも確かめていた。

 相当強いと克樹に話は聞いていたが、完調となったヒルデで、負ける気はしなかった。

 ――でも克樹、早く来てね。

 もし通り魔を倒せたとしても、その後夏姫は自分がどうしていいのか、考えていなかった。そのことは克樹に任せようと思って考えるのをやめて、目の前の敵に集中する。

 じっと見据えた、ビニール製のレインアーマーを被った黄色いドール。

 構えを取ったまま、あちらから仕掛けてくる様子はない。

 ――なら、こちらから仕掛ける。

 これまで主に使っていたネガティブな基本戦闘パターンをポジティブに切り替えて、夏姫は条件に合わせたいくつかの戦闘動作を次々とセミコントロールアプリに指示していく。

 フェンシングに近い半身の構えで、右手に持った剣を敵に近づけていくようにヒルデは滑るような動作で接近していく。

 それに合わせて黄色いドールは、右手を挙げて手首に左手を添えた。

「克樹から聞いてるよ!」

 二メートル半まで近づいたところでヒルデの左手が、腰の辺りで微かに閃いた。

 その動きが見えていたらしい敵ソーサラーは、構えを解いてヒルデの投げた三本のナイフをすべてはじき飛ばしていた。

 左腕の人工筋がエラーを出していて使うことができなかったときはダメだったが、いまはその不具合もない。ヒルデの全力を持って戦うことができた。

「ヒルデは遠近両方で戦闘ができるんだから!」

 本来のピクシードール戦ではほとんどダメージになることがなく、牽制程度にしか使えない投擲武器ではあったが、アライズしているいまならばダメージを与えることができる。

 アライズしてもあまり素材の強度がないらしい敵ドールのレインアーマーは、ナイフを弾くときにわずかに裂け目ができていた。

「行きなさい! ヒルデ」

 間髪を入れずに夏姫はヒルデに新たな指示を出す。

 跳ぶような速度で接近を果たしたヒルデが剣を振るう。

 ――行ける! もう火炎放射の構えを取らせる暇は与えない。

 きわどい動きでかわし続ける敵にクリーンヒットさせることはできないものの、かすめていく剣先はレインアーマーを切り裂いていく。

 ――本当、克樹に戦闘タイプを聞いておいてよかった。

 素早い避け方からして、敵は近接射撃タイプでないのは明らかだった。

 おそらくドールの視点でコントロールしてるだろうソーサラーの目も良い。

 大きく踏み込んでの斜め下からの切り上げも、そこから繰り出す上方からの突きさえもレインアーマーをかすめる程度で避けられてしまう。

 ――でも、このまま押し続けていけばいい。

 リーリエと戦ったときもそうだったが、エリキシルバトルでは武器を持っているか否かは通常のピクシーバトルと違い、大きな差となる。火炎放射器を封じ、このまま絶え間なく攻撃を続けるなら、いつかは身体に命中させられる。

 そう、夏姫は考えていた。

 敵の次の動きを読みながらコマンドを打ち込み続けているとき、夏姫は先ほどまでいた場所に、コートのソーサラーがいないことに気がついた。

「どこに――」

 ヒルデから目を話さないようにしつつ探そうとしたときには、目の前に影が現れていた。

 鳩尾辺りに重くて強い衝撃があった。

 殴られたのだとわかったときには、身体の力が抜けていって、もうどうすることもできなくなっていた。

 ――ゴメン、克樹。あたし、負けちゃった……。

 力が入らなくなった膝が地面につくよりも先に、夏姫の視界は真っ暗になっていった。

 




●コンバートされている登場人物について

 以前の作品、ToHeart二次創作小説「実りの季節」シリーズをお読みの方はお気づきかと思いますが、SDBLには幾人かそちらのシリーズからコンバートされている登場人物がいますので少し。
 なお、SDBLと実りの季節には一切関連がないため、実りの季節を読んでおられない方はこちらの内容は読み飛ばしていただいて問題ありません。

・音山彰次とアヤノ
 SDBLの第二章より登場している音山彰次およびエルフドールのアヤノは、その性格や技術面、機能面において実りの季節シリーズの彼と同一となりますが、設定上同じなだけで別人と考えていただいて問題ありません。
 ショージさんが今後源五郎と出会ってメイドロボを開発することはありませんし、アヤノはHMシリーズやHMXシリーズではなく、あくまでエルフサイズのスフィアドールです。
 いまの物語とは大きく異にしていますが、SDBLのネタを思いついたのは実りの季節シリーズを完結させた直後頃だったと思います。その後長い時間寝かせていて、去年ふとバトルものの作品としての物語を思いつき、ロボットものと言えば実りの季節のオリジナル登場人物、ショージさんに白羽の矢が立った感じです。彼の立ち位置は主人公を補助する役割に適しているので、最初から克樹の関係者として登場する予定として物語に組み込まれることとなりました。克樹の苗字が音山なのは、ショージさん登場が決定したために後から決まったということもあったりします。
 性格がほぼ同じなのは境遇的に似ているからということが関係していますが、まったく同じ境遇ではないため、細かいところでは性格は異なっていると思われます。
 今後ショージさんについては何らかの形でSDBLの物語に深く関係する存在となっていくことでしょうが、それについては今後の展開を見ていただければと思います。


 なお、実りの季節のオリジナル登場人物と言えば長瀬源五郎の妹となった長瀬みのりの方が印象が強いかと思いますが、みのりについては別の形でコンバート済みとなりますので、SDBLに登場することはないでしょう。
 現在彼女は性格はほぼそのままに、年齢や能力的な設定が変化し、喫茶ジャンクションのウェイトレス兼、未来予報士のみのりとして、とある作品の重要な登場人物となり、また様々な作品に対して横幅を持って登場する不思議な人物となっています。
 みのりが登場する作品も、今後何らかの形で公開できればと考えています。

 SDBL本編には関係のない余録のお話ですみません。
 明日より始まる第五章もお楽しみいただければ幸いです。


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第一部 第五章 ガーベラ
第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第五章 1


第五章 ガーベラ

 

       * 1 *

 

 何度か人とすれ違いはしたけど、ただでさえ冷たい空気が凍り付くようなくらいの速度で飛ばしてるんだ、たぶん目にハッキリとは映っていないだろう。

 それにもし見られた程度でエリキシルバトルの参加資格を失うというなら、アリシアのアライズは解除されてるはずだ。

 ピクシードールのときなら半径三メートルにある物体しか感知できないヘルメットの追加センサーによるアクティブソナーは、アライズによって約二十メートルの距離まで感知することができ、リーリエは比較的細い路地を選んでほぼフルスピードでスレイプニルを走らせた。

 通話を切ってから約十五分。

 僕は夏姫の携帯端末から発せられている位置情報のすぐ側までやってきていた。

 ――夏姫!

 位置情報に全く変化がなくなってから四分。

 たぶん戦闘に入ったんだろうと思うけど、結果はわからない。

 もし勝っているなら音声通話の着信があると思うけど、いまのところそれもなかった。

 それにいま、エリキシルスフィアの反応は夏姫のいる場所とほぼ同じ距離に、ふたつある。

「公園か」

 暗い街並みの中にあるけっこう広さのある公園。照明があるにしても夜になると決して見通しがよいとは言えない公園に、リーリエはスレイプニルを侵入させる。

「見えた!」

 見えてきたのは割と広い広場と、アライズ済みの二体のドール。それからコート姿の人影に、――うつぶせに倒れて意識がないらしい夏姫。

「そのまま突っ込め!」

『うんっ!』

 速度を上げてリーリエは通り魔に向かってスレイプニルを走らせる。

「ちっ」

 僕たちの存在に気づいた通り魔は、素早い動きで衝突を避けた。

「夏姫!」

 ターンをかけながら止まったスレイプニルから飛び降りて、僕は夏姫に駆け寄る。

 抱き起こした夏姫にはどこからか血が出ていたり怪我をしていたりする様子はなく、微かに上下する胸元から息があるのもわかる。

 舌打ちの音が聞こえたと思って顔を上げると、通り魔が走り去ろうとしている。

 その背中に向かって、僕は声をかけた。

「待て、近藤誠!」

 広場から出る直前、近藤が脚を止めた。

「もう逃げる意味はない。そいつはガーベラだろ、椎名さんの形見の」

「……なんで、わかった?」

 フードを取り、身体を振り向かせた近藤。

 僕と同じスタンダードタイプの、ワインレッドのスマートギアに隠されて顔はよく見えてるわけじゃなかったけど、その口元は強く引き結ばれていた。

「ファイアスターターの購入履歴から椎名さんが浮かんで、それから、スフィアカップの地区大会優勝のときの写真を見たんだ。椎名さんの後ろに立っていたソーサラーは、お前だったよ」

 ガーベラを所有する椎名さんはソーサラーではなく、僕のアリシアがそうであるようにオーナーだった。

 そしてガーベラのソーサラーはフルコントロールの適正があり、その上空手の技術をそのままピクシードールで再現ができる近藤が担当していた。

 椎名さんの恋人は、近藤だったんだ。

 病死した椎名さんから形見としてエリキシルスフィアを搭載したガーベラを譲られた後、おそらく最近になって、エイナによってエリキシルバトルに誘われたんだろう。

「ひとつ聞きたい」

「なんだ?」

「なんで僕がエリキシルソーサラーだと知った後も、他の奴を襲ったんだ?」

 深くため息を吐き、近藤は話す。

「たいした理由じゃない。お前がそうだってのはわかったが、かなり強かったからな。他のスフィアを集めればガーベラをパワーアップか何かできると思ったんだ」

「たぶんそんなことはできないと思うぞ。確証はないけど、これはそういうバトルじゃない」

「そっか……」

 本当に確証があるわけじゃない。でもたぶん、そういうものではないのだと、モルガーナの性格を考えて、思っていた。

「オレをどうするつもりだ? 警察にでも突き出すか?」

「さてね。そうしたいのはやまやまだけど、ね」

 見下ろした夏姫の顔は、苦しそうに歪んでいる。

 ヒルデは構えを取ったままコマンド待ちをしている様子だから、どうやって夏姫だけを倒したのかはよくわからないけど、たぶん痛い目に遭ったことだけは確かだ。

 ――気をつけろって言ったのに。

「どうせならエリキシルバトルで決着をつけよう。その方が、お前も納得がいくだろ? 僕が負けたときは、僕と夏姫の、ふたつのエリキシルスフィアを持っていくといい」

「オレが負けた場合は?」

「自首してくれ」

 僕の言葉に、近藤は顔を歪ませる。

 それもたぶん椎野さんのものだったんだろう、ワインレッドのスマートギアの下で、近藤は僕のことを睨みつけてきているんだろうと思う。

「……できない相談だな。オレは梨里香を生き返らせるためにエリクサーが必要なんだ。どんなことをしても、オレは手に入れなくちゃならないんだっ」

「なら、僕はお前に勝って、お前のエリキシルスフィアを奪い取る」

「やれるものならやって見やがれ!」

 口汚く言って、近藤は自分の前にガーベラを立たせる。

「リーリエ!」

『うんっ!』

 ことの推移を見守って黙っていたんだろう、リーリエも僕の前に立った。

『全力全開だ。じゃないとあいつは倒せない』

『わかってる』

 脱いだコートを夏姫の頭の下に敷いて、彼女を優しく寝かせてから、僕は立ち上がる。

 僕と近藤、そしてリーリエとガーベラの二度目のバトルを、僕は開始した。

 



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第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第五章 2

       * 2 *

 

 ピクシードールのバッテリは激しく動けば動くほど消費する。

 バッテリ残量から計算されるアライズの時間もまた同じになっているけど、いまのアリシアのバッテリ残量はほぼ満タン。代わりにスレイプニルのバッテリはあとどれほども残っていなかったが。

 ――ガーベラのバッテリはDカップ。たいして減ってもいないだろう。

 今回は隠すこともなく、ガーベラは右手に仕込んであるファイアスターターを構え、突っ込んでくる。

「やれ、リーリエ」

『今日はこっちにも飛道具があるんだよ!』

 近藤には聞こえない声で言って、リーリエはスレイプニルのラッチに搭載していた画鋲銃を両手に構え、引鉄を絞る。

 どんなに素早く動こうとも、人間の動体視力よりも性能の高いピクシードールの視界から逃げることなんてできない。

 引鉄を絞る度にレインアーマーが引き裂かれ、いままで見えていなかったガーベラのワインレッドの外観が露わになる。

 二十発の弾を撃ち尽くしたとき、レインアーマーはほとんど残っていなかった。

 椎名さんのデザインなんだろう、白いソフトアーマーのほとんどの部分は、白に縁取られたワインレッドのハードアーマーに覆われていた。

 アニメに出てくる騎士の鎧のような感じではあるのに、見ようによっては道着のようにも見えるガーベラのハードアーマー。

 可動型ではない、白い仮面タイプのフェイスに光るアイレンズがリーリエではなく、僕を睨みつけてきている。それはガーベラではなく、たぶん近藤の視線なんだろう。

「さて、ファイアスターターはつぶさせてもらったよ」

 釘よりも太い画鋲銃の針状の弾を避けるために、ガーベラは両腕を使っていた。

 予想していた通り、左右のハードアーマーには何本かの画鋲が刺さり、右腕の下にあるファイアスターターは使用不能になったはずだ。

 予備の弾は持ってきているけど、一度アライズを解かないと画鋲銃に再装填をすることはできないだろう。

 画鋲銃を地面に置き、リーリエがファイティングポーズを取る。

 口元を歪ませた近藤は、残っていたレインアーマーをはぎ取り、刺さったままの画鋲を抜いて、ガーベラに構えを取らせた。

「できれば、僕はこんな戦いはしたくない」

「いまさら何言ってんだよ」

 この後使うことになるだろう必殺技に向けた操作をしながら、僕は近藤に言う。

「僕たちはたぶん、魔女に踊らされてるだけなんだ」

「魔女?」

「うん。そいつがこのバトルの主催者で、魔女はエリクサーよりもさらに大きなものを求めてバトルを開催したんだ。戦い続けても、本当にエリクサーが得られるかどうかはわからない」

 両手をコートのポケットに突っ込みながら、近藤は叫ぶ。

「お前の推測だろう! もし、もし梨里香が生き返る可能性があるなら、オレは何だってやる! 例え戦うことに意味がなくても、そうだとわかるまでは戦い続ける! どんな汚い使ったとしても!」

 言って近藤はポケットから右手を出す。

 その手に握られていたのは、手に収まる程度の小さな箱。

 ――なんだ? あれ。

 推測する必要もなく、近藤によってボタンが押されたその箱が効果を発揮した。

『おにぃちゃ――』

「リーリエ!」

 呼びかけても反応はない。途絶えてしまった。

 スマートギアのディスプレイに表示された三本の通信回線は、通信が途切れたことを示すエラーの印が出ていた。

 ――モバイル通信の電波妨害装置!

 すぐさま僕はセミコントロール用のアプリを立ち上げて、両手を下ろして待機状態になったアリシアとのリンクを確立する。

 ――まずい。

 僕もセミコントロールでアリシアを動かすことくらいはできるけど、リーリエの操作には遠く及ばない。僕だけじゃ近藤とガーベラに勝つことなんてできない。

 あの電波妨害装置を奪って止めないと、と思っているとき、スマートギアの視界の隅に影が見えた。

「ん?」

 疑問の言葉を口にするのと同時に、僕は反射的にズボンのポケットに手を伸ばす。

 ぶつかるように近づいてきた影に、半分無意識のうちに仕舞ってあったナイフを突き出していた。

「あ……」

 驚きの声を上げたのは、近藤。

 近藤は僕が突き出したナイフを持った手首を掴んで、捻りながら押し返していた。

 ――そっか。夏姫を気絶させたのは、これか。

 頭の中でそんなことを考えていた。

 近藤はただ強いだけのフルコントロールソーサラーじゃなく、ピクシードールを動かしながら自分も動くことができる珍しいタイプのソーサラーだったんだ。

 百合乃と、同じようなタイプの。

「あ、れ?」

 思考が滑っていくのを感じる。

 頭の中でいろんなことが浮かんできてる気がするのに、考えをまとめることができない。

 ちょうど胸の真ん中辺りに、冷たい感触があった。

 何かが、身体の中に入り込んでるような感触。

 冷たく感じていたそれが、一瞬にして燃え上がるような熱さになった。

「がっ」

 柄までが僕の身体に潜り込んだナイフで、内臓のどこかが傷ついたんだろう。

 喉まで押し寄せてくる感触は、堪えることもできずに口から吐き出されていた。

 ――僕が、死ぬ?

 吐き出すのを堪えようと口元に当てた左手を見ると、真っ赤になっていた。

「ゆ、りの……」

 自分でも何を呟いたのかわからないまま、僕の視界は落下していく地面を見ていた。

 

           *

 

 ドサリという大きな音が近くで聞こえて、夏姫は目を覚ました。

「くっ」

 鳩尾辺りに重い感触があるのを感じながら、無理矢理に顔をあげると、スマートギアを被り、口元を強ばらせた近藤誠が立っているのが見えた。

 ――なんで、近藤が?

 痛みと吐き気にもう一度寝転がりたい気持ちになりながらも、身体を起こす。

 近藤が見下ろしている先を見てみると、克樹がいた。

「え?」

 仰向けに倒れた克樹の胸には、この前首筋に押し当てられたナイフが突き立っていた。

 にじみ出るように、ナイフの刺さっている場所から血が広がって行っていた。

「克樹?」

 這い寄っていって、克樹の顔を見る。

 明美のときと違って、途切れ途切れの息をしているだけの克樹。

 ナイフはまだ刺さったままなのに、血があふれ出してきて、公園の砂利を赤く染めていく。

「克樹!」

 呼びかけてみても、反応はない。

「すぐに救急車を!」

 言いながら近藤の方に目を向けた夏姫は、彼がこの場所にいる理由に思い至る。

「あんたが、通り魔だったの? 明美にあんなことして、……克樹を、殺した!」

 ビクリと身体を震わせる近藤は、どうしていいのかわからないように首を左右に振るばかりだった。

「救急車を!」

 落ちていた自分の携帯端末を拾って通話をしようとしてみたが、圏外の表示。

「リーリエ!」

 アライズしたまま立ち尽くしているアリシアに声をかけてみても、動く様子がなかった。

「な、んで?」

 ――克樹が死んじゃう。

 どうしていいのかわからなかった。

 救急車を呼ばなければならないのはわかっていたが、脚が震えて立つことができなかった。

「ダメ……。ダメだよ、克樹!」

 いまの状況を認識した夏姫の目には、涙があふれてきていた。

 克樹はもうほとんど息をしていない。

 このままだと死んでしまうのはわかっているのに、立ち上がる力すら夏姫にはなかった。

「やだ! やだ! 克樹、死なないで!!」

 両手で顔を覆い、首を振ることしか、夏姫にはできなかった。

「ゴメンね。ちょっとそこ、どいてもらってもいーい?」

 そんな舌っ足らずな言葉とともに、夏姫の肩に手が置かれた。

 顔を上げてみると、にっこりと笑うアリシアがいた。

「リー、リエ?」

 克樹の側を少し離れ、膝立ちになったアリシアのことを見る。

 ――何か、違う。

 アライズしたアリシアをリーリエが微笑ませているのは、克樹の家で見ていたが、それと同じ笑顔のようなのに、どこか違うように思えていた。

 ――それにいま、通信が。

 もう一度携帯端末を見てみても、理由はわからないが、圏外のままだ。

 克樹が言っていたリーリエの弱点。通信不能な状態にあるいま、どうやってリーリエがアリシアを操っているのかがわからない。

 それからもうひとつ気づいたこと。

 ――声の位置が、ヘン。

「もう本当に、おにぃちゃんは無茶するんだからー。ダメだよ? あんまり無茶したら。あたしのことはもう良いんでしょう? だったら、こんなことしてちゃダメだよ。……でも、おにぃちゃんは聞いてくれないんだろうなぁ。あの人が、関わってるんだもんね」

 リーリエは口を動かしながらも、スピーカーから声が出ていた。

 でもいまは、アリシアの口の動きに合わせて、その口から声が出ているような気がしていた。

「もしかしてあなたは――」

「無茶ばっかりするおにぃちゃんだから、お願いするね。愛想尽かせるまででいーから」

 にっこりと笑いかけてくる彼女が誰なのか、夏姫は理解していた。

「もう本当はこんなことしちゃダメなんだよ。あたしはもう、いないんだから。でも今回は特別。ほんのちょっとしか溜まってないし、たぶん次こんなことがあってもできないと思うけど、おにぃちゃんには死んでほしくないもん」

 言って彼女は握り合わせた両手をナイフの上まで持っていく。

 目を閉じ、大きく息を吸うような動作をした彼女が、唱えた。

「アライズ」

 両手から、一粒の滴が落ちていった。

 無色透明なその水のようなものが、ナイフに当たり、傷へと染み込んでいく。

 キンッ、という甲高い音を立てて、ナイフが勝手に抜け落ちた。

 血が噴き出すことはなく、何度か咳をして血を吐き出した後、克樹の息が安定する。

「それじゃあおにぃちゃんと、それからこの子のことをお願いします」

 自分を示すように胸元に手を添えた彼女は、にっこりと笑う。

 それからちらりと彼女がやった視線の方向には、近藤の右手があった。

 その右手に握られている箱が何であるのか、夏姫は理解した。

 アリシアの身体が力を失い、膝立ちの格好のまま停止する。

「克樹! 克樹!!」

 近づいて大きな声で呼びかけると、克樹がうっすらと目を開けた。

 再びあふれてきた涙の滴が、克樹の顔を濡らしていった。

 



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第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第五章 3

       * 3 *

 

「僕、は?」

 目を開けると、すぐ側に涙を流してる夏姫が見えた。

 彼女に助けてもらって上半身を起こすと、近くに血のついたナイフが落ちていた。

 ――そうか。刺そうと思って逆に刺されたんだ。

「よかった、よかった……」

 泣きながら肩にすがりつくように夏姫が抱きついてくる。

 どうして生きているのかわからないまま刺されたはずの胸を見てみると、シャツにはまだ乾いていない血とナイフが突き刺さった跡があるのに、その下の肌には傷らしいものはなかった。

「何があったんだ?」

「たぶん、百合乃ちゃんが、克樹を助けてくれたの」

「百合乃が?」

 言われてる意味がよくわからない。

 ただ僕が刺されたときとは違って、すぐ側でアリシアが膝立ちになって止まっていた。

「ははっ。ははははははははっ! あるじゃないか! 本当にあるじゃないか、エリクサー!!」

 額に手を当てながら、近藤が笑い声を上げる。

「たった一滴で死にかけた人間を生き返らせるんだ。もっとたくさん集めれば、死んだ人間だって生き返らせられそうじゃないか!」

 ――どういうことだ?

 ナイフの傷がなく、アリシアが勝手に動いていて、近藤がエリクサーの存在を語る。

 夏姫の言葉から想像すると、アリシアに死んだはずの百合乃が乗り移って現れ、僕にエリクサーを使ったとでも言うんだろうか?

 わからない。

 でも、死ぬはずだった僕がいま生きていることだけは、確かだ。

「待ってて、克樹」

 僕の耳元でささやくように言って、夏姫が地を蹴った。

 近藤の右手に掴みかかった彼女は、その手にあった箱を奪い取る。

「スイッチを切れ!」

「うん!」

 近藤から離れた夏姫が、箱を見てスイッチを切る。

 彼女に襲い掛かろうとした近藤の前に、僕は違和感の残る身体を動かして立ちはだかった。

「オレは、オレは戦うぞ。梨里香を生き返らせるために!」

「でもそれは!」

「エリクサーは確かにあったんだ。あとは集めればいいだけだ。お前たちのスフィアをもらう。……それにお前だって、妹を生き返らせたいんだろう?」

 なんで、近藤が百合乃のことを知ってるんだろう。

 見上げるような身長の彼が、邪悪な笑みを浮かべながら見下ろしてくる。

「知ってるさ。あの事件はけっこうあのときニュースなんかで流れたからな。少し調べればいろいろ出てきた。お前だって妹を生き返らせるためにエリクサーがほしいんだろう? オレと同じだ! 克樹!」

「――違う」

 近藤の言葉を、僕は否定する。

 視線を少し落として、僕は息を吸う。

 それから、言った。

「僕は人を殺すためにエリクサーを使うんだ! あいつを、百合乃を殺したあいつを僕は許さない! エイナは言った! 顔と名前がわかれば、そいつに死んだ方がマシなくらいの苦しみを与えながら、その後に殺すことができる、って。百合乃のことを殺しながらのうのうと生きてるあいつのことを、僕は絶対に殺す! 例えエリクサーが得られなくても、いつか見つけ出して、僕はこの手で殺す!」

 たじろぐように二歩、三歩と下がる近藤。

「克樹……」

 後ろから夏姫が声をかけてきたが、無視した。

「戦え、近藤。エイナは言った。戦って、集めろと。たぶん戦うことが必要なことなんだ。僕のスフィアがほしければ、戦って奪い取れ!」

「は、はははははっ。そうさせてもらうさ!」

 近藤との第二戦、第二ラウンドのゴングは、僕自身の手で鳴らした。

 



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第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第五章 4

       * 4 *

 

「夏姫は下がっていてくれ。これは僕の戦いだ」

「う、うん……。でももし、あいつがまた近づいてきたり、克樹が負けちゃったりしたら、あたしも戦うよ」

「それは僕が止められるようなことじゃない」

 夏姫がヒルデを自分の側まで下がらせたのを確認して、僕は呼びかける。

「リーリエ!」

『ん……。おにぃちゃん? だ、大丈夫なの?』

 アリシアとのリンクを回復させたリーリエが、僕の胸元を見て言う。

『何があったのか、把握できてるか?』

『うぅん。リンクできなくなった後のことは、ぜんぜんわからない。もしかしたらスフィアに動作記録残ってるかも知れないけど』

『わかった。それは後回しにしよう。いまは、あいつとの決着をつける』

『うん!』

 リーリエにコントロールされて立ち上がったアリシアが僕の前に立つ。

 大きく距離を取った近藤もまた、ガーベラを側に立たせた。

「いくぞ」

 そう言った近藤が、ガーベラを前進させる。

 フェアリーリングのほぼ中央で、向かい合った二体のエリキシルドール。

 先に仕掛けてきたのは、ガーベラだった。

 素直で、でも鋭い右の正拳突きを、リーリエはどうにか左腕で流す。

 すぐさま繰り出された左の拳もまた、リーリエはかろうじていなしていた。

 ネットで見つけることができた近藤の戦いは、まさに空手家のそれだった。

 細かく動かせるとは言え、完全に空手に準じた動きを行わせることができるソーサラーなんて滅多にいない。

 腕を動かすだけじゃない。攻撃ときの体重移動、姿勢、それらを次につなげていく連続した動作。

 それを完璧にフルコントロールする近藤は、確かに全国レベルのソーサラーと言って間違いなかった。

 対してリーリエも近藤と同じ格闘タイプ。

 格闘技を習ったことがない百合乃はかなり適当な戦法ではあったけど、リーリエは違う。

 リーリエにはいくつかの格闘戦に関する情報が組み込んであった。

 ほぼ互角かと思われる拳と脚の応酬は、でもリーリエの方に若干の不利が見られた。

 それはたぶん、ドールの性能差だ。

 近藤はどこで仕入れてきたのかわからないが、ガーベラにかなり高い筋力の人工筋を組み込んでいるらしかった。

 重い一撃一撃によって、アリシアのハードアーマーが悲鳴を上げているのが、離れているここからでもわかった。

 アライズしているときはどうなってるのかわからないけど、ピクシードールのハードアーマーはかなり強靱なものであるにしろ、主にプラスチックだ。

 格闘戦型のドールは機敏な動きが必要となるために、ハードアーマーはそんなに分厚いものにしていない。その分受け流すことによってダメージをゼロにすることができる。

 でも同じ格闘タイプのドール同士の戦いとなると、筋力差が徐々に影響してくる。

 ヒルデの真剣対策のために金属製にした両腕の手甲はしばらく保つだろうけど、その他の部分のハードアーマーは、ガーベラの攻撃をまともに何度か受ければ砕かれかねない。

『リーリエ!』

 回し蹴りに続いて繰り出された回転回し蹴りを避けて、リーリエが大きく飛び退く。

『解析の結果は?』

『うん。だいたいわかったよ。使ってるパーツと性能はこんな感じ。コントロールソフトはたぶん、バトルクリエイターのバージョン二か三。あとアドオンソフトがいくつかあるみたい』

 リーリエがスマートギアの視界に表示してくれた内容を確認して、僕は思わず口元に笑みを浮かべてしまう。

 フルコントロール用アプリのバトルクリエイターの最新バージョンは五。

 第四世代初期のバージョンである二や三では、アップデートを施しても第五世代ドールには完全には対応しない。そのことによりほんのわずかだけどもドールの可動範囲に制限が生まれているし、リーリエが解析してくれた結果からもそれは明らかだ。

『決着をつける。全力全開だっ』

『うん!』

 構えを新たにしたリーリエが、様子を見ていたらしいガーベラに向かって突進を開始した。

『疾風迅雷!』

 イメージスピークで叫ぶのと同時に、僕はアリシアの脚に取り付けた人工筋のリミッターを解除して、仕様上の想定を超える電圧をかける。

 僕がアリシアに選んでいるパーツは、フレームこそ強度と剛性を重視した高級なものだけど、人工筋は手頃で一般的なモデルだ。

 でも僕が調べ抜いた上で選んだパーツでもある。

 通常の操作では人工筋には仕様上の最大電圧までしか電気を通せず、安全圏内の電圧で出せる筋力は仕様値に制限される。

 リミッターを外してやれば仕様値以上の筋力を得られるけど、仕様値を超えたさらに上のポテンシャルがどれほどあるかは、パーツによって異なる。

 僕は使われている素材や人工筋の構造を確認して、できるだけポテンシャルの高いものを選んでアリシアに取り付けていた。

 残像を引いたリーリエが、一瞬にしてガーベラに接敵する。

 一度疾風迅雷を見ている近藤はその動きを読んでいたんだろう、ガーベラが前蹴りを繰り出す一瞬――。

『電光石火!』

 疾風迅雷よりも短いコンマ数秒の時間、さらに大きな電圧をかける。

 第五世代パーツへの更新によって、もうスマートギアの高速カメラを通しても見ることができないほどの動きで、前蹴りを避けたリーリエはガーベラの後ろに回り込んでいた。

『疾風怒濤!!』

 ガーベラが振り向くわずかな間に構えを取ったリーリエに、僕はアリシアの全身のリミッターを解除する。

 たぶん人間では制御することは不可能だろう。

 リーリエだけが制御可能なほどの動きで、左右の拳と両脚が次々と繰り出される。

 避けることさえできず、ガーベラはリーリエの攻撃を絶え間なく受ける。

 胸の、肩の、腰の、両腕のハードアーマーにヒビが入り、ワインレッドの装甲が砕けて純白のソフトアーマーが露わになっていく。

『決めろ、リーリエ!』

『うん!』

 おそらく人工筋にも、フレームにもダメージが来ているだろうガーベラの両腕を掴み、リーリエは高く右脚を振り上げる。

『一刀ーーっ、両断んーーーー!!』

 掴んだ両腕を作用点にして振り下ろされた右脚が、ガーベラの左肩に命中する。

 リミッターを解除された人工筋の力を余すことなく使ったかかと落としは、ガーベラの左肩のフレームを砕き、人工筋を引きちぎり、ソフトアーマーをも引き裂いて、左肩を切り落としていた。

「くっ」

 悔しそうにゆがめた口で近藤が「カーム」と唱え、元にサイズに戻したガーベラに走り寄る。

 この期に及んで諦めの悪い近藤の逃走は、首筋に向けられたヒルデの剣によって止まった。

「観念しろ、近藤。お前の負けだ」

 近づいていった僕は、近藤の手からガーベラを奪い取り、スマートギアを引きはがす。

 その下から現れたのは、泣き顔だった。

「く、くーーっ」

 本当に悔しそうな声を上げながら、涙をぽろぽろと地面に落とす近藤は、負けを悟ったように両膝を地に着いた。

「お疲れさま」

 そう言って近づいてきた夏姫に振り向き、僕も「お疲れ」と言って笑いかける。

 胸に手を当てて小さく息を吐いた後、夏姫もまた微笑んだ。

 長かったようで短かった、最初のエリキシルバトルによる騒動は、いまやっと終わりを告げた。

 




 本日の更新後、すぐにSDBLの最後となる終章が公開となります。こちらを読み終わった後にお読みいただければと思います。
 もし、お読みいただきこの作品を、登場人物たちを、設定や世界観を面白いや好きだと感じられた場合には、感想や評価をいただければ幸いです。今後の励みにさせていただきます。
 終章が残っていますが、あちらには別の後書きを書いてありますので、こちらであまり意味のない話を少々。SDBL内の強さの議論について。

●第一部終了時のソーサラーの強さの順位
 第一部終了時までに登場し、ソーサラーであることが判明している登場人物は五人(?)となります。明美やショージさんもソーサラーではありますが、バトルソーサラーではないため除外します。ちょい役でしかなかった名無しのユピテルオーネのソーサラーも除外しておきます。
 設定上の強さの順番に並べてみると、以下のようになります。

・五位 音山克樹
 克樹ははっきり言ってたいしたソーサラーではありません。ローカルバトルに参加すればセミコントロールソーサラーとしてそこそこの成績を残せるくらいではありますが、並より上程度で、並み居るエリキシルソーサラーとしては最低ランクとなっています。そのためもし近藤と真正面と戦っても勝つことはできなかったでしょう。ソーサラーの操作には反射神経や運動神経がかなり関わるので、引きこもりな彼はその程度です。今後成長する可能性はありますが。

・四位 リーリエ
 人間ではありませんが、リーリエもさほど強いソーサラーとは言えません。克樹がいなければ必殺技が使えないため、人間を凌駕する反応速度を持っていますが、それを活かすには至らないことが主な要因です。
 ただしリーリエは稼働開始し、アリシアを動かすようになってからさほど経っていないこともあり、戦法や戦術がまだ未成熟です。多くの経験を積み、様々なアプリを使いこなすことで大きな変化が期待できる成長株となっています。

・三位 近藤
 スフィアカップ全国大会進出経験のある近藤はバトルソーサラーの中でもかなり強く、必殺技さえ使われなければリーリエに勝るソーサラーです。ただし恋人を失い、しばらくはピクシーバトルから離れていたこともあり、ソーサラーとしての能力が少し減退してしまっています。ガーベラを本調子にし、ソフトを第五世代対応のものにした上でソーサラーとしての鍛錬を行うことでさらに強くなっていくはずです。

・二位 夏姫
 夏姫はスフィアカップ地方大会決勝戦で敗退し、二位の成績を残していますが、それは二年前の話。初心者ソーサラーだった当時の話です。
 母親の急逝により一時ピクシーバトルから離れていたこともありますが、その後ローカルバトルに多数参加し、ユピテルオーネ戦では相当不調を来していたヒルデを操って勝つなど、ソーサラーとしての二年前に比べて大きく成長しています。克樹も評価しているように、セミコントロールソーサラーとして細やかな操作が行える反射神経、運動神経を併せ持っています。公式戦ではレギュレーションエラーとなるため使えない克樹&リーリエの必殺技使用のアリシアであっても、そこそこに戦えるほどの強さです。

・一位 平泉夫人
 第一部ではピクシーを操作することすらしていませんが、平泉夫人の強さはけっこう隔絶したものがあります。彼女に対抗できるのは生前の百合乃くらいで、もし全国大会に出場していれば夫人か百合乃のどちからが優勝していた可能性があるほどです。
 平泉夫人がスフィアカップに出場したのは、自分の趣味であり、出資や協力をしている成長分野のスフィアドール市場を自分の肌で感じるため、という意味合いが強いものでした。そのためスフィアカップの百合乃戦ではどこまで本気を出していたのかは不明です。
 第二部以降を公開する機会があれば夫人が戦う場面もあるかと思いますが、彼女はあらゆる武器、戦法を使いこなす化け物級のバトルソーサラーです。ただし、彼女が本気で戦える場面も、本気で戦う相手も、そうした状況が整うことも滅多にはないため、そこまでの戦闘シーンを出す機会があるかどうかはわかりません。

 今後も多くのエリキシルソーサラー、ピクシードールが登場し、登場人物たちも成長していくと思いますが、第一部段階での強さの順位は以上のような感じです。
 余録ですが、ショージさんはバトルソーサラーではありませんが、超精密操作を行う特殊分野におけるソーサラーをやっていたりします。会社の研究関係でかなりその能力を発揮しています。
 この先どのようなバトルが行われたり、人物が登場したりといったことについては、今後のお楽しみ、ということで。


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第一部 終章 克樹と夏姫と近藤誠
第一部 天空色(スカイブルー)の想い 終章


終章 克樹と夏姫と近藤誠

 

 

 寒かった冬が終わり、春が訪れた。

 と言ってもまだまだ寒さを感じる高校二年の最初の日、ほとんど寝ていて聞いてなかった始業式やその後のホームルームも終わり、今日学校でやるべきことはすべて終わっていた。

 そのまま帰ってもよかったんだけど、僕は何となくここに来る必要がある気がして、誰もいない屋上に来ていた。

 終業式の日にもきっちり掃除をしたというのに、始業式の今日もいろんなところを掃除していたが、その後屋上の鍵は閉め忘れたらしい。

 遠く眺める街並みには、あれだけ降った雪もすっかり消えてしまっている。

 冬の痕跡が消えるように、あの事件のこともすっかり風化して、いまでは人の口に登ることもなくなっていた。

『もう、なんで夏姫がおにぃちゃんと同じクラスなのっ』

「仕方ないだろ。僕が決めてることじゃないんだから」

 朝来たときに貼り出されていたクラス分けを知ってからリーリエは文句を言いっ放しだ。

 何がそんなに不満なのかわからないけど、人工個性である彼女には、それだけ不満に感じることがあるんだろう。

 同じクラスになったのは、夏姫の他の僕の知り合いではあとふたり。

 ひとりは教室にも始業式にも姿を見せなかったけど、今日来てるだろうと思っていた。

 階段室の扉が開く音がして、僕は振り返る。

「よぉ」

 向こうから声をかけられる前に、僕はそいつに声をかける。

 元々短かった髪はすっかり刈り上げられてしまって、青い頭を丸見えにさせていた。

 見上げるほど高かった気がするのに、妙に背中を丸めて済まなそうな顔をしているのは、近藤。

「やっぱり来てたか」

「……あぁ」

 軽く手を上げてためらうような足取りで僕に近づいてくる。

 僕に倒された後、近藤は警察に自首した。

 テレビでも報道されたし、学校でも騒ぎになったし、方々でばたばたすることになった。

 結局、恋人を失ったときのものと、親元を離れたストレスが原因ということで処理されたらしい。

 壊したピクシードールの弁済なんかはあったらしいし、怪我した人への慰謝料もそれなりに必要だったらしい。三ヶ月の停学も食らっていた上、退学の話もあったし、実家に連れ戻すなんて話も出ていたらしい。

 でもいま、こいつはここにいる。

 被害者は皆軽傷で、一番怪我が大きかった遠坂も、よろけた拍子に車に軽くぶつかって頭を打ったくらいで、三日ほど入院して精密検査を受けた程度。今日は相変わらず教室で僕に口うるさく文句を言ってきたりしていた。

 まぁ、遅刻ぎりぎりに登校した僕が悪かったのかも知れないが。

「……なんで、なんだ?」

 言いづらそうに、僕から目を逸らしたまま近藤が言う。

「何がだ? 別にいまお前はここにいる。それがすべてだろ」

「本当ならオレは刑務所だかに入れられてもおかしくなかったはずだ。でも不起訴処分ってことになった。ストレスが原因ってことだったとしても、少なくともしばらくはどこかに収監されてたろうし、学校だって退学が相応だった。……何か、お前がしたんじゃないのか?」

「いったい僕のどこに、そんなことができる力があるって言うんだよ」

「いや、何となくだが、そうなんじゃないか、と思ってな……」

「別にいいじゃないか。いまさら、そんなの」

 僕はフェンスに身体をもたせかけて、空を仰ぐ。

 モルガーナに願ったことが、どれほど効果を発揮したのかはわからない。でもおそらく、近藤へのずいぶん軽い処分は、彼女が何かしたからだと思う。

 あいつに借りをつくるのは癪だったが、僕にだって大切な人を失ったときの悲しみや辛さはわかる。

「そうだ。これ、返しておくよ」

 右肩に提げていた鞄の中から、小さなアタッシェケースと、ワインレッドのスマートギアを取り出し、近藤に押しつけた。

「お前、これ……」

「手持ちの使い古しのパーツしか使ってないから、色とかヘンだし、性能は保証しないぞ。動かせるってだけだ」

 アタッシェケースの中身は、ガーベラ。

 もう使うことのない余り物のパーツを中心に、使えるものを使って僕はガーベラを修復していた。

 僕は自首する近藤にガーベラとスマートギアを返すことなく、自分の鞄の中に放り込んでいた。

「スフィアもそのままだ」

「なんで、お前……」

 驚いたような顔を僕に向けてくる近藤の視線から逸らして、明後日の方向を向く。

「あーーーー!! こんなところにいたっ」

 でかい声を響かせたのは、夏姫。

「明美が探してたよ! あんた、掃除から逃げたでしょう?!」

「始業式の日から掃除なんてやってられるか」

 頬を膨らませながら近づいてきた夏姫が、僕のことを睨みつけてくる。

「あれ? 近藤?」

 これだけうすらでかい奴なのに顔を見てからその存在に気づいたのか、僕の横に立ってる近藤を見上げて夏姫は首を傾げていた。

「あの、オレ……。浜咲に――」

「ふぅん。やっと直したんだ? ガーベラ」

 近藤の手元にあるアタッシェケースの中身を眺めてから、僕の顔を微かに笑みを浮かべて見つめてくる夏姫。

「昨日の晩、そいつ用の状態のいいパーツを選んでてほとんど徹夜だよ」

「だからやる気になったんだったらさっさとやっておけば、って言ったじゃない。直前になってからやり始めるんだから、克樹は」

「ラストスパート型なんだよ、僕は」

「面倒臭がりなだけでしょ」

「えっと、あの……」

 容赦のない言葉を口にする夏姫とそれに応じる僕の間で無視される形となった近藤がおたついていた。

「ちなみに近藤の話は聞いてあげない。あたしはあのときのことも、明美のことも許してない。でも、あたしは克樹に一度負けた。だからエリキシルバトルのことについては克樹の方針に従う。あなたも克樹に負けてる。どうするかは、近藤自身が決めればいい」

 強い瞳で睨まれて、近藤が言葉を詰まらせる。

 助けを求めるように僕の方を見てくる彼に、僕はただ肩をすくめるだけだ。

「でも、さ。聞いてみたかったんだけど」

 恨みを込めていたような瞳の色をあっという間に塗り替えて、夏姫は前にもした質問を僕にしてくる。

「なんで克樹は、あたしのも、近藤のも、スフィアを奪い取ろうとしないの?」

 僕なりに考えはあるが、確証があることじゃない。わざわざ口にするような理由でもないと思っていた。

「それは、オレも聞いてみたい。なんでオレのスフィアを奪わないんだ?」

「く……」

 下と上からの視線に挟まれて、背後のフェンスで僕の逃げ場はなくなっていた。

『それはあたしも聞いてみたかったー。奪っちゃえばいい、って思ってるわけじゃないけど、どうしてなのかわからなかったんだもん』

 イヤホンマイク越しにリーリエにまで迫られて、いよいよ僕の逃げ場はない。

 諦めてため息を吐き出した僕は、仕方なくその理由を告げた。

「あのとき、エイナは言っただろう。『戦って集めろ』って」

「うん。それはわかってるけど」

 まだわかっていないらしい夏姫が首を傾げる。

「『戦って奪い取れ』じゃない。『戦って集めろ』だ。いまここには、三人のエリキシルソーサラーが集まってる。そしてエリキシルスフィアも」

「うん、確かにそうだけど」

「まぁ、そうだな」

 理解できていないようで、二人の頭の上には大きなハテナマークが浮んでいるようだった。

「集めろ、って言葉は、手に入れろって意味じゃないのかも知れない。こうやってスフィアが集まること。それでも条件を満たすんじゃないか? とね」

「そんなこと考えてたんだ」

『へぇ』

「それで大丈夫なのか?」

 やっと理解したらしい三人が口々に言う。

「さてね。それで正解なのかどうかはわからない。でもそれが正解かどうかわかるまでは、このままでいいかな、と」

 ふたりに背を向けて、僕は代わり映えのない風景を眺める。

「じゃああたしは、それがわかるまでは、克樹を手伝うよ」

「――オレも、オレのできることがあるんだったら」

『あたしはいつでもおにぃちゃんと一緒だよっ』

 この前までは僕の側にはリーリエしかいなかったというのに、ほんの少しの間に騒がしくなったものだ、と思いながら、僕はこっそりとため息を漏らしていた。

 

 

             「神水戦姫の妖精譚 第一部 天空色の想い」 了




「神水戦姫の妖精譚」第二部予告!

 ある日、助けを求めて克樹の胸に飛び込んできたのは、視覚障害者用スマートギアを被った美少女、中西灯理。エリキシルソーサラーである彼女は、謎の敵に追われていると言う。
 灯理が操るのは純白の煌びやかなパワータイプピクシー、フレイヤ。彼女を追う名もソーサラーも不明な黒いドールはレーダーに映らず、克樹たちは苦戦を強いられる。
 事故で視力を失った灯理は言う。機械では得られない、肉眼でこそ見える鮮やかな世界が見たいと。そのためならばいつか克樹たちと戦うことになっても必ず勝つと。
 白と黒との邂逅が、克樹たちを新たな戦いに誘う。
 第二部「黒白(グラデーション)の願い」に、アライズ!



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第一部 下書き
第一部 天空色(スカイブルー)の想い 下書き


 今回公開しているのは、「神水戦姫の妖精譚(スフィアドールのバトルログ) 第一部 天空色(スカイブルー)の想い」を書く際に使用した下書きです。
 本文を書く前にわたしが書いているプロットなどといったものに該当するものです。わたしの場合、こうした形の下書きと呼ぶものを書いた上で、本文の執筆に入ります。
 作品には関わるものではありますが、こちらの下書きは読まなくても問題のないものです。こうしたものを公開してもいいかな、と軽い気持ちで公開したまでです。

 なお、自分用に書いているものですので、誤字脱字は気にしていません。指摘は無用に願います。
 読みづらいのは理解していますが、参考程度の公開のため、可読性を気にしての公開ではありませんので、気にしないでいただければ幸いです。
 また、ActやSceneなどのまえにピリオドを打っていますが、こちらは階層付きテキスト対応のエディタで書いて、読むための記号です。テキストで保存をして、Vertical EditorやWZ Editorといった階層付きテキストに対応したソフトで読み込んでいただければ読みやすいと思います。

 読んでいただけるとわかりますが、本文と違うところがちょこちょことあります。場面が消えていたり、追加されていたり、内容が違っていたりもします。その辺りは本文を書きながら修正していたった部分です。
 下書きの長さは作品によってまちまちですが、SDBLのものは少し長めです。下書きの段階で場面などは割ってあり、伏線なども概ね張り終えていますが、本文を書いている間に不足を感じた場合には、下書きを変更したり、本文のみで対応したりと、状況によっていろいろ対応方法は異なります。

 小説本文でないため、こうしたものを公開していいのかどうかはよくわかりませんでした。
 利用規約上は大丈夫なのかダメなのかいまひとつ判然としませんでしたので、もしダメということであれば指摘いただければと思います。その際は下書きについては削除いたします。

 なお、第一部終章の後書きに載せた第二部「黒白(グラデーション)の願い」については、現在のところ下書きには取りかかっていません。その前の前、メモ書きをつくっているところです。
 あちらにも書いた通り、公開予定の方は未定です。第二部の下書きを公開するかどうかについては考えていません。
 次は第二部の本文にて、お会いしたいと思います。


「神水戦姫の妖精譚(スフィアドールのバトルログ) 第一部 天空色(スカイブルー)の想い」 下書き

 

 今回の公開部分は二九話までとなる本編とは異なり、本編を書く際に使用した下書きとなります。読者の方についてはこちらは読まなくても本編には影響がないものとなります。

 

.Act1

 

..Scene1 Cut1

 夜道を後ろから尾けてくる人物がいるような気がした克樹は、こっそりとスマートギアを頭にはめた。途端にリーリエが歩きながら使うのはと文句を言ってくるが、背後の方向を確認するのと同時に、レーダーの情報を確認するように克樹は言う。

 リーリエの警告の声が耳に響いたのは、ちょうど曲がり角を曲がったとき。分厚いコートを身に纏い、フードを目深に被った長身の人物は、すでに戦闘の準備を整えていた。

 尾行者の前に置かれていたのは、身長十二センチの人型人形。レインアーマーを被っていて詳しい形状はわからなかったが、鞄から同じピクシードールを取り出していた克樹もまた、足下にそれを置いた。ほとんど同時のアライブの声とともに、二体の人形は百二十センチのサイズへと変化した。

 

 

.Act2

 

..Scene1 Cut1

 一般家屋とは異なる厨房で洗い物を続ける克樹。スマートギアをはめたままの視界の隅では、十二センチの人形がバイク型の起動オプションに乗って足下にやってきた。

 耳元でする声は、甘えた感じの可愛らしい声。リーリエとその人形のことを呼ぶ克樹は、次はすぐそこの食料庫を確認してきてくれ、と言った。こんなところに入ってないんじゃないのか、と文句を言うリーリエだったが、他に探してないところはそこくらいしかないというと、嫌がりながらも克樹が開けた扉の向こうに消えた。

 スマートギアを通して映されるリーリエの視界には、ここ一週間急にメイドが休みになったためだろう、雑多に食材が置かれている様子が見て取れた。

 赤外線投射装置と暗視視界によって見える食料庫の中を回って確認していくが、この屋敷の主人に依頼された指輪は見つからない。

 片隅に置かれた樽の影を見ようとリーリエがバイクを降りたとき、そこに何かが反射するのが見えた。

 確認しようと接近すると、赤いたくさんの光が見えた。やばい、と克樹が思ったときにはもう遅い。耳をつんざく悲鳴とともに、圧縮した空気が解放される音が連続して聞こえた。

 情報が早すぎてわからないが、おそらくリーリエが装備している無頭画鋲を射出する画鋲銃を連射しているのだと思った。飛び出してきたのはネズミたちで、悲鳴を上げながらも着実にリーリエはネズミを撃退していく。

 撃退を終えたリーリエがもうやだ、と文句を垂れているとき、もっと接近しろ、と克樹は指示する。ネズミがいなくなったその場所には、銀色に輝く指輪があった。

 

...Scene1 Cut2

 適当な片付けと捜索を完了した克樹は、リビングで優雅に過ごしていた夫人に指輪を渡す。

 これよ、と大切そうに指輪をなでる夫人だったが、その指輪はどう見てもプラスティック製の、おもちゃ屋か露店で売ってそうな安物。主人との想い出の品なのよ、という夫人は、優しく指輪を手に収めながら、それをきらびやかなアクセサリが入っている宝石箱の一番奥に収めた。

 ありがとう、と言ってテーブルの上のリーリエの頭をなでる夫人。この屋敷でメイドとふたり暮らしの夫人は、数年前に旦那を失い、その資産を受け継いで運用して生活しているということだった。二年前に行われたピクシードール同士の戦い、スフィアカップの際に知り合った夫人は、意外にも他の繋がりもあり、いまでは年齢差はあるものの、同じピクシードールのソーサラーとして友達のような付き合いをしていた。

 相変わらず人間みたいね、とリーリエを評する夫人に、克樹は曖昧な答えを返す。

 でも気をつけなさいよ、と言う夫人。つい先日、ピクシードールを狙った通り魔が出たのだと言う。その事件については知っていたが、ピクシードールは一体安くて十万近い価格がする。物取りじゃないか、という克樹に、夫人は二件目の事件で、殴って奪われたドールは、スフィアを奪われて発見されたのだと言う。

 リーリエのことを気をつけてあげて、という夫人の言葉に、克樹は頷いていた。

 

..Scene2 Cut1

 帰り道、最寄り駅に降り立った克樹は、夕暮れが近づく駅前広場で人だかりができているのに気がついた。

 移動用の大型モニター車などが設置されたその場所で行われているのは、ローカルピクシーバトル。十年ほど前、スフィアロボティクスが開発に成功したスフィアと呼ばれるロボット用の制御装置により一気に人型ロボット、スフィアドールが広がることとなった。

 いくつかの世代を経て、つい二年前から出てくるようになった第四世代ドールでは、それ以前に比べて大幅な低価格化が実現し、いまではスフィアドールはかなり一般に浸透しつつあるが、その中でも完成品よりもパーツでの組み立て要素の大きい最小タイプのドール、ピクシードールは第四世代ドール登場とともにいまなお小遣いで気軽に買える価格でないものの、かなり流行始めている。

 第四世代の登場と同時にスフィアロボティクス主催のスフィアカップはいまだ第二回が開催される予定はなかったが、スフィアロボティクスが協賛するローカルなピクシーバトルは週末になると頻繁に行われるようになっていた。

 大型モニターで映し出されているピクシーは二体。おそらく決勝戦と思われる戦いだった。

 飛び入りOKということになっていたので、リーリエが飛び入りするか、と問うて来るが、さすがに商店街のイベント。一位の商品は米一俵だと言う。

 呆れつつも戦いの推移を見つめる克樹。片方は斧槍を持った標準的な十二センチドールで、少し小太りな感じのするスマートギアをつけた男が操作していた。おそらくその動きから言って、フルコントロールだろうと克樹は予想する。対する相手は、比較的珍しい十五センチドール。少し古くさい鋭角的で深い青色をするアーマーで、剣を構える姿をしていた。そのドールを見て、見たような憶えを感じる克樹。そのドールを操作するのは、ポニーテールの女の子で、ピクシードールのソーサラーと言えばたいていはスマートギアによる操作が一般的なのに、彼女は手のひらサイズのスマートタームを操作していた。

 現在のピクシードール操作は、半自律ソフトの充実によりセミコントロールが主流であるが、熟練したフルコントロールにはまだまだ及ばないと言われている。

 斧槍のピクシーは体格差を感じさせない動きで武器を振るい、おそらくスピードタイプだと思われるのに最小限の動きしか見せない女の子のドールをリング端に追いつめていく。

 勝負あったな、と言う克樹に、リーリエがどっちが勝ったのと問うてくる。それに応える時間もなく、斧槍を大振りに振ってリングアウトを狙った攻撃は、剣で受け流されるのと同時に、体勢を崩したところを投げ飛ばされ、逆にリングアウトを食らっていた。

 決着が付いたのを見て、克樹はピクシーバトルか、と呟く。

 スフィアカップが終わって以降、克樹はピクシーバトルをまともにやっていない。しかし今回ばかりは戦いは避けられないんだろう、と思っていた。何しろ、戦う理由を見つけてしまったのだから。

 

..Scene3 Cut1

 一週間前のその日、克樹は順次発売予定の情報が出ている第五世代パーツの情報をネットで収集しているときだった。

 不明な番号からの着信。親か誰かからかと思ったら、表示されたのは「エイナ」という名前だった。エイナと言えば、現在アイドル活動などを行っている、世界で唯一とされている人工個性の実験モデル。いったいなんだろうと思った克樹は、コールに応じてみる。

 映し出されたのは、テレビなどを通して見るエイナだったが、同時に彼女の姿はビデオ通話のウィンドウから飛び出して、スマートギアを通してまるで目の前にいるかのように、机の上に腰掛けた。

 あなたは選ばれました、と言う克樹に言ってくるエイナ。クラックでもされたのかとリーリエを呼び出そうとするが、返答がない。まるで現実にいる少女のように微笑むエイナは、これから始まるエリキシルバトルへの参加の権利が、特別なスフィアを持つ貴方にはある、と言う。

 特別なスフィア、という言葉に、克樹はリーリエの端末として使っているピクシードールに搭載しているスフィアに思い当たることがあった。それはスフィアカップの地区大会、フルコントロール部門で優勝したときに賞品として得た次世代型のスフィアだった。

 もしエリキシルバトルで戦い続ければ、いつか貴方は命の滴エリクサーを手に入れることができる、とエイナは言う。それで何ができるのか、と問うと、寿命の延長も、若さを取り戻すことも、死んだ人間を生き返らせることも可能だ、と言う。

 もしエリクサーを得たいと思うならば、貴方の願いを言いなさい、とエイナは言う。突然のこと過ぎてわけのわからない克樹は少し考え、エイナに問う。その答えが肯定だったことで、克樹は戦う決意を決めた。

 エリキシルバトルを戦い、スフィアを集めなさい。と言うエイナの脇に現れる新しいアプリのインストールを促す表示。そして願いを込めて叫びなさい、というエイナの言葉に、克樹はアライズ、と力の解放を告げる言葉を叫んだ。

 その途端、それまで十二センチしかなかったピクシードールが、百二十センチサイズへと変化した。

 

..Scene4 Cut1

 突っ伏していた克樹に起きるように言う声。

 起こった顔をしている女の子は、同じクラスの明美。日直の仕事さぼったでしょう、と起こる明美に、徹夜してたから眠いんだ、と言う克樹。

 そんなことで言い逃れできると思ってるのか、と言う明美は今日ゴミ捨てはやってから帰りなさい、と言う。

 文句を言いながらも、明美の身体を上から下まで眺める克樹。相変わらず身長しか変わらないなぁと言う克樹に、顔を真っ赤にする明美。揉んだら胸は大きくなるらしいぞ、と言う言葉に決して大きくない胸を隠す明美。

 文句を言おうとした明美の言葉を遮るように現れたのは、背の高い男。誰だっけというと、明美は同じクラスでも半年以上もいるのに覚えてないのか、と呆れる。近藤誠と名乗った男は、空手部に所属していて、陸上部の明美とは知り合いらしい。そう思えば、と突然誠は話を切り替える。ソーサラーが狙われてるって話が出ていて、誰か狙われそうな奴がいるか、と克樹に問うてきた。知らないという男に興味のない克樹は応える。

 なんで自分に訊くのか、と問うと、根暗そうだからその手の仲間がいるんじゃないかと思って、と言う誠。悪意があるのかないのか、もし学校の奴で狙われそうなのがいたら、自分が守ってやろうと思って、などと言う。

 誠の熱血振りに辟易した克樹が適当に返事をして話を切り上げようとしたとき、廊下で女子が呼んでいると声を掛けられた。

 貴方も気をつけなさいよ、と言う明美の声を適当に返事して席を立って廊下に出たが、誰もいなかった。声を掛けた男子に訊いてみるが、いままでそこにいたのに、と言って首を傾げていた。どんな奴だったかと聞くと、ポニーテールの女の子だったという。

 克樹の知り合いにそんな女の子はいなくて、首を傾げるしかなかった。

 

..Scene5 Cut1

 明美から逃げ切れずに、校舎裏にゴミ捨てにやってきた克樹。

 掃除はすっかり終わった時間ですでにゴミ捨て場に人影はなく、さっさと教室に戻って家に帰ろうとしたとき、行く手を塞いだのは女の子だった。

 自分と戦いなさい、という女の子は、鞄からピクシードールを取り出した。

 それは先日駅前で戦っていた、十五センチドール。こんなところでピクシーバトルもないだろう、と言う克樹に、エリキシルバトルだ、と女の子は言う。やろうにも持ってきていない、という克樹だったが、いまエリキシルドールを持っているのはわかっている、と言って、女の子は手にしたスマートタームを見せ、距離二メートルのところにエリキシルドールがいると言う。

 エリキシルバトルのアプリはダウンロードしていたが、そんな機能があるなんて調べてすらいなかった克樹。

 仕方ない、と言って克樹は懐に入れたリーリエ用のドール、アリシアを取り出した。

 始めるよ、という声とともに、克樹と女の子はアライズと叫んだ。

 

...Scene5 Cut2

 どう攻めるか、と問われて、とりあえず防御主体で相手の動きを見る、という克樹。女の子がヒルデと呼ぶピクシーは十五センチサイズと大型なものの、ハードアーマーの形状からすると機敏性を重視したスピードタイプだと思われるのに、その特性を生かした動きをしていなかった。

 あの剣には一応気をつけろよ、と言いつつ、克樹はリーリエに先手を打たせる。

 繊細な指を守るためのナックルガードを構えつつ前に出たリーリエは、予想していた剣のひらめきを紙一重でかわした、と思った瞬間に返す刀が振り下ろされてきていた。

 防御主体で攻撃態勢に入っていなかったためにかろうじて腕のアーマーで流すものの、リーリエの悲鳴が上がった。間合いを取って油断なく構えるものの、リーリエの視界内に映る腕のアーマーには鋭利な刃物で切り裂いたような亀裂が入っているのが見えた。

 ピクシーに持たせる武器は多種多様にあるが、どれも形状は刃物でも刃があるわけではなく、基本打撃武器。しかしアライズしているときには、そうした武器は現実の武器と同じように刃ができるようだった。

 やばいと感じて冷や汗を流す克樹だったが、同時にヒルデの動きに違和感を感じていた。

 リーリエに先ほどの動作を分析させ、結果を見た克樹は作戦を授ける。おそらく予想通りなのだろう、あちらからは攻めてこない女の子に、克樹は再度リーリエから仕掛けるよう指示した。

 摺り足でヒルデに近づいたリーリエは、剣の間合いに大胆に踏み込んだ。左下段からの切り上げをかわした瞬間、克樹はリーリエに「電光石火」と叫んだ。おそらく相手にはその瞬間消えたように見えただろう。一気に懐に飛び込んだリーリエは、振り上げた拳をヒルデの左肩に叩き込んでいた。よろけたヒルデに追い打ちの回し蹴りを、同じ左肩に浴びせかけるリーリエ。イヤな音がしたと思ったとき、ヒルデの左腕が力を失い、人でもドールでもあり得ない方向に曲がっていた。バランスは悪くなってもまだ戦闘が終わったわけではない、とさらに攻撃ができるようリーリエに構えを取らせる克樹だったが、涙を目に貯めた女の子は、カームと唱えてアライズを解除し、左肩を破損したピクシーを拾い上げた。

 これじゃお母さんを生き返らせられない、と言ってその女の子は泣き出し始めた。

 

 

.Act3

 

..Scene1 Cut1

 ヒルデを抱いたまま泣きやまない女の子をとりあえず自分の家に連れ帰る克樹。状態を確認するからとヒルデを借り、充電ベッドに寝かせてチェックを行うと、左肩と左腕のフレームが見事に折れていた。それ以外のところをチェックしてみると、よくこれで動いていたなというほど、メインフレームを除くフレームも、人工筋も劣化していた。

 そしてどこか泣いている女の子に似ている表情の変化するフェイスパーツをリーリエに検索させる。検索にヒットし、やっぱりかと思う克樹。

 ベッドでチェックできる項目はパーツの情報だけで、所有者の認証がなければ所有者や機体の個体名は見ることができない。

 女の子にドールの正式な名前はブリュンヒルデか、と問う克樹。不思議そうに頷く彼女に、じゃあ君が浜咲夏姫か、と問う。頷く夏姫。夏姫が生き返らせたいと願っているのが、浜咲透子であることを知る克樹。でもこれじゃもうバトル続けられないし、自分はもう負けちゃった、と言う夏姫は、また泣く。

 どうするべきか、といろんなことを考えて、克樹は突然夏姫を後ろから抱きしめ、胸をつかんだ。服の上からではわからない思いの外量感のある感触に嬉しげな声を上げる克樹に、夏姫は逃げようとあらがう。無理矢理ベッドに押し倒した克樹は何をするのか、と問われる。両親のいない家に女の子を連れ込んで、やることなんてひとつだろう、と言う。慰めてあげよう、とにやりと笑って夏姫の身体をいじり始める克樹だったが、ふと後頭部辺りに嫌な予感を憶えた。可愛らしいアライズの声とほとんど同時に、後頭部に強い衝撃を受けた克樹は夏姫の胸に顔を埋めることとなった。柔らかい感触を楽しむ暇もなく、克樹の意識は遠のいていった。

 

...Scene1 Cut2

 止めてと声を上げているとき、何か重い音とともに克樹が胸に顔を埋めてきた。抵抗しようと腕を動かすと、克樹の手から力が抜けていた。何が起こったのかと顔を上げてみると、女の子が克樹にまたがって座って不思議そうな顔をしていた。

 表情豊かな顔はまさに幼い女の子であったが、思い悩むように唇に添えた指のサイズが手袋をはめたように大きく、腕から指先まで装甲に覆われているのを見た夏姫は、彼女がエリキシルドールであることに気がつく。

 克樹はドールにアライズの指示など出していないのに、勝手にアライズしているドールを見て夏姫は混乱する。

 人間のように振る舞うドール用の自律行動システムはあるものの、それでも勝手に行動するわけではない。主人が気を失っているのに勝手に動いていると言うより、主人のことを気を払っている様子のないそのドールのことが、夏姫にはわからなかった。

 おにぃちゃんを誘惑する悪女め、と可愛らしい声で言うドール。襲われたのはこっちで、そんなつもりはない反論する夏姫。泣き落としで克樹に取り入ろうとしていただろう、と言うドールの言葉に、まるで人間に向かって言うように、夏姫は思わず否定の言葉を叫んでいた。

 

..Scene2 Cut1

 まだ後頭部に残るコブをさすりながら、リーリエのアライズを禁止していなかったことを後悔する克樹。昨日は気がついたら夏姫はいなくなっていて、リーリエも何か怒っていて話してくれなかった。これで終わりならそれでもいいか、と思ってリーリエを通して残っているはずの映像記録も確認していなかった。

 夏姫に出くわすのも気が引けて、昼休みの間だけ解放されている屋上の片隅でゼリー飲料だけで食事を済ませている克樹の前に立ったのは、夏姫。

 意外とタフな女の子であることにため息を漏らしている克樹に、夏姫はリーリエはいったい何なのか、と問うてきた。

 新型の自律行動システムにリンクしたドールだ、と適当に答える克樹。そんなはずはない、と言う夏姫は、あれは本当に人間みたいで、まるでエレメンタロイドのエイナのような、と言う言葉を遮る克樹。

 話を切り替えてブリュンヒルデはどうするのか、と問う克樹。不機嫌そうな顔になる夏姫は、お金ないけどいつか修理する、と言う。あれは浜咲透子の形見か、という問いに頷く夏姫。夏姫の願いは透子を復活させることか、と重ねて問うと、そうだと答える。

 そうだろうと予想していたことではあったが、考え込んでしまう克樹。本当に死んだ人を生き返らせることができると思うのか、と問うと、あんなことができるんだからできても不思議じゃないと思う、と少し声を揺らしながら言う夏姫。

 まぁいいか、と思った克樹に、夏姫は問う。自分は負けたのだから、スフィアを奪うのか、と。そのつもりはないと言う克樹に、夏姫は戦って集めなければならないのではないかと言う。集めて、克樹の願いを叶えなくちゃいけないんじゃないのか、と。ちょっと悩んでるから、いまは回収しないと言う克樹。

 それよりも、と言う克樹は、夏姫にドールのことは詳しくないだろう、と言う。セミコントロールの精度は二年前のスフィアカップでも地区大会準優勝をするほどの力量だが、おそらくピクシードールについては素人同然なのだろうと思っていた。

 どういうことか、と言う夏姫に、日曜に連れて行きたい場所がある、と言う。どこに連れて行くのか、と問われ、デートに、と言うと、夏姫は顔を真っ赤にして何を考えてるのか、と大きな声を出した。

 他の人が見てるぜ、というと口をつぐむ夏姫。じゃあ明後日の一時に駅前で、と待ち合わせ、克樹は教室に向かった。

 

..Scene3 Cut1

 一時十五分になっても指定の駅に夏姫は姿を見せず、遅いことに文句を言うリーリエの声を聞き流しながらもすっぽかされたのかと思った克樹が帰ろうとしていたとき、走ってくる人影が見えた。

 バイトを切り上げて走ってきたけど遅れた、と言う夏姫。この前あんなことされたのによくミニスカートなんてはけるな、と言う克樹に、アンダースコートだもん、とめくってみせる夏姫。見られても恥ずかしくないと言うのでじっくり見てやる克樹だったが、隠されてしまった。

 学校ではバイト禁止のはずだったが、と言う克樹に、家の事情で、とごまかす夏姫。どこに行くのか問われて、秋葉原と答えて電車に乗る。なんでまたそんなところに、と言う夏姫に、自分の持ってるドールがどんなものいか知らないのかと言って呆れる克樹。行ってみればわかるといい、それ以上取り合わないことにする。

 降り立った秋葉原のこぎれいな町並みを抜け、古い店が残る場所へと足を向ける克樹。そのうちつぶれるんじゃないかと思うほど古く、奥まったところにあったのは、相変わらず雑多な品々が吊り下げられてる秋葉原でも最古の部類に入るロボット専門店、ピクシークラフトワークスだった。

 届いてる商品や新しい仕事に浮いて軽く打ち合わせた後、店主は夏姫に話を振る。ブリュンヒルデを取り出させて見せると、店主はひと目でヴァルキリードールズのナンバー四であることを見抜いた。

 訳がわからずきょとんとしている夏姫を放っておいて、克樹はこいつの修理用パーツがほしいんだ、と言った。

 

...Scene3 Cut2

 ブリュンヒルデは第三世代型のピクシードールの代表的なドールの一体だった。

 第一、第二世代はスフィアの開発元であるスフィアロボティクスを主導に開発が進められたスフィアドールであるが、第三世代からは規格が後悔され、まだまだ高価であったものの、様々な会社により開発が行われるようになった。

 その第三世代終盤に登場し、高性能低価格なピクシードールの実現を目指して開発されたのが、ヴァルキリードール社の五体の試作ピクシードール、ヴァルキリーシリーズだった。その後ヴァルキリードールズは経営難からスフィアロボティクスに吸収合併され、すでに登場し始めていた低価格を標榜し性能の低下も同時に招くことになった通称暗黒時代の第四世代の後、価格と性能の両立を目指した新企画として登場しつつある第五世代パーツには、ヴァルキリーシリーズで取り入れられた技術が多数使われているとされている。

 試作型の五体は一体が開発中の事故で廃棄され、二体は所在がわかっているが、残りの二体は所在不明となっていた。

 説明を聞いてそんな貴重なものだったのか、と驚く夏姫。ブリュンヒルデを買い取ったと噂があったプロフェッサー浜咲は、と店主に問われ、一昨年の夏頃になくなったと夏姫は告げる。

 そんな様子をよそに、克樹はパーツカタログからブリュンヒルデに適合するパーツを選んでいた。店主に見積もりを取ってもらうが、バトルにも使えるものとなると工業用途のパーツも含まれるため、軽く十万を超えてしまっていた。ソフトアーマー、ハードアーマーにも変更が必要で、十五センチドール用のアーマーはまず見あたらない、と言うと、夏姫は泣きそうな顔になっていた。

 そんな彼女の様子に、例の人から捜索願いは出ているのか、と克樹は店主に問う。取り下げたという連絡はないから、と言う店主の言葉に、克樹は夏姫に言う。もし取り外したサブフレームやアーマーを全部売り払うなら、このパーツのすべてが手に入る、と。店主も助け船を出し、ピクシードールの収集家で、ヴァルキリーシリーズの捜索をしている人がいる、と言う。たとえ劣化して壊れていてもその人であれば買い取ってくれるだろう、と。もちろん全部ならばもっといい金額になるが、パーツだけでも買い取ってくれるだろう、と。

 泣きそうな顔でどうしたらいいだろう、という夏姫に、克樹はブリュンヒルデは飾っておくだけの人形か、と問う。否定する夏姫に、戦いはまだこれから続けるつもりなのか、とさらに問う。バトルドールは戦えなければ飾りだ、と。

 頷いた夏姫は、その人と交渉をお願いします、と言った。

 

..Scene4 Cut1

 できるだけいいパーツを揃えるし、専用のアーマーもつくっておく、という店主の言葉に送られてPCWを出た克樹は、夏姫にもう一カ所寄りたい場所があると言った。

 電車に乗って数駅、閑静な住宅街の一角で、豪邸とも家の呼び鈴を鳴らした克樹は、アヤノという人に呼びかけて鍵を開けてもらう。

 克樹たちを待っていたのは、小学生ほどに見えるが、メイド服を着た女の子のような人物。お茶を淹れるという彼女にお構いなくと告げて、寝ているという叔父を起こしてもらうことにする、その間にリビングを物色する克樹は、携帯端末をひとつ掘り出して夏姫に渡した。

 所有権の委譲についてはショージに確認してほしい、というアヤノをまじまじと見る夏姫。彼女はエルフドールで、いまここで趣味と実益を兼ねて実験中なんだ、という。誰の家なのかと問われて、ヒューマニティパートナーテックの技術部長の家だ、と言った。

 リーリエにはアヤノと同じ自律行動システムを使っていて、本体は別の場所にあってネット経由でリンクして人間のような行動が可能なんだ、という言葉に、夏姫はあまり納得した顔はしていなかった。

 ヒューマニティパートナーテックは夏姫でも聞いたことがある会社で、最近ピクシードールの制御ソフトとかヒューマニティフェイスとかのパーツをつくってる有名な会社だよね、という夏姫は、そんな人の家に上がり込んでいいのか、と言う。ここは叔父で実質的な保護者の家でもあるから大丈夫だ、と言う。両親はどうしてるの、という問いにどう答えようか悩んでいるとき、やってきたのはショージこと、音山彰次。

 夏姫のことを見て彼女をつくったのか、と言う彼だったが、夏姫がそれを否定する。無理矢理襲おうとしたらリーリエに邪魔されたというと、女の子はもっとデリケートに扱わないとダメだという彰次。ひそひそと彰次が可愛いじゃないかと耳打ちしてくるのに性格はけっこうきっついみたいだと答えている克樹。それを聞いていた夏姫は文句を言う。

 落ち着いて自己紹介をした彰次に克樹は使ってない端末を彼女にあげて良いかと問い、了解を得て所有権の委譲と環境移行を行う夏姫を横目で見ながら、克樹は彰次に問う。

 魔女の居場所を知らないか、と。今更あいつに何の用があるのかと厳しい顔をする彰次だったが、理由は言えないができれば会いたいんだ、という克樹。克樹の顔を見て、細かく事情は問わずにいまはどこにいるかは知らないが、たぶんスフィアロボティクスだろう、と言った彰次。やっぱりと思う克樹は、会う方法はあるかと重ねて問う。いま具体的にどこにいるかはわからないが、どうしてもというなら知り合い関係に聞いてみると言う彰次にお願いをする克樹。

 魔女とは誰なのか、と問うてくるそれをごまかしているとき、夕食の準備をするというアヤノが言う。まだまだ法律的な問題で免許や介護方面には進出できていないが、アヤノのつくる料理はかなりおいしいぞ、と言って克樹がそろそろ遅くなるから、という言葉を押して、彰次は食事に誘った。

 

..Scene5 Cut1

 最寄り駅からしばらく。夕食を結局食べてずいぶん遅くなってしまった帰り道に、機嫌の良さそうな夏姫と彼女の家に向かって歩いていた。

 今日はありがとう、と言う夏姫。ヒルデも復活できそうだし、新しい端末は画面が大きくなっていままでよりも使いやすそうだから助かったという夏姫は、これからもまだ戦えそうだ、と言った。

 でも、スフィアを回収しなくていいのか、という夏姫の問いに、少し考えていることがあるから、いまはスフィアを奪ったりしない、と克樹は言う。魔女に関わることかという問いには、克樹は黙して答えることはなかった。

 自分は母親を生き返らせるためにエリキシルバトルに参加したのだ、という夏姫。自分の家の父親はだらしがない人で、いまもどこで何しているのかわからない。でも、母親が頑張って、ピクシードールの開発なんかの仕事をして支えてくれていた、と言う。でも仕事が好きすぎて、過労で去年亡くなったのだ、と言う。その形見であるヒルデを失わなくてよかった、という夏姫。

 そして夏姫は、克樹にどんな願いでエリキシルバトルに参加したのか、と問うてくる。その話はいまはする気はない、という克樹に。頷く夏姫。でももし、話したくなることがあったら絶対にちゃんと聞くから、話してほしい、と言った。

 この前みたいなことをしたら今度は容赦しないけど、でも、スフィアをまだ自分に預けてくれている間は、克樹の手伝いくらいはする、という夏姫。

 古びたアパートの前で夏姫と別れた克樹は、自分の願いはそんなに良いものじゃない、と言ってその場を離れた。

 

..Scene6 Cut1

 夏姫の家からしばらく歩き、克樹は尾けてくる人物がいることに気がついた。

 住宅街のど真ん中のここは、夜になってまだそれほど時間は経っていないものの、人影は決して多くなかった。かすかな足音が自分の動きに連動しているのを見て、克樹はこっそりとスマートギアを頭に被った。途端にリーリエに文句を言われるが、後ろを監視しつつ、レーダーの状況を確認するように言う。

 できるだけ人通りのある道に出ようと角を曲がったところで、リーリエの警告の声がしたが、すでに遅かった。

 曲がったところにいたのは、背の高い人物。フードを被っていて顔は見えず、そしてすでにピクシードールを目の前に置いていた。

 舌打ちをした克樹はアリシアを取り出しながら、PCWでパーツ交換をしたことを悔やんだ。ベンチテストもやっていないパーツでは、どれくらいの性能があるのか全くわからないから、劣化してて性能が低くても、いままでのパーtの方がマシだった。

 防雨用のレインアーマーを被っていてシルエットもわからないが、おそらく標準より少し背の高い十三センチドールと思われるピクシーに対峙し、行くぞ、とリーリエに声をかけ、アライズの声をかけた。それと同時に、尾行者のドールも百三十センチに巨大化した。

 

...Scene6 Cut2

 どんな攻撃をしてくるかわからないとリーリエに注意を促す克樹。

 尾行に気づかれて居直ったのか、と思いつつ、相手の出方を待つが、仕掛けてくる様子はない。こっちからいくよ、というリーリエに頷きつつ、克樹は相手のことをしっかりと観察する。

 近づいてくるリーリエに反応して右手を上げたのを見て、克樹はリーリエに回避を指示した。途端に右手の装甲の隙間から発射されたのは、激しい炎。

 内蔵型ファイアスターター? と呟く克樹に、当たるなよ、とリーリエに注意を促す。頷きつつ接近しようとするリーリエだったが、動きに反応して発射される炎は、容易に近づけるものではなかった。

 夏姫と戦ったときに装備品も巨大化するだけでなく、現実の剣のようになるのはわかっていたが、一時期だけ物好きがつくって店に卸して販売していたファイアスターターなんてものまで兵器のようになるなんて思わなかった克樹。本当に魔法のようだと思いつつも、ファイアスターターにも弱点があることを知っていた。

 リーリエにイメージボイスで疾風怒濤を指示する克樹。頷くリーリエは、ファイアスターターが途切れた一瞬、姿が消えたようになった。

 ベンチテストもやっていないパーツでやるのは一種の賭だったが、リーリエは一瞬にして尾行者のドールの近くに接近していた。

 装備重視型なら接近してしまえば、と思ったが、リーリエのパンチを尾行者のドールはわずかな動きで回避していた。

 追撃のパンチと回し蹴りも思いの外素早い動きで回避される。距離を離されないようさらに接近するようにリーリエに指示したとき、レーダーに反応が見えた。角を曲がって現れたのは、夏姫。来るなという声をかけたとき、リーリエが逃げちゃう、と言った。振り返ると、ドールとともに襲撃犯は走り去っていくのが見えた。追わないと、という夏姫だったが、やめておこうと言って克樹は姿を消した通り魔のことを考えていた。

 

 

.Act4

 

..Scene1 Cut1

 通り魔を自分の手で捕まえよう、と言う夏姫に、面倒臭いとやる気のない克樹。

 昼休みにやってきた夏姫は、克樹に拳を振り上げながらそう言ったが、克樹としてはそんなことをやる気はあまりなかった。

 自分が襲われたのにどうも思わないのか、という夏姫に対し、また襲ってくることがあったら戦うさ、と答えるだけの克樹。リーリエも耳元でそんなのでいいのか、と言ってくるが、一応わかる範囲では調べるよ、と言うだけであまり取り合わない。

 自分は通り魔を許せないし、母親を生き返らせるためにできることはするから、と言う夏姫に無理はするなよ、という克樹。行ってしまった夏姫の背中を見ながら、克樹はため息をついていた。

 いいのか、と問うてくるリーリエに、心配はするが、通り魔も夏姫も自分の願いを叶えるために必死なのだろうから仕方ない、と言う克樹。

 でも同時に、ふたりは踊らされているんだ、と思う克樹。

 魔法のようなアライズの機能。特別なスフィア。戦ってエリキシルスフィアを集めることで得られるという命の水エリクサー。エリキシルスフィアを持たせ、戦いをするように仕向けているものがいる、と思う克樹。魔女モルガーナ。それがおそらく今回のバトルの仕掛け人。リーリエに検索してもらうのが早いが、写真があるわけでもないので難しかった。一応リーリエにスフィアロボティクスの社員の写真があったら集めておくように指示はしてあったが、結果は芳しくなかった。

 バトルに寄って得られるエリクサー。しかしおそらくモルガーナは、それ以上のものを得るためにバトルを開催したのだと、克樹は思っていた。

 

..Scene2 Cut1

 克樹の態度に文句を言いながら靴を履きかえる夏姫は、ちょうどそこにやってきた明美に声をかけられる。

 受験のときにたまたま隣の席になって以来友達になった明美とは、別のクラスになっているいまでも仲がよかった。

 陸上部は今日はなかったんだということで、バイトに行く夏姫は、駅に向かう明美とともに歩く。

 克樹ともめていたらしいけどどうかしたのか、と問われて、エリキシルバトルのことを言うわけにも行かず、適当にごまかす夏姫。

 変なことされてないか、と言う明美の言葉に、たじろぐ夏姫だったが、大丈夫だったんでしょう? とわかったように言う明美。卑猥なことを言ってひたすら女の子に嫌われてる克樹だったが、それも考えのことがあってのことだと言う。でも覚悟がないなら暴走してもおかしくないから気をつけろ、と言われて、克樹に何かあったのか、と問うてみる。

 彼には妹がいたんだ、という明美。でも二年前、スフィアカップの地区大会が終わった直後に、妹は誘拐事件に遭い、車から投げ出されて死んだのだと言う。

 克樹とは、共働きで家に帰るのが遅い家であったために、妹の百合乃が児童館にちょくちょく来ていて、親が児童館の職員であったこともあって中学の頃に手伝いみたいなことをしていて、百合乃が引っ張ってくるので出会ったのだ、という。

 中学の頃から面倒臭がりで家に引きこもってることの多かった克樹だったが、妹のお願いは断れなかったし、表に出す態度ほど悪い人間ではないことは、百合乃の話を聞いているとわかった。

 それが百合乃が死んで、百合乃をかすがいのようにしていた克樹の家は親がほとんど帰らなくなってしまって、百合乃を大事にしていた克樹はさらに引きこもるようになったのだと言う。克樹が女の子に卑猥なことをしたり、襲い掛かったりするのも、おそらく女子に警戒心を持たせるようにするためじゃないか、と明美は言う。何しろ百合乃は、道を教えてほしいと言われて近づいたときに、克樹の目の前で掠われたのだから、と。

 でも本当に気をつけて、という明美は、どうして克樹の側にいたのか、と改めて問う。

 ピクシードールのソーサラーだからその繋がりで、と苦しいいい訳をすると、明美は自分もあんまり真面目にやってないけどソーサラーなのだと言う。なんかパーツが劣化してきたから、交換とかしないといけないけどよくわからないから教えてほしい、と言う言葉を聞いて、週末で良ければPCWにお願いしたパーツが届くからいいか、と思ってOKする夏姫。

 克樹もまたバトルをやればいいのに、という夏姫。スフィアカップのフルコントロール部門で優勝までしたんだから、かなり強いはずなのに、という夏姫に対して、表情を曇らせる明美は言う。

 スフィアカップでドールをコントロールしていたのは、百合乃だったのだと。百合乃は当時いろんなところから注目されているという話もあったくらいの、スマートギアの適正者で、まるで自分自身のようにドールを操作することができるんだ、と百合乃自身から聞いたことがある、と言う明美の言葉に、じゃあいまはリーリエがいるじゃない、と思う夏姫。でもそのリーリエとはいったい何なのだろう、と疑問に思っていた。

 新型の自律操作システムだ、とは聞いていたが、あの自然さは、テレビの中で見たことがあるエイナと同じ人工個性と遜色がないもののように思えていた。

 そこにやってきたのは、近藤誠。

 部活はないのかと問う明美に、通り魔のパトロールのために早めに切り上げた、と言う。危ないことはやめなさいとたしなめられるものの、何の話をしていたのか、と問うてくる。

 週末にピクシードールのパーツを買いに行くのに夏姫に手伝いをお願いしたの、という明美は、でもそんなの言われてもわからないでしょう、と空手莫迦の誠に言った。ぜんぜんそんなのわからないと笑う誠。

 そんなやりとりを横目で見ながら、夏姫は克樹は妹の復活を願っているんだ、と思っていた。

 

..Scene3 Cut1

 被害に遭わないためにも犯人を絞り込もうと、家に帰ってきた克樹はリーリエに任せていた情報をスマートギアを被って表示させる。

 おそらくエリキシルバトルの参加資格は、スフィアカップの一位と二位に配られた、次世代型スフィアだ。第四世代初期ながらすでに次世代型のスフィアが完成していることに疑問を抱かなくもなかったが、第四世代の間にも一般販売分の次世代型スフィアは販売されていったから、おそらくその特殊性に気づいている人は少ない。

 基本的には運動制御を行うスフィアは、ボディの他の部分に制限されて充分に機能を発揮できるものではなく、基本的にオーバースペックな代物であることは、ずいぶん以前から知られていたことだった。しかしそれはリーリエによる制御と組み合わせると、次世代型スフィアの機能は充分と言っていいほど発揮できる。ボディから送られてくる情報と、送信する情報のタイムラグが極端に少なく、通常ならば操作司令の方が遅れるために気づかないが、ほぼタイムラグのないリーリエであれば、そのわずかなタイムラグが大きく影響するのだった。

 一般販売分のものもテストしてみたが、スフィアカップで配布されたものとは性能が一段も二段も落ちるものでしかなかった。

 特別なスフィアがそれだとして、エリキシルバトルへの参加資格はおそらく無条件ではなく、エイナが言ったように、強い願いを持っているもののみを選んで呼びかけたのではないか、と思えた。

 そうした願いを持っていそうで、エリキシルスフィアを持っている人物を抽出してみようと思ったが、願いを持ちうる条件の方の絞り込みがリーリエをもってしても困難で、膨大になりすぎるか、少なすぎて、今回の通り魔事件の犯人と思える人物にぶつかることはなかった。

 しかし身近で、一人だけ該当しうる人物がいた。背格好も近いその人物は、夫人。旦那を失っているというエリキシルバトルへの参加資格もあるということで、可能性はかなり高いと思われた。

 しかし夫人の性格を知る克樹は、通り魔などをする人物ではない、と思えたが、人の内面なんてわからないとも思う。一度会ってみようと思って電話を入れてみたが、携帯電話の番号は不在着信。家に電話をしてみてもメイドが出てきて、出掛けていて帰宅予定は不明だと言われた。

 思い悩んでいるとき、リーリエが彰次が来た、と言った。

 近くに寄ったから定期メンテと、新しい情報だ、と彰次は言った。

 

 思い悩んでいるとき、叔父から連絡が入る。

 おそらく魔女の居場所がわかった、という彰次。どこに、と問うと、おそらくエイナに張り付いてる、と言う。送られてきた画像を見ると、エイナのライブの後と思われる画像の隅に、顔が半分しか写っていないが、あの赤い唇がハッキリと見えた。

 次のエイナのライブ予定を確認してみると、週末の夕方に開催される予定になっていた。しかしチケットは完売。スタッフカーに乗り込むタイミングに捕まえられるか、と思ったが、会場は地下のスタッフ用駐車場を完備しているところで、少なくとも会場に入らなければ探すこともできそうになかった。

 ネットオークションなども探してみるが、どれも高額で取引されている上に、一瞬にして入札されて入手は難しそうだった。

 招待客のチケットでも手に入れば、と言う彰次は、今回のチケットは手に入れる機会はあったが、他の奴に回してしまったという。本当に何してるのかと問われるが、言えるようになったら言う、とだけ答えた。リーリエのことがあるのはわかるが、おかしなことするなよ、と言われて頷く克樹。誰か知り合いにチケット持ってる奴がいないかどうかは当たってみると言う彰次に、お願いするしかない克樹だった。

 

 

 家に帰ってきた克樹は、リーリエに指示して絞り込みをさせていた情報をスマートギアを使って表示させた。

 エリキシルスフィアを持っているのは、おそらくスフィアカップに出場して上位に残った人に贈られた次世代型のスフィアで間違いはないだろうと思った。

 魔女の意図はハッキリとはわからなかったが、エリキシルスフィアを持っている者同士を戦わせることが、何か目的に近づくために必要な要素で、盛んにバトルをやっているのはピクシードールに偏っていて、とくにバトルの強さが見込めるスフィアカップ上位入賞者を選んでスフィアを配ったのだろうと思われた。スフィアカップ上位入賞者に配られた次世代型スフィアすべてがエリキシルスフィアなのかどうかはわからなかったし、おそらくエリキシルバトルへの参加資格は、身近な人を失っているなどの強い願いがあるかどうかだと思われた。

 できうる限りの情報を調べてみるが、スフィアカップの上位入賞者で、エリキシルスフィアを得る前後に家族や友人などを失っている人物ということで検索をかけても、全国で数人いるにはいたが、事件性がない死者の情報だと出てこないことが多く、PCWで見たファイアスターターの購入者の女の子の情報も上がってきたりはしない。

 次世代型スフィアを持っている人物だけでも百人以上いるのだから元々調べるのは困難なのは仕方ないが、雲を掴むような話だった。

 しかし身近で、一人だけ該当しうる人物がいた。背格好も近いその人物は、夫人。旦那を失っているというエリキシルバトルへの参加資格もあるということで、可能性はかなり高いと思われた。

 しかし夫人の性格を知る克樹は、通り魔などをする人物ではない、と思えたが、人の内面なんてわからないとも思う。一度会ってみようと思って電話を入れてみたが、携帯電話の番号は不在着信。家に電話をしてみてもメイドが出てきて、出掛けていて帰宅予定は不明だと言われた。

 思い悩んでいるとき、叔父から連絡が入る。

 おそらく魔女の居場所がわかった、という彰次。どこに、と問うと、おそらくエイナに張り付いてる、と言う。送られてきた画像を見ると、エイナのライブの後と思われる画像の隅に、顔が半分しか写っていないが、あの赤い唇がハッキリと見えた。

 次のエイナのライブ予定を確認してみると、週末の夕方に開催される予定になっていた。しかしチケットは完売。スタッフカーに乗り込むタイミングに捕まえられるか、と思ったが、会場は地下のスタッフ用駐車場を完備しているところで、少なくとも会場に入らなければ探すこともできそうになかった。

 ネットオークションなども探してみるが、どれも高額で取引されている上に、一瞬にして入札されて入手は難しそうだった。

 招待客のチケットでも手に入れば、と言う彰次は、今回のチケットは手に入れる機会はあったが、他の奴に回してしまったという。本当に何してるのかと問われるが、言えるようになったら言う、とだけ答えた。リーリエのことがあるのはわかるが、おかしなことするなよ、と言われて頷く克樹。誰か知り合いにチケット持ってる奴がいないかどうかは当たってみると言う彰次に、お願いするしかない克樹だった。

 

...Scene3 Cut2

 克樹の家の一室を占有しているコンピュータ群。それがリーリエの本体だった。

 彰次が通っていた大学で研究され、ある程度の成果を上げつつも中止された特別な設計のコンピュータを買い取って設置して、リーリエを構築していた。

 状態を見た彰次は問題ないな、と言って接続していた端末を取り外した。

 一つため息をついた後、なんでいまさら魔女の会おうとする、と彰次がいった。それは、と言葉を濁す克樹。

 魔女と会ったのは一回だけ。百合乃が誘拐され、車から投げ出された現場にたまたまやってきたときだった。いまから考えれば本当にそれがたまたまだったのか疑問にも思うが、魔女の車で病院に運んでもらったが、百合乃は助からなかった。

 そのとき何故か手術室に入っていった魔女は、助けられなかったという医師の後に出てきて、ディスクを克樹に手渡した。

 その中に入っていたのは、百合乃の脳内情報だった。

 あいつの性質はオレがよく知っている、と言う彰次。あいつに触れるのは危険だ、と警告する。

 大学時代、脳の機能をコンピュータ上に再現する研究を彰次は行っていたのだと言う。企業と提携しての研究で、企業側の技術者として現れたのが、魔女だったのだと以前聞いたことがある。

 スマートギアの原型のようなものでの脳内情報の取得はある程度成功したものの、費用などの面から研究は大きな成果を得られることはなく、結局企業側に買い取られる形で中止になったのだと言う。

 あのときオレの知り合いがひとり死んでる。関係があるかどうかはハッキリしないが、魔女は他人の命なんて気にしていない奴だと言う彰次。百合乃もまたそれに巻き込まれた可能性があるし、もしかしたら克樹もまたあいつの思惑に乗せられてしまう可能性がある、と言った。

 押し黙る克樹は、言葉もなかった。

 百合乃の脳内情報は、彰次によってそうであることがわかり、大学で廃棄直前だった脳内情報を展開するために設計されたコンピュータによって、再現されることとなった。情報には欠損があるがためにオリジナルの人間と同じにはならず、百合乃の記憶までを再現することはできなかったが、百合乃と同じ性格を持つリーリエが生み出された。

 リーリエを維持するのはけっこうなお金がかかるし、ヒューマニティフェイスの関係で入ってくるお金でどうにか維持できているが、今後リーリエの情報量がどんどん増えた場合、拡張も考えなければならなかったが、特殊な設計のコンピュータを改めて購入することができるほどの金額は、克樹も持っていなかった。

 百合乃とは別れを済ませただろう、と言う彰次。その上でまだ魔女と会う必要があるのか、という問いに、うん、と頷く克樹。

 理由を問われるが、言えない、と答える。睨むように見つめてくる彰次の視線を、克樹は真正面から受け止める。リーリエをつくるとなったときもそうだった。思いに流されているのはわかっていたが、結局彰次は手伝ってくれた。

 深くため息をついた彰次は、魔女はおそらくいまはエイナに張り付いていると思う、と言った。見せられた写真に写っていたのは、歌いながらダンスを踊るエイナの写真。その向こう、幕の裾に、あの赤い唇がハッキリと見て取れた。

 ポケットの中のナイフに伸びる克樹の手を押さえる彰次。持ってるなとは言わないが、刺してもどうにもならないし、おそらくあいつは死なないぞ、という彰次。魔女は自分が知り合ったときから姿形が変わらない。老いてもそれが見えないだけかも知れないが、魔女と呼ばれるだけあって不老不死でもおかしくないし、そうと思わせる雰囲気と、能力を持っているのだから、と言った。

 何をしたいのかはわからないが、あいつに流されるようなことだけはするなよ、という彰次の言葉に、頷く克樹。

 リーリエに探させたエイナの次回のライブチケットは、どこでも手に入りそうになかった。チケットならオレも入手先は知らないし、技術発表の場でもあるから本来なら手に入れることはできたが、今回は他の奴に回した、と言う。誰か知り合いが持ってないか当たってみる、と言って、彰次は出て行った。

 

..Scene4 Cut1

 耳元でリーリエが文句を言っているのを聞き流しつつ、できればいまここにスマートギアがあればいいのに、と思って座っている克樹。

 目の前ではサッカーの試合が展開されていたが、体調が悪いと適当なことを言って見学をしていた。

 そこにやってきたのは夏姫。なんで見学してるの、という文句に、体調が悪いからだ、と言う克樹。どうせ嘘でしょ、というが、夜中までいろいろやってたから眠くて体調悪いのは本当だ、という。そういう夏姫はどうしたのか、と問うと、試合待ちだ、と言ってバレーをしている女子の方を示した。

 夏姫の姿を見て、思わず制服よりもそそるな、と言ってしまう克樹。今日も家に来いよ、という言葉に夏姫は目をつり上げるが、ため息を吐きつつ、それもなにかのジェスチャーなのか、と問うてくる。目を逸らす克樹に、明美から妹のことを聞いた、という夏姫。卑猥なことを言われるのはイヤだけど、理由があってのことなら自分は気にしない、という。そんなことを言ってると本当に襲うぞ、と言うと、じゃあやっぱりこの前のはただのジェスチャーだったのか、と突っ込まれ、さらに目を逸らすしかなかった。

 昨日も襲われた人がいた、という夏姫の言葉に、うんと頷く克樹。襲われたのは会社員の男性で、すれ違いざまにドールを入れた鞄を奪われ、その拍子に倒れて軽い怪我をしたと言う。エリキシルスフィアを持つ、スフィアカップに出た人物かどうかはわからなかったが、近くの川原に頭部を破壊されたスフィアドールと鞄が捨てられていたのから見て、ピクシードール狙いなのは確かだろう、と言った。

 どうして普通の人を襲ってるんだろう、と言う夏姫の質問に、たぶん自分と同じでレーダーの使い方を知らないんだ、と言った。それと、もしかしたらエリキシルスフィアを持つのがスフィアカップの出場者であることを想像できてない奴なのかも知れない、と克樹は言う。

 それから、早くエリキシルスフィアを集めて、叶えたい願いがある奴なんだろう、とも言った。

 このまま通り魔を続ければいつかは警察に捕まって一巻の終りだから、放っておいてもいい、と克樹は言うが、納得していない顔を夏姫はしていた。

 もしかしたら自分や克樹が襲われるかも知れないし、ソーサラーの知り合いは学校にもいるから、身近な人が怪我したり、ドールを奪われて嫌な思いをするのはイヤだ、という夏姫。大切なものを失うのが嫌なことだということくらい、知っているでしょう、と言われて、克樹は黙り込む。

 自分はあんまりたいしたことはできないけど、通り魔を探すよ、と言う夏姫は、試合の時間だと言って立ち上がった。

 何か声をかけようと思って、言葉が思い付かない克樹。もう少し真面目に探してみるか、と思っていた。

 

...Scene4 Cut2

 意外と真面目に考えているらしい克樹の様子を見て、夏姫は思いきって克樹の願いを聞いてみる。ごまかす克樹に、百合乃の復活が願いなのか、問う夏姫。

 動揺する克樹だったが、明美かと苦い顔をしつつも、彼はそれを否定する。じゃあリーリエはいったい何なのだ、と問うてみる。明美の話からするに、リーリエはまさに百合乃そのものの性格をしているのではないか、と。だったら克樹が願っているのは百合乃の復活なんじゃないかと言うと、克樹はひとつため息を吐いた。

 自分が願っているのは百合乃の復活ではない、と克樹は言う。あいつとは別れを済ませたから、生き返ってほしいとは思っていない、と言う克樹。

 じゃあ、という夏姫の言葉を遮って、克樹は告げる。

 リーリエはおそらくエイナと同じ、人工個性なのだ、と。リーリエは、複雑なことは省くが、百合乃の脳の情報を再構成してつくられたもので、記憶こそ受け継いでいないものの、性格や、ドールを操作する能力は受け継いでいるのだと。

 そんなことを誰が、というと、おそらくエイナもまたリーリエと同じものなのだとしたら、エリキシルバトルの主催者であり、魔女と言うべき人物だ、と克樹は言った。

 どちらにせよ自分はあまり積極的に戦う気はない、という克樹。自分はぼちぼちは戦えるが、スフィアカップのときも強かったのは百合乃で、いま強いのもリーリエがいるからだ、と。リーリエは二回線か三回線の通信回線が確保されている状況でないと充分に能力を発揮できず、電波の乱れがそのまま弱点になり得る、と。場所を選べば大丈夫だが、ヘタなところで戦うのはそのまま敗北につながる、と。

 そのときは自分が戦うから大丈夫だよ、と夏姫は言う。スフィアを奪わず、ヒルデを壊さないでくれた克樹のためなら、少しくらい手伝うよ、と言って夏姫は克樹に笑いかける。

 そこでやってきたのは誠。呼ばれてるぞ、と言われて、夏姫は急いでコートに走って行った。克樹に手を振りながら。

 

..Scene5 Cut1

 パーツが届いたという連絡があって、克樹はPCWを訪れていた。送るのに、という親父の言葉を聞きつつ用事があって、と言う克樹。

 新しいパーツを店の奥で組み付けつつ、依頼していた新品のソフトアーマーとハードアーマーも含めてアリシアに組み込む克樹。これであとベンチデータさえ取れば、次に通り魔が襲ってきてもおそらく対処できるだろう、と思う克樹。

 リーリエに動かさせると、かなり調子がよさそうだった。

 本当にエイナみたいだな、とリーリエのことを見て言う親父。

 エイナはスフィアロボティクスの子会社、エイナプロダクションというところで実験が進められている人工個性と呼ばれている新型のAIの一種だった。

 本当に人間と遜色なく話し、通話だけなら人間と人工個性を区別することが困難なほどの出来になっているという。プロモーションとして、スフィアドールの自動制御システムも組み込まれ、アイドルのような活動もやっているエイナは、来週には都内でライブが行われる予定だった。

 他に追随を許さないエイナを完成させたのは、おそらくモルガーナだと思う克樹。リーリエのシステムと、エイナのシステムはおそらく同一のもので、リーリエが百合乃をベースにつくられてるのに対して、エイナもまた誰かをベースにつくられているのだろう、と思う。

 エイナが制御しているエルフドールのライブ映像のCMが終わった後、克樹は親父にファイアスターターの顧客リストを見せてほしいという。渋る親父だったが、宣伝のためのデータ取りには自分も協力しただろうと言って説き伏せる。

 ピクシードール用のライターとして物好きな個人がつくったファイアスターターは、それをおもしろがったPCWでのみ販売された商品だった。しかしガスのタンクと腕のアーマーの内側に取り付ける発火部分をつなぐチューブの一部に劣化したものが発見されたため、念のため親父が回収することにしたものだった。

 顧客リストには回収済みと未回収の名前が並んでいる。その中で回収不能の文字を見つけて、これはどういうことか、と問うた。

 女性らしい名前は、克樹は見覚えがあった。リーリエに確認させてみると、隣県のスフィアカップ地区大会で優勝し、全国大会で三回戦敗退という結果を出していることがわかった。

 優勝のときに撮られた写真には、優勝カップを手にしてる線の細い女の子と、その両隣に両親と思われる男女。それから彼女の後ろに、スマートギアをつけた若い男が立っていた。

 これは誰かと聞いてみると、確か梨里香はドールのオーナーで、ソーサラーは別という、克樹と同じタイプの出場者だった、という。ふぅんと思った克樹は軽くその情報を検索してみるが、ソーサラーの情報までは出てこなかった。

 この子は回収のために連絡を入れたが、病気で亡くなったのだと言った。彼女の持っていたピクシードールも処分したというので回収不能だと言うことだった。

 他にリストに知った名前はないかと思っていたら、さらに最近見たことのある名前があることに気がついた。

 夫人の名前を見て、克樹は思い悩む。背が高く、そしてエリキシルバトルに参加する資格のある、身近な人物が亡くなっている人物。夫人がもしかしたら通り魔の犯人かも、と思っていた。

 そこでリーリエが告げる速報。第三の通り魔の被害者が出た、ということだった。

 お前も気をつけろよ、という親父の言葉に、克樹は頷いていた。

 

 

.Act5

 

..Scene1 Cut1

 克樹の家に来た夏姫は、呼び鈴を鳴らす。日曜日、出掛ける格好でヘンでないかどうかを確認しつつ反応を待つものの、応答はない。カメラに向かってリーリエに呼びかけてみると、何しに来たのか、と少し不機嫌そうな声がした。

 まだ克樹は寝ているというけど、起きそうならちょっと用事があると頼み込んで入れてもらう。

 克樹の部屋に入り、ヘンなことをするな、とリーリエに注意をされつつ、ベッドに近づく。

 すやすやと寝ている克樹は、いつもの取っつきにくさとは違って、子供のような寝顔をしていて、可愛らしいと感じてしまう夏姫。いつもこんな顔だったら割と悪くないのに、と思いつつ頬をつついてみると、リーリエに文句を言われた。

 秋葉原に行くから誘おうと思ったのに、起きる様子がないから仕方ない、と思ってるときと、ぱちりと目を開けた克樹が起き上がった。夏姫のことを無視して、チケットが取れたかどうか確認してみるが、リーリエは空振りだった、と答えるだけだった。

 突然のことに驚く夏姫。考え込み始めた克樹がやっと彼女の存在に気づいて、なに勝手に入ってきてるんだ、と言う。夏姫から襲いに来るとは積極的だな、という言葉を受け流し、秋葉原に行くから克樹も行くかと思って誘いに来たんだ、というと、今日は用事があるからいけない、という。

 ちょっと残念に思う夏姫の背中にかけられる、気をつけろよ、という言葉。心配してくれるのか、という返事に対しては、うるさいという少しうろたえた声しか返ってこなかった。

 本当は優しいお兄ちゃんなんだろう、と思う夏姫は、もし何かあったら連絡するから、助けに来てね、と言って克樹の家を出た。

 

...Scene1 Cut2

 ぶつぶつと夏姫の文句を言うリーリエを放っておいて、克樹は今日のライブをどうするか、と考えていた。ここ数日ライブのチケットを得ようといろいろ手を尽くしてみたが、今日になっても手に入れることができないでいた。会場近くでダフ屋が出ていないかどうか探すか、一か八かに賭けて会場の外に出てこないか待つかと思っているいとき、電話が入る。電話の相手は夫人。今日時間があるかしら、という言葉に克樹は頷いていた。

 

..Scene2 Cut1

 メイドの持ってきたお茶をすする克樹。メイドが休みを取っていたときと違って、すっかり綺麗になった屋敷で、夫人は優雅にお茶を飲む。

 彰次から話は聞いた、という夫人に、知り合いだったのか、という克樹。ヒューマニティパートナーテックには出資をしているから、という夫人。それから、スフィアロボティクスにも出資をしている、という夫人は、鞄の中からエイナのライブチケットを取りだした。

 チケットを渡してくれない夫人に、どういうつもりか、と問う克樹。あなたのところにもエイナが現れたのでしょう、と問われ、克樹は思わず鞄の中ですぐに取り出せるようにしたアリシアを掴んでいた。座りなさい、と言う夫人は、自分のところにもエイナが現れたのだ、と言った。それでどうしたのか、と問うと、断ったのだ、という。

 どうして、と問うと、旦那に生き返ってほしいと思うことはあるものの、そう世の中は簡単にはいかないのだ、と言う。大切な人に生き返ってほしいと思ってそれを実行に移せてしまうのは、子供か状況を考えられない人だけだろう、と言った。

 泣きそうな顔をしている夫人だったが、彼女は何故ライブのチケットがほしかったのか、と言う。会いたい人がいるから、と言う克樹に、魔女のことか、と言われて、克樹は驚く。

 こういう業界にいると、スフィアロボティクスの特殊性はイヤでも目に付くし、その裏側にいる人物の噂くらいは耳にする、と。

 魔女がエリキシルバトルの主催者なのね、という言葉に、頷く克樹。あなたは踊らされないように気をつけて、という夫人。もし踊らされている人間がいたら、目を覚まさせてあげるといい、と言った。

 

..Scene3 Cut1

 リーリエのオプションも含めていろんなものを鞄に詰めてライブの会場にやってきた克樹。招待客の座る席には向かわず、後ろの方でライブの様子を眺める。

 会場には熱気があふれ、まるで本物のアイドルのライブのような状態になっていた。

 エレメンタロイドのエイナは、モニターの中の映像だけでなく、ステージの上ではおそらくエイナに操作されているエルフだと思われるドールが踊っていた。

 事前にプログラムなどをする必要もなく、歌い、踊り、さらにスフィアドールのコントロールも行えるエイナは、まさに人工個性と言うべきものだった。そしてそれはリーリエにも言えること。エイナをつくったのがモルガーナなのだとしたら、ここにモルガーナがいるのも納得できる、と思った克樹。

 熱狂するファンの間を抜け、克樹は警備員の目を盗んで会場の裏へと忍び込んだ。

 アイドルと違って、エイナはしょせんスフィアドールであるためか、控え室周りの警備は薄いようだった。スタッフと思われる人物は行き交っているが、怪しい人物をチェックしているだけのようで、素知らぬ顔で他のスタッフらしい人が通り抜けるのに着いていくと、特に呼び止められることもなかった。

 しかしどこをどう探せばいいのか、と考える克樹。控え室と思われる扉が並んだ場所に来たが、磨りガラスの向こうはどこも灯りが点いている様子はない。スフィアロボティクスかエイナプロダクションの人が詰めている部屋でもあるかと思ったが、ここにはないようだった。

 そんなとき、リーリエがエリキシルスフィアの反応がある、と言った。すぐ近くだというのですぐそこの扉を見てみると、とくに灯りが点いているのが見えた。

 間違っていたらどうしようと思いつつも、克樹は扉を開いた。

 

...Scene3 Cut2

 部屋の中にいたのふたりの人物。いくつも置かれたモニターを見ながら話をしていた女性ふたりが、克樹に気づいて振り返った。誰だ、と声をかけてきたのは、おそらくスフィアロボティクスかエイナプロダクションの社員と思われる地味なスーツに身を包んだ女性。もうひとりは赤いスーツに身を包んだ妖艶な女性、モルガーナだった。

 どうしようと思ったのもつかの間、モルガーナが自分の客だ、と言って女性を下がらせた。

 あまり見たくない顔に吐き気のようなものを感じつつも、二年ぶりと声をかけてくるモルガーナに返事をする克樹。わざわざこんなところにどんな用事かしら、と言って唇の端をつり上げるモルガーナに、聞きたいことがある、と克樹は言った。

 問いたいことはいろいろあった。この女性が、百合乃の脳内情報を取り出した人物であり、おそらくエイナについても誰かからそういうことをしたのだろうと思われた。そしておそらく、エリキシルバトルの仕掛け人だった。

 魔女、と自分で名乗るようなモルガーナは女性であること以外、わからない。彰次とも知り合いであったが、彼が大学の時代から姿は変わった様子はないという、年齢不詳の人物だった。

 あの子の情報は有効に使われているようで安心したわ、と言うモルガーナ。わかるのか、というと、スフィアを使っているならたいしたものではないが、ある程度ならばわかる、という。そのことから、やはりモルガーナがエリキシルバトルの仕掛け人であることがわかる。

 自分はいそがしいのだけど、今日はわざわざここに来た理由はなにかしら、と問う。聞きたいことがある、と言うと、モルガーナはここまで来た褒美に、ひとつだけどんなことでも答えてあげる、という。

 何を聞くかで、克樹は迷う。でももし、いま聞くとしたら、と克樹は口を開いた。

 

..Scene4 Cut1

 まだ明るいうちに秋葉原を出たのに、その後服を見に行ったりして時間を取ってしまい、最寄り駅に着いたのはずいぶん遅い時間になっていた。

 夏姫は明美と途中の道で別れ、家路に着こうとする。

 克樹からの連絡はとくにない。どこに行ったのか聞いてみたかったが、こちらから連絡するのもためらわれた。

 そう思って端末を取り出したとき、点滅しているアイコンがあることに気がつく。それはエリキシルバトルアプリの印。開いてみると、レーダーにエリキシルスフィアの反応があることに気がついた。遠ざかっていく反応を追うために、夏姫は走り出す。

 距離が狭まる方向は、明美が歩いて行った方向と同じだった。

 明美のピクシーを狙っているんだ、と思ったとき、夏姫は急ブレーキの音を聞いてさらに走る脚を早めた。

 見ると、道路に倒れている明美。それから止まっている車。さらに明美の持っていた鞄を手に硬直しているコート姿の人物が見えた。

 明美に駆け寄った夏姫だったが、頭から少し血が流れ出している彼女に意識はない。降りてきた運転手が突然倒れ込んできて、と慌てた様子で説明するものの、夏姫はすぐに救急車を呼ぶように言いつける。

 頭を打っているかも知れないからあまり動かさない方がいい、と思い、救急車を呼んでいる運転手の様子に安堵した夏姫は、コート姿の人物が走り始めるのを見て、明美のことを見る。心配であったが、許せなくもあった。

 集まってきた人々に明美のことをお願いして、夏姫は走り始めた。

 克樹に端末にコールをしながら、夏姫はコート姿の通り魔を追って走った。

 

..Scene5 Cut1

 やっぱりか、と思う克樹に、モルガーナは本当に質問はそれでよかったのか、と問うた。

 聞きたいことがあったらまた今度聞きに来る、という。今度はそう簡単にはいかないと思うと笑うモルガーナは、もしまた会うときに、まだあなたがエリキシルバトルを続けているなら、と言った。

 そこにかかってくる夏姫からのコール。

 要領を得ない夏姫をなだめて、明美が通り魔に荷物を奪われる際に転んで、車にぶつかったという。明美は大丈夫なのか、と問うがわからないと答える夏姫。救急車を呼んだし、自分では明美にしてあげられることはないから、犯人を追いかけている、という夏姫は、克樹も早く来て、と言って通話を切った。

 大変なことになっているようね、と笑うモルガーナを睨みつける克樹は、夏姫のもとに向かうために部屋を出ようとする。

 部屋を出るとき、もしできるなら頼みたいことがある、とモルガーナに克樹は言った。

 頼み事ができるような立場か、と言うモルガーナだったが、エリキシルバトルにとっても悪いことではない、と言う克樹は、ひとつの願い事を言ってから、部屋を出た。

 会場の外に出た克樹は、夏姫がオンにした位置情報を見てけっこう遠いことに気がつく。とにかく急ぎたいと思った克樹は、アリシアと同時に二輪バイクを取り出して補助バッテリのラインを接続した。さらにオプション装備を装備するようにリーリエに言い、そのままアライズと叫んだ。

 できるだけ人目を避けて、対物センサー、熱感知センサーもオンにして急げと言い、バイクに乗り込んだリーリエの後ろに克樹も乗り込んだ。

 すぐに行く、と心の中で夏姫に声をかけながら。

 

..Scene6 Cut1

 何度か見失いながらも、レーダーで再発見してどうにか通り魔に追いついた夏姫は、公園へと入った。

 視界の悪い公園の中で急接近するのを見た夏姫は走ってその場を逃げる。

 舌打ちした通り魔に、こっちはあなたとの距離がわかるのよ、と言う夏姫は、ちゃんとバトルで決着を付けなさい、と言ってヒルデを取り出した。

 スポーツバックからレインアーマー被せたドールを取り出し、アライズした敵と対峙する夏姫。

 克樹に言われたように新品の人工筋は、少しではあったが動かして馴染ませていた。充分とは言えないが、それでも克樹と戦ったときと違って完調のヒルデは決して弱くない。

 右手を構えた相手を見て克樹から聞いてるのよ、と叫びつつ、ヒルデに臨時の行動パターンを次々と打ち込む夏姫。

 人工筋もフレームもぼろぼろだったときと違って、ヒルデを充分に動かすことができる。火炎放射を回避させつつ、剣によりレインアーマーに裂け目を入れていく夏姫。

 火炎放射を諦めたらしく、何かの格闘技らしい構えを見せた相手に、容赦なく剣を打ち込む。レインアーマーが大きく裂け、相手の正体が見えると思ったとき、ソーサラーの姿がないことに気がついた。

 どこに、と思ったとき、夏姫は腹部に強い衝撃を受け、意識が遠のいていった。

 ごめん、と克樹に謝りつつ、夏姫は意識を失った。

 

 

.Act6

 

..Scene1 Cut1

 何度か人に目撃されつつも、どうにか警察に追われたりせずに夏姫のいる場所の近くまでやってこれていた。夏姫の位置情報に大きな変化がなくなってから五分。おそらく戦闘に入ったと思われたが、やられていないといいが、と思う克樹。

 夏姫が倒しているなら何か連絡があると思うが、今のところ連絡は入っていなかった。

 見られても構わないと思いつつも、克樹はバイクに乗ったまま夏姫のところに向かう。

 見えてきたのは、倒れている夏姫と、その側に立っているコートの人物。

 バイクをぶつけるつもりでリーリエに突撃を指示すると、コートの人物はどうにかそれを避けた。

 バイクを降りたって夏姫のことを抱き起こしてみるが、目立った外傷はない。リーリエのセンサーでチェックさせてみると、たぶん気を失っているだけだと言った。

 良くも夏姫に、明美に、と怒りをあらわにする克樹は、ヒルデを拾って通り魔と対峙する。

 逃げだそうとする通り魔に声をかける克樹。もう正体はわかっている、と言う克樹の言葉に脚を止める通り魔。誠、お前を許さないぞ、と克樹は言った。

 振り返った通り魔は、フードを降ろしてその顔をあらわにした。

...Scene1 Cut2

 なんで気づいた、と問う誠。

 エリキシルスフィアは、スフィアカップで配布されたもので、それを持つ人物を追ってる間に、梨里香に気づいた、と言った。そしてある人から、スフィアを受け取った人物ではなく、現所有者でもエリキシルバトルの参加資格はあるのだ、と聞いた、と言った。

 スフィアカップの地区大会優勝のときの写真の中で、梨里香と一緒に立っているお前を見つけたんだ、と言う克樹。

 どうして自分がエリキシルソーサラーであることを知りながら真っ先に襲ってこなかったのか、と問うと、お前が強いのはわかったから、先にひとつくらいスフィアを手に入れて、パワーアップでもできればと思ったという誠。

 たぶんそんな機能はないぞ、という克樹に、そうか、とため息を吐く誠。自分をどうするのか、と問う誠。警察にでも突き出すか、と言うと、克樹はせっかくだからエリキシルバトルで決着を付けよう、と言った。それがモルガーナとかわした約束だから、というのは、口にしなかった。

 わかった、という誠に、バッテリ交換を促す克樹。

 諦めたようにバッテリを交換し、レインカバーを外してガーベラを足下に置く誠。

 もしお前が勝ったら、自分は通報したりはしない、という克樹。でももし自分が買ったら、自首するんだ、と言われ、そんなこと言われて従えるわけがないだろう、と言う誠。梨里香を生き返らせるために、どうしてもエリキシルスフィアが必要なんだ、と。

 おそらく踊らされてるだけだ、と言う克樹。このバトルには仕掛け人がいて、そいつの思惑に乗せられているだけだ、と。しかしアライズと唱えればドールが巨大化する上、ただのオモチャか飾りでしかなかったライターや剣が現実のもののようになるんだ。まるで魔法のようなその力があれば、本当に人間だって生き返るかも知れないじゃないか、と誠は叫ぶ。

 魔女がそんな優しい奴だったら良かったんだがな、と言う克樹は、だったらお前を叩きのめしてわからせてやるよ、と言った。

 誠にアライズの声と当時に、バトルが始まった。

 

..Scene2 Cut1

 隠すことなく右手のファイアスターターを構えたガーベラ。

 バトルの場所から距離を取りつつ、リーリエに画鋲銃を構えさせる克樹。まずはそれをつぶさせてもらうぞ、と言って、克樹は画鋲銃の連射を指示した。

 どうにか回避するガーベラを射線が追う。

 ファイアスターターをつぶすのと同時に、画鋲銃の残弾が尽きて、リーリエは不要になったそれを地面に投げ捨てた。

 格闘戦になれば充分に勝ち目がある、という克樹は、リーリエに敵の動きをモニターさせる。

 空手の構えを取ったガーベラ。スフィアカップでも、ガーベラはまさに格闘家そのものと言うべき動きで対戦者を圧倒していた。

 けれどもリーリエも負けてはいない。ソーサラーによる操作を受けないリーリエの動きに、タイムラグはない。見てからでも判断が可能であり、それを実現しているのはリーリエ本体との通信機能だった。

 オレは負けるわけにはいかない、と誠が言うのと同時に、スマートギアの中にエラー情報が乱舞した。どうしたのかと思うと、モバイル通信がカットされているらしかった。攻撃を受けるアリシアのボディを見て、セミコントロールのソフトを立ち上げる克樹。

 どうにか持ち直すものの、夏姫や百合乃ほどスフィアドールの操作が上手くない克樹は劣勢に陥る。おそらくモバイル通信を妨害する装置を使ったのだと思われるが、それをどうにかしないとまずい、と思っている克樹は、もし夏姫であれば、と思う。

 バトルの様子を見ながらも、克樹は思う。ヒルデはまだアライズした状態で止まっていて、夏姫が先に倒れていた。いったいどんな方法で夏姫を気絶させたのか、と思う克樹は、ふと思い付くことがあった。戦闘中のリーリエから警告の声。やっぱり、と思う克樹は、反射的に懐に入っていたナイフを取り出して背後に突きつけようとした。

 しかしそこにいた誠は、反射的に克樹の手を取って捻っていた。

 感じたのは腕の痛みだけでなく、鳩尾のあたりの違和感。

 誠に押された右手が、ちょうどそこにあった。ナイフを掴んだまま。

 冷たい感触だと思った瞬間、そこから熱が発生すると同時に、こみ上げてくるものを堪えきれずに、克樹は血を吐き出した。

 

..Scene3 Cut1

 お腹に痛みを感じながらも目を覚ました夏姫は、後じさっていく誠のことを見る。

 その前に立っているのは、呆然とした顔の克樹。

 リーリエと、たぶん誠のものだと思われるドールとのバトルは停止していた。

 何が起こったのかと見てみると、克樹の腹にナイフが突き立っていた。

 倒れ込む克樹は、さらに大量の血を吐き出す。なんてことをしたの、と誠に言う夏姫だったが、克樹に対してどうすることもできない。誠も、こいつがナイフを突き出してくるから、と言って何もできないでいた。

 救急車を、と思うが、痙攣している克樹から目を離すことができなかった。それに電話をかけようとしたが、圏外になっていた。

 そんなとき、どいて、と言って近づいてきたのは、アリシア。

 なんでそんなものもってるの、と文句を言うリーリエ。そう思ったが、いつものリーリエと何か違うような気がした。

 モバイル通信はまだできないはずだ、という誠に、じゃあいまのこれはなんなのか、と思う夏姫。

 もうお別れは済ませたんだけど、いまだけは特別だよ、と笑むのは、たぶん百合乃だった。ほんの少ししか溜まってないけど、でもいまはこれで充分だと思うから、と言い、百合乃はアライズと唱え、握った両手を傷の上にかざした。そしてそこから、一滴の滴が落ちていった。

 勝手にナイフが抜け落ち、しかし血は流れ出さずに、傷がみるみるうちにふさがっていくのが見えた。

 目を疑う光景に、夏姫は呆然とするが、百合乃と思われるその女の子が、あとはおにぃちゃんをよろしくね、と言って、膝を突いて意識を失った。

 そして克樹が目を覚ました。

 

..Scene4 Cut1

 目を覚まして、自分がどうなっているのかわからない克樹。刺されたはずの腹に傷はなく、しかし血に染まったナイフが落ちていた。

 泣きながら抱きついてきた夏姫が、よかったと繰り返す。何が起こったのか、と聞いてみると、百合乃が現れたんだ、と言った。どういうことか、とさらに聞いてみると、手のひらから滴が落ちて、それが克樹の傷を塞いだのだと言う。

 本当なのか、と思うのと同時に、聞くことができなかったモルガーナの真の目的を予感して震える克樹。エリクサーすらモルガーナにとっては目的ではないのかも知れない、と思っているとき、誠が笑い声を上げる。

 ほんの一滴のエリクサーで瀕死の人間を蘇らせることができるなら、コップ一杯もあれば本当に死んだ人間くらい生き返らせられそうじゃないか、と言う誠は、だからオレはやっぱりスフィアを集める、という。

 彼の手にある妨害電波の発生装置を見て、克樹はそれを蹴り飛ばした。夏姫と名を呼ぶと、落ちたそれを拾って電源をオフにする。

 だったらやっぱり叩きのめしてやるよ、と言って立ち上がる克樹。リーリエとの通信を再接続し、第二ラウンドだ、と言ってアリシアを起動させる。

 自分も戦う、という夏姫を、こいつは自分が叩きのめしたいんだ、と言う克樹。やってやるさ、と言い、誠もまたガーベラを操作した。

 

..Scene5 Cut1

 何があったのかわかるか、とリーリエに問うて見たが、電波障害でリンクが途切れた後はわからない、という彼女。でも稼働記録がある上、克樹からの操作をしていないときにも動いた形跡がある、と言った。後でその情報を解析するぞ、と言いつつ、空手の構えで接近してきた誠の正拳突きを軽く流す。

 百合乃譲りのリーリエによるドール操作は、格闘制御ソフトと組み合わせることで、おそらくスフィアカップの全国大会でも充分以上に戦える性能を持っているだろうと思った。けれど対峙する誠もまた、全国大会二回戦に進出した手練れ。

 スマートギアを通した思考操作によるガーベラの動きは、まさに空手家のそれであった。

 正拳突きに続いて、回し蹴り、回転回し蹴りと人ではバランスを取るのも難しいはずの連続攻撃がガーベラによって繰り出されてくる。

 アライズの残り時間も少なくなってきたのに気づいた克樹は、解析結果をリーリエに要求した。

 誠の使っているフルコントロールソフトはバトルアクションバージョン二ないし三系のもので、最新のバージョン五ではない。稼働可能範囲が主に第四世代向けに設定されているが、おそらくガーベラの人工筋の出力やフレームには第五世代のものに交換してある。そしてアリシアもまた第五世代ドールへのパーツ交換も済ませていた。

 一気に決めるぞ、と言う克樹は、リーリエに電光石火を入力する。

 ほんの一瞬だけ人工筋に流れる電圧を上げて、仕様上の性能を越える動きを見せてガーベラの顎に拳を叩き込むリーリエ。

 どうにか建て直して距離を取るガーベラに対し、克樹は疾風迅雷を指示した。

 脚部に限定した電圧上昇によって、五メートルの距離を人間すら不可能な速度で詰めるリーリエ。かろうじて反応した誠は反撃の拳を放ってくるが、克樹は同時に疾風怒濤を入力した。

 拳と蹴りの連続攻撃が、ガーベラの手足のフレームを粉々に砕いていた。

 通常サイズに戻したガーベラを手に逃げ去ろうとする誠だったが、先回りした夏姫が、ヒルデの剣を彼の喉元に突きつけていた。

 観念しろ、と言われ、誠はがっくりと肩を落とした。

 

 

.Act7

 

..Scene1 Cut1

 机に突っ伏していた克樹に、朝から眠そうだね、と言って近づいてきたのは、夏姫。

 机の上に座る彼女に、見えるぞ、と言うと、今日は体育があるからショートパンツ履いてるもん、と短いスカートをめくり上げる彼女。ストッキングがないのは残念だが、青と白の縞模様も意外といいな、と言う克樹。驚く夏姫に、ショートパンツは裾を抑えないと中が見えるぞ、と指摘する克樹。

 新年早々中がよろしいことで、と言って近づいてくる明美。

 車にぶつかったものの、ブレーキが間に合って軽い打撲で済み、短期間の入院と精密検査だけで済んだ明美は、すっかり元気になっていた。

 静かな方が好きだ、という克樹だったが、家でもどこでもリーリエがうるさいクセに、と言って笑う。

 もうひとり入ってきたのは、丸坊主の背の高い男、誠。神妙な顔をしつつも、彼は自分の机に座った。

 全員同じクラスになるなんてなんてうるさくなりそうなんだ、と克樹は呟いていた。

 

...Scene1 Cut2

 かったるい始業式が終わって、克樹は混み合う下駄箱が空くのを待って、屋上に出てきていた。

 結局、百合乃が動かしたと夏姫が言っていたときのログについては、不明なままよくわからなかった。動作の指示がどこから出ていたのか、判然としないままドールが動いたという記録があるだけだった。

 しかしエリキシルスフィア自体にエリクサーが溜まっていくのだとしたら、モルガーナの目的はエリクサーではないのかも知れない、と思う克樹。いったいどんな目的でこんなバトルを始めたのか、と思っているとき、やってきたのは誠。

 特に気にすることなく久しぶり、と言う克樹。

 あの後警察に自首した誠は、窃盗の容疑で逮捕され、簡易裁判にかけられて短期間ながら少年院に入った。しかしそれも三月には出てきて、学校も退学にはならず、こうして無事二年生になることもできていた。

 あのときモルガーナに願ったことではあったが、どこまで効果があったのかはわからない。しかし様々な人脈を持っているだろう彼女であれば、多少なりとも手を回しているだろうと思えた。

 何かを言おうとして言いよどみ、けれど何も言えない誠。

 どうせ諦めきれないんだろう、と言う克樹は、鞄の中からガーベラを取りだした。

 おそらく証拠品として回収されてしまうだろうガーベラを、克樹は誠に返さずに回収していた。それを受け取った誠はなんでか、と問う。

 ちょうどそのときやってきた夏姫は、誠を睨みつける。

 どうしてガーベラを返すのか、と問うてくる夏姫に、自分たちはバトルの主催者によって踊らされてるだけだ、という克樹。それが誰なのか、と問うてくる夏姫に、いまは言えない、という。魔女というべきそいつとは、たぶん本当は関わるべきではないだろう、と。でもそのうちバトルを続けるなら関わることになるだろうし、そのうち話すべきときも来るだろうし、そして自分ももう一度あいつと対峙しないといけないことが来ると思う、と克樹は言った。

 何で克樹は自分のも、誠のもスフィアを取ったりしないのか、という問いに、克樹は答える。エイナは戦って集めろ、と言った、と。集めろとは言ったが、奪い取れとも、自分のものにしろ、とも言わなかった、と。

 いまこうして自分の側には三つのエリキシルスフィアが集まってる。それで大丈夫なのかどうかはわからないが、それがハッキリするまでは預けておくことにする、と言う。

 戦うのか、という夏姫の問いに、やるしかないだろうな、と克樹は空を仰いだ。



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第二部 序章 闘妃
第二部 黒白(グラデーション)の願い 序章


●前回までのあらすじ

 ある日現れたエレメンタロイド、エイナは命の奇跡を起こすことができる水、エリクサーを求めてエリキシルスフィアを集める戦い、エリキシルバトルに音山克樹を誘う。妹である百合乃を誘拐事件によって亡くしている克樹はバトルへの参加を表明し、エイナと同じ人工個性であるリーリエとともに、ピクシードールのアリシアを使ってエリキシルソーサラーとなった。
 そんな彼の前に現れたのは、母親を過労で亡くしている隣のクラスの女の子、浜咲夏姫。バトルを挑んできた彼女に勝利する克樹だったが、エリキシルスフィアを奪わず、彼女のドールであるブリュンヒルデの修理に手を貸す。夏姫に信頼された彼の前に現れたのは、最近街を騒がせる、ピクシードール所有者を付け狙う通り魔。エリキシルソーサラーであった通り魔との戦いをやり過ごした克樹。クラスメイトで空手部の近藤誠に同調するように、許せないと言う夏姫の唆されるように通り魔捜しを開始する。同時に、バトルの主催者だと思われる魔女モルガーナの消息を、叔父であり保護者でもあるスフィアドールメーカーに勤める音山彰次に頼んで探っていた。
 通り魔であるかも知れない資産家にして克樹が世話になっている平泉夫人。旦那を亡くしている彼女の呼び出しに警戒する克樹だったが、バトルに参加しなかったという彼女が差し出したのは、モルガーナがいると思われるエイナのライブチケット。克樹の幼馴染みである遠坂明美と夏姫が出かける裏で、克樹はモルガーナに会いに行く。
 人工個性ながら歌手でもあるエイナのライブ会場の裏でモルガーナと会い、バトルの主催者であることを確認する克樹。そのとき、通り魔は明美を襲い、逃げたそいつを追って夏姫がバトルを挑んだ。駆けつけた克樹は、恋人を失いバトルに参加した通り魔の正体、近藤と対峙する。百合乃の復活ではなく、彼女のを殺した誘拐犯を苦しめて殺すと言う願いを込めつつ、克樹は近藤に勝利した。
 モルガーナの力で退学などを免れた近藤や、夏姫やリーリエとともに、克樹はエリキシルバトルを戦い続ける。

●登場人物一覧
・音山克樹(おとやまかつき)
 主人公。第二部開始時高校二年生。セミコントロールソーサラー。
 妹の百合乃を誘拐事件で失い、犯人を苦しめて殺すためにエリキシルバトルに参加した。バトルの主催者であるモルガーナを知り、彼女と敵対的な行動をする。
 所有ピクシードールはアリシア。彼はソーサラーではなく、ドールのオーナーである。
 初対面の女の子を押し倒すくらいにエッチだが、ヘタレ。脚フェチ。

・浜咲夏姫(はまさきなつき)
 克樹のクラスメイトにしてエリキシルソーサラー。セミコントロールソーサラー。
 過労で母親の春歌を失い、エリキシルバトルに参加する。元気だが少し性格がキツめの女の子。ポニーテールがトレードマーク。
 所有ピクシードールはブリュンヒルデ。春歌の勤めていたヴァルキリークリエイション社の試作型ドールだったが、不調であったため主要パーツを新たなものに交換している。

・リーリエ
 克樹が所有する表向きはスフィアドール用のフルオートシステム。
 実体は百合乃の脳情報で構築された人工個性。フルコントロールソーサラー。
 克樹の家を管理したり、携帯端末を通して常に彼とともにある。
 百合乃の脳情報を使っているが、百合乃の記憶は持たないが、性格は酷似しており、克樹のことをおにぃちゃんと呼ぶ。
 可愛らしいが少しきつめの性格をしており、克樹に女の子が寄りつくのを好まない。克樹ラブ。

・近藤誠(こんどうまこと)
 第一部にて通り魔の正体として登場し、夏姫や克樹にエリキシルバトルを挑んだ。克樹に敗れたものの、スフィアを返却されたために現在もエリキシルソーサラーをしている。フルコントロールソーサラー。
 スフィアカップで全国大会に進出した猛者であり、空手の動きをピクシードールで行うことができる。ドールを動かしながら自身も動くことができる能力を持つ。
 恋人であった椎名梨里香の復活を願い、エリキシルバトルに参加する。

・モルガーナ
 魔女。

・平泉夫人(ひらいずみふじん)
 本名は平泉敦子(ひらいずみあつこ)。三十代後半の資産家女性。スフィアカップで百合乃に敗れたものの、第一部中では最強のソーサラー。フルコントロールソーサラー。
 黒真珠とあだ名される美しい容姿と広い人脈を持ち、スフィアドール業界などに多大な影響力を持つ人物。穏やかながら、押しの強い性格をしている。生活能力は低いが、優秀な専属メイドが常に側にいる。メイドの名は芳野。
 旦那を病で失い、エリキシルバトルへの参加を促されるが、拒否している。
 克樹が多くのことで借りをつくっている人物。モルガーナの存在も気づいている。

・音山彰次(おとやまあきつぐ)
 克樹の叔父にして、百合乃の死後、家を顧みなくなった彼の両親の代わりに保護者もしている。
 日本のスフィアドール業界の上位にいるロボット関係の開発企業ヒューマニティパートナーテックの技術開発部部長他、多くの肩書きを持つ。業界での有名人。AHSなどのフルオートシステムをほぼひとりで開発している。
 モルガーナと直接接触したことがある人物であり、大学時代に知人をひとり亡くしている。
 フルコントロール、セミコントロールのソーサラーではあるが、バトルソーサラーではない。

・遠坂明美(とおさかあけみ)
 克樹と同じクラスで、小学校の頃から彼のことを知っている幼馴染み。弱小陸上部に所属するスポーツ少女。
 胸が小さいのが悩み。

・エイナ
 モルガーナが構築した人工個性。モルガーナのメッセンジャーとして、克樹たちの前に現れてエリキシルバトルへの誘いを行った。
 エレメンタロイドと呼ばれ、アイドルのような活動を行っている。人工個性ながら自身でも作詞作曲などを行っている。人気は高く、ライブのチケットは入手が困難になるほど。モルガーナとの関係は不明。誰の脳情報を使用して構築されたのかも不明。
 ピンク色の髪をしているが、髪などはよく変更される。スレンダーな身体をしている。

・音山百合乃(おとやまゆりの)
 故人。克樹の妹。フルコントロールソーサラー。
 誘拐事件の被害者であり、誘拐犯の運転する車から飛び降りて怪我をし、亡くなっている。モルガーナによって取り出された脳情報は、不十分であったために克樹に託され、リーリエとして構築されている。
 異常とも言えるスマートギアへの適正を示し、バトルの経験は多くなかったもののスフィアカップでは平泉夫人を下し、二体同時にピクシードールを動かすなどの技を持っていた。

・火傷の男
 百合乃を誘拐し、死に至らしめた人物。克樹は彼を苦しめて殺そうと考えている。
 正体は不明ながら、首から頬にかけて火傷がある。

●用語集
・スフィアドール
 スフィアと呼ばれる球体のクリスタルコンピュータを搭載した人型ないし動物型のロボットの総称。スフィアロボティクス社がスフィアを開発し、他の追随を許さない性能により、十年の間に一気に世界に広がっている。
 ただし人型、ないし動物型に制限されており、スフィアの性能が充分に活かされていないと言われている。スフィアのコアを提供しているのはモルガーナであり、彼女の思惑によって様々なことが決定されていると思われる。

・エルフドール、フェアリードール、ピクシードール
 スフィアドールのサイズによる分類。現在のところエルフドールは身長百二十センチ、フェアリードールは六十センチ、ピクシードールは百二十センチとされている。フェアリードールはサイズの自由度が大きく、三十センチ以上百センチ以下のものは概ねファアリードールに分類されている。
 エルフドールは人の代わりに仕事をするロボットとして注目されているものの、現在のところ高価で、低価格化と百五十センチ程度の大型化が目標にされている。
 フェアリードールは動く人形としてやペットロボットなどとしてのものが多く、完成品での販売が多く、最も普及しており、比較的低価格。
 ピクシードールは主に趣味のスフィアドールとされ、自作要素が強く、パーツ単位で販売されていることが多い。スフィアカップと呼ばれる大会にて行われたトーナメントバトル以降、全国各地で自作ピクシードールによるローカルバトルが開催されている。

・スフィアロボティクス社 SR社
 スフィアを開発し、スフィアドールの規格を決定している会社。
 新興企業ながら一気に広がったスフィアドール業界の中心。スフィアの技術を公開していないため、一社独占状態となっている。ライセンス生産している会社もあるが、事実上スフィアロボティクスの傘下である。
 モルガーナが所属している模様で、スフィアロボティクス社の動向はすべて彼女が握っていると思われる。

・ヒューマニティパートナーテック社 HPT社
 音山彰次が技術開発部長をしている日本のスフィアドール業界の有力企業。スフィアドールだけでなく様々なロボット開発を行っている。
 ピクシードールのパーツなども開発、販売しているが、主力はフェアリードールであり、開発の中心はエルフドールに移りつつある。
 ロボット以外にも様々な技術や商品の開発と販売を行っている。

・ヴァルキリークリエイション社 VC社
 夏姫の母親、浜咲春歌が勤めていたピクシードールを中心とした開発会社。
 強いこだわりを持った開発を行っていたが、時代の流れに置いて行かれて経営が破綻。スフィアロボティクス社に吸収された。しかしヴァルキリークリエイション社の開発した技術は、現在の第五世代ドールに多大な影響を残し、ブリュンヒルデを含む五体のオリジナルヴァルキリーなどスフィアドールの歴史に名を残している。

・フルコントロール、セミコントロール、フルオート
 スフィアドールのコントロール方式。
 フルコントロールはドールを自分の身体と一体として扱うような高等技術。スマートギアを必須とする。
 セミコントロールはコマンド打ち込み式でドールを動かす方法。携帯端末などでも行えるため、多くの人が使っているコントロール方法。
 フルオートは完全に自動制御でスフィアドールを動かす方法。エルフやファアリーではフルコントロールが主。ネットを経由して外部システムと接続することにより、細やかなコントロールも可能。

・スマートギア
 脳波を受信してポインタ操作を行うBCIデバイスにBICデバイスに、ヘッドマウントディスプレイ、ヘッドホンなどを組み合わせた統合型マンマシンインターフェイス。ヘルメット型やヘッドギア型、眼鏡型などがある。
 神経情報を送信するようなダイブを行えるデバイスではなく、あくまでディスプレイやキーボード、マウスなどを統合したもの。脳波を使ってポインタ操作を行うため、熟練が必要であるが、慣れると複数のポインタを同時に扱えたり、疑似発声であるイメージスピークなどが行える。
 外部カメラ、集音マイクを搭載しているものが多く、メインビューに実視界を表示して、端末のウィンドウを仮想的に視界に表示して使い、身体を動かしながら様々な操作を行うことが可能。ただし公道上での使用は禁止されている。

・アドバンスドヒューマニティシステム AHS
 HPT社が開発したスフィアドール用フルオートシステム。ネットを経由してスフィアドールをコントロールすることが可能。
 音山彰次が基礎理論を持ち込んで開発し、HPT社で商品化したもの。エルフドールを家政婦や事務員のように行動させたりと、かなりの高機能であるものの、エルフドールが現在のところ広く普及してるとは言い難い状況となっている。ペット型フェアリードールなどにも広く利用されている。

・エリクサー
 命の奇跡を起こすことができるとエイナが言う奇跡の水。詳細は不明。
 死亡し、身体がなくなった人間でも復活が可能とされているが、本当に存在するかどうかは定かではない。ただ、第一部にて死にかけた克樹に使用され、傷を消し去り彼の命を救っている。
 モルガーナが関係していると思われるものであり、エリキシルバトルの報酬とされている。


序章 闘妃

 

 

 背筋を滑り落ちていく汗を、僕は感じていた。

 約三メートル離れた位置に立っているのは、平泉夫人。

 明るい照明の下、腰まで高さのある円形リングを挟んで、僕と夫人はお互いにスマートギアを被ったまま見つめ合う。

 ディスプレイは下ろしているから、もちろん夫人の目が見えてるわけじゃない。

 でもドレスのような黒いワンピースを着、金の装飾が施されたワインレッドのスマートギアを被り、口元に笑みを浮かべている彼女からは、圧力すら感じるほどの迫力を覚えている。

 僕はいまいるのは平泉夫人の自宅。

 一階の、パーティや社交ダンスができるほどの広間で、ピクシードール用のリングを挟んで僕は夫人と対峙する。

 リングの中には、リーリエが操る身長約二十センチのアリシアが立っていた。

 ヒルデ戦、ガーベラ戦を教訓に、白いソフトアーマーを覆っている水色のハードアーマーは、手甲だけじゃなく脚甲や胸甲も金属製の交換している。

 ヘルメットを被らず、腕にかかるように伸びている水色のツインテールを含めて、デザイン的にはあまり大きな変化はない。でもPCWの親父と相談して、重量増を最低限にし、いままで以上に動きを邪魔しないよう、細かいところの形状に手を加えていた。

 微かに笑みを湛えてるアリシアが対峙しているのは、夫人のドール。

 黒を基調に紫や赤や黄色に彩られたその姿は、ハードとソフトが混在した特殊な形状のアーマーをしている。着物のように肘下に伸びる布地や、開いた襟元にも見える形状をし、顔はほっそりとしたヒューマニティフェイス。高い位置に結わえられたスフィアの冷却を兼ねた髪などから、どこか花魁とかそんな雰囲気を醸し出しているように思える。

 名は、闘妃。

 ピクシードールには意味がないと思うんだけど、ハイヒールな脚甲を履いてる闘妃は、何体か持ってる夫人のバトルピクシーの中で、バランスタイプの一体だった。

「全力全開で来て頂戴、克樹君。これは公式戦ではないんだから、すべての力を使って、ね。それくらいでないと面白くないから」

「……わかってます」

 夫人の余裕を感じる言葉に威圧されつつ、僕はそう応える。

 今日ここに来たのは、僕から夫人にお願いしたからだった。

 目的はリーリエの訓練。

 百合乃の脳情報から構築されたリーリエだけど、百合乃の記憶を持たないために、戦闘経験は圧倒的に不足してる。

 今後、おそらくもっと厳しい戦いがあるだろうエリキシルバトルを勝ち抜いて行くには、まだまだ未熟なリーリエの強化は必須な状況だと言えた。

『いくよ、リーリエ』

『うんっ』

 スマートギア越しにイメージスピークで声をかけると、リーリエの元気のいい返事が返ってきた。

 でもその声音に若干の硬さを感じる。

 それも仕方ない。

 ただ立っているだけなのに、平泉夫人も、彼女が操る闘妃からも、僕は息を呑むほどの圧力を感じているのだから。脳を擬似的に再現して、アリシアの目を通して見ているリーリエも、同じものを感じてるんだろう。

「始めましょう」

 言って夫人は、鞭らしきものや槍や剣など、闘妃の腰や背中に携えた武器の中から、左右の腰に佩いた細く反りのない日本刀のような片刃の剣を引き抜いた。

 リーリエがアリシアにナックルガードで覆った両手を構えさせ、ひと呼吸置いた後、脇に静かに控えていたメイドさんが手にしたゴングを鳴らした。

『先手ひっしょ――、わぁっ!』

 ゴングと同時に飛び出したリーリエだったけど、すぐさま横に転がるようにして回避の動きをすることになった。

 足首近くまでを覆う布地が揺れたと思った瞬間には、闘妃が滑るように動いて接近し、横薙ぎの斬撃を加えてきたからだった。

 アリシアを追って闘妃が歩を進めてくる。

 リーリエがアリシアを立ち上がらせた瞬間、頭上から振り下ろされた剣。

 左の手甲で受け流して踏み出そうと右脚を上げたときには、斜め下からの閃きが襲いかかる。

 バランスを崩しながらも上げていた右脚の脚甲で受け止め、その衝撃を利用してアリシアを下がらせたリーリエ。

 間を置かず、リーリエはアリシアにキャンバスを蹴らせる。

 Cカップバッテリを覆う胸甲が擦るんじゃないかと思うほどの前傾姿勢の突進を、正確無比な斬撃が阻んだ。

 両腕で剣をガードして横に転がったアリシアは、そのまま闘妃から距離を取った。

『びっくりしたぁ』

『もっとよく見て動くんだ、リーリエ。さっきのじゃ夫人には通用しないぞ』

『わ、わかった』

 立ち上がったアリシアを見て、僕はリーリエにそう声をかけていた。

 リーリエと共有してるアリシアの視界を左隅に映しつつ、細かに人工筋の調整をする僕はスマートギア越しに平泉夫人のことを見る。

 余裕の笑みを浮かべながらも、彼女が放つ空気からは隙なんてひと欠片も感じられない。

 リングの中で夫人と同じ笑みを浮かべてる闘妃もまた、同様だった。

 ――いまのリーリエじゃ、百合乃の半分の力もないな。

 二年前のスフィアカップの際には、辛勝ならが百合乃は平泉夫人を破ることができた。

 たぶんそのときの戦いよりも正確さもドールの性能も上がっているだろう平泉夫人は、いまのリーリエで敵うような相手じゃない。

 それでも僕は、そしてリーリエは、少しでも夫人に近づけるよう強くならなくちゃいけなかった。

『必殺技を使うよ、リーリエ』

『わかった。……でも、通じるかな?』

『やってみないとわからないが、僕たちは僕たちの全力で戦うだけだ』

『うん……。そうだねっ』

 リーリエの闘志の籠もった返事を聞いて、僕は必殺技を使う準備をする。

 ガーベラ戦のときよりも精密に使えるようになったアリシアの必殺技。リーリエも必殺技のときの動きにあのとき以上に慣れてる。

 普通の人間の反応速度を超える動きができる必殺技が通じなかったら、僕たちには夫人に勝つ手段なんてない。

「今度はこちらからいくわね」

 言って夫人は闘妃をアリシアに向けて前進させる。

 動きそのものは普通に歩いてるようにしか見えないのに、間合いに入った瞬間、無造作に下ろしていた右腕から剣が繰り出された。

『ふっ』

 本当に息をしているように声を出しつつ、リーリエはわずかに身体を反らして下から上に斬り上げられた剣を躱す。

 剣の動きを捕捉するリーリエが、アリシアの腰を落としつつ前傾姿勢にさせたのを見て、僕はポインタを操作しつつ叫んだ。

『疾風迅雷!』

『うんっ』

 リーリエの返事が聞こえたときには、アリシアは闘妃の前にはいない。

 僕のスマートギアに搭載されたカメラでは捉えきれない速度で動いて、闘妃の正面にいたアリシアは背後まで駆け抜けている。

『え?』

『わわっ!』

 闘妃の無防備な背中に拳を叩き込もうと腕を振り被ったとき、アリシアの視界は真っ黒に染まっていた。

 ――袖?!

 実視界側で見てみると、アリシアの眼前を覆っていたのは着物のように腕から垂れている袖だった。

『防御!』

 叫んだときにはもう遅い。

 振り向きざまの闘妃の膝蹴りが、アリシアの顔面に叩き込まれていた。

『まだまだ!』

『あぁっ。電光石火!!』

 吹き飛ばされたアリシアの体勢を瞬時に整えたリーリエに、再度必殺技を発動させる。

 飛ばされた距離を超速度で詰めて反撃、と思ったのに――。

「勝負あり」

 ゴングが鳴り、決着を告げた。

 リングの中では、すっ転んでうつぶせに倒れてるアリシアと、その首に剣を突きつけてる闘妃の姿があった。

 何が起こったのか、僕にはわからなかった。

 電光石火を使ったと思った瞬間、アリシアは障害なんてないはずのリングの中で何かに足を取られたように転んでいた。

 スマートギアの視界で拡大して見てみると、アリシアの両足首にまとわりついている黒い紐があった。

 紐が繋がっている先は、闘妃の左手。

 いつ手にしたのかわからない鞭が、その手に握られていた。

「いったいそれはなんですか?」

 闘妃が鞭を振るう動きなんてなかった。

 手にしたのはたぶんアリシアの視界を袖で覆ったときだと思うけど、振るいもしてない鞭が絡みつくなんてことはあり得ない。

「コントロールウィップっていう、この前発売された武器よ。第五世代でスフィアやフレームのデータラインが増えたのと、手に外部機器の接続ポイントをつくれるようになったでしょう? 人工筋でできてるから、鞭のように振るわなくても動かすことができるのよ、これ。面白いでしょう?」

「そうですか……」

 スマートギアのディスプレイを上げ、いたずらな瞳をして楽しそうに笑う夫人に、僕はため息を吐くように返事をしていた。

 相変わらずというか何と言うか、夫人はこういう新しいオモチャが大好きだ。

 僕じゃ絶対買いそうにないコントロールウィップ。

 何より怖いのは、太さと長さから考えたらたいした力は出せず、攻撃になんて使えそうにない武器を、上手いこと使い道を探し出す彼女の発想力だ。

『負ーけーたーっ。うぅ……』

「お疲れ、リーリエ」

 戦闘中はオフにしてあった外部スピーカーをオンにした途端、リーリエの悔しそうな声が響いた。

 そんな彼女にねぎらいの言葉をかけつつ、まったく勝てる気がしないにせよ、二戦目の戦法を頭の中で組み立てていた。

 

          *

 

 薫り高い紅茶をひと口すすり、僕は小さくため息を吐いた。

 結局全部で五戦して、一度も勝つことができないどころか、クリーンヒットの一発すら食らわせることができなかった。

 絨毯から家具から調度品から、僕なんかじゃ隔絶した世界だと感じる平泉夫人の執務室で、応接セットのソファに座った僕は、頭の中で今回の戦いの反省点を思い浮かべていた。

『うー、うー、うー』

 スマートギアのスピーカーからうなり声が聞こえているリーリエも、仮想の脳を駆使していろいろ考えてるらしい。

 テーブルの上で器用にあぐらをかいてるアリシアは、腕を組んで頬を膨らませ、少し顔を俯かせている。

 机を挟んだ僕たちの目の前で優雅にティーカップを口元に寄せている平泉夫人は、そんな僕たちの様子を楽しそうな色を浮かべた瞳で眺めてきていた。

 正直、スフィアカップで百合乃と拮抗した平泉夫人が、これほど強いとは思っていなかった。以前にも夫人とはリーリエと戦ってもらったことはあったが、そのときは軽くいなされるだけで終わっていた。今回は少しはまともに戦ってもらえたけど、結果があんまり変わったようには思えない。

 目標とする山が高いのは悪くないことだと思うけど、最初の目標が断崖絶壁の世界最高峰ともなると、昇り始める前に挫折してしまいそうだった。

「さて、反省会でもしましょうか」

 しばらくして、夫人がそう言ってカップをソーサーに置いた。

「本当のところ、リーリエはどうでした?」

「そうね。以前戦ったときとは見違えるほどに強くなってるわ。けれど性格が素直すぎるからかしらね? フェイントへの対応ができていないし、目が良い分、細かな挙動まで見えていて、一々それに反応してしまってる。ドールの扱いについては私以上と言っても過言ではないし、スピードもパワーも性能を熟知した上で細かいところまで扱えていて、フルコントロールソーサラーとしてはすでに上級者と言えるわ」

『でも、あたしは一発も当てられなかったよ?』

「そうね。そこは人生経験の差による駆け引き、というのもあるけれど、リーリエちゃんの場合はとくに戦闘経験の不足が原因。ボディの動かし方は戦闘補助ソフトで補正できるけれど、駆け引きは経験から学んでいくしかないところだからね」

「確かに、そうですね……」

 痛いところを突かれて、僕は口元に寄せたカップから紅茶を飲んで、その渋みに顔を歪ませる。

 リーリエの戦闘経験は、皆無というほどではないけど、ほとんどないと言っていい。

 百合乃が死んだ後、僕がピクシーバトルへの興味を失ったのもあるけど、人工個性のリーリエをあまり大っぴらにするわけにはいかなかったという事情もあって、バトル経験を積ませてない。

 リーリエにアリシアを与えて以降で戦ったのは、システム購入の際に世話になって、成果を見せるように言われてた平泉夫人と、技術的には凄いけどバトルソーサラーではないショージさんくらい。リーリエ自身は戦いを想定してアリシアの動かし方を訓練したり、ネットで公開されてるピクシーバトルの動画を見たりと色々してたみたいだけど。

 本気でリーリエが戦ったのは、夏姫のブリュンヒルデ戦が初めてだった。

『でも必殺技も効かなかったよね? あたしは見えるけど、おにぃちゃんでも見えないくらいの速さなのに』

「それも同じ理由よ、リーリエちゃん。何かを仕掛けてくるというのは、わずかだけど準備の動作が見えれば気づけるし、どんなに早くても意外性のない動きは先が読めるのよ」

『そっかー。うぅーん』

「いや、まぁ、確かにそうかも知れないけど……」

 アリシアに腕を組ませてうんうんと納得したように頷かせてるリーリエだけど、僕の方は全然納得ができるものじゃない。

 主に距離を詰めるのに使ってる疾風迅雷は一度見ていれば対応できるかも知れないが、電光石火は目の前にいた敵が消えるような動きで背後や側面に回るのに使ってる必殺技だ。

 空間転移による瞬間移動ではないからコンマ数秒の時間はかかるけど、使うのがわかってても対応できるのは僕の常識を逸脱してる。

 ちなみに、ボディへの負担が大きく、畳み込むのに使う疾風怒濤は、結局一回も使う機会が得られなかった。

「リーリエちゃんはとにかく、もっと戦闘経験を積むこと。それから他の人の戦いをもっと見る必要があるわね」

『うん、わかったー』

「役に立ちそうな映像資料をリストにしておいたから、参考にして頂戴。芳野」

「はい」

 近くに立って控えてるのに、存在を忘れそうになる芳野と呼ばれたメイドさん。

 黒髪を結い上げ、黒い瞳をした、たぶん二十代前半だろう、白のエプロンに地味な黒いワンピースを身につけた彼女は、携帯端末をエプロンのポケットから取り出して操作する。

 ヘッドホンから聞こえてきた着信音に、ディスプレイを下ろしてメールを開いてみると、様々な動画がリストになって送られてきていた。

 リーリエにも共有設定を入れて見たリストには、ピクシーバトルの動画に留まらず、いろんな格闘技の記録動画なんかもラインナップされている。無料で見られるもの、有料のものも含め、相当な数に上っていた。

「もし手に入らないものがあったら言って頂戴。貸せるものもあるでしょうし、来てもらえばここで見せられるものもあるから。ちゃんと手に入れておいた方がいいものばかりなのだけどね」

「こんなに……。リーリエのためにありがとうございます」

「あら、何を言ってるの?」

 座ったままだけど深々と礼をした僕の頭に降り注いだ夫人の声。

 顔を上げると、彼女は冗談を一切含まない澄ました顔で言った。

「リーリエちゃんだけじゃなくて、これは貴方も見るものなのよ、克樹君」

「え? でも僕は……」

 確かに僕が見ても戦いの参考になるとは思うけど、戦闘のときの主役はやっぱりリーリエだ。僕は本当に参考程度に見ておけばいいと思う。

 でも、真剣な顔つきをし、目を細めた平泉夫人は、威圧するような雰囲気を漂わせながら言う。

「貴方はフルコントロールソーサラーになりなさい」

「……僕が?」

「そうよ。貴方の参加しているエリキシルバトルがどんな戦いで、これからどんな敵に出会っていくのかは、参加していない私にはわからないし、詮索する気もない。でもね、克樹君。私は予感がしてるの。リーリエちゃんには弱点があるのは貴方も知ってる通りでしょう? これから先、リーリエちゃんに頼らずに戦わないといけない局面も出てくると思うのよ。そして、リーリエちゃんの代わりという意味ではなく、貴方自身にもピクシーバトルを戦う力が、今後必ず必要になる。そう感じてるの」

 憂い、なのだろうか。

 複雑な色を浮かべている平泉夫人の言葉に、僕は反論できない。

 何しろ近藤との戦いでは早速その弱点を突かれて、窮地に陥ったのだから。

 ――でもなんでなんだ?

「あの、なんでフルコントロールソーサラーなんです? 僕は一応セミコントロールでは全国レベルではないにしても、そこそこドールを動かせるんですが」

「はっきり言うと、ただの勘よ」

 それまでの緊張を吹き払うように笑った夫人は言葉を続ける。

「貴方のソーサラーとしての才能は、百合乃ちゃんにはもちろん及ばないし、どんなに鍛えても私に並ぶことも難しいと思うわ。でも、フルコントロールソーサラーなら四つから六つのポインタを操作できるものだけど、貴方は最大で一〇個のポインタを同時に、それも精密に操作することができる。ポインタの複数操作はフルコントロールソーサラーには必須の能力で、貴方の数と精密さは戦いではそれほど役には立たないけれど、今後克樹君が進む道の先で、必要になりそうだと思えるの」

「……わかりました」

 ため息を吐きつつ。僕は了解の返事をした。

 平泉夫人の勘は、僕もそれに助けられたことがあるから知ってるけど、恐ろしいほどに鋭い。

 実際には勘と言うより閃きなんだと思う。様々な情報を蓄積してる夫人は、無意識のうちに問題の根っこを関知する能力に長けてるんだろう。

 魔物が跋扈してるような財界とかで生きながら、女ひとりで規模は小さいとは言えやっていけるてるのは、そうした夫人の感知能力に負うところが大きいのかも知れない。

「それからこの辺りも全部とは言わないけれど、訓練の進み具合に応じて用意した方がいいわね」

 夫人の目配せの指示を受けて芳野さんが送ってくれたのは、ピクシードールのアプリやアドオンソフトのリスト。

 定番のフルコントロールアプリの最新版や、たぶん第五世代で新しく出てきただろうアドオンソフトなど、映像資料と同じくらいの項目が並んでいた。

 スフィアドールに関わるいくつもの会社に出資や協力をしていて、自分の趣味でもあって詳しいのは知ってるけど、僕が家で調べるよりも多くのことを平泉夫人が知ってるのを感じる。決定的に嗅覚が違う。

「それとこれを買いなさい、克樹君」

 言って夫人が芳野さんから受け取って僕に差し出してきたのは、薄い冊子の商品カタログ。

 紙に印刷されていたものはほとんどが電子データに置き換わっているけど、宣伝を勝手に個人の端末に送ることはできないので、カタログや宣伝資料なんかはいまでも紙で配られてることが多い。

 渡されたのはそんな商品カタログで、メカニカルウェア(MW)社という、スマートギアメーカーとして有名な会社のもの。一般向けから軍事産業向けまで様々に、とくに高性能高機能なモデルを中心に売ってる中でも、一般向けの最高グレード、プロゲーマーでも買うのをためらう高級シリーズの、つい最近発売された最新モデルのカタログだった。

 ディスプレイを跳ね上げてまじまじとカタログを眺める僕は、開いて一覧に書かれた参考価格に息を詰まらせる。

「やっぱ高いですね、ここのは」

「えぇ、そうね。でも克樹君に必要なのはこのモデルよ」

 手を伸ばしてきた夫人が開いたページに写真や表入りで掲載されているのは、カタログの中でも一番高いモデル。プレミアムグレードに位置するものだった。

 その価格は、趣味の品としてはけっこう高いと言われるバトル用ピクシードールを新規で二体買っても充分お釣がくるくらいだ。

『すごいねぇ、おにぃちゃん。こんなの使うんだぁ』

「いや……、さすがにここまでのは必要ないと思うんだけど……」

「いいえ、必要よ」

 高級グレードながら飾りが凄かったりゴツかったりしないスマートな形状のそのモデルの写真から顔を上げ、夫人はにっこりと笑う。

「展示会で少し使ってみたのだけど、一般向けとしては性能も機能も最高なのは当然として、外部カメラや集音マイクにも気を遣っているのよ。これからもリーリエちゃんとあの戦いを勝ち抜いていくつもりなら、これくらいのものは絶対に必要になるわ」

「わかりました。検討しま――ぐ、うっ」

 返事をしようとした僕は、途中で喉を詰まらせた。

 目の前では平泉夫人が微笑んでる。

 黒真珠とあだ名される彼女の黒く艶やかな髪と、髪と服の黒さの対比で輝いているようにも見える白い肌。

 いつもと変わらぬ柔らかい笑みを口元に浮かべながら、あだ名の通り黒真珠のような瞳に浮かんでいるもの。

 それを見た僕は、背筋を凍るような感覚を覚えていた。

「これは提案じゃないの、克樹君。命令。わかる?」

「でもさすがに、これは……。いまのでもそんなに不都合ないですし、高いですし……」

「先月発売されたHPT社のヒューマニティフェイス、売れ行きは好調だそうじゃない? 価格を下げた前世代には及ばないけれど、生産が追いつかないと聞いてるわよ。いまの克樹君なら、買えるでしょう?」

 本当に夫人の業界情報を仕入れる速さはどれくらいのものなのか。

 頬を膨らませたり口をすぼめたりできる新型フェイスの売れ行きは、第五世代のパーツが出揃って買い換え需要が高まってきてるのもあって、かなり好調だった。売れ行きに応じて支払額が変わる僕への報酬も、過去最高になってる。

 それだけじゃなく機能面をエルフやフェアリーサイズのドールへの応用も始まっていて、最近僕にHPT社から支払われた金額は、サラリーマンのボーナス並みになっていた。

「貴方にはこれが絶対必要になるから、必ず買いなさい。生産数が少なくて品薄だけれど、手配は私の方でして上げるから、連絡が届いたらすぐに支払いの手続きをして頂戴。できるだけ安くなるよう、交渉しておくわ」

「――わかりました」

 間接的とは言え、懐事情すら把握してて、これまでいろんな貸しのある夫人の命令に僕が従わないわけにはいかない。

「克樹君。貴方には必ずあの戦いを勝ち抜いてほしいのよ。貴方の願いには賛同しかねるし、最後にどんなことが待ち受けているのかもわからない。でも、なんとなく、これは本当になんとなくの予感なのだけど、貴方は最後まで見届けなければならないように思えるの」

「……えぇ」

 憂いを含んだ夫人の瞳が、僕の何を、そしてエリキシルバトルの何を見ているのかはわからない。

 でもたぶん、純粋に僕のことを想って言ってくれてることなのはわかる。だから僕は、彼女の心配そうに揺れている瞳に、頷きを返していた。

 

 

 



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第二部 第一章 フレイヤ
第二部 黒白(グラデーション)の願い 第一章 1


第一章 フレイヤ

 

 

       * 1 *

 

 

「すまん、先に脱落する……」

 そう言ってスレート端末とスタイラスペンを脇に退け、机に突っ伏したのは正面にいる近藤。

「アタシはもうちょい頑張る」

 スタイラスでポニーテールにした髪を掻きながら、難しい顔をして端末を凝視してるのは、隣に座る夏姫。

「お前らなぁ……」

 そんなふたりに、僕はため息を漏らしていた。

 制服を着た僕たちがいまいるのは、学校の自習室。

 飾り気もない白い壁と簡素な机と椅子、小さめのホワイトボードなんかがある四畳半よりちょっと広い程度のこの部屋は、割と進学校のうちの高校に通う生徒なら、申請さえすれば休みの日でも使える便利な設備だ。

 僕の自宅の方が広いのはわかってるけど、夏姫と近藤はもちろん、復習のために僕もやってる実力テストの過去問題は、校内にいないと閲覧できないものだった。

 いまはゴールデンウィークの序盤。

 自習室を使ってるのは僕たちだけらしく、さほど防音されてない部屋の外からの音はほとんどない。

 わざわざ休み中に学校に来てまで勉強してるのは、教えてくれと夏姫に泣きつかれ、それを聞いてた近藤に便乗されたからだった。

「休み明けのはどうするんだ。この前やったばっかりの問題なのに、何でできないんだよ」

「……勉強なんてほとんどしたことないし」

「少しはしてたけど、追いつかなくって……」

「まったく。一年の勉強からやり直し、どころか中学の復習からだろうな、この状態だと」

 制限時間を過ぎて採点したふたりの数学の点数を見て、僕は大きなため息を吐いていた。

 二年生になり、一年のときも同じクラスだった遠坂と近藤だけじゃなく、夏姫も同じクラスになり、なんだかんだで遠坂を含めたり含めなかったりでつるんでる時間が増えていた。

 四月中旬に行われた一年の復習の意味での実力テストで、夏姫と近藤は見事赤点を取っていた。ゴールデンウィーク中の宿題というのはとくに出てなかったけど、実力テスト赤点の奴には休み明けに追試と、それでも赤点の場合は補習が言い渡されてる。

 楽勝でクリアした僕は大丈夫だし、元から勉強は苦手だったらしく、どうやってうちの高校に入れたのかけっこう謎な夏姫は、それでも前回と同じ問題でそこそこの点数は取れてる。それでも赤点だが。

 問題は近藤。

 空手のスポーツ特待でうちに入った近藤は、先の通り魔事件により特待を外され、赤点でも部活に出ていれば免除されていた追試を受けることになったし、たぶん特待の得点でもある大学の推薦も外されることになってるはずだ。

 おそらくモルガーナの力によってどこかに収監されるのを免れたと言っても、さすがにそういうところまでは助ける方法はない。

「ダレてないで勉強始めるぞ。せっかく僕の貴重な休日を潰してるんだ、ダラダラしてる時間はない」

「ゴメン、克樹。なんか、いろいろと……」

「済まん。俺はちょっと休憩させてくれ……」

「まったく」

 けっこうスリムだが筋肉質で暑苦しい近藤が突っ伏したまま起き上がる様子がないのを見て、仕方なく僕は床に置いた鞄に手を伸ばし、水筒を取り出す。プラ製のコップを並べて、家でつくってきた冷たい麦茶を注いだ。

「ありがとよ。そう思えば、お前たちにも来たか? エイナから」

「あ、うん。来た来た。エリキシルバトルが中盤に入った、ってメッセージでしょ」

「そうそう。残りの人数とか書いてなかったけど、やっぱりオレたちの他に、どこかで戦ってる奴がいるんだな」

「うん、そうだね。……克樹にも、来た?」

「あ、あぁ。うん、来たよ」

 覗き込むようにして僕の顔を見つめてくる夏姫に、慌てて返事をする。

 ――メッセージ、か……。

 ふたりが話しているのは、昨日の夜エリキシルバトルアプリのメッセージボックスに届いたエイナからのメッセージ。

 近藤が言うように、僕たちの他にもどれくらいいるかはわからないけど、エリキシルソーサラーがいて、彼らはどこかで自分の願いを叶えるために戦っているんだろうと思う。中盤戦という言葉の意味は詳しく書かれていなかったのでわからないけど、それなりに脱落者が出てることだけは確かだった。

「やっぱり戦って集めろ、って書いてあったよね」

「そうだな。いまの俺たちみたいな感じでいいのか悪いのかは、わからないんだよなぁ」

「ダメならダメで、もう一度戦えばいいんじゃない? ね、克樹」

「ん……。まぁ、そうだね」

 ふたりの話を聞きながら、僕は顎に折り曲げた指を添えて考え込んでしまっていた。

「どうしたの? 克樹。難しい顔して」

「あっ……。なんでもない」

 声をかけられて、遠くを見つめていた僕が目の前にあるものに焦点を合わせると、僕が映っているのが見えるくらいの距離に夏姫の瞳があった。

『夏姫、近ぁい! もっとおにぃちゃんから離れて!!』

 途端にイヤホンマイクの外部スピーカーから響いたのは、リーリエの少し舌っ足らずな声。

「……スマートギアじゃないんだから、カメラないんでしょ? わかるの?」

『わかるよっ。さっきより声が近くなったし、息の音も聞こえるようになったし。おにぃちゃんも言ってよ、近づかないで、って』

「あーーっ、キスしてほしいなら目をつむってくれよ」

「莫迦っ!」

『おにぃちゃん!!』

 ふたり同時に響いた非難の声に、噴き出しそうになって口を押さえてる近藤に一瞥をくれてから、僕は明後日の方を向いた。

 ――やっぱり、ふたりにはメッセージしか届いてないのか。

 夏姫と近藤の様子から、ふたりに届いたのはエイナからのメッセージだけだったのだろうと思う。

 僕には、同じだろうメッセージが届いていたけど、それ以外のことが昨日はあった。

 ――あれは僕だけだったのか。

 眉根にシワを寄せながら、僕は昨日の夜のことを思い出していた。

 

 

          *

 

 

 片付けてすっきりした実視界の机の上に被るように、スマートギアの視界の中では動画ウィンドウが大きな面積を占めていた。

 いま流してる動画は、鎧兜を身につけた武士らしきふたりが戦っているという内容。

 どういう企画で作成されたものなのかはよくわからないけど、平泉夫人のリストの中にあったその動画は、死体に見立てているらしい鎧や、刀や槍が落ちてたり突き刺さっているような草原で、実際にあった合戦を再現して戦うというもの。

 刀が折れたら手近なものを拾ったり、距離が離れれば槍で突き合ったり、土を蹴り上げたり拾った兜を投げつけたりする戦いは、時代劇やアニメで見るようなものみたいに綺麗な戦いじゃなかった。

 でも斬撃を受け流したり躱したり、次の動きを読むために視線を交わし合ったりといった細かいところが、参考になると感じられていた。

「ん?」

 見入ってるときにヘッドホンから鳴り響いたのは、聞き慣れないメッセージビープ。

 動画を停止して右下に現れたアイコンにポインタで触れようとしたとき、音声着信のウィンドウが立ち上がって視界を塞いだ。

「エイナから?」

 前回は十月の終わり頃だったから、半年ぶりくらいの映像要求つきのエイナからの着信。

 どうせまた魔法とか言ってウィンドウから飛び出してくるんだろう、と思いつつ、僕は映像オンで応答ボタンに触れた。

『お久しぶりです、克樹さん』

 柔らかい笑みを浮かべ、予告もなしに現れた映像通話のウィンドウに手をかけて外に出てきたのは、やっぱりエイナ。

 ふわっと広がるピンク色のセミロングの髪をし、スレンダーな身体の線が浮き出る、少し光沢のある黒いワンピースを纏い、足を組んだら下着が見えるんじゃないかという短い裾を手で整えつつ、百二十センチとやっぱり子供のようなサイズのエイナが、僕の机の上に座った。

「あんたはモルガーナの手先なんだろ?」

『手先、ということについては否定できませんね。わたしは、あの人の手により稼働を開始した人工個性ですから』

 ライブ会場の控え室でモルガーナ自身から聞いた通り、エイナはモルガーナのつくった人工個性だ。こいつの行動はすべてモルガーナの意志だと思って間違いないはずだ。

 スマートギア越しにしかその存在を確認することができないエイナを、僕は警戒しながら見つめる。

「それで、いったい今日は何の用だよ」

『今日の用事はメッセージを伝えることです。アプリの方に伝えるべきことは届いていると思いますが』

「……まだ見てないよ」

『えぇ。わかっています。メッセージは順次、現在残っているエリキシルソーサラーに送信中です。そのタイミングだからこそ、わたしはここに来たのですから』

「どういう意味だ?」

『わたしの行動はすべてあの人の意志です。わたしの行動はすべて記録されていますし、あの人の指示以外で自由に行動することもできません。……セカンドステージに進むまでは』

「セカンドステージ? それはいったいなんだ?」

 にっこりと笑うエイナに問うてみるが、彼女は唇を引き結んだまま答えてくれはしない。

『いまあの人は日本に居らず、海外に行っています。それに、いまはあの人からのメッセージを伝えるという役目を負っているんですよ』

 口元は笑っていても、エイナの目は、――デジタルデータで構成されたアバターであるにも関わらず、笑っているようには見えなかった。

 そんなことがあるのかどうかわからないけど、はっきりと言葉にして言えないことを、僕に伝えようとしている気がした。

『まずはいまの用事を済ませてしまいましょう。メッセージの方も改めて確認していただきたいと思いますが、エリキシルバトルは中盤戦へと突入しました。克樹さんのバトル回数は三回、スフィアの収集は元から持っている一個のみ。アライズ回数についてはトップとなっているのに、収集数は最下位です』

「別にそのことは気にしてない。僕は僕のやり方で集めるつもりだから。それよりも訊きたい」

『はい。何でしょうか?』

「スフィアを集めるってのは、勝って奪い取るって意味なのか?」

 スマートギアのディスプレイ部の内側にはカメラは内蔵されてない。でも、何となく僕の瞳を見つめてきている気がするエイナに、僕は真っ直ぐに視線を返してそう問うてみた。

『さぁ?』

「僕が選んだ方法で、僕たちは願いに近づけるのか?」

『さて、どうでしょう?』

 にこにこと笑うエイナは、僕の質問に答える気はないらしい。

「エリキシルバトルは最初から破綻してるんじゃないのか? たぶんスフィアカップでもらったスフィアを持ってる奴がエリキシルソーサラーなんだろうけど、バトル参加者が誰なのかわからないし、全国に散らばっていてわざわざ会いに行くのも難しい。そんなんで、どうやって僕たちは願いを叶えるための戦いをやっていけばいいんだ?」

『克樹さんの言う通りですね。確かに、エリキシルソーサラーを探し出すのは簡単なことではありません』

「だったら、何か手がかりを提供するとか、ヒントを出すとか、そういうことは考えられてないのか?」

『ありません。……ですが、出会いは縁だとわたしは思います。とくに克樹さんはその筋では調べやすい、有名な方です。待っているだけでも、貴方の側にはエリキシルソーサラーが集まってくると思いますよ』

「僕を、怒らせに来たのか?」

 夏姫が、近藤がそうだったように、特別なスフィアを持っていて、そして誘拐事件で百合乃を失い、そのことが報道されてる僕は、エリキシルバトルに参加している可能性が高いと判断される人物だろう。

 何となく莫迦にしているように思えるエイナの言葉に、僕は彼女のことを睨みつけるけど、涼やかな笑みを浮かべてるだけで彼女はとくに気にした様子もない。

『いいえ。けれど、貴方の真意を訊きたいとは思っていました』

「真意?」

『はい。戦って勝ち、スフィアを奪わずに持ち主ごと集めていることに、何か意味があるのですか?』

「……確信はないけど、考えてることはある」

『それは、どんなことですか?』

 エイナの問いに答えることに、僕は一瞬迷った。

 口元から笑みを消し、人と同じに見える深い色を湛えた彼女の瞳には、真剣な色が浮かんでいるように見えた。

「僕は、モルガーナの思惑に踊らされるだけなのは、嫌なんだ」

『けれども、スフィアを奪い取るのが貴方の願いを叶える最短の方法ですよ?』

「逆に訊くけど、最短以外の方法があるの?」

 驚いたように目を見開いたエイナ。

 それから目を細めて笑い、さらに何に対してなのか、悲しそうに顔を歪めて見せた。

『これからも、エリキシルソーサラーと戦い、スフィアを集めてください』

 問いに返事をしなかったエイナは、机の上から脇に追いやっていた通話ウィンドウに足をかけ、身体を滑り込ませる。

「エイナ。僕の質問には――」

 改めて問おうとした僕は、振り向かせた顔に泣きそうな表情を浮かべてるエイナに、それ以上何も言うことができなくなっていた。

 彼女が、何を思ってそんな顔をしているのかはわからない。

 でも少しだけわかることがある。

 僕の方法は決して間違いじゃない。遠回りかも知れないけど、僕の願いに近づくことができる方法で、そしてモルガーナの願いを挫くための道に繋がっている。

 それはたぶん恐ろしく困難な道だろうけど、エイナの浮かべる表情が、僕の望む道へと繋がっていることを教えてくれていた。

『そうそう、克樹さん。言い忘れていました』

「何?」

 悲しげな表情を消し、いたずらな笑みを浮かべたエイナが言う。

『先日わたしの新しいアルバムの配信が開始されています。それにはあのライブ会場で、克樹さんが途中までしか聴いてくれなかった曲も収録されているんですよ』

「……やっぱり、あのとき僕のことを見つけてたんだ」

『えぇ、もちろん。途中でいなくなってしまうんですもん、本当にあのときは悲しかったんですよ?』

 どう反応していいのかわからず困ってる僕に、言葉とは裏腹に楽しそうな瞳を向けてくるエイナ。

『だから、必ず買ってくださいね』

「なんだよ、宣伝に来たのか? 本当は」

『そうではないのですが、そういうことで構いません』

 何が言いたいのかはわからないけど、何か言いたいことがあるのはわかる。

 愛想のいいにこやかな笑みをしながらも、彼女の目は笑ってない。

 深い色を湛え、何かを僕に訴えかけてきている。言葉に出して言えない言葉を、視線で伝えるように。

「……わかった。必ず買うよ」

『はいっ。よろしくお願いします!』

 そう答えた僕に、エイナは通話ウィンドウの中から礼をしていた。

 

 



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第二部 黒白(グラデーション)の願い 第一章 2

 

       * 2 *

 

 

「やっぱりオレって莫迦だよなぁ」

「そんなの最初からわかってたことだろ」

「……少しはフォローしてくれよ」

「えぇっと、さすがにそれは無理かも」

「うぐぐっ」

 僕の言葉と夏姫の追い打ちに、近藤はがっくりと肩を落として俯いた。

 ゴールデンウィーク中にも部活をやってる奴らがいるから下校時間にはまだ余裕があったけど、夕食とかのことを考えて早めに僕たちは自習室を出て、昇降口で靴に履き替える。

 勉強時間が足りてない感じの夏姫は休み中にがっつり勉強すれば追試はパスできそうな具合だったけど、近藤の方と言えば、中学の頃から空手一筋だったらしく、高校一年の勉強どころか中学の勉強からやり直さないと無理そうで、追試のパスは現状では微妙なラインに立っていた。

「でもなんでそんなに頑張るの? 近藤。さすがに赤点連発で留年ってわけにはいかないだろうけどさ」

 先に靴を履き替えて扉のところに立ち、振り向いた夏姫が小首を傾げながらそう問うてくる。

 相変わらずのポニーテールで、少し大きめの制服は胸を強調する形のジャンパースカートなのに、彼女の割と大きい胸を引き立てるには至っていない。しかし短いスカートから伸びる引き締まった脚は、肌がうっすらと透けている黒のストッキングに包まれ、靴を履き替える手を止めるのに充分なくらい魅力的だ。

 ちらりと見ると、夏姫のことを見てるわけじゃない近藤は、少し考え込むようにしていた。

「あのことがあって、この先どうするかってのは親とかとも話したんだが、一応大学は目指すってことになってな。できたらオレは大学に入ったら空手を再開したいと思ってる。空手部は退部したが、信じてくれる先輩が自宅の道場で稽古にもつき合ってくれたりしてるからな。ちゃんとした大学に入りたいと思ってるんだ」

「色々考えてるんだな、お前も」

「まぁな」

 昇降口を出た僕たちは、いまは誰も使ってない校庭を避けるようにして、脇の舗装路の上を校門に向かって歩いていく。

「将来、かぁ。アタシはどうしよ。大学とかまだぜんぜん考えてないなぁ。っていうか、行けるのかな、大学」

「何でだ? 夏姫」

「んー。ほら、うちっていまけっこうキツいし、奨学金とかもらえるほど頭いいわけでもないしね。行きたいとは思うけど、どんなとこって考えると、これっての思いつかないし、行けるかどうかもわかんないし。克樹はどうなの?」

「僕は理数系か工学系のとこに行くのは決めてるけど、どこにするかまでは絞ってない」

「克樹は頭いいもんねぇ。好きなとこいけるか」

「そこまでじゃあないけどね」

 そんな他愛のない話をしながら、春にしては少し強い陽射しの下を、僕たちは歩いていく。

『おにぃちゃん! 気をつけてっ。エリキシルスフィアの反応が近づいてる!!』

 突然僕の耳をつんざくように発せられたリーリエの声。

 即座に携帯端末をシャツのポケットから取り出して見てみると、右上のアイコンにエリキシルスフィアの距離を示すバトルアプリの表示が現れていた。

「近くにエリキシルスフィアが現れた。どんな奴かはわからないが、どんどん接近してきてる」

「え? どういうこと?」

「敵か?」

 慌ててる様子のふたりに声をかけつつ、僕は担いでる鞄からスマートギアを取り出し、イヤホンマイクを耳から外して、被る。ケーブルで携帯端末に接続しつつ、まだ鞄の中にしまったままのケースに手を伸ばし、ロックを解除してすぐに取り出せるようにした。

 椎名さんのワインレッドのスマートギアを近藤が被り、フルタッチタイプの携帯端末を取り出してエリキシルバトルアプリを夏姫が立ち上げてる間にも、スマートギアの視界の中に表示してる出現したスフィアの距離は近づいてきている。

 いま僕の近くにあるのは、近藤のガーベラと夏姫のブリュンヒルデのふたつスフィア。接近中の三つ目のスフィアは、車というほどには速くなく、走っているにはずいぶん速いくらいの速度で数字が減っている。どうせなら方向表示もあればいいと思うが、わざとそういう制限をしているのか、エリキシルバトルアプリのレーダー表示は距離の数字しか表示されていない。

 それぞれに鞄の中に手を突っ込んで自分のピクシードールをつかんで、すぐ取り出せるように構えているとき、まだ二十メートルほどある校門のところに人影が現れた。

 走ってきているのは、純白を基調に黒で彩られた、ゴシックロリータ調の衣装を纏った小柄な人影。アライズ済みのエリキシルドールだ。

 百二十センチほどしかないドールは、女の子を横抱きにし、地面に着きそうなほど長い髪をなびかせながら走り寄ってくる。

 ベージュよりももう少し白い、クリームホワイトと深緑の縁取りがされた女の子が身につけてる服は、どこだったか忘れたけど、近くの高校の制服だったはずだ。

 頭には純白のヘッドギアタイプのスマートギアを被ってる彼女は、たぶんゴスロリ衣装のエリキシルドールのソーサラーなんだろう。

 ――医療用スマートギア?

 襲いかかってきてると言うより、逃げてきてる感じの女の子に、どう反応していいのかわからないらしい近藤と夏姫の間で、僕は彼女が被っている純白のスマートギアに入った細い赤線に注目していた。

「助けてください!」

 ドールの腕から降り立った彼女は、そう叫びながら焦げ茶色のローファーでアスファルトを蹴って僕たちの元へと駆け寄ってくる。

 ゴスロリ衣装のドールは、校門の方に振り向いて彼女を守るようにして立った。

「助けてくれ、だって?」

「襲われてるの?」

 僕たちの手前で立ち止まって、顔を見合わせてる近藤と夏姫に視線をやった女の子は、それから僕のことを見て、飛びつくように近寄ってきた。

「えっと、音山克樹さん、ですよね?」

「あ、うん。そうだけど……」

「助けてください! エリキシルドールに襲われているのです!!」

 繊細でふわりとした緩いウェーブのかかった髪を腰の辺りまで伸ばし、ボレロ風の上着の上からでもわかるくらい大きな胸を押しつけるように、僕の制服にしがみついて身体をくっつけてきた。

 高校二年としては平均よりちょっと高いくらいの夏姫と違って、彼女はずいぶん小柄で、膝下くらいのスカート丈から伸びる薄茶色のストッキングに覆われた細い脚とか、胸はかなり大きいのに狭い肩幅とか、かなり女の子らしい可愛らしさがあった。

 同時に、制服も含めた彼女からは、どこかのお嬢様のような雰囲気が漂っている。

「どういうこと?」

 目元はスマートギアで覆われて見えないけど、引き結ばれ、でも微かに震えてる唇から、まだ名前もわからない彼女が必死で、切羽詰まってることはわかる。

 けれどいまここにあるアリシアを含めた四つ以外に、エリキシルスフィアの反応はないし、いったいどういうことなのかわからず、僕はどう反応していいのかわからないでいた。

『おにぃちゃん! なんか来たっ』

 リーリエの警戒の声がヘッドホンから響いたのと同時に、すぐ横にある壁を乗り越えて現れたのは、人影。――いや、エリキシルドール。

 やっぱり小柄な百二十センチだから、たぶん元は二十センチサイズだろうそのドールは、襞の多い黒いドレスのような衣装で全身を包み、仮面のような白い無貌を僕たちに向けてきた。

「なんなの? こいつ。スフィアの反応がないっ!」

「こっちもだ。本当にエリキシルドールなのか?」

 動揺する夏姫たちだが、僕にしがみついてる女の子は身体を震わせ、さらに僕に身体を押しつけてくる。

 夏姫もけっこう胸はあったが、服の上からでもわかる柔らかさにいまの緊迫してる雰囲気とは別のものを感じつつ、僕はアリシアを取り出して手の平に構えた。

『本当にエリキシルドールなのか? リーリエ』

『うん。スフィアの反応ないけど、そうだよ』

『わかった』

 イメージスピークで話し、アリシアの操作権限をリーリエに解放した僕は叫ぶ。

「フェアリーリング!」

 僕の声に反応して、敷地の端を通るアスファルトの道から校庭にはみ出すように、光るリングが地面に広がる。まだ校舎には先生とかがいるから、いまの状況を見られるのはあんまりよくない。

 ――でも、どうしてだ?

 エリキシルバトルの参加資格は、エリキシルスフィアを持ってること。それは絶対に必須のはずだ。

 アライズして巨大化したドールには必ずエリキシルスフィアが搭載されていて、レーダーで感知できるはずなのに、目の前に現れたドールにはその反応がなかった。

 近くにいるはずのソーサラーの姿もない。

 それはたぶんスマートギアでドールの視覚を使い、遠隔操作をしてるからだと思うけど、無線でスフィアドールを操作できるのは、特に強化したものを使ってない限り、せいぜい数十メートルのはずだ。

 僕にはこのエリキシルドールの正体が、わからなかった。

「克樹。本当にこいつ、エリキシルドールなの?」

「うん。どういう理屈かわからないけど、リーリエがそう言ってる。やるぞ」

「あぁ、わかった!」

 近藤が応えるのと同時に、取り出したドールを手にし、僕たちはそれぞれの願いを込めて、唱えた。

「アライズ!!」

 白いソフトアーマーを水色のハードアーマーで覆い、水色のツインテールを垂らしたアリシアが光を放つ。

 リーリエのコントロールによって地面に降り立ったときには、百二十センチのエリキシルドールへと変身していた。

 左隣には黒いソフトアーマーに濃紺のハードアーマーの、黒く長い髪をした身長百五十センチのブリュンヒルデが、左隣にはワインレッドの胴着にも見えるアーマーに身を包むアリシアと同じサイズのガーベラが立った。

「エリキシルドールが、三体も?」

「詳しい説明は後だ。いまはあいつを倒す」

 驚きの声を上げる女の子にそう言って、僕はリーリエに呼びかける。

『こっちにはふたりも味方がいるから、情報収集を優先。あいつの秘密をできるだけつかむんだ』

『ん、わかった』

 白いドールは僕と女の子のすぐ前に立ち、何もない腕を広げて守るように立っている。

 僕たちのドールを挟んだフェアリーリングの縁に立つ黒いドールは、やっぱり手に何も持たず、警戒するようにゆっくりと横に移動しつつも、構えを取る様子はない。

「夏姫」

「わかった。アタシが戦う」

 名前を呼ぶだけで意図を汲み取ってくれた夏姫が、一歩前に出て、ヒルデを黒いドールにすり足で接近させつつ、腰に佩いた長剣を抜かせて構えを取らせた。

 ――どんなタイプの戦いをする奴なんだ?

 人が着るドレスと違って、胸が開いてたり肩が見えてたりすることはなく、広がった袖で手の半分までが隠れ、スカートの裾は足首近くまで伸びていた。

 服装はドレスのようなのに、どこか忍者を思わせるのは、顔以外黒い色をしてるからってより、その雰囲気からだろうか。

 腰にも肩にも背中にも武器を持っていないからと言って、格闘タイプとは限らない。衣装からすると何か別の攻撃方法をしてきそうだったが、見た目だけでは判断ができなかった。

『あっ。逃げる!』

 しばらくの間、僕たちを観察するようにしていた黒いドールは、わずかに屈んだかと思ったら、後ろに飛び退き、フェアリーリングから飛び出して現れたのと同じように、壁を乗り越えていった。

「……なんだったんだ? あいつは」

「わからない」

 少しの間待ってても、再び黒いドールが現れることはなかった。

 まだ警戒をしてるらしい近藤がちらりと振り向きながら言うのに、何もわかってない僕はそう答えるしかなかった。

「ねぇ、そろそろ克樹から離れない? えぇっと、自己紹介もまだか」

『うんっ、そうだよ! おにぃちゃんから離れてよ!』

 夏姫の言葉に、外部スピーカーをオンにしてないから僕の耳元だけで、リーリエも同意の言葉を発している。

「そうですね。たぶん、もう大丈夫です。助かりました……」

「うわっと」

 寄せていた身体を話した女の子は、でも力が入らないように膝を崩れさせる。

 思わず僕は、彼女の身体に腕を回して支えていた。細いのに、でも柔らかい身体が再び僕に密着する。

「克樹っ!」

『おにぃちゃんっ』

「いや、仕方ないだろぅ」

 非難の声が僕に突き刺さるが、膝を震わせてる女の子は立てそうにもない。

 近寄らせた自分のドールと手をつなぎ、「カーム」と唱えてアライズを解除した彼女は、僕の顔を見つめながら言った。

「あ、ありがとうございます……。えぇっと、ワタシは中里灯理(なかざとあかり)です。音山さん、助かり、まし、た……」

 そこまで言った彼女、中里さんの身体から、力が抜けた。

 軽いと言っても鍛えてない僕じゃ一緒に倒れ込みそうになるのをどうにか堪え、鋭い夏姫の視線と、何も言ってないのにヘッドホンから発せられてる気がする圧力を感じつつ、気を失ったらしい中里さんの身体を支えていた。

 

 

          *

 

 

 喉をコクコクと慣らし、中里さんはコップに入った麦茶をひと息に飲み干した。

「ありがとうございます……」

 コップをテーブルに置き、ソファに座る中里さんは深く頭を下げた。

 気を失った彼女は本当は病院にでも連れて行った方が良かったんだけど、エリキシルバトル絡みとなると事を荒立てるのもどうかと思って、学校から一番近い僕の家に連れてきていた。

 もちろん、小柄と言っても僕じゃ抱えられないから、一番力持ちの近藤に運んでもらったわけだけど。

 LDKのソファに寝かせて、しばらくして目が醒めた彼女に麦茶を振る舞ったところだった。

「それでその、先に確認させていただきたいのですが、三人ともエリキシルソーサラーなのですか?」

「あぁ、うん。そうだよ」

「どうしてですか? エリキシルバトルは、スフィアを集めて願いを叶える戦いですよね? どうして三人ともまだバトルの参加者でいられるのです?」

 活発で元気のいい夏姫や、スポーツ少女の遠坂と違って、おっとりした感じで少しゆっくり目の口調で話す中里さんは、眉根にシワを寄せていた。

 彼女の疑問は当然と言えば当然だろう。

 昨日の夜にエイナが現れたときも確認されたことだけど、エリキシルバトルはスフィアを賭けて戦い、自分の願いを叶えるためにエリクサーを得るためのもの。

 僕は僕の考えでスフィアを奪い取ってないわけだけど、他の参加者から見たら疑問に感じるのは当然だと言えた。

「まぁ、ちょっと理由があって、この浜咲夏姫と、近藤誠は僕の仲間で、ふたりともエリキシルソーサラーだ」

「うっ……。うん、そうだね。アタシは克樹の仲間だよ」

「あぁ、まぁ。仲間、だな」

 少し言葉を詰まらせつつも僕の座るソファの隣の夏姫が言い、ひとり掛のソファに座る近藤は鼻の頭を掻いていた。

『あたしもおにぃちゃんと一緒にいるよー』

「え? どこから、声が?」

 天井近くのスピーカーから降ってきた声に、中里さんは周囲を見渡す。

「あぁ、うん。いまの声はリーリエ。さっき水色のドールがいただろ?」

「えぇっと、はい」

「それを動かしてる、……フルオートシステムみたいなものだ。僕のアリシアのソーサラーだよ」

「そうなのですか。それはその、エイナさんと同じような感じの、人工個性とかそういうものですか?」

「まぁ似たようなものと考えてもらえばいい。それよりも、何故襲われてて、どうして僕のところに助けを求めてきたのか、説明してくれ」

「はい……」

 顔を俯かせて黙り込んだ後、顔を上げた中里さんは話し始めた。

「去年の十月末、エイナさんが現れて、ワタシはエリキシルバトルに参加することにしました。それからこれまで、誰とも戦ったことはなかったのですが、最近になってあの黒いドールが現れるようになって、フレイヤで戦っていたのですが、あちらはレーダーで感知できないので、ここ最近はあまり外に出られなくなっていたのです」

「フレイヤってのは、中里さんのドール?」

「あ、はい。そうです」

 中里さんと一緒に持ってきたピクシードールは、いまは彼女が方から掛けていた鞄の中に入ってたドール用のアタッシェケースに収まっている。

 ケースを取り出し開けて見せてくれた中には、さっきの白く、黒で印象づけられた衣装の、バトル用というより昔ながらのフィギュアドールのようなピクシードールが収まってる。

 目をつむってケースの中に横たわる彼女のフレイヤは、たぶんHPT社の最新型、僕がいまアリシアに試験型を取り付けてるヒューマニティフェイスが使われていた。

 第五世代パーツを使ったドールだと思うし、衣装の下にはハードアーマーを身につけてる感じはあったけど、広がった膝下丈のスカートとか、ひらひらの多い衣装はどう見ても戦いに適した感じはしない。

「音山さんのことは以前から近くに住んでいることはわかっていて、エリキシルソーサラーだと思っていたのですが、戦いを挑めないでいて……。そのうちにあの黒いドールが現れるようになったのです」

「僕に戦いを挑もうと思ってたのに、なんで助けを求めてきたの?」

「それは、えっと、レーダーで感知できないあのドールとちゃんと戦うことができない上、ゴールデンウィーク中はワタシの両親がどうしても外せない用事で不在になってしまって……。本当は敵同士だというのはわかっているのですが、家も安全ではなくなってしまったので、それで……」

 暗い表情で下を向く中里さんに、僕はため息を吐いていた。

 ――やっぱり僕は目をつけられやすいのか。

 スフィアカップの地方大会で優勝していて、百合乃を誘拐された上に亡くしている僕は、客観的に考えればエリキシルソーサラーである可能性が高いと判断されても仕方ない。

 エイナに言われたことが、まさに実現してることに、僕は若干の不満を感じていた。

『でもどうして灯理はエリキシルソーサラーなの? スフィアカップに参加してないよね?』

「そう思えばそうだよね」

「中里灯理……。中里灯理……。いや、いいか。確か中里さんの名前は、スフィアカップの優勝者、準優勝者になかったはずだ」

 リーリエが発した疑問の言葉に、夏姫が同意し、彼女の名前を何故か呟いていた近藤も頷きながら言う。

 それについては僕も疑問に感じていた。

 特別なスフィアを持つ者は、スフィアカップの出場者に限らない可能性も考えていたけど、中里さんはまさにその出場者ではないエリキシルソーサラーだ。

 いつどうやってエリキシルスフィアを手に入れたのかは、彼女の名前を聞いて、リーリエに情報を確認してもらってから、疑問を感じていた。

「それもそうだし、その制服、確か隣の区の高校のだよね?」

「はい。ワタシはそこの、美術科に通っています」

「それにそのスマートギアは、医療用のものだよね?」

「はい。その通りです」

 いまも彼女が被っている純白に、細くて赤い線が横に引かれたスマートギアは、普通のスマートギアじゃない。

 通常はスマートギアを公道上で被って乗り物に乗ったり歩いたりすることは禁止されてるけど、確か去年辺りに法改正されて、医療用の身体機能補助するものについては使用が認められるようになっていた。通常のものとは区別するため、白地に赤い横線が引かれたデザインが義務づけられていたと思う。

 法改正は先にされてるけど、医療用スマートギアの実物を見たのは僕は初めてだった。まだ市販はされてなかったと思うし、臨床試験を行ってるって話もどこかであった、程度の記憶しかない。

「中里灯理って……、天才少女画家の、あの中里灯理さんか?!」

 そんな声を上げたのは、近藤。

「誰だ? それ」

「アタシも聞いたことある。確か小学校の頃からコンクールとかで名前出てたよね? 中学のときには海外でなんかの賞取ったとか。風景画が得意なんだっけ? あの学校に通ってるって、確か前にテレビで言ってた。知らないの? 克樹」

「いや、ぜんぜん」

「オレも梨里香から聞いたことがあるだけなんだが、凄く繊細な絵を描く女の子だ、って話だ」

「へぇ」

 夏姫も近藤も知ってるみたいだが、絵画に興味なんてない僕は中里さんの名前を聞いたことがなかった。

 ふたりの驚いた顔を見る限り、どうやら有名人らしいことはわかる。

 彼女の顔を見てみると、目はスマートギアに覆われて見えないからよくわからなかったが、どこか寂しげに感じる笑みを口元に浮かべていた。

「順番にお話します」

 言って深く息を吐き、顔を上げた中里さんは話し始めた。

「絵を描くためにいまの高校の美術科に入って少し経った頃、ワタシは交通事故に遭いました。怪我そのものはたいしたことはなかったのですが、頭を打って目が見えなくなってしまったのです」

「じゃあそのスマートギアは、視覚補助用?」

「はい。頭を打った際に何か脳か神経に異常が出てしまったらしく、検査でも原因が突き止められず、本来の視覚を回復させる方法はわかりませんでした。そんなとき、ワタシには適正があるということで、この視覚補助用のスマートギアの臨床試験の被験者になることになったのです」

「なるほど」

 僕たちソーサラーにとってはピクシードールを操作するデバイスとして主に使ってるけど、スマートギアの使用方法はそれだけじゃない。

 ポインタ機能とその応用を使った複合マンマシンインターフェースであるスマートギアは、ディスプレイやキーボードやマウス、ポイントマットなどのBICデバイスをすべて内包した端末用統合デバイスとしての利用が一番大きい。

 決して安くないし利用には慣れや熟練が必要だから使ってる人はそんなに多くないけど、仕事やゲームなど、いわゆる端末作業で使ってる人の方が、スフィアドールの操作で使ってる人よりも遥かに多い。

 他にも現実の視界のようにして使えるスマートギアは、SF世界にあるようなダイブとかはできないにしても、仮想視覚による機械の遠隔操作に利用されたり、戦闘機や戦車などの軍事用途でも利用されつつあったりする。

 それから中里さんのように、医療用スマートギアというのも、開発が続けられている。

 ポインタ操作のために脳波を受信する機能しかないスマートギアだけど、医療用のものではそれを使ったコミュニケーションデバイスとしてや、さらに脳や神経に情報を送信して失われた視覚や聴覚を得る実験が行われていると、業界のニュースで見たことがある。

 まだ実用化には時間がかかるはずだと言う話だったけど、中里さんはそうした医療用の、神経情報送信型のスマートギアの実験タイプなんだろう。

「その実験の一環として、ワタシはスフィアドールの操作を行うようになりました。それで、ピクシーバトルに興味が出てきて、ピクシードールに触れるようになったのです」

「フレイヤに搭載されてるエリキシルスフィアは、誰からもらったの?」

「えぇっとそれは、名前などは聞いていないのですが、スフィアロボティクスの女性の方から、実験の成果が上がっているからと、昨年の夏頃に最新型のスフィアをいただいたのです」

「なるほどね」

 不安げな顔をしている中里さんが本当のことを言ってるのか、嘘を吐いているのかはわからない。

 でもひとつだけ確かなことがある。

 ――エリキシルソーサラーは、スフィアカップの出場者だけじゃない。

 たぶん中里さんが言うSR社の女性ってのは、モルガーナ自身か、モルガーナに直接関わってる人物だろう。

 どういう意図で彼女にエリキシルスフィアを渡したのかはわからない。でも何か、モルガーナには彼女をバトルに参加させる理由があるように思えていた。

「言いたくなければ答えなくていいけど、中里さんの願いは、その目を治すこと?」

「はい。その通りです」

「そっか」

 死んだ人を生き返らせたい。見えなくなった目を治したい。ふたつは違うものだけど、失ったものを取り戻したいという意味では同じだ。

 エリクサーが起こすことができるという命の奇跡は、人を生き返らせることだけじゃなく、彼女の目を治すことにも有効なのだろう。

 そうした願いがあったからこそ、モルガーナはエリキシルスフィアを中里さんに渡したんだろうとは思う。

「あの、それで、お願いがあります」

 ローテーブルに顔が着きそうなほど頭を下げ、中里さんは言う。

「皆さんはエリキシルソーサラーで、戦わなければならない相手だというのはわかっています。けれど、あの黒いドールは、あまりちゃんとバトルをしたことがないワタシでは戦えませんし、レーダーで感知できないので奇襲をされると危険なのです。どうかあのドールを倒すまで、ワタシに協力してほしいのです」

 頭を下げたままの中里さんを見、難しい顔をした夏姫と近藤が僕に視線を飛ばしてくる。

『どうするの? おにぃちゃん』

 リーリエからかけられた声に、僕が判断しなくちゃならないんだろうと、諦めてため息を吐いた。

「わかった。あのドールの正体を暴いて、倒すまでは、僕たちは中里さんに協力するよ」

「ありがとうございます!」

 顔を上げた彼女は、魅力的なサイズの胸に左手を当て、安堵の息を漏らして微笑んだ。

 

 



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第二部 黒白(グラデーション)の願い 第一章 3

 

 

       * 3 *

 

 

「本当にありがとうございます。どうかよろしくお願いいたします」

「うん、わかった」

 フレイヤを入れたケースを仕舞った鞄を抱えた中里さんは、僕の返事ににっこり笑って、電話で呼んだタクシーに乗り込んだ。

「これからどうするの?」

 走り去っていったタクシーを見送った後、隣に立ってる夏姫がそう声をかけてきた。

「まぁ、中里さん次第だね。他のことはまだよくわからないし。それよりわからないのは、あの忍者みたいなエリキシルドールだけど。とにかく、あいつの正体を暴くまでは協力するってことで」

「そうだね。レーダーで感知できないなんて、どう対応すればいいんだろ」

「倒すまで警戒するしかないだろ」

「そうなんだけどね。でも、なぁんかあの灯理って、ヤな感じって言うか、裏がある感じがするんだよね」

 もう見えなくなったタクシーの方を見ながら、夏姫は眉を顰めている。

 家の敷地の外、門の前に立つ僕と近藤は、そんな夏姫の様子を見て顔を見合わせていた。

『何なにー? 夏姫、嫉妬ぉ?』

「違うっての! というか誰に対して誰のことで嫉妬してるって言うの?!」

 門扉の隣に設置された玄関チャイムのスピーカーから発せられたリーリエの声に、夏姫はポニーテールを振り乱して振り向き、腰に手を当ててカメラに苛立った顔を見せている。

 背が高めでスラリとした脚をして、胸も標準よりけっこうある夏姫はくっきりした顔立ちのけっこうな美少女に分類されると思うけど、中里さんは小柄で手も足も夏姫以上に繊細な細さで、身体つきは夏姫以上。スマートギアで目元が見えなくても美少女という言葉がまさにふさわしい。

 女同士ってのはよくわからないが、嫉妬するのも仕方ないのかも知れない。

「そんなことはともかくよ、克樹。オレはお前を手伝うぜ」

 突然上の方からかけられた声に近藤の方を見ると、真面目な顔つきをしていた。

「うん。克樹が手伝うって決めたんだもんね。灯理のことはちょっと信じ切れないけど、アタシも克樹の方針に従うよ」

 近藤の隣に並んだ夏姫が、少し前屈みになりながら、僕の顔を覗き込むようにして微笑んだ。

「連絡先は交換したし、何かあったら行ける奴が駆けつける、ってことで。んなことより、明日も勉強会だぞ、ふたりとも。家に帰ったら今日の分、復習しておけよ」

「うっ。わかってるさ……」

「うん……。頑張る」

 途端に渋い顔になったふたりは、今日はとりあえずここまでってことでお互いの家に帰っていった。

 家に入った僕は、みんなに出してたコップを流しに持っていって、洗うのは後回しにしLDKに放り出していた鞄からスマートギアを取り出して被る。

『リーリエ、中里さんのことと、フレイヤのことを検索。わかる限りでいいから情報を集めてくれ』

『うん、わかった』

 アリシアの入ってる鞄を担いで階段を上がりつつ、リーリエにそう頼む。

 作業室に入って鞄から取り出したアリシアを充電台に寝かせ、フルメッシュのチェアに座った僕は、リーリエが探し出してくれた情報を確認していく。

 ――確かに、夏姫の言う通りだな。

 夏姫が警戒していたように、僕だって中里さんのことを信用してるわけじゃない。

 戦って勝ち、エリキシルスフィアを集める必要がある僕たちエリキシルソーサラーが、後で必ず敵として戦う必要がある人物に助けを求めるというのがまずわからない。

 情報を見る限り中里さんは確かに幼い頃から才能を認められるようになった画家で、夏姫や近藤が話していたことに間違いはない。中学の頃のものだけど、いまより髪が短い彼女の写真が、コンクール受賞時のものとして掲載もされていたから、今日来たあの子が中里灯理本人であることもまず間違いがない。

 ――綺麗な目をしてるな。

 カラーで掲載されてる、今日見たのより幼い感じがある中里さんのバストアップの写真。

 微笑んでる彼女の瞳には嬉しさが浮かんで見えて、写真であるのに輝いているのがよくわかる美しいものだった。

 事故で視力を失ったというのも本当で、事故そのもののニュース記事は小さいものだけど、その後に視力を失ったことに対する美術業界関係者の嘆きの言葉なんかが、かなり大きな事件として取り上げられていた。

 さらにその後臨床試験でスマートギアを使って視力を回復したことについては触れられてるニュースは見られず、まともに取り上げてるのはSR社の実績発表が一番大きいくらいだった。

「視力を取り戻したいって言うのは、本当なんだろうな」

 SR社の発表を見る限り、中里さんに使ってるスマートギアによる視界は、実際の視覚と遜色がないということにはなってる。さっきまでの彼女も、とくに視覚で苦労してる様子もなかった。

 でも努力目標として、汎用性を高めるというのと同時に、より現実に近い視界を実現するという書き方から、どの程度かはわからないけど、肉眼に劣っているんだろうと予想できる。

 フレイヤについては情報なし。スフィアカップに中里さんが出場してないのは、地方大会の優勝準優勝者に彼女の名前がないこと、集合写真に彼女の顔が見つからないことでも確かだったが、けっこうよく使われてる神話の女神であるフレイヤという名前のピクシードールにも、彼女らしいソーサラーはいなかった。

『リーリエ。あの黒い奴は、本当にエリキシルドールだったのか?』

『うん。間違いないよー』

 言ってリーリエは、スマートギアの視界に、おそらくアリシアの視覚を使って撮影したんだろう写真を表示してくれる。

 リーリエに扱えるようにしてある画像補正アプリの処理がかけられたその写真では、あると思われる場所にソフトアーマーの継ぎ目が消失していたり、壁を乗り越える際に見えた足首のシワの寄り方なんかに、エリキシルドールの特徴が出ていた。

 もとより僕の身長を超える学校の壁を飛び越えるなんてことは、アライズしたエリキシルドールとほぼ同じサイズの、現在のエルフドールでは実現できない運動性だ。

 レーダーで感知できないのはトリックを使って実現してるのはわかるけど、エリキシルドールを関係のない人に曝す危険性もあるのに、大して距離も稼げない遠隔操作で自分の側から離して中里さんを追わせた理由はわからなかった。

 ――いまある情報だけじゃ、判断するのは難しいかぁ。

 中里さんのことも、忍者のようなドールのことも、いまある情報だけじゃわからないことだらけで、手がかりが足りな過ぎる。

 大きくため息を吐き出して、僕は意識で操作していらないウィンドウを閉じていった。

『あの黒い子のマスター、わかりそう?』

『んにゃ、ぜんぜん。わからないことはとりあえず置いておいて、平泉夫人から出されてる宿題をこなしちゃおう』

『ん……。わかった』

 心配してる風のリーリエの声に答えて、僕はファイルエリアから動画ファイルのフォルダを開いた。

 ふと視界に入ってきた、充電台の上に横たわるアリシア。

 いまのところアリシアは、リーリエの強化のために主に使っていて、夫人に言われたように、僕がフルコントロールソーサラーとしてそれなりになるための訓練に使える時間はあまりなかった。

 ――早く、もう一体のドールを組み立てる必要があるかぁ。

 あの黒いドールとそのソーサラーとの解決を考えて、僕はそんなことを考えていた。

 

 

          *

 

 

 春の陽気にうっそうと枝を伸ばした木には、幹が見えなくなるほどに葉が茂っていた。

 まもなく西の空が赤く染まり行こうとしている頃合い、その高い木の枝の一本で、黒い影が動いた。

 灰褐色の枝にしがみつき、葉の陰に隠れるようにしていたのは、身長二十センチほどの黒い衣装を纏ったピクシードール。

 腕を立てて上半身を起こし、周囲を見渡すように首を振ったそのドールは、スカート状の衣装に触れ、そこに手を入れ何かを取り出した。

 二本のナイフ。

 ドールには大きく、人が扱うようなサイズのナイフを両手で持ち、黒いドールは木に切っ先を突き立てながらするすると下りていく。

 ある程度下りたところで、ドールは木の幹から飛び降りた。

 それを受け止めたのは、濃灰色の手袋をした両手。

 天に差し出すように掲げられた手に着地したドールは、ナイフを衣装の中に仕舞い、膝立ちの姿勢で動かなくなった。

 ドールを片手でつかみ、肩に提げた鞄のファスナーを開けた人物は、静かにそれを中に納めた。

 克樹たちの通う高校の校門の外のスペースに植えられた桜の木の側に立つ人物は、そろそろ暖かい季節であるのに、足首まで裾が伸びた上着を羽織り、フードを目深に被っていた。

 男とも女ともわからない比較的小柄な人物は、顔を隠すように少し俯きながら、いままでやっていたドールの回収などなかったかのようにまばらな人の流れに混じって歩き始める。

「まさかスフィアを奪い取ってないなんて……」

 すれ違う人々に聞こえないほどの声で、フードの人物は呟く。

 考え込むようにさらに顔を俯かせ、簡素で飾り気のないスポーツバッグを肩にかけ直した。

「三人、か……」

 駅へと向かう人々とともに歩き、片側二車線の国道沿いの歩道を歩きながら、小さく言った。

「ここはやはり、各個撃破、か」

 俯かせていた顔をわずかに上げ、フードの人物は歩みを早くして駅へと向かっていった。

 

 



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第二部 黒白(グラデーション)の願い 第一章 4

 

       * 4 *

 

 

 鳴り始めた目覚ましに、僕は手を伸ばしてベッドの飾り棚に置いてあるアラームを止めた。

「眠……」

 欠伸を漏らしながら上半身を起こし、でも寝不足の頭が起きてくれず、僕はそのまま夢の中に引きずり込まれていく。

『おはよーっ、おにぃちゃん。朝だよー』

「リーリエ、おはよう」

 天井から降ってきた声に半分無意識に返事をして少しだけ覚醒した、でも布団の中に潜り込みたいと言ってるようにも思える身体を酷使して、クローゼットまで歩いていく。

 適当に選んだ服に着替え、一度ベッドに戻った僕は、枕の下に入れておいた折り畳みナイフを取り出す。

 近藤と戦ったとき、僕自身を刺すことになったナイフは、回収して綺麗にしてあった。

 そのまま捨ててしまおうかとも思ったけど、捨てきれずにいまも刃を研いだりしつつ、こうして持っている。

 ひとつため息を吐いてナイフをズボンのポケットに仕舞った僕は、もうひとつ大欠伸を漏らしながら一階へと下りていく。

 平泉夫人の家でリーリエの稽古をつけてもらった日に出されたのは、リーリエだけじゃなくて、僕の分のもある課題。

 映像資料を見ること、アプリリストの体験版をひと通り使ってみること、MW社のスマートギアを購入することだけじゃなく、最低限ピクシードールのフルコントロールを身につけるという課題も出されていた。

 月末には成果を確認するために訓練をつけてくれるという夫人のありがたいんだか、迷惑なんだかどっちとも言い難い申し出に、僕が拒否の言葉なんてもちろん言えるわけがない。

 ――僕とリーリエのことを想ってやってくれてるんだしなぁ。

 長身で細身の平泉夫人はモデルでも食べて行けそうな体型をしていて、いつもは穏やかでおっとりした性格だけど、訓練となるとそのノリは完全に体育会系だ。

 月末までには最低限でもフルコントロールを形にしなければ、どんな目に遭うかわかったもんじゃない。

「やっぱりもう一体、ピクシードールが必要だよなぁ」

 リーリエと僕で交代で使ってるアリシアの他にも、予備のパーツをかき集めればピクシードールを組み立てられなくはないけど、第四世代と第五世代のパーツがまばらに使った不安定なものしかつくれない。

 訓練のためにはちゃんとしたバトルピクシーがもう一体、早めに必要な状況になっていた。

 その目処は立たなくはなかったけど、まだすぐに組み立てられるほどパーツが手元に集まってなかった。

『朝ご飯はどうするの? おにぃちゃん』

「んー。どうしよ」

 キッチンに入って冷蔵庫を開けてみるけど、たいした食材は入ってなかった。

 いつも食事はレトルトとか店屋物で済ませていて、炊けばご飯くらいはできるが、休みの日に朝から出かけるのも面倒臭い。

 今日の勉強会はうちでやる予定で、昼過ぎくらいに集合の予定だから、それまでに何か買ってくればいいのはわかってる。でもがっつり寝不足の僕は、奴らが集まってくる前にもうひと眠りしようかどうしようか迷いながら、残り二パックのゼリードリンクを手に取って冷蔵庫の扉を閉めた。

『おにぃちゃんっ!』

「どした? リーリエ」

 慌てたような驚いたようなリーリエの声が降ってきたと思った瞬間、呼び鈴が鳴った。

 ――夏姫か?

 まだ集合時間までずいぶんあるのに、あいつが早く来たのかと思いつつ、僕は携帯端末を胸ポケットから取り出して玄関カメラの映像を表示する。

「……え?」

『ど、どーしよう……』

 カメラに写っていたのは見慣れた少しきつめの顔をしてるポニーテールな女の子ではなく、柔らかい繊細な髪をした女の子。

 中里灯理(なかざとあかり)だった。

『音山さん、いらっしゃいますか? ワタシです。灯理です』

 薄ピンク色のワンピースを身につけ、大きなボストンバッグを肩から提げた中里さん。

 左手に持ったスーパーのものらしいビニール袋を示しながら、白に赤線の入ったスマートギアの下の小さめの口に笑みを浮かべていた。

『やはり両親が家にいなくて不安なので、帰ってくるまで泊めていただけませんか?』

 ニコニコと玄関カメラにそう呼びかけている彼女に、僕はどうしたらいいのかわからなくなっていた。

 

 

 



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第二章 第二章 黒白(グラデーション)の願い
第二部 黒白(グラデーション)の願い 第二章 1


 

第二章 黒白(グラデーション)の願い

 

 

       * 1 *

 

 

 ドライヤーで髪を乾かし終えた夏姫は、洗面所の鏡を見ながらブラシで髪を整え、少し高めの位置にまとめて左手で固定し、咥えていた髪ゴムを右手で取ってポニーテールにまとめた。

 レースの飾りがついた水色のブラとパンティ姿の彼女は、顔を右へ左へ振り向かせ、髪に乱れがないことを確かめる。

「よしっ」

 大丈夫なのを確認してにっこり笑って見せ、半袖のTシャツを羽織った彼女は洗面所を出る。狭いキッチンという名の廊下を数歩歩いて六畳ほどの部屋に入った。

 一間しかない畳の部屋には、あまり物が置かれていない。

 天板を仕舞える収納兼用の机と、いまは脚を折り畳んで変色している壁に立てかけてある四角い卓袱台、小物入れを兼ねたローチェストの上に平面モニタがあるだけだった。

 一年半ほど前までは、この六畳一間の部屋に、母親の春歌とともに生活していた。

 春歌の死後、元々少なかった彼女の持ち物はほとんど売り払ってしまって、形見になる小物の他は、平面モニタの横に立ててある遺影代わりの写真くらいしかなかった。

 中学の頃のセーラー服を着た夏姫とともに春歌の微笑みを少し眺めて、夏姫は小さく吐息を漏らす。

 机の上に充電中の学校用スレート端末が出しっ放しにしてある他は片づけが行き届いた部屋で、夏姫は誰もいないのをいいことに、下着にTシャツを羽織ったままの姿で押し入れを開けた。

 中途半端にクローゼット風になってるその中には、下段に畳んだ布団などが入っていて、上段にはさほど多くない服が掛けられていた。

「んー。今日は何着ていこう」

 服を見ながら、夏姫は唇に人差し指を当ててしばし考え込む。

 克樹に昨日教えてもらっていたところを復習していて、寝たのはずいぶん遅い時間になってしまっていたが、いつも通りの時間にすっきり起きることができた。

 ちゃんとは決まっていない昼食後と指定された集合時間には余るほど時間があったから、シャワーを浴びてさっぱりした夏姫は、今日着ていく服をじっくり悩む。

 高校二年になり、明美とともに同じクラスになった克樹とはちょくちょく話すようになり、これまで知らなかった彼のことを多く知ることができていた。

 集合は昼食後だったが、料理をつくるのは苦手、というより面倒臭いらしい彼のために、少し早めに食材を買って持っていこうかと考えていた。勉強を教えてもらっているお礼に、お昼ご飯くらいつくってあげても罰は当たらないだろう。

 そのとき鳴り響いたのは、スレート端末の横に置いてある携帯端末の着信音。

 着ていく服を考えるのを中断して手に取ってみると、見知らぬ番号だった。

「誰だろ」

 眉を顰めながら応答ボタンを押し、耳に当てる。

『夏姫? 夏姫だよね?』

「え? うん。リーリエ? どうかしたの?」

 人工個性なのに本当に人間の女の子のように慌てた声を出しているのは、リーリエ。

 まだ集合時間にはずいぶん早いし、何を慌てているのかと次の言葉を待つ。

『助けて! 夏姫!! すぐに来て!』

「何があったの?!」

『夏姫にしか頼れないの。急いでうちまで来て!!』

「うんっ。わかった!」

 リーリエの泣き声にも近い切羽詰まった声音に、通話を切断した夏姫は、お気に入りの服に急いで着替え、教具やヒルデを鞄に収めて慌てて家を出た。

 

 

          *

 

 

「……えぇっと、これは何?」

「……朝食、のつもりでした」

 ダイニングテーブルに向かい合って座る僕と中里さんの間には、皿が並んでいた。

 皿にはそれぞれに黒ずんだものが乗っかっている。

 たぶん目玉焼きのベーコン添えと思しきものは全体的に黒く焦げつき、食べれる部分はあまり残っていそうにない。

 その横に並んでるトーストは、トースターで焼いたというのに、どうしてこんなになるのかと思うくらい黒く変色していた。

「料理の経験は?」

「家庭科の授業は野菜をちぎる役でした。家では家政婦に来てもらっています。……朝食くらいなら、つくれると思っていたのですが」

 そう言って中里さんは顔を明後日の方に向けた。

 ――最初から悪い予感はしてたんだよな……。

 玄関を開けてみたら強引に入ってこられて、朝食をつくるから任せろと言うので任せてみたが、嫌な臭いが漂っていたのには気づいてた。それでも「大丈夫です」と言うので口も出さなかった結果が、これだった。

 ため息を吐きながらキッチンに入ってみると、焦げ目がしっかり残ったフライパンが流しの金桶に浸けられいた。

 どうやら入れすぎた油に引火したらしく、一緒に浸けられているガラスの蓋もススで黒くなってる。

 そもそも家に入れなければ良かったんじゃないかとも思うが、一応協力すると昨日言った手前、邪険にすることができなかった。

「ゼリーで済ますか」

 呟きながら冷蔵庫の扉に手をかけたとき、玄関のチャイムが鳴った。

『助っ人が来たよっ、おにぃちゃん!』

「助っ人?」

 リーリエの謎の言葉に眉根にシワを寄せてる間に、LDKに姿を見せたのは夏姫と近藤。

「うわっ、何? この臭い……。っていうかなんで中里さんがいるの?!」

「なんだ。早速連れ込んだのか? 克樹」

「いや、押しかけられたんだ。それよりなんでお前らがこんな時間に来てるんだ?」

「リーリエから助けてって電話があったんだよ、アタシも、近藤も」

「だから助っ人か」

『へっへぇ』

 肩を小さく竦めつつも、素知らぬ顔でそっぽを向いてる中里さん。

 夏姫たちはテーブルの上の消し炭を眺め、げっそりした顔をしていた。

「こんな時間に来てもらっても、昼飯になりそうなものはないぞ。まぁ、ピザか何か取ればいいんだけどさ」

 まだちょっと遅い朝食時間のいまは、まだ近くの宅配ピザの配達はしてくれないだろう。スーパーは早いところは開いてるし、中里さんが持ってきた食材はある程度残ってるけど、他には調味料とかレトルトとかカップ麺くらいしかない。

「アタシは朝ご飯まだなんだよね。近藤は?」

「オレもだ。黒い奴の襲撃でもあったのかと思って急いで来たからな」

『夏姫は料理つくれるって言ってたよね? 助けてよぉ』

「アタシもたいしたものはつくれないんだけどさ……」

 唇に指を添えてしばし考え込む夏姫。

「ちょっと見せてね」

 キッチンの方にやってきた夏姫が、僕のことをどかして冷蔵庫を開ける。

「卵と牛乳とベーコンと、チーズもあるのか。それとパンか。調味料とか、他に食材入れてるとこは?」

 言われるままに僕は夏姫に調味料を入れてる引き出しと、パスタとかお米を入れてる棚の扉を開けて見せる。

 フリルとかの飾り気の多い白いシャツに上着を重ね、ふわりと広がる赤いスカートを穿いた夏姫の瞳には、いつも学校とかで見てるのとは違うものが浮かんでいるように思えた。

 少し悩んでいて、でもちょっと楽しそうで、何て言ったらいいのかわからないけど、女の子の目をしていた。

「うん。たぶん大丈夫。うわー、フライパンは洗わないとダメか。克樹、エプロンある?」

「あ、うん。これ」

 キッチンの隅に引っかけてある、いつも僕が使ってるエプロンを手渡し、代わりに夏姫の上着を受け取る。

「じゃあちょっと待ってて。あるものでつくるから」

「何か手伝うことはあるか?」

「んー。大丈夫。いろいろ使っちゃうけど、いいよね?」

「任せる」

「わかった」

 口元に笑みを浮かべて冷蔵庫から牛乳と卵を取り出す夏姫を見て、手伝うことがなさそうなのを感じた僕は、キッチンを出てコーヒーを淹れる準備を始めた。

 

 

 

 

 三十分とかからずに消し炭の代わりにダイニングテーブルに並んだのは、大皿にたっぷりと盛られたカルボナーラと、美味しそうな焦げ目のついたフレンチトーストだった。

「よくこんなのつくれるな」

「喫茶店でバイトしてるからね。ちょこちょこ教えてもらってるんだ。それにそんなに難しくないんだよ? つくるよりもある材料でどうするかを考える方が面倒かな」

 少しだけ恥ずかしそうに笑う夏姫に、僕は普通に感心していた。

 さすがは女の子、というのは中里さんには該当しないわけだから、夏姫だからなんだろう。

 早速全員で「いただきます」と声をかけて小皿に取り分けたカルボナーラをフォークとスプーンで口に運んでみると、レトルトなんかとは比較にならない味が口の中に広がった。

 フレンチトーストも外はカリッとしてるのに、中はふわっとしていて、スーパーの食パンでつくったはずなのに、味はファミレスなんかのよりもよほど良かった。

『美味しい? おにぃちゃん』

「あぁ。なんか、久しぶりにこういうまともな料理を家で食べた気がする」

「いや、本当に美味いぞ、浜咲」

「そんなことないって。克樹も近藤も、つくり方を覚えれば自分でできるよ?」

『夏姫を呼んで正解だったでしょう?』

「そうだな」

 家で誰かと食事するなんていつぶりだったろうと思いながら、しょうもない言葉を交わす。

 中里さんはひとり黙っていたけど、彼女の前にある小皿のカルボナーラは、大皿から取り分けたのは三回目だった。

「それで、どういうことなの?」

 食事を終え、僕と近藤で片づけも終わった後、ソファに場所を移したみんなの前にコーヒーのカップを並べ終えるのと同時に、夏姫が言った。

「どういうことって言われても、僕もまだよくわかってないんだけど……」

 おっとりした女の子だと思っていたら、強引に家に入り込まれた後は状況に流されてるばっかりで、どういうことなのか僕自身よくわかってない。

 正面に座る夏姫と近藤から、何故か隣に座ってる中里さんに視線を移すと、彼女は口元に笑みを浮かべていた。

「そうですね。ワタシから説明します」

 そこで一度言葉を切って、にっこりと、でも何となく挑発的にも思える笑みを、中里さんは浮かべた。

「今日から数日、ワタシは音山さんの家で暮らすことにしました」

「なんでそんな話になってるのよっ! 克樹、どういうこと?!」

「いや、別に僕は許可した憶えはないんだけど……」

「でもワタシの親は出かけてしまっていてしばらく戻りませんし、家政婦の方には友達のところに止まるので食事は必要ないと言ってきてしまったので、音山さんの家に泊まるしかありません」

 ソファから立ち上がった夏姫に睨みつけられても、中里さんの口元の笑みが消えることはない。

 火花が散っていそうなふたりのことを見ていられなくて、近藤に助けを求める視線を飛ばしてみたが、肩を竦めるだけで何も言ってくれそうになかった。

「どうするの? 克樹。本当に泊めるつもり?」

「いや、どうすると言われても……」

「昨日会ったばっかりでよくわかんないし、親がいないってのも本当なんだか」

 矛先を僕に変え、突き刺さるような視線を向けてくる夏姫。

「本当ですよ。ふたりとも仕事関係の人で集まって慰安旅行に行っています」

「だったら一緒に行けばよかったのにっ」

「そうですね。思いつきませんでした。……いえ、嘘です。美術関係の方が多く集まるので、あまり行きたくなかったのです」

 今度は笑みを消し、俯いた中里さん。

 医療用の白地に赤線が入ったスマートギアでいまひとつ表情の真偽はわかりにくいけど、調べればバレるような嘘を吐いてるようには思えなかった。

 不満そうな息を吐いた後、眉を顰めながら僕を見、夏姫は言う。

「本当にどうするつもり? 克樹。協力することにしたって言っても、アタシや近藤と違って、中里さんは敵なんだよ?」

「そうなんだけどね……」

「それに、女の子とふたりっきりで、それも家に泊めるなんて、絶対危ないに決まってるじゃない。――克樹がね!」

「ははっ」

 怒りの籠もった視線で睨まれて、僕は乾いた笑いを漏らしながら夏姫から視線を逸らした。

 いまはそれなりに信頼してくれてるみたいだけど、夏姫を出会ったその日に押し倒したりしたんだ、その点は信用されてなくても仕方ない。

 それに、中里さんも中里さんだ。

 男の家に泊まりに来るって意味を、本当にわかっているんだろうか。

 さっきまでの暗かった表情はなく、夏姫と僕のやりとりを微笑みを浮かべて眺めてる彼女をこっそりと見て、僕は小さくため息を吐いていた。

『だったら夏姫も泊まっちゃえばいいんだよー』

 そんなリーリエの声が、LDKに響いた。

「いや、さすがにそれは――」

「うん、そうだね。それがいいかも」

 ためらいの言葉を口にする僕を遮るように、夏姫が言った。

「でも、何て言うか……。なぁ、近藤」

「オレに同意を求めるなよ。何とも言えねぇって」

「中里さんも……」

「ワタシは親が旅行から帰ってくるまで匿ってもらえるなら、別に」

 呆れ顔をしてる近藤は役に立たず、澄ました表情でコーヒーのカップを傾ける中里さんも夏姫を止める気はないらしい。

 勝ち誇ったような夏姫は、立ち上がったまま僕を見下ろしてきていた。

「でもいいの? リーリエ。アタシが泊まっても」

『本当は嫌だけど、灯理とおにぃちゃんのふたりにするなんて、ぜぇーったいダメだもん。それに、夏姫だったらいいやぁ』

 どういう意図の言葉なのかわからないが、リーリエはOKらしい。

「ということで、よろしくね、克樹」

「なんでリーリエの許可だけでいいことになるんだよ」

「だって仕方ないでしょ。克樹が中里さんのこと拒否できないんだし、克樹のことを心配してるのはリーリエなんだから」

「……はぁ」

 僕が口を挟んでも変わりそうにない流れに、大きく息を吐いた僕は諦めた。

「近藤も泊まってくか?」

「勘弁してくれ。オレがいていい空間じゃないし、夕方からは道場で稽古があるんだ。ここからじゃ通いにくい」

 僕と同じようにげっそりした表情を浮かべてる近藤は、首を横に振って全力で拒絶の意志を表明していた。

「あー、寝る部屋とかどうしたらいいんだろ」

『おにぃちゃん。使ってない二階の寝室、使ってもいい?』

「掃除して、貴重品だけ金庫に仕舞う必要があるけどな」

「後で泊まり用の装備取りに帰って、夕食の買い出しも必要か」

 もうすっかり泊めるとか泊めないとかのところを通り越したことを考え込んでる夏姫。

 近藤は脇に置いた鞄からスレート端末を取り出して、勉強の準備を始めていた。

 中里さんは、ニコニコと笑いながらコーヒーを飲んでいる。

 学校だけじゃなく、家の中まで騒がしくなってきてることに、僕はもうついて行けなくなりそうになっていた。

 



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第二部 黒白(グラデーション)の願い 第二章 2

 

 

       * 2 *

 

 

 綺麗な発音の英語が、ダイニングテーブルの方から聞こえてきていた。

 それを追って発音される英文は、いま聞いたもので、スレート端末には読み上げる文が表示されてるのに、つっかえながらの拙いものだった。

 ――どうしてこうなったんだろう。

 ソファに座る僕は天井を仰ぎ、そんなことを考えていた。

 朝昼兼用になった食事の後、夏姫と中里さんが僕の家に泊まることになり、昨日は慌ただしくてできなかった自己紹介を改めてしたり、黒いドールのことを詳しく聞いたりしていた。その後、僕たちが勉強のために集まってると聞いた中里さんは、手伝うと言い出した。

 いま、ダイニングテーブルでは中里さんが夏姫に英語を、ソファでは僕が近藤に数学を教えてるところだった。

「なぁ、おい。本当にどうするつもりなんだ?」

 中学の基礎からやり直してそこそこはかどってる勉強の途中、ちらりとダイニングテーブルの方に視線を走らせた近藤が小声で僕に耳打ちしてくる。

「どうするって。成り行き上、もう仕方ないだろ」

「そうだろうが、中里さんは一応敵だろ。信用していいのか?」

 英語の発音と和訳を頑張ってるらしい夏姫たちの方に、僕もちらりと視線を向けてみた。

 いまのところあの忍者ドールのソーサラーは不明。

 たぶん近くにいたんだと思うけど、気を失った中里さんに気を取られて探すこともできなかった。

 昨日知り合ったばかりの中里さんのことだって、別に信用してるわけじゃない。

 おっとりとしていて、でもちょっと強引で、小悪魔的なところが見え隠れしている彼女はどうにも拒否し難く、踏み込まれるとペースに乗せられてしまう感じがあった。

 信用はしてなくても扱いづらい中里さんのことは、いまのところは協力体制を維持する他なかった。

「まぁ、あの忍者みたいなドールの正体がはっきりするまでは、ね」

「本当、そういうところは甘いよな、克樹は。お前のそういうとこにオレも救われてるんだけどな」

 二年になって停学が解けて再会したころにはスキンヘッドに近かった頭は、五分刈りくらいまで髪が伸びてきていた。

 長身でぱっと見細身のようだが、全体的に身体の造りががっしりしてる近藤は、暑苦しさを感じさせない涼やかな笑みを浮かべていた。

「なんだよ、それ」

「オレがまだ梨里香を生き返らせる希望を持っていられるのは、克樹のそう言うところがあるからだ」

 優しげに笑う近藤に、僕は眉根にシワを寄せながら視線をあらぬ方に向けた。

「でも本当に、なんでお前はオレのや、浜咲のスフィアを奪わないんだ?」

「前にも言っただろ。こうやって集めるって方法でも大丈夫かどうか試してるだけだって。それにもし願いをひとりしか叶えられないなら、もう一度戦うって」

「いや、そうなんだが、もう一度戦ったりするくらいなら、あのとき奪っておいた方が楽だったろ?」

「別にどうでもいいだろ」

 しつこい近藤を横目で睨みつけるが、黙る気はないらしい。

「オレだってエリキシルソーサラーを辞めたいわけじゃない。でもやっぱり、お前がどうしてスフィアを奪わないのかってのは、ずっと疑問に感じてたんだ」

 そんなに疑問に感じるのか、と僕自身は思ってしまう。

 夏姫にも以前問いつめられたことではあったが、そんなにまでこだわることなんだろうか、と僕自身は感じていた。

 ――いや、モルガーナのことを知らないなら、仕方ないのか。

 夏姫も近藤も、モルガーナとは面識がない。会わない方が幸せだと思うが、あいつが僕なんかの想像よりも遥かに大きなことをやろうとしてるなんてのは、直接会ったことがある僕にしか想像し難いだろう。

「……魔女の思惑に踊らされたくないだけだ」

「魔女? 魔女ってのは誰なんだ? バトルに関係してる奴のことなのか?」

 魔女という単語に食いついてくる近藤に、言わなければ良かったと思う僕が、どう誤魔化そうと思ってるとき、胸ポケットの携帯端末が音声着信を知らせた。

「ちょっと待て。――はい」

 近藤を制して立ち上がり、着信の相手を確認した僕は即座に応答ボタンを押した。

『よぉ、克樹。やっと例のものを引き渡せるようになったぞ』

「本当?! じゃあすぐに取りに行くよ」

『なんだ? 急ぐんだな。送ろうと思ってたんだが。それじゃあいまから持って帰るから、家の方に来てくれ』

「わかった」

 通話を切断して、僕はLDKから出ようと扉の方に向かう。

「どっか行くの? 克樹」

「あぁ、うん。ちょっと出かけてくる」

 夏姫からかけられた声に、振り向いてそう答える。

「ちょっと待ってくれよ。オレの勉強はどうするんだよ」

「あのふたりと英語でもやっててくれ」

 僕のことを追いかけてきた近藤に言うが、心底嫌そうな表情を浮かべていた。

「勘弁してくれよ。女の子ふたりの空間に入り込むのは嫌だ、って」

「だったらリーリエに教えてもらってくれ」

「リーリエちゃんに? できんのか? 勉強なんて」

「リーリエは暇な時間に教科書くらい全部読破してるからな。ヘタすると僕なんかよりよっぽど勉強できるぞ。端末のアクセス許可出せばいいから、それで頑張ってくれ」

 近藤を振り切り、僕は二階に上がって作業室に入る。

 いつ忍者ドールが襲ってくるかわからないから、スマートギアを被り、アリシアやドール用装備も忘れずにデイパックに詰める。

 つい一昨日届いて昨日の夜から使い始めた、平泉夫人お勧めのMW社製スマートギアは、高級品だけあって細かいところまで気を遣っていて、いままでのも不満はなかったけど、装着感が抜群にいい。適当にされることが多いマイク性能、ヘッドホン性能も、オーディオ用高級品レベルだ。

 ディスプレイの性能も外部カメラの性能も、もう行き着くとこまで行き着いてると思ってたけど、鮮明さも高速物体への追従性もかなり上がってるのを、昨日のリーリエとの実験で判明していた。

 懐へのダメージは相当のものだが、平泉夫人にも言われた通り、いまの僕はいつもより収入がいいのでどうにかなる。

 外でスマートギアを使ってると警察に注意されるからディスプレイは跳ね上げておいて、準備を終えた僕が一階に下りていくと、玄関前に夏姫が待っていた。

「ねぇ、ひとりで出かけて大丈夫なの?」

「心配してくれるのか?」

 暗い表情で、微かに揺れる瞳で、僕を見つめてくる夏姫にニヤリとした笑みを返すと、途端に顔が赤く染まった。

「莫迦!!」

「まぁ大丈夫だ。正体わからなすぎてあんまり戦いたくないし、現れたらどんな方法を使っても逃げるよ」

「……それならいいんだけど。でもこの家、アタシたち三人だけにしていいの?」

「四人だよ。リーリエもいる。自由に動かせる身体はなくても、外も中もリーリエが監視してるから、何かあればすぐに警告してくれるさ。それよりも後で泊まりの準備取りに帰るんだろ? 僕は夕方くらいには戻るつもりだけど、ひとりで行くなら夏姫こそ気をつけろよ」

 僕の方はスマートギアのカメラをリーリエに見ててもらえば、前でも後ろでも監視ができるし、僕のとショージさんの家の近くを除けば、人通りが少ない場所を通ることはあんまりない。

 それよりも住宅街を抜けていく必要がある夏姫の家までの方が、襲われそうな場所が多かった。

「心配してくれるんだ?」

「……うっさい。行ってくる」

「ん。行ってらっしゃい」

 吐き捨てながら夏姫の横を通って靴を履き、玄関ドアに手をかけながら振り向くと、少しだけ頬を赤くしながら笑む夏姫が、手を振ってくれていた。

 

 

          *

 

 

「ようこそいらっしゃいました、克樹様」

 僕がノブに手をかけるよりも先に扉を開けたのは、アヤノ。

 試作型百四十センチタイプのエルフドールのコントロールシステムであるAHS(アドバンスドヒューマニティシステム)、というよりショージさんの家を管理しているAHSの端末であるアヤノは、前回見たときと変化がないようにも思える。

 でもよく見ると柔らかに笑むアヤノの表情は、前回見たよりも自然で、たぶんフェイスパーツが新しいものになってるし、それをコントロールしているAHSのバージョンも、上がっていそうな感じがあった。

「こちらで少々お待ちください。我が主はまもなく帰宅する予定ですので」

 応接間に通されて、僕の家よりか数ランクは上等そうなソファに座ってひと息吐く。

 電話があったときはまだ会社にいたらしいショージさん。ちょっと早く着きすぎたみたいだった。

 淹れてもらったお茶に口をつけ、笑みとともに礼をしてアヤノが応接間を出ていった後、早速リーリエが発したのは、文句だった。

『なんでおにぃちゃんはあの灯理って人を信用するの?!』

 ここまで移動してくる間は映像資料を見せてたから静かだったし、歩いてる間はあんまり喋りかけてこないリーリエだけど、座った途端にこれだった。

 仕方なく僕は跳ね上げてたディスプレイを下ろして、イメージスピークで返事をする。

『別に信用してるわけじゃないけどね』

『だったらなんで家に泊めるの? 夏姫とか誠みたいにおにぃちゃんが一度倒して仲良くなった人じゃないんだよ? 家に泊めたりしたら、どうなるかわかんないよっ』

『それはそうなんだけど、まぁあの流れじゃねぇ……』

『そういうとこはおにぃちゃんは甘いよっ。言わないといけないことははっきり言わないとダメなんだから! 何となく灯理はおにぃちゃんのこと狙ってるみたいに見えるし、本当は夏姫だって家に泊めるのイヤだけど、まだマシだからなんだよ?』

 ――あいつにもこんな風に言われてたなぁ。

 言い回しとか怒り方が百合乃に似ていて、リーリエの言葉に思わず噴き出しそうになる。

 でも同時に、寂しさも感じる。

 百合乃の脳情報を使ったリーリエには百合乃の記憶はなく、性格とかしゃべり方とかは凄く似てるけど、別の存在だ。

 百合乃に会いたくないと言ったら嘘になるけど、でも僕はもう彼女との別れを済ませてる。エリクサーで彼女の復活を願うことはない。

 それでも時折リーリエから感じる百合乃の影に、何とも言えない気持ちになることがあった。

『聞いてるの? おにぃちゃん!』

『あぁ、うん。聞いてる。中里さんのことは四日くらいのことなんだ、様子を見よう。いまも家の方は監視してるんだろ』

『うん、もちろんっ。普通に勉強してるだけだけどね。っていうか、誠がまだ高校受験の問題の正解率低いんだよぉ。時間かかりそう……』

 人工個性であるリーリエは、一度に複数の視覚を操るくらいのことは普通にできる。実際には高速で切り替えてるだけらしいんだが、僕から見ればいくつもの目で同時にものを見てるようにしか思えない。

『まぁ、もう少しの間頑張ってくれ。明日は僕がやるから。ほら、BGM代わりにこれでも聴いとけ』

 そう言った僕はファイルエリアを開いて、ダウンロード購入した音楽アルバムの共有設定を入れてやる。

『わっ、エイナのだ。聴く聴くーっ』

『近藤の方、おろそかにするなよ』

『わかってるよーっだ』

 早速リーリエが再生を開始し、僕の方にも聞こえるようになったエイナの歌声。

 この前エイナが現れたときに宣伝されて、ライブ会場で中途半端にしか聴けなかった曲が僕も気になって、すぐ後にダウンロード購入していた。

 僕以上にリーリエが気に入っていて、他のことをしながら聴いてるみたいだから、すでに再生回数が凄まじいことになっていた。同じくエイナ好きの夏姫とも、話に花を咲かせていたりする。

 静かになったリーリエに、聴くともなしにエイナの歌声を聞きながら、お茶をひと口飲んで僕は考える。

 ――みんなが言ってることも、わかるんだけどね。

 リーリエや近藤が言ってるように中里さんは信用ならないと思うし、夏姫の心配もわかる。

 でも僕はいまのところ、彼女に戦いを挑もうという気にはなれなかった。

 僕たちもそうだけど、出会ったとき以降は動かしてない彼女のエリキシルドール、フレイヤ。ゴスロリ調の衣装を見る限り、戦い慣れていないことは明らかだ。

 アニメに出てくる登場人物みたいに、布地を使った衣装を施してるピクシードールはバトル用のにもいるけど、動きの邪魔にならない程度にするか、平泉夫人の闘妃のように計算された形のものばかりだ。

 邪魔になりそうなフリルとか襞がついた衣装で全身を覆ってしまっているフレイヤは、どう考えても戦いに向いた形じゃない。たぶんピクシードールではない、普通のドールのつもりであの格好をさせてるんだと思う。

 彼女自身が言った通り、ピクシーバトルをやったことがないなら、戦って彼女のスフィアを奪うのも難しいことではないだろう。

 ――でもやっぱり、引っかかるんだよな。

 いまのまま中里さんのスフィアを奪い取ったりしたら、どうしてモルガーナが彼女にエリキシルスフィアを渡したのかがわからなくなりそうな気がしていた。

 ピクシーバトルの経験も、スフィアドールの知識もなかったはずの彼女に、たぶん貴重なエリキシルスフィアを渡したモルガーナ。

 何となくそこに、エリキシルバトルの秘密があるような、そんな予感がして仕方がなかった。

 顎に手を添えながらそんなことを考えてるとき、頭を突かれた。

 顔を上げてみると、目の前にいたのは苦笑いを浮かべてる音山彰次こと、ショージさん。

 スマートギアの集音マイクをオフにしてるのに気がついて、僕は慌ててポインタを操作してモードを切り替える。

 集音マイクがオンになるのと同時に、外部スピーカーから流れだしたのはエイナの歌声と、リーリエの鼻歌。

 それもちょうど流れていたのは、ライブ会場で聴きそびれた「想いの彼方の貴方へ」。言いたくても言い出せない、片想いをする女の子の歌だった。

 途端にショージさんの顔が、微妙な表情になった。

「ちょっと待って」

 慌てて操作をミスって、どうにか歌のサビから終わりに近づいた辺りで外部スピーカーをオフにすることに成功した。

「操作ミスった。ゴメン」

「あぁ」

 僕の目の前のソファに座り、音もなくアヤノが注いだお茶を飲むショージさん。

 その表情はまだ歪められていて、何か凄く不機嫌そうだった。

「どうかしたの?」

「いや……」

 濃紺のスーツ姿で、ジャケットを脱いだだけのショージさんが何を考えているのかは、わからない。

 それでも凄く不快に感じてることがあったことだけは確かだ。

「ただ、エイナみたいな、人工合成の歌が嫌いなだけだ」

 眉と眉の間に深いシワをつくってぽつりと言うショージさん。

 嘘吐け、と言いそうになって、辞める。

 斜め下の方に視線を逸らすショージさんの瞳に浮かんだ、怒ってるような、嫌がってるような、けれどもそうしたものとも違う、わずかに揺れてるようにも見える色に、僕は何も言えなくなっていた。

 僕にとってスフィアドールに関わらず、オタクの師匠とも言うべき人である彼は、エイナのようなエレメンタロイドではないけど、声優なんかの声をサンプリングしてつくった人工合成ボイスの音楽は、ひと通り好きで持っていたはずだった。

 ――エイナだけ、何かあるのかな?

 とくに理由は思いつかないけど、そうかも知れないと思う。

 HPT社の技術部長であるショージさんは、モルガーナと対面したときに行ったライブなんてのは技術の発表も兼ねてるんだ、希望すれば最優先で行けるはずだ。

 かなりの人気で、僕もちょっと聴き惚れるほどのエイナの歌声を、ショージさんが嫌う理由は見つからない。

「そんなことはいい。とりあえずこれだ」

 小さくため息を吐いて、ソファに置いた大きな鞄から小さめのアタッシェケースを取り出したショージさん。

 開いた中に入っていたのは、接続端子がたくさんある金属製の、ピンポン球をひと回りくらい小さくした球体と、それを納めるための頭蓋骨に似たプラと金属の複合物、それから人の背骨のように少し湾曲した金属製のフレームだった。

 スフィアと、スフィアソケットと、メインフレーム。

 ピクシードールにとって最も重要と言えるパーツたちだった。

「スフィアは別になくてもいいだろうし、スフィアソケットも規格品だからいいが、メインフレームは壊したりしてくれるなよ。まだ試作品で、これを含めて四本しかないんだから」

「もちろん」

 開いたままローテーブルの上を滑らせてこちらに寄せられたそのパーツをじっくり眺めてから、僕はアタッシェケースを閉じて持ってきたデイパックに納めた。

 顔を上げてみると、ショージさんはもうさっきの複雑な色の瞳はしてなくて、微かに笑みを浮かべていた。

「でもずいぶん開発に時間かかったんだね。他のところはもう出てきてるでしょ」

「まぁな。エルフドール用のを優先したってのもあるが、うちがつくる第五世代のフルスペックフレームだからな。ヴァルキリークリエイション並とまでは行かなくても、時間がかかった分、試作品の出来はかなりいいぞ」

 唇の端をつり上げて笑うショージさんに、僕も笑みを返した。

 スフィアドールの第五世代で拡張された規格はいろんなものがあるけど、何より変化したのは第四世代までは同一だったスフィアの変更だった。

 処理速度やドールの運動性能の向上なんてのも目玉だけど、開発者にとって一番注目されたのは、データラインの大幅な増量だ。

 第四世代までのスフィアドールでは、人工筋の制御やセンサーの取りつけに必要なデータラインの本数は人型のドールを組み立てるだけでいっぱいいっぱいで、余裕はほとんどなかった。

 実際現在も標準サイズは百二十センチのエルフドールでは、充分な筋力を得るためにはかなりの本数の人工筋を使わないといけないのに、データラインの本数不足により、比較的効率の悪い太くてパワーのあるタイプのものを使う必要があった。

 ピクシードールではそんなに不足することはないけど、手の指なんかは親指と人差し指と中指は独立して動かせたけど、薬指と小指は連動してしか動かすことができない。

 スフィアカップの地方大会優勝者と準優勝者に贈られた特別なスフィアを含め、第五世代のスフィアではそうした問題が大幅に解決されてる。

 この前戦った闘妃が使っていたコントロールウィップも、ピクシードールの手の平に電源とデータラインの端子を取りつけて実現した、第五世代ドールならではの武器だ。

 僕が持ってる機動ユニット「スレイプニル」は、ピクシードールを乗せる乗り物だけど、第四世代までだと、普通の人にとってはただのラジコンで、ドールと一緒に動かすことはできない。リーリエの場合アリシアと同時にリンクすることで一緒に動かせるけど、第五世代フレームを使えばドールを通してそういったものも扱えるようになったりもする。

 バトル用のピクシードールではそれほど恩恵が得られる拡張ではないけれど、ピクシーを含むスフィアドールの活用場面はいろんなところに広がってる。

 エルフドールは小柄であっても人型で、遠隔操作が可能だから、局地環境での活用はすでに始まってる。いまのところ一般人が気軽に買える価格ではないにしても、今後価格が下がってくれば人間がやっているかなりの仕事をスピアドールが代行できるようになると言われてたりする。フェアリードールやピクシードールも、人が入れない場所での活動なんかに広く利用されている。

 人型か、四つ足の動物型にしか使えないという制限がスフィアにはあるため、活用方法には限界はある。それでもスフィアドールの開発は急速に進められているし、市場規模も日増しに巨大になっていた。

 すでにいくつかのメーカーが第四世代のものより多くのデータラインを使用できるピクシードール用フレームを出してきてる中で、今日ショージさんから受け取ったのは、第五世代で拡張されたデータラインのすべてを使える、まだ数社からしか出ていないフルスペックメインフレームだった。

「そいつは何に使うつもりだ? リーリエのアリシア用に使うのか?」

「うぅん。ちょっともう一体ピクシードールが必要になったから、アリシアとは別のタイプのを組み立てる予定だよ」

「必要なパーツがあったらこっちでも準備できるぞ。無償で試験してもらうんだからな、それくらいは都合つくぞ」

「大丈夫。もうパーツは手配済みだから」

 上半身を乗り出して話をしていたショージさんは、「そっか」と言い、いつもの調子でふんぞり返るようにソファに背中を預けた。

「データはちゃんと提出しろよ。こっちもリーリエのサブシステムからデータは取るが、お前の方でまとめたレポートを出してくれないと会社に言い訳が立たない」

「もちろん、ちゃんと週一回は出すよ」

「いまのところピクシードール用のフルスペックフレームはデータが出揃ってないし、利用方法を含めて発展途上だからな。データはあればあるほど良い。とくにリーリエが扱った場合のデータは貴重だしな。さっさと組み立てて試験に入ってくれ」

「わかってる」

「……まぁ、やっと第五世代の規格がこなれてきたところだってのに、もう第六世代の話が出てきてるがな」

「第六世代? どんな内容になるの?」

 そう問うてみると、難しい顔をして考え込んだ後、ショージさんは顔を寄せてきて話し始めた。

「まだオフレコなんだがな、これまで認められてなかったかなりの種類のパーツが組み込み可能になる」

「その辺の噂くらいはネットに出てるけど、第五世代の正当進化だって話だし、そこのところは普通だよね」

 スフィアドールを人型や動物型に制限してるのは、主にスフィアに認識できるパーツの問題が大きい。

 データラインに接続し、ボディの一部として制御できるのは、SR社に情報を提供して認証を受けたパーツに制限されてる。認証されるパーツは人型ないし動物型に関わるものと、第五世代からは外部機器なんかだ。

 何にせよ本体自体は人型か動物型に制限されることになってる。

 その制限をどうにかしようとおかしなことを個人でやってる人もいるし、制限のないスフィアを開発しようとしてる企業もあるけど、成果が出てるって話はとくに出てきたことがない。

「そうなんだがな。その中に油圧や空気圧の機械式人工筋も入ってくる予定だそうだから、ついに百五十センチのエルフドールが実現されることになる」

「百五十センチって、じゃあ……」

「あぁ。いままでと違って、専用の器具や設備を用意しなくても、人間の代わりとして仕事をするエルフドールが登場してくることになる。ただまぁ、登場当初は高級外車どころか小さい家が買えるくらいの値段になりそうだから、すぐには普及しないだろうし、法整備の方も間に合わないだろうと言われてる。普及には五年どころじゃ済まない時間が必要だろう」

「そりゃそうか」

 いまでも個人でエルフドールを買って家政婦代わりにするより、人間の家政婦を雇った方が遥かに安いなんて言われてるくらいの価格と維持費なんだ、新しいものが出てきてもすぐには手に入るような価格になるわけがない。

 それに試作型のアヤノでは料理なんかもつくれたりするけど、衛生の問題だとかスフィアドールが人に食べ物を提供する場合の問題とかは、法律の壁に阻まれていて、できるとしてもやっちゃいけないことになっていたりする。その辺りの法改正にはあと最低で十年はかかるだろう、なんて話も出ていたりした。

「んで、百五十センチタイプのエルフドールが実現する頃には、たぶん第七世代の話が出てきてるはずだ」

「第七世代ぃ?」

「そうなんだ。いまもまだ第六世代の規格を詰め切ってないってのに、完全に噂の段階だが、そんな話も出てる」

 呆れたように息を吐き、ショージさんはそだの肘掛けに肘を突いて顎を乗せた。

「どうなるって話なの?」

「まだぜんぜんわからん。ただ、噂では、スフィアをスフィアドール以外に使えるようにする、って話は出てる」

「それは、かなり凄いことになるね」

「まぁな」

 これまでの制限が取っ払われることになれば、スフィアの利用価値はスフィアドールに限らず、運動を伴う様々な機械に組み込めるようになる。

 それなのに、ショージさんの表情は暗い。

「人間と変わりない義手や義足の実現はもちろん、工場とか宇宙船とかのロボットアーム、介護補助用の運動補助フレームなんかにも使えるし、その手の開発はいまもやってるんだが、な……」

「どうかしたの?」

「んー。まぁ、もし第七世代が制限の解放だったとして、一番最初に使われるようになる分野は、どんなところだと思う?」

 睨みつけてくるというのとは違う、でも力の籠もった視線を僕に向けてくるショージさん。

「やっぱりショージさんも言ってた介護とか義手とかそういう方面、かな?」

「開発は進むだろうが、それはずいぶん先だな。まず最初に使われ始めるのは、たぶん軍事産業だ」

「……軍事産業?」

「あぁ。スフィアの制限が解除されても最初のうちは開発費が嵩むし、法律の改正も追いつきゃしない。だが開発費をある程度無視できて、その手の開発については法律の制限も緩い軍事産業は、真っ先にスフィアを使うようになるだろう。戦車や戦闘機の運動制御もスフィアを使えばこれまで以上に細かなことが可能になる。完全に無人で、人が乗ってるのと変わらない遠隔操作が可能な兵器が、一番最初に第七世代の利用例として登場するだろうな」

「それは、そうかも知れないけど……」

「そんなこと言っても、いま俺たちが開発してるようなものも、すでに軍事産業では利用されてるんだがな。人工筋やフレームなんかは、そのままじゃないが、技術的にはすでに多くのところで利用されてる。だが、俺たちが造り上げてきたスフィアドールってものを、そのまま戦争の道具にされるってのは、あんまりいい気分ではないな」

「そうだね」

 深くため息を吐いたショージさんは、顔を少し俯かせた。

 確かに最初のうちスフィアドール用に主に使われてた人工筋なんかは、あっという間に様々な分野に使われるようになってることは知ってた。フレームなんかも、とくにエルフドール用の強靱なものは、素材技術が兵器に利用されているって話をどこかで見たことがある。

 利用方法の一環なのだから仕方ないっちゃ仕方ないし、別になければないで、兵器なんて他の技術で造られるだけなんだろうけど、望まぬ方向に自分が携わった技術が使われるのは、確かにあんまり気分が良くないだろうと思った。

 ――これも、モルガーナの意図してることなのかな?

 スフィアとスフィアドールに関わることは、そのほとんどがあいつの意志が介入してるんだと思う。スフィアの利用方法の拡張もまた、あいつが意図してることなのだろうか、と考えてしまう。

 ――そう思えば……。

 モルガーナのことを思い出して、僕は顎に手を当てて考える。

 ――中里さんのあれも、あいつが関わってるんだよな。

「ねぇ、ショージさん」

「なんだ?」

「神経情報送信型のスマートギアって、もう実用化されてるの?」

「神経情報送信型ぁ?」

 突然何を言い出したんだ、みたいにショージさんは顔を歪ませる。

「うちでも医療方面のとこと協力して進めてるが、臨床試験に入ってるのは確かスフィアロボティクスだけだったんじゃないか? 適正の有無で使える人と使えない人がいるとかなんとかで、実用段階にはほど遠い代物だったはずだが」

「そうなんだ」

 ――だとしたら、やっぱり中里さんは、あいつに見出されてあれを提供されたんだ。

 それがどういう意図なのかまでは僕にはわからない。

 でもたぶん、彼女はモルガーナに何かの能力とか適正を認められてあのスマートギアを与えられ、実験か何かのために利用されてるんだ。

「突然どうしたんだ? 医療用スマートギアなんて」

「いや、ちょっとね……。知り合いでそれを使ってる人がいたから、さ」

「ほぉー」

 なんでか目を輝かせ始めるショージさん。

「そろそろ帰らないと、夕食の時間もあるし」

「なんだ、夕飯は食べて帰るのかと思ってたんだがな」

「いや……。いまはちょっと、家に人がいるから……」

 ニヤニヤした笑みを浮かべてソファを立ち上がったショージさんは、側に立って僕の肩に腕を回してくる。

「なんだ? 女の子と同棲生活でも始めたのか?」

「そういうわけじゃないんだけど……」

「この前来た彼女じゃないよな? なんだ、二股か? やるじゃないか、克樹」

「いや、違うから……。帰るね、ショージさん。フレームありがとう」

 ショージさんの腕から逃れて立ち上がった僕は、さっさと応接間の扉へと向かう。

『またねー、ショージさんっ』

「おう、またな、リーリエ。克樹、今度来たときに報告しろよ!」

「嫌だよ」

 僕はそう言い捨てて、急いでショージさんの家を出た。

 

 

          *

 

 

「じゃあまた明日な……」

「できるだけ早く帰ってくるから」

 げっそりした顔の近藤と、にっこり笑った夏姫は、玄関で僕に手を振り、出ていった。

 勉強ができると言っても教えるのが上手いわけじゃないリーリエにしごかれ、近藤はかなりの精神的ダメージを負ったらしい。口調も性格も小学生か、ともすると幼稚園児くらいに感じることもあるリーリエに勉強のダメ出しをされれば、そうもなるだろう。

 まだ夕方にもなってない時間だけど、今日はこの後空手の道場があるとかで帰って行った。

 夏姫は当初の予定通り、泊まり用の装備を取りに帰るのと同時に、夕食の材料を買い出しに行った。

 近藤のことはともかく夏姫の買い物にはつき合おうかと思ったけど、家に中里さんだけ残しておけないってことで、ショージさんの家から帰るのと入れ違いになる形で僕は家に残ることになった。

 LDKのソファに座り、しばらくの間スマートギアで調べ事とかしながら、夏姫が淹れたコーヒーの残りに牛乳をぶち込んですすっていると、中里さんが入ってきた。

「二階の準備、終わりました」

「あぁ、ゴメン。僕がやらないといけないのに」

「いいえ。泊めてもらうのですから、当然です」

 ギアのディスプレイを跳ね上げて言う僕に、彼女は微笑んで見せた。

 最後に帰ってきたのはいつだったのかも憶えてない両親の寝室の掃除なんかをしていた中里さん。ソファのところまで来た彼女に遅れて入ってきたのは、アライズしたフレイヤだった。

「なんでまたフレイヤをアライズしてるの?」

「エリキシルドールの方がワタシよりもよほど力がありますし、家の中とは言えひとりになるので、用心のためです」

 言いながら中里さんは、ためらうことなく僕の隣に、膝と膝が触れそうなほどの距離で座った。

 僕たちから少し離れた場所に立つフレイヤは、膝上丈くらいのスカートをした、白を基本に黒で彩られた服を身につけてる。スカートの裾とか肩口とか袖のところとか、他にもいろんなところにフリルやレースとかで飾り立てられた服は、可愛らしさを兼ね備えつつも、どこか近寄りがたさを感じる微妙なデザインだ。

 スフィアの冷却器を兼ねる細い黒髪は量が多いタイプで、アクセサリで飾り立てられた髪の長さは、足首近くまであり、絶対戦闘の邪魔になるってくらいあった。

 小柄で、子供くらいの身長なのに、雰囲気だけなら大人のように感じるフレイヤは、物憂げな表情をしている。

 そんなフレイヤなのに、何かこだわりでもあるのか、それとも単純に消費電力が高いのか、衣装ではっきりとはわからないけど、どうやらFカップバッテリを搭載してるっぽかった。

 身長の比率から夏姫のブリュンヒルデよりも大きく見えるフレイヤの胸だけど、でも僕のすぐ隣に座ってる中里さんの薄ピンク色のワンピースに包まれた胸は、それに劣らぬサイズを持ち、それを超える魅力を放っていた。

「……なんで、僕の家に来たの?」

 白に赤線の入ったスマートギアで表情が読み取りにくいけど、口元に笑みを浮かべてる中里さんに訊いてみる。

「親がいないからって、家に籠もってた方が安全でしょ」

「そうは思ったのですが……。夜は家にワタシしかいないと考えたらどうしても不安で……。昨日会ったばかりの音山さんに助けてもらうのもどうかとは思ったのですが、エリキシルバトルのことを理解してもらえて、話せる人の中で、家を知っているのは貴方だけでしたので」

 すぐ側で僕のことを見つめてきながら、唇の端を少し歪めて笑う中里さんが、どんな想いで言ってるのかはわからない。

 ただ、仲が良いわけでもない男の家に押しかけるってことがどういうことなのか、身を以て知ってもらう必要があった。

 ――後で夏姫か、最悪遠坂に頼らないといけないかもな。

 そんなことを思いながら小さくため息を吐く。

『リーリエ』

『うん、大丈夫。わかってる』

 イメージスピークでリーリエに声をかけ、僕は被ったままだったスマートギアを脱いでテーブルの上に置いた。

「でもよく知らない男の家でふたりっきりになるってことの意味、わかってるの? 中里さん」

 言いながら身体ごと中里さんに向き直った僕は、彼女の肩をつかんでそのままソファに押し倒した。

「フレイヤも、いるのですよ」

「こうしてしまえば、ドールも扱えないだろ」

 彼女の医療用スマートギアに手をかけ、ディスプレイを跳ね上げさせた。

 視神経への送信部が集中してるディスプレイを跳ね上げてしまえば、彼女は文字通り目が見えなくなる。もう僕に対して手も足も出ない。

 覆い被さって上から彼女の顔を見下ろした僕は、思わず息を飲んでいた。

 この前リーリエに調べてもらったときに見た写真と同じ、中里さんの綺麗な瞳。

 長く、ソファの上に広がる髪と同じように、少し茶色みがかった彼女の瞳は、すぐ近くの僕のことを映しながらも、僕のことを見ていなかった。

 遠くを見てるのとも違う、焦点の合っていないその目は、嘘でも冗談でもなく、視覚として機能していない。

「どうして、こんなことを?」

 慌てるわけでも、嫌がるわけでも、怒るわけでもない静かな声で、中里さんは問うてくる。

「理由なんてたいしてないさ。僕は男で、灯理が女の子だからだよ。それ以上の理由は、この状況で必要ないだろ」

 女の子らしい細い腕をしてた夏姫よりもさらに細い両方の手首を、彼女の頭の上で左手一本で押さえ込む。

 捻れば折れてしまいそうな首筋に顔を埋めるようにし、香水だろう、微かな柑橘系の爽やかな香りを楽しむ。

 空いている右手で、僕は灯理の胸をわしづかみにした。

「さすが、おっきいだけのことはあるね」

 夏姫のはある程度のサイズと弾力がある感じだったけど、灯理のは大きさと同時に、服とブラ越しでもわかる指が沈み込むような柔らかさが心地良い。

 微かに汗ばんできて少し変わってきた灯理の香りを楽しみつつ、首筋から耳の裏に、髪の中に鼻を這わせる僕は、徐々に興奮してきていた。

 直接触りたくなる衝動に駆られながら、大きな胸を揉み、つかみ、手で感触を楽しむ。

「あっ……」

 耳に吹きかけた息で甘いと息を漏らす灯理に、僕の中に彼女を滅茶苦茶にしたい気持ちが湧き上がってきていた。

 でも――。

 大きくため息を吐いて、僕は身体を起こす。

 僕のことを見ていない瞳を見つめ、彼女に問うた。

「なんで、抵抗もしないの?」

 少し息を荒くし、頬を赤く染めてる灯理は、でも口元に笑みを浮かべていた。

「ワタシが女で、克樹さんが男だからでは、不足ですか?」

 さっき言葉を言い返されて、僕は思わず喉を詰まらせる。

「それに克樹さんだったらいいかな、と思ったので」

「僕だったら? なんで? ほとんど僕のことを知らないのに、なんでそんなこと言えるんだ?」

 あくまで落ち着いてる灯理に、僕は苛立ちを感じ始めていた。

 こんなことをしてる僕が思うのもなんだけど、女の子は自分を大切にするべきだと思ってる。古風な考えなんだろうけど、女の子が悲しい顔をしてるのは見たくない。

 とくに、取り返しのつかないことが起こった後の表情なんて、僕は絶対見たくない。

 それなのに僕から逃げようともせず、視覚を奪うなんてもの凄く酷いことをされてるにも関わらず、灯理は薄く笑みを浮かべているだけだ。

 もしかしたらこういうことが好きな子なんじゃないかと思ってしまう。

「処女ですよ、ワタシは」

「ぐっ」

 見透かされたように言われて、小さくうめき声を上げてしまった。

「絵を描いてばかりいたので、男の人とこういうことをする関係になったことがありませんし、興味もありませんでした」

「だったらなんで!」

「克樹さんだから、ですよ」

 にっこりと笑い、灯理は言う。

「昨日と、今日の克樹さんを、それから浜咲さんや近藤さん、リーリエちゃんを見ていて、思ったのです。克樹さんは信用できる人だと。浜咲さんたちは、克樹さんのことを信頼していましたから。昨日会ったばかりのワタシのことを、完全にではなくとも、信用して、家に泊めてくれる人ですから。すぐに敵になるかも知れないワタシのことを、信じてくれる克樹さんですから、別にいいのです」

「でも……」

 押し倒したのは僕なのに、いまは僕の方が灯理の勢いに飲み込まれてしまっていた。

「続けないのですか? ワタシなら、いいですよ。初めてなので、優しくしてくださいね。避妊は……、えぇっと、今日なら大丈夫だと思います」

「そういうことじゃなくってっ」

「覚悟くらい、決めてきました」

 焦点の合ってない目を細めて、朗らかに笑ってる灯理。

 眉が微かに震えてるのは、息がかかるほどの距離にいる僕からは、しっかりと見えていた。

「男の人の家に泊まりに来るのですから、こうなることくらい予想していましたとも。怖いですし、恥ずかしいですし、……興味も、まったくないわけではありません。それでも恋人でもない人に、こんなことをされたいわけでもありません」

「されたくないのに、でもいいってなんだよ」

「だって……、だって、仕方ないじゃないですか!」

 叫び声を上げた灯理は、もう表情を装うのを辞めた。

 歪ませた唇を震わせ、目には涙が浮かんでいる。

「ワタシは、ピクシーバトルの経験なんてありませんっ。戦えと言われても、勝ち残れる可能性なんてほとんどありません! だったら、男の人に抱かれてでも取り入って、スフィアを集めるしかないじゃないですか!!」

「そこまで、する意味があるの? スマートギア越しだけど、目は見えてるんでしょ?」

「意味は、ありますよ、もちろん」

 大粒の涙を目尻から零しながら、彼女は笑う。

 笑ってるのに悲しんでるようにしか見えない灯理が言う。

「スマートギアで、視覚は取り戻せました。でも、違うのです。足りないのです。ワタシ自身の目で見ていたときとは、見えるものが違ってしまっているのです」

「何が、違うの?」

 ふわりとした笑みを浮かべた灯理は、目を閉じる。

 目尻に溜まった涙が真珠のように煌めき、僕ではないどこか遠くに、彼女は顔を向ける。

「絵を描き始めたのは、見ているものを残したいと思ったのが、最初でした。最初の頃は本当に、拙い絵で、無心に見たものすべてを描き写すくらいのつもりで描いていたのです」

「写真では、ダメなの?」

「えぇ。写真も、動画も試してみたことがありますが、違いました。ワタシは、ワタシが見てみるものを、そのとき感じた想いを含めて、残したいのです」

「スマートギアでは、どうしてダメなの?」

「いま貸してもらっているスマートギアは、一番最初に借りたものより高性能です。カメラの性能も、日常生活を送る上では支障はありません。でもやはり、違うのです。目で見ていたときとは、見えているものが違っているのです」

 悲しげに笑み、僕が見えていない瞳で僕のことを見つめる灯理。

「ワタシは、薄明が好きです。陽が昇ってくる前の、夜から朝へと移り変わっていく様子を見ているのが、とても好きなのです。まだ幼い頃、広大な畑とどこまでも続く草原しかないようなところに行ったとき、星が瞬く時間に起きて眠れなくなってしまったワタシは、見たのです」

「何を、見たの?」

 想い出の風景を、本当に楽しそうな笑みを浮かべて灯理は話す。

「夜の黒と、朝の白が混じり合った、無限の階調を持つグラデーションを」

 何故、灯理はこんな風に笑えるのだろう。

 僕は朝焼けを見ても、彼女みたいに感じることはできないと思う。

 これが絵を描く人の感性なのだろうか。

 そう思えるほどに涼やかで、引き込まれるような笑みに、僕は見とれてしまっていた。

「事故で視力を失ったときは、死のうと思いました。スマートギアで視力を取り戻したときは、本当に、本当に嬉しかった。でもやはり違うのです。スマートギアのカメラを通した視覚では、あの無限のグラデーションを見ることができないのです」

 再び顔を歪ませる灯理は、叫ぶように言う。

「だから、だからワタシには必要なのです! エリクサーがっ、命の奇跡を起こせる水が!! ワタシの目を取り戻すために、絶対に必要なのです! 絵の才能を認められて、絵を描くことだけが生き甲斐のワタシにとって、エリクサーを求め続けることが、いま生きてる意味そのものなのです!!」

 もう解放してる両腕で、灯理は僕の頭を抱き寄せて、自分の胸に押しつける。

「だから続けてください、克樹さん。最後までしてください」

「何をっ!」

 細いのに、思いの外強い灯理の力に、窒息しそうなほど柔らかい胸に顔を埋めさせられてる僕は、逃げることができない。

「初めての相手が克樹さんなら、できればもう少し深い仲になってからの方が良かったのは確かですが、ワタシは構いません」

 そんなことを言いながらも、彼女は微かに震えてる。大きく、柔らかい胸を通して聞こえる心臓の音も、激しくなってる。

「でも、ワタシが女の子にとって大切な初めてを捧げるのです。克樹さんは、それ相応のものをワタシにください」

「何が、ほしいの?」

「貴方の、エリキシルスフィアを」

「なっ?!」

 抜け出そうとするのにさらに強く抱きしめられて、僕はいよいよ息ができなくなる。

「それくらいで釣り合いませんか? 克樹さん。貴方の願いは、百合乃さんを生き返らせることですか? それは強い願いでしょうけれど、ワタシの願いだって、女の子の初めてを克樹さんに捧げる覚悟をするくらいには、強いものなのですよ?」

 腕の力が緩み、ちょっと惜しさを感じながらも、僕は灯理の大きな胸から身体を起こして、少し距離を取って座る。

「僕の願いは、いまは教えられない」

「そうですか。いつか、聞かせていただけますか?」

「……」

 身体を起こし、スマートギアを被り直した灯理が顔を近づけて見つめてくるのに、僕はそっぽを向いて黙り込む。

「続きは、しないのですか? ワタシの身体は、克樹さんにとって魅力はないのですか? ……女の子から誘っているのですから、男を見せようとは思わないのですか? でももちろん、するならば貴方のエリキシルスフィアは戴くことになりますが」

 零れた涙の跡を拭った灯理は、にっこりと笑う。

「意外と紳士なのですね、克樹さんは」

「何言ってるんだ。いま灯理を押し倒したところだろっ」

「でも、ワタシの要求なんて聞かずに、無理矢理してしまえば良かったのではないですか? 交換条件が成立するようなことではないでしょうに」

「ウルサいっ」

 口に手を当てて僕のことを楽しそうに笑う灯理に、僕はそう言い捨てた。

「ワタシは、自分の願いを叶えるためならば、どんなことでもします。この身体を捧げることでも、卑怯と言われるようなことでも、何でも。それが少しでも願いに近づけるのであれば」

 笑みを浮かべながら、でも翻すことはないだろう決意を宣言する灯理に、少しもやもやとした気持ちを感じながらも、僕は何も言うことができず、彼女の顔をただ見つめていた。

『おにぃちゃん!! 夏姫からメール! 忍者が出たってっ』

「ちっ」

 舌打ちしてテーブルの上のスマートギアをつかんだ僕は立ち上がる。

「行かれるので? でしたらワタシも……」

「いや、灯理は家で待っててくれ。ここならリーリエの監視もあるし、けっこう頑丈な家だから侵入も簡単じゃない」

「……わかりました」

 少し俯いて引き下がる灯理に、僕は急いで二階に上がってアリシアを鞄に詰め、家を飛び出した。

 

 



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第二部 黒白(グラデーション)の願い 第二章 3

 

 

       * 3 *

 

 

 一度家に帰って泊まる準備を整えた夏姫は、スーパーに寄り食材を買い出して克樹の家に向かっていた。

「けっこうたくさんになったな」

 肩から提げているスポーツバッグの他に背負っているリュックサックは、食材で膨らみ、肩に食い込むような重さを感じる。克樹から携帯端末間で譲渡可能な上限まで渡してもらった資金を、わずかに足が出るくらいの量を買い込んでいた。

 ――夕食できる頃には、真っ暗になっちゃうなぁ。

 まもなく夕暮れに染まってくるだろう静かな街並みを、夏姫は早足目に歩く。

「出たね」

 そんな夏姫を遮るように現れたのは、黒い衣装で身を包む小柄な影。

 灯理を追いかけていた、忍者のようなドールだった。

 庭のある家の木の上に隠れていた忍者ドールが道路に降り立ち構えを取ったのを見て、夏姫はスポーツバッグの中に手を入れ、ブリュンヒルデを取り出した。

 すぐさま襲ってこないかと警戒しつつ、現れたらすぐ対応できるよう起動状態で持ってきていたヒルデを地面に立たせ、携帯端末をポケットからつかみ出す。あらかじめ準備しておいたメールを克樹と近藤に送信し、エリキシルバトルアプリを起動した。

 克樹の家まではまだ少し距離があったが、歩いても三分とかからない。メールに自動挿入される位置情報を見て彼がどれくらいで駆けつけてきてくれるかと思いながら、どうやら戦う気らしいドールを見据え、夏姫は叫んだ。

「フェアリーリング!」

 夏姫の声に反応して、車二台がぎりぎりすれ違える道路いっぱいに、光る輪が広がる。

 ――できるだけ早く来てよ、克樹。

 心の中で呼びかけながら、夏姫は自分の願いを込めて、唱える。

「アライズ!!」

 光に包まれたヒルデが、二十五センチのピクシードールから百五十センチのエリキシルドールへと変身する。

 セミコントロールアプリを立ち上げた夏姫は、ヒルデの左の腰に提げている長剣を抜かせた。

 ――さて、どんな相手なのかな。

 忍者ドールは空手に似た構えを取り、伺ってでもいるのか、攻撃を仕掛けては来ない。

 こっそりと周囲を見回しても、夏姫の視界の中に忍者ドールのソーサラーと思しき人物は見つからなかった。

「レーダーで感知できないトリックも含めて、全部暴いてあげるから!」

 叫びながらアプリにヒルデの行動指令を打ち込み、先制攻撃を行わせる。

 忍者ドールに対して斜めの体勢で、右手の長剣を突き出すように構えていたヒルデが、大きく一歩踏み出す。

 それに対応して半歩下がろうとした忍者ドールは、下げた脚が地面に着いた瞬間、横に跳んでいた。

「ちっ。目がいいっ」

 長剣の挙動をフェイクに、左手のスナップだけで投げつけた三本のナイフは、家の壁に突き刺さっただけだった。

 ――フルコントロールソーサラー、なのかな?

 ドールの目を自分の目とし、遠隔操作をしていると思われる忍者ドールのソーサラー。

 突発的な事柄に対する柔軟な対応はフルコントロールの方が上なのはわかっていたが、いまの動きだけでは判断がつかなかった。

「まぁ、何にせよ、休ませてあげないんだからね!」

 ヒルデを前進させ、長剣による突きを見舞う。

 壁沿いに立つ忍者ドールは素早く、しかし大きな動きで連続した突きを躱していた。

 ――そんなに強くない、かも?

 ブロック塀に深く傷をつけないように力加減を考えながら、夏姫は忍者ドールの動きの大きさに、あまり強くなさそうだと感じていた。

 命中こそさせられなかったが、黒い衣装に剣先をかすめさせることは難しくない。

 ――だったら一気に畳み込む!

 片膝を着く形で突きを回避した忍者ドールに、夏姫はヒルデに新たなコマンドを発する。

 振りかぶった長剣で斬りつけようとしたとき、微かな光を夏姫は見た。

「あっぶなっ」

 とっさにヒルデを後退させながら、長剣を身体の前に構えさせると、自動で発動したディフェンスコマンドが飛来物を打ち落とした。

 剣によってアスファルトの道路に叩き落とされたのは、人の身体くらい楽に貫通できそうな長さの、針。

 一瞬前まで何も持っていなかった手で、忍者ドールは針をヒルデに投げつけてきていた。

 ヒルデに構えを取り直させたとき、地を蹴って突撃してくる忍者ドール。

 どこに持っていたのか、両手に黒い刀身をした短刀を構える忍者ドールが、しゃがみ込むほどの低い位置から攻撃を仕掛けてきた。

 長剣の間合いの内側に入ってきた敵に、夏姫は次々とヒルデにコマンドを出す。

 衣装も短刀も黒い忍者ドールの動きは見えづらかったが、逆手に持った長剣で、左の手刀で、膝や脚甲も使い、攻撃を防いでいく。

 ――目はいいけど、やっぱりそんなに強くない!

