矢野さんが好きすぎて書いた小説 (linda)
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現代その一

SHIROBAKOが終わって矢野さんに会えなくてどうしようもなくなって書きました。
反省はしていませんが後悔は少しだけ。

よろしくお願いします。


咽かえる夏の日、熱くて暑くて仕方がないその日の、俺は専門学校時代の友人たちの同窓会に出席した。

彼らはアニメーション科で、俺の通っていた科とは違ったのだが、どういう因縁かこんなところに来てしまった。

 

「よう、久しぶり久光」

 

座敷の部屋に通され、幹事であった磯川久光に声をかけた。

学校で科は違った俺を誘ってくれた彼は本当に俺にはもったいない良いやつ。この前会社を作ったとかそういう話を聞いた気がした。出来る男は違うものだと、素直に感心することで腹にたまった劣等感を抑え込む。

 

「おお、久しぶりだな大輔。元気だったか?」

「元気も元気、金も仕事も無くて少し潰れそうではあるけどな」

「ははは、変わんねえ。あの頃のお前だ」

 

自虐で放ったその言葉を笑われる。当初の予定通りそれでいいはずなのだが、何故だか社長になっているこいつに嗤われることは、底辺だと告げられたような気がした。

 

悪気はない、それは分かっている。それでも、もう二十を半ば過ぎたこの身でいつまで夢を追いかけるんだと。

恥ずかしさと、悔しさが胸を強く打った。

 

「起業したんだって? やっぱすごいな久光は」

「そんなことねえよ、俺にはむしろお前の方がかっこよく見えるぞ。また送ってくれ、好きなんだお前の」

「あ―――、ああ。その内な。期待して待っててくれ」

「おう、お前が売れるのが楽しみだよ」

 

そうやってにこりと磯川は笑った。朗らかなそれは今は悪魔に見えた。

嘲笑われているような錯覚を感じながら、席に着いた。

 

まばらに席に着いた彼らに知り合いはそれほどいない。

正直の場違いに、笑いがこみあげてくる。見知ったあの顔はまだ来ていなかった。

 

「あいつらは?」

「ああ、仕事で少し遅れるらしい。今同じ会社にいるらしいから」

「そうだったのか、確か武蔵野アニメーションだっけ?」

「そうそう、こないだ会ってきたけど元気そうだったぞ」

 

そうか、と声に出して安堵する。

思ったよりも普通に話せてる。この抑えがたい気持ちを抜きにして、久しぶりの友人に話せていることが嬉しかった。

 

あいつの近況も少し聞けたこともそれの一つか。

もう過ぎたことだが、あいつにも、こいつにも、あいつにも、俺には後悔が山ほどある。

 

机の下で拳を軽く握った。

この数年で痩せた体。筋肉も存分に落ち、ひ弱な肉体は服でコーティングしないと崩れ落ちそうになる。

 

 

「どうした、下なんか見て」

 

何気なく放ったであろうその言葉は俺の心を締め付けた。

今の俺は笑っていれるだろうか、腐った鍍金が剥がれおちていく。

 

頭に血が上った、底辺と真人間。

磯川に悪気がないのは分かってる、そもそもただの誰でもが分かる普通の会話。

 

そんなことにいちいち腹を立てて、自分を見失って、本当に自分がちっぽけに見えた。

流れ出した冷たい血、どろどろと流れるその感情を無理矢理飲み干して腰を浮かせた。

 

「悪い、小便だ久光」

 

 

 

 

 

 

 

 

馬鹿みたいにかっこつけて、飄々と気にしないふりをして。

それでやっていけると思っていたのか、それが一番馬鹿なこと。どうしてこんなことになってしまったのか。

 

ギアがかからない、どこまでも俺のやる気も夢もなにもかもあの時間に置いてきた。

 

トイレの個室で小さく呻く誰もいなくて良かった。

自分らしくない行動は、自分であるはずなのに認めたくない。こんなに惨めなのが俺なんだと。

 

漫画にはよくある落ちぶれたおじさん。過去にタイムスリップして何かをやり直す。そんな夢も希望もある話。

糞くらえだ、あるわけねえだろそんなもの。何をもってお前らはそんな馬鹿な妄想をするんだ。

 

昔はよく読んだ、まだ自分を見ていたころ。

こうだったら面白いかなって、そんな事を考えもした。それを作ったりもした。

 

それでも今の俺は止まっている。磯川に置いていかれることを怖がっている。

これからで来るであろうあの二人、あいつらが来ることがたまらなく恐ろしい。

 

彼女に今の俺を見られることは恐ろしい。

それでもどうせ嘘は見破られるから、そういうやつらの集団だから誤魔化しなんてきくはずもない。

 

「なんで、俺はこんなとこで止まってんだよ―――」

 

ぽつりと漏らしたその言葉、停滞を認めたそれに激しい悔しさが止まらなかった。

 

 

 

そんなこんなで個室に入って三十分くらい、さすがに心配されるので出ることにする。

本当は怖いけれど、また仮面をはめないと繋がりさえ切れるから。だから俺は恐る恐る男子トイレを出て何食わぬ顔で外に出た。

 

そうして件の奴の一人の顔を見た。

 

「おお、大輔か。久しぶり」

 

平岡大輔―――俺と同期で学校に入学した男。

大学出で少し年齢は上だが、果敢なリーダーシップで俺を引っ張ってくれたおかげで彼らと俺は仲良くすることができた。

 

熱のこもったアニメーションに対する夢を持っており、俺は彼を密かに尊敬していた。

 

「―――お前の方も、大輔じゃんか」

 

ようやく出た声はいつもの掛け合い。

同じ読み、同じ漢字の名前を俺たちは持っていて、俺たちはそれに理解しつつも互いに"大輔"と呼び合った。

 

「変わんねえな、お前。今何してんの?」

 

冷めたような大輔の視線は、見下すようなものではなく普通の会話としてのもの。

前にあった時の一件で少しだけ怖かった彼は、前を向いて話していた。

 

「前と変わんないよ、お前に笑われたまんまだ」

「笑ってねえつーの」

「いや、まあそれはどうでもいいよ。別に嫌味じゃなくてさ」

「じゃあなんなんだよ」

「自虐つーか、笑ってくれないと俺としても困るっていうか………」

 

笑いながら、頭を掻く俺を大輔は少し冷めた目で見た。

大きく息を吐くと、少し俺の方が低い頭を撫でてきた。

 

「そんなことねえよ」

 

くしゃくしゃ、と撫でられたそれに彼の今の心情が伝わってさらに惨めになった。

お前は乗り越えたのか、置いていかれた。また、俺は置いて行かれた。

 

「まあ、なんつーの。そういうことは俺の役目じゃないからな」

「どういうことだよ」

「知らねーよ、こいつに聞け」

 

そう言って大輔は横をすり抜けてくる。

方向を追って、彼が座敷に入ろうとしたので、追って行こうとする―――と。

 

 

「こらこら、久しぶりの彼女を放っておいてどこ行くつもりだ」

 

懐かしい声、服を掴まれたその指の感触を覚えている。

直接肌に触れなくても何度されたか分からないその強さ、その温度。

 

後ろを振り返ることは出来なかった。

見てはいけないものだから。変わらないあの時と同じ姿で彼女は立っている。

 

 

ゆっくりと、背伸びをして俺の顔を掴んだ。

両手で優しく掴まれたその手でむりやり振り返らせられる。

 

抵抗をしようにも俺にはできなかった。やっぱり変わりはなくて。

驚いて心臓の音も、何もかもが止まってしまいそうになったから。

 

瞼からは男らしくない涙が溢れそうだったから。

皆の前で、彼女の前でそれを見せることは怖かったから。

 

それでも許さない。その手には力が籠り、万力のように俺を振り返らせた。

 

 

「久しぶり、大輔」

 

 

そうこの幼児体型の彼女は告げた。

もう何度目になったか分からない俺への久しぶりを、彼女は満面の笑顔で告げた。

 

声は出そうになかった、久光と大輔が心配そうに来るまで俺はそこに縫い付けられて動けない。

 

思ったよりも彼女は変わっていて、変わらなくて。

その曖昧さに、俺は泣きながら応えた。

 

「久しぶり、エリカ」

 

 

 

 



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過去その一

彼女を見たのは、専門学校のアニメーション分野の教室でだった。

小さくて、人形のような容姿、幼児体型と言っても過言ではないような彼女に俺は目を奪われた。

 

どうして子供がここに。有名ではない学校ではあったがそれでも、規律とかはあったし子供が一人で成人間際の学生の中に紛れていると危険に感じた。俺の学科は違っており、盗み見た教室には少しだけ話したことがあるだろう友人が数人いる程度。

 

彼らが注意を何もしないという事はそういうことなのだろうが、その時の私はなけなしの正義感で教室に足を踏み入れた。

 

コツコツと音を立てて近づく俺に彼らは気づいて手を上げてくる。

友人だからと、その手に挨拶を返しながら俺はその幼女に声をかけた。

 

「君、ご両親は?」

 

ふわりと舞った明るめの茶の髪。見ようによっては金に見えるそれはハーフに見えないことも無い。両サイドに尻尾のように揺れている。

黒いインナーに明るい緑のフード付きセーター。灰のパンツに白と黒のニーハイソックス。少しだけ子供にしては大人びた印象を受け、本当に心から彼女は人形のように思えた。

 

そんな彼女はこちらを向き直りながら複雑そうな表情をしていた。

 

「あのさ君、音楽科の笹木くんだよね。どうしたの急に?」

「え、ああ、まあそうなんだけど。さすがに子供一人でこんな場所は危ないと思って」

 

どうして自分の苗字を知られているのか疑問に思いながら返すと彼女の眉が吊り上がる。

額に手を当てながら、やれやれという体で彼女は笑顔を作った。

 

「あー………、そうだったんだ! ありがとね、お兄ちゃん!」

 

少し少女にしては低い声。声変わりはすんだであろうその声で彼女は演技臭い声を出した。

そもそもとして、前後の声と態度が変わりすぎていて引いた。

 

「えと、そんな無理して演技しなくても大丈夫だよ。事務室は一階だから一緒に行こうか」

 

きっと大人びた性格をしているんだなと感じた。

俺がそう言った途端周りの連中は腹を抱えて笑い出した。眼鏡をかけた薄い茶髪の男やスポーツでもやっていそうな茶の髪の肌の焼けた好青年は互いに肩を震わせて、その少女を盗み見てはまた笑い転げる。

 

俺にはそういった彼らのその態度が気に食わなくて、なけなしの正義感でやったことをそこまで笑われる筋合いはない。不満顔になっていた俺の顔よりもさらに不機嫌な顔だったのはその少女。

怒りのマークがこめかみに集まる。笑顔は崩さず、今ならそれが鬼面のようだと自覚する。

 

彼女は俺の手を取り、指先で少しだけいじりながらこう告げた。

 

「私は、れっきとしたここの学生で君と同い年のはずなんだけど―――」

 

びきびき、と彼女の口角が亀裂のように崩れだす。

本気で怒った顔の彼女を見たのはこれが初めてだった。つままれた人差し指があらぬ方向へと曲がっていく。ぎりぎり折れない、尚且つ痛みを最大限に発揮する場所で固定されてはぐりぐりと動かされる。

 

そこでようやく彼女の年齢を誤解していたことに気付く。

彼女を怒らせてはいけない、痛みを伴った教訓によって俺はこれ以降彼女―――矢野エリカに年齢の話をすることは無かった。

 

「そこのところ、どうお考えで、笹木大輔くん?」

 

そうして彼女は墓穴を掘った俺に向けて満面の笑みを放った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大輔くんさ、私たちの卒業制作のBGM作ってくれない?」

 

エリカにそう言われたのは入学して二年目の夏頃だった。

彼女たちは卒業制作でアニメを作るらしく、その映像の音楽を担当する人を探しているらしい。

 

