この世界の中心は、 (ルニャス)
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MAIN CHAPTER
世界を変える選択


 

 右手に持った剣が、弾き飛ばされた。

 「っ!」

 突進してくる獣。

 咄嗟に左手の剣で庇う体勢を取ったが――怪我を覚悟したその時に、白いコートの、広い背中が立ちはだかった。

 ざしゅ、と何の抵抗もなく斬り捨てられる音。

 広い背中の向こうで、どう、と、獣の身体が倒れ伏す音を聞いた。

 「これは、判断力を試すテストだったんだよ」

 あっさりと獣を切り伏せた男――クランスピア社きってのトップエージェントであり、今回の採用試験官であるところの男、ユリウス・ウィル・クルスニクは告げた。

 「ルドガー・ウィル・クルスニク。不合格だ」

 それは、決して不条理な判断ではなかった。

 ルドガーとて、これが他の試験官であれば、肩を落としてその結果を受け入れただろう。

 しかし。

 「あの、試験官」

 諦め切れなかったルドガーは、挙手して発言を求めた。

 「なんだ? ルドガー」

 応じたユリウスの表情には、試験中の厳しいものとは違い、多少なりともリラックスした様子が窺えた。そのことが、ルドガーの背中を押した。

 「ユリウスがいるので、一撃凌げれば増援がくると当てにして突っ込みました……では?」

 ルドガーの物言いに、ユリウスは軽く目を瞠り――そして、苦笑した。

 「……だとしたら中々冷静な判断力だが……お前、本当は違うだろう?」

 腕組みし、お見通しだぞ、という口調のユリウス。

 「……ええと……」

 眼鏡越しに澄んだ瞳がむけられた時点でルドガーの負けは確定していたが、それでも突破口を求めて色々と考えをめぐらせ――結局誤魔化しきれずに、てへ、とルドガーは笑った。

 これが他の試験官なら、それなりに言い訳を重ねることも出来ただろう。

 だが、今回ルドガーを物言いに踏み切らせたのと同じ理由で、今回の試験官であるユリウスには、どんな誤魔化しも通じない。

 ルドガーの照れ隠しの笑みを見て、ユリウスも柔らかく笑んだ。

 「俺を騙そうなんて、十年早いぞ、ルドガー」

 「はーい」

 ぽんぽん、とユリウスに――たった一人の肉親である兄に――頭を叩かれて、ルドガーは全面降伏した。

 

 大企業、クランスピア社の入社試験に落ちたルドガーは、それから色々まわって、ようやく駅の食堂に就職の口を見つけた。今日はその、初出勤の日である。

 「おはよう、ユリウス」

 自室で身支度を整えたルドガーが朝の挨拶と共にリビングに入れば、「やっと来たな」とユリウスが微笑んだ。

 「おはよう、ルドガー。……全く。今日といい、クランスピアの試験のときといい。お前は時間に余裕がないな。これは、兄から、社会人の心得を話しておくべきかな?」

 「……時間には余裕を持って、以外なら拝聴するけど」

 ルドガーは肩を竦めつつ答えた。

 クランスピアの入社試験に、時間ぎりぎりに駆け込んだのは、ルドガーとてまずかったと思っている。その反省があるからこそ、今日はちゃんと朝食を作って、食べて、後片付けも出来る余裕を見て起きたのだ。ルドガーに言わせれば、ユリウスが早起きすぎた。

 「そうか。となると……」

 ユリウスは軽く考え込んだ後、一つ頷いた。

 「よし、それじゃあ、これだな。君子危うきに近寄らず」

 「……試験のこと根に持ってるの、ユリウスのほうじゃないか」

 何かとクランスピアの試験にからめてくるユリウスに、ルドガーは呆れた。

 ユリウスは、入社試験に失敗して落ち込むルドガーに、クランスピア社のことは忘れて切り替えろと折々に言っていた。どうかすると、試験努力が報われず気落ちしたルドガーよりも気にしていたかもしれない。

 そして、「切り替えろ」の次に多かったのが、この「君子危うきに近寄らず」だ。試験で勝算なく獣に立ち向かったのを、まだ根に持っているらしかった。

 しつこいと顔を顰めるルドガーに、しかしユリウスは動じなかった。

 「当たり前だろう。たった一人の弟に、下手なことに首突っ込んで死なれるのは御免だからな」

 「……わかった、わかりました。自重する」

 親代わりとなって育ててくれたこの兄が若干過保護気味なのは、今に始まったことではない。

 そして、たった一人の肉親を、ちょっとした無鉄砲、なんてことで失うのが願い下げなのは、ルドガーとて同じだ。

 なのでルドガーは、両手を上げて降参した。

 ちょっとおどけたそんな動作でも、ルドガーの言質を取ったことで、ユリウスは安心したらしい。

 眉根を寄せて少し険しかった表情が、安堵に緩んだ。

 「ああ、そうしてくれ。――さて、シェフ、今朝のメニューは?」

 そして、ルドガーの初出勤日であること以外は何にも変わらない、いつもの朝が始まった。

 

 朝食の後片付けを終え、ユリウスの出勤も見送ったルドガーは、戸締りをしてマンションを出た。

 途中、トリグラフ駅から出発する列車に乗るという青年に出会って案内したのまでは、まあ順調な滑り出しといえただろう。

 しかし、その後が宜しくなかった。

 何故か見知らぬ少女に変質者扱いされ――駅員の注意がルドガーに向いている間に、件の少女は、青年も乗った特別列車に駆け込んだ――周囲から冷たい視線を浴びた。

 そして、突然の襲撃である。

 何の予告も、前触れもなく起きたその襲撃に、改札近くにいたルドガーは巻き込まれた。

 「……くっ」

 目くらましの白煙が立ち込める構内。銃撃の音が止んだあたりで、床に伏せていたルドガーは身を起こした。

 「……何なんだ、一体……っちょ、大丈夫ですか!?」

 白煙の残る周囲をざっと見回してみたルドガーは、すぐ傍に、駅員が血を流して倒れているのを発見した。何かの破片で頭を切ったらしく、鮮血が額を伝っている。意識は無いようだが、呼吸は確認できた。

 「ええと、止血止血……」

 ルドガーは駅員の傷口にハンカチをあて、ネクタイを包帯代わりに応急処置を済ませた。

 「これでいい……かな」

 これ以上自分に出来ることはなさそうだと判断して、ルドガーは顔を上げる。

 周囲をもう一度見渡せば、救急隊員がちらほらと姿を見せ始めていた。

 これならあとはプロに任せられると、少なからずほっとして――

 「……! そういえば、列車!」

 ルドガーはようやくそのことを思い出した。

 あの列車には、道案内をした青年と、ルドガーを利用した少女、そしてその少女にくっついて、何故だかルドガーの飼い猫であるルルが乗りこんでいた。

 しかし、構内にはすでに列車の姿はなかった。

 「……壊された……というよりは、出発したって感じか?」

 少なくとも、列車が破壊されたような痕跡は見受けられず、そのことにルドガーはほっとした。

 襲撃者が乗り込んでいるのでまだ不安があるが、ルルは賢い猫だから、そのうち帰ってくるだろうと自分に言い聞かせる。勿論、ルルだけでなく、あの青年、そして少女のことも気にはかかったが、優先順位としては、愛猫のほうが上だ。

 「君、大丈夫か!? 怪我はないか!」

 「あ――はい。俺は大丈夫です」

 心配してくれる救急隊員に微笑み返して、ルドガーは、さて、初出勤の今日はこれで仕事になるのだろうかと、己のことを心配してみた。

 

 



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時計と少女

 

 親切な青年に案内してもらって無事列車に乗り込むことが出来たジュードだったが、せっかく乗り込んだ特別列車内で、正体不明の敵に襲撃されていた。

 どうやら殲滅を目的としているらしい彼らを、しかしジュードは危なげなく撃退した。

 丁度同じ車両に乗り合わせていたエレンピオスの大企業、クランスピア社の社長ビズリーと、その秘書の女性ヴェルを護衛しながら、他の生存者を探して進む。

 ほとんどの乗客が既に命を落としていたが、やがて一人の少女と一匹の猫を見つけた。

 保護者がいないらしい少女は、エルと名乗った。

 ビズリーが、これはアルクノアというテロ組織の破壊活動であり、列車を農業プラントに突っ込ませる計画だろうと告げたところで、「それは駄目!」とエルが叫んだ。

 「この列車、ちゃんと走ってくれないと、エル、カナンの地にいけなくなっちゃう!」

 「カナンの地?」

 「……ほう?」

 エルが口にしたカナンの地という単語に、ジュードは首を傾げ、ビズリーは興味深そうに応じた。

 しかし、そんな二人の反応には構わずに、エルはジュードを見上げた。

 「どうしよう! どうしたら、列車、止まる!?」

 エルの必死な様子に、ジュードはともかく考えた。

 「……先頭車両にいければ、あるいは……」

 先頭車両の運転席にいってブレーキをかけられれば、と呟く。

 「先頭車両って、あっち?」

 「え、ちょ、待ってエル! 危ないよ!」

 少女一人を、テロ組織に立ち向かわせるわけにはいかない。無鉄砲にも駆け出したエルを追って、ジュードも走り出した。

 途中襲い掛かってくるアルクノアの戦闘員たちを、エルを庇いながらもジュードが倒し、二人と一匹は先頭車両まで到達した。

 そして――

 「……!」

 そこに立つ、白いコートの背中を見つけた。

 「…………」

 双剣を持つ男がゆっくりと振り返る。

 金髪を短く刈り、眼鏡をかけた男は、ジュードと――そして少女を見て軽く目を瞠った。

 「……貴方が……皆を……?」

 男の足元には、アルクノアの戦闘員たちが倒れている。アルクノアを倒したのが白いコートの男ならば、彼はジュードたちの敵ではないのだろうが――しかし、男の隙の無い佇まいに警戒心を刺激されたジュードは、知らず、身構えていた。