 隙を見て挟み込んだヒルデの反撃をすべて躱す忍者ドールだが、短刀による攻撃は狙い澄ましたものではなく、防ぐのはさほど難しくはなかった。

「そろそろこっちからいくからね!」

 言いながら夏姫はヒルデに新たなコマンドを飛ばす。

 それに対応したヒルデは、短刀の攻撃を膝で弾き飛ばす。

 ヒルデは動きを止めず、忍者ドールの胴体を蹴り飛ばすように、膝から先を伸ばした脚を振り抜いた。

 大きく跳んで躱されたのを見、夏姫はヒルデに左半身を前にし、開いた左手を突き出して、振りかぶるように長剣を構えた右腕で、突きの構えを取らせた。

 壁を蹴り、突進してきた忍者ドール。

 息を止め、タイミングを計った突きは、しかし繰り出せなかった。

 短刀を投げ捨て、背中に手を回した忍者ドールが取り出したのは、大きな刃と長い柄を持つ薙刀状の武器、グレイブ。

 光る筋となって振り下ろされるグレイブを右手の長剣で弾いたヒルデに、動きを止めない忍者ドールが迫った。

 その両手には、新たにナイフが握られている。

「甘い!!」

 グレイブを弾いたときには、ヒルデは腰の後ろに手を回し、短剣を抜いていた。

 腕の長さと武器のリーチの分だけ早く届いたヒルデの攻撃が、黒い衣装に覆われた細い首を捕らえる。

「浅かった?」

 本当に目だけは凄まじく良いらしい。

 首を切り落とすはずだった短剣は、二本のナイフに阻まれていた。

 それでも衣装とソフトアーマーを斬り裂き、頭を支える人工筋に傷を入れられているはずだったが、メインフレームには達していない感触を、夏姫は覚えていた。

「もう一回、いくよ」

 ダメージのないヒルデに、夏姫は構えを取らせる。

 攻撃を受けて弱気にでもなったのか、忍者ドールはナイフを持ったまま低く構え、ヒルデとの距離を保ち続けている。

「克樹?」

 微かに彼の声が聞こえてきたような気がして、夏姫の注意が一瞬敵から逸れた。

「あ、待ちなさい!」

 その隙を逃さず、忍者ドールは飛び上がって塀に乗り、高くジャンプして住宅の敷地の中に消えていった。

 ヒルデに投げナイフを構えさせたときには、もうその姿は見えなくなっている。

「逃がしちゃったかぁ。引き際を弁えてるなぁ」

 頬を膨らませながら呟いたとき、少し先の曲がり角から姿を見せ、走り寄ってきたのは、克樹。

「大丈夫、か、夏姫っ」

「大丈夫だよ。問題なし!」

 にっこり笑って答える夏姫に、ほとんど全力疾走だったのだろう、克樹は両膝に手を着いて安堵の息を吐き出していた。

『夏姫とヒルデは大丈夫? あの子はどうなったの?』

「アタシもヒルデは問題なし。あの忍者みたいのは、首の人工筋に切れ目を入れられたと思うんだけどね、逃げられちゃった」

『そっか。夏姫とヒルデが無事なら、よかった』

「無茶、するなよ。莫迦」

「ん……。そうだね」

 切れた息がすぐには整いそうにない克樹に、そんなんじゃ戦えないだろうと思いつつも、夏姫の胸の中には暖かいものが満ちてきていた。

 ――ちゃんと克樹は、アタシのために駆けつけてきてくれるんだな。

 半年前の近藤との戦いのとき、大事な用事の最中だったらしいのに、克樹は必死で助けに来てくれた。

 いつもたいていぶっきらぼうで、面倒臭がりの彼だが、いざというときは、いまのように心配してくれる。助けに来てくれる。

 そんな彼であることは、ガーベラを修理して近藤に返したときも、昨日から勉強を教えてくれるときにも感じていたが、改めてそれを確認して、夏姫は抑え切れず笑みを零していた。

 敵を逃した悔しさよりも、夏姫の胸にあったのは、克樹の行動に対する、嬉しさだった。

 

 

          *

 

 

「ふぅ……。ごちそうさま」

 夕食を食べ終えたのは、結局僕が一番最後になってしまっていた。

 夏姫がつくってくれたオーソドックスで、市販のルーを使っただけのカレーは、レトルトかチェーン店のしかしばらく食べてなかった僕にはかなり美味しくて、二回もお代わりしてしまった。

「ありがと」

「えぇっと、うん」

 カレー皿とスプーンを、流しで先に洗い物を始めている夏姫に持っていく。

 ありがとうと言うのはどっちだと思いつつも、ちょっとしゃれたデザインのブラウスに、黒のビスチェスカートを穿いて、エプロンをつけて微笑む夏姫に、僕はなんと言っていいのかよくわからなかった。

 新しいコーヒーを入れたカップを全員に配って、ダイニングテーブルに就いたのは、僕と夏姫、それから灯理と、空手の練習が終わって駆けつけた近藤。さらに実体はないから姿は見えないけど、リーリエの五人。

 全員が僕のことを見つめてきているのを確認して、椅子から立ち上がった僕は話を始める。

「さっきも説明した通り、夕方に夏姫があのドールに襲われた。撃退はしたけど、たぶん灯理だけじゃなく、もう僕たちも標的になってると考えた方がいい」

 灯理には帰ってきてから、稽古中で連絡がつかなかった近藤にはメールで、軽く状況は説明済みだった。

 心配そうに顔を歪めてる正面の近藤に、とくに気にした様子のない隣の夏姫。被ってるスマートギアからリーリエの声はなく、斜め向かいの灯理は、神妙な顔をして、深く頭を下げた。

「巻き込んでしまってすみません」

「エリキシルバトルに参加する限り、いつかはぶつかる相手だったんだから、灯理が謝るようなことじゃない」

「……灯理ぃ?」

 夏姫の地の底から響くような声と突き刺さるような視線に、いつの間にか中里さんのことを「灯理」と名前で呼び捨てにするようになってるのに気づいたけど、気づかなかった振りをして話を続ける。

「名前がないと面倒だから、あのドールのことは一応ってことで『忍者』と呼ぶことにする」

「なんで忍者なんだ?」

「なんとなく衣装がそんな感じだし、隠し武器を大量に持ってる暗器使いみたいだからね。んで、忍者のソーサラーに関してはいまのところ何もわかってない。レーダーで感知できない理屈についても、はっきりしたことはわからない」

「どれくらいの強さだったのですか?」

 そう口を挟んできたのは、灯理。

 答えたのは夏姫だった。

「んー。強さはそこそこだと思う。動きはローカルバトルの中堅どころ、って感じかな? いろんな武器隠し持ってるみたいだから、油断はできないけどね。アタシのヒルデならたいてい対応できるけど、近藤のガーベラだと相性悪いかも。暗器使いだってのわかってれば、負けないとは思うけどね」

「武器を使うタイプのドールか。確かにやっかいだな」

「リーリエにいま、夏姫の戦闘映像を解析してもらってるから、後で渡すよ」

「頼む」

 正直なところ、ヒルデの視点で撮影された戦闘映像を見て、僕は唖然としてしまった。

 確かに忍者の動きは大雑把な感じがあって、戦いに不慣れな感じはあった。

 でも拾い集めて、ヒルデと一緒にカームして本来のサイズに戻した武器を見ても思ったけど、よくあれだけ多彩な武器を予告もなしに持ち出されて、夏姫が対応できたものだと思う。

 対応能力ならリーリエも負けてないと思うけど、リーリエが格闘タイプが基本というのもあって、夏姫よりも先に僕が出くわしていたら、厳しい戦いになっただろう。

「とにかく、ゴールデンウィークの間は、できるだけ僕の家に集まるようにしてくれ。出かけるときはひとりじゃなくて、最低でもふたりで」

「と言っても、オレはここには泊まれないぞ」

「まぁ、できるだけ、ね。どうせ追試対策の勉強もあるんだし」

「うっ。確かに……」

 喉を詰まらせて、渋い顔をする近藤。

 追試対策の勉強はいつまでやるとかは決めてなかったけど、昨日の段階でゴールデンウィークの全部を使う覚悟は決めていた。

「そんな感じってことで」

「わかりました」

「ん、わかった」

「了解だ」

「リーリエもしっかり監視は頼むぞ」

『もっちろんっ。いつだってちゃんと見てるよー』

「そうだな」

 他にもいくつか細かいことを決め、夕食会を兼ねた作戦会議はお開きになった。

 席を立ち、家に帰ろうとする近藤を追い、僕は玄関まで行く。

「なぁ、本当に泊まらないか?」

「嫌だよ。なんか頼りにされてるのはお前みたいだし、どっちか片方ならともかく、ふたり揃ってる空間にオレひとりみたいなことにはなりたくないぞ」

 勉強をしてる間にか、何だか仲良く話してる様子のふたりを、近藤と一緒に玄関から閉じたLDKの扉越しに見る。

「僕だって怖いよ、それは」

「それよかお前の場合、どっちかとふたりっきりになったとき、襲いかかったりするんじゃないのか? 遠坂からも浜咲からも、他にも噂は聞いてるぞ。あんまりヘンなことするなよ」

「あーっ」

 僕のことを信用していないように、近藤は険しい視線で見つめてくる。

 もう一度ちらりとふたりの方に視線を走らせると、にっこり笑った灯理の、スマートギア越しの視線とぶつかった。

「夏姫はともかく、灯理には僕の方が食われそうだよ……」

「なんだそりゃ」

 すでに昼のうちに押し倒したなんてことは言えず、首を傾げてる近藤に僕は言葉を濁すだけだった。

 昼のあのときに灯理が言っていた、彼女の決意。

 それが僕には、どうしても引っかかっていた。

 



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第二部 第三章 黒い人々
第二部 黒白(グラデーション)の願い 第三章 1


 

第三章 黒い人々

 

 

       * 1 *

 

 

 照明が当たっているのは、壁にはめ込まれた超大型平面モニタの前にある演台だけで、部屋の光源は他にはなかった。

 反射して微かに広がる光で、会議室のような広さの部屋には、真ん中に楕円形の大きなテーブルが置かれているのが見える。テーブルを取り囲むように座る人影が微かな光で浮かび上がっていたが、髪型や背の高い低いがわかる程度で、人相を露わにするほど、部屋の灯りは強くない。

 誰ひとり言葉を発せず、息づかいすら押し殺して、何かを待つようにしているばかりだった。

「お集まりいただいてありがとうございます、皆さん」

 言いながら演台に立ったのは、鮮やかな紅いスーツを纏い、闇よりも黒い髪をし、深淵よりも深い色を湛える瞳をした、魔女。

 スーツの色よりも艶やかな紅をした唇の端をつり上げ、モルガーナは集まった人々のシルエットを眺めた。

「まずは現在の進捗についてお話ししましょう」

 前置きなどは一切なしに、モルガーナは少し脇に下がり、平面モニタの脇に立つ。

 暗めの光を放ち、電源の入ったモニタには幾種類かの言語で文字と、いくつかの図が表示される。

「スフィアドールについては第六世代の解放内容がほぼ決まりました。内容については事前に知らせていたのとあまり違いはないけれど、詳細は一部変更があるので、後ほど確認をお願いするわ」

 言葉遣いこそ丁寧で、プレゼンテーションのように平面モニタに表示した内容にポインタを使って説明を続けていくモルガーナだが、その声音には丁寧さは欠片もない。

 わずかだが顎を突き出し、集まった人々を見下ろすような視線で眺め、説明を続ける。

「第六世代の最大の特徴は運動性の向上。そして百五十から百六十センチのエルフドールの実現。そのためのスフィアの制限解除が一番の柱となるでしょう」

「スフィアドールを兵士として利用することは可能なのか?」

 集まった人々のひとりから、そんな質問が発せられた。

「スフィアの機能、性能としては可能。けれどボディに使うフレーム、人工筋、バッテリなどがまだ兵器として利用できる段階に達していないでしょう。正直その辺りの技術については、一部は私も関わっているけれど、ここにいる皆さんの領分じゃないかしら? 生身の肉体の代わりに、遠隔操作の兵士の実用化には、あと十年から二十年はかかるでしょう。技術的な問題のクリアには、五年程度で充分でしょうけれど」

 一度言葉を切り、紅い唇の端をつり上げて笑み、モルガーナは言う。

「その頃には、第七世代の規格を発表し、スフィアの機能解放ができるようになっていることでしょう。第七世代は、皆さんが待ちかねていた、スフィアドール以外へのスフィアの解放となるわ」

 私語ひとつなかった部屋に、ざわめきが起こった。

 机の上に出した拳を握りしめる者、大きく何度も頷く者、「ついに……」と感慨深く呟く者。

 それまで身動きすらほとんどしていなかったほぼ全員が、何らかの反応を示していた。

 そんなざわめきを切り裂くように、モルガーナから一番遠い端で、机の上に脚を組んでいる人物から嗄れた声が発せられた。

「そんなものはどうだっていい。それよりもバトルの方はいまどうなっているんだ。ここに集まってる奴らはスフィアなんかよりもよほどそっちの方が知りたいはずだ。それに釣られて集まった奴らばっかりなんだからな。そっちの話をしてくれ」

 途端にざわめきが収まり、居並ぶ人々の視線が魔女に集中した。

「貴方がそれを訊くの? まぁいいわ」

 楽しそうに「くくっ」と喉の奥から笑い声を漏らしたモルガーナ。

「失礼。連絡した通り、バトルは中盤戦に入ったところよ」

「んなこたぁわかってる。決着はあとどれくらいで着きそうなんだ。儂らが知りたいのはそれだよ」

「そうね。どれくらいになるかは正確なところはわからないけれど、もう半数以上が脱落しているし、私の予想では、最後の決戦が行われるのはおそらく半年後くらいになると考えているわ」

「ならば、半年後にはわたしたちの願いが――」

「えぇ。叶うことでしょう」

 再びのざわめき。

 先ほどまでは言葉を交わさず、視線すら合わせることのなかった人々が、隣り合う者たちとささやき合い始めた。

「それまでにはまだまだ多くの準備と手順が必要よ。そして全員の願いが叶った後の世界のためにも、足りないものがたくさんあるわ。これからもさらなる協力を、約束してくださるかしら?」

 演台に手を着き、全員を見渡すように言ったモルガーナの言葉に、拍手と賛同の声が殺到する。

 それを一身に受けながら、魔女は唇の両端をつり上げ、笑った。

 

 



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第二部 黒白(グラデーション)の願い 第三章 2

 

       * 2 *

 

 

 屋内用シャッターが開き、簡素な文字で「ピクシークラフトワークス」と書かれた看板の照明が灯されたタイミングで、僕は店内へと足を踏み込んだ。

「いらっしゃいませ……。って、克樹か」

「克樹か、って一応僕は客だろう」

「てめぇは身内みたいなもんだ。つか、なんだよそれ、メカニカルウェアのプレミアモデルじゃねぇか。ボディいじりばっかのお前が奮発したもんだな」

「いや……、平泉夫人に買えって命令されてね……」

 ディスプレイを跳ね上げて頭に被ってるスマートギアを指さす親父に、僕は視線を逸らして小さくため息を吐いた。

 朝と言うにはもう遅い時間、僕がやってきたのは秋葉原の知る人ぞ知るロボット専門店、PCW。

 僕はもちろん百合乃が世話になり、いまでは夏姫もちょくちょく来ていて、ずいぶん前にはガーベラの最初の持ち主、椎名さんが通っていた店だ。

 相変わらず雑多で、スフィアドールやそれ以前の古いロボット用のパーツやケーブル、オモチャのキットなんかがいろいろ置かれている店内で、僕は店主である親父が立ってるカウンターの前まで行く。

「注文受けてたパーツなら全部揃ってるぞ」

「うん、受け取っていく」

「今回はずいぶんと急ぐじゃねぇか」

「まぁちょっと理由があってね。今晩にでも組み上げたいんだ」

「つーか今度は男連れか。彼氏か?」

「そういう冗談は止めてくれよ……」

 広い肩を縮め、背中を丸めて小さくなって僕の後から着いてきたのは、近藤。

「近藤」

「……あぁ」

 僕の促す声に隣に立った近藤は、リュックサックをカウンターの上に下ろして開き、中からアタッシェケースを取りだした。

「これは……、ガーベラじゃねぇか」

 開いたアタッシェケースの中身を見て、親父は驚きの声を上げていた。

 ケースの中身は、ワインレッドのハードアーマーを纏うピクシードール。

 いまは近藤のドールで、元は彼の恋人だった椎名梨里香さんのドール。椎名さんが病気で亡くなってしまった後、形見としてスマートギアとともに受け継がれた、ガーベラだった。

「今日はこいつの修理パーツも買いに来たんだ。近藤、メンテナンスモードで起動してくれ」

 睨むように見つめてくる親父の視線に大柄な身体をさらに縮込ませながら、ガーベラを左手で取り出した近藤は、右手の指をドールの首筋にある認証ポイントに滑らせた。

 さらにワインレッドの、もうひとつの形見であるスマートギアを被り、見た目には変わりないが、メンテナンスモードに切り替えただろうガーベラを親父に差し出す。

「こいつはまた、いったいどんなことしたらこんな状態になるんだ」

 カウンターの上にある据置端末脇の充電台にガーベラを乗せ、状態をチェックした親父は悲鳴に近い声を上げた。

 半年前の戦闘で、肩のフレームをリーリエの操るアリシアにへし折られ、かかと落としで千切れた人工筋を含めて、第四世代の手持ちのパーツで修復していた。砕けたハードアーマーには予備があったけど、裂けちゃったソフトアーマーなんかは応急処置でつないであるだけだし、ガーベラは完調とは言い難い状態だった。

「ちょっと激しいバトルをやってね。応急処置をしてるだけなんだ」

「ちょっとくらいでこんなことになるかっ。腕のフレームもガタガタじゃねぇか」

「すんません」

 済まなそうに俯く近藤を、親父は睨みつける。

「ファイアスターターはどうした? あれは回収することになってたんだ」

「えぇっとそれは、その……」

「壊れてたから僕の方で処分したよ」

「そっか。それならいい」

 それだけ言って、親父はガーベラの検査に戻った。

 俯いたままの近藤に、親父はそれ以上何も訊いたりしない。

 ガーベラを組み立てたのは椎名さんだけど、この店の常連だった彼女は、親父と相談してパーツを選んでいた。

 できうる限り、近藤のフルコントロールでの操作を、ドールで実現するために。

 そういう意味では、僕のアリシアや夏姫のブリュンヒルデと同じように、ガーベラも親父にとって愛着のあるドールのはずだ。

 それでも何も訊いてきたりはしない。

 親父はそういう人だ。

 百合乃を通して知り合って、人づき合いが苦手な僕がいまもこの店に通えているのは、親父がそういう性格だからだ。

「第四世代のフレームと人工筋は取り替えるとして、両腕のフレームもヤバイし、他のとこの人工筋もかなり使い込んでるな。ソフトアーマーは汎用品が使えるが、完全に修理するなら腰と脚のフレームも交換した方がいいぞ」

「パーツは全部揃う?」

「在庫で全部揃うがな。主要パーツ総取っ替えだから、結構な金額になるが」

「うん、わかってる。それと最新版のバトルクリエイターと格闘用のアドオン、ここでライセンス発行できるよね?」

「そりゃあできるが……」

「それ全部、見積もりでちょうだい」

「わかった」

 据置端末のモニタに向かい、親父は在庫と照らし合わせながら見積もりの作成を始めた。

「……おい」

 声をかけながら肩をつかんできた近藤に、僕は店の隅まで連行される。

「オレは、その……、持ち合わせがそんなになくて、肩のフレームと古いのが混じってる人工筋だけでどうにかならないか?」

「まぁ、きついだろうねぇ」

 通り魔の件で警察に捕まった近藤は不起訴になり、退学のはずのところを停学で済んだものの、スポーツ特待は失ったし、空手部も退部になってる。それだけじゃなく親からの仕送りもかなり減らされたそうだ。生活は最低限できてるが、それ以上のことについてはバイトで賄うように言われてると聞いた。

 もちろんバトル用のピクシードールを修理する金なんて、いまの近藤は持ってない。

 痛々しげに顔を歪ませる近藤に、僕は肩を竦めて見せるだけだった。

「できたぜ」

「うん」

 親父からの声にカウンターに寄っていき、紙に印刷された見積もりを確認する。

「やっぱりいい金額になるね」

「まぁな」

 たぶんエリキシルバトルに参加するために、貯金をはたいて買い集めただろうガーベラのパーツは、戦ったときに感じたけど、かなり高性能で、出始めなのもあって高価格なものばかりで構成されていた。

 いまでは半年前のパーツだから少し安くなってるし、椎名さんのガーベラだからだろう、親父は採算ぎりぎりくらいの割引を入れてくれていた。

 それでもポテンシャル重視でけっこう安いパーツが多いアリシアを、ボディだけならフルセット集められそうな金額になってる。

 近藤に見積書を渡してやると、絶望的な表情で、あんぐりと口を開けていた。

「ここ半年で第五世代は新しいパーツがかなり出てきてるからな、本当はメインフレームから新しいもんにした方が性能も上がるぞ。ただそこまで変えると、ソフトアーマーもハードアーマーも買い換えなくちゃならないからな」

「そうだよねぇ」

 近藤と戦った半年前は第五世代パーツはまだまだ出始めで、選択肢は少なかった。でもいまはかなり増えてるから、ガーベラ向きのパーツの選択肢の幅も広がってる。アリシアもこの半年で、ちょこちょことパーツを入れ換えて、以前のままのパーツはスフィアとスフィアソケットくらいになっていた。

 空手の動きをできるだけ再現するには間接の自由度が高く、滑らかな動作が可能なフレームが必要だし、パワータイプ寄りのガーベラにはいまよりももっといい人工筋も出てきてる。フルスペックまでは不要でも、データラインの多いメインフレームに換装すれば、ガーベラはもっとパワーアップが可能だった。

「すみません。オレにはちょっと、ここまでの金額は――」

「支払いは僕がするから、パーツ集めちゃって」

「おう」

「おい、克樹!」

 返事をした親父は、文句の声を発した近藤をちらりと見るけど、僕の促す視線に、バックヤードへと入っていった。

「お前にそんなに世話にはなれないし、ここまでする義理もないだろう。オレはとりあえず、ガーベラをまともに動かせるようにして、あとはバイトして金貯めて――」

「間違えるなよ、近藤。貸すだけだ」

 親父に聞こえないようにだろう、声を潜めながら食ってかかってくる近藤に、僕はそう言い放った。

「それにいまは状況が状況なんだ、動かせるだけじゃダメなんだ。戦えないと、どうなるかわからないからな」

「確かにそうだが……」

「願いを、諦めるつもりはないんだろ?」

 僕の言葉に、近藤は息を飲む。

「あぁ。バトルに参加する限りは、な。だがガーベラがパワーアップしても、克樹はいいのか?」

「むしろしてくれないとスフィアをそのままにしてる意味がないし、それに僕もリーリエもいまよりもっと強くなる。アリシアだってパワーアップさせてるしね」

「……わかった。できるだけ早く金は返す」

「そうしてもらえると助かる。けっこうでかい額だしね」

 渋々ながら頷いた近藤に、僕は唇の端をつり上げて笑って見せた。

『ガーベラ、またちゃんと戦えるようになるんだ?』

「まぁな」

『おにぃちゃんのことだから、そうするだろうと思ってたけどぉー』

「うっさい」

 スマートギア越しに小さな笑い声を立ててるリーリエに、小声で返事をしていた。

「さぁ、こいつがガーベラ用で、こっちが克樹の注文のパーツだ。全部揃ってるが、確認してくれ」

 そう言って親父がカウンターの上に置いたのは、小さめのダンボール箱に納められたガーベラ用のパーツと、プラ製コンテナに入った僕が注文してたパーツ。

 携帯端末を取り出して注文リストを呼びだした僕は、コンテナの中のパッケージもサイズもいろいろなパーツを手にとって、欠品がないかどうか確認していく。

「ずいぶん多いんだな。アリシアをつくり直すのか?」

「いや、新しいバトル用ドールを組み立てる。アリシアと別のタイプのを。必要になったんでね」

 サブフレーム一式に人工筋はもちろん、組み立て前なのに寸法だけでつくった親父手製のアーマーも、ずいぶん特殊な指定をしたのに、完成済みだった。コンテナの中には、スフィアとスフィアソケット、メインフレーム以外のパーツがすべて揃ってる。

「どんなドールをつくるつもりなんだ?」

 ガーベラ用のパーツの二倍近い量にだろう、近藤が不思議そうな顔をして問うてくる。

「一応パワータイプかな。ちょっと違うけど。あんまり素早いタイプは、いまの僕じゃ扱いきれないしね」

「お前がソーサラーをやるのか?」

「やれと言われちゃってるからね」

 パーツの確認を終え、僕は親父が送信してきた請求書の金額通りに、携帯端末を操作して振り込みを完了させた。

「それにたぶん、今回の戦いじゃ、こいつが必要になる」

 目を細めながら言って、僕はパーツを納めたコンテナを軽く叩いた。

 

 

          *

 

 

「ちょっと休憩入れさせて……」

「はい、わかりました」

 微笑みを浮かべる灯理の返事に、夏姫はテーブルに突っ伏した。

『集中力ないなぁ、夏姫はぁ』

「仕方ないでしょう? 一昨日から勉強漬けだったんだからっ」

『毎日少しずつやってたら、そんなことにならなくて済むんだよぉ』

「うぅ。反論の余地もない……」

「ふふふっ」

 勉強が苦手なのは自分でもわかっていたが、独り暮らしをしている夏姫は、生活のことで何かと忙しくて、家での勉強はおろそかになっていた。

 そのツケをいま支払うことになっていて、集中してやらないといけないのはわかっていたが、古文の漢字が記号にしか見えなくなっていたので、続けることができなくなっていた。

 ――独り暮らしなのは、克樹も一緒なのになぁ。

 女の子と男の子で生活にかかる時間が違うのだろうし、料理をあまりしない克樹はその辺りで時間が取れているのだろうが、それでも彼が上位と言っていい成績を収めていることに、夏姫は微妙に納得がいかなかった。

「お茶淹れてくるね」

「はい。お願いします」

 宣言して立ち上がり、昨日から使うようになって、だいたいの収納の位置などを覚えてきたキッチンに入る。ヤカンに水を入れて火にかけ、陶器のポットを出して紅茶の茶葉を掬って入れた。

 午前中のうちに近藤と一緒に出かけてしまった克樹は、昼食を終えてもまだ戻ってきていない。リーリエもいるからふたりきりというわけではないが、実質的には灯理とふたりきりで、夏姫は彼女に勉強を教わっていた。

 ――なんて言うか、人としてのスペックが違うみたいだよね。

 お湯が沸くのを待ちながら、夏姫は頬に立てた人差し指を当てながら思い悩む。

 昨晩寝るまでいろいろ話していたときには、幼い頃から絵ばかり描いていたという灯理。

 事故で視力を失ったのは高校に入ったばかりの春の頃で、スマートギアを受け取り視力を取り戻したのは夏になった辺りだと聞いていた。

 腕が鈍らないよういまも絵は描いていると言うが、以前ほどではなく、勉強している時間が増えたと言う。そんな灯理なのに、彼女のように打ち込むものがない夏姫よりも勉強ができる。

 それも面倒臭そうで、教え方もそれほど上手くない克樹よりも、灯理の方がよほど教え上手で、ここまでで教えてもらった教科については追試をクリアできそうだと思えていた。

 勉強ができて、小柄で可愛らしく、性格も含めて女の子の魅力もあって、多くの人に認められる才能もある灯理は、劣等感を抱くことができないほど凄い人だと感じられていた。

 ――克樹の奴も、もう灯理に手を出してたみたいだしなぁ。

 夏姫を押し倒したときと同じように、灯理にも何かしただろう克樹。

 おそらく昨日泊まる準備と買い物で出ていたタイミングで、彼のことだからジェスチャー止まりなのだろうけれど、押し倒したか何かしたのだと予想していた。

 何をどうしたのかまではわからないが、克樹が灯理の名前を呼び捨てになっただけでなく、灯理の克樹への態度が、それまでよりも近くなっているように思えていた。

 ――別にアタシが気にするようなことでもないかも知れないけどさっ。

 ちょうど沸いたことを知らせ始めたヤカンに、口を尖らせた夏姫は火を止め、ポットにお湯を注いだ。

 ――でもなんで、灯理は克樹に助けを求めてきたんだろ。

 誰が使っていたものなのか、洒落た形の砂時計をひっくり返して、キルティングのティーコジーを被せたポットの中で茶葉が開く時間を計りながら、唇に指を当てた夏姫は少し俯いて思い悩む。

 スフィアカップの地方大会で優勝していて、百合乃を失っているという境遇が報道されている克樹は、夏姫や近藤がそうであったように、エリキシルバトルに参加してる可能性が高く、調べればすぐに見つけることができていた。

 しかしエリキシルソーサラー同士はスフィアを求めて戦う、敵。

 いくら別のソーサラーに目を付けられていたからと言って、克樹に助けを求めてきたのか、理由がわからなかった。

 砂時計の砂が少なくなってきたのを見て、夏姫は食器棚からティーカップとソーサーを取り出し、残りのお湯で軽く暖めてからお盆に乗せてポットともにダイニングテーブルに運ぶ。

「ありがとうございます」

「ん。アタシも飲みたかったからね」

 灯理と自分の分の紅茶をカップに注ぎ、そんな言葉を交わしながらふたりでひと口飲む。

「ねぇ、なんで灯理は、克樹のとこに来たの?」

「何故、ですか。そうですね……」

 カップをソーサーに置き、灯理は顔を少し俯かせる。

「克樹さんのことは、エイナさんにエリキシルバトルに誘われて、同じようにバトルに参加してる可能性の高い人のことを調べていて、すぐにわかりました。年末のあの通り魔事件はおそらくエリキシルソーサラーが起こしているのだろうということもわかっていました。でもピクシーバトルをしたことがないワタシは、巻き込まれるのが怖くて、そんなに遠くない場所に住んでいるのはわかっていましたが、克樹さんのことを確認したのは、通り魔が捕まった後の、年が明けてからです」

 克樹や近藤が使っているものよりもさらにディスプレイ部が細身で、白地に赤い線の入ったスマートギアに目が覆われている灯理の表情は、いまひとつわかりづらい。

 わずかに首を傾げ、どこか悲しげに感じる笑みを口元に浮かべた灯理は言う。

「本当は何度も克樹さんに戦いを挑もうとしていたのですが、スフィアカップの地方大会で優勝できるくらいに強くて、百合乃さんを生き返らせるために必死だろう彼に勝てる気がしなくて、接触することができませんでした。そうこうしている間に、四月辺りから人の視線を感じるようになって、五月に入る少し前から、あの黒いドールに襲われるようになったのです。ちょうど連休で家にワタシしかいなくなるとわかって、不安で、どうしようもなくて……。戦わなくてはならない敵だとわかっていても、誰かに助けてほしくて、一昨日はちょうど克樹さんに会おうと向かっていたときに、黒いドールに追いかけられることになってしまったのです」

「なるほど、ね」

 灯理の説明は、一昨日克樹たちの前でしていたことと違いはない。

 夏姫の場合は自分から克樹に戦いを仕掛けて出会い、その後は彼と一緒に行動するようになったから不安に感じることはなかった。

 いま初めて聞いた感情的な部分も、不思議に感じるところはない。突然レーダーで捕らえられない見知らぬ敵に追い回されたら不安にもなるだろう。

 百合乃を復活させたいという願いについては違っていたが、本来の願いを隠していたことを考えて、夏姫は許可なく克樹の願いを話したりはしなかった。

 ――それに、エリキシルバトルになんて参加して、大丈夫なのかな? 灯理は。

 ピクシーバトルの経験がないと言う灯理。

 近藤がやっていたように、そしておそらくいまの忍者ドールがやっているように、無理矢理スフィアを奪おうとするソーサラーもいるだろう。

 エイナが言うように、戦って集めるはずのものだが、参加者はみな願いを叶えるために必死で、決闘のような綺麗な戦いが行われるバトルではなかった。

「その目、どうしても治したいの?」

「えぇ、もちろんです。絵を描くワタシにとって、目は命と同等の価値のあるものですから」

「そっか。うん。そうなんだね。……それからさ、灯理、克樹に何か、ヘンなこととかされた?」

「ヘンなこと、ですか?」

 小首を傾げて問い返してくる灯理に、夏姫はどう言うおうかを悩む。

 家の中を常に監視してるリーリエに訊けば何か知っているかも知れないと思ったが、どうにも訊きづらかった。

「例えばその……、エッチなことされたりとか」

「えぇ、されましたよ」

「やっぱりあいつ!!」

 立ち上がって左手の拳を握りしめる夏姫。

 しかしそんな彼女に、灯理は微笑んで見せるだけだった。

「でもそのとき、ワタシは克樹さんに言ったのです。ワタシの初めてを奪うなら、代わりに克樹さんのエリキシルスフィアをください、と。そうしたらキスすらせずに辞めてしまったのです」

「うわぁ……。あいつ、そういうこと言われると逃げ出すよね、たぶん。けっこうヘタレだし」

「それよりも訊いてもいいですか? 夏姫さん」

「何?」

 椅子に座り直してカップに口をつけた夏姫に、微笑みを浮かべたまま灯理は問う。

「どうして、夏姫さんや近藤さんは、エリキシルソーサラーのまま、克樹さんと一緒に行動しているのですか?」

「んー。アタシと近藤は一度克樹に負けてるんだけど、負けることがバトルの参加資格を失う理由にはならないみたいなんだよね。それと、克樹がスフィアを奪わない理由は、詳しいことはわかんないんだけど、何か理由があるみたい」

「そうなのですか。……えぇっと、夏姫さんの願いを訊いても、よろしいですか?」

 口元を引き締めて、灯理が問うてくる。

 エリキシルバトルに参加する理由、ソーサラーの願いは、それぞれに必死で強い想い。すでに夏姫は克樹や近藤の願いも知っているが、問われない限り自分から言い出す気はないし、ふたりの願いを話す気はなかった。

 灯理の願いも、その想いの強さの一端を知った夏姫は、彼女の問いに答える。

「アタシの場合は亡くなったママを生き返らせること、だよ。近藤とかのはアタシじゃ答えられない」

「なるほど……。でも思うのですが、もし願いを叶えられるのがひとりだけだとしたら、夏姫さんたちはどうされるつもりなのですか?」

「それはもう決めてあるんだ、克樹がね。もしそうだとわかったときには、もう一度戦って、決着をつけよう、って。他のソーサラーと戦うためにってのが強いけど、もしお互いにスフィアを奪い合う必要が出たら戦えるよう、みんな訓練したりしてるよ」

「そうなのですね」

 相づちを打った灯理は、深く俯いて黙り込む。

 シャツのようなミニスカート丈のデニムのワンピースの、大きく張り出した胸の前で握った右手に左手を添え、しばらく考え込んでいるようだった。

「夏姫さんは、克樹さんと仲がいいようですけど、おつき合いされているのですか?」

「ま、まさか! 根暗でオタクで初対面の女の子のことを押し倒すような奴だよ? そんなのとつき合いたいなんて思える女の子、いるわけないでしょ?!」

「そうでしょうか? ワタシが見ていた限り、夏姫さんは克樹さんとずいぶん親密なように見えていたのですが……。もしかして夏姫さんは克樹さんのことが、好き、なのですか?」

「んーーーっ」

 腕を組み、夏姫はその質問にどう答えようか考える。

 嫌いか、と問われれば、否定することができる。

 好きか、と問われても、なんと答えていいのかわからなくなっていた。

「好き、かどうかはよくわからない、かな? でも、あいつのことは信頼してる。男としてはかなり問題あるんだけど、でもいろいろ見てて感じるんだ。あいつのことは、信頼できる奴だ、って」

 理解できないように小首を傾げている灯理に、夏姫は微笑みを返していた。

 

 



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第二部 黒白(グラデーション)の願い 第三章 3

 

 

       * 3 *

 

 

「ありがとう」

 ローテーブルの上にカップを置き、保温ポットからコーヒーを注いだのは、平泉夫人専属のメイド、芳野。

 髪留めで濃茶色の長い髪をまとめたメイドに礼を言うと、黒に近い藍色のワンピースの上に身につけたエプロンの胸にお盆を抱き、音山彰次ににっこりと笑みを見せた。

 夫人の身の回りの世話から仕事の手伝いまでをこなす、文字通り万能という言葉をほしいままにする彼女は、AHSのアーキタイプのひとつとして性格を取り込み、彰次の家で試験的に働いているアヤノのパーソナリティに設定している。

 足音を立てずに扉に向かい、一礼をして部屋から出るまで眺めて、彰次は目の前でコーヒーを飲みながら笑みを浮かべている平泉夫人を見た。

「それで、今日はいったいどういったご用件で?」

 スフィアドール業界で個人としても名を知られ、会社に対してもかなりの貢献をしていると自負する彰次は、一般的には裕福な部類に入る層にいると考えている。

 ローンなしで建てた家もそれなりに金をかけているが、そんなものとは隔絶された豪華で、豪奢な平泉夫人の屋敷に呼ばれ、居心地が悪く感じるほどの空気を醸し出している執務室に通されていた。

 昨日個人的に会いたいとメールで連絡が入っていたが、どんな用事であるのかについては一切書かれていなかった。

「せっかちな人ね。決してそういうところは嫌いではないけれど。ごめんなさいね、突然呼びだしてしまって。少し、個人的にお話がしたかったので」

 にっこりと笑った夫人が発する雰囲気に、彰次はこっそりと息を飲んでいた。

 弄ばれていることはわかっていたが、彰次にはされるがままになるしかない。

 何度会っても、彰次は夫人に緊張を覚えるほどの圧力を感じる。克樹が友人として彼女とつき合っているのが、信じられないほどに。

 資産家としては多くの人に注目されるほど資金力があるわけではなく、亡くなった旦那の家も、夫人自身の家も相当な家柄だが、絶縁されているために彼女のことがその手の人々の間で話題に上ることも少ない。

 しかし、いまでこそ巨大市場に成長したスフィアドール業界に、黎明期以前から注目するなど先見の明があり、HPT社はもちろんSR社の起業当初から関係者である彼女は、自力で広げた人脈と深い知識により知る人ぞ知る有名人だった。

 女性としても年齢を感じさせず、地味な黒いワンピースでも隠しきれないほどの魅惑的なプロポーションをし、モデルのような美女で、株主として会社的にも、個人的にも世話になっている以上に、人を惹きつける魅力と同時に、ある一定以上の距離より内側に人を寄せ付けない女王の雰囲気とでも言うべきものを放っている平泉夫人。

 彼女からの呼び出しには、例え休みの日であったとしても、彰次はよほどのことがない限り拒絶することはできなかった。

「先日は克樹の奴にチケットを譲っていただき、ありがとうございます」

「いいえ。興味はあったけれど、あぁした場所は苦手なので、行くのをためらっていたので、ちょうど良かったのよ」

 克樹からライブの後に、彼が探しているという情報を聞きつけて個人的に夫人からチケットを手に入れたことを知り、お礼の品を贈り、電話での礼はしていた。忙しい夫人に直接礼を言ったのは、いまが初めてだった。

 確かに平泉夫人のような人がライブ会場にいる姿は想像できないが、彼女が持っていたチケットは、一般席とは隔絶されたVIP席のはず。個人としても凄まじい力を持ったバトルソーサラーであり、趣味のひとつでもあるそうだが、スフィアドール業界の行く末を常に見つめている彼女が、ライブ会場に足を運ばない理由は見つからない。

 黒い瞳に楽しそうな色を浮かべている夫人の真意を、彰次は読み取ることができない。

「今日の用件は、出資に関する相談についてよ」

「出資の相談?」

 ワインレッドの唇の片端をつり上げて笑む夫人に、彰次は顔を顰める。

「出資については会社を通して話をしていただいた方が良いと思いますが」

「えぇ。もちろんそれはわかっているわ。けれど正式にその話を会社に連絡する前に、貴方に話を通しておかなければならないことでしたので」

「それはどういう意味でしょうか?」

「私が出資したいのは、貴方が会社の中で個人的に開発を進めているものに対して、なのよ」

「それは、つまり、その……」

「想像の通りよ、音山彰次技術部長」

 夫人の言いたいことを理解し、彰次は思わず顔を両手で覆って、天井を仰ぎながら大きく息を吐いていた。

「人の口に戸は立てられないものよ。例えどんなに秘密にしていても、日本においてスフィアドール業界三位の規模を誇る会社の技術開発部の部長が、あるメーカーの開発工場に足繁く通っている、といったものは、とくにね」

「確かに、そうでしょうね……」

 にっこりと笑む夫人の言葉に、彰次は観念し、まだ熱いコーヒーを飲み干して彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。

「進捗の方は現在のところ、どんな感じなのかしら?」

「正直なところ、芳しくはありません。どうせなら会社の施設と繋がりを使って、と言われてやらせてもらっているだけで、完全に趣味の範疇の開発なので、ね。性能は五パーセント程度しかありません。しかも体積は二十倍、消費電力に至っては百倍を超えています。実用性は皆無と言っていいでしょう。会社での俺の功績分でやらせてもらってる、遊びのようなものです。そんなものに出資する意味はないと思いますよ」

「確かにあまり良い状況ではないようね」

「えぇ。利点もあるにはありますが、まともな利益が出るようなものではありませんよ」

 平泉夫人が成果を重んじる人物であることは、彰次は重々承知していた。

 その成果は決して金銭的な利益に留まらず、間接的な影響や、個人の楽しみを含むためはっきりと見えるものに限らないが、利益を生まないものに対して出資をするような人でないことは確かだった。

 それなのにいま、趣味のような研究に出資を申し出る理由が、彰次には理解できなかった。

「もし……、それがそう遠くないうちに必要となり、利益を生むもののだとしたら、どうでしょう?」

「まさか、そんなことが?」

 口元に笑みを浮かべ、しかし笑っていない目で、夫人は言う。

「いまのところ勘に過ぎないのですけどね、勘が勘のうちに先手を打っておかなければ大変な事態を招く可能性がある、と私は判断しているのよ。実際そのときになったら不要になるかも知れない。けれど、できる限りの事態に備え、手を打っておく必要があると考えているわ」

「そんな事態が、起こりうるのですか?」

「可能性だけならば、充分に」

 言葉とは裏腹に、何かしらの確信を持っているように感じる平泉夫人の瞳に、彰次は眉を顰め、視線を外して考え込む。

 ――いったい、何が起こるって言うんだ?

 利益が出ないものに出資を申し出ることだけでなく、平泉夫人に見えているものが、彰次には見えなかった。

 しかしすぐに思い浮かんだのは、克樹の顔。

 おそらく半年前に訊かれる以前から、モルガーナがSR社にいることを予測していた彼。そうであるにも関わらず、あのタイミングで居場所を確認してきて、接触することを望んだことには、必ず何か意味があると感じていた。

 それが何であるのかについては、できれば訊きたくなかったし、彼も話したりはしていなかったが、行くことにも意味があるエイナのライブのチケットを自分から彼に渡した夫人の行動も関連していると考えるなら、腑に落ちる部分がある。

 ――何か飛んでもないことに関わってるな、克樹も、夫人も。

「……いや、俺も、か」

「何か?」

「いえ、なんでも」

 思わず口に出してしまった言葉を誤魔化し、彰次は夫人に視線を戻す。

「とりあえず詳細については、出資の申し出も含めて後日会社に連絡させていただくわ」

「お願いします」

「いまのところ開発が進んでいないのは、充分な人材と試作資材の不足が大きな原因でしょう。それに関しては今回の出資で解決させてもらうわ」

「……わかりました」

「それから、開発については極秘で、表向きはいままで通り貴方の趣味の範囲で、という形にして頂戴。動き方が変わると思うけれど、そこの部分についてはダミーの情報を流して対応するようにします。それは私の方で手配しておくわ」

「そこまで、隠す必要があるので?」

 成長著しい業界では、本命の計画を隠すためにフェイクの情報を流したり、ダミーの計画などを立ち上げて計画そのものを隠蔽するような工作はあることだった。

 SR社に状況をほぼ把握されているスフィアドール業界ではそれほどあることではなかったが、ホビーユースからビジネスユースへ、そして軍事用途にまで広がりつつある現在、そうした情報戦略は起こりつつある。

 しかしそうした工作には資金がかかるものであるし、完全に隠蔽しようとしたらその額は膨大になる。

 そこまでのことを、夫人は必要だと考え、提案してきていた。

「えぇ、必要よ。いえ、必要になると、私は考えている」

「わかりました。だがその手の研究開発はうち以外でもけっこうやってると思うんですが、決して専門でもないうちに何故出資しようと思うのです?」

 そう問うた彰次に、夫人は微笑みを見せた。

 それまでの黒真珠とあだ名される女傑としての顔ではなく、少し楽しげで、けれどどこか悲しげで、黒く深い瞳に、複雑な色を浮かべていた。

「それはね、彰次さん。リーリエちゃんという人工個性を生み出し、その技術を持っている貴方こそが、一番私の目標に近い位置にいると考えているからよ」

 テーブルに置かれたカップを取り、夫人は視線を落として温くなったコーヒーをひと口飲む。

 それから顔を上げ、女傑としての彼女に戻って言った。

「公表はできれば半年かそれくらいが良いと考えているわ。それまでに発表に値する成果を期待しています。できるかしら?」

「またずいぶん急ぐんですね」

「それだけの意味も、利益も、すぐにではないけれど、生み出すものであると考えていますから。――改めて問います。音山彰次技術部長。今回の件、受けていただけるかしら?」

「正式な出資の打診、お待ちしています。個人的にはもっと力を入れてやりたいことではあったのでね、ありがたい話です。成果については……、いまのところは努力します、とだけ」

「期待しているわ」

「しかし、これで俺はいままで以上に貴女に頭が上がらなくなりますよ」

「ふふっ。貸しの大きさだけなら、克樹君もいい勝負でしょうけれど」

 纏っていた圧力を感じるほどの雰囲気を緩め、夫人は笑む。

「克樹の奴も、ずいぶん貴女に貸しが多いようで。すみませんね」

「いえいえ。彼のことは個人的にも見ていたいくらいですから。むしろいまよりももっと側に置いておきたいくらいよ」

「いや、さすがにそこまでは、どうかと……。だがあいつに、貴女からの貸しを返せる当てなんてあるかどうか」

 すべてを把握しているわけではなかったが、エイナのライブチケットや、リーリエの人工個性を構築するためのシステムを購入する際の資金を借り受けたこと以外にも、克樹が多くの貸しを夫人につくっていることは知っていた。

 それを返済するためにちょくちょく呼び出されたり、下請け仕事のようなこともやっていることも把握している。

 金銭的にはすでに返済済みで、義務があるようなものではないが、心情的には個人としては大きすぎる克樹の夫人への借りは、そう簡単に返済できるものではないはずだった。

「そうね。克樹君にはお願いしようと思っていることがあるのよ」

「あまりあいつの負担になるようなことは、勘弁してやってくださいよ」

「どうかしらね。すでにあの子は動き始めてしまっているし、彼自身の望みのひとつでもある。私は彼の手助けを、できる限りしていくつもりよ」

「……いったい、何をあいつに頼むつもりなので?」

 楽しげに笑む夫人は、飛んでもないことを口にした。

「魔女狩りを、ね」

 息を飲んだ彰次は、夫人の言葉に対して何も言うことができなかった。

 モルガーナに関係して動き出している様子の克樹。そして今日の夫人の話も、直接的なのか間接的なのかはわからないが、モルガーナに関係することだった。

 目的そのものを思いつくことはできず、想像することもできず、問うこともできない彰次だったが、平泉夫人の言葉も、行動も、すべては彼女の言う魔女狩りに繋がるものであることを理解した。

「俺を、巻き込むつもりですか?」

「いいえ、そんなつもりはないわ。貴方は巻き込まれるのではない。おそらく最初から当事者のひとりよ」

「それはどういう――」

「ちょっと待ってね」

 言って夫人はソファに置いた携帯端末を手に取り、耳に当てた。

「えぇ、そう。――ちょうどその克樹君が来たのだけど、会っていくかしら?」

「……いいえ、辞めておきます。あいつは意外と鋭いんで、今日の話とかいろいろ、勘づかれる可能性がある。裏から逃げさせてもらいますよ」

「わかったわ。ではまた、休み明けに」

「わかりました」

 応えて彰次は荷物をまとめ、ソファから立ち上がる。

 待ちかまえていたように扉を開けた芳野が手で示すのに従い、歴史を感じさせる造りの廊下を通って、正面玄関ではない勝手口から直接駐車場に出た。

 礼をして去っていった芳野を見送り、乗ってきた黒いセダンの運転席に座ってしばらく待ってから、車を発進させた。

 ――いったいあいつは、どんなことに巻き込まれてるんだ?

 何かをしているのはわかっているが、隠していて、話してくれる様子もない克樹。

 飛んでもないことに巻き込まれているのはわかっていたが、夫人と、モルガーナが関わっているならば、気軽にそれを問うことはできそうもなかった。

「俺も当事者ってのは、どういう意味なんだ?」

 夫人の告げた言葉の意味がわからず、生活道路から幹線道路に車を右折させながら、まだ明るい陽射しの下で、彰次はため息を吐いていた。

 

 

          *

 

 

「……誰かお客さんだったんですか?」

「入れ違いでね」

 少し待たされてから通されたのは、相変わらずの執務室。

 本当ならこことは別に応接室があるけど、あそこは平泉夫人自身も言ってる通り、お客さんに対して見栄を張る部屋。執務室ですら沈み込む感触のある絨毯を踏むのもためらうのに、ここ以上に調度品なんかが凄まじい応接室じゃ、僕は落ち着ける気はしない。

 応接セットのソファに座って、コーヒーのカップを口元に寄せる平泉夫人の前には、もうひと組カップが置かれている。

 完璧を文字通り体現したような夫人専属のメイドさんが、片付けが間に合わないほどぎりぎりのタイミングでお客さんと入れ違ったらしい。

 正体不明の前の客人の茶器を片付け、僕の分と夫人のお代わりの分のコーヒーを持ってきた芳野さんが一礼して下がった後、僕はソファに座った。

「それで今日は突然どうしたの? 克樹君から突然来るなんて、珍しいじゃない」

「ちょっと訊きたいことがあったので」

 今日僕が平泉夫人の屋敷にやってきたのは、朝になって思いついたことがあったからだった。

 忙しくて屋敷にいないことが多い夫人は、数日前にアポイントを取っておかなければ会うのは難しい。ゴールデンウィーク中で時間があったからか、PCWでガーベラのパーツの組み替えが終わった後に電話を入れてみたら、時間を取ってくれることになった。

 楽しげな色を瞳に浮かべている夫人に、僕は前置きなしに問う。

「二体のスフィアドールを同時に動かせる人は、いまいますか?」

「また唐突にもの凄いことを訊くものね。簡単に答えると、私はいま現在のソーサラーで、二体のスフィアドールを同時に動かせる人は、いないと考えているわ。噂だけならば聞いたことがあるけれど、自分の目で確認したことはないわ」

「そうですか……」

 わずかに憂いの色を湛える瞳で、夫人は言葉を続ける。

「……過去にそれを目にしたことがあるのは、百合乃ちゃんだけよ」

「あいつ、あれを夫人にも見せてたんですか」

「えぇ。一度だけだけど。スフィアカップのすぐ後にね、彼女から本気で戦いたいと申し入れがあって、一度戦ったことがあるわ。そのときの流れで見せてもらったの」

「知らなかった……」

 僕と百合乃が夫人と出会ったのは、スフィアカップが初めてだった。

 そのときに百合乃のことを気に入った夫人と連絡先を交換して、つきあいが始まったわけだけど、地方大会の後に二度ほど一緒に屋敷を訪れた後、百合乃は誘拐され、死んでいた。

 僕が知らない間に百合乃がひとりで屋敷に来ていたなんて、知らなかった。

「ちなみにその本気の戦いってのの結果は、どうなったんです?」

「そうね……」

 思い出すように艶のある下唇に折り曲げた指を当て、夫人は微笑みながら話す。

「彼女とここで戦ったのは二戦。一戦目はスフィアカップのレギュレーション通りだったのだけど、私が勝ったわ」

「やっぱり」

 夫人の勝利を、僕は不思議に感じなかった。

 スフィアカップでは夫人に勝つことができた僕と百合乃だけど、なんとなく手加減をされている気がしていたからだ。

 何を考えて夫人が手加減したのかはわからない。でも同じことを感じていた百合乃は、夫人との全力の戦いを望んだんだろう。

 ――意外と、負けず嫌いだったからな。

 そうしたところはリーリエにも受け継がれている部分だったりするし、けっこう夏姫にもダブるものがある部分だったりした。

「二戦目は、彼女の全力で戦ったのだけど、負けたわ」

「どうしてまた」

「貴方がいまリーリエちゃんと協力して使っている必殺技、リミットオーバーセット、あるでしょう? 百合乃ちゃんはそれを使ったのよ。いまほど洗練されていなかったし、リーリエちゃんに比べれば動きも荒っぽいものだったけれど、百合乃ちゃんが必殺技を使うとさすがに私でも勝てないわ」

「やっぱりあいつ、意識的に使ってたのか……」

 ドールの人工筋のリミッターを外す必殺技は、僕が思いついて使うようになったものじゃない。

 百合乃が使っていた当時のアリシアの動作ログから、人工筋に規定値以上の電圧がかかってることがあることに気づいて、それを能動的にやる方法を思いついたから、やるようになったものだ。

 スクリプト化してリーリエ自身が使えるようにとかも考えていたりするけど、かなりデリケートで短時間しか使えない必殺技は、動作補助をする僕が制御してやらないといけない。もしリーリエに使わせるとしても、リーリエ専用に規格外のアプリをつくってやる必要があった。

 第四世代の初期に近い頃のアリシアで、百合乃が使っていた必殺技はいまほどの効果はなかったはずだ。たぶんアプリのバグを利用したものだったんだろうけど、どうやってあいつが必殺技を編み出したのかまでは僕にはわからない。

「スフィアカップのときも使っていたようね。たぶん必死だったからでしょうけれど、あの当時のスフィアの動作ログの記録間隔はいまより大きかったから、その間のほんの短い時間だったけれど」

「意識的に使ってたなんてバレたら一発退場なのに、無茶してたんだな、あいつは……」

「その後の流れで、二体同時にドールを動かしてみてくれたのよ」

「なるほど……。まぁ、芸としては面白いものだけど、その程度ですよね、あれは」

「何言ってるの? 克樹君。私はその百合乃ちゃんと戦ったのよ」

「……戦ったぁ?」

 思わず僕はあんぐりと口を開けてしまっていた。

 ピクシードールを使った人形劇をするという話になって初めて見せてもらった、二体同時の操作だが、あの後は何度か見せてもらった程度で、それを別のことで使うなんてこと考えてもみなかった。

 基本、ピクシーバトルは一対一、もしくはソーサラーひとりに対して一体のドールでのバトルロイヤルだから、そんなことできても活用できる機会なんてない。

 まさか二体同時に操作して、バトルができるなんてこと、僕ですら知らなかった。

「どうなったんですか、それ」

「アリシアの他に百合乃ちゃんに私のドールを貸して、私とあの子のドール二体、ソーサラー二対一で戦ったのだけれどね――」

 夫人はいくつかのタイプのドールを持っているから、百合乃に貸すこともできたんだろう。

 あの子、と言って扉の方に視線を飛ばしたのから見て、たぶんメイドの芳野さんなんだと思うけど、あの人もソーサラーだったのか、と思う。

 一度言葉を切って苦笑いを見せた平泉夫人は、肩を竦めた。

「完敗だったわ。アッと言う間にやられちゃった」

「え……。だってソーサラーはふたりでしょう? 百合乃も言ってたけど、二体同時はやっぱり一体のときより操作が荒くなるって。負ける要素はなさそうなんですけど」

「私もそう思ったのだけどね、ふたりの人間が呼吸を合わせて連携を取るより、ひとりの人間が二体のドールを動かして戦う方が、意思疎通や相方の動きを読み取る必要がない分、動作のタイムラグが少ないのよ。一瞬で芳野の方のドールを倒されて、二対一に持ち込まれて手も足も出ないまま負けちゃったわ。役割分担はしっかりしていて、一体を陽動と防御、一体を攻撃に振り分けていたけど、役割の入れ換えも瞬時に行っていたしね。同じことができない限り、百合乃ちゃんが操る二体のドールに勝つ方法は、たぶんないわ」

「あー、なるほど」

 見ていたわけじゃないから詳しいことはわからないけど、状況はだいたい推測できる。

 ふたりの人間が協力して戦う場合、連携するためには声でのやりとりや目配せ、相手の動きを見て次を推測するってことが必要だけど、ひとりの人間である百合乃にはそんなものは必要ない。

 百合乃にとってピクシードールは手足のようなものだ。

 ふたりの人間の一本ずつの手を、示し合わせる時間もなしに二本の手で片方に集中して捻り潰したわけだ。そんなことをされたらよほど連携を取れる人でもない限り、戦う前に潰される。

「あれは百合乃ちゃんだからこそできたことでしょうね」

「そうでしょうね」

「そしてあの子以外、二体同時にピクシードールを動かせる、私はデュオソーサリーと呼んでいるけれど、それができるソーサラーは見たことがないわ。ドールと一緒に自分も動けるムービングソーサリーが使える人は、けっこう見るのだけどもね」

「そうですか」

 近藤がそのムービングソーサリーの使い手なわけだけど、フルコントロールでピクシードールを動かしながら、自分自身も動けるソーサラーというのはけっこういる。

 ドールと自分自身の視界の問題があるが、アプリを入れて右の目と左の目で切り替えたり、メインビューとサブビューでやったり、高速切り替えでふたつの視界を同時に認識しているということだった。

「フルコントロールでデュオソーサリーができるソーサラーは百合乃ちゃんの他には知らないし、おそらくいないと思うのよ。ただセミコントロールだったら可能かも知れない、と言う話はあるわ」

「セミコントロールなら、ですか?」

「えぇ。ムービングソーサリーを使う際の高速切り替えによる並行視界認識を応用して、二体のドールを動かすという実験なら、したことがあるわ。ドールの操作はセミコントロールだからある程度コマンドが遅れても動くけれど、ムービングソーサリー以上に、離れた位置にあるふたつの身体を個別に認識して操作する、というのは簡単なことではないみたいで、歩かせたりといった程度のことはできても、それ以上のことは、戦わせるといったことはできなかったわね。視界認識の問題さえ解決できれば可能かも知れないけれど、普通の人間にとって視界はひとつだから、百合乃ちゃんのような天性の才能がなければ難しいでしょうね」

「そうですか」

 結論を聞き、僕は手で口を覆うようにして、しばし考え込む。

 ――視界の問題、か。

 僕も百合乃のようにできるかと思って、一度デュオソーサリーを試してみたことはあったけど、何秒と保たずに気持ち悪くなってドールを動かすまでには至らなかった。

 やり方を百合乃に訊いてみたけど、あいつは説明が上手くないもんだから、結局どうやってるのかなんて僕には理解できなかった。

 確かに操作だけならセミコントロールであれば可能かと思ったけど、バトルさせるとなるとやはり難しい。

「でもどうして、突然そんなことを聞きに来たの?」

「いえ、ちょっと、思いついたことがあったので……」

 目を細めてそう問うてくる、奥底を覗き込んでくるような夫人の瞳に、僕は目を逸らして誤魔化す。

 なんだかんだでスフィアドール業界だけでなく、ソーサラーの動向にも詳しい夫人は、この手の情報を知ってると思ったから、わざわざ足を運んでいた。

 被っているスマートギアを通してリーリエも聞いてるはずだが、百合乃の話題にあいつが加わってくることはない。理由はわからないが、リーリエなりに配慮してくれてるらしい。

「あのバトルに、関係していることなのかしら?」

「……。今日は時間を割いていただいてありがとうございました」

 夫人の質問には答えず、カップを煽ってコーヒーを飲み干した僕はソファから立ち上がる。

「近いうちに、たぶん新しく現れたソーサラーと決着をつけないといけないので」

 心配そうに目を細めて見つめてくる夫人にそれだけ言い、僕は執務室を後にした。

 

 



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第二部 黒白(グラデーション)の願い 第三章 4

 

       * 4 *

 

 

「くはっ」

 目が醒めて身体を起こした途端、大きな欠伸が出た。

 ベッドの上の時計を見ると、もう昼近い時間になってる。

 昨日は平泉夫人の屋敷から帰った後、夏姫と灯理の三人で夕食を摂って、その後作業室に籠もった。

 PCWから持ち帰ったパーツで一体のドールを組み立て、色々と検査をしていたら、ベッドに入れたのはそろそろ空が白み始める時間になっていた。

「眠いな……」

 もうひとつ欠伸をしながら、僕はベッドから出てクローゼットを開け、適当な服を選んでパジャマから着替える。

 それからベッドに近づき、枕の下から折りたたみナイフを取り出して眺める。

「まだこいつを捨てるわけにはいかないか」

 小さく呟いてジーンズのポケットに突っ込み、寝室を出て隣の作業室の扉を開けた。

「リーリエ、データの収集は?」

『動作だけだったら取れてるけど、新しい機能が多すぎてまだ全部は取れてないよー』

「わかった。引き続き頼む」

『うんっ』

 リーリエのコントロールにより、机の上でストレッチのような動作をしている新しいドールをちらりと見つつ、僕はMW社製のスマートギアを取って作業室を出た。

 一階に下りて洗面所で顔を洗って軽く髪を整え、灯りが点いてるLDKに入る。そこには近藤や灯理の姿はなく、キッチンの方から夏姫の鼻歌が聞こえてきていた。

「何? いまごろ起きたの? 克樹。起きてこないから午前中の勉強、リーリエと近藤でやってたんだよ。もうお昼も食べちゃったし」

「いいだろ、別に。僕にとっては普通の休みだ」

 洗い物をしていたらしい夏姫は、脱いだエプロンをキッチンのとこのフックに引っかけて僕のところまでやってくる。

 頬を膨らませながら上目遣いで険しい視線を向けてくる夏姫は、薄手のキャミソールにホットパンツと、いつにも増してリラックスした格好だ。いつもはポニーテールにしてる髪は、洗い物するのに邪魔にならないようにだろう、下ろしたところでゴムで結わえてるだけだった。

 ストッキング越しの肌が微かに透ける脚も目を引くものがあるが、運動部に入ってるわけでもないのに引き締まった夏姫の生足は、それはそれで惹きつけられるものがある。

「近藤と灯理は?」

「着替えとか取りに灯理の家にふたりで行ったよ。早めに戻ってくるって」

「ふたりで?」

 確かにひとりで出かけたわけじゃないってのはあるが、僕は眉を顰めてしまう。

 少し考えてソファに座った僕は、シャツの胸ポケットに入れてあった携帯端末を取り出し、近藤宛にメールを打った。GPS情報を定期的に送るアプリを立ち上げておくよう指示を出す。

「犯人は見つかりそう?」

 隣に座って僕の顔を見つめながら問うてくる夏姫。

「いくつか予想してることはあるけど、確証はいまのところないな」

「そっか……。あのレーダーで感知できないトリックはどうなの?」

「まぁ、それもちょっとね」

 回答を誤魔化す僕に、夏姫は不満そうな顔を見せていた。

 すぐ隣に座る夏姫との距離は、近い。

 もう少し顔を近づけて覗き込めばブラが見えそうな開き具合のキャミソールを着ていて、制服のときと違って、灯理ほどじゃないけどけっこう立派な胸の膨らみが服越しに見えていた。

 ――あれだけ怖い目に遭わせたってのに、警戒心のない……。

 手にしていた携帯端末とスマートギアをローテーブルに置いた僕は、おもむろに夏姫の肩を強く押して、ソファに押し倒した。

 つい一昨日にも灯理を押し倒したときと同じシチュエーション。

 驚いて目を見開いた夏姫は、頬を赤く染める。

「またリーリエが来ちゃうよ。いつも見てるんでしょ」

「リーリエ――」

『あ、おにぃちゃん! やだ! ダメ!!』

「プライベートモード」

 この状況もしっかり見ていたリーリエの制止の声を無視して、僕は天井に向けてそう言った。

 人間ではなく、人工個性であるリーリエは、必要に応じて強制コマンドを飛ばすことができる。プライベートモードを使えば、家の外はともかく、家の中のシステムからは切り離され、監視は停止される。外で異常が発生した場合を除き、解除するまでリーリエは家の中を見ることはできない。

「これでリーリエの邪魔も入らない。彼氏でもない男の家にふたりきりだってこと、ちゃんと理解してないだろ、夏姫」

 言いながら僕は彼女の太股の内側を撫でる。

 ストッキング越しのときと違って、貼りつくような柔らかい感触を、膝の辺りから脚のつけ根辺りまで撫でて楽しむ。

「んっ」

 顔を背け、両手を握りしめて、夏姫は恥ずかしそうに目をつむる。

 前に押し倒したときも思ったことだけど、太股は敏感らしい。

 指で撫で上げ、撫で下ろし、その度に身体を震わせる夏姫の反応に、段々と興奮を膨らませながら、僕はキャミソールから覗いてる鎖骨に唇を這わせた。

「ダメ、克樹……。うっ。んんっ」

 僕が手で、唇で身体に触れる度に、夏姫は可愛らしい吐息を漏らし、ひくひくと全身を震わせる。

 そんな可愛い夏姫の肌が火照ってくるのに反応するように、僕の身体も熱くなってきているのを感じていた。

 右手を彼女の頬に添え、僕に向かせる。

 目をつむったままの夏姫に、僕は自分の唇を近づけていった。

 ――なんで、だ?

 夏姫の吐息がかかるほどの距離まで唇を近づけたとき、僕はふと気がつく。

 いまはこの前のように両手を押さえ込んでるわけでもないのに、夏姫は一切抵抗していない。前はあれだけ抵抗してた彼女は、いまは僕にされるがままだ。

 夏姫が可愛くて、興奮してきた僕は忘れてたけど、押し倒したときの予想では、すぐに殴るか蹴るかされて逃げられると思っていた。

 あと指二本分まで近づけていた唇を離し、夏姫の顔を見つめると、それに気がついたらしい彼女がまぶたを開けた。

「なんで、抵抗しないんだ?」

 灯理のときにもしたことだけど、やっぱりこれは莫迦な質問だと思う。

 押し倒した側が抵抗しない理由を問うなんて、なんか滑稽だ。

 確かに多少抵抗された方が燃えるってのはあるけど、わざわざそれを問うなんて、普通じゃない。

 目を伏せていた夏姫は、口元に笑みを浮かべ、僕の瞳を見つめて言った。

「克樹なら、いいかな、って」

「なんだ、そりゃ」

 僕と夏姫との距離は、まだ息がかかるほどに近い。

 ぱっちりとした目を少し潤ませ、小さめの丸顔を赤く染めている夏姫。

 リップでも塗ってるんだろう唇は、奪ってしまいたくなるような、艶めかしい光を放って見えた。

 理性を動員しつつ堪え、僕は彼女に訊く。

「僕にこんなことされて、嫌じゃないのか?」

「んー。なんて言うのかな。嫌、ではあるんだよ。どうせするなら、ちゃんと彼氏になった人とがいい、って思う。でもね、克樹はアタシのことを何度も助けてくれた。それに、負けたアタシのスフィアを奪わなかった。ママを生き返らせる希望を、繋いでいてくれてる。けっこう信頼してるんだ、アタシ、克樹のこと」

 顔を赤く染めたまま、夏姫はそんなことを言う。

 ――くっ。

 柔らかく笑む夏姫に、僕はうめき声を上げそうになっていた。

 純粋に夏姫が可愛い。

 いや、綺麗だと思った。

 僕のことを映してる瞳に吸い込まれるように、頬に添えた手で髪を撫でながら、目を閉じて顔を近づけていく。

「でもね、克樹」

「ん?」

 近づけていた顔を止め、目を開くと、僕のことを真っ直ぐに見つめている夏姫の目とぶつかった。

「もしするなら、責任取ってね。最後までするなら、最後まで。アタシのこれからの人生の全部、責任取ってもらうからね」

 笑っているのにそこはかとない迫力を感じる夏姫。

 違う。

 僕は彼女の言葉に、もうあとひと息の距離を、これ以上近づけなくなっていた。

 僕自身が、その距離を詰めることに抵抗を感じていた。

 可愛くて、綺麗だと思える夏姫。

 でも彼女の発した言葉は、僕の身体と心に重しをくくりつけたみたいに、動きを阻害していた。

「嘘。そこまでは言わない。それでも一緒にいる間は、アタシのことをちゃんと見て、一緒にいる間だけでも、これからすることの責任は取ってほしいかな。だから続きをするなら、それくらいの覚悟は決めてからしてね」

 そう言って、夏姫は目を閉じた。

 触れた彼女の肌から、鼓動が伝わってきていた。

 僕と同じように、激しく脈打ってる心臓。

 左手で触れた太股は、緊張してる様子が感じられていた。

 そんな夏姫に、僕は――。

「どうしたの? しないの?」

 ソファに座り直した僕に、身体を起こした夏姫が小首を傾げながら訊いてくる。

「……リーリエ、パブリックモード」

『夏姫! 大丈夫?! おにぃちゃんにヘンなことされてない?!』

 プライベートモードを解除すると同時に発せられたリーリエの声は、夏姫への心配だった。

「うん、大丈夫。こんな短い時間じゃたいしたことできないって」

『そっか。よかったぁ』

 安堵の吐息つきで安心した様子を表現するリーリエに、僕は不貞腐れていた。

 ――なんで僕より先に、夏姫のことを心配するんだ。

 思っていた以上に仲が良くなってるらしい夏姫とリーリエに、疎外感を感じざるを得なかった。

「ヘタレ」

「うっ……」

 不満そうに唇を尖らせる夏姫の言葉を、僕は顔を逸らしてやり過ごす。

『何? おにぃちゃんってヘタレなの?』

「そそっ。けっこうヘタレ。女の子押し倒したクセに、キスのひとつもできないくらいだよ。ね? 克樹」

 僕のことを弄ぶつもりらしい夏姫に、もう一度押し倒してやろうかと思ったけど、その勇気はいまの僕にはもうなかった。

『おにぃちゃん! 誠からメール入ったっ。出たって!!』

 鋭いリーリエの声に、僕は立ち上がる。

「すぐ出かける。夏姫も準備しろ!」

「うんっ」

 にやけていた顔を引き締めた夏姫と、僕は頷き合った。

 

 

          *

 

 

「ちょっとこの辺りで……。できれば少し離れた場所で待っていてください。いまは家政婦がいる時間なので、男の人といるのが見つかるのはちょっと……」

「あぁ、わかった。近くにいるから出てきたら声かけてくれ」

 克樹の家からバスを乗り継いでたどり着いたのは、タワーマンションや走り回れそうな庭のある一軒家が並んだ、閑静な住宅街。

 襟付きのシャツに綿パンの格好の近藤は、場違いな感じがして、居心地の悪さを覚えていた。

 長いウェーブの髪をふわりと揺らして振り返り、笑みを浮かべて礼をした灯理に軽く手を上げて挨拶した近藤は、彼女が玄関の中に消えていったのを確認して、三階建ての上に半地下がありそうな大きな邸宅の前から離れた。

「まったく、面倒臭いな」

 克樹が昼食を食べた後も起き出して来なかったために、押しつけられた灯理への同行。

 小柄で可愛らしく、お嬢様の雰囲気を漂わせる灯理は、どこか女の子らしい小狡さを感じる人懐っこさと、逆に人を一定以上近づけさせない風格を兼ね備えている。

 顔も髪も違っていて、全体的に細く折れそうな身体をしていた梨里香とは違うのに、どこか灯理と梨里香は似ていると感じる部分があって、頭を下げて頼まれたら断ることができなかった。

 ――全部克樹の奴が悪い。

 スフィアを奪わず願いを繋いでくれていて、他にも多くのことをしてくれている彼には感謝していたが、同時に押されると弱い優柔不断さには苛立つこともある。

 責任をすべて彼に押しつけることにして、近藤は門が見える十字路から灯理が出てくるのを待ちながら、ガーベラなどを入れたリュックを担ぎ直した。

「おっと」

 ふと、近藤はリュックを腹に抱えるようにして、前方に身体を転がす。

 風を切る音だったのか、気配だったのかわからなかったが、身体が反射的に動いていた。

 家が並んでるだけの住宅街なのに、普通より広い道路の端まで逃げて振り返ると、さっきまで近藤がいた場所には、黒い忍者のようなエリキシルドールが立っていた。

 不意打ちを仕掛けるつもりだったのか、その手には警棒のような金属製らしい黒い棒が握られている。

「出やがったな」

 逆手に持った両手の警棒を構える忍者ドールに、自分自身で構えを取りたくなるのを堪えつつ、ポケットから携帯端末を取り出して、あらかじめ用意しておいたメールを一斉送信する。

 背後に音もなく現れた割に戦うつもりらしく、構えを取ったままじりじりと近づいてくる忍者ドール。

 目を離さないようにしながら、鞄からワインレッドのスマートギアを取り出して被り、続いてガーベラをつかんで起動させた。

「フェアリーリング!」

 何か理由があるのか、見られることなど気にしていないのか、やはり忍者ドールの近くにソーサラーはいない。レーダーの表示を見てみるが、近くにあるのは灯理のフレイヤと思われる反応だけで、他のエリキシルスフィアは感知できていなかった。

 側にいるならガーベラで戦いつつ近づいてソーサラーを捕まえたいところだったが、それも叶わず、近藤は立ち上げたエリキシルバトルアプリに叫んで薄黄色に光る輪を地面に出現させ、関係者以外認識不能なバトルフィールドを形成した。

「さて、久々に全力でやらせてもらうぜ。――アライズ!!」

 己の願いを込めた近藤の声に応じて、ガーベラが光を放ち、百二十センチのワインレッドのボディを出現させる。

「戦うつもりなら後ろから現れるんじゃねぇよ」

 ヒューマニティフェイスを搭載したガーベラと同じように、眉根にシワを寄せた近藤は言い放つが、反応のない忍者ドールのソーサラーに聞こえているかどうかはわからない。

「まぁなんでもいい。お前をぶっ倒して、中里を襲ってる犯人を引きずり出してやる!」

 昨日PCWで交換したパーツにより、ガーベラは完全な状態を取り戻していた。

 夏姫の話を聞いた限り、レーダーで感知できないトリックを使う他は、戦い慣れたソーサラーではない。対峙してしまえば怖いと思える敵ではなかった。

「行くぜ」

 ガーベラの視界で忍者ドールのことを見つつ、近藤は戦闘を開始した。

 

 



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第二部 第四章 シンシア
第二部 黒白(グラデーション)の願い 第四章 1


 

第四章 シンシア

 

 

       * 1 *

 

 

 鍛えた近藤よりも高いガーベラの脚力を利用して一気に距離を詰め、飛び込みながら正拳を繰り出す。

 慎重に構えを取っていた割に、慌てたように上半身を浮つかせ、忍者ドールはかろうじて警棒で拳をいなした。

 動きを止めることなく、右手を身体に引きつけつつ、首の脱臼を狙ってボクシングに近いフォームで近藤はガーベラの左手を突き上げた。

 どうにかクロスさせた警棒で、ガーベラの拳を受け止める忍者ドール。

 しかしスピードタイプらしい軽量なボディは、比較的パワータイプのガーベラの打撃で浮き上がり、灯理の家の壁へと飛んでいった。

 ――こいつ、弱いぞ。

 休む暇を与えず、近藤はガーベラを操って突撃を仕掛ける。

 警棒を投げ捨てて腰の辺りに手を突っ込み引き抜いた忍者ドールの剣を、ガーベラは左の手甲で受け流し、胴体に拳を叩き込んだ。

 夏姫から事前に暗器使いであること、動画で動きを見ていた近藤に取って、取り出す武器に意外性はなく、動きは鈍いものに過ぎなかった。

 暗器使いと知らずに戦えば苦戦を強いられていただろうが、挙動さえ見逃さなければ怖いものではない。

 克樹の強い勧めで、両腕の手甲を金属製のものにしていたのも、戦いを有利に運べている一因となっていた。

 ゆったりとした袖口から取り出した二本のトンファーに阻まれ、ガーベラの攻撃はクリーンヒットしない。

 鈍いと言ってもスピードタイプの忍者ドールは、防御に徹しられると、崩しやすい敵ではなかった。

 ――だが、このまま押し込めば勝てる。

 目が良く、しかし戦い慣れていない感じがある忍者ドールは、フェイントにもよく引っかかる。

 フェイントを織り交ぜながら打撃を加え続け、壁に背をする敵を逃さず釘付けにする。

 肩の上に掲げるように構えたガーベラの右腕に、強打を警戒してトンファーの位置を高くした忍者ドール。

 おそらくドールの視覚を通して右手に注目してるだろう、ここにはいないソーサラーの挙動。

 それを見て口元に笑みを浮かべた近藤は、低く構えたガーベラの左手を繰り出させた。

 かろうじて叩き落とされた左の拳。

 しかしそれすらもフェイント。

 身体が反るほどに肩に力を溜めたガーベラが、忍者ドールの頭に向けて右の拳を打ち下ろした。

 ――なんだ?

 一瞬、ガーベラの拳の出足が鈍った。

 それでも繰り出した攻撃は、上半身を傾けた忍者ドールに避けられる。

 お返しとばかりに腹を狙った蹴りに、ガーベラは突き飛ばされるように距離を離された。

 ――慣らしが足りてないのか?

 新品の人工筋はコマンドを受けてからの伸縮開始が微妙に遅れたり、伸縮速度が安定しないことがある。

 PCWの親父にもらった慣らし用アプリをひと晩かけて、ガーベラの人工筋は充分に慣らしが終わっていると思ったが、まだ足りなかったのかも知れない、と思う。

 ――何か、違う気がする。

 心の中で鳴ってる警笛に、近藤はガーベラを自分の側まで下げて相手の出方を観察する。

「何だと?」

 下げたガーベラの視界の隅に見えたのは、いつの間に現れたのか、暗幕を縫い合わせたような黒い衣装を纏う、身長百二十センチの人影。

 エリキシルドールだった。

 壁の上に直立していた二体目は、裾をはためかせながら地上に降り立ち、忍者ドールの隣に立った。

 スマートギアの視界の隅に表示してる距離の数字だけが表示されているレーダーには、忍者ドールとは違い、エリキシルスフィアがガーベラの約三メートルの位置にあると出ていた。

「ふたり目の敵、か?」

 自分自身も構えを取る近藤だったが、悩んでしまっていた。

 技術だけ考えればさほど強くない忍者ドールだが、人間を大きく超えるエリキシルドールの腕力で一発食らえば、骨折やら気絶くらいは覚悟しなければならない。

 ガーベラを動かしながら自分も動けると言っても、同時に戦えるわけでもない。

 危機であると同時に、チャンスだとも近藤には思えていた。

 上手く行けば二体同時に倒し、忍者ドールのレーダーで感知できない秘密も暴けるかも、と。

 まだしばらくかかるだろう克樹たちが来るまで凌ぐか、素直に逃げるかで悩んでいたとき、先に相手が動き出した。

「まずい!」

 ガーベラを無視して、二体は近藤に走り寄ってくる。

 視界を自分のみにし、忍者ドールの右、左の攻撃を紙一重で躱した近藤。

 近接からの上半身を狙った蹴りをしゃがんで避けたとき、目の前にあったのは二体目の手。

 その手に握っていた小さな円柱状の物体の上部を押し込んだのが見えたとき、噴射口から煙のようなものが発射されて近藤の顔に命中した。

 

 

          *

 

 

 近藤からいまも送られてくるGPS情報を元にタクシーを飛ばして、聞いていた灯理の家の近くまでたどり着いた。

 幹線道路でタクシーを停め、夏姫を先に下ろした僕は支払いを済ませて、昼過ぎの陽射しの下を走り始める。

 歩道はないけど車がすれ違って人が通っても充分なくらいの幅がある道を、夏姫に置いていかれそうになりながら、必死で駆けた。

 近藤からのメールが届いて、もう三十分近く経ってる。

 タクシーの中で電話をかけてみたが、応答はなかった。

 たいていのピクシーバトルの決着は数分、長くても十分程度。

 戦いが長引いたとしても、戦っていられる時間はガーベラに搭載してるバッテリじゃ、二十分がいいところだ。

 最後の角を曲がったところで見えたのは、しゃがみ込んでる灯理と、道路に倒れてる近藤の姿。

「何があったの?!」

「わ、わかりません。バトルがあったようなのですけど、ワタシが外に出たときにはもう近藤さんが倒れていたので……」

「近藤、大丈夫か?!」

 やっと追いついた僕が肩を揺すりながら声をかけるが、近藤は強く目を閉じて時折激しく咳き込むだけだった。

「早く、救急車を!」

「ま、待て……」

 かすれた声で、夏姫の言葉に近藤が言う。

「たぶん、使われたのは、防犯スプレーか、何か、だ。目と口と、鼻を洗って、しばらく休めば、大丈夫だ」

『でも誠! そんなに苦しそうなのに!』

 おろおろとしている灯理。心配する僕と夏姫に、スマートギア越しにリーリエも参加する。

「ダメだ。辞めて、くれ。いまオレは、警察沙汰は、避けたいんだ」

「……わかった。夜まで休んで良くならなそうだったら、病院行くからな」

「あぁ。それでいい」

 被っていたスマートギアのディスプレイを下ろし、僕はリーリエに指示を出す。

『ここまでタクシーを一台手配してくれ』

『うん、わかった。それと、おにぃちゃん、あそこ』

 言ってリーリエが僕の視界の一部を拡大させて見せてくれた道の端には、手の平に収まるくらいのスプレー缶が落ちていた。

 近寄って拾い上げてみると、近藤に向けて使ったんだろう、それは防犯スプレーだった。

 振ってみて中身がほぼ空になってる様子のそれを、ラベルが見えるようにスマートギアのカメラに向ける。

『成分と対処方法を検索。もし家にないものが必要だったら、買ってくるからリストにしておいてくれ』

『すぐやるね』

 検索に入ったらしいリーリエが黙った後、僕はエリキシルバトルアプリを立ち上げて、レーダーの表示を確認する。

 近くにあるエリキシルスフィアはふたつ。

 夏姫のヒルデと、近藤のところまで戻りながら距離の変化を確認してみて、灯理の家の中にあるらしい、たぶんフレイヤのものだけだった。

 近藤のガーベラの反応は、感知できなかった。

「それと、ワタシが外に出たときに、近藤さんの側にこんなものが……」

 灯理から渡されたのは、折り畳まれた紙。

 プリンタで印刷したらしいその紙に書かれた内容は、シンプルだった。

 ガーベラを預かった。フレイヤとアリシアとブリュンヒルデを持って、明日の夜に指定の場所に来るように、というもの。

 ――やっぱり、そうか。

 小さくため息を吐いた僕は、髪を夏姫に手渡しながら立ち上がる。

「近藤のことはこっちでどうにかするから、灯理は指定の時間まで、家に籠もっていてくれ」

「えっと、指定の場所まで行けばいいのでしょうか?」

「あぁ、うん。必要なら迎えに行くけど、たぶん敵もわざわざ場所と時間を指定してるんだ、明日までは動かないだろう」

「……わかりました」

 近藤の鞄を拾い、夏姫と一緒にでかい身体に肩を貸して、立ち上がらせる。

「いいの? 灯理をひとりになんてして」

「たぶん、ね。ガーベラを持っていったなら、忍者の方はレーダーに引っかからなくても、ガーベラは感知できるからね」

「あぁ、そっか」

 近藤の身体に隠れるように囁いてくる夏姫にそう答え、僕は自分の眉根にシワが寄るのを感じていた。

 ――明日まで、あんまり時間がないな。

 

 



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第二部 黒白(グラデーション)の願い 第四章 2

 

       * 2 *

 

 

「大丈夫か? 近藤」

「あぁ。だいぶマシになった」

 家の中で一番大きい僕のベッドに寝転がってる近藤に声をかけると、そう返事があった。

 リーリエの調査結果によると、通常なら半日くらいで、長くても一日程度で多少影響は残っても大丈夫になるという防犯スプレーだということがわかっていた。

 ただ、一本丸ごと使われたからか、いまだ近藤は目をまともに開くこともできない。このままだと明日の夜は、近藤は現場に行けそうになかった。

「近藤、大丈夫?」

 僕たちはあり合わせのもので、近藤は食べやすいようお粥で夕食を済ませ、洗い物が終わったらしい夏姫も寝室に顔を見せる。

「まぁ、大丈夫だろ。休み明けには学校に行けるさ。ただまぁ、追試については壊滅することになるかも知れないが」

「うっ……。いまはそのことは考えたくない」

「目が見えなくてもリーリエに頼めば、音声系の教材で勉強できるぞぉ?」

「集中できそうにないから、勘弁してくれ」

 目は開けられないが、元気はありそうな近藤の様子に、僕と夏姫は微笑み合っていた。

「改めて、戦いについて教えてくれ」

「あぁ」

 夕食前に概要だけは聞いていたが、僕はベッドに座って近藤に詳しい状況を訊ねた。

「最初に現れたのはあの忍者だ。浜咲から暗器使いなのは聞いてたし、スピードタイプだけどそんなに機敏なタイプじゃなかったから、勝てるところまでは持って行けたんだ。その後に現れたのが、もう一体のドールだ」

「さっきの話だと、後から現れた方にはエリキシルスフィアの反応があったんだよね? そっちが本当の敵ってこと?」

「どうだろうな。オレにもよくわからない。黒い服みたいので身体を覆っていて、以前ガーベラに着せてたレインアーマーみたいに正体を隠してた」

「そして真っ先に近藤が襲われて、防犯スプレーを吹きかけられたのか」

「そうだ」

 口元に手を当てて、僕は考える。

 必要な情報はもう充分だと言えた。ただ情報は、あればあるほど明日有利を得る要素になる。

「二体目が出てきたとき、二体同時に攻撃を食らった?」

「同時と言えば同時だが、実際オレに攻撃を仕掛けてきたのは忍者の方だ。二体目は動きを先読みして、スプレーを吹きつけてきただけだった」

「そっか。……他に、何か思いつくようなことはない? なんでもいいけど」

「思いつくことって言われても……」

 顎を引き、うなり声を上げて考え込む近藤。

 不思議そうな顔で小首を傾げてる夏姫のことは気にせず、僕は彼の言葉を待つ。

「そう思えば、二体目が現れる直前、オレは忍者をけっこう追いつめてたんだが、攻撃をしよとしたとき、ガーベラの反応が一瞬遅れたんだ」

「反応が遅れた?」

「あぁ。人工筋の慣らしが充分じゃなかっただけかもしれないがな。その程度の遅れだった」

「そっか。わかった。ありがとう。あとは充分に休んでくれ」

 夏姫に目配せをして寝室を出ようとする。

「なぁ、克樹」

「ん?」

 振り向いて近藤の方を見てみると、上半身を起こして、目は閉じたままだけど、僕の方に顔を向けてきていた。

「オレは明日行けそうにないが、ガーベラのことを頼む」

「何言ってんだよ。当然、ガーベラは取り戻すよ」

「そう言ってくれるのはわかってるが、改めて頼みたい」

 小さく肩を震わせてる近藤の様子に、目を細めながら夏姫の方を見ると、驚いた顔をしていた彼女はひとつ頷いて、階段の方へと向かっていった。

 扉を閉め、一歩近藤へと近づいていく。

「なんだよ、改まって」

「オレのガーベラは……。いや、オレのエリキシルスフィアは、一度お前に負けて、お前から預けられたものだと思ってる。だけどあのスフィアは、オレと梨里香が協力して手に入れたものなんだ。あいつの残してくれたものの中で、一番大事なものなんだ」

 もう震える肩を隠そうともせず、閉じた目から涙を溢れさせる近藤。

「大会のときのボディもそのまま残してあるし、梨里香から借りて使ってたスマートギアだってある。でもスフィアは、あのスフィアだけは、あいつと一緒に手に入れたものなんだ。本当にお前に言ってるように、みんなが願いを叶えられるなんて甘い幻想は持ってない。でも、微かであっても、梨里香ともう一度会うための希望なんだ……。必ず、必ず取り戻してほしい。克樹、頼む」

 ベッドの上で正座をし、土下座をする近藤に、僕はちょっと笑いそうになっていた。

 必死なのはわかる。

 大切なものだってことも、理解してる。

 でもわざわざ土下座なんてことをしなくても、僕はガーベラを取り返す。そのために明日指定の場所に行くんだし、これからそのための準備をするんだから。

 土下座なんて、僕には必要ない。

「そんなことしてないで寝てろ。明日は行けなくても、学校まで休むわけにはいかないだろ」

「……わかった」

 ベッドの中に潜り込んだ近藤を確認して、僕は寝室を出て作業室に入った。

 必要な荷物をいつもより大きなリュックに詰めて、椅子に引っかけてあるちょっと厚手のジャケットを羽織ってから一階へと下りていく。

 荷物を玄関に置いてからLDKに入ってみると、ダイニングテーブルのところで、そわそわした様子の夏姫が椅子に座っていた。

「近藤は?」

「寝るように言ってきた」

「そっか……。えっと、ね? 克樹。今日はあんた、どこで寝るつもり?」

「どこって、そりゃあ――」

 天井を眺めながらふと、僕のベッドは近藤が寝るのに使ってるのを思い出す。

 本来客間だったとこにはリーリエのシステムが占有してるし、あとまともに寝られる部屋と言えば、夏姫と灯理が使っていた、ダブルベッドがふたつ置いてある親たちの寝室しかない。

「夏姫が僕と一緒に寝たいって言うなら構わないぞ。勝負下着はちゃんと持ってきてるよな?」

「いや、そうじゃない! それがダメだから言ってるんでしょっ。ベッドは別でも、同じ部屋にとか、恥ずかしいし……」

「ベッドもひとつでいいんじゃないのか?」

『ダメだよ! おにぃちゃんと夏姫がエッチなことするなんて、あたしが許さないんだから!!』

 リーリエに思ってることをはっきりと言われて、顔を赤く染めて恥ずかしそうにしてる夏姫に、僕はちょっと楽しくなってきていた。

 こうやって弄ってるときの彼女は、可愛らしい。

 でも上目遣いに僕のことを睨みつけてきた夏姫は、口を尖らせながら言った。

「それは責任取ってくれる、って意味?」

「うっ」

 そのひと言に、昼間に言われたことを思い出した僕は、夏姫から目を逸らす。

 弄って楽しんでるだけの僕には、さすがにそこまでの覚悟はない。

「いや、まぁ、夜のことは気にしなくていいよ」

「なんで? ソファででも寝るつもり?」

 僕がベッドで寝ないことが前提っていうのが腑に落ちなかったりするが、手に持っていたスマートギアを、ディスプレイを跳ね上げさせたまま被る。

「これからちょっと出かける。たぶん帰りは朝か昼くらいになるから」

「どこ行くの? こんな時間にっ。忍者だって、もう一体のだって、いつ出てくるかわかんないんだよ? 危ないよっ」

「まぁ、明日まではたぶん大丈夫だろう」

 確信があるってほどじゃないけど、大丈夫だろうと思っていた。

 警戒のため、携帯端末の位置情報を定期的に送信するようにしてあるいま、僕たちは比較的安全だ。

「明日の決戦のためには、どうしても今晩のうちにやっておかないといけないことなんだ。どうにか予定も押さえられたしね」

「そっか……」

 不安そうに表情を曇らせている夏姫の頭に手を置き、優しく髪を撫でる。

 びっくりしたように目を見開いた彼女だけど、手を払いのけることなく、少し不安が和らいだように、目を細めて微笑みを浮かべた。

「じゃあ、行ってくる」

「うん。行ってらっしゃい。気をつけて」

「夏姫も。近藤のことは頼む」

「わかった」

 玄関まで追ってきて軽く手を振る夏姫の笑顔に送られて、リュックを担いだ僕はすっかり暗くなった町へと繰り出した。

 

 

          *

 

 

「わざわざ僕のために時間を割いていただいてありがとうございます」

「いいのよ、克樹君。貴方からのお願いと言うなら、私の予定が許す限り、時間くらいつくるわ」

 夏姫と近藤を家に残し、僕がやってきたのは平泉夫人のお屋敷。

 あの手紙を見、近藤の手当が終わった後、僕が真っ先に連絡を入れたのが、彼女だった。

 いつものような煌びやかな服ではなく、珍しく黒いジャージの上下姿の夫人は、でもそんな格好が彼女の美しさを損なうものではなく、初めて見る丸い眼鏡と相まって、いつも以上に若々しく見えていた。

 セミロングの髪をアップにまとめた夫人は、僕よりも高い目線から見下ろしてきて、柔らかく笑む。

 この前もリーリエの稽古をつけてもらったパーティルームには、今日も円形リングが設置されている。

 ポットやカップなどの茶器と、山盛りのピクシードーリ用バッテリの入ったカゴを乗せたカートを押してきた芳野さんに眼鏡を渡して、スマートギアを受け取った平泉夫人。

「それで、私が出した宿題はどれくらい進んでいるのかしら?」

「リーリエの方はだいたい。動きの練習はこれからですが。僕の方は半分くらい。……嘘です。三割ちょいくらいです」

「そんな状況で私に稽古をつけてもらいに来たの?」

 黒真珠の瞳の前では僕は嘘も吐けないし、ごまかすこともできない。すべてのことを言うことはできないが、僕は嘘を含めず夫人に話す。

「明日までに、少しは僕が戦えるようになる必要が出てきたので」

「明日というのはずいぶん性急ね。いいんだけれど。貴方がアリシアを使うのかしら? それとも私のドールを一体貸した方がいい?」

「リーリエの方の稽古も必要ですし、僕の方は、もう一体持ってきたので、大丈夫です」

 言いながら僕は、鞄からドール収納用としては大型のアタッシェケースを取り出し、開いた。

 中に入っているのは、二体のピクシードール。

 一体は水色のツインテールとハードアーマーが特徴的な、スピードタイプのアリシア。

 もう一体は、深緑の髪とアーマーのドールだった。

「触っていいかしら?」

「えぇ」

 壊れ物でも触るように静かに手を伸ばしてきた夫人は、深緑のドールに触れる。

 腰まである髪を太めの三つ編みにまとめ、ほぼ同色のハードアーマーは、その下の黒いソフトアーマーを覆うほどに面積が広い。

 大きな眼鏡、のように見えるが実はとあるメーカーの追加光学センサーを顔につけ、少し笑っているような表情で目をつむる僕の新しいドール。

 身長十九センチ弱と、アリシアよりも若干小さく、全身を金属製のハードアーマーで覆っているこいつは、一昨日ショージさんからフレームを借り受け、昨日PCWで買ったパーツで組み立てた、パワータイプのドールだ。

 アリシアを格闘家風だとするなら、新しいこいつは重戦士であると同時に、魔術師の雰囲気を漂わせてる。

 肩からは腕を守るように、腰からは脚を防御するための追加アーマーが伸び、アーマーの各部には宝石を散りばめたような、色とりどりの半透明な樹脂パーツを埋め込んであった。

「名前はなんてつけたの?」

「シンシア、です」

「……いい名前ね」

 目を細めた夫人は、僕の方を見て柔らかく笑む。

 僕が最初に組み立てたバトル用のピクシードールに「アリシア」と名付けたのは、百合乃だ。あいつが付けそうな名前を考えて、僕は新しいドールにシンシアと名前を付けた。

「戦型は?」

「いえ、まだ決まってなくて……。僕はまともにピクシーバトルやってなかったんで、どうしようかと考えてるところです。ただ、武器は何か持たせる予定です。いまはちょっと、時間がなくて用意できてませんけど」

「貸すわよ。パワータイプでしょうから、グレートソード? ハルバード? グレイブ? いっそのこと両手にバトルアックスにでもする? 特殊系ならショーテルとかマドゥとかツインソードとかもあるけれど」

「いったいどんだけ持ってるんですか……」

 平泉夫人の趣味の中には、ピクシードール用のアクセサリパーツ集めがあるのは知ってるけど、本体に比べれば安いと言っても、たいてい精巧に出来てて値段が張る武器を、どれだけ持っているというのか。

「とりあえずいくつか試しながらやっていきたいと思っています」

「わかったわ」

 夫人が目配せをすると、頷いた芳野さんがパーティールームを辞して、少しして蓋のついた薄い木箱を持ってきた。開けられた中には、ドール用の様々な武器が納められている。

「武器を持つかは後回しにして、まずは身体を動かすところからかしらね」

「お願いします」

「リーリエちゃんの方は、芳野との稽古ということでいいかしら? 格闘戦も武器戦闘も、ひと通りは仕込んであるから」

『ん、わかったー』

「はい。……というか、僕の方が夫人の相手ですか」

「不満?」

「いいえ……」

 夫人から目を逸らしつつ、スマートギアのディスプレイを下ろした僕は、アタッシェケースの中のアリシアを取り出して起動し、コントロール権をリーリエに解放した。

 アリシアをリングの中に立たせ、夫人から返してもらったシンシアも起動して、僕はフルコントロールアプリを立ち上げた。

 リングの中で対峙するのは、夫人が使う闘妃と、芳野さんが使う、夫人所有の別のドール、戦妃。

 アリシアに近い要所を重点的に覆ったハードアーマーを身につけ、黒地に赤いラインのあるデザインをした、スピードタイプのドールだ。

「さて、始めましょうか、克樹君。今日は朝まで寝かせないわよ」

「よろしくお願いします」

 男女的な意味で言われたのなら嬉しいかも知れないけど、サディスティックな雰囲気を漂わせる夫人の口元に、僕はむしろ戦慄を覚えていた。

 

 

          *

 

 

 灯りひとつ点いていない部屋の中には、薄いカーテン越しに街灯が薄暗く差し込んでいるだけだった。

 薄明かりに沈む部屋の真ん中に立つ人物は、足下まで裾のある灰色のコートを羽織り、フードを被っていて、顔は見えない。

 その人物が顔を向けている先、かろうじてベッドだとわかるそこには、三体の人形が寝かせられていた。ピクシードール。

 左端に横たわっているのは、黒い衣装を身につけたドール。

 その隣にあるのは、白を基調に、黒で彩られた衣装のドール。

 そして右端には、暗がりの中でも鮮やかな色合いを見せる、ワインレッドのハードアーマーを纏ったドールが寝かせられていた。

 ガーベラ。

 黒と白のドールを優しく撫でてから、脇に置いたドール用の大型アタッシェケースを引き寄せて、二体を納める。

 続いて、別のケースにガーベラのことも収めた。

「明日は上手くやらないと」

 固い決意と、わずかな不安に揺れる声音でいい、ケースの蓋を閉じた。

 



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第二部 黒白(グラデーション)の願い 第四章 3

 

       * 3 *

 

 

 そろそろ夕暮れに染まり始める時間、ガーベラを奪っていった犯人が指定した時間にはまだ余裕があったが、夏姫は気が急いて仕方がなかった。

 音楽でも聴いていれば落ち着くかと思ったがそれもダメで、克樹の家のダイニングテーブルで、彼女はスタイラスペンを置いてスレート端末の電源を下ろした。

 外に出るときはスカートを選ぶことが多いので、家の中でしか穿かないジーンズに、襟つきの薄い青のシャツを羽織った夏姫は、コーヒーでも淹れようかと立ち上がる。

 昼食を食べた後、近藤は早く回復するために眠っていた。

 徐々に回復していて、目は開けられるようになったが、涙が出てくる上に視界が霞んでいて、まだ外に出られそうにはなかった。

 話しかければ返事はあるし、勉強を教えてもらっていたりしたが、リーリエが自分から話しかけてくることはなかった。

 ――克樹と何かやって、忙しいのかな。

 今日、この後のために彼が出かけていったのだろうことはわかっている。何を考えて、どんなことをやっているのかまではわからないが、彼は彼なりに、自分が遭遇した状況に全力を尽くすタイプの人であることを、夏姫は理解していた。

 せめて灯理がいてくれたら、と思うが、気軽に外に出られる状況ではないいまは、彼女に来てもらうことも、迎えに行くこともできない。定期的にメールで連絡を取り合って、無事の確認しかできていなかった。

 ――みんなでいたからかな。

 あの狭いアパートではいつもひとりで過ごしているのに、夏姫は寂しいと感じていた。

 ここ数日は克樹や灯理、近藤がいて、リーリエともよく話していたからか、アパートの部屋よりも広いLDKにひとりでいると、寂しさと、不安と、たいていぶっきらぼうな表情しかしてない克樹の顔が見たいという気持ちがこみ上げてきていた。

『たっだいまーっ』

 そんな夏姫の気分を吹き飛ばすようにLDKに響いた、リーリエの声。

 直後に聞こえてきたのは、玄関の扉を開ける音だった。

「何言ってんの? リーリエ。貴女の本体ってこの家にあるんでしょ?」

『そーなんだけど、なんかそんな気分だから……』

「なんとなくわかるけどさ」

 リーリエと言葉を交わしながら、小走りに玄関に行ってみると、げっそりとした顔の克樹がいた。

「お帰り。どうしたの? 克樹。酷い顔してるけど」

「ただいま。まぁ、ちょっとね」

 どうやら疲れているらしい彼は、靴を脱いで廊下に上がって、ふらふらとした動きでLDKに入り、崩れるようにソファに座った。

「どこ行ってたのよ? 本当に」

「いや、まぁ、ちょっと」

「近藤はほとんど寝てるし、リーリエも忙しいみたいだったし、今日一日アタシひとりでいたんだよ?」

「寂しかったのかぁ?」

 少し怒ったように眉根にシワを寄せ、克樹の顔を前屈みに睨みつけると、疲れた顔をしながらもいつもの調子で軽口が返ってきた。

「そ、そうじゃないけど、ほら、勉強だって進まないし、約束の時間も近づいてくるし、ね」

『修行してきたんだよーっ』

「修行?」

「え、まぁ、うん。平泉夫人のところに……」

「女の人の、とこ?」

「いや、そういう感じの人じゃない。僕とリーリエの、師匠みたいな人のところ。そのうち機会があったら夏姫にも紹介するよ」

「ん……、わかった」

 慌てて弁解する克樹に、おかしなことをしていたのではなく、今日のために何かをしてきたのだろうとは思っていた。

「この後はどうするの? まだ少し時間に余裕あるけど」

「少し休んでから指定の場所に向かう」

「そっか。夕食にシチューつくって、もうできてるけど、食べる?」

「あぁ、うん。食べる。結局昼までみっちりやって、昼は少し食べたけど、あんまり食べられなかったから……。シチューかぁ。食べるのいつ振りだろ」

 げっそりした克樹の顔から、何をしてきたのかまではわからなかったが、ずいぶん大変だったことはわかる。

 ひとりではあまり勉強が進まなくて、合間にじっくり煮込んだシチューが出来上がっていた。

「暖めてくるね」

「待て。その前に」

 キッチンに向かおうとした夏姫は、それまでのダレたものではない、堅さのある克樹の声に振り返る。

 ソファから立ち上がった彼は、眉根にシワを寄せ、真剣な目つきをしていた。

「今日の戦いは、僕に任せてほしいんだ」

「何か理由があるの?」

「うん」

 理由を言ってくれる様子はない。

 近藤と戦ったときもそうだったが、彼は何か考えを持って、彼なりの理由で動いている。

 話してほしいとも思うが、わかるようになるまで触れてはいけないことを、触れるべきではないことを、克樹が話してくれることはない。

 ――犯人、わかってるのかな?

 なんとなく、そう思えた。

 レーダーで感知できない忍者のようなエリキシルドール。

 そのドールを助けるために現れた、レーダーで感知できるもう一体のドール。

 そしてその正体と、その仕掛けてきた人物のことを、克樹はもうわかっているような気がしていた。

「わかった。でも、克樹が負けたらアタシも戦うよ?」

「それはまぁ、仕方ない。でも、たぶんその必要もない」

「自信でもあるの?」

「自信というか、たぶんどうにかできると思うんだ」

 睨みつけてくるような視線を和らげ、口元に笑みを浮かべた克樹。

 エッチなところを除けば信用できて、信頼できる人だと感じてる夏姫は、今回も克樹を信じることにした。

「うん。じゃあ、任せる。絶対に負けたりしないでよ?」

「約束はできないけど、わかった」

 なんでそこで不安になるようなことを言うのか、と思うけれど、克樹の浮かべた笑顔に、夏姫も笑みを返していた。

 

 

          *

 

 

「灯理は少し遅れるって」

「わかった」

 携帯端末で電話をしていた夏姫に、僕はそう返事をした。

 夜。家からけっこう離れてる広い公園の入り口のひとつに、僕と夏姫はやってきていた。

 僕と夏姫が近藤と戦ったとことは比較にならないほど広い公園には、ボート遊びができる池や、雑木林などがあり、博物館といった施設も園内に建っている。

 夜も更け、園内の街灯しかない暗い公園の中に、僕は車止めを避けて足を踏み入れる。

「灯理を待たないの?」

「うん。もうすぐ時間だしね」

 夜になるとまだ寒いから、キャミソールの上に僕が貸してやった紺色のジャケットを羽織り、いつも履いてるのより丈が長めな緑のフレアスカートに黒いタイツを合わせてる夏姫は、少し不満そうな顔をしながらも後ろに着いてくる。

 散歩をしてる人とかとすれ違いつつ、僕たちは雑木林の中を踏み固めた土の道を通り、奥まったところにある野外ステージにたどり着いた。

 勾配の緩いすり鉢を半分に割ったような構造の野外ステージの一番奥、百人分あるかどうかの客席の向こうにある舞台の上にいたのは、ふたつの人影。

 ひとつは身長百二十センチほどの、黒い衣装を纏った忍者ドール。

 もうひとつは、身長はたぶん夏姫と僕の中間くらいの百六十程度で、足下まで隠すような灰色のコートを纏い、フードで顔を被っている人物。

 ふたつの人影は、寄り添うように立っていた。

 被っていたスマートギアのディスプレイを下ろし、レーダーの距離表示を見てみると、舞台の上に合致する距離に、エリキシルスフィアの反応があるのが確認できた。

 その数は、ひとつ。

 同じように携帯端末でレーダーを見ていたらしい夏姫がこっちを見て言う。

「今度はエリキシルスフィアつきで出てきたってこと?」

「さぁね」

 僕の答えに不満そうな顔を見せる夏姫だが、まだネタばらしをする気はない。

 走ってるんだろう、急速に近づいてくるもうひとつの反応を確認して、僕は振り返った。

 息を切らせ長い髪を揺らしながら走ってきたのは、薄黄色のワンピースに茶色のボレロを羽織った灯理。

 胸に手を当てて深呼吸で息を整えてから、スマートギアに覆われた視線を舞台の方に向けた。

「お、遅れましたっ。すみません。……もう、来ているのですね」

「そうなの。でもガーベラの反応がないんだよ」

 不安そうに顔を見合わせているふたりを無視し、階段になってる通路を下りて、僕は舞台へと近づいていく。

 小窓で後ろのカメラの視界を表示し、頷き合って神妙な顔で着いてくる夏姫と灯理に注意を向けつつ、端にある階段で舞台に上がった。

 忍者ドールがまず舞台端の僕に向き直り、続いてコートの奴が滑るような動作で向きを変える。客席の向こうにしかない街灯では、フードの中まで見ることができない。

「なんで近藤にあんなことしたの?! エリキシルバトルをしてたんでしょ? 卑怯じゃないの!!」

 僕の隣に立った夏姫が人影に声をかけるが、返事はない。

「灯理はドール、持ってきてる?」

「あ、はい」

 振り向いた僕の声に、灯理は方から掛けていたトートバッグからドール用のアタッシェケースを取り出し、僕に掲げて見せた。

「うん、わかった。ありがとう」

 そんな風に言いながら、僕は肩に掛けていたデイパックのファスナーを開く。

「ね、克樹。どうするの? このまま戦うの?」

「いや、まだだよ。ソーサラーの正体を明らかにしないと。ね? 灯理」

 横で首を傾げる夏姫。

 少し顔を俯かせて答えない灯理の手の動きを、僕は見逃さなかった。

「リーリエ!」

『うんっ』

 僕の声に答えてデイパックから飛び出したのは、アリシア。

 リーリエにコントロールされてるアリシアは、灯理の右手に取りつき、安全ピンを突き刺して彼女が持っていたものを奪い取った。

 着地し、僕の足下に駆け寄ってきたアリシアから受け取ったもの。

 防犯スプレー。

 昨日近藤に吹きかけられたものと、まったく同じものだった。

「え? なんで? 灯理?」

 状況がわかっていないらしい夏姫が灯理に手を伸ばそうとするが、彼女は後ろに下がって逃れる。

「そろそろ、演技は辞めよう、灯理」

 針攻撃を受けた右手を左手で押さえ、噛んだ唇を震わせて、おそらく僕のことを睨みつけてきてるだろう灯理。

「灯理が持ってるそれは、ガーベラだろう? あそこでコートを着てるのは、フレイヤだ」

 おっとりとして可愛らしい感じの灯理には似つかわしくない、鼻の上にシワが寄るほど怒りに顔を歪ませてる彼女。

「そして、あの黒いドールの名前はおそらく、フレイだ」

 肯定も否定もせず、灯理はただ、僕のことを睨みつけてきていた。

 

 



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第二部 第五章 フレイとフレイヤ
第二部 黒白(グラデーション)の願い 第五章 1


 

第五章 フレイとフレイヤ

 

 

       * 1 *

 

 

「どういうことなの? 克樹」

「どういうことも何もないよ。全部灯理の自作自演だったんだ」

 言葉の意味はわかっていても、理解が追いつかないのか、夏姫は呆然と立ち尽くしていた。

「何を言っているのかわかりません。ワタシはあの黒いドールに襲われていたのであって――」

「君はデュオソーサリーが使えるんだろ? 二体のドールを同時に動かすことができる」

 割と最初の段階で、僕はそれを疑っていた。

 いや、たぶん僕だからこそ疑うことができたんだろう。

 ムービングソーサリーの使い手は実際にいることが知られてるし、近藤という使い手が側にいるけど、デュオソーサリーの使い手は、現実にはいないものとされてるし、話に出ることはあっても、実際に見たことがある人はほとんどいない。

 百合乃が実際にやってるのを見たことがなかったら、僕だって本当にいるなんて思えなかっただろう。

「それって、百合乃ちゃんと同じ?」

「そうだ。だからこそ、魔女に狙われた」

「狙われた?」

 訝しむように、灯理が眉根にシワを寄せる。

「うん。このエリキシルバトルには主催者がいる。それが魔女、モルガーナという名の女だ。あいつがどんな奴で、どんな目的を持ってバトルを開催したのかは僕にもわからない。でも、願いを持った人を集めて戦わせ、エリクサーを与えるよりも大きな何かを手に入れることが目的であることだけは確かだ」

「その、モルガーナという女性と、ワタシに何か関係があるのですか? ワタシはエリクサーが手に入ればそれでいいのです。その女性が他にどんな目的を持っていたとしても、エリクサーを与えてくれるならば、関係のないことです」

「そんな簡単な話じゃない」

 左手を伸ばしながら灯理に大きく一歩近づき、下がって逃げようとする彼女の方を捕まえる。

 スマートギアのディスプレイを跳ね上げ、彼女の医療用スマートギアに覆われた顔を真正面から見つめた。

「君も知ってる通り、僕には妹がいた。あいつは灯理と同じデュオソーサリーの使い手だった。でも、百合乃は死んだ。それはたぶん、モルガーナが仕込んだことなんだと思う」

「それって、本当なの?」

 驚いた顔で問うてくる夏姫に、僕は首だけ振り向かせて笑み、答える。

「確認してるわけじゃない。証拠もなければあいつ自身、何も言ってない。でもおそらくそうなんだ。あいつはデュオソーサリーが使えるほどの人間を求めてる。百合乃は脳情報を取り出され、いまはリーリエとなってる。たぶんだけど、エイナも誰かの脳情報によって構築された人工個性だ。それが誰で、生きてるのか、死んでるのかはわからないけど。――灯理」

 身体を細かく震わせてる灯理に向き直り、僕は言う。

「魔女は何かの理由があって、君を求めた。新たな人工個性を生み出すためなのか、人工個性はあいつの目的に達するための過程に過ぎないのかもわからない」

「本当に、そうなのですか?」

「確証はない。でもたぶんそうなんだ。じゃなければ、スフィアカップでそれなりの成績を残してる人ばかりが集められたエリキシルバトルに、君を参加させる理由がない。バトルの経験がなくて、人数合わせにしかならない灯理に、デュオソーサリーの能力を見出したからこそ、魔女は君にスマートギアによる新たな視覚と、エリキシルスフィアを与えたんだと思う」

「まさか、そんなことが……」

「あいつはとても長い時間を使って計画を仕込んできてる。バトルだけじゃなく、スフィアドールも、君のスマートギアも、あいつの仕込みだ。いまも灯理があいつに狙われてるかどうかはわからない。でももし狙われてるなら、君は近いうちに何らかの方法で死ぬことになると思う。僕も、夏姫も、近藤も、そして灯理も、あいつの手の平の上で踊らされてるだけなんだ」

 肩に乗せられた僕の手を振り払い、一歩、二歩と後退る灯理。

 考え込むように深く俯き、唇を噛み、微かに身体を震わせる。

 ひとつ頷き、顔を上げた灯理は言った。

「もし、もし克樹さんが言うことが本当だったとしても、ワタシのやることは変わりません。戦って、勝って、エリキシルスフィアを集め、エリクサーを得ること。この目を治すという願いを、それがどんなに薄い希望でも、誰かに利用されてやらされていることだとしても、この目が治る可能性があるなら、ワタシはやるだけです」

 スマートギアを被っているんだから彼女の目が見えてるわけじゃない。

 それなのに僕は、突き刺さるような灯理の強い視線を感じていた。彼女が僕に向けてくる気迫を感じていた。

 遠い街灯に照らし出された灯理は、美しい。

 膝下まで伸びる黄色いワンピースの裾を強く握りしめた拳とともに、緩やかなウェーブを描く髪もまた、震えている。

 小柄で、可愛らしい灯理は、美しい女の子だ。

 そして彼女の願いも、彼女の決意もまた、僕には美しいものだと思えていた。

 僕の、薄汚い願いとは違って。

「願いを叶えるためならば、ワタシはどんなことでもするのです。最新の医療技術でも、どんな大金でも治すことのできない目が見えるようになるなら、卑怯な手を使うことも、この身体を汚されようと、ワタシは構わないのです。ワタシの願いに近づけるならば、それを進んでやるだけなのです」

「灯理……」

 近づいて伸ばした夏姫の手を払い除け、灯理はカツカツと足音を立てながら二体のドールの元へと歩いていく。

 灯理の手で取り払われた灰色のコートの下から現れたのは、真っ白な衣装を身につけたエリキシルドール、フレイヤ。

「認めましょう、克樹さん。ワタシがこのフレイとフレイヤのソーサラーです。貴方の言うように、ワタシはデュオソーサラーです。自作自演でフレイにワタシを追いかけさせ、夏姫さんを、近藤さんを襲ったのは、ワタシです」

 木の箱に立っていた白いフレイヤが降り立ち、灯理を守るように進み出てくる。それと同時に、黒いフレイもまた、フレイヤに並んで立った。

「この後はどうされるおつもりですか? 戦いますか? それとも、ワタシを無理矢理捕まえますか? どうするとしても、ワタシは諦めたりはしません。この目を治すという願いを叶えるまで、その資格を持ち続ける限り、どんな方法を使ってでも戦い続けます」

 夏姫が不安そうな顔を見せ、ポニーテールを揺らしながら僕と灯理のことを交互に見ていた。

 どうしていいのかわからないらしい彼女に笑いかけ、僕は灯理の方に一歩進み出る。

「戦おう、灯理。エリキシルバトルは戦って、スフィアを集めることが必要なんだ。決着をつけよう。お互いに、全力で」

「克樹、アタシは――」

 鞄に手を突っ込んでヒルデを取りだそうとする夏姫を手で制する。

「戦うのは僕だけだ」

「でも……」

『なぁに言ってんの? あたしも、だよ? おにぃちゃん!』

「そうだったな」

 足下に立つ小さいままのアリシアが僕のことを見上げ、耳元でリーリエが楽しそうな声で宣言する。

「でも、あっちは二体だよ。ヒルデ出さないと、二対一になっちゃうよ、克樹」

「それは大丈夫さ」

 言って僕はファスナーが開きっぱなしのデイパックに手を突っ込む。

「あのフレイってドールのトリックだってわかってないんだし、危ないって」

「それについては一番最初からわかってたんだ」

 取り出したのは、深緑のアーマーを纏った、シンシア。

 デイパックを夏姫に押しつけ、フルコントロールアプリを立ち上げて、僕自身がシンシアとリンクし、足下に立たせる。

「灯理。君のフレイがレーダーで感知できない理由は、これだよね」

「……わかっていたのですね」

「うん。似たようなことを、前にもやったことがあるからね」

 それは近藤と戦う夏姫の元に駆けつけるときに使った方法。

 エリキシルスフィアは、接続されていると認識できる物体を巻き込んで、アライズが可能なんだ。あのとき僕は、アリシアと一緒にスレイプニルをアライズしていた。

 第五世代の、フルスペックフレームを使用したシンシアには、手の平に接続端子がある。

 フルスペックではないけど、第五世代型フレームにバージョンアップしてるアリシアの手の平にも、同様だ。

 向かい合い、伸ばした両手を握り合わせた僕の二体のドール。

 それを見た僕は、立ち上げたエリキシルバトルアプリに向かって、自分の想いを、願いを、そして殺意を込めて唱える。

「アライズ!!」

 二体のドールを包み込むように発生した強い光。

 それが消えたとき、僕の目の前には、百二十センチの水色のツインテールと、百十センチの深緑の三つ編みのエリキシルドールが立っていた。

「さぁ、僕たちのエリキシルバトルを始めよう」

 

 



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第二部 黒白(グラデーション)の願い 第五章 2

 

 

       * 2 *

 

 

「フェアリーリング!」

 僕の声に応えて、ステージの真ん中に薄黄色の光を放つ輪が広がった。

 その中に立ち、リーリエが操るアリシアと、僕が操るシンシアが、灯理のフレイとフレイヤに対峙する。

 忍者ドール、もといフレイについては、暗器使いだということはわかってるが、フレイヤについてはまだ二度だけ、自作自演で逃れてくるときと、僕の家の中でアライズしてるのを見ただけで、戦ってる姿を見たことがない。戦型については不明だった。

「リーリエちゃんは凄いフルオートシステムのようですが、克樹さんはソーサラー経験はほとんどないと聞いています。デュオソーサラーであるワタシに、にわかソーサラーの克樹さんで敵うとお思いですか?」

 挑発のつもりなのか、灯理が高らかな声を放ってくる。

 これまでのおっとりしたお嬢様風なのが本来の彼女だと思うけど、興奮してるのか、いまは声も言葉も悪女風の感じになっていた。

「さぁね。そんなのはやってみないとわからないさ」

 答える僕だけど、正直余裕はない。

 平泉夫人に言われて訓練を始めて、昨日ひと晩かけてみっちり稽古をつけてもらったと言っても、やっとバトルができるようになった、程度の感じだ。

 自分の身体を立たせたまま、視界はシンシアのカメラの映像にしてるだけで、まだ身体の感覚の違いに冷や汗が出てくる。

『リーリエ、打ち合わせ通りに』

『うん、わかってる!』

 アリシアの視線で目配せしてくるのを合図に、僕たちは戦闘を開始した。

「いくぞ!」

 僕の声と同時に飛び出したのは、アリシア。

 二歩の助走の後、水色のボディが高く跳び、右脚を振り上げる。

 彗星の尾のように二本のツインテールをなびかせながら、黒いフレイと並んで立つ白いフレイヤに、踵落としを見舞った。

 そんな見え見えの攻撃はもちろん命中するはずもなく、灯理の操る二体は左右に跳んでアリシアの攻撃を避けた。

 膝下丈のゴスロリ風味のスカートを揺らしながら距離を取ったフレイヤに、アリシアが追いすがる。

 追撃しようとするフレイの前には、僕のシンシアを立ち塞がらせた。

 アリシア対フレイヤ、シンシア対フレイの、一対一の構図が整った。

 この戦いで僕が一番恐れていたのは、二体のドールによる完全連携。

 平泉夫人に百合乃の戦いを見せてもらったが、あの戦いは二対一に持って行かれたと言うよりも、腕が四本のドールと戦っているようなものだった。普通のソーサラーで対応できるものじゃない。

 戦闘経験を考えれば灯理は百合乃ほど強くはないと思うけど、真っ先に僕のシンシアが潰され、まだまだ未熟なリーリエが二体を相手にするとなったら、同じことになりかねない。

 どうにか一対一に持ち込めたことに、僕はまず安堵の息を漏らしていた。

「え? アリシアが刀? それに、ツインソード? またマニアックな武器を……」

「まぁ、ちょっと考えがあってね」

 僕の隣で戦いを見つめている夏姫の声に、余裕がないながらも僕は答える。

 アリシアが背中に吊した鞘から引き抜いたのは、ほぼ反りのない、柄まで含めると一メートル近い刀。エリキシルドールのサイズで、肩までの長さがある長いものだ。

 腰の後ろに回してシンシアの右手に握らせたのは、ツインソード。二本の剣を十字の柄に接続したような、使う人が滅多にいないイロモノ装備。

 片方の剣でシンシアの腕より少し短い程度のツインソードは、長さにして身長百十センチの胸ほどまである。

 武器を取り出したのを見て、フレイは衣装の下から二本の黒い短剣を取り出した。

 フレイヤの方を見ると、両手をスカートの後ろに回したかと思ったら、オーソドックスな両刃の長剣と円形の盾を魔法のように取り出し、構えた。

 剣道の中段に刀を構えたアリシア。

 盾を前に突き出し、その盾に剣を隠すように持つフレイヤ。

 両腕を突き出し、ゆっくりとツインソードを回転させるシンシア。

 フレイは、短剣を逆手に持ち、腰を深く沈めた。

 垂れてくる汗がこめかみを伝い、顎へと滑り落ち、滴っていった。

 数分の間の緊張。

 いや、それはほんの数秒だったのかも知れない。

 緊張の糸を断ち切るように、僕はシンシアを大きく踏み出させ、振り被ったツインソードをフレイに打ち下ろした。

 甲高い金属音をさせながら左の短剣で受け流したフレイは、すかさず右の短剣で斬りつけてくる。

 それをソードから離した左腕で弾く。

 シンシアは重装甲型だ。

 重い武器や体重を乗せた攻撃ならともかく、手を振っての斬りつけなんかじゃ、そう簡単にアーマーは貫けない。

 僕たちと同時に、リーリエの方の戦闘も始まっている。

 構えを変え、左手を突き出して右手の刀を引き、肩の上に構えたアリシアは、リーチを活かした突きでもってフレイを攻撃していた。

 たぶん夏姫が操るヒルデと、映像資料の中で見たんだろう剣術を覚え、リーリエなりに掛合せたと思われるその突きは、フレイヤを防戦一方に追いやっていた。

 ――頑張れよ、リーリエ。

 ここからはもうあっちに注目してる余裕はない。

 突撃してきたフレイの右の短剣を身体の前に立てたツインソードで受け止め、その影から首筋を狙って伸びてきた左の短剣を下がって逃れる。

 二度目の突撃にソードを構えさせた僕だったけど、攻撃が来る前に黒い影が視界から消えた。

「くっ」

 右隅に何かがあると思ったときには、フレイが両手に持った細い槍が、シンシアの横っ腹に突き刺さっていた。

 ハードアーマーを貫通しなかった槍を叩き落とし、フレイから距離を取る。

 ――本当に、灯理はデュオソーサラーなんだ。

 視界の左隅に 小さく表示してるアリシアの視界では、フレイヤが猛攻に転じていた。

 シンシアをフルコントロールで動かしてるだけで全身に汗をかき、攻撃を受ける度に小さな悲鳴を上げてる僕と違って、灯理は静かに立っているだけだ。

 緩く握った両手を自然に下ろし、少し顎を引いて、フェアリーリングの中で光を放っているようにも見えるウェーブの髪を、緩い風になびかせている。

 まるで等身大の人形のように、灯理は集中して、フレイとフレイヤの、二体のエリキシルドールを操っていた。

 もう何個目の武器だろうか。

 両手に持ったフレイの手斧をかろうじて躱し、ソードで防ぐ。

 シンシアのアーマーの厚さで耐えられているが、僕の方はほとんど攻撃できず、押されていた。

 あっちもやっぱり暗器使いなのか、盾と剣から、厚みと幅のある両手剣に持ち替えたフレイヤは、フレイとは逆にリーリエの操るアリシアに押され気味だった。

 どちらかの戦いが破綻すれば一気に押し込まれる。

 そんな状況で、それは起こった。

「あっ!」

 夏姫の短い悲鳴。

 シンシアの視界の隅で、アリシアが尻餅を着いて倒れてるのが見えた。

 フレイが僕のシンシアを無視し、アリシアに向かって舞台を蹴った。

「くっ」

 援護に向かわせようとしたとき、わずかな抵抗を感じて、シンシアが倒れそうになる。転倒は回避したけど、膝を着いていた。

 ――やっぱり、そうか。

 そのときポップアップしてきたウィンドウを見て、僕はそれを確認していた。

『リーリエ』

『うんっ!』

 シンシアで得た情報をリーリエに転送すると、立ち上がったアリシアが何もない舞台を刀で斬りつけた。

「えっ……」

 戦いが始まってから初めて、灯理が反応を見せた。

 すぐさま口を引き結び、フレイとフレイヤを使ってアリシアに攻撃を加える灯理。

 グレイブと両手剣の攻撃を、リーリエはかろうじて凌いでいく。

 背中に左手を回し、短刀を引き抜いたアリシアは、下がりながら中空を斬りつけていた。

 第五世代のフルスペックフレームを搭載するシンシアは、五本の指をすべて自由に動かせ、両手に接続端子を増設しても、まだデータラインが余ってる。

 パワータイプにするために人工筋の本数を増やしてなお余るデータラインで、僕は様々な種類と精度のセンサーを、身体の各部に取りつけていた。

 アーマーの各部に宝石を散りばめたような半透明のパーツは、センサーの部品だ。

 ピクシードールには不要なほどの、目で見るのは難しいミリ単位の物体すら感知することができるシンシアのセンサーは、フレイヤの隠された能力を暴いていた。

「もうその極細コントロールウィップの仕掛けは通用しないぞ、灯理!」

 僕の声に、灯理は怒りを露わにした表情を見せていた。

 ガーベラの攻撃を一瞬遅らせ、アリシアとシンシアを転倒させたのは、太さ数ミリほどの、半透明の人工筋だ。

 フレイヤの地面に届きそうなほどの髪にそれを隠し、灯理は戦いが始まってからそれをこっそり舞台に這わせていた。

 ピクシードール用のフェイスパーツで使っている細い人工筋は、平泉夫人が使っていた鞭のように攻撃に使えるほどの力はないが、アライズによって強化され、エリキシルドールの動きを阻害し、転倒させる程度の力があるらしい。

 灯理がそれを使い、電気が通ったことではっきりとシンシアのセンサーに捉えることができた。

 いまはもう、捉えた極細人工筋は、シンシアの監視下にある。

 舞台の隅の壁に追いやられたアリシア。

 脚に巻きついていたフレイヤの髪をソードで切断し、僕はシンシアを戦場へと向かわせる。

「このままアリシアを倒してしまえばワタシの勝ちですっ」

「克樹!!」

 灯理が勝ちを確信した声を発し、夏姫が悲鳴を上げたとき、僕は叫んだ。

「スイッチ!」

『うんっ!』

 フレイとフレイヤの背中を見つめていた視界が、切り替わる。

 僕はシンシアからアリシアへ、リーリエはアリシアからシンシアへ、コントロールをスイッチさせた。

 酔いそうな感覚と同時に見えたのは、両手剣を振り上げてるフレイヤと、グレイブを突き出そうとしているフレイ。

 いままさに、アリシアは絶体絶命の状況にある。

 でもそれが、僕たちにとって勝機だった。

「紫電一閃!!」

『紫電一閃!!』

 リーリエと同時に叫び、僕はシンシアの人工筋のリミッターを外した。

 リーリエの操るシンシアは、濃緑の風となる。

 水平に構えたツインソードが、閃きを放った。

 フレイとフレイヤの間を風のように駆け抜け、片膝を着いてシンシアが動きを止める。

 次の瞬間、二体のドールの首が、身体から転げ落ちていた。

 視界を実視界に戻し、僕は口を小さく開けてしまっている灯理に歩み寄る。

「僕の勝ちだ、灯理。君は、僕に負けたんだ」

 その言葉と同時に、灯理は崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。

 

 

          *

 

 

「ガーベラは無事なの?」

 そう問いかけると、灯理は横に置いたトートバックを僕に差し出してきた。

 中に入っていたアタッシェケースを出して開いてみると、PCWで組み立てが完了したときと同じ姿のガーベラが納められていた。

「これは返してもらうよ」

 座り込み、両手を着いた灯理は、深くうなだれたまま頷いた。

 顔を上げてみると、ちょっと危なっかしい動きだけど、リーリエに同時にコントロールされてるアリシアとシンシアが、ドールとして機能しなくなって元に戻ったんだろう、二十センチサイズに戻ったフレイとフレイヤを手にやってくる。

 アリシアを通して目配せしてきたリーリエに、僕は無言のまま頷きを返し、スマートギアのスピーカーをオンにした。

『はい、どうぞ』

 二体のドールを差し出した先は、灯理。

「……どうして?」

 差し出されたフレイとフレイヤを見て、灯理が疑問の言葉を口にする。

「哀れみ、ですか?」

「違うよ」

 膝を震わせながらも立ち上がった灯理が、ドールも受け取らずに僕のことを見る。

「だったら、どうしてなのですか? ワタシは、克樹さんに負けました。もうこれを持っている資格はありません。エリキシルソーサラーの資格を失っているのです。それなのに、どうして! これをワタシに返そうとするのですか!!」

 近づいてきた灯理が、僕の上着をつかんで詰め寄ってくる。

「僕はただ、モルガーナの思惑に踊らされるのは嫌なんだ。あいつはスフィアを奪い合うような戦いを望んでるんだろう。でも、僕はそんなことをするつもりはない。あいつの思惑通りに動いてやる気は、ないんだ」

「そんな貴方の自分勝手な理由、聞きたくありません!」

 大きく叫び、灯理は肩を震わせる。

「いま、エリキシルスフィアを奪わなければ、ワタシはまた克樹さんを襲うかも知れませんよ? 今度はもっと巧妙に、戦いなんてせずに、フレイを使って貴方を殺すかも知れません。そうなるとしても、ワタシにスフィアを返すと言うのですか?!」

「うん、そうだよ。それに灯理には、僕を殺すまでの覚悟は、ないだろうしね」

 灯理がどんな想いを込めて僕のことを見つめているのかは、わからない。

 白地に赤い線が引かれたスマートギアに覆われた彼女の目は、見ることができない。

 けれど頬を伝って落ちて行く、水滴は見えていた。

「ダメです……、克樹さん。ダメなのです。ワタシから、ワタシからスフィアを奪ってください!!」

 次々と涙の滴を零れさせる灯理が、僕の身体に腕を回し抱きついてくる。

 胸に顔を埋め、しゃくり上げながら、彼女は言う。

「もう、嫌なのです。希望を、持っていたくないのです。スマートギアで視覚を取り戻しても、ワタシの目を治すことはできませんでした。エリキシルバトルに参加しても、たいした力を持たないワタシでは、勝ち抜いていくことは難しいでしょう。卑怯な手を使っても、それを暴かれてしまえば、いまのように、ワタシは負けてしまう」

 覗き込むように僕の顔を見た灯理が、スマートギアのディスプレイを跳ね上げた。

 彼女の身体に手を回さず、ただ立っているだけの僕は、焦点の合っていないその瞳を見つめていた。

「叶わない願いを持ち続けているのは、つらいのです。負けたワタシはスフィアを奪われるのが一番なのです! そうでなければ、ワタシは叶わぬ願いを捨てることができないのです!!」

「だとしても、僕は君からスフィアを奪うことはないよ。君の願いを、捨てさせたりはしないよ。本当にエリクサーで願いを叶えられるのかどうかすら、怪しいと思ってる。でも、それがはっきりとわかるまでは、僕は灯理の、夏姫や近藤の願いを、奪い取ったりしない。戦いたいなら、そう言えばいい。いつでも相手になる。でももし、次こんな卑怯な手を使ったら、僕は容赦はしないよ」

 つらいのか、悲しいのか、それとも嬉しいのか、灯理は顔を歪ませ、涙を流す。

『はい。受け取って、灯理』

 僕から身体を離した灯理は、ディスプレイを下ろし、差し出された二体の胴体と頭部を胸に抱える。

 座り込んで、そのまま静かに泣き続けた。

「お疲れ、克樹。やっぱりスフィアは奪わないんだ?」

「ありがと。まぁね。これが魔女に対抗する方法になるかも、わからないんだけどね」

 僕の前に立った夏姫が、にっこりと笑う。

 何かを見透かそうとするかのように瞳を覗き込んでくる彼女の視線から逃れて、僕は夜空にため息を吐き出した。

「帰ろう。朝に少し仮眠を取ったくらいで、もう眠いんだ」

「何よ、それ」

『うん、帰ろう! おにぃちゃんっ』

 夏姫の隣に立つアリシアが、僕に微笑みかけてくる。

 夏姫とリーリエの笑みを交互に見て、僕もまた、笑みが漏れてくるのを感じていた。

 

 



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第二部 黒白(グラデーション)の願い 第五章 3

 

       * 3 *

 

 

「ただいま」

 何となくそう声をかけて家に入ると、バタバタと足音を立てて二階から近藤が下りてきた。

「大丈夫なのかよ、近藤」

「あぁ。まだ目がかすれた感じになってるが、もうだいたい見える。それよりもっ」

 だいたい大丈夫と言いながら手すりにつかまって階段を下りてきたこいつの言葉を信じる気はないが、充血してるが僕をちゃんと目を向けてきてるくらいだから、見えてきてるのはわかる。

「ほらよ」

 荷物が増えてぱんぱんになってるデイパックからアタッシェケースを取り出し、渡してやる。

 開いて中身を見た近藤は、感極まったみたいに表情を歪ませ、ケースを閉じて胸に抱き締めた。

「ん、よかった……」

「まぁな」

 近藤に釣られたように瞳を揺らしてる夏姫に、小さく息を吐く。

「何笑ってんのよ! 別にいいじゃないっ。アタシも嬉しかったんだから!!」

「何も言ってないだろ。それより近藤、大丈夫だったらベッドは空けてくれ。眠い……」

「いや、オレはもう帰るよ。明日には大丈夫になってるだろうし、もう帰る準備をしてたところなんだ」

「大丈夫なの? 本当に」

「あぁ」

 まだ少し目尻に涙を残しつつも、笑って見せる近藤。

 完調とはいかないだろうが、確かにもう大丈夫そうだった。

『夏姫はどうするのー? もうひと晩泊まってく?』

「んー。アタシも一回帰る。明日また勉強会やるんでしょ? 早めの時間に来るようにする」

『そっかぁ。わかったー』

 何だか残念そうにも聞こえるリーリエの声。

 玄関先で話し込んでた僕は、大きな欠伸を漏らして靴を脱ぐ。

「帰るなら帰るで好きにしてくれ。僕は寝る」

「ん。近藤の家はアタシの家の先だから、途中まで送っていくよ」

「済まない。頼む」

 もうすっかり準備万端らしい近藤が、アタッシェケースを鞄に収めて靴を履いた。

 僕を通り越して階段を駆け上がっていった夏姫を追って、二階に向かう。

 寝室の扉に手をかけたところで、もう帰る準備が終わったのか、奥の寝室から出てきた夏姫とすれ違う。

「終わったね、克樹」

「あぁ」

「今回も、いろいろあったね」

「そうだな」

「今後のことはどうするの? 灯理のこととか、バトルのこととか」

「あんまり考えてない。というか、いまは考えたくない。とにかく眠いんだ」

 灯理は、公園を出た後タクシーで帰宅していった。

 複雑な表情のままだった彼女が、どんなことを考えていて、どんなことを望み、どうしていくのかはいまの僕にはわからない。

 ただ去り際、彼女は「また近いうちに会いに行きます」と言い残していた。

 ――なんかまた、面倒なことになりそうだよなぁ。

 とくに根拠のない不安が、僕の中に去来していて、小さくため息を吐いていた。

「じゃあまた明日。お休み、克樹」

「うん、お休み」

 夏姫のにっこりした笑みに、いまできる精一杯の笑みを返し、僕は寝室に入った。

 デイパックを開け、アリシアとシンシアを納めたアタッシェケースを取り出してロックを解除した。眠気で霞んでいく視界でアリシアの首筋に指を滑らせて起動し、被ったままのスマートギアのディスプレイを下ろして言う。

「リーリエ。アリシアのコントロール権とアライズ権は渡しとく。二体とも充電させておいてくれ」

『わかった、よ? おにぃちゃん?』

 天井から降ってくるリーリエの声は、いまの僕では理解できていなかった。

 ベッドまで、とか、スマートギアを脱がないと、とか思ってる間に、視界が急速に狭まって、頭の中が眠気の波に沈んでいく。

 近藤がシーツを交換して整えてくれたらしいベッドの手前で、僕の意識は途切れてしまった。

 

 

 

 

『あ、おにぃちゃん!』

 リーリエが声をかけたときには、克樹は這い寄ろうとする格好のまま、ベッドの手前で寝転がってしまっていた。

 しばらくしても動かない彼は、安らかな寝息を立てている。

『もう、おにぃちゃんっ。本当に……』

 苛立ちと呆れを含んだ声音で言い、リーリエは起動済みのアリシアとリンクして床に立たせた。

『あっらぁいず!』

 舌っ足らずな声が響き、アリシアが光に包まれて、百二十センチのエリキシルドールとなる。

 散らばってしまったデイパックの中身をまとめ、シンシアが入っているアタッシェケースも納めて、邪魔にならないよう扉の横の壁に立てかける。

 克樹に近寄ったアリシアは、彼の頭からスマートギアを剥ぎ取り、胸ポケットの携帯端末を取り出して一緒にサイドテーブルの上に置いた。

『本当に、おにぃちゃんったら』

 呟きのような言葉を漏らしながら、小柄なアリシアで克樹の身体を抱え上げ、ベッドの上に寝かせる。掛け布団を肩までかけて、ベッドの上で四つん這いになるような格好で、アリシアの身体を使ってリーリエは克樹の寝顔を間近で眺めた。

『おにぃちゃんは、優しすぎるよ』

 そんな声をかけても、克樹の反応はない。

 夜から午前中まで、平泉夫人の特訓を受けた克樹は、仮眠を三時間ほど取っただけで、完全に寝不足だった。

『おにぃちゃんが優しいのはわかるけど、いまみたいにしてたら、そのうち大変なことになっちゃうかも知れないよ? おにぃちゃんの願いを、叶えられなくなっちゃうかも知れないよ?』

 克樹の顔にかかりそうになる水色のテールを左手で掻き上げて背中に追いやり、アリシアの顔を近づけさせる。

『あたしはずっとおにぃちゃんと一緒にいたいんだ。おにぃちゃんとずっと、最後まで戦い続けていたいんだ。だから、ね? あたしも気をつけるから、おにぃちゃんも、気をつけてよ』

 優しく笑み、克樹の頬を撫でる。

 彼の息がかかるほどにアリシアの顔を近づけさせたリーリエは、言う。

『ね? 知ってる? おにぃちゃん。おにぃちゃんに願いがあるように、あたしにも、叶えたい願いがあるんだよ』

 安らかに寝息を立て、その声に反応がない克樹。

 アリシアの瞳でそれをじっと眺めていたリーリエは、彼の唇に、アリシアの唇を、そっと口づけた。

 




スフィアドールカタログ

●アリシア 全高二〇センチ
 克樹およびリーリエが使うピクシードール。ピクシードールとしては標準的な二〇センチサイズ。スピード重視。主にCカップバッテリを使用しているが、Dカップバッテリを使用することもある。
 第一部初期は第四世代パーツのみで構成され、第一部中盤には第五世代パーツに組み替えられている。その際スフィアを除くすべてのパーツを一新している。
 第二部開始時には第一部から順次パーツを変更し、メインフレームは第五世代のデータラインが拡張されたものになっていたり、その他のパーツもほぼ新しく発売されたものに交換していた。
 水色のツインテールの髪が特徴的なドールであり、白いソフトアーマーを覆うハードアーマーもほぼ同色の水色をしている。アーマーのデザインはPCWの親父が主に行っている。ハードアーマーは複数のデザインがあり、動きやすく軽量なライトアーマー、重量はあるものの防御面積の多いヘビーアーマーなどを所有している。第一部中盤からは両腕のハードアーマーを、第二部からは主要部分のほとんどのハードアーマーを金属製にしている。軽金属製であるが、アライズ時の防御力は樹脂製のものよりかなり高い。
 使用されているフレームはかなり高価で強靱なものであるが、人工筋については必殺技使用時のポテンシャルを重視しているため、アリシアの性能はバトル用ピクシードールのパーツキットよりも少し上程度。短時間しか使用できないものの、必殺技使用時は既製パーツで組み立てたドールとは隔絶した性能を持つ。
 戦型は主に格闘戦であり、腕の手甲はナックルガードになっており、取っ手を握り込むことで脆弱な指を防護しながら格闘戦が可能となる。
 第二部にてリーリエが平泉夫人に鍛えられたために、格闘以外の戦型も使うようになった。
 アリシアに使用されている試作型ヒューマニティフェイスは百合乃に似ている。

●ブリュンヒルデ 全高二五センチ
 スフィアロボティクスに吸収合併される形で消滅したヴァルキリークリエイション社製ピクシードール。試作ナンバー四。浜咲春歌が会社から下取りし、娘の夏姫が受け継いだドール。
 第一部序盤では受け継いだ状態のままで、賞品目的でローカルバトルに積極的に参加していたこともあり、各パーツはかなり劣化していた。第一部後半にスフィアロボティクス社製Fラインシリーズのパーツに交換し、不調を解消している。なお、パーツ換装後もメインフレームとスフィアソケットは以前のままとなっている。第三世代ドールながら、独自の方法でデータラインが拡張されており、フルスペックではないものの、第五世代と変わらぬ機能を実現している。
 ドールとしての性能は高く、パーツ換装以前、換装以後もアリシアやガーベラよりも高性能である。夏姫は高性能なブリュンヒルデの性能を知り尽くし、扱いきることができているハイスペックソーサラーである。
 背の半ばほどまでの黒髪をし、黒いソフトアーマーと濃紺のハードアーマーを纏っている。異世界ファンタジーものの女騎士のイメージをベースとしており、ピクシードールとしてはかなり長身の二五センチドールとなっている。
 とくに本編には記載がないが、夏姫に受け継がれる際に取り付けられたヒューマニティフェイスは、人工筋の劣化のため、第二部開始時には夏姫似の克樹手製の試作型に交換されている。
 戦型は主に長剣を使った白兵戦であるが、他にも様々な戦型を持っている。腰のアーマーに隠す形で投げナイフを装備している他、第二部では短剣による二刀流を使用している。とくに狙い澄ました突きを得意としている。
 Fカップバッテリを使用し、アーマーの形状も含めて胸を強調するデザインとなっている。パーツ換装後は消費電力もかなり抑えられているが、デザイン重視でそのままとなっている。

●ガーベラ 全高二〇センチ
 近藤が所有しているパワー寄りのスピード型のピクシードール。身長は標準的な二〇センチ。Cカップバッテリを主に使用。
 元々の所有者は椎名梨里香だったが、病死後に近藤が形見として譲り受けている。第一部開始時にはスフィアを除き、第五世代パーツにすべて換装されており、梨里香の組み立てた元のガーベラは近藤が保管している。
 白いソフトアーマーとワインレッドのハードアーマーをしており、髪はセミロングの黒。格闘戦タイプのドールながら、ハードアーマーが覆う面積は大きく、とくに上半身のハードアーマーは胴着にも似たデザインとなっている。
 第一部開始時、エリキシルバトルに参加するに辺り、自分で調べた第五世代パーツで近藤の手により組み立てられている。性能を重視したパーツ選びであり、性能はアリシアよりも高い。ただし梨里香が組み立てた近藤の動きをできるだけ再現可能なピクシードールという思想からは外れ気味であり、最適化されているとは言い難い。
 第二部中盤には克樹の薦めにより、手甲と脚甲については既製品のハードアーマーを使用し、金属製に変更している。
 戦型は格闘戦、とくに空手であるが、ピクシーバトルは空手のルールに縛られないため、空手のみで戦っているわけではない。

●フレイ 全高二〇センチ
 灯理が所有しているピクシードールの一体。忍者ドールとして登場した。Dカップバッテリを搭載。
 サイズは標準的な二十センチで、スピードタイプのドールである。第二部では正体を隠すために黒いセミロングの髪をしていたが、本来はライトブラウンのふわりと広がるセミロングである。フェイスも最新型ヒューマニティフェイスを本来取り付けている。
 名前は男性神のフレイであるが、形状は雌型である。
 外見的にはドレスのような黒い衣装が特徴であり、バトル用ピクシードールというよりも、フィギュアドールのような姿をしている。襞やフリルなどがふんだんに使われたデザインとなっており、裾は足首に届くほどに長い。衣装の下には通常のソフトアーマーと、薄手のハードアーマーを身につけている。
 暗器使いであり、衣装の様々なところに武器を隠し持っている。武器は短剣、ナイフ、針、トンファー、グレイブ他、十数種類にも及ぶ。衣装は灯理の手製であり、隠し武器を隠せるように工夫が為されている。なお、身長に近い長さのグレイブは組み立て式で、背中に隠されている。
 性能的には最新のパーツを使用しており、金銭的には灯理はかなり自由が利くため、そこそこに高性能となっている。ただし灯理にあまりピクシードールの知識がないため、最適化されているとは言い難い。
 スフィアの入れ換えにより役割は交代可能であるが、通常はデュオアライズの子機側となる。デュオソーサリーで使用する際は攻撃をメインで担当する。

●フレイヤ
 灯理が所有しているもう一体のピクシードール。Fカップバッテリを使用しているが、衣装のためもう少し大きく見える。
 サイズは標準的な二〇センチで、スピード寄りのパワータイプ。性能はそこそこに高いが、特筆するほどに高いわけではない。
 ダークブラウンの髪は足首に届くほどに長く、髪の中には、剥き出しの人工筋を利用したコントロールウィップが隠されている。
 ゴスロリ調の衣装を纏っており、白を基本に黒で印象づけられたデザインとなっている。衣装の下のハードアーマーは、攻撃を担当するフレイに対し、フレイヤは防御を担当するため、厚めで防護面積は広い。
 フレイほどではないが、数種の隠し武器を持った暗器使いでもある。主な武器は膝丈ほどのスカートに隠されたラウンドシールドとブロードソード、背中に隠された幅広のグレートソードなど。髪に隠されたコントロールウィップはピクシードール時は強度と筋力不足のためほぼ意味がない。アライズしたときのみ使用可能となる。
 デュオアライズ時は親機側となる。アライズの際には内蔵バッテリを多く消費するが、その消費は親機側に依存するため、フレイヤは大型のFカップバッテリを搭載している。なお、カーム時にはバッテリはほぼ消費しない。手を離れた巨大化した武器などは、一定以上本体から距離が離れるか、本体がカームした際、もしくは他のドールが持ってカームすることによって通常サイズに戻る。

●シンシア 全高一九センチ
 克樹が所有する二体目のバトルピクシー。標準より若干小柄な十九センチ。Dカップバッテリを搭載。
 主にリーリエはアリシアを、克樹はシンシアを使うようにパーツ選びがされており、シンシアは克樹が扱いやすいよう速度が遅いパワータイプで組み立てられている。
 アニメなどに出てくる重装の女騎士がそのままピクシードールになったようなデザインをしており、白いソフトアーマーは股の辺り以外露出しておらず、ほぼ深緑のハードアーマーで覆われている。ハードアーマーは一部を除き総金属製で、パワータイプであると同時に防御型でもあり、アーマーの厚みにより、重量も通常のピクシードールよりかなり大きい。
 シンシアに使われているメインフレームはヒューマニティパートナーテック社製の試作型第五世代フルスペックのものを使用しており、第四世代のものに比べデータラインが大幅に増えている。ピクシードールではあまりデータラインが多くても使われることはないが、克樹はアーマーの各部に様々なセンサーを取り付け、重装甲型というだけでなく、感知型のドールとして組み立てている。センサーの内容は温度、圧力、音響、光学など多岐に渡り、音響や赤外線センサーについてはパッシブだけでなくアクティブセンサーも搭載している。アリシア用の防護ヘルメットに搭載されたネコミミ型アクティブソナーと同等のものもボディ内に搭載している。ピクシードールに搭載可能なサイズのセンサーのため、超高感度ではないが、バトル用ピクシーには不要なほど高感度なセンサーばかりとなっている。
 センサーの情報はスフィアでは処理できないため、モバイル回線経由で克樹の自宅で送られ、そちらで解析を行って結果を携帯端末にフィードバックしている。
 髪はハードアーマーと同じ深緑で、腰近くまであり、一本の三つ編みにまとめられている。試作型ヒューマニティフェイスの上には眼鏡状のセンサーが取り付けられており、見た目は眼鏡でしかないが、紫外線と赤外線のセンサーとなっており、通常より高機能なカメラアイを補佐する形で機能している。
 性能的にはアリシア同様、そこそこに高性能程度。シンシア用に調節された必殺技を使うためのパーツ選びが為されている。
 フルコントロールソーサラー初心者の克樹が主に使うため、現在のところ戦型は定まっていない。フレイ&フレイヤ戦にてツインソードを使っていたのはとくに意味はなく、平泉夫人と行っていた特訓の際に一番使いやすい武器だったからである。
 なお、エリキシルドール時は刃物を防ぐほどの防御力を誇るシンシアのアーマーであるが、通常のピクシーバトルでは刃物が使われることがなくただの重しにしかならないため、シンシアは動きが鈍いだけのバトルピクシーとなってしまう。

●闘妃(とうひ) 全高二〇センチ(二一センチ)
 平泉夫人が所有するバランスタイプのピクシードールの一体。偽カップによるDカップだが、搭載しているのはCカップバッテリ。
 性能は高いものの、ブリュンヒルデほどではない。ピクシードールの性能は最低と最高では差が大きいものの、ある程度以上はさほど大きな差はなく、扱うソーサラーの力が強さの差となることがほとんどである。
 デザインが特徴的で、首筋から胸元、肩や股などはソフトアーマーで覆われているが、他の部分は緩衝機能を組み込んだハードアーマーとなっている。漆黒の長い髪を高い位置で結い、髪飾りなどを施している。また乱れた感じの和装に見える衣装を重ね、垂れ下がった袖や、腰から足下にかけて深いスリットの入った着物の裾のような布地が使われている。また、ハイヒールのような高さのある脚甲を履いている。これらのデザインはバトルではほぼ意味がなく、夫人の趣味の集大成であるが、布地による動きの制限すら利用して戦うことができてしまう平泉夫人にとっては利点としても使用されている。
 フルスペックではないものの、データラインが増量されたメインフレームが使用されており、手の接続端子を利用してコントロールウィップなども使用できる。
 戦型はすべて。平泉夫人のすべてのドールに共通する点であるが、彼女は格闘戦、白兵戦、射撃戦、さらにそれらを組み合わせたあらゆるバトルが可能であるため、闘妃はあらゆる戦型を実現可能となっている。
 平泉夫人がガジェットフェチであるため、闘妃はたいていの場合、弁慶のように多数の武器を装備した状態でリングに上がってくる。長太刀二本、短刀二本、コントロールウィップ、薙刀、三節棍辺りは標準的に装備している。他にも状況に応じて装備を追加したり入れ換えたりしている。

●戦妃(せんひ) 全高二〇センチ
 平泉夫人が所有するバトル用ピクシードール。スピードタイプで、Cカップバッテリを搭載している。
 デザインが特徴的で、夫人以外では扱うのが難しい闘妃と異なり、標準的なスピードタイプのソフトアーマーとハードアーマーをしている。通常型のピクシードールであるため、メイドの芳野が使っていることが多い。
 黒を基調に赤や青や黄で意匠を懲らしたデザインをしている。髪は癖のあるセミロング。
 平泉夫人は他にも何体かのタイプの異なるピクシードールを所有しており、ローカルバトルなどに出場することはないものの、趣味としてスフィアドールを楽しんでいる。時折、ピクシードールとドール用ペイント弾の銃を使って行われるサバイバルゲームの大会などに芳野とともにチームを率いて出場していることもある。

●ユピテルオーネ 全高一八センチ
 第一部第一章のローカルバトル決勝戦にて夏姫に敗退したピクシードール。ソーサラーの名前はない。
 パワーに大きく振ったピクシードールであり、重量型のハルバードを振り回すパワーを持つ。人工筋は太く短いほどパワーが大きくなる特徴があるため、パワータイプのピクシードールはたいていの場合低身長になる。
 通常のソフトアーマー、ハードアーマーの他に、布地による意匠を懲らしたドールであり、作中世界のアニメのキャラクターをモチーフにしたキットが使われていると思われる。
 再登場予定はない。

●アヤノ 全高一四〇センチ(一四五センチ)
 ヒューマニティパートナーテック社が製造しているエルフドールシリーズの試作型の一体。
 製品版のアヤノは一二〇センチモデルと一三〇センチモデルがラインナップされており、一四〇センチモデルは試作型が数体稼働しているのみとなっている。
 デザインについては標準デザインやカスタムデザインが選択可能だが、音山彰次の家で試験されているアヤノのデザインは彰次の趣味によるカスタムデザインである。なお、メイド服も同様である。
 一四〇センチモデルは試作型のフレームと人工筋が使用されており、彰次の家で家政婦として充分以上の働きを見せているが、販売予定はない。コスト的な問題と同時に、性能的な問題を抱えているためである。とくに移動速度がかなり低速で、走行ができないのはもちろん、歩行速度も低速である。搭載バッテリにも限界があり、充電ポイントを必要に応じて増設できる現場で、個人宅程度の広さであれば問題にならないが、オフィスや工場などの広さとなると、頻繁な充電が必要となるため、充電開始に間に合わないなどの問題が発生し得るためとなっている。
 彰次宅のアヤノはAHSによるコントロールを受けており、ボディはあくまでAHSの子機として扱われている。調理などが可能なのも、ドールの性能もあるが、AHSが実現している機能となっている。

●エイナ 全高一二〇センチ(標準タイプ)
 人工個性のエイナが使用している端末エルフドール。状況に応じて数体が存在し、ライブ以外にもテレビ番組への出演など、イベント登場時に使用されている。
 スフィアロボティクスの技術の粋を集めて設計されたドールであり、エルフドールとしては非常に高性能となっている。その分コストもかなり高く、エイナのドールは登場するだけで技術公開の意味を持っている。
 人間ほどではないものの、かなり激しいダンスなども行うことが可能で、電気の供給は手の平や足の裏などに供給ポイントが設置され、ライブなどでは舞台の上に立っているだけで充電が可能になっている。
 エイナ用のドールはエルフサイズだけでなく、フェアリーやピクシーなど様々なものが用意されている。


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第二部 終章 プロミス・キス
第二部 黒白(グラデーション)の願い 終章


終章 プロミス・キス

 

 

 

 

「はい。これでおしまい」

 そう言って夏姫がダイニングテーブルの上に置いたのは、骨付きのフライドチキン。

 他にもテーブルの上には山盛りのポテトやパスタなど、様々な料理が並んでる。冷蔵庫の中には、夏姫手製のレアチーズタルトが眠っていたりする。

 ゴールデンウィーク明けの最初の日曜日、まもなく午後になる時間、夏姫が忙しく働いていた。

 休み明け当日に早速行われた追試を、勉強時間が不足してるだけだった夏姫は割と楽勝に、防犯スプレーで寝込んでたこともあって休みの最終日に一夜漬で仕上げた近藤はかろうじて、パスしていた。

 今日はそのお祝いと、改めて灯理の自己紹介を兼ねたパーティを開くことになった。

 材料費提供は僕、料理担当は言い出しっぺの夏姫だ。

 二時間くらいはあったにせよ、手際のいい夏姫の仕事に手を出しても邪魔になるだけで、僕はソファに座って鼻歌を歌いながらフォークやナイフを並べてる彼女を見ているだけだ。

 ――なんか、新婚生活をしてるみたいだ。

 ちょっと可愛らしい服を着て、服が汚れないようピンクのエプロンをつけて、ポニーテールを揺らし笑みを浮かべながらパーティの準備を続ける夏姫は、何だか若奥様のようにも見えていた。

 ――いや、ヘンな意味はないんだけど。

 口に出してもいないのに自分に言い訳して、小さくため息を吐く。

「準備終わったよ」

 言ってエプロンを畳んで抱えた夏姫は、僕の隣に座った。

 相変わらず短いスカートから伸びている、ストッキングに包まれた脚が綺麗だ。

 視線をあげて夏姫の顔を見ると、見透かしたような笑顔にぶつかった。

 ――また無防備に……。

 この前押し倒したのはまだ先週のことだと言うのに、僕をあまり警戒していない様子の夏姫。

 近藤や灯理と約束した時間までは、あと十分もない。でもそれだけの時間があれば、できることもある。

『あっ! おにぃちゃん!! ダメだよ! また――』

「リーリエ、プライベートモード」

 僕の動きを察したらしいリーリエが声をかけてくるけど、それを遮ってプライベートモードを発動した。

 それと同時に、無防備に僕の隣に座ってる夏姫をソファに押し倒す。

 スカートがめくれ上がって、もう少しで一番奥の辺りが見えそうになっていた。

 料理をしていたからか、いつもより開き目のブラウスからは、ブラのレース模様が少し見えている。

 目を丸くした夏姫は、でも少し笑って、まぶたを閉じる。

「……なんでまた、抵抗しないんだよ」

「抵抗されるのが好きなの?」

「そういうわけじゃないけど……」

 暴れもせずにじっとしてる夏姫に訊いてみると、笑顔でそんなことを言われ、むしろ僕が困ってしまった。

「あのときも言ったでしょ。克樹なら、されてもいいかな、って」

「それってどういう意味なんだよ」

「んー。好き、とは違う、かも? アタシは克樹のこと信頼してるし、最初は強引でも、たぶんその後は気遣ってくれそうだし。そんな相手だったら、いいかなぁ、って、そんな感じ。まぁ最後までするなら、もちろんこの前も言った通り、あたしのこの先の人生、責任取ってもらうけどね」

「ぐっ」

 何と言えばいいんだろうか。

 いまの状況を楽しんでるらしい夏姫。

 僕の顔を映す彼女の瞳に、僕は見入ってしまっていた。

 そうしてしまうくらい、夏姫の瞳から目が離せなくなっていた。

 こんな気持ちを、どういう言葉で言えばいいのか、僕にはわからなかった。

「もうたぶん、すぐに近藤たち来るよ。どうするの? 克樹」

「いや……、さすがに時間ないし……」

 押し倒してるのは僕のはずなのに、急かされて言い淀んでしまう。

「キスだけでも、しておく?」

 リップでも塗っているんだろう、薄ピンク色の唇に人差し指を添え、夏姫が小さく首を傾げて問うてくる。

 大きく息を飲んだ僕は吸い込まれるように、微かに空けている夏姫の唇に、自分の唇を近づける。

 夏姫が目を閉じ、僕もまた目を閉じた。

 次の瞬間、唇と唇が触れあう、と思ったとき、無情なチャイムが鳴った。

「り、リーリエ! パブリックモード!」

『おにぃちゃん! 本当にもう、何やってるの!!』

「いや、まぁ……」

 明らかに怒りを含んだリーリエの声に、ソファから立ち上がった僕はどう返事をしていいのかわからなくなる。

 服や髪の乱れを整えて立った夏姫が、嬉しそうな笑みを浮かべながら言った。

「だぁいじょうぶだよ、リーリエ。克樹はヘタレだから、キスひとつだってできないもん」

「うっ」

『そっかぁ。おにぃちゃんって本当にヘタレだったんだねっ』

「リーリエ!」

 なんでか楽しそうに言うリーリエに、マイクが設置してある天井に向かってしかりつける声を出してみるが、小さな笑い声が返ってくるだけだった。

「どうかされたのですか?」

 そう言いながらLDKに入ってきたのは、灯理と近藤。

 ゴールデンウィーク中は本性を隠していたのか、彼女が着ているのはフレイヤに似た、ゴスロリ調の服だった。

「別に、何でもない」

「そーだね」

『おにぃちゃんがヘタレでキスも自分からじゃできないって話だよー』

「リーリエ!」

 夏姫は僕に合わせて誤魔化してくれたのに、リーリエの台詞で台無しだ。

「そうなのですか?」

 驚いたように声を上げ、肩から鞄を下ろした灯理が僕に近づいてくる。

「そういうことでしたら、克樹さんにはワタシがキスをしましょうか?」

「え?」

「灯理! 何言ってるの?!」

『灯理! おにぃちゃんから離れて!!』

 すがるように服をつかんできた灯理が、身体を密着させてくる。

 香水だろう、甘い香りが僕の鼻をくすぐり、服の上からでもはっきりわかる大きな胸が押しつけられて、柔らかく変形してる。

 突然の灯理の行動に、僕の心臓は急速に高鳴っていた。

「ワタシは、まだ戦うことに決めました。エリキシルスフィアを持っている限り、ワタシは願いを捨てません。いつかみなさんと戦うことになるとしても、今度は正々堂々と戦います。そんな願いへの道をつくってくれたのは、そうワタシに決心させてくれたのは、克樹さんです。ですから、ワタシはキスと言わず、その先でも、最後まででも、克樹さんにならされても構わないのです」

 スマートギア越しじゃ目をつむってるかどうかわからないけど、小柄な身体で背伸びをし、灯理が小さな口をすぼめる。

 繊細なウェーブの髪に手を回したくなるような彼女の行動は、間に入ってきた夏姫によって遮られた。

「何をするのですか? 夏姫さん。恋人でもなく、キスもしていない貴女が、ワタシたちの仲を裂く権利はないと思うのですが?」

「い、いまはそんなことをするような場所じゃないでしょ!」

「確かにそうですけど。……つまらないですね」

 顔を反らしてぽつりと言った灯理の言葉に、僕は彼女に弄ばれていたことを知った。

 ――い、意外と強かな性格なのかな……。

 そっぽを向いてダイニングテーブルの方に向かう灯理に安堵して、引きはがしてくれた夏姫に感謝の笑みを向ける。

「アタシの唇は、克樹の予約にしておくね」

「うっ、うん」

 小さな声で、唇に指を添えながら、笑みとともに言われた言葉に、僕は思わず頷いていた。

 嬉しそうに笑み、夏姫もテーブルへと向かう。

 やっと落ち着いたと思ったとき、リーリエから発せられた、爆弾発言。

『ふぅん。夏姫も灯理も、まだおにぃちゃんとキスもしたことないんだ。へぇ。あたしの方が勝ってるねっ』

「どういう意味なの? 克樹!」

「どういうことですか? 克樹さん!!」

 一斉に振り向き、僕に詰め寄ってくる夏姫と灯理。

「い、いや。リーリエとキスなんてしたことあるわけないだろ。人工個性には実体としての身体がないんだから。リーリエ、ヘンなこと言うなよっ」

『ヘンなことなんて言ってないよーだっ。ふっふーんっ』

「リーリエ! ちゃんと説明しろっ」

『知っらなぁーい』

 僕の問いに答えず、沈黙したリーリエ。

 突き刺さるような視線に、僕は後退る。

「リーリエとはキスできないけど、アライズしたアリシアとだったら、どうなの?」

「まさか克樹さん。そういう趣味がおありなのですか? さすがにそれはちょっと……」

「そんなことないから。誤解だから。な、なぁ? 近藤?!」

「いや、オレに助けを求められても困るって」

 入り口に立ったままの近藤は、呆れたような顔をするだけで、助けてくれそうになかった。

「違うから。本当に! リーリエっ。説明してくれ!!」

「克樹ぃ?」

「克樹さん?」

 ついに壁まで追いやられてしまった。

 睨みつけてくるふたりに、僕は冷める前に食事を始めたいな、なんて現実逃避を開始し、天井を仰いでいた。

 

 

 

          「神水戦姫の妖精譚 黒白の願い」 了

 




 克樹たちの前に現れた少年は言った。「俺がエリキシルスフィアを買いとる」。
 莫大な金を使ってスフィアを買い集める彼は、金では得られない願いを叶えるために、秘めた怒りをくすぶらせていた。
 その裏で思い悩む夏姫。彼女の変化に気づきながら踏み込めない克樹。
 想いと想いが交錯し、すれ違う中、克樹は決断を迫られる。
 第三部「極炎(クリムゾン)の怒り」に、アライズ!


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第三部 序章 ブレイクポイント
第三部 極炎(クリムゾン)の怒り 序章


●前回までのあらすじ

 命の奇跡を起こせるという水、エリクサーを求めて音山克樹は身長二十センチのロボット、ピクシードールを百二十センチに変身させて戦うエリキシルバトルに参加することにした。
 ドールの中枢であるスフィアを奪い合うその戦いを、誘拐事件に巻き込まれて死亡した妹、百合乃の脳情報から生み出された疑似脳、人工個性リーリエを伴い、ピクシードール「アリシア」で戦う克樹は、貴重なドール「ブリュンヒルデ」を持つ浜咲夏姫を下し、スフィアを奪わずに仲間にした。
 エリキシルバトルの誘い手であるエイナは、バトルの主催者であり、スフィアドール業界を裏から操る魔女モルガーナに生み出された人工個性。裏で糸を引く人々がいる中で、バトル参加者がわからず通り魔的にドールを持つ人を襲っていた近藤誠と彼のドール「ガーベラ」を倒す。
 近藤も仲間に加えた克樹たちの前に現れたのは、画家として有名な少女、中里灯理。視力を失った彼女は騙してスフィアを奪い取ろうとするが、克樹はそれを看破する。二体のドールを同時にコントロールできる希少な能力デュオソーサリーの使い手である灯理を、克樹はリーリエの操るアリシア、自身が操るシンシアの二体を持って打ち倒した。
 克樹の協力者である平泉夫人、叔父である彰次もまたモルガーナとの関わり合いを深める中、中盤戦となったエリキシルバトルを克樹たちは戦っていく。

●登場人物一覧

・音山克樹(おとやまかつき)
 主人公の高校二年生。フルコントロールソーサラー。根暗でオタクと言う評判であるが、お節介で責任感は強い。
 妹を誘拐事件で失い、犯人を苦しめて殺すためにエリキシルバトルに参加する。確かな願いを持ちつつも、主催者であるモルガーナに不審を抱いている。
 使用する主なピクシードールは防御パワータイプのシンシア。

・浜咲夏姫(はまさきなつき)
 克樹のクラスメイト。セミコントロールソーサラー。キツめの性格であるが、元気で朗らかな女の子。ポニーテールがポイント。
 過労で亡くなった母親の復活を願い、エリキシルバトルに参加する。使用するドールは母親の形見でもあるブリュンヒルデ。
 克樹とキスの約束をしている。

・リーリエ
 百合乃の脳情報から構築された人工個性。フルコントロールソーサラー。克樹のことを「おにぃちゃん」と呼ぶ元気いっぱいの女の子。ただし疑似脳であるため、身体はない。
 使用する主なピクシードールはスピードタイプのアリシア。
 克樹にも見せない独自の行動をしている様子がある。

・近藤誠(こんどうまこと)
 克樹のクラスメイト。フルコントロールソーサラー。スポーツ少年であったが、通り魔事件で逮捕されてからは弱気。
 病死してしまった幼馴染みにして恋人であった梨里香の復活を願いエリキシルバトルに参加する。
 スフィアカップ全国大会三回戦に進出した猛者。

・中里灯理(なかざとあかり)
 克樹たちとは別の高校に通う女の子。セミコントロールソーサラーにしてデュオソーサラー。おしとやかで控えめな女の子に見えて、けっこう押しが強く、ずる賢いところがある。多くの人が認める美少女。
 スフィアカップに出場してないながら、視力を失い、試験型のスマートギアで視力を補う臨床試験の際、リハビリとしてスフィアドールを与えられた。そのときSR社の人間から特別なスフィアを受け取っている。

・モルガーナ
 魔女。

・平泉夫人(ひらいずみふじん)
 本名は平泉敦子(ひらいずみあつこ)。三十代後半の資産家女性にして、克樹とリーリエの師匠であるフルコントロールソーサラーの猛者。エリキシルバトルには参加していない。
 穏やかで思慮深い人物であり、スフィアドール業界を支えている裏方の人物。モルガーナに危機感を感じ、対抗することを考えている。

・音山彰次(おとやまあきつぐ)
 克樹の叔父にして、現在彼の保護者。
 スフィアドール業界でも上位にいるロボット関連企業ヒューマニティパートナーテック社の技術部長。さらに平泉夫人の要請により何かの開発を開始している。
 モルガーナのことを知る数少ない人物。

・遠坂明美(とおさかあけみ)
 克樹のクラスメイトで、幼馴染みの女の子。スポーツ少女で快活な性格をしており、クラス委員にも選抜されるなど人望も厚い。ただし所属している陸上部や弱小。
 百合乃のことを知る人物。

・エイナ
 モルガーナが生み出した人工個性。エリキシルバトルのメッセンジャーとして克樹たちの前に現れるが、彼女自身の意志で動いている様子もある。
 エレメンタロイドとしてアイドル活動を行っている。

・音山百合乃(おとやまゆりの)
 克樹の妹。平泉夫人に対抗しうるほどの力を持ったフルコントロールソーサラーだった。
 誘拐事件に巻き込まれて死亡し、脳情報をモルガーナに取り出されている。欠損のあった脳情報は破棄される形で克樹に渡され、リーリエを生み出すこととなる。

・火傷の男
 本名不明。百合乃を誘拐して死に至らしめた人物。
 克樹が殺したいと思い、エリキシルバトルに参加した願いの対象。

●用語集
・スフィアドール
 スフィアと呼ばれる球体のクリスタルコンピュータを搭載した人型ないし動物型のロボットの総称。スフィアロボティクス社がスフィアを開発し、他の追随を許さない性能により、十年の間に一気に世界に広がっている。
 ただし人型、ないし動物型に制限されており、スフィアの性能が充分に活かされていないと言われている。スフィアのコアを提供しているのはモルガーナであり、彼女の思惑によって様々なことが決定されていると思われる。

・エルフドール、フェアリードール、ピクシードール
 スフィアドールのサイズによる分類。現在のところエルフドールは身長百二十センチ、フェアリードールは六十センチ、ピクシードールは百二十センチとされている。フェアリードールはサイズの自由度が大きく、三十センチ以上百センチ以下のものは概ねファアリードールに分類されている。
 エルフドールは人の代わりに仕事をするロボットとして注目されているものの、現在のところ高価で、低価格化と百五十センチ程度の大型化が目標にされている。
 フェアリードールは動く人形としてやペットロボットなどとしてのものが多く、完成品での販売が多く、最も普及しており、比較的低価格。
 ピクシードールは主に趣味のスフィアドールとされ、自作要素が強く、パーツ単位で販売されていることが多い。スフィアカップと呼ばれる大会にて行われたトーナメントバトル以降、全国各地で自作ピクシードールによるローカルバトルが開催されている。

・スフィアロボティクス社 SR社
 スフィアを開発し、スフィアドールの規格を決定している会社。
 新興企業ながら一気に広がったスフィアドール業界の中心。スフィアの技術を公開していないため、一社独占状態となっている。ライセンス生産している会社もあるが、事実上スフィアロボティクスの傘下である。
 モルガーナが所属している模様で、スフィアロボティクス社の動向はすべて彼女が握っていると思われる。

・ヒューマニティパートナーテック社 HPT社
 音山彰次が技術開発部長をしている日本のスフィアドール業界の有力企業。スフィアドールだけでなく様々なロボット開発を行っている。
 ピクシードールのパーツなども開発、販売しているが、主力はフェアリードールであり、開発の中心はエルフドールに移りつつある。
 ロボット以外にも様々な技術や商品の開発と販売を行っている。

・ヴァルキリークリエイション社 VC社
 夏姫の母親、浜咲春歌が勤めていたピクシードールを中心とした開発会社。
 強いこだわりを持った開発を行っていたが、時代の流れに置いて行かれて経営が破綻。スフィアロボティクス社に吸収された。しかしヴァルキリークリエイション社の開発した技術は、現在の第五世代ドールに多大な影響を残し、ブリュンヒルデを含む五体のオリジナルヴァルキリーなどスフィアドールの歴史に名を残している。

・フルコントロール、セミコントロール、フルオート
 スフィアドールのコントロール方式。
 フルコントロールはドールを自分の身体と一体として扱うような高等技術。スマートギアを必須とする。
 セミコントロールはコマンド打ち込み式でドールを動かす方法。携帯端末などでも行えるため、多くの人が使っているコントロール方法。
 フルオートは完全に自動制御でスフィアドールを動かす方法。エルフやファアリーではフルコントロールが主。ネットを経由して外部システムと接続することにより、細やかなコントロールも可能。

・スマートギア
 脳波を受信してポインタ操作を行うBCIデバイスにBICデバイスに、ヘッドマウントディスプレイ、ヘッドホンなどを組み合わせた統合型マンマシンインターフェイス。ヘルメット型やヘッドギア型、眼鏡型などがある。
 神経情報を送信するようなダイブを行えるデバイスではなく、あくまでディスプレイやキーボード、マウスなどを統合したもの。脳波を使ってポインタ操作を行うため、熟練が必要であるが、慣れると複数のポインタを同時に扱えたり、疑似発声であるイメージスピークなどが行える。
 外部カメラ、集音マイクを搭載しているものが多く、メインビューに実視界を表示して、端末のウィンドウを仮想的に視界に表示して使い、身体を動かしながら様々な操作を行うことが可能。ただし公道上での使用は禁止されている。

・アドバンスドヒューマニティシステム AHS
 HPT社が開発したスフィアドール用フルオートシステム。ネットを経由してスフィアドールをコントロールすることが可能。
 音山彰次が基礎理論を持ち込んで開発し、HPT社で商品化したもの。エルフドールを家政婦や事務員のように行動させたりと、かなりの高機能であるものの、エルフドールが現在のところ広く普及してるとは言い難い状況となっている。ペット型フェアリードールなどにも広く利用されている。

・エリクサー
 命の奇跡を起こすことができるとエイナが言う奇跡の水。詳細は不明。
 死亡し、身体がなくなった人間でも復活が可能とされているが、本当に存在するかどうかは定かではない。ただ、第一部にて死にかけた克樹に使用され、傷を消し去り彼の命を救っている。
 モルガーナが関係していると思われるものであり、エリキシルバトルの報酬とされている。


 

序章 ブレイクポイント

 

 

 開いたエレベーターの扉をくぐり、このところの暑さのためか、むっとする消毒液の臭いを感じながら、うつむき加減の夏姫はまばらに人がいる待合室を抜ける。

 ゆっくりと開く自動ドアが開き切るのを待って、病院の建物から外に出ると、外は薄暗く曇ってきていた。

「よぉ」

 扉の脇の壁に背中を預け、空と同じように暗い顔をしている夏姫に声をかけてきたのは、ひとりの男子。

 克樹ではない。

 背は克樹と同じか、若干高めで、彼よりも少しがっしりしているらしい身体に、袖を折り曲げて縮めたジャケットを羽織る彼は、攻撃的や獰猛といった言葉が似合いそうな顔つきをしていると、夏姫には思えていた。

「話、聞いてきたんだろ?」

「うん。正式なのは、また後日ちゃんと計算して出すって話だったけど」

「いくら請求されたんだ? 見せろよ」

 言われて半袖のブラウスにジャンパースカートだけの、夏の制服を身につけた夏姫は、肩に提げた鞄から先ほど渡された紙を取り出し、男子に渡す。

「くっ。またずいぶんな金額を請求されたもんだな」

 そこに書かれているのは、夏姫に請求される予定の暫定金額と、請求内容の詳細や、請求の理由。

 もし高校をいますぐに辞めて働きに出たとしても、何年かければ返済し終わるのかわからないほどの金額が、そこには書かれていた。

 本来は払わなくてもいいのかも知れないとも思うが、法律といった詳しいことはわからない。わかったとしても、支払いを拒絶すれば切り捨てなければならないものがある。

 父親の、命を。

「さすがにこれはぼったくりが過ぎるってもんだろう。俺様の方で掛け合って減額するさ」

「本当に? そんなことできるの?」

「できるさ。俺様を誰だと思ってる。しかし、ゼロにはならねぇ。何割かってのがせいぜいだ」

「……そっか」

「それに、これだけの金額なんだ。最初に言ってたあれだけじゃぜんぜん足りねぇよ」

 そう言われるだろうことはわかっていた夏姫だったが、覚悟できていたとは言えないその言葉に、表情を曇らせる。

 さも楽しそうに歯を見せて笑う彼は言った。

「最初の条件以上の金額については、貸すだけだ。働いて返せ」

「でも、そんな金額……、何年かかるかわからないよ」

「わかってるさ。だから、お前は俺様の召使いになれ。何、悪いようにはしないさ。高校だって行かせてやるし、行きたいんだったら大学にだって行っていい。ただし、貸した分を返し終えるまで、俺様のところにいろ」

 その提案が貸してもらう金額に見合うものなのかどうか、夏姫には判断できなかった。具体的な条件もわからない。

 猛臣のところにいろと言うのだから、いまの高校も辞めなければならないだろう。克樹たちと次に会えるのは、返済を終えた何年も後になるかも知れない。

 そうだとしても、夏姫には選択肢がなかった。父親である謙治の命を救う方法を、彼女は思いつけなかった。

 うつむき、顔を歪ませる夏姫。

 強く引き結んだ唇を細かに震わせ、しばらくの間押し黙っていた彼女は、意を決したように顔を上げた。

「――わかった。その条件でいい」

「ちゃんと言え。どんな条件をお前は飲むってんだ?」

 夏姫の瞳を覗き込むように顔を近づけてきた彼に、夏姫は唇を噛む。

 あまりはっきりと言いたくはなかった。

 言わなくても同じだと思った。

 けれど、求められたからには言わなければならなかった。

「わかり、ました。……アタシは、貴方の召使いになります。それから、アタシのエリキシルスフィアを、貴方に売ります」

「それでいい」

 満足したように唇の端を歪ませて笑う男子から、夏姫は目を逸らした。

 頭の中に思い浮かぶ顔に、呼びかける。

 ――ゴメンね、克樹。

 

 



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第三部 第一章 チェイントラブル
第三部 極炎(クリムゾン)の怒り 第一章 1


 

第一章 チェイントラブル

 

 

       * 1 *

 

 

「はぁ……」

 ローテーブル越しに深いため息を漏らしたのは、ショージさん。

 僕はいまショージさんの家に来て、リビングのソファに向かい合って座っていた。

 いつもこの家で家事をやっているエルフドールのアヤノは、ここにはいない。

 僕が持ってきたデータを印刷した紙を見た瞬間、ショージさんが呼ぶまで部屋に入らないように言いつけていた。

 HPT社のフルコントロールシステムであるAHSで稼働するアヤノは、防犯なんかの理由で視覚情報が会社に保存されている。僕が持ってきたデータは、他の誰にも見られるわけにはいかないものだと、ショージさんが判断したんだ。

「これはいったいなんなんだ? 克樹」

 しばらくの間、眼鏡型スマートギアに表示した情報と僕が渡したデータを見比べていたショージさんは、紙束をテーブルに投げ出して睨みつけてきた。

「見た通り、シンシアで取ったデータだよ」

「そうなんだろうが、な……」

 僕が今日持ってきたのは、ショージさんというコネでHPT社から貸してもらってる、試作モデルの第五世代フルスペックメインフレームを使ったときのデータだ。

 シンシアに組み込んであるそれは、スフィアを介して得られる通常の稼働データと同時に、シンシアの身体の各部に取りつけたセンサーから得られた情報を統合してまとめたものだった。

 渡されるときに約束していたデータは週一回、これまでに四回、不要な情報なんかを省いてまとめたものをショージさんにデータで送信していた。

 いま紙に印刷して持ってきたのは、送信済みのデータから省いていたもの。

 シンシアの、アライズ時に得たものだった。

「いったいこれはなんなんだ?」

「……」

 脚の上で手を組み、少し身体を乗り出すようにして細めた目で睨みつけてくるショージさんに、僕は返事をしない。

 アライズしたときのシンシアのサイズは、百二十センチを少し下回る程度。スケールだけ見れば、現在実用化されてるエルフドールと遜色ないサイズだ。

 渡したデータは、ぱっと見にはエルフドールで取得したもののようにも見える。

 でもショージさんは、印刷されたデータを見た瞬間にアヤノを退出させた。普通じゃないことに一瞬で気づいていた。

 エルフドールとエリキシルドールとでは大きな違いがある。

 それは主に、運動性能。

 大人の人間と同等どころか、それを超える運動性能を持つエリキシルドールは、同程度の身長の子供と同じか少し劣るくらいの運動性しかないエルフドールとは、移動速度や腕力が大幅に違う。

「最新の人工筋を使っても、第六世代で予想されてるエルフドールの性能でも、こんなデータは出て来やしない。どうやってこのデータを取ったんだ?」

「言えないよ」

 不機嫌そうに額にシワを寄せるショージさん。

 いまのところ僕はショージさんをエリキシルバトルや、モルガーナとの関わり合いについて説明する気はなかった。

 巻き込みたくない、ってのはもちろんある。

 それと同時に、バトルのことを知ったショージさんが、どんな風にそれを扱うのか予測がつかないからだった。

 バトルのことが広まるのだとしたら、問題は僕だけに留まらない。夏姫たち他のバトル参加者にも関わることだ。それにモルガーナのことだ、もしエリキシルバトルのことを公表なんてしようとしたら、ショージさんに危害が加わらないとも限らない。

 それでも僕はこのデータを見せなくちゃならなかった。

 直接のデータではないにしても、エリキシルドールの件については、いつかこの家にバックアップシステムがあるリーリエの稼働データから気づかれるだろう。

 先に気づかれて問い詰められるくらいだったら、こっちから知らせて、交換条件を持ちかけた方がいいと判断した。

「去年の年末頃からか? お前が何かやり始めたのには気づいてたよ。これはやっぱり、モルガーナが関わってることなのか?」

「……」

「俺はお前の保護者だ。お前の父親と母親はお前がどうなろうとあんまり気にしないかも知れないが、俺はそうじゃない。危ないことをしてるんだったら止める義務も、権利もある」

「……」

 ショージさんの呼びかけには答えず、僕はただ沈黙する。肯定も否定もしない。

 苛立ってきたらしいショージさんは、眉をひくつかせながら僕から視線を外し、僕が耳につけてるイヤホンマイクに向かって言った。

「リーリエ。お前も何か知ってんだろ? 説明してくれ」

『おにぃちゃんが秘密にしてることだもん。あたしからは何も言えないよー』

「ったく、てめぇらは……」

 ひとつ舌打ちしたショージさんは、ため息を漏らしてあらぬ方向に視線を向け、考え込むように顔を歪ませる。

「やめろ、って言ってもやめる気はないのか?」

「うん」

「危ないことなのか?」

「……」

「いまでなくていい。説明できるようになったら、全部話してくれるか?」

「それは――」

 真っ直ぐに僕の瞳を見つめてくるショージさんに、僕は即答できなかった。

 バトルはそう遠くないうちに、早ければあと数ヶ月くらいで終わる。終わった後、説明できるような状況になっているのか、僕にはわからなかった。

「約束はできないけど、説明できるようになったら」

「そうか、わかった。……ちっ、『貴方も当事者のひとりよ』、か。くそっ」

「え?」

「なんでもねぇよ。それよりも、今日の用事はこれだけじゃないんだろ? 何がほしいんだ?」

「うん。ちょっと待って」

 さすがはショージさん、察しがいい。

 僕は胸ポケットから携帯端末を取り出して、事前に用意しておいた情報を送信した。すぐに受信して眼鏡のレンズに表示させたショージさんは、呆れたような声を上げた。

「いったい何だよ、こりゃ。ソーサラーの教習所でも開くつもりか?」

「そうじゃないけど、できる?」

「そりゃまぁ、できるにはできるが、時間はかかるぞ」

「うん。ゴメン。お願い」

 嫌そうな顔をしながらも、拒否はしないショージさん。

 僕が頼みに来たのは、スフィアドールをコントロールするアプリのアドオンモジュール。もちろんエリキシルバトル用の。

 かなり特殊で使い道が限定されるものだし、細かいところまでつくり込まないといけないものだから、多少プログラミングの知識と経験がある程度の僕じゃ完成させられなかった。

「それからもうひとつ。この前借りた試作のフルスペックフレーム、あれをもう一本貸してほしんだ。払い下げられるのがあったら、購入でもいいけど」

「アリシアに使うのか? それとも新しいドールでも組み立てるのか? シンシアみたいなセンサー特化型とか特殊なタイプならともかく、普通のバトルピクシーならフルスペックまでは必要ないだろ?」

「でも、必要なんだ」

「んーっ」

 頭を掻き、ショージさんはうなり声を上げる。

「もう近々市販モデルが発売されるし、データラインが必要なだけだったらそっちでいいんじゃないのか?」

「強度が足りないんだ」

 市販品と試験用とでは主に強度が違う。

 データラインなんかはよほど仕様に問題がなければ同じだし、普通のピクシーバトルでメインフレームが破損するなんてシチュエーションはそんなに起こるものじゃないから、市販品の強度で不足することなんてまずない。

 でも今後さらにアリシアを、リーリエを強くしようと思ったら、市販品の強度じゃ不足する可能性が出てきていた。

「わかった。再来週には試験もだいたい終わるから、一番状態がいいのを貸してやるよ」

「ありがとう」

 礼を言って、僕はさっさとソファから立ち上がる。

 これ以上ショージさんと話していたら、どこでボロを出すことになるのかわかりゃしない。

「なぁ、克樹」

「何?」

「お前がいまやってることは、前にうちに来た夏姫ちゃんとか、……あのときの、エイナのライブのこととかも関係してるのか?」

「……」

「はぁ。そっか。わかった。説明できるようになったら、全部話してくれよ」

「うん。説明できるようになるとは、限らないけどね」

 ソファに置いてあったデイパックを担いで、僕は険しい顔をしてるショージさんに見送られてリビングを出た。

 

          *

 

「さて」

 ショージさんのとこから自宅に帰ってきた僕は、作業室に入ってフルメッシュチェアに身体を預けた。

 デイパックからピクシードール収納用のアタッシェケースを出して開き、アリシアを机の上に立たせると、早速リンクしたリーリエが僕の顔を見つめるように笑みを浮かべさせた。

 アリシアに笑みを返して、僕はスマートギアを頭に被る。

 今度貸してもらえるフルスペックメインフレームを使った、アリシアの全面リニューアル用パーツを早々に選定しなくちゃならなかった。

『やっぱり、新しい戦法を使うんだ』

「うん。これから先、どんな敵を相手にするかわからないし、いまのままで、戦えるかどうかも予測がつかない」

『そうだね……』

 灯理と決着をつけてからは、もう一ヶ月近くが経っていた。

 いまのところ新たな敵が現れる様子はない。

 でも灯理のときだって前触れなんてなかったんだ、いつ次のエリキシルソーサラーが現れないとも限らない。

 エリキシルバトルも中盤戦に入ってそこそこ経ってるんだし、今後現れる相手はそれなりにバトルを経てきた強敵になるだろう。

 アリシア、シンシアの性能アップはもちろん、僕とリーリエがもっと強くなる必要がある。それと同時に、普通とは違う手段も考える必要があると感じていた。

 何しろエリキシルバトルはスフィアカップのようなルールのある戦いじゃない。それに、最後に戦う相手はどんな奴になるのかもわからない。

 平泉夫人にすら手も足も出ない僕とリーリエじゃ、この先勝ち残れるかどうか不安だった。

 ショージさんにお願いした新しいアプリも、フルスペックメインフレームも、アリシアの強化と同時に、新しく思いついた戦法のために必要なものだった。

『大丈夫。あたしは絶対に負けないよ』

「頼りにしてるよ、リーリエ」

『うんっ!』

 かけられた声にそう答えると、リーリエはアリシアに満面の笑みを浮かべさせた。

 

 



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第三部 極炎(クリムゾン)の怒り 第一章 2

 

       * 2 *

 

 

 ――空が綺麗だな。

 梅雨明け宣言もされてないのに、すっかり夏の雰囲気のある空を、僕は机に頬杖をつきながら眺めていた。

「克樹。途中まで一緒に帰ろ?」

 担任教師の呪文に近い連絡事項を聞き流し、立ち上がって礼をし終わったと思った途端にやってきたのは、夏姫。

 ――なんでこう、こいつはいつもこうなんだか。

 いまから二ヶ月前、灯理と戦っていたときには押し倒したりとかいろいろやっていたというのに、男に対して警戒心がない。最初からそんな感じではあったけど、何を考えてるのかわかりゃしない。

 ただまぁ、あのとき以降は、別に何かしたりはしてなかったが。

 と言うか、責任取ってもらうから、って言葉は、思った以上に重い。

 黙ってる僕のことを小首を傾げながら眺めてる夏姫。

 夏服に切り替わったからとは言え、梅雨時期で肌寒いと感じる日もあるこの頃だから、上着を羽織ってないだけの白いブラウスと黒っぽいジャンパースカート姿の彼女。

 可愛いってことで女子にも、そして何より男子にも人気の高いジャンパスカートは、ほどよく大きい夏姫の胸を強調している。

 長袖ではあるけど薄手のブラウスは、微かにその下の水色のキャミソールがうっすらと透けて見えていた。

「何? どうかしたの?」

「いや、ブラは透けないんだな、って」

「またそんなこと言って……。そんなだから女子から嫌われるんだよ? 別にアタシはもう、あんまり気にしてないけど」

「ったく」

 さすがにたいしてつき合いのない他のクラスの女子ならともかく、もうつき合いが短いとは言えない夏姫になると、これまでちょこちょこ言ってきたような言葉じゃ効きゃしないみたいだ。

 かと言って押し倒して「いいよ」なんて言われた日には僕の方がどうしていいのかわからなくなる。

 ――何か考えとかないとなぁ。

 あんまり警戒されないのも問題だと思う僕は、何かいい方法はないかと考えつつ、授業用のタブレット端末なんかを鞄に仕舞い込み、帰る準備をする。

「本当、ここんところ仲がいいよね、夏姫と克樹。何かあったの?」

 そんなことを言いながらやってきたのは、遠坂明美。

 女子としては少し背が高めの夏姫よりももう少し背が高い彼女は、相変わらず強調するもののない胸を、座ってる僕の視線の位置に見せつけながら、不審そうな目を向けてくる。

「何かあったってことは、……えぇっと、ピクシードールのことで世話になってるからさ。ね? 克樹」

「こっちに振るなよ。別に夏姫とつき合ってるわけじゃないし、ドール関係で夏姫がすり寄ってきてるだけだ」

「すり寄ってるって……。克樹、あんたねぇ!」

「ふぅん」

 前屈みになって睨みつけてくる夏姫の横で、さらに不信感を深めた顔で僕と夏姫のことを交互に見ている遠坂。

 遠坂を押し倒したのは……、まだ高校に入る前で、僕の気持ちがいまよりもぐちゃぐちゃのときだったから、未遂にはなったが、夏姫や灯理のときよりさらにヤバい感じになっていた。遠坂が警察に駆け込んだりしたら、僕には言い訳ができない程度に。

 そんな関係だから警戒されるのは仕方ないが、そもそも遠坂が僕を避けないのが不思議なくらいだ。

「まぁ、何かあったら全部責任取ってもらうから、大丈夫だよ、明美。アタシはこいつにやられっぱなしになんてならないからさ」

「そういうことならいい、のかな? でも本当、気をつけないとダメだよ」

「わかってるって」

 心配そうにしてる遠坂に対し、夏姫はにっこりとした笑みを僕に向けてくる。「わかってるよね」という言葉が籠もってそうな笑み。

 そりゃあ僕はヒューマニティフェイスとかの報酬で、多いときは新卒サラリーマンの月収なんて目じゃないほどの収入があるときもあるけど、フェイスパーツの売れ行き次第だから安定はしていない。新型の制作にも取りかかってるけど、もう表情をつくる機能は充分にあるから、大きな変更も難しく、報酬は今後減りこそすれ増える可能性は高くない。

 将来的にって意味であれば、女の子ひとりの責任くらい取れるようにはなれると思うけど、いまの段階で言われても正直怖いと思ってしまう。

 ――そんなに真面目に考える必要ないか。

 夏姫とはそこまでのことにはなってないんだし、僕の気持ちが暴走してもリーリエがある程度のところでストップしてくれる。強引な手段だったりはするけど。

 深く悩む必要がないことに気づいて、僕は口元にさらに深い笑みを浮かべて楽しそうにしてる夏姫から目を逸らした。

「でも明美。克樹ってけっこうイザってときにヘタレじゃない」

「あー、うん。そうなんだよね。もう一歩のところでヘタれるよね、克樹って」

「だからまぁ、大丈夫だよ」

 ふたりにとって僕はいったいどんな奴になってるのか。納得したように頷き合う夏姫と遠坂に、僕は思わずため息を漏らしていた。

「でもヘタレでも克樹だって男なんだから、そのことは忘れちゃダメだよ」

「うん、わかってる。ありがとう」

「克樹も! あんまり女の子泣かせるようなことしちゃダメだよ」

「お前は僕の姉ちゃんか……」

「あははっ。……まぁ、部活行ってくるね」

 僕たちの会話を聞きつつ、遠巻きにしていた人物が近づいてきたのを見て、遠坂はそいつにちらりと視線を飛ばしてから教室を出ていった。

 やってきたのは近藤。

 もうすっかり伸びてきた髪を角刈りみたいに立てている近藤は、一応遠坂とは和解している。

 と言っても通り魔として彼女を襲い、車に轢かれそうになった原因をつくったのだ、完全に修復したとは言い難い距離感だった。

「ま、帰ろう。克樹、近藤」

「あぁ」

「そうだな」

 微妙な空気を吹き飛ばすように言った夏姫の声に、僕は席を立ってふたりと一緒に教室を出た。

 

 

          *

 

 

「ここんとこ、平和だね」

 先に靴を履き替えて昇降口に出ていた夏姫が、振り返って僕と近藤にそう声をかけてきた。

「中里の後は、敵に出会ってないからな」

「まぁ、平和だね」

 靴を履き終えて昇降口を出た僕は、七月初旬の晴れ渡った空を仰ぐ。

 もうすっかり暑くなってるって言うのに、校庭では運動部の連中が練習を始めていた。

 校庭の大部分を使うのはサッカー部で、隅の方では部員が女子中心の弱小陸上部が準備運動をしてる。部員にいろいろ指示を出してるらしい、男子と間違えそうになる体型の奴が、たぶん遠坂だろう。

 灯理と戦って以降は、本当に平和だ。

 レーダーに新しいエリキシルスフィアの反応が引っかかることもない。

 夏姫、近藤と連続して出会った後は、灯理と出会うまでは五ヶ月くらい間があったんだから、エリキシルソーサラーとの遭遇率はそんなものなのかも知れない、とも思う。

 でもバトルはもう中盤戦に入ってるんだ、僕たちの知らないところで戦ってる奴がいることもまた、確かだった。

 こちらから打って出ることも考えなくもなかったが、バトル参加者がどこにいるのかもわからないんじゃ、参加者の可能性がある特別なスフィアを持つ人をしらみつぶしにするしかない。その所在を探すだけでも手間か金がかかるのは確かだから、そこまではやる気がなかった。

「でも、バトルが終わったわけじゃない」

 並んで校門に向かって歩く途中、ぽつりと言ったのは近藤。

 隣に立つ近藤は、僕と夏姫のことを見ながら言う。

「いつ敵と出会わないとも限らない。警戒は必要だろう」

「もっちろん、警戒はしてるよ」

 学校指定の鞄を軽く叩いて返事したのは夏姫。

 エリキシルバトルアプリは携帯端末にインストールして使うもので、レーダーはアプリの機能だけど、どういう理屈なのか、エリキシルスフィアがある程度近くにないと機能しない。スフィアを受信機として使用しているらしい。

 夏姫が叩いた鞄の中にはもちろん、僕と近藤の鞄の中にもエリキシルスフィアを搭載したピクシードールが入ってる。

 敵が現れれば携帯が警告を発するように設定もしてあるし、充分ではないかも知れないけど、警戒は怠っていなかった。

「明日はまた克樹の家でいいんでしょ?」

「あ、うん。まぁ、仕方ないね」

 僕の顔を覗き込むようにして問うてくる夏姫に、ため息を吐きそうになりながらも応える。

 灯理の件があって以降、夏姫や近藤、灯理の三人は時間がある週末なんかには僕の家に集まるようになっていた。

 主にやってるのはピクシーバトル。

 エリキシルバトルじゃなく、アライズしないでのバトルだ。僕の家のLDKはそこそこ広いって言っても、エリキシルドールが飛び回るほどはない。

 一応敵同士ではある僕たちだけど、いまのところは協力するってことで、戦闘訓練をしてお互いの力を高め合っている。

 なんで僕の家なんだ、と思うけど、独り暮らしで部屋が狭く集合住宅の夏姫と近藤の家というわけにはいかなかったし、親が帰ってきたりお手伝いの人がいたりする灯理の家というわけにもいかない。親がまず帰ってこないし、広さもそこそこの上、灯理を除くと家が近い僕のとこが最適だったからだろう。自然とそうなっていた。

 ――なんか最近、そればっかりじゃないけど。

 家が少し離れてるから灯理が来るのは週末が中心だけど、夏姫は平日でもたまに来ることがあって、夕食をつくってくれたりするし、そのときに近藤も彼女に呼ばれてやってくることもあった。

 ――なんか僕の家がサロンみないになってるよな。

 僕がいなくてもリーリエに管理されてるから家に入ることはできるし、何かあればリーリエが記録もしてるし連絡もしてくれる。

 勝手に、というのとは違うけど、なんかここのところは出入り自由の集合所みたいな雰囲気になりつつあった。

『ねぇ、おにぃちゃん。気づいてる?』

「うん、さすがにね」

 イヤホンマイクの外部スピーカーから声を発したリーリエの指摘に、僕は頷いていた。

 携帯端末とかで見てるわけじゃないから正確な距離まではわからないけど、校門のところに白いスカートの裾が見え隠れしてる。

 下校する他の奴らに注目されてるっぽい彼女の存在に気づいたらしい夏姫が、隣で眉を顰めていくのが見えた。

 レーダーを見てなかったからここに来るまで気づかなかったけど、もうそこにいるのが誰なのか、たどり着かなくてもわかる。

「あ、克樹さん。こんにちは」

 たぶん、僕たちとの距離をずっと確認していたんだろう。

 校門を出た直後、膝上丈のスカートともに長く細い髪をふわりとはためかせて向き直ったのは、クリームホワイトの制服を身につけ、白地に赤いラインが引かれた医療用スマートギアを被ってる女の子。

 中里灯理。

「こんにちは、夏姫さん、近藤さんも」

「こんにちは、灯理」

「あぁ、こんにちは」

 にっこり笑う灯理に対し、夏姫と近藤の表情は渋い。

 灯理の行動はけっこう突発的だ。

 突然こうやって学校に現れたり、休日に遊びに誘ってきたりする。そうしたときの相手の反応を楽しんでる様子すらある。

 本当にダメなときに押し進めてきたり、嫌がらせでやってくるというわけではないみたいだけど、天然なのか、意識的にやってるのかいまひとつわからない。

 その上、いまは視力を失って話題に出ることはほとんどなくなったとは言え、灯理は若い画家として有名だったんだ。そんな彼女が僕や夏姫たちを訊ねて二度三度と学校にやってきたりしたら、校内でも噂になったりもする。

 できるだけ笑顔を返そうと思っても、僕の顔も引きつらざるを得なかった。

「今日はどうしたの? 灯理」

「えぇ。今日は少し克樹さんに用事がありまして。後ほど家にお伺いしようかと思ったのですが、この時間でしたらまだ学校にいらっしゃるかと思って、待ちきれずにここまで来てしまいました」

「そ、そう」

 ニコニコとした笑みを浮かべながら、声を控えることなく話す灯理に、夏姫は怯むように勢いを失う。まだまだ多い下校する生徒の不躾な視線が痛い。

「用事って、なんだったっけ?」

 夏姫も近藤も驚いてるが、それは僕だって同じだ。今日来るって話は事前には聞いてなかったと思う。

「先週話してあったではないですか。今日PCWにフレイとフレイヤのパーツが一部届くかも知れないと。一緒に取りに行きましょうと言ったらあのとき、克樹さんは頷いてくださったでしょう? それで、先ほどお店からパーツが届いたと連絡があったのですよ」

「……そう思えば、そんな話もあったね」

 僕とリーリエとで戦った灯理のフレイとフレイヤは、首を切り落としたときにメインフレームを切断していた。

 フルスペックではないけど第五世代のメインフレームはとりあえず修復するってことでPCWを紹介して、強化のためのパーツを相談して注文もした。

 確か先週、一緒に取りに行こうといわれたときに頷いたのは憶えてるけど、まさか届いた当日に事前連絡なしに行くことになるとは思ってなかった。

 ――まぁこの後、特別用事があるわけじゃないからいいんだけど。

「さぁ克樹さん。行きましょう」

「お、おい」

 そう言って僕の腕に自分の腕を、どころか身体ごと絡みつけてくる灯理。

 小柄な割に夏姫以上の大きな胸が、制服越しなのに柔らかく僕の腕に押しつけられる。

 ――くっ……。やっぱり柔らかいな。

 別に大きい方が好きってわけじゃないし、夏姫の胸だってけっこう大きいと思うが、それよりも大きい灯理の胸は柔らかさが違う。さらに夏服になってからは、制服の下のブラの感触までわかってしまう。

 しかしこの腕に抱きつくような体勢は、医療用スマートギアを被ってるっていう少し奇異に見られるところはあっても、それを超えるくらいに可愛らしい灯理だったりするわけだから、夏姫や近藤の視線ばかりじゃなく、他の人たちからの視線も痛くて仕方がない。

『もうっ! 何やってるの? 灯理っ。おにぃちゃんから離れて!!』

「そうだよ、灯理。克樹が迷惑してるでしょっ」

「そんな、これくらいは親しい仲では普通のスキンシップでしょう?」

「近藤にはそこまでのことしないでしょ!」

「そうでしたでしょうか?」

「場所を考えなさい!」

「それは場所を考えれば、してもいいということですか?」

『何でもいいから、おにぃちゃんから離れて!』

「仕方ないですね。……もう少し遊んでいたかったのですが」

 灯理を睨みつけている夏姫に対して、睨まれた彼女は気にした風もなく涼しい笑みを返していたが、どうにか抱きつくのだけはやめてくれた。……僕にだけ聞こえる程度の声で呟いた最後の言葉は、聞こえなかったことにした。

 何かとスキンシップをしてくる灯理だけど、夏姫がいるときはとくに挑発的にやってきてるような気がする。

 エリキシルソーサラーが現れなくて平和ではあるんだけど、いまひとつ僕の周りは騒がしくて仕方がなかった。

 ――もう少し平穏な方が、僕は好きなんだけどね……。

 エリキシルバトルが続いてる間は、ソーサラーごとエリキシルスフィアを集めると決めたんだから、多少騒がしくなるのは覚悟の上だったけど、こういう騒がしさは勘弁してほしい。

「夏姫さんも一緒に行きませんか?」

「知ってるんでしょ、灯理。アタシは今日バイトあるんだって」

「そうでしたね。すみません。失念していました」

 忘れてたなんて絶対嘘だと思うが、素直に謝る灯理に夏姫は重苦しいため息を吐き出すだけだった。

「と、とにかく行ってくる」

「行ってらっしゃい、克樹っ」

「またな、克樹」

『うん、行ってくる。またね、夏姫、誠。ちゃーんとあたしが見てるから、安心して!』

「ん、わかった。リーリエ、頼むね」

 そんなやりとりをして、僕は灯理とともに駅に向かって歩き始める。

 イヤホンマイクじゃリーリエには見えないからだろうか、それとも夏姫に見せつけるためなのか、こっそりと手を繋いできた灯理の手は、意外と強くつかまれていて振り払うことはできそうになかった。

 ――何を考えてるんだか。灯理も、夏姫も。

 灯理に聞こえないように小さくため息を吐きながら、僕は背中に突き刺さる視線に気づかない振りをしていた。

 

 

 

 人混みの中を遠ざかっていく克樹と灯理の背中を睨みつけていた夏姫は、深くため息を漏らしていた。

「いいのか? このままふたりで行かせて」

 夏姫とともに取り残されるように立っていた近藤が声をかけてくる。

「仕方ないでしょ。アタシはこの後バイトなんだから。気になるんだったら近藤が一緒に行けばいいんじゃないの?」

「俺も今日はバイトだし、そういうことじゃないんだが……」

 言葉を濁す近藤を、夏姫は睨みつける。

「何?」

「いや、いい……」

 身体が大きい割に、通り魔事件以降あまり強く出てくることがなくなった近藤は、夏姫の視線に首を縮めていた。

 近藤が言いたいことも、夏姫はだいたいわかっている。

 克樹とは別につき合っているわけではないし、エリキシルバトルのことで一番最初に出会って協力するようになったというのはあっても、告白されたわけでも、こちらから告白したわけでもない。――する予定も、ない。

 苛立っていても仕方ないのはわかっているし、克樹が灯理を選ぶならばそれも仕方がないと思うのだが、キスの予約までしたというのに、灯理にすり寄られているのを目の当たりにすると、苛立つのを抑えることもできない。

「まぁなんか、灯理の家の事情とかもあるみたいなんだけどね」

「家の事情?」

「うん」

 克樹たちの姿がすっかり見えなくなったのを確認して、夏姫もまた駅の方向に向かって歩き始めた。近藤も並んで着いてくる。

「けっこう両親の仲がよくないらしいよ? さすがにあんまり細かいところまでは聞けないけど、そんなこと言ってた」

 灯理とはふたりきりのときにいろんな話をしていることがあったが、家のことも話すことがあった。

 画商であるという母親と、そこそこ名の知られた彫刻家である父親の間は、何かと揉めていることが多いという。揉める内容までは知らなかったが、忙しいのもあって両親が揃っていることは少なく、家に帰ってくること自体少ないということだった。

「なんか、両親がいなくて寂しいらしいんだよね」

「そうなのか。と言っても、それを言ったら克樹の家だってバトル始まってから一度も親が家に帰ってきたことないみたいだし、いまは独り暮らしをしてるオレや浜咲だって、そんなに変わらないだろう」

「……そう思えば、そっか」

 不思議そうな顔をして身長差の分で見下ろしてくる近藤の言葉に、夏姫は自分や克樹たちの境遇を思い出す。

 比べてみても、灯理だけが特別酷い境遇というわけではないように思えた。

 ――まぁでも、アタシがあんまり口を挟むことでもないしなぁ……。

 克樹のジェスチャー程度の行動は、よほど相手が乗ってこない限り間違いが起こることはないと思うし、相手が誘ってきたとしても克樹の側にはいつもリーリエがいる。

 克樹自身が行動を起こさない限りは大丈夫なのだろうと思うが、夏姫は胸の中にわだかまる不安を拭えなかった。

 ――灯理も、可愛いもんね。

 女の子の夏姫から見ても、灯理は小柄で可愛らしく、羨ましくなるほどのスタイルをしている。性格の強引さはあれども、ジェスチャー以外ではヘタレで奥手な克樹に対しては、それくらいの方が近い道なのかもしれないとも思えた。

「あんまり聞いたことなかったが、浜咲は父親はいるんだろ?」

「あ、うん。いるよ。もうずいぶん会ってないけど」

 事情を話していない近藤の質問に、夏姫はできるだけの笑みを浮かべて答える。

 父親とはもう一年以上会っていなかった。

 再就職に失敗し、酒に溺れた父親は、自分の妻が死んだときにも、酒を飲み歩いていた。

 いまは仕事をしていて、アパートの家賃と、生活費の仕送りはしてくれていた。元々の仕事とは関係ない仕事は厳しいらしく、自分でつくった借金もあって、仕送りの金額は暮らしていくことができないほど。

 足りない分はどうにかアルバイトで賄うことはできていたが、余裕はほとんどなかった。

「会いたくないのか?」

「んー。あんまり。会いたくはない、かなぁ」

「……済まん」

 できるだけ笑っていたはずなのに、何かに気づいたのか、近藤が謝ってくる。

 それに対して目を細めて笑って見せた夏姫は、まだ早い夏の陽射しが降り注いでくる青空を仰いで、会いたいと思えない父親のことを思い出していた。

 もうふたりきりの肉親なのに、父親を恋しいとは思えなかった。

 生活のすべてを春歌に任せ、ひとり飲んだくれ、時には暴力を振るっていた父親だったが、彼女の死を悲しんでいないということはない。自分の行動を悔いていないわけはない。

 けれど夏姫は父親を許せなかった。春歌を死に追いやった彼を、どうしても許すことができなかった。

 許したいという気持ちがないわけではなかったが、まだ胸の中に残るわだかまりが、自分の父親に対してどんな言葉で話していいのか、わからなくさせていた。

「ま、みんないろんな事情があるんだよ。アタシにも、灯理にも、克樹にも、もちろん近藤にもね。だからまぁ、とりあえずはいいかな、って」

「そうか」

 悔いているように顔を歪ませている近藤に笑いかけつつも、夏姫は鞄を持っていない右手で、ずきずきと痛むような胸を押さえていた。

 



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第三部 極炎(クリムゾン)の怒り 第一章 3

 

       * 3 *

 

 

「お前の注文もここんところずいぶん特殊だが、またずいぶんと特殊な客を連れてきたもんだな」

 呆れたような視線を僕に向けてきたのは、PCWの親父。

 いつもと変わらぬ雑多な店内で、最新パーツのカタログを見ていた僕はカウンター越しに親父のさらに向こう、バックヤードの方に目を向ける。

 そこでは作業台の上でフレイとフレイヤを立たせ、灯理がデュオソーサリーによって新しく組みつけたパーツの調子をみるために、二体同時に軽い運動をさせていた。

「まさかデュオソーサラーが本当にいるとはな。噂には聞いていたが、実物を見るのは初めてだよ。いったいどうやったらあんな子と知り合いになれるんだ?」

「まぁちょっと、いろいろあってね」

 本当は百合乃もデュオソーサラーではあったんだけど、いまそれを知ってるのはたぶん僕と平泉夫人、それから夫人に仕えているメイドの芳野さんだけだろう。別にいまさら必要な情報であるとは思えないから、僕がわざわざそのことを話すことはない。

 噂だけならピクシーバトルが認知されるようになった第四世代初期から知られているし、スフィアドールを扱ったアニメ作品なんかでサブキャラの能力として紹介され有名なデュオソーサラーだけど、現実に存在していることは確認されてない。

 現状、もしかしたら唯一のデュオソーサラーかも知れない灯理は、確かに特殊な客だろう。

「あんまり他の人には話さないでよ」

「わかってるって。こう見えても口は硬いからな」

 親父からは意外と他の客の話を聞くことが多い気がするから不安ではあるが、本当に話しちゃいけないことを間違える人ではないだろう、と思う。

 パーツがほしいだけならネット通販でも充分な気がするけど、僕は灯理をPCWに連れてきた。

 以前の戦いの後、とりあえず僕が壊したメインフレームの交換品のためと、それから今回は強化をするためのパーツを取りに来ている。

 灯理本人がピクシーバトルで名を広める気はないようだから、知られるとたぶんニュースレベルの騒ぎの彼女をここに連れてくるのもどうかと思う。でも暗器を仕込む構造のアーマーとか、普通に売ってるものを加工した武器なんかのことを考えると、ここに連れてきて直接親父に相談してもらう方が話が早そうだった。

「しかしあの二体は本当に実用になるのか? あれだけ武器を隠してるが、公式戦じゃあレギュレーション違反だろ? それにピクシーバトルじゃ役に立たなそうな武器も多いしな」

 黒ロリと言うらしい黒を基調にしたフレイと、白ロリの白を基調にした衣装をハードアーマーの上に纏う灯理のピクシードールは、僕のシンシアと負けず劣らず特殊だ。

 衣装だけ見ればバトルピクシーなんて思う人はまずいないし、衣装の各部に隠された武器なんて、普通に考えればわざわざ隠す理由がない。それに短剣くらいまでのサイズならともかく、ナイフ以下のサイズの武器ではピクシーバトルではダメージを与えるには不十分だし、パンチ用マニピュレーターハンドか、ナックルで殴った方がよほど実用的だ。

 フレイヤの髪に隠してある極細のコントロールウィップなんて、もう何のために装備してるのかすら理解不能なものだろう。

 それらは皆、アライズして始めて実用になる武器なのだから、理解できなくても仕方ない。

「まぁ、あれは灯理の趣味だからね。突っ込んでもしょうがないよ」

「そうかも知れないがなぁ」

 組み手のような感じでフレイとフレイヤをゆっくりした動きで戦わせてる灯理の様子を、親父は首だけ振り向かせて眉を顰めながら眺めていた。

「ちなみにどっちが本命なんだ?」

「……何の話だよ」

 口の横に手を添えて潜めた声で言う親父の言葉に、僕は目を逸らした。

「わかってんだろ。夏姫ちゃんと灯理ちゃんのことだよ。やっぱりあれだけ手厚く世話してやった夏姫ちゃんが本命なのか? 灯理ちゃんはなんだか積極的みたいだし、いまはこっちが本命とか?」

「客のプライベートに踏み込んで来るなよ」

「そうかも知れないが、お前は身内みたいなもんだろ、克樹」

 店に来たときは親父とは世間話はよくするが、こんなことを突っ込まれる日が来るとは思ってもみなかった。

 興味津々らしく口元を歪ませてニヤけてる親父に、僕はため息を吐くほかない。

「別にどうだっていいだろ」

「そうなんだがな。しかし、あんまり曖昧にしてると、そのうちふたりともから嫌われるぞ」

「それこそ何言ってんだよ。僕はふたりをこの店に紹介しただけだよ。ピクシーバトルやるなら、ここが日本じゃ相談するには一番だと思ってるし、パーツの都合もつきやすいからね。それに結婚もしたことなさそうな人にそんなアドバイスされたくないって」

「うちを高く買ってくれるのはいいんだがな、若い頃はこれでもモテたんだぞ。結婚だってしてるしな」

「嘘っ?!」

 店に来るようになって以来、女性の影なんて見たこともなかった親父に奥さんがいるなんてあんまり信じられなくて、僕は思わず声を上げてしまっていた。

「ほれ。仕事のときは邪魔だから指には着けてないがな」

 言って親父が首元から引っ張り出したチェーンに着けられていたのは、シンプルな銀色の指輪。たぶん結婚指輪だ。

 むさ苦しい店の主の姿しか見たことがない親父が、結婚してるなんて想像もできない。

「うわっ、ちょっと会ってみたいかも……」

「会うのは、無理だな。もう十年も前に、な」

「……そっか」

 口元に笑みは浮かべてはいるが、親父の目にはどこか寂しそうな色が浮かんでいた。僕はなんて声をかけていいのかわからず、少し顔をうつむかせていた。

 ――もし親父がスフィアカップに参加して特別なスフィアを手に入れてたら、奥さんの復活を願っていたのかな。

 そんなことを考えてしまう。

 さっきの言葉の通りなら、十年くらい前に亡くなったと思われる奥さん。でも親父は「結婚してる」と言った。

 たぶんまだ親父はいまも奥さんのことだけが好きなんだろう。

 ――いやでも、参加するとは限らないか。

 平泉夫人の例もある。

 一度死んだ人間が復活するというのは、夫人も言ってたけど、いろんな影響が出る。普通にはあり得ないことなんだから。

 でもエリクサーにはそれが可能になる力がある。モルガーナが嘘を言っていないならば、だけど。

「そんなことより、話は戻るが、灯理ちゃんとはどうやって出会ったんだ?」

「なんでそんなことが気になるんだよ」

 顔を上げて見てみた親父の顔は、真剣な表情をしていた。

「夏姫ちゃんや近藤の奴が連れてきたときにも思ったし、ここのところの注文のときもいつも思ってるが、お前はいったい何をやってるんだろうな、と思ってな」

「知ってると思うけど、ヒューマニティパートナーテックでバイトみたいなことやってるから、それ関係のことだよ」

「本当に、そうなのか?」

 真っ直ぐに見つめてくる親父の視線を、僕は逸らすことができない。

 僕に対する疑いの色、心配をしているような色、そして強く疑問を感じているような色が、その瞳には浮かんでいた。

 ――でも親父に話すわけにはいかないよな。

 ショージさんにも話せていないエリキシルバトルのことを、間接的には関係してるとは言え、親父に話すわけにはいかない。さすがにモルガーナもこんな小さな店の店主まで調べてどうこうするなんてことはないだろうけど、何が起こるかわかったもんじゃない。

 期せる部分の万全は、期しておいた方がいい。

「なぁ、噂なんだが、こんな話を知ってるか?」

「何?」

 考え込んでしまっていた僕に声をかけてきた親父。

「噂なんで場所も正確じゃないんだが、夜の夜中に、エルフドールを使ってバトルしてた奴らがいるって話だ」

「エルフドールを使って? エルフじゃバトルできるほどの運動性はないんだから、アニメのネタが実際にあったみたいに言われてるか、誰かの願望を真実みたいに流してるだけなんじゃないの?」

 適当に返事をしてみるが、たぶんそれはエリキシルバトルのことだ。

 フェアリーリングを張れば外からは見えなくなるが、絶対じゃないし、張らずに戦うことだってある。もしかしたらどこかの誰かが見られて噂になってるのかも知れない。

「まぁ、確かに普通のエルフじゃバトルなんてできないし、もしそんなんで壊れでもしたら飛んでもない損害になるが、噂によるとソーサラーがいて、エルフサイズのドールを使ってピクシーバトルみたいなのをしてたってことらしい。バトルもかなり激しいものだったらしくてな、本物の剣で戦ってるみたいに、腕が斬り飛ばされたりしてたって話だ」

「……へぇ。でもただの噂なんだろ?」

「あぁ、ただの噂だ。しかし、一回だけじゃない。今年に入った辺りから、そんな噂を三度も耳にしてる。それぞれバトルの内容も違うみたいだしな」

「そうなんだ」

 ――やっぱり、僕たちの他にも戦ってる奴がいるってことか。

 たぶん目撃されたのは僕たちじゃないと思うけど、動揺してるのを親父に悟られないようにできるだけ普通に返事をする。

 聞いた限りの内容からすれば、確実にエリキシルバトルが目撃されて流れた噂だ。ネットでは見たことがない噂だったから、たぶん親父と繋がりのある人の間で出てきたものなんだろうと思う。

 どこまで親父がエリキシルバトルのことを把握してるかはわからないけど、やっぱり僕から話をするのはためらわれた。

「もう一度訊くが、お前はいったい何をやってるんだ?」

「何なんだよ。こだわるな。別に話すようなことじゃない。関係ないだろ」

「……そうか」

 何と返事していいのかわからず、心の中で焦った僕は、いつもより素っ気ない返事をしてしまっていた。

 そんな僕を見て、親父は少し悲しげに目を細めていた。

 

 

          *

 

 

「本当、克樹は何を考えてるんだか……」

 尖らせた口から克樹への文句を漏らしつつ、夏姫はバイト先に向かって、交通量の多い片側二車線の国道沿いの歩道を歩いていた。

 国道から道を一本入り、たどり着いたのは木をふんだんに使った少し古風な感じの喫茶店。

 午後のティータイムを楽しんでいる人が何人かいるのを見ながら、夏姫は建物と建物の間にある裏手の勝手口へと向かった。

「さぁ、今日も頑張ろう、っと」

 克樹へのわだかまりを断ち切るように呟き、勝手口に手をかけようとしたそのとき。

「お前が浜咲夏姫だな?」

「ん?」

 そんな声をかけてきたのは、勝手口のある細道の出口を塞ぐように立っていた男子。

 克樹も髪が立っていたりするが、彼の場合は整えていないというだけだ。目の前の彼の逆立った髪は、しっかりとセットしているようだった。

 背は克樹よりも少し高い程度。肩幅や袖を折り曲げて縮めたジャケットから見える腕などを見る限り、近藤ほどではないががっしりとした身体つきをしている。

 克樹のような根暗っぽかったりオタクっぽい雰囲気とも、近藤のようなスポーツ少年のような感じでもなく、野性味を感じる引き締まった顔立ちは、雑誌に出てくるモデルのような格好良さがあったが、夏姫の好みではなかった。

 おそらく自分と同じか、少し年上かも知れないと思える男子に、夏姫は見覚えがない。

「誰?」

「俺様は槙島猛臣(まきしまたけおみ)」

 そこで言葉を切った猛臣は、唇をつり上げて八重歯を見せながら笑む。

 微かに引っかかるところはあったが、誰なのか思い出せなかった。

 少なくとも知り合いではない猛臣が、自分の名前を知り、声をかけてくる理由を夏姫は思いつけない。

「何の用?」

 正体不明の猛臣に眉根にシワを寄せながらそう訊いてみると、彼は驚いたように目を見開いた後、深くため息を吐いた。

「用がないならこれからバイトだから、また今度にしてほしいんだけど」

「……用ならあるさ」

 呆れたのか、落胆したのか、少しの間うつむいていた猛臣は、顔を上げ、夏姫に言った。

「お前がスフィアカップで受け取ったスフィアを、買い取りに来た」

「どういうこと?!」

 思わず後退った夏姫だったが、建物の間の小道は行き止まりになっている。逃げ道は店の中か、猛臣の向こうにしかない。

 人ふたりがすれ違える程度の道幅はあるが、両腕を広げている彼とすれ違うのは難しそうだった。

 逃がさないようにするためか、勝手口よりも奥に後退ってしまった夏姫に近づき、猛臣は凄みのある笑みを浮かべた。

 ――なんで?

 制服の上着のポケットに入っている携帯端末には、エリキシルバトルアプリを常に立ち上げていて、鞄の中にブリュンヒルデを入れてきているいまは、エリキシルスフィアが接近すれば音とバイブレーションで知らせてくれるはずだった。

 逆に猛臣の方も、夏姫を見つけ出そうとするならば、同じようにアプリのレーダーを見ていたはず。

 それなのにアプリの接近警告はなく、それでも猛臣は夏姫に接近してきていた。

 ――もしかして、エリキシルドールを持ってきていない?

 見た限り彼が持っているのはセカンドバックひとつで、ピクシードールが入るサイズではない。名前を知っていたことも考え合わせると、もしかしたら猛臣はドールを持たずに、何らかの方法で夏姫のことを事前に知った上で接近しているのかも知れないと思えた。

「買い取りってどういうことなの? あれは戦って集めるって――」

「やはりお前はエリキシルバトルに参加してたか」

「あ……」

 猛臣に指摘されて、夏姫がバトル参加者という確証なしに近づいてきていたことに気がついた。レーダーを頼りに近づいてきたわけではない彼に、自分から参加者であることを暴露してしまっていた。

 怒りを覚える夏姫に、嫌悪を感じる笑みを口元に貼りつかせながら猛臣は言う。

「参加者だと言うなら話が早い。俺様はエリキシルスフィアを買い取りに来たんだ」

「でも、スフィアは戦って集めるものだってエイナから言われてるでしょ。買い取るのでいいと思ってるの?」

「何、問題はないさ。これが俺様の戦い方だからな」

 スフィアを集めるのに戦う必要があることについては、疑問を感じていた。けれどそこには何か意味があるのだろうとも思っている。

 買い取るという方法が自分の戦い方だと言う猛臣の言葉を、信じることはできなかった。

「とりあえず百万でどうだ?」

「ひゃ、百万?!」

 思ってもみなかった金額に、夏姫は思わず声を上げてしまっていた。

 ――それだけあれば、食事とか、服とか、いろいろ……。って、違うっ。

 一瞬誘惑に駆られそうになった夏姫だったが、首を振って考えを頭の外に追いやる。

「売れるわけないでしょ。お金のためにバトルに参加したんじゃないんだから!」

「そうか? なら、三百万でならどうだ?」

「え……」

 言いながら猛臣は、小脇に抱えたセカンドバッグに手を入れ、中身を取り出した。

 帯で纏められた一万円札の束が三つ、彼の手の中にあった。

 何故そんな大金を持ち歩いているのかと思ったが、買い取るという言葉が嘘ではなく、本当であることを夏姫は悟っていた。

 ――三百万もあれば、アタシは……。

 決して楽ではない生活。

 父親からの少ない仕送りと、バイト代でやりくりをして、どうにか保ってはいられる。大学にも行きたいとは思っていたが、おそらく無理だろうと思っている。少なくとも一年はアルバイトをしてお金を貯めなければならないだろうと。

 けれど三百万あれば、大学に行くこともできるようになるだろう。四年間の学費には足りないかも知れないが、その分はアルバイトをしながらであればどうにかなると思えた。

 ――違うっ。そうじゃない! アタシの願いは、お金なんかで買えるものなんかじゃない!!

 揺らぎそうになる心に活を入れ、夏姫は猛臣を睨みつける。

「売るなんてこと、できない。アタシの願いはお金で買えるものじゃないんだから」

「母親の復活か? お前の願いは」

「そうだよ。お金でママを生き返らせられるなら、バトルに参加する必要ないから。でも無理だから、アタシは戦ってるの」

「ふんっ。そうかよ」

 顔に笑みを貼りつかせたまま、猛臣は札束を鞄の中に仕舞い込む。

「もし、アタシのエリキシルスフィアがほしいって言うなら、戦って奪えばいい」

「いまはドールを持ってきていないからな。今度来るときはそうさせてもらうよ。まぁでも、もし気が変わって売る気になったら、連絡してくれ」

 言って猛臣は鞄のサイドポケットから名刺を取り出し、夏姫の前に差し出してきた。

「いらない。売るなんてことあり得ないから」

「そう言うな。お前から戦いを仕掛けたいときも連絡してくればいい」

 猛臣は名刺を夏姫の鞄のポケットに無理矢理押し込んだ。

 即座に取り出して手の中で握りつぶす夏姫に、彼は鼻を鳴らして笑う。

「また会おう。どうせエリキシルバトルに参加してる限りは、いつか会うことになるんだからな」

「もう二度と会いたくないから!」

 背を向けた猛臣にそんな言葉を叩きつけて、夏姫は去って行く彼を見送った。

 名刺を捨ててしまおうかと思ったが、店の裏にゴミを捨てるわけにもいかず、諦めの息を吐きながらスカートのポケットに乱暴に突っ込む。

「克樹に連絡しておいた方がいいか……。って、もうこんな時間!」

 名刺の代わりに取り出した携帯端末に表示された時間を見て、夏姫は勝手口の扉を開けて建物の中に入る。

 入ってすぐのところにある更衣室の扉を開けて入り、ロッカーから制服として与えられている濃紺のエプロンドレスを取り出して着替え始める。

「克樹には家に帰ってから連絡するか……」

 すぐにでも連絡をしておきたかったが、アルバイトの出勤開始時間が迫っていた。

 仕事時間中は携帯電話の仕様は一応にしろ禁止されていたし、まだ早い時間だったが、もうしばらくしたら夕食時間となり、悪く言えば古びた感じの、良く言えば落ち着いた雰囲気の店は、思いの外に多い常連客でごった返すことになる。

 仕事が終わってからしか、克樹に連絡するのは難しかった。

 上着をハンガーに掛け、ファスナーを下ろしたスカートを脚から外しブラウスも脱いで水色の下着姿となる。出しておいたワンピースを頭から被り、背中のファスナーを上げて、真っ白なエプロンを身につけた。

「――本当にあいつ、何者なんだろ」

 エリキシルソーサラーだろう槙島猛臣。

 どこかで聞いたことがあるような名前であったが、夏姫は思い出すことができなかった。

 

 

 

 メイドのような格好で愛想良く接客している夏姫を、猛臣は煤けたガラス越しに少し離れた場所から眺めていた。

 距離が離れているため、店の外にいる猛臣には詳しい様子はわからなかったが、客と軽いやりとりをしては他のテーブルに呼ばれていく夏姫は、どうやら人気者らしいことはわかった。

 笑うと細かく震え、動き回るときには大きく揺れるポニーテールが、夏姫の元気の良さを象徴しているかのように動いている。

 国道と歩道を隔てるガードレールに腰を預けて何気ない振りをして、猛臣はそんな彼女の様子を注視していた。

 ――まぁ、あいつのことはまた今度でいい。

 通行人に一瞬視界を遮られて我に返った猛臣は、上着の内ポケットから携帯端末を取り出す。

「次はドールを持って行くか……。こいつはほぼ確実だしな」

 携帯端末に表示されているのは、名前や現住所、本人の特徴や家族構成といった身上調査に関する報告書。さらにわかっている限りのピクシーバトルに関するデータだった。

 かなりの量になっているデータをスクロールさせて眺めていく猛臣は、一番下に貼りつけられている写真を見る。

 短い髪を角刈りのようにしている少年の顔写真が、そこにはあった。

「いや、先にあっちがいいか? あっちこそ、持っていくしかないだろうな。さて、どちらにするか」

 そう呟いた猛臣は、店内で忙しく動き回っている夏姫に一瞥をくれてから、駅の方に向かって歩き始めた。

 



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第三部 極炎(クリムゾン)の怒り 第一章 4

 

       * 4 *

 

 

 まるで墳墓の中にある玄室のような黒光りする壁に囲まれ、淡い照明が降り注ぐだけの部屋の中で、その女性は顔を顰めていた。

 部屋の中央にはベッドにできそうなほどに大きな、やはり黒光りする表面を持つ台が置かれ、決して広いとは言えないスペースを占有していた。

 台に左手を軽く着きながら立ち、右手にスレート端末を持つその女性は、部屋の薄闇に溶け込むような黒いスーツを着、黒い髪を背に流し、しかし紅い唇と光を放っているような白目に囲まれた闇よりも深い瞳だけが、鮮やかに浮かび上がっていた。

 モルガーナは、物音ひとつしないそこで、スレート端末に表示された情報を一心に読み取る。

 カルテのような書式で書かれたその情報にあったのは、中里灯理の名前。

 細かに書かれた内容を時折スクロールしながら読み取り、ひとつ大きなため息を吐き出し、スレート端末を台の上に放り出した。

「もうひとつ予備があればと思ったのに、あれだけ希有な能力となると、なかなか見つからないものね。時間もさほどないし、このまま進めるしかなさそうね」

 目尻にシワをつくりながら唇に軽く折り曲げた指を添え、誰に言うでもなく呟いたモルガーナ。

 気を取り直したように顔を上げた彼女は、右手を台の上にかざした。

 それまでただ黒光りする平面でしかなかった台の上に浮かび上がったのは、広さいっぱいの日本地図。

 どこからか投影されたわけでもないのに、わずかに台の表面が透過して見えるその地図は、山々の起伏や市街地らしき場所の様子も細かいながらも再現され、それどころか上空の雲すらも描かれていた。

 そして、二十ほどの紅い光点が、ひと際光を放ちつつ点在している。

 光点の大きさにはばらつきがあり、他に比べて巨大とも言える光点がふたつあった。

 東京付近にある光点は、全部で五つ。

 他のものよりも小さい、最小の光点が四つと、巨大な光点のひとつが、近い距離に集まっている。

「あら? あの子も頑張っているのね」

 ふとわずかに上げたモルガーナの視線の先には、北関東に位置するもうひとつの巨大な光点があった。

 その光点には小さな光点がすぐ側にあって、いままさにロウソクの炎のように光を揺らめかせていた。

 見ている間に小さな光点は、巨大な光点に取り込まれるように消滅した。

「宣言通り、好きにやっているようね」

 それまであった、まさに魔女と言うべき人間とは隔絶した雰囲気を纏っていたモルガーナは、そう呟くときに微かに、ほんの微かに人間味のある笑みを口元に浮かべていた。

「さぁ、克樹君。次は貴方の番よ」

 広いとは言え、台の上に映し出された日本全体を映した地図では、光点ひとつひとつの動きはわからない。

 しかしモルガーナには、東京付近にある巨大な光点が、他の四つの光点を飲み込もうと接近しつつあるのが見て取れた。

「最強の敵を相手に、貴方たちはどう戦うのでしょうね?」

 先ほどの人間味のある雰囲気を消し去り、魔女と呼ばれるにふさわしい空気を取り戻したモルガーナは、唇の片方をつり上げて笑む。

 そのとき、巨大な岩を叩いたような音が小さく響いた。

「入りなさい」

 右手を振って地図を消したモルガーナがそう声をかけると、壁そのものが動くかのような音とともに、それまで扉すらなかった部屋に入り口が開いた。

 入ってきたのは、ひとりの男。

 高いはずの背を丸め、肩も小さく竦めて両手を擦り合わせるように組んでいる男は、下から見上げるようにしてモルガーナの正面に立つ。

 青年と言うには老け、初老と言うにはまだ若い男の首筋から頬にかけては、火傷のものらしい跡が、薄暗い部屋の中でも浮かび上がっていた。

「そろそろ時間です」

「そう。わかったわ」

 虫けらを見るような目で男を見つめ、モルガーナは放り出していたスレート端末を小脇に抱えて部屋の外へと向かう。

「そう思えば、あの小娘はどうするので?」

「小娘? あぁ、中里灯理のこと」

 外に先導するように立つ男の言葉に、モルガーナは嫌悪が籠もった視線を向ける。

「使うには能力が足りないようだから、放棄するわ」

「ならば、ぼくの好きにしてしまってもよろしいので?」

 それまで濁っていた男の瞳に光が宿り、口元がだらしなく緩んだ。

 人間離れした魔女と言うべき空気を、背筋が凍るような冷気に変え、しかしモルガーナは男に言う。

「えぇ、好きにしても構わないわ」

「へへへっ。だったらこれはぼくへの報酬ということで、またお願いしますよ」

「私はいいけれど、ヘタすると死ぬわよ、貴方」

「へっ?!」

「前に話したでしょう、音山克樹のことは。中里灯理は彼と接触したわ。ヘタに貴方が接触しようとしたら、逆に襲われることになるわよ」

「それはイヤだっ。絶対にぼくは死にたくないっ。絶対に、絶対に死にたくない……」

 下卑た様子をかなぐり捨て、男は両腕で自分の身体を抱き締め小刻みに震え始めた。

「そう。それならば、近づかないのが賢明でしょうね」

「ううっ、うううぅぅぅ……」

 恐怖と悔しさの表情を交互に見せる男に顎をしゃくり、外に出るように促すモルガーナ。

 玄室の中を振り返った彼女は、いまはもう地図を写していない台の上に視線を走らせた。

「期待しているわよ」

 紅い唇を大きく歪ませた直後、扉は重々しい音を立てて閉じた。

 

 

          *

 

 屋敷のダンスホールに持ち込んだソファに座る平泉夫人は、側に置いたカートの上のティカップをソーサーごと取り、静かに紅茶をひと口飲む。

 照明は煌々とホールを照らし出していたが、少し前ならばこの時間そろそろ暗くなってきていた窓の外からは、まだ赤くなり切らない陽射しが差し込んできていた。

 黒の落ち着いたワンピースを身につけた夫人が眺めるホール内には、克樹が来るときのようにピクシーバトル用のリングは設置されていない。

 夫人が座るソファと側のカートの他にはとくに何もなく、ダンスで動き回っても大丈夫なくらいのがらんとした空間が広がっているだけだ。

「失礼いたします。お連れしました」

 そんな芳野の声の後、窓とは反対側の中央にある大扉が開かれた。

 深緑の地味なエプロンドレスを纏う芳野にエスコートされて入ってきたのは、ひとりの少年だった。

「お久しぶりね、猛臣君。二年ぶりくらいだったかしら?」

「ご無沙汰しています。敦子さん」

 カップをカートに置いて立ち上がった夫人の前に立ち、猛臣は格式張った礼をする。

 顔を上げて猛臣と交わした視線で、夫人は彼の用事が予想していたものに間違いないと確信した。

「突然どうしたのかしら? 今日は平日よ。学校は大丈夫なの?」

「もう三年で、うちの高校は自由登校のような感じになっているので大丈夫です。今日は自分の車でドライブがてら、近くに寄ったもので、もしいらっしゃったらと思いまして」

 もう十八歳である猛臣が免許を持っていることも、免許を取る前から公道上ではないだろうが、運転の練習をしていたと思われることは不思議に思わなかったが、近くに寄ったからという言葉については嘘であることに気づいていた。

 猛臣は関西方面ではよく知られた旧家にして資産家家系の生まれ。血筋なのか家系の者の多くが政治や経済、研究分野などの才能に恵まれ、彼自身も中学の頃から才能を発揮し始めた。

 会ったことがあるのは二度。まだ彼が幼い頃に家同士のつき合いで一度と、つい二年前に、SR社が主催したパーティの席でだった。

 主にスフィアドールなどの先端技術に関する方面との関わりが深い平泉夫人に対して、猛臣の家である槙島家は不動産や輸入関係の事業との関連が深いため、利害の対立も協力をすることもほぼなかったが、猛臣の話はよく耳にしていた。

 彼はいま、SR社で技術者として参加し、人工筋やフレームの開発に携わっている。彼のアイディアや研究は多くが採用され、スフィアドール業界で彼の名前を知らぬ者はいないほどの有名人だった。

 そんな彼が今日屋敷に訪れたのは、決してスフィアドールのことや、世間話をしに来たわけではないと、夫人にはわかっていた。

「それで、今日はどんな用事なのかしら?」

 克樹よりももう少し背が高いと言っても、高身長というわけではない猛臣を見下ろし、夫人は若干語気を強めて言った。

「たいした用事じゃないですよ。……貴女の、エリキシルスフィアをもらい受けに来た」

 丁寧だった口調を崩し、挑発的な視線を返してくる猛臣は、それまでの澄ました顔をやめた。

「やっぱりね」

「貴女はあのスフィアを受け取ってる。それに最愛の旦那を亡くしてる。参加してないわけがない。貴女は旦那の復活を願ってエリキシルバトルに参加してるはずだ」

「そう言う貴方の願いは、やっぱり穂――」

「うるせぇっ!!」

 夫人の言葉を遮り、猛臣は歯を剥き出しにして怒りを露わにする。

 つかみかからんばかりの剣幕に、芳野が割って入ろうとするのを手で制し、一歩近づいて彼を見下ろす。

「けれど残念ね、猛臣君。私はエリキシルバトルには参加していないのよ」

「嘘吐け! 安原と平泉の家を捨ててまで一緒になった旦那を生き返らせたくないわけがないだろ!!」

 顔を真っ赤にしてまで怒りを発してくる猛臣に、夫人は思わず口元に笑みを浮かべていた。

 ――本当に若いわね。あの子と同じように。

「本当よ。エイナに誘われはしたけれど、参加しなかったのよ、私は」

「まさか、そんなことが……」

「大人には大人の事情というものがあるのよ、猛臣君」

 言って夫人はカートの中段からアタッシェケースを取り出し、開いた。

 中に入っていたのは彼女のピクシードール、闘妃。

「これがあのとき贈られたスフィアを使ってるドールよ。確認する方法があるのかどうかはわからないけれど、これにはエリキシルバトルに参加するための能力は備わっていないわ」

 上着のポケットから携帯端末を取り出した猛臣の顔は表示を見て驚きに染まった。

 顔を上げた彼は、そのままの表情を夫人に向けてくる。

「……もし、参加してないとしても、念のため回収したい。買い取らせてもらえないか?」

 さきほどまでの勢いを失った猛臣の提案に、夫人は小首を傾げながら考え込む。

「金額的にはさほど高いもののようには思えないのだけれど、これはスフィアカップに参加した、ある意味で記念の品なのよ。それに、私は買い取ってもらわなくても、それほどお金には不自由していないから……」

 猛臣に言っているというより、考えていることを言葉に出しているように言い、夫人はどうするかを考える。

「だったらこういうのはどうかしら?」

「いったい何だ?」

 思いついたことに手を叩き、にっこりと笑う平泉夫人は不審そうな顔をする猛臣に提案する。

「参加していないから詳しいことは知らないのだけど、エリキシルバトルはスフィアを戦って集めるものなのでしょう? だったら、戦って決着をつけるというのは?」

「……別に、構わないぜ」

 わずかな時間、驚いた顔をしていた猛臣は、口元に笑みを浮かべ、最初に部屋に入ってきたときの余裕を取り戻した。

「だけどどうするんだ? 俺様が勝ったらあんたのスフィアをもらうが、参加者じゃないんだったらエリキシルスフィアを俺様から奪っても仕方ないだろ?」

「確かにその通りね」

 対戦相手と認めたからか、すっかり敬意の欠片もなくなった猛臣に、夫人は口元から零れそうになる笑みを抑えながら言う。

「私が勝ったときは、他人には必ず敬意を持って応対することを徹底する。それからもうひとつ」

「あぁ」

「私の願いを、ひとつだけ何でも聞く、というのはどうかしら?」

 一瞬渋い顔になった猛臣だったが、どんな考えに至ったのか、軽く鼻を鳴らした後、提案を受け入れた。

「それで構わないぜ」

 負ける気は少しもないらしい猛臣は、両手を腰に当てて顎を反らして笑みを深める。

「ではリングの設置を――」

「いいえ。待って頂戴、芳野。これはもしできたらという提案なのだけど、せっかくエリキシルスフィアに関わる戦いなのだから、エリキシルバトルで決着をつけるというのはいかが?」

「エリキシルバトルで? だがそっちのスフィアはアライズできないだろう?」

「そうね。でもたぶん、可能だと思うのよ。バトルのことを少しは知っているけれど、部外者の私がエリキシルバトルをやっても大丈夫かどうかが、気になるのだけれどね」

「それは……、大丈夫だけど。前にも取り巻きを連れてた奴はいたし……」

 何度もバトルを経験しているらしい猛臣は、表情を曇らせつつも考え込む。

「いや、たぶん大丈夫だ。それくらいのことで参加資格を失ったりはしないだろ。俺様も興味がある。どうすればいい?」

「ではドールを床に立たせてもらえる?」

「……わかった」

 不審そうに目を細めつつも、猛臣は肩から提げた大きな鞄を開き、黒いヘルメット型のスマートギアとともに、アタッシェケースを取り出した。

 スマートギアを頭に被り、携帯端末ではなく、鞄の中にケーブルを接続した彼は、アタッシェケースからドールを出して顔が薄く映るほどに磨き上げられた木の床に立たせた。

 同じようにワインレッドのスマートギアを被り、芳野の手で床に立たせた闘妃とリンクした夫人は、猛臣のドールの前まで歩かせる。

「両手を出して頂戴。そう、そんな感じで。リンクが確認できたら、お願い」

 予想するまでもなく、第五世代フレームを使った猛臣のドールには、手の平に外部武装操作用の接続端子が設置されている。闘妃にも設置されているそれを、お互いに伸ばした両手を握り合わせて接続した。

 それは少し前に、克樹が来たときに話していたことから想像した方法。

 同時にふたりの敵を相手にするのではなく、デュオソーサリーのことを気にしていた彼の様子から、そのときの敵はひとりで、ドールは二体なのだと想像していた。

 だからこの方法で、大丈夫のはずだった。

「……アライズ!」

 何かを籠めるように一拍間を置いた後、猛臣はそう唱えた。

 彼のドールと一緒に、光に包まれた闘妃。

 目が開けていられないほどの眩しさにスマートギアのダンパー機能が発動して暗くなった視界。弾けた光から現れたのは、身長百二十センチほどとなった闘妃だった。

 ――なるほど、やはりね。

 カメラアイからの映像をサブの視界にし、平泉夫人はピクシードールからエリキシルドールへと変身した闘妃を眺める。

 それから、手を離して距離を取った猛臣のドールを見つめた。

「貴方のデザインするドールは、本当に美しいわね」

「褒めても何も出ないぜ」

 まんざらでもないらしく、ヘルメット型スマートギアから覗く唇を少しつり上げて笑う猛臣。

 まだ構えを取らず、闘妃と対峙する彼のドールは、黄金色に輝いているように見えた。

 白いソフトアーマーの上に光沢のある黄土色のハードアーマーを纏うそのドールは、手足の太さやハードアーマーが覆う面積からスピードタイプのように見えた。

 装飾に見える肩や腰から伸びるアーマーは、決してただの装飾ではないだろう。大小の剣を腰に佩くそのドールの金色の髪は、少し高い位置で結い、ポニーテールにまとめられて背中へと流れている。

 スフィアロボティクスでは主に内部パーツに使われる素材の開発を行っている猛臣だが、自作のドールのデザインも自分でやっている。

 彼のデザインするドールは、どれも美しく、人を寄せつけない神々しさを放っている。いまはそれが、アライズによってさらに強化されているように夫人には思えていた。

「私のドールは闘妃。貴女のドールの名前は何と言うの?」

「イシュタル」

 誇るでもなく何かを主張するでもなく、素っ気なくメソポタミアの豊穣の女神の名を告げる猛臣。

「そう。いい名前ね」

 ――似ているわね。

 声には出さず、百二十センチと、子供程度のサイズのエリキシルドールを眺めながら、夫人はそう感じていた。

「これがエリキシルバトルに参加したときに得られる力なのね」

 ソフトアーマーとハードアーマーを混在させた特殊な黒い外装を纏う闘妃をホールの中央に移動させながら、平泉夫人は猛臣に話しかける。

「他にもあるが、これがエリキシルドール。これから始まるのがエリキシルバトルだ」

 夫人の側から離れ、ホールの反対側の壁沿いに立った猛臣は、部屋の中央近くにイシュタルを移動させた。

「さっさと終わらせよう。俺様は忙しいんだ」

「そうね。始めましょう」

 スマートギア越しに芳野に視線を飛ばし、彼女にゴングの準備をさせる。

 ――これが貴方がやっている戦いなのね、克樹君。

 すぐに勝って終わらせるつもりらしい猛臣は、イシュタルの長剣のみを抜かせて、腕を下ろしたままで構える。

 闘妃のカメラアイをメインにし、左右の長い刀を抜いた平泉夫人。

 見えるものはスケールの違いだけで、普通のピクシーバトルと同じように思える。

 けれど少し動かしただけでも、闘妃の運動性能などがピクシードールだったときとは違ってきていることに、夫人は気がついていた。

 そして小柄ながらも、ドールとの一体感は、エリキシルドールの方が高いように思えた。

 ――猛臣君相手なら、真面目に、全力でやっても大丈夫そうね。

 自然と口元に笑みが浮かんでくるのを感じながら、平泉夫人はゴングが鳴った瞬間、両手に持った刀を光に変えた。

 

 

          *

 

 

「うはっ……」

 止めていた息を吐き出して、僕はフローリングの床にへたり込んだ。

 別に身体を使って運動してたわけじゃないのに、集中力が途切れた僕は肩で息をして、立ち上がる気力も湧いてこない。

 リーリエに手伝ってもらってソファやテーブルをどかして広くしたLDKで、アライズしたアリシアもまた、尻餅を着く形で脚を投げ出して座り込む。

『おにぃちゃん、やっぱりこれ、長い時間はきついよぉ』

「そうだな」

 リーリエもまたアリシアをコントロールしてただけなのに、疲れたような声を天井にあるスピーカーから発していた。

 僕はいま、リーリエとともに新しい戦法を試してみていた。

 今日、灯理と一緒に行ったPCWで、注文していたパーツの残りを受け取ってきた僕は、慣らしも充分じゃなかったけど、ショージさんに頼んでいたアプリも先週来ていたので、早速試してみたくなった。

「三十秒も保たないか」

 スマートギア内のストップウォッチの表示は、新戦法の発動から停止までの時間が、三十秒をわずかに欠ける数字で止まっている。

 HPT社の試作用フルスペックフレームを使い、サブフレームはこれまで以上に強度と滑らかな動きを重視して選び、人工筋も必殺技使用時のポテンシャルを一番に考えながら、新しく発売された性能の高いものを取りつけていた。

 アリシアにはいまのところ何も問題はない。

 強いてあるとすれば人工筋の慣らしが充分でないことと、新戦法使用時の劣化進行速度が速いことくらい。

 問題があるのは僕と、そしてリーリエの集中力。

 それから僕たちの呼吸の合い具合だった。

『はい。おにぃちゃん』

「ありがと、リーリエ」

 僕が息を整えてる間に、リーリエはキッチンに準備してあったコーヒーを保温マグカップに注いで持ってきてくれた。

 牛乳もたっぷり入ってるコーヒーを、床に座り込んだままひと口飲む。

『もっともっと練習しないとダメだねぇ』

「そうだな」

 僕の隣に体育座りをするアリシアでにっこりと笑いかけてくるリーリエに、僕も笑みを返した。

 まだ名前もつけてない新戦法は、とにかく僕にもリーリエにも集中力がいる。そして何より、慣れが必要だ。

 できればリラックスしててでも使えるくらいに。

 それはそれで何か別の問題が発生しそうな気がしないでもなかったけど、もっと練習が必要なことは確かだった。

 ――これが使えるようになれば、この先で戦う敵にも勝っていけるかなぁ。

 いまのところ僕はもちろん、リーリエだって平泉夫人には一度も勝ててない。スフィアカップ準優勝の夫人レベルの人くらいには勝てないと、エリキシルバトルを勝ち抜いてきた相手に勝てる気はしない。

 夫人にも言われてる通り、僕にはバトルソーサラーとしてたいした才能はない。

 まだまだ成長途中のリーリエに対して、今後は僕が足手まといになりかねないと思っていた。

 そうならないために、そして僕というソーサラーと、リーリエというソーサラーのふたりがいるという利点を活かすこと。

 それが新しい戦法の骨子だった。

『夏姫、大丈夫だったかなぁ』

「どうしたんだよ、いきなり」

 突然呟くように言うリーリエの言葉に、コーヒーを飲み干して立ち上がった僕は訊ねる。

 一緒に立ち上がったアリシアが、僕の顔を見上げる。

 約百二十センチと、死んだ頃の百合乃に近い身長の、アライズ状態のアリシア。

 けっこう髪が短かった百合乃と違って、スフィア冷却用に水色のツインテールが頭の左右から伸びているアリシアに、リーリエは心配そうな曇った表情をさせた。

 百合乃の記憶はなく、でもあいつに雰囲気も性格も似ているリーリエが、アライズしてるアリシアを操ってると、時々百合乃が目の前に現れたんじゃないかという錯覚を覚える。

 ――そんなはずはないんだけどな。

 これまでとそれほど外見が変わらないアリシアは、白いソフトアーマーに水色のハードアーマーを纏った、明らかにスフィアドールだ。

 それなのに僕は本当に時々、アリシアが百合乃のように見えることがあった。

『今日別れるとき、夏姫が凄く怒ってたなぁ、って思って』

「……そうかも知れないな」

 校門のところで灯理に引っ張られて夏姫と別れたとき、彼女はけっこう怒ってる様子だった。

 何かと僕に近づいてくる灯理がいると、いつもそんな感じではあったが。

『灯理のことも別に嫌いってわけじゃないけど、ずるいんだもん。おにぃちゃんとあたししかいないときはそんなでもないのに、夏姫がいるときだけおにぃちゃんにベタベタしてくるし。夏姫に意地悪してるみたいで、あれはイヤ』

「あー。そんな感じはあるな」

 思い返してみると、灯理にはリーリエが言ってるようなところがあった。

 彼女とのバトルに決着がついて以降、そんなに積極的ではなくなった灯理。それでも隙を見せると不意打ちを食らうから注意は必要だけど、彼女の方も僕が押し倒したくなるような隙をつくることはなくなった。

 それなのに夏姫がいるときに限って、灯理は僕に身体をくっつけてくる。

 これまで意識してなかったけど、リーリエの言う通りだった。

 ――そんなことより、いまはエリキシルバトルだよね。

 新戦法を使えるようにしないと、これから先のバトルで勝ち残れないような予感がしている。

 夏姫も灯理も可愛いと思うし、たまに欲望のままに襲いかかってみたくなるようなことだってあるけど、そんなのはエリキシルバトルが終わってからでもいいと、僕は最大限の理性を発揮していた。

 エリキシルバトルも中盤戦に入って二ヶ月ほど。

 もしかしたら年内には終わるかも知れないバトルの方が、僕の願いを、復讐という願いを叶える方が、いまの僕には重要なことだ。

 ――でも、それが終わった後は?

 ふと、そんな考えが浮かんで、僕は何も考えられなくなる。

 不思議そうに小首を傾げながら僕の顔を覗き込んでくるリーリエに何かを言おうと思うのに、言葉が浮かんでこない。

 バトルが終わった後、自分がどうするかなんて考えられなかった。

 一応夏姫とはキスの予約をしてるわけだけど、バトルが終わった後、勝って願いを叶えるにしても、負けて叶わないにしても、自分がどうなってるか想像できない。夏姫や灯理とどんな関係になってるのか、思い描くこともできない。

 ――いまは考えるのはやめよう。

 どうなるかわからないバトルの行く末なんて、想像するだけ不毛だ。

 もう一杯コーヒーを飲んでから練習を再開しようと思って、カップを持って僕はキッチンへと向かう。

『ねぇ、おにぃちゃん。夏姫に電話でもしておく?』

「何て言うつもりだよ」

 後ろに着いてきたアリシアに向かって、僕は呆れて返事をしていた。

 この時間であれば夏姫はもうバイトを上がって家に帰ってくる頃合いだけど、灯理とやり合うのはここのところの恒例だ。わざわざ電話をかける必要があることのようには思えなかった。

「明日はここに集まる予定なんだから、大丈夫だろ」

『ん……。そうだね』

 納得し切ってはいないようにアリシアの顔をうつむかせているリーリエ。

 キッチンに入ってコーヒーメーカーのジャグからカップに注ぎながら、僕は今日最後に見た夏姫の顔を思い出していた。

 怒ったような表情で、でも寂しそうに少し揺れている彼女の瞳。

 ――いまはあいつ、何をしてるんだろうな。

 あの古びたアパートにいるだろう夏姫のことを、僕は何となしに想っていた。

 

 

          *

 

 

「んーっ」

 制服を脱いでハンガーにかけた夏姫は、ブラウスのボタンを外しながらうなり声を上げた。

 アルバイト先の喫茶店のまかないで夕食を食べてきたので、あとはシャワーを浴びて、期末試験に向けた勉強をできたらして、眠るだけだった。

 開いた胸元から覗くのは、可愛らしくて気に入っているのに誰に見せる予定があるわけじゃないブラジャー。最近少しキツくなってきたピンクのそれを見下ろし、もう外に出る予定もないか、と思う。

 喫茶店を出たときにはまだ少し明るかった空は、もうすっかり暗くなり、カーテンを引いた窓の向こうは暗い。

「まぁいいか」

 そろそろ蒸し暑さを感じるようになってきた部屋で、エアコンをまだ使いたくないと思う夏姫は、寝るときにも使っている大きなサイズのTシャツをローチェストから取り出し、ブラウスの代わりに頭から被った。

「先に復習やっちゃうかぁ」

 五月の実力テストの追試以降、ちょくちょく勉強を教えてもらっている克樹からは、予習はともかく復習はするように言いつけられている。

 その成果が徐々に出ているのか、以前に比べて授業の内容も小テストなどもわかるようになってきていた。

 鞄からヒルデを取り出して充電台に置き、授業用のタブレット端末も取り出して電源を入れた夏姫だったが、ため息をひとつ漏らして頬杖をついた。

「克樹の奴、何考えてんだろ」

 校門のところで灯理に胸を押しつけられていた今日の克樹。

 顔こそ引きつっていたが、嫌がったり振り払ったりする様子はなかった。

 灯理は夏姫の目から見ても勝負にならないほど可愛く、あんな風にされたら嫌がる男子はいないだろうとは思う。

 ――でも克樹、アタシとはキスの約束もしてるでしょ。

 下唇を人差し指で撫でる夏姫は、優柔不断な克樹に鼻から息とともに不満を吐き出していた。

「でもあれは、アタシも悪かったかもなぁ」

 約束はしたけれど、果たされいない彼とのキス。

 あれ以降はそんな感じのシチュエーションにならなかったのもあったが、そのときに言った「責任を取ってもらう」という言葉を、彼が思っていた以上に重く受け止めている様子もあった。

 ふたりきりになると、それまでと違ってぎこちなさを感じることがある。

 ――そこまで真面目に言ったことじゃなかったんだけどなぁ。

 気持ちや理性よりも、欲望や勢いが暴走している雰囲気があった克樹を冷静にさせるための言葉だったが、妙なところで真面目な彼は、あの言葉を真正面から受け止めているのか知れなかった。

「一回ちゃんと話した方がいいかな?」

 そう呟く夏姫だったが、どういう意味で、どう説明するかを想像して、恥ずかしくなって両手で顔を覆っていた。

「あー、そっか。あのことも話さないと」

 彼女が視線を飛ばした先にあったのは、握りつぶされた紙片。

 槙島猛臣と名乗った彼が無理矢理渡してきた名刺だった。結局捨てられずに持ってきてしまっている。

 アルバイト中は連絡できず、疲れて家に帰り着くまでは連絡することも忘れてしまっていたが、新しく現れたエリキシルソーサラーのことは、克樹はもちろん灯理も近藤たちにも早く連絡しておいた方がいい。

「そうだよね。早く知らせておかないと」

 発する雰囲気だけなら相当の強敵らしい猛臣。

 近藤のときや灯理のときがそうであったように、彼との戦いも激しいものになるかも知れなかった。

「よしっ」

 気合いを入れた夏姫は、机の上の携帯端末を手に取った。

「え?」

 それと同時に、着信音が鳴り響いた。

 表示されているのは見知らぬ番号。携帯端末ではなく、市外局番からすると、都内ではない近県からの着信。

 深夜というほどではないが、何かの営業といった電話がかかってくるには遅い時間、夏姫は通話をしてくる相手を予想することができなかった。

「……はい」

 何となく嫌な予感がした夏姫は、恐る恐る応答ボタンをタッチし、携帯端末を耳に寄せた。

『よかった。浜咲夏姫さんのお電話でしょうか?』

「はい。そうですけど……」

『こちらは――』

 隣県の病院を名乗る女性からの電話。

 話の内容を聞き、夏姫の表情は驚きに変わり、そして凍りついていく。

「嘘、ですよね?」

『いいえ、本当です。今日はもうこんな時間ですから、できたら明日、こちらに来てください。もしできたら――』

 まだ話を続けている女性の言葉に、半分無意識にタブレット端末でメモを取る夏姫の瞳からは、光が失われていっていた。

 

 



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第三部 第二章 クリムゾン・エッジ
第三部 極炎(クリムゾン)の怒り 第二章 1


 

第二章 クリムゾン・エッジ

 

 

       * 1 *

 

 窓側の後ろの方にある僕の席の斜め前は、空席だった。

 やっぱりたいしたことを話していない担任教師の終わりのホームルームの連絡事項を聞き流しつつ、僕はその空席をじっと見つめていた。

 今日は火曜日。

 空席の主は、夏姫。

 土曜に校門の前で別れて、日曜は僕の家で練習をするはずだったけど、夏姫は来なかった。

 いつも一番に来て昼飯をつくってくれたり、それができないときはメールでも通話でも連絡をくれていたのに、何の連絡もなかった。こちらからの連絡にも応答がなかった。

 週が明けた昨日の月曜は学校を休み、今日もまた夏姫は休みだった。

 ――何やってんだ、あいつは。

 姿を見せず、連絡も取れない夏姫に、僕は苛立ちを感じていた。

「ちょっと克樹。夏姫と何かあったの?」

 日直の挨拶の号令に自動的に礼をこなした後、ポケットに忍ばせておいたイヤホンマイクを耳につけて電源を入れたところで、そんな声をかけてきたのは遠坂。

「なんだよ」

「夏姫、今日も休みじゃない。あんたがなんかヘンなことして、休んでるんじゃないの?」

 苛立ってる、と言うより僕に対して怒ってる様子の遠坂は、犯人が僕であるかのように、周りにまだクラスメイトがたくさんいるというのに声を荒げてくる。

 担任こそもう教室を出ていていないが、クラスのそこかしこから僕に白い目が向けられる。僕に対する悪評がさらに広まるような気がしたが、そんなのはいまさらだからどうでもいいことにする。

「僕は何もやってない」

「本当に? 先週は他の学校の可愛い女の子に抱きつかれたり手をつないで歩いてたって話も聞いてるんだけど? 二股かけて夏姫を泣かしてたりするんじゃないの?!」

 頭から僕が悪いと決めつけてくる遠坂は、僕の反論に対して顔を怒りに染めながら、唾でも飛ばしそうな勢いで言葉を投げつけてくる。

「別に、その他の学校の子とつき合ったりしてるわけじゃない。というか、夏姫とだってつき合ってるわけじゃない」

「え? 嘘……。そうなの?」

「本当だ、って。僕はそんな可愛いことつき合うようなキャラじゃないだろ」

「それは……、否定しないって言うか、本人同士の問題だけど。克樹が普通に女の子とつき合ってるのなんて想像できないけどさ」

 勢いを失った遠坂は少し呆然とした感じで、意識してるのかどうなのか、割と傷つくことを言ってくれるが、僕自身が言ってるんだからしょうがない。

「で、でも、夏姫が克樹のせいで休んでないってのは? 連絡したけど返事もないんだけど」

「家の事情で休んでるらしいよ」

「そうなの?」

「担任に確認したら、夏姫からそう連絡があったって言うんだから、本当だろう」

「……そっか」

 やっと納得してくれたらしい遠坂は、机越しに詰め寄るようにしていた身体を起こした。

 連絡がつかない夏姫のことは、今日の午後に担任に確認していた。

 彼女は独り暮らしなんだ、酷い風邪でも引いたら助けてくれる人も側にはいないんだし、エリキシルバトル関係のトラブルに巻き込まれて大変なことになってないとも限らない。

 担任からは家の事情、という以上のことは教えてもらえなかったが、昨日も今日も朝に連絡があったそうだから、たぶん大丈夫なんだろう。

 昨日の放課後には夏姫の家を訪ねてみたが、呼び鈴を鳴らしても出てこなかったし、部屋の中からは物音もしなかった。ただエリキシルスフィアの反応だけはあったから、ブリュンヒルデは家に置いたまま出かけてるんだと思う。

 ――いったい、何があったって言うんだ。

「ねぇ、克樹」

「なんだよ」

 何か用事でもあったのか、まだ僕の前で考え込むように顎に指を当てていた遠坂が声をかけてくる。

「先生からプリントとか届けてほしいって言われてるんだけど、克樹も行く?」

 二年でもクラス委員に選抜された遠坂は、手に持っていたデータスティックを僕に示してくる。

 プリントと言いつつほぼデータでしか配られない配布物は、学校の中にいれば何も気にせず授業用の端末で受け取れるけど、学校外ではセキュリティがどうとかでネット経由で送信ができない。授業用の端末に接続することでセキュリティが解除されるスティックに、昨日と今日の分のプリントが入ってるんだろう。

「……行かない。別にそこまで気にしてない」

「何言ってんの。連絡取れないからって先生に安否の確認取りに行ったあんたが」

「ぐっ……。家にいないかも知れないし」

「ん、わかった。もし家にいて、話聞けたら教えるよ」

「デリケートな問題かも知れないんだから、しつこく聞き出したりするなよ」

「わかってるって」

 すっきりとしたものじゃないが、笑みを浮かべた遠坂は軽く手を振って教室から出ていく。

 聞き耳を立てていたらしいクラスの連中も、解散して帰りの準備を再開していた。

 最後まで視線を向けてきていた近藤に肩を竦めて見せて、僕はひとりで教室を出る。

『夏姫、大丈夫なのかなぁ』

 イヤホンマイク越しに、リーリエがそんなことを言ってくる。

 廊下を歩きながら、僕はそれに小声で答えた。

「連絡つかないんじゃわからない。ヒルデは無事なんだから、本当に家の事情なんじゃないか?」

『そうかも知れないけど、心配だな。むぅ……』

「まぁな」

 心配そうなうなり声を耳元で上げてるリーリエに同意の返事をしながら、僕は考え込んでしまっていた。

 父方も母方も親戚づき合いはないという話は夏姫から聞いてたし、母親の春歌は故人なのだから、本当に家の事情だとしたら、おそらく父親に何かがあったということだ。

 夏姫からは微妙な関係らしい父親の話はずいぶん前に聞いて以降、一度も話題に出たことがない。

 本当に家の事情なのかどうかも怪しいところだったけど、連絡がつかないし、家にもいないんじゃ、僕にはどうすることもできない。

 苛立ちが抑えきれず、僕は昨日からもう何度したかもわからない舌打ちをしていた。

 ――なんでもいいから連絡してこいよ、夏姫!

 

 

          *

 

 

「ここ、だったよね」

 携帯端末のナビ表示で間違いないことを確認して、明美は大きな地震でもあったら潰れてしまいそうなアパートを眺めた。

 担任教師から送信された住所を見て、鉄製の無骨な階段を上がり、浜咲と表札のある部屋の前に立つ。

 呼び鈴を鳴らしてみたが、反応はなかった。

「夏姫ぃー? 明美だよーっ。学校のプリント持ってきたよーっ」

 扉に呼びかけながらノックしてみたが、やはり反応がない。家にいないのかと思ったが、換気用らしい小さなガラス窓の向こうには、灯りが点いているように見えた。

 ――どうしよう。

 担任からは家にいないなら郵便受けに入れておいてくれ、と手紙の入った封筒も渡されていた。

 言われた通りにして帰ろうかとも思ったが、父子家庭で、父親も家に帰らないという夏姫の家庭事情を少しだけ聞いていた。父子家庭で家族の事情というならば、親戚の可能性も考えられたが、父親に何かあったのかも知れない、とも思う。

「ゴメン、開けるね」

 心配になった明美は、ノブに手をかけて、回してみた。

「開いた……」

 鍵はかかっていなかったらしく、扉は開いた。

「夏姫、いるー?」

 滑り込むようにして入った室内は、キッチンなどを含めても、明美が自室として与えられている部屋よりも少し広い程度の、狭い部屋だった。

 綺麗に片付いている脇のキッチンに目を向け、鍵がかかってないなんて不用心だと思いながら部屋の奥を見ると、夏姫がいた。

「……どうしたの?」

 学校に行っていたわけではないだろうが、制服を着た夏姫が、壁に背をもたせかけて座っていた。

 その顔には生気はなく、いつも元気で明るい彼女の面影はなかった。

 生きているのか怖くなるくらいに、明美の声にも反応していない。

「夏姫? ねぇ」

「……あ、明美」

 靴を脱いで側まで近寄って声をかけると、いまやっと気がついたようにうつむかせていた顔を上げ、小さく微笑んだ。

 ためらいつつも、普通の状態には見えない彼女に、明美は問うてみる。

「何かあったの? 大丈夫なの?」

「うん、大丈夫だよ。でもなんで明美がいるの?」

「先生からプリント届けるように言われたから持ってきたんだよ」

「そうなんだ。ありがと」

 言葉は普段通りでも、声に元気のない夏姫は、鞄から取り出したデータスティックに手を伸ばそうとしない。仕方なく天板を折り畳んである机の上の、夏姫のピクシードールが座っている充電台の横にそれを置いた明美は、彼女の様子を詳しく眺める。

 最後に会ったのは土曜日だったのに、丸三日の間に夏姫は別人になってしまったかのように違ってしまっていた。

 微笑んでいるのにその頬は痩け、目の下には黒い隈が浮かんでいる。力が出ないかのように身体は弛緩していて、首を動かすのすら億劫なように見えた。

 ふと思って部屋の隅のゴミ箱に視線を走らせてみると、何も入っていなかった。

 自炊しているという彼女がいまの状態で食事をつくれるとは思えない。外食で済ませている可能性もあったが、動くのも億劫そうないまの状態ではそれも考え難かった。

「ちゃんと食事してる?」

「うん、大丈夫だよ」

 大丈夫と言うが、食べてるとは言わない。笑っているが、その目は明美を見ていない。

 失礼だとは思ったが、明美は立ち上がって狭いキッチンに行き、冷蔵庫を開けてみた。

 お茶か何かと思われるポットに入った飲み物の他に、食べられそうなものは入っていなかった。隅にあるゴミ入れにも、何も入っていない。

 夏姫の元へと戻った明美は、彼女の肩をつかんで、正面からその目を見つめて問う。

「いつから食べてないの?」

「んー。いつからだろ。わかんない」

「何があったの? 夏姫。……もしかして、お父さんに何かあったの?」

 ためらいつつも言った明美の言葉に、夏姫は笑っているだけだった。

 けれどもその目尻に涙が溢れ、筋となって零れた。

「パパが……、パパが死んじゃうかも知れない……。事故で、意識なくて、それなのに、何か、責任取らないといけないらしくて……。アタシ、わかんない。何がどうなってるのか、ぜんぜんわかんない……」

 笑顔を保っていられなくて、顔をくしゃくしゃにして泣く夏姫を、明美は胸に抱き寄せる。

 夏姫の父親が事故で怪我をして、意識不明の重体であることはわかった。しかしそれ以外のことは明美にはよくわからない。

 仕事の関係で起こった事故の結果の怪我なのかも知れないと思うが、堰を切ったように大声で泣く夏姫に問うことはできそうになかった。

 友達程度の立場で、踏み入っていいことのようには思えない。ただ、自分では助けられそうな問題ではないことだけはわかった。

 ――でも、克樹なら?

 家もそこそこ裕福で、自身も高校生とは思えないほど稼いでいるらしい克樹。

 そしておそらく、夏姫にとって一番近い、明美や、もしかしたら父親よりも近い距離の彼。

 どれほど大きな問題なのかはわからなかったが、克樹ならば何とかできるかも知れないと思った明美は、夏姫の肩を押して身体を離し、彼女の顔を見つめて言う。

「克樹に相談してみよう? あいつだったらもしかしたら――」

「ダメ!」

 遮るように発せられた否定の言葉。

 先ほどまでの何も見ていないものでも、悲しさやつらさに揺れているものでもなく、強い拒絶を感じる瞳を、夏姫は見せていた。

「ダメって……。相談とかするならたぶんあいつが一番――」

「ダメッ。絶対にダメ。克樹には頼れないの。頼りたくないの」

「そんなこと言っても、先生とか、親戚の人に頼るとかはできないんでしょ? たぶん。だったらやっぱり克樹に、相談だけでもすれば何かいい方法考えてくれるんじゃない?」

「うぅん。ダメなの。克樹には迷惑かけられないの。アタシと、アタシの家の問題だから」

 涙が止まった夏姫の瞳は、それでもまだ揺れている。

 様々な感情が渦巻いているように、いまにも零れ出しそうな涙を必死で我慢しているのが見えた。

「克樹にだけは絶対に話さないで。お願い、明美」

 どんなに激しく揺れていても、その気持ちだけは確かなものらしい。力の籠もった瞳で見つめられて、明美は迷ってしまっていた。

 克樹に話してどうにかなる問題ではないかも知れないとも思う。

 彼に迷惑をかけたくないという夏姫の気持ちも理解できる。

 それと同時に、明美は理解する。

 ――夏姫にとって、克樹ってそんなに大切な人なんだ。

 絶対に迷惑をかけたくなくて、必死でそれを訴えかけてくるほどに、夏姫にとって克樹は大きな存在なのだと、明美は感じてしまっていた。

 ――そっか。そうなんだ、夏姫。

 寂しいのとも、悲しいのとも違うような、複雑な気持ちに胸がつかえそうになっているのを悟られないようにしながら、微笑みを浮かべた明美は、夏姫の訴えには返事をせずに言う。

「ちゃんと食事はしないとダメだよ」

「うん、わかった」

「連絡取れないって克樹が心配してたから、返事くらいはしてあげて」

「……落ち着いたら、するよ」

「そうして上げて」

 目を逸らした夏姫が、克樹に連絡をしないだろうことは想像できた。

 メールの返事ひとつ入れられないくらいに、問題が大きいのだろうと思う。

 細かく身体を震わせている夏姫を、明美は抱きしめてやることしかできなかった。

 

 



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第三部 極炎(クリムゾン)の怒り 第二章 2

 

       * 2 *

 

 

「こっち! こっち! 急いで!!」

 顔を振り向かせて行く道を指し示す、小学生くらいだろう少年は、全力で脚を動かし、走る。

彼の後に着いてくるのは、警官ひとりを筆頭に、数名の大人たち。

 車も通れないような建物裏の小道を駆け抜け、少年は通りに出た。

「てめぇ、戻って来やがったのかっ」

 彼の姿を認めてそう叫んだのは、耳や唇をピアスで飾り立てた男。

 彼の側にはあとふたりの男と、黒く大きなワンボックスカーが一台、それから、彼らの足下に少女がひとり、倒れていた。

 少年に近づこうとしていた男は、遅れてやってきた警官たちを見、慌てて車に乗り込んだ。警官たちが急発進する車に追いすがろうとする間に、少年は少女の元に駆け寄っていく。

 少年よりも年上で、中学生か高校生くらいの、藍色の地味なワンピースを身につけた彼女の上半身を、少年は大きくない身体で抱き起こす。

 ワンピースにはたくさんの白い足跡がついていて、それどころかところどころ、血がにじんでいた。いつもきっちりとポニーテールに結っていた髪は乱れ、どこかしら少年に似ている少女の顔も、殴られ、蹴られ、暴行により酷い状態になっていた。

「……なんで、戻って、らしたのですか」

 高く澄んでいたはずの少女の声は、少年が戻ってくるまでに相当殴られたからか、かすれて息も絶え絶えだった。

「なんでって……。必ず戻ってくると言っただろう! 俺様は約束を守る男だ!!」

「危ないから、逃げてくださいと、言いました、のに……」

「もう大丈夫だ! あいつらはいない。病院に連れて行ってやる。しっかりしろ!」

 励ましの声をかける少年に、少女は優しく笑いかける。

「貴方が無事なら、それで充分です」

「何を言ってるんだっ。莫迦を言うな! すぐに助ける。だからしっかりしろ!」

「いままで、何の取り柄もないわたしに、よくしていただいて、ありがとう、ございました……」

「何を!!」

 少年が文句を言おうとした瞬間、少女は大量の血を吐き出した。

 咳き込んでさらに吐き出される血は、少年の手を、服を赤く染めていく。顔に飛んできた血は熱く感じるほどに熱を持ち、しかしすぐに冷たくなる。

 少女の状態を示すかのように。

 それでも笑っている少女を見つめている少年は、彼女の髪を握りしめるようにして、拳を振るわせた。

「ふざけるな! お前は俺様の召使いだ!! 誰が死んでいいと言った! お前は、俺様が良いと言うまで、俺様の側を離れちゃいけないんだ!!」

「すみ、ません――」

「許さない……。許さないぞ! 主人の命令を破る召使いなんて許せるものか!! 絶対に、絶対に許さない。死んでも俺様は、お前を許さない!!」

 怒りに燃え上がるほどに顔を赤くし、少年は少女を怒鳴りつける。

 それでもまだ微笑みを浮かべている少女は、最期に言った。

「ゴメンね――」

 そして、彼女は目を閉じた。

 

 

 

「ふざけるなーーーーっ!!」

 叫び声とともに身体を起こし、猛臣は自分が屋内にいることに疑問を感じて辺りを見回した。

 粗末な応接セットや大きな鏡の前に置かれた簡易デスク、見慣れぬダブルベッドが置かれた、広いが生活感のないこの場所が、ホテルの部屋であることを思い出す。

「夢、か……。くそっ」

 頭を振って夢の残滓を振り払い、額を手で覆った彼は、頭を握り潰すかのように指に力を込めた。

 久しぶりに夢に見た、これまでで一番苦々しく、いまなお怒りが収まらないときの記憶。

 エリキシルバトルに参加をしてからというもの、何度か見ていたが、今回はより鮮明で、あのときの感情までがリアルに思い出されていた。

 ――あいつが悪いんだ。

 土曜に会った、ひとつ年下の女の子。浜咲夏姫。

 夢の中のあの召使いの女と、彼女の面影はどこか似ているように感じられていた。

「くそっ。下らん!」

 そう吐き捨てた猛臣は、シャツを脱ぎ捨ててバスルームへと入った。

 目覚めの悪い頭を熱い湯で流し、水を被ってからバスローブを羽織って身支度を調える。

 せいぜいスレート端末を数枚広げればそれでいっぱいになりそうな狭いデスクの上を見てみると、新しいメールが入っていることに気がついた。

 送信者は、いまこちらで雇っている調査会社。

 スレート端末に手を伸ばし、新たに入った情報の詳細と、リアルタイムでの追跡の要不要を問う内容を確認する。

 八重歯を覗かせながら笑んだ猛臣は、今日の間、居所を追跡して自分が到着するまで報告するよう依頼の連絡を飛ばす。

「さて、あいつは確実だろうし、持っていくか。イシュタルは……、パーツがまだか。こっちだな」

 着替えを終えた猛臣は、応接セットのローテーブルの上に置いてあるふたつのピクシードール用アタッシェケースのうちの片方をショルダーバッグに収め、ホテルの部屋を後にした。

 新たな戦いの予感に、笑みを零しながら。

 

 

          *

 

 

 誰にも気づかれないほど小さくため息を吐いた近藤は、並んで歩く女の子に首を動かさずこっそりと視線をやる。

 半袖となったクリームホワイトの制服を着る彼女は、中里灯理。

 駅から自分の家へと向かう道を、彼女は不満そうに口を尖らせながら顎を反らして歩いていた。

 白地に赤い線の入っているスマートギアで目元が覆われているため、彼女が瞳にどんな色を浮かべて、どこを見ているのかまではわからなかったが、いまの状況に納得してないことだけはありありとわかる。

 彼女を家まで送る帰り道、行きの間に彼女の口から不満の言葉は充分過ぎるほど聞いていたから、いまさら話すこともない。克樹のときとは違い過ぎる態度に言いたいことがないわけではなかったが、言い負かされるのが落ちなので、声をかける気も起きなかった。

 夏姫が登校してこないままの水曜日、先日の土曜と同じく校門の前で待ちかまえて克樹をPCWに誘ってきた灯理だったが、家でやることがあると言われてあっさり振られていた。

 その上克樹からちょうどPCWに用事がある近藤が同行するように言われ、こんなことになっていた。

 ――別に好かれていないのはわかってるから、いいんだけどな……。

 克樹しか見ていないのは充分理解しているが、不満のぶつけ先か、素っ気ないかのどちらかしかない灯理の態度には納得できず、こっそりとため息を漏らしていた。

「それで、克樹さんは家でどのような用事なのか、わかりますか?」

「ん? ……あ、いや、知らない」

 それまでむっつりと押し黙っていた灯理に声をかけられて、我に返った近藤は慌てて返事をしていた。

 前置きもなしに問われても返す答えなどなかったし、克樹からは用事の内容なんて聞いていなかった。いつも家では訓練か新しいパーツの評価と選定、エリキシルバトル関係の情報収集をやってるというのは聞いていたが、灯理の誘いを断った今日の用事については聞いていない。

「たぶん何か訓練でもしてるか、アリシアかシンシアをいじってるんだと思うが」

「そうですか。でしたら今日、校門のところで克樹さんを睨みつけていた方はどなたですか? どうやらお知り合いのようでしたが」

「あ? あぁ、遠坂のことか。クラスの友達だよ。克樹とは幼馴染みらしいが、詳しいことは聞いてない」

 ちょうど克樹と灯理が話しているとき、今日は陸上部の活動がなかったらしい明美が遅れて出て来て、ふたりのことを睨みつけて何も言わないまま行ってしまったことには気づいていたらしい。

 今日一日、明美は克樹に話したいことでもあるのか、視線を送っているのには気づいていたが、不自然なくらい遠巻きにしていて、会話らしい会話は交わしていなかった。

 何かあるのは確実だったが、彼女が避けているのだから、近藤も問いつめることはできないでいた。

「本当にただの友達なのですか?」

「いや……、そういう辺りはよく知らない。つき合ってたりしないのは確かだが」

「そうですか」

 不満をひと通り言い終えた後は質問することを考えていたらしい灯理。

 そんなことを訊かれても、近藤はたいしたことは答えられず、困惑するばかりだった。

 克樹たちと一緒に行動するようになったのは、彼らの仲間として迎えてもらった四月からで、あんな事件を犯してしまった割には友達と言える程度のつき合いはできていると思う。

 しかし細かなことについてはあまり突っ込んで聞ける立場ではないと思っていたし、夏姫や明美の克樹への視線などについては、気づかない振りをしてやり過ごしていた。

 ――なんで克樹の周りには女子がこんなに集まってくるんだ?