フリーの素材でもどうにかなることにはなるが、せっかくの音楽科。彼女たち―――矢野エリカやその友人である平岡大輔、磯川久光、その他数名とはあの一件から懇意にしていたので、俺にその依頼が来ることも何ら不自然ではなかった。

 

本当に自分の学科の友人よりも彼女たちとつるんでいたので、手伝ってあげたいと思う気持ちはある。

しかし、俺が所属する音楽科はそういったアニメや映画なんかの曲を作るわけではない。j-popと言ったように曲というより歌を作る学科。アニメ向きの曲作りなんてやったことがない。

 

「いや、あのさエリカ。気持ちは嬉しいんだけど、俺そういうのできな―――」

「知ってる。でも案外はまるかもしれないじゃん。やってみないとわかんないよ?」

 

不敵に彼女は笑う。あんまり人には言わない無茶ぶりを俺ばかりには押し付けてくる。

嫌われているのだろうか、こちらを品定めをする目からは嫌がらせと受け取ってもいいのだろうか。

 

「やってみないと―――って正気で言ってる? だって俺だぞ?」

「言ってる。私、大輔くんの曲好きだよ?」

「う―――、お前そういうこと平気で言うよな…」

 

思わぬ一言に頬が紅潮するのが分かる。

からかっているようなエリカの視線はこういう時には真剣なものになっている。

 

「言えるよ、だって本心だから」

「だから―――」

「それで、受けてくれるの? 駄目なの?」

 

結局何がどうなのだろうか、そのあたり何もエリカは説明してはくれない。

ただ、自分が好きだからそれをやれってだけ。まあそれだけでも俺としてはやる理由の一つになってしまうのだが。

 

いつもなら順序立てて説明をする彼女が今日に限ってはそれで分かるだろうというように口数が少なかった。こういう彼女は快諾しなければ機嫌が悪くなる。そもそもこういう時は少し機嫌が悪いとき。

 

「はぁ………、とりあえず話聞かせてくれ」

 

 

 

 

 

「大輔くんてさ、卒業後どうするの?」

 

ぽつり、とそうエリカが漏らした。製作を承諾した俺は説明のためにエリカと自室に戻った。

簡素な1LDK、古臭いその扉は彼女の出した合鍵によって開けられる。

 

自分の管理していない間に彼女は、その友人たちと合鍵を作っていた。

勝手に出入りされるこの部屋をもはや自室と言っていいか悩みものである。

 

現状何本存在しているか分からない鍵を考えることは過去にすでにやめている。

靴箱には俺のではない男物と女物の靴がたくさん。傘も何本も立てられている。

 

「まあ、いつかはデビューしたいとかはあるけど、暫くは路上ででも頑張るよ」

「てことは、仕事に就くわけじゃないの?」

「いや、そりゃバイトとかはするよ。食べていけなくなったら意味ないから」

 

そういうことが聞きたいわけじゃ、とエリカは小さくつぶやく。

靴を脱ぎ、ドアを閉めつつ部屋に上がる俺の後ろをエリカはついてくる。

 

「だったらどういうことが聞きたいわけ?」

「それは、なんか言葉にできないんだけどさ………」

 

尻すぼみなエリカを不思議に思いながら鞄を部屋に置きクーラーを入れた。

シャツの隙間を手で扇ぎ風を送る。つけたばかりでクーラーは未だ工藤の音が始まったばかり。

 

いつもなら真っ先にベッドに座るエリカはどこか浮かない顔。

やっぱり機嫌が悪いのだろうか、気を使いながらいつもの定位置に促した。

 

 

 

緑茶を淹れ、お菓子として買いだめしている羊羹を差し出す。

落ち着きがなかった彼女はそれを見ておかしそうに笑った。

 

「大輔くんのセンスってなんだか古臭いよね」

「そうかな、お前だってこれ以外出すと機嫌悪くするじゃんか」

「それは、まあ、大輔くんに調教されたから。私の趣味はもっと明るいし」

 

調教ね、と声に出した俺をいつものからかうような顔でエリカが見る。

機嫌が悪そうには見えない。しょぼくれたエリカはどこに言った。

 

少しだけ気になった俺はその地雷に突っ込んでいた。

 

「それで?」

「それで…?」

「いや、今日なんか機嫌悪かったじゃん。喧嘩とかした?」

「してないよ……。ただ―――」

「ただ?」

 

そういって一つ彼女は息を吸った。緊張しているのか、どうして。

何も考えていなさそうな俺の顔を見て彼女は、ため息として息を吐いた。

 

「いや、なんか悩んでるこっちが馬鹿らしくなった」

「おい、人の顔見て失礼だな」

「事実だから何も言えない。ただ―――いつまでこうして居れるのかなって」

 

突然カップルみたいなことを言い出した。

甘酸っぱい青春真っ盛りの高校生、というには少し年季が入っている。

 

大学を出てからここにやってきた友人たちと違って俺とエリカは同じ20歳。

そういうことに憧れる年齢なのだろうか。一年の付き合いではそこまでは分からない。

 

「どうした急に」

「どうしたもこうしたも、私たちあと一年で卒業だからさ」

「そりゃあ、卒業制作を作るしな。通常通りならあと一年。卒業と同時に切れるだろ」

「えっ⁉」

 

驚く彼女の顔には、淋しさと落胆の表情。気づけば目じりには少量の涙。

思いがけず傷つけてしまったことに失言だったと感じた。

 

「いや、まあ通常通りならって意味。俺らは分かんないよ」

「え?」

「こっちには久光とか大輔もいるんだしさ、簡単に切れる縁はないだろ。それに、どうせ俺はしばらく売れないアーティスト人生を過ごすからな」

 

大きく笑う、売れないつもりはないが現実を見てないわけでもない。

大して成績もよくなかった俺は学校懇意のレーベルと契約なんてできるわけもなく、就職活動も逃げ出した。

 

ギターと歌一本でやっていきたいと周りに吹聴するのは落ちこぼれの俺の最大の強がりだった。

 

「ふふ―――、なにそれ…」

「暫くはこの家いるから寂しくなったらいつでもどうぞって意味。歓迎はしないけどな」

「してくれないの?」

 

上目遣いの彼女、こういう仕草ができるからこの身長も悪くないのではと告げたら脛を蹴られた。

痛い思い出を抱えてもなお、彼女のその視線は魅力的で自分はロリコンなのだろうかと考えてしまうときもあった。

 

それは今も変わらず、艶やかな彼女の瞳は俺を見て離さない。

だからこそ他とは違う、エリカだけ"特別視"して甘やかしてしまう。

 

「…まあ、エリカには緑茶と羊羹くらいは出してやるよ…」

 

そういうと彼女は嬉しそうに笑った。

お腹を抱えて嬉しそうに、涙は先ほどよりも溢れている。

 

甘え上手の矢野エリカ。彼女はひとしきり笑った後、俺にこう言った。

 

「そっか、じゃあたまには行ってあげないとね。大輔が拗ねるから」

「拗ねない」

「いいから、ほら小指出して」

 

二人で小指を繋いで繋ぎ合う。

ゆびきりげーんまーん、とエリカが歌う。気恥ずかしくなった俺もそれに合わせて歌いだす。

 

歌が終わると同時に、名残惜しそうにエリカは指を離した。

切なそうに微笑むと彼女は、もう一度だけ明るい天使のような笑みを見せた。

 

 

「約束だよ―――?」

 

それにはいはいと返しながら照れて下を向くころ、玄関のドアが開かれた。

バカっぽい声と、ナルシストのような男の声が聞こえたのち、俺の家は人で溢れかえった。

 

ぶち壊しにされたムードの中エリカを見ると、彼女は嬉しそうに笑っていた。

夕日がさして赤みががかった頬、その笑顔は見れただけでもういいかって、俺は思えた。

 

 

 



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過去その二

「結局、お前とエリカってどこまで行ったわけ?」

「は―――はぁ!?」

 

ふと、久光の発した言葉に作業中だった俺は機材になりふり構わず立ち上がった。

幸いなことに現在の我が家には、俺と久光と大輔―――つまり女子はいないことになる。

 

不思議そうにこちらを見る二人にこめかみを抑えながら口を開く。

 

「あのな、俺とエリカは別にそんなんじゃない」

「またまた謙遜するなって、みんなもう知ってるから。なぁ、大輔」

「隠したいのは分からねえわけじゃねえけど、気づかねえならどんだけ鈍感だって話だな」

 

わけのわからない大人組の判断を俺は白い目で見つめる。

二つ三つ離れた年では、若い人間に夢を見たくなるのだろう。

 

にやにやとこちらを笑う二人を、二、三発殴ろうかと腕振り回し始める。

ぐるんぐるん、ぐるんぐるん。

 

「でも結局そうじゃないとして、あいつはお前に惚れてるだろ」

 

―――――ごちん。

 

反抗気味の大輔を無視しながら、自分は椅子に座り直す。

足が躓き、座った後でもペンを落とし、芯を砕き、楽譜を破く。

 

ついでにカップを掴み損ないコーヒーを久光の頭にぶっかける。

 

「おい、どうしたんだ。手が止まってるぞ」

「こっちの台詞だよ、馬鹿野郎」

「顔洗ってこい、頓珍漢」

 

二人に散々に言われながら、言われるがまま俺は席を立つ。

ついでにタオルもとってくるかと思いながら三回は転ぶ。

 

おいおい、と言いたそうな二人に対して、心からの一言をぽつり。

 

「―――――まじで?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、こっち―――――大輔っ」

「………おう」

 

いつからか呼び捨てになったその名前になんとなくこそばゆさを感じながら目前の女性を見た。

 

「買い出しくらい久光達が行けばいいのにな」

「まぁまぁ、私もこうしてついて行ってるんだし機嫌直しなよ」

 

自分の肩よりも低いその頭長、小さく人形のような顔には、装飾品のように輝く大きな瞳。

チャームポイントとまでにいつも頭で揺れていた二つの茶色の塊は今日は下ろされ大人びた印象を受ける。白いニットワンピースと黒いストッキング。茶色のブーティを身に着け少しだけおめかしした彼女は普通の少女で、女性で。

 

少女と形容しても何ら遜色ないと思っていた彼女は今日は少しだけ違う毛色をしていた。

素直に心の中でぽつりと、"いいな"と思ってしまいこれをそのまま伝えるべきか悩む。

 

「…いや別に買い出しに行くのが嫌とかじゃなくて」

「何、どういうこと?」

 

―――――"これからお前はエリカとデートをしてきてもらいます"

 

先刻のように告げられた言葉。

上から目線で命令のように語る久光達を、鈍器で殴って失神をさせた後こうして待ち合わせ場所に来た。

 

自宅にいた彼女は、勝手に俺から奪った携帯で電話をかけ無理強いをする久光達に従ってこうして目前にいる。電話の向こうで慌てる彼女の様子からなんて迷惑なと結論を出し彼らを止めたが、エリカはこうして来ている。

 

まあ、買い出しに行くのが嫌なんじゃなくて、お前と一緒にいるのが嫌なんじゃなくて。

誰かに強制されないと遊びにも誘えない自分が嫌なだけだった。

 

「―――いや、なんでもない。行こう」

「? まあいいけど」

 

そうやって歩き出す俺の後ろをエリカが着いてくる。

彼女の歩幅を考えて気持ちゆっくりと足を出し80センチ、彼女の心情を考えてもう一言付け足した。

 

「髪下ろすと大人っぽくていいな」

 

ぽかーんとしたエリカを他所に足を進める。

彼女がどんな顔をしているのかは分からない、もう振り返ってしまったので。惜しかったなもうちょっと見てればよかった。自分は言わずもがな真っ赤なのだが。

 

「―――――うん」

 

どんな顔をしているかはわからないが、きっと今日一日機嫌は良いだろう。

彼女だけでなく俺もそうであるはずだろう。

 

そうして二歩目は六十センチくらいの歩を刻んだ。

 

 

 

 

「磯川君は、何買って来てって言ってたの?」

「えっと、消耗品とかかな…。あとは今日は鍋作るらしいから材料よろしくとか言ってた」

 

