あやかし記談 さとりの語り (伊月遊)
しおりを挟む

「洗濯狐と聾唖の子供」


花などとうに散ってしまった。

滓かな残香すら今は無く、全てはただただ宵の色に落ちている。

彼はもう動かない。あの人はもう、喉を裂いて逝ってしまった。

宵の混じった茜色。あの朱が私の足下に届いても、私は未だここに居る。

 

「花枝様。もう、良いのです」

 

全ては夢だったのだろう。

淡く、そう、全ては淡く。泡沫の夢。

そんなもの、始めから無かったのだ。

 

「貴女は生きて、生きて下され。せめて、貴女だけは―――」

 

花などとうに散ってしまった。

とす、と乾いた音を立てて、持っていた匕首が畳に落ちる。

何も無い。後のこの両手にはもう、何も無い。

 

「―――せめて、一言だけでも聞かせたかったねぇ。あの子の声」

 

呟く言葉は闇に溶け、そしてすぐに消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

紅の葉が生い茂る秋の山、鮮色で染まった風景。

山裾から見える景色は、さながら複雑に織られた西陣織の呈を覗かせる。

深く草樹に覆われた山といえども、完全に人の入らぬ領域とは言い難い。

それでもこの付近に人が住み始めてから、百と二十の年が経っていた。

 

始め近隣の村々は山々に流通を閉ざされ、それでも生きるために山を削り、道を拓いた。

三の年には獣道が、五年が経つ頃にはそこが整備されはじめ、十経つ頃には踏み鳴らされた歩きやすい道に。

二十経つ頃には人が山道に店を立て、三十経つ頃には立派な街道となっていた。

 

幾重にも踏み固められてきた道、百と二十の年が作った山道を、男はゆっくりと進んでいた。

齢三十程の細身な男。髷は結わず、長い髪を藤の蔓で後ろに結んでいる。

頭に付けた蓑傘は所々解れ、背中に背負った行李は複雑な色合いとなり、丈夫そうな麻布の道中着はやはり薄汚れていて、

いかにも長く旅をしてきたという風貌である。

傘の隙間に覗くのは、吸い込まれる様な夜色の瞳。今は少々暑そうに細められている。

 

顎に溜まった汗を拭うと、手の甲をざりりと無精髭が擦る。僅かな痛みを余韻に残し、男は足を止めて空を見上げた。

鳶の遠鳴きが頭上に舞い、澄んだ空気は空を一層蒼に染める。細長く伸びたいわし雲は秋の到来を告げていた。

 

これで何度目の秋だろうか、空を見上げながら男は思う。

数えることは忘れたが、少なくとも、今足を進めているこの道よりは、多くのこの空を見ていた事であろう。男は既に三百以上の歳を迎えていた。

 

男は人の形をしていた。しかし男は人ではなかった。

人は彼の種を妖怪と呼んでいる。

妖怪と言っても千差万別、寝屋の子に聞かせる百物語に出るような、頭から人を喰らう様なものは珍しい。殆どは彼のような無害な、それこそ人と区別の付かないようなものも居る。

暑さも感じるし、寒さも感じる、飢えも感じるし、交わり、子も作れる。

 

ただ共通して違うのは、死なない事。

ひたすらに死なず、殆ど老いない事。

男はその為、未だ生き永らえている。

 

妖怪などと悟られず、人に溶け込み、害など与えず、ひっそりと、三百余りの暦を漫然と過ごしている。

旅をしているのは理由など無かった。本当はあったのかもしれないが、既に忘れてしまった。

目的地も無いまま、今日も男は歩き続けていた。所々が擦り切れた旅装に身を包んで。

 

空腹で腹が鳴る、ひもじさに急かされて男は再び足を動かす。

後二里もすれば山は越えられる、そこの麓に小さな村があると聞いた。麓の村ならば山越えの客も良く来る、宿はあるだろう。

懐の三ツ巻(財布)は軽けれど、握り飯程度ならば食えるだろう。恐らく、酒は我慢しなければならないが。

算段を練りながら歩いていると、不意に目に汗が入り、袖で拭う。

 

そこで目を閉じ立ち止まらなければ、それには気付かなかったであろう。

男の目が袖で隠れた瞬間、鳶や風の音とは違う音が耳に届いた。

 

水がじゃぶ、じゃぶ、とかき混ぜられる音、衣服を洗う音に聞こえる。

この辺りには目立つ川など無いというのに。男は不思議な気持ちで辺りを見回す。

人通りが少ない山道、男の目が届く辺りには誰も居なかった。

それでも聞こえる洗濯の音、じゃぶじゃぶという音。

 

ふいに思い出す。以前にどこか、誰かに聞いた事がある。

山の奥で洗濯の音が聞こえたら、それは妖の発した音である、と。

興味があった。男は旅路において、余り妖怪に会った事は無かったからだ。

妖怪は普段自然や人に溶け込み極力目立たない様にする為、出会っても気付かない事が多いのである。

腹は減っては居るのだが、男の興味はそちらに惹かれてしまった。

 

こちらから、聞こえてくるようだ。

 

男の足は自然と音の方向へと向かっていた。

直ぐに道を外れ、森に入り、草鞋で腐葉土を踏みしめていく。

一歩を踏むたび、土と草の匂いが鼻をつく。

空腹など既にどこかにいってしまっている。

徐々に近づく洗濯の水音、それに何かが混ざっているのに気付いた。

 

ねんねんころりや、ころりや、ころり。

 

子守唄。悲しそうに歌う女の声。じゃぶじゃぶという音に混じって聞こえてくる。

近づく二つの音、同じ場所から聞こえる様だ。

こんな山奥で何をしているのだろうか。

男の興味と速度は、交じり合う二つの音と共に増していく。

 

じゃぶ、じゃぶ。じゃぶ、じゃぶ。

ころりや、ころり。

じゃぶ、じゃぶ。じゃぶ、じゃぶ。

ねんねんころりや、ころりや。

 

進めども進めども、風景は変わらず、しかし音は近づいていく。

五分程歩いた頃であろうか、辺りの木々、その生い茂る密度が、段々と薄くなってくる。

 

急に、森が開けた。秋の日差しが網傘を通して目に届く。

 

目の前には緑にひっそりと隠れる様な渓流があった。

射光が幾万の粒となり、川面が輝きを放っている。秘境というような雰囲気である。

男は足を止めて辺りを見回した。声の、音の主を探す。

 

”彼女”はすぐに見つかった。

視界の隅に写る影。川傍にしゃがみこみ、左腕の中にある洗濯板に鳶色の帯を擦りつけ、ざぶざぶとそれを洗っている。

川面を見つめながら、そこより遠い場所を見ながら、歌う姿。数秒の間、男は”彼女”を見つめていた。

 

一匹の、小さな狐であった。

全身は夕暮の様な橙褐色の毛で覆われ、器用に二本の足で体重を支えて、細長い右手でその赤い布を洗い続けている。

忘れられた小さな渓流に、佇む一匹の狐。

 

唐突に音が止んだ。

 

「珍しいねぇ、ここに誰か来るなんて」

 

手を止め、”彼女”はぴんとした鼻をゆるりとこちらへ向ける。橙の頬毛に川面の光が当たり、毛並みが鈍い光を放っている。

 

「すまぬ、邪魔をしてしまったか」

「良いんだよぅ別に、どうせあちしの洗いもんは終わらねぇんだから。それに、あんたもあちしとおんなじさね。物の怪のたぐいだろあんた」

 

からからと笑いながら言う彼女、男は目を大きく見開き驚いた。自分の見た目はそれこそ人と殆ど変わらないのである。一目で見破られた事など数えるほどしか無い。

 

「分かるか」

「分かるさぁ、匂いでね。あちしの鼻は特別なのさ」

「なるほど、それでか」

 

流石は狐。黒く光る鼻を自慢げに、彼女はひくひくとさせた

 

「俺は『さとり』という。音と、歌声に誘われてここにやって来た」

「さとりさんかい、そうかい。それで名前ぁなんていうんだい、そりゃあ名前じゃないだろうよ」

「人の里では与那国と名乗っているが、実の名は忘れてしまった。あったとは思うのだが、思い出せん」

「そうかい、お互い歳ぁとりたくねぇもんだねぇ、さとりさん」

 

そう言って彼女はまたからからと笑い声を上げる。つられて与那国も小さく笑った。

 

「邪魔をしてすまなかった、ではな」

 

音の主を見つけると、満足感と共に寝ていた空腹が起き上がってきた。再び腹の虫に急かされはじめる与那国。

 

「おや、もう行くのかい、せっかちだねぇ」

「飯を食わせろと腹が急かしておるのでな、午の上刻(13時)までには麓に降りておきたいのだ」

「あらあらそうかい、そんなら仕方ないねぇ」

 