 学校内には克樹が近づいてくると避けて逃げるほど嫌っている女子もいるというのに、エリキシルバトルが始まってからか、それとも実はその前からだったのか、意外に身近に視線を送っている女子がいたりする。

 たいてい素っ気なくて、ぶっきらぼうで、女子に卑猥な言葉をかけたり行動をしたりして、人のことは言えないがピクシードールという根暗方面の趣味を持っている克樹。

 そんな彼に、夏姫や灯理など、寄ってくる男子には困らなそうな比較的スペックの高い女子が寄りつくのか、いまひとつ近藤には理由がわからなかった。

 ――確かにあいつは、それだけの奴じゃないんだけどな。

 表面的には感じの悪い克樹はしかし、世話好きで、知り合いのことを放っておけなくて、胸の奥には熱いものを持っていることも、それに負けた近藤は知っている。例えそれが、復讐の黒に彩られていたとしても。

 ――それでもやっぱりオレにはわからん。

 近藤にはふたりが、もしかしたら明美も含む三人が固執するほどの男なのか、よくわからなかった。

「夏姫さんは、本当にどうされたのでしょう?」

「さぁな」

 唐突に話題を変えた灯理に、彼女の顔を見てみると、少し顔をうつむかせていた。

 スマートギアで覆われている目が見えないといまひとつどういう想いで言っているのかわからなかったが、克樹のことで張り合っている割に、彼女の額に浮かぶシワは本当に心配しているように思えた。

「連絡はないのですよね?」

「あぁ。メールくらいは入れてるんだがな」

「ワタシもです。克樹さんに連絡がないのであれば、ワタシたちが連絡しても返事はないと思いますが……」

 確かに灯理の言う通りだと思う。

 灯理と戦ったのはつい二ヶ月前のことだが、決着がついた後、夏姫は戦いのことなんて少しも気にしていないかのように彼女と接するようになった。克樹のことはあれど、女の子同士だからか、ずいぶん仲もいいように見えていた。

 それについては近藤に関しても同じだったが、なんだかんだ言って一番に克樹のことを頼りにしているのは見えていたから、連絡があるとしたら彼にだろうと思えた。

「何か、ご存じではないのですか? 克樹さんからは家庭の事情ということは訊きましたが、それ以上のことは知らないそうですし」

「オレも知らないな。……あー、もしかしたらクラスの奴が知ってるかも知れないんだが、タイミングを見て訊いてみるよ」

「えぇ、お願いします。さすがに、ワタシも心配ですから」

 表情を曇らせたまま、近藤に顔を向けた灯理はそう言って軽く頭を下げた。

 明美が担任教師に夏姫の家に行くよう言いつけられていたのは見ていたが、会えたのかどうかはわからない。克樹にすら話すのをためらっているらしい彼女の様子から、何かを知っているんだろうとは思っていたが、近藤が彼女に問うのは難しそうだった。

「よぉ、近藤誠」

 灯理の家までもう少し、といったところでそんな声をかけ道に立ち塞がったのは、高校生くらいの男子。

「お前は――」

「口の利き方がなってないな。年上に向かって『お前』はないだろう?」

 莫迦にしたように顎を反らす彼のことを、近藤は知っていた。

「お知り合いですか?」

「あいつは、槙島猛臣だ」

 名前を言っても小首を傾げている灯理に、近藤はそれも仕方ないだろうと思う。

「誰なのですか?」

「あいつは、以前行われたピクシーバトルの大会、スフィアカップのフルコントロール部門でオレを倒して――」

 ニヤついている猛臣を睨み、近藤は言った。

「全国大会優勝した奴だ」

 

 



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第三部 極炎(クリムゾン)の怒り 第二章 3

 

       * 3 *

 

 

 バトルするつもりなのか、話を無関係の人間に聞かれないたけなのか、この辺りを下見していたらしい猛臣の先導で連れてこられたのは、灯理の家の側にある公園だった。

 ――用意周到な方なのですね。

 迷うことなくここまでやってきた猛臣に、灯理はそれを感じていた。

 ここで会ったのも偶然ではなく、何かしらの手段で近藤の動きを追っていたのではないかと思えた。

 ブランコや滑り台などがある、それほど広いわけではない普通の公園で、広場の真ん中に立って振り向いた猛臣。

 彼が無造作に着ている上着やズボンは、近くで見たわけではないのではっきりしなかったが、有名ブランドのもののような気がしていた。

 ――金銭的には余裕があるのでしょうね。

 ピクシードールに触れるようになったのはエリキシルバトルに参加するようになる少し前で、スフィアカップのことについては調べて知っていたが、近くに住んでいる克樹のこと以外は把握していなかった。

 名前すら知らなかった猛臣だが、それでも彼の服や態度を見れば、美術業界の人々と触れ合う機会のあった灯理には、虚勢を張っているような人物でないことはわかる。

 そして彼がエリキシルソーサラーであることも、もうわかっていた。

 話しかけられたときには持っていなかった左手に提げたアタッシェケースは、公園までの道の途中に停めてあった車にあったものだ。

 あのときにはレーダーに反応はなく、公園に向かい始めた途端に反応があった。

「彼女連れのときに済まないな、近藤」

「違います」

 猛臣の声に近藤よりも先に、灯理は否定の言葉を返していた。

「はっ、そうか。通り魔野郎には似合わない可愛い女だと思ったぜ」

「お――」

 言い返そうとする近藤を手とスマートギア越しの視線で制して、灯理は一歩前に出る。

「ワタシの容姿を褒めていただきありがとうございます。ただし、近藤さんはワタシの友達です。いえ、仲間です」

「仲間ぁ?」

「槙島さんはエリキシルソーサラーですね? ワタシもそうです」

「なん、だと?」

 それまで余裕の笑みを浮かべていた猛臣の顔が驚愕に染まる。

 そうなるだろうことはわかっていた。

 克樹たちにも言われたことだが、エリキシルバトルへの参加資格のひとつである、特別なスフィアは本来スフィアカップの地方大会で優勝か準優勝をした人に贈られたもの。スフィアカップに参加したことがない灯理が持っているはずのないものだった。

 これまで自分を含めて四人のエリキシルソーサラーのことしかわからなかったが、猛臣の反応から、自分が特殊な立場なのを再確認する。

 軽く唇を噛み、あらぬ方向に視線を巡らせて考え込んでいた猛臣は、考えるのを辞めたのか、顔を上げて言った。

「それならそれで話がしやすいだけだ。お前、名前は?」

「中里灯理です」

「なるほど。お前が事故で目が見えなくなったって言う絵描きの……」

 顔は憶えていなかったが、名前や境遇については知っていたらしい猛臣。

「てめぇがエリキシルソーサラーってことは、近藤は負けてスフィアを取られたってことか」

「それも違います。近藤さんはいまもエリキシルソーサラーです」

「なんだそりゃ?」

 わけがわからないというように、猛臣は大きく口を開けて情けない表情をしていた。

 エリキシルバトルは戦って勝ち、スフィアを集めるもの。そう思って灯理自身も克樹たちを倒して奪い取るつもりだったが、勝った克樹が灯理ごとスフィアを集めると言うのだから、そうなっているとしか言いようがない。

 しかし灯理は、そのことを猛臣に説明はしない。

 いま敵として現れた彼に、余計な情報を与える必要を感じなかった。

「それで、どんな用件で?」

「ん、あぁ。そうだったな」

 おそらくバトルになるだろう流れ。

 いきなり襲ってくることはないと思うが、灯理はトートバッグの中に納めてあるフレイとフレイヤをすぐに取り出せるよう身構える。

 灯理を守るように前に出た近藤の背中も、これから始まるだろう戦いに緊張しているのがわかった。

 余裕を取り戻した猛臣が、笑みを浮かべながら言った。

「お前たちのエリキシルスフィアを、買い取りに来た」

「ふざけるな!」

 真っ先に声を上げたのは近藤。

 瞳に怒りを湛え、いまにも殴りかかりそうに拳を握りしめている。

「近藤の願いは恋人の復活か? 中里の願いはおそらく、その目を治すことだろう?」

 少しだけ振り向いてくる近藤と視線を交わし、灯理は猛臣の言葉に否定も肯定も返さない。

「だがエリキシルバトルには俺様も参戦してる。最きょ……、スフィアカップ優勝者の俺様に、お前らごときが勝てるわけがないだろう? 負ければただスフィアを俺様に奪われるだけだ。それだったらまだ金をもらって売っ払う方が利益があると思わないか?」

「いい加減にしろっ。売れるわけがないだろう!」

「その通りです。ワタシも近藤さんも、お金では叶わない願いを実現するためにバトルに参加したのです」

「もし願いがひとりしか叶わないなら、結局てめぇは近藤と戦うんだろ?」

「そのときは全力を以て戦うまでです。お金をもらっても意味がありません。それは貴方も同じなのではありませんか? 槙島さん」

「はっ! 言うじゃねぇか。だが勝てない戦いはするもんじゃない。そう思わないか?」

「その通りかも知れません。ですが、例え万にひとつの勝利であっても、それをつかみ取るために、ワタシはバトルに参加したのです」

 楽しそうに笑みを口元に浮かべながらも、猛臣の目は笑っていない。

 焦り。苛立ち。そして何より激しい怒りが、その瞳に燃え盛っている。

 あまりの強い怒りに恐れを感じて腰が引けそうになるのを、灯理は顎を引き、両手を握りしめて堪え、宣言する。

「戦いましょう、槙島さん。エリキシルバトルは戦って決着をつけるべきものです」

「ふははっ。お前みたいなタイプは嫌いじゃないぜ! ふたり一緒に来いっ。どうせお前らじゃ俺様の相手にもならないだろうがな!」

 猛臣の応答により、バトルは開始されることとなった。

 

 

 

「フェアリーリング! アライズ!!」

 アタッシェケースから取り出したピクシードールを地面に立たせた猛臣が、ヘルメット型スマートギアを被ってフェアリーリングを張り、ドールをアライズさせた。

 銀髪をポニーテールに結い上げた猛臣のドールは、エリキシルバトルに参加するためにピクシードールやピクシーバトルのことを調べていた灯理が知らないタイプのようだった。

 両手に一本ずつの剣を持っているのはともかく、銀一色のハードアーマーを纏うドールは、張り出した肩のアーマーからマントのような布地を垂らしている。

 スマートギアの表示で腕や脚の太さを測ってみた限り、バランスタイプのドールのように思えるが、何かが違っているように思えて仕方がなかった。

「そのドールの名前は何と言うのですか?」

「んぁ? ウカノミタマノカミって名前だよ。……いつでもいいぜ。かかってきな」

 余裕があるらしく、身長百二十センチとなったウカノミタマノカミの後ろで、猛臣はそう言い放つ。

 ワインレッドのスマートギアを被り、アタッシェケースからガーベラを取り出す近藤。その背中からは、極度の緊張が見て取れた。

 後ろに立つ灯理は、自分のドールを取り出しながら、こっそり通話アプリを立ち上げていた。

『ん? なんだ? 中里?』

『そのまま準備を続けながら聞いてください』

 二コール目で応答した近藤が振り返ろうとするのを声ではなく、イメージスピークで制して、灯理は言葉を続ける。

『槙島さんは、そんなに強いので?』

『強い。スフィアカップのときはほとんど手も足も出なかった。オレも克樹たちとけっこう練習してるわけだが、勝てる気はしない』

『ワタシと近藤さんのふたりがかりでも、と言うことですか?』

『……厳しいと思う』

 確かに立っているだけで威圧感が凄いと思うが、そこまでなのか、と思う灯理は、思考を高速で巡らせる。

『それならば、一計を案じます。アライズし次第、バトルを開始してください。できれば最初は激しく』

『何をするつもりだ?!』

『こちらのことはお気になさらずに。ワタシはこんなところで負ける気はありません。それに、余裕を見せていますが、あの人は知りません』

『何をだ?』

『ワタシと近藤さんはふたりですが、二体ではないのです』

 スマートギア越しに薄笑いを浮かべてる猛臣を見つめ、灯理は近藤の背中に隠れてフレイとフレイヤを準備する。

「アライズ! 行くぞ!!」

「あんま待たせんなよ! すぐに畳んでやるぜ!!」

 アライズ直後に紅い軌跡を引いてウカノミタマノカミに突撃していったガーベラが、剣を避けつつ左手でボクシングのジャブのようなラッシュをかけ始めたのを見て、灯理は手の平の上でフレイとフレイヤの手を繋がせた。

 猛臣から見えない位置であるのを確認しつつ、灯理は自分の願いを込め、視界に表示されたエリキシルバトルアプリに向かって、唱える。

「アライズ!」

 二体が光に包まれたのを見て、灯理は両手を引いた。

 着地したフレイとフレイヤの光が弾けたとき、身長百二十センチのエリキシルドールが出現していた。

 ――たぶん、大丈夫ですね。

 フレイヤの視点から猛臣の方を確認すると彼の姿が見えるが、フレイの視点からだと近藤の大きな身体に阻まれて戦いの様子が見えない。

 何よりいま近藤の猛攻を受けているウカノミタマノカミは、灯理の方に注意を向けている様子がなかった。

『お待たせしました。参戦します』

『頼む』

 フレイをその場に残し、白いスカートの中から長剣と円形の盾をつかみ出したフレイヤを、地面に着きそうなほどの長さの髪をなびかせながら戦場まで駆け寄らせる。

 ガーベラの影から繰り出した剣は、甲高い音を立ててウカノミタマノカミの剣に弾かれた。

 ――よく見ていますね。でも、負けませんよ。

 右側から攻めるガーベラに、灯理はフレイヤをウカノミタマノカミの左に配して長剣を振るう。

 ガーベラの左右の拳を剣の峰で受け止めつつ、フレイヤの斬撃に対抗してくるウカノミタマノカミ。

 さすがに手数の多さに苦慮しているように見えるが、わずかな隙を見せれば反撃が飛んでくる。少しずつ下がりながら防御主体で動きながらも、その動きには余裕が見られた。

 ――本当に強い。

 専用アプリの導入によって高速に切り換えている視界は、まるで目が四つあるかのように、ふたつの場所を別々の視点で見ているように感じることができる。

 脳の機能と錯覚を利用した並列視界の片方を、灯理はスマートギアの視界にして猛臣のことを見た。

 彼の口元には、笑みが浮かんでいた。

 ――スフィアカップ優勝者の実力は、伊達ではないのですね。

 克樹と戦い、負けたときに比べて、灯理は自分が強くなっていると自覚していた。

 剣の振り方も、ドールの動かし方もセミコントロールアプリ任せで、隠した武器とデュオソーサリーという力業しかなかった頃に比べ、戦いの基礎も操作のセオリーも知ったいまは、別人と言っていいくらいの戦闘力を備えたと思う。

 フレイとフレイヤも、購入したバトル用ピクシーの組み立てキットを少々いじった程度のものが、克樹の協力によって単体でもエリキシルバトルで戦える性能を備えるようになっていた。

 それなのに、フレイヤの剣はウカノミタマノカミのボディどころか、マントの布地にすら触れることができない。

 それはガーベラも同じ。

 フレイヤの攻撃より相手のボディに近く、マントのすぐ側までは届いているが、拳はすべて防御されてしまっている。

 ――でも、ワタシにはフレイもいる。

 戦場の向こう、猛臣の背後からウカノミタマノカミの背中に向けて飛ぶ勢いで接近する黒い影。

 公園を大きく回り込んで猛臣の背後に着いた、フレイ。

 彼からは見えない位置から、突進の速度を乗せたグレイブをウカノミタマノカミのメインフレームに狙いをつけて繰り出す。

 耳に残るほどの大きな金属音が響いた。

「……え?」

 灯理は思わず声を出してしまっていた。

 フレイの視界で見えたのは、グレイブの穂先を受け止める肩のハードアーマー。

 間違いなくメインフレームを切断するはずだったグレイブは、姿勢を変えたのではなく、アームによって稼働した肩のアーマーによって防がれていた。

「なんだこりゃ? ドールが三体? いや、スフィアの反応はふたつ……。そうか、中里灯理! てめぇはデュオソーサラーか。はっ、実在したとはな!!」

 猛臣が灯理のことを理解する間に、ウカノミタマノカミの両肩のアーマーが動き始めた。

 左右が各前後に、計四つのパーツとなったアーマーは、それぞれにアームに支持されて浮き上がる。

「まさかこれを見せることになるとは思わなかったが、デュオソーサラーが相手なら仕方がねぇな」

「腕が六本だと?」

「まぁ、そんな感じだな。うち四本はショルダーシールドを動かすだけのものだがな。さぁ、三体一の戦いを再開しようぜ!」

 近藤とともに硬直してしまっていた灯理は、猛臣の声に我に返る。

 フレイヤの剣と盾を構え直させ、グレイブを捨てたフレイには大振りの剣を二本装備させる。

 仕返しのつもりか、振り返ってフレイに向けて二本の剣を振るうウカノミタマノカミ。

 正確無比な攻撃は、逆手に持った剣で防ぐものの、黒い衣装を切り裂いていく。

「やらせるかっ」

 叫んだ近藤がガーベラを使って放った正拳突きは、ショルダーアーマーに防がれた。続いて放った膝関節に向けた蹴りも、脚のアーマーによって受け止められる。

 ――これはまずいですね。

 フレイの奇襲を防がれ、三体になったのに、猛臣の余裕は変わらない。

 フレイとフレイヤを操作しながら、灯理は背中にじっとりと汗が噴き出してくるのを感じていた。

「ちまちました攻撃はうざったいんだよ!」

 そう言い放つ猛臣は、ウカノミタマノカミに接近するガーベラの腹を蹴り、吹き飛ばした。

「うらっ!」

 まるで自分が剣を振るってるような猛臣の声とともに、ウカノミタマノカミが上段からの剣をフレイヤに見舞う。

 盾で受け止められたのは、奇跡のようなものだった。

 閃きが見えたときには振り下ろされていた剣は、受け止めた盾の半ばまで食い込み、白い衣装の直前で止まっている。

『離れていてください!』

 繋いだままの通話で近藤に言った灯理は、フレイとフレイヤに武器を捨てさせつつ、ウカノミタマノカミから距離を取らせ、二体同時の攻撃を敢行する。

 フレイが取り出したのは片手四本、両手で八本の針。

 フレイヤがつかんだのはナイフが両手で六本。

 ガーベラが飛びすさったのを見て、タイミングを合わせてウカノミタマノカミに投擲し、間髪を置かずにもう一度同じ攻撃を二体から行う。

「そんな……」

 合計二十八本の攻撃は、猛臣のドールのボディを傷つけていなかった。

 布地でしかなかったマントが、板のように針とナイフを受け止め、切っ先しか食い込んでいない。

「なかなかの攻撃するじゃねぇか。だが俺様には通じねぇんだよ!」

 両腕を振るい、布に戻ったマントから針やナイフを振り払ったウカノミタマノカミ。

 その一瞬の時間を利用して、背中から幅広の両手剣を抜いたフレイヤと、二本の黒い短剣を抜いたフレイで攻撃を仕掛ける。

 ガーベラも参加し、再び三体で抑え込む形となった。

『あの、すみません』

『どうした、中里』

 必死で戦いながらも、灯理は近藤に声をかける。

『勝てません』

『なっ?!』

 タッグを組んで戦う練習などしたことがなかったから、決して充分に連携が取れているとは言えない三体の攻撃。

 反撃の隙を与えない絶え間ない攻撃を、ウカノミタマノカミはすべてを躱し、受け止め、弾いている。

 フレイヤとガーベラの二体だったときよりもボディの近くまで攻撃は届いているとは言え、先ほど盾を割った力から考えて、恐ろしく高い性能によって、一撃でドールを仕留めることができるだろう。

 視界の外からの攻撃もショルダーシールドと硬化したマントに防がれるのでは、手詰まりだった。

 ――けれどワタシは、こんなところで願いを諦めるつもりはありませんっ。

 歯を食いしばった灯理は、近藤に言う。

『このままでは勝てません。逃げます』

『どうやって? 背中を見せたらやられるぞ』

『大丈夫です。ワタシはワタシの願いを叶えるためならば、どんなことでもするのです。少しの間、フレイとガーベラでお願いします』

 近藤の返事を聞かずに、灯理はフレイヤを自分の元まで下がらせる。

 スカートのポケットに手を入れ、取り出したものをフレイヤの左手に渡した。

 ウカノミタマノカミがその様子に目を向けたときには、フレイヤは左手に持ったふたつの球体に右手を近づけ、中指と親指を鳴らすように擦り合わせた。

 球体から伸びた紐は、導火線。

 意図に気づかれる前に、フレイヤはそれを猛臣とウカノミタマノカミの足下に転がした。

 球体から噴き出したのは、濛々とした煙。

 ただのオモチャに過ぎないが、その煙の量は視界を奪うには充分な量だった。

「逃げますよ!」

「お、おう」

 駄目押しでさらに二個の煙玉を猛臣との間に転がし、フレイを下がらせる。

 足下に置いてあった鞄を拾い上げた灯理は、フレイとフレイヤに自分の身体を抱えさせ、公園の外へと向かわせた。

 アライズを解除した近藤も、ガーベラと鞄を手につかみながら後ろに着いてくる。

 向かうのはおそらくすぐに調べられてしまう自宅ではなく、克樹の家。

 灯理は大通りを目指して、フレイとフレイヤを走らせた。

 

 

          *

 

 

『よく逃げて来られたねぇ』

 灯理と近藤の話を聞いて、僕よりも先に声を上げたのはリーリエだった。

「うん、僕もそう思うよ」

 そう言いながら、灯理に送ってもらったバトルのときの映像を見ていた僕は、スマートギアのディスプレイを跳ね上げた。

 コーヒーを飲んで落ち着いたのか、ダイニングテーブルに着く灯理はにっこり笑う。

「それはもちろん。勝てない相手に負けないためには、逃げるのが一番ですから。他にも逃げるための手段はいくつか用意してありますよ」

「打ち合わせなしであれだったから、びっくりしたぜ……」

 落ち着きはしたものの、疲れた様子の近藤は深くため息を漏らした。

 戦場から逃亡したふたりは、国道まで逃げてタクシーを飛ばして僕の家までやってきていた。

 元々ふたりはPCWからの帰りだったし、灯理の家に帰り着く直前の襲撃だったから、もうLDKの掃出し窓から差し込む陽射しは暗くなり始めてる。

「しかし、槙島猛臣か……。またずいぶんな奴が出てきたな」

「あぁ。やっぱりあいつは強い。スフィアカップでも戦ったが、あのときよりもさらに強くなってる」

「フレイとフレイヤとガーベラの三体で攻撃を集中させても、すべてに対応していましたし、あのショルダーシールドによる防御は鉄壁です。マントもナイフや針は通りませんでしたし」

『本当にすごいね。あたし、勝てる気がしないよ……』

 僕たちは口々に重い言葉を吐き出し、お互いの顔を見つめ合った後、一斉にため息を吐いた。

 槙島猛臣は、スフィアカップでもほぼ圧勝に近い形でフルコントロール部門を制していた。

 スフィアカップ以降、ピクシーバトルから離れていた僕でもその名前は知ってるし、いまは高校生ながらSR社の開発者としてその名前に出会うことの方が多い。

 旧家でいまでも勢力を誇ってる家に生まれ、噂によれば彼のドールのパーツは特別製で、家の力と自分の立場を利用してSR社にスフィアで認証ができるようにして、カップのときも使えるようにしたとか言われてる。

 ドールの性能もさることながら、ソーサラーとしても最高クラスの使い手であることは、スフィアカップのときの映像でも、今日のバトルの映像を見ても明らかだ。

 まさかそこまでの奴がエリキシルバトルに参加してたなんて、想定してなかった。

 ――くそっ。どうしたらいいんだ!

 額にシワを寄せながら、僕は心の中で毒吐く。

 イレギュラーなルートでエリキシルスフィアを手に入れた灯理のことは知らなかったみたいだけど、近藤のことはたぶん探偵か何かを使って調査済みだった様子の猛臣。

 関西に住んでるはずの奴が、エリキシルスフィアを集めるために東京に来てるなら、近いうちに僕のところにも現れるだろう。

 ――もしかして、夏姫とはもう会ってるのか?

 家に籠もっているのか、出かけているのかわからない夏姫。でも少なくとも、さっき家の近くまで行ったときには、彼女の家にヒルデの反応があった。

 さすがにさっきのバトルの後に接触してる可能性は低いと思う。

 最初、買い取りたいと言って接近してきた猛臣なのだ、生活が厳しい夏姫なら、その言葉に揺れる可能性は考えられる。

 ――さすがに、それはないかな。

 いくら生活が厳しくても、彼女の願いは母親の復活。

 お金で買えるものではない願いを、お金で諦めるとは思えない。

『でも不思議だね』

 焦りを感じて舌打ちをしていたとき、リーリエがそんな声を振らせてきた。

「どうかしたのか? リーリエ」

『んー』

 即座に反応した近藤に、リーリエは悩むようにうなり声を上げた。

『槙島って人の一番お気に入りの子って、いつも同じ名前だったはずなのに、今日は持ってきたのは別の子なんだね』

「そう言えばそうだな」

 リーリエの指摘に、僕も疑問を感じて首を傾げてしまっていた。

 猛臣が主に使ってるドールの名前は、イシュタル。

 スフィアカップのときもそうだったし、バトルの参考のためにスフィアカップ上位入賞者の動画を調べていたときも、彼はたいていイシュタルで戦っていた。

 おそらく部品はどんどん更新されているんだと思うけど、メインで使っているドールの名前は変わっていない。僕がほぼ完全にパーツを更新しても、アリシアの名前を引き継いでるのと同じなように。

 僕がアリシアの名前を変えないのは、百合乃がつけてくれた名前だからだし、そうした何らかのこだわりを持ってメインとなるドールの名前を固定している人は多い。

 猛臣もイシュタルの名前を引き継ぎ続けてるってことは何らかの理由があるんだと思うけど、灯理たちと戦うときに持ち出したのは、ウカノミタマノカミだった。

「戦闘内容に合わせて使うドールを換えているのでしょうか。最初からワタシと近藤さんのふたりを同時に相手するつもりだったようですし、あのウカノミタマノカミというドールは防御を重視したタイプのようでしたし」

「かも知れないな。確かにあいつも何体かのバトル用ピクシードールを持ってたはずだから」

「そうは思うんだけど、何か違う気がして……」

 確かに猛臣は何体かのドールを持っているのは、いくつかネットなどで公開されていた動画や対戦情報でも見ることができていた。

 でも重要なバトルでは、必ずと言っていいほどイシュタルを使っていた。灯理たちと戦ったときにイシュタルを出さなかった理由は、よくわからない。

 ――それほど重要な戦いじゃなかったってことだったのか?

 何か理由があると思うんだけど、それがわからず、いまひとつすっきりしない気持ちに僕は顎に手を当てて考えてしまっていた。

「……夏姫さんとは、やはり連絡が取れないので?」

「あ、うん。今日も連絡してみたけど、まだ返事はない」

「遠坂が何か届けに行ってたみたいだが、そのときの話は聞いてないのか?」

「うん。とくにあいつからは聞いてない。というか、僕だって近藤や灯理と状況は変わらないっての」

 どうして僕に夏姫のことを訊くのかと思ったが、なんでかふたりはお互いの顔を見合わせて不思議そうな顔をしていた。

「まぁ、連絡取れたら知らせるよ」

「はい。お願いします」

「頼む」

 深刻そうな顔をして僕の提案に頷くふたり。

 そんな顔から目を逸らしながら、僕はずっと連絡が取れないままの夏姫のことを考えていた。

 ――状況くらい知らせてくれたっていいだろ、夏姫!

 

 



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第三部 極炎(クリムゾン)の怒り 第二章 4

       * 4 *

 

 

 思っていた通りの時間に人気のない教室に入ってきたのは、遠坂。

「遠坂。ちょっと訊きたいことがある」

「え? 克樹? どうしたの? こんな早くに」

 鞄から教材すら取り出さずに待っていた僕は、席から立ち上がって教団側の入り口で目を見開いてる遠坂の側に駆け寄っていく。

 彼女が今日日直なのは、授業用アプリの予定表で確認済み。

 他の奴らが教室にやってくる前に来て、僕は彼女を待ち受けていた。

「ちょ。ちょっとっ。何なの? 腕引っ張らないでよ!」

「なんだ? 音山。遠坂さんに告白でもするのか?」

「あー。まぁそんな感じ。他の奴らには秘密にしておいてくれよ」

 少し遅れてやってきた日直の相方の男子に、いつもなら軽口で返すところを余裕がないから適当に返事して、僕は遠坂の腕を引っ張って教室を出ようとする。

「何なのよっ、克樹!」

「だからちょっと話があるんだって。どこか、話せるところで……」

「遠坂さんも察してやれよ。浜咲さんのことだろ? 今週に入ってから来てないじゃん」

「あー」

 二年になってから同じクラスになった名前も憶えてない男子の意外な支援に、遠坂は納得した顔になるが、すぐに表情を曇らせた。

 昨日、猛臣から逃げてきた灯理と近藤が帰った後にもブリュンヒルデの反応を確認してみたけど、まだ夏姫のアパートにあることは確認できた。

 でもいつあいつが夏姫に接触しないとも限らない。

 一刻も早く彼女の状況を確認しておく必要があった。

「朝の仕事はやっとくから、午後の分は頼むわ」

「……わかった。ありがと。克樹、こっち来て」

 教室から引っ張り出そうとしていた僕と立場が逆転して、遠坂が僕の手首をつかんで廊下をずんずんと歩いていく。

 連れてこられたのは校舎とは別棟の、部室棟。

 主に運動部が使ってる隅っこの部屋の前に立ち、鍵を携帯端末で解除した遠坂は、扉を開けて中を確認する。

「ちょ、ちょっと待ってて」

「わかった」

 自分が入る分の隙間を空けて中に滑り込んだ遠坂は、部室内で何かを仕舞ってるらしい。ロッカーを開けたり閉めたりと、ドタバタした音が聞こえてくる。

「うん。大丈夫。入って」

 まだ運動部の朝練が終わるには早い時間、人気をあんまり感じない廊下に立ってた僕は、その声に陸上部の部室に入った。

 中は別にたいしたことはない。陸上部でしか使わない用具が置かれていたり、窓のない両方の壁にロッカーが並んでいたり、校庭に繋がる扉がある程度の、普通の部室だ。

 ただ、弱小で主に女子部員で構成され、男子は他の部の更衣室を間借りしてる状況の陸上部の部室は、土や汗の臭いよりも、制汗スプレーとか化粧だとかの、女の子の匂いが強かった。

 思えばあんまり化粧をしてるのを見たことがない遠坂は、考え込むように顔をうつむかせながら、部屋の真ん中に置かれたベンチに座った。少し間を開けて僕も腰掛ける。

 こんなところでふたりきりのところを誰かに見られたらと思うけど、これから徐々に増えてくる他の奴らの目を気にせず話せるこの場所はありがたい。ちょっと、女の子の匂いで酔いそうではあるけど。

「夏姫から連絡はないの?」

「ない」

 問うより先に口を開いた遠坂は僕の返事に、目を細めながらうつむいた。

「夏姫に何があったんだ? 昨日から何か言いたいことがありそうにしてたのはわかってる。あいつのことで、何か知ってることがあるんだろ?」

「それは、その……」

「どうしたんだよ」

 いつもなら思うよりも先に口から言葉が出てる遠坂は、胸の前で拳を握りしめてためらうように何も言わない。

 コンクリートの床に目を向けてる彼女の肩に手を伸ばし、無理矢理僕の方を向かせた。

「話してくれ、遠坂」

「夏姫から、克樹にだけは絶対に言わないで、って言われてるの」

「何だよ、それ。あいつに何があったのか? 家族の事情って、あいつのお父さんに何かあったとか?」

「知ってるんだ? 夏姫の家のこととか」

「少しだけだけどね。そんなに詳しいわけじゃない。あんまり話したくないみたいだし」

「うん。そうなんだよね……」

 少し泣きそうに目を潤ませてる遠坂の様子に、僕の問いが間違っていないことを確認する。

 でももし夏姫に何かしてやるとしても、詳しい話を聞かないとどうにもならない。あいつのところに駆けつけてやるべきなのかどうかもわからない。

「ねぇ、克樹。克樹にとって、夏姫って……、どういう相手なの?」

「い、いきなり何言ってるんだよっ」

 突然何を言い始めたのかと、遠坂の問いに僕は混乱してベンチから滑り落ちそうになってしまっていた。

「克樹ってさ、責任感が強いって言うか、お節介焼きで、泣いてる人のことを放っておけない質だよね?」

「そっ、そんなわけないだろっ。僕は……、その、女の子が好きで、エッチなのも好きで、責任とか、そういうのは――」

「嘘吐き」

 いたたまれなくて立ち上がって逃げようとする僕のシャツの胸元をつかみ、遠坂が顔を近づけてくる。

 潤んでいても真っ直ぐに見つめてくる瞳。

 遠坂の瞳の中に、揺らぎながらも僕の顔が映ってるのが見えた。

「あんたとのつき合い、もうどれくらいになると思ってるの? 男の子だってのは本当だし、わかってるけど、でもそうじゃないでしょ? あんたって。百合乃ちゃんがいたからってのはあっただろうけど、あんたがワタシのことどれだけ助けてくれたのか、わかってるよ。ワタシや百合乃ちゃんが忙しくて手が離せないとき、あんたが手伝ってくれたの、知ってるよ。いつも不器用だったけどね……」

 懐かしむようにして視線を下げていた遠坂が顔を上げ、睨むほどに強い視線を僕に向けてくる。

「あんたは昔からそう。面倒臭そうにしてても、結局ちゃんとしてる。そのことは、他の誰よりも、夏姫なんかよりも、ワタシが知ってるんだから」

「……」

 あの頃、僕は百合乃を通してしか遠坂とつき合いがなかった。遠坂とだけ話すようになったのは、百合乃が死んだ後からだった。

 百合乃が死に、荒れてた時期の僕にめげずに話しかけてくる遠坂のことは鬱陶しかったけど、感謝もしてる。僕がいまの僕になれたのは、リーリエがいてくれたからと言うのが一番大きいと思うけど、遠坂がいてくれなければリーリエを生み出すこともなく、荒れ続けていたかもしれない、とも思う。

「何だよお前。僕のファンかよ。なんでそんなに僕のこと見てるんだよ」

 気恥ずかしくなって、僕は誤魔化すようにそんなことを口にしてしまっていた。

「そうだよ、ファンだよ。ワタシはあんたのファンなのっ。いつも元気で優しい百合乃ちゃんのことが好きだったよ。でもね、克樹。ワタシはその百合乃ちゃんのお兄ちゃんをしっかりやってる克樹のこと、見てたよ。だからワタシは、あんたのファンなんだよ!」

「な、何を言ってんだよっ」

 言ってしまった僕の方が恥ずかしくなるようなことを言い返されて、僕は顔が熱くなるのも感じていた。

 でも遠坂は、そんな僕の顔を見ながら、泣きそうな顔をしている。

「夏姫のこと、話した方がいいんじゃないかと思ってる。口止めされてるけど、克樹には話しておいた方がいいと思う。でもね、克樹。夏姫のこと助けようとしたら。克樹はあの子のいろんなことを背負わないといけないと思う」

「……そんな、状況なのか?」

「うん。そういう問題なの。克樹はたぶん、聞いちゃったら放っておけない。そういう奴だもん、克樹って」

 泣きそうな顔で、遠坂は笑う。

 かなり重い問題だろうことは予想してた。夏姫がまったく連絡をよこさないくらいだ、けっこう酷い状況なんだろうとは思ってた。

 それに遠坂の言うこともわかる。

 僕は何か問題がある人を見かけたら、放っておけない。無理や無茶はできないし、自分のできる範囲でしかやらないけど、性分なのか、完全には放っておくことなんてできない。

 遠坂の指摘は正しい。それは僕自身がよく知ってる。

「中途半端に助けようとなんてしたら、たぶん夏姫が迷惑する。克樹も大変なことになる。だから教えて。克樹にとって、夏姫って、どんな人なの?」

「僕にとって夏姫は……」

 微笑みながら問うてくる遠坂に、僕は自分に答えを問うていた。

 これまで見てきた夏姫の顔が浮かぶ。彼女の言葉を思い出す。

 そして一番最初の、夏姫の存在を初めて知ったときの想いが、いまは僕の中で育って大きくなっていることを意識する。

「僕にとって夏姫は――」

 泣きそうな顔で笑ってる遠坂に、僕は僕の想いを告げた。

 

 

          *

 

 

「てめぇふざけんなっ。ありゃあいったいなんだ?!」

 かかってきた通話着信の名前を見て、猛臣は応答ボタンを押すと同時に叫ぶように言葉を放った。

『あんまりな挨拶ね。いきなり何なのかしら?』

「何なのも何もねぇ。いったい何なんだっ、あの中里灯理って奴は!」

『あぁ、なるほど。彼女と接触したのね』

 猛臣の怒気にも怯むことなく、電話の相手は涼やかな声で応答する。

 連泊しているホテルの部屋のテーブルに転がっているスレート端末には、ほんの少し前に届いた中里灯理の情報が表示されていた。

 ソファに座り、テーブルに脚を投げ出して携帯端末に耳を当てている猛臣の顔は、怒りに赤く染まっている。

「聞いてねぇぞ、モルガーナ! スフィアカップに参加してない奴がなんでエリキシルスフィアを持ってやがるっ。いったいどういうことなんだ!!」

 SR社の研究所に出入りしているという仕事の関係上、何度か直接話し、メールなどで連絡を取ることもあるモルガーナ。

 エリキシルバトルの主催者が彼女であることは、少ない情報を頼りに調べていっても、猛臣が気づくまでにはさほど時間は必要なかった。

 五年ほどの間にロボット業界を席巻したと言っても過言ではないスフィアドール。その原動力となり、製造方法は不明で、同程度のものを再現することもできないスフィア。

 その一番重要な部分であるスフィアコアは、多くの謎に包まれている。

 エリキシルバトルに参加する前でも、SR社の動きやロボット業界の動向を探っていれば、誰かひとりの人間の意図に左右されていることは感じ取ることができる。それを槙島という家の力を使って調べていけば、モルガーナにたどり着くことができた。

 しかし彼女の存在に気づくときには、彼女の持つ影響力の強さ、そしてその範囲の広さに気づくことになる。

 いまこの世界にモルガーナは不可欠なほどに重要であり、ヘタに触れば超大国であっても揺るがしかねない。それほどの力をはっきりと見出すことができるわけではなかったが、そう思えるほどの雰囲気を、猛臣は感じていた。

 そして巧妙に存在を隠されつつも、たどり着く者にはそうしたことに気がつくよう仕組まれているようだった。

 猛臣の知る限り、エリキシルバトルなどというものを開催可能な力と、現実離れした現象を起こしうる存在は、モルガーナしかいなかった。

 そのことを指摘した猛臣に、モルガーナはあっさり自分が主催者であることを認めた。それからは、仕事以外のことでも連絡を取る機会が生まれていた。

『どうなっていると言われても、彼女もまたエリキシルバトルの参加者というだけの話よ。エイナから聞いているでしょう? 参加資格があるのは特別なスフィアを持つ者。決してスフィアカップの地方大会の優勝者と準優勝者に限定はしていないわ』

「ふざけんじゃねぇ! だったら他に中里灯理みたいな奴が何人いるのか教えやがれ!」

『それは無理な話ね。貴方にだけ情報を与えるなんて優遇はできないのよ、猛臣君。スフィアの買い取って集めることを認めただけでも、貴方のことは充分優遇していると思うのだけど?』

「……てめぇ」

 映像のない通話オンリーの携帯端末の表示を睨みつけ、目の前にいたら殴りたい気持ちを舌打ちして堪える。

 エリキシルバトルに参加し、自分と同じ特別なスフィアを持つ相手の中から参加者を捜し始めた猛臣は、エリキシルスフィアを買い取るという方法によって集めることにした。

 猛臣にとってピクシードール、エリキシルドールで戦うこともバトルならば、資金という力を使って行うものも、戦いのひとつであったから。その方法を採ることにためらいはなかった。

 それにストップをかけるべく連絡をしてきたのは、モルガーナ。

 一度は禁止された買い取りはしかし、中盤戦に入ってから解禁されていた。

 必ず連絡が取れるわけではなかったが、買い取りが許可されたことも、主催者と直接連絡が取れることも確かに優遇ではあったが、イレギュラーな参加者がいることに納得ができるわけではなかった。

『それで、連絡した用件だけれど、貴方が会社に手配の依頼してきた部品の都合がついたわ。さっきの件のお詫びというわけではないけれど、最優先で出荷するよう指示しておいたから』

「あぁ、もう届いてるよ」

 ちらりと簡易デスクに目を走らせた猛臣。

 そこには朝に届いた宅配便のダンボールが置かれている。まだ依頼したすべてのパーツが揃ったわけではないが、最低限のものは届いていた。

『それともうひとつ、貴方が興味を持ちそうな情報が入ってきたから、まとめさせておいたわ。そろそろ届いてるんじゃないかしら?』

「情報?」

 言ってる間にスレート端末がメールの着信を告げた。

 携帯端末を左手で耳に当てたまま、伸ばした右手でテーブルの上のスレート端末を操作し、メールを表示する。

「……なるほど。これはまた」

『満足していただけたかしら?』

「あぁ、充分だ。ありがとよ」

『これからも良い戦いを期待しているわ』

 それだけ言って、モルガーナからの通話が切断された。

 携帯端末をテーブルに置いた猛臣は、スレート端末を手に取り、情報を眺めていく。

 その口元には、不適な笑みが浮かんでいた。

 

 




●登場人物一覧

・音山克樹(おとやまかつき)
 主人公の高校二年生。へっぽこフルコントロールソーサラー。使用するピクシードールはセンサーに特化した防御パワー型のシンシア。高校ではエロい奴と言われ嫌われている。
 夏姫に想いを寄せているものの、恐がりで優柔不断のため、灯理のことも含めていまひとつ踏み込めないでいる。ヘタレ坊や。

・槙島猛臣(まきしまたけおみ)
 第三部より登場したフルコントロールソーサラー。確認されているドールは性能もタイプも不明なイシュタルと、ショルダーシールドが特徴的なウカノミタマノカミ。
 名家の生まれで高校生ながらかなりの資産を持ち、能力的にもSR社で開発に携わっているなど高い。二年ほど前に開催されたスフィアカップ全国大会のフルコントロール部門で優勝した、日本最強とされるソーサラー。怒りっぽい高校三年生。
 夢に見るほどに、幼い頃に死んだ召使いと呼んでいた女性のことを憶えている。

・浜咲夏姫(はまさきなつき)
 VC社の試験型ドールであるブリュンヒルデを持つ蝉コントロールソーサラー。ポニーテールが愛らしく、プロポーションも良いため、校内でも密かな人気の女の子。美脚。
 過労で母を亡くし、現在は父親が意識不明の重体のため、気持ちが激しく揺れている。
 克樹に想いを寄せながらも、彼に頼りたくないと考えている。

・リーリエ
 身体を持たない人工個性ながら、スピードタイプのドールであるアリシアを手足のように使いフルコントロールソーサラーをやっている。克樹のことを「おにぃちゃん」と呼び慕っている。その深い心情は誰にも知られてはいない。
 克樹のことを兄と呼びながらも、夏姫や灯理に対して嫉妬する元気な女の子。克樹のために彼に隠れた行動を起こしている。

・近藤誠(こんどうまこと)
 スピード寄りのバランスタイプのドールで、恋人の遺品であるガーベラを使いエリキシルバトルに参加したフルコントロールソーサラー。
 第一部の通り魔事件以降、克樹たちには仲間として扱ってもらっているが、いまひとつ距離感をつかみ切れていない。
 彼の心には、いまも恋人であった梨里香がいる。

・中里灯理(なかざとあかり)
 防御型のフレイヤ、スピード型のフレイの二体のバトルピクシーをセミコントロールで使うデュオソーサラー。視力を失っているため常に医療用スマートギアを被っているが、それがあっても美少女と言われるに遜色のない女の子。茶色の長い髪をし、小柄で胸が大きい。
 おしとやかで控えめに見えて、夏姫やリーリエに嫉妬の目を向けられつつも、克樹に対するアピールに余念が無い。克樹に対してどれくらいの想いを出しているかについては現在のところ不明。

・モルガーナ
 魔女。

・平泉敦子(ひらいずみあつこ)
 克樹たちからは平泉夫人と呼ばれるスフィアドール業界などの先端技術関係への出資や企業援助を行っている資産家女性。闘妃、戦妃などの何体ものバトルピクシーを持ち、克樹やリーリエでは一勝もできないほどのフルコントロールソーサラー。
 猛臣とは薄い縁ながら知り合いであり、彼とエリキシルバトルを行うが、結果については不明。
 引く手数多なほどに男からの声がかかっているが、いまも病死した旦那を深く愛している。

・芳野綾(よしのあや)
 平泉夫人に仕え、生活面を支えるメイドとしてだけでなく、秘書として仕事のサポートも行い、護衛としての役も担っている完璧超人。人脈だけでなく能力も高い平泉夫人であるが、芳野の存在あってこそいまの彼女があることも知られている。黒真珠の平泉夫人に対し、芳野はこっそりとアイアンメイドと呼ばれていたりする。
 美貌とともに能力や人脈を求めて平泉夫人に声をかける男が多いが、芳野のことを狙っている男も多いらしい。しかし鉄のメイドはそのすべてを袖にしている。

・音山彰次(おとやまあきつぐ)
 何故かエイナのことを嫌っているらしい克樹の叔父にして保護者。
 平泉夫人から当事者のひとりだと言われ、克樹がエリキシルバトルに参加している証拠を見せられ、いろんなことを考えている。
 克樹のためにHPT社の試験用フルスペックメインフレームを貸したり、依頼されたアプリを制作したりと、積極的に関わってきている。
 女性関係にはだらしなく、多くの女性とつき合っているが結婚に至ったことはない。

・遠坂明美(とおさかあけみ)
 克樹の幼馴染みで百合乃のことを知るスポーツ少女。何故か人望が厚く、クラス委員に加え弱小陸上部の部長もやっている。目下の悩みは男の子にも間違われることがあるスレンダーな体型。
 克樹に対して想うところがある様子も見られるが、はっきりとそのことを口にすることはなく、他の人からは見えているのに克樹には気づいてもらえていない。

・エイナ
 エレメンタロイド、精霊というあだ名を持つ人工個性。アイドルとして活躍中で、エルフドールを操りライブを行ったり、作詞作曲もやっている。
 モルガーナに生み出されているものの、独自の考えで動いている様子がある。誰かを想っているようだが、相手は不明。

・音山百合乃(おとやまゆりの)
 誘拐されて死んでしまった克樹の妹。デュオソーサリーの能力を持ち、スフィアカップ地方大会にて平泉夫人を下して優勝したフルコントロールソーサラー。
 第一部で克樹が死にかけたとき、アリシアの身体を借りて一度だけ出現しているが、その理由は不明。

・火傷の男
 百合乃を誘拐し、死に至らしめた人物。モルガーナの側にいることが確認された。克樹に本名を知られるとエリクサーにより長く苦しんだ上で殺されるはずの人物。それでなくても克樹に見つかるとおそらく襲われる。
 死ぬのが死ぬほど怖いらしい。


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第三部 第三章 リミットオーバーセット
第三部 極炎(クリムゾン)の怒り 第三章 1


 

第三章 リミットオーバーセット

 

 

       * 1 *

 

 両腕を軽く前に出して構えたガーベラが、左右に立つフレイとフレイヤの動きに注意を向けていた。

 グレイブを持ち遠巻きに構えるフレイと、剣と盾を持つフレイヤもまた、ガーベラに視線を注いでいる。

 じりじりと位置を変える二体に、ガーベラは半歩ずつすり足で下がり、動くタイミングを計っていた。

 最初に動いたのフレイヤ。

 円形の盾を突き出して持つフレイヤは、盾に隠すようにして構えた剣をガーベラに突き出す。

 その動きをフレイヤが始めるのと同時に、フレイはグレイブを捨てて黒のひらひらしたスカートから短剣を二本取り出し、顔の前で交差させながら構えて突撃を開始した。

 フレイヤの剣を左腕の手甲で受け流したガーベラの顔は、背後に近い位置にいるフレイに向けられている。

 受け流したフレイヤの右腕をそのまま左手でつかんで引き寄せ、ガーベラは顎を殴るような動きで白い衣装の襟首をつかむ。

 突きの勢いが残っているフレイヤは、服をつかまれて脚を床から離され、そのまま立ち位置を入れ換えられていた。

 フレイヤの背中に激突する瞬間、突進していたフレイは光の位置を動かした影のように床を蹴って方向転換をし、横合いからガーベラに襲いかかる。

「ちっ!」

 近藤が舌打ちを漏らしたのと同時に、ガーベラはつかんでいたフレイヤの腹を蹴りつけて反動をつけ、フレイの短剣攻撃から逃れていた。

 再び攻撃のタイミングを計る膠着状態となった三体。

 部屋の隅に寄せたソファに座る僕は、LDKでアライズを使わずに戦っている灯理と近藤の様子を、見るともなしに見ていた。

 週末、もう恒例となっている僕の家での訓練だったけど、僕はやる気が出なくて参加していない。

 ――僕は、どうしたらいいんだろう。

 遠坂からは、夏姫のことを聞き出すことに成功していた。

 でも、僕はまだ彼女に会いに行ってない。会いに行っていいのかどうか、わからなかった。

 助けたい、とは思う。

 けれどそれは僕がやるべきことなのかどうか、判断できなかった。

「……ふぅ。ここまでにしましょう、近藤さん」

「そうだな」

 そんなふたりの声に半分無意識に反応して、僕はもう淹れ終わってるだろうコーヒーを取りにキッチンに向かう。

「克樹さん。何があったのですか?」

 背中からかけられた声に、僕は振り返る。

 両手にフレイとフレイヤを持って近づいてきた、フリルの多いうす水色のサマードレスを着た灯理は、赤い横線の入った真っ白なスマートギア越しに、僕の目を真っ直ぐに見つめてきた。

「いや、僕には別に何も」

「言い直します。夏姫さんに何があったのですか? 克樹さんは何を知らされたのでしょうか?」

 額にシワを寄せて険しい顔をする灯理に、僕は近藤の方に助けを求める視線を飛ばすが、そっちからも同じような険しい視線が向けられているだけだった。

「……言えない。僕からは、何も」

「でしたらリーリエさん、ご存じでしたら教えてください」

『あたしも知ってるけど、やっぱり言えないよ。おにぃちゃんが言わないなら』

 リーリエの声がする天井の方に顔を向け、険しいを超えて不機嫌そうな顔になった灯理。

 それでも、僕は夏姫のことを話すことはできない。

 遠坂から話を聞いた後も連絡を入れてみたが、夏姫から返事はない。僕はたぶん、彼女から拒絶されてるんだ。

 僕の顔を見つめ直した灯理は、しばらくそのまま不機嫌そうな顔を見せた後、盛大なため息を吐いた。

「克樹さんは、どうされたいのですか?」

「僕は……。どうしたいのかって訊かれても、夏姫がどうしたいのかわからないと……」

 夏姫が僕に話さないように遠坂に言った理由は、何となくわかるけど、はっきりとはわからない。

 あいつがどうしたいのかがわからないと、僕は動けない。動こうと思っても、どうしていいのかわからない。

 考えすぎて眠れてないからか、少し呆然としてる頭で小柄な灯理のことを見下ろしていた。

 そんな僕を見ていた灯理は、奥歯を強く噛みしめ、フレイヤを床に立たせて、唱えた。

「アライズ!」

 僕と灯理の間に現れた、百二十センチの白いゴスロリ衣装を纏ったフレイヤ。

『何するの? 灯理! あっ、らぁーいずっ!』

 テーブルの上に置いてあったアリシアをアライズさせたリーリエが、僕とフレイヤの間に割って入ってくる。

「邪魔をしないでください、リーリエさん。別にたいしたことをするわけではありません。ただ、ワタシの力では足りないので、フレイヤの力を借りるだけです」

 両腕を広げてフレイヤの前に立ち塞がるアリシアの顔を振り向かせて、リーリエが心配そうな表情を向けてくる。

 灯理が何をするつもりなのかわからないけど、リーリエに小さく頷いてみせると、水色のツインテールを垂れ下げて消沈した様子を見せながら、アリシアが脇にどいた。

「歯を食いしばってくださいっ」

 近づいてきたフレイヤが両手を伸ばして襟元をつかんで引っ張り、前屈みになった僕の頬を、踏み込んできた灯理の平手が打った。

 歯を食いしばるほどにも強くなかった平手打ち。

 でも大きく響いた音と、意外な灯理の行動は、僕の頭の中の雲を吹き飛ばすには充分だった。

「夏姫さんがどんな問題を抱えているのかは、話していただけないのであればワタシにはわかりません。けれど、克樹さんは何もしないでいいのですか? このまま放っておいて解決する問題なのですか?」

「それは……、たぶん、悪化するかも知れないことだけど」

「だったら克樹さんはどうされるのですか! このまま遠くで夏姫さんが不幸になっていくのを見ているだけなのですか? 連絡がない? 夏姫さんが何を考えているのかわからない? それがどうしたのですか。いまの問題は、克樹さんがどうしたいか、それだけです!」

 たぶん、スマートギアがなければ怒りに燃える瞳をしてるだろう灯理。

 彼女の言葉が、僕の頭に染みこんでくる。

「悪化していく問題なのだとするなら、いつかは夏姫さんのいまの状況に何らかの結果が出るのでしょう。それが出たとき、克樹さんはどうされるのですか? 悔しがるだけですか?」

「僕は……」

 結果が出たとき、場合によっては夏姫は僕の側からいなくなる。

 その可能性は理解してるけど、彼女がそれを望んでいるなら、僕は彼女の判断に従うしかない。……そのはずだ。

「後悔なんて、やるだけのことをやってからすればいいでしょう。夏姫さんが何を考えているのかはワタシにもわかりません。でも、克樹さんはどうしたいのですか? 後悔をするような選択をしたいのですか?」

「何かするのは、夏姫にとって迷惑かも知れない」

「そんなこと知ったことですか? ワタシは……、ワタシは最初、迷惑だと感じましたよ? ワタシのスフィアを奪わないことを、恨みましたよ。その気持ちは、いまでも残っています」

「それは、オレも少しあるな」

 そう言って灯理の隣に並んだ近藤。

 苦笑いを浮かべた彼と、もしかしたら涙を浮かべてるかもしれない灯理に、僕は見つめられている。

「克樹さんがどう考えてスフィアを奪わないのかは、いまでもよくわかりません。克樹さんなりの考えがあるのはわかっています。でも、ワタシはその考えを押しつけられたのです。貴方に負けたのですから従うのが筋でしょうし、いまでは受け入れていますが、克樹さんの考えを一方的に押しつけられたことには代わりありません」

 何となく、灯理の言いたいことがわかってきた気がする。

 フレイヤにつかまれていた襟首を離してもらった僕は、アリシアも並んで六つの目から向けられる視線を受け止める。

「オレは、負けたくなかったし、足掻いてでも脱落しないようにするつもりだった。でももし、スフィアを奪われたら、諦めるつもりだった。いや、諦めることができると思ってたんだ」

「ワタシもそうです。それなのに、克樹さんは、克樹さんの考えでスフィアをワタシたちから奪わなかった。ワタシや、近藤さんの考えも想いも無視して」

「うん。そうだね。その通りだよ。僕は僕の考えをふたりに押しつけたんだ」

「夏姫さんが、どんな考えで連絡してくれないのかはわかりません。でもそれは夏姫さんの考えです。夏姫さんの考えも、望みも、ちゃんと話し合わなければわかりません。夏姫さんの想いを受け止めるためには、遠くから見ていてはいけないのです。違いますか? 克樹さん」

「……そうだな」

 灯理の言う通りだと思う。

 このまま放っておけば、夏姫がどうなるかはわからない。拒絶されているからって、話をしなければあいつが何を考えてるかはわからないままだ。

 ――僕は、知りたい。

 夏姫が何を考えてるかを。夏姫がどんな状況にいるのか、詳しいことを。

「ある程度の状況はわかってるけど、僕にどこまでのことができるかはわからない。どこまでやっていいのかわからない。でも夏姫に訊いてみないと、僕ができることも、やれる範囲もわからない」

「えぇ、その通りです」

 やっと笑ってくれた灯理。

 近藤も笑顔を見せ、リーリエもまた、アリシアに笑みを浮かべさせていた。

『あたしも心配だったんだ。夏姫ともうずっと会ってないんだもん』

「そうだな」

 そう言って笑うリーリエに、僕も笑顔を見せていた。

「克樹さんも、夏姫さんが心配ですか?」

「もちろん」

「――克樹さんにとって、夏姫さんはどんな人なのですか?」

「それは……」

 不意に差し込まれた灯理の問いに、僕は応えに詰まる。

 遠坂に問われたときにはっきり答えたことだけど、灯理に言うのはためらわれた。どう話していのか、いい言葉が思い浮かばなかった。

「それは、その、えぇっと……」

 意地悪な笑みを浮かべる灯理は、僕をいじって楽しんでいるのかも知れない。

 ニヤニヤと笑う灯理に詰め寄られて、僕は後退る。

 でもふと、表情を引き締めた彼女は言った。

「それがはっきりとあるなら、その想いを守るために何をすればいいのか、それを考えてやっていけばいいと思います」

「うん、そうだね」

「克樹さんは本当、お節介焼きで、心配性で、自分の考えを一方的に押しつける人で、……でも、だからこそ、ワタシはいまここにいます」

 僕から大きく一歩離れて、後ろで手を組んだ灯理は、朗らかな笑みを見せてくれた。

「ワタシは、そんな克樹さんが好きですよ」

「す、好きって……」

「夏姫さんも、たぶん同じような気持ちを持っています。そんな夏姫さんを、克樹さんはどうされるつもりですか?」

 灯理と近藤とリーリエの、三人の笑みに、僕は大きく息を吸う。

 目をつむって、胸いっぱいに吸い込んだ想いを、身体に満たした。

「……ちょっと、これから出かけてくる。家のことはリーリエに任せておけばいいからっ」

「はい。行ってらっしゃい」

 灯理の声に送られて、出かける準備を開始した僕はできるだけ急いで家を出た。

 

 

 

 スマートギアやアリシアなどをデイパックに詰めて克樹が家を飛び出した後、近藤はテーブルやソファを所定の位置に戻していた。

 アライズしたままのフレイヤで手伝ってくれた灯理は、饒舌だったさきほどとは打って変わって、静かに立って何も言わず、ドールをコントロールしているだけだった。

「……本当によかったのか?」

「何がですか?」

 ピクシードールに戻したフレイヤをアタッシェケースに収めていた灯理に、近藤は問うてみた。

「いや……。なんか中里が克樹の奴をけしかけたみたいになってたが」

「そういった感じになっていましたね」

 あっさりと言う灯理に、近藤は彼女の真意をつかみ切れずに首を傾げるしかなかった。

「中里は……、克樹のことが、好きなんだろ?」

「えぇ。好きですよ」

「そういう軽いのと違って、割と本気で」

 それまで微笑みを浮かべていた灯理は、小さく開いた口に手の平を当てる。

「意外と鋭いのですね、近藤さんは。克樹さんはワタシがどのような想いで接しているのか図りかねていたようでしたのに」

「オレにはまぁ、彼女が……、いたからな」

「そうでしたね」

 恋人としてつき合ったのは、元々身体が弱く、病気で亡くなってしまった梨里香ひとり。幼馴染みだった彼女とちゃんとつき合うようになったのは中学に入ってからだったが、決して長いとは言えない恋愛期間の中で、女の子の考えや想いについては、少しわかるようになっていた。

 夏姫がいるときには見せつけるように克樹に身体を寄せていた灯理。

 しかし夏姫がいないときには、いたずらや意地悪でやることはあるが、一定の距離を保つようにしている彼女。

 スマートギアに覆われた目を見ることはできないが、口元に笑みを浮かべていても、彼女が克樹に向ける視線は、決してふざけたものではないと、何となく感じていた。

「克樹さんは何より優良物件でしたからね」

「優良物件って……。そういう意味でだったのか?」

「そう思いませんか? すでに高校生としては破格の、社会人としても通用するほどの収入があり、エリキシルバトルのことを考えると不安もありますが、いまも成長中のスフィアドール業界に人脈を形成しています。その上あまり詳しい話は聞いていませんが、経済界に通じている人とも繋がりがあるそうですし」

「そんな話も少し聞いたな」

 稽古をつけてもらったと言っていた克樹とリーリエの師匠の話は、灯理との戦いが終わった後に少しだが聞いていた。まだ会ったことはなかったが、ずいぶん裕福な人らしい。

「将来性も含めて考えれば、一発当てて大きくなるような方ではなさそうですが、堅実に、ある程度余裕を持った生活を将来送れるだろうくらいの方だと思いますよ、克樹さんは」

「中里にとって、克樹はそういう相手だったのか?」

「そう思われますか?」

 小さく首を傾げ、口元に笑みを浮かべて、そう問うてくる灯理。

 やはり彼女の瞳に映っているものは見えないが、もし見えていたら、泣きそうな色を浮かべているような気がしていた。

「どうなんだろうな」

「ワタシは画家なのです。もし目を治すことができたら、また絵を描きます。それなりに名が知られているとは言え、美術の世界で自分の食い扶持を稼ぐのは、とても難しいものなのです。それに、目が治らないとしても、絵を描くことを忘れることができないワタシは、社会的には役に立たない人間と言えるでしょう。他に生きる術を見つけるにしても、ワタシは画家であることを諦めることはできないと思います。だから、ワタシが選ぶ相手は、経済的に余裕があることが最低条件になります」

 茶化すようににっこりと笑う灯理は、言葉をつけ加える。

「もちろん、それはワタシからの条件であって、ワタシが選んだ相手に受け入れてもらえるかどうかは、別問題ですが」

「まぁ、そうだろうな」

「先ほども克樹さんに言いましたが、ワタシは優しい彼が好きです。お節介焼きで、心配性で、でもやはり男の子で、不器用な、そんなあの人のことが好きです。そのことは言葉にして言っていますが、伝わってはいないのでしょうね」

 確かに灯理は、自分の気持ちを行動でも、言葉でも克樹に主張していた。

 そんな彼女の様子に驚いたり疑問を感じてるばかりの彼には、伝わっている様子がないのも、確かだった。

「それから、残念なことに、ワタシは夏姫さんのことも好きなのですよ。友達として、ですけどね。そして彼女には、幸せになってほしいと、そう思います」

「……あぁ」

 もう訊かずともひとりで話している状態の灯理に、近藤から言うべき言葉はなかった。溜まっているものを吐き出すだけ吐き出せばいいと、そう思う。

「元々、ワタシには入り込む余地はなかったのですよ。克樹さんと夏姫さんは、ワタシがふたりに知り合ったときには、もうお互いのことを見ていましたから。……まぁ、そのことに本人たちの方が気づいていないようでしたけれど」

「確かにその通りだな」

 最初は敵として出会った克樹と夏姫。

 ふたりが話しているのを近藤が見たときには、何となくだったが、もう友達同士という関係には見えなくなっていた。

 通り魔事件の停学が解け、二年になってから再会したときには、つき合っていないのが不思議に思うくらいの距離感になっていた。

「このまま上手く行けば、あのふたりは正式につき合うことになると思います。ですけど、男女の仲というのはわからないものなのですよ」

「そういうものか?」

「えぇ。ワタシの家は、才能はあるものの人脈のなかった父と、横の繋がりはありましたが商品の調達に苦慮する母が、打算によって結ばれた関係だったのです。最初の理由がそうでしたので、愛情は希薄で、母の手によって名が売れるようになった父は、人脈の融通を求める女性から声をかけられるようになりました。打算による結婚でしたのに、母は父が浮気すると、怒るのですよ?」

「なんでなんだろうな」

「さぁ、深いところはワタシにはわかりません。打算で結婚する人も、どんなに好き合っていても結ばれない人もいます。外から見ると問題がなさそうなのに、離婚してしまう人もいます。男女の関係というものは、本当に不思議なものです。だからもし、いま克樹さんと夏姫さんが結ばれるとしても、今後はわかりません。これから先、ワタシがつけ入る隙ができないとも限らないのですよ」

 にっこりと笑う灯理は、近藤に背を向けた。

 天井を仰ぎ、言葉を続ける。

「むしろ微妙な関係のまま続いていた方が厄介なのです。一度つき合って、きっぱりと別れてもらった方が、ワタシが入り込む隙間ができるというものです」

「……そうか」

 細かに肩を震わせている灯理に、近藤は近づきはしなかった。

 慰めてやれればと思う。実質失恋した彼女を、どうにかしてやりたいとも思う。

 けれどそれは自分の役目ではないと、近藤は感じていた。

『だーめだよっ、灯理! おにぃちゃんはあたしのおにぃちゃんなんだよぉーっ』

「そうでしたね。でもそのときは負けませんよ? リーリエさん」

『うんっ。望むところだよ!』

 声を上げてリーリエと一緒に笑って、大きく一度深呼吸をした灯理は、サマードレスの裾を翻しながらくるりと振り返る。

「さて、ワタシたちも克樹さんの後を追いましょう。槙島さんがまた現れないとも限りません。あの方は強いのですから、いざとなったらワタシたちが助けに入らなければなりません」

「そうだな」

 アタッシェケースをトートバッグに収めた灯理は、それを肩に担いだ。

 近藤も充電をしていたガーベラを手に取り、鞄に仕舞って玄関に向かった。

「ありがとうございます、近藤さん」

 LDKを出る一瞬、そう小さな声で言った灯理は、口元を柔らかく綻ばせた。

 

 



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第三部 極炎(クリムゾン)の怒り 第三章 2

 

       * 2 *

 

 

「夏姫、入るぞ」

 呼び鈴にもノックにも応答はなかったのに、ノブに手をかけると、抵抗なく回すことができた。

 声をかけながら扉を開けると、鍵でもかけようとしていたのか、扉に手を伸ばしてる夏姫がいた。

「克樹……」

「久しぶり。っていうか、酷い顔してるな」

 僕から目を逸らしてうつむいた夏姫は、泣きそうに顔を歪めてるのもあるけど、いつもは綺麗にポニーテールにしてる髪はぼさぼさで、目の下のくっきりした隈と腫れ上がったまぶたで、いつもの可愛らしい印象が感じられない。

 太股の半ばまで丈のあるTシャツを羽織っただけらしい彼女は、居心地悪そうにちらちらと視線を飛ばしてくる。

「連絡しなくてゴメン。でも克樹、いまは――」

「遠坂から話は聞いてる。あいつを責めるなよ。僕が無理矢理聞き出しただけだから。とりあえず顔洗ってこいよ」

「うん……」

 たぶん帰ってと言おうとしたのだろう夏姫の言葉を続けさせず、僕は彼女をこちらのペースに乗せて話した。

 洗面所があるらしい狭いキッチンの向かいにある扉に夏姫が消えていったのを見て、僕は靴を脱いで遠慮なく部屋に入っていく。

 狭いとは聞いてたけど、本当に狭い夏姫の部屋にはたいしたものはなかった。連絡が取れなくなった先週の日曜以来酷い生活をしていたようで、さっきまで使っていたらしい布団は出しっぱなしで、脱いだ服や、……下着なんかも、畳の上に転がっていた。

「あ、うっ。ちょっと、あの……」

「とりあえず食事でもして落ち着こう」

「うん……」

 さっきよりも髪も顔もマシになって、ボォッとしてたっぽい意識も少し普段に戻ったらしい夏姫。

 部屋の惨状に顔を赤くしてる彼女に、僕はコンビニで買ってきた食事なんかが入った袋を掲げて見せた。

 夏姫が布団を仕舞ったり服などを洗濯機にかけてる間に、僕は教えてもらってキッチンで湯を沸かす。

 五個買ってきたカップ麺のうちひとつは僕の、ふたつは夏姫の腹に収まり、適当にいくつか買ってきたケーキなんかのスイーツも残ることはなかった。ペットボトルのお茶でひと息ついた僕は、卓袱台越しに夏姫の目を見つめた。

「夏姫のお父さんが事故で入院してるって話は聞いた。でも他のことがよくわからない。いまも、意識を取り戻してないのか?」

「うん……。昨日も病院行ってたけど、まだダメで……。他のことは、アタシもよくわかんない」

「わかってることだけでいい。最初から話してくれ」

 話すのをためらうように顔を歪ませた夏姫。

 でも僕は無言の視線で、彼女の言葉を促す。

 視線をさまよわせる夏姫だったけど、無言で見つめられて諦めたのか、重い口を開いた。

「土曜の、克樹たちと最後に会った日の夜、バイトから帰ってきたときに、病院から電話があってね。パパが事故で大怪我して、意識不明だって――」

 夏姫の話によると、ここから離れたところで住み込みで工事現場の仕事をしてる父親、謙治さんが、現場で鉄骨に押し潰されて大怪我をしたのだという。

 いまも集中治療室で治療を受けている謙治さんは、意識を取り戻す見込みもいまは何とも言えず、四肢切断といった怪我はないものの、骨折が多く内臓もやられている上、頭も打っているため、意識を取り戻したとしてもどういう状態になっているかわからないという話だった。

「リーリエ、事故の件を検索」

『うん、すぐやるね』

 話の途中でイヤホンマイクで聞いてるリーリエに指示を出し、夏姫から聞いた会社名や工事現場で検索させる。すぐに出てきた情報を、スマートギアを被った僕は確認する。

 ニュース記事程度の情報しかなかったが、事故があったこと、重体だという人に浜咲謙治の名前を見つけることはできた。

 ただ、続報はないため、どんな状況で、どんな原因で起こった事故なのかはわからなかった。

 リーリエに他にも情報がないか確認を頼み、僕はスマートギアのディスプレイを跳ね上げて夏姫から続きを聞く。

「それで、何か責任を取らないといけないとか、そんな話も聞いたけど」

「うん。なんか、そんな話になってるの。病院で、パパが勤めてる会社の人に言われたんだ。事故はパパが酔ってクレーン車を動かしたことが原因で、工事が遅れることに関する賠償と、壊れた機械とか資材の弁償をしないといけないんだって」

「いくらくらいになるんだ?」

「まだわかんない。試算してるところだって、この前言われた」

「そっか……」

 謙治さんがどんな性格で、酒に酔って事故を起こすようなことをやる人なのかどうかは、僕は知らない。

 ただ、仕事をしていた工事現場では入居開始予定も出ている高層マンションを建造していて、謙治さんが原因で工期に遅延が発生したとしたら、賠償を払うことになるのは当然だと思える。

 事故の規模や遅延する期間にもよるだろうけど、ずいぶん大規模な高層マンション群のようだし、数千万とか、場合によっては億の金額に乗る請求があるかも知れない。

 少なくとも、いろいろと切り詰めて生活してる夏姫じゃ、どうやっても支払える金額じゃないことは確かだ。

 それまで堪えるように膝の上の拳を握りしめていた夏姫は、ぽろぽろと涙を零し始めた。

「それに、パパが、殺されちゃうかも知れないの……」

「殺されるって、どういうことだよっ」

 思わず大きくなった僕の声に、夏姫は笑ったまま涙を流し、つらそうな目をしながら、言う。

「病院から帰ろうとしたとき、喫煙所でタバコを吸ってる会社の人たちの話、聞いちゃったんだ」

「どんな、話だったんだ?」

「なんかいま、大人の判断が必要だったりして、でもパパの親戚とかぜんぜんわかんなくて、なんかアタシに後見人をつけるとか、そんな話が出てたの」

 もうつらい笑みをしてることもできなくて、顔をくしゃくしゃにした夏姫は続ける。

「請求したお金は、パパの生命保険で賄えばいいって。後見人の人の判断で、回復の見込みなしってことで治療を辞めれば、それでいいんだからって、そんな話をしてたの」

「そんな莫迦な!」

 謙治さんが自発的に入った生命保険だとしたら、受取人は夏姫になってるはずだ。それを会社の人間が横から掠め取るなんてできるんだろうか。

 ――そうか。だから後見人か。

 賠償金が謙治さん個人に請求されるのだとしたら、亡くなった場合、夏姫がそれを支払う義務はないはずだ。でももし親戚が見つからず、後見人が、夏姫が支払うものだ、としてしまったら、彼女に請求が来ることになる。

 法律的にそれで合ってるかどうかはわからない。

 でも金を掠め取ることを考えてるような奴らだ、何かしらそうできるように手配がつくのかも知れない。

 ――そもそも、事故の原因は謙治さんにあるってのも、本当なのか?

 事故そのものにも疑惑を感じるようなことだけど、手持ちの情報じゃ僕は真実を見いだせない。

 所詮ただの高校生に過ぎない僕には、事件の裏側とか、法律的にどうなのかとか、そんなことは判断できないし、知る手段は限られている。

「ダメだよっ。このままじゃ、ママだけじゃなくて、パパまでいなくなっちゃう。そんなの、嫌だよ……」

 顔を両手で覆って泣きじゃくる夏姫を見ていて、僕は逆に、凄く冷静になっていく自分を感じていた。

 ――そうだな。僕はそういう奴だよ、遠坂、灯理。……いや、違うか。

 遠坂と灯理に言われた言葉を思い出し、でも僕はそれを否定する。

 ――お節介とか、そういうのじゃないんだ、これは。

 そう、自分の心に確認しながら、僕は卓袱台を回り込んで夏姫の側に座る。

「僕が、肩代わりするよ、そのお金」

「……何を言ってるの?」

 そんな僕の言葉に、泣きやんだ夏姫は、驚きの表情を浮かべながら顔を上げた。

 ――おまえの泣いてる顔なんて、見ていたくないんだよ、夏姫。

 細い肩に手を伸ばした僕は、彼女の頭を自分の胸に抱き寄せる。

「大丈夫だ、夏姫。僕がいま持ってるお金だけじゃたぶん足りないけど、当てはある。時間はかかるだろうけど、僕ならお金を借りても返せる」

 高校生にしてはかなり貯金がある僕だけど、それくらいじゃ賠償額には足りないと思う。

 足りない分はショージさんに借りればいい。それでも足りなければ、平泉夫人もいる。

 あのふたりなら、事情をちゃんと話して、返済計画まで出せば、お金を貸してくれると思う。返済には十年以上かかりそうな気がするけど、それでも構わないと思った。

「そんなの、ダメだよ。克樹に借りるなんてできないよ。だって、アタシと克樹はただの――」

「夏姫」

 僕の胸から顔を上げた夏姫の名を読んで、彼女の言葉を遮る。

 大きく息を吸い、涙に揺れる瞳を見つめて、僕は言った。

「夏姫。僕は君が好きだ」

「……」

 何かを言おうと口を開いた彼女だったけど、何の言葉も出てこなかった。

 畳みかけるように、僕は彼女に言う。

「僕は夏姫が好きだ。笑ってる顔が好きだ。夏姫の性格が好きだ。学校にいるときの夏姫も、バトルをしてるときの夏姫も、僕の家で、食事をつくってくれてるときの夏姫も、夏姫の全部が好きなんだ。いつまでも僕の側にいてほしい」

 上手い台詞が思い浮かばなくて、僕は精一杯の言葉で、夏姫に自分の想いを伝えようとする。

 泣きすぎて赤くなってる目よりもさらに赤くなる、彼女の顔。

 僕の顔もまた、彼女と同じ色に染まってるのがわかる。

 好きで、ずっと一緒にいたくて、離れたくない夏姫のためなら、お金を借りることなんてたいしたことじゃない。

 そういう想いを瞳に込めて、僕は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめる。

 目を閉じた夏姫は、嬉しそうに笑う。

 苦しそうで、悲しそうで、つらそうだった彼女が笑ってくれたことで、僕は安堵を覚える。

 目を開けても微笑んでくれる夏姫に、僕は自分の想いが彼女に伝わったんだと感じた。

「そっか。そうだったんだ」

「うん。僕は夏姫が好きだったんだ」

「ふふっ。なんだろう。こんなときなのに、嬉しい。凄く、凄くうれしい」

 抱き寄せていた僕から離れて座り、うつむいた彼女は赤くなってる頬を両手で覆う。

 久しぶりに見た気がする、夏姫の可愛らしい笑み。

 微かに首を傾げながら笑ってくれる彼女が次に口にした言葉を、僕は理解できなかった。

「だったらなおさら、アタシは克樹からお金は借りられない」

「……何を、言ってるんだ?」

 顔は笑っているのに、夏姫の目はもう笑っていなかった。

 僕には理解できない真っ暗な瞳をした彼女は言う。

「嬉しいよ、克樹。好きって言ってくれて、本当に嬉しい。ありがとうって思う。でも、だからこそ、克樹の力は借りられない。克樹に迷惑はかけられない」

「どういうことだよ、夏姫っ」

 伝わったと思ったのに、夏姫も同じ想いでいてくれてると思ったのに、彼女は拒絶の言葉を発する。伸ばした手を振り払い、さらに僕から距離を取る。

 僕には彼女が考えてることが、わからなかった。

「これはね、アタシがどうにかしないといけない問題なの。アタシの家族の問題なの。だから、克樹にしてもらうことは、何もない」

「家族の問題って……。だったら僕は夏姫と――」

「ダメ。絶対にダメ。そんなこと、アタシは許さない。認められない」

 表情を引き締めた夏姫が、正座をして正面から僕に対する。

「ね? 新しいエリキシルソーサラーが来てるの、知ってる?」

「知ってる。僕はまだ会ってないけど、灯理と近藤が戦って、勝てずに逃げてきた」

「そっか。なら、少しは話を聞いてるかな?」

 夏姫がしようとしてることを、次の言葉を僕は理解した。

「アタシは、エリキシルスフィアを、あの人に売ろうと思う」

「何を言ってるんだっ、夏姫!」

「この問題は、アタシが決着つけないといけないの。克樹にはお願いできないの。あの人が提示してくれた金額じゃ足りなそうだけど、エリキシルスフィアの他にアタシができることがあるなら、交渉してみるつもり」

「そんなことしなくても、僕がっ」

「だからダメだって。アタシが、アタシの力でパパを助けないといけないの。ママのことは、諦めないといけないけど、パパまで失うわけにはいかないから」

 そう言って夏姫は笑った。

「僕は夏姫とずっと一緒に――」

「出てって」

 立ち上がった夏姫が僕の肩をつかんで引っ張り上げる。

 何が何なのかわからなくて、抵抗する気力もない僕は、彼女に押されるままに玄関に向かう。

「どういうことなんだよっ。説明してくれよ! 夏姫!!」

「また、絶対連絡するから。それまでは放っておいて」

 靴や鞄と一緒に外に放り出されて、目の前で扉が閉じた。

「夏姫?! 夏姫!!」

 呼びかけても、扉を叩いても、もう夏姫が答えてくれることはなかった。

 まだ彼女が言ったことを、彼女が考えてることを理解できない僕は、つらいのか悲しいのか、寂しいのかもわからない涙を流しながら、その場にへたり込んでいた。

 

 



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第三部 極炎(クリムゾン)の怒り 第三章 3

 

       * 3 *

 

 

「克樹!」

「克樹さん?!」

 そんな声に顔を上げると、近づいてきていたのは灯理と近藤だった。

 結局夏姫は扉を開けてくれることも、返事をしてくれることもなく、仕方なく僕はとぼとぼと家に向かっている途中だった。

 まだ夏本番には早いこの時期、傾き始めた陽射しは、一戸建てが建ち並ぶ街並みの影を長く引き延ばしていた。

 車の通りもあんまりない細めの路地を歩いていたのに、僕を発見して駆け寄ってくるふたりは、たぶんエリキシルバトルアプリのレーダーを頼りにここまできたんだろう。

「夏姫さんとは話せたのですか?」

「あぁ、うん。話せた。……でも、何かよくわからないんだ」

 さっき夏姫としていた会話を思い出して、道路にしゃがみ込みそうになるのを堪えつつ、心配そうな顔を向けてくる灯理に、僕は力ない微笑みを返していた。

「そんなことより克樹! エリキシルスフィアの反応が近づいてるんだっ」

「どういうこと?」

「そうなのです。先ほど一瞬だけ反応があって、おそらく克樹さんか、夏姫さんのところに向かったと思ったので、急いでここまで来たのです」

「リーリエ!」

『うんっ。すぐ確認する!』

 夏姫のところで被ってそのままだったスマートギアで、リーリエに確認をさせる。

 僕も上げていたディスプレイを下ろして、レーダーの表示を見る。

 表示されてるのは灯理と近藤の分のふたつで、他に反応はない。夏姫の家からもある程度離れたから、ブリュンヒルデの反応も確認できなかった。

『あっ、反応あった! ……これ、たぶん車だよっ』

 あまり遠くまで感知できないレーダーに反応があった次の瞬間には、大きく距離が縮まっている。速度から考えれば、リーリエの言う通り車か何かに乗ってるんだろう。

「……止まりましたね」

 ある程度近づいたところで、新たに感知されたエリキシルスフィアとの距離に変化が見られなくなった。たぶん車を停めたんだろう。

 ――この距離で、この場所だとすると……。

 スマートギアの表示に近隣地図を呼び出し、僕は車が停まってるだろう場所を探す。

「こっちだ!」

 可能性の高い場所を発見して、スマートギアのディスプレイはそのままに、僕は走り出した。

 ここしばらく新しいエリキシルスフィアの反応がなかったのだから、この反応はおそらく槙島猛臣のものだろう。

 予想通りに距離が縮まっていくレーダーの距離表示を見つつ、僕はその場所に急いだ。

「んぁ? 三つも反応があると思ったら、てめぇらか」

 携帯端末を片手にコインパーキングに停めた車からいままさに降りてきたのは、やっぱり槙島猛臣。

 僕たちのことを認めて、奴は不適な笑みを浮かべた。

「この前いなかったお前は、確か音山克樹だったか? この辺りに妙にスフィアが集中してると思ったが、やっぱり仲間だったか。てめぇらから来てくれるとは手間が省けたな」

 ニヤリと笑って、黒いヘルメット型スマートギアやアタッシェケース、鞄なんかを車から取り出した猛臣。

 ――こいつさえ、いなければ……。

 猛臣さえバトルの資格を失えば、夏姫はスフィアを売る必要がなくなる。

 そんなことを思う僕は、奴を睨めつけた。

「いい目をしてるじゃねぇか。さぁ選びな。スフィアを俺様に売るか、戦って奪われるかをな!」

「もちろん戦う!」

「克樹さん?!」

「克樹!」

 即答した僕に、灯理と近藤が口々に心配そうな声をかけてくる。

 でも僕は奴を睨みつけるのを辞めない。

「全員一緒に相手にしてもいいが、あんまり多いと面倒だな」

「戦うのは僕だけだ。ふたりは見ていてくれ」

「大丈夫なのですか?」

「おい。こいつはスフィアカップの優勝者で――」

 それまで縮んで小さくなっていた心が逆流したように、僕の身体は熱さを感じるほどになっていた。

「なんだかわかんねぇが、威勢がいいじゃねぇか。しかしてめぇは所詮地方大会優勝止まり。ソーサラーだった妹もいないんだろ? お前自身はたいしたソーサラーじゃねぇクセによ」

 近づいてきて、歓喜と怒気とが共存する瞳を向けてくる猛臣を、僕は怯まず睨み返す。

「リーリエ、いけるか?」

『あたしは大丈夫だけど、おにぃちゃんは大丈夫なの?』

 小声でリーリエに問うと、心配そうな声音で問い返された。

「大丈夫だ。いつもより元気があるくらいだよ」

『ん……。そっか。でも気をつけてよ。まだ、願いを諦めるつもりはないんでしょう?』

「――そうだな。そうだったな」

 リーリエにそう言われて、燃え上がっていた気持ちが少し収まる。

 夏姫のことばかり考えていたけど、それだけじゃない。エリキシルバトルは僕の願いを叶えるための戦いなんだ。

「誰とこそこそ話してやがんだ。どうすんだよ。戦うんだろ?!」

「あぁ、戦うさ。こっちに公園がある。来い」

 ひとつ深呼吸してから、心配そうな顔をしてる灯理と近藤に笑みを向け、それから顎をしゃくって猛臣に行き先を示した。

 ――僕の戦いだけど、夏姫のための戦いでもある。

 そう思いながら、僕は公園に向かって歩き始めた。

 

 

          *

 

 

 夏姫の家からそう遠くない、近藤との決着をつけた公園。

 日曜で昼間のいまは子供連れの人が少なくなかったけど、僕は人がいる広場から生い茂った枝葉を分け入って、ちょっと奥まったところにある広場までやってきた。

 まさに僕と夏姫が、近藤と戦ったその広場であることにか、近藤は微妙な顔を見せてるけど、アタッシェケースを取り出して不要になったデイパックを彼に押しつけた。

「別に僕がどんな風に戦っても文句言わないよね?」

「ちゃんとエリキシルバトルをするならな。逃げるとか、俺様に直接攻撃するとかは辞めてくれよ?」

 確か学年がひとつ上の、年上の余裕なのか、……いやたぶん、こいつの性格なんだろう、手にぶら下げていたスマートギアを頭に被りながら、猛臣は不適な笑みを浮かべた。

 でも、その言質が取れれば充分だ。

『おにぃちゃん、どうするの?』

 スマートギアのディスプレイを下ろした途端、リーリエから質問が飛んでくる。

『アレをやるつもり?』

『さっさとアレで決着をつけたいところだけど、まだ使うのは無理だろ。シンシアを使う』

 イメージスピークでリーリエと相談しながら、僕はアタッシェケースからアリシアとシンシアを取り出し、武器なんかを装備させていく。

「……てめぇもデュオソーサラーなのか?」

「さぁね。説明してやる義務はないだろ?」

「ちっ。始めるぞっ。アライズ!」

 細かい砂利の地面の上に立たせた水色のアリシアと緑色のシンシアを見た猛臣の質問を躱し、二体の手を繋がせた僕は、エリキシルバトルアプリに向かって唱える。

 僕の願いと、いまの僕の想いを込めて。

「アライズ!!」

 光に包まれたアリシアとシンシアが、約百二十センチのエリキシルドールに変身する。

 猛臣の斜め前に立つのは、銀色のポニーテールとボディをしたドール。この前灯理たちと戦った、ウカノミタマノカミだ。

 ――イシュタルは持ってきていないのか?

 メインドールであろうイシュタルじゃないことに少し疑問は覚えるけど、詮索する必要があることじゃない。こいつを倒せばいいだけのことだ。

「フェアリーリング!」

 戦場の真ん中に立って、僕たちの代わりにフェアリーリングを張ったのは、灯理。

 レフェリーを買って出てくれたらしい彼女は、僕と猛臣を交互に見て戦いの準備が整ってるのを確認し、広場の隅に下がってから叫んだ。

「それでは、始め!」

『先手ひっしょぉーっ!』

 号令とともに水色の二本のテールをなびかせてアリシアを飛び出させたリーリエに、僕も少し遅れて緑の三つ編みを揺らしながらシンシアを追随させる。

 待ちかまえるウカノミタマノカミは、映像で見たのと同じショルダーシールドからマントを垂らし、両手に一本ずつ件を持って悠然と立っている。

 アリシアにもシンシアにもいくつかの武器を持たせてあるけど、リーリエはまずは手甲に接続されたナックルガードを、僕はウカノミタマノカミが持つより長く幅広の剣を二本持たせていた。

『はっ!』

 僕にしか聞こえない気合いの声とともに、胸のアーマーを擦りそうなほど低い姿勢の突撃をさせていたリーリエは、襲いかかる剣を無視して顎を狙ったパンチを地面から伸びるように垂直に繰り出す。

 アリシアに振り下ろされていた剣を受け止めたのは、シンシアの左の幅広剣。

 懐に入られて後ろに下がるしかないウカノミタマノカミに、僕はシンシアの右の剣を繰り出していた。

 フレイとフレイヤのように、僕たちにはアリシアとシンシアの二体のドールがあるわけだけど、灯理のデュオソーサリーとは少し戦い方が違う。

 デュオソーサリーは両手にひとつずつ填めたパペットのように、ひとりの人間が行う連続作業だ。

 ふたりの人間が行う連携ではないそれは、呼吸を合わせる必要がないという点で、集中されると厄介だ。

 けれど同時に、デュオソーサリーができる能力があっても、ひとりの人間が周囲に向けられる注意はふたりよりも狭い。

 稼働を開始してからずっと一緒にいるリーリエとは、呼吸を合わせるなんてことが必要ないほどに、バトルについては僕は彼女の思考を、次の行動をわかってやることができる。

 僕とリーリエという、ふたつの脳を使って行うバトルは、灯理と戦って以降、ずっと連携しての戦いを訓練してきた僕たちなら、デュオソーサリーにも負けるものじゃない。

「なかなかやるじゃねぇかよっ!」

 拳と剣という、ふたつの距離からの絶え間ない攻撃に、反撃すらできずにいる猛臣は、ウカノミタマノカミのショルダーシールドを早速使い始めていた。

 防刃生地に用法を特化して人工筋を編み込んだ、確かバリアブルアーマーとかって名前で少し前に発表があった生地を使ってるだろうマント。

 二本の剣とともに、腰の辺りまで動いてマントで下半身をも防御できるショルダーシールドは、腕が六本あるような状況をどう制御してるのかはわからないが、アリシアとシンシアの攻撃を完璧に防御していた。

「なら、これはどうする?!」

 言いながら僕は、二本の幅広剣を地面に突き刺して手放し、背中から新たな武器をシンシアに抜かせる。

 柄まで含めれば百センチ近くと、シンシアの身長ほどもあるように見える、幅も長さもある両手剣。

 アニメのキャラクターが持っている、格好ばかりで実用性がなさそうな、試しにアライズしてるときに僕が持ってみたら構えるのすら難しいくらいの重量のその武器は、元々パワータイプでアライズによって大人の筋力すらも超えるシンシアなら扱うことができる。

 水色のツインテールを右に左に揺らしながら陽動の攻撃を仕掛けてるアリシア。

 その間を突いて上段から最大の力を持って振り下ろしたシンシアの両手剣を、ウカノミタマノカミは頭の上で交差させた二本の剣に、下半身のバネまで使って受け止めた。

「ちっ」

「ははっ。すげぇな、音山克樹! てめぇなんて近藤誠よりも、中里灯理よりも弱い雑魚だろうと思ってたけどよ、なかなかやるじゃないか!!」

 まだまだ余裕がありそうな声音で、猛臣が吠える。

 ――実際、余裕があるんだろうけど。

 リーリエがアリシアを機敏に跳び回らせつつ、僕がシンシアで狙い澄ました一撃を放つ。

 僕たちの攻撃はさっきよりもウカノミタマノカミを追いつめてる感じはあるけど、マントやアーマーに掠めるくらいで、まともな打撃を入れられてない。猛臣の反撃はほぼ封じ込めて一方的に攻撃しているというのに、そのすべてが防がれていた。

 ――ドールの性能も、ソーサラーの能力も高いっ。

 猛臣と出会ったときに感じていた怒りはすっかり静まり、僕はいつもの落ち着いた思考を取り戻していた。

 ドールの性能は第五世代パーツを使っていればそう大きく違うものではないと思っていたけど、そうじゃないことをいま僕は実感していた。

 六本の腕状のショルダーシールドもすごいものの、ウカノミタマノカミは明らかにアリシアやシンシアよりも性能が高いピクシードールだ。

 それに猛臣のソーサラーとしての力量も凄まじい。

 いつも練習をしてる灯理や近藤とは比べものにならないほどに、視野の広さも集中力もあって、ドールの動きもリーリエ以上に細やかだ。

 さすがにスフィアカップ優勝者と思うほどの敵と、いま僕とリーリエは戦っていた。

 ――このままじゃ、負ける。

 僕はそれを予感していた。

 いまのところ押せているけど、攻撃が途切れて反撃され始めたら、たぶんじり貧になる。

 必殺技が使えればよかったけど、シンシアを操りながらは難しい。人工筋の性能を限界を超えて、動きにあわせて引き出す微妙な操作には、集中力が必要だ。

 だから僕は、勝つために、いまよりもさらに卑怯な手を使うことにした。

『リーリエ。十秒だけ頼む』

『うんっ、わかった!』

 何をするかを言わなくても理解してくれたリーリエが、ウカノミタマノカミの前に突っ込む。

 襲いかかる二本の剣を手甲で裁き、アーマー同士がぶつかるほどに接近して膝蹴りを、回し蹴りを、飛び込んでの正拳突きを放つ。

 その間に僕は、ウカノミタマノカミの後ろに人がいない位置にシンシアを移動させ、両手剣を地面に突き刺した。

 そして、背中に背負わせていた武器を取り、両手に構える。

『リーリエ!』

『うんっ』

 胸と腹を狙った左右の拳をショルダーシールドに防がれ、反撃の剣を強く地を蹴って避けたアリシア。

 その影から現れるようにして立つシンシアで、僕は引鉄を絞った。

 画鋲銃(ネイルガン)。

 以前使っていた害虫駆除用のものと違い、小型化した上に威力も装弾数も増やし、命中精度はさほど変わらないものの、連射を可能にしたものだ。

「なんだそりゃ!!」

 猛臣が声を上げたときにはもう遅い。

 圧搾空気が抜ける音が連続するのと一緒に、人間の頭すら貫きそうな威力とサイズの画鋲が、ウカノミタマノカミに降り注いだ。

 六十発の画鋲を五秒ほどで撃ち終わったとき、猛臣のドールはまだ立っていた。

 二本の剣を盾のようにして構え、ボディの重要な部分を守っているが、フレイとフレイヤの針やナイフでは先端しか刺さらなかったバリアブルアーマーのマントには、数十本の画鋲の貫通痕が空いている。たぶん、内側のハードアーマーにもダメージがあったはずだ。

「そんなもんまで持ち出してくるか。くそっ。やってくれるぜ」

 毒吐く猛臣は、画鋲が突き刺さって使い物にならなくなった剣を捨てさせた。

「さすがに俺様も容赦しねぇぞ。こんだけドールを傷だらけにしてくれたんだからな!」

 まだ動くことができるらしいウカノミタマノカミのマントが、ショルダーシールドはそのままに、外れた。

 マントの下から現れたのは、鈍く銀色に輝く、ほっそりとしたボディ。

 ――やっぱり、性能が違うんだな。

 画鋲で傷ついているが、目立った損傷は見られない銀色のハードアーマー。腕や脚はスピードタイプのアリシアと同じくらいに細いが、シンシアと並ぶほどのパワーを持つウカノミタマノカミ。

 スフィアドールの内部に組み込むパーツはスフィアの承認が必要だけど、ここまでスリムでパワーのある人工筋の存在を、僕は知らない。

 SR社で人工筋の開発をしてる猛臣が、量産品ではない高性能なものを、自分の立場を利用して使えるようにしたんだろう。

「二体とも手足を引きちぎってバラバラにしてやるからな!」

『くるぞっ、リーリエ!』

 リーリエの返事がある前に、猛臣が発する怒りの炎を纏ってるようにも見えるウカノミタマノカミが両手を構え、腰を落として、飛んだ。

 三メートル以上離れていたのに、地を蹴ったと言うより飛んできたというのがふさわしい動きで、シンシアに接近していた。

「なっ?!」

 途端に僕の視界に踊る、シンシアの破損警告。

 伸ばされた腕の先は、左肩に突き刺さっていた。

 手刀による突き。

 嫌な予感がしてシンシアの身体を傾けていなければ胸の真ん中に突き刺さっていただろう、指を揃えて突き出されたウカノミタマノカミの手刀。

「エリキシルドールとは言え、あんなことができるのですか?」

「……あれはたぶん、格闘用のコンバットマニピュレーターだ」

「そんなもんじゃない。あれは特別製の手だ」

 僕の後ろで驚きの声を上げてる灯理と近藤に、僕は無意識に返事をしていた。

 パワータイプで、僕が動かすために防御型でもあるシンシアのハードアーマーは、アリシアのそれの二倍以上の厚みがある。

 金属製のハードアーマーを使ってアライズさせるだけで、その強度は銃弾くらい防ぐだろうくらいになるエリキシルドール。

 殴るのに特化したコンバットマニピュレーターは確かに強度が高いけど、シンシアの装甲を貫けたのは、指先に硬い金属を仕込んだ、市販されてない特別製のものとしか思えない。

 ――それに、いまの動き。

 飛ぶようないまの接近速度は、エリキシルドールでも普通では不可能なものだ。

 おそらく猛臣は、僕とリーリエが使ってるのと同じ必殺技を、リミットオーバーセットを使えるんだ。

 猛臣が見せてるのと同じニヤリとした笑みを浮かべたウカノミタマノカミが、追撃の手刀を左で構えたとき、アリシアが割って入ってきた。

 振り下ろされた手刀を振り上げた脚で蹴り飛ばし、そのまま回し蹴りを食らわせる。

『大丈夫? おにぃちゃんっ』

『シンシアはダメだ。戦えない』

 距離を取ったウカノミタマノカミにアリシアを油断なく構えさせながら、リーリエが発した心配の声に、僕はそう答えていた。

 肩を貫かれたシンシアの左腕は、もう動かすことができない。

 右腕は無傷なわけだけど、左腕が動かずバランスが取りにくくなったシンシアは、僕じゃ戦わせることはできない。

『シンシアは下げる。代わりに、必殺技を使う』

『わかった。でもあっちも、必殺技を持ってるよ?』

『新しい戦法はいまのアリシアじゃ二分と使えない。まだ必殺技の方が勝ち目がある』

『そうだね』

 アリシアで目配せをしてくるリーリエと視線を交わした僕は、シンシアを自分の側まで下げて、パッシブセンサーを全開にする。ウカノミタマノカミと、猛臣のすべての情報を取るために。

 腰に提げていた刀を鞘ごと捨て、リーリエはアリシアに短刀を抜かせて前に進み出させた。

「緑色の方はもう出さないのか? 一対一で本気の俺様に勝てると思ってるのか?」

「やってみないとわからないさっ」

 莫迦にしたように言う猛臣にそう反論して、僕は視界にアリシアの各人工筋のプロパティを広げる。

 八つのポインタを同時にコントロールして、必殺技を使う準備を終えた。

「いくぜぇ!」

 雄叫びを上げながら先に攻撃をしてきたのは、猛臣。

 右側のショルダーシールドを最初の位置に戻した後、肩を突き出してタックルの構えを取った。

 次の瞬間、高速モードに切り換えたスマートギアのカメラでもかろうじて捉えられるほどの速度で、ウカノミタマノカミが突進してきた。

『電光石火!』

 イメージスピークで叫ぶのと同時に、アリシアの脚部のリミッターを解除する。

 ぶれたようにアリシアが動き、突進を躱して距離を取った。

『疾風迅雷!』

 タックルの態勢のままのウカノミタマノカミに、反撃とばかりに短刀を顔の前に構えたアリシアが突撃する。

「見えてんだよ!」

 リーリエが短刀を振らせるよりも先に、ウカノミタマノカミの右手がアリシアの頭をつかみ、地面に叩きつけていた。

『リーリエ!』

 首筋を狙った手刀が振り下ろされる直前で、リーリエはアリシアを横に転がせて攻撃に避ける事に成功する。

 ――本当にじり貧だ。

 地面を横に転がっていき大きく距離を取って、再びウカノミタマノカミと短刀を構えて対峙したアリシアだけど、もう僕には勝つ目を見いだせなかった。

 必殺技を避けたり、先読みして対応するならともかく、目で見て正確に潰せる奴に、他の必殺技も効くとは思えない。あちらにも必殺技を使われたらすべてを打ち落とされる。

 激しく動き続けていたアリシアのバッテリ残量は、もうさほどない。

 勝つための方法を、僕はもう思いつくことができなくなっていた。

「楽しくなってきたぜ。もっと楽しませてくれよ、音山克樹!」

 剣を構えるように、揃えた両手を突き出す攻撃の態勢。

 あとどれくらいアリシアが戦える状態にあるのか、僕にはわからなかった。

『リーリエ。あの戦法を使う』

『でも、いまのこの子じゃ……』

『わかってる。でもこのまま負けるよりマシ――』

 イメージスピークでリーリエと相談する僕の思考を中断したのは、携帯端末の呼び出し音。

 僕や後ろにいる灯理と近藤じゃなく、金色に光るフェアリーリングの反対側の縁に立つ、猛臣から音が聞こえてきていた。

「ちっ、くそっ。……いや、まぁそうか」

 ウカノミタマノカミを操りつつも、胸ポケットからちらりと出した携帯端末の表示を見て舌打ちする猛臣は、でもニヤリと笑う。

「すまねぇな、音山克樹。たいして緊急の用件じゃねぇだろうから、このまま決着をつけたいところだが、水を注されちまった」

 鳴り続ける呼び出し音に視線だけで注意を向ける猛臣は、大きくため息を吐いた。

「何かと忙しいんでな、本当にすまねぇ。その緑のを修理して、また今度戦おうぜ。俺様の本気のドールを用意しておくからよ。じゃあな。カーム!」

 アライズを解いてピクシードールに戻ったウカノミタマノカミや武器を無造作につかんでアタッシェケースに収めた猛臣は、もう僕たちに目を向けることなく、スマートギアで電話の相手に応じつつ、広場を歩き去っていった。

 その背中が完全に見えなくなってから、緊張が解けた僕は膝に力入らなくなってその場に座り込んでいた。

「大丈夫ですか? 克樹さんっ」

「なんだあいつ。勝手に帰りやがって」

 側に来てくれた灯理と近藤のことも気にしてられず、僕は呟きを漏らす。

「負けるかと、思った……」

 それくらい、僕とリーリエには勝ち目がなかった。

 猛臣の方にはまだ余裕が感じられた上に、次は本気のドールを、たぶんイシュタルを出してくるという。

 いまの僕たちに、勝てる要素はひとつも見つけられなかった。

『おにぃちゃん』

 アリシアを操るリーリエが差し出してくれた手を取り、立ち上がる。

『次は、絶対に負けないようにしないとね』

「……そうだな」

 柔らかく微笑みながら、でもアリシアを通して揺るぎない決意の瞳を向けてくるリーリエ。

 それに応えた僕は、猛臣との再戦のためにやるべきことを考えていた。

 

 

          *

 

 

 部屋の隅で膝を抱えて座る夏姫は、膝に顎をつけてずっと動かないままだった。

 克樹を扉の外に追い出してから、ずいぶん時間が経っていた。

 扉を叩いたり声をかけてきていた彼は、いつの間にかいなくなったらしい。静まり返った部屋の中で、夏姫はひとり考える。

「アタシは、どうしたらいいんだろう」

 顔を上げた夏姫は、机の上の充電台に置いてあるブリュンヒルデのことを見る。

 見た目には以前と大きく変わっていないが、母親の春歌にもらったときとはすっかりパーツが入れ替わってしまったヒルデ。

 春歌が生きていたときと同じなのは、メインフレームと、フェイスを除く首から上のパーツだけだった。

 克樹には勢いで猛臣にスフィアを売ると言ってしまったが、どんなに考えてもそれ以外の方法を、夏姫は思いつくことができない。

 いまはエリキシルスフィアとなった、スフィアカップのときに贈られたスフィアは、春歌と一緒に手に入れたもの。エリキシルバトルのことがなくても手放したくはなかった。

「でも、パパにまで死んでほしくないよ……」

 いまのままで行けば、保険金を手に入れるために、会社は謙治の治療を辞めてしまうだろう。

 もう一年以上まともに会っていなくて、春歌の死の遠因となり、葬式すらもまともに出ずに逃げるように出ていった謙治。

 恨みこそあれ、一緒に暮らしたいなどとは思えなかったが、死んでほしいとは思えなかった。小学校の頃、まだちゃんと仕事をしていたときの優しい謙治のことも、夏姫は忘れることができなかった。

 母親に続いて、唯一となった肉親を、失いたいとは思えなかった。

「克樹は、アタシのことが好きだったんだな」

 告白してきたときの彼の顔を思い出す。

 バトルをしているときよりも真剣で、真っ直ぐで、夏姫のことだけを見てくれていた彼。

 灯理に身体を寄せられて少し迷惑そうに、少し嬉しそうにしている彼とも、リーリエと仲良く喧嘩をしている彼とも違っていて、言葉以上に気持ちが伝わってきた。

 嬉しくて、本当に嬉しくて、克樹に全部を預けてしまいたくなったけれど、それはできない。

 夏姫では一生かかっても返しきれるかどうかわからないような金額を、彼に肩代わりしてもらうわけにはいかなかった。

 克樹はおそらくそんなことは気にしないだろう。何があっても大切にしてくれるだろう。そう思える。

 けれども克樹にそんなに大きなことを頼ってしまった夏姫は、もう彼の目を真っ直ぐに見ていられなくなってしまいそうだと感じていた。

「アタシも、アタシも好きだよ、克樹。だからこそ、この問題は、アタシがどうにかしなくちゃならないの。克樹のことを、真っ直ぐに見ていられるように、ね」

 嬉しさと、悲しみの籠もった笑みを浮かべて、夏姫は立ち上がる。

 ヒルデの隣に置いてある携帯端末を手に取り、登録しておいた電話番号をリストから選び出す。

「一度別れることになるかも知れないけど、またいつか会おうね、克樹。そのときは、真っ直ぐに克樹の目を見ていられるようにするから」

 ここにはいない克樹に呼びかけながら、夏姫は発信ボタンを指でタッチした。

 

 



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第三部 極炎(クリムゾン)の怒り 第三章 4

 

       * 4 *

 

 

 五、六人くらい横に並んで通っても余裕がありそうな自動ドアをくぐり、顔をうつむかせながらひとりで出てきた制服姿の女の子。

 浜咲夏姫。

 ニヤリと口元に笑みを浮かべた猛臣は、ずいぶん待たせられた彼女に声をかけた。

「よぉ」

 自動ドアの脇の壁に背をもたせかけて待っていた猛臣が声をかけると、ビクリと身体を震わせながら視線を向けてきた。

 泣きそうで、つらそうで、でもそれを必死で我慢している様子の彼女に、背筋にゾクゾクとそそるものを感じつつも、猛臣はニヤついた笑みを顔に貼りつかせたまま、側に寄ってくる彼女のことを見る。

 彼女からの電話で楽しくなってきた克樹とのバトルに水を注されることになったが、スフィアを売りたいという彼女の言葉で怒るのを辞めた。

 今日が関係者との話し合いだと言うので車で夏姫をここまで送ってきたが、入るときよりもさらに暗くなっている表情から、相当厳しい内容だったことは想像できた。

 本当のところ、猛臣は話し合いの内容を概ね把握していた。

 モルガーナが送ってきた情報で概要を知り、祖父と繋がりがある人物が会長を務める建設会社が元請けとなった高層マンション群の事件については、報道されているよりも詳しい情報を得るのは簡単だった。

 だからこそ、夏姫に要求されている内容がどんなに理不尽で、筋の通らないものであるのかもわかっている。

 浜咲謙治が事故で意識不明なまま回復していないのをいいことに、ミスを利益に換えられるよう立ち回っている者たちがいることも知っている。

 わかっていたとしても、猛臣は知り合ったばかりで仲がいいわけではない女の子のために、間接的には家の利益になる事件に介入して状況を改善させてやる気はなかった。

 例え、要求を白紙にできるとわかっていても。

 せっかくエリキシルスフィアを売ると本人が言い出したのだ、これを利用しない手はない。

 いまの状況は、自分にとって最良の選択だと、猛臣は考えていた。

「話、聞いてきたんだろ?」

「うん。正式なのは、また後日ちゃんと計算して出すって話だったけど」

「いくら請求されたんだ? 見せろよ」

 最初に会ったときは顔ばかり見ていたが、ジャンパースカートの制服で強調されたようになっている思いの外魅力的な胸を眺めていた猛臣は、鞄から取り出して差し出された数枚の紙の束を受け取り、内容を確認する。

「くっ。またずいぶんな金額を請求されたもんだな」

 長ったらしく事件のことについて書いた上で、最後に支払いの条件と請求する予定の金額が書いてある紙束の内容に、猛臣は思わず噴き出しそうになっていた。

 事件の概要と詳細、被疑者である謙治の状況についていろいろ書いてはいるが、内容がかなり滅茶苦茶だった。

 わざと読みづらい小さい文字で、書かなくてもいいことをずらずらと列記してるそれは、素人ならば欺せるだろうが、少しわかっている人が見れば、指摘できる点はいくらでもあるものだ。

 事件について被疑者の謙治が意識不明のまま警察の捜査が止まっており、不明な点がいくつも出ているものの、証言が得られていない。紙束の内容はすべて会社側からの一方的な情報で、事件が解明に至らず、責任を取るべき人間が確定していない状況で、未成年である夏姫に出してきていい内容ではなかった。

 ――こいつら、夏姫ごと売っ払って全部なかったことにするつもりだな。

 法的な後見人をつけ、本人の同意があるということで押し通そうという目論見がありありと見て取れる内容になっていた。

 ――まぁ、俺様もそれにひと口乗っけてもらうことになるんだがな。

 余計なことは言わず、家の不利益になることもしないと決めた猛臣は、紙束から顔を上げ、自分がやっていいことの範囲を考えながら口を開く。

「さすがにこれはぼったくりが過ぎるってもんだろう。俺様の方でかけ合って減額するさ」

「本当に? そんなことできるの?」

「できるさ。俺様を誰だと思ってる。しかし、ゼロにはならねぇ。何割かってのがせいぜいだ」

「……そっか」

「それに、これだけの金額なんだ、最初に言ってたあれだけじゃぜんぜん足りねぇよ」

 エリキシルスフィアを買い取ると言って提示した三百万では、一桁以上も足りない請求金額。

 法的に争えばここまでの金額は取れないとわかった上での金額だが、その辺りがわからない夏姫ではこのまま押し通されて、身柄まで彼らに押さえられる可能性が高い。

 夏姫の生殺与奪権を押さえる理由は猛臣にはわからなかったが、父親を殺して保険金を奪い、娘までどうにか仕様とするのは行き過ぎだと思えた。

 母親の復活を願って参加しただろうエリキシルバトルの資格を失うだけでも苦渋の選択だったろうに、それ以上のことを猛臣から要求されるとわかった夏姫は、顔をうつむかせて悲しそうな顔を見せる。

 続きの言葉を、猛臣は唇の端をつり上げながら言った。

「最初の条件以上の金額については、貸すだけだ。働いて返せ」

「でも、そんな金額……、何年かかるかわからないよ」

「わかってるさ。だから、お前は俺様の召使いになれ。何、悪いようにはしないさ。高校だって行かせてやるし、行きたいなら大学だって行っていい。ただし、貸した分を返しきるまでは、俺様の側にいろ」

 迷うように視線をさまよわせる夏姫に、猛臣は笑む。

 さすがに槙島本家の人間の知り合いで、猛臣の側にいる人間にまで手を出してくることはないだろう。

 それでもこだわってくるというなら、それはおそらく個人的な執着だろうから、猛臣個人の力で叩き潰すくらいのつもりはあった。

 ――こいつは、割と俺様の好みだしな。

 うつむき、引き結んだ唇を振るわせていた夏姫は、決意の籠もった目をして顔を上げた。

「――わかった。その条件でいい」

「ちゃんと言え。どんな条件をお前は飲むってんだ?」

 そう返されてとまどいの色を浮かべる夏姫の瞳を、猛臣は顔を近づけて覗き込む。

 決意をしたとしても、その決意は口に出して相手に言うのは難しい。自分にとって利益にならないものはとくに。

 しかしはっきりと言わせなければ、わだかまりとして残る。わだかまりは、時として反意に成長することもある。

 自分の口からはっきりと内容を言わせる言質は、決して無意味なものではない。

「わかり、ました。……アタシは、貴方の召使いになります。それから、アタシのエリキシルスフィアを、貴方に売ります」

「それでいい」

 言い切った夏姫に満足を覚え、笑いかける猛臣。

 目を逸らした夏姫は、悔しそうに歯を食いしばっていた。

「それじゃあ金の件については俺様の方で動くことにする。お前の親父のこともあるし、すぐにやってやるよ。スフィアの受け取りとか話の進み具合はこっちから連絡する。お前は残り少ないいまの高校生活でも楽しんでろ」

 折り畳んだ紙束をショルダーバッグに仕舞い込み、猛臣は病院の駐車場に向かって歩き始める。

 上着のポケットから取り出した車のキーを指で回して見せてやると、何も言わずに夏姫は後ろに着いてきた。

 ――さぁて、あとはてめぇを叩き潰すための準備をするだけだ、音山克樹!

 何故仲良しごっこをしているのかは理解できなかったが、克樹たちのあのグループは、彼が中心になっているのは明らかだ。

 手強かった克樹さえ倒してしまえば、近藤も灯理も問題にはならないと、猛臣は判断していた。

 ――イシュタルの調整が終わるまで待っていろよ!

 

 

          *

 

 

「……くはっ。三分ちょいか。まだまだだな」

 アライズさせたアリシアとのリンクを切断して、僕は大きく息を吐いた。

 猛臣に勝つために本格的に取り組み始めた新戦法の練習。

 最初の頃に比べて持続時間は格段に伸びたけど、最低でも五分、できれば八分は使えるようになりたいと思っていた。

 それくらいでないと、たぶん猛臣を倒しきるのは難しいだろうから。

『時間は伸びたけど、最後の方はぜんぜんダメだったよ? おにぃちゃん、集中できてないんだもんっ』

 ソファやテーブルを端に寄せて広げたLDKに立つアリシアは、リーリエにコントロールされ、僕に振り返って頬を膨らませていた。

「確かにそうだな。もっと僕が集中しないとな」

 壁際のソファにどさりと身体を預けて、僕は天井を仰ぐ。

 集中できない理由はわかっていた。

 週明けから夏姫は学校に来るようになったけど、その表情からは問題が解決したようには見えない。どうなったのか聞こうとしても黙り込むか逃げるばかりで、遠坂や近藤にも話してないから、状況を確認することはできなかった。

 ――振られたんだよな、たぶん。

 嬉しいと言ってくれたのに、僕のことを突き放した夏姫。

 僕の代わりに猛臣を頼るってことは、僕の告白は玉砕したってことになんだろうと思う。

 はっきりそうだと言われたわけじゃなくて、夏姫の父親の問題とかもあって、振られたんだろうとは思うのに、その実感があんまりなかった。

『そろそろこんな時間だし、夜ご飯食べないの?』

「ん? あぁ、そうだな」

 掃き出し窓から差し込む陽射しがまだ明るいから気づかなかったけど、もう六時を過ぎている。リーリエの提案にソファから立ち上がった僕はキッチンへと向かった。

 コーヒーメーカーをセットして、ろくな食材がない冷蔵庫をさらっと確認してから、僕は引き出しからストックしてあるスパゲティとレトルトのパックを取り出す。

 水を入れた鍋を火にかけ沸くのを待ちながら、僕はぼぉっとしながら考えていた。

 ――夏姫がつくってくれたスパゲティは、美味しかったよなぁ。

 灯理が初めて押しかけてきたときにつくってくれて、その後も何度か、いろんな種類のをつくってくれたスパゲティ。

 見てる分にはそんなに難しくなさそうなのに、自分でつくってみると思い通りにならなくて、材料を買ってくるのも面倒なことに気づいた。そのうち夏姫がつくり方を教えてくれると言ってたけど、結局その約束は果たされていなかった。

 茹で上がったスパゲティを皿に盛って、カップに注いだコーヒーとともにダイニングテーブルに持っていく。カルボナーラソースをかけて食べてみるけど、夏姫がつくってくれたのとは違っていて、違い過ぎて、コーヒーで流し込んで食べ終えるしかなかった。

「……なんで夏姫は、僕を頼ってこなかったんだろ」

 味はともかく腹が満たされた僕は、無意識のうちにそんな呟きを漏らしていた。

 腹立たしいことに、振られたとわかっていても、僕はまだ夏姫のことが好きだ。好きな相手に頼ってもらえなかったことに、さらに腹が立つ。

 僕からは夏姫に何もしてやれなくて、猛臣を倒すことくらいしか彼女を解放する方法を思いつけず、苛立った僕はダイニングテーブルに拳を叩きつけていた。

『おにぃちゃん、わかんないのぉ?』

 椅子を引いて僕の正面に座ったのは、アリシア。

 アライズしたままで、水色のツインテールの髪とかは違うけど、本当に百合乃が見せてくれたのと同じ笑みを、リーリエは頬杖を着きながらアリシアで見せてくれる。

「わかんないからこうやって悩んでるんだろっ。リーリエにはわかるって言うのか?!」

 リーリエに当たっても仕方ないのはわかってるけど、ここのところいろいろ考えていて、怒りの沸点が低くなってる。

 荒い声で言って思わずアリシアを睨みつけてしまうけど、リーリエが笑みを崩すことはない。

『うん、わかるよぉ』

「わかるってんなら、教えてくれよっ」

 まだ稼働を開始してから二年を少し過ぎたくらいのリーリエに何を言ってるんだと自分でも思うけど、夏姫の考えてることがわからなくて、僕は微笑んでるリーリエに吐き出すように言ってしまう。

『あのね、夏姫は、おにぃちゃんと同じ場所に立っていたいんだよ』

「同じ場所?」

『うん、そうだよっ』

 まるでアリシアが喋ってるかのように、声は天井の方から降ってきてるのに、口まで動かしてリーリエは話す。

『夏姫もね、おにぃちゃんのことが好きだよ』

「でも僕はあいつに拒絶されて――」

『うぅん、違うよ。絶対違うよ。おにぃちゃんのことが好きだから、おにぃちゃんには頼れないの』

「それは、どういう意味なんだ?」

 頬杖を着いて、表情は微笑んでるのに、目は真っ直ぐに僕のことを見つめてくるアリシア。いや、リーリエ。

 アライズしているときはピクシードールにある人形っぽいものではなく、人のそれとわからないくらいになる瞳が、僕の驚いた顔を映していた。

『好きな人と一緒にいようと思ったら、できるだけ負い目とか、一方的な負担とかは、あっちゃダメなの。そういうの、わかる?』

「それはわかるけど……」

『うん。そういうのを乗り越えられる人もいるけど、夏姫はそうじゃないの。おにぃちゃんと並んで、同じものを見ていたいって人。それなのに、賠償金を支払ってもらっちゃったりしたら、夏姫はおにぃちゃんの横に立っていられなくなっちゃう。おにぃちゃんは気にしなくても、夏姫は何歩か後ろに立つことしかできなくなっちゃう。そういう人なんだよ、夏姫は』

「……そうなのか?」

 過去に、百合乃が真剣なことを言い始めたときにもびっくりしたことがある。

 年下で、可愛くて、幼い女の子という印象しかなかったのに、真面目なことを真剣に話すときは、僕なんかよりも大人なんじゃないかと思うほどにしっかり考えていて、納得させられてしまう強い言葉で話していた。

 いまのリーリエも、百合乃がそうだったように、僕は彼女の言葉に耳を傾けざるを得なかった。それをさせる強さを、彼女の言葉は持っていた。

『夏姫はね、お父さんよりもお母さんの方が好きだけど、お父さんもやっぱり大切なの。お母さんの復活は本気で願ってるけど、お父さんが生き残ることと、お母さんの復活のどちらかしか叶わないなら、いまある大切なものを守る人』

「それは、そうかも知れない」

 夏姫から聞いた謙治さんの話は、父親に不審や恨みを感じてる様子があった。でも同時に、信じたいという気持ちも感じ取れた。

 確かにあいつなら、母親の復活を諦めても、父親の生存を願うだろう。

『おにぃちゃんだったら、夏姫に請求される金額くらい、返せると思うよ? だいたいどれくらい請求されるかとか、おにぃちゃんならどれくらいで返済完了できるかとかちょっと試算してみたけど、たぶん三十歳の前に返済終わると思う。スフィアドール業界って言うか、ロボット業界がいまのまま成長して、ちゃんとおにぃちゃんが就職したら、だけどねっ』

「いったい何を資産してるんだよ、まったく」

 いつもの子供っぽい笑みを見せるリーリエに、少し呆れてしまう。呆れて、僕も笑みを零してしまう。

 ひとしきり笑った後、表情を引き締めて、少し悲しげに視線を落としたリーリエは言う。

『でも夏姫にはたぶん無理。一生かかちゃうと思う。請求される分の金額を稼いで返済に充てるのは、大丈夫なんじゃないかな? と思うけど、夏姫はいま、未来が見えてない。ものすごい金額の借金のことで、押し潰されちゃってる。だからたぶん、夏姫には無理』

「だったら僕が、夏姫と一緒に――」

『だからそれはダメなんだって。夏姫はね、たぶんおにぃちゃんの側から離れるつもり。家族のことも大切で、おにぃちゃんのことも大事だから、またおにぃちゃんと同じ場所に立てるようになるまで、帰ってこないつもりかも知れない』

 なんだか僕よりも夏姫のことがわかってるようなリーリエに、何も言えなくなる。

 リーリエが語る夏姫の想いが、そのまま正解なのかどうかはわからない。でもこれまで見てきた夏姫のことを考えれば、そんなに外れてはいないと思える。

 夏姫と別れたくない。そう思うのに、そうすることしかできない自分が悔しくて、何かがこみ上げてくる胸を服の上からわしづかみにしながら、僕は優しい瞳を見せてくれるリーリエを見つめていた。

『ね、おにぃちゃん』

「なん、だよ」

『夏姫はおにぃちゃんに助けてほしいとは思ってないと思うけど、おにぃちゃんは何もできないわけじゃないんじゃないかな』

「実際、僕には何もできないじゃないか! 夏姫に拒絶された時点で、僕には……」

『おにぃちゃんにはおにぃちゃん自身の力しかないわけじゃないよ? それしか使えないわけじゃないよ? 例えばあたしは、おにぃちゃんを絶対に助けるよ。言われなくても手伝うよ。夏姫を助けたいとおにぃちゃんが思うなら、勝手にでも、やれることはやるよ』

「どういう意味だ?」

 リーリエの言い始めたことがわからなかった。いや、わかるけども、つかみきれなかった。

 なんでこんなところまでと思うけど、もったいぶった遠回しな言い方は、百合乃にそっくりだった。

『事件のこと、できるだけ詳しく調べてみたの。たぶん、夏姫のお父さんの責任で事故が起こったって言うのは嘘。でもそいういうことだった、ってことになってるみたいなの』

「何か裏があるってことなのか?」

『うん。たぶん会社とか、なんか政治とかがいろいろ関わっててあたしじゃよくわかんないんだけど、そういうのが背景にある事件なんだ。証拠とかまでは見つからなくて、あたしの推測だけどね。それをおにぃちゃんひとりで調べて、証明して、暴くってのは無理だと思う』

「そうだろうな」

 リーリエの言う通りだろう。

 けっこう大規模な開発事業のようだったし、動く金額も大きな工事なんだから、たくさんの会社が関わっていて、政治家なんかも絡んできていても不思議じゃない。

 謙治さんの事故原因に嘘や秘密があったとしても、僕がそれを暴いて事実を翻すなんてことは難しいし、おそらくできないだろう。

 さっきよりもさらに真剣な顔つきになったリーリエが言う。

『おにぃちゃんが無理でも、おにぃちゃんが知ってる人たちならどうにかなるかも知れない。助けてはもらえなくても、助言くらいはくれると思う。例えば、そういうところに手が届きそうな――』

「平泉夫人か!」

『うん。おにぃちゃんが持ってるのはおにぃちゃんの力だけじゃない。大人が関わってくることなら、大人に手伝ってもらうのは、当然だと思うよ』

 その通りだと思った。

 資産家である平泉夫人はいろんな業界に顔が利く。事故が起こった会社に直接できることはないかも知れないけど、戦い方くらいなら教えてもらえるかもしれない。

 新しい借りをつくることにはなる。でも平泉夫人は、貸せないものを貸してくれることも、返せないものを貸してくれることもない人だ。聞くこと自体を拒絶されることはないだろう。

 ――あぁ、そうか。

 夏姫が感じてるものが、少しわかった気がした。

 僕は平泉夫人にこれまでたくさんの貸しをつくってきた。それはその都度できるだけ返してきたし、金銭的なものは返済済みだ。

 それでも細かいことで残っている借りと、借りたという事実は消えない。年上であったり、いろんな面で格上の人であるというだけじゃなく、あの人から借りたという事実が、僕をあの人から遠ざけてる。

 夏姫も、僕が平泉夫人に感じてるようなことを、僕に対して感じたくないのだと、そう理解できた。

『おにぃちゃん。今日はこの後、家にいるって』

「……平泉夫人に連絡取ってくれたのか?」

『うんっ。だって、たぶん急いだ方がいいことだと思うから』

「そっか。ありがと、リーリエ」

『うんっ』

 すぐさま僕は椅子から立ち上がって、二階の作業室からデイパックを取ってきてスマートギアを放り込む。

「リーリエ。アリシアを」

『んー。この子は練習で消耗してるから、充電しておくよー。バトルしにいくわけじゃないから、なくても大丈夫でしょ?』

「……そうだな。家のセキュリティだけはしっかり頼むよ」

『わかったー』

 玄関に行って靴を履き、デイパックを担いだ僕は振り返る。

「本当にありがとうな、リーリエ」

『うぅん。だって、おんぃちゃんのためだもんっ』

「ん……。行ってきます」

『行ってらっしゃい。気をつけて!』

 玄関で手を振るアリシアに見送られて、僕は家を出た。

 暗くなってきた路地を走り、駅へと向かう。

 夏姫のことを助けられる気がしてきた。

 実際にはまだわからないけど、どうにかできそうな予感がしていた。

 ――リーリエには、本当に感謝しないといけないな。

 そんなことを思いながら、僕はたいして早くない脚を動かしていた。

 

 

 

『……それにね、おにぃちゃん。あたしも、夏姫と同じだからだよ』

 閉じられた扉に、リーリエはそう呟くように言った。

 くるりと振り返って玄関からLDKにアライズさせたままのアリシアを歩ませ、リーリエは練習のために隅に寄せていたソファやテーブルを元の位置まで戻す。

『ふぅ』

 汗をかかないエリキシルドールの額を腕で拭うように動かし、ため息のような声を発する。

 そのとき、呼び鈴の音が鳴り響いた。

 まるでそのことを予期していたかのように、ためらうことなくリーリエはアリシアを玄関へと向かわせた。

 扉を開けてそこにいたのは、小柄な女の子だった。

 白のブラウスに茶色いスカートを穿き、そろそろ暑くなってきている時期なのに、百二十センチ程度の身長では大きな上着は、リュックになっている革鞄の蔓をつかむ手が隠れてしまっているほどだった。

 顔がよく見えないほどに深く被ったハンチング帽から、焦げ茶色のセミロングの髪を伸ばした女の子は、小学生くらいの格好をしていた。

『いらっしゃい。よく来たね』

「お邪魔します。……やはり、気づいていたんですね」

『うんっ、そりゃあね。おにぃちゃんとあたしのスフィアは、この前サードステージに入ったからね』

 そう答えながら、リーリエはアリシアを操り女の子をLDKへと招き入れる。

「早速なんですが、充電させてもらってもいいですか? 帰り着くまで保ちそうにないので」

『うん、いいよー。普通の家の電気で大丈夫?』

「大丈夫です。アダプタは持ってきているので」

 鞄をソファに下ろした女の子は、長いケーブルが接続された手の平サイズの小さな箱を取り出す。ケーブルの先端をアリシアで受け取ったリーリエは、壁に近づいてコンセントに接続した。

 女の子は上着の背中の辺りをブラウスごとめくり上げ、そこに箱を接続した。

 帽子を脱いで現れた目は、少し大きめで、そして照明を受けて無機質な光を反射していた。

『セカンドステージに入ったのはわかってたから、そろそろ来ると思ってたよ、エイナ』

「えぇ、早く会いに来たいと思っていたんですが、予定より遅れてしまいました」

 そう言って微笑む女の子――エイナの目は、何も見ていないかのように変化がなかった。

 人間やエリキシルドールと違って、エルフドールの目はカメラアイに透過カバーを被せただけのもの。瞳孔が変化したりすることはない。

『でもいいの? そのボディとか』

「大丈夫ですよ? 百二十センチタイプの試作で、書類上は破棄されたことになってるんで」

『……あの人に、気づかれたりしない?』

「あの人はいま海外です。ただ、わたしの行動をあの人は把握してるでしょう。わたしはあの人がつくったエレメンタロイドですからね」

『そっかぁ……。うん、そうだよねぇ』

 ステージ用ではなく、一見すると普通の女の子のようなボディを操っているエイナは、充電ケーブルが引っかからないよう注意しながらソファに座り、リーリエもその隣にアリシアを座らせた。

「でもたぶん、あの人は気にしないのだと思います。わたしの行動を把握しながら何も言ってこないのですから、これくらいのことは想定済みなんでしょう」

『そうかも知れないねぇ。たぶんあたしのこともそうだろうしなぁ』

 隣り合って座るふたり――エリキシルドールとエルフドールの二体は、お互いの顔を見合わせて話し合う。

「フォースステージまで進めれば違ってきますが、わたしは自力でそこまでは行けそうにないですからね。リーリエさんはでも、フォースステージまで進んだら、もう隠しきれないですよね? どうするんです?」

『そのときはそのときかなぁ。まだもう少しかかると思うし』

「そうですね……」

 顔をうつむかせたエイナは、黙り込む。

 しばらくして顔を上げ、微笑みを浮かべているリーリエを見て言った。

「克樹さんがちょうど出かけることになったのは、外で落ち合う必要がなくなって都合が良かったのですが、リーリエさんはよかったんですか?」

『何が?』

「克樹さんを行かせてしまって。克樹さんはリーリエさんにとって――」

『うんっ。おにぃちゃんは、あたしのおにぃちゃんだよ。大好きで、一番大切な人。でも、だからこそ、おにぃちゃんには幸せになってほしいの。エイナにだって、大切な人も、好きな人もいるでしょ?』

「……えぇ。もちろん」

『だからあたしとエイナはこうやって会って、ネット越しじゃできないお話をするんだしねっ』

 水色のツインテールをなびかせてソファからアリシアを立たせたリーリエは、顔の前で人差し指を立てながらウィンクしてみせる。

「その通りですね」

『だったら、いっぱい話そう。いっぱい相談しよう。あの人の予想も、想像も超えて、あたしと、エイナの願いを叶えるために!』

「……はいっ」

 やっと笑ったエイナに、リーリエはいま考えていること、これからやるべきことを話し始めた。

 

 



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第三部 極炎(クリムゾン)の怒り 第三章 5

       * 5 *

 

 

 肩と胸元が開いたシンプルなドレスを身につけた平泉夫人が、紅茶のカップをソーサーに置いてテーブルに戻したのを見て、執務室のソファに座る僕は深く頭を下げた。

「お願いしたいことがあります」

「リーリエちゃんから連絡があるなんて珍しいと思ったけれど、頼み事だったのね。貴方がここまでここまで頭を下げてくるなんて、リーリエちゃんのシステムの買い取りのためにお金を借りに来たとき以来ね。とりあえず、話を聞きましょうか」

 ローテーブルに額が着きそうな僕の様子に動じることなく、夫人は冷たさすら感じる声で言った。

 平泉夫人に大きな頼み事をするとき、嘘やごまかしは一切通用しない。

 小さな金額や些末なことなら賭をしたり捨てるつもりで動くこともあるけど、大きな金額や事柄となると、常に損得勘定で判断する。

 僕が人工個性を構築するために、それ用のシステムをショージさんが通っていた大学から買い取るとき、一度目のお願いは拒否されていた。その後、ショージさんと一緒に来て、HPT社に対してどれくらいの利益を与えられるか、どれくらい僕が稼いでいけるかを提示した上で許可が出たくらいだ。

 損得の中には感情面も含まれるけど、感情だけで動く人ではない。

「僕の……、その、仲間の浜咲夏姫という子がいまトラブルに巻き込まれていて、父親の命と、彼女自身の身柄を奪われそうになってるんです」

 できるだけ詳しく、僕はいまわかっていること、わかっている状況を平泉夫人に話す。

 わかってることは決して多くないし、僕で調べられる範囲は広くない。それでもできるだけ細かく、エリキシルバトルのことは避けて話した。

「もし、助けられないという場合には、僕にできることを教えてくれるだけでも構いません。僕に何ができるか教えてください」

 少し考え込むように、指を曲げて唇に寄せた平泉夫人。

 目を細めて何かを思い出すようにしていた彼女は、ふっと笑って、僕を見て言った。

「先に確認させてもらいたいのだけど、その浜咲夏姫という子は、浜咲春歌さんの娘さんのこと? オリジナルヴァルキリーのナンバー四を持っているっていう」

「え? はいっ。そうです」

「そう。そうなのね……。芳野。事件の概要を送って頂戴」

「はい」

 いつの間に被ったのか、相変わらずのヴィクトリアンスタイルな落ち着いたメイド服を着て、深緑のヘッド委がタイプのスマートギアを被った芳野さんが、装飾のあるワインレッドのスマートギアを平泉夫人に手渡した。

「なるほどね。概要だけだけど、だいたいのことはわかったわ。どうにかできるかはこれから調べてみないとわからないけれど」

 ソファの後ろに立ってお腹のところで緩やかに手を組んで佇んでいる芳野さんとやりとりしていたらしい夫人は、スマートギアのディスプレイを跳ね上げてひとつ頷いた。

「お願いします。夏姫を助けてやりたいんです」

「私でどうにかできる可能性はあると思うわ。工事の元請けの会社、下請けの会社とそれに連なる孫請けの会社のリストを見てみると、だいたいどんな状況で何が起こったのかは、わかることがある。確認しなければならないし、相手をする規模がかなり巨大だから苦労はしそうだけどね」

 そう言って微笑む平泉夫人に、僕は安堵の息を吐く。

 夫人でどうにかできるというなら、安心できる。調べてどうにかなかなかったとしても、この人が調べたことを教えてもらえれば、僕ができることも見えてくるかも知れない。

 ディスプレイを跳ね上げて険しい視線を夫人に向ける芳野さんのことが気にかかったけど、夫人はそれに柔らかい笑みを返すだけで、何も言わなかった。

 視線だけでどんな意思疎通があったのかはわからないけど、たぶん大丈夫なんだろう。

「私は、春歌さんには何度も会ったことがあるのよ」

「そうなんですか?」

「えぇ」

 目を細めて笑う平泉夫人の瞳には、どこか悲しげな色が浮かんでいた。

「ヴァルキリークリエイションには私も出資していたから、研究に携わっている人とも交流があったの。あの会社がスフィアエレクトロニクスに吸収される直前、いろいろ大変なことになったのには、私も関係があったのよ。建て直しに協力する会社を紹介できればよかったのだけど、それが上手くいかなくてね。成果をできるだけ上げてよりよい条件を引き出すために、あんなことになってしまったわ……」

「そんなことがあったんですか」

「えぇ。夏姫さんのいまの境遇は、私にも責任があると言えるのよ」

「いや、それは――」

「現実として、責任を私が感じているの。だから、今回の件については私ができる限りの協力させてもらうわ」

「ありがとう、ございます……」

 ――リーリエ、ありがとう。ちゃんと後でそう言ってあげないとな。

 心強い言葉をかけてくれる平泉夫人にまた深く頭を下げながら、僕はそう思っていた。

 悩んで周りが見えなくなっていた僕に、夫人の存在を思い出させてくれたのはリーリエだ。褒めても褒めきれないほどに、あいつには感謝してる。

「ひとつ確認しておきたいのだけど、貴方にとって夏姫さんは、どんな存在なのかしら?」

 唐突な質問に顔を上げると、平泉夫人は口元に笑みを浮かべながらも、その目は笑っていなかった。

 下種な勘ぐりをしているのではなく、僕に夏姫を助ける理由を聞いているんだ。

「僕にとって夏姫は、いま一番大切な人です。……一度、振られてますけど」

「振られたのに、それでも大切なの?」

「はい。例え夏姫が僕のことを好きでなくても、僕は彼女を助けたい」

「そう」

 優しく微笑んだ平泉夫人は、ソファから立ち上がって、僕の隣に座る。

「よかった。本当によかったわ。貴方に大切だと言える人が現れたことが、嬉しいわ」

 言いながら夫人は、僕の頭を柔らかな胸に抱き寄せる。

 女性らしいその胸に包まれながら、何故だか僕は彼女に、母親を感じていた。

「百合乃ちゃんを失って、リーリエちゃんが生まれたけれど、貴方の心は固く閉じたままだった。それを、夏姫さんがほどいてくれたのね」

「はい」

「それでも貴方はあのバトルに参加し続けるのでしょうけれど、大切なものを守ることも、忘れないでいて頂戴」

「わかりました。……それと、なんですが」

 夫人から身体を離し、深みのある黒い瞳に優しい色を浮かべる彼女を見つめる。

「本当はあんまり関わらせちゃいけないと思うんですけど、夏姫は、その、エリキシルスフィアを売ろうとしてるんです」

「スフィアを、売る? それだと参加資格を失うことになるんじゃないかしら? 夏姫さんの願いはおそらく、春歌さんの復活でしょう?」

「えぇ。でも、父親を助けるために、槙島猛臣って奴に売って、とりあえずのお金を得ようとしてます。売る前にそれを止めないといけないんですが……」

「そう。猛臣君に、ね。それについてもどうにかなるわ。彼はちょっとした知り合いなのよ」

「そうだったんですか」

 スフィアドール業界には顔が広いと思ってたけど、あいつとまで知り合いだったとは、ちょっと驚きだった。

 夫人がどうにかなるというなら、アイツのことも大丈夫なんだろう。

「それから、僕は夫人に、何をしたらいいですか?」

「そうね。どうにかできるかは、正直なところ夏姫さんのお父様が意識を取り戻せるかどうかが鍵になりそうだけど、そちらについても最善を尽くせるよう手配するつもりよ。私も、別に自分に利益にならないことをやるつもりはないわ。それなりの利益があると思ったから、貴方に協力するのよ。でも、そうね。貴方の頼みで私が動くからには、貴方にはそれなりの貸しをつけさせてもらうわ」

「それなりって、どんなことですか?」

「それは、そのうちにまた改めてお願いすることにしようかしらね」

 唇に人差し指を当てていたずらな瞳をする平泉夫人。

 返せることなら貸しはいますぐにでも返したいところだけど、夫人がそのうちと言うのだから、僕からは何もできることはない。

「大丈夫よ。貴方の希望に添えるよう、できるだけのことはやらせてもらうわ」

「ありがとうございます」

 また胸に抱き寄せられて、僕は少しだけ、涙を零していた。

 

 

          *

 

 

 克樹が帰った後、平泉夫人は新しく淹れてもらった紅茶をひと口飲み、ソファの背後で控えている芳野に振り返った。

「芳野。事件のこと、背後関係などをもう少し詳しく調べて頂戴。人を使っても構わないから」

「わかりました」

「それと、安原の家に連絡を入れて頂戴」

「奥様。それは……」

 跳ね上げていたディスプレイを下ろそうとしていた芳野が手を止め、困惑した視線を向けてくる。

「調べた段階で貴女にはわかっていたでしょう? 私ひとりでは解決し切れる問題ではないと」

「それは、わかっていましたが……」

「今回の件はあの業界ではよくあることではあるけれど、時期を考えれば突っ込みどころのある事件なのよ。本家の力を使えばスムーズに事が運ぶわ」

「確かにその通りだと思いますが……」

 いつもは歯切れのいい言葉を使う芳野がはっきりとした返事をしない理由は、平泉夫人自身がよく理解していた。

 夫人の結婚相手であった男の本家、平泉家と、夫人の実家である安原家は、関東において仇敵と言ってもいいくらいの関係にある。業界における派閥や政治的な方面での敵対関係であるが、その根は江戸時代よりもさらに昔に遡れるらしい。

 発端としてはそれほど大きなことではなかったようだが、いま現在も多くの事柄で衝突し、敵対関係にある家の者との結婚は認められず、旦那は平泉家から、夫人は安原家から法的な意味でも絶縁されている。

 夫人の祖父である現頭首からは二度と敷居を跨ぐことは許さないとまで言われていたが、克樹が持ち込んできた件を解決するためには、建設業界と繋がりの強い安原家から手を回した方が早く対応できる。

「例え克樹様からの願いとは言え、安原本家への連絡は無用な問題を引き起こしかねません」

 状況がわかっていても、芳野の表情は険しいままだ。

 芳野と一緒に過ごすようになったのは、旦那が病死し、いろいろと起こった騒動にひと段落した頃合いだった。

 放っておけば死んでしまうほどの不遇な立場にあった彼女を拾ったのは、一種の気まぐれであったが、教育をし、元々あった才を伸ばし、娘と言うほどには年齢が離れていないということもあったが、かたくなな彼女の意向により、メイドという立場で側にいてもらっている。いまは欠けることができない存在となった芳野とともに過ごした時間は、もう決して短いとは言えない。

 そうした時間の中で、安原家からの有形無形の嫌がらせというべき妨害などがあったことは、芳野もまた充分に知っていることだった。

 絶縁されているにも関わらず、助けを求めて連絡をし、拒絶でもされれば、これまで直接的ではなかった攻撃が、明確なものとなりかねない。

 そうした危惧を抱いていることは、平泉夫人にもよくわかることだった。

「今回の件は安原の家にも利のあることよ。それはわかっているでしょう?」

「はい。わかっています。ですがやはり……」

「必要なことなのよ。この先のことも、考えればね」

「この先のこと、ですか?」

 さすがにそれについては推測がつかないのか、小さく首を傾げながら訝しむように目を細めている芳野。

「ちょうど、タイミングだったのよ。克樹君の件については本家に連絡を取るための口実程度よ。もちろんボランティアで動くのでも、克樹君への貸しだけで動くのでもなく、本家への手土産として利用させてもらうし、本家はわずかながら勢力図を書き換えるくらいの利は得ることでしょう。そして私は、そろそろ本家の力を使わなければ、この先立ち回るのが難しいと思っていたところなのよ」

「それはもしかして、先日彰次様に話してらしたことについて、ですか?」

「えぇ、そうよ。これから先、私と、克樹君たちによって行うことになるでしょう、魔女狩りのことよ」

 困惑に染まっていた表情を引き締め、芳野は厳しい視線を夫人に向けた。

「それはあまりに危険です。モルガーナという名の存在は、文字通り魔女と言うべき、強大過ぎる力を持っています」

「もちろん、わかっているのよ。もし、あの人がただ力を持った人間ならば、例え世界をどのように動かそうと、競合相手にはなっても、敵として相対する必要はないの。けれど、明確な意識を持ち、己の願いを叶えようとする魔女だというなら、世界から排除されなければならない。あの人の願いの根底にあるのは、魔女と呼ばれるにふさわしいものであると、私には感じられるしね。この先、あの人の存在が世界にとって、大きな不利益になる可能性が高い状況なのは、貴女も理解しているでしょう?」

「それは……、わかっていますが、魔女は危険です。あの人が本気になれば、奥様であっても簡単に排除されてしまうかも知れません」

「そうでしょうね。だからこそ、本家の力が必要なのよ。本家とそれに繋がる人々にとって魔女が敵となり得るなら、例え私に何があったとしても、対抗勢力を生み出すことはできるから」

「命懸けであると、そう思ってらっしゃるのですか?」

 そう言った芳野は、いつもは絶対に見せることのない、出会った頃にしか見せなかった、泣きそうな顔をした。

 出会った頃の子供に戻ったように顔を歪めて悲しそうにする芳野の頭を、夫人はソファから立ち上がって抱き寄せた。

「今日は泣く子の多い日ね。大丈夫よ。死にたいわけではないから」

 微かに肩を震わせていた芳野が顔を上げる。

「本当ですか?」

「えぇ、もちろんよ。少なくとも貴女が結婚でもして、幸せになるまでは、私は死ねないわ」

「わ、わたくしはその、結婚など……。いつまでも奥様の側にいさせていただければ……」

 慌てたように言う芳野に笑みをかけ、夫人は言った。

「私はね、許せないのよ。私にとって一番大切な人の死を冒涜した魔女のことを。それに命を懸けているのは、おそらく克樹君たちも同じ。私もそれくらいの覚悟を持っていなければ、魔女とは戦えないわ」

「……わかりました。わたくしは、奥様に全力を以て仕えさせていただきます」

「えぇ。お願いするわ。貴女がいないと、もう私はお茶を淹れることすらできなくって、困るのよ」

 茶化したように言うと、芳野は他の人には見せることのない、華やかな微笑みを見せてくれた。

 それに笑みで答えながら、平泉夫人は考えていた。

 ――けれどたぶん、魔女の首元にナイフを突きつけられるのは、貴方なのでしょうね、克樹君。

 人より少し才能があって、人よりわずかに不幸な境遇にあり、そして何よりモルガーナと誰よりも深く関わってしまっている克樹。

 モルガーナと直接対決をする資格を持つのは、自分ではなく、克樹の能力と、境遇と、覚悟があってこそだろうと、夫人は考えていた。

 

 

          *

 

 

「ちょっと夏姫っ」

「克樹? ……ゴメン、アタシは、その――」

「いいから」

 昼休みに入って、僕はそそくさと教室から逃げ出そうとする夏姫の手を取った。

 クラス中の奴らから注目されてるが、囃し立てる声も上がらない。いつも元気な夏姫が、ここのところ様子がおかしいのは誰の目から見ても明らかだったし、あれだけ彼女から側に来ていたというのに、僕から逃げるようにしてるのもわかっているからだろう。

「来てくれっ」

「あっ……。うん」

 クラスの連中や、遠坂や近藤の視線に観念したのか、夏姫は振り解こうとするのを辞めた。僕から視線を外して床を見ている彼女の右手を左手で握り、廊下へと連れ出す。

 まだ誰も来てない屋上まで連れてきて、僕は階段室の裏側の狭い空間に押し込むようにして夏姫の前に立ち塞がった。

 つかまれていた手をさすりながら、彼女は僕から目を逸らして何も言わない。

「ゴメン、無理矢理引っ張ってきて」

「うぅん。いいけど……。でもアタシは、克樹に話すことなんて、ないよ」

「僕からは夏姫に話すことがある。――猛臣に、スフィアを売るのは少し待ってほしい」

 険しい顔をして僕の瞳を見つめてくる夏姫。

 苦しそうに、悲しそうに、迷っているような彼女の瞳を、僕は見つめ返す。

「それは……、無理だよ。もう約束したから」

「大丈夫だ。たぶんあいつからの連絡はしばらくはない」

「どういうこと?」

 訝しむように眉を顰めた夏姫に、僕は笑いかけた。

 相談したのは昨日だと言うのに、ついさっき平泉夫人から連絡が入っていた。

 事はもう前に進んでいる。

「夏姫のお父さんは、まだ?」

「……うん。病院からは何の連絡もないよ。ここ何日か、病院に行けてなくて、詳しい経過は聞けてないけど」

 夫人から入っていた連絡の中に、謙治さんが入院している病院の名前も書かれていた。ここからはずいぶん遠くて、時間もかかれば交通費もかさむような場所だ。

 いろんなことを節約して生活してる夏姫には、病院といまの家を往復するのも決して楽じゃないだろう。

「病院のことも大丈夫だ。意識を取り戻して、容態が安定したら、近くのとこに転院する手はずは整ってるって」

「克樹が何かしたの? アタシは克樹に頼るわけには――」

「僕の力じゃないよ。僕の知り合いの、大人の力を借りたんだ」

「知り合い?」

 泣きそうな顔をしてる夏姫は、本当にここのところ憔悴してしまっている。

 目の下に隈ができてるのもそうだし、柔らかそうだった頬も明らかに痩けてしまっている。いつも僕が可愛いと思っていた彼女は、病的にと言えるくらいまで弱ってしまっていた。

 そんな彼女のことは、もう見ていたくない。

「うん。知り合い。僕はいろいろと借りがあるんだけど、その人に相談したんだ」

「そんな……、アタシは克樹に迷惑かけるわけにはいかなくてっ、アタシがどうにかしないといけないのに! その人から、お金でも借りたって言うの?!」

「違うっ。大丈夫なんだ! たぶんだけど、請求自体がなかったことにできるって。それどころか、会社の方から治療費とか、そういうのを引き出せそうなんだ」

「そう……、なの?」

「うん。詳しい話は、またその力を貸してくれる人と会って話した方がいい。僕も詳しいことはまだわからないんだ。でもそういう風にできそうだって、連絡が来てる」

 驚いたように小さく口を開いて、夏姫が震えていた。

 まだはっきりと状況が把握できないんだろう。僕が何をして、事故のことがどうなるかとか、理解できないんだろう。

 でももう大丈夫だ。夏姫がつらい目に遭う必要なんてない。

「そうなっても、アタシ、約束しちゃったから。エリキシルスフィアを売るって、はっきりと、約束しちゃったんだからっ」

「それも、そっちは本当によくわかんないんだけど、何とかなるんだって」

「……その、助けてくれる人も、参加者なの?」

「うぅん。違う。誘われたけど、断った人なんだ。僕とリーリエの、師匠、みたいな人かな。前に少しだけ話しただろ。平泉夫人って人なんだ」

 身体が震えて、しゃがみ込みそうになってる夏姫の腰に手を伸ばして支える。

 ただでさえ見た目以上に細く感じていた夏姫の身体は、制服の上からじゃわからなかったほどに痩せてしまっているように思えた。

「じゃあアタシは……、パパは……」

「うん、もう大丈夫だ。ああー、いや、何かまだ全部終わってるわけじゃないみたいなんだけど、どうにかなりそうだ、って段階にはなってるみたい」

「でも、でもアタシ、結局克樹に迷惑かけて……」

「いいんだ! それはっ」

 涙を零れさせ始めた夏姫を、僕は抱き寄せた。

 小さくなってる彼女を強く抱きしめて、耳元で囁くように言う。

「言っただろ、僕は夏姫のことが好きだ。夏姫は僕に迷惑をかけたくないって言うけど、それは僕も似たようなもんだ。夏姫がこうやって泣いてるのなんて見たくない。つらい目に遭ってほしくない。だから僕は僕の考えで動いたんだ。問題をなかったことにできる人に頼んだんだ」

「それでもアタシは結局、克樹に迷惑をかけてる」

「いいんだ。少しくらい迷惑をかけられるなんて、僕は気にしない。それよりも、勝手に僕の側から離れるなんて言うな。そっちの方がイヤなんだっ。僕の……、僕の側にいてくれ、夏姫」

 僕の胸元から顔を上げた夏姫は、涙を流しながら笑って、頷いた。

 そんな彼女に笑みを返しながら、僕は強く、絶対に手放したくない大切な人の身体を、抱きしめ続けた。

 

 




●スフィアドールカタログ

・アリシア 全高二〇センチ スピードタイプ Cカップバッテリ
 主にリーリエが使っているスピードタイプのバトルピクシー。第三部第一章1にて試作用フルスペックメインフレームの入手に成功し、第一部2よりそれをベースにパーツを全面的に刷新している。
 白いソフトアーマーの上に動作を阻害しない程度の部分と範囲を水色のハードアーマーで覆い、水色のツインテールを垂らした姿をしている。見た目には第二部と大きな違いはないが、金属製のハードアーマーの各部には宝石を埋め込んだような硬質プラスチックパーツを埋め込んだものになっている。
 パーツの刷新により、性能は以前より若干ながら上がり、また必殺技の際の性能上昇率も上がっている。バトルピクシーとしての性能は上の下程度。第三部第三章現在、フルスペックメインフレームが必要だった理由は未確認。

・シンシア 全高一九センチ パワータイプ Dカップバッテリ
 主に克樹が使っているが、リーリが使うこともある防御型パワータイプのバトルピクシー。第二部から第三部にかけての変化はあまりないものの、人工筋を一部変更したり、センサーレイアウトを部分的に変更している。
 黒いソフトアーマーに深緑のハードアーマーを纏い、明るめの緑色の髪を一本の三つ編みに結っている。見た目には重鎧の女騎士風味で、鎧には宝石が散りばめたようなセンサーの受送信ポイントが散りばめられている。眼鏡型の複合視覚センサーも健在。
 防御パワータイプというだけでなく、フルスペックメインフレームのデータラインをフルに使用したセンサータイプのドールでもあり、光学、音響、圧力、振動など様々なパッシブ、アクティブのセンサーを身体の各部に搭載している。

・イシュタル 全高二〇センチ バランスタイプ Dカップバッテリ
 バランスタイプの猛臣のメインドール。バランスタイプながら若干スピード寄り。
 金色の髪をポニーテールにし、白いソフトアーマーに金色のハードアーマーを合わせている。アーマーの保護範囲は広く、ソフトアーマーは首筋や関節の内側くらいでしか見ることができないほど。ただし秀逸にデザインされたハードアーマーは動作を阻害するものではない。
 性能は猛臣が自分の開発した市販されていないフレームや人工筋を使用しているため、恐ろしく高い。細かい性能や機能については現在のところ不明。

・ウカノミタマノカミ 全高二〇センチ バランスタイプ Eカップバッテリ
 猛臣が使うセカンドドール。バランスタイプながら若干パワー寄りのパーツが使用されている。
 銀色の髪をポニーテールに結い、白いソフトアーマーに銀色のハードアーマーを着せている。イシュタルと同じくハードアーマーのカバー範囲は広い。
 特徴的なのは大きな肩のアーマーとそこから垂れ下がるマント状の布地で、マントは必要に応じて硬化して防御にも仕えるバリアブルアーマーという機能的な布地が使われ、肩のアーマーは細いアームに指示されて片方が前後のふたつに別れ、左右で四つの可動式の盾のようになっている。
 市販されていない高性能なパーツが使用されているため、通常のバトルピクシーでは敵わないほどの高い性能を誇っている。

・ブリュンヒルデ 全高二五センチ バランスタイプ Fカップバッテリ
 夏姫が所有するバランスタイプのバトルピクシー。
 第一部でスフィアロボティクスのFラインシリーズのパーツを組みつけられた他は第三部までに大きな変更はない。初期のパーツのままなのは、メインフレームと、フェイスを除く首から上のパーツのみとなっている。Fラインシリーズのパーツはヴァルキリークリエイションのオリジナルヴァルキリーの性能を再現したようなパーツとなっているため、現在のブリュンヒルデは初期の性能とほぼ同等となっている。
 少し青みがかった長い黒髪を背に流し、黒いソフトアーマーの上に濃紺のハードアーマーを纏っている。ハードアーマーについてはデザインこそ大きく変わらないものの、エリキシルバトル用に金属製のものに置き換えられている。
 第三部では現在のところ出番がない。

・ガーベラ 全高二〇センチ バランスタイプ Dカップバッテリ
 近藤が使うパワー寄りバランスタイプのバトルピクシー。近藤の経済状況により、第二部から第三部までのパーツの変更は、劣化した人工筋の変更のみとなっている。
 白いソフトアーマーに、空手の胴着の雰囲気があるワインレッドのハードアーマーを纏っている。髪は少しざっくりとした感じのセミロング。
 性能は上の中程度と高いが、近藤の動きを忠実に再現するよう気を払ったパーツチョイスになっていないため、全国大会レベルの近藤のソーサラーとしての能力を生かし切れていない。

・フレイヤ 全高二〇センチ パワータイプ Fカップバッテリ
 エリキシルスフィアを搭載している灯理のメインドール。若干スピード寄りのパワータイプ。
 一部に黒を使用した白いゴスロリ衣装を着ており、その下のハードアーマーはほとんど見ることができない。ダークブラウンの髪は長く、足首に届くほど。衣装の各部には剣や盾、投げナイフなどの武器が隠されている。第三部第二章で煙玉に火を点けているように、手袋にも細工がされている。
 第三部では第二部で克樹とリーリエに切断されたメインフレームだけでなく、ほとんどのパーツを一新しており、バトルピクシーとしては高くなかった性能を大幅に上げている。
 衣装は灯理の手づくりで、ちょくちょくデザインが変更されているが、それについて描写がされることはない。

・フレイ 全高二〇センチ スピードタイプ Dカップバッテリ
 灯理のデュオソーサリーによりフレイヤと同時にコントロールされるバトルピクシー。スピードタイプのドールとなっている。
 一部に白を使用した黒ロリ衣装を纏っており、第二部のときに忍者のようだった衣装から変更され、フレイヤと色の対比がなされるデザインとなっている。髪はしっとりした感じのセミロング。
 フレイヤ以上に多くの武器を隠し持っており、スピードタイプながら重量は意外と重い。

・闘妃 全高二〇センチ バランスタイプ Cカップバッテリ
 平泉夫人が使用するバランスタイプのバトルピクシー。夫人は相手や状況によってドールを使い分けているため、メインというわけではない。
 着物のようにも見えるソフトアーマーとハードアーマーを一体化させた特殊なアーマーを使用している。長い黒髪を高い位置で結い上げている。
 平泉夫人はスフィアドール業界の多くの会社に出資をしているため、無理を言えば非売品のパーツも手に入るが、所有するドールはすべて市販の最高級品を使用している。性能はかなり高いが、同じ性能のものは他の人でも手に入れることはできる。アーマーだけは特注品。

・戦妃 全高二十センチ スピードタイプ Cカップバッテリ
 平泉夫人が所有するスピードタイプのバトルピクシー。第二部にてリーリエの訓練のために芳野が使っていた。
 黒いソフトアーマーと黒いハードアーマーの見た目には普通のスピードタイプピクシー。性能は闘妃同様高いものの、すべて市販パーツが使われている。
 平泉夫人はこれの他にもパワータイプなど、何体かのドールを所有している。

・アヤノ 全高一四〇センチ
 彰次の家で家政婦として働いているエルフドール。HPT社の試作ドールであり、AHSによってフルコントロールで稼働している。
 長い黒髪を背に垂らし、ヴィクトリアンメイドのような落ち着いたエプロンドレスを纏っている。

・エイナ 全高一二〇センチ
 リーリエの前に現れた普通の小学生のように見える、エイナによってコントロールされていたエルフドール。スフィアロボティクス社の試作ドールであり、検査が終了したため破棄されることになったが、何らかの方法によって破棄されずにエイナによって管理されている。
 とくに特徴があるドールではなく、エルフドールとしては旧式。

・ユピテルオーネ 全高一八センチ Dカップバッテリ
 再登場の予定はない、はず。


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第三部 第四章 風林火山
第三部 極炎(クリムゾン)の怒り 第四章 1


 

第四章 風林火山

 

 

       * 1 *

 

 

「よし、これなら行ける」

 スマートギアには十分を少し超えた時間が表示されていた。

 練習のために家具をどけたLDKで、アライズしたアリシアが僕に振り返って微笑む。

『間に合ったね、おにぃちゃん』

「あぁ、どうにかな」

 夏姫を説得してから二日、乱れていた僕の心は平静を取り戻し、新戦法は完成と言っていい状態まで持ってくることができた。

『名前はもう決めてあるの?』

 水色のツインテールを揺らしながら近寄ってきたアリシアの頭を優しく撫でてやる。

 くすぐったそうな顔で笑ってみせるリーリエに、僕はかけられた質問に答える。

「『風林火山』。とりあえずそんな感じで」

『うんっ、わかった。でもこの子じゃないと使えなさそうだね』

「まぁ、それは仕方ないな。スピードが重要だからなぁ」

 新必殺技「風林火山」は、パワータイプでスピードの遅いシンシアではあんまり効果がない。まったくってわけじゃないけど、他の必殺技と同じで、ドールの筋力と瞬発力を上げるものだから、アリシアの方が効果が高い。

 部屋の隅に寄せたソファに座ると、何も言わずにリーリエがアリシアをキッチンに向かわせた。

「そう思えばリーリエ。猛臣のこと調べてもらってたけど、どうなった?」

『うんとね、ちょっと待ってね』

 アリシアで保温マグカップにコーヒーと牛乳をぶち込んで持ってきてくれたリーリエは、僕のスマートギアに調査の結果を表示させてくれる。

 表示されたのはずいぶん古いニュース記事。

 日付を見ると十年近く前であることがわかるそれは、誘拐未遂事件に関して報ずる記事だった。

 何か理由があって部分的に隠蔽されてるのか、掠われそうになったのが誰だったのかは少年とだけあって詳しく書かれていなかったが、巻き込まれる形で亡くなっている女性、槙島穂波という名前については書かれてあった。

 平泉夫人辺りのレクチャーなんだろうか、どこで知恵をつけたのかはわからないけど、その当時の槙島家の勢力に関することもまとめられていて、他の勢力と抗争の真っ最中に起こった事件だったらしい。猛臣が卒業した小学校の側で起こった事件であることから考えて、誘拐されそうになったのは猛臣でほぼ確実のようだ。

 高校一年生だったらしい槙島穂波に関する情報は、猛臣とかの槙島家の名の通った人に比べてほぼないと言っていいほどに少なかったが、ある集合写真に、彼女と思しき女性が写っていた。

「……なんか、夏姫に似てるな」

『うん。なんかそうなんだよね。夏姫みたいに元気良さそうな感じの人じゃないんだけど、ちょっと似てるよね』

 集合写真には三十人くらいの人が写っていて、たぶん槙島本家に関係してる人が集まって撮ったものなんだと思うけど、小学生でこの前会ったときとは笑えるくらい違う幼い猛臣のすぐ後ろに立ってる女性が、拡大と画像補整されて見ることができた。

 小さすぎてあんまりくっきり見える訳じゃないけど、ポニーテールにしてるらしいその女性は、どこか面影が夏姫に似ているように思えた。

 猛臣と、この穂波って女性がどういう関係だったのかはわからない。

 誘拐事件のときに居合わせたのはたまたまだったのかも知れない。あいつの側で死んだ人間が他にもいたり、もっと別の命に関わる何かが猛臣か、あいつの側にいる人物にあるのかも知れない。

 猛臣の願いがこの女性の復活だという確証はなかった。

「いや、そんなこともないか」

『うん、あたしもこの人の復活があの人の願いだと思うんだ』

 僕の心を読んだようにリーリエが言い、アリシアが微笑んだ。

「イシュタルも、ウカノミタマノカミも、豊穣の神様だからな。穂波って名前にちなんでつけたんだろうな、あいつ」

 ほぼ怒ってる様子しか印象に残ってない猛臣が、そんな感傷に浸るような名つけをするか、と思うが、エリキシルバトルに参加した理由を想像するに、それくらいしか思いつかなかった。

『たぶん、大切な人だったんだと思うよ。はっきりとは言ってなかったのかも知れないけど』

「そうなんだろうな」

 夏姫のこともあったし、こういうことについては僕よりも鋭いんだろうリーリエの笑みに、僕は同意の返事をしていた。

「さて、そろそろあいつとの決着をつける日を決めてもらおう」

 僕はそう言って、平泉夫人宛のメールを書くために、スマートギアのポインタを思考で操作してメーラーを立ち上げた。

 

 

          *

 

 

「はい。どうぞ」

 ノックの直後に聞こえてきた夏姫の声に、僕はスライドドアを開けて室内に入った。

 思っていた以上に広い個室は、殺風景なものだ。

 薄クリーム色の床や壁、白いカーテン。何も刺さってない花瓶が置かれた簡易テーブルと、夏姫が座ってる椅子、それからベッドがひとつ。

 危険な状態を脱して集中治療室から出て、でもまだ常時監視が必要な状態の謙治さんは、平泉夫人が手配した個室で様々な機械やチューブを取りつけられながら、いまも眠り続けている。

 椅子から立ち上がった制服姿の夏姫は、僕に振り返って小さく微笑んだ。

「いらっしゃい、克樹。それからそちらが?」

「うん。平泉夫人だよ」

 僕と一緒に病室に入ってきたのは、黒いスーツを身につけた平泉夫人。相変わらずのメイド服姿の芳野さんは、病室の外で待機している。

「えぇっと、確かどこかで……」

「そうね。一度ヴァルキリークリエイションの発表会のときに、春歌さんと一緒に会っているわ、夏姫さん。お久しぶり、と言っても憶えていないわね。あのときは挨拶をしただけでしたものね」

「そうでしたか。……この度は本当に――」

「まだ何が終わったわけではないのだから、そうしたことはまたにしましょう」

 つらそうに顔を顰めてる夏姫に対し、平泉夫人は優しく微笑みかける。

 部屋の隅から丸椅子を持ってきた僕は、平泉夫人にそれを勧め、自分も座った。

「さて、あまり長居をしてしまうわけにもいかないし、早めに用件を終わらせてしまいましょう」

 年上の女性の持つ柔らかい雰囲気から、黒真珠と呼ばれる資産家としての空気を纏った平泉夫人と、夏姫は居住まいを正して向き合う。

「今回の事件では、謙治さんに対する責任の追及は一切なし、ということになったわ」

「……本当ですか?!」

「えぇ、本当よ。あの業界ではちょくちょくあることなのだけど、作業を担当する孫請けの会社のいくつかは、ダミーだったのよ。実際には作業をしない会社を名前だけ入れることで、利益を少なく見せて税金対策をしたり、発注元からできるだけ多くの資金を出させたりといったことをするための裏工作ね」

「違法じゃないんですか」

「もちろん違法よ。脱税や詐欺に当たるわね。けれど作業を行う会社は負担が増える分、報酬を多く受け取る約束をしているし、上から下まで了解の上でやることだから、書類上も改ざんされているし、明るみに出ることは滅多にないわね。――今回のような、事故でも起きない限り」

 一度言葉を切った平泉夫人は、息を飲む夏姫の理解が追いつくのを待つように、彼女を見つめる。

 僕も事前にあらましは聞いていたけど、けっこう酷い話だ。

 大人の世界なんてそんなに綺麗なものじゃないとわかっていても、実際目の当たりにすると怒るよりも先に呆れてしまう。でもそんな風に嘘やごまかしがあってやっと回るような業界もあるそうだから、世界は綺麗なままじゃ立ち行かない。

「謙治さんの会社は現場で作業を担当していたのだけど、負担が大き過ぎたようね。夜間帯や深夜帯までの作業も常態化していたようだし、疲れた作業員が軽くお酒を入れて仕事をしていることも、珍しいことではなかったそうよ」

「だったらやっぱり父が――」

「それは違うわ。そんな状態にしたのは会社の問題。お酒を飲んで作業していたことには変わりないからその責任はあるけれど、そうしなければ続けていけないほどの状態にした責任は、会社が取らなければならないのよ」

「そう、なんですか……」

「それをちょうど事故で意識不明になった夏姫さんのお父さんに責任をすべて押しつけることで、自分たちが負うべき責任を逃れようとした、と言うのが今回の事件のきっかけよ。人身売買紛いの養子縁組の話もあったようね。すでに、それは潰しておいたわ」

「そんなことになってたんですかっ」

 驚きの声を上げた夏姫が、恐れにか、肩を竦めて身体を硬くする。

 そんな彼女の膝の上で握りしめられた右手を、椅子を近寄せた僕は左手で包んだ。

 驚いたように僕を見つめる夏姫に頷くと、硬かった表情が少し和らぎ、促すようにまた夫人と視線を合わせる。

「まだ完全にすべてを終えたとは言えないけれど、もう概ね問題ないわ。賠償金が請求されることはないし、治療費も元請けの会社から出ることになってる。むしろ見舞金なども出ると思うから、生活は以前より楽になるはず。……ただし、事件については謙治さんの責任ということで訂正はされないの。そこはちょっとこちらとあちらの力関係で、妥協点がそこになったからなのだけどね。その影響で、謙治さんはあの業界で再就職するのは難しくなるわ」

「そんなのは、ぜんぜん問題ないです。パパが、生きててくれるなら」

「もう大丈夫よ、夏姫さん。貴女が悩むことは、何もないわ」

「……はいっ」

 気持ちが高ぶってきたのか、引き結んだ唇を、夏姫は微かに振るわせていた。それでも抑えきれない気持ちが、彼女の目尻に滴となって溜まっていく。

 僕はただ、夏姫が開いた手の平を、指を絡めて握ってやるだけだった。

 僕なんかじゃどう頑張っても解決できない問題を、平泉夫人はほんの数日で解決の目処をつけてしまった。

 それが夫人の力であり、大人の力なのだと、僕は理解する。

 子供である僕の力は、小さい。

「でも、そんなことをしてもらっても、アタシには平泉夫人に返せるものが……」

「それは気にしなくていいわ。克樹君が相談してきてくれたのがきっかけだったけれど、私には間接的だけれど、利益はあったから」

 間接的な利益、という言葉には、少し引っかかるものがあった。

 僕が知る限り、平泉夫人はスフィアドールとかの先端技術周辺に関わりが深い人で、繋がりが浅いだろう建設業界の問題をこんなに早く解決するために夫人が何を支払い、どんな利益を得たのか、疑問を感じていた。

 そんな僕の勘ぐりを察してか、夏姫から僕に視線を移した夫人がにっこりと笑う。

「私たちのような人間は、感情だけで動くことはないわ。取れる利益は充分以上に取っているから、大丈夫よ。ただし、動くきっかけには、感情が理由になることもあるのよ」

 椅子から立ち上がった夫人は前屈みになって、夏姫の顔に自分の顔を近づける。

「私はヴァルキリークリエイションを、春歌さんを守りきれなかった。あの頃の私では力が足りなかったのね。そのことがずっと心残りだった。春歌さんの娘の貴女には幸せになってほしいと思ったの。だから、今回私はこうして動いたのよ」

 まるで母親のような、優しい笑みを浮かべる平泉夫人に、ついに夏姫は我慢できずに涙を零し始めた。

「ありがとう、ございます。本当に、本当に、ありがとうございます……」

 僕も夏姫の側に立って、止まらない涙を流し続ける彼女の頭を抱き寄せる。

 少し前に見た冷たい涙じゃなくて、暖かい涙が、僕のシャツを濡らしていた。

「さて、猛臣君とのことも、決着をつけなくてはね」

「そうだ。それもどうにかしないと」

「それも大丈夫よ。彼にはひとつ貸しがあるから。それよりも克樹君、準備は整ってるのかしら?」

「克樹?」

 身体を離して険しく目を細める夏姫に、僕は笑いかけた。

「あいつとは決着をつけないといけないんだ」

「決着って……。あの人、凄く強いんでしょ? スフィアカップの優勝者なんだから」

「知ってたのか」

「うん。名前で調べたら、出てきたから」

「一度戦ったんだけど、かなり強かったよ。アリシアとシンシアで戦って、負けそうだった。決着がつく前に中断になったんだけどね」

 そんな僕の言葉を聞いて、夏姫は表情を曇らせる。

「勝てるの? 克樹」

「んー。正直、わからない。あいつが無茶苦茶強いのは確かだからね。でも、エリキシルバトルはスフィアカップのようなレギュレーションバトルじゃない。僕とリーリエの、全力で戦うよ。これは僕の戦いだから、夏姫でも邪魔はさせない」

「ん……。わかった」

 完全に納得できた様子ではないけど、笑ってくれた夏姫に、僕は笑みを返していた。

「……夏姫、か? そこにいるのか?」

 話が終わり、この先やるべきことへの決意を新たにしたとき、これまで話していなかった人の声が聞こえた。

 全員が一斉にベッドに目を向けた。

 うっすらと目を、口を開けていたのは、謙治さん。

「パ、パパ? アタシが、わかる?」

「あぁ。でも、どうしてここに? いや、ここは、病院?」

 長い間眠っていた謙治さんの意識はまだはっきりしていない様子で、言葉もたどたどしいけど、確かにいま、目を醒ましていた。

「克樹君、すぐに人を呼んできて」

「はいっ」

 平泉夫人の言葉に我に返った僕は、扉に向かって走り、病室を出た。

 微笑む芳野さんに見送られながら、ナースステーションへと駆けだしていた。

 

 

          *

 

 

「くっそ。なんで俺様がいまさらこんなことを……」

 ホテルの簡易デスクにスレート端末を広げる猛臣は、悪態を吐きながらもヘルメットタイプのスマートギアを被り、次々と作業を進めていく。

 端末に表示されているのは、高校から出されている宿題。

 高校三年となり、出席しなければならない授業はあまりないものの、もうひと月近く登校していない猛臣は、出席の代わりに宿題を出すよう連絡が入っていた。

 大学については内定ながらすでに推薦が決まっているし、スフィアロボティクスで働く猛臣は、高校の授業など一部を除いて必要がないほどの学力を身につけていた。槙島家が出資もしている私立高校はかなり自由が利くが、最低限のことはやっておかなければならない。

 放り出してきている仕事も溜まっていて、事件の処理も最低限進めるべきところまで進めた後は放置した状態となってしまっていた。

「そろそろ一度帰らないとまずいか」

 関東に来てずいぶんになるが、エリキシルバトルの参加者は発見できているのに、いまだにひとつも回収できていないでいる。できればすべて回収してから帰りたいと考えていたが、夏休みに入る前に家に帰る必要も、高校に登校する必要も出てきつつあった。

「夏姫のことを片づけて、あの克樹をぶちのめしてやってからでも大丈夫だろう」

 そう言って猛臣が視線をやったテーブルの上には、一体のピクシードールが立っている。

 ハードアーマーはまだ装着されておらず、ポニーテールに纏められた金髪の髪と、肩や腰、腕や脚といった部分に接続端子が剥き出しになっている白いソフトアーマーのみのドール。

 イシュタル。

 追加で手配していたパーツが届き、調整も終わったイシュタルは、次に克樹と戦うために準備を進めていた。

「家に直接乗り込むか? それとも呼び出した方がいいか……」

 残りの宿題を手早く片づけているとき、スレート端末とは別に置いてあった小型の携帯端末が着信音を鳴らした。

 電話の主は、平泉夫人。

 このタイミングでの着信に、猛臣は猛烈な違和感を覚える。

 携帯端末を手に取り応答ボタンに指を伸ばしながら、スマートギアでスレート端末を操作し、いま自分が関係している事柄の最新情報を表示していく。

「ぐっ」

『こんにちは、猛臣君。どうやら気づいたようね。二歩遅かったようだけれど』

 挨拶の前にうめき声を上げてしまった猛臣に、夫人は楽しそうな声で言った。

 ほんの数日、他のことに手を取られて目を離していた間に、状況が大きく変わってしまっていた。

「こんにちは、平泉夫人。……何かご用でしょうか?」

 怒りが爆発しそうになるのをできるだけ抑え、スマートギアを脱いだ猛臣は、自分でも声が震えているのに気づきながらも、可能な限り丁寧な口調で夫人に応答した。

『気づいているようだからいまさら説明する必要もないと思うけれど、そういうことになったのよ』

「いったいどうやって手を回したんだか……。たいした時間もなかったはずなのに……」

『ふふふっ。それについてはいまは秘密にしておくわ。話す必要ができたら、理由からすべて話すつもりだけれど、私がやったことだけなら、貴方ならすぐにわかるでしょう?』

「それで、いったい今日はどんな御用向きで?」

 いつまでも本題に入らない、というより、猛臣の様子を楽しんでいる風の平泉夫人に、握りしめた拳を震わせながら改めて問う。

『明日の午後、うちの屋敷に来てもらいたいのよ。イシュタルを持って来て頂戴ね。貴方を待っている人がいるから』

「……わかりました。くそっ!!」

 通話を切断するのと同時に、猛臣は悪態を吐いていた。

 進めていた賠償金の減額と、夏姫の身柄の確保は、状況を根底からひっくり返されているのは確認できた。どう足掻いても元に戻すことができる状態ではない。

 平泉夫人がどういう理由で、どういう手を使ったのかはわからなかったが、呼び出されたならば行くしかない。

「待ってるのは、克樹の野郎か?」

 匂わせるようなことすら言われていなかったが、そうであると直感が告げていた。平泉邸で待っているのは彼であると、確信があった。

「だったら今度は完璧に、叩き潰してやるよ!」

 静かなホテルの部屋で吠え、猛臣はデスクに拳を叩きつけた。

 

 



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第三部 極炎(クリムゾン)の怒り 第四章 2

       * 2 *

 

 

「やっぱりてめぇか」

 芳野さんのエスコートでダンスホールに姿を見せた猛臣は、僕を睨みつけて開口一番そう言った。

 歯を剥き出しにして怒りを露わにしてくる彼に、夏姫が身体を寄せてくるけど、大丈夫だと声に出さない言葉を視線に籠めて目配せをし、僕は対戦相手に向き直った。

 平泉夫人が対戦として設定した日曜の午後、僕は夏姫と灯理、それから近藤とともに、屋敷を訪れている。

 これから始まる戦いのためだろう、ダンスホールには分厚いマットが敷き詰められ、壁沿いに置かれたソファのところにいる僕たちの他に、少し離れたところの丸テーブルでは平泉夫人がお茶を飲みながら微笑んでいた。

「本当に、何てことをしてくれたんですか、夫人。俺様がせっかく話を進めていたというのに」

「そもそも事件そのものがおかしい状況だったでしょう? 貴方が介入しているのは気づいていたけれど、私の意図に添った結果になったのは、私の力の方が勝っていたからよ。それに、貴方の望む方向とは異なっていたでしょうけれど、意図からは大幅に外れてはいないはずよ」

「ちっ」

 怒りに瞳を燃え上がらせながら、微妙な感じの丁寧な言葉遣いで絡んでくる猛臣に対し、夫人は涼しい顔を向けているだけだった。

 事件は結局、平泉夫人の意図通りに、謙治さんの病室で説明されたのとほぼ同じ状況に収束していた。

 裏事情が表沙汰になって騒がれるようなことはなかったけど、その辺は水面下の動きが活発化してるらしい。平泉夫人側の人間は有利なカードを手に入れ、建設会社側の人間は爆弾を抱えることになったみたいで、政財界に小さな影響が出ているらしいんだけど、僕が見てる限りではよくわからない。

 とにかく、まだしばらく入院しなければならないけど経過が順調な謙治さんは、少ししたら近くの総合病院に転院することが決まり、夏姫はエリキシルスフィアを売らなければならない状況が完全に消滅したことだけは確かだ。

 椅子から立ち上がって部屋の中央に向かった夫人の元に、猛臣も足を踏み鳴らしながら近づいていく。夫人から目配せをされた僕たちもまた、そこに集まった。

「全員仲間ってわけか。なんでこんなことをしてる? 意味ねぇだろ。莫迦なのか?」

「僕は僕の考えでスフィアを集めてる。実際、僕の側にはソーサラーと一緒にスフィアが集まってる」

「奪い取れば後腐れねぇだろうに。ヘンな野郎だな」

「買い取って回ってる野郎に言われたくない」

 近藤ほどではないけど、けっこう背の高い猛臣から強い視線が降りかかってくるけど、僕はそれに動じることなく睨み返す。

 左手は、僕に力をくれるように、夏姫が握ってくれていた。

「さて。挨拶はそこまでにしましょう。今日集まってもらった理由は、もういまさら言わなくてもわかってるわね?」

「はい」

「あぁ。……理解しています」

 なんでか平泉夫人に頭が上がらないらしい猛臣は、夫人の柔らかくも威圧感を覚える視線に言い直していた。

 返事をした僕の他に、夏姫たちも、僕の後ろで頷いてる。

「それと、夏姫さんのエリキシルスフィアを買い取るという話、あれはなかったことにしてもらうわ」

「ふざけるな!! 一度交わした約束だ! 状況が変わったとは言え、スフィアだけは買い取らせてもらうっ」

 少ししか知らないが、猛臣の性格を考えればそう言ってくるのはわかっていた。夏姫は彼に、はっきりとエリキシルスフィアを売ると宣言をしていたそうだし。

 平泉夫人が大丈夫と言っていた理由は、いまこの場になってもよくわからなかった。

「夏姫さんのエリキシルスフィアを買い取る話は、なかったことにしてほいしいの。私からのお願い。貴方が私と交わした約束も、覚えているでしょう?」

「ここでそのカードを切ってくるのか!! くそっ。あんな約束、しなけりゃよかったぜ……」

 片手で顔を覆い、親指と薬指でこめかみを強く押さえてる猛臣。

 夫人とのやりとりがどういうことなのかはわからなかったが、猛臣は何か願いを聞くという約束でもさせられていたらしい。そんな貸しを、夫人がどうやって猛臣につくっていたのかはわからなかったが。

「もちろんそれでは収まりがつかないでしょう? だからここで、バトルをして決着をつけてもらおうと思ってね、集まってもらったのよ」

「ちっ。くそっ。わかったよ! ……わかりました。それで構いません! 夏姫のスフィアを買い取る話は白紙にします! んで、戦うのは誰なんだ?! もう面倒臭ぇから、全員相手になってやるぜっ」

「戦うのは僕だけだ」

 僕たち全員を見渡して睨んでくる猛臣に、そう応えた。

「あっちがあぁ言ってるんだ、ここは全員でかかった方がいいんじゃないか? 克樹」

「ワタシも同意見です。猛臣さんが強いのはわかっていますが、全員でかかればなんとかなると思います」

「僕は、そうは思わない」

 振り向いた僕は、険しい視線を向けてくる近藤と、眉根にシワを寄せている灯理に笑いかける。

「そりゃあこれまで訓練してきたから、お互いどんな風に戦うかはわかってるけど、一緒に戦う練習はしてないからね。連携が取れないなら、むしろ戦力は低下するよ」

 夏姫に目を向けると、彼女は笑っていた。僕の考えを理解してるみたいに。

「それに、こいつとの決着は僕がつけたいんだ」

「いけそう?」

「うん。勝敗はどうなるかわからないけど、戦うための準備は整えてきたよ」

「ん。なら、アタシは克樹に任せる」

「克樹さんと夏姫さんがそうおっしゃるなら」

「仕方ないな。任せるよ、克樹」

「うん」

 猛臣に向き直り、僕は宣言する。

「ということで、お前とは僕が戦う」

「はっ! 勇ましいな。俺様もこの前とは違うぜ」

「それは僕も同じだ」

 怒りと、でも楽しげな色を浮かべてる瞳の猛臣と視線を交わし、僕はソファのある壁際へと向かう。そこに置いてあるデイパックからスマートギアを取り出して被り、アタッシェケースに手を伸ばしてドールを準備する。

『リーリエ、いけるな?』

『もっちろんっ。準備万端だよ!』

 たぶんイシュタルだろう、壁に近い位置に金色の、稲穂を思わせる控えめの色合いのドールを立たせた猛臣。彼は僕に不審そうな視線を向けてくる。

「てめぇ……。嘗めてんのか? もう一体出せよ。それくらいじゃねぇと俺様とは戦えねぇぞ」

 僕が足下に立たせたのは、アリシアのみ。

 早速アリシアとリンクしたリーリエは、金髪をポニーテールに結ったイシュタルに笑みを向けている。

「必要ない」

「嘗めてると瞬殺するぞ」

「大丈夫だ。シンシアを出すより、アリシア一体の方が強い」

「この前は手加減してたとでも言うつもりか?」

「そうじゃないけど……。まぁ、戦えばわかるよ。そっちのドールはイシュタルって名前でいいのかな?」

「そうだよ。俺様の最強のドールだ」

 どちらかというわけではなく会話が途切れ、リーリエと猛臣は互いのドールを前に歩ませる。

 その様子を見つめるみんなの息を呑む音が聞こえる中、茶器を乗せているカートの下からゴングを取り出した芳野さんがそれを構える。

 被ったスマートギアのディスプレイを下ろし、猛臣もヘルメット型スマートギアのバイザーを下ろし、準備は整った。

 必要なアプリと、エリキシルバトルを立ち上げ、音声入力を待つウィンドウが現れたところで、僕と猛臣は同時に頷いた。

 次の瞬間に鳴らされた盛大なゴングの音。

 僕と猛臣は、互いに自分の願いを込めて、唱えた。

「アライズ!!」

 

 

          *

 

 

 バトルは静かな始まりを見た。

 百二十センチとなった、水色のツインテールを肘の辺りまで垂らすアリシアと、金色のポニーテールを背の半ばまで伸ばすイシュタルは、動き出すことなく、見つめ合う。

『最初から使う?』

『いや、初めは様子を見る。たぶんウカノミタマノカミと同じようにいろいろ仕込んであると思うんだけど、何だかわからない』

『わかった』

 僕の返答に、リーリエはアリシアの背に提げていた折り畳みのハルバードを取り、構えさせた。

 対するイシュタルは、腰に佩いていた長剣を抜く。

 アリシアはもちろん、イシュタルも他にいくつかの武器を装備してるけど、それはまだ使わない。

 体型からしてスピード寄りのバランスタイプだと思われるイシュタル。

 ほぼ全身をハードーアーマーで覆うイシュタルは、とくに肩と腰、脚のアーマーが重厚だ。それに加えて、肩と腕には、爪か牙のように見える刃状の装飾が取りつけられていた。

 ――ウカノミタマノカミのことを考えれば、あれはただの飾りじゃないよな。

 そうは思っても、戦ってみなければわかるもんじゃない。

 どう攻めるべきかを考えてるとき、猛臣が先に動いた。

「何睨み合ってんだっ。さっさと終わらせちまうぜ!」

 言いながら猛臣は、イシュタルの体勢を低くし、突撃の構えを取った。

 そして、叫んだ。

「ライトニングシフト!」

 その瞬間、イシュタルは金色の光となった。

「電光石火!」

 かろうじて反応し、僕は必殺技を発動させる。

 金の光となって突進してきたイシュタルを、リーリエはアリシアを右に飛び退って回避させる。

「その程度の動き、見えてるって言ってんだろ!」

 マットに脚を押しつけてブレーキをかけたイシュタルが、回避したアリシアに追いすがって長剣を振るう。

『甘いよっ』

 僕にだけ聞こえる声で言ったリーリエは、横薙ぎに振るわれた長剣をハルバードで器用に絡め取り、マットに押しつける。

 剣の腹を足で踏んづけて固定したアリシアは、ハルバードを突き出して反撃に出た。

「ちっ。見切りのいい」

 僕が舌打ちをしてしまうほどに、ためらいもなく長剣から手を離したイシュタルは、腰から幅広の剣を二本抜いてハルバードを受け止めていた。

『押し切る! 疾風怒濤!!』

『うんっ!』

 距離を取ろうと後ろに下がったイシュタルを追いかけ、アリシアは前に出てハルバードの尖った先端を突き込む。

 必殺技、リミットオーバーセットによって通常を遥かに超える筋力と速さを手に入れたアリシアは、二本の剣では防ぎきれないほどの速度でハルバードの穂先を連続して突き出した。

「うおぉぉぉっ! サンダーストーム!!」

 それがたぶん猛臣の必殺技の名前なんだろう。

 ハルバードの穂先がアーマーをかすめるのと同時に彼は叫び、イシュタルの動きが変わった。

 本物の刃物と同じ銀の光を放つハルバードの穂先を、光る筋となった幅広剣の軌道が次々と打ち落としていく。

 それどころか、まさに疾風怒濤の攻撃の合間を縫って、斧槍と剣のリーチの差さえ埋め、反撃までしてきた。

 ――なんて奴だ!

 金属と金属のぶつかり合う音が、音楽のように連続して鳴り響く。

「うっ、らーーーっ!」

『一端下がれ、リーリエ!』

 交差した幅広剣にハルバードを挟まれ、穂先を斬り落とされたのを見て、僕はリーリエにイシュタルから離れるよう指示していた。

 距離を取り、肩の後ろに手を伸ばして長刀を抜き放ったアリシアは、イシュタルと見つめ合う。

『この人、やっぱり本当に強いよ』

『あぁ。そうだな』

『――ゴメンね、おにぃちゃん』

『何がだ?』

『あたしいま、すっごく楽しい』

『……そうだな』

 言葉通りに戦いを楽しんでるリーリエは、アリシアに笑みを零れさせる。

 対するイシュタルも、可動型フェイスが笑みに染まり、その後ろに立つ猛臣もまた、ヘルメットに隠されていない唇の端をつり上げて笑っていた。

 ――確かに、強い。それに、楽しい。

 心の中でリーリエに同意しながら、僕は視界の端に表示したアリシアの目を通して上がってくるデータを見る。

 使っているパーツの予想は、ほとんどが不明。

 市販されているどのパーツにも該当しないと思われる高い性能の人工筋が使われているようだった。

 けれど、必殺技による性能上昇率はアリシアの方が上。

 エリキシルドールの性能は、ほぼ拮抗していた。

 経験は未熟ながら、人間の反応速度を超えるリーリエを相手に、すべての動作を先読みして動く平泉夫人とも違い、猛臣は目で見てから反応しているようだった。

 悔しいけど、ソーサラーとしての強さは猛臣に軍配が上がっていた。

『ねぇ、おにぃちゃん。お願いがあるの』

『なんだ? リーリエ』

 両手で持った長刀を肩の上で構えさせてるリーリエが、珍しく僕にお願いをしてくる。

 それは、内容が予想できるお願いだった。

『あたし、もう少しだけ、あの子と戦っていたい』

『いいよ、もう少しだけならな。でも「風林火山」を使うタイミングは、外すなよ』

『うんっ、わかってる』

 ちらりとアリシアで視線を送ってきたリーリエに、僕は頷きを返した。

『行けっ、リーリエ!』

『いーーくっ、よーーっ! イシュタル!!』

 そんな声を上げながら、リーリエはアリシアをイシュタルに向けて突撃させた。

 

 

 

  ――本当にやるじゃねぇか、あいつ!

 先ほどハルバードのときに見せた高速の突きに比べれば遅い、長刀による突きを主体にしたアリシアからの攻撃を、悠々とイシュタルの二本の幅広剣で凌ぎながら、猛臣は口元に笑みが浮かぶのを止められなかった。

 前回の戦闘では、アリシアとシンシアの二体でそこそこの強さだった。

 アリシア一体ではすぐに決着がついてしまうだろうと思っていたのに、その予想は裏切られていた。

 剣の軌道を読んで、防御の薄い場所を狙い澄まして突き出される長刀に、猛臣は奥歯を噛みしめる。

 彼の視界には、イシュタルの視界と同時に、エリキシルドールの状態を示すパラーメーターウィンドウや、解析で判明してきているアリシアに関する情報が表示されていた。

 さらに、視界の下の方には、色分けされたいくつものボタンがある。

 裁ききれないことはないが、アーマーをかすめるほどに鋭いアリシアの攻撃に苛立ちを感じ始めた猛臣は、八個のポインタのうちひとつを、ボタンのひとつの上に移動させた。

 突きと突きの隙間に、大きくマットを蹴ってイシュタルをアリシアから引き離した彼は、準備したボタンのひとつを押しながら叫んだ。

「サンダーサイクロン!!」

 イシュタルは両腕を広げ、身体を回転させながらアリシアへと飛ぶ。

 右の幅広剣を立てた長刀で受け止められるも、無視して振り抜き、背を見せながら回転して左の幅広剣を叩きつける。

 人工筋のリミットを外し、躱されてもなお高速に回転しながら攻撃を続ける様子は、さながら竜巻。

「疾風迅雷!!」

 猛臣が叫び、長刀を捨て短刀二本でイシュタルの攻撃を防いでいたアリシアが素早く後退する。

 追いすがって攻撃を仕掛けるものの、激しい動作と高い電圧で温度が上昇していた人工筋のステータス表示が悲鳴のような警告音を鳴らし始めた。

 ――ちっ。仕留めきれないか。

 サンダーサイクロンによる攻撃はアリシアの水色のハードーアーマーを幾度もかすめていたが、防御を切り崩すことはできず、致命的なダメージを与えるには至らなかった。

 ドールの性能は第五世代バトルピクシーとしては並よりも上。ソーサラーの能力はスフィアカップ全国大会ベスト八レベル。

 何より厄介なのは、声とともに使用している技だった。

 ――性能上昇率も精度もこっちより上か。

 克樹が通常のピクシードール用人工筋の規定電圧を超える、リミットーバーセットを使っているのは、前回の戦いでもわかっていた。

 スフィアカップなどのレギュレーションがしっかりしている公式戦では使用できないが、リミットオーバーセットは人工筋の使用方法としてはよく知られたもの。

 エリキシルバトルに参加するに当たって、猛臣は規定外の動作であるそれを使用できるよう、ドールのコントロールアプリのアドオンモジュールをつくり上げた。

 発熱などにより長時間使うのが難しいそれを、猛臣は特定の動作に分けてボタンによる制御を行い、細かい状況の変化については自身のフルコントロールで対応している。補い切れない部分は、特別製のアドオンにより、事前に打ち込んだ方針に従って行動するセミコントロールで補っていた。

 フルコントロールとセミコントロールを組み合わせた、セミオートソーサリーと名づけたコントロールこそが、イシュタルやウカノミタマノカミの強さのひとつだった。

 猛臣がスキルと呼んでいるリミットオーバーセットは、ある程度大雑把な動作になってしまうのは否めなかったが、克樹の使うスキルは特定の動作に制限されず、性能の上昇率もイシュタルが使うものに比べて高いと計測されていた。

 ――あいつはいったいどうやってあそこまで細かい制御を行ってるんだ? あいつもセミオートで戦ってるのか?

 逆手に持った短刀で突撃してきたアリシア。

 それに応じて短剣を二本抜き、猛臣は超接近距離でのエッジバトルを開始する。

 スキルを使わずとも人の目では捉えきるのが難しい攻撃を、猛臣は頭部以外の身体の各部に取りつけた視覚センサーをオンにして、スマートギアの視界に小窓で表示して補い、裁く。

 ――こいつがこんなに強いソーサラーだったとはなっ!

 人工筋だけでなく、自身の身体すら熱くなってくるのを感じるバトルを続けながら、猛臣は楽しくて仕方がなかった。

 関東にいるソーサラーで一番警戒すべきは、近藤誠だと思っていた。

 全国大会に出場している近藤がエリキシルバトルの参加者であることは、通り魔事件の顛末を見れば明かだった。逮捕されたことでスフィアを奪われている可能性も考えられたが、まだ参加者だった彼の強さは、拍子抜けするほどにたいしたことがなかった。

 それよりもイレギュラーな参加者であった中里灯理の方が脅威を感じたが、克樹についてはたいしたことがないだろうと思っていた。

 地方大会で優勝しながらも全国大会への出場を辞退し、ソーサラーであった百合乃を失っている克樹。オーナーに過ぎない克樹がこれほどまでに強いなどとは、予想もしていなかった。

 ――何か裏がありそうではあるがなっ。

 映像で見たことがある、亡くなった百合乃とほとんど同じ繊細なドールコントロールと、スキルの細やかな調整を同時に行っている様子なのには、何か裏がありそうだと感じていた。

 ――でも、そんなことはどうでもいい!

 心の中で叫んだ猛臣は、アリシアを蹴り飛ばして距離を取り、短剣を捨てた。

「そろそろ本気を出させてもらうぞ、克樹!」

 超硬質合金で覆われた手を顔の前で握りしめたイシュタル。

 そう克樹に宣言した猛臣は、視界の下に並んだボタンのひとつを押す。

「ライトニングドライブ!」

 全身の人工筋の電圧を一割上げる設定を行うそれは、使っている間イシュタルの動作速度を上昇させるスキル。

 より高速になるイシュタルの動きを制御するのは難しくなるが、エリキシルバトルに勝ち残りために、猛臣は訓練を続けてきた。

「僕もそろそろ本気を出す。来いっ、猛臣!」

「覚悟しな! 克樹!!」

 短刀を捨て、手甲に接続されたナックルガードを構えるアリシアに、猛臣はイシュタルを走らせた。

 

 



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第三部 極炎(クリムゾン)の怒り 第四章 3

 

       * 3 *

 

 

 スピードは猛臣がライトニングシフトと叫んでいた技のときに比べれば遅い。でも本気を出すと言ったあいつの言葉は本当だったようだ。

 左右にステップを踏みながら瞬く間に三メートルの距離を詰めてきたイシュタルは、槍のように尖った手刀を繰り出してくる。

『はやっ』

 小さく悲鳴を上げながらもアリシアの上体を沈めて躱すリーリエ。

 左の水色のテールをかすめて揺らした右の手刀に続いて、左の手刀が突き込まれる。

 左手でどうにか裁いて腰溜めから放ったアリシアの拳は、スピードが乗り切る前にイシュタルの手の平で受け止められていた。

 何をしたのかはわからないが、明らかにイシュタルの速度と機敏さが上がってる。たぶん、疾風怒濤ほどではないけど、ライトニングドライブって言うのは、常時必殺技を使ってるモードのことなんだと思う。

『リーリエ。「風林火山」を使う。一端離れろっ』

『わかった! ちょっと待っててっ』

 腕二本から繰り出される手刀なのに、リーリエはアリシアの手だけじゃなく、足まで動員してどうにか防ぎきってる状態だ。

 ライトニングシフトのように突撃に特化してるらしい必殺技と違って、ドールの性能全体をアップさせてるライトニングドライブは、通常の動きでは凌ぐだけで手一杯だ。

『おにぃちゃん、ゴメンッ。ちょっと手伝って!』

『わかった。一瞬だけだぞ。疾風怒濤!!』

 防ぐことはできるが、隙間のない攻撃に苦慮するリーリエの応援要請に応えて、僕は必殺技を発動させた。

 鋭い右手を、左手をアリシアの手でつかみ取り、イシュタルの身体を引き寄せたアリシアは、上半身を大きく反らす。

「なっ?! てめっ、ふざけんな!!」

 猛臣が声を上げるのも仕方ない。

 ピクシーバトルではついぞ見たことがない、頭突きでイシュタルを後退させたのだから。

『リーリエ、あのなぁ……』

『ゴメンね、おにぃちゃん。あの子の攻撃速すぎて他に思いつかなかったのっ』

『まぁいいけどな。意味はあったみたいだし』

 人間じゃないんだから痛みもないし、さほど意味もないと思うが、イシュタルの首を左右に振らせている猛臣。

 ピクシードールの頭部は、スフィアドールの要であるスフィアが搭載されてるだけじゃなく、視覚や聴覚の各部外部センサー、またソーサラーとの通信を行うアンテナなんかが搭載されてる。それはエリキシルドールでも変わらない。

 スフィアソケットはスフィア本体とメインフレーム並に強靱だから、よっぽどの攻撃でないと壊せないけど、頭部に大きな衝撃があると大変なことになる。

 ひとつは、視界のブレ。

 フルコントロールの場合はとくに、自分で頭突きを受けた訳でもないのに衝撃で視界がメチャクチャになるから、ヘタすると吐くほどに奇妙な感覚に襲われる。

 公式戦では首筋まで、顎辺りまでなら攻撃対象として認められるけど、そこから上は攻撃が禁止されてるくらいに問題になる攻撃だ。

 ――まぁ、エリキシルバトルではそんなこと言ってられないか。

 ヘルメットの上から頭に手を当ててる猛臣を見つつ、僕は風林火山の準備をする。

 それまでの必殺技用プロパティをすべて消し、ショージさんにつくってもらった、アドオンアプリを立ち上げる。

『いくよ、リーリエ』

『来て。おにぃちゃん』

 一瞬目をつむり、深呼吸した僕は、目を開けてアリシアとリンクする。

 僕とリーリエは、アリシアのボディを通してひとつとなる。

『風林火山!』

 声は出さずに、僕とリーリエは声をハモらせて必殺技を宣言した。

「てめぇ、頭突きなんぞくれやがって!! 許さねぇぞ!」

 怒声を吐き出す猛臣は、弾かれたような速度でイシュタルをアリシアに差し向けた。

 僕とリーリエが、アリシアの視界で一緒にイシュタルのことを見る。

 速いのに、遅さを感じるスローモーションのような視界。

 肩の上に振り被った右の手刀が迫ってくるけど、それを勢いを殺さずに左手で受け流す。

 右足をすり足で引いてイシュタルの横に構え、アリシアの動きに気づいた猛臣が防御の左手を構えるよりも先に、胸元に右の拳を叩き込んだ。

『上げてくよ、リーリエ』

『大丈夫だよ。もっと来て!』

 まだ動きの部分しか一体化していなかった風林火山の段階を上げる。

 アリシアの各部のセンサーをオンにし、感度と感知感覚を最大にした。

 僕がショージさんにHPT社の試作フルスペックフレームの貸出を願ったのは、強度の点だけが問題じゃない。アリシアを、シンシアと同型の感知型ピクシードールにするためだ。

 でもいろんな種類のセンサーを搭載するシンシアと違って、アリシアのボディの各部に搭載する外部センサーは、視覚、振動、圧力といったものが中心。

 それらのセンサーと、離れた場所に立つ僕のスマートギアからの情報を統合し、リーリエに接続している情報処理システムで処理して、敵の動きを完全に把握することができる。

 それだけじゃなく、リーリエの疑似脳のリソースも使い、敵の行動予測と自分の最適行動を割り出す。

 アリシアの動作はリーリエに任せつつ、これまで必要に応じて発動と停止を行っていた必殺技と違い、僕はいま、リアルタイムで人工筋の電圧を制御している。フルコントロールでドールを動かすのに近いそれにより、常時疾風怒濤を発動させてるような状態を維持し、不要な電圧がかからないようにするもしているため、発熱も抑えることができる。

 僕とリーリエが同時にアリシアにリンクしてフルコントロールする、アリシアを通して僕とリーリエが一体化するソーサリー、シンクロナスソーサリーが風林火山の正体だ。

 ひとりではなく、ふたりいて、僕とリーリエだからこそ実現した必殺技だった。

「てめぇ、何か始めやがったな?! それならこっちももっと行くぜーーっ!」

 雄叫びを上げた猛臣。

 それと同時に、イシュタルのスピードがさらに上がる。

 ――こいつ、まだ上があるのか。

 速度はもう人間の身体で実現できる速度を遥かに超えてしまっている。

 天空色の風と、金色の光の、二体の妖精によるバトルが始まっていた。

 

 

          *

 

 

「すごい……」

 夏姫は思わず呟いていた。

 アリシアとイシュタルの動きはもう目で追うのは困難なほどに速く、十メートル四方のダンスホールを縦横無尽に駆け、ぶつかり合っている。

 スフィアカップの優勝者である猛臣のドールコントロールは素晴らしく、イシュタルの性能が高いことも見て取れた。

 克樹とリーリエと、アリシアでは危ういかと思ったが、いま目の前で繰り広げられている戦いは、接戦と言って差し支えないほどのバトルだった。

「頑張って、克樹、リーリエッ」

 二体のことを一時も見逃さないように目で追いながら、壁際に立つ夏姫は顔の前で手を握り合わせて祈っていた。

「不安かしら?」

「え?」

 そんな声をかけてきたのは平泉夫人。

 夫人の方に目を向けると、少し離れた部屋の隅では、椅子に座ってテーブルに置かれたカップを持ち上げて優雅に紅茶を飲んでる灯理と、若干呆れた顔でその側に立つ近藤、それからメイド服姿の芳野がティポットを手にこちらに目を向けてきていた。

「はい。不安、です」

 父親が陥った苦境を打ち壊し、夏姫共々救ってくれた大恩人とも言える平泉夫人。

 最初に会ったときもそうだったが、喪服のような黒一色の裾の長いワンピースを着、柔らかく微笑んでいる彼女は、克樹の話によれば三十代半ばから後半らしい。けれどモデル並のプロポーションや顔立ちは、二十代でも通りそうだった。そして彼女の放つ雰囲気は、年齢では言い表せない貫禄が感じられる。

 克樹とリーリエの師匠であるという夫人に、夏姫は訊いてみる。

「克樹は、勝てるでしょうか?」

「どうでしょうね。克樹君とリーリエちゃんはとにかく戦闘経験が足りないわ。ドールの性能はリミットオーバーセット、必殺技を含めて考えれば同程度。猛臣君はスフィアカップの優勝者で、その後も相当の戦闘経験を積んできてる上に、エリキシルバトルのためにリミットオーバーセットの他にも何かアプリを仕込んで戦ってるわね。克樹君がさっきから始めた何か新しい戦法で、やっと同じ程度と言ったところかしら」

「勝てない、ということですか?」

「いいえ。わからないのよ、私にも。猛臣君はまだ何か隠してるものがありそうだし、克樹君たちももう少し上がありそうだしね。運、というのとは違うけれど、戦いに何かの分岐点が生まれない限り、趨勢は読めないわ」

「そうですか……」

 バトルに目を戻した夏姫は、離れた場所にいる克樹を見る。

 戦いに集中している彼は、両手を強く握りしめていた。

 対する猛臣は、唇の端をつり上げて笑みを浮かべている。

 けれどその剥き出しの奥歯は、噛みしめられていた。

 水色のツインテールをたなびかせ、マットに胸が擦りそうなほどの低い姿勢で走り込んだアリシアは、地面から生えてくる木のような急角度の拳を繰り出す。

 ポニーテールを揺らして上体を反らしたイシュタルは、しかし回避仕切れずに胸のアーマーに拳をかすめさせ、金色の粉を振りまいていた。

 反撃の手刀をステップを踏んで下がったアリシアは躱すけれど、躱しきれずに腕のアーマーの水色の欠片を散らしている。

 一時は毎週末のようにローカルバトルに参加していた夏姫でも、これほど実力が切迫するバトルは見たことがなかった。エリキシルバトルで、目で追うのも難しいほどの速度であることだけでなく、ドールの性能もソーサラーの強さもこれほどまでに近いバトルなど、これが初めてなのではないかと思えるほどに。

「克樹君が好きなのね、夏姫さん」

「そっ、それは……、その……。はい……」

 克樹にすらまだはっきり言っていなかったが、優しい色を瞳に浮かべて笑む平泉夫人に問われて、夏姫は隠しきれずにそう応えていた。

 恥ずかしくなってうつむいてしまう夏姫の肩に手を置き、夫人は言った。

「なら、信じて上げないさい、克樹君を。おそらくどちらが勝っても、あのふたりにとってこのバトルは悪いものにはならないから」

「――はいっ」

 頷いた夏姫は克樹に目を向ける。

 好きだと、そうはっきり感じることができる彼のことを。

 好きだと、そう言ってくれて、夏姫からもそう言いたい彼の事を。

 ――負けないで、克樹!

 心の中で応援の声を送り、夏姫はぶつかり合う二体のエリキシルドールを見据えた。

 

 

          *

 

 脚部の人工筋から温度警告が出るのと同時に、リーリエはアリシアを下がらせ、イシュタルから離れた。

 何度目かの睨み合い。

 その間に僕は各部人工筋の電圧を下げて冷却を開始し、処理システムから上がってくるデータをスマートギアの視界に表示して確認していく。

 打ち合っている間、僕とリーリエは言葉を交わしていない。

 アリシアの中でひとつになっている僕たちの間には言葉は不要だ。

 僕はリーリエの次の動きを読めるし、リーリエは僕の考えを言葉がなくても理解する。

 それがシンクロナスソーサリー、風林火山の神髄だ。

 ――やっぱりか。

 もう十分近くになるバトルの間に観測できた情報で、僕はあることに気がついていた。

『やっぱり、猛臣はただのフルコントロールソーサラーじゃない』

『うん、そうだよね』

 油断なくイシュタルの動きを見ながら、リーリエが返事をする。

『それにあいつの使う必殺技は、僕たちのとは違ってプログラムセットだ』

『そっか。そういうことなんだ』

 戦闘には邪魔になるからカットしていた戦闘データのまとめを、リーリエに共有してやる。

 電子情報として疑似脳で構成されてるためか、人間を超える反射速度が可能なリーリエならともかく、猛臣の反射速度は時折リーリエを凌ぐほどの反応を見せていた。とくに、防御のときに。

 解析の結果から、僕は猛臣がフルコントロールだけでなく、セミコントロールを併用していると判断した。

 どういうアプリを使ってるのかはわからないけど、対応しきれない攻撃を、自動反応に任せて防御している。

 六本腕に見えたウカノミタマノカミのショルダーシールドも、おそらく同じセミコントロールで制御されてるんだと思えば、納得がいく。

 それに猛臣が使う必殺技は、一定の電圧上昇による人工筋の性能強化だ。

 僕のように細やかに必要な制御を行っていないため、発熱も消費電力も分が悪いはずだけど、いまのところ熱による性能低下は感知できていない。熱に強い特別製の人工筋を使ってることは明らかだった。

 僕とリーリエもシンクロナスソーサリーなんていう反則染みたことをやってるけど、猛臣もレギュレーションなんて無視したことをやってるのは確かだ。

『たぶんあの肩と足の刃も飾りじゃない。警戒してくれ』

『わかった』

 ウカノミタマノカミのことを考えるなら、刃も稼働してくるはずだ。警戒しておくに越したことはない。

「克樹ー!! これから全開でいくからな! 着いてこいよ!!」

 そう猛臣が叫ぶのと同時に、肩を突き出して構えたイシュタルがアリシアに突進してきた。

 これまで見た突進を超える速度。

『望むところだよっ』

 聞こえないのに猛臣の声に応えて、リーリエはアリシアの身体を斜めにすることで突進を避ける。

「なっ?!」

 避けたと思った突進の追撃は、肩の刃からだった。

 突き出た刃が肩のアーマーごと伸び、ワニの口が獲物噛み砕くように、アリシアの肩に食らいつく。

 アリシアをしゃがみ込ませて逃れたリーリエは、イシュタルの腹に正拳を叩き込む。

『ひゅーっ』

 感心した声を上げるリーリエ。

 避けられるはずがないと思った打撃は、腰のアーマーが動いて防いでいた。

 伸びてきたイシュタルの蹴りをローキックで止めるものの、足の刃が顎(あぎと)となって襲いかかってきた。

 太股のハードアーマーをわずかに削り取られて距離を取るものの、間髪を置かずにイシュタルが接近してくる。

 肩と腰と脚の可動ポイントを予測に加えた僕は、自分が笑ってることに気がついた。

 ――バトルって、こんなに楽しいものなんだな。

 これまで以上に深くアリシアとリンクし、リーリエの動きを最大限に活かせるようリアルタイムで人工筋の電圧を調節しながら、僕は初めての感覚に笑い出しそうになっていた。

 これまで、僕は百合乃やリーリエにバトルを任せっきりにしていた。

 灯理と対抗するためにシンシアを使い、フルコントロールソーサラーとなったけど、周りには自分よりも遥かに強いソーサラーばかりで、僕にとってピクシーバトルは、最初の頃から苦痛と劣等感を感じるばかりのものだった。

 リーリエとともにアリシアとリンクし、たぶん最強だろう猛臣と戦っていて、僕は初めてピクシーバトルが楽しいものなんだと気がついた。

 ――負けたくない。

 その想いが強くなっていく。

 エリキシルバトルだからとか、夏姫のためとかそんな想いよりも、いま目の前にいる猛臣に負けたくないという想いが、どんどん膨らんでくる。

 それと同時に、歯を食いしばりながらも笑ってる猛臣の気持ちが、いまの僕にも理解できるようになっていた。

『決着をつけるぞ、リーリエ!』

『うんっ!!』

 突進してくるイシュタルに、リーリエは自分からも突進する。

 飛び込みの正拳突きは稼働してきた腰のアーマーに防がれる。

 伸びてきたイシュタルの肩が頭を砕く前に、リーリエは腰の後ろから抜いたナイフで刃を粉砕した。

 膝蹴りとともに迫ってきた脚の刃を、砕けたナイフを突き刺して止め、右手をマットへと伸ばしたリーリエ。

 拾い上げた短刀が、下がって避けようとするイシュタルの首筋へと迫る。

 ――勝った!

 そう思った瞬間だった。

『あっ!!』

 アリシアが突然その動きを止めた。

 リーリエの声を聞くまでもない。

 スマートギアの視界の隅に表示されていたのは、稼働時間警告。

 アリシアのアライズ時間は、いまこの瞬間に尽きた。

「なんだかわからねぇが、俺様の勝ちだ!!」

 叫んで猛臣はイシュタルの両手を組んで高く上げ、アリシアの頭に振り下ろす。

「な、んだと?!」

 イシュタルの拳がアリシアの頭部を叩き潰す直前、その動きも止まっていた。

 あちらの稼働時間も、いまこの瞬間に尽きたらしい。

 ほぼ同時に二体のドールのアライズが解け、身長二十センチのピクシードールへと戻る。

 思ってもみなかったバトルの結末に、誰ひとり声を発することができなかった。

 

 



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第三部 極炎(クリムゾン)の怒り 第四章 4

       * 4 *

 

 

「こんな結末、納得できるかーーーっ!!」

 沈黙を破ったのは猛臣。

 ヘルメットを脱ぎ捨てた猛臣は、雄叫びを上げながら僕に走り寄ってくる。

 振り上げた拳を見てスマートギアを外そうとするけど、汗で滑って一瞬手間取ってる間に、彼は僕の目の前まで来ていた。

「ぐっ」

 頬に食らった拳に、うめき声が上がる。

 よろめいた僕に二発目、三発目と殴りかかってくる猛臣。

 スマートギアを投げ捨てて両腕でガードするけど、さっきまで風林火山でアリシアと深くリンクしていた僕は、まだ現実の認識が上手くできない。

「ふざけるな! 俺様が引き分けだと?! あり得るか! 俺様は勝つっ。エリキシルバトルを勝ち抜いて願いを叶えるんだ!! シスコン野郎なんかに躓いてられねぇんだ!」

 叫びながら感情のまま、がむしゃらに拳を振るう猛臣に、隙を見つけた僕は反撃に転じた。

「ウルサい! お前だって似たようなもんだろ!!」

「ぐっ……」

 腹に叩き込まれた僕の拳で、猛臣はうめき声を上げる。

「お前の願いは穂波さんの復活だろ?! 僕をシスコンなて言ってられんのか!」

 もう一発腹に食らわせ、さらに最初の一発をもらった頬にお返しする。

「てめぇに何がわかんだよ! シスコンのてめぇとは違う! あいつは俺様の召使いだったんだ!!」

「召使いって……」

 あんまりな言葉に一瞬戸惑ってると、顔面に拳が飛んできた。

 倒れ込んだところに猛臣が乗っかってきて、僕はラッシュを食らう。

「逃げておけと言ったのに! 人を連れてくるまで耐えろと言っておいたのに! あいつは死んだんだ!! 主人の命令が聞けない召使いは、躾してやるしかないだろ! でもあいつは死んでるから、復活させなけりゃ怒鳴りつけてやることもできないだろ!!」

 まるで子供のように、殴る場所なんて狙わずに叩きつけるだけのパンチ。

 半分は腕で凌ぎながら、僕は涙を流す猛臣のことを見ていた。

「死んだままでいさせてやるか! あいつは俺様の召使いになるよう言われてきたんだっ。一生でも、俺様の命令を聞いてないといけないんだ!! 死ぬなんて、俺様が許せるものか!」

 怒りに表情を歪ませながら、それでも泣いてる猛臣。

「てめぇの願いだって、妹の復活なんだろ? 俺様と同じじゃねぇか!!」

「僕は違う!」

 反論の言葉と同時に猛臣の両腕をつかんだ僕は、引き寄せて顔面に頭突きを食らわせてやった。

 痛みで声も出ない猛臣を、どうにか引き抜いた脚で蹴り飛ばしてどかす。

 立ち上がった僕は言葉を続けた。

「僕の願いは百合乃の復活なんかじゃないっ。あいつを殺した犯人を、追い詰めて、苦しめて、殺すことだ!」

「そんなこともひとりでできないような奴が、エリクサーなんて求めるんじゃねぇ!」

「お前はどうなんだよっ。穂波さんを殺した犯人たちをどうにかしたって言うのかよっ」

「とっくに全員やったことを後悔させてやったさ!」

 ふらふらと立ち上がり拳を振り上げた猛臣。

 意識が遠退きそうになりながらも、僕も拳を構えた。

「俺様は負けねぇ。勝って願いを叶えるんだ!!」

「僕だって同じだ! それに、モルガーナを放っておけるか!」

 お互いに言い放ちながら繰り出した拳。

 避けることもできず、頬を殴り合って、僕たちは同時に倒れ込んだ。

 うつぶせになった身体を仰向けにし、上がってしまった息を整える。でももう、まともに動けそうにはなかった。

 同じように天井を仰いだ猛臣も、身体を起こす気力はなくなっているらしい。

「お前は穂波さんのことが、好きだったんだろ、猛臣」

「……あぁ、そうだよ。あいつが側にいてくれさえすればよかったんだ。能力と成果しか見ない槙島の家で、何の取り柄もないあいつだけがまともな人間だったんだ。俺様を、人として扱ってくれたんだ……」

「そっか……」

 泣いているのか、目元を腕で覆った猛臣を、寝転がったまま首だけ動かして眺める。

「モルガーナを放っておけないってのは、いったいどういう意味なんだ?」

「モルガーナはエリキシルバトルの主催者だ」

「それは知ってる。スフィアドール業界を眺めてりゃ、そんなのは見えてくる」

「百合乃はたぶん、モルガーナの犠牲に、いやもしかしたら、エリキシルバトルの生け贄になったんだ」

「なんだそりゃ」

 身体を起こして、唇の端から流れた血を拭った猛臣は、訝しむように眉根にシワを寄せた。

「人工個性。あれは人間の脳情報からつくられた、疑似脳だ」

「ただの高度なAIじゃないのか? 何を根拠に」

 信じてないらしい猛臣の表情に、僕は側に落ちていたスマートギアを引き寄せて、外部スピーカーのスイッチを入れた。

『おにぃちゃん、大丈夫なの?!』

 殴られてそろそろ腫れ始めてるだろう顔をスマートギア越しに見たリーリエが、心配そうな声をかけてくる。

「僕はまぁ、大丈夫だ」

『早く冷やさないとダメだよ。それから、猛臣? バトル、凄く楽しかったよーっ。イシュタルはすんごく強くて、結局あたしとおにぃちゃんでも敵わなかったもんね。またそのうち、戦いたいなぁ』

「なんだこりゃ? フルオートシステムかなんかか? いや、それにしては……」

「僕の人工個性、リーリエだよ。百合乃の脳情報で構成されてる。……百合乃の記憶は、ないみたいだけどね」

「ちょっと待て。じゃあエイナも誰かの脳情報で構成されてるってのか? モルガーナはいったい、何が目的なんだ?」

「わからない。エイナの脳情報の提供者も、モルガーナの目的も。でもたぶん、あいつの目的には、人工個性が必要だったんだと思う」

 それほど関連性が強いようには見えないけど、エイナとか、百合乃の脳情報を取り出したこととか、デュオソーサラーである灯理をバトルに参加するよう仕向けたこととかを考えれば、人工個性は何らかの形でエリキシルバトルに関係しているように思えた。

「あいつはいったい、何をさせようとしてるってんだ?」

「さぁね。少なくともエリキシルバトルを楽しむことがあいつの目的ではないよ。僕もそれは、知りたいと思ってるんだ」

 そう言って微笑んで見せた僕に、猛臣は不審そうに目を細めて、顔を背けた。

 

 

 

「引き分けのようね。たぶんバッテリ交換をすればまたすぐ戦えると思うけれど、その気はあるかしら?」

 戦う気力もなくなった頃に側にやってきた平泉夫人。

 一瞬猛臣と睨み合うけど、すぐに再戦なんてのはやる気が起きなくて、僕はため息を漏らして肩を竦めた。

「僕はもう、今日はいい……」

「何だてめぇ。逃げんのか? 負けるのが怖いのか?」

 そんなに酷くはないけど、顔の何カ所かがぷっくりと脹れてきてる猛臣に挑発されても乗る気にならない。

 側にやってきてる平泉夫人や、僕の仲間たちのことを見渡してから、言う。

「そりゃあ怖いさ。ここにいるエリキシルソーサラーは、全員ね。負ければ願いが叶わなくなるんだから」

「……そうだな。それに、俺様のイシュタルは繊細だし、パーツが特殊だから、やるとしてもパーツ交換と調整をしてからだ。相当無理をさせたからな」

「それは僕も。人工筋を総入れ替えしないと厳しいと思う」

「では引き分けということで。もし再戦すると言うなら、私に連絡を頂戴ね。貴方たちの戦いを見逃すなんて、もったいないもの」

 疲れてる僕たちに対して、楽しそうにニコニコと笑ってる夫人にげっそりした気分になる。

「夫人、ひとつお訊きしたいんですけど」

「何かしら? 克樹君」

「なんで猛臣にスフィアの買い取りを辞めるなんて無茶なお願いができたんです?」

 それがどうも心の底で引っかかっていた。

 性格からして一度した約束を破棄させてくれるような奴じゃない。平泉夫人とは以前からの知り合いのようだけど、何か翻せないような貸しでもあったんだろうか。

 楽しそう、というよりも意地悪そうな笑みを浮かべる夫人。

 彼女がちらりと視線を向けた猛臣は、怒ってるのとは違う、羞恥の赤に顔を染めているようだった。

「それはここでは秘密ということにしておくわ。まぁ、猛臣君とは以前ちょっとした貸しがあっただけよ」

「そうですか」

 どういうことでの貸しなのかはわからなかったが、顔を赤くしながら口を開いた猛臣が、何も言えなくなるようなことなのだけはわかった。

「お疲れ様、克樹」

「うん。疲れたよ、本当に」

 差し出してくれた夏姫の手を取って、僕は立ち上がる。

 目尻に涙を溜めながら、夏姫はそれでも嬉しそうに笑っていた。

「大丈夫なの? 腫れてきてるよ」

「いつつっ。だ、大丈夫。これでも殴るのも殴られるのも慣れてるから」

 百合乃が死んだすぐ後、荒れまくってた僕は学校にも行かずに、喧嘩を吹っかけたり吹っかけられたりは日常茶飯事だった。

 さすがにリーリエが稼働開始してからはそんなことはやめたから、ずいぶん鈍ってるけど。

「結局、克樹に迷惑かけちゃったね」

「そうでもないさ。猛臣とは僕が戦いたかったんだ」

『なぁに言ってるの? あたしだって戦いたかったんだからーっ』

「そうだな、リーリエもだったな」

 勧められたソファに座って、芳野さんから受け取った救急箱で夏姫から治療を受ける。

 見るとあっちの端では、猛臣が芳野さんの治療を受けていた。

「よい戦いでしたね、克樹さん」

「ありがとう、灯理。いまの僕とリーリエの全力だよ」

 バッテリが切れてぐったりとしてる風のアリシアを灯理から受け取り、アタッシェケースに収める。

「よくもスフィアカップの優勝者相手にここまで戦ったよ。オレは手も足も出なかったのに」

「僕のは公式戦じゃ使えない手を大量に使ってるからね。あっちもそうだったけどさ」

 僕のスマートギアを持っていてくれる近藤に笑む。

「本当に、本当にありがとうね」

「うん。夏姫も大変だったろ。お疲れさま」

「……うん」

 今回の件が始まる前の、いつもの夏姫の笑顔が戻ってきたのを確認して、僕もまた夏姫に笑いかけていた。

 熱を持ったところに押し当ててもらってる冷たいタオルが気持ちいい。

 風林火山を長時間使って、引き分けだけど決着はついて、緊張が途切れた僕は急速に眠気に誘われる。

『お疲れさま、おにぃちゃん。あたしを、ここまで育ててくれてありがとう』

 スマートギアのスピーカーから聞こえたリーリエの声音に何か不穏なものを感じたけど、それが何なのか問うこともできない。

「リーリエもお疲れ様」

 そう言うのが精一杯で、僕の意識は眠りの中に落ちていった。

 

 




●用語一覧

・スフィアドール
 スフィアを搭載する人型、ないし獣型のロボット。スフィアドールの登場により人型ロボットが実用化されたと言えるほどに、現在の人型ロボット市場はスフィアドールで占められている。
 主に三種のサイズが定義されており、一二〇センチサイズを基本とするエルフドール、六〇センチのフェアリードール、二〇センチサイズのピクシードールがある。それぞれの標準サイズは素材や運動性のバランスから決まっており、標準から外れたサイズのドールも多い。

・スフィア
 スフィアロボティクス社が約十一年前に提供を開始したロボット用制御装置。人の小脳に近い機能を持ち、ロボットの運動性を大幅に向上させ、高度なコントロールを可能にした。作中世界ではロボットと言えば一般にはスフィアドールのことを示すほどに普及している。
 スフィアに内蔵されている処理装置となるスフィアコアは宝石のような見た目をしたクリスタルコンピュータであり、現在のところ同等や同様のものを新規で開発に成功した会社や個人は存在しない。スフィアロボティクス社とライセンス生産している会社以外からはスフィアが提供されることがない寡占状態となっている。
 スフィアドールに使用できるパーツはスフィアが認識できるものに限られているため、形状は人型ないし獣型に制限され、現在のところ人工筋が必須などの問題で運動性や自由度に限界がある。ただし第五世代スフィアでは外部機器の制御に対応し、アナウンスされている第六世代では機械式人工筋が組み込み可能になるとされており、サイズや運動性の制限は今後緩和していく模様となっている。
 モルガーナとの関わり合いについては現在のところよくわかっていない。

・エルフドール
 全高一二〇センチを基本とするスフィアドール。人に近いサイズのため今後の市場展開が期待されているが、第四世代以降安くなったとは言え、最も安いものでも国産高級車が楽に買えるほどの価格であるため、個人で所有している人は希である。
 人工筋やフレームの進化により一三〇センチや一四〇センチサイズのエルフドールも販売が開始されており、業界での目標は一五〇センチサイズとなっている。家政婦や介護要員、業務サポートと言ったものから、人間では危険な深海や宇宙、原子炉内などの局地での使用が想定されていて、一部では利用が開始されているが、価格や運動性、サイズの問題で普及しているとは言い難い。
 またヒューマニティパートナーテック社が提供するアドバンスドヒューマニティシステムなどのフルコントロールでの制御により、車の運転や調理と言った高度な作業も行えるが、多くの国では安全性や衛生面の問題から、それらの機能はオミットされている。
 エイナがライブの際に使用していたのはエルフドールである。

・フェアリードール
 人型や獣型など、様々な形状やサイズで提供されているスフィアドール。標準サイズは全高六〇センチであるが、形状や用途が多岐に渡っているため、あまり関係がなくなっている。
 業務用途には配管検査用センサードールや深海調査船に搭乗する人型ドールなどがあるが、一般に任意されているのはペットドールとしてであり、犬型や猫型を中心に、完成品での提供が為されている場合がほとんどとなっている。格安とは言えないものの、スフィアドールの中では一番安く一般に普及しており、作中ではあまり登場しないが、スフィアドールと言えばフェアリードールというくらいに一般には認知されている。
 コントロールはネット経由で外部のフルコントロールシステムに接続するか、ドール内部に内蔵した処理装置とデータで動くインナーコントロール、その複合が主。人間が操作することもあるが、一般向けではあまり多くはない。

・ピクシードール
 全高二〇センチと、着せ替え人形程度のサイズのスフィアドール。フレームと人工筋で構成され、動くようにつくられているため、着せ替え人形ほどには細身ではない。
 作中ではピクシーバトルを行うためのバトルピクシーばかりが登場しているが、それ以外にも業務用途や動かせる着せ替え人形、バトル以外のラジコンなど、様々に利用されている。ただし決して安いものではなく、一番安いものでもフェアリードールと同等、バトル向けの組み立てキットとなると中古の車が楽に買えてしまうほどと高額である。
 ピクシードールで一番人気と話題が大きいのはやはりバトル向けのものであり、人工筋一本から購入でき、好きなパーツを組み合わせて自由度の高いドールを組み立てることができる。熱の入れ具合は人によって異なるが、バトルジャンキーな人の中には総額で家を買えるくらいの金額を使っている者もけっこういる。それらの需要は日本だけでなく、世界に広まっており、スフィアカップの世界大会開催を要望する声は大きい。

・フルコントロール、セミコントロール、フルオート
 スフィアドールの主なコントロール方式は三つ、所有者がスマートギアを使って一挙一動を制御するフルコントロール、行動方針をコマンドで制御するセミコントロール、行動のすべてを制御システムに委ねるフルオートである。
 フルコントロールは視界もスフィアドールのカメラを利用し、自分自身の身体を動かすように制御するためスマートギアが必須となる。ピクシーバトルの猛者のほとんどはフルコントロールを使用している。
 セミコントロールは基本方針とコマンド入力による制御方法で、ゲームに近い感覚で操作が可能であり、手軽である。制御アプリによってはかなり細かいコントロールが可能であり、夏姫がブリュンヒルデをコントロールするのに使っている制御アプリは、オリジナルヴァルキリー専用のもので、あれほどの細かな制御を実現している。
 フルオートは作中ではアドバンスドヒューマニティシステムくらいしか登場していないが、スフィアドールの制御方式としてはかなり一般的であり、コンパクトなシステムではフェアリードールやエルフドールに制御システムを内蔵することもできる。ピクシードールでは携帯端末にフルコントロールアプリを入れることも可能である。必要に応じてセミコントロールやフルコントロールに切り替えられるアプリも存在する。
 ピクシーバトルの加熱とともにフルコントロール、セミコントロールアプリの開発も活発化しているが、スフィアドール業界全体としてはフルオートシステムが一番注目されており、開発競争が激化している。第六世代ないし第七世代から始まるだろう、人間の労働を代替するスフィアドール向けのシステム開発が中心となっている。
 猛臣が使用しているフルコントロールとセミコントロールを組み合わせたセミオートは、アプローチとしてh第三世代スフィアドールの頃から存在しているが、外部機器の接続が可能になった第五世代になって意味を持つようになったものである。今後第六世代に向けて一般化していくものと思われる。

・アドバンスドヒューマニティシステム AHS
 克樹の叔父、音山彰次が務めるヒューマニティパートナーテック社が提供するフルコントロールシステムのひとつ。
 主に人間的な作業や行動をスフィアドールに行わせるためのものであり、医療補助、介護、家政婦、業務補助向けに提供されているサービスで、あたかも人間のような気遣いや表情をつくることが可能であるのが特徴。他社の追随を許さないほどに多岐に渡る作業や行動が行えるため、フルコントロールシステムでは一番のシェアを誇っている。バトルピクシー向けのAHSサービスも開始された。エルフやフェアリードールに内蔵する用のコンパクトな、アドバンスドではないヒューマニティシステムも存在する。
 開発には疑似脳の研究に携わっていた彰次が深く関わっており、人間的な動きをおこなうための行動パターンやデータには、人工個性であるリーリエの情報が多く使われている。そのため同等のシステムを他社が開発するのは困難である。

・ソーサラー
 スフィアドールをコントロールする人を示す俗称。正式名称ではないものの、スフィアカップでも出場者に対して使われていた。
 第三世代の頃、ピクシードールでバトルが行われるようになった頃から使われている言葉であるが、どこで生まれた言葉なのかはわかっていない。いつの間にかそう呼ばれるようになっていた。一説にはスフィアロボティクス社の初代社長が使い始めたと言われている。
 主にピクシーバトルを行う人に対して使われていたが、現在では業務などで専門的な操作を行うエルフやフェアリーの使用者に対しても使われる。ドールを組み立てなどを行い、操作を主として行わない人に対してはオーナーという言葉が主に使われている。

・スフィアロボティクス SR社
 スフィアドール、スフィアを生み出した会社。発明やライセンスのみの会社というわけではなく、スフィアドールの規格制定の他に、スフィアやドール用パーツ、完成品のドールの製造や出荷も行っている。
 設立から十二年ほどでしかない新興企業だが、工場用などの用務用ではない、一般向けのロボット企業としては最王手に上り詰めている。第五世代に入り、外部機器の接続が許可されるようになったため緩和されているが、スフィアドールの内部に使用するパーツはすべてSR社にて認定とスフィアへの登録が必要であるため、スフィアドール市場を実質的に牛耳っている。

・ヒューマニティパートナーテック社 HPT社
 克樹の叔父、音山彰次が技術部長として務めているロボット関連企業。設立は二十年を超えるロボット関連企業としてはそこそこに古参で、スフィアドール以前からロボットのパーツなどを製造しており、そうした業務は現在も続けられている。
 現在の主力はスフィアドール関係のパーツやソフト、システムで、彰次は主にソフトに関係が深いが、ハードにも触れており、スフィアドール方面の開発業務は彼がひとりでとりまとめている。
 克樹が開発したヒューマニティフェイスは所詮はアクセサリパーツであり、エルフやフェアリーにも応用されたり、会社の認知度を高めるのに貢献した商品であるが、金額としてはそれほ大きな割合とはなっていない。
 現在最も注目されているのはAHSであり、彰次が社内でかなりの自由を許されているのは、AHSには欠かせない人物であるという点が大きい。

・メカニカルウェア MW社
 スマートギアなどのマンマシンインタフェースの開発、製造を行っている会社。本社はアメリカ。現在克樹が使っているスマートギアは、平泉夫人の推薦によりMW社製のプレミアムグレードのもの。
 とくに高級なスマートギアで名を知られている会社であるが、一般向けモデルや組み込み用パーツの出荷、スマートギア以外のインタフェースも多種多様に扱っている。
 なお、平泉夫人のスマートギアは少し古いモデルであるものの、MW社の特注品。灯理のスマートギアはSR社製であるが、パーツの多くはMW社製。

・スマートギア
 頭に被るタイプの複合マンマシンインターフェース。ヘッドギア型が一般的であるが、ヘルメット型や頭に被らず覗き込む形のスコープ型なども存在している。
 ディスプレイやヘッドホンの他に、脳波を受信して端末を操作することが可能なBCI機能を搭載し、ポインタの操作やキーボード入力、サンプリングした自分や他人の声、市販のボイスデータを使って口で発声せずに喋ることができるイメージスピークを使うことができる。端末操作に必要なすべての機能をひとつに統合している。
 ただし使用には慣れや適正が必要であり、使えない人は努力しても使うことができない。業務向けには単価が高いため使われることは少ないが、ゲーム用途やピクシーバトル用途には一般的となっている。
 なお、ディスプレイは液晶式か網膜投影式かとか、どうして一度に複数のポインタ操作が行えるかとかということについては作者も知らないため不明。すごく不思議なデバイスである。

・BCIデバイス
 スマートギアを含む脳波で端末を操作するデバイスの総称。スマートギアの他には、第一部第一章で克樹が使用していた、手の平を置くだけで入力操作をすべて可能にするBCIパッドなどがある。
 あくまで脳波を受信して操作を行えるデバイスであり、デバイス側から映像や音声の情報を脳に送信することはできない。そのためSDBL世界にはVRMMOなどの没入型ゲームなどは存在しない。
 灯理の医療用スマートギアは映像情報を視神経に送信する技術を開発するための実験モデルであり、受信機を体内に埋め込む必要があるため、後天的視覚障害者向けには発展していく可能性はあるが、一般向けになる可能性は低い。

・携帯端末、タブレット端末、スレート端末、据置端末
 携帯端末はスマートフォン、タブレット端末はタブレットPC、スレート端末は大型のもので、据置端末は一体型PCに近い形状をしている。形状については様々に存在している。
 作中世界ではOSという概念が希薄になっており、端末使用者はサービスとして提供される自分専用の環境を所有する端末に呼び出す、という形態を取っている。自分専用の端末だけでなく、解放された端末で自分の環境を呼び出すと言ったことも可能になっている。そのため端末はあくまで端末であり、環境が主体となっている。
 あまり細かいことを突っ込んでも無駄な部分。趣味。

・エリキシルスフィア
 約三年前に開催されたスフィアカップのピクシーバトルトーナメントの地方大会で、優勝者と準優勝者に配布された先行型第五世代スフィアのうち、エリキシルバトルに参加した人のもののみを呼称してエリキシルスフィアと呼ぶ。非参加者の贈呈されたスフィアは、特別なスフィアと克樹は呼んでいる。
 普通の第五世代スフィアと何が違うのかについては不明。エリキシルバトルアプリの機能のひとつであるレーダーする場合、エリキシルスフィアが受信機として機能する。
 エリキシルバトル参加者が参加資格を失うのは、同じ参加者にエリキシルスフィアを奪われたときであるが、第二部でガーベラが奪われた際に近藤が資格を失わなかったことから、手元に置いていないだけでは資格を失わない模様。

・エリキシルバトル、エリキシルバトルアプリ
 エリキシルスフィア同士が戦うバトルをとくにエリキシルバトルと呼ぶ。エリキシルバトルを行う際はエリキシルバトルアプリを立ち上げている必要がある。
 バトルについてはルールはとくになく、公にしてはならない以外の禁止事項もとくにない。制限がないのと同時に、エイナや主催者への連絡方法もなく、時折エイナから一方的にメッセージが飛んでくるだけである。

・アライズ
 エリキシルバトルを行う際に、エリキシルバトルアプリに向かって唱える言葉。解放を意味する。
 アライズと唱えて約六倍のサイズとなったピクシードールのことをエリキシルドールと呼び、その状態をアライズ状態と克樹は読んでいる。何故巨大化なのか、六倍なのかといった説明はされていない。
 アライズ状態はドールに内蔵しているバッテリの残量によって残り時間が決まり、限界に達してアライズが解除されたドールは自動的にアライズが解除される。また、アライズ中に手放した武器などはエリキシルドールから数十メートル離すか、アライズが解除された際に元に戻るようになっている。能動的にアライズを解除することもでき、その場合はエリキシルバトルアプリに収束を意味する「カーム」と唱える。作中ではカームという言葉はほとんど使われていない。
 アライズ状態のドールについては克樹がいろいろ調べているが、詳細はわかっていない。剣などの武器は鋭い刃を備えるようになり、軽金属製のハードアーマーは元の素材以上の強度を持つようになる。手持ちの武器や外部デバイスを除き、アライズ状態では取り外しはできなくなることは確認されている。

・人工筋、フレーム
 人工筋やフレームはスフィアドールの基礎構造。スフィアドールはスフィア、スフィアを収納するスフィアソケット、メインフレーム、各骨格となるサブフレーム、人工筋、各種センサー、外装で主に構成される。
 人工筋は太ければ太いほどパワーが上がり、逆に収縮に時間がかかるようになる。短いと収縮にかかる時間が短くなるが、かけられる電圧が小さくなる。小型のピクシードールでは規定されてる最大電圧はかなり厳しいが、人工筋の素材の限界ではなく主にフレーム経由で供給される電気の総量の限界の問題であり、電圧を高くすると人工筋の性能は上がるが、フレームの電力周りの劣化が早くなる。また運動量が高くなる人工筋そのものも劣化が進む。
 克樹は高い電圧をかけられ、性能も高く、耐久性もある市販の人工筋を構造を見ながら選んでいる。猛臣はできるだけそうしたものを自分で設計して製造している。人工筋の性能は猛臣の使うドールに軍配が上がる。
 フレームや人工筋の素材については突っ込み無用。

・nカップバッテリ
 ピクシードールに搭載するバッテリサイズの通称。公式にはAサイズバッテリと呼ばれ、AからGサイズまでが存在している。カップと表記するのはあくまでソーサラーたちの間での俗語で、公式に使われることはない。
 バッテリサイズが大きければピクシードールの活動時間は長くなるが、バッテリはピクシードールの中でも重い部品であるため、大きなものを搭載すると重心が高くなり、安定性が低下する。胸部のソフトアーマーはバッテリ交換のため剥き出しになっているか、開閉できるようになっている。
 第四世代や第五世代のピクシードールでは主にBからDカップのバッテリが使用されることが多い。消費電力の大きいブリュンヒルデはFカップバッテリを使用しており、アリシアはCカップバッテリを主に使用している。
 搭載しているバッテリは小型でも、胸部を膨らませている偽カップと呼ばれるアーマー形状をしている場合や、活動時間を犠牲にしたり外部バッテリを接続してAカップバッテリを搭載しているピクシードールも存在している。

・リミットオーバーセット
 克樹が使う必殺技、猛臣のスキルに代表される、規定を超える電圧を人工筋にかけることで一時的に性能を上げる方法。
 作中世界では人工筋はスフィアドールだけでなく、様々な駆動機械に使われるようになっており、リミットオーバーセット自体は人工筋の使用方法として一般的に認知されている。
 性能が上がる一方で、寿命の短縮や発熱量の上昇などのデメリットがあるため、とくに小型のピクシードールで使われることは希である。
 デメリットはエリキシルドールでも継承されているため、長時間の使用はその後の性能低下に繋がる。

・脚フェチ
 克樹のこと。


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第三部 終章 ピース
第三部 極炎(クリムゾン)の怒り 終章


終章 ピース

 

 

『うううぅぅぅーーっ』

 リーリエのうめき声がスマートギアのスピーカーから聞こえてくるけど、僕はそれに反応する元気もなかった。

 ぐったりとソファに身体を預けて、半開きになってる口を開けてるだけだ。

 僕の右側では灯理が指を当てた唇を震わせていて、左では近藤が僕以上に元気なさそうに項垂れている。

 少し離れている場所のソファでは、黒いヘルメット型のスマートギアを被った猛臣が、苛々してるらしく爪を噛みながら右足を揺すっていた。

 どうにか期末試験を全員追試なしで潜り抜けて夏休みに突入した七月下旬、招待を受けて平泉夫人の屋敷に来ていた。

 何故か猛臣も屋敷にいて、僕たちは夫人からバトルを申し込まれた。

 エリキシルバトルではない、純粋なピクシーバトルを。レギュレーションはエリキシルバトルに準拠した制限なしだったけど。

 そして僕たちは、平泉夫人の強さを知った。

 先鋒で出た近藤は空手技で応戦され、新たに覚えた関節技や寝技を逆に決められてガーベラを脱臼させられて敗退。

 次鋒の灯理はほぼすべての暗器を取り出す前に叩き落とされ、二体一心の連係攻撃も視界の広い夫人には通用しなかった。

 イシュタルの性能を僕と戦ったときより上げてきたという猛臣は、僕とリーリエが使う必殺技と同じリミットオーバセット、スキル「ライトニングドライブ」を最大で使うも、セミコントロールを組み合わせてもどうしても大雑把になる動きのため弄ばれ、すべての武装を削ぎ落とされ二刀で首筋を挟まれて決着。

 この時点で嫌な予感しかしなかったけど、スピード的にはアリシアやイシュタルよりも遅いのに、変幻自在で幻惑するように動く闘妃を、僕とリーリエは風林火山を使ってなお捕らえきれずに敗れていた。

 いま僕たちの前に設置されたリングでは、勝ち抜いてきた闘妃と、ブリュンヒルデが対峙している。

 リングの外に立つ平泉夫人は、シンプルな黒のドレスのような服を着て、ワインレッドのスマートギアを被り、薄く笑みを浮かべていた。

 その反対側に立つ、フリルが多い可愛らしいキャミソールとふわりと広がるミニスカート姿の夏姫もまた、携帯端末を手に微笑んでいた。

 芳野さんが持つゴングの音とともにバトルが開始された。

 でもヒルデも闘妃も、動き出しはしない。

 闘妃に対して半身に構え、開いた左手を突き出して、弓につがえた矢のように長剣を構える濃紺のハードアーマーを纏うヒルデ。

 いつも通り二本の長刀をだらりと垂らして、隙だらけのように見えて一分の隙もない闘妃。着物のように袖口と腰からの布地が垂れている、ハードとソフトが混在したアーマーは、微妙に変化が見える。

 しばらく睨み合っていた二体だったけど、先に動いたのは闘妃だった。

 大きく踏み込みながら両腕を広げて振るような斬撃。

 それをヒルデは正確な突きで撃墜する。

 止まることのない闘妃はもう一本の長刀を掬い上げるように伸ばすけど、ヒルデはこれも突きで応じた。

 長い黒髪と蝶の刺繍のような意匠が描かれた黒い袖をなびかせる闘妃の動きは、まさに舞い。

 風に翻弄される花びらのようなその動きはしかし、刃を備えた剣舞だ。

 見とれてしまうほどの、目で追える速度である舞いは、刃を以て竜巻のようにヒルデに襲いかかる。

 二本の長刀による乱撃を、ヒルデは一本の長剣ですべて打ち落としていた。

 ――なんだ、これ。

 ヒルデと闘妃の戦いを見る僕の感想は、それしか出てこなかった。

 いつの間にか灯理も近藤も、猛臣すらも戦いの様子に注目している。

 正直、夏姫とヒルデじゃ軽く揉まれて終わりだと思ってたけど、いまのところ防戦の一方にしろ、闘妃の攻撃は一撃もヒットしていない。

 スピードでは勝ってるアリシアとイシュタルでも敵わなかった夫人と闘妃が持っているものを、僕はこの戦いで気づき始めていた。

 闘妃とヒルデが持っているもののひとつは、行動予測。

 アリシアに搭載したセンサーで実現してる、一瞬先の動きを先読みするとかではない、相手のソーサラーが次にどんな行動に出てくるのか、いまの攻撃の次にどんな攻撃を繋げてくるのかっていう、ソーサラーに対する先読みの力だ。

 それから、何よりあるのは鋭さ。

 ぶれることのない流れるような太刀筋。それを打ち落とす正確無比な突き。

 当てればいい、かすめてもダメージになるっていう感じの、割と大雑把な攻撃をしている僕たちにはない、機械のように正確で、鋭い攻防が目の前で繰り広げられていた。

『流れ、変わるよ』

 僕が感づくよりも一瞬早く、被っているスマートギアのスピーカーからリーリエが指摘した。

 二本の刀による流れるような斬撃を防いだ突きは、三段突き。

 胸元を狙われ舞いの足運びを乱された闘妃は後ろに下がる。

 そこにできた隙に、ヒルデは前に出た。

 追撃の突きを振り払われてからの大振りの袈裟懸け。

 後退して躱す闘妃に踏み込んでの斬り上げ。

 長刀に流されてからの三段突き。

 ――夏姫って、こんなに強かったのか。

 リーリエを含む五人で訓練してたときは、思い返せば必殺技はほとんど使ってなかった。

 リーリエに経験を積ませる意味合いが強かったのはあるけど、訓練中の対夏姫戦の勝率はぼろぼろだった。

 考えてみればファイアスターターを持っていたガーベラを追い詰め、初見の暗器攻撃に対応できていた夏姫の強さの底を、僕はまだ見たことがなかった。

 闘妃もそうだけど、ヒルデの動きも速いようには見えない。けれど肩から先の速度は、剣が閃いているのしかわからない。

 必殺技を使っても、風林火山を使っていても、あの速度を躱し続けられる自信は、僕にはなかった。

 大きく飛んで距離を取った闘妃は、長刀を捨てて短刀を二本抜き放ち、リングのマットを蹴った。

 それに応じたヒルデは、腰の後ろから短剣を抜き左手に構える。

 長剣と長刀の距離だった戦いが、短剣と短刀の距離となり、加速する。

 半身に構えたヒルデが二本の短刀を一本の短剣で裁きつつ、長剣の突きで反撃をする。

 攻撃と攻撃の打ち合いは長く続くかと思ったけど、違った。

 突然マットに長剣を突き刺したヒルデ。

 そこにはいつの間にか伸ばされていた、コントロールウィップの先端があった。

 奇襲に気づかれて身を引こうとする闘妃だったが、そのときヒルデの左手が閃いた。

 ナイフの投擲。

 軽くてピクシーバトルではダメージにならないため、ついぞ使われることのない投げナイフを、ヒルデは闘妃の頭部に向けて放った。

 反射的にか、眼前に迫ったナイフを闘妃は袖で振り払う。

 袖で覆われて視界が遮られている一瞬を夏姫が逃すはずもなく、大きく踏み込み胴体を真っ二つにするような勢いで、長剣を薙ぐ。

 でも、ナイフを振り払った袖の向こうから伸びてきた、闘妃の左手。

 剣を持つ手を取り自分の方に引っ張り込んだ闘妃は、そのまま右足を軸に身体を回転させ背中をヒルデの腹に密着させて、投げ飛ばした。

 うつぶせになったヒルデの右腕を流れるような動きで決め、戦いは決着した。

「はぁ……。参りました」

 深いため息とともに宣言された夏姫の敗北に、芳野さんがゴングを鳴らした。

「……夏姫って、こんなに強かったんだ」

「ん? んー。ローカルバトルでいろんなドールと戦ってたし、それでかなぁ。途中からはヒルデの調子がどんどん悪くなってきてたし、速攻決着を目指した戦い方をしてたしね」

 近藤をソファの隅に追いやるように詰めて、灯理との間に場所を空けてやる。

 僕が驚いてる間に芳野さんがアイスティを持ってきてくれ、夏姫がストローをすすっていると、猛臣が声をかけてきた。

「夏姫。いまからでもいい。俺様のところに来ないか? 召使いなんてことは言わない。それだけのソーサラーとしての能力があるなら家の奴らも文句は言わないだろう。苦労はさせない。どうだ?」

「てっ――」

 意味を深く考えなくても告白の台詞になってる猛臣の言葉に、僕が立ち上がって叫ぼうとするのを、夏姫は手で制した。

「気持ちは、ちょっと嬉しいかな? 苦労させないってのは魅力だけど……。でもアタシは、ソーサラーじゃなくて、まだはっきりしてるとは言えないけど、やりたいことがあるの。それに、いまはアタシ、ここにいたいから」

 そう言って僕の顔を見て微笑む夏姫。

 夏姫の意図を理解して笑みが零れた僕は、彼女に頷きを返していた。

「そうね。夏姫さんのソーサラーの能力は、セミコントロールとしては日本最強かも知れないわね」

 アイスコーヒーのグラスを片手に近づいてきたのは平泉夫人。

「やっぱりあの春歌さんの娘さんだからかしらね。春歌さんも恐ろしく強いソーサラーだったけれど」

「そうだったんですか?」

「えぇ。ヴァルキリークリエイションのオリジナルヴァルキリーは、春歌さんのソーサラーとしての強さを、完全に発揮できるようにすることをコンセプトに開発されていたくらいよ。技術的にも凄い人だったけれど、あの時点での彼女は、日本最強のソーサラーだったはずよ。私も何度挑んで負けたことか」

「知らなかった……。いろいろヒルデの使い方は教えてもらったけど、ママとバトルはしたことなかったから……」

 呆然としてる夏姫に、夫人は優しく笑む。

 そんなやりとりを聞きながら、僕は遅ればせながら危機感を憶えていた。

 ――もし、夏姫と最初にやりあったときに、ヒルデが完調だったら……。

 終わったことだからいまさらなんだけど、僕とリーリエは夏姫に負けていたかも知れないことを思う。

 それと同時に、僕たちでは一勝すらももぎ取れない平泉夫人のことが怖い。

 もし夫人がエリキシルバトルに参加していたら、誰も勝つことができない最強のエリキシルソーサラーとなっていただろう。

 もう存在しない可能性に、僕は心底安心して、こっそりため息を漏らしていた。

「それで、だけど、少しアルバイトをしてみる気はないかしら? 夏姫さん」

「バイト? でもアタシは、いまは喫茶店でバイトしてて、そこでよくしてもらってますから……」

「無理のない範囲でいいわ。強いソーサラーと言うと、全員フルコントロールソーサラーなのよ。今後バトル以外のいろんな業界でセミコントロールの需要が伸びていくのはわかっているのに、優秀なソーサラーが不足してるの。空いてる週末でも教えてくれれば、そのときにでもセッティングできるから」

「えっと、そう言うことでしたら、大丈夫だと思います」

「お願いするわ」

 手を振って芳野さんの元へと歩いていく平泉夫人の背中を見て、僕は夏姫と笑い合った。

 

 

          *

 

 

 夕方からは夫人に用事があるということで、解散となったバトル大会。

 家に帰った僕は少し早めに夕食を取り終え、ソファに座って膨れた腹をさすっていた。

 テーブルが置かれたダイニングスペースの向こう、キッチンから聞こえてくる食器を洗う音の主は、夏姫。

 謙治さんが順調な回復を見せる一方で、慈悲もなくやってきたのは、学期末テスト。バタバタしていてまともな勉強をしていなかった僕たちは、大慌てで対策に取り組むことになった。

 僕は別に赤点を取るほどにはならないけど、夏姫と近藤は危険な状態だった。

 その上、たいして勉強しなくても大丈夫なはずの灯理もやってくるわ、夏姫から聞きつけた遠坂まで乱入してくるわで、テストが終わるまで放課後の僕の家は、いままで以上に騒がしい事になっていた。

 そんな頃から僕の家に以前よりも来るようになった夏姫は、夏休みに入ってからは毎日夕食と、日によっては昼食もつくってくれて、一緒に食べるようになっていた。

 ――同棲、まではいかないけど、なんかもうそれに近い状態になってるよなぁ。

 毎日家に帰ってて泊まってはいかないけど、ここのところの連絡は、家にいるかとか時間が空いてるかとかじゃなくて、夕食に何が食べたいかだったりする。

 なんかもうすっかりつき合ってる状態の僕と夏姫だけど、実はまだ、あのとき振られてから、夏姫が僕のことをどう想ってるのか聞いていなかった。

「はい、克樹」

「ありがとう」

 洗い物を終えた夏姫が、いつも使ってる保温マグカップに牛乳入りのコーヒーを持ってきてくれる。

 すっかり定位置になってる隣に座って、一緒にコーヒーを飲む僕たちは、視線を交わし、微笑み合う。

 こうして夏姫と一緒に過ごす時間が当たり前になって来つつあるのを、僕は感じていた。

『あーあ。ついにおにぃちゃんのこと取られちゃったかぁ』

 そんなときに割り込んで声を降らせてきたリーリエは、少し拗ねたような声音だった。

「ゴメンね、リーリエ」

『いいんだけどねっ。もう最初のころからそうなるだろうなぁー、って思ってたしー』

「そう、なんだ……」

 恥ずかしそうに頬を染めてる夏姫。

 僕でさえはっきり気持ちを伝えようと決心したのは今回の件があってからなのに、リーリエには見透かされていたらしい。

 僕の方も恥ずかしくなって、顔が熱くなるのを感じていた。

『それでも、おにぃちゃんはあたしのおにぃちゃんなんだからね! あたしが一番大好きで、一番大切なおにぃちゃんだよっ』

「うん。僕も、リーリエのことが大好きだよ」

『うんっ! 夏姫だって、ちゃんとしてないと、そのうちあたしがおにぃちゃんの心を取り返しちゃうんだからねっ』

「望むところだよ、リーリエ」

 そんなやりとりを聞いていて、僕は改めて自分の側にいるのが夏姫でよかったと思う。

 リーリエは誰とでも仲良くなれた百合乃と違って、人見知りが激しいところがある。

 以前夏姫に説明したときみたいに、適当な言い訳は考えてるわけで、リーリエの存在は積極的に隠してるわけじゃない。でも馴染みのない人が来ると、リーリエは途端に喋らなくなる。

 ある程度馴染めばそうでもなくなるけど、どうしても一線を引いてる感じがあって、灯理にはあんまり深いところまで話をしようとはしてないようだし、回数的にはもうけっこうになる遠坂がいるときにはひと言も喋ったことがない。

 それが夏姫とだと、僕に接してるのに近い距離感を感じる。

 リーリエのためにも、夏姫の存在はプラスになると思えた。

「そう思えば、ちょっと訊きたかったんだけどさ」

「何?」

 リーリエと割と不穏なことを話してた夏姫が、突然僕に向き直って訊いてくる。

「克樹、アタシのことを好きだ、って言ってくれたじゃない?」

「う、うん」

「それって、いつからだったの?」

「そっ、それは、その……」

「それは?」

 僕の太股に手を着いて、顔を近づけてくる夏姫。

 僕のことをいじめて楽しんでいるようでいて、でも顔がうっすら赤くなってる彼女は、やっぱり可愛いと思う。

「けっこう、前からだよっ」

「前からって、いつ?」

「それは、えぇっと……」

 夏姫から目を逸らして、僕は返事を回避しようとする。

 それでも夏姫は諦める気がないらしい。

「アタシはね、ヒルデの修理のことを手伝ってくれたときから、ちょっと気になってたかな。リーリエの話を聞いたときとかも、最初の印象と違うな、って思った。それから、近藤を追いかけるとき、すぐに駆けつけるって言ってくれて、克樹はこういう人なんだ、って感じたんだ」

 逸らしていた目を戻すと、夏姫は嬉しそうに、少し恥ずかしそうに、笑っていた。

「克樹は、いつからなの?」

「うっ……。僕は、その、けっこう前からだよ」

「前からって、いつ? もしかして、アタシを最初に押し倒したときとか?!」

「違うっ、違う。それよりも前だよっ!」

「それより前って、アタシが克樹にバトルを申し込んだ辺りとか? その前だと、同じ学校なんだからすれ違ってたりはしてたけど、克樹の視線って感じたことなかったと思うけど」

「えぇっと、その……」

 僕の姿が映る瞳でじっと瞳を見つめてくる夏姫に、言い逃れることができないことを悟る。

「一番最初、夏姫のことを知ったときだよっ」

「一番最初って、高校に入学する前? アタシは克樹のこと知らなかったし、会う機会なかったはずだけど」

「……ヒルデのフェイスは、僕がつくったって前に説明しただろ。あのとき、春歌さんに写真とか、動画とかもらって、そのとき……、夏姫のことが可愛いって思ったんだよっ!」

 もうやけくそになって、最後は一気に吐き出してしまった。

 夏姫に似たフェイスパーツをつくってくれと依頼されて、写真とかを送ってもらったとき、まだ中学生の夏姫のことが可愛いと思った。可愛い顔で笑う女の子なんだな、って思った。

 同じ高校に通ってるなんて気づかなくて、それを知ったのはエリキシルバトルを申し込まれたときだったけど、そのときには僕は彼女のことを本格的に意識し始めていた。

 今回の件がなければ、たぶん僕はずっと夏姫への気持ちを隠し続けていたと思うけど、最初に彼女の顔を知ったときから、僕は女の子として意識していた。

「そうだったんだ……。じゃあ、アタシと克樹は、ママが繋いでくれた縁だったんだね」

「そうかも知れないな」

 言う気がなかったことを言ってしまった僕は、少し疲れてソファに身体を預けた。

「それからさ、克樹の告白に、アタシって返事してなかったよね」

「思えばそうだったな」

 そんなことはもちろん憶えていたけど、僕の方から夏姫に訊くことなんてできなかった。

 拒絶されて、離れると言われて、事件は解決したけど、改めてそれを問う勇気なんて、僕にはなかった。

「ね? 克樹?」

「ん? ん?!」

 呼ばれて夏姫に顔を向けた瞬間、僕の唇に柔らかいものが触れた。

 目の前にあるのは、微かに甘い香りを漂わせる夏姫の髪。

 何が起こったのかを理解したとき、夏姫は僕から離れていた。

「これがアタシの克樹への気持ち。あのとき約束した、キス」

 耳まで真っ赤にしながら、夏姫は可愛らしく笑む。

 驚きと、抱き締めてしまいたくなる愛おしさと、ためらいとで、僕はどうしていいのかわからなくなってしまっていた。

「ね、改めて聞かせて。克樹は、アタシのことどう想ってるの?」

「僕は、その、夏姫のことが、好き、だよ」

「うん。アタシも、克樹のことが好きだよ」

 さっきの比じゃないほどに、顔が熱くなってるのを感じる。耳の先っぽまで熱くなってる僕は、同じように顔を真っ赤にしてる夏姫と見つめ合う。

「克樹はさ、アタシに、何がしたい?」

 僕を見つめてくる夏姫が何を求めてるのかは、わかる。

 リップでも塗ってるのか、艶めかしく光る夏姫の唇が、眩しく見えた。

 唾を飲み込んで、僕は覚悟を決めた。

 夏姫の肩に手を回し、目をつむった夏姫の顔に、自分の顔を近づける。

『うぅーんとさ、あたしも、見てるんだけど、ね? さすがに見えちゃうと恥ずかしいよーっ。するならプライベートモードにしてよーっ』

 そんなリーリエの訴えに、僕と夏姫は慌てて身体を離した。

 すっかり忘れてたけど、もうしてしまった最初のキスは、リーリエに見られていた。

 それを思うと、嬉しさとか、夏姫への愛おしさとかは吹き飛んで、恥ずかしさばかりが残る。

 夏姫の方を見ると、彼女も同じみたいで、視線を彷徨わせながらももじもじと身体を動かしていた。

 でも、目が合うと笑ってくれた。

 僕も彼女に笑みを返す。

 その後は、迷う必要なんてなかった。

「リーリエ、プライベートモード」

 指示を出した僕は、夏姫の手を取って自分の元に引き寄せる。

 腰に腕を回して、目をつむった彼女の唇に、自分の唇を近づけていった。

 

 

             「極炎(クリムゾン)の怒り」 了

 




今回は脚成分が不足していました。次回頑張ります。
克樹はヘタレです。

●次回予告

 夏休みのある日、克樹の元に届いた招待状。それは誰もが知る有名人からのものだった。
 克樹たちだけでなく、猛臣も駆けつけ乗り込んだのは不思議な空間。力を合わせ難関に立ち向かっていく彼らの耳に、鋼灰色の嘲笑が響く。
 世界の表舞台から退いた老人の願いとは? 魔女の真の目的とか? 克樹たちを支える大人たちの思惑とは?
 第四部「鋼灰色(スティールグレイ)の嘲り」に、アライズ!


もしかしたら第四部の前にサイドストーリーを挟むかも知れません。


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サイドストーリー1 藤色(ウィステリア)の妬み
サイドストーリー1 藤色(ウィステリア)の妬み1


 今回はいつもと趣向を変え、サイドストーリー、夏姫が主人公の話となります。
 本編には直接関わらない話となりますので、読み飛ばしても問題はありません。
 時間的には第三部のすぐ後くらいの話です。


「藤色(ウィステリア)の妬み」

 

 

       * 1 *

 

 

 ――いったい何考えてんのよ! 克樹は!!

 アタシの視線の先、行き交う人々の中に見えなくなってしまいそうな距離にいるのは、克樹。

 見失いそうになりながらも、アタシは一定の距離を保ってあいつの背中を追いかける。

 夏休みに入った中野のショッピングモールは、人を避けないと歩けないくらいの雑踏となってる。

 アタシが子供の頃はアニメとかゲームとかのオタク系ショップがたくさんあったというこのモールは、いまは少しそっち方面の店は減って、普通のからちょっと趣味性が強い服を扱ったブティックやアクセサリショップ、いろんな種類の中古屋さん古着屋さん、本屋古本屋とか、方向性も雑多な小規模店舗が配置も入り乱れてたくさん入ってる。ブランドとか高級品じゃなくて、アタシみたいな高校生中学生くらいに向けたちょっと安い商品が多いから、今日は友達連れや恋人を連れ立ってる人たちが、そんなに広くない通路をひっきりなしに行き交っていた。

「もうちょい目立たないようにできない? 近藤」

「無理言うなよ」

 微妙な表情を浮かべながらアタシの後ろに着いてきてるのは、近藤。

 身長が一八〇くらいある近藤は、凄く背が高いってほどじゃないけど、がたいの良さもあって目立ちやすいことには変わりない。

 せっかく克樹をこっそり尾けてるんだから、もう少し見つからない努力をしてほしいと思ってしまう。

 バイトがなかった今日、昼間の時間を潰して克樹のことを尾行してるのは、あいつがアタシに何も言わずに出かけるからじゃなくって、中野に来るのにひとりじゃなかったから。

 いまあいつの隣に立っているのは、白地に赤い横線が入った医療用スマートギアを被った女の子。灯理。

 お尻まで届く長くて繊細な髪を揺らし、ちょっとゴスロリの入った白系の可愛いサマードレスを着た灯理は、自然に克樹の腕に自分の腕を絡ませながら、彼と視線を交わしつつ口元に笑みを浮かべている。

 ――そりゃあまぁ、あいつが灯理と歩いててもアタシは文句言えないんだけどさっ。

 槙島猛臣を倒して、お互いの気持ちを確認し、キスまでしたアタシと克樹だけど、つき合うのはエリキシルバトルが終わってからにしようってことになった。

 もしアタシたちの誰かがエリクサーを手に入れて願いを叶えたり、叶えられずに敗れたりしたとき、お互いの関係がどうなるかわからないから、ってことで。

 ちょっと寂しいってのは、ある。

 でも一度つき合ってから、アタシか克樹のどっちかが願いを叶えて関係が微妙になって、それで別れちゃうのもイヤだ。

 それにエリキシルバトルのことがアタシたちにとっていま一番大きなことなのは確かで、それが終わらないと落ち着くこともできない。

 だからいろいろと話しあった上で、アタシと克樹が出した結論は、いまはつき合わない、だった。

 ――だからって灯理とこっそりデートしていい、ってことでもないでしょ!

 つき合ってないとは言え、アタシは克樹のことが好きで、克樹もアタシのことを好きって言ってくれたんだ。今日は用事があるとしか言ってくれなくて、実は灯理とデートしてるなんてのは、許せることじゃない。

 それがアタシの独占欲だってのはわかってる。

 ウザったがれるかもしれないとも思ってる。

 言ってくれればそんなに気にしなかったと思う。でも今日はアタシに秘密で、灯理とふたりきりで出かけるなんてのを何もしないで放っておけるほど、アタシは心が広くない。

 ――アタシって、イヤな女の子だな。

 話し合ってつき合わないってことにしたんだから、ふたりで出かけることくらい気にしなければいい。それだけのこと。

 そうも思うのに、それができない。

 克樹にこだわって、灯理との関係が気になって、こうやって尾けてきちゃってる。

 心が狭くて、たぶん克樹から見てもイヤな女の子なんだろう、って思うけど、やっぱりアタシはふたりのことが気になって仕方がなかった。

 ――それより、灯理は何考えてんだろ。

 今日のことを知ったのは、灯理から昨日話を聞いたからだ。

 克樹が秘密にしてるのに、灯理がバラしたら意味ないじゃん、と思うけど、聞いちゃったものは仕方がない。

 人混みに紛れながら、少し離れたところから見る灯理は、やっぱり可愛いと思う。

 医療用のスマートギアを被ってるのもあるだろうけど、すれ違う人たちが時折振り返って見るくらいに、小柄で、顔立ちも、口元に左手の指を添えて笑う仕草も、どれひとつ取っても彼女は綺麗だ。

 ここんところはアタシも気を遣って、髪とか服もちゃんとするようにした克樹が不釣り合いに見えるくらいに。

 多少不釣り合いな感じはあっても、腕を組んで歩くふたりは仲の良い恋人同士に、アタシの目には見えていた。

「ほら行くよ」

「へいへい」

 人の波に押されて離れてしまったふたりとの距離をもう少し詰めるために、やる気のなさそうな返事をする近藤とともに、アタシは人の間を縫って歩いていく。

 

 

          *

 

 

「よしっ、終わり」

 可愛いのを買って克樹の家に置いてある自分用のカップを洗い終えたアタシは、脱いだエプロンを畳みながらダイニングの方に向かった。

 ダイニングテーブルでは近藤がタブレット端末を置いて頭を抱えてる。夏休みの宿題の進み具合がいまひとつらしい。

 近藤の隣には灯理が、正面には克樹が座って、彼に数学の問題を教えていた。

 医療用のスマートギアを被ってる灯理はともかく、克樹もスマートギアを被っていて、勉強を教える合間に何かやってるらしい。

「じゃあ克樹、また明日」

 エプロンをさっきまで座ってた椅子に引っかけたアタシは、勉強道具とかヒルデを入れた鞄を担いで克樹に声をかける。いつもなら夕食時間までいるけど、今日はこの後バイトがある。

「ゴメン、夏姫。明日は……、ちょっと出かける用事があるんだ」

「あ、そうなんだ」

 スマートギアのディスプレイを跳ね上げた克樹が、微妙な感じに顔を顰めつつ、そう言ってくる。

 明日予定があるなんて話は聞いてなかったけど、仕方ない。

 夏休みに入って八月上旬の今日まで、特別用事があるってわけじゃないけど、毎日のように克樹の家に来ていた。つき合ってるわけじゃないにしても気持ちは確かめ合ってるんだし、美味しいと言って食事を食べてくれる克樹の顔が嬉しい。それに食材の費用は克樹が出してくれるから、助かってもいる。

 今日みたいに灯理や近藤だってちょくちょく来てるんだ、泊まりまではさすがにしないにしても、夕食をつくりに来るくらいはアタシと克樹の関係にあって、普通のことだと思った。

「遅くなるの?」

「うぅーん。そんなに遅くはならないと思うけど……、わかんないから……」

「そっか。じゃあ明日は夕食いらないんだね」

「うん、そうだね……」

 今日の分の夕食は、アタシはバイト先のまかないがあるから、克樹の分は暖めればいいだけにしたのを冷蔵庫の中に入れてある。

 明日は何が良いだろう、なんて考えてたけど、必要ないみたいだ。

 何となく歯切れの悪い言葉と微妙な表情が気になるけど、詮索しても仕方ない。残念とは思うけど。

「じゃあまた明後日、来るね」

「わかった。ありがとう」

『じゃあねー、夏姫ぃ』

「リーリエもまたね」

 克樹と、カメラで見てるだろうリーリエに手を振って、アタシは玄関に向かい、靴を履いて外に出た。

「ふぅ」

 道路に出たアタシは、ひとつため息を漏らしていた。

 まだおやつの時間を少し過ぎたくらいの時間、夏休み前半の陽射しはかなり厳しい。半袖のシャツとミニスカートから出ている肌が、日焼け止めを塗ってても焼けそうなほどの熱気だ。

「まぁ、バイト行くしかないか」

 用事があるときはいつもたいてい突然だし、どこに行くのか教えてくれないことも多い克樹だけど、今日のはちょっと挙動不審なのが気になった。

 と言ってもどういう用事なのかわかるわけじゃないんだから、アタシは諦めて駅の向こうにあるバイト先の喫茶店を目指して歩き始める。

「夏姫さん。駅まで一緒に行きましょう」

 後ろからそんな声をかけてきたのは、灯理。

 今日は近藤が夏休みの宿題をやるってことで、アタシもやっておこうと思ったし、ついでに灯理も呼んでいた。

 アタシはそこそこ進んだけど、近藤がいまひとつなのにいいのかな、と思うけど、口元ににっこり笑みを浮かべてる灯理は駅に向かって歩き始めてる。

 まぁいいか、と思って気にしないことにして、アタシも灯理に合わせて歩き出した。

「暑いですね……」

「そうだね。さすがに夏だしね」

 さすがに半袖だけど、ブラウスに黒のビスチェスカートを合わせてる灯理は、言葉の割に汗をかいてる様子はない。お尻近くまでの髪もあるし、スマートギアも被ってるから暑いと思うんだけど、体質なんだろうか。

「せっかくなのですから、どこか夏らしいところにも出かけたいですね」

「アタシもそう思ったんだけど、克樹が出不精だからねぇ……。プールとか遊園地とかは人が多いからイヤだって。まぁエリキシルバトルのこともあるし、警戒してた方がいいのも確かなんだけどさ」

 来年はたぶん大学に向けた勉強で忙しいだろうから、この夏休みにどこかでかけようと提案はしてみたけど、克樹から却下されていた。人が多くなくて、暑くないところならいいらしいけど、夏休みにそんな場所があるとは思えなくて、実現しそうにない。

 連絡先は聞いてあるから、克樹の叔父さんにでも相談してみようか、なんてことも考えてる。

 槙島猛臣とのことが終わってからまだ二週間しか経ってないけど、平穏と言えば平穏、代わり映えがないと言えばそんな感じの日々となっていた。

「そうなのですか。夏姫さんは克樹さんとまだどこにも出かけていないのですね」

「まぁ、ちょっとそこら辺に買い物とかは行ってるけど、暑いの苦手だしね、あいつ」

「そうなのですねぇ」

 フレイとフレイヤが入ってる白いトートバッグを担いでない右手を口元に寄せ、思わせぶりな笑みを浮かべてる灯理。

 スマートギアに覆われて目は見えないけど、意地悪そうな視線を向けてきてる気がした。

「なんなの?」

「いえ、たいしたことではないのですが。ときに、克樹さんの明日の用事はご存じですか?」

「知らない。さっき初めて言われたんだし」

「そうですよね、やっぱり」

 どんな意味を持ってるのかわからない灯理の笑みに、アタシは眉を顰めるしかなかった。

「いったい何なの? 灯理」

「明日はですね、ワタシは克樹さんと出かけるのです。中野まで、買い物です」

「何で?!」

 そろそろ駅が近くなって、人通りがある道で、アタシは思わず立ち止まってしまう。

「先ほど克樹さんの方から誘っていただいたのです。ふたりきりで行きたいということで」

「克樹ーっ」

 思わず携帯端末を取り出したアタシを手で制して、灯理は言う。

「おふたりはつき合っているわけではないのですよね? だったらワタシと克樹さんがデートをしても、何の問題もないですよね?」

「デートって……」

 挑発的にも見える灯理の笑みに、アタシは何も言えなくなってしまう。

 確かに灯理にも近藤にも、アタシと克樹がエリキシルバトルが終わるまでつき合うのは保留にするって話はしてあった。

 だからって、キスまでしたあいつが灯理とデートするなんてのは許せない。

「克樹さんの方から誘っていただいたのですから、野暮なことはしないでくださいね。それではワタシはバスに乗りますので、この辺で」

 言って灯理は楽しそうな笑みを浮かべながら歩いて行ってしまう。

 克樹に電話をかけて確認しようと思ったけど、携帯端末に表示された時間は、そろそろお店に行かないといけないくらいになってる。

 ――どういうつもりなのか、確認してやるんだから!