ふーん、と前をエリカが歩く。街中のウィンドウを眺めながら二人並んで。

身長も距離感も変わらないのに、どうしてか今日は"それ"っぽい。

 

胸の中の甘ったるさを飲み込みながらその背中を眺めている。

奴らの先入観がある分、どうしてか彼女は魅力的で、一挙一動が新鮮に感じる。

 

通常通りに接することができない自分にあの言葉を忘れるように唱えるがそう簡単に消えるわけでもない。

確かに彼女は可愛くて面倒見が良くて、いい女なのだ。見ていなかったアンテナが変わったようなもの。

 

「どうかした?」

「―――いや、なんでもないとは思いたい」

「………割と大輔って少し変なこと言うよね」

 

そうだろうかと自問してやっぱり分からず、

 

「そうか?」

「いや、まあアーティストってそういうものなのかもね。私は大輔しか知らないけど」

「へぇ…、だったら俺だけかもな。俺も他を知らないけど。エリカ主観だし」

 

人とは違うことが自分の未来を幸せにするものだと思いたい。

俺だけが周りと違っているのなら売れてくれるはずなのだが。

 

言った俺にエリカは少し寂しそうな視線を向ける。

 

「…友達いないの?」

「お前は違うの?」

「………………………ちがわないけど」

 

むすっと機嫌が少し悪くなったエリカ。

何か気に触ったのだろうかと、胃が少しだけ痛む。胃薬も買っとこうと思った。

 

「何で間があるんだよ、心配になるだろ」

「いや………、なんかもう、いいよ」

 

少しだけ歩くエリカはやっぱりどこか怒っているようで。

それが理解しつつも何もできないから俺は臆病で、鈍感だって言われるのだ。

 

確たる証拠もない、俺は彼女がどうして怒っているのかということに確信が持てない。

 

「大輔っ、見てよこれ」

 

取り繕った表情、それとも本心なのか。

怒った表情は一切なく、どうしてか掴めなくなる。

 

もどかしくて、一度胸を強く掴んで、俺は彼女に従った。

 

 

 

 

 

 

街灯の下、暮れてきた日を眺めて俺たちはベンチに座る。

 

少し寒くなってきた季節。透明な息が空間を埋めていく。

隣どおしで座ったベンチ。荷物を下に置いて少し大きく息をついた。

 

「おっさんくさいよ?」

「ほっとけ、久々の外出は疲れるんだよ」

 

そうして瞼を閉じる。じんわりと疲れが体に広がっていく。

息を吐くたびに疲れが抜けるようで心地が良い。

 

「こもりがちだもんね。大輔の部屋が制作場所だし」

「ほんとだよ。俺にだってもっとやることはあるんだけどな」

「例えば?」

 

そう言われて目を開ける。

 

そうだな、と考えて特にやりたいこともなかったなと思って悲しくなる。

このまま何もないと答えるのは癪なので、お好みの答えでも返さなくては。

 

「まあ、例えばエリカの世話とかな」

「へ―――――ぷっ、なにそれ」

 

可笑しそうに笑うエリカに胸が締め付けられる。

締め付けるというより、掴みとられるような。

 

口元を隠しながら、彼女は知る限りで大笑いを上げる。

自分なりにできる限り考えたものを笑われるのは思うところがあり、悲しくなる。

 

「いや、ほら、もう仕事みたいになってるからさ」

「任せた覚えはありませんがねぇ。別に私は大輔に面倒みられなくてもいいんだよ?」

「え」

 

予想の上の答えに泣きそうになる。直接ではないがとても振られたような気分になる。

真っ白になった頭。割と一番仲が良かった自負と二人の罪人からの先入観があるだけになまじ厳しい。

 

「無理してるんだったら別に。ていうか私の方が世話焼いてるんだけど」

「そ、―――そうだったなっ」

 

いつもなら反論するところを、反復するような答え。

よっぽど心に余裕がなかったのだろう。喋りなれているエリカにすら緊張する。

 

そうして何分も、気が付けば一時間は経っていたのかもしれない。

浸って、浸って、浸って。その空気に空間に浸って、濡れて、噛みしめた。無言で、それでも心地悪いわけじゃなかった。彼女の隣が一番落ち着けて、一番胸が高鳴る。

 

冷たい指を、ベンチの傷に這わせる。

特に意味はなく、なんとなくその隙間に爪を差し込んだり、なぞってみたり。

 

もう数十センチ先にはエリカの小さな手があるが、その指もどこか手持無沙汰だった。

 

別に繋ぐ間柄でもないし、繋いでも特に何も言わない。

こうして座っていることに意味はなく、どちらかが行こうと言えばすぐに立ち上がる。

 

―――――"あいつはお前に惚れてるだろ"

 

大輔のそんな言葉に踊らされ、久光の策略に嵌められ。

それでもその言葉が気になって仕方なくて、どうして俺ばっかりに構うのかなと心は動機が止まらない。

 

「帰るか」

「―――うん」

 

それでも俺はそれを聞くこともできず、それでいいかと完結した。

じんわりと湿った手、緊張して粘つく口内の唾液。数度喉を鳴らしても結局答えは出なかった。

 

 

 

だからこそ、俺は彼女のその時の表情に気付かず、みすみす彼女にそんな言葉を告げる時間を与えてしまった。

 

埃を払うように数度腰辺りを叩き、大きく息を吸った。

ちらりと覗き見る彼女の顔は真っ赤で、染まって直ぐに消えた。

 

決意を決めたようにもう一度、時間が経ってその息は白く澄んでいる。

 

耳をふさぐ間もなく、買い物袋を左手に俺は足を踏み出していた。

彼女の歩幅に合わせた六十センチ、踏み出す足の前にふと俺の服を掴まれる。

 

"ちょっと待て"、と彼女の言葉はなくともそれが感じることができた。

だから俺もそれを平然と理解し、気づいていないふり。自分に彼女に嘘を吐く。何も知らない、分かっていない。俺はその意味を知らない。

 

それでも彼女は告げた、迷いを断ち切るように。

白い顔で、大人びたその視線を俺に向けて、ただ一つ―――

 

 

「私、―――――あんたのこと好きだから」

 

秋の多分十月くらいの季節、冷めた地面にどさりと音がした。




さすがに早かったかなと思いましたがこのままで。
矢野さんはとてもかわいいんですよ。


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過去その三

紙にペンを走らせる。耳にはヘッドフォン、特に音もなく繋いだアンプ、右手にはピック。

音をなんとなく奏でながら、設計図を埋めていく。浅く、浅くのめり込む。ゆっくりと、音の波に沈んでいく。

 

黒いインクが白い譜面を汚していく。汚すという表現はどうなのだろうと、表現者として疑問に思うのだが自分のセンスなんてそんなもの。大した詩も書けはしないし、平凡な音しか紡ぐことは出来ない。万人が振り返り、耳を止める声を刻むことは俺にはできない。

 

平凡なんだと分かっていても、自分を諦めるほど自分には甘くない。

とかなんとか、少しでも詩的に、詞的に、私的に心の中でつぶやくのだ。最大限頭を別次元に働かせてそうしていれば自然と曲ができるから。考えたってどうせ馬鹿だし、感じたことを投影するのが自分なりの歌の、曲の作り方なんだと思う。

 

右手で弦を弾きながらする様は少しだけらしいのだろうか。

形から入るロックミュージシャンとか、雰囲気だけのシンガーソングライターとか。そういうものなのだろうかなとかありふれた可能性は浮かんでくる。そもそも普段はこんなに別のことを考えたりはせず、集中するときはほかの音が入ってこないくらいには入り込む自信はある。

 

だからこそ、どうしてだと言えば彼女のあの声が思い出してしまうからだろう。

 

 

―――――あんたのこと好きだから。

 

 

ぐるんぐるんと頭の中を同じ言葉が反響する。

回りすぎて酔ってしまいそうになりながら、俺はその意識を平常に保つために頭を振る。

 

閉じた空間、少し寒いその中。

皆が帰った自室にて一人床に這いつくばる。

 

結局あの後何も返せず、家に帰って鍋食って解散した後もエリカは笑顔でいた。

俺もそうできるよう意識はしたが、きっとあいつの顔を見るときは真っ赤になっていたはずだ。

 

ラブソングは書いたことはあるが、恋愛の経験が豊富かと言われればそうでもない。付き合った女は二、三人で、たいした関係も築けないまま破局。灰色とは言わないがどこかずれた青春時代。今も青春であることに変わりはないが、それでもその場で簡単に返せるほど事情は甘くないし、俺の精神も普通じゃない。

 

現在進行で自身の心臓が脈打つことを感じる。目を瞑っても瞑っても瞼に広がるのはあいつの顔。

少し赤く染まったその頬。自分でもどうしたらいいのかはわからない。このまま付き合うという流れになるのか、はたまた自然に消滅するのか、断るのか。特に理由もないのに、特に意味もない。

 

それでも、これは真剣な事だと理解しているから自分の返答に悩んだ。悩んでいる。

 

「―――――ぐえ」

 

低く、うめき声を上げる。カエルのようでそれより低いゾンビのような。

その音は音楽科の生徒じゃなかったとしても最悪な物だった。

 

もう数度、逡巡したのちにどうしてかな、一つの結論が出るはずもなく。

それはとても哲学的で、魔的で、詩的だった。

 

「恋って、なんなんだろうな―――」

 

中学生のように純情なその問いに返す人は誰もおらず、部屋は静けさに満ちる。

口から出た言葉に途端に恥ずかしくなって、顔を赤らめて立ち上がる。

 

誰もいなくなった部屋、俺だけの世界。

 

異物と思っていたあいつらはいつのまにか自分の世界の一部になっていて、食って飲んで、騒いで。そうして解散。誰かがいるはずになったその空間から熱が失われていくことが、とても寂しく。冬に近いこの季節、冷えゆくその現実に怖くなった。あと数ヶ月で卒業、それが皆と、彼女との繋がりに思えて、俺はもう一度怖くなった。

 

十月、張り詰める月光、午前三時―――答え未だ出ず。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大輔くんさ、うちら今度ライブあるんだけど見に来ない?」

 

そう同じ科の女生徒に言われたのはその次の日だった。

特に親しくもなく、何回か喋ったことがある程度、エリカたちとばかり遊ぶ俺にあまり同じ科の友人はおらず。気づいていないだけでもしかしたら一人もいないのやもしれない。下の名前で呼ばれるのここでは久しぶりで、自分が忘れているだけかと思ったがどうなのだろうか。

 

目前の彼女は、雰囲気として別段覚えているわけでもなく、目立たないルックスではないのだがやはり覚えはない。赤めに染め、片口ほどに伸ばされたその髪は似合っていると言えば似合っているが、染色を自分は好まないため痛んでいるその髪を見て少し幻滅をしたり。そこそこ高い身長に細身の肉付、センスの良い静かな服。美人と言って差し支えない特徴的な彼女をあまり覚えていないため、特別親しいわけでもないだろう。

 

寝不足の眼で、きっと顔には隈ができているはず、朝は鏡を見る暇も無かったと思いながら返答。

 

「えっと、ライブってまた、なんで俺に?」

「あはは、やっぱり」

 

苦笑いをする彼女に自分は少しだけ不思議に思う。

 

「やっぱり?」

「うん、割と去年からうちの生徒はそれぞれでバンド組んだりとかしてさ、それぞれのライブの時はみんなを誘ってたんだけど」

「へ、へぇ………」

「大輔くん一人でやってるし、アニメ科の子達と仲良かったからみんな忘れててさ」

 

衝撃の事実に自分はほんの少しだけ精神が擦り切れた気がした。

売り込みの何たるかとか分からず、ライブ慣れもせず。オーディションではどこか本気が出ず満足はいかず。

 

大音量で聞くその意味をあまり理解しておらず、好まず。ライブを見るよりは自分に費やすべきだとの持論は成功している彼女たちの理論で論破された。

 