始終からからと笑いながら、狐はその橙色の右手と尻尾を軽く振った。

一礼してその場から離れ、元の道へと足を動かす男。一分ほど歩いた所で、背中の方からまた音と声が聞こえてきた。

 

じゃぶ、じゃぶ。じゃぶ、じゃぶ。

ころりや、ころり。

じゃぶ、じゃぶ。じゃぶ、じゃぶ。

ねんねんころりや、ころりや……

 

歩きながら不思議に思う与那国。あの狐は何をしているのだろうかと。

あの時彼女は洗濯をずっと終わらないものと言っていた。あの赤い布、果たして何を洗っているのだろうか。

空腹により徐々に遮られる思考の中、さとりは混ざり合う二つの音を聞いていた。

面向かって話した時に常時楽しそうに笑っていた彼女の歌声は、やはり悲しそうな色を持っていた。

―――あの子守唄は、一体誰に向けられているのだろうか。

その問いは、狐の声が腹の虫の音にかき消される程小さくなる頃には、既に忘れ去られていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



山々から吹く風が秋の冷気を殊更に冷たく変え、山裾に吹きそよぐ。

身を刺すような氷風が背中を伝い、眼前の寒村に消えていった。

村の入り口、かろうじて壊れ残っている木の柵が、横なぎの風でがたがたと震える。

 

寺があるのだろうか。遠くから聴こえるくぐもった鐘の音は、既に未の刻(14時)に入ろうとしていた。

与那国は帯から竹水筒を引き抜き、一口煽り、それから深い息をしてやっと人心地付く。

山を降りるまで、思ったより時間が掛かってしまった。早く今夜の宿を見付けねばならぬ。

だがそれよりも先ずは腹ごしらえだ。と、痛みにも似た空腹の感触に、すぐに思い直した。

 

そうして秋空の下を歩き始めた。

日は天より多少の傾きを見せ、時折姿を見せる野良猫は午睡の時を愉しんでいる。

薄く汗ばんだ肌には心地の良い冷風が頬を抜け、村端のすすきをそよがせる。

 

全く、のどかなものだ。しかし奇妙でもあった。

村の中を少し歩き、与那国の心中になにかざわざわとした気持ちが起き始める。

どこにも人の姿が見当たらぬのだ。

端から端まで歩いたとしても10分も掛からぬであろう村ではあるが、しかし多少なりとも人は居るものであろう。

だが声ひとつ聞こえぬ。あるのは山々からそそぐ寒風の音ばかり。

 

やがて村のやや外れに出て人家もなくなってくると、小さな竹藪の中にひっそりと民家が一つ。

与那国は試しにその家の戸越しに声を掛ける。

返事は無い。

戸を開けて中を覗くが、やはり中には誰も居なかった。

軽く中を見渡す。質素ではあるが、特におかしな所も無し、極一般的な民家の土間である。

畳にはうっすらとだけ埃が積もっており、この様子を見る限り、この家は数年も前に宿主を失ったと訳では無さそうだった。

むしろ居なくなったのはここ一週間、いやもっとつい先日の事なのかもしれない。

流行り病か何かで放棄された村なのだろうか。と男は思った。

 

がさりという物音が聞こえた。家の奥、炊事場の方からの様である。

 

「誰か居るのか」

 

問い掛ける。しかし返事は無い。

恐る恐る炊事場へと足を進める。

 

真っ先に目に入ったのは、床の上で揺れる楕円の篭。先程の音はこれが棚上から落ちた音であろう。

炊事場は土間と同じ様に質素な造りであるが、やはりおかしな所は無い。

中を見渡すが、しかし人の姿は無い。

 

いや―――居た。視線をかなり下まで下げなければ気付かなかったのだが、隅の暗がりに何かが居た。

それは男児であった。小さな男の子が膝に顔を押し付ける様にうずくまり、声も立てず静かに震えている。

 

「ああすまない、怖がらせるつもりは無かったのだが……」

 

与那国はなるべく怖がらせないよう、優しく声を掛ける。

しかし子供は未だ顔をも上げようとしない。

無理もない、見ず知らぬ男が家に上がり込んできているのだ。

 

男は、すぐに出て行こう。と一歩足を後ろに伸ばす。しかし、すぐに思い留まった。

何故この村には一人も人間の姿が見当たらぬのであろう。という事を聞こうと思ったのである。

 

「その子に話し掛けても無駄だよ」

 

しかしその問は、背後から唐突に投げ掛けられた女の声によって打ち消された。

慌てて振り返るとそこには、

 

「やあ、また会ったねえ、さとりさん」

 

と、つい先刻見たあの狐の笑顔を浮かべた、瓜実顔の女が立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「祭か」

 

ぬるい白湯を一口すすり、与那国は言った。

 

「そう、祭さ」

 

向かい合わせた女はそう返すと、同じ様に白湯をすする。

 

簡素な造りの家の部屋である。

畳が敷き詰められ、隅の方には最低限生活に必要なだけの家具が並べられている。

この部屋には今居るのは、向かい合わせた男と女と、それから男から身を隠すように女の背中にしがみつき、じいと男を見つめる子供の三人だけである。

女はお松と名乗った。正体は昼間に会ったあの狐の妖であるが、今は何処にでも居る女の姿をしている。

変幻の術など、別に妖の間では珍しい物ではない。

 

与那国はあの後、勝手に家に入った無礼を詫びて、すぐにここを去ると言った。

しかし何故か女が「まあ慌てなさんなよ」と引き止めたのである。

理由を聞くと、女もまた与那国と同じく、久方振りに妖怪と会ったのだという。そして少しばかり話がしたいという事であった。

いきなり上がり込んだ挙げ句に、とも思ったが、正直山を越えてきたばかりの与那国にとっては渡りに舟であった。そのため多少は迷ったのだが、結局了承してしまったのである。

そして少しの話のつもりが予想よりも長い話になってしまい、そうこうしている内に空腹を思い出し、遂には飯まで馳走になってしまったのであった。

全く厚かましいにも程がある、と与那国は心の中で苦く笑う。

 

「この時期、村の連中は昼の間、みぃんな隣村に行って祭の準備をしているのさ。あんたも見たろう?がらんどうになった村の風景を」

「ああ、見た。だが些か無用心では無いか?ああも全員出払っていては、それこそ物盗りの類にやられてしまうではないか」

「あちしもそう思うさぁ」

 

けどね、とお松は一口茶をすすり、それか小さくため息を付く。

 

「それでもお上にゃあ逆らえないもんさ、農民ってやつぁあね」

「うむ」

 

与那国の頷きに、「ま、この村にゃあそもそも、ろくに盗めそうな物なんて無いけどね」とカラカラ笑って答えるお松。

与那国は知っている。人とはこういう物なのだと。自らを律する仕組みを作り、自らその仕組みに入っていく。それが人の生き方である。

我々は妖の身ではあるが、それでも人の里で暮らすならば人の仕組みに従わねばならない。

のではあるが。

 

「お前は」

「ん?」

「お前は行かなくても良いのか?その祭の準備とやらに」

「ああ、あちしは良いのさ。この子の世話と、後はあちし自身も病気って事になってるからね」

 

と、また笑う狐。

たちの悪い冗談だと思った。妖怪は決して身を病むことなど無いというのに。

それに、子。見た所この村で行っている祭の準備というのは、女子供もあまねく召集されているようだ。

なればこその疑問が頭をもたげる。そういう事態であれば、この子だけでも労働力として連れて行かれてしまう物ではないだろうか。

それも無いというのは、やはりこの子は。

 

女の背に隠れたままチラチラとこちらを見る子供を不意に見やると、子供はびくりと肩をすくませて、すぐに女の背にしがみつく。

それをお松は小さく笑って、「人見知りの子でね、気を悪くしないでおくれよ」と与那国に言った。

 

「その子、やはり言葉を」

「生まれつき、耳がね」

「主の子か?」

 

しばしの沈黙の後、頷くお松。

 

「……弥助ってんだけどね。不憫な子さ。あちしがどういう声をしているかなんて事はおろか、自分の名前も知らないだろうさ。当然さね、何一つ聞こえないのだもの」

「夫は、人か」

「そう。と言っても六年も前にくたばっちまったけどね」

 

「全く、ついてないねえ」と、お松は苦い言葉を薄めるよう、口元に湯飲みを運んだ。

 

妖と契る人間は稀に居る。

それは別段おかしい事では無い。自分やこのお松の様に、人の世に溶け込む様に暮らしている妖怪など、どこにでも居るのだ。男と女がいるのであれば、何もおかしな事ではあるまい。

人と妖の子、その姿形は千差万別ではあるのだが、子供という事には人も妖もなんら変わらない。

ただ一つ違うことがあるとすれば、しばしばこの弥助の様な不遇を囲う子が生まれるという事であった。

姿や生活は同せれど、やはり根の部分では違うのであろう。完全に混ざり合う事は無く、どこかしらで無理が生じるのであろう。

 