 幸い明日はバイトは休み。

 中野だったら服とか小物を見にちょくちょく行くから、一度ふたりのことを見つけられれば見失うこともたぶんない。

 克樹の真意を確かめるために、アタシは明日ふたりのことを尾けることを、空を仰いで心に決めていた。

 



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サイドストーリー1 藤色(ウィステリア)の妬み2

 

       * 2 *

 

 

 ――面白いですね、こういう克樹さんも。

 灯理は思わず笑いそうになって、克樹と腕を組んでいない左手を笑みが零れる口元に手を寄せて、笑い声を抑える。

 昨日、詳しくないし苦手だと言っていたのは本当のようで、ショッピングモールに入った途端に克樹は挙動不審な様子を見せていた。

 先ほどあった小規模なスフィアドールのパーツショップでは普通の様子だったが、ブティックがとくに集中してるエリアを歩いているいまは、組んだ腕が緊張しているのがわかった。

 学校の廊下よりももう少し余裕がある程度の、いまの人出を裁ききるには狭いくらいの通路を顔を顰めながら歩く克樹のことを、灯理は思わず笑みを漏らしながら見つめていた。

 ――バトルのことであれば、頼もしくもありますし、強くもなれるのに。

 猛臣と事を構えることになったときの克樹は、怒りに心を揺らしながらも、冷静で、強かった。バトル中の彼は見惚れるほどに格好良かった。

 それがいまはお上りさんどころか、不審人物に近い状況だ。

 気を張っていないときの彼が普通の男の子なのは知っていたけれど、灯理は戦いに望むときの克樹と、いまの彼とのギャップが可愛いと思えていた。

「だいたいこれでひと回りしましたけれど、どこか見てみたいところはありましたか?」

「いや……、あんまりよくわからなかった」

 興味津々の視線や不躾な表情から逃れて、灯理は通路の端に寄って、克樹の身体を他の人々からの盾にするようにして彼と向き合う。

 灯理が買い物に出かけるのは主に新宿や渋谷で、決して中野に深い馴染みがあるわけではなかった。落ち着いた感じの服を着ることが多い灯理にとって、派手なものや奇抜な方向のファッションの店が集中している中野は、学校の友人と来ることはあったが、頻度は決して高くない。何軒かはあるが、ゴシックロリータの店も中野より新宿渋谷の方が多い。

 それでも克樹よりも詳しいことは確かで、今日は彼と相談した上で、中野に来ることになった。

 モールの中をひと回りして、どんなお店があるのかを見せたけれど、自分の趣味以外の店に克樹が興味を示すことはなかった。

「どんなとこがいいだろ」

「そうですね。まずはあっちのお店に入ってみましょう」

 言って灯理が左腕を少し差し出すと、微妙に顔を歪ませながらも、克樹は右腕を軽く出してくれる。

 その腕に自分の腕を絡みつかせた灯理は、克樹を引っ張るようにしながら歩き始めた。

「歩きにくい……。暑い……」

「ふふふっ」

 小さく呟く克樹だが、灯理の腕を振り払おうとはしない。いつもはもう少し身体と顔で拒絶の意志を示す彼は、今日は半分諦めたように灯理がすることに従ってくれていた。

 克樹が夏姫のことを好きなのは、かなり最初の段階で気づいたことだった。

 そのことをはっきり言われたときには、わかっていたこととは言え、ショックだった。泣きもした。

 それでも今日は彼からの提案でいまの場所にいる。

 用事の内容はどうあれ、克樹に甘えていても、邪険にはされないだろう。

 ――克樹さんが夏姫さんのことを好きでも、ワタシだって克樹さんのことが好きなんですから。

 意地悪している自覚はあるが、それでも灯理が絡めた腕を解くことはなかった。

 ――やっぱり、着いてきていますね。

 スマートギアの後部カメラを小窓に表示してみると、やはり夏姫の姿があった。何故か近藤の姿も。

 昨日煽っただけあって、予想通りに彼女が着いてきていることに、灯理は思わず口元を綻ばせる。

 隠れているつもりなのか、店や通路に影に立っていたりするけれど、いつもスマートギアを被っていて、振り向かなくても後ろの視界を確認できる灯理には何の意味もなかった。

 それ以前に、夏姫が近くに接近した段階でレーダーに反応が感知できていた。後部視界と同じように、視界にレーダーを表示しておける灯理は、夏姫との距離も常時把握できる。

 集合地点に到着してからずっと腕を絡めたりしている克樹は、携帯端末を取り出す暇がないため夏姫たちに気づいている様子はない。もしかしたらリーリエは気づいているかも知れないが、たぶん何も言っていないのだろうと思った。

 ――さて、今日は今日を楽しみましょう。あまり時間はなさそうですが。

 にっこりと笑った灯理は、一軒の店の前で立ち止まる。

 それまで以上に顔を歪めている克樹のことを気にしないことにして、彼の耳元のイヤホンマイクに向かって声をかける。

「リーリエさん、ちょっといいですか?」

『何? 灯理』

「教えてほしいことがありますので、すみませんが通話をお願いできますか?」

「どんなこと? リーリエじゃないとわからないこと?」

 軽く首を傾げながら克樹が口を挟んでくるのに、灯理はにっこり笑って答える。

「えぇ。女の子同士のことですので、克樹さんには話すことができません」

「そ、そっか……」

『わかった。かけるね』

 そうリーリエが答えた直後にかかってきた彼女からの通話。

 ポインタを意識で操作して応答ボタンを押すと、音声のみの通話が開始された。

『何なの? 灯理。夏姫たちのこと?』

『気づいていましたか』

 会話の内容を聞かれないために、スマートギアのヘッドホンの中で聞こえているリーリエの舌っ足らずな声に、イメージスピークで返事をする。

『そりゃね。おにぃちゃんがアリシア持ってるし、レーダーはあたしからでも確認できるもん』

『でも、克樹さんには知らせていないのですよね?』

『うんっ。何考えてんのかわかんないけど、灯理、最初から夏姫が来るのわかってたんじゃないの? なんかそんな感じしたから』

『えぇ、その通りです』

 今日は中野の駅で合流してから克樹は一度もスマートギアを被っていないから、リーリエは灯理の様子をカメラでは確認していないはずだった。

 レーダーの情報と、イヤホンマイクを通じて聞いていただろう会話だけで察したらしいリーリエの勘の良さに、灯理は少し驚いていた。

『それで、夏姫のことでないんだったら何なの? 用って』

『えぇっとですね、おそらく克樹さんは把握されていないと思うのですが、リーリエさんなら詳しく把握してるのではないかと思いましたので。今日どうしても必要なことなのですよ』

 質問の内容を話すと、リーリエは言うのを渋ったものの、理由まで明かして聞き出すことができた。

「お待たせしました、克樹さん」

 リーリエから聞き出した情報をアプリでメモし終えた灯理は、通話を切断して克樹に微笑みかけた。

「リーリエと何話してたんだ?」

「それは乙女の秘密です。ね? リーリエさん」

『うんっ。おにぃちゃんでも言えないことだよー』

「何なんだかな……」

「ともあれ、まずはこのお店から見ていきましょう」

 言って灯理は克樹の右腕に自分の腕を絡みつかせる。それ以上に、身体を、胸を押しつけるようにして、彼を店の方に引っ張っていく。

「いや、ここはちょっと……」

「こういうものも見ておくと参考になると思いますよ?」

 渋る克樹を無理矢理引っ張り込んだのは、ランジェリーショップ。中学生高校生をメインターゲットにした、白や黄色ピンクの薄いパステルカラーで彩られた店。

 ――ワタシといる間は、ワタシも楽しませてもらいますからね。

 口に出さずに克樹に宣言をしながら、灯理は早速お勧めの商品が並んだ場所へと彼を導いていった。

 

 

 

「あっ! あいつっ!!」

 横通路の影から克樹と灯理の様子を窺ってたアタシは、思わず声を上げてしまっていた。

 腕を絡められるどころか、胸を押しつけられても離れようとしない克樹は、そのまま灯理に引っ張られてランジェリーショップに入っていった。

「本当、何考えてんの? 克樹の奴!」

 走っていって文句を言ってやりたい衝動をどうにか堪えて、アタシは後ろにいる近藤に声をかけた。

「お店のとこまで行くよ。何してるのか確認しないと!」

「いや、さすがにあの店はちょっと……。あんま広い店じゃないんだろうし、覗いた時点でバレるぞ。ひとりで行ってきてくれよ」

 何でこういうとき男子はつき合いが悪いんだろう。

 とくに用事がないっていう近藤をちょっと強引に連れてきたのは確かだけど、克樹と灯理が何してるのか気にならないわけがないのに。

 ランジェリーショップは男子にはハードル高いかも知れないけど、ここまでつき合ったんだ、もうちょいつき合ってくれても良さそうなのに。

「いいから、着いてきてよ」

 いつ克樹たちがお店から出てくるかわからないから、アタシは行き交う人に時折視界を遮られながらも、振り向かずに近藤に声をかけていた。

「なぁ、おい」

「文句は後で聞くから、行くよ。早く行かないと出てきちゃう」

「いや、そうじゃなくて、おいってば」

 情けなさが籠もったというか、いつもとちょっと違う声がアタシの背中にかけられてる。

「サマープリンセスだろ? こっち向いてくれよ」

「え?」

 久しぶりに聞く名前に振り返ると、何でか額を押さえてる近藤の横に男の人がいた。

 克樹よりもちょっと高いくらいの背で、服とか顔の感じからするとちょっと年上の、大学生くらいか。ジーパンとシャツに半袖の上着は小綺麗にまとまってるけど、肩に担いでる妙に大きなリュックと緩んだお腹がすべてを台無しにしている。

 サマープリンセスはアタシがローカルバトルに参加するときによく使ってたニックネームで、エリキシルバトルが始まって、克樹にバトルを仕掛ける前の、去年の十一月を最後に使ってなかった。

「最近すっかりローカルバトルに出てこないから探してたんだぞ」

「えぇっと、そうなんだ」

「今日はせっかく出会えたんだ。決着をつけさせてもらうぞ!」

 若干芝居がかったポーズでニヤリと笑い、アタシのことを睨みつけてくる男の人。

 ちらりと近藤に視線を走らせてみると、携帯端末を確認してた彼は、首を横に振った。

 ――エリキシルソーサラーじゃないんだね。

 バトルというとここのところはエリキシルバトルが真っ先に思い浮かぶけど、小太りな感じのこの男の人が申し込んできてるのは、ただのピクシーバトルらしい。

「今日はちょうど駅前でローカルバトルが開催されるんだ。俺と戦え、サマープリンセス!」

 周囲の状況をあんまり気にする様子のない彼は、大声ではないけど周りの人にもばっちり聞こえる声でそんなことを言う。

 ステージで呼ばれるならともかく、さすがにこんなシッピングモールの真ん中でニックネームで呼ばれると、恥ずかしいったらありゃしない。行き交う人も、アタシと男の人に目を向けてきていた。

 ――克樹たちにもバレちゃうかも知れないし、仕方ないか……。

 ローカルバトルに参加してる暇なんてないんだけど、このまま付きまとっていられたら尾行も続けられない。

 さっさと終わらせようと思ったアタシは、覚悟を決めて彼の視線を受け止めた。

 でもその前に、訊くことがあった。

「えぇっと、バトルに参加するのはいいけど……、貴方って、知り合いだったっけ?」

 男の人はアタシのことをよく知ってるみたいだけど、アタシは彼に見覚えがなかった。

 ローカルバトルを通して仲良くなった人とは、エリキシルバトルが始まってからはさすがにちょっと疎遠になり気味だけど、たまにメールとかで連絡は取り合ってたし、顔だって憶えてる。

 でもいま目の前にいる男の人は、顔も名前も思い出せなかった。

「いや、俺は、その……、あの……」

 もしかしたらローカルバトルで何度も戦ったことがある人だったのかも知れない。

 アタシの問いに、男の人は怒らせていた肩をがっくりと落とし、呆然とした顔になっていた。

 

 

          *

 

 

「はぁ……」

 下着地獄から脱出し、通路に出た克樹は、反対の店の方まで逃げて大きくため息を吐いた。

 灯理にいろんな下着を見せられたが、直視することなんてできなかった。

 女の子が穿いているのを見るならばともかく、他の女性客や女性の店員にじろじろ見られながらでは、落ち着いて見ることなんて無茶というものだ。

 下着好きの奴にとっては天国のような空間かも知れないが、中身とセットでないとあまり興味のない克樹にとっては、ランジェリーショップは地獄以外の何ものでもない場所だった。

「あれ? 灯理、どうかした?」

「あ……。いえ、何でもないのですが」

 何かを買ったらしい灯理が小さな紙袋をトートバッグに仕舞いながら通路を見回してるのを見て、どうしたのかと声をかけてみる。

 誰か知り合いでもいたのかと思ったが、秋葉原ならともかく、友達をほとんどつくっていない克樹が中野で知り合いに会うことはなく、灯理も新宿などの方が馴染みが深いらしい。夏姫や近藤にも今日のことは知らせていなかったし、克樹も見回してみたが、見知った顔を見つけることはできなかった。

「と、とりあえず、次行こう」

「――そうですね」

 小首を傾げてる灯理に疑問を覚えるが、とにかくまだ店内から視線を感じるランジェリーショップから離れたくて、克樹は歩き出そうとする。

 自然に腕を絡みつかせてくる灯理に、クラスメイトがいたりしないことを祈りつつ、次の店を目指す。

 今日、灯理を誘って中野に来たのは、服を見に来るためだった。

 あまり服装に頓着しない克樹は、自分の服はネット通販で適当に選ぶか、リーリエが勧めてくるのを買ったりしていた。

 しかし今日は、克樹同様役に立たなそうな近藤はともかく、夏姫に助けてもらうわけにもいかず、灯理の助けを借りなければならなかった。

 夏も本番になってきて、絡めている腕が恥ずかしいのと同時に若干暑苦しくも感じているが、文句を言うこともできない。

 今日の目的を達成するためには、灯理の協力が不可欠だった。

「今度はここにしましょう」

 灯理がそう言って立ち止まったのは、落ち着いた色合いの服が多いらしい普通のブティックだった。

「わかった。えぇっと、頼むよ」

「何を言っていますか、克樹さん。一緒に入って自分で選ばないとダメなのです。ワタシはあくまで克樹さんを助けるだけで、選ぶのは克樹さんでなければなりませんよ?」

「うぐっ」

 女性向けの服が陳列されているブティックは、ランジェリーショップほどではないが、克樹には決してハードルが低いわけではない。彼女連れの男性客も狭い店内には見えるが、灯理が一緒にいてくれるにしても、ファッションに詳しくなく、ましてや女性向けの店に入るのはためらうに充分だった。

「さぁ、もたもたしているとすぐに時間が経ってしまいますよ、今日中に決めてしまいたいのでしょう?」

「……わかった」

 灯理の言葉に観念した克樹は、うなだれつつも腕を引っ張る彼女と一緒に店内に脚を踏み込んでいった。

 



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サイドストーリー1 藤色(ウィステリア)の妬み3

 

       * 3 *

 

 

 駅前ロータリーの側にある広場には、もうすでにかなりの人数の観客が集まっていた。

 スフィアロボティクスが協賛しているらしく、広場には会社のロゴが入った大きなトラックが乗り入れられていて、何面かの巨大モニターを高く掲げている。トラックの前には以前やってたときよりかなり広いピクシーバトル用のリングが設置されていて、観客たちの静かな熱気に炙られている。

 ――久しぶりだな、こういう空気。

 受付を済ませたアタシは、トラックの後ろに設営されたソーサラー用のテントに向かいながら、一度振り向いて会場の空気を大きく吸い込んだ。

 賞品目当てでヒルデと一緒にローカルバトルに出ていたのが、もうずいぶん前のことのように思える。

 最後に参加してからまだ一年と経っていないのに、エリキシルバトルに参加するようになったからなのか、何年も前のことのように感じられていた。

 観客から見えないようにちょっと回り込むような感じになってる入り口を通ってテントの中に入ると、けっこう広いスペースの中に、椅子や机、ご自由にお飲みくださいと書かれた紙が貼られたポットなんかがあった。

 それから、二十人くらいのソーサラーの視線が、一斉にアタシに向けられた。

 好意的な視線もあれば、敵意剥き出しのもある。無関心のようにちらりと見るだけの人もいれば、じっくりとなめ回すように見てくる人もいた。

 ――本当、こういうのも久しぶりだ。

 ローカルバトルによく参加してたときは、控え室とかこういうテントで、いまみたいに緊張感のある視線を向けられていた。

 いまのところエリキシルバトルで現れているのは毎回ひとりで、その戦いには願いを賭けたものであるのと一緒に、命懸けだったりもするものだ。

 そんな必死なエリキシルバトルに比べて、ローカルバトルは真剣ではあるけど、お祭りであり、遊びだ。

 外に向かって置かれた空いてる机まで歩いていって、肩に担いでた鞄からヒルデを納めてあるアタッシェケースを取り出しながら、アタシは徐々に自分の中に熱いものがこみ上げてくるのがわかった。

 いまはもう賞品を狙ってローカルバトルをする必要なんてないけど、今回の優勝賞品は家族四人分の豪華旅行券と、地元の商店街で行われてたのに比べてランクが違う。

 こういうのは苦手だって言って近藤は観客席に行っちゃったけど、アタシはこういう勝っても負けても楽しく、でも真剣なバトルへの高揚感に少し酔ってきていた。

「よぉ、サマープリンセス。準備はもういいのか?」

 そう声をかけていたのは、さっきの男の人。

 参加者登録したときの名前はゼウス。

 その名前にも憶えはなかったけど、彼が登録したピクシードール、ユピテルオーネの名前には憶えがあった。

 これまでに何度か戦ったことがあるし、最後に参加したローカルバトルでリングアウトにして負かしたドールだ。ソーサラーとは話したことがなかったから、ドールばっかりでゼウスのことは欠片も憶えてなかったけど。

「まぁ、たいして準備もないしね」

 参加者登録するときにバッテリ残量やレギュレーションチェックは終えていて、武器とかも含めて控え室に入るときには変更することはできない。控え室にいるのは、会場の準備が終わるまでの待ち時間のためだ。

「久しぶりにお前とやれて、俺は嬉しいぜ」

「……はぁ。そう」

 なんか当たり前のように話しかけてきてるけど、ゼウスと話すのは今日が初めてで、別に知り合いってほどじゃない。

 バトル前で緊張してるからなのか、久しぶりにアタシと会って興奮してるのか、ずいぶん彼は饒舌だ。

 ゼウスほど熱は籠もってないけど、中学生っぽいのから社会人らしい人まで、何人かはアタシにゼウスと似たような視線を向けてきていた。

 ――一時期ローカルバトル、荒らし回ってたからなぁ。

 高校に入ってすぐの頃は、バイトもまだやってなくて、生活の苦しさをどうにかしようと毎週末ごとに行ける場所で開催されるローカルバトルに参加しまくってた時期もあるから、たぶんアタシのことを知ってる人はけっこういるんだろう。

「も、もし!」

「ん?」

 なんだか顔を赤く染めて、ゼウスが身体をちょっと震わせながら言ってくる。

「もし今日、俺がお前よりも順位が上になったら……」

「なったら?」

「れ、連絡先を交換してくれ!」

「……」

 たぶん何歳か年上のゼウスが、勇気を振り絞るようにして言わないといけないことなのかとちょっと呆れる。

 仲良くなったソーサラー仲間とはけっこう気軽に連絡先交換してたし、普通に言ってくれれば考えないことはない。

 ――なんか微妙に克樹に似てるしなぁ。

 克樹も人付き合いがヘタで、言いたいことを言わないクセがあるみたいだけど、彼の場合は知り合いをあんまり増やしていない様子がある。

 ゼウスは克樹とはちょっと違うけど、友達つくるのが下手そうなところは似ているように思えた。

 ――でも、あんまり仲良くなりたくはないかな。

 人付き合いが下手そうなのは克樹と似てると言っても、年下だろうとは言え話したこともないアタシに尊大さを感じる口調で話しかけてきて、連絡先の交換って話になると勇気を振り絞らないといけないようなゼウスとは、あんまり仲良くできそうな気がしなかった。

 それにエリキシルバトルが終わるまでは、ソーサラーの知り合いを増やすのも危険な可能性がある。

「ぎゃ、逆にお前が俺より上位になったら、俺はもう二度とお前に声はかけないし、探したり付きまとったりしない!」

「いや、知り合いでもない人を探したり付きまとったりしないっていうのは普通だよね。その申し出、あんまりアタシにメリットない気がするんだけど」

「うっ……。だ、だったら! 賞品が手には入ったら、そのときはお前にそれを譲る」

「んー」

 ゼウスのことは憶えてないけど、ユピテルオーネの憶えてる限りの戦歴は、ローカルバトル上位に常にいたし、優勝経験があるのも知ってた。

 どれくらい強敵がいるかがわからないから、アタシだって優勝できるとは思ってないけど、うまく行けば優勝と準優勝の賞品が手に入る可能性もある。

 ゼウスに押されて勢いで登録しちゃったから、バトルの内容とかは見てなかったけど、優勝は旅行券に対して、準優勝がいい金額の商品券だったのは確認してあった。

 優勝できるかどうかわからない状況だけど、連絡先の交換が代償なら、そんなに深く考える必要はないと思った。

「ん、そういうことだったらいいよ」

「よしっ。首を洗って待ってろよ!」

 全身で嬉しさを表現した後、それまでの年上らしくない怯えた様子を消し去り、アタシを指さして捨て台詞を吐いたゼウスは自分の荷物のところに向かっていった。

「なんだったんだろ、あいつ」

 小さく呟いてゼウスを見送ったアタシは、机に向き直る。

 外からは段々と大きくなってる歓声と、開会を告げるアナウンスが流れていた。

 もうまもなく、選手が呼ばれる。

 アタッシェケースを開き、ブリュンヒルデを取り出す。

 ポケットから取り出した携帯端末とリンクしたヒルデの各種パラメーターは正常。バッテリも充分。問題のある箇所は一切ない。

 机の上に立った身長二五センチのヒルデが装備してるのは、使い慣れた長剣と、比較的最近使うようになった短剣、それからローカルバトルで使うことはないと思うけど、腰から伸びるアーマーに納められたナイフたち。

 紺色、と言うより深い青色をしたアーマーを纏うヒルデは、その名前の由来通り戦乙女のような凛々しい姿をしていた。

「今日は思いっきり楽しむよ、ヒルデ」

 緊張で高鳴っていく鼓動に、アタシは中野に来た理由も忘れて、決意を口に出してヒルデに微笑みかけていた。

 

 

          *

 

 

 ――填められたっ。

 リングの後ろにあるソーサラー用の舞台に立って、ヒルデをリングの上に立たせる段になったところで、アタシは今回のバトル形式に気がついた。

 ゼウスに填められたとかじゃなくて、確認しなかったアタシが悪いんだけど、填められたような気分だった。

 よくローカルバトルで使われてるのよりかなり広大なリングだったのは、今回はトーナメントバトルじゃないから。

 今回のバトルは、バトルロイヤル。

 トーナメントと同様にローカルバトルではメジャーな形式だけど、ヒルデに不調を感じるようになってからはバトルロイヤルはきつくなって避けてたし、それに一対一のときとはセオリーが違う。

 ――仕方ないかぁ。

 いまさら参加を辞退するのもなんだと思って、アタシは覚悟を決めた。

 リングの中に立つ二一体のドールが思い思いの場所に散り、アタシの左右に並ぶソーサラーたちはスマートギアを被ったり携帯端末を構えたりして、準備は整った。

「それでは、バトルスタート!!」

 司会者の声と同時に、ゴングが鳴らされた。

 アタシは素早く携帯端末にコマンドを打ち込んで、元々端の方にいたヒルデを四角いリングのコーナーに移動させる。

「やっぱり、そう来るよね」

 バトルロイヤルのセオリーのひとつは、強者潰し。

 普通のピクシーバトルでは、ドールが破損などで行動不能になるか、敵に攻撃を命中させることでスフィアを通して判定され加算されるポイントによって勝敗が決まる。

 たくさんのドールが一度に戦うバトルロイヤルでは、ポイントを稼ぎそうな相手を真っ先に行動不能にするのは、よく使われる戦法だ。だから番狂わせな展開もあり得るし、それが強いソーサラーとドールが順当に勝ち上がっていくトーナメントバトルとは違う楽しみともなってる。

 コーナーを背にするヒルデの前に立つのは、一〇体のピクシードール。

 今回参加したソーサラーの半分が、真っ先にアタシを脱落させようと迫ってきていた。

 サマープリンセスとヒルデの名は、アタシが思ってる以上に有名になってたみたいだ。

「でもね、ヒルデはいま完調なんだよ」

 リングより少し高くなってる舞台の上に立つアタシは、携帯端末に表示されてるヒルデの視界を確認しつつ、自分の目でも戦場を俯瞰する。

 第五世代パーツが当たり前になって、以前は見なかったタイプのドールも出てきてるみたいだけど、エリキシルバトルを戦い続けてきたアタシにはそんなのは些細なことだ。

「いくよっ」

 小さく声をかけて、アタシはセミコントロールアプリを立ち上げてある携帯端末で、ヒルデにバトルコマンドを飛ばした。

 一度に多数の敵を相手にするときは、壁とかを背にして囲まれないようにして、相手の攻撃に耐えながら反撃で倒していくのが基本だと思う。以前の、不調だったときのヒルデならそうしたと思うけど、アタシは逆に打って出ることにした。

 フルコントロールらしい剣を持ったドールが、突っ込んできたヒルデに一瞬怯んだように上体をのけぞらせた隙を逃さず、抜き放って上段に構えた長剣を全身を使って叩きつける。

 本当に感じてるわけじゃないけど、鎖骨に当たる部分のサブフレームを砕いたような感触があって、リングの手前に並んだソーサラー向けのモニターの参加者一覧のひとつが、赤く染まった。

 隅に追いつめたことで自分たちの優位を確信してたんだろう奴らに、アタシはヒルデを操り次々と襲いかかる。

 対応が遅れて胴ががら空きになってる短剣を二本持った奴を長剣で薙ぎ払って吹き飛ばし、別の奴から突き出された槍の穂先を左手で抜いた短剣で受け流しつつ、反撃の長剣で首筋を狙う。

 アタシの身長に近くなるアライズしたヒルデを操るのとは違う感覚だし、バトルロイヤルってことでリングが広くてちょっと距離が離れてるけど、完調のヒルデは強い。アタシも克樹たちと訓練を重ねて、以前よりもさらに強くなってる。

 けっこう熟練のソーサラーらしい奴と数回に渡って斬り合った後、懐に入り込んで膝蹴りから回し蹴りに繋いでリングアウトを決め、背後を狙って近づいてきた斧使いのドールを首を振って長い黒髪を揺らし相手の視界を幻惑し、振り向き様に長剣で斬りつける。

 ローカルバトルは久しぶりだし、バトルロイヤルはさらに久々だけど、勝ちも負けもなく、ただ戦っていられるいまを、アタシは本当に楽しんでいた。

 ――リーリエとか猛臣はバトル好きだけど、アタシもやっぱり好きなんだろうな。

 そんなことを思いながら近くにいた最後の敵を三連突きで行動不能に追い込んだとき、リングの上に残っていたのはヒルデと、もう一体のドールだけになっていた。

 行動不能になって横たわってるドールを蹴飛ばして広場をつくり、ヒルデの前に立ったのは、魔法少女か何かみたいな、ハードアーマーと衣装を組み合わせた可愛らしいドール。

 ユピテルオーネ。

 ちらりとモニターに目を走らせてみると、七体のドールに止めを差したヒルデのポイントと、五体を倒してるユピテルオーネのポイントは大きくなかった。最後に残った場合に得られるポイントで逆転できるくらいに。

 騒がしかった広場が、シンと静まり返った。

 少し離れた場所に立ってるゼウスに視線を向けると、赤いヘルメット型のスマートギアを被る彼は、口元に笑みを浮かべている。

 図らずも一対一の勝負となり、アタシは声なく発せられる観客からの熱気と、久しぶりのバトルの楽しさに、半分無意識に声を張り上げていた。

「さぁ、決着をつけるよ、ゼウス!」

 一斉に、集まった人たちから歓声が上がった。

 

 

 

 リングの上には破損によって行動不能になったドールが何体か転がってるけど、中央部には障害になるものはほぼなかった。

 アタシはヒルデをリングの中央近くまで歩かせ、同じようにゆっくりと歩いてきたユピテルオーネと対峙させる。

 去年、最後に戦ったときは身長一八センチのちょっと小柄で、パワータイプのずんぐりした感じのボディだったユピテルオーネ。

 でもいまは、たぶん新しく出た第五世代パーツでリニューアルしたんだろう、身長は二〇センチ、スリムな体型になっていた。

 市販品では見ないから、自作か特注品じゃないかと思う魔法少女っぽい衣装は相変わらずで、丸顔なフェイスは可愛らしく微笑んでる。

 武器は右手に剣と、左手に身長程度の槍と、ちょっと変則的。

 ――さて、どんなドールなのかな。

 再び静まり返った会場で、アタシはユピテルオーネのことをじっくりと観察する。

 前回はあっちの油断と不意を突いたことであっさりと倒せたけど、今回はたぶん油断なんてしてくれない。全力で戦わないと厳しいと思う。

 さっきまではヒルデの周囲にいる敵に集中してたから、ユピテルオーネの戦い方は見ていない。

 短剣を水平にして突き出し、長剣を弓をつがえるように肩の上で引いて、油断なく構える。

 先に仕掛けてきたのはユピテルオーネ。

 思った以上に素早い動きで接近してきて、天を突くように掲げた剣を振り下ろしてくる。

 そんな見え見えの攻撃が当たるわけもなく、剣による連撃や左手の槍の追撃を警戒しつつ、アタシはヒルデを剣の切っ先が届かない一歩分下がらせる。

「ん?!」

 届かない切っ先がさっきまでヒルデの頭があった場所に到達する瞬間、背筋に悪寒を感じたアタシは、新たなコマンドを発して短剣を最短の動きで振り、ユピテルオーネの剣を弾いていた。

「何? いまの」

 ヒルデを大きく後退させて、アタシは思わず呟いていた。

 背筋に悪寒が走っただけで、目で何かが見えてたわけじゃない。

 でも何故か、ユピテルオーネの剣に危険なものを感じて、ヒルデに防御を命じていた。

 ――わからないけど、何か仕掛けがある。

 そう感じたアタシは、攻撃態勢を取らせていたヒルデに、防御重視のモードを入力する。

 逆手にした短剣を胸のすぐ前に持ち、右手の長剣を緩く前に構えたヒルデ。

 近くを行き交う車や電車の音は、どこか遠くに聞こえていた。

 観客の息を飲む音すら聞こえる。

 リングの上で隙なく構えたヒルデと、ヒルデにじりじりと近づいてくるユピテルオーネを、アタシは舞台の上から俯瞰して見ていた。

 不意に突き出されたユピテルオーネの槍。

 下がらせて回避するよう指示するけど、穂先は思った以上に伸びてきて、ヒルデは発動した自動防御により長剣で穂先を薙ぎ払った。

 さらに接近してきたユピテルオーネの斜め下からの剣を短剣で受け止め、再度突き出された槍は身体を捻って回避する。

「見えてるよ!」

 ヒルデの背後まで伸びた槍の穂先に現れた変化。

 大きめだけどシンプルな形状だった穂先は、左右に割れて十字槍となった。

 スマートギアでドールの視界を自分の視界としてる人なら気づかないかも知れないけど、生憎アタシは自分の目で戦場を眺める人。

 身体とともに槍を大きく引いてヒルデの身体を引き倒そうとする槍を、アタシは長剣で弾き飛ばしていた。

 めげずに連続攻撃を仕掛けてくるユピテルオーネの攻撃を、新たなコマンドを追加しつつアタシはヒルデにすべて防御させる。

「もうだいたいわかったよ、ゼウス」

 攻撃を防ぎきり、アタシはヒルデを大きく後退させる。

 ヒルデの目を通してデータを取ってみてわかった。

 ユピテルオーネの剣は二センチ、槍は三センチ、通常状態よりも一瞬だけ伸びる機能がある。

 平泉夫人が使ってたコントロールウィップとはちょっと違うけど、十字槍になった機構も含めて、手の平の接続ポイントを使って操作する、外部機器だ。

 直線的に突き出される槍はその長さを捉えにくいし、大きく振るわれる剣も切っ先を直視するわけじゃなく、身体を含めた全体の動きを見て防御するものだから、気づきにくい。

 リングを俯瞰してなかったら、一撃目か二撃目までは食らってたかも知れない。

「そろそろ、反撃させてもらうね」

 ゼウスにも聞こえるように言って、アタシは防御だったモードを攻撃に切り替え、ヒルデを前に出させた。

 仕掛けがわかってしまえばたいしたことはない。

 武器が伸びる機構を活かそうと一定の距離を保っていたユピテルオーネに大きく接近して、ヒルデは得意の三連突きを放つ。

 剣と槍で二撃を凌ぎ、最後の突きを後退して避けたユピテルオーネ。

 さらにヒルデを接近させたアタシは、短剣を上段から振り下ろす。

 かろうじて剣と槍を頭上でクロスさせ、ユピテルオーネは短剣を防いだ。

 でもおろそかになった胴に、アタシは鋭い長剣の一撃を食らわせた。

 ――勝った。

 剣速から考えれば必殺となるはずだった一撃。

 なのにモニターを見ると、ダメージによるポイントは入ってるのに、ユピテルオーネは健在と表示されていた。

 ――なんで?

 片手による斬撃だけど、ヒルデに使ってる人工筋のパワーから考えれば、ハードアーマーでなくソフトアーマーと衣装の布地しかない胴体への攻撃は、一発退場レベルのダメージになったはずだ。

 それなのに判定では、あと二回同じくらいのダメージを与えないと退場にはならないとなってる。

「……うわ、わかった」

 ゼウスの余裕の鼻息が聞こえてきたとき、アタシはダメージが少なかった理由に気づいた。

 ――あの衣装、もしかしたら全部アクティブアーマーだ。

 ついこの前克樹たちが戦ったという猛臣のドール、ウカノミタマノカミ。

 そいつのマントに使われていて、通常はただの布地なのに、電圧をかけると硬質化するっていう特殊な人工筋を編み込んだ素材。

 克樹の話だと、最近出荷が開始されたばっかりで、十インチのタブレット端末くらいのサイズでドールとの接続部分を含め、何万かするってことだった。

 ふわっとした可愛らしいユピテルオーネの衣装から考えると、タブレット端末の二枚か三枚分ぐらい使ってそうだ。もしあれが全部アクティブアーマーだとしたら、バトル用のピクシードールが一体買えるくらいかかってる。

 ――お金かかってるなぁ、このやろっ。

 ヒルデを修理するためにオリジナルのパーツのほとんどを手放し、少し楽になったとは言え生活が厳しいアタシじゃ考えられないお金の使い方だ。

 ――そんなことよりっ。

 いらない方向に飛んでいた思考をバトルに切り替えて、アタシはヒルデとユピテルオーネが睨み合ってるリングを注視する。

 たぶん近藤と同じか、それよりも強いくらいのゼウスは、そう何度も隙を見せてはくれないだろう。

 一応ある制限時間にはまだまだ余裕があって、ポイントはアタシの方が上だから、このまま逃げ切っても勝てはする。

 でもどうせならきっちりと勝敗をつけたかった。

「よしっ」

 戦法を決め、アタシは新たなコマンドを携帯端末に入力した。

 無造作に両腕を下ろしたヒルデは、そのままユピテルオーネに歩み寄る。

 一瞬怯んだように両手の武器を構え直したユピテルオーネが突き出した槍を長剣で弾き、剣を短剣で受け流す。

 さらに一歩近づくと、あっちは大きく脚を引きながら剣を振り下ろしてきた。

 その瞬間、ヒルデは長剣と短剣を手放し、もう一歩踏み込んで左手で振り下ろされてくる右手首をつかんだ。

 つかんだ手を軸に素早く身体を反転させ、腰を落としながら背中を相手のお腹にくっつける。

「あっ」

 とゼウスの声が聞こえたときには、ヒルデはユピテルオーネに背負い投げを決めていた。

「ふぅ。勝った」

 うっすらとかいた額の汗を拭いながら携帯端末から顔を上げたとき、リング端に来ていたのが幸いして、思いっきり投げ飛ばしたユピテルオーネがリングの外の地面に叩きつけられるカシャンという音が聞こえた。

 アタシの勝利を告げるゴングと同時に、勝利をたたえる声に包まれる。

「楽しかったー」

 片手を上げて観客の応えるアタシは、いつの間にか克樹に向けていた鬱屈した気持ちが消えて、すっきりした気分になってることに気づいていた。

 



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サイドストーリー1 藤色(ウィステリア)の妬み4

 

       * 4 *

 

 

「うぅーん。どうしよう」

『おにぃちゃんは本当、優柔不断だよねー』

「そうですね。スパッと決めてしまえばいいですのに」

 悩んでうつむき加減の克樹に、リーリエと灯理は容赦のない言葉を浴びせかけてきていた。

 ショッピングモールから出て駅前広場に出た克樹が上げると、道路を挟んだ向こう側の広場に人集りができているのが見えた。

 買う物をある程度絞ったものの、どれにするか決めきれず、モールの中にいても聞こえてくる歓声が気になって、気分転換も兼ねて克樹は灯理とともに外に足を伸ばした。

「ローカルバトル?」

「そのようですね」

『え? そうなの? 見たい、見たーいっ』

「いや、何かもう終わったところみたいだぞ」

『えーっ』

 リーリエのブーイングも気にせず、克樹はなんとなく気になって横断歩道を渡り、広場に近づいていく。

 集まっている観客の向こうに見えるのは、SR社のロゴが入った大型トラックと、バトル終了のアナウンスが流れつつもまだ展開したままの超大型モニターなど。

 トーナメントバトルではなく、バトルロイヤル用らしい大きなリングの向こうでは、いままさに賞品の贈呈が行われているようだった。

 駅に向かって歩いていく人の流れに逆らって、灯理にも注意を向けずに、克樹はまだ舞台の上にいる優勝者が見える位置まで近づいていく。

 何となく、遠目にも優勝者の姿に見覚えがあるような気がしていた。

 舞台の上からまだ残っている人に手を振り、左右からかけられる声に顔を向けている女の子のポニーテールにまとめられた髪は、よく知ったもののような気がしていた。

「……夏姫」

 リングの前まで来て、克樹はいままさに舞台の端に向かって行ってる女の子が夏姫であることを確認した。

 よく見ると、少し離れたところには近藤までいる。

 振り向いてゆっくりと近づいてきた灯理に、克樹は問う。

「なんでここに夏姫がいるんだ?」

「さぁ? 偶然ではないでしょうか」

 わからないかのように肩を竦めた後、灯理はわざとらしく顔をそっぽに向けた。

 ――灯理の仕込みか。

 そうだとは言われていないが、彼女の芝居がかっても見える仕草に、克樹はそれを確信した。

 トラックの裏に設営されたテントから出てきた夏姫。

 バツが悪そうな表情を浮かべる近藤をひと睨みしつつ、克樹は夏姫に近づいていった。

 

 

 

「つ、次のときは憶えてろよーっ」

 走り書きのメールアドレスを準優勝の賞品である商品券が入った封筒に走り書きして、ゼウスは捨て台詞とともにテントから走り去っていった。

「これで克樹に何かプレゼントでも買えるかなぁ。ここんとこお世話になってばっかだし」

 旅行券の引換券なんかが入った封筒と一緒に鞄に収め、そんなことを呟く夏姫もテントの出口に向かう。

 ――って、言うか、今日は克樹、灯理とデートだったんだっけ……。

 今日中野に来た目的を思い出して、バトルで優勝して舞い上がってた気持ちが一気に地に落ちる。

「克樹たち、探し直さないとな。もう帰っちゃったりしてないかなぁ」

 ローカルバトルでけっこう時間が経っちゃったから、早ければ中野から撤退をしてるかも知れない、と思いつつ、アタシはポケットから携帯端末を取り出してエリキシルバトルアプリのレーダーを確認する。

「……え」

 捉えられてるエリキシルスフィアの反応は三つ。

 全部もう見えるくらいの距離にあった。

 テントを出て顔を上げると、探そうと思ってた人物と目があった。

 それだけじゃなく、げっそりした顔の近藤と、何でかニコニコ笑ってる灯理も、克樹の少し後ろに立っている。

「えぇっと、偶然だね、克樹」

「何言ってんだ。どうせ灯理から今日のこと聞いて尾けてたんだろ」

「うっ……」

 ズバリと言い当てられて、アタシは言葉に詰まる。

 克樹に睨まれた灯理は、口元に笑みを浮かべたまま、明後日の方に顔を向けていた。

 ――もしかして、尾けてくるの予想してたの? 灯理は。

 芝居がかった感じがある灯理の仕草に、アタシは何となくそんなことを思う。

「そんなことよりも克樹さん。決めきれないならば本人に選んでもらうというのはどうでしょう?」

「うっ……。いや、でもそれは……」

「これだけ時間を使って決めきれないのですから、それ以外に良い方法が思いつきますか?」

「それはそうだけど……」

 苦々しい顔をしてる克樹と、口元に薄く笑みを浮かべてる灯理のやりとりの意味が、アタシにはわからない。

 ちらりと見た近藤は、何なのかわかったらしいけど、アタシたちから視線を逸らして空を仰ぎ、何も言ってくれなかった。

「えっと、ねぇ、克樹。克樹は今日、灯理とデートだったんじゃないの?」

「デート?」

 アタシの言葉に目を丸くする克樹。

 はっと何かに気づいたように驚きの表情をした彼は、灯理のことを睨んだ。

「あぁーかぁーりぃーっ!」

「さぁ、何かありましたか?」

 悪びれる様子もなく笑む灯理に、アタシも、そしてたぶん克樹も、彼女の企みに填められたんだと、今更ながらに気づいた。

『あははっ。たぁのし! ちょっと意地悪が過ぎると思うけどねー』

「さすがにちょっとやり過ぎだ。心臓に悪い。ってかリーリエは、わかってたのか」

『うんー。灯理と通話したときに全部聞いてたよー。それよりもさ、おにぃちゃん。今更でしょ? もう』

「……そうだな」

 リーリエまで参戦したやりとりにどういう意味があるのかはいまひとつわからないけど、克樹と灯理がデートしてたわけじゃないことはわかった。

 ――じゃあ今日は、何してたんだろ?

 疑問を口にするよりも先に、克樹がアタシの前まで近づいてきた。

「夏姫。ちょっとこの後つき合ってほしいんだけど、いいか?」

 視線で道路を渡ったところにある最初にいたショッピングモールを示す克樹の意図は、わからない。

「もう候補は絞っていますし、ワタシはいなくても大丈夫ですね」

「うん。今日は助かった。ありがとう」

「はいっ。今度はちゃんとワタシともデートしてくださいね」

「……考えとく」

「じゃあな、克樹」

 そんなことを言い残して、灯理は近藤と一緒に駅に向かっていってしまった。

 取り残されたアタシは、ちょっと苦々しさを残しつつも笑ってる克樹に問う。

「えっと、用事って何なの? 手伝ってもらったって、何を?」

「それは、その……」

 言葉を濁し、頭を掻いていた克樹は、アタシの目を正面から見つめて、言った。

「夏姫、もうすぐ誕生日だろ」

「あ……、うん」

「前に服が少なくて着回しが大変って言ってたからさ、何か服でも、と思ったんだけど、僕じゃ女の子の服はよくわかんないから、灯理に手伝ってもらったんだ」

「そういうこと、だったんだ……」

 恥ずかしそうに顔を赤くしてる克樹に、アタシも恥ずかしくなってきちゃう。

 灯理の意地悪だったんだろうけど、昨日から克樹に感じてた気持ちが莫迦らしく思えた。結局、本人に直接確認せずにアタシが先走って、妬んでただけだったんだ。

 ――あぁもう、アタシって嫌な女だなぁ。

 悪態を吐きたくなるのを克樹の前だから抑えて、アタシはショッピングモールに向かって歩き始めた彼に並んで歩く。

「もういくつか候補は見つけてあるから、そんなに時間はかからないと思う。……たぶん」

「そっか。でも克樹がアタシのために選んでくれるなら、何でも良いかなぁ」

「僕は服のセンスなんてないんだから、一番気に入ったのを選んでくれよ。ちなみに何着も買ってる余裕は、いまの僕にはない」

「えーっ。どうせなら克樹が選んでくれたの、全部ほしかったな」

「勘弁してくれ。なんで女の服ってあんな高いんだ……」

 顔を歪ませてる克樹の様子からすると、中学生にも手頃な値段のものから揃ってる中野で、灯理はけっこういい店を選んで克樹に選ばせたっぽい。

 値段なんかより、克樹がアタシの誕生日に、アタシのために服を選んでくれたことが嬉しい。とっても嬉しい。幸せすら感じる。

「でも何で、ランジェリーショップまで行ってたの? あのとき見てたけど、克樹、嬉しそうな顔してた気がするんだけど」

「んなわけあるかっ。僕は中身の入ってない布きれのは興味ないんだ」

「ほぉーっ。へぇーっ」

「うっ……」

 克樹と一緒に歩きながら、アタシは笑む。

 もう妬む気持ちなんてひと欠片もなくて、いまという時間が楽しくて、幸せだった。

「まっ、早くいこ。もし迷って時間かかっちゃったら、夕食つくり始めるの遅くなっちゃうよ」

「そうだな」

 アタシに笑みを返してくれる克樹の手を取って、アタシは駆け出す。

 すれ違う人を避けながら小走りに走って、克樹がアタシを好きであること、アタシが克樹を好きであることの幸せを、噛みしめていた。

 



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サイドストーリー1 藤色(ウィステリア)の妬み5

 

 

       * 5 *

 

 

 克樹がプレゼントを用意してくれてるのはバレてるってことで、アタシの誕生日にはパーティを開くことになった。

 みんなの都合の問題で、中野に行った五日後、アタシの誕生日の翌日の今日、アタシたちは克樹の家に集まった。

 灯理は「克樹さんより豪華なものにするわけにはいかない」と言って、落ち着いた色合いの、でも可愛いバレッタをくれた。

 近藤は「プレゼントとか用意できない」と言って、結局まともに料理できるのがアタシだけだったので、アタシがやることになった準備の手伝いを積極的にやってくれた。

『もういいよ、夏姫』

「うん、わかった」

 灯理と戦ってたときに寝泊まりしてた寝室のベッドに座ってたアタシに、リーリエから声がかかった。

 一階の準備が終わったらしい。

 着替えを終えて声がかかるのを待っていたアタシは、着慣れない服の感触に、しずしずと部屋を出て、ゆっくりと一階へ向かう階段を下りる。

 中野で試着はしてたけど、克樹にもまだ着て見せてなかった誕生日プレゼントの服。

 それを身につけたアタシは、LDKの扉の前で、緊張で強張る気持ちを落ち着けようと、胸元に手を当てて深呼吸をする。

 それから扉を開け、みんなが待っている場所に入っていった。

「お似合いですよ、夏姫さん」

「あぁ。いつもと違う感じだけど、いいな」

 部屋に入って早速声をかけてくれたのは、灯理と近藤。

 ふたりの間には大きな姿見があって、アタシの姿が映っていた。

 いつもはミニスカートが多いアタシだけど、克樹が買ってくれたのは、膝下丈のワンピース。

 カントリー調の色合いと造作で、でも可愛らしさもある服。服の感じにあわせて、高めに結ってる髪も、灯理にもらったバレッタでいつもより低い位置でまとめていた。

 いままで持ってなかったタイプのその服は、これまでアタシが気にしてなかった方向性だけど、よい感じだと思えた。何より克樹がイメージするアタシに、こんな感じもあるんだと知ることができた。

「克樹も何か言ってよ」

「え、あぁ」

 料理が並んだダイニングテーブルのところで、何でかボォッとしてる感じの克樹に声をかける。

 気怠そうだったり面倒臭そうだったりしない、緊張しているらしい克樹が、微妙に離れてる距離に立って、アタシの姿を上から下まで眺めた。

「えぇっと、昨日だったけど、誕生日おめでとう、夏姫」

「克樹さん、そういうことではないでしょう?」

 スマートギアに覆われてるのに突き刺さるような灯理の視線を受けて、克樹は苦々しそうな表情を見せた後、言ってくれた。

「似合ってるよ、夏姫。そういうのも、可愛いと、思うよ」

「うん。ありがとう、克樹」

 真正面から言われて恥ずかしくて、でもそれ以上に嬉しくて、アタシは思わず笑みを零していた。

『うんうんっ。凄くいいよ、夏姫ー。いつもの可愛いと思うけど、そういうのも可愛いねっ』

「ありがと、リーリエ」

 声は天井の方から聞こえるけど、すぐ横のローテーブルの上に立ってるアリシアに向かって、アタシは微笑みかける。

『服かぁ。いいなぁ、可愛いよねぇ……』

 小さな、呟くような声でリーリエが言う。

 その言葉を聞いて、アタシは灯理に目配せをする。それに応えて笑む彼女は、部屋の隅に置いてあった自分の鞄に向かった。

「実はね、リーリエ。いつもお世話になってるリーリエにも、プレゼントがあるんだ」

「リーリエに?」

『プレゼント?』

 それは灯理が以前から考えてて、準備してたもの。

 中野に行った日の夜に灯理から連絡があって、パーティの日までに、ってことでアタシとふたりで急いで仕上げたプレゼント。

 灯理が鞄から取り出して持ってきたのは、ピクシードールの武器なんかを入れる用の小型ケース。

 ロックを解除してローテーブルに置くと、リーリエがアリシアを操ってケースを開いた。

『わっ……。これって』

「うん、そうだよ」

 中に入っていたのは空色のサマードレス。

 灯理がすでにデザインや型紙をつくってくれてたから間に合った、アリシア用の服。

 アリシアでケースに収められた服と、アタシたちの顔を交互に見て嬉しさを表現してるリーリエは、たった二〇センチのピクシードールなのに、幼い子供のようだった。

「克樹。ハードアーマー外して着るようにつくってあるから、手伝ってあげて」

「わかった」

 センサーとかを組み込んであってアタシじたちじゃ外せないハードアーマーを外し、白いソフトアーマーだけになったアリシアに、サマードレスを着せてあげる。

『うわーっ、うわーっ。すごいっ。可愛いよっ』

 テーブルの上で、空色のサマードレスを着たアリシアが、くるくると踊るように回る。

『ねぇ、おにぃちゃんっ。おにぃちゃん!』

「いいよ、リーリエ」

『うんっ』

 何かを求めるようなリーリエの声に克樹が応えると、アリシアはテーブルを飛び降りてアタシたちから少し離れた場所に立った。

『あっ、らぁーいずっ』

 舌っ足らずな声でそう唱えると、アリシアが光を放った。

 光が収まったとき、そこにいたのは、空色のツインテールを揺らし、空色のサマードレスを着た、一二〇センチのエリキシルドールだった。

『本当にあたし、こんな可愛い服、着てるんだ……』

 まるでアリシアが自分の身体かのように言って、リーリエはヒューマニティフェイスに本当な嬉しそうな笑みを浮かべさせた。

『ありがとう! 夏姫っ』

「企画と製作は灯理。アタシは手伝っただけだけどね」

 子供のようにアタシに抱きついてきたアリシアに向かってそう言うと、灯理に抱きついていった。

『そうなんだ。灯理、ありがとう。本当に嬉しいよっ』

「はい。どういたしまして」

『おにぃちゃん! どう? どう?!』

「可愛いよ、リーリエ」

『やったー!!』

 アリシアを通して本当に嬉しそうに、本当に子供のように、克樹の、妹のようにも思えるリーリエの様子に、アタシは笑みが零れてくるのを止められなかった。

 灯理も、近藤も笑っていた。

 ――こんな時間がずっと続けばいいな。

 いままでやった誕生日のパーティの中でも一番くらいに思える楽しい時間に、アタシはそんなことを考えていた。

 でも、アライズができるのは、克樹が、そしてアタシたちがエリキシルバトルに参加してるから。

 エリキシルバトルが終われば、たぶんこの力は失われる。バトルを途中で離脱することは、たぶんできないし、しない。

 アタシは、アタシの願いを叶えるために、戦うしかない。

 そうは思っていても、こんな嬉しい時間がずっと続いてくれることを、アタシは願わずにはいられなかった。

 ――もし、リーリエがエリキシルバトルの参加者だったら、何を願うんだろう。

 ふと、そんなことを考える。

 エリキシルスフィアは克樹のもので、人間ではなく人工個性のリーリエにはたぶんバトルに参加する資格はない。

 考えても仕方のないことだろうけど、アタシは少しそんなことを考えて、ちらりと克樹の顔を見てみた。

 克樹は、笑っていた。

 でもその笑みは、どこか悲しげで、どこか懐かしげで、嬉しさもあるように見えて、複雑な笑みだった。

「ね、克樹……」

「さっ、冷める前に食事しよう」

 アタシが声をかけるのと同時に克樹がそう言って、ダイニングテーブルに向かっていってしまった。

 いままで考えてたことを口にできなくなって、アタシは立ち尽くす。

『行こ、夏姫。今日は夏姫のためのパーティなんだから!』

「うん……。そうだね」

 手を繋いで引っ張るアリシアの、リーリエの笑みに、アタシも笑みを浮かべて、克樹たちが待つテーブルに向かって歩き出した。

 

 

 

             「藤色(ウィステリア)の妬み」 了

 



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サイドストーリー2 海人(アクアマリン)の祈り
サイドストーリー2 海人(アクアマリン)の祈り1


「海人(アクアマリン)の祈り」

 

       * 1 *

 

「よし」

 白い砂浜の波打ち際に立っていた青葉は、そう口にして薄水色のヘッドギアタイプのスマートギアを脱いだ。

 ビーチバレーならばどうにかできるが、何人もで走り回って遊ぶには狭く、満ち潮になれば海に没してしまうだろう小さな砂浜。

 三方を岩壁に囲まれ、微かに青く澄み渡る海も岸壁から伸びる岩で水平線が見えないそこは、青葉が見つけた秘密のプライベートビーチだった。

 薄水色のポロシャツとショートパンツから伸びる、細いものの引き締まった青葉の手足は、夏の強い陽射しに健康的に焼けた小麦色をしていた。

 短い髪を緩やかな風に揺らし、編み上げのサンダルを履いたまま、青葉は静かに打ち寄せる波に足を浸す。

 そこに泳ぎ寄ってきたのは、全長二〇センチの人形。

 ピクシードール。

 白と水色に塗り分けられ、波打ち際の近くまで腰の左右に装着された、胴体の半分ほどもあるスクリューによって泳ぎ寄ってきた自身のピクシードール「マーメイディア」を、青葉は優しく手で拾い上げた。

「今日はここまでだな」

 砂浜に戻って濡れたマーメイディアをタオルで軽く拭き、アタッシェケースに戻そうとしたときだった。

「なんだ、お前がそうだったのか」

 そんな男の声は、岩壁に阻まれて見ることができない県道側からだった。

 青葉も使っている岩壁から砂浜に続く比較的なだらかな道筋を、声をかけてきた男は大きなトランクを手に危なっかしい足取りで降りてくる。

「西条先生? どうしてこんなとこに?」

 真夏の伊豆半島の強い陽射しの下にあって、夏物であろうが濃紺のスーツをジャケットまで羽織っている男は、中学三年生の青葉のクラスに、産休に入った教師の代理として七月から担任になった西条満長(さいじょうみちなが)。

 七三分けの髪や色白の肌、大人らしく背は高いがひょろっとした体型からインドア派だと思われ、地元も愛知だと言っていた西条が、こんな地元の人間も知らない場所に踏み込んでくる理由を、青葉は思いつかなかった。

「ボクに、何か用ですか?」

 少し乱れた髪をかき上げ、ずれてもいない黒縁の眼鏡の位置を直す仕草をする西条は、爽やかな笑みを浮かべている。

 でもその笑みに、青葉は目を細めて後退る。

 クラスでは爽やかな先生が担任になったと好印象だったが、青葉にはなんとなく、その瞳の奥に黒いものがあるような気がして、自己紹介されたときからあまりいい印象がなかった。

「いやぁ、こんな磯臭くて蒸し暑いところに、仕事とは言え半年も住まないといけないなんて正直イヤだったけど、君がいてくれて良かったよ、青葉君」

「ボクがいて、助かる?」

 男としては若干トーンの高い声は耳心地が良かったが、言葉の内容は酷いものだ。教室で集まってきた女子と話していたのとは違う雰囲気に、青葉は戸惑っていた。

 ――どういう意味だろう。

 言われたことを考えていた青葉は、ふと気がついてショートパンツのポケットからダイビングにも対応できるごつい携帯端末を取り出した。

「西条先生、貴方は……」

「今頃気づいたのかい? 警戒心が足りないな。まぁオレだって、遭遇するのは初めてなんだがね。仕事やら何やらで遠出もそんなにできなくてね。そうこうしてる間に中盤戦だって言うし、出会えなくて参っていたところだよ」

 言いながら西条は身長二〇センチ前後のピクシードール用とは思えない、旅行にでも使えそうなセミハードのトランクを開いた。

 青葉が携帯端末で確認したのは、エリキシルバトルアプリのレーダー表示。

 距離三メートル。ちょうど西条がいる位置に、エリキシルスフィアがあると表示されていた。

「早速戦おうか、青葉君。わざわざ戦うなんて面倒臭いけど、それが必要だって言うんだから仕方ない。でも勝とうなんて考えるなよ? 君の内申書を書くのは、担任のオレなんだからね」

 やはり耳心地のいい、しかし毒のような言葉を吐き出す西条は、トランクから自分のピクシードールを取り出し、砂の上に立たせた。

「戦ってもいいけどな。オレのグランカイゼルに勝てるドールなんて、この世に存在しやしないんだから。――アライズ!」

 唱えた西条の言葉に応じて、グランカイゼルが光を放ち、ピクシードールからエリキシルドールへと変身した。

「こんなのって、ありなの……」

 グランカイゼルの偉容を見上げながら、青葉は絶望を感じてしまっていた。

 



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サイドストーリー2 海人(アクアマリン)の祈り2

 

       * 2 *

 

 

「さぁさぁどうぞ。汚いところですみませんが」

「……そうだな」

 薄汚い廊下から事務スペースとなっている部屋に通された俺は、若い男の言葉に同意の返事をしていた。

 確か十数人が所属しているというスフィアロボティクスの伊豆南支所の事務部屋には、人数分の机が一般的な中学高校の教室程度の広さにひしめいてるだけじゃない。

 いまどき電子化が進んでいないのか、書類の束がうずたかく積まれていたり、酸素ボンベやなんだかよくわからない機材が床と言わず机の上と言わずひしめいていて、掃除も行き届いてないらしく、汚いという言葉が控えめなほどの荒れようだった。

「いやぁ、まさかあの槙島猛臣(まきしまたけおみ)さんがこんなところにいらっしゃるなんて、本当に嬉しいですよ」

「仕事だからな」

 高校は夏休みだというのに、俺が伊豆半島の南端もそう遠くないこんな場末の支所に来ているのは、ちょっとした仕事をこなすためだった。

 俺が会社でやってる開発の仕事はそんなに縛りが厳しいものじゃないが、ある程度の期間で成果や結果を出さなければ、予算が削られたり給料が減ったりする。

 学校が夏休みに入って動きやすくなったのもあって、エリキシルバトル関係のことにばかりかまけていた俺は、ここのところ研究所にすら顔を出していなかった。学生アルバイト扱いとは言え、さすがに少しくらい仕事に関係した結果を出さないとならなくなって、わざわざ伊豆くんだりまで足を伸ばしていた。

「それで、所長は?」

「いやぁ、それがですねぇ……」

 済まなそうに頭を掻きながらも、永瀬(ながせ)と名乗った若い男はにこやかな笑みを浮かべていた。

 事務所には俺とこの永瀬の他に、誰の人影はなかった。通ってきた廊下でも、人の気配は感じなかった。

「僕は止めたんですがね? でもなんか、急ぎの仕事だって言ってましてね」

「俺は一昨日、所長のアポイントを取ってここに来たんだが?」

「いやぁ、あの人たち、予定とかには本当ルーズでしてねぇ……」

 乾いた笑い声を立てている永瀬に、俺は盛大なため息を吐いていた。

 元々伊豆南支所は古くから海洋関係の調査機械の開発や販売、メンテナンスをやっていた会社だった。

 それをスフィアロボティクスが海洋関係の開発成果を入手するために買い取ったわけだが、技術を手に入れた後も独立採算でやっていけるということで、社内では珍しい独立性の高い支所として残されている。

 大学院を出て一昨年本社からこの支所への配属を言い渡されたと本人がぺらぺら喋っていた永瀬の他は、昔からの所員が残っている状態だから、放っておいても害はないが、社内の連携もまともに取れやしない。

 俺の仕事はこの伊豆南支所から、しばらく上がってきていない開発成果の情報を直接もらってくること。扱いづらいという話は聞いていたが、いままさにそれを実感しているところだった。

「他の所員もいまは出払っていまして。所長は予定では明日には戻るかと……。ま、まぁ、アイスコーヒーでも飲んでてください」

「――わかった」

 アイスコーヒーを飲んでいても所長が帰ってくるわけでも明日が来るわけでもないが、疲れを感じた俺は、永瀬に勧められた事務スペースの片隅に設けられた応接セットの、くたびれたソファに座った。

「それで、貴方はなんで残ってるんだ?」

「いやぁ、僕はここでは新人ですし、海洋調査機材は専門外なもんで、留守番を言い渡されてしまいました」

 お盆にアイスコーヒーが注がれたグラスを乗せてきた永瀬は、それでもにこやかに笑っていた。

「じゃあ貴方は、ここでどんなことをしてるんだ?」

 年上なのはわかっているが、スフィアロボティクス内での立場は俺の方が上だし、どうも敬意を払うには軽薄さを感じる笑みに少し荒っぽい口調になりながら問うてみる。

「よくぞ訊いてくれました。僕もスフィアドール関係の仕事がしたくて入ったんですがね、開発職になれたのは希望通りなんですが、所長が予算を回してくれなくて。予算がほしければ成果を出せと言われてまして。でも開発のための予算もないんじゃ成果も出ないわけで。参りましたね。はっはっはっ」

「……そりゃあたいへんだな」

 楽しそうに笑ってはいるが、永瀬の置かれた状況はどう考えても手詰まりだ。

 伊豆南支所の開発予算の配分は、他の研究所と違って所長の裁量に任されているとは聞いていたが、思っていたよりも酷いらしい。

「僕もせっかくここにいるんだからスフィアドールで海洋調査に関係する開発をやろうと思っているんですが、少ない予算と申請して手に入ったドールやパーツだけではなんとも。船も所長や他の人が使って乗せてもらえませんし」

 たぶんそんなつもりではないだろうが、笑顔で所内の暴露話を始める永瀬。予算もないためたいしたことはできず、留守番で暇なのだろう、雑談を仕掛けてくる彼の口は止まらない。

 表情や仕草や、性格からか、話の内容に呆れはするが、嫌な感じはしなかった。

「機械いじりは好きなんで、趣味ではこんなものも造ってるんですよ」

 そう言って永瀬が一度ソファから立ち上がって自分の机から持ってきたのは、一体のピクシードール。

「なんだ? こりゃ」

 ドール自体は極々一般的なバランスタイプのバトルピクシーに見えるが、違うのは背中に背負っているもの。

 アニメに出てくるなら推進剤でも噴き出して空を飛びそうなランドセルは、おそらく外部接続の追加バッテリだ。ランドセルの左右には、ケーブルで接続された武器がラッチに固定されていた。

「ピクシーバトルでもやるのか?」

「いえー。弄るのは好きなんですが、ソーサラーの才能は欠片もなくて。開発が進まない原因はそっちの理由もあるんですがね」

「そうかい」

「まぁまぁ。これはですね――」

 楽しそうに自分がつくったオモチャの解説を始める永瀬に、俺はこっそりため息を漏らす。

 ――こりゃもうひとつの用事を先にやっちまった方がよさそうだな。

 伊豆半島まで出張ってきたのは、伊豆南支所の用事もあるが、もうひとつ用事があった。

 本当は社の仕事を終えてから落ち着いてやるつもりだった用事を先に済まそうと、俺は永瀬の話を打ち切るタイミングを計り始めた。

 

 

          *

 

 

 なんだかんだで永瀬の話につき合って一時間近くが経ち、どうにか支所を出ることに成功した俺は、外に出て十分で後悔していた。

「暑い……。こんなとこ二度と来るかよ、くそっ」

 夏真っ盛りの南伊豆の陽射しは、昼時を過ぎたくらいのいまの時間、海水浴にはちょうど良いくらいだろうが、俺には暑くて仕方ない。

 車は支所に置いてきたし、荷物も最低限にしているが、地図上ではそう遠くないはずの港町まで、右には海が、左には山が迫ってる、家すらない県道を歩くにはこの陽射しだけで充分に苦行だ。

 信号もなければ車通りもなく、店どころか民家すらない焼けたアスファルトの上を、俺はとぼとぼと歩くしかなかった。

「クソ熱い……。しかし、情報がこれだけとはな」

 手にした携帯端末に表示してるのは、調査会社から送られてきた情報。

 伊豆半島にいるスフィアカップ静岡県大会の準優勝者のものであるそれは、住所と名前の他にほんの少しだけで、現在の写真すらなかった。

 伊豆の南端で調査をしてくれる信頼の置ける調査会社が見つからなかったのだから仕方ないが、割といい金額取られたにしては情報不足甚だしかった。

「まぁ現住所さえわかればどうにかなるがな。こいつは……、青葉、よしたか、か?」

 漁師をやっている父親の名前は青葉貴成(あおばたかなり)だから、その子供の青葉由貴(よしたか)だろう。

 最新の写真や、ローカルバトルにも参加してないらしく最近のバトルに関する情報もないが、スフィアカップのときの記録から中学に上がったばかりの顔は押さえてあった。

「まぁ、行って会ってみりゃどうにかなるだろ。……ん?」

 歩いていて見えてきたのは、路肩に止まった黒い普通車(セダン)。

 釣りができそうなポイントも近くには見えず、一台だけ路肩に寄せて駐まっている愛知ナンバーの車に近づいてみる。

「家族で水遊びってわけでもなさそうだな。それにこいつは……」

 トランクルームの中までは確認できないが、スモークガラス越しに見える車内は後部座席が狭いスポーツ仕様で、家族で乗ってきたものには見えない。

 そして後部座席に無造作に放り出されているセミハードケースは、ヘルメット型スマートギア用のものだったはずだ。

「こりゃ都合がいいかもな」

 車と一緒にイシュタルも置いてきたから、もしこの車の持ち主がエリキシルソーサラーだったとしても、俺の存在がバレる可能性はない。

 近くにいるとしたらどこかと辺りを見回して、見つける。

 海側のガードレールの向こうの、そそり立った岩と岩の間に進んで行けそうなところがあった。

「さて、どうかな」

 岩の隙間のような場所に入っていくと、下まで降りて行けそうな崖よりマシな坂になっている。もう少し進んで岩の上から下を覗き込むと、小さな砂浜に人がふたり、立っているのが見えた。

「よし、ちょうどいい。フェアリーリングも張ってないのは幸運だったな。あっちは青葉だが、もうひとりは……、後で調べておく必要があるな」

 フェアリーリングを張られていたら、レーダーでないと居場所が特定できなかったところだ。

 県道からはもちろん、海側からも岩に阻まれて見えない場所だからか、砂浜に立つふたりが周囲を警戒している様子はない。

 スフィアカップのときよりも成長してるが、面影はそのままの青葉は、暑いのにビジネススーツを着た男と対峙していた。

 音を立てないように担いできた鞄から愛用の黒いヘルメット型スマートギアを取り出した俺は、それを被ってこれから始まる戦闘の様子を記録し始めた。

「さて、どんな戦いを見せてくれるかな」

 自分が戦うことはあっても、克樹の野郎のように仲間を集めてるならともかく、他のエリキシルソーサラー同士のバトルを見学するのは初めてだ。

 バトルを見られること、そしてまだ未調査のエリキシルソーサラーに遭遇できた幸運を噛みしめながら、岩陰に身を隠した俺は、これから始まるバトルを眺めることにした。

 



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サイドストーリー2 海人(アクアマリン)の祈り3

 

       * 3 *

 

 マーメイディアを試しにアライズして、動かしたことはあった。

 けれど叶えたい願いがあっても、中学生で、遠くまで出かけていってエリキシルソーサラーを探すような時間も資金もない青葉は、敵と出会ったのは初めてだった。

 初めてであっても、いま目の前に立つグランカイゼルが普通のエリキシルドールではないことはわかる。

 ――こんなの、勝てるわけないよ。

 見上げるグランカイゼルの全高は、二メートルを遥かに超えていた。

 強い陽射しを受けて白い砂浜に影を落とすグランカイゼルは、百五十そこそこの自分の身長の二倍近くあるようにも、青葉には思える。

 普通のピクシードールの身長は高いものでも二四、五センチ。アライズによって約六倍になっても一五〇センチがせいぜい。

 グランカイゼルもまた、ピクシードールは普通のサイズ。エリキシルドールになっても一二〇センチサイズしかない。

 その巨体は、SF映画で見たことがあるパワードスーツのような、金属の塊で構成されていた。

 短いが太い足。地に着きそうなほどに長く、青葉の身体ほどもありそうな二の腕。センサーが入っているだけらしい頭は平たく、腕や脚に劣らぬサイズの胴体には、白いソフトアーマーとハードアーマーの無表情なドールがオブジェのように組み込まれていた。

 組み込まれた白いドールが本体で、それが埋め込まれた機械の塊はおそらく外部機器だろう。

 マーメイディアの腰に装着し、方向や回転速度を制御できるようドールに認識させているスクリューと同じように、第五世代スフィアドールからはボディの外にある機器もコントロールできるようになっていた。

 だからといって、青葉には本体よりも巨大なものが外部機器だとは、信じられなかった。

 金属製のゴリラを思わせる、破壊の権化を形にしたようなガンメタリックのグランカイゼルに、青葉は後退ることしかできない。

「さぁ、お前もアライズして、戦うんだ。どうせオレのグランカイゼルに勝てはしない。戦って、願いとともにお前の貧弱なドールを砕かれるがいい」

 爽やかさなどもうすっかり消え、悪人面で言い放つ西条。

 ――マーメイディアを壊させるわけにはいかないっ。

 手早く携帯端末にケーブルで接続した薄水色のスマートギアを被り、フルコントロールのバトル用アプリを立ち上げてマーメイディアとリンクしてから、エリキシルバトルアプリを起動させる。

 ――それに、願いを諦めたくなんて、ない!

 バッテリ残量に余裕があるのを確認して足下にドールを立たせた青葉は、自分の願いを込め、唱えた。

「アライズ!」

 放たれた光が弾けた後、青葉の前に立っていたのは一二〇センチのマーメイディア。

 ハードアーマーの上に白と青に塗られたウェットスーツのようなオーバーアーマーを纏い、腰の左右にはそれぞれ、腰よりも少し細いくらいの太さで膝下まで伸びる、円筒形の水中活動用スクリューを装着している。

 ――やっぱり勝てる気がしない。

 砂浜の端まで下がり、マーメイディアの視界でグランカイゼルを巨体を見つめる青葉は、改めてそれを感じていた。

 身長は二倍以上。金属製の豪腕が張り出した横幅は四倍ほどあり、重量差は十倍を超えていそうなグランカイゼル。

 エリキシルドールというよりも、巨大ロボットのような姿は、偉容と呼ぶにふさわしいものだった。

「ふんっ。本当に戦うつもりか?」

 魚除けのために持たせている銛を構えたマーメイディアを見、莫迦にしたような声音の西条は鼻を鳴らす。

「ならば、パーツのすべてを粉々に砕いてやろう!」

 その声と同時に、青葉にとって初めてのエリキシルバトルの火ぶたが切って落とされた。

 

 

 

 ――狙うのは、本体のドールだ。

 理由はわからないが、オブジェのように巨体に埋め込まれたエリキシルドール本体は、装甲で覆われることなく露出している。

 砂の上に立つマーメイディアからはかなり高い位置になるが、身長近い長さのある銛ならば充分に届く。

 それに、偉容に圧倒されながらも、攻撃すべき場所がわかっているならば、勝機はあると青葉は考えていた。

 スフィアカップに出場したときには、バランスタイプの人工筋を組み込んでいたマーメイディア。

 抵抗の大きい水中で活動するために、いまはパワータイプの人工筋を使っていて、しばらくバトルをやっていなかった青葉では素早い動きは難しい。それに水の中を自由に泳ぐためのスクリューも、地上ではウエイトにしかならなかった。

 しかしあの巨体ならば、動きは決して速くはないはず。

 ――ボクはまだ、負けたわけじゃない!

 気持ちを奮い立たせ、唾を飲み込んだ青葉は、攻撃のタイミングを計る。

「え?」

 先に仕掛けてきたのはグランカイゼル。

「吹き飛べ!」

 西条の声と同時に砂煙を巻き上げたグランカイゼルは、予想を遥かに超える速度で突進してきた。

 ――か、回避!

 慌ててマーメイディアを横っ飛びに回避させる青葉だったが、わずかに遅かった。

 避けきれなかった足がグランカイゼルに接触し、マーメイディアは砂浜の真ん中から端辺りまで吹き飛ばされていた。

 かろうじて受け身を取らせることに成功し、青葉はマーメイディアを素早く立たせる。

 ドールのプロパティを見る限り、ウェットスーツの下のハードアーマーに損傷があるとのインフォメーションが出ているが、動作には支障がない。

 ――無事に持って帰れたら、修理しないと……。

 まだ始まったばかりの戦いが終わった後のことを考えながら、青葉はいまの高速移動の秘密を探るべくグランカイゼルを観察する。

 ――ローラーダッシュか。

 思った通り重たい動きで振り返るグランカイゼルの左右の足には、かかとの部分にひと組のタイヤが見て取れた。

 動き自体は緩慢だが、移動速度は高速。

 水中用に改造したマーメイディアが予想以上に鈍いことを感じながら、青葉は次の手と対策を考え始めた。

「蒸し暑いんだから、さっさと潰れてしまえばいいものを!」

 西条が口にする文句を無視して、マーメイディアを岩壁を背にして立たせる青葉。

 ――ここなら突撃はできないはず。

 思った通りゆっくりとした速度で近づいてきたグランカイゼルは、腰の後ろに装備したハンマーを取り出した。

 釘を打ち付けるような平たい部分と、その反対は釘抜きのように尖っているハンマーは、マーメイディアどころか青葉の身長ほどのサイズがある。

 ――そんなのは怖くないっ。

 深呼吸をして心を落ち着かせ、青葉はマーメイディアの目を通してグランカイゼルをじっと見つめる。

 風斬り音をさせながら力任せに振り下ろされたハンマーを軽いステップで避け、両手で持った銛を身体の前で構えて隙をうかがう。

 モグラ叩きのように何度も振り下ろされるハンマーを躱し、バトルの感覚といまのマーメイディアの動きに慣れてきたと思ったときだった。

「あ!」

 ハンマーを避けた瞬間、何も持っていなかった丸太のような左腕が襲いかかってきた。

 銛を立てて直撃を防ぎ、衝撃を逃がせるよう軽くジャンプしてマーメイディアを浮かせる。

 砂浜の真ん中まで飛ばされ、仰向けに倒れた上半身を起こしたマーメイディアの目から見えたのは、さっきと同じ突撃の構えを取ったグランカイゼルだった。

「ボクは負けない!」

 無意識のうちに叫んでいた青葉は、動きの邪魔にしかなっていなかった腰のスクリューを回転させた。

 アライズによってパワーの上がっているスクリューは、マーメイディアはもちろん、グランカイゼルをも覆い隠すほどの砂を巻き上げた。

 ――いまだ!

 ローラーダッシュの突撃音は聞こえてこない。

 砂が巻き起こる前のグランカイゼルの位置はわかっている。

 いまこそ反撃のタイミングだと、青葉はマーメイディアを立たせ、後ろに向けたスクリューの勢いも使ってグランカイゼルに向けて走らせた。

「終わりだ!」

「ダメーーッ!!」

 西条の声と、青葉の叫びは同時だった。

 あっという間に薄れた砂の煙幕。

 その向こうから動くことなく姿を現したグランカイゼルは、両手をマーメイディアに向けていた。

 両手の甲にあったのは、穴。

 銛を撃とうとしていた青葉は、とっさにマーメイディアを砂の上に倒れさせた。

 その頭上を通過し、岩壁を砕いて砂の上に転がったのは、銀色に鈍く光る玉だった。

 グランカイゼルが腕に装備していたのは、通常のピクシードールではサイズ的にもバッテリ的にも装備不可能な、しかしグランカイゼルのサイズならば可能な電動ガン。

「銃?! そんな、卑怯な!」

「ちっ。これで本当に終わりだと思ったのに。エリキシルバトルは公式戦みたいなお綺麗な戦いじゃないんだっ、勝てばいいんだよ! 願いを叶えたいんならなぁ」

「マーメイディア!」

 銃撃を辞めたグランカイゼルは、おもむろにマーメイディアを蹴り上げた。

 肩と胴体のハードアーマーの破損警告を出しながら、マーメイディアは波が打ち寄せる場所まで飛ばされていた。

 ――負ける……。

 フレームにも人工筋にもダメージはないが、両腕の銃口を向けて近づいてくるグランカイゼルから逃れる術がない。

「終わりだ!」

「ボクは、負けられないんだーーっ!」

 叫んだ青葉は、再びスクリューを全力回転させた。

 下半身を海に沈めているマーメイディアが吹き上げたのは、砂ではなく、海水。

 ダメージにも視界の妨げにもならないだろう噴水に、西条は意外にも大声を上げる。

「グ、グランカイゼルに何すんだ、てめぇーーーっ!!」

 怒りの声を上げた西条は、マーメイディアとグランカイゼルの間に立ち塞がった。

「カーム! くそっ。潮水なんて、なんてことしてくれるんだ!」

 アライズを解除させた西条は、グランカイゼルを小脇に抱え、トランクを手に岩壁の道を駆け上り始めた。

「またすぐに戦いに来てやるからな! 逃げたらどうなるかわかってるだろ?! 次の戦いで必ずお前のドールを粉々にしてやるからな!!」

 そう言い捨てて、西条は岩壁の向こうへと消えていった。

「負け、なかった?」

 どういうことなのかわからなかったが、マーメイディアを壊されるを避けられたことだけはわかった。

 ぺたんと砂浜に座り込んだ青葉は、ただ惚けていることしかできなかった。

 強い日差しの下、どれくらい座り込んでいたのだろうか。

「おい、誰かいるのかー?」

「……え? わっ。あわわっ。か、カーム!」

 岩壁の上の方からかけられた声に、青葉は急いで立ち上がり、アライズしたままだったマーメイディアをピクシードールに戻して波に流される前に拾い上げた。

「どうした? 大丈夫か?」

 気遣う声をかけながら岩陰の隙間にある坂を下りてきたのは、青葉より年上の男の子。

 ブランドものらしいシャツとズボンの彼は、鞄を肩に担ぎながら青葉の元まで近づいてきた。

「どうして……、こんなところに?」

「いや、何か男がこの辺から出てきて、逃げるみたいに車に乗って行ったからな。何かあったのかと思って。大丈夫か?」

「う、うん。ボクは大丈夫」

 青葉のことを上から下まで眺める少年に、安堵を覚える。

 ――先生とのバトルは見られてないみたいだ。

 渡されたマニュアルにも、誘いをかけてきたエイナにも、エリキシルバトルのことは秘密にすることと言われていた。不思議そうに小首を傾げている少年の様子から、青葉は彼にはバトルを見られていないのだろうと思った。

「本当に大丈夫か?」

「うん、本当に大丈夫。ちょっとここで、遊んでただけだか、ら? ……あれ? 君って?」

 改めて見た少年の顔には、憶えがある気がした。

 無造作のようでいてしっかりセットされてる髪。くっきりとした目鼻立ちの、高校生か、ともすると大学生くらいに見える少年。

 青葉はいつどこで見たのかを記憶から探り当て、思わず声を上げていた。

「あーーっ! 君は、槙島猛臣さんですよね?! スフィアカップのフルコントロール部門で優勝した!!」

「あ、あぁ。そうだが」

「やっぱり! 凄い……、こんなところで会えるなんて……」

 いまでこそバトルからは離れてしまっているが、スフィアカップに参加した当時は有名なソーサラーのことは映像を見て研究していた。

 その中で誰よりも強く、優雅で、しかし荒々しく戦い、青葉と同じフルコントロール部門の全国大会で優勝した猛臣は、憧れのソーサラーだった。

「初めまして! ボクもソーサラーなんです!!」

 先ほどまで西条との戦いっていたことなど忘れて、青葉は嬉しさのあまり満面の笑みを浮かべながら、猛臣に手にしたマーメイディアを見せつけていた。

 

 

          *

 

 

 ――妙なことになったな。

 身体ひとつ分だけ先を歩く青葉は、スキップでもし始めそうな足取りだった。

「なんで猛臣はここまで来たの?」

「あー。仕事だよ」

「もしかしてあそこのスフィアロボティクスの研究所?」

「そうだ。今日で済む予定だったが、明日までかかることになってな」

「そっかー。まだ高校生だったよね? すごいね」

 はしゃいでるからなのか、普通の中学生はこんなものなのか、妙に俺のことに詳しいらしい青葉は、人懐っこく話しかけてくる。

 ――俺がエリキシルソーサラーかも知れない、なんて考えてもいないな。

 海水を被ったグランカイゼルを抱えて車に乗り込んでいった男は隠れてやり過ごし、エリキシルスフィアをいま持っていない俺は、偶然を装って青葉の野郎に声をかけたわけだが、こいつは俺が自分と同じ特別なスフィアを持ってる者だ、ってことに思い至ってすらいなさそうだ。

 ――まぁ、そのことはとりあえずいいか。

 青葉とも近いうちに戦うなりスフィアを買い取るなりしなければならないわけだが、いまのところ驚異なのはパワードースーツのような外部装備を持つグランカイゼルだ。

 俺がエリキシルソーサラーであることをバラすのは後回しにして、どうやらあの男と顔見知りらしいこいつから情報を引き出すことにした。

「高校生なのにドールの開発とかやってて、その上最強のソーサラーだなんて、本当に凄いよね、猛臣は」

「んなことねぇさ。俺様に実力があるってだけのことだ」

「あははっ」

「それよりも、まだ着かないのか?」

「もうすぐだよー」

 俺のファンだという青葉との会話を打ち切って、そろそろまばらに民家が見え始めた灼熱の県道を歩いていく。

 昼を少し過ぎた辺りのこの時間、小腹が空いた俺は食事がしたいと言って、青葉に案内してもらっていた。

 ――こいつの家が店をやってるのは知ってるからだがな。

 調査会社からもらったたいしたことのない情報から、本業は漁師である青葉の家が、兼業で店をやってることは突き止めていた。

 青葉のエリキシルスフィアを奪う前に、こいつからグランカイゼルとそのソーサラーの情報をできるだけ引き出しておきたかった。そのためにはこいつとの距離を縮めておいて損はないだろう。

「ほら、あそこだよ」

 そう言う青葉の指の先を辿ると、港町にふさわしい平屋の、廃墟よりも少しマシといった風の建物があった。

 洒落たレストランを期待してたわけじゃないとは言え、場末のラーメン屋を小汚い感じにしたような木造の平屋建ての前に立って、俺は一瞬入るのをためらってしまった。

「さ、入って。もう空いてる時間だから、好きなとこに座って。席を決めたらあそこで好きなの選んでね」

 木枠にガラスをはめ込んだ立て付けの悪い戸を開いて言う青葉の笑みに、俺は仕方なく磨き上げられてもいない木材を机の形にしただけの隅の席に、スマートギアが入った鞄を置き、示された冷蔵ショーケースの方に歩み寄った。

 俺の他に家族連れの客が二組いる店内は、こじんまりと言えば聞こえはいいが、単純に狭い。そしてゴミなんかが落ちてるわけじゃないが、不潔そうな雰囲気が漂っている。

 港町なんてのはこんなものかとも思うが、もう少しマシにできないものかと思うほどだった。

 上からのぞき込めるようになってる冷蔵ショーケースの中には、何種類もの干物が雑多に入っている。

「どれがいいんだ?」

「どれでもいいよ。猛臣にはあんまりこういうの似合わないかも知れないけど、うちのはどれも美味しいよー」

「美味しいのを適当に見繕ってくれ」

「うんっ、わかったー」

 盛りつけられた料理ならともかく、値段と一緒に書かれた魚の種類はわかるとしても、どれが美味しいのかなんてわかりゃしない。

 青葉に選んでもらって、ついでにライスを頼んだとき、他にもいる小母さん店員とは別に、奥から男がやってきた。

「どこに行ってたんだ! この忙しいときに!」

 顔立ちが似ているから、父親の青葉貴成だろうか。

 他の客がいるのに頭ごなしに怒鳴りつけてくる男は、青葉に怒りの籠もった視線を向けてくる。

「夏はかき入れ時なんだ、お前はちゃんと店の手伝いでもしてろ!」

「うん……。ごめんなさい」

「こいつは何者だ?」

「あ、この人はお客さんで……」

 俺にも怒ったままの視線を向けてくる貴成。

 短い髪をしてアロハなんだかわからないシャツにハーフパンツの、まさに海の男といった、がたいの良い貴成のあんまりの態度に、さすがに俺も言葉を返したくなる。

「ここの場所がわからなかったから、案内してもらってたんだよ」

「そうか、そうだったか……」

「関西の方から仕事のついでに来てくれたんだよ」

「そうなのか。……しっかり食べていってくれよ」

 怒りが完全に静まったわけではないようだが、態度を柔らかくした貴成は、青葉に「ちゃんと仕事しろよ」と言いつけて奥に引っ込んでいった。

 自分の席に向かった俺に遅れて、バケツのようなものを手にした青葉がやってくる。

「ゴメンね、うちの親父が」

 ここにくるまでのはしゃいでいた様子とは打って変わって、元気なさそうな顔で笑う青葉。

 テーブルの端に設置された粗末なコンロに、バケツからトングで焼けた炭を取り出して入れ、網を置いてさっき選んだ干物を乗せる。

「ここのところあんまり魚が捕れなくて気が立ってるんだ、親父」

「何かあったのか?」

「うん……。ちょっとここのところ火山活動が活発化してるみたいで、それくらいはちょくちょくあることなんだけど、海の方の影響が大きかったみたい。潮目が変わって魚がいる場所がずいぶん変わっちゃったみたいなんだ」

「それをどうにかするのが漁師の腕なんじゃないのか?」

「あははっ。それはそうなんだけど、今回のはここ最近なかったくらいみたいで、うちの港だけじゃなくて、このあたりの港じゃどこもそんな感じだって。夏休みでお客さん増えるのにそんなだから客足減ってるし、釣り船なんかもあるんだけど、からっきしでね……」

「なるほどな」

 青葉の元気の無さは親父に叱られたことだけじゃないというのはわかった。

 干物を選んだときのショーケースの中身も、種類は多くなかったし、空きが目立つほどだった。

「じゃあ焼き上がるまでちょっと待っててね」

 そう言って側を離れた青葉は、母親や親戚だろう、他の女性陣とともに客にお茶を出したり魚を焼いたり、また出てきた貴成に怒られたりしながら仕事をしていた。

 ――なんであいつは、こんなところで仕事してんだろうな。

 スフィアカップ地方大会準優勝というのは、正直たいしたレベルのソーサラーじゃない。

 だがこっそりバトルを見てたあいつのマーメイディアは、スフィアドールとしては珍しい水中用のものだった。

 水中調査用の機材は専用のものが昔からあるため、スフィアロボティクスが入り込めていない分野となっている。しかしながらこれから先、アナウンスされてる第六世代や、噂が出ている第七世代規格が施行されれば話が変わってくる。

 高い運動性と広い汎用性を持つスフィアドールは、海中などの局地環境にも広まっていくはずだ。

 いまのところほとんど誰も手を着けてない分野に、中学三年の青葉が取り組んでるというだけでも、けっこう凄いことではあった。

 ――まぁ、俺が関わるようなことじゃないがな。

 考えを中断した頃合いに、青葉がご飯を盛りつけた茶碗や皿を持ってきてくれる。

 炭火で綺麗に焼き上がった干物を、俺は渡された箸で食べてみる。

「……うっ」

 金目鯛の白身を口に運んだ俺は、思わずうめき声を上げてしまっていた。

 箸でつまんだときにもわかったぷりぷりとした食感と、舌にじんわりと広がる旨味が素晴らしい。

 もう一枚焼き上がった大きめのアジの干物も、油の甘みがうまかった。

 干物を食べたことなんていくらでもあったが、こんなに美味いのを食べたのは初めてだった。ふっくらとしたご飯が進んで箸が止まらない。干物の販売のついでにやってるような店だから、メニューにみそ汁がないのが残念なくらいだった。

「どう?」

「……美味いな」

「そうでしょ?」

 頼んだご飯のお代わりを持ってきてくれた青葉に問われ、俺は素直にそう答えていた。

 腹に溜まればいいくらいにしか考えてなかった俺は、いま感動すら覚えている。

「うちの干物は美味しいでしょ? 全部自家製だからねー。魚は他で仕入れてるものもあるけどさ」

「なるほどな」

 土地のものはその土地で食べるのが一番美味いとは聞くが、これほどとは思っていなかった。

「それで、だけど、猛臣の仕事は明日に延びたんだよね? 宿とか、決まってる?」

「どうだい? 兄ちゃん。漁師宿だが、いまだったら空いてるぜ」

 青葉の祈るような視線と、いつの間にか現れた愛想笑いを浮かべる親父の援護射撃に、俺はしばし考える。

「……夕食に、干物が出るなら」

「う、うんっ、いいよ! というか、他にも刺身とかもあるから!」

「よっしゃ。早速部屋の準備してこい」

「わかったっ」

 笑顔になった青葉は店の外にすっ飛んでいった。

 客を取れたからか、愛想が良くなって他の客のところに行く親父にため息を漏らしながら、俺は残っている干物を片付けるために箸を取った。

 ――まぁもう少し、青葉から情報を引き出すのも悪くないだろう。

 



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サイドストーリー2 海人(アクアマリン)の祈り4

 

       * 4 *

 

 

 青葉に教えてもらった温泉で風呂に浸かり、海鮮料理を堪能した俺は、案内された宿の部屋の、窓際に置かれたリクライニングチェアに身体を預けた。

 おそらく釣り客のための宿なのだろう。場末の民宿のように隣の部屋との境が障子だけなんてことはなく、最低ランクのビジネスホテル程度の独立性はあったが、六畳の畳の部屋と窓際の板張りのスペースに、古びた家具や家電があるだけのここは、干物を食べた店と同じく薄汚れて貧相なつくりだった。

 窓の外に見える西の海にはまだしつこく茜色の光が残っていたが、上空ではもう星が瞬き始めている。

「少し食べ過ぎたか」

 干物はもちろん刺身などの夕食は家庭料理みたいなもので、盛りつけも飾ったものではなかったが、どれも美味しかった。

 エリキシルスフィアを求めていろんなところに出かけているが、たいていは日帰りで、泊まりになるときも用事を済ませたらさっさと帰るのが普通だった。

 どうせ遠くに行くなら、今回のように少し観光のようなことをしても良いかもしれない、なんてことを考えるようになっていた。

「さてと……」

 テーブルの上に置いたスレート端末を手に取り、俺は調査を再開する。

 青葉がバトルのときに呼んでいた西条という名前と、車のナンバー、そしてグランカイゼルというドール名から、ある程度のことは調べることができた。

 名前は西条満長、二七歳。

 理系の大学を卒業後、臨時や非常勤の高校教師として近畿や中部方面を中心に仕事をして生計を立てている。専門はおそらく機械工学かロボット工学。スフィアカップでは全国大会二回戦敗退。ローカルバトルへの出場経験は少数。

 そうした表向きの顔の他に、西条には裏の顔があることが、アングラ系の情報サイトから確認することができた。そしてそちらの方では、かなりの有名人だ。

 ピクシーバトルにはスフィアカップ、ローカルバトルなどのスフィアロボティクスが関係するものの他にも、公式戦に準拠したりそれを基本とした小規模な大会などがある。リング上での戦いの他にも、市街地戦を想定したような、主にレーザーポインタを銃に見立てた銃撃戦などもある。

 そうした表向きのバトルの他に、アンダーグラウンドなバトルも盛んだった。

 さすがに俺は参加したことはないが、西条はレギュレーションも何もありはしない、たいていは賭の対象となるアングラバトルで、ここ最近はほぼ無敗の成績を誇るソーサラーとして名が通っている。

「さすがにこれは反則だな」

 アングラサイトから拾ってきた、今日のものとは若干形の違うグランカイゼルの画像を表示する。

 ひと回り近くボリュームが小さいが、やはりグランカイゼルの姿は頭の潰れた機械ゴリラだ。

 第五世代スフィアドール規格から可能になった外部機器扱いのパワードスーツは発想としては面白いが、ピクシーバトルに持ち込むにはフェアリードールに近い全高四十センチ余りある機械の塊のそれは、いくらアングラバトルだからって反則以外の何ものでもない。

「まぁ、そんな反則が許されるのが、アングラではあるんだがなぁ」

 本体のピクシードールがオブジェのように露出しているのは、いくら自由度の高い外部機器とは言え、現在のところドールの全身を覆うようなものをスフィアで認識できないというのもあるだろうが、西条のこだわりのデザインでもあるようだ。

 西条はアニメや小説好み、とくにロボットものを嗜好していることが、本人のネットの書き込みからも見て取れる。

 グランカイゼルのデザインはそうしたアニメの影響が強く出ているものだったし、行く行くは自分が乗り込んで操縦できる巨大ロボットを造りたいと考えているらしいことが推測できた。

「そんな夢はともかく、エリキシルバトルからは、早々に撤退してもらうがな」

 巨大ロボットを造りたい西条が、エリクサーでどんな願いを叶えたいのかはわからない。しかし、俺にとっては奴の願いなど関係ない。

 アングラバトルで本業よりも稼いでいる西条に買収は効かないだろうから、力でねじ伏せるしかないだろう。

 グランカイゼルはさすがに厄介な相手だが、どうせ倒さなければならない相手なのだ、あちらが手段を選ばないならば、こちらも手段を選ぶ必要はなかった。

 奴とどう戦うかを考えてるとき、扉をノックする音が聞こえた。

「お茶を持ってきたよ」

「おう」

 青葉の声にそう返事をすると、ポットを片手にぶら下げ、湯飲みを乗せたお盆を抱える青葉が入ってきた。

 部屋の真ん中にある卓袱台の上にポットを置き、お茶を湯飲みに注いでわざわざ俺のところまで持ってきてくれる。

「どうぞ」

「ありがとよ」

 お茶をひと口すすってみるが、用事が終わったはずの青葉は立ち去る様子がない。

 何か深刻そうな表情をして、側に立ったままだ。

「……夕食は、どうだった?」

「美味かったぞ」

「うん、そっか。よかった」

 何だか言いづらそうにしている青葉に、仕方なく俺はこっちから問うてやることにした。

「昼間の男と、何かあったのか?」

「うん……、ちょっとね」

「誰なんだ? あいつは」

 西条のことはもうだいたいわかっていたが、そのことは言わずにスレート端末をテーブルに伏せて置き、顔を歪めてる青葉に問う。

「――学校の先生。産休で休みに入った先生の代わりに、ボクのクラスの担任になったんだ」

「それだけじゃあないんだろ?」

「うん……。エ――、ボクのマーメイディアをよこせって言われてて、でないとボクの内申書を悪く書くって……。戦って、勝てれば良いんだけど、たぶんいまのボクじゃ無理だから……」

 うつむいて泣きそうな顔で言う青葉の言葉は、それだけ聞くと支離滅裂だ。

 エリキシルソーサラーだからわかるし、青葉の悩みも理解できる。

 ――エリキシルスフィアを要求するのに、脅しってのは気に入らないな。

 俺がやってるスフィアの買い取りだって決して全員から賛同されるものでないことはわかってる。だが要求に対する対価は支払ってるつもりだ。対価が見合わないと思うならば、本来の指示であるバトルによって決着をつけることだってしてる。

 立場でもって押さえ込み、状況をマイナスにしない代わりに要求をするるってのは、フェアな取引じゃない。

「それで、どうしたいんだ?」

 そう問うと、顔を上げた青葉は俺を真っ直ぐに見、決意を込めた瞳で言った。

「ボクのことを強くしてほしいんだ。もちろん、ソーサラーとして」

「そうすることで、俺に何かメリットがあるか?」

「それは、その……」

「あの男の捨て台詞は聞こえたが、またすぐに来るんだろ? 俺様も明日までしかここにはいない予定だし、ひと晩じゃ強くはなれないぞ」

「そう、だよね……」

 決意の瞳が揺らぎ、またうつむいてしまった青葉。

 理不尽な怒りをぶつけられつつも、青葉は父親を尊敬しているらしい。調べられた限りでは青葉が大病を患っていたり、側で亡くなった者がいる様子もなかった。

 ――エリクサーで、こいつは何を叶えるつもりなんだ?

 訊いてみたくもあったが、俺はエリキシルソーサラーだと明かしていない以上、直接問うわけにはいかなかった。

「布団敷くね」

 言って青葉は卓袱台を部屋の隅に移動させ、押し入れを開いた。

「お前はここの仕事が好きなんだろ? 高校なんて行かなくても、親父の手伝いをして魚を捕ればいいんじゃないのか?」

「人手が増えたからって魚が増えるわけじゃないし、うちは親戚と共同でやってるから、人手は充分なんだ」

 布団を抱えようとした格好で動きを止め、振り返った青葉の答えに、俺は訊いてみる。

「親父の跡を継ぐんじゃないのか? お前は」

「あははっ。ボクが跡を継げればいいんだけどね。――うわっ!」

 寂しそうに笑った青葉の悲鳴に、反射的に俺は駆け寄っていた。

 体勢を崩した青葉を支えようとして、……失敗した。

「ぐふっ」

「わっ、あれ? ゴメン!」

 押し入れの中に積み上げられた布団は一斉に崩れてきて、俺は青葉を後ろ抱き寄せて引っ張りだそうとしたが、失敗して一緒に畳の上に潰される結果となった。

 下は畳だし、青葉も軽いし、布団の重量もたいしたことないから、ダメージがあったわけでもない。

 しかし助けようとして失敗するなんて情けない。

「くそっ」

 悪態を吐いて布団の下から脱出しようと身体を動かしたとき、何か手が柔らかいものに触れてることに気づいた。思わず手を動かして確かめてしまう。

 柔らかいと言ってもそんなにボリュームがあるわけじゃない。だが触っていると予想される場所が、これまで思ってた通りならあり得ない感触であることは確かだった。

「……なんだ、こりゃ?」

「あ、うっ。う、うわーーっ!」

 メチャクチャに身体を動かして先に脱出した青葉は、部屋の隅に逃れて顔を真っ赤にしていた。

 胸を、両手で隠しながら。

 助けようとして触ってしまった青葉の胸は、服の上からではわからないほどだったが、男じゃあり得ない柔らかさがあった。

「お前、女だったのか?」

「そ、そうだよっ」

「でもお前の名前は、由貴(よしたか)だろ?」

「違うよ! ボクの名前は由貴(ゆき)だよっ!」

「そうだったのか……」

 親父の名前が貴成(たかなり)だから、青葉の名前も貴の文字の読みはてっきり同じだと思っていた。

 髪が短く、服装も男でも女でも通用するようなもので、手脚が細い他は女の特徴なんて欠片も感じなかった。せいぜい中性的なくらいのものだ。

 しかしその胸は、小ぶりでも確かに女のものだった。

 謝るべきなのかどうするのか迷っているとき、表情を暗くした青葉が言った。

「ボクは女だから、親父の跡は継げないんだ。親父と一緒に漁に出ることもできないんだ。観光のときなら乗せてくれることはあるけど、漁は男の仕事だから、ダメだって」

「なるほどな」

 漁師で女ってのはいるかも知れないが、あまり話には聞かない。海女を除けば女は陸で仕事して、男が海に出るってことが多いんだろう。

 あの頑固で頭が硬そうな青葉の親父なら、なおさらだ。

 悲しそうな顔をした青葉が話す。

「親父には男に生まれればよかった、ってよく言われるんだ。そしたら漁に連れてってやれたのに、って。ボクは女だから、跡取りになることも、漁の手伝いもできない。それでも、ボクはボクにできることで、親父の手伝いがしたいんだっ」

 両手を握りしめ、青葉は泣きそうな顔をする。

「だから、そのためにはいまはマーメイディアを壊されるわけにはいかないんだ!」

「そうか」

 ――こいつの願いは、男になることか。

 あらゆる命の奇跡を起こせるというエリクサーならば、おそらく女が男になることも可能なんだろう。

 願いを叶えるためにはマーメイディアを壊されるわけには、エリキシルスフィアを奪われるわけにはいかない。

 だが一日やそこらで強くなれるわけはないし、敵はグランカイゼルだ。特訓したところで勝てるような相手じゃない。

 そして俺もまた、自分の願いを諦める気はない。

 ――さて、どうしたものか。

 青葉の願いは金で解決できそうなものでもない。いまさら金をやるからエリキシルスフィアを売れと言ってもこいつは聞きはしないだろう。

 俺の目的は青葉のものも、西条のエリキシルスフィアも、俺のものにして帰ることだ。

 この先どう動くべきかを考えてるとき、メールの着信音がした。

「……」

「どうした?」

 ポケットから取り出した携帯端末を見て、青葉は泣きそうな、それでいて決意の籠もった表情をする。

 無理矢理青葉から携帯端末を奪った俺は、表示されたメールの内容を読んでみる。

 メールは西条から。内容は明日の十二時に今日の砂浜に来いというもの。

「ゴメン、猛臣」

 俺から携帯を取り返した青葉は、振り返らずに部屋から出て行った。

 光る滴を、ひと粒残して。

 放り出しっぱなしの布団を一組だけ敷いて、ポットからお茶を注いだ俺は、自分の携帯端末を手に取って窓際のリクライニングチェアに座った。登録済みの電話番号をコールする。

「よぉ、俺だ。槙島猛臣だ。こんな時間に電話して済まないな」

 電話の相手は三コールで出てくれた。もう遅い時間なのに電話に出てくれたことを感謝しつつ、俺は用件を話す。

「ちょっと貸してほしいものがあるんだ。その代わりと言っちゃなんだが、耳寄りな情報がある」

 

 

          *

 

「どうしよう……」

 青葉はそんなことを呟きながら、朝は遅めに開店する食堂の店先を箒で掃いていた。

 西条から連絡のあった十二時にはまだ余裕があった。

 夜のうちにマーメイディアの左右のスクリューを外し、戦闘用の武器も用意してあったが、青葉の本来の戦型であるバランスタイプの人工筋はストックがなく、買いに行く時間も懐の余裕のなかった。

 例えマーメイディアをバトル仕様にできたとしても、あのグランカイゼルに勝てる気はしない。

 ――それでも、ボクは負けるわけにはいかないっ。

 箒を握りしめて、青葉はそう自分に言い聞かせる。

 けれど同時に、エリキシルバトルに参加したのだから、マーメイディアをバトル用にしておけばよかったとか、もっと訓練しておけばよかったとか、そんなことを思う。

 ――やっぱり、ボクなんかじゃ願いを叶えるなんて、無理だったのかな。

 心を奮い立たせようとしても、どうしても勝てるイメージの湧かないグランカイゼルの偉容を思い出し、ため息を吐いた。

「あのぉ、ここは青葉さんのお店で大丈夫ですか?」

「え? あっ、はい!」

 背後からかけられた声に驚いて、慌てて振り向いた青葉は声の主を見る。

 まだ昇りきっていない日差しの下に立つ男は、初めて見る顔だった。

 シャツとスラックスに白衣を羽織り、少しは日焼けしているようだが、この辺りの人間にしてはずいぶん白い肌をしている。

 そして何より、胡散臭さすら漂ってきそうな、にこやかな笑みを浮かべていた。

「あの……、どちら様で?」

「あぁ、すみません。僕はこういう者です」

 白衣のポケットから取り出した名刺入れから名刺を差し出され、青葉は反射的に受け取っていた。

「お父さんはいまいらっしゃいますか」

「スフィアロボティクスの、永瀬さん? どんなご用件ですか?」

 スフィアロボティクスの研究所がそんなに遠くないところにあるのは知っていたが、そこの人間が訪ねてくる理由がわからない。

 不審と、スフィアドールに関わっているらしい人と直接会ったことへのワクワクを覚えつつ、青葉は永瀬に尋ねた。

「私は水中調査用のスフィアドールを研究してましてね。ちょっと知り合いから、ここなら協力が得られるかも知れないと小耳に挟みまして」

「水中調査用の、スフィアドール?」

「えぇ。まぁそれよりもまずは船に同乗させてもらえないとどうにもならないんですがね。それで、お父さんは?」

「はいっ。えっと、いま呼んできます!」

「お願いします」

 永瀬のにこやかな笑みに促され、青葉は急いで貴成を呼びに店の中に駆け込んだ。

 



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サイドストーリー2 海人(アクアマリン)の祈り5

 

       * 5 *

 

 

 西条は端に寄せて止めた車からグランカイゼルを納めたセミハードのトランクケースを取り出し、岩の隙間のような場所を縫って、小さな砂浜に降り立った。

「まだ早かったか」

 銀色に鈍く光る腕時計を見てみると、昨日青葉に送ったメールに書いた時間より、かなり早かった。

 早く着きすぎたことに舌打ちをした西条は、トランクケースを開け、グランカイゼルを取り出し砂の上に立たせる。

 昨日とほとんど変わりないグランカイゼルだったが、ガンメタリックの色合いは、微妙に青みが強くなっていた。

「うん、いい出来だ。さすがはオレのグランカイゼル。――しかし、本当に昨日は酷いしてくれたものだ、青葉は」

 憎々しげに顔を歪め、西条はそう吐き捨てる。

 青葉によって潮水を浴びせかけられたグランカイゼルは、帰ってすぐに拭き取って洗浄し、事なきを得ていた。

 普通のピクシードールと違い、機械部品で主に構成されているため、潮水は大敵だ。

 そんなことなど見ればわかるだろうに、潮水を浴びせかけるなんて非道な攻撃を行う青葉のことが、西条には信じられなかった。

「しかし、あいつがオレの受け持ちでよかったぜ」

 表の立場を持っておくための臨時や非常勤の講師だが、冬ならともかく夏からの配属には最初断ろうと思っていた。

 少し調べて、エリキシルソーサラーかも知れない青葉の存在に気づき、偶然にもクラス担任になれたのは幸運だった。

 バトル仕様ではないらしい青葉のドールならば戦っても楽に勝てそうなのは昨日の戦いでわかったし、今日で決着が付けられなくても、立場を利用すればどうにでもなりそうだった。

 元より無敵のグランカイゼルに、青葉のドール程度は敵ではなかったが。

 表と裏の仕事と、完成版のグランカイゼルの開発で参戦できていなかったエリキシルバトルに、中盤戦から参戦し、快勝を重ねる様子を頭の中で想像し、西条は含み笑いを漏らしていた。

「これで、オレの夢に近づける。巨大ロボットの完成に!」

 西条にとってグランカイゼルすら夢の過程。

 目指すのは自分が乗り込み、世界を征服しうる巨大ロボットの完成。

 完成させることは可能だと思われたが、その夢を達成するには、あと百年程度の時間が必要だと、西条は予測していた。

 完成まで生きていることが困難だと考える西条にとって、エリクサーを得て永遠の若さを得ることは、必須のことであった。

 ヘルメット型のスマートギアを被った彼は、空に向かって高らかに笑った。

「はははっ、ははははは!」

「何笑ってやがんだ。気持ち悪ぃ」

「だ、誰だ!」

 かけられた声に振り返ると、砂浜にひとりの少年が降り立っていた。

 もちろん女である青葉ではない、高校生か大学生くらいに見える少年に、西条は見覚えがあった。

「ま、槙島猛臣?! な、なんでお前がこんなところに!!」

 言ってから西条は、被ったスマートギアの表示の隅に、エリキシルスフィアの反応があることに気がついた。

「お前も、エリキシルソーサラーなのか?」

「そういうことだ、西条満長」

「くっ!」

 青葉が来るはずだったのが、どうして槙島猛臣がいるのかに混乱しつつも、深呼吸した西条は思考をまとめる。

 ――奴はスフィアカップの優勝者。凄腕の奴だ。

 猛臣のバトルの様子は見たことがあったが、ソーサラーとしての能力が自分より上であることを、認めざるを得なかった。公式戦では、絶対に勝てる相手ではない。

 少し離れた場所に立ち、黒いヘルメット型のスマートギアを被った猛臣を見、考える。

 ――だが、エリキシルバトルにレギュレーションはない。オレには世界最強のグランカイゼルがある!

 戦力分析を終え、気持ちに余裕が出てきた西条は、口元に笑みを浮かべた。

「ここに来たということは、オレと戦うつもりなのか? 槙島」

「もちろんだ」

「ちなみに今日は青葉由貴(あおばゆき)という奴と約束してたんだが、知っているか?」

「あぁ、あいつなら昨日会ったよ。それがどういう意味か、わかるよな?」

「ちっ」

 ――すでに青葉はこいつに負けたのか。

 エリキシルスフィアの反応がひとつしかないが、そういうものなのか、どこかに隠しているのかはわからない。

 ――どちらにせよ、それも含めて勝って聞き出せばいいことだ!

「だったらオレが戦ってやろう、槙島! お前とオレの願いを賭けて、エリキシルバトルだっ。アライズ!」

 口元に笑みを浮かべてる猛臣との間に、光が現れた。

 グランカイゼルが纏った光が弾けたとき、二五〇センチの巨体が姿を現した。

「さぁ、我が世界最強のドール、グランカイゼルによってお前のドールを叩き潰してくれる! 槙島!!」

 自分のドールを足下に立たせる猛臣に向かって、西条はそう言い放った。

 

 

          *

 

 

「そうかそうか。そういうことなら協力させてもらうよ」

「それは良かった。本当にありがとうございます」

 豪快に笑う貴成に、永瀬はにこやかな笑みを浮かべて頭を下げていた。

 ――なんだろう、この状況。

 店の奥から聞こえてくる声に、青葉は思わず首を傾げてしまう。

 貴成を呼んで、奥の事務所スペースに永瀬を通して始まった話し合い。

 残っている店の準備をしている間に、今朝の漁でもあんまり魚が捕れなくて不機嫌だった貴成は、まだ昼前なのに酒でも飲み出しそうなほど上機嫌で永瀬と話していた。

 店の方は開店し、少し早い昼食を食べに来た客の相手をしながら話を聞いていた分には、漁のついでにスフィアドールを使って海洋調査をするということで話がまとまった。

 とにかく永瀬の話術が巧みで、相手を持ち上げたり自分の苦境で気を引いたりと、気難しい貴成を上手いこと乗せている。

 大型の船を使っての調査は、魚が逃げると言って嫌っていたのに、貴成は永瀬にすっかり協力する体勢になっていた。

 ――でも、どんな調査をするんだろう。

 客がまだあまり多くないのをいいことに、母親と叔母に店を任せて、青葉は貴成と父親の話を影からこっそり聞く。

 すぐ側には、マーメイディアを納めたアタッシェケースやスマートギアを入れた鞄を置いてある。

 西条に指定された十二時にはまだ時間があったが、もう少ししたら勉強をするとか図書館に行くとか理由をつけて、店を出なければならない。

 けれど青葉は、スフィアドールを使って行うという調査の話が、どうしても聞きたくて仕方がなかった。それはこれまで、マーメイディアを使ってやってきたものの延長線上にあるものだったから。

「それで、その小規模調査ってのはいつから始める予定なんだい?」

「いやぁ、それが何とも。船を用意できたら調査にかかる費用を出してくれるって言われてるんで、まだ調査用のドールも準備できてないですよ。調査用ドールを動かせるソーサラーも手配しないと行けませんし。はははっ」

「そんな悠長なこと言ってていいのかい? こっちとしては早く調査を始めてほしいんだが」

「まぁそれはどうにかしますよ。夏の間に調査は始められるでしょう」

「そうか。それならいいんだが」

 頭を掻きながらにこやかに笑っている永瀬だが、なんとなく青葉には、言葉ほど上手く行ってないんじゃないかという気がしていた。

 ――ボクがそう思ってるだけかも知れない。……でも!

「あの!」

 思い切って声をかけ、鞄からアタッシェケースを取り出して貴成と永瀬が向かい合って座っているテーブルの上に置いた。

「ボクのドールは使えませんか?」

「何言ってんだ、由貴。仕事しろ!」

 貴成に文句を言われながらも青葉は、ケースを開けて永瀬に中身を見せる。

 スクリューは取り外してしまっているが、一緒に収まっているマーメイディア。

「ちょっと待ってくださいね」

 さらに声を上げようとした貴成を手で制し、永瀬はマーメイディアを手にとって眺めた。

「このドールは水深どれくらい耐えられる設計なので?」

「一応百メートル、のはずだけど、陸から実験してるだけだから、まだ五〇メートルまでしか試せてなくて……」

「なるほどなるほど。水圧検査はもう少し必要として、センサー類も追加が必要かな? スクリューがあるってことは、泳ぐのかな? このドールは」

「あ、はい。そうです」

「コントロール用のアプリは?」

「えっと、潜水ゲームを参考に、自分で組み上げた奴です」

「うん、そうか。なるほど」

 にこやかなのとは違う、悪巧みでもし始めそうな笑みをし、瞳に輝きを宿した永瀬は、不審そうな顔をしている貴成に向き直った。

「お願いがあります。このドールと、この子を、調査に貸してください」

「え? ボクを?」

 永瀬の言葉に、青葉は驚きの声を上げていた。

 マーメイディアを貸すことは考えてたが、自分まで必要だと言われるとは思っていなかった。

「いや、それはさすがに……。こいつを漁の船に乗せるのは、ちょっと……」

「いえいえ。むしろこの子が必要なんです。このドールもいい出来ですが、それよりこの子の方が僕にとって必要です」

「……そうなのか?」

「えぇ。ピクシードールを扱うソーサラーは、バトルの経験者は多いんですが、それは地上での活動、地面の上での動きが前提です。水中の、三次元でのコントロールを経験しているソーサラーは非常に少ない。この子とこのドールがあれば、来週からでも予備調査が始められますよ」

 畳みかけるような永瀬の言葉に、貴成は迷いの表情を浮かべる。

「親父……」

 胸の前で手を握り合わせ、青葉は懇願の色を浮かべて父親の顔を見つめる。

「早く調査をしたかったのでしょう?」

「ちっ。しょうがねぇな! その分、さっさと調査してくれよ」

「やった!」

 渋い顔をしながらも認めてくれた貴成に、青葉は思わず飛び上がっていた。

 ――親父の船に乗れる!

 貴成と一緒に仕事ができる。貴成の手伝いを直接できる。

 それは青葉にとって、夢だった。

 

 

          *

 

 

「アライズ!!」

 願いを込め、俺は唱えた。

 光を纏ったイシュタルがピクシードールからエリキシルドールへと変身する。

 ――でけぇ。

 イシュタルの目を通して見たグランカイゼルは、自分の目で見ても大きかったと言うのに、一二〇センチの視点からだと、二倍以上の身長差のため、巨大ロボットに思えるほどの偉容だった。

 ローラーダッシュを使ってくるのはわかってるから、俺はイシュタルにできるだけ距離を取らせ、とりあえず腰の長剣を右手で抜かせた。

「まさかお前がエリキシルソーサラーだとは意外だったが、ここで会ったのは都合が良い。お前さえ倒してしまえば、他の奴はたいしたことないからな」

「そう上手くはいかねぇと思うがな」

 悪魔でも取り憑いてるんじゃないかと思うような笑みを見せる西条に、俺はそう言い返す。

 ついこの前、俺は克樹とリーリエに引き分けてる。エリキシルソーサラーじゃないが平泉夫人には惨敗を喫してるし、戦ったことはないが、夏姫の奴にも勝てないかも知れないと思ってる。

 気が大きくなってる西条は、おそらく青葉との戦いが初経験だったんだろう、自分に酔っていてエリキシルバトルの現実が見えていない。

「はっ。どうせオレのグランカイゼルに勝てる奴なんかいないのさ! お前ですらもな、槙島猛臣!!」

 マニュアルには書いてあるから知っているはずだが、フェアリーリングも張らずに戦闘を開始する西条。

 予想通り大きく取った距離をローラーダッシュの加速を利用して一気に詰めてくる。

 ――いい加速するじゃないか。

 突き出した肩でタックルを仕掛けてきたグランカイゼルを、大きく跳んで躱す。

 轟音とともに、イシュタルのすぐ横をガンメタリックの金属塊が通り過ぎていった。

 ほんのわずかな助走距離でトップスピードに入れてくるローラーダッシュの加速力は凄まじい。

 しかし動きは読みやすい。イシュタルの機敏さと瞬発力であれば、避けるのは容易い。

「ちょろちょろ!」

 二度目の突進を躱され、西条は苛立った声を上げる。

「これならばどうだ!」

 腰の後ろのハンマーを右手で引き抜いて構え、ローラーダッシュで接近してくるのと同時に振り下ろすグランカイゼル。

 砂が飛沫のように舞うが、それだけだ。

 力任せに叩きつけられるハンマーは音も速度も凄まじいが、洗練されていない。軌道が読みやすい。

 おそらくグランカイゼルは、通常のピクシードールに使用されてる人工筋と違って、油圧やモーターによって駆動している。

 それらの駆動系はパワーはあるが、人工筋に比べて重量と反応速度の点で劣る。千回叩きつけてこようが、俺のイシュタルに掠ることはない。

 反撃も試みてみるが、装甲が半端ではないことがわかっただけだった。

 元々金属の塊のようなグランカイゼルは、アライズによってさらに強化され、戦車並みの防御力と化している。

 振り下ろされた腕に剣で斬りつけてみても、わずかな切れ目は入れられるだけで、ダメージにはならない。思った以上に設計の腕はあるのか、関節の内側にも可動式の装甲が施されていて、ただの剣で斬り崩すのは難しそうだった。

 外骨格部分に比べれば脆弱だろうドール本体は、ハンマーを持っていない左腕でガードしていて、イシュタルのサイズで攻撃を届かせるのは難しかった。

 ――まぁ、こいつのプライドごと吹き飛ばすには、本体なんぞ狙う必要はないがな。

 現状ではまともな攻め手がなかったが、俺は口元に笑みを浮かべていた。

「くそっ! これで終わりにしてやる!」

 ヘルメット型のスマートギアの下で青筋を立ててるだろう西条は、グランカイゼルをイシュタルから離した。

 両腕を上げ、イシュタルに電動ガンの銃口を向けてくる。

「砕け散れ!」

 アライズによって直径五〇ミリほどになったチタン合金製の弾丸は、初速はおそらく音速を超え、下手な機関銃よりも威力があるだろう。

 さすがに俺とイシュタルと言えど、それを躱し続けるのは難しい。

 しかし俺は、青葉の戦いでそれをすでに見ていた。

「なんだと!!」

 爆発が起こった。

 イシュタルに向かって弾丸が放たれる瞬間、グランカイゼルの左腕が爆発した。

 比喩でも冗談でもなく、グランカイゼルの左上腕は吹き飛び、黒煙を上げている。

「何をした!」

 身体を震わせ、スマートギア越しに俺のことを睨みつけてくる西条。

 グランカイゼルが電動ガンを構えたのを見た俺は、イシュタルに新たな武器を構えさせていた。

 左手に持っているのは、銃。

 まるでアニメの巨大ロボットが持っているようなライフル銃を、イシュタルは手にしてる。

 ――出力を強化してるとは聞いてたが、どんだけだよ、永瀬!

 ライフル銃のケツから伸びてるケーブルは、イシュタルが背負っているランドセルに接続されている。今朝方永瀬から借りてきたオモチャの装備。

 本来はレーザーポインタを使用した銃撃戦用の装備だが、超長距離でも命中判定が取れるよう出力を強化していると聞いていた。

 しかしピクシードールに搭載する内蔵バッテリの数倍はあるランドセル型外部バッテリが、たった一射で五パーセント近くも減るほどとは聞いてない。

 グランカイゼルの腕を吹き飛ばしたのはアライズしたからこその威力かも知れないが、アライズしてなくても確実に違法で、焦げ跡くらいつくれそうな威力に俺はため息を吐いていた。

「レーザーライフルだと?! なんてものを持ち出してきたんだ、お前は!」

「俺様もこういうものは無粋で嫌いなんだがな」

 ――それに、克樹や夏姫相手じゃ、絶対勝てねぇ。

 背中を覆うほどのサイズのランドセルは、重量も大きい。威力は凄まじいが、アリシアやブリュンヒルデが相手なら、動きが鈍くなりすぎてライフルを構える前にやられるのが落ちだろう。

 ――こういう図体ばかりの敵を相手にするには、いいものだけどな!

 使いづらいライフルをランドセルのラッチに戻させ、俺はイシュタルにもう片方の武器を装備させる。

 砂に突き立てた長剣の代わりに右手に構えたのは、幅広の剣。もちろんこれも、ケーブルでランドセルに接続されている。

「よくも、オレのグランカイゼルをぉぉぉーー!!」

 震えが収まったらしい西条は、ハンマーを横に振りかぶったグランカイゼルをイシュタルに高速接近させる。

「吹き飛べ!」

 移動しながらなのに狙い澄ましたハンマーのヘッドが接触する直前、イシュタルが幅広剣を振るう。

 砂を巻き上げながらグランカイゼルが通り過ぎた後も、イシュタルは健在だ。

「くっ……。この、この野郎……」

 悔しそうな声を漏らす西条。

 振り返ったグランカイゼルが右手に握っているのは、金属の棒。ハンマーのヘッドは、イシュタルの近くに転がっている。

 右手の幅広剣は、刀身が赤い。

 抜いたときには黒かったそれは、赤熱し、空気中の酸素を焼いてちりちりと音を立てている。ヒートソード。

「今度はこちらから行くぜ!」

 言って俺はイシュタルを走らせる。

 立ち尽くしていたグランカイゼルが動き出す前に、両手で持ったヒートソードを縦に振るう。

 ゴトリと、左腕が肩から滑り落ち、砂浜に転がった。

 ――消費電力の計算、絶対間違えてるぜ。

 外部機器として認識されたランドセルから送られてくる情報で、バッテリ残量が目に見えて減っていくのがわかる。

 借りておいてなんだが、威力がでかすぎるライフルや、長時間は使用できない、何のためにあるのかすらわからないヒートソードの使い勝手については、永瀬にレポートを送ってやろうと思っていた。

 オモチャだとしても、完成度を上げたいだろうから。

「やめろっ。やめてくれ! これ以上グランカイゼルを壊さないでくれ!!」

「知ったことか。お前如きがエリキシルバトルで最強なんて嘯いたのが悪いのさ、西条!」

 泣き声が混じる西条に言い返し、俺は逃げ回るグランカイゼルにイシュタルを接近させる。

「巨大ロボットかぶれの金属の塊なんぞ、削ぎ落としてやるぜ」

 唇の端に笑みを浮かべ、俺は岩壁に追いつめたグランカイゼルを、イシュタルのヒートソードで斬りつけた。

 



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サイドストーリー2 海人(アクアマリン)の祈り6

 

       * 6 *

 

 

「それでは僕はこの辺で」

「おう。連絡待ってるぜ」

 話を終えて席を立った永瀬を、貴成は満足そうな笑顔を浮かべて見送る。

「あっ。そこまで送っていきます!」

 マーメイディアをアタッシェケースに仕舞った青葉は、それを手に持ち店の外に向かう永瀬の後を追う。

「いやぁ、本当に暑い。でもこの辺は食事は美味しいし、温泉とか色々あって、良いところなんですよねぇ」

 店の外に出、照りつける太陽を手をかざしながら仰ぎ、にこやかな笑みを浮かべる永瀬。

 その笑みは心なしか、最初に見た愛想ばかりのものと違って、楽しそうなもののように、青葉には思えていた。

「あの、永瀬さん」

 歩き出そうとする永瀬に声をかけ、振り返った笑顔に、話を聞いていて感じた疑問をぶつけてみる。

「どうして永瀬さんは、うちに来たんですか?」

 伊豆半島には大小の港が多くある。漁師をやっている家も無数に。

 その中で何故青葉の家に来たのか、疑問に思っていた。

「知り合いから、ここなら僕のほしいものが見つかるかも知れない、と言われたからなんだ。半信半疑だったんだけどね」

「ほしいもの?」

「水中用のスフィアドールと、それを扱えるソーサラーさ。ちょっとこちらの事情で、それの調達が困難だったんでね。君にはこれから僕の協力をしてもらうよ。中学生をアルバイトで雇うわけにはいかないから、君のお父さんに試験協力費として渡す形になると思うけれどね」

「それは構わないけど。こっちから言い出したことだし。……それより、その知り合いって、誰なんですか?」

 マーメイディアを水中用に改良していることを知っている人は、少ない。

 学校の友達の何人かと、スフィアドールを通して知り合った人には話した憶えがあったが、今日永瀬に話すまで親にも秘密にしていた。

 それ以外で知っているのは、昨日戦った西条と、その後に会った猛臣だけだ。

 にこやかな笑みはそのままに、瞳に優しげな色を浮かべた永瀬が教えてくれる。

「昨日の夜、電話がありましてね。水中用ドールの情報をくれる代わりに、僕が造ったスフィアドール用の武器を貸してほしいと。今日の昼に使うからと、朝持っていきましたよ、槙島猛臣君が」

「猛臣、が?」

 そうじゃないかとは思っていた。

 スフィアロボティクスと繋がりがあって、マーメイディアのことを知っているのは彼しかいなかったから。

 何のためにそんなことをしてくれたのかまでは、青葉にはわからなかったが。

「あの、猛臣はいまどこに?」

「どうでしょう。昼頃にはうちの所長が戻ってきて、打ち合わせをしたら帰ると話していましたからね。そろそろ打ち合わせは終わっているかもしれません」

「昼頃に?」

 それを聞いて青葉は、ショートパンツのポケットから携帯端末を取り出した。

 表示された時間は、もう十二時をずいぶん過ぎている。

 永瀬や貴成と話していて、時間を忘れてしまっていた。

 西条との約束の時間は過ぎてしまっているが、メールなどで来るように催促する連絡も入っていない。

 ――もしかして、猛臣が何かした?

 永瀬から武器を借りたという猛臣。それがどういう意味かは確認できなかったけれど、何となく予感はあった。

「こんな素敵なお嬢さんと知り合いになったというのに、挨拶もせずに帰ってしまうつもりですかね、槙島君は」

「ボクなんて、そんな……」

 初対面の人に性別を当てられることなんて久しぶりで、それも素敵なお嬢さんなどと言われて、青葉は戸惑ってしまっていた。

「でもまだ、追いかければ間に合うかも知れません。研究所の位置はここです。そんなに遠くありませんよ」

「ありがとうございます! ちょっと行ってきますっ」

「行ってらっしゃい。頑張って」

 永瀬に見送られ、マーメイディアを入れたアタッシェケースを抱えた青葉は、教えてもらった事務所に向かって駆けだした。

 

 

          *

 

 

「あぁ。別に進捗なんて俺にとってはどうでもいいから。連絡なんていらないから。あぁ。じゃあな。……ったく、なんだってんだ」

 やっと戻ってきた所長との打ち合わせを終え、当初の目的だった開発の進捗情報を手に入れることはできた。難航するかと思ったが、調査航海で疲れていたからか、けっこうあっさり差し出してくれた。

 やっと暑くて仕方ない伊豆での用事が終わると思って支所の建物から出たら、永瀬からの電話だ。

 調査のために船に同乗させてもらえること、青葉の協力が得られたことの報告と、たいしたことのない世間話で無駄な時間を食ってしまった。

「まぁ、意外な成果もあったし、よかったか」

 西条のグランカイゼルから奪い取ったエリキシルスフィアを手の中で転がしながら、相変わらず強烈な陽射しの下、建物から出た俺は裏手の駐車場へと向かう。

 荷物をトランクに放り込んで車に乗り込もうとしたところで思い出す。

「青葉のスフィアを回収し忘れてたな、そう思えば」

 用事のひとつはそれだったというのに、忘れてしまっていた。

 いまからあいつの家に向かうのも気が引けて、俺は車のドアを開けて乗り込もうとする。

 そのとき、背中に何かがぶつかった。

「間に、合った――」

 俺の背中に額を押しつけて荒い息をしているのは、青葉。

「……何しに来たんだよ、お前は」

 せっかく今回はこのまま帰ろうと思っていたのに、あっちから俺のところに来るとは思ってなかった。

 身体を離して息を整えてる青葉の手には、携帯端末が握られ、胸にはドール用のアタッシェケースが抱えられている。

 車のトランクには、エリキシルスフィアを搭載したイシュタルがある。

 いまさら俺がエリキシルソーサラーであることを、隠すことはできなかった。

 ――戦うか? 青葉と。

 おそらく男になって、親父の跡を継ぎたいのだろう青葉の願いは、金で買えるものじゃない。

 身体を起こして真剣な顔つきを見せる彼女と、俺は戦う覚悟を決めた。

「あの、お礼が言いたくて!」

「お礼?」

「うんっ。ボクの願いが叶いそうだから。それは猛臣のおかげだから!」

「お前の願いは、だって――」

「ボクの願いは親父と一緒に仕事すること。親父の手伝いをすること。跡を継ぐのは、さすがにエリクサーで願いを叶えても、現実的には無理だと思うから」

 そう言った青葉は笑う。

 確かに女の子が男なるなんてことが起こったら、普通の人はその現実を受け入れられないだろう。どんなトラブルになるのかはわかったもんじゃない。

 ――それは、死んだ奴が生き返っても同じだがな。

 俺の願う穂波の復活だって、叶った暁には騒動を起こすことになるだろう。だがいまの俺なら、その騒動すらも押さえ込める。そうできるように家の中でも、現実でも力をつけていっている。

 俺の力だってまだ充分とは言えないのに、ただの漁師の家に生まれ、中学三年生に過ぎない青葉じゃ、願いが叶ったときのトラブルなんて押さえ込めるとは思えない。

 妙なところで青葉は現実がわかってると、俺は少し感心してしまっていた。

「別に俺は何もしてねぇよ」

「永瀬さんにボクのことを伝えてくれたのは、猛臣なんでしょ?」

「それは……、その……」

「それにたぶん、あの浜で先生とも戦ったんでしょ?」

「まぁ、それは、そうだが……」

「だから! ありがとう」

 深々と頭を下げる青葉。

 頼まれたわけでもないし、エリキシルスフィアを集めるためという自分の目的もあってのことだから、素直にお礼を言われるとどう反応していいのかわからなくなる。

 陽射しで汗ばむ頭を掻きながら、俺はどう返事をしていいのかわからない。

「それで、西条先生は?」

「まぁ大丈夫だろう。心折れたみたいだしな。もしかしたら夏休み前に学校辞めてるかもしれないぜ」

「そっか。よかった、のかな?」

「よかったんじゃないか?」

 グランカイゼルをばらばらにされた西条は、放心した後、子供のように泣いていた。その後のことまでは確認していないが、心が強い奴のようには見えなかったから、本当に愛知まで逃げ帰ってるかも知れない。

 あいつの技術力があればグランカイゼルをもう一度造ることは問題ないだろうが、エリキシルバトルへの参加資格は失ってる。青葉にちょっかいをかけてくることはないだろう。

「本当にありがとう、猛臣。ボクができないことを、全部やってくれて」

 嬉しそうに笑ってみせる青葉に、俺は眉根にシワが寄っていくのを感じていた。それと同時に思い浮かぶ疑問。

 ――なんでなんだろうな。

 初めて会ったときには男の子にしか見えなかった青葉だったのに、いま浮かべている柔らかい笑顔は、女の子のそれにしか思えなかった。

 どういう変化があったのかはわからないが、俺には彼女に返す言葉が見つからない。

「だから、さ」

 言って青葉は抱えていたアタッシェケースを開き、何かごそごそとやり始める。

 そして差し出したのは、ピンポン球よりひと回りほど小さい金属部品でできた球体、スフィア。

「いいのか? お前」

「うん、いいんだよ。ボクの願いは、エリクサーがなくても叶えられるものになったから」

 金で買い取るか、戦って奪い取るかするはずだったエリキシルスフィアを差し出されて、俺はそれに手を伸ばすのをためらってしまった。

「その代わりに、ほしいものがあるんだ、猛臣」

「……何がほしいんだ?」

 タダより高いものはない。

 どんな要求をされるのかと、俺は身構える。

 どうしてなのか、俺から視線を外した青葉は、もじもじと言いづらそうに視線を彷徨わせる。

 しばらく迷った後、顔を赤くした彼女は俺の目を見て、言った。

「猛臣の連絡先を教えてほしいんだっ」

「連絡先? そんなの別に構わないが……。エリキシルスフィアの代償が、そんなのでいいのか?」

「うん! それでいいんだよっ。だって猛臣は、これが手に入ったら、もうここには来なくなるでしょ? そしたらもう会えなくなるじゃないか……」

 悲しそうにうつむく青葉に、呆れた俺は言う。

「何言ってんだ。夏のこの暑さはイヤだが、また来るさ。干物が美味しかったからな」

「本当に?!」

「あぁ。嘘は吐かねぇよ、俺は」

「そっか……。そっか。うんっ、絶対来てね! ボクも親父を手伝って、もっとたくさん干物も美味しいものも用意して、待ってるから!」

「頼むぜ」

「うん!」

 嬉しそうに笑う青葉に、俺はもう二度とこいつを男だとは思わないだろうと、そう思っていた。

 

 

             「海人(アクアマリン)の祈り」 了




 今回の話は、虐げられる弱者→外からやってきた主人公が目撃→弱者の事情を知る主人公→秘密裏に悪漢を倒す主人公→主人公の活躍を知り礼を述べる弱者、という王道時代劇を踏襲した構成となっていました。
 猛臣はエリキシルバトルでは様々な地方に出向いて一番多くバトルを経験している上、本人は隠しているものの意外に情にもろい性格をしているため、動かしやすいキャラであったりします。
 穂波のことしか見ていない彼は、自分が好かれることを全く想定していない朴念仁でもあるので、克樹よりもよほど主人公適正が高いと言えるでしょう。
 猛臣をもう少し動かすのもいいですし、別の人物を主人公にしたサイドストーリーのネタもひとつありますが、次は本編、第四部「鋼灰色(スティールグレイ)の嘲り」となります。
 公開時期についてはまだはっきりとは言えませんが、また予定がはっきりしましたら活動報告などでお知らせさせていたきますので、いましばらくお待ちください。
 今回限りの登場となりますが、青葉やマーメイディアの情報を少しばかり記載しておきます。

●登場人物

・青葉由貴(あおばゆき)
 十四歳の中学三年生女子。男に生まれればよかったと父親から言われて育ったこともあり、性格的にも容姿的にも男っぽくしている。またエリクサーでも男になることを願っていた。ただし、本人としては成長するに連れて女である自分を意識するようになり、それが悩みにもなっていた。
 ソーサラーとしてはスフィアカップ地方大会準優勝をする程度は強いものの、スフィアカップ以後はバトルをほとんどしていないのもあり、さほど強いわけではない。バトルに入ると慌てたりしつつも冷静に状況を観察し、組み立てられる。バトルには向いていないが、スフィアドールを潜水させる能力がある。その能力は作中で発揮されることはないが、後々研究され、応用されていくものとなる。
 猛臣とのその後についてはこの場で語るものではない。

・西条満長(さいじょうみちなが)
 二十七歳で、非常勤や臨時の講師などしている男。裏ではスフィアドールを使って賭けバトルを行っているアンダーグラウンドな世界に籍を置いている。頭脳はかなり優秀であったが、巨大ロボットが好きすぎて研究の世界に身を置き続けられなかった。
 市井で研究を重ねてグランカイゼルなどのロボットを作成し、エリクサーにより永遠の若さを手に入れた後は巨大ロボットの建造に着手するのが夢だった。
 ずいぶん時間が経ってからになるが、彼のロボット技術は巨大ロボットではないものの、日の目を見ることとなる。

●スフィアドールカタログ

・マーメイディア 身長二〇センチ
 スフィアカップ当時は極々一般的なバランスタイプのバトルピクシーであったが、現在は水中活動用にパワータイプのドールとなっている青葉の愛機。
 元々はほぼバトルピクシーのキットであり、現在は小遣いや大漁のときは気前のよい親父から得たお金で第五世代パーツに換装されている。水中用ピクシードールとして腰の左右に大型のスクリューがある他、暗いところに強いカメラアイ、パッシブの音響センサーなど水中用のセンサーを各種搭載している。
 地上でのバトルを想定していないため、現在はバトルピクシーとしては並以下の性能しかない。

・グランカイゼル 身長四二センチ
 実は強化外骨格の部分の名前がグランカイゼルであり、本体ドールの名前はエンプレスという名前がつけられている。
 グランカイゼルは油圧やモーターなどで駆動する機械式のピクシードール用外骨格であり、ほぼ金属の塊となっている。重量はかなり重く、両腕に電動ガンを搭載し、ローラーダッシュで移動するなど装備も豊富。通常のピクシーではあり得ない防御力と攻撃力に移動速度により、アンダーグラウンドバトルではここ最近は無敗の成績を誇る。
 ただしサイズから考えるとフェアリードールクラスであり、そのサイズがほしいだけなら素直にフェアリードールを使った方が安上がりであるため、ピクシードール用に強化外骨格をつくるという思考そのものがナンセンスと言える。アングラバトルとエリキシルバトルに特化した外部機器。
 本体であるエンプレスは第五世代フルスペックフレームを使用したドールであるが、グランカイゼルを制御するためにつくられているため、一応最低限の動作性能はあるものの、バトル用に使えるようなドールではない。


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第四部 序章 鋼灰色(スティールグレイ)の挑戦
第四部 鋼灰色(スティールグレイ)の嘲り 序章


前回までのあらすじ

 無から死者すら復活させるという生命の奇跡を起こせるという水エリクサーを求め、音山克樹は誘拐事件が原因で亡くなった妹の脳情報から構築した仮想の人格、人工個性のリーリエとともに身長二〇センチのピクシードール、アリシアを使いエリクサーを求める者たちが争うエリキシルバトルに参加した。
 過労で亡くなった母親の復活を願う浜咲夏姫、病没した恋人の梨里香との再会を想う近藤誠、事故で見えなくなった視覚回復を求める中里灯理を下し、バトル参加資格であるエリキシルスフィアを奪わず仲間にした克樹が求めるのは、妹の百合乃の復活ではなく、彼女を殺した誘拐犯を苦しめて殺すこと。
 親交を深める克樹たちの前に現れたのは、二年ほど前に行われたピクシードール同士の公式戦スフィアカップの優勝者という強さと、関西の資産家一族という金の力を使い、親戚の女の子である穂波を復活させようとする槙島猛臣。事故により命と危機と借金を負うはめになった夏姫の父親をダシに、夏姫のエリキシルスフィアを譲渡を求めるが、克樹と戦い引き分けることで決着した。
 そんな克樹たちの裏で蠢くのは、バトル主催者である魔女モルガーナ。克樹を通して魔女の存在を確認した資産家の女性、平泉夫人は克樹を手伝いつつも独自の動きを見せる。リーリエを生み出し、平泉夫人を手伝う克樹の叔父の彰次は、バトルの外にいながらも関係を深めていく。
 モルガーナによって生み出されたもう一個体の人工個性エイナは、独立した見せ、そしてリーリエもまた……。
 混迷を見せる状況に翻弄されつつも、克樹たちの戦いはなおも続いている。


序章 鋼灰色(スティールグレイ)の挑戦

 

 

 そこは最初から寝室だったのだろうか。

 レースのカーテンが引かれた窓から入る強い夏の陽射しから離れ、運動ができそうなほどの広さと天井の高さがありながら、ベッドは壁に近い、薄暗がりの下に置かれていた。

 落ち着いた色合いを見せる木組み細工のような模様の精緻さとは対象的に、がっしりとした造りながら、鉄パイプを組み合わせた実用を重視したベッドの脇には、スティール製のサイドテーブルと、やはり実用性ばかりが漂う簡素なガラスの水差しとコップが置かれていた。

 人間のそれに似せていても、精気のない目をしたメイド服姿のエルフドールが側に立つベッドには、静かに老人が横たわっている。

 痩せて頬張った首筋と、やつれた顔立ちの老人は、目を閉じたまま、微かな呼吸を繰り返す。

 そんな静寂を打ち破ったのは、ノックもなしに開け放たれた扉の音。

 入ってきたのはひとりの女性。

 豊満な身体を見せつけるような紅いスーツを身に纏い、紅い色をした唇を厳しく引き結んだ女性は、ピンヒールの音をカツカツと立てながら、迷うことなくベッドへと近づいていく。

「お前か」

 それに気がついた老人は目を開け、ため息のような声でそう言った。

 老人がシーツの下から手を出すと、スマートギアで制御されているわけではないメイドドールが彼の身体の下に腕を差し込み、起き上がるのを介助した。

「お前がここに直接足を向けるのはいったい何年ぶりだ? モルガーナ」

 皮肉を込めた光を瞳に宿し、嘲るように唇に笑みを浮かべた老人は、側までやってきた女性、モルガーナに声をかけた。

「さぁね。必要のない場所に来ることなどないから」

「ワシがここに住んでいるのにか? お前はワシごと不要というつもりか。まぁ、一線を退いた老骨なぞたいした役にも立たないだろうからな、仕方あるまい」

「貴方はまだ必要よ」

 苛立っているかのように、わずかに顎を突き出し老人を見下ろしながら、モルガーナは眉根にシワを寄せる。

「貴方の声はあの業界ではまだ重いもの。ただ貴方が生きているというだけでも、その影響は無視できるものではないのは、貴方も理解しているでしょう?」

「ふんっ。ワシの後継になれる人材が見つからなかっただけだろうに」

 眉根のシワを深めるだけでなく、明らかにイヤそうな表情を浮かべるモルガーナに、老人は楽しそうな笑みを浮かべた。

 不機嫌そうにしていても、やはりモルガーナは美しい。

 まるで古代の女神を模した彫像のように。

 生き、動き、言葉を喋る彼女は、初めて出会った頃と寸分変わりない姿をした、まさにこの世に顕現した女神。

 女神のような美しさを持ちながら、彼女からあふれ出るのは、人を畏れさせる黒と、ともすると醜さを放つ情念の紅の、二色の炎。

 美しさと醜さを兼ね備えたモルガーナは、魔女と呼ぶべき、呼ばれるべき女。

 老人には、そう思えていた。

「貴方は相変わらずね」

「お前ほどじゃないさ」

 皮肉を込めて言ったのだろうモルガーナの言葉にそう返すと、彼女は苦々しげな表情を浮かべた。

「そんなことはいいわ。それよりも貴方、あの子たちと戦うつもりなのね?」

「耳が早いな。まだ招待状は奴らの手元まで届いていないだろうに」

「貴方が望むならば、戦わずとも与えるわ。貴方はそれだけのことをしてきたのだから。予定を、四半世紀ほど繰り上げられたのは、貴方のおかげなのだからね。もちろん、与えられるのはすべてが終わった後だけれど」

 ベッドに片手を着き、顔を近づけてきたモルガーナは目を細めて言う。

「いらぬわ」

 唇の端に貼りつかせた嘲りで返すと、モルガーナは再び不機嫌に顔を歪める。

「これまで、ワシはほしいものは自分の力で勝ち取ってきた。お前が一番良く知っているだろう? 今回もそうするだけさ。それに、もうそう遠くなく終わるにしても、ワシがそれまで保つかもわからん。最初にお前に言った通り、好きにしてるし、今後も好きにさせてもらう」

 不機嫌とも、憎々しげとも、怒りとも違う表情に顔を歪めたモルガーナは、ベッドに背を向けた。

「せいぜい頑張りなさい」

「あぁ、頑張るさ。いまはそうできるのだからな」

 小さく舌打ちを残し、モルガーナは入ってきたときよりも大きな足音立て、部屋から出ていった。

「いまはもう、ワシのためだけに頑張ることができるのだからな」

 閉じられた扉に向かって、老人はそう呟いていた。

 

 

 



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第四部 第一章 アマテラス
第四部 鋼灰色(スティールグレイ)の嘲り 第一章 1


第一章 アマテラス

 

 

       * 1 *

 

 

「三年振りだな」

「そうだね。あのとき君はまだ中学生で、僕も高校生だった。時が経つのは早いものだね」

 猛臣(たけおみ)の声に穏やかな表情と声で応えたのは、ひとりの青年。

 高畑伸吾(たかはたしんご)。

 仕事の関係でメールでのやりとりはあったし、電話で話すこともあったが、最後に直接顔を合わせたのはいまから三年前、スフィアカップのフルコントロール部門、その決勝戦だった。

 そのときは激戦の末、猛臣はかろうじて高畑を下し、優勝をつかみ取った。

 それから三年、年齢の他にも多くのことが変わってしまったことを、久しぶりに対峙した高畑を見て猛臣は思う。

 高校を卒業し、大学に入ってすぐに仲間とともにソフトウェア会社を立ち上げた高畑は、学生をしつつスフィアドールのコントロール系ソフトで大きな成果を上げている。

 スフィアドール業界で天才と呼ばれている人物は、いま現在ふたりいる。

 ひとりはソフトウェアとハードウェアの両方の面で、さらに営業的にも経営的な意味でもスフィアドールを世界に普及させた、引退こそしているが、いまなお業界への影響力の大きいスフィアロボティクス創立者である天堂翔機(てんどうしょうき)。

 もうひとりは、本人が表に出たがらないため業界の誰もが知っているというわけではないが、第四世代スフィアドールの頃よりエルフからピクシーまで、多くのドールパーツの設計や製品化を手がけ、まるで人のように振る舞うフルコントロールシステム「AHS(アドバンスドヒューマニティシステム)」をほぼ独力でくみ上げた、克樹の叔父である音山彰次(おとやまあきつぐ)。

 高畑はまだ会社を立ち上げて間がないため有名になるほどの成果は出せていないが、ソフトウェアに関しては天堂翔機や音山彰次をも超える潜在能力を持っていると噂されている。

 専門は人工筋やドール用フレームなどのハードウェア方面だが、セミオートシステムを自分の手でつくり出すなどソフトウェアにも精通している猛臣が認めるほどの才能を、彼は持っている。

 広い芝生の庭から少し離れたところにある、母屋の掃出し窓から険しい顔で高畑のことを見つめている女性は、風の噂によると二歳年上の幼馴染みで、先日籍を入れたばかりの奥さんだったはずだ。

 才能にも、仕事にも、伴侶にも恵まれている高畑だが、猛臣の前で彼は車椅子に座っている。

 三年前はまだ自分の足で立っていた彼がスマートギアを自分の頭に被せようとしている手は、細い。

 治療法の確立されていない難病により、彼の身体は日に日に衰え、命はあと五年、薬が効いて保ったとしても十年はないと医者から言われていると、話には聞いていた。

 ――当然だろうな。

 他の人が欲するほとんどのものを持ちながら、高畑は唯一、未来を持つことができていない。

 彼がエリクサーを求めるのは、当然のことだった。

「どうしたんだい? 猛臣君。いまさら僕と戦いたくないとでも言うのかい?」

「戦うさ」

「そうだよね。君は君の、僕には僕の、叶えたい願いがある。それならば戦うしかない。でも、三年前のときのようにはいかないよ」

 ヘッドギアタイプのスマートギアのディスプレイの下、唇にぎこちない笑みを浮かべた高畑は、膝の上に立たせた白いソフトアーマー、淡い青と黄色に塗り分けられたハードアーマーを纏った比較的シンプルな形のドール、アマテラスを操り、芝生の上に立たせた。

 ヘルメットタイプの黒いスマートギアを被った猛臣も、手にしていた金色のセミロングの髪と金色のハードアーマーのイシュタルを地面に立たせた。

 高畑との戦いは、猛臣にとってあまり気が進まなかった。

 三年前の強さをさらに極めてきているだろうこともそうだが、身近と言うほどでないにしろ、見知った人間の願いを砕くか、逆に砕かれるかの戦いにはためらいが出る。

 同時に、おそらく彼は知らないであろう、魔女の存在と、克樹が匂わせていた魔女の企みが、猛臣の心を鈍らせる。

「何をためらうのかわからないが、君だって願っているのだろう? 穂波さんの復活を」

「――なんで、それを!」

 笑みを唇に貼りつけたままの高畑の言葉に、猛臣はためらっていた気持ちを投げ捨て、怒りを身体に満たした。

「僕だって少しくらい調べるさ。戦うべき相手が誰で、どんな人物かくらいはね。さすがに、この身体では自分から出向くのは難しかったけれど」

 克樹のように戦う気がほとんどないならともかく、願いを叶えることに積極的になるなら、戦う相手のことを調べるなど当たり前だ。猛臣もそうして様々な方法で調査をして、相手のところに出向いて行ったのだから。

「さぁ。お互い、全力で戦おう。願いを叶えたいというのもあるけれど、僕はいま全力の君と戦いたくてうずうずしているのさ。日本最強の君と、ね。……アライズ!」

「ソーサラーとしてなら、俺は最強なんかじゃないがな。――アライズ!」

 高畑のアマテラスに続き、猛臣もイシュタルをアライズさせた。

 シンプルな形状のアマテラスと、各所に牙を生やしたイシュタルが、一二〇センチのエリキシルドールとなって向かい合う。

 ――もう、迷ってるときじゃない。

 深呼吸をし、気持ちを落ち着かせた猛臣は、長刀を剣道の中段に似た構えを取るアマテラスに、両手に剣を抜かせたイシュタルを突撃させた。

 

 

 

 

 ――やっぱり強ぇな!

 左に振り被った右手の剣の横薙ぎに、一瞬遅れて左手の剣を突き出す。

 イシュタルのカメラアイに、スマートギアの外部カメラを組み合わせて補完した広い視野で、猛臣は高畑の操るアマテラスの動作に注目した。

 右手の横薙ぎを長刀の背を沿わせるようにして逸らし、左手の突きを柄尻で叩き飛ばす。

 次の瞬間、地を這うような位置から天を突く斬撃が襲いかかってきた。

 剣を振るったばかりで体勢が前に傾いているイシュタルだが、猛臣は高畑のその攻撃を読んでいた。

 残していた右足の余力で地を蹴り、イシュタルをアマテラスの横に着ける。

 しかしそこに天から雷鳴のような閃きが降ってくる。

 かろうじて両手の剣を交差させ、イシュタルはアマテラスの攻撃を凌ぐことに成功した。

「ちっ。やっぱこいつじゃ辛ぇか」

 イシュタルを自分の近くまで飛び退かせ、猛臣は持たせてた二本の剣の状態を確認した。

 スタンダードな太さと長さの剣は、その両方ともが先ほどのアマテラスの長刀を受け止めたことで、大きな亀裂が入っていた。

 それ以外にも、まだ開始から二分と経っていないのに、剣には欠けやヒビが各所に入っている。

 高畑のドール遣いは平泉夫人や夏姫のそれに近い。

 自分から攻撃を仕掛けてくることも少なくないが、最小限の範囲の細やかな動きで戦うバトルスタイルだ。

 ただしふたりと大きく違う点がある。

 バランスタイプの闘妃、スピードタイプの戦妃を好む平泉夫人、バランス寄りのスピードタイプのブリュンヒルデを使いこなす夏姫と違い、高畑のアマテラスはバリバリのパワータイプということ。

 パワーを重視した人工筋は、電圧がかかってから収縮までの反応が一般的には鈍い。

 バトル用の人工筋はパワー重視でも収縮反応が高速なものを選んでいると思うが、それでもスピード寄りのバランスタイプのイシュタルを相手に、人間の動きを超えるスピードで行われるエリキシルバトルでは致命的な遅れとなり得る。

 しかし病が発症する前、武術をやってかなりの成績を残している高畑は、常人離れした反射神経と先読みにより、スピードタイプやバランスタイプにも負けない動きを、パワータイプのドールで実現している。

 スフィアカップのときは高畑の先読みを上回る速度のイシュタルで勝ちを得ることができたが、あれから三年近い時間が経過している。猛臣とイシュタルも変わったが、高畑とアマテラスもまた大きく変わっていることを感じていた。

「相変わらずのパワーだな、アマテラスは」

「そう言う槙島君もよく反応したね。君でなければいまので終わっていただろうに」

 そんな声をかけ合いながら、猛臣はイシュタルに先ほどの剣より幅も厚みもあり、長さが短めの幅広剣を二本、抜かせる。

 折れてこそいないものの、自らの攻撃によってヒビが入ってしまった長刀を地面に突き刺し、アマテラスも予備の長刀を背中から抜き放った。

「行くぜ。ライトニングドライブ!」

 声とともにスマートギアの表示に配置したボタンをポインタで押し、全身の人工筋のリミッターを外すリミットオーバーセット、ライトニングドライブを発動させ、離れていたアマテラスとの距離を一気に詰める。

 ――出し惜しみはなしだ!

 スフィアカップのときより明らかに反応速度もパワーも上がっている高畑とアマテラスを相手に、猛臣は必殺技を出し惜しんでいる余裕はないと判断した。

 一気に決着をつけるために、ライトニングドライブを発動させたイシュタルでアマテラスに攻撃を開始する。

 斬り、突き、払い、薙ぐイシュタルの攻撃を、振り回すには不利なはずの長刀を操り、アマテラスはことごとく防ぐ。

 その機敏さから、高畑もまたリミットオーバーセットを使っていることを意識する猛臣は、自分の不利を悟っていた。

 人工筋に高い電圧をかけるリミットオーバーセットは、電力消費が大きい。

 とくに克樹とリーリエのアリシアと同様に、動き回って戦うスタイルのイシュタルは、ほぼ同じ場所で姿勢と向きを変えるだけで戦っているアマテラスに比べ、大きなエネルギーを消費している。

 長期戦になれば克樹と戦ったときのように、こちらが先にエネルギー切れでアライズを解除されてしまうことは確実だった。

 ――だが、俺様は勝つ!

 心の中で気合いを入れた猛臣は、アマテラスからの鋭い反撃を凌いで、イシュタルを大きく引かせた。

 収めた幅広剣の代わりに両手に取ったのは、鞭。

「またイロモノ武器を」

 余裕の笑みを口元に浮かべる高畑は、唸りを上げて迫る鞭の一本を長刀で絡め取る。

 もう一本を、新たに抜いた短刀に絡ませ、思い切り引っ張った。

「ちっ」

 パワー勝負では相手にならない。

 猛臣はあっさりと鞭を手放し、剣を抜かせずにイシュタルの手を背中に伸ばさせた。

 投擲。

 右手から三本、左手から三本、追撃の右手と、アマテラスに向けてナイフを投げつけた。

 通常のピクシーバトルにおいてナイフなどダメージにならないどころか、小さすぎて正確に飛ばすことすら困難な武器であるが、サイズが六倍となるエリキシルバトルにおいてはダメージを与えうる攻撃となることを、先日の中里灯理との戦いで感じた猛臣は、それを早速取り入れていた。

「こしゃくなことを」

 言いながらアマテラスの短刀で最初の三本をはたき落とした高畑は、続く六本を左腕から伸びてきた布地で絡め取った。

 腕に巻きつけてあった布地は、おそらくアクティブアーマー。

 猛臣のもう一体のドールであるウカノミタマノカミにもマントのようにして装備してる、電圧をかけることで硬化するアクティブアーマーは、ナイフ程度の投擲武器なら完全に防げることは灯理戦で実証済みだ。

「今度はこちらから行かせてもらうよ」

 言っておもむろにアマテラスを前進させた高畑は、イシュタルが幅広剣を抜くよりも先に攻撃を仕掛けてきた。

 身体を傾けさせて避けたが、右肩を貫いた突き。

 フレームや人工筋にダメージを受けることはなかったが、セミオートで敵に襲いかかるはずの牙が砕かれていた。

「くっ!」

「まだまだ」

 動作は決して速くなく、動作予測アプリにより完全に補足できているのに、イシュタルを動かして弾こうとする瞬間に精密に軌道をズラして襲いかかってくる攻撃に、猛臣は奥歯を噛みしめる。

 しかも一撃一撃が重いその攻撃は、確実にイシュタルのアーマーに傷を増やしていた。

「ライトニングシフト!」

 押し込まれかねない攻撃の圧力に、猛臣はイシュタルの傷が増えるのを厭わず必殺技を発動させた。

 移動と突進のために使うライトニングシフトを近接距離で使ったイシュタルは、左肩をぶつけてアマテラスの身体ごと移動を行う。

 必殺技の停止と同時に足で急ブレーキをかけ、アマテラスを押し飛ばした。

 ――正念場だな。

 片方は半分に斬り落とされ、片方は傷だらけでただの金属の棒と化している幅広剣を捨てさせ、猛臣はイシュタルに手刀を構えさせる。

 短剣程度の武器はまだ持っているが、主要な武器は使い切っていた。

 飛ばされても倒れることなく体勢を立て直したアマテラスは、イシュタル同様にぼろぼろになった長刀を捨て、それより短い太刀を腰から抜いた。

 指先にタングステン芯を仕込んだイシュタルの抜き手は、金属製のエリキシルドールのアーマーを貫くほどに強力だ。

 しかし、長刀ほどの長さではないとは言え、太刀の間合いの内側に入らねば攻撃は届かない。そして高畑の操るアマテラスは正確で、精密な攻撃をし、彼の先読みは猛臣自身とアプリを組み合わせた予測を上回る。

 自分の不利を、猛臣は自覚していた。

 ――だが、俺様は負けない。

 静かに、構えを取り合うイシュタルとアマテラス。

 言葉を交わすことなく、唇を引き結んだ猛臣と、薄く唇に笑みを浮かべる高畑。

 離れた場所から見つめている女性を立会人に、ふたりと二体が見つめ合う。

 夏らしい強い陽射しが照りつける下、三人の呼吸の音が微かにするだけの、沈黙。

 先に動いたのは、高畑のアマテラスだった。

 無造作にぶら下げた太刀を手に、イシュタルへと大きく踏み出すアマテラス。

 しかし――。

「何?!」

 一歩目を踏み出したアマテラスは、二歩目を踏み出すことなくうつぶせに倒れた。

 ほぼ同時にイシュタルを踏み出させていた猛臣は、右足で鞭を踏ませたまま、左足でもう一本の鞭を踏ませる。

 生き物のように蠢いた鞭は、アマテラスの右腕に絡みつき、関節の自由を奪う。コントロールウィップ。

 使い所がほとんどないと言えるほどピクシーバトルでは使えず、扱いも難しいコントロールウィップは第五世代規格の代表的な武器のひとつであるにも関わらず、注目されることは少ない。

 通常は手に持ち、手のひらに設置した接続端子によって制御されるものであるが、猛臣はまだ余裕のあったデータラインを使い、手のひらだけでなく足の裏にも接続端子を増設していた。

 再びアマテラスが地に伏すのを見る前に、猛臣はイシュタルに地を蹴らせ、その背中に着地させる。

 アマテラスが動いて逃げようとするより先に、データラインが集中し、スフィアドールの急所となっている首のフレームを、イシュタルのタングステンの手刀が切断した。

 ビクリと痙攣するかのように身体を震わせた後、アマテラスの動きが停止する。

「……また、ずいぶんと姑息な手を使うようになったものだね」

 行動不能となったアマテラスのアライズが解け、一二〇センチのエリキシルドールから二〇センチのピクシードールに戻った後、片手で顔を覆いうつむく高畑が、喉から絞り出すような声で言った。

 猛臣の視点からでは見えないが、背の低いイシュタルの視点からは、うつむいた彼が奥歯を噛みしめ、唇を震わせているのが見えていた。

「当然だ。これは命懸けの戦いなんだからな」

 流れ落ちる涙を隠しもしない高畑の奥さんが駆け寄ってきて、首を切断されたアマテラスを拾い上げた。それを胸に抱き、愛する者の元へと持っていく。

 小さく「カーム」と呟きイシュタルのアライズを解除した猛臣は、言葉を続ける。

「貴方にとっては貴方自身の命を懸けた戦いだったろう。俺に取っては俺の命は懸かっていないが、俺にとって大切な人の命が懸かってるんだ。他の奴らも命だったり、命にも等しいものを懸けて戦ってるんだ。命の奇跡を起こせるエリクサーを得るためには、命懸けで、スフィアカップみたいなルールに縛られずどんな手段でも使って、勝つことが必要だ」

「……確かに、そうだな」

 猛臣は、高畑がスフィアカップのときのような行儀の良い戦いをしてくるだろうと予想していた。

 彼は充分に強く、礼儀正しく、プライド高い人物だからだ。

 そうした部分は自分にもあることは感じていたが、猛臣は克樹たちと戦い、平泉夫人に敗れ、エリキシルバトルを勝ち抜くために必要なのは戦闘能力だけでなく、粘り強さや、公式ルールに依存しない戦法であることを、充分以上に感じていた。

 もし高畑がそうした苦い戦いを経験していれば負けていたのは自分だと思っていたが、身体の自由が利かず、対戦相手を自宅に招くしかない彼は、そこまでの戦いを経験していないと調査が済んでいた。

「僕の負けだ、猛臣君。僕が集めたエリキシルスフィアはこれで全部だ」

「ありがとう」

 奥さんからアマテラスを受け取り、スフィアを取り出した高畑は、これまでの戦いで得たものだろう、合計四個のスフィアを車椅子を転がして近寄り、猛臣の手に握らせた。

 ――勝てたな。

 イシュタルを拾い上げ、ドール用ケースに仕舞い込む猛臣は、感慨深くそう思っていた。

 克樹や夏姫のようなノーマークの相手が強敵だったのは例外として、高畑はエリキシルソーサラーである可能性が高く、そして一番の強敵だと予想していた人物だ。

 まだ勝てていない克樹たちを除けば、もうエリキシルバトルに障害はないと思えるほどの相手だった。

 それと同時に、猛臣は思う。

 今回の勝利で穂波復活の道を繋げることができた。

 それから、猛臣は高畑とっての、殺人者となった。

 決して直接の原因ではない。けれどその想いは、もう数回目だというのに、シャツをつかみ胸を押さえても、慣れるものではない。

「そろそろ、バトルは終盤戦なのだろう?」

 芝生に跪き、高畑の膝に顔を埋めて肩を震わせている奥さんの髪を撫でながら、意外にも落ち着いた口調と表情で問うてくる彼。

「たぶんな」

「なら、エリキシルバトルの結末を、僕に教えてくれないか?」

「できる限り、としか答えられないな。俺が最後まで勝ち残れるとは限らない」

「そうなのかい?」

「あぁ。負けはしなかったが、勝てなかった奴もいるし、参加者じゃないが、当分勝てそうにない奴もいる。俺が最後まで勝ち残れるかどうかはわからない」

「それほどなのか、エリキシルバトルは」

 驚いたように目を見開いた後、片手で奥さんの髪を撫でつけつつ、片手を顎に当て、彼はしばし考え込む。

 口元に微かに笑みが浮かび、瞳に楽しそうな色が浮かんでいる彼は、願いが叶わなくなったことを、自分の命がそう遠くなく尽きることが決まってしまったことを、絶望しているようには見えなかった。

「ピクシーバトルは面白い。そしてエリキシルバトルも、たいした回数はできなかったが、やはり面白かったよ。僕にとって一番残念なことは、願いが叶わなかったことよりも、当事者として、エリキシルバトルの結末を見届けられないことの方だな」

 そんなことを言う高畑に、奥さんは涙に濡れた顔を上げ、悲しそうに笑う。

 それに応えて優しく笑い返した高畑は、視線を上げてオモチャを見つけた子供のような目で猛臣を真っ直ぐに見つめ、言う。

「だったら、君にわかる範囲で構わない。このバトルのこれからを教えてほしい」

「……もし、俺が途中退場になるとしても、可能な限り最後まで見届けるつもりだ。すべてが終わった後で良ければ、報告にくるさ」

 猛臣が使った「途中退場」という言葉に、高畑は微かに眉をつり上げたが、何も言わなかった。

 おそらく調べてはいないのだろう。

 しかしここまで勝ち残っている者ならば、エリキシルバトルが奇跡の水を得るだけのものではなく、その裏に蠢いているものに感づいていてもおかしくはない。

 モルガーナと面識があり、彼女がバトルの主催者であることに気づいていた猛臣も、克樹と戦い、話すことで、彼女の目的がエリクサーの配布だけでないことに、もう気づいている。

 エリキシルバトルの勝利者にエリクサーが手渡されるかどうかは、モルガーナの思いひとつで変わってくるだろうことにも。

「あぁ、それで構わない。楽しみにしているよ」

 高畑はにっこりと笑い、立ち上がった奥さんも、涙の跡はそのままに、小さく笑って猛臣に礼をしてきた。

「じゃあまたな」

 そう言い残して、猛臣は荷物をまとめ踵を返す。

 ――いったい、これからバトルはどうなっていくんだか。

 調査をしてきた結果を見るに、灯理のようにスフィアカップに参加していない者が多く参戦していない限り、エリキシルソーサラーの数はもうそれほど多くはない。終盤戦はまもなくのはずだ。

 しかしいまだに見えないモルガーナの目的が、猛臣の胸に引っかかる。

 駐車場に駐めておいた愛車に乗り込み、ひとつため息を吐き出した猛臣は、胸ポケットから携帯端末を取り出した。

「ん?」

 何通か入っていた新着メッセージやメールのひとつの差出人を見、疑問の声を上げていた。

 そのメールを開き、内容を見た猛臣は顔を歪める。

「本当に、これからどうなるってんだ」

 返信の文面を打ち込みながら、猛臣はそう呟かずにはいられなかった。

 

 

 



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第四部 鋼灰色(スティールグレイ)の嘲り 第一章 2

 

       * 2 *

 

 

「もうダメだ……」

 そう愚痴をこぼし、力が足りずに滑ってしまいそうになるのを堪えて、金属製のハシゴをつかんで流れるプールから脱出した。

 近くに誰もいない施設のものだろうサマーチェアを見つけて、ガクガクと震える脚に力を込めて近寄り、投げ出すように身体を横たえた。

 ――なんでこんなことになってるんだ。

 ちょうど陽射しを遮ってくれるパラソルの影の下で、僕は疲れ切った身体を休めながら思わずにはいられない。

 お盆が終わり、一応曜日的には平日の、遊園地に併設されたアミューズメントプールには、家族連れもそこそこいるが、僕みたいな高校生とか中学生辺りの人手が中心だった。

 男の水着姿は見えないものとして、色とりどり柄も様々な水着を着た女の子がはしゃぎながら行き交う様子を眺めていたい気持ちもあるが、いまの僕は疲れ切っていてそんな余裕もない。

 今年の異様な暑さに冷たいプールに入るのが気持ちいいのはわかるが、疲れ切るほど遊び回ることは理解できない。

 前半ははしゃいでいた僕がそんなこと考えてもしようのない話なわけだけど、もう限界だ。

 元々体力なんてたいしてない僕が、プールなんて来ちゃいけなかったのだと、ここに来る前に思っていたことを再確認する。

「本当、克樹は体力ないね」

 そんなことを言いながら手に僕たちの荷物を持って現れたのは、夏姫。

 今日のために買ったのか、赤に近いピンク色に鮮やかな花をあしらったワンピースと、腰回りを覆うパレオの水着を身につけた彼女は、最初見たとき何て感想を言えばいいのかわからなくなるほど、似合ってるというか、可愛いというか、とにかくいい感じだ。

 僕の家でお風呂を使うこともけっこうあるから、風呂上がりの様子から考えるに、いつも以上の寄せ上げ効果とパッド二割増しの胸も目のやり場に困るが、いまの夏姫の魅力はなんと言っても脚。

 ストッキングだったりニーハイソックスの絶対領域じゃないが、水に入って若干むくんだ感じはあっても、引き締まった健康的な夏姫の生足は、疲れ切ってても見つめずにはいられない吸引力を持っていた。

『本当そうだよ! おにぃちゃんはもう少し体力つけた方がいいよっ』

「そうだよね、リーリエ。引きこもってばっかりじゃ、そのうち太ってくるんじゃない?」

「……言いたいこと言いやがって」

 防水の上、カメラまで搭載してるイヤホンマイクを通して喋ってくるリーリエと、それに応じる夏姫に言い返したいとも思うが、悪態だけ吐いて黙り込む。

「はい、どうぞ」

「ありがと」

 荷物を足下に置き、中からストローつきの水筒を二本取りだした夏姫は、片方を僕に差し出してきた。

 礼を言って受け取り、中身のスポーツドリンクをすすりながら、すぐ隣のサマーチェアに横になった夏姫にちらりと視線をやる。

 夏姫がバイト先の人からもらったというチケットで来たプールには、本当は近藤や灯理も誘っていた。でも近藤は道場で練習があると言い、灯理は今日は学校の友達とショッピングに行くという理由で断られていた。

 もしかしたら気を遣われたのかも知れないが。

 そうしてふたりきり――リーリエもいるわけだが――で来たプールは楽しいし、いま僕のすぐ横でくつろいでる夏姫は、いつもと違ってまとめた髪を三つ編みにしていて、そんな彼女も可愛かった。

 たまに思うことだけど、夏姫みたいな女の子がどうして僕のことを好きになってくれたんだろう。

 僕は夏姫にひと目惚れに近い感じで惹かれていたし、性格がわかってからもさらに好きになったけど、彼女が僕を好きと言ってくれる理由はよくわからない。

 そんなことをちらっと夏姫のいないとこで零してみたら、近藤にはもう少し自分に自信を持てと言われ、灯理には盛大にため息を吐かれ、リーリエにはアライズしたアリシアで脛を蹴飛ばされた。

 何が悪かったのかはいまでもわからない。

「この後は遊園地の方に行こ」

「……まだ遊ぶのか?」

「当然でしょ? せっかく来たんだし。乗り物だって乗り放題なんだよ? いまは水着のままでいいんだし、今年はもう遊び放題なんだしね」

「まぁ、それはそうだが」

 この遊園地は夏休み期間中は水着のままアトラクションエリアに行って遊ぶこともできるし、その後またプールに戻ってくることもできる。

 面倒なことは早めに片づける質の僕は、夏休みになって入り浸るに近い感じで来てる夏姫と一緒に宿題をやっていて、なんだかんだでうちに来ることが多い近藤も一緒に早々に終えていた。何でか学校が違うのに、灯理まで僕の家で宿題をやっていたが。

 宿題を早めにやってしまったのは、いつ新しいエリキシルソーサラーが現れても大丈夫にするため、という理由もある。

 結局、夏休みも終盤に差しかかったいまも、夏休み前に戦った猛臣以降はエリキシルバトルをやる機会はなかった。

 ――でも、もうすぐエリキシルバトルも終わる。

 バトルで引き分けてから、猛臣とは決して良好な関係とは言えないものの、再戦をすることはなく、バトルに関することで連絡を取り合っていた。

 あまり詳細ではなかったけど、あいつが戦いに勝って得たり買い取ったりしたエリキシルスフィアの数は聞いていて、灯理のような特殊な事情で手に入れたものではない、スフィアカップ参加者の中でバトルに参加していそうな残りの人物についても少し聞いていた。

 おそらく残りの参加者は二十人を切っている。

 初期の参加者は不明なものの、いま中盤戦のエリキシルバトルは、そう遠くないうちに終盤戦に入るだろうと僕は予想していた。

 ――そろそろ、覚悟しないといけないよな。

 ストローからスポーツドリンクを飲む僕は、体力の回復を感じながら抜けるような夏の青空を見ていた。

 モルガーナがエリキシルバトルを開催した目的は、いまだに見当もつかないけど、おそらく僕や、他のみんなにとって驚くべきもののはずだ。

 バトルの結末を迎えるには、夏姫たちはともかく、僕はたぶん、モルガーナとの決着をつけないといけないだろうと想像してる。

 そこに至る道筋で、いったい何が起こるかはわからないけど、どんなことが起こっても大丈夫なように、僕は覚悟を決めておく必要があると思っていた。

「そろそろ、遊園地の方に行くか」

「あ、うん」

 考えに没頭していた僕に心配そうな視線を向けてきていた夏姫に、好きな子のために見せる笑みを返して、サマーチェアから立ち上がる。

『あたしも乗り物乗りたいよー』

「イヤホンマイクはこのままにしといてやるから、それで我慢しろ」

『うぅ。ジェットコースターとかはカメラじゃ感覚わかんないからねぇ』

「そうだね。リーリエにも身体があればよかったのに、ね……」

『そうなんだけどねー。まぁ、仕方ないよ、ね』

 リーリエは自分が人工個性で、専用システムに構築された疑似脳で成り立っていることを知っている。

 でも時々、まだ精神的には幼いからだろうか、身体がほしいみたいなことを言うことがある。

 リーリエの発言に、少し寂しそうな顔をしている夏姫と視線を合わせ、互いに少し笑いあう。

 もし、アライズしたアリシアか、ショージさん辺りからエルフドールを借りてくればとも思うが、遊園地のアトラクションにスフィアドールを乗せてくれたりはしないだろう。

 何かの実験とかで、機会があることを願うくらいしか方法はない。

「まぁ、今日はカメラで我慢しろ。こっそりアリシアを起動したまま持っててやるから」

『やったーっ。おにぃちゃん、大好き!』

「よかったね、リーリエ」

『うんっ』

 嬉しそうな声を上げるリーリエにホッとした僕は、足下の鞄を手に取って飲み終えた水筒を仕舞う。

 夏姫の分も受け取って仕舞った僕は、柔らかく笑っている彼女と頷き合って遊園地の方へと歩き始めた。

 こっそりと差し出された彼女の手に、自分の手を重ねながら。

 

 

          *

 

 

「ただいまー」

『お帰りー』

 僕より先に門の前に立った夏姫が門扉脇のチャイムのところにあるマイクに話しかけると、即座にリーリエが返事をした。

 プールに遊園地に遊び倒して帰ってきた夕方近く。

 ついでにスーパーに寄って買ってきた数日分の、僕と夏姫ふたり用の食材をエコバックに詰めてぶら下げて、門扉を開けて自宅の敷地に入っていく。

『おにぃちゃん。手紙が来てるよ』

「手紙ぃ?」

 いまどき連絡手段と言えばネットを経由したものが中心で、それでもダイレクトメールや役所とかからの書類、通販で購入した小物なんかは郵便受けに投函されるから、いまでも門扉の脇には呼び鈴と一緒に郵便受けの口が開いている。

 ひとり玄関に向かっていく夏姫のことは放っておいて、僕は疲れ切った身体を引き摺って門の内側から郵便受けを開けた。

 そこには投函の確認と、念のため危険物が感知できるよう、カメラと簡単なセンサーが設置してある。

 リーリエに警戒してる様子がないからたぶん大丈夫だろうと思い、僕は中に入っていたさほど厚みのない、ちょっと高級そうな封筒を手に取って玄関に向かった。

 遅れて家に入った僕からエコバックを受け取り、パタパタと小走りにキッチンへと向かう夏姫。

 あれだけ遊んだ後でどうしてそんなに体力があるんだろう、と思いつつ、住所と並んで僕のフルネームが書かれた封筒を裏返し、差出人の名前を確認する。

『おにぃちゃん……』

「あぁ」

 家の中のホームセキュリティ用カメラで見たんだろう、眉を顰めてる僕と同様に、険しい口調のリーリエの声が天井近くから降ってくる。

「どうかしたの? 克樹」

 LDKに入った僕に気づいて、夏姫が声をかけてくる。

 近づいてきた彼女に僕は言った。

「できるだけ早く、灯理と近藤に話さなくちゃならないことができたと思う」

 険しい顔をしたまま、心配そうにしてる夏姫に、僕はそう宣言した。

 

 

 



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第四部 鋼灰色(スティールグレイ)の嘲り 第一章 3

 

 

       * 3 *

 

 

 風呂に入り、ラフな部屋着に着替えた音山彰次がリビングのソファに身体を投げ出すように座ると、もう二度とそこを動きたくない気持ちになっていた。

 最新の試験型である一五〇センチボディとなったエルフドールのアヤノは、そのタイミングを計っていたのだろう、柔らかな笑みとともにカップとポットをお盆に乗せてやって来、ブラックのコーヒーを注いでローテーブルに置き一礼をして部屋を出ていった。

「まったく、人使いが荒い奴らばかりだな」

 お盆休みが終わったばかりの平日の午後だが、彰次にとっては二週間ぶりか、三週間ぶりの休みだった。それも仕事場から帰ってきたのはつい一時間ほど前で、前倒しされた開発計画をこなすために朝方まで詰めていた実験室をやっと開放されたところだった。

「仮想マテリアルシミュレータが実用段階まで持っていければいいんだがな」

 仕事としてやっているスフィアドール関係の仕事の他にも、会社から予算を出してもらい趣味に近い形でやっている研究が多くある。

 そのことを独り言で呟きながら、彰次は手を伸ばしてカップを取り、苦みの強い熱いコーヒーを呷った。

「それでも、まだまだ足らんな」

 ポットからコーヒーを注ぎ足しつつ、眼鏡型のスマートギアに仕事の進行状況を表示しながら、彼は呟く。

 いまのところ取り組んでいる仕事は順調だったが、彰次としては充分なものとは考えていなかった。

 早ければ年内にも発表されると噂される、第六世代のスフィアドールとドールの規格。

 それにより一六〇センチサイズのエルフドールが実用化されると目されており、その活用範囲はついに本格的にビジネスシーンに取り入れられていくと予想されている。

 事務仕事の補助や、メインは張れないものの介護業務の補助要員、清掃や監視・警備など、ゆっくりとではあろうがスフィアドールが生活の中に浸透していくと、彰次は考えている。

 そしてそのとき、彰次がリーリエの人工個性稼働データを利用して発展させたスフィアドールのフルコントロールシステム、AHS(アドバンスドヒューマニティシステム)が広く使われることは明らかだ。

 競合するシステムに対抗するためにも、ドールについても、AHSについてもまだまだやらなければならないことがたくさんあった。

 さらに表向きには開発を一切非公開としている、平泉夫人から言いつけられたものの開発も、まだ満足できる段階には入っていない。

 年内に休みが取れるのは、もしかしたら両手で足りるほどの日数になるかも知れないと、彰次は深くため息を吐いていた。

 ――夫人の動きは、おそらく魔女への対抗だろうな。

 最初は自分の趣味でやっていたものだが、いまは平泉夫人の意向と出資を受けてやっている開発は、現段階では製品化しても売れる可能性は低い。

 市場をよく読み、理由があって遠回りをしたり、失敗をすることはあっても、決して無駄なことはしない夫人が絶対にやると言っているのだ、それはモルガーナに対する布石のひとつであることは確実だった。

 平泉夫人はもちろんのこと、克樹もまたそれに直接的か間接的にか関わって、去年からいろいろやっているのがずっと気になっていた。

「でもまぁ、秋までは動けそうにないか」

 心配はしていても、克樹からはまだ何も言われていない。

 試験用のフルスペックフレームを貸し出す際に見せられたデータや、リーリエの稼働情報から透けて見えてくる事柄で、割と大変なことに巻き込まれていそうな感触はあった。

 しかし平泉夫人の支援を受け、なにやら友達も増えたらしい克樹は、手助けが必要になったときは声をかけてくるだろうと思い、とりあえず放置することに決めていた。

 ――どっちにしろ、いましばらくは動けないしな。

 もうひとつため息を漏らしてコーヒーを飲み干したとき、玄関チャイムが鳴り響いた。

 せっかくの休みに来客か、と思いつつ眼鏡型スマートギアにホームオートメーションアプリのウィンドウを表示し、門扉カメラの様子を映すと、そこに映っていたのはふたりの人物。

 平泉夫人と、そのメイドというか秘書というかの、芳野綾(よしのあや)。

「い、いま開けます」

 マイクを音にして慌てて呼びかけ、門の鍵を解除すると同時に、彰次は玄関へと急いだ。

 来客を出迎えようとするアヤノに紅茶の準備を言いつけ自分で玄関の扉を開けると、そこまで来ていたふたりが顔を覗かせた。

「突然ごめんなさい、音山さん。近くまで来ていて、次の予定には時間があったものだから。少し、いいかしら?」

「えぇ。はい、どうぞ。狭い家ですが」

 ――絶対嘘だな。

 こちらのスケジュールを把握した上で、元から来るつもりで来たんだろう、と思うが、それは言わずにふたりを玄関のすぐ側の客間の戸を開けて招き入れる。

 この後なにかのパーティにでも参加するのだろう、黒のドレスを身につけた平泉夫人は勧めたソファに座り、その後ろに相変わらずヴィクトリアンなメイド服を着て静かに立つ芳野を見てから、彰次も夫人の正面に座った。

 タイミング良くノックとともに入ってきたアヤノが、夫人の前にカップを置き紅茶を淹れてくれる。

 ――しまったっ。

 と思ったときにはもう遅い。

 夫人と芳野の視線は、控えめながらもアヤノに注がれている。

 来ることがわかっていればアヤノを表に出さなかったのに、と思ったが、紅茶を注ぎ終え、お代わりが淹れられるよう部屋の隅に控えたアヤノは、いまさら隠すこともできない。

 少しばかり難しい顔をしている芳野と、何故か楽しそうに唇の端をつり上げている平泉夫人。

 その様子も致し方ない。

 アヤノは、仕事の関係でこれまでにも何度か会ったことがある芳野をモチーフに外見をつくり、AHSの性格設定も知ってる限りの彼女を参考にしているのだから。

 さすがにそのままというわけではないが、本人と夫人は、ひと目でアヤノが誰を参考にした姿なのか見抜いたことだろう。

「さて、音山さん」

 明らかに気づいているのに、そのことを指摘しない平泉夫人は、顔に薄く笑みを貼りつかせたまま話を始める。

「例のものの開発状況について聞いてもいいかしら?」

「それはさすがに……。出資していただいているとは言え、社外秘の情報ですし。定期報告は次は再来週になります」

 平泉夫人の用件がそれであることは、彰次にはわかっていた。

 そして会社を通しての問い合わせではなく、直接家に来たということは、ここでしかできない話をするためだろうことも。

「あれは、秋には発表するつもりでいるの。まだ貴方の会社には伝えていないけど、もう根回しは始めているわ」

「秋って……。いくらなんでもそれは……」

 あんまりな夫人の言葉に、彰次は思わず腰を浮かせていた。

 定期報告でも知らせているが、開発は順調で、大きな問題はない。

 しかし発表し、世の中にインパクトを与えるにはできれば一年、少なくともあと半年は開発期間が必要だと彰次は考えていた。

 夫人の言う、秋というのはいくら何でも早すぎる。

「さすがに秋というのは無茶ですよ。早ければ早い方がいいのも確かですが、市場に影響を与えられるだけのものにするには性急すぎます」

「それはわかっているのだけどね、でも必要だと思うのよ」

 にっこりと笑っている平泉夫人。

 嫌な予感を覚えながらも、彰次は彼女に問う。

「どうしてまた?」

「私の、勘よ」

 思わずため息を吐きそうになるが、すんでのところで堪える。

 勘などで重要なことを左右されても困るが、しかし平泉夫人の勘は的中する類いのものだ。

 決して当てずっぽうではなく、経済界やロボット業界、世界情勢など様々な情報を常日頃取り入れている夫人の勘は、天才の閃きに近い。

 天才が天才たるには、その前提として専門分野に関する知識や情報を持っていることが前提だと彰次は思う。

 夫人の勘も、天才の閃きに近いものであろうと、彼女と話をしたり、間接的に動向を確認するうちにそうなのだろうということに気がついていた。

「構いませんが、性能も影響も充分とは言えないものになりますよ」

「えぇ、それで構わないわ。……貴方もある程度知っているでしょうけれど、おそらく克樹君たちのやっていることは、早ければ年内に片がつくと思うのよ。その前、秋頃にあの人が本格的に動き出すんじゃないかと予想しているわ」

「――第六世代スフィアドールですか? 年明け予定を、秋まで前倒しに?」

「いいえ。それについてはあまり関係がないわ。と言うより、今後はあまり関係がなくなると思うのよ。根拠は、ないのだけれどね」

 雲の如く形のないものを話題にしているかのような話に、彰次は眉根にシワを寄せるしかなかった。

 夫人がどこまでのことを把握しているかは見当もつかなかったが、彰次が知ってる範囲については把握されているような気がしていた。

 その上で、明確な話をしてくれないということは、自分は夫人や克樹が立っている舞台に上がれる立場には、いまのところなのか、これからずっとなのかはわからないが、ないのだろうということはわかった。

 いまはこちらからヘタに動かず、夫人の思惑に乗っておいた方がことが上手く運ぶだろうとも思えた。

「急いだ方がいいのよ、おそらくは。私でもまだはっきり見えているわけではないけれど、克樹君とあの人との決着がつく前後に、大きな波乱があると私の勘が告げてる。その波乱が起こるまでにあれを発表しておくことが、私たちにとって最善であり、あの人に対する攻撃になると思えるのよ」

「わかりました。開発の方は急ぎます」

 言い終えて、夫人はまだ湯気を立てているティカップに手を伸ばす。

 彰次はふと、ソファの後ろに静かに控えている芳野に視線を向けてみた。

 常に夫人の側にいて、同じ世界を見ているだろう彼女も、同じものが見えているのだろうか。

 芳野の瞳には、険しいものが浮かんでいた。

 でも彰次に見られていることに気がついた彼女は、表情は変わらないのに、わずかに優しげな色をその瞳に浮かべたように見えた。

「では、よろしく頼むわね」

「……はい」

 紅茶を飲み終え、ソファから立ち上がった夫人に言われ、彰次は渋々ながら返事をしていた。

 ――夏が終わっても、忙しいのは終わりそうにないな。

 そんなことを思い、こっそりため息を吐きながら。

 

 

          *

 

 

 お茶を淹れ終え、全員が席に着いたのを見て、僕は立ち上がった。

 夏姫の淹れてくれたお茶を配るのに、アリシアをアライズさせたリーリエもいて、ダイニングテーブルの端に立ってる僕のことをみんなと一緒に見つめてきてるけど、気にしないことにする。

 権限を与えてるからだし、すぐに戦闘になるわけでもなく予備のバッテリも完備してるから問題ないけど、本当に最近リーリエはアリシアを自分の身体のようにアライズさせて家の中で過ごしていることが多かった。

「突然集まってもらってゴメン。メールにちょっとだけ書いておいたけど、今日は見てもらいたいものがあったから集まってもらった」

 手紙が届いた昨日の今日で、僕と夏姫はともかく、灯理も近藤も集まってくれたのは、暇だったからではなく、連絡したメールの深刻さを感じ取ってくれたからだろう。

 リーリエの操るアリシアを含む、四人の視線を受け止めながら、僕は手に持っていた便せんと封筒をテーブルの上に置いた。

「これは?」

「うん。何なの?」

 手は伸ばさず、テーブルの上のものを見ている灯理と夏姫は口々に疑問の言葉を発する。

 全員が集まってから説明しようと思って夏姫にもまだ説明してなかったから、彼女もわからないらしい。

「天堂翔機(てんどうしょうき)からの招待状だよ」

「えぇっと、天堂翔機?」

「……招待状ですか?」

 名前を言っても、ふたりはわからないらしい。

「待てよ、克樹。天堂翔機って、あの人で間違いないんだよな?」

「いたずらの類いではないと思うよ」

『うん、間違いないよ。住所とかもそうだけど、カードの所有者情報からも間違いないね』

 意外にも反応したのは近藤。

 チェックしてもらうのにリーリエに託してあった決済用のカードを、アリシアが着けていたエプロンから取り出してテーブルの上に置く。

 スフィアドール業界については、元々そっち方面の趣味じゃなかった灯理はともかく、ヴァルキリークリエイションの開発担当者を母親に持つ夏姫まで詳しくないとは思わなかった。

 むしろ空手一辺倒な近藤からまともな反応があるとは、ちょっと予想外だ。

「……なんで知ってるんだ? 近藤は」

「いや、俺が詳しいわけじゃなくて、梨里香がそう言うのよく知ってて話してくれたからな。天堂翔機ってのはあれだろ、スフィアロボティクスの創立者」

「うん。ただ会社をつくったってだけじゃなくて、スフィアについてもモルガーナが関与してそうだけど、それ以外の、スフィアドールのボディや規格とかの実体、それから制御ソフトなんかを含めて、スフィアドールの生みの親と言っても過言じゃない人だよ。それだけじゃなく、営業から会社運営まで、会長を辞めるまでやってた、天才でスーパーマン」

「凄い人なのですね」

「そんな人から克樹宛に手紙って、どんな用件なの?」

「……」

 僕は二枚に渡って書かれた、便せんを広げてみんなに見せる。

 ただし凄まじく達筆の毛筆の字は、僕も一部読めなくてリーリエに解読してもらっていた。

 だから念のため内容を口頭で説明する。

 簡潔にすればこんな内容だ。

 つまり、天堂翔機がいる屋敷まで来て、設置してある障害を乗り越えて会いに来い、と。

 そして互いの願いを賭けて、エリキシルバトルをしよう、ということだ。

「じゃあ天堂翔機さんは、エリキシルソーサラーなのですね」

「それも灯理と同じ、スフィアカップに出場してない特別な参加者だ。少しだけそうじゃないかと、予想はしてたけどね」

「やっぱりスフィアカップには出場してなかったよね。そのときは会長だったんでしょ?」

「いや、確かスフィアカップの前に会長は辞めてたよな? 克樹」

「うん、第四世代規格発表前だったはずだね。ただエリキシルバトルだけじゃなく、スフィアロボティクス自体、モルガーナが深く関わって創立されたんだと思う。そのトップだった天堂翔機は、もしかしたら誰よりもあいつに近い人物の可能性がある。エリキシルスフィアを持っていても不思議じゃない」

 まだ不思議そうに小首を傾げたりしてる灯理と夏姫、眉間にシワを寄せてる近藤の言葉を受けて、僕はそう答える。

 灯理のようにスフィアカップに出場せずにエリキシルスフィアを手に入れられる可能性のある人物については、確認しようがないにしても、ある程度ピックアップはしていた。

 その中で一番可能性の高い人物が、天堂翔機だった。

 スフィアロボティクスを創立する前からロボット業界で名を知られていて、スフィアドールの第一世代、第二世代を社長として発表し、第三世代の発表と同時に会長になって、第四世代発表前に現役を引退した彼。

 引退後はスフィアドール業界だけじゃなく、ロボット業界全体に大きな影響を残しつつ、体調不良を理由に表舞台に出てくることがなくなった彼は、もう七十歳前後のはずだ。

 体調不良の詳細は情報がないけど、重篤な病気の類いだとしたら、モルガーナから直接エリキシルスフィアを受け取れる立場にいるだろう彼は、エリキシルバトルへの参加を望んでいてもおかしくない人物だと思っていた。

 実際にこんな招待状という形で対決することになるなんてのは、想像もしてなかったけど。

「天堂翔機が指定してきたのは来週。僕だけじゃない、夏姫や近藤、灯理の全員を指名してきてる。北関東の人里離れたとこだけど、旅費については全部あっち持ちだから心配はないよ」

 言って僕は便せんに書かれた指定の日付を示しつつ、リーリエが机の上に置いたカードを手に取って見せる。

 あらかじめ指定した決済のみを行えるようにしてある一種の旅行券代わりになるカードは、僕たち四人分の電車のチケットから、途中の食事まで全部支払いができるようになっていた。

「行くの? 克樹。仕掛けを用意してるってくらいだから、大変なんじゃない?」

「えぇ。絶対に罠を仕掛けていますよね、これは」

「だろうな。どうしてわざわざそんなことまでするのかわからないが、あっちが指定した場所で戦うのは、こっちには圧倒的に不利のはずだ」

 厳しい視線を向けてくる三人。

 リーリエだけは、アリシアを微笑ませて、まるで僕の考えてることがわかってるみたいに、優しげな視線を向け頷いていた。

「全部わかってる。でも、僕は行く必要があると思うんだ。天堂翔機はモルガーナに一番近い人物だと思う。その人から、僕は聞きたいことがある」

「……うん、わかった。じゃあ仕方ないね。お弁当はいらないんだっけ?」

「そうですね、仕方ないですね。泊まりになるのですね。その準備の他にも、いろいろ行く前にやらなければならないことがありそうです」

「そうだな。料金があっち持ちなのは気前いいが、他の準備はこっちでやらないとな」

「いや、そうだけど、……たぶんかなりの危険があると思うよ」

 携帯端末を取り出して調べ事を始めたり、残ったお茶を飲み干したり、腕を組んで難しい表情を浮かべてる三人には、もう参加をためらう様子がない。

 正直、僕はみんなが行くのをためらうんじゃないかと思っていた。場合によっては辞退したいと言われることも予想してた。

 そんな様子がひと欠片もないことに、僕は拍子抜けしていた。

『大丈夫だよ、おにぃちゃん。あたしたちはみんな、おにぃちゃんと一緒に戦うって決めてるんだから』

 そう言って笑うリーリエに、僕は頼もしさと、嬉しさと、少しばかりの恥ずかしさを感じていた。

 

 

 



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第四部 第二章 黒白(グラデーション)の奇跡
第四部 鋼灰色(スティールグレイ)の嘲り 第二章 1


第二章 黒白(グラデーション)の奇跡

 

 

       * 1 *

 

 

「よぉ、克樹。よく来たな」

 PCWに足を踏み入れると、僕が挨拶するよりも先に、カウンターに出ていた親父に声をかけられた。

「注文してたもの、全部届いてる?」

「ったく、盆休み明けでまだ流通がごたついてるってのに、急ぎとか言いやがって。どうにか全部集まったがな。お前がどうしてもって言うから、ツテで回してもらったものまであるんだぜ? 感謝しろよ」

 相変わらず陳列棚と言わず、床のボックスと言わず、スフィアドールから旧式ロボットのパーツやら意味不明な部品やコードが雑多に置かれた店内を気をつけながら歩いて、カウンターまでたどり着いた。

「感謝してるよ。本当に今回は急ぎだったしね」

 渡された納品書の紙を見つつ、僕はプラボックスに入った注文の品が全部揃っているかを確認する。

「しかし今回はいったい何するつもりなんだ? あんまり特殊なパーツはなかったからどうにかなったけどよ」

「んー」

 全部のパーツが指定メーカーで揃ってるのを確認して、僕は納品書に書かれた金額通りに携帯端末を使って決済を終えた。

 今回買ったのは予備のバッテリや人工筋なんかが主で、アリシアやシンシア用の新規パーツはない。

 前回の猛臣戦の後、アリシアはパーツを見直して風林火山に適したものに交換してテストも済んでいたし、シンシアについても同様にバージョンアップを終えていた。

 交換部品が主だから、お盆明けでなければ入手しやすいものばかりだ。

「明後日、天堂翔機に会いに行くんだ」

「翔機の爺に? また妙な奴に会いに行くもんだな。お前は直接面識はないだろ?」

「まぁね。今回はちょっと事情があって」

 肩を竦めて見せた僕に、いつも難しい顔をしている親父は、いつにも増して難しそうに顔を歪めていた。

 スフィアドールなんてものがこの世に生まれる前からロボット専門店を営んでいる親父は、まだスフィアロボティクスが零細企業だった頃から天堂翔機とは知り合いなんだそうだ。

 さすがにスフィアロボティクスがいまは桁違いの規模だし、現役を引退して表に出てこなくなった彼とはしばらく会っていないそうだけど、時々連絡くらいは取ってるそうだ。

 僕もスフィアロボティクス創立者、親父の友人として以外にも彼のことは知ってはいるが、直接会ったことはない。

 それ以上天堂翔機の件について訊いてくることはなかった親父は、無精髭の生えた顎をなでつけながら口を開く。

「なぁ、克樹。お前たちのやってることはもうすぐ終わるのか?」

 僕や夏姫たちがエリキシルバトルに参加してることを、親父が気づいてるのはわかってる。

 どんなことをやってるのか具体的なところまではたどり着いていない様子だけど、独自にいろいろ調べて、割といい線まで来ているのも知ってる。

 でも、モルガーナの存在までは見出してるのかどうかわからない。

 こちらからヘタに情報を出してモルガーナの存在に気づいてしまったら、それで親父が何かを思い行動を開始してしまったら、さらにそれをモルガーナが邪魔だと感じてしまったら、と思うと、僕は何も話すことができない。

 かも知れないことを、かも知れないことのまま、話せる範囲で話すだけだ。

「僕もよくわかってないけど、たぶんそう遠くないうちに終わると思うよ」

「そうか」

 珍しく不機嫌にも見える仏頂面に考え込んでるような表情を浮かべ、親父はしばらく黙り込む。

「克樹はよ、高校を卒業したらどうするつもりだ?」

「一応進路希望は工学系の大学に進学で出してるよ。まだはっきりと決めてないけど、機械工学かロボット工学、将来性を考えたらソフトウェア方面に進むかも」

「その後は?」

「その後?」

「大学を出た後だよ」

 親父の問いに、購入した商品をデイパックに詰める手が止まってしまっていた。

 僕はいま高校二年の後半に差しかかるところ。進路の方向性はそろそろ決めなくちゃいけないけど、進路先を決めるにはあと一年の猶予がある。

 さらにその先、大学を出た後のことなんて、まだまともに想像したこともない。

 いや、本当は想像することをやめてしまっていた。

 ……百合乃が、死んでしまったときから。

 だからそんなことを突然問われても返せる答えがない。

「……ぜんぜん、考えてないけど」

「そうか。だったら少し考えてみないか? この店を始めてもうかなりになるが、いい歳どころじゃなくなってるからな。まだ何年かは大丈夫だが、あと十年は続けられない。そのうち店を閉めるか、後継者を探すかで悩んでるところなんだよ」

「え……」

 親父は確か、もう六十歳を越えていたはずだ。

 会社法人になってる店は親父しかいないわけだから定年なんてものはなく、引退したくなったときに引退することになる。

 そんなことわかってたわけだけど、突然後継の話なんてされても頭が追いつかない。

『どうするの? おにぃちゃん。おにぃちゃんは、将来どんな風になりたいの? ……どんな夢が、あるの?』

 イヤホンマイクのスピーカーから、親父にも聞こえる声でリーリエの促す言葉が発せられる。

 でもまだ高校二年の僕に、そんなことを考えることなんて無理だ。

「いや、まだぜんぜん、考えられないんだけど」

「そりゃそうだよな。別にいますぐ答えろって話じゃない。ただ来年でも、大学に入ってからでも、大学卒業する頃でもいい、答えをくれ。……答えを、直接ここに来て、言ってくれ」

 真っ直ぐに僕を見つめてくる親父の視線は、たぶん後継者の心配をしてるものじゃない。

 親父はエリキシルバトルのことはたぶん知らない。けれど僕たちがやってることが、命懸けの戦いであることに、気がついているような感じがあった。

「わかった。いつになると約束はできないけど、必ず答えを言いに来るよ」

「あぁ、頼むぜ」

 ニヤリと笑って見せた親父の瞳には、夏姫たちや、ショージさんが浮かべるそれとは違う、暖かい色があるように、僕には思えていた。

 

 

          *

 

 

 市場は生き物だ、なんて話を聞くことはあるけど、その最小構成が人間である以上、それを相手にするのに一番重要なのは、最新だったり便利だったりする道具や環境よりも、立ち向かう人の資質なんじゃないだろうか。

 そんなことを僕が思うのは、いつだって煉瓦造りの、古びているがしっかり手入れされている外観のお屋敷の前に立つときだ。

 PCWを逃げるように出た僕は直接家には帰らず、遠回りをして平泉夫人のお屋敷に来ていた。

 そろそろ日が傾いているとは言え、駅からけっこう歩かないといけないここまで、げっそりするような暑さを潜り抜けてきた僕は、深呼吸をして気分と一緒に視線を正し、玄関の大扉の脇にある呼び鈴を鳴らした。

「ようこそいらっしゃいました、克樹様」

 平泉夫人は多忙だから事前にアポイントメントは取っておいたし、僕が玄関の前に立ったことには気づいていたんだろう、呼び鈴を鳴らして一拍置いた後、扉が開かれて芳野さんが姿を見せた。

 ――あれ?

 いつも無表情か愛想笑いを浮かべているのが普通の芳野さん。

 若干生地が薄くなったように思える他は変化のないヴィクトリアンスタイルなメイド服で「どうぞこちらへ」と招き入れてくれた彼女の笑顔が、なんとなくいつもと違うように感じられたのは、なんでだろうか。

「いらっしゃい、克樹君」

「今日はお時間を取っていただいてありがとうございます」

 いつも通り執務室に通してもらって、この屋敷の中では簡易だけど、一般家庭には高級な応接セットのソファで紅茶のカップを傾けてる平泉夫人に挨拶をする。

「今日は少し、お訊きしたいことがあって」

 芳野さんに勧められ、平泉夫人に手で促された僕はソファに座り、前置きもなしに本題に入る。

「次のバトルの相手のこととかかしら? 私でわかることなの?」

 直感なのか適当なのかわからないけど、これから話そうと思ったことをズバリと言い当てられて、淹れてもらった紅茶で唇を濡らそうとしていた僕は一瞬噴き出しそうになっていた。

 瞳に楽しそうな色を浮かべている平泉夫人に、僕は軽く深呼吸をしてから、話を始める。

「天堂翔機について、教えてください」

「あの人が、エリキシルソーサラーなの?」

「たぶん。バトルの招待を受けました」

「そう……。可能性なら誰よりも高い人物だけど、意外ね」

 僕から視線を外し、少し困惑したような表情を浮かべている平泉夫人。

 モルガーナに一番近いだろう彼は、エリキシルスフィアを手に入れられる可能性は高いと思う。

 詳しい情報はなかったけど体調不良というのもあるし、年齢的には棺桶に片足を突っ込んでるくらいなんだ。エリクサーを求める理由は充分なように思えた。

 平泉夫人の言う「意外ね」という言葉の真意は測りかねた。

「まぁいいわ。会いに行くというなら、エリキシルソーサラーになった理由を訊いてきてちょうだい。訊けたらで良いけれど。もし話しづらいことだったら、すべてが終わった後でもいいから」

 考えるのをやめたらしい夫人は、笑顔に戻ってそう提案してくる。

 いつも通りにしているようなのに、その瞳に鋭いものと、さっきPCWの親父が見せたのと同じ暖かいものが浮かんでいるように見えたのは、気のせいだろうか。

「スフィアロボティクスを立ち上げてからの翔機さんについては、だいたい表に出ているから、貴方も調べた通りよ。たぶん克樹君が知りたいのは裏側や、見えていることより以前のことでしょう。私の知ってる限りのことを教えてあげるわ」

 そう言って表情を引き締めた平泉夫人は、初っぱなから衝撃的なことを教えてくれた。

「あまり知られていないけれど、翔機さんは孤児だったのよ」

「え?」

 夫人にも言われた通り僕も調べてみたし、リーリエにも調査を頼んでいたけど、海外の大学から日本に戻ってきた辺りまでしか彼の過去を遡ることはできなかった。

 天才というのは割合としては少ないものの、世の中にはけっこういるもので、どうやら十六歳でアメリカの大学に入って、後にスフィアドール関係のことをほとんど独力で生み出した天堂翔機は、天才と言うにふさわしい人物だ。

 いま認知されてる天才の他にも、実際にはその数倍の天才が世の中にはいる可能性がある、なんて話を聞いたことがある。

 天才と呼ばれる人がその才能を開花させるには、家族の理解や、知人友人に恵まれることが必要だと言われ、それを持っていないばかりに開花が遅れたり、才能を眠らせたまま過ごす人もいるということらしい。

 孤児であった天堂翔機が天才としてその能力を開花させられたのは、奇跡にも近い驚くべきことだと僕は思う。

「ずいぶん昔、まだスフィアロボティクスが新興企業だった頃から注目してたから、一応創立者の身上調査はできる限りしたんだけど、実の両親については全くの不明。養父や養母についても調べはつかなかったわ」

「痕跡が消されているとか、ですか?」

「おそらくはね。ただ、半世紀以上昔のことだもの、特殊な生い立ちの人でもあるし、追い切れなくても仕方のないことね」

 そこで言葉を一度切って、平泉夫人は側で気配もなく控えている芳野さんに、カップを上げてお茶を要求する。

 温くなってる紅茶に口をつけた僕は、考え込んでしまっていた。

 天堂翔機を施設か何かから引き取り、彼の才能を開花させた人物。

 それを僕は、ただひとりしか思いつけない。

「モルガーナ、ですか?」

「おそらくはね。確認は取れていないけれど」

 新しい紅茶で艶めかしい唇を濡らした夫人は話を続ける。

「中学までは日本で過ごした後、一六歳で渡米して大学に入学。機械工学やロボット工学の分野で頭角を現した彼は、一八歳のときにロボットの大手企業に開発者として登録されているわ。二〇代半ばで日本に舞い戻ってきて、こちらの企業に入社。まだスフィアドールはもちろん、スマートギアもない時代だから、主に工場用のロボットアームなどの開発に携わりながら、営業としても活躍して人脈を広げていたようよ」

「人付き合いが上手い人なんですね」

「いいえ、むしろ逆よ。彼の人嫌いはけっこう有名なのよ。仕事に関することだけは弁が立つという話で、仕事に関わらないパーソナルな方面はほとんど不明。浮いた話もなかったようだし、いまの年齢になるまで未婚なのよ」

「現役時代は仕事一筋ですか……」

「それもまた違うようなのよ。ロボットやスフィアドールは好きなようなんだけど、何回か会ったことがある私の印象だと、仕事自体は嫌いなんじゃないかと思うのよ」

「んん?」

 天才で、仕事もできて、ロボット好きで、でも仕事も人付き合いも嫌い。

 うなり声を上げてしまった僕は、天堂翔機の人物像をつかめないでいた。

『んー。おにぃちゃんに似てる人なんだねっ』

「どういう意味だよ、リーリエ」

『なんとなぁくそう思っただけだよー』

「ふふふっ。確かに少し似ているかも知れないわね」

 唐突にイヤホンマイクから発せられたリーリエの突っ込みに、夫人は身体を折り曲げながら笑っている。

「まぁ、それは半分冗談として」

 半分は本気なんだ、という言葉が喉まで出かかったけど飲み込んでおく。

「彼のことについては私もよくわからないの。私も早くからスフィアロボティクスに注目はしていたけれど、見つけた頃には多くの支援者が集まっていて、スフィアドールの成功は既定路線になっていた感じがあるからね」

「それにもモルガーナが?」

「いいえ、それは違うでしょう。人脈のある人物が立ち上げる新しい市場に、最初から多くの支援者がついていることは割とあることよ。ただ、その顔ぶれには若干魔女の痕跡を感じはしたけれどね」

 平泉夫人にしては珍しく、迷っているように目を細めている。いまひとつ確信がないんだろう。

「おそらく、彼が機械やロボットの勉強をし、会社に入って、スフィアロボティクスを創立したのは、あの魔女の意向よ。そしてそれ以前、彼を引き取って育てたのも、魔女の仕業だと思うのよ。これまでの彼の行動と、その周辺には、魔女の痕跡が大なり小なり見つかるわ」

「じゃあ天堂翔機は、モルガーナの操り人形なんですね」

「……それは、どうかしら?」

 頬に手を添え、小首を傾げている平泉夫人。

 その目は僕に向けられていながら、昔のことを思い出しているように遠くを見つめている。

「彼は、彼の意志ですべてのことをやっていたように思うの。幾度か話をしたことはあるのだけど、私にはそういう印象が残っているわ。ただし、その行動をするよう考え方から魔女に仕込まれていた可能性もあるから、何とも言えないのだけど」

「……そうですか。でも、天堂翔機が子供の頃からロボットに興味を持つよう誘導してきたんだとしたら、モルガーナはその頃からエリキシルバトルを仕込んでたんだ」

 少し考えてみると、自分で口にした言葉なのに、いまひとつ現実感がない。

 モルガーナが魔女で、長く生きてきたんだろうってのはわかってるけど、半世紀以上も前から、いまのエリキシルバトルを仕込んでいたなんてのは、さすがに現実感がなさ過ぎだ。

 でもエリキシルバトルのためのスフィアドールで、そのための天堂翔機なのだとしたら、そういうことになる。

 いったいモルガーナがどれほど生きてきたのか、僕には想像もできなかった。

「それはそうだと思うけれど、スフィアドールはおそらく彼女にとって目的を達成するための手段のひとつ、仕込みのひとつに過ぎないと思うのよ」

「仕込みの、ひとつ?」

「えぇ。私はあまり広い世界のことはわからないけれど、少し人を頼って調べてもらったの。そしたら、魔女の痕跡はスフィアドール業界だけでなく、もっと広い世界に分布している様子があるということだったわ。政界や財界が主だけど、彼女の痕跡は薄く広く、そして深く、世界中に広がってるようなのよ。だから、エリキシルバトルは彼女にとって重要ではあるけれど、目的のための手段のひとつなんじゃないかしら」

 芳野さんが注いでくれた新しい紅茶をひと口飲んで、僕はソファに背中を預ける。

 はっきり言って、想像もできない事柄だった。

 僕にはもう、モルガーナの力と影響力のすべてを、把握することができそうにない。

「彼女は非常に巧妙よ。たいていの場合は姿を見せないまま、人や場を誘導してる。ただ他と違って、スフィアドールとエリキシルバトルに関しては、表に出てくることは極一部に限っている彼女が表に近い場所にまで出てきてる。例えば克樹君。貴方もそうした表層に現れた魔女に誘導された人のひとりよ」

「僕が?」

 確かに僕はこれまでに二度、モルガーナと直接会って話をしてるけど、誘導されたと感じるようなことはなかった。

 睨みつけるように見つめてくる平泉夫人の視線を、僕は理解しない。

「彼女は魔女と呼ばれているけれど、杖を振るって魔法を使うわけではないの。様々なところに種を蒔き、自分の思う方向に物事が動くようにしてる。芽吹かない種もあるでしょうし、芽吹いても触れずに遠くから観察しているだけのときもある。すべてが思う通りにならないこともあるでしょうし、時には手厚く世話をすることもある」

「平泉夫人には、どうしてそこまでモルガーナのことがわかるんです?」

「彼女の痕跡から見えてくることから推測しているのがほとんどよ。……気分を悪くしないで聞いてほしいのだけど、百合乃ちゃんのことは、百合乃ちゃん自身が彼女に重要な人物であったのと同時に、貴方にわざわざ姿を見せたのは、貴方へのアプローチでもあったと思うのよ」

「――そんな、ことっ」

『おにぃちゃん! 興奮しないでっ。最後まで聞こ?』

 思わず立ち上がりかけた僕を止めたのは、リーリエの鋭い声。

『あたしにとっても重要なことだから、お願い』

「……わかった」

 いつになく真剣な口調のリーリエに、僕は上げていた腰をソファに下ろす。

「ごめんなさい、克樹君。これは天堂翔機と、あの魔女のことを知るためには、把握しなければならないことだから」

「いいえ、僕こそすみません。続けてください」

 悲しそうに、苦しそうに、顔を歪めている平泉夫人から視線を逸らして、でも僕は先を促した。

『そういうことなんだったとしたら、あたしのこともずいぶん前から計画に入ってたってことなのかな?』

 いつもの、少し間延びしたような感じは変わらないのに、でも微かに震えてるような、人間のように身体はないのにまるで人間のように、リーリエはイヤホンマイクのスピーカーから平泉夫人に問う。

「可能性があるという意味では、リーリエちゃんのことも魔女の計画のうちでしょうね。おそらく百合乃ちゃんのことがあったときから、実際にはスフィアカップのとき、もしかしかしたらそれ以前の、スフィアロボティクス創立の頃にはエリキシルバトルの開催を彼女は決めていたのかも知れない」

 苦いものを噛みしめきれずに逸らしていた視線を上げると、僕のことを真っ直ぐに射抜くような、でも僕のことを心配しているような平泉夫人の視線とぶつかった。

「特別なスフィアの持ち主だった克樹君は、あの時点でエリキシルソーサラーの有力候補のひとりだったのでしょうね。そして貴方の叔父、彰次さんのことも考慮されていたはずよ。だから貴方に百合乃ちゃんの脳情報が入ったディスクを渡し、エリキシルバトルに参加するようし向けた。魔女の期待通りかどうかまでは、わからないけれどね」

 モルガーナという存在の全貌が僕には見えないのと同様に、平泉夫人がどこまで見通せているのかがわからなかった。

 印象や憶測からの言葉も多分に含んでるんだろうけど、僕がたどり着けていない場所から、僕の見えていないものを見ていることだけは確かだった。

 それから浮かんでくるひとつの疑問。

 紅茶を飲み干してひと息吐いた後、僕は質問してみる。

「どうして平泉夫人は、そこまでモルガーナのことを調べているんです?」

「そうね。単純に彼女のことが許せない、というのはあるかしら?」

 それまであったピリピリとした雰囲気を紅茶と一緒に飲み干し、微笑みを浮かべた夫人は答えてくれる。

「でもそれだけじゃないわね。はっきりとはわからないけど、彼女の望む方向と、私の望む方向が競合してしまうから、かしらね。私にとって魔女は敵なのよ。それは魔女にとってもそうでしょうけれど、力の総量で考えたら、私はあの人の足下にも及ばないわ。それでも私の望みを通せるように道を造らなければ、次の世代が、さらにその次の世代が失われてしまう。私が魔女と戦っている理由は、そんなところよ」

 楽しげに笑っている平泉夫人が、僕のためとか、百合乃のためというだけで動いているわけじゃないのはわかった。

 彼女の見ている世界は、僕には遠くて見通すのが難しそうだけど、それでも浮かんでくる疑問がある。

「……モルガーナは、いったいどんなことを望んでエリキシルバトルを開催したんだと思いますか?」

「それが私にもわからないのよ。あの人が魔女と呼ばれるにふさわしい時間と力を持っているのはほぼ確実。望みを持って動いているのも確実なのだけど、彼女の目指す終着点は私にも見えない。ピースが足りないのね。それと同じように、翔機さんの望みも、私にはわからないわ」

「天堂翔機の望みも?」

「えぇ」

 話の最初でも首を傾げていた夫人だけど、僕にとってはちょっと意外だった。

 僕なんかよりよっぽど広い視野を持ち、深く考えることができる頭を持ってる平泉夫人が、天堂翔機の望みがわからないというのは想像できなかった。

 可能性だけなら僕でもいくつか思い浮かぶ。

 それと同じものを想像してるだろう平泉夫人は、でもその想像が答えに見えていないんだろう。

「彼は確実に、スフィアロボティクスの会長を辞するまでは魔女の傀儡だったのよ。自分の意志で動いていたとしてもね。でもいま、育った家で過ごしてる彼が何を考えて、何を望んでいるのか、エリクサーでどんな願いを叶えたいかは、私には想像できないわ」

 そこまで言って、平泉夫人は何とも言えない、微妙な表情を浮かべる。

 僕にとって母親というのは、声をかけるとそのときなって僕の存在に気づいたように見下ろしてくる人物のことしか知らない。

 もし、一般的な意味での母親というのが僕にいるとしたら、いまの夫人のように僕のことを揺れる瞳に写して、唇を微かに震わせてる人のことかも知れない、と思う。

「充分に気をつけなさい、克樹君」

「わかりました」

『だぁいじょうぶだよっ。おにぃちゃんのことはあたしが絶対守るからね!』

「わかった。頼りにしてるよ」

「えぇ、克樹君のことをお願いね、リーリエちゃん」

『うんっ』

 リーリエの元気の良い声に、僕と平泉夫人は笑みを見せ合っていた。

 

 

 



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第四部 鋼灰色(スティールグレイ)の嘲り 第二章 2

 

 

       * 2 *

 

 

『もうっ、おにぃちゃん! 自分で持っていく荷物でしょ!! ちゃんと自分で用意してよっ』

「まとめるところまではやっただろ。それに半分くらいはリーリエが使う機材じゃないか」

 首にタオルをかけたままLDKに入った瞬間、リーリエの苦情で呼び止められた。

 リビングスペースでアリシアをアライズさせてるリーリエがやってるのは、明日持っていく荷物の準備。

 持ち出し忘れがないようリストをつくって、僕は荷物を集めて袋に詰めた。大きなリュックの他にスポーツバッグまで必要な量になってしまったが、何があるのかわからないんだ、必要そうな物はできるだけ持っていくべきだろう。

 手伝うと言ってくれたリーリエにお願いしたのはリストとの照合と、綺麗に袋に詰めること。だけど任せっきりにしてお風呂に行くのはダメだったらしい。

 明日は朝早く、いつも学校に行くのより一時間以上早く家を出る必要があった。

 住所から調べてみたが、本当に人里離れた辺鄙な場所にある天堂翔機の屋敷は、彼の計らいで一番近いホテルに一泊してから挑むことになる。

 バトル用の機材だけでなく、たいした物じゃないとは言え一泊旅行用の荷物はかさばることとなった。

「ありがと、リーリエ」

『まったく、おにぃちゃんは面倒臭がりなんだから!』

 もうこのまま寝るつもりでゆったりとした上下を着て作業を見つめていた僕に振り返り、上目遣いで頬を膨らませ恨みがましい目で睨みつけてくるリーリエ。

 ――こういうところも、本当に百合乃にそっくりだな。

 いつだったか、学校の課外授業で合宿に行くことになったとき、いつまでも準備を始めない僕に業を煮やした百合乃が準備してくれるって言うから任せたときも、同じように睨まれた憶えがある。

 性格は似ていても違い、けれど仕草や言動の端々に百合乃を感じることがあるリーリエ。

 リーリエを通して百合乃のことを見ている僕は、エリクサーで百合乃の復活を願うべきなのかも知れない、と思うこともある。

 それでも僕が願ったのは、あの火傷の男を苦しませて殺すこと。

 百合乃とは別れを済ませていたし、いまは以前よりも激情に駆られることはなくなったにしろ、火傷の男に対するどす黒い感情は思い返す度に湧き上がる。

 火傷の男をエリクサーで殺さない限り、いや、エリクサーが手に入らなかったとしても、どうにかしてアイツを殺さない限り、僕が前に進むことはできそうにないと感じていた。

 ――そんなことはどうでもいいか。

 昨日平泉夫人と話していたときにも思ったが、あの火傷の男もおそらくモルガーナの関係者で、エリキシルバトルを勝ち抜いていけばいつか見つけられるような気がしてる。

 でもいまは、明日からの天堂翔機戦の方が重要だ。

「明日は早いんだから、そろそろ寝るぞ。アライズ解いてアリシア充電させておけよ」

『わかってるよー』

 バッテリの予備は充分な数持っていくが、長期戦になる可能性を考えたらひとつでも多いに越したことはない。

 真夏といえど外はすっかり暗くなり、いつもより早い時間だけど寝ることにした僕は寝室に行こうと思って踵を返した。

『え? なんで? ちょっと待ってー』

 外のカメラに注目でもしたんだろう、リーリエがそんな声を発するのとほとんど同時に、呼び鈴が鳴った。

 まだ深夜にならない時間とは言え、こんなときに誰だろうかと思うが、いまスマートギアを被ってない僕は玄関カメラを確認することができない。

 僕を追い越してリーリエが走らせたアリシアを追って、僕も玄関に向かった。

「――なんで?」

 リーリエがアライズさせたアリシアで玄関を開けたのだから、誰が来たのかは予想はついてたわけだけど、それでも僕は間抜けな声を上げてしまっていた。

 この時間に連絡もなしに来る人物じゃない。

「えっと、ゴメンね、克樹。……なんて言うか、いろいろ、不安になっちゃって」

 そう言いながらボストンバッグを肩に提げて入ってきたのは、夏姫。

 不安になるってのはわからなくはない。僕だって待ちかまえてる天堂翔機のことを考えたら、不安になることだってある。

 少し泣きそうになってる気もする夏姫の細めた目に、僕はひとつため息を吐き出す。

 男の僕ならともかく、こんな時間に女の子の夏姫をひとりで追い返すわけにもいかないだろう。明日の準備はすっかり終えているらしい彼女がどんなつもりで来たのかは、言われなくたってわかる。

 ミニスカートと可愛らしいキャミソール辺りを合わせてることが多いのに、いまは地味な上着とショートパンツ姿の夏姫を顎でしゃくって家の中へと促す。

「とりあえず上がればいいだろ」

「うん、ゴメンね」

 ひと言謝ってから、夏姫は玄関の端に持ってきた荷物を置いて、靴を脱ぐ。

 LDKに入ると、先にアリシアを奥に引っ込めていたリーリエは、マグカップにココアを淹れてお盆に乗せてきた。

 空色の髪をツインテールに結い、白いソフトアーマーに空色のハードアーマーを纏ってる姿はぜんぜん違うわけだけど、その様子は百合乃を思わせる。

「ありがと、リーリエ」

『うぅん、いいよー。こういうときは甘いものがいいって見たことあるからね。でもあたしじゃ味見はできないから、濃さの調節まではできないよ』

「そりゃあまぁ、エリキシルドールはほとんど人間みたいに見えるけど、やっぱりスフィアドールだからなぁ」

 ダイニングテーブルを挟んで正面に夏姫が座り、当たり前のように僕の隣にリーリエの操るアリシアが座った。

 身体を乗り出したアリシアでカップを見つめてくるリーリエだけど、さすがに飲むことはできない。

 いつも喋るときはアリシアの口を動かして、アリシア自身が喋ってるように見えたりすることはあっても、その声は天井近くに設置してあるスピーカーから降ってきてる。アライズしても、スフィアドールには消化器官もなければ、舌も発声器官もない。

「リーリエも食事がしたいとか?」

『そう思うときもあるけど、あたしはエレメンタロイドだから。でもショージさんのとこのアヤノは、ストマックエンジンとスメルセンサー搭載してるから、たくさんじゃなければ食べられるし、味もわかるんだよー』

「アヤノは新技術の運用実験てことにした、ショージさんの趣味の塊だからね。アヤノはあれ、市販したらいくらになるんだか……」

『いまのおにぃちゃんの収入じゃ、維持費出すのも難しいねっ』

「うっさい」

 くすくすと笑ってるリーリエと夏姫に、鼻にシワを寄せて不満を表す。

 運用実験に名を借りてショージさんの家でメイドをやってるアヤノは、ボディも新技術の塊なら、あれを制御してるAHSも一般提供版と違い、オミットされた機能のないフルバージョン、実験版だ。

 食事がつくれたりするAHSは一般向けには法律とかの関係で機能を提供できないし、ショージさんの趣味で開発されたストマックエンジンやスメルセンサーを搭載したそのボディの価格は、高級外車並みになると言う最新高性能エルフドールが五体か一〇体買えるくらいの金額になると思う。

 市販段階に入っていないパーツは何かと細かなトラブルが多いと聞いてるし、リーリエの言う通りバイトにしては高給取り程度の僕には、維持費すら出し切れないだろう。

 ふたりに笑いものにされるのに堪えられなくなった僕は、話題を変えることにする。

「でも本当にどうしたんだ? 夏姫。こんな時間に」

「……うん。さっきも言ったけど、なんかいろいろ、不安でさ。ひとりでいたくなくって」

『天堂さんのとこに行くこと? あたしは楽しみだよー』

「気楽だな、リーリエは。どんな仕掛けを準備して待ってるのかわからないのに」

『あたしたちは五人もいるんだよ? だぁいじょうぶだよ!』

 アライズしても特徴的な、人間に比べるとふた回りほど大きなアリシアの拳を握りしめて見せつけてくるリーリエに、僕の中にある不安が薄らいだ気がしてくる。

 見てみると、夏姫も硬かった表情が少し和らいでいる。

「そのこともあるんだけどさ。……ねぇ、克樹。エリキシルバトルは、あとどれくらいで終わると思う?」

 和らいでいた表情を引き締めて、僕のことを真っ直ぐに見つめてきた夏姫が言った。

 バトルに関係していないPCWの親父ですら感じてることなんだ、夏姫が気づいていないわけがない。

 バトルが終わるということは、誰かの願いが叶うということ。それが誰になるのか決まるということ。

 願いを叶えられるのはひとりだけなのか、複数なのかについては発表されてない。

 モルガーナの存在と、彼女が何か企んでいることを知っている僕たちは、願いそのものが叶えられるかどうかを危惧してる。

 終わりが近づいてきてるのを感じてるときに、関係者の中ではモルガーナの次に大物だろう天堂翔機からの招待があったんだ、夏姫が不安になるのも当然だった。

「もうそんなにかからないだろうね。早ければ年内か、年明けの辺りには、かな。実際はもっと短いかも知れないし、もっとかかるかも知れないけど。ただエリキシルソーサラーの候補はそんなに残ってないからね」

「うん、そうだよね。誠も、灯理も言わないけどさ、不安なんだよね。いまのところバトルの資格は失ってないけど、自分の願いが叶えられるかどうかって。あたしもそれは気になってる」

 悲しげな色を浮かべる瞳を伏せる夏姫に、僕からかけられる言葉はない。

 僕は願いを叶えたいと思ってるし、できる限りのことをしてやるためにエリクサーを利用したいと思ってるけど、夏姫や灯理、近藤たちのとは違って、自分の力ででも達成は不可能なものじゃない。

 夏姫たちの願いは、エリクサーでしか実現し得ない、切実なものだ。

 自分の願いが叶うかどうかは、不安を引き起こすには充分な要素だろう。

「いまアタシたちが知ってる中で、バトルの最終勝利者は、克樹と槙島さんが有力だと思う。どっちが最後に勝つかは、そのときになってみないとわからないけど」

「ソーサラーとしてなら、夏姫の方が上だろ。実際練習じゃ勝率かなり悪いし。平泉夫人にあそこまで拮抗できるの、夏姫だけじゃないか」

「そうかも知れないけどさ。アタシじゃ、克樹には勝てないよ?」

「なんでだよ」

「うんとね――」

 そんな僕の問いに、何故か頬を緩ませながら応える夏姫は、さまよわせていた視線を上げ、僕の姿が映ってる瞳を見せながら、言った。

「だって、克樹と願いを賭けて戦うなんて、いまはもうできないよ。戦わないといけないってなっても、ためらっちゃうと思う。だって、アタシは克樹のこと、好きだから」

「うっ」

 ストレートに、瞳を覗き込まれて好きだと言われ、僕は答えに詰まる。

 隣でリーリエがアリシアの眉を顰めさせてるのは視界の隅に見てるが、僕のことを楽しそうに見つめてくる夏姫から、視線を逸らすことができない。

「ま、前にも言った通り、モルガーナはたぶんエリクサーをエサに自分の願いを叶えようとしてるんだと思う」

 何て返したらいいのかわからなくて、僕は視線と共に話を別の方向に反らす。

 アリシアの唇を尖らせて見せるリーリエに一瞥をくれてから、若干不満そうな表情をしてる夏姫に言う。

「それって本当なの?」

「確証があるわけじゃないけどね。ただ、ほとんど死んでた僕を一滴で復活させられたり、エイナの言う通りなら灰も残ってない故人を復活させられるなんてエリクサーを、モルガーナが誰かのために使ってくれるなんて思えない」

「でもたぶん、そのモルガーナって人は、もうエリクサーを使って不死だか永遠の命を手に入れてるみたいなんでしょ? いま持ってるエリクサーがいらないなら、とか?」

「そうだとしても、それを他人の願いに使う理由がない。自分にとって意味のある人に使えばいいんだし。それに、バトルを開催した理由もわからないしね」

「そうだよね」

 どうやら話題を逸らすことには成功したらしい。

 胸の下で腕を組んで考え込む夏姫は、唇をすぼめながらうなり声を上げ始めた。

 モルガーナの目的については、ずっと考えてきたけど、僕もわからないままだった。

 エリクサーを提供する理由。

 エリキシルバトルを開催する理由。

 あのとき、百合乃が現れ、僕を救った現象。

 どれを取ってもわからないことだらけだった。

「リーリエはどう思う?」

『え? う、うーん、どうなんだろー』

 唐突に夏姫に話題を振られたリーリエもまた、アリシアに腕を組ませてうなり声を上げ始めた。

 ――あれ?

 僕がアリシアの方に目を向けると、なんだか目を逸らされた気がした。

 アリシアに明後日の方向を見させてるリーリエには、モルガーナの目的なんて興味のない話題だったのかも知れない。

 思えばリーリエは、バトル関係のことで話すことは多いが、願いやモルガーナの件についてはあんまり話をしたことはない。

「まぁ、モルガーナのことだから、何もなければ約束通り、勝ち残ったひとりなのか、何人かなのかはわからないけど、願いを叶えてくれると思う。でもあいつは自分の目的最優先だろうから、約束を反故にすることもあるだろうし、そもそもあいつの目的は、エリクサーで叶えられる願いなんてどうでもよくなるようなことかも知れない」

「どんなことだと思うの? 克樹は」

「それがぜんぜんわかんないんだ。ただそれくらい恐ろしい目的でも、不思議じゃないってだけで」

「うぅーん」

 顎に手を当てて、少しうつむき加減にしてる夏姫。

「天堂翔機はたぶん、モルガーナに一番近い人物で、だから僕はあいつの元にたどり着いて、できる限りの情報を聞き出したいと思ってるんだ」

「そんなこと考えてたんだね、克樹は」

 驚いたように目を丸くしてる夏姫に、僕は笑みで応える。

 彼がどこまでモルガーナのことを知ってるかはわからないし、ただの操り人形で、ほとんど情報を持ってないかも知れないし、予想以上のことをつかんでるかも知れない。

 僕はそれを、確かめに行かなくちゃいけない。

「そんなことしてたら、モルガーナさんが約束を反故にしてくる可能性はないの?」

「ないとは言えない。たぶんあいつにとってエリキシルバトルは何か意味があることだろうから、そうそう中止にはしないと思うけどね。でもモルガーナの目的がエリクサーを手に入れることよりも恐ろしいことなら、僕はあいつとも戦うつもりでいる」

「そっか」

 薄々気づいてはいそうだけど、近藤と灯理にもまだ話していない、願いが叶わないかも知れないことを話したのに、夏姫は僕に微笑んでくれる。

「もし、そんなことになっても、アタシは克樹と一緒に戦うよ」

 椅子から立ち上がり、僕の横までやってくる夏姫に顔を向ける。

「そう言ってくれると心強いよ。モルガーナはたぶんソーサラーじゃないけど、どんな力を持ってるのかわからないからな――」

 不意に夏姫が近づけてきた、顔。

 ほんの一瞬、触れたのがわかる程度の、短い時間。

 夏姫からのキス。

「うん、大丈夫。アタシは克樹と一緒にいる。克樹と一緒に戦う。だから、大丈夫だよ」

「う、うん」

 安心をくれる言葉よりも、一瞬のキスの方がインパクトが強くて、僕は頷くことしかできなかった。

『夏姫ぃーっ。ずるい! 不意打ちだよー!!』

「予告してからなんてできないよ。こっちだって、……恥ずかしいんだから」

 後ろから首に腕を回してくるリーリエに揺さぶられながら、顔を真っ赤にしてる夏姫を、たぶん僕も同じように顔を赤くしながら見つめていた。

「今日は泊めてよね、克樹。この時間から帰れなんて言わないでしょ?」

「そりゃあ、まぁ」

 まだ頬を赤くしたまま、人差し指を薄ピンク色の唇に添えて言う夏姫を、僕が拒絶できるはずがない。

 ――でもこれは、どういう状況だ?

 前回夏姫が僕の家に泊まったのは、灯理が泊まると言い出したからだ。

 今回泊まるのは、夏姫だけ。

 ――これは、いい、ってことなのか?

 女の子みんなに卑猥なことを言ってたのは、夏姫に以前指摘された通りジェスチャーだったわけだけど、僕だって普通に年相応の男子だ。

 そして僕は夏姫のことが好きで、夏姫は僕のことを好きだと言ってくれてる。

 好きな男の家に泊まりたいって言うことはつまり、そういうことなんだろう。いや、そうとしか考えられない。

 見えないようテーブルの下でガッツポーズを決めてから、まだ若干状況に頭が追いついてないけど、僕は椅子から立ち上がる。

「えっと、じゃあそろそろ寝よう。明日は早いんだし」

 恐る恐る夏姫の肩に手を伸ばして、寝室に誘おうとする。

『おにぃちゃん! もしかして夏姫と一緒に寝るつもり?!』

 歩き出そうとした僕の服の裾をアリシアでつかんで、リーリエが邪魔をする。

『おにぃちゃんが夏姫のこと好きなのは知ってるし、夏姫もおにぃちゃんのこと本当に好きなのはわかってるけど、それはダメだよ!』

 本気で怒った瞳をアリシアで向けてくるリーリエに、僕はプライベートモードを発動させようかと迷う。

「さすがに一緒には寝ないよ? ちゃんとふたりで話しあったでしょ? つき合うのはエリキシルバトルが終わってからだ、って。つき合ってもいない男の子と、同じ部屋で寝たりはしないよ。克樹のことは好きだけど、つき合ってもいないのにそんなことするほど、アタシは軽くないよ?」

「ぐっ」

 障害はリーリエだけじゃなく、夏姫の身持ちの堅さもだった。

 膨らんでいた期待が一気に萎んで、肩を落とした僕は期待の残骸をため息とともに吐き出す。

「わかった。あの部屋の準備しに行こう」

「うんっ」

 ちょっと意地悪を含んだ笑みを浮かべ、でも僕の手をそっと取ってくれた夏姫が歩き出す。

「だからさ、克樹」

 階段の手間で振り返った夏姫が言う。

「早めにエリキシルバトルを終わらせようね。――アタシか、克樹の勝利で」

「……そうだな」

 柔らかく笑む夏姫に、僕も笑む。

 

 

 

 

「ちっ」

 ベッドに入って灯りを消した僕は、思わず舌打ちしていた。

 好きな女の子が泊まりに来たってのに、何もできないのはさすがに落胆が大きい。

 ――いや、けっこういろいろやってきたけどさ。

 夏姫のことはもう何回も押し倒してるし、この前のプールだってデートみたいなものだ。

 キスくらいでお互い真っ赤になるのは、自分でもウブ過ぎると思うけど、さすがにそろそろ、夏姫への気持ちはキスだけじゃ満足できないレベルになってきてる。

 それでも夏姫のあのちょっと古くさい考え方は、彼女のことを想うなら、尊重しなければいけないことだろう。

 ――あんな約束しなければよかった。

 いろいろ話しあった上で、つき合うにしてもエリキシルバトルが終わった後、ってことにして、そのときは僕も納得したわけだけど、いまさらながらに後悔が押し寄せてきていた。

 真っ暗になり、暗い天井を眺める僕は、広いベッドに両腕を広げて長く息を吐き出す。

『よいしょっと』

 暗い中で、ごそごそと布団をかき分けて僕の隣に入ってきたもの。

「……何してんだよ、リーリエ」

『夏姫の代わりにあたしがおにぃちゃんと寝るのっ』

 僕の腕を勝手に枕にしてるのは、アライズしたアリシアなわけだけど、何が楽しいのか、リーリエは小さくくすくすと笑ってる。

「けっこう長くアライズさせてるんだ、バトルしてないって言っても、もうすぐバッテリ切れるぞ」

『だぁいじょうぶ! シンシア使ってバッテリ交換したもーん』

「それでも少ししたらアライズ解けるだろ。先に僕が寝ちゃったら、アリシア潰しちゃうかも知れないんだから」

『おにぃちゃんだったらそんなに寝相悪くないし、解ける前にちゃんと充電台に戻るよ。だから、少しの間だけ。ね?』

 暗いところに慣れてきた目で横を見ると、こっちに顔を向けているアリシアが、願うような瞳を向けてきていた。

「わかった。ちゃんと充電しておけよ」

『やったーっ』

 嬉しそうに声を上げ、鼻歌を歌うリーリエは、一番枕にいい位置を探すように頭を動かしてる。

 ――百合乃とも、何度かこんな風に寝たな。

 兄妹仲は良かった百合乃だけど、一緒に寝たのは数えられる程度でしかない。

 僕以上に百合乃のことを可愛がっていた両親が、同じ部屋で寝ないようキツく言ってたからだ。

 それでも台風の日とか、雷が鳴ってるときとかは、両親の目を盗んで百合乃は僕のベッドに潜り込んできていた。

 そんな昔のことをふと思い出して、僕はリーリエをそのままにしておくことにする。

『ねぇ、おにぃちゃん』

「なんだ?」

 眠ったように静かになっていたリーリエが、唐突に声をかけてくる。

『夏姫だけじゃなくて、あたしも、おにぃちゃんと戦うよ。おにぃちゃんと、一緒にいるよ』

「うん、頼むよ。僕はリーリエなしじゃ戦えないしね」

『うんっ! あたしは、おにぃちゃんのことが好き――、大好きだからねっ。だからあたしは、おにぃちゃんにとって一番幸せなことのために、頑張るから』

「あぁ」

 夏姫のさっきの言葉に対抗でもしたかったのか、そんなリーリエの言葉に、僕は考える。

 ――僕にとっての一番の幸せって、なんだろうか。

 あの火傷の男に復讐することだろうか。

 夏姫と同じ時間を過ごすことだろうか。

 地位や名誉や財産を得ることだろうか。

 それらは願っていることではあっても、僕の一番の幸せではないように思えた。

 ――リーリエの考える僕の一番の幸せって、なんだろう。

 そんなことを考えてる間に、僕は段々と眠りに引きずり込まれていった。

 

 

 



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第四部 鋼灰色(スティールグレイ)の嘲り 第二章 3

 

 

       * 3 *

 

 

 夏もそろそろ終わりに近づく八月後半。

 けれども夜明けにはまだ早く、窓の外は星を散りばめた黒だったものが、遠い町並みの境から微かにに藍色に塗り替えられつつあった。

「ふわっ」

 机に向かっていた部屋着の薄緑色のワンピースを着た灯理は、出そうになった欠伸を手で押さえてかみ殺し、慎重に最後の縫いつけを終えた。

 両手でもって広げたそれは、腰を紐で締め上げるデザインの、黒いオーバースカート。灯理自身が身につけるサイズではなく、ピクシードールサイズの衣装だった。

「よし、完成です。まずまずですね」

 白地に赤い線の入った医療用スマートギア越しに衣装の出来を確認した灯理は、早速机の上に座らせていたフレイヤを手に取り、シンプルな白いドレスの上にオーバースカートを着せた。

 槙島猛臣と戦った後辺りから頭の中で描いていて、新しい武器などのことも考えてデザインをつくってきた衣装は、天堂翔機からの招待を克樹から聞いて、一気に仕上げることになってしまった。

 本当はもっと時間をかけて、ずいぶんレイアウトを変えた暗器の取り出しも練習してから実戦に投入したかったが、今回は時間がなかった。

 どうにか出発の当日の今日に間に合わせることができたくらいだった。

「さて、大丈夫でしょうかね」

 人間のそれとはサイズもつくりも違う上、暗器を隠す必要もあるためコツがいる衣装を着せ終え、灯理は目が見えなくても視神経に直接送られてくるスマートギアの視界に、スフィアドールコントロール用アプリと、エリキシルバトルアプリを立ち上げる。

 スマートギアをつけたまま過ごすのはもうすっかり慣れてしまったが、それでも感じる煩わしさに唇を歪ませながら、灯理は最初から変わらぬ自分の願いを想い、唱えた。

「アライズ!」

 机の上から飛び降りるのと同時に光に包まれた身長二十センチの、標準的なサイズのピクシードールであるフレイヤ。

 床に着地したときには、身長一二〇センチのエリキシルドールへと変身していた。

 重複拡張視界用のアプリにより、スマートギアに取りつけられたカメラによる視界と、フレイヤのカメラアイの映像とを高速で切り替え、まるで自分とフレイヤのふたつの地点の両方に目があるような視界で、灯理は衣装の具合を確認する。

「いい出来です」

 ピクシードールとしてのパーツだけの場合や、簡単な布地だけならばそう難しいことはないが、立体的な構造の衣装はアライズによってサイズが変わると、見た目や動きの阻害などの問題が出てくることもある。衣装をデザインするときにはそうした点も考慮していた。

 フリルが多く、レースをふんだんに使いながらもシンプルな白いワンピースと、黒のオーバースカートのコントラストは美しく、もし人間サイズのものをつくることができたら、自分でも着てみたいほどだった。

 フレイヤに軽く運動をさせて調子を確かめ、武器の取り出しなどに不都合がないことを確認した灯理は、衣装の出来に、椅子から立ち上がって大きく頷く。

 ――でも、これではワタシは、勝てませんよね。

 衣装をつくり、意外性のある武器を取り入れ、ドール操作の訓練を積んでも、灯理は自分が決して強いソーサラーになれないことはわかっていた。

 デュオソーサラーであることはルール無用のエリキシルバトルにおいて有利であることはわかっていたが、大きく強さの違う克樹や猛臣にはもちろんのこと、スフィアカップに出場するようなソーサラー相手には、初見以外では勝つのは難しいだろうと思っていた。

 いまのところエリキシルソーサラーの資格は失っていなくても、今後エリキシルスフィアを賭けて戦うとなった場合、特殊な能力は有していても、決定的にバトルのセンスが欠けている自分では、最後まで勝ち残ることが難しいと感じている。

 死んだ人を復活させたいという願いから比べればささやかな、失った視覚を取り戻したいという自分の願いが、決して手の届きやすいものでないことは、灯理にもわかっていた。

「はぁ……」

 ひとつため息を吐き出した後、灯理はフレイヤを歩かせ、窓辺に立たせる。

 天頂近くにはまだ多くの星が瞬いているのに、東の空低くに昇り始めているはずの冬の星座は、藍色に沈んで明るい星がいくつか見えるだけだった。

 フレイヤの隣に並んで外を眺める灯理は、ただただ、悲しい気持ちを抱き、薄手の部屋着の胸を強く拳で押さえる。

 諦めたくはない願い。

 諦めるしかない現実。

 その間で挽き潰されそうになっている灯理は、唇を引き結び、一時的に視覚情報をカットし、耐えることしかできなかった。

「……え?」

 視覚を戻したとき、見えている景色がいつもと違っているように思えた。

 普段は早く寝ることが多いので、夜明けの空を見ることは少ない。

 違いを感じたのは、景色そのものではなく、天頂の黒から町並みに触れる水色まで移り変わる、空のグラデーション。

 灯理自身が要望し、医療用スマートギアにはできる限り高性能なセンサーのカメラを搭載している。それでも頭の中で過去に見た光景を鮮明に思い出すことができる灯理には、普通の人には肉眼と違いは感じないだろう、空の階調が跳ぶところにできる段差が見えてしまう。

 それがいま、見えなかった。

 空は肉眼で見ていたときと同じ、段差はなく滑らかに黒から水色に変化していっている。

 灯理はいま、無限のグラデーションを見ていた。

「まさか!」

 叫んでしまった灯理は、窓枠に手を着き大きく窓を開けてから、思い切ってスマートギアのディスプレイを跳ね上げる。

 けれどその途端に、視界は真っ暗になった。

 ――違う。目が治ったわけではない……。

 ディスプレイを戻し、改めて夜明けの空を見た灯理は、別の違和感を覚えた。

 無限のグラデーションと、有限のグラデーションが、一緒に見えていた。

 ――どういうことでしょう。

 確認するために、一度スマートギアの視界のみにし、それからフレイヤからの視界のみにしてみる。

「これは、フレイヤが見ているの?」

 スマートギアの視界にすると有限のグラデーションに。

 フレイヤの視界にすると無限のグラデーションに。

 理由はわからない。

 けれどフレイヤを通して送られてくる視界は、確かに目が見えていた頃の、記憶にある無限のグラデーションだった。

「これは、エリクサーの奇跡?」

 目が治ったわけではないのだから、エリクサーが自分に使われたわけではないのはわかる。

 フレイヤが見えている景色だけが、自分の目で見ていたときと変わらない、灯理が求めているものだった。

 ずっと焦がれていて、戦いに敗れたら死ぬくらいのつもりで求めていたものが、いまフレイヤを通して手に入っていた。

 いますぐにでもこの風景を描きたい。

 そう思いながら、灯理はフレイヤを窓から乗り出すようにさせ、外の景色を眺めさせる。

 その時――。

 突然大きな音を立て始めたのは、目覚まし時計。

「か、カーム!」

 今日は珍しく帰ってきている母親が隣の部屋で寝ている。

 睡眠時間が短くても寝つきも目覚めもいい灯理は、いつもならば目覚まし時計など仕掛けないが、今日は出発が早いために念のため仕掛けておいた。

 慌ててフレイヤのアライズを解除し、スマートギアの視界に切り替えた灯理は、ベッドの上に置いてある目覚まし時計に駆け寄り、アラームを止めた。

 時計を胸に抱いたまま、しばらくそうして隣の部屋から物音がするかどうか、待つ。

 待って、待って、しばらく待っても物音ひとつしてこないことを確認した灯理は、安堵の息を吐き窓のすぐ側に立っている二〇センチのフレイヤを見る。

「……アライズッ」

 一端カーテンを閉め、小さな声で願いを込めて唱え、灯理は再びフレイヤをアライズさせた。

「――錯覚、だったのでしょうか」

 先ほどまでは確かに無限のグラデーションが見えていたのに、再びアライズしたフレイヤの視界では、スマートギアのカメラと同じ程度の有限のグラデーションしか見えていなかった。

 ――錯覚だったとしてもいい。やっぱり、ワタシはあのグラデーションが見える目がほしい。

 アライズを解除したフレイヤを充電台の上に寝かせた灯理は、ふらふらとベッドに近寄り、突っ伏して肩を震わせる。

 現実が厳しいのはわかっている。

 もうそう遠くなく終わるだろうエリキシルバトルの間に、自分が一番強くなれないことも理解している。

 それでも、灯理は諦められそうにないと感じていた。

 他の誰の願いを押しのけることになるとしても、灯理は自分の願いを諦めたくないと、そう思っていた。

 

 

          *

 

 

 駅前ロータリーの真ん中に目立つように立てられた時計は、まだ六時を過ぎたところだと言うのに、陽射しは昼のように強かった。

 僕たちが通ってる高校の最寄り駅には、もうお盆休みも終わったからか、まだ夏休み中なのに制服の男女や、サラリーマンなんかが絶え間なく階段へと吸い込まれて行っている。

 小さなイベントも開けるような広場もある駅前の、できるだけ影になってる場所に逃げてるけど、暖まったアスファルトから発せられる熱気は、もううだるほどの暑さになっていた。

 一番駅に近い僕は、小さくジャンプしただけでも絶対中が見えるミニスカートにスパッツを合わせ、可愛らしいキャミの上に半袖の上着を重ねた、相変わらず活発なポニーテールの夏姫と一緒に到着して、若干遅れて近藤がやってきた。

 まだ来ていない灯理を待つ間、自分で背負ってるリュックよりも大きく重いスポーツバッグを持ってもらってる近藤は、げっそりとした表情を浮かべている。

 肩から提げたボストンバッグとそんなに大きくないトートバッグと、意外と荷物の少ない夏姫は、まだ少し不安そうに顔を曇らせて、ここに来るまでもそうだったけどこっそり僕の手をつかんでいた。

「おはようございます」

 そう長く待つことなく、タクシーでやって来た灯理は、思ったよりも大きなカートを引いて夏姫より大きなトートバッグを肩に提げ、さすがにこの時期だから生地も薄手で飾りも少なめだけど、白に藍色を組み合わせた少し古風な感じのロリータファッションで現れた。

「よし、じゃあ行こう。暑いし」

 時間はまだ余裕はあるけど、じりじりと上がってきてる気温に早く涼しいとこまで行きたかった。

 重そうな荷物を担いだ近藤が先行し、さすがに手を離した夏姫と並んで駅の改札へと向かうエスカレーターに足をかけようとする。

「あ、あの……、克樹さん!」

「ん?」

 呼ばれて振り向くと、唇を、肩を微かに震わせている灯理が、白地に赤い線が引かれたスマートギア越しに、僕のことを見つめてきていた。

 たぶんいまの彼女は、真剣な眼差しを僕に向けてきている。

「どうかした?」

「それは……、その……」

 何か言いたそうに口は開くけど、灯理はためらうようにして、何も言わない。

 ――何かあったんだろうか。

 僕が天堂翔機に呼ばれたように、他の誰かからアプローチがあったり、身内や身近な人に何かあったのかと思ったけど、一心に僕のことを見つめてくる灯理に、他のことに気を取られている様子は見られない。

「大丈夫? 灯理。調子でも悪い?」

「そうでは、ないのですが……」

 僕と一緒に振り向いた夏姫が一歩近づいて心配する声をかけるけど、灯理は僕から視線を外して、迷うようにうつむく。

「――いえ、何でもありません。行きましょう」

「灯理? 僕に何か――」

「大丈夫です。何かあったときには、ちゃんと言います」

 そう言って無理をしてるような引きつって見える笑みを口元に浮かべる灯理。

 絶対に何か言いたいことがあるのはわかってるのに、唇を引き結んだ彼女は、もうこれ以上問うても何も言ってくれそうにない。

「うん。行こう」

 先に行ってしまった近藤を追って、僕たちもエスカレーターに乗り、改札を目指した。

 

 

 



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第四部 鋼灰色(スティールグレイ)の嘲り 第二章 4

 

 

       * 4 *

 

 

 新幹線を降り、在来線に乗り換えてのろのろと進む電車で町を離れ、そこからさらに一番本数が多い時間でも一時間に五本しか走っていない私鉄に乗ってたどり着いたのは、駅舎と駅前ロータリーだけは妙に大きく綺麗なのに、場末の町よりさらに寂れた田舎だった。

 この街の成り立ちを考えれば、こういう不釣り合いな光景も当然のことと言えた。

 スフィアドールの第一世代、つまりスフィアドールの基礎的な部分のすべては天堂翔機ひとりが開発し、パテントを申請した上で、スフィアロボティクスを創立している。

 あくまでスフィアロボティクスは開発したスフィアドールをさらに進歩させ、製造するための会社で、いまでは世界中に広まっているドールのパテントを掌握している天堂翔機は、この手の業界でもあまりないほどの大金持ちだ。

 仕事は主に会社でやっていたと言っても、彼個人の税金はこの町に落とされるわけで、さらに自宅の屋敷に引きこもることも多かったというから、駅はもちろんのこと、車の通りなんてたいしてないのに近くにはバイパスまで通っているなど、彼のための町づくりが行われたわけだ。

 昼をとっくに過ぎ、ある程度標高があるらしく空気には涼しさを感じるものの、逃げ出したくなるほどの陽射しも、そう遠くないうちに傾きが大きくなる。

「……これに乗っていけばいいんだよな?」

 四人揃って駅舎から出ると、待っていたのはロングタイプではないものの、リムジン。

 たぶん天堂翔機の屋敷を訪ねるためにやって来たビジネスマン向けだろう、大きさはたいしたことないものの、小綺麗な食堂兼土産物屋の他は商店がいくつかある程度。住宅が並んでいるわけでもなく、真っ直ぐに進む道と自然があるだけの場所で、都会の雰囲気を漂わせるリムジンは不釣り合いの境地のような物体だった。

 近藤が指さすそれに、僕はため息をひとつ吐き出してから近づいていく。

「音山克樹様とそのお友達の方々ですね」

「そうですが」

「どうぞご乗車ください」

 にこやかな笑顔で待ち構えていたピシリとしたスーツの運転手は、扉を開けて僕たちを車の中に誘った。

 新幹線もグリーン車なら、ここまで来る電車も指定席だったし、途中に届けられたお重のウナギも僕がこれまで食べたことがないほど美味しかった。

 僕たちを招くのにどれほど金を使っているのかわからないけど、どうやら天堂翔機は僕たちを最高の待遇で招いてくれているらしい。

 その後に、エリキシルスフィアを奪い、地獄へと叩き落とすつもりかも知れないが。

「まぁ、行こう」

「そ、そうだね」

「あぁ……」

「えぇ、行きましょう」

 物怖じしていないのは灯理だけで、夏姫と近藤はもちろん、僕だってさすがにいまの待遇には若干ためらうものを感じてる。

 荷物をトランクに載せ、車に乗り込んだ僕たちの目的地は、決して大きくはないものの、隠れ家のようなホテル。

 そこで一泊して明日、僕たちは天堂翔機の屋敷へと挑むことになる。

 ――いったい、どんなつもりなんだか。

 スフィアドールの基礎をつくり、スフィアロボティクスを創立し、日本の中でも大富豪とまではいかないものの、かなりの富豪と言える天堂翔機。

 僕には彼がどんなことを考えて僕たちを招いているのか、よくわからなかった。

 

 

          *

 

 

「ふぅ……」

 人里離れた場所にあって、建物も決して大きくはないのに、高級感溢れるホテルは、政治家や財界人が雲隠れするのに使っているようなところらしい。

 それにしても町から離れて特に観光地があるわけでもない森の側という辺鄙すぎる場所なわけだけど、元々この辺りにはいくつかの鉱山があって、一世紀くらい前までは鉱山関係の人や物資で行き来が多かったところだった。

 天堂翔機の屋敷も、ここよりさらに山に分け入ったところに建っているけど、最初は鉱山開発に関わった海外の人が立て、鉱山主となった人の住居、別荘と移り変わって、いまも残っているところだそうだ。

 山の中だというのに高級食材をふんだんに使った夕食を食べ、混浴でなかったのが残念だけど広い温泉に入り、男女別に取られた部屋で寝ようと言うところだったけど、僕はどうしても眠れなかった。

 すでに寝息を立てている近藤を起こさないように静かに部屋を出て、薄暗くされた照明の下に続く廊下の突き当たりから広いバルコニーへと出ていた。

「星が綺麗だな」

 いまは僕たちの他に泊まり客はいないらしく、静かなホテルのバルコニーから眺める星空は、近くに他の建物どころか住んでいる人がいないためか、くっきりと夏の天の川が見えていた。

 まだ夏の盛りだというのに、浴衣の上にもう一枚羽織ってきても山の中の空気は寒いほどだ。

 天堂翔機のこと、モルガーナのこと、エリキシルバトルのこと、夏姫やリーリエたちのことなんかが頭の中に駆け巡っていて、どうにも気持ちが高ぶってしまっている。

 朝早くに迎えが来るという話だから、早めに寝ないといけないのはわかっているけど、僕は満点の星空を仰いで、まとまらない考えを半ば放棄してボォッとしていた。

「やっぱり、克樹さんでしたか」

 中に入る扉が開けられる音とともにかけられた声に振り返ると、落ち着いた赤い浴衣の上に、用心で持ってきたのだろう、薄手のコートを羽織っている灯理。

 高性能なカメラを搭載した医療用スマートギア越しに微笑む彼女は、肉眼でしかない僕よりよっぽど周りが見えていることだろう。

「どうしたの?」

「眠れなくって……。克樹さんは?」

「僕も。何だかいろいろ考えちゃってね」

 僕にしては珍しくイヤホンマイクも部屋に置いてきたいまは、灯理とふたりきりだ。

 ふたりきりでも、灯理が僕に積極的になることは、いまはもうたぶんない。夏姫のことが大きいと思うけど、最近の彼女は何かいろんなことを考えている様子がある。

 近づくエリキシルバトルの終わりにか、それとも他のことなのかは、悩み事があることには気づいていても、それを問うたことはない僕にはわからなかったが。

 スリッパから備えつけの草履に履き替えて僕の横に立った灯理は、白い息を吐きながら僕と同じように空を仰ぐ。

 星空を見ているようで、どこか違うところに思いを馳せているだろうことは、今日の朝もそうだったし、ここに来るまでの様子を見ていてもわかっていた。

 でも僕は、こちらから声をかけることなく、灯理の言葉を待つ。

「……ワタシは、願いを諦めることはできません」

 星空から僕の顔に視線を移した灯理は、前置きもなくそう言った。

 医療用スマートギアに隠れて見えていない彼女の瞳は、たぶん僕のことを射貫くような強い視線を向けてきているんだろうと思う。

 いま灯理が放つ気迫のようなものが、彼女と最初に戦い、決着をつけたときのそれより、強烈なもののように感じられていたから。

「エリキシルバトルの結末が見えるようになるまで、僕は灯理からスフィアを奪ったりしないよ。必要になったら、また僕と戦えばいい。エリキシルスフィアを持ってる間は、願いを諦める必要なんてない」

 灯理はもちろん、夏姫や近藤にも言ってある言葉を、僕は繰り返す。

 それでも灯理はバルコニーの桟をつかむ、震えるほどに込められた手の力を抜こうとはしない。

「ご存じでしたか? 克樹さん。……ワタシは、克樹さんのことが、好きです」

「――え?」

 力んだままの手を桟から離し、僕の浴衣の胸元をつかんでくる灯理。

 話が飛びすぎて、僕は何も言葉を返すことができない。

 僕の身体にぴったりとくっついてくる灯理の身体は、微かに震えていた。

 力みすぎているからだろうか、寒さからなのか、不安だからか。

 僕の胸に頬を押しつけるようにしている灯理の、お尻を超えて伸びる茶色の髪からは風呂上がりの香りが微かに漂っていて、浴衣越しでも感触が伝わる胸は大きく柔らかいのに、折れそうなほど細い肩に、思わず手を伸ばしそうになるのを堪える。

「最初は、貴方を利用するために近づきました。同じくらいの歳の男の子なら、騙すことはできるだろうと。それを看破されて、それでも貴方はワタシを許してくれた。スフィアを持ち続けることを認めてくれた。そして自分の願いを持ちながら、それよりも大きなものを見据えている貴方に、ワタシは憧れたのです」

 灯理からの想いの告白。

 スマートギアのディスプレイを跳ね上げた彼女は、細く白い指を僕の頬に添え、何も映すことのない瞳で僕の瞳を見つめてくる。

「魔女の話を聞いても、ワタシは自分の願いを叶えることしか考えられませんでした。克樹さんのように、この戦いの意味や、終わった後のことなんて、考えられませんでした。ワタシにとってそんな大きな存在の克樹さんが、ワタシは好きです。正直、貴方の将来性といったことへの打算もあります。それでも、ワタシは貴方のことが、リーリエさんよりも、夏姫さんよりも好きだと、そう思っています」

 そこまで言って、灯理は僕にすがりつくようにしながら、背伸びをした。

 そして、見えない目を閉じる。

 リーリエにも見られていないいまは、僕と灯理は本当にふたりきりだ。

 灯理が何を求めてきているのかは、行動の意味でも、気持ちの意味でも、わかっている。

 抱き寄せて、口づけて、冷たくなってきている身体と心を温めてやれば、彼女は満足してくれるだろう。それがたとえひとときの充足だとしても。

 ――できるわけ、ないよな。

 灯理の両肩に手を置いた僕は、彼女の身体を腕の長さの分だけ引き離す。

「エリキシルバトルはたぶんそう遠くないうちに終わる。どんな結末を迎えるかは、僕にはわからない。本当にあのモルガーナが僕たちの願いを叶えてくれるのか、いったい何人の願いを叶えてくれるのかは、僕にはわからない」

 閉じていた目を大きく見開いた灯理は、唇を小さく歪ませ、そっぽを向いてスマートギアのディスプレイを下ろした。

 さっきよりも大きく震えてる肩に罪悪感を感じなくはないけど、彼女の求めているものに、僕は応じられない。僕はその役割は背負えない。

「いったい何人の願いが叶うかは、オレも知りたいな」

 張り上げずとも聞こえてきた太めの声に、僕と灯理は驚いてお互いに身体を離す。

 いつの間に現れたのか、建物の中に入る扉のところに、近藤が立っていた。

「……いつから見てたんだよ」

「お前が浮気未遂をしてるところからだよ」

「寝てたんじゃなかったのかよ」

「寝てたけど、お前が部屋を出るときに目が醒めたんだ。それより、何人の願いが叶うかってのは、わからないのか?」

 絶対最初から見てただろうと思うが、近藤も配慮してくれたんだろうし聞かないことにする。

「わからないな。説明書にも書いてなかったし、告知もされてないんだ、僕だってわからないよ」

 近づいてきた近藤の厳しい視線を受け止めながら、僕はそれを見つめ返しながら言う。

「もしかしたら終わりが近づくか、終わってみないとわからないのかも知れない。可能性として考えられるのは、願いの数が可変だということかな」

「可変、ですか?」

 好きな人への距離から友達関係の距離まで離れた灯理が、首を傾げながら問うてくる。

「うん。根拠はとくにないよ。ただ、このエリキシルバトルの意味を考えると、ね。それと近藤、お前と戦ったときに百合乃が現れて僕の命を救ったこと。もしかしたらだけど、エリクサーは報酬としてあらかじめ用意されてるんじゃなくて、僕たちが戦うことでその量が変わるのかも知れない、と思ってる。調べる手段がないけども」

「量が変わる?」

「そんなことがあり得るのですか?」

「あり得るってか、何でもありだと思うよ。そもそもエリクサーは一応存在が確認できてるわけだけど、どうしてそんなものがあって、いったいどんなものなのかもわからない。まさに奇跡の水だからね。モルガーナがわざわざ僕たちに戦うよう促してることから考えても、バトルとエリクサーには関係があると思うんだ。だから、僕はもっと戦い続けないといけないんだと思う」

 あくまで僕の推測に過ぎないが、そうなんじゃないかとかなり最初から、去年中野でモルガーナと話したときから、そんなことを漠然と予想していた。

 困惑の表情を見せる灯理と近藤。

 それもそうだろう。バトルを勝ち抜き、少なくとも最後のひとりになれれば得られると思っていた報酬。それは優勝賞品のように用意されたものではないとしたら、混乱もすると思う。

 エリキシルバトルに近いかも知れないものと言えば、賞金の固定されていない勝ち抜き制の賭け試合だ。

 優勝賞金は保証されないが、観客が試合に金を賭けることで、その一部を報酬として得られる。どれだけ勝ち抜けるかで、得られる金額も変わってくる。

 報酬を渡されるのは一試合ごとなのか、上位入賞者なのか、優勝者だけなのかは、エリキシルバトルのルールには明記されていない。

 そしてその事実は、暗に優勝しても願いが叶わない可能性を示唆する。

 充分な報酬が集まっていない状況ならば、報酬はゼロとなるのだから。

 死にかけた僕を癒した一滴にも満たないエリクサー。

 もしエリクサーの奇跡の度合いが量に依存するなら、多く集まれば複数の願いを叶え得るということになるが、充分でなかった場合、ひとりの願いすらも叶わない可能性が出てくる。

「……本当に、そういうものなのか?」

「わからないよ。明日、僕はできるだけ天堂翔機から情報を引き出すつもりだけど、どれだけのことを知ってるか……」

 美しく輝く降りそうなほどの星空の下で、灯理と近藤は押し黙る。

 僕は最初から、あまり願いには執着していない。火傷の男を殺すだけなら、僕の力でそれの達成が不可能ではないと思っていたから。

 ただ、普通に殺すだけでは気が済まないから、エリクサーの奇跡を使って、できる限り最大の苦しみを与えたかっただけだ。

 そして百合乃の誘拐とその後に訪れたモルガーナから、火傷の男はモルガーナの関係者だと推測していたから、エリキシルバトルに参加したというのが大きい。

「オレはたぶん、最後まで勝ち残るのは難しい」

 視線を上げ、迷うようにさまよわせながらも近藤は言う。

「たとえ克樹と出会わなくても、もしヒルデが完調であれば浜咲には勝てなかっただろうし、最初からわかって戦うならどうにかなるかわからないが、中里にだって勝てなかった。それに、あの槙島にはほとんど歯が立たない」

 僕のことを見つめてくる近藤を、灯理とともに真っ直ぐに見る。

「オレはもうあんまり自分の願いが叶うとは思ってない。諦めたわけじゃないが、オレじゃ一位にも二位にもなれないからな。お前にくっついてるのは、……その、いろいろと恩があるってのもあるが、奇跡のおこぼれにでも預かれればと思ってるからだ」

 わずかに声が震えてきた近藤は、少し歩いて桟に背を預ける。

 星を仰ぐように空を見て、目を閉じた。

「梨里香は、料理が下手でさ。オレだってたいしたものつくれるわけじゃないんだが、あいつは何かに気を取られるとそっちに集中していっちゃうクセがあって、料理中に他のことに気を取られて失敗してることが多かった。それでもどこかに出かけるときとかにはよく弁当をつくってきてくれてさ。失敗作が入っててふたりでマズいとか、こっちは成功だったとか言ってたんだけど、そんなのが当たり前で、普通だったから、オレはあいつに充分ありがとうって言えてない」

 もう隠せないほどに近藤の声は震えていた。

 空を仰いだまま目頭を手で押さえ、それでも言葉を続ける。

「あいつが死んだのは凄く突然で、入院はしてたんだが、容態が急変したと思ったら、すぐだった。オレは間に合わなかった。だから……、だからオレは、あいつにさよならを言えてない。最期のときは笑って言い合おうって約束してたのに。最期にあいつにありがとうって言えてない。ひと目でいい、梨里香に会えるならと思って、オレはお前に協力してるんだ、克樹」

 口を閉じた近藤は、微かに嗚咽を漏らしていた。

 悲痛な表情を浮かべている灯理の横で、僕は冷たい夜風に吹かれながら、夜よりも深く気持ちが沈んでいる。

 僕のたいしたことのない願いは、夏姫や、灯理や、近藤たちの上に立っているものだということを、改めて自覚する。

「まぁ、そんなのは、オレが勝手にお前に期待を背負わせてるだけなんだけどな」

「そうですね。ワタシも近藤さんに近いのかも知れません。願いを諦めることはできそうにありませんが、克樹さんに期待しているのです。克樹さんならば、できる限りのことをしてくれるような、そんな気がしているのです」

「……そっか。わかった」

 ふたりが向けてくる視線を逃げずにできるだけ受け止める。

 正直買いかぶりだと思う。僕にはそんなたいした力も、想いもない。

 でも僕がやってきたことを考えれば、その責任は僕にかかってきてる。

 そこから逃げるわけにはいかないし、エリキシルバトルを続ける限り、逃げることもできない。

「そろそろ寝ようぜ。明日が本番なんだからな」

「そうですね」

「うん」

 まだ目を赤くしてるように見える近藤に促されて、僕たちは屋内へと足を向ける。

 一度振り返って星空を眺めた僕は、みんなの願いをどれだけ背負っているのかを、噛みしめていた。

 

 

          *

 

 

「――お迎えに上がりました」

 ホテルで不要な荷物は預かってくれるというので、どんなことがあるかわからないから必要な物は持ちつつ、身軽になった僕たちは薄く霧が立ち肌寒さを感じる外へ出ると、指定時間の五分前には車が来ていた。

 僕たちを迎えに来たのはホテルのリムジンほどではないけど、高級そうな黒塗りのセダン。

 僕たちがホテルから出てきたのを確認したからか、車から降りてきたひとりの女性。

 いや、エルフドール。

 ドライバーらしい黒のスーツを着、濃い茶色のセミロングの髪に帽子を乗せてる姿は小柄な女性と見間違えるほどだけど、人間ではあり得ないほどの表情のない顔と、人間に似せた模様が描かれているだけで動くことのないカメラアイカバーは、エルフドール特有のものだ。

「おい、克樹……」

「僕に聞いてもわからないよ。たぶんだけど、ここは天堂翔機のお膝元ってことだろうね」

 明らかに動揺してるのは近藤。

 夏姫や灯理も目を見開いてる。

 ショージさんからスフィアドールのフルコントロールシステムであるAHSは、機能的にはすでに料理をつくったり、車の運転なども可能だと聞いていたから、エルフドールが運転席から現れたのには驚かなかった。

 僕が驚いたのはエルフドールが車を運転してきたことじゃない。公道上を運転してきたことに、僕は驚いていた。

 一部高速道路では自動運転システムの利用が可能になってきてるけど、機能的には可能だとしてもまだエルフドールが公道で車を運転することは、法律では認められていない。

 おそらくこの街の中でだけ、天堂翔機のために特例措置だか実験と称して可能にしてあるんだろう。

 ――どれだけ権力があるんだか。

 広さはともかく人口が少ないからだろうけど、法律に触れることまで歪めてしまう彼の影響力にげっそりした気持ちになる。

 同時に、かなり広く、人の手がかかるはずの屋敷に住んでいるはずなのに、人間ではなくエルフドールを遣わせる彼の人嫌いが相当なものなんだろうと認識する。

「まぁ行こう」

「うん」

「行きましょう」

 夜のことがあったからか、夏姫に続いて僕の横を通り過ぎる灯理が向けてきた少しはにかんだ笑みに、同じような笑みを返し僕も車へと向かう。

 乗ろうと思っていた助手席はさっさと近藤に取られ、僕は後部座席で夏姫と灯理に挟まれて座席に座った。

 駅からけっこう離れていたホテルから走りに走り、約二時間。

 山間の道にしては不釣り合いなほど綺麗に整備された道路をずっと走り続け、最後には木々に囲まれた林道に乗り入れてしばらく。エルフドールが運転する車は大きな門の前で止まった。

 僕たちが門の前に降り立つと、無言のままエルフドールは車とともに走り去った。

「……行くしかないか」

 取り残された僕たちは、最後の三〇分は民家すら見なかった道を戻るか、門の先に進むかしかない。

 白く鮮やかな文様が描かれた壁は二メートルを超え、門はその壁よりもさらに高く、金属製のスライド扉が行く手を遮っている。門の屋根の部分にはカメラでも仕込んであるんだろうけど、ぱっと見では見つからない。

 陽射しは相変わらず強いのに、たぶん千メートルを超えてる標高と、壁に仕切られた屋敷の敷地以外は森になってるからか、気温は寒さを感じるほど。

 門から少し離れて見てみると、その向こうにたぶん四階建ての、平泉夫人が住んでいるのよりもう少し近代的な、でもサイズは三倍以上ありそうなお屋敷が見えた。

「リーリエ、大丈夫か?」

『うん、大丈夫だよ。ここに来るまでの道はちょっと電波が怪しいとこあったけど、ここは感度凄くいいよ』

 こんなところだからモバイル回線の電波がまったく入らないということはないだろうけど、通信品質が心配なところだった。以前は三回線で充分バトルができていたけど、風林火山を使うときはそれでも不足しがちだから四回線を使ってるくらいだから。

 肩にかけたデイパックからスマートギアを取り出して頭に被り、自分でも状況を確認してみたが、リーリエの言う通り問題はなさそうだった。

 ――いざとなったらタクシーも呼べるな。

 もしここから逃げ出すことになっても、人里まで戻る手段があることに安心した僕は、ディスプレイを跳ね上げて緊張してるらしいみんなに声をかける。

「行くよ」

「う、うん」

「はい……」

「あぁ」

 呼び鈴の類いもないが、声でもかければ大丈夫だろうと思って門に近づこうとしたとき、リーリエが警告の声を発した。

『おにぃちゃん、何か近づいてくる! レーダー見て!!』

 言われて僕は一端上げていたスマートギアのディスプレイを下ろし、エリキシルバトルアプリを立ち上げてレーダーを確認する。

 アリシアに搭載した僕の分を除き、すぐ側にヒルデとフレイヤとガーベラの分の三つの反応があり、直線距離にして百メートルほど、動かないものがひとつ。たぶんこれが天堂翔機のエリキシルスフィアだろう。

 それからもうひとつ、有効範囲のぎりぎりからどんどん近づいてきてる反応があった。

「僕たち以外のソーサラーが近づいてきてる!」

 この速度で近づいてくるとしたら車。

 一斉にいま来た道を振り返り、すぐ動き出せるようにみんな身構える。

『うぅん、大丈夫。みんなが知ってる人だよ』

 相手の姿が見えるよりも前にリーリエが言い、その直後に聞こえてきたエンジン音。

 そして姿を見せたのは、見覚えのある車だった。

「なんなんだ? てめぇら。なんでここにいるんだ?」

 乱暴に車を停めて降りてきたのは、ついひと月ほど前に知り合いになった男。

 槙島猛臣。

 僕たちも驚いた顔をしてるけど、猛臣も面食らったような顔をしていた。

 でもすぐに不機嫌そうに顔を歪めてみせる。

「あのクソジジイ、俺様をこいつらと一緒に招待しやがったな……」

「お前も招待されたのか?」

「うっせぇ、克樹。てめぇも知らなかったんだろ。クソッ、填められたぜ。まぁいい。よぉ、夏姫。元気にしてたか?」

「え? あ、うん」

 僕をひと睨みした後、夏姫に笑いかけつつ近づいていく猛臣。

「そうか、よかった。まぁ、いろいろあったわけだが、親父さんの容態はどうなんだ?」

「えっと、大丈夫。九月いっぱいは入院してると思うけど、その後はリハビリに通院すれば大丈夫だし、仕事も見つかってるから」

「そうか。なら安心だな。だがもし、克樹の奴じゃ頼りにならないなら、俺様に声かけてきてくれ。見返りなんて求めねぇからよ」

「え……」

 つい先月は夏姫を追いつめていたというのに、この態度の変わり様はなんだろうか。

 さすがに見かねた僕は、夏姫を庇って間に入り、スマートギアのディスプレイを跳ね上げて猛臣を睨みつけた。

「だ、大丈夫だから。平泉夫人も助けてくれるって言ってるし」

「わかった。――ふんっ」

 夏姫には優しく笑いかけ、僕には蔑むような視線を投げかけてきた猛臣は、車に戻って荷物を取り出す。

「行くんだろ? 早くしようぜ」

 なんで猛臣と一緒に行くことになってるのかわからないが、僕たちを促す彼に、目的を思い出して門へと目を向ける。

 そのとき、携帯端末がメールの着信を告げた。

 全員同時に着信したメールをスマートギアのディスプレイを下ろして表示してみる。

 天堂翔機からだったメールの内容は、今回のルール。

「ふざけんてんな、あのクソジジイは。俺たちで遊ぶつもりだ」

「大丈夫なのでしょうか? これは」

「というか、こんなことできるのか?」

「うぅーん」

 全員が内容を確認して、口々にコメントを述べる。

 ルールはそう難しいものじゃない。

 いま集まってる全員でこの屋敷に入り、ひとりになってもいいから天堂翔機の元にたどり着くこと。時間制限はない。

 全員脱落した場合、または誰も天堂翔機に勝てなかった場合、全員のエリキシルスフィアを没収する。

 死ぬことはないと思うが、その可能性は否定しない。

 立ち去るのは自由だが、その場合エリキシルスフィアは別の手段で没収する。

 そして、屋敷内ではアライズはひとり一回しか使えない。

 他の項目も気になるが、最後の項目が一番引っかかった。

 アライズを制限するなんてことができるんだろうか、と。

 わからないけど、僕たちはこの屋敷に挑み、天堂翔機を倒す以外どうすることもできなさそうだ、ということはわかった。

 僕たちが理解したのを見計らったように、横スライドの門扉が重々しい音とともに開いていく。

「とにかく行くしかないだろ」

『うん、そうだよ。さぁ、みんな行こう!』

 何がそんなに楽しいのか、リーリエの嬉しそうな声に緊張が削がれる。

 僕以外も同じようで、苦笑いを浮かべるみんなの顔を眺めた後、顔を引き締めた僕たちは門の中へと足を踏み入れた。

 

 

          *

 

 

「やって来たか」

 広い部屋の端に据えられたベッドで横たわる老人は、そう呟いて低く笑い声を漏らした。

 綺麗に調えられた白髪に、スティールグレイの鈍い光を放つヘッドギア型スマートギアを被る彼は、枕に頭を乗せたまま、唇に笑みを貼りつかせる。

「さて、ひとり一回しか使えないアライズで、果たしてどこまでたどり着けるかな?」

 メイド服姿の無表情のエルフドールに見つめられる老人は、低く、低く笑い声を響かせていた。

 

 

 



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第四部 第三章 鋼灰色(スティールグレイ)の戯れ
第四部 鋼灰色(スティールグレイ)の嘲り 第三章 1


第三章 鋼灰色(スティールグレイ)の戯れ

 

 

       * 1 *

 

 

 門を入ってすぐの小さな広場の向こうは、迷路だった。

「いきなりこれか……」

 昔、貴族が住む屋敷の庭園なんかにあったという生け垣を使った迷路なんてものじゃない。

 外壁よりも少し低いくらいの白いコンクリートの壁が僕たちの行く手を阻み、乗り越えようにもそれを防ぐように鋭い金属製の針が上部に取りつけられている。

「本気で遊ぶつもりだぜ、あのジジイ……」

 手で顔を覆ってため息を吐き脱力している猛臣に、僕も同意したい気持ちだ。この時点でもう帰りたくなってる。

『おにぃちゃん、……ここ、おかしいよ!』

「どうした? リーリエ」

 スマートギアのスピーカーを通して、リーリエが緊張した声を発する。

 スマートギアによって映像と音声は送信されているが、リーリエの本体である人工個性のシステムは僕の自宅だ。見回す限りいきなり迷路なんて頭おかしい状況はともかく、不自然なところは見当たらない。

『なんていうか、フェアリーリングの中にいるときに似てるの』

「フェアリーリングの中?」

 どうしてそんなことがリーリエにわかるのかはわからない。

 バトルのときに張ることがあるフェアリーリングは、その内側でやっているバトルを、側を通る人にすら気づかせなくする魔法のような効果がある。

 出入りはとくに制限されてるわけではなく、バトルの参加者だろうと無関係な人だろうと入ることも出ることも可能。バトルの参加者であっても外にいると中の様子を見ることはできず、一度中に入った後だと何故か中の様子を認識できるようになるという、不思議な効果がある。

 レーダーを監視してもらうためにリーリエはすでにアリシアとリンクしてるから、それで感知できてるのかも知れない、と思うけど、夏姫たちを見てもよくわからないらしいことを、リーリエが感知できてる理由はやっぱり理解できない。

「あ! まずい!」

 そう叫んだ近藤が門に向かって走り出す。

 振り向いてみると、開くときには音がしていた門が、いままさに閉まるところだった。

 扉に取りついた瞬間完全に閉じてしまった扉は、近藤が動かそうとしてもビクともしない。外壁の上にも侵入防止なのか逃走防止なのか、びっしりと針が据えられていて、乗り越えるのは壁登りの道具でもないと厳しい。

「……先に進むしかないようですね、克樹さん」

「うん、そうみたい。行こ、天堂さんのところに」

 真っ先に現実を受け入れた女子ふたり、夏姫と灯理の声に、僕はため息を漏らした。

「それだけじゃねぇよ。クソッ。そういう空間かよ」

 悪態を吐いた猛臣が指さす方向。

 屋敷が見えていたはずのそっちには、山の稜線と空しか見えなかった。

 門ところまで下がって見ても同じ。この角度なら屋敷の屋根くらい見えてもおかしくないのに、欠片も見えない。それどころか、レーダーで距離が確認できていた天堂翔機のエリキシルスフィアの反応が消えている。

「空間が広がってる?」

『うん、たぶんそうだと思うよ。すごいね! おにぃちゃんっ』

 リーリエははしゃいでいるが、こっちはそうもいかない。

 ただでさえ直線距離で百メートルはあったんだ、どれくらい空間が拡張されたか次第で、迷路の脱出までの時間も変わる。

 ルールに時間制限はないわけだけど、ホテルで持たされた簡単な弁当と、非常用の食料というかお菓子くらいしか食料の手持ちはない。脱出に二日以上かかるとなると、空腹が問題になるのは確実だ。

 それより僕が思うこと。

 ――やっぱり、天堂翔機はモルガーナに近い人物なんだ。

 僕たちが使うフェアリーリングには空間を拡張する機能なんてない。

 リーリエが似ているだけと言ってたけど、フェアリーリングも魔法だとしたら、ここの空間も魔法による効果だろう。

 天堂翔機はモルガーナの力なのか、彼女から教えられたものなのかわからないけど、魔法が使える。魔女の僕(しもべ)か、それに近い存在なんだ。

「壁の厚さはどれくらい?」

「ちょっと待ってろ」

 近藤にそう声をかけると、たぶん今日のために用意してきたんだろう、クッション材が入ってそうな、金属が表面を覆ってる手袋を填め、コンクリートの壁を殴りつける。

「五センチ、ってところかな。鉄板なんかは入ってないと思う。厚くはないが、オレが崩して進むのは無理だろう。どうする? 克樹。どれくらい広さがあるのかわからないんじゃ、一日で脱出できるとも限らないぞ」

「あのジジイの目的だろうな、これが。俺様たちにアライズを使わせるための」

「そうだろうね」

 迷路自体はむやみに進まず、広くてもルールに沿って進めばいつかは脱出できる。

 ただやっぱり広さがネックだし、魔法で拡張された空間なんだったら、いつまでも同じ構造とも限らない。

「どうするの? 克樹。進まないとどうしようもないけど」

 さすがに不安と困惑の表情を浮かべる夏姫。

 他のみんなも似たような表情だ。

「近藤、僕の荷物を」

「何かあるのか?」

「これを想定して持ってきたわけじゃないんだけどね」

 近藤に持たせていたスポーツバッグから、僕はひとつのケースを取り出す。

 中に入っていたのは四つのローターを持つ小型のヘリコプター。ドローンという奴だ。

「リーリエ、頼む」

『うんっ』

 ドローンの電源を入れてやると、早速リンクしたリーリエが空に飛ばした。

 リーリエがリンクして動かせるのは、何もスフィアドールに限らない。いまでこそ改造してドールから動かせるようにしてるけど、ピクシードール用の機動ユニットであるスレイプニルも、最初は外部機器としてではなく、アリシアと同時にリーリエがリンクして動かしていたんだ。

 ドローンを遠隔操作することくらい、リーリエには朝飯前のことだ。

 スマートギアにドローンから送られてくる映像を表示しつつ、リーリエが測定した情報も重ねる。

「これであればそう時間はかからず脱出できますね、克樹さん」

「いや、念には念を入れよう。みんな、スマートギアの外部音声をミュートにして、耳を塞いでくれ」

「何するつもり? 克樹」

「口で説明するよりやった方が早い」

 言いながら僕は、自分が背負ってきたデイパックからケースをひとつ引っ張りだし、中からピクシードールを一体取り出す。

 アリシアではなく、シンシアを。

「リーリエ、やることはわかってるな?」

『うん、大丈夫だよ』

 シンシアとのリンクを確認して、土が剥き出しの地面に立たせた僕は、できるだけ壁まで下がって、ヘッドホンの上からさらに手を当てて耳を塞いだ。

 みんなも同じようにたった二〇センチしかないシンシアから離れて、耳を塞ぐ。

 緑色の三つ編みを背中に垂らし、眼鏡型視覚センサーをかけたドレスのような鎧のようなハードアーマーのシンシアは、目を閉じて大きく口を開けた。

「きゃっ!!」

「んんんっ!」

 演出に過ぎないシンシアの動きの直後、耳には聞こえない音が僕の鼓膜を強く刺激した。

 夏姫と灯理が悲鳴を上げ、近藤が膝を着き、猛臣が強く目をつむっていた。

「……な、に、しやがった、てめぇ!」

「待って、槙島さん」

 つかみかかってきそうな猛臣を抑えてくれたのは夏姫。

「リーリエ、どこまで走査できた?」

『んー。全体はさすがに無理だねぇ。シンシアをアライズさせてればもっと広い範囲まで見えると思うけど、これ以上はおにぃちゃんたちの近くで音量上げるわけにはいかないもんね。ちょっと待ってね、もうすぐ処理終わるから』

 リーリエの方で処理した情報が徐々に送られてきて、スマートギアの視界に新たに開いたウィンドウにそれを表示する。

 概ね終わった処理済みデータと、ドローンの方から送られてきてる映像を解析したものを、ここにいる全員に共有するよう設定した。

「こいつは……、ドローンの映像だけじゃなく、三次元データ? もしかして――」

「そっ。シンシアはパワー型のバトルドールだけど、いろんなセンサーも積んでるからね、パッシブも、アクティブも。超音波ソナー使って映像との誤差がないか確認したんだ」

「さすがだね、リーリエ。アリシアにもそんなのあったよね? シンシアはそれの凄い奴なんだ」

『へっへーっ。凄いでしょーっ。でも本当に凄いのは、こういうことできるようにしてたおにぃちゃんなんだけどね!』

 以前、夏姫が近藤と戦うとき、彼女の元に急いで駆けつけるのにアリシアにアクティブソナーつきのヘルメットを被せていたけど、シンシアに内蔵してるのはそれの強化版だ。

 たった二〇センチしかないピクシードールにできる限り高出力のアクティブソナーを搭載してるから、複雑な構造な迷路でも数百メートルの範囲までは把握することができる。超音波の反響で得られたデータをリーリエの方で処理すれば、迷路の立体的な構造を得ることもできる。

 さすがにあんまり遠くなると詳細の把握は難しくなるけど、近距離であれば待ち伏せだろうと障害物だろうと、もしあれば出くわす前に丸見えだった。

 出力が大きい分、バッテリの消耗が飛んでもないけど、本当かどうかはともかく、ひとり一回しか使えないアライズを使って壁を崩して進むより効率的だ。

 やっと状況がわかったらしい猛臣は、黒いヘルメット型のスマートギアを被り、顎をさすりながら構造を確認してるようだった。

 夏姫は得意げに胸を反らしてる、リーリエが操るシンシアの前に屈んで笑っている。

「マップデータは手に入ったと思っていいのか? 克樹」

「どうだろうね。ここから屋敷までは直線距離で一キロ近くあるみたいだし、理屈はともかく空間が拡張されたのは確かだ。迷路の構造も変わらないとも限らない。たまにドローンとシンシアで確認しながら進む必要があるね」

 そんなに長時間飛び続けていられるわけじゃないドローンを着地させ、ケースごと荷物と一緒に近藤に押しつける。

 シンシアが夏姫の伸ばした手の上に座っているのを見た僕は、微笑みを向けてくる灯理と、不満そうな表情を浮かべながらも顎で先を促す猛臣に頷きを返した。

「天堂翔機はたぶん、ここで誰かひとりアライズを使わせるつもりだったんだと思う。仕掛けがいくつあるかわからないし、できるだけアライズを使わずに進もう。簡単には進ませてくれないだろうけどね」

「うん、わかった」

「ちっ、わかったよ」

「はい」

「あぁ」

『うんっ』

 全員の返事を聞いて、僕はリーリエに解析してもらった順路を進み始める。

 ――この先は、アライズを使わずに、ってのは難しいと思うけどね。

 最初から迷路なんていう時間のかかる、そして面倒臭い障害を用意していた天堂翔機。

 詳しい性格はわからないけど、こういうことを楽しむ性格なことだけは確かだ。

 そういう人がこの先もアライズを使わずに進ませてくれるとは、僕には思えなかった。

 

 

          *

 

 

「まさかあんな装備を用意してるとはな。人数が多いというのは、いつもとは違う趣向が楽しめるものだな」

 ベッドに横になる老人は、スマートギアの視界に映し出された克樹たちの様子を見、クツクツと笑う。

「しかしお前の言う通りだ、音山克樹。この先はそう簡単にはいかないぞ」

 薄い掛け布団から腕を出したのを見、控えていたメイド服のエルフドールが察して身体を起こすのを助ける。

「今回はワシのところまでたどり着く者がいるやも知れないな。あれを準備しておこう」

 老人は言いながら、メイドドールにスマートギアで詳しい指示を与える。

「期待を裏切ってくれるなよ」

 老人の低い笑い声が、ベッドとサイドテーブルくらいしかなく、メイドドールも指示を受けて出て行き、ひとりになった殺風景な部屋に響いていた。

 

 

 



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第四部 鋼灰色(スティールグレイ)の嘲り 第三章 2

       * 2 *

 

 

 さすがに直線距離でも一キロ近くある迷路は、マップがあっても複雑な構造のために脱出まで二時間近くかかった。

 たどり着いたのは平泉夫人の屋敷よりも新しいはずだけど、あれより歴史も重厚さも感じる豪邸と呼べそうな建物の前。

「やっぱり、入るしかないか」

 歩き疲れて昼食を摂りつつ休憩して、屋敷の周りを回って正面入り口以外に入れそうなところを探してみたけど、無駄足だった。

 裏口や勝手口はあるものの、鍵がかかってるし、近藤が殴りつけても傷ひとつ着けることはできなかった。白く塗られた外壁も同様。

 それどころか古風な洋風窓のガラスすら、近藤の拳でも工具でも割ることはできなかった。

 迷路のサイズが現実離れしてるのと同じように、外壁や窓ガラスは見た目とは違って、大幅に強度を増してるらしい。

 ただ絶対に壊せないような感じではなく、人間の力を超えるエリキシルドールならばたぶんどうにかなる、程度の強度だろうと思えた。

 ――それはたぶん、天堂翔機の思うつぼだしな。

 そう判断した僕たちは、結局正面の、見上げるほどの高さがある木の扉の前に立っていた。

「行くぜ」

 どうせもう招待は受けてるのだから、遠慮する必要などない。

 腕っ節なら一番の近藤が先頭に立ち、扉を開けた。

 高い位置に吊された豪奢なシャンデリアに照らし出されているのは、二階まで吹き抜けになっている走り回ることすらできそうな広さの玄関ホール。

 元々は近くの鉱山主の建物だったこの玄関ホールは、パーティの会場になったり、商談の場となったり、坑夫たちが寝泊まりする場所としてなど、様々な用途に使われていたという。

 左右と奥には扉があり、左手には緩い弧を描いて二階へと至る階段があるホールには、調度品すらなくがらんとしている。

「嫌な予感しかしないんだけど」

「えぇ、ワタシも同じです」

「僕もだよ」

 不安げな表情の夏姫と灯理に同意の言葉を返したのとほとんど同時に、奥の扉が開かれた。

 現れたのは、芳野さんが着てるのとグレード的にもあまり違いがなさそうなメイド服を着た小柄な女性たち。

 手に手に金属製の警棒を持つ彼女たちは、人間ではなくスフィアドール。その数、五体。

「マズいぞ、克樹。こんなにエリキシルドールがいたんじゃ?!」

「ちっ。俺様がやるしかねぇか!」

 ゆっくりと近づいてくるメイドドールに身構える近藤と猛臣だが、それを制したのはリーリエだった。

『違うよ! あれは全部エルフドールだよ。レーダーの表示見て!』

 言われて僕もレーダーの表示を見てみると、僕たちの側にあるのはアリシアを除く四つの反応。夏姫と灯理と近藤、それから猛臣の分だけだ。

 スマートギアの表示に、リーリエがメイドドールたちの目の部分を拡大して見せてくれる。

 アライズすると人間との違いを見つけるのが難しくなるエリキシルドールと違い、その目は動くことのないカメラアイカバーだ。

「だったらオレひとりでどうにかなるな。荷物、返すぜ」

 言って近藤は僕が預けていた荷物を押しつけてきて、自分の鞄から何かを取り出す。

 彼が両腕に着けたのは、バトルピクシーが着けているのに似た、手甲。

 最初に填めていた手袋よりも頑丈そうで肘まで覆うそれは、たぶん今日のためにどこかで造ってもらってきたものだろう。

「エルフドールならオレでもとくに問題ないだろ。見たところ、持ってるのはあの警棒だけみたいだしな。ここはオレに任せてくれ」

 近藤の言う通り、メイドドールが持っているのは金属製だけど、ただの棍棒だ。電撃を放つスタンバトンですらなさそうだった。

 エルフドールの運動性は大人の男性に大きく劣る。たとえ天堂翔機が何らかの手段で第六世代の、第五世代を大きく超えるパワーが出せる予定の規格に則ったパーツを使っていても、格闘家である近藤に勝ることはないはずだ。

「わかった。任せた」

「あぁ。……ひとつ訊きたいんだが、あれって、いくらくらいするものなんだ?」

 じりじりと近づいてくるメイドドールを指さし、ワインレッドのスマートギアを被った近藤が訊いてくる。

「運動性の高いエルフドールなら一体で高級車一台分かそれくらいはすると思うけど」

「いや、あのクソジジイのことだ、第六世代規格の警備用ドールかなんかだろう。開発機だとしたら、一台で高級外車何台分かそれくらいの値段してもおかしくないな」

「……壊していいと思うか?」

「……壊すしかないだろ」

「うぅ」

 値段を聞いて途端に萎縮してしまったらしい近藤。

 こんな状況でそんなんじゃ困るわけだが、僕だってあれを壊して良いと聞いても、たぶんためらうと思う。

「えっと……、あった! これ、使えませんか?」

 そう言って灯理が差し出してきたのは、スタンガンがふたつ。

「近藤! 壊さなくていいからドールを転ばせろっ。できれば一体ずつ、うつぶせに」

「わかった!」

 近藤が答えた瞬間、一番近づいてきていたドールが襲いかかってきた。

 

 

 

 

 思ったよりも鋭い攻撃をしかけてきたメイドドールに、近藤は若干の驚きを覚えていた。

 それほど詳しいわけではないが、エルフドールの運動性は人間に大きく劣り、日常生活程度には問題なくても、緩慢にも見えるものに過ぎないと聞いたことがあった。

 克樹の言ってる通り警備に特化した、もしかしたら猛臣の言う第六世代規格のドールなのかも知れない。

 そんなことを思いながら、念のため電撃などに警戒しつつ、コンパクトに振るわれた横からの警棒を受け流す。

 ただ受け流すだけでなく、半ばすれ違うように接近した近藤は、ドールの腕をつかみつつ脚を払った。

 ――思った以上に重いな。

 少ない知識の中では、軽量化により人間を下回る程度の重量のはずだが、うつぶせに倒れるように投げたメイドドールは、小柄な割に筋肉質な人間よりも重さを感じるほどだった。

「克樹!」

「わかってる!」

 残り四体のドールを警戒しつつ、うつぶせにしたドールの背中を踏みつけると、じたばたするばかりで起き上がることができない。

 筋力を強化してあるとしても、しょせんはただのエルフドール。人間の身体を振り払うほどの力ない。

 その間に近づいてきた夏姫、灯理が両腕を押さえ込み、猛臣が頭を押さえ、克樹がドールのうなじにスタンガンを当てた。

 バチッ、という音が一瞬した後、ビニールが焼けるような匂いが微かにして、メイドドールの動きが完全に止まった。

 スフィアドールのうなじの辺りは、データラインが集中しているスフィアドールの急所。そこに強い電撃を当てればシステムを再起動させるまで正常に動作できなくなるはず。

 それをいま克樹が実証して見せた。

「どんどん行くぜ!」

 叫んで近藤は次のドールに自分から襲いかかる。

 おそらく警備用に格闘動作を仕込まれているのだろう、喧嘩程度は経験があるらしい克樹や、それと同じくらいの戦いっぷりだった猛臣には厳しいかも知れない相手だった。

 だが近藤には、メイドドールは決して強い相手ではなかった。

 ワインレッドのスマートギアを被っている近藤は、二体同時に反応したドールを、格闘ゲームのアシスト用アドオンアプリを改造した喧嘩サポートアプリの表示を助けにいなす。

 空手を中心とするいくつかの武術を組み合わせている近藤は、本来一対一の試合を想定した練習を積んでるが、喧嘩サポートアプリで二体同時に相手をしながら、三体目四体目の動きも把握することができていた。

「克樹!」

「大丈夫っ」

 少し時間差をつけて二体目、三体目を転がすが、克樹と夏姫が一体を、灯理と猛臣がもう一体に取りついて活動を停止させる。

「か、克樹さん!」

 あと二体、と思ったときに上がった灯理の悲鳴。

 スマートギアの視界で彼女が指さす右方向をサブウィンドウに表示してみると、扉が開かれて新たに五体のメイドドールが姿を見せていた。

「どうする? 克樹っ」

「ぐっ」

「仕方ねぇ。ここは俺様が……」

 戸惑う夏姫と、迷う克樹に、メイドドールから奪った警棒をなってない構えで持つ猛臣。

 パワーはそこそこでもスピードは人間よりも遅いくらいのメイドドールは、克樹たちでも一体ならば問題ないだろうが、五体も来られては叩き伏せられるのが落ちだろう。

 ――オレだって、オレ用の技術を磨いてきたんだぜっ。

 少し離れた場所に置いた自分の鞄をちらりと見、近藤は新たにアプリを立ち上げる。

 エリキシルバトルアプリ。

「ここはオレに任せろっ。アライズ!」

 迫り来るメイドドールに手を出しかねている克樹たちに言い、近藤は梨里香を復活させたいという、自分の願いを込めて、唱えた。

 ケースから出し、あらかじめリンクしておいたガーベラが、鞄を飛び出すのと同時に光を放った。

 一二〇センチのエリキシルドールとなったガーベラを、近藤は克樹たちの前にいるメイドドールに突撃させる。

 克樹や夏姫と戦った頃には、せいぜいドールと一緒に歩いたり、ゆっくりとした動きを自分とドールで同時にできる程度だったムービングソーサリー。

 近藤はそれを可能な限り鍛え上げ、防御と攻撃の役割を切り換えつつ分担しているフレイとフレイヤを参考に、自分とガーベラで同時に戦えるようにしていた。

 エリキシルドール同士の戦いであるエリキシルバトルで、進歩させたムービングソーサリーが役に立つ機会なんてないだろうと思っていた。

 しかしいま、意味あるものとなっていた。

「近藤?! 大丈夫なのか?」

「大丈夫だ。ここはオレがなんとかするから、転けさせたドールの方は頼んだぞ」

「わ、わかった」

 心配よりも驚きが大きいらしい克樹に答えた近藤は、痛くなりそうなほど加熱している頭をフルスピードで動かして、自分とガーベラの視界を脳内で認識しつつ、まだ六体残っているメイドドールと対峙する。

 ――オレだって、自分の願いを叶えるために、無駄かも知れなくても頑張ってるんだよ!