目前の彼女の名前はいまいち思い出せないが、それでもそういうところで演奏をできるのならレーベルの人に眼をつけられやすいだろうし場馴れは出来る。自分と他との格差に自分は打ちひしがれる。あと忘れられてたのは心に来た。

 

「ま、まあ、今日の夕方からだからさ、よかったら来なよ。個人主催だし学校の演奏室借りるから。なんなら大輔くんも演奏する(やる)?」

「え」

「あ、いやみんな大輔くんの曲とか聞いたことなかっただろうし。私も個人的に聞きたいな」

 

それはなんだか、なんだろうか。

 

やらせていただけるのなら掴むのがアーティストなのだろうか。幸いなところ楽器は常日頃持ち歩くのだが、自分の曲はそういう場所向きではないバラード調ばかりで雰囲気を壊しかねない。

 

個人で仲間内でやるそういうものに異物が入るのはどうかとためらう心無きにしも非ず。

しかしながら、それはただの建前であり、本心はと言うと―――。

 

「是非、やらせてくれ」

 

退いたらただのバカ、だったらやるだけだろうと、少しばかりロックの何かを掴んだ気がした。

 

「そっか、じゃ今からリハでもしとこうか。音合わせくらいでいいから」

「だな、でもこんな飛び入りみたいなのって大丈夫なの?」

「うん、まあ多少オーバーしても許してくれるよ、多分」

 

そうやって笑う彼女は、苦労をしてそうで派手な見た目からは予想できないような面倒見の良さを感じた。少しだけあいつに似てて、現状の気まずさを紛らわせようとする俺は最低で、彼女にも彼女にも申し訳なかった。

 

「楽器、持ってきてる? 後ヘルプとかどうしようか」

 

そう彼女は俺のロッカーに立てかけたギターケースを見る。くたびれて既に糸くずとかが露見してて人に見せるのは少し恥ずかしいもの。中学から弾き続けそれでもまだ、同じ使い続けたアコースティックギター。メンテは怠っていないし古臭くは見えないが、もう数年も使い続けたもの。思い入れはあるが、変えなければという思いもある。

 

「大丈夫、いつもギター一本」

 

少しの寂しさを感じながら、そう笑う。誤魔化すように、そうすれば少しだけ何かが紛れた。

 

「―――そっか、じゃあ行こう!」

 

それを感じてか、彼女は気を遣うようにそう言った。やっぱり何か似ている。胸の奥がどうしてか痛んで、やっぱり似ている彼女に醜く、得体のしれないものを抱いた。ぞくり、と言わなければいけないこと、感じていることは昨日の段階で、もしかしたら常日頃から分かっていたのに、今は別のことを考えていたいと思った。

 

「ところで」

「なに?」

 

ずっと考えていた疑問があった。

 

「君、山田さんだっけ」

「小山だよ」

 

 

 

 

 

 

 

「大輔ってなんでモテないんだろうな」

 

磯川くんがそう言いだしたのは、昼のことで授業は既に終わりみんなで昼食をとっていた時だった。今日は少し早目に終わり、卒業制作の続きでもしようかと思っていた時だった。少々気まずい思いはあるが大輔を呼びに行ってそのまま移動、ご飯でも食べて解散。

 

ありきたりないつもの流れを想像しながら、私は弁当のトマトを口に含む。

 

「んだよ、嫌味か」

「お前じゃねーよ、顔良い方」

「それは暗に、俺が不細工だって言いたいのか、どうなんだ」

 

時々起る意思の疎通の障害。笹木大輔と平岡大輔、どちらも同じ読みで漢字も同じ。だったら苗字でいいではないかと思うのっだが磯川くんはどちらもそう呼ぶ。私が呼ぶのは笹木の方だが、互いには互いで名前呼びとかなんとか。

 

「なあ、そう思わないかエリカ?」

「―――、っ、なんで私に聞くかな」

 

突然の質問に、口に含んでいたお茶をのどに詰まらせ少し咽る。けほけほ、と数度咳をしていたら隣に座る友人も声を上げる。

 

「だってエリカ、一番大輔くんと仲良いじゃん」

「そうそう、昨日も一緒に出かけてたし」

 

磯川くんと畳みかけるように問いただされる。しかし待ってほしい、昨日のあれは間違いなくこの汗臭い男のせいであるし、大輔はしらないがこの隣に座る彼女もそれに一役買っている。

 

「それは―――、そうなんだけど………」

「まあぶっちゃけ顔は良いし、面倒見も悪くないからモテたっていいと思うんだけどな」

「そうだよ、もたもたしてると誰かに取られるんじゃないのかなー?」

 

どき、と胸が少し脈打った。それは別に取られてしまうという恐れではなくて、もうすでに私が行動を起こしており、それを彼女たちに黙っていたということ。少しだけの気まずさを感じながらお茶を含む。誤魔化すように少し残った弁当箱をかたずけながら相槌を打つ。

 

「あ、あー、うん、そうだね」

 

そう、大丈夫。全然動揺してない。あの後固まった大輔を引っ張って帰ったことも、恥ずかしくてあいつを見るときに無理矢理笑顔を作ってることも、今気取られないようにゆっくりと逃げ出そうとしていることも全く以て同様なんてしていない。

 

ゆっくりと、ゆっくりと、忍び足を開始する。幸い二人はあのバカのモテるモテないで一生懸命で、平岡くんは少しだけ拗ねて紅茶をしきりに啜っているから大丈夫だろう。

 

―――そう思っていた矢先に、鳴り響くのはマナーモードにしていなかった携帯電話。

 

声は出さなかったのだが、おかげで皆の意識が向いてしまう。

 

半ばやけくそ気味に携帯を開き、画面を確認すると絶賛話題中のアホからのメールだった。もしかして返事を―――いや、顔合わずに伝えるなんてありえない、とかなんだか乙女すぎてあほらしくなる思考に少し頭が悪くなった気を感じながらメールフォルダを開く。

 

いつもより少しだけ熱く感じる自分の顔を軽く扇ぎながら文章を読むと、それはお誘いのメールだった。

 

「大輔から?」

「なんで分かる」

「お前、顔めっちゃ赤いし」

 

くそ、と思いながら、文面をもう一度読む。簡単に要約して言葉に変える。

 

「今日、今からライブなんだって。よかったら来きてくれとか」

 

そういった後に、熱が冷めてくるともう一度熱がぶり返した。何故だか怒りがわいてきて、この文面からは少しも自分を意識していないというものがひしひしと伝わってきて。考えすぎかとは思うのだが、簡単には吹っ切れない自分がいた。

 

それでもまあ、―――来いって言っているのなら行ってやらないこともない。

 

惚れてしまった特権だろうか、私はみんなを連れて音楽科の階段を上った。




最近文字を書いていなかったのと、SHIROBAKOを見れていなかったのとでキャラ崩壊が起きているかもしれません。あまり怒らないでくださると私的には幸いです。

あと主人公をあんま嫌わんでやってください。


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現代その二

「それで、弊社を希望された理由はどういったものでしょうか」

 

どこか堅苦しいというわけではなく、崩れたわけでもない。目の前にいるのは名前もよく聞くような一流音楽企業の面接官だった。セールスマンというような見た目ではなく、おしゃれに、けれども身ぎれいに激しく見えないような印象を与える。

 

出来る大人というか、実際に成功しているわけで。個室に通された俺はその一人の面接官をただ見ながら、言葉を発した。

 

「私は―――」

 

言葉に詰まる。喉から出そうと思った言葉は少しだけ固まって喉の中で行き止まった。うまく発せない。単純なこと何に、どうしてか理由も浮かばなくて。頭の上に疑問符が見える彼は、けれども穏やかな表情で俺を見た。

 

他には誰もいない、恥ずかしいのだろうか。これが本当にしたかったのだろうか。果たして本当にそうだったのだろうか。自信の持てない小さな声で発した言葉は、俺の耳にはうまく響かない。

 

「自分の想いを誰かに届けたくて」

 

きっとそう言った。そう、言った。

 

嘘だろうと言うほどに唇の感触はなくて、それでもきっとそう言った。そう動いた。心の底から俺はきっとそう思っていたのだ。用意していた言葉は、なんかもっと、こう社会人らしいそんな台詞。つい言葉を紡いだのならそれがきっと俺の本心なのだろう。

 

彼は別段驚くわけもなく、しかし少し気まずそうに俺を見た。頬を掻きながら、彼の視線は俺を捉える。驚きはしていないのだ、少しだけ落胆しているように見えるのは見間違いなのだろうか。

 

「あー、えっと…、参ったな。まるで詩のようだね」

 

表情はそのまま、変わらずに彼は続ける。

 

「まあ…、アーティストの、詩、いや曲を作る人間の会社だからね。僕らはそうじゃないけど、君はそれでうちに希望してきたわけだ」

 

頷く。強くは出来ない。どうしてかゆっくりと自信もなく俺はその顎を動かした。期待も無かった、なんとなくその先の言葉を知っているから。もう何回も言われたその言葉を知っている。

 

しっかりと彼は俺を見つめて、目を見て言うのだ(・・・・・・・)

 

「君の過去とかそういったものは知らないからね。だから一つだけ。それは―――本心かい?」

 

やはりというか、なんというか首は遅く、同時に放とうとした言葉も遅かった。彼はそれを受けると分かったように、悟ったように頷いた。もうすでに顔には真剣な表情しかなかった。

 

彼は席を立ち見下ろすように俺を見るのだ。

 

知っているのだその言葉を。何度も何度も。遊んできたわけじゃなかった。必死にやってきたことは一つだけはある。必死にギターを弾いた、心に響くような音を探した。それでも彼らには伝わらない、俺の夢はあくまでそういうものだと笑うよう。

 

いつしかその顔が笑みに見えてしまう。そんなはずはないのに。皆が俺をそういうように見ている気がしたのだ。

 

 

「―――そんなんじゃ(・・・・・)、止めた方がいいよ。君のそれは安っぽすぎる」

 

やはりというか、なんというか。放たれた言葉は何度も聞いたフレーズの一つだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そういった世界だった、そういう社会だった、そういう人たちの集まりだった。

 

「大輔―――?」

「え?」

 

ふと、顔を上げると彼女の顔があった。金髪で、ツインテールで、小さい、女の子。もうそういった表現はいけないのだろうか。お互い二十を半ば過ぎた身、もう女性という表現が正しいのだろうが、何度見ても彼女のその体格は中学生のそれを想像させる。

 

「何か失礼なこと考えなかった?」

「……………いや、なんでもない」

 

そう、と言って彼女は少し酒を口に含んだ。少しだけ犯罪の匂いがするのだが彼女は成人している。よく分からないギャップが数年を越えて思い出す。

 

ビールの味が分かるようになって、仕事のきつさを知って。彼女はもう以前の俺とは知らない彼女になった。そもそも、以前を知っていたかとそうでもなかったかもしれない。

 

自分もジョッキを掴んでみるが、口につける振りだけして机に置いた。隣に座る彼女は騒ぎ出している皆から離れ二人端の方でで飲んでいる。ふと、顔を上げれば磯川が平岡をつかんで暴れまわっていた。叫んではいるが平岡もまんざらそうでもなく、口元は少し笑っていた。

 

自虐的に、それでも笑いに見えるように口を歪めてはみたが、鏡を見なくても下品に見える。

 

「なんか、懐かしいよね」

「…何が?」

「昔みたいでさ、最近少し吹っ切れたからかな。平岡くんも活き活きしてる気がする」

 

目を上げると、やはり彼は笑っていた。そういえばと一年前ほどにあった時は俺と似たような目をしていた。そういえばと思えるほど心は穏やかではなかったが。何もない自分のどうしようもなさが残って、服を掴んでいた。

 

笑ってしまえるのならよかったが笑うことは出来ない。まだ何も俺は見つけられずにいる。それが何かは分からないが、彼らに言われてきたことを探さないといけない。

 

「………、そうだな」

 