表情の陰りは一瞬に消えた。

「おっと、お客さんにつまらねえこと言っちまったね」とお松はカラカラ笑い、それから元と同じ様子で与那国に旅の話をせがみ始める。

その後与那国は旅の途中で見聞きした様々な話をし、お松は時に大笑いし、時に真剣な眼で聞き入り、時に議論を重ね。

気が付けば外はすっかりと薄暗い中に落ち始める。

 

「あぁ、面白かった。こんなに楽しかったのはいつぶりだろう」

 

と心から楽しげに笑うお松に、与那国は「そう喜んでくれると話す方も悪い気分じゃない」と頬を掻いた。

 

「しかし随分と長居をしてしまった、すまん」

「何言ってるんだよ、長居させたのはこっちの方さ。すまないねぇ、久しぶりに面白かったもんだから、ついつい長話しちゃったよぅ」

 

と言ってお松は軽く謝って、それから、

 

「ね、もう遅いしさ、良かったらお礼に今晩泊まってっておくれよ。なんにも無いむさ苦しい所だけどさ」

 

と言ってきた。

与那国は流石にそれではそちらに悪い、宿は別に探す、と慌てて断るが、それに対するお松の「この村に他の宿があると思うかい?」という返し言葉に思わず口を詰めさせる。

そして数秒の後には、与那国はばつの悪そうな顔で、お松の申し出に許諾するのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

夜半の事である。

予想よりも気が疲れていたのであろう。この日は眠りが浅く、与那国は何度もまどろみと覚世の合間を行き来していた。

三度目の覚醒の折りである。夜もどっぷりと更けた暗がりの中でふと目を覚ますと、外から何やら声が聞こえる。

頭の薄靄が晴れていくにつれて、その声はやがて歌になった。

どこかで聞いたことのある歌。これは、そう、昼間の河原で聞いた、あの子守歌だ。

与那国は床に着いたまま、ゆるりと声のする方を見やる。

薄く開けた目の中に写ったのは、人の姿に狐の顔。

一匹の狐と、その胸で静かな寝息を立てる子狐である。

布団の中に寄り添いながら親狐は子狐を胸に抱き、優しげな声で子守歌を歌っていた。

どこか悲しげに、どこか寂しげに。

 

あの歌は何に対するものなのだろう。胸に抱いたその子には、歌など露にも聞こえぬと言うのに。

与那国は再び目を閉じる。そして、瞼の裏に映った親子を見ながら、そう一人思った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



かん、という乾いた音。

木切れが散り、横合いにからりと薪が転がる。

背後に積まれた丸太の山から適当に一つ拾い上げ、再び目の前の台座に置く。

しかる後に鉈を振り下ろすと、また、かん、という子気味のいい音と共に、薪が横に転がった。

 

既に小一時ほどは続けているだろうか。

割った薪を家の脇にある掘っ立て小屋に乱雑に積み上げ、一息。

これで幾分かは足しになっただろうか。

一宿一飯の恩という訳でも無いが、こうも恩の貰いっぱなしで居るとどことなく居心地が悪い。

そのため与那国はまだ夜も明けきらぬ未明、朝も早くに起き出して、こうして薪なぞ割っているのではあるが。

全く、こういった考えでの恩返しなどというものは、恩の掛け売り、恩着せがましいという物である。

しかし特に他の妙案が思いつくでも無し、こうしてただ汗を流す。

自分自身ながら、なんとも間抜けな事だと与那国は低く鼻で笑った。

 

唐突に目に鈍い痛み。汗が入ったのか、痛みが染みていく。

手の甲で額ごと瞼をぬぐう。

そこで丁度、背後に足音が聞こえた。

思わず首をそちらに向けるが、何も無い。

視線を下に。居た。

確か弥助といったか。目は怖れと驚きが混じった色をし、所在無く泳いでいる。

暫しの逡巡。それから弥助は、おもむろに手に持っていた手ぬぐいをこちらに差し出す。

見ていたのだろうか、俺が薪を割っていた様を。

反射的に与那国は「ありがとう」と言おうとしたが、すぐに思いとどまり、代わりに口端に僅かの微笑みを乗せて軽く頷く。

そしてその小さな手から、手ぬぐいを受け取った。

 

瞬間的に情報が伝播する。

音は無い。ただ感謝という感情だけがそのまま、弥助の心に送り届けられる。

手と手を細い管が通され、そこに勢い良く水が流れ込む様な感触。

余程の衝撃だったのだろう。弥助はその瞬間高く唸りながら尻餅を付く。

 

しまった、と与那国は思った。

思わず手が触れ合い油断してしまったせいか、彼と自分が 『通って』 しまった様だ。

与那国はすぐさま弥助に手を伸ばし、体を起こさせる。

その間もずっと大丈夫か、という言葉は彼に通っているようで、彼はぱちくりと瞬きしながら顔を見合わせて居た。

大丈夫だ、怖いことは無い。少しの間彼の手を取って、彼にそう通す。

息を大きく吸い、吐かせる。

それを繰り返し行わせ、徐々に彼を落ち着かせる。

暫しの時が経った頃には、彼はようやく落ち着き始めた。

 

「どうやったんだい?」

 

いつから見ていたのだろう。

いつの間にかすぐそこにお松の姿があった。

手には盆、その上には湯飲みと握り飯が二つばかり。

なるほど、弥助が手ぬぐいを持ってきたのは、やはりお松が言ったからか。

などと当然のことを考えながら、同時にしまった、とも思った。

見られた。

 

「何がだ」

「とぼけなさんなよ。あんた、うちの子に簡単に『深呼吸』させてた様に見えたんだけどねぇ、どうやって教えたんだい?そんな事」

 

言葉の色に刺は無い。ただし、目はしんと落ち着いている。

与那国は数瞬の後に、これが到底誤魔化しの効かぬ事と判断してため息をついた。

それからお松に右の掌を広げ見せ、続けて口を開く。

 

「―――通し、という」

「とおし」

「ああ」

 

与那国は静かに瞳の夜色を細め、自らの掌をじぃと見つめる。

そうして、ゆるりと続ける。

 

「この手でな、触り、念じる。するとそれらと、己の内に、道が通るのだ」

「……道?」

「物の例えだがな。そこから、想いを互いに伝え合える」

 

声無く、音無し。

然し、念ずれば心の根は通じ合う。悟り合う事が出来る。

それがこの男、与那国の『通し』である。

今は既に輪郭も薄ぼやけているが、忘却の淵にある一欠片には、己と同じ種の為する業である事が残っていた。

即ち、これが『さとり』なのであると。

 

秒の沈黙、それが八と続いた後に、ようやっとお松は口を開く。

しかして、それは与那国の思惑を外れた言葉であった。

与那国はこう続くと思っていた。薄気味悪いこの業を排斥せんと、今すぐここから立ち去るべし、と。

当然である。誰も彼もが、己の内なぞ覗かれとうは無いのだから。

例えそれが人であろうが、妖であろうが、関係の無い事。

だからこそ深慮を払っていた。

払うつもりであった。この業は極力使うまいと。

 

だが、それは外れた。

 

「―――名前」

 

俯き、地に目を伏せ、低い声で。

それからお松は、顔を上げる。

瞳は僅かに潤み、しかし無表情。

 

「名前、聞いておくれ。その子に、自分の」

 

言葉は途切れ途切れで。

まるでそれは、必死に感情を抑えている様。

 

瞬間的に意図が分かった。それは、業を使わずとも、ありありと分かる。

与那国は無言のまま、静かに片膝を突き、弥助の小さな右手を握る。

そして、念じた。

 

じぃと、こちらを見つめる瞳。

弥助と、お松の、似た、真剣な瞳。

暫しの間。

それから与那国は、立ち上がり、おもむろに口を開いた。

 

「やすけ」

「え」

「やすけ、だ。自分の名前は、弥助だ、と」

 

その瞬間、お松は声を上げて泣き出した。

手に持つ盆など取り落としそうになる程に。

口の内に、良かった、良かった、と繰り返しながら。

 

お松は不安だったのであろう。己が子が、己の名前すら知らないのではないかと。

その身を包む暗闇に、己の名すら知らずに震えて居るのでは無いかと。

 

与那国は小さな笑みを浮かべ、とん、と弥助の背を押した。

こちらを不安げに振り向く弥助、その震える手を取って、小さく頷く与那国。

それを見て、伝わって、弥助も合わせる様に頷いて、お松の方へ振り返る。

 

そして口を開く。

―――呻きの様な、しかし明白に意思を持った。

弥助のそれは、言葉であった。

 

ありがとう。

 

そう言っていた。

 

「居てくれてありがとう。育ててくれてありがとう。そういった、母への感謝。強い感情を感じたのだ。俺はそれを表す言葉を、弥助に教えた」

「そう、かぁ」

 