 「……その時計は……」

 「え……?」

 しかし男はジュードの質問には答えずに、エル――胸元に金色の懐中時計を下げたエルに向かって、一歩を踏み出した。

 「っ」

 エルは時計を抱き込んで、思わずといったように一歩下がったが、それよりも男が距離を詰めるほうが早かった。

 男の手が、エルの時計に向かって伸び――突然、時計が輝きだした。

 「え……!?」

 驚いたエルは時計から手を離した。紐で首に下げられた時計は、重力を無視して浮き上がる。

 「な、何……!?」

 「これは……!?」

 「く……やはり……!」

 何か心当たりがあるらしい男の手が、なおも時計に伸ばされる。

 「だ……駄目! エルのパパの時計……!」

 慌てて時計を掴みなおそうとしたエルであったが、男の手のほうが速かった。

 「……くっ」

 時計に触れた瞬間、男が呻いた。

 時計は一際強く輝いたが、それも一瞬のことだった。今は普通の様子に戻り、男の手の中に収まっている。男の手は、何らかの衝撃が伝わっているのか、小刻みに震えていた。

 「……か、返して! エルの時計!」

 「……これが君の時計であるはずが無い。どこで手に入れた」

 「っ」

 男の険しい眼差しと、冷たく響いた低い声音に、エルは怯えた。

 が、負けん気が強いのか、拳を握ると果敢にも言い返す。

 「っえ、エルのじゃないけど、でも、エルのパパのだもん!」

 「……父親だと……?」

 「――それは、私も興味があるな」

 男の呟きを引き継いだのは、ビズリーであった。ヴェルも共に来ている。

 「……社長」

 「え……?」

 コートの男の呟きを聞きつけて、ジュードは思わず二人を見比べた。

 知り合いなのか、と訊ねようとしたその時、男の足元に倒れていたアルクノアの一人がやにわに立ち上がった。

 「――くそおおお! 貴様らああああっ」

 手にした機関銃が、標的も定めぬままに振り回され、銃撃が行われる。

 無軌道な動きを見せた銃口が、エルのほうに向かった。

 「っ!?」

 「っエル、危ない!」

 咄嗟にジュードはエルを庇い――追いかけるように動いていた銃口は、横手から放たれた一本の黒い槍によって弾き飛ばされた。

 「え……槍……? 一体、どこから……」

 エルを背後に庇いながら、ジュードは黒い槍を凝視した。

 この場にいる人間は、誰も槍などもっていなかった。

 角度からして、槍を投げたのは白いコートの男なのだろうが、しかしその男自身が、どこか険しい表情で槍を見つめている。

 戸惑い、沈黙が降りたところに、「――ふふふ」と低い笑い声が響いた。

 「流石は我が社の誇るトップエージェント。見事な腕前だな。……少し見ぬうちに、新たな力も得たようだ」

 「…………」

 ビズリーの賞賛の言葉に、しかしコートの男は嬉しそうな表情をちらりとも見せなかった。

 「……ええと、それじゃあ、この人はクランスピア社のエージェントなんですね?」

 「そうだ。ユリウス・ウィル・クルスニクの名は、聞き覚えがあるのではないかね?」

 「ああ……はい。確かに。じゃあ、ビズリーさんの護衛として?」

 「信憑性はそれほどでもなかったが、アルクノアの活動情報が耳に入ったものでね。――それよりも。……お嬢さん」

 「……な、何……」

 突然ビズリーに声をかけられたエルは、心細かったのか、ジュードの服の裾をぎゅ、と握り締めた。

 「カナンの地に行きたいといっていたね?」

 「カナンの地……!?」

 ビズリーの言葉を聞きつけて、それまで考え込み、黙っていたユリウスが反応した。

 「っ」

 またしてもユリウスに強い視線を向けられたエルは、ジュードの背中に身を隠した。

 「カナンの地のことを、誰に聞いたのかね?」

 ビズリーが、ジュード越しにエルに訊ねれば、エルは顔だけを覗かせた。

 「……エルのパパ。お願い事を叶えてくれる場所だって……ねえ、カナンの地、知ってるの!? どうやったらそこにいける!?」

 話しているうちに勢いづいてきたのか、いまやエルは、ジュードと並んでビズリーを見上げていた。

 「……その前に聞かせてもらえるかね? 君のパパの名前は?」

 「パパ? ……ヴィクトル」

 「ヴィクトル。……ほう、成程……」

 面白い、とビズリーが呟いた。だが、面白いと思っているのはビズリーだけのようだ。ユリウスは、相変わらず険しい顔でエルを睨んでいる。

 「ねえ、カナンの地!」

 しかしカナンの地の手がかりが手に入りそうな今、エルはユリウスの視線には気付いていなかった。訳知り顔のビズリーに詰め寄る。

 ビズリーは必死な様子のエルを見下ろし、焦らすことなく答えた。

 「――カナンの地に行くには、五つの鍵を集めなくてはならない」

 「五つの……鍵?」

 「ああ。そして……その鍵を手に入れるためには、お嬢さん、君の力が必要だ」

 「エルの……力?」

 自分にそんな力があるとは信じられないのだろう。首を傾げるエルに、ビズリーはしっかりと頷いて見せた。

 「そうだ。どうだろう。カナンの地には私も興味がある。お嬢さんがその気なら、私が全面的にサポートしようじゃないか」

 「……本当に、行けるの?」

 「行けるとも」

 「……わかった。……協力、する」

 今のところ、エルにはビズリーの言葉しか目標に出来るものがないのだろう。迷いを見せながらも、承諾した。

 「よし、契約成立だ。では、本社に戻ろう。何、心配することは無い。衣食住は保証する」

 「…………うん……」

 頷いたものの、心細さは押さえ切れていないようだ。エルの手は、ジュードの服の裾を掴んでいる。そのことを察したジュードは、エルの肩にそっと手を置いてから、ビズリーを見た。

 「……あの、ビズリーさん。僕も一緒に行っていいですか」

 「……まあ、構わないだろう。それはそうと――」

 話が一段落したあたりで、ビズリーはユリウスを見遣った。

 「そろそろ、列車を止めてはどうだ?」

 「…………」

 ビズリーの指示に、ユリウスは無言で踵を返し、運転席に踏み込んだ。

 

 



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分史世界

 

 無事に列車を停止させた後、押し寄せる記者たちを適当にあしらって、ビズリーたちは本社まで戻ってきていた。

 適当にあしらって、とはいうものの、事はテロ。大事件である。そしてそれを収めたのがクランスピアのトップエージェントともなれば、そう簡単に解放してもらえるものではない。

 クランスピア社に戻ってこれたのは、午後も遅い時間であった。

 「――さて、それではざっと説明しよう。この世界には、我々の住む正史世界のほかに、分史と呼ぶ世界がある」

 社長室の椅子に座ったビズリーは、ジュードとエルに向かってそう切り出した。ちなみにこの場には、ビズリーと秘書のヴェル、ユリウス。そしてジュードとエルの五人と、猫一匹がいる。

 「ぶんし、世界……?」

 「ああ。現実とは異なる可能性から生まれた世界だ。例えば、今ここではクランスピア社の社長は私だが、他の世界では、そう、ここにいるユリウスかもしれない、そういうもしもの世界だ」

 「…………」

 仮に社長とされたユリウスは、無表情ながらもどこか不機嫌な様子を滲ませて沈黙を守っている。

 ビズリーは、ユリウスの様子には頓着せずに話を進めた。

 「だが、そのような世界が増えすぎると、魂の循環に影響が出る。魂の浄化が追いつかなくなる。そうなれば、待っているのは滅亡だ」

 「……では、どうすればいいのですか」

 この世界が滅亡すると聞いては、ジュードには放っておくことは出来なかった。

 この世界は、ジュードの大切な人に託された、大切な場所だ。手をこまねいて滅亡を待つなんて、出来るはずが無かった。

 「分史世界を破壊するのだ」

 「破壊……? 世界を破壊するなんて……どうやって」

 「分史世界には、この世界と比べて、特に変化したタイムファクターという存在がある。人でも物でもありえるが、先ほどの例で言えば、クランスピアの社長がユリウスだという可能性。そこではユリウスがタイムファクターだとしよう。ならばこのタイムファクターを破壊すれば、分史世界は崩壊する。そのための機関が、我が社の分史対策室であり、分史対策室室長が、ここにいるユリウスだ」

 「……っ」

 再びユリウスに注目が集まり、エルもまたユリウスを見上げたが――変わらぬ厳しい眼差しに、ジュードの背に隠れこんだ。

 「さて、この分史世界には、こちらの世界では失われたものが存在することがある」

 「……失われたもの?」

 「例えば、絶滅した動物。例えば、こちらでは存在しない技術。違う歴史を辿ったが故に、存在するものがある。それが、カナンの地へ向かうための鍵だ」

 「――じゃあ、それを手に入れればいいの?」

 「そうだ。お嬢さんには、分史世界から鍵を持ち帰ってもらいたい」

 「どうしてエルなんですか。プロがいるんでしょう」

 そもそも、こんな小さな子供に一体どんな力があるのか。ジュードにはまだ納得できていなかった。

 「残念だが、分史世界はタイムファクターを破壊した時点で、全てが消滅する。分史世界のものを持ち帰ることは出来ないのだ。――普通はな」

 「……エル、普通じゃ、ないの……?」

 「何世代かに一人、クルスニクの鍵と言う力を持つものが現れる。私はそれが君だと確信している。分史世界からカナンの地への鍵を持ち帰れるのは、君だけだ。さて、どうするね?」

 「……わかった。やる」

 「よろしい」

 エルの決断にビズリーは満足げに頷くと、傍に立つヴェルに視線で合図をした。

 「では、連絡用のGHSを渡しておこう。まずは手ごろな分史世界で慣れてもらうことになる。用意が出来たら、連絡をいれる」

 「こちらがエル様のGHSになります」

 ヴェルはエルにGHSを手渡すと、淡々とした声で説明を始めた。

 「エル様の分史世界侵入には、ユリウス室長が同行することになります」

 「ええ!?」

 予想外の言葉に、エルは弾かれたようにユリウスを見上げ――そこに不機嫌な顔を見つけるなり、またしてもジュードの背に逃げ込んだ。

 「やだ! エル、このおじさんとは嫌!」

 「ですが、ユリウス室長は我が社のトップエージェントです。分史世界破壊に関して、室長より優れた方はいらっしゃいません」

 「…………」

 それでもエルは不満顔であったが、どうにか内心の折り合いをつけたらしく、「うん、わかった……」と頷いた。

 「次に、エル様のお住まいですが、ひとまずホテルにお部屋をご用意いたします」

 「ホテル? エル、ホテルって泊まったときない」

 「待ってください。子供を一人でホテルに泊まらせるんですか?」

 それまで成り行きを見守っていたジュードは、これは見過ごせないと口を挟んだ。

 十歳程度の女の子を、一人でホテル住まいさせるのはかわいそうだ。

 「もちろん、ボディーガードは手配します」

 「そうじゃなくて……そう、ユリウスさんと仕事をするのなら、ユリウスさんのお家とかは、駄目なんですか」

 エルは親とはぐれて心細いはずだ。一人にするのではなく、どこかの家に居候させてもらうほうが望ましいだろうとジュードは提案したのだが。

 「――駄目だ」

 「……エルも、やだ」

 その提案はユリウスとエルの反対によってあっさりと却下された。

 「……なら、僕がヘリオボーグで預かってはいけませんか。勿論、エルがよければなんだけど」

 「……うん。じゃあエル、ジュードと一緒にいく」

 「では、準備が整いましたら、ご連絡いたします」

 話は纏まったとみたヴェルが、淡々と締めくくった。

 

 社長室を辞したジュードとエルは、ユリウスと共にクランスピア社のエントランスまで出てきた。

 「……えと、それじゃあ、僕たちは、これで」

 ユリウスがついてきたのは見送りなのだろうと考えて、ジュードは入り口でユリウスを振り返り、頭を下げた。

 「ああ」

 「失礼します」

 浅く頷き返されたのに、もう一度挨拶を返して、ジュードはエルと歩き出した。

 「……あれ?」

 少し進んで、エルは足を止めた。ここまで一緒だった猫が、ついてきていないことに気付いたからだ。

 「あなたは来ないの?」

 振り返ってルルに呼びかける。

 「ナァー」

 ルルはユリウスの足に擦り寄って鳴いた。

 「この子は俺の猫だ。俺がつれて帰る」

 「え、そうだったんですか!」

 エルのお供だと思い込んでいたジュードは驚いた。険しい表情しか見せないユリウスが猫を飼っていることもまた、驚きだった。

 「……ねえ、その子、名前なんていうの?」

 「……ルルだ」

 「ルル……。ねえルル、眼鏡のおじさんじゃなくて、エルのうちの子にならない?」

 「ナゥー?」

 エルの誘いに、ルルはちょっとだけ首を傾げた。

 「――ルル、行くぞ」

 「ナァー」

 さっさと歩き出したユリウスに、ルルは迷うことなくついていった。

 「あ……ルル、またねー!」

 エルの呼びかけには、お愛想程度に尻尾をゆらめかせて。

 

 



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ほっとするもの――弟と猫





 

 ジュードとエルと別れたユリウスは、ルルを連れて足早に家路を辿った。

 その足取りよりも早く回転しているのは、ユリウスの思考だ。

 今日の出来事は、ユリウスのこれからを大きく変化させるものだ。今後に想定される事態、その対処方法を組み立てていく。

 家に入る前までには、大雑把にでも纏まるだろうと思っていたが――

 「! ルル!」

 マンションのエントランス前に弟の姿を認めた時点で、ユリウスの予定は崩れ去った。

 「ナァー」

 ルドガーに呼ばれたルルは、さっさとユリウスを追い越して、腕を広げる彼の元に飛び込んだ。

 「良かった、無事だったんだな、ルル!」

 「ナーゥー」

 抱き上げられたルルは、ルドガーに頬を摺り寄せられて上機嫌に鳴いた。ちなみに、これをユリウスがやると、返ってくるのは甘えた声ではなく、猫パンチである。

 ここにくるまではエージェントの厳しい顔で、声をかけようとする人たちを気後れさせ、遠ざけていたユリウスだったが、大事な弟と愛猫が戯れる可愛らしい絵面を見せ付けられては、シリアスな思考等続けられるものではない。

 頬を緩め、穏やかな気持ちになりながら、ゆっくりとルドガーに歩み寄った。

 「なんだ、お出迎えか、ルドガー」

 「あれ、ユリウス。お帰り」

 ルルを抱っこしたままのルドガーが、今気付いた、という様子で返してくるのに、ユリウスのハートは傷ついた。

 「……おいおい、ルルとのその温度差はなんだ。悲しくなるじゃないか」

 「あ、ごめん。でも、ルルがあの列車に乗っていくのを見かけたきりだったから……無事でよかったよ。な、ルル」

 「ナァー」

 そういってもう一度ルルに頬を寄せるルドガー。

 和んでもいいはずのその様子に、しかしユリウスは動揺を押し隠すので精一杯だった。なんとか表情には出さずに済んだが、切りかえしが遅れた。

 そう、あの襲撃はルドガーの仕事場付近で行われたのだ。ルドガーが巻き込まれている可能性を、失念していた。

 「……そうか。ルドガーは、怪我はなかったか?」

 「ああ。俺は平気」

 「ならいい」

 嘘のないルドガーの様子に、ユリウスは心底からほっとした。

 ほっとすると同時に、ちょっとした疑問も沸いてくる。

 「……しかし、良く乗り込まなかったな。お前のことだ。ルルを追いかけて列車に乗るくらいしかねないと思ったが」

 この優しい弟は、誰かを助けるためなら、自分の危険も省みないときがある。クランスピアのエージェント試験のときもそうだった。

 その優しさは貴いと思うけれど、誰よりも無事に居てもらいたい弟が危険を省みないというのは、ユリウスの心臓に悪すぎる。機会があるたびに釘を刺しておいたが、それが効果を発揮するかどうかは、ユリウス自身半信半疑でもあった。