震えるように、それでも気取られないように出した声は、とても聞けたものではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「うぃー、じゃ、あえっと、二次会行く人ー?」

 

遠くで声が上がる。咽かえる夏の日。暑くて仕方がなく、もう早々に帰ってしまいたい気分だった。彼らに会って、彼女に会って、そうして得た感触は、どこか悲しいのだ。早くシャワーを浴びて洗い流してしまいたい。

 

止まってしまったのは俺だけなのだ。夢を追えなくなったのは俺なのだ。こぶしは握らなかった。力も入らないし、悔しがることさえ許されていないような気がした。

 

手を上げていくその中にはエリカの手も上がっていて、見ると磯川言わずとして平岡も無理矢理にと上げられていた。どこか少しほっとしたようなそんな気分で一歩後ろに下がった。

 

「あれ、大輔行かねえの?」

 

レーダーのように目ざとく俺をこいつは捉える。どうでもなく放っておいてほしい気分を堪えながら必死で笑顔を作る。下品なそれを彼らに見せるのは嫌だったが、綺麗に笑えなくなってしまってはどうすることもできないだろう。

 

「ああ、悪いな久光。昨日徹夜でさ、寝不足で倒れそうなんだ」

 

大丈夫か、と磯川が寄ってくるがそれを手で制する。そう言っておけば今日の汚い笑顔も少しは誤魔化せるだろう。心配される筋合いも無いのだから、と落ちるとこまで落ちていく自分に反吐が出た。

 

 

「それじゃ、そういうわけで。また今度」

 

踵を返して帰路に就く、後ろ手にさっそうと手を振る姿は映画のワンシーンのようか。馬鹿馬鹿しい思考、呆れを覚えながらも歩を進めていく。後ろが見えないから分かりはしないが彼女はどんな顔をしていただろうか。

 

分かりはしない、興味ももうあまりないのだから。

 

それが嘘だと分かっていても彼女への何かは数年経っても言うことはないだろう。俺はきっと、それを自覚してしまうのが怖いから。もう、どうしようもなくて、ただ何かそれが怖かっただけ。

 

月を眺めながら、何かを歌ってみた。

 

ちんけな、安っぽい、糞みたいな俺のそれはきっと届きはしないだろう。きっと叶いはしないだろう。願ってもいないのだから何が叶うとかそういう問題ではないが。蜃気楼のようにゆれる彼女()が、掴めなかった夢のようで腹立たしい。

 

住み慣れた町、もう何年も何年もここに住んでいる。変わらず、彼女に告白された公園のベンチは少し腐っているがまだどうにかはなるだろう。あの日あった傷が分からないほど塗装は剥げたし、もしかしたら別のものかもしれない。

 

座り込んで、大きく息を吐く。

 

季節は似ているが、咽かえるほどの暑さ。傍には誰もいない。街灯には数えるのは億劫な小さな虫が止まっている。風の抜ける音が木々を揺らして不気味に響いた。

 

「―――――こんなはずじゃなかったのにな」

 

もう音は響かない、声は出るのに空っぽのように消えた。あの時と変わらない音で俺は歌える。書ける。響くはずなんだ、変わっていないのならあの日(・・・)の音を俺はまだ残っているんだ。吐き出したいんだ。吐き出したいんだ。吐き出したいんだ。

 

ずっと胸の中には残っている音がある。けれでも世界がそれを認めない。許可してくれない。俺に歌わせてくれないんだ。歌いたくて、奏でたくて、響かせたくて、数年分もため込んだ俺のうめき声は、やはり聞けたものでもなかった。

 

八月、一人ぼっちの夜、午前零時―――――そうして俺の数年ぶりの同窓会は終わった。

 

 

 

「おっさんくさいよ?」

 

暗がりから声がした。見ると、こつこつと近づいてくる。街灯に照らされる顔は見るまでもなく、聞くまでもなく、雰囲気のようなもので分かる。そもそも声をする前からなんとなくそんな気がしていて、それでも独白は止まらなかったのだ。

 

「久々の外出は疲れるんだよ」

「こもりがちだもんね、ニートだから」

 

なんとなく、彼女の顔を見ることは出来なかった。どんな顔をしているのか、どことなく想像できてしまったので。声もどことなくそんな感じで、学生時代なら震えるように相手しただろうが、今はどうでもよかった。

 

「……二次会、行ったんじゃなかったのか」

「行こうとしたよ、でも大輔が寂しそうだったから」

 

そうして、彼女は蠱惑的な笑みを浮かべる。攻められるのが好きなわけではないのだが、しかしその笑みは背筋が凍るようでぞくぞくしてたまらない。どうしてか手を伸ばしたくて、でもつまらない何かが頭をよぎって、薄く笑うことしかできない。

 

「寂しがってない。元々息苦しかったんだ」

 

軽薄なのだ。最低の自己評価。言われ続けて死んでいるのではない、きっと根っから俺はそういうものだ。だから響かない。届かない。随分と小さくなってしまった。

 

弾けない、もう俺の指はあれを弾くことができるだろうか。触ることを許してくれるだろうか。

 

「痩せたね…、ちゃんとご飯食べてるの?」

「…まあ、バイトはしてるから食ってはいるよ」

 

柔くなった指の先、豆なんて欠片もありはしない。随分と、そう随分と綺麗になった。それは俺の指先もであるし、彼女でもある。違うか、俺の指は醜くなった。醜悪で、穢れて、普通の何かへと変わったのだ。成長した彼女と、堕落した俺。釣り合わあい、釣り合いたくもない。

 

「どうせ、まともなもの食べてないんでしょう」

「そうでもないだろ、コンビニ飯はうまいんだ」

「……全く、しょうがないなあ」

 

強がりを放っても、薄く残る。

 

「作ってあげるから、まだあの部屋にいるの?」

 

何故か、声が出せなくて。

 

「聞いてる、大輔? 作り置きしてあげるからスーパー寄っていこ。まだ開いてるでしょう」

 

その言葉が、まだそこに留まっているのかと。どうしてか取れてしまって。

 

「面倒見てあげないと、大輔拗ねるから―――って、このやり取りも久しぶりだね」

 

「―――放っといてくれ」

 

言葉は、正直だ。頭の中いろいろ考えてても、一言は余計なもの引っこ抜いて大事なとこだけ伝える。重要だ、とても大事だ。作詞をしたって報われない。俺の表現はチープだから。作曲は良いって言われた。バラード調のスローテンポ。どうしてか激しい音は生み出せず、彼らは俺から楽譜を作ることは許すのだ。俺もそれに乗っかって、声を出すことを止めるのだ。

 

「………え?」

 

エリカが声を上げても返せないのだ。見ることもできないのだ。そんな人間に成り下がってしまったから。楽しいと思えない、作業のように音を紡ぐ。悔しくて、悔しくて、悔しくて。

 

たまに曲を書いては俺じゃない奴に提供する。そうしないと生きてはいけないから。縋りついていないと音を出すこともできなくなる気がしたから。作曲としては名は残る。ゴーストライターというわけではない。けれども俺は自分で歌いたいのだ、どうして歌いたいのかはわからないのだが。

 

「もう、いいんだ。構ってくれなくて。そうされたいわけでもなく、そうされるべきでもないから」

「…どういうこと」

「だからもういいんだって。惰性で構うな。放っておけ、俺は安っぽい男だ」

 

一歩後ろに下がる。俺は理解して立ち上がった。彼女の眼を見る。ひどく濁った瞳で彼女を見る。

 

「あの時の返事、してなかったよな」

「―――え?」

 

横を通り過ぎるように、声を放つ。

 

きっとそれが最善だ、掴めない夢は捨てろ諦めろ。どうして目指しているのかもわからないくせに語るのはおこがましいだろう。尽きた、あの時から、固まったまま、惰性で続けていた何かが壊れていく。

 

摩耗して、崩れて、もう何かが限界だった。何もかも破壊したくて、消し去ってしまいたくて。

 

「俺とお前は釣り合わないよ、付き合わない。絶対に」

 

だから、彼女との関係をぶち壊したのだ。

 




途中の描写がなくて軽いと言われることがよくあって、でもそこまで深く書いていると文字がすごいことになりそうだったので。あとこのくらいが自分の性にあってまして。

理解不能ですみません。


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過去その四

エリカ分少な目


「大輔、好き―――」

 

呆然とその言葉を受け取った。いや、受け取るとは間違いかもしれない。俺は目前の彼女の言葉を受け取れたわけではなかったのだから。確かに自分に告げられているのだが、俺は聞きたくなかったのだ。彼女が嫌いというわけでもなく、知らない間柄でもなかった。けれどもそれを全うに受け取れないのは、自分がひねくれているから。

 

「ねえ、大輔。付き合って」

 

知らぬ間に頭を抱えるのだ。分かっていた好意も俺にはもう受け取る権利なんかない。苦しくて苦しくて、辛かったのに、俺にはもう彼女を泣かせることしかできないのだ。

 

ごめんなさい、と頭の中で声がする。心の中でも声がする。何度も、何度も、何度も。総てを締め付けるのは彼女たち(・・・・)への罪悪感。

 

「………聞いてる、大輔?」

 

聞いてはいる。聞いてはいるのだ。ただ喉がへばりついて、声があげられない。思考が焼き付いて何も考えられない。壊してしまう。壊れてしまう。知ってはいたのだ。けれども、自分は馬鹿な方へと足を向けたのだ。

 

少しづつ彼女が涙を流す。俺はただそれを見ることしかできない。拭うことも、声をかけることも何もできない。自分はここでへばりついた、汚い何かだった。それを見る俺の目はひどく歪んでいて、何もかも捨ててしまえばいいと思っていた。そう、思っていた。

 

けれども―――ギターを捨てることだけは出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

響く高い弦の音。適当なコードを鳴らしてみれば部屋中に響き渡る和音。反響して二重になって俺の耳へと吸い込まれる。七色とまでは言えなくても四色くらいには聞こえてくる。長く聞いていなかったその部屋独特の音は心地もよく、同時に得体のしれないものを感じさせた。

 

「どう、もうちょい絞っとく?」

 

小山が目前で声を上げる。すでに俺がライブに参加するとはクラスの皆に伝わっており、他のリハーサルは済んでいる。言い出しっぺの小山が俺の面倒を見てくれているので、現状この部屋には二人しかいない。

 

目前で機材をいじる小山の手つきは慣れており、もうずいぶんと経験したのだなと感嘆する。場数を踏んできていないわけではないが、もう数年も前のことだ。忘れてしまった。感心していると彼女が顔を上げて促してくる。

 

弾いてみろ、そういう意味だろうか。

 

「おお…っ」

 

キチンと調節のあったその音は室内をびりびりと満たした。音は波となり、空気となり体に入る。知らず混じる血液と流れる電流。何度でも言えるだろう懐かしいあの感覚だった。こみあげてきたえも言われぬ言葉はすんでのところで飲み込んだ。

 

ゆっくりとその余韻を飲み込む。長年吸っていなかった酸素の様に十全と体を駆け巡って俺の糧となる。心なしか相棒の艶もよさそうに輝いている気がする。気のせいだろうが。こみあげる笑いも、どうしようもない涙もどうにか心で飲み込んだ。

 

”戻ってきた”。

 

思わず立ってしまった鳥肌を手で撫でながらステージを下りる。

 

「どうですか」

 

満足顔の俺に、さらに満足気な小山。

 

「どうって、まだ調整だからなんとも―――」

「嘘はいけないなあ」

 

そのまま喜んでしまうのが恥ずかしかったのですましては見たが意味はなく。なんだかさっきよりもにやにやした小山の顔があった。分かっているくせにと視線を送るが彼女のにやけ顔は治らなかった。

 

「なんかさ」

「うん?」

「結構、良い顔で笑うんだね」

 

そう指さして笑われると、こちらは気恥ずかしくなる。頬を指で掻いたり、頭を撫でてはみるがいまいちそれは消えない。まあ、なんにせよ小山が良いやつだって分かったのはリラックスできると思った。