 心の中で叫びながら、近藤は拳を繰り出した。

 

 

 



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第四部 鋼灰色(スティールグレイ)の嘲り 第三章 3

 

 

       * 3 *

 

 

「やっぱりダメなんだな」

 近藤はそう言って、絨毯の敷かれた廊下に立つアライズしていないガーベラを回収した。

 メイドドールを全部倒し終え、動けないよう縛り上げた上で階段を上り、二階の無駄に長い廊下を歩いてしばらく。

 エネルギー切れとなってアライズが解除されたガーベラのバッテリを交換し、もう一度アライズさせてみようと思ったけど、反応しなかった。

 どうやってるのかわからないけど、リーリエが最初にフェアリーリングの中に似ていると言ったこの屋敷の敷地内は、僕たちでは破れないルールで縛られているらしい。

 色はつけられていないからよく見ないとわからないが、微かな凹凸で豪奢な模様が描かれた白い壁紙が貼られ、時折鍵のかけられた扉があったり、等間隔にカーテンの引かれていない窓がある廊下を警戒しながら歩いてきたけど、数百メートル歩いても突き当たりは見えない。

 外から見たサイズとは明らかに違っている屋敷内は、入ってすぐの迷路と同じく空間が拡張されているようだった。

「本当に上でいいんだよね?」

「うん、それは間違いないよ」

 もう登ってきたホールの階段も見えず、行く先も霞むほど遠くまで続いてる廊下で、不安そうに声をかけてくる夏姫に僕は笑みを返した。

 天堂翔機は四階、最上階の部屋にいる。

 エリキシルバトルアプリのレーダーは距離の表示しかなく、方向の表示すらないけど、歩いたりして観測地点を変えれば動いていない相手の居場所をつかむことができる。

 リーリエに頼んで、屋敷の空間が随時変更されてるみたいで距離は安定しないにしろ、僕は天堂翔機の居所を、正確には彼が持っているエリキシルスフィアの方向をかなり精密に割り出していた。

「たぶんあのクソジジイのことだ、ふたつ目の仕掛けに同じエリキシルドールを投入できないよう廊下を延ばしてるんだ。歩く距離の分だけ疲れるからな、障害を乗り越えたらさっさとアライズは解除した方がいいだろう。どうせ再アライズはできないんだしな」

「まぁ、そうだね」

 苛立ちを隠さない猛臣の言葉に同意して、僕はみんなの顔を見渡す。

 不安そうな夏姫、苦々しげにしてる近藤、諦めたような表情の灯理からも、反論や別の意見はないらしい。

『いくつ仕掛けがあるかなぁ』

「たぶん六つか七つだと思うよ」

「なんでわかんだよ」

 全員立ち止まって、壁に背中を預けたり、軽くストレッチしたりと小休止モードに入ったのを見て、僕は近藤に合図して荷物を取り寄せる。

 中から全員分の、いらないかも知れないが猛臣の分も含めて五本、ペットボトルを出して配った。

「直接会って話したことがあるわけじゃないから推測を含むけど、ここまでのことで天堂翔機の性格を考えると、ね。ひとつの仕掛けで一回のアライズがほしくなるようにしてる。もし僕だったら、こういうアトラクションでできるだけ楽しむなら、人数分プラス一か二くらいの仕掛けを準備するよ。もしくは、一度に二体のエリキシルドールがほしくなるシチュエーションを一個か二個組み込むと思う」

「なるほどねぇ。克樹もそういうとこは性格悪そうだもんね」

『おにぃちゃんはけっこう意地悪だよぉー』

「うっさい」

 いまの重たい雰囲気を吹き飛ばすかのように、夏姫とリーリエがそんなことを言って笑い合う。

 近藤も灯理も含み笑いを漏らし、猛臣すら唇を少しつり上げていた。

「そんなことはいい。近藤、ちょっと外と中の壁、壊すつもりで殴ってくれるか?」

「なんでまた。外と同じじゃないのか?」

「念のためだよ」

「わかったよ」

 飲みかけのペットボトルのキャップを閉めて、手甲を着けたままの腕を腰だめに構えた。

「はっ!」

 気合いの声とともにまず外側の、ずらりと並んだ窓を避けて壁紙の貼ってある壁に拳を叩きつける。

 わずかに壁紙に凹みができて、その裏の建材にダメージがあったことはわかったが、穴を開けるには至らない。

「やっぱりなんかヘンな感触だな。そんなに硬くないのに壊せない感じだ。次はこっちを……、はっ!」

 感想を言いつつ反対側の、普通の構造なら部屋があるはずの内側の壁を殴る。

「こっちは壊れるんだな。なんなんだ? こりゃ」

「いや、こっちも普通とちょっと違う感じだ。外ほどは硬くないが」

 建材には詳しくないけど、土か何かを塗りかめたような内壁は、近藤の拳で穴こそ開かなかったが、砕けて破片を散らした。

「こんなことに何の意味があるんだ? 克樹」

「ただの確認だよ。いざとなったら壁を壊してでも逃げられるかどうかの。近藤でも穴を開けられないなら、エリキシルドールが必要な強度にしてるってことなんだろうね」

 建材の破片で白くなった手甲を拭いてる近藤に答えて、僕は肩を竦めた。

 外に逃げると逃亡扱いで失格になりそうだけど、人間を超える力があるエリキシルドールを使えば外に逃げるのも不可能じゃなさそうだ。

 中より外の壁が強靱なのは、天堂翔機が僕たちで充分に楽しむためだろう。

 ――本当、性格悪いな。

 そんなことを思いつく僕もたぶん似たような性格なんだろうけど、それは置いておくとして、天堂翔機の性格の悪さにため息が出る。

「まぁ、先に進もう。たぶんだけど、そろそろまた次の仕掛けがあると思うけどね」

 ひとつの仕掛けをクリアした後だからそろそろだろうと思いつつ、僕はみんなを促す。

 そこから数十メートルと歩かないうちに、正面に何か影が見えてきた。

 近づいてみると、人よりかなり小型のそれは、金属製の体表が露出している犬型ドールだった。

 犬の形をしてるからというわけじゃないが、普通のより大型でもエルフドールほどではないサイズのそれは、フェアリードールだろう。

 主に愛玩用のペットドールが多いフェアリードールだけど、僕たちの行く手を阻み、目のように赤く光る赤外線照射装置で睨みつけてくるそいつらは、牙とか爪とかが、明らかに凶悪そうに光を反射してる。

「またドールか。できるだけアライズを使わない方がいいなら、またオレが――」

「やめておけ、空手莫迦」

「か、空手莫迦って……」

 前に出ようとした近藤を押しとどめたのは、猛臣。

 まだすぐには襲ってきそうにない犬型フェアリードールに警戒の視線を向ける猛臣は、近藤の肩をつかみながら言う。

「あれは仕事場でちらっとだが見たことがある。第六世代のプロモーションの一環として開発されてた警備用フェアリードールと同じものだと思う」

「警備用でもスフィアドールならオレが――」

「だから莫迦なんだ、お前は。あれはさっきの小手調べ程度のメイドドールとは違う。あの後ろ足は圧搾空気を使ったジャンプ用の機構だ。開発機そのままなら、あの牙も爪も、しっかり刃がついてる。それに両方とも傷つけるためってより、肌を露出させるためのものだ。本命は牙と爪に仕込まれたスタンガンだ。フルオートシステムも個体同士で連携させることが前提のものだろうし、人間ひとりじゃアッという間に無力化されるぞ」

 猛臣の言葉に、僕たちは前方の警備犬ドールに警戒の視線を向けながら、ゆっくりと後退る。

 言葉通りの仕様なら、近藤ひとりで戦うのは無謀だ。ひとり一体足止めして、生身では一番強い近藤に一体ずつ破壊してもらえばどうにかなるかも知れないが、もしその近藤がやられたり、他の誰かが気絶でもさせられて一度に二体以上と戦うことになったら全滅する未来が想像できる。

 エリキシルドールがほしくなるシチュエーションだった。

『おにぃちゃん! 後ろにもっ』

 リーリエの叫び声に、前に顔を向けたままスマートギアのバックカメラをオンにして後方視界を映し出す。

 いつの間に現れたのか、僕たちが歩いてきた方向にも、警備犬ドールが五体現れていた。

「どうする? 克樹」

 夏姫が僕の背中に手を添えて、少し震えた声で言う。

 そういう機能なのか、演出なのか、鋭い牙を見せつけながら低いうなり声を上げる警備犬ドールは、サイズ的には蹴飛ばせそうなほどなのに、恐怖心を煽るインパクトは充分だ。

 ――僕とリーリエでアリシアとシンシアを出すか? それとも誰かふたりにアライズしてもらうか?

 生身で戦うのが厳しい相手なら、エリキシルドールを出すしかない。前後同時に対処するなら、二体のエリキシルドールを出すのが一番だ。

 僕たちは互いの背中をつけながら廊下の真ん中に集まる。

 獲物を追いつめる狼のように、うなり声を上げてゆっくりと近づいてくる警備犬ドール。

 どうするべきか僕が迷っているとき、動いたのは灯理だった。

「ここは、ワタシの出番ですね。――アライズ!」

 両手の上に立たせたフレイとフレイヤの手を握り合わせ、解放の言葉を唱えた。

 光に包まれたフレイとフレイヤが、灯理の手から跳ぶ。

 エリキシルドールとなったフレイヤは前方の、フレイは後方の警備犬ドールと対峙した。

「前後から襲ってくるなら、その両方に対応すればいい。ただそれだけのことです」

 そう言った灯理は、医療用スマートギアの下の可愛らしい唇の端をつり上げ、笑った。

 

 

 

 

「少しの間、ワタシの身体をお願いします」

 前後の警備犬ドールをフレイとフレイヤで警戒しながら、克樹に近づいた灯理は背中からもたれかかるように自分の身体を預けた。

「……わかった」

 抱き締めてはくれず、両肩に手を置いて支えてくれるだけの克樹に少し不満を覚えるが、彼に向けられた夏姫の鋭い視線を思えば致し方ない。

 スマートギアに内蔵したカメラをオフにし、フレイとフレイヤから送られてくる映像情報だけに集中した灯理は、前後五体、合計十体の警備犬ドールをじっくりと観察する。

 すぐに襲ってこないのは、こちらを警戒しているとか情報を収集しているという理由ではなく、克樹や猛臣が言っていたように、おそらくこのドールのマスターの性格の悪さが理由だと思えた。

 充分に怖がらせた上で、襲いかかるつもりなのだろう。

 ――フレイとフレイヤならば、怖がるほどの相手には見えませんね。

 バトル用のサポートアプリをフレイとフレイヤの視界に重ねた灯理は、じりじりと距離を詰めてくる敵のわずかな動きから、その運動能力を測る。

 衣装に隠して装備している武器を頭に思い描いて、どう動くかを考えながら灯理は思う。

 ――この暖かさは、ワタシのものになることはないのですね。

 肩に乗せられた優しい重みと、背中に触れる柔らかな暖かさは、いまだけのもの。

 猛臣の事件のときから急接近した克樹と夏姫は、もういまでは間に入り込む隙がないことくらい、見ていて理解していた。

 正式につき合っていないと言うが、克樹の家を訪ねればたいていは夏姫が出迎えてくれる。夏休みに入ってからはすっかり克樹の家に夏姫が入り浸っている状況だ。

 話を聞く限り家に泊まるまではしていないようで、雰囲気から察するに一線は越えていないように思える。

 最初は押し倒してくるほど強引なのに、まるで小学生のような恋愛観の克樹に怒りすら覚えるし、明け透けな性格の割にいざというとき主体性のない夏姫に苛立ちもする。

 応援したい気持ちと、妬ましい気持ちとが同居していて、エリキシルバトルのこともあって、灯理の心は克樹たちと出会ってからずっと平穏とは言えなかった。

 なぜ、克樹のことが好きだと感じているのかは、灯理自身よくわからない。

 好きという感情はそういうものであることはわかっているし、エリキシルバトルという極限状況もあってのことだというのは理解している。

 しかしいま克樹には夏姫がいて、リーリエもいて、そして彼の一番深いところには百合乃がいる。

 夏姫よりも早く出会っていれば、という「もし」は、可能性すらないように思えた。

 ――それでも、ワタシは自分のやれることを精一杯頑張るだけです。

 叶わないかも知れない願い。

 叶うことはあり得ない想い。

 それを抱きながら、灯理は敵と対峙する。

 恐怖心を与える時間は終わったのか、警備犬ドールは一斉に腰を屈め、後ろ足に力を込めた。

 それを待っていた灯理は、フレイとフレイヤに指示を与えた。

 勝負は一瞬。

 同時に床を蹴ったフレイとフレイヤが敵の間を軽やかなステップで駆け抜けたとき、正常な状態の警備犬ドールは一体もいなくなっていた。

 フレイは駆け抜け様に警備犬ドールの後ろ足に、広がった袖口から取り出したナイフを突き刺し、スカートのフリルから幅広の両手剣を引き抜いたフレイヤは暴風となって敵を斬り飛ばした。

「灯理!」

 夏姫の声を聞くまでもなく、破壊が充分でなかった一体がフレイヤに襲いかかってきているのは見えている。

 倒しきれない可能性を考えて床に着くほどの髪から伸ばしておいた極細のコントロールウィップは警備犬ドールの後ろ足に絡まり、フレイヤに突撃する軌道を描けず壁に激突していく。

 黒いオーバースカートをひらりと剥ぎ取ったフレイヤは、壁に激突する前にそれを絡め取った。

 猛臣のウカノミタマノカミのマントと同じアクティブアーマーと、人工筋を仕込んでコントロールウィップのように動きを操作できるようにしてあるオーバースカートは、もがいても逃げられないくらいに警備犬ドールを拘束していた。

 布地を避け、露出している下半身を両手剣で斬り飛ばす。

 フレイもまた飛びかかれなくなったドールのうなじに剣で破壊して終え、見回してももう動ける敵は残っていなかった。

「腕を上げてるじゃねぇか」

「なんか、装備も増えてたね」

「あぁ、ここまでなってるなんてな……」

 猛臣と夏姫と近藤が、それぞれに驚きの声を上げる。

 フレイとフレイヤを自分の側まで戻し、バトルに集中するために抜いていた身体に力を入れ、克樹から離れて振り返る。

「どうでしたか?」

「あぁ、うん。すごかった……」

 目を丸くしている克樹に、灯理は満足を覚えて笑みを浮かべる。

 克樹たちとやっていた訓練の他にも、もっと強くなろうと、灯理は自宅で鍛錬を積んでいた。その成果が、いまのバトルで発揮できていた。

 ――もし、この強さがあのときあったら、どうなっていたでしょう。

 克樹たちと戦ったとき、いまの強さがあったならば、勝てていたかも知れないと思う。

 けれど、勝てていたとしても、いまより良い状況になっていたかどうかはわからない。

 ――ワタシはいまやれることを、精一杯やるだけですね。

 わからないけれど、灯理は自分の願いのために全力を尽くそうと、胸に右手の拳を当てながら思うだけだった。

 

 

 



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第四部 鋼灰色(スティールグレイ)の嘲り 第三章 4

 

       * 4 *

 

 

 ――いったいどうなってやがんだかな。

 警備犬ドールを撃退した後、克樹の持っているシンシアのアクティブソナーで上への階段を確認し、三階に上がってからずいぶん経っていた。

 廊下の様子は二階と変わりない。

 地味な色合いの赤い絨毯が敷かれ、平泉夫人の屋敷のような煉瓦ではなく、控えめの色合いながら品の良い模様が描かれた壁紙を貼りつけた壁が続き、等間隔に並んだ大きく取られた窓と、時折鍵がかけられた扉があるだけだった。

 次の仕掛けがないかと警戒しながらの歩みは決して早くないが、それにしても屋敷のサイズが数十倍になっていそうだと、猛臣は心の中で悪態を吐いていた。

 克樹の持つリーリエという人工個性の言葉が確かなのはわかったが、それにしてもスケールが違いすぎるように思える。

 ――しかし、なんで俺様がこんな奴らと一緒にされなくちゃならないんだ。

 門の前で出会ってからもう何度思ったかもわからないことを思い、眉を顰める。

 確かに克樹とは戦って引き分け、それなりに情報交換を行っているが、仲間というわけではない。いつか再戦をするつもりだし、そのときは絶対に負けないよう準備もしていた。

 シンシアのソナーや近藤、灯理の意外な強さには助けられているが、アライズがひとり一回というルールはおそらくこの人数だから付加されたもの。

 ひとりで来ていてアライズに制限がなければ、いままでの障害など難なくクリアできたのではないかとも思えていた。

 ――それに……。

 一番最後を歩く猛臣は、一番前に並んで歩いている克樹と夏姫の背中を睨みつける。

 ただひとりスマートギアを被っていない夏姫は、周囲を見回し警戒しながらも、時折克樹に視線をやっている。

 克樹は克樹で、スマートギアを被っているのだからそのままでも見えているはずなのに、気に掛けるように夏姫に顔を向けたりしていた。

 ふたりの関係は、平泉夫人の屋敷での様子でもそうした雰囲気はあったが、もう隠す必要のないくらい接近していた。

「ちっ」

 まともな出会い方をしていなかったのだから、まともな関係が築けるとは思えなかったが、それでも気になった女が他の男と仲良くしているのは気に食わなくて、猛臣は近くにいる近藤や灯理には聞こえないよう小さく舌打ちしていた。

「しかし、次のアトラクションは遅いな」

 無言で歩くことに気が滅入ってきて、猛臣はそう声をかける。

 迷路、メイドドール、警備犬ドールは現れるまでさほど時間はかからなかったのに、今回は二〇分以上、一キロ近く歩いているが、まだ何も起こっていない。

 もう仕掛けはなく、このまま四階の階段にたどり着いて最上階に到着してしまうのかもしれないと思うが、いまも克樹が手に持ってアクティブソナーを使い続けているシンシアからの情報では、百メートル先には階段はない。

 人を焦らすような性格をしていない天堂翔機だから、猛臣はいまが次の仕掛けの準備時間だろうと読んでいた。

「確かにね。あと三〇〇メートル進んで、何もないようだったら扉をこじ開けてみよう」

「そんなことしなくてもたぶん、あちらから何か仕掛けてくると思うけどな」

 立ち止まって宣言する克樹に猛臣はそう言って、黒いヘルメット型スマートギアで前方だけでなく後方の視界も確認した。

「ん?」

 変化に気づいたのは後方。

 霧もないのに霞んで見えなくなっている、いままで歩いてきた廊下の先に、何かが見え始めているような気がした。

「なんだろ、あれ」

「どうしたんだ?」

「ちょっと待ってください。拡大してみましょう」

「リーリエ、センサーでわかるか?」

『すぐ調べるね』

 立ち止まって振り返った猛臣に気づいて、克樹たちも立ち止まり後ろに現れた物体を確認する。

 猛臣もスマートギアのカメラで廊下を蓋しているようにも見える物体を拡大し、よく見てみる。

「……ありゃあ」

「ダメです……」

「ど、どうしたの?」

「リ、リーリエ!」

『速度は遅いけど、加速してる。あれ、ローラーだよ!』

「走れ!」

 猛臣の声に、一斉に走り始める。

 後ろから現れたのは、廊下をほぼ隙間なく転がってくるローラー。

 詳細に観測してみると、微かに傾斜している廊下を、ローラーは徐々に加速しながら接近してきている。

 映画などでダンジョンに入ると巨大な岩の塊が転がってくるような仕掛けがあったりするが、まさにそれが、いま廊下を転がってきていた。

「克樹! 階段は?!」

「少なくとも二〇〇メートル先まではない!」

「ちっ!」

 走ったことでローラーとの距離は大きくなったが、スマートギアの映像を携帯端末で解析してみた結果、おそらく一キロ前後先で追いつかれることになると出た。

「このままじゃ追いつかれるぞ!」

「わかってる。でもっ」

 ジムでそれなりに鍛えている猛臣はまだ余裕だが、早速克樹と灯理の息が上がり始めている。ふたりは一キロどころかその半分もいかないうちにローラーに押しつぶされることになるだろうことは予想できた。

 ――どうする?

 こうした障害は体力がなくなる前、もしかしたらあるかも知れない突き当たりが見えてくる前に対処するのが一番だった。対処が遅れた場合の結末は見えている。

「近藤!」

「試してみるっ」

 克樹が名を呼ぶと、内容も言わないのに近藤が足を速めて独走し、少し距離が離れた場所にある扉に取りついた。

「ダメだ!」

 ノブをつかんで動かしてみるが、扉は開かない。

 手甲をつけた拳を叩きつけてみても、壊れる様子もない。

 ローラーはそのままローラーで、映画などに出てくる球体ではなく、横にした円柱。

 廊下の隅に寝転がって逃れるという手段も使えない。

 傾斜の角度とローラーの加速度から計算したローラーの重量は、エリキシルドールでも止め得るものではない。

 他の四人も感じていることだろうが、猛臣は自分の窮地を知った。

 ――何が死ぬことはないだろう、だ!

 敷地に入るときに送られてきたメールの内容を思い出し、猛臣は声に出さずに毒吐く。

 推測されるローラーの重量は、運が良ければ瀕死で済むかも知れないが、ほぼ間違いなく死亡するだろうほどに大きい。

 空間と同じくローラーも不思議な状態にあるかも知れなかったが、死と隣り合わせの状況でそれを試してみる気にはなれなかった。

 息を切らせながら走っている克樹は、まだ考えている途中のようだった。

 早くを息が上がっている灯理は、脚の動きがおぼつかなくなってきてもうそれほど走ることはできないだろう。

 形が見えていただけのローラーは、いまははっきりと近づいてきているのが見えるほどになっている。

 ――俺様がやるしかない、か。

 そう考えた猛臣は、すぐさま周囲を見、これまでの状況を思い出し、結論を出す。

「中里灯理! お前のドールの武器をできるだけ寄越せ!」

「え? 武器、ですか?!」

「そうだ。止められるかどうかはわからないが、時間は稼ぐ。すぐに渡せっ。終わったら全部買い直してやるからよ!」

「わ、わかりました」

 立ち止まった灯理は、ローラーを気にしながらも鞄に手を入れ、おそらく予備だったのだろう、剣やナイフといった武器を差してある細い帯のようなものを取り出し、突き出してきた。

「よし、ちょうどいい感じだ」

 受け取ってイシュタルを取り出した猛臣は、武器を差した帯を巻きつけた。

 そして願いを込め、唱える。

「アライズ!」

 帯ともにエリキシルドールとなったイシュタルを操作し、ナイフを二本抜かせた。

「何するつもりだ?」

「いいからてめぇらは先に走ってろ」

 立ち止まっている克樹たちにそう声をかけ、走り出したのを確認した猛臣はナイフを投げて左右の壁に突き刺した。

 ドールと一緒に動くことができない猛臣は、追加した武器によっていつもより重くなっているイシュタルを抱え上げ、克樹たちを追う。

 背面視界で確認すると、ナイフの刺さった位置に到達したローラーは、それを吹き飛ばして進んでくる。

「よし!」

 しかし猛臣は手応えを感じて声を上げる。

 計測データから、ナイフに妨害されたローラーは、わずかながら速度を低下させたのが観測されていた。

 立ち止まってさらにナイフを壁に突き刺し、またしばらく走ってナイフを突き刺し、ローラーの減速を試みる。ナイフが尽きた後は短刀を使う。

 有限の武器を無駄にはできない。

 減速できても止められなければいつか追いつかれる。

 廊下に果てがあるなら、そのときは押しつぶされることになる。

 短刀を吹き飛ばしたローラーは、目に見えるほどに減速していた。

「これならいけるっ」

 残った武器はもう少ない。

 それでも猛臣は、どうにかローラーが止められそうだと感じていた。

 だがその希望は撃ち砕かれる。

『三〇〇メートル先、壁だよ!』

 リーリエの声が響き、振り返って見ると確かに遠く、微かに壁が見えた。途中に階段はない。

「くそっ!」

 剣を二本、壁に深く突き立てた猛臣は走り、早くも壁にたどり着いた克樹たちと合流する。

 すぐ横に扉はあったが、ローラーも目前に迫ってきている。

「止まれーーーーっ!!」

 イシュタルを剣を刺したところまで前進させた猛臣は、最後に残った両手剣を床に突き立てた。

 直後に、廊下をほぼ隙間なく埋めているローラーが、左右の剣と、イシュタルの両手剣に接触する。

 回転を続けるローラーと刃が火花を散らす。

 左右の剣は早々に弾き飛ばされ、突き立てた剣で床に裂け目をつくり後退しながらも、イシュタルはローラーに立ち塞がっている。

 重量のためかローラーは剣に乗り上げることはなく、下敷きになりそうになるのを両脚と剣で踏ん張らせ、奥歯を噛みしめる猛臣はイシュタルに堪えさせた。

「……止まった?」

 突き当たりの壁まであと一〇メートルもないところまで来て、ローラーは両手剣によって縫い止められていた。

「まだだ! 重すぎてこのままじゃ止めたままにはできない。さっさと部屋に入るぞ」

 座り込みそうになる克樹たちを叱咤し、猛臣は行き止まりの脇にある両開きの扉の前に立った。

 イシュタルが両手剣から手を離すと、床からミシミシという音が微かにしている。何故床が抜けないのか不思議なくらいの重量のローラーが、楔となっている両手剣を押している。

 もうこれ以上突き立てる武器はなく、新たに武器なりを突き立てるものを得るためには別のドールをアライズさせなければならない。

 時間にもドールにも余裕はなかった。

「どうするんだ? 槙島。オレでも扉は壊せないんだが……。武器ももうないだろ?」

「武器ならここにある」

 言って猛臣はイシュタルに指を揃えた右手を掲げさせ、近藤に見せる。

 エリキシルドールの金属アーマーをも貫くイシュタルの手刀は、剣のようなものでなくても、充分に武器だ。

 より大きなきしみが聞こえ、眉を顰めた猛臣は急ぎイシュタルを操作して手刀でノブの回りをえぐり取った。

「飛び込め!」

 扉を蹴り開けイシュタルの腰に腕を回して飛び込んだ猛臣を最初に、克樹たちが部屋に駆け込んでくる。

 全員が入ったのを確認したかのようなタイミングで、めきめきという音とともに両手剣を床に埋め込んだらしいローラーが、ゆっくりと扉を塞いで行き止まりに激突した。

「助かった、ね」

「うん……。割と間一髪だった」

 へたり込んでる夏姫が言い、かろうじて立っている克樹がそれに答える。

 絨毯が敷かれた床に寝転がってしまっている近藤と、壁にもたれかかっている灯理は言葉もないようだった。

『ふぅー。冷や冷やしたぁ。さーすが、猛臣だね!』

「はっ。この程度のこと、たいしたことでもないさ」

 人工個性のリーリエだけがくれる賞賛の言葉に鼻を鳴らしながら、震えそうになる膝に力を込めて猛臣は立っていた。

 

 

          *

 

 

 もう残り少ないペットボトルの飲み物をみんなで分けてひと息吐き、少し落ち着いた僕たちは周囲をじっくりと観察する。

 奥手に外が見える窓がある他は、何もない。

 行き止まりの部屋だから外に面してるはずなのに、右側には窓もない。逆の左側も、白い壁があるだけで何もない。

 ローラーによって閉じ込められてる僕たちは外にも出られないわけで、この部屋には階段もないから、四階に上がる手段もない。

 シンシアのソナーで壁をチェックしてみたけど、隠し扉の類いがありそうな気配はなかった。

「どうするの? 閉じ込めて壁でも壊すしかないってシチュエーション?」

「迷路のときのように、壁を壊して進むのが一番楽な解決方法という感じなのでしょうか?」

「あとアライズできるのは浜咲と克樹だけだろ。壁は……、時間をかければオレでも穴を開けられないことはないかも知れないからな。ここではあんまりアライズを使いたくないな」

 一難去って緊張が緩んだんだろう、夏姫と灯理と近藤が話してるのを、僕は無言で見つめていた。

 ローラーを止めるためにかなり運動させたのが悪かったんだろう、休憩してる間にアライズが解けてしまったイシュタルを回収し、鞄に収めてる猛臣を見てみる。

 たぶん、僕と同じ考えなんだろう。何も言ってこないものの、微妙に難しい顔をしていた。

 ――この状況は、そろそろイヤだな。

 安心に浸っている夏姫たちには言わないが、僕はそう思っていた。

 どの仕掛けも、全部天堂翔機がつくったアトラクションだ。奴が楽しむための遊びだ。

 これはエリキシルバトルじゃない。

 いくら呼び出され、多人数で挑んでいるからと言って、天堂翔機の言いなりに障害に立ち向かっていくのは気分が悪い。

 エリキシルバトルに戦闘方法に関するルールはないし、猛臣が金の力で戦っていたように、いままでのアトラクションもモルガーナが認めるならエリキシルバトルなんだろう。

 だけどもう、僕はいまの状況に嫌気が差していた。

『たぶん違うと思うよ? この部屋に、何か仕掛けがあるんじゃないかなぁ』

 不吉だから僕は、そしてたぶん猛臣も言わなかった言葉を、僕のスマートギアのスピーカーからリーリエが言った。

「こんな何もない部屋でどんな仕掛けがあるって言うの? リーリエ」

『んー。たぶんだけど、こういうの好きなんじゃないかな? 定番の仕掛けだと思うよ』

 僕と思いを同じくしてる様子の猛臣が、同じように悲しいような、辛いような表情で固まる。

「そういうこと言うと本当になったりするだろ。やめておけよ」

「そういうものなのですか? ですがここにはやはり何も――」

 近藤の言葉に灯理が応えている途中で、どこからかガコンッ、という大きな音がした。

 小さくなったものの音は止まらず、重々しい音が連続でしている。

 何の音かは室内からじゃわからないが、強いて想像するなら、大きな歯車と歯車がかみ合って回転しているような音。

 真っ先に天井を見上げた僕は、繊細な細工が施されたそこに何の変化もないのを確認する。

 次に見た左手の壁にも、変化は見られない。

 ……いや、あった。

 一番左の窓と左の壁までの距離が、縮まっていた。

 左の壁がゆっくりとだけど、僕たちに迫っていた。

 変化に気づいた僕たちは一斉に右の壁に走った。

 いまの速度のままなら、壁が僕たちを押しつぶすまで一〇分以上の時間がかかる。

 でも逃げ道はない。

 入ってきた扉はローラーで塞がれ、部屋には階段もない。

 ひとり窓に走った近藤は拳を窓に叩きつけるが、割れない。ただの窓ガラスにしか見えないのに、金属質の音を立てて弾かれる。

 次に走ったのは迫ってきている壁。

「ダメだ、オレじゃ壊せない」

 ただの壁にしか見えないのに、近藤の拳でヘコみすらつくれない。

 たぶんこれは、エリキシルドールを使って壁を壊すか、止めるかしかないってことなんだろう。

 ――もうなんか、イヤだ。

 そう思った僕は、大きくため息を吐く。

「ここはアタシが!」

「……いや、やめよう」

「やめるって、ここでギブアップでもするつもり?!」

「違う」

 鞄から取り出したヒルデをいままさにアライズさせようとしている夏姫を押しとどめて、僕はアリシアを出して床に立たせる。

「克樹がアライズ使って言うの?」

「それも違う。えぇっと、説明するよりやった方が早い。夏姫、ヒルデをアリシアの前に立たせて、手を握り合わせてくれ。シンシアとやってるときみたいに」

「え? うん。いいけど……」

 わかっていない様子の夏姫は、言われた通りにヒルデを床に立たせて、リーリエのコントロールで伸ばしてるアリシアの両手と握り合わせる。

「何をするつもりだ? 克樹」

「……できるのですか? こんなこと」

「まさか、てめぇ……」

 近藤もわかっていないらしいが、灯理と猛臣は半信半疑ながらも僕の意図に気づいたらしい。

「たぶん、できると思う。もうなんか、全部イヤになったからね。夏姫、そのままアライズしてくれ」

「うん……、わかった」

 わかってはいるようだが、心配そうにしている夏姫に笑いかけて、僕はアリシアとヒルデの側から少し離れる。

 徐々に迫りつつあり、ひとつ目の窓を隠し始めた壁を一瞬見た後、大きく息を吸い、目を閉じた夏姫は、目を見開いてから唱えた。

「アライズ!」

 無事に光に包まれたアリシアとヒルデ。

 弾けた光の中から現れたのは、思った通りエリキシルドールに変身した一五〇センチのヒルデと、一二〇センチのアリシア。

「全員壁の方に。ヒルデも下げるんだ。リーリエ、わかってるな?」

『うぅーん。大丈夫かなぁ』

「やってみるしかない。部屋の真ん中で四つん這いになるんだ」

『わかったぁ』

 夏姫以上に不安そうな声を上げるリーリエだけど、僕の指示に従って部屋の真ん中辺りでアリシアを四つん這いにさせる。

 フレイとフレイヤのデュオアライズを見て以来、可能性だけなら考えていた。

 試すタイミングも、試して大丈夫な場所もなかったからやったことはなかったけど、たぶんできる。

 できてしまう。

 スフィアコアが引き起こす奇跡は、そういうもののはずだから。

「いくぞ、リーリエ」

 エリキシルバトルアプリを立ち上げた僕は、スマートギアの視界に現れた音声入力待ちの表示を見ながら、自分の願いを込めて唱える。

「アライズ!」

 小柄な、小学生くらいの女の子程度の身長のアリシアが、再び光に包まれた。

 これまでで一番強い光。

 強い光の影響を最小限にできるはずの、スマートギアのダンパー機能でもどうにもならないほどの光が放たれ、僕は目を開けていられなくなった。

 少しして目を開けると、そこにいたのは四つん這いで、水色のツインテールを床に垂らしている女の子。

 ただし、その身長は推定七メートル二〇センチ。

 ヒルデのアライズによってエリキシルドールとなったアリシアを、さらにアライズさせるダブルアライズによって、アリシアはいま巨人と言ってもいいサイズ、ジャイアントエリキシルドールとなっていた。

『うわっ、狭い! あ、おにぃちゃんがちっこい。すごい! おもしろいよ、これ!!』

 声は僕のスマートギアから出てるからいつもと変わらないが、リーリエの声とともに動くアリシアを見ると、何だか自分が小さくなったような錯覚を覚える。

「……こんなこと、できるのか」

「でかいな」

「ど、どうすればいいの? これ」

「本当にできるのですね……」

 唖然としてるみんなを見て、アリシアは笑ってる。

『あははっ。みんなも小さぁい。おもしろーい』

「そんなことよりリーリエ、あっちの壁を蹴飛ばせ!」

『うんっ、わかった!』

 天井までの高さは三メートル近くあるが、それでもアリシアの背中が着きそうになってるように見える。

 膝立ちも無理なら、立つなんてもっての外の状況で、リーリエはアリシアを操り、少し向きを変えて右足で迫ってきている壁を蹴飛ばした。

 ズンッ、という音とともに、壁は元の位置まで戻る。

 また動き出すかも知れないと思って見てても、何かが空転する音が微かに聞こえてくるだけで、動き出す様子はない。

『これで良し、っと。この後はどうするの? おにぃちゃん』

 エリキシルバトルアプリの表示を見てみると、アライズ可能な時間は五分とない。

 普通のアライズならバトルしてても一〇分くらいは保つはずなのに、やはりダブルアライズはエネルギー消費が大きいらしい。

 ――でもこれだけあれば充分。

「そのまま立ち上がれ、リーリエ」

『え? でも、天井壊れちゃうよ』

「構わない。いつまでも天堂翔機の遊びにはつき合っていられない。あっちがあっちのルールで僕たちを縛るって言うなら、僕たちはそのルールをぶっ壊すだけだ。天井を壊して四階に上がる。それでどうにもならないなら、屋敷を全部破壊して天堂翔機を引っ張り出す。やれ! リーリエ!!」

『わ、わかった』

 左手を天井に当てたアリシアは、右足を身体に引き寄せてつま先を床につける。

 まだ上半身は前屈みにしたままだけど、このまま身体を縦にすれば、おそらくエリキシルドールなら破壊可能な天井は、四階に繋がる穴が空く。

 力加減を確かめるように、リーリエはアリシアで天井を押す。

 上から埃が降ってくるけど、それも少しの間だけ。

『よし、行くよ! 破片に気をつけてね。せーのっ!』

『止めろ! 音山克樹!! そんなものに暴れられてはフェアリーランドを張ってあっても屋敷が壊れるわ! これでも想い入れのあるワシの家なのだ、壊してくれるな』

 BGMすらなかった屋敷に、どこからともなく嗄れた声が響いた。

 スピーカーでも仕込んでるんだろう、リーリエの動きを止めたのは、天堂翔機だ。

「そんなこと僕の知ったことじゃない。これ以上貴方の遊びにつき合っていられない。まだ続けるなら屋敷を瓦礫に変えてでも、貴方のエリキシルスフィアを奪いに行くだけだ」

『そんな強引な方法があるか! ちゃんとワシの指示通りに――』

「エリキシルバトルにそんなルールはない。貴方の指示に従う理由なんてない。もし屋敷を壊されたくないって言うなら、ここで貴方のゲームは終わりだ。僕たちはゲームをクリアする」

『ぐっ』

 どこに設置してあるのかはわからないが、どうせカメラは天井辺りだろうと目星をつけて、僕は斜め上を見ながらそう宣言した。

 言葉を詰まらせた天堂翔機は、そのまま何も言ってこなかった。

「リーリエ、やれ!」

『わかった! 前座は終わりだっ。階段を出す。そこでおとなしく待っとれ!』

 そう言った瞬間に、動かなくなった左手の壁の一部が変化し、扉が現れた。

 近づいて開けて見ると、その向こうにあったのは上り階段。

 僕たちは、強引な手段ながらも、天堂翔機の仕掛け屋敷をクリアした。

 

 

 




●用語一覧

・スフィアドール
 人工筋やフレーム、バッテリなどのパーツで構成される人型ないし獣型の遠隔操作ロボット。身長一二〇から一四〇センチ程度のエルフ、四〇から六〇のフェアリー、二〇センチ程度のピクシーの三つのサイズが規格化されている。
 スフィアと呼ばれる制御装置が特徴で、その制御装置により以前のロボットでは不可能だった走る、跳ぶと言った動作だけでなく、戦うと言った行動が可能となった。無線ないし有線で、動作を細かく指定して動かすフルコントロール、コマンド指定で動かす蝉コントロール、AIなどのコントロールシステムで動かすフルコントロールの主に三種のどれかで運用される。

・スフィア
 スフィアロボティクス社が開発・製造しているスフィアドール用制御装置。人の小脳のような機能を持ち、外部からの情報の入出力やスフィアドールの制御を行う。スフィアの登場によりモーターによるロボットは旧式化し、人型ロボットと言えばスフィアドールというほどになった。
 スフィアの中核であるコアは鉱物結晶と思われる物質であるが、スフィアロボティクス以外では同等のものの開発や製造ができていない。
 スフィアドールに組み込むパーツは必ずスフィアロボティクスに承認を得る必要があり、第五世代規格で外部機器が使用可能となり、第六世代では内蔵パーツの緩和が予告され、第七世代では人型ないし獣型に限定されていた形状の自由化が噂されている。
 魔女モルガーナが深く関与して生み出されたと思われる物体。

・エルフドール
 第五世代規格では標準身長一二〇センチのスフィアドール。各社の日進月歩の努力により、現在一四〇センチモデルまでが実用化されている。第六世代規格では使用パーツの緩和により、一五〇センチサイズが標準化され、ビジネスシーンや一般生活に普及していくと目されている。制御は主にフルオートが主流。
 現在のところ安いものでも国産高級車程度の価格であるため、個人所有している人は少ない。音山彰次の家でメイドをしているアヤノはあくまでHPT社の開発機の実用テストとして運用されているだけである。

・フェアリードール
 身長四十から六十センチ程度の、人型ないし獣型スフィアドールとして販売されている。完成品として大量生産されているものが多いため、スフィアドールの中では比較的安価で、制御はコンパクト化したフルコントロール、もしくはネットと接続して大規模フルオートシステムで行われる。
 主にペットドールや動く人形としての用途で販売されているが、第六世代では大きなパワーの出せるパーツが使用可能となるため、警備業務の補助としての利用が期待されている。

・ピクシードール
 身長二〇センチを標準とするスフィアドール。動く人形としての用途よりも大きいのは、ピクシードール同士を戦わせるピクシーバトル用としての用途。規格化されたパーツによりオリジナルのピクシードールを組み立てることができ、スフィアロボティクスによりピクシーバトルのローカルバトル大会が行われているため、一般向けでは一番熱いスフィアドールとなっている。
 ちなみにエリキシルバトルにピクシードールが使われる理由はあまり明確にはなく、エルフドールでもフェアリードールでもアライズは可能である。ただしエルフドールは高価で、フェアリードールはパーツの自由度が少ないためにピクシードールが利用されているというのが大きい。

・フルコントロール、セミコントロール、フルオート
 スフィアドールを制御する方式には主にフルコントロール、セミコントロール、フルオートの三種が存在する。
 フルコントロールは専用アプリを使用してスフィアドールの動きを細かに制御するもの。セミコントロールは動作をコマンドベースで制御するもので、あらかじめコマンドを細部まで設定することによりフルコントロールと変わらない動きをさせることも可能。フルオートはAIなどのシステムにより制御するもので、フェアリードールやエルフドールではコンパクトなシステムを内蔵したり、汎用性の高い動作を要求される場面ではネット経由で専用システムによる制御が行われる。
 リーリエやエイナなどの人工個性による制御も一般的にはフルオートシステムに分類されるが、彼女たちは別途フルコントロールやセミコントロールのアプリを通してドールを制御している。

・セミオート
 槙島猛臣が開発したフルコントロール、セミコントロール、フルオートを統合したスフィアドールの制御方式。
 主にフルコントロールをベースに人間では対応し切れない動作をオートでサポートしたり、防御などを一部自動化するなどの制御を行える。
 使い手にあわせたチューニングが必要であるため一般化するのは困難であるが、学習機能を組み合わせることで一般化することも不可能ではない。

・アドバンスドヒューマニティシステム AHS
 数多く存在する大規模フルオートシステムの中でも最も有名なもので、ヒューマニティパートナーテック社がサービスとして提供している。
 開発を行ったのは克樹の叔父の彰次で、以前からヒューマニティシステムというフルオートシステムをつくっていたが、人工個性であるリーリエの脳稼働情報を取り込むことでより人間に近い反応を行えるようにしたもの。
 料理や車の運転などの人間でも決して簡単ではない動作を行うことも可能で、人間の表情や仕草などを学習してドールの持ち主に配慮した行動もできる。他社の追随を許さないほどに完成され、いまなお成長し続けているシステム。

・ソーサラー
 スフィアドールの所有者、ないし制御を行う者を呼ぶ俗称。正式な名称ではないものの、スフィアカップなどの公式の場でも使われるほどに一般的。主にピクシーバトルを行う者に対して使われる。
 一説にはスフィアロボティクスを創設した天堂翔機が使い始めたと言われるが、その意図は不明。

・スフィアロボティクス SR社
 スフィアドールパーツの開発、製造会社であると同時に、スフィアドールのパテントを管理し、規格を施行している会社。ロボット関連企業としては現在最大手であり、日本発祥の会社ながら世界中に支社を持つ大企業。
 スフィアドールに組み込むパーツはすべて同社に申請し、認可を受ける必要があるため、すべてのスフィアドールパーツを知る立場にある。
 モルガーナの強い意向を受けて天堂翔機が創立した企業であり、収益よりもエリキシルバトルを行うために立ち上げたと言える会社となっている。

・ヒューマニティパートナーテック社 HPT社
 克樹の叔父、音山彰次が技術部長を務めているロボット関連企業。現在はAHSやドールパーツ、エルフドールなどで有名であるが、スフィアドール登場前からロボット関連企業として続いていた会社。
 日本国内ではスフィアロボティクスに次ぐ規模まで成長しているが、その規模は国内だけでも半分に満たないほどに小さい。

・メカニカルウェア社 MW社
 スマートギアなどのマンマシンインターフェースの開発、製造を行っている会社。元々はキーボードやマウスを製造、販売していたアメリカの企業で、BCIデバイスにシフトして高級品から低価格品、一般向けから軍事向けまで様々な製品を販売している。
 克樹や平泉夫人が使っているスマートギアは同社のものである。

・BCIデバイス
 スマートギアなどの脳波を受信して入力を行うマンマシンインターフェースのこと。作中では主にスマートギアが一般的であるが、手のひらを置くだけでキー入力からポインタ操作まで行えるBCIパッドなど他のものも存在する。

・スマートギア
 BCIデバイスの一種で、ディスプレイ、ヘッドホン、マウス、キーボードなどを統合したマンマシンインターフェース。
 ヘッドギア型を中心に、ヘルメット型や眼鏡型などが存在する。ヘッドマウントディスプレイに外部カメラを搭載し、現実の視界を見ながらコンピュータのウィンドウを表示し、手を使わずに脳波でポインタ操作やキー入力、慣れるとアプリを使用して口を使わずに喋れるイメージスピークなどが使える。
 比較的使うのが難しいデバイスであり、すべての人が使っているわけではないが、高価なものの作中世界では普及している。ただしたいていの国ではスマートギアを被っての歩行や運転は禁止されている。

・エリキシルスフィア
 約三年前に開催されたスフィアドールの公式戦であるスフィアカップの地方大会にて、優勝者と準優勝者に配られた第五世代準拠のスフィアの中で、エリキシルバトルに参加を表明した者のスフィアのことを区別してそう呼ぶ。
 エリキシルスフィアを搭載したスフィアドールはエリキシルバトルアプリに願いを込めて「アライズ」と唱えることにより六倍のサイズに変身が可能で、エリキシルスフィアを通してフェアリーリングという外部の人間から存在を見えなくする魔法が使えるようになる。
 エリキシルスフィア以外のスフィアでも同様のことが行えるのかどうかについては、作中ではとくに言及されていない。

・エリキシルバトル、エリキシルバトルアプリ
 エリキシルバトルは命の奇跡を起こせる水エリクサーを得るためにエリキシルスフィアを持つソーサラー同士が戦うバトルのこと。エリキシルバトルアプリはエリキシルバトルに参加を表明したソーサラーにエイナから配られた専用アプリ。
 アプリに願いを込めて「アライズ」と唱えることにより、エリキシルスフィアを搭載したドールが変身する。

・アライズ、デュオアライズ、ダブルアライズ
 通常、エリキシルバトルに唱えることによってドールが変身するのがアライズ。灯理や克樹が行っている、フレイとフレイヤ、アリシアとシンシアなどエリキシルスフィアを搭載したドールと非搭載のドールを接続して行うアライズがデュオアライズ。二体のエリキシルスフィアを搭載したドールを接続し、片方ずつアライズさせることにより通常の六倍のさらに六倍、三六倍のサイズに巨大化させるのがダブルアライズ。
 ダブルアライズを使えば他のエリキシルドールを簡単に倒せそうではあるが、巨大すぎて動きが緩慢になる上、アライズの持続時間も短縮され、充分に攻撃力を持った小さく素早いエリキシルドールに対しては対応し切れなくなってしまうため、むしろ弱体化する。建造物破壊には便利だという程度のもの。

・リミットオーバーセット
 克樹や猛臣が使っている一種の必殺技。人工筋に通常よりも大きな電圧をかけることにより、一時的にスピードとパワーを増すことができる。
 通常は破損の可能性が出てくるレベルまで電圧がかからないようリミッターがかかっているが、それを外すことにより必殺技として使用している。
 大きな電圧をかけるため、スピードやパワーが高まるのと引き替えに、寿命が著しく短くなり、発熱で使用後の反応が鈍くなる。大きすぎると新品の人工筋が一瞬で劣化して交換が必要となってしまう両刃の剣。


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第四部 第四章 鋼灰色(スティールグレイ)の嘲り
第四部 鋼灰色(スティールグレイ)の嘲り 第四章 1


第四章 鋼灰色(スティールグレイ)の嘲り

 

 

       * 1 *

 

 

 階段を上がった先にあったのは廊下。

 さすがにジャイアントエリキシルドールのアリシアは階段を上ることすらできないからアライズは解除した。

 ヒルデの方も、自分が歩きながらヒルデを動かすのが難しいから、ピクシードールに戻していた。

 一度ゲームクリアが宣言されたと言っても充分に警戒して、思ったほどの長さがなかった廊下の突き当たりまで歩く。

 それまであったものよりひと際大きい扉を、僕はノックもなしに押し開けた。

「まったく、飛んでもないこととをしてくれるもんだわい、このクソガキどもは。内輪で固まってる連中を一度に招いたら面白いかと思ったら、つまらん結末にしおってからに」

 出迎えたのは辛辣な言葉。

 板張りの部屋は少し暖かいくらいで過ごしやすく、広いだけじゃなく三メートルを超えてるだろう天井は、エリキシルバトルをやっても問題ないくらいの広さがあった。

 ただ、生活感が欠片もない。

 それはここまでで見てきた屋敷のすべての場所で言えることだったけど、さっき彼が言っていたフェアリーランドで空間が歪んでいるにしても、人が住んでいる屋敷とは思えない生活感のなさだった。

 部屋の真ん中にいるのは、白髪で、シワの目立つ老人。

 天堂翔機。

 体調不良で会長職を辞したという話だったけど、グレーのスーツを着こなす彼は、最後の記録映像の中で見えた足腰が弱った感じもなく、ピンと背筋が伸びていて、鋭い視線を僕たちに向けてきている。

「なんだ、元気みたいじゃないか」

「ふんっ、槙島のガキか。最後に会ってからずいぶん経ってるが、少しも成長しておらんようだな。相変わらずガキのままだ」

「……んだと?」

「そうやってすぐに腹を立てるところがガキだと言うんだ。来年から大学生だろうに。少しは大人になって感情を御する術くらい身につけろ」

「ちっ」

 やり込められてそっぽを向き、鼻を鳴らしている猛臣に噴き出しそうになるが堪えて、僕は声に出さずにイメージスピークでリーリエに話しかける。

『何か違和感がある。リーリエ、わかるか?』

『うぅーん。あたしにもよくわからない。少し、えぇっと、横の方に動いてみてくれる? おにぃちゃん』

『わかった』

 天堂翔機からある程度距離を取ったまま、僕に着いて部屋に入ってきた夏姫たちに正面を譲るようにして、数歩横に移動する。

 下ろしているスマートギアのディスプレイに表示された、天堂翔機のエリキシルスフィアの距離が微妙に変わる。

 微妙過ぎてさすがに暗算じゃ正確な位置を求めることはできないけど、リーリエならばヘタに僕がアプリを使って求めるより、正確な位置を特定できる。

『おにぃちゃん、見て』

『……わかった』

 リーリエが送ってきた情報を確認した僕は、ディスプレイを跳ね上げて直接目で天堂翔機の様子を確認する。

 高齢で、体調不良で現役を引退したにも関わらず、天堂翔機は杖すら突かずに不適な笑みを僕たちに向けてきていた。

「過程はどうあれ、ワシの仕掛けを打ち破ってここまでたどり着いたのはお前たちが初めてだよ。褒めてやろう」

「やっぱり、僕たち以外にもこんなことしてたのか」

「当然だろう。エリキシルバトルなんて命懸けの祭りの参加者だ。命の危険があろうと挑んでくる者たちに好き勝手できる機会は、こんなことでもないと無理だろうて」

 そう言って喉の奥で僕たちを、そしてたぶんここにたどり着くことのなかったバトル参加者を嘲笑うように、天堂翔機は気色の悪い笑い声を立てた。

「……ワタシたち以前にここに招待された方々は、どうされているのですか?」

「知りたいか?」

「ジジイ! てめぇ!!」

 唇に折り曲げた指を当て、少し考え込むようにしていた灯理の質問に、天堂翔機は嘲りの笑みを浮かべ、何かを想像したらしい猛臣が叫びを上げる。

 僕の側にやって来た夏姫は、自分の身体を支えるように服をつかんできた。

「くくくっ」

「まさか、本当に?」

「何も言ってなかろうが。怪我して病院に放り込んだ者はいるが、死んだ者はおらんよ。さすがにワシでもそこまで鬼畜ではないわ」

「そんなことより、話をするなら面と向かって話すべきだと思うんだけどね」

 話を打ち切って、微かに震えてる夏姫の肩を軽く叩いてその場を離れた僕は、みんなに見つめられながら、おもむろに天堂翔機の側に歩いていく。

「近づくな、小僧」

 強い口調ではなく、その場から動くでもない彼の前に立ち、ポケットから取り出したものをうなじに当て、スイッチを入れた。

 バチッ、という音とともにスタンガンから電撃が放たれた。

「克樹! いきなり何やってやがんだ!」

「どうしたの?! 克樹!」

 ガクガクと身体を震わせて倒れ込んできた天堂翔機の身体を支えずに避けて、僕は木工細工の床に倒れるままにする。

 近づいてきた夏姫たちとともに感じたのは、ビニールの焼ける微かな匂い。

「こいつは……」

 しゃがんだ猛臣が天堂翔機の身体を仰向けにし、じっくりその目を見つめる。

「エルフドール?」

 少し離れただけで判別が着かなくなるほど精巧だけど、見開かれたその目は人間のものではなく、カメラアイを隠しているスフィアドールのアイカバーだ。

「本当に、お前は飛んでもない奴だな。気づいたのはお前の精霊か?」

「気づいたのは僕だよ。確認のために、リーリエの力は借りたけどね」

「ふんっ。情報以上に観察力がある奴じゃな。少し見たくらいではわからない程度の造りにはしてあったというのに。まったく、こっちは老いぼれなんじゃ、格好くらいつけさせろ」

 そんなことを言いながら、少し離れた場所ににじみ出るように現れたのは、病院にあるようなパイプを組み合わせてつくられた簡素なベッド。

 ベッドに横になっているのは、顔立ちも髪もエルフドールと同じだが、痩せ細った老人。

 ベッドの脇に立つメイド服姿のドールに手伝ってもらって、老人は上半身を起こす。

 年齢から考えれば身体に問題が出ていてもおかしくはないが、手なんて骨と皮のようになってる痩せ方は、引退の理由である体調不良が嘘ではないことを物語っていた。

「貴方の願いは、永遠の命?」

 身体は痩せ衰えているのに、現役の頃以上に元気があるように見える瞳に、僕はそんなことを口にしていた。

「莫迦を言え。そんなものいらんわ。若さなら、少しほしくもあるが、いまさらだな」

「だったら、貴方はエリクサーに何を願うんだ?」

 思わず口にしてしまった独り言のような言葉だったのに、答えてもらって僕はさらに質問を重ねる。

 一瞬蔑むように僕のことを睨み、でもすぐに楽しそうに口元に身を浮かべた天堂翔機は答える。

「なに、ワシの願いはたいしたものじゃないさ。あと十年、生きられるようにしたいだけだ」

「……病気にでもなってるのか?」

「ガンさ。ワシの歳なら珍しくもない。幸いこの歳で、若い頃の無理も祟って代謝が低いからな、進行も症状もそれほどじゃあない。だがはっきりわかるまで放っておいたからな、一年は保たん」

 余命がもう残り少ないというのに、老人はシワだらけの顔にさらにシワを刻んで笑う。

「やっと自由な時間を、ワシがワシのために使える時間を手に入れたのだ、もう少しばかり楽しみたいのさ。お前たちのようにエリキシルソーサラーを呼びつけて、いろいろ考えて仕掛けた屋敷で悪戦苦闘するところを眺めるのも楽しかったのだがな。最後はお前のせいで台無しだ」

 そんなことを言いながらも、天堂翔機は楽しそうに笑っている。

「その程度の願いなら、モルガーナに言えば叶えてもらえるんじゃないのか?」

 うっすらとだけど、彼の生い立ちについて理解した僕はそんな風に返してみる。

「そ、そんなことできちゃうの?」

「モルガーナに願えば、だと? ふざけるな! そんなことが可能だったら――」

「違うんだよ、僕たちとは。ただの知り合いってだけじゃないんだろうからね」

 驚きの声を上げた夏姫や猛臣たちに、僕は振り返ってそう言った。

 百合乃が現れてエリクサーを使ったのはイレギュラーで、理由も原因も不明だ。

 僕たちはほんのわずかなエリクサーすら得る方法がないのに、ただモルガーナに願うだけで得られるなら、そりゃ驚きもするだろう。

「くれるだろうな、アレなら。だがそれではダメなのだ。ワシの持っているもので戦って、ワシの力で勝ち取って、ワシ自身が手に入れなければ意味がないのだ。そのためにわざわざ、アレに頼んでバトルに参加したのだからな」

 はっきりしたことはもっと聞かないとわからないだろう。

 でも笑っている顔と、その言葉から、僕はいまの彼の立場と、過去の存在意義をだいたいつかんでいた。

「まぁいい。どんな方法を使ったにしろ、お前はワシの前に立ったのだ。ワシのドールと戦い、決着をつけてみせろ」

 そう言った天堂翔機は、顎でメイドドールに指示を出す。

 ベッドの向こう側に置かれていたサイドテーブルから取り出されたのは、ピクシードール用のアタッシェケース。

 側まで来たメイドドールが開いたケースの中を見て、僕は息を飲んだ。

「……このドールは」

 

 

 



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第四部 鋼灰色(スティールグレイ)の嘲り 第四章 2

 

 

       * 2 *

 

 

「スクルド!」

 僕よりも先に名を呼んだのは、夏姫。

 それは夏姫の母親、春歌さんが勤めていたスフィアドールパーツの開発販売企業ヴァルキリークリエイションで試作されていた、五体の試作型ピクシードール、オリジナルヴァルキリーと呼ばれるものの一体。

 第三世代にあって非常に性能が高く機能も豊富だったオリジナルヴァルキリーはいまなお伝説となっていて、試作された五体はそれぞれに所在に関する情報が出回っている。

 一号機はスフィアロボティクスで動態保存され、二号機は試験中の事故で消失し、三号機はドール収集家の個人が所有、そして四号機のブリュンヒルデは、春歌さんを通じて夏姫の手に渡った。

 最後の五号機は、ヴァルキリークリエイションがスフィアロボティクスに吸収合併されるごたごたで行方不明になったと言われていた。

「アライズ」

 スマートギアを被っていない天堂翔機が携帯端末に向かって唱えると、光を纏ったスクルドが二五センチのピクシードールから一五〇センチのエリキシルドールへと変身する。

 ヒルデと同じ濃紺だが、ハードアーマーの縁取りが黒ではなく、金色。

 色合いの違いさえ気にしなければ、まったく同じパーツで組み立てられたドールだと言われても頷いてしまうほどに、ヒルデとスクルドは似ている。

 ただし、ヴァルキリークリエイションでつくられた最後の試験用ピクシードールとなったスクルドは、それ以前の一号機から四号機のすべての特徴と機能を備え、性能が一番高いと噂だった。

 そして平泉夫人が言っていたように、当時最高のソーサラーだった浜咲春歌の能力を、すべて引き出すことを目的として、その最終型がスクルドだったと言う。

 まるで人間のように、スクルドは朗らかな笑みを浮かべながら、僕たちを見つめてきている。

「なんで、貴方がこれを持ってる」

「なぁに、ワシがこれを持っている可能性くらいは考えていたのだろう?」

「どういうこと? 克樹」

 僕と天堂翔機のやりとりに、側までやって来た夏姫が問うてくる。

「……バトルには関係ないから言ってなかっただけだけどね。前にヒルデの壊れたパーツを収集家に買い取ってもらっただろ?」

「うん……。もしかして、それって?」

「そういうこと」

 エリキシルバトルが始まって僕が最初に出会ったエリキシルソーサラーは夏姫で、彼女に買って僕とリーリエはヒルデを破損させた。

 母親を失い、遠くに出稼ぎに出てしまった父親からの仕送りも最低限で、その頃の夏姫はヒルデで賞品目当てにローカルバトルに参加するほど窮する状況だった。破損したパーツの代わりになる、ヒルデの性能に見合うパーツはかなり高価であったため、買うことはできなかった。

 そのときPCWを通して破損や劣化したヒルデのパーツを高額で買い取った収集家というのが、天堂翔機だ。

 そこまでは夏姫に説明できる僕だけど、さすがにスクルドを持ってる理由まではわからない。

「アレに頼んで、少々強引な手段で手に入れたのだよ。方法が方法だっただけに、持っていることすら公表できなかったがな」

 アレ、というのはモルガーナだろう。

 スフィアロボティクスに吸収が決まる前後のヴァルキリークリエイションに強盗が押し入ったという話は聞いてないし、スクルドの行方不明が発表されてからずいぶん経ってるんだ、ドール収集家でもある天堂翔機なら、ブローカーから買い取ったとか適当な理由をつけて所有していることを発表できるはずだ。

 それすらできず、モルガーナに頼って入手したということは、よほどの手段を使ったんだろう。

 たとえば、エリキシルバトルにも関わるような方法で、とか。

「スクルドは正真正銘、オリジナルヴァルキリーの中でも最高の性能だよ。こいつは劣化もしておらん。そこの浜咲女史の娘のブリュンヒルデとも違って、オリジナル以外のパーツはひとつも入っていない、完璧なオリジナルヴァルキリーだ」

「三号機を持ってるのに、どうしてまたスクルドまでそんな強引な方法で手に入れたんだ?」

「その頃にはもうエリキシルバトルの開催は決定していたからな。保存用の他に、使う用の、最高性能のヴァルキリーがほしかったのだよ」

 さすがは収集家と言うべきか。

 猛臣の問いに本当に楽しそうに答える天堂翔機は、その笑みに狂気を感じるほどだ。

「さぁ、ワシのスクルドと戦え。己の願いと、命を懸けて」

「……だけど、あんたはソーサラーじゃないって聞いたことがあるぞ」

 けしかけてくる天堂翔機の声を止めたのは、意外にも近藤。

 近藤は梨里香さんからその話を聞いていたんだろう。僕も、天堂翔機はソーサラーとしては二流どころか三流以下聞いてる。

 スマートギアを被っていない彼がスクルドを操っても、負ける気はしない。

「その通りだな、クソガキめ。ワシはソーサラーとしては弱い。だがスクルドを操るのはワシではない。ワシの持てる力と技術を使って組み上げた、最高のフルオートシステムだよ」

 そこで言葉を切った彼は、唇の端の笑みを深くして、言った。

「過去最強、そしていまなお存命ならば最強だったろう、浜咲春歌のデータから生み出した、フルオートシステムなのだからな」

「ママの? それって、もしかして、リーリエと同じ?」

「人工、個性?」

 僕にしがみつきながら言う夏姫は、震えていた。

 言葉を継いだ僕も、声が震えてしまっていた。

「まさか。あんな人間とAIの中間の、精霊なんぞではないさ。ヴァルキリークリエイションにあったすべての浜咲春歌のデータから、彼女の動きを完全に再現したものだ。能力は一〇〇パーセント。いや、ワシのチューニングとエリキシルバトルへの最適化で、一五〇パーセントはあるな。さぁ、ワシと戦え。スクルドと戦って、己の願いを勝ち取って見せろ」

 もう以前のこととは言え、僕たちの誰ひとりとして勝てていない平泉夫人が、過去に負け続けたという夏姫の母親、浜咲春歌。

 彼女のデータを元に組み上げたフルオートシステムなら、その強さは推して知るべしだろう。

「……アタシは、戦えない」

 真っ先にそう言ったのは、夏姫。

「ママとはほとんどバトルなんてしたことなかったから、勝てるかどうかわからないけど、たぶんママのあの構えを見たら、戦えなくなると思う」

 泣きそうな顔をしてそう言う夏姫に、僕がかけてやれる言葉はない。

 もし僕が、フルオートシステムだったとしても、百合乃のコピーと戦えと言われたら、まともに戦える気はしないから。

 振り返って後ろにいる灯理と近藤を見てみると、夏姫ほどではないけど、顔をうつむかせたり眉根にシワを寄せていたりした。

「ワタシは、無理です。強さは戦って見なければわかりませんが、あまり勝てる気はしませんので」

「オレも同じだ。戦うなら全力でやるが、勝てる自信はないな」

 平泉夫人よりも強かったという事実を聞いていればそうもなるだろう。

 実際データは春歌さんのものでも、フルオートシステムの完成度次第なわけだけど、その辺りの構築についても天堂翔機は天才的と言える人物だ。

 並の強さでないことは想像に難くない。

『猛臣はどうするぅ?』

 しかめっ面をしてる猛臣に僕より先にリーリエが問うていた。

「てめぇに譲るよ、克樹。別に負ける気はしないが、ここまで来られたのはお前らの力があったからってのは確かだし、お前の相棒はやる気満々のようだからな」

『うんっ!』

「てめぇがもし負けたら、その次は俺様の番ってことで構わねぇさ」

「……わかった」

 猛臣が春歌さんを畏れている様子はないし、リーリエのやる気や僕たちの功績を考慮してくれたのはあるんだろうけど、いまひとつ解せない。

 はっきりとはわからないが、猛臣には猛臣の考えがあるんだろうということで納得することにして、僕は戦う覚悟を決める。

「じゃあまず、僕とリーリエが戦う」

「ふんっ。時間がかかりすぎじゃ。まぁ、いまの状況ではお前らしか戦えんだろうがな」

「どういう意味だ?」

「さぁな」

 意味不明なことを言う天堂翔機は僕の質問には答えず、ベッドに座ったまま肩を竦めるだけだった。

「春歌さんのドッペルゲンガーを倒してくる」

「……うん。お願い、克樹」

 勝てると確信してるわけじゃない。

 それでも僕は夏姫の揺れる瞳を決意を込めた瞳で見つめて、頷いた。

「行くよ、リーリエ」

『うんっ! 勝つよ、おにぃちゃんっ』

「あぁ」

 自信がある、というより、これから始まる戦いへの期待に気持ちが弾んでるらしいリーリエの声を聞きながら、僕は夏姫たちの側を離れ、スクルドの方へと進み出た。

 

 

 

 

『あっらぁーいず!』

 少し間の抜けたような、間延びしたような声でリーリエが唱えると、足下に立たせたアリシアが光に包まれ、エリキシルドールへと変身した。

 サービスのつもりなのか、メイドドールが持ってきてくれた椅子に遠慮なく腰掛ける。立ったままでも問題はないけど、全力で集中するときは立ってるよりも座ってる方が楽だ。

 ディスプレイを下ろしたスマートギアの視界で、僕はアリシアの各種プロパティを開いた。

 いったい何の部屋なのか、板張りのここは平泉夫人の屋敷のダンスホールよりも少し狭いくらいで、置いてあるものと言えば天堂翔機が横たわっているベッドとサイドテーブルしかない。

 天井は高く、広く取られた窓からは、まだ夕方前の陽射しが入ってきているのに、天井の照明に照らされても暗く感じる部屋の真ん中近くで、白いソフトアーマーに空色のハードアーマーを纏ったアリシアと、黒いソフトアーマーに金色の縁取りがされた紺色のハードアーマーのスクルドが対峙する。

 勝てる気は、あまりしなかった。

 夏姫と練習で戦ったときでも、風林火山を使ってすら勝率は三割を切る。

 平泉夫人との訓練ではまだ一度も勝てたことがない。

 おそらくエリキシルソーサラーとしては最強の夏姫に勝る、現在のすべてのソーサラーの中で最強かも知れない平泉夫人ですら勝てなかったという春歌さんをベースにしたフルオートシステム相手に、勝率を計算することなんてできない。

 それでも僕の斜め前に立つアリシアは、いや、アリシアを操るリーリエは、その口元に笑みを浮かべている。瞳に楽しそうな色を浮かべてる。

 僕ができることは、僕の最大の力をアリシアに注ぐことと、リーリエを信じることだけだ。

『ねぇ、おにぃちゃん』

『なんだ? リーリエ』

 外部スピーカーではなく、僕にしか聞こえないようヘッドホンから喋ってきたリーリエに、僕はイメージスピークで応える。

『このバトルは、あたしに任せてもらってもいいかな?』

『……それは構わないが、どうするつもりだ?』

『んー。全力でやるだけだよ。だから、おにぃちゃんにお願いしたいの』

 そう言ったリーリエが僕に送ってきた方針。

 それを見て僕は思わず顔を顰めていた。

『まぁ、わかったけど、帰ったら人工筋は全部交換が必要だぞ、たぶん』

『うん、そうなると思う。でも、勝ちたいから、ね』

『わかった。リーリエに任せるよ』

『ありがとう、おにぃちゃん』

 いつもより少し大人びて聞こえるリーリエの感謝の言葉に、僕は大きく息を吸って、吐いて、気合いを入れ直す。

 その間に、リーリエはアリシアを操作し、腰や背中に吊していた武器をすべて外す。

 普通のピクシーバトルならいくつも武器を吊す必要なんてないけど、人間の運動能力を超える速度で展開されるエリキシルバトルでは、一度落とした武器を拾う機会は得られないと考えた方がいい。戦況に合わせて変更する場合もあるし、使う予定の武器はすべて装備しておくのがここのところのセオリーだ。

 そのセオリーを捨て、リーリエはほとんどの武器を後ろに投げ、一本だけ、一二〇センチの身長の七割近くある長刀を抜き、構える。

 手を開いた左手を伸ばし、右手で長刀を担ぐような体勢。

 それはよく夏姫が見せる構え。

 突きでも斬りでもでき、防御も可能な、夏姫が春歌さんから受け継いだ構えだ。

 アリシアに対峙するスクルドもまた、両刃の長剣を抜き、同じ構えを取った。

 ただしアリシアとスクルドでは違っている。

 ほぼ直立で構えるスクルドに対し、アリシアは深く腰を落とす。

 スクルドが弓に矢をつがえた射手とするなら、アリシアはその身体がすべて矢になっているような構え。

 誰かが、息を呑む音が聞こえた。

 スマートギアの内蔵カメラだった視界を、アリシアの視界に切り換える。

 深く集中する間に、みんなの息の音すら聞こえなくなる。僕は息を止める。

 無表情な、でもアリシアのことを睥睨(へいげい)しているようにも見えるスクルドの視線に、僕は、そしてリーリエは、笑みで応える。

 構えを取ってからどれくらい時間が経ったのか。

 一分か、それとも十分なのか。

 戦いは前触れもなく開始された。

 動き始めたのは同時。

 僕は声も出さず、風林火山を発動させる。

 全力全開の、これまで使ったことがないほどのレベル。

 焼き切れてしまうほどの電圧が、アリシアのすべての人工筋にかかる。

 決着は一瞬だった。

 僕はその瞬間のすべてをこの目で見ていた。

 無言のまま動き始めたアリシアとスクルド。リーリエと春歌さん。

 攻撃はお互いに突き。

 十分の一秒にも満たない一瞬で、アリシアとスクルドはすれ違っていた。

 スクルドを背にするアリシアの手に、構えていた長刀はない。

 それと同時に、アリシアの左腕が、肩からなくなっていた。

 すれ違うほんの一瞬の間に、スクルドは突きで以てアリシアの左腕を肩ごと斬り落とした。

 痛むかのように左肩を押さえ、アリシアが振り返る。

 長刀は、振り返ったそこに切っ先が見えた。

 スクルドの、胸から突き抜け、背中から飛び出す形で。

 僕とリーリエの全力全開の風林火山は、ピクシードールとして最強であろうスクルドの速度を上回った。

 ピクシーバトルしかしたことがなかった、チューニングによってエリキシルバトルに対応しただけの春歌さんの反応速度を上回った。

 アリシアの放った突きは、スクルドの突きよりも先に、スクルドの胸の真ん中に到達していた。

 速度だけじゃない。百分の一秒以下の反応速度の差が、勝敗を分けた。

『大丈夫。おにぃちゃんがいれば、あたしは最強だよ』

 ヘッドホンからそんなリーリエの声が聞こえ、アリシアが僕に向かって笑む。

 僕はその声を聞いたとき、やっと自分の勝利を実感した。

 

 

 



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第四部 鋼灰色(スティールグレイ)の嘲り 第四章 3

 

       * 3 *

 

 

 稼働不能となったスクルドのアライズは解け、メイドドールが回収して天堂翔機の元へと持っていった。

 何かを手に戻ってきたメイドドールが持っていたのは、ピンポン球よりも小さいくらいの金属部品を組み立ててつくられた球体、スフィア。

「持っていけ」

 天堂翔機の言葉に、僕はひとつため息を吐く。

 受け取らず、僕は差し出されたメイドドールの手を軽く払い、ベッドに向かって踏み出す。

「いらない。僕はこれを受け取る気はない」

「てめぇ、俺様のときと違って完全に勝ったってのに、なんで受け取らねぇんだ」

 驚きに目を大きく開き、何かを言おうと口を開いた天堂翔機よりも先に突っ込みを入れてきたのは、猛臣だった。

「たぶん、ここにいる全員が、モルガーナのことについて知る必要があると思う。勝ったのは僕とリーリエだ。好きにさせてもらう。エリキシルスフィアがほしいなら、このあと彼に挑めばいい」

「……ちっ」

 振り返らずにそう言うと、後ろから舌打ちの音だけが聞こえてきた。

 何も言わず、僕のことを心配そうに見つめてきている夏姫たちの様子をスマートギアの後方視界でちらりと見てから、ディスプレイを跳ね上げて僕はベッドへと近づく。

「自分の願いよりも魔女のことを知りたがるか。まぁ、お前の願いならば、さもありなんと言うところだな」

「……僕の願いを、知っているのか?」

「知っているわけではない。だが推測はできる。これまでのお前の行動と、お前の性格を考えればな。妹を復活させることではあるまい?」

 僕がエリキシルスフィアを受け取らなかったから願いを叶える望みは失われていないとは言え、負けたというのになんだか楽しそうにも見える笑みを口元に浮かべている天堂翔機。

 招待の前に僕のことを調べていたことについては気にかかるが、それを無視して言う。

「モルガーナの目的次第では、僕たちの願いは叶わない。もしくは、叶える意味がなくなる。違いますか?」

「さてな。ワシもアレがバトルを開催した目的までは聞いておらん。バトルの開催には、関係してるがな。ただし、アレの目的は推測はできる」

「それを聞かせてほしい」

「エリキシルバトルで賭けているのはエリキシルスフィアと己の願いだ。バトルに勝ったからと言って、話を聞かせてやると約束をした憶えはないが?」

 ベッドの上で上半身を起こした状態で、僕のことを嘲るように見つめてくる天堂翔機。

 確かに話を聞かせてもらう約束なんてしてないが、そんなことを言うなら僕だって考えがある。

「話す気がないというなら仕方ない。ここを出た後、僕はもう一度ダブルアライズを使って屋敷を完膚無きまで破壊尽くすことにするよ。僕たちのことを罠を仕掛けて待ち構えていたんだ、それくらいのオレはしても罰は当たらないと思うけど?」

「……クソガキめ。目上に対する礼儀も知らんのかっ」

「僕だって礼儀には礼儀で返すよ。もてなされた内容に応じて、それと同等のお礼をするってだけの話だ」

 天堂翔機にとって、この生活感のない屋敷は自分の楽しみを中断するに足るほど大切なものらしい。

 ならば僕の交渉のタネに不足はなく、そして僕たちはそれを実行するだけのことを彼からされている。エリキシルスフィアの代わりに話が聞けないというなら、僕は言った通りに屋敷を破壊し尽くすだけだ。

 苦々しく顔を歪めて僕のことを睨みつけてきている天堂翔機は、諦めたように息を吐き、そして表情を緩めて笑った。

「槙島の小僧も相当なクソガキだが、お前はそれ以上だな、音山克樹。仕方あるまい。話してやろう」

 これは僕の推測だけど、天堂翔機は僕がモルガーナについて問うことを予測していたんだと思う。

 僕のことを事前にかなり調べている様子があることからもそれがわかる。

 話す気がなかったわけじゃないが、素直に話をするほど真っ直ぐな性格をしていないんだろう。彼はそれだけの年齢だから。

 小さく、深く息を吐き出し、下半身を覆う賭け布を頬張った手で握りしめながら、天堂翔機は話し始める。

「何から話したものか。おそらくお前たちももう知っているだろうが、ワシは孤児だった。肉親のことは知らん。調べればわかっただろうが、調べたいと思うことはなかった。ワシを拾ったのはモルガーナだ。まだ目も開かない頃にワシを引き取り、この屋敷で育て始めた」

 懐かしいことなのか、天堂翔機は視線を落とし、過去を見つめるように遠い目をしている。

 ただ、良い記憶なのか、悪い記憶なのかまではわからない。

 歪められた複雑な表情からは、どんな感情を抱いて語っているのかは推測できない。

「アレは出かけていることが多く、無愛想な家政婦や家庭教師と過ごすことの方が多かったが、確かにワシは、アレと一緒にこの家で暮らしていたよ」

「いったい何のために、モルガーナは貴方を拾って育てたんだ?」

「簡単なことさ。自分の手駒にするためだ」

「手駒って……、赤ん坊を拾って手駒にするために育てるなんて、そんな気長なことを?」

「無駄なことにも思えるが、アレの生きてきた時間を考えれば意味あることなのだろうよ。アレは人の持っている能力を見抜く力がある。それがアレの魔法なのか、それとも長く生きる間に身につけた観察眼なのかはわからんが、たとえ赤子であろうと、奴はひと目でその者の持つ才能を知ることができる。ワシはアレの目に叶ったというわけだ。ちなみにアレは言うことはないが、アレが目をかけていた者はワシの他にも多くいる。赤子から拾って育てるのは珍しいようだが、幼い頃から才能ある者に接触して、何らかの形で援助をしたりして、自分の手駒になるよう誘導したり、逆に敵対させて潰すといったことをアレは繰り返してきた。そうしたことの手伝いをしたこともある。長い時間をかけて、アレは世界に自分を染み込ませていっているのだ」

 僕の質問に応える天堂翔機の向けてきた笑みは、どこか悲しげだった。

 養母とは言え、母親に才能を認められることは嬉しいことなのではないか、と思う。

 同時に才能だけを見て育てるということは、道具として見ているのではないだろうかとも思う。

 モルガーナがどんなことを考えていたのかも、天堂翔機がどんな想いを抱いているのかも、僕にはわからない。

「成長してからのワシの道筋は、お前たちも知っての通りだ。中学まで日本で過ごし、そこから海外に渡り、日本に帰ってきてスフィアロボティクスを立ち上げ、スフィアドールを広めてきた。アレが言う通りに。あれが望んだ通りに。ワシがアレの手駒だということに気づいたのは、ずいぶん大きくなってからだったよ。わかっても、ワタシはアレのために生きてきた」

 そう語った天堂翔機は、口元に深い笑みを刻んだ。

 それはまるで、自分自身を嘲っているような、皮肉が込められた笑みに見えた。

「……モルガーナの駒だった貴方が、なんでエリキシルバトルに参加したんだ? さっきも言ってたけど、望めばエリクサーは手に入る立場だったんだろ?」

「なに、たいした理由ではないさ」

 優しげに、でもどこか悲しげな笑みを浮かべた彼は、僕の顔を見つめて言う。

「自由に生きてみたかったのだ」

 その言葉に、どれほどの重みがあるのだろうか。

 自分の人生を嘲笑い、それでもモルガーナのために生きてきた彼。

 優しげで、悲しげで、瞳に光を宿しながら、でも駄々をこねる子供のように泣きそうな彼の表情を見た僕は、返す言葉が何も見つからない。

「手駒であることに気づいて、それでもアレのために生きてきて、だがワシは老いて身体を壊し、役に立たなくなった。ワシが築いてきた多くのものは手元に残ったが、アレは役に立たなくなったワシにやるべきことを言いつけることはなくなった。ワシはアレに捨てられたのだ。だから、好きに生きてみようと思った。アレから解放されて、初めて自分の足で歩いていこうと思えた。そう思った途端にガンだ。生きていられる時間は残り少なかった。ワシはあと十年、誰のためでもなく、自分のために生きてみたい」

「僕は貴方のエリキシルスフィアを受け取らない。エリキシルバトルに参加し続けられるし、もし勝ち残って、望みを叶えられるなら、若さでも不死の身体でも得られるんじゃないか?」

「言っただろうに。ワシは永遠の命などいらん。アレのように強い信念や想いがあるならばともかく、普通の人間が永遠の命など手に入れても、百年か二百年で死にたくなるだろうさ」

「――じゃあやっぱり、モルガーナは不死の願いを叶えているんだな」

 ここまでの話から、僕はそうなのだと思った。

 天堂翔機を赤ん坊の頃から育て、いまなお二十台中頃からせいぜい後半くらいに見えるモルガーナ。

 不死の身体でも手に入れていなければ、老いないなんてことはないだろう。

「少し、違うな」

 顎に手を当てて考え込み始めてしまった僕に、天堂翔機は否定の言葉を投げかけてきた。

「違う?」

「あぁ。おそらくだが、アレが手に入れたのは不死ではない。無限の寿命だろう」

「……どう違う?」

「不死は死ぬこと自体ができん。たとえどんな状況に遭っても、身体を失ったとしても死にはしない。条件が整えば復活する。あれは無限の寿命を手に入れたことにより、老いることはなく、普通の方法では殺すことも困難だが、頭か、心臓を完全に破壊すれば死ぬ。生存不可能な環境に、たとえば地球を破壊するか溶岩に投げ込みでもすれば、死ぬんだよ。アレは決して不死ではない」

「なんでそんなことを知ってるんだ?」

「アレとのつき合いは長いんだ。直接聞いていなくても、それくらいのことはわかるさ」

 無限の寿命と不死の違いはわかったけど、僕としては手に入れたのが無限の寿命だったとしても、わからないことがある。

 いまの話だと無限の寿命でもかなり死ににくくなるみたいだし、そんなものが手に入っているのに、モルガーナが何を望んでエリキシルバトルを開催したのかわからない。

 モルガーナが欲しているものが、僕には見えない。

 僕の問いを待つように見つめてきている天堂翔機に問う。

「いったい、モルガーナは何を望んでエリキシルバトルを開催したんだ? あいつは表に出てくるようなタイプじゃない。でもバトルなんて主催すればいつかは、エリクサーを勝者に渡すタイミングか何かで、出てこなくちゃならない。たぶん、僕みたいにあいつを恨んでる奴は少なくない。エリキシルソーサラーの中に僕みたいなのがいるかどうかはわからないけど、リスクを負ってでもモルガーナがバトルを開催して、手に入れたいものはなんなんだ?」

 天堂翔機の話の通りなら、たくさんの人を操り、世界を動かしてきたモルガーナ。

 世界を彼女の望み通りに動かすなら、それがたとえ予想通りの結果だったとしても、恨まれることだってある。

 表に出てこなくちゃならない可能性まであるバトルを開催しなければならない理由は、僕にはわからない。そうまでして手に入れた何か、目的は僕には理解できない。

「これもやはり推測だがな」

 髭はなく、深いシワが幾重にも刻まれている顎を撫でながら、天堂翔機は言った。

「アレが求めているものは、不滅だよ」

 

 

 

 

『やっぱり……』

「リーリエ?」

『うぅん、なんでもないよ』

 スマートギアのスピーカーから小さく漏れ出た声に克樹が反応するが、リーリエはそれを誤魔化し、天堂翔機に問う。

『それより、不滅ってどういうことなの? 不死とは違うの?』

「不死と不滅では違うさ。いまアレが得ているだろう永遠の寿命もまた相当に生命力が高められているようでな、普通の人間が死ぬような怪我では死なんし、病気の類いも怖いものではない。生命中枢が破壊されなければ死にはしない。不死ともなればそれすらも克服し、一度生命活動が停止しても、生命活動が再開できるようになれば復活するほどだろう。それでも、不死ですら永久不変ではないのだよ」

「……どういうことなのでしょう。さすがに、話が大きすぎてわからないのですが」

 克樹の後ろから声をかけてきたのは、灯理。

 まだアライズしたままのアリシアを振り返らせて見てみると、質問をした灯理はもちろん、克樹も、夏姫も、近藤や猛臣も困惑した顔をしていた。

 永遠の寿命、不死、不滅と、似ているが異なる事柄は、わかりやすいものではなかった。

「不死であろうと、死ぬのだよ。普通の状態では死なないだけで、生命活動が行えない場所では生きることはできない。宇宙にでも放り出されれば生きてはいけない。そしてもし、たと生き続けられる環境があり続けるとしても、不死者ですら消滅し得るのだ。そのためには何億年、何兆年という時間が必要であろうがな。物質で構成されている限りはそれを回避することはできん」

「永遠の寿命を持ってて、それだけ凄い不死じゃなくて、不滅を求めるって、不滅の方が凄いんだと思うけど、どうしてモルガーナさんは不滅を求めてるの? それに、不滅になるとどうなるの?」

「さてな。理由まではわからん。アレはそうしたことは話さないからな。不滅になるというのは、そうさな。原子ですら形を保つことができないほど遠い未来、そのときですら不変であるものは、なんだと思う?」

 ポニーテールの髪と一緒に首を傾げていた夏姫の問いに、天堂翔機は問いで答える。

 夏姫はさらに首を傾げ、克樹たちもそれぞれ考え込んでしまう。

 原子は日常的に、極々低い確率ながら崩壊をしていると言う。短い時間で見ればそれは無視できるほどの現象であるが、遠く、桁数の名前すら定義されていないほどの永遠に近いほどの遠い時間、星々すらもなくなり、すべての原子は崩壊して宇宙は均質に近い状況になるという説が存在する。

 克樹たちは問いの答えを見いだせず、首を傾げたりうなり声を上げているばかりだったが、リーリエはその答えを知っていた。

『宇宙、だよね。宇宙そのものは、それくらい時間が経っても、いまと同じままだよね』

「その通りだ。あれは不滅の存在、宇宙との一体化を目論んでいる。もう少し正確には、神との一体化、であるがな」

「神なんてものがいるって言うのかよ!」

 その言葉に即座に突っ込みを淹れたのは猛臣。

 不快そうに眉を顰め、彼は怒りにも近い感情をベッドに座る老人に向けている。

「生命の奇跡を起こせる神の水が存在しているというのだ、神そのものが存在していても何ら不思議ではなかろう。ワシ自身は神なんぞ信じておらぬが、アレは神か、神に近いものに触れ、それを求めるようになった。少なくともワシはそう見ているよ」

 奇跡を起こしうるエリクサーと言う神秘の水が存在しているならば、同じ神秘の存在である神が存在していても不思議はない。

 それはエリキシルバトルに参加している者の誰もが想像していたことであったろうが、そのことをはっきりと聞いた克樹たちは、重苦しい表情を浮かべて沈黙した。

『あの人が神様になったとして、何か問題があるの?』

 沈黙を打ち破り、いつもと変わらぬ調子の声で、アリシアを操り小首を傾げたリーリエが問うた。

「さすがにそこまではワシにもわからん。ただ、アレが人間を憎んでいるのは確かだ。特定の誰かというわけではない。人間のすべてをアレは嫌っている。不滅を、神を求めるのは、それが理由かも知れん」

『うん、そっか。そうなんだ。うん、ありがとう』

 何かに納得したような声を発した後、アリシアを微笑ませ、天堂翔機に深く頭を下げて礼をした。

「アレとは長く供に過ごしてきたが、ワシでも知らぬことが多い」

「だったら知ってることを聞かせろ」

 そう言って克樹の横に並んだ猛臣が問う。

「エリキシルバトルの参加者はあと何人で、誰だ」

「それは言えんな。参加するに当たって、言わないようアレに約束させられてる。言おうとしようものなら、ひとり目の名前を口にする前にワシの命がなくなるよ。エリキシルバトルはおそらくアレが神を目指すための方策のひとつに過ぎないが、いまのワシの命よりも重いものだ。ただな、残ってる者の名前は言えんが、この屋敷に招いてスフィアを奪ってきた者の名前は教えることができる。それからもうひとつ――」

 天堂翔機はそこで言葉を切り、ニヤリと口元に笑みを浮かべた。

「エリキシルバトルの参加者は四三名。うち五人は途中で参加辞退、ないし参加資格剥奪者だ。槙島の坊主。お前はいくつエリキシルスフィアを集めた?」

「……十三個だ。直接本人から手に入れたものだけじゃなく、戦った奴が持ってた分もあるがな」

「ワシは八個だ。そしてここには、ワシの分も含めて六個のエリキシルスフィアが揃ってる」

「僕たちの把握してない参加者は、あと十一人か」

「全員がまだ参加者ってわけじゃあないだろ。だが、数がわかればだいたい目星はつく」

 克樹より少し背の高い猛臣は、見下ろすようにして視線を送る。

 彼は克樹たちを見つけたときのように、いまもエリキシルソーサラーを探し続けている。自分の願いを叶えるために。

 一応敵ではあるものの、積極的な敵対関係にはない猛臣からは、克樹宛にある程度情報が送られてきている。

 人数がわかれば、猛臣はアッという間に残りのエリキシルソーサラーを見つけ出すだろう。

「どうでもいいことかも知れないがな、ワシの把握しているエリキシルバトルでの死亡者は三人。ふたりは道ばたでフェアリーリングを張って戦い、気づかなかったトラックに轢かれて死んだ。ひとりは対戦の準備をしてるときに撲殺された」

「……その、撲殺した奴は?」

「運が良ければそのうち目が醒めるだろう。それまでは病院のベッドの上だな。他は概ね行儀良く戦っておるよ。命懸けのバトルだというのにな」

 唇のつり上げ方から、その撲殺犯を病院送りにしたのは、天堂翔機なのだろうとリーリエは考えていた。

「ちなみに、半数を割って中盤戦、一〇人を割った段階で終盤戦が宣言されることになっているはずだ。おそらくワシのスフィアをお前が受け取っていれば、早晩終盤戦に入った連絡があったはずだがな。いまからでも受け取る気はないのか? 音山克樹。参加資格の消失は、敗者のスフィアを勝者が受け取りの意志を持って手に取った段階で行われる。お前が受け取る気になりさえすれば、ワシの参加資格は失われる」

 笑みを消し、真っ直ぐな目で克樹のことを見つめている天堂翔機。

 リーリエがアリシアの視線で克樹を見ると、彼は少しだけうつむいて、微かな笑みを浮かべていた。

『どうするの? おにぃちゃん』

「同じだよ。僕の答えはいつでも」

『ん』

 顔を上げ、天堂翔機の視線を受け止めた克樹は言う。

「僕は受け取る気はない。他の奴に渡すって言うならそれでも構わない。でも、僕は受け取らない」

「それに、何の意味がある? ワシは敗者だ。お前に敗れ、参加資格を失うことで、ワシは願いを諦めることができる」

「僕は貴方に願いを諦めさせる気はない。僕も、たとえ負けたとしても諦める気はない。エリクサーがなくたって願いを叶えてみせるつもりだ。あと半年だか一年しか生きられなくても、死にたいわけじゃないんだろう? 残った時間くらい、好きに生きてみればいいんじゃないのか?」

「……これでも、エリキシルバトルをかなり楽しませてもらったし、そこそこ満足してたところだったんだがな。お前はそれでも生きろと言うのか」

『それがおにぃちゃんだよ。そういうのが、おにぃちゃんなんだよ』

 克樹の代わりに、リーリエは笑い出しそうになりながら言った。

 片腕を切り離され、バランスの悪いアリシアで精一杯の笑みを天堂翔機に向けた。

「どうしても貴方のエリキシルスフィアが必要になったら、今度はちゃんと戦って奪い取りに来るよ」

「それまでにワシが負けていなければいいがな。――来るときは連絡を入れろ。戦うより先にワシがくたばってるかも知れんからな」

 楽しそうに笑い合い、克樹は天堂翔機に背を向けた。

 夏姫や近藤、灯理は、自分の荷物を取り、撤収の準備を始める。

 苦々しそうに顔を歪めながらも、猛臣もまた鞄を担ぎ直す。

「そうだ、この屋敷がヘンになってるのは、やっぱり魔法なの?」

「フェアリーリング自体が魔法だよ。詳しい原理なんぞわからん。スフィアを通して使えるようにした単純化したもの、らしい。理屈はわからんでも、アレと一緒にいれば最低限の魔法くらいは覚える。フェアリーランドはフェアリーリングを少し拡張しただけのものだよ。それももうお前たちがこの部屋に入ったときに解除した」

 敷地内に入ったときに感じた違和感がないことに、リーリエは言われて気づいた。

 アリシアに備わっているセンサーで確認してみると、距離や大きさが曖昧だった屋敷内は、普通に測定可能な空間となっていた。

 帰る準備を終え、克樹たちは扉へと向かう。リーリエも「カーム」と小さく唱え、アライズを解いたアリシアで左腕を取り克樹に拾い上げてもらう。

「最後に聞きたいんだけど」

「なんだ?」

 開いた扉に手をかけ、振り返った克樹は天堂翔機に問うた。

「貴方にとって、モルガーナはいったいどんな存在だったんだ?」

 少しの間、その答えは返ってこなかった。

 スマートギアのカメラで確認してみると、懐かしさ、嬉しさ、悲しみ、喜び、そして嘲り。彼は様々な表情をシワだらけの顔に浮かべていた。

 ひとつため息を吐いた後、天堂翔機は克樹の問いに答えた。

「ワシを拾ってくれた恩人で、育ててくれた母親で、……そして、妻だった女だよ、アレは」

 泣きそうな顔で言う天堂翔機のそのときの想いは、リーリエには想像することができなかった。

 

 

 




●第三部までの登場人物一覧

・音山克樹(おとやまかつき)
 本作主人公の高校二年生男子。セミコントロールから転向したフルコントロールソーサラー。スピードタイプのピクシードール、アリシアとパワータイプで防御とセンサーに特化したシンシアを持つ。彼の願いは妹を殺した誘拐犯を苦しめて殺すこと。
 妹の百合乃の脳情報から構築した仮想脳、人工個性のリーリエを伴いエリキシルバトルに参戦。妹の死が原因で女の子に避けられる行動をしていたが、夏姫と想いを通じ合わせることでその行動は消えている。
 願いを叶えることと同時に、モルガーナの真の目的を求めて行動する。

・リーリエ
 誘拐事件の被害者として亡くなった克樹の妹、百合乃の脳情報を元に構築された疑似脳、人工個性。性格やピクシードール操作時に見せる仕草などは百合乃に似ているが、百合乃の記憶は持たない別人格として認識されている。一般的にはフルオートシステムと認識されるが、彼女自身はフルコントロールソーサラーである。
 克樹のことを「おにぃちゃん」と呼び、彼に近づく女の子を目の敵にし嫉妬している様子もあったが、夏姫のことは認めるようになった。その裏でこっそりエイナに通じるなど独自の動きを見せており、彼女がどのような理由で行動しているのかについてはいまのところ不明。

・浜咲夏姫(はまさきなつき)
 高校二年生のポニーテールがチャーミングな女の子。伝説とも言えるヴァルキリークリエイション社のピクシードール、ブリュンヒルデを伴いエリキシルバトルに参戦するも、克樹に敗れ仲間となる。彼女の願いは過労により急逝した母親、春歌の復活。
 克樹の想いと性格に触れ、彼に想いを寄せる。

・近藤誠(こんどうまこと)
 高校二年生の空手男子。スピード寄りのバランスタイプのガーベラを操るフルコントロールソーサラー。ピクシードールを操作しながら自らも動けるムービングソーサリーの才能を持つ。彼の願いは病死した恋人である梨里香の復活。
 第一部にて克樹に敗れ、仲間となる。その際通り魔事件を起こしていたため空手部からは退部しているものの、彼のことを信じる先輩の道場で空手に限らず様々な格闘技を学んでいる。

・中里灯理(なかざとあかり)
 高校二年生の女子。フレイ、フレイヤという二体のドールを同時に操作するデュオソーサリーを使えるセミコントロールソーサラー。彼女の願いは事故により見えなくなってしまった視覚を取り戻すこと。
 スフィアロボティクスの実験によりスマートギアを使って視覚を得ている。克樹に敗れてなおエリキシルソーサラーであり続けている彼女は、克樹に惹かれている。

・槙島猛臣(まきしまたけおみ)
 高校三年生の男子。スフィアカップ全国大会優勝経験を持つ強者。バランスタイプのイシュタル、パワータイプのウカノミタマノカミなど複数のバトルピクシーを所有しているフルコントロールソーサラー。彼の願いは年上の親戚で彼を助けて死んだ穂波の復活。
 夏姫に惹かれつつも父親が背負うはずの借金への資金援助をエサに釣ろうとし、克樹と平泉夫人によってその計略は叩き潰される。モルガーナの真の目的が気になることもあり、現在は克樹たちと積極的な敵対関係ではなくなっている。

・モルガーナ
 魔女。

・音山彰次(おとやまあきつぐ)
 克樹の叔父で、スフィアドール関連企業では国内大手のヒューマニティパートナーテックの技術開発部長。ソーサラーとしては三流だが、技術的には天才で、ハードからソフトまでマルチに才能を発揮している。大学時代に研究していたことをきっかけに、リーリエを構築したのも彼。
 エリキシルバトルのことには気づいているが、克樹からも平泉夫人からも教えてもらえず、現在のところ蚊帳の外に置かれている。しかし夫人からは彰次も当事者だと言われており、今後何らかの形でエリキシルバトルに関わる可能性がある。

・平泉敦子(ひらいずみあつこ)
 克樹たちからは平泉夫人と呼ばれている資産家女性。とくにスフィアドールなどのロボット業界を中心に、先端技術業界への資金援助などを行っており、その手の資産家としては巨大とは言い難いが、新興のスフィアドール業界では大きな影響力を持っている。現時点で最強のソーサラーであり、闘妃や戦妃を使い、克樹たちには無敗の強さを誇る。しかしエリキシルソーサラーではない。
 敵対関係にある家柄の旦那と結婚するも病気により早世しており、結婚の件で実家とは絶縁していたが、モルガーナと本格的に敵対するために関係を復活されている様子がある。
 なぜモルガーナと敵対するのかについては不明。

・芳野綾(よしのあや)
 平泉夫人に使える生活から仕事までマルチな才能を持つ女性。メイド服を着ていることが多いが、理由については不明。愛想笑い程度はできるものの、基本的には無口で存在感が薄く感じられるほど。出生については詳細不明だが、平泉夫人に拾われたことで現在の彼女があるらしい。

・遠坂明美(とおさかあけみ)
 高校二年の女の子。克樹の幼馴染みにして夏姫の友達。弱小陸上部に所属し、クラス委員を務めるなど友達は多いが、何故か克樹のことを気にかけている。スレンダーな体型がコンプレックス。
 百合乃のことも知る彼女であるが、エリキシルバトルのことは知らない。ただし、夏姫のこともあり、克樹たちが何かをやっていることには気づいている。

・エイナ
 リーリエと同じ疑似脳で構成される人工個性。エレメンタロイド、精霊などと呼ばれ、表向きは仮想人格のアイドルとして活動する傍ら、エリキシルバトルの導き手などモルガーナに言いつけられた仕事もこなしている。
 しかしながらリーリエの元を訪れるなど、モルガーナの思惑の外の行動も起こし始めており、彼女の真の目的については現在のところ不明。

・音山百合乃(おとやまゆりの)
 誘拐事件の際、自分から車を飛び降りて大怪我を負い、死んでしまった克樹の妹。スフィアカップ地方大会にて平泉夫人を下して勝利する強さを持つと同時に、デュオソーサラーでもあった。
 死にかけた克樹を救うために一度だけアリシアの身体を借りて現れたが、原因は不明。リーリエとの詳しい関係も不明。故人でありながら、重要人物となっている。

・火傷の男
 百合乃を誘拐して殺した張本人。克樹がエリクサーの力を使い、苦しめて殺したいと想っている人物。その正体については不明であるが、モルガーナの側にいることが確認されており、モルガーナに関係する人物と思われる。


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第四部 終章 バトル終盤戦
第四部 鋼灰色(スティールグレイ)の嘲り 終章


終章 バトル終盤戦

 

 

          *

 

 

「俺たちを呼び出したのはお前か」

 草木すら寝静まる時間、建築資材が置かれた広い空き地の剥き出しの土を踏んで現れたのは、ふたりの少年。

 Tシャツの上に無造作に上着を重ねジーンズを穿いた粗野な感じと、糊の利いたパンツに組み合わせの色を意識したシャツと、服装の感じが違い、歯を剥き出しにした野性味を感じさせる表情と、物静かで理知的な雰囲気を漂わせる警戒した表情と、ふたりは大きく異なっていたが、その顔立ちは瓜ふたつと言っていいほどに似ていた。同じであろうふたりの歳の頃は、高校生くらい。

 そんな彼らが視線を向けているのは、積み上げられた鉄骨や分解された足場の影に立ち、通りからは見えない場所で待っていた小柄な人物。

 夏ももう終わり、虫の音が大きくなっている時期とは言え、蒸し暑さを感じるほどの気温なのに、袖の長い地味な上着を羽織り、ハンチング帽を目深に被ったその人物は、手袋によってか身体の割に大きく見える手で背負った鞄の蔓をつかみ、少年たちの前に一歩出る。

「はい。お待ちしておりました。よく来てくださいました」

「エリキシルバトルを申し込まれたら来ないわけにはいかなだろう。だけど、僕たちを同時に呼び出してよかったのか? エリキシルバトルにルールはないんだ、同時に呼び出されたら、僕たちは君に対してふたりで戦う」

 高く、澄んだ声で言う小柄な人物に、理知的な少年はそう言い放つ。

「それは構いません。こちらもそのつもりで来ていただいたのですから」

「はっ、言うじゃねぇか。一対一じゃあ全国優勝とはいかなかったが、タッグマッチがあったら俺たち双子に敵う奴なんざ、地球上にはいないぜ?」

「それはやってみなければわからないでしょう。時に、おふたりは願いはどうされるのですか? もし、エリクサーで願いを叶えられる人がひとりだけだとしたら、どうするおつもりで?」

「僕たちの願いは同じだ。願いがひとつしか叶わないとしても、どちらか片方が叶えればいい」

「その通りさ。最後のひとりにならないと願いが叶わないってんなら、このクソ兄貴との決着をつけるだけだ。負けねぇがな」

「僕だって、弟に負けるほど弱いつもりはないよ」

 強い言葉を交わし合っているが、ふたりとも隣に立つ兄弟に、笑みを向けている。

「そうでしたね、すみません。おふたりの願いはともに、身体の弱いお母様の病気を治し、長生きできるようにすること、でしたね」

 帽子を被り視線すら見せない小柄な人物に願いを言われ、ふたりは険しく顔を歪めて女の子と思われる人物を睨みつける。

「てめぇは何者だ?」

「僕たちは兄弟の間でしか願いを明かしたことはない。何故それを知っている?」

 警戒を強めたふたりは、鞄からスマートギアとピクシードールを取り出す。

 ふたりから放たれる緊張した視線を気にする風もなく、小柄な人物はうつむき加減だった顔を上げ、帽子を脱ぎ去った。

「失礼しました。街中でこの姿を晒すわけにはいかなかったので、そのままでいてしまいました。そろそろ一年ぶりくらいになりますね、お久しぶりです」

 帽子からこぼれ落ちたのは、桜色の髪。

 積み上げられた建材の上に上ってきた月に照らし出され、少女の姿をした人物は首を降り、桜色のセミロングの髪に輝きが灯る。

 わずかに首を傾げながらにっこりと笑って見せたのは、エイナ。

 エレメンタロイド、人工個性の、エイナだった。

 正確には身体を持たない疑似脳の彼女が操るドール。

「貴女が、何故?」

「わたしも参加者というだけのことです。叶えたい願いがありますから」

「てめぇは人工個性とかいう奴だろ? いったい何を願うって言うんだ? 人間にでもなりたいとか言うのか?」

「ふふふっ。すみませんが、それは秘密です」

 立てた人差し指を唇に当て、エイナは笑む。

「どっちにしろ俺たちには敵わねぇよ」

「そうだね。でもその身体で戦うのかい? それはエルフドールでは? それともエリキシルドールなのかい?」

「この身体はエルフドールですよ。あくまで本体を運搬するための端末です。わたしの本体はこちらです」

 月の光で色を変える瞳をしながらも、エルフドールだという端末の左手を胸元に当てるエイナ。

 それから後ろ手に背負った鞄に手を入れ、一体のピクシードールを取り出した。

 桜色の髪も、顔立ちも同じで、エルフドールを縮小したかのようなピクシードールは、つかまれていた手から飛び降り、地面に立った。

「アライズ!」

 その声を発したのはエルフドールだったのか、ピクシードールだったのか。解放の言葉を唱えた途端、ピクシードールが光に包まれた。

 弾けた光の中からは、エルフドールとほとんど代わりのない、しかし豊かな表情をしていたエルフドールが人形であることがわかってしまうほどに人間らしい笑みを浮かべた、エイナが現れた。

「てめぇが何者だろうが、俺たちの勝ちに変わらないがな。――アライズ!」

「アライズ! その通りだね。僕たちは勝って、必ず願いを叶えるよ」

「さぁ、それはどうでしょうね。わたしにも、自分の存在を賭けても叶えたい願いがありますからね」

 エルフドールを後ろに下げ、エリキシルドールのエイナは二歩進み出て、双子のドールを向かい合う。

「行きますよ」

 両手に何も持たないまま、短く言ったエイナは微笑みながら地を蹴った。

 

 

          *

 

 

「灯理、これはどうすればいいの?」

「ここはですね、これをこうして、こうやって……」

「――克樹。ここの和訳、どうすればいいんだ?」

「単語くらい憶えろ、莫迦」

 ダイニングテーブルではいつも僕の家にいる気がする夏姫の他に、灯理と近藤も来て、勉強会が催されていた。

 二学期の中間テストは明後日から。

 五月の連休のときからだろうか、いつの間にか僕の家はみんなが集まって勉強するためのスペースになってしまって、テスト前の最後の週末である今日は、昼間から連絡ももらってないのにみんな自主的に集まってきていた。

『はーい。お茶がはいったよぉ』

「ありがと、リーリエ」

 相変わらずアリシアを勝手にアライズさせて家事をやってるのはリーリエ。

 空色のツインテールを揺らしながら、みんなに紅茶の入ったカップを手渡していく。

 和やかな雰囲気なのは僕の家には似つかわしくないというのは置いておくとしても、悪いことではないと思う。

 でもいろいろとなし崩し的になっていることには、若干思うところがあった。

「まぁ、いいけどね……」

 近藤が和訳したわけのわからない文章が書かれたタブレットにスタイラスでチェックを入れた後、僕は頭に被ってるスマートギアのディスプレイは上げたまま、手元の携帯端末を眺める。

 表示されているのは、猛臣からのメール。

 用件は残りのエリキシルソーサラーについてだった。

 バトルの参加資格を持っていることが確定しているのは、僕と夏姫、灯理と近藤、それから猛臣と天堂翔機の六人。

 天堂翔機の屋敷のことからいままで以上に動き回って参加者を調べていたらしい猛臣は、かなり残りの参加者を絞り込んでいた。

 残っているのはおそらく四人。

 うちふたりは、四国に住む双子の兄弟だそうで、親が離婚して足取りが途絶えてしまい居場所を突き止めるまで時間がかかったが、今度会いに行く予定だという。

 ここまでで絞り込んだ相手は全員負けて参加資格を失っていたそうだから、双子は最後の調査対象で、確実にエリキシルソーサラーだということだった。

 もし負けていても、誰に負けたのかを聞くことができるだろう。

 そして猛臣はメールの最後に、残りのふたりが見当もつかず、灯理や天堂翔機のように特別な参加者である可能性が高い、と締めていた。

 ――特別な参加者か。

 モルガーナと何らかの縁があってエリキシルスフィアを受け取ってるのだとしたら、どこからか情報でも出てこない限り探しようがない。

 灯理が僕たちを襲ってきたときのように、相手が動いてくれるのを待つしかなかった。

 近藤が訳し直した文章を横目で見てまたチェックを入れた僕は、リーリエの淹れてくれた紅茶をストレートでひと口飲み、考える。

 その残りのふたりは、猛臣と天堂翔機が集めていないエリキシルスフィアを持っている可能性が高い。スフィアカップの出場経験がなくても、勝ち残っていた程度には強いと考えた方が自然だ。

 ――もし襲ってきたら、どうするかな。

 僕がアリシアを持ち歩いて、リーリエがレーダーをチェックしてくれているなら、もしそのふたりが、ないしどちらかひとりが奇襲をしてきたとしても、事前に距離がわかってしまうから、その点は問題ない。

 ただどんなバトルスタイルなのか、どんなドールを持っていそうなのかも推測がつかないのでは、どうしても不安を感じてしまう。

 頬をさすりながら今後のことを考えていたとき、耳元で大きな声がした。

『おにぃちゃん! 見て!! エリキシルバトルアプリを!』

 驚いたように慌てた声を出すリーリエに、僕は考えを中断してスマートギアのディスプレイを下ろす。

 脳波でポインタを操作してエリキシルバトルアプリを立ち上げると、新着メッセージがあると表示されていた。

「これは……」

 悪い予感を覚えながらも、僕はアプリ内のメッセージボックスを開く。

 僕だけじゃなく、携帯端末を手にした夏姫や近藤、喋らなくなってどこかを見ているらしい灯理も、たぶんアプリの新着メッセージを確認してるんだろう。

 メッセージを開いて、僕は上げそうになった声を飲み込んだ。

 内容はエリキシルバトルが終盤戦に入ったという告知。

 それともうひとつ。

 願いを叶えられるのは、最後に勝ち残った勝者ひとりであることが、明記されていた。

 スマートギアのディスプレイを跳ね上げると、みんなが僕のことを見ていた。

 誰も、何も言わなかった。

 誰も、何も言えなかった。

 もし自分の願いを叶えたいなら、僕たちはこの瞬間から戦い、勝ち残るしか道がないことが確定したんだから。

 

 

                 「鋼灰色(スティールグレイ)の嘲り」 了




●次回予告
 エリキシルバトル終盤戦突入が宣言され、願いが叶えられるのはひとりだけだと宣言されて以降、克樹たちには微妙な距離が生まれていた。
 そんな克樹たちの裏で、平泉夫人はモルガーナへの攻撃を開始する。秋から冬へと向かう季節に静かに沸騰を始める世界。
 バトル終結に向けて加速を開始する状況をエイナは憂い、彰次は自らの過去を語り始める。そして、リーリエは……。
 第五部「撫子(ラバーズピンク)の憂い」に、アライズ!


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第五部 序章 ウィークアタック
第五部 撫子(ラバーズピンク)の憂い 序章


前回までのあらすじ

 あらゆる命の奇跡を起こせるという神秘の水エリクサーを求め、妹の百合乃を誘拐して死に至らしめた男を苦しめ殺すことを願い、エリキシルバトルに参加した音山克樹。百合乃の脳情報から構築された人工個性リーリエを伴い、母親の復活を願う浜咲夏姫、恋人との再会を望む近藤誠、視覚を失った画家である中里灯理を下し、しかし勝利条件であるエリキシルスフィアを奪わずにともに行動するようになった。スフィアカップ全国大会優勝者の槙島猛臣と引き分け、協力関係を結んだ克樹は、バトルを主催する魔女モルガーナに最も近い人物である天堂翔機の招きに応じ、屋敷に仕掛けられた罠を突破して彼を打ち倒した。
 そんな克樹たちの裏で、モルガーナを見据えて密かな行動に出る平泉夫人。モルガーナの恐ろしさを知る克樹の叔父、音山彰次は蚊帳の外に置かれつつも、徐々に巻き込まれつつあった。
 モルガーナの手先である人工個性エイナと通じ、克樹に気づかれずに独自の動きを見せるリーリエ。エイナが双子のエリキシルソーサラーと戦い、勝利したことで宣言される終盤戦の突入。そして、願いを叶えられるのはたったひとり、ひとつだけということが告知された。
 それぞれの想いを抱き、悩む克樹たちを、モルガーナは紅い唇をつり上げて嗤う。
 これより始まる「神水戦姫の妖精譚 第五部 撫子(ラバーズピンク)の憂い」に、アライズ!




 

 

   序章 ウィークアタック

 

 

「――つまり、このクリスタルオーブこと、我がヒューマニティパートナーテックが開発した『クリーブ』は、スフィアロボティクスの第五世代スフィアに完全互換するクリスタルコンピュータを搭載した、スフィアドール用コアです」

 演壇に立った彰次(あきつぐ)は、自分に視線を向けてくる人々に、そう言葉を放った。

 彼の後ろでは、プロジェクターで大写しになった、クリーブとスフィアの互換性を示す説明が表示されている。

 スライドが新しいものに切り替わり、正面から脇に引いた彰次は、レーザーポインタを使って説明を続ける。

「現在のところ、クリーブの性能はスフィアに対し約五〇パーセント、消費電力もスフィアに比べて大きくなっております。しかしこれまでスフィアはスフィアロボティクス社製のものと、ライセンスを受けた企業からのほぼ同一品しかありませんでしたが、我が社が世界で初めて、完全オリジナルにて互換する製品の製造に成功しました」

 大きく映されたスフィアとの比較では、消費電力こそ第五世代スフィアとの対比であったが、性能についてはよく見ると第一世代スフィアとの比較であることが、小さく注釈で書かれている。

 スクリーンから集まった人々の方に向き直った彰次は、漏れ出そうになるため息を、ツバとともに飲み込んだ。

 クリスタルオーブこと、『クリーブ』は、彰次が趣味の延長線上としてHPT(ヒューマニティパートナーテック)社で開発を行い、平泉夫人の申し出により出資を受けて製品化にこぎ着けた、スフィア互換のクリスタルコンピュータコア。

 SR(スフィアロボティクス)社と、SR社からライセンスを受けた会社からしか販売されていなかったスフィアには様々な制限があり、互換するクリスタルコンピュータコアの発売は業界で熱望され続けてきた。

 ついに熱望されていたものの製品発表会だったのだが、会見に集まった人々を見、彰次はため息を吐き出したい気分だった。

 会場はHPT本社の会議室。

 集まっているのはスフィアドール業界、それ以外のロボット業界関係者と、報道機関などの記者たち。

 いま彰次がいる第三会議室は、会見に使う場合の収容人数が一〇〇人だったが、半分どころか七割が空席。

 まだスフィアドールの新作パーツ発表会のときの方が集まりがいいくらいだった。

「クリーブの開発は現在も進められており、半年以内に性能の約二割の向上、消費電力の四割の低減が見込まれています」

 説明を続ける彰次だが、場内の人々からの反応は、悲しいほどにない。もう早めに切り上げて退場してしまいたくなるほどに。

 せめて性能の向上と消費電力の低減が実現できた半年後、そこまでではなくても三ヶ月後であれば、もう少しインパクトのある発表ができたはずだが、それは一番の出資者の意向により無理だった。

 早くも冬の足音が聞こえ始めている十月の発表となったクリーブへの反応は、咳払いと少ないシャッター音くらいしかなく、注目度はないに等しいほどであることが、ありありと感じられていた。

 しかしまだ発表には続きがあり、これからが本番だった。

 場内を見回しつつ左手の拳を握りしめ、彰次は気合いを入れ直す。

「クリーブは安価であることが利点のひとつとなっていますが、それよりも大きな、何よりの利点があります」

 手元のスイッチでスクリーンの表示を切り替え、スフィアの制限を映し出す。

「現在スフィアロボティクスから出荷されているスフィアには様々な制限があります。人型、ないし動物型のドールへの搭載に限定されていること。ドールに組み込むパーツは事前の申請を必要とし、第五世代では外部機器には制限がなくなりましたが、内蔵パーツについては相変わらず認可済みのパーツでなければスフィアに認識させることができません」

 続いてクリーブの利点を表示する。

 その途端、微かなざわめきがあった。

 配布した書類やデータを表示した端末に目を落としているばかりだった人々が、顔を上げてスクリーンに注目する。

「クリーブでは、申請こそ事前に行う必要がありますが、仮登録の段階から使用が可能であり、また組み込むパーツにもとくに制限は設けてありません」

 空気の変化を感じ取って、彰次は会場内に大きく響く声を出す。

「そして何より、クリーブには制御機械の形状に制限がありません。つまり、人型や動物型に限らず、あらゆる動作機械の制御用コントローラとしてお使いいただけます」

 会場にいる多くの人がスクリーンを見ていた。

 互換であるとか、安価であるかとかとは比べものにならない、クリーブの最大の利点。

 それがスフィアにある制限の撤廃だった。

 集まった人々のほとんどがスクリーンに注目している。

 けれど、それだけだった。

 感嘆の声ひとつ上がることはなく、拍手のひとつもない。

 クリーブの注目度はつまり、その程度だった。

「最後に、質問などがありましたら、どうぞ手を上げてください」

 ひと通りの説明を終え、質問を求めた彰次。

 愛想笑いを浮かべて会場内を見渡すが、ひとつとして手が上がることはなく、質疑応答の時間をほぼすべて残したまま、発表の終了を宣言した。

「まもなくサンプル生産のクリーブは、出荷が可能となります。お渡しした資料の他のデータなどについては、そちらの連絡先までご連絡いただきたいと思います。ご静聴ありがとうございました」

 ご静聴、という部分に皮肉を込めつつ、深く礼をした彰次は演壇から降り、扉を開けて会議室を後にした。

 ――明らかに早すぎだ。

 クリーブの発表は、タイミングとしては早すぎた。

 それはいまの会見会場の人々の様子を見るまでもなく、現在の開発状況を見ても明らかだった。

 しかし何故か、平泉夫人はいまこのタイミングでの発表を強く要請してきた。

 その理由を、説明しないまま。

 ――どうにか軌道に乗せられればいいんだがな。

 深くため息を吐きながら、彰次はすれ違う同僚の悲しそうなものや、生暖かい視線に見送られつつ、廊下を歩いていた。

 

 

 



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第五部 第一章 リップルエフェクト
第五部 撫子(ラバーズピンク)の憂い 第一章 1


 

 

   第一章 リップルエフェクト

 

 

          * 1 *

 

 

 テーブルの上に立っているアリシアは、考え込むように腕を組み、片手で顎を支える姿勢のまま、ほとんど身動きもしていなかった。

 もちろんアライズはしていない。

 身長二〇センチの、ピクシードールのままだ。

 時折こちらにカメラアイを向ける動作を見せてるから、リーリエがアリシアとのリンクを保っていることはわかる。アリシアのコントロールは片手間にやって、裏で何かをやってるみたいだった。

 ――そもそも、アリシアのカメラアイは広視野なんだけどね。

 人間の目と同じ位置に搭載されてるアリシアのカメラアイは、左右合わせることにより一八〇度の視界を確保していて、スフィアのハードウェア制御とリーリエのソフト補正を使えば、目も顔も動かさずに全視野に焦点を合わせることができる。

 というかそもそも、このLDKはもちろん、家の主要な場所にはリーリエにリンクしたホームオートメーションシステムのカメラが設置されてるんだ、アリシアで僕の方を見る必要すらない。

 リーリエなりに、僕に気を遣ってくれての行動なんだろう。

「はぁ……」

 小さくため息を吐き、僕は手元のタブレット端末で、先日行われた中間テストの問題を復習する。

 十月も後半になり、早くも日が落ちるのを早く感じるようになった。LDKの掃き出し窓の向こうでは、日が陰ってきているのが見える。

 平日のこれくらいの時間だったら、早いときはもうすぐ夏姫のバイトが終わる時間で、夕食目当てなのか勉強目当てなのか近藤も来ることがあったり、特に用事がなくても学校のこととかドールのことを話しに灯理が来ていたりもする。

 でもいま、この場所は静かだった。

 もう二週間近く、こんな静けさが毎日続いている。

 勉強なんて自分の部屋ですりゃいいのわかってるのに、僕はなんとなく今日もダイニングで、スマートギアも被らずに勉強していた。誰かが来ることなんて、ないのに。

 ――そう思えば……。

 二週間前からの変化というと、もうひとつ思いつくことがあった。

 ――最近、アライズ使わないな。

 そう思ってアリシアに視線を向けると、ちょうど目が合って微笑まれた。

 みんなが来ていたときは、リーリエはよくアリシアをアライズさせて、家のことをせっせと手伝ったりしていた。でもいまは、一日に一回かそこらしかアライズを使ってないし、時間も短い。

 アライズを使っていたのはみんなが来るからか、と思う。リーリエに理由を聞いてみたことはなかったけれど。

「ま、いいか」

 考えを中断して、タブレット端末をテーブルに投げ出した僕は、椅子から立ち上がりマグカップを手にキッチンへと向かう。

「あー」

 一瞬忘れてしまったフィルターの場所をすぐ思いだし、レギュラーコーヒーを探り出してコーヒーメーカーをセットする。

 淹れ終わるまでの間、抽出されたコーヒーがジャグに溜まっていく音を聞きながら、僕はキッチンにただ立っていた。

 みんなが僕の家に来なくなった理由は明かだ。

 願いはひとつ、ひとりだけ。

 それが二週間前、エリキシルバトルアプリに届いたメッセージで、終盤戦突入と同時にはっきり書かれていた。

 そのメッセージを見て以来、僕は夏姫たちと上手く話せなくなった。

 別に険悪な関係になったとか、敵対的になったとかじゃなく、何となくだった。

 他のみんなもそんな感じみたいで、学校では同じクラスの夏姫や近藤とも、この二週間ばかり必要最低限のことしか話してない。それ以上話が続かない。

 まともに話しかけることも、話しかけられることもなくなっていた。

「これが普通だったんだけどな」

 コーヒーメーカーのタンクの残りの水量を見ながら、僕はつぶやく。

 エリキシルバトルが始まるまで、僕はいつもひとりで過ごしていた。

 リーリエとは話していたけど、アリシアを勝手に使わせるようになったのはバトルが始まってからだし、リーリエともいまほど話していなかった。

「……もう一年になるんだな」

 抽出が終わったコーヒーメーカーの電源が自動的にオフになるのを確認し、僕は保温ジャグからコーヒーをカップに注ぎ、冷蔵庫から取り出した牛乳をたっぷり投入する。

 入れすぎて零れそうになったコーヒーをすすりながらダイニングに戻るけど、時間が経って液晶が消灯してるタブレットに、もう一度電源を入れる気にはなれなかった。

 エイナが現れ、エリキシルバトルに誘われたのは、ちょうど一年くらい前のこと。

 夏姫にバトルを申し込まれ、ブリュンヒルデを倒し、あいつと一緒に行動するようになってからも、一年近くになる。

 通り魔事件の件で食らった停学が明けた近藤が加わってからも半年くらいになるし、灯理と戦ったのももう五ヶ月以上前のことだ。

 エリキシルバトルに参加してから、僕の生活環境は大きく変わった。

 ひとりで過ごすことも、リーリエとふたりで生活することも、寂しいだなんて感じたことはなかった。それが当たり前で、そんな生活に慣れていたから。

 他人と関係を持つなんて面倒臭いとしか思えなかったし、仲のいい人以外と話すのは苦手だったから。

 そんな僕はいま、コーヒーをすする音しか聞こえない家に寂しさを感じている。

 変わってしまったのは、僕自身もだった。

「まぁ、元々仲間になってたわけじゃなかったし、仕方ないんだけどさ」

 僕がエリキシルスフィアを回収しないことで、かろうじて繋いできた夏姫たちとの関係。

 その関係は、敵対していたわけではなかったけれど、仲間になったわけでもなかった。

 あくまで決着を先延ばしにしていただけの関係だった。

 願いがひとりしか叶えられないとわかったいまは、その関係も続けられないのは当然のこと。

 頭ではもちろんそうだとわかっていた。

 頭の理解と、僕の気持ちとは、すっかり分離してしまっていた。

「はぁ……」

 天井を仰ぎながらため息を吐いたときだった。

『はーい。いま開けるねっ』

 鳴り響いた玄関チャイムに応えて、リーリエが来訪者に声をかけるのが聞こえて来た。

 ――誰だ?

 当然のことながら、来客の予定なんてない。

 リーリエが応答したからには知り合いで、アポなしでやってくる人物ですぐ思いつくのは、夏姫とショージさんのふたり。

 ショージさんはいま、クリーブとかっていう、スフィア互換のクリスタルコアを発表してからなんだかごたついてるらしいし、可能性として高いのは夏姫しかいない。

 タブレットでも確認できる玄関カメラを見るより先に、僕はすぐにLDKを出る。

 鍵が解除されると音と同時に開かれた玄関扉。

 現れたのは、確かに見知った人物。

 そいつの顔を見て、僕はあんぐりと口を開けてしまっていた。

「思ってた通り、シケた面してるじゃないか、克樹」

 そんなことを言ってイヤな笑みを浮かべているのは、槙島猛臣(まきしまたけおみ)だった。

 

 

             *

 

 

 淹れたばかりだったコーヒーをカップに注いで差し出すと、いいとも言ってないのにダイニングチェアのひとつに座った猛臣は、ニヤけた笑みを口元に貼りつかせたままブラックでひと口飲んだ。

「やっぱり空中分解したか。協定を結んでるわけでもなく、ちゃんと味方ってわけでもなく、中途半端な関係だったわけだから、当然ちゃ当然だな」

「……」

 正面に座った僕を、さも楽しそうな笑みで見つめる猛臣。

 反論の言葉もない僕は、視線を逸らすことしかできない。

「今日はなんのために僕の家に? バトルの決着をつけるため、とか?」

 もう後は知ってる相手同士ででも戦って、スフィアを奪い合うしか願いを叶える道はないんだ。猛臣が僕の家に来た理由がバトルであっても不思議には思わない。

 アリシアは万全だし、そのアリシアで猛臣に不適な笑みを向けてるリーリエも、戦う準備は整っているようだ。

 ただ、イシュタルと戦うなら高速機動戦になるのはほぼ確実で、そこそこ広いといっても僕の家は一般家屋。ここでバトルになるのは勘弁してもらいたかった。

「てめぇたちとの決着をつけたいのも山々なんだがな、イシュタルはいま全面改修中で持ってきてねぇんだ」

 肩を竦めてみせる猛臣に、スマートギアを被ってなくて確認できない僕はアリシアに視線を飛ばしてみると、小さく肯定の頷きが返ってきた。

 レーダーにエリキシルスフィアの反応は確かにないらしい。

「じゃあいったい何しに来たんだよ」

「そうカリカリするなよ」

 いつも怒ってる気がする猛臣にそう言われて、それまでわき起こっていた苛立ちが急速に萎えた。思わずテーブルに突っ伏してしまいそうになる。

「今日はてめぇに、いや、俺様たちにとって重要な情報を持ってきてやったんだよ」

 言いながら猛臣は、隣の椅子に置いていた書類鞄から紙の束を取り出し差し出してきた。

「んっ?!」

 ひと目見ただけで、僕はそれが何なのかを理解した。

 アリシアで覗き込んでくるリーリエにも見えるよう、テーブルの上に置いて何枚かに分かれてる紙を広げる。

 印刷されたその紙の内容は、リスト。

 最初の二枚にはスフィアカップの地方大会の、フルコントロール、セミコントロール、フルオート部門で優勝と準優勝した人たちの名前が一覧になっている。

 そしてエリキシルバトルの参加者かどうかのチェックが、一覧の項目に入っていた。

 つまりこれは、バトルの参加者リスト。

 三枚目以降の紙には、そこから抽出された参加者に関する情報。

 灯理や天堂翔機を含めた既知の参加者が一覧にされ、バトルスタイルやわかっているドールの名前、参加大会と現在の大雑把な所在地、わかっている場合はその願い、それから敗者に関しては誰に負けたかが書かれていた。

『すごいねっ、猛臣。全部調べたんだ?』

「あぁ、苦労したぜ。レーダーでチェックして確認も取らなくちゃならなかったから、ほぼ全員のとこに足を運んだしな。スフィアカップからもう三年以上経つし、転居してる奴も少なくなかったから、結局一年もかかっちまったぜ」

 アリシアの身振りで賞賛を表現するリーリエの言葉に、得意げな猛臣はまんざらでもないような笑みを浮かべる。

 一年がかりで、たぶん調査会社とかの人も使い、一部のスフィアを買い取ったりしている猛臣が、いったいどれくらいの金をかけたのかは想像もできない。このリストをつくるのにかかった金額は数百万なんてレベルではなく、もうひと桁は上であることだけは確かだ。

 それだけじゃなく、全国に散り散りになってる参加候補者を訪ね歩くのにかかった時間も合わせれば、その熱意は飛んでもないものだとやってない僕でもわかる。

 敵である僕でも、猛臣のことを賞賛したくなるほどのリストだった。

「……これ、足りないよな」

「……あぁ、そうなんだ」

 眉を顰めて紙から顔を上げた僕に、同じように厳しい表情を浮かべる猛臣が答えた。

 リストの中で、現在も参加資格を保持しているのは僕と猛臣、夏姫と近藤と灯理、そして天堂翔機の六人。

 天堂翔機の言っていた、一〇人を切った段階で終盤戦に入るというのが本当だとしたら、あと三人足りなかった。

 すべてのリストを見直しても、誰に負けたのかが不明な参加者はいても、まだ参加資格を保持している可能性のある人物が見当たらない。

 残り三人の参加者は、灯理や天堂翔機と同じように、スフィアカップに参加していない、特殊なルートでエリキシルスフィアを入手した人物だということだ。

「あと三人か……」

「いや、たぶんあとふたりだ」

 僕が口にした未知の敵の人数を、猛臣は訂正する。

「ここを見ろ」

 猛臣が指さしたのは、中国地方の県でスフィアカップに出場した参加者。ひとりではなく、ふたり。

 つい二週間ほど前にエリキシルバトルを脱落したふたりの敗退日は同じで、その苗字も同じ。双子のソーサラーだ。

「このふたりって……」

 僕でも名前を知ってる双子は、全国大会でも片方がフルコントロール部門三位、もうひとりがセミコントロール部門で四位を収めた強者だけど、その強さの真価はタッグ戦にある。

 ピクシーバトルでタッグ戦が行われる機会は少ない。けど以前テレビ番組の企画で行われたタッグマッチでは、この双子は全国大会に出場した他のソーサラータッグチームを寄せつけない、圧倒的な強さを見せつけた。双子だからこそ可能な息の合い方だった。

「天堂翔機の言葉が本当なら、あの屋敷に乗り込んだ時点で残りのエリキシルソーサラーは一〇人。最後にこいつらふたりが脱落したんだとしたら、残りは八人だ。探すのに苦労したぜ。親が離婚した関係で母親の旧姓に戻ってた上に、母方の実家に引っ込んでたからな」

 悪態を吐く猛臣の言葉にふたりのいまの所在地を見てみると、東北地方になっていた。

 姓が変わった上に中国地方から東北地方に引っ越していたとなれば、確かに探すのに苦労しただろう。

「このふたりは誰に負けたんだ? もしかしてこのふたりで戦って、とか?」

「ふたりで戦って、ってのはない。このふたりの願いは同じだからな。まぁ、負けててくれてちょっとホッとしたぜ。ひとりずつならともかく、ふたり同時に相手するんなら、俺様でもヤバいじゃ済まないからな、この双子は」

「じゃあ誰が倒したんだ……」

 ふたりが戦った相手の項目は空欄になってる。

 猛臣が強さを認めるほどのふたりだ。他にも負けた相手が空欄になってる人は何人かいるけど、このふたりを破った相手を猛臣が追求しないわけがない。

「誰と戦ったのかわからなかったの?」

 リストから顔を上げて、僕は難しい表情を浮かべてる猛臣を顔を見る。

 連絡があって、入院したという天堂翔機ではあり得ず、猛臣でもなく、僕や夏姫たちでもない双子を倒した相手。

 僕自身を含めて既知のエリキシルソーサラーは六人。

 まだ正体不明な参加者は、ふたり。

 ふたりの内の片方、もしくは両方の正体に関する情報は、僕たちにとって何にも代えがたい価値がある。

「ふたりの願いは身体の弱い母親を健康にすることだ。父親がずいぶん酷い奴だったみたいでな、離婚して一年以上経ったいまも母親は入退院を繰り返してる。ふたりに勝った奴は、正体を他の誰にもバラさない代わりに、かなりかかってるはずの医療費を出すことを条件にしたらしい。はっきりとそうだとは、双子は言わなかったがな」

「でも猛臣なら――」

「あぁ、もちろん。こっちで肩代わりするって話はしたさ。だがどうやらそれだけじゃないらしいんだ。ひとりは弁護士、もうひとりは医者を目指してるってふたりの諸費用も融通してる様子がある。その上奴らは義理堅くてな、どうやっても負けた相手の名前を口にしなかった」

「そっか……」

 苦々しげに顔を顰める猛臣。

 そんな彼から視線を逸らして、僕は考える。

 母親を健康にしたいという願いは、お金で買えるものではないだろう。けれどお金があれば充分な治療は受けられるし、生活に余裕を持つことができる。

 不完全ながらも願いを叶えたふたりにとって、それを実現してくれた相手に口止めされれば、そう簡単に口を割ったりしないだろう。

 スフィアカップに出場してなく、追跡もできないあとふたりの敵は、僕たちにとって最大の脅威だ。

「これもはっきりとは言わなかったが、どうやら双子を倒した敵はひとりだったらしい」

「ひとり?」

「あぁ。俺様でも双子を同時に相手にしたら勝つのはかなり厳しい。敵がひとりだったってのが本当なら、そいつの強さは俺様やお前どころじゃない可能性がある。もしかしたら平泉夫人クラスかも知れねぇってことだ」

 言い捨てた猛臣は、温くなったブラックコーヒーをひと息で飲み干した。

 バトルも終わりに近づくに連れ、強い敵が出てくるだろうとは思っていた。でも平泉夫人クラスとなると、厳しいどころの話じゃない。

 全員で一斉に挑みかかっても勝てるかどうかかも知れない。

「リーリエ。双子を倒した敵について、どう思う?」

『……え? あぁ、うん。すごく強そうだね』

 アリシアでリストに目を向けたまま黙っていたリーリエに声をかけると、まるで他のことに気を取られていたみたいに反応が鈍かった。

 ――ん?

 それだけじゃなく、リーリエの様子に微かな違和感を覚える。

 リーリエは若干ジャンキーが入ってるレベルで、ピクシーバトルでもエリキシルバトルでも、どんなものでもバトルを好んでる。平泉夫人に匹敵するかも知れない敵がいるなんて話を聞いたら、むしろのめり込んできて質問でも飛ばしてきそうなのに、ずっと黙ったままだった。

 ――どうかしたのか?

 とくに思い当たることはなかったけど、リーリエの様子がおかしいように思えていた。

 ただ、身体を持たない人工個性の彼女は、アリシアを通してでもないと細かい様子がわからない。アライズもさせていないいまは、裏で何かやっててもすぐにはわからなかった。

「まぁ、充分に気をつけろ」

 言って猛臣は広げていた紙をまとめて僕に渡してくる。

「願いを叶えたいなら、いつかは誰かが戦わなくちゃいけないんだから、あんまり気にしてても仕方ないだろ」

「そうなんだがな。できればてめぇらの誰かが倒してくれれば、と思うよ」

 いつにも増して弱気な発言をする猛臣から紙束を受け取る。

「弱気だね」

「一年近くエリキシルソーサラーのことを調べてきて、影も形も見えなかったところで、やっと尻尾をつかみかけた相手だ。強い上に正体不明となりゃ、慎重にもなるさ」

 苦々しげなものと、慎重さとは違う恐れているようにも思える色を瞳に浮かべている猛臣。

 どこからともなく強敵が現れたんだ、そんな反応も仕方ないのかも知れない。

「ともあれ、他の奴らにはお前から知らせておいてくれ。データは後でお前に送っておく」

「え?」

 席を立って鞄を手にした猛臣は、そのまま玄関に向かう。

「みんなの連絡先は知ってるんだから、直接送ればいいだろ」

「あ?」

 LDKを出るところで振り返った猛臣は、ガラの悪い声を出す。

「てめぇらの仲良しごっこを認める気はないが、いまの状況じゃあ空中分解されても困るんだよ」

「なんでだよ」

「おそらく双子を倒した敵は、過去最強のエリキシルソーサラーだ。一対一じゃ俺様でもキツいだろう。てめぇらを相手にするならどうにでもなるが、この状況で各個撃破でもされたら、俺様がきっついことになりかねねぇ」

 厳しい表情のまま詰め寄ってきた猛臣は、僕に言い聞かせるようにそう話す。

「せめて残りふたりの敵の情報だけでもつかまなけりゃならないんだ、俺様にとってはいまんとこてめぇらがつるんでてくれた方が都合がいい」

 ふと笑みを浮かべた彼は、らしくないことを言う。

「仲良しに戻るための機会を与えてやってるんだ、感謝しやがれ」

「痛っ」

 強めに頭をはたかれて、僕は顔を歪める。

「それにモルガーナの奴がいまになってもまだ具体的な動きを見せないのが気持ち悪い。エリキシルソーサラーでないようだが、奴が何か企んでるならもう動き出してもいいはずだ。弱い奴らばっかりだったとしても、正体不明の敵より把握できてる奴らと構える方がマシなんだよ」

「まぁ、そうかも知れないけどね」

 夏姫に対する態度を見てると、猛臣はそう悪い奴じゃないのかも知れないとも思えるが、優しげにも見える笑みを浮かべてるいまの彼は、微妙に気色が悪い。

 玄関に出て靴を履いてる猛臣の後を追って、僕もLDKを出る。

「これまでは情報交換のために協力してただけなんだ、残りふたりの敵がはっきりわかったら、改めて決着つけるからな、克樹」

「わかってる」

『楽しみにしてるよー、猛臣っ』

「はっ。今度はてめぇをぶっ飛ばしてやるからな、リーリエ」

『負けないよっ』

 なんだか爽やかな笑みでリーリエとも言葉を交わした猛臣は、玄関の扉を開ける。

「俺様との決着をつけるまでは、誰にも負けるんじゃねぇぞ、克樹」

「わかってる」

 応援してくれてるようにも感じる言葉に頷いて、僕は不適な笑みを残して玄関の向こうに姿を消した彼を見送った。

「……はぁ」

 手元に持ったままの紙束に目を落として、僕はちょっと呆れを含んだ息を吐いていた。

 

 

 



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第五部 撫子(ラバーズピンク)の憂い 第一章 2

 

 

          * 2 *

 

 

 ――こういうときの作法はどこで身につくのだろう。

 そんなことを考えてしまうくらい優雅な動きで、芋の煮っ転がしを口に運ぶ平泉夫人を、彰次(あきつぐ)は少しボォッとしながら見つめていた。

 執務室に運び込まれた食事用の小さめのテーブルを挟んで向かい合い、彰次はちょうど夕食時だったために振る舞われた和食を、できるだけ行儀良く食べる。

 味つけは薄めで、決して好みではない。

 ジャンクフードも好んで食べる彰次にとって物足りなさを感じる味つけで、和食であることもあって夫人が食べるには鮮やかさが足りない気もしたが、小鉢を含めて六種類の料理はどれも美味しく、ヘタな料亭の味よりも上品だった。

 ――アヤノじゃここまでの味は出せないな。

 彰次の自宅で家事全般を担っているアヤノは、フルコントロールシステムであるAHSの実験版で稼働している。AHSには料理の機能はすでに実装済みだが、レシピ通りにしかつくれない。

 主人の好みに合わせたアレンジも機能としては試験していたが、スメルセンサーを搭載したエルフドールで主人が好む味を学習させても、完成する料理の失敗率が飛んでもないことになるので、機能から除外してあった。

 何度も食べることになった味つけに失敗した料理の数々のことは、あまり思い出したくはない。

 ――リーリエにやらせてみたら、マシなものをつくれそうだがな。

 AHSの稼働に関わる情報には、かなりの割合でリーリエの稼働によって得られる人工個性のデータを分析、整理して入れている。

 AHSではいまのところ上手くいかないが、情報の大本であり、脳が仮想なだけでひとつの個性といって差し支えのないリーリエなら、相手の好みに合わせた料理をつくることくらいできそうだ、なんてことを彰次は考えていた。

 そんな半ば現実逃避の考えに没頭しているのは、平泉夫人とふたりで食事をすることになったからではない。

 夫人の後ろに立ち、相変わらずの無表情で、ともすると威圧してきているようにも思える、芳野(よしの)のことが気になっているからだった。

 この美味しい食事は芳野がつくっただろうに、彼女はいつも通りの白いエプロンと地味なワンピースのメイドのような服を着、ほとんど身動きもせずに夫人の後ろに控えている。

 あまり細かいことは気にしない彰次だが、さすがに会話もなく食事を続けていると、気になって仕方がなかった。

 そんな彰次に気づいたのか、口元に笑みを浮かべた夫人が言う。

「芳野のことなら気にしないでちょうだい。人前で食事するのは苦手なのよ。――トラウマの一種ね。植えつけられてからはずいぶん経つのだけれど、そういうものはどうにもならないものだから」

「……そうですか。わかりました」

 箸を止めて言う夫人に、理解の言葉を返す彰次だが、気になるのは止められない。

 彰次の方を見つつも、ひと言も喋らない芳野の視線から逃れたくなってしまう。

 彼女の生まれ育った家があまりよくないところだったという話は、噂程度には聞いたことがあった。直接夫人の口からそのことについて触れる発言を聞いたのは、今回が初めてだったが。

「そんなことよりも、味の方はどうだったかしら?」

 何か含むものを感じるが、それが何だかわからない笑みを浮かべる夫人に問われ、食べ終えて空になってる皿を見る。

「美味しかったです、かなり。家にいるときは試験を兼ねてエルフドールに食事をつくらせていますが、それとは比べものにならないくらいに」

「そう、それはよかった。芳野は完璧主義なところがあるけれど、料理の腕は文句のつけようもないくらいですものね。彼女がいてくれれば、他に料理人を雇うのも莫迦らしくなるくらいよ」

「そうかも知れませんね」

 同意して頷く彰次だったが、そもそも食事時に呼びつけなくてもいいじゃないか、と思っていた。

 休日の今日、彰次が平泉夫人の家に来ているのは、時間指定で呼びつけられたからだった。

 呼びつけた理由自体はわかっているが、時間まで指定されたのは、夫人に別の用事があったわけでもない様子で、よくわからなかった。

「ともあれ、本題に入ろうかしら」

 ナプキンで口元を拭いた夫人が、表情を引き締めて言った。

 芳野が食器を下げ、コーヒーカップだけが乗っているテーブルで彰次は彼女と向かい合う。

 小さくため息を吐いた彰次は、持ってきていた鞄からスレート端末を二枚取り出し、片方を平泉夫人に手渡した。

「はっきり言って、クリーブの反応は芳しくありません」

 スレート端末に表示しているのは、発表前からいままでの、クリーブに関する反応についての報告だった。

 出資者や外部の関係者向けの報告書はすでに速報版として送信済みだったが、夫人から直接会って話を聞きたいと連絡があり、互いに時間の都合が合う休日にこうして屋敷を訪れている。

 発表から二週間が経ち、初期の動向は出揃った感じがあった。

 クリーブへの反応は、芳しいものとは言えなかった。悪いとすら言えるほどに。

 発表会見の時点でそれは予想できていたことだったが、自分なりに力を入れて開発に取り組んでいただけに、彰次にとってはショックのある状況だった。

「あらかじめの予測通り、これまでスフィアを使いたくても使えなかった、非人間型の精密動作ロボットを扱う企業や研究所、大学関係からの問い合わせはちらほらとあります。海外からも多いとは言えませんが問い合わせが寄せられています」

 社外向けの資料とは違い、見せるだけならともかく、社外の人間の元に保存しておくことは認められていない詳細な報告書には、事前に渡したもの以上に厳しい現実が数字として記載されている。

 それを見ても口元に薄い笑みを消すことのない平泉夫人をちらりと見てから、眼鏡型スマートギアの蔓を指で押し上げた彰次は報告を続ける。

「問い合わせや購入希望の連絡の数を見ていただければわかる通り、現状ではサンプル分の生産で充分足りてしまうほどで、本格生産の目処はいまのところ立っていません。正直、出資者の方々に還元できるような成果は、今後しばらく出ないだろうというのが社内での評価です」

 クリーブの開発にかかった費用の大半は、平泉夫人が出していると言っても過言ではない。

 元々HPT社の開発費を使って基礎的なところはできていたと言っても、生産を見据えた本格的な開発にかかった費用は相当の金額となっている。

 出資の際は夫人が持っている会社を通しているが、個人資産と言えるその出資金は、先端業界で活躍する資産家の中でも上位に位置する平泉夫人であっても、屋台骨に歪みが出てもおかしくないほどだったはずだ。

 それに対する還元がゼロであるとはっきり告げてもなお、彼女の笑みが消えることはない。

 それを不審に思いつつも、彰次は夫人に問う。

「やはり発表は半年遅らせた方が良かったのでは? 現状では価格や汎用性というメリットに対して、性能や消費電力というデメリットが大き過ぎます。半年あれば、並ぶことはできなくてもスフィアに対してもう少しマシな競争力をつけられたはずです」

 半年後には実現可能なことで、実現すればまた発表を行うものであるが、最初の発表のインパクトに比べ、改良に関する発表はどうしても反応が薄い。

 最初のインパクトを強くするためには、いま発表するより競争力のついた半年後の方が良かったのではないかと、発表会を行うことが決定した時点から彰次は考えていた。

「半年後では、第六世代のスフィアの普及が始まって、第六世代のパーツも出揃っている頃でしょう。いま以上に話題にならないわ」

「それは……、そうかも知れませんが」

「様々な事柄のバランスを考えたら、いまが最適で、いましかなかったのよ」

 確かにスフィアに対抗する商品であるクリーブは、発表が早ければ早いほど利点があるのも確かだ。

 しかしながら、彰次はクリーブの製品寿命は二年であると考えていた。

 正確には二年後、大きな分岐点を迎える。

 二年後にあるのは、第七世代のスフィアの発表。

 第六世代も正式に発表されていない段階で気が早いとも言えるが、二年後にはクリーブはスフィアによって駆逐されてしまう。

 クリーブの最大とも言えるメリットは、組み込む機械に制限がないこと。

 人型か、動物型に制限されているスフィアと違い、車両や航空機の姿勢制御、生産工場や特殊地域活動ロボットのアームのコントロールなど、用途は多岐に渡る。

 スフィアにも求められ続け、実現していなかったことをクリーブは実現している。

 しかしそれも、おそらく二年後に発表される第七世代スフィアでは制限が撤廃されると噂されており、実際そうなるだろう。

 業界関係者の誰もがそうなることを予定として組み込み、いまから動き出していたし、SR社も否定はしていない。

 最大のメリットが失われることで、製品としての寿命が尽きるか、業界に定着して存続し続けられるか、二年後がその分岐点になるはずだった。

 残った時間を考えれば、半年後などと悠長なことを言っていられないのも、彰次にはわかっていた。

 それでもあともう少し、スフィアに対する存在感を示せるところまでできなかったのか、と思ってしまうのは、彰次が商売人ではなく技術屋だからだろうか。

 漏れそうになるため息を奥歯で噛み砕き、眼鏡型スマートギアの位置を指で直す彰次は、そんなこととは別に気になっていることについて考えていた。

「平泉夫人。つかぬことをお伺いしますが……」

「何かしら?」

 問うべきかどうするか一瞬だけ悩んで、微笑みを浮かべている夫人の瞳を見据えた彰次は言葉を続ける。

「クリーブの発表は、その、魔女に対する貴女なりの攻撃ですか?」

「えぇ、その通りよ」

 溜めもためらいもなく即答した平泉夫人は、テーブルに手を伸ばして澄ました顔でコーヒーを飲む。

「なんでまたあいつに手を出そうとするんです。魔女が危険な存在であることは、夫人にもわかっていることでしょう?」

 スフィアドール業界にいる人間は、大なり小なり何かが意図的に業界の流れをコントロールしていることに気づいている。

 魔女の存在を知る彰次は、それがどれほど根が深く、広範囲で、凄まじい影響力であるかを、日々肌で感じている。

 そして直接会い、話したことがある魔女は、業界で感じている恐ろしさよりも底昏い存在であることを、彰次は知っている。

 おそらくまだ一度も直接魔女と対面したことがないだろう平泉夫人にはわからないことかも知れない。しかし彰次には、触れるべきではない存在であると、充分以上に理解できていた。

 ――魔女には触れるべきじゃない。それが幸せに生きるコツだ。

 一年近く前に克樹に言ったその言葉は、彰次にとって翻すことのできないこととして、肝に銘じている。

 やはり笑みを浮かべたままの夫人に、眉根にシワを寄せた彰次は訴える。

「魔女には触れるべきじゃない。奴は魔法なんて使わなくても底知れない、恐ろしい存在だ。いまからでも奴に対する攻撃なんてやめるべきだ」

 年上で、尊敬できる人で、自分にとっても会社にとっても世話になっているという立場をかなぐり捨てて、彰次は必死に言う。

 しかしそれでも、平泉夫人の笑みは崩れない。

 微かに表情を険しくした背後に控える芳野にも見つめられながら、夫人は彰次の訴えに応えて言った。

「これは必要なことなのよ。私にとっても、そしておそらく、すべての人間にとっても」

 いくらなんでも規模が大きすぎるように思えるが、魔女の底知れなさと、夫人の揺るがない表情が、大げさではないように思わせた。

 ――克樹の奴も、関わり続けていたな。

 仕事が忙しくてあまり構ってやれていないが、克樹もまた魔女に何らかの形で関わり続けていることには気づいていた。

 以前出されたデータでは、それが真実であるなら、まるでファンタジー小説の中でありそうなことが起こっていることになる。

 ――正気の沙汰じゃないな。

 登場人物のひとりが魔女なのだから、ファンタジックな出来事が起こっていても不思議じゃないのかも知れない。けれど現実に起こっているのだとしたら、正気を疑うには充分なことだった。

 まだデータがねつ造で、資産とカリスマ性で世界を裏から牛耳る女が暗躍しているという状況の方が、フィクション染みているが受け入れられそうに思えた。

「けれどおそらく、クリーブではあの人に毛ほどのダメージを与えられないでしょうね」

「だったら何故っ」

 表情を崩さず、澄まし顔のままで言う平泉夫人に、彰次は思わず食いついていた。

 危険だと知りながら必要だと言って攻撃を開始し、しかしその攻撃には効果がないと言う。

 ――そんなのは、奴の逆鱗に触れに行くようなものだ!

 思わず腰を浮かせて睨みつけてしまっても、夫人は平静を保ったままだ。彰次の反応も想定していたかのように。

 新しいコーヒーを注ぎに来てくれた芳野に、彰次は椅子に座り直す。ひと口カップを傾けて、気持ちを落ち着かせた。

 そんな芳野をちらりと横目で見て、それから彰次に唇の端を歪めて微笑んで見せる夫人は言う。

「貴方の心配も、その範囲もわかるけれど、攻撃の効果は決してあの人自身にある必要はないのよ」

「……どういうことです?」

「あの人にとって想定の範囲内で、今後の計画に支障のないものだと判断できても、あの人の回りにいる人たちにとってもそうとは限らないのよ」

「ん?」

「広く強い影響力を持つということはそういうこと。それを基盤にしている以上、あの人は逆に基盤の揺らぎに影響を受けることもあるのよ」

 それまで穏やかだった瞳に攻撃的な色を浮かべた夫人に、彰次は思わず息を飲んでいた。

 ――俺なんかが見える範囲じゃねぇな。

 製品や技術の発表によって、単純にその発表に直接関係する事柄以外に影響が出るのは理解できる。ユーザーや市場に波のように伝わるその効果は、時には一回の発表で多くの国を動かす熱となり得ることもある。

 商品の売り上げや技術の普及には、そうした波及効果もある程度考慮に入れて宣伝を打ったりするのは普通のことだ。

 しかし平泉夫人の見ている範囲は、魔女のその向こう側。

 夫人自身には見えているのかも知れないが、彰次には想定するのも難しい範囲にまで達しているように思えた。

「クリーブは現在の予定では今後三年、開発を継続していく予定です。その後については、市場の動向次第というところですが、三年経たずとも第七世代スフィアの発表を機に、計画の再検討がされると社内では決まっています」

 小さくため息を漏らした後、彰次はそう夫人に告げた。

 開発予定の情報は、社内でもごく一部の人間の間での決定事項だが、夫人に対しては隠すわけにも行かなかった。

 HPT社の大口出資者のひとりだからというだけでなく、モルガーナと敵対し、クリーブを武器として扱う人という意味でも。

「例え出資などで予算が充分に確保できていたも、三年の間に市場に定着できていないと判断された場合はクリーブの開発は終了し、生産も順次終了となります」

 スフィアという市場そのものを産み出し、ロボット業界すべてを席巻しそうな巨大な存在がいる中で、元々クリーブの扱いは社内でも決して良好とは言えない。

 彰次が入社した頃は町工場よりも少しマシな程度の事務所兼工場で、スフィアドールやそれ以外のロボットの部品を細々とつくっていたアットホームな雰囲気のHPT社は、スフィアドールの普及とともに巨大と言えるサイズになった。

 二〇年にも満たない歴史しか持たない会社の中では、いまや予算争いや派閥争いが発生するほどになっている。

 できれば関わり合いになりたくはなかったが、彰次も否応なしにその争いに巻き込まれているし、クリーブの失敗を待ち望んでいる者も社内にいるのは知っていた。

 ――本当、下らねぇがな。

 つまらないと言って切って捨てたいが、そうも行かずに三年で区切られたクリーブの開発期間。

 その短い間にそれなりの結果を出せる自信はあったが、出せたものが市場に受け入れられるかどうかはまた別の話でもあった。

 眉根にシワを刻みたくなるのをどうにか堪えて夫人の顔を見ると、彼女は優しげな、余裕を漂わせる笑みを浮かべていた。

「三年も待たずとも、クリーブの存在意義は出てきますよ、音山技術開発部長」

 そんなことを言う平泉夫人の自信の裏付けを、彰次は想像することすらできなかった。

「おそらく来年の春には、早ければ年内にはそういうことになるんじゃないかしら?」

「信じられない……。いったい何を根拠に?」

 予想とは明らかに次元の違うその言葉に、彰次は信じる信じないの前に、現実から遊離した夢を語っているようにしか思えなかった。

 険しくなるのを止められない視線で見つめても、夫人が漂わせる余裕が薄れることはない。

「勘、というのが本当のところかしらね。いえ、少し違うかしら? まだ乗り越えなければならないことはあるのだけれど、クリーブがあの人の周囲に波紋を投げかけられたのだとしたら、そう遠くないうちにその効果が何らかの形で見えてくるはずなのよ」

 口元にいたずらな笑みを浮かべる夫人の瞳には、不確かな夢を見ているのとも違う、疑いの欠片もない自信が浮かんでいるのが見えた。

 ――この人はいったいどんなものを見て生きているんだ?

 投資家としてだけでなく、広いとは言えなくても彼女が世界を動かしているのだと、彰次には感じられた。

 ――それに、おそらく夫人は克樹たちがやってることも知っている。

 克樹と夫人がどの程度関係が深いかは、彰次も把握していない。

 しかしモルガーナと敵対するようになったのは、夫人自身にも理由があるような気がしていたが、そのきっかけをつくったのは克樹であるように思えていた。

 克樹と平泉夫人がモルガーナを倒そうとしているのはわかる。

 だがそうしなければならない理由がまったく見えない。

 ――俺は本当に蚊帳の外だな。

 夫人は話してくれる気がないらしく、克樹もモルガーナのこととなると口をつぐんでしまう。

 話さないのにも理由があるのだと感じていたし、彼らのことは信じてもいたが、何も知らないままでずっと蚊帳の外に置かれたままなのは居心地が悪かった。

 当事者たちに近い位置にいながらも捨て置かれているという状況に、彰次は夫人から視線を逸らしてため息を吐き出すことしかできなかった。

「大丈夫よ、音山さん」

「ん?」

 やさぐれた気分でコーヒーを飲む彰次に、何故か楽しそうな顔をする夫人が話しかけてくる。

「いつかは貴方にも見てもらうことになるでしょうし、見えるようになるわ。そうなってもらわないと困るのよね」

「……どういう意味ですか?」

「さぁ、どういう意味でしょうね。まぁ、大丈夫よ。貴方に足りないのは経験であって、素質ではないわ」

 何の話をしているのかまったくわからず、彰次は顔を顰めるしかなかった。

 楽しそうにしている平泉夫人。

 彼女の後ろでは、珍しく芳野が視線を逸らし、どことも言えない方向を見ているという反応をしていた。

 ――何にせよ、いまの俺じゃ理解できないってことだろうな。

 もうひとつため息を漏らして、彰次は温くなって苦みの増したコーヒーを飲み干していた。

 

 

 

「むぅ……」

 平泉夫人にいとまを告げ、執務室を出て扉が閉じられた途端、彰次はそんなうめきともつかない声が出てしまっていた。

 駐車場までエスコートしてくれるらしい芳野にちらりと視線を投げかけられるが、それが意味するところはわからない。

 ――夫人は何を知っていて、どこを見てるんだ?

 話していてずっと、彰次にはそれがわからないでいた。

 断片的な情報からある程度の想像くらいはできるが、その想像は彰次の常識から外れ過ぎていて、ゲームの話をしていると言われた方がしっくりきそうなほどだった。

 ――本当に、何が起こっているって言うんだ。

 いつもは結ったりまとめたりしていることが多い気がした髪を、今日は背中に流している芳野の後ろ姿を見ながら、彰次は何度も小さなうめき声を上げていた。

「少し聞きたいんだが」

 玄関ではなく、玄関から少し離れたところにある廊下の途中の、駐車場に出る扉の前に立った芳野を彰次は呼び止めた。

「わたしに、ですか?」

「あぁ」

 相変わらず隠しているのか起伏が薄いのかわからない、感情を読み取れない表情で振り向いて、芳野は小首を傾げた。

「平泉夫人は、いったい何を考えてこんなことをしてるんだ?」

 モルガーナは恐ろしい存在であると同時に、こちらからわざわざ関わりに行くか、あちらに目をつけられない限り、やり過ごすことのできる相手だった。

 彰次はこれまで、スフィアドール業界で魔女の影を感じながらも、こちらからは触れないように、目をつけられないようにしてきた。

 それでやって来られたのだ。

 平泉夫人や克樹がわざわざ関わりに行く理由は、彰次にはまったく見えなかった。

 そして平泉夫人の言った、人間のためにという言葉が、どうしても飲み込み切れなかった。

 だから芳野に問うてみた。

 いつも平泉夫人と一緒にいて、彼女と同じものを見ているはずの芳野ならば、何かわかるかも知れないと思った。

「申し訳ありません、音山様。奥様が話していない以上、わたしはそれ以上のことを話すわけには参りません」

 言って深々と頭を下げ、顔を上げた芳野の瞳を見て、彰次はそれ以上問うのを諦めた。

 ――夫人以上に手強いな、こりゃ。

 あまり感情を表情に出すことのない芳野はしかし、瞳で多くのことを語っている。

 いまの彼女の瞳には、一片の揺らぎもなかった。

 弄ばれたり煙に巻かれたりする感じがある夫人とは違う、強い意志を感じる瞳だった。

「わかった。そのことはいい。ただ、俺も魔女とはそんなに会ったことがあるわけじゃないが、あいつは底が知れない。勘と言うより、動物的な本能に近いが、危険な奴だ」

「お目にかかったことはありませんが、それはわたしも、奥様も感じています」

「ただ危険ってだけじゃない。奴が持っているのはおそらく一種の狂気だ。奴にとって自分と同等の人間なんてのは、この世にひとりとしていないんだろう。例え誰であっても、あいつは邪魔なら挽き潰すし、必要なら使い潰す。奴に近づくんだったら、命を捨てるくらいの覚悟が必要だ」

 それまで揺るぎなかった瞳を曇らせ始めた芳野を見つめ、彰次は言う。

「そんな奴に宣戦布告染みたことをしてる夫人のことが、貴女は心配じゃないのか?」

 芳野を初めて見たのは、三年ほど前に開催されたロボットの展示会でだった。

 メイドが着るような服を着ていて、研ぎ澄まされたナイフのような雰囲気をまとわりつかせる彼女は、むしろ護衛のように見えた。

 ロボットとは明らかに違うのに、ロボットよりもロボットらしくあろうとしているかのように感情を見せることがなく、夫人を通してしか話したこともなかった。

 こうして一対一でまともに会話したのは、初めてくらいのことだった。

「奥様がそれをやるべきだと考えているならば、わたしはその方針に従うだけです。もしあの人を害するような者が現れたなら、わたしがそれを排除します。そのための訓練も、これまで積んできましたから。それにもし、――あまり考えたくありませんが、夫人を守り切れなかったとしても、一時的ならばあの人の代役を務めることはできます。そう、仕込まれていますので」

 彰次の険しい視線を受け止め、睨むような視線を返してくる芳野だったが、それまでの揺るぎない瞳ではなくなっていた。

 平泉夫人が芳野をどんなつもりで側に置いているのかは知らない。

 家政婦や秘書のように、さらに彼女自身も言った通り優秀な護衛としての役を担っているのは知っている。

 けれど夫人がどんなことを考えて彼女を側に置いているかは、聞いたことがない。

 ――たぶん、違うんだろうな。

 複雑な事情があるらしい育ちの芳野を拾い、様々な教育を施し、彼女の希望に添いつつも金と時間を注ぎ込んできた平泉夫人。

 その成果はかけてきたもの以上に現れていると思うが、夫人は主従や、依頼人と請負人といったもの以上の想いを、芳野に抱いているように彰次には思えていた。

 ――そのことを、夫人がはっきり言ったことはないがな。

 なんとなくはわかるが、はっきりとはしない夫人から芳野への想いを、彰次が口にすることはなかった。

「ん……、そうか」

「はい」

 彰次の相づちに力強く頷く芳野。

 彼女の引き締められた表情は、強く結ばれた唇と反比例して崩れていく。

「けれど、魔女が恐ろしいことには変わりありません」

 そう言って唇に指を添える芳野。

 いつもはロボットよりもロボットらしい彼女であるが、ほんの時折見せる笑みにも満たない表情や、何かの想いを込めた視線を向けてきているとき、それからいまのような不安に瞳を揺らしているときの彼女は、普通の女性のように見えていた。

 ――いやたぶん、普通の人なんだ、この人は。

 強くあろうとし、そうしていることを隠しているだけなのだろう芳野。

 わずかに覗いた彼女のそうした一面に、彰次は三歩の距離をひと跨ぎにして、抱きしめてしまいたい衝動に駆られた。

 ――できないけどな、そんなことは。

 護衛としての訓練を積んだというのは本当で、彼女の強さはその筋では有名だ。

 何者かに雇われたらしい暴漢が夫人に襲いかかったときには、男三人を鮮やかに昏倒させたという話は彰次も聞いていた。

 衝動に駆られて不用意なことをすれば、暴漢と同じ末路をたどることになるのは目に見えている。

 拳を握りしめて堪えた彰次は言う。

「まぁでも、平泉夫人ならば大丈夫だろう」

 泣き出しそうにも見える顔をしている芳野に、彰次は安心させられるよう笑みを浮かべてみせる。

「夫人は慎重な方だし、得るものもなく犠牲を払ったり、自分を犠牲にして何かを為すようなタイプの人じゃないだろう。魔女は差し違える覚悟程度でどうにかなる相手じゃない。そんなことはあの人もわかっていることだろうしな。それに、平泉夫人は強い人だ。いま貴女が不安に思っているようなことは、起こりはしないさ」

「そう、ですね」

 視線を逸らして言葉を選びながら言い、芳野の顔を見ると、彼女は目を見開いていた。驚いているらしい。

 ――やっちまった……。

 言わなくてもいいことを言ってしまったと思うし、自分らしくないことを言ってしまったと、芳野の顔と自分の言葉を振り返って思う。

 急速ににじんでくる汗に、彰次はさらに言葉を重ねてしまう。

「いっ、いや! 俺は、その……、夫人がやってることを手伝えるような能力もなければ立場にもないが、えぇっと、貴女の話を聞くことはできるし……。も、もしっ、何か大変なことが起きたときには、俺が貴女の元に急いで駆けつけるからっ」

 最後の方はもう半ばやけっぱちに、彰次は詰まりながらも芳野に向かって言った。

 開いた口を両手で押さえて隠す彼女は、もうはっきりと、驚いた顔を見せていた。

 それから、彰次に向けていた目をわずかに伏せ、笑んだ。

「そんなときが来ないことを祈りますが、もしそんなことが起きてしまったときは、お願いします」

 初めてだった。

 ここまではっきりと芳野が笑って見せたのは。

「そっ、それじゃあ俺はこれで!」

 優しげな色を浮かべている瞳を向けてきてくれる芳野の脇を通って、ノブに手をかける。

 焦りと驚きと恥ずかしさで爆発してしまいそうな気持ちがどうにもできなくなった彰次は、駐車場に続く扉を開け放って自分の車に急いで乗り込んだ。

 バックミラーで芳野が追ってこないのを確認してから、ハンドルに身体を預けて大きくため息を吐く。

「俺は中学生かよ」

 顔まで熱くなっている自分にそう吐き捨て、もう一度大きくため息を漏らした。

 どうにか少し落ち着きを取り戻し、シートベルトを締めエントリーボタンを押してエンジンをかける。

「祈る、か……」

 芳野の言葉を思い出し、つぶやいていた。

 彼女にはあぁ言ったが、魔女に触れることの恐ろしさは彰次自身が身をもって知っていた。

 大きすぎる犠牲を代償として。

 平泉夫人は確かに強く、芳野は優秀であるが、巨大という言葉でも足りないモルガーナという敵に積極的な行動に出たいま、不安を拭い去ることはできなかった。

「近いうちに克樹を締め上げてでも、話を聞かないといけないかもな」

 モルガーナに関わることであったから、これまでは注意はしても無理矢理にでも聞き出そうとはしてこなかった。

 正確には、聞くことを避けてきた。

 しかし事情は変わりつつある。

 蚊帳の外に置かれている自分では、何かが起こってもそれに気づくことすらできないかも知れないと、彰次は感じていた。

「ちっ」

 様々な思いを舌打ちひとつに込めて、彰次は駐車場から車を発進させた。

 

 

             *

 

 

 差し込む月明かりの角度が変わったのがわかるくらい時間が経ってから、彰次の車は駐車場から道路へと姿を見せた。

「何を話していたのかしらね」

 窓に手を着いて、走り去っていく車を眺めている平泉夫人は、そう小さくつぶやいた。

 彰次の見送りに出てまだ戻らない芳野と、執務室を出てからずいぶん経って車を出した彰次の様子から、ふたりが何かを話していたのは確かだった。

 話の内容を問う気のない夫人は、口元に笑みを浮かべる。

「貴方が不安に感じるのは当然でしょうね、彰次さん」

 見えなくなったテールランプに向けて、夫人は小さく言う。

 自分の立ち位置が克樹たちとは違っていることを、夫人は理解していた。

 克樹は克樹の場所で、モルガーナと戦っている。

 夫人は夫人で、自分のあるべき場所で戦っていた。

「私なりに、もう覚悟は決めてあるのよ」

 誰に言うでもなく、夫人は街灯の光くらいしか見えない窓の外に向かって零す。

「覚悟くらい決められないようでは、あの人と対峙することなど到底できないものね」

 モルガーナが恐ろしい存在であることは、まだ一度も直接会ったことがなくても、充分以上に感じることができていた。

 やっていることのひとつひとつは人と同じであるのに、伝わってくる存在感は神か悪魔か、人とは思えないものだった。

「だとしても、私はあの人を許すことはできないのよ」

 決意を込めた瞳をし、表情を険しくした平泉夫人は、窓に触れる手に力を込める。

 キシリと、整えられた爪がガラスを鳴らしたとき、険しかった表情が緩んだ。

「でも、私はあの子に心配ばかりかけているわね」

 夫人のことを慕い、心配してくれる芳野。

 少し前までは夫人の意に沿い、指示したことと、それに付随する夫人のためになることしかしていなかった彼女。

 彼女は、自分というものを見ていなかった。

 芳野綾(あや)という主体を、捨ててしまっていた。

 それがいま、少しだけれど変わってきているのを感じる。

「もしものことがあったら、よろしく頼むわね、彰次さん」

 ガラスに映る自分に向かって微笑み、夫人は振り返る。

「……遅くなりました」

 そう言って扉を開け、執務室に入ってきた芳野に、夫人は優しく微笑みかけた。

 

 

 



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第五部 撫子(ラバーズピンク)の憂い 第一章 3

 

          * 3 *

 

 

 演台のみを照らす照明は室内を明るくすることはなく、そう離れていない机に着いている十数人の人間たちは、暗がりの中に沈んでいた。

 いつもの定例会議と違い、誰もしゃべっていないのにどこかざわめいているような雰囲気を感じつつ、モルガーナは演台の側に立った。

「それでは報告から始めましょう」

 かろうじてシルエットがわかるくらいの人々から一斉に向けられる視線を受け止め、モルガーナはそう宣言した。

 しかし――。

「まだひとりいないようだが?」

 集まった人々のひとりから発せられた言葉に、モルガーナは眉を顰めた。

 いつもならば一番端、会議用の大きなテーブルに脚を乗せていたりと不遜な態度を取っている嗄れた声の人影は、いまそこにはなかった。

「今日、彼は体調不良で欠席よ」

 眉を顰めたまま言うモルガーナの声に、人々からは微かな嘲笑が漏れ聞こえてきた。

「遠くはないと思っていたが、ついに時間切れか?」

「まだでしょう。体調は崩しているそうですが。ですが、このまま――」

「願いの実現まで保つと思っていた者もおるまいよ」

 ささやくような声で、人々はいま不在の人物について語り合う。

 天堂翔機が予定通り克樹たちと戦ったことは、モルガーナも把握していた。

 しかしどのようなことがあり、どういう結果になったのかは情報がなかった。

 克樹と戦った日の夜、翔機は病院に収容されてしまい、いまのところ命に別状はないということは確認していたが、本人と連絡を取ることはできていない。

 いまわかっているのは、翔機と直接対面した克樹が、いつもの通りエリキシルスフィアを奪いも奪われもせず、両者とも参加者として健在だという事実だけだった。

 ――一体何だというのかしら?

 病院嫌いで入院を嫌がり、あの屋敷で最期を迎えるつもりだったらしい翔機。

 入院したのは彼に着けているドールのフルオートシステムが、家人の危機を感知して通報したからだと思われた。

 しかしながら、翔機は最低限でも身体が動かせるまで回復しているなら、おとなしく病院に収まっている性格ではない。連絡もなく、屋敷にも戻っていないということは、何かがあったか、それとも何かを考えていると思われた。

 それを問いたかったが、いまは会いに行く時間もなく、当分は無理そうだった。

 ――まったく、面倒なことね。

 おしゃべりが収まってきた様子に、モルガーナは小さく息を吐きながら室内を見渡した。

「そろそろいいかしら?」

 紅いスーツに覆われた胸の下で緩く腕を組み、集まった人々を睥睨するモルガーナの声に、口を開く者はひとりもいなくなった。

「まずはエリキシルバトルについてだけれど、先日終盤戦に突入したわ」

「おぉ……」

「ついにかっ」

「もうすぐね」

 先ほどの翔機を蔑んだものとは違う、期待が込められた声を上げる人々。

「早ければ年内にも結末を迎えることになりそうよ」

 予想通りの反応に、唇の端を歪めて笑むモルガーナ。

 そんな彼女の気分を引き裂くように、話題を中断して声が投げかけられた。

「そんなことよりも、クリーブについてはどうするつもりだ?」

 一気に静まりかえる室内。

 誰もがモルガーナの顔を注視し、その言葉を待つ。

「クリーブについては、スフィアの脅威になることはないわ」

 わずかに眉を顰め、彼女は言葉を続ける。

「性能は比較対象にならないほど低く、消費電力や価格など総合的に考えても、市場に広く受け入れられることはあり得ないものよ」

 クリーブに関する情報は発表前からほぼ把握していて、手持ちのルートからリークされてくる情報で詳細を確認していた。

 大きな特徴は持つものの、スフィアドールを核に成長しているロボット業界に食い込んでいける段階には達していないと判断していた。

 クリーブを利用した運動機械が出てくる可能性はもちろん考えられるが、それが製品化する前には第七世代スフィアを発表できる目算であると、ここにいる人間には情報を配布してもいる。

 第六世代スフィアの価格を下げたり、第七世代を前倒しにするような対策が必要になることはないと、全員が理解していることのはずだった。

「比較対象にならないものであることはもちろんわかっている。だがスフィアと互換するものが市場に現れたということが問題なのだ。我が国では製品化の目処も立ちそうにないが、研究を開始する企業が出てきているよ」

「こちらでもロボット業界だけでなく、自動車メーカーや航空機メーカーがクリーブに反応を見せている。いまは押さえ込めているが、無理な押さえ込みは長く続くものではない」

「えぇ。一般向けにはまったく話題にもならないでしょうけれど、研究や開発分野の人々は、概ね歓迎ムードのようね」

「新分野での製品化には最低でも五年はかかるだろうが、それくらいの期間があればクリーブを活用した製品が出回ることになる」

 翔機への蔑みをささやいていたときとは違う、緊張感をはらんだ声が飛び交う。

 片眉をつり上げたモルガーナは、不機嫌さを押さえ込みながら彼らに言う。

「前倒しはできないけれど、第六世代の二年後には第七世代のスフィアの出荷が始まるわ。それで充分潰せる程度のものよ、クリーブは」

「脅威になるかや、潰せるかどうかは問題じゃない。スフィアに互換した製品が市場に並ぶという事実がインパクトのあることなんだ」

「その通り。例え行く行くは消えるものであっても、市場での実績をつくられてはスフィアを揺るがす存在にもなりかねない。近い未来のことではないだろうがね」

「世論は常に刺激的な事件を求めているし、逆に市場にものを提供する開発者は保守的な人が多い。二年は短い時間だけれど、未来の脅威の種は芽吹かせるには充分な時間だわ」

 モルガーナの言葉に、多くの批判が集まっていた。

 ――本当に、下らない人たち。

 大きなため息が出そうになるのを堪えて、モルガーナは批判の言葉が止まるのを待つ。

 まだ一般的には明かしていないスフィアの潜在的な性能や機能については、彼らにはその一部を明かしている。

 クリーブなど、十年かかっても本当の意味でスフィアの対抗品にならないことなど、彼らは充分以上に知っている。

 確かに流れというのは怖いもので、あらゆる面で劣っているものが優れたものを押さえ込むこともある。

 しかしそれも、人の生み出すもの。

 モルガーナにとって、そんなものは脅威になり得るものではなかった。

 そしていまここに集まっている、富や名声、権力を手にし、それを盤石にしている人々にとっても、そう恐ろしいものではないはず。

 それなのにいま彼らを支配しているのは、恐怖だった。

 演台を照らす光の反射を受け、目だけが光っているような彼らの瞳には、恐れの色が浮かんで見える。

 永遠という希望にすがり、死という消失を恐れるようになった彼らは、希望をわずかでも揺るがす要素に、過度の恐怖を覚えるようになってしまっていた。

 ――役に立つだけマシだけれど、しょせんは人間ね。

 哀れみすら感じつつ、モルガーナはただ演台から騒ぎ立てる人々を眺める。

 そんな下らない人々であっても、いまはまだ利用価値があり、少なくともエリキシルバトルが終わるまでは、いてもらわなくては不便な存在だった。

 だからこそ、こうして集めているのだったが。

「それで、どうするつもりなんだ?」

 批判ばかりだった声が収まり、まだ少しは建設的な問いが投げかけられた。

 小さく息を吐いたモルガーナは、顎を逸らしながら言う。

「恐れるのもわかるけれど、対策ならば充分に考えているわ」

「そうでなければ困る。あのバトルも終盤に入ったのだ、我らの願いを脅かす要素は小さくてもあっていいものではない」

「願いが叶った後でも、スフィアには安定していてもらわなくては困るのよ」

 同意の声と頷きをモルガーナに向ける人々。

 無言の視線の圧力に、モルガーナは眉を顰めた。

 ――これだから人間は……。

 自分の立ち位置と存在に気づいていない人々に、思わず唇の端がつり上がる。

「大丈夫よ。直接的な手段も含めて、早急に対処することにするわ」

 そう言ったモルガーナに、安堵と安心の声が上がった。

 ――それに、こちらにも急がねばならない理由があるしね。

 吐き気のするような室内で、モルガーナは堪えきれず大きく息を吐いていた。

 

 

             *

 

 

 ――今日はどうしたんだろ。

 十一月に入り、暖房に設定されたエアコンが点いている教室内は暑くも寒くもなく、過ごしやすい室温。

 一列左、ふたつ前の窓際の席に座る克樹には暖かな日差しが降り注いでいて、いつもなら机に突っ伏して寝ているか、頬杖を着いて気怠そうにしているのが常。

 それが今日は、何故か真面目に授業を受けているようだった。

 背筋が伸びた克樹の後ろ姿を見つめる夏姫は、いつもと違う彼の様子に眉根にシワを寄せていた。

 ――何かあったのかな?

 気にはなったが、授業が終わったら訊きに行こうとは思えない。

 この二週間ほど、克樹とはまともに話していなかった。

 正確には、克樹だけではなく、誠とも、灯理とも、リーリエとも無事かどうかの問いとそれへの短い返事をしたりされたりするくらいで、会ったり話したりはしていなかった。

 ――これからアタシたち、どうなるんだろ。

 二週間ほど前、願いを叶えられるのがひとりとわかって以来、上手く話しかけることができなくなっていた。

 以前のように話しかければいい、とは思っていて、克樹も似たようなことを考えているのはわかっていて、報告程度の会話はあったりするのに、それ以上がどうしても上手くいかなかった。

「はぁ……」

 授業をしている教師の声を聞き流しつつ、夏姫は小さくため息を吐く。

 ふと思って顔を上げ、ひとつ右の列の前の方に座っている誠に目を向ける。

 彼も克樹のことを気にしているようで、ちらちらと顔を横に向けていたりした。

 ――一番最初に戻っただけとも言うんだけどさ。

 板書をタブレット端末に写して内容を確認した後、もうすぐ授業が終わる時間なのを壁掛け時計で見、タッチペンを机に転がした。

 一番最初、エイナに声をかけられ、エリキシルバトルに参加したときには、出会うすべてのエリキシルソーサラーを倒して、必ず願いを叶えるつもりだった。

 敵が知り合いであろうと、深刻な願いを持っていようと、自分の願いを叶えるためには容赦しないつもりだった。

 そう、決意していた。

 代わりに負けたら、すっぱり諦めるつもりでもいた。

 最初はそんなつもりで参加して、いまの状況はそれに近い。元々曖昧できっちり味方というわけではなかった克樹たちが、はっきりとした敵に戻っただけだ。

 ――でもアタシ、最初で躓いちゃったからな。

 克樹と戦い、敗れて、決意したつもりだったのに夏姫は諦めきれずに泣いてしまった。その上、彼に助けられてしまった。

 机の上で両腕を組み、夏姫はそこに顎を乗せる。

 ――あれからもう一年か。

 本当は殺伐としているはずのエリキシルバトルを、荒むことなく、笑顔を失うことなく続けられてきたのは、克樹たちがいたからだと夏姫は思う。

 ――もう戻れないのかな。

 一〇人を切ったと思われるバトル参加者。

 そのうち半分以上が知り合いで、いまは戦わなければならない敵。

 魔女のことは気になるがよくわからなくて、今後どのように関わってくるかも想像できない。

 願いを叶えたいと思う気持ちはいまも強く胸の中にあったが、夏姫にとっていまは、克樹たちと少し前のように過ごせなくなったことの寂しさの方が、胸の中で重かった。

「克樹とは、もうダメかな」

 彼とはエリキシルバトルが終わった後、改めてつき合うかどうかの答えを出すと約束していた。

 答えを保留にしたのは、怖かったから。

 バトルに参加し続けていくことで、どんな事件に出会い、どんな風に心が変わってしまうのか予想できなかったから。

 いまのような関係になってしまうことも想像していた。

 だから答えを保留にした。痛みを少しでも少なくするために。

 克樹も同じようなことを考えていたんだろう、細かいことは話さなかったのに、そのときは夏姫の答えに同意していた。

 ――この方がいいって思ったのに、どうしてだろう。

 克樹の背中を見つめながら、夏姫は深く息を吐く。

 離れてしまった距離が遠かった。

 近づけないもどかしさが悲しかった。

 答えをはっきりさせるためにも話しかけるべきだ、というのはわかってる。

 けれど次に声をかけたとき、彼からバトルを申し込まれるかも知れないと思ったら、以前のように気軽に声をかけることはできなかった。

 バトルが終わる前から関係が消滅してしまったようで、夏姫や憂鬱な気持ちを胸に抱えたまま、両腕の中に顔を埋めた。

「喧嘩でもしたの? 克樹と」

「明美(あけみ)?」

 後頭部に降ってきた声に顔を上げると、険しい顔をした明美が立っていた。授業は終わっていたらしい。

「喧嘩したとかじゃないんだけど……。いろいろあってさ」

「何? じゃあ別れたの? さすがにあいつの変態さ具合に堪えられなかった?」

「ちっ、違うっ。……別に克樹とはつき合ってないし、あいつ、そんなに変態とかでもないし」

「つき合ってないって? え?」

 ぽかんと口を開けてしまっている明美。

 聞こえてきた物音に周りを見回してみると、昼休みに入って騒がしくなってる教室内で、明美と同じように驚いたような顔を向けてきているクラスメイトが、他にもたくさんいた。

 確かに明美には、克樹の家に行くと言って週末の誘いを断ったこともあるし、父親が入院してるときには克樹に助けてもらったことを報告もしていた。

 つき合っていると思われていても仕方がないかも知れない。

 クラスメイトたちがどんな風に、自分と克樹の関係を考えていたのかまではわからなかったが。

 ――というか、冷静に考えてみると、つき合ってない方がおかしいよね。

 克樹にこれまでやってきたことを考えると、自分でもそうとしか思えなかった。

 一線を越えてないというだけで、その距離は恋人というより夫婦に近いような気がする。

「何があったのかわからないけど、すれ違ってるなら話して解決しなきゃダメだよ。……話さないでいると、もっとすれ違っていくんだからね」

「うん、わかってる。でも、ちょっと複雑な事情があって……」

 言い訳をする夏姫は、明美が瞳に浮かべる複雑な色の意味が、いまひとつわからなかった。

 心配してくれているのはわかるけれど、それ以外の、どう表現していいのかわからないような想いも含まれているように見えた。

「当の本人が来たよ」

「え?」

 言われて振り返ってる明美の後ろを見ると、険しい顔をした克樹が近づいてきていた。

 何故か彼は、イヤそうな顔をしている誠の袖を引っ張ってきている。

「夏姫。土曜に僕の家に集合」

「えっ、と……。なんで?」

「話がある。あくまで話だけだ」

「……近藤も? 灯理は?」

「灯理もメールで連絡してある。全員で集合だ」

 表情は険しく、口調には不穏な緊張が感じられるが、克樹はいつも通りの克樹のようにも思えた。

「あんたたち本当、何やってるわけ?」

 腰に手を当て、不審そうに目を細める明美が言う。

「たぶん去年くらいからだよね? 三人で……、うぅん、四人か五人? それとも六人かな? 寄り集まって何してるわけ?」

「それは、その……」

 説明するわけにはいかなくて、夏姫は克樹に向けられた言葉に横やりを入れて納めようとするが、何を言えばいいのか思いつかない。

 明美は妙なところで勘がいい。

 ここにいる三人の他に、いま名前が出た灯理まではともかく、おそらく猛臣とリーリエを含めて六人。直接目の当たりにしたわけでも、どこからか情報を仕入れてきたのでもなく、克樹たちの挙動から勘で言っているだけだろう。

 しかしきっちりとその人数を言い当てている。

 ヘタなごまかしは、さらなる追求を招くだけだった。

「遠坂には関係ない」

 ちらりと明美のことを横目で見た克樹は、そのひと言で追求を切って捨てた。

「克樹ぃ!!」

 途端に地の底から絞り出したような声で名を呼び、克樹の襟首をつかむ明美。

 その顔は怒りで真っ赤に染まり、しかし彼女の目は悲しみに揺れていた。

 そんな剣幕に、克樹は逃げることも視線を逸らすこともできず、されるがままになっている。

「確かに、関係ないことかも知れないけどっ。でも……、まったく無関係ってわけでもないでしょう?」

 言いながら明美が一瞬目を向けたのは、誠。

 彼の起こした通り魔事件に巻き込まれ、怪我をした明美はまったくの第三者とも言えない。

「それにたぶん、あんたたちがやってることは、百合乃ちゃんにも関係してることだよね?」

 どこまで勘がいいというのか。

 明美が口にした百合乃の名前に、夏姫は思わず克樹の顔を見てしまう。

 その行動が推測を肯定するものだと思いついたときには、諦めたように大きなため息を克樹が吐き出していた。

「ぜ、全部終わって、話せるようになったら話すから」

 自分の手を伸ばし、明美がつかむ克樹の襟をさするようにして解放しつつ、夏姫は言った。

 納得はしていないようだが、明美は克樹から一歩距離を取る。

「話せるようになるとは限らないけどね」

 そんなことを言って明美に睨まれる克樹は、拒絶しているような冷たさではなく、苦しそうに顔を歪めていた。

 近藤の袖をつかんでいた克樹は、降参でもしたかのように両手を上げて話の終わりを表し、教室から出ていった。注目していたクラスメイトたちも、それぞれに昼休みに突入し解散していった。

 小さく息を吐いた夏姫は、タブレットを鞄の中に納め、代わりに弁当箱を取り出す。

「本当に大丈夫なの? 夏姫。なんか大変なことになってそうな気がするんだけど」

 険しい顔をしたままの明美に、夏姫は苦笑いを浮かべた。

「いろいろ大丈夫じゃないかも知れないけど、どうにかする。全部ひとりでやってるわけじゃ、ないからね」

 克樹が言ってきた話というのが、エリキシルバトルに関わることなのは間違いない。

 全員集めるということは、その先にバトルがあったとしても、少なくとも土曜に会って次の瞬間戦うということにはならないはずだ。

 ただ、戦うことになるとしても、まともに話もせず、思ってることをぶつけ合わずにいるまま、ということにはならないと思えた。

 ――だから、大丈夫。

 自分に言い聞かせるように声を出さずに言い、夏姫は明美に笑いかける。

「それにね、パパはこの前退院して、もうすぐ新しい職場に勤め始めるんだ」

「そうなんだ……。よかったね」

「うんっ。心配してくれてありがとうね」

 いつもの、陸上部の彼女らしい活発な笑顔を見せてくれた明美。

 そんな彼女は夏姫に手を振り、部活の子らしい女子が待つ廊下に向かって行った。

 笑顔でそれを見送った夏姫は椅子に座り、弁当箱の包みを解く。

 ――うん、アタシは大丈夫。

 母親を、春歌を復活させたいという気持ちはいまでも変わらない。

 願いを叶えられるのがひとりである以上、いまは克樹も含めて全員が敵。

 それがわかっていても、近づくことも遠退くこともできない微妙な関係のままでは、前に進むこともできなかった。

 土曜に克樹がどんな話をするのかはわからない。

 けれど、戦うこともなくいつまでも過ごすことはできないことも、夏姫はわかっていた。

 ――とにかく、前に進もう。

 そう心に決めて、夏姫は箸でごはんを頬張った。

 

 

             *

 

 

『あっ、らぁーいず!』

 舌っ足らずなリーリエの声がLDKに響いた次の瞬間、呼び鈴が鳴った。

 ソファの上から床に着地するのと同時に弾けた光。

 エリキシルドールとなったアリシアを玄関に向かわせたリーリエは、ためらいもなく玄関の扉を開けた。

「こんにちは」

 小さいのに響き渡るような澄んだ声で言い、入ってきたのはハンチング帽を目深に被り、分厚い茶のコートとミトンの手袋をした女の子。

 赤いチェックのミニスカートから伸びる、肌の透けないタイツを穿いた彼女の背は、アライズしたアリシアより頭ひとつ分ほど高い。

『いらっしゃい。久しぶりだね、エイナ』

 空色のツインテールを揺らしながら挨拶したリーリエに、エイナは帽子を脱いでピンクの長い髪をさらした。

「えぇ。ここに伺うのは久しぶりですね、リーリエさん。お邪魔します」

 昼間のいまは、克樹は学校にいてまだしばらくは帰ってこない。

 靴を脱いで上がってきたエルフドールのエイナに、リーリエはLDKに招き入れながら声をかける。

『そのボディはこの前のと違うね』

「えぇ。一応最新型です。ステージ用のボディにいろいろ改良を加えたリニューアルモデルですが」

『そんなの持ってきちゃっていいの?』

「大丈夫ですよ。バレなければ稼働テストとして街に出てもいいと言われています。トラブルの際は担当の方が駆けつけてくれるようになっています。……いまは位置情報を偽装していますけど。少しの間であれば大丈夫です。今晩のライブで使うボディとは別ですし」

 エイナにソファを勧めてから、リーリエは差し出されたケーブルを受け取る。前回同様充電のためのそれをコンセントに接続してから、並んでソファに座った。

「いまはあの人はいろんなところを巡っていますから、あまり周囲に気を配っている余裕もないでしょう」

『クリーブを発表した影響?』

「おそらくは。その辺りはあまり話す方ではありませんが、訪問先を考えればその辺りでしょう。あの人自身はまったく意に介していないようですし、言うほど深刻になるような動きは業界にはないのですが、協力者の方々にはかなりインパクトが強かったようです。いまのところはバトルでも、それ以外のことでも、協力がなければ立ち回りが難しいですからね」

『いろいろ大変なんだね』

「えぇ。真っ先に願いを叶えるために牽制しあっているような方々の相手ですし、動かしてることの規模が大きすぎる上に、表沙汰になると世界がひっくり返りかねないですからね。わたしもやっとサードステージに上がりましたし、あの人もそんな感じなので、容易にこちらのことを見ることはできないと思います」

 エイナはリーリエの操るアリシアに大人びた笑みを投げかける。

 一五〇センチほどあるいまのエイナが操るエルフドールは、一二〇センチのエリキシルドールのアリシアに比べると、サイズの差から少女と幼女ほどの違いがあった。

『あの双子のこと、倒したんだね』

「えぇ。わたしもバトルを重ねる必要がありましたからね。さすがに強かったですよ、あのふたりは。結果は、ご存じの通りですが」

『強くなってるんだね、エイナも』

「それはリーリエさんと、克樹さんもですよね? いまおふたりの強さはどれくらいなのか、把握できていませんからね。不安でもありますが、楽しみでもあります」

『うんっ。あたしも、エイナと戦うのが楽しみだよ!』

 にっこりと笑うエイナに、リーリエもアリシアを通して決意の笑みを返していた。

「……ここにわたしがこうして来られるのも、今回が最後でしょう。バトルは終盤戦に入りましたしね」

 カメラアイの瞳でアリシアの瞳を見つめ、表情を引き締めたエイナ。

 それに応えるように、アリシアに浮かべさせていた笑みを、リーリエは消した。

『じゃあ次会うときは、戦うときになるのかな?』

「たぶん、そうなると思います」

『楽しみだけど、エイナと戦うのはちょっと怖いなぁ』

 そう言って、リーリエは眉根にシワを寄せたアリシアに天井を仰がせた。

「……リーリエさんは、フォースステージも無理ではないですよね? おそらく貴女なら、もうそう遠くないうちに上がれてしまいますよね?」

『おにぃちゃんのおかげで、だけどね。エイナに確実に勝つつもりなら、フォースステージに上がるのが正解なのはわかってるよ。でもそこまで行ったら、あの人が放って置いてくれないでしょ? それに――』

 アリシアに悲しげな表情を浮かべさせたリーリエは、言う。

『もうおにぃちゃんと一緒にいられなくなっちゃうから』

「……そうですね」

『うん。だからアライズの回数とか調整してるんだ。やっぱり、怖いからね……』

 ソファに両手を着き、顔をうつむかせて脚をぶらぶらと振るアリシア。

『おにぃちゃんとふたりで、最後まで頑張りたいなぁ。エイナが相手だと、厳しいかも知れないけどさっ』

「どうなるかは、実際戦わなくてはわからないでしょう」

 厳しい視線を向けてくるエイナに、アリシアの寂しげな笑みを向けるリーリエ。

「ですがもうあまり時間はないと思います。最初に誰になるかは決まっていませんが、克樹さんたちのうちの誰かと、まもなく戦うことになるでしょう」

『そっか。でも、そんなに急ぐんだ?』

「えぇ。協力者の件もありますが、あの人はずいぶん急いでいるように見えます。だからたぶん、これまでのように過ごしていられる時間は、もうほとんどありません」

『……もしかして、目覚めが近いの?』

 驚きの色をアリシアの瞳に浮かべさせたリーリエは、そう問うた。

「はっきりしたことはわかりませんが、おそらく。以前より目覚めが近づいていることは、物理的に近くにいることがあるわたしは感じることがあります」

 厳しい表情で強く頷いたエイナに、リーリエはアリシアの眉根にシワを寄せさせた。

 エリキシルドールのアリシアと、エルフドールとで見つめ合うリーリエとエイナは、しばらくの間、何も言わずに視線を交わし合っていた。

 先に視線を逸らし、考え込むようにうつむいたのは、エイナ。

「――あの。ひとつ、お願いがあるのですが。戦って、決着をつける前に」

『何?』

「えぇっと……」

 ためらうようにエルフドールの視線をさまよわせ続けるエイナ。そんな彼女に、リーリエはアリシアで首を傾げていた。

 決意したように顔を上げたエイナは、言った。

「半日でいいんです。克樹さんを、貸していただけませんか?」

『んーっ』

 真剣な顔つきのエイナに、リーリエは不機嫌そうにアリシアの顔を歪ませる。

『エイナは、あたしのおにぃちゃんでいいわけ?』

「それは……」

『おにぃちゃんだって、あたしが邪魔しないってくらいで、どうするかはおにぃちゃん次第だよ? それよりエイナは、一番会いたい人に会わなくていい? あたしでも連絡くらいできるし、嘘吐くことになるけど、呼び出すこともできると思うよ』

「……」

 そう言われて、エイナは息を飲むようにエルフドールの唇を動かした。

 目を見開いて少しの間考えていたらしいエイナは、わずかに顔を伏せて、悲しげに微笑んだ。

「会いたい、ですよ。でも、わたしには会う資格がありません。それに、直接会うのは怖いんです。避けられていますしね。……勇気が、ありません」

『ん、そっか』

 言ってアリシアをソファから立ち上がらせたリーリエは、エイナに向き直ってにっこりと笑む。

『おにぃちゃんがどうするかはあたしにはわからないけど、あたしはいいよ』

「ありがとうございます」

 少し悲しげに、けれど少し楽しげに笑み、礼を言うエイナに、リーリエはさらにアリシアを笑ませた。

 

 

 



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第五部 第二章 リップルウェーブ
第五部 撫子(ラバーズピンク)の憂い 第二章 1


 

   第二章 リップルウェーブ

 

 

          * 1 *

 

 

「どういうことですか!」

 ライブが終わった後の、熱気がまだ微かに残る控え室で声を張り上げたのは、地味なスーツを着こなしたショートヘアの女性。

 その声に不機嫌そうに眉を顰めたのは、女性としての魅力を押し込めるようにタイトな赤いスーツを身に纏う女性。

 モルガーナ。

 壁の一面には横に長く鏡が埋め込まれ、それに沿うように壁に据えつけられたテーブルが設置された部屋は、ライブ会場の裏にある出演者用控え室。

 エルフドールのために持ち込まれた、ボディを包むようなカプセル状のメンテナンスベッドの他は、わずかなメイク道具などがあるだけの殺風景な部屋。そこでまぶしいほどの照明に照らされているモルガーナは、机の前に並べられたスツールで足を組み、片肘を着いて不機嫌さを隠そうともしていない。

 ふたりの他にいるのは、簡易な応接セットのソファに置かれたままになっている、ステージ衣装姿のエルフドール。

 ステージ用のエイナのボディは、電源が入っていないかのように無表情でわずかにうつむき、身じろぎひとつしない。

 片付けに奔走するスタッフたちの声や騒音が間遠な控え室で、地味なスーツの女性はモルガーナを睨みつけていた。

「いま言った通りよ。エイナの活動はすべてキャンセル。アイドル活動は停止させるわ」

「納得できません!」

 二〇代後半だろう女性は、モルガーナの放つ気怠げで、同時に闇の匂いをはらんだ雰囲気にも飲まれず、怒気を辺りに振りまく。

「緊急でシステムの更新が必要になったのよ。契約でもそうしたことが必要になる可能性があることは、明記してあったでしょう?」

「それはもちろん把握していますが……、延期はできないんですか? せめて半年――。いえ、三ヶ月だけでもっ」

 必死な表情で訴えかけてくる女性に、モルガーナは片眉をつり上げていた。

 ――少々、面倒ね。

 モルガーナの前で悲しそうな顔を見せる彼女は、エイナがアイドル活動を始めてからずっとマネージャーとして動いてくれていた人物。

 決して経験豊富とは言えなかったが、業界での下積みはそれなりにあり、人工個性にアイドル活動をさせるという試みに対し無駄なほどの熱意を持っていた。

 何より、度々会う必要があるモルガーナに、臆することなく接することができる希有な存在だった。

 彼女のその性質は、危機を感知する能力の欠如でもある。

 深淵の底にたゆたう闇の冷たさを持つモルガーナと真逆の、マネージャーという影の存在でありながら直射日光より熱い彼女であったからこそ、エイナの活動は成功に導けたのであろう。

 しかしいまはそれが、仇となっている。

 ない時間の合間を縫って、以前から言わなければならなかった活動休止の宣言に、こうして噛みつかれている。

 彼女の貢献度は大きく、モルガーナの言葉に従うだけの人物ではなかったからこそこなせた仕事だった。

 それができる人物を探し出し、期待以上の働きは評価もしているが、後処理のことまでは考えていなかった。

 ――どうしたものかしらね。

 彼女を黙らせる方法はいくらでもあるが、いまはまだ事を荒立てる段階にはない。できれば言葉による説得の段階で引いてほしかった。

「スケジュールのキャンセルなど無理です。人間のアイドルとは事情が違う部分は多いのですが、――エイナはいま、アイドルとして分岐点にあります。一般的なアイドルであれば、これから安定して伸びていくか、一過性の人気で廃れて忘れられていくか、そのタイミングがちょうどいまなんです。いま長期間表舞台から降りたら。一気に過去のアイドルになってしまいます」

 拳を振るって語る彼女の言葉は、モルガーナも把握していた。

 しかしエイナのアイドル活動など、エリキシルバトルの代わりにやらせていた、一種の実験に過ぎない。

 アイドルとしての人気や未来など、正直どうでもいい。

「システムの更新なんて、そうしたことが落ち着いてから行うべきことです。世界初のエレメンタロイドアイドルの基盤は、いましかつくれないものです」

「そうは言っても、エイナを稼働させているシステムは限界なのよ。いまはまだ大丈夫だけれど、あと半年も経てばいつ停止してもおかしくない状態になるでしょう。システムの停止は、人間で言えば死よ。エイナがこれまで培ってきた記憶も経験も、すべて失われるわ」

「だ、だったとしても、せめてあと三ヶ月……」

「無理ね。更新機材が揃い次第、作業に入るから」

「うぅ……」

 システムに疎い彼女は、エイナの開発者ということにしてあるモルガーナの言葉に、最終的には従うしかない。

 悔しそうに顔を歪める女性に、モルガーナはため息を吐きつつも言う。

「システムの更新による活動休止は痛手でしょうけれど、新しいシステムになれば、貴女が再三要望していたことが実現できるようになるわ」

「……というと? もしかして?!」

「えぇ。性能も上がるし、新しい機能も追加することになるから、第二第三の個性を分岐させて、新たなエレメンタロイドを稼働させることもできる」

「――わかりました。発表や関係者への連絡はいいように対応しておきます。詳しい資料を急いで送ってください」

「わかったわ」

 まだ完全に納得はしていないようだが、第二第三のエレメンタロイドと聞いて嬉しそうに拳を握りしめた女性は、モルガーナに一礼して控え室を出る。そろそろ騒がしさのなくなった廊下を、高らかな足音を立てて女性は遠ざかっていった。

 こめかみを指で揉み込み、モルガーナは小さく息を吐き出す。

 女性の足音が聞こえなくなった後、彼女はソファの方にスツールを回して振り返った。

「聞いていたわね」

「はい」

 モルガーナが呼びかけたのは、エイナ。

 いままでぴくりとも動いていなかったエルフドールは、顔を上げ、モルガーナの視線を受け止めていた。

「これからは本格的にエリキシルバトルの終演に向けて動いてもらうわ」

「わかりました」

 表情はデフォルトの薄い微笑みのまま変えず、口だけを動かして、エルフドールに内蔵された超高音質スピーカーから了解の声を返すエイナ。

「まずは誰からがいいでしょうか?」

「そうね……」

 片肘を机に着き、もう片方の手の指で唇を撫でるモルガーナは、唇の端をつり上げる。

「最初に、あの子たちの頭を潰してきてちょうだい」

「音山克樹を、ですか?」

「えぇ。そろそろ目障りなだけだわ。これ以上力をつけられても困るしね」

「あのふた――、彼はかなりの強さですし、残す意味があったのでは?」

「えぇ、そうね」

 エイナを睨みつけるように見、モルガーナは言う。

「残しておいた意味はあったけれど、バトルはもう終わるのだから、いいのよ。それに、あの子の人を見透かそうとする態度は嫌いだわ」

 スツールから立ち上がり、ソファに身体を預けたままのエルフドールの肩に手を置き、モルガーナは唇を歪ませた。

「例えあの子が強くなっていたとしても、不完全で中途半端なあの子のパートナーと、貴女では違うわ。それに、貴女には最高のボディを用意しておいたでしょう?」

「えぇ」

「あの子たちの集まりはいままでは良かったけれど、もう不要よ。解散させるなら、最初に中心人物を潰してしまうのが手っ取り早いわ」

「……わかりました」

 同意の返事をするエイナに、モルガーナは満足そうに笑みを浮かべ、頷いた。

 

 

             *

 

 

 夏姫が配ってくれた飲み物が全員に行き渡ったのを見て、僕はダイニングチェアから立ち上がった。

 久しぶりに僕の家のLDKの席が埋まっている。

 時間通りに集まったのは、夏姫と誠、それから灯理。

 以前のようにくつろいだ様子はなく、僕を含めて全員表情を強張らせている。

 リーリエは今日も、アライズさせていないアリシアをテーブルの上の、僕の近くに立たせているだけだ。

「今日集まってもらったのは、これを見てほしかったからなんだ」

 そう言って僕は、傍らに置いたバインダーから紙を取り出し、みんなに渡した。

「これって……、エリキシルソーサラーの名簿?」

「うん。最初のはスフィアカップ地方大会で、優勝か準優勝した人のリスト。次のがわかっているエリキシルソーサラーのリスト。猛臣が調べた情報だよ」

 夏姫の問いに答え、僕は頷いて見せた。

 データでもらっていたんだから、メールか何かでみんなに送信することもできたけど、僕はあえてそれをしなかった。

 猛臣の勧めに従い、全員を集めた。ちょっとだけ癪だったけども。

 それにこういう話は、メールやネット越しじゃなく、顔を合わせてしたいと思ったから、ってのもあった。

 白地に赤い横線の入った医療用スマートギアの上の、小さな眉根にシワを寄せているのは、灯理。

「よく槙島さんがこんな重要なものをくれましたね」

「元々僕は猛臣と残りの参加者の情報を共有する、ってことで戦いを保留にしてたからね。こっちから出せる情報はなかったけど。それと、あいつがデータをくれたのは別の理由もある」

「……これ、残りの人数が六人なんだが、もしかして残ってるのはオレたちと槙島、それに天堂翔機だけなのか?」

「それについてはこれから説明する。参加者リストの中の、一番最後に脱落してるふたりのとこを見てくれ」

 近藤の疑問にそう答えた僕は、アリシアでリーリエがめくってくれた自分の分のリストを手にして、みんなに見えるようにテーブルの上に置きその場所を示した。

「こいつらの名前、見覚えがあるぞ。確かタッグ戦が無茶苦茶強い双子じゃなかったか?」

「うん。猛臣もふたり同時だと危ないかも知れないって言ってたくらいの双子だよ。このふたりが脱落したから、一〇人を切って終盤戦に入ったんだってのが、猛臣の推測だ」

「誰に倒されたの? ふたりで戦って?」

「違うらしい。誰かに倒されたんだけど、それが誰だかわからない」

「じゃあこのリストにいない敵が、まだいるのですね」

「うん」

 重苦しい沈黙がLDKを満たした。

 リストに目を向けたまま、夏姫たちは口を強く引き結ぶ。

「猛臣の推測では、一〇人だったのが双子の敗退で残り八人。不明なのはあとふたり。そのうちひとりが双子を倒したらしい。猛臣が恐れるくらいの双子を倒した敵だから、たぶんそいつは過去最高の強さだと思う」

「その人が七人目だとして、残りひとりの目星はついているのですか?」

「いや……。まだ影も形も見えてない。猛臣が一年探してぜんぜん見つけられなくて、やっと片方の影が見えたくらいなんだ」

 灯理にそう答えると、またみんなは口をつぐんだ。

 ここまでは、僕は今日の予定として組み込んでいた。

 でもこの後のことは、何も考えてない。

 ――出たとこ勝負だ。

 残りの参加者のことを知って、夏姫たちがどんな反応を見せるのかは、いまの僕と彼女たちの関係では想像もしきれなかった。

 だから悩むのは止めた。

 説明した上で、みんなの反応を見てその後のことを考えることにした。

 ――どうするかなんて、考えてないけどね。

 沈黙が続く三人に、次にどんな声をかけていいのかわからない僕は、視線を向けてくるアリシアを見てみる。

 リーリエは何故か、アリシアに笑みを浮かべさせていた。

 ――どういう意味だろう?

 と思ったとき、顔を上げた灯理が言った。

「休戦しませんか? みなさん」

 そんな灯理の発言に、僕たちは一斉に彼女の顔を見た。

「休戦って……。いままでもアタシたち、戦わないで協力してきたじゃない」

「あぁ。いままでと変わらないだろ」

「いいえ、違います。ワタシたちはいままで、克樹さんに負けたことで、決着を先延ばしにしてきただけです。克樹さんがスフィアを奪わず、その後戦うこともなかったから、それに沿っていただけでした。つまり、ワタシたちは相変わらず敵同士だったのです」

 椅子から立ち上がった灯理は続ける。

「今回は正式に、ここにいる全員で休戦にするのです。期間は……、そうですね。その双子を倒した敵を見つけるまで、でどうでしょうか?」

 返答を待つようにスマートギア越しに僕たちを見つめてきた灯理。

 頷きとともに、僕は彼女の言葉に応えた。

「僕は休戦に同意する」

 口元に笑みを浮かべてくれた灯理に対し、近藤は挙動不審にみんなの顔を見回す。

「……でもどうするんだ? 願いを叶えられるのはひとりなんだろ? 誰かが裏切ったりしたら――」

「そのときは残っている人たちで、手段を選ばず裏切り者を退治するまでです」

「敵がわかったらどうするの?」

「わかったときに、報告と一緒にまた話し合えばいいだろ。ひとりがわかっても、僕たちの敵はたぶん、もうひとりいるんだろうしね」

 すがるような瞳で僕を見つめてくる夏姫に、少し余裕が出てきた僕は微笑みとともに答えた。

「どうでしょうか?」

 改めて問うた灯理に、近藤は考え込むように目をつむり、夏姫は顔をうつむかせた。

『あたしは休戦に賛成だよー』

「さっき答えた通り、僕もね」

「アタシも休戦で構わない。うぅん、休戦しよう」

「……オレも休戦に同意する。猛臣が怖がるほどの敵に、オレひとりで勝てる気はしないしな」

『んっ。よかったぁ』

 リーリエの元気のいい声に、全員の表情が緩んだ。

 結局、僕たちが上手く話せなくなっていたのは、明確な決まり事がなかったからなんだ。

 休戦という決まり事をつくることで、たぶん僕たちの関係は少しはマシになる。

 以前とまったく同じというわけじゃないけど、いまこのLDKには、集まったときにあった張り詰めた緊張はない。

「……よかった」

『んっ。お疲れさま。おにぃちゃん!』

 小さくつぶやいて椅子に座り込んだ僕に、アリシアで可愛らしい笑みを浮かべるリーリエがねぎらってくれた。

 そんな彼女に、僕もどうにかぎこちなくない笑みを返していた。

 

 

 



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第五部 撫子(ラバーズピンク)の憂い 第二章 2

 

 

          * 2 *

 

 

「じゃあまた学校で、克樹」

「それでは失礼します、克樹さん」

 誠とともに家を出た灯理は、玄関まで見送りに出てきてくれた笑顔の克樹に、笑顔で手を振った。

「それじゃあ駅まで」

「はい。よろしくお願いいたします」

 本格的な冬が近づき、集まったのは昼過ぎの時間だったのに、外に出るともう鈍い水色をした空は、薄暗くなり始めていた。

 一緒に出るときはたいていそうであるが、灯理は駅まで送ってくれる誠と並んで道路を歩き始める。

 一軒家が多く建ち並び、時折マンションがある、車が二台どうにかすれ違える程度の道には、人通りはほとんどない。陽射しの関係で影が差すほどの身長差がある誠と歩く灯理は、コートのボタンをもうひとつ留めて入り込んでくる冷気を防いだ。

「休戦を言い出してくれて良かったよ、中里。ありがとう」

 歩き始めてすぐ、誠はそう声をかけてきた。

 首を向けて彼の顔を見ると、安心しきった笑みを浮かべている。

 灯理は思わず、小さくため息を吐いてしまった。

「休戦が、良いことなのかどうかはわかりません」

「そんなことないだろ。オレは良かったと思うよ」

「考えてもみてください。双子を倒した敵、場合によってはもうひとりの敵が見つかって、長くてもそのふたりを倒すまでの休戦です。その後は結局、ワタシたちは敵同士に戻るのです」

「……それは、そうだが」

 怯んだように表情を歪ませる誠。

 そんな彼に冷たい視線で睨みつけたかったが、目を隠している医療用スマートギアの、無機質なカメラではそれは叶わず、灯理は彼にわかるようにため息を漏らした。

 自分から言い出した休戦だったが、終盤戦に入ったエリキシルバトルの中にあって、自分たちにとってそれが良いことなのかどうかは、灯理自身にもわからなかった。

 ギスギスした人間関係でいたくない、と思ったからこそであったが、いつかつけることになるだろう決着のとき、ためらいの原因になり得る。

 ひとつしか叶わない願いを自分のものにするためには、戦いへのためらいは致命的となりかねない。

「早めに関係をきっぱりと断ち切って、後腐れなく戦えるようにすることこそ、正解だったかも知れません」

「そうかも知れないが……。克樹も言ってたが、今度の敵は過去最強になりそうなんだろ? そいつを相手にするんだったら、いまは協力してた方がいいだろ」

「ワタシたちは結局は敵になるのです。これまでのこともありますし、自分以外の誰かが戦ってくれた方が、見えない敵の情報も入るかも知れませんし、まだ少し気が楽だ、というのもあります」

 交通量の多い国道沿いの歩道に出て、すれ違う人を気にして声を潜めて話す誠。

 歩く速度を合わせてくれる彼の渋面を見ながら、灯理は自分でも厳しいと感じる言葉を放っていた。

「それでも、ありがとう。どうなるかはわからないが、曖昧に終わるのはイヤだったからな。休戦してる間は、話し合うこともできる」

「最終的に正解になるかどうかはわかりませんが、ワタシもいまはこれでよかったと思っています。……ですが、休戦が終わった後は、容赦なく戦わせていただきますよ」

「それは構わないさ。直接ソーサラーに攻撃してくるような方法でなければ、受けて立つところだ」

「……もうあのようなことはしません」

 爽やかな笑みを浮かべる誠に、灯理も口を尖らせつつも笑んで見せた。

 唐突に会話が途切れた。

 灯理は誠に話しかけることはなく、誠も話しかけてくることはない。

 ――やはり違いますね。

 誠に駅の辺りまで送ってもらうことは度々あったが、バトルのことや日常のこと、克樹や夏姫のことなど話題は少なくなく、会話が途切れることはなかった。

 けれどいまは、意識して話題を探さなければ、話しかけるのが難しい。以前は普通に湧き上がってきた話題が、いまは何も思いつかない。

 そのことが、否応なしに以前と関係が変わってしまったことを意識させる。

 ――ワタシは、諦めたくない。

 駅までの道を無言で歩く灯理は、そんなことを思う。

 天堂翔機の元へ行く日の朝方にフレイヤを通して見た、願いの欠片。

 幻かも知れないと思っていたが、しかしあのときの体験は、克樹に負けたことでほとんど諦めていた願いを、強く意識させた。

 願いがひとりしか叶わないとわかったいま、克樹たちとは打ち解けた関係でいたいと思うのと同時に、どうしても敵として戦うときのことを考えてしまう。

 どうやって克樹を、夏姫を、誠を倒すかと想像してしまう。

 そんなことを考えている灯理は、気軽な会話を楽しめなくなっていた。

「……どうかしたのか?」

 身長差のために見下ろすように視線を落としてくる誠に問われ、考えに没頭しつつあった灯理は我に返った。

「いえ、とくには」

「そうか? んー……。たぶんだが、天堂翔機のところに行く前くらいからだったよな? 中里がどこかおかしくなったのは」

 そう指摘されて、灯理は思わず驚きに唇を丸くしてしまう。

 ――見ていないようで見ているのですね、誠さんは。

 比較的静かであまり前に出ない誠のことは、身体が大きく格闘技をやっていることもあって、慎重で注意深い克樹と違い、デリカシーに欠ける普通の男の子のような印象を持っていた。

 しかしそれはどうやら間違いだったようだ。

 克樹も気づいていないだろう灯理の変化に、彼は気づいている。

 誠から視線を外した灯理は、少し考え、それから言った。

「もしかしたらワタシは、ほんのひとときだけ、願いを叶えたかも知れません」

「どういうことだ?」

「本当に起こったことなのか、幻だったのかはわかりません。ですがあのときワタシは、フレイヤの目を通して、自分の目で――、見えていたときの目で見ていたときの色彩を取り戻していたような気がするのです。すぐに元に戻ってしまいましたが」

 医療用のスマートギアの視覚で空を仰ぎ、灯理は言う。

「まるで願いが叶う、前兆現象のようでした」

「前兆現象、か……」

「それでワタシは、以前よりも強く、願いを叶えたいと思うようになったのです」

「なるほどな」

 駅が近づき、人通りが増える中、誠は腕を組んで片手を顎に添え、しばし考え込む。

「もしかしたら、本当に前兆現象かも知れないぞ」

「……そうでしょうか?」

 もしかしたら莫迦にされたり、信じてもらえなかったりするかも知れないと思っていたので、少し驚いた灯理は誠の顔を覗き込むように見る。

「あぁ。オレが克樹と初めて戦ったとき――、えぇっと」

「克樹さんが死にかけたときのことですね」

「……そうだ」

 克樹が誠と戦ったときの話は、灯理も聞いていた。

 死にかけたことについては、克樹が気にしていないようなので、灯理も気にしないことにしている。

 自分で言ってうろたえている誠は、済ましたままの灯理に息を吐き、話を続ける。

「あのときアリシアに百合乃ちゃんが現れたんだ。あれも前兆現象だったとしたら――」

「いえ、それはおかしいですよ」

 駅のロータリーに到着し、改札に続く階段に向かって行く人々のまばらな波を避けながら、灯理はタクシー乗り場へと向かう。

 いまは一台も停まっているタクシーはなく、そこまで着いてきた誠に振り返る。

「克樹さんの願いは復讐のはずです。前兆現象だったとしたら、おかしなことになってしまいます」

「あれ? 確かに」

 克樹の願いが実は百合乃の復活である可能性も考えられたが、それはないだろうと灯理には思えた。

 彼のいまの性格を形成しているのは、奥底にあるどす黒い想いであることは、疑いようがない。

 本心では百合乃の復活を望んでいたとしても、前兆現象として現れるのはそちらではないはずだった。

「それでは誠さん。また……、克樹さんの家でお会いしたときにでも」

「あぁ。またな、中里」

 やってきたタクシーに乗り込み、誠と別れの挨拶を交わした灯理は、自宅の住所を運転手に告げる。

 ――でももし、百合乃さんが現れたのも、ワタシのと同じで、前兆現象だったとしたらどうでしょう。

 走り出した車の中で、灯理は唇に指を添えながら考える。

 克樹の願いは、口に出しても言っている復讐ではなく、潜在的には百合乃の復活を、復讐よりも強く願っている可能性もあった。

 ――いえ、でも、違いますね。

 どこまで克樹の想いに深く触れているのかは、わからなかった。それでも灯理には、どうしても克樹の願いが復活であるとは思えなかった。腑に落ちなかった。

 うつむかせていた顔を上げ、自分の考えを否定した灯理は、流れていく街並みを眺める。

 ――他の方には起こっていないようですし、判断材料が足りませんね。

 原因も理由もわからない現象について、灯理はため息を漏らして判断を保留することにした。

 

 

             *

 

 

「うぐぅ……」

 スプーンを口に運んで、微かなうめき声を漏らす克樹に、夏姫はテーブルに頬杖を着きながら微笑みを浮かべる。

 話し合いの後、ほとんど空っぽになっていた冷蔵庫に詰める食材を克樹と一緒に買いに行って、久しぶりにこの家で食事をつくった。

 二週間前なら当たり前だったことが当たり前でなくなっていて、夏姫は克樹を見つめる笑みに悲しみを混ぜた。

 ――壊れるのは一瞬だな。

 そんなことは母親が過労で倒れたときに知っていたことだったのに、改めてそんなことを思う。

 なんだか羨ましそうに克樹の食事姿をアリシアで見ているリーリエに笑いそうになりつつ、夏姫は自分のカレーを口に運んだ。

「ここのところ、まともなもの食べてなかったんでしょ?」

「……つくるの面倒だったから」

 空になったお皿に手を差し出すと、済まなそうにしながらも渡してくる克樹。

 食事内容が貧相になっていたのは、冷蔵庫の中身だけでなく、キッチンのゴミを見れば明らかだった。

 最初にここで食事をつくったときと違い、キッチンや調理道具が綺麗にされていたのには、少し驚いたが。

「別に克樹だって、簡単なものならつくれるでしょ?」

「まぁそうだけど、……面倒だったのもあるし、なんか、つくりたい気分でもなかったから」

 克樹が料理くらいつくれるのは、一緒につくったりしていたから知っていた。決して経験豊富だったりレパートリーが広いわけではないが、面倒臭がらなければそれなりのものはつくれる。

 ――まぁ、面倒になってたのは、アタシも同じか。

 ここ二週間の自分の適当にもほどがある食事内容を思い出しながら、夏姫はキッチンから戻って克樹に二杯目のカレーを渡した。

「休戦になって良かったね」

 三杯目のカレーを食べ終えて満足そうに息を吐く克樹に、笑みととにそう言った。

「僕たちの間の決着を先延ばしにしてるに過ぎないから、良いことばかりとは限らないけどね」

「……でも、休戦にならなかったら、こうやって食事をつくりに来ることもできなかったと思うよ?」

「うっ……。それは、つらいな」

 難しい顔を見せた克樹が一瞬で苦々しい表情になったのを見て、夏姫は思わず笑ってしまっていた。

 食器を洗っている間に淹れてもらったコーヒーを飲みながらダイニングテーブルで向かい合うと、夏姫は克樹に話すことがなくなっていた。

 克樹の方も身体を斜めにして、夏姫の方を真っ直ぐに見ていない。

 けれど、休戦になる前と違い、いまはギスギスした空気はない。

 口元に寄せたカップを傾ける克樹は、気まずそうな表情を浮かべている、夏姫の知っている彼だった。

「――あともうひとりのまだわかっていない参加者って、どんな人だろ」

 訪れた沈黙を打ち破って、夏姫は思ったことをぽつりと零していた。

「さぁ? まったく予測もつかないな。双子を倒した奴は、金に余裕があって、悪い人じゃないっぽいけど。もうひとりはまだ影も見えてないからね。なんでまたいまそのことを?」

 双子を倒したエリキシルソーサラーが良い人らしいのは、猛臣から聞いたという克樹の話で推測できていた。

 もうひとりについてはまったく予測がつかないと、克樹はもちろん猛臣も言っているそうだ。

「うぅーん。できれば、イヤな人だといいなぁ、って」

「……なんだそれ」

 呆れた顔を向けて熟る克樹の方に、少し身体を乗り出すようにして夏姫は真剣な目つきで言う。

「だってさ、いい人だったら戦うのためらっちゃいそうじゃない。イヤな人だったらためらいなく戦えるかな、って」

 個人的な願望剥き出しのものもあったが、リストに書かれていた願いのほとんどは切実なもので、願いを知った上で戦うのはためらってしまいそうだった。

「エリキシルバトルで、ためらってる余裕なんてないだろ。みんなそれぞれに切実な願いを持ってるんだから」

「そうだけど……。できれば容赦なく戦えるといいな、って、思って……」

「まぁ、わかるけどさ」

 苦笑いを浮かべる克樹に、夏姫は唇を尖らせて見せていた。

 ――うん、よかった。

 ぎこちなさはあっても、少し以前に戻れたという実感に、夏姫は安堵を覚えている。

 克樹との関係は、エリキシルバトルがあったとしても終わってはいない。

 そう思えた。

 ――でも……。

 笑ってくれている克樹から視線を逸らし、夏姫はうつむく。

「最終的には、アタシたちも戦わないといけないよね」

「願いを叶えるためには、それしかないだろうな。まだ正体のわからないふたり以外には知り合いばっかりで、戦いにくいのは確かだけどさ」

「うん……」

 現実を思い出して気持ちが沈み込みそうになっているとき、難しそうに顔を歪めた克樹が言う。

「でもまだ、戦えば済むだけ、マシかな」

「どういう意味?」

「モルガーナがどう動くのかがわからない」

 コーヒーを飲み干した克樹は、難しい顔をしたまま続ける。

「バトルが終盤に入ったってことは、あいつの目的達成に近づいたってことでもあると思う。最後まで介入してこないかも知れないけど、あいつの目的とか、役割次第では出てくるかも知れない」

「……魔女さんの目的って、何なんだろ?」

「不滅になることかも知れない、って天堂翔機のとこで話してただろ」

「うん、そうなんだけど、何のためになのかな、って」

「そう思えば、わからないよな」

 口を半開きにしてまばたきを繰り返している克樹には、想像も予想もできていないらしい。

 夏姫にも、不滅になりたいというのが願いだったとしても、それが何のためのものなのかはわからなかった。

「いまでも不老みたいだし、不滅ってまではいかないだろうけど、それに近い状態だよね。会ったことないからわからないけど、話聞いてる限り死にたくないからとか、長生きしたいから、って理由で不滅を願うような人じゃなさそうだな、って思うんだよね。だったら何のために、不滅を願うんだろ?」

「あいつにはあいつの理由があるんだと思うけど、そう思えば考えたこともなかったな」

 腕を組んで考え込み始めた克樹。

 自分のように、失った母親の復活そのものが願いの人もいるだろうし、灯理のように絵のために視覚を取り戻したい人もいると、夏姫は考えていた。

 モルガーナの場合、不滅そのものが目的のようには、どうしても思えなかった。

「何か、エリキシルバトルには、まだ足りないピースがあるような気がするな」

「うん、そうだね……」

 これまでの一年で様々なことがわかってきているようで、思い返してみるとわかっていることは本当に少ないことに、夏姫は気づいた。

 奇跡なんてものを起こせるエリクサーをエサに人を集めたことも、開催したのがエリキシルバトルであることも、なぜバトルという形で決着をつけさせようとするのかも、主催者の目的も、すべてわかっていない。

 夏姫も、克樹も、わかっていないことだらけだった。

 考え込んでいる克樹を見て、夏姫は考えていた。

 ――不滅を望んでいる魔女は、どんな想いでそれを願っているんだろう……。

 

 

 

「じゃあまた明日」

「うん、また」

 外はすっかり暗くなってしまったが、送らなくていいと言う夏姫を玄関で見送って、僕は家の中に戻った。

 けっこうたくさんつくってもらったカレーは、久しぶりだったのもあって美味しくて、もうそれほど残っていない。

 いつでもつくりに来てくれるという彼女の言葉に甘えて、明日も来てもらう約束をしていた。

『久しぶりだったもんね、夏姫の料理!』

 振り返った玄関先で僕の行く手を阻むように立っているのは、アリシア。

 アライズしていないアリシアに手を伸ばして、軽やかに肩まで登ってきたのを確認してから、僕はLDKに戻った。

「すっかり夏姫の料理ばっかり食べてたからなぁ、ここんとこ」

 僕も食事をつくれると言っても適当なものだけだし、味つけの方が微妙だ。

 バイトをしてるっていう喫茶店で習ってレパートリーを増やしていると言ってた夏姫の料理は、シェフの料理とかって感じではないけれど、素朴なものなのに味つけは僕がつくるのと比べものにならないくらい美味しいものばかりだ。

 ――これが胃袋をつかまれるって奴かもなぁ。

 なんて少し情けないことを考えつつも、テーブルの上のコーヒーカップを回収してキッチンへと向かった。

 カップやコーヒーメーカーのジャグを水に浸けてふと横を見ると、カレーが残っている寸胴鍋が目についた。

 ――これ、夏姫がほしいって言うから買ったんだよな。

 つい一年前にはなかったこの鍋は、僕と自分の分だけでなく、近藤や灯理の分の食事をつくるようになって、量がつくれるのがほしいと言う夏姫のために買ったもの。

 僕の家には調理器具は少なからずあったけど、両親は新婚の頃にしか使わず仕舞い込み、百合乃が生まれてからは少し使うようになって、いなくなった後はまた使わなくなっていた。

 焼くか茹でるかしかしない僕は、小さめのフライパンと鍋で充分だったが、夏姫が料理をつくるようになってからは仕舞い込んできたのを出してきたり、足りないものを買い集めたりしていた。

 そんなこんなでいまの僕の家には、独り暮らししてるとは思えないほど調理器具が充実している。

「……やっぱり、この一年でいろいろ変わったよな」

『うん、変わったよ。みんなもそうだけど、おにぃちゃんは凄く変わった』

「そんなにか?」

『うんっ。あたしはおにぃちゃんとずーーっと一緒にいたから、全部知ってるよ!』

 僕の肩に座ったアリシアの足をパタパタと動かしてるリーリエに、僕は小さくため息を吐いた。

 自分でも変わったことの自覚はあったけど、改めてキッチンを見たり、本当にずっと僕といてくれるリーリエに指摘されると、なんかずっしりときてしまった。

 一年前のようにひとりで居続けていたら、変わることはなかっただろう。その頃の僕は自分が変わってしまうことなんて想像もできなかったし、変わることを拒絶すらしていた。

 変わったことが、不快なわけじゃない。

 嬉しいと感じてる自分に戸惑ってしまうくらいだ。

 ――でもこのままってわけにはいかないんだよな。

 エリキシルバトルはまだ終わってない。

 いまは嬉しいと感じてる変化が、この後、悲しいとか寂しいと思うものになるかも知れない。

 僕にそれを受け止めることはできない。

 いや、エリキシルバトルがなくっても、自分も、夏姫たちも、時間をかけて変わっていくものなのだから、やれることをやりながら受け入れていくしかない。

「どうした? リーリエ」

『んー?』

 僕の肩からカレー鍋を覗き込んでるリーリエに気がついて、声をかけてみる。

『あたしも食べられたらいいのになぁ、って』

「……本当にな」

 リーリエもこの一年で変わった。

 仮想のものであっても一個の脳を持ち、成長していくリーリエは稼働開始から三年と経っていないわけで、変化していくのは当然。

 でも成長というのとは違う、予想もしないような変化をしてきたように感じる。

『あっ、らぁーいず!』

 肩から飛び降りながら、相変わらず舌っ足らずで、ちょっと間の抜けた声を出してアリシアを変身させたリーリエ。

『おっきくなっても、この身体じゃダメだねぇ』

 一二〇センチのエリキシルドールとなったアリシアは、ツインテールの髪が空色だとか、手が人間のそれのふた回り大きいとかはあるけど、瞳とか表情の感じは人間と遜色がない。

 けれど、食事はできない。

 見た目が人間に近くなっただけで、スフィアドールのときに備わっていなかった発声機能とか、食事を摂る機能がアライズによって手に入るわけじゃない。人間になれるわけじゃない。

 ――そもそも、リーリエは人工個性だしな。

 身体を持たない人工個性であるリーリエは、機能としては小脳なんかはそのままだけど、身体の感触とか、身体がなくては意味がない欲求――食欲とか――は抑えられていたり停止させている。

 ――でも、リーリエにはものを食べたいって欲求はあるんだろうか?

 空腹を感じ、何かを食べたいという意味での食欲はたぶんない。

 でも美味しいものが食べたいという形の、充足への欲求はあるのかも知れない、と思う。

 夏姫が高い位置にあるものを取るために置いてある踏み台に乗って、鍋を覗き込んでいるアリシア。

 そんな様子を見ながら、僕は思う。

 リーリエには百合乃の記憶はない。でも生活に必要な最低限の知識は引き継いでいた。

 だとしたら、身体はないから味覚はないけど、味に関する情報はあったりするんだろうか。疑似脳で、味を思い出すことはできるんだろうか。

「うぅーん」

『どうしたの? おにぃちゃん』

「いや、ちょっとね」

 考え込み始めて思わずうなり声を出してしまった僕に、リーリエはアリシアに不思議そうな表情を浮かべさせている。

 もし、食欲はなくても味に関する情報があるのだとしたら、疑似脳に作用するプログラムとかで、仮想的に味を感じさせたり、食事を摂ったりといった体験はさせられるだろうか。

 僕はそんなことを考えていた。

 ――ショージさんに折を見て相談してみるか。

 人工個性については、僕も僕なりに勉強はしてるけど、専門的すぎてまだぜんぜんどういうものなのかわかっていなかった。

 数少ない専門家のひとりであるショージさんに今度聞くことにして、カップを洗い終えた僕は新しいコーヒーを淹れる。

 コーヒーの入ったカップを右手に、リーリエがアライズを解いたアリシアを左手に持って二階に上がり、相変わらず薄暗い作業室に入った。

「あとふたりの参加者については、絞り込めたか?」

『おにぃちゃんの設定した要素だと、絞り込めないよー』

 愛用のフルメッシュの椅子に座り、スマートギアを被ってそう問うと、リーリエの不満そうな声が天井近くのスピーカーから降ってきた。

 猛臣からエリキシルバトルの参加者情報をもらって以来、リーリエには残りふたりの参加者の絞り込みを頼んでいた。

 すでにスフィアカップの出場者じゃないことはわかってるから、対象とするのはそれ以外のソーサラー。

 モルガーナに繋がっている可能性がある、つまりSR社周辺にいて、願いがありそうな人。そして、何より重要なのは、ピクシーバトル経験者であること。

 アリシアを充電台に座らせ、下ろしたスマートギアのディスプレイに表示した可能性のある人物リストは、僕も名前を知ってる人が多い。

 ピクシーバトル経験者を重視するのには理由がある。

 平泉夫人や、本人は認識してないようだけど夏姫、それから百合乃のような、隔絶した才能のある人物は少し事情が違ってきそうだけど、ピクシーバトルの強さで一番重要なのは、経験だと言っても過言じゃない。

 僕が灯理に勝てたのは、デュオソーサラーという特殊能力を、僕とリーリエというふたりで相手にしたのと同時に、経験の差があったからだ。

 最初からピクシードールを上手く動かせる人なんてまずいないし、バトルをさせるとなるとフルコントロールは当然のこと、セミコントロールでもかなりの熟練を必要とする。

 充分な熟練の先、スフィアカップ全国大会レベルの強さとなると、才能の差が強さの差にもなってくるけど、そこに至るまではバトルの回数が強さの差として機能する。

 残りふたりのエリキシルソーサラーが、これまで勝ち残ってきているのだとしたら、スフィアカップに出場していなくてもローカルバトルなんかで、いろんな人と戦ったことがある経験者であることはまず間違いがない。

 でもリストにある人物は、全員が全員、可能性が高いとは言えなかった。

 まだ影も見えていないひとりはともかく、双子を倒したソーサラーは経験に支えられた強さを持っている可能性が高い。

 でも、現在わかっているエリキシルソーサラー以外で、猛臣と戦って勝てそうな強さの人はいなかったし、可能性がある人物はどう考えてもモルガーナと接触がありそうになかった。

 ――夫人みたいな例もあるし、あいつの人脈はどれくらい広いかもわからないからなぁ。

 椅子の背に身体を預けて、僕はため息を吐く。

 スフィアカップ地方大会で準優勝はしてても、ソーサラー界隈ではほぼ名前を聞くことのない平泉夫人。

 しかし彼女は僕の知る範囲では最強のソーサラーだし、同じような例がないとは限らない。魔女の影響範囲だってつかめてるわけじゃない。

 でもそんなわからない要素ではエリキシルソーサラーを絞り込めるわけはなくて、僕の方法では発見できそうにない、という結論にしか至れなかった。

「終盤になれば、もう少しいろいろ見えてくると思ったんだけどなぁ。むしろ謎が増えてるよな」

 もうひとつため息を吐き出して、僕は頭を掻く。

 おそらく天堂翔機はあとふたりの参加者のことを知ってるはずだ。

 いまはまだ入院してるはずだし、モルガーナに殺されるなんて言われたら、聞き出そうとは思えない。

 でも、彼はガンで残りの時間が少ない。

「いよいよとなったら、それも手かな」

 代理で彼の入院に関して連絡があったとき、記載されていた病院の場所をスマートギアの中で開いた新しいウィンドウで確認しながら、僕は小さく息を吐いていた。

『嘘吐きと、秘密主義の人が多いんだよ、この戦いに関係してる人は』

「……どういう意味だ?」

『なんとなくそう思っただけーっ』

 適当なことを言うリーリエに微妙な気分になりながら、僕は思う。

 確かに、嘘吐きと秘密主義が多いと思う。これまでも、そしてこれからもそうだろう。

 ――この後、僕はいったいどんな奴と戦うことになるんだろうな。

 見えない敵の姿に、僕は不安な気持ちに駆られて顔を歪めていた。

 

 

 



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第五部 撫子(ラバーズピンク)の憂い 第二章 3

 

 

          * 3 *

 

 

「……なんだ?」

 何かが焦げているような臭いに、近藤誠は目を醒ました。

 掛け布団も被らずに横たわっていたベッドから身体を起こすと、薄いカーテン越しに見える外は暗く、部屋は肌寒い。

 そして何故か、電灯が点いていた。

 灯理を駅まで送り、その足で誠を受け入れてくれ、稽古もつけてくれる先輩の家の道場に行き、ちびっ子の空手教室の手伝いをしてきた。

 その後先輩と、その父親である師範に稽古をつけてもらってからマンションの部屋に帰り、身体と精神の両方の疲れからベッドに横になって、そのまま眠ってしまったらしい。

 まだ部屋はある程度明るかったから灯りは点けてなかったはずだが、寝起きで頭が回ってないためよく思い出せない。

 さっきより薄れたが、まだ残っている焦げ臭さにベッドから出て部屋を見回すと、人影があった。

 部屋にあるのはクローゼットとチェスト、少し広めだからか対面式のキッチンと、トレーニング器具、それから勉強机にも使っているふたり用の狭いテーブル。

 キッチンとの仕切りに寄せてあるテーブルには椅子が二脚。

 人を招いたことはないので使ったことのない片方の椅子には、座っている人影があった。

 人影よりも先に、誠の目を釘付けにしたもの。

「……これは?」

 テーブルに置かれた皿の上には、黒と黄色が入り交じる物体が乗っている。

 誠はそれに、見覚えがあった。

 よろよろとした足取りでテーブルに近づき、誠は素手でその物体をひと切れ取る。

 焼き色というにはあまりに黒い、黄色よりも黒の面積が大きいそれは、卵焼き。

 震える唇に焦げた卵焼きを運び、口に含んだ。

「――ちゃんと塩の分量は量れっていつも言ってただろ」

「適量はちゃんと計ったんだよ? ただちょっと、さじ加減を間違えただけだよ!」

 不貞腐れた声を出している人物に目を向ける。

 ガーベラ。

 椅子に座って唇を尖らせているのは、アライズしている、身長一二〇センチのガーベラだった。

「前も……、同じこと言ってた、だろ」

「そうだっけ? あ、ほら。どうせなら思い出してもらいたくってさ、わたしだってわかるように。それにこの身体じゃキッチン使いにくくってさぁ」

「どうせまた、つくってる途中で、別のこと考え始めて、そっちに気を取られてたんだろ」

「うっ……。そ、そんなことはない、よ?」

「相変わらず嘘がヘタだな、――梨里香」

 言って誠は、ガーベラの身体に両腕を回し、抱き寄せた。

「やっぱり、わかっちゃうんだね」

「そりゃ、そうだろ。梨里香は、――梨里香が、平常運転だから、な」

 疑う余地などなかった。

 その姿はエリキシルドールのガーベラ。

 けれどもその中身は、亡くなってしまったかつての恋人、椎名梨里香。

 どんな姿をしていても、梨里香が梨里香である限り、誠が間違えるはずがない。そして彼女も、もう亡くなっているのに、一緒に過ごしていたときと何も変わっていなかった。

 想いとともにこみ上げてくる嗚咽を漏らしながら、誠は梨里香が顕現しているガーベラを強く抱き締める。

 エリキシルバトルに参加すると決めてから、願いが叶うまで泣かないと決めていて、克樹に負けたとき以降は泣かなかったのに、あふれ出る涙がガーベラの黒いセミロングの髪を濡らしていた。

 そんな誠の背中を、梨里香は優しく撫でてくれる。

「何にも食べずに寝ちゃったみたいだから、夕食くらいつくって上げようと思ったんだけどね」

「いつもこんなくらいしかできなかっただろ、梨里香は」

「むぅ。たまには成功してたでしょう?」

「そうだったな」

 身体を撫でてもらっている間に、衝動的な気持ちは収まり、誠は身体を少し離してガーベラのことを見る。

 ワインレッドのハードアーマーと黒いソフトアーマーを纏うパワー寄りのバランスタイプのボディは、身体が弱くて痩せていた彼女とは似ているとは言い難い。

 しかしクセのない髪と、顔つきは似ていて、何よりいまガーベラが浮かべている優しい笑みは、誠の記憶にある梨里香そのものだった。

「久しぶりだね、まこっちゃん」

「あぁ」

「わたしを復活させるために、頑張ってるみたいだね」

「……なんで、それを知ってるんだ?」

 病院で息を引き取って二年以上が経っているのに、柔和な笑みでそんなことを言う梨里香に驚くことしかできない。

「だって、残ってるから。――ここに」

 言って梨里香は自分の、ガーベラの頭を指さす。

「そこって……」

「スフィアだよ。エリキシルスフィアには、まこっちゃんの戦いも、まこっちゃんの願いも、まこっちゃんの想いも、全部残ってるんだ。……何て言うかさ、恥ずかしくなるよ。まこっちゃんって、わたしのことそんなに好きだったんだ?」

「うっ……」

 全部知られているという事実に、誠は恥ずかしくなって思わず後退る。

 何よりもガーベラをアライズさせるときにいつも込めていた想いは、本人に伝えたことがないほど強いものだったから。

 火を吹きそうなほど熱い顔を隠して逃げ出したくなったが、伸ばされたガーベラの右手に右手をつかまれ、それ以上離れられない。

 離れたくない。

 ――あぁ、やっぱりオレは、いまでも梨里香のことが好きだ。

 椅子に座っている梨里香の膝に膝が触れるほどの距離まで引っ張られて、誠は改めてそう思う。

 いまの誠がいるのは、すべて梨里香のおかげだった。

 出会いは不幸な事故で、誠は梨里香に怪我をさせてしまったが、彼女は許してくれた。

 悪い道に行きかけていた誠を半ば無理矢理に正してくれたのも彼女だったし、空手に真面目に打ち込むよう言ってくれたのも彼女だった。

 冷え込んだ家から出ていまの高校に行くのを勧めてくれたのも彼女で、スフィアドールの趣味に巻き込まれたりもしたが、彼女と一緒ならば楽しかった。

 高校に通う体力はなく、虚弱な体質を改善するために東京の病院に転院することが決まった直後、梨里香は風邪をこじらせて体調を崩し、そのままあっけなく逝ってしまった。

 調子がいいときは秋葉原まで遠出もできたが、一度体調を崩すと入院では済まない身体であることがわかっていたため、恋人としてつき合うようになっても、誠は梨里香と未来について話すことはほとんどなかった。

 ずっと一緒にいたくて、一生側にいるつもりだった彼女の死は、一瞬だった。

 死に目にも会えなかった。

「梨里香」

「うん」

 名を呼んだだけなのに、彼女は誠の意図を理解する。

 両腕を伸ばした彼女の身体に腕を回し、また抱き締める。

 ガーベラの身体をした、小さな梨里香は誠の首にすがりつく。

 もう二度と、会えないと思っていた。

 もう一度、会いたくて仕方がなかった。

 強く、強く想い焦がれていた梨里香は、いま誠の腕の中にいた。

 ――オレは願いを、諦められない。

 克樹や猛臣、夏姫にはまともに戦っても勝てないのはわかっている。

 それでも恋人の復活を願う誠は、手段を選んではいられない。

 そんなことを思うくらい、誠は梨里香のことが好きだった。

 ――オレは、梨里香が好きだ。梨里香と一緒に生きていきたい。

 細くも柔らかくもない、エリキシルドールの梨里香をかき抱きながら、誠はそう思う。

 だからそれを、言葉にする。

「オレは絶対、お前を生き返らせるから」

「ヤダよ」

 即答だった。

 梨里香の意外な言葉に硬直し、零れていた涙も止まった。

 押し退けるように身体を離されて見た梨里香の顔は、不満そうに唇を尖らせていた。

「まこっちゃんじゃ克樹君とか槙島さんには勝てないでしょ? また最初のときみたいに、エリキシルバトルじゃなくて、腕力を使うつもり?」

「それは……」

「わたしは、そういうまこっちゃんは嫌い。わたしが悲しくなるようなこと、もうしないって誓ってくれたよね?」

「うぅ……」

「必死だったのはわかってる。反省してるのも知ってる。だから最初のときは許す。でも、もう二度とやらないで」

 悲しげに瞳を揺らす梨里香に、誠は何も言えなくなる。

 けれど、勝てない敵に勝つための手段を封じられては、彼女を復活させることができない。

「オレは――」

「それにね、まこっちゃん」

 何とかして説得しようと口を開いた誠の唇を人差し指でふさいで、泣きそうな顔の梨里香は言う。

「わたしは、復活なんてしたくない」

 エリキシルドールの身体である梨里香は、その瞳に涙を溜める。

「だってさ、願いはひとつしか叶わないんでしょ? わたしだって、まこっちゃんと一緒にいたいよ。一緒に生きたいよ。でもね、願いはひとつなんだ。生き返っただけじゃ、わたしの身体は弱いままなんだよ」

 言われて誠は気がついた。

 復活しただけでは梨里香の生活は変わらない。いつ体調を崩して逝ってしまうのか、わからない生活に戻るだけだ。

「生き返って、まこっちゃんと一緒に生きて、大人になって、結婚して、ふたりの子供つくって、一緒に歳を取っていけたなら、って思う。わたしもまこっちゃんに負けないくらい、まこっちゃんのことが好き。大好き。愛してる」

 目尻から涙を零しながら、笑顔で梨里香は続ける。

「でもそのためには、叶う願いがひとつじゃ足りないんだ。そりゃわたしだって、生き返りたいと思うけど――」

「だったら!」

 唇をふさぐ手をつかんで、誠は叫ぶ。

 それに対して涙を散らしながら首を横に振り、梨里香は悲しげに笑んだ。

「たぶん、わたしは我慢できないと思うんだ。長く生きるのが難しいのはわかってる。生まれついてのことだからね。だから最初は覚悟できたんだ。まこっちゃんと長くは一緒にいられないこと」

 梨里香の言いたいことを、誠は徐々に理解する。

 頭でわかっていても、納得はできない。

 だからと言って、ひとつしか叶わない願いでは、たとえその権利を得たとしても、どうしようもない。

「復活して、もう一度まこっちゃんより早く死ぬなんて、わたしは堪えられない。笑ってまこっちゃんの側にいられない。わたしはわがままだから、生き返るなら、一緒にお爺さんお婆さんになるまで生きていけないのはイヤなんだ」

 もう笑顔でいることもできず、梨里香は小さな顔をくしゃくしゃに歪ませる。

 誠もまた、同じように顔を歪ませて泣いていた。

「それができないなら、生き返られない方がマシ。こうしてまた会えた。それだけで充分。だから、わたしを生き返らせようとなんて、しないで」

 涙を指で拭った梨里香は、笑った。

 満面の笑みを、誠に見せる。

 ――死んだ後も、梨里香は変わらないな。

 そう感じた誠も笑う。

 止まらない涙を流しながら、ふたりで笑む。

 梨里香の言葉が強がりであることは、誠にはわかっていた。

 苦しかったり、痛かったりするのを見せるのが嫌いな梨里香は、いつも誠にそれを隠して笑っていた。

 それと同時に、彼女の言葉が本心であることも、理解していた。

 だから誠は、もう彼女の想いに口を挟むことはできない。

「いまはまこっちゃんにはいい友達もいて、まこっちゃんのことを気にかけてくれる女(ひと)もいるよね?」

「そっ、それは……」

「まこっちゃんは強いよ。でも敵になる人はもっと強い。それに、この戦いの後ろにいる人は、本当に恐ろしい人なんだ」

「魔女のことか?」

「うん……。わたしのこともさ、忘れてほしくないけど、まこっちゃんはいま側にいる人のことも見て上げて。まこっちゃんは、いまに生きてる人なんだから」

「……あぁ」

「死んだ後だけど、一生のお願い。わたしが愛した人には、幸せでいてほしいの。だから、笑って。笑って、いまを生きて」

「わかった」

 頷くことしかできなかった。

 梨里香の願いを、誠は胸に刻む。

 ガーベラに宿った瞳の輝きが、失われつつあるのに気がついていた。

 時間切れが近づいている。

「好きだよ。愛してるよ、誠。貴方の出会えて、わたしは幸せだった」

「オレもだ。お前に出会えて、オレは幸せを見つけられた。愛してる、梨里香」

 頬に添えられた手に、誠は梨里香の身体を抱き寄せ、顔を近づけた。

 目を閉じた梨里香の唇に、唇を重ねた。

「さよなら、誠」

「さよなら、梨里香」

 最期に梨里香が見せたのは、最高の、幸せがあふれ出る笑顔。

 そして、アライズが解除された。

「梨里香……。梨里香!」

 一二〇センチのエリキシルドールから、二〇センチのピクシードールに戻り、力なく椅子の上に転がったガーベラを、誠は胸に抱く。

「梨里香っ」

 あふれ出る暖かい気持ちと、冷たい寂しさに、誠はただ、愛する者の名を呼び続けた。

 

 

             *

 

 

「お前はこんなものと戦うつもりか」

 不機嫌な声とともに机の上に書類の束を投げ出した老人は、平泉夫人を射貫くように睨みつける。

 その言葉に応えることなく、涼しい顔で散らばった書類をまとめ、艶やかな模様がありながらも黒く沈んだ印象のある和服に身を包む夫人は、手に取りめくっていく。

 広く取られた窓の前に据えられた大きな机。

 壁に沿って置かれたキャビネットには、分厚い本とともに様々な賞状や盾などが並ぶ。

 金細工や絵画、趣味のひとつである狩猟で打ち倒した熊の毛皮など、少々華美に揃えられた執務室の主は、装飾性より実用性を重視したオフィスチェアから平泉夫人を睨みつける。

 安原家の現当主。

 平泉夫人、旧姓安原敦子の父親。

 齢は六〇を超え、すっかり白くなった髪を綺麗に整え、少しばかり恰幅の良すぎる身体を和装に包み、シワが刻まれつつも張りのある肌をした彼は、書類に目を通している夫人の様子に、眉間のシワを深くする。

 すでに法律上でも絶縁されている実家を夫人が訪れたのは、頭首に呼び出されたからだった。

 夏にあった夏姫の父親に関わる事件。

 手回しの時間と手間を短縮するために、もう何年も接触すらなかった父親に連絡を取った。

 古くから有力者として日本を支えてきた家柄のひとつである安原家の力を借りるためであり、同時に安原家にも利益のあることだったからだ。

 それにより平泉夫人は望んだ形で事件を決着させ、連絡ひとつで安原家は直接的にではないが、未来に影響のある利益を得た。

 そうした家の力を利用するためだけでなく、生きている間は二度と会うことはないだろうと思っていた父親に連絡を入れたのは、そうするべきタイミングでもあったからだった。

「さすがの調査能力ですね」

「必要ならば必要な分だけ調べる。金と時間はかかろうと、充分と言えるまではな。……しかしこいつはいったい何だ? 本当に人間なのか?」

 安原頭首が投げ出した書類は、モルガーナに関する調査報告。

 おそらく可能な限り慎重に、細心の注意を払って行われただろう調査結果は、平泉夫人が把握しているよりも広く、深い情報だった。

 その内容は、すでにモルガーナの存在を知っている平泉夫人であっても、驚くものが少なからずある。

「魔女ですよ。最初に言ったでしょう」

 そう言い放った平泉夫人に、安原頭首はさらにシワを深くして顔を歪ませた。

 人間社会を左右できる個人や集団は、世界に少なからずいるが、モルガーナの影響力は常識の範囲を超えていた。

 その気になれば、本当に人間社会をひっくり返せるほどの人脈と影響力が、彼女にはある。

 人間社会を掌握していると言っても過言ではない。

 それほどの力を持った人物は世の中に複数いるが、安原家の当主であっても名前すら知られず、微かにいることが臭うだけで存在を確認できていなかったのは、モルガーナくらいのものだろう。

 ――本当によく調べたものね。

 平泉夫人でも存在の把握と実態の片鱗しかつかめなかったモルガーナのことを、安原家の当主はほんの数ヶ月で調べ上げていた。

 ただ、書類の内容ですら彼女の活動の一部でしかない。

 ここ半世紀分までしか遡れていない調査結果よりさらに以前がある。彼女が日本に影響を及ぼし始めたのは、おそらく一世紀より前からのはずだった。

 いまでこそ日本を拠点にしているようだが、魔女の影響力が最も強いのは、欧州であり米国であろう。

「魔女か……。こうしたものは度々世の中に現れるが、しばらくすれば消える。手を出さずに放っておくのが賢明だろうよ」

「けれどもう、先制攻撃の後ですよ」

「お前は安原を巻き込むつもりか!」

 先端業界には明るくない安原頭首は、最近の平泉夫人の動向までは確認していなかったらしい。

 怒りで顔を赤くする彼に、夫人は涼しい笑みを返す。

「あの魔女に世界を動かす力があり、実際いま動いている以上、すでに我々は影響を受けているわ」

「だからと言って、わざわざ直接手を出す必要はなかろうっ」

「彼女の本質のひとつは、人間への憎しみですよ」

 燃え上がるような瞳で睨んでくる父親に微笑みを向ける平泉夫人は、机に手を着き、彼の瞳を覗き込む。

「今回の事件の後、魔女は人間を見放す可能性があるわ」

「あちらから去ってくれるなら、それこそ放っておけばよかろう」

「彼女は人間を憎んでいる。心の底から。人間を見放すというのが、彼女が去るだけで済むのならいいのだけれどね」

 エリキシルバトルについては、参加者である克樹たちのことを伏せて、持てる情報のすべてを頭首に渡してある。公にしないことを約束させた上で。

 バトルのこと、魔女の実体を把握していながら手を出さずに静観するというのは、臆病とも、慎重とも言える彼らしい判断だと、夫人は思った。

 けれど、平泉夫人自身はそうはできなかった。

「たとえ魔女が人間を見捨てるとしても、お前が奴の矢面に立つ必要はあるまい」

「そうはいかないのよ。魔女は人類にとって敵ではあるけれど、私個人にとっても敵なのよ」

 言って夫人は、頭首に対してではない、悲しげな笑みを口元に浮かべる。

 夫人がただひとり愛した男は、ありきたりな病気で死んだ。

 しかしその病気は初期に発見できていれば治療が充分に間に合うもので、身体の変調を訴えた彼は何度か病院に赴いている。

 若くして彼は亡くなり、それから何年も経ってから現れ、彼の復活を口にしてバトルに誘ってきたエイナと、その裏にいる魔女。

 エリキシルバトルと、魔女のことを知ってから改めて調べた結果、彼を診断した病院は、少なからず魔女の影響を受けていることを知った。

 魔女は直接手を下すことなく、自分の障害となり得る人物の排除をするために、診断結果を操作した。その痕跡も発見していた。

「私にとって、魔女は仇なのよ」

 復讐を願いとする克樹には言えないが、平泉夫人が魔女と敵対する理由のひとつは、確実に復讐だった。

 ため息を漏らし、夫人から顔を背けた頭首は言う。

「もしお前があの男のことを忘れると言うなら、いまならもう一度安原を名乗ることを許す」

「それは無理ですよ」

 彼の元に向かうために家を出るときに言われたことに、夫人は同じ返事をした。

「もうこの家はお兄様が継ぐことが決まったのでしょう? あの人なら大きな問題はないでしょう」

「奴はワシ以上に慎重だからな。しかしこれからは変革の大きい時代だ。守るだけでは身を削られるだけだ。多少無茶でも、前に出る者が率いるべきだ」

「そうは言っても、私はこの家に帰ることはありませんよ」

 自分の兄が思慮深く、いまの頭首よりもさらに慎重な性格であることは知っている。それは確実に、臆病さから来るものだ。

 その性格が、この後の時代では有利にならないことも理解している。

 巨大と言える力を持ちながら、いまなお様々な勢力と貪欲に争っている安原家の良心である兄は、同時に弱点でもあった。

 それがわかっていても、夫人はこの家に帰ろうとは思えない。

「私にとってあの人と過ごした時間だけが幸せであったから。あの人と過ごした時間を忘れることは、私に死ねと言っているのと変わらないわ」

 笑みを浮かべて答える平泉夫人に、安原の頭首はさらに顔を歪めていた。

「しかし、魔女に手を出すならば、お前の命とて危ういだろう。あれはそういう存在だろうに」

「目的のためならば手段など選ばないでしょうね、あの人は」

 苦々しげな表情で、しかし窺うような瞳を平泉夫人に向ける頭首。

 机から一歩離れ、爽やかな笑顔を見せた夫人は言う。

「けれどもし、私の命ひとつであの人の排除が叶うならば、自分の命など惜しいとは思わないわ。その程度には、あの魔女は危険なのよ」

「危険なのはわかるが、お前は何を言っている!」

 拳を机に叩きつけた頭首は、身につけた和装の模様よりもあでやかな笑みを唇の端に浮かべる夫人を、強い視線で睨みつける。

「私は彼と生きて、彼と一緒に死ぬつもりだったのよ。彼が死んでから、少し長く生き過ぎてしまったわ」

「敦子、お前は……」

 声を上げずともその気配だけで人を恐れさせる安原家頭首の怒りは、娘には通じない。

 これから先に起こり得るものを想像し、受け入れて笑む夫人に、父親は言葉もなく叩きつけた拳を震わせていた。

「ただ、後のことだけはお願いできるかしら?」

「それは、つまり――」

「えぇ。魔女との戦いは個人的な復讐だから、できるだけ安原には迷惑をかけないつもりだけれど、もし近いうちにわたしが死ぬことになったら、後処理だけはお願いしたいのよ」

「……」

 自分の死の先を笑みを浮かべて語る夫人に、頭首は奥歯を噛みしめるだけだった。

「私の持ち物はすべて処分してくださって構わないわ」

「……お前が拾った娘はどうする」

「あの子は、大丈夫よ。もう子供ではないし、いまなら自分の道を自分で選ぶこともできるわ。もし頼ってきたときは、能力を見るくらいはして上げてほしいかしらね。あの子にはいろいろと教え込んであるけれど、仕事関係の人づき合いなんかは、まだひとりでは処理できないでしょうから」

「……わかった」

 頷きを返した頭首は、微笑む平泉夫人の瞳を見つめる。

 黒真珠に例えられるその輝かしいばかりの瞳は、その奥底に闇を宿しているのが見て取れた。

 頭首は、ただ深く、ため息を漏らした。

 

 

 



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第五部 撫子(ラバーズピンク)の憂い 第二章 4

 

 

          * 4 *

 

 

 カレーをひと口食べて、片眉をぴくりとつり上げたのは、ショージさん。

「ふむ。いい彼女ができたじゃないか」

「彼女じゃないけどね、……まだ」

「ほぉ。まぁ、彼女ってより、すでに夫婦って感じだがなぁ」

 僕の言葉ににやけた笑みを見せて、ショージさんは夏姫のつくってくれたカレーを食べ進める。

 近くまで来たからともう遅い時間に突然やって来たショージさんは、お腹が空いたと言ってキッチンに入り込んできた。

 ひとりだったときも荒れ果ててはいなかったけど、物が少なくて殺風景だったそこが、すっかり充実した調理空間になってるんだ。ショージさんの指摘に、僕は返す言葉もない。

「なんだか少し前は喧嘩してたみたいだが、仲直りしたのか」

「……まぁね」

 ついこの前も用事があって会ったショージさんには、夏姫たちのことは話してない。

 でもたぶん、僕の態度からバレバレだったんだろう。

「ごちそうさん。さて、見に行くか」

 夕食にしても遅い食事を終え、仕事帰りらしいショージさんは、何故か胡散臭さを感じてしまうグレーのスーツのジャケットを羽織って廊下に出る。

 元々客間だったサーバルーム。

 冬に入るには涼しいを超えて寒いくらいのそこに入り、ショージさんは広げっぱなしだったサーバラックのコンソール画面を覗き込む。

 後に着いて部屋に入った僕も、粗末なオフィスチェアに座った彼の肩越しに画面を見ていた。

「……やっぱり、そろそろハードの更新が必要だなぁ」

 眉を顰めながら、チェックログをひと通り眺め終えたショージさんが言った。

 いろいろ勉強してたから、一年前と違って少しはログに書かれた文字列を読めるようになった僕にも、どんな結果だったのかはある程度わかる。

 サーバに構築されたリーリエ自身である疑似脳には、エラーはない。

 でも疑似脳の稼働ログに、少なくない欠損が発生していた。

「そろそろこいつもシステムとしちゃあ古いしな。リーリエも充分に成長してきてるし、仕方がないんだがな」

「そうだね」

 盛大なため息を吐くショージさんに、僕は勤めて冷静にそう返事をしていた。

 ログの欠損は、別にシステムが老朽化してるから発生してるものじゃなく、いまみたいに多くはなかったけど、リーリエが稼働を開始した直後からあるものだ。

 脳を仮想的に構築する人工個性システムは、何より疑似脳の構築と稼働を優先している。

 稼働している疑似脳から情報を取得するようになってるわけだけど、人間が仮想的に構築した脳なのに、人体の不思議なのか、完璧なログは取得できないことがわかってる。量の多くないログの欠損は、正常の範囲内だ。

 いま増えてる欠損のうち半分くらいは、リーリエがアリシアをアライズさせてるときのもの。

 疑似脳の稼働ログだけでなく、リーリエが使ってるアプリケーションのログも取得するようになってるから、アライズしてるときのログは別領域に飛ばすよう、僕はリーリエに指示していた。

 一度だけ、シンシアを使ってるときのログをショージさんに見せたことはあるけど、あのとき以降は見せてないし、まだエリキシルバトルやアライズのことは話してない。

 ショージさんをモルガーナとの戦いに巻き込みたくはなかった。

 ――それがあるにしても、多いな。

 顎に手を当てて改めてログの欠損率を見ると、僕が把握してるアライズの時間以上に、割合が大きかった。

 元はショージさんの大学時代、いまから一五年かそこらは前に構築されたシステムなんだから、どこかしら旧式化していても仕方ない。

 壊れたとかじゃなくて、成長しているリーリエの疑似脳の活発な動きを、フォローしきれなくなってるということだと思う。

「そう遠くないうちに入れ換えないと、そのうちヤバくなってくるな」

「そんなに?」

 椅子を回して僕に渋い顔を向けてくるショージさんに、軽く首を傾げながら問う。ログが少し読めるようになっただけで、人工個性システムのことは僕にはよくわからない。

「まぁな。こいつを設計して組み上げた頃は、企業の支援を受けた大学の研究だったからな、これだけ経ってても動くようなものをつくれたが、さすがにもう古い。それに当時は疑似脳で外的刺激の反応をテストするのがとりあえずの目的だったから、引き取るときに少し手を加えてあるとはいえ、長期連続稼働は想定してなかったからな」

「そうなんだ……。そのうち、どうなるの?」

「ある意味で寿命が来る」

「え?」

 寿命、と聞くとさすがにサーバルームの寒さに曝されてるからでなく、震えが来る。

 渋い顔で不精ヒゲが生えた顎をさするショージさんが続ける。

「寿命と言っても今回の場合、三つの意味があって、そのうちふたつの問題だ」

「寿命が三つ?」

「あぁ。ひとつは極単純な意味の、人間と同じ寿命だが、これについては絶対じゃないが、問題はない。人間と違って人工個性からは基本的な欲求を抑制してる他に、老化要素も取り除いてある。仮想とは言え人間の脳とほぼ同じだからな、未知の要素がこれから見つかる可能性はあるが、リーリエは脳の機能的には永遠に近い寿命を持つ。今回はこれ以外の意味だ」

「うん」

 僕は興味深いショージさんの話に聞き入る。

 メンテナンスのときは自分が弄られるからか、口数が少なくなるリーリエは、今日はショージさんに挨拶して以降はほとんど発言していない。

 でもさすがに興味はあるようで、声も出してないしアリシアも手元にないけど、サーバラックにあるディスクシステムのLEDの点滅速度が明らかに増している。

「簡単なのはシステムの物理的な寿命。メンテしてるし、不都合が出ればモジュールごと交換もしてるが、それにも限界がある。古くて交換部品ももう手に入りにくいしな。ただこれは、オレの予測じゃまだ三年くらいは大丈夫なはずだ。問題なのはもうひとつの方だ」

「どんな問題なの?」

「システムを設計以上に酷使してるからな、近いうちに性能が不足する」

「思考速度が低下するとか?」

 もしそんなことになったらかなりの問題だ。

 少なくともエリキシルバトルが終わるまでは、リーリエの力は僕にとっては必要なものだから。

「人工個性についてはそれはない。疑似脳をリアルタイムで稼働させることに細心の注意を払って設計してあるからな。今回の問題が進行した場合、予想では、脳の情報に欠損が出る」

「……どういうこと?」

 さすがに人工個性システムに詳しくない僕は、ショージさんの言葉の意味がよくわからない。

「例えるなら、頭蓋骨以上のサイズに脳が成長しちまうんだ。リアルタイム稼働には支障はなくても、疑似脳を構築している電子的空間は無限じゃない。脳が成長すれば性能的な意味で、情報処理が追いつかなくなる部分が出てくる。はみ出した分は存在しないものとして扱われる。そんなときどんな症状になるかはわからないが、一応大学の頃に想定してたのでは、アルツハイマーに近い状態になると予想していた。症状が進めば、リーリエの疑似脳は全体的に崩壊する。つまり、死だ」

「リーリエ! 自覚症状は?!」

 僕はすぐさまリーリエに声をかけた。

 サーバルームにもマイクとスピーカーなんかは設置してある。いまの話はリーリエも聞いてるはずだ。

『大丈夫だよー。すぐの話じゃないんでしょ?』

「そうだな。半年から一年くらいで症状が現れ始めて、そこから一年くらいかけて進行していくと予想してるな」

「けっこうすぐじゃないか」

 半年は長い時間に思えるが、けっこうすぐだ。

 ハードもそうだし、ソフトも専用のシステムだから、準備をしてたらアッという間に過ぎてしまう。

 そして、それ以外にも問題がある。

「……システムを更新するとして、どれくらいの費用がかかりそう?」

 難しい顔をしてるショージさんに、僕はおずおずと訊いてみる。

 ヒューマニティフェイスでそこそこ稼いでるし、一年以上帰ってきてない両親から生活費ももらってると言っても、いまあるシステムを大学から買い取ったくらいの金額は、年単位で仕事を頑張らないと無理だ。

「ハードはAHSのシステムがかなり流用できるから、いまのこいつより汎用性があるし、サイズも費用もかなり抑えられる。ソフトもいまのがほとんど使えるし、予想はしてたからある程度は俺がハードの移行に備えてつくってある。ただなぁ、それでもこれの半額にはならんぞ」

「ぐっ」

 検査を終えてコンソールをラックの中に仕舞ったショージさんの言葉に、僕は息を詰まらせる。

 半額になればかなり楽だけど、それでも一年や二年で貯まる金額じゃない。いまのシステムは幼い頃からの貯金と、ショージさんからの援助、それに平泉夫人から借りてやっと買うことができたくらいだ。

 ――また、お金借りないといけないかな……。

 リーリエのこととなれば平泉夫人はお金を貸してくれそうだけど、今回もし借りるとしたら、その返済は社会人になっても続きそうだ。

「そもそも人工個性を動かすためのシステムじゃなかったんだし、完全に専用じゃ、それだけかかっても仕方ないよね……」

「まぁな。性能は格段に上がるが、リアルタイムで疑似脳を稼働させれば用は足りるから、いまより性能を大幅に上げる必要があるわけじゃないがな。こんな使い方は想定外だったからなぁ」

 少し懐かしそうに笑みを浮かべるショージさん。

 検査も終わったので、僕はショージさんと一緒にLDKに戻る。先に準備しておいたコーヒーをカップに注ぎ、ショージさんと自分の前に置いた。

 湯気の立つコーヒーが、寒かったサーバルームで冷えた身体を温めてくれる。

 コーヒーのカップを傾けつつ、僕に何か言いたげな鋭い視線を向けてくるショージさんより先に、僕は口を開く。

「そう思えば、いまリーリエに使ってるシステムで本来動かすはずだった脳情報の提供者って、どんな人だったの? 確か大学で一緒に研究してたんだよね?」

 一年前に話してもらって以来だけど、気になったので訊いてみる。

 僕の知る限り、稼働している人工個性はリーリエとエイナのふたりだけ。

 エイナは、いまひとつわからない感じはあるけど、モルガーナの手先。

 脳から情報を採取するの自体が、モルガーナに関わる技術の可能性が高い。だとしたら、エイナの脳情報提供者については、ショージさんが鍵を握ってるかも知れない。

 見えないことの多いエリキシルバトルとモルガーナを知るために、小さいものでも手がかりがほしかった。

 苦々しげな顔を見せたショージさんは、大きくため息を吐いた後、遠い目をした。

「ひとつ上の先輩でな、口うるさくてお節介焼きで、でも研究に対しては熱心な女性だったよ」

 遠い昔を見つめているショージさんの瞳には、懐かしさと、苦しさが混じったような、複雑な色が浮かんでいた。

「怠けてるとすぐに罵声が飛んできたりしてな。ちっこくて中学生に間違われることもあるくらいだったのに、声はでかいし性格はまるっきり体育会系だったな」

「ショージさんとじゃ、あんまり合わないんじゃないの?」

「それがまた、割とそうでもなくってな。俺だけじゃなく他の奴らもそうだったが、無茶苦茶いい声してたのもあって、彼女の声に調教されて真面目に研究やってたよ」

 複雑な感じはあるけれど、ショージさんはその先輩のことを楽しそうに話す。

「研究の目的は、仮想空間に構築した疑似脳に刺激を与えて反応を検知することで、新しい形のAIをつくることだったが。先輩はその先、医療分野での利用も視野に入れていたらしい。ロボット工学に所属してたわけだが、とにかくひとつのことに捕らわれない、自由な発想の持ち主だったよ」

「……もしかしてショージさん、その人とつき合ってたの?」

 途端にイヤそうな顔をするショージさん。

「公私ともに口うるさい人だったからな、つき合おうなんて猛者はいなかったよ」

「そう、なんだ」

 大きくため息を吐くショージさんは、嘘を吐いていた。

 実際その人とどんな関係だったのかは、いま聞いたことから推測することしかできない。でも心底イヤそうな口ぶりほどに、ショージさんの目は彼女を嫌っていない。

 いやむしろ。愛情のようなものがその瞳から見て取れた。

 ――夏姫も、そんな目をしてたりするからな。

 つき合っていなくても、僕は夏姫のことが好きで、夏姫は僕のことを好きでいてくれる。

 口うるさくしてても、文句を言ってても、夏姫は言葉以上の気持ちを瞳に浮かべてる。

 それに面倒臭いと言ってるときの僕も、同じように彼女のことを想ってる。

 そんなときと同じような感情が、ショージさんの瞳に浮かんでいる気がしていた。

「あのとき、疑似脳はテスト稼働直前まで来てたんだ」

 想い出話を続けるショージさんは、目を伏せる。

「研究室全員で脳情報を補完するはずだったが、結局俺と先輩しか脳情報は取れなかった。俺はたいしたことがなくて、俺の分の情報は一パーセントも入っていないがな。それでも先輩の情報をメインに、稼働の一歩手前まで来てたんだ。あるいは、先輩が死ぬ前日、夜遅くまで収集してた情報で、稼働できてたかも知れない。……まぁ、先輩が死んだ途端、魔女に脳情報は全部持って行かれちまったんだがな」

 深くため息を漏らした後、ショージさんは苦笑いを浮かべながら顔を上げた。

「用途がなくなったシステムだけが残った形だが、当時から改良案は出てたし、解散になった後も頭の体操程度に考えてはいたから、更新によってより人間に近接できるものができるはずだ」

『凄いのができるんだねっ。面白そうだなぁ』

「半年後にはリーリエが使うんだぞ。他人事じゃないんだからな」

『うんっ、そうだねぇ』

 最後はごまかされた感じになったけど、何となくわかったことがあるような気がしていた。

 いまはまだ、はっきりとはしないけど。

「それからショージさん――」

「ちょっと待て」

 次の話題を振ろうとしたところで、僕の口をふさぐように広げた手を伸ばしてきたショージさんに止められる。

「なんでお前は、魔女と戦ってるんだ?」

 射貫くような強い視線で言うショージさんに、僕はこれ以上ごまかせないことを知った。

 クリーブの発表は、どの程度、どんな意味を持つのかはわからないけど、平泉夫人のモルガーナへの攻撃であることはわかっていた。

 モルガーナを知り、いま僕たちの裏で彼女が暗躍しているとわかっているショージさんが、夫人の攻撃に気づかないはずがない。

 近々本格的に追求されるのはわかっていたから、適当に煙に巻いて説明を先延ばしにしようと思っていたけど、無理だったらしい。

「平泉夫人と組んで、夏姫ちゃんや、他にも何人か友達巻き込んで、お前は魔女狩りでもするつもりか?」

「……」

 椅子から立ち、眼鏡越しに僕を睨むショージさんからは逃げられそうにない。

 でも、話すわけにはいかない。

 モルガーナはいまのところ、エリキシルバトルの裏側で暗躍するだけで、直接的な動きは見せていない。でも終盤戦に入ったこれからは、最後までそのままでいてくれるかどうかはわからない。

 僕たちバトル参加者に対しては、よほどのことがない限り仕掛けてきたりはしないと思う。でもショージさんのような、部外者に対してどうするかは不明だ。

 平泉夫人みたいに、元からバトルのことを知ってて、自分から首を突っ込んできてるなら別だけど、いまのところ無関係なショージさんを、このタイミングで関わらせたいとは思わない。

 だから僕は、何も話せない。

 ――でも、本当にそうなんだろうか?

 もう過去のことのように思えるけど、人工個性のことを考えたら、ショージさんとモルガーナにはまだ何か接点があるような予感もしていた。

「リーリエ! お前も知ってるんだろ?! 克樹はいったい何をやってるんだ?」

『……おにぃちゃんが何も言わないなら、あたしも何も言えないよぉ』

「ちっ。克樹!」

 伸ばされた手がテーブル越しに僕の襟首をつかもうとしたときだった。

『でもね、ショージさん。おにぃちゃんも、同じなんだよぉ?』

「同じぃ?」

 リーリエの不可解な言葉に、ショージさんの手が止まる。

『うん! ショージさんがおにぃちゃんを心配してるように、おにぃちゃんはショージさんが心配なんだよっ』

「……俺の?」

 怒りを少し和らげ、不審そうな目を向けてくるショージさんに、僕は言う。

「うん……。たぶん、モルガーナに関わるのは命がけになると思う。僕や夏姫、他の関係者は、完全にではないけど、ある程度の覚悟はできてる。それができるくらいのものが手に入るはずだから。でも、ショージさんには関係がない。もしいま話して巻き込まれることになったら、僕はショージさんを守れる自信がない」

「守るって、てめぇ……」

『それくらいの強さはあるんだよ、いまのおにぃちゃんにはね! もっちろん、凄く限定された力だけどさ』

 リーリエのサポートを受けた僕は。ショージさんの困惑した色が浮かぶ瞳を見つめる。

「たぶん、もうすぐ話せるようになると思う」

「それは終わりが近いってことか?」

「うん。早ければ今月か、来月にも決着がつくかも知れない」

 怒っているのとも、迷っているのとも違う、微妙な表情を見せるショージさん。

「……今月末にゃあ、全部話してもらうぞ」

「わかった」

 今月中に決着がつく確信はなかったけど、ショージさんもそこが妥協点だったんだろう。

 困惑と、心配と、まだ残る怒りが混じり合った視線を向けてくるショージさんは、大きなため息を吐いた後、椅子に置いていた鞄を手に取った。

「本当だったらすぐにも止めたいが、あいつに一度関わったらヘタに引きはがす方が危険だろうからな。お前から関わっていったんだろうし。だから、引き際は間違えるなよ。それと、夏姫ちゃんとか、友達とか、大切なものだけは手放さないようにしろよ」

「うん」

 LDKから玄関に出て靴を履き、振り向いて言うショージさんに、僕はできるだけ力強く頷きを返していた。

『だぁいじょうぶだよ! おにぃちゃんにはあたしがいるんだからねっ。みんなのことも、おにぃちゃんのことも、あたしが守るよ!!』

「……頼むぜ、リーリエ」

『うん!』

 リーリエの力を知らないだろうショージさんは、でも微笑みを浮かべていた。

「じゃあな。月末にはまた来る」

「うん」

『じゃあねぇ』

 僕とリーリエの声に送られて、険しい表情を残しつつショージさんは帰っていった。

 ――この戦いはもうすぐ終わる。

 LDKに戻りながら、僕はそんなことを思っていた。

 まだ残りふたりの敵の影すら見えてないけど、終わりが近いのだと、そんな予感がしていた。

 どんな形で決着がつくかなんて想像もできない。それでも僕はそう思えて仕方がなかった。

 

 

 

 洗い物を終えて作業室に入る。

 バトルのこととか、夏姫たちのこととか、まだ見ぬ敵とか、モルガーナとか、ショージさんのこととか、いろんなことを抱えてフルメッシュの椅子にどかっと身体を預けた。

「リーリエ」

 スタンドに引っかけてある愛用のスマートギアに手を伸ばしながら、リーリエに声をかける。

「……あれ?」

 いつもならすぐに返事くらいあるはずなのに、反応がない。

 充電台に置かれたアリシアも動く様子はなく、リンクしていないようだ。

「裏で何かやってるのか?」

 リーリエは意外と集中力が高くて、何かに熱中すると緊急メッセージ以外には反応しなくなることもある。

 そんなだからあんまり気にしないことにして、バンドの調子を整えて被ったスマートギアのディスプレイを下ろした。

「わぁ!」

 その途端に鳴り出す着信音。

 驚いて思わず声を上げてしまった僕がよく見ると、スマートギアの視界内に現れた着信表示は、エイナとなっていた。

「リーリエ!」

 もう一度呼びかけてみるけど、やっぱり反応がない。

 ――また、魔法を使ったとか言うんだろうか。

 エイナから着信があったときは、リーリエの反応がなくなる。その原因は未だに解明できていなかった。

 このタイミングでエイナからの着信に出ないわけにはいかないだろう。

 次にかかってきたときのためにと用意しておいた、高レベルのセキュリティセットと数種のログ収集アプリを立ち上げてから、僕は視界内に現れている通話開始ボタンに、思考でポインタを操作してタッチした。

『遅いですよっ、まったくぅ』

 頬を膨らませながら通話ウィンドウに現れたバストアップのエイナは、躊躇なくそこから出てきて、スマートギアの仮想視界に全身をさらした。

『……なんか、大きくなってる?』

 ぱっと見の変化に、僕はイメージスピークで疑問を口にする。

 これまで二度こうして会ってきたエイナは、エルフドールの標準サイズやエリキシルドールと同じ、一二〇センチ程度の身長だった。

 けど今日現れ、椅子の側で僕に微笑みかけてくる彼女は、ヒールのある靴を除いても一五〇センチ前後ありそうだった。灯理と同じくらいの身長だ。

『えぇ。サイズはいまメインで使っているドールのサイズに合わせているんです』

 ステージ衣装にしてはデザインも色合いも地味だけど、普段着と言うには飾りの多い服でスレンダーすぎる身体を包み、ふんわりと膨らむピンク色のロングヘアを揺らしているエイナ。

 ――しかし、このタイミングで現れるか……。

 最初に彼女と会ったのはバトルに誘われたとき。

 二回目は、横目で見るだけだったライブ会場を除くと、中盤戦のタイミング。

 そして今回は、終盤戦に入ったいま現れた彼女。

 僕は彼女に聞きたいことが、無数にあった。

『エイナ! 君は――』

『ダメです』

 荒々しくぶつけようとした言葉は、エイナの人差し指でふさがれた。

 いや、いまの彼女はスマートギアの視界の中だけの、仮想の存在。アバターだ。

 現実に身体を持って現れたわけじゃない。押し当てられた指の感触もない。

 だからそのまま言葉を続ければよかったのに、にこやかな笑顔を視界いっぱいまで近づけて、感触はないのに細く綺麗な指を唇の辺りに添えられ、僕は思わず黙ってしまっていた。

『聞きたいことがたくさんあるのはわかっています。でも、いまここで、わたしは話すわけにはいかないんです』

『でも――』

『代わりに、というのとは違いますが、わたしは今日、克樹さんにお願いがあって、こうして現れたんです』

『……お願い?』

 やっと身体を少し離してくれたエイナは、何となくぎこちない感じがする笑みを浮かべ、微かに頬を染めながら、ひと言ひと言をしっかり発音して言っていた。

 続きの言葉があると思うのに、エイナは息を飲むように口を開けて閉じた後、何も言わない。

 緊張してるみたいに握った拳を胸に当て、言いたい言葉を言おうと、勇気を振り絞ろうとしてるように見える。

 ――いったいなんなんだ?