 「……しようとは思ったけど」

 「……ルドガー」

 ユリウスは眉を寄せて、苦々しくルドガーを呼んだ。

 やはり、釘は刺しきれていなかったらしい。

 ここは一つ説教せねばなるまいとユリウスが続けようとしたところに、その気配を察したか、ルドガーが言葉を重ねた。

 「でも、朝に自重しろっていわれたばっかりだったし。近くに怪我人もいたから、手当てしているうちに、乗りそびれた」

 「……おいおい、それは自重したとはいわないんじゃないか?」

 呆れた様子を装いつつ、ユリウスの内心は、その怪我人とやらへの感謝でいっぱいであった。

 もし怪我人がルドガーの傍にいなかったら、ルドガーは列車に乗り込んだはずだ。

 そして、そうなった場合に想定されるシナリオは――ユリウスにとって最悪なものでしかない。

 最悪の事態を避けられた幸運に感謝して、そこでユリウスは、ルドガーが浮かない顔をしているのに気が付いた。

 「……ルドガー? どうした?」

 「……列車に、小さな女の子が乗り込んでいったんだ。ツインテールの。……あの子……」

 「ナーゥ」

 すれ違っただけの少女の身を案じるルドガーを慰めるように、ルルが鳴いた。

 ユリウスもまた、ルドガーの肩に優しく手を置く。

 「…………きっと大丈夫さ」

 「……でも」

 「確かに酷い事件だったが、生存者がいないわけじゃない。うちの社長と秘書も乗っていたが無事だった」

 「そうなのか? そっか……なら……あ、ユリウス、ジュードって人は無事か知らないか?」

 「ジュード? ジュード博士か? ……どうして彼を?」

 オリジン研究の第一人者としてそれなりに有名ではあるが、その名前がルドガーから出てくるとは思っていなかった。

 「駅に行くのに迷っていたから、道案内したんだ。どこかで見たことあるなとは思って、あとで思い出した。何かの研究者だったよな。……知らないかな?」

 「……大丈夫、彼も無事だよ。社長と話していたから、間違いない」

 「良かった……」

 その辺りで、ルドガーの知り合いの安否情報が揃ったのだろう。憂いの影が薄まったのをみて、ユリウスもまたほっとする。

 「まあまあ、ユリウス君! お手柄だったねえ!」

 「大家さん。いやあ、どうも」

 エントランスで立ち話をしているうちに、マンションの大家が近くまで来ていた。満面の笑みで労う彼女に、ユリウスは穏やかに返した。

 「? ユリウス、何かやったのか?」

 ルルを抱っこしたままきょとんとした表情を見せるルドガーに、大家が呆れた。

 「何言ってるんだいルドガーちゃん。今回のあの列車テロ、犯人制圧したのはユリウス君だって、ニュースでずっと流れてるじゃないか!」

 「ええ!? そうだったのか!?」

 「ああ……まあな」

 今更驚くルドガーに、ユリウスは苦笑した。

 「全く、あんなに騒いでいるのに何で知らないのかねえ、この子は」

 呆れる大家の言うとおりである。

 「え、いや、だってずっとルルを探してたから……」

 「ナゥー?」

 「おいおい、俺の優先順位はルルより下なのか」

 少しばかり拗ねて見せれば、その効果は覿面で、ルドガーは明らかに肩を落としてしょげた。

 「……ごめん」

 「はは。そんなに気にするな。知らせてなかったのは俺なんだからな」

 心配されないのも悲しいが、落ち込ませるつもりではなかった。

 ユリウスはルドガーの頭をぽんぽんと叩いた。

 「けど……。……怪我、してないか?」

 「大丈夫だ」

 上目で窺うルドガーに、ユリウスは微笑む。

 気遣ってくれるのは嬉しいが、やはり、ルドガーには笑っていて欲しいと改めて思う。

 「とにかく、さっさと家に入ったほうがいいよ。まーた追っかけどもが騒ぎ出してるからね! 大丈夫! 五月蝿いファンたちは私たちが追っ払っといてあげるから!」 大家の元気な声が、しんみりした空気を吹き飛ばした。

 大企業のエリートであり、その活躍をニュースでも取り上げられているユリウスには、家まで押しかけるファンも存在する。大家とマンションの数人の有志には、大変お世話になっていた。

 「いつも、ご面倒お掛けします」

 「なあに、いいっていいって、さあ、お入り」

 「ではお言葉に甘えて。ルドガー」

 「あ、うん」

 大家に軽く一礼して、ユリウスはルドガーを促した。

 エレベーターに乗り込んでも、隣に立つルドガーは無言だ。

 「何だ? まだ気にしてるのか?」

 ユリウスの仕事をチェックしていなかったからといって、そこまで気にすることではない。ルドガーに思い煩って欲しくないからこそ、何も言わずにいるのだから。

 「……いや」

 ルドガーは、自身に言い聞かせるかのように、小さく呟いて。

 そして気持ちを切り替えたのか、ユリウスを見上げた。

 「ユリウス。今日の晩飯は何がいい? トマトソースパスタ作ろうか?」

 お詫びのつもりか、それとも、慰労のつもりか。

 トマトメニューを提案するのは、ルドガーがユリウスの機嫌をとろうとするときが多い。

 そんな弟の心が見透かせて、ユリウスは微笑んだ。

 嬉しいか嬉しくないかでいえば、勿論嬉しいのだが、ちょっとばかり意地悪もしてみたくて、ユリウスは突っ込んだ。

 「お前、俺にはトマト食わせとけばいいとか思ってないか?」

 「というか、トマトならハズレはないと思ってる」

 悪戯げな笑みを見せて「間違ってるか?」と問うルドガーに。

 「……いや、まあ、大正解なんだけどな」

 ユリウスは苦笑した。

 

 



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有名人とプライバシー

 

 ユリウスはその日、休日を潰された代償として休暇をもぎ取っていた。

 ルドガーの出勤を見送り、新聞を読みながら適度にルルを構うという、非常に穏やかな時間を過ごしていたユリウスであったが、重要な書類を忘れた! というルドガーのSOSを受けて、ルルと散歩がてら届けに出る。

 駅の食堂に来た辺りでGHSに連絡を入れれば、すぐにルドガーが出てきた。

 「ユリウス! ありがとう、助かった!」

 「全く、お前って奴は。大事な書類を忘れるなんて、社会人失格だぞ。これは、社会人の心得に追加が必要だな」

 「うう」

 ぐうの音も出ないルドガーに、ユリウスが「社会人の心得その三。準備は万端に」を告げた、その時。

 「――ルル!」

 少女の声が響いた。

 「え?」

 「……」

 ルドガーは驚いて、ユリウスは若干イラッとして、声の主――エルを見た。

 「あ、君は……!」

 「え? あ……!」

 ルドガーとエルは、お互いの顔に見覚えがあることに気がついた。

 「よかった、無事だったんだな」

 ルドガーはエルを見て嬉しそうに笑った。

 「列車に乗って行っただろ? 怪我はないか?」

 「……うん、平気……」

 ルドガーを利用したことを怒られると思っていたエルは、戸惑いながらも頷いた。

 「そうか。よかったな」

 「……うん……っ!?」

 ルドガーの優しい微笑みに警戒を解きかけたエルだったが、ユリウスの険しい視線に気付いて、身体が強張った。

 「? どうした? やっぱりどこか痛むのか?」

 ユリウスはルドガーに背を向けてエルを睨んでいるので、ルドガーはエルが何に怯えているのかがわかっていない。

 「……えと、その」

 エルは、ちらちらとユリウスを気にしながら、何かを言おうとしている。

 ルドガーに聞かせたいものではないなと察したユリウスは、ルドガーを仕事に戻すことにした。

 「ルドガー、そろそろ戻ったほうがいいんじゃないか? 忙しくなる頃だろう」

 「!?」

 今までエルには、戦闘エージェントモードの硬質な声しか聞かせていなかった。それとは違う穏やかな声に、ユリウスの予想通り、エルは驚いて言葉を失った。

 「あ、うん。そうだな」

 仕事を抜け出してきているルドガーは、ユリウスの言葉を素直に聞き入れた。

 「書類、ありがとう、ユリウス」

 「ああ、頑張れよ」

 「ん。じゃあな、お嬢ちゃん」

 「…………」

 ルドガーはエルに小さく手を振ったが、驚きすぎているエルは何の反応も見せなかった。

 驚愕を引きずっているエルに――ユリウスは今度こそ、エルにとっては聞きなれた、冷たい声をかけた。

 「――何故こんなところに一人で居る」

 「……ジュードたちは、マクスバードに人に会いに行った。エルは……ルルに会いたくて探してた」

 「…………」

 エルが捜し求めていたルルは、ユリウスの足元で首をかしかしとかいている。

 そのうちに彼女の負けん気が顔を覗かせたようで、エルはユリウスを睨み上げた。

 「っていうか、おじさん何、にじゅーじんかく? さっきの優しい声、なんか気持ち悪いし」

 「気持ち悪くて結構だ。だが――これだけはいっておく」

 「な、べ、別に、すごんだって、エル、怖くなんかないし……っ」

 強がっているが、エルは明らかに腰が引けていた。

 そんなエルに、ユリウスは容赦なくプレッシャーをかける。

 「ルドガーのことを、誰にも話すな。特に、クランスピアの人間にはだ」

 「え……エルが誰と何を話そうが、エルの勝手だし!」

 「ルドガーのことを知らせたら、俺は君に協力しない」

 「!」

 「カナンへの鍵は手に入らないぞ」

 「っえ、エルは一人でもできるし!」

 鍵が手に入らないといわれて一瞬顔色を変えたエルだったが、すぐに反発した。

 「カナンの道標がある分史世界は、有能なエージェントでなければ生還できない。俺が降りれば、君の生還確率は低くなる」

 「せ、せいかん……? む、難しいこと言って誤魔化そうとしたって、駄目だし!」

 少女には難しい言い回しだったらしい。ユリウスは言葉を変えることにした。

 「……先のヘリオボーグでヴォルトに負けそうになっていただろう」

 先のヘリオボーグこそ、ユリウスの貴重な休日を潰してくれた出来事である。

 いまいち力のコントロールが出来ていないらしいエルは、何かの拍子に分史世界に入ってしまい、そこへユリウスが駆けつける破目になったのだ。

 「あのような危険な戦闘が、これから先、何度もある。有能なエージェントが居なければ、君は分史世界で命を落とすということだ」

 「…………」

 「カナンの地へ行きたいのなら、ルドガーのことを誰にも知らせるな。わかったな」

 「…………わかった」

 念を押したユリウスに、エルは不満顔ながらも頷いた。

 

 エルに口止めしたユリウスは、その後、仕事を終えて帰宅したルドガーに訊ねてみることにした。

 「ルドガー。お前、職場の人間に、俺と兄弟だってこと、話してあるか?」

 「? いや、話してないよ。ユリウスが言ったんじゃないか。エージェントの身内って知られたら危険があるかもしれないから、そうそういうもんじゃないぞって」

 「ああ。そうだったな」

 それは実践してくれていたか、とユリウスは少なからずほっとした。

 「でもさ、マンションの住人には知られてるし、ちょっと調べればわかっちゃうんじゃないか? それで意味あるのか?」

 「……一応、大家さんを始め、外では言わないでくれっていってあるんだがな」

 「学校では俺、あのユリウスの弟!? って、結構噂されてたぞ。一応、聞かれるたびに否定はしてたけど、ユリウスのニュースが出るたびに、様子を窺われてたし」

 ユリウスの意向を入れて、ルドガーは、一番親しい友人のアーサーにすら教えていない。

 ユリウスとルドガーが兄弟だと確実に知っているのは、ユリウスの追っかけをしていたルドガーの同級生ノヴァくらいだ。それも偶然が重なった結果として、である。

 「……人の口には戸を立てられないものだな」

 ユリウスは腕組みして考え込んだ。

 マンションの住人や、学校内で噂されるくらいならば構わない。

 確かにエージェントの身内は心配というのもあるが、ユリウスはそれよりもルドガーの存在が、クランスピアの人間――特にビズリーに知られることを恐れているのだ。

 一応、個人データにはプロテクトをかけてある。今のところ破られた痕跡は無いので、ビズリーは、ユリウスにルドガーと言う弟がいることは知らないはずだ。

 何らかのきっかけが無い限り、ビズリーが、今更ユリウスのマンションや母校を調査するとは思えないが――ビズリーの秘書、ヴェルには、ユリウスのプロテクトを破るだけの技術がある。データを調べる気になりそうなきっかけはとことん排除しておきたいところだが、噂話の操作などは、一個人でそうそうできるものでもない。

 「……なあ、ユリウス。なんかあったのか?」

 考え込むユリウスに、ルドガーの心配そうな声がかかった。

 「……いや。どうしてだ?」

 「だって、急にそんなこと確認してくるし……仕事で何か下手を打ったとか?」

 「――心外だな、ルドガー。俺はお前と違って、寝坊も忘れ物もしないぞ?」

 ユリウスは、ルドガーを心配させまいと話の矛先を逸らした。

 「でも危険な現場に出て行くんだろ! 逆恨みが精々の俺なんかより、よっぽどユリウスのほうが……!」

 「……心配してくれるのか。優しいな、お前は」

 ユリウスが微笑めば、ルドガーは照れたような、怒ったような顔でユリウスを睨む。

 「……ていうか、家族を心配するのなんて、当然だろ」

 「……そうだな」

 当然、と言い切れるルドガーが、ユリウスには眩しかった。

 ユリウスの周りには、そういった「当然」があまりなかった。

 だからこそ、それを真っ直ぐに示してくれるルドガーが、大事でならないのだ。

 「……大丈夫だ、ルドガー。俺は絶対に帰ってくるから」

 「……ん」

 ぽんぽん、とルドガーの頭をあやすように叩けば、ルドガーは小さく頷いた。

 「――だが、念には念を入れて。エージェントの兄がいるってことは、これから先もいわないでおいてくれ」

 「……わかった。俺だって、変に捕まって、ユリウスの足を引っ張ったりしたくないし」

 「ああ。そうしてくれ。……お前に何かあったら、俺は……」

 きっと、暴走する――

 その言葉は、声に出さずに飲み込んだ。

 

 



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駅食堂のコックさん

 