それを聞いて、お松はいよいよ感極まった様に泣きじゃくる。

釣られ、弥助も声を上げて、大きく泣き出す。

 

近けれど遠き距離。いや、近きからこそ、殊更に遠き距離。

己が存在を疎ましく思われているという猜疑の意。恐れ、畏れ、怖れ合い、血の縁などは役に立たぬ。

与那国が伝えたのはほんの二、三言である。

たかがそれですら、彼らには十分であった。

弥助が生まれて五年。彼がこの世に生を受けてから、お松が初めて耳にした、弥助の意思であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

奇妙な縁とでも言うのだろうか。

それは巡り合わせの偶然に過ぎぬ話。

しかしお松にとっては、それは大きな意思を持った何かによる、天命の様にも感じたのだろう。お松はこの事を仏様のおはからいだと言った。

それを聞き、我々のように人ならざる者に御仏の便宜が有るのかと与那国は心中で小さく笑うが、それも仕方の無き事。

自身とて、この奇異に幾ばくかの驚きを感じてるのだから。

 

「分かった」

 

そうだけ言い、頷く与那国。

それを見て、お松は心の底から感謝を伝えるのであった。

 

お松はあの後、一つの申し出を行う。

それはただ一つ、弥助に言葉を教えて欲しいという事だ。

読む。唇を聞く。そして、話すという事。

他に誰に頼めようか、このような事を。

相手は生まれ付きの業を負う、聾の子である。

生まれつき何も聞こえぬただの童に、文字はともかくとして、話す事が出来る様にするという事は通常不可能に近い。

後天的にその災を得てしまう者には問題も無いというが、先天的ならば絶望的である。

何故なら彼らは、人の声など聞いたことも無ければ、己の声すら分からぬのだから。

だが、それらを関係無くする者が居る。

声なぞ要らぬ、音を伝えうる者。

それがさとりというものであった。

 

幾度とも、額を床に擦りつけるかの如く、深く礼を言うお松。

その言葉に与那国は 「なに、正直、こちらも都合が良い」 と一言。

えっ?と言葉を返すと、彼は一言、口端を持ち上げて、 

 

「こちらも恩の返し方を探していた所だ」

 

と言うのであった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



元々素養もあったのであろうが、これもまた通しの業の為す意味が大きいだろう。

弥助は二日で声を覚え、更に五日で唇を覚え、数えて十を過ぎる頃には、簡易な会話が出来る程となっていた。

といっても言葉の数や有り様は余りにも多い。凄まじき速習といえど、未だ二歳の童程度にしか話せていない。

それでも無と有はあまりにもかけ離れており、それは母であるお松とのやり取りが出来るという事である。

腹が減った。眠い。遊びたい。

何気ない言葉、やり取りにも満たない些事。

たったそれだけでも、お松は本当に、心の底から喜んでいた。

 

与那国はふと思う。己も木の股から産まれてきた訳では無く、親と呼ばれる物が居たのであろうか。

であろうか、というのは、幾ら己の記憶に訪ね聞いたところで、親と子と、そういった光景がついぞ思い出せぬからである。

どこで産まれたか、誰と暮らしたか、どこを歩いたか、何を見たか、何を思ったのか。

幼き頃の記憶が忘却と現の狭間に漂うている。

近頃はとんと過去の事が思いだせぬ。思い出せるのはせいぜいがここ三十年程度の話だ。

こうして旅をするにも、何かの理由があった筈ではあるのだが、やはり与那国には思い出せぬ。

過去も忘れ、為すべき事も忘れ、ただたださ迷う様に旅を続けるだけ。

果たして己とは一体何なのだろう。

 

「あそぶ」

 

小さき声。

それが思慮のまどろみに浸っていた与那国を引き戻した。

視線を向けると、幼き童が一人、書き散らした半紙の中に座り込み、困った顔で与那国の袖を引いていた。

と、すぐに近くに居たお松がやって来て、弥助の頭を軽く叩くと、

 

「こら、駄目だよぅ。あんたまだ勉強が終わってないじゃないのさ」

 

ぺしりという乾いた音とその一言。

返答は言葉ではなく、恨みがましく母を見る弥助の視線であった。

渋々とまた膝元の硯から筆を取り、新品の半紙を手元に手繰り寄せる。

それを見てお松は、先ほど叩いた弥助の頭を、今度は優しく撫でるのであった。

何気のないやり取りに、与那国は思わず、口のなかで小さく笑うのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

ねんねん、ころりや。

 

声。高い声。

 

ころりや、ころり。

 

歌である。

 

呼ばれる様に目を開くと、宵の香が鼻をくすぐった。

 

窓から差し込む月色に、それと融け合うような橙褐色の毛。

狐が一人、胸の中に子狐を抱いて、布団の上に座っている。

 

その様子は、人も、狐も、何も変わらぬ。

ただの親と子、それだけである。

 

「子守歌か」

 

ぽつりと言うと、お松は歌を止めてこちらを見るや、

 

「すまない先生、起こしちまったかい」

 

と小さな声で謝った。

この所、お松は自分の事を『先生』と呼んでいる。

気恥ずかしいので止めてくれと言っても、我が子を教えているのだから間違っていない、と頑なにそう呼んで聞かぬのである。

与那国は 「いいや、別に良い」 と身体を起こしながら言う。

 

「やっとこさ眠ったみたいだよ、この子、寝付きが悪いんだから」

 

と、はにかみながら、お松は弥助を布団に寝かせる。

そうしてこちらを向くと、もう一度 「本当にすまないね」 と謝る。

与那国は小さく笑うと、ふと思い出す。

 

「その歌」

「ん?」

「初めて会ったときにも歌っていたな」

「……ああ、そうだねぇ」

 

与那国は僅か十日ばかり前の事を思い出していた。

峠を越えている最中のことだ。

ふと耳を澄ますとどこからかこの歌が聞こえてきて、誘われるようにそちらに向かうと、そこにお松が居たのである。

あの時歌が聞こえていなければ、こうして今ここに居ることも無かったのであろうか。

そう思い、与那国はこの歌に対しても奇妙な縁の様な物を覚えるのであった。

 

「どこにでもある歌だけど。この歌ね、おっかあに教わったんだ」

 

静かな声で言うお松。

 

「母親か」

「そう。って言ってもね、もうろくすっぽ顔も覚えちゃあいないけど。覚えているのはこの歌だけさ」

 

お松は自嘲ぎみに口端を持ち上げる。

 

暫しの間。

ふと与那国は、以前にも覚えた疑問を思い出した。

 

「何故歌うのだ」

「何故って?」

「その子は、耳が聴こえぬのだろう」

「……ああ」

 

「そういうこと」と口のなかで小さく呟くお松。

 

二人は無言になり、辺りは子狐の立てる寝息のみに包まれる。

そうして、彼女は再び口を開くと、

 

「むかしむかし、ある所に一匹の狐がおりました」

 

唐突にそれは始まった。

 

与那国の僅かな困惑が伝わったのか、お松は苦く笑い、

 

「どこにでもある歌の、どこにでもある昔話さ。聞いておくれよ」

 

と続ける。

そうしてまた語り出す。

 

「狐は遠く遠くのお山の向こう、とても遠くに住んでいて、そこには沢山の仲間たちがおりました。

狐は長くの間そこに住んでおりました」

 

語る口調はどこか楽しげに、それでいて寂しげに、

 

「ですが、ある時、とある狐が他の仲間たちと喧嘩をしてしまい、仲違いしてしまいました。

それでその狐は自分の子供を連れて、お山の家から出ていったのです」

 

相反する幾つもの感情を含んだ声で、お松は語る。

静かに、優しげに、哀しむように。

 

(これは……お松の過去、か)

 

与那国は心中で一人ごちる。

音は立てず、耳を立てて。

 

「山を降りた母狐は幼い子狐を養うために、遠縁のつてでとあるお家に奉公する事になりました。

母狐は子を育てるために、一生懸命に働きました」

 

その遠い目には何が写っているのか。

与那国はただ静かに話を聞く。

 

「春が過ぎ、夏が過ぎ、秋になり、冬が終わり、また春がやってきました。暑い日も、寒い日も、母狐は一生懸命働きました。

そうして、いつしか身体を壊してしまいました。

そこで今度は母の代わりに小狐が奉公に出ることになりました。小狐は母を助けたかったのです

それで……」

 

と言葉を止めるお松。暗がりの中で、表情は見えない。

「それで?」 と与那国が続きを促すと、お松は小さく笑みをこぼす。

 

「それで、色々あってこいつが産まれて、この場所に親子二人で住んでいるって訳さ」

 

そう言ってお松は弥助の頭を優しく撫でる。

仄かな月明かりが頬を差す。

ふわりとした光の中で、お松の顔は、小さく、優しげに、微笑んでいた。

 

「先生。この子には、幸せになって欲しいよ」

 

呟くように、お松はそう言う。

 