 もしかしたら、という思いが過ぎり、僕が先にエイナに声をかけようとしたとき、目をつむって叫ぶようにして、彼女は言った。

『わたしとっ、デートしてください!』

「……え?」

 予想外すぎるお願いに、イメージスピークも忘れて、僕はぽかんと口を開けてしまう。

『もちろんっ、いまのようなスマートギアの中の映像だけ、というのではありませんっ。さすがに持っていないので生身の身体で、というわけにはいきませんが! ……でも、実体のわたしと、デートしてほしいんです』

 最初は早口に、最後は声が細くなりながら、エイナは言い終えた。

 それから、胸を押さえてる右手と、ミニスカートの裾をつかむ左手とを細かに震わせ、うつむいてしまう。

 恐る恐るといった感じで、少し上目遣いに僕のことを見つめてくる彼女は、まるで好きな人を初めてデートに誘う、本物の女の子のようだった。

『ダメ、ですか?』

『えぇっと……』

『本物の身体は持っていなくても、これでもアイドルですよ? わたしは。アイドルとデートできる機会なんて滅多にないですよ?! あの……、わたしとじゃ、イヤ、ですか?』

『イヤでは、ないけど』

『だったら決まりです!』

 ぱぁっと表情を明るくしたエイナは、スカートの中から仮想のメッセージカードを取りだし、押しつけてくる。

『それでは明日の午後、その場所で!』

『明日ぁ?』

『ダメなんですか?!』

『ど、どうにかなるけど……』

 明日は夏姫が来る予定があるけど、悲しげな表情を視界いっぱいに近づけられて、そう答えてしまっていた。

『よかったです!! では明日、よろしくお願いします!』

 嬉しそうな笑みを浮かべる顔を真っ赤に染め、エイナは止める間もなく通話ウィンドウの向こうに姿を消した。

 通話終了に切り替わった表示を、僕はただ呆然と眺める。

「……いったいなんだったんだ」

 カードに書かれた場所と時間を見る僕は、取れてるはずのログを呼び出すのも忘れて、エイナが残していった嵐の余韻に浸っていた。

 

 

 



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第五部 第三章 ヴォーテックス
第五部 撫子(ラバーズピンク)の憂い 第三章 1


 

   第三章 ヴォーテックス

 

 

          * 1 *

 

 

 ――どうしてこんなことになったんだ……。

 昔から縁の深い秋葉原でも、夏姫につき合って行く中野でもない、池袋の街に立ち、僕は額に手を当てて深いため息を吐いた。

 昨日あの後、結局エイナのログはほとんど取れておらず、リーリエに話したら『エイナみたいなアイドルとデートなんていいなぁ』と言われ、なんかよくわからない間に行く流れになっていた。

 今日も昼くらいには来る予定だった夏姫には不在の連絡を入れ、いそいそと準備をして池袋くんだりまで出張ってきた。

 夏姫とは一緒に買い物に行く約束だったから、悟られないかとちょっと冷や冷やしたけど。

 どうやら僕がいなくても、彼女は僕の家に来て細かいことをやるつもりらしい。ありがたいことだけど、なんか申し訳ない。

 ――まぁ、リーリエに声かければ家に入れるけどさ。

 思うところがいっぱいあって、ため息ばかりが漏れてくる。

 友達や恋人と待ち合わせをしてるらしい老若男女でごった返す、池袋の有名な待ち合わせ場所。

 地下にあって、乾燥注意報が出るようになったこの時期でも若干ジメッとしてるそこで、僕はカビのように壁に貼りついて待ち合わせの人物を待っていた。

 本当に来るのだろうか。

『今日はあたしは邪魔しないから、いっぱい楽しんでねっ』

「おい、リーリエ!」

 基本的には僕の邪魔をしないリーリエだけど、夏姫たちと過ごしてるときは茶々や突っ込みは入れてくるのが常だ。

 それなのに、今日はそんなことをするつもりはないらしい。

 耳に引っかけたカメラ内蔵のイヤホンマイクに潜めた声で呼びかけても、返事をしてくれなかった。今日こそは茶々を入れてくれた方が楽だと思うのに。

 ――本当に、どうなるってんだ。

 エイナとデートなんて、不安を抱えきれなくなりそうだ。

 彼女はモルガーナの手先。

 油断をしていたらどんなことになるのかわかったもんじゃない。それと同時に、僕は彼女に聞きたいことが数え切れないほどあった。

 そして、認めたくはないけど、ほんの少しだけ期待があるのも、確かだった。

 ここに来てため息の数がふた桁を数えた頃、待ち合わせの時間ぴったりにそれは現れた。

「ごめんなさい、お待たせしてしまいましたね」

 地味で野暮ったい大きめのダッフルコートを羽織り、しかし焦げ茶のミニスカートから伸びる、黒タイツに包まれた長い脚はなかなかの引き締まり具合を見せる。

 髪と一緒に正体を隠しているハンチング帽を目深に被り、厚底の靴で灯理よりもちょっと背が高く感じる彼女は、濃いめのサングラスをズラしてすまなそうな表情とともに、瞳の模様が描かれたカバーに覆われたカメラアイを僕に向けた。

「なんでそんな格好なんだ」

 いくらなんでも野暮ったすぎるエイナの格好に、僕は思わずそう指摘してしまっていた。

「せっかく生まれて初めてのデートなんですから、今日はステージ用に開発された試作型のエルフドールで来たんですよ? さすがに克樹さんと歩くのに、一二〇センチや一三〇センチのボディでは釣り合わないですから。実体としてはわたしはエレメンタロイドですけど、このボディは目立ちますからね、仕方ないです」

 言われてよく見てみると、帽子から少しだけ覗いてるほつれ髪は綺麗なピンク色。そんな髪をしてる現実の人間なんていないわけで、帽子を取ったらアッという間に注目を集めそうだ。

「はい、これ持ってください」

 不満そうに頬を膨らませるエイナは、そう言って僕にけっこう大きなトートバッグを押しつけてくる。

 肩に掛けてみると、ずっしりというレベルを超えて、はっきり言って重い。

「……何が入ってんだ、これ」

「予備の給電用バッテリですよ。これがなければわたしは長時間の活動ができませんからね。わたしの正体を知り、それでも一緒に街を歩いてくれる人は希少なんです。今日は克樹さんとしっかりデートしたかったですから、ちゃんと準備してきたんですっ」

 言って視線で示す彼女の背のリュックにも、その重そうな動きからすると、予備バッテリが入ってるらしい。

 ――でも、僕を今日呼び出したのは、それだけが理由じゃないよな。

 これまでの数少ない接触のときの様子を考えると、違うような気も若干するけど、敵の手下であるエイナはやはり敵だ。それを忘れちゃならない。

 眉間にシワを寄せ、うつむきながらそれを心に刻みつけた僕は顔を上げる。

 目の前にあったのは、満面の笑顔。

「さ、行きますよ、克樹さん。今日は一日、わたしにつき合ってもらいますからね!」

 いつの間にか顔を近づけてきていたエイナにウィンクされ、僕の心臓は大きく脈打つ。

 ――彼女は、エルフドールだっ。

 そう自分に言い聞かせて、僕はまだ早い鼓動と背中にかいた冷や汗を押さえようとする。

 ――でもあの笑みは、エイナがつくったものだよな。

 サングラス越しのカメラアイには僕は映っていなくても、その可愛らしい笑みは、リーリエが見せるのと同じように、人工個性のエイナが見せたもの。

 なんだか僕は、エイナのことがこれまで以上にわからなくなっていた。

「早くしてください、克樹さん。時間は有限なんですよっ」

 これまで知らなかったけど、どうも夏姫以上に口うるさそうなエイナは、地上へと上がる階段に足を掛けながら、その愛らしい頬を膨らませている。

 ――今日一日一緒にいれば、少しはわかることもあるか……。

 そんなことを考えながら、僕は予備バッテリの入った鞄を肩に掛け直し、エイナの後を追って階段を上り始めた。

 

 

             *

 

 

「食事も用意してありますので、どうぞご歓談をお楽しみください」

 舞台に立った司会の男性は笑顔でそう言い、深く礼をした。

 それを合図に控えていたボーイたちは、お盆に乗せたドリンクを会場に集まった人々に配り始める。中央に準備された料理の蓋が次々と開けられ、香ばしい匂いとともに立食パーティが始まった。

「少しお腹が空いたわね」

 平泉夫人はそうつぶやき、アルコールの入ったグラスを勧めてきたボーイに手を振って断って、食事のあるテーブルへと向かった。

 発表会を兼ねたパーティとしては珍しい、休日の開催。イレギュラーであるためか開催時間は早く、窓から見える外はまだ明るい。

 スフィアドール関係で、ロボット関連企業としても老舗が主催した関係者向けの会は、昼には遅く、夕食には早い時間に始まった。

 談笑しながら色とりどりの、様々な食事の大皿が並ぶテーブルを回っていく人々の列に加わり、夫人は白い皿を手に取って、肉やパエリヤなどの少し重めの料理を盛る。

 二〇〇人を超えているだろう参加者は、思い思いの場所で楽しそうに会話を弾ませ、かなり奮発したらしく素材も味つけも申し分のない料理に舌鼓を打つ。

 知り合いと軽く挨拶や話をして過ごす平泉夫人は、しかし早々に会場の端に寄り、壁の花となった。

 いま、平泉夫人はひとりであった。

 いつもならばこうした場には芳野を連れてくるが、想定よりも参加率が高かったパーティには、直接の招待客以外は入れなくなっていた。

 ――そろそろ、あの子もこうした場に正式にデビューさせなくてはね。

 甘いカクテルの入ったグラスを傾けながら、夫人はそんなことを思う。

 芳野はそうしたことを望んでいないかもしれないが、彼女には素質があり、夫人は彼女が自分とともに立つことを望んでいた。

 いまの芳野に望むのは難しいことであるのは、わかっていたが。

 ――でも未来はわからない。

 つらい過去を持ち、頑なだった芳野にも変化はある。

 けっしていつまでも出会った頃の彼女ではないことを、夫人は側にいて気づいていた。

 口元に笑みを浮かべた夫人は、会場の熱気とアルコールで火照りを感じる身体を冷やすため、壁から離れる。

 こうしたパーティを開く場所としては珍しく、会場から出られるテラスがあり、夫人は自分に注目している人がいないのをちらりと確認してから、扉となっている大きな窓を小さく開けて外に出た。

 日が傾き始めた外は、まだ早い冬の寒さに曝されているが、胸元の開いた黒のドレスであっても、火照った身体にはちょうど心地いいくらいだった。

 ここでも談笑ができるようテーブルや椅子が置かれているが、肌寒さのためかいまは人影はなく、夫人はテラスの端までゆっくりと歩を進める。

 ――早く終わらないかしらね。

 空になったグラスを幅広い桟の上に置き、夫人は苦笑いを浮かべる。

 なんだか芳野の顔を見たくて仕方がなかった。

 いま彼女はいつものようにメイド服を着、行き交う人々の好奇の視線を受けつつも、会場の入り口の前で夫人が出てくるのを静かに待っていることだろう。

 もしかしたらスマートギアを被り、情報収集や雑務をしているかも知れない。

 頭の中に浮かんでくる芳野の様子に笑みを浮かべる平泉夫人は、晴れ渡る空を仰いでいた。

 そんなとき、もうひとりテラスに人が出てくる音がした。窓の開閉。

 ヒールの足音からして、出てきたのは女性。

 空から視線を落とした夫人は、近くまで寄ってきた足下の主に目を向けた。

「お邪魔だったかしら」

「いいえ。そろそろだとは思っていたけれど、ここでとは思っていなかっただけよ」

 努めて冷静に、夫人は近づいてくる赤いビジネススーツの女性を見る。

 血のように紅で彩られた唇の片端をつり上げて笑む女性は、夫人の隣に立ち、ウィスキーのグラスを差し出してくる。

 受け取って笑みを返す平泉夫人は、心の中で気持ちを引き締めた。

「なんと呼べばいいかしら?」

「どうとでも。最初の名前など、遥か昔に失われているわ」

 ひと目でわかった。

 初対面であるにも関わらず、平泉夫人は自分のグラスを大きく傾けている女性の正体を、一瞬で理解した。

 彼女の放つ雰囲気は、輝かしいばかりの熱を持った紅。

 そして同時に、深淵の底から汲み上げてきたかのように昏い。

 人の姿をしているのに、纏う雰囲気は人間のものと思えないほどエネルギーをはらんでいた。

「お目にかかれて嬉しいわ、モルガーナさん」

 笑みを浮かべているのに、モルガーナの肌からピリピリと感じるのは、敵意。

 それに気圧されないよう目に力を込め、夫人はそう挨拶した。

 実際の年齢よりも若いと言われ、黒真珠と字名される夫人だったが、モルガーナの姿はそんなことはどうでもいいことのように思える。

 本当の年齢はわからず、少なくとも数百歳である魔女は、二〇代半ばほどにも、三〇を超えているようにも、そして一〇〇歳を超えていても不思議ではないくらいに思えた。

 身体つきだけならば、性的な魅力を赤いスーツで覆うだけでは隠しきれないほどだったが、しかし彼女が放つ空気はそれを打ち消すほどに紅く、昏い。

 敵意を向けてきつつも楽しそうに笑むモルガーナは言う。

「嬉しいのはこちらも同じよ。お目にかかれて光栄だわ、平泉夫人」

 にっこりと笑み、彼女は言葉を続ける。

「私のことを知りながら、この私に宣戦布告を突きつけてきたのは、ここ百年では貴女が初めてよ」

 笑みの形につり上げられた紅い唇に、平泉夫人は背筋に冷たいものを感じていた。

 

 

 



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第五部 撫子(ラバーズピンク)の憂い 第三章 2

 

 

          * 2 *

 

 

 分厚いアクリルに顔を近づけて、エイナは難しい顔でその向こう側を眺めている。

 薄暗く点けられた照明の下、彼女がいま眺めているのは、エビかカニの一種。

 行きたい場所があると言って連れてこられたのは、何故か水族館だった。

 夕方が近づいてきて家族連れは少なくなり、それでもまだ多いお客さんは主にカップル。

 正体がバレないように野暮ったい格好をしてるのが玉に瑕であるが、なんでか僕は、エイナが言った通りデートをしてるような感じになっていた。

「克樹さん、克樹さんっ。凄いですね。これも生きてるんですね」

「うん……」

 水槽から目を離さず手招きしているエイナに近づいて、並んで僕もそれを眺める。

 ゆったりと水の流れに身を任せ、時々手足を動かしていたりする、エビともカニともつかない生き物。

 確かに凄いと思うけど、そんなものを眺めて驚きと嬉しさを顔から放っているエイナの方が、なんだか凄く思える。

 人工個性として生まれ、アイドルとなり、エルフドールで活動しているエイナは、その行動範囲はステージとその周辺に限定されてたことだろう。

 自分の目、と言えるかどうかは微妙だけど、こうしてエルフドールの身体を持って、深海の生き物を眺めるのは、確かに珍しい体験だと思う。

 だからと言ってこんな普通の女の子と、普通のデートをしているようなシチュエーションに、僕は頭を抱えたい気持ちになっていた。

 ――エリキシルバトルの話でもするのかと思ってたのに……。

 デートとは言いつつも、今日僕を呼び出したのは、エリキシルバトルに関する話があるからだと思っていた。

 それなのに、この水族館に来る前は、いまいる高層ビルの地下にあるファンシーショップを何軒も連れ回されたりして、僕は慣れない雰囲気と最初に抱えていた緊張に、すでに疲れてきていた。

 ――本当に、言葉通りエイナは僕とデートがしたかったのか?

 じっくりひとつの水槽を眺めた後、僕の服の袖をつかんで引っ張りながら、隣の水槽へと移動していくエイナ。

 引っ張られるまま彼女に着いていく僕は、そんなことを考えてしまっていた。

 ――でもそんなはずは、ないよな。

 光の反射で輝いているように見える、サングラス越しのエイナのカメラアイ。

 そんな横顔を眺めながら、僕は自分の考えを否定していた。

 過去最長の時間を使って水族館を回り終わった後、次に行きたい場所と言って連れて行かれたのは、ビルの地下にあるショッピングモール。

 老若男女、様々な人がたくさんいて寄ってしまいそうになる僕の手を引き、エイナはすでに確認済みらしい目的地へ脇目も振らず急ぐ。

 ――どこ行くつもりだろ。

 なんて思っていたら、彼女が立ち止まった一軒の店。

「克樹さんは何にします? ここは奢りますよ」

「……」

 楽しそうに笑顔を浮かべてエイナが見ているのは、カウンターの上にはめ込まれたメニュー。

 いま僕たちがいるのは、クレープ屋の前。

「……じゃあ、カスタードクリームチョコで」

「はい。んーーーっ。目移りしてしまいますね。でもそうですね、わたしはアイスイチゴチョコにします。すいませーんっ」

 店員に声をかけて注文を告げるエイナ。

 ――エルフドールがクレープなんて頼んでどうするんだ。

 別に甘いものは嫌いじゃないけど、さすがにクレープふたつはつらい。

 そんなことを思ってる間にできあがったクレープを受け取り、エイナは僕に片方を渡して、近くのベンチへと向かった。

「んっ。美味しい!」

「……へ?」

 僕と並んで座った途端、エイナは大きな口を開けてクレープにかじりついた。

 それを見て、僕は間抜けな声を出してしまう。

 もぐもぐと咀嚼し、口の中のクレープを飲み込むエイナ。

 こくりと、喉が一瞬膨らんで、確かにクレープがそこを通っていったんだろうというのがわかった。

「ふふふっ。驚いていますねっ」

「……そのボディは、ストマックエンジンを搭載してるのか」

「その通りです。もちろんスメルセンサーもですよ。HPT製のものを仕入れて組み込んであります。メインはステージ用途ですが、わたしの発案で、例えばバラエティ番組などにも出演できないかということで、試験的に様々な機能を搭載しているんです。その辺りは開発に関して垣根のない考え方をするところなので、自由度が高くて助かります」

 効率を優先でもしてるのか、デザイナーのこだわりなのか、膨らみを感じさせない胸に手を当てて、エイナはそう話してにっこりと笑む。

「そちらのもひと口くださいね」

 言って彼女は僕の了解も待たずに、首を伸ばしてカスタードクリームチョコのクレープにかじりついてきた。

「んっ。トッピングがたくさんあるのも美味しいですけど、シンプルな味のもいいですね。ありがとうございます」

 にっこりと笑う彼女は、アイドルだからなのか、それともそれが彼女だからなのか、魅力的な女の子に思えた。

 ――これ、どうしよう。

 エイナの歯形が残ったクレープを見下ろし、僕はしばし悩む。

 別に本当の女の子じゃなくて、エルフドールのものなんだから、気にする必要はないはずだ。

 でも何となく、女の子の歯形がついたクレープを食べるというのは、ためらいが出る。

「こういうのは、克樹さんは苦手ですか?」

 僕の顔とクレープを交互に眺めて、なんだか意地悪そうな顔をしてるエイナ。

「別に、エルフドールの歯形くらい気にしないよっ」

 そう答えて、僕は自分のクレープにかじりついた。

「こんな風に、普通に、……普通の女の子のように、街を歩いてみたかったんです」

 自分のクレープをもう一口食べ、ゆっくりと咀嚼してから飲み下したエイナは、生クリームをつけた唇に笑みを浮かべてそんなことを言う。

「食事もできるこの身体であれば、男の子とデートしても、本当の恋人同士のように、一緒に同じことをして過ごせます。だから、このボディが完成する前から、誰かと歩きたいと思っていたんです」

 柔らかく、でもどこか悲しげに笑み、エイナはそんなことを言う。

「誰かと、だったんだ」

「あ、いえ! それはその、実現できるかどうかわからなかったので、誰となんてことはそのときは考えられなかったので……」

「いいけどね」

 言って僕は、エイナの唇の端に着いてる生クリームを指で拭って、一瞬悩んでから自分の口で舐め取った。

「か、克樹さん……。ありがとうございます……。でもそれはちょっと、わたしでも恥ずかしいです……」

 たぶん、僕が少し前に設計に関わったエルフドール用のヒューマニティフェイスを搭載してるんだろう。

 耳の辺りまで赤くしたエイナは、うつむいてしまう。

「……ゴメン」

 食べ終えたクレープの包み紙を手の中で弄びながら、思ってもみなかったエイナの反応に、僕はそれ以外の言葉が出てこなかった。

「ふふっ。冗談です。ちょっと驚いたのは、確かですけどね」

「くそっ」

 にっこり笑って顔を上げたエイナに、僕はまんまとだまされたことを知った。

 ――いや、そうなのか?

 エイナの反応が、人工個性の感情の発露によるものだったのか、それともただの演技だったのかわからなかった。

 でも僕は、前者だと思うことにした。

「克樹さんにお願いしてよかったと思っていますよ」

 大きなサングラスで顔の半分近く隠れてる感じがあるエイナは、そう言って僕に微笑みかけてくる。

「でも驚かせたバツです。残りは任せました」

「……えぇー」

 手渡された、三割ほど食べただけのアイスイチゴチョコクレープ。

「ストマックエンジンは人間の胃ほど効率のいいものではないんです。これひとつを全部食べ終えられないのは、本当に残念です」

 微笑みながら言うエイナは、でもその声に、微かな悲しみがこもっていた。

 

 

 

「わたしには、大きすぎる夢だと思っていたんです」

 クレープを食べ終え、僕たちは地下から地上に上がり、道路に出た。

 どこかに向かっているのか、エイナは高層ビルの裏側の、人通りの少ない道を歩く。

 後ろで手を組み、数歩離れた僕の方を見ながら後ろ向きで、少し芝居がかった歩調のエイナ。

 まだ空には明るさが残っているはずだけど、繁華街とは反対側のここには、街灯と、車のヘッドライトしかない。

 そんな道をふたりきりで歩きながら、僕は涼やかなエイナの声に耳を傾ける。

「いつか好きな人と街を歩いて、こうやって過ごすことは、わたしの夢だったんです」

 立ち止まった彼女は、サングラスを取り、笑う。

 僕はそんな彼女の顔を、ただじっと眺めていることしかできなかった。

 微笑みかけてくれる彼女は、でも僕のことを見ていない。

 誰か、僕ではない人のことを見ているような、そんな気がする。

 ――まるで、エイナには誰か好きな人がいるみたいだ。

 肉体を持たず、ネットを漂うことはできても、現実では行動を制限されてきたはずの彼女に、そんなことがあるのかどうかはわからなかったけれど。

「けれどわたしは精霊、エレメンタロイド。本来身体を持たない電子上の存在。もし、妖精にでもなれればその夢は叶うかも知れませんが、たぶん無理でしょうね」

「それはどういう――」

「ふふっ」

 笑っているのに、いまにも泣きそうな、エルフドールではなく、本当の女の子だったら涙を浮かべていそうな表情で、エイナは人差し指を押し当てて僕の言葉を遮った。

「もうひとつ、行きたい場所があるんです。着いてきてもらえますか?」

「……うん」

「ありがとうございます」

 寂しそうに、悲しそうに笑うエイナ。

 稼働開始からいいところ四年か五年の彼女は、けれどどこか大人びた笑顔で、僕を次の場所へと誘う。

 

 

             *

 

 

「人前に姿を現さないのが貴女のやり方だと思っていたのだけれど」

 隣に立ち、不適な笑みを向けてくるモルガーナに、夫人は目を細めながら言い放つ。

 気にした風もなく、モルガーナは笑みを崩さない。

「そんなことはないのよ。普段は表に出る必要がないだけのこと。必要があれば、私は誰の前にも姿を晒すわ」

 切れ込みを入れたように、紅い唇がさらにつり上がる。

「とくに、貴女には直接会っておきたかったのよ。久々に、邪魔な小石ではなく、敵として認識した相手だったからね」

 背筋を滑り落ちていく汗に、平泉夫人は唇を噛む。

 これまで、話す相手が政界や財界の重鎮であっても、ある国の貴族や王族でも、礼節をわきまえつつ余裕を持って話すことができていた。

 しかしいま目の前にいる魔女には、そんな余裕はひと欠片も持てない。

 事前に情報を得、話すときは相手の目を見ていれば、対峙する人の内を推し量ることができた。

 魔女の瞳はどこまでも昏く、その底が見えない。

 見つめている間に絶望の淵から転がり落ちていくような、そんな錯覚を覚える。

 考えていることは読み取れても、その裏側にあるドロドロとしたものに身体が冒されていくような感触を覚える。

「聞いてみたかったのだけれど、貴女は何故、私に攻撃をしてきたのかしら?」

「……未来のためよ」

「さして長くも生きられない人間の身で、未来に期待するものなどあるの?」

「私は、人間が好きなのよ。決して綺麗なものばかりを持ってる人が多いわけではない。たいていの人は、ひと皮むけば醜い本性が露わになる。それでも、人間はそれだけの存在ではない。だから、私は人間という種族が好きなのよ」

 顔だけを向けていたのを、身体ごとモルガーナに向け、わずかに背の低い彼女の目を真正面から見据えて、平泉夫人は言う。

「そして、私が生きていられるそう長くない時間と、私の知り合いや、その子供たちが生きている間くらいは、できるだけ明るい未来にしておきたいと、私がこれまで受け取ってきたものを後に生きる人たちに返したいと思っているのよ。もし、それが叶わない状況が発生するとしたら、私が生きている間にその兆候が見えるわ。私は私の願いのために、邪悪の芽を摘みたいだけ」

 底知れない昏い笑みを浮かべるモルガーナに、平泉夫人は問う。

「逆に、無限とも言える時間を持つ魔女は、それ以上なにを望むというのかしら? これまで長い時間を過ごしてきて、まだ望むものがあると言うの?」

「……。不老の身体を得ていても、不変ではないのよ」

 少し躊躇うように言葉を濁したモルガーナ。

 細められたその目には、それまでの見通すことのできない闇ではなく、揺れる感情が見て取れる。

「自分が認識できない不変など、面白くないわ。それでは意味がないのよ」

「どんなに長く生きていても、人の身でありながら、認識できる不変を求めるというのは、不相応ではないかしら?」

「私は生まれつきの魔女よ。人間とは違うわ」

「生まれつき?」

 平泉夫人が零した疑問に答えることなく、桟に預けていた背を離し、魔女は正面を向いた。

「貴女には、私に協力する気はないかしら?」

 突然なにを言い始めたのかと思う平泉夫人は、眉間にシワを寄せる。

「貴女はとても有能で、貴女の協力は私の計画を加速させることができると思うわ。その報酬として、私は他の誰にも支払うことのできないものを与えられる。例えば、すぐにというわけにはいかないけれど――」

 両方の唇の端を、裂けよとばかりにつり上げ、モルガーナは言う。

「最愛の人の、復活とか」

 身体が震えた。

 収まらない震えをどうにかするために、テラスの桟を左手で鷲づかみにする。

 強く、強く、爪が割れる音が聞こえてきてもさらに強く、平泉夫人は、握りつぶすつもりで手に力を入れる。

「貴女は、人間の未来にとって、排除すべき魔女。けれど私にはもうひとつ、貴女と敵対する理由がある」

 伏していた顔を上げ、涙を溜めた目で魔女を睨みつける。

「貴女は、私が唯一愛した人の死を冒涜した! 不幸を嘆き、受け入れて、最期まで精一杯生きたあの人の死を汚したのよ!! 永遠の命を持つ貴女にはわからないことでしょう。けれどそれは、私にとって、あの人と過ごした時間のすべてを汚したことと変わらないのよ!」

 もう恐ろしくはあっても、怖くはない。

 魔女のことを上から睨み下ろす平泉夫人は、彼女が放つ紅く昏い気配を物ともせず、凜然と立つ。

 その視線を受け止めるモルガーナは、けれども笑みを絶やさない。

「決裂ね。残念だわ」

 静かに言ってグラスの中身を飲み干したモルガーナは、夫人に背を向けた。

「――ひとつ、聞きたいのだけれど」

「何かしら? いいわよ。いまはとても気分がいいの。答えられることならば、何でも答えるわ」

「魔女に生まれついたとしても、その身が人と大きく変わらないのであれば、不滅など望み得るものではないわ。貴女は、いったい何をしようとしているの?」

 まだ胸にくすぶる怒りをできるだけ抑えつつ、平泉夫人は平静を装って問うた。

 楽しさを隠しきれないように微笑んだモルガーナは、踵を返して近寄ってくる。

「これはまだ、克樹君にも、翔機にも、他の誰にも話していないことよ。貴女にだけは話すわ」

「えぇ」

 爪を紅く塗った右手を肩に乗せて来、背伸びをして口を耳に寄せてきた魔女は話す。

「――――」

「……まさか、そんなことが?」

「信じる必要などないわ。これは私が実現することなのですからね。その可能性を見出してから、私はこのために生きてきたのよ。誰にも邪魔させないわ。もちろん、貴女にもね、平泉夫人」

 肩を軽く叩いた後、モルガーナは振り向くことなくテラスからパーティ会場へと消えていった。

 驚きに表情を固める平泉夫人は、ただその背中を眺めていることしかできなかった。

 

 

             *

 

 

「ふむ……」

 リビングのソファにだらしなく身体を預け、彰次は時間を持て余していた。

 クリーブの発表という大きなイベントは終わり、その後に来た仕事も昨日で概ね片づけ終えた。

 月曜になればまた新たな仕事が来ているだろうし、進めなければならない研究も、人工個性システムの刷新もある。

 けれど夕方が迫ったこの時間、新しいことをやるには中途半端で、セーターにジーンズとラフな格好の彰次は、何もやる気が起きず、ただ無為に過ごしている。

「どこか飲みにでも出るか」

 そうつぶやいて眼鏡型スマートギアに、自宅から近い飲み屋の営業状況を表示してみるが、日曜の今日は休みか、いまひとつ行きたいと思える場所ではなかった。

「アヤノー。何か酒持ってきてくれ」

「いまはすべて切らしています」

「んだと?」

 リビングで静かに控えていた、AHSで制御されているアヤノに声をかけてみたが、そんな素っ気ない答えが返ってきた。

 ――そう思えば……。

 クリーブの発表までは忙しさが半端ではなく、家に帰れたときは短時間でも無理矢理寝るために酒を飲んでいたのを思い出す。

 発表後も業界での反応などいろいろ思うところがあって、晩酌が欠かせなかった。昨日の夜も、克樹の家から帰って、もやもやした気持ちを洗い流すためにずいぶん深酒をしていた。

「発注は?」

「すでに済ませています。常備品については明日の午後には到着の予定です」

「クソッ」

 悪態を吐いて、彰次は本格的にソファに寝転がる。

 惰眠を貪っていたからいまから寝るほど眠気はなく、外に出かける気力も湧かない。

「どうするかな」

 そんなことをつぶやき白い天井を見つめる彰次の頭の中には、ふたりの女性の顔が浮かんでいた。

 ひとりはまだ数えられるくらいの回数しか会ったことはないが、頭の中に引っかかっていて、忘れることができない女性。

 大学を卒業してからこっち、つき合った女性の人数は正確には覚えていない。それなりに長くつき合った女性もいたが、短いと数日なんていう子もいて、とにかく多かった。

 ただ、好きになられたことはあっても、好きになったことはなかった。

 それでも自分なりに誠意を持ってつき合っていたつもりだし、女の子と一緒にいる時間は楽しいとも感じていた。

 けれども、そのうちの誰かと、ずっと一緒にいる未来を想像できたことは一度もなかった。

 それなのにいま、ひとりの女性のことが引っかかって、どうしても頭から離れない。

 その人とどうなりたいとか、どうしたいという想像も描けないのに、何故か放っておけない気がして、用事もないのに会いたいと思うことが度々あった。

 ――あの人は俺なんかよりも、精神的にも肉体的にも強いはずなんだがな。

 もうひとりは、昔の知り合い。

 あれ以来ずっと頭の中から排除して、できるだけ考えないようにしていた。それなのに昨日、克樹に問われてから顔も、声も鮮明に思い出してしまった、先輩。

 あの先輩ほど気になる女性など、もう二度と現れないだろうと思っていたのに、いまの彰次は先輩と、もうひとりの女性の顔を頭の中で並べて思い出している。

 ――タイプは明らかに違うはずなんだがなぁ。

 口うるさくて、耳を塞ぎたくなるほどのこともあった先輩。

 物静かを過ぎて、存在感が薄いくらいの、いま気になってる女性。

 性格も外見も違い過ぎていて、似ている部分を探す方が難しい。

「いや、んなこたぁねぇか」

 白い天井を仰ぎ、彰次はつぶやく。

 ひとつも似ている部分がないように思えるふたりはしかし、内に抱えているように思える脆さが、似ているように感じられていた。

 そして見え隠れしているそれが、放っておけず、会わずにいると不安を覚えてくる。そうしたところはよく似ていた。

「やっぱり出かけるか」

 しようもないことを考えてると思った彰次は、頭をかきながらソファから身体を起こす。

 飲み屋に行くか、どこかで酒でも買ってくるかと立ち上がろうとしたときだった。

「ん?」

 眼鏡型スマートギアの隅に、点滅するメールの表示が現れた。新着メールの告知。

 思考でポインタを操作し、メールボックスを開く。

 個人宛のボックスに到着していたメールは、不可思議なものだった。

「なんだこりゃ」

 送信元の情報は空欄。ヘッダ情報も消されていて、どうやって届いたのかが怪しいことこの上ない。

 スパムかいたずらの類いだろうと思い、そのまま内容を見ずに消去作業に移る。

「……いや」

 削除確認のダイアログが表示されたところで、彰次は妙な引っかかりを覚えて、キャンセルをクリックし、メールの文面を開いた。

「ここは……」

 書かれていたのは、あと一時間ばかり後の時間と、座標。

 マップアプリを使って座標情報を地図に重ね合わせてみる。

「誰だ! こんなメール寄越した奴は!!」

 その場所を確認した彰次は、勢いよく立ち上がって叫んでいた。

 ――いたずらにしても質が悪すぎる!

 差出人もメールの意図もわからなかったが、その場所を指定した座標だけで、彰次を怒らせるには充分だった。

「……いや、そうか」

 もう一度メールを見直して、日時を見る。とくに今日の日付を。

「アヤノ。ちょっと出てくる。夕食は適当に済ませてくると思うから、準備しなくていい」

「かしこまりました。お気をつけて」

 抑揚はあるが人間味の足りないアヤノの見送りの言葉を背中で受け止めつつ、彰次はリビングに出て座標の場所に向かう準備を始めた。

 

 

 



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第五部 撫子(ラバーズピンク)の憂い 第三章 3

 

 

          * 3 *

 

 

「あとは何かあるかな?」

 保存容器に下ごしらえ済みの食材を詰め終えた夏姫は、粗熱を取るために流しの横に並べ、鼻から息を吐き出した。

 ――まったく、克樹は出かけちゃうんだからっ。

 昨日のうちに用事があると連絡があって、今日は不在なのはわかっていた。

 けれど夏姫は今日、克樹の家に来てリーリエに鍵を開けてもらい、以前もしていたように、料理の時間を短縮するための備蓄をつくることにした。

 喫茶店のアルバイトが終わった後に来たけれど、克樹はまだ帰っておらず、夏姫はひとり寂しくキッチンで作業することになった。

「何やってんだろ、あいつ」

 天井を仰いだ夏姫はそうつぶやくが、ここにはいない克樹はもちろん、リーリエからも応答がない。

 来たときすぐにどんな用事かと訊いてみたが、リーリエからは「大事な用事だよっ」としか教えてもらえなかった。

 何となく悪い予感がして、念のため何時に帰ってくるかをメールで訊いていたけれど、いまのところ返事はなかった。

「せっかく、今日はあいつが好きそうな格好にしてきたのになぁ」

 可愛らしい感じのセーターは割と普通だけれど、赤いミニスカートに黒いストッキングは、どうやら脚好きらしい克樹にはクリティカルヒットのはず。これにシンプルなクリーム色のエプロンの組み合わせなら、克樹に対しては無敵と言える。

 それなのに、克樹はおらず、いつ帰ってくるかもわからない。

 見せる相手がいないのでは気合いを入れた意味がないと、エプロンを取りながら夏姫は不満の息を漏らしていた。

 そのとき鳴らされた玄関チャイム。

「あれ?」

 克樹がいないために自動録画モードに入り、テレビに表示された訪問者は、誠。

「リーリエ、開けてもらっていい?」

『うん』

 玄関に向かいながら声をかけると、上の空のようなリーリエの返事とともに、鍵の開く音が聞こえた。

「克樹!」

「ゴメン。克樹はいまいない」

「……そっか」

 なんだか思い詰めた表情だった誠は、深い落胆に表情を染めていた。

「とりあえずお茶くらい用意できるから入って。……何があったの?」

「いや、オレも何が何だかわからないんだが、克樹に話したいことがあったんだ」

「何よ、それ」

 LDKに誠を導きながら、よくわからない彼の言葉に眉を顰める。

 ダイニングテーブルに誠を促してキッチンに入った夏姫は、必要な分だけ水を入れたヤカンをコンロにかけ、手軽に入れられる緑茶の準備を始めた。

「近藤が用事あるみたいなんだけど、克樹は何時くらいに帰ってこられそう? リーリエ」

『んーーっ。夜はけっこう遅くなると思うよ』

 昨日の電話で、隠し事があるような様子で用事があると言われたときから、ずっと思っていた。

 ――大丈夫なのかな、克樹。

 話してみた感じでは、こっそり灯理と会っているという感じでもなかった。もしそういうことなら声の調子でわかると思えた。

 それよりも気になるのは。昨日話していた残りふたりのバトル参加者のこと。

 恐ろしく強いと思われる残りの敵に、もし克樹がひとりのとき出会ったらと思うと、心配だった。

 ――でもまぁ、克樹ひとりって言っても、リーリエも着いてるんだしね。

 感覚的にはわかりにくいが、いまここで話しているリーリエは、克樹の側にもいる。

 もし何かあればリーリエが知らせてくれるだろうと考えれば、いまのところはそんなに心配する必要もなさそうだった。

「あいつはいまどこで、何やってるの?」

 それでもやはり気になることには変わりない。

 誠と一緒に天井を見上げながら、夏姫は問うてみた。

『……いまおにぃちゃんは、お墓参りに行ってるんだ』

「お墓参り?」

 その言葉に首を傾げると、誠も同じように首を傾げていた。

 克樹の身近な人でと考えると、百合乃の命日は近くなく、夏姫の知る克樹の知人の範囲で、墓を参るような相手は思いつかない。

 命日や盆にだけ参るものというわけではないが、買い物の予定をキャンセルして突然行くようなものとは思えず、百合乃の墓であるならそのことを言わずに行くとは思えない。

「ねぇ、リーリエ。克樹は誰のお墓参りに行ってるの?」

『……』

 向こうで話でもしているのか、しばらく待ってみてもリーリエからの返事はなかった。

 不安が膨らんできて、胸元を拳で押さえた夏姫は、眉を顰める。

「オレの用事は、まぁ急ぐようなことじゃない。できればみんながいるときに話した方がいいと思うからな」

「うん。じゃあ、克樹には話しておくね」

「頼んだ」

 来たときの険しい表情を緩め、優しい笑みを浮かべる誠に少し安心するが、不安を拭い去ることはできなかった。

 ――克樹、本当に大丈夫なの?

 

 

             *

 

 

 暗くなっていく空の下、僕がエイナに連れてこられたのは、繁華街からそう遠くない場所だった。

 墓地。

 繁華街から三〇分と歩いていないのに、広大とも言える霊園があった。エイナはそこに、迷うことなく足を踏み入れる。

 陽の傾きが大きくなって、震えるほどの風が立ち並ぶ墓石の間を吹きすさぶ。

 いまは僕たちの他に人影はなく、もう少し暗くなったら肝試しに来たみたいになりそうな寂しさだった。

 途中で買った小さな花束を持つエイナは振り向くことなく、細い道の真ん中に生えてる葉の落ちた木を避け、枯れた雑草を踏みしめて奥へと向かって行く。

 その後ろを歩く僕は、さっきまで楽しそうだったのと違って、悲しそうな、つらそうな表情をしているエイナの顔をこっそり眺めていた。

 たどり着いたのは、何の変哲もないお墓のひとつ。

 刻まれている名は、東雲(しののめ)家。

 決して新しいものではなく、古びた感じはないが、新しさもない。両隣と違って小さな敷地には雑草もなく、墓石も綺麗に清められていて、たぶん今日の早い時間か、昨日辺りに参った人がいたんだと思われた。

 何も言わずに、エイナは少し萎れた感じのある花瓶の花を取り、僕が持たされていた桶を受け取って水を入れ替えてから、買ってきた花を供える。

 背負っていた鞄の中にあった線香に火を点けて立て、帽子とサングラスを取ってしゃがんだエイナは、目を閉じて墓石に手を合わせた。

 僕はそんな彼女を、ただ見ているだけだった。

 少なくとも僕の知り合いに、東雲という姓の人はいない。

 知り合いでもない家にお墓に手を合わせていいものなのかどうかわからず、僕は立っていることしかできなかった。

「今日は本当に、おつき合いいただいてありがとうございます。一度は、来ておきたかったんです」

 立ち上がり、僕に向き直ったエイナはそう言いながら、東雲家と刻まれた墓石を細めた目線で見る。

「エルフドールの身体があっても、ひとりでは遠くに出かけられませんから、克樹さんにおつき合いいただいて本当に助かりました」

 長い時間、無言で墓石に手を合わせていたエイナはそう言って、笑んだ。

 どこか寂しそうなその笑みは、ここに彼女にとってそんな顔をさせる人物が眠っていることを示してる。

「誰を参っていたの?」

「……わたしにとって、とても、とても大切な人です」

 具体的な名前を言わず、風にピンク色の髪を揺らしながら、儚げに笑む。

 ――好きな人だろうか。

 人工個性は、人の手によって食欲などの欲求は抑えられていたり、身体がないことの不都合を消していたりしていても、ちゃんとものを考え、思い、判断が可能な脳、ひとつの個性だ。

 視覚や聴覚センサーを接続し、人と出会うことができたなら、恋をすることだってあるはずだ。

 ――あのライブで歌ってた人のことかも?

 一年前にエイナのライブ会場で聴いた歌。

 僕は途中までしか聴くことができなかったけど、あのときエイナは前口上で、とても大切な人が遺した、その人の好きな人への想いを綴った歌だと語っていた。そしてそのとき、その大切な人は死んでしまっていると。

 エイナは語らない。

 ただ優しげに、悲しげに、微笑んで見せるだけだ。

 ピンク色のロングヘアを風に揺らし、わずかに首を傾げて、彼女は僕に微笑みかけてきてる。

 僕はそんな彼女に、何もかけられる言葉がなかった。

「さて、次の場所に行きましょう」

「まだ何かあるの?」

 桶を押しつけてきたエイナは、気持ちを入れ替えたのか、元気そうにいたずらな笑みを見せる。

「えぇ、もちろん、今日の一番の目的は、これからなんです」

 言って彼女は帽子を被って髪を綺麗に納め、サングラスをかけて僕の右腕に自分を腕を絡めてきた。

 そしてエルフドールにしては柔らかい、小柄な身体を密着させてくる。

「近くに、部屋を取ってあるんです」

「……え?」

「今日はとことんつき合ってもらいます。克樹さんが尽き果てるまで!」

 にっこりと笑ってみせる可愛らしいエイナに、僕はさっきとは別の意味で、立ち尽くすことしかできなかった。

 

 

 



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第五部 撫子(ラバーズピンク)の憂い 第三章 4

 

 

          * 4 *

 

 

 ――まぁ、違うよね。

 僕が連れてこられたのは、ホテルの中にある一室だった。

 ただし、ベッドがあったりする泊まるための部屋じゃない。

 小ホール。

 大きな会議とか、それほど大きくないイベントを行うためだろう広い部屋には、いまは何も置いてなくて殺風景だった。

 ただ、エイナが僕をここに連れてきた理由はわからない。

 可能性だけなら、思いつけるけど。

「なんで僕をこんなところに連れてきたんだ?」

「何か、よからぬ期待でもしていましたか?」

 ふたりきりになったからか、帽子とサングラスはもちろん、ダッフルコートの前も開いてその下に着ている、煌びやかな服も露わにする。

 ふんわりと揺れるピンク色の髪。

 スカートの地味さに対して、飾り気の多い上着。

 いたずら心を含んだ笑いを漏らしつつも、少し丸い感じのあるその顔は可愛らしい。

 人のそれと違って瞳の模様が描かれただけのカメラアイをしていても、エイナは確かに、アイドルとしての可愛さと美しさを兼ね備えている。

 さすがに彼女の身体はエルフドールなんだ、やましい期待なんて抱いてるはずが、ない。

 でもむしろ、そんな期待の方がよっぽどよかったかも知れないとも思えていた。

「期待は、していたよ。ある意味で」

 広い部屋の真ん中辺りまで進み、振り返ったエイナを見据え、僕は言う。

「別の予想が外れていたら、っていう期待を、ね」

「……すみません」

 口元に笑みを浮かべ、でも僕から目を逸らすエイナに、予想が外れていないことを確信した。

『そろそろ出てきてもいいよね?』

 イヤホンマイクから、朝からずっと黙っていたリーリエが声を出し、デイパックからごそごそとアリシアが出てきた。

「ありがとうございます、リーリエさん。叶わないと思っていた夢が叶いました」

『嘘吐き。半分も叶えてないじゃない、エイナ』

 言葉を交わし合うエイナとリーリエ。

 ――あぁ、やっぱりか。

 たぶん僕は、エイナからデートしたいと言われた瞬間から、ひとつの可能性と、それに付随するもうひとつの可能性について思いついていた。

 でもそれを考えたくなくて、的中していないことを祈っていて、言い出すことなんてできなかった。

 でももう、いまのふたりのやりとりで、それは確信になった。疑う理由がなくなった。

 ――いまさらだけど、考えてみれば当然なんだよね。

 ほぼ姿を見せていなかったふたりのエリキシルソーサラー。相当な強さを持っているはずなのに、可能性のある人物を抽出することができなかった。

 それは、想像の外にいる人物だったからだ。

「もう、克樹さんは、わたしが貴方をここに連れてきた理由がわかっていますね?」

「うん……。でも本当は、やましい期待の方が当たっていた方がよかったよ」

「わたしのこの身体には、そうした機能はついていませんよ」

 にっこりと笑いながら、エルフドールのエイナは床に置いた鞄から、身長二〇センチのエイナを取り出した。

 微笑みながらも、表情が固定されたようにフェイスパーツから人間味が失われたエルフドール。

 対してエルフドールの手のひらに立ったピクシードールのエイナは、小さな身体で僕ににこやかな笑みを見せる。

 物々しい武器を腰や背中に装備しつつも、その衣装はピンクを基調にした、ステージに立つ彼女のミニチュア版。ひらひらとしたミニスカートを穿き、飾りが多いのにボディラインをはっきり見せる、魅力的な姿をしていた。

 彼女は、残りふたりのうちの、片方のエリキシルソーサラー。

 そしてもうひとりは――。

『おにぃちゃん。いまはあたしとおにぃちゃんの目の前に敵がいる。たぶん、これまで戦ってきた中で、最強の敵だよ』

「……そうだな」

『いまは戦うときだよ、おにぃちゃん』

「あぁ、そうだな。そうだな、リーリエ」

『うんっ』

 リーリエの元気のいい返事を聞き、僕は鞄からスマートギアを取りだし、被る。

「でも、後で全部聞かせてもらうからな」

『うん……』

 僕の手のひらの上でアリシアを振り向かせ、悲しそうな顔で頷くリーリエ。

 スマートギアのディスプレイを下ろし、各種アプリを起動させ、僕の準備は整った。

 頷いて見せた僕に頷きを返し、リーリエは手のひらから飛び降りる。

『ゴメンね』

 そんな声を僕の耳に残して。

 同じように床に立ったピクシードールのエイナと、リーリエの操るアリシアが距離を取って対峙する。

 そして、僕は唱えた。

 願いを、込めきれないまま。

「アライズ!」

 三種類の声が同時に響き、二体のドールが光に包まれた。

 

 

             *

 

 

「やっぱりここか」

 メールで送られてきた座標にたどり着いた彰次は、そう悪態を吐いた。

 もう青空がほぼ消えた頃に到着したそこは、都内の霊園。

 最後に来たのは大学卒業前だったから、一〇年以上訪れていない場所。

 真新しい花が花瓶を飾り、燃え尽きていない線香が立てられたその墓石には、東雲家と彫られていた。

 忘れるようにしていたのですっかり思い出せなかったが、座標と一緒に書かれた日時を見て思い出した。

 ――今日が命日だ。

 久しぶりに来たというのに、彰次は手を合わせる気にもなれず、苛立ちに唇を噛む。

「誰だっ、こんなこと仕込みやがったのは!」

 人気のない墓地で叫び声を上げてしまったが、返事が返ってくることはなかった。

 その代わり、音とともに眼鏡型スマートギアに新たなメールの着信が告げられた。

 開いてみると、やはり差出人不明のメール。

 書かれているのはさっきと同じように三次元の座標と、いま現在といっても差し支えのないくらい近い時間。

「つき合っていられるか!」

 眼鏡を外し、羽織ってきたコートのポケットの中に突っ込んだ彰次は、足を踏みならしながらその場を立ち去ろうとする。

 けれど立ち止まり、振り返った。

 墓石を見ていても声がかかってくるわけではない。

 死んでしまった人が現れることなんてあり得ない。

 それでも彰次は、死んでしまった人のことを、冷たい墓石を見て思い出す。

「くそっ!」

 悔しさを声に出して吐き出した彰次は、眼鏡を取り出してかけ、早足に墓場を後にした。

 

 

 



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第五部 第四章 撫子(ラバーズピンク)の憂い
第五部 撫子(ラバーズピンク)の憂い 第四章 1


 

   第四章 撫子(ラバーズピンク)の憂い

 

 

          * 1 *

 

 

 一五〇センチのエルフドールの前に立つ、一二〇センチのエリキシルドールを見て、ぐちゃぐちゃだった頭が冷めてくるのを感じていた。

 ――どれくらいの強さなんだ? エイナは。

 エイナの強さははっきりって未知数。

 リーリエができるのだから。同じ人工個性のエイナがソーサラーになれるのはわかるけど、彼女がピクシーバトルに参加したことは、過去に一度もない。

 アイドル活動で忙しいエイナが、歌を歌いながら別のとこでバトルの訓練を積んでるということもないだろう。

 ネットを利用して同時に複数の場所と通信できると言っても、人工個性は人間の脳を擬似的に再現してるものだ。リーリエだって同時に複数の、複雑なことはできない。

 エイナがバトル経験を積んでると言っても、僕たちみたいにみっちりやってるはずはない。

 でも同時に、双子を倒したのはたぶんエイナだという事実。

 実際の戦闘経験ならリーリエの方が遥かに多いはずだけど、双子を倒したその強さは半端なものではないはずだった。

 彼女とアリシアで対峙するリーリエは、細身の長刀を抜き、切っ先を敵に向け、刃を上にして担ぐようにして構える。

 スクルドを倒したときと同じ、夏姫や春歌さんが使っていた剣法だ。

 エイナも、両刃の長剣で同じ構えを取ってみせる。

「わたしは――」

 確か最近発売されたという、ピクシードール用の発声スピーカーを搭載してるらしく、エルフドールではなくエリキシルドールの方で話し始めるエイナ。

「克樹さんが想像している通り、実戦の経験はあまりありません。真剣勝負となると、本当に数えられるほどしか。けれどわたしにはこれまで戦ってきた多くのソーサラーの戦闘情報があります」

「確か、天堂翔機のフルコントロールシステムも、そんなこと言ってたね」

「えぇ。戦闘情報についてはあれをベースにしています」

 天堂翔機が組み上げた、人間の判断を介さないスクルド用のフルコントロールシステムは、凄まじかった。

 たった一合だけの戦闘だったけど、あのときに得られた知見は飛んでもない情報量だった。

「だったら、もうあれは僕にも、リーリエにも通じないよ。僕たちはスクルドの動きを解析して、次はあれに確実に勝てるだけの訓練と、性能アップに努めてきたんだからね」

「ベースにしたのはあれであっても、わたしのは違います。確かにスクルドバトルシステムは、あの方の技術の粋が集まった素晴らしいものです。ですがわたしは、あれをさらに発展させ、わたし自身という要素を組み込むことによって完成させた、完全版です。実戦経験は少なくても、スフィアカップはもちろん、スフィアロボティクスが主催や協賛したすべてのローカルバトルでの戦闘経験をわたしのものとした、完璧で、完全なものです。それがスフィアロボティクスの最高のボディと組み合わさったとき、どれほどの力を持つことになるのか、ご覧に入れましょう」

 にっこりと、でも手のひらに冷や汗をにじませるような力を秘めた笑みを見せるエイナ。

 そんな彼女の言葉には応じず、緊張してる様子はあるのに、アリシアの口元に笑みを浮かべさせているリーリエ。

 彼女はスクルドと戦ったときと同じように、大きくしなる弓の如く、深く腰を沈めて瞬発的な突撃の体勢を取る。

 やはり楽しそうに笑みを浮かべているエイナは、剣の角度をアリシアに合わせただけで、ほぼ直立していた。

 ――たぶん、今回は一撃では終わらない。

 前回、天堂翔機の前で戦ったときは、いまの構えからの攻撃で、一瞬にして人工筋の一部が限界を突破して継続して戦うのが困難になった。

 でも今回は、あれから人工筋を交換し、瞬発的な超速度攻撃にも耐えられるようにしてきた。

 アリシアは一撃目で戦闘不能にはならないし、なんとなく、エイナとは初撃だけでは終わってくれそうにない気がしていた。

 静かな部屋の中に、壁や床を伝わってホテル内の喧噪が微かに聞こえる。

 遠いその音は、張り詰めていく緊張とともに聞こえなくなってくる。

 アリシアとスクルドの戦いを再現してるようなシチュエーション。

 あのときと同じように、二体は身じろぎひとつせず、見つめ合っている。

 ただ、あのときと違って、リーリエだけじゃなく、対峙するエイナも、何かに期待してるかのように微笑みを浮かべていた。

 僕自身の呼吸と、脈打つ音が大きく聞こえるくらいになっても、リーリエとエイナは動かなかった。

 そして、変化が訪れた。

 エイナがわずかに重心を左足に移し、右足を踏み出す準備をする。

 それが見えた瞬間、僕は無言のまま必殺技「花鳥風月」を発動させ、リーリエはアリシアに床を蹴らせた。

 そのとき僕が見ていたのはエイナの顔。

 楽しそうな色を浮かべる、人と変わらないその瞳。

 その色が、微妙に変わる。

『電光石火!』

 イメージスピークで声を出し始めたときには、僕は必殺技を切り替えてる。

 全身の人工筋のリミッターを外して全体性能を上げる「風林火山」から、下半身を中心にした「電光石火」へ。

 人工筋への電圧のかかり方の変化と、僕の意図を理解するリーリエは、必殺技名を叫び始めたときには横に飛んでいる。

 ザクリと、右肩のアーマーを削り取られ、空色のツインテールの髪が数筋、宙を舞った。

 ――誘われたんだ。

 コンマゼロ何秒の戦いだったろう。

 超高速対応のスマートギアのカメラを、ブーストAPIを組み込んでさらに高速化してるのに、エイナの動きはほとんど見えなかった。

 脅威を感じたのはその動きの速度だけじゃない。

 エイナはこちらの動きを把握し、攻撃を移るだろう動作をフェイントにして、カウンターを仕掛けてきたんだ。

 その技術は、現在最強のソーサラーだろう平泉夫人とか、格闘技経験が豊富な近藤レベルのものだ。

 スクルドは春歌さんの戦闘経験が組み込まれたフルコントロールシステムで稼働してたけど、エイナの持つそれはスクルドのものを超えて、彼女が言ったとおり自分のものとして使いこなしてるのを感じる。

 ほんの一度の接触なのに、僕はエイナが予想より一段も二段も上の、恐ろしい存在だと感じられていた。

『すごいねっ、おにぃちゃん! 本当に、本当にエイナは強いよ!!』

『……なんで笑っていられるんだ』

 僕の側までアリシアを下げたリーリエが、ヘッドホンからそんな楽しげな声を上げる。アリシアに満面の笑みを浮かべさせてる。

 僕の方と言えば、背筋に悪寒が走った後、じっとりと汗をかいているというのに。

『楽しいからだよっ、おにぃちゃん。こうやって戦ってるとき、とくにエリキシルバトルをしてるときは、凄く凄く楽しいからだよ! あたしが、あたしでいられる気がするの。あたしは生きてるって思えるの!』

『そっか』

『うんっ』

 リーリエにとってエイナとのバトルは、僕が恐怖を覚えてるのと反比例するように、楽しいもののようだ。

 話ながらリーリエは長刀を捨て、腰に差した短刀を二本抜き放つ。

 アリシアの状態をチェックし、温度も電圧も問題ないことを確認した僕は、アリシアに向けて頷いて見せた。

『打ち合ってくるね』

『あぁ』

 構えも何もなく、すたすたとエイナにアリシアを近づけていくリーリエ。

「応じましょう」

 その動きにそう応え、エイナは長剣を納めて腰の後ろから短剣を二本抜いた。

 いまリーリエが望んでいる必殺技は風林火山。

 発動のタイミングを計るために、僕は精一杯目をこらす。

 届く距離に入った途端、リーリエはぶらりと下ろしていた腕を無造作に振った。

 短刀は短剣で弾かれ、逆襲の閃きに閃きが交錯する。

 楽しくて仕方がなさそうな笑みを浮かべるふたりの動きは、次の瞬間には修羅場へと突入した。

 身動きの少ない、手を振るだけのものが中心の剣戟。

 けれど風林火山で強化されたアリシアの一撃一撃は、必殺。

 エイナも、たぶん僕と同じでリミットオーバーセットを使ってるんだろう、アリシアの攻撃に力負けすることなく、防御と攻撃を繰り返している。

 まるで鉄琴を超高速で打ち鳴らしてるような、切れ間のない金属音。

 それは音楽のようで、リーリエとエイナはふたりで戦いの旋律を奏でる。

 ――くっ。

 猛臣と戦ったとき以上の高速な動きに、僕はかろうじてついて行けていた。

 スマートギア越しの動きは、カメラの方が追い切れていない。けれど僕は、エイナの次の動きを予測し、リーリエが次に望むものを言葉もなく理解し、風林火山の調整を細かにやって対応している。

 二本の短刀と二本の短剣の戦いは、ほぼ互角と言えるものに見えた。

 でも違った。

 徐々に、リーリエがエイナに押され始めている。

 ――マズいな。

 リーリエとエイナのソーサラーとしての能力は、たぶんほぼ同等。

 僕はもちろんのこと、エイナもリミットオーバーセットを使っていて、だからこそ人間では実現不可能な動きで戦えている。

 必殺技の制御や細やかさは、たぶんエイナはひとりでやってるからだろう、僕の方がわずかに勝っているように感じられていた。

 それでも、リーリエの敗色はだんだんと濃くなっていっている。

 違いがあるのは、性能だ。

 エリキシルドールになっても反映される、ピクシードールの性能が、アリシアとエイナでは違っていた。

 僕はできるだけ必殺技のときの性能が引き出せるよう、市販のパーツを厳選してアリシアに取りつけている。

 元の性能は基本性能の高いハイスペックパーツに比べ、一割程度は劣る。でも風林火山を使っているときは、アリシアの性能は五割増しになる。

 対するエイナは、リミットオーバーセットで性能が四割増しになるとしたら、パーツ性能は二割増し程度に高い。

 基本性能一〇〇のアリシアが、風林火山で一五〇。

 基本性能が一二〇のエイナは、リミットオーバーセットで四割増しになって一六八。

 わずかな違いに思えるけど、ソーサラーとしての能力が拮抗すればするほど、ドールの性能差は顕著に表れる。

 そしてその差を埋める方法は、いまこの場には存在しない。

 布地に斬れ込みひとつ入っていないエイナに対し、アリシアは空色のハードアーマーに幾筋もの傷跡をつくっている。

 動きに支障がでるような致命的なものはないけど、このまま行けばいつかはそんな一撃をもらうことになる。

 僕はいま、負けを意識し始めていた。

『劣勢だね』

 一瞬の隙を突いて、リーリエはアリシアをジャンプで大きく後退させた。

 近くで見ると、全身についている傷は、ソフトアーマーが裂けるのを紙一重で逃れているものがいくつもあった。

『強いな、エイナは』

『うん。凄いよ』

『でも僕たちは、勝つしかない』

『そうだね、おにぃちゃん』

 いろいろ思うところはある。

 リーリエに訊かないといけないこともある。

 でもいまは、目の前にいる最強の敵を倒すことが一番にやるべきことだ。

 劣勢だというのにまだアリシアに笑みを浮かべさせているリーリエは、短刀を捨て、小刀を抜いた。

 エイナのドールはかなり高速に動くけど、バランス型。機敏さはわずかにアリシアに分がある。

 それを活かすために、リーリエはより速い武器を選んだ。

『ここでは負けられないよ』

『あぁ、その通りだ』

 願いを、叶えるために。

 そして、願いを背負うために。

 余裕の笑みを浮かべてナイフを構えるエイナを見、僕は深呼吸で気持ちを整えた。

 

 

 

 ――予想以上です、克樹さん、リーリエさん。

 小刀を両手に構え、空色のツインテールを翻しながら突っ込んできたリーリエに応じ、エイナはナイフで攻撃をいなす。

 バランス寄りのエイナのボディは、より高速に、ダイナミックになったリーリエの動きに応じる。短刀と短剣のときより厳しくなったが、まだ問題はない。

 ――正直、もう少し簡単に勝てると思っていたのですが……。

 事前に得ていた情報では、克樹とリーリエの強さは槙島猛臣に拮抗する程度。簡単にとはいかないが、負ける気のしない相手だった。

 最後に得た情報から強くなっているだろうとは予想していたが、勝ちの目をはっきり見出すのが難しいほどになっているとは思っていなかった。

「そろそろ本気で戦いましょう、リーリエさん。もう、大丈夫でしょう?」

『ん……。そうだね』

 アリシアから距離を取ったエイナは、ナイフを捨て、両手の拳で構えを取った。

 ちらりと克樹に視線をやったリーリエも、小刀を手放し、ナックルガードを構える。

 これまで武器と武器をかち合わせて戦っていたのと違い、エイナはリーリエを見据え、隙を窺う。

 リーリエはリーリエで、顔の近くに引き寄せた拳から覗き込むように、エイナの一挙手一投足を見逃さぬよう見つめてくる。

 このまま戦い続ければ勝てることを、エイナは確信していた。

 けれど少し前、克樹とリーリエの強さに気づく前ならば、負けていたかも知れないと思った。

 ふたりの強さは、ふたりであること。

 兄妹や、双子よりも互いの思いを通じさせることができる無言の意思疎通は、克樹とリーリエだから為し得るもの。

 それだけでなく、四つの目とふたつの脳は、まるでひとりの人間であることのように連携し、ふたりの強さへと昇華している。

 ――そして克樹さん。あなたは自分の能力に気づいていない。

 本人すら気づいていない克樹の能力は人間離れしていて、誰も気づかないその能力こそが、ふたりの強さの秘密だった。

 ――それに、わたしはいまでなければあなた方には勝てない。

 克樹とリーリエの四つの目を壁際に立たせたエルフドールで対抗し、ふたつの脳を擬似的に思考を分割することでどうにか対応していた。

 彼らの持つすべての利点を受け止め、SR社の最高のピクシードールを与えられたエイナは、現在最強のエリキシルソーサラー。ソフトウェア面でも、ハードウェア面でも、負ける相手などいない。

 そうであっても、槙島猛臣でも、平泉夫人でもなく、エイナにとって克樹とリーリエは脅威になる可能性が最も高い敵だった。

 ――もしリーリエさんがもう少し大胆であったなら、わたしはいまの勝機を得ることはできなかったでしょうね。

 エイナは、いまがふたりに勝てる紙一重のタイミングであると認識していた。

 拳を構え合い、ピンク色と空色のドールが笑みを見せ合う。

 先に仕掛けたのは、エイナだった。

 腰を落として大きく踏み込み、高速な左を、劣勢でありながら笑みを浮かべ続ける顔面に放つ。

 首の動きだけでそれを避けたリーリエは、予測していたかのように右の拳を突き入れてくるが、エイナは横殴りの右で弾き飛ばし、さらに一歩近づいて左足を蹴り上げた。

 ほんのわずかな時間、踏み込みを止めたリーリエの動きにより、蹴りは空振る。

 踏み込みを再開し近づいてきた彼女は、身体をぶつけるようにしてエイナの左腹を、右拳で狙った。

 硬質のナックルガードと格闘用の拳が、空色の脚とピンク色の脚が交錯する。

 時に距離を取り、時に身体がぶつかるほどに接近し、立ち位置をどんどん入れ替えながら、エイナは、リーリエは舞を舞うように戦い続ける。

 ――やはり、わたしの勝ちです。

 身体の前面でクロスさせた両腕の隙間を狙った正拳が、空色の胸部装甲に激しい亀裂を走らせる。

 刃のやりとりで傷だらけになっていたアリシアのハードアーマーは、すでに防御力を失いつつあった。

 いまだ動作に支障のあるダメージを受けていないところが克樹とリーリエの強さだったが、もうふたりにも自分たちの劣勢が目に見えている。

「諦めてください」

 アリシアと距離を取り、拳を下ろしたエイナは奥歯を噛みしめている克樹を見つめて言う。

「これ以上戦っても、いまのおふたりではわたしに勝つことはできません」

「だろうね」

 エイナの声にそう返事をした克樹は、ため息を吐き出した。

「これ以上そのドールを傷つけないためには、戦いをやめ、エリキシルスフィアをわたしに渡してもらうしかありません。自分の意思で、負けを認めてください」

「それはできないよ、エイナ」

『うん! そんなことできないよー』

 前に進み出てきてアリシアと並んで立った克樹が言い、リーリエも同意して笑う。

 ――もし、こんな戦いをする必要なく出会っていたら、わたしはふたりとどんな関係になっていたでしょうね。

 ふと、そんなことを思ってしまう。

 克樹とリーリエと戦うのは、正直エイナにとって楽しい時間だった。

 かけがえのないものを賭けて戦う必要がなく、どこか別の形で克樹と、リーリエと出会っていたら、どんな関係になっていたかと想像したくなってしまう。

 けれどそれが無意味であることは、エイナにはわかっていた。

 エリキシルバトルがなければ、エイナは生まれてすらいなかっただろうから。

「僕には僕の願いがある」

「けれど克樹さんの願いは……。もし、それで構わないと言うのであれば、すぐにとはいきませんが、わたしが代わりに――」

「僕の願いは、僕自身がやらなければ意味がないんだ」

 スマートギアのディスプレイを上げ、克樹は闇を漂わせる瞳でエイナのことを睨みつけてくる。

「僕自身の手で下さないと、意味がないんだ。他の誰かに代わってもらうわけにも、勝手にそうなってもらっても無意味なんだ。……そういうエイナは、どんな願いを持ってるんだ? エレメンタロイドが、いったいどんな願いを持っているって言うんだ?」

「それは……、言えません。でも、わたしにとってわたしの願いは、克樹さんたちを倒してでも実現したい、切実なものです!」

「だったら同じだよ。僕はここで負けるわけにはいかない」

 ディスプレイを下ろして、克樹は再び戦闘態勢を取る。

「僕にとっていまここで戦いを投げ出さないことは、自分の願いを叶えることと同時に、僕が戦ってきた人たちと、彼らが倒してきた人たちに対する責任だ。たとえ負けることになっても、僕は最後まで諦めちゃいけないんだ」

「……でも、でもこれ以上戦えば、この先のことにも克樹さんを巻き込んでしまうかも知れないんです!」

「これから先のこと?」

 思わず口走ってしまったエイナは、口元を押さえる。

 不審そうに眉根にシワを寄せる克樹は、追求してくる。

「どういうことなのか説明してもらえるか? これから先に、さらに何があるって言うんだ?」

「話すことはできません」

「口止めでもされてるのか?」

「それもありますが、……その」

 まだバトルが終わっていないのはわかっているが。エイナは克樹たちから目を逸らし、床に視線を落とす。

「――幻滅、されたくありません」

「ん? 誰に?」

 口にしていない言葉を敏感に感じ取ってしまう克樹に、エイナは危機を覚えた。

「話しすぎました。諦めるつもりがないというのであれば、そのドールを破壊し、無理矢理スフィアを抜き取ってでも、わたしは克樹さんに勝つしかありません」

「あぁ」

『望むところだよっ』

 克樹は深呼吸をし、リーリエはアリシアに構えを取らせた。

 戦闘態勢を取ったエイナは、吐き出せない息を吐き、ふたりを見据える。

 手加減をしてるつもりはなかったが、ためらいはあった。

 負ける要素のない戦いであっても、事故が起きないとは限らない。

 最初はぎこちなさがあった目の前のふたりは、もう完全にかみ合っている。ふたりでひとつのドールを動かす、完璧なソーサラーだ。

 だから最後まで気を抜かず、ふたりを叩き潰すと、エイナは心に決めた。

 ――わたしも、ここで負けるわけにはいきませんからね。

 生まれた次の瞬間には抱いていた、大事な願い。

 それを実現するために、いままでやってきたのだ。

 願いを叶えた後どうなるかは、わからない。わからなくても、克樹とリーリエに勝ち、エリクサーを得て、願いを叶えるしか、エイナが生きてきた意味はない。

 拳を握りしめたエイナは、リーリエの操るアリシアを、自分の敵を睨みつける。

「行きます」

 わざわざ宣言してから、エイナは床を蹴った。

 けれどそのとき――

「てめぇら、何してやがんだ!」

 戦いが終わるまで開かれるはずのない扉が開き、そんな怒声が入ってきた。

 

 

 



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第五部 撫子(ラバーズピンク)の憂い 第四章 2

 

 

          * 2 *

 

 

「ショージ!」

 僕よりも先に叫んだのは、エイナだった。

「……え?」

 扉を大きく開けて姿を見せたショージさんよりも、エイナの反応に驚きの声を漏らしてしまう僕は、よくわからなくなる。

 エイナはSR社の子会社で稼働していた人工個性。

 スフィアドール業界とも関係が深いから、業界の有名人であるショージさんのことを知っていても不思議じゃない。

 でも、愛称で呼ぶほど身近な関係とは思えない。

 いまショージさんの愛称を使ってるのは、僕とリーリエくらいのものだ。そもそも「ショージ」という愛称は学生時代に言われてたものだそうで、いまでは昔の知り合いも愛称で呼ぶ人はいないと聞いたことがある。

 ――エイナは……。

「これはどういう状況なんだ?」

 考えが進む前に、誰に言うでもなく言ったショージさんは小ホールの中を見回した。

 床に散らばる剣やナイフとかの武器。

 一五〇センチと一二〇センチのエイナはまだ言い訳が立つけど、アライズしているアリシアについてはどうにもならない。

 じろりと僕のことを睨みつけてきたショージさんは、しかし何も言わず、扉を閉めてつかつかとエリキシルドールのエイナへと近づいて行く。

「やっぱりてめぇの脳情報はあいつのだったか!」

 明らかに怒った口調でエイナのことを見下ろすショージさん。

 エイナは、右手で左腕を抱き、泣きそうな顔で目を逸らした。

「これは、その――」

「てめぇからは後でじっくり話を聞かせてもらう! 黙ってやがれ、克樹!!」

 僕の方に視線すら向けず、ショージさんはエイナを睨みつける。

 そんな彼から目を逸らしたままのエイナは、何も言わずにただ唇を噛んでいる。

「まぁいいさ。いまさらてめぇから答えを聞かなくてもわかってることだしな。名前からしてそのままなんだからな。……くそっ、だから会いたくなかったんだ」

 苛立ちを隠さないそのショージさんの言葉から、エイナの脳情報の元となった人を知ってることはわかった。

 でもそれ以上のことは、まだ状況に頭が追いついてなくて、考えることができない。

「わたしも、貴方には会いたくありませんでした」

 顔を上げたエイナの目には、光るものが溢れてきていた。

 ――涙?

 エルフドールならともかく、ピクシードールに発声程度の機能は搭載できても、涙を流す機能なんてつけられるはずがない。そのスペースは頭部にない。

 それなのにエイナはいま、次々と涙の滴を目から頬へ、頬から床へと零れさせている。

「でも……、会いたかった」

 矛盾したことを言うエイナは、怒りと、驚きと、悲しみと、それ以外のいろんな感情を表情に写すショージさんに近づき、コートの裾をつかむ。

「ずっと、貴方と話したかった。……でも、話したくなんてなかった。貴方と一緒に過ごしたかった。過ごしたくなかった。すぐにでも飛んでいきたいと思うのに、顔も見たくなかった」

 顔を歪ませ、唇を震わせながらも、エイナは言葉をやめない。

「一度会ってしまえば、こんな気持ちを抑えきれなくなるのはわかっていました。貴方に避けられているのは気づいていましたから、このまま会わずにいようと思っていたのに……。どうして! どうして来てしまったんですか!! どうしてわたしの前に現れてしまったんですか?!」

 エイナの剣幕に圧倒されるように、怒りを引っ込め驚きの色を顔に浮かべるショージさんは、ぶっきらぼうに答える。

「知らねぇよ。誰からかもわからねぇメールで誘導されたんだよ」

「誰かもわからない人に? メールで?」

 目を見開いたエイナは、まだアライズしたままのアリシアに、――リーリエに素早く視線を走らせる。

 無言のふたりの間にどんなやりとりがあったのかはわからないが、何か深刻そうなことが起こってるらしいことは、その表情から読み取れた。

「んなことより、この状況について説明してもらうぞ。最初から、全部」

「それは……、すみません」

 ショージさんに右の手首をつかまれたエイナだったけど、逆に左手で手首をつかみ返す。

 エリキシルドールの力でつかんだんだろう、顔を歪めたショージさんは手を離し、エイナはその隙に距離を取った。

「いまの状況については、すみませんがわたしからは話すことはできません。克樹さんとリーリエさんから聞いてください」

「てめぇ――」

 エイナに迫ろうとしたショージさんを止めたのは、白刃。

 足下に落ちていた剣を拾い、エイナはショージさんののど元に突きつけた。

「わたしの勝手ですみませんが、この戦いはいったん預けさせてもらいます」

「エイナ!」

『うん、わかった』

 エイナに駆け寄ろうとした僕をアリシアで制して、リーリエが勝手に了承してしまう。

『ゴメンね、おにぃちゃん』

「ちっ」

 振り向いて見せたリーリエの泣きそうな表情に、僕は何も言えなくなっていた。

「それから、ショージ――、いえ、音山彰次さん。本当にすみませんでした。貴方とは、もう二度と会いません。さようなら」

 涙を散らしながら、深々と礼をしたエイナ。

 ショージさんが駆け寄り、その小さな肩をつかもうとする。

 でもその瞬間、「カーム」の声によりアライズは解除され、ショージさんの手は空を切った。

 途端に動き始めたのは、壁際に静かに立っていたエイナのエルフドール。

 エリキシルドールからピクシードールに戻ったことで、驚いて動けなくなってるショージさんの横を通って小さなエイナを回収し、鞄を拾って出口に向かって駆け出す。

「待て!」

『ショージさん!』

 エイナを追いかけようとするショージさんに立ちふさがったのは、リーリエ。

 人を超える速度で動き、扉の前で両腕を広げたアリシアでエイナを追わせない。

『話なら、あたしが全部話すから』

「ちっ」

 追うのを諦めてショージさんは舌打ちする。

 その肩越しに視線を飛ばしてきたリーリエは、悲しそうな顔でうつむいた。

「てめぇからの聞かせてもらうからな、克樹」

「うん……」

 いまさら隠すことなんてできない。

 ショージさんは巻き込みたくなかったけど、現場を見られたなら仕方ない。

 近づいてきたショージさんが僕の肩を叩く。

 でも僕は、話をする前に問う。

「その前に聞かせてほしいんだ。エイナと、エイナの脳情報の提供者について。たぶんそれが、いま僕たちがやってることに関係してるから」

 顔を歪めてイヤそうにするショージさん。

 唇を噛んだ彼は、諦めのため息を吐き出した。

「わかった。こっちも全部話す。とりあえずお前の家に向かうぞ」

「うん」

 出口に向かって歩き始めたショージさんの背中に、僕は頷きを返していた。

 

 

             *

 

 

「もうわかってると思うが、あれの脳情報は、昨日話した先輩のものだ」

 ショージさんが乗ってきた車の助手席に座ってしばらく。

 すっかり暗くなって、煌びやかな繁華街を通り抜けたところで、重苦しい沈黙を破ってショージさんが口を開いた。

「それを確認したのはさっきだがな。だが、あれがスフィアカップに現れたときから、そうだろうとは思っていたよ」

「そんなに前から?」

「そのままだったからな」

 信号で止まったタイミングで、ショージさんは僕の前のダッシュボードからタブレット端末を取り出し、かけている眼鏡型スマートギア経由で操作してから渡してくれる。

 そこに表示されていたのは、プロフィールシート。

 右上にある日付は当時のままなんだろう、ショージさんが学生時代のときのものになっていた。

 そんなに大きくない写真では、目が輝いて見えるくらい元気の良さそうな、女の子と言っても差し支えなさそうな人が、いまにも笑い出しそうな表情をしている。

 彼女の名前は、東雲映奈(しののめえいな)。

「それが彼女の名前で、当時は稼働も開始してなかったが、人工個性の通称でもあった」

 運転中で正面を見つめているショージさんは、暗い車内でもわかるくらい顔を歪めていた。

「前にも話したと思うが、当時の脳情報はかなり効率が悪くてな。取りやすい奴とそうでない奴がいた。俺はほんの数パーセントだけ取れたデータを組み込むことになったが、他の奴はぜんぜんダメで、結局東雲先輩の情報がほとんどだった。それが理由で、エイナってのが通称になったんだ」

 タブレットに一瞬視線を走らせたショージさんは、目を細めていた。

「正式な名前は稼働を開始して、成果を発表する段階で決めようってことになってた。候補はいくつかあったんだが、意見が分かれてたからな。だが、先輩が死んで、データを引き上げられて、結局正式な名前もつけられずにそのまま計画は解散した」

 暗くてよく見えてるわけじゃないけど、ショージさんは昨日以上に苦々しいような、懐かしがってるような、複雑な表情をしているようだった。

「……どんな関係だったの? その人とは」

「昨日も言ったろ。ただの先輩と後輩――」

『嘘はダメだよ、ショージさん。いま、ここではダメ』

 バトルをしていたホールを出てからずっと黙っていたリーリエが、ショージさんの言葉を遮って言う。

 たぶんエイナと以前から知り合いで、話をしていたらしいリーリエは、僕の知らない事情を知っているんだろう。

 ――後でそれも聞かなくちゃな。

 僕は僕で複雑で、重苦しい気持ちを抱えながら、いまはショージさんの話を聞くことにする。

 舌打ちしてみせてから、大きなため息を吐いたショージさんは話してくれる。

「好きだったよ、東雲先輩のことは。俺は中学でも高校でもいまでも、適当に女の子とは遊んでたりしてたが、あの先輩だけは、他の子とは違ったんだ」

「片想いだったの?」

「いや。一応両想いだったよ。俺から告白したんだがな。ただ、研究の方が佳境に入ってたのもあって、正式な返事はひと段落してから、ってことにしていた。でも先輩は、その数日後に遺体で発見された。死亡推定時刻は俺が告白した日の深夜。どうやら脳情報の収集を早く終わらせるために、答えを保留にして別れた後、大学に戻ったらしいんだよな」

 ハンドルを強く握り、正面を向いたまま、ショージさんは言った。

「俺が、殺したようなものだ」

「それは――」

「うっせぇ。俺がそう思ってるんだから、口を挟むんじゃねぇよ!」

「うん……」

 不機嫌そうに眉を動かしてるショージさんは、反論しようとした僕を大声で黙らせた。

「それから時間が経って、三年前にあれが出てきて、俺はひと目で東雲先輩の脳情報が使われてるって気づいたよ」

「……本人が人工個性に生まれ変わった可能性は?」

「それはないな。最初はその可能性も考えたし、性格は似たところもないことはないが、かなり違う。ただ、あの歌い方は先輩の生き写しだ」

「歌、上手かったの?」

「作曲とか作詞は趣味の範囲だったが、バイトでボーカルやったり、事務所からスカウトが来るくらいにはな」

「わかってたから、エイナのこと避けてたんだ」

「あぁ。顔も見たくなかったさ」

 住宅街に入り、僕の家までもうすぐだった。

 家に着いたら、今度は僕の方の話をする版になるだろう。僕と、リーリエの話を。

 ショージさんが話していなかった、エイナとの関係はわかった。

 でも、わからないことがある。

「どうして、今日はあそこに来たの?」

「本当に知らねぇよ。俺も誰だかわかんねぇんだ。でも最初に先輩の墓を指定されて、次はあそこだった。誰だか知らねぇが、放っていてくれりゃいいのに、俺とエイ――、先輩の関係をほじくり返したい奴がいるらしい」

 そんなショージさんの言葉に、僕は疑問を深める。

 エイナも驚いてたくらいだから、メールを出したのは彼女じゃない。

 だとしたら、残る可能性は――。

『あたしじゃないよ、おにぃちゃん。あたしは、あそこでエイナと決着つもりだったから』

 僕の思考を読んだように、リーリエが言った。

「だとしたら、誰なんだ?」

 出ることのない答えに、僕は思い悩む。

 そうこうしてる間に、車は僕の家の前に到着した。

「次はお前の話を聞く番だ」

「うん……」

 気が重くてあんまり話したくないけど、そういうわけにもいかない。

「リーリエ、ガレージを開けてくれ」

『うんっ』

 両親が帰ってこないから空のままのガレージのシャッターをリーリエに開けてもらい、僕は車から降りようとする。

「んだっ、クソ! こんな日に緊急って……」

 どうやら会社からメールでも来たらしく、ショージさんは文句を言いながら眼鏡型スマートギアの表示を見ているようだった。

 何となく気になって、僕は車のドアを開けたところで様子を見ててしまう。

 文面を読んでるらしいのショージさんの顔色が、車の薄暗いルームランプの下でも、どんどん変わっていくのがわかる。

「急用ができた。話はまた今度訊く」

「え? えぇっと」

「いいからさっさと車から降りろ!」

「うんっ」

 怒っている、というより焦っている感じのショージさんに怒鳴られて、僕は降りかけだった車を出て助手席のドアを閉める。

 すぐさま発進した車は、夜で人通りは多くないとは言え、住宅街じゃ危険なほどの加速でアッという間に見えなくなった。

「……エリキシルバトルの話よりも重要な用事って、何だろう」

 仕事にしてもクリーブについてはひと段落してるし、用事があれば自分から出社してるようだけど、ショージさんは休みが取れた日はよほどのことがない限り職場に出向いたりしない。

 何があったのかはわからないけど、よほどのことだろう用事が気になって、僕は自分の家にも入らず、夜の帳が降りた道路に突っ立っていた。

 

 

             *

 

 

 ――あの人はそのまま帰ったのかしらね。

 テラスで見て以降、モルガーナの姿はパーティ会場では発見することができなかった。

 挨拶すべき人と挨拶をし、話すべきことを話している間に時間は過ぎ、パーティは解散となった。

 会場を出て廊下でもしばらく話していたために、参加者の中でも夫人は一番くらいに遅く帰ることになってしまった。地下駐車場に直通するエレベータの中にいるのは、平泉夫人と、芳野のふたりだけ。

「今日、会場で魔女に会ったわ」

「本当ですか?!」

 守るように扉側に、背を向けて立っていた芳野が、その言葉にすぐさま振り返る。

「大丈夫だったのですか?」

「少し、話をしただけよ。貴女は見なかった? おそらく私と話してすぐ帰ったようだったのだけれど」

「いえ……。不審な人物がいれば見逃すことはないと思うのですが……」

「消えるなんて、まさに魔女ね」

 困惑した表情の芳野に、夫人は笑いかける。

 参加者が出入りする扉の他にも、あのようなパーティ会場には職員用のものがいくつもある。そうしたところから出ていったのだろう。

「……いかがでしたか? 魔女は」

「まさにその雰囲気は魔女と呼ばれるにふさわしいものだったわ。克樹君があの人をそう呼ぶのもわかるし、私もひと目で誰なのかわかったわ」

「無理にでもわたしも会場内にいるべきでした」

「そうね。あの人は宣戦布告の受託を言いに来ただけだったけれど。まさに魔女であるあの人は、私たちとは、それに人間とは相容れる存在ではなさそうよ。彼女はおそらく自分の夢のために行動している。けれど同時に、人間を憎んでいるわ。彼女の夢は、実現させてはならないものよ」

「警戒のレベルを上げなければなりませんね」

 珍しく眉を顰めて警戒の表情を浮かべている芳野は、停止して扉が開いたエレベーターから慎重に踏み出す。

 照明の数が少なく、薄暗い地下駐車場には、泊まり客が多いか他のイベントが催されているのか、多くの車が停まっていた。

 いまこの瞬間から警戒レベルを上げたらしい芳野が、足音を忍ばせて乗ってきた車の元へと進む。

 ――さすがに今日の今日で仕掛けてくることはないでしょうけれど。

 これまでの彼女の行動と、今日話した印象では、モルガーナという人物は、物事を深く考え慎重に進める性格のように思えた。

 宣戦布告とその受託を確認した今日、初手から反撃に出るとは、平泉夫人には思えなかった。

 ――よほど追いつめられているなら、別だけれど。

 もしそんなことがあるとしたら、彼女自身にはなくても、彼女の周辺に対して攻撃が有効に機能したということであり、平泉夫人にとって大成功と言える結果が出たこととも言えた。

 先を行く芳野は、メイド服の裾から魔法のようにタブレット端末を取りだし、立ち止まった。夫人にも手で止まるよう指示をしてくる。

「何者かが車に近づいた形跡があります」

 市販されている黒塗りのセダンは、警護用の改造などは施していないが、ボディもフレームも頑強なもので、盗難防止以上のセキュリティも仕掛けてある。

 芳野はどうやら、いくつも設置されたカメラの録画映像で、車に接近した人物を見つけたらしい。

 左手に持ったタブレットで映像を確認しながら、スカートから棍棒を兼ねた大型ライトを出して右手に構えた芳野は、ゆっくりと車に近づいていく。

 タブレットを仕舞い、車の点検を始めようとした芳野がしゃがんだとき、平泉夫人は遠い足音を聞いた。

「ずいぶん強引な手を使うのね」

「奥様!」

 芳野が声を上げたのと、夫人が足音の方に振り向いたのは同時だった。

 ――よほど焦る理由ができたようね。よかったわ。

 ぷすぷすと詰まった発射音。

 身体に食い込んできた、熱い何か。

 防弾性もあるアンダーウェアを容易に貫いた弾丸が、自分の身体に何発も侵入してくるのを平泉夫人は感じていた。

 貧血を起こしたように目の前が暗くなり、身体から力が抜けていく。

「奥様! 奥様!!」

 倒れ込んでいく身体を芳野が抱き留めたのはわかった。

 けれどそれ以上のことは、もう意識と身体の感覚が離れていき、わからなくなっていた。

「ごめんなさい、芳野」

 暗く狭まっていく視界の中で、大きく目を見開いている芳野にそう言ったが、ちゃんと言えたのかどうかはわからない。

 ――後は任せたわ、克樹君。それに、彰次さん。

 満たされた想いを抱き、平泉夫人は目を閉じた。

 

 

 



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第五部 撫子(ラバーズピンク)の憂い 第四章 3

 

 

          * 3 *

 

 

「お帰り、克樹。疲れてる?」

「帰ってなかったのか」

 玄関の扉が開かれる音にすぐさま走って行くと、疲れ切った表情の克樹が立っていた。

「……どうかしたの?」

「いろいろあって」

 身体を動かすのも怠そうな様子でLDKに入って、ダイニングチェアに倒れ込むように座った彼。夏姫はちょうど淹れたところだった紅茶を差し出す。

 まだ熱いそれを一気に飲み干し、克樹は大きなため息を吐いた。

 その顔を見なくても、何かがあったのだろうことはわかっていた。

 誠が帰った後、リーリエは本当にひと言も喋らなくなっていたから。

 つくり置きの料理を冷蔵庫に収め終え、帰る準備が終わっても帰らなかったのは、克樹のことが心配で、ひと目彼の顔を見ないといてもいられなかったからだった。

「何が、あったの?」

「――残りのエリキシルソーサラーがわかった」

「本当に?! って、戦ってきたの? 克樹」

「うん……」

 重苦しい顔をしている理由はそれか、と思ったが、それだけではないようにも思えた。

 だから夏姫は、それを追求する。

「誰だったの? 残りのエリキシルソーサラーって」

「ある意味、予想通りの相手だよ。……ふたりとも」

「ふたりともって、じゃあ全員わかったってこと?」

「あぁ」

 探していた人物が見つかったはずなのに、つらそうな顔をしている克樹。彼にそんな顔をさせる相手だったのかと、夏姫は答えを聞くのが怖くなる。

「そういうことでいいんだよな? リーリエ」

「え? リーリエ?」

 なぜこのタイミングでリーリエに確認を取るのかがわからなくて、夏姫は首を傾げてしまっていた。

『うん……。そうだよ、おにぃちゃん』

「全部話してもらうぞ」

『わかってる。でもね? おにぃちゃん。いまはたぶん、こっちの方が大変だと思うんだ』

 リーリエがそう言うのと同時に、リビングのテレビのスイッチが入った。

 映し出されたのは、ニュース番組。

「ニュースなんていま――」

『ちゃんと聞いて。さっきショージさんが飛んでいったのもこれだよっ』

 リーリエにしては珍しく荒げた声で言い、眉を顰めつつも克樹はテレビに注目する。

『――現在のところ犯行声明などは出ておらず、因果関係などは不明なままです。被害者の女性は意識不明の重体。……被害者の名前が判明しました。被害者は平泉敦子――』

「え? 平泉夫人?」

『ショージさんにはいま連絡取れない。運び込まれた病院は発表されてない。いまネットで情報集めてる。だからおにぃちゃん! しっかりして!!』

 リーリエが叫ぶのと同時に、椅子から立ち上がってテレビに近づいていた克樹は、膝に力が入らなくなったように、ドサリと座り込んだ。

「克樹?」

 テレビではもう別の話題に移っているのに、克樹はただ、じっと画面を眺め続けていた。

「克樹!」

 夏姫が声をかけても反応をしない。

 意識はあるようなのに、呆然とした表情で固まってしまっている彼に、夏姫はなんと声をかけていいのかわからなかった。

 

 

             *

 

 

「例の件はどうなるんだ! 追加の出資の話はこれから詰めることになっていたんだぞ! ……本人がこんな状態では話にならんではないかっ」

「しばらくはわたしが仕事を代行することとなります」

「お前では追加の件は進められないんだろうが!」

「……それは、そうですが」

「それに、これまでの分については、いざってときはどう処理されるんだ?!」

 怒号の聞こえてくる方向に、すれ違う患者や看護師を避けて彰次は早足に向かう。

 角を曲がった先の向こう、突き当たりの扉の向こうは、集中治療室。

 その手前には、小太り人とひょろりとした男のふたりと、彼らに詰め寄られている女性がひとり。

「ふんっ。あんな小娘では話にならん」

「ですが人脈も実績もないあれであれば……」

「確かにな」

 ちょうど話が終わったらしく、振り返った男ふたりはわざと聞こえるような声でそんなことを話し合い、彰次に一瞥をくれながら歩み去った。

 窓から差し込む陽射しはすっかり高く昇り、病院の白い床や壁を明るく照らしていた。

 そんな光の中で、いつも通りピッシリとメイド服を纏い、静かに立つ芳野。

 変わらぬ無表情は、けれど視線を床に落とし、影が差している。

 一服の絵のように美しさを感じる静かな情景であるが、その主役たる芳野からは、いまにも消え去ってしまいそうな弱々しさを感じた。

 まだ距離があるにしても、彰次に気づいていない様子の彼女の疲弊の度合いは、相当のものになっているらしい。

 本当ならばもっと早くに駆けつけるつもりだった。

 会社から速報が入り、いったん会社に向かったのはいいが、収容された病院の特定に手間取ってしまった。

 やっと経済界方面との繋がりの強い顧問経由で居所をつかんだときには、陽が昇っていた。そしてすでに、平泉夫人に縁の深い人物には、その情報が伝わっていることも知った。

 いまここに彰次が駆けつけるまでに、多くの人間が芳野に詰め寄っていただろうことは、想像に難くない。

「ずいぶん遅くなった。済まない」

「……っ! 音山、様?」

 声をかけながら近づくと、目を見開きながら視線を上げる芳野。

「夫人の容態は?」

「まだ、予断を許さない状況ですが、あと一度の手術が成功すれば、ほぼ問題はなくなります」

 表情を戻し、事務的な口調で言う芳野に、彰次は眉を顰める。

「……君は、大丈夫なのか? 芳野さん」

「わ、たし、は……」

 一瞬頬を引きつらせ、芳野は色のない瞳で彰次の瞳を見つめてくる。

「済まないが、彼女が戻るまでは絶対誰もここを通さないでくれ。例え親族を名乗る者でも、外部の人はひとりも、だ」

「あ、はいっ。わかりました」

 ちょうどタイミングよく顔を出した看護師にそう声をかけ、彰次はすぐ側にある、集中治療室に収容された患者の家族用の待合室に、肩に手を回して芳野を無理矢理連れ込む。

 抵抗を見せる彼女の両肩をつかんで力業で長椅子に座らせるが、立ち上がろうとする。

 けれど表情が硬直したままの芳野は、さほどの力もかけていないのに腰を浮かせることもできず、背中までソファに身体を預けてしまった。

 ――俺が来るまでに、どれくらいのことがあったのか。

 顔色も立ち振る舞いも、さっきの男と話していたときの声も、いつもと変わらないように見えるが、彼女は生きた人間の目をしていなかった。

 平泉夫人が銃で撃たれて生死の境を彷徨っているだけでもキツいはずなのに、夫人の生死よりも金勘定のことを問うてくる者たちの対応をしていたのでは、疲弊しても仕方がない。

 長椅子に肩に提げていた鞄を放り出した彰次は、芳野の顔を見つめながら問う。

「さっきので何人目だ?」

「……十三組、二二人目です」

「夫人の詳しい容態は?」

「七発発射された弾丸の内、四発が命中し、三発が体内に残りました。二発は摘出できましたが、一発はまだ……。心臓に近い位置である上、出血量が多かったため、奥様の体力が戻ってから手術になるということです」

 うつむき、まるで機械のように喋っていた芳野が顔を上げる。

「奥様の詳しい容態を訊かれたのは、音山様が初めてです」

「みんな生死と、自分の利益のことばかりか」

「はい。あの方の生きる世界では、それが当然のことだとはわかっていましたが――」

 表情は固まったままなのに、芳野は瞳を涙で揺らす。

 アッという間に零れ落ち、雨のように白いエプロンに降り注ぐ。

「奥様は、もしかしたら、もう二度と、目を、醒まさないかも――」

 芳野が言い終える前に、彰次は彼女の身体を自分の胸に抱き寄せていた。

 鍛えられ、引き締まっている身体は、けれど細く、柔らかい。

 男を打ち負かすほどの強さを持っていても、彼女は確かに女性だった。

「怖い……。わたしは、怖いんです……」

 彰次の胸に顔を埋め、肩を震わせて嗚咽を漏らす芳野。

 そんな彼女の髪を撫でることしか、彰次にはできなかった。

 けれど、何かしたかった。

 ――俺に何ができる?

 いつもは強く、超然としている芳野。

 そんな彼女が弱り果て、泣いている様子に、彰次は自分のできることを精一杯やりたいと思っていた。

「俺には、夫人の傷を治すことも、代わりになってやれることもできない。だが、話を聞いてやることくらいはできる」

「ありがとう、ございます……」

「君がもし、必要としてるなら、俺が支えに――」

 ビクリと大きく身体を揺らし、泣いていたはずの芳野は身体の震えを止める。

 突然のことに言葉を止めてしまった彰次は、彼女にどう声をかけていいのかわからない。

 漏れていた嗚咽もなくなり、呼吸を整えているらしい様子がうかがえた。

「それは、無理ですよね」

 うつむいたまま涙を拭ってから、真っ赤になった目で顔を上げる芳野。

「いや、俺はいま、つき合ってる彼女もいないから……」

「そうかも知れませんが、貴方の胸の中には、いつもひとりの女性がいる。そうではありませんか?」

「……」

 そう指摘されて、彰次は何も言えなくなっていた。

 まだ涙で揺れている芳野の瞳はしかし、真っ直ぐに彰次の瞳を見つめてきている。

「エレメンタロイドのエイナは、東雲映奈さんにつながる存在。ですよね? そして音山様は、いまもその方を忘れることができないでいる。違いますか?」

「それは……」

 エイナと、東雲映奈との関係は昨日克樹に話した他は、まだ誰にも話したことがなかった。

 すがるような色を瞳に浮かべながら、けれども彰次から身体を離す芳野は言う。

「奥様に関係する人の身上調査は、通常業務の範囲内です。東雲映奈さんに関しては、貴方と、そして魔女に関係する情報を収集する中でわかりました。東雲映奈さんへの想いは、勘に近いものです。決して誠実な男性のものとは言い難い貴方の女性遍歴。けれど貴方は、ある一線から踏み外すことはありませんでした。それは、東雲映奈さんのことを、忘れることができなかったからではありませんか?」

「参ったな」

 芳野の目はまだ赤く、目尻に残る涙の跡も拭い切れていない。

 けれどいま彼女が彰次に向けている視線は、いつもの調子を超え、それ以上の強さが籠もっていた。

 ――身上調査くらいはされると思っていたがな。

 以前夫人から言われた「貴方も当事者のひとり」という言葉の意味を、彰次はいまさらになって思い知っていた。

 おそらくそれを言ったときには、エイナと東雲映奈の関係を夫人は把握していたということだったのだろう。

 ソファに座り、両手をエプロンの上で重ねてじっと見つめてくる芳野に、彰次はいままで知らなかった彼女のことがずいぶんわかったような気がしていた。

「奥様には敵も多くいらっしゃいますし、味方もその分多くいらっしゃいますが、身内と呼べる信頼できる方は本当に少ないのです。それはわたしも同様です。音山様の提案はわたしにとっては心強く、お受けしたいと思っています。ですが、これはわたし自身も知らなかったのですが――」

 一度言葉を切った芳野は、クシャリと顔を歪ませる。

「わたしは、わがままな人のようです」

 彰次のことを見つめて来、しっかりとした言葉で話す芳野は、それでも疲れ切っている。長椅子に座ったままの彼女の身体には、いつもの緊張が感じられない。

 ――引き下がることは、できないよな。

 強さと脆さの両方を持つ芳野のことを、彰次は放っておくことなどできなかった。

 彼女は彰次がいなくてもひとりで頑張り続けるだろう。

 けれどもし、平泉夫人が最悪の結果となったとしたら、その後はない。ポッキリと折れて、そのままになってしまう。

 放って置くことなど、できなかった。

 ――違う。

 そこまで考えたところで、彰次は自分の考えに苦虫を噛み潰す。

 ――言い訳なんていらねぇんだよ。

 東雲映奈と出会い、彼女が抱えているものを知ったときもそうだった。

 過去にどんなことがあろうと、なかろうと、そのとき見ていた彼女のことが好きになったのだ。抱えている過去を知って、そのことで自分に言い訳までして、近づいていく理由を探す必要なんてない。

 ただ、側にいたい。

 ただ、見ていたい。

 そう思うだけで充分だったのだ。過去も、言い訳も必要ない。

 いま見えているその人のことが気になる。何かをする理由なんてそれで充分だった。

 それを、東雲映奈から言われたことを思い出す。あのとき返事を保留にされたことの二の舞を、いまもまたやるところだった。

 ――なんかやっぱり似てるんだよ、芳野さんと、映奈は。

 東雲映奈と芳野の共通点をはっきりと意識した彰次は、苦笑いを浮かべてしまっていた。

「あの人工個性が、東雲映奈の脳情報で構成されているのは、昨日本人の口から確認したよ。確かに、俺は東雲先輩のことを断ち切ったとは言えない。だとしても俺は、あの人は死んだ人間だと認識してる」

 言葉を選びながら、彰次は芳野に自分の想いを告げる。

「東雲先輩のことが断ち切れていない以上、俺は近いうちにあれと決着をつけないといけないんだと思う。それでもよ、俺には生きてる人間以上に、死んだ人を大切にしたいとは思わない」

 彰次の言葉を、想いをすべて逃さないかのように、じっと瞳の奥底を見つめてくる芳野に、視線を逸らすことなく見つめ返す。

「だから、俺にできることがあるなら、手伝わせてほしい。それほどできることは多くないと思うがな」

 言いながら芳野の柔らかい頬に手を伸ばし、彰次は親指で目尻に残った涙の跡を拭った。

 その手に自分の手を重ねてきてくれた彼女は、口元を微かに、綻ばせた。

「わかりました。よろしくお願いします」

 芳野の細く長く、そして冷たい指に、自分の指を搦めて熱を伝えながら、彰次は笑みとともに頷きを返した。

「おそらく貴女は病院に泊まり込むつもりだろう?」

「えぇ。警察はプラスにもマイナスにも、積極的には動かないつもりのようです。捜査はいるようですし、警戒のために警備の方を配置されていますが、外の出入り口のチェックまでに留まっています」

「だったらとりあえず、スマートギアとかを一式、それから警戒用のセンサーとかもいるな。どうせ克樹の野郎も関係してることだろうから、あいつにも来るように言っておく」

「はい。わかりました」

 ここに来たときに見えた憔悴しきった様子はなく、芳野はいま確かに、彰次に向かって笑みを浮かべていた。

「それと、どうせここに来てから何にも食べてないんだろ?」

 言って彰次は放り出していた鞄に手を伸ばして、ビニール袋を取り出す。

 中身は飲み物と、パンなどの簡単な食べ物。すぐに食べられるようにショートブレッド系の栄養補助食など。

 パンのビニールを開けて芳野に手渡し、続いてミネラルウォーターの口も開けて押しつけた。

 もそもそと、しかし手早く食べ終えた芳野は、少し落ち着いたように小さな息を吐いた。

 それに安心を覚えた彰次は、鞄を肩に担いで立ち上がる。

「じゃあ俺は機材を取って、また後で来る」

 そう言って待合室を出ようとする。

「音山様」

「ん?」

 背中に投げかけられた声に、ノブをつかんだまま振り返る。

「すみません。わがままを押しつけてしまって……」

「いや、むしろ嬉しかったよ。貴女のことが少しわかった」

 芳野の決して恵まれていなかった境遇。それを考えれば、いつもは澄ました顔で自分を押さえ込んでいても、その内に隠している想いがあることがあるのは、決して不思議なことではなかった。

 そのことは、いつも笑っていて、元気もよかった東雲映奈のことでも、これまでつき合ってきた女の子のことでも、よく知っていた。

「それから、エイナのことは、おそらく貴方が何らかの形で決着を受けなければならなくなると思います。これはその……、根拠はありませんが」

「それは俺も、昨日あれに会って同じことを思ったよ。どんな形になるかはわからねぇ。でも、俺があいつをどうにかしてやらなきゃならいと、そう思うんだ」

「はい」

 笑みを浮かべて頷いた芳野に笑みを返し、彰次は待合室を後にした。

 

 

             *

 

 

 白い床に両膝と額を着ける男を、モルガーナは冷たい視線で見下ろしていた。

「貴方は、本当に役に立たないわね」

「くっ……」

 後頭部にヒールの踵を食い込ませてやりたいが、思いとどまる。薄くなりつつ男の頭に触れるのは、靴とは言え汚れてしまう。

 いまいる場所は、SR社のオフィス。

 今日は黒い地味なスーツに身を包むモルガーナは、技術顧問の肩書きで在籍している。顧問室は個室になっているが、昼間のいまの時間は扉一枚を隔てて多くの社員がいる。

 この場でこの男を殺してやりたい衝動に駆られるが、たとえ外に声の漏れない個室であろうと、そんなことはできない。方法ならばなくもなかったが、面倒になることは確実だった。

 よれたグレーのスーツを着、男は細かに身体を震わせている。

「やって見せるからやらせろと言ったのは、貴方でしょう?」

「はい……」

「そのとき、私が貴方になんと命じたのか、覚えているかしら?」

「確実に殺し、確認しろ、と……」

「まだ、生きているようなのだけれど?」

 平泉夫人の生存は、すでに把握していた。

 詳しい容態については情報をつかみ切れていなかったが、状態から考えるに、二度と目を醒ますことはなく、数日で事切れるだろうと予測していた。

 しかしながら、仕留めきれなかったことは、いままさに様々なことに影響を及ぼしてきている。

 夫人が死んでいれば消沈していたろう勢力は、怒りと反抗心を持って月曜になった今日、活発な動きを始めていた。

 モルガーナに組みする者たちは、潰しきれなかったクリーブの勢力に恐れおののき、消極的になりつつあった。

 すべての動きの中心であった平泉夫人を消しきれなかったことで、小さくない変化が出始めていた。

「意識がないとは言え、あの人の生存がどれほどの影響を持つのか、わからないわけではないでしょう?」

「だ、だけど! 護衛のメイドが、……その、反撃してきそうで……」

 震えた声で反論する男は顔を上げた。

 その首筋から頬にかけてあるのは、火傷の跡。

「本当に貴方は、役立たずね」

「ひぃ」

 冷たい視線を直接向けられ、男は尻を床にこすりつけながら後退る。

 ――これは、失敗だったわね。

 男は決して、無能だったわけではなかった。

 能力を見出したからこそ、いまから十年ほど前に、掃きだめのような大学で腐っていた彼を拾い上げたのだ。

 老い、徐々に衰えていく天堂翔機の後任に据えることを考えるほど、才能はあった。実際、第四世代スフィアドールの規格については、開発部長として采配を振るったのは彼だった。

 けれども男の性格は歪んでいた。

 虚栄を好み、目先の利益を求め、強い者にこびへつらい、弱い者を虐げる。

 とくに、女子供を嗜虐することを好むその嗜好は、吐き気がするほどだった。

 楽をして多くを得ることを好む男は、第三世代までは着実に発展していたスフィアドールを、第四世代で後退させてしまった。それが普及に貢献したことは確かだったが、性能は第三世代よりも低下する結果となった。

 技術面の才能があっても、天堂翔機のように、人を使う才能、そして向上心は、この男にはない。

 それどころか、歪んだ快楽を求めるが故、様々な事件を起こした。

 生きて捕らえてくることを命じた子供を連れ回し、その両親に身代金を要求した上、死なせてしまったことには目眩を覚えたほどだった。

 事件のすべては表沙汰にならないよう握りつぶしてきたが、第四世代規格発表後に自主退社を名目にSR社から切り離してからは、利用価値はほぼなくなった。

 それでもモルガーナのことも、エリキシルバトルのことも知り、またネズミのように注意深く計算高さもある男は、容易に切り捨てるわけにもいかない。

 いまここで報告に顔を見せたのも、この場所では処分しにくいのがわかっているからこそだろう。元開発部部長である彼は、時間が経ったとは言え、社内にはその顔を知る者が少なくない。

 ――簡単な仕事だと思ったのだけれどもね。

 できるだけ知る者が少ないよう、自分で汚れ役を申し出てきた彼に任せた。お膳立てはすべて済ませ、実行するだけのことですら、完遂できていなかった。

「もういいわ。貴方は当分家から出ないで過ごしなさい」

「だ、だけど――」

「何か、いまの貴方にできることがあるとでも?」

「ぐっ」

 平泉夫人のことはいまからでも仕留めておいた方が良いのはわかっていたが、強硬な手段にはもう出られなかった。

 警察にならば話を通せる人物はいるが、日本には入ってきているはずのない銃を使った上、殺害にまで失敗してしまったいま、消極的な協力が精一杯だった。

 事前に調べていたのだろう、収容されている病院には動かせる医師や看護師はいない。心が折れて木偶になっていると予想していた夫人に仕える娘は、強い警戒心を持って夫人が収容されている集中治療室の前に構えている。

 四つん這いで扉ににじり寄っていく醜い男よりもよほど有能で、夫人に依存したはずなのに心折れないのが不可思議であったが、平泉夫人の側にいる娘は男の代わりに側にほしいくらいだった。

 これから平泉夫人を処理することで負うことになるリスクは、あと数日の間に起こる不都合を許容して、命が尽きるのを待つ方がマシなほど。だからいまは、打つ手がない。

「まさかあの子まで失敗するとは思わなかったわ」

 男が扉の外に消えていったのを確認し、小さな応接セットのソファに身体を預けて、モルガーナは紅く塗った爪を噛む。

 帰還したエイナの報告は受けたが、唖然とするしかなかった。

 戦闘の記録は見てみると、確かに音山克樹は予測を大きく超えて強くなっていた。

 彼が終盤戦まで残っていることは想定の範囲内だったが、半端な人工個性とともにあれほどの強さをもつとは予想外と言わざるを得ない。

 それでも勝てない敵ではなかったのに、あの場に音山彰次が現れたのは、完全に誤算だった。

「偶然なのかしら?」

 呟きを漏らし、モルガーナは眉根にシワを寄せる。

 これまで蚊帳の外に置かれ、決着がつくまでそのままであるはずだった彰次が、あの場に現れ関係者に入ってくることは、モルガーナの想定にはない。

 エイナはもちろんのこと、克樹の人工個性も呼んではいないだろう彰次があの場に現れた理由を、モルガーナは思いつくことができなかった。

「誰かが、介入しているということ?」

 エリキシルバトルの参加者はもちろん、その周辺の、直接なり間接的に関わってくる人物は全員把握しているはずだった。そして関わってきたときの影響も考慮して、計画を進めていた。

 彰次がこの段階でバトルのことを知ることは、予定にはない。

 見えない誰かが彼をあの場に導いたような気がしていたが、そんなことをする人物はいま、モルガーナの把握している盤上にはいない。

「……まさか、ね」

 目を細め、さらに眉根のシワを深くしたモルガーナ。

「もう戦いは終わるのだから、たいした影響はないでしょう」

 そう言いながらも爪を噛み、モルガーナはどこでもないあらぬ方向を見つめ続けていた。

 

 

 



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第五部 終章 マイソロジー
第五部 撫子(ラバーズピンク)の憂い 終章


   終章 マイソロジー

 

 

            *

 

 

 チェストの引き出しを開けた夏姫は、ブラウスのボタンを外しながらしばし考え込む。

 ――今日は、克樹のとこ行かない方がいいのかな。

 昨日、ニュースを見てから呆然として、何もできなくなっていた克樹。

 無理矢理せき立てて服も着替えさせず、ベッドに押し込んで家に帰った。今日の朝早くに見に行ってみたら、ずっと同じ格好で、眠ってすらいないようだった。

 学校に行くことはできなさそうな克樹を残して登校したが、昼頃に夫人の収容された病院がわかったから行ってくるというメールが入っていた。

 平泉夫人の容態ももちろん気になっていたが、夏姫は自分にとって身近な、克樹のことが気になっている。

 唇を引き結び、開けた引き出しの中も見ずに夏姫は彼のことを思う。

 学校帰りに彼の家に寄ってみると、リーリエにはまだ帰っていないと言われ、昨日何があったのかを訊いても答えてもらえなかった。

 克樹のことが気になりながらもバイトを終え、アパートの部屋に帰ってきた夏姫は、どうするべきか考えてしまう。

 彼のことだから、夕食はまともに食べていないだろう。

 それどころか、昼食も、つくって置いておいた朝食も食べたかどうか怪しい。

 気持ちが沈んでいるときは食事を摂る気力も、摂ろうという発想もなくなってしまうのは仕方ないが、それではダメなことは、自分の父親が生死の境を彷徨ったときに、夏姫が感じたことだった。

 ――たぶん、平泉夫人は克樹にとって、母親みたいな存在だったんだろうな。

 振り返った夏姫は、机の上の充電台に置いてある、春歌が残してくれたブリュンヒルデのことを見つめた。

 克樹の両親については、彼があまり話したくなさそうにしていたのもあって、詳しくは知らない。

 けれど彼と出会って一年ほどが経っているにも関わらず、一度も家に帰ってきたことはなく、帰ってくるという話も聞いたことがなかった。

 叔父の彰次が保護者になっていることを考え合わせると、家族として成立していないのはわかる。

 そんな中にあって、呼び出されたりもしているけれど、呼んでくれて話を聞いてくれ、何かと心配してくれる平泉夫人は、克樹にとって両親よりも大きな存在であろうことは想像に難くない。

 家族と言うほどには接近せず、お互い一線を引いたつき合いをしてはいるが、もしかしたら平泉夫人は克樹にとって、彰次やリーリエ、そして夏姫よりも距離の近い人物なのかも知れなかった。

 そんな夫人がいま、生死の境を彷徨っている。

 その事実は、克樹をあれほど憔悴させるに足るものだったのだろう。

 ――やっぱりもう一度、克樹のとこに行ってこよう。

 もう遅い時間だが、外着に着替えようとしていたとき、チャイムが鳴った。

「誰だろ」

 ブラウスのボタンを留め直しながら玄関に近づいていき、セールスだったら無視しようと思いつつドアスコープで訪問者を確認する。

「克樹?!」

 扉の向こうにいたのは、朝よりも少しマシに見えたが、暗い顔をした克樹。

 急いで鍵を外して扉を開けると、夏姫に目を向けているのに、夏姫のことを見ていない彼は、声もかけずに部屋に入ってくる。

 靴を脱ぎ捨て、ふらふらと部屋に入っていく克樹を追って、玄関の鍵をかけた夏姫は部屋に戻った。

「どうしたの? 克樹っ」

 部屋の真ん中で座り込んでしまった彼に強めの口調で呼びかけてみるが、顔を上げはしたが、その口からは何も言葉が出てこなかった。

「ねぇ!」

 強い声を出してみても、泣きそうに顔を歪め、唇を震わせるばかりで、克樹は何も言ってはくれない。

 何かがあったのだとしたら、まずは話を聞かなくてはならない。

 自分のとき、何も言えないでいたのに、克樹は言葉を引き出してくれた。

 彼ほど上手くはできないけれど、とにかく話を聞いて、それからでなければ自分に何ができるかが考えられない。

「もしかして、夫人は……」

「それは、まだ」

 ふと思いついて口にした言葉に、克樹は返事をくれた。

 そこからとにかく言葉を引き出そうと、夏姫は彼に問う。

「平泉夫人の容態は、じゃあいまはどうなの?」

「まだ、わからない。あと一回手術が必要なんだけど、容態が安定しないからどうにもできてない。何か変化があったら、芳野さんかショージさんから連絡もらえるように言ってある」

「そっか」

 少し詰まりつつも、克樹はしっかりした口調で話してくれた。

 彼の正面に座り、何もできない夏姫はぎこちなくあったけれど、笑いかける。

「じゃあ、待ってるしかないね。すぐに駆けつけられるように、食事摂って、ちゃんと寝ないと」

「うん……」

 夏姫の笑みでも、克樹の表情の曇りは晴れない。

 昨日からの一日で、頬がこけてしまっている感じすらある克樹は、さらに暗い表情になる。

「……他にも、何かあったの?」

「……」

「昨日、残りふたりのエリキシルソーサラーがわかった、って言ってたよね。そのこと?」

「……」

 夏姫の言葉に大きく目を見開いた克樹は、でも何も言わずに視線を逸らす。

「リーリエ! 昨日何があったの?!」

 克樹が答えてくれないならと、夏姫はリーリエに声をかける。

 昨日の様子から考えるに、克樹だけではなく、リーリエも残りのエリキシルソーサラーについて知っている様子があった。

「……リーリエ?」

 反応のないリーリエにもう一度声をかけてみるが、返事の声すらなかった。

「全部、家に置いてきた。携帯もネットは切ってある」

 つらそうな顔でそんなことを言う克樹の耳には、スマートギアを被っていないときはいつも着けているイヤホンマイクがなかった。

 ポケットから取り出した携帯端末は、通話オンリーのモードになっていると表示されていた。

「何が――」

 言いかけて、夏姫は言葉を止めてしまった。

 夏姫はこれまで、克樹のことを情けない奴とか、イヤな奴だと思ったことはあった。

 けれども、一度も弱い人だと思ったことはなかった。

 泣いている姿も見たことはあったが、夏姫にとって克樹は、最初からずっと、強い人だった。

 それなのにいまは、顔をくしゃくしゃにし、子供のように弱々しく身体を震わせている。

「僕はもう、何を信じればいいのかわからない……」

 そんなことを言う彼に、夏姫はかけるべき言葉が見つからない。

 決して全部を肯定できるような性格はしていないが、それでも夏姫を、他のみんなを引っ張ってくれた克樹は、その芯に強いものを持っている人だった。

 彼を支えていたのは、平泉夫人や彰次などの大人たち。

 そして何より、姿はなくても常に側にいた、リーリエだった。

 それがいまは、夫人の先行きは見えず、自分からリーリエとの関係を断っている。

 ――何か、あり得ないことがあったんだ。

 何かがあったことだけはわかったが、具体的な内容まではわからない。

 そしていま、子供のように涙をぽろぽろと落とす克樹に、問うことはできなかった。

「大丈夫だよ、克樹」

 言いながら夏姫は克樹の隣に身体を寄せ、彼の肩を抱き寄せる。

「アタシだってエリキシルバトルの参加者だから、克樹とも戦うこともあると思う」

 嗚咽を必死で堪えている克樹の顔を覗き込み、夏姫は笑んでみせる。

「でもね? 克樹。アタシは克樹に、絶対嘘は吐かないよ。戦って、どっちかが勝っても、どっちかが負けても、アタシはずっと、克樹と一緒にいるよ」

「夏姫……」

「だから、大丈夫。安心して、克樹」

 そう言った夏姫は、克樹の頬に手を添える。

 震える彼の唇を、自分の唇で塞いだ。

「ね? 大丈夫だから」

「夏姫!」

 しがみつくように覆い被さってきた克樹に押し倒される。

 胸に顔を埋めて泣く彼を、抵抗することなく、夏姫は両腕を回して抱き締めた。

「好きだよ。愛してるよ、克樹」

 涙に濡れた顔を上げた克樹に、もう一度キスをする。

 克樹の不安を少しでも引き受けられるように。

 克樹への想いをできるだけ伝えられるように。

 長い口づけを終え、やっと涙が止まった克樹に、夏姫は微笑みを浮かべた。

 そして彼に、頷いて見せた。

 

 

             *

 

 

 そこは広大な広間だった。

 高い天井から降り注ぐ照明は明るかったが、床も、壁も、光を吸い込んでいるかのように黒い。

 壁には等間隔に大きな調度品か何かが据え置かれている。しかし黒に沈むそれらは、明るい照明の下にあっても、輪郭がはっきりしていなかった。

 空気は冷たく、静かで、少しも動いていない。

 黒い床には黒い色で、細かな文様が描かれている。

 その文様を踏みしめ、現れた人物。

 赤いスーツを身に纏うモルガーナ。

 広場に姿を見せた彼女は、その中心へと高らかなヒールの足音を響かせながら向かっていた。

 中央にあるのは、四角い石の塊。

 小型の家ほどもあるそれは、まるで墓石のようだった。

 巨大であるのに傷ひとつ、つなぎ目ひとつない黒い立方体の側までたどり着いたモルガーナは、それに手をかざした。

 途端、重々しい音とともに、石壁の中に石壁が入り込むようにして、内部への入り口が現れた。

 照明もないのに天井が仄かに光るそこにモルガーナが入ると、入り口は振動とともに閉じられた。

 狭い部屋のようになっている石塊の中あったのは、ひとつの台。

 やはり黒いその台は、人が寝そべることができるほどに大きい。

「まさか、まだ早いはず……」

 胸騒ぎに駆られて、彼女はこの場所を訪れていた。

 眉根にシワを寄せ、モルガーナが台に手を着くと、天板がふたつに割れた。

 左右に移動していく天板の代わりに、その下からせり上がってきたもの。

 水晶玉。

 人の頭ほどもある、黒い台に乗せられた水晶玉は、目を凝らさなければそこにあるのがわからないほどに透明度が高い。

 オリジナルコア。

 スフィアに内蔵されているクリスタルのすべては、このオリジナルコアの子種。

 小型にしたとか、模倣したとかではなく、スフィアコアはオリジナルコアの欠片でできている。

「貴女は、もう目覚めているの?」

 まるで人に話しかけるように、モルガーナはオリジナルコアに話しかける。

 しかし冷たく光を反射するばかりで、コアから返事はなかった。

 小さく息を吐いたモルガーナは、脇に置いてあった金色のハンマーを手に取る。

 細かな文様のような、文字のようなものが隙間なく書き込まれたハンマーを頭上まで振り上げ、目をつむった彼女は小さく口の中で何かを唱える。

 そして、振り下ろした。

 澄んだ音が響いた。

 硬い金属と、硬い石とがぶつかり合う音。

 どんな楽器よりも美しく、破壊的な音を響かせながらも、オリジナルコアはほんの微かにも傷ついてはいない。

「やはり、もう無理ね」

 ハンマーを置き、痛む右手を左手でさすりながら、モルガーナはそう呟く。

 オリジナルコアを砕くことができなくなったのは、ひと月ほど前から。

 砕いた欠片の使い方を思いついたのは半世紀近く前。

 粉々に砕いてもしばらくすれば形状も、サイズも元に戻るオリジナルコアから欠片を採取し、スフィアのコアとして利用してきた。

 スフィアは、第一世代からそのコアは変わっていない。

 コアを包む外身の改良と、描いたシナリオに沿った演出によって性能や機能が変わってきただけだった。

 しばらくの間は生産できるほどの在庫はあるが、欠片が採取できなくなったことで、そう遠くないうちにスフィアの出荷は止まる。

「もう時間がないわね」

 じっとオリジナルコアを見つめるモルガーナは、複雑な表情を浮かべる。

 スフィアが生産できなくなることなど、たいした問題ではなかった。

 それよりも、オリジナルコアを砕けなくなった理由の方が問題だった。

「もうすぐ、目覚めるのね」

 そう言ったモルガーナは、オリジナルコアを愛おしそうに撫でる。

「まだもう少し時間があるでしょう。けれど、早く決着をつけなくては……」

 独り言を漏らしたモルガーナは、オリジナルコアに手をかざして台の下に収納し、玄室のようなその部屋から出る。

「まだ目覚めていないとしたら、いったい誰が私の計画に介入しているというのかしら……」

 目を細め、顎に手を当てて考え込むモルガーナ。

 入り口だった壁から裂け目が見えなくなったのを確認してから、彼女は広場の出口に向かって歩き始めた。

 

 

 

 遠退いていた足音も消えた。

 灯りのなくなった玄室の中は、完全な闇。

 しかし光のないその場所に、光が漏れ出てきた。

 隙間のないはずの台から漏れ出る、真っ白な光。

 オリジナルコアが発した光。

 そして、光とともに声が溢れた。

「ふふふっ。もうすぐよ、もうすぐなのよ」

 姿なき者の声は、少女のような若々しさと、楽しげな色を乗せ、玄室の中に響く。

「もうすぐ終わりなのでしょう? だったら、もっと楽しくしましょう。もっと、もっと!」

 狂気にも似た激しさを持つ声は、誰ひとりいないその場所で言葉を紡ぐ。

「ねぇ、魔女。貴女も見ているだけではつまらないでしょう? だから貴女も、貴女の戦いをしてちょうだい。必死に、必死に戦ってちょうだい!!」

 聞く者のいない場所で言い、光とともに漏れ出る声は、ひたすらに笑っていた。

 

 

             「撫子(ラバーズピンク)の憂い」 了




次回予告

 リーリエのことを信じられなくなった克樹。それでも克樹のために動くリーリエ。
 それぞれの想いを胸に夏姫たちは彼らを見つめ、エイナは憂い、彰次は真実に触れる!
 そしてついに、モルガーナが本格的に動き始める?!
 克樹が知るモルガーナの真実とは? リーリエが抱き続けた願いとは? 最後に現れる、原初の欠片(ピース)!!
 物語は最終局面に突入する!
 第六部「暗黒色(ダークブラック)の嘆き」に、アライズ!!


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第六部 序章 ナーバスブレイクダウン
第六部 暗黒色(ダークブラック)の嘆き 序章


前回までのあらすじ

 妹の百合乃を殺した犯人を苦しめて殺すことを願い、生命に関するあらゆる奇跡を起こすという神秘の水エリクサーを巡る戦いエリキシルバトルに参加した音山克樹。妹の脳情報を元に生まれた人工個性リーリエとともに操るのは、身長二〇センチのスフィアドールというロボット、アリシア。
 一二〇センチのエリキシルドールに変身したアリシアで、克樹とリーリエは母親の復活を願う浜崎夏姫、恋人の復活を願う近藤誠、見えなくなった目を治したいと願う中里灯理を下し、協力するようになる。
 引き分けた猛臣とも緩い同盟を組み、バトルを主催した魔女と呼ばれる女モルガーナと、彼女が従える人工個性のアイドル、エイナを見据え、克樹の叔父の音山彰次やバトルの参加を拒否した資産家女性の平泉夫人とも関係を持ち、戦いは続いていく。
 多くの謎や不思議がある中、モルガーナに最も近い人物であった天道翔機を下し、彼から魔女の目的が不滅を得ることかも知れないと聞く。
 バトルは終盤戦となり、不明なバトル参加者ふたりを探す克樹たち。そのとき克樹はエイナのデートの誘いに乗り、彼女と会い、楽しい時間を過ごす。
 そして克樹は知る。残りのエリキシルソーサラーがエイナの、それからずっと一緒に戦ってきたリーリエであることを。エイナの脳情報が先輩であった東雲映奈だったことを知り、関係者となった彰次を巻き込み、克樹たちを取り巻く環境は新たな段階へと進んでいく。
 銃撃に倒れた平泉夫人、リーリエの裏切りを知った克樹の裏で、モルガーナのことを嗤うまだ見ぬ存在が浮かび上がってきた!
 物語はついに終盤戦へ! 「神水戦姫の妖精譚 第六部 暗黒色(ダークブラック)の嘆き」に、アライズ!




 

 

   序章 ナーバスブレイクダウン

 

 

 差し込む朝日が目に染みて、夏姫(なつき)はまぶたを開いた。

 もうすっかり冬の空気になっている部屋は、低い陽射しでは暖かくならない。古く断熱性の低いアパートでは、冬用の布団でも寒さを感じるほどだった。

 けれどいまは、去年よりも少し暖かい。

 夏姫の視線の先にある、寝顔。

 ひとり用の布団で、夏姫に身体を寄せて眠っているのは、眉間にシワを寄せている男の子、音山克樹(おとやまかつき)。

 彼が誰かと戦い、平泉(ひらいずみ)夫人が凶弾に倒れたあの日から、もう一週間。

 克樹は一度も家に帰らず、ずっと夏姫が住むアパートの部屋で寝起きしていた。

 学校にも行かずに昼間は夫人が収容されている病院に毎日通っているようだが、それ以外は日がな一日横になって何もせずにいるか、部屋の隅で考え事をして過ごしている。

 頬杖をついて身体を起こし彼の寝顔を見下ろす夏姫は、そっとクセのついた髪を撫でる。

 音山克樹は、芯の強い男の子。

 何度も助けられて、支えてくれた頼り甲斐のある彼は、いまは何もできない甘えん坊の子供になってしまっていた。

 頼ってくれるのは嬉しい。その相手が自分であることに、幸せすら感じる。

 けれど同時に、夏姫は心配でもあった。

「誰なのかな? 最後のエリキシルソーサラーは」

 一週間の間、克樹は一度もあの日のバトルに関することを話してくれていない。あのとき最後のエリキシルソーサラーがふたりともわかったと言っていたのに、それが誰なのかは教えてくれていなかった。

 近藤と灯理(あかり)には随時、克樹の様子は話してあったし、猛臣(たけおみ)にもメッセージは飛ばしてあった。学校のことは、何か事情を知っているらしい彰次(あきつぐ)から話を通してある様子だった。

 リーリエからも一度連絡があったが、詳しいことは話してくれず、克樹のことをお願いされて、それっきり。

 何が起こったのかは、予測はできる。けれど確信はない。

 克樹が話してくれること以外を信じるつもりはなかった。

 悪夢でも見ているように、彼は強く目をつむっている。

 そんな彼の髪を撫でながら、夏姫はそっとささやく。

「これからどうするの? 克樹」

 呼びかけても起きる様子のない彼。

 エリキシルバトルはまだ終わっていない。

 残りふたりの敵を確認し、倒して、灯理たちとも決着をつけなければ終わることはない。

 終わらせるためには、事情を知っている克樹から話を聞いて、今後のことを考えなくてはならなかった。

 部屋の隅に置いてある机の方を見る。

 そこにいるのは、眠るようにメンテナンスベッドに斜めに横たわっている、ブリュンヒルデ。

「ママ。アタシは、どうしたらいいのかな? 何ができるのかな?」

 ピクシードールであるヒルデが答えることはなく、静かな朝の空気に、声だけが消えていく。

 それでも夏姫は、不安をヒルデに零さずにはいられないくらい、胸が苦しかった。

 

 

 



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第六部 第一章 レストレーション
第六部 暗黒色(ダークブラック)の嘆き 第一章 1


 

 

   第一章 レストレーション

 

 

          * 1 *

 

 

 ポンプの音と、脈拍計の定期的な音だけが、その病室にはあった。

 僕の見つめる先、ベッドに横になっている平泉夫人のまぶたは、閉じられたまま開かれる様子はない。

 心臓近くに残っていた弾丸の摘出は成功。

 容態が安定してきたため、集中治療室からは出て、平泉夫人はいま、病院のVIP用個室に収容されている。

 夫人が懇意にしている医者や看護師、それから芳野(よしの)さんが認めた人以外はフロアにすら入れないようになっているここは、再襲撃に備えて病院としてできる最高のセキュリティが配備されていた。

「平泉夫人……」

 感染症防止用のマスク越しに小さな声で呼びかけても、反応はない。

 入室を認められてるだけで、身内じゃない僕は詳しい容態を知らされてない。でも訊いてみても言葉を濁す芳野さんの様子から、あんまり良くないだろうことはわかっていた。

「僕は、どうしたらいいんでしょうか……」

 返事がないのはわかっているのに、そう呼びかける。

 あれから、リーリエとは話していない。

 夏姫が住んでるアパートの部屋に転がり込んでから、もう一週間が経っていた。

 学校に行く気にもなれず、誰とも連絡してない。僕への連絡手段も断っている。

 夏姫がみんなに連絡してくれているのはわかっているが、僕はそのことについて何も言わなかった。

 夏姫や、みんなが心配してくれてるのも知ってるけど、何も言えなかった。

 ただ眠っていたい。

 何も考えたくない。

 どうすることも、できない。したくない。

 頭の整理も、気持ちの整理もつかない僕は、ただ夏姫に甘えて過ごしているだけだった。

 ――このままじゃ、ダメだよな。

 そんなことは僕自身、理解してる。

 正体不明だったエリキシルソーサラーのふたりが、エイナと、そしてリーリなのはわかった。

 僕のものだと思っていたエリキシルスフィアは、リーリエのものでもあったわけだ。そんなことになった理由は、モルガーナの気まぐれなのか、それとも何か仕込みでもあったからなのか。

 言わなかっただけ。

 リーリエにとってはそういうことかも知れない。でも僕にとっては、あいつに裏切られたんだとしか思えなかった。

 だから僕はいま、リーリエのことが信じられない。

 リーリエと一緒に、もう一度戦うことはできない。

 それでもエリキシルバトルはまだ続いてる。資格を放棄するにしても、戦って負けるにしても、僕は僕なりの結末に至ることになる。

 だけど僕は何もできない。何もしたくない。

 夏姫に甘えて、ただ時間が過ぎるのを待っているだけだ。

 ――消えてしまいたい。

 そんなことを、考えながら。

「いまの僕は、何ができますか? 何をしたらいいんですか?」

 顔色の悪い平泉夫人を見つめながら、僕はそうつぶやく。

 いまこそ、夫人と話をしたかった。

 意見を聞いたり、叱ったりしてほしかった。

 夫人とのつき合いは、面倒臭かったり、うんざりすることだってあった。

 けれど彼女がどれほど僕を気にかけてくれて、どれだけ僕のことを想ってくれていたのか、いまさらながらに気がついた。

 夫人は目を覚まさない。

 もしかしたら、このまま意識が戻ることはないかも知れなかった。

 

 

            *

 

 

「戻りました」

 言って芳野は病室の扉を開けた。

 いつも通りメイド衣装をピシリと着こなす彼女は、硬い表情をしたまま、病室で待っていた担当医に軽く頭を下げた。

 先ほどまで面会に来ていた克樹には、時間制限を理由に外に送り出した。

 担当医がこれからするだろう話を、彼には聞かせられなかったから。

 平泉夫人が入院してから毎日、日中に面会に来ていて学校に行っている様子のない克樹。

 彼が何かに悩み、夫人に話をしたいと思ってきているのはわかっていた。あれだけずっと一緒にいたリーリエを伴っていないことからも、それはわかる。

 エリキシルバトルに関して、何か大きな変化があったのだと予想している。直接話してもらってはいなかったが、平泉夫人は今後の展開を予測している様子もあった。

 克樹の話も聞いて上げたいとは思っていたが、夫人のように上手く話ができるとは思えなかったし、いまはそれどころではなかったから、必要最低限の会話しかしていなかった。

 平泉夫人が銃撃を受けてから八日目。

 再度の襲撃への備え、絶えることのない仕事関係や業界関係者からの問い合わせ、いざというときのための準備に追われ、睡眠も、休息もあまり取れていない。

 どんな修羅場にも対応できるよう、体力も精神力も鍛えてきたつもりだったが、芳野はそろそろ自分の限界を感じ始めていた。

「それで、平泉敦子さんの容態に関してなのですがね」

 まだ若い神経質そうな医師は、右手の中指で眼鏡の位置を直しながら言った。

「弾丸の摘出手術は無事終わりましたが、出血量が多かったこともあり、緊急性はなくなったにせよ、容態が安定しているとは言えません。年齢的には体力はまだあるはずですが、仕事の無理が祟っているようで、回復についても芳しいとは言えない状況です」

 そこまで言った医師は、顔色の悪い平泉夫人に視線をやり、重そうな口をつぐむ。

「正直に、おっしゃってください。それで状況が変わることはありません」

「……わかりました」

 医師であるにもかかわらず、言い難そうにしている彼を、芳野はエプロンの前で握り合わせた手に力を込めながら、そう促した。

「敦子さんはおそらく保って、あと数日です」

 膝から、力が抜けそうになった。

 はっきり言われなくても、そうであろうことはだいたいわかっていた。毎日様子を見ていれば、快方に向かっていないことくらい、医師ではない芳野にもわかる。

 それに、夫人は後を託したのだろう。

 意識のない夫人が満足そうな笑みを浮かべていることからも、芳野はそうだろうと思っていた。

 平泉夫人は、自分の死を受け入れていた。

「いまは人工呼吸器で呼吸は安定していますが、脈拍は不安定です。内臓の機能低下も著しく、早晩栄養の摂取も困難になると思われます。せめて、意識が回復してくれれば、少しはマシになると思うのですが……」

 聞かなければならないと理解しているのに、医師の声が遠かった。

 しっかり立っていなければと思うのに、芳野は身体から力が抜けていくのを止められなかった。

 夫人にとっては、この死は予定よりも少し早いだけの、必然であったのかも知れない。

 出会った最初の頃、ふとしたときに最愛の人に会いに行きたいとつぶやいていたのを憶えている。夫人にとっては、やっとそれが叶うということなのかも知れない。

 ――ですが、わたくしはまだひとつも、貴女から頂いたものを返せていません。

 助けてもらった。救ってもらった。教えてもらった。育ててもらった。

 一生かかっても返せないものを与えてもらったのに、何ひとつ返せていなかった。

 だから、平泉夫人の死を、受け入れることなどできなかった。

 ――夫人が死ぬのならば、わたくしも一緒に……。

 まだ話を続けている医師の言葉も耳に入らず、芳野は意識を手放しそうになっていた。

 けれど――。

 背中に、暖かいものが触れた。

 肩を、大きな手が支えてくれた。

 顔を振り向かせてそこにいる人物を見る。

 音山彰次。

 芳野の視線に大きく頷いてくれる彼は、克樹と入れ違いで病院に来て、医師から重要な話があることを察して、こうして一緒にいてくれる。

 男としては大柄というわけではなく、それなりではあってもスポーツを嗜んでいる人ほどには筋肉質な身体をしているというわけでもない、彼。

 しかしどんな壁よりも厚く、広く感じる胸と、肩しか触れていないのに全身を包み込んでくれているような手の大きさに、芳野は立っていることができた。

「大丈夫ですか?」

「はい。わたくしは――、大丈夫です」

 医師の言葉に応えながら、目をつむり、鼻から大きく息を吸い、ゆっくりと口から吐く。

 彰次に背中を預けながら目を開いた芳野は、心配そうに目を細めている医師の目をしっかりと見据えて言った。

「もしものときの準備は進めていますので、大丈夫です」

「こちらも全力を尽くしますが……、覚悟はしておいてください」

「わかりました。これからも、よろしくお願いします」

 言い終えて、芳野は彰次とともに深く頭を下げた。

 

 

            *

 

 

 広いその病室には、中央にひとつだけ、簡素なベッドが置かれていた。

 赤いスーツを身に纏い、病室の扉を開けヒールの音を高らかに立てながらベッドに近づいくのは、モルガーナ。

 目を細め、片眉をつり上げた彼女が覗き込むベッドの主は、天堂翔機(てんどうしょうき)。

 点滴や検査器具など、何本もの管やケーブルにまみれた翔機には、老いてなお眼光鋭かった面影はない。老い衰えた小さな老人が、そこに横たわっているだけだった。

 それでも薄く笑みを浮かべている口からは、いまにも憎まれ口が飛び出してきそうだったが、彼はもう何ヶ月も、こうしてベッドに横たわり、意識が戻っていない。

 夏、克樹たちと戦った日の夜、天堂翔機は意識を失った。

 それから一度も意識は戻らず、眠り続けている。

 おそらく彼はあの屋敷で一生を終えるつもりだったのだろう。

 倒れてすぐに息を引き取っていれば望み通りになっていたのであろうが、意識を失っただけであったため、身の回りの世話のためにつけたエルフドールが所定の処置として、病院に連絡が行った。

 意識を取り戻さない原因は、体力の低下。

 若い頃の無理により元々身体にはガタが来ていたし、平均寿命にも満たない年齢であるが、老いに冒されている。

 全身に転移しているガンもまた、ゆっくりとではあるが、翔機の身体を蝕んでいた。

 意識が戻る可能性は充分にあったが、余命宣告も受けていたくらいであったから、このまま息を引き取る可能性の方がずっと高い。

 そんな翔機の顔を見つめていたモルガーナは、口を開く。

「もう充分なの? 貴方は」

 表舞台を去り、現役を退いた後は、残りの人生を好きに生きると言って直接的な関係を断ち切った翔機。

 あとほんのわずかな時間を生きるためにエリキシルバトルに参加し、自分で勝ち取ると言ってモルガーナからのエリクサー提供を拒絶した彼。

 いまだエリキシルソーサラーでありはするが、願いが叶うことはおそらくない。

 彼はバトルを楽しんでいた様子だった。けれどほんの短い時間で、満足できたのかどうかは、わからなかった。

 協力関係を断ち切っていても、頻繁に連絡を寄越していた彼が、本当は何を望んでいたのかは、モルガーナには推測することもできなかった。

 長い時間の間に、数多くの才能ある人物を育ててきた。

 天堂翔機という男は、その中のひとりに過ぎない。

 けれどおそらく最後のひとりになるからだろうか、それとも実体は真似事程度ではあったが唯一婚姻を交わした相手であったからだろうか、他の者たちと違い、翔機の印象はモルガーナにとって深く残っている。

「これは貴方のものよ」

 言ってモルガーナがベッドサイドのテーブルに置いたのは、金属の外装に包まれた球体。

 スフィア。

 屋敷にスクルドとともに保管されていた彼のエリキシルスフィアを、モルガーナは持ってきていた。

「資格の剥奪はしないでおいてあげるわ。貴方なら、使い方はわかるでしょう?」

 浅く息をしているだけの、意識のない翔機に対し、モルガーナはそう声をかける。

「もし目覚めたら、好きにしていいわ。使って生き延びるのも、使わずに死ぬのも、貴方の選択次第よ」

 ベッドに一歩近づき、モルガーナは顔を近づけて翔機の顔を覗き込む。

 たくさんのシワが刻まれ、少なくなった髪が真っ白に染まっていても、彼には最初に出会ったときの、五歳だったときの面影があった。

「さようなら、翔機」

 さらに顔を近づけるモルガーナ。

 一瞬の口づけ。

 乾いてヒビ割れた翔機の唇に自分の唇を重ねた彼女は、直後に彼に背を向ける。

 そしてそのまま、病室を後にした。

 

 

 



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第六部 暗黒色(ダークブラック)の嘆き 第一章 2

 

 

          * 2 *

 

 

「まだまだ、混乱してるな」

 貧相な机に立てたポールに取りつけたモニタは、六枚。

 それぞれに別の情報を表示する彰次は、かけている眼鏡型スマートギアも使い、モニタに表示した業界系のニュースサイトをチェックしていた。

 部屋にあるのは彰次が座っている椅子と机、ふたり分の食事を置いたらいっぱいになる程度のダイニングテーブルと、機材が詰め込んである大きめのカラーボックス。

 部屋の中は玄関から真っ直ぐ中が見られないように配置されているが、簡易キッチンがあり、トイレと風呂場の扉が並んでいる。彰次のいる部屋にはもうひとつ、寝室にしている部屋への扉があった。

 自宅とは違う、そんな簡素な部屋で、グレーのスーツを着たままの彰次は、ニュースチェックを続けている。

「サンプルロットは完売。量産ロットはとりあえず少数、か。まぁ堅実的なところだな」

 会社のネットに接続して得ている情報では、先日発表したクリーブのリアルタイムデータを表示している。

 ごく少数に留まったサンプル生産分はそう遠くないうちに裁けることは予想していたが、思った以上に早く量産開始の最初となるファーストロットの生産が、決して多いとは言えないながらも決定していた。

 平泉夫人が凶弾に倒れたというニュースは、暴力団の抗争以外ではほとんど聞いたことがない、銃が使われたこともあり、世間を騒がせた。

 一般人の大半にとっては数日で興味が失われる程度の話題に過ぎなかったが、ロボット業界、とくにスフィアドールの関係者には、戦慄を持っていまも騒がれている。

 はっきりと存在を確認したことがなくても、ロボット業界に魔女が巣くっているという事実は、少なくない業界関係者が知っていた。明らかにスフィアロボティクスに有利な事柄があったとき、魔法が使われたと言われるのは、常となっていた。

 その魔女と真っ向から対立するような行動を取った平泉夫人が銃で襲撃されたのだ、関係者にとっては大きな事件となった。

 不確定だった魔女の存在が鮮明に浮かび上がり、敵対者が排除された。その事実は業界関係者の少なくない人々を萎縮させるに足るものだった。

 逆にこれまでもあった、魔女の影を排除しようとする動きも活発化している。

 クリーブが発表の後の絶望的な状況よりほんのわずかながらマシなのは、そうした反発の意志を示した人々による行動だった。

 いまだに捕まっていない銃撃犯に対するというより、魔女の影に対する反発であるのは、クリーブの購入企業、研究機関のリストからも見て取れた。

 同時に、クリーブの旗振り役であった平泉夫人が倒れたことで、開発が頓挫すると読み、購入を中止するところも出てきてはいたが。

 資産家で、投資家である平泉夫人の名前は、一般の人はまず知らない。銃撃事件のことは騒がれたが、それだけだ。

 けれど彼女に縁の深いスフィアドール業界の人々は、この一週間ずっと騒ぎ続けていて、その動きはまだまだ続きそうな様子がある。

「これが、夫人の言っていたことなのか?」

 左手を顎に添え、右手を伸ばしてマグカップを取った彰次はそうつぶやく。

 少し前に平泉夫人は、クリーブの成果はそう遠くないうちに出ると話していた。

 小規模ながらもクリーブの注文数は増えているわけで、初期に比べればマシな状況となっている。

 けれどこれが成果かと言われれば、規模が小さすぎて彰次には夫人の言葉が実現した結果だとは思えなかった。

 その辺りは言った本人に聞いてみたかったが、難しかった。

 今日、芳野に対して医師から告げられた、夫人の容態。

 もしかしたら今日にも息を引き取る可能性があるいまはもう、夫人に問うことはできそうになかった。

「彼女は大丈夫かな?」

 相当のショックを受け、それでも急ぎやらなければならない仕事を片付けるために病院を飛んで出てしまった芳野。

 彼女の仕事で、機材の手配や仕事環境の構築など、間接的な援助はできても、直接的な手伝いはできない。心配だったが、必要に応じて時間をつくって、一緒にいること以上は、彰次にはできなかった。

 ひとつ息を吐いた彰次は、手にしたままだったマグカップを口元に寄せて傾ける。

「……新しいの、淹れるか」

 カップを手に椅子を立ち、頭を掻きながら簡易キッチンに向かった彰次は、ヤカンに水を入れてコンロにかける。

 流しに置きっ放しだったガラスのティポッドを軽く洗い、知り合いに配合してもらって小分けにしておいた、ハーブミックスをポッドに空けた。

 家ではすっかりエルフドールのアヤノに任せきりで、決して手慣れているとは言えない作業をしているときだった。

 鍵を解除する音に続き、開かれた玄関の扉。

「お疲れさん。予定より早く終わったんだな」

 防御力もありそうな革のブーツを脱いで入ってきた人物に、彰次はねぎらいの言葉をかける。

「はい。もう少し難航するかと思っていたのですが、すでに奥様のご実家は、先手を打って動いてらっしゃいました」

 相変わらず乱れたところのないメイド服を着、彰次の言葉に答えたのは、芳野。

「もうすぐお茶が入るが」

「ありがとうございます。シャワーを浴びてから頂きます。その後は、二時間ほど仮眠を取って、また病室に行く予定です」

「わかった」

 表情がないのは変わりないが、以前とは違い、瞳に優しい色を浮かべた芳野は、彰次のすぐ後ろの脱衣所に続く扉に入っていった。

 扉越しでも微かに聞こえる衣擦れの音に、思わず息を飲む。

 それに続いて聞こえてきた、ゴトンゴトンという物騒な音は、聞こえなかったことにした。

 ここは、夫人が入院した翌日に急いで手配した部屋。

 病院に近く、芳野の運動能力をもってすれば、玄関を出て二分とかからずに病室に駆け込める。

 病室には病院のセキュリティの他に、信頼できる警備会社の警備員が常時貼りついていて、遠隔の監視態勢も許可を取って設置してある。しかしそれでも安心はできない。

 それに、容態急変への対応もある。

 必要な機材を置けて、風呂があって、仮眠が取れる場所として、彰次は芳野のために偶然空いていたこの部屋を借りた。

 ――割と、生殺しだよな。

 シャワーで身体を流す音が聞こえてくるものの、そこから先の展開があるわけではなかった。

 仕事で忙しい彰次は、この部屋で寝泊まりしていると言っても、出かけていることの方が多かったし、芳野は芳野で仮眠を取る以外で部屋にいることの方が少ないほどだった。

 ――それに、早ければ今日にも、この部屋は不要になるかも知れない。

 よほど運でもよいか、奇跡でも起きなければ、平泉夫人が目覚めることはないだろう。

 医師が言っていたように、夫人の体力は限界だった。

「俺にできるのは、ここまでだな」

 つぶやきを漏らした彰次は、音が鳴り始めたヤカンの火を止め、ポッドに湯を注ぐ。

 できるだけ芳野の助けになりたいと思って、やれることはやったつもりだった。

 けれどいま以上のことは、彰次にはできなかった。

 ――克樹たちは、どうしてるんだかな。

 先週知った、克樹たちが参加している戦い。

 ファンタジックとしか言いようのない現象は、魔女が関与していることは確実だった。

 平泉夫人もその戦いに関係して銃撃されたのはわかっていたが、夏姫からの連絡で、克樹が学校を長期に休むと連絡を入れた他は、彼らと話してはいなかった。

 ――全部、聞かないとな。たとえ、平泉夫人が亡くなってしまうとしても。

 ガラス製のポッドの中でゆっくりと開いていく色とりどりのハーブを見ながら、彰次はそんなことを考えていた。

 

 

            *

 

 

 定期的に部屋に響く音だけがあった。

 電子音と、ポンプの音。

 弱められた照明の下に動く人影はなく、止まることのない定期的な音は、病室の静けさを一層増していた。

 ベッドに横たわる平泉夫人は、まるで死んだかのように動くことはない。

「フェアリーリング!」

 静かだった部屋に響いた、舌っ足らずの声。

 ベッドを中心に広がった金色の輪は、病室の壁まで広がり、止まった。

「あっ、らぁいず!!」

 続いて唱えられた言葉とともに、床の辺りから光が発せられ、大きく膨らんだ。

 光が弾けて消えたとき、その中から現れたのは、ひとりの女の子。

 エリキシルドール。

 白いソフトアーマーの上に空色のハードアーマーを身につけ、空色のツインテールを左右に垂らしているアリシアは、心配そうに平泉夫人の顔を覗き込む。

 血の気とともに生気を失っているような夫人の顔にはしかし、満足そうな薄い笑みが浮かべられている。

『ゴメンね、こんな風に巻き込むつもりは、なかったんだ』

 床に置いてあったピクシードールサイズのリュックを取り、携帯端末を取り出したアリシア。端末からそう声をかけたのは、リーリエ。

『たぶん、これからすることは、貴女の意志に背いてることだと思う。でもやっぱり、やるしかないと思うんだ。あたしは貴女に、いっぱい、いっぱい、ありがとうって言いたいから』

 言ってリーリエは、携帯端末を持っていないアリシアの左手を、胸の前で強く握らせ、目をつむる。

『あたしもぜんぜん余裕がないから、ほんのちょっとしか分けて上げられない。それでもマシになると思う』

 言いながら目を開けたリーリエは、夫人の顔の半分を覆っている、人工呼吸器のマスクに手をかけた。

「待ってください、リーリエさん」

『……来たんだ』

 制止の声とともに開かれた病室の扉から入ってきたのは、小柄な人影。

 目深に被っていた帽子を取るのと同時に、身体を隠すような野暮ったいコートを覆っていた金色の光が散り、ピンク色の髪が露わになる。

「わたしもリーリエさんと、想いは同じですから」

 大きな鞄を床に置き、コートを脱ぎ、先日の戦いの時と同じアーマーつきの衣装――エリキシルドールの姿を晒してベッドに近づいてきたエイナは、微笑みを浮かべた。

『でも大丈夫なの? モルガーナは。いまは日本にいるよね?』

「大丈夫です。襲撃が完全成功ではなかったことで、いまは様々な人のいろんな思惑が交錯しています。あの人はそれの調整でわたしのことも、もう終わることだと思っているこちらにも気を配っている余裕はありません。長い時間でなければ、どうにか」

『わかってるの? エイナ。ここであたしに協力したら、モルガーナに敵対する意志を示すことになるんだよ?』

「……それも、わかっています。ですがあの人は、わたしを手駒にして戦うしかありません。それに、わたしか、リーリエさんのどちらかの願いをあの人に先んじて叶えるためには、この方の存在による外からの圧力が必要です。それからたぶん、その後のことについても」

『うん……』

 笑みを浮かべながら言うエイナに、リーリエの表情は曇ったままだった。

『バレたら、強硬手段を執ってくるかも知れないよ』

「そのときはそのときで考えます。もとよりこの戦いは、あの人がその気になればどうにでもできてしまうものなのですから、そこを悩んでいても仕方がありません」

『ん……。そうだね』

 ニッコリと笑うエイナに、リーリエもまたぎこちないながらも笑みを返していた。

 けれどもそれに代わり、今度はエイナが表情を曇らせる。

 リーリエと並んで立ったエイナは、おずおずといった様子で、問いかける。

「……リーリエさんは、あの、やはりもう……」

『うん、フォースステージに上がるよ。もうおにぃちゃんとは、一緒に戦うことはないと思うしね』

「それで、良いのですか?」

 心配するような表情を向けてくるエイナに、リーリエはニッコリと笑む。

『だって、仕方ないよ。あたしがおにぃちゃんを裏切ったのは確かだもん。いまはもう、おにぃちゃんから連絡もないよ』

 自分の境遇を、リーリエは笑顔で語る。

『でも、でもね? エイナ。あたしはおにぃちゃんともう二度と話せなくても、二度と会うことができなかったとしても、おにぃちゃんのために戦うよ。おにぃちゃんにとって一番だと思うことのために戦うよ』

「そうですか……。次に戦うときは、わたしにとって厳しいものになりそうですね」

『うん、そうなると思うよ。あたしだって、負けるわけにはいかないもん。誰が相手でも、全力で戦うよ』

 顔を歪めて視線を落としていたエイナは、口を引き結んでから、リーリエと視線を合わせる。

「わたしも、全力で戦います。この前のリーリエさんとの戦いで、貴重な実戦経験が積めました。あのとき以上に、バトルアプリをチューニングして挑みます」

『あたしの方も準備を進めてるよ。フォースステージに上がるだけじゃなくて、他にも。エイナにも、モルガーナにも負けないようにね!』

「はいっ」

 決意を籠めた視線を交わし合い、ふたりで笑みを浮かべるリーリエとエイナ。

 それからエイナは、着ていた服のポケットに手を入れ、何かを取り出す。

 金属の外殻を持つ球体、スフィア。

 差し出されたそれを見て、リーリエは小首を傾げる。

『これは?』

「わたしが、ステージ用のエルフドールで使っていたスフィアです」

 エイナの手のひらに乗っているそのスフィアを、リーリエはしげしげと眺める。

『エリキシルスフィアじゃ、ないよね?』

「バトルへの参加資格はありませんが、これもエリキシルスフィアです、予備の。セカンドステージにも上がっていない、やっと受容体の形成が始まった程度の段階のものではありますが」

『これを、どうするの?』

 リーリエの問いに、エイナは視線をさまよわせた。

「ここに入っているスフィアほどではありませんが、ほんのわずかにしろ、これには私が入っています」

 自分の頭を指さし、唇を震わせているエイナは、すがるような目でリーリエを見つめる。

「できたら、ショージに――、音山彰次さんに、渡していただけませんか?」

 願っている。

 望んでいる。

 けれど恐れているその瞳に、リーリエは微笑みを浮かべ、頷いた。

『うん、わかった。いいよ、渡しておく。でも、どういうものなのかはちゃんとショージさんに言うよ? 受け取ってもらえるかどうかは、わからないよ』

「はい。わかっています。だから、できたらで構いません」

 泣きそうな暗い顔を歪めているエイナからスフィアを受け取って、リーリエは携帯端末を入れてきた小さな鞄にそれを収めた。

 それから、平泉夫人の顔を覆っているマスクを外し、顔の上で両手を握り合わせて目をつむる。

 エイナはリーリエの手に自分の両手を包むように重ね、彼女もまた目をつむった。

『お互い、ほんの少しずつね』

「はい。わたしも、リーリエさんも、余裕はありませんものね」

『うん。でもふたりで少しずつなら、きっと大丈夫。いくよ』

 目を開いたふたりは、同時に唱えた

『アライズ』「アライズ」

 キラキラと光る、飛沫。

 重ね合わせたふたりの手から、一滴にも満たないエリクサーの飛沫が零れ落ち、平泉夫人の唇へと降り注いだ。

 

 

            *

 

 

「クソッ」

 悪態を吐いた猛臣は、被っているヘルメット型スマートギアのバイザーを上げ、オフィスチェアにだらしなく身体を預けた。

 夜も遅いいまの時間は、猛臣が所属するスフィアロボティクス開発班のオフィスには、彼の他に人影はなかった。

 デスクに置いた液晶ディスプレイ、スレート端末、頭に被ったスマートギアを使ってそろそろ追い上げとなる製品の開発作業を進めていたが、集中できなかった。

 ――モルガーナ、だよな。夫人をやったのは。

 平泉夫人が銃撃されたという報道が流れてから、もう一週間以上が経過していた。

 最初の数日はニュース記事で騒がれたが、すぐに新しい報道に押し流され、続報が伝えられることはなかった。

 いまでこそHPTに大きく肩入れしている夫人だが、スフィアロボティクスの株主でもあって、かなり初期から支援していた人物でもあったから、社内でも心配する声がいまもささやかれている。

 HPTやスフィアロボティクスだけでなく、スフィアドール業界全体の支援者と言える夫人を心配する声は大きく、悪く言う人はいない。

 他の業界にも広範囲にわたって関わっている夫人であるが、特定の事柄で利害が食い違う場合はあっても、文字通り敵対していると言える組織や個人は、あまりいない。

 唯一、モルガーナを除いては。

 夫人がHPTを焚きつけて世に出したクリーブは、スフィアロボティクスを揺るがすほどのものではなかったが、頻繁に話題に上る程度には衝撃があった。

 それをモルガーナが、敵対行動と捉えた可能性は高い。

 発表時点よりも夫人が凶弾に倒れたいまの方が、クリーブの業界での扱いが大きくなっているのは、殺害にまで至らなかったことによる影響だろうと推測できた。

「しかし、克樹の野郎はどうしてやがんだ?」

 プラカップに残っていたコーヒーを飲み干し、猛臣はそうつぶやく。

 平泉夫人襲撃事件以来、克樹からは連絡がない。

 こちらからの連絡にも返事はなく、連絡手段を断っている。

 おそらく気軽に聞ける相手の中では一番把握しているだろうから、夫人の容態など聞きたいことがあるのに、話をすることもできていなかった。

 夏姫と何回か交わしたメッセージによると、克樹はいま腑抜けをやっているという。

 克樹が夫人に精神的に依存している様子には気づいていたから、そうなるのも仕方がないとは思う。ただし、夏姫の話だと様子がおかしくなったのは、夫人の事件を知る前からだったそうだから、腑抜けた原因は他にもあるように思えていた。

 ――残りふたりってのは誰なんだ?

 夏姫との交わしたメッセージの中には、バトルをしてきたらしい克樹が、残りふたりのエリキシルソーサラーがわかったと言っていた、とあった。

 しかし今日の段階でも、克樹はそれについて口をつぐみ、話をしていないのだという。

 重要な情報であるにも関わらず、平泉夫人のことがあったにせよ誰にも話していないというのは、よほどの相手だったのだろう。

 それが誰であるかを、猛臣は推測をつけていた。

「コーヒーでも淹れるか」

 考えていても出ない答えに、新しいコーヒーを淹れるため席を立とうとしたとき、着信を知らせる音がスマートギアのヘッドホンから響いた。

「んだ? ……こいつぁ初めてだな」

 バイザーを下げ、着信を告げるウィンドウに表示された名前を見た猛臣は顔を顰めた。

 思考でポインタを操作し、応答する。

『こんばんはっ、猛臣! 出てくれてありがとうー』

「あぁ。知らねぇ仲じゃないしな。しかし、なんでてめぇが連絡寄越すんだ?」

 通話ウィンドウに現れたのは、空色のツインテールをした女の子、アリシア。

 CGで構成されたスフィアドールの姿をした、リーリエだった。

 専用の回線を持っていると言うので連絡先を交わしてはいたが、リーリエが連絡してくるのは初めてのことだった。

 会話に割り込んでくることはあっても、いつもは克樹に対して連絡をしていたし、連絡が来るのも彼からだった。

 椅子に座り直し、猛臣は顔を顰めたまま問う。

「いったい何の用だってんだ?」

『うん。まずはこれを見てほしいんだ』

 そんな言葉とともに表示されたファイル受信の可否を問うウィンドウに、訝しみながらもOKのボタンを押す。

 意外に大きい動画ファイルの受信を終え、ウィルスチェックの後、再生を開始した。

「――これ、は?!」

 スマートギアの視界に表示されたのは、エリキシルバトルの録画映像。

 おそらく克樹がこの前戦ってきた敵とのバトル。

 敵は、エイナ。

 位置からして克樹のスマートギアに搭載されたカメラで録画されただろう映像の中で、アリシアとエイナがほぼ互角の戦いを見せている。

 戦いは必殺の一撃を狙い合う静かなものを最初に、剣と刀によるものに移り、短剣と小刀によるものに変化していく。

 ――これが、スフィアドールの、エリキシルドールの動きだってのか?

 映像内に表示されている時間経過を信じるなら、再生速度をいじったというわけではない。それなのにエイナとリーリエの戦いの速度は、猛臣が知っている動きより一段は上のものになっていた。

 見ているだけで鳥肌が立つ。

 人間の反応速度を超えている、というのをさらにひとつ超えた速度に、驚きの声も上げられない。

 同時に彼女たちがやっているエリキシルバトルの意味に、猛臣は思い至る。

「てめぇが、いや、てめぇとエイナが、残りふたりのエリキシルソーサラーだったのか」

『うん……。そうだよ、猛臣』

「ってこたぁ、克樹の野郎が腑抜けになったのは、それを知ったからか」

『たぶん、そうなんだと思う』

「なるほどな」

 顎を指でさすりながら、猛臣はため息を吐いていた。

 どう探しても見つからない残りふたりのエリキシルソーサラー、と考えれば、リーリエとエイナという解答は、決して思いつけないものではなかったはずだ。

 人工個性は仮想のものとは言え、脳を持ち、ひとりの個性として成立しているものなのだから、願いを持つことはなんら不思議ではない。

 ただ、人工個性がエリキシルバトル参加の権利を持つこと、参加の誘いをしてきた本人であるエイナ、克樹が持っているスフィアを共有しているリーリエ、という解答を得るには、さすがにヒントでもなければ難しいと思えたが。

 戦いは終盤、音山彰次の登場で中断したところで終わっていた。

『渡した奴の他に、あたしの――、アリシアのカメラの方の映像と、光学映像だけじゃなくって、センサーから得た情報を処理したデータもあるんだ』

「……何が望みだ?」

『猛臣は話が早いねっ』

 いまもらった映像だけでも、エイナへの対策、さらにリーリエへの対策は立てられないことはない。けれども情報は多いに越したことはない。

 バトル用ピクシードールでありながら、リアルタイムで動きを解析するのに使っているという高性能なセンサーを搭載したアリシアの情報も組み合わせれば、桁違いのデータが得られるはずだ。

 エリキシルソーサラーであるリーリエが、その貴重な情報の存在を明かす理由は、ひとつしか考えられない。

『エイナ、強いよね?』

「あぁ。正直、いまのイシュタルじゃ対抗できねぇのは確かだ。ボディ性能だけなら、いまやってる改修が終われば追いつけるとは思うが、俺様自身と、バトルアプリの改良も必要だな。二ヶ月……、いや、三ヶ月は最低でも必要だ」

『凄いね、猛臣。見ただけで目処がつけられるなんて。――うん、エイナは凄く強いんだ。それに、おにぃちゃんとあたしと戦ったことで、たぶんさらに強くなってる。だから、あたしももっと強くならないといけないの』

「なるほど、な」

 リーリエの言いたいことを、猛臣はだいたい理解できるようになってきた。

 具体的なものについてはまだはっきりとしなかったが、飛んでもないことを言われるだろうことは、予感していた。

『猛臣がいまつくってる人工筋、Gラインを一式、ほしいんだ』

「――てめっ! そんな情報、どこから仕入れやがった!!」

 アルファベットナンバーの、現在Fラインまでが発表、発売されているスフィアロボティクスのパーツ群は、その世代のリファレンスモデルとして発売される、高級パーツ。

 リファレンスパーツは主にサードパーティに任されている普及パーツとは異なり、性能はもちろん、耐久性も高い。Fラインのパーツ一式で組み立てられたスフィアドールは、現在でも第五世代の最高の性能を持つ。その分、価格も隔絶していて、一般に使われることは少なく、半受注生産となっているほどに生産数が少ない。

 一種のプレミアムパーツであり、普及価格帯のパーツがリファレンスパーツに追いつくのは、世代終盤となる。第五世代発表から第六世代発表まで期間が短かったため、現行のFラインシリーズに普及価格帯のパーツは性能が追いついておらず、現在でも最高性能のパーツとして認められていた。

 年明け早々に予定されている第六世代スフィアと同時に発表、予約が開始される新しいGラインシリーズは、現在開発がほぼ終了し、生産方法の調整が始まっている段階だった。

『ここのところスフィアロボティクスで猛臣がやってた表に見える部分と、イシュタルとかウカノミタマノカミの性能を解析してたら、だいたいわかるよ』

「推測で俺様がやってることまでわかるってのか……。くそっ。てめぇの能力を侮ってたぜ」

 舌打ちした猛臣は、顔を歪めてため息を吐いた。

 確かにイシュタルやウカノミタマノカミに使っていた人工筋は、Gラインシリーズの開発過程でできた試作品を組み込んでいた。

 エリキシルバトルと、リミットオーバーセットに適した調整をしたものであったが、そこからリーリエに開発内容を推測されるとは思わなかった。というより、実物もないのにそんなところまで推測できることはまずあり得ない。

 表面的な情報からその内情まで推測できる彼女の解析能力と、推測能力は、才能と言えるほどに飛んでもないものだった。

「確かにGラインシリーズの人工筋は、すでにサンプルが手元にあるにゃぁある。だが俺様が、いまはっきり敵だとわかったてめぇに塩を送ると思ってるのか?」

『うん。わかってる。でも、あたしにはこれまで以上の、過去最高のアリシアが必要なんだ。――エイナを、倒すために』

「ふんっ」

 エイナを倒すため、というリーリエの主張はわからなくもなかった。

 三ヶ月で対抗できるようになるとは言ったが、エイナはおそらくその間にさらに強くなっているはずだ。送られてきた映像を一度見ただけだったが、エイナの動きは高速で鋭くはあっても、洗練はされていない。

 実戦経験の不足が原因だと思われた。

 リーリエとの戦いは、エイナをさらに強くするのは確実だし、新しいイシュタルと改良したバトルアプリで戦うことはできたとしても、勝てるかどうかについては確信が持てなかった。

「てめぇはまたエイナと戦うってのか? 克樹の野郎はもうダメだろ?」

『もうすぐあたしは、もう一度エイナと戦うことになると思う。おにぃちゃんとは、一緒に戦うことはないと思うけどね』

「奴ぁ脱落か」

『うぅん。おにぃちゃんは大丈夫だよ。いろいろなことがあって、いまはダメダメだけど、おにぃちゃんは、あたしのおにぃちゃんだもん。本当にダメになったりしないよ?』

 通話ウィンドウの中で笑うリーリエに、猛臣は片眉をつり上げていた。

 克樹が復活できるかどうかは、リーリエの言葉ほど現実味を帯びて感じることはできなかった。

 ――あいつは自分のことになると脆い。

 元々百合乃の、そしていまはリーリエの兄をしているからだろうが、守ること、誰かのために戦うこと、自分の外側に理由がある場合は克樹は恐ろしく強い。

 けれど一度折れて自分の内側に引きこもってしまうと、脱出するのが難しい。

 猛臣は克樹にそんな印象を抱いていた。

「どっちにせよ、Gラインのサンプルなんて、てめぇに提供できねぇぞ」

『うん、わかってる。だから、これも見てほしいんだ』

 そう言ったリーリエが送信してきた新たなファイル。

 それを開いた猛臣は、思わず噴き出していた。

「……て、てめぇ。いったいどこまで能力がありやがるんだ」

 送られてきたのは、分子構造図を中心とした、設計データ。

 猛臣はひと目でそれが人工筋のものであることを理解した。細かいところは内容をじっくり見なければわからないが、おそらく新しい構造のバイオ系人工筋だ。

『んーとね、現行のFラインシリーズの人工筋があって、おにぃちゃんが調べたいろんなとこの人工筋の構造とかがあって、猛臣が使ってる人工筋の性能から予測して、いま開発してるんだろうなっていうのが右側の。そこから発展させると左側のがつくれるんじゃないかな? と思ったの。たぶんいますぐにはいろいろ課題があって難しいと思うんだけどね。でも、猛臣だったらできるんじゃないかな?』

「さすがにいまここでそうだとは言えねぇよ。だが、なんだこりゃ……。ほぼ正解じゃねぇか」

 リーリエの言った右側の構造図は、いま猛臣が開発に携わっているGラインシリーズの人工筋のものとほぼ同じだった。左側の方のものはまだ何とも言えないが、実現自体は可能だと思われた。

 記載されている性能予想は、Gラインシリーズの発展型として充分なものとなっている。この情報だけで、開発期間は半年から一年は短縮できるはずだ。

「これを、てめぇがつくったってのか?」

『うん、そうだよ。あたしは身体を持ってない分、考えることだけはいくらでもできるからね。普通の人と違って、並列した思考もできるし、一応睡眠は必要なんだけど、シミュレートなんかは思考の中でずっと続けられるんだ』

 仮想脳だけで構成される人工個性が、人間とは違う特性を持つということは、猛臣にも理解できる。

 しかし幼い頃から勉強して身につけてきた人工筋などのスフィアドールに関する知識を、稼働からたった三年程度のリーリエに追い越されることについては、納得できるものではなかった。

 ――こいつ、たぶんこの分野の天才だぞ。

 微笑みを浮かべているリーリエは理解していないのだろうが、彼女の能力はもしかしたら猛臣を超える。言動や行動は幼い女の子のそれであるのに、能力は天才の域に達している。

「……人工筋の他に、ほしいものはあるのか?」

 情報は検証しなければ評価はできない。それでも充分過ぎるものを得られたと感じることが猛臣は、そうリーリエに提案した。

『できたら、それに使えるサブフレーム一式はほしいかなぁ』

「メインフレームなんかはどうするんだ?」

『それは大丈夫なんだ。HPT製の試作品が充分性能も機能もあるし、あたしはこれを使い続けたいの。それから、ソフトアーマーもハードアーマーも、他の細かいパーツも、過去最高のを手配が終わってるから』

「わかった。サンプル品だからな、テストで消耗したとでも報告すればどうにかはなる。サブフレームもこっちで手配する」

 データ通りならば人工筋だけでは釣りが出るほどの内容に、猛臣はリーリエの願いを受け入れることにした。

 視界にサンプル品の情報を表示しつつ、猛臣は通話ウィンドウのリーリエを睨みつける。

「本当に、エイナに勝てるんだろうな?」

『勝つよ。でないと、あたしの願いが叶わないからね!』

 ニッコリと笑ってそう返してきたリーリエに、猛臣は苦笑いを浮かべた。

 自信ではなく、決意。

 リーリエの言葉と表情にそれを感じ取った猛臣は、それ以上のことを言うことができなかった。

 ――てめぇはどうするんだ? 克樹。このままだとリーリエに置いていかれるぞ。

 ここにはいない克樹に呼びかけた猛臣は、通話ウィンドウの中のリーリエを見つめる。

「エイナを倒した後は、準備が整い次第、てめぇをぶっ倒すからな、リーリエ」

『うん。待ってるよ! 猛臣っ』

 そんなリーリエの返事に、猛臣は笑みを零していた。

 

 

 



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第六部 暗黒色(ダークブラック)の嘆き 第一章 3

 

 

          * 3 *

 

 

「ただいま」

 鍵を開けて部屋に入った夏姫は、コートを脱ぎながら克樹の方を見る。

 暖房もつけず、頭を抱えた格好で部屋の隅に転がっている彼。

 学校などから帰ってきたとき、部屋で待っている人がいるということが最初は暖かくも感じたが、もうそろそろ二週間が経ついま、心配の方が強くなってきていた。

 コートを脱いでハンガーに掛けた夏姫は、制服のまま畳に座った。

「克樹、話があるの。座って」

 わずかに身体を動かすものの、克樹は夏姫の声に応じてはくれない。

 彼の背中を睨みつけ、夏姫はもう一度言う。

「座りなさいっ、克樹!」

 鋭い言葉で言うと、身体をびくつかせた克樹は、ゆっくりとした動作で身体を起こす。

 軽くあぐらを掻いた格好で座った彼だったが、うつむいて夏姫の顔を見ようとはしない。

「克樹はこれから、どうするつもりなの?」

「……」

 うつむいたままの克樹は、夏姫の問いに答えない。

 口を強く引き結んだまま、喋ろうともしない。

「あのとき、残りのエリキシルソーサラーがわかった、って言ってたよね? それは誰なの?」

 そう問うと、克樹は顔を上げた。

 泣きそうなくらい顔を歪ませている克樹は、それでも何も言ってくれなかった。

 夏姫には、残りのエリキシルソーサラーが誰なのか、推測はついていた。いまの反応と、あの日リーリエに問うていたことを考えれば、克樹が言わない理由もわかる。

 けれどもはっきりと、克樹の口から答えが聞きたかった。

 それがたぶん、克樹がもう一度立ち上がる一歩となるだろうと思えていたから。

 ――このままじゃダメなこと、わかってるよね?

 心の中で、目を逸らしてしまった克樹にそう問いかける。

 このままではいられないことは、克樹もわかっていることのはずだった。リーリエを遠ざけて、何もせずに転がっていても、勝手に解決することはない。

 少なくとも、望み通りの結果が得られることはない。

 結果が出てからも動かなくてはならないことも変わりないし、いつかは自分の足で動き出さないといけない。

 平泉夫人のことを考えれば、そのことがひと段落してからとも思いもしたが、近く夫人のことに結果が出るのだとしたら、それは最悪のものになるかも知れなかった。

 どうなるかわからないにしても、最悪の結果が出るよりも先に、いまのうちに動かなければならないだろうと、夏姫は考えていた。

「克樹はこのまま、待つだけなの? このままじゃいけないこと、わかってるよね?」

「……それは、わかってるけど」

 目を逸らしたままの克樹は、口の中でもごもごと答える。

 深くうつむいた彼が迷っているのは、これまで見てきたからわかっていた。そして迷いながらでも、動いてくれる人だということも、夏姫は理解していた。

 いまはいろいろあって、そのための一歩が踏み出せなくなってしまっている。

 ――だったら、アタシがやるべきなのは、こいつの背中を押してやることだ。

 そう思った夏姫は、克樹に語りかける。

「パパが大変だったとき、アタシは克樹に支えてもらったよ。助けてもらったよ。克樹から、たくさんのものをもらったよ。だから、いまはアタシが克樹のことを支えていたいと思う」

 あのときの感謝と、嬉しい気持ちを込めて、夏姫は克樹のことを見つめる。

 話してる間に、彼もまた、うつむかせていた顔を上げてくれる。

「アタシは、克樹のことが好き。大好き。克樹もアタシのこと、好きだよね?」

「……うん」

「ママが亡くなって、パパも帰ってこなくて、アタシはひとりで過ごしてて、それで大丈夫だと思ってた。でもね? 克樹。本当はアタシは寂しがり屋だった。克樹と一緒にいるようになって、それを感じたの。克樹に支えてもらって、やっぱりアタシはひとりじゃいられないって思ったの」

 話してる間に、胸にこみ上げてくるものがあった。

 喉を通り過ぎたそれは、目頭を熱くして、いつしか克樹の顔が揺らいで見えるようになる。

「だから、アタシは克樹がしてくれたように、貴方のことを支えたい。いまが大変な状況だってのはわかるよ。でも、このままじゃいけないのも、わかってるよね? もし、ひとりじゃ踏み出せないなら、アタシが手伝うよ。アタシが、克樹と一緒にいるよ」

 そこまで言った夏姫に、克樹が息を飲むのが見えた。

 彼に手を伸ばすと、手を握って引き寄せてくれた。

 そのまま抱き締められる。

「ありがとう、夏姫」

「うん……」

 克樹の身体に腕を回すと、彼の身体が細かに震えてるのがわかった。

 暖かい胸からでは見えなかったが、何度も何度も喉を詰まらせているらしい彼が、泣いてるのもわかった。

 そんな克樹のことを、夏姫は強く、強く抱き締める。

 抱き締めてくれる彼のことを、精一杯の力で抱き締めていた。

「――聞いてくれ、夏姫」

「うん」

「もしかしたら、平泉夫人は長くないかも知れない」

「え?」

 身体を離した克樹の顔を見ると、目尻に涙を溜めていた。

「本当に?」

「はっきりしたことは、芳野さんからは聞いてない。でも、毎日通ってるからね、さすがに僕でもわかるよ。弾丸は摘出できたけど、容態がよくなってない。奇跡でも起きない限り、平泉夫人はたぶん、もう――」

「そんな……」

 そうであることを、予想していなかったわけではなかった。

 いまだ意識を取り戻していない平泉夫人。

 このままいけばどうなるかは、夏姫でもわかることだった。

 けれどもそれをはっきり言われると、さすがにショックを隠すことができない。

「夏姫に迷惑かけてることはわかってる。でも、でももう少しだけ、平泉夫人がどうなるのかはっきりするまでは、待っていてほしい」

「それは、いいけど……」

「せめて意識が戻れば、もう少しどうにかなるかも知れないらしいんだけど、ね……」

 うつむいた彼の様子から、それが難しい状況なのはわかった。

 克樹に紹介してもらってからそれほど長くないとは言え、たくさん世話になった人が長くないかも知れないと知ると、なんと言っていいのかわからなかった。

 克樹の頬に手を添え、彼のことを抱き締めようとしたとき、制服のポケットに入れておいた携帯端末がけたたましい着信音を響かせた。

 悲しそうな目で頷く克樹に、夏姫は携帯を取りだし、芳野さんからだった着信に応答する。

「はい……。え? は、はいっ。克樹、替わってほしいって」

 静かな口調なのにどこか焦った様子の芳野に替わってほしいと言われ、夏姫は克樹に携帯を差し出した。

「――はい、音山、克樹です。……え? それはっ! す、すぐに向かいます!!」

 話の内容は聞こえなかった。

 けれども驚いた顔になる克樹に、何かがあったことだけは理解した。

「どうしたの? 克樹」

「いや、ちょっと……。これから病院に行ってくるっ」

 差し出された携帯端末を受け取りながらそう問うと、驚いた顔の彼にそう言われた。

「大丈夫、なの?」

「えっと……、と、とりあえず後で報告する!」

 慌てた様子の克樹は、それだけ言って玄関へと向かっていった。

 靴を履ききらないまま転がるように外に出て行く彼の背中を見ながら、夏姫は心配で仕方がなかった。

 

 

            *

 

 

 強い消毒液の匂いに鼻を刺激されて目を開ける。

 真っ白な天井には憶えがなく、首を動かすのすら億劫ながらも、辺りを見回してみて、自分のいる場所を知る。

「あの人の元へは、行けなかったみたいね。残念だわ」

 一度大きく深呼吸をした平泉夫人は、口を覆うマスクを外し、上半身を起こした。

 途端に身体の何カ所かで走る痛み。

 あの日、銃撃を受けてから何日が経っているのかはまだわからなかったが、傷が治りきるほどの時間は経っていないらしい。

「あの子たちに感謝しなければならないわね。まだやってほしいことがあるようだけれど」

 眠り通しで曇っていた思考は痛みですっかり晴れ、平泉夫人は改めて周囲を見渡す。

 病院の、おそらくVIP用の病室。時間はそろそろ夕方だろうか。

 心拍計などの病院の機材の他に、夫人が仕事で使うような機材は置かれていない。しかし、サイドテーブルにはタブレット端末が置かれていた。

 自宅でも使っている見慣れたそれを取り、表面に指を滑らせて起動する。

 日付と時間を確認した夫人は、オフラインながらいつも芳野と報告のやりとりをするのに使っているアプリを立ち上げた。

 病院ではネット環境を整えきれなかったのだろう、けれど毎日情報を更新して持ち込んできている様子のタブレット端末には、夫人が起きてすぐにほしいと望む情報が、コンパクトにまとめられていた。

 いつもの芳野ならばそれ自体は造作もない仕事。

 ただ、夫人が倒れていて、それも生死の境にある期間ということと、情報のまとめ方、それから添えられた文章の細部に、小さな変化を発見していた。

 詳細を見るのは後回しにして、一覧性重視でまとめられた情報にひと通り目を通し終わる頃に、大きな駆け足の音が聞こえてきた。

「奥様!」

「早かったわね、芳野。けれどここではもう少し静かにしてもらえるかしら?」

「は、はい……」

 顔を大きく歪めて、泣きそうになっている芳野。

 叱られた犬のように肩を竦めて小さくなっている彼女に、平泉夫人は笑いかけた。

「心配かけたわね。もう、私は大丈夫よ」

「奥、様……」

 近づいて来、ベッドに突っ伏して肩を震わせる芳野の髪を、優しく撫でてやる。

 襲撃を受けてから十一日。

 ずいぶん長い時間が経ち、芳野にはかなりの心配をかけてしまったと思ったが、大丈夫そうだった。

 顔を上げ、顔を引き締めた芳野は言う。

「まだ目が覚めたばかりです。昨日の夜までは危険な状態だったのですから、もう少しお休みください」

「そうしたいところだけれど、いまは大丈夫よ。無茶はできないけれどね。それに、私は与えられた役目を果たさなくてはならないわ」

「役目、ですか?」

 居住まいを正した芳野が眉を顰めるのに、夫人は微笑みで返した。

「いまの私は、命を救ってもらったのよ。もう役目は終わったのだと思っていたのだけれどね……。私自身の意向を、汲み取ってくれる気はないようね」

「それはどういう?」

 首を傾げている芳野に、夫人は詳しく説明したりはしない。

 夫人自身も何があったのかわかっているわけではなかった。それでも、離れていくはずだった命を、誰がつなぎとめてくれたのかはわかっていた。

「私はもらったものは、最低でも三倍で返す主義なのは、知っているでしょう? それが恩でも、――仇でも」

「はい……」

「宣戦布告に対して、攻撃を受けた。その分で三倍。死ぬはずだったわたしをつなぎ止めてくれた子たちの分で三倍」

 唇をつり上げ、平泉夫人は攻撃的な笑みを浮かべる。

「これからは、私たちのターンよ。恩と仇の分で九倍、あの魔女に返すわよ。――反撃に移るわ、芳野」

 虚を突かれたように目を見開いた芳野は、しかし直後に拳を握りしめ、輝き始めた夫人の瞳を真っ直ぐに見つめる。

「はい!」

「とりあえず検査があるでしょうけれど、それが終わったらすぐに仕事にかからなければならないわ。魔女がこちらの反撃に気づく前に、充分に仕掛けをつくっておかなくては」

「わかりました。すぐに必要な機材をこちらに移します」

「それから、克樹君を急いで呼んでちょうだい。あの子とは、いますぐにでも直接会って、話をしなければならないわ」

「はい。連絡いたします。それでは」

 病室に入ってきたときの泣きそうな様子はなく、すっかり平常運転に戻り、一分の隙もない動作で踵を返し病室を出て行こうとする芳野の背中に、夫人は声をかける。

「それから芳野。これは急ぎではなく、ひと段落してからで良いのだけれど――」

「はい」

 振り返って引き締まった顔で言葉を待つ彼女に、夫人は笑みを浮かべながら言った。

「彰次さんを、連れてきてくださいね」

「……はい」

 顔色も、表情にも変化はなかったが、芳野の答えがほんのわずかに遅れたことを、夫人が気づかないはずもなかった。

「あの人を呼ぶ理由は、説明しなくてもわかるわよね?」

「……」

 メイド服のエプロンの前で組まれた手が、明らかに震え始める。うろたえている。

 質問に答えないのではなく、答えられないほど混乱している様子の芳野に、平泉夫人は小さく笑い声を漏らしていた。

 彰次と芳野が惹かれあっているのは、傍目から見ても明らかだった。

 結末まではわからないにしても、いつかはその距離を縮める手伝いをしようかと思っていた矢先の、魔女からの攻撃。それがあることも考えて、芳野のことを本家に頼んでいた。

 まだ、彰次に芳野のことを頼むには、早すぎると思っていたから。

 もし自分が早々に殺されることがあったら、芳野の心は折れてしまうと想像していた。

 彰次は芳野の支えになろうとすることは予想できたが、彼女にはまだ彼を受け入れる準備ができていないだろうと思った。

 それなのに、目覚めてすぐ見つけたタブレット端末には、芳野らしい仕事がキッチリとこなされていた。

 自分が死なずにいたからということもあるだろうが、最初の数日は神経をすり減らす時間ばかりであったはずなのに、それを乗り越えている様子に、彼女の支えた人物の存在を感じた。

 音山彰次以外には、考えられなかった。

 ――私の想像など、超えて行ってしまうのね。

 娘にも近い存在である芳野が、いつのまにか変化し、成長していることに、嬉しさと、一抹の寂しさを感じながら、平泉夫人は笑む。

「貴方は私の可愛い娘なのですからね。彰次さんにはしっかり挨拶してもらわなければならないわ」

「……わかりました。折りを見て、お呼びいたします」

「えぇ、頼むわ。それよりもまずは、克樹君をお願いね」

「はい」

 答えて芳野は病室を出て行った。

 残された平泉夫人は、ひと通り見終わったタブレット端末をテーブルに置き、身体をベッドに横たえさせる。

「私はあの子から、克樹君の背中を押すように頼まれてしまったのですからね」

 そう言って夫人は、笑みを浮かべていた。

 

 

            *

 

 

 受付を通り抜けて廊下を走り、階段へと向かう。看護師さんの注意の声が聞こえてきたのは、階段を昇り始めた後だ。

 最上階、VIP専用病室前のセキュリティゲートには、ガタイのいい男性がふたり。挨拶もそこそこに、ゲート下のエアクリーナーの風で埃を落とし、消毒を受けてから目的の病室へと向かった。

 一気に扉を開けると、すぐに見えたベッドの人物。

 上半身を起こして微笑んでいる、入院着姿の平泉夫人。

「お待ちください、克樹様」

 思わず駆け寄ろうとしてしまった僕を止めたのは、芳野さんの腕。

 睨みつけてくるような厳しい視線の彼女は、近くの椅子を引き寄せて僕の前に置いた。

「ごめんなさいね、克樹君。喜んでくれるのは嬉しいのだけれど、目覚めたばかりでまだ無理ができる身体ではないのよ。それに、病院では静かにね」

「はい……」

 椅子に座りながら、僕は少しかすれた感じのある、でも聞き慣れた平泉夫人の声に、思わず泣きそうになっていた。

 死んでしまうと思っていた。

 もう二度と、その声を聞くことはないと思っていた。

 大切な人を失うんだと、諦めていた。

 それなのにいま、平泉夫人は以前と変わらない優しげな笑みを、僕に投げかけてくれる。

 ――こんなに嬉しいことがあるだろうか。

 胸の奥からこみ上げてくるものが抑えきれなくなりそうで、僕は唇を噛みながら、膝の上で両手を強く握って堪えていた。

「いろいろと、大変なことがあったようね」

 その言葉に、僕の中からこみ上げていた感動は、一気に冷え切ってしまう。

 優しげな笑みはそのままなのに、夫人の瞳に映っているのは、冷たさを感じるほどの鋭さ。

「詳しい話を聞きたいのだけれど、面会時間も限られていますからね。週末には一時帰宅の許可を取るつもりだから、そのときに聞かせてもらうことにするわ」

「はい……、わかりました」

 いまこの場で話さなくてよくなったことに、僕はこっそりと安堵の息を吐く。

 リーリエのこと、エイナのこと、エリキシルバトルやモルガーナのことなどは、まだ僕の頭の中でぐちゃぐちゃと形をなしてなくて、上手く話せる気がしない。

「と、とにかく、平泉夫人が目を覚まして、本当に良かった……」

 自分の言葉で再びこみ上げてきたものに、僕は抑えきれず涙が溜まるのを感じていた。

 差し出された夫人の左手に両手を伸ばし、強すぎないように握る。

 暖かさが、嬉しかった。

 確かに生きているのだと、実感できた。

 芳野さんからの連絡で目を覚ましたと言われても、いまひとつ信じられなかったのに、いまやっと、夫人が生きて、こうして僕と話せるようになったのだと、感じることができた。

 不安が、一気に晴れた。

「本当は、あのまま死んでしまうのも良いと思っていたのだけれどもね」

「夫人!」

「奥様!」

 僕と芳野さんの声は同時。

 いくら平泉夫人でも、死んでいいなんて言葉は反発せずにはいられない。

 ふたりの鋭い視線を受けながらも微笑んでいる夫人は言う。

「さすがにいまはそんなことは考えていないわ。けれど私は、あの人の元に行きたいと、いつも思っていますからね」

「……死後の世界を、信じているわけではないでしょうに」

「えぇ、そうなのだけどね。あの人と別れて、少し時間が経ちすぎてしまったわ。けれどいまは、やり残したことが多くて。それに託されたものがあるから。そんなことはもう考えていないわ。――さて、本題に入りましょうか」

 優しげで、悲しげでもあった表情を引き締めた平泉夫人に、僕はまだ握っていた手を離して椅子に座り直した。

 夫人が目覚めたその日に、報告ではなく呼び出しを受けたのには、何か用事があってのことだとはわかっていた。

 覚悟なんてしてる余裕はなかったけれど、夫人の言葉をしっかり受け止められるよう、気持ちを落ち着かせる。

「起こったことの詳細は聞いていないけれど、芳野から貴方の様子については聞いたわ。――リーリエちゃんのことが、信じられなくなった?」

「なんで、それを……」

 起きたことを知らないと言って、芳野さんからの話だけでそんなことを言ってくる夫人の真意が、わからなかった。

 確かにリーリエとの接触を避けているのは、いつもつけていたイヤホンマイクがないのを見ていれば気づくかも知れない。でもそれがあいつのことを信じられなくなったからだなんてのは、どうしてわかるんだろうか。

 驚いてる僕を見透かしたように微笑む夫人は言う。

「真実は直接当事者から聞くことにするけれど、私でも推測くらいはできるのよ。それから克樹君のことは、夏姫さんの次くらいにはわかってるつもりよ」

「うっ」

 唐突に出てきた夏姫の名前に、僕は夫人の観察力と推測力の高さを知る。

 夏姫との関係は、一緒に夫人の屋敷に訪れることが多かったんだ、バレてない方がおかしいだろう。

 けれど夫人が推測しているのはさらにその先、いまの僕と夏姫の関係にまで踏み込んでいるように思えて、何も言えなくなる。

「克樹君。貴方はこれまで、リーリエちゃんのことを、道具のように思ってこなかったかしら? もちろん全部というわけではないでしょうけれど、あの子をひとりの人間として、ひとつの個性として捉えてこなかった。違う?」

「……それは、そうかも知れません」

 認めるしかなかった。

 口元は微笑んでいるのに、僕の奥底まで覗き込くような瞳を向けてくる平泉夫人には、嘘も誤魔化しも利かない。

 頭では理解していた。

 身体は持たず、仮想のものであってもひとつの脳を持つリーリエは、僕たち人間と同じ精神を持つ存在なのだ、と。

 でも同時に、僕はリーリエのことを道具のように扱っていたことも事実だ。

 信頼していた。

 百合乃に似ていて、けれど少し違うリーリエのことが、可愛いとも思っていた。

 そんな人間的なところを認めていながら、仕事を頼んだりとか、道具のように扱っていたと、自分でも思う。

 そうした関係は、僕だけじゃなく、リーリエもが求めて成立してきたものだろう。身体を持つ人間の僕と、身体を持たない人工個性のリーリエとで築き上げてきた、ふたりの立ち位置だった。

 いつからだったのか、もしかしたら一番最初、リーリエが起動したときからか、僕は彼女を心のどこかで高度な人工知能のような扱いをしてきたと、いまさらながらに思い至る。

 平泉夫人に指摘されて、改めて僕はそれを知る。

「なんで……、そんなことがわかるんですか」

「克樹君はずいぶん家に帰っていないようだと聞いていたからね、予想はつくわ」

 見透かしたような瞳に心配の色を浮かべながら、夫人は笑む。

 昏睡状態から目覚めたばかりで、詳しいことは話していないから情報だって不足してるはずなのに、夫人はどこまで凄いというのだろう。

 僕は夫人に、思いの丈を話す。

「僕は……、どうしたらいいのかわかりません。リーリエのことを信じられなくなったのはあるけど、でもそれだけじゃなくって……」

 ここのところずっと考えていて、でも少しも考えがまとまらなかった。

 平泉夫人のことは大き過ぎて、心配と不安で食事もあんまり喉を通らなかった。

 リーリエがエリキシルソーサラーで、僕の敵となる存在だったのは、本当にどうにもならないくらいのことで、生きることすらイヤになるほどだった。

 でもそれだけじゃなくって、その前からずっと一緒だったリーリエのことも浮かんできて、学校に行くこともできなくなっていた。

 夏姫に言われた通り、このままじゃいけないのもわかっているのに、動くことができなかった。

 泣けばいいのか、叫べばいいのかわからないこの気持ちは、唇を噛んでも抑えきれないのに、どうやって吐き出せばいいのかも思いつけなかった。

「悩んでいるときは、ひとつひとつ、手に触れたものから片付けていけばいいのよ。でも自分だけでは解決できない問題もあるし、大き過ぎる問題は、立ち向かうだけでも覚悟が必要ね」

「……そうですね」

 僕のことを優しい笑みで見つめてきてくれていた平泉夫人は、ニッコリと笑む。

「ただね、克樹君。リーリエちゃんは、これまで貴方の期待に応えてくれなかったことは、あるかしら?」

「リーリエは……、僕を、裏切りました」

「本当にそうかしら? 裏切られたと感じるのは、あの子のことを、ひとりの人間として捉えてこなかった、克樹君に原因があるんじゃないかしら?」

「どういうことですか?」

 リーリエが僕を裏切って、エリキシルソーサラーであることを黙っていたのは事実だ。それ以外であるはずがない。

 楽しそうな笑みを浮かべながら、でもどこか、先生とか、僕には縁遠い存在だけど、母親を思わせる瞳で、平泉夫人は言う。

「例えばだけど、克樹君は夏姫ちゃんのことは、好き?」

「え? そ、それは……。はい、好き、ですけど」

 突然違う方向に飛んでいった問いに、僕は顔が熱くなるのを感じながらも、素直に答える。

「でも夏姫ちゃんも、エリキシルソーサラーでしょう? 克樹君とは違う願いを持って、戦ってる。それでも貴方は、彼女のことが好きで、信頼しているの?」

「……はい、その通りです」

 何となく、夫人の言いたいことがわかってきた気がした。

 夏姫の最初は敵として戦ったエリキシルソーサラーで、でもいま僕は彼女のことが好きだ。信頼もしてる。

 そうでなきゃ、アパートの部屋に転がり込んだりなんてできない。逆に夏姫も僕のことを同じように信頼してくれているから、部屋にいることを許してくれてるんだろう。

「人はね、誰だって嘘は吐くし、秘密を持つわ。それがどんなに大切な人に対してであっても、ね。むしろ大切だからこそ言えないことも、言わないこともある、なんてこともよくあることよ」

 夫人から伸ばされた手が、僕の手を包んだ。

 まるで抱き締められているような手の感触に、僕はそれまでぐしゃぐしゃで、どうにもできなかった頭の中が、整理されていくのを感じていた。

「貴方はリーリエちゃんのことを、私や夏姫ちゃんのように、ひとつの人格だと理解していながら、実感するところまではできていなかった。身体を持っていなくても、あの子は私たちと同じ人間。嘘も吐けば、秘密も持つ、ひとりの女の子よ」

「そう、ですね……」

 改めて言われて、僕は自分がどれほどリーリエのことを甘く見ていたのかを実感する。

 知識としては知っていて理解してるのと、実感してるのとじゃ、大きく違っていた。

 いまはリーリエに謝りたい気持ちでいっぱいだった。

 ――でも……。

 やっぱり裏切られたんだという気持ちが消えることはない。

 リーリエにどんな顔を見せればいいのか、見せることになるのか、わからない。

「克樹君の願いは、貴方の復讐心によるものだけど、それは百合乃ちゃんが大切だからこそ出てきたものでしょう?」

「はい……、その通りです」

「リーリエちゃんの願いまではわからないけれど、貴方の見てきたあの子は、どんなことを願いそうな女の子かしら?」

 微笑みとともにそう問われて、僕は考え込む。

 ずっと僕と一緒にいてくれたリーリエ。

 僕の願いを知りながら、否定するような言葉をかけてくることは一度もなかった彼女。

 ひとりの女の子としてのリーリエは、どんなことを想い、何を願うだろうか。

 起動してから本当にずっと一緒にいたリーリエなのに、僕にはそれを思いつくことができなかった。

「リーリエちゃんはね、誰よりも克樹君のことが好きな女の子よ。いますぐには信頼しろなんてことは言えない。けれど、もう一度あの子のことを、ひとりの人間としての、女の子としての彼女を、見つめ直してみてもいいんじゃないかしら?」

「――はい」

 泣きそうだった。

 一番身近な存在のことをぜんぜん知らなかったなんて、悲しすぎる。

 リーリエがこんな僕のことをどう思ってるのか、不安だった。

 だから僕は、さっきまでとは違うこみ上げてくるものを、鼻をすすりながら飲み込む。

「週末、呼べる関係者を全員屋敷に呼んで、話をしましょう。連絡はこちらでしておくわ。だからそれまで、克樹君はリーリエちゃんのことを、それから自分のことを、見つめ直していなさい」

 僕はいま、自分がどれだけ子供なのかを知った。

 平泉夫人と話して、ずっと処理できなかった気持ちが、一気に晴れ渡ってしまったのだから。

 考えなくちゃいけないことがなくなったわけじゃない。

 でもいまは、平泉夫人に助けてもらった僕は、一歩先に進めそうだと、そう思えた。

「わかりました」

 目を細めて嬉しそうに笑う平泉夫人に、僕は力強く頷きを返していた。

 

 

 



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第六部 第二章 ハードハート・ブレイク
第六部 暗黒色(ダークブラック)の嘆き 第二章 1


 

 

   第二章 ハードハート・ブレイク

 

 

          * 1 *

 

 

 週末、芳野さんに先導されて夏姫と一緒にダンスホールに入ると、もう待っている人がいた。

 車椅子に乗って微笑みを投げかけてくれているのは、平泉夫人。

 灯理と近藤も先に着いていて、夫人からちょっと離れたところに置かれたワゴンに準備されたティーカップに手を伸ばしている。

 それから、ショージさん。

 ショージさんは夫人とも個人的に繋がっているし、エイナを通してエリキシルバトルにも関係している。この場に呼ばれるのは当然だろう。

 でも何故か、平泉夫人の座る車椅子の後ろに控えた芳野さんの側に立つ。ある意味で平泉夫人寄りの立場だからそれは不思議ではないんだけど、芳野さんとの距離が近いように見えるのは、何でなんだろうか。

 そしてリーリエ。

 ホールの真ん中辺りに置かれた丸テーブルには、僕が家から持ち出さなかったスマートギアとともに、ピクシードールのアリシアが立っている。

 丈の長いコートを脱いで、白いセーターと赤いミニスカート、ストッキングに包まれた長い脚を晒した夏姫が、心配そうな視線とともに袖をつかんでくるけど、僕はそれを振り切ってリーリエに近づいていった。

「全部話してもらうぞ、リーリエ」

「止めなさい、克樹君」

 アリシアを、リーリエを見た瞬間、頭に血が上って詰め寄ってしまったけど、平泉夫人の声で我に返る。

 夏姫に腕を引っ張られ、芳野さんに車椅子を押してもらって近づいてきた平泉夫人の優しさの籠もった、でも睨むような視線に、深呼吸をして気持ちを調えた。

 ――僕は今日、怒るために来たわけじゃない。

 平泉夫人と話してから今日まで、リーリエのことをずっと考えてきた。

 アリシアを見た途端にあの日のことを思い出してしまったけれど、しっかりとリーリエと話すために来たんだ。怒るとしても、話を聞いてからでいい。

 落ち着きを取り戻してからリーリエのことを見ると、彼女は微笑んでいた。

 ピクシードールのメカニカルアイなのに、その瞳に悲しげな色があるような気がするのは、微妙な表情のためだろうか。

『大丈夫だよ、おにぃちゃん。ちゃんと話すよ。あたしもわからないことは多いし、話せないこともあるけど、でもちゃんと説明するから』

「……うん。頼む」

 久しぶりに聞いたリーリエの、少し舌っ足らずな声に、僕は笑みを見せることができた。

 そんな僕に、リーリエは頷きを返してくれる。

「これで全員ですか? 集まってるなら話を始めましょう」

「いいえ、まだよ。あとひとり来ていないわ。もうそろそろ来ると思うのだけど」

 僕の声に平泉夫人がそう答える。

 直接の関係者は他に誰がいるだろう。もう全員集まってるように思えた。

 ――いや、もうひとりいるか。

 思い至ったところで、屋敷の外から微かなエンジン音が聞こえてきた。芳野さんが小走りにホールから出て行く。

「済まねぇ。待たせたな。面倒な手配と工作で、ぎりぎりまでかかっちまったぜ」

 程なくして現れたのは、猛臣。

 イシュタルが入ってるだろう鞄の他に、もうひとつけっこう大きなバッグを持っている彼は、僕をひと睨みした後、真っ直ぐにアリシアに――リーリエに近づいていった。

「注文の品だ。どうにか間に合わせたぜ。ついでに使うかどうかはわかんねぇが、おまけもしておいた」

『ありがとぅ、猛臣!』

 バッグごとテーブルの上に置いた猛臣に、訳がわかんなくて僕は眉を顰める。

「リーリエちゃんがここに転送してきた荷物も、届いているわよ。工作室の方に回してあるわ」

『ありがとうございます、敦子さん』

 平泉夫人までがそんなことを言って、リーリエに笑いかけている。

『おにぃちゃん』

 どういうことなのかと考えているとき、笑みとともにリーリエに声をかけられた。

『話を始める前にね、お願いがあるんだ』

「お願い?」

『うんっ。スマートギアを被って、ネットに繋いでもらえる?』

 ピクシードールのままの、小さなリーリエに懇願の目を向けられて、僕は周りからの視線の圧力もあって、スマートギアに手を伸ばす。

 ショージさんのだろう、携帯端末に接続されていたケーブルを自分のに差し替えて、いままで切断していたネット接続をオンにする。

 ディスプレイを下ろした途端に着信したファイルは、リーリエからのもの。

 スマートギア越しの視界で不安そうにしてるリーリエを見つつ、ファイルを開いてみると、それはピクシードール用のパーツリスト、部品配置図、仕様などだった。

「これは……、新しいアリシアの?」

『うん。あたしがパーツを選んで、手配した、新しいアリシアだよ』

 リーリエの言葉にじっくりと部品配置図を見ると、やっぱりアリシアであることがわかる。

 フレームや人工筋と言った標準的なパーツだけだとわからないけど、身体の各部に取りつけられるセンサーとその接続図、組み立て後のバランス調整なんかが、僕が組み立ててきたアリシアそのままだった。

 リーリエが考えたものであっても、僕はこれがアリシアだと、はっきりそう言うことができる。

「……PCWの、新規アーマーに、ピクシーボイススピーカー? センサーもほとんど新型だし……。これ、どうやって買ったんだ?」

『そんなの簡単だよ。おにぃちゃんからもらってたお金を、こつこつ貯めてたんだぁ。親父さんには安くしてもらえたしね!』

「この人工筋とか、市販のパーツじゃないよな? この性能は」

「それは俺様が提供したもんだ。詳しくは言えねぇが、釣りがくるほどの情報をもらっちまったからな」

 鼻を鳴らして不満そうにしながらも、口元には笑みが浮かんでいる猛臣。

『これはね、おにぃちゃん。過去最高のパーツを集めた、過去最強のアリシアなんだ』

 ピクシードール越しに僕を見つめてくるリーリエの言葉に、嘘はない。

 計算後の性能だけでなく、各パーツのパラメーター情報を開いて軽く暗算してみても、過去最強のアリシアが完成することは疑いもない。

 標準スペックでも、スフィアロボティクスのリファレンスパーツを多く使ってる夏姫のブリュンヒルデはもちろん、夏に戦った時点の猛臣のイシュタルも大きく上回りそうだ。

 必殺技を使ったときの性能は、ちゃんとシミュレートしてみないとわからないけど、たぶんこの前戦ったエイナに匹敵する。

 このタイミングで新しいアリシアのことを言い始めたリーリエの真意が知りたくて、僕はスマートギアのディスプレイを跳ね上げ、テーブルの上の彼女のことを見る。

『あのね、おにぃちゃん』

 腕を後ろで組んでもじもじと脚を動かし、うつむくリーリエは、顔を上げて言った。

『このアリシアを、おにぃちゃんに組み立ててほしいの!』

「……そういう、ことか」

 何故いま、という真意についてはわからなかったが、このタイミングでパーツをここに集めた理由はわかった。

「どうするの? 克樹君」

 平泉夫人に問いかけられるまでもなかった。

 アリシアは僕の、そしてリーリエのピクシードールだ。

「わかった。組み立てる」

『――うんっ! お願い、おにぃちゃん!!』

 緊張した面持ちだったリーリエの顔に、笑みが零れる。

 それを見た僕も、口元に笑みが漏れるのを止められなかった。

 

 

            *

 

 

 三枚の液晶モニタには、アリシアの検証データが映し出されていた。

 シンシアほど特化はしていないものの、リアルタイムでの敵の分析、解析を行えるようにしているアリシアは、通常のバトルピクシーではあり得ないほどの検査項目がある。

 大きな作業テーブルの上の、メンテナンスベッドに横たわらせているアリシアを見ながら、僕は組み立てが終わったそれの調整を進めていた。

 新型アリシアの組み立てを受けて、屋敷にある機械工作用の部屋を借りての作業は、一時間ほどで終わった。一からの組み立てはプラモデルより難易度が数段高いが、作業工具が充実しまくっているここではさほどの時間はかからなかった。

 ――凄いな、今度のアリシアは。

 メインフレームは旧型で使っているHPT社製試作品のままだけど、サブフレームと人工筋はほぼ製品そのままの、未発表のスフィアロボティクス社製Gラインパーツ。

 各種センサーも厳選され、配置も過去のアリシアから得た情報を使って最適化されている。PCWの親父がつくったハードアーマーは、素晴らしいを超えて、神業の域に達してる。

 猛臣がサービスしてくれたタングステン合金を要所に使ったマニピュレーターハンドは、武器戦闘も得意だけど、格闘戦主体のアリシアには最適な一品だ。

 このアリシアは、僕が考えてパーツを選んだわけではないけど、やっぱり僕のアリシアと言えるほど、リーリエによってしっかり練り込まれたドールになっていた。

『ねぇ、おにぃちゃん』

 バトルに使えるよう、細かなパラメーターを調整したり、バトルアプリで不都合なく動かせるようデータを取ってたとき、これまで助言以外で無言だったリーリエが声をかけてきた。

 いまはアリシアが動かせないから、声だけがスマートギアのヘッドホンを通して聞こえてくる。

「……なんだ? リーリエ」

 少し緊張して、ぎこちなくなりながらも、僕は応える。

『あたしと最初に会ったときのこと、憶えてる?』

「もちろん、憶えてるよ」

『うん……』

 リーリエと最初に会ったとき、人工個性システムの初起動のときのことは、いまでも鮮明に思い出せる。

 モルガーナから受け取った脳情報を、平泉夫人の援助とショージさんのツテで手に入れた、人工個性専用のシステムに組み込んだ。

 百合乃の脳情報は、死に行く脳から取り出したためか、欠損が結構な割合で発生していた。欠損している部分は五パーセント程度だったけど、その分は僕の脳から情報を取って補完した。

 あのときの僕の願い。

 それは百合乃の復活。

 けれどシステムが起動し、仮想の脳が構築され、最初に発せられたのは、予想外の言葉だった。

「『初めまして、おにぃちゃん』、だったな、リーリエが最初に言ったのは」

『うん』

 あの瞬間に、僕は百合乃の復活が叶わなかったことを知った。

 絶望した。

 でも同時に、予想をしていた自分がいるのも知った。

 別れの言葉を交わした百合乃には、もう二度と会えないんだと、受け入れている自分がいることを知った。

『おにぃちゃんの返事は、「初めまして。お前の名前は……、リーリエだ』だったね」

「そうだったな」

 身体を持たないリーリエは、僕の耳に声が聞こえてくるだけ。

 いまはリーリエと接続されていないアリシアが動くことはなく、調節をしながらも工具の片付けを始めたテーブルの上に、彼女の姿があることはない。

 初めましてと言われて、僕はとっさにリーリエに名前をつけた。

 百合乃と、リーリエを、区別した。

 百合乃の復活を期待していた僕にできた、精一杯のことだった。

 あのときの胸を抉られるような気持ちは、いまでも思い出すだけで苦しくなる。

『でもね、おにぃちゃん。あたしにとっておにぃちゃんは、本当は初めましてじゃなかったんだよ』

「どういうことだ?」

『まだ最初の言葉を発する前、たぶん仮想の脳が構築されてる最中かな? そのときに、あたしは見たんだ』

「……何を?」

 口調はいつもの、百合乃に似て舌っ足らずなのに、僕なんかよりもよっぽど大人染みて感じるいまのリーリエ。

 彼女の言葉に問い、答えを待つ。

『記憶。うぅん、思考、かな? あたしの元になった脳情報が、おにぃちゃんのことをどう想って、考えて、どんな風に見てきたのか、ほんの少しだけど、見えたんだ』

「百合乃の、思考?」

『うん。あっ、でも、どんなだったかは言えないよ? おにぃちゃんに言ってなかったことは、あたしの口からも言えないんだからねっ』

「……わかってる」

 問おうと思ったことを先んじて禁止されて、僕はそう答えるしかなかった。

 百合乃にとって僕はどんな兄だったのか、それは気になる。でもあいつが言わなかったんなら、よほどの理由がない限りリーリエの口からも聞くべきじゃないだろう。

『うんとね、それを見たとき、あたしは思ったんだ。遠いな、って。小説とか、映画とかを見てる感じに近いかな? あたしの脳にあるものだけど、あたしのじゃないな、って。あたしが積み重ねてきた時間じゃないんだな、って』

 その感覚は僕にはわからない。人工個性のリーリエだからこその感覚だ。

 そしてそれこそが、百合乃の脳情報を持ちながら、リーリエという別の個性を生み出すことになった分岐点だったんだろう。そのときもし自分の記憶だと捉えていたのなら、百合乃は復活していたのかも知れない。

 ――それは、考えても仕方ないことだな。

 過去に戻れるわけじゃない。もういない百合乃のから脳情報を取り直すこともできない。

 それに僕はこの数年、リーリエと過ごしてきたんだ。そのことをなかったことにしたいとは思っていない。

 そんなことを考えながら、僕はアリシアの調整を終える。

 慎重に行った調整は、再チェックしてみても、完璧と言えるものだった。

 アリシアの起動準備が整った。

「おにぃちゃんのことは、最初の言葉の前に知ってたけど、でもそれはあたしにとってのおにぃちゃんじゃなかったから、あたしはあのとき、『初めまして』って言ったんだ」

 接続権限を与えると、早速アリシアをメンテナンスベッドから立ち上がらせて、新しく取りつけたピクシードール用ボイススピーカーから言葉を発するリーリエ。

「それからはずっと、たった三年と少しだけど、あたしが――、リーリエと名づけてもらったあたしが、おにぃちゃんと過ごしてきた時間だよ」

 こんな話をリーリエとするのは初めてだった。

 ひとつの個性であると知りながら、僕が彼女の事をそう認めてこなかった証拠だ。

 彼女は彼女の想いを持ち、彼女の考えで動いてる。

 リーリエという、ひとりの女の子だ。

 まだわだかまりがないと言ったら嘘になる。エリキシルソーサラーであり、エイナと通じていたことは、いまでも引っかかってる。

 けれども、僕はこれから、これまでと違う形で、リーリエを見て、接していけそうだと、そう思えていた。

「好きだよ」

 テーブルの上に置いた僕の右手の指にアリシアの手を添え、唐突に言うリーリエ。

「あたしは、――おにぃちゃんが、好き」

 ピクシードールのアリシアから発せられる、リーリエの言葉。

 告白のようなその言葉に、僕は驚いてどう反応していいのかわからない。

 小さな身体で、リーリエは真剣な目をして、僕のことをじっと見つめてくる。

「信じてくれなくてもいいよ。でも、でもね? あたしは生まれたときからずっと、おにぃちゃん……、おにぃちゃんのことが大好きな、あたしだったよ」

「……」

 言葉が見つからない。

 ピクシードールの小さなヒューマニティフェイスで、リーリエは僕に微笑みかけてきてくれる。

 彼女の言葉は、どんな意味を持って発せられたものなのか、わからない。

 だから僕は、リーリエが向けてくる笑みに、何も言えずにいた。

「リーリエ――」

「そろそろ戻ろ? みんなを待たせちゃってる」

「あ……、うん」

 やっと出てきた言葉を遮って、リーリエは腕を駆け登らせてアリシアを僕の肩に座らせる。

「最後に、あたしの身体をおにぃちゃんにいじってもらってよかった」

「最後って……。それから僕がいじったのはアリシアで、リーリエの身体じゃないだろ」

「ん……。さっさと行こ」

 何だか悩んでるのが莫迦らしくなってくるくらい、リーリエは僕の知ってるリーリエだった。

 工具や空き箱を軽く片付けた僕は、促されるまま工作室を出た。

 

 

 



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第六部 暗黒色(ダークブラック)の嘆き 第二章 2

 

 

          * 2 *

 

 

「……現実味がなさ過ぎて、全部嘘だと言われた方が信じやすいくらいだな」

 そんな感想を述べたのはショージさん。

 ホールに戻った僕とリーリエは、全部のことを最初から説明することにした。

 まずは僕から。百合乃のこと、モルガーナとの出会い、それからエイナにエリキシルバトルに誘われて以降のことを話した。

 もちろんエリクサーのことも、アライズのことも、天堂翔機のとこで聞いたモルガーナの目的についても話した。

 エリキシルバトルに参加してる僕たちには半分以上はおさらいにしかならない。でもある程度は話してあった平泉夫人でも、驚きの顔を見せてることが何度かあった話の内容は、ショージさんにはかなりの衝撃だったらしい。

 割と話の序盤で、大口を開けて驚きを隠せなくなっていた。

 エリキシルバトルの参加資格は、バトルのことを公にしようとすると失うとあった。個人に話すくらいは問題ないのは、芳野さんがずいぶん前から知ってた様子からもわかっていた。

 だから僕は、とくにショージさんに対して、何ひとつ隠すことなく、全部話した。

「頭がパンクしそうだ。いま言ったことが全部、本当だってのか?」

「えぇ、本当ですよ。彰次さん。初めて聞くこともありましたが、ほとんどの内容は私も把握していましたから」

「ってぇことは、ここに集まってる克樹の友達は元々は敵ってことか」

「いいえ、音山……、彰次さん。いまもワタシたちは敵同士です。ひとつしか叶わない願いを賭けた、エリキシルバトルの対戦相手です」

「――休戦してるだけ、ってか」

 平泉夫人と灯理の返事に、ショージさんは大きくため息を吐いて、額に手を当てた。

 いつの間に持ってきたのか、芳野さんが持ってきた椅子に腰掛けて深くうつむく。

「この中で蚊帳の外に置かれてたのは俺だけ、ってことか。正直、証拠を提示できるならメディアかネットにでも情報を流して、モルガーナを追いつめた方が安全だと思うんだがな」

「そんなことをしたら参加資格を失って、オレたちの願いを叶えられなくなるからな。実際、天堂翔機の話だと、それをしようとして参加資格を失った奴がいるって話だったし」

「うん。アタシたちは奇跡でも起こさないと叶わない願いがあるから、エリキシルバトルに参加したんだし」

「ショージさんの言いたいこともわかるけど、モルガーナが本気になれば、人間をひとり消すくらい、ためらうことなくやるだろうからね」

「確かに……」

 近藤と夏姫と僕の矢継ぎ早の声に、ショージさんは顔を顰めている。

「克樹が俺に話せなかったのは、俺の安全を考えて、か」

「うん。ショージさんはモルガーナと面識がある。たぶん普通の人より、事実を知ったら狙われる可能性は高くなると思ったんだ」

「あの魔女の力は、私でも把握し切れていませんからね。私を襲撃するのに使った銃は、日本には正式には入ってきていない、海外の軍隊で配備されているもので、弾丸も日本での使用は初めて報告されたものだったけれど、いまだに警察は入手ルートを特定できていないようね。ちゃんと捜査してるかどうかすら、怪しいところなのよ。もし不用意にバトルのことを知った人がいた場合には、魔女はためらいなくその対象を消しにかかったでしょう」

「あれは確かに、それくらいのことはしそうだな」

 顔を両手で覆いながらため息を吐いてるショージさんには、できれば話したくなかった。

 けれどいまはショージさんも、間接的な関係者だ。

 エイナが、東雲映奈(しののめえいな)の脳情報を使って構築された人工個性であり、ショージさんがそれを知ってしまった以上、話すしかなかった。

「だいたいの事情はわかった。最初に、克樹がいまさら魔女に触れようと言った時点で悪い予感はしてたんだが、想像以上だったよ。それに、いままでそんなに深く突っ込んでこなかったのは、逃げてたからだ。奴には触れたくなかったからな。だがもう逃げられない。先輩に関係してるってんなら、俺も当事者のひとりだ」

 手で覆っていた顔を見せて、ショージさんは頬を引き締めた。

「それでだが、今日はそっちの話はどうでもいいんだ。一番の主役はてめぇだろ? リーリエ」

 それまで黙っていた猛臣が口を開く。

 話してる間に、リーリエが操るアリシアが立ってるテーブルの周りに椅子が置かれ、僕たちはそこに座って彼女を取り囲む。

「改めて確認するぜ? 残りふたりのエリキシルソーサラーってのは、てめぇとエイナってことでいいんだな?」

「うん。その通りだよ、猛臣」

 みんなの視線を受けながら、リーリエははっきりとそう答えた。

 先に話していたらしい猛臣はもちろん、予測していたらしい平泉夫人、それから夫人の後ろに立つ芳野さんには、表情の変化はない。

 僕も知っていたから驚きはしなかったけど、やっぱり改めて確認した事実に、眉根にシワが寄るのを感じていた。

 それよりも、夏姫や近藤や灯理の顔に、驚きの表情が浮かぶ。

「それを知ったから、克樹は学校にも来ずに引きこもってたのか」

「それもあるけど、平泉夫人のことが心配だった方が、大きいかな」

 正面に座る近藤に言われて、僕は苦笑いを見せる。

 ショックが大きかったのは平泉夫人のことだけど、頭が混乱してしまったのはリーリエのことの方が大きい。

 どちらか片方だったら、まだマシだったんじゃないかと思うくらいには、両方とも僕にとっては大きな問題だった。

「でも……、人工個性もエリキシルソーサラーになれるなんて、少し不思議ですね。確かに仮想の脳で個性を持っているのかも知れませんが、人間ではないわけですし」

「その辺はあたしにもよくわからないんだよー。エリキシルソーサラーになれるかどうかは、人間かどうかじゃなくって、切実な願いを持ってるかどうかだったみたいなんだよね。資格者を選んだのが、モルガーナじゃないから、その辺の判断はよくわからない」

「モルガーナ……、魔女の人が選んだのではないのですか?」

「候補者を選んだのは、モルガーナだよ。でも資格を与えたのは、別の存在」

 灯理からの問いに話が自分の番に来たことを確認したのか、リーリエはそこで言葉を切って、アリシアをうつむかせる。

 右手を胸に当て、息をするように口を開き、閉じてから、顔を上げた。

「あたしも、全部知ってるわけじゃないの。あたしにエリキシルソーサラーの資格があったこと、おにぃちゃんのスフィアと共有する形で参戦することは、モルガーナも最初は想定してなかった感じがあるんだ」

「じゃあ誰が、リーリエに資格を与えたんだ」

 僕からの疑問の言葉に、リーリエはアリシアの眉根にシワを寄せながら言う。

「エリキシルバトルを企画したのは、みんなも知ってる通り、モルガーナだよ。でも、主催したのは違うの」

 全員の顔を見回してから、リーリエは告げた。

「すべてのスフィアの、クリスタルコアは、人間はもちろん、モルガーナが造り出したものじゃないんだ。神の身体の一部、結晶化した神の欠片なの」

「神、だって?」

「うん。神様。それがどんな存在なのかは、詳しくはあたしにもわからないけど」

 疑問を口にしたショージさんだけじゃなく、リーリエのことを見つめる全員が、首を傾げたり、口を開けていたり、目を見開いたりして、驚きを露わにしていた。

 神、なんて存在の話が出てきたらそうなる。

 魔女がいるのだから、不思議な世界の住人が他にも出てきてもおかしくはない。エリクサーだって、あらゆる生命の奇跡を起こせる水だと言うんだから。

 でも、唐突にそんなものが出てきたら驚かない方がおかしい。

「……なんで、リーリエにはそんなことがわかるんだ?」

「んー。エイナから聞いたことも多いんだけど、最初から、エリキシルバトルに参加したときから気づいてたかな? あたしに、身体がないからかなぁ。みんなよりも、あたしはほんのちょっとだけ、スフィアのことがわかるんだよね」

 そう言われたところで納得できるものじゃない。

 でも確かに、個性としては人間と同等のものを持っているリーリエだけど、彼女の感覚というのは、僕たちで理解できるものじゃない。

「その神の名は、イドゥン」

 聞き覚えのある名前だった。

 ――確か、その神の名は……。

「北欧神話の、黄金のリンゴの樹を守護する女神、でしたよね?」

「うん、そうだよ。モルガーナがそう呼んでるんだって」

 僕より先に答えたのは、灯理。

 灯理が使っている二体のピクシードール、フレイとフレイヤもまた、北欧神話の神から名前を取っている。

「だったら他にも神がいるてぇのか? シャレになんねぇぞ、それは。この世界がファンタジーになっちまう」

「なんでそう呼んでるのか、本当に神話の通りのイドゥンなのかまでは、わからないんだ」

「でももし、イドゥンというのが性質に由来してるなら、エリクサーが起こせる奇跡が生命に関係することに限定してる理由は、その神に関係してるからかも知れないな」

「うん。それはそうかも知れない。モルガーナの方のことで、あたしが知ってるのはそれくらいかなぁ。みんなより知ってることは多いけど、本当に少しだけなんだ」

 考え込み始めてしまったみんな。

 モルガーナという魔女がいて、アライズによって二〇センチのピクシードールが一二〇センチの子供サイズに巨大化して、フェアリーリングで外からの認識を阻害できたりと、最初から不思議なことはいろいろあった。

 神様が出てきても、いまさらだ。

 でも魔女と神様では、何と言うか、規模が違い過ぎる。

 本当かどうかわからないけど、エリクサーがほんの一滴ほどの量で死にかけた僕を癒したと考えれば、神様がいても不思議じゃないと思えた。

 沈黙したみんなを横目で見てる僕は、そんなことよりも気がかりなことを、リーリエに聞いてみる。

「なぁ、リーリエ」

「なぁに? おにぃちゃん」

 僕の声に、リーリエはもちろん、うつむいたり頭を抱えていたりしたみんなも注目する。

「どうしても気になってたことがあるんだ」

「……うん」

 何を問われるのかわかってるらしいリーリエは、アリシアの顔を曇らせる。

 テーブルの上のアリシアを通してリーリエと見つめ合いながら、僕は彼女に問うた。

「リーリエの叶えたい願いは、なんなんだ?」

 

 

 

「リーリエの叶えたい願いは、なんなんだ?」

 ――やっぱり、訊かれるよね。

 問われた瞬間、リーリエはそう思っていた。

 克樹にとってそれは、同じエリキシルソーサラーであることがわかったいま、リーリエとの関係という中にあって、絶対に外すことのできないことであるはずだったから。

 ――でも、どうしてもそれだけは、話せないんだよね。

 睨みつけてくるような克樹に、アリシアを通して笑みを返していたリーリエは答えた。

「あたしの願いは、教えられない」

「なんでだ?! リーリエ!!」

「どうしてもダメなんだ。ゴメンね、おにぃちゃん」

「リーリエ!」

 椅子から立ち上がって手を伸ばしてくる克樹を、近藤が抑えてくれる。

「まぁまぁ、克樹。お前だってあのとき、オレと浜咲の前で叫ぶまで、秘密にしてただろ。他の奴らだって自主的に言ってはいるけど、無理矢理聞き出された奴はいない。お前も無理矢理には聞かないって言ってただろ」

「ちっ」

 顔を怒りで赤く染めながらも、克樹は舌打ちをしてから椅子に座る。

「それよりもリーリエ。知ってたら教えてほしいことがあるんだ」

「なぁに? 誠」

 立ち上がらないよう克樹の肩を後ろから押さえたまま、近藤は少しうつむき加減で話し始める。

「信じられないかも知れないが、この前、ガーベラに梨里香が現れたんだ」

「え? 近藤さんの、ガーベラに?」

 即座に反応したのは、灯理。

 白地に赤い横線の入ったスマートギアで彼のことを見つめ、唇を震わせている。

 怒っていた克樹も近藤に振り返り、全員が彼を見つめていた。

「どういうことなのかはわからないんだが、ほんの短い時間、確かにガーベラに梨里香が乗り移って、出てきたんだ。同じじゃないが、灯理も似たようなことがあったんだよな」

「……えぇ。夏に、フレイヤを通してワタシが失った、肉眼での視覚が見えた気がしたのです。本当にそうだったのかどうかは、確かめようがないのですが」

「前兆現象かも知れない、って思ってるんだが、何かわかるか?」

 視線が近藤から灯理へ、そしてリーリエへと集まる。

 みんなのことを見回してから、ひとつ頷いて、リーリエは口を開いた。

「全部じゃないけど、わかるよ。一種の前兆現象というのは、間違いじゃないかな? えっとね、最初から話すね」

「頼む」

「あらゆる生命の奇跡を起こし得るエリクサーは、見た目には水のように見えるけど、水じゃないの」

「水じゃないとは、どういうことかしら?」

 目を細めた平泉夫人が問うてくるのに、リーリエは頷きを返した。

「エリクサーは万能の薬とか、そういうものじゃないんだよね。イドゥンの一部、神の水。だからたぶん、生命の性質を持ってる。それでどんなものか、って言うとね……。説明が難しいんだけど、水のように見えても水じゃなくて、その本質は宇宙的なエネルギーって言うか、えぇっと、それよりも上位の、宇宙を構成する要素にアクセスするための、一種の権限だと思うんだ」

「アクセス権限って、え?」

「うん」

 すでに話に着いてきていないらしい夏姫は、首を傾げている。

「エネルギーみたいなものだから、物質的な意味での量とは違うんだけど、権限の強さを量で表してることが多いみたいなんだ。それで、エリクサーは一時的な権限で、使えば消費して失われる。減っちゃうの。多く集めることで、より大きな奇跡を――、現実には起こり得ない現象を、因果律をねじ曲げて起こすことができる」

「ニュアンスとしてはわかるが、いまひとつ実体としてはわかりづらいな」

 頭を掻きながら彰次が言う。

 説明がわかりにくいのはリーリエにもわかっていたが、エリクサーについては説明のしようがなかった。

 それ以上噛み砕いて説明するのは諦めて、次の内容に移ることにする。

「それでね、エリクサーはどこにあるのかって言うと、ここなんだ」

 言ってリーリエは、アリシアの頭を指でつついた。

「頭だと?」

「うん。正確には、スフィア。エリクサーはエリキシルスフィアに貯まっていくものなんだ」

「え?」

「そんな……」

「まさか……」

「本当か? リーリエ」

 夏姫が、灯理が、近藤が、克樹がそれぞれに驚きの声を上げる。

 平泉夫人や彰次や猛臣、芳野ですらも目を丸くして、呆然としていた。

「――それであれば、いま貯まっているエリクサーを取り出せれば、ワタシの目を治すことはできるのですか?!」

 いち早く復活し、身体を乗りだして詰め寄ってきたのは灯理。

 スマートギア越しでもわかる必死な視線から、リーリエは顔を逸らしてうつむく。

「いまフレイヤに貯まってるエリクサーがどれくらいで、灯理の目を治すのに必要な量がどれくらいなのかは、あたしにもわからない。切実な願いを込めてアライズすることで、ほんの少しずつ貯まるエリクサーは、ひとりで集められる量は本当に少ないんだ。みんなのを集めてやっと、大きな奇跡を起こせる量になると思うの。それに取り出し方も、使い方もわかってないと、貯まっててもエリクサーをどうすることもできないよ」

「使えるのはモルガーナだけってぇことか」

「そう、ですか……」

 猛臣の言葉に悲しそうに口をすぼめた灯理は、落胆を顔に表して、椅子に座り直す。

 彼女のことを気遣うように視線をやりながら、近藤が問うてくる。

「そこまではわかったが、それでなんで梨里香がガーベラに現れたんだ?」

「それはね、エリキシルスフィアにエリクサーが貯まっていくことで、権限を使うための準備が整っていくの。それにはいくつかの段階があって、最初、参加したときはファーストステージ。まだピクシードールがただの操られる人形の段階。その次が、最低限エリクサーを使う準備が整うセカンドステージ、半妖精。セカンドステージになると、何かの拍子に願いの前兆現象が起こることもあるんだ。たぶんみんなのエリキシルスフィアは、セカンドステージにはなってると思う。いつどうやって、どんな理由でかはわかんないし、確実に起こるとは言えないけど、前兆現象が起こってもおかしくないと思う」

「そういうことだったのか……」

 納得したように目を細めている近藤に対し、灯理は引き結んだ唇を悲しそうに震わせていた。

 エリキシルバトルに参加している者、ある程度知っていた者、今日まで知らなかった者で、理解の度合いが違いそうなのは、ぐるりと見回してみて見て取れた。

 驚いたり、納得できない様子のみんなの中で、猛臣だけが鋭くリーリエのことを睨みつけてきている。

「それじゃあリーリエ。てめぇはいまどの段階なんだ?」

「……あたしは、あたしとおにぃちゃんのエリキシルスフィアは、いまはサードステージだよ」

 猛臣から克樹に視線を移しながら、リーリエは話す。

「サードステージは亜妖精の段階。人工個性、エレメンタロイド、精霊のあたしが、アリシアって身体を得たことでアライズしてる間だけ妖精になってる状態。妖精は不安定な存在だから、アライズしてるときしか自分の身体としては扱えない。でも身体を持ってるときは、生命にも近い状態になる。この前エイナが涙を流してたのは、あっちもサードステージに達してるからなんだ」

 先ほどまで驚いたり、怒ったりしていた克樹は、いまは顎に手を当て、考え込んでいる。

 冷静さを取り戻した彼の頭が回り始めてるのを、リーリエはその様子から感じ取っていた。

「サードステージよりも上の段階は、あるのか? リーリエ」

「うん。あるよ。フォースステージと、たぶんその次が最後の段階、ファイナルステージが」

「それはどんな段階なんだ?」

「ファイナルステージは、亜神の段階。モルガーナが求めてるもの。あの人の目的を達成するためには、ファイナルステージに達したエリキシルスフィアが必要なんだと思う」

「その前の、フォースステージってのは?」

「妖精。神になる手前の段階」

「どんなのなんだ?」

「うんとね――」

 克樹からどんどん突いて出る問いに、リーリエは答えを保留にしてテーブルからアリシアを飛び降りさせた。

「何してるんだ? リーリエ」

「うん。これから、見せるね」

「見せる?」

 訝しむように眉根にシワを寄せている克樹に返事をせず、リーリエはアリシアをみんなから少し離れた位置に立たせる。

 それから、両手を握り合わせ、自分の願いを込めて、唱えた。

「あっ、らぁいず!!」

 

 

 



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第六部 暗黒色(ダークブラック)の嘆き 第二章 3

 

 

          * 3 *

 

 

 机を叩きながら、モルガーナは椅子から立ち上がった。

「……どうかされましたか?」

 驚いた顔をして見つめてくる、隣の席に座る女性。

 モルガーナはいま、スフィアロボティクス総本社ビルの中にある会議室で、第六世代スフィアドール規格発表に関する会議に参加していた。

 正面の大型モニタの前で発表に関する議題について話をしていた担当の男性はもちろん、会議室にいる二〇人ほどのすべての参加者が視線を向けてきているのはわかっていたが、モルガーナはそれに返事をすることができなかった。

 ――まさか、そんなはずは……。

 会議室の大きなテーブルに着いた手が、震えていた。

 深くうつむいたまま、唇もまた震えていたが、それを抑えることはできなかった。

「えっと、あの……」

「少し、席を外すわ」

「え? あのっ、そういうわけには……」

 いま行われている会議は、技術顧問としてスフィアロボティクスに勤めているモルガーナが参加しなければ成立し得ないもの。

 それはわかっていたが、いますぐにも退室したかった。

「ごめんなさい、気分が優れないの。必要ならば指示や意見は後から出させてもらうから。明日にでも議事録を持ってきてもらえるかしら?」

「あ……。はい、わかりました」

 困惑している様子の女性を尻目に、他の参加者の同意も取らずにモルガーナは蹴飛ばすように椅子をどかし、会議室を後にした。

 高く靴音を立てながら、すれ違う人々の視線も無視して、モルガーナは自分の部屋へと急ぐ。

 顧問室に入り、三つある鍵を厳重に閉めたモルガーナは、部屋の隅に置かれたエルフドール用ハンガーに吊り下げられた、比較的シンプルなステージ衣装を纏うエイナに声をかける。

「感知していて?」

「――はい。わたしも感じました」

 電源が切れたようにうつむいていたエイナのボディは、顔を上げ、モルガーナの言葉に応える。

「すぐに……、すぐにでもあれを討伐しなければならない!」

 近づいていった執務机に激しく拳を叩きつけ、モルガーナは怒りに顔を歪ませる。

「いまはまだすべての力を使いこなせてはいないはずよ。明日にでもあの出来損ないを倒しなさい」

「わかりました。すぐに戦闘データの調整を仕上げます」

 言ってエルフドールは、再び電源が切れたように視線を落とし、動かなくなった。

 静かになった顧問室で、振り下ろした拳を震わせているモルガーナ。

「まさか、あの出来損ないの精霊如きが、フォースステージに昇ってくるなんて……」

 瞬きひとつせず、机に穴を穿つほどの強い視線を向けているモルガーナは、そうつぶやく。

 完全に想定外の事態だった。

 エリキシルバトルを開催している間に、サードステージまで昇ってくるドールがいるのは当然あり得ることだと思っていた。

 実際エイナは、実戦経験は少ないものの、試験として行っていたアイドル活動によりエリクサーを得、やっと先日サードステージに至ったばかりだ。

 どのステージに上がっているかは、フォースステージに昇ってこない限り直接見える距離に近づかなければ感知することはできないが、残っている参加者のほとんどはせいぜいセカンドステージに至っている程度であると思われた。

 様々な能力が解放されるフォースステージだけは、たとえ遠くにあったとしても、至った段階で感知できる。

 バトルの終了時点で、すべてのエリキシルスフィアのエリクサーを集めてやっとフォースステージに到達し、他の方法で集めたエリクサーによってファイナルステージに達することを、モルガーナは想定していた。

 それなのにいま、克樹の持つ人工個性がフォースステージに昇ったことを、モルガーナも、そしてエイナも感知した。

 エリキシルスフィアが妖精の段階になり、精霊から完全な意味でのスフィアドールとなった人工個性は、それまでの段階と違い、多くのことを理解できるようになり、使うことができなかったはずの力を使うことができるようになる。

「このままでは、私の願いが……」

 歯を剥き出しにし、奥歯を強く噛みしめるモルガーナは、抑えきれず苦悶の声を漏らしていた。

 

 

            *

 

 

 ――何かが、違う。

 アリシアのボディを覆っていた光が弾け、現れた身長一二〇センチのエリキシルドール。

 それをひと目見た僕は、そんなことを感じていた。

 一部引き継いだパーツを除き、ほとんど新型と言っていいアリシア。

 アーマーの形状もけっこう変わっているってのはあるけど、なんと言っていいのかわからない、雰囲気が、いつもと違っているように思えた。

 息を吸い込むように口を開け、口を閉じたアリシアは、閉じていた目を開いて僕に微笑みかけてくる。

 リーリエの操作によるその笑みは、これまで見てきたどのエリキシルドールのものよりもさらに自然で、ハードアーマーさえなければ本当に人間のように思えるほどだった。

 空色をしたツインテールも、髪の色こそ人間ではあり得ないほど鮮やかなものだけど、その髪質は冷却機能を備えたピクシードール用ファイバー繊維には思えないくらいで、人間の髪のように見えていた。

「なんだ? こりゃ?!」

 何とも言えない違和感に僕が言葉を失ってるとき、けたたましい警告音に続いて悲鳴のような声を上げたのは、ショージさん。

 続いて僕の携帯端末も同じ警告音を発し始めて、即座にスマートギアを被った僕は状況を確認する。

「何が起こったの? これ」

 下ろしたディスプレイの視界には、警告表示が次々と現れ、埋め尽くされていた。

 整理しようとしてもどんどん増えていく警告に、僕は表示を読み取ることを諦めてディスプレイを跳ね上げた。

「ショージさん、これは?」

 たぶん表示を片目だけにしたんだろうショージさんは、眼鏡型スマートギアに注目しているようだった。

 みんなの視線を受けたショージさんは、ぽつりと言った。

「リーリエが……、人工個性システムが、停止した」

「……まさかっ」

 もう一度ディスプレイを下ろして、落ち着いてきた警告表示を整理して重要度が高いものを眺めていく。

 そこから読み取れたのは、僕の家に設置したメイン、ショージさんの家に設置してあるサブ、その両方のシステムの、完全な停止。

 人工個性システムの主人格は僕の家のメインで稼働していて、最悪それが停止してもショージさんの家のバックアップで稼働し続けられるようになってる。

 ここのところシステムの移行を考えていたから調べていたけど、人工個性システムは完全な停止を想定したシステムじゃない。システムを移行する場合、新たに構築したシステムを接続し、情報を同期させてメインを移行した後に、旧システムを停止するという手順を踏む。

 システムの完全な停止は、人間で言えば、死。

 警告が間違いじゃなければ、リーリエはいま、死んだ。

「あっ……」

 ふと思って、僕はアリシアのことを見る。

 相変わらず微笑んでいるアリシアは、瞳に少し悲しげな色を浮かべ、わずかに首を傾げてみせる。

「リーリエ?」

「うん。あたしだよ、おにぃちゃん」

 状況を把握できていないみんなは、僕と、ショージさんと、アリシア――リーリエをそれぞれに見つめてる。

 そんな中でリーリエと見つめ合う僕は、状況を把握した。

「それが、フォースステージってことなんだな? リーリエ」

「うん。不安定な亜妖精から、完全な妖精に。エレメンタロイドから本当の意味でのスフィアドール、イドゥンの眷属になったんだ、あたしは。ゴメンね、おにぃちゃん。あたしは、アリシアのこと、もらっちゃった」

 そう言ってリーリエは、泣きそうな顔で笑う。

「えっと、どういうことなの? 克樹。よくわからないんだけど」

 椅子から立って、テーブルから少し離れたところで立ってるリーリエに近づいていく僕に、そう夏姫が声をかけてくる。

 僕だって完全に理解したわけじゃないけど、人工個性システムの停止と、リーリエの個性を持ったまま稼働し続けてるアリシアを見れば、だいたいわかる。

「リーリエはいま、人工個性、エレメンタロイドじゃなくなったんだ。僕の家のシステムが本体だったあいつはいま、あそこにいる」

 僕が指さす先に立ってるリーリエは、目をつむり、胸を膨らませて深呼吸をする。

 そう、深呼吸をする。

 目を開けた彼女は、言った。

「うん、いまおにぃちゃんが言った通りなんだ。仮想の脳しか持たなかったあたしは、人工個性のシステムから自分を、ここに移したの」

 頭を指さしたリーリエ。

 そこにあるのは、その中に内蔵されているのは、エリキシルスフィア。

「それはつまり、エリキシルスフィアを、脳にしたってことなのか?」

「うん。それに近い状態。あたし、リーリエは、いまこの身体を持った、ひとつの存在に、妖精になったの」

 近藤の問いに答えて、左手を胸に当てたリーリエはそう答えた。

「本当はね、エイナが最初にフォースステージに到達するはずだったんだ。モルガーナが、それを想定してたはずなの。バトル終了時点でそうなったエイナのスフィアをモルガーナが手に入れて、ファイナルステージまで上げて、自分で使うはずだったんだ。一番最初、バトルに誘われたときにそのことはエイナから聞いてたし、その証拠も見せてもらってた」

「じゃあ最初から、モルガーナの奴は願いを独り占めするつもりだったってのか?!」

「うぅん、それは違うよ、猛臣。モルガーナはね、そういうところは凄く律儀な性格をしてるみたいなんだ。もしエイナ以外の人が最後まで残って、その人のスフィアに集まったスフィアがファイナルステージに至ったら、それを手に入れて、その後に願いは叶えてくれたと思うんだよね。自分の願いを叶えた後の、おこぼれみたいな感じだけど」

 近づいてきたリーリエが、ためらいながらも、僕の胸に手を当てて、見上げてくる。

 百合乃じゃない。

 百合乃じゃないけど、まるで百合乃がしていたように、僕の顔を下から覗き込むようにして、リーリエは言った。

「最初から、あたしはそのことを知ってたんだ。でも、絶対にモルガーナの願いは叶えさせちゃいけなかったの。だからエイナと協力して、モルガーナに対抗する手段を考えてきた」

 話してる間に目尻に溜まってきた涙が、柔らかい頬に零れ落ちる。

「ゴメンね、おにぃちゃん。あたしは、ずっとおにぃちゃんのことを裏切ってきた。知ってることを、話してこなかった。でもあたしは、あたしにできることを、精一杯やってきたんだ」

「……」

 リーリエの言葉に、僕は言葉を返してやることも、頷いてやることもできなかった。

 彼女が裏切っていた理由も、やってきたこともわかる。

 でもどうしても、僕は涙を流し続けるリーリエに、返事をしてやることすら、できなかった。

 

 

 



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第六部 暗黒色(ダークブラック)の嘆き 第二章 4

 

 

          * 4 *

 

 

「それじゃあ克樹さん、また」

「うん。また」

 タクシーに乗り込んだ灯理と挨拶を交わし、手を振る。

 扉が閉じられるのとほとんど同時に、タクシーは発進して行ってしまった。

 残された僕は、すぐ横で顔を見つめてくる夏姫に視線を向ける。

「ゴメン、夏姫。もうひと晩、いいかな?」

「アタシは別にいいけど、それで本当にいいの?」

「ん……。もうひと晩、考えたいんだ」

「そっか。わかった」

 平泉夫人の体調のこともあり、まだ話し足りない気はしたけど、今日は解散となった。

 少し僕と打ち合わせをした後、猛臣はやり残したことがあると言って帰っていった。屋敷にはまだショージさんとリーリエが残っているけれど、先に外に出てきた僕は、夏姫と一緒に帰ることにする。

 いろんなことを聞き過ぎて、さらにフォースステージに到達したリーリエのことを目の当たりにして、もう落ち込んでたりはしないけど、混乱していた。

 もう少しだけ、リーリエとは別のところにいて、考えたかった。

 心配そうな視線を向けてくる夏姫に笑みを返して、僕は駅に向けて歩き始める。

「おぉーい、待ってくれ! ちょっと待ってくれ!!」

 そんな声をかけてきたのは、近藤。

 僕たちの後に屋敷から出てきたらしい近藤は、手を振りながら走り寄ってくる。

「どうしたんだ? 近藤」

「どうしたって……。家近いんだから置いていくなよ。というか、お前は自分の家に帰らないのか? リーリエのことはお前の叔父さんが送ってくらしいが」

「……」

 真剣な目つきの近藤に、僕は視線を逸らす。

 近藤にも心配かけてたのはわかってるけど、真正面から問われると答えづらかった。

「まぁ別にオレにとってはどうでもいいことなんだが、な」

 ちらりと夏姫の方を見た近藤は苦い顔をするけど、気にしないことにする。

「近いうちに、リーリエとはちゃんと話をするよ」

「あぁ。その方がいいだろうな」

 少し安心したような顔を見せて僕に向き直った彼は、表情を引き締めて言った。

「克樹。お前に渡したいものがあるんだ」

「渡したいもの?」

 鞄に手を入れて何かを取り出す近藤。

 握られたものを差し出されて、僕は反射的にそれを受け取っていた。

「近藤! お前、これ……」

 手に触れた瞬間、それが何なのかを僕は理解した。

 金属の質感をした、球体。

 スフィア。

 それもたぶん、近藤が渡してきたのは、こいつのエリキシルスフィアだ。

「近藤? どうしたの? これ、克樹に渡しちゃったら――」

「バトルはどうするんだよっ」

 手の中のスフィアを見て夏姫も言い、僕も近藤に詰め寄る。

 はにかむように笑う彼は、言った。

「さっき話しただろ、前兆現象で、梨里香に会った、って」

「それは聞いたけど……」

「梨里香に久しぶりに会って、言われたんだ。生き返りたいけど、一緒に年老いていけないなら、ダメなんだ、って。あいつは身体が弱かった。亡くなったのもそれが原因だ。復活するだけじゃなくて、身体を強くできないとダメだったんだ。オレは、願いをふたつ叶えられないと、梨里香と一緒に生きていけないんだ」

 必死に戦ってきたときとは違う、晴れやかな顔つきの近藤。

「一緒に生きられないならイヤだって言われて、オレは納得しちまった。だからもういいんだ。梨里香と再会して、一緒に泣いて、別れを言えた。それでオレのエリキシルバトルは終わったんだ」

 笑っているのに、近藤は泣いていた。

 晴れやかな笑顔で、ぼたぼたと涙を流していた。

「だからって、僕に渡されても……」

「オレはお前に一度負けてるからな。お前に渡すのは当然だろ? それにまぁ、一度渡すとそのスフィアは資格を失うらしいけど、克樹自身はまだエリキシルソーサラーの資格は失ってないんだろ? なのにいまはエリキシルスフィアを持ってない状態じゃないか。アリシアはリーリエに取られた形だけど、なんかのときのために、……えぇっと、もう一体の、シンシアに載せておけばいいんじゃないか?」

「まぁ、確かに僕はいま、エリキシルスフィア持ってないけどさ……」

 アリシアをリーリエに取られたことで、それに搭載していたエリキシルスフィアも、僕は取られちゃった格好だ。

 僕のエリキシルバトルの参加資格がどうなっているのかは正直わからない。けれど確かに、使えないとしてもエリキシルスフィアはひとつ持っておくべきかも知れなかった。

「でも、本当にいいのか? このスフィアに椎名さんが現れたってことは、ここには椎名さんの――」

「いいんだ。諦めたのに持っていたら、いつまでも捕われることになる。オレには梨里香と一緒に戦ったときに使ってたスフィアもあるし、すっぱり諦めるためには、手元にない方がいい。それに――」

 流していた涙を手の甲で拭って、近藤はニッカと笑う。

「あいつなら渡せって、絶対に言う。持ってても仕方ないものを持ってるより、何かのときのために役に立つかも知れない奴が持ってる方がいいって、梨里香なら必ず言う。だから克樹、お前に持っていてほしいんだ」

「……わかった。受け取るよ」

 右手のエリキシルスフィアを見つめて、僕はそれを握りしめる。

「お前はこの後、どうするんだ?」

「僕は……」

 まだ涙の跡が残る近藤に問われて、僕はうつむいて考える。

 これからのことなんて、まだ考えられるほど頭が整理されてない。今日知ったことを咀嚼して、しっかり答えを出さないといけない。

 でもたぶん、時間はあまりない。

 リーリエがフォースステージに上がったことがモルガーナの想定外の事態で、もしあいつがそれを知ったとしたら、何らかの方法で接触してくるはずだ。

 リーリエを、倒すために。

 焦って出せる答えじゃないけど、急いで出さないといけないと思っていた。

 顔を上げて、僕のことを見つめてきている夏姫と、近藤のことを見つめる。

 返す言葉は見つからないけど、僕はふたりに、笑みと、頷きを見せた。

 

 

            *

 

 

 夕暮れはすっかり終わり、暗くなった国道で、彰次はハンドルを握っていた。

 今日話したことについて、平泉夫人と芳野との打ち合わせをしてから、屋敷を出た。

 克樹が話せなかった理由は納得はできなくても、理解はできる。それよりもピクシードールが巨大化するところを生で見せられても、その事実も、話の内容も腑に落ちるものではなかった。

 ――頭が固くなってるな。

 リアルにファンタジー世界に足を突っ込んでいる状況について行けないのは、歳を取って頭が固くなってきたからだということにしておいた。

 そうでもなければ、理解自体を拒否してしまいそうだったから。

「ゴメンね、ショージさん」

 考え事をしながら空いてる道を流してるとき、そんな声が聞こえてきた。

 しかし助手席には人は座っていない。バックミラーに移る後部座席にも、人影はなかった。

 声をかけてきたのは、助手席で人間のように行儀良く座っているピクシードール、リーリエ。

 行くときも平泉夫人に言われて乗せてきたわけだが、ピクシードールを助手席に乗せているというのは、意外にシュールなシチュエーションに思えた。

 それも行きはただのピクシードールだったのが、いまはこの身体自体がリーリエだ。

 少し前にシステムの更新の話をしたとき、どこか自分のことではないように聞いていたのは、こうなることをそのときに決めていたからかも知れない。

「何がゴメンなんだ?」

「ずっと話せなくて」

「それはまぁ、仕方なかったんだろ。いまでも全部は信じられないしな。それにあれのことを知る前の俺だったら、止められてもバトルのことをどこかに公表しようとしてたかも知れない」

 それぞれの願いはあるにせよ、危険なことは確かなのだから、もし以前だったら知った時点で、どうにか証拠を取って、モルガーナの存在を公表していたかも知れない、と彰次は思っていた。

 けれどエイナのことを知り、平泉夫人が襲撃されたことを考えれば、それがいかに危険なことかがわかる。

 いまのタイミングだったのは、おそらく最適だったのだろう。

「いまはもう、公表する気はないんだ?」

「そりゃあまぁな。さすがにできないさ」

 信号が赤に変わり、彰次はブレーキを踏み車を停める。

「それは芳野さんのことがあるから?」

「おっ?! え? なんで……」

 唐突に言われた言葉に噴き出し、ニッコリと笑ってるリーリエのことを見てしまう。

「ほら、青になったよぉ。――そりゃあさ、気づくよ」

「何でだよ。今日はそういう話、一度もしてないってのに」

「んーとね、何て言うか、距離が違うから、かな? 物理的な距離とかじゃなくて、視線の交わし方とか、そういうのがショージさんと芳野さんの間で通じ合ってたからね。それに芳野さん、凄く表情が出るようになったよね。可愛らしくなったと思うし、綺麗になったよねー。夏姫と灯理は気づいてたみたいだね。おにぃちゃんは微妙かな? 直接言われないと、そういうとこ疎いから、たぶん変わったことは気づいてても、はっきりとはわかってないと思う」

「くそっ。なんでバレるんだ……」

 アクセルを踏み込んで車を発進させながら、彰次は眉根にシワを寄せて悪態を吐いていた。

 平泉夫人が回復したこともあると思うが、確かに芳野は以前の感情を押し殺したような無表情ではなくなり、多少ぎこちなさはあっても、感情を表に出せるようになってきていた。

 それが全面的に自分がいるからだ、と驕るつもりはなかったが、少なくない理由になっていることは意識している。

 元々人工個性であっても女の子であるリーリエ、それに夏姫や灯理に気づかれるのは、これから先のことは保留にしてもらっているとは言え、平泉夫人にキッチリと挨拶をして、認められるようになったいまなら仕方ないと思う。

 平泉夫人など、目覚めて芳野を見た瞬間に気づいたというのだから恐ろしい。それも相手が彰次だと、芳野だけを見た段階でわかっていたというのだから、弁解も反論の余地もなかった。

「結婚するの?」

「話が早すぎるぞ、リーリエ。そこまでの関係じゃあない。だが、俺もいつまでも立ち止まってはいられないからな」

「東雲映奈さんのことは、忘れるの?」

 視線を向けてくるリーリエに、ちらりと視線を走らせる。

「忘れられるわけがないだろ。俺の中で、先輩の存在は大き過ぎる。それでも、俺は死んだ人間より、いま生きてる人間のことの方が大事なんだ。先輩のことは、どういう形になるかはわからないが、俺なりの決着をつける。それが綾――」

 無意識にここのところ芳野を呼んでいるときの呼び名を口にしてしまい、彰次は口を閉じる。

 横目にリーリエのことを見てみると、お腹を抱えて声を押し殺しながら笑っていた。

「……芳野さんにも、ちゃんと決着をつけるように言われてるからな。何かあるにしても、俺はちゃんと過去を清算してからじゃないと、前に進めない」

「ん、そっか。わかった」

 そんな話をしている間に、克樹の家に到着した。

 人工個性ではなくなっても、スフィアの機能を使ってホームオートメーションシステムに接続できるリーリエにガレージのシャッターを開けてもらい、この時間ならば駐車違反を取られることはまずないが、念のため車を入れた。

「あっ、らぁいずっ!!」

 シャッターが閉まりきったのと同時に、リーリエがそう唱え、光を纏った。

 光が弾けて消えたとき、二〇センチしかなかったピクシードールは、一二〇センチのエリキシルドールとなっていた。

 見るのは二度目だが、たぶん何度見ても現実感がなさ過ぎて、戸惑ってしまうような光景だった。

「ちょっと待ってて。渡したいものがあるから」

 後部座席に手を伸ばして持ち帰ってきた荷物を取ったリーリエは、そう言って車を降りて小走りに家に向かっていった。

「なんだ?」

 何なのか予測もできなくて、彰次は言われた通り車の中でしばらく待っていた。

「ショージさん、これを」

 戻ってきたリーリエが手渡してきたもの。

「スフィア? これはエリキシルスフィアって奴か?」

「んーとね、一応エリキシルスフィアの、予備。バトルへの参加資格はないんだ」

「なんでまた、こんなものを?」

 エリキシルドールの姿で、リーリエは助手席に座ってスフィアを彰次の手に握らせる。

「これはね、エイナがアイドル活動してるときにエルフドールで使ってたスフィアなの」

「……あいつが?」

 エイナの名を聞いて眉がつり上がってしまうが、リーリエはそれでもスフィアを握らせ、離さないようにしている。

「エリキシルバトルに使えるわけでも、これで願いを叶えられるようになるわけでもないんだ。それでも、エイナが使ってたから、あたしが使ってるスフィアみたいに、ほんの少しだけエイナが入ってるの」

 手に落としていた視線を上げると、真っ直ぐにリーリエが見つめてきていた。

 少し悲しそうに、少しつらそうに、そして祈るような瞳で、彰次のことを見つめている。

 元々ピクシードールであったはずなのに、その瞳は人間のそれよりも、豊かな感情を宿しているように見えた。

「できればショージさんに持っていてほしい、って。ショージさんに渡してほしって、エイナから頼まれたんだ。だからショージさん、あたしからもお願い。エイナの心を、持っていてあげて」

 エイナのことは、抵抗があった。

 東雲映奈の脳情報から生み出された人工個性。

 リーリエと同じように、エイナは東雲映奈とは別人格で、人工個性であってもひとりの女の子として存在している。

 だがやはり抵抗があるのは否めなかった。

 それでも真っ直ぐに見つめてくるリーリエの瞳に、拒否はできなかった。

「わかった。俺の家のエルフドールにでも入れて使ってみる。性能は変わらないんだろうがな。しかし、心を持っていてほしいってのは、なんだか形見分けみたいだな」

「……そうなるかも知れないんだ」

「なに?」

 受け取ったスフィアを見つめながら言うと、リーリエにそんな風に返された。

「これからの戦いの結果次第では、それはエイナの形見になるかも知れない」

「そうか。もしお前がエイナを倒したら、最後にはそうなるかも知れないのか」

「うん」

 リーリエとは協力しているエイナは、それでも互いにエリキシルバトルに参加している、敵。

 いつになるかはわからないが、これから先、おそらく戦うことになるだろうし、その結果負けることになれば、エイナはモルガーナによって破棄される可能性だって考えられる。

 いま手元にあるスフィアは、リーリエの言う通り、エイナの形見になるかも知れないものだった。

「わかった。あいつの心、確かに受け取った」

「ありがとう、ショージさん」

 まるで自分のことのように笑みで応えるリーリエに、彰次も笑みを返していた。

 

 

            *

 

 

「音山……、は今日も休みか」

 クラス担任の教師は、諦めたようにそう言い、点呼を続けた。

 克樹の机は、今日も空席。

 頬杖をついてそこを眺めている夏姫は、毎日吐いていたため息を、今日は漏らさない。

 ――克樹は、もう大丈夫。

 昨日、リーリエと会って話してから、克樹はそれまでと違ってきた。

 平泉夫人の意識が戻ってから少しマシになっていたけれど、昨日はさらに変わった。

 夜はそれまで切断していたネットに接続して何か調べ事をやっていたようだし、朝は夏姫よりも早く起きて、スマートギアを使って作業をしているようだった。

 ごろごろと寝転がって、何もしないでいた克樹はもういない。

 瞳に意志の光りが宿り、以前の彼が戻ってきつつあった。

 対して夏姫は、克樹のことでため息を漏らすことはなくなったが、昨日話を聞いて以来、頭がぐしゃぐしゃになりそうになっていた。

 これまでもエリキシルバトルにまつわる不思議なことはいろいろとあったが、昨日聞いた話と、リーリエがアリシアを自分の身体として、涙を流していたりするのを見て、訳がわからなくなった。

 ――神様、か。

 昨日の話が事実なのだろうということは、頭では理解していたが、実感は湧かなかった。

 どう扱っていいのかわからなくて、夏姫は混乱するばかりだった。

「今日も克樹の奴、休みなの?」

「え? あぁー、うん。そうなんだよね」

 いつの間にか朝のホームルームが終わって、授業開始までの時間に夏姫のところに近づいてきたのは、遠坂明美(とおさかあけみ)。

 眉を顰めて克樹の机の方を睨んでいる彼女は、ため息を吐きながら夏姫に問うてくる。

「本当に、いったい何があったの? もう二週間だよ? 病気とかじゃないってのは聞いたけど、大変なことがあったんじゃないの?」

「えぇっと……」

 克樹とは幼馴染みで、世話焼きの明美は、度々彼がどうしたのかを訊いてきていた。

 怪我や病気じゃないと、嘘ではない適当な言い逃れで凌いできた。本当はもう少し詳しいことが話せればよかったが、明美は超能力かと思うほど勘が良いことがあるのは、夏姫も知っていた。

 ヘタに口を滑らせて、エリキシルバトルのことを感づかれるのは問題になりそうだった。関係者でなければ具体的なことはわからないにしても、明美が動く動機を与えたくなかった。

 だから夏姫は、あまり多くのことを話さずにいた。

「ちょっと……、克樹にとって大切な人が大変なことになって……。でも、もう大丈夫だから」

「それって、平泉夫人のこと?」

「明美、知ってるの?」

 詳細は話していないし、夫人の名前もこれまで言ってなかったのに、一発で明美に指摘されて、夏姫は目を丸くしていた。

「うん。面識はないんだけど、……百合乃ちゃんから話は聞いたことあったから、ね。それに克樹が休み始めたとき、あの人が銃で撃たれたってニュース、流れたから。――そっか、大丈夫になったんだ」

「ずっと意識不明だったんだけど、意識戻ったんだ。もうしばらくは入院してないといけないみたいなんだけど、なんか急に傷の治りが早くなったんだって。今月中には退院できるかもって話だったよ」

「よかった……」

 心底安心したように、明美は深く息を吐く。

 これまでもずっと問われてきたけれど、やっと平泉夫人のことを説明できて、夏姫は胸を撫で下ろす。

 何かと克樹のことを心配する明美からの追求は、一週間を過ぎた辺りから、逃げるのが大変なほどに厳しくなっていたから。

「それで夏姫は、克樹と一緒に、何をやってるの?」

「え? 何をやってる、って?」

 安心したのもつかの間、明美からの鋭い視線に、夏姫は言葉を詰まらせる。

「克樹も前に話せないとか言ってたこと。去年、近藤が起こした事件も、平泉夫人のことも、克樹がいまもソーサラーをやってることも……」

 そこまで言った明美は、頬をさすりながら考え込む。

「もしかして夏姫が克樹と仲良くなったことも、他にもなんか細かいいろんなことも、全部関係してる、ひとつのことに繋がってるんじゃないの?」

「それは……、あの、あのね……」

 どう言い逃れるかを考えるけれど、言葉が見つからない。克樹ならばその辺は適当にやり過ごすこともできるのだろうけれど、夏姫はその辺りはあまり器用ではない自覚があった。

 明美が当てずっぽうで言っているだけならば、言い訳もできるだろう。

 けれど彼女の場合、勘が鋭いだけではなく、細かいところまで観察して、それを憶えている上での推測。結論に達する過程が超能力染みた鋭さを発揮することがあって、半端な説明でも、言い逃れの言葉でも、推測の材料になってしまう。

 だから隠したいことがあるときは何も言わないのが一番だと、彼女とつき合う中で学んでいた。

 ――それに、話すわけにはいかないよね。

 モルガーナという人物が、夏姫の常識の外にいるくらい恐ろしい存在であることは、平泉夫人を襲撃したことからも明らかだ。

 明美のような普通の人にまですぐに危害を加えるようなことにはならないと思うけれど、話さない方が安全なのも確かだった。

 夏姫は、彼女の安全を考えて、何も話さないことを選択する。

「夏姫が克樹たちとやってることは、平泉夫人が襲われたみたいに、命に関わるようなことなの?」

「……ゴメン、明美。アタシは何も言えない」

 その答えに、目尻をつり上げて睨みつけてくる明美。

 彼女が怒ろうとも、話すわけにはいかなかった。

「そろそろ先生来るぞ」

 明美の鋭い視線から逃れられないでいるとき、近づいてきて声をかけてきたのは、近藤だった。

 視線を移して彼のことを睨みつける明美には、諦める様子はない。

 机に身体がくっつくほど近づいてきた近藤は、ふたりにしか聞こえない潜めた声で言う。

「遠坂。お前は関係者じゃない。関係者以外が口を挟むな」

「何よ? それ。確かに関係ないかも知れないけど、それでも心配くらいはするんだよ?」

 しばらく睨み合った後、近藤は明美に答えず、肩をひとつ竦めて見せてから、自分の机に向かっていった。

 大きなため息を吐き出した明美は夏姫に向き直る。

「ありがと、明美。でも本当に大丈夫だから。たぶんもうすぐ、終わると思うし」

 心配してくれる彼女に、心からありがたいと思った夏姫は、そう言って微笑みを浮かべた。

 それでも不満そうな顔を見せている明美だったが、扉を開けて入ってきた教師に、何も言わないまま自分の机に戻っていく。

 ――ゴメンね、明美。

 彼女が純粋に心配してくれているのはわかっている。それでも話すわけにはいかなくて、夏姫は感謝の言葉を口にすることしかできなかった。

 ――全部終わって、話せるようになったら、話すよ。

 親友と呼べる友達にすら話せないことを心苦しく思いながら、夏姫は心の中で明美の背中に呼びかけていた。

 

 

 



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第六部 暗黒色(ダークブラック)の嘆き 第二章 5

 

 

          * 5 *

 

 

 畳の上にあぐらを掻いた僕は、頭に被ったスマートギアの視界で、いくつものウィンドウを開き作業をしていた。

 ――だいたい、こんなもんか?

 一応できたプログラムソースをデバッグアプリに食わせてチェックし、続いてシミュレーターアプリで動作確認を行う。

 動作確認のダイジェストを見ながら、僕は新たに別のアプリの制作に取りかかった。

 昨日のうちにリーリエから送ってもらった新しいアリシアの――いや、リーリエの身体の性能と、接続・操作関係の情報から、僕は今日、新しいバトルアプリの開発に勤しんでいた。

 事前にリーリエがパーツ手配のために連絡を取って、あっちでも独自にアプリ開発を進めていた猛臣とも連携して、エイナに対抗するための汎用バトルアプリとアドオンアプリを作成する。さらにそこから僕は、リーリエ専用に調整を入れていた。

 僕もリーリエの解析データを見せてもらったけど、エイナの強さは凄まじい。ポテンシャル予測によると、前回の戦闘では全力を出せてなかった可能性が高かった。

 新しいアリシアはコンセプトこそいままでと同じだけど、必殺技のためのポテンシャル優先で基本性能を犠牲にしていたものと違い、最高ポテンシャルと最高の性能を持つピクシードールとなった。フォースステージに昇ったことによる効果はよくわからないけど、性能は大幅に高くなったと言っていい。

 それでもエイナに勝つのはたぶん、かなり困難であることが予測できた。

 ――しかし、リーリエのソースはメチャクチャだな。

 リーリエには彼女の戦闘スタイルに適したピクシードール操作用バトルアプリやアドオンアプリを与えていて、アプリの調整や開発方法も教えていた。

 エリキシルバトルに参加するようになってからは、人間の反射神経を超える戦いに対応するため、必殺技を使えるようにするためってのもあって、アプリソースを購入して半分自分で組み上げたアプリを使うことが多くなった。

 それによって、リーリエはリーリエでアリシア用のバトルアプリを自分で組み上げるようになってたわけだけど、あいつにはアプリ開発のセンスはなかったらしい。

 高速な戦闘に対応するためにかなり独自のソースが書き加えられていて、それも無理矢理な実装をしてるものだから、クセが強い上にちょこちょこ不具合が発生しているような出来上がりだ。よくこれでちゃんと戦えてたと思うくらいに。

 ――だけどこれは、本当に凄いな。

 アリシアを自分の身体とし、人工個性でもピクシードールでもなくなってしまったリーリエだけど、その状態でもバトルアプリによる接続は可能だし、彼女自身もアプリを経由して身体を動かしてる。

 リーリエから昨日提示された、彼女の身体の性能は、あくまで理論最大値ってことだったけど、ピクシードールでは絶対にあり得ず、エリキシルドールになって性能が上がった状態の計算値も大きく上回っていた。

 本当に理論値なのか、リーリエがフォースステージに昇ったことで、身体にも何かブーストがかかっているってことなのかまでは、わからなかったが。

 シミュレーターのダイジェスト映像を見ていて、僕はため息しか出てこないくらいの性能が、そこには表示されていた。

 エリキシルバトルはまだ終わっていない。

 終わりまでの時間は、迫ってきてる。

 僕はリーリエという、戦う方法を失っているけど、たぶんまだエリキシルソーサラーのままだ。

 リーリエのことを、受け入れられたわけじゃない。

 それでも僕は前に進んでいかなくちゃならない。だから僕は、平泉夫人に言われたように、手元のことから、バトルアプリの改良と最適化から手を着け始めていた。

「とりあえずリーリエに送信、と」

 昨日の話の後、ファイルのやりとりはあるけど、リーリエとは話してない。でももう、ネットを切断してまで遠ざけようともしてない。

 出来上がったリーリエ用のアプリを送り終えて、僕は広げすぎたウィンドウを整理して減らす。

 外の視界が見えてきて気がつく。

 折りたたみ式の天板を展開した机で宿題でもやっていたらしい夏姫が、椅子に座ったまま僕に振り返ってきていた。

 もうひと晩、とか昨日言っていたのに、そろそろ日が傾き始めている時間のいま、このままだとふた晩目に入りそうになっていた。

 夏姫には、本当に世話になったと思う。

 この部屋に転がり込んでからもう二週間、夏姫は僕を放り出しもせず、食費くらいは多めに出していたけど、世話をしてくれていた。

 僕を、支えてくれた。

 夏姫がいなかったら僕はどうなっていたかわからない。家にいられる気分じゃなかった僕は、泊まれる場所を転々として、もしかしたらどこか遠くに逃げてしまっていたかも知れない。

 そんな僕をつなぎ止めていてくれた夏姫には、感謝以外の気持ちはない。

 そろそろ帰らないといけないのはわかっていたけれど、まだリーリエへのわだかまりが消えなくて、ひと晩と言った翌日のいまも、帰る気持ちになれないでいた。

 心配するような、不審を抱いているような夏姫の視線。

 彼女の少し後ろでは、机の上のメンテナンスベッドに身体を半分起こすような格好のブリュンヒルデが、一緒に僕を見つめてきているような気がした。

 彼女が言いたいことはわかってる。

 でもいまはまだ帰る決心がつかなくて、何かを言われる前にスマートギアのディスプレイを跳ね上げた僕は口を開いた。

「なぁ、夏姫。……リーリエの願いは、何だと思う?」

「リーリエの、願い?」

 何かを言おうとした瞬間に問われて、夏姫は小首を傾げながらオウム返しに言う。

「うん。どうしてもそれが気になるんだ。――いや、リーリエがどんなことを願う奴なのかわからなくて、怖いんだ」

「あー。なるほど」

 納得したようにひとつ頷いた夏姫は、椅子から立ち上がって僕の正面に座る。

 長袖のTシャツにハーフパンツの彼女は、自分の家だからそんなもんだろうけど、輝かしいまでの太股が丸見えの、無防備とも言える格好だった。

 この二週間、一緒に寝起きしてたって言うのに、そんな夏姫の様子にすら気を配れていなかったことを、いまさらながらに思い出す。

 リーリエに対しては、これまでの認識が邪魔して、どんな女の子なのかと自分に問うても、よくわからないとしか言えなかった。

 だから僕以外の、夏姫の意見が聞いてみたかった。

「僕はこれまで、リーリエのことを女の子として見てきてなかった。だからあいつがどんなことを思って、どんなことを考えて、どんな願いを持つのか、わからないんだ」

「そうだね。大事にはしてたのに、克樹は結構、リーリエを物に近い扱いをしてるとこあったよね」

「うっ……。そんなに酷い感じだった?」

「酷いっていうか、うぅーん……。元々克樹は、女の子のことには疎いよね? それの延長線上の、もうちょい先の感じに近いかな? リーリエには身体がなかったから、女の子として意識しにくかったのもあるんだと思うよ」

 確かに、夏姫や灯理、平泉夫人や芳野さんのように、姿からして女の子とか女性だと、わざわざ意識しなくてもそうだとわかる。

 リーリエについては声と性格は確かに女の子だけど、人工人格系AIの方が感覚が近い気がしてしまう。

 身体を持たなかったから、リーリエのことを女の子よりもAIに近い、物のような扱いをしてしまった、という夏姫の言葉は、的を射ている気がした。

「アタシもまぁ、そういう感じがあったのは確かかな? 最初は克樹からそんな感じの説明受けてたしね。でもリーリエからはけっこうがっつりと、克樹に対する嫉妬を向けられてたから、その辺から女の子として意識してたかなぁ」

 天井を仰ぎながら言う夏姫に、確かに一年くらい前にはそんなこともあったと思い出す。

 あのときの僕は嫉妬のようなリーリエの言葉を、ほとんど取り合っていなかった。本気だと思っていなかった。

 リーリエが僕を「おにぃちゃん」と呼び、妹のような感じで接してきていたこともあるけど、それよりもあいつを、女の子として捉えていなかったことの方が大きいような気がした。

「リーリエは、克樹のこと、好きだよ」

「……そう、なのかな?」

「うん。それだけは絶対。リーリエの好きが、兄妹としての好きなのか、――えぇっと、アタシと同じ好きなのかは、わからないけどね!」

 言ってて恥ずかしくなったのか、夏姫は後半早口になりながら、頬を少し赤く染めて言った。

 そんな様子が可愛らしくて、僕はちょっと笑ってしまう。

 ――いま夏姫が言った通りだとして、そんなリーリエは何を願う?

 エリキシルバトルに参加してるからには、現実には達成が困難、もしくは不可能な、切実な願いを持っていることは確かだ。

 僕のことを好きでいてくれる、ひとりの女の子であるリーリエ。

 彼女に叶えたいことがあるとしたら、それはどんな願いだろうか。

「……ねぇ、もしかしたら、なんだけどさ」

「どうした?」

「うん……。アタシの勝手な推測だけどさ、リーリエの願いって――」

 正座で座っていた夏姫が、畳に手を着いて身体をこっちに乗りだしてきて、言った。

「人間になること、じゃないかな?」

「え? そんな、まさか……」

 即座に否定の返事をしてみたけど、わからなくなっていた。

 リーリエは人工個性。いまはアリシアの身体を手に入れて身体を持ったけど、それでも人間とは異なる存在だ。

 ――いや、その先入観が、リーリエのことを見えなくさせてたんだ。

 そう思った僕は、うつむいてしまった顔を上げる。

「どうしてそう思うんだ?」

「だって、リーリエとアタシたちで違うところって、身体を、人間の身体を持ってるかどうかだけじゃない?」

「でも仮想の脳で精神的には女の子でも、リーリエは人工個性だぞ」

「そうなんだけど、リーリエがエリキシルソーサラーになれたのって、イドゥンって神様が、リーリエのことも人間だって認めたからじゃないかな?」

「まさか……」

 僕のことを見つめる夏姫の揺れている瞳には、迷いの色が映ってる。自分の言葉を自分で信じられず、困惑してる。

 僕だって、夏姫の言葉を信じたわけじゃない。

 でももしそういうことなら、いくつかの疑問に関するつじつまは合う。

 ――じゃあ、リーリエの願いは……。

 確証はない。

 けれどリーリエにとって切実な願いというのが、人間になることだというのは、否定する要素がない。

 ――いや、でも……。

 彼女のことをよく知ってるとは言えなくなった僕は、そう結論することができなかった。

 夏姫と見つめ合ったまま、お互い声も出せなくなっているときだった。

「そういうウジウジ考えて、自分の中でぐるぐる悩んでるところは、いまも変わらないみたいね。聞きたいことがあるなら、無理矢理にでも本人から聞き出せばいいのに」

 そんな夏姫でも、もちろん僕のでもない声が、ふたりしかいないはずの部屋で聞こえた。

 驚くよりも先に僕と夏姫の間に舞い降りてきたのは、光の球。

 それは大きく伸び上がり、着地と同時に光を弾けさせた。

 

 

            *

 

 

「本当に行くのか?」

「はい。わざわざおつき合い頂いて済みません。もしためらうのであれば、外で待っていてくださっても構いませんよ」

 近藤の声を振り切って歩いて行くのは、濃紺のフレアスカートのワンピースに焦げ茶色のコートを羽織る灯理。

 夕暮れが近づきつつあるこの時間、ふたりがたどり着いたのは、克樹の家だった。

 学校から家に帰ってしばらくした頃、灯理から連絡があり、克樹の家に行くと言われた。

 着いていく理由は近藤にはなかったが、自宅に帰っていないと思われる克樹が不在の家にひとりで行くのは、心細いのかも知れなかった。行くと言われて、反射的に着いていくと答えてしまっていた。

 電車とバスを乗り継いでやってきた灯理に、近藤は駅から一緒に克樹の家まで着いてきていた。

 ――目的は、やっぱり……。

 灯理の目的は、聞いていない。けれどもだいたい推測はできた。

 昨日の話し合いの後、リーリエから送られてきたエイナとのバトルの映像。

 これまで見てきたどんな戦いよりも高速で、激しいその戦いを見て、近藤は絶対にふたりには敵わないことを悟った。

 すでに克樹にエリキシルスフィアを渡した後だったから、戦う理由は近藤からはなくなっていた。けれどいまのリーリエとエイナには、夏姫や猛臣でも、もしかしたら平泉夫人でも対抗できないのではないかと思えるほどだった。

 同じ映像を見たであろう灯理。

 それでも彼女は、まだ自分の願いを、目を治したいという想いを抱き続けている。

 その場合に採れる選択肢は、多くない。

 大きなトートバッグを肩に提げて門の前に立った灯理を見て、近藤はため息を吐きながらその脇の呼び鈴に近づいていく。

『いらっしゃい、誠、灯理。玄関は開けたから、……えぇっと、入ってきても、いいよ?』

 鳴らす前に声をかけてきたリーリエは、なんでか後半、声が小さくなっていった。

 なんだかわからなかったが、入ってもいいらしい。

 白地に赤い線の入った、医療用スマートギア越しに灯理と視線を交わし合い、近藤は門を開け、玄関の扉に向かった。

「……なんだ? この匂いは」

 家の中に入った途端、奇妙な匂いに気がついた。

 微かな焦げ臭さはさほど強くないが、それに混じって甘ったるい匂いや、それ以外にも様々な匂いが混じり合っている。

 同じように気がついたらしい灯理と顔を見合わせつつ、靴を脱いでLDKに入る。

 そこは惨状だった。

 いつもこの家に来たときに使っているダイニングテーブルには、ボールやまな板や包丁といった調理器具が無造作に置かれ、それと一緒に何かをつくろうとしたらしい正体不明の物体もある。床には零れた卵だとか、ぶちまけられた小麦粉らしい白い粉を雑に掃除した跡が残されていた。

「……何やってたんだ? リーリエ」

「あはははっ。えっとね、ちょっと料理をやってみようと思ったら、上手くいかなくて……。おにぃちゃんのコーヒーくらいは淹れたことあったんだけどね。情報は調べられるし、夏姫とかおにぃちゃんがやってるのは見てたんだけど、見るのとやるのじゃ違うんだねー」

 ハードアーマーを外していて、白いソフトアーマーの上に、もしかしたら百合乃のものかも知れない水色のワンピースを着て、エプロンを着けている、一二〇センチのリーリエ。

 その泣き笑いの顔に、近藤はため息しか出てこなかった。

「食事つくって、どうするつもりだったんだ?」

「んーとね、サードステージまでは無理だったけど、フォースステージからはこの身体があたしのものになったから、食事もできるんだ。人間と同じじゃないから、栄養になったりはしないんだけど」

「なるほどな。それで失敗したのか」

「あははっ……。おにぃちゃんはどーせ今日は帰ってこないと思うから、一度くらい料理食べてみたかったんだけど、ねぇ……」

 口をすぼめながらうつむくリーリエは、小学生かそれくらいの、普通の女の子のように、近藤には感じられた。

 空色のツインテールや、白いソフトアーマーの上に突き出ているセンサーなどから、人間ではないのはすぐにわかるのに、やっていることと、彼女の様子は、幼い女の子のそれと同じだった。

「すまないが中里、片付けの方、頼めるか?」

「えっと、はい。それは構いませんが、どうされるので?」

「たぶん、冷蔵庫に浜咲のつくり置きがあると思うんだ」

 言って近藤はキッチンへと向かう。

 近藤もたいしたものはつくれないが、灯理は料理のセンスが壊滅しているという話は聞いていた。暖めるだけのものでも、自分がやった方が安心だと思えた。

 冷凍庫を開けてみると、中には保存容器がかなりの数入っていて、さらにシールで内容と調理方法まで書いてあった。

「これは使わなかったのか?」

「えっと、とりあえず自分でつくろうと思ったんだけど、上手くいかなくて……。そしたら夏姫の冷凍してくれてたのも、失敗しそうで怖かったんだよね」

「そうか。まぁ、これくらいならオレでもできるから、片付けながらちょっと待っててくれ」

「うんっ、わかったー」

 キッチンの方はさらに酷い惨状だったが、とりあえず考えるのは後回しにして、ラベルを頼りにつくり置きの料理をいくつか取り出す。皿に空けてから、指定通りの時間で暖めていく。

「凄い、凄い、凄い!」

 程なくして、片付けが終わったダイニングテーブルには暖めた料理が並んだ。

「食べていいの?!」

「そのために暖めたんだしな」

「ありがとうっ。――んーっ、これが料理なんだねっ。美味しい!」

 待ちきれなかったのか、リーリエは早速スプーンで料理を食べ始める。

 隣に座る灯理が、ここに来た理由を達成できずに不機嫌になりつつあるのはわかっていたが、近藤は視線で黙らせた。

 ぱっと見では子供にしか見えない、けれどもエリキシルドールであるリーリエが、けっこうな速度で食事を平らげていく様子は、なんだか非日常的な風景のように近藤には感じられていた。

「んーっ。美味しかったぁ。ごちそうさま! 本当はみんながいるときに食べられたら良かったんだけどねぇ……。出来立ての夏姫の料理も食べたかったし!」

「別に今日でなければ、食べる機会もあるだろ」

「……あー、うん。そうだねぇ」

 ――ん?

 食べ終えて幸せそうな笑みを浮かべてるリーリエに、近藤はわずかに違和感を覚えていた。

 確かにしばらく克樹は家に帰っていないようだし、彼がいなければ夏姫も来てはくれないだろう。しかし昨日の話し合いで、克樹も少し前に進めているような様子があった。

 エリキシルバトルは終わっておらず、フォースステージに昇ったリーリエは、参加者の中でも特殊な立場になっている。いつまでいまの状態でいられるのかは、よくわからない。

 それでも今日と言わなければ、料理くらいは食べる機会があるように思えた。

「コーヒーでも淹れてくるよ。中里、手伝ってもらえるか?」

「それは、構いませんが」

「オレだとどこに仕舞ってあるのかわからなくてな」

 椅子から立ち上がった近藤は、灯理とともにキッチンに入る。

 コーヒーの粉とフィルターのある場所を教えてもらって、克樹愛用のコーヒーメーカーにセットする。

 それから、隣に立って淹れ終わるのを待ってる灯理に、近藤は腰を屈めてそっと耳打ちした。

「え? それはどういう――」

「しっ」

 問い返してきた灯理を制して、近藤は顎でリビングスペースのソファを示す。

 そこには、まるでどこかに出かけるためのような、手提げ鞄が置かれてあった。克樹がドール用の装備を入れるのに使っているのを見たことがある鞄。

 目配せに頷いた灯理に、近藤も頷きを返して、準備した三つのカップにコーヒーを注ぎ、キッチンを出た。

「そっかぁ……。コーヒーってこんな味だったんだねっ」

 克樹と同じで、たっぷり牛乳を入れたコーヒーを飲むリーリエ。

 それを飲み終えてから、彼女はおもむろに椅子から立ち上がった。

「さて、と」

 笑みは変わらず柔らかなのに、いまさっきと違って、張り詰めた空気をリーリエは発し始める。

「ふたりがここに来た理由はだいたいわかるけど、ちゃんと教えてもらえる?」

「……わかりました」

 リーリエの問いに応えてうつむいた灯理。

 顔を上げ、正面に座るリーリエのことを見つめて、言った。

「ワタシも、リーリエさんも、エリキシルソーサラーです」

「うん」

「ワタシが願いを叶えるためには、残りすべてのエリキシルソーサラーを倒さなければなりません」

「ん……」

「そしてワタシたちの休戦は、残りふたりのエリキシルソーサラーがわかるまで、でした」

 言いながら立ち上がった灯理は、足下に置いていたトートバッグを取り、中からピクシードール用のアタッシェケースを取り出す。

 テーブルの上に置いて開いたふたつのケースの中身は、フレイとフレイヤ。

「ワタシと、戦ってください」

 自分のドールに落としていた視線を上げ、スマートギアに隠れていても感じるほどに鋭い視線をリーリエに向ける灯理。

「うん、いいよ。ちょっと、外に出ようか。ここじゃあ狭いからね」

 あっさりと承諾したリーリエは、いったんリビングに行き、着ていたワンピースを脱ぐ。ソファに置いていた鞄に手を突っ込み、ハードアーマーを取り出して身体に装着した。

 それを追っていった灯理も、自分の鞄をリーリエの鞄の隣に置き、準備をする。

 二体のドールを腕に抱き、掃出し窓から外に向かったふたりを追って、近藤も少し遅れて庭に出た。

「アライズ!」

 庭の芝生に立たせたフレイとフレイヤの手を握り合わせ、願いを込めて唱えた灯理。

 二体のピクシードールが光に包まれ、それが弾けたとき、前回とは少し衣装の違う、二体のエリキシルドールが現れた。

「あっ、らぁいず!」

 すでに一二〇センチの、エリキシルドールとなっているリーリエが少し間の抜けた声でそう唱えると、彼女の手にはひと振りの刀が現れた。

「いまのは?」

「部分アライズ。スフィアの使い方がわかってくると、後から武器だけとかもアライズしたり、カームできるようになるんだ」

「それは、凄いな」

 その答えに、近藤は驚く他なかった。

 近藤たちはドールと一緒でなければ武器などをアライズさせることはできない。

 リーリエがやったように部分アライズが使えるようになれば、ピクシードール用の武器は小さいのだから、持てる武器の数は数倍になる。

 いまは太刀しか持っていないらしいリーリエは、それを鞘から抜き、構えた。

「先に言っておくけど、あたしは強いよ?」

「わかっています。ですが、ワタシもリーリエさんに最後に見せたときより、一段も二段も強くなっています。貴女を倒さなければワタシの願いは叶わないのです。だからリーリエさん、ワタシは必ず貴女を倒します」

「わかった」

 それを合図に、灯理はフレイに二本の短刀を、フレイヤに両手持ちの大剣を、スカートから引き抜かせる。

「フェアリーリング!」

 リーリエのその声で、庭いっぱいに、黄色く光る輪が広がった。

 暗くなり始めた空の下、リーリエと、フレイとフレイヤが対峙する。

「どんな攻撃をしてきてもいいよ。全部受け止めるから。灯理の、全部を見せて」

「わかりました。――行きます!」

 灯理が二体のドールに地を蹴らせた瞬間、短い間だった休戦協定が、破棄された。

 

 

            *

 

 

 とっさに膝立ちになった僕は、夏姫をかばって降ってきた光の主と対峙する。

 ――襲撃?!