 また一つ分史世界を破壊したジュードたちは、夜になってトリグラフまで戻ってきた。途中、故障車両が出たと車内で足止めをくい、ようやくの到着であった。

 ちなみに、ユリウスは一人別ルートで帰っている。少しばかり、チームワークに問題がありそうな状況である。

 「……あー、お腹すいたなあ……」

 列車を降りて改札を抜けたところで、ジュードの幼馴染であるレイアが溜息と共に呟いた。

 「そうだね、ご飯、食べそびれちゃったし……」

 ジュードも同意した。車内販売のお弁当は売切れてしまっていたのだ。

 「どっか店、あいてねえかなあ」

 「こんな時間では、酒場ぐらいでしょうかね」

 「酒場、面白そうー」

 「でも私、未成年ですし……」

 すぐに食事にしたいというのは全員一致の意見であったが、では何処で、というのが次の問題である。

 「そうだ! そういえば、最近ここの駅の食堂、大人気なんだよ!」

 「あ、知ってます。確か、トマト入りオムレツがすごく美味しいって聞きました」

 新聞記者の卵をしているレイアが耳寄り情報を披露すれば、それにエリーゼが応じた。

 「お、エリーゼ中々情報通だね」

 「エル、トマト苦手!」

 「ありゃ、そっかー。でも、他のもきっと美味しいよ! ねね、折角だからこれから行ってみない?」

 「つったって、もういい時間だぜ? やってねえかもだし、そもそもそんなに人気なら行っても食えねえんじゃね?」

 アルヴィンはすぐにも走り出しそうなレイアを止めた。そろそろ、一般の店は閉店する時間だ。

 「そうだけど、覗いてみるだけ! こんな時間だから、空いてるかもだよ!」

 「そうですね。どうせ通りがけです。覗いてみるだけ覗いてみましょう」

 「うん、そうだね。いってみよう」

 入れたらラッキー、程度に期待して、ジュードたちは噂の食堂を目指した。

 「あ、あそこ……って、あー閉まっちゃう!?」

 件の食堂は、一人の青年が店じまいをしているところであった。

 「ん?」

 レイアの大声を聞いて、青年は手を止めて振り返った。

 「すいませーん、駄目ですか!? 終わっちゃいました!?」

 「あ……えと」

 「レイア、無理言っちゃ駄目だよ……って、あれ、貴方は!」

 レイアに詰め寄られて戸惑う青年を見て、ジュードは驚いた。

 テロ事件の日、駅まで案内してくれた親切な青年だった。

 「! ジュード! 良かった、無事だったんだな!」

 「あ、うん。そっか、心配してくれてたんだね。ありがとう。僕は無事だったよ」

 名前を知られていたことにちょっと驚いたジュードだったが、青年のほっとした笑顔を見て心が暖かくなった。

 「ジュードのお友達ですか?」

 「うん。駅に行くのに迷子になっていたところを助けてくれたんだ。乗り込んだのが、テロにあったあの電車だったから、彼には心配かけちゃったみたいで……ごめん」

 「いや、いいんだ。噂で、無事とは聞いてたから。目で見て安心したけど」

 「そっか。ありがとう。……ところで、ええと」

 「あ、悪い。俺が一方的にジュードの名前を知っているだけだったな。俺はルドガー。よろしく」

 「うん、よろしく、ルドガー」

 差し出された手を、ジュードも握り返した。

 「そっか。ルドガーは駅の食堂で働いてるっていってたね」

 「ああ。ジュードたちは……皆でご飯か?」

 「そう。列車の遅れに巻き込まれて、食べそびれて……それで、最近評判のお店があるってレイアが……彼女、僕の幼馴染がいうから来てみたんだけど……」

 ルドガーの身体の向こう、食堂のドアにはCLOSEの札がかけられているのが見えた。

 言葉には出さずとも、残念オーラは伝わったらしい。

 「ちょっと待って。店長、すいませーん」

 ルドガーは小さく笑うと、ドアを開けて店内に向かって声をかけた。

 「ん? どうした、ルドガー」

 「えっと、友人がお腹すかせてるんで、調理場使わせてもらえませんか? 勿論、明日の仕込みは使いませんから」

 「そうか。わかった。じゃあ後始末は頼んだぞ」

 「はい、有難う御座います、お疲れ様です。――さあ、どうぞ」

 あっさりと許可をとったルドガーは、ジュードたちを手招いた。

 「え、いいの!?」

 「ああ。といっても、賄い料理ぐらいしか出せないけどな」

 「ううん、凄く助かるよ! 有難う、ルドガー!」

 「流石ジュードの友達、お人よしだな」

 「ほっほっほ。では、お言葉に甘えましょう」

 「お邪魔します」

 ようやくご飯にありつける、と皆はいそいそと食堂に入った。

 

 一言で言って、ルドガーの料理は絶品であった。その美味しさに皆の胃袋は鷲掴みにされ、第一声後は食事に集中してしまったほどに。

 「ご馳走様、ルドガー。すごく美味しかったよ」

 「はは、ありがとう」

 ジュードを始め、皆の率直な賛辞に、ルドガーは照れ笑いながら食後のお茶も用意した。

 「ねえねえルドガー、ここで評判のトマト入りオムレツ作った人って、どんな人!?」

 「え?」

 「あ、私ね、記者の卵なの! インタビューしてみたいなって」

 突然の質問に戸惑うルドガーに、レイアは胸を張ってから、メモ帳とペンを構えた。

 取材する気満々のレイアに、ルドガーは控えめに応じた。

 「えっと……考案したのは、俺なんだ」

 「え、そうなの!? うっわー、すっごい! これはもう運命だね! ルドガー! 是非独占取材を!!」

 「あ……悪い。そういうのは、ちょっと」

 ずずいと身を乗り出したレイアに、ルドガーは申し訳なさそうに断りを入れた。

 「えー、なんで!?」

 「レイア、無理言っちゃ駄目だよ」

 「ううー……でも、無理強いは良くないもんね、仕方ないか」

 ジュードに窘められて、レイアはしぶしぶ退いた。

 代わって身を乗り出したのは、アルヴィンである。

 「なあ、ルドガー。お前さ、リーゼ・マクシアの果物仕入れる権限もってねえ?」

 「仕入れの? いや、俺まだ下っ端だし」

 「そっかー。じゃさ、上の人に頼んでみてくんねえ? 俺、今商売やってるんだけど」

 リーゼ・マクシアの果物販売を手がけているアルヴィンだが、あまり捗々しくない状況である。どんな伝手でも頼ってみたいと、駄目もとでお願いする。

 「……んー、話をしてみるだけならいいけど……でも、難しいと思う。契約だし」

 「……だよなあ。やっぱ出遅れは厳しいよなあ」

 嘆息するアルヴィンを見て、ルドガーは少し考えた後、口を開いた。

 「……なあアルヴィン。今度、リーゼ・マクシアの果物と野菜をいくつか持ってきてくれないか」

 「ん? 構わないが、どうするんだ?」

 「仕入れ先を変えるのは無理だろうけど、新メニューで、リーゼ・マクシア産、リーゼ・マクシア風っていうのを考えれば、そのための材料は当然、新規ルートで仕入れだろ?」

 「成程! そっかルドガー頭いいな! よっしわかった! 今度いくつか見繕ってもってくるから、よろしく頼むぜ!」

 ちょっとした光明に、俄然アルヴィンはやる気になった。

 何しろルドガーは、今大評判のトマト入りオムレツ考案シェフである。その新メニューともなれば期待できるし、話題性もある。上手くすれば安定したルートに化ける可能性があった。

 「やってみるよ。あ、あと、リーゼ・マクシアはどんな料理を食べてるとかも知っておきたいんだけど……」 「それなら私に任せて!」

 話を聞いていたレイアが、元気一杯に手を上げた。

 「私の実家、料理自慢の宿屋なんだよ! お父さんの料理、すっごく美味しいんだから! お父さんのGHSの番号、教えるね!」

 「それは嬉しい。ありがとう、レイア」

 「えっへへ。完成したら味見させてね、ルドガー!」

 ちゃっかりと、レイアは味見の予約を入れた。

 

 



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新作料理、開発中

 本格的に分史世界探索を始めたエルたちは、そこでジュードたちのかつての仲間――しかし、分史世界であるため別人であり、初対面となるミラに出会った。

 分史世界から正史世界に戻るには、分史世界を破壊するしかない。

 本来ならば、分史世界を破壊した時点で分史世界のミラも消滅するはずであったが、エルのクルスニクの鍵の力は、カナンの道標だけでなく、分史世界のミラすらも正史世界へ運ぶことになった。

 自らの世界が破壊されたということに憤るミラであったが、子供のエルにはそうそう当り散らすわけにもいかず、お腹がすいたと訴えるエルにスープをご馳走するくらいには気遣いも見せた。

 「ありがとう、ミラ、美味しかった! エルのパパには負けるけど!」

 「あら、言ってくれるじゃない。なら私は二番目って事?」

 エルにとっての一番は、絶対にエルのパパである。

 それを子供の身内びいきと判断して、ミラは軽口のつもりで返した。

 「ううん、二番目はルドガー!」

 「? ルドガーって誰よ」

 「えっとね、」

 「…………」

 ミラに説明しようとしたところで、エルはユリウスに睨まれているのに気がついた。

 ルドガーのことを話すなと口止めされていたのを思い出したエルは、焦った。

 「? 何よ」

 不自然に言葉を止めたエルを、ミラが怪訝に覗き込む。

 「ルドガーは、エレンピオスのお店で働いている友人だよ」

 「……」

 エルに代わって説明したのは、ジュードだ。

 ジュードがルドガーと再会していたことに驚いたユリウスだったが、会話の輪から少し離れていたし、無表情を貫くことにも成功したので、気付くものはなかった。

 「うん、確かにルドガーの料理は美味しいよね。だから、ルドガーより美味しいっていうのは、ちょっと想像できないかな」

 「嘘じゃないもん!」

 「へえ、面白いじゃない。じゃあ、その美味しいルドガーの料理とやらを食べさせてみなさいよ」

 「…………」

 ルドガーに近づいて欲しくないのに、エレンピオスの食堂に行くことが決定されてしまった。

 ユリウスは、どうしたものかと内心頭を抱えた。

 

 カナンの道標入手をビズリーに報告したエルたちは、トリグラフの駅に向かった。勿論、ルドガーの料理を食べるためである。

 弾む足取りで、エルがミラを食堂まで案内する。

 「ミラ、ここだよ! ここが、エルのパパの次に美味しいルドガーのいるお店」

 「……どんなものか、しっかり見定めてやろうじゃない」

 勢い込んで、ミラは足を踏み入れた。食事時をいくらか過ぎているからか、店内はさほどの混雑もなさそうだ。

 「いらっしゃいませ、何名様ですか?」

 「ええと、七名で」

 ジュードとエル、ミラ、アルヴィン、レイア、ローエン、エリーゼである。ユリウスにも声をかけたのだが、メディカルチェック中に他部署から応援要請が来たとのことで不参加である。

 「かしこまりました。こちらへどうぞ」

 ウェイトレスの案内を受けて席に着き、メニューを広げる。

 「あ、アルヴィン、これこれ!」

 目ざとくスペシャルメニューの表示を見つけたレイアが指差した。

 「お! トマト入りオムレツ考案シェフの新メニュー、リーゼ・マクシア風オレンジスープ……おお、すっげーな、本日分は終了しましただと!?」

 アルヴィンは感激した。

 ルドガーがオレンジスープを提案してくれたのは知っていたが、それがここまで評判になっているのは知らなかった。

 「ほほう、素晴らしく評判がよいようですね」

 「金運アップ……心惹かれるう~」

 メニューには、金運アップのご利益ありと大評判! の煽りも入っていた。

 「でも、ちょっと残念です。私たちも食べられませんね」

 「そうだね。けど、仕方ないよ。とりあえず、注文をすませちゃおう」

 ジュードたちは手早く注文を決めると、ウェイトレスさんを呼んだ。

 

 品物が一通り揃って、まずはミラが一口食べた。

 「……美味しい」

 「でしょ!? でも、エルのパパのほうが、もっと美味しいよ!」

 素直に驚くミラに、何故かエルが勝ち誇る。

 「わ、私だって、本気で作れば、貴方のパパよりもっともっと美味しいものが作れるわよ!」

 「作れませんー」

 「作れますー」

 「食べてみるまで、信じないもん!」

 「なら、食べさせてやろうじゃない!」

 「おーおー、火花が散ってるねえ」

 子供じみた言い合いをする二人を面白く見学していたアルヴィンだったが、不意に思い立って厨房のほうを眺めた。

 「それはそうと、ルドガーと話でも出来ねえもんかな……あ、ウェイトレスのお嬢さん、ちょーっとお願いがあんだけど」

 「はい、なんでしょう?」

 「ルドガー、いるだろ? 話できないかな? 忙しいかな?」

 「……少々お待ちください」

 突然の御指名に、ウェイトレスは戸惑いながらも厨房に確認に行った。

 「アルヴィン、迷惑だよ」

 「ちょっと確認してもらうだけだって」

 窘めるジュードにアルヴィンが軽く手を振って見せたところで、厨房からルドガーが出てきた。

 「――何だ、俺に用事って、ジュードたちか?」

 「あ、ルドガー、ごめんね、仕事中に……僕がっていうか……」

 「俺だよ、ルドガー。いやあ、悪いな。出てきてもらちゃって」

 「まあ、今はそれほど混んでないから……で、何?」

 混んでないとはいえ、お客が居ないわけではない。ルドガーは、アルヴィンが勧めた椅子に腰掛けるなり、早速本題を促した。

 「おう。いやあ、リーゼ・マクシア風、大人気みたいじゃん、さっすがルドガー!」

 「ああ、それか。うん。でもこれはリーゼ・マクシアの野菜が美味しいっていうのも大きいよ。初めて食べたときは驚いたもんな」

 「こっちの野菜って、そんなにまずいの?」

 「まずいっていうか……味が薄い? のかな、ってええと、初めまして?」

 ルドガーは、そこで初めての顔があることに気付いた。

 「……ええ」

 「あ、ルドガー、こちらミラさん。リーゼ・マクシアの人。ミラさん、こちらがルドガー」

 「よろしく」

 「……ええ」

 愛想よく挨拶するルドガーだが、ミラの表情は固い。

 が、ルドガーにミラを気にする暇など与えずに、アルヴィンがさっさと話を戻した。

 「さて、挨拶が済んだところで、だ。なあルドガー。第二弾、考えてみないか?」

 「第二弾?」

 「そう! そうだなあ、ほら、今B級グルメが人気だろ? 今度はその路線で!」

 「B級グルメねえ……あ、じゃあピンク散らし寿司は?」

 上着を脱いだエリーゼのピンク服が目に入って、軽い気持ちで提案してみたルドガーであったが。

 「ピンク散らし寿司……! それ、食べたいです!」

 「むしろ、今すぐ作って、ルドガー」

 エリーゼとティポが予想外の食いつきを見せた。

 「どうせなら、もっとピンクにしませんか? 桃を乗せるとか」

 「いちごのピンクムースとか」

 「おいおい、散らし寿司だぞ? スイーツすぎ……」

 「……成程。……よし、じゃあ早速今から試作品を作ってこよう」

 「っておい!? 本気かルドガー! 悪いことは言わない、考え直せ、な!」

 しかし、アルヴィンの必死の制止にもかかわらず、ルドガーは、エリーゼとティポの期待の眼差しを受けて厨房に戻ってしまった。

 「さて、一体どのようなものが出てくるのか。楽しみですねえ」

 ほっほ、と笑いながら、ローエンは食後のお茶を啜った。

 