遠く離れた土地に幼い子どもと二人、いや二匹か、移り住み、女手一つで切り盛りする。

それがどれだけ大変な事か、言われなくてもありありと分かろう物。

親の、そして子の。そのまた子の。

人の縁は続く物。血も意思も、境遇も、脈々と続く物。続けられる物。続けようと思えば、続く。妖もまたそれは同じである。

だが不幸は続かせなくとも良い。それもまた、自らが選べる物だ。機会さえあれば、ではあるが。

 

「歌はその為、か」

「まじないみたいなもんだよ。笑ってもらったって良いさ」

「いいや、悪くない」

 

そう、悪くない。

そう思うことも。そうすることも。

妖が不幸を払わんと思う事も。そして、それを僅かでも手伝えているならば。

 

「悪く無い」

 

与那国は口の中で小さく笑い、もう一度そう言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

明くる日の朝である。

与那国が朝、井戸端で顔を洗っていると、遠くの方からごーん、という腹に響く大きな音が聞こえてきた。

なんだろうと思っていると、村の方から大勢の人の声。続いて大きな木材やらを運ぶ人衆たちの姿が現れた。

皆一様に大きな荷物を運んでおり、威勢の良い掛け声と共に作業を続けている。

数的に、この村の衆だけでは無い。おそらく他所の村からも大勢人が集まっているのだろう。

 

祭か、と与那国は思った。

そういえば十日ほど前にお松がそんな事を言っていた。

これだけの人数で、これだけの日数を掛けて、さぞや大きな祭なのだろう。

 

そんな風に与那国が思考に浸っていると、すぐ近くに足音。

振り返ると、そこには見知らぬ男が立っていた。

 

年の頃は四十の半ばといった所か。身なりの良い、如何にも宮仕えといった風体の壮年である。

鬢の端に白き物が混じりども、身体の方はがっしりとしている。

腰の大小は飾りではないだろう。

 

「何者か」

 

低い声。

明らかに警戒しているのが分かる、そんな声である。

 

「俺は与那国という。とあるきっかけでここの者に一時の宿を借りている。お前はお松の知り合いか」

「その名を呼ぶでない、素浪人風情が。野良犬の様に転がり込みおって」

 

今度は吐き捨てるように言う壮年。

 

「失せよ、下郎が。ここに御わす方は貴様の様な犬が会える様なものでは無いと心得よ」

 

そう言って壮年は刀の柄に手を掛ける。

与那国は身構える。

目の前の老人が、自分が逃げなければ本気で切る気である事が伝わってきたからである。

やはりこの老人、只者ではない。と与那国は思った。

 

風が凪いだ。

 

「わるい、ちがう」

 

と、声。

幼き声である。

声の方を見やると、いつから居たのか、丁度与那国の後ろの方に弥助の姿があった。

 

「―――弥助、様?」

 

その姿を見るや否や、老人は心底驚いたという表情で唇を震わせ始める。

 

「よなくに、わるい、ちがう」

「弥助、様……。言葉を……お言葉をっ……!おお……おお……っ!」

 

そうして老人は最早こちらに意識は無く、もつれる足を引きずる様に弥助のそばまで駆け寄り、

膝を付き、弥助を見つめる。

その老人から身を隠すように、与那国の背に隠れてぎゅうと袖を掴む弥助。

 

「何故……何故、この様な……」

 

すぐに老人の目からしとどに涙が溢れる。

まるで仏の奇跡を見たかの如き、そんな表情で。

その老人に、与那国はおもむろに手を差し出す。

 

「手を」

 

一瞬の逡巡。その後に、老人は訳も分からず与那国の手を取った。

 

瞬間的に意識の奔流が老人を包み込む。

与那国と老人が細い管で繋がり、そこに大量の水が流れ込む感覚。

『通し』である。

 

「これは」

「口で言うよりも早いと思ってな」

 

そして、秒の後には、老人には全ての事が伝わっていた。

手を離す。

老人の目は未だ涙で赤く腫れれど、それを覆うように白黒とさせている。与えられた事実を飲み込むのに苦労をしているのだろう。

与那国は未だ背中に隠れている弥助の頭を撫でると、弥助はほっとした表情で与那国の袖を離した。

 

数十秒の沈黙が続き、

 

「―――与那国、殿と仰ったか」

 

老人は静かに口を開く。

 

「数々の無礼、誠に申し訳ない」

 

そして、深々と頭を下げ、目を拭ってから立ち上がった。

 

「まさか、ぬしも妖とは」

「ぬしも、とは、まさかご老体も?」

「儂は人間ぞ。しかし、そなたの後ろに居る方がそうでないのは分かっておる」

 

つまり、彼は弥助とお松が妖怪であると知っている。

そして、その他の事も。

 

「色々と聞きたいことがあるが、まずは一つ」

「なんだ」

「ご老体、あなたは何者か」

 

与那国に問われ、老人は目を閉じ、逡巡する。

そして数秒の間の後に、与那国の目を見て、重々しくこう答えた。

 

「名乗り遅れ申した。儂は桜忠家家老、久光吉右衛門と申す」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 

家老、と、眼前の老人は言った。

人であらざれど、人の世に永く暮らす与那国には、それがあまり庶民にお目見え叶わざる高位であることが分かっていた。

それが何故にこのような場所へ。

 

「吉右衛門、と言ったか。貴方は一体―――」

「そいつはあちしの客だよぉ、先生」

 

と、そこで不機嫌な女の声。

目をやるとそこには、寝崩れたのであろう、着物の裾をはだけさせたお松の姿があった。

顔にいかにもな不機嫌面が浮かべ、お松は。

その彼女の姿を見るや、吉右衛門は、

 

「花枝様!」

 

と驚いた顔で叫んだ。

それを聞いて、お松は更に表の情をしかめると、

 

「何度も言ってるでしょ、吉さん。その名は辞めてって」

 

と頭を掻いてそう言った。

それから未だ怯え顔の弥助へと近付くと、「大丈夫だよ」と柔らかく目を細め、やおら優しく頭を撫ではじめる。

そうすると、弥助は片手で与那国の袖を掴みつつ、もう片手でお松の着物裾を掴んだ。

 

「……驚いたかぃ、吉さん」

 

我が子の頭を撫でながら、優しげな表情でお松は言う。

数瞬の後、それが自分に向けての言葉と分かるや、吉右衛門は 「度肝を抜かれるどころではございませぬ」 と頭を振った。

 

「弥助様が言葉を発しておられる。言葉を聞いておられる。

儂が前回訪ねたのは僅かに半月前。その間に、よもやこのような奇跡があろうとは……」

 

とそこまで言ってから、吉右衛門は 「いや」 と言葉を区切り、与那国の方へと向き直すと、

 

「奇跡などではござらんな。与那国殿、まっこと、有難く思い申す」

 

と、先ほどと同じように深々と頭を下げた。

 

「ただの成り行きというだけだ、あまり気にするな」

「いや、何卒どうか、礼をさせてはもらえぬか。主は弥助様、いや、永盛四万石の救い神よ。この礼は必ずや厚く桜忠の家を上げて」

 

そう興奮してまくし立てる吉右衛門を 「待て、待て」 と手で制す与那国。

 

「そもそも俺は何も事情を知らぬし、話が見えぬ。そもそもご老体はお松と何の関係があるのだ」

「ぬ、そ、それは」

 

はっと我に返った吉右衛門は、すぐに慌てて口をつぐんだ。

そうして、昂ぶりからの失言だったのであろう、寄辺を失ったように目を泳がせている。

 

「関係ないよぉ、先生。ただの古い知り合いってだけさ」

 

その気まずい間をすぐに払ったのはお松である。

そちらを見やると、再び不機嫌な表情を浮かべた女が居た。

 

「そうさぁ、あちしも弥助も関係無い、もう何も関係無いのさ。分かったらさっさと帰っておくれよぉ、吉さん」

「ぬ、むう」

 

そのままお松はずいと一歩前に出て、吉右衛門の目の前に立った。

 

不意に、与那国の袖がぎゅうと引っ張られる。

目をやると、弥助が怯えに震えながら、更に強く袖を握っていた所だった。

 

吉右衛門はお松に一瞬気圧された後、「しかし」 と負けじと語調を強める。

その顔にははっきりとした焦燥が浮かんでいた。

 

「しかし、しかしながら。事はいよいよ火急にございます。最早一時の猶予もならぬのですぞ」

「だから関係ないって言ってるだろう、帰っとくれ」

 

取り付く島も無いとはこの事か。

つんとすますお松に、対照的に唇をわなめかせる吉右衛門。

そうしてこれ以上話すことは無いと言わんばかりに、お松は弥助の方に戻り、未だ震える頭を撫でると、優しげな顔でこう言うのであった。

 

「さ、弥助。外は冷えるよぉ。戻って勉強の続きさぁ」

 