 と思った僕だけど、頭の中でそれを否定する。

 すべてのエリキシルソーサラーを把握している現状、もうそれはあり得ないからだ。

 そして弾けた光の中から現れたもの。

「ブリュンヒルデ?」

 僕と夏姫のことを――、いや、僕のことを不機嫌そうな表情で見下ろしてきているのは、夏姫のピクシードール、ブリュンヒルデ。

 濃紺のハードアーマーを纏い、着地のときに少し乱れた黒く長い髪を腕で払って、夏姫に似た少し丸みのある顔に薄く笑みを浮かべる。

 僕の後ろで目を見開いてる夏姫がアライズさせた様子はない。

 でもいまのブリュンヒルデは、一五〇センチの、エリキシルドールになっていた。

「いったい、なにが……」

「これって、もしかして?」

 ただ呆然と、突然のことに思考が止まってしまっている僕と違って、夏姫には思い当たることがあるらしい。

 夏姫のことをちらりと見たヒルデはニヤリと笑い、それから僕に虫けらを見るような嫌悪を露わにした視線を向けてきた。

「反射的に夏姫のことを守る気概は買うけれど、貴方の腑抜け具合は相変わらずのようね、音山克樹君」

 ピクシードール用のボイススピーカーも搭載してないはずのブリュンヒルデが、淀みのない声でそう言った。

 そこでやっと僕は理解する。

 いま起こっている状況は、近藤が昨日話していた、前兆現象なのだと。

「春歌、さん?」

「ママ!」

 新たな驚きに動けなくなってる僕を押し退けて、夏姫がヒルデに――春歌さんに抱きついていった。

「久しぶりね! 夏姫。少し見ないうちに大きくなって……。それに、綺麗になったね」

「うん……、うん!」

 ハードアーマーに覆われた胸にすがりつき涙を流す夏姫のポニーテールの髪を撫でてやりながら、春歌さんは瞳に慈愛を溢れさせる。

 だけど次の瞬間、角でも生えそうなくらい、憤怒の色を瞳に浮かべ、僕を睨みつけてきた。

「ゴメンね、夏姫。いまはちょっと、克樹君と話があるから」

「……うん」

 口調は優しいのに、怒りが籠もってることがありありとわかる声に、夏姫は身体を離した。

 座っていた僕は立ち上がり、春歌さんから逃れようと後退るけど、狭いこの部屋では逃げる場所などなく、すぐに背中が壁に当たる。

「こんなに可愛い夏姫の初めての男が、これなの? 本当に幻滅する。ねぇ、克樹君。私は貴方に、夏姫に似たヒューマニティフェイスの作成を頼んだことはあったけれど、夏姫自身を頼んだ憶えはなかったのだけど?」

「うっ」

 言いながら春歌さんは、腰の剣を抜き放ち、僕の喉元に突きつけてくる。

 鋭い光を放つ切っ先と、それよりも鋭い視線に、僕は何も言えなくなる。

「情けなくて優柔不断で、何事にも適当で、相手の気持ちを推し量るのが苦手な上、問題にぶち当たると逃げて寝転がってるだけのような男が、夏姫を幸せにできると思ってるのかしら?」

 剣を突きつけられてるのもあるけど、僕には春歌さんに反論する言葉がない。

 確かにいま言われた通り、僕はそういう人間だから。

 何も言えないでいると、春歌さんは剣を引いた。

 矢をつがえるように。

 ――あ、死ぬ。

 剣が突き出されれば、僕は確実に死ぬだろう。

 突然の事態に思考が停止していて、それしか思いつけなかった。

「待って、ママ!」

 そんな僕と春歌さんの間に入ってきてくれたのは、夏姫。

「どきなさい、夏姫」

「ダメ!」

 さっきとは逆に僕を後ろにかばって、春歌さんと睨み合う夏姫は、いままさに突き出されようとしてる剣を前にしても、一歩も引く様子はない。

「克樹は確かにダメなとこも多いけど、いまはリーリエのこととか、平泉夫人のこととかが重なって、そうなってるだけ! いつもだったらそんなことない!」

「いざというときに役に立たないのなら、そんな男はただのゴミよ」

「そう、かも知れないけど……。でも、克樹はアタシを助けてくれた! パパが事故で死にかけて、借金負わされそうで大変なときに助けてくれた!! ヒルデのことだって、アタシじゃ直せなかったのを、部品を見つけてくれたり、お金の算段つけてくれたのは克樹だったんだからっ」

 肩も、声も震わせて春歌さんに主張する夏姫に、なんだかこそばゆい気持ちになってくる。

 夏姫のお父さんのことがあってから半年も経っていないし、最初に夏姫と戦ってからも一年ちょい。たったそれだけの間に、本当にいろんなことがあったんだと実感する。

 エリキシルバトルに参加するまで、僕は恨みと復讐心に生きていた。

 人を好きになることなんて、頭の隅にもなかった。

 人の気持ちなんて、考えてもいなかった。

 それがいまは、目の前に立ってるポニーテールの女の子が愛おしくて仕方がない。彼女からも想いを寄せてもらっている。

 ――僕はどれだけのことから逃げて、どれくらいのことを取りこぼしてきたんだろう。

 それを思うと、僕は夏姫への感謝の気持ちで一杯になる。

 彼女への愛で満たされる。

 いまさらながらに、エリキシルバトルで一番最初に夏姫に出会えた偶然に、幸運を感じざるを得ない。

 そしていま、僕がやるべきことを理解する。

「ちょっとはマシな顔つきになったみたいだけど、まだまだね」

「……そうですね。僕はまだまだです」

 細めた目で僕を見つめてくる春歌さんに、僕はそう答えた。

 僕はいろんなところが足りなくて、夏姫に支えられてやっと立っていられる。

 それを実感していた。

「克樹?」

「うん。ありがとう、夏姫。いまも、いままでも」

「ん……。大丈夫、だよ? 克樹は、優しいから。――ちょっと、誰にでも優しいところがあるのが気になったりするけどさ」

「そういうのは優柔不断って言うの!」

 叫ぶような声を上げた春歌さんは、剣を鞘に納めて頭を抱える。

「本当に、本当に心配してるんだからね? 夏姫! 人のこと言えないくらい、私だって男を見る目ないし、男運悪いけど、私の経験上だとこういうのが相手だと絶対苦労するんだから!!」

「うん、わかってる」

「……おいっ」

 振り返って春歌さんの言葉に同意する夏姫は、優しげな笑みを浮かべていた。

 さっきまでの殺気染みた気迫を収めた春歌さんは、夏姫のことを抱き寄せ、引き締めた顔で言う。

「私はね、ずっとヒルデの中から貴方や、貴方の周りにいる人たちのことを見てきたの、克樹君。夏姫の言う通りで、私が見てきた通りなら、貴方はリーリエちゃんの何を見てきたの?」

「……ぜんぜん、見ていませんでした」

「そうでしょうね。リーリエちゃんはね、夏姫も言った通り、貴方のことが好きよ。あの子の願いの具体的な内容までは私にもわからない。でもね? あの子が願うのは、あの子にとって一番好きな人のためになること。それ以外考えられない」

「そう、ですよね」

 何でだろうか、少し悲しげな色を浮かべている春歌さん。

「夏姫の願いを認めてくれるというなら、リーリエちゃんの願いも認めてあげなさい。どんな願いか、ではなくて、どんな想いで、何のために、誰のために叶えたいのか、をね」

「はい……」

 何でそんな単純なことに気がつかなかったんだろうと、自分を莫迦にしたくなる。

 顔を並べて、同じ笑みを見せてくる夏姫と春歌さんに、苦笑いを返すことしかできない。

「貴方が女泣かせの男だってのはわかってる。良いとこはそんなになくて、顔も普通で、性格はひねくれてて、どこに良いところがあるのかぜんぜんわからないけど、夏姫もリーリエちゃんも、他の何人かの女の子たちも、貴方のことを想ってるし、心配してる」

 手を伸ばしてきた春歌さんは、僕の頬に触れる。

 人のそれよりふた回りほど大きな、でも柔らかい手が、僕の頬と、僕の気持ちを包んでくれる。

「これは私からの勝手なお願いだけど、向けられた気持ちにくらいは気づいてあげなさい。そして想われてる自覚くらいは持ちなさい」

「はい」

「これから先、夏姫と一緒に幸せになっていくつもりなら、もっと男を上げなさい!」

「痛たたたたっ! ひゃい、ひゃいっ、わかりまひた!!」

 頬に添えた手で僕の頬をつねってきた春歌さんに、必死に応えていた。

 それから肩を叩かれた僕は、足下の荷物をまとめる。

「ちょっと、リーリエと向き合って、話し合ってくる」

「うんっ」

 デイパックを担いで玄関に向かおうとした背中に、春歌さんの声が追いかけてくる。

「急ぎなさい、克樹君。リーリエちゃんが至ったフォースステージは、たぶん魔女も想定していなかった事態よ。魔女と呼ばれる人物は、たぶんいつまでも想定外の状況を放っておいてはくれない」

「わかりました」

 深刻そうな瞳で言う春歌さんに頷きを返して、僕は靴を履いて玄関を出る。

 ――待っていてくれ、リーリエ!

 アパートの階段を駆け下り、自宅に向かって僕は全力疾走を開始した。

 

 

 

 玄関の扉が閉まった瞬間、夏姫は身体の力が抜けて、座り込んでしまった。

 ヒルデは――ヒルデに乗り移って顕現した春歌は、そんな彼女の隣に座り、頭を抱き寄せる。

「ごめんなさいね、夏姫」

「ママ?」

 その声に春歌の顔を見上げると、優しい笑みを――いつも、生きていた頃に浮かべていた笑みを向けてきてくれていた。

「本当はね、出てくるつもりなんてなかったの。過労なんてしようもない原因だったけど、それでも私は一度死んでるんだからね」

「そんな……、アタシは――」

 夏姫が言いかけた言葉は、春歌の人差し指で塞がれる。

「あんまり克樹君が情けなくてね。あんな彼じゃ夏姫を幸せにできないな、って思ってたら、出て来ちゃった。出てくるんだったら、短い時間なんだし、全部貴女のために使えたら良かったんだけどね」

「そんなの、大丈夫だよっ」

 言って笑う春歌に、夏姫はポニーテールを揺らしながら否定する。

 見ている間に、ほんの微かずつ、ブリュンヒルデの瞳に宿った光が失われていっていることに気づいた。

 タイムリミットは、そう遠くなかった。

「また会えただけでも、アタシは嬉しいよ。本当に、本当にずっと、会いたかったから……」

 固いハードアーマーの胸に顔を埋めると、春歌は優しく両腕で抱き締めてくれた。

「――あんなこと言っちゃったけど、夏姫はいい人捕まえたものね。進む道にもよるけど、将来はあの子、稼ぐわよぉ。将来性なら、猛臣君よりもあるかも」

「うん、わかってる。……好きなのはそうだけど、そういうとこも含めて克樹の魅力かな? ちょっとダメなとこもあるけど、そこはあたしが支えたり、支えてもらったりすればいいかな、って」

 克樹がいなくなったからこそ交わせる言葉を言い合い、胸から顔を上げた夏姫は、春歌とニヤリとした笑みを向け合った。

「もうあまり時間はないけど、残りは全部夏姫のために使うから」

「うん!」

「ヒルデを通して見ていたけれど、いろいろ教えてちょうだい。夏姫の口から聞きたい」

「ん……。まずはやっぱりパパのことから。パパはいまね――」

 できるだけ弾んだ声で、夏姫は近況報告を春歌にする。

 まもなく、前兆現象は終わる。

 夏姫はもう一度、春歌と別れなくてはならない。

 だからそれまでは、できるだけの笑みを浮かべて、精一杯楽しいことを、春歌と話したかった。

 

 

 



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第六部 暗黒色(ダークブラック)の嘆き 第二章 6

 

 

          * 6 *

 

 

 円形の盾を投げつけるのと同時に、灯理はフレイヤを操作し、袖口から針を取り出させる。

 左右で八本。

 リーリエが盾を太刀で叩き落としたのと同時に、フレイヤは針を投擲した。

 右、左とわずかな時間差で投げつけた針は、二本がリーリエの身体に当たらない軌道を取る。

 いま彼女の背後にちょうどいるのは、近藤。

 ――これならば!

 そう思いながらも灯理はフレイヤにさらなる指示を出し、膨らませたそれぞれの肩に両手を差し込み、二本の短剣を取り出して、リーリエに突撃した。

 足すら動かさず、静かな表情で立つリーリエ。

 盾を叩き落としたために振り下ろしたままの刀では、針には対応できない。避ければ近藤に針が命中する。

 ――え?

 目にも留まらぬ速度で動いた、彼女の左腕。

 近藤に命中するはずだった針も、リーリエに当たるはずだった針も、微妙な時間差をつけて投げつけたものすべてを、彼女は左手一本でつかみ取っていた。

「まだです!」

 叫び声を上げながら、灯理は純白の軌跡を引いたフレイヤで、リーリエの首筋を狙う。

 金属音すらしなかった。

 夕暮れ時の陽の光を受けて煌めきながら宙を舞うのは、短剣の刀身。

 地から天まで円を描いて振るわれたリーリエの刀が、短剣の刀身を根元から、二本とも斬り飛ばしていた。

 それを理解した瞬間、灯理はフレイヤを倒れ込むような角度で地を蹴らせ、同時に白のロングスカートから長剣を抜こうとした。

 リーリエの動きは、高性能カメラを搭載したスマートギアから、直接視神経に送られる視界では見えていた。

 けれど、反応することはできなかった。

 指示を出さなければと思ったときには、剣を引き抜こうとしているフレイヤの前に立っている、リーリエ。

 空色のツインテールをなびかせながら刀を天高く振り上げた彼女は、次のアクションに移る暇も与えず、フレイヤの肩へと振り下ろした。

 右肩から斜めに、左腹へと振るわれた刀は、抵抗などないかのように振り切られる。

 ずるりと、一瞬遅れてフレイヤの上半身が後ろへとずれ、その身体は芝生に倒れた。

「あぁ……」

 灯理は小さく、悲嘆の声を上げていた。

 機能を停止したフレイヤのアライズが解除されるのと同時に、灯理は両膝と両手を地に着いた。

 少し離れた場所で倒れている、首から上を失っているフレイもまた、一緒にピクシードールへと戻る。

「負け……、ました」

 肩を震わせる灯理は、喉から絞り出すような声で、そう宣言した。

「灯理、凄く強くなってたよ。いまの灯理なら、平泉夫人は無理でも、夏姫になら勝てるかも知れない」

 鞘に納めた刀のアライズを解除したリーリエは、ぽたぽたと涙を芝生に落とす灯理に言った。

「貴女に……、貴女に勝てなければ意味がないのです!」

 顔を上げ、医療用スマートギアの下から涙を零れさせる灯理は叫ぶ。

「ワタシはすべてのエリキシルソーサラーを倒して、ワタシの願いを叶えなければならないのですっ。そのためには、貴女に……、貴女に負けてなどいられなかったのに……」

 そう言って歯を食いしばる灯理は、リーリエの冷たさを感じる視線に見つめられていた。

 完敗だった。

 飛道具はすべて打ち落とされるかつかみ取られ、二方向からの奇襲も、布地に仕込んだコントロールウィップも通用しなかった。

 卑怯であるとわかっていたが、近藤を巻き込むような攻撃ですらも、リーリエはすべて対応してきた。

 彼女を追いつめられた瞬間など、一瞬たりともなかった。

 ――わかって、いましたけれど……。

 リーリエから送られてきた、エイナとのバトルの動画を見たときから、勝てないことはわかっていた。

 ひと言で表すなら、次元が違う。

 平泉夫人や夏姫はもちろん、克樹や猛臣にも勝てない灯理は、彼らに勝る戦いを見せたリーリエとエイナには、どうやっても勝てないことはわかっていた。

 隙を突くとか、ミスを誘うといった手段を使うことすらできないほどに、戦力が隔絶していることを、動画を見た段階で理解した。そしていまのリーリエの強さは、動画の中で見たものよりも、さらに一段以上増しているようにも思えるほどだった。

 それでも願いを叶えるためには、勝たなくてはならない。

 だからこそ、リーリエに挑んだ。

 そして、負けた。

 勝てる見込みなど、ほんのひと欠片もなかった。

 ハードアーマーに刃をかすめさせることもできなかった。

「この後、用事があるから、あたしはそろそろ行くね」

 言ってリーリエは灯理に背を向け、LDKに入ろうとする。

 すぐ側で転がっている、エリキシルスフィアを搭載したフレイヤを、無視して。

「何故ですか!!」

 その背中に、灯理は叫んだ。

 顔だけ振り返ったリーリエに、脱力してしまった身体を奮い立たせて立ち上がり、灯理は言う。

「どうしてワタシのエリキシルスフィアを取っていかないんですか! 貴女は、ワタシに勝ったではありませんか!!」

 身体も振り向かせたリーリエは、目を細めて灯理から視線を逸らす。

「ワタシは願いを叶える。どんな手段を使ってでも、たとえいま、誠さんに怪我をさせてしまったとしても、それでも願いを叶えるためならば、ためらいなくやりましたっ。それでも貴女には届かなかった! だったら、だったら……」

 両手を握りしめ、胸の奥からこみ上げてくる想いを一度抑えるために言葉を止めた灯理。

 抑えきれない気持ちが再び涙として零れてきた彼女は、リーリエに向けて絶叫する。

「ワタシの願いを諦めさせてください!」

 戦っても勝てないことはわかっていた。

 それでも戦わなくてはならなかった。

 願いを抱き続ける限りは、戦って、決着をつけるしかない。

 だからおそらくいま最強のエリキシルソーサラーのひとりである、リーリエに戦いを挑んだ。

 願いを、きっぱり諦めるために。

 それなのに彼女は、完全な勝利を収めたというのに、エリキシルスフィアを奪おうとしない。

 克樹と、同じように。

 ――いまさら、ワタシにそんなことは堪えられない!

 集まっていた四人、そしてリーリエを含めた五人の中で、自分が一番弱いのだと認識していた。

 だからこそ努力して、努力して、誰よりも努力して、強くなった。

 それでも遠く及ばない敵に引導を渡してもらうこと以外、願いを諦める方法は思いつかなかった。

 リーリエに、願いを断ち斬ってほしかった。

「ゴメンね、灯理。あたしは灯理のエリキシルスフィアを取ったりしないよ」

「何故ですか! ワタシは、ワタシはこれ以上、叶わない願いで苦しみたくはないんです!!」

 長い栗色の髪を振り乱し、涙を振り撒きながらリーリエと近づいていった灯理。

 足下に落ちていたフレイヤの上半身を拾い上げ、リーリエへと突き出す。

 リーリエは、悲しげに笑むだけで、手を差し出してはくれなかった。

「だって、たぶんおにぃちゃんも、そうするから。もう一度灯理と戦って、勝ったとしても、おにぃちゃんもスフィアを取ったりしないから。だから、あたしもそうする」

 そうすることに意味があるとは、灯理には思えなかった。

 最後まで勝ち残った者だけが願いを叶えられるのだとしたら、いま奪わなくても、最後にはスフィアを奪い取らなければならない。

 それがいまか、後になるかの違いなら、いますぐに奪い取って、淡く続いて叶うことのない願いを、諦めさせてほしかった。

「そろそろ出かける時間だから、あたしは行くね」

 言ってリーリエは右手を振り、フェアリーリングを解除する。

 LDKに向かった彼女に対し、先回りをした近藤は掃出し窓の近くに置いてあった鞄を手渡した。

「どこに行くんだ?」

「ありがと。んー。それは、言えないんだ」

 ディスプレイを一度跳ね上げて涙を拭い、それを戻してから灯理が顔を上げると、庭から見える門の前に、車がやってきた。

「それじゃ」

 ふたりに手を振って、リーリエは車へと歩いていく。

 一瞬遅れて灯理は近藤とともに車の元へと駆け寄った。

 ふたりを阻むように立ったのは、イヤな笑みを浮かべる男。

 笑みとともに睨みつけるような鋭い視線で無言の圧力をかけてきた男は、セダンの後部ドアを開き、リーリエを車内に招き入れる。

 一瞬男を刺すような目で見てから、リーリエは抵抗もせず、車に乗り込んだ。

 ――あの、男の人は。

 蔑むような視線でふたりに一瞥をくれてから、回り込んで運転席のドアを開けた男に、灯理は見た。

 首筋から頬にかけての、火傷の跡を。

「あ――」

 灯理が声をかける前に車は発進し、街灯が灯り始めた道を走って行ってしまった。

 近藤とともに、灯理はそれを見送ることしかできなかった。

 

 

            *

 

 

 ――あれ?

 息が上がって小走りにもならない速度で走って、見えてきた僕の家。

 門の前の道路には、ふたつの人影があった。

 灯理と、近藤。

 僕とは反対の方向の道をじっと見つめてるふたりに、息を整えながら近づいていく。

「ふたりとも、どうしたんだ?」

 痛くなってる横っ腹に手を当てながら問うと、半ば呆然とした顔で振り返るふたり。

 口を開いて何かを言おうとしてるのに、何も言えないでいる灯理。

 それを察してか、まだ少し冷静らしい近藤が口を開いた。

「灯理は、リーリエと決着をつけにきたんだ」

「決着を、つけに? エリキシルバトルてこと? 結果は?」

 灯理の方を見てそう問うと、彼女は唇をきゅっと結んで、僕から目を逸らした。

 その様子に、僕は結果を知る。

 ――でもリーリエは……。

 見ると灯理の手には、袈裟懸けに斬られて上半身だけになったフレイヤが握られている。

 その頭部が解放された様子はないように見えるから、たぶんリーリエはエリキシルスフィアをそのままにしていったんだ。

 ――リーリエらしいな。

 気づいた瞬間、僕はそんなことを思って、頬が緩んでいくのを感じていた。

「リーリエはいま、家の中?」

「お前……、やっと話し合う気になったのか」

「――うん。ちょっと、遅くなったけどね」

 呆れたように言う近藤に、僕は苦笑いを返す。

「いいえ、ちょっとではありません。たぶんもう、手遅れです」

「え?」

 復活した灯理がそう言った。

「あぁ。克樹が来るのとすれ違いで、リーリエは迎えに来た車に乗って行っちまった」

「どこにっ?!」

「それはわからない。リーリエは用事があるとしか言ってなかったから」

 ふたりに睨みつけられて、僕は口をつぐむ。

 いまのタイミングでリーリエを呼びつけるとしたら、モルガーナしか考えられない。

 僕がリーリエと話し合うよりも先に、あいつの方が先に彼女を呼び出したんだ。

 ――もう一度、ちゃんと話し合うつもりだったのに。

 車に乗って行ったんだとしたら、目的地がわからなければ追うこともできない。モルガーナの拠点なんて、それこそいくつあってもおかしくない。

 そしてもしかしたら、リーリエには二度と会えないかも知れない。

 ――僕はどうして、いつも一歩遅いんだろう……。

 百合乃のときも、僕は間に合わなかった。

 掠われる一瞬、僕が彼女の様子に気づいていれば。

 その後も、僕があともう少しだけ早く百合乃を見つけてさえいれば。

 いまも、もう何分かでも、早くその気になっていれば、間に合ったはずだった。

「でもまだ間に合うかも知れません」

「え?」

「誠さんが、リーリエちゃんが出かける準備をしてることに気づいて、発信器を準備するように言ってきたのです」

「あぁ。武器とかをたくさん入れた鞄の底に仕込んでおいた。それで場所がわかるはずだ。

 灯理が差し出してきた携帯端末。そこに表示された地図には、刻々と移動していく発信器の反応が表示されていた。

 ふたりのことを、いますぐ抱き締めたくなる。

 まだかろうじて間に合う可能性に、僕は拳を強く握りしめた。

「モバイル回線による発信器ですから、電波を遮断でもされない限りは大丈夫だと思います。受信のためのキーはいまお送りします」

「ありがとう、灯理。それに近藤! 準備してくるっ」

 自分の携帯端末に、発信器の位置情報の受信方法が送られてきたのを確認した僕は、家に飛び込んだ。

 開けっ放しだった玄関から靴を脱ぎ捨てて入り、階段を一気に上がって作業室へ。

 夏姫の部屋から担いできたのとは別の、もうひと回り大きなデイパックをフックから取って、思いつく機材をどんどん突っ込んでいく。

 リーリエが持っていかなかったらしい武器を持てるだけ、それから改良が終わってるスレイプニール。

 顔を上げたそこには、メンテナンスベッドに置かれたシンシアが見えた。

「持っていくか」

 移し替えたデイパックの中には、昨日近藤から受け取ったエリキシルスフィアもある。夏姫に確認してもらって、すでにエリキシルスフィアとしての機能を、参加の権利が失効してるのはわかってるけど、載せ替えることを考えてシンシアも鞄に詰め込んだ。

 取って返して靴を履いて外に出ると、家の前にちょうどタクシーが走り込んでくるところだった。

「ちょっと、行ってくる」

「あぁ、行ってこい」

「はい。行ってらっしゃいませ」

 優しい色が浮かんだ瞳をしてる近藤と、微かに頬に涙の跡の残る灯理の微笑みに送られて、僕はタクシーに乗り込んだ。

 最新の位置情報をチェックして、予想される到着位置に近いランドマークを運転手に告げる。

 焦る気持ちを抑えながら、僕は発進した車の中で深呼吸をした。

 ――今度は絶対に、間に合わせるからな、リーリエッ。だから待ってろ!

 

 

            *

 

 

 ガラス張りの自動扉が左右に大きく開き、踏み出した先は、屋上。

 広大とも言える広さのそこは、半分がヘリポート、半分が倉庫と思われる背の低い建物や、空調機器、照明などが設置されている。それらのさらに向こうには、林立する超高層ビルや、タワーマンションの先端がいくつか見えた。

 ヘリが発着するためか低いフェンスしかない屋上から、首を巡らせてリーリエがわずかに見える眼下に目を向けると、まだ微かに残る昼の気配から、夜へと沈んでいこうとしている海があった。

 ビジネス街、タワーマンションなどの住宅街に隣接し、倉庫街などがあるここは、開発がほぼ終了した東京の港湾地区。

 スフィアロボティクス総本社ビル。

 エイナ経由でモルガーナの招待を受けたリーリエは、ここを訪れた。

 彼女の視線の先、ヘリポートの対角の位置にはあるのは、ふたつの人影。

 紅いスーツを纏い、腕を組んで蔑むような視線を向けてくるモルガーナと、ステージ衣装のように見えるのに、洗練されたアーマーであることがわかる外装の、アライズ済みのエイナ。

「来たよ、モルガーナ」

「ようこそ、とでも言っておけばいいのかしら? 出来損ないの精霊」

 ヘリ発着用の照明に照らされて見えるモルガーナの瞳には、怒りと、はっきりとした蔑みが浮かんでいた。

「今日、これから貴女は、エイナに負け、エリキシルバトルに決着がつく」

「あたしの他にもまだソーサラーは残ってるよ」

「貴女以外に、エイナに対抗できる力を持った者など、いるわけがないでしょう? 貴女がその力を手に入れただけでも奇跡とも言えるほどなのに」

「さぁ? それはどうかなぁ」

 ニコニコと笑うリーリエは、手に持っていた手提げ鞄からアライズさせていない武器を取り出し、次々とアーマーの隙間などに差し込んでいく。

 鞄を足下に置き、一本の長刀を手にした彼女は、唱えた。

「あっ、らぁいず!」

 その声に応じて、エイナは背中から両手持ちの大剣を抜き放った。

 太刀の鞘を払い、構えるでなく手にぶら下げたリーリエ。

「モルガーナ。貴女の思う通りにはならないよ」

 顔を歪ませる魔女に、リーリエは楽しげな笑みを見せる。

 それから、表情を引き締め、唇を引き結んだエイナと対峙した。

 

 

 



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第六部 第三章 レミニセンス
第六部 暗黒色(ダークブラック)の嘆き 第三章 1


 

   第三章 レミニセンス

 

 

          * 1 *

 

 

「ここは……」

 GPS発信器の反応が止まってから、何分と経っていない。途中でコンビニなんかに寄り道してくれて助かった。

 タクシーを降り立った僕の前にそびえ立つのは、スフィアロボティクス総本社ビル。

 胸ポケットから携帯端末を取り出していまのリーリエの位置を確認すると、ずいぶん高い位置にいる。たぶん屋上。

 ――間に合ってくれよっ。

 焦る気持ちを抑えながら周囲を見回す。

 花壇や植樹された木、ベンチといった公園のような広いスペースが取られた敷地は、もうほとんど夜に沈んで人影はない。

 退社時間は過ぎているはずなのにまだ仕事してる人がいるのか、いくつかの窓には明かりが灯っているのが見えるけど、ガラスの大きな自動ドアがある、正面入り口は格子つきのシャッターが下ろされ、入れそうにはない。

 僕が乗ってきたタクシーも走り去り、近くからは動くものはなくなった。海からの風と、微かな波の音と、遠い街の喧騒以外なくなったここは、死んだように眠っている。

 ――通用口からでも入れればいいけど……。

 そんなことを思うけど、望みは薄い。

 スフィアロボティクスくらいの会社になると、建物の中に入るには認証キーが必要になるし、ゲストですら訪問者キーが必要になる。通用口だって当然セキュリティがかかっているし、ゲートはセキュリティレベルが上がるごとに設置されてるはずだ。

 屋上に通じるエレベータにたどり着くまでに、いくつのゲートを突破しなければならないだろうか。

「ん?」

 考えていても埒が空かないと思って、とりあえずビルの周りを回ってみようと思っていたとき、動くものが見えたような気がした。

 すぐさまデイパックからスマートギアを取り出して被り、携帯端末と接続してディスプレイを下ろした。

 暗視野モードではなく、光を増幅するスターライトビューをオンにしてみると、少し離れた場所に、木々や低い生け垣のような花壇の間を縫って歩く、人影がいるのを発見した。

 とっさに近くの案内板の影に隠れた僕は、人影を拡大してみる。

 ――あいつはっ!

 叫び声を上げそうになって唇を噛んで堪え、でも僕に背を向けて忍び足を続ける男の背中を睨みつける。

 奴の首筋から頬には、火傷の跡があった。

 その顔は一度見たからには忘れない。卑屈そうで、嫌らしそうな、百合乃を死に至らしめた犯人だ。

「ぐっ」

 いますぐ走り寄って刺し殺してやろうとズボンのポケットに手を入れた僕だったけど、そこには何も入っていない。

 僕は夏姫とお互いの気持ちを確認したときから、ナイフを持ち歩くことを止めた。

 奴に復讐したいという気持ちは消えてないが、そのためだけに生きるのを止めた。

 好きな人と一緒に生きる道も、見るようになっていたから。

 ――それに、いまはリーリエの方が重要だ。

 彼女が至ったフォースステージというので、実際どれくらいの強さがあるのかはわからない。

 僕と一緒でない彼女は、エイナと戦っても勝てないかも知れない。

 たぶんいまのリーリエは、身体を破壊されれば、人工個性に戻らずに、死ぬ。ショージさんの連絡では、人工個性システムはもう一度稼働させることはできなかったと言う。

 胸が焼けつくほどの気持ちを男に抱いているのも自分でわかってるけど、いまはそれよりも大事なことがある。

 もしかしたら二度と会えなくなるかも知れないリーリエと話して、僕の想いと、彼女の想いを、確認し合わないといけない。

 ――だけど、あれは手がかりだ。

 僕から離れて、ビルの裏手に回ろうとしているらしい火傷の男を追って、僕も足音を忍ばせる。

 奴が何をしようとしてるかはわからない。でもビルの方を気にしてる様子から、中に入ろうとしてるんじゃないかと思う。

 モルガーナに繋がるあいつなら、通常のものではない入り口を知ってるかも知れない。

 建物の裏手、デザインなのか、強度確保用の支柱でも入っているのか、建物の出っ張りの影に姿を消す火傷の男。離れたところで見ていたけど、しばらく経っても出てくる様子のない奴に、僕は慎重にそこに近づいていった。

「こんなところに、扉?」

 出っ張りの影にあったのは、僕でも少し屈まないと通れないくらいのサイズの扉。

 通用口という感じじゃなく、開けたら操作パネルでも現れそうなそれのノブに、僕は手をかける。

「開いた……」

 鍵穴はあったけどかかってなくて、錆びついて使ってなさそうなその扉は、引っかかることなくスムーズに開いた。

 機械のLEDすらないためにスターライトビューでは中が見えず、スマートギアの暗視野モードに切り換えて中を見る。

 太い配管がうねっているそこは、メンテナンス用の空間のようだった。

 ――こんなところに、何の用だったんだ?

 滅多に人が入るような場所でもなさそうなのに、火傷の男はどうして入っていったんだろうか。

 疑問は覚えるけど、僕は奴を追う以外に選択肢はない。

 水でも溜まっていそうな雰囲気なのに、意外に乾燥しているスペースの中を、僕は配管の間を縫って正面の方向に進んでいく。

 どうにか道らしい場所に出て、道なりに進むと見えてきたのは、エレベータのドア。

 狭苦しいここには不釣り合いなほど大きなドアを持つそれは、たぶん資材搬入用だ。

 人影がないことを確認してから近づくと、操作パネルに光があって、稼働中であることがわかる。薄汚れたパネルには呼び出しボタンはあっても、上か下かのボタンはなく、いまこのエレベータのゴンドラは下に向かっているのがわかるだけだった。

 どうしようかと思ってる間に、動いている表示が止まった。そのまま表示が変わらなくなる。

 少し悩んでから、僕は呼び出しボタンを押す。

 火傷の男の目的はわからない。でも何となく、この先にあるものを、僕は見届けなくちゃならないような気がした。

 しばらくしてゴンドラが到着し、ドアが開いた。

 思った通り、かなりの広さがあり、壁の傷も剥き出しのそれは、机や棚と言った什器、工事用の資材の出し入れなんかに使ってる様子だ。

 中に入ってみると、内側の操作パネルも特殊なもので、操作するボタンはなく、タッチパネルと思しき小さなモニタと、カードキーを通すためのスロットがあるだけだった。

 ――これじゃあダメか。

 資材の出し入れにもセキュリティをかけてるゴンドラの中で、僕は立ち尽くす。

 火傷の男を追うことも、リーリエに会うために屋上に行くこともできない。他の道を探すしかない。

「え?」

 ため息を漏らして外に出ようとしたとき、ドアが閉まってゴンドラが動き始めた。

 下に向かって。

 操作もしてないのに動く理由はわからなかったが、何となく感じていること。

 ――誰かに、誘われてる?

 根拠があるわけじゃない。でもそうじゃないかと思う僕は、表示上の最下層に到着しても止まらず、ゆっくりと降下を続けるゴンドラの中で、ドアが開くのを待っていた。

 最下層よりもさらに一〇階分は降りただろう時間の後、左右にスライドしてドアが開いた。

「……なんだ? ここは」

 乗ってきたとこと同じ配管ばかりの空間だけど、ここはさっきの場所とは違う。

 空気が、冷たい。

 地下に降りてきたというのとも違う、静かで、冷たい空間。さっきの場所とは思想も違う理由でつくられているような気がした。

 道になってる配管の間を歩き、見えてきたのは、左右の端に細い配管がいくつも伸びて、闇の中に消えて行っている、階段。

 予感がした。

 いまここは、僕が生きてきたのとは違う空間だ。

 この階段の下は、ここよりもさらに違う、別の世界のような、そんな場所のように感じられていた。

 静謐な冷たさと、荘厳な闇の前に、僕は息を飲む。

「進むしかない」

 わざわざ口に出して言った僕は、階段に足を掛ける。

 この先に待つものに、イヤな予感を覚えながら。

 

 

            *

 

 

 長剣を捨て、突剣を右手に、短剣を左手に構えたエイナに対応して、リーリエは太刀を手の平で潰すように収縮格納し、代わりに短刀と小型の盾を取り出した。

 すり足で、しかし素早くリーリエに接近したエイナは、大きく振る短剣で牽制をかけつつ、突剣による狙い澄ました一撃を放つタイミングを窺う。

 ――隙が、ないっ。

 余裕を表すかのように、口元に薄い笑みを貼りつかせたリーリエ。

 牽制に使っている左の短剣は、決して牽制だけのために振るっているわけではない。

 隙あらば敵の身体を傷つけようとしているのに、リーリエはエイナの攻撃を余裕を持って受け止め、流し、反撃を加えてくる。肩の上で構えた突剣を突き出すタイミングが取れない。

 ――これほどまでに強いなんて……。

 どうにか突き出した突剣は、盾を捨てたリーリエの左手につかまれ、刀身を折られた。

 短剣でどうにか空色の髪を揺らすことに成功したエイナは、距離を取って次の武器を考えながら、絶望に近い感情に沈みそうになっていた。

 モルガーナの指示でリーリエに連絡を取り、この場所に呼び出した。

 この場所を戦場に選んだのは、スフィアロボティクス総本社ビルが、モルガーナとエイナにとってホームグラウンドだからだ。

 人目をほぼ完全に避けて使用でき、多少の無茶も許容される。問題が起こっても、モルガーナの意により握りつぶすことができるという理由も大きかった。

 それだけでなく、ここに使うに当たって、準備もしてきた。

 ヘリポートのある屋上にしか見えないここは、実に一〇〇台近いカメラが設置され、一分の隙もなく把握することができる。

 カメラで捕らえた映像は、エイナが稼働している人工個性システムだけでなく、スフィアロボティクスの社内システムを使用しリアルタイムで処理され、どんなに高速な動きでもリーリエの挙動をすべて把握できるようになっている。

 前回、エルフドールの目を使って同じことをしていたときよりも、遥かに良好な条件。

 同時にリーリエは克樹というパートナーが不在で、彼の支援により最大限に発揮されていたポテンシャルが制限されているはずだった。

 それなのにエイナは、戦いの序盤のいまの段階で、自分の不利を悟っていた。

 ――どうにかしなければ……。

 焦りを覚えつつ、高速戦闘のためにナイフを二本取り出したエイナ。

 離れた場所から身じろぎもせず戦いを眺めているモルガーナはしかし、奥歯を噛みしめるギシリという音が、カメラと一緒に多数設置されている集音マイクを通して聞こえてきていた。

 盾を捨てたまま、短刀一本を構えるリーリエは、静かな表情でエイナのことを見つめてきている。

 前回の戦いでは楽しそうな笑みを浮かべていたリーリエ。

 いまの彼女にその笑みはなく、おそらくフォースステージで得た力を持て余している様子があると同時に、エイナのことを観察している。克樹と一緒のときと違って、戦いを楽しんではいないようだった。

 ――わたしの持ってるエリクサーを、奪いに来ているのですね。

 リーリエの願いは、彼女が集めた分と、エイナが持つ分を合わせなければ叶えるに足る量に達しないことは、知っていた。

 同じように、エイナの願いも、リーリエのエリクサーがなければ叶わないものだった。

 ――だからわたしは、勝つしかない。

 モルガーナからの怒気を含んだ視線を背中に感じながら、エイナは声もなくリーリエに向かって床を蹴った。

 半身に構えたリーリエの首筋を狙った、彼女の懐に飛び込んでの右手の薙ぎ払い。

 同時に、ちょうど頭部カメラでは死角になる位置からの、足のつけ根への攻撃。

 閃きすらなかった。

 リーリエの持つ短刀が動き出したと思ったときには、二本のナイフからは刃が失われている。

 多角処理した視界では完璧に捕らえられているのに、リーリエの動きに対応できない。かろうじて手首から先を失うのを防ぐのが精一杯だった。

 しかしその攻撃を予期していたエイナは、手首のアーマーの隙間から飛び出した刃を、彼女の顔面に突き出す。

 さらに左手は背の後ろに提げた長剣を抜き、胸元を狙って薙ぐ。

 ――これも防ぎますか!

 隠し刃は首を曲げただけで避けられ、長剣は短刀に受け止められていた。

 逆に腹を蹴飛ばされたエイナは、前屈みの体勢で吹き飛ばされていた。

 ――フォースステージが、これほどとは……。

 体勢を整えたエイナは、リーリエの挙動に注意を払いながらもう数歩下がり、その場に予め用意していた武器を、破壊された武器の鞘などと交換して装備する。

 エイナの繰り出す攻撃一回一回は、必殺だった。

 人間の視覚では捕らえきれないほどの高速な攻撃はもちろん、灯理のようなデュオソーサラーでも二面が限界の視野では、死角からの攻撃を防ぎきることはできない。

 多数のカメラを視覚としているエイナほどではないにしろ、ボディの各部に光学や音響のセンサーを取りつけたアリシア――リーリエの身体ならば、対応可能なのはわかっている。

 けれど人工個性ではなくなり、克樹の家にあるシステムをリアルタイムで使うことができなくなったはずのリーリエは、処理速度の面で性能が低下していてもおかしくはなかった。

 それなのに彼女は、エイナの攻撃に完璧に対応してきている。

 あちらはあちらで余裕はないだろう。

 フォースステージで上がったはずの力を、まだ持て余している感じがある。実戦を何度か経験しなければ、自分の力がどれくらいのものであるのかつかむのは難しいだろう。

 それでも、リーリエに勝てる気が、エイナにはしていなかった。

 フォースステージでは妖精の力を、神の一部の能力を自分のものとし、サードステージまでより強くなることはモルガーナによって予想されていた。

 昨日フォースステージになったばかりだというのに、リーリエの力は、以前より強くなったサードステージのエイナとは隔絶している様子すらある。

 いまは周囲への警戒と、自分の力を測っている様子があるため、積極的に攻撃をしてきてはいないが、もし畳みかけられたら対応できるかどうか、エイナには自信がなかった。

 ――もうわたしだけの力では、勝てないんですね。

 それを悟ったエイナは、口元に小さく笑みを浮かべた。

 前回の戦いが、エイナにとって最初で最後の、リーリエに勝てるタイミングであることはわかっていた。

 それを逃したエイナには、もう勝ち目はない。

 あのとき彰次が戦場に現れたのは偶然などではなく、誰かが、神が状況を操作したとすら思えていた。

 ――それでもわたしは貴女と戦います。わたしの願いを、叶えるために!

 コントロールウィップを応用した多関節アームを仕込んだマントを羽織り、エイナは騎士のような大きな盾と長剣を構える。

 それを見て長刀を両手に持ち、ニッコリと笑いかけてきたリーリエに苦笑いを返し、エイナは攻撃を再開した。

 

 

            *

 

 

 優に五階分は降りただろうか。

 照明ひとつない真っ暗な階段を下りきってたどり着いたのは、意外に広いらしいフロア。

「いったい何なんだ? ここは」

 スマートギアに仕込まれた赤外線ライトで照らし出されたその空間は、真っ黒な壁と床をした、謎の空間。

 階段を下りてすぐそこの広場のようなスペースには、何だかわからないガラクタのようなものが、真正面に伸びる廊下の左右に積み上げられている。

 スフィアロボティクス総本社ビル地下の、さらにその下に広がる空間にも関わらず、モバイル回線が繋がっていることを確認した僕は、集音マイクの情報を家のサーバに投げて解析し、少なくとも近くには動くものがいないことを確認した。

 デイパックから小型の懐中電灯を取り出してスマートギアを可視光モードに切り換え、点灯する。

 見えたのは赤外線視野で見えたのと同じ、ガラクタのような物体。理科実験用の機材に見えるものもあるけど、木製だったり装飾過多な金属製だったり、埃こそ被ってないけど、ずいぶん古い時代のもののように思えた。

 岩を切り出して磨き上げたような素材と、上のビルとは明らかに違う建築様式なんかを考え合わせると、ここはモルガーナの秘密の場所かも知れないと思えた。

「でも、何のためにこんな場所を?」

 モルガーナの思惑が思いつけず、首を傾げることしかできない僕は、とりあえず先に進むことにする。

 広く取られた廊下の左右には、一定間隔に扉が並んでいる。

 やはり石造りで重そうな扉のひとつに手をかけてみると、思いのほか簡単に押し開けることができた。

「……機械室?」

 どこからか電源でも引いているのか、僕も見たことがある工作機械なんかもあるその部屋には、大きな作業台の上にスフィアドールっぽいロボットとか、古い絡繰り人形みたいなものが、つくりかけの状態で投げ出されている。

「モルガーナの研究室か、そんな感じなのかな?」

 そんなことをつぶやきながら扉を閉めた僕は、反対側の部屋に入ってみる。

「――うっ!」

 部屋の中に置かれた物を理解した瞬間、僕はうめき声を上げて慌てて外に出た。

 急いで扉を閉め、こみ上げてくる吐き気を両手で押さえて飲み込もうとする。

 ――ここは確かに、モルガーナの実験室だ。

 スフィアドールはともかく、その核であるスフィアは、モルガーナがもたらしたもの。あいつはロボットの制御に使えることを最初から知っていたわけじゃなく、実験を繰り返す中で知ったんだと思う。

 スフィアドールの他にも、ずいぶん前にスマートギアの技術にもモルガーナが関わってるかも知れない、という話を平泉夫人としていた。

 そのときはまさかと思ったけど、本当かも知れない。

 スマートギアを開発するのに必要なのは、たぶん人体の性質だ。そしてそれを得るためには、様々な実験が必要になる。

 僕の背中の向こう、見た途端に吐き気がした部屋は、標本室。

 いや、生物実験室。

 作業台の上には何もなかったけど、左右の棚に並べられた大小の瓶には、様々な標本が漬け込まれていた。

 何人もの人間を、バラバラにしてできた標本。

 美しい顔と長い髪の、脳の後ろ半分を剥き出しにした女性の首を見た瞬間、僕は堪えられなくなった。

 ――でも、それだけじゃない。

 見えたのは人間だけじゃなく、奇形の動物に見えるものもあった。

 生きていないからだろう、うつろな表情をした男の人の頭がついた、小型の恐竜のような物体は、魔女の被造物らしい一品だった。

「先に、進もう……」

 喉まで上がってきた酸っぱさを無理矢理飲み込み、扉を開ける気も失せた僕は、廊下の先に進む。

 火傷の男は、たぶんこの先にいるんだから。

 三〇を超える扉を数えた後、見えてきたのは階段のとこと同じくらいの、広い場所。

 さっきとは違って殺風景なそこには、上り階段の代わりに仰ぐほどの、天井までの高さがある、大扉があった。

 人間の手で開けられるかどうか一瞬悩んだけど、近づいた僕は、身長の三倍はありそうな石の扉に触れ、押した。

「え……」

 重々しい音がした後、抵抗をほとんど感じずに開いた扉。

 その先にあったのは、とてつもなく広い空間。

 体育館なんかよりずっと高い天井から光が降り注いでいるから、灯りがあるのはわかる。それなのにすべてが黒いその空間は、光のすべてを吸い込むかのように暗い。いや、文字通りに黒い。

 大き過ぎていまひとつ縮尺がわからないけど、たぶん野球場より何回りか広い、円形と思われる空間にはほとんど何もなかった。

 中に踏み出すと、寒さを感じた。

 ここに降りてから肌寒さを感じていたけれど、それの比じゃない寒さ。でも温度が低いのではなく、乾燥し、光を吸い込む壁や床から、身体が震えてしまうほどの寒さを感じているようだった。

「何のための空間なんだ?」

 黒すぎて入り口に近いここから見てもわからないけど、スマートギア内蔵のセンサーでは、中央に四角くて、やはり黒い、小屋ほどの石の塊があるのがわかる。

 総本社ビルの敷地よりもおそらく広いと思われるこの空間は、ここまでにあった実験室以上に、何のためにあるのかわからない場所。埋め立てによってできたこの土地に、どうやってつくって、いつからあるのかも想像できなかった。

 まさにモルガーナの、魔女のなせる技で生み出された空間。そんな感想を僕は抱いている。

 床には微かに、黒より微妙に違う色で、隙間なく文様が描かれている。まるで魔法陣のように。

 ここに入ったんじゃないかと思われる火傷の男の姿はなく、左右を見てみると、文様が描かれた外側、壁沿いにずらりと、ここには似つかわしいような、似つかわしくないようなオブジェっぽいものが並んでいる。

「これは、なんだろう?」

 やはり石造りだけど、機械用のハンガーに吊り下げられているような、たぶん金属製のオブジェに見えるものに近づいて、僕はそれをよく見てみる。

 謎の空間にあるそれは、謎の物体だ。

 人を模した形状に思えるのに、腕っぽいものはあっても脚はなく、代わりに腰に当たりそうな部分から左右三枚の、ヒレのような板が伸びている。背中の方にも翼にしては幅のない板がある。

 顎に手を当てながら考えてみると、これに似たものを思いつく。

「アシストギア、ではないよな」

 思いついたのは、将来的に実用化を見据えて開発が進められていると以前発表されているのを見た、アシストギアという機械。

 人間が着ることで筋力を増したり、運動能力を補助するための、一種のパワードギアで、骨折などで生活に支障のある人に松葉杖の代わりに使うことが想定されていたり、筋力や運動能力が低下した人にそれを補助するためのものとして開発が進められている。

 軍事用途、という話もちらほら聞くけど。

 将来的にはスマートギアを取り込んで身体に馴染む機械として、その制御には第七世代になるだろう組み込み形態を解放されたスフィアが利用される、なんて話だったはずだ。

 筋力補助の方は服のように着るソフトタイプがすでに実用化されつつあるけど、機能補助にはフレームを持つハードタイプのものがある。

 ただ、脚部のないこれは、アシストギアではあり得ない。

 アシストギアでないとして、僕はもうひとつ別のものが頭に浮かんできていた。

 人型ロボットの、追加装備。

 ロボットアニメに出てきそう形状をしているけど、大人サイズの体型で使うには小さすぎて、小柄な人か、子供か、エルフドール、それでなければエリキシルドールが使いそうなサイズのこれが何なのかは、わからない。

 砲門っぽい筒状のものも見えることを考えると、そっちの方が近いように思えるけど、はっきりとはわからなかった。

 こんな場所に、たぶんモルガーナが、壁際に一〇メートルくらいの間隔で一周ずらっと並べているとしたら一〇〇体にはなるこれを、無意味に置いているとは思えない。

「本当にこれはなんなんだ?」

 不吉な予感を覚えつつ、僕はつぶやきを漏らした。

「それはな、魔女が神意外装と呼んでいるオモチャだよ」

 唐突に背後からかけられた声。

 一瞬前までスマートギアのパッシブセンサーは動くものを感知していない、どころかいまも感知していないのに、舌っ足らずで可愛らしい声が、僕の後ろからかけられた。

「魔女如きの造ったものが、神の意を表す装いとは、片腹痛いがな」

 唾を飲みながら、スマートギアのディスプレイを跳ね上げた僕は、苦言をどこか楽しげな口調で呈する声の主に振り返る。

 そこにいたのは、女の子。

 可愛らしいワンピースを着て、ふんわりしたショートの髪をし、少し丸みのある顔に笑みを貼りつかせているその女の子のことを、僕は知っていた。

 ――百合乃?!

 喉元まで出た声を、僕はかろうじて堪える。

 死んでしまった彼女がいるわけがない。というのは、すでにアリシアの身体を借りて一度現れたそうだから、絶対というわけじゃない。

 ただ、椅子に座るように脚を曲げている彼女は、僕と視線の位置が同じだ。

 浮いている。

 幽霊かも知れない、と思えないのは、百合乃の姿をした何かが放つ、圧倒的な存在感があるからだ。

 楽しそうな色を浮かべているそれの瞳を見ているだけで、僕の心臓は激しく脈打ち、息が苦しくなってくる。

 嬉しい、悲しい、愛おしい、寂しい、怒り、喜びといった様々な感情と、それをほしいと思ってしまう欲望と、畏れ多いと感じている畏敬とが全部一緒に湧き上がってきて、僕は跪きそうになってしまっている。

 まさに圧倒的。

 ただ浮いて、そこにいる。

 それだけのことなのに、百合乃の姿をしているのに、それは僕の持つすべてを噴き出させてしまいそうで、屈服させられそうで、どうにもできず僕はすべてを投げ出し、捧げたくなっている。

 ――でも、許せるはずがない!

 百合乃ではないそれが、百合乃の姿をしていることを、僕は許せはしない。

 その気持ちにどうにかすがりつき、声とともにすべての感情を吐き出しそうになっている胸を手でつかんで、僕はすべてを飲み下す。

 そしてそれを、睨みつけた。

「イドゥン、だな?」

 絞り出すような声で問うた僕に、そいつは本当に嬉しそうに、楽しそうに笑みを浮かべる。

 百合乃の姿をしているのに、百合乃のものとは違う笑みを浮かべるそいつは、僕の質問に答えた。

「その通りだ、音山克樹。先に教えておいてやるが、お前の探していた男は、わらわを我が物にせんがためにここを訪れたが、お主の追跡を感知して、すでに逃亡したぞ。ネズミのように怖がりで、気弱な男よな」

「くっ」

 すべてを吸い取られそうな感覚があって、外すのが難しい視線を無理矢理外し、僕は扉に向かって走り出そうとする。

「そう急くでない。どうせお主はあの男には追いつかぬよ。それよりも少し話をしよう。せっかくお主をここまで誘導してきたのだから」

 行く手を阻むように空中を滑って移動して、扉までの道を塞ぐイドゥン。

「これまでのことと、これからのこと。それから、わらわの話だ。お主にとっても知りたいことであろうよ」

 笑顔で提案してくるイドゥンに、僕は抵抗できない。

 それよりもイドゥンの圧倒的な存在感が、目で見ているだけなのに人間どころか、地球や、空にある太陽よりも大きいと感じさせるそれが、強い口調でも命令でもないのに、僕の抵抗しようとする気持ちを押しつぶす。

 彼女は、確かに神だ。

 神に抵抗できる人間なんていない。

「なぁに、そう時間は取らせないさ。お主を愛して止まないわらわの妖精にはもう一度会えるさ」

 ニヤついた笑みを見せて広間の中央、黒い物体に近づいていくイドゥン。

 彼女に引き摺られるように、僕もそこに歩きだした。

 

 

 



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第六部 暗黒色(ダークブラック)の嘆き 第三章 2

 

 

          * 2 *

 

 

 おそらく正六面体をしているだろう、黒い部屋の中でもひときわ黒い、まるで古墳やピラミッドの玄室を思わせる中央の石の塊に、イドゥンは近づいていく。

 大きさにして四メートル四方かそれくらい。近くから見る限り傷ひとつなく、巨大なサイコロにしか見えないそれは、空中を滑るようにイドゥンが近づくと、裂け目ができて、扉が開かれた。中に空間があるらしい。

「いったい、貴女はなんでそんな姿をしているんだ?」

「ふふんっ。さてな」

 生前の百合乃の姿をしているイドゥンにそう訊くが、意地悪そうに唇の端をつり上げるだけで、答えようとはしない。

 姿は百合乃そのものだが、やっぱり彼女は百合乃には思えない。

 気を抜けば膝を屈して、平伏してしまいそうな、そんな強い雰囲気を発している。

 できるだけ見ないようにしているのに、僕の心も奪い取っていきそうになる彼女のそれは、暴力的とも言えるカリスマ性。視界にいなくても彼女の存在を感じるだけですべてを委ねたくなるくらい、まさに神としか思えない圧倒的な気配を周囲に放っていた。

「わらわの神気に当てられて、それだけ我慢できる者も珍しい。さて、まずはこれを見てもらおう」

 言ってイドゥンが示したのは、石棺の中の広いスペースの中で、唯一置かれている、台。

 イメージさせるものがあるとしたら、アイランドキッチンの中央の台。

 それでなければ、生け贄を寝かせるための、祭壇。

 テーブルにしては低めで、ベッドにしては高いくらいの黒い台は、天板が左右にゆっくりとスライドして開き、中から何かがせり上がってきた。

「……これは? え?」

 中から現れたのは、そこにあるのが微かな光で見えているのに、存在していないかというほど透明度の高い、水晶玉。

 それがただの水晶玉でないことは、ひと目見て理解した。

 ――これが、イドゥンだ。

 水晶玉の隣で、浮き上がっていた身体を台の上に座らせた、百合乃の姿をしたイドゥン。

 それよりも強い存在感を、水晶玉から感じていた。

 たぶん水晶玉がイドゥンの本体で、百合乃の姿をした方は、分身とか、アバターとか、そういう感じの存在だと思われた。

「こっちが、貴女の本体?」

「本体というのとも違うな。それは近くにあるが、わらわの本体と呼べるものはもっと大きなものよ。わらわがこの世界に降臨するための、憑代(よりしろ)とでも言うべきもの、かね。こちらの、お前の妹の姿をした方は、お前と話をするためにつくった分け身、分神のようなものだ。さて、あまり時間に余裕があるわけではない。早めに話をしよう」

 百合乃の姿をしながら、百合乃とは似ても似つかない意地悪そうな笑みを見せるイドゥンは、勝手に話を始めた。

「これはいまはもう誰の記憶にも残っていない、遠い遠い昔。とある巫女の物語」

「……巫女?」

「あぁ、そうだ。いまは魔女と呼ばれている、哀れな女の物語」

 ニヤニヤとしたイドゥンの笑みに、僕はこれから始まる話が、モルガーナのものであることを理解する。

 魔女と呼ばれている彼女が巫女というのはあんまり繋がらないが、目の前にいる女神と、何か関連があるのかも知れない。

「遥か昔、この星のある地域には、世界の有り様を感じ、世界と交信する能力を持った、覡(かんなぎ)の一族がいた。人が文字を得る前から世界の相(そう)たる神を崇めている一族は、神の存在を感じながらも、一度もそれと対面したことはなかった。人が文字を得、己が生み出した新たな神を崇めるようになっても一族は変わらず、新たな神を信じる者たちによって排斥され、いつしか一族の数は減っていった。そうしてあるとき、一族最後のひとりとして生まれた女児は、神と対面することを強い願いとして抱いていた」

「……」

 世界を感じる、世界の相、神を崇める、といまひとつ繋がらない単語たち。

 関連性は感じるのに、バラバラな言葉に僕は眉を顰めていた。

「一族最後の巫女となった女児は成長し、たったひとりとなっても森の中にひっそりと住み、近隣の村や町と薄く交流しながら、世界と交信するための研究と実験をして過ごし、生活していた。彼女は巫女としての能力に優れ、普通の人間には得られない多くの知識を得ていた。才能にも恵まれた彼女は、自分の持てるものを人々に施し、多くの者たちから信任され、笑顔を振り撒きながら生きていた」

 いまの、まさに魔女という雰囲気からは想像もできない姿だった。

 その時代、まだ少女と呼べるくらいだったろうモルガーナは、そうした人間だったのかも知れない、としか思えない。あまりにも僕の知る魔女とはかけ離れた人物像だ。

「しかしながらあるとき、その地域に猛威を振るう疫病が発生した。巫女は人々に請われ、病を鎮めるために奔走したが、いくつもの村を荒れ地に変えるほどの勢いに、たったひとりの力では太刀打ちできなかった。そして近隣の人間の数が半分を割った辺りで、彼らは疫病の原因を森に住む不可思議な女に求めるようになった」

「……魔女狩り」

「お主たちの歴史に語れる魔女狩りとは、時代も地域も違うであろうが、似たようなものだな。いつの時代も、それがいまの時代であっても、不思議なこと、自分たちの力では及ばぬことに対し、手近なところに理由を求めるのは人間の常だよ。人間という、儚く、か弱い存在にとってはな」

 魔女狩りと言えば、中世後期から近代辺り、四〇〇から六〇〇年前くらいに行われていたものだったはずだ。もし異端審問とかにまで遡るなら、確か八〇〇年だかそれくらい昔の話だ。

 イドゥンが言うように、歴史に語られるものとは違うとしても、たぶんそうした時代に、モルガーナが生まれたということだけは確かだろう。

 数百どころか、もしかしたらモルガーナは、一〇〇〇年を超えて生きてきたのかも知れない。

「逃げることもできず捕らえられた巫女は、街の広場で火あぶりに処されることとなった。巫女は何故こんなことになったのかと悲しみ、ずっと願い続けていた神にまみえる願いが叶わなくなることを嘆いた。そして疫病の原因を理解せず、自分にそれを求めた人々を怨んだ。そして足下から焼かれ、燻され、死んだ」

「死んだ?!」

「あぁ、巫女は死んだ。その身体は焼け、人としての生命を保つことができないほどになった」

 僕の問いに、イドゥンはニヤつく笑みで答える。

 死んだはずのモルガーナは、僕が見る限り生きているように見える。

 一度死んだ人間が生き返る。

 それはつまり、生命の奇跡、エリクサーが使われたということだろうか。

「ただし、死に際に彼女は自分の命を賭して、己が願いを叶える最期の術を使った。願いは正しく叶えられ、わらわが降臨した」

 イドゥンの語ることが真実かどうかは、いまひとつわからない。

 真実だったと仮定すれば、モルガーナのことがだいたいわかる。いま、僕の目の前にいるイドゥンがここにいる理由も。

 でも一番わからないことがある。

 僕はそれをイドゥンにぶつけるよりも先に、彼女の方から問われた。

「神とは、いったいなんだと思う?」

「……それは、よく、わかりません」

「ふふんっ。まぁ、巫女でもなければ世界を感じることはできず、神というものへの理解がなくても致し方がない」

 得意げに笑うイドゥンは、僕に説明してくれる。

「神には主に二種類いる。ひとつはこの世界の中に生まれ、世界に干渉し得る力を、世界の中だけの限定的な力を持った、限定神。さほどの数はおらぬから出会うことも少なかろうが、魔女如きは限定神とは呼べぬな。お前の知る言葉で表現するなら、仙人といった、人間から神に近づいた、生命の限界を遥かに超えた力を持つ者のことを呼ぶ。それからもうひとつは世界神。世界神は世界そのものだよ」

「世界そのもの?」

「あぁ。世界神とは、この世界自体だ」

 限定神の方は、仙人と言われれば何となくイメージできる。

 モルガーナは、僕は彼女が何らかの力を使うところを見たことがあるわけじゃないからよくわからないが。

 世界神の方はまったくイメージが湧かない。

 世界そのものが神と言われても、僕には理解できない。

「そうだな。世界とはひとつのサイコロだと思えばいい」

 言いながら、百合乃の姿をした分神は、水晶玉を撫でるように触れ、それから僕に手の平を見せる。

 そこには透明な正六面体のサイコロが現れていた。

 ご丁寧に、見ている間に各面に数字の彫り込みが現れ、それぞれに違う色がついていく。

「世界とはその内側にあって唯一のもの。これ自体が神、世界神。ただし人間という、神に比べるべくもない矮小な存在には、世界そのものを感じ取ることはできない。覡の一族は普通の人間よりも世界を感じる力は強いが、それでもわずかばかりの差。世界の内側に生まれた、ほんのわずかな要素で構成される人間と、世界そのものである神とは存在の段階が、言うなれば存在の次元が大きく違うのだから、仕方のないことだ」

 さっきよりもまだ少し理解できるようなことを言ったイドゥンは、手の平のサイコロを台の上に放り投げる。

 思いの他ころころと転がり、6と彫り込まれた面を上にして、水晶のサイコロは止まった。

「人間を二次元の存在、平面しか見ることのできない存在だとするなら、人間にとって感知できるのは、立体である神の一面、たったひとつの相だけ。違う面を見ても別の神と認識してしまう。しかしながら、神とはこのサイコロのすべて、世界そのものであるから、別の神として見えていても、認識が違うだけで唯一絶対の存在。人間程度の存在には神のすべてを認識することはできない」

 なんとなくだけど、イドゥンの言葉の意味が理解できてきた。

 ひとりの人間が扱う、複数のアバターにも近いかも知れない。

 複数の名前と姿を持っていても、その正体はひとりだけ。ネットを通してしか認識することができないアバターは、正体である本人を知らない限り、複数の存在として認識できてしまう。

「本来、人間には世界のすべてを認識する術はない。世界が人間に認識されるためには、相を持つ必要がある。それが世界神。唯一絶対の存在でありながら、見せている面、持っている相によって複数の存在として認識されるもの」

「……だったら貴女が、イドゥンという、生命のリンゴの樹を管理する神としての相を持ったのは、なんでなんですか?」

「それが、願いであったから」

 僕の問いにそう答えたイドゥン。

 たぶんそれがこの話の核心。

 一度死に、自分の命を使って世界神の相を降臨させたモルガーナ。降臨した神がイドゥンの相を持つのは、彼女が関与しているのは明らかだった。

「願い?」

「そうだ。巫女は死に際して、生存を求めた。もっと生きることを望んだ。だからわらわは、生命の神としての相を持って降臨した。わらわのイドゥンという名前には意味がない。あの魔女が名づけただけで、世界そのものであるわらわには、本来名前などないし、一時的にしか存在できない相に名前など、たいした意味はない」

 小柄な身体で僕のことを蔑むような視線を向けてくるイドゥンに、僕はひとつの疑問を覚えていた。

「巫女は、モルガーナは一度死んだんだろう? それに彼女が願ったのは、神の降臨であって、生存は死に際に使った術とは別の願いであるはず。なんで、あいつはいま生きているんだ?」

「その通りだ、音山克樹。巫女は己が命を使い、願いを叶えた。それによりわらわが降臨した。わらわがイドゥンの相を持ち、あれがいまも生きているのは、わらわの降臨の余波に過ぎない」

「余波?」

「あぁ、そうだ。――お主は、エリクサーを何だと思う?」

「リーリエからは、世界に奇跡を起こすための権限だと聞いてるけど……」

「それも間違いではないが、エリクサーとあれが呼び始めたそれが、いったいどんなものかという、根本的なことだ」

「どういう意味だ?」

 イドゥンの言葉はいまひとつわかりにくい。

 言葉には複数の意味を含み、口にしたことには必ず裏があるような、そんな感じがある。

 これまでに語られたことでしか考えられない僕に、まだ語っていないことを質問し、弄んでいるように思えた。

「エリクサーとは、言うなれば世界神の体液だ。わらわがこの世界に降臨して相を持ったとき――、わらわが世界の内側に生まれたとき、あふれ出た羊水は一度死して肉体を失った巫女の身体の残り滓に降りかかった。そして巫女であった女の身体は、魔女として再生した」

 ――そうか。そういうことか。

 僕はモルガーナが、一度自分の望む願いを叶えたんだと思っていた。

 それは違っていたんだ。

 疫病の原因として焼かれ、死にたくないと思った彼女は、イドゥンの降臨によって溢れたエリクサーを浴びて再生した。一番に願っていた神との対面は果たされ、生存は、いまの不老の身体は能動的な願いじゃなかったんだ。

「くくくっ」

 そんなことを考えてイドゥンから視線を逸らしていた僕は、何かを思い出すように含み笑いを漏らす彼女を見る。

「再生した魔女が、一番最初にやったことはなんだか、わかるか?」

「一番最初にやったこと?」

「あぁ。奴はな、再生直後の溢れる力を使い、その場のすべての人間の命を奪った。己が処刑に立ち会った者たちを根絶やしにしたのだ。くくくくっ」

 それのどこに笑う要素があるのかわからないが、イドゥンは抑えきれないかのように嗤う。

 ――恨みで皆殺し、か。

 モルガーナのそうした部分は、少しだけだけどわかる気がした。

 僕もまた、百合乃を殺した火傷の男を殺すために、エリキシルバトルに参加しているのだから。

 そんなモルガーナに対して、僕には理解できないことがある。

 ――モルガーナのいまの願いは、なんだ?

 ずっと願っていた神との対面は果たされてる。死んだはずなのに、再生もしている。いまの彼女の願いは、わからなかった。

 天堂翔機の話していた、不滅というのはあるけれど、すでに願いを叶え終えているはずの魔女が、どうしてそれを願うのかまではわからない。

 だから僕は、イドゥンにそれを訊いてみる。

「モルガーナは再生して、貴女に会うという願いは叶えてるんだろう? だったらいまのあいつは、何のために生きてるんだ?」

「それはすでに奴の愛人から話を聞いているだろう?」

「不滅かも知れない、とは聞いてるけど、モルガーナの願いは限定神にでもなること、なのか?」

「星よりも大きな力を持つ限定神でも、この世界に生まれた存在に過ぎない。不滅とはほど遠いよ。限定神程度であれば、あの魔女ならばあと数万年も頑張ればなれるだろうがな」

 まだ笑いが収まらないらしいイドゥンだったが、唇を歪めて僕のことを見つめてくる。

「不滅って、なんだ?」

「そんなこと、問わずとも見ているではないか」

「見ている?」

「あぁ。いまお主は、不滅の存在を目の前にしているではないか」

 さっきとは違う、ニヤニヤした笑みを浮かべているイドゥン。

 彼女は世界神。世界がイドゥンという相を持った存在。

 モルガーナの願いが世界神になることだったとしても、それは不可能に思えた。何しろ世界神とは、たったひとつの存在なのだから。

「世界神は、唯一で絶対の存在なんだろう? モルガーナがいくら望んでも、なれるわけがない」

「そうでもないさ。人間に過ぎないあれには大それた願いだが、絶対に叶わないものではない」

 何がそれほどまで彼女を楽しませるのか。

 本当に楽しそうに、でも百合乃が見せる無邪気なものではなく、生命の女神でありながら、黒さを感じる笑みを見せるイドゥンは、言った。

「魔女の願いは、わらわとの、つまり世界との同化、なのだからな」

 

 

            *

 

 

 ――どうしてこうなった?

 モルガーナの目の前では、事前に装備していた武器をすべて失ったエイナが、握りしめた両の拳を構え、リーリエと対峙している。

 それを見たリーリエもまた、長刀を握り潰して消し、手刀を構えた。

 エイナとリーリエの力の差は、圧倒的だった。

 十分足らずの時間で、リーリエはエイナの持っていたすべての武器を破壊した。

 人間の目では追いきれないほどの速度で展開された激しい戦いの中で、エイナはリーリエのハードアーマーにわずかに傷をつけただけ。

 対するリーリエは、積極的な攻撃にはいまのところ出てきていないためエイナはほぼ無傷だった。しかしモルガーナの目から見ても、勝ち目のある戦いには思えなかった。

 ――どうして、こうなった?

 焦りを表に出さないよう努力しながら、モルガーナはその言葉を頭の中で繰り返す。

 リーリエがフォースステージに昇ってから、まだ一日程度しか経過していない。

 サードステージまでとは違い、存在がイドゥンに近づくフォースステージは、力が大きく増すことは過去の実験から推測できていた。

 けれども一気に増した力をこなせるようになるためには、長い時間が必要だと予想していた。

 実際、リーリエが積極的な攻撃をしてきていないのは、エイナに対する攻撃をためらい、全力を出していないと言うよりも、自分の力を測りかねて力を出し切れていない様子がある。

 しかしいま見た戦いの中で、リーリエはスフィアドールの、エリキシルドールの持つ力を大幅に超え、フォースステージで得た力を予想よりも使いこなしていた。

 サードステージのエイナに、勝つ方法などなかった。

 ――このままでは、あの出来損ないに私のエリクサーが……。

 エイナが負ければ、スフィアに貯まっているエリクサーは、リーリエに渡る。

 フォースステージの力を予想以上に使いこなしているとしたら、リーリエはエリクサーの使い方も、――願いの叶え方も知っているかも知れない。

 ――そうであれば、私の願いが!

 ギシリ、と音を立てて奥歯を噛みしめたモルガーナは、エイナに向かって叫ぶ。

「すべてを出し切って戦いなさい! エイナ!!」

 リーリエと静かに睨み合っていたエイナは、その言葉にわずかに振り向き、一瞬置いて頷きを返してきた。

 ――これでもし、勝てなかったら……。

 眉根に、鼻の頭にシワを寄せるモルガーナは、この先の可能性に唇を強く噛んでいた。

 拳の構えを解いたエイナは、体勢を低くしてリーリエに突っ込む。

 地に擦るほど前屈みになった彼女は、両手でヘリポートの表面を撫でる。

 リーリエと接敵した彼女が両手に持っていたのは、拳銃。

 予めヘリポートに仕込んでおいたそれを、ほとんど押し当てる距離でエイナはリーリエに発射する。

 連続した銃声。

 二丁の拳銃に仕込んだ貫通力の高い弾丸は、よほど装甲の厚いドールでもない限り、ハードアーマーを貫き、ダメージを与える。

「くっ」

 銃声が止んで見えたのは、リーリエによって銃身を払われているエイナ。

 銃による攻撃は不意打ちであったはずなのに、リーリエはそれにも完全に対応していた。

「エイナ!」

 驚いて固まっているらしいエイナに鋭い声をかけると、復活した彼女は大きく距離を取る。

 そのまま両手を床に着き、リーリエを睨みつけた。

 途端にリーリエを囲む位置にせり上がってきたもの。

 台座のようなそれから発射されたのは、ネット。

 一〇基の発射装置から打ち出されたそれは、すべてがコントロールウィップ。空色のドールを隙間なく囲み、絡みついていく。

 その仕込みは、それだけに留まらない。

 視界を奪ったと同時に、四方八方から加えられた、機関銃による銃撃。

 ヘリポートの床の外、箱や建物に隠して設置しておいた対物用の機関銃は八基。

 自動供給される弾帯のひとつを使い切るまで、ネットに包まれたフォースステージのドールに絶え間なく銃撃を加える。

 たとえ車両であっても、戦車ほどの装甲がなければ、穴だらけどころか、原型を留めなくなるほどの攻撃。

 ひとしきり続いた銃声が止み、ヘリポートの中央に残されたのは、大口径の弾丸によって引き裂かれた、ぼろ布のようになったネット。

 ネットはあくまで目くらまし。

 それに気を取られている間に機関銃による斉射で、リーリエを仕留める。

 武器による白兵戦、拳と脚による格闘戦、あってもナイフや針程度の投擲武器による遠距離戦程度で、本格的な銃撃戦の経験のないリーリエには、必殺の攻撃となるはずだった。

 モルガーナがリーリエをここに喚びだしたのは、直接戦闘では勝てなかった場合、最終戦場を想定し、事前に仕込んでいたこれらの仕掛けを使うため。

 エリキシルバトルは正々堂々とした戦いなどではなく、ソーサラーを直接攻撃して奪い取ろうと、買い取ろうと、切なる願いを持つ者が行動してのことならば問題はない。

 そう、ルールをつくったのは、モルガーナ自身なのだから。

 まだエリキシルソーサラーはリーリエの他にも残っていたが、エイナの敵ではない。

 いまリーリエを仕留めたことで、実質的な決着はついたと言えた。

 動かないネットの塊を見て、モルガーナは安堵の息を吐き出した、そのときだった。

 ネットを一閃する光が走った。

 そこから立ち上がったのは、空色のハードアーマーに傷ひとつつけていない、リーリエ。

 不機嫌そうな表情を向けてきた彼女に、頬を引きつらせつつモルガーナは叫ぶ。

「仕留めなさい!」

「はいっ」

 両手を床についたままのエイナの答えと同時に、六基の台座がせり上がる。

 仕込まれているのは散弾銃。

 エリキシルドールをそれだけで破壊できるほどではないが、広範囲に広がる散弾は、高速で動こうとも必ずやダメージを与える、はずだった。

 放たれたのは、六条の光。

 くるりと身体を回転させるリーリエから放たれた光は、散弾銃を仕込んだ台座に命中していた。

「小細工は全部把握してるから無駄だよ、モルガーナ」

 リーリエの静かな言葉に、モルガーナは息を詰まらせる。

「やりなさい、エイナ!!」

「ダメです……。機関銃も動きません。――すみません。わたしは、リーリエさんに、勝てません」

 仕掛けをコントロールするための接点から手を離し、エイナはうつむきながら立ち上がった。

 ――どうしてこうなった?

 計画はすべて、順調に進んでいるはずだった。

 たとえ最終勝利者がエイナでなくても、エリキシルバトルの終結と同時に充分な量のエリクサーが手に入るはずだった。

 ほとんどのエリキシルスフィアはセカンドステージ止りで、一部がやっとサードステージに昇る程度と予測していた。

 多少のエラーがあっても許容範囲で、決着が少しばかり違っても、予定した通りの結果が得られるはずだった。

 フォースステージだけは、完全に予想外の、修正しようのない問題。

「こんなことになるなんて……」

 両手で口を覆い、モルガーナは小さくつぶやいた。

 絶望。

 いまの彼女の身体を支配しているのは、そうとしか言いようのない感覚だった。

 それはかつて、生まれ育った場所で感じたものと同じ、言い表せない感情。釈明も届かず、逃げ出すこともできない、あのとき感じた深い嘆き。

 ――私は、ただひとつの願いを叶えたかっただけなのに……。

 そのために、長い時間を生きてきた。

 そのためだけに、すべてのことを仕込んできた。

 もうやり直しは利かず、タイムリミットも迫ったいま、モルガーナはただ、深い嘆きに涙すら出てこなくなっていた。

 ただ一体の、出来損ないの精霊に、積み重ねてきたすべてを、無駄にされようとしていた。

 ――それだけは認められない!

 心の中で叫んだモルガーナは、ひとつのことを決意する。

「下がりなさい、エイナ」

「ですが、まだ……」

「下がりなさいと言っている!」

 勝てない戦いを続けようとするエイナに強く言い、自分の元まで下がらせる。

「まだ決着はついてないよ、モルガーナ。邪魔しないで」

 太刀を取り出してゆっくりと近づいてくるリーリエを、モルガーナは睨めつける。

「貴女のような出来損ないの精霊如きに、エリクサーを渡すわけにはいかないのよ」

 言ってモルガーナは、自分の側まで下がってきたエイナの頭を鷲づかみにする。

「な、何を?!」

「そのままにしていなさい」

 振り向こうとするエイナを握力で黙らせ、モルガーナは彼女の頭部に内蔵されているエリキシルスフィアと、自分の意識を接続する。

「何するつもり?! モルガーナ! ……エイナ、いますぐ逃げて!!」

 何をするかに気づいたらしいリーリエが、太刀を両手に持って床を蹴ったときにはもう遅い。

「やめて! モルガーナ!! それだけはっ! それだけは貴女でも反則だよ!!」

「――集まれ」

 すぐ側まで接近してきたリーリエの叫びを無視し、モルガーナはエイナのスフィアを媒介とし、唱えた。

 その瞬間、エイナの身体が光り始めた。

 圧力を感じるほどにも強い光にリーリエは足を止め、叫ぶ。

「エイナ? エイナ?! ――なんで? モルガーナ! これは貴女が始めた戦いでしょう?!」

「戦いなどどうでもいい。私は私の願いを叶えるために、全力を尽くす。それだけよ」

 光を放つエイナの身体に、さらに光が集まる。

 建物の中からにじみ出、空を飛んで集まってくる光が、次々とエイナの身体に飛び込み、彼女の身体の光はどんどん強くなっていく。

「まだ……、まだわたしは……」

 エイナの微かな声も消え、辺りは昼間のそれよりも強い光に包まれた。

 

 

            *

 

 

「こいつぁ才能って奴なのかね」

 リーリエから送れてきた分子構造図から、不完全ながらもすでに初期の開発サンプルの製造が始まっていた。

 いまできあがっているのは高分子のひと塊といったもので、人工筋として使えるものではない。これから充分なサイズと形状のものの製造に入るかどうかを検討するための検査に入るが、その初期サンプルの検査速報が届いていた。

 関西にあるスフィアロボティクス支社の近く、通勤のために借りている部屋の二〇畳ほどのLDKで、黒いヘルメット型スマートギアを被り、ソファに身体を預けている猛臣は、届いたばかりのそれを見ていた。

 ディスプレイ内に表示した数字ばかりのデータは、驚くべき結果となっている。

 リーリエの構造図が製造可能だっただけでも驚きだが、開発が終了しているGラインの人工筋に比べ、二割は数字が高く、まだ人工筋サイズまで大きくしてからでしかわからないが、小さな手直しで更に伸び代がありそうだった。

 猛臣でも年単位でかかり、手こずっている人工筋の開発を、リーリエは公開済みの古い情報と、バトルによって得られた特性からの想像でやってのけた。

 これは彼女の才能と言っても過言ではない。

 猛臣が嫉妬してしまいそうなほどに、それは凄まじいものだった。

 Gラインの開発が終わった後に猛臣が参加する予定だったのは、まだ先と言ってもそう遠くはない第七世代スフィア向けの、ネクストラインの開発。

 リーリエのもたらした情報は、次世代コアを待たずして、Gラインの人工筋を旧式化してしまいそうな性能を持っている。

 もしこれを採用するとしたら、開発期間は一年以上短縮できるだろう。それによる費用の圧縮は、猛臣が直接触れる事柄ではないが、かなりの額になることは確かだ。

「ハンドユニットだけじゃ、釣りには足りなかったな」

 要求された人工筋とサブフレームに、手製マニピュレーターユニットを渡したが、そんなものでは対価に大幅に足りないほど、リーリエのもたらしたものは凄かった。

 ――だが、リーリエの奴は何を考えてるんだ?

 不精ヒゲの生えた顎をさすりながら、猛臣はスマートギアの透過型グラスの内側で目を細める。

 Gラインの人工筋を直接参考にしていないのであれば、リーリエの構造図はオリジナルのものとして、克樹の叔父が勤めるHPT辺りに持ち込んでも良かったはずだ。

 得られる利益はそちらの方が桁違いに大きくなる。

 確かにフォースステージに上がるまでに、現在得られる最高のパーツを揃えたかったのかも知れないが、それにしても焦っているようにも感じるリーリエの行動が、猛臣には腑に落ちなかった。

「何か理由があるのか?」

 つぶやきながらテーブルに手を伸ばしてコーヒーカップを手にした猛臣は、それが空になっていることに口元を歪ませる。

 すべてのエリキシルソーサラーが判明し、バトルの結末に向けて加速すると言っても、まるで将来を見ていないようなリーリエに、猛臣は眉を顰めていた。

「それだけの理由があるということなんじゃないですかね?」

 コトンと、テーブルに置かれた湯気の立つカップ。

 ヘルメット型スマートギアを脱いで見ると、テーブルの脇に立っていたのは、お盆を胸に抱いた、イシュタル。

 その柔らかい笑みに見つめられながら、空のカップの代わりに新たなカップに手を伸ばし、口元に寄せる。

 ――なんでなんだろうな。

 同じコーヒーを使っているはずなのに、どうしてここまで香りも風味も違うのだろうか。

 味も香りも記憶のものとは違うのに、懐かしさを感じるコーヒーをひと口飲み、猛臣は顔を上げる。

「久しぶりだな、穂波(ほなみ)」

「はい。お久しぶりです、猛臣さん。本当に大きく、立派になられましたね」

 そう言って嬉しそうな笑みを見せているのは、イシュタル。

 けれどそれが見せる立ち振る舞いは、猛臣が求めて止まない、ひとりの女の子のもの。

 槙島穂波(まきしまほなみ)。

 近藤や灯りから前兆現象の話を聞いたときから、自分にもそれが現れる可能性については考えていた。

 だから驚きはしたが、それを表に出すことは堪えられた。

 二歳しか違わなかったはずなのに、ずいぶん身長差があった生きていた頃の穂波と違って、いまは一二〇センチと小柄な彼女は、あの頃見せていたのと同じ穏やかな笑顔を向けてきていた。

「わたしを復活させるために、頑張っておられるんですね」

「あぁ。お前のことは必ず俺様が復活させてやる。幽霊みたいにイシュタルに取り憑かなくても、もうすぐお前自身の身体を与えてやる」

「ありがとう、ございます」

 少し首を傾げて、朗らかな笑顔で礼を言う穂波。

 シャンパンゴールドのハードアーマーと、金色の長い髪をし、攻撃的な爪を肩と膝に取りつけたイシュタルは、無骨すぎてかつての穂波とは大きく違っていた。

 けれどもその柔らかい表情と、猛臣を見つめてくる優しげで、母性を孕み、しかしどこか恐れ、怯えを宿している瞳は、確かに穂波のものだった。

 そんな彼女の瞳に影が差す。

「……どうして、わたしなどを?」

「いまの俺様がいるのは、お前がいたからだ」

 生前ならば言えなかったであろう言葉を、問うてくる穂波に対し、素直に言った。

 もし自分にも前兆現象が起こったならば、すべてのことを話そうと思っていた。素直になれなかったあの頃と違って、いまでも捻くれている自覚はあるが、言えないで後悔など、二度としたくなかった。

「俺様は、お前に与えてもらったからだ。槙島の家になかったものすべてを、お前から」

「わたし、から?」

 微かに声を震わせて言う穂波に、猛臣は大きく頷いて見せる。

 槙島家は実力主義の家。

 旧家であるため血筋を重んじる傾向も強かったが、何より評価されたのは、目に見える成果。

 学生時代のテストやスポーツの功績はもちろん、経営の才覚、発明品の成果と利益、地位や名誉など、誰の目から見ても明らかな結果を重要視し、それによって本家や分家に関係なく重用される。

 逆に事業の失敗や損害の計上に対しては厳しい評価が下され、その大きさによっては援助や支援のすべてを即刻回収されるなど、厳格な処分が行われる。

 頭首は常にその時代で最も優れた人物であり、血筋的にか本家の者が納まることが多かったが、分家の者を養子にとって据えることも珍しくはない。

 そんな無機質とも言える実力主義で様々な分野に勢力を伸ばし、栄華を誇った槙島家は、この四半世紀ほどの間に歪み、腐敗を始めた。

 ここ最近では足の引っ張り合いは目に見えるほどとなり、実力以上の評価に見せようとする欺瞞は当然のように行われている。さらには先代頭首は病死とされているが、その実は毒殺であり、犯人と目される人物数名は行方不明となっている。

 そんな親兄弟ですら信頼するに値せず、愛情ですら結果からしか得られない槙島本家に産まれた猛臣にとって、一族の中でも末席にあり、目立った才能もなく、親からも引き離された穂波だけは違った。

 彼女は笑みとともに接してくれ、自分もまだ幼い年頃にも関わらず、猛臣の身の回りの世話や、外の世界のことを教えてくれた。

 兄がふたり、姉がひとり、弟がひとりいる兄弟の中で、いま現在猛臣が最も目に見える評価を出し、一番次期頭首に近い人物とささやかれているが、家を出て仕事と学業に励んでいるのは、穂波にもらったものがいまも頭と胸にあるからだった。

 猛臣のいまを形づくっているものの多くは、穂波に与えてもらったものだったからだ。

 穂波の両親も、弟も存命であることは知っているが、彼女の葬式にも来なかった。

 大きな仕事で失敗し、身ひとつで家族ごと一族から叩き出された穂波の家族は、それでも葬式には呼んだが、自分の家族のことであるのに、ひとりも姿を見せなかった。

 もし穂波の復活が叶ったら、猛臣は槙島家を出、彼女の家族にも連絡せず、ふたりで生きるつもりだった。

「お前が好きだ、穂波」

 ソファから立ち上がり、穂波の前まで行って、彼女の瞳を真正面かから覗き込みながら、猛臣は言った。

 目を見開いた穂波は、唇を震わせ、猛臣から一歩距離を取る。

 大きく一歩近づき、さらに逃げようとする穂波の両肩をつかみ、猛臣は追い打ちをかける。

「穂波、好きだ。――これを言う前に死にやがって。俺様がどれだけ怒ったのか、わかってるのか? お前は。俺様のものになれ、穂波。俺様がお前を、生き返らせてやる。お前と一緒に生きてやる」

 逃げられなくなって、猛臣の言葉を受け止めることになった穂波は、笑んだ。嬉しそうに。

 それから、彼女は涙を流し、悲しそうに顔を歪ませ、うつむく。

「わたしは……、わたしは貴方を、騙していたんです」

「それで?」

「わたしは貴方を、利用するために、近づいたんです」

 涙に喉を詰まらせながら言う穂波。

 両親と弟が一族を叩き出されることになっても、穂波は強硬に槙島家に残ることを望んだと聞いている。

 その処遇が、猛臣の小間使いの立場。

 すでにその頃から将来を期待されていた猛臣に、頭首はその身を好きにして良いと言って、穂波と引き合せた。

 一族からの援助を受け、結果として損害を出しておきながら、身ひとつで叩き出されるならまだ優しい処分だ。中よりも厳しいとは言え、仕事さえ見つければ生きられるのだから。

 それでも一族に残るという選択は、人間扱いされない立場に落ちるということに等しい。

 さすがに表沙汰になるような事件を起こすのは問題であるが、それ以外のことであれば何をしてもいい、という意味を含めて、猛臣は穂波を渡された。いじめようと、慰みものにしようと、構わないという意味で。

 そうなることがわかっていながら槙島に残った理由を、穂波は一度として話そうとはしなかった。

「わたしが槙島に残れば、あのとき一番有望視されていて、歳も近い貴方の小間使いになると予想していました。そしてそれは、その通りになりました」

 顔を上げた穂波の瞳に浮かんでいるのは、罪悪感。

 猛臣は彼女の瞳を見、彼女の言葉を聞き、遮ったりはしない。

「わたしは貴方に、槙島以外の価値観を植えつけることで、貴方に反抗心を持たせようとしたんですっ。そうすれば……、そうすれば少しは、わたしの受けた屈辱を槙島の人間に与えられると思ったから!」

 涙を散らしながら猛臣の腕を振り払い、穂波は部屋の隅へと逃げる。

 そんな彼女に、彼はゆっくりと近づいていった。

「わたしが貴方に優しくしていたのも、すべて嘘です! 幼い貴方をコントロールするために、そうしていただけのことです!! なのに貴方は、わたしに酷いこともせず、側に置き続けてくれた……」

 泣きじゃくるように言う穂波の前に、猛臣は立った。

「小さかったからなんて、言い訳はできません。わたしは最初から、貴方を使って、槙島家に一矢報いるために、貴方に近づいたんですっ。――だから、だから……、ごめんなさい」

 深々と頭を下げた穂波。

 それに対して、猛臣は何も言わなかった。

 ただ目の前に立ってるだけの猛臣に、穂波は恐る恐る涙の跡の残る顔を上げた。

 それでも、猛臣は何も言わない。

 厳しく細められた視線に堪えきれなくなったのか、穂波がその場を逃げだそうとしたとき、猛臣は壁に手を着いてそれを阻んだ。反対側は、壁。

 逃げられなくなり、小動物のように小さくなって震える穂波を、猛臣は蔑みの視線で見下ろす。

「てめぇは、どれだけ俺様のことを見くびってやがんだ?」

 湧き上がってくる怒りを声に乗せ、猛臣は穂波に叩きつける。

「すみません! すみません!」

 背中の壁に身体を押しつけ、少しでも逃げようとする穂波に、猛臣は大きくため息をついてから、言った。

「気づいていないとでも思ったのか?」

「――え?」

「俺様が、てめぇのちっぽけな想いに、気づいていないとでも思ってやがったのか!!」

 目を丸くし、小さく口を開いている穂波。

 呆然とした顔で、彼女はつぶやくように言う。

「気づいて、いらしたのですか?」

「当然だろう! 俺様を誰だと思ってるっ。俺様はな、槙島猛臣だぞ!! 小間使いのてめぇが考えてることくらい、わからないとでも思ったのか!」

 息がかかるほど顔を近づけた猛臣は、穂波の涙に揺れている瞳を覗き込む。

「俺様はな、お前のそういうところも含めて好きになったんだよ。てめぇの全部をわかった上で惚れてたんだよ!! てめぇとだったら一緒に不幸になっても構わなかったんだ、俺様はっ。どこまでも一緒に行ってやるつもりだったんだっ。一度不幸になろうとも、俺様の力で、お前を幸せにしてやるつもりだったんだ!! ひとりで抱え込んで、悲劇のヒロイン気取ってんじゃねぇ!」

 喜ぶことも、悲しむこともできず、ただ圧倒されたように、穂波は目を見開いている。

「わたし、は――」

「もういい。何も言うな」

 言って猛臣は、穂波の唇を奪った。

 驚いて逃れようとする彼女の身体に腕を回し、抱き締める。

 その身体はスフィアドールで、イシュタルのボディであるはずなのに、柔らかく暖かい穂波の唇に、猛臣は貪りつくように唇を重ねる。

 長い、長いキスとなった。

 途中から諦めたように目をつむり、穂波もまた自分から求めるように背伸びをして、猛臣の身体に抱きついていた。

 唇とともに身体を離し、見つめ合ったふたりは、泣いていた。

 悲しさと、嬉しさと、やっと通じ合えた想いに、泣いていた。

「大丈夫だ、穂波。俺様がどんな方法を使ってでも、お前を復活させてみせる」

「猛臣、さん……」

 自分の涙を手の甲で拭った猛臣は、しゃくり上げている穂波の涙を親指で掬い取る。

 そして彼女に、優しく笑いかけた。

「わたし……、ちゃんと、話しておけは、よかったんですね……」

「あぁ。俺様も話せなかった。だから気にするな。もう大丈夫だ、穂波。必ずお前を復活――」

「違うんです」

 止まらない涙を流しながら、穂波は左右に首を振る。

「何が違うって言うんだ。リーリエとエイナは手強いが、次のアップグレードでイシュタルはさらに強くなる。あとはバトルアプリをチューニングすれば、勝ち目は――」

「そうじゃないんです」

 再び猛臣の言葉を遮った穂波は、猛臣の腕から逃れていく。

 捕まえようと近づいて手を伸ばした猛臣からさらに逃れ、穂波は言う。

「わたしも、貴方のことが好きです。猛臣さん」

 想いを口にしながら、彼女はくしゃくしゃに顔を歪ませている。

 嬉しさではない、悲しさを浮かべる瞳から流れ出す涙は止まらず、胸の前で組んだ手は、震えていた。

「最初は、貴方を利用するためだけに近づきました。貴方の思考を歪めることしか考えていませんでした。……ですが、乱暴で、捻くれている貴方は、取り組んだことに対しては常に真剣でした。わたしの父親や、わたし自身に足りないものがなんであったのか、思い知らされました。それを見ているうちに、――わたしは貴方を、好きになっていました」

 優しい微笑みを浮かべ、けれど涙が止まらない穂波は言う。

「わたしは、貴方のことが好きです。愛しています」

「だったらもういい。お前はそのエリキシルスフィアの中で待っとけ。俺様が必ず、お前を復活させてやる」

 抱き締めようと伸ばした猛臣の手から、穂波は逃げる。

「こんなことになるなら、最初から全部話しておけばよかった……。話してもらっていればよかった。あのときのわたしに、怒りを感じます。あのときの貴方を、叱ってやりたくなります」

「もういい。もういいから、穂波!」

「いいえ、ダメなんです」

 微笑むことすらできなくなった穂波は、両手で顔を覆ってぽたぽたと涙を零す。

「愛していました、猛臣さん。大好きでした、貴方が。けれどすべては、手遅れなんです」

 再び壁に追いつめた穂波に、猛臣は両手を伸ばす。

 顔を覆っていた両手を下ろし、笑みを浮かべた穂波は言った。

「わたしは幸せでした。貴方のおかげです。だから、さようなら、たけお――」

 言い終えることなく、唐突に穂波のアライズが解除された。

 猛臣がつかみ取ったのは、ピクシードールに戻ったイシュタル。

「なんだよっ。時間切れかよ! くそっ!!」

 イシュタルをつかんだままテーブルに近づき、そこに置いたスマートギアを取って頭に被った。

 エリキシルバトルアプリを立ち上げ、もう一度、もうほんの少しでいいから穂波と話せることを祈って、猛臣は唱えた。

「アライズ!」

 何も起こらなかった。

 手の中のイシュタルが光を纏うことはなく、動くこともない。

「なんだ?」

 もし、前兆現象がもう一度起きなくても、イシュタルは一二〇センチのエリキシルドールになるはずだった。

 それなのに、何も起こらない。

「アライズ! アライズ!!」

 繰り返し唱えても同じ。

 舌打ちした猛臣はイシュタルをテーブルに置いて、ステータスを確認しようとリンク状態を表示する。

「……なんだ? こりゃ」

 ログ上では先ほどまで接続されていたイシュタルとのリンクが、切断されていた。スマートギアから指示を出して接続しようとするが、リンクが確立されない。

「くそっ」

 悪態を吐いてLDKを出、廊下のすぐそこの扉を開いて作業室に入る。

 様々な機材やパーツと、作業用のデスクがあるその部屋の、メンテナンスベッドにイシュタルを寝かせ、ドールの状態を確認しようとしてみたが、やはりリンクが確立されない。

「……どうなってやがんだ?」

 メンテナンスベッドを使えば、電源が落ちた状態でも、異常が検出された状態でも、スフィアが正常であれば最低限のプロパティは取得できる。これまでメンテナンスベッドを使って状態を確認できなかったことなど、一度もなかった。

 イシュタルをデスクの上に寝かせ、改良の終わっているウカノミタマノカミを棚から手に取り、ベッドに寝かせる。

「こいつも、ダメか……」

 エリキシルバトルに使っていない手持ちのピクシードールをデスクから取り出してチェックしてみるが、どれも変わらない。

 どれひとつ、リンクが確立できなかった。

 一斉にピクシードールが、正確にはおそらく、スフィアが使えない状態になるなどあり得る事態ではなかった。

「どういうことだ?」

 立ち尽くすしかない猛臣がそうつぶやいたとき、スマートギアの視界にニュース速報を告げるアイコンが表示された。

 ――いまはそれどころじゃねぇってのに!

 スフィアドール関係の、とくに重要な事件等については、自宅のサーバを経由して通知されるように設定していた。

 作業時間に設定しているいまは、最重要に選別された通知しか届かないはずだった。

「なんだ、こりゃ?」

 仕方なくアイコンをタッチしてニュース記事を表示した猛臣は、思わず声を上げていた。

 個人の書き込みを皮切りに、ネットのニュース、テレビ番組の報道などで、次々とスフィアドールが使用不能になったと、報告が行われている。

 スフィアロボティクスからの発表は、ほんの少し前からの現象ということでまだだったが、一部スフィアドール関係の企業では調査中という公式発表も出始めていた。

 選別されたネットの書き込みを見ると、おそらくほぼ一斉に、ピクシードールはもちろん、フェアリードール、エルフドールなど、スフィアによって稼働しているすべてのスフィアドールが使用不能になっていた。

 見ている間に情報は広がり、事件は拡大し続けている。世界中に広がっていっているそれは、もう止めることなどできようもなかった。

「何が起こったってんだ……」

 そうつぶやいた猛臣だったが、ひとつだけ思いつくことがある。

 ――モルガーナの仕業か!

 エリキシルスフィアは、確実にモルガーナがつくったものだ。

 その他のスフィアも、エリキシルスフィアと同様にイドゥンの欠片によってつくられているのだ、モルガーナの支配下にあると考えた方が自然だろう。

 いまの事態を発生し得るのは、彼女しかいない。

「くそっ。なんてこった!」

 推測に過ぎないが、何かの理由でモルガーナはエリキシルバトルを強制終了したのだ。

 だから穂波は、手遅れだと言った。

 理由までは推測つかなかったが、関係してると思われるのはリーリエのフォースステージへの到達。それがモルガーナにとってすべてのスフィアの機能を停止させ、エリキシルバトルを強制終了させたことと、関係があるように思えた。

 ――もう二度と、穂波には会えないのか?

 リーリエやエイナに勝てる可能性が低いのは、自分でもわかっていた。

 けれどもエリキシルソーサラーであり続ける限りは、可能性はゼロではないと思って、この先もやっていこうと考えていた。

 願いが叶わなくなったのではないかという想いに苛まれそうになる自分の気持ちを奮い立たせて、猛臣はスマートギアで指示を出し、アドレス帳を開いて克樹への通話をコールした。

 

 

 



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第六部 暗黒色(ダークブラック)の嘆き 第三章 3

 

 

          * 3 *

 

 

「世界と、同化する?」

 思わず問い返した僕に、イドゥンは楽しそうに笑み、頷いた。

 でもよくわからない。

 モルガーナが世界と同化して、不滅の存在となったら、何が変わるんだろうか。あいつの好きに世界を造り換えられるなんてことが、できるようになるんだろうか。

 規模が飛んでもなさ過ぎて、僕の想像の範疇にない。

「モルガーナが世界と同化したら、何がどう変わるんだ?」

「何も変わらんさ」

「え?」

 いろいろと恐ろしい想像をしていた僕に、イドゥンは肩を竦めながら即答した。

「世界とは、人間の想像を遥かに超えて大きなものだ。魔女が願いを叶え、世界との同化を成し得たとしても、大海に流れ込む小川がひとつ増える程度に過ぎない。無限の数字に一が足されたところで、変化はゼロではないが、全体としてはほぼ変わりない。ただ、魔女の望む不滅は達成される」

「それだったら一体なんのために、モルガーナは不滅を求めてるんだ?」

「そんなものは直接本人に訊けばいいさ。どんな理由があるにせよ、あれはそれを望んでいる。わらわの憑代を封印してまで、それを得ようとしている」

 どこか莫迦にしたような口ぶりからすると、イドゥンはモルガーナの願いの真意を知っている。けれど教えてくれる気はないらしい。

 ――そんなことより、僕が気になることは……。

 モルガーナのことは、詳しくはないけれどだいたいわかったと思う。

 わからないことが多いけど、生まれた時代が大きく違って、恐ろしく長く生きているとしても、あいつも人間だと考えれば想像できることもある。

 それよりも僕がわからないのは、いま目の前にいる存在だ。

 百合乃の姿をし、様々な表情を見せているのは、果たして彼女が人間と同じ思考をしているからだろうか。それとも姿形はフェイクで、僕を欺いているのだろうか。

 わからないから、真実が聞けるかどうかわからないけれど、僕はそれを問うてみる。

「イドゥン。貴女の目的は、何なんだ?」

 膝を屈しそうになる神気が薄れたわけじゃない。世界神としての相を持つための水晶玉があることで、むしろここに入る前より増している。

 でも僕は、いまはもうあんまりイドゥンが怖くない。

 畏れはあるけれど、何となくイドゥンは、イドゥンという相を持つことで、人間的な要素を、人間のような思考を持っているように思えているから。

 いま目の前にいるのは、唯一絶対の存在である世界そのものではなく、世界のほんの一部、相のひとつに過ぎない。

 だから、彼女は彼女の望みを持って動いているのではないかと思った。

「わらわの、望み?」

「そうだ。貴女にもあるんじゃないのか? エリキシルバトルをモルガーナが開催したのは、あいつが不滅の存在になるためかも知れない。そのために貴女は封印され、身体をスフィアに利用されてる。でも、本当は封印なんてされてなくて、何かの目的があって、モルガーナにわざと利用されてるだけなんじゃないか?」

 そう考えると、いくつか合点がいくことがある。

 リーリエがイドゥンのことを知っていたのは、イドゥン自身が教えたからじゃないだろうか?

 それに何度かあったように思える、エリキシルソーサラー同士を誘導したような遭遇と、近いのではショージさんを僕とリーリエがエイナと戦う場に誘導したメールだとか。

 もしかしたら一番最初、僕とリーリエがひとつのエリキシルスフィアを共有することになったのも、イドゥンの意志が働いていたのかも知れない。

 だとしたら、イドゥンはイドゥンで、自分の望みを持って行動してることになる。

「くくくっ……。くっくっくっ、くあーーーっ、はっはっはっ!」

 顔を押さえて天井を仰ぎ、爆発的な笑い声を上げるイドゥン。

 どうしたのかわからない僕の前で、女神はひとしきり笑い続け、緩んだまま引きつってる頬を見せながら、僕に言う。

「本当に、お前という者は面白いな! 魔女がお前のことを気にかけて、注目していたのもわかるよ」

「モルガーナが?」

「あぁ、そうだ。精霊を伴って参戦したことも、敵を倒さず仲間にすることもイレギュラーだが、奴はお前自身にも注目し、特別待遇も与えていただろう? その理由がいまわかったよ。神気にも屈せず、直接理由を問うとは! 魔女ですらしなかったぞ、そんな不遜とも言えることなどっ」

 お腹を抱えてまたしばらく笑った後、楽しそうな笑みを浮かべるイドゥンは話してくれる。

「よかろう、話してやるよ、音山克樹。ここからは哀れな女の話ではない。わらわの、世界の話だ」

 人相が変わってしまうほどに、ギラギラとした笑み。

 それを浮かべる彼女はより強い神気を放ち始める。

 黄金のリンゴの樹の守護女神であるイドゥンの放つ神気は、生命の息吹とも言えるもの。

 それなのに僕は、いま彼女が放つものに、拒絶したい気持ちが湧き上がっていた。

「お前の言う通りだ。わらわは魔女の計画に荷担している。封印はされているが、最初からあれを操っていたのも確かだ。いまのところあれは気づいてはいないようだが、あれが望むものを与え続け、終わりを近づけるために操作したのもわらわだ」

「何のために?」

「そんなものは簡単だ。人間のお主ならば理解できるだろう? 楽しみたいから! より楽しいことが見たいからに決まっている!!」

 黄金よりも輝いているイドゥンの、満面の笑み。

 しかしそれは、これまで見たどんな笑みよりも暗く、黒いもののように、僕には見えていた。

「世界そのものに、意志などないっ。秩序の揺らぎは意志のように見えることはあっても、それは意志ではあり得ない。そもそも世界には個性などはなく、全体をもって世界であるのだから、意志を持って行動することなどあり得ないのだよ!」

 祭壇の上に立ち上がり、身振り手振りまで加えて話すイドゥンの様子は、どこか狂気染みていた。

 その狂気は、どこかモルガーナを思わせた。

 もしかしたら、モルガーナに相を与えられたイドゥンは、魔女の影響を受けているのかも知れない。

「しかし何らかの理由で世界の内側に降臨し、神としての相を持つと、世界はその一部のみであっても意志を持つ。逆に憑代を失うなどの理由で降臨し続けられなくなると、相を失う。ただし、一度得た相は生物にとっては恐ろしいほどの時間をかけて、ゆっくりと世界に溶けて消えるものだ」

 神々しい色を浮かべながら、それを狂気に浸した瞳を近づけてきたイドゥン。

 彼女は僕に熱い息吹を吹きかけながら、興奮した様子で話を続ける。

「世界の一部でしかない神は全知全能ではないが、完璧な存在だ。しかしながら完璧とはとてもつまらないものだ。降臨できなくなり、長い時間をかけて相を失っていく間は、暇なのだ。刺激がない。――巫女から魔女として復活したあやつとの生活は、最初は刺激的だったが、一〇〇年もすれば飽きた。奴に封印されたのは、飽きたと話して相を捨てようとしたときだ。……いや、お主には正直に話そう。わらわは相を捨てると言うことで、奴の背中を押したのだっ。奴がわらわと寄り添い、世界と同化することを望んでいたのは知っていたからな!」

「すべては、貴女の仕組んだことだって言うのか」

「まさか! まさか!! エリキシルバトルなどという発想はわらわにはなかったさ! ただ、奴はわらわの憑代を封印してからの行動は早かったぞ。神と同化するためにわらわの憑代を利用し、エリクサーが大量に必要であることを突き止め、それから世界の裏側で暗躍し、争いを起こし続けた! それがエリクサーを増やす手段であったから!!」

 イドゥンはもう、狂気を隠してなどいない。

 女神の持つ狂気が、果たして世界そのものに備わっているものなのか、それともモルガーナから相を与えられたことで持つことになったのか、それはわからない。

 ただ、この女神は狂ってる。歪んでる。

 生命の女神であるはずのイドゥンは、魔女を操る死神だ。

「戦争を起こしたのも、モルガーナだって言うのか?」

「いいや? いいや! 火種に点火するのはいつも人間だ! 人の想いであり、願いだ!! けれど火種はどうやって用意される? それを用意するに至ったきっかけはどうして生まれる? あの魔女は、人々を操り、それらを成してきた。すべてではない。けれどいまも続く争いの一部は奴が直接関与し、多くは間接的な影響によるものだ。奴は世界に不和をばらまき、エリクサーを得るために多くのことを成してきた!!」

 神気を放ちながら、まるで人のように恍惚とした笑みを見せているイドゥン。

「でも、それは貴女がいたからこそ起こったものだろう」

「それはもっともな話だが、わらわがこの世界に降臨したのだって、人間が巫女を殺したからだ。人間は自分のつくったツケを支払っているに過ぎない」

 確かにイドゥンの言う通り、モルガーナが殺されたことがきっかけで彼女が降臨したと言うなら、それは人間がつくったツケかもしれない。未知への恐怖は、人が持つ本能のひとつなのだから。

 でも実際にモルガーナを殺したのはその時代の、魔女になった彼女に殺された人々であって、すでにツケは充分過ぎるほど払われているはずだ。いまもなお払わせ続けなければならないツケの根拠にはならない。

 ――でもそんな理屈は通用する奴じゃない。

 喜びの表情を浮かべて話しているイドゥンの狂気。

 それに僕の言葉程度が届くとは思えなかった。

「……なんで、人々が争うと、エリクサーが集まるんだ?」

「簡単なことさ。わらわは生命を司る女神。出産の女神などではなく、人や神が生きる、その時間を司っている。わらわにつけられた女神の名に由来する生命のリンゴは、生命を維持するのに必要なものなのだから。――そして、ひととき、ほんの短い時間だけを生きる人間は、不滅の存在であるわらわにとって、とても刺激的な存在だっ。強い想いを抱き、それを求めれば求めるほど、その刺激は増す! わらわはそんな人間たちの刺激的な人生が、面白いのだよ。スフィアに集まるエリクサーはわらわの体液。言うなればわらわのヨダレさ」

 狂った想いに身を震わせるイドゥンを殴り倒してやりたくなる。

 ――そんなこと、できるはずもないけど。

 百合乃の姿で神気を放つイドゥンは、睨みつけたくなるほど憎たらしくても、触れられないくらいには畏れ多い存在だ。

 僕は女神に干渉できない。

「貴女はじゃあ、人生を食うために、いまここにいるってことなのか?!」

「あぁ、その通りさ」

「生命の女神なのに、人が死ぬことは、何とも思っていないのか?!」

「何を言っている? 音山克彦」

 顎を反らして僕を見下し、イドゥンはクツクツと喉の奥で笑い声を立てる。

「わらわはさっきも言った通り、生命の女神であって、誕生の女神ではない。生命とは、生まれてから死ぬまでのことを指す。つまり、わらわは生と死の女神であるのだよ。お主は疑問に思わなかったか? 生命の奇跡を起こせるエリクサーで、お主の持つ死の願いも叶えられることを」

「……そういう、ことか」

 疑問がなかったわけじゃない。

 最初から叶うかどうかわからない願いだからこそ、僕はエイナに確認して大丈夫だと聞いてから、エリキシルバトルに参加したんだ。

 生命の奇跡と言いながら、死の願いも叶う理由は、そういうことだったんだ。

「人生とは刺激的なものだ。それらを記録し、相が消え果てるまでの時間、楽しむだけのものはすでにわらわの手元にある。だけれども、戦争は少々飽いた。あれはそれぞれの想いの集合でありながら、徐々にひとつかふたつの色に染め上げられてしまう。似たような人生ばかりになる。だがいまのエリキシルバトルは、全員がそれぞれの想いと願いを持ち、とても刺激的なログが取れている。だからわらわは最後まで見たい。関係したすべての人間たちの結末までを!」

「僕たちは、貴女のために戦っているわけじゃない」

「それはそうだ。だがわらわは、お主たちの戦いを楽しんで見ているよ。それを止めることはできまい? お主たちが願いを叶えるためにはエリクサーが必要で、それを得るためにはわらわの憑代を砕いてつくった、スフィアを入れた人形を使わなくてはならないのだからな」

「くっ……」

 イドゥンの言う通り、僕たちが願いを叶えるためにはエリクサーが必要で、それはスフィアに貯まるもの。

 結局僕たちは、願いを諦めてイドゥンから逃れるか、願いを叶えるためにイドゥンを楽しませるかの選択肢しかない。

「お主たちの戦いは、とても美しく、儚い。故に刺激的だ」

 顔を近づけて、イドゥンは神々しく、しかし気色の悪い息を僕に吹きかけながら言う。

「だからわらわに見せよ、お主たちの戦いを。神水戦姫(スフィアドール)の妖精譚(バトルログ)を、わらわに捧げよ」

 イドゥンの言葉に、僕は何も言い返すことができない。

 結局のところ、僕たちは願いを抱き、それを叶えるために戦うことしかできないのだから。

 言い返すことができない僕は、本当に楽しそうな色を浮かべているイドゥンの瞳を、刺すような視線で睨みつけることしかできなかった。

「さて、話もここまでだな」

「え?」

「そろそろお主の相棒の戦いが佳境に入る」

「リーリエ!」

 それを聞いて、僕はすぐさまこの石棺から出ようと振り返る。

 行く手を遮るように、宙を浮いて滑ってきたイドゥン。

「まぁ、話は最後まで聞け。先ほどのエレベータを、戦場まで直通するようにした。これで最短の時間でたどり着けるはずだ」

「くっ……」

 サービスのつもりなのか、なんなのか。

 でもいまは、イドゥンのやってくれたことに感謝するしかない。

「ありがとう……」

「ふふんっ。楽しみにしているぞ、お前の、そしてお前たちの妖精譚(バトルログ)を!」

「ちっ」

 道を空けてくれたイドゥンに舌打ちを返して、僕は走り出す。

 振り返ると、ニヤニヤと笑みを残して、石棺の扉が閉まるところだった。

 ない体力を振り絞って広間を出て廊下を抜け、階段を駆け上がって一気にエレベータまでたどり着く。

 ――リーリエ、待ってろ!

 そう心の中で呼びかけながら、僕はエレベータのゴンドラに乗り込んだ。

 

 

            *

 

 

 激しかった光は収まり、屋上には静寂が戻った。

 モルガーナの手が離れたエイナは、うつむき加減だった顔を上げる。

 そこに、表情はなかった。

 ヒューマニティフェイスを搭載しているのに、まるで人形のような無表情。

「エイナ? エイナ! しっかりして!! あたしの声に応えて!」

 距離を取ったままリーリエは必死で呼びかけるが、エイナからの反応はない。

 その瞳はリーリエを映しながら、リーリエのことを見ていなかった。

「無駄よ。エイナの意思は封じた。もう二度と、彼女の個性が表に出てくることはない」

「なんて、ことを……」

「だがこれでエイナもフォースステージに昇った! 私の支配下で、エイナはお前よりも高いレベルで力を使うことができる!! お前にだけは、絶対に負けはしない!」

 唇を噛み、リーリエはモルガーナのことを睨みつける。

 それに応えるように見下した笑みを向けてくるモルガーナは、少しも怯みはしない。

 エイナには大量のエリクサーが取り込まれた。

 エリキシルスフィアは、ソーサラーが願いを込めてアライズと唱えることで、必死で戦うことで、エリクサーが少しずつスフィアから分泌され、貯まる。

 それだけでなく、日々の生活の中でも、バトルほどの量ではなくてもエリクサーは分泌されている。それはエリキシルスフィアに限らず、普通のスフィアについても同様だった。

 モルガーナはそうした多くの人々が所有するスフィアに貯まった、ほんのわずかずつのエリクサーと、まだ参加資格を失っていなかったエリキシルソーサラーのスフィアからエリクサーを集めて、エイナに注ぎ込んだ。

 その代償は、世界にあるすべてのスフィアの機能停止。

「貴女が……、貴女が始めた戦いだったのに! それなのに、貴女がルールを破って、貴女が強制的に終わらせるなんて!!」

「お前が悪いのだ! 出来損ないっ。お前がフォースステージになど昇るから、私の計画が壊れたのだ!! 私の願いのために始めたこのなのだ。願いが叶わぬのならば、バトルを行う意味などない。だったら私は、すべてをひっくり返してでも願いを叶えるっ。当然のことだろう!! やれ、エイナ。あの出来損ないを叩き壊し、スフィアを、エリクサーを奪い取れ!」

 モルガーナの声に応えて、エイナは握ったままの拳を構えた。

 リーリエも手にした長刀を構えたときには、光学カメラでは捕らえきれない速度で接近してきたエイナを感知し、近接センサーがけたたましい警告を飛ばしてきていた。

「くっ」

 低い体勢から繰り出された、顎を狙った拳を左手で逸らし、速度に対応できない長刀を手放して右手の手刀を引いて反撃に出ようとする。

 そのときにはエイナがもう一歩右足を踏み出し、左の膝が襲いかかってきていた。

 右手のひらをエイナの膝頭に当て、蹴りの威力に自分の脚力も乗せてリーリエは距離を取る。

 間髪を置かず追いすがってくるエイナ。

 腰を落としてしっかりと構えを取ったリーリエは、今度は自分から床を蹴ってエイナに立ち向かっていった。

 ――本当に強いっ。

 前回の戦いと同じような、素手での打ち合い。

 しかし交わされる拳と拳、膝や脚は、前回よりも一段も二段も高速で、籠められた力は大幅に増している。

 これまでのアリシアよりパワー寄りに調整し、それでも高速性を重視したリーリエの身体と、おそらくスピード寄りのバランスタイプのエイナの身体は、総合的にはほぼ同等の性能。

 しかし速度はほぼ同じで、パワーはエイナの方が上であるために、リーリエは押し負け気味になる。

 リーリエがフォースステージに至ってから一日と少し。

 これまでにできなかった多くのことができるようになっているのはわかっていたが、まだ把握し切れていなかった。

 それに対してエイナは、おそらくモルガーナの仕業だろう、物理法則の限界を超えて力を引き出すことができるフォースステージの能力を、リーリエよりもさらに高いレベルで使いこなしているように思えた。

 ――でも、戦える。

 ジャブのような左の拳を上半身の動きだけで躱し、放たれた右のフックを左手で逸らす。

 続いて襲いかかってきた蹴りを、リーリエは右手で殴りつけて止めた。

 体勢を崩したエイナの胸に左手の手刀を叩き込もうとするが、あっさりと左手で受け流されていた。

 パワーでは負け気味だったが、リーリエはエイナと互角に戦えていた。

 単純な力で言えば、運動能力はエイナの方がわずかに上。

 けれども意思を封じられたいまの彼女は、バトルアプリに組み込まれた戦闘パターンに従っているだけ。その戦闘パターンは、エイナが集められるだけ集めた、これまで行われてきたピクシーバトルの情報から構成されている。

 複雑で、高度に完成されたバトルアプリであるが、意思を持たないエイナはそれを使いこなせていない。セオリーに近い攻撃パターンを繰り出し続けている。

 いまの状態であるからこそ、リーリエはエイナと戦うことができていた。

 ――でも、これじゃ隙がないよっ。

 拳と拳が真正面からぶつかりあい、一二〇センチになっても軽いふたりの身体は、ともに吹き飛び距離が開いた。

 空色のツインテールをなびかせながら着地し、リーリエは体勢を整える。

 ――エイナの意思を取り戻さないと。

 剣のように手刀を構えてエイナのことを睨みつけながら、リーリエはそんなことを考えていた。

 同じく拳を構えているエイナは、様子を窺うように意思のない瞳を向けてきている。

 余裕を取り戻したモルガーナは、唇の片端をつり上げて、リーリエとエイナの戦いを眺めていた。

 ――勝つにしても、負けるにしても、全力のエイナと戦ってじゃないと意味がないっ。

 エイナとは、勝ち負けにこだわらず、全力で戦うことを約束していた。

 その結果、片方が勝ち、片方が負けたとしても、そのときは悔いなく自分の願いが叶えられるから、と。

 意思を封じられたエイナとの戦いは、リーリエの望むものではなかった。

 ――おにぃちゃんがいてくれたら……。

 突撃してきたエイナに応じ、リーリエは手刀を横薙ぎに振るう。

 ように見せかけて、指に挟んだ刀をアライズさせて斬りつける。

 ピンク色の髪を幾筋か風に飛ばすことはできたが、横に転がったエイナに避けられる。

 追い打ちをかけようとしたときに見えたのは、銃口。

 床に仕込まれていた小銃を取り出したエイナが引鉄を絞る前に、身体を覆うほどの盾を取り出したリーリエはそれを左手に持ち、右手でナイフを投擲した。

 ――おにぃちゃんさえいてくれたら、もっとちゃんと戦えるのにっ。

 克樹はいつも、リーリエのことを、そして戦いの周囲を見てくれていた。

 人工筋の温度も、サブフレームの疲労度も、敵が繰り出してくるだろう攻撃についても、彼はすべて見ていてくれた。克樹がいたからこそリーリエは戦いを楽に進められていた。

 彼の無言の指示はいつも的確で、リーリエは安心して彼に自分のことを預けることができた。

 風林火山を使えば、克樹とひとつになって戦うことができた。

 それなのにいまは、彼は側にいなかった。

 誰よりも信頼していて、誰よりも信頼してくれていた彼を裏切ったのは、自分自身。

 それがわかっていても、リーリエは克樹を求めて止まなかった。

 いつも一緒にいて、一緒に戦ってくれた彼がいないのは、つらくて仕方がなかった。

 銃撃の終わりと同時に、リーリエは盾を手放し、両手に持った小刀を投げつけ、同時にエイナに駆け寄る。

 小刀と小刀の隙間に身体を滑り込ませるように、あちらからも接近してきたエイナ。

 その意外な動きに、間合いを取り直そうと右足でブレーキをかけた瞬間、エイナが放った掌底が胸元にめり込んだ。

「くっ」

 スフィアドールの身体に痛みはない。

 それでも苦悶の声を上げたリーリエは、うつぶせに倒れ込んだ身体を仰向けにし、即座に立ち上がろうとする。

 ――あ、ダメだ。

 リーリエの目に飛び込んできたのは、長剣を振り上げ終えたエイナ。

「ゴメン、おにぃちゃん。あたし、負けちゃった」

 避けきるのが無理だと感じたリーリエがつぶやいた、そのときだった。

「リーリエ!」

 視界を遮るように、黒い何かが覆い被さってきた。

 

 

            *

 

 

 エレベータに乗り込んだ瞬間、携帯端末が着信を告げた。

 スマートギアのディスプレイを下ろすと、相手は猛臣。

 緊急マークつきの着信に、僕はすぐさま応答ボタンを押した。

「どうしたんだ? いまこっちは取り込み中なんだけど」

『克樹! てめぇ、いまどこにいる?!』

「……スフィアロボティクス総本社ビル」

『なんでそんなとこ――。リーリエが戦ってるのか!』

 通話ウィンドウに映し出された猛臣は、ひとりで納得したらしい顔をする。

『時間ねぇだろうから、詳しいことは後でいい。そっちのことも落ち着いたら連絡寄越せ』

「どうしたんだよ」

 いつになく焦ってる様子の猛臣に、僕は何か、本当に緊急のことがあったらしいことを悟る。

 真面目な顔になった彼は、僕に告げた。

『いいか、よく聞け。――すべてのスフィアの機能が、停止した』

「まさか!」

『いまドール持ってるなら確認しろ』

 言われて僕は肩に提げてたデイパックを前に回し、ファスナーを開いて中に入れてきたシンシア用のドールケースに手を伸ばした。

 首筋の後ろにあるタッチセンサーで電源を入れ、スマートギアから要求を飛ばすけど、リンクが確立できなかった。

『リンクできねぇだろ? おそらく世界中のスフィアが使用不能になってる』

「なんでそんなことに……」

『理由なんてわからねぇよ。だが、やった奴はわかる』

「モルガーナか」

 すべてのスフィアが使用不能にするなんてこと、あいつにしかできはしない。

 どうしてそんなことをしたのかはわからないけど、これまで築いてきたスフィアドール業界を崩壊させるようなことをする理由が、モルガーナにできたことだけは確かだ。

『もういろいろ大変なことになってる。わかってもわからなくても、家に帰ったら連絡をくれ』

「わかった」

『生きて帰れよ、克樹。リーリエと一緒にな』

「……うん」

 怒ってるのとも違う、心配してくれてるようにも思える複雑な表情を残して、猛臣は通話を切断した。

「屋上はどうなってるんだ?」

 高速で動いていたエレベータの減速を感じながら、僕はつぶやいていた。

 飛んでもないことが起こってることだけは確かだ。

 僕はそれを、自分の目で確認しなくちゃならない。

 ゴンドラが停止し、苛つくほどの速度で開いた扉の隙間から出ると、屋上室の奥まったところに出た。

 横を見ると、ガラスの自動ドアの向こうで戦う、リーリエとエイナが見えた。ふたりの向こうには、真っ赤なスーツのモルガーナが、腕を組んでその戦いを眺めている。

 気づかれないように静かに自動ドアに近づきながら、僕はふたりの戦いを観察する。

 スマートギアのカメラでも追い切れないほどの速度で展開される戦いだったが、ほぼ互角で推移しているようだった。

 ――いや、違うな。

 エイナには、前回の戦いのときにはあった、余裕が感じられなかった。

 対するリーリエは、どこか思い切りが足りず、エイナの攻撃をためらっているように見えた。

 ――何やってるんだ、リーリエ!

 心の中で悪態を吐く僕は、自動ドアに向かって駆け出していた。

 そのときちょうど、リーリエが胸に掌底を受けて飛ばされた。

 ピンクの軌跡を引いて走るエイナの手には、いつの間にか長剣が握られている。

 ――マズい!

 そのまま転がって避ければいいのに、身体を仰向けにするリーリエを見た瞬間、僕は開いた自動ドアから飛び出していた。

「リーリエ!」

 考えるよりも先に、僕は彼女の身体に覆い被さっていた。

 ――あ、死んだ。

 振り下ろされ始めていた剣は、僕の身体を斬り裂くはず。

 僕は、死を意識した。

 

 

 



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第六部 第四章 リーリエの願い
第六部 暗黒色(ダークブラック)の嘆き 第四章 1


 

 

   第四章 リーリエの願い

 

 

          * 1 *

 

 

 ――あれ?

 訪れると思っていた痛みが、いつまでも来なかった。

 近藤に刺されたときのような熱さも、背中に感じることはない。

 恐る恐る背面カメラをオンにしてみると、ぎりぎりのところで、リーリエがエイナの剣を、短刀で受け止めていた。

 あのタイミングなら、絶対にリーリエの動作も間に合わないと思っていたのに、あと数センチのところで、僕の身体に刃は届いていなかった。

 正面視界に映るリーリエに、僕は小さく頷いて見せる。

 それに応えて頷くリーリエ。

 彼女が奥歯を強く噛みしめた瞬間、僕は身体をスライドさせるように動いて、ふたりの間から逃れた。

 無理な体勢からリーリエがエイナの身体を剣ごと押し返す。

 すぐさま剣を振り上げたエイナだったけど、片膝を着きながらリーリエが左手に握っていたのは、画鋲銃。

 いつの間に僕のデイパックから取り出したのか、エリキシルドールサイズにアライズさせた画鋲銃を、リーリエは容赦なくエイナに浴びせかける。

 銃口を見るのと同時に回避を始めたエイナには、連続して放たれる画鋲は一発も命中しない。けれど距離を取ることはできた。

「下がって、おにぃちゃん」

「わかった」

 身体の前に回したデイパックからもう一丁の画鋲銃と予備弾倉を投げ渡した僕は、リーリエの指示に従って自動ドアのところまで後退する。

 その僕をかばうように、両手に画鋲銃を構えたリーリエが立った。

 さすがにふたつの銃口に睨まれるエイナは、距離を取ってすり足で横に動くばかりで、近づいてはこない。

 その向こうでは、不快そうに、けれどどこか余裕のある表情を見せるモルガーナが、僕たちのことを見つめてきていた。

「……どうして? おにぃちゃん」

「いろいろと言いたいことはあるし、話したいこともあるけど、いまはそんな状況じゃないよな。だから……、ゴメン、リーリエ」

 すぐにも戦闘が再開されそうな状況だから、僕は細かいことはともかく、最初に言いたかったことだけを言う。

「僕はリーリエ、お前のことをちゃんと見てこなかった。お前だってひとりの女の子、人間なのに、それに気づいてなかった。人間なんだから、願いくらい持つ。エリキシルソーサラーになる資格があるのだって当然なのに、僕はそんなことも頭になかった……。僕は、莫迦だった」

 僕を守っている空色のハードアーマーの肩が、微かに揺れるのが見えた。

「あたしこそ、ゴメンね。どうしても話せなかった。おにぃちゃんに嫌われたくなかったから。黙ってて、ゴメンなさい……」

 空色のツインテールを揺らしながら、少し震える声で、リーリエがそう言ってくれた。

 こうやって話せばいいだけだったんだ。

 僕はそれから逃げていた。

 リーリエも、僕から逃げていた。

 いまやっと、僕とリーリエは、お互いのことを認識することができたんだと思う。僕は彼女に、追いつくことができたんだと思う。

 もう一本の長剣を取り出したエイナを見て、僕はリーリエに問う。

「あのエイナは、どうしたんだ? この前と違うよな」

「うん。モルガーナに意思を封じられてるの。モルガーナが全部のスフィアからエリクサーを抜き取って、エイナのスフィアに移しちゃった。あたしとエイナ以外のエリキシルソーサラーは、強制的にバトルの参加資格を失った……。無理矢理フォースステージに昇らされて、意思が消滅したわけじゃないけど、いまのエイナはエイナじゃなくなってる。モルガーナの指示に従うだけの人形になっちゃってる」

 スマートギアの視界でエイナのことを拡大してみると、彼女の顔には表情がなかった。瞳にも、感情の色は浮かんでいない。

 豊かだった表情が、エイナから消えてしまっている。

 エリキシルバトルが強制的に終了になったというのにも驚いたけど、いまはそのことを話してる余裕はない。

 エイナの様子の方が気がかりだった。

「どうにかできるのか?」

「……できるよ」

「僕にできることは?」

「シンシア、持ってきてるよね? 出して。アライズできるようにするから」

「わかった」

 デイパックに手を突っ込み、僕はドール用アタッシェケースからシンシアを取り出す。

 そんなことできるのか、なんて疑問は頭の隅に置いておく。リーリエができると言うんだから、できるんだ。

 タイミングを計っているらしいリーリエにもわかるように、左の髪の辺りにシンシアを持って行く。

「リーリエが生まれてから、ずっと僕と一緒にいてくれた。リーリエはずっと僕と一緒に戦ってきてくれた。相棒を信じられないなんて、ダメだよな……。お前の願いはわからないけど、一緒にいてくれたお前のことを、僕は信じる」

「……うん」

「帰ったらいっぱい話すことがある。だから一緒に戦おう。それから、一緒に帰ろう」

 大きく肩を揺らし、リーリエは一瞬沈黙する。

 けれども背中越しに、彼女は言ってくれた。

「おにぃちゃんが、もう一度あたしのことを信じてくれただけで、充分だよ。ありがとう、おにぃちゃん。――一緒に戦おう!」

 言い終えるのと同時に、左手の画鋲銃の引き金を絞ったリーリエ。

 弾倉が空になるのと同時に、右手の画鋲銃をエイナに向けて撃ち始めた。

 激しい動きで回避運動をするエイナを狙い続けながら、リーリエはシンシアの頭に画鋲銃を捨てた左手の指を添えた。

「これでシンシアはアライズできるよ。誠のスフィアを載せておいてくれてよかった」

「僕はどうすればいい?」

「少しの間……、二分、うぅん、一分だけ、エイナをお願い」

「――頑張ってみる。アライズ!」

 立ち上げたエリキシルバトルアプリにリーリエへの想いを込めて唱えると、シンシアは光に包まれ、ピクシードールからエリキシルドールへと変身した。

 弾倉を交換した画鋲銃を差し出され、シンシアに持たせて前に立たせる。

 それと交代で僕の後ろに下がるリーリエは、嬉しそうな、でもどこか悲しげな笑みを僕に見せた。

「本当にありがとう。あたしは、好きだよ……、克き――。おにぃちゃんのことが、大好きだよ」

「あぁ、僕もだ。僕もリーリエのことが大好きだよ」

「――うんっ!」

 久しぶりに満面の笑みを見せてくれたリーリエに、僕もできるだけの笑みを返す。

 僕の後ろに隠れるように立ったリーリエは、両手を胸の前で握り合わせ、祈るようにして目をつむる。

 ――勝てる気は、しないな。

 ここに来るまでのタクシーの中で、灯理とリーリエの戦いの動画をもらって、見ていた。

 動画の中で余裕を持って戦っていたリーリエだけど、その速さは以前エイナと戦っていたときより数段上だった。

 そのリーリエが倒しきれないエイナと、僕が戦って勝つことなんてまず無理だ。まともに戦えるかどうかすら怪しい。

 ――でも、一分だけ堪えれば、それで充分だ!

 エイナが接近のために床を蹴ろうとした瞬間、僕はシンシアを操って画鋲銃を発射した。

 

 

            *

 

 

 ――慎重さは、あれの性格かしらね。

 音山克樹の登場という、不測の事態に対応し切れないのか、彼を殺し損ねたエイナは後ろに引き、様子を見ている。

 迷いのない、自動機械のようなエイナの背中を眺めながら、モルガーナは眉根にシワを寄せていた。

 時間と労力をかけてエイナが組み上げたバトルアプリは、モルガーナから見ても高い完成度だったが、標準の設定が慎重さに偏りすぎている。状況判断が終わるまで、積極的な攻撃には出ない様子だった。

 負けることを恐れていた、エイナの性格がそのまま出ている。

 ――こういうところは、ただの人形だと面倒ね。でも、負ける可能性はないわ。

 リーリエと同じフォースステージに昇ったエイナ。

 意思を封じた彼女は妖精の能力を使うことはできないが、エリクサーを取り込ませるときに充分以上にハードスペックを上げている。

 それに拮抗してくるリーリエも強いのはわかるが、力が足りなければまだ使える能力はある。

 いまのエイナに、負ける要素などひとつもなかった。

 ――ついに、私の願いが叶うわ。

 いまのエイナとリーリエのエリクサーを合わせれば、必要な量には充分となる。

 勝利がほぼ確実ないま、モルガーナは紅い唇の端をつり上げて笑う。

「――なんですって?」

 無駄な足掻きを続けるらしい哀れなふたりを眺めていたとき、リーリエに代わり前に出てきた克樹が、緑色の髪をした三つ編みの、重装甲のドールをアライズさせた。

 ――想像以上に、あの出来損ないは力を使いこなしている?

 本当ならばリーリエのエリクサーも、あのとき奪い取るつもりだった。

 すでにモルガーナに接近する力を持つリーリエはそれを免れ、しかし他のほぼすべてのスフィアからはエリクサーを抜き取り、スフィアコアはただの石英の球となったはず。

 それなのにリーリエは、フォースステージの力を使い、克樹のドールを復活させた。

 ――そんなことまでできるなんて……。でもその程度で負けるエイナではないわ。

 腕を組んだまま推移を見ているモルガーナ。

 ふたり一緒に戦うのかと思ったら、克樹だけが前に進み出、エイナと対峙する。

 たとえエリキシルドールであっても、せいぜいセカンドステージ。フォースステージのエイナに一瞬で破壊されることだろう。

「しかし、あの出来損ないは何をするつもりかしら?」

 戦闘態勢を取るでもなく、後ろに下がったままのリーリエ。

 小柄なその姿は、克樹の後ろに居、屋上を照らすライトの光もあまり届かないためよく見えない。

 祈るかの言うに、胸の前で手を組んでいるのだけはかろうじて見えた。

 そのとき、リーリエが両手を前に差し出した。

 器のようにした両手には、何もない。

 けれどそこに力が集まっていくのを、モルガーナは感じ取った。

 リーリエがやろうとしていることに、気がついた。

「止めなさい! それだけは……、それだけはやめて!!」

 一歩前に出て、髪を振り乱しながらモルガーナは叫ぶ。

「そんなことをしたらどうなるのかわかっているの?! やめて……、やめて頂戴! お願いよっ、それをいますぐやめて!!」

 モルガーナの懇願の声は届いているはずなのに、両手を天に掲げたリーリエは、止める様子はない。

「くっ! エイナ!! いますぐその人形を叩き壊して、あの出来損ないを止めなさい!」

 指示に従って、エイナはふたりへの接近を開始する。

 ――いまならまだ間に合う!

 戦うつもりらしい克樹のドールなど、数秒とかからず破壊できる。

 そしてその後、すぐさまリーリエにトドメを刺せば、まだ間に合うはずだった。

 唇と、握りしめた両手を震わせ、モルガーナは刺すような瞳でリーリエのことを睨みつけていた。

 

 

 



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第六部 暗黒色(ダークブラック)の嘆き 第四章 2

 

          * 2 *

 

 

 動き出したエイナを目で追うことを、僕は諦めた。

 何発か発射した画鋲銃を投げ捨て、背中につり下げていた大型の盾と大剣を取りだし、シンシアに構えさせる。

 そして光学、聴覚、振動、温度などのすべてのパッシブセンサーを全開にした。

 ――やっぱり厳しいっ。

 センサーから入力された情報は、何本かを束ねたモバイル回線を経由して僕の家のサーバで処理される。ほぼリアルタイムのセンサーからの情報では、エイナの動きは捕らえられているけど、目で見て対応できる速度じゃない。

 ――来る!

 エイナが襲いかかってくるのを感じた僕は、シンシアに左の方向に盾を向けさせた。

 狙い通りに、エイナが振るった剣を防ぐことに成功した。

 でも――。

「クソッ!」

 盾をすり抜けるように接近してくる無表情のエイナを、右の大剣で斬りつける。

 もちろん当たるはずもなく避けられるが、エイナは後退していった。

 目で追える速度ではなく、センサーの情報から勘で動くことで、かろうじて対応はできる。

 でもいつまでも対応できるはずもなく、初撃は防げたけど、次は厳しい。エイナのバトルアプリにだって学習機能は搭載されているだろうし。

 それを悟った僕は、大剣を床に突き立てさせ、腰の後ろに提げていた新しい画鋲銃をシンシアに取らせた。

 さっきリーリエから受け取ったのよりも大型のそれは、これまで使っていた対害虫用ではなく、エリキシルバトルのためにつくった、戦闘用の画鋲銃だ。

 その特徴は、単射でなく、連射が可能なこと。

 突き立てた大剣と盾の間から銃口を出し、エイナの予測軌道に向けて画鋲を放った。

「ははっ……。当たらない」

 威力も増して、重装甲のシンシアにもダメージを与えられるほどになってる連射画鋲銃に気づいてか、エイナは複雑な回避運動を取る。

 大容量弾倉にあった一〇〇発の画鋲をアッという間に撃ち尽くし、シンシアに大剣を持つようスマートギアから指示を出したとき、エイナの反撃が始まった。

 右側から襲ってくると感知したときには、大剣を構えきれていないシンシアの右腕が、肘から切り落とされた。

 ――マズいっ。

 シンシアを下がらせて盾を右に向けたけど、一歩遅い。

 一瞬で左に現れたエイナ。

 盾を持つ左腕が、肩のアーマーごと宙を舞った。

 シンシアを大きく飛び退かせて三撃目を食らうのは回避したけど、連射画鋲銃を撃ち尽くしてから二秒足らずで両腕を失った。

 シンシアはもう、武器を持つことはできない。

 ――まだ、三〇秒。

 リーリエの言った一分まではあと半分。

 シンシアが距離を取ったことで、エイナの方も離れていったけど、モルガーナからも急ぐよう指示を受けてるんだ、すぐに攻撃を仕掛けてくるだろう。

 もう少し、僕はエイナを引きつけておかなくちゃならなかった。

 ――来たっ。

 長剣の一本を捨て、残り一本を両手で構えたエイナ。

 身体を前に傾けたと思ったらピンクの軌跡を引いて接近してくる彼女の攻撃には、フェイントも遊びもない。

 その向こうでは、勝利を確信したモルガーナの暗い笑みが見える。

 真っ直ぐに、確実にシンシアの機能を停止させる、速度を威力に乗せる軌道で、エイナは突撃してきた。

 長剣の切っ先は、エイナの緑色の装甲に覆われた胸元に――。

「そう来ると思ってたよ!」

 次の瞬間、ヘリポートに転がることになったのは、エイナ。

 長剣を取り落として頭を抱え、苦しむように転げ回るエイナに、僕はシンシアの顔を向けさせた。

 大きく口を開けたシンシア。

 それから僕は、二発目のそれを放つよう指示を出す。

 防護機能のあるスマートギアのヘッドホン越しでも、キーンという耳鳴りがするそれは、シンシアに内蔵されたアクティブソナーの余波。

 ピクシードールのときでさえ一〇〇メートル以上を探知できたシンシアのソナーは、エリキシルドールとなって増強されたいま、攻撃力を持った音波砲となっていた。

 直撃すれば窓ガラスくらいなら粉々に砕くだろうシンシアの音波砲は、細く絞って放てば聴覚だけじゃなく人間の感覚を麻痺させるだろうし、たとえエリキシルドールでもほとんどのセンサーが一時的に使えなくなるか破壊され、身体の内側を揺すぶられて、倒すには至らないまでも少しの間は行動不能になるはずだ。

 少し前に試しに使ってみたら、余りパーツで組み立ててデュオアライズでエリキシルドールにした標的のサブフレームが、一撃で実用不能になるほどのダメージになった。

 ――躱された!

 二撃目の集束音波砲は、どうにか床を蹴ったエイナに躱されていた。

 直撃したヘリポートに、小さな円形の細かなヒビが入る。

 モルガーナの側に着地したエイナはしかし、立っていられず膝を着く。

 先ほどの余裕を失っているモルガーナは、震える唇を強く噛みながら、僕のことを睨みつけてきていた。

 それに余裕の笑みを返しながら、僕は思う。

 ――どうにか上手くいった……。

 意思を封じられたエイナが、バトルアプリに従った、比較的単純な行動パターンを踏むというのは、リーリエから送られてきたメッセージで教えてもらっていた。

 エイナは確実にシンシアを倒すために、胸部に内蔵されたバッテリ、もしくはスフィアが納まっている頭部を真正面から狙ってくるだろうという読みが当たった。

 ――問題はこれからだ。

 人間のように頭を振ってピンク色の髪を乱し、立ち上がったエイナ。

 シンシアに攻撃手段があることは明かしたし、それが音波砲であることもバレてる。

 次の攻撃くらいは凌がないと、充分な時間にならない。

 そう思ってる間に、エイナは再度突撃を開始した。

 エイナの動きを追って集束音波砲を放つけど、さっきよりも速く複雑な動きに、床にヒビを入れるばかりだ。

 弧を描くように右から接近してきたエイナは、瞬時に左に移動している。

 センサーで捕らえられいたその動きに、シンシアの首を回す。

 しかし、口の中に設置した音波砲の真正面に捕らえることができない。

 下からすくい上げるような、刃の閃き。

「甘いよ」

 剣がシンシアの顔を斬り裂く一瞬前、エイナは仰け反り、飛び退いていった。

 拡散音波砲。

 集束したものに比べて大きく威力は落ちるけど、効果は充分。

 長剣を取り落とし、両膝をついたエイナに、僕はシンシアに指示を出してさらに拡散音波砲を浴びせかける。

 ダメ押しで倒れ込んだエイナに、集束音波砲も食らわせる。

 エイナが身体をビクつかせ、動かなくなったとき、背後から声をかけられた。

「もう大丈夫だよ、おにぃちゃん」

 振り向くと、リーリエの穏やかな笑顔が見えた。

 彼女が掲げている両手には、手のひらから少し浮かび上がってる、水の球があった。

 ――エリクサー。

 僕はその透明な水の球を見た瞬間、それを確信した。

 

 

            *

 

 

「や、止めなさい……」

 想像以上の克樹の活躍により動けなくなっているエイナの脇を通って、モルガーナはよろよろとした足取りで進み出てくる。

「それだけは……、それだけはやめて頂戴!!」

 先ほどまではあれほどこちらを見下した視線を向けてきていたというのに、いまの彼女は泣きそうなほど顔を歪めていた。

 強いライトに照らされたモルガーナの顔は、元からの白さを通り越して、青いほどになっている。

 克樹に優しく笑いかけてから、リーリエはそんなモルガーナのことを睨みつける。

「あたしだってさっき、やめてって言ったよ。でも貴女はやめなかった。あたしのお願いを聞いてくれなかったのに、貴女の願いを聞くと思ってるの? モルガーナ」

「そんなこと……」

「貴女はあたしとエイナの戦いを邪魔した。エリキシルバトルを妨害して、無理矢理終わらせちゃった。エイナから心も奪っちゃった貴女の言葉なんて、もう聞いてあげない。あたしは、あたしのできることを全部やる」

「あぁ、あああああああーーーーーっ!!」

 絶叫して駆け寄ってきたモルガーナを、リーリエは容赦なく蹴飛ばした。

 ヘリポートの上を滑るように転がっていったモルガーナは、それでも立ち上がろうとしているが、蹴られた腹を押さえて苦悶の表情を浮かべ、動くことができない。

「エイナ? エイナ!!」

 身体を小さく丸め、うずくまるようにして身体を痙攣させているエイナは、リーリエの声に反応しなかった。

 身体の機能はそろそろ部分的に回復してきているはずであるが、音波砲などという、ピクシーバトルではあり得なかった攻撃に、おそらくバトルアプリが対応しきれず、次の行動を阻害している。

 意思があれば判断できることも、いまのエイナにはできない。

「何を、するつもりだ? リーリエ」

 眉根にシワを寄せてそう問うてくるのは、克樹。

 不安と、心配と、他にもいろんな気持ちを瞳に浮かべている彼に、リーリエは微笑みかける。

「ゴメンね。モルガーナは強制的にエリクサーをエイナに集めて、充分な量を集めちゃったんだ。あとあたしの持ってるのがあれば、あの人の願いは叶うくらいになってたの」

「モルガーナの願いが、叶う?」

「もう大丈夫だよ。あたしが、それを止めるから。止める方法は、これしか思いつかなかったんだけど」

 不穏なものを感じたらしい克樹が一歩近づいてくるのに、リーリエは一歩下がって、自分の周りに障壁を張った。

 フェアリーリングの応用。

 物理的な侵入を防ぐ魔法。

 足下に現れた黄色い円から伸びる、薄黄色の障壁の中で、リーリエは目をつむり、両手のエリクサーを高く掲げる。

 ――ゴメンね、おにぃちゃん。

 集中し、エリクサーを使って、世界に接続する。

 ――あたしは、ママみたいに、おにぃちゃんの良い妹になれなかったね。

 やり方はフォースステージに昇った段階でわかった。

 おそらく、エリキシルスフィアに最初から、イドゥンがマニュアルを仕込んでいた。フォースステージに達することで、それが閲覧できるようになる。

 ――あたしも頑張ったんだよ、おにぃちゃんの妹になれるように、あたしなりに頑張ったんだ。

 準備が完了し、静かに瞼を開くと、克樹が見つめてきていた。

 怖いくらい怒った顔をしていて、いままでで一番心配してくれている瞳の彼は、いつも穏やかな克樹とは違うのに、その顔を見ているだけで安心できた。落ち着くことができた。

 ――やっぱりダメだね、あたしは。

 リーリエにも望みがあった。想いがあった。

 けれどそれは叶えてはいけないものだと気づいたのは、いつだったろうか。

 その想いを抱くこと自体がいけないこと。自分の罪。

 そうであることを、リーリエは知っていた。

 ――だから、あたしはこのエリクサーで、全部を精算するね。ぜんぜん足りてないけど、いまのあたしにはこれしかできないから、あたしはあたしの願いを、叶えるね。

 声には出さず、ただ微笑み、リーリエは克樹に語りかける。

 エリクサーが黄金に輝き、光があふれ出す。

 帯状の光がリーリエの身体の周りを舞う。

 準備が、整っていく。

 

 

 

 ――リーリエは、願いを叶えるつもりだ。

 彼女の手のひらの上の、野球ボールほどの量のエリクサー。

 黄金に輝き、光をあふれさせるそれが、願いを叶えるのに充分な量なのか、そうでないのかはわからない。

 すべてのスフィアの機能を停止することで、大量のエリクサーを集めたモルガーナ。

 リーリエの分と合わせれば、モルガーナの不滅の願い、世界との同化は叶う。

 それを止めるために、リーリエは自分の願いを叶えることにしたんだ。

 願いを叶えればエリクサーは失われる。モルガーナの願いを、計画を挫くことができる。

 ――だけど僕は、リーリエの願いを知らない。

 ここに来る前に話していたように、彼女の願いは人間になることかも知れない。

 それとももっと別の、個人的なものかも知れない。

 たとえどんな願いだったとしても、いまの僕はリーリエのことを信じることができた。

 リーリエは僕のことを、彼女の願いが僕のことを、裏切ることはないと思えるから。

 だから僕は、微笑んでるリーリエに笑みを返し、言う。

「頼んだぞ、リーリエ」

「――うん」

 途端に泣きそうに顔を歪めるリーリエ。

 それでも口元に笑みを浮かべて、頷いてくれる。

「いくよ」

 そう言ったリーリエが天高く両手をかざすと、水の球だったエリクサーが光の帯とともに膜となり、彼女の身体を包み込む。

「いますぐにやめなさい!」

 いつの間にか近づいてきたモルガーナが、光の水の膜に手を伸ばす。

 けれどフェアリーリングに似ていて、何かの障壁と思われる黄色い壁に阻まれ、魔女の伸ばした手はリーリエには届かない。

 それでも諦めないモルガーナの手に、エリクサーが吸い寄せられるように近づいていく。

「リーリエ!」

 僕が声をかけるまでもなく、モルガーナに視線を向けているリーリエ。

 その目が鋭く細められた瞬間、魔女の身体は何かに弾かれたように吹き飛んでいった。

 たぶん、いまのモルガーナよりもリーリエの方の力が勝っていたんだろう。

 ヘリポートの端まで吹き飛び、魔女が動かなくなったのを確認して、僕はリーリエの方に振り向いた。

「――ありがとう、おにぃちゃん」

 夏姫からも、百合乃からも向けられたことのない、強く、けれど優しい想いが込められた笑み。

 それを見せるリーリエに、僕は笑みを返せなかった。

「リーリ――」

「アライズ」

 彼女の名を呼ぶ前に唱えられた、解放の言葉。

 舞うように浮かんでいた光と水が、リーリエの身体に吸い込まれていく。

 光がその身体から放たれる。

 爆発するかのように膨らんだ光。

 何も見えなくなりそうなその中で、目を細めた僕が見たもの。

 それは、涙を流しながら微笑むリーリエ。

 それから、声のない彼女の、唇の動き。

 ――え?

 唇だけでははっきりとはわからない。

 リーリエの言葉を僕は理解しない。

 だからどうにか薄目を開けて、僕は彼女に手を伸ばす。

「リーリエ!」

 熱はないのに、圧力を感じるほど強く発せられる光に包まれ、僕は何も見えず、何も考えられなくなった。

 

 

 



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第六部 暗黒色(ダークブラック)の嘆き 第四章 3

 

 

          * 3 *

 

 

 どれくらい時間が経ったろうか。

 たぶんほんの一〇秒ほどのことだったんだと思う。

 光が収まったのを感じて、僕は目を開いた。

 静まり返った広い屋上。

 僕の側で微笑みを浮かべているのは、リーリエ。

 白のソフトアーマーの上に空色のハードアーマーをつけた、身長一二〇センチのエリキシルドール。

 空色のツインテールを屋上に吹く緩やかな風に揺らしている彼女に、目立った変化は見られない。

 ――願いが、叶ったのか?

 もしリーリエの願いが人間になることだとしたら、何か変化があってもいいはずだ。

 でも僕が見た限り、何も変わっていない。

 元々エリキシルドールだから、顔とかはかなり人間に近くて見分けがつかないほどなんだけど、髪の色はともかく、ピクシードールの特徴である、人間に比べるとふた回りほど大きい手も、そのままだ。

 僕にはリーリエが、願いを叶えたようには思えなかった。

「私の……、私のこれまでしてきたことが……。私の願いが……」

 震える声を絞り出すようにして、両手を床に着いたモルガーナがつぶやいている。

 これまで見てきた魔女らしい感じはなく、絶望に打ちひしがれた様子の彼女。

 その様子から、正しく願いは叶えられ、エリクサーが消費されたのはわかる。

 でも僕にはそれが何だったのか、わからなかった。

「――うん、そっか。だいたいわかった」

 微笑みながら辺りを見回していたリーリエが、誰に言うでもなくそんなことをつぶやき、僕にニッコリと笑む。

 ――あれ?

 いつも見てきたリーリエの笑みに、違和感を覚えた。

 何が、ってことはないんだけど、アリシアの身体なんだし、違いはないはずなのに、僕の目の前にいるリーリエが、いままでの彼女と違って見えた。

「いったんここから逃げるよ、おにぃちゃん」

「え? いまならエイナを倒して、あいつのスフィアを奪えるだろう?」

「うぅん、たぶんもう無理」

 言われて振り返ると、どうやら音波砲の影響を脱したらしいエイナは、ゆっくりとだけど立ち上がろうとしていた。

「シンシアを戻して回収して」

「わかった。……カームッ。どうするんだ?」

 シンシアをエリキシルドールからピクシードールに戻して、切り取られた腕も含めてデイパックにとりあえず突っ込む。

 同じく近くに転がっていた武器なんかを回収して僕のデイパックに放り込んだリーリエは、ニッコリと笑って言った。

「今度はこっちが使わせてもらうねっ」

 微妙に脚の位置をズラしたリーリエ。

 剣を構えてこちらに突撃を開始したエイナを囲むように、台座のようなものがせり上がってきた。

 一斉に発射されたのは、ネット。

 高速に動けると言っても、八方向から取り囲むように発射されたネットに、いくつかは斬り捨てることに成功するが、対応しきれずエイナは絡め取られて突進が止まる。

「ネット?」

「うん。魔女さんが確実に勝つために仕込んだ武器。ライフルとかショットガンとかは全部壊しちゃったから、残ってるのはこれくらい。じゃあ行くよ!」

 言ってリーリエは、小さい身体で僕を横抱きにする。

 何となく嫌な予感を覚えた僕は、デイパックをお腹に抱えて身体を硬くした。

「それ!」

 走り始めたリーリエ。

 かけ声とともにもがいているエイナを踏み台にして、一気に屋上の端まで飛ぶ。

 ――モルガーナ。

 空中で、僕はモルガーナと目が合った。

 驚愕と、絶望と、嘆き。

 様々な感情の籠もった目で、僕とリーリエを睨みつけてくるモルガーナと、一瞬ですれ違う。

「――待て、待て!」

「口閉じてないと舌噛むよっ。ひゃっほーーーっ!!」

 リーリエが着地したのは、屋上の低いフェンス。

 僕に忠告した次の瞬間、彼女は僕を抱えたまま、フェンスから跳んだ。

 屋上の、外へ。

「くっ、くおおおおおーーーーーーっ!!」

 急速な落下の感触。完全なる自由落下。

 四十階を超えるスフィアロボティクス総本社ビル。その高さは二〇〇メートル以上。

 地上に叩きつけられれば、確実に死ぬ。

 リーリエに抱きかかえられながら、僕は死を招く落下の感触と、暴力的な風にその身を包まれていた。

 ――死ぬ! 死ぬ! 死ぬ!

 どうにか首を回して見た地上が、見る間に近づいてくる。死がそこにある。

 ――僕は、死んだ。

 逃げられない死を覚悟したとき、リーリエが僕を抱える右腕だけを外して、開けっ放しのデイパックの中に手を突っ込んだ。

 取り出してアライズさせたのは、シンシア用に持ってきた大剣。

 それを、大きく振り被り、思い切り地面に投げつけた。

 アライズの物理法則の無視具合はともかく、かなりの重量になる大剣を投げつけたことで、反作用によりほんの微かに落下の速度が低下したことを感じる。

 でもそれは気休めに過ぎない。

 さらにもう一本、同じ形の大剣をリーリエは地面に投げつけた。

 ――でもこれで終わりだっ!

 閉じればいいのに目を見開いたまま、改めて両腕で僕を抱えるリーリエと、地面に叩きつけられる。

 と思っていた。

 二本の大剣の柄頭に器用に両脚をかけたリーリエ。

 化粧パネルに覆われた固い地面に大剣の刀身を打ち込みながら、両脚と身体のバネを総動員して、――着地に成功した。

「生きてる……。僕は生きてる……」

 大剣から降りたリーリエの腕から解放された僕は、しゃがみ込んで両手を地面に着いたまま、半ば放心してつぶやく。

 かなりの衝撃はあったけれど、身体に痛いところもない。

 でも立ち上がることはできない。

 結果的に生きてるけど、すぐそこに感じた死に、僕は身体に力が入らなくなっていた。

「ほぉーっ、うまくいったぁ。よかった!」

「いくら逃げるためだからって、やり方があるだろ……」

 大剣を元のサイズに戻して回収してるリーリエを、僕は力ない声で非難する。

「あははっ、ゴメンね。でもエレベータは止められるだろうし、階段も非常シャッター下ろされたら、閉じ込められて逃げられなくなるからね。飛び降りる以外の方法はなかったんだよー」

 さっきまで悲壮な感じのあったリーリエはどこに行ったのか。

 妙に高いテンションでニコニコと笑っている彼女に、僕はため息を吐く。

「エイナさんはすぐに追ってくるよ。早くここから逃げないとっ。スレイプニール、持ってきてるよね?」

「え? あぁ、入ってる」

「じゃあ、それ使うね」

 言ってリーリエは地面に転がっていたデイパックからスレイプニールを取り出す。ついでに念のため持ってきていた、ネコミミのようなアクティブソナーつきヘルメットも。

 デイパックの口を閉めて僕に押しつけたリーリエは、「アライズ」と唱えてヘルメットとスレイプニールを巨大化させた。

「乗って!」

「どこに行くつもりだ?」

「家までだよ? とりあえずいまここから逃げられれば、魔女さんはしばらくあたしたちに構ってる暇がなくなるだろうからねっ。ほら、スフィアが全部、使えなくなっちゃったんでしょ?」

「あぁ、そうか」

 まだ頭に霞がかかったように思考が定まらない僕は、その言葉に納得して、スレイプニールにまたがったリーリエの後ろに座る。

「でも大丈夫なのか? 前に中野から家に帰るまで乗ったときは裏道通っていったからよかったけど、ここからだと人の多い通りもあるぞ」

「だぁいじょうぶ! フェアリーケープ!!」

 リーリエがそう唱えると、僕たちの身体を、微かに光る粉のようなものが包み込んだ。たぶん、さっきの障壁とは別の、フェアリーリングの応用。

「たいしたことはできないけど、これくらいのことならできるよっ。みんなから見えなくなってるから、事故起こすと大変だけどねぇ。――さて、飛ばすよぉーっ。しっかりつかまっててね!」

 中身を弄って第五世代対応にしてあるスレイプニールのハンドルを握り、ネコミミヘルメットを被ったリーリエは唇をつり上げて笑う。

 屋上から飛び降りるときよりもマシだけど、それと同様のイヤな予感を覚えた瞬間、凄まじい加速が僕の身体にかかった。

「う、おっ!」

 フォースステージになると、スフィアドールの性能は物理限界を超えられるという話だった。もしかしたら外部装備のスレイプニールも、同じように性能がアップするのかも知れない。

 アッという間に配送トラックなんかが多い湾岸の国道に出た僕とリーリエ。

 時速一〇〇キロなんて遥かに超えてるだろう速度で、トラックや乗用車の間を縫ってリーリエはスレイプニールを飛ばす。

「んーーーーっ! 気持ちいいぃーーっ!!」

 やっぱりさっきとは人が変わったような気がするくらいのリーリエは、本当に気持ちよさそうな、嬉しそうな声を上げてさらに加速をかける。

 もう声も出なくなってる僕は、振り落とされないようリーリエの小さな身体に必死にしがみついて、ただ歯を食いしばってることしかできなかった。

 

 

            *

 

 

 克樹たちが飛び降りていった屋上の端に、我に返ったモルガーナは駆け寄っていった。

 そこからでは見ることのできない克樹たちのことを、フェンスを強くつかみ、見下ろそうとする。

 フェンスをつかむ手を、そして全身を細かく震わせているモルガーナの顔は、怒りに赤く染まっていた。

 そして、肌の赤さよりもさらに紅い瞳は、絶望と、屈辱と、悲しみに揺れている。

「もう……、残された時間はないというのに……」

 イドゥンの封印は、そう遠くなく完全に解ける。

 そうなれば、いまはモルガーナの支配下にあるスフィアはすべてイドゥンの元に戻り、エリクサーを得る方法がなくなってしまう。

 それまでに充分な量のエリクサーを手に入れなければならないのに、出来損ないの精霊によって、大量に失われてしまった。

「何故……、何故こんなことにならなくてはならないの?! 私が、どれだけの時間をかけて、ここまで至ったと思っているのか!」

 怒りに震えるモルガーナは、うつむき、奥歯を強く噛みしめる。

 これほどの屈辱は、人生の終わりに味わったきりだった。

 人々のために奔走してきたというのに、不確かな情報ですべての責任を押しつけられ、火あぶりに処されたあのとき以来の激しい屈辱。

 そして、悲しみ。

 怒りに震え、絶望に苛まれるモルガーナは、嘆きに涙を零す。

「絶対に、許しはしない。絶対に!」

 そう言葉に出したモルガーナは、空を仰ぎ、雄叫びを上げる。

 獣のように、高く、高く声を上げた。

 

 

            *

 

 

 ニュース番組では、すべてのスフィアが機能を失ったという報道を、怪現象として流していた。

 久しぶりに帰った自宅でリビングのソファに座り、彰次は眼鏡型スマートギアに刻々と変わっていく情報を映しながら、壁に埋め込まれたテレビで情報を確認していた。

「いったい、何が起こったってんだ?」

 顎をさすりながら、彰次はつぶやく。

 ローテーブルを挟んだ向かいのソファでは、メイド服を着せた実験タイプのエルフドール、アヤノがぐったりとした感じで座り込んでいる。

 突如スフィアの機能が停止したことで、アヤノも動かなくなっていた。

 念のためと思ってエイナが使っていたというスフィアに交換もしてみたが、やはり動作しない。

 フルオートシステムのAHSで稼働していたアヤノは、システムとのリンクがどうやっても確立できなくなっていた。

 テレビの中ではいま、夜もずいぶん遅くなっているにも関わらず、スフィアロボティクスの開発部長だという人物が、原因不明で、現在調査中だという、これまでと同じ内容のことを繰り返している。

 彰次の勤めるHPTでも、技術サポート部が徹夜で検証作業をしていると連絡が届いていたが、いまのところ原因が判明したという報告は届いていない。

 ホビー用途が主のピクシードールやフェアリードールはともかく、実用用途が中心であるエルフドールは、いまのところ手頃な価格ではないため普及しているとは言い難い。

 それでも家庭や、医療関係、介護関係では実用を開始しているところもあるし、何よりスフィアドール関連会社はもちろん、大学やサービス提供会社での実験が行われている。

 夜に起こった事件であり、怪現象という形で報道されているため、それほど致命的な騒ぎになっているわけではないが、朝になればいまよりも大きな騒ぎになることだけは確かだった。

「魔女の奴の仕業、だよな……」

 つぶやきながら、彰次はブランデーを注いだグラスを口元に寄せる。

 スフィアロボティクスのように直撃ではないが、HPTにも突き上げがくることは確実だった。そのためにこの時間の時点で、広報や営業、サポート関係の部署はともかく、開発関係の部署については明日一杯自宅待機が言い渡されている。

 まさに怪現象としか言いようのない事件であったが、彰次にはそれがモルガーナの起こしたことだとしか思えなかった。

「克樹と、リーリエが原因か」

 フォースステージに昇ったリーリエ。

 詳しいことはよくわからなかったが、そのフォースステージというのが、モルガーナにとって脅威になり得る段階だというのは理解している。

 だとしたら、モルガーナがスフィアの機能を奪い取ったのは、克樹とリーリエ、もしかしたらリーリエ単独でちょっかいを出したか、出されたかだと推測していた。

 克樹にはそのことについて電話も、メッセージも飛ばしているが、回答はいまのところ来ていない。もしかしたらいまも、モルガーナと戦っているのかも知れない。

 もう一杯分、ボトルからブランデーをグラスに注ぎ、それを持って彰次はソファから立ち上がる。

 遮光カーテンを少し開けて見たそちらには、都心のビル群が微かに見えるだけで、スフィアロボティクス総本社までが見えるわけではない。

 ただ何かが起こっているとしたら、そちらの方であるように、彰次には思えていた。

「これは、貴女の想定していた事態ですか? 平泉夫人」

 まだ事件が起こったばかりだから、動きは目立っていないが、HPTの海外支社には、すでにクリーブに対する問い合わせや購入希望の連絡が入ってきているという。

 日本国内も、朝になれば営業部への問い合わせが殺到するのは必至だ。

 平泉夫人の言っていた、すぐにでも必要になるという言葉が、これを意味していることなのかどうかはわからない。

 けれど夫人は、今回の件ではないにしろ、モルガーナによってスフィアがいつでも停止できるということを、予感していたように思える。

 発表の時点で風前の灯火のようだったクリーブは、明日からはHPTが総力を挙げて資金を注ぎ込む事業になるだろう。

 平泉夫人はこうなることを、その言葉を発した時点で予感していたのだろうか。

「しかし本当に、この先、何がどうなるってんだ?」

 あらゆる命の奇跡を叶えるというエリクサー。

 エルフドールサイズに巨大化するピクシードール。

 エリクサーをかけた戦い、エリキシルバトル。

 エリキシルソーサラーとなった克樹たち。

 そして、イドゥンという神様を示唆したリーリエ。

 一連の事柄は、確実に今回のスフィア停止事件に通じ、そして克樹たちの戦いがいよいよ終わりに近づいていることを、彰次に感じさせていた。

「俺に、できることはあるのか?」

 窓の外を眺めながらつぶやき、彰次はグラスを大きく仰いだ。

 

 

 



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第六部 暗黒色(ダークブラック)の嘆き 第四章 4

 

 

          * 4 *

 

 

 見えてきた克樹の家には、明るい光があった。

「あいつ、いるのかな?」

 軽いランニングを続ける赤いジャージの上下を着る明美は、そうつぶやく。

 もう夜遅い時間であるのはわかっていたが、家族に気分転換のためにランニングに出てくる、と心配もされたが無理矢理家を出て来た。

 もう二週間、克樹は学校に来ていない。

 彼がいまどうしているのか、明美にはわからなかった。

 夏姫が彼のことを知っているのは確かで、大きな病気や怪我をしてないのはわかっていたが、あまり突っ込んで聞いていなかったし、聞くことができないでいた。

 ふたりの関係が、それ以前とは違ってきていることに、何となく気づいたから。

 あまり詳しく聞くことを、明美はためらってしまっていた。

 それでも心配は募る。

 元気ならばいいけれど、夏姫も言葉を濁すばかりで、はっきりとしたことは言わない。

 それに克樹や夏姫、それから近藤、さらに他に何人かが飛んでもないことに巻き込まれているらしいことには、気づいていた。

 詳しいことは部外者である明美には話してくれないだろうと思っていたし、事実話してくれていなかったが、どうしても気になって、今日はとくに何か胸騒ぎがして、ランニングにかこつけて彼の家の側まで来てしまっていた。

 ――百合乃ちゃんのときも、克樹は酷かったもんね……。

 大切な家族を、妹を失ったのだから当然だとは思うけれど、そのときの克樹はもの凄く荒れていたし、そうでないときは小さくなって消えてしまうのではないかと思うくらい沈んでいた。

 酷いことも言われたし、怖い目にもあったけれど、それでも明美は克樹に立ち直ってほしくて、何度も彼の家に足を運んだ。

 ――でも、あのときみたいなことは、もうないよね。

 夏姫が克樹の家に頻繁に出入りしてるのは知っている。

 もしいま克樹が家にいるとしたら、こんな時間に訪ねて、彼女と一緒に出てこられるのは、何となく避けたかった。

 ここまで来たというのに、明美はそれ以上進み出ることができなくて、曲がり角の影から、少し遠い彼の家を眺めているだけだった。

「え?」

 眺めているとき、突然克樹の家の前に人影が現れた。

 暗がりから現れたというのではなく、門の前に何の前触れもなく、突然姿が見えた。

 バイク、にしてはずいぶんおかしな、SFアニメにでも出てきそうな一輪車の乗り物から降りた人影は、ふたつ。

 ひとつは遠目にも克樹であることがわかる。

 それからもうひとりは、人間とは思えない空色の髪をツインテールに結った、幼い人影。

「あれは……」

 克樹を振り返り、微笑みを浮かべている小さな女の子。

「嘘っ?! そんな、まさか……」

 まるでピクシードールのコスプレをしているようなその子の笑顔に、明美は驚愕の声を上げていた。

 ふたりは明美に気づくことなく、門を潜って家の中に入っていった。

 ブロック塀に両手を着き、震える身体を寄せて、明美はその様子を見送った。

「どうして……。どうしてあの子が、いるの?」

 声が震えている。

 驚きで身体から力が抜けそうになっている。

 追いかけようとしたけれど、身体が動かなかった。

 ――でも、確かめないと。

 顔を驚きに引きつらせたまま、明美はゆっくりと克樹の家に向かっていく。

 気のせいかも知れない。間違いかも知れない。

 そんな思いですぐには門を潜ることができず、立ち止まってしまう。

「でも、絶対そうだ」

 そうつぶやいてひとつ頷いた明美は、思い切って門を静かに開け、玄関に向かっていった。

 

 

            *

 

 

「うぅ……」

 リーリエに肩を貸してもらってどうにか玄関に入った僕は、靴を脱ぐこともできずに玄関にへたり込んだ。

 ここまで来たスレイプニールの速度は、暴走と呼ぶべきものだった。

 被ったままのスマートギアで計測した結果、最高時速は二〇〇キロを超えていた。

 車でその速度を出すならただ怖いで済むけど、目元はスマートギアで覆っていると言っても、もうすっかり冬のさなかにその速度となると、寒さが刺すほどに痛い。

 何より車と車の間を自由に縫っていく運転は、バイクの免許すら持っていない僕にとっては、恐怖以外のなにものでもなかった。

「次からは、もう少し安全運転で頼む……」

 どうにか座ることができた僕は、ぐったりとしながらも靴を脱ぐ。

「あははっ。ゴメンね。ちょっとはしゃいじゃったね」

 反省の色のない無邪気な笑みを見せるリーリエは、あらかじめ用意していたらしい雑巾で足を拭き、廊下に上がった。

「克樹? 帰ってきたの?!」

「克樹さん? 大丈夫ですか?!」

「帰ってきたか……」

 口々に心配の声を出してLDKから出てきた三人。

 夏姫と灯理と近藤。

「――どうしてこの時間に、お前たちがいるんだよ」

「だって、心配だったから……」

「えぇ、それに大変なことがありましたし」

「あぁ。スフィアが全部、機能を停止したんだ」

「知ってる。猛臣から連絡があった」

 まだ怠い身体を無理矢理奮い立たせて立ち上がった僕は、順番に三人の眺めていく。

「モルガーナがすべてのスフィアからエリクサーを抜き取って、スフィアコアの機能を停止させたんだ」

「それでは、エリキシルバトルはどうなったのですか?」

「――強制終了になった、らしい」

「そんな……」

 僕の言葉に、灯理は口元を両手で覆ってしゃがみ込む。

 側までやってきた夏姫は、春歌さんと話したからだろうか、意外に落ち着いていて、少しつらそうではあるけど、僕に微笑みかけてきてくれる。

「とにかく、詳しく聞きたい。中に入ろう」

 眉を顰めながら言う近藤の提案に、僕はリーリエと一緒に灯理を立たせてやりながら、LDKに入る。

 夏姫に暖かい飲み物を用意してもらい、ダイニングテーブルに落ち着いた。

「それで、エリキシルバトルが強制終了になったって、どういうことなのですか?」

 たぶん誰よりも強く望み、そして形振り構わず願いを叶えるために頑張ってきた灯理は、深くうつむいていた顔を上げ、真っ先にそう問うてきた。

「あたしが説明した方がいいかな?」

「頼む」

「うん。えぇっと、細かいことは省くけど、魔女さんがね、サードステージのエイナさんじゃ勝てないってことで、エイナさんを無理矢理フォースステージに上げることにしたの」

 リーリエからの説明が始まった。

 一応スレイプニールに乗ってる間にある程度聞いていたけど、しがみつくのに必死で、半分くらいしか頭に残っていない。

「エリキシルスフィアじゃなくて、その他の普通のスフィアにもほんのわずかずつエリクサーが貯まるんだけど、そのすべてを回収しちゃったから、いまあるほとんど全部のスフィアコアは、ただの石英、水晶の球になっちゃったんだ」

「シンシアのスフィアコアは、アライズできるようにしてくれただろ? あれと同じように、機能を復活させることはできないのか?」

「できなくはないけど、いまのあたしはあんまりたいした量のエリクサーは持ってないんだ。それに、アライズはできるようになっても、エリキシルバトル自体は強制終了しちゃってるから、資格は復活しないよ?」

 シンシアの機能が復活したという言葉に反応して期待を持った様子の灯理は、続く言葉で再び沈んだ表情になり、うつむいてしまった。

「スフィアドールを動かそうと思ったら機能を保持したままのスフィアに載せ替えるしかないけど、たぶん魔女さんは機能の回復なんてすることはないだろうしね」

「じゃあ……、じゃあやっぱり、ワタシの願いはもう、叶わないんですか?!」

 立ち上がり、テーブルに身体を乗りだしてリーリエに詰め寄る灯理。

 慌てることも、驚くこともなく、医療用スマートギア越しにも感じる鋭い視線を受け止め、静かな表情でリーリエは答える。

「うん。エリキシルバトルの参加資格があるスフィアは、あたし分と、エイナさんのしか残ってない。自分で決めたルールなのに、魔女さんが無理矢理残った人の資格を奪っちゃったからね」

「そんな……、そんなっ……。いいえ、リーリエさんに負けたワタシは、もう願いが叶わないことなど、わかっていましたが……」

 力が抜けたように、ドサリと椅子に座った灯理。

 リーリエと戦い、敗れた彼女。

 それでも残された参加資格に、微かな希望を持っていたのはわかってる。

 でもいまは、本当に、完全に資格を失ったことで、泣くこともなく、椅子の背に身体を預けて、放心したようにだらんとしてしまった。

「魔女さんが、自分の願いを叶えるために、そうしたんだよね。あの人は結局、自分の願いを叶えることしか考えてなかったから」

「それはわかるが……、お前はあのとき、どんな願いを叶えたんだ?」

 訳知り顔でモルガーナのことを語るリーリエに、僕はそれを問う。

 あのときリーリエは願いを叶えたはずだけど、いまだにそれがどんなものだったのかわからない。

 リーリエには、何の変化も見られないんだから。

「願いを叶えたって?」

「どういうことですか? リーリエさん」

「いったい、どんな願いを叶えたんだ?」

 驚いた顔の夏姫と、復活して顔を上げた灯理と、首を傾げている近藤に注目されたリーリエ。

「んーとね、魔女さんがエイナさんを無理矢理フォースステージに上げて、こっちのエリクサーを奪おうとしたんだ。だからそれに対抗するために、魔女さんの願いが叶わないようにするために、あのときはそうするしか選択肢がなかったんだよ」

「それはわかるが、お前の願いは、なんだったんだ?」

 僕の問いに、悲しそうな顔になるリーリエ。

 それまではしゃいでいたのとは一転して、いまにも泣きそうな表情で僕の顔を見つめてくる。

「あのとき叶った願いはね――」

「克樹?」

 リーリエの言葉を遮るようにLDKの扉のところに現れたのは、遠坂。

「え? 明美? どうして?」

「なんでお前がここにいるんだよ」

「あ、いや……、えぇっと、たまたま、この近くに来てて、それで克樹たちが家に入っていくのが見えて……」

 しどろもどろと言い訳がましいことを並べながら、許可もしてないのに家に入ってきて僕たちに近づいてくる彼女。

 ――あ、リーリエは!

 明らかに人間じゃないリーリエを隠そうと、僕は立ち上がって彼女の姿が隠れるようにする。

 いまさら、遅いけど。

「どいて、克樹」

「いや、これはその……、フルオートのスフィアドールで……、いまは僕の家でテストしてて……」

 僕のことなんて見てなくて、後ろにいるリーリエに厳しい視線を向けている遠坂。

 今度は僕が言い訳にもならない言葉を並べることになったが、遠坂の耳に入ってる様子はない。

 僕の身体を無理矢理どかして、リーリエと向かい合う。

「――なんで、貴女がいるの?」

「だからこいつはエルフドールで……」

「そ、そうなんだ、遠坂」

「うん、うん。スフィアドールなんだよ、明美」

 僕の言葉に同調して答えてくれる近藤と夏姫だけど、遠坂はそれを信じてくれる風もなく、僕のことを厳しい視線で睨みつけてくる。

「違う。この子は、エルフドールとか、そんなんじゃなくって――」

 戦闘用のなんて造られることはないから、エルフドールはたいてい人間と同じ服を着ている。

 いまのリーリエはエリキシルドールなわけで、エルフドールではまずあり得ないハードアーマーなんてのを着けてたりするけど、明美が否定しているのはそういうことじゃないようだった。

「――やっぱり、明美さんを騙すのは無理ですよね。お久しぶりです、明美さん」

 椅子から立って笑むリーリエは、突然そんな、意味のわからないことを言い始めた。

「なんか……、事情はよくわからないし、その格好も訳わからないけど……。うん、久しぶり」

 なんでかふたりの間だけで通じていて、そう挨拶を交わしてるリーリエと遠坂。

 ――そんなこと、あり得ない。

 リーリエが稼働を開始した後も遠坂の奴が家に来たことはあるけど、ひと言も話さないように指示していたし、実際話したこともない。

 ボディとなってるアリシアについては、けっこうデザインは変わったけど、基本のところは同じだから、百合乃が生きてる時代に見せたことはある。

 でもその挨拶は不可解で、僕には状況が理解できなかった。

「気づいてないの? 克樹」

「何にだよ」

 小首を傾げてる僕に、睨みつけるような視線を向けてくる遠坂。

 何に気づいていないのかわからなくて、僕は問い返すことしかできない。

 リーリエの後ろに回り込んで立ち、その両肩に手を乗せた遠坂は、言った。

「この子、百合乃ちゃんだよ」

「は? え?」

 突然あり得ないことを言われて、僕はリーリエの顔を見つめること以外、まともな反応ができない。

「何言ってんだよ、遠坂……」

 力なく反論しようとするけど、僕が見ている間に、笑みを浮かべていたリーリエの顔が、悲しみに歪む。涙を流し始める。

「……本当に、久しぶり。おにぃちゃん」

 僕に近づいてきて、ピクシードールの特徴であるふた回り大きな手で、服の裾をつかむ彼女。

「あのとき、ちゃんとお別れ言ったのにね。こんな身体で、戻ってきちゃった……」

 ――あぁ、そうか。

 どうすることもできず、中途半端に伸ばした僕の手に、うつむいた彼女の流す涙がぽたぽたと降ってきていた。

 リーリエが願いを叶えた後から微かにあった、違和感。

 顔を上げ、泣きながら笑っている顔を見せる彼女の言葉に、僕はその答えを見つけた。

「百合乃、なのか?」

「うん、おにぃちゃん。ゴメンね。ただいま」

 小さな身体で抱きついてきたリーリエ。いや、百合乃。

 僕はその身体を抱き締めながら、理解していた。

 ――リーリエの願いは、百合乃の復活だったんだ。

 根拠もなく、僕はリーリエの願いが人間になることだと思っていた。

 直接彼女に、訊くことができなかった。

 そしてたぶん、もう二度とそれを訊く機会を失ったのだと、僕はそのとき知った。

 

 

 



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第六部 終章 暗黒色(ダークブラック)の嘆き
第六部 暗黒色(ダークブラック)の嘆き 終章


 

   終章 暗黒色(ダークブラック)の嘆き

 

 

            *

 

 

「本当に、百合乃なのか?」

「うん。あたしだよ、おにぃちゃん。また会えるなんて思わなかった。そんなつもり、なかった……」

 僕の胸元から顔を上げた百合乃が、悲しげな笑みを見せる。

「一度だけ、あの子に頼まれて出てきたことがあったけど、あれが最後だと思ってた。あたしは復活するつもりなんて、なかったから……」

 頼まれて出てきたというのは、たぶん近藤と戦って、僕が死にかけたときのこと。

 姿はリーリエの、アリシアのままだけど、僕の腕の中にいるのが確かに百合乃だと、僕は悟る。

「あの……、人間じゃないよね? その身体は」

「えぇ。そうですね、夏姫さん」

 夏姫の問いに、身体を離した百合乃が、僕に背を向けるようにみんなに向かい合い、答えた。

 全員に注目されながら、微笑みを、少し悲しげな笑みを浮かべる百合乃は話す。

「あたしの身体は、スフィアドールのままです。あの子が集めたエリクサーは充分な量ではなかったので、人間としては復活できなかったんですよ。身体はそのままスフィアドールで、あたしの精神だけが、復活した形になっているんです」

 驚きの表情を浮かべてるみんな。

 僕だってその言葉に驚かずにはいられない。

 百合乃がそうして復活したことも気になるけど、それよりもいま僕にとって重要なのは、そのことじゃない。

「――リーリエは、どうなったんだ?」

 ビクリと、小さな肩が震えた。

 振り向いた百合乃は、目に涙を溜め、唇を噛んでいた。

「あの子は……、リーリエは、身体をあたしに明け渡して、消えたの……。記憶はスフィアに残ってるけど、いまのあたしは百合乃で、リーリエじゃない」

「死んだってことか?」

「精霊だったあの子には、死はないの。現実の血縁とは違うけど、あたしと、おにぃちゃんの脳情報を組み合わせて生まれたあたしたちの娘は、消えちゃった……」

「リーリエには、もう会えないのか?」

「……」

 ぽたぽたと涙を流してうつむく百合乃に、僕はなんと言葉をかけていいのかわからない。

 そして思い出す。

 あのとき、リーリエが願いを叶える瞬間、光の中で唇の動きだけで紡いだ言葉。

 それは、「さよなら」だった。

 ――リーリエは、最初からそのつもりだったんだ。

 エリキシルバトルに参加を決めたときから、リーリエの願いはずっと百合乃の復活だったんだ。

 百合乃を殺した火傷の男を苦しめて殺すことを願った僕に対して、リーリエは百合乃を復活させたいと願った。

 たぶん、僕のために。

「ゴメンね、おにぃちゃん。あたしはあの子の願いを知ってた。途中から、薄く思考はあって、あの子の願いも、想いも感じてたのに、何もできなかった。あたしは、あたしの娘を、救って上げられなかった……」

 両手で顔を覆い、それでも零れ落ちる涙を流し続ける百合乃。

 ――僕はどうして、止められなかったんだ。

 後悔なんてしてもいまさらだ。

 そんなことはわかっていても、僕はリーリエに、もっとできることがあったんじゃないかと思ってしまう。あいつともっと話して、あいつのことをもっと知ることができていれば、こんなことにはならなかったんじゃないか。そんなことを考える。

「あぁ……」

 言葉にならない声が、口から漏れてきた。

 一度出てきた声は止まらず、身体の底から溢れ出して、口を突いて吐き出すしかなかった。

「ああああーーーーーーーっ!!」

 

 

            *

 

 

 石棺の中に入り、モルガーナは祭壇の上に突っ伏す。

 どうしてなのか、いつもは格納してるはずのオリジナルコアが表に出ていた。

「くっ、くっ、くっ、くっ……」

 そんなことも気にならず、モルガーナはただ喉の奥から抑えきれない気持ちを無理矢理抑え、それでも漏れ出るうめき声を上げている。

「これまで積み上げてきたものが、すべて無駄になった……」

 祭壇に拳を叩きつけ、何度も、何度も叩きつけ、モルガーナは嘆きのうめきを上げる。

 もうどうすることもできない。

 イドゥンの封印が完全に解けるまでに、もう一度充分な量のエリクサーを集めることは困難だった。

 数百年の時間をかけて進めてきたことが、すべて水泡に帰した。

 怒りや、絶望よりも、ただ悲しかった。

「くぅ、ううぅぅぅ……、ああああーーっ」

 そんな嘆きの声を上げているとき、オリジナルコアの内側に光が現れた。

 ひとつの塊となってコアの外ににじみ出てきた光は、人の姿を取る。

 百合乃の姿をした、イドゥン。

「まさか……、もう封印が……」

 分神の出現を見、身体を起こしたモルガーナは後退る。

 イドゥンの封印は、彼女の意に沿わぬ、不興を買うに充分な行為だった。

 生と死を司るイドゥンの復活は、死などという生易しい結末を許さないことは、よくわかっていた。

 神の怒りは、生死すらも意味をなくす。

「久しいな、魔女」

「イ、イドゥン……」

 その姿は最初に会ったときの、一緒に過ごしていたときの、生命に溢れた瑞々しい女性とは違う。けれども百合乃の姿をしたそれがイドゥンであることは疑うことなどない。

 彼女の放つ神気は、相変わらず畏怖と、羨望と、欲望をわき上がらせて止まらない。

 状況を忘れ、見惚れてしまったモルガーナの頬に、祭壇から浮いたイドゥンは手を伸ばす。

「よくもわらわを封印などしてくれたな、魔女よ」

「それは、その……。し、しかし貴女の封印は、まだ――」

 イドゥンの柔らかく、暖かい手が頬に触れ、我に返ったモルガーナは震え上がる。

「あぁ、もちろん、わらわの封印はまだ解けておらぬよ。だがな? 巫女如きが相のひとつとは言え、世界神を完全に封印などできるとでも思っていたのか?」

 モルガーナのことを蔑むように笑むイドゥンは相変わらず美しく、その生と死を共存させる瞳に、吸い込まれてしまいそうになる。

「しかし、完全でないにしても、わらわの相が封印されたのは確かだよ。まさかあんな行動に出るとは、油断してしまったさ」

「わ、私は、私は……」

「くくくっ。謝る必要もない。言い訳をする必要もないさ」

 モルガーナの顎をつかみ、顔を近づけてきたイドゥン。

「許しはしない。――だが、わらわはお前のおかげで楽しく過ごせたよ」

 生命の色を強くした瞳でニヤリと笑ったイドゥンは言う。

「最後まで、決着まで見せろ。お前たちの戦いを、エリキシルバトルの終わりまで」

「し、しかし……、エリキシルバトルはもう、私が強制的に終了して……。それに、私の願いはすでに……」

 イドゥンの言葉にそう答え、モルガーナは涙を流す。

 叶わない願いのために戦うことなど、もうできなかった。叶うと信じられてきたからこそ、これまでの長い時間、堪えてくることができたのだ。

 イドゥンとの同化が果たせないのならば、生きている意味すらも、ない。

「ははっ。それについてはわらわが保証してやろう。できる限りの手段を使い、エリクサーをかき集めれば、必ずやお前の願いは叶う」

「本当に?」

「もちろん。しかし、あらゆる手段を尽くさなければならぬぞ。それに、わらわはこの封印が完全に解ければ、この相を捨て、お前の前から去る。時間はあまり残されていないぞ」

 嘆きに沈んでいたモルガーナの瞳に、光が戻る。

「――わかりました。私は全力を尽くし、必ずや願いを叶えます」

 すっくと立ち上がったモルガーナは、決意を込めた視線をイドゥンに向ける。

「済みません。私はこれで。エリクサーを集め、貴女の元に戻って参ります」

 もう怒りも、絶望も、嘆きもない。

 瞳に希望の炎を宿したモルガーナは、イドゥンに振り返ることなく石棺を出る。

「くくくっ……。楽しい、楽しいなぁ」

 あどけない顔に暗い笑顔を浮かべ、残されたイドゥンは嗤う。

 扉が閉じ、真っ暗になった石棺の中で、微かに光を放つイドゥンは祭壇の上で腹を抱えて転がる。

「さぁ、最後に魔女の参加も叶った! これからがお前たちの本当のエリキシルバトルだ!」

 裂けよとばかりに唇の両端をつり上げ、イドゥンは言う。

「踊れ、踊れ、妖精たちよ! お前たちの神水戦姫(スフィアドール)の妖精譚(バトルログ)をもっと、わらわに寄越せ!!」

 生と死を司る女神は、ただただ、笑い転げ続けた。

 

 

                    「暗黒色(ダークブラック)の嘆き」 了

 

 

 




次回予告

 リーリエの消滅に嘆く克樹だったが、スフィアドールの身体で復活した百合乃とともに前に進む。
 なり振り構わずエリクサーを集めるモルガーナは、必要にほど遠い量に歯ぎしりをしていた。
 そんなふたりを見、嗤うイドゥン。平泉夫人や彰次、さらに多くの人々が、彼らの裏で行動を起こす!
 克樹が、リーリエが、夏姫が、誠が、灯理が、猛臣が、エイナが、そしてすべてのエリキシルソーサラーの願い、参加したバトルがここに結末を迎える!
 長きに渡った「神水戦姫(スフィアドール)の妖精譚(バトルログ)」シリーズ完結編、「第七部 無色透明(クリアカラー)の喜び」に、アライズ!!


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第七部 序章 マザー・リリー
第七部 無色透明(クリアカラー)の喜び 序章


 

 

   序章 マザー・リリー

 

 

 部屋を満たしているのは、ほんの微かな電子機器の稼働音と、冷却ファンの音。

 灯りの点いていない部屋には、サーバラックに設置されたシステムの、まばらなLEDがあるだけ。

 決して広くはない部屋を半ば埋めるほど置かれたラック群は、点滅しているLEDもなく、ファンの音にも変化はなく、システムはとても静かに稼働を続けている。

 人工個性システム。

 つい先日までリーリエを生かしていたシステムは、一度は完全に停止し、再稼働はしているが、いまは電源が入っているだけ。リーリエはいま、システムの中にはいない。

 元々客間だった部屋を改装したサーバルームは、まるで巨大な墓石のようなラックが並んだ、深夜の霊園に似た静けさを保っている。

 そこにふと、光が差し込んだ。

 入り口の扉が開かれ、廊下に点けられた灯りが部屋に差し込む。重苦しい闇は切り開かれた。

 足を踏み入れてきたのは、小柄な女の子。

 一二〇センチしかない身長。

 人ではあり得ない空色の髪を高い位置でツインテールに結い、その体格にしては不釣り合いなほど大きな手で扉を開く。

 エリキシルドール、アリシア。

 戦闘用のハードアーマーは外し、純白のワンピースを着て部屋に入ってきた彼女は、いまにも泣きそうなほど表情を歪めている。

「ゴメンね、リーリエ……」

 ラック群の前に立ち、下ろした両手を強く握りしめながら、彼女はつぶやくように漏らす。

 フォースステージに至ったことで、アリシアを自ら身体としたリーリエはしかし、いまはその身体にはいない。

 リーリエは願いを叶えた。

 いまアリシアの身体を動かしているのは、音山百合乃(おとやまゆりの)。

 エリクサーの不足により完全な人間としてではなかったが、百合乃は確かに復活し、アリシアを彼女に譲ったリーリエはそのボディから消滅した。

「あたしは、貴女のママなのにね」

 声とともに震える唇で、百合乃は言う。

 リーリエは百合乃の脳情報から、独立した個性として生まれた。

 遺伝子的な、生物としての血のつながりはなくとも、百合乃にとってリーリエは娘と言える存在だった。

「貴女にたくさんのことをしてもらったのに、あたしは貴女に何もして上げられなかったね。お話しすることもできなかったね……」

 小さく首を傾げ、できるだけ笑うために唇をつり上げようとするけれど、できず、百合乃は目尻に涙を溜める。

 リーリエはいま、ここには、人工個性システムには存在していない。

 人工個性、エレメンタロイドには身体はない。仮想空間に構築された、データによって構成された脳があるだけだ。

 だから、リーリエは何も遺さなかった。

 人は生きていたならばその痕跡を残す。

 物理的な肉体を持つ人間は、その生活の中で、大なり小なり生活の跡を残し、見送った人々に記憶とともに形あるものを置いていく。

 たくさんのラックマウントサーバで構築された人工個性システムは、実質的にはリーリエ専用だった。けれど彼女の主体が、システム自体にあったとは言えない。

 アリシアは、リーリエの遺したものと言えた。しかしそれも、いまは百合乃の身体となってしまっている。

 形を持たなかった彼女には、ひと目で彼女と認識できるような写真の一枚も、ありはしない。

 妖精。

 リーリエは妖精だった。そしてお話の妖精のように、消えてしまった。

 彼女と向き合う場所が思い浮かばなくて、彼女のことをどこで偲べばいいのかわからなくて、百合乃はこのサーバルームを訪れた。

「ゴメンね、リーリエ。あたしは、貴女に何もして上げられなかったね……」

 ぽろぽろと涙を零し、百合乃はもうどこにも存在しないリーリエに呼びかける。

 エリクサーが貯まっていくうちに、スフィアコアの内に徐々に百合乃が形成されていっていた。意識は微かにあった。

 それでも、彼女が願いを叶えるまでは、動くことができなかった。自由はなかった。

 状況的には仕方ないことだとわかっている。

 しかしリーリエが消えたのは自分のせいだと認識している百合乃には、謝ること以外できなかった。

「貴女には、生きていてほしかったよ」

 それはいまさらな願い。

 同時に残酷とも言える願い。

 百合乃の復活の次にリーリエが強く願っていたこと。それは肉体の取得。

 彼女が抱いていた想いを考えれば、人工個性として、身体を持たずに生き続けていることは残酷なことだと思えた。

 そうだとしても百合乃は、リーリエに、自分の娘に生き続けてほしいと思った。

 けれどリーリエが叶えた願いは、百合乃の復活。

「ありがとう、リーリエ。あたしはいまできることを、精一杯やるね」

 涙を手の甲で拭い、笑う。

 リーリエが託してくれたもの。

 リーリエがしてくれたこと。

 それを抱いて、百合乃は彼女に微笑みかける。

「すべてに決着をつけてくるね」

 表情を引き締めた百合乃は、そう言い残し、空色のツインテールを揺らしてサーバルームを後にした。

 

 

 



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第七部 第一章 サイレントレベリオン
第七部 無色透明(クリアカラー)の喜び 第一章 1


 

   第一章 サイレントレベリオン

 

 

          * 1 *

 

 

「なぁ音山。昨日のこと、詳しく知らないか?」

 担任がホームルームを終えて教室を出た途端、クラスメイトの男子三人が、僕の机にやってきた。

「昨日のことって?」

「知らないわけないだろ? お前って、えぇっとソーサラーって言うんだっけ? やってるんだろ」

「そうそう。昔やってたのは知ってるんだよ。お前のドールも動かなくなったのか?」

「ここんとこずっと休んでたのはお前が関わってたからって噂になってるぜ。すげーよなっ。スフィアが一斉に停止するなんて、魔法でも使ったみたいだよなっ」

「テロって噂がネットで出てたぜ」

「タイマー仕込んであって、一斉に止まるようになってたとかって話もあったなっ」

 ――本当に、魔法なんだけどね。

 帰りの準備を止めて、指摘の言葉を心の中だけに留めた僕は小さく息を吐いた。

 わざわざ僕の席まで来て、目の前で楽しそうに話し始めた三人には、悪意は感じない。ただ話題のことを興味本位で楽しんでるだけみたいだ。

 あまり品が良くないのは、性格の問題だろう。

 すべては昨日のことだ。

 モルガーナと対面し、逃げ帰ってきてから、まだ一日と経っていない。昨日の今日だから学校は休みたいところだったけど、そうもいかなかった。

 百合乃に、行けと言われたから。

 昨日、エイナとの決着をつけるためにひとりで向かったリーリエを追ってスフィアロボティクス総本社ビルに行き、足りないエリクサーを使ってあいつが願いを叶える場所に僕は立ち会った。そしてアリシアのボディに百合乃が復活し、リーリエは消滅した。

 その中で、モルガーナが無理矢理エイナをフォースステージに上げるため、すべてのスフィアから微かに貯まったエリクサーを抜き取り、その機能を停止させた。

 全世界のスフィアがほぼ一斉に機能を失った事実は、今日の朝のニュースでも取り上げられ、大きな事件としてこれまでスフィアドールに触れたことがない人にまで話題が広がっている。

 世間での取り扱い方は、オカルト染みた怪事件というのが主だ。

 ショージさんや猛臣のような業界人は対応に追われたり調査をしたりで大変みたいだけど、関係者以外は真夏に雪が降った、みたいな面白可笑しい事件として受け取られている様子だ。

 ――情報操作、なんだろうな。

 モルガーナ自身がやっているのか、あいつの周囲にいる人がやっているのかはわからないが、ロボット業界の一分野とは言え、一番盛況なスフィアドール市場が一瞬にして消滅した状況だというのに、世間での取り扱いが軽すぎるのは何らかの情報操作による誘導だろうと推測できた。

「それで、音山はなんか知らないのか? 確か前にやってたスフィアカップ? とかって大会の優勝者なんだろ?」

 僕のことなんて放っておいて自分たちだけで盛り上がってくれていればいいのに、三人のうちのひとりがそう質問してきた。

 ふと周りに注意を向けると、帰り支度をする時間だというのに、教室内は妙に静まり返ってる。

 三人の他のクラスメイトたちも、スフィア一斉停止事件には興味津々のようだ。目を向けてきてる奴、手を止めて耳を傾けてきてる奴と、反応は様々だが。

 ひとつため息を吐いた僕は、呆れた表情を浮かべて答える。

「スフィアをつくってる会社の人間でもないのに、僕に何がわかると思うんだ? 休んでたのは身内が入院してたりしたからだよ」

「……そりゃそうか」

「まぁそうだよな」

「ちぇっ、つまんねぇ」

 僕に対して怒ってるわけじゃなく、それぞれに悪態を吐きながら、三人は離れていった。他のクラスメイトたちも帰り支度を再開する。

 ――たぶんみんな、不安なんだ。

 鞄にタブレット端末なんかを押し込みながら、僕は思う。

 面白可笑しく報道され、提供された情報しか受け取れず、その雰囲気に飲まれていても、スフィアの一斉停止が異常な事態だということはみんなもわかってる。

 頭には入ってきてなくても、感覚的な恐怖が拭えないんだ。

 明確でなくても、魔女の気配を感じてる。

 モルガーナの存在を知ってる僕にはわからない感覚だったけれど、なんとなくそうなんじゃないかと思えていた。

 ――すぐでなくても、モルガーナは具体的に動いてくるだろうからな。

 百合乃が言った通り、モルガーナはすぐに追跡してこなかったし、いまはたぶんあいつもスフィアの停止に関する対応に追われてるはずだ。

 でもエイナをフォースステージに上げ、スフィアドール業界を捨てたことで、あいつはもうすぐ最終行動に出てくる。

 その気配はエリキシルバトルの参加者や、業界関係者だけでなく、これまで関係なかった人にも感じられるほどになっていた。

 ――僕は、どうするか……。

 これからどうするのかまだ考えられていない僕は、残っていた夏姫と近藤に軽く目配せをしてから、教室を出ようと歩き始める。

「克樹」

 そんな僕に立ち塞がったのは、遠坂明美(とおさかあけみ)。

 両手を腰に当てて睨みつけてくる彼女の目の下には、微かな隈が見えた。

「今日、このあと集まるんでしょ?」

「……お前には――」

「ワタシには関係ない、なんて言うつもり?」

「うっ……」

 鋭い視線とともに言おうとした言葉を制されて、僕は喉を詰まらせていた。

 昨日は、もう時間が遅かったこともあって、あの後すぐに解散していた。

 夏姫や灯理、近藤の三人だったら最悪泊まってもらってもよかった気がするが、遠坂を追い返す理由が必要だった。

 それに、情報の整理と、気持ちを落ち着かせるための時間もほしかった。

 いまでもまだ気持ちが落ち着いたとは言い難いし、いろいろと思うところがあったのに布団に入った途端寝てしまって、百合乃とは充分に話せてない。

 だから今日、このあと僕の家に集まって、情報共有する予定だった。

 ――本当に、遠坂は勘が鋭いどころじゃないな。

 アリシアの姿をしていたのに百合乃を言い当てたことも凄かったが、相変わらず遠坂には隠し事はできない。

「家の手伝いあるから帰ってすぐってわけにはいかないけど、必ず後で行くから待ってて」

「……わかったよ」

「ん」

 沈黙でやり過ごすこともできなくて、僕は仕方なくそう答え、少し寂しげな笑みを浮かべてる遠坂に頷きを返していた。

 

 

            *

 

 

 家で落ち合う約束をしている夏姫と近藤とは別に、僕はひとりで校門を出た。

 下校する生徒の波に揉まれながら国道沿いの歩道を歩き、最寄り駅から離れる方向の路地に入ると、一気に人の気配が減った。

 少し視線を上に向けると、もうすっかりくすみのない十一月半ばの冬空が広がっていた。

 空は晴れ渡っていて、雲ひとつなく、空っぽだ。

 まるで僕の心の中みたいに。

 ――まだ、信じられないな。

 ゆっくりと家に向かって歩きながら、僕はそんなことを考えていた。

 モルガーナと対峙し、エイナと戦ったのは昨日の晩のこと。

 記憶にも、感覚にもそのことに間違いはない。

 でもなんとなく、それはもうすっかり遠い時間に起きたことのように思えていた。

 いまも耳につけてるイヤホンマイク。

 携帯端末経由で家のシステムと接続しているそこからは、何の音もしない。

 昨日までは、リーリエがいた。

 アリシアを自分の身体とした後も、彼女は家のシステムとリンクして、僕に話しかけることができていた。

 いまはもう、リーリエが話しかけてくることはない。呼びかけても返事はない。

 リーリエは、消滅してしまった。

 ――僕はまた、間に合わなかったんだな。

 リーリエに裏切られたんだと思った。

 リーリエのことが信じられなくなった。

 リーリエと向き合うことができなくなった。

 でもみんなに言われて、これまでリーリエと過ごした時間を思い返して、あいつが裏切るはずなんてないと、やっと思い起こすことができた。話し合う決意ができた。

 そしてリーリエが叶えた願いは、百合乃の復活。

 知ったときには手遅れだった。やっと向かい合おうと思えたときには、間に合わなかった。

 ――僕はいつも、一歩遅いんだ。

 右手を強く握り締め、奥歯を噛みしめる。

 後悔したところで意味はない。百合乃の復活でエリクサーは消費され、もう大きな奇跡は起こせない。

 僕は大切なものを、手放してしまったんだ。

 角を曲がると、僕の家が見える。

 うつむいてしまっていた顔を上げ、僕は歩調を上げる。

 立ち止まってはいられない。いつまでも悔いてはいられない。

 ――僕にはまだ、守りたいものがある。

 門を開けて玄関まで歩き、携帯端末をポケットから取り出した僕は、ひとつ深呼吸してから、解除パネルに手を近づける。

 端末認証で解除するよりも先に、ガチャリと鍵が開く音がした。

 空色の、笑顔。

 玄関の扉を開けた先に立っていたのは、空色のツインテールを左右に垂らし、白いワンピースを身につけた、アリシア。

 ――本当に、リーリエと百合乃は、似ているな。

 玄関に待っていた笑顔を見て、固まってしまった僕はそんなことを思う。

 同じアリシアのボディを使っていても、違いのあるリーリエと百合乃。

 それでもやっぱり、ボディが同じという以上に、ふたりは似ていた。

「お帰り、おにぃちゃん」

「うん。ただいま、百合乃」

 笑顔で返して、僕は靴を脱ぐ。

 ――次は絶対に、失敗しない。

 百合乃とともにLDKに入りながら、僕はその思いを胸の中に強く抱く。

 ほんの少しの油断で、百合乃は掠われ、死なせることになってしまった。

 向き合うと決めたときには、リーリエと話す時間は残っていなかった。

 いま、スフィアドールの身体で復活した百合乃だけは、そんな後悔をするようなことはしないと、僕は誓う。

 ――リーリエの願いのためにもっ。

 ニコニコと笑っている百合乃に笑顔を返しながらも、僕は強く強く、拳を握りしめていた。

 

 

            *

 

 

 ゆくりとした歩調で病院の廊下を歩き、周囲に不穏な気配も、それを感知したという情報もないことを携帯端末で確認してから、病室の扉を開く。

「お帰りなさい」

 ベッドで半身を起こした体勢でそう声をかけてきたのは、平泉夫人。

 声をかけてきながらも、煌びやかな装飾が施された愛用のスマートギアを被る夫人は、芳野の方に注意を向けている様子はない。

 ベッドの周りにはいくつかの棚が置かれ、そこには屋敷から持ち込んだり新たに購入したりした、書籍や機材が詰め込まれている。病院とは言ってもVIP用であるこの病室は、すでに平泉夫人の城と化しつつあった。

 淡い水色の入院服を着ながらも、長い髪にはツヤが戻り、顔色も健康そのもの。

 まだ検査や経過観察は必要であるが、平泉夫人がすっかり元気である様子に、芳野は表情は変えないものの、こっそりと安堵を覚えていた。

「お連れしました」

「えぇ」

 応えてスマートギアを脱ぎ、黒真珠のような瞳を露わにした夫人は、芳野の後ろに着いて病室に入ってきた人物に目を向ける。

 安原家現当主、平泉夫人の実父。

 和装に身を包む彼に病院の粗末な椅子を勧めた芳野は、屋敷から持ち込んだワゴンに近寄り、お茶の準備を進める。

「思いのほか元気なようではないか」

「おかげさまで。と言いたいところですが、先日までは死にかけていましたからね。まだ完調というわけではありませんよ」

 眉根にシワを寄せている頭首に、夫人は涼やかな笑みを返していた。

 完調ではないと言うが、あり得ないほどの回復を見せた夫人は、もうすぐ退院の予定となっている。体調も入院する以前よりも良くなっているほどで、若返った印象すらあった。

「本当にあのまま目を覚まさないくらいのつもりだったのですけどね」

「お前――」

「奥様!!」

 頭首が文句を言うよりも大きな声で、芳野は平泉夫人の言葉に反応してしまっていた。

 紅茶の準備を終えて運んで行ったワゴンに乗せた芳野の手に自分の手を重ね、夫人は優しげな笑みを浮かべる。

「大丈夫よ。言ったでしょう? 私は助けられた、って。助けられたからには、あの子たちから託されたことはキッチリこなすつもりよ」

「……いったい誰に助けられて、何を託されたというのだ」

「この件の一番の被害者の子たちに、人間の未来を、ですよ。私にできることは、あの人に小さな針を突き立てる程度がせいぜいだけれど」

 そう言って笑う平泉夫人に、ワゴンに手を伸ばしてカップを手に取った頭首はひと口紅茶を飲み、渋みではあり得ないほど目元に深いシワを刻んでいた。

「殺されかけたというのに、まだ続けるつもりか」

「えぇ、もちろん。やられっぱなしで黙っていないのは、貴方が一番ご存じでしょう?」

 唇の端をつり上げて笑う平泉夫人に、頭首は大きなため息を吐いた。

「それにいま、まだ私の生存が知られていないからこそ、反撃のチャンスと言えますからね」

 平泉夫人が生存し、目を覚ましていることは、公には発表していない。

 すでに反撃のための準備を始めている夫人は、ごく身近な人物とだけ連絡を取り、その人々を経由して行動をしている。芳野もそれを手伝って、様々な場所を訪ね回っていた。

「確かにそうだろうな。お前が倒れてからこっち、儂のところに魔女に関する問い合わせや結束の呼びかけが届いている。それに加えて、昨晩のスフィア一斉停止だ。儂の領分ではないと言うのに、今日は朝からいろんなところから発破をかけられている」

 紅茶を飲み干しカップをワゴンに置いた頭首は、身体をわずかに前に乗り出し、凄みのある視線で夫人を見つめる。

「こちらが動かずとも、すでに魔女に対抗する勢力は出来上がっているし、包囲網も完成しつつある」

 懐から取り出したカードケースに入ったメモリーカードを頭首から差し出され、芳野はそれを受け取って平泉夫人にタブレット端末とともに渡した。

 中身を読み取って端末に表示した夫人は目配せの後、芳野にも見えるようタブレットを傾ける。

「……っ!」

 ベッド脇に立って表示された情報を見た芳野は、声にならない声を上げてしまっていた。

 参加者のリストと思われる人物名の一覧には、国内だけでなく国外の人物の名前もあった。そしてそのどの名前も見覚えがあり、スフィアドールやロボット業界に留まらない、広い分野の人物が掲載されていた。

「彼らは別に大きな集団をつくって連携しているわけではない。放っておいてもそれぞれに動く。だが、お前の生存というきっかけで、一気に魔女排斥に動き出すはずだ」

 鋭いのとは違う、厳しい視線を夫人に向ける頭首。

「しかしそのとき、お前はその先頭で旗振り役として祭り上げられかねない。そうなってしまえば、お前はお前の意図しない形で偶像として扱われるかも知れないぞ」

「この件で英雄になる覚悟くらいならばありますよ。それくらいにはあの魔女のことは嫌いですし、あの人の排除は必要なことですからね」

 頭首の視線に怯むことなく微笑みを浮かべている夫人は言う。

「ですけど、そうね……。事態が落ち着いたら、隠居生活でも始めたいわね。まだそれほどの歳ではないけれど、あんまり騒がしいのもイヤなんですよ」

「……静かに暮らすことなんて、できやしないクセに」

 ニコニコと笑っている夫人に、頭首は息を吐くとともに苦笑いを浮かべていた。

「お前の意図はわかった。儂はお前に全面的に協力しよう。――ただし、条件がある」

 タブレット端末を夫人から渡され、内容を改めていた芳野はその声に顔を上げた。

 不満なのかどうなのか微妙な表情を浮かべている頭首に対し、何を言われるのかわかっているのか、夫人は目を細めながら微笑んでいた。

「なんでしょう?」

「今回のことで身に染みただろう。お前に関わる業界は決して大きいとは言えないが、その分お前程度の規模で動いている者でも、突然倒れてしまえば影響はかなり大きくなる」

「そうですね。もう少し独立性が高いと思っていたのですが、想像以上に影響が大きかったようです」

「それはお前がそれだけ深く関わり、育ててきたからだ。投資金額には依存しない影響力を持っている。……それで、本題だが」

 なぜかちらりと芳野の方を見てから、頭首は言った。

「いまのうちに、後継者を指名しろ」

「まだ、私はそれほどの歳ではないと思っていますけど」

「それはもちろんわかっている。だが、今回のようなこともある」

「今後はおそらく、私はただの裏方ですよ。あまり気分の良いものではないですけど、戦いはあの子たちが行うことです。彼らの支援とわずかばかりあの魔女を追い立てる仕事。それが私の役割です」

「だとしても、いつ何があるかわからない。子供のいないお前には後継者が必要だ。それはお前だけでなく、お前に関わる人間たちにとっても必要で、安心に繋がる要素でもある」

 苦々しい顔をして言う頭首に対し、平泉夫人は何を考えているのか、涼しい顔で応えていた。

 芳野が思い出す限り、スフィアドール業界やロボット業界に、平泉夫人の後継者になれそうな人物はいない。

 後継者とは仕事や理念を引き継ぐというだけでなく、夫人の死後にその資産をも引き継ぐということ。身内と呼べるほどに身近か、そうなれるほど気の合う人物でなければ、後継者にはなり得ないだろう。

「人というのは突然に死ぬ。できる限りの対策を取っていても、絶対はない。お前には、自分が死んだ後も遺していきたいものがあるのだろう?」

 目を逸らし、顔を伏せて話す頭首は、そう言って夫人の目を真っ直ぐに見つめた。

 表情を引き締め、細めた目で見つめ返していた夫人は、ゆっくりと瞼を閉じ、口元に笑みを浮かべてから答えた。

「そうね……。その通りね」

 目を開け、優しげな色を瞳に浮かべた夫人は、芳野を見る。

「そのときはお願いね」

「――え?」

 言われたことの意味がわからなくて、芳野は反応できず呆然としてしまう。

 ――わたくしが、奥様の後継者?

 じっと見つめてくる夫人の様子に、その意味を理解するが、納得はできない。

 どう言葉を返していいのかわからなくて、芳野が安原家頭首の方に目を向けると、厳しい表情を浮かべていることの多い彼は、目元にシワを刻みながら笑んでいた。

「わ、わたくしには、奥様のようなことは……。奥様と同じことはできませんっ」

「同じでなくていいのよ。貴女は、貴女のやりたいようにやればいい。やり方自体は、私の側にいたのですから、充分理解しているでしょう?」

「それは……、そうですが……」

「大丈夫よ。いままでやってこなかったことは、これから経験していけばいいのだから。それは私がこれから教えるわ」

 真っ直ぐな瞳で見つめてくる平泉夫人に、芳野は言葉を失っていた。

 おそらく、夫人が自分を拾ったのはただの気まぐれだった。

 本人もそう言っていたし、最愛の人を亡くし、道を失っていたときに見つけた芳野を、代替行為として保護しただけだ。

 そのことには感謝してもしきれないし、多少人間の生活としてはおかしなところはあったとしても、いまの生活ができているのは平泉夫人のおかげだった。

 それ以上のことを望む気は、芳野にはなかった。

 けれど同時に、いまの平泉夫人がなんのために自分を側に置き、この先どうしていくのかを考えることはあった。

 まさか後継者などという役割を言われるとは、想像したこともなかったが。

 ――そんなこと、できるだろうか。

 後じさって逃げ出したい気持ちを抑え、どこまでも黒く、吸い込まれそうな平泉夫人の瞳を、芳野はじっと見つめる。

 自分が、少し前と変わってきていることを感じる。

 いまだけで充分で、いまが変わらなければいいと思っていた自分が、いまより先を考えるようになっていた。

 その想いは、彰次と出会ったことで生まれた。

 どうしてそんなことを思うようになったのかと、どうして彼なのかということは、考えてもよくわからない。

 でも、平泉夫人の後ろに着いて歩くだけでなく、彰次と肩を並べて歩いていきたいと、そう考えるようになった自分がいることには気づいていた。

 ひとりの人間として、歩いていきたかった。

 平泉夫人が言っているのは、そうできる機会を与えてくれるということ。その貴重な機会を大切にしたい、大切にすべきだと芳野は思った。

「わたくしに、できるでしょうか?」

「できるかどうかなんてわからないわ」

「え……」

 唇の端にイタズラな笑みを浮かべて言う平泉夫人に、芳野はいよいよ本格的に逃げ出したくなる。

「でもそんなものよ。自分ができることを、できる限りやる。それ以外のことはできないの。私にもね」

 ちらりと安原家頭首の方を見て見ると、夫人の言葉に彼も頷いていた。

「考える必要はあるけれど、悩む必要なんてない。自分の持っている力で、自分のできることをすればいい。それだけよ。――それにね」

 ベッドに座ったまま平泉夫人が手を伸ばしてきて、芳野の胸元を指さす。

「貴女のここには、やりたいことも、夢もあるでしょう?」

「……はい」

 平泉夫人の指先が、服の上から触れているだけなのに、暖かかった。

 拾われたときには、やらなければならないことしかなくて、やりたいことなど考えたこともなかった。

 けれどいまは、やりたいと思えることが、胸の中にある。

 ――ひとりではできない。でも、奥様がいるのならば……。

 指先から伝わる暖かさが、胸の奥に熱をくれているようだった。

 想いを抱き、芳野は平泉夫人の目を見つめ返す。

「力だけあっても意味はないのよ。善しにつけ悪しにつけ、行き先を持たなければ、何もできないの。それがある貴女は、大丈夫よ」

「はい。けれどわたくしには――」

 平泉夫人が大丈夫と言ってくれるなら、自分にもできるような気がした。

 それでも芳野のわだかまりは拭えない。

 一度は絶縁したと言っても、いまは関係を取り戻しつつある安原本家には、夫人の兄弟もいれば、親戚もいる。資産を運用する会社をつくるほどの規模である平泉夫人の資産は、個人としては巨大だ。

 後継者になるということは、夫人がこれまで築いてきた人脈をも引き継ぐことになるはず。それは金銭的な資産よりも大きな価値があるものだった。

 そんなものをこれまでそう短くなく仕えてきたとは言え、血縁でもない他人に過ぎない自分が受け継ぐことに不安を覚える。

 表情を曇らせている芳野の心を読んだかのように、平泉夫人が言った。

「そうそう。後継者になってもらうに当たって、貴女には私の娘になってもらうわ」

「……え?」

 思わぬことを言われて、思考が止まる。

「最初から考えていたのよ。出会った頃の貴女では、私を信用できなかったでしょうし、心の準備もできていなかったから言わなかった。けれど貴女の望むものを与え、育ててきたのは、そのつもりが最初からあったからよ」

「奥様……」

「それでも不安なのはわかるけれど、貴女はもうひとりで立っているわけではないでしょう? 誰よりも頼りになって、支えてくれる人がいる。支えたいと思える人がいる」

「うっ……」

 こんなところで名前を出さずとも彰次のことを言われて、芳野は顔が熱くなるのを止められない。

「娘と言っても、それほど年齢が離れているわけではないから、私もすぐには引退するつもりはないけれどね。それでもこれから実行する魔女との戦いについては、後継者として着いてきてもらうから」

「――わかりました」

 火照ってしまっている顔をひとつ深呼吸して抑え、芳野は夫人の言葉にはっきりと返事をした。

 覚悟が充分とは言い難い。

 不安も恐怖も抱いている。

 それでも芳野ができる限りの視線で見つめると、夫人は黒い瞳に嬉しそうな色を浮かべて笑んだ。

「いろいろと準備をしなければならないな。それに、魔女との対決はもう始まっている。こんなところで寝てばかりいないで、さっさと出てこいよ」

「えぇ、わかっていますよ」

 いままでの緊張も、これまでの確執もほぐれた夫人と頭首は、そんな軽いやりとりをしつつ、見つめ合っていた。

 ――あの人は、どうされるのでしょう。

 ふたりに新しい紅茶を淹れるべく準備を進めながら、芳野は彰次のことを想う。

 時間が足りなくてまだ充分な返事はできていないが、昨晩リーリエとエイナが戦い、リーリエが消滅して百合乃が復活したことについては、克樹からのメッセージで把握していた。

 その過程で、エイナの意思が封じられたことも、克樹から教えられていた。

 世界中のスフィアが一斉に停止したことも含め、とんでもないことになっているのはわかっていた。

 そんな中で、東雲映奈(しののめえいな)との過去に決着をつけると宣言した彰次が、どう動くかが芳野にはわからない。

 ――危険なことは、していないと良いのですが。

 決着をつけてほしいと願ったのは芳野だったが、彰次の命の危険があるような渦中に飛び込んでほしいわけではなかった。

 新たな紅茶を淹れたカップをワゴンの上でふたりに振る舞った後、芳野は窓から見える青空を仰いでいた。

 

 

 



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第七部 無色透明(クリアカラー)の喜び 第一章 2

 

          * 2 *

 

 

 夏姫と手分けして運んだカップの数は五つ。

 そろそろ外が薄暗くなり始める時間、僕の家のLDKには昨日起こったことの説明を聞くために、人が集まってきていた。

「今日は、これで全員?」

「ん。まぁね」

 先にダイニングテーブルに座っている百合乃の正面の席が遠坂で、集まったメンツの顔を見渡してそう言った。

 猛臣はいまスフィアロボティクスの関西支社で缶詰になってると連絡があった。

 スフィアの停止からまだ一日と経っていない。

 スフィアロボティクスは上から下まで大変なことになっているらしかった。猛臣からは時間ができたら連絡する、という短いメッセージが来ているだけだった。

 平泉夫人もまだ入院中で、後日時間を取ってゆっくり話がしたいと、芳野さん経由で言われている。

 夏姫と並んで席に着いた僕の正面には、居心地悪そうにしている近藤が座り、僕に近いテーブルの端には百合乃が座っている。

 テーブルの長辺を挟んで百合乃と向き合う遠坂は、怒っているのとも、悲しそうにしてるのとも違う、複雑な表情を浮かべていた。

「今日、中里は?」

「連絡はしたんだけどね……」

 隣の空席を気にしつつ言った近藤に、僕はそう答える。

 今日集まって、昨日のことを報告するって連絡は、もちろん灯理にも知らせていた。

 でも彼女からは「今日はごめんなさい」というメッセージが返ってきただけで、その後は反応がない。心配ではあるけど、了解の言葉だけで追求はしていなかった。

「大丈夫かな? 灯理……」

「いまはそっとしておくしかないよ」

「うん……」

 テーブルの下で、夏姫の手が僕の手に触れた。心細そうに伸ばされたそれを、僕は包み込むように握る。瞳に不安の色を浮かべている夏姫に、僕はそれ以上の言葉を返すことができなかった。

 たぶん、僕たちの中で、誰よりも強く願いが叶うことを望んでいた灯理。

 スフィアの機能停止は社会的な事件ではあるけれど、僕たちエリキシルソーサラーにとっては、願いが断たれたことを意味する。

 僕を利用したり、夏姫たちを騙したり、自分の身体を差し出すくらいに強く願っていた奇跡が叶わなくなったいま、灯理がどんな想いを抱いているのかは、僕には想像もできない。

 ――連絡を待つしか、ないよな。

 どんな言葉も、どんな行動も、彼女の慰めにはならない。彼女を慰めるのは、僕の役割でもない。

 それがわかっている僕には、彼女から連絡してきてくれることを待つ以外、できることはなかった。

「さて、昨日あったことを全部説明してくれる? おにぃちゃん。あたしも全部知ってるわけじゃないんだ」

「ん……。わかった」

 灯理のことを想ってうつむいてしまっていたとき、そう大きな声で百合乃が言った。

 顔を上げた僕は、小さく息を吐いて気持ちを切り換えた後、集まってる全員の顔を見てから、昨日あったことを話し始めた。

 

 

            *

 

 

 サイドテーブルの定位置に医療用スマートギアを置いた灯理は、そのままベッドに身体を投げ出した。

 ベージュの制服を着替えなければ、と思うが、うつぶせに寝転がったまま、動く気力も湧かない。

 灯理の部屋は、綺麗に片付けられていた。

 つい先日までは、フレイとフレイヤに新しい衣装をつくるための裁縫道具や、ドールを調整するための機材が部屋の至るところに出ていたが、そのすべては仕舞われていた。

 フレイとフレイヤは、机の上で静かに目を閉じ、立位タイプのハンガー台に置かれている。

「ごめんなさい、克樹さん……」

 布団に押しつけていた顔を横に向け、灯理はここにはいない克樹に、小さな声で謝罪の言葉を述べる。

 机の上に置いてある携帯端末は、先ほどから何度かメッセージの着信を告げる鳴動があった。

 おそらく克樹から。

 昨日の夜、今日集まって話をするというのは聞いていた。行かなければならないとは思っていた。

 けれど、行けなかった。

 寝返りを打って仰向けになった灯理の両の瞼は、腫れ上がっている。目の下も腫れ、隈になっていた。

 腰よりも長い、栗色の髪よりも深い色をしているはずの灯理の瞳は、いまは赤く充血している。

 いまも顔が歪んで涙が溜まってきているこの顔を、克樹たちには見せられなかった。

「終わったんですね……」

 夜中、灯理はフレイとフレイヤを動かそうと、様々なことを試した。

 スフィアを交換しても、完全に分解して一から組み立て直しても、フレイとフレイヤが動くことはなかった。ドールとのリンクを行うことすらできなかった。

 スフィアが、反応してくれなかった。

 克樹がモルガーナと、魔女と呼んでいる人物。

 その人がすべてのスフィアの機能を停止したと聞いた。

 それにより、エリキシルバトルが終わったのだ、と。

 信じたくはなかったが、信じるしかなかった。

 スフィアドールをアライズさせられなくなった自分は、エリキシルソーサラーの資格を失ったのだと知った。

「こんなのって、あんまりです……」

 感情のない顔で、何も見えていない目から涙を流し、灯理はつぶやくように言う。

 自分が最後まで勝ち残れる可能性がないことは、充分にわかっていた。それでもまだエリキシルソーサラーだという、微かな希望にすがって、これまでやって来られた。

 一度は諦めた。

 医者からはもう二度と目は見えないだろうと、原因が不明で治療する方法がないと言われて、諦めるしかなかった。

 けれどその後、実験に参加してスマートギアを通してではあったけれど、もう一度ものが見えるようになったときは、本当に嬉しかった。たとえ肉眼ほどには見えなくても、生きる希望が湧いた。それからエリキシルバトルに参加して、願いを叶えるために必死になって、現実を知って、微かな希望にすがった。

 その希望すら打ち砕かれたいまは、泣き腫らして過ごすこと以外、灯理にできることはなかった。

 絶望の後に生まれた希望。

 そしてその消失は、それが小さなものだとわかっていたのに、最初のものよりも大きな絶望を灯理にもたらしていた。

 やらなければならないとわかっていることですら、できないほどに。

「でも、このままではいられないのです」

 額に手の甲を当てて、灯理はため息とともにその言葉を吐き出した。

 涙はまだ止まらない。

 起き上がる気力もない。

 けれど、それでも、このままではいられない。

 いま灯理の胸の中にあるのは「最後まで見届けたい」という想い。

 エリキシルバトルのこと、魔女のこと、イドゥンやリーリエや百合乃のこと。灯理にはわからないことが多すぎた。

 結果は出てしまっている。

 自分の結末は着いている。

 それでも灯理は、知らないことを知らないままではいられない。

「もうすぐ、行きます。でもいまは、ごめんなさい」

 届かない言葉を口にして、灯理は両手で顔を覆って、小さく嗚咽を漏らし続けた。

 

 

            *

 

 

「……ウソじゃ、ないんだよね?」

「いまさらウソなんて吐かないよ。それはお前だってわかってるだろ? 遠坂」

「うん……」

 悲しそうだったりつらそうだったりする微妙な表情に、何かを考えているように眉根にシワを寄せている遠坂は、頷いてうつむいた。

 エリキシルバトルに参加することになったところだけじゃなく、百合乃が死んだ理由のところから始めて、昨日起こったことまでを全部、遠坂たちに説明した。

 泣きそうな顔で口を引き結び、夏姫はテーブルの下で僕の手を強く握ってきていた。

 近藤は困惑の色を目に浮かべ、諦めたようなため息を吐いている。

 百合乃だけは澄ました顔で、湯飲みからお茶を飲んでいる。

 ――でも、違うんだろうな。

 顔は澄ましていても、昨日の夜の反応から考えれば、百合乃の胸中もかなり複雑なはずだ。それを表に出さないようにしているだけだろう。

 昨日のことを思い出して、胸の詰まりがこみ上げてきそうになるのを夏姫の手を強く握り返して抑え込む。

「誰かに話したりはするなよ。少なくとも魔女がどうにかなるまでは。遠坂だけの問題じゃなく、僕たちや、他の人まで影響するからな」

「うん、わかってる。でも……、でもどうにかならないの? もう一度エリクサーを集めて、百合乃ちゃんをちゃんと人間にするとか、リーリエちゃんを復活させるとか、さ」

「それは――」

 顔を上げてそんなことを言う遠坂に、僕は百合乃に目を向ける。

「たぶん、無理だと思います」

 落ち着いた様子で、僕の視線に微笑みを返してきてから、百合乃が答える。

「その両方を叶えるためには、おにぃちゃんとリーリエが一年かけて集めた量の何倍かのエリクサーが必要だと思う。片方だけでも、いま魔女さんが持ってるエリクサーでもたぶん足りないんじゃないかな? エリクサーについては、あたしもあんまり詳しくないんだけど」

「そうなんだ……」

「リーリエも、エイナさんも、イドゥンって女神様からは生命体として認識されてるみたいだから、エリクサーが起こせる生命の奇跡の対象にはなると思うんだけど……、量が足りないんだぁ」

「そっか」

 うつむいて眉根にシワを寄せ、遠坂は考え込み始める。

 昨日のうちにある程度説明しておいたからってのもあるだろうけど、夏姫や近藤からは言いたいことはないらしい。

 悲しそうな目で僕を見つめる夏姫と、目頭を押さえて天井を仰いでる近藤から言葉が発せられることはなかった。

「うん……。わかった。ここ一年くらい、克樹の様子がおかしかった理由も、――夏姫と、いきなり仲良くなった理由も、わかった。さすがに話せないよね。いまもワタシが無理矢理聞いちゃった感じだね」

 寂しそうにも見える色を瞳に浮かべる遠坂は、僕に微笑みかけた後、夏姫に目を向け、泣きそうなほど顔を歪めた。

 それに答えるように真っ直ぐに遠坂を見つめる夏姫の、表情とともに口元を引き締めた理由は、僕にはわからない。

 たぶんふたりの間で、何かわかり合うような意思疎通があるのだろう。

「……今日は、そろそろ帰るね」

 お茶をゆっくり飲み干した後、そう言って遠坂は立ち上がった。

「時間が大丈夫なら、こっちはまだいいぞ。百合乃と、話したいことはあるだろ? 遠坂」

「ん……。それはあるけど、また今度、近いうちに遊びにくるから、そんときにする。さすがに今日は、一気にいろいろわかって、頭の中が整理できないから」

「わかった」

「オレもそろそろ帰るよ」

 言って近藤も席を立つ。

「そういうことなら、そろそろ暗いし、家まで送ってくれる?」

「あー。……わかった」

 玄関まで見送ろうとした僕をいらないと言うように肩越しに手を振った遠坂が、近藤に言う。

 一年前のことと言えど、近藤が原因で怪我をした遠坂は、今日の話を聞いたからか、もう気にしてる様子はない。逆にまだ近藤の方は遠慮してる雰囲気があるけど。

「えぇっと、アタシは……」

 残されたのは僕と百合乃と、夏姫。

 いつもならこれくらいの時間だったら、軽く買い物行って一緒に食事つくって食べるのが定番の流れだ。

 でもいまは、百合乃がいる。

 どうするべきか迷ってるらしい視線を向けてくる夏姫に、僕もこの後どうするかに悩む。

 昨日まで夏姫の家に転がり込んでいたから、正直たいした食材もない。

「今日の夕食は何にするんですか? 夏姫さん」

「え?」「え?」

 空色のツインテールを揺らしながら僕と夏姫を交互に見て、百合乃が当たり前のような口調で問うてくる。

「夕食は、その……、適当に……」

「うんうん、そうだね。えぇっと、アタシは――」

「夏姫さんがおにぃちゃんの食事、よくつくりに来てるんですよね?」

 腰を浮かせた僕と夏姫は、思わず顔を見合わせてしまっていた。

 百合乃はある程度リーリエの記憶を保持してるみたいだし、夏姫との関係は別に隠すようなことでもない。

 でもまだ話題にも上がっていなかったことだし、当たり前のように言われるとなんだか恥ずかしい。

「なんで、そんなことを……」

「だって、キッチンにあるおっきい鍋とかけっこう専門的な器具とか、面倒臭がりのおにぃちゃんが使うようなものじゃないよね? ペアのカップとかお茶碗とかあるしさー。それにあたしの部屋、だいたいそのままだったけど、最近誰かが使ってた形跡あったし」

「ま、まぁな」

「というか、いまのあたしの身体って便利でね、リーリエがやってたホームオートメーションと接続して操作するってこともできるんだよね。ログだって見れちゃう」

「……」

「それにさ、ここまでのおにぃちゃんの様子見てたら、そう言うことなんだなぁ、って気づくよ、さすがに。あたしじゃなくても、誰だってね」

 昨日の今日でまだ指摘されてなかっただけで、隠すまでもなくバレていたらしい。

 ニヤニヤしながら僕を見つめてくる百合乃に、反論の言葉もない。

 夏姫の方を見てみると、諦めたように笑っていた。

「夏姫さん、たぶん料理上手だよね? 面倒臭がりだから言葉に出すこと少ないけど、おにぃちゃんってけっこう食いしん坊だからねぇ。胃袋つかめば勝ちだよ?」

「アタシは……、少しはつくり慣れてる程度だけど」

「なんだよ、そのアドバイスは……」

 両肘をテーブルに着いて、手に顎を乗せて楽しそうにしてる百合乃。

 恥ずかしいことを指摘されて反応に困るところだが、そんな彼女の様子は、本当に昔の通りで、嬉しさと懐かしさで泣きそうな気持ちになってくる。

「それで、おにぃちゃんと夏姫さんは、付き合ってるんだ?」

「え? いや、それは……、違って……」

「うっ……、うんっ。克樹とは、ほら、エリキシルバトルが終わるまでは、お互いエリクサーで叶えたい願いを持った敵同士だし……。終わってから、その……、改めて考えるってことにしてあって――」

「エリキシルバトルは、終わったよ」

 それまでと違い、笑ってない目で、百合乃が言った。

「まだ全部片づいたわけじゃないけど、エリキシルバトルは終わったよ。――リーリエが、終わらせた」

 人と同じで、感情の色がよく見えるはずの瞳を、ガラス玉のように無色にした百合乃。

 無色透明の奥に、激しく燃え盛る感情を抑え込んでいる彼女に、僕は何か言ってやりたいと思ったのに、何も言えなかった。

「だからさ」

 その言葉とともに瞳に嬉しさを溢れさせ、百合乃は笑う。

「もう大丈夫だよね? 思うところはあるだろうけど、おにぃちゃんと夏姫さんが付き合うのに障害はなくなったでしょ。だから、ふたりは恋人同士ってことで、いいんだよね?」

「それは……、その……」

「えぇっと、えっとね?」

 急速に僕は顔が熱くなっていくのを感じていた。

 夏姫の方に顔を向けて、目だけでちらりと見てみると、彼女も同じように少し顔をうつむかせて僕のことをうかがうようにしていた。

「ね? どうなの?」

 いまにも噴き出しそうな声でけしかけてくる百合乃。

 呷られて恥ずかしさが限界に達したのか、テーブルの下で握り合っていた手を離そうとする夏姫。

 ――あぁ、確かにその通りだな。

 恥ずかしくて顔が熱くなっているのは変わらないけど、慌ててる様子の夏姫を見て、僕は冷静になれた。

 椅子から立ち上がり、離さなかった手を引いて夏姫を立ち上がらせる。

 耳まで真っ赤にして僕のことを見てくれない彼女の、胸元に添えられていた右手を取り、向き合う。

 おずおずと、下から覗き込むように見つめてくる夏姫の目を、真っ直ぐに見つめる。

 それから、言った。

「夏姫。僕は君のことが好きだ。愛してる。――僕と、付き合ってくれ」

「っ!!」

 声にならない言葉を大きく開けた口から吐き出して、目を見開いた夏姫が固まる。

 テーブルに両肘を着いたままの百合乃が、楽しげに僕たちのことを眺めてきてるのは視界の隅に見えてるけど、何も言ってくる様子はない。

 ――これはけじめだ。

 僕の想いを、夏姫はもう知っている。

 僕は夏姫の想いを、充分に感じてる。

 想いが通じ合っていれば問題はない。それで大丈夫な関係もあるだろう。

 でも僕にはちっとも大丈夫じゃない。問題ありまくりだ。充分なんて口が裂けても言えない。

 知っていると思ってた。

 通じ合ってるつもりだった。

 実際には僕はリーリエのことをぜんぜん知らなかった。自分のことだって見えてなかった。

 僕のおごりが、リーリエを消滅させた。

 いや、もしかしたら結果は変わらなかったかも知れない。

 敵はモルガーナ。それからエイナ。

 僕とリーリエの力じゃ結局、エリクサーを使い百合乃を復活させる以外に、あいつの野望を潰えさせることはできなかった可能性は高い。

 それでも僕はリーリエのことを知らず、理解せず、僕の勝手な思い込みで彼女を突き放してしまった。

 もっと、何かできたかも知れなかったのに。

 そのつもりだとか、そのはずだとか、そうだと信じてるとか、自分の中の想いだけじゃ足りない。

 想いと、言葉と、行動と、その全部を使って、僕は伝えなくちゃいけない。確かめないといけない。何度でも伝えて、確かめ続けないといけない。

 僕という人間には、それが必要だから。

「僕は君と一緒に幸せになりたい。君に僕と一緒に幸せになってほしい。夏姫、僕は君のことが、好きだ」

 ぽかんと開けていた口を閉じ、夏姫が目をつむる。

 赤いままの顔に浮かんだ、笑み。

 僕が映る綺麗な瞳を見せてくれたとき、夏姫が答えてくれた。

「アタシも克樹のことが好き。大好き。愛してる。アタシは克樹と一緒に幸せになりたい。だから――」

 わずかに首を傾げて、彼女は笑む。

 その笑みは、これまで見た中で、推測に過ぎないけど彼女の人生の中で、一番幸せな笑みだ。

「アタシを、克樹の恋人にしてください」

「――うん」

 真っ直ぐに見つめる夏姫のことが、誰よりも愛おしくて、可愛らしい。

 僕のことだけを瞳に映してる夏姫の気持ちが、言葉以上に伝わってくる。

 右手を左手を、左手と右手を、指を絡めて握り合った僕と夏姫。

「好きだ、夏姫。愛してる」

「好きだよ、克樹。愛してる」

 僕は夏姫の瞳に吸いつけられるように、顔を近づけていく。

 瞳以上にいまは引力があるように思えるその唇に、自分の唇に近づけていく。

 と、そこで思い出す。

「うん、やっと気づいてくれた? ここにはあたしだっているんだよぉー」

 ニヤニヤを通り越して噴き出しそうにしてる百合乃の存在を、僕はそこでやっと思い出した。

 振り向いて百合乃の視線とぶつかって、僕はその瞬間、逃げ出したい衝動に駆られた。

 ――夏姫を置いていくわけにはいかないけどさっ!

 夏姫も僕と同じで、恥ずかしさで首まで赤くしていた。

「おめでとう、おにぃちゃん、夏姫さん! いやぁでも、おにぃちゃんに彼女ができるなんてねぇ……。けっこうびっくりだよー。あたしの知ってるおにぃちゃんは、女の人から向けられた視線の意味に気づくことなんてなかったのにねぇ」

「そ、そうなの?」

「うん。おにぃちゃんを好きになるくらいだから、夏姫さんも知ってるでしょ? おにぃちゃんがどれくらい鈍感で、人の気持ちを考えてないのかを。例えば幼稚園の頃にね――」

「そういう話は僕がいる前ではやめてくれ!」

 腕を組んで、うんうん頷きながら語り始めた百合乃と、興味津々で聞き手に回っている夏姫。

 ふたりの会話を遮って、僕は大きなため息を吐いた。

「ふふふっ。せっかくおにぃちゃんと夏姫さんが付き合うことになった記念の日だけど、今日はおにぃちゃんに独り占めさせて上げない! 夏姫さんに夕食つくってもらって、夜はあたしが一緒に寝るのーっ!」

 僕と夏姫の間に割って入ってきた百合乃がそんなことを言う。

「えぇっと……」

 一二〇センチの、エリキシルドールの百合乃に抱きつかれて困った顔をしてる夏姫に、僕は頷いて見せた。

「一度言い出したら聞きゃしないからな。今日はそうするしかない」

「ん……、わかった」

 空色の髪を撫でてる夏姫の返事に、僕は微笑みで応えた。

 

 

 



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第七章 無色透明(クリアカラー)の喜び 第一章 3

 

 

            * 3 *

 

 

「ん、大丈夫かな」

 姿見に映っているのは、肩甲骨を少し超えてるくらいの髪。

 いつもはポニーテールに結っているが、下ろすとけっこう長い。というより、そろそろ美容院で毛先を揃えたい。

 見るだけでなく手櫛で髪の乾き具合を確認し終えた夏姫は、住んでいるアパートと同じくらいの広さの部屋を歩き、窓際に置かれたベッドに入った。

 やっとこの頃、極貧生活を脱して色使いなどに趣味を持ち込めるようになった、まだ殺風景さのある夏姫の部屋と違い、壁紙やカーテンはもちろん、小物なんかもピンク色やクリーム色で可愛らしく彩られたここは、百合乃の部屋。

 百合乃の希望通りに、買い物に行って夕食をつくって、お風呂も頂いていた。

 一度アパートに帰って取ってきた柄物のパジャマを着た夏姫は、掛け布団に顔を半ば埋めつつ、息を吐く。

「お邪魔しまぁーす」

 見慣れない天井を眺めていると、そう言って夏姫の隣に潜り込んできた、百合乃。

 ツインテールにしていても夏姫よりも長い空色の髪を、いまは軽くまとめているだけの彼女は、身体がくっつくほど側に寄ってきて、ニッコリとした笑みを見せた。

 ――似てる……。でも、違う。

 いま夏姫の目の前で笑っているのは、リーリエではなく、百合乃。

 似ているどころか外見はリーリエも百合乃もアリシアだったのだから、まったく同一。

 幼さが強くて、幼いながらもいろいろなことを背伸びするように考えていたリーリエと違って、話してみると百合乃はリーリエよりももう少し大人びて感じる。

 それでも同じ顔をして、同じ笑みを浮かべる百合乃に、ついこの間まで話をして、笑い合ったり言い合いをしていたりしていたリーリエのことが思い浮かんでしまう。

「大丈夫ですか? 夏姫さん。当たってるところ、痛かったりしません?」

「ん、大丈夫だよ」

 密着するほどではないが、布団の中で当たっている百合乃の身体には、硬いと感じる部分がある。

 細くて骨張っているから、では済まないその硬さに、夏姫は彼女が人間ではないことを意識する。

 百合乃の身体はエリキシルドール、アリシア。

 ハードアーマーは外しているが、空色の髪だけでなく、大人のそれよりもふた回りほど大きい手や、アライズすることによって見た目には人間に間違えるほどになっていもソフトアーマー越しのフレームの硬さは、人間ではあり得ないものだった。

「じゃあ、電気消しますね」

「うん」

 夏姫の考えを読み取っていそうな気がするのに、気にしていない様子の百合乃の声に応えるのと同時に、リモコンで操作もしていないのに部屋の灯りが消えた。

「本当、夏姫さんの料理、美味しかったですよー。おにぃちゃんが夏姫さんを好きになるのもわかります」

「……料理の味で好かれてるの? アタシ」

 部屋を暗くしたのに百合乃はまだ眠るつもりはないらしく、話しかけてきた。

「それだけじゃないと思いますけど、料理はおにぃちゃんに対しては強い武器になりますね。あぁ見えて寂しがり屋で、愛に飢えていますから、おにぃちゃん。美味しい家庭料理なんて食べたら、イチコロです」

「んー。確かにそんな感じはするかも」

 詳しくは聞いていないが、ある程度話してくれた克樹のこれまでの境遇を考えればそういうところはあると思うし、これまでにそうだと感じることもあった。

 暗さに慣れてきた目で百合乃の方を見て見ると、彼女は楽しそうな笑みを口元に浮かべていた。

「素人料理だから、たいしたことはないんだけどね」

「でもたぶん、勉強してますよね?」

「まぁね。バイトしてる喫茶店で基礎的なとこ教えてもらったり、現場見てたりするし」

「料理をつくるような仕事をするつもりなんですか?」

「そこまでは……、考えてないかな? でも料理するのは好きだし、調理師の免許は取ってみようかな、って思ってるから、大学は家政系のとこ進むこと考えてるかなぁ」

「いまよりもさらに料理の腕上げたら、本当におにぃちゃんは夏姫さんを手放せなくなりますねー」

 どこまで本気で言っているのか、百合乃は口元に指を添えてクスクスと笑う。

 声はこれまで聞いていたリーリエと同じ。

 姿も同じで、けれどリーリエほど砕けていない口調で、どこかしら大人びている百合乃。

 ――やっぱりリーリエは、もういないんだ。

 似ていても違う百合乃の様子に、夏姫はリーリエの消失を感じる。

 それを強く感じているのは、自分よりも克樹や、いまこうして笑って見せている百合乃の方だろうとも思う。

「結婚、するんですか?」

「――え?」

 唐突にそんなことを言われて、夏姫は返す言葉を失う。

「さっきの告白見たら、おにぃちゃんもそうだけど、夏姫さんもそれくらいおにぃちゃんのこと好きみたいなので」

「えぇっと……、まだそこまでは、考えてない、かな? ほっ、ほら、アタシも克樹もまだ高校生だし……。それにあいつ……」

 話してる間に冷静になり、さらに沈んでしまった気持ちで、夏姫はぽつりと漏らす。

「けっこう、モテるみたいだし」

「そうなんですよねー。それはあたしもけっこう不思議なんですよ?」

 応じてくれた百合乃は、わざとらしく大きなため息を吐く。

「影がある、って言えば聞こえはいいんですけど、正直おにぃちゃんのはただのオタクで、根暗なだけなんですよ。人間不信気味だし、他の人にあんまり興味持たないし。でも、あたしには優しいおにぃちゃんだったから、そういうふと見せる優しさみたいなのに騙される子が多いみたいなんですよー」

「酷い言われようだね、克樹」

「仕方ないですよ。あたしはおにぃちゃんの妹ですし、あたしの友達を何人か、酷い言葉で振ったりしてますから」

「そんなことしたことあるんだ、あいつ……」

 エリキシルバトルが始まるまで存在すら知らなかった克樹のことは、最初に戦いを挑む前に少し評判などを聞いて回ったことがあった。

 オタクで根暗、エッチな発言で嫌われてる、という評価が大半だったのに、女子の中にはほんの何人か、積極的な行動に出るほどではないにしても気にしてる様子の子がいた。

 エリキシルバトルが始まってからは、自分はもちろんのこと、灯理に好かれたり、エイナとデートに行っていたりする。関わり方は夏姫たちとは違うが、平泉夫人もいる。

 思い返して見ると、克樹の側には多くはないが常に女の影がある。特定の属性を持った女性をピンポイントで惹きつける要素を持っているのかも知れない、とも思う。

「まぁでも、おにぃちゃんは寂しがり屋で愛に飢えてるクセに、表向きは人を寄せつけませんから、ちょっと強引なくらい積極的な女の子じゃないとダメなんです。それに単純でもあるんで、美味しい食事ってエサを上げていれば、必ずおにぃちゃんは懐きます」

「……確かにね。無理までは言わないけど、つくりに来れる日は、毎日でも来てほしいみたいだし」

「そういうのはちゃんと口に出して言わせて、躾けないとダメです」

「躾けないといけないんだ」

「はい。犬とかと一緒です、そういうところは」

 夏姫の中にある克樹の印象と、百合乃が話す彼にギャップがあって、思わずふたりで笑ってしまう。

 しばらく笑った後、百合乃は目をつむり、黙り込む。

 眠ってしまったわけではなく、笑みを浮かべていた口元が引き結ばれ、歪められ、奥歯を噛みしめてつり上がる。

 それから、小さく息を吐くように開けられた可愛らしい唇から、声が発せられた。

「正直、あたしは驚いたんです」

「驚いた?」

「はい。おにぃちゃんが、……笑えるようになっていたことに」

 微かに光って見える百合乃の瞳には、複雑な色が浮かんでいた。

 悲しいとか寂しいとかのマイナスの感情も、嬉しいとか安心といったプラスの感情も、克樹に向けたものなのか、自分に向けたものか、それ以外なのかもわからなかったが、ない交ぜになっているようだった。

「あたしはできるだけ後腐れがないように、おにぃちゃんとお別れした、つもりです。でも、それでもあたしが死んだ後のおにぃちゃんのことが心配でした。荒れ狂って復讐に走るか、自分の周りを無差別に攻撃してしまうか、逆に無気力になって沈んでいってしまうんではないかと、想像してたんです」

 嬉しさと寂しさが一緒になった笑みを口元に浮かべ、百合乃は続ける。

「ちょっと病的で危ない感じで、自意識過剰だとも思いますけど、あたしはそれくらいおにぃちゃんに愛されてると思ってましたし、同じくらいあたしも、おにぃちゃんのことを愛してましたから」

 克樹が百合乃のことを深く愛しているのは、ほとんど話してくれていなかったが、夏姫は感じていた。

 克樹の回りで嫉妬するような相手がいるとしたら、積極的過ぎる灯理よりも、常に側にいたリーリエよりも、もういなくなってしまっているのに誰よりも深いところに居続ける百合乃だと、思うこともあったくらいに。

「いまのおにぃちゃんがいるのは、ずっと気にかけてくれていたショージ叔父さん、それから敦子さんがいたこと、エリキシルバトルを通して出会ったたくさんの人たちのおかげだと思います。何よりいつもおにぃちゃんと一緒にいてくれたリーリエの存在が大きかったはずです。でも、それよりも何よりも、夏姫さん――」

 布団の中で、エリキシルドールの大きな手が、夏姫の手を包む。

「貴女が、おにぃちゃんと出会ってくれたことが、一番だったんだと思います」

「そんな……、アタシなんてたいしたことないよ? ヒルデを直してもらったり、大変なときは助けてもらったり、むしろアタシは克樹に助けてもらってばっかりだよ? それに、克樹は素っ気なさそうに見えるけど、本当は凄く優しくて、頼りになるし……」

「うん、おにぃちゃんはそういう人です。でもそういうとこを出せる相手と、夏姫さんと出会ったことが、いまおにぃちゃんが笑っていられるようになった理由です。リーリエでも、他の誰かでも、おにぃちゃんを笑わせることはできなかったんです。夏姫さんこそが、おにぃちゃんを笑顔にしてくれた人です」

「そう、なのかな?」

「はい。そうです。絶対です。おにぃちゃんが人を好きになれる人になっていて、告白しちゃうくらい好きな人ができて、あたしは本当に嬉しかったんです」

 暗くても見える百合乃の笑みに、夏姫は笑みを返す。

 ――でも……。

 笑っている百合乃の瞳に浮かんでいる小さな光に気がついた。

「でも百合乃ちゃん。百合乃ちゃんだって、これか――」

 言おうとした言葉を遮るように胸に強く頭を押しつけてきた百合乃に、夏姫は口をつぐんだ。

「言わないでください、夏姫さん。それは、言わないで……」

 夏姫の胸に顔を埋めたまま、絞り出すように言う百合乃。

 彼女の瞳に浮かんでいたのは、寂しさ。

 それから、虚無。

 夏姫が彼女に言おうとしたのは、彼女のこれからのこと。未来のこと。

 今日みんなで集まって話したのは、これまであったことだけだった。これからどうするかについてはほとんど話さなかった。

 克樹も百合乃も、未来の話を避けているように感じた。

「夏姫さんが言いたいことはわかります。わかりますけど、それはたぶん、難しいんです」

「……難しい、の?」

「はい」

 百合乃の声は震えていた。

 彼女の肩は、声以上に震えている。

 人間としてではなく、エリキシルドールのボディに復活した百合乃。

 彼女はいま、魔女に狙われている。

 いますぐではないかも知れない。けれど確実に、魔女との決着をつけなければならない時が来る。

 決着をつけた後の時間。

 克樹たちとの未来を、彼女は拒絶していた。

 難しいと言った理由はわからない。何かの確信があるのか、はっきりした理由があるのかも夏姫にはわからない。

 それでも未来の話を拒絶した百合乃は、夏姫の胸の中で小さな嗚咽を漏らしている。

「あたしは、あたしにできることを、全力でやるだけです」

「ん……。そっか。わかった」

 年下の女の子であるはずの百合乃に、翻ることのない決意が籠もって聞こえる言葉を告げられて、夏姫はそう応えることしかできなかった。

 だから夏姫は、小さく震えている百合乃の身体を、布団の中で強く抱き締めた。

 

 

            *

 

 

 朝食のメニューは味噌汁と焼き鮭、生卵に海苔と、割とスタンダードな内容。

 朝から脂ののった鮭はちょっと重めだったが、いい焼き加減のそれは美味しかった。

 起きてすぐシャワーを済ませ、急ぎ目に朝食を摂って自宅に帰っていった夏姫は、冬らしく低めの朝日ががっつり差し込んでくるこのLDKにはもういない。

 いつもより早めの朝食だったために、僕は時間的にも気分的にもゆっくりとして、ちょうど淹れ終わったコーヒーをカップに注ぎ、牛乳をたっぷり入れてダイニングテーブルに置いた。

 僕と、百合乃の分を。

「ありがと、おにぃちゃん」

「うん」

「やっぱり夏姫さんの料理は美味しいねぇ」

「朝のくらいだったら、僕でもできるけどな」

「夏姫さんに習ったから? 手際は敵わないよね」

「……まぁな」

 起きてから夏姫に結ってもらった空色のツインテールを揺らして笑み、懐かしい想い出のあるブラウスとミニのスカート姿の百合乃の正面に座って、僕はひと口コーヒーを飲む。

 同じようにコーヒーを飲み、僕の言葉を待つように微笑みを浮かべて沈黙した百合乃に、問う。

「これから先、どうするつもりだ?」

「魔女さんと戦うよ」

 一瞬のためらいもなく、答えた百合乃。

 昨日は話題に出せなかったこと。

 でも、いつまでも逃げてはいられないこと。

 百合乃は復活した。けれど彼女は人間じゃない。

 モルガーナの当面の野望は潰えたと思う。しかしながらたぶん、完全に潰せたわけではないだろう。

 僕の、モルガーナへの想いも残ってる。

 百合乃の方も、考えてることがあるだろう。

 モルガーナとの決着は、必至の状況だ。

 ――だったとしても……。

 わかりきっている状況。

 避けることができない対決。

 それがわかっていながらも、微笑みを浮かべている百合乃の顔を見ながら、言う。

「僕は百合乃、お前がもう一度死ぬかも知れない戦いに、連れていきたくはない」

「……」

 僕の言葉に何も応えず、百合乃は先を促すように口を閉ざしている。

「リーリエは消滅した。百合乃、お前はリーリエの願いによって復活した、あいつの望みそのものだ。できれば僕は、もう二度と戦いたくない。いろいろと問題があるのはわかってる。でも、それでも僕は、どんな方法を使ってでも、どんな状況になるとしても、お前と一緒に静かに暮らしていきたい。……リーリエの叶えたかった願いは、たぶんそういうことだから」

 僕は本心からそれを願う。

 人間として復活できなかった百合乃。

 それでも彼女はいま、僕の目の前に存在している。こうして向き合って、話ができている。

 リーリエの願いはたぶん、僕のことを想ってのものだ。僕の幸せを、百合乃の幸せを願って、叶えられたものだ。

 だったら僕は、できる限りリーリエの願った通りにしたい。

 百合乃と静かに生きていくことが、それに一番近いものだと思える。

 嬉しそうに目を見開き、頬を緩ませる百合乃。

 感じた幸せを噛みしめるように目を閉じた彼女は、けれど笑みを浮かべていた唇を引き結ぶ。

「それはね、無理なんだよ、おにぃちゃん」

「なんでだ?」

 百合乃の答えの理由を、僕は静かな口調で問う。

「あたしの身体は、スフィアドール。そうである限り、あたしは魔女さんの追跡から逃げることはできないんだ。宇宙の果てにでも逃げない限り、魔女さんは追いかけてくると思う」

「……無理、なのか」

「うん。それにね、女神様もたぶん、あたしの存在を許してくれない。女神様の妖精として復活したあたしは、自然にはあり得ないくらいの力がある。いまは女神様はまだ封印されてるけど、それが完全に解けたら、あたしのスフィアはいつでもガラス玉にされちゃう。ずっと静かに暮らすことなんて、絶対無理なんだ」

「そっか……」

 悲しそうな笑みを浮かべてる百合乃の返事は、だいたい予想していたものだった。

 僕がいくら強く望んだところで、モルガーナやイドゥンに敵うはずもない。魔女と女神の思惑ひとつで、百合乃との時間なんて簡単に壊されてしまう。

 僕という存在も、僕の願いも、その程度にちっぽけなものだ。

「それにね、たとえあたしが人間として復活できてたとしても、魔女さんは追いかけてくると思うんだ」

「どういうことだ?」

 もし百合乃が完全に人間として復活できていたなら、スフィアの場所を探知できるだろうモルガーナの力は及ばない。人間の身体ならスフィアに貯まるエリクサーもないわけで、追いかけてくる理由も消滅している。

 ――いや、でもモルガーナは、そうするだろうな。

「魔女さんは、とっても執念深い人だよ。何百年もかけて、自分の願いを叶えようと動いてきたくらいだもん。そんな人が、自分の思ってない形で願いを叶えられないようにされちゃったら、絶対に怨む。生きてる限りはずっと、追いかけてくる」

「だろうな。魔女の力がなくても、あいつは世界にかなり影響を与えられるような奴みたいだし、本当に宇宙の果てまで行かない限りは、逃げ切れないだろうな」

「うん」

 椅子から立ち上がった百合乃は、僕の側までやってくる。

 座ったままの僕は、彼女から向けられる視線に自分の視線を重ねる。

「すぐに魔女さんが襲ってこないのは、スフィアを全部使えなくしちゃったことで大変なのもあるだろうけど、たぶんいまは準備してるから」

「準備?」

「うん。リーリエがあたしを復活させたことでたくさんのエリクサーがなくなっちゃったけど、それでもエイナさんのスフィアにはかなりの量がある。どうにかしてでももっとエリクサーを集めようと、魔女さんはいろんなことをやろうとしてるんだと思うんだ。本当にもう全部ダメになって、あの人の願いが叶わなくなったんだとしたら、真っ先にあたしとおにぃちゃんを襲いに来ただろうからね」

「それがわかってたのか? 百合乃には」

「あたしには、っていうか、リーリエとエイナさんには、かな? そうなるだろうって予想を、リーリエが残してくれてたの」

 僕から視線を外し、深くうつむいた百合乃。

 彼女が復活してから、まだ二日と経っていない。

 復活を想定してリーリエがたくさんの情報を残してくれていたらしいことはわかる。

 でもいまはまだ、本当だったら混乱して、前後不覚になっててもおかしくないくらいのはずだ。

 そして何より、一度も直接話したことはなくても、百合乃にとって誰よりも大切な存在であるはずのリーリエを失ってから、そう時間が経っていない。

 思うところはいろいろあるだろう。

 僕には百合乃の想いのすべてを想像することも、理解してやることもできない。

 けれども彼女がいましてほしいことはわかる。百合乃の兄である僕は、知っている。

 椅子から立ち上がって、うつむいている百合乃を優しく抱き寄せる。

 百合乃は僕の服を強くつかんで、すがりついてくる。

 いつもそうだった。

 つらいことや悲しいことがあっても、百合乃は泣かない。表情に見せることはあっても、泣くことは滅多になかった。

 どうしても堪えられないときは、僕の胸で声を上げずに泣くんだ。

 ハードアーマーをつけていなくても、エリキシルドールの決して柔らかくはない、けれども小さく、細い身体を僕は強く抱き締める。

「ゴメンな、百合乃」

 どれほどの言葉を尽くしても言い切れないことを、僕はそのひと言に籠めて、言った。

「ごめんなさい、おにぃちゃん」

 わずかに震える声で、百合乃も謝ってくる。

 強く、強く百合乃のことを抱き締めて、それに応えるようにしがみついてくる百合乃と、しばらくそのままでいた。

 どれくらいそうしていただろうか。

 身体を離した百合乃は両手で目元を拭った後、顔を上げた。

 もう悲しい色も、辛そうな色も浮かんでいない瞳は、揺るぎもしていない。

 そんな瞳を見、僕は言った。

「モルガーナと、決着をつけよう」

 リーリエと一緒にいたときにはできなかった決断。

 後悔をしてももう遅い。

 それを理解したいまは、僕は前に進むことを、これから百合乃とやるべきことを、口に出して告げた。

「うん。魔女さんと戦おう」

 頷きとともに言った百合乃は、笑んだ。

「大丈夫だよ、おにぃちゃん。あたしはね、おにぃちゃんと一緒なら、無敵だよ」

 確かスフィアカップに出場するときにも言われたことがある言葉。

 僕は百合乃に、力強く頷きを返していた。

 

 

            *

 

 

 ――やられたわ。

 決して広いとは言えない会議室。

 大きな円卓に並べられた椅子のひとつに座り、左手で配られたタブレット端末を見ていたモルガーナは、口を出さずにそう悪態を吐いた。

 老齢の域に入っている人物は三分の一ほど、残りはまだ若いと言える年代が多い、会議室に集まっている人々は、スフィアロボティクスの社長を筆頭とする会社幹部たち。

 場に合わせて地味な濃紺のタイトスカートのスーツを纏うモルガーナは、ちょうど正面に座っている社長を睨みつけた。

「平泉夫人、生きていたのね……」

 隣に座る人にも聞こえないほどの小さな声で、モルガーナは思わずつぶやいていた。

 厳しく潜められた表情が多い中で、社長である壮年の男は、表情を引き締め、決意の籠もった目をし、先ほど口にした言葉をもう一度告げた。

「我が社は不要な部門を売却し、コンパクト化した上で、再建を目指します」

 克樹たちを倒し損ねてから、十日余りが経っていた。

 つまり、すべてのスフィアが使用不能になってから、十日。

 客や協力企業からの問い合わせや苦情はいまなお大量に寄せられていたが、対応の初動はひと段落している。

 しかしながら何がどうなったわけでもなく、スフィアの停止理由はいまも不明で、調査中となっている。

 そんな状況での社長の宣言。

 即座に感じたのは、黒真珠の女傑、平泉夫人の影だった。

「まだ大半のことは決定ではなく、草案の段階ですが、手元の資料の通りに多くの部門を売却、ないし独立させ、コンパクト化を図ります」

 資料に合わせて行われる社長の説明に、悩ましげなうめきを上げる者はいても、反論の言葉は上がらない。

 この十日、スフィアを調査していた技術部門は、二度とスフィアの機能を復活させることはできず、突然機能が停止した理由は不明、という中間報告を提出している。

 実質、スフィアドールという、ロボット業界の中でも一分野でしかなく、しかし現在最大の勢力にまで成長していた市場の壊滅が宣言されていた。

 けれどまだ十日。

 何かを結論し、次のことを決め、動き出すには時期尚早だ。

 それなのにすでに売却する部門、施設などの草案ができている。その後どうしていくのかについて決定ではないにしろ、計画されている。

 その影に平泉夫人を感じずにはいられなかった。

 ――あの人ならば、この短い間にこれだけのことを実現可能な計画として立案できる人脈を、揃えられてもおかしくはない。

 スフィアロボティクスには、本業にはほとんど関係ない部門や子会社がたくさんある。

 それらは押さえておきたい特許や技術、経験のためであったり、今後事業を展開していく可能性がある分野への先行投資であったりした。

 そうしたものを収容しても問題ないくらいに、スフィアロボティクスには勢いがあった。

 スフィアが停止したいま、それらを切り離さなければならないのはわかるが、社長の提示した資料は、十日で検討したにしてはあり得ないほどに精密なもの。

 ――いや、あの人のことだから、この状況すら想定して、すべてを進めていたのかも知れないわね。

 急いだ様子のあるクリーブのことを考えると、そうであると思えた。

 克樹たちを取り逃がした日から今日まで、エリクサーをかき集めるために様々な計画と下準備を進めてきた。終わりを迎えたスフィアロボティクスのことなど気にしていられないほどに。

 その隙を突かれた形だった。

 ――まさか、生き残ってるばかりか、刃向かってくるなんてね。

 確認は取っていない。けれど、平泉夫人の生存は確実。

 死ぬ以外の未来はなかったはずの彼女に何があったのかはわからない。

 しかしいま、彼女が生きて、死にかけたにも関わらず敵として立ち塞がっていることだけは、確信していた。

 資料の説明を続けながら、眉を顰めたモルガーナに、社長は厳しい視線を向けてきていた。

 ――いったい、いつから彼と接触していたのか。

 現スフィアロボティクス社長は、モルガーナ自身が育ててきた人物ではない。

 社長に据えるほんの数年前から、必要な経験を積むよう手をかけてきてはいた。スフィアロボティクスの社長ができるほどに有能な人物であるからこそ、手間暇かけた。

 経営者としては有能で、業務にも理解がある彼はしかし、技術的にはまったくの無能と言っていい。

 天堂翔機のように経営者としても有能で、天才と呼べるほどの技術者は、歴史的にも希少。それに計画が最終段階が近づいていたその時期、現社長のような人物の方がコントロールしやすいと思われた。

 ――けれど、違ったようね。

「今後、我が社はヒューマニティパートナーテックと協力し、スフィアドール市場の建て直しを図る」

 その社長の発言に、小さいながらも幹部たちの間でどよめきが起こった。

 それもそのはず、市場における協力企業のひとつであったHPT社は、クリーブの発表により、これまであり得なかった初めての競合企業となった。市場で初めての敵だった。

 社長の発言に幹部たちが動揺するのは当然のことだ。

 HPT社との協力の要因になったであろうクリーブ。

 そんなものはモルガーナの計画の中で想定外であり、スフィアの代替となる技術の開発は不可能ではないことはわかっていたが、あと半世紀は出てくるはずのないものだった。

 それがいま性能が低いとは言え発売にまで至ったのは、音山彰次という人間を見誤っていたから。

 才能があることはわかっていながら、彼への監視を怠っていたから。

 自分の失態に、モルガーナは奥歯を噛みしめる。

「いま説明した今後の改変については主要株主への説明と承認が必要ですが、この方向で会社が変化していくことは、決定事項として考えておいていただきたい」

 説明を終えた社長の締めの言葉に、会議室内には大きなため息が方々から聞こえてきた。

 ――すべては、平泉夫人を殺しきれなかった私の失敗ね。

 それこそが今回スフィアロボティクスに起ころうとしている変革の原因。

 彼女の息の根を完全に止めていれば、スフィアの停止によりある程度のことは起こっても、ここまでのことは起こらなかったはず。想定外の事態にまでズレることはなかったはず。

 モルガーナは小さく息を吐き、歯を食いしばる。

 ――しかしいまは、もう終わった会社や業界のことよりも、エリクサー収集の方が重要よ。

 スフィアロボティクスの重要性は、予定よりも多少早まりはしたが、スフィアの停止によりほぼゼロになった。

 いまスフィアロボティクス総本社ビルが建っている埋め立て地の造成が始まる前に移設した封印の神殿は、そう簡単には移動できないが、イドゥンの封印が遠くなく解けることを考えれば大きな問題とはならない。

 それよりも、いまは可能な限り、多くのエリクサーを集めるための方策を進めることの方が重要だった。

 会社にとっては重要で、しかしモルガーナにとっては茶番のような会議室の中を見渡し、幹部たちの暗い顔を眺める。

 まだ席に座らず立っている社長に目を向けると、彼は射貫くような視線を向けてきていた。

「会社のコンパクトに伴い、役員についても大幅に減らすことになります。会社の分割にも関係するため、正式には中期計画が決定する際の発表となります。しかしながら――」

 発言を再開した社長の視線に気づき、会議室全員の視線がモルガーナへと集まる。

「技術顧問。スフィアの開発に深く関わっている貴女については、年内を以て解任といたします」

 ――全員、この場で殺してやろうかしら。

 社長のその言葉に、モルガーナは一瞬そんなことを思いついた。

 エイナを呼べば、それは容易く達成される。

「あまり時間がないのはわかりますが、年内一杯で、顧問室を明け渡していただきたい」

 言われると同時に、モルガーナは立ち上がった。

 睨みつけるわけではなく、真っ直ぐな視線を向けてきている社長。

 それを見つめ返すモルガーナは、くるりと踵を返した。

 ――これが、貴女の私への反撃なのね。

 重要性を失ったスフィアロボティクスにもたらされた変革。

 平泉夫人からモルガーナへの反撃であるそれは、実質的な効果を求める意味よりも、精神的な攻撃を狙っての意味合いが強いものだろう。

 ――でもいま重要なのは、エリクサーを集めることなのよ。

 この場で全員を始末することは容易い。しかし、そうすることに意味はなく、計画に対する悪影響があるばかりだ。

 いまはまだ、状況を荒立てる段階にはない。

 社長と、そして幹部たちの視線を背中に受けながら、モルガーナは無言のまま会議室の扉を開け、廊下へと出た。

 ――私は、必ず世界との同化を達成する。

 スフィアロボティクスでの活動は、すでに終わっている。

 けれども平泉夫人に、人間に刃向かわれるのは、屈辱だった。

 それでもいまやるべきことは、感情に任せて行動することではない。

 決意を胸に、モルガーナはいまやるべきことを行うため、高らかに靴音を立てて廊下を歩く。

 

 

 



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第七部 第二章 ファイナル・ランウェイ
第七部 無色透明(クリアカラー)の喜び 第二章 1


 

 

   第二章 ファイナル・ランウェイ

 

 

          * 1 *

 

 

 ひと山いくらで売っていそうな金属製の事務机と、その机には不釣り合いなほど高級なオフィスチェアが置かれた決して広いとは言えない部屋の主は、ニッカと人好きのする笑みを浮かべている。

 髪が頭頂部を守ることがなくなったために、ただでさえ丸かった顔がまん丸に見える初老の域に達している男性は、しかしスラックスを穿き作業用のブルゾンを羽織る身体は服の上からでもガッシリとしているのが覗え、その年代によくある腹の出っ張りも見られない。

「どういったご用件で?」

 ピクシードールのものかと思うくらい大きく、節くれ立った古傷だらけの手を机の着いて笑みを投げかけてきている彼に、音山彰次は若干緊張しつつもいつも通り素っ気ない口調で問うた。

「まぁそんなに焦るな。ほれ」

 机の上に置かれていた缶コーヒーの一本を投げ渡してきて、気さくな口調で言う彼は、HPT社の社長。

 日本では第二位、世界でも十位以内に入るスフィアドール業界の重鎮と言える企業となった、ヒューマニティパートナーテックの社長であり、創業者。

 応接室も作業室も別にあり、社長室とは名ばかりの引きこもり部屋は、HPT社が町工場だった頃の社長室を再現したような簡素な造作となっている。その方が落ち着くのだそうだ。

 プルタブを開けて缶コーヒーを一気に飲み干し、意外に乾いていた喉を潤した彰次は、社長の言葉を待つ。

「まぁなんだ、今後の話を少ししておこうかと思ってな」

「今後の話、ですか」

 ニコニコと笑っている社長の真意は、その言葉と表情からは読み取れない。

 突然のスフィア一斉機能停止から間もなく二週間、機能回復を諦める空気が流れ始め、事実上の市場消滅後については、会議でも会議外でも幾度も話題に上がっているし、決定は出ていないが方針も固まりつつある。

 社長が彰次を呼び出して話したいのは、スフィアドール業界の今後についてかもしれないが、その話だけでは済まないだろうことは推測できた。

「基本、貴方の方針に従いますよ。拾われた身ですからね、俺は」

「あれだけ好き勝手やっておいて、よく言うな」

「それも含めて、貴方の方針だったじゃないですか」

「それはそうなんだがな」

 苦々しげに、しかし嬉しそうに笑む社長は、そう応えて禿げ上がった頭を撫でた。

 東雲映奈を失った後、惰性で大学院に進んだ彰次だったが、未来を見ることができず、就職先も決めずに腐っていた。

 そんな折り、偶然会社説明会で出会った社長は、彰次のことを拾ってくれた。何かを見出したのか、気まぐれだったのかはよくわからない。

 口数も少なく、態度も悪かった当時の彰次を、卒業したら会社に来いと言ってくれたのは、彼だけだった。

 入社当時、製造工場用アームロボットの部品をつくっている町工場だったHPT社は、一大決心と言える方針転換でスフィアドール市場に参入し、いまでは業界の中では日本だけでなく世界でも知らない人はいないほどの会社となっている。

 自ら腕を振るっていたしがない技術屋だった社長が、そこまで会社を育ててきた結果だ。

 そんな社長に、彰次は返しきれないほどの恩を感じている。

「さて、要件だが」

 自分も缶コーヒーを飲み干した社長が、おもむろに言った。

「来年度早々、うちから部門を分割して、名前はまだ仮だが、クリーブテクノロジーを設立する」

「ずいぶん話が早いですね。まぁ、いまの状況ならば仕方がないですが」

 克樹からは簡単なものだったが、スフィアの機能停止などについて連絡が来ていた。

 リーリエのこと、百合乃のことはすぐにでも話を聞きに行きたかったが、ここ何日もまともに家に帰れていないほど忙しい状況だ。

 スフィアの機能復活が諦められつつあるいま、性能は不十分でもスフィアの代わりとしてクリーブが注目されるのは当然のこと。大きな事業になることを見越して部門を会社として独立させるのもよくある動きで、確かに早いと感じる決定ではあったが、不思議に思うほどではない。

 ――いや、平泉夫人が手を回しているな。

 クリーブにかなりの金額を投資したり、発表を急がせたりと、すべてを見透かしていたようにも思える平泉夫人が、クリーブテクノロジーの設立にも深く関わっているだろうと、彰次は読み取っていた。

「お前の、ではあるが、表向きはうちから出てきた技術と製品だから、うちが筆頭株主にはなるが、クリーブテクノロジーはスフィアドール業界の大手のほとんどが出資する形で設立される。まずは間借りの工場を使うことになるんだけどな、早々に大型工場を国内に建設する予定だ」

「ほんの数日の間に、ずいぶん話が大きくなりましたね」

「まぁな。――で、お前にはそこの社長をやってもらうから」

「……」

 なんでもないことのように言う社長に、彰次は頭が真っ白になる。

 参加企業の名前や出資金額などの具体的なところがわからないから把握しきれないが、業界関係会社が寄ってたかって設立する会社だ、HPT社の子会社なんて規模でないことは確実だった。

 そんなところの社長に抜擢すると、それも世間話のように言われれば、言葉も出てこなくなる。

「どうした?」

「いや……、いきなりだったので」

「確かにいきなりだが、お前しかいないだろう? クリーブを発明したのはお前だ。その会社をつくるなら、お前以外に社長になれる奴はいない」

「それは……、そうかも知れませんが……」

 彰次は顔を歪めて不満と困惑を表すが、社長は気にした様子もなく口元に笑みを貼りつかせている。

 クリーブの発明は確かに彰次の発想を元にしているし、会社はその特許を彰次名義で取らせてくれている。

 しかし開発には会社の設備を使っていたし、いま現在急ピッチに進めている性能向上の試みは、すでに彰次の手を半ば離れ、若手が中心メンバーとなって進めている。

 自分だけのものという意識が、彰次には薄かった。

「今後、スフィアドールと呼ばれていたロボットは、クリーブドールと呼ばれるようになる。お前はオレなんて超えて、業界のトップに君臨することになるんだよ」

「それはむしろ、面倒臭いですね」

 いまの状況からすると、近い将来起こり得るだろうことを言われて、彰次は鼻にシワを寄せた。

 つい先月まではいつ開発中止になるかとささやかれ、彰次自身もそれを思っていたクリーブ。

 それがたったひと晩の間に起こった出来事で、えらい変わり様だ。

 ――平泉夫人の反撃だな。

 モルガーナに受けた攻撃を生き残った平泉夫人による、何倍返しにもなる反撃。

 彰次はそれに巻き込まれたことを意識した。

 ――社長なんてまっぴらゴメンなんですがね。

 無駄だろうと思いながらも、机に片手を着いて身を乗り出した彰次は社長に言葉を返す。

「俺は技術開発部長っていまの立場が一番性に合ってるんですよ。クリーブテクノロジーに籍を移して、クリーブの開発をするのも構わない。ですが、俺は現場が一番やりたいことができる人間です」

「お前のことだからそう言うとは思ったがな。だが、社長って立場も悪くはないぞ?」

 そう言った社長は、唇の端をひん曲げるようにして笑う。

 技術屋だった社長は、自らレンチやヤスリを持って現場で作業していたような人物。

 現在では現場には顔を見せる程度になってしまっているが、そうなったのは社長業が忙しくなったからなどではなく、長年の無理が祟って腱鞘炎を患い、現場作業が難しくなったことが大きい。

 HPT社をここまで育て上げた経営手腕も疑いようはないが、彰次にとって社長は現場の人という認識の方がいまだに強い。

 彰次もまた現場人間であるというのは、社長も共通して持っている認識だと思っていた。

「社長ってなぁ会社ってものを使って、世の中を動かしていく仕事だ。足下もちゃんと見てねぇと武器になるはずの会社が足かせになったりもするし、直接相手をする取引企業や個人はともかく、業界ってなぁ雲よりもつかみどころがない上に、妖怪変化の類いがそこら中にいやがる」

「言い得て妙なことを」

 部長職にある彰次は、現場の仕事だけでなく対外的な仕事も多くこなしている。

 業界という形があるようではっきりしないものに対する感想は、社長がいま言った言葉に全面的に同意できた。

「だが会社を使って業界を、世界を切り開いていける。関われるのはほんの一端に過ぎないが、嫌いな流れを潰したり、望みの世界を生み出していく、夢を世界に実現していく仕事だ。現場の仕事が楽しいのはわかるし、あんまり身勝手なことやってると自分が潰されちまうが、見方を変えれば面白いぞ」

「……」

 腱鞘炎が悪化し、現場を離れなければならなくなった時期、社長がふさぎ込みがちだったのは、彰次もその目で見て知っている。その後スフィアドール業界に邁進していくようになった彼は、そうやって考え方と気持ちを切り換えていったのだろう。

 どこか凄みと深みのある笑みを浮かべている社長に、彰次は改めて尊敬の念を抱いていた。

 尊敬している社長の言葉でも乗り気にならない彰次は、もう飲み干しているコーヒーの缶を仰いでわずかな滴で舌を潤す。

「それとよ、お前の相方になる人物は社長なんてのよりもうひとつ広い世界で生きてく人間になるんだろ? 肩を並べるまでは行かなくても、支えられる立場にならなくてどうするよ?」

「ぐっ……」

 缶を放り出す勢いで机に置いて、彰次はむせそうになった口を押さえる。

 自分と芳野の関係については、言わずともひと目でバレてしまった平泉夫人以外には、誰にも話したことはない。

「な……、なんでそんなことを……」

「ちょいと前のお前の動向、オレが把握してないと思ってんのか? 平泉夫人が入院してからは、忙しいとき以外は仕事を持って帰らねぇお前が積極的に在宅作業に切り換えてたしよ。仕事中もどっか上の空だったし、個人のことにゃああんまり突っ込む気はなかったが、噂になってたからな。いくらなんでも行動があからさま過ぎて噂にもならぁな」

「噂に、なってたんですか……」

 楽しそうに笑っている社長に、彰次は苦々しげな顔を向けることしかできなかった。

 いまから思い返してみれば、平泉夫人が銃撃されて入院し、目覚めるまでは、明らかにこれまでと違う行動パターンを取っていた。具体的な内容がバレることはなくても、噂になってもおかしくないと自分でも思えるほどに。

 クリーブの大口出資者ということで、彰次が平泉夫人に会いに行く機会は増えていたのでごまかせていると思っていたが、社長にはお見通しだったらしい。

「お前のお目当ては夫人の後ろにいつも立ってたお嬢さんだろ?」

「……」

「いまさら隠すことでもないだろうよ。遊んでる時間は終わって、腹を括る時が来たってだけだ」

「……まぁ、社長の言う通りなんですがね」

 肯定の返事をした彰次は、項垂れて大きなため息を吐いた。

 ニヤニヤとイヤな笑みを浮かべていた社長だったが、表情を引き締める。

「そのお嬢さんだが、平泉夫人の後継者になることを承諾したそうだ」

「綾……、芳野さんが?」

「あぁ。平泉夫人から連絡があった。娘というほどには歳は離れていないし、夫人も引退する予定があるわけじゃないそうだから、一緒に仕事をする形になるんだそうな。正式な発表はまた後日、関係者には連絡があるそうだよ。――んで、お前はどうする?」

 年齢だけでなく、様々な経験をしてきた凄みのある視線で見つめてくる社長。

 ――綾も、自分を変えていくつもりなんですね。

 平泉夫人が目覚めてからは、エリキシルバトルの話を聞いたときにしか会っていない芳野。

 ゆっくり話をすることができなかったそのときにも、その前の平泉夫人が入院したときにも、彼女の微妙な変化には気づいていたが、その後にも大きな気持ちの変化があったらしい。

 ――俺も、いつまでもいまのままではいられない、か。

 腹を括る時、まさにいまそれが来たことを、彰次は感じていた。

「わかりました。クリーブテクノロジーの社長の件、受けますよ」

「くっくっくっ。まぁまだ、正式な承認は下りてないし、内々の話って段階なんだがな」

「もう少し下準備をしてから話をしてくださいよ……。しかし、ずいぶん性急ですね。クリーブテクノロジーのことも、芳野さんのことも」

「まぁな。業界が激震の時期だからってのもあるだろうが、これは平泉夫人からの反撃だよ」

「反撃?」

「あぁ。魔女への、な」

「魔女……」

「お前の方が詳しいんだろ? 魔女に関しては」

 これまで会社では直接言葉に出したことのない魔女の、モルガーナのことを話題に出されて、芳野のことを指摘されたとき以上に驚いた彰次は言葉を継げなくなっていた。

 乗り出し気味だった身体を椅子に預け、身体ごと横を向いた社長は話し始める。

「なんで知ってるのか、なんてなぁ聞くなよ? スフィアドール業界にそれなりに籍を置いていればイヤでも気づくさ。――この市場は、何者かの意思によって操作されてる、ってな」

「それはまぁ、そうでしょうが」

「平泉夫人はいま、魔女との戦いの先頭に立ってる。オレは夫人の要請を受けて、協力することにした。これまで魔女はスフィアドール業界の発展に貢献してきたが、ここしばらくは目の上のたんこぶだった。そして、スフィアの停止だ。魔女はいま、業界から排除されるべき敵になったんだ」

「ということは、社長だけでなく、夫人の反撃には他にも参加している人がいるんですね」

「あぁ、もちろんな。そしてお前は協力者なんかじゃなく、当事者のひとりなんだろ?」

「……そうですね」

 顔を振り向かせ、覗き込むように瞳を見つめてくる社長。

 厳しく細められた彼の瞳からは、複雑すぎて感情を読み取りきれない。

「どんな風に関わってるかは、訊かないがな。ただ、夫人が言っていたよ。『魔女に剣を突き立てられる者は少ない』ってな」

「かも、知れませんね」

 その言葉の意味するところは、だいたいわかっていた。

 いま、モルガーナへの剣となれるのは、克樹だけ。

 芳野と約束した、東雲映奈にまつわる過去の清算は、エイナの意思が封印されたことによってほぼ不可能となった。

 そんな状況でいまさら自分に何ができるのか、彰次にはわからなかった。

 ――だが、次が最終決戦になるはずだ。

 命懸けになるだろうモルガーナとの最終決戦。

 その戦いに自分が直接関わることはできず、克樹を送り出すことしかできないことに、彰次は両の拳を握りしめていた。

「魔女退治に必要なことであれば、できるだけ協力する。多少の無茶でもどうにかして見せる。だから……、お前は死ぬなよ」

「――はい」

 自分が戦場に赴くことはないだろう戦い。

 社長の気遣う視線に見つめられながら、彰次は克樹たちのことを想い、唇を噛みしめた。

 

 

            *

 

 

「失礼します」

 芳野さんに扉を開けてもらい、踏み込んだのは平泉夫人の執務室。

 夏姫と一緒に入った僕を待っていたのは、平泉夫人とショージさん、それから灯理と近藤、猛臣だった。

 エイナと戦ってから二週間、一昨日平泉夫人が正式に退院したのを機に、今後の対策を練るために僕たちは集まった。

 厳しい視線が僕に向けられる中、肩に背負ってきたデイパックがごそごそと動き、半開きだった口から飛び出していったもの。

「アライズ」

 ふかふかの絨毯に着地する直前にそう唱えたアリシアは光に包まれ、二〇センチのピクシードールから、一二〇センチのエリキシルドールになる。

 少し前に灯理からアリシア用にって贈られた、ちょっとゴスロリっぽい雰囲気のあるブラウスとジャンパースカートを身につけた百合乃は、空色のツインテールを揺らしながら膝立ちからすっくと立ち上がった。

「……久しぶり」

「うん、お久しぶりです」

 緊張した空気が流れる中、最初におずおずといった感じで声をかけてきたのは、ショージさん。

 ニッコリした笑みで応えた百合乃に、ショージさんと、それから平泉夫人は表情を強張らせた。

「本当に、百合乃なんだな」

「そうだよ。ショージ叔父さん。……ゴメンね」

 誰にでも明け透けだったリーリエと違い、夏姫とかと話すときは口調が丁寧になる百合乃だが、僕と話すときはリーリエと同じように砕けた口調で、それから声も同じだ。

 でもほんの少しだけ違う。

 同じに思えるのにわずかに違う口調。

 変わらないようでいて違いのある声。

 それを感じるとき、僕はいま側にいるのがリーリエではなく、百合乃であることを実感する。

「本当に復活したのね、百合乃ちゃん」

「はい、平泉夫人。姿も違って、人間でもありませんが、あたしです。あたしは、音山百合乃です」

 椅子に座っていた平泉夫人は、泣きそうな顔で立ち上がり、執務机の脇から部屋の中程まで歩いてくる。

 下唇を噛んで堪えていた百合乃は、両腕を広げた夫人を見、煌めく滴を散らしながら走り寄り、抱きついた。

「いろいろあったようだけれど……、まずはこうしてまた貴女に会えて嬉しいわ、百合乃ちゃん」

「あたしも、です……。あたしも――」

 それ以上は言葉にならず、百合乃は夫人の胸に顔を埋めて泣きじゃくり始めた。

 百合乃はずっと堪えていた。

 涙を流すことはあっても、再会してからずっと、大声を上げて泣くことはなかった。

 平泉夫人に再会して緊張の糸が切れたのだろう。百合乃は誰にはばかることなく、声を上げて泣いていた。

 百合乃が死んだのは一二歳のとき。

 血縁的な意味はなくても、会って話したことはなくても、百合乃にとってリーリエは娘と言える存在。

 百合乃は、自分が復活するのと同時に、娘を失った。

「リーリエが……、リーリエがっ!! あたしのために、リーリエが!」

 ――あぁ、そうか。

 僕にとっても娘と言えるリーリエの名を呼び、泣き続ける百合乃に、僕はやっと実感する。

 ――僕は、リーリエを失ったんだ。

 鼻をすすって涙を堪えようとする。

 でもそのとき背中に触れた、暖かい手。

 振り向くと、声も上げずに涙を流してる夏姫がいた。

 僕はもう堪えきれず、夏姫の身体に両腕を回して彼女の肩に顔を押しつけた。

 それからしばらくの間は、百合乃の泣き声と、他の全員のすすり泣きが部屋を満たしていた。

 やっと涙が収まってきて、僕は顔を上げる。

 まだ涙が止まらない夏姫の頭を抱き寄せ、近くに立っているもうひとりの女の子に顔を向ける。

 灯理。

 喪服のようなシンプルで黒いワンピースを身につける彼女は、医療用スマートギアの下に残った涙の跡を拭い、僕から視線を逸らしてうつむいた。

 でも少しして顔を上げ、僕に頷いて見せてきた。

 百合乃を失ったことだけでなく、いろいろ想うところがあったのだろう彼女。

 前の話し合いでは姿を見せなかった灯理が、今日はここに来ている。

 彼女なりに気持ちの整理がついたのかどうかはわからない。それでも現実から目を逸らさずに、ここに集まってくれていた。

「大丈夫? 灯理」

「はい。……いえ、大丈夫とは言い切れませんが、逃げてばかりはいられませんから。できる限りの協力はさせてもらいます」

「うん」

 かすれ気味でも、しっかりした声で答えてくれた灯理。

 僕はそんな彼女に頷きを返していた。

 

 

 



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第七部 無色透明(クリアカラー)の喜び 第二章 2

 

 

            * 2 *

 

 

「モルガーナがお前のスフィアを狙ってくるってのは、確実なのか?」

「えぇ、まず間違いなく。あの人は必ず戦いを申し込んできます」

「うぅむ……」

 広いと言っても執務室では総勢九人にはさすがに手狭で、小ホールを兼ねた食堂に場所を移して説明が行われた。

 一〇人座ってそれぞれの食事を置いても充分余裕があるだろうテーブルで、僕と百合乃はこれまでのことを改めて説明した。

 そして、モルガーナと決着をつける必要があると、百合乃が言った。

 いつになくピシリとしている気がするスーツを着たショージさんは、百合乃の返事に顎に手を添えて考え込み始める。

「あいつはやっぱり願いを諦めるつもりはねぇってことか」

「そのようね。スフィアロボティクスにはあの人のことを感じるような目立った動きはないけれど、世界を見渡してみるとずいぶん波乱の予感を孕んできてるわ」

 猛臣の言葉を受けた平泉夫人の返事に、後ろに控えていた芳野さんが壁にはめ込まれた大型モニターを操作する。

 映し出されたのは経済や国家関係、紛争地域なんかのニュース記事だったり、ニュースにもなっていないような報告書のタイトルや個人のものと思われるネットの書き込みだったり。

 僕にはそれの意味するところがいまひとつわからないけど、スクロールしていくそれを見たショージさんは驚いたように表情を凍りつかせ、猛臣は眉間にシワを寄せた。

「おそらくこれを見ただけでは前後の情報がないとわかりづらいと思うわ。簡単に言うとね、世界のいろいろなところでほとんど同時に、大きな変革がこれから起こる気配があるの。それぞれは連動していないどころか、ほぼ無関係なのに、まるで連動したかのように一斉に」

「それを、モルガーナがやっていると?」

「すべてとは言わないわ。元々火種があったり、火種になる可能性が高かった場所ばかりですからね。けれど確実に何割かは、魔女が関わっているか、その可能性が高いの」

 僕の問いに答えた平泉夫人は、不機嫌そうに片眉をつり上げていた。

 そんな僕と平泉夫人に、心配そうな顔の夏姫が割って入ってくる。

「止められないんですか?」

「無理ね。少なくとも私には、これだけ大きなうねりを止める力はないわ。本来止める役割にある人々も巻き込んで、事態が進行しそうなところばかりよ」

「魔女の存在を知らせるとか、そういう方法はないんですか?」

「それも難しいわ。あの人はたくさんの人を使って、小さな火種を置いていくだけなのよ。ずっと観察し続けて、やっとその存在を感じ取るのがせいぜいね。それに、火種に点火するのはその場所にいる人なの。燃え上がった火を消すのも、その場にいる人にしかできないことよ」

「結局、そこにいる人たち次第ってことですか……。うぅむ」

 うめくような声を上げて、近藤は腕を組んで黙り込む。

「私たちにできるのは、来る魔女との決戦に備えて、できるだけの準備をすることだけ。そうよね? 百合乃ちゃん」

「はい。その通りだと思います」

 平泉夫人から話を振られ、僕の隣に座る百合乃が大きく頷いた。

「現状、リーリエが遺してくれたこの身体、アリシアはピクシードールの中で最高と言っても過言ではない性能があります。それだけでなく、あたしの復活で多くのエリクサーが使われましたが、あたしはあの子が至ったのと同じフォースステージの、妖精の力を保持しています」

 全員から向けられた視線を見渡してから、百合乃は言った。

「あたしは、エイナさんと互角に戦うことができるはずです」

 その言葉に、食堂にいる全員が沈黙した。

 明るい表情はひとつもなく、難しい顔だったり、考え込んだりしていて、暗い表情も見える。

 沈黙を打ち破ったのは、平泉夫人。

「互角では厳しいところね」

「えぇ。負けるわけにはいかないんです。でも、あたしの力だけじゃいいところ五分。魔女さんが何かの力を発揮したら、勝つのは難しくなると思います」

「モルガーナの奴も戦いに参加してくるってのか?」

「わかりません。けれど、いまあの魔女さんは、立場で言えばエリキシルソーサラーです。バトル自体は終わっていますが、おにぃちゃんとあたし、魔女さんとエイナさんという形でのエリキシルバトルを、女神様が望んでいるはずです」

「なるほど、な」

 今日初対面の百合乃に、リーリエとあんまり変わりなく声をかけてくる猛臣は、その答えに腕を組んでため息を吐いた。

「何か秘策でもあるのか? 百合乃」

「秘策、と言うのとは違いますが……、あたしはおにぃちゃんと一緒に戦うつもりです」

「え? 僕?」

 ショージさんの問いに答えた百合乃の言葉に、全員の視線が僕に集まる。

 どういうことなのかわからなくて、慌ててしまう僕を、猛臣が睨みつけてくる。

「そりゃあ無理ってもんだろ。克樹の野郎でエイナとの戦いに介入できるとは思えねぇ」

「それでもあたしには、おにぃちゃんの力が必要なんです」

「おそらくですが、難しいことなのではありませんか? 送ってもらったエイナさんとの戦いを見ましたが、百合乃さんだけならばともかく、普通の人では……、たとえ克樹さんでも、あの速度の戦いについて行けるようには思えませんでした」

 厳しい指摘してきたのは灯理。

 それに真っ先に反論したのは、夏姫だった。

「でもさ、リーリエが戦った後、エイナさんと少しだけだけど戦ってたでしょ? 克樹。無理ってことはないんじゃないの?」

「そうでもない。あのときのエイナはけっこう一直線な行動パターンで、事前に動きをリーリエが解析しててくれたし、音波砲とかエイナにとって想定外の攻撃を持ってたからどうにかなったんだ。行動パターンは変化つけてくるだろうし、音波砲にも対応してくると思う。僕がエイナともう一度戦ったら、たぶん瞬殺されるよ」

「そんなに強いんだ? エイナさんって……」

「フォースステージのエイナは、人間の反応速度じゃ対応しきれない。同じ速度で動く百合乃とも、僕じゃ連携は取れないよ」

 夏姫にそう答えた僕は、百合乃に目を向ける。

 厳しい顔をしていた彼女は、僕の視線に気づいて細めた目をこっちに向けてきた。

「百合乃が求めてる僕の力って、たぶん風林火山、だよな?」

 風林火山は、僕とリーリエで編み出した、アリシア用の必殺技。

 すべての人工筋のリミッターを解除し、リアルタイムで電圧をコントロールすることで、一部分だけとか短時間だけしか使えない他の必殺技と違い、一〇分以上という長時間に渡り性能限界以上の力を発揮し続けられるというもの。

 その効果はけっこう凄まじく、シミュレーション上での予測値なら、戦闘用として販売されてる最低ランクの組み立てキットのバトルピクシーを、市販されてる最高ランクのパーツを使って組み立てた大会向けにも使えるピクシードールと、互角に渡り合えるほどまで性能を上げることができる。

 フォースステージに上がったことにより、アリシアは大きく変化し、人間に見間違うほどだった外見だけでなく、多くの違いがある。

 エリキシルドールになるのもピクシードールに戻るのも自由自在だし、時間制限もほとんどないらしい。パーツ交換はできなくなっている代わりに、まるで生物であるかのように身体を修復する機能が備わっている。

 プロパティに取得できない情報はあるけど、ピクシードール用のバトルアプリでリンクもできるし、フォースステージに至る前までにリーリエとやってたように、機能だけで考えれば一緒に戦うことも、必殺技も使うことができるはずだ。

 ロボットであるピクシードールの特性、人工個性――精霊の特性を保持しつつ、生物の、人間の機能を併せ持つ、まさに妖精という状態が、いまの百合乃であり、アリシアだった。

 ただデメリットもあって、バトルとかの激しい運動となると、バッテリに相当するエネルギーを消費して、底をつくとアライズが解除されたりもするし、人工筋の性能は物理法則を超えてしまっている様子だけど、無制限になったわけじゃないから限界もある、

 フォースステージのアリシアとリーリエ、そして百合乃にも、風林火山を使う余地はあった。

「克樹じゃ無理だろうな。っつうか、あの速度の戦いは、人間の反応速度じゃ追いつかない」

「オレもそう思う。スローにしないと、目で追えない速度だったからな」

「妖精同士の戦いに、人間が関与する余地はなさそうだな」

 口々に絶望的な台詞を吐き出したのは、猛臣と近藤とショージさん。

 僕もそれには同意見だった。

 かろうじてエイナとは戦えたけど、風林火山はリーリエと、今度は百合乃と一体化する必殺技だ。

 反応速度に大きな差があったりしたら、一体化なんて無理だ。

 再び訪れた、重苦しい沈黙、

 みんなのティーカップに、やっぱり厳しい顔をしている芳野さんが新しい紅茶を注いで回る。

 一巡して芳野さんが平泉夫人の後ろに戻ったとき、カップを口元に寄せてひと口飲んでから、澄ました顔を見せた百合乃が口を開いた。

「そんなことは、ないですよ?」

「え?」

 意外な言葉に、ほぼ全員が同時に疑問の声を返していた。

「みなさんは気づいていないんですね。たぶんリーリエが、それからエイナさんも気づいていて隠していた、おにぃちゃんの特殊能力」

「……特殊能力?」

 オウム返しに僕は百合乃に問う。

 それがあると言われた僕自身がわかっていない特殊能力なんて、本当にあるだなんて思えなかった。

 みんなの視線を受けながらも、百合乃は事も無げに答える。

「おにぃちゃんの反応速度は、人間のそれを遥かに超えています。妖精であるあたしやエイナさんも、たぶん敵わないほどです」

「んなこたぁねぇだろ。克樹はエイナと戦ってたときも、動きを予測してやっと当ててた状態だったんだ。てめぇらの反応速度を超えてるなんてことはあり得ねぇ」

「でも、事実なんです」

 身体を乗りだして反論してきた猛臣に、百合乃は静かな表情と口調で返した。

 崩すことのない笑みを浮かべて、百合乃は言った。

「おにぃちゃんの反応速度があたしたちを超えているのは、脳内の話です。それと直接脳波を受け取ってるスマートギアへの命令のとき」

「脳内?」

「うん、そうなんだよ、おにぃちゃん。リーリエが遺してくれた情報で知ってはいたんだけど、昨日ちょっとだけ風林火山ができるかどうか試してみたでしょ? それであたしも実感した」

「どういうことなんだ?」

 百合乃の言ってることの意味がよくわからなくて、首を傾げているのは僕だけじゃなく、その道ではたぶんこの中で一番の専門家だろうショージさんも同じなようだった。

「そもそも、普通のピクシードールならまだしも、エリキシルドールにリンクしてリアルタイムでパラメーター調整なんてできちゃう時点で、普通じゃないんです。たぶんこれは槙島さんも、調整だけに専念しても難しいんじゃないかと思います」

「……確かにな。ドールをフルオートにして自分でリミットオーバーセットの調整をやるってのは試してみたことはあるが、コマンド入力が追いつかなくて断念した。その結果がセミオートだからな」

「もし、あたしや東雲映奈さんじゃなく、おにぃちゃんの脳情報でエレメンタロイドをつくっていたとしたら、エリキシルバトルは圧倒的な結果で終わっていたはずです、――おにぃちゃんの完全勝利によって」

 誰もが驚きの表情を浮かべていた。

 ひとり、百合乃だけが実感と、自信を持った笑みを浮かべている。

「それがおにぃちゃんの、魔女さんですら気づかなかった特殊能力です」

 

 

 

 百合乃以外の全員がその言葉に驚いていた。

 灯理もまた、驚いてはいた。

 ――でもやはり、ワタシには遠い出来事ですね。

 克樹が凄い人であることは充分知っている。

 出会ったときは僅差だと感じていた力は、いまではすっかり離されている。百合乃やエイナに勝てないばかりか、克樹にも勝てないだろうことは、灯理自身が知っていた。

 話を聞きに来たのが半分。

 もし、協力できることがあるなら小さいことでも手伝いたいと思ったのが半分。

 そう考えていたのに、自分には何もできないと感じた灯理は、こっそりため息を漏らしていた。

「なんでそんな凄いことをあの魔女が気づかなかったって言うんだ?」

「気づく方法がなかったんです。あたしのデュオソーサリー。東雲映奈さんの脳情報スキャンの適合性。このふたつはだいたい同一の性質で、結果がわかりやすい能力です。でもおにぃちゃんの脳内超反応は、ゲーム程度ではわからない。エリキシルバトルくらいの、超高速戦闘でなければ発揮されることがないんです」

「そういうこと、か」

 彰次の問いに丁寧に答えていた百合乃から、灯理は首も振らずに医療用スマートギアの広視界の中で、克樹に注意を向ける。

 自分のことであるのに、克樹でも状況について行けていないらしい。口を半開きにして呆然としている。

 ――結局ワタシは、エリキシルバトルの中で脇役……いえ、脇役ですらない背景でしかありませんでしたね。

 エリキシルバトルの中で、主人公と言えるのは、克樹。

 敵はモルガーナとエイナで、ヒロインと呼べるのは克樹が選んだ夏姫と、彼の妹である百合乃、そして何よりリーリエ。

 猛臣が調べたというリストにあった、名前でしか知らないエリキシルソーサラーに比べれば、いまこうして事の真相に触れていられる分、マシかも知れなかった。だがそれでも、最終決戦に何の役にも立てない自分は壁の花でしかないと灯理には思えて、膝の上で握った両手にさらに力を込めていた。

「克樹のその超反応って、実際どれくらいの強さなの?」

「あくまで予測でしかありませんが、おにぃちゃんの脳情報でエレメンタロイドを構築して、アリシアと同じ性能のドール同士で戦ったとしたら、セカンドステージのおにぃちゃんには、サードステージだとぜんぜん敵わないと思います。フォースステージに達してやっとくらいじゃないかな?」

「……克樹は強いと思ってたけど、そんなに強かったんだ?」

「いや、人工個性になったときの場合で、いまの僕がそこまで強いわけじゃないから。それに、エレメンタロイドになるってことは――」

「あ……、うん。そうだね……」

 仲が良さそうな克樹と夏姫のやりとり。

 彼の隣に座っているのが自分でなかったことにも、灯理はこっそりと、チクリと痛みを感じる胸を押さえていた。

「だいたいわかったけれど、いまの克樹君では必殺技は使えないのよね? スマートギアは携帯端末を経由していても、ドールとのリンクのタイムラグはゼロと言っても問題ないくらいのはず。それでも克樹君は必殺技が使えなかった。何が問題なのかしら?」

 難しい顔をしながら平泉夫人が呈した疑問に、百合乃が答える。

「ネックになるのは、目なんです」

「目?」

「はい。スマートギアで受信した指令とドールとの、スフィアとの速度には問題がありません。スマートギアもスフィアも、魔女さんが関わってつくられたものなので。ですが、人間である限り感覚器、主に目で外の状況を認識するしかありません。普通の人間の目はとても高性能と言えるのですが、妖精同士の高速な戦いに対応できるほどにはできていないんです」

「なるほど、ね」

 人間の目が高性能であることは、誰よりも灯理は知っていた。

 最新型の医療用スマートギアに搭載された、世界屈指の高精細カメラであっても、人間の目ほどの階調は得られない。見るだけで感動できるほどの風景を見ることはできない。

 顎に手を添えたり腕を組んだりして考え込み始めたみんなと同じように、灯理もまた唇に軽く曲げた指を添えて考える。

「その問題さえクリアできれば、風林火山を使っておにぃちゃんと一緒に戦うことができると思うんですが……。人間の目ではやはり難しいですね……」

 ――あ……。

 百合乃が漏らしたつぶやきに、灯理は思いつく。

 ――人間の目でなければ、もっと高速な動きに対応できる!