 「お待たせ!」

 意気揚々と厨房から出てきたルドガーは、皆の前に試作品を置いた。

 「! こ、これは……!」

 「本当に……全面ピンクの……ピンク散らしずし!」

 「ルドガー、すごいー!」

 予想以上にピンクの散らし寿司に、エリーゼとティポは大感激だった。

 「……ねえ、ルドガー。桃とイチゴは?」

 エルは首を傾げてルドガーを見上げた。ほっとしたような、拍子抜けのような気持ちである。

 「ああ、流石に、桃とかいちごムースは統一感ないだろ? でも、和菓子系にいけばいいんじゃないかって思ってさ。イチゴ大福をデザートにしてみた。名づけて、ピンク散らし寿司改! 」

 「そっか、成程ねー。……ん、ねえルドガー、この形ってもしかして……」

 イチゴ大福を見たレイアは、その形に思い当たるものがあった。

 「ほほう、これはまさしく」

 「ぼ、ぼ、ぼ、僕ー!?」

 お腹の模様こそ省略されているが、他は正に、ティポの姿。

 「ご名答! 女子のハートを掴むティポを形作ってみた」

 指摘待ちだった造形に思い通りの反応が来て、ルドガーは笑った。

 「すごいです! 可愛いです! 絶対欲しいです!」

 「本当、ルドガーって器用だよね」

 「…………」

 ジュードとミラも、まじまじとティポイチゴ大福を見つめる。

 「なかなか心憎い演出してくれるじゃないの、ルドガーくん。だが、一番大事なのは味だ!」

 「ふっふっふ。勿論味にも自信ありだ。さあ、食べてみてくれ」

 アルヴィンの挑発に、ルドガーは自信満々で実食を促した。

 

 そしてこの数日後――トリグラフ駅食堂に加えられた新メニューは、特に若い女性の圧倒的な支持を獲得したのだった。

 

 



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商機を掴め!

 

 分史世界探索は順調に進み、カナンの鍵は五つのうち三つが揃った。

 そして仲間もまた、ガイアスとミュゼの二人が加わった。

 「ユリウスさん、これから駅の食堂にいきませんか?」

 「たまには一緒にご飯しましょうよー」

 ジュードとレイアが、いつも付き合いの悪いユリウスに、めげることなく誘いをかける。

 「……いや、俺はこれから……失礼」

 いつもの如く断ろうとしたユリウスだったが、GHSが専用のバイブを始めたので短く断りを入れてから通話に出た。

 「もしもし? どうした?」

 その声は、エリーゼたちを驚かせた。

 「え、今の、ユリウスさんの声ですか!?」

 「今まで聞いたことの無い、優しい声だよー」

 「ユリウス、あんな声出せたんだな……」

 「これは……お相手が気になりますねえ」

 外野の反応など気にも留めずに、ユリウスはGHSの相手――ルドガーの声に集中する。

 「――そうか、それじゃあ仕方が無いな。ああ。わかった。その代わり、この埋め合わせはしてもらうぞ? はは、それは楽しみだな。ああ。それじゃあ、気をつけるんだぞ。ああ」

 ユリウスはGHSをしまうと、驚き戸惑っているジュードたちを振り返った。

 「――気が変わった。駅の食堂なら付き合おう」

 その声は、ルドガーに対するものとは明らかに違った。パーティを組んだ当初を思えば、今のユリウスの声や態度は大分穏やかになっているが、それでもルドガーに対するそれとは比ぶべくもない。

 「あら、変わったのはデートの予定じゃないの? うふふ、振られちゃった?」

 「同僚が病欠だそうだ」

 すい、と宙を滑ってユリウスの周りを巡るミュゼに、ユリウスはそっけなく答えた。

 「ねえねえ、ユリウスさん、今の、恋人!?」

 「どんなひとなのか、気になっちゃうわね~」

 レイアとミュゼが追究を始める。

 二人にはノーコメントを貫き、ユリウスはさっさと駅に向かって歩き出した。

 「レイア、ミュゼ、やめなよ」

 「コイバナに食いつく女たちって、怖いもの知らずだよな」

 「…………」

 「? エル、どうかしたの?」

 「……ううん。なんでもない」

 一人、ユリウスの電話相手に察しがついたエルだったが――賢明にも沈黙を守って、皆の後についていった。

 

 「……なんか、日に日に行列が長くなるよね、ここ」

 食堂にたどり着く前から長蛇の列が確認できて、レイアは肩を落とした。

 「それだけ、ルドガーの料理が凄いってことなんだろうけど……」

 「腹すいてるときには、きっついなー」

 「! ねえねえ、貴方!」

 アルヴィンがぼやいたところで、後ろに並んでいた若い女性がエリーゼに目を留めて、勢い込んで話しかけてきた。

 「え? 私ですか?」

 「そうよ! ねえ、このぬいぐるみ、何処で手に入れたの!?」

 「え? ティポですか?」

 抱っこしているティポを指差されて、エリーゼは首を傾げた。

 「ティポっていうの? ピンク散らし寿司のデザートの子よね? ねえ、どこで買える!?」

 「え、と……これは……」

 エリーゼは困った。ティポは女性が求めるような、お店で買える品ではない。

 「もしかして手作り? 非売品!? あーん、悔しい!」

 「……もしかして、お姉さん、このぬいぐるみが欲しかったり?」

 「もしかしなくてもそうです!」

 アルヴィンの確認に、女性は力強く頷いた。

 「今じゃ、このゆるきも系キャラクターが大人気なんだから! あのバーニッシュも追い抜く勢いよ!」

 「ゆるきも……?」

 「ゆるくて、きもいって意味なんだって、ミラさん」

 「解説しなくていいよーっ」

 「きゃあ、喋った!? なになに腹話術!? すごーい!!」

 ミラとジュードの会話に思わず突っ込みを入れたことで、ティポは更なる大絶賛を受けた。

 その女性のテンションの高さに、アルヴィンは商機を見出した。

 「……これは、新商売のチャンスか……?」

 「――だとしたら、早くするんだな。既に誰かが動いているかもしれない」

 のんびり構えていては他にとられるぞ、とユリウスは忠告した。

 「げ! それはマジ勘弁! あ、でも、それってデザインした奴の許可が必要なんじゃねえの?」

 「それは意見の分かれるところだな。登録したもの勝ちの可能性も高い」

 「……っ悪い、ちょっと行って来る!」

 進みの遅い行列から抜けて、アルヴィンはGHSを取り出しながら走り去った。

 「……いいなあ、アルヴィン。順調そうで」

 「レイアさん?」

 「……私も、もう一回取材申し込みしてみようかな! 実名出さなくても、コックAとかで!」

 「レイアさんの成功も、近いと思いますよ、ほっほっほ」

 めげずにテンションアップを図るレイアを、ローエンが微笑ましく見守っていた。

 

 



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分史世界の彼

 

 雷雨の中、正史世界にはない遺跡に足を踏み入れたユリウスたちは、そこにルルの姿を見つけた。

 「……ルル? お前、どうしてここに……?」

 ユリウスは、濡れた様子のないルルの身体を撫でた。その手触りは慣れたものだったが、しかしルルは、分史世界に入るときは一緒に居なかったはずだ。

 ユリウスの手を大人しく受け入れていたルルだったが、やがてその手から逃れると、遺跡の奥に向かって歩き出した。

 「ルル? 待って、どこ行くのー!?」

 「あ、エル、一人は危ないですよ!」

 「私たちも追おう!」

 「……もう、仕方ないわね」

 ルルを追って走り出したエルを追いかけて、エリーゼとレイア、ミラも進む。

 「…………」

 そしてユリウスもまた、歩き出した。

 

 いくつかの角を曲がって辿りついた先には、洞窟の壁にもたれるようにして座っている、一人の若い男が居た。その男の足元に、ルルが擦り寄っている。

 「! あそこに居るのって……まさか!」

 顔が見える位置まで近づいて、ミラが声を上げた。

 「え……ルドガー……です、か?」

 「でも、何、あれ……」

 エリーゼとレイアは、ルドガーの顔半分以上を覆っている黒い痕のようなものを見て困惑した。

 黒いものは、分史世界に侵入できるクルスニク一族が纏う骸殻かとも思ったが、それにしては、見慣れた、ユリウスが駆使する力とは様子が違う。

 ユリウスが纏う骸殻は鎧のようだが、目の前のルドガーは、纏うというよりは、侵食されているような気がしてならなかった。

 「……っ」

 息を呑んだユリウスは、ルドガーの下に駆けつけると、黒く覆われた頬にそっと手を寄せた。

 「誰……?」

 ルドガーは、どうやらあまりよく目が見えていないらしい。頬に寄せられたユリウスの手に触れた後、焦点のあってない、赤い目を彷徨わせた。

 「えと、私たちは……」

 自己紹介をするべきか、レイアは迷った。

 このルドガーは分史世界のルドガーのはずだ。

 正史世界と最も違うものが、この分史世界のタイムファクター。

 レイアの知るルドガーは、骸殻能力者ではない。

 ならば、彼がこの世界のタイムファクターであり、だとしたら――このルドガーを倒さなければいけないのか。

 「……あの……」

 迷ったレイアの視線が己に向けられたのに気付きながらも、ユリウスの注意は目の前のルドガーから逸れなかった。

 ルドガーの全身を覆う、黒い、火傷の様な痕。意識的に纏う骸殻ではなく、押さえきれなくなって身を侵食するそれは――限界が近いことの証だ。

 「…………ルドガー」

 「…………兄さん……?」

 囁くような、搾り出すようなユリウスの声に、ルドガーは反応した。

 目の前にいるユリウスを、ぼうと見上げる。

 「兄さん? ユリウスが?」

 「……でも、よく見えていないみたいですし……」

 「勘違い、してるのかもー」

 「……ルドガーのお兄さんって、ユリウスさんに似てるのかな……」

 一歩引いてひそひそと話し合うミラたちを他所に、ルドガーは、寄せられたユリウスの手を握り締めた。

 「どうやって、オーディーンから逃れたの? はは、やっぱり兄さんは凄いや……」

 「……ルドガー。俺は……」

 「……でも、ごめん。……俺、もう限界が近いみたいだ……っ」

 「……っ」

 小さく呻いて痛みに耐えるルドガーに、ユリウスは唇を噛み締めた。

 「……足手まといになってごめん。兄さんに庇ってもらったのに、俺一人の力じゃオーディーンを倒せなくてごめん」

 ルドガーが話しかけているのは、自分じゃないユリウスにだとわかっている。わかってはいても、ユリウスはこのルドガーにその事実を告げる気にはなれなかった。

 気休めでしかないとわかってはいても、ルドガーの苦しみが少しでも和らげばと、言葉を紡ぐ。

 「……いいんだ。いいんだルドガー。オーディーンは俺が倒す。お前はもう……これ以上力を使わなくていいんだ」

 果たしてルドガーは、弱々しいながらも、微笑を見せた。

 「……ごめん。……ありがとう、兄さん。……ちょっと……休んでも、いいかな……」

 「……ああ。安心して、ゆっくり休め……」

 ルドガーの頭を肩に寄せて、ユリウスはその髪を優しく撫でた。

 耳元で囁くようにハミングすれば、ルドガーが全身を預けてきた。

 「……うん……」

 ――どれくらい、そうしていただろうか。

 「……ねえ、ちょっと。……大丈夫なの? その……彼」

 ユリウスがハミングを止めたのを機に、ミラが躊躇いがちに訊ねた。

 「……今は寝ているだけだ」

 「そう……」

 ユリウスの返事に、ミラはほっと息を吐いた。そうした後で、気を取り直したのか、腰に手を当てて問う。

 「――で? これはどういうこと?」

 「……このルドガーは、分史世界のルドガーだ」

 ユリウスは、眠ったルドガーをそっと壁に預けて立ち上がった。

 「じゃ、じゃあ、やっぱりルドガーを倒さないと……?」

 怖気づくレイアに、ユリウスは頭を振った。

 「――いや。タイムファクターはこのルドガーじゃない。この世界のタイムファクターは、恐らくオーディーンだ。ルドガーとその兄は、分史世界を破壊するためにやってきて、返り討ちにあったんだろう」