弥助はお松を見上げると、狼狽えながら何度か与那国と吉右衛門の顔を見比べ、それからお松に対して小さく頷き、お松の手を握った。

それから与那国にちらりと目だけやって、

 

「先生も」

 

と言うと、すたすたと家の戸まで歩いて行ってしまった。

それを見やるや否や、吉右衛門はいよいよいても立ってもいられぬように大きく声を上げた。

 

「おっ、お待ちを、花枝様!」

 

「その名で、呼ぶんじゃないよっ!」

 

きん、と、辺りに声が響く。

 

荒げた声と怒りの形相。

 

その余韻が尽きる僅かな間に、花枝と呼ばれた女性の情は、怒りの色から罰の悪そうな悲しみへと移っていた。

女の眼には、弥助の息を飲んだ怯えた顔があった。

 

「ごめん」

 

その弥助の頭を優しく撫でてから、女は子を家の中へと追いやる。

 

そうして吉右衛門に背中を向けながら、女は静かに言った。

 

「―――花はとっくに散ったんだ。

あちしはもう花枝じゃない。

松。

ささくれ立った、ただのお松さ」

 

その声は寂しげで。

それでいて、どこか嘲りの色が混じっていて。

 

それきり目も合わせず、お松は後ろ手で戸を閉める。

辺りには風の音と、遠巻きな祭りの準備の音と、それから与那国と吉右衛門だけが残された。

 

暫しの間。

 

吉右衛門は大きくため息をついた。

 

「花は散った、か」

 

最早終わりか。

そう独りごち、自嘲混じに口端を持ち上げると、吉右衛門は与那国に一礼する。

 

「見苦しい所をお見せして申し訳のうございます。

弥助様の礼はまた近い内に……今日はもう帰りまする故」

 

そうして吉右衛門は俯きながら、おぼつかぬ足取りでとぼとぼと去っていく。

与那国はその背中に、最後まで声を掛けることが出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

硯に筆を置いてひゅうと息を吐くと、与那国は大きく伸びをした。

格子窓から透き通す明かりが、ちらちらと舞う埃を照らす。

その隙間から、筆を持ったまま弥助が覗き込んでくる。

 

「やすむ?」

「ああ、少しな」

 

そう言って与那国は小さく微笑むと、おもむろに立ち上がる。

 

吉右衛門という壮年が訪ねてきた明くる日の昼であった。

家の中にはお松はおらず、与那国は既に日課となった弥助への勉強を行っていた。

お松はというと、曰く「洗い物だよ」と言って出払っている。

 

今に至るまで、件の事が話題が出ることは無かった。

しかし与那国はそれを無理に話そうとはしなかった。

あの出来事、のっぴきならぬ剣呑さを感じてはいたが、奇妙な縁はあれど、

所詮流れ者の自分が踏み込むべきではないと思ったからである。

 

この辺りが潮時だろう、と与那国は考えていた。

弥助はたどたどしいながらも普通に会話が出来るほどには成長しており、

もはや自分が居なくとも言葉は覚えられるであろうところまで来ている。

成り行き程度の恩義の返物としては申し分ないであろう。

 

そんなことを考えながら、与那国は水を飲むため台所の水瓶へと近づく。

しかし瓶の蓋を開けると、そこには僅かばかりの水しか入っていなかった。

汲み置きが無くなっていたか、と与那国は面倒そうに頭を掻く。

 

「ちょっと一人でやっていてくれ、井戸に行ってくる」

 

と弥助に言い、桶をかつぐ与那国。

弥助の素直な頷きを見届けてから与那国は戸を開ける。

 

 

ゆるりとした空気が、途端に切り裂かれる気がした。

戸を開け、目に飛び込んだのは、見覚えのある壮年。

吉右衛門である。

 

一瞬驚き、それから壮年の真剣な目を見やるや、与那国はちらりと弥助の方を見やる。

そして手元の半紙に意識が向いていて壮年の存在に気付いていない事を確認すると、そっと後ろ手で戸を閉めた。

 

そして身振りだけで 「向こうへ行こう」 と促すと、吉右衛門は無言で頷きそれに従った。

 

 

 

 

 

 

家から少し離れた古井戸のある場所まで二人は歩く。

与那国はやおら持っていた桶を下ろすと、井戸脇の釣瓶を手に取りながら口を開いた。

 

「すまんな、こんな所まで」

「何を言うか、気を使って頂きこちらこそ有難く思う。弥助様を怯えさせぬ配慮であろう」

 

そうしてまた昨日のように礼をする吉右衛門を見て、与那国は苦く笑いながら釣瓶を手繰る。

 

「残念だがお松は居ないぞ、洗い物だそうだ。時か日を改めるんだな」

「洗濯、か……」

 

軽く言った言葉に、吉右衛門は過剰に顔をしかめる。

 

「主は、花枝様、いや、主にとってはお松か。彼女が何を洗っているか、知っているか」

「む、ただの汚れ物であろう」

「……」

 

そうして辛そうに俯く吉右衛門。

洗濯。そういえば、僅か十日ばかり前ではあるが、初めて会った時にも彼女は洗濯をしていた。

元の姿に戻り、日の当たる川の縁で、子守唄を歌いながら。

今日もあそこで洗濯をしているのだろうか、あの時の姿で歌いながら。

 

吉右衛門は思考を払うように頭を振り、それからすっと与那国の目を見つめる。

その表情は真に入ったものであった。

 

「今日は花枝様に会いに来たのではない。主に、与那国殿にお願いを申し上げに参ったのだ」

「俺に?」

「うむ」

 

言うが早いか、唐突の出来事であった。

吉右衛門がいきなりがばりと地面に掌と膝をついたのである。

そうして額を地面にこすり付けるように頭を下げると、

 

「与那国殿、何卒お願い申す! 桜忠家をお助け頂けぬだろうか!」

 

と、吉右衛門は大声で叫んだのであった。

 

あっけに取られた与那国の手から、釣瓶がすり抜け井戸底へと落ちていく。

小気味の良い大きな水音が響くと、ようやく与那国は慌てて彼へと駆け寄り、肩を抱えるように持ち上げた。

 

「いきなりどうした、俺には全く話が見えんぞ。そんな事をされても迷惑だ」

「ぬ、む、むぅ」

 

吉右衛門は己がした事を恥じると、「面目次第もござらぬ」 と頭を下げる。

 

「しかし、最早頼めるのは主しかおらぬのだ。弥助様をお助け頂いた、与那国殿しか」

「だからそれは成り行きで……まあ、それはもう良い。まずは立ってくれ」

 

そうして素直に立ち上がると、恥の混じった顔で吉右衛門は言う。

 

「儂は些か、情が昂ると目の前が見えぬようになってしまう気があるらしい。ご無礼致した」

「俺は気にしてないので、別に良い。……それよりだ」

 

大きくため息を一つ吐き、それから与那国はこう言った。

 

「まずは色々と教えてもらおう。

救うだの救わぬだの、何を言っているか分からぬが、それよりも分からぬ事が積み重なり過ぎているからな」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 

 

枯れ葉を踏む音。

 

乾いた土の感覚が草履越しに足に伝わり、身体が沈む。

ひゅうひゅうとした冷たき風が柳を撫ぜ、その穂束を揺すっている。

柳穂の向こう、枯れ色の中に、やがて石造りの階段が姿を見せた。

 

二人はそこを登っていく。

二人とは、与那国と、そして半刻ほど前に久光吉右衛門と名乗った壮年である。

 

十段も登らぬ内に、朱の煤けた鳥居が姿を見せるや否や、すぐにこじんまりとした境内が目に入った。

その端で、袈裟姿の老婆が一人、ほうきで枯れ葉を集めている。

吉右衛門がその老婆に向かって歩き出すと、老婆は顔を上げるや否や、大層驚いた顔をして、

 

「これはご家老! 気が付きませんでして!」

 

と破顔した。

それに吉右衛門は困った顔をして、「あまり大声でそれを言うでない」 と苦く笑う。

 

「急ですまぬの、住職。一つ、部屋を貸して欲しいのだが」

「は、部屋でございますか」

 

「うむ」と吉右衛門が小さく頷くと、住職はちらりと与那国の顔を見て、それから破顔し、

 

「かような小汚い寺で良ければご自由に。少し片付けて参りますれば、暫しそこでお待ちなされよ」

 

と、二つ返事で本殿の奥へと入っていった。

それを見送りながら、与那国は吉右衛門に「随分と話が早い事だ」と言う。

その言葉に吉右衛門は、「言ったであろう、馴染みだとな」と、小さく笑みを浮かべた。

確かに半刻ほど前、吉右衛門はそう言っていた。この壮年が名乗ったすぐ後の話である。

 

あの後、与那国はすぐに吉右衛門へと事情を尋ねんとした。

しかし吉右衛門は険しい表情で「ここでは話をし辛い」と言い、そしてこの寺に連れて来られたのである。

曰く、顔馴染みの住職が居る寺があるとの話であった。

 