 

知らず指が少しづつ震えだす。武者震い、だといいのだが体はどうなのだろう。知ったことではないだろう。踏み出した足はもう止まることは出来ないから。できることなら、そのまま走り抜けろ。

 

 

 

 

「アニメーション学科の―――」

「…ん?」

 

二人教室隅に座り込む。開演三十分前まだ人は来ていない。そもそも仲間内でやるだけのものなのでどこで集まっても同じだろう。もしかしたら俺に気を遣ってできる限り人を集めないようにしているのかもしれない。

 

右手には缶コーヒー、床に置いて水滴が垂れてキラキラと光る。暗いその室内はまるで夜のようで扉を開けると広がる世界との対比が美しいと思ってしまうのは俺だけだろうか。

 

「金髪の子さ」

「うん」

「大輔くんと仲良いよね」

「………まあ」

 

思わずどきりとはする。前日に告白なんてされたらそりゃ意識はするだろう。答えは出せずにいる糞ではあるのだが。けれども暇だったし、あまり話したくはなかったが、世間話に彼女がその話題を出すのなら付き合わなければならない。

 

「………付き合ってるの?」

「…え。あ、いや」

「なにそれ。どっちだよっ」

 

どっちだよと言われても、どっちだろうか。気持ちの上ではきっと。いや関係はないか。答えは出ない。ずっとでない。きっと一生ではしない。俺は糞だから。ゴミだから。泥だから。あの時何もできなかった俺にそれを語る資格なんてないのだろうな。

 

「片思いかー」

「なにが」

「いや、だって恋してる顔だよ」

 

思わず呆け顔になる。顔をペタペタと触ってみても違いなんて分からない。鏡なんて見たって関係ないくらいに顔はいつも通りの仏頂面のはずだ。小山は笑う、いや微笑む。愛おしそうに慈しむように。大人がガキに向ける視線によく似ていた。

 

扉が開かれる、時計を見るとすでに十分前だった。なだれ込む十数人の後ろにはエリカたちが見えた。久光が手を上げる。大輔がにやりと笑う。エリカはしょうがなさそうに俺を見るだけだった。どきっと胸は高鳴ったがかみ殺して手を上げて答えた。

 

「恋してるって。女じゃないんだから」

 

息を吐きながら小山は立ち上がる。見下ろすように視線を俺に向ける。やれやれと声には出さないが顔は語る。

 

「わかるよ」

 

そうして彼女は歩いていく。トップバッターだからだ。主役であるしそもそもの使用時間が三十分ほどでしかない。それぞれ一曲づつ。俺も入って占めて時間は三十三分。曲数は五曲。入れ替わりに一、二分。まあ妥当な時間のミニライブ。

 

振り返って彼女は言う。

 

「ちゃんと、見ててね」

 

その顔は決意に満ちていた。明るく笑うが、重く苦しかった。右手を上げて答える、あたりまえだろと。寂しそうに笑う彼女が前に向き直ると同時に右隣にエリカが座った。

 

床に座って汚れることも厭わずに彼女はそこに座った。じとっとした視線を一瞬向けてすぐ小山を見つめていた。喋らない彼女に昨日のこともあって気まずい気持ちを感じながら俺も小山を見た。

 

もう一度横からの視線を感じたが、気のせいだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうだった!?」

 

息を切らせて小山は横に駆け込んでくる。むっとしたエリカの顔が見えたが彼女の興奮具合は少し高すぎて気づいてはいないだろう。左右に女子に固められた居場所を窮屈に感じながらそれに応える。

 

「よかったよ。随分昔の話だから知らなかったけど専門学生ってこんなレベル高いんだな」

 

絶えず前方からは音の嵐が吹く。心地よいベースの音が腹の底に沈んでいく。少しだけ聞き取りにくい空間で小山の興奮した声が響く。

 

「でしょー? 気合入れて作ったからね今回の曲は」

 

オリジナルの五曲。歌う曲はオリジナルが今日の条件らしく、彼女たちは盛大にその持ち曲を歌い終えた。女性だけのガールズバンドならではの恋というかメタルというか曖昧ではあるが、それでも訴えかけるものを持ってきた。エリカたちが素直に拍手するほどには完成度も高く、俺も感嘆する。

 

「うん、すっげえよかった」

「あはは、ありがと。みんなもありがとねー!」

 

エリカたちい手を上げると、彼女たちもそれに笑顔で答える。目前の音を聞いている皆を邪魔しないように彼女はゆっくりと俺の左に座り込んだ。ゆっくりと、体を俺の方に倒し、肩に重みが伝わる。

 

たとえ一曲でも疲れはする。汗はかくし、声も掠れる。それだけに気持ちを込めるからだ。よく知っているそれに嬉しくなって、たまらなくなった。

 

 

すでに四組目に入ってる演奏は総てが素晴らしいものだった。だから自分の出番があと少しだと分かって手のひらに汗が染みついてくる。湿ってピックも持てなかったらどうしようか。思いのほか落ち着いているが手は震えている。何年ぶりだ、そんなにではないが数年のブランクは本当に息が止まる。

 

本当はブランクとかそういうのが怖いんじゃなくて、気づいているものがある。あの日からずっと怖いものがある。乗り越えていると信じたいが本当にまだわからないのだ。トラウマを昨日抉られることにより奇跡の復活。マイナスにマイナスをかけたらきっとプラスになるから。だからと、そう信じたい。

 

右のエリカは聞き入っている。震えはばれてはいない。綺麗な顔、綺麗な瞳。いつも俺を捉える。全然わかってる。エリカは魅力的な女性だ、言葉で言い表せないくらいわかってる、それを悩む俺が馬鹿なんだってことも分かってる。

 

けれども、どくんと音がする。

 

心臓が何度も脈打つ、這いあがってくる胃液は何度も飲み込んだ。

 

なんども拭った手汗は気づくといっぱいになっていて、頭がおかしくなる。

 

逃げてはいけないから。エリカが語ったアニメの主人公が言っていたから。あんな子供でも頑張るから。このまま逃げなかったら、乗り越えられたら、彼女の想いにもこたえられると思ったから。だから、逃げちゃダメなんだ。くさいことを考えているがきっと大丈夫。エリカが見ててくれるから大丈夫。

 

「さっき分かるって言ったけどさ」

 

音がいっぱいに響いてる。走るドラムの音がうるさくてよく聞こえない。

 

「恋してる人の顔」

 

耳に手を当てて彼女の声を何とか拾おうとする。切なげな彼女はきっと俺に激励でもしてくれるのだろう。だから精一杯に彼女の声を捉えようとする。

 

「そりゃあ、毎日鏡で見てたら分かるようになるよね」

 

声を上げて聞き返す。うまく聞こえない。響くギターの音。決して大きくはないのに教室が教室だけに端の方でも聞こえてしまう。ゆっくりと、終わりの、最高潮の音が上がる。

 

二つのギターが、ベースが、ドラムが、そしてボーカルの声が一様に盛り上がる。最後の音を響かせようとゆっくりとゆっくりと声を出す。響く、跳ねる。彼女の声は続かない、まだだと止まったその声。

 

少しづつ音が小さく和音になって、響いてる。あと数秒もすれば俺は止むだろう。

 

行かなくては、ゆっくりと預けられた肩を押し返しながら俺は立ち上がる。もう残り二秒、楽しげなバンドマンたちがゆっくりと、両の足で飛び上がる。相棒を掴んで俺もその足を出す。

 

一歩出すの瞬間、左足がズボンの裾を引かれ止まる。着地を決めたバンドマンたち。綺麗にぴたっとその音は止まった。視界の端のエリカが俺を見てる。頑張れと出そうとした声は俺の姿を見て止まる。音が止んだバンドマンたち。歓声に包まれたステージを下りる。

 

後退の番だから、どうしたと小山に声をかける。ゆっくりとゆっくりと、まるでエリカの時のように大きく息を吸った。繰り返すようにもう一度顔を赤くして息を吐いた。上げた顔は林檎のようで、ちらりと右を一瞥。少しだけ罪悪感。それでも彼女は俺を見る。

 

声を出そうとして息が詰まった。もう一度深呼吸。その息を吸う。バンドマンたちはもういない。もうステージには俺のための席があった。俺はバンドマンじゃないから。ソロシンガーだから。

 

もう待てない。そうして一歩掴んだ手ごと足を踏み出した。音はない。もう教室に響く音はない。歓声は止んだ。みんなは俺を見る。後ろの彼女もきっと。

 

そうして二歩目を出したそして――――――。

 

「ずっと、君が好きだったんだよ」

 

重なるような記憶のノイズ。あの日が忘れられない。

 

もう一度彼女は、声を出す。

 

「好きでした」

 

響く声音、俺だけに聞こえた。その声は俺だけに聞こえた。

 




思ったよりも長くなりそうな予感がしてきました。


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何番煎じかもわからない上に時期遅れのクリスマスのやつその一

帰省していたらパソコンのキーボード壊れてたので返ってから書きました。
その二で終わりますけど、それがいつのなのか私にもわかりません。

申し訳ないです。


「―――あ」

 

目前の男は、割と驚いた顔。男というか、知り合いというか、友人なのだが。口から出たのはそんな呆けた言葉らしかった。

 

時刻は十時過ぎ、午後の。季節は冬。というかクリスマス。友人たちのクリスマスパーティから帰る途中、件の友人を見た。

 

薄いジャケットを着た彼は、口から寒そうな息が。かくいう私も同じように。コートもマフラーも手袋も完全防備の私からしてしまえば、ジーンズにジャケットのみの彼がとても痛ましく感じる。可哀想に、と思いながらさらに加えての耳当てを外しながら、呆けた彼を見やる。

 

ああ、と。

 

未だ彼の意識は戻って来てはいないらしい。失神はしていないだろうが、突然の事態に、とかいうものだろうか。口をパクパクさせている彼に、素朴な疑問を一つ。

 

「えっと、なにやってるの。笹木くん」

 

ギター片手、座り込んだ彼は私を見上げていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれ、大輔来てねえの?」

 

友人の平岡が、お店に来て早々呟く。先に座っていた私は、遅れてやってきた彼に目を向ける。

 

「らしい。あんまし気乗りしないんだってさ」

 

友人の磯川がそれに返す。私と同じ学校の一回生。平岡もそれに同じ。もちろん先ほど呼ばれた大輔(・・)なる人物もそれに同じ。加えて彼は違うが、他はここにいる人間は全て、アニメーション学科の者である。ちなみ()は音楽科。

 

今日は、クラスのリーダーの様なものである磯川と平岡の二名の発端によるクリスマスパーティ兼忘年会のため、私も含め十名ほどがこの店にやってきている。

 

「まじかよ、じゃあ、五人欠席くらいか」

 

アニメ科は総勢二十名。全員が参加するわけもなく、暇な人間が集まっている。デートなり、家族となり皆々思い思いの時間を送っている。

 

それにしても、笹木くんが欠席、か。何だかんだ言っても結局はやってくれるという、やれやれ系の彼が来ないとは珍しくもある。特別仲が良いとか、そういう感情があるわけではないが、よく皆で居るため少し寂しく思う。

 

「まあ、個人の自由ではあるからなぁ。良く集まった方ではあるしな」

「そうだな。…それに気乗りしねえのなら押しかければいいだけだしな」

 

にやり、と平岡が笑う。彼の家は溜まり場と化してしまっているため、今日も騒ぎ場になるらしい。彼を思うと少し胃が痛くなってきて、ご愁傷さまと心の中で拝んでおく。

 

やれやれ系は、結局は頼まれてしまえば断れないのだ。それが悪意を持ったことだと分かっていても。悪意というか、悪戯心というか。ドアを開け嫌な顔をしつつも、部屋に招き上げる彼を想像すると、少し笑みが浮かんだ。

 