 「……ルドガーも、骸殻能力者だったんですね……」

 「それじゃあ、コックのルドガーも、もしかしてー」

 「――行くぞ」

 エリーゼとティポの推測を断ち切るようにして、ユリウスは踵を返した。

 

 



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きっと優しさで出来ている

 

 「…………」

 オーディーン討伐成功後、ユリウスは複雑な思いを抱えたまま、マンションまで戻った。

 「あ、お帰り、ユリウス」

 先に帰宅していたルドガーが、笑顔でユリウスを迎えた。

 「……ただいま、ルドガー」

 正史世界の、弟。

 その存在が変わらずあることに心の底から安堵しつつ――しかし、分史世界のルドガーの最期を思えば、胸は塞がる。

 分史世界のルドガーは、最後の力を振り絞ってユリウスの危機を救い――そして、タイムファクター化してしまったのだ。

 骸殻能力者が、己の限度を超えて力を使い続ければ、その果ては自身のタイムファクター化である。

 一体、今までにどれほどの骸殻能力者が力尽き、新たな分史世界を生み出し、そして消されてきたのか。

 ――一体いつまで、これが続くのか。

 クルスニクの鍵たるエルが現れ、今、ユリウスは変動期の真っ只中にいる。

 最後まで、ルドガーを巻き込まずにいられるだろうか。

 そして――全てを終えて、ルドガーと共に穏やかに暮らせる日が、来るのだろうか。

 「……何かあったのか? ……顔色悪いぞ?」

 そんな葛藤が態度に表れてしまえば、当然、ルドガーの目に留まる。

 心配そうに顔を覗き込んでくるルドガーに、ユリウスは緩く頭を振った。

 「……いや、なんでもない。……ちょっと、忙しくて昼を抜いたからな。そのせいだろう」

 「――そうなのか? ……わかった。それじゃあすぐ支度する。ユリウスは風呂でも入ってきなよ」

 何か隠されている、と感じたルドガーではあったが、ユリウスは話したくなさそうなので踏み込まないことにした。風呂場を示し、包丁とトマトを手に取る。

 優しい弟の気遣いに、ユリウスは感謝した。

 「……そうだな。それじゃあ、お言葉に甘えようか」

 「ん」

 台所に立ったルドガーの背中を眺めた後、ユリウスは、無言で自身の左手を見下ろした。

 黒手袋の下には――タイムファクター化進行中の痕跡がある。

 エルと行動を共にするようになってからはその進行が止まっているが、これが治ることはないだろう。

 また、ユリウスは今、骸殻化の代償をエルに負わせている。つまり、エルのタイムファクター化が進んでいるということだ。

 エルには申し訳ないと思う。あんな小さな子に、と。

 しかし――それでも、ユリウスは。

 一番大事なものを守るためには、あんな小さな子でも、利用すると決めたのだ。

 「……ルドガー。お前は、俺が守る。俺の世界の中心である、お前だけは、絶対に――」

 「? 何かいったか? ユリウス?」

 ユリウスの決意の呟きは、既に調理に取り掛かっていたルドガーには届ききらなかったようだ。

 「いや、何も。なあ、ルル」

 「ナァー」

 聞き返されたが、ユリウスは足元のルルとの秘密にした。

 

 ユリウスを元気付けるために予定外にトマトを消費したので、翌日の非番に、ルドガーは買い物がてら散歩に出ることにした。

 「……ミラ?」

 マンション前の公園に、一人肩を落として佇むミラを見つけた。

 昨日のユリウスといい、今日のミラといい、どうやら世の中には問題が溢れているらしい。

 「どうした? ミラ」

 「あなた……な、なんでもないわよ」

 声をかけられるまで、ミラはルドガーの接近に気がつかなかった。

 なんでもない、とは思えなかった。

 「……」

 ルドガーは、迷った。

 昨日、同じような状況で引いたのは、ユリウスは聞いても話さないだろうと思ったからでもある。

 だが、ミラはどうだろうか。

 話すのは辛いだろうか。話したほうが、気持ちが楽になるだろうか。

 迷って――ルドガーは、選択した。

 「……ミラ、暇ならちょっと付き合ってくれないか」

 「……暇じゃないわ」

 そっけなく拒絶するミラに、しかしルドガーはめげなかった。

 「何か煮詰まってる感じだろ。散歩でもしたほうがいいアイディアも浮かぶんじゃないか?」

 「……それが、新メニュー考案の秘訣? でも生憎と、私のはそんな手軽な悩みじゃないの」

 「手軽じゃないなら、なおのこと、一人で悩んでないで相談しなきゃだろ」

 「…………」

 ルドガーの言葉に、ミラは虚をつかれたように目を瞬いた。

 「ジュードたちに言いにくいことなら、俺でも。俺に言えないことなら、ジュードたちにでも」

 「…………あ、あなたとあいつらしかいないんなら……あなたにしておくわ」

 恥ずかしげに頬を染めて、そっぽを向くミラ。

 不承不承というポーズではあるが、それが照れ隠しだということはルドガーにもわかった。

 「決まりだな。じゃあ……港のほうにいってみるか」

 「任せるわ」

 ルドガーの提案に、ミラは反発することなく頷いた。

 

 港について、ルドガーはまず屋台でソフトクリームを買った。

 「ほら、ソフトクリーム」

 「……ありがと。……美味しい」

 「だろ? ここのは評判なんだ」

 二人してソフトクリームを食べながら、海沿いを歩く。

 どちらも核心に迫ることは口にせず、他愛も無い会話を気が向いたときに交わした。

 「――ねえ、ルドガー。貴方、お兄さんはいるの?」

 「? ああ、いるけど……どうした、突然」

 今日の会話に、家族構成に繋がりそうなネタはなかったはず、と思いつつ、ルドガーは首を傾げた。

 「べ、別に。ちょっと、気になっただけよ。……どんな人?」

 「どんな? えっと……」

 「……ユリウスに似てるの?」

 「ユリウスって……」

 説明するよりも早く、予想外の名前を突きつけられて、ルドガーはどきりとした。

 「……クランスピア社のエージェントの、ユリウス。有名人なんだから、顔くらい知ってるでしょ?」

 知っているも何も、そのものずばりな名前である。

 が、一応、ユリウスには口止めをされている。ミラが信用できないわけではないが、昨日のユリウスの様子を考えると、念には念を入れておいたほうがユリウスのためになるのではないかと、ルドガーには思えて。

 「……まあ、そうだな。似てるかな。体格とか」

 曖昧に頷いておくことにした。

 「……元気にしてる?」

 「ああ」

 「そ。……良かったわね」

 「ん? まあ、うん」

 それきり、兄弟の話題は終わった。

 そしてまた沈黙が少し続いた後――

 「……聞かないの?」

 俯いたミラが、震えた小声で、呟いた。

 「――聞きたいけどな」

 無理には聞かない、というルドガーの優しい声に、ミラは困ったような、少し泣きそうな顔を見せ――やがて、告げた。

 「…………私は、この世界の人間じゃないの」

 「?」

 それだけの言葉で理解できるとは、ミラも思っていない。ルドガーが置いてけぼりになるだろうと分かってはいても、いや、むしろその方がいいとすら思いながら、ミラは畳み掛けるように、一気に己の心情を吐露する。

 「なのに、こっちに来ちゃって……そのせいで、こちらの世界の私が、帰ってこられないのよ。私が消えれば、こっちの世界の私が帰ってこられる……はっ。誰に聞いても、こっちの私のほうを選ぶのに……なのに、私は……」

 かき消えるような言葉尻。

 話すうちに、ミラは強い自己嫌悪に襲われていた――

 



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ほうれんそうを大事に

 

 「ミラ」

 落ち込むミラを、ルドガーがそっと呼んだ。

 「っ」

 名前が呼ばれただけ。

 だが、そこに含まれる暖かさと優しさに、ミラはハッとして、思わずルドガーを見上げた。

 ルドガーは、穏やかな微笑でミラを見つめていた。

 「……あ……その……」

 「ミラ。誰に聞いてもっていうのは間違ってるぞ。だって俺は、ここにいるミラを選ぶんだからな」

 「! ルドガー……」

 その優しい微笑みに、ミラは見惚れた。

 ここのところずっと塞いでいた胸が、すっと軽くなった心地すらした。

 「っあ、あなた、わかってるの? 私は偽物で……」

 だが、意地っ張りなミラは、それを素直に受け止めることが出来なかった。まるで自分の希望を打ち砕くかのように、己を否定する。

 「大体理解できてると思うんだけどな。ようはパラレルワールドのミラ二人が同時存在できないのが問題なわけだろう?」

 「……何いってるのか、私のほうがわからないわ」

 腕組みして考え深げなルドガーは己の言葉に納得しているようだったが、しかしミラはパラレルワールドなる言葉を知らず、従ってルドガーが本当に理解しているのかの判断がつかなかった。

 「リーゼ・マクシアではどうかわからないけど、こっちでは結構あるフィクションのネタだよ、ドッペルゲンガー的なものは」

 「……なら、解決方法もあるんでしょうね?」

 また耳慣れない言葉が出てきたが、今度は疑問よりも反発心のほうが強かった。

 腰に手をあて、はっきりとした解決策を求める。

 「……どうだったかな?」

 「ちょっと! 期待させておいてそれはないんじゃない!?」

 散々思わせぶりなこと言っておいて! と怒るミラに、ルドガーは苦笑しながら謝った。

 「悪い。でもその前に、こっちの世界のミラとやらは、どこにいるんだ?」

 「それは……この世界じゃない、どこかよ」

 「じゃあ、遭遇しないままでいいっていうわけには……」

 「そんな簡単な問題じゃないの。……あなたは知らないでしょうけど、エルたちの探し物を、こっちの世界のミラが邪魔してて……邪魔を取り除くにはミラをこっちに戻さなくちゃいけなくて……つまり私が邪魔なわけよ」

 「ミラが邪魔をしている? どうして?」

 「知らないわよ。知らないけど……精霊の力を使ってて、それが邪魔になってるの」

 「精霊の力?」

 「……私と違って……こっちの世界のミラは、今も、精霊の主だから……」

 かつて己も持っていた力を思い出して、ミラは切なくなった。

 こちらの世界のミラは、今もなお、マクスウェルなのだ。

 その称号が、今も使命をもっているこちらの自分が――少し、羨ましいと思う。

 「精霊の主……ってことは、生身の人間とは違うのか?」

 「……まあね。マナを使って実体を持つことは出来るけど、基本的には精霊と一緒ね」

 「……ならさ、憑依は出来ないのか?」

 「ひょうい?」

 突然の言葉に、ミラは思わず聞き返していた。

 「精霊って、ようはお化け……精神体なんだろ? けど俺の目の前にいるミラは、人間だろ?」

 「ちょっと! 精霊をお化けなんかと一緒にしないでよね! ……まあ、人間とは存在が違うのかといわれれば……そうだけど」

 エレンピオス人の無知さにかちんと来つつ、それでもミラは頷いた。

 人間と精霊の存在のありようが違うのは確かである。

 「なら、人間ミラの肉体に、精霊ミラがちょっと間借りするって形で解決できないのか?」

 「…………」

 「ドッペルゲンガーがどういう理由で同時存在できないのかがわかってないから、確実なわけじゃないけど……可能性としては、あり、じゃないか?」

 「……かも、しれないわね……。……でも、私は……」

 そこでミラは俯き、曖昧にぼかした。

 何故だかミラは、ルドガーに、自分が人間ではない、という気にはなれなかった。

 彼の折角の提案を却下するのが躊躇われたのか、あるいは――

 「……ミラ?」

 「……あ、な、なんでもないわ」

 考え込んでいたミラは、気遣うような声をかけられて、慌てて顔を上げた。

 心配そうなルドガーに、小さく笑ってみせる。

 「――そうね。どういう理由で同時存在できないのかは、調べてみる必要がありそうね」

 ルドガーの言うとおり、正史世界で同一物が存在できない理由は不明である。

 本物がこちらにある以上、偽物には存在価値がないのだとミラは思い込んでいたが、もしかしたら、全く別の理由かもしれないのだ。

 「ん。他にも、ドッペルゲンガーには何でもいいから悪口をいえばいいとか、むしろ融合しちゃうのがいいとか」

 「……意外とあるのね」

 提示された可能性に、ミラは感心するやら呆れるやらである。

 「だろ? じゃあ次のステップだ。今の可能性をもっと突き詰めてみようじゃないか」

 「……貴方に出来るの?」

 ミラは胡散臭げに訊ねた。

 ルドガー曰く、本で得た知識、である。まさか実験できることでもあるまい。

 「俺には無理だよ。精霊のことはわからないからな」

 「なら駄目じゃない」

 案の定、あっさりと否定するルドガーに、ミラは肩を竦めた。

 解決策が見つからないといわれたようなものなのに、それでも何故か、気持ちは格段に軽くなっていた。

 それだけでも、ミラは話した甲斐があったと思えて満足だったのだが、ルドガーはそこで終わろうとはしなかった。

 「けど、俺の友達には、精霊に詳しい人がいる。ジュードとか。あと、最近精霊そのものとも知り合いになったんだよな」

 「……姉さん……」

 分史世界のミラの姉ではない。

 だが、こちらのミラの姉であるミュゼも、大精霊である。精霊の知識に関しては頼りになるだろう。

 「希望が見えてきたか? やっぱり、ほうれんそうは大事だよな。ミラ」

 「……ほうれんそう? なんでいきなり野菜が出てくるのよ」

 「はは、野菜じゃないよ。社会人の心得、その4。報告、連絡、相談をしましょうってな」

 眉根を寄せるミラに、ルドガーは笑って解説をした。ちなみに社会人の心得その4は、ユリウスではなく現在の職場で掲げられたものである。

 「ほう、れん、そう……ああ、なるほどね。……ふふ、面白いこというのね、こっちでは」

 確かに、一人でうじうじ悩んでいたのが馬鹿みたいに思えた。

 「……その、ルドガー」

 「ん?」

 「……あ、ありがとう……」

 「ああ。どういたしまして」

 照れながらお礼をいったミラに返されたのは、少年のような笑み。

 その笑みに目を奪われたミラは――火照った顔を見られないようにと、慌ててルドガーに背中を向けた。

 