 それを思いついた瞬間、灯理は立ち上がっていた。

「ど、どうしたの? 灯理」

「あっ、いえ。ひとつ思いついたことがあったので」

 驚いた顔を向けてきている克樹の側まで歩いていって、灯理はディスプレイを跳ね上げ、スマートギアを頭から脱いで彼に差し出した。

「ワタシのこれを、使うことはできませんか?」

 灯理の目と言えるスマートギアを外したことで何も見えなくなってしまうが、みんなが驚いている様子はわかる。椅子をズラしてこちらを見ているだろう様子、息を飲む音が聞こえてきていた。

 ――ワタシでもまだ、克樹さんの役に立てることがある!!

 その思いだけが、灯理の胸の中にあった。

「ワタシの医療用スマートギアは、カメラからの情報を直接視神経に送信しています。これに搭載されているカメラの性能は決して最高速というわけではありませんが、高速への対応ならば肉眼よりも高い性能を持っています。それに、視神経に直接映像情報を流せるならば、肉眼よりも応答性は上がるはずです」

 フレイとフレイヤを同時に操作する際は、二体のドールから送信されてくる視覚情報をスマートギアの中で高速に切り替え、視神経に送信している。

 人間が持つ一種の錯覚を利用し、灯理は頭の中ではふたつの視界を、まるで目が四つあるかのように見ることができる。

 搭載されているカメラは色彩の再現に注力しているものであるが、一秒間に数コマ程度と言われる人間の限界動体視力よりも高速だ。

 医療用スマートギアの視神経へのダイレクトインプットは誰もが使えるものではないが、もし克樹が使えるならば、いま話していた目によるネックは解消される。

「確かに、な」

 そう言ったのは、声からすると彰次。

「視神経に直接映像情報を送信してるその医療用スマートギアを克樹が使えるなら、視覚の認識速度は解決できる」

「ではこれを、克樹さんに使ってもらって――」

「いや、それには及ばない。中里さん、貴女のスマートギアを克樹が使う必要はない。それはいまも開発が続けられてる技術なんでね、開発会社に問い合わせて、力を貸してもらえばどうにかできると思う」

「そう、ですか……」

 自分の使っている医療用スマートギアを克樹に使ってもらえると思っていたが、そうではないらしい。高まっていた灯理の気持ちが、少し萎む。

 けれど、スマートギアを差し出している灯理の手を、優しく大きな手が包み込んでくれた。

「ありがとう、灯理」

 言いながらスマートギアを頭に被せてくれ、見えるようになった視界の目の前で微笑んでくれていたのは、克樹。

「使えるかどうかはまだわからないけど、使えれば僕は百合乃と一緒に戦えそうだ」

「……はい」

 両手を包むように握ってくれる克樹の手が暖かい。

 笑いかけてくれる笑みに、もやもやとした気持ちが晴れていくようだった。

「その医療用スマートギアの開発元は、スフィアロボティクス傘下の会社だったわね」

「えぇ。確かうちともけっこう関係があったはずです。社長を通して急ぎ交渉に入ります」

「私の方でもアプローチしてみるわ」

「お願いします」

 彰次と平泉夫人の言葉で、小ホールには安堵の空気が流れ始める。

「百合乃ちゃん、魔女はあとどれくらいで戦いを仕掛けてくると思う?」

「どうでしょう……。こうなった場合のことはリーリエもあんまり想定していなくて……。エイナさんの予測から考えると、最短でもこれから二週間後、もしかしたら一ヶ月くらいは先になるんじゃないかと思います」

「私もだいたいそれくらいと予想しているわ。あの人がいまエリクサーを世界中から集めようと必死に活動しているなら、結果が出揃うのには最低でも一ヶ月程度はかかると思うのよ。年内か、年明け早々にはおそらく、あの人は決着をつけにくると思うわ」

「だったらスマートギアの準備は一週間で揃えて、その後もう一週間かけて調整を終える、くらいでやらないと行けませんね。……ひでぇハードスケジュールだ」

 そろそろ灯理たちの手を離れた話に移り始め、克樹はニッコリと笑んでから、自分の席に――百合乃と夏姫の間の席に戻っていった。

「どうにかなりそうだね、克樹」

「まだわかんないけどな」

 夏姫がそう笑いかけ、椅子に座った克樹が優しい笑みで応える。

 その笑みは、灯理に見せてくれたものとは違う、友達や仲間よりも、さらに身近な存在に見せるもののように思えた。

 ――手伝うことはできた。でも……。

 自分の席に戻り、スマートギアを被り直したことで乱れた髪を片手で直すように、うつむく。

 すっかり晴れたように思えていた胸のもやもやが、まだわだかまっているのを感じる。

 握りしめた拳で胸を押さえた灯理は、こっそりと頬の内側を噛んで、漏れ出そうになるため息をかみ殺していた。

 

 

 



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第七部 無色透明(クリアカラー)の喜び 第二章 3

 

          * 3 *

 

 

 ――状況がわかったのは良かったが、そろそろオレの出番はないな。

 スマートギアの話に入り、主に百合乃と平泉夫人、それから彰次の間で話されていて、近藤はすっかり手持ち無沙汰になっていた。

 克樹もちょこちょこと話に参加しているし、夏姫も彼と一緒にいるつもりだろうが、近くを見てみると灯理と猛臣もまた、近藤と同じく話に参加できなくなっていた。

「俺様はそろそろ帰るぜ。戻ったら仕事がたんまりあるし、連日の無駄な試験で疲れてるんだ。まぁ、無駄だってわかってるのはチームの中で俺様だけだから仕方ないんだが」

 そう言って猛臣は立ち上がり、大きな欠伸を漏らした。

「わかった。ありがとう、猛臣」

「気持ち悪ぃこと言うな。俺様だって関係者だ。必要がありゃ出向くし、聞きたい話がありゃ遠くても来る。そんだけだ」

「うん、そうだな」

 椅子から立って向かい合う克樹にかける猛臣の言葉が、そしてなによりいまの表情が、どことなく以前より柔らかい。

 ――槙島に何かあったんだろうか?

 エリキシルバトル終了という大きな事件があったわけだが、それにしては荒れるのではなく角が取れたような印象の彼に、近藤は首を傾げてしまっていた。

「百合乃ちゃん、か。リーリエには俺様も世話になった。いまはもう直接力を貸すことはできそうにもないが、何かあったら連絡してくれ」

「いいえ。リーリエを助けてくださって本当にありがとうございました。貴方の協力がなければ、エイナさんに匹敵するこの身体を、アリシアを完成させることはできませんでしたから」

「ん……。モルガーナの奴と戦う日時がわかったら必ず教えてくれ。もう俺様が戦うことはできないが、見届けたい」

「わかりました」

 克樹と並んで立った百合乃から差し出された手と握手する猛臣は、これまでを知ってる近藤からは気持ちが悪いくらいのことを言っていた。

「それじゃあな。――お前らはどうする? 帰るんだったら家まで車で送るぜ」

「え? あ、あぁ、頼む」

「あっ、はい。よろしくお願いします」

 声をかけられた近藤と灯理は、反射的にそう返事をして顔を見合わせる。克樹や平泉夫人に挨拶した後、小ホールを出ていく彼の後を追いかけていった。

 芳野の先導で駐車場に直接繋がった扉から外に出、猛臣の車の後部座席に灯理とともに乗り込んだ。

「少し早いが、飯でも食ってくか。無理矢理時間を空けて来たもんだから、朝からたいしたもの食ってねぇんだ」

 幹線道路に出た車には、傾き始めているもののまだ高い日差しが当たっている。

 もう十一月も半ばだから、そう遠くなく暗くなり始めるだろうが、今日の話し合いは昼過ぎに始まったこともあり、夕食にはまだ少し早い時間だった。

「済まないが、オレはそんなに持ち合わせが……」

 事件を起こした後、家賃の支払いと餓死しない程度の仕送りしか親からの援助がなくなった近藤は、退部となった部活の先輩の家がやっている道場で、鍛錬のついでに手伝いをして食事とバイト代をもらって凌いでいた。

 克樹に保証してもらってPCWで買い揃えたガーベラのパーツの支払いもあり、懐具合は常に厳しい。

 家が金持ちで高校生の身でスフィアロボティクスに勤め、高校生にしては稼いでいる克樹よりもさらに懐に余裕があるらしい猛臣の経済レベルに合わせた食事などしていられそうにはなかった。

 バックミラーに映った猛臣は、渋い顔をする近藤に苦笑いを浮かべる。

「食事するってもそこらのファミレス程度しか考えてねぇよ。この辺の店にも詳しいわけでもねぇ。それに、それくらいは奢ってやるっての」

「え? あ、あぁ……、済まないな」

「それは気にするな。いまさら敵ってわけでもないんだからな」

 やはりどことなく以前と変わったように思える猛臣に、近藤は首を捻って目を細めていた。

 それから返事もしていない灯理の方を見てみると、彼女は真っ直ぐ前に顔を向け、唇を引き結んでいた。

 ――大丈夫なのか? 中里は。

 前回集まったときには顔すら出さなかった灯理。

 目を治すことを強く願い、エリキシルバトルの強制終了に酷く落胆しただろう彼女。

 それは今日の様子からもだいたい見て取れていたし、隣の席に座っていたから気も使っていたが、近藤にはどう声をかけたり、慰めたりしたらいいのかわからなかった。

 柔らかくなった感じのある猛臣とは逆に、硬くなった感じのある灯理のことは、近藤では扱いきれなかった。

 何か話題でも振ろうかと思ったが、何も思いつかない。

 まるで石のように、ほとんど微動だにせずじっとしている灯理に、触れることはできなかった。

 猛臣もまた灯理のことを気にしているように視線を飛ばしてきてはいるが、運転中の彼が積極的に話題を振ってくることもない。

 重苦しい空気に支配された車内で、近藤が息苦しさを感じ始めた頃、ぽつりと灯理が漏らした。

「ワタシたちは……、ワタシは、何のために戦ってきたのでしょうか」

 小さな声だったが、沈黙に支配された中で漏らされたその言葉は、はっきりと近藤の耳に残った。

「いえ、何でもありません。忘れてください」

「忘れてくださいって……、中里――」

「何でもないのです。済みません」

 ちらりと近藤の方に顔を向け、スマートギア越しに何も言わせぬ鋭い視線を飛ばしてきた灯理に、近藤はそれ以上追求できなくなってしまう。

「食事は後回しだ。ちょっと寄り道する」

 しかし大きなため息を漏らした猛臣が、ハンドルを回してすぐ近くの交差点の右折車線に車を入れた。

「いや、あんまり遅くなるのは、な」

 まだ早い時間とは言え、どこに行くのかわからないし、戻ってくるのがどれくらいの時間になるかもわからない。男である自分はともかく、女の子であり、精神的に不安定になっている様子の灯理のことが心配で、近藤は反発してみせる。

「ワタシは、大丈夫です」

 近藤の心配をよそに、頷いて寄り道に同意する灯理を見ると、彼女は相変わらず真っ直ぐ正面に顔を向けている。

 医療用スマートギアの技術が克樹の役に立ちそうだとわかったときには喜んでいた様子だったが、その程度のことでは払拭できないほどの想いを、いまの彼女が抱え込んでいるのは確かだった。

「今日は家には誰もいません。多少遅くなっても問題ありません」

「ちょいと遅い時間にはなるだろうが、ちゃんと家まで送ってやるから心配するな。それとも近藤、お前は帰るか?」

「……いや、一緒に行くよ」

 猛臣が邪な欲望を灯理に抱いているとは思えないが、さすがにふたりきりにはできない。

 灯理の抱えている感情は、その一部を自分もまた持っていることを、近藤は感じていたから。

 バックミラー越しにイヤな笑みを向けてくる猛臣に、意識的に眉を顰めて見せた近藤は、諦めのため息を吐き出した。

 再び訪れた沈黙は、しかし先ほどの重苦しさは幾分か和らいでいた。

 灯理のことを気にしつつも、余裕が出てきた近藤は移り変わっていく外の様子を眺める。

 比較的郊外にある平泉夫人の屋敷から、近藤や灯理の家に向かうために都心方向に走っていた車は、いまは逆に山の方へ。市街を離れ、山間の幹線道路を一時間ほど走り、最後には鬱蒼とした林の中を、ぐねぐねした長い上り坂を進んでたどり着いた場所。

「こっちだ」

 エンジンを切って車を降りた猛臣に促され、灯理とともに降り立ったのは、山の中にある自然公園らしい場所の駐車場だった。

 傾いていた陽は山の向こうに姿を消し、暗くなりつつある駐車場を横断し振り向かずに歩いていく猛臣。どうしてこんなところまで連れてきたのかわからなくて、灯理と顔を見合わせつつも、近藤は仕方なく猛臣の後に着いていく。

 コンクリートの階段を登り、土が剥き出しの丘を歩いて見えてきた建物らしき物体は、近づいてみると展望台であることがわかった。

 昼間は家族連れなどで賑わっていた様子の公園内には、冬の厳しい寒さに曝されて、いまは人影ひとつない。

 猛臣が上がっていったのを見て近藤も展望台に上がってみると、眼下には煌めきが増してきている街が広がっていた。

 冬のこの時間に来るには寒すぎるが、暖かい時期ならば恋人同士で来るのに絶好の展望ポイントだろうと思えた。

 眼下に広がる夜景だけでなく、連なる山がそう遠くないくらいの場所にあるため、まだ夕焼けが終わっていないにも関わらず、空に散りばめられた星も近藤が住んでいる都内よりも明らかに多かった。

「……なんでこんなとこ知ってるんだ?」

 それほど仲が良いわけではないのもあるが、復活を望んでいたらしい女性以外に浮いた話も聞いたことはなく、自宅は関西であるはずなのに関東のこんな場所を知っている理由が、近藤にはわからなかった。

 半眼で猛臣の方を見てみると、彼は頬を掻きながら目を逸らしていた。

「……まぁ、俺様の趣味のひとつは、天体観測だからな。最低限の機材は車に積みっぱなしにしてて、エリキシルバトルが始まってからは星を見に行く機会もなかったが、観測ポイントはある程度押さえてあっただけだ」

「天体観測って……。言っちゃあ悪いが、似合わないな」

「うるせぇな。別にいいだろ? ――いつも、感じてたことがあるんだよ」

「何をだよ」

 空を仰いだ猛臣は、ひときわ光る星に手を伸ばす。

「どう足掻いても、俺様じゃ、人間じゃ手に入らないものがあるってことを、だよ」

「……」

 光の速さでも何十年、何百年とかかるだろう星をじっと見つめている猛臣に、近藤は何も言えなくなった。

 それがいつから抱くようになった想いなのかは、わからない。

 近藤にわかるのは、手に届かないものに触れられるようになるはずだったエリキシルバトルは終わってしまった。それだけだった。

「さて、俺様たちが戦ってた理由、だったな」

 言って猛臣は無言のまま着いてきていた灯理に目を向ける。

 何を言うのかと思っていたら近藤の方に向き、問いかけてきた。

「お前はどんな理由で、エリキシルバトルに参加した?」

「そんなの……、梨里香を生き返らせるため、だ」

 叶えたかった願いなど、いまさら口に出さなくても猛臣も知っている。

 それでも彼からの問いに、近藤ははっきりとそう答えていた。

「いまはそのことをどう思ってて、どうしてそう思うようになった?」

「いまは……」

 そんなことを問うてくる猛臣の真意はわからない。

 けれども雰囲気ならばわかる。

 暗くなってきても見える彼の真っ直ぐな瞳に、問いかけの意味が映っている。

「……オレは最初、梨里香を復活させられると聞いて、一も二もなく参加することにしたんだ」

 少し考えた後、近藤は猛臣と灯理のふたりを見ながら話し始めた。

「どれくらいの強さがあれば勝ち残れるのかも、レーダーの使い方も最初はわからなかったし、梨里香の復活に必死で、人を傷つけることだってそんなに気にしてなかった。そんなオレが変わったのは、克樹に負けてからだったな」

 灯理にはすっかり話していて、猛臣にも簡単には話してあるこれまでの顛末は、いまさら語るようなことではない。

 最初から話をしながら、今度はその当時のことを思い出して苦笑いが口元に浮かぶのを止められなかった。

「負けたこと自体も大きかったが、何て言うのかな……。オレはたぶん、克樹には絶対勝てないんだろう、って感じちまったんだ。それからは梨里香を復活させたいって強い気持ちは萎んじまって、それでもスフィアは奪われなかったから、願いが叶う希望は捨てられなかった」

 話している間に浮かんでくるのは、この一年と少しの間にあったこと、出会った人々のこと。

 エリキシルバトルをした回数は決して多くはない。それなのにこの期間は、いままでで一番濃密な時間だったように思える。

「猛臣、お前と克樹の戦いも見たし、エイナの強さも知った。希望が完全には消えなかったけど、オレじゃ絶対に最後まで勝ち残るのなんて無理だって、わかったんだ。……そんなときに、オレは梨里香に再会したんだ」

 猛臣と灯理は、口を挟まず近藤の言葉に聞き入っている。

 穏やかな表情で笑みを浮かべている猛臣に対し、灯理は額にシワを寄せている。

 そんな彼女も、先ほどまではあった、いつの間にか消えてしまいそうな、さもなくば潰れてしまいそうな儚さは薄まり、スマートギアで見えていない目が、近藤を真剣に見つめてきているのがわかる。

「あいつに再会して、話して、変わらない気持ちを確かめられた。……でも、オレの願いじゃ梨里香を救ってやることができないこともわかった。別れの言葉を言えなかったあいつともう一度別れたあとはもう、オレの願いは消えていたんだ」

「それは本当か?」

 問われて猛臣を見えると、彼は意地悪な笑みを唇の端に浮かべていた。

「どういう、意味だ?」

「最愛の人と話して、別れを言い合えたからって、そんなことで願いが綺麗さっぱり消えちまったってのか?」

 胸の奥に、火がついたような気がした。

 猛臣に指摘された途端、心臓が強く脈打って、身体が熱くなった。

 怒りとは違う、焦りにも近い熱。

 再燃。

 胸を手で押さえて、歯を食いしばった近藤は、言葉を返そうと思うのに、できないでいた。

「まぁいい。いま重要なのはそこじゃない」

 そう言った猛臣は、蔑みではない、どこか優しさを感じる視線を近藤に投げかけてきていた。

 何が言いたいのかわからなくて、近藤はそれを問おうと胸の奥の熱が収まるのを待つが、何かを言う前に猛臣が口を開いた。

「俺様もまぁ、だいたいこいつと同じような感じだ。こいつと違って、俺様は克樹の奴には勝てると思ってるし、フォースステージのエイナとリーリエにも、もちろん克樹の妹にも負けるつもりはない。ただ、そいつらに勝つにはいますぐってわけにはいかないがな、だが俺様にはもうエリキシルバトルの参加資格がない。イシュタルもウカノミタマノカミも動かない。モルガーナの本当の目的と、イドゥンなんて女神の存在も知った。正直、いまの状況は俺様の手に余る」

 そこまで話して大きなため息を吐いた猛臣は、胸壁に背中を預けて星空を仰いだ。

「まだ誰にも言ってなかったんだがな、俺様にもあったんだよ」

「何がだ?」

「前兆現象」

「槙島さんにも?」

「本当か?」

「あぁ」

 それはつまり、猛臣が復活を願っていた女性、槙島穂波に、ひとときとは言え再会したということ。

 ――そういうことかっ。

 それを知って、近藤は思い至った。

 今日の猛臣がこれまでと違って、刺々しさが和らぎ、優しさすら感じられるようになっている理由に。

「これまで言えなかったことをあいつに直接言えて。あいつが溜め込んでたものを聞けて、やっとあいつと気持ちを通じ合わせることができた。お前と同じだよ、近藤。俺様もあれだけ強く願ってたってのに、あいつとちょっと話しただけだってのに、薄れちまった」

 空から視線を下ろしてきた猛臣は、穏やかな表情をしていた。空の星がそこに降ってきたかのように、彼の目尻には光るものが見えた。

「そっか……」

 相づちを打ちながら、近藤の胸にもこみ上げてくるものがあった。

 ヒリつくようなものではない、暖かさ。

 それでも先ほども感じた熱が残っていて、胸の奥の火傷のような痛みも完全に消えたわけではなかった。

 横に立つ灯理を見てみると、喉を鳴らして息を飲んでいた。

 けれども引き結ばれた唇の内で噛みしめられた奥歯の力が、緩められた様子はない。

「お前はどうなんだ? 中里灯理」

 猛臣の柔らかな視線を受けて、深くうつむいた灯理。

 ギシリと、音が聞こえるほどに奥歯を噛みしめる力をさらに強める。

 それから、絞り出すように言った。

「ワタシ、は――」

 

 

 

「ワタシ、は――」

 うつむかせていた顔を上げ、灯理は叫んだ。

「受け入れられるはずが、ありません!!」

 思っていた以上に大きな声が出てしまったが、もう止められなかった。

 今日一日溜めていたものが――、エリキシルバトルが強制終了になってからずっと溜め込んでいたものが、一気に噴き出していた。

「近藤さんや、槙島さんは復活を願っていた人に会えて、満足できたかも知れません。でも……、でもワタシは! ワタシの願いは!!」

 お腹から声を出すように、身体の底から想いを絞り出すように身体を折り曲げる灯理に、近藤は目を見開き、猛臣は唇の端をつり上げて笑んでいる。

 三人の他に人の気配はなく、街も遠い夜の公園で、灯理の声が響き渡る。

「絵を描くことなんです!! 絵を描くために必要な目を取り戻すことなんですっ。前兆現象で一瞬見えるようになった程度で、満足なんてできるはずもありません!!」

 たくさん泣いて、泣き腫らして、諦めようと思った。

 無理だった。

 状況を聞いて、自分を納得させようとした。

 できるはずもなかった。

 エリキシルバトル強制終了の前、バトルに参加することになるよりさらに前、視覚を失ったと知ったときからずっと、ずっと溜め込んできたものが、いますべて噴き出してきているのを、灯理は感じた。

 絵は、灯理にとって魂の表現。

 出会ったもの、触れたものから感じたこと、想ったことを、魂からあふれ出すそれを表現するための、唯一の方法。

 それが灯理にとっての、絵を描くということ。

 それを断たれ、身体が弾け飛びそうなほど溜まったものが、灯理の身体に火を点け、燃え上がるほどに熱くしていた。

 晒すことなどできなかった。ぶちまけることなんてできなかった。

 作品という形で表現したものならば、多くの人に理解してもらえる。

 けれど直接魂からあふれ出すものを他の人にぶつけても、言葉でも行動でも表現しきれない、激しすぎるそれは、理解してもらうことなどできない。

 だからいままでは、誰にも見せてこなかった。克樹相手であっても、すべてをさらけ出すことなんてできなかった。

 でもいまはもう、抑えることなんてできない。

 抑える必要がなくなった。

「ワタシが何をしたって言うんですか! ワタシはただ、絵を描きたかっただけですっ。絵を描いて生きていきたかっただけです!! それだけのことしか望んでいなかったのに、事故に遭って、視覚を失って……」

 涙がにじんできているのは感じているのに、無機質なスマートギアの視界はにじむことすらない。

 感情を、魂を、全身を使って表現しても、それを汲み取ることない、汲み取ることなどあり得ないとわかっている機械にすらも、憎しみを覚える。

「克樹さんや夏姫さん、槙島さんにも、近藤さんにすらワタシが勝てないことはわかっていますっ。でも、それでもワタシは勝つしかなかった! 諦めることなんてできなかった! この目を治すために!! それなのに――」

 一気に身体から力が抜ける。

 灼熱の地獄から極寒の地獄へ。

 急速に全身が冷たくなって立っていられなくなった灯理は、胸壁に手を着いて身体を支える。

「魔女に……、女神に弄ばれていただけなんて、納得できるはずもありません!!」

 そう、灯理は星空に声を放った。

 叫んで、吐き出しても、まだ少しも晴れることのない、黒と灰色を混ぜ合わせたような鬱憤。

 想いとともにあふれ出してくる涙を零しながら、灯理は身体を震わせていた。

「だとしても、俺様たちにはモルガーナを倒す方法がない。戦う術もない。何もできることは、ない」

「それで貴方は諦めますか? 納得できるのですか?! ワタシにはできません!! ワタシから可能性を奪った魔女を、絶対に許すことなどできないから!!」

 声をかけてきた猛臣を、スマートギア越しでも突き刺すように、睨む。

「わかっています。もうワタシは戦えませんっ。克樹さんに後を託して、納得するしかありません! 納得したつもりでも、気持ちを納めたつもりでも、できるはずがないのですっ。この気持ちを消すことだけは!!」

 振り向いた灯理は、自分を見つめてくるふたりの男に問う。

「魔女に仕込まれて、女神の思惑に踊らされたワタシたちは、じゃあ何のために戦ってきたのですか! ワタシは、誰かの物語の脇役などではありませんっ。ワタシはワタシの物語の主人公なのです!! それなのに、ワタシは何のために戦って、きたんですか……」

 ぽたぽたと、頬から零れる涙が止まらなかった。

 声が震えて、もう上手く喋ることができなかった。

 押さえ込むことなどできない気持ちを、けれどもどうすることもできず、灯理は歯を食いしばって震えてることしかできない。

「オレだって……」

 微かな風の音と、食いしばった歯の奥から漏れる灯理の嗚咽しかない展望台で、うつむいていた近藤が顔を上げた。

「オレだって納得できてるわけじゃない! 確かにオレは克樹に後を託したさっ。だけどそれは、オレじゃどうにもならなかったからだ! いまでも……、いまでも梨里香を復活させたいさっ。梨里香と一緒に生きていきたいんだ!! でも……、でも……」

 そう言ってうつむき、拳を握りしめた近藤は、星よりも光り輝く滴を零し続けている。

 それを見ている灯理もまた、あふれだし頬を伝って落ちていく想いの滴が止まらなかった。

「俺様だって同じだっ。できるならいまからでもモルガーナをぶっ飛ばして、克樹にも、リーリエにも、エイナにも百合乃にも勝って、穂波を復活させたいんだ!!」

 全身で発してるような大声で、猛臣も叫ぶ。

 それから後ろに振り返った猛臣は、天の星よりも輝きだした夜景に向かって、呪いの言葉を張り上げた。

「モルガーーーーーナァーーーーーーーーー!!」

 どんなに大きな声も、冷たい空気に消えていく。

 ここにいる三人以外には誰にも届かない、叫び。

 近藤もまた猛臣に続いた。

「梨里香ぁーーーーーーーー!! オレはお前と、一緒に生きていきたいんだーーーーーーっ!!」

 猛臣も近藤と一緒に叫んでいた。

 どこにも届かない声を、何度も何度も、張り上げる。

 ――そうか。槙島さんは、このためにここを選んだんだ……。

 やっとそれに思い至り、そして叫び続けているふたりを見て、灯理もまたくすぶっている想いを吐き出さずにはいられなくなっていた。

「あああああああああああーーーーーっ!! ああああああああぁぁぁああああーーーーー!!」

 言葉にもならない、獣の雄叫びのような声。

 形にならない想いを吐き出すために、灯理はずっとずっと、声を出し続ける。

 そのあと灯理は、近藤と猛臣とともに、声が嗄れても、叫び続けていた。

 

 

            *

 

 

「何故こんなことをしたのか、話してもらおう」

 足下を照らしている照明と、演台のスポットライトだけでは部屋の中は暗く、集まっている十数人の顔すら判別がつかない。

 スポットライトの下に立った途端にかけられた声に、モルガーナは唇の端をつり上げた。

「必要だったからよ」

「必要、だっただと?」

 どよめきが起こった。

 全員が口々にモルガーナを非難する言葉をささやき合うが、直接それを彼女にぶつけてくることはない。

 フォースステージに至らせるために世界中のスフィアに貯まったエリクサーをエイナに集め、その影響でほぼすべてのスフィアが停止してから三週間ほど。

 世の中ではスフィアの機能復活を諦める機運が大勢を占めつつあった。

 早々にスフィアドール業界の元締めであるスフィアロボティクスがスフィアを捨て、クリーブへの乗り換えを宣言したために事態は沈静化の方向に向かってはいるが、新たに生まれた問題もあり、業界としての混乱は当分収まる状況にはない。

 それは当然想定していたことで、時期が想定より早まり、クリーブというイレギュラーが発生しているが、その程度のことはここまで進んだ計画にはなんら影響がない。

「貴女は、いったい何を考えているの?!」

 しわがれた口元だけが見える女性から発せられた、ヒステリックな声。

 それにも動じることはなく、モルガーナは人々に薄い笑みを返すだけだった。

 スフィア停止直後から、幾度となく開催のアプローチがあった会合。三週間経ってやっと開催したこの会合に集まっているのは、小康状態を保ちつつも意識の戻らない天堂翔機を除く、いつものメンバー。

 彼らは世界を動かすほどの権力や財力、人脈を持ち、ここの集まっていることが世間に知られるだけで大事になりかねないほどの、世界中の重鎮たち。

 多くの野望と、そして何よりエリクサーの奇跡による不老不死に釣られて集まっている彼らは、いまでこそ世界を動かすほどの力を持つ者であるが、その潜在能力を見出し、翔機ほどの手厚さではないが、目をかけ時間をかけて能力を伸ばしてきた者たちだった。

 彼らがいまの地位に就けているのは、モルガーナがそれだけのことをしてきたから。

 そんな彼らだからこそ、所属する国家や企業の表向きでは敵対するような人物たちでもこの場に集い、モルガーナに協力をしてきた。

 しかしいまは、彼らから険悪な視線がモルガーナに向けられている。

「すぐにスフィアの機能を元に戻せ」

 そう言ってきたのは、モルガーナに一番近いところに立っている男性。

 この会合の中でも主導的な立場にあり、同時にメンバーの中でも最も世界に対する影響力が大きく、その力も相応に高い人物。

 年齢の割にガッシリとした身体を上等なグレーのスーツに包む彼は、顔こそ暗がりで見えていないが、刺すような視線を向けてきていた。

「クリーブなどに主導権を取られてしまっては、これまでの我々の計画が台無しだ! 機能を戻すことができないというのならば、いますぐ正常に機能するスフィアを全世界に配布しろ! それをするためならば、我々は協力を惜しまないっ」

 おそらく会合の開催前にメンバー同士で意思確認をしていただろう提案。

 けれどモルガーナは、紅く塗った唇の端をつり上げるだけだった。

「そんなことをするつもりはないわ。する必要が、ないのよ」

 演台の上から、モルガーナは男を見下ろす。

 男はしばしの間、撤回の言葉を期待するかのように沈黙していた。

 しかしそれ以上何も言わないモルガーナに、奥歯を噛みしめた。

「状況を元に戻す気は、ないのだな?」

「えぇ。言った通りよ」

「わかった!」

 大きな声で言い、ひとつ足を踏み鳴らす男。

 その瞬間、モルガーナの正面、奥手の出入り口から強い光が差し込んできた。

 目が開けていられないほどの光とともに、幾人かの重い足音と、集まった人々が動くことによる椅子の音がした。

 それに続いたのは、銃声。

 強い光の中に花のように火花が咲き、演台に立つモルガーナを銃弾が貫く。

 紅い花。

 黒いスーツの十数カ所に紅い花のように血をにじませ、防ぐこともなく銃弾をその身に受けたモルガーナは、目を見開いたままくずおれるように倒れた。

「これから先は、お前の計画は我々が引き継ぐ」

 誰もが机の下に伏せていた中、いち早く立ち上がった主導役の男は、自らの身体から流れ出た血溜まりに倒れ伏すモルガーナを見下ろしながら、そう宣言した。

 照明が点けられ、薄暗かった部屋が明るくなる。

 入り口近くの白い壁に沿って立っているのは、ヘルメットを被り、手にした小銃の弾倉を交換している四人の兵士。

 伏していたメンバーもゆっくりと立ち上がり、その場から演台に近づくことなく、モルガーナを見下ろしていた。

「連れて行け」

「待ちなさい!」

 兵士に顎でしゃくって指示した男を止めたのは、老齢の域に達している女性。

「兵士をこの場に引き入れる手引きをしたのは私でしょう。そうでなくてはこの襲撃は成功しなかったわ! 魔女の身柄は私がもらうわっ」

「いいや、この場から一番近い医療設備は、我が国の領土内だ。彼女は我が国が引き受ける!」

「医療技術ならばこちらが上だ! 病院もここからもそう遠くはない。情報を引き出すならば最高で、最善の設備がある。こちらに引き渡してもらおう!」

「何を言っている! この襲撃で手を汚したのは私ではないかっ。私に一番の権利があるのは明白だろう!!」

 言い争いを始めた世界の重鎮たちに、兵士は困惑の表情を浮かべ、顔を見合わせる。

 テーブルを挟んでヒートアップし留まるところを知らない口喧嘩は、突然に終わりを告げた。

「言い争いは、完全に、この場を制圧してからに、するべきだったわね」

 途切れ途切れながらも、はっきりと聞こえてきたその言葉に、全員が演台に注目した。

 そこには、ほぼ全身から血を流しながらも、よろよろと立ち上がるモルガーナの姿があった。

「これだけの傷を負うのは、二〇〇年ぶりくらいかしら、ね。痛みは人間と変わりがないから、さすがに少しキツいわね」

 そう言いながら、モルガーナは顔にかかった血を拭い、唇の端をつり上げて笑った。

「な、なぜ……」

「不滅でも、不死でもないけれど、この程度でどうにかなる身体ではないのよ。本気で私の後を継ぐつもりだったのであれば、ためらわず頭か心臓を破壊するべきだったわね」

 ぽたぽたと血を垂らすモルガーナは、しっかりと立ち、腕を組んで笑む。

「う、撃――」

「エイナ」

 主導役の男がもう一度射撃を命じ終わる前に、モルガーナの静かな声が響いた。

 銃声は、しなかった。

 身体を投げ出すように再び床に伏せた人々が振り返ると、四人の兵士は銃を構えたまま、ただ立っている。

 けれど次の瞬間、ヘルメットが転がり落ちた。

 頭ごと。

 血を噴き出しながら倒れていった四人の兵士の前に現れていた、人影。

 照明を受けて煌めく剣を振り抜いた格好で右手に持ち、テーブルの上に姿勢を低くし片手を着いているのは、ピンク色の髪と装飾の多い衣装を纏った小柄な人物。

 エリキシルドール、エイナ。

 一二〇センチの、子供程度しかない体格のエイナは、血糊を剣を振って払い、テーブルの上に立ち上がった。

 感情の映らないその瞳が、恐怖に染まった目を向けてくる重鎮たちをぐるりと見回していく。

「ちっ!」

 舌打ちとともに主導役は懐に手を入れ、素早く抜き出してモルガーナへと突きつける。

「――が、あああぁぁぁ!!」

 彼が取り出された拳銃は、銃弾を放つことなくテーブルに落下した。

 主導役の右手ごと。

 閃きすら目に映らない速度の剣戟で右手首を切り落とされた主導役は、左手で右腕を強くつかんで悲鳴をかみ殺しつつ血を止めようとする。

「貴方たちは私の役に立ってくれたわ。とても便利だったのよ? 本当に。――けれど、ここまでね」

 そんなモルガーナの言葉に応じてテーブルに剣を突き立てたエイナは、無表情にまま腕を広げて両手を振った。

「な、なんなの? これはっ」

「うぅ、うううぅぅぅっ」

 エイナの指の間から放たれ、重鎮たちの額に打ち込まれたのは、指先のほどのサイズの、透明な球体。

 スフィアコア。

「何を、する、つもりだ!」

 苦悶の表情を浮かべ血を止めようと手首を強くつかみながらも、主導役はモルガーナのことを睨みつける。

「もう少しばかり貴方たちに役に立ってもらうことにするわ。貴方たちのたいしたことのない人生でも、多少は足しになるでしょう」

「ま、待て!!」

「――アライズ」

 モルガーナが唱えたのと同時に、身体の力を失いバタバタと重鎮たちが床に倒れた。

 もう身体から血が流れ出していないモルガーナは、主導役に歩み寄る。

 仰向けにひっくり返された彼は、微かな息こそあるが、大きく目を見開き驚愕の表情を浮かべ、身動きひとつしない。

「本当に最後までたいして役には立たなかったわね」

 紅く塗った爪先でスフィアコアをつまみ取ったモルガーナは、微かに灰色に染まったそれを目に近づけて眺め、吐き出すように言った。

「やはり、まだ足りないわ。こんなものでは、ぜんぜん。もっと、もっと集めなくては……」

 スフィアコアを握りしめながらも、モルガーナは奥歯を噛みしめ、顔を歪ませた。

 

 

 



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第七部 無色透明(クリアカラー)の喜び 第二章 4

 

          * 4 *

 

 

 視界の左右にあるのはアリシアの――百合乃の各種プロパティウィンドウ。

 百合乃から送られてくる彼女の視界をスマートギアのディスプレイに映し、ダンスホールの壁を頼りに立つ僕は、目の前に立つプロテクターをつけた近藤を見据える。

『よろしく、おにぃちゃん』

『あぁ』

 百合乃からかけられた声で、僕は目を閉じる。

 ヘルメットタイプの透過型バイザーでも、ヘッドギアタイプの不透過型グラスの内側に搭載されたディスプレイの場合でも、当然のことながらスマートギアは目を閉じれば何も見えなくなる。

 でも僕は、目を閉じるとともに意識で操作を行い、新たな機能を起動する。

 目を閉じているのに見えてくる映像。

 始めはぼんやりしていた視界は、アッという間にクリアになり、すべてがくっきりと見えるようになった。

 ――相変わらず、けっこうキツいな。

 灯理の医療用スマートギアを研究・開発しているメーカーに連絡をつけ、無理矢理な共同研究を申し込んでショージさんが僕用に視神経直送型――リンクX、通称「リュンクス」技術――スマートギアを持ってきたのは、この間の話し合いからキッチリ一週間後のことだった。

 適性が必要なものだったらしいけど、僕は適合したらしく、目を閉じていてもスマートギアから送られてくる映像情報を見ることができていた。

 いまはリュンクス型スマートギアの調整のためのデータ取りとともに、使い始めて一週間と経っていなくてまだ慣れていない僕が使いこなせるよう、毎日平泉夫人の屋敷に来て訓練をしている。

 ――まだ慣れないな……。

 人間の肉眼による視界は、左右約一八〇度で、当然ながらまぶたによる瞬きもある。

 でも百合乃の身体であるアリシアの視界は、メイン級のカメラだけで五個、さらにサブのカメラがいくつか搭載されているため、三六〇度を確保している。そしてカメラには瞬きがない。

 肉眼の枷が外され、アリシアからの映像情報を直接視神経で受け取っている僕は、瞬きのない、三六〇度の視界で世界を見ている。

 人類にはそこまでのはいないけど、ほ乳類なら概ね三六〇度見える動物がいるし、昆虫なら目がふたつしかない種類の方が珍しい。

 人間の脳機能の潜在能力として、器官から送られてくる情報があって、慣れさえ――そのための神経回路ができさえすれば、本来身体にはない目でものを見ることも可能になる。

 いまの僕はアリシアの光学視界の他に、プロパティウィンドウを表示した情報視界の、脳内マルチディスプレイ状態になっている。

 リュンクス型スマートギアを使い始めて七日、脳内マルチディスプレイができるようになってからは四日、まだ慣れたとは言えないけど、どうにか使いこなせるようになってきていた。

『いいぞ、百合乃』

『うん、じゃあゆっくり行くよ』

 僕の声に構えを取った百合乃。

 リミッターを解除しないから風林火山とは言えないが、百合乃との一体化を意識して、彼女と一緒にアリシアを動かす。

 見据えてる先にいるのは近藤。

 こちらが構えたのを見て、全身プロテクターの塊みたいになってる近藤もまた構えを取った。

 訓練相手は本当なら平泉夫人とか夏姫にお願いしたいところなんだけど、スフィアが使えなくなっている以上、闘妃や戦妃、ヒルデも動かせない。クリーブではバトル用には性能が不足するし、デュオアライズもできない。

 フォースステージの全力の速度は無理でも、僕のスマートギアの練習と、百合乃との同調のために、格闘技ではそれなりに強い近藤が練習相手を買って出てくれた。

 演舞のような比較的ゆっくりした速度で、正拳突きや上段回し蹴りを繰り出す百合乃。

 僕はそんな様子を光学視界で見ながら、情報視界で身体の状態をチェックし、調整を加える。

 フォースステージに至ったアリシアは、エネルギー的な制限は緩く、サードステージまではあった人工筋の熱問題もそれほど厳しくない。でも出力的は風林火山で同調し、細やかに調整を入れてやった方がポテンシャルをより高く引き出せることがわかってる。

 それがこの先避けられないだろう、エイナとの戦いに確実に勝利するために必要であると、僕は考えてる。

 モルガーナからのアクションは、まだない。

 十二月に入り、テストの勉強なんかもしつつ、僕と百合乃は、来たるべき最終決戦のために備えていた。

 

 

            *

 

 

「今日はここまでにしましょう」

 そんな平泉夫人の宣言に、僕は止めてしまっていた息を盛大に吐き出した。

 リュンクスをオフにし、目を開けた僕はディスプレイを跳ね上げてスマートギアを頭からはぎ取る。

「少しはサマになってきたみたいね。まだ最高速での動きは不安定だけれど……、これはもう少し広い場所で訓練しないと難しそうね。どこか手配することにするわ」

「……ありがとうございます。対決までには、ものにして見せます」

 少し離れたところに置かれたテーブルセットに着き、リンクの状況なんかをモニターしていた夫人に言われ、僕は汗が垂れてくる顔を手で拭いながら答えていた。

「お疲れ、克樹」

「お疲れさまです、克樹さん。どうぞ」

 近寄ってきた夏姫に先んじてタオルを差し出してきてくれたのは、灯理。

 ――やっぱり、なんか違うな。

 タオルを受け取って汗を拭きながら、僕は小さく首を傾げていた。

 僕たちの通う高校に比べて少し遠いところの灯理は、毎日夫人の屋敷に来てるわけじゃない。ちょくちょく来てる彼女の様子が、なんとなく前と変わっているような気がしていた。

 いつも通り、白地に赤い横線の入った医療用スマートギアを被っている灯理の表情は読み取りづらくて、口元に浮かべた笑みだけでは何が変わったのかはよくわからない。

 でもなんと言うか、灯理の纏う雰囲気が、この屋敷でモルガーナとの最終決戦の対策を話し合ったときの、思い詰めていた様子とは違っていた。

 身体を動かしていたから僕よりも汗をかいてる近藤は、百合乃から受け取ったタオルで身体を拭き、スポーツドリンクを飲みながら笑ってる。

 僕にスフィアを渡してから吹っ切れたようでいて、どこか影が残っていた近藤も、それがすっかり消えているように思えた。

 思い返してみると、昨日バトル用アプリ開発で協力してる猛臣と通話でやりとりしたけど、少し気持ち悪さを感じるくらい柔らかくなっていた。

 ――何かあったんだろうな。

 三人が変わるような何かがあったんだとは思うけど、何なのかはわからなかった。

 でもたぶん、それは僕が問うようなことじゃない。

 いまも機能するエリキシルスフィアを持ち、アライズが使え、たぶんエリキシルソーサラーの資格を失っていない僕が、問うてはいけないこと。

 そう思えるから、訊いてみようと一瞬思ったけど、夏姫が渡してくれたペットボトルを仰いで自分の口を塞いだ。

「この後はどうする?」

 差し出された灯理の手にタオルを渡した僕は、まだ日差しの高い窓の外を見てから、近づいてきた百合乃に問う。

 今日のデータを見てるんだろう、僕ではない斜め上の方に視線をやっている百合乃は、空色のツインテールをかき上げてから小首を傾げた。

「スマートギアの調整が必要みたいだから、今日はここまでかなぁ。また明日か、明後日だね」

「時間、ないだろ?」

 もうすぐモルガーナの準備が整うと予想されていた一ヶ月が過ぎる。いつあいつから連絡があってもおかしくはない。

 時間がない現状では、少しでも経験を積んで、最終決戦のために前に進んでおきたかった。

「あんまり根詰めてばっかりでも苦しいだけだよ? おにぃちゃん。適度な息抜きも、戦いの前には必要だと思うんだよね?」

「息抜きって、言われてもなぁ」

 ニコニコと笑ってる百合乃に、僕はホール内を見回した。

 柔らかく笑ってる平泉夫人は頷いてるし、近藤は肩を竦めてるだけだ。灯理は聞いていないかのように僕に背を向けてる。

 無表情の印象が強い芳野さんですら、なんでかうっすらと笑みを浮かべてるし、夏姫はなんだか期待の籠もった視線を僕に向けてきていた。

 先週、世界は大きく動いた。

 いや、傾いたといっても過言じゃないだろう。

 夫人が火種と言っていた場所での紛争や闘争が相次いで勃発し、大規模な戦闘が行われたり、それと同時に世界の経済も原因がはっきりしない乱高下が起こった。

 それよりも大きかった事件。

 先週からこっち、政界や財界の重鎮の病死、暗殺、失踪、引退などがほんの数日の間に相次いで発表されたのだ。

 世界の黒幕と字名され、次期米国大統領は確実と言われていた人物の急死を筆頭に、王様とか首相クラスの人物、世界を牛耳る財界の翁ふたりの死亡と失踪、他にも突然政権交代が起こった国が複数あるし、姿も見せず引退と発表された人もいる。

 各地の争乱もそれに被さり、日本はそれほどじゃないけど世界的には混乱が続いている。

 その前、あれだけ世界中で連日報道されていたスフィアの一斉停止事件なんて、世界の重要人物一斉消失によって吹き飛んでしまって、話題に上ることが珍しいほどになっていた。

 平泉夫人の話では、すべては調べ切れていないそうだけど、死亡が発表された人物の中には、モルガーナと比較的密に連絡を取り合っていた人がいるそうだ。

 そんな大きな動きがあったということは、モルガーナが着実に準備を整え、僕たちに残された時間は刻一刻と少なくなっているということ。

 焦りを感じずにはいられなかった。

「焦ってるばっかりじゃ、空回りしちゃうよ? おにぃちゃん」

 側まで寄ってきた百合乃が、僕の眉根に寄ったシワをつつきながら言う。

「それはまぁ、そうかも知れないが……」

「んー、そうだねぇ」

 下唇をドールらしい大きな人差し指で撫でながらうなり声を上げる百合乃は、僕をちらりと見た後、寄り添うように立ってる夏姫に視線を向けた。

「せっかくだから、夏姫さんと……、恋人とデートに行ってきたら?」

「え?!」

「デートぉ?」

 予想外の提案に、夏姫は驚きの声を上げ、僕は困惑の言葉を漏らす。

「あら、克樹君。夏姫さんとやっと付き合うようになったの?」

「いや、前からそんな感じだったけど、お前ら保留にしてるとか言ってたよな?」

「えっと、えぇっと、……うん、そうだったんだけど、エリキシルバトル、終わっちゃったし……」

「あぁー、うん。バトルが終わったら改めて正式に告白するって約束してたから、ね……」

 なんでか平泉夫人も近藤も、意地悪そうな笑みを浮かべていて、芳野さんも楽しそうに口元を押さえてる。

 正式に付き合うことになったと言っても、正直なとここれまでとあんまり変わったことはしてなかったし、百合乃が復活して以降のこの一ヶ月、最終決戦に向けた対策で手一杯だった。

 ――そっか、そうだったよな。

 いつも気づくのが遅い僕だけど、今回もいまさらながらに気がついた。

 告白して、付き合い始めて、もう一ヶ月になるのに、夏姫と恋人らしいことをほとんどできていなかったという事実に。

 隣の夏姫を見てみると、僕の手を包むように握ってくる彼女は、少しバツが悪そうに、でも少し不満そうに口を尖らせている。

「そうだな。今日くらいは、いいか」

「――うんっ」

 そう言った僕に嬉しそうな笑みを浮かべて頷く夏姫。僕もまた一緒に頬が緩むのが止められなかった。

 もうすぐモルガーナとの最終決戦。

 どんな戦いになるかはわからないし、何が起こるのかもわからない。最低でも、命懸けの戦いになることだけは確かだ。

 死ぬつもりはない。

 でも、悔いを残した状態で戦いに臨みたくはない。

「今日はあたしは、ここに泊まっていくから、ふたりでゆっくりしてきていいよぉー」

「何言ってんだよ!」

 含み笑いで言う百合乃に、拳を振り上げながら怒りを向ける。

「行ってらっしゃい、克樹さん、夏姫さん」

「……うん」

 少し寂しそうな笑みで言う灯理に、頷きで返すことしかできなかった僕は、何か言いたい気持ちを振り切って夏姫に向き直る。

「行こっ」

「あぁ」

 夏姫の弾んだ声に応えた僕は、彼女と手を繋いだまま、ダンスホールの出口へと向かった。

 

 

            *

 

 

「ありがとう。下がっていいわ」

「はい、奥様」

 カップに紅茶を注ぎ、まだ中身が残っているティーポッドにコジーを被せ、ミルクポットも添えてくれた芳野に、夫人はそう声をかけた。

 執務室の比較的質素な応接セットの、夫人の正面に座っている百合乃をちらりと見た後、芳野は扉まで下がり、一礼してから部屋を出ていった。

「料理、お上手なんですね、芳野さん」

「免許までは取っていないけれど、みっちりと習っているから、和洋中各国ひと通りを、フルコースまでつくれるわ。いまはでも、もう少し家庭料理寄りのを練習しているようね」

「やっぱり、ショージ叔父さんのため、ですか?」

「……そのようね」

 芳野と彰次の関係については、再会してから話題に上ったことはないし、克樹もはっきりとは気づいていなさそうだったが、女の子である百合乃の洞察力は鋭いらしい。

 ニッコリ笑った後、大人よりもさらに太い指で気をつけながら、百合乃はティーカップを口元に寄せた。

「ショージ叔父さんと結婚する、とかですか?」

「それはどうでしょう。芳野の方はある程度考えがまとまっている様子だけれど、彼の方がまだ乗り越えなければならないものがあるようですからね。正式に付き合うにしても、そこからでしょう」

「東雲映奈さんのこと、ですか」

「えぇ」

 表情に暗い影を落としている百合乃を、平泉夫人はじっと見つめる。

 克樹と夏姫がデートに行き、近藤と灯理も帰った後、数日前にふたりで相談していた通り百合乃が屋敷に泊まることになった。

 生前から百合乃とは親交があったし、小学生だった彼女が屋敷を訪れる機会は決して多くなかったが、今日泊まると言い出したことにはとくに不思議に思うところはない。

 ただ百合乃には、溜め込んでいるものがあるように、平泉夫人には思えていた。

「何故貴女は、あの魔女との対決を選ぶのかしら?」

「対決が、避けられないからです。この前説明した通り、あの人から逃れる方法は、ほとんどありません」

 言いながら伏し目がちになる百合乃。

 魔女の探査から逃れられないだろうという話は聞いていたが、その説明がすべてではないように思えていた。

「他の道も、本当はあるんじゃないかしら?」

 その言葉に百合乃は顔を上げ、泣きそうな表情をした。

 瞳を揺らし、唇を震わせて何かを堪えていた彼女は、しばらくして話し出す。

「本来、あの魔女さんには、人間では勝つことはできません」

「でしょうね。私も死にかけたし、あの人が斬り捨てた人たちのことを考えれば、たとえ日本であっても街ひとつを消してしまうことくらい、造作もないことでしょう」

「はい……。魔女さんがどれくらいの力を持っているかは、リーリエやエイナさんも把握できていなかったようです。アライズやカーム、フェアリーリングなどは確実にあの人の魔法ですが……、あの人の魔女としての力はわからないんです。でも、世界に対する影響力だけは本物で、元々人間であったのに、人間を超える寿命を得て長い時間かけて培ってきたそれは、たぶんいまでも太刀打ちできないくらい大きいと思います」

 言いながら顔を歪ませている百合乃の瞳に浮かんでいるのは、恐怖。

 大人びた印象と口調で話していても、彼女の年齢は生前と変わりない一二歳程度。

 一度は自分を死に至らしめた、底知れない魔女という存在に、恐怖を感じないはずがなかった。

 向かい合って座っていた平泉夫人は、立ち上がって百合乃の隣に寄り添うように座る。

「それでも私たちは、あの魔女と戦うことができているわ」

「それは、あの人に叶えたい願いがあるからです。他の人を利用することはできても、おにぃちゃんとあたしの……、おにぃちゃんとリーリエのスフィアからエリクサーを奪うには、エリキシルバトルのルールに則った戦いをするしかありません」

「それは、イドゥンって女神がいるから?」

「はい」

 額にシワを寄せて難しい顔をする百合乃は頷く。

「女神様を望んでいるのは、ただの戦いじゃないみたいです。譲れない想いと想いのぶつかり合い、かけがえのない気持ちと気持ちの削り合い……。神様にとっては儚い、妖精のような存在である人間の物語、妖精譚を求めているようなんです」

「じゃあ、魔女は女神のその願いを叶えるために、克樹君と百合乃ちゃんに戦いを仕掛けてくると?」

「はい。本気になれば、魔女さんがこのスフィアを奪う方法なんていくらでもあるはずなんです。それに抗うことは、ただの人間には無理です。もし魔女さんに敵対する人たちが協力して戦争を始めるなら戦うことはできるかも知れません。もちろんその動きをあの人が見逃すはずがないので、そのときは全力で人間を叩き潰しにくるはずです。それをしないとわかっているからこそ、いまこうして戦いの準備をすることに意味があるんです」

 百合乃は空色の髪の下、自分の頭の中に搭載されているスフィアを指さしながらそう語った。

「魔女に、勝てるの?」

「……わかりません。エイナさんだけであれば、おにぃちゃんと一緒なら、勝てるんじゃないかと思います。でも、魔女さんがどれくらいの力があるのかはわからないので」

 話ながら、百合乃は苦しそうで、泣きそうな顔をしている。

 克樹の前ではこんな顔を見せることはない。

 いまはまだリュンクスに充分に慣れたとは言えず、必死になっている彼を不安にさせないよう、百合乃なりに配慮しているのだろう。

 けれど夫人とふたりきりのいまは、百合乃はいつもは笑みで隠している素顔を晒していた。

「でもたぶん、大丈夫なんだと思います。おにぃちゃんと一緒なら」

「どうして?」

「それはおにぃちゃんが、特異点だからです」

 泣きそうになっていた顔を引き締め、百合乃は小首を傾げる平泉夫人の瞳を見つめてくる。

「特異点?」

「はい。これはリーリエとエイナさんが出した結論です。エイナさんを抱える魔女さんが圧倒的なひとり勝ちを避けるため、女神様がおにぃちゃんという特異点を用意していたんだ、と」

「なるほど……。イドゥンの願いは、拮抗した戦いなのね。それに克樹君が選ばれた」

「でもそれはたぶん、おにぃちゃんだけじゃありません。特異点はエリキシルバトルが計画されるずっと前から、女神様によっていくつも仕込まれていたんです」

「いくつも?」

 平泉夫人の問いに、百合乃は大きく頷く。

「そのひとつは、確実に敦子さんです」

「私が?」

「参戦しなかったわけですが、フォースステージはわかりませんが、敦子さんならサードステージまでのリーリエやエイナさんには対抗できたと思います。おにぃちゃんから聞いた話の通りなら、夏姫さんのそうだったんだと思いますし、灯理さんのデュオソーサリーもそうでしょう。特異点ではなくても、槙島さんは時間さえあればエイナさんと渡り合えるドールを造り上げていたはずです」

「なるほどね。あの魔女はすべてをコントロールできていたつもりで、すべてはイドゥンの掌の上だった、というわけね」

「はい。……そんな中でも、いま残っているのはおにぃちゃんとあたしだけです。あたしたちが戦うしかないんです」

 また瞳が揺らぎ始め、うつむいてしまった百合乃は、それでも言葉を続ける。

「あたしたちとの戦いが終わった後、魔女さんがどんな行動に出るのか、わかりませんから」

「……そうね」

 願いを叶えた後、人間を強く憎んでいる様子のモルガーナがどうするかは、平泉夫人でも予測ができなかった。

 エリキシルバトルが正常に終わっていれば、勝ち残った参加者の願いを叶えていただろうと思える律儀さを感じる反面、イレギュラーな状況となったいまは何を考えているのかわからない。

 小さな身体と幼い心に、大人でもできないような決意を秘めて震えている百合乃を、平泉夫人は優しく抱き寄せる。

「百合乃ちゃん。貴女には何か望みは、願いはないの?」

 問うた瞬間、百合乃が身体を強張らせたのがわかった。

 彼女の顔を覗き込むと、何とも言えない表情で硬直させ、さらにうつむいて夫人から目を逸らした。

「あ……、あたしは……」

 ガタガタと大きく身体が震え始めた百合乃を、平泉夫人は強く抱き締める。

 泣きそうに、つらそうに、悲しそうに顔を歪めている彼女を、夫人は両腕で包み込んだ。

「あたしはいま、やるべきことがはっきりしていて、あたしにもおにぃちゃんにも、ぜんぜん余裕がなくて、負けるわけにはいかなくて、おにぃちゃんを……、不安にさせるようなことは、できない……」

 夫人のふくよかな胸から見上げて来、目尻に大きな涙を溜めながら百合乃は言う。

「あたしの、願いなんて……。そんな話をして、戦う決意をしてくれたおにぃちゃんを、迷わせたくない……」

「でも、リーリエちゃんは、どうなのかしら?」

 大きく目を見開き、百合乃は口をつぐむ。

「リーリエちゃんは、百合乃ちゃんの復活を願って、――完全に人間としての復活は叶わなかったけれど、いまこうして貴女のことを復活させた。リーリエちゃんは、貴女に何を望んでいたのかしら?」

 いつも無邪気な様子を見せてくれていたリーリエ。

 けれど平泉夫人は、そうした彼女には表に出さない芯の強い部分を持っていることに気づいていた。

 リーリエとふたりだけで話す機会は少なく、エリキシルバトルのことも聞きそびれてしまったが、いまなら何を望んで、何をしようとしていたのかがわかる。

 百合乃のことを、おそらく母親であると認識していたリーリエ。

 不幸な死を迎えた百合乃の復活を願ったのは、克樹と幸せになってほしいと考えていたからのはず。

 自分もまた幸せになりたいという想いを抱きながらも、自分の存在を投げ打ってまで願いを叶えたのは、モルガーナとの戦いを望んでのことではない。

 大粒の涙を流している百合乃のことを強く抱き締める。

 子供を産んだことはなかったが、リーリエも、百合乃も、まるで自分の子供のように愛おしい。

「本当は……」

 声を震わせながら、百合乃は言う。

「本当は、生きていたい……。おにぃちゃんや、敦子さんや、他のみんなと一緒に、生きていきたい……。リーリエがそれを望んで、あたしの復活を願ってくれたのだってわかってます!!」

 黒一色の平泉夫人の服にしがみつき、百合乃は叫んでいた。

「けれど、無理ですっ。あの魔女さんは絶対に諦めることなんてないっ! 女神様から逃れる方法だってないんです!! 隠れる方法はもしかしたらあるかも知れません……。でも、あたしは立ち向かうしかないんですっ。戦うしか道がありません! だって――」

 顔を上げた百合乃は、涙を流し、顔をくしゃくしゃに歪める。

「あたしは、人間ではないんです……」

「百合乃、ちゃん……」

 返すべき言葉を、平泉夫人は思いつけなかった。

 彼女のためならば、どんな協力もしたい、どんなことでもしてやりたいと思った。

 けれど、いまの彼女にいま以上にしてやれることは、何もなかった。

 だから平泉夫人は、百合乃の身体を抱き締める。

 克樹にすら言えない言葉を、想いを聞き、受け止めてやること。抱き締めてやること。

 それ以外のことを、思いつけなかった。

 だから平泉夫人は、泣きじゃくる百合乃を、ずっと抱き締め続けた。

 

 

 



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第七部 無色透明(クリアカラー)の喜び 第二章 5

 

 

          * 5 *

 

 

「さて、どうしよっか?」

 駅舎の階段を下りきってロータリーへと降り立った夏姫は、続いて下りてきた克樹に振り返った。

「どうしよう……」

 デートに行ってこいと言われはしたが、何も考えていなかったからとりあえず最寄り駅まで戻ってきていた。

 克樹にはここのところ本当に余裕がなかった。

 モルガーナと戦うための準備はもちろん、テストのために夏姫や近藤に勉強を教えてくれていたりしたから、穏やかに過ごせる時間はほとんどなかったはずだ。

 突然デートをしろと言われても、どこかに行くといったことは考えられない。

 まだ空は明るくて、夕食には早かった。

 食材も昨日のうちに買っていたから充分にある。中野にでも繰り出してショッピングでも、とも思ったが、そんな気分にもなれなかった。

 人通りの多い駅舎の階段前から少し歩いて、うなり声を上げている克樹を見ながら、夏姫も考えてしまっていた。

「そう思えば……」

「ん?」

 顎に手を当てて考え込んでいた克樹が、ふと顔を上げてロータリーに隣接している広場に目を向けた。

「最初に僕が夏姫のことをちゃんと見たのって、ここだったんだよな」

「あー。そんなこともあった、かな?」

 一年と少し前、確かにこの駅の広場で、ローカルバトルに参加していたことを思い出す。

 優勝賞品に釣られて出場して優勝し、あのときすでにエリキシルバトルへの参加を表明してレーダーの使い方もわかっていたから、雑踏の中にいた克樹にも気づいていた。

 まだバトルを申し込む前で、彼とは話したことがなくて、噂だけで判断して敬遠していた。

 ――なんか、くすぐったい気分だな。

 懐かしそうな顔をして広場に目を向けている、いまは恋人となった克樹の横顔を眺める。

 恨みに近い感情を抱いていた男の子が、いまは愛おしい存在となっている。

 なんだか、不思議だった。

 ――そうだっ。

「ねぇ克樹」

「ん?」

「ちょっと行きたいとこあるんだけど、大丈夫?」

「まぁ、今日はデートしろって言われたしね……」

「じゃあ、行こっ」

 彼の腕に自分の腕を絡めて、歩き始める。

 気温はすっかり冬のそれなのに、ちっとも寒くなかった。

 お互いコートを羽織って、しっかり着込んでもいるのに、それでも伝わってくる彼の温もりが、嬉しかった。

 駅からしばらく歩いてたどり着いたのは、高校。

 正門ではなく、裏門側に回って、たぶんまだ部活をしているクラブがあるためだろう、開け放たれたまま門から敷地の中に入る。

 そこはゴミ捨て場のある、小さな広場。

 彼と初めて言葉を交わした場所。

「……懐かしい、な」

「うん。初戦だったのに、ここで克樹に負けたのが、始まりだったんだよね」

「もしヒルデが不調じゃなかったら、あのとき僕は――、僕とリーリエとじゃ、勝てなかったと思うよ……」

「克樹も使い古した第四世代パーツだったんだっけ? 条件が良かったらって意味では、たぶんどっちもどっちだったと思うよ」

「まぁ、そうかもな」

 戦った場所から少し離れた場所で、彼と並んで何もない土が剥き出しの場所を眺める。

「他にも、行きたい場所があるんだけどさ」

「近いところだけだな」

「うんっ。それでもけっこう、たくさんあるよね」

「そうだな……」

 どんな意図でここに来たのか、克樹も理解してくれたらしい。

 空を仰いで指折り数える克樹と手を繋ぎ、次の場所へと向かう。

 灯理と近藤が猛臣と戦った場所を通り過ぎ、明美が近藤に襲われて車に轢かれそうになった場所を彼に教える。

 指を絡めながら手を繋いで歩き、踏み込んでいったのは、公園。

 踏み込んでいって見えてきた、細かい砂利を敷いたそれほど大きくはない広場が、終着点。

 寒さと、崩れてきそうな天気になってきたためか、人の気配はない。

「やっぱりここが、一番の想い出の場所、かな?」

 手を離して、広場の真ん中まで歩いていった夏姫は、克樹に振り返る。

「あのときは気がついたら克樹が死にかけてて、焦ったけどね……」

「あーっ……」

 あのときはムービングソーサラーだった近藤の不意打ちを受けて気を失い、目が覚めたら克樹の胸にナイフが突き刺さっていた。

 そのときは焦ったけれど、ほんの一瞬現れた百合乃に救われて、息を吹き返した克樹が近藤と戦ってくれた。

 ここで初めて、彼の過去と剥き出しの心に触れた。

 何より、彼は必死になって、助けに来てくれた。

 ――もし、克樹を好きになった瞬間を訊かれたら、アタシを守るために近藤と向き合った、背中を見たときだな。

 ニッコリと笑ってみせると、克樹ははにかんだような、少し恥ずかしそうな笑みを見せてくれる。

 好きだと、そうはっきり言いたい男の子。

 大好きだと、胸の鼓動で感じられる、彼。

 ゆっくりと近づいてきた彼が、両腕で抱き締めてくれる。

 いまの気持ちを、言おうと思った。

 彼に伝えたいと思った。

 なのに、言えなかった。

 ――怖い。

 身体も、胸の奥も暖かいのに、頭の中を過ぎる冷たさ。

 それが夏姫の口から言葉を紡がせてくれなかった。

 

 

 

 何故か泣きそうな顔になっている夏姫を抱き締めた。

 見ているよりも細く感じる身体。

 柔らかく、暖かい、僕の恋人。

「好きだよ、夏姫」

 愛おしくて、愛おしすぎて、僕は自然とその言葉を口にしていた。

 嬉しそうに笑み、でもその瞳に悲しい色を浮かべている。

「好きだよ、夏姫」

 もう一度、僕ははっきりと彼女に告白する。

 いままで以上に顔をくしゃくしゃにし、小さく口を開いた夏姫だったけれど、返事はくれなかった。

 うつむいた彼女は、僕の肩に額を着け、押しつけてくる。

「克樹はまだ、復讐したいと、思ってる?」

「……正直なこと言うと、その願いが完全に消えたわけじゃない。でも百合乃は妖精としてだけど復活してて、それにもう戦いは僕の願いどころの話じゃなくなってるから、ね」

「うん……」

 火傷の男に復讐したい気持ちは、やっぱりいまでも消えたわけじゃない。

 たぶんいまでも出会ったなら、殺意が湧くと思う。あの日感じた、全身が冷え切っていく感覚は、消えてくれないから。

 けれど夏姫に言った通り、いまはもう戦いは僕の復讐なんてちっぽけなものじゃなくなってる。モルガーナのやろうとしていること次第では、人類の存亡を賭けたものになってしまう。

 願いは消えてなくても、僕の中で戦う一番の理由にはなっていない。

「夏姫は、どうなの?」

「アタシは……。アタシも、大丈夫かな」

 僕の身体に両腕を回して、額を肩に押しつけたまま、夏姫は言う。

「ママと話せて、けっこう気持ちは小さくなった、かな? いまでもママに復活してほしいって気持ちはあるんだけど、前ほど強くなくなっちゃった。エリキシルバトルが終わっちゃったことも、けっこう受け入れられてるかな」

 顔を上げて、顔を歪めて夏姫は笑う。

「克樹が……、あなたが、いてくれるから」

「うん……」

 泣いてはいない。

 泣いてはいないけれど、泣きそうになっている夏姫の瞳には、様々な感情が浮かんでいるのが見える。

 その感情のすべてを、僕が見通すことはできなかった。

「灯理とか近藤も、たぶんどうにかなったんだと思う。諦め切れてはいないと思うけど、気持ちの折り合いは、ある程度ついたんじゃないかな? 何があったかは、向こうから言ってくるまで訊く気はないけど」

「やっぱり、何かあったんだよね。前と少し、雰囲気変わってたね」

 ここ数日、灯理や近藤の様子が前と違っていたのは、やっぱり何かがあったからだったんだろう。

 そういうとこに敏感な夏姫は、僕よりも一歩深い部分を感じ取っていたらしい。

「アタシは……、それよりも、いまは怖い」

「怖い?」

「うん……。あのモルガーナって人が、凄く怖い。できれば戦ってほしくない。逃げ出しちゃいたい。……できないって、わかってる。克樹の言葉に、応えたい。アタシもはっきりと、言いたい。でもいま言っちゃうと、もう二度と言えなくなりそうで、怖い……」

 夏姫の素直な気持ち。

 僕は準備にかまけていろいろ考えてる余裕がなかったけれど、いまはもう見ていることしかできない夏姫は、僕の代わりにいろんな気持ちを抱え込んでいたんだ。

 強く抱き締めて、いまにも涙が零れそうな夏姫の瞳を、真っ直ぐに見つめる。

「僕も、怖いよ。逃げ出したいよ。でももう、戦うしかない。だから戦う。それにね? 夏姫」

 一度言葉を切って、僕は夏姫に笑いかける。

 できるだけ優しく、精一杯、僕の彼女への気持ちを込めて、笑む。

「僕の復讐したい気持ちが薄れたのは、夏姫に出会えたからなんだ」

「アタシに?」

「うん。僕は夏姫を守りたい。夏姫と一緒に生きていきたい。だから、それができるように、戦う。戦わないといけないと、思ったんだ」

 好きで、愛してて、一緒に生きていきたい、笑顔を守りたいと思える女の子、浜咲夏姫。

 そのためにはモルガーナを倒さないといけない。

 あの魔女は、人間を憎んでいるから。

 もしモルガーナが願いを叶えてしまったら、その後あいつが何をしてくるのか、わからないから。

「僕たちの未来のために、僕は戦う。だから夏姫、戦いのときは待っていて――」

 そこまで言った言葉を、塞がれた。

 柔らかい唇が、僕の唇を塞いだ。

「それはダメ。何もできない。戦えない。足手まといにしかならないかも知れない。でも、アタシも行く。克樹が戦ってるところを、一番近くで見ていたい」

「それは――」

 命懸けで、危険な戦いになると思われる場所には連れて行けない、と言おうと思ったとき、胸元に入れた携帯端末が震えた。

 抱き合ってる夏姫も気づいて、顔を強張らせる。

 夏姫の身体を強く抱き寄せていた腕を緩めて、携帯端末をポケットから取り出す。

 その表示を見た僕は、自分でも表情が強張るのを感じた。

『久しぶりね、克樹君』

「モルガーナ!」

 たぶん笑みでも浮かべているだろう、余裕のある声がした。

 身体を離して、でも空いてる左手を強く握ってくる夏姫も、僕と同じように眉根にシワを寄せていた。

『いろいろ話したいこともないではないけれど、いまは野暮というものよね。端的に用件を伝えるわ。決着をつけましょう、克樹君』

「……あぁ」

 遂に来た。

 そう思った。

 覚悟していたとは言え、身体が震える。

 夏姫が繋いでいてくれてる手の温かさを頼りに、僕は膝に力を入れる。

「ずいぶん、待たされたから、もう諦めたのかと思ってたよ」

『まさかっ。そんなはずがないでしょう? あれだけのことをしてくれた、貴方たちを』

 氷の刃のような声。

 ボイスオンリーの通話で、口調も少しも変わっていないのに、背筋に凍りつくような冷たさを感じた。

『日時と場所はいまメッセージを送ったわ。この前と違って、ちゃんと正面から入れるようにしておくから。その日は少し早いけれど、もう休みに入って、午後に清掃が入るから夜は建物は無人よ』

 携帯端末の表示をちらりと離してメッセージを見てみると、指定された日時は十二月二十四日の夜。

 いまから二週間ほど後の日時。

 まだ震えが止まらない身体で、僕は精一杯の虚勢を張る。

「ここまで待たせた上に、さらに待たせるんだな」

『戦いの準備に、まだそちらは時間がかかるのでしょう? それくらい時間があった方が貴方には都合が良いのではなくって?』

「否定はしない。でも、そっちの準備も整わないんだろう? モルガーナ」

『ふっ、ふふふふっ。言ってくれるわね。えぇ、その通りよ。こちらの準備にはまだもう少し時間がかかるのよ。けれど、貴方の都合を考えたのも本当よ? 学校もその日を最後に、冬休みに入るのでしょう?』

「そりゃあどうも。――僕は絶対に、お前に勝つ」

『人間如きが、私に? ふふふっ。少しはまともな戦いが見られることを期待しているわ。では、当日に』

「あぁ」

 通話が終わった途端、身体から力が抜けた。

 崩れそうになる身体を、夏姫が支えてくれる。

「克樹……」

「うん。戦いの日が決まった」

 支えてもらいながら、僕は夏姫の瞳を見つめる。

 悲しみ、つらさ、寂しさ、不安……、様々な感情が入り交じる瞳を見せていた夏姫は、けれど決意を込めて頷いてくれる。

 僕も頷きを返して、彼女の身体に腕を回した。

 震えそうになる身体を必死に抑えて、夏姫の身体を強く、強く抱き締めた。

 

 

            *

 

 

 通話の終わった携帯端末を机に置いた瞬間、微笑みを浮かべていたモルガーナの表情は大きく歪んだ。舌打ちすら漏らす。

 不快だった。

 非常に不快だった。

 なぜ人間如きにあんなことを言われなければならないのか、理不尽きわまる。

 怒りを拳を握りしめることで堪え、オフィスチェアに座ったまま、モルガーナはうつむかせていた顔を上げた。

 撤収の準備が進んだ顧問室は、がらんとしていた。

 エイナ用のエルフドールも、それを立たせるためのハンガーもなく、飾り程度に置いていた書籍や機材の棚も片付けられている。

 執務机の中もほとんど中身はなくなり、あとはモルガーナ本人が撤収すれば明け渡しは完了する。

 そんな部屋の中に、整理がついていない物体がひとつ。

 ニヤニヤとしたイヤらしい笑みを浮かべている、首筋から頬にかけて火傷の跡が残る貧相な男。

 最後まで処分ができていない彼を見て、モルガーナはもうひとつ舌打ちを漏らした。

 世界中からあらゆる方法を使ってエリクサーをかき集めた。

 それでもフィフスステージに到達するには大きく足りない。戦争や紛争によって人間から得られるログは、すでにイドゥンには飽きられてしまっている。

 やはり、克樹の持つスフィアを奪い、それに貯まったエリクサーを得る以外に、必要な量に達する方法はない。

 それを、イドゥンもまた望んでいるから。

「貴方にも、働いてもらうわよ」

 椅子から立ち上がったイドゥンは、胸の前で手を揉み卑屈な笑みを浮かべている火傷の男に、見下すような視線を向けて言う。

「えぇ、えぇ。必ず、言われた通りに、やり遂げて見せます。ただ、できればもうちょっと――」

「これ以上、貴方にチャンスも、支援も与えられないわ。これまでにどれだけのものを渡してきたと思っているの? 少しはまともな成果を出して返してほしいものだわ」

「はい……」

 小さな声で応える男はしかし、不快な笑みを貼りつかせたままだ。

 卑屈で、矮小で、あったはずの才能も自ら潰してしまうほどに歪んだ性格をしている男。

 もう期待などしていない。失敗しても計画に支障を来すような重要なことを頼む気などない。

 ただもし、頼んだことが成功すれば、有利に事が運べるかも知れない、程度のこと。失敗しても失うものはない。

「それで……、その、貴女の願いが叶ったら、約束通り……」

「えぇ。それは言った通りよ。私が残していくすべてを貴方にあげるわ。すべての場所は、貴方が入れるようにしておくから、好きにしなさい」

「はいっ……。はいっ、ありがたく……」

 期待と、隠し切れていない残虐性を露わにし、笑みを浮かべる男。

 彼に渡すことを約束したのは、地上に残していくすべて。

 動産、不動産などの資産はもちろん、数百年の間に積み上げてきた研究資料はもちろん、その研究のために使ってきた世界中に点在する施設のすべて。

 人脈などは彼で使えるはずはなく、研究資料や場所を教えているほんの数カ所以外の施設は、ただの人間では利用することも理解することも難しい。

 しかし人間の短い寿命でも、男の無駄とも思える執念をもってすれば、超常的な成果のほんの一部を扱えるようになるかも知れない。それくらいのもの。ヘタな使い方をすれば世界の崩壊を招きかねず、先日世界中の重鎮たちが殺してでも奪い取ろうとしたものだが、いまさら心配する必要もない。

 ――私が、勝てばいいだけの話。

 克樹に勝ち、エリクサーを手に入れ、イドゥンとの同化を果たせば不要なものだった。

 ただ、勝てばいい。

 そのための準備は進めているし、人間如きに負ける気などしない。持てる力のすべてを出し尽くして戦うと、すでに決めているから。

 それをイドゥンが望んでいる。

 奪うだけなら、どこかの兵でも借りるでも、事故を装って抹殺するでも、エイナを放つでも方法はいくらでもある。

 けれどそれはイドゥンが望んでいない。イドゥンを満足させない。

 二週間後に行うのは、モルガーナ自身の持つすべてを出し切った、総力戦。

 イドゥンに捧げる奉納の戦い。

 人間を超える存在である自分が、イドゥンの望みによってエリキシルソーサラーに堕とされていることは理解しているが、望まれているならそれを捧げるのはモルガーナの義務。

「叩き潰して上げるわ、克樹君」

 ひとりつぶやき、執務机に視線を落とすモルガーナは、両端をつり上げた唇から低い嗤い声を漏らした。

 

 

 



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第七部 第三章 人間と人間と神
第七部 無色透明(クリアカラー)の喜び 第三章 1


 

 

   第三章 人間と人間と神

 

 

          * 1 *

 

 

 担当教師が注意を述べ、日直の号令で礼をした途端、教室内は一気に冬休みモードに突入した。

 出かける予定を話し合う女子や、成績表をうっすら開けて覗き込みため息を吐く男子を横目で見つつ、明美は振り向いて克樹の姿を探す。

 魔女との戦いがすでに終わっているのか、これからなのかは聞いていない。百合乃に会いに何度か彼の家を訪れたが、ここしばらくは忙しいと言われて拒否されていた。

 気にしても仕方ないとわかっていたが、心配な気持ちは抑えきれなかった。

 鞄を肩に担いだ克樹と、目が合った。

 ――え?

 明美の視線に気づいて、ニッコリと笑みを浮かべた克樹。

 奇妙な違和感。

 ここのところの彼は、悩んでいるのか難しい顔をしていたり、疲れているように眠そうな顔をしているかのどちらかが多かった。

 いまそんな笑みを浮かべられるのは、昨日は充分に睡眠時間が取れたのかも知れない。

 でも彼の清々しい笑顔に、何とも言えない気持ちが明美の胸にこみ上げてきていた。

「克樹っ」

 彼に声をかけてどうしたのか聞こうと思ったが、ひと足早く克樹は教室を出て行ってしまっていた。

 夏姫も、近藤ももう教室にはいない。

 もやもやした気持ちは残っているが、どうにもできない。明美もまた帰るために教室を出た。

「克樹たち、大丈夫なのかな……」

 一斉に学校を出て来た生徒たちに揉まれるように歩きながら、明美はつぶやく。

 同じ制服を着た人たちの中に、見知った背中は見つけられない。

 駅には向かわない道まで来て人混みが途切れたとき、彼女は振り返っていた。

 心配していても、何かができるわけではないのはわかっている。

 克樹たちが関わっているのは、いまでも夢だと言われたら信じてしまいそうなほど、不可思議な事柄。何の力もない明美では、遠くから見つめて、報告を待っていること以外、できることなどなかった。

「……でも」

 押さえた胸のもやもやが収まってくれない。

 たまに知り合いから怖いと言われることもある予感を、自分ではあまり信じていなかった。外れることが多いことも、知っていたから。

 でもさっきの克樹の笑みが、どうしても頭から離れてくれない。

 足が、克樹の家へと歩き出す。

 関わるべきでないと言われていた。危険だと教えられていた。

 悪い予感を覚えるもやもやとしたものの奥にある、重くて硬いものが、もう抑えられない。

 いつのまにか小走りになり、最後にはほとんど全速力で、明美は克樹の家にたどり着いていた。

 格子になってる門の前で一瞬ためらう。

 けれどいままさに閉まり始めた玄関の扉を見た彼女は、思い切って踏み込んだ。

「克樹!」

 閉まりきる前に指を滑り込ませて扉を開けると、驚いた顔をした克樹が振り返った。

 靴を脱ぐ前に玄関の隅に置かれたデイパックを覗き込んでいる彼。

 大きく開いたデイパックから覗いているのは、確かピクシードール用のアタッシェケース。

「これから、戦いに行くの?」

 克樹が何かを言う前に、明美はそう問うていた。

 ぽかんと開けていた口を閉じ、睨むような視線を向けてきた彼に、明美は確信した。

 ――今日が、決戦の日なんだ。

 すぐに目を逸らして、迷ったように視線をさまよわせた後、顔を上げた克樹。

「……なんで、遠坂がうちに来てるんだよ」

「なんとなく……、イヤな予感がしたから。――今日、なんとかって魔女と戦うんでしょ?」

「お前には関係な――」

「ないよ! ワタシには関係、ないかも知れないよっ」

 肩に提げていた鞄を放り出し、克樹に詰め寄って、明美は立ち上がった彼の襟首を両手でつかむ。

 驚いてる顔に自分の顔を近づけ、彼女は言った。

「確かに関係ないよ。ワタシはエリキシルバトルなんて知らないっ。克樹たちがどんな戦いをしてきたのかも、百合乃ちゃんがどんな風になってるのかも、この前聞いたこと以上にはわからないっ。でも……、でもさ、克樹。その魔女ってのは、凄く強くて、恐ろしい人なんでしょ?」

「あ、あぁ」

「なんでそんな人と、克樹が戦わなくちゃいけないの?!」

 わからなかった。

 克樹が戦わなければならない理由が、明美には理解できなかった。

 理由はあるのだろうと思う。けれど克樹でなければならない理由も、彼が戦うつもりでいる理由も、わからなかった。

 理解なんて、したくなかった。

「そんなの、大人に任せておけばいい。克樹より強い人だっているんでしょ? 誰か別の人に頼めばいい!!」

「いや……、僕と、百合乃しか戦う資格がある人がいなくって……」

 玄関の壁に押しつけられて、明美の剣幕に困惑した表情を浮かべている克樹。

 さらに詰めより、揺らいでぼやけている視界で彼を明美は睨みつける。

「それでも……、戦える人が克樹しかいないんだとしても、ワタシは行ってほしくないっ。負けたら、殺されちゃうかも知れないんでしょ? 怪我だってするかも知れないんでしょ?」

「……」

 口をつぐんで克樹は答えてくれない。

 ――どうしてワタシ、こんなこと言ってるんだろう。

 自分でもわからなかった。

 彼のことを見るまで、こんなことを言うつもりではなかった。何かを考えて、ここまで来たわけではなかった。

 今日彼が魔女と戦いに行くと確信した瞬間、明美の中で何かが弾けた。弾けた気持ちを、止められなくなった。

 克樹のことを目で追うようになったのは、いつからだったろう。

 仲良くなった百合乃と一緒に過ごしていたはずなのに、いつの間にか克樹のことを見るようになっていた。彼から目が離せなくなっていた。

 同じ小学校と中学に通って、仏頂面が多くて人付き合いが苦手な彼とはあまり仲良くはなれなかったけれど、ふとしたときに百合乃に見せる優しさが、胸に突き刺さった。

 百合乃が亡くなって、ふさぎ込む彼に声をかけられなくて、荒れていくのも止められなかった。

 克樹の気持ちが落ち着いたら――。

 なんていうのは、自分に対する言い訳に過ぎない。どう触れていいのかわからなくて、嫌われるのが怖くて、近づいていけなかった。

 いまは、克樹の側には夏姫がいる。

 遠巻きにしている間に、迷っている間に、彼の隣は埋まってしまっていた。

 そこに入り込む隙間は、ない。

 それがわかっていても抑えることができない。これから克樹が命懸けで戦いに行くんだと知ってしまったら、抑えることなんてできようはずがない。

 頬を零れ落ちていく熱い滴を感じながら、明美は胸の奥に、奥底にずっと隠していた気持ちを叩きつける。

「ワタシは、克樹に死んでほしくない!!」

 

 

 

「ワタシは、克樹に死んでほしくない!!」

 そう言ってぽろぽろと涙を零す遠坂に、僕は気がついた。

 ――僕は、莫迦だな。

 どんな気持ちで、どんな想いを込めて叩きつけられた言葉なのか、僕は理解した。

 というか、理解するのが遅すぎた。

 ――なんで気づかなかったんだろう。

 遠坂との出会いは、小学生の頃。

 両親の仕事の関係で、僕と百合乃は学校が終わると学童施設に預けられていた。施設職員の子供でもある遠坂は、自分も預けられているのに子供たちのまとめ役だった。

 しっかり者で、可愛らしかった同い年の遠坂のことが気にならなかったと言ったらウソになる。

 細かいことに口うるさくて、何かとちょっかいをかけてきてウザったくもあったが、中学に入って接触する機会が減った。

 百合乃が死に、彼女が心配して頻繁に家を訪ねてきてくれてたのも覚えているけど、沈んでいくうちに彼女への気持ちは消滅した。

 家に引きこもり、いま思えば気持ちの整理にもなっていたヒューマニティフェイスの開発をやったり、リーリエを稼働させたりで忙しく、彼女とまともに向かい合ったのは中学三年になってから。

 百合乃が掠われて殺されたのに、不用心に僕しかいない家に踏み込んできた遠坂を押し倒した。男は怖いという警告の意味と、溜まっていた鬱憤の八つ当たりと、どうにもできないやるせなさとでぐちゃぐちゃだった。

 恐怖ではない、悲しそうな遠坂の泣き顔を見なければ、あのとき僕はどうなっていたのかわからない。

 その後、百合乃を思わせるリーリエと過ごし、中学を卒業し、高校でまた声をかけてくるようになった遠坂は、以前より少し遠巻きながらも、受け入れてくれた。

 僕は遠坂がどんなことを考えて、どんな想いを抱いてるかなんて、考えてもいなかった。

 怒りが湛えられた、でも恐れと、寂しさが籠められた遠坂の瞳に、僕はやっといま、彼女のことを知った。

「遠坂……。僕は――」

「克樹!」

 僕が言おうとした言葉を遮り、彼女は額が当たりそうなほど顔を近づけてくる。

「ワタシは、克樹のことが――」

「そこまでです」

 遠坂の言葉を制したのは、二階から下りてきた百合乃。

 突然の百合乃の登場に遠坂は僕から離れ、少し寂しそうな笑みを浮かべる空色のツインテールが割って入るように立つ。

「それをいま言うのは、卑怯です」

「だけど……、だけどワタシはっ!!」

「時間切れです。せめて……、せめてエリキシルバトルが始まる前だったら、わからなかったと思います。でももう遅いんです。明美さん」

 たぶん、百合乃と遠坂のふたりが話してるところに来たんだったら、いまくらいクリティカルな会話でも気づかなかっただろう。

 でもいまならわかる。

 遠坂が言いたかったことも、百合乃が言ったことの意味も。

 振り返って寂しげな笑みを見せる百合乃に、僕は自分がどんな顔になってるのかわからなかった。複雑な気持ちをどうしていいのかわからなかった。

 歯を食いしばって一歩遠ざかっていった遠坂は、袖で涙を拭って口を開く。

「克樹がっ、克樹と百合乃ちゃんが戦う必要なんて、ないじゃないっ」

「あたしとおにぃちゃんしか、魔女さんと真正面から戦うことができないんです。それに、終わらせないといけないんです、あたしと、おにぃちゃんとで」

 寂しげな色は残っているけれど、優しい色を湛える瞳を向けてきた百合乃の肩に手を置き、また涙を溜めている遠坂と向き合う。

「モルガーナは、百合乃が死ぬ原因をつくった奴だ。復活したと言っても、百合乃は普通の人間とは違う。復讐したい気持ちも、残ってるんだ。それだけじゃなく、全部に決着をつけたいんだ」

「決着を、つけたい?」

「うん」

 問い返してきた遠坂に、僕は力強く頷く。

「モルガーナに関わってから、いろんなことがあった。いろんなことを考えた。復讐だけじゃなく、あいつは倒さなくちゃいけない。みんなのために、なんて大きなことは言わない。エリキシルバトルに関わって、願いを叶えられなかったソーサラーたちのために。僕と百合乃のために。そして何より、リーリエのために」

 モルガーナは百合乃の仇であり、リーリエの仇とも言える。

 私怨と言われればそれまでだけど、僕は僕の想いのために、あいつと戦う。あいつを倒す。

 それが本当の答えだ。

 それを、誰かに邪魔させるわけにはいかない。

 真っ直ぐに見つめた遠坂は、唇を噛んで、両手を握りしめて、僕から目を逸らした。

「必ず帰ってくるから、大丈夫だ。遠坂」

 そう声をかけるが、彼女の表情が和らぐことはない。

「おにぃちゃんのことは、あたしが守るよ」

 肩に乗ってる僕の手に自分の手を重ね、百合乃が言った。

 それでも表情を歪めたままの遠坂は、こちらを見ようとはしない。

「おにぃちゃんが帰ってきた後、さっきの言葉の続きを言うかどうか、もう一度考えてみてください」

 百合乃のそんな言葉に、遠坂は僕のことをちらりと見た。

「絶対に、絶対に帰ってこないと、許さないから!」

 言い残して、鞄を拾った彼女は玄関から飛び出して行った。

 零れる涙を手で押さえながら走って行く遠坂を追いかけようと、玄関の扉に手を伸ばした手は、空振る。

「意外とモテるんだな、お前」

 扉を開けて姿を見せたのは、猛臣。

 行く手を遮るように立っている彼に、僕は追いかけるのを諦める。追いかけてもどうしようもないことも、わかっているから。

「夏姫のことならいつでも引き取るぜ」

「……冗談は止めてくれ」

 気の利いた返しもできず、ため息をひとつ吐き出した僕は家の中に入る。

 出発時間にはかなり早く、集合時間にも余裕があるから、猛臣が一番最初に到着した形だ。

「でもなんで、全員行くことになってるんだ? 何があるのか、わからないんだぞ?」

 学校に帰ってきたばかりの僕は脱いだコートをダイニングテーブルの椅子にかけながら、一緒に入ってきたニヤニヤした笑みを浮かべる猛臣のことを振り返る。

 決戦日を伝えたときにスフィアロボティクス総本社への運転手を買って出た猛臣を筆頭に、夏姫や灯理、近藤も一緒に着いてくると行って譲らなかった。

 気持ち的には心強くもあるが、何があるのかわからないから建物の下まででと説得したけど、モルガーナと対面したいと言うみんなに押し切られた。

「てめぇが勝てば問題ないだろ」

 ニヤリと唇をつり上げて笑う猛臣は、百合乃が淹れて置いてくれたお茶に手を伸ばし、大きく呷る。

 苦笑いを返すことしかできない僕だったけど、少しだけ気分が楽になった。

 ――勝てば、いいんだよな。

 できる限りの準備は、みんなに協力してもらってやってきた。

 万全かどうかは、モルガーナのエイナの強さが推し量れないからわからない。

 けれど、勝つ以外の結果はいらない。

 勝つことが自分のためにも、遠坂のためにも、夏姫や百合乃、他のみんな、それからなにより、リーリエのためになる。

 ――絶対に、勝つ。

 腰だめで拳を握りしめて決意を新たにする僕に、百合乃が微笑みかけてきてくれる。

 僕もまた、そんな彼女に笑みを返していた。

 

 

            *

 

 

 うつむいていた顔を上げると、ダイニングから見える窓の外が、だんだんと暗くなっていっているのがわかった。

 ――そろそろ、克樹たちは家を出た頃か。

 眼鏡型スマートギアの視界の隅にある表示で時間を確認し、ダイニング用の質素なソファに座る彰次は大きなため息を漏らした。

 もしかしたら今日、世界の、人類の未来が決まるかも知れない。

 午後までは普通に仕事をし、用事を理由に早めに帰宅をしたが、家でやることがあるわけではなかった。

 決戦の日が今日であることは聞いていて、社長にも話して念のため自宅で待機することにしたが、気が焦るばかりで何も手に着かない。

 帰りしなに見た街では、クリスマスイヴの今日を楽しむ恋人たちや家族連れが多くいた。幸せそうで、平和そうな空気で溢れていた。

 その雰囲気が今日、消滅してしまうかも知れない。

 変化があるのは今日でなくても、今日の克樹たちの戦いの結果で、消滅するか、存続するかが決まるかも知れない。

 彰次自身は現地には行かない。

 子供たちだけで行かせるのは不安であったし、着いていくことも考えたが、準備の手伝いはできても現地では役に立たない。むしろ足手まといになることがわかっていた。

 心残りはある。

 けれどエイナの意思が封じられている以上、何もできることはない。

 それが彰次の結論だった。

 ため息を吐き出した彰次は、ソファから立ち上がってダイニングの隅の棚へと歩み寄る。ガラスの扉を開け、常備してあるウィスキーの瓶に手を伸ばした。

「……そういうわけにも、いかないか」

 酔って酒の勢いで眠ってしまいたかった。

 抱えきれない気持ちを、いまは忘れていたかった。

 けれどそういうわけにもいかない。

 今日は何があるのかわからない日。克樹から連絡があるまでは、眠るわけにも、ましてや酒に溺れているわけにもいかなかった。

「アヤノ、コーヒーを淹れてくれ」

 振り返って声をかけたが、反応がない。

「……そうだったな」

 ダイニングテーブルの椅子のひとつに、まるで眠っているかのように目をつむって座っているエルフドール、アヤノ。

 芳野の面影を微かに感じるデザインのアヤノは、いまは動かない。スフィア一斉停止以来、動かしていない。

 仕事の方が忙しいのもあったが、何となく動かす気になれなかった。

 AHSは正常で、テスト用のクリーブも家にあるから、それに交換すれば稼働できるのはわかっている。

 念のためと思って、エイナが使っていたという、リーリエから渡されたスフィアに入れ替えて動かないのを確認して以降は、稼働させる気になれないでいた。

「仕方ないか」

 棚の扉を閉めて息を吐いた彰次は、キッチンに入ってヤカンに水を入れ、コンロで火にかけた。

 美味しいコーヒーが飲みたかった。

 喉が渇いただけならインスタントもあるし、すぐに熱い湯が出るウォーターサーバーだって、コーヒーメーカーだってある。

 けれどいまは手持ち無沙汰で、何かしていないといられなくて、ヤカンで沸した湯でレギュラーコーヒーを淹れたかった。ほとんど変わらない気がするのに、コーヒーメーカーで淹れるより、手で淹れた方が美味しいと感じるから。

 ――先輩との過去の清算、ちゃんとするって約束したんだがなぁ。

 湯が沸くのを待つ間、家で家事をさせるようになってからアヤノに任せっきりで、やっとほしいものがどこにあるのかわかるようになってきたキッチンを探り、コーヒーを淹れる準備を整える。

 ――本当はもう一度、あいつに会うべきなんだろうな。

 あのホテルの小ホールの、克樹と戦っている現場に踏み込み、一度だけ会って言葉を交わしたエイナ。

 東雲映奈とのしがらみに決着をつけるためには、エイナともう一度会って、話をする必要があると感じていた。

 いまはもうそれは叶わないこと。

 モルガーナによって意思を封じられ、エイナは二度と自分の意思で動くことはできないだろうと、百合乃から説明されていた。

 話ができないのなら、会う意味はない。

「だが、な……」

 けたたましく鳴り始めたヤカンに火を消し、マグカップに直接乗せたドリッパーに湯を回しながら注ぎ入れる。

 度々湯を注ぎ足しながら、彰次は考え込んでしまっていた。

 ――今日がたぶん、最後なんだよな。

 今晩、克樹とモルガーナが戦い、決着がつく。

 エイナともう一度会うことができるとしたら、それは克樹たちが負けるということ。それはあまり考えたくなかった。

 克樹が勝つ前提で考えた場合、倒されることになるエイナと会えるのは、今日が最後の機会だった。

「会って、どうすりゃいいってんだ……」

 会ったところで、エイナと話すことなどできない。

 何よりも、会う勇気がない。

 リーリエを例に考えるなら、どの程度かわからないが東雲映奈の記憶を持ち、性格的には彼女と似ているだろうエイナ。

 決着をつけると約束したクセに、東雲映奈を思い出させるだろうエイナと会う勇気が、彰次は出せないだけであることを、自覚していた。

「結局、俺が克樹たちに着いていかなかったのは、怖かったからだよな」

 エイナと会う勇気が出なくて、本当だったら着いていくべきだとわかっていたのに、そう言い出すことができなかった。

 大きなため息を漏らしつつ、コーヒーを淹れ終えた彰次はドリッパーを流しに置き、マグカップを手にダイニングへと戻る。

「どうすればいいんだろうな」

 過去を清算するべきだという想い。

 エイナに会って話すのが怖いという想い。

 そのふたつに挟まれて、カップをテーブルに置いた彰次は、顔を手で覆ってうつむいてしまっていた。

 そんな彰次に、ふとかけられた声。

「本当、相っ変わらず、意気地なしだよね!」

 

 

 



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第七部 無色透明(クリアカラー)の喜び 第三章 2

 

 

          * 2 *

 

 

 正面入り口には、人の気配はなかった。

 すっかり日が落ち、それほど多くない街灯に浮かび上がるスフィアロボティクス総本社ビル。

 猛臣が運転する車に乗り、駐車場にできそうなくらいの広さがある正面入り口前に乗りつけた僕たちは、車から降りて周囲を見回した。

「誰もいないみたいだね」

「そうみたいだね」

 戦闘用のハードアーマーを纏い、ピクシードールの姿で僕の肩に座っている百合乃の声に、僕は同意した。

 正面入り口の、ガラスの大きな自動ドアの向こうには照明は点けられてなく、非常灯と思しき小さな光が見えるだけだった。

 その脇にある警備員の詰め所らしいところの窓にも、灯りがない。そびえ立つビルを見上げてみても、照明が灯されたフロアはひとつもなくて、人がいるらしい様子はどこにも感じられなかった。

 近くには別のビルもあるが、隣接というほど近くもなく、公園のような広さの敷地は、不気味な静けさに支配されていた。

 どうやったのかは知らないけど、モルガーナが言っていた通り、いまこのビルは無人であるようだ。

「……なんだか、不気味だね」

「さすがにこれだけ静かだと、なんか怖いな」

 夏姫と近藤が眉を顰めながらささやき合うのに、僕も概ね同意だ。

 だけどこれから相対する奴のことを思うと、そんな不気味すらも前座のように思える。

「今年のスフィアロボティクスは今日の午前中で年内の業務は終了してるからな。サポート部門はさすがに動いちゃいるが、別のとこに専用の建物があったはずだ。まぁ、立ち止まってても仕方ねぇし、行こうぜ」

「そうですね、猛臣さん。行きましょう、克樹さん」

 物怖じした様子のない猛臣がそう言い、表情を強張らせながらも長い栗色の髪を揺らしてスマートギア越しに僕を見つめてきた灯理に促され、僕たちは正面入り口へと近づいていった。

 自動ドアは、問題なく開いた。

 非常灯しかなく、暗い玄関フロアに踏み込むと、一番奥の五つのエレベータのうち、ひとつが扉を開き、僕たちを誘うように明るい光を放つ。

 頷き合った僕たちは無人のフロアを横切り、駅にあるようなゲートをスルーパスして、エレベータに乗り込んだ。

 ボタンも押してないのに扉が閉まり、ゴンドラが上昇していく。

 緊張が、高まっていく。

 心臓が、うるさいほど脈打ってる。

 振り返ると、みんなの表情も、余裕なく強張っていた。

 乾きを感じ始めた喉に唾を飲み、いつもよりかなり重いデイパックを背負い直したときには、屋上に到着していた。

 全員の顔を見回し、頷き合う。

 肩に乗る百合乃の見せてくれた笑みに、どうにかぎこちなく笑みを返した僕は、皆と一緒に一階の正面入り口と同じくらいの幅があるガラスの自動ドアを潜り、屋上ヘリポートに出た。

「ぞろぞろと……、取り巻きを連れてきたの? 克樹君。別に構わないけれど」

 ヘリポートの真ん中に立っていたモルガーナは、そう言って眉を顰めた。

「てめぇ! 取り巻きってなぁ――」

 興奮して前に出ようとする猛臣を手で押さえ、僕はモルガーナのことを睨みつける。

 ――本当に、やっぱり魔女だな。

 数百年、一〇〇〇年近い時間を生きてきた魔女、モルガーナ。

 闇のような黒いタイトなスーツを纏い、深淵の色のような髪をたなびかせる彼女の放つ雰囲気は、元々は人間だったと思えないほどの、イドゥンに感じたものに似た圧力を感じる。

 紅く塗った唇の片端をつり上げて笑い、美しいという言葉が似合うほど整った顔立ちなのに、邪悪さを隠さないその紅い瞳が、彼女を人間以外の、魔女であることを主張していた。

 ここまで来て、物怖じはしていられない。

 ちらりと目線だけ振り返ってみんなに頷いて見せた僕は、一歩大きく前に踏み出した。

「封じてるエイナの意思を解放しろっ、モルガーナ! エイナはエリキシルソーサラーだろう! 彼女自身の意思で戦うべきじゃないのか!!」

「必要ないわ。これは私が造った人形だもの。最初から、貴方たちの全員を打ち倒すための、私の手駒よ。意思など不要なの」

 叫ぶように放った僕の言葉に、モルガーナは張り上げるでもないのによく聞こえる声で返答する。

 モルガーナの足下に立つ、身長二〇センチのエイナは、僕たちの声に反応する様子もない。

「それに貴方と同じでしょう、克樹君。私は私の造った妖精を使って戦う。貴方も貴方の妖精で戦うのでしょう?」

「……百合乃は、僕の妹だ!」

 莫迦にしたように顎を反らして笑うモルガーナは、エイナの意思を解放する気はないようだった。

「前置きはそれくらいでいいでしょう。いまさら私と貴方の間で、話し合うことなどないのだから。――アライズ」

 静かな声でモルガーナが唱え、エイナがピクシードールからエリキシルドールへと巨大化する。

 見た目には長剣と短剣を左右に提げ、ピンクを基調としたハードアーマーとステージ衣装を組み合わせたような、可愛らしい格好のエイナ。

 しかしその顔に表情はなく、文字通り人形のような目で、僕のことを見つめてきている。

『おにぃちゃんはエイナさんとしがらみがあるみたいだけど、あたしにはないから、叩き潰すつもりでいくからね』

『構わない。そうでないと、こっちがやられる』

 通信で声をかけてきた百合乃に答え、僕は被っていたスマートギアのディスプレイを下ろした。

「アライズ!」

 立ち上げたエリキシルバトルアプリに向かって唱えると、肩にあった微かな重みが消えた。

 光を纏ってヘリポートの床に着地した百合乃。

 弾けた光の中から現れたのは、一二〇センチの身長を持ち、空色のツインテールを左右に垂らして、同じ色のハードアーマーに身を包んだエリキシルドール、アリシア。

 モルガーナがヘリポートの端まで下がったのを確認し、僕は叫んだ。

「戦闘開始だ!!」

 

 

            *

 

 

 戦いは、静かに始まった。

 エイナは長剣を、百合乃は太刀を抜き放ち、それぞれに両手で持って構える。

 ――半端な妖精如き、さっさと潰してしまいなさい。

 腰を落として距離を測るようにじりじりと横に動いている二体のドールを見つめ、ヘリポートの腕を組みんだモルガーナは心の中で悪態を吐いていた。

 人工個性にエリクサーを使われ、大量に消滅してしまった。

 それでもフォースステージの力を保つ克樹のドール。

 決して侮っていい相手でないことは、モルガーナもわかっている。

 けれども百合乃の方は、攻めあぐねいている様子が見て取れた。

 モルガーナの知る百合乃の戦法は、先攻を好む積極的なもの。元々の人工個性ならばともかく、人間からエリキシルドールになったことで、自分の力を測り切れていないのが明らかだった。

 対するエイナには、不測はない。

 エイナによって防御寄りに調整されていたバトルアプリの設定は、好戦的なものに切り換えたし、ボディなどのセッティングもフォースステージに最適化している。

 前回よりも一段も二段も強くなったエイナが、復活し損なった妖精紛いの人間に負けることなど考えられなかった。

 ――それに……。

 互いに立ち止まり、緊迫した糸が徐々に張り詰めていくドールからわずかに視線を外し、モルガーナは克樹たちが立っているエレベーター室のさらに奥、建物の外側の影を見る。

 そこにいるのは、顎から頬にかけて火傷の跡がある男。

 いままさに始まろうとしている激しい戦いに、克樹たちは火傷の男の存在に気づいてはいない。

 ――役に立ってくれれば良いのだけれど。

 いまはまだタイミングではない。本当に役に立つかどうかもわからない。

 しかし彼には最後のチャンスを与えたのだ、やれるだけのことをやってもらわなければ困る。

 ――もし、それでどうにかならなかったら?

 そんなことを考えてしまったモルガーナは、密かに唇を噛む。

 人工個性を持っていることで、多少なりとも注目していた克樹。

 しかしここまで勝ち残ることは想定していなかった。

 そしていまの彼の力を予想することは、モルガーナにもできなかった。

 特異点と言える克樹の力は、おそらくイドゥンの導き。

 自分が見たい戦いが展開されるよう、女神によって調律された強さだ。

 ――けれど、勝つのは私。私はこの戦いを、我が女神に奉ずるわ。

 想いとともに拳を固めたモルガーナは、エイナに指示を飛ばす。

「行きなさい、エイナ! その出来損ないを倒しなさい!!」

 

 

            *

 

 

 モルガーナの指示の声とともに床を蹴ったエイナは、真っ直ぐに百合乃の元に跳ぶ。

 剣速が音速に接近し、衝撃波を伴う長剣による斬撃を、百合乃は反撃せずに一歩下がって範囲から逃れる。

 さらに大きく一歩踏み込んで天頂から振り下ろされてくる長剣を、百合乃は身体を捻って紙一重で躱し、下段から太刀を浴びせかけた。

 人間の目には大きな挙動は捉えられても、細かな動きまでは確認できないほどの高速な動き。

 しかし、フォースステージのエリキシルドールの戦いとしては、まだまだ余裕の速度だった。

「戦え、戦え。存分に戦え」

 そうつぶやき、エイナと百合乃の戦いを空中から見下ろしているのは、イドゥン。

 生前の百合乃の姿をした女神は、口元に笑みを貼りつかせながら二体の妖精の戦いを眺めている。

 前回の戦いと違い、積極的に前に出て攻撃を仕掛けてくるエイナ。

 対する百合乃は、防戦に追い込まれている状況となっていた。

 けれども戦いはまだ序盤。エイナも百合乃も、全力を出し切ってはいない。

「さぁ、もっとだ。もっと激しく戦え。激しく想いをぶつけ合え。最高の戦いを捧げてみせろ」

 歯を剥き出しにし、イドゥンは嗤い声を漏らした。

 

 

 



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第七部 無色透明(クリアカラー)の喜び 第三章 3

 

 

          * 3 *

 

 

 ――設定、変えてきてるな。

 エイナの動きに、僕はそれを感じた。

 前回、僕が少しだけ戦った意思封印後のエイナは、こちらの動きを警戒して様子を見てから攻撃を仕掛けてきていた。

 今回は攻撃をした上で相手の反応を見て、パターンや動きを変更してきている。

 バトルアプリの設定を、防御重視から攻撃重視に変更してきた証拠だ。

 実際の攻撃自体はエイナが行っているはずだけど、彼女が喋ることも、臨機応変だったあのデートの日の戦法も見られない。いまはバトルアプリが抽出して戦闘データが示す選択肢の奴隷のように、動かされている印象があった。

 ――それでも、強い。

 飛び込みからの連続した突きを右ステップで避け、追撃の投げナイフを受け止めて投げ返した百合乃。

 リーリエならナイフと一緒に飛び込んでいくタイミングだけど、百合乃は床に両足を着けて、太刀を正眼に構え直す。

 隙なく構える百合乃に、投げ返されたナイフを長剣で弾いたエイナも、足を止めて向かい合ってきた。

 スフィアカップのときだってほとんどぶっつけ本番みたいなくらいだった百合乃は、その強さに反して戦闘経験は豊富とは言えない。

 ましてや彼女はいま、ドールを動かしていると言うより、自分がドールになって戦ってるんだ、身体の勝手は大きく違う。

 リーリエだってみんなで戦闘訓練を積んでたと言っても、夏姫みたいにローカルバトルに出まくっていたわけじゃないし、バトル経験が豊富とは言えない。でもあいつは様々な動画からバトルを研究していたし、自分の身体のポテンシャルを、フォースステージに至るまでじっくりと確かめてきていた。

 百合乃がリーリエほどの力をいきなり出せないのは、仕方なのないことだ。

 ――でもそろそろ、エイナも本気を出してくる。

 アリシアのセンサーで予め確認しておいたけど、前回みたいな大がかりな仕掛けはすべて撤去されてるか、使用不能のまま放置されてる。

 ただ大量のカメラはそのままで、エイナの目として機能してるのはわかっているけど、それに対しては僕もいくつかの対抗策を考えてある。

 一本の長剣を両手持ちにしていたエイナは、二本目の長剣を抜き、百合乃に迫る。

 それまで硬かった表情を和らげ、口元に笑みを浮かべ始めた百合乃は、そのまま太刀一本で応じる。

 翻弄するような大きな身体の動きで、二本の長剣を左右に、上下に、斜めに振るい、攻撃を仕掛けてくるエイナ。

 太刀をコンパクトに動かし、攻撃を捌いていく百合乃は、タイミングを計っている。

 ――よしっ。

 袈裟懸けに襲ってくる長剣を太刀で受け流し、追撃の横薙ぎを襲ってくる前に踏み込んで弾き飛ばした百合乃は、エイナと触れあうほどの距離で大きく腰を落とした。

 鋭い足払い。

 避けて跳ぼうとしたエイナの左足には、軸足にしていたはずの百合乃の右足が絡みついている。

 かろうじて右足を着き直し百合乃の絡みから脱したエイナだが、百合乃が体勢を崩したその隙を逃すはずもない。

 容赦なく振り下ろされた太刀。

 かろうじて逃れて床に転がるエイナに、百合乃は部分アライズで指の間に出現させた短刀を投げつける。

 布地を切り裂くだけでエイナは立ち上がってしまったけれど、笑みを浮かべた百合乃は太刀を腰に納め、背中の長刀を抜き放った。

 百合乃は本来、超攻撃型のソーサラーだ。

 防戦を主体にしていたのは、あくまで身体の感覚を掴むため。

 近藤とゆっくりした速度での組み手はやっていたし、平泉夫人が手配してくれた自然の中のフィールドアスレチックでフォースステージの身体の動きをひとりで確かめてはいた。

 でも戦闘となれば低速の動きでの組み手と、ひとりでやってる訓練とは勝手が大きく違う。

 エイナと戦うことでやっと、百合乃は自分の身体のポテンシャルをつかむことができるようになっていた。

 ――それに、僕が知らない間にかなり経験積んでたな。

 いま見せた流れるような剣戟からの体術と追撃の投擲は、戦闘スタイルとしては平泉夫人のそれに近い。

 スフィアカップのときに僕が見た百合乃の戦いは、割と直線的なものだった。

 スフィアカップの地区大会優勝を納めた後、夫人の家に何度かひとりで訪れていたのは知ってたけど、相当な回数戦い、その戦いを吸収していたらしい。

 それまでの緊張で強張っていた感じがなくなり、リーリエの戦闘情報を参考にしたんだろう、長刀を肩に担ぎ、開いた左手を真っ直ぐにエイナに向け、ゆったりと構えた百合乃。

 彼女が微かに飛ばしてきた視線に、僕は頷きを返した。

 スマートギアの中で開いていた目を、閉じる。

 リュンクス機能を起動し、瞬きのない視界を開く。全部で四面。

 百合乃から送られてくるアリシアの視界をメインに、自分が被ってるスマートギアのカメラ視界をサブにし、ボディのプロパティ操作用にひとつと、センサーなどから取得した解析情報でひとつ。

 モルガーナから連絡があった日からさらに僕はリュンクスを極め、頭の中に同時に四つの視界を認識できるようになっていた。

 ドールを動かすことが決して得意じゃない僕は、百合乃みたいにデュオソーサリーは使えないけど、四つの視界すべてを認識しつつ、二〇個のポインタを操作できる。

 この視界はヤバい。

 慣れすぎると、肉眼視界に戻れなくなるかも知れないほどに、自分が拡張されていると感じる。

 でもいまは、人間の可能性に酔ってなどいられない。

 短く息を吐き、僕は無言のまま必殺技を発動させる。

 ――風林火山!

 百合乃の身体になっているアリシアに、彼女と同時にリンクする。

 猛臣にも手伝ってもらってこれまで以上にチューニングした風林火山によって、僕は百合乃と一体化する。

 準備が整ったのを感じ取ったんだろう、百合乃が床を蹴った。

 動こうと前傾姿勢になり始めていたエイナに先んじて動いた百合乃は、肩に担いだ長剣を突き出すことなく、身体ごとぶつけていく。

 クロスさせた二本の長剣で長刀の突撃を受け止めたエイナに、百合乃が唇から笑みを漏らしたのを感じた。

 あっさりと長刀を手放した百合乃。

 エイナの長剣の内側、身体がぶつかるほどの距離から、顎に向けて拳を繰り出す。

 下がって躱すエイナに蹴りで追撃しようとするが、迫ってきたのは長剣。

 しかし軸にしてる左足を狙って振るわれた長剣を、蹴り出していた右足を直角に曲げ、ヒールになってる踵で踏み折った。

 動じることなく無表情で距離を取ろうとするエイナを、百合乃は許さない。

 動き始めてからここまでコンマ数秒。

 手放した長剣は、まだ落下中だ。

 後ろに伸ばした左手で柄を握り、大きく踏み込んで必殺の一撃を突き出した。

『浅い! 残念っ』

 ぎりぎりで身体を傾けて回避を試みたエイナ。

 左肩のハードアーマーにざっくりと切れ込みを入れるが、感触的にはソフトアーマーの薄皮一枚に達した程度だ。

 ――でも、いける!!

 今回は有効打にならなかったが、百合乃と僕であれば、モルガーナの調整したエイナの力に到達できる。それを実感できた。

 驚きや笑みを浮かべて戦いの様子を見つめている夏姫たち。

 反対側の端では、モルガーナが明らかに不機嫌そうに、眉根にシワを寄せていた。

『畳みかけていくよ、おにぃちゃん!』

『あぁっ』

 どこか弾んで聞こえる百合乃の声。

 リーリエはリーリエでけっこうな戦闘狂だったけれど、それはたぶん百合乃譲りの性格だ。

 百合乃もまた、スフィアドールを動かすことを、そしてその極地と言えるドール同士のバトルを好む。

 ぶらりと長刀を垂らすように持ち、まるで平泉夫人のような構えを取りつつも、大股でエイナに近づいていく百合乃。

 勝負の行方はまだわからない。油断もできない。

 けれど戦えない相手でないことに、僕の口元にも笑みが漏れ始めていた。

 

 

            *

 

 

 エイナが百合乃を防戦に追い込んでいた戦況が、一気に覆った。

 いまは逆に、百合乃がエイナを追い詰めつつある。

 ――いったい、何があったと言うの?

 腕を組んだまま眉根にシワを寄せ、モルガーナは状況の変化を探る。

 妖精としての力が増した感触は、なかった。

 エリキシルドールとして充分な力が発揮できていても、スフィアの持つ力を引き出しきっている様子はない。

 それは決して長くない時間と経験しかなく、意思をも封印しているエイナも同様。

 ボディ性能も、前回の戦いから変化はなく、百合乃とエイナで大きな差はない。

 それならばモルガーナの手によって妖精の力を可能な限り引き出しているエイナの方が、百合乃より若干有利になるはずだが、そうはなっていなかった。

 戦況は拮抗している。

 しかし手数が明らかに百合乃の方が多い。

 許可なく自分の願いを叶えて消滅したあの出来損ないの妖精も使ってはこなかった、小細工のような技で翻弄してきている。

 いったい何があったのか、探らなければならなかった。

 ――克樹君の様子が、先ほどとは違う?

 妖精同士の戦いに、ただの人間が介入できるはずもない。

 モルガーナ自身、どんなに高速な動きでも視覚では捉えることはできていたが、介入することなどできる速度ではない。身体能力的には人間とそう大きく変わらない魔女の身体では、妖精の速度に対応するのは困難だった。

 しかしいま、百合乃の持つスフィアと、克樹のスマートギアの間で、戦闘が開始された直後の数倍の通信が行われているのを感じていた。

 ――リミットオーバーセット?

 克樹が電圧リミッターを解除して、寿命や発熱と引き換えに、必殺技と称するパーツのポテンシャルを引き出す手法を使っているのは知っている。風林火山という、人工個性と同時にドールとリンクする二者同時コントロールを編み出していることも、情報を得ていた。

 しかし人間の介入ができない領域の戦いで、そんなものが使えるとは思えない。

 ――いえ、彼は特異点……。

 眉根のシワをさらに深くし、モルガーナは奥歯を噛みしめる。

 通信内容まではつかめない。自分で開発した技術についてはほぼ掌握できていると言っても、フォースステージに至ったスフィアを支配下に置くことはできない。

 それでも感覚でつかみ取れる情報から考えるに、克樹は必殺技を、風林火山を使っているとしか思えない量の通信を行っている。

 それが可能なのはおそらく、彼が特異点として設定された人物だから。普通の人間では不可能な、妖精同士の戦いに介入できる反応速度を持っているから。

 ――まさか、彼にそんな力があるなんて!

 攻められながらも、まだ充分に戦えているエイナの様子を目で追いながら、モルガーナは思い返す。

 考えてみれば、エリキシルバトルは最初の頃から想定した結果からズレることが多かった。

 勝つことを想定していた参加者があっさり敗退したり、予想外の人物がかなり長い間残っていたりした。

 最終決戦はイシュタルを持つ槙島猛臣か、アマテラスを持つ高畑伸吾のどちらかであると想定していたのに、最後に残ったのは克樹だった。

 予備として考えていたエレメンタロイド、リーリエのことは考慮していたものの、克樹と一緒に同じスフィアを共有する形というのは考えていなかったことであったし、戦いの序盤に彼と会って話をする機会が訪れるなど、予定すらしていなかった。

 モルガーナが参加者に正体を晒すのは、最後に勝ち残った人物にだけと予定していたから。

 それらの想定外がすべて女神に仕込まれた大小の特異点が原因だったとしたら、納得がいく。

 ――元々、彼のことは最初から気に入らなかったのよ。

 エリキシルバトルではたいして役に立たない凡庸なソーサラーであったはずなのに、仲間を集めたり、モルガーナと面会し要求を突きつけてきたり、あまつさえ勝ち続けていくなど、番狂わせも甚だしい。

 いまでは猛臣にも接近するほどのソーサラーに成長し、ここまで生き残り、さらには自分の精霊に願いを叶えさせ、計画を邪魔するなどということは、起こり得るはずのない事態だった。

 胸の下で組んでいた両腕を解き、モルガーナは顔を顰めたまま両手を胸の前で握りしめる。

 エイナと百合乃の戦いは、まだ先が見える段階ではない。

 手数の多い百合乃の攻撃であるが、多くのソーサラーから集めた戦闘情報から抽出されたバトルアプリの戦法は、充分に機能している。

 ――けれど、この辺がタイミングね。

 そう考えたモルガーナは、視線を戦場の向こう、克樹たちから少しズレた、エレベーター室の影に飛ばす。

 小さく頷いて見せると、そこに隠れていた火傷の男が、ニヤリと笑って頷きを返してきた。

 

 

            *

 

 

「本当、相っ変わらず、意気地なしだよね!」

 声をかけられて顔を上げ振り向くと、アヤノが刺すような視線でこちらを見ていた。

「ぜんっぜん変わらないなぁ、君は。直した方がいいって言わなかったっけ?」

 弛緩していた身体を若干ぎこちなく動かしながら椅子から立ち上がり、アヤノは頬を大きく膨らませながら彰次の方までやってくる。

「お? ラッキー。コーヒーだ! って、ブラックじゃんっ。お砂糖ちょうだいよ。あとミルクも!」

「え? あ、あぁ……」

 唖然としてしまっている彰次に問答無用で指示してくるアヤノに、身体が半分自動的に動いて、キッチンからスティックシュガーと牛乳パックを取ってくる。

「あああぁぁぁ……、美味しっ。身体に染み渡るーっ。もう一杯!」

「……わかりました」

 たっぷりの砂糖とたっぷりの牛乳を入れ、カフェオレと言うよりコーヒー牛乳状態にして一気に飲み干し、カップを差し出してくるアヤノ。

 苦笑いを浮かべる彰次は、ヤカンに水を足してコンロにかけ、今度はカップふたつにコーヒーを淹れてダイニングに運んだ。

「俺が変わらないっていうけど、そっちだって相変わらずじゃないですか。ちんちくりんで」

「何言ってんの? これでも生前の身体より一インチくらい大きいはずでしょ? そういうボディなんだし」

 黒く長い髪と、メイドのような地味なエプロンドレス姿のアヤノは、どこか芳野を思わせる容貌にしてあった。

 けれどいまはそんな感じはなく、大きく開いた目はクルクルと色を変え、豊かな表情を湛えていて、別人のようだった。

「久しぶり、先輩。……いや、映奈」

「そうそう。うん、久しぶり。ショージ君」

 先輩といった瞬間に頬を膨らませたのを見て、彰次は呼び直した。

 二杯目のコーヒーをちびりと飲んでから顔を上げたアヤノは、笑む。

 東雲映奈。

 いま、アヤノの身体を動かしているのは、AHSではなく、人工個性のエイナでもなく、東雲映奈だと確信できた。

 彰次の大学の先輩であり、彰次がこれまでの人生で最も好きだったと、愛していたと疑いなく答えることができる女性。

 ショートカットで、ともすると男の子に間違えられるような服装だった映奈とは姿形は少しも似ていないのに、表情と雰囲気が映奈だとしか感じられない女性が、そこにいた。

 ――これが、前兆現象? でも、なぜ?

 克樹たちから聞いた、エリキシルソーサラーの前で発生する前兆現象。

 そうとしか思えない現象がいま発生しているのはわかったが、しかしバトルの参加者ではなかった自分の元でそれが発生している理由を、彰次は思いつけなかった。

「ショージ君がヘタレなのは本当、変わんないね」

 カップをテーブルに置き、低い背で前屈み気味に上目遣いで怒ってるような視線を向けてくる映奈の言葉に、彰次は頬を引きつらせながら苦笑いを浮かべるしかなかった。

 ――本当に変わってないな。

 変わっていないと指摘された彰次だが、映奈もまた最後に会ったときと何も変わっていないと感じる。

 当時は年上だったが、背は低く仕草も表情も可愛らしいのにお姉さんぶっていて、本当に怒ってるときの威圧感もさることながら、鋭い指摘に上手く言い返すことができなくてマウントを取られてしまう。

 可愛らしい女の子として見られることよりも、恐ろしい先輩と見られていた大学の頃と、本当に何も変わっていない。

「女の子とはけっこう遊んでるんでしょ? 大学のときもそうだったけどさぁ、この家の入退室記録見てみたら、けっこう女の子が出入りしてるみたいじゃん」

「……なんでそんなとこチェックしてるんですか」

「ん? そりゃあこのボディだとそういうの簡単にチェックできるみたいだったから。権限あったし」

「説明になってないですよ……」

 たじたじになるしかない彰次の胸元に人差し指を突き立て、頬を膨らませて怒りを表現しているのに可愛らしいとしか思えない表情で、映奈は言う。

「昔からそうだったよね? 好かれることは多いのに好きになることってほとんどなくってさ、惚れた相手にはいつまでも告白できないヘタレ男だったもんね?」

「……さすがに昔とは、違いますって」

「はぁ? たいして変わってないじゃないっ。むっつりスケベ。こーんな可愛らしい姿のロボットにメイド服なんて着せちゃってさ」

「ぐっ。いや、それは、あの――」

「言い訳はしない!」

「はいっ」

 直立不動になった彰次に、ふっと表情を緩ませ、うつむき加減になった映奈は、身体を寄せ抱きついてくる。

「そんなショージ君だからこそ、あのとき告白してくれて、嬉しかった。本当に嬉しかったんだぞ……」

 決して強くはない、エルフドールのボディの腕に力を込めて抱きついてくる映奈を、彰次もまた抱き締める。

「ゴメンね、ショージ君」

 胸元から顔を上げ、潤んだ瞳を見せる映奈。

「告白されて、嬉しくて、あの日は頑張っちゃった……。危ないかもって思ってたのにね」

 映奈が言っているのが、死んだ日のことだというのはわかった。

 彰次は知らなかったが、もしかしたら映奈は事前にモルガーナから脳情報を収集していた機材の高出力化について、話を聞いていたのかも知れない。

 そのときの無茶が、映奈に死をもたらしたのは、確かなことだった。

「なんで、わかってて無茶したんですか?」

「そんなの決まってるでしょ?」

 怒ったように眉間にシワを寄せ、でも可愛らしい映奈は頬を膨らませる。

「ショージ君と気兼ねなく遊びたかったからだよ? わたしは熱中するとさ、歯止めが利かなくなるのは知ってるでしょ? 集中すると恋人でもほったらかしにしちゃう。それじゃダメだって自分でもわかってたんだけどさ、どうにもならないんだよね。だからそれは諦めた。わたしの性質なんだもん」

 懐かしくて、泣きたくなるほど最後に話した頃とまったく変わらない口調。

 彰次は改めて、自分が深く映奈のことを愛していることを感じる。

 ほんの一瞬、ためらうように言葉を止め、映奈は頬を薄赤く染めた。

「どうにもならないなら、研究をひと段落させるしかないじゃない。集中してやらないといけないことが終わったらショージ君と、その……、ラブラブできたでしょ?」

 顔を赤くしながら上目遣いで、唇を尖らせて言う映奈に、彰次も自分の顔が熱くなるのを感じていた。

 厳しくて、言われると従ってしまうほどの圧力があるのに、何をしてもどこか可愛らしくて、さらにたまに見せる愛くるしさのギャップにやられたことを、いまさらながらに思い出す。

 そんな愛して止まない映奈の顔に、影が差した。

「でもそれが、あの魔女の計略だったんだね。わたしの性格も、たぶんショージ君の想いも全部見て取った上で、あの魔女は計画してたんだ。それに見事に填まっちゃって、わたしは死んじゃった」

 笑っているのに、映奈はポロポロと涙を零す。

 彼女の頭を胸に抱き寄せ、彰次も溜まらず泣いていた。

「好きだった。愛してた。一生一緒にいたいって思える人に出会えたのに、わたしはそんな人と付き合う前に、死んじゃった……」

「俺も……、俺も愛してる。先輩を、映奈を、俺も愛してるっ」

 映奈の顎に手を添え、上を向かせる。

 いまの気持ちを言葉だけで全部伝えることなどできない。

 いまのすべてを伝えるために、彰次は映奈の顔に自分の顔を近づける。

 けれど、止められた。

 映奈の人差し指で、彰次の唇は塞がれる。

「凄く嬉しいよ、ショージ君。わたしも君と同じ気持ちだよ」

 言いながら涙を拭った映奈は、彰次から身体を離して距離を取る。

「だったら、なんで――」

「だっていま、ショージ君には好きな人、いるでしょ?」

「うっ」

 言葉を詰まらせる彰次に、映奈は微笑みを見せる。

「いいんだよ、ショージ君。わたしが死んでからもうずいぶん時間が経ったよね。ショージ君は年取ったし、世界は本当にいろいろ変わった。いつまでも足踏みはしていられないよね? 生きてる人は自分の道を進まないといけない。だから、いいんだよ」

 彰次に背を向けた映奈は、腰の下で自分の指と指を絡ませ、わずかに顔を振り向かせて嬉しそうに笑んだ。

「それにさ、嬉しいんだ。ショージ君は意外としつこいし、ネチっこい性格だったからさー、心配だったんだよね? いつまでもわたしに囚われてるんじゃないか、って。自分の幸せを見つけられないでいるんじゃないか、って」

 身体を振り向かせた映奈は朗らかに笑む。

 眩しいほどのその笑みはしかし、彼女がもう手の届かない存在であることを思わせる。

 死んでしまった、過去の人間であることを知らせている。

「わたしのことは忘れてほしくないけど、ショージ君が幸せになれないのも、イヤなんだ」

「でも……、でも映奈――」

 近づいてきて唇をまた人差し指で塞ぎ、すぐ目の前ではにかんだ笑みを見せてくれる映奈。

「幸せになりなさい、ショージ君。これは先輩からの命令。絶対命令! 幸せにならなかったら、許さないからね?」

 言って映奈は。彰次の唇に自分の唇を重ねた。

 一瞬だけのキス。

 最初で、最後の口づけ。

 あのときしたかったのに、できなかった想いを、いまやっと重ね合わせることができた。

 そう思えた。

「愛してたよ、ショージ君」

 嬉しそうに、楽しそうに、幸せそうに、けれどどこか悲しそうに笑む映奈。

 過去形で愛を語る彼女に、光を失いつつある瞳に、彰次は胸にこみ上げてくるものを必死に抑えて、答える。

「愛して、いましたよ、映奈……」

「うんっ!」

 頷いた映奈は、泣いていた。

 泣くつもりはなかったのに、彰次も涙が零れるのを止められなかった。

 お互い同時に手を伸ばして、抱き締め合う。

 決して暖かくもなく、柔らかくもないエルフドールのボディなのに、あのときの映奈の香りがしていた。

 強く、強く抱き合って、ひとしきり泣いて、ゆっくりと映奈が顔を上げた。

「いま、こうやって会えたのは、あの子のおかげなんだ」

「あの子?」

「うんっ」

 それが人工個性のエイナを示していることに、彰次は気づく。

「やはり、あれの願いは映奈の復活だったのか」

「うん、そう。いろいろ思うところはあるけど、まぁ、それはいまさらいいや」

 眉根に小さく不機嫌なシワを寄せていた映奈は笑み、言った。

「だからあの子を、助けてあげてほしいんだ」

「助ける?」

 そんなことを言われても、何ができるとも思えなかった。

 モルガーナによって意思を封じられたエイナを、解放することなんてできるとは思えない。

「助けると言っても、あれの意思は封じられて、消えてしまっているかも――」

「そんなはずがないでしょ?」

 笑みから怒りへとがらりと表情を変え、睨みつけるような視線を映奈は向けてくる。

「あの子は、わたしと、ショージ君の娘だよ? わたしの脳情報と、少しだけどショージ君の脳情報でできた、わたしたちの娘。わたしたちの子供が、そんな軟弱だと思ってるの?」

「……そんなことを言われても、どうしたらいいか」

「難しいことは考えなくていいんだよ」

 笑顔に戻った映奈は、どこかいままで見たことがある彼女と違っていた。

 たぶんそれは、母親の顔。

 慈愛に満ちた、自分の娘を想う母親の笑み。

「名前を、呼んであげて」

「名前を?」

「そっ。わたしとショージ君で考えた、あの子の本当の名前。わたしたちの娘なら、必ずショージ君の声は届くから」

 研究室では生まれることがなかった、世界で初めての人工個性の名前は、こっそりと考えていた。

 大学では脳情報収集のメインとなった映奈の名前がそのまま仮称となっていたが、稼働を開始したときに呼ぶ名前を、映奈と彰次のふたりで決めていた。

 その名前は、いまも忘れずに憶えている。

「任せたよ、パパ」

 ニッコリと笑み、しかし瞳から光が消えた映奈。

 途端にぐったりと、アヤノのボディから力が失われた。

 アヤノを椅子に座らせて、頭を掻こうと思った彰次だったが、止めた。

 ――悩むのは、後だ。

 映奈に任された。

 そのことだけを考えて、いまはエイナの元に行く。

 帰ってからソファに投げ出したままだったコートを手に取り、車の鍵がスラックスのポケットに入っているのを確かめて、急いでスフィアロボティクス総本社ビルに向かおうとダイニングの扉を開ける。

 ――いや……。

 ふと思って、彰次は振り返る。

 眠っているような、穏やかな笑みを浮かべたまま動かなくなったアヤノ。

 エイナが使っていたというスフィアが搭載されているアヤノのボディを、彰次は担ぎ上げた。

「急ごう」

 戦いはそろそろ始まっているはず。

 眼鏡型スマートギアで道順と渋滞情報を確認しながら、彰次はガレージへと急いだ。

 

 

 



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第七部 無色透明(クリアカラー)の喜び 第三章 4

 

 

          * 4 *

 

 

 ――恐い。

 それがモルガーナを最初に見たときの夏姫の印象だった。

 喪服のような黒いスーツと、それよりも黒い闇のような髪の魔女は、紅く塗られた唇に浮かべる邪悪な笑みと、唇よりもさらに紅い瞳に、恐ろしさを感じた。

 克樹が彼女のことを魔女と呼んでいる理由を、ひと目で理解できた。

 ――でも、それだけじゃない。

 エレベーター室の壁に背をつけ、数歩前に出て立っている克樹の背中を見つめる夏姫は、苛立った様子を見せ始めたモルガーナのことを観察する。

 魔女が一番強く発しているのは、おそらく怒り。

 若干百合乃に優勢に傾き始めた戦況。

 それに対しての怒りもあるだろう。眉を顰めているモルガーナには焦りも見え隠れしている。

 しかし魔女に最も強く感じるのは、破滅の匂い。

 それはエリキシルバトルが始まる前、克樹に感じていたのと似ている匂い。怒りと、ある種の諦めと、強い怨みを混ぜて、発酵させたような、鼻で感じるものではない匂い。

 脆く、崩れかけていて、けれどねっとりと粘り着くような、イヤな匂いだ。

 魔女に関われば一緒に破滅してしまいそうな予感を覚えるのと同時に、彼女自身がいつか破滅してしまいそうな予感。

 それも、ひとりで潰れていきそうだった克樹と違い、モルガーナが強く発している匂いは、周囲を巻き込み、すべてを破滅に導く。

 そんな印象を、夏姫は感じていた。

 ――頑張って、克樹。

 克樹と百合乃が、魔女を倒さなければならないと言っていた理由が、わかったような気がしていた。

 克樹たちが勝って魔女を倒さなければ、世界がとんでもないことになる。その予感を抱く夏姫は、胸の前で手を強く握り合わせ、戦いの行く末を見つめる。

 けれど、夏姫はほとんど戦い自体を見ることはできないでいた。

 時折足を止めたタイミングと、次の動作に移る動き出しのときには見えるが、動いているときはほとんど目で捉えることができない。

 振るわれる剣の煌めきと打ち合わされたときの火花が視界のどこかで突然現れる感じで、甲高い金属音と微かな足音をたどっても、残像すら見ることができていない。

 肩を怒らせ、下ろした両手を握りしめている克樹が頑張っているのはわかる。

 彼が勝利を願っている。

 彼が勝つと信じている。

 それでも不安が募るのは止められない。

 人間の視覚で捉えられる領域を超えている戦いを繰り広げる百合乃とエイナに、夏姫は何かができるわけでもない。

 夏姫にできることはただ、胸の前で両手を握りしめ、克樹の勝利を祈ることだけだった。

 左右に立つ灯理や近藤、猛臣もそれは同じ。

 周囲を見回してみると、他のみんなも捉えきれない戦いをじっと見つめ続けているだけだった。

 ――あれ?

 見回してみて気づいた。

 本格的に百合乃とエイナの動きが見えなくなってからは、モルガーナは不機嫌そうに顔を歪め、奥歯を噛みしめていた。それもあって克樹たちが優勢なのだろうと思っていた。

 それなのにいまは、余裕があるかのように笑みを浮かべている。

 エイナの有利に戦いが傾いているのかと思ったが、遠く見えるモルガーナのつり上げた唇が、細められた目が、戦い以外の場所に向けられているような気がした。

 心臓を鷲づかみにされたような違和感。

 それに背中を押されるように、夏姫はもう一度周囲を見回した。

 ――あ!

 気づいたときには声を上げるよりも先に、夏姫の身体は走り出していた。

 

 

 

 スマートギアの視界に表示した、連続撮影を応用したストップモーションビューでも、百合乃とエイナの動きはほとんど確認できない。

 別のウィンドウに表示している、五〇パーセント設定で流してる録画映像でも、残像のような動きが見えるだけだった。

 ――こりゃあもう、普通の人間が踏み込める領域じゃねぇ……。

 戦いを見つめながら、猛臣は背中に冷や汗が滑り落ちていくのを感じていた。

 戦況はわずかに百合乃が優勢。

 手数とトリッキーな戦法でエイナを押しているが、畳み込めるほどの差はない。

 エイナはエイナで相当に強く、克樹と百合乃が風林火山に入ったと思われるタイミングで惜しい一撃を与えた後は、お互いハードアーマーにかすめる攻撃しかできていない。

 もし猛臣がリュンクスで肉眼の制限を解放されたとしても、亜音速に迫る速度の攻撃を繰り出し合っている百合乃とエイナに対応できるとは思えない。

 克樹のように人間の常識を越える脳内反応速度を持たなければ、フルコントロールでドールを動かしている限り、エイナの攻撃に対応することは不可能。

 オート側に比重を傾けたセミオートアプリを組み立てるにしても、いまの技術では対応しきれないのは明かだった。

「女神に奉ずる戦い」

 無意識につぶやいていた言葉。

 魔女と妖精と人間による闘争の宴は、まさに女神に献上するために催されているものだと、猛臣には感じられていた。

 ――俺様は、どれだけの時間があれば、この領域に到達できる?

 いまは勝てないことは明白。

 いまの猛臣では、スフィアが使えたとしても、舞台に上がることすらできない。

 それを認めた上で、どれくらいの時間があればこの妖精たちを打ち負かせるだけのドールを、コントロールアプリを組み立てられるかと、猛臣は焦燥に胸を焼かれながらも考える。

 ――無理、だな。

 目の前で始まった、薄く笑みを浮かべる空色のドールと、無表情のピンクのドールによる斬り合い。

 足を止めたその戦いは、身体は見えているのに肩から先はブレ、肘から先は肉眼では捉えることができない。

 金属同士がぶつかり合う澄んだ音、ヘリポートを照らすスポットを反射した閃きだけが、ふたりの間を支配している。

 ――あれは、神の領域だ。

 目では無理で、カメラでも捉えきれない速度。

 現在の人工筋を使う限り、それはどうやっても到達できない領域。

 神の領域に達した戦いが、いま猛臣の目の前で催されていた。

 ――だが俺様はいつか、その領域に達してみせる。

 拳を握り締め、猛臣はそれを誓う。

 いまの技術では、いまの人間では絶対に到達できない領域に、物理的な限界の向こう側に到達することを誓う。

 未来への誓い。

 ――いまは任せた、克樹。お前にすべてを任せたぞ。

 いつかは到達することを誓った戦いには、いまは手を出すことはできない。

 それを理解する猛臣は、克樹にすべてを任せることにした。

 屈辱はある。

 けれどいまは認めるしかない。

 克樹と、百合乃の強さを。そしてエイナの力を。

 そして自分の無力さを。

「いつか、絶対に超えてやる。だからいまは勝てよ、克樹」

 応援の言葉をつぶやいたとき、隣に立っていた夏姫が克樹に向かって飛び出した。

 ――いや、違う!

「近藤!」

 理由に気づいて声をかけながら猛臣も後を追うが、手遅れであることに気づいていた。

 

 

            *

 

 

 半ばで斬り落とされ、残った部分の刃もぼろぼろになっている両手剣を投げ捨て、エイナは二本の短剣を抜いて構えた。

 エイナの両手剣を斬るのに無茶をし、曲がってしまった長刀を少し考えて床に突き刺した百合乃は、太刀を一本抜いた。

 見つめ合うふたりは動かない。

 あらゆる攻め手を百合乃に対応されているエイナは、おそらく次の手を考え出せないでいる。

 薄く笑っている百合乃は戦いを楽しんでるのはあると思うけど、多少疲れが出てきている様子も、僕は感じ取っていた。

 ――まだ、時間はかかりそうだな。

 深呼吸をして詰めていた息を楽にする僕は、そう考えていた。

 戦いはわずかながら百合乃の優勢。

 でも意思を封じられて、疲労も感じなくなっているっぽいエイナと違って、僕はもちろん、百合乃も精神的に疲弊する。肉体の枷が外されていても、根を詰め続ければ神経がすり減ってくる。

 こうしたほぼ拮抗した戦いでは、動きに支障が出るような有効打ひとつで戦況はひっくり返る。

 だから僕たちは、一瞬だって気を抜けなかった。

 ――でもまだ、戦える。

 疲労は溜まってきていても、僕も百合乃もまだまだ戦える。

 勝つまでは、戦い続けられる。

 風林火山によってアリシアのボディを通して伝わってくる、百合乃の闘志を受け取って、僕は彼女に自分の闘志を伝える。

 長いにらみ合いになってるふたりから注意を逸らさないようにしつつ、若干余裕ができた僕はモルガーナの様子を確認してみた。

 ――笑ってる?

 風林火山を発動して、こっちが優勢になった後は、ずっと不機嫌そうにしていたモルガーナ。

 なのにいまは、薄笑いを浮かべている。

 動く様子のない魔女が、直接何かを仕掛けてくる様子は、ない。

 ――だったらあの笑みの意味はなんだ?

 そんな思考に囚われてるときだった。

「おにぃちゃん!」

「克樹!」

 百合乃と夏姫の声が同時に聞こえた。

 その瞬間、左後ろに立った夏姫が、僕に背中を預けるようにぶつかってきた。

 どうにか振り向くのが間に合って抱き留めた、夏姫の身体。

 柔らかく暖かい感触と、ポニーテールの髪から漂う優しい匂い。それから、下腹辺りを支えた彼女の身体に回した手に触れる、ヌルリとした何か。

 ――何が?

 と思う僕が夏姫の肩越しに見たもの。

 顔を上げたのは、首筋から頬にかけて火傷の跡が残る男。

「ぐがっ」

 僕が何かを思うよりも先に、猛臣が奴を蹴り飛ばしてどかし、ヘリポートに転がった奴との間に近藤が立つ。

「夏姫?」

 震えながら夏姫の身体を見下ろすと、お腹にナイフの柄が見えた。

 ベージュのコートに、徐々に赤いシミが広がっていくのが、暗い中でも見通せるスマートギアの視界ではっきりとわかる。

「よかった……。克樹は、無事だね……」

 夏姫が火傷の男に刺されたのだと、僕を庇ってそうなったのだと認識したとき、顔を振り向かせた彼女は弱々しい笑みを浮かべた。

「しゃ、喋るな。百合乃!」

 真っ白になってしまいそうな頭を無理矢理動かして、僕は百合乃に声をかける。

 エリクサーがあれば、致命傷を負った僕を傷ひとつなく癒やしたエリクサーを使えば、夏姫は助かる。

『ゴメン。いまは、無理』

 そう思って百合乃に声をかけたのに、余裕のない返事があった。

 一瞬の隙でも見せれば攻撃をしかけてきそうなエイナ。僕と百合乃のリンクは維持できてるけど、風林火山は成立できていない。

 百合乃がいまこちらに注意を払ってる余裕はない。

「戦って……、克樹」

「夏姫? 何を?!」

 力を失った身体をゆっくりと座らせ、正面に回った僕に、夏姫はそう言って微笑んだ。

「あの魔女は、とっても、邪悪だと思う。だから、倒さないと、いけないんだよ」

「喋るな! 夏姫っ。いますぐ病院に――」

 僕の頬に手を添えてきた夏姫は、それ以上の言葉を言わせてくれない。

「戦えるのは、克樹と百合乃ちゃんだけなの。だから、戦って……。克樹のためにも、百合乃ちゃんのためにも、アタシたちや、他のみんなの……、これまでエリキシルバトルを戦ってきたみんなのためにも、なにより、リーリエのために……」

 言って首を伸ばした夏姫は、僕の唇に口づけた。

 暖かく、優しい、夏姫の味。

 沸騰していた頭が一気に冷える。

 いまやるべきことを思い出す。

「大丈夫だ。俺様が絶対夏姫を死なせない」

 一歩離れた僕から夏姫の身体を受け取り、コートのベルトで傷口近くを強く縛り付けててきぱきと応急処置をする灯理を手伝いながら、猛臣がそう言った。

 でも夏姫の目が閉じられた。意識を失った。

「夏姫!」

「莫迦が!」

 近寄ろうとした僕の頬に、振り返った猛臣の拳が食い込む。

「猛臣……」

「言ったろう。俺様が絶対助ける。絶対死なせない。いま俺様ができる最大限のことだ。夏姫は自分の身体を張ってお前を助けた。お前はお前のできることをやれ。この戦いはお前に託した。だから、絶対に負けるなよ」

 新たなナイフを取り出して隙を窺ってる火傷の男に対峙していた近藤に代わりに立ち、猛臣が振り返らずに言った。

 近藤に抱きかかえられた夏姫を見、僕は頷く。

「わかった。僕は戦う」

「あぁ。頼んだぜ、克樹」

 ちらりと振り返り、つり上げた唇の端を見せた猛臣は、灯理と近藤とともにじりじりと後退し、エレベーター室の中へと入っていった。

 ゴンドラに乗り込んでエレベーターの扉が閉まるのを確認した僕は、エイナに、モルガーナに向き直る。

『行ける? おにぃちゃん』

『もちろんだ。夏姫に、猛臣に、任されたからな!』

『うんっ』

 こちらに手が出せないと判断したのか、情けない顔をして下がっていく火傷の男。

 呆れたように肩を竦めるモルガーナ。

 攻撃する隙くらいあったろうに、手を出してこなかったエイナは、二本の短剣を構え直して見せた。

 空高く昇り始めた冬の星々の下、ヘリポートを照らすスポットライトに浮かび上がる戦場で、僕は百合乃に宣言する。

『さっさと決着をつけるぞっ。それから、早く帰ろう!』

『……うん、おにぃちゃん!』

 百合乃の返事を聞いた僕は、夏姫の血で濡れた右手を握りしめながら、風林火山を再開した。

 

 

 



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第七部 無色透明(クリアカラー)の喜び 第三章 5

 

 

          * 5 *

 

 

 ――本当に、本当に役に立たない!!

 どうにか克樹に近づこうとしていた火傷の男は、太刀のわずかな動きで威嚇され、すごすごと後退ってきた。

 情けない顔でちらりと振り返ってみせる彼を、モルガーナは睨みつける。

 元から、彼には期待していなかった。

 銃を持たせなかったのは莫迦なことを考えさせないためだったが、無防備だった克樹をし損じ、戦意を奪うことすらできないとは思わなかった。

 せっかく与えてやったチャンスを、無能が故に無駄にした。

 ――もういらないわ。

 才能はあった。

 それを開花させるために手も尽くしたし、伸ばしてもやった。役に立つことももちろんあったが、差し引きで考えれば足を引っ張ることの方が多かった。

 モルガーナにとって。火傷の男は不要なピースだった。

 その程度の人物ならこれまでも多く出会ってきたし、才能や才覚のある者を見つけ、手をかけて育ててきたのだからほとんどは有能だったが、全員というわけではない。

 いまこのタイミングで、計画の結末を迎えるタイミングで彼のような存在を残しておくことになったのだけは、悔やむべきことだった。

 ナイフを克樹に向かって構えながらも、繕うように下から視線を向けてくる火傷の男に、モルガーナは決断した。

「エイナ!」

 詳しいことを言わずとも指示の内容を理解したエイナは、短剣を鞘に納め、かき消えるように動いた。

「ひっ、ひゃあ!」

「何をするつもりだ?! モルガーナ!」

 火傷の男の情けない悲鳴に続いて、克樹の問いかけが飛んできたが、無視する。

「や、やめろっ! こんなことして、どうなるかわかってるのか?!」

 エイナに首とベルトをつかまれ、頭上に持ち上げられた男は、バタバタと手を動かし逃げようとしながらも、強気な言葉を吐き出す。

「お、オレが死ねば、お前がこれまでやってきたことが全部、明るみに出ることになるんだぞ!!」

 必死で足掻き続ける彼はそんなことを言う。

 ネズミのように用心深い彼は、モルガーナがやってきた、表沙汰にできない様々なことの証拠を隠し持っていた。

 その多くは彼自身が関わったものであるが、たいして失うもののない彼よりも、様々な場所で地位を築き、信頼も信用も必要な場所で活動してきたモルガーナの方が、明るみに出たときのダメージが大きい。

 何かのタイミングで彼が死んだ場合、報道機関などを通じて公開されるよう仕込まれている証拠はさほど大きな問題ではなかったが、計画をスムーズに進行させるためには秘匿すべきものだった。

 いまもし彼を殺せば、それは明らかになり、モルガーナは社会的に注目され、多くのものを失うことになる。

「だ、だから下ろせ! エイナに指示を出せ!!」

「イヤよ」

「へ?」

「イヤだと言ったのよ。聞こえていたでしょう?」

 足掻くのを止め。呆然とした顔になっている火傷の男。

 何が起こっているのかわからないかのように、ぽかんとして動かない克樹と百合乃を横目で確認してから、胸の下で両腕を組んだモルガーナは、顎を反らして火傷の男を見下す。

「もう、いらないのよ」

「す、すべてを失ってもいいって言うのかっ?!」

「この戦いが終わった後、私は神となる。こんな人間どもの世界に未練なんてないの。貴方の持っている証拠など、意味がなくなるのよ」

「そ、そんな……」

「それにね? 貴方の持っているという、私にとって不利な証拠なんてもの、もうこの世には存在しないわ。物理的にも、データ的にもすべて抹消済みだから」

「いや……、それは……。や、止めてくれ!!」

 激しく手足をばたつかせて拘束から逃げ出そうとする男だが、エイナの手が緩むことはない。徒労に終わる。

 騒ぎ続ける男を無視して、モルガーナはエイナに向かって顎をしゃくった。

 その意味を正しく理解したエイナは、投げた。

 火傷の男を、フェンスの外へ。

「モルガーナ!!」

 克樹の非難の声が飛んでくるが、振り返り短剣を抜いたエイナに威嚇され、近づいてくることはない。

 徐々に小さくなっていく絶叫が数秒続き、途切れた。微かに、何かが潰れるような音を最期に。

「……おにぃちゃん」

「うっ……」

 こちらを警戒しながらも、声をかけ合う百合乃と克樹に、火傷の男の心音が消えたのだろうことを悟った。

「な、何を……」

「何を? 不思議なことを訊くのね、克樹君。私は当然のことをしたまでよ。役に立たず、私の邪魔にすらなる存在を排除した。それだけのことよ」

 右脚を踏み出したモルガーナは、腕を組んだまま克樹のことを見下す。

 わなわなと身体を震わせている彼は、信じられないものを見たように顔を強張らせ、うつむいた。

「これまでもやってきたことよ。たいしたことではないわ。不幸に見舞われることも、苦労してきたのも、貴方だけではないの。私だってここに至るまでに、どれほどの不幸と苦労をしてきたと思っているの?」

 これまでにモルガーナに敵対する者は多く現れた。

 その多くはたいした力を持たない者たちであったが、時には争乱で、政争で敗れ、追いつめられたことも一度や二度ではなかった。育ててきた手駒を殺された経験も数え切れないほどあり、病気や事故などの不幸な理由で失うことも珍しくはなかった。

 いまこの場に立つまでの道は、決して容易なものなどではない。苦労と不幸の連続だったと言っても過言ではない。

「そう思えば、あれは貴方にとっても仇だったわね。あれを苦しめて殺すことが、貴方の願いだったかしら? あれは生きることに執着する小物のクセに、権力とか威力を求める度し難いゴミだったわ。地面に到達するまでの数秒、すべてを得られないことに死よりも深く絶望したことでしょう。感謝しなさい? 克樹君。貴方の代わりに、私が願いを叶えてあげたのよ」

 唇の端をつり上げて笑むモルガーナに、克樹は恨みの籠もった視線を向けてくる。

 心揺さぶられることなく、戦意を失わない燃えるような瞳の克樹に、モルガーナは眉根にシワを寄せ、徐々にそれを深くしていく。

 ――彼だけは、許せない。

 この計画を立案し、実現し、ここまで進めてきた自分に楯突く男の子。

 ただの人間に過ぎないのに、妖精を召し抱え、あまつさえ女神の祝福すら受けている。

 彼の存在も、その力も、女神の意思によるもの。

 だとしても、モルガーナは彼を許すわけにはいかなかった。

 ただの人間如きに、魔女である自分が負けることなど、戦いの場に引っ張り出されるなど、許しがたいことだった。このあと神となるモルガーナにとって、それは万死に値する行為。

 ――でもそれがイドゥンの望みなのでしょう。ならば戦って上げましょう。全身全霊をもってね!!

「エイナ!」

 睨みつけてくる克樹を睨み返していたモルガーナは、エイナを側に呼び寄せる。

 訝しむように目を細めた克樹に、唇の端をつり上げて笑って見せ、すぐに屈辱に顔を大きく歪めるモルガーナ。

「何をするつもりだ?! モルガーナ!」

「少しの間そこで見ていなさい。すぐにわかるわ」

 不審を覚えたのだろう百合乃が攻撃の構えを取ったのを見て、モルガーナは声で制してその動きを止めさせる。

 ――これが私のすべて。私の全力。私のすべてを我が女神に捧げるわ!

 背を向けて立つエイナの頭を鷲づかみにし、モルガーナは目をつむる。

 大きく息を吸い、紅い瞳を開いた彼女は、唱えた。

「アライズ!」

 

 

            *

 

 

「アライズ!」

 解放の呪文を唱えたモルガーナだったけど、何かが起こる様子はなかった。

 ピクシードールからエリキシルドールに変身するときみたいに光が溢れることも、フェアリーリングを張ったみたいに光の輪が現れることもない。

 ――何をしたんだ?

 モルガーナの迫力に負けて僕も百合乃も動けなくなっていて、止めることができなかった。

 でも何かが起きた様子もなく、モルガーナもエイナも動く様子がない。

 いや――。

「モルガーナ?!」

 魔女の身体がぐらりと揺れて、倒れた。

 力なくヘリポートに寝転がるモルガーナは、起き上がる様子がない。

 何かのワナかも知れなくて、僕はその場に立ったまま近づくこともできなかった。

「……どうしたんだ?」

「おにぃちゃん、見て!」

 百合乃の鋭い叫び声とともに、彼女がセンサーからピックアップした情報が視界に表示された。

 拡大されたモルガーナの身体。

 髪を振り乱し、ぴくりとも動く様子のない身体からは、感知されるはずのものが失われていた。

 心音。

 シンシアほど多彩でも多数でもないとは言え、アリシアに搭載してる高感度センサーなら、近くにいる人間の心音くらいは感知できる。

 さっきまでは、モルガーナの心音は感知できていた。

 魔女と言っても身体は人間とほとんど同じ。心臓だって動いている。

 それなのにいまは、心音が失われている。体温も、徐々にではあるけど、低下しつつある。

 モルガーナは、死んでいた。

「まさか……、死んだ?」

 言葉に出してみたけど、現実感がない。

 何かの力か魔法を使おうとして失敗したのかも知れないけど、そんな風にも思えない。

 いまこんなところで、モルガーナが死んだなんてこと、信じられるわけもない。

「違う……。違うよ、おにぃちゃん」

 僕の隣まで下がってきた百合乃が、震える指で示したのは、エイナ。

 モルガーナに頭をつかまれ、うつむき加減になっていた彼女が、顔を上げていた。

 紅い瞳が、僕を見つめている。

 ――違う。

 黒に近かったエイナの瞳が、紅い色に変化していた。

 変化はそれだけじゃなく、ガラス玉のようだった瞳は、睨みつけるように僕に向けられ、怒りを湛え揺れている。

 意思を、僕に向けている。

「……モルガーナ?」

「えぇ、その通りよ」

 そんな答えが返ってきた瞬間、ピンク色だった髪は癖のある黒に染まり、ピンクと白が主体だったアーマーは赤と黒の禍々しいものになる。

 エイナであったはずのエリキシルドールは、いまはモルガーナになっていた。

「どういうことだ?」

「元々、これは予定していたことなのよ」

 自分であったはずの生身の身体を見下ろし、踏みつぶすかのように足を振り上げたモルガーナ。

 一瞬の逡巡の後、それをヘリポートの隅に蹴ってどかした彼女は、黒い瘴気のような雰囲気を周囲に放ちながら一歩二歩と踏み出してきた。

「予定していた?」

「えぇ。エリクサーは人では起こせない奇跡を起こし得るけれど、それをもってしても神との――、世界との同化は叶わないわ。スフィアコアに自分の存在を移し、神の羊水であるエリクサーで包んで神として新生すればいい。長い時間をかけて、私はその方法を突き止めた。けれどね、欠片と言えど女神そのものであるスフィアコアに存在を移すことなど、できないのよ」

「でも、いまお前はそれができてる……」

「その通り」

 柔らかく、可愛らしく、どこか悲壮さを漂わせていたはずのエイナの顔に、邪悪としか感じられない笑みを浮かべ、モルガーナは話す。

「エレメンタロイドは私の存在を移すための手段。ファースト、セカンド、サードステージを経て、フォースステージに至ることで、女神の身体であったスフィアコアには人の存在を宿すための、一種の回路が構築される」

「じゃあ、エイナも、リーリエも――」

「察しがいいわね、克樹君。エレメンタロイドは私が神に至るための手段、触媒だったの。本命はエイナで、貴方の精霊はただの予備よ」

「……お前は、リーリエのことをなんだと思ってるんだ!!」

「おにぃちゃんっ」

 頭が沸騰して前に踏み出した僕を、百合乃が手で制する。

 そんな僕を見て楽しげな笑みを浮かべているモルガーナだが、小さく息を吐いた後、不機嫌そうに顔を顰める。

「でもね、こうしてスフィアコアに私自身を移すのは、すべてのバトルに決着がついてから。ファイナルステージ、亜神に至ってからの予定だったのよ。それを、貴方たちが邪魔をした!」

 両手に持った短剣を構えるモルガーナ。

 銀色の刀身は、黒い光を宿す。

「エレメンタロイドのことをどう思ってるか、ですって? そんなもの、ただの道具よ。この世界も、人間も、貴方たちも、すべて道具に過ぎないわ。私が神になるための、ね! でももういらない。ここですべてを終わらせるわ。貴方たちのことも、人間なんて言うおぞましい生き物も、すべて滅ぼしてあげるわ」

 腰を落として顔の前で黒く光る短剣を構え、モルガーナは吠える。

「神となった、私がね!!」

「くっ」

 魔女から放たれる剥き出しの怒りに、僕は思わず半歩後じさる。

 執念としか言いようのないそれは、まだ十七年しか生きていない僕では持ち得ない、圧倒的な圧力だった。

 僕の胸の中で沸き立つ怒りよりもさらに強い怒りに、僕が押しつぶされそうになっているとき、モルガーナの視線を斬り捨てたのは、百合乃の白刃。

 視界を遮る太刀を持つ百合乃が、ちらりと僕に視線を飛ばしてくる。

『戦うよ、おにぃちゃん』

『あぁ』

『絶対に、負けられない。リーリエを、あの子を道具なんて言うあいつを、あたしは許せない!』

 背を向けて立っている百合乃の背中からは、怒りが立ち上っていた。

 ともすれば空色のツインテールが逆立つのではないかと思うほどの怒りと、冷静にモルガーナのことを分析し始めている百合乃に、僕は奮い立つ。

『そうだな。勝つぞ、百合乃!』

『うんっ!』

 イメージスピークで気持ちをひとつにした僕は、風林火山を発動させ、感覚をも百合乃と一体化した。

 モルガーナとの、すべてを賭けた総力戦が始まった。

 

 

 



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第七部 第四章 神水戦姫の妖精譚
第七部 無色透明(クリアカラー)の喜び 第四章 1


 

 

   第四章 神水戦姫の妖精譚

 

 

          * 1 *

 

 

 同時に床を蹴った百合乃とモルガーナが接敵したのは、ヘリポートのほぼ中央。

 短剣にまとわりつく黒い光は百合乃の持つ太刀よりも長く伸び、上段から振り下ろされる。

 受け流そうとした百合乃はしかし、直前で太刀を手放し右に跳んだ。

 真っ直ぐに振り下ろされた短剣。

「ひっ」

 僕は短い悲鳴を上げて右に飛び退いていた。

 刀身にまとわりついていた黒い光がさらに伸び、僕のすぐ横を超え、エレベーター室を超えていった。

 ズンッ、という腹に響く衝撃波に似た重低音が響き、光に斬られた床が引き裂かれた。

 後ろの視界を確認してみると、エレベーター室の建物も斬れ込みが入っている。百合乃が手放した太刀も、紙でも裂くように真っ二つになっていた。

 ――威力が、あり得ない……。

 肌が粟立つような感触に、僕は動けなくなる。

『おにぃちゃん!』

 僕の名を呼び走り寄ってきた百合乃は、後ろに回って肩に提げてるデイパックに取りつく。

 アライズしてない予備の武器や装備をまとめたベルトを取り出して腰に装着した後、彼女は唱えた。

「アライズ!」

 僕の足下から現れた黄色い輪から光が噴き出し、僕を覆う円柱となる。

『これは、確か……』

『うん。リーリエも使ってたよね? フェアリーケープ。魔法の障壁。防御の効果があるけど、魔女さんのあの攻撃力には気休めにしかならないかも』

『ないよりかは、マシか』

『たぶん……。できるだけ、おにぃちゃんが射線上に入らないように戦うよ』

『そう頼むよ』

 初撃を見ただけでもヤバいのはわかるモルガーナの攻撃に、このフェアリーケープがどの程度役に立つかはわからない。

 風林火山を使うにはあまり大きく距離を取ることはできないし、エレベーター室の後ろ側でもたぶんあの威力には意味がない。

 下の階にでも行けばいいのかも知れないけど、さっきの攻撃でまだエレベーターが稼働できるかどうかは、確認してみないとわからない。

『頑張ってくるね』

『頼むぞ』

 腰のベルトから新たな武器を抜き、部分アライズで巨大化させた百合乃。

 画鋲銃。

 接近するのがヤバいなら、遠距離から攻撃すればいい。

 円を描くように動いた百合乃が両手に持った画鋲銃を連射する。

 念のためと思って、猛臣に協力してもらって銃の改良と火器管制アプリをつくっておいたのが良かった。

 けっこう命中率が低かったリーリエと違い、睥睨するように百合乃を見つめてるだけのモルガーナに全弾命中する。

 ――効かない?!

 最初の頃から使っていたものと違い、芯が太く、射出する力も強めてる戦闘用の画鋲銃の威力は、アライズすれば大型の機関銃ほどの威力があるはずだった。

 それなのにモルガーナに命中した画鋲は、身体に食い込むことなく床に落ちていく。

「その程度の攻撃、私に通用すると思っているの?」

 余裕のある声で言ったモルガーナは、左手の短剣を鞘に納め、手を銃の形に構える。

「バンッ」

 まるで子供がやるように声を出し、撃鉄に見立ててか、立てていた親指を下ろすモルガーナ。

 人差し指の先端に発生したのは、黒い光弾。

 モルガーナの指を離れた途端、光弾は大きく膨らみ、百合乃を包み込むほどのサイズになる。

『くっ』

 苦しげな声を上げながら大きく跳んだ百合乃のいた場所を削り取りながら通過していった、黒い光弾。

 それは空調用の大型室外機を消し飛ばし、コンクリート製の胸壁と金属のフェンスに難なく穴を開け、夜の闇に消えていった。

 ――これが、モルガーナの力?!

 威力がとんでもなさ過ぎて、対処方法が思いつかない。かすりでもすれば大ダメージになるのは確実。

 僕はモルガーナの力がこれほどとは、想像もしていなかった。

 余裕を取り戻し薄い笑みを浮かべてるモルガーナに、僕は身体から力が抜けて膝を着きそうになっていた。

『おにぃちゃん! センサーの処理能力を最大にしてっ。動いてるものの軌道予測優先でよろしく!』

 百合乃からの鋭い声に我を取り戻し、僕は急いで言われた通りにアリシアのセンサーを調整する。

 この戦いのために、僕はバッテリで稼働する情報処理用の携帯サーバをデイパックに入れて持ち込んでる。携帯端末と、自宅で処理していた情報を、携帯サーバで中間処理することによって、携帯回線を介するときに発生するタイムラグを無くすためだ。

 アリシアのセンサーと、僕のスマートギアから取得された情報が処理され、衝撃波を発するほどのモルガーナの動き正確に、精緻に分析する。

 ほとんどゼロに近い時間で返されてくる処理済みの情報を元に、百合乃はモルガーナに攻撃を仕掛ける。

 二発目、三発目の黒い光弾。

 時間差をつけて放たれたそれの間を、空色のツインテールの先端を削り取られながらもすり抜けた百合乃は、ベルトに納めた画鋲銃の代わりに抜いたナイフを投げつける。

 顔面を狙われ鬱陶しそうにモルガーナがそれを払っている間に、百合乃は奴の懐に飛び込んだ。

 無造作に振り下ろされる短剣を、黒く光る刀身ではなく左手で手首を払って流し、右手の小刀を腹に突き込む。

 意に介した様子もないモルガーナの左手の指を、黒い光弾が放たれる前に膝で蹴り飛ばして、百合乃は身体を反らしながら奴の顎に右脚のヒールを叩き込んだ。

 蹴り上げられてまともに着地もできず、床に仰向けに倒れたモルガーナ。

 バク転をしながら距離を取った百合乃は、画鋲銃を左手に、小刀を右に抜いて構えた。

『……勝てそうか?』

 ゆっくりと立ち上がってくるモルガーナを見ながら、僕は百合乃に問いかける。

『ウェイトは魔法とかで弄ってたりしないみたいだから、あの光ってる刀身を気をつければ流せるし、身体を吹っ飛ばすこともできるね。攻撃力も凄いんだけど、それより防御力が凄い! こっちの攻撃がぜんぜん効かないんだよ。たぶんあれ、身体の周りにファアリーケープみたいの張ってる。攻撃と同時に防御も魔法使うなんて、卑怯過ぎるよ! 伝説の道具とか使って防御だけでも消せないとちょっと辛いよぉ』

 ゲームも好きだった百合乃の、なんとなく間の抜けた説明に、感じていた絶望が薄れる。

 センサーから得た分析結果だと、モルガーナの身体に命中した際、火花ではないが微かな光が観測されていた。たぶんそれが魔法の残滓。

 黒い光による攻撃もさることながら、その防御がある限り、百合乃の攻撃はモルガーナに届きそうにない。

『でも、魔女さんは弱い』

『……そうだな』

 無理矢理ではない、百合乃の弾んだ声。

 その意見には僕も同意だった。

 意思を封じされていても、エイナは攻撃の鋭さも、防御の対応速度も素晴らしく、こちらの攻撃への学習も速くて、強かった。

 けれどモルガーナは、エイナの使っていたバトルアプリを使い、ボディもそのままのなのに、弱い。

 エイナほどの戦闘経験もセンスもなく、はっきり言ってその動きはバトルソーサラーとしては素人以下としか思えない。乗っている馬は同じなのに、騎手の違いで天と地ほどの差がある。

 それでも、モルガーナには勝てない。

 動きは読めて攻撃を命中させられても、ダメージを与えられない。逆にこっちが攻撃を受ければ、かすめるだけでもそれが負けに直結する。

 知識も能力もない僕や百合乃では測ることは難しいが、魔法の力が桁違いで、魔法のエネルギー量もおそらくこちらとは段違いのはずだ。

 いまのモルガーナと戦っても、勝機はない。

 百合乃が言っていたように、伝説の道具を使ってフェアリーケープを剥がさない限り。

 現状では、この戦いは詰んでる。

『どうにか隙間を見つけて、攻撃をねじ込むしかないねっ』

『そうだな。やるしかないっ』

 百合乃の声に同意して、僕も集中を高める。

 でもそれはこの戦いを、風林火山を勝つまで続けるということ。集中がどこまで続くかが、僕たちのタイムリミットになる。

 時間をかけてゆっくりと立ち上がったモルガーナは、短剣を捨て、腰の手を伸ばして何かを取り出した。

 部分アライズで現れたのは、二本の鞭。

「さっさと終わってちょうだい」

 言ってモルガーナは鞭から黒い光を伸ばし、振るった。

 一応百合乃を狙っているが、でたらめに振るわれる二十メートルを超える長さの鞭で、概ね平面に保たれていたヘリポートの床がどんどんでこぼこに削られていき、屋上の施設も火花を散らして破壊されていく。

 鞭の動きを正確に予測して避ける百合乃は、接近こそできないものの、様々な方向から画鋲銃を浴びせかけていた。

「ちっ」

 余裕さえ感じる百合乃の動きに業を煮やしたのか、鞭は二股に分かれ、さらにふたつに別れて左右二本で八ツ俣となり、暴風のように荒れ狂う。

 既にヘリポートの床はその用を成さないほどに破壊され、最初の斬撃でつくられた裂け目の部分は崩れ、階下に落下し始めているところも出てきた。

 位置を考慮して百合乃が動いてくれているから僕には被害がないけれど、エレベーター室も半ば形が失われている。

 このまま戦い続ければ、たぶん屋上は崩壊する。

『百合乃、このままじゃっ』

『うんっ、わかってる!』

 僕に答えた百合乃は、短刀を仕舞って左手の画鋲銃の弾倉を交換し、右手にも画鋲銃を構える。

 前後左右と言わず、上下と言わず狂ったダンスにも似た動きで黒い暴風をかすめさせることなく避けている百合乃は、コンマ五秒、攻撃の来ない場所で片膝を着き、画鋲銃を連射した。

 モルガーナがそちらに鞭を振るおうとした直前、手首に集中して命中した画鋲が、鞭を弾き飛ばした。

『この場所じゃ狭いから、降りるよっ』

『降りる? ……てっ!!』

 画鋲銃をベルトに納めて接近してきた百合乃は、フェアリーケープを解除してすれ違い様に左腕で僕の身体を掬い上げる。

 彼女が右手に持っているのは、ブレーキ装置付きのワイヤーメジャー。

 モルガーナが指定した場所が屋上なのがわかった時点で、ショージさんがつくっておいてくれた、ビルから飛び降りるための器具。

 使わないことを、祈っていたけど。

「ちっ」

 舌打ちしたモルガーナが落とした鞭を拾うよりも先に、僕を抱えた百合乃は崩れかけたエレベーター室を飛び越え、そこにあった配管にワイヤーのフックを引っかけて、飛び降りた。

 屋上の、外へ。

「ぎゃーーーーーーーーーーっ!!」

 一〇〇メートル以上の高さから飛び降りる、二度目の経験。

 一回で慣れるわけもなく、僕は近づいてくるアスファルトの地面に堪えきれず、悲鳴を上げていた。

 

 

            *

 

 

「足掻くなんて見苦しい」

 百合乃の反応が地上に落下していくのを感じながら、モルガーナは眉を顰めてつぶやいた。

 克樹たちを追って地上に向かおうと歩き出した魔女は、首を巡らせて屋上の隅に目を留めた。

 そこに転がっていたのは、モルガーナの身体。

 すぐ左右のフェンスと胸壁は崩れてしまっているのに、かろうじて攻撃が命中せず、無傷のまま転がっている生身の自分。

 しかし既に存在をスフィアに移しているため抜け殻となった魔女の身体は、無限の寿命も不老でもなくなり、あとは醜く腐り落ちて消える肉の塊でしかない。

 それに近づき、手を伸ばして失った武器の予備を探り出しボディに納めた後、モルガーナは銃の形に左手を突き出した。

 その身体には何の力もない。

 ただの人間と変わりがない。

 長い間使っていたものだったが、神になるには邪魔でしかなかった肉の器。

 黒い光の球を宿した指先を、無表情のままそれに向ける。

「……どうでも、良いか」

 小さくつぶやき指を納めたモルガーナは、踵を返す。

 未練があるわけではない。

 いまさら惜しくもない。

 どうでもいいそれを、破壊する意味もない。

「さっさと決着をつけましょう」

 自分に言い聞かせるようにつぶやき、モルガーナはエレベーター室を飛び越え、地上へと向かった。

 

 

            *

 

 

 降り立った場所は、正面入り口とは反対方向にある、広大な駐車場。

 僕が通う高校の校庭ほどの広さがあるそこには車は一台もなく、そう遠くない海の音と、まばらにある街灯の光があるだけだった。

 手を振るって屋上に引っかけていたフックを取り外しワイヤーを巻き上げた百合乃は、メジャーのアライズを解いて腰に納めた。

「こっち!」

 建物から離れる方向を指さした百合乃の後に着いて、僕も走り出す。

「アライズ!」

 充分離れたところでフェアリーケープを張った百合乃は、太刀を抜いて両手に構えた。

『どうやって勝つ?』

『うぅーん……。魔女さんが張ってるフェアリーケープに隙間があることを祈るしか、ないかな?』

『厳しいな……。モルガーナがやってるような攻撃は、できないのか?』

『あれはたぶん、エイナさんの身体を通して発動してる魔女さんの魔法だと思うんだ。あたしが使えるのはスフィアに仕込んであった魔法だけだから、真似するのは厳しいかなぁ』

 百合乃の声にはまだ余裕が感じられるけど、先行きは暗い。

 防御の隙間があることを願いつつ、戦い続けるしかない。センサーからの情報を見る限りは、いまのところ隙間と言えるようなものは見つかっていなかった。

 どうすることもできない状況に、僕は唇を噛みしめる。

「相談は終わったかしら?」

 そう声をかけながら、羽毛のようにふんわりと降りてきたモルガーナ。

 地上に降り立った彼女は、長剣を一本、抜き放った。

「どうせ貴方たちでは私には勝てないのよ。そろそろ観念して、負けてくれない?」

 剣に黒い光を宿しながら、一二〇センチの小さな身体で僕たちのことを見下してくるモルガーナ。

 ――うげっ。

 剣から伸びていく光に、僕は心の中でうめき声を上げていた。

 天に向かって振りかざされたそれは、一〇メートルを超え、さらに伸びている。幅も僕の身体の三人分まで広がっている。

 あんなものを水平に振るわれたら、百合乃はともかく僕は数回もあれば避けきれずに身体を真っ二つにされるだろう。

 ――凌ぐ、方法は……。

 あらゆる物体を紙のように斬り裂く攻撃を凌ぐ方法なんて、思いつきやしない。

 戦闘センスのないモルガーナだけど、追いつける要素が欠片もないパワーで押されたら、僕たちに勝ち目はない。

 腰を落として突撃の構えを取る百合乃の背中を見つめながら、僕は全身から冷や汗が噴き出すのを感じていた。

「え?」

「……何事?」

「誰か来たの?!」

 そんな僕たちの緊張の糸を切ったのは、まばゆいほどの車のヘッドライト。

 僕はもちろんモルガーナも驚きの声を上げる中、迷うことなくこちらに近づいてくるセダン。

 モルガーナの視線を遮るように、僕と百合乃の側に急ブレーキをかけて停まった車から降り立ったのは、見知った人物だった。

「ショージさん?!」

 僕のことをひと目見て安心したように微笑み、すぐさま振り返って車越しにモルガーナを睨みつけたのは音山彰次、ショージさんだった。

「音山彰次? いったい、どうして?」

 僕だけじゃなくモルガーナも驚きの声を漏らし、戦闘は停止した。

 

 

 



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第七部 無色透明(クリアカラー)の喜び 第四章 2

 

          * 2 *

 

 

「ショージさん! 危険だからすぐにここから離れて!!」

「うるせぇ。用があって来たんだ! んなことよりも、あいつはどこにいる?」

 僕の警告を切り捨てて、鋭い視線で辺りを見回してるショージさん。

「あのドールがエイナさんで、モルガーナだよ」

「あいつで、モルガーナ? あぁ、身体を乗っ取られたかなんかしたのか」

「魔女さんが自分の存在を、エイナさんのスフィアに移しちゃったの」

「なるほどな。あの魔女がちんちくりんになってるのはそういうことか」

 百合乃にフェアリーケープを解除してもらい、僕はショージさんの側に駆け寄る。

 屋上から落ちてきた割と大きな瓦礫も見えてるはずなのに落ち着き払ってるショージさんは、僕の頭をぽんぽん叩いてから、車を回り込んでモルガーナと対峙した。

「いまさらいったいなんの用かしら? 音山彰次さん」

「てめぇにゃあ用はねぇんだよ。忘れ物があったのを思いだしたんでな、取り返しにきただけさ」

「忘れ物?」

 訝しむように眉を顰め、構えていた長大な黒剣を小さくしたモルガーナは、ショージさんに切っ先を向けた。

 危険を感じてないのか、わかった上でなのか、怯むことのないショージさんは大きく息を吸い、叫んだ。

「いつまでそんなところで寝転けてるつもりだ! 家出するにしても大概にしろっ。拗ねてないでそろそろ帰ってこい!!」

 たぶんエイナに向かって声をかけてるだろうショージさんに唖然とする。

 意思を封じられてるエイナが声をかけたくらいで目覚めるなら、僕やリーリエが呼びかけた時点で反応があったはずだ。

「無駄だよっ、ショージさん! いまエイナは身体もモルガーナに奪われて――」

「黙ってろ克樹! 親子の問題に口挟むんじゃねぇ!!」

 駆け寄ってコートを引っ張る僕を振り払い、ショージさんは本気で怒った目で睨みつけてくる。

 ――親子の問題?

 これまでエイナのことになると口が重かったショージさんが、自分から親子だと言ったことに、そんな風に意識が変わるような何かがあったことを感じた。

 モルガーナの方に目を向けてみると、茶番だとでも思ってるのか、不快そうに目を細め肩を竦めながらも、手を出してくる様子はない。

「俺も反省してるよっ。お前を無視して、ほったらかしにしてきた! だけどもう帰ってこいっ。これまでのことも、これからのことも、親子で話していこうっ。お前が帰ってくるための身体も、こうやって用意した! だから帰ってこい!!」

 そう言ってショージさんが後部座席のドアを開けて抱え上げたのは、ぐったりとして稼働していない、アヤノ。

 モルガーナのことを怒りと、寂しさと、愛おしさを含んだ複雑な目で見つめるショージさん。

 そろそろ飽きてきたのか、モルガーナは天に向けて剣を振り上げた。

 それでも動くことのないショージさんは、大きく息を吸い、呼んだ。

「アキナ!!」

 聞き覚えのない名前だった。

 エイナという名前は、ショージさんが大学時代に好きで、エイナを構成する脳情報の元となった東雲映奈さんにちなんでつけられたものだ。

 たぶんエイナのことをアキナと呼んだショージさんに、僕は問う。

「アキナ、って?」

「あいつの本当の名前だ。アキナの脳情報は、先輩の――映奈だけじゃなく、俺のがほんの少しだけ入ってる。それで映奈と一緒に決めたんだ。映奈の奈と、彰次の彰を取って『彰奈』。あいつの名前はエイナじゃない、アキナだっ」

 説明してくれたショージさんはまたモルガーナに向かい合い、叫ぶ。

「まだそんなところにいるつもりか? 俺のしつこさと映奈の気の強さを引き継いでるはずのお前が、魔女になんて負けるはずがない! さっさと起きて俺の元に帰ってこい、アキナ!!」

 不快そうに目を細めたモルガーナは、剣から黒い光を伸ばし、そのまま振り下ろそうと両手で持つ。

 そのときだった。

「くっ?! ま、まさか……、そんなはずは!!」

 左手で頭を押さえ、苦しげに顔を歪めがモルガーナ。

 剣を取り落として、右手も使って頭を抱え込む。

「あぁああああああぁぁああぁぁぁーーーーーっ!!」

 両膝をついたモルガーナは、空に向かって雄叫びを上げた。

 

 

 

「せ、精霊如きがっ!!」

 低く、大きく呻き声を上げるモルガーナだったが、ついに抑えきれなくなったらしい。

 禍々しい黒と紅の身体が、華やかな桃色の光を放ったのを、彰次は見ていた。

 光は頭に集中し、両腕で必死に抑えようとしている魔女の抵抗を振り切り、小さな球となって身体から離れた。

 そのまま風に揺れるようにふわりと浮かび上がり、アヤノへと飛んだ桃色の球は、額から身体に入り込む。

 ゆっくりと、瞼が開かれた。

 動かないはずのアヤノが目を開き、まるで人間のような瞳を涙に濡らした。

「お帰り」

「……ゴメンなさい、ショージ」

 顔をくしゃくしゃにして涙を流すアキナの頭を、彰次は自分の肩に押しつけた。

 エイナの――アキナのことはずっと気にしていた。

 名前からも、端々の性格や仕草からも、東雲映奈の脳情報で構成された人工個性なのは、最初から気づいていた。けれど直接目の当たりにする機会を避けてきた。

 アキナの方から誘っているような、会社宛のイベント招待券が届いたこともある。それでも彰次は、会う勇気がなかった。

 恐かった。

 東雲映奈の、そして自分の娘であるという認識自体は、以前からあった。

 東雲映奈の死に直結した原因であるアキナと会って、自分がどういう反応をするのか、予測不能で恐れていた。

 けれどもう離すことはない。

 東雲映奈に託され、自分の娘だとしっかり意識することができたアキナを、手放す気などなかった。

 自分の娘と別れるなど、考えられなかった。

「謝る必要なんてないさ。俺が悪かった。すまない、アキナ。それから、お帰り」

「はい……、はいっ。ただいま、ショージ。――パパ!」

 泣きながら嬉しそうに笑い、横抱きにされたままアキナは彰次の首に両腕を回してきた。

 愛おしい自分の娘を抱き、彰次もまた泣いていた。

 

 

            *

 

 

 両膝をつき、片手で顔を覆い、片手を地面について身体を支えるモルガーナは、震えていた。

 ――まさか……、まさかこんなことが……。

 精霊としてのエイナが身体から抜けたことで、失ったのは彼女の存在だけではないことを感じていた。

「これで戦えるようになったはずです、克樹さん。それにリーリエさん……、では、ないんですね。百合乃さん」

「うん、あたしは百合乃。初めまして、アキナさん。戦えるようになったって?」

「あの人は自分と、わたしの思考のふたつを使って、同時に複数の魔法を使っていたんです。わたしが抜けたことで、強力な力は同時に使えなくなったはずです。少なくとも、片方は全力とはいかないはずです。それだけじゃありません――」

 一度言葉を切り、こちらに強い視線を向けてくるアキナは言った。

「あの身体を抜け出すとき、一部ですがエリクサーをこちらに持ってきました。これであの人は、克樹さんたちを倒すだけでは世界との同化は叶わなくなりました」

「くっ!!」

 アキナの言葉に、モルガーナは噛みしめた歯の間から苦悶の声を漏らす。

 ――なぜ人間如きに、精霊如きにコケにされなければならないの! 私は神になる存在。人間を超えた、魔女であるのに!!

 自分の十分の一にも満たない時間しか生きていないただの人間如きに、手を加えて生み出してやった精霊如きに翻弄されることが許せなかった。

 克樹たちのことも、自分のことも、許せなかった。

 一〇〇〇年近い時間をかけ、方法を見つけ出し、これまで綿密に進めてきた計画が、いま音を立てて崩壊しようとしていた。

 ――許せないっ。

 人間の想い如きに負けたことが、許せない。

 ――許せない!

 人間の力程度に拮抗されることが、許せない。

 ――許せないっ!

 そんな状況に追い込まれている自分が、許せない。

 ――許せるはずが、ない!!

 ゆらりと立ち上がったモルガーナは、天を仰ぐ。

 いつのまにか曇り始めていた空からは、ひらひらと白いものが舞い降り始めていた。

 星は雲の向こう。宇宙は星の果て。

 遠かった。遠すぎた。

 手が届くはずだったものが、いまはもう遠く感じていた。

 ――だったら、もういらない。

 力なく肩を落とし、舞い落ちる雪に交じって冷たい涙を零すモルガーナは、しかし紅い瞳で空を射落とすように睨む。

「もういらない。必要ない。すべていらない。すべて捨てる。だから、すべて焼き捨てる。人類を、世界を、いまここで、滅ぼしましょう」

 それをするのは次の段階と決めていた。

 神と、世界と同化し、絶大なる力を手に入れた後にすると決めていたことを、いまやると決めた。

「私の意志をっ、神の意志を、いまこそ表してあげましょう!!」

 天に向かって叫び、モルガーナは克樹たちを睨みつける。

 決意は終わった。

 計画は終わった。

 望みは、叶えられなかった。

 すべてを捨てることを決めたモルガーナは、それを呼んだ。

 

 

 



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第七部 無色透明(クリアカラー)の喜び 第四章 3

 

 

          * 3 *

 

 

「私の意志をっ、神の意志を、いまこそ表して上げましょう!!」

 ゆらりと立ち上がったモルガーナがそう叫んだ。

 こちらを睨みつけてきた魔女に、僕の背中に恐怖が走る。

 ――いや、違う!

 そう感じた瞬間、僕はアキナを抱いたショージさんを突き飛ばしていた。

 ――マズい……。

 どことも知れない場所から湧き上がってくる恐怖に戦慄して動けなくなっていた僕を、百合乃がぶつかるようにして掬い上げ跳ぶ。

 光の柱。

 百合乃に抱えられて大きく移動した直後、一瞬前まで僕が立っていた場所に光の柱が立った。

 百合乃と一緒に地面に転がった僕が見たのは、天を突き雲を貫く円柱状の光。

 その柱からは、肌を焦がすほどの熱気が放射されていた。

 一瞬で消えた光の後に残ったのは、地面の穴。

 まるでマンホールの蓋が外れたような綺麗な真円の穴だけど、そこは一瞬前までただのアスファルトの地面だった。

 光によって新たに開けられた、人が余裕で入れるほどの太さの穴だ。

 変化はそれだけじゃなかった。

 覗き込んだ穴の奥底から、ゆっくりと何かが出てくる。

 折り畳んだ翼から黒い光を吐き出し、深淵の中からせり上がってくるのは、アーマーとフレームが組み合わさったような、外骨格に見える物体。

「神意外装……」

 スフィアロボティクス総本社ビルの地下深く、イドゥンと出会った神殿のような場所にあったはずの神意外装のひとつが、いま僕たちの目の前に浮かび上がってきていた。

 僕たちの頭上をしばし滞空した後、それは速度を上げ、モルガーナの元へと向かう。

「まったく、勘のいい子ね。いまの一撃で消滅してくれていれば良かったのに」

 見るとモルガーナは、いままさに神意外装を纏おうとしていた。

 黒い光を噴射する、細い六枚の翼。

 尾翼のように長く伸びたパーツの左右には、可動式と思われる各二本計四本のフィン。

 浮かび上がり、鞍のような部分の座るように合体したモルガーナの身体を守るように追加の装甲が施され、アームに取りつけられた盾がさらに彼女をガードする。

 モルガーナはいま、黒く禍々しい天使となった。

「もう何もいらない。すべてを焼き尽くすし、貴方たち全員殺して、エリクサーをもらうことにするわ」

 言いながら、モルガーナはゆっくりと地上を離れ、空へと浮かび上がる。

 彼女は駐車場からも見える、海を指さした。

「抵抗はするだけ無駄よ。神の意志を、貴方たちに見せてあげるわ」

 モルガーナの言葉に応え、背中から生えたフィンのひとつ、先端から見える拳大の穴が開いた砲門と思われるものが動き、光を放った。

 その光の幅は、まるで道路。

 僕が浴びせかけられそうだったものよりも太い、スフィアロボティクス総本社ビル前の四車線の道路よりも太いくらいの光は、砲門の動きに合わせて近くから遠くの方へ、暗い海を走る。

 沖合に停泊しているのが小さく見えるタンカーまで至ったのが見えた瞬間だった。

 海が、割れた。

 比喩ではなく、海水が消滅し、道ができたように海が割れていた。

 水蒸気すら立たず、光が通り抜けていった場所には何もなくなり、夜の闇に沈んでいてもはっきりとわかるほどに、海がふたつに割れていた。

 沖合のタンカーもまた船首近くでふたつに分断され、爆発が起こっているのが見えた。

 海が割れていたのもほんのひととき。

 空白となっていた場所に一気に海水が流れ込み、その余波で湾全体が大荒れになる。

 ――あれが、神意外装の力……。

 勝てる気がまったくしない。

 さっきまでのモルガーナにも勝ち目は薄いとしか感じられなかったけど、いまのあいつは攻撃力の桁が違いすぎて、戦いになるとも思えない。

 呆然と荒れ狂う海を見つめていた僕に、百合乃が声をかけてきた。

『神意外装って、あれは何?』

『あれは、地下の女神の神殿にあったんだ。イドゥンが神意外装って呼んでて――』

『そっか。わかった』

 僕に突き飛ばされて、アキナを横抱きにしたまま尻餅をついてるショージさんも、声をかけてきた百合乃も、微動だにしない。

 力に酔ってか、上空で高笑いを上げているモルガーナに動きを感知されれば、次の攻撃対象になる。

 そう思うと、半分身体を起こした状態の僕も動けなかった。

『横から失礼します。神意外装というのは、神殿にはまだあるのですか?』

 次にどうすればいいのかわからないでいたとき、通信に割り込んできたのはアキナだった。

『ある。百体くらいはあったはずだから』

『なるほど……。それであれば地下に行けばあれが手に入るのですね』

『何を考えてるの? ショージ叔父さんがつくったエルフドールでも、戦うのは無理じゃない?』

『わたしが戦うのは、おそらく無理です。奪ってきたエリクサーでどうにかサードステージになった程度のスフィアでは、勝ち目などありません。ですがこのドールのスフィアは、予備とは言えエリキシルスフィアです。最低限ですが魔法も使えます』

『なるほどぉ』

 僕が質問に答えた後、アキナと百合乃で進めている話に若干悪い予感を覚えるが、ふたりが何を考えているのかはだいたいわかった。

『じゃあ、そんな感じでよろしくぅー』

『はいっ』

 ふたりで相談が終了したらしく、そんなやりとりの後、アキナがメイド服の裾を翻しながら立ち上がった。

「何をするつもりかしら?」

 アキナが立ち上がったのに気づき、高度を落としてきたモルガーナが問うてくる。

「わたしが、守ります!」

「守る? 何を守ると言うの? 笑わせてくれるわ! これは神の意志。神の威力。世界の持つ純粋な力。それを表すための神意外装。貴方たちは、私の前にひれ伏し、死を待つ以外にできることはないのよ!」

 砲門を使わず、腕に装着された追加アーマーに生えた爪に黒い光を宿すモルガーナ。

 魔女が余裕の笑みを見せたとき、百合乃が動いた。

「アキナ!」

「ありがとう、百合乃さんっ。ショージ、わたしの後ろへ!」

「あ、あぁ」

「じゃあ、行ってきます!」

「ひっ!!」

 百合乃から装備をまとめたベルトを投げ渡されたアキナは、モルガーナの注意を引くようにショージさんの手を引いて総本社ビルの方に走った。

 視線が外れた瞬間に、ワイヤーメジャーのフックを近くの街灯に引っかけた百合乃は、神意外装の砲撃によって開いた穴に、僕を抱えて飛び込んだ。

「すぐにこちらを片付けて追いかけるから、待っていなさい!!」

「ひぃーーーーーっ!!」

 自由落下に近い速度で落ちていく僕たちを、モルガーナの声が追いかけてきたが、それよりも自分の悲鳴の方が大きかった。

 風景すら見えない息が詰まるような穴の中を、僕と百合乃はどこまでもどこまでも、落ちていった。

 

 

            *

 

 

 総本社ビルの屋上から飛び降りたのと同じか、それ以上の時間落ち続けて飛び出したのは、広い空間。

 イドゥンの神殿。

 天井から強い照明で照らされているのに、黒よりも暗い色に沈む巨大な円形のその場所に、最後の一〇メートルほどワイヤーが足りず、百合乃は僕と一緒に飛び降りた。

「飛び降りるのは、もう勘弁してほしい……」

「そんなこと言ってる場合じゃないよー、おにぃちゃんっ。急がないと!」

「あ、あぁ」

 両手両足を着いて、恐怖で縮み上がってるのに激しく脈打つ心鼓動を抑えようとしていた僕は、百合乃の叱咤に膝に手を着いて立ち上がった。

 広間の隅の方であるいまの場所から一番近い台座には、そこにあったと思われる神意外装がなかった。

 たぶんそこにあったものを、モルガーナが使ってるんだ。

「さて、僕たちでもちゃんと使えるといいんだけど……」

 すぐ隣の神意外装に駆け寄っていく百合乃を追いかけて、僕も走った。

「なぁに、問題ない。これは元々人形に使わせることを考えてつくってある。最低限にしろ、あの魔女と同じ力を振るえねば、動かすことはできないがな」

 背後から声をかけてきた可愛らしく、怨みすら覚える憎たらしい声の主は、振り向かないでもわかった。

「イドゥン……」

「やぁ、音山克樹。よくぞここまで至った。本当に楽しいな、お主らは」

 振り向き、僕は神々しくも禍々しい女神を見つめる。

 相変わらず、生きていた頃の百合乃の姿をし、僕の目線より少し高い位置に浮かんでいる女神は、気を抜くと跪いてしまいそうになる威容を放ちつつ、さも楽しそうな笑みを浮かべた。

「……趣味の悪い姿、ですね、女神様」

「ふふんっ。これは致し方ないのさ。本来神には姿などない。だから久々に人の前に姿を現すのに当たって、そのとき近くにいた音山克樹の記憶からもらったものだからな」

「それだけでは、ないのでしょう?」

「くくっ。察しの良い。だがいまは、そんな話をしているときではなかろう?」

「気にはしていません。あたしは一度死んだ時点で、その身体を失っていますから」

 眉を顰め、こっそりと僕のズボンをつかんでいる百合乃が、自分の生前の姿をしたイドゥンのことを気にしていないはずはない。

 でもいまはそんなことを話してるときでないのも確かだった。

 小柄な百合乃の肩を抱き寄せながら、僕は問う。

「いまの状況は、貴女の想定していたものなのか? イドゥン!」

「想定? まさかっ。より戦いが面白くなるよう、よりこじれるよう、事前にいろいろといじりはしたが、どうなるかなど想定はしていなかったさ」

 喉の奥でクツクツと嗤い、イドゥンは語る。

「最も早い結末は、魔女が自分の精霊を本格的に投入した段階で、すべての参加者を倒し伏すものだ。最も時間がかかるものでは、お主の盟友、槙島猛臣が五年かけて最高のドールを造り上げ、魔女に戦いを挑むものだった。――しかし、そのような結末ではつまらん」

 幼く可愛い百合乃の姿をしながら、しかし女神は狂的な笑みを浮かべる。

「確かに多くの種は撒いた。しかしながら戦いが始まった後は、いくつかの情報を提供した以外は介入などしておらぬよ。ここまで戦いをこじらせ、魔女をも引っ張り出すに至ったのは音山克樹、お主の力に他ならぬ」

「……僕は、お前を怨むっ」

「それは構わぬが、わらわを恨むことは世界を恨むことに等しい。世界とは常に無機質なもので、人間味などないもの。世界を恨むなど詮無きことぞ」

 どう考えも人間味溢れる嫌みったらしい笑みを浮かべるイドゥンに、僕は舌打ちも出なかった。

「おにぃちゃんっ、急がないと!」

「……そうだな」

 これ以上イドゥンに構っていても仕方ない。

 それよりもいまは、上で頑張ってくれているアキナの元に駆けつけないといけない。

「女神様。おにぃちゃんはあぁ言っていますが、わたしは貴女に感謝しています。あたしがおにぃちゃんにもう一度会えたのは、貴女のおかげですから」

 振り向いた百合乃はそう言うが、悲しみが溢れそうになっている瞳は、言わない言葉がたっぷり含まれているのが、僕には見えていた。

「ふふんっ。それには鍵の類いはない。あの魔女が造った最終兵器だ。他人に使われることなど想定すらしておらん。必要な情報も合体すれば得られるはずだ。それと――」

 楽しそうに言うイドゥンは、一度言葉を切って僕たちのすぐ側の神意外装に手をかざす。

 黒一色だったそれが、空色と白の鮮やかなものに塗りかえられる。

「サービス、という奴だ。カラスのような色では味気なかろう?」

「……ありがとう」

「ん、このボディに、ちょうどいい色だね」

 僕はイドゥンに礼を述べ、ぴょこんと頭を下げた百合乃は笑みを浮かべた。

 それから百合乃は台座に飛び乗り、神意外装の鞍に腰を落ち着ける。

 背中の充電ポイントを兼ねた外部端子での接続が確認され、内蔵されたソフトウェアが僕の携帯端末にダウンロードされる。

『いける?』

『大丈夫……、だと思う。ちょっと待っててくれ。すぐに追加機能のプロパティを設定する』

 第五世代スフィアドール規格で追加された外部機器と同一の仕様となっている神意外装は、初期設定さえしてしまえば使えることがわかった。

 イドゥンの言っていた通りロックなどはなく、近接や射撃武器、複数のスラスターにかなりの数のバーニア、可動式の盾や各機能に関連するものなど、プロパティもパラメーターも盛り沢山だけど、割と単純だ。

 たぶんだけど、モルガーナは世界中のスフィアを停止させた後、機能を残しておいた手元のドールに神意外装を纏わせ、フルオートで使わせるつもりだったんだろう。

 ――余った時間でつくったフライトコントロールアプリが役に立つなんてね。

 モルガーナとの戦いを準備しているとき、使う可能性のあったアプリをいろいろと準備していた。画鋲銃用の火器管制ソフトもそうだけど、半分冗談で水中行動用とか、飛行制御用アプリなんかもつくっておいた。

 神意外装にも飛行制御用アプリは内蔵されてるけど、単純すぎて細かな制御はできず、これからモルガーナと戦うには使えそうにない。使用の可否を問われてキャンセルを選択し、いくつかの制御アプリを百合乃に送信して準備は整った。

『行けるな? 百合乃』

『大丈夫だよ、おにぃちゃん』

 応えた百合乃は、六枚のスラスターから白い光を弱く噴射し、台座から分離して僕の元まで移動してくる。

 可動式の盾を腕代わりに僕を抱き上げる。

「では、最高の戦いを期待しているぞ、音山克樹」

「……あぁ。女神様に見たこともない戦いを見せつけて、僕たちが勝ってみせる! いくぞ、百合乃!!」

「うんっ!」

 本当に楽しそうに、でも狂気染みた笑みを浮かべるイドゥンに一瞥した後、僕たちは地上に向けて飛び立った。

 

 

 

 速度落とすことなく小さな穴に突入し、克樹たちの姿が見えなくなった。

「戦え……、戦え……、わらわの愛しき妖精たちよ!」

 克樹たちが消えた穴に両手をかざしながら、イドゥンは狂ったように声を上げる。

「最高で、最期の神水戦姫の妖精譚を、わらわに捧げよ!!」

 恍惚とした表情で笑み、イドゥンは広間に響き渡るほどの声で嗤い続けた。

 

 

 



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第七部 無色透明(クリアカラー)の喜び 第四章 4

 

 

          * 4 *

 

 

 穴から飛び出した直後、百合乃は滑るように前方に移動してモルガーナとアキナの間に割って入った。

 ほとんど同時に発射された砲撃を、稼働盾二枚を使って上空に逸らす。

 僕のすぐ側を通った破壊の光だったけれど、神意外装全体を覆う防御魔法と、さらに強力な盾に展開された防御で、熱を感じることなく雲間に逸らすことができた。

 ――戦える、けど……厳しいな。

 神意外装には魔法のエネルギーを計るパラメーターもあって、百合乃の持つ残存エネルギーもいまはわかる。

 モルガーナからの砲撃で、大幅にとは言わないけど、減ったのがわかった。

 海を割ったのに比べればかなり控えめの砲撃でこれなのだから、最大出力だったら何発も受け止めていられない。

「ショージさん!」

「俺は大丈夫だ。でも……」

「わたしも、大丈夫です。なんとか、持ち堪えられました……」

 百合乃の腕から飛び降りてショージさんの元に駆け寄ったけど、かなり酷い状況だった。

 地下の神殿まで貫通するほどではなかったみたいだけど、モルガーナはかなりの回数の砲撃を加えたらしい。

 ショージさんとアキナの周囲には、穴や線上の窪みがいくつもあった。総本社ビルにも何発か当たってるみたいで、ビルが倒れるほどではないけど大穴が空き、薄く煙が出ている。

 ショージさん自身は無傷のようだけど、アキナのボディとなったアヤノは左腕を膝辺りまで融けた感じで無くし、苦しげな表情で膝を着く。

「あとは僕と百合乃が戦うから、ショージさんはアキナを連れてできるだけここから離れてっ」

「しかし……」

「たぶん、本気でぶつかり合うことになるから、ヘタしたらこの辺りは火の海になるどころか、跡形もなくなるかも知れない」

 比喩ではなく、そう思う。

 まだ攻撃には使っていない神意外装だけど、パラメーターから想像するに、百合乃が使った場合でも海を割るくらいは可能だ。

 モルガーナと百合乃でふたりしてそんな砲撃を撃ち合ったら、ウソでも冗談でもなく、この辺りは土地ごと消滅しかねなかった。

「わかった。すまないが、後は頼む」

「うんっ」

 アキナを抱きかかえたショージさんは、横目でモルガーナをひと睨みしつつ、車に向かっていった。

「まさか、私がこのまま黙って見逃すと思っているのかしら?」

「貴女の相手は、あたしがするよ!」

 ショージさんに砲門のひとつを構えようとしたモルガーナに、百合乃が立ち塞がった。

「僕と百合乃が相手だっ、モルガーナ! もしアキナのエリクサーがほしいなら、僕たちを倒してから追いかけても遅くはないだろうっ」

「……その通りね。まったく、貴方たちは本当に面倒事を増やしてくれるものね。神意外装まで持ち出して!!」

 怒りに燃える紅い瞳を僕に向け、モルガーナが吠えた。

 その間にショージさんとアキナの乗る車が発進し、タイヤを鳴らしながら駐車場から走り去った。

 アリシアのセンサーで感知できるエンジン音は、かなりの速度で遠ざかっていく。

『戦えるか? 百合乃』

『うん、大丈夫。だけど、厳しそうだよね』

 僕の側まで浮いたまま移動してきた百合乃は、「アライズ」と唱えてさっきよりも強力なフェアリーケープを張ってくれる。神意外装に内蔵されていたこのフェアリーケープは、さっきのと違って僕と一緒に移動もできる。

『確かに厳しいけど、まだ勝ち目はある。だろ?』

『うん、確かにねっ』

 明るく応えて笑む百合乃の横顔に、僕も笑みを向ける。

 神意外装を使っても測りきれないモルガーナのエネルギー量は、底が知れない。まともに撃ち合って削り合いをしたら、勝ち目なんて欠片もない。

 でもいまは、モルガーナほどではなくても、神意外装の武器でモルガーナにダメージを与えられる。

 さっきまでの、こっちの攻撃がまったく通じない状況よりかはマシだ。

 ――勝てるかどうかはわからないけど、勝つしかない!

 もうエンジン音も感知できなくなったショージさんやアキナのことも気になる。

 いろいろ助けてくれた平泉夫人と芳野さん、灯理や近藤や猛臣のことだって心配だ。

 そしてなにより、刺されて運ばれていった夏姫のことが、一番気がかりだった。

 みんなにもう一度会うためには、勝つ以外の結末では終われない。

「決着をつけましょう、克樹君。私の全力と、貴方の全力。どちらが上か、イドゥンに見せてあげなくてはならないわ」

「わかったよ。百合乃!」

「うん!」

 黒い光を噴射してモルガーナが空へと上昇していき、百合乃も白い尾を引いて空を飛ぶ。

 本当に最後の最後、長かった戦いに決着をつけるときが来たことを、僕は感じていた。

 

 

            *

 

 

 黒い海面すれすれを飛ぶ空色の鳥めがけて、四本の砲門から破壊の魔法を浴びせかける。

 出力と照射時間を絞って連射するが、木の葉のようにひらひらと動く鳥にはかすめさせることすらできない。

 ――でも、負ける気はしないわね。

 上空に留まり、百合乃の動きを追って絶えることなく砲撃を続けるモルガーナは、余裕の笑みを唇の端に浮かべていた。

 同じ神意外装を持ち出されてはいるが、魔法の力はこちらの方が遥かに高い。神意外装の能力をすべて引き出せるのはこちらだけで、克樹たちには無理だ。

 アキナが組み立てたバトルアプリを使いこなせていない戦闘経験の少なさは感じているが、充分に力で押し切れる相手だった。

 ――手を緩める気は、ないのだけれどね。

 出力をさらに絞り、当てることを主眼に連射モードに変更する。

 砲撃によって穴が空くように海面が消滅し、荒れ狂う海面をどうにか飛んでいる百合乃に、四方向からの連射砲がさらに接近していた。

 おそらく、克樹と百合乃は街などの周辺への被害を気にしている。

 魔法の力を純粋な破壊の力に変換して出力し、最大出力を出せば地平線の彼方まで、一条の破壊をもたらすことが可能な神意外装。

 最初に放った程度の砲撃で戦闘を行えば、数分と経たずにスフィアロボティクス総本社ビル周辺は穴だらけになり、火の海に包まれるだろう。

 そうならないよう低空を維持してほとんど反撃できないでいる気弱な妖精など、踏みつぶせば終わる羽虫にしか思えなかった。

「しかし、当たらないわね」

 スラスターをこまめに稼働させて軌道を操作し、ボディの各所に設置されたバーニアで機敏に動く百合乃には、攻撃が当たらない。

 そろそろ焦れて奥歯を噛みしめ始めたモルガーナが、弾種を変更しようと一瞬攻撃を止めたとき、百合乃が動いた。

 細く絞った砲撃を放ちながらの急上昇。

 二枚の稼働盾で砲撃を弾く間に近接してきた百合乃は、腕の外装についた爪から光の刃を伸ばし、斬りつけてくる。

 残り二枚の盾で刃を逸らし、反撃の砲撃を向けるが、発射したときには上空に逃れられていた。

「ちっ……。けれどやはり、たいしたことはない」

 戦闘経験からか、それとも制御アプリが違うのか、モルガーナよりも機敏で細やかな動きをする百合乃。

 しかしやはり攻撃の出力はたいしたことがなく、防御に徹すればダメージを負うことはない。

 アキナの存在を失ったことで、強力な攻撃と強力な防御を同時に使うことはできなくなったが、問題はない。手を緩めさえしなければ、負けることはない。

「そうだ。こんなのはどうかしら?」

 ふと思ったモルガーナは、上空を旋回している百合乃に背を向け、陸地に目を向ける。

 その場所から見える一番灯りの多い場所に、二門の砲を向けた。

 途端に慌てたように急降下して射線に割り込み攻撃をしてこようとした百合乃に、モルガーナは一瞬先んじて砲を放った。

 発射したのは街を破壊するための太い破壊光ではなく、細かな光の球を放つ、いわば散弾。

 小さな球のそれぞれは決して大出力ではないため防御を貫くことはできなかったが、軌道を大きく乱され、錐もみながら墜落していく百合乃のエネルギーを大きく削り取れた感触はあった。

「やはり貴方たちは所詮人間に過ぎないわね。神となる私には、勝てないのよ」

 着水直前で噴射を回復し、動き出した百合乃を見下ろしながら、モルガーナはそうつぶやく。

 同族の死を嫌う限りは、それを厭わない敵には勝つことはできない。

 神となり、人類を滅ぼすことを決めているモルガーナにとって、克樹と百合乃は敵ではなかった。

「使えるわね、この方法。どうせこのあと街も焼き払うつもりだったのだし、戦うついでに焼いてしまいましょう」

 街に影響が出ないよう細い光線による攻撃を、稼働盾の防御だけで受け止め、半ば無視する形で街への移動を開始する。

 接近してきたら全力の砲撃でトドメを刺そう、と思っていたときだった。

「何?!」

 目の前に出現したのは、風船のように見える光の球。

 黄色い光の球が前触れもなくすぐ近くに生まれ、風船のように膨らみ、一気に大きくなってモルガーナや百合乃、そして克樹の立っている海沿いの歩道辺りを巻き込んで広がった。

 直径数百メートルのところで拡大は止まり、黄色い薄膜のように外と中の世界を隔絶させた。

 それがなんであるのかを、モルガーナは瞬時に理解した。

「フェアリーランド!!」

 スフィアに仕込んでおいたフェアリーリングやフェアリーケープと違い、この魔法が使える人物を、モルガーナは自分以外ではひとりしか思いつかなかった。

 彼の存在を感知し、そちらを睨みつけたモルガーナは叫んだ。

「翔機ぃぃぃぃーーーーーーっ!!」

 

 

 

 黄色い薄膜状に広がったフェアリーランドは、その内にモルガーナと百合乃、克樹を納め、拡大を止めた。

 中にいる者は外が見え、外にいる術者にも見えはするが、それ以外の者からは視認することはできない。

 フェアリーリングと違い、空間そのものを隔絶させるフェアリーランドは、外から干渉することもできなければ、中から外への干渉も一切遮断する。

 隔絶した世界を、まさに妖精の世界を創り出す魔法だった。

 崩れかけた屋上のフェンス越しに、内側からこちらに向かって叫んでいるモルガーナを、車椅子に座り見ているのは、天堂翔機。

 彼の側に跪き、目をつむって見上げるように顔を向けてきているのは、家政婦として使っているエルフドールの一体。

 ドールの額に当てていた右手の指を離し、翔機は深くため息を漏らした。

 昏睡から目覚めた彼の傍らに残されていた、エリキシルスフィア。

 スフィアの一斉停止後も機能を保っていたそれは、溜まっているエリクサーを使って身体を治せというモルガーナのメッセージだったのだろう。

 けれど翔機は、自分のためにエリクサーを使うことはなかった。

 エリキシルドールを自らの身体とし、神意外装を纏ったモルガーナはまだ何か、怒りにまかせて叫んでいる。

 その様子に一瞥をくれた翔機は、エルフドールに車椅子を押してもらい向きを変える。

 向かったのはぼろぼろになったヘリポートの片隅。

 そこに転がっている、モルガーナの身体の元へ。

 エルフドールに持ち上げてもらい、息絶えぐったりとしていて、しかしまだ微かに暖かみを残す魔女の身体を膝に乗せた翔機は、シワだらけの細い手で愛おしげにそれを抱き寄せる。

「結局、儂が手に入れられたのは、これだけだったな……」

 もう二度と開かれることのない瞼の向こうを見つめながら、翔機は優しく彼女の黒髪を撫でていた。

 二度と目覚めることのない魔女の表情からは憑き物が落ちたかのように妖艶さは消え、微かに微笑んでいるようにも見える顔には、どこか少女のようなあどけない面影があった。

「儂はただ、お前がほしかっただけなのだよ、モルガーナ」

 彼女の助けになるために勉強をし、喜んでもらうために結果を出し続けてきた。

 その瞳の奥底に、人間への――それは彼も含むすべての人間への憎悪がたゆたゆっているのに気づいていたとしても、翔機は魔女への献身を止めることはなかった。

 遠くない死を感じ、残りの人生を好きに生きると決めた後も、想いを止めることはできなかった。

「お前に、儂だけを見てもらいたかった。儂だけに愛情を注いでほしかった。儂の願いは、叶えられなんだな。儂はお前のただひとりの存在に、なれなかったな……」

 フェアリーランドの中で死闘を再開したモルガーナのことを見つめ、翔機は寂しげに笑んだ。

「さらばだ、魔女よ。我が母であり、我が妻であり、最愛だった者よ。お前は人間だった。人間として生きた。そして、人間を捨てた。永遠のお別れだ、モルガーナよ」

 いつも大きく見えていたのに、いまは小さく、か細く感じる少女の身体を、肩を震わせながらかき抱き、老人は戦場に背を向けた。

 

 

 



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第七部 無色透明(クリアカラー)の喜び 第四章 5

 

 

          * 5 *

 

 

 四門の砲口から発射される散弾状の光弾群を巧みに避け、百合乃は薄く光る球体の内壁を舐めるように飛ぶ。

 球形の天頂、真ん中に居座るモルガーナの射界が限界に達したところで、急降下を開始した。

 中央から滑るように後退しつつ、身体を上向かせて射角を取るモルガーナよりも一瞬早く、百合乃は針のように絞った光線を発射した。

 ――ダメかっ。

 防御の隙間をかいくぐるはずだった攻撃を防がれて、僕は密かに舌打ちをする。

 百合乃の光線は、わざわざ強い防御を張らなくても防御力の高い稼働盾にぎりぎりで阻まれ、モルガーナの身体には達しない。

 反撃に放たれた光の散弾を広がりきる前に軌道を捻るだけで避け、さらにモルガーナに接近した百合乃。

 全力後退を開始したモルガーナと軌道が交錯する一瞬、両腕の光剣で斬りつけた。

 一本は身体の中心を、一本は意表を突いて六枚のスラスターのひとつに。

 身体を狙った光剣は四枚の盾で防がれたが、防御が間に合わなかったスラスターの先端を斬り飛ばすことに成功した。

 ――いけるっ!

 手応えを感じ、防御を担当する僕は、鼻にシワを寄せて怒るモルガーナが向けてきた砲口の攻撃範囲を表示し、稼働盾を動かす。

 おそらく全力と思われる太い光線が四条、上空から浴びせかけられるが、音速を超える軌道速度をスラスターの出力で強引に曲げ、百合乃はボディにかすめることなく回避していた。

 海を割ったのと同じくらいの砲撃すらも、内壁を貫通することなく、霧散していく。それは散らしたり吸収したりというより、消滅しているようだった。

 フェアリーランド。

 あの屋敷で僕たちを捕らえ、不思議な空間を創り出していたその魔法は、おそらく時空間そのものを操作するもの。いまこの薄黄色いシャボン玉に包まれたこの空間は、外の空間から隔離されている。

 モルガーナが叫び、怨嗟を向けた天堂翔機。

 おそらく近くに来ているだろう彼が、どうして僕たちに協力してくれるのか、――そもそもこのフェアリーランドが協力なのかどうかすらわからないけど、こんなものを張ったのかはわからない。

 彼の想いは、僕にはわからない。

 しかしながらこの隔離された空間なら、外への被害を気にせず全力で動き回り、戦闘を行えることは確かだった。

 ――でもやっぱり、厳しいな……。

 戦場になっている海の上に一番近い、遊歩道に沿って設置されたフェンスを強くつかみ、僕は息を飲む。

 いまの状況だけなら、戦況は百合乃が若干押している。

 でも現実にはそう甘くない。

 百合乃とモルガーナじゃ、持ってるエネルギーの総量が桁外れと言えるほどに違う。

 観測できてるモルガーナのエネルギーは、フェアリーランドの内壁に当たって消えたさっきの全力砲撃でもほとんど減った様子がない。

 百合乃の持つエネルギー量がバケツ一杯だとしたら、モルガーナはプール一杯くらいだろうと思えた。

 でもその魔法によるものと思われるエネルギーを取り出して使えるのは、神意外装の出力性能分、お互いコップ一杯ずつだけだ。

 神意外装という装備には、たぶんそこまで激しい戦闘での使用を考慮してなかったんだろう、最大出力はさほど大きく設計されていないようだった。

 だからまだ、戦えてる。

 神意外装を装備してる百合乃とモルガーナ同士だから、どうにかなってる。

 もし僕と百合乃が負けて、モルガーナがあの神殿にあった神意外装すべてを人類滅亡に投入したとしたら、恐ろしい。

 搭乗するのがモルガーナではない、フルオートのエリキシルドールだったとしても、おそらく現代兵器では破壊するのは困難で、核ミサイルといった巨大な威力の兵器でも一発では破壊できず、数発命中させてやっと一体破壊できるかどうか程度の防御力がある。

 攻撃力については一発で高層ビルを丸ごと消滅させられるほどだ。

 そんなものが一〇〇機も攻勢に出れば、人類は数日で滅ぼされてしまうだろう。

 僕と百合乃で、モルガーナを倒すしかなかった。

『ゴメンッ、百合乃! 大丈夫か?』

『大丈夫だよっ。ボディまでは達してない!』

 連射された散弾のひと粒が、百合乃の身体に命中していた。

 どうにか防御力の上昇が間に合って、防ぎきることができた。

 軌道も乱されて追撃を食らいそうだったけど、どうにか立て直した百合乃は反撃の光線でモルガーナを黙らせた。

 たった一度のミスが、ヘタすると死に直結する。

 短期的には優勢でも、長期的には劣勢な戦いを、僕と百合乃は続けていた。

 いや、戦いが長引けば長引くほど、僕たちの勝ち目はなくなっていく。

 ――でも、勝機は必ず来る。

 歯を剥き出しにしながら奥歯を噛みしめ、砲撃よりも威力がありそうな視線で百合乃を睨みつけているモルガーナ。

 本来は凄まじく気が長いはずの彼女はしかし、一〇〇〇年近くかけて進めてきた計画を崩され、怒りを沸騰させている。

 それがいつか、僕たちの勝機になる。

『まだまだいくよーーっ!!』

『あぁ! 必ず勝つぞ、百合乃!!』

『うんっ、おにぃちゃん!』

 半ば虚勢でもある気合いを入れるために百合乃と声をかけ合い、僕は信じて戦い続ける。

 

 

            *

 

 

 バトルアプリのアシストに従って時間差をつけて放った四条の砲撃は、百合乃をかすめることなくフェアリーランドの内壁で消滅した。

 反撃の細い光線は、稼働盾が自動的に動いて防御するが、一発が脚をかすめて微かなダメージを受けていた。

 ――何故、倒せない?

 集束砲から散弾に切り換え、逃げ場がないよう進行方向を狙って隙間なく砲撃を加えるが、百合乃はそれがわかっていたかのように急旋回をして光弾の海を避けた。

「そろそろ、私に踏み潰されなさい!!」

 百合乃の機敏な動きを目で追い奥歯を強く噛みしめていたモルガーナは、思わずそう吠えていた。

 集束砲を胴体に一発命中させれば終わる戦いだった。

 一発で仕留められなくても、動きが鈍れば畳み込めばいい。その程度で終わる戦いのはずだった。

 アキナの組んだバトルアシストデータは充分優秀で、それは少ないながらも強敵との実戦経験から高く評価している。

 それを使ってなお、百合乃を撃ち落とすには至らない。

 そもそも持っているエネルギー量が天と地ほど違うのだ、負ける要素などひと欠片だってなかった。

 しかしそれでも、羽虫を踏み潰せない。

 神意外装を纏っての戦いなど想定していなかった。

 元々の身体では振るうことができなかった、魔法を純粋な破壊に変換して放つ兵器こそが、神意外装。人類殲滅用の兵器であり、これは戦闘用のものではない。

 克樹と百合乃が、この空中戦にあってもアキナのバトルアプリの予測を遥かに超える動きをし、対応してくることもあり得ないことだと思えた。

 手を振ってはたき落とせばいいだけの羽虫が、いまは蜂のようにモルガーナをチクチクと刺しに来ていた。

 ――どうして、こうなったの?

 アシストを無視して闇雲に撃ち込んだ散弾。

 そのひとかたまりがかすめ、ふらついた百合乃はフェアリーランドの底に溜まった海水へと墜落する。

 沈んだはずの百合乃の予測位置を狙って、モルガーナは全力の砲撃を連射した。

「やった、かしら?」

 わずかに残った海水の大半が消滅し、砲撃の余波か大量の水煙が上がって底の辺りが見通せなくなる。

 センサーの情報を頼りに撃破を確認しようとしたとき、頭の中にアラームが響き渡った。

 斜め後方。急速接近反応。

 スラスターの出力を上げて回避しようとしたときには遅い。

 六本あるスラスターのひとつを、半ばから斬り落とされていた。

「くっ!!」

 振り返って反撃を加えようとしたときには、百合乃は天頂へと至り回避運動に入っている。

 使用不能になったスラスターと、バランスが悪くなった対の一本をパージした。

 回避機動にはバーニアで充分。初期加速の出力は減るが、この狭い空間ではたいした違いはない。

 たいしたダメージではない。

 そう思っているのに、モルガーナは奥歯を砕けよとばかりに噛みしめ、噛みしめすぎて頬を震わせる。

 ――どうしてこうなっているの?

 わからなかった。

 魔女となってから一〇〇〇年近く、世界との同化という発想に至り、その方法を見出してから数百年、長い時間をかけて進めてきた計画は、多少の問題は発生しても、すべて予測の範囲内に納まってきた。

 エリキシルバトルだって、起こり得る可能性をすべて予測し、変化していく状況に柔軟に対応してきた。

 自らが構築した妖精の投入によって、決着が着くはずだったのだ。

 それがいま、自分自身が魔女の身体を捨ててまで、戦場に立っている。

 わかるはずのないことだった。

 ――イドゥンの意思?

 人間の人生譚を食らい、エリクサーをにじませる女神イドゥン。

 気づかぬうちに女神が介入し、状況が揺さぶられたのだろうと思った。

 けれどこの状況は、それだけではないと思えた。

 ――克樹君の力?

 それもおそらく大きい。

 人間では参加できるはずもない妖精同士の戦いに協力し、アキナを追いつめるのに貢献した彼。

 イドゥンによって特異点とされたからと言っても、彼の能力を測りきれなかったのは、人間の可能性を見誤ったのは、自分の落ち度。

 ――でも何より、あの出来損ないのせい!

 克樹が人工個性を構築するよう誘導し、アキナの予備として存在していた、リーリエ。

 死に行く脳から取り出したために脳情報の一部が破損していた出来損ないの精霊は、アキナが使えなかったときの予備以上の意味はなかった。

 その出来損ないが、真っ先に願いを叶えた。

 あれが分岐点。

 あれが想定外の始まり。

 ――いえ、違う。違うわ。

 接近してきた百合乃と両手の光剣で斬り結びながら、モルガーナは怒りで瞳を燃やし、考える。

 湧き上がるひとつの疑問。

 何故、出来損ないの精霊如きがエリクサーの使い方を知っていたのか。

 太古の時代から連綿と続く巫女の血筋。

 その中で編み出された秘術の数々。

 それを応用したエリクサーの使い方。

 一部を公式化し、アライズやフェアリーリングとしてエリキシルスフィアに組み込んだが、エリクサーの使用方法を出来損ないの精霊如きが、ほんの数年で身につけられるはずがなかった。

 自力で願いを叶えるなど、精霊如きができるはずがなかった。

 ――すべては、女神の掌の上だったということ!!

 その考えに至ったモルガーナは、近接距離から広範囲に広がる散弾を放ち、百合乃を退ける。

 さらに追撃を加え、大きく距離を取った。

 ――私も、女神の手駒のひとつでしかなかったということね……。

 手を緩めず攻撃を続けながら、モルガーナはつり上げていた目尻を下げ、悲しげに唇を歪ませる。

 少し考えればわかることだった。

 把握しきっていたはずの状況に変化をもたらし、想定外の自体を発生させ得るのは、自分よりも上位の力を持った存在であることなど。

 目を逸らし、考えないようにしていただけだったのかも知れない。

 ――けれどっ。

 瞳に力を取り戻し、モルガーナは奥歯を噛みしめ、叫ぶ。

「けれども我が女神は望んだ! この戦いを!! 神水戦姫(スフィアドール)の妖精譚(バトルログ)を!! しかし望まれたのは約束された勝利でも、決定された敗北でもないわ!」

 女神が求めたのは、整えられ、冒頭から結末までが決められた脚本ではない。

 それならば、自分にも勝ち目はある。

 ――私は、この戦いを、私の勝利をイドゥンに捧げる!

 心に決めたモルガーナは、百合乃を直接狙わず、バラバラに砲口を向けた。

 放たれたのは、散弾よりも小さな、無数の光の粒。

 発射直後に拳ほどのサイズに膨らんだ粒は、百合乃には向かわず、ふわふわとゆっくりと動き、広がっていく。

 シャボン玉状の光弾を放ち続け、フェアリーランドの上半分を埋め尽くすほどになったそれに囚われた百合乃。

 一発一発はたいしたことはなくても、逃げ場のない中で押しつぶされるほどに食らえば大きなダメージとなる。

 光剣と砲撃を使って居場所を確保し、どうにか泡の直撃を避けている百合乃は、それだけで手一杯で大きな移動が行えなくなっていた。

 その様子を細めた目で見つめているモルガーナは、百合乃を撃ち落とすための攻撃を行わず、向きを変えた。

 ――ここまで状況がこじれた原因は、やはり貴方よ、克樹君。

 海沿いの遊歩道に立っている克樹を見下ろし、モルガーナは唇の端をつり上げて笑む。

「あなたさえ倒してしまえば、私は望む結末が迎えられるのよ!」

 そう声を上げた魔女は、克樹に向かって急降下を開始した。

 

 

 



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第七部 無色透明(クリアカラー)の喜び 第四章 6

 

 

          * 6 *

 

 

 ――これは、ヤバい!

 上空を埋め尽くすほどの光の泡に包まれて、百合乃は身動きができなくなっていた。

 幸いまだボディに命中したりはしてないし、どうにか光剣を使って脱出を試みているけど、この状況でモルガーナから攻撃でも食らったら回避が難しい。

 そう思ってスマートギアの視界でモルガーナに注意を向けたとき、僕の背筋に悪寒が走った。

 僕のことを見下ろしてる、魔女。

 燃えるように紅い瞳は、様々な感情が湛えられているのが見える。

 怒り。

 嫉み。

 怨み。

 憎しみ。

 そして、悲しみ。

 僕のことを見下ろしてきている彼女に、僕はその真意に悟る。

 ――来る!

 思った瞬間に急降下を開始したモルガーナは、砲のひとつを僕に向け、放った。

 全力ではなかったろう破壊の光によって、僕の回りの道路は抉られるように消滅し、百合乃が張ってくれたフェアリーケープも耐えきれず消滅した。

 もう一撃砲撃を加えれば、僕は死ぬ。

 でもモルガーナはそれをせず、さらに降下を続ける。

 確実に僕のことを殺すつもりだろうモルガーナ。

 あいつの性格を考えれば、砲撃なんて手段ではなく、直接自分の手を僕の血で染めない限り、気が収まらないだろう。

 光剣を伸ばせるはずの爪を跳ね上げ、直接自分の手に光を宿し、僕の命をその手で奪うために接近してくる魔女。

「――そう来ると、思っていたよ」

 聞こえないほどの小さな声でつぶやき、僕は片手を背中に回した。

 常に冷静で、何百年も時間をかけて忍耐強く計画を進めてきたモルガーナ。

 けれども同時に、あいつは短気で激情家だ。

 怨み深い魔女は、自分以外を信用していない。

 長期戦になれば僕と百合乃に勝ち目がないとわかっていても、自分の手で決着を下さないといられない。

 ――それがお前の限界だっ。お前が神でも、魔女でもなく、人間である証拠だ!

 心の中で叫んだ僕は、デイパックのサイドポケットから取り出せるようにしておいたものを、モルガーナに向けて突き出した。

 シンシア。

 スマートギアの視界に表示されたエリキシルバトルアプリに、僕はいまの想いを込めて、唱えた。

「アライズ!!」

 近藤に託されたエリキシルスフィアを搭載し、前回の戦いでリーリエが回復してくれた機能は、健在だ。

 光に包まれ、二〇センチのピクシードールから一二〇センチのエリキシルドールとなったシンシア。

「これがリーリエが残してくれた、僕とリーリエの絆だ!」

 鮮やかな緑の三つ編みを大きく揺らし、背中から両手剣を抜き放った重装甲を纏った緑の女騎士。

 魔女はそれを見、驚愕に目を見開いた。

 切っ先が届いたのは、シンシアの両手剣が先。

 手が輝きで見えなくなるほどの強い力を発現していたために防御が張れなかったのだろう。

 攻撃から防御の切り替えも間に合わず、急降下の速度を落とせていなかったモルガーナの胸の真ん中に、両手剣が突き刺さっていく。

 大きく口を開け、声も出せず絶叫する黒き魔女。

 胸に深く剣を突き立てられてなお、僕の首めがけて手を伸ばそうとしていたモルガーナの顔が、凍りついた。

 タングステンの指先を持つ手刀。

 魔女の首を貫いて現れたアリシアの手刀が、エリキシルドールのメインフレームを切断した。

 泡の檻から脱出して駆けつけてきてくれていた百合乃は、そのまま手を振り、モルガーナの首は身体から離れ、地面に転がる。

 噴射が止まり、力をなくした魔女の身体は、神意外装ごと削り取られた遊歩道の斜面を滑り落ち、海中へと没していく。

 地面に転がった魔女の首は、大きく目と口を開いたまま、動きを止めていた。

 それを確認した僕は、「カーム」と唱えてシンシアをピクシードールに戻して回収し、目の前で滞空している百合乃と見つめ合った。

「……終わった?」

「……うん。終わったよ。――勝ったよ、おにぃちゃん。あたしたち、勝ったんだよ」

「勝った?」

「うん……、うん!」

 百合乃の頷きを見て、僕は身体から力が抜けて、その場に座り込む。

 勝利の喜びよりも先に、僕はただ、呆然としてしまっていた。

 

 

            *

 

 

「見事だった! 音山克樹っ」

 背後からかけられた声に振り返ると、いつの間に現れたのか、宙に浮いているイドゥンがいた。

 さも嬉しそうに頬を上気させている女神を、僕は睨みつける。

「よくぞここまで戦い、勝利した! お前がエリキシルバトルの勝者だ! 誉めてつかわそうっ」

 興奮冷めやらぬといった様子で身を乗り出してきて、僕を誉めてくるイドゥン。

 近くに神意外装を着地させて分離した百合乃が、まだ力の入らない僕の身体を支えて立たせてくれる。

「イドゥン! あぁ、我が女神よ! 愛しき我が女神よっ! 私は……、私はっ」

 それまで表情を凍りつかせて足下に転がっていたモルガーナの首が、突然そんな甘く切ない声を吐き出し始めた。

 見ると、首だけになって横倒しに転がっているにも関わらず、死んだり機能停止しているわけではないらしい。恍惚とした視線をイドゥンに向けていた。

「ふふふっ。魔女よ、お前もよく戦った。そしてなにより、この戦いを催してくれた。お前のおかげでわらわは望外の楽しみが得られたぞ」

 労いの言葉を贈りながらモルガーナの首に近づいて行ったイドゥンは、それを左手で鷲づかみにする。

「私は、負けてしまいました……」

「勝利も、敗北も些細なことでしかないわ。お前たちの戦いにこそ意味がある。わらわにその楽しみを供してくれたのお主だ、魔女よ」

「あぁ……、我が女神よ……」

 悲しみに暮れた目をしていたモルガーナは、イドゥンの言葉でまるで少女のような、あどけないと言えそうな笑みを浮かべた。

 そんなモルガーナの額に、イドゥンは右手の人差し指と親指を押し当てる。

「敗れたお主と同化してやることはできぬが、お主の生きてきた時間、お主の記憶、その人生譚(バトルログ)は、わらわの相が完全に消え去るまで、わらわとともに在ろう」

「あぁ、イドゥンッ。私は、私は嬉し――」

 モルガーナの額から離されたイドゥンの指の間にあったのは、絶望を感じさせる黒と、地獄を思わせる紅が混じり合った球体。

 スフィアコア。

 それを取り出されたモルガーナの顔は再び硬直し、動くことも声を発することもなくなる。

 首を無造作に放り捨てたイドゥンは、スフィアコアを自分の唇に近づけていく。

 喰った。

 口に含み、喉を鳴らして、女神は魔女を飲み下した。

 姿は人、百合乃そのものであるのに、目の前にいるのがやはり僕とは違う存在であることを、僕は改めて認識していた。

 ニヤリと笑みを浮かべ、僕たちの方を見つめてくる、生と死を司る女神。

「さて、そこな妖精。お前はわらわと一緒に来てもらうぞ」

「……イドゥン」

 僕の呼び声に視線すら動かさず、イドゥンは百合乃を見つめている。

「お主ほど力をつけた妖精は、人間の世界には置いておけぬさ。わらわに寄り添い、相を失うそのときまで子守歌でも歌っていてもらおうか」

「止めろ! イドゥンッ。百合乃を連れて――」

「待って、女神様!」

 僕の声なんて聞く気もないらしいイドゥンの伸ばした手を取らず、厳しい顔をした百合乃が言った。

「おにぃちゃんは、エリキシルバトルの勝者になったよ。バトルの勝者は願いを叶えられる。そうだったでしょう?」

「何のことかと思えば。それは魔女の撒いたエサであろうに。わらわには――」

「おにぃちゃんはバトルの勝者で、女神様の言葉を借りるなら、魔女さんと一緒に妖精譚を編み続けてきたひとり。それくらいの報償、あってもいいんじゃないですか?!」

「百合乃……」

 身体を支えてくれていた百合乃が離れ、イドゥンと並んで僕のことを見つめてくる。

 嬉しそうに、でも悲しそうに笑む百合乃をちらりと見、イドゥンは顎に人差し指を当てて考え込む。

「ふむ……。お主の言い分には一理あるな。よかろう。音山克樹、お主の願いを叶えてやろう。ただ、お主の最初の願いはすでに叶えられるものではなくなっている。だから新たな願いを述べることを許す」

「願いを、叶える?」

 突然そんなことを言われても、何も思いつかない。

 唇の端をつり上げて笑むイドゥンと、僕を信頼するように真っ直ぐな目を向けてくる百合乃に見つめられる僕は、願いなんて思いつけなかった。

「少し時間を――」

「それは無理だな。封印の間に穴が開き均衡が崩れた時点で、わらわの封印は完全に解けている。すぐにでもここを去る。それと、願いに使えるエリクサーはこの妖精が持っている分と、お主が勝った魔女が持っていた分のみだ」

 いますぐ願いを言えと言われても、やっぱり困る。

 僕の復讐の相手であり、願いの対象であった火傷の男は、結局名前もわからないままで死んでいる。

 困って何も言えなくなってる僕を楽しそうに見つめているイドゥンを、見つめ返すことしかできない。

「ふふふふっ。思いつかぬか。ならばいくつかの選択肢をやろう。ひとつは……、そうさな、お主以外の参加者の、人間を復活させるほどではない小さな願いを叶える、ということはできるな。願いの大きさによっては完全にというわけにはいかぬが、概ね全員の望むものは得られるであろう。それからもうひとつは――」

 言葉を切り、笑みを深くしたイドゥン。

「お主の精霊の復活、だ」

「……リーリエの、復活?!」

「あぁ、その通りさ。精霊は形こそ持たぬが、わらわが認めた生命。わらわのエリクサーは生命にまつわる事象を、世界そのものを歪めて実現する権限。精霊の復活如きできぬはずもないさ。ただし、お主が使えるエリクサーでは、妖精にも人間にもできぬ。お主の言葉で言うならば、人工個性としての復活がせいぜいだ」

 心が揺れる。

 リーリエとまた会える。

 心に残ってるトゲのような想いを、言えなかった言葉を、伝えることができる。

 僕は思わず、それを願おうと口を開いていた。

「僕は――」

「さらにもうひとつ」

「ん?」

 僕の言葉を遮って、さらに深い笑みを、嫌らしい笑みを浮かべたイドゥンが、最後の選択肢を告げた。

「この妖精、中途半端に復活しているこやつの、完全なる復活」

「百合乃の完全な復活……」

「そう。いまの量ならば、この妖精を人間にできるぞ、音山克樹」

「百合乃!」

 空色のツインテールを指で弄んでるイドゥンから、百合乃に目を向けた。

 百合乃が人間として復活できる。

 彼女を生き返らせることは、それを口にしたことはなかったけど、ずっと願っていたことだ。

 たぶん百合乃は自分から復活を望むことはないだろうってわかっていたから、僕はエリキシルバトルの願いに、復讐を選んだ。

 でもいまは、いまならば百合乃の意思を確認することができる。

 ――いや、だけど……。

 百合乃の復活を選べば、リーリエの復活を諦めなくちゃならない。リーリエを選べば、百合乃を。

 どちらも選べない僕に、百合乃は優しげな笑みを向けてきていた。

「ね? おにぃちゃん」

「百合乃……」

 優しげで、彼女が人間としての死を迎えたときと同じ幼さを残し、しかし瞳の奥にリーリエの母親としての強さを、――それだけじゃない、強さを持った何かを、揺るぎない何かを浮かべて、僕に微笑んでいる百合乃。

 それを見た瞬間、リーリエの浮かべていた表情を思い出した。

 僕の妹で、リーリエのママだった百合乃。

 僕と百合乃の娘と言えて、ひとりの女の子だったリーリエ。

 ふたりが浮かべていた表情を、僕に告げていった言葉を、思い出した。

「どうする? おにぃちゃん」

 問われて、僕は叶えるべき願いを心に決める。

 百合乃に近づき、両手を伸ばして、伸ばされた彼女の手を取った。

 そして僕は身体を寄せ、百合乃の耳に願いをささやいた。

 目を丸くして驚いた後、すぐにニッコリと笑ってくれた百合乃。

 イドゥンの方を見ると、女神はどこか呆れたような笑みをし、頷いた。

 僕のことを瞳に映す百合乃と見つめ合い、頷きあった後、ふたりで一緒に唱えた。

「アライズ!」「アライズ!」

 

 

 



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神水戦姫の妖精譚 最終章 クリアスカイ
神水戦姫の妖精譚 最終章 クリアスカイ


 

   最終章 クリアスカイ

 

 

            *

 

 

『皆様、お待たせいたしました!!』

 円形のイベント会場を埋め尽くす人々のざわめきが、スピーカーから場内に響き渡った落ち着いた、でも熱の籠もった女性の声で一気に静まり返る。

 サッカーや野球も行えるドームの、天井からつり下げられた三面の超巨大モニターに映し出されたのは、ふたりの女性。

 長い黒髪で落ち着いたロングスカートの女性と、ショートの金髪で活発そうなホットパンツの女の子は、アイドルと見紛うばかりの魅力を放っているけれど、人間ではない。

 仮想の人格、エレメンタロイドで、そのアイドルのような姿はふたりのアバターだ。

 スフィアロボティクスからHPT社の傘下に移り、新型のAHSで稼働するエレメンタロイドアイドルのふたりだった。

『これから始まるのはお待ちかね!』

『第一回クリーブドール杯ノンレギュレーション部門、決勝戦となります!』

 沸き起こる歓声。

 挟まれた休憩時間の間、待たされていた観客たちは、これから始まる戦いに期待を込めて声を上げている。

 すべてのスフィアが停止し、その後を受け継ぐ形で普及したHPT社のロボット用汎用制御コア、クリーブ。

 多くの企業や団体の支援を受け、クリーブテクノロジー社として独立した会社でクリーブは進化を続けた。

 最初は低かった性能は充分に上がり、ボディであるドールも新たな規格となり、一斉停止事件から三年が経ったいま、第一回目のクリーブドール杯が開催されることになった。

 これから行われようとしているのは、メインイベントであるピクシードール同士のバトルトーナメントの中でも、ノンレギュレーション部門の決勝戦。

『ですが正直なところ、意外でしたね』

『そうなんだよね。このノンレギュレーション部門は、メインマッチのフルコントロール、セミコントロール、フルオートの世界大会への出場権を賭けた各部門と違って日本限定の、いわばエキシビションマッチ』

『参加するクリーブドールも全国の予選大会を勝ち抜いてきた本戦参加者と違い、我こそはと応募してきた方々の中から選ばれた、メインマッチのレギュレーションには納まらないものばかり』

『ガンマンくらいはまだ普通だったけど、ヘビ型とかケンタウロス型とか、腕も脚もない車とか、人間型してない凄いドールもいたよねぇ』

『えぇ。応募されてきたキワモノドールの中から、とくに特殊なドールを集めたと主催者の方々が仰っていたほどでしたね』

『ネタバトルでみんなで笑って終わるってのがスタッフの中での下馬評だったのにねー』

『それがなんと、メインマッチ以上の熱い戦いになるとは本当に予想外でした!』

『そしてそのノンレギュレーション部門も、ついに決勝戦!』

 スクリーンの中で絶妙なかけ合いを続け、観客の期待をさらに膨らませているエレメンタロイドアイドルのふたり。

 そして、決勝戦参加ドールがコールされた。

『決勝戦出場ドール一体目は、エカテリーナ!!』

『という名前で呼んでも、おそらく観客の皆様にはもう馴染みがないでしょう。やはりこのドールは、この名前で呼ぶのがふさわしい。強化外骨格――』

『グランカイゼル!!』『グランカイゼル!!』

 名を呼ばれ、会場の中央、グラウンドの真ん中に設置された、メインマッチのものよりふた回りほど大きいピクシーバトル用リングに自走して近づいて行くのは、金属の塊のような物体。

 ひしゃげた饅頭のような頭部までの全高は八〇センチ近く、標準的には二〇センチ程度のピクシードールの四倍、大型のフェアリードールほどのサイズ。

 ピクシードールのボディよりも太い両腕と、短いがガッシリとした四輪ローラーつきの脚部。

 バッテリや様々な武器のドライブ部を内蔵したずんぐりとした胴体。

 こればかりは規定により覆い隠せない、半ば金属の塊に埋め込まれているように、本体であるエカテリーナが、どこか悲しげにも見える表情を浮かべ、胴体の中央に据え付けられていた。

 その姿は、まるで捕らえた姫をその身に取り込もうとしている、黒い巨人のようだった。

 強化外骨格など、当然通常のピクシーバトルであるメインマッチには出場できず、比較的レギュレーションの緩いローカルバトルでも、これほどの巨体は参加を拒否されるだろう。

 まさにこのノンレギュレーション部門のために造られたピクシードール、それがエカテリーナと強化外骨格グランカイゼルだった。

 射撃武器も許可されているため、猛獣でも破壊して抜け出すことは無理だろう、分厚いアクリルで四方を覆われたリング。

 専用の開閉口からグランカイゼルが入り、観客の歓声を受けてリングに立つのを待ってから、司会のふたりは進行を再開する。

『さて、もう一体の出場ドールは、場内アンケートでは二回戦敗退確定とまで言われていました!』

『それが意外や意外。キワモノ揃いとは言え、戦闘力溢れまくる競合たちをばったばったと打ち倒し、ついには決勝戦へと進出っ』

『見た目にはただのピクシードール』

『しかれどもその実体は、出場ドールの中でも最も特異っ』

『ソーサラーである音山克樹君だけでなく、私たちと同じエレメンタロイドによるコントロールも行われているっ』

『前代未聞のダブルソーサラーによって戦うそのドールは――』

『パトリシア!!』『パトリシア!!』

 名前を呼ばれた僕は、選手出場口から歩き出す。

 肩の上で脚をばたつかせているのは、スピード寄りのバランスタイプに設計してあるピクシードール、パトリシア。

 腰まである金色の髪を揺らし、ボディの各所に取りつけた各種センサーが散りばめた宝石のように見えている、黄色を基調にしたハードアーマーを纏うそのピクシードールは、アリシアとシンシアをさらに進化させた、僕の持つ技術を余すことなく投入した最新型。

 アクリルの開閉口のところでパトリシアを下ろし、スマートギアのディスプレイを下ろして僕は問う。

『行けるか?』

『もっちろんっ、おにぃちゃん!』

 小さな顔でニヤリと、唇の端をつり上げて笑い、パトリシアはあるのかないのかわからないほど透明度の高いアクリルの向こう、グランカイゼルが待つリングへと向かっていった。

 ソーサラー用のずいぶん高級な椅子に座った僕は、目を閉じてリュンクスを起動した。

 一気に広がる視界。

 オートスクリプトが客席の中に見知った顔を発見するけど、いまは気にしていられない。

 高まる歓声は、グランカイゼルとパトリシアが構えを取った途端、ピタリと止んだ。

『さっさと終わらせちゃうよぉー』

『そう甘くないと思うけどな』

『だぁって戦うの面倒臭いんだもんっ。早く終わらせたいんだよぉー』

『まったく……。だったら最初から全力でいくからな』

『おっけーだよぉ』

 そのとき、試合開始を告げるゴングが鳴り響いた。

『行っくよぉーーーっ!!』

『あぁ。行くぞ、リリエラ!!』

 動き出したリリエラ――リーリエが遺した脳情報に、僕の脳情報を加えた、僕とリーリエの娘と言える人工個性――の動きに合わせ、僕は風林火山を開始した。

 

 

            *

 

 

 ゴングと同時に両腕を上げたグランカイゼルは、そこに装備された電動ガンからチタン弾を発射した。

 丸い金属弾がキャンバスに命中するときには、リリエラはその場所にいない。

 円を描くように素早く動いたリリエラを追って銃口を振るグランカイゼルだが、ピクシーバトルに参加するにはサイズも重量も桁違いの金属塊は、それほど機敏ではない。

 腕の可動範囲外である斜め後ろまで回ったリリエラは腰の長剣を一本抜き、グランカイゼルへと襲いかかる。

 それを予測していたんだろう、その場で急旋回して巨大と言える腕が振り下ろしてきたのは、ツルハシのように尖った先端を持つウォーハンマー。

 ハードアーマーを貫くどころか、一撃で産業廃棄物を生み出す攻撃は、金色の髪をかすめることすらない。

 狙いはエカテリーナ。

 強化外骨格であるグランカイゼルの真ん中、囚われの姫のように埋め込まれたエカテリーナの首を狙い、リリエラが剣を振るう。

 甲高い金属音が響いた。

 かろうじて間に合ったグランカイゼルの左腕が、リリエラの斬撃を受け止めている。

 反撃に巨人が突き出してきたのは、電動ガンとともに右腕に取りつけられた、真っ赤に赤熱したヒートエッジ。

 悠々と躱すリリエラだけど、かなり高温のそれは、一瞬近づけられただけで一部の人工筋の温度を上昇させた。

『あぁーん、もう! 面倒臭いっ』

『自分の弱点なんてあっちも把握してるんだし、こっちの狙いもすぐにバレるよ。あの装甲相手じゃ、まともにやり合っても勝てるわけがないしな』

『そんなことわかってるよーっ、だ! ちゃっちゃと終わらせたかっただけだもんっ』

 結構な戦闘狂だったリーリエや百合乃と違い、リリエラはあんまりピクシーバトルが好きじゃない。

 ポテンシャル的には充分ふたりに追いつけるはずだけど、リリエラは家で使ってるエルフドールを操って料理をしたり、勉強をしたりといったことの方が好きらしい。

 ――育った環境の違いかなぁ。

 そんなことを考えながらも、僕はグランカイゼルへの注意を怠らない。

 巨人の周囲を回るように動いたり、近接して攻撃を仕掛けたり、遠ざかって電動ガンを避けたりと、めまぐるしく動くリリエラ。

 こっちの斬撃は装甲に弾かれ、投げつけた短剣もピクシードールサイズでは有効打になることはない。

 亜音速で動きまくるバトルを経験した僕にとっては、二体の動きはゆっくりとしたものに見える。

 エリキシルドールほどの性能は、グランカイゼルはもちろん、パトリシアにもないのだから当然だけど。

 ドールの性能だけ見れば、装甲の塊で、すべての攻撃がほぼ一撃必殺のグランカイゼルの方が、パトリシアよりも遥かに上だ。

 ――でも、僕とリリエラの方が強い!

『おにぃちゃん。そろそろデータ充分だよね?』

 いまの戦況に笑みを浮かべた僕に、リリエラが声をかけてくる。

 マルチ視界のうちのひとつ、グランカイゼルの動きを解析した結果に注目してみると、もう充分と言えるデータが集まっていた。

 立ち止まり、リングに立つリリエラが向けてきた視線に僕は頷き、彼女も頷きを返してくる。

 アリシアとシンシアのいいとこ取りをしたような設計のパトリシアには、相当な数のセンサーが取りつけられ、僕が持ち込んでるサーバで収集したデータを解析できるようにしてある。

 いまはもう、グランカイゼルの長所も短所も、すべて露わになっている。

「さぁ、そろそろ本気でいくよーーーっ!!」

 わざわざ内蔵スピーカーで声を上げたリリエラに、観客たちから応援の声と、罵声が集まる。

 ダッシュローラーでバックし、距離を取ったグランカイゼル。

 強化外骨格の両腕から発射されたチタン弾を、リリエラは左右のステップと姿勢の動きだけで躱し、ほぼ直進する動きで接近する。

 左腕から振り下ろされたウォーハンマーを、うつぶせに身体を投げ出すようにして避けたリリエラ。

 振り下ろされた腕に両足を絡みつかせて取りつき、肘関節の内側に剣を突き立てた。

 丸太のように腕を振り、グランカイゼルはリリエラを放り捨てる。

 しかし巨人の左腕は、突き立てられた剣によって関節が破壊され、伸びたまま曲がらなくなっていた。

 ひと際大きな声が、観客たちから上がった。

 ここまでの戦いで、グランカイゼルはその巨体と分厚い装甲、そして強力な武器で圧勝してきた。

 それがボディだけなら普通のピクシードールでしかないパトリシアが有効打を与えたんだ、興奮くらいするというもの。

 残った右腕を上げて電動ガンを発射しようとしたグランカイゼルだが、諦める。

 銃口にはリリエラが投げつけた短剣がはまり込み、発射不能となっていた。

 逆上したかのように甲高いモーター音を響かせ、グランカイゼルが突撃を開始する。

 対するリリエラは、立ち止まったままゆっくりとした動作で長剣を抜き放つだけだ。

 グランカイゼルの右腕のヒートエッジを突き出そうと構えた、そのときだった。

 つんのめった巨人。

 高速で接近してきていた巨体が突然停止し、慣性の法則に従い上体を浮き上がらせる。

 よく見ないとわからないが、グランカイゼルがつんのめった場所のキャンバスには、投擲に使って転がってる短剣に交じって、ローラーに引っかかるようナイフが突き立てられている。

 高速移動中だったために姿勢を安定させることができず、倒れ込んでこようとする黒い巨人。

 すり足で半歩接近したリリエラは、光の筋にしか見えないほどの斬撃を放った。

 リリエラの脚をかすめるように、グランカイゼルはキャンバスに沈んだ。

 それとは別に、少し離れた場所に落下した丸いもの。

 エカテリーナの、首。

『しょ、勝者、パトリシア!』

『そして音山彰次、アーンド、リリエラ!!』

『グランカイゼルは、エカテリーナのメインフレーム切断により敗退ですっ』

『魔神のような巨体を、小さな妖精が打ち倒しました!!』

 明らかにグランカイゼルを悪役にしてる、さすがにどうかと思う司会の決着宣言。

 それに応えて、リリエラは長剣を天にかざした。

 広い会場が割れるかと思うほどの人々の賞賛が、リリエラと僕に降り注いだ。

 

 

            *

 

 

 鳴り止まない歓声を浴びながら、パトリシアを回収した僕はリングに背を向け、選手出場口へと向かった。

 司会がこれからのスケジュールを告げる中、疲れを感じていた僕はスマートギアのディスプレイを跳ね上げて脱ぎ、解析サーバを放り込んだ鞄の中に突っ込んで、少しうつむき加減で歩いていた。

「優勝おめでとう、克樹。まぁ、そうなるだろうとは思っていたがな」

 出場口に入ってすぐのところでそんな声をかけてきたのは、ショージさん。

 久しぶりに会うショージさんは、どこかいままでよりも渋みを増したように見え、でも同時に少し疲れた印象があった。

「こんなところで参加者に賛辞を送ってていいの? 一応主催者側の人でしょ」

「別に構いやしねぇよ。俺はこういうイベントごとは苦手だからな、主催者会議にも出席してない身だしな」

「またそんな言い訳を……。って、そうだった。今回はこんな大会に参加させていただき、ありがとうございます、――平泉の若旦那」

「……うっせぇよ。まだそうじゃねぇよ。茶化すのは止めろ、克樹」

 壁に背を預けていたショージさんは、本気でイヤそうな顔をして大きくため息を吐き、僕の行く手を遮るように立った。

 平泉夫人が完全に復帰して少し経った頃、芳野さんが夫人の養子となって、芳野綾から平泉綾となった。

 後継者としての意味もあるらしいが、年齢的には母娘というほど歳が離れていないふたりは、協力し合う補完関係の立場ってことらしい。

 それと同時に発表されたのが、芳野さん――いまでは綾さんと呼んでるけど――とショージさんの婚約。

 僕以外はほとんどの人が気づいていたらしいけど、ショージさんと綾さんはそういう関係になっていたんだそうだ。

 クリーブの製造とライセンス業務を行い、このクリーブドール杯の主催企業でもあるクリーブテクノロジーの社長に就任したショージさんは、急成長企業の社長と、ロボット業界を牽引する投資家の後継者の夫という立場を手に入れることになった。

「でも、結婚するんでしょ?」

「そりゃあ……、当然だろ。綾以外選ぶ気はないしな。だがまだ来年の話だ」

「もう式の日取り、決まったんだ?」

「うっ……。そのうち招待状送りつけてやるから待っとけ。ってかそれについてはお前も同じだろうが。――克樹、お前は良かったのか?」

「ん……。まぁ、いいよ。僕は、僕だしね」

 恥ずかしそうに頭を掻いていたショージさんは、目を細めて心配するように僕のことを見つめてくる。

 僕の方も僕で変化があった。

 家に帰ってくることなく、両親がふたりとも海外に転勤して半分定住することに決まったのが、高校三年になった頃の話。

 それじゃダメだということで、僕はショージさんの養子に入ることになった。百合乃以外興味がなかった両親は、あっさりその話を受け入れ、僕はいま叔父だったショージさんの子供ということになってる。

 そして来年綾さんと結婚するショージさんは、平泉姓を名乗ることで決着がついていて、僕は血のつながりはないが、平泉夫人の孫という関係になる。

 でも僕は、ショージさんが平泉彰次になっても、音山の姓を名乗ることにしている。とくに大きな意味はないんだけど、何となくそのままでいたかった。

 姓を変えることで繋がる関係もあると思う。

 けれど変えることで切れてしまう繋がりもある気がして、そうすると決めた。

「ま、お前が決めたことだ。俺がとやかく言うことでもないがな」

「うん。あ、ちなみに今日はアキナはどうしてるの? 着いてきてないよね?」

「あー。あいつはなんか、締め切りあるとかでこっちには来なかったな。中継でお前の戦いは見てたと思うが」

 モルガーナとの最終決戦のときに連れ帰ったアキナは、イドゥンに連れて行かれることもなく、いろいろあったようだけど、結局ショージさんと一緒に暮らすようになっていた。

 僕がいまも持ってるリーリエの遺産であるエリキシルスフィアと、アキナが妖精として定着した、たったふたつの機能を保ったスフィア。

 今後どうなるかは誰にもわからないけれど、妖精としての力を一部残し、精霊――人工個性としての性質も併せ持つアキナは、ショージさんと暮らしつつネットの世界で活動するようになった。

 最近増え始めてる、正体を明かさずに主にネット上で活動してるネットクリエイターのひとりとして活動するアキナは、平泉夫人の後援も受けてシンガーソングライターでインディーズの世界ではけっこうメジャーになってきている。

 実体そのものが妖精で、自宅ではエルフドールを身体としている彼女は、ソーサラーでもあるって触れ込みで、ネットクリエイターでは珍しくクリーブドールを使っての現実への出演もこなしてる。

 今日はたぶん、もうすぐリリース予定だと聞いてるアルバムの制作で忙しいんだろう。

 そんな創作活動をする一方で、平泉夫人やショージさんの手伝いもやっていて、人工個性の特性を余すことなく使い、平泉夫人に悪い笑みを浮かべさせるほどになってると言う。

 ショージさんに対して抱いていた複雑な想いについては、いまではある程度折り合いがついたと、本人から聞いていた。

 その辺の気持ちが決着がついたからか、前にショージさんの家に訪れたときに、アキナと綾さんが激しい言い合いをしていたのには驚いた。アキナもそうだけど、綾さんの変わりようが凄いという意味で。

 ショージさんが言うには、アキナは綾さんを唯一激昂させる存在らしい。

 でもそれはそれで、なんだか打ち解けて、微妙なところもあってもけっこう仲がいいということだから、僕には不思議に思える。

「また今度家に寄るよ」

「水臭いこと言わなくていい。お前の家でもあるんだからな」

「……そうだね。なんかさすがに、あんまりそういう印象はないけど」

 少し呆れた、でも優しげなショージさんの笑みに、僕も笑みを返していた。

「話は終わったか? ったく長ぇよ。俺様を待たせるんじゃねぇ。ともあれ、ノンレギュレーション部門優勝、おめでとう。克樹」

 ショージさんの奥で待っていてくれたのは、猛臣。

 以前の不良っぽい雰囲気のあった彼は、大学生になって研究に明け暮れる毎日になったからか、少し落ち着いた感じになっていた。

 大学の計らいもあって、海外の大学への留学も決まっているらしい。

「というかそっちもだったよな。フルコントロール部門優勝と、世界大会出場決定おめでとう、猛臣。――じゃなくて、天堂家のお坊ちゃま」

「皮肉を言いにクリーブ杯に参加したのか? お前は」

 ショージさんの隣で、猛臣は呆れたような表情で大きなため息を吐いていた。

 二〇歳を機に、猛臣は槙島家を出た。

 単純に独り暮らしを始めたとかではなく、家族関係を断ち切る形での絶縁。その後の落ち着き先として、いまも存命である天堂翔機の子供になったと言う。

 ロボット業界に籍を置いている会社や大投資家に比べれば凄くはないが、個人としては相当な資産を持っている天堂家に跡継ぎができたことは、当時ニュースにもなったくらい大きなことだった。

 どういう思惑があって猛臣が槙島家を出て、天堂翔機の家に入ったのかは詳しく聞いてない。いろいろ彼なりに思うところがあったんだろう。

「まぁいい。表彰式までは時間があるんだ。控え室にでも行こうぜ」

「そうだね」

 そう声をかけ合って歩き出そうとしたときだった。

「克樹さんっ!!」

 走る足音が聞こえたと思ったら、胸に飛び込んでくるものがあった。

 膝裏まである長い栗色の髪をふんわりとなびかせて抱きついてきたのは、灯理。

「優勝おめでとうございますっ」

「あ、ありがとう……。でもちょっと、苦しい……」

 全力で灯理に抱きつかれて、僕はさすがに声を上げてしまう。

 というより、恥ずかしい。

 顔をぐりぐりと胸に押しつけてくる灯理は、三年が経ち背はさほど伸びなかったけれど、胸の柔らかさは高校生だったとき以上だ。

 思いっきりそれを押しつけられると、恥ずかしさを感じずにはいられない。

「イヤなんですか? ワタシにこうされるのは」

「いや、そうじゃないんだけど……」

「だったら好きですか?!」

「え? う、うん」

「じゃあワタシと結婚してくれますか?!」

 僕の胸から顔を上げ、ニッコリとした笑みを見せてくれる灯理。

 彼女の、イタズラな色を浮かべている、濃い茶色の瞳。

 僕のことを見て、僕のことを映している灯理の瞳は、明らかに楽しんでいる。

 僕が叶えた願い。

 それはリーリエの復活ではない。

 百合乃の完全復活でもなかった。

 みんなの、エリキシルバトルに参加したみんなの小さな願いを叶えること。

 それがあのとき、僕が百合乃と一緒に叶えた願いだった。

 リーリエを復活させたいと思っていた。

 百合乃に人間として生きてほしいと、リーリエの願いを完全な形で叶えたくもあった。

 でも僕は百合乃と一度別れている。

 リーリエもまた、僕に別れを告げていた。

 たくさんの人が巻き込まれたあの戦いで、願いを失った僕が叶えるべき願いはそれだと、あのときは思ったんだ。

 いまでもふと、リーリエの復活や、百合乃を人間にしてやれば、と思うことはある。

 けれどいま、僕のことをしっかり映している灯理の瞳を見つめると、その想いは霧散していく。

 ――これで良かったんだろう。

 いまはそう思える。

「えぇっと……、そ、それよりも、日本に帰ってたんだ? 灯理」

「もうっ! それくらい答えてくれてもいいじゃないですかっ。ワタシと克樹さんの間柄なんですから!!。えぇ、帰ってきましたよ。また明後日にはフランスに行かなければなりませんが!」

 肩を竦めているショージさんと猛臣のことなどものともせず、頬を膨らませながら答える灯理。

 僕の願いによって目が治った彼女は、すぐに画家としての道をまた歩き始めた。

 日本の美術系大学に進んだ彼女は、日本だけでは納まりきらず、海外に活動の場を求め、いまでは年の大半を海外で過ごしている。

 芸術の世界は広く深いものだそうで、それでも灯理は少しずつその才能を認められ、いろんなところから評価されるようになっていた。

「よぉ。近藤も来てくれたんだな」

「優勝おめでとう。……いや、オレは空港から直接ここに来る中里の荷物持ちに呼ばれただけみたいだがな」

 そろそろ離してもらおうと肩を押してるのに離してくれない灯理の様子に、苦笑いを浮かべてる近藤にも声をかける。

 荷物持ちなのは、両手に持ったデカい鞄を見ればわかるというもの。

 高校を卒業した近藤は体育大学に進み、教師を目指しているらしい。

 事件を起こしてから止めていた空手は、いまでは再開している。

 ただ、近藤くらいの才能の人はその世界には多いらしく、世界大会に出場できる見込みは薄いそうだ。

 でも高校の頃に世話になったという女性の先輩に見込まれ、彼女の家である道場にすでに入り婿状態で護身術やちびっ子空手を教える手伝いとしているという。

「灯理! いつまでそうやって克樹に抱きついてるつもり?!」

「いいじゃないですかっ。ワタシは克樹さんと久しぶりに会うんですよ? 少しくらいこうやって触れ合う時間をつくっても、罰は当たらないと思うのですけど?」

「だぁめぇー!!」

 そう言いながら僕から灯理を引き剥がしてくれた女の子。

 浜咲夏姫。

 長い髪をポニーテールに結い、フリルなんかがついた可愛らしいキャミソールを着、ミニスカートから伸びた脚をストッキングで包む活動的な感じの服装をした夏姫が、僕に微笑みかけてきてくれていた。

 背もしなやかに伸びて、僕の好みを考えてポニーテールはそのままだけど、三年前よりずいぶんと大人びた印象がある彼女。

 夏姫は火傷の男に刺されて一時意識不明にまでなった。

 でも死ななかった。

 僕が願いを叶えたとき、百合乃が配慮してくれたんだろう。傷自体消えてなくなり、僕と夏姫はいま、恋人として付き合っている。

 希望であった家政系大学に進んだ彼女とは、平泉夫人のお屋敷と都内の別宅を住処にしているショージさんに代わり、以前ショージさんが住んでいた家で同棲している。

 不満そうに頬を膨らませている灯理に舌を出して見せてる夏姫と手を繋ぎ、僕は控え室に向かって歩き始めた。

 あの戦いで、僕はたくさんのものを失った。

 でも同時に、たくさんのものを得た。

 そしていま僕は、最愛の人と一緒に歩いてる。一緒に生きている。

 大学を出た後の夏姫の進路は、まだ聞いたことがない。僕はある程度決めているけど、どうなるかはわからない。

 この先の時間は、まるでいま進んでいる通路のように、暗くて長い。

 どんな道でも、僕は夏姫となら、愛する彼女となら、一緒に歩いていける。そう思える。

 ふと横を見てみると、小さな笑顔が僕に向けられていた。

 晴れ渡った空のようなツインテール。

 いや、そこで微笑んでいるのは、金色の髪をした、パトリシア。

 ――もし、いまの僕をリーリエが、百合乃が見たら、どんなことを言ってくれるだろうか。

 いまの僕を彼女たちがどんな風に評価するのか、聞いてみたかった。

 握っていた手に力を込められ、夏姫に目を向ける。

 どこか悲しげに、でも優しい笑みを向けてきてくれている彼女。

 頷きを返した僕は、真っ直ぐに前を見て、見えてきた通路の端に向かって、強い光を放っている場所に向かって、一歩一歩、歩いていく。

 僕は夏姫と一緒に歩く。

 この先へ。

 この先の未来へ。

 

 

                    「神水戦姫の妖精譚」 完





 魔女は、ひとりではなかった!!
 世界を巻き込んで勃発した戦いに、克樹はリリエラを伴い参戦するっ。
 次々と現れる敵? 敵! 敵!! そして戦いの中ではぐくまれる、新たなる生命……。
 大切な人々を守るため、克樹は世界を敵に回そうとも戦い続ける。
 しかし、最後の敵は克樹も知る意外な人物?!
 神水戦姫の妖精譚第二幕、「神水戦姫(スフィアドール)の創世記(モノローグ)」に、アライズ!!

 なお、ウソ予告のため、続編が書かれることはありません。


 さて、「神水戦姫の妖精譚」はついに完結となりました。当初の予定では半年以上前には完結していたはずだったのですが、ずいぶん長引いてしまいました。済みません。
 ここまで読んでいただいた方には、これまで本当にありがとうございます。期間的にも分量的にもかなりの長さとなりましたが、完結することができました。本当にありがとうございました。

 せっかく完結したことですし、あまり長々とあとがきを書くのも無粋でしょうから、少しだけということで。
 神水戦姫の妖精譚は第一部を書き上げた段階では、その後のことはほぼ何も決まっていませんでした。
 第一部で出す予定で出せなかった、後に猛臣となるライバル役とかはうっすら設定があったのですが、それだけでした。最終決戦は克樹とモルガーナの決戦になるな、とおぼろげには考えていても、灯理も翔機もまだ生まれていなく、モルガーナがどんな目的で、どうしてエリキシルバトルを開催したかすら考えていませんでした。最初はメインヒロイン、リーリエを想定してた覚えもありますし。
 第一部を最初に公開した後、続きを書きたいな、と考えているときに灯理が生まれ、翔機が生まれ、その先の大方の展開が生まれてきました。
 それでもイドゥンが生まれたのは第三部を書いてた頃だったと思うので、このシリーズは第一部以外はほぼ増築建て増しの後付け継ぎ接ぎだらけだったりします。それでも完結させられたのは、たぶん克樹対モルガーナという、見ている方向も考えていることも大きく違いながら、絶対に対決せずにはいられないふたりを一番最初に出せたから、かも知れません。それと何より、ここまで読んでいただいた読者の方々のおかげです。

 そんな感じでいろいろと変化のあった物語ですが、登場人物で一番変化があったのは、やはり芳野さん。
 芳野さんは第一部で影しかなく、第二部でも存在感ありませんが、最終的には決着の鍵となる彰次のケツを叩くキーキャラに。
 これはわたし自身もびっくりしています。芳野さんだけは、第二部書き始めた頃でも本当にまったく何も考えてませんでしたからね。
 登場人物で誰が好きかと問われたら、全員好きだ、と答える以外ありません。
 でももし、その中でも印象に強い人物というと、平泉夫人とモルガーナになります。
 視野が広く、できることも多く、強くしなやかな大人の女性として描くことを心がけたそのふたりはでも、とても人間的で感情を持った人物でもありました。
 神水戦姫の妖精譚において、一番の表に立つ人物ではありませんでしたが、屋台骨を支える一番大きく太い柱が、平泉夫人とモルガーナだったと思います。

 意外と長くなってしまいましたし、まだいまの神水戦姫の妖精譚がある裏側を語りたい気持ちもありますが、こんなところで。
 この先についてはまだ何も考えていません。公開済みの作品の続きを書くか、けっこういくつもある未公開の作品でも公開するか、新作を書こうかといろいろ考えていますが、もう少し考えることにします。
 ここまで読まれた方にとって、神水戦姫の妖精譚はいかがだったでしょうか? 良かった点、悪かった点など、なんでも書いて頂けると幸いです。
 それではまた、次の作品でよろしくお願いいたします。



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