いつも家で作曲をやっているらしいのだが、聞かせてもらったことは一度も無い。いつか聞いてみたい、と思うものではあるが頑なに嫌がりそうだ。じゃあどうして音楽科に入ったのだという話ではあるのだが。歌はだめだけれど曲ならいいらしく、インストだけは聞かせてもらえるのだが、いまいち歌が着かないと分かりにくいというか。うーむ。

 

 

「んじゃ、大輔も来たから、全員集合…かな?」

 

そうこう考えていると、磯川が声を上げる。すでに席に皆座っており、磯川の声を待ちつつも心はお祭りのような、そんな感じ。透明な液体の入ったグラスを笑顔でつかみながら磯川は周りを見渡す。

 

「それじゃあ、まあ、音頭とかなんかとるよりも、とりあえずはって感じで。みんなもそっちの方がよさそうだし」

 

ヤジを飛ばそうとした平岡に笑顔を向けつつ、彼はそのグラスを高く掲げた。全員もそれに合わせるようにグラスを掴む。私も習い、朱い液体の入ったグラスを掴んだ。

 

掲げたそれを、さらに高らかに。声を朗らかに響かせて彼は語る。

 

「乾杯。――――メリークリスマス」

 

『――――メリークリスマス‼』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃあエリカ、またな」

「また今度ね、エリカ」

 

同級生が、平岡が、磯川が声をかけながら皆が二次会へと消えていく。行先はカラオケらしく、聖夜に沿った歌をきっとお歌いになられるのだろう。

 

私はというと、単純に眠くなってしまったし、少し疲れてしまったので先に帰ることに。結構皆酒も入っており、恐らくはカラオケで潰れてしまうだろう。例の彼は今日くらいはぐっすり眠れるだろう。それとも律儀に来るだろうと予測して待っているのだろうか。真偽は誰も知らず、行く本人と待つ本人達がきっと知るのだろう。

 

 

 

下宿先は先ほどのお店からそう遠くない位置にある。電車を使うほども遠くもないし、時刻は十時過ぎほど。酒が入った顔は火照っており冷ましたい気分だったので、タクシーを使わずに歩いて帰る。

 

コツコツと、タイルを蹴る音がする。黒いお気に入りのブーツの先がリズミカルに音を奏でる。あまり脳味噌も動かない状態にそれはなんだか心地よく、自然と足は軽くなった。

 

通りに出て左折。そのまま進んで信号待ち。歩いておよそ二百メートル。

 

歩行者信号の赤になんとなく落ち着きを覚える。時間の流れが正確。青に変わるその瞬間をじっくりと熱い脳みそで待ち続ける。コツコツと、秒針のようにつま先で時を刻む。少し詩的だっただろうかと苦笑い。それでも音は心地よく、そのリズムに合わせて鼻歌なんかを歌う。

 

たしか、前期のアニメのエンディング。染み入るバラードで内容にも即していて、個人的には一番好みの曲だったような気がする。もう今期も最終回が流れているころだ。帰ったら撮り貯めしているものを消化しようか、そういえば火曜日のあのラストは良かったな、とかそんなことを思っていると。

 

―――。

 

何か、音がした気が。

 

辺りには誰も。

 

一人で歩いているが、時間帯は夜十時。小さくても子供に間違われても、私はれっきとした女なわけで。このような事態に体が強張ることも、警戒してしまうことも自意識過剰ではないと許してほしい。

 

知らずつま先は地面についており、酔いもだいぶ冷めてきた。

 

警戒心はぬぐえず、耳を澄ませてもう一度。

 

―――――――――――。

 

今度ははっきりと。はっきりと、弦の音が聞こえた。ギターの音色だ。

 

「………?」

 

警戒を解きつつも、気にはなる。恐らく路上ライブのようなものではあるだろうが、地元では見なかったので気になる。”私、気になります”、とある彼女の言葉を胸に繰り返しながら歩きを進める。

 

信号は既に青になっていた。もう秒針の音は聞こえなくなってしまった。渡って右折。少し進んだところからだんだんと音が大きくなる。物珍しさ、聖なる夜に何と暇なことかと。

 

 

聞こえてきたのは定番のクリスマスソング。

 

私でも知っているその曲は進んだその道の先、人通りも少ない通りに端っこでその音は聞こえてきた。去年のクリスマスとか、気持ちを捧げたとか、私でも分かる英語。聞き取りやすい声と同時、耳に残る音。

 

ギターの音が、ではなかった。誰も見ていない中でリズムを刻む音でもなかった。声が、聞こえたのだ。私の鼻歌なんてわけないってものが。ゆっくりと歩みは遅くなる。

 

足が止まったのは決して、それが知り合いの顔だったからではないはずだ。

 

綺麗な音を、私は純粋に美しいと思ってしまった。聞き、惚れて思わず立ち尽くした。アレンジがすごかったとか気持ちの良いファルセットだとか、そういう技術的なところは分からないのだけれど。ただ心から、綺麗で、そして儚いと思ってしまったのだ。

 

演奏がゆっくりと終わる。

 

どこか寂しげな彼は、息を吐く。頭を数度かくと、もう一度息を吐いた。手がかじかんでいるらしく何度も何度も指に息を吐きかける。こすり合わせるその姿は、とても心に残る。何度も手を握り、握り、ピックを握る。それがどうしてか、かっこよくて。気づけばブーツの秒針が鳴る。

 

「あ」

 

響くは彼の声。美しいと思った彼の音。

 

「何やってるの、笹木くん」

 

ピックを落とした彼は呆然と私を見ていた。



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何番煎じかもわからない上に時期遅れのクリスマスのやつその二

オチたのかもわかりませんがこんな感じでお願いします。
案外早かったですね。


「何やってるの、笹木くん」

 

呟いた私に、彼が向けた視線は動揺したものだった。

 

笹木大輔。同じ専門学校の一回生で、私と別の音楽科に通っている。初対面で私を子ども扱いしたやつ。どういう経緯かは知らないけれど、磯川たちとは初めから親しかったよう。歌を歌わない音楽科、でも良い声はしていると思う。

 

というか今聞いた。

 

「あ、えっと………」

 

あたふたせず、座り込んで言葉に詰まっている。ゆっくりと、手を後ろのギターケースに伸ばす。

 

「路上ライブ、なんてやってたんだね」

 

びくり、と手が止まる。緊張を取ろうとしてはなった言葉は思ったよりも相手の心に響いているよう。普段感じたことのないえも言われぬ嗜虐心が浮かび上がる。気まずげな顔、いい顔である。眼福。

 

「ま、…まあ音楽科だから…」

「私たちには聞かせたことないのに?」

 

う、と息が止まる。別段それが悪いことでもないし、恥ずかしいことでもないのだが、彼にとっては後ろめたいことではあるのだろうか。嵌まったこれはいいネタになるのやも。

 

俯いた彼、そこまで深刻そうには見えないけれど、あまり顔が見えない。

 

「………一身上の都合で」

「…ふーん」

 

なんだかかわいそうに思えてきたのでいじめるのはやめておく。もともとそれほど趣味でもない。恨みがましそうに私をにらむ彼はなんだか可愛らしい。

 

一身上の都合。別に話してもらわなくても構いはしないけれど、気にならないのも嘘にはなる。しかしそれを踏み込む勇気も手段も関係性も今の私にはそれほどなくて。というより別にそんなもの誰でも持っているはずだと自分に言い聞かせる。

 

「二次会、あったんじゃないのかよ…」

「あったけど、いかなかった」

 

ふーん、と呻く彼の横に腰を下ろす。嫌そうな顔を浮かべはするが何か言ってはこない。ヘタレなのではなく、言う必要がないというか。溜息を一つ、ギターケースから手を離す。

 

身震いをして寒そうにジャケットの上から体をさすった。明らかに身軽なお金も持たない、貧しいバンドマン。お金がないわけではないらしいが、そういえばこの前機材を買ったと自慢げに話していたような。

 

首に巻いたマフラーを、外す。

 

「…なに」

 

つきだした私の腕に載せたマフラーを見て彼が呟く。聞かなくても分かるだろうに。面倒くさくてもう一度つきだすと、御礼を言って首に巻いた。少しだけ顔を赤くする彼を眺めながら、少しだけ満足。白い息を吐き出す。寒いですと、彼にアピール。

 

複雑そうな顔をするが何かを言うことはなかった。

 

 

 

 

「今日来なかったね」

 

友人とは言うが、彼は磯川と平岡の友人である。初めの何かがあっても私は特別親しくはないのだ。三人、四人でなら会話が続くが、二人であるならどうかと問われれば言葉にならない。

 

ぶっきらぼうに聞く私の印象は悪いだろうか。ちらりと見るがその顔は別段そうでもない。

 

「……気が進まなかったから」

「みんな寂しそうだったよ」

「へえ」

 

へえ、って。

 

まあ話したくないのであるなら仕方がないのだろうか。それでもあまり会話を続ける気がないのは感じ取れる。続ける気がないというか、おそらく気まずいのだろう。私も現状そうであるし。

 

彼の右手がギターを掴む。弾く。ぼーんと低い音が間延びする。

 

「なんでこんな場所でやってるの?」

「…こんなって」

「だって人来ないでしょ」

 

来ないけど、と彼が言った。

 

「それでいいんだ」

 

それは寂しげだった。じんわりと広がる低音が辺りを占める。吐く息は白く、視界は黒く。薄暗い月光だけが彼と私を照らしていた。今日は聖夜なのに。彼は光を欲している。

 

「…へえ」

「へえ、って……」

 

おいおいと困り顔。くすり、と口がほころぶ。訝しげな彼の顔。ころりと変わる顔に再び笑みが。なんだか心地いい。この空気、嫌いじゃない。

 

「最初に笹木くんが言ったんだよ」

「…………確かに」

 

手持無沙汰。再び響く弦の音。今度は少しだけ高い音。こっちの方が好きかも。

 

ふと、熱がこみ上げる。先ほど聞いたメロディが頭から離れない。何度も街中で聞いたメロディ。それでも何度も聞きたいと思ってしまう彼の旋律。急にどうしたと自分の体に聞きたいが耳からあれが離れない。

 

彼の顔を眺める。不思議そうに薄めで返される。構わず見ていても、そちらも逸らすことはない。

 

一分ほど経っただろうか。構わず見つめ続けるが、何か言ってくる様子もない。だから、もう一度聞きたくなった。

 

「ねえ―――歌ってよ」

 

直ぐには答えは返らなかった。

 

息をつく。彼の口から、あの美しい音を奏でる口から白い息が空へと昇る。

 

「やだよ」

「いいじゃん、せっかく綺麗な声なのに」

 

うっ、と顔を赤くして逸らされる。勿体ない。

 

「聞きたい、大輔(・・)くん」

 

我儘な私を彼は意外そうに見る。普段見せない私を出すほどには、彼の唄に惹かれていた。彼の声に恋していた。その声がもう一度聞きたくて、その音が深く残っている。

 

「あのな、矢野」

「聞きたい」

 

引けば負ける、分かっているから押す。うんと言ってくれるまではこれしか喋らない。いやしかし、引いてしまってもいけるのか。

 

睨みあいは続く。懇願するように彼を見上げる。見返す彼は少したじろいた。赤い顔で私を見る彼を見て、もう一押しだと思った。引くべきか、押すべきか。

 

ああ、それでも。このように思考で彼をどうやったら歌わせられるかと、考えているけれど。本当のところは、面白がっているわけでもなく。真摯に彼の歌が素晴らしいと思ったので、彼の声が好きだったので。それを本当にもう一度でも聞きたいと思って。

 

せっかくの聖夜なのだから、お願い一つくらいは叶えてくれても。

 

「―――歌ってよ」

「―――」

 

一瞬息が詰まった、ようで。どこか寂しげで悲しげで、私は嫌な奴だろうか。それでも彼はすぐに元にも戻り、うーんとうなり始める。やがてため息を大きく一つ。もう一つ。加えてもう一つ。どれだけする気だ。

 

やれやれ、と顔を上げるといつもの顔があった。

 

「みんなには、秘密だぞ」

 