 



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共にあり、共に栄えよ

 

 その後、ミラの問題が解決したのかどうかは、ルドガーは聞いていなかった。

 問題解決の話し合いにはルドガーも参加してみたいと思っていたのだが、ユリウスから急用を頼まれたので、どういう結果になったのかを知らないのだ。

 ミラはGHSを持っていないので、会わないと聞けない。ジュードに聞こうかとも思ったが、やはりミラから聞くのが筋かとも思ってそのままだった。

 そんなある日、仕事を終えたルドガーは、ジュードから連絡をもらった。

 ミラのことで報告があるので、食事を一緒に、とのお誘いだった。

 勿論、ルドガーに否やは無い。GHS越しに道案内を受けて、レイアのアパートまでやってきた。

 「いらっしゃい、ルドガー! さあ、入って入って!」

 「ごめんね、ルドガー。急に呼び出したりして」

 「いや、大丈夫。仕事も終わったところだったし」

 レイアとジュードの出迎えを受けて、ルドガーは勧められるがままにソファに座った。

 「今、ミラとご飯作ってるんだ。もうちょっとで出来るから、待ってて!」

 「手伝おうか?」

 「ああ、いいのいいの!」

 立ち上がりかけたルドガーを、レイアがソファに押し戻した。

 「ルドガーは主賓の一人なんだから! ゆっくりしてて」

 「主賓? 俺が?」

 「そ。ルドガーのおかげで、色々助かったんだよ! ありがとね、ルドガー!」

 「あ、ああ……どういたしまして?」

 心当たりのないルドガーは、困惑しながらも、レイアから手渡されたジュースを受け取った。

 「あはは、そんな困らないでよ! みんなで楽しくご飯したいだけなんだから」

 「――そうか。まあ、そういうことなら」

 みんなで楽しくご飯、というのならば細かいことには拘るまい。

 ルドガーは、とりあえず参加者の把握をしようと、部屋を見回した。レイア、ジュード、エル、それにキッチンで動いているミラの後姿――

 「初めましてだな。ルドガー」

 「……んん?」

 横手からミラの声が聞こえて、ルドガーは首を傾げた。もう一度キッチンを見てみるが、やはりそこにいるのはミラだ。

 しかし、ルドガーの右手側にいる、白いぴったりとした服装の女性もまた、ミラと同じ顔している。

 「初めまして……ああ、もしかして、精霊のミラ?」

 挨拶を返してから、ルドガーは思い至った。

 「ああ、そうだ」

 「……前から思ってたんだけど、貴方って、順応早すぎじゃない? 普通、信じないわよ? なのにあっさり信じちゃって……」

 呆れた声でいいながらキッチンから出てきたミラが、サラダをテーブルに置いた。

 「――いや、でも、あの時ミラ本気で悩んでいただろ?」

 「……そりゃ、まあ……そうだけど」

 「なら信じるさ」

 確かに信じがたい設定の話ではあったが、あの時のミラは本気で悩んでいた。

 友人が本気で悩んでいるのなら、本気で相談に乗る。

 ルドガーにしてみれば、そんなのは当然のことだ。

 「…………」

 しかし、言われたミラのほうは、何故だか酷く驚いたようだ。

 代わって、精霊のミラが暖かく笑う。

 「――ふふ。ルドガー。君もなかなかに人がいいな」

 「そうか? 普通じゃないか? ……ところで、ミラが二人揃っているってことは、問題は解決したってことでいいんだよな?」

 「うん、そうだね。ルドガーが帰った後、僕たちも話し合ってみたんだけど、やっぱり、精霊と人間の違いっていうのがポイントだったみたいでね。同一存在とは言いがたくて、二人とも存在できたんだ」

 良かったよね、と笑ってジュードがあっさりというが、実はそんなに簡単な話でもなかった。

 特に、ミラにとっては衝撃的な事実が明らかにされた話し合いであった。

 精霊であると信じていた自分が、実はただの人間であったこと。

 正史世界のミラは、一度死んで精霊に生まれ変わっていたこと。

 それは、自分の存在が否定されたようなものであったが、不思議とミラは、それほどショックを感じていなかった。

 何故か。

 その理由を探して――ミラの視線は、ルドガーのところで止まった。

 笑いながらジュードに頷き返すルドガー。

 ミラの視線に気付いたのか、不意にルドガーの笑顔が向けられた。

 「っ」

 弾かれたように、ミラは身を翻してキッチンに戻った。

 少し早い鼓動を自覚しながら、ぐるぐるとスープをかき混ぜつつも、意識はリビングのルドガーの声に向く。

 「じゃあ、結局何が原因で帰ってこられなかったんだ? ミラがこっちにいるからっていうのは違ったんだろ?」

 「うん。僕も、ミラさんの話を聞いて、ミラさんが栓になってるからって思っちゃったんだけど、よく考えたら違うんだよね。だって、正史世界と分史世界のものが出会って消えちゃったっていうことは、とりあえず、分史世界のものは正史世界に入ってこれて、同時存在出来ていたってことでしょ?」

 「だな」

 「それに、過去の事例から、ある程度距離を保っていれば、消えることはないだろうっていう予測も出来たんだ。……それはそれで、また別の問題が出てきたんだけどね……」

 最後のほうは呟きとして、ジュードはそっとエルを窺った。エルは今、テレビを見ていて、こちらの会話には注意を払っていないようだった。

 話し合いの席で、ユリウスは、列車内でのエルの時計を例に出した。

 ユリウスが距離を詰めたところで、エルの時計は――ヘリオボーグで、弾みで分史世界に入ってしまって以来、ユリウスが所持することになったのだが――異変を見せた。ユリウスは、あれも正史世界と分史世界のものが出合った反応であると告げた。

 つまり、エルのパパのだというあの時計は、分史世界の時計であったということで――

 「……ジュード? どうした?」

 「――あ、ごめん。ルドガー。つい、考え込んじゃって……」

 「いや、いいんだけど……大丈夫か?」

 「うん、平気。ごめんね。僕の悪い癖なんだ。……ええと、どこまで話したんだっけ?」

 「何故私が帰ってこられなかったか、だ。一言で言えば、それは能力の問題だったのだ」

 ミラが、ジュードから説明を引き取って答えた。

 「私と四大精霊たちは、時空を操るクロノスという大精霊によってこの世界から追い出されてしまった。世界を越えるには時空に干渉する力が必要なのだが、私と四大には、その力が無い。出来たのは四大の力で身を守り、待つことだけだった」

 「で、ミラを召喚する陣がこっちで発動したら、ミラの前に道が出来て、帰って来れたんだって」

 ミラとジュード、二人の説明を、ルドガーはしばし脳内で咀嚼して。

 「……つまり、家を追い出されて鍵もかけられて締め出しくらって、力尽くで鍵を壊すことも出来なくてドアの前で待ってたら、他の人に内側からドアを開けてもらえた?」

 纏めてみた。

 「…………」

 微妙な沈黙が、室内を支配した。

 「……う、うん。間違ってない。合ってるんだけど……」

 「分かりやすい例えではあるのだが……」

 ジュードとミラが、困ったように笑っている。

 ルドガーの纏めは間違ってはいないのだが、内側からドアを開けてくれたのが、和平調印に集まった人の命だと言うことを、彼は知らない。その犠牲を知っているジュードたちからしてみれば、いくら分かりやすい例えでも、明るく「そうそう、その通り」と頷く気には、ちょっとなれなかった。

 「――さあ、出来たわよ。テーブルあけて」

 微妙な空気を変えるきっかけを作ったのは、スープ鍋を運んできたミラだった。

 それを見たエルが、目を輝かせる。

 「あ、ミラのスープだ!」

 「ふふん。今日はちょっと手間をかけたわよ」

 「そうなの? 楽しみー! でも、絶対パパのスープには敵わないけどね!」

 「食べてからいいなさい」

 ミラが早速スープを盛り付け、食事会は始まった。

 

 「やっぱりパパのが美味しいよ」

 「……ちょっと。嘘は言ってないでしょうね?」

 自信作のスープでもまだまだだといわれたミラは、胡散臭げにエルをみた。

 「嘘じゃないもん! あ、でもルドガーのスープは超えたかも?」

 「は? それは俺が聞き捨てならないぞ」

 確かにミラのスープは美味しかったが、ルドガーとて、食堂で働くコックさんである。自分が負けているとは思いたくなかった。

 「あ、ルドガーのやる気に火がついた! じゃあ次はルドガーのスープだね! 台所、好きに使っていいよ!」

 「――よし、やってやる」

 レイアに煽られたルドガーは、腕まくりをしてキッチンに立った。

 本当はじっくりことこと作りたいところだったが、流石に空気は読んで、手早く出来るレシピにした。勿論、手早く出来ても味に自信ありの一品である。

 「…………悔しいけど、美味しいのよね……」

 ルドガーのスープを食べたミラが唸る。

 「……ねえ、ちょっと、貴方の秘訣教えなさいよ」

 「……じゃあ、ミラのと交換な」

 お互いの秘訣を交換し合ったところで、ルドガーはジュードが黙り込んでいるのに気がついた。

 「……? ジュード、口に合わなかったか?」

 「……あ、ごめん。ううん。そんなこと無い。凄く美味しいよ。ちょっと、研究のことで考え込んじゃって……ごめんね」

 「いや、構わないよ。大事なことなんだろ」

 ジュードのオリジン研究が行き詰っているのは、ルドガーも知っていた。

 心底申し訳なさそうにするジュードに、ルドガーは気にするなと笑いかける。

 「……ありがと」

 「でも、頭使ったら糖分補給はしたほうがいいぞ。まあ、パレンジパイでも食べて」

 スープを煮込む間、ついでにつくったパイをジュードの前に置いた。

 「ありがとう、頂くよ。……うん、美味しい。ルドガーはお菓子も得意なんだね」

 「基本は一緒だしな」

 「そっか……。うん、基本は大事だよね。僕は、その基本が間違ってたんだ……」

 落ち込むジュードに、ルドガーは言うか言うまいか迷った末に、切り出した。

 「……なあ、ジュード。俺は精霊には詳しくないから、馬鹿な質問かもしれないけど」

 「何?」

 「ジュードは、精霊に協力してもらって、オリジンってやつを完成させたいんだろ?」

 「そうだよ」

 「で、リーゼ・マクシアにある精霊術って言うのは、精霊が協力してくれているんだろ?」

 「うん。……え、あれ?」

 ジュードが何かに気がついたようだったが、とりあえずルドガーは自分の考えを言い切ってしまおうと続ける。

 「それって、精霊術と同じ方法じゃ駄目……てか、駄目だったから、ジュードが苦労してるんだよな。ごめん、わかりきったことを、」

 やはり初歩過ぎか、と撤回しようとしたその時、ジュードが大声を上げた。

 「っそうだよ、なんでそれに気付かなかったんだろう!?」

 「うええ?!」

 驚くルドガーの手を、ジュードががっしりと掴んだ。

 「ありがとう、ルドガー! 今の、凄いヒントだよ! これで研究が進むかもしれない……ううん、きっと進むよ! 本当にありがとう!!」

 「あ、う、いえ。どういたしまして?」

 「こうしちゃいられない! すぐにバランさんに話さないと! ごめん、ルドガー! またね!」

 「お、おう、いってらっしゃい……」

 常は穏やかなジュードの、いつにないはしゃぎっぷりに呆気に取られつつ、ルドガーは半ば条件反射的に彼を見送った。

 

 



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ヴィクトル

 

 「お帰り、エル」

 「パパ……パパー!!」

 カナンの道標を求めて入った分史世界で、エルは父親と再会した。

 感動の親子の再会を、ジュード、ミラ――分史世界の、である。正史世界の精霊ミラは、四大を分史ミラに預けて精霊界に戻っている――とローエン、そしてユリウスらが見守る。

 黒の衣装に身を包み、仮面をつけた細身の男。

 「…………」

 その男の姿を見たときに、ユリウスは、嫌な予想が当たってしまったことを知った。

 一頻り娘を労った男――ヴィクトルは、同行者に目を留めて目を瞠る。

 「! ユリウス……」

 「…………っ」

 仮面越しに見える、ヴィクトルの緑の瞳。

 それは、ユリウスがよく知る瞳。

 何よりも大切に思うものの色。

 どうして、何故こんな、とユリウスが考える間に、ヴィクトルにも色々思うところはあったのだろう。

 ――ふう、と息を吐いた。

 「まさか……ここに来るのがユリウスとは……」

 「……ユリウスさん、お知り合いですか?」

 「……あいつは……」

 「――まあ、話は後にしよう。エルを連れてきてくれたお礼に、食事でもどうかね?」

 ジュードの問いに答えようとしたユリウスをヴィクトルが遮って、皆を家に招いた。

 