弥助も付いて来ようとしてはいたのだが、与那国は話の内容になにか只ならぬ雰囲気を感じ、それを止めた。

そして彼と会った事をお松に言わぬよう口止めし、家に置いてきたのである。

弥助には「祭の準備の様子を見てくる」と言うように伝えてある。

齢十にも満たぬ童ではあるが、あれで伝われば良いのだが。

 

「弥助様が心配か」

 

ふとめぐらせていた思考が、ぴたりと当てられたようだ。

顔に出ていたのであろうか、与那国は頬に手を当てて口端を苦く持ち上げる。

 

「さとりが心中を読まれるとは、形無しだな」

「違うない」

 

そう言ってにやりと笑う吉右衛門。

 

「ま、問題あるまい。弥助様は聡明ゆえな」

「何故言い切れる」

「眼、じゃ」

「眼?」

「左様。あれは、先代によう似ておられる。あれは、良き眼じゃ」

 

そう言って吉右衛門は目を閉じる。まるで瞼の裏に何かを見ているかのように。

いや、おそらく見ているのだろう。その、先代と呼ぶ人物を。

 

その人物について与那国が尋ねようとした瞬間、本殿の入り口ががらりと音を立てて開く。

音の鳴る方を見やるや、そこには袈裟姿の老婆がにかりと歯を見せて笑っていた。

 

「遅うなり申し訳ない。ささ、こちらへどうぞ。熱い茶もあります故」

 

そう言われて己の身体が冷えている事を思い出す。

どのみち、全て尋ねる事。

茶でも馳走になりながら、ゆるりと聞くことにしよう。

与那国は先に歩く吉右衛門の背中を見ながら、そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「改めて名乗らせて頂こう。わしはこの永盛四万石を治める桜忠家の家老、久光吉右衛門と申す」

 

吉右衛門は開口一番にそう言った。

 

通された寺の一室。

ひんやりとした、畳を敷き詰めた部屋である。

元は寝室であろうか。縁台に続く障子戸を除いて、二方が襖に囲まれた小さな部屋だ。

半開きの障子戸から光が漏れ込み、時折差し込む静かな風が頬をくすぐる。

 

与那国は茶を一口すすり、湯気の中で答える。

 

「俺はさとりという妖だ。人の世では与那国と名乗っている」

「どちらで呼べば宜しいか」

「どちらでも」

 

「うむ」と頷く吉右衛門。

そして深々と頭を下げると、

 

「では与那国殿。改めて、弥助に言葉を教えてくれた事、感謝致す。この御恩、誠に返しきれる物ではない」

 

と重々しく言う。

それを手で制す与那国。

 

「そう頭を下げなくとも良い。こちらも向こうへ恩を返したまでの事だ」

「一宿一飯というやつか」

「素性も分からぬ俺に、同じ妖の馴染みというだけでな」

 

既に吉右衛門は『通し』により大枠の事情を知っている。

それ故に吉右衛門は、「そうか」の一言で頷くのみであった。

 

「ここへは暫く居るつもりかな?」

「あて先も無い旅暮らしなものでな、飽きたらまたどこへでも行くよ」

「左様か。手前味噌だが、この辺りは水が良く、酒が良い。与那国殿はいける口かな」

「ほどほどに」

「そうか、そうか。では近いうちに、馳走に参るぞ。与那国殿には礼の一つもせねばな」

 

と、吉右衛門は満足げに笑う。

一方の与那国は怪訝な表情を浮かべた。

 

「分からぬ」

 

と与那国。

 

「何がだ?」

「俺は妖ではあるが人の世界に長く暮らしている。ご家老ともあれば大層位が上の人間だという事は俺にも分かる。

何故そんな人間が、旅に暮らす見ず知らずの俺に頭など下げるのだ」

「……それは」

 

与那国の言葉に、吉右衛門は途端に慌てた顔を見せ、口を噤んだ。

与那国は続ける。

 

「その様な者が、何故お松の子を敬うのだ」

 

吉右衛門はいよいよ額に汗を浮かべ、身じろいだ。

恐らくは予め言う覚悟をしてはいたのだろう。だがいざとなって踏ん切りが付かぬものと見える。

それを見て取れたので、与那国は何も急かさず、促さず、ただじっと待つばかりであった。

 

暫しの間。

 

「他言、無用ぞ」

 

数秒の躊躇いの後、吉右衛門は念を押す。

与那国は無言で頷く。その表情に影は一つもない。

 

吉右衛門は茶を一口、それから大きく息を吐いた。

 

「―――お松様、いや、花枝様の子は、かつての我が主の子でもあるからだ」

 

ぱしり、と家鳴りがした。

 

長き間が続く。

 

誰も話そうとしない。

無音である。

 

吉右衛門の額には、じっとりとした汗が浮かんでいる。

 

「かつての主とは、つまり」

 

与那国が口を開くと、吉右衛門は無言で頷き、

 

「桜忠家第十六代目当主、桜忠宗吾の嫡男であり、次期当主であられた桜忠清次郎様である」

 

そう答えた。

 

与那国は無意識に茶をすする。

そして己の喉がひどく乾いていた事に気付く。

 

「加えて言うならば、清次郎様は死ぬまで花枝様以外の妻を娶らなかった。また、弥助以外は子も為しておらぬ」

「それは」

 

つまり、弥助は本来であれば桜忠家を継ぐ次期当主という事になる。

それが何の因果でこの様な。

 

「今の当主は」

「形の上では先代が務めておる。しかし、既に病に伏せられており、あと幾らも持つか分からぬ」

「そんな境遇の者が、何故あのようなあばら家に住まわせているのだ。城なりどことなりと住まわせれば良いだろう」

「わしとてあのような場所に住まわせたくは無い。しかし駄目なのだ。花枝様が頑としてあそこを動こうとせぬ」

 

そう言って、悔しげに首を振る吉右衛門。

 

「生活に不自由の無いよう十分な援助はしている。しかしその金も生きる最低限にしか使われておらぬのだ」

「何故、その様な」

「……責めておるのであろう。己を」

「責めている?」

 

ため息を一つ。

音は無い。ただ静かなままである。

 

「花枝様は、未だあの事件の事を、己のせいだと悔いておるのだ」

「事件?」

「―――かつての我が主、清次郎様がお亡くなりになった事件よ」

 

強い語調で、壮年は言う。

強く握りしめられた手は、微かに震えていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 

「事の起こりは二十と四年も昔の事よ。桜忠家の持ち城に、とある女性が幼き娘を連れ立ってやってきたのが始まりだった」

 

吉右衛門は静かに語り出す。

与那国はただ吉右衛門を見据えるばかりである。

 

「名を桔梗と言ってな、年の頃は二十と幾つか、娘の方は二か三。丁度今の花枝様と弥助様のご年齢と似通っておるの。

かの桔梗と名乗る女が連れた子供こそ、花枝様であった」

 

そうして壮年は少しだけ目を細める。何か懐かしいを思い出すように。

 

「間もなく桔梗は遠縁のつてとかで、桜忠家の侍女として働き始めた」

「侍女として、母親が、か」

「大層気の届く、働き者の女性であったよ。今思えばお顔も花枝様によう似ておられたな」

「遠縁のつてとは?」

「それは分からぬ。だがそう聞いておったし、特に気にもせなんだわ」

 

与那国は思い出していた。前にお松から聞いた、幼き頃の話を。

同族の村より外に出て、人里で暮らし始める話。

妖と桜忠家に何のゆかりがあったのだろうか。

 

「女性は働いた。花枝様の為であろうそれは、時に身体を壊す程であった。

それでも己を誤魔化すようにして、彼女は働き、働き続けた。身を粉にしてな。

城内での聞こえも良く、ただの侍女でありながら、彼女の評判は当時奉行位であり、清次郎様の目付け役でもあった儂の耳にも届く程であった」

 

恐らく、彼女は己の居場所を作っていたのであろう。

異郷の地で、異種族の城で、彼女はそれでも懸命に生きていた。幼き我が子の為に。

 

「そして数年が経ち、桔梗は倒れた。妖といえど無理が祟ったのだろうな。

彼女は間もなく床に伏し、代わりにその娘が城に出ることとなった」

「お松が」

「左様。桔梗は止めたが、彼女自身の願いでな。幼いなりに気に病んでいたのであろう。自分のせいで母が倒れたと。

こうして花枝様は十五の頃に奉公に出た。働き、母の看病に努めた。

働き者の桔梗は城の者にも慕われておってな、城の者共も良く見舞いに行っておったようだ。

しかし、そのかいも無く……それから三年と経たずに、彼女は命を落とした」

「……命を?」

 