言うもつかの間、彼の右手が、左手が揺らめいた。

 

 

 

 

 

「Last Christmas I gave you my heart」

 

歌い始めたのは先ほどの曲だった。Last Christmas。日本でも有名な、というか日本では本当に有名な曲。失恋のようなそうでないような誰でも共感できるような文面、らしい。けれど言うほどに、私は、英語なんて分かりはしないから。

 

ただ、目の前の彼と、その音を追うことで精一杯。

 

「But the very next day you gave it away」

 

優しげに左手で抑えるコード。リズムよく走る右手。奏でる和音はこの夜には些か染み入りすぎる。弾く、弾く、弾く。音の重なりがこの空間を他と隔絶させる。

 

「This year, to save me from tears I’ll give it to someone special」

 

彼はどうしてここにいるのだろうか。どうしてこんなところにいるのだろうか。とても勿体ない、けれど。彼の才能を今この場所で私が独占しているという、欲が私を嫌な女に変える。聞いている人間が今この場で私だけ。同時に、この声は、誰かに聞いてもらうためのものだ、と思うのだ。

 

寂しげであった。その声は寂しげであった。

 

たまらず、どうしてか涙があふれてきて。

 

別に傷心でもないのに、何かが嫌だったわけではないのだ。今日はとても楽しかった、日々は充実している。だから感情で泣いたわけはないのだ。感情で、流されるように泣いたわけではないのだ。

 

心を思わず動かされるほど、この同い年の、同じ学校の、同じ友達を持つ、彼の声が魅力的で。彼のそれがすごく心に残る。爪痕を残す。だから、年甲斐もなく、涙を流す。

 

 

「Last Christmas―――、っ」

 

演奏が止む。

 

心配した彼の顔。

 

「どうした、矢野………?」

 

声をかけられるけれど、うまく返すことは出来ない。流されるようにとは言ったが、でもどうしてか過去の少しだけ辛かったこととかを思い出す。大したことではないけれど、でも。

 

あたふたとした彼は鞄からタオルを取り出して私の目元を拭う。心配する顔はとても大人びていて、同時に撫でてくれる手がとても暖かく感じた。

 

「何か、…嫌なことでもあったか」

 

ふるふる、とゆっくり首を振る。そんなことはなかった。彼に、大輔に会ったことまでがとても良い一日だった。でも泣かずにいられなかった。

 

「………そういえば、了に客が入り込みすぎるからバラードはあんまし書くなって言われてたな」

 

撫でる力が弱まる。何の話をしているかは分からなかったけれど、どうしてか涙は止まらなくて。慰める彼がとても優しくて。

 

「―――きっと、矢野は優しいから、感受性が豊かなんだろうな」

 

 

「大輔くんはっ、どうして、こんな誰、もいない、ところで、演奏をするの…っ」

 

涙は強くなる、彼の指が温かい。何か理不尽な気がするのだ、彼が寂しげに弾くことは。間違っている気がするのだ。彼の声が誰かに届いてほしい。

 

手は止まない。

 

絶えず優しく、柔らかく。

 

「俺は女々しいから」

 

そう言ってくしゃくしゃといっそう撫でられた。

 

それ以降何も言ってはくれなくて、ただ私たちの息だけが音を立てる。次第に私たちを照らしていた月光はどこかへと消えて、薄暗い空間で私は彼を見つめる。

 

整った顔立ち、安い整髪料で簡単に整えられた黒い髪。体格は痩せ気味、あまり食べていないのだろう。顎の下、マフラーの隙間、首の中間に見える大きな喉仏。発する声はとても魅力的で。この声がもっと誰かに届きますように。

 

見つめる私を訝しむ。

 

どうした、といわれる前に声を出す。

 

「………少し、づつ」

「えー――?」

「少しづつで、いいから、皆にも歌、聞いてもらおうよ」

 

それは涙で掠れてしまった声だったけれど。言うたびにまた涙が出てきたけれど。まだ子供だなって、自分に嗤えてはきたけれど。それでも彼の力になりたいと思った。彼を支えてあげたいと思った。

 

「そしたら、少しづつ大丈夫になるよ、きっと」

 

何がとは知らないから言えなかった。絶対とは無責任に言えなかった。けれどきっかけになれば、いいって、思うから。

 

彼は少しだけ寂しそうに、ぐしゃっと強く私を撫でて。

 

「―――そうだなぁ」

 

そう言って笑った。

 

そうしてどうしてか私は少しだけ救われたような気になれたのだ。その顔を見て、涙は流れなかった。代わりに喜びがこみあげてきて、知らず口角は吊り上がった。

 

時刻はもう十一時というか十二時手前。左手のシンプルな腕時計を見て気づく。もうすぐ日付が変わるが今日は聖夜、クリスマスなのだ。目前で微笑む彼は関係なくこんな場所に来ていたけれど。

 

でも、喜びは、楽しさは、お祝いはみんなで分かち合いたい。

 

「ねえ大輔くん」

「ん?」

 

「メリークリスマス」

 

一瞬呆け顔の彼は、その言葉に理解が及んで。ああ、と頷いてこちらを見た。ああ、確かに皆が言うように彼の顔は整っている。私じゃなければ惚れていたところだったろう。

 

薄く微笑んで。

 

「メリークリスマス―――エリカ」

 

きっと私は撃ち抜かれた。




大輔の過去的なのは、人死や、虐待などではありません。
もし予想されたりとか、期待されている方の期待に添えられるものではないかもしれないです。

あんまし重くないと思います。

難しい。


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過去その五

映画化記念にすこしだけ書いていたものを投稿します。
ちっとも話進んでないですが、これから時間があるときに書いていけたらいいと思っています。



笹木、と俺を呼ぶ声がする。

 

「君が、好きだったんだよ」

 

見なくてもそれが俺の番だったからで、何のことではない。何のことではないのだ。それが当然で期待がこもった声だった。知らない声、あまり聞いたことがない声。様々が俺を期待し、急かし、待っていた。

 

「好きでした」

 

がつん、と頭を殴られた気がして。視界が少し暗くなった。

 

どくん。

 

鼓動が脈打つ。息はまるで獣のように荒くなってきた。視線を逸らせなかった。その視線を、俺は逸らせなかった。後ろから、彼女がいると分かる。ずっといたのだから。

 

笹木、と呼ぶ声がする。

 

急かしている。もう一分は経っているのではないだろうか、時間を忘れてしまうほどに。彼女がいる。彼女がいる。彼女がいる。すぐそこにエリカ(彼女)がいる。

 

小山(彼女)が俺を見あげている。それがどうということではなかったけれど。うしろのあいつが見ていることもどうということではなかったけれど。俺がただ震えていることもどうということもなかったけれど。ただすべてがどうでもよかったのだけれど。

 

笹木。笹木。笹木。笹木。

 

四人が名前をよんだ。待ちきれないと俺を呼んだ。

 

笹木。笹木。笹木。

 

何度も何度も俺を呼んだ。知らず足は向く。歩き出す。

 

―――――大輔、好き

 

「―――うるせえよ」

 

何ともなしに呟いた。何か少しだけ壊れそうで、脆かった俺は何ともなしに呟いた。そうしないと歌う気は起きなかった。歌える気はしなかったけれど。立ち続けることもできる気はしなかったけれど。

 

震えて崩れそうになる体はまだ立っていて、気分が悪くなった。音はないけれど、照明が眩しく感じる。視界の端を霞めていく光。嫌な汗が一つ、ぽとりと落ちた。

 

「大輔?」

 

声がする。大輔の声だった。どうしてか、それで思考は少しだけおさまった。久光の声も聞こえたような。どっちでもよかったと思う。よくはなくて、本当は聞こえたらいいなという願望があって。

 

足を進める。視線は自然と逸らした。

 

 

ステージには椅子が一脚。マイクスタンドが二本、ご丁寧に準備されている。薄暗い照明。そこまで気にはならなかった。考える余裕はなかった。考えるといけないような気がした。

 

椅子に座ってマイクを調節メインは少しだけひねってみて。座高の高さは八十センチ、うまいこと届く。

 

相棒を体の前に。もう一本を少し下げた。軽くチューニングをして鳴らしてみる。歓声が少しだけわいた、ような気がする。目の前には何もいない。いることはない。

 

足を組もうかと思案して、今日は何を弾くのだったかと、思案した(・・・・)

 

汗が、ぽたりと落ちていく。ぽたり。ぽたり。ぽとり。

 

後ろには何もいない。音は響いてこない。ギターと、俺と、みんな。

 

何もいない。何もいない。誰もいない。俺はソロだからそれで正しいのだ。右手を持ち上げて、弦をはじいてみる。弾くけれど音が鈍い。断続的に響く音色が歪だった。

 

足を組まないと、弾きづらい。右足が上がらない。しょうがなく組まないことにした。ボディが歪で弾きづらい。けれど足は上がらないし、足置きはなかったし。出来ないことはないし。マイクの位置がずれる。修正するけれど、右手でいじってしまいピックが落ちた。拾おうと手を伸ばすと、視界が動く。反転するように動く。

 

音が派手におきて、耳障りな金属音。一瞬の浮遊感。衝撃を受けて息を吐き出す。

 

体の背面に感触がある。指先に固い感触。呆然と転んだことを理解する。頭はだらりと倒れており、きっと無様に見えただろう。息をもう一度、吐きだして。

 

視線が上を向く。正確にはステージの後ろ。バンドであるならばそこには楽器が置いてる。俺はソロだからそんなことはない。右を見る。何もいない。何もいない。

 

しん、と止んだ教室を声が飛び交う。揺れるような感覚。頭の後ろから伝わってくる。高い音だった。耳に入る。よく入る。よく知っている。響くの高い音。染み入る彼女の声。

 

私、―――――あんたのこと好きだから

―――――大輔、好き

好きでした

 

それは苦しげで、細められた視線が射貫く。それでも漏らす。心耐え切れずに漏らす。ごめんなさいと声を出して、俺の声は霞のように消えていく。届くことはないから、ずっと溢れている。

 

うるせえよ、うるせえよ、うるせえよ。

 

壊してしまった絆がある。受けられなかった想いがある。惨めに拭った思いがある。離れられない願いがある。それでも好きだった。全力で駆け抜けて好きだったのだ。否定したくとも消えてはくれない。

 

目前には女がいる。よく知ってる女がいる。全く知らない女がいる。好きだった人がいる。今の彼女がいる。頭の中真っ白で視線を虚空へさまよわせる。ぐるりと回って視界の端。

 

伸ばした手は空を切る。その手はもう届かない。この手はもう届かない。はじくギターの音。すっきりとしみわたって消えていく。呆然と馬鹿みたいだって思った。

 

歌う気はしなかった。歌える気はしなかった。世界の音が野次のように聞こえてきて、吐き気が思考を埋め尽くす。あるまじき人間性。無様。無様。無様。

 

意識は遠く掻き消えそうで、ゆっくりと瞼を閉じる。

 

視界の隅では別の女が笑ってて、誰かに似ているような気がした。

 

 

 

瞼を開けた。

起き上がって何でもないように椅子に座る。

 

皆は怪訝そうに見ている。

 

もう、慣れた様な気がする。(・・・・・・・・・・)

 

ゆっくりと呼吸を整え、空気を数える。一つ、二つ、三つ。

タイミングが合わなくて、一瞬息をのんで、そうして弦を弾いた。

 

音は鳴った。よくわからなかった。ぐちゃぐちゃだ。

 

エリカが見える。俺を見つめていた。俺もエリカを見つめた。でも照明が眩しくて、部屋が暗くて見えなくなった。どんな表情をしているのか。ここに鏡でもあればよかった、歪に笑う俺が見えるのに。

 

ゆっくりと口を開いた。

 

視界の隅で小山が見えた。どうしてか、悲しそうな顔が見えた。滑稽だったのだろうか。だったら笑えよって話で、どこか勘違いをしたまま俺を歌った。

 

 

―――――ひどい演奏だった。



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