与那国は疑問の声を上げる。

老いず、病まず、永遠にも生きうる妖にとって、三年は短い。恐ろしく短いのだ。

そして、永遠を生きる妖にとって、死の可能性は一つしかありえない。

 

それすなわち、他の者、あるいは自分の手により傷がつき、殺されるというのみである。

 

お松の心中たるや、想像を絶するものだっただろう。

同族を捨てた今や、幼き彼女にはたった一人の拠り所なのだ。

そんな彼女の拠り所は、何かの理由で死を与えられた。

ましてやそれが母親である。正気でいられる筈が無い。

 

「十日十晩、花枝様は泣き続けておったよ。

城の者共も気を使って、そっとしておいた。何と無く後ろめたい気持ちもあったのであろう。

その話は我が主、清次郎様も聞き及んでおった。

そして清次郎様は花枝様が篭って丁度十日の晩に、彼女に見舞いに行ったのよ」

「一介の侍女に対してか」

 

そう聞くと、吉右衛門は小さく首を左右に振った。

 

「桔梗は一介の侍女などでは無いのだ。少なくとも、我々にとって。いや、清次郎様にとってはな」

「どういう事だ」

 

その問いに答えるでも無く、吉右衛門は小さくため息をつき、茶をすする。

与那国も続くように茶を口に運ぶと、既にそれは冷え切っていた。

間を置いて、吉右衛門はおもむろに口を開く。

 

「あれはそう、丁度今頃の季節。濃い秋の夕暮れが映える日の事でな―――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遠巻きに犬の声。

それを目で追うと、山向こうに大きな夕陽が重なっていた。

 

「暮れますな」

 

言いながらおもむろに、小脇の木箱を開け、懐紙で包んだ打ち石と火種箱を取り出す吉右衛門。

それを手で制し、隣に立つ少年が口を開く。

 

「要りませんよ吉さん、もうじきに着くんでしょう?」

「しかし清次郎様、足元が危のうございますれば」

 

と険しい表情をして言われた言葉に、清次郎と呼ばれた少年は「吉さんは過保護ですねえ」とカラカラ笑った。

それを聞いて、吉右衛門はばつの悪い表情を浮かべながら、先ほど取り出した物々をしまい込む。

 

顔にまだあどけなさの残る、歳の頃十四か五になろうかという少年である。

柔和げな相貌が、今はその笑いによって更に和らいでいる。

 

「それにしても、彼女に何と申すのですか。清次郎様は」

 

再び歩きだす清次郎を追いながら吉右衛門が聞くと、清次郎はあっけらかんに、

 

「分かりません。まあ、着いてから決めますよ」

 

と答えた。

 

吉右衛門は歩みは止めずに額を抑えると、小さくため息をつく。

 

そもそも、こんなこと、見たことも無ければ聞いたことも無い。

洛中の評判はあれども、たかが侍女の一人を相手に次期当主自らが出向くなど前代未聞である。

だがこの御方は自分が善きと信ずる事であれば、行うに何も躊躇わぬ事を、吉右衛門は知っていた。

なので吉右衛門はここまで供をしてきたのだ。

 

のではあるが、そうは言ってもやはり気は重い。

身分がどうのなどを言う気はさらさら無い。

今から向かうのは、元はといえば我ら自身が招いた不幸であるからだ。

直接的には知らなんだとはいえ、結果的に母親を殺したのは、我々なのだ。

それは上に立つ我々の責が最も重い。

そしてそれより何よりも、彼女の母親を、清次郎はよく知っていた。

何故かといえば、それは―――。

 

「あそこ、ですかね」

 

その声に吉右衛門の思考は断ち切られる。

ふと顔を上げると、小さな竹藪の中に民家が一つ。

いつの間にか家に着いていたようだ。

 

「はい、ここが件の侍女の家にございます」

「そうですか」

 

そう言って、臆さず進む清次郎。

慌てて後を追う吉右衛門。

 

そうして大戸の前に立つと、なにやら微かに声が聴こえた。

 

それは静かな、すすり泣きであった。

 

悲壮の感を内に殺すような、静かな、静かな泣き声である。

 

十日と聞いていたが、一体、どれほどの思いがあったのであろう。

それは余人には到底計り知れないものである。

その感に思わず胸の締め付けられ、息を飲む吉右衛門。

清次郎の顔にも影が見える。

 

しかしそれでも、清次郎はおもむろに口を開いた。

 

「もし」

 

戸越しに一言。

それで声は止んだ。

 

「もし」

 

更に一言。

すると戸の奥から、

 

「誰」

 

と、蚊の鳴くような声で、女が答える。

それはまるで人形のような、無機質な声。

思わずもう一度息を飲む吉右衛門。

 

「清次郎と申します。もし、良ければ少し、中でお話してもよろしいですか」

 

間を置いて。

 

「帰って」

 

と、返ってくる。

 

「あちしはここで、朽ちて、」

 

「死ぬのよ。」

 

「もう、何も、何もかも。どうでも良いんだ」

 

続けて、静かな静かな透明な声で、戸越しの女はそう言った。

 

途端に、吉右衛門は身震いする。

彼女の声には信は無く、芯も無く、真だけが詰まっている。

己への信も、世への信も、最早何一つ残っていない。

さながら生きながら死んでいる、幽世の呻き、そんな声である。

 

「清次郎様、無理です」

 

吉右衛門はそう言って左右に首を振る。

彼女はもう、死んでいる。奇跡的に、かろうじて生きているに過ぎないのだ。

これになんと声を掛ければ良いというのか。

何を救えるというのか。

我々に。

 

しかし、清次郎はそれでも、吉右衛門に向かって微笑んだ。

そうして再び戸に向かって、こう声をかけたのである。

 

「貴女の母、桔梗さんを、僕はよく知っています」

 

戸の向こうが、微かに揺れる。

清次郎にもそれは伝わってきていた。

一泊置いて、彼は口を開く。

 

「桔梗さんは、僕の母でもあったからです」

 

ひゅぅ、と、吉右衛門の喉が困惑に鳴る。

それは、と慌てて声を出さんとする壮年を手のひらで制し、清次郎は続けた。

 

「あなたの母は、僕の乳母でした。

僕の本当の母は、僕を産んでから、若くして亡くなりました。

僕は貴女の母の乳で生きてきました。

僕は、貴女の母に、桔梗さんに、生かしてもらいました」

 

ぽつりぽつりと語る声。

それの全てが事実である事を、清次郎の母の最後を看取った吉右衛門は知っていた。

そしてそれは、永盛の秘する所でもあるのであった。

 

清次郎の語りにあった通りである。

今より昔、清次郎が母を失ったのは、まだ産まれたばかり、乳飲み子の時分であった。

丁度そのころ間が悪く、城内には目立って乳の出る女は居なかったのである。

そう、桔梗という侍女一人を除いて。

 

城下の村から取り立てる事も出来たが、信頼の置ける人間が良いとのこともあり、城内で評判が良い彼女に白羽の矢が立った。

そうして母の代理はすぐに立った。そして、桔梗もそれを承諾した。

ただし、桔梗は我々に一つだけ約束を取り付けた。

それは己の存在を秘する事。

大名の乳母ともなれば、それ相応の権力が付き纏うことが必定。

それを彼女は嫌ったのである。

何故かは分からぬが、彼女はそれを嫌っていた。

城内の人間にはよく接するが、決して城の外に目立つ真似はしなかったのだ。

 

そうして彼女は莫大な富を受け取る事も出来たが、それすらも目立つからと断り、僅かばかりの恩賞で、清次郎へと乳を与え続けた。

間もなくして清次郎の乳離れがあってからも、彼女は引き続き世話役を買って出た。

何か思う所があったのであろう。彼女は代理とはいえ、まさしく母であったのだ。

 

奇妙であったが、つまりは、清次郎とこの女性は、互いに腹も違えば父さえ違うが、同じ乳を飲み生きている、一種他人とも言えぬ兄妹のような存在なのである。

 

戸の奥は無言であるがしかし、空気の震える音と、息を吐く音は、ありありと聞こえた。

そしてそれから大きく十と幾つかの間を開けて、戸の奥から声が聞こえたのである。

 

「あなた、誰」

 

それは無機質な声だが、小さな震えが混ざっていた。

清次郎は、真摯な表情で、真摯な声で、こう答える。

 

「僕は清次郎。永盛四万石の次期当主、桜忠清次郎と申します」

 

それから辺りはしんと静まった。

ただ三者の息遣いだけが、辺りを満たしていた。

吉右衛門は自分の背中にじっとりとした汗が浮かんでいるのを感じる。

秋だというのに、妙に息が熱く、呼吸がしにくかった。

 

目眩を覚える程の、実際にはそれから恐らく十と数秒の後に、

戸の奥から声が返ってきた。

 

「―――お好きに。戸なら空いてるから、さ」

 

その声は、先程までの、まるで感情の色を失った物では無く、

泣き声の混じり合った、若い女性の声であった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。