 ヴィクトルの料理は絶品であった。エルが、パパのスープが一番、と事あるごとに言っていたのは、贔屓ではなかったのだ。

 好物でお腹が膨れ、久しぶりに家に戻ったことで気も緩んだのだろう。エルはソファで眠り込んだ。

 エルを寝かしつけたヴィクトルは、険しい表情を崩さないユリウスを見て、口端をゆがめた。

 「……ユリウスは食が進まなかったようだな。口に合わなかったかね?」

 「――……ルドガー……」

 ここまで沈黙を守ってきたユリウスの口から、ようやくその名前が搾り出された。

 「え……ルドガー? 何言ってるのよ。彼がここにいるわけないじゃない」

 「……ユリウスさん、もしや、ヴィクトルさんが……」

 「ルドガー……!?」

 「――ふふふ、やはり見破られていたか……いつからかな?」

 驚くミラたちを他所に、ヴィクトルは嬉しげに尋ねた。

 「初めからだ」

 苦い表情と声で、ユリウスが答える。

 エルの時計がルドガーの時計と同じだと知ったときから、可能性の一つとしては考えてきた。

 だが、そうであって欲しくなくて。

 あの時計は、自分と同じように、人手に渡っただけなのだと――そう、信じ込もうとしてきた。

 「ははは。流石は兄というわけか」

 ヴィクトルが笑う。

 「……っ」

 が、ヴィクトルの――ルドガーの笑顔を見ても、ユリウスの気持ちは晴れなかった。

 ヴィクトルの笑顔は、ユリウスが知っているルドガーの笑顔では、なかった。

 「兄……え、ユリウスさんが、ルドガーの、お兄さん!?」

 「そして、分史世界のルドガーさんが、エルさんのお父さん……なんと……」

 「ちょっと、なんで黙ってたのよ!」

 「…………」

 ヴィクトルがさらりと漏らした爆弾発言に、ジュードたちが驚いた。ミラはユリウスに食って掛かったが、しかしユリウスはミラたちを無視して、ただただ、ヴィクトルを見据える。

 「……エルが起きてしまう。外で話をしようじゃないか」

 ユリウスの険しい視線に小さな笑みを漏らしたヴィクトルは、そういうと外へと出て行った。

 「……」

 ヴィクトルを追って出たユリウスは、湖を眺める彼に歩み寄り、そして確認のために――聞きたくない気持ちを押さえつけて、声を絞り出す。

 「……ルドガー。お前は……ビズリーを」

 「……ああ。殺したよ。私からエルを奪おうとしたからな」

 「…………」

 予想通りの答えに、ユリウスは拳を握り固めた。

 有り得て欲しくない可能性が、成ってしまった世界。

 してほしくなかったことを成してしまった弟――それが、今目の前に居るヴィクトルなのだ。

 「……聞かないのか? こちらのユリウスはどこかと」

 「…………」

 ユリウスは唇を噛み締めた。

 「――ふ。聞かなくてもわかるか。そう。ユリウスは、私に父親殺しをさせまいと、ジュードたちと一緒にやってきた。私は彼らを殺した」

 「っじゃあ、この場所での殺戮の犯人は……!」

 「ヴィクトルさん、貴方が……!」

 「そう。私はヴィクトル。この世界、最強の骸殻能力者。この世界のタイムファクター。そして――カナンの道標だ」

 「!!」

 全身、顔すらも覆う骸殻――クルスニク一族の中でも、特に秀でたものにしか纏えないフル骸殻。それを、ジュードたちは初めて目の当たりにした。

 「さあ、ユリウス。どうする? 私を殺すか? いや、正史世界に帰るためには、殺す以外の選択はないぞ」

 「……っルドガー……!」

 ヴィクトルの挑発に、ユリウスは――葛藤を押し込め、時計を構えた。

 

 「っパパー!」

 起きてきたエルの目の前で、ヴィクトルはユリウスの槍に貫かれた。

 槍に貫かれたヴィクトルが膝をつく。

 「っルドガー!」

 槍を消したユリウスは、支えをなくして前のめりに倒れるヴィクトルの身体を抱きとめた。

 「……はは……っ今度は……俺の負けだな……ユリウス……」

 ユリウスの肩に頭を預けたヴィクトルが、苦しい呼吸の中、囁いた。

 「っルドガー……お前は……っ」

 「……いいんだ。これで。……俺は、ずっと……ずっと後悔してきた。あの日、ユリウスを手にかけたことを……」

 「…………っ」

 ユリウスは、ヴィクトルを抱きしめた。それしか、出来ることが思いつかなかった。

 「……ユリウス。今の俺が、ユリウスの知る俺とは違うというのなら……そのきっかけは、間違いなく、ユリウスを手にかけたことだ……」

 「!」

 ずっと考えていた。どうして、あの優しいルドガーが、ヴィクトルのようになってしまったのかと。

 その原因が自分だといわれて、ユリウスは目を瞠った。

 「……これだけは、知っておいてくれ。ルドガーという人間は、ユリウスを失うことに耐えられない。まして、その命を自らの手で奪うなんて……はは、その結果が、俺だよ。ユリウス」

 「ルド、ガー……」

 ルドガーが、仲間を殺し、愛娘を利用するほどに冷酷な――ある意味、クルスニク一族らしさを持ちえてしまったのは、他ならぬ自分の死がきっかけだという。

 そのことにユリウスは、深い悲しみと……そして、紛れもなく、喜びも感じていた。

 ルドガーにとって大事な存在になれているのだと――喜んでしまった。

 「……ユリウス……最後に……」

 「……なんだ、ルドガー」

 ヴィクトルの声は、いよいよ弱々しくなっていた。

 聞き逃すものか、と、ユリウスはヴィクトルの頭を優しく抱え、その口元に耳を寄せる。

 「……歌を……」

 「……ああ」

 辛うじて聞き取れた願いに、ユリウスは応えた。

 ルドガーが大好きな、ユリウスの歌。

 証の歌のハミングを――目を閉じ、涙を堪えながら、ユリウスは歌う。

 「……エル……」

 ユリウスのハミングを聞きながら、ヴィクトルは――弱々しく、エルに手を差し伸べた。

 「パ、パパ……、パパ――っ」

 エルの悲痛な叫びを聞いて。

 差し伸べられたヴィクトルの手が、力なく落ちたのを感じて。

 ――ユリウスの固く瞑った目の端から、涙が一粒、滑り落ちた。

 

 



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守りたい世界

 分史世界から最後の道標を持ち帰ったユリウスは――何も言わずにGHSを開いた。

 今はただ、ルドガーの声を聞きたかった。

 優しいルドガー。その手が、まだ綺麗なままでいてくれているルドガー。

 彼がいることを、確認したかった。

 「…………」

 しかし、ルドガーのGHSは一向に繋がらなかった。

 「っ」

 苛立って、ユリウスはGHSを閉じた。

 ルドガーの今日のシフトは早番だった。今頃は家に帰っているはず。なのに、GHSに出ない。そのことが、ユリウスに言いようのない不安を抱かせた。

 「――……ユリウスさん、ルドガー、出ないんですか?」

 「……ああ」

 ジュードの躊躇いがちの声に、ユリウスは低い声で短く応じた。

 その余裕のなさがありありと伝わったのだろう。ジュードがユリウスの背中を押した。

 「ユリウスさんは、一足先にトリグラフに帰ってください。僕たちは、今日はここに泊まります。……エルは、まだショックで動けないでしょうし」

 「……すまない」

 「……いいえ。僕のほうこそ……すいません。何も出来なくて……」

 「――いや。……それでは、言葉に甘える」

 「はい。お気をつけて」

 ジュードの見送りを受け、ユリウスは駅に向かって駆け出した。

 トリグラフ行きの列車に飛び乗り、到着までの時間をじりじりと過ごす。

 途中何度もGHSをチェックするが、相変わらずルドガーからの反応はなかった。

 列車は、深夜近くになってようやくトリグラフに到着した。

 列車のドアが開くなり、飛び降りる。改札を駆け出て、全力で家へと走った。

 夜中だったので人通りは少ない。その時のユリウスを見かける人がほとんど居なかったのは幸いだったろう。それだけ、ユリウスの様子は鬼気迫っていた。

 マンションの廊下も走り抜け、ユリウスは家に飛び込んだ。

 明かりのない室内。

 静まり返ったリビングに、ユリウスの胸はざわついた。

 「――ルドガー? ……ルドガー」

 呼びかけに返事が無いのは、深夜だからだ。

 ルドガーはもう眠っているからだ。

 そう己に言い聞かせて――ユリウスはルドガーの部屋のドアを開けた。

 「ルドガー……」

 そして、ベッドで寝てるルドガーを発見した。

 ――だが、いることを確認しただけでは、足りなかった。

 眠っているルドガーは穏やかな表情をしているが、身動きは見られず……それが腕の中で消えていったヴィクトルの姿に重なって。

 「…………」

 恐る恐る呼吸を確認し、そこでようやくほっとした。

 ルドガーはここにいる。

 そのことに、ユリウスは感謝した。

 「……ナゥー?」

 ルドガーの枕元で丸くなって眠っていたルルが、ただならぬ様子のユリウスに気付いて眠たげな声を上げた。

 「……ああ、ごめんな、ルル。起こしちゃったか。……大丈夫だよ」

 幾分余裕を取り戻したユリウスがルルの背をそっと撫でてやれば、ルルは再び眠る体勢に戻った。

 「……大丈夫だ。ルドガーは、ここにいる……」

 ユリウスはルドガーの手に触れた。

 すると、その手が握り返された。

 「……ルドガー?」

 まさか起きているのか、と囁くように声をかけてみるが、返事は無い。

 どうやら反射的なものらしい。

 「…………変わらないな、お前は」

 ユリウスは小さく笑った。

 昔、ルドガーが幼かった頃。寝かしつけて、部屋に引き上げようとしたユリウスの手を、まるで引きとめるように――そう、今のように、握り込んできていた。

 「…………」

 ルドガーの体温が、じんわりと伝わって――ユリウスの心を温める。抱いていた恐怖や緊張が、ゆるりとほどけていく。

 しばらくしてからユリウスは、名残惜しく思いながらも、そっと手を引いた。

 そして、ルドガーのGHSから己の着信履歴を消去すると、静かに部屋を出た。

 

 翌朝、いつも通りルドガーより早く起き出したユリウスは、いつも通りの顔で、リビングにてルドガーの起床を待った。

 ドアの開く音を聞いて、新聞を読んでいたユリウスは顔を上げる。

 「――おはよう、ルドガー」

 「あれ、おはよう、ユリウス。いつ帰ってきてたんだ?」

 「昨日の夜中だ」

 「そっか。お帰り、お疲れ」

 「ああ、ただいま、ルドガー」

 簡素ではあるが確かな気遣いに、ユリウスは微笑んだ。

 「今日は、ユリウスは仕事?」

 「――そうだな。急ぎの仕事はないが、会社に顔は出すかな。お前は?」

 ユリウスは、台所で手際よく朝食を作るルドガーの背を幸せに眺めながら問い返した。

 「今日は非番」

 「そうか。なら俺も休みにするかな」

 「……エージェントって、そんな気まぐれが許されるのか?」

 胡散臭げにルドガーが振り返ったのに、苦笑する。

 「はは。そういうわけじゃないが……大きな山を一つ越えたところだ。アフターケアの時間も必要だろう」

 ジュードたちに任せてしまったが、エルが事を受け止め、納得するのには時間がかかるだろう。

 ビズリーやヴェルならばエルの覚悟などお構い無しに動かそうとするだろうが、そのあたりへの反発は、恐らくジュードたちがするだろうとユリウスは踏んでいた。

 

 結局その日、ユリウスは休むことにした。今は、可能な限り、ルドガーを視界に入れていたかった。

 「……」

 新聞を開いて読む振りをしながら、ユリウスは、ルルと戯れるルドガーを見る。

 これからのことを考えれば、ここでルドガーとルルと逃亡生活に入るほうがより確実にルドガーを守れるのだろう。

 だが――それはあまりに無責任だと思う。

 一族の悲願を見届けることも出来ないし、ビズリーの目的を知り、場合によっては阻止することも出来ない。

 それに何より、ルドガーに逃亡生活を強いることを、躊躇った。

 上手く行けば――このまま、ルドガーは何も知らないままで、全てを終わらせることが出来る。

 ルドガーとルルとの、穏やかな時間。

 この穏やかな日を守るためならば、どれほどにだって、泥を被ろう。

 ルドガーの手を白く保つためならば、どれだけ己の手が血に染まったとしても構わない。

 ――穏やかな表情の下で、ユリウスがどれほど物騒なことを考えているかを、ルドガーはしらない。

 それでいい、とユリウスは思う。

 ルドガーは、クルスニク一族の血なまぐさい呪いとは無縁に、幸せに笑っていてくれればいい。

 そう思っていた矢先に――ルドガーのGHSが着信メロディを奏でた。

 「もしもし、ジュード?」

 「…………」

 ルドガーの呼びかけに、ユリウスは緊張した。

 が、表にだすことはなく、ルドガーの会話に耳を欹てる。

 「ミラが? え? 駅に行ったかも? ああ、わかった。じゃあ、ちょっと見てみるよ。ああ」

 「……どうした?」

 「ん。なんか、ミラ……友達が、無断で連れと別行動してるみたいなんだ。もしかしたらトリグラフの駅にいるかもしれないから、確認してみてくれないかって。ちょっと行って来る」

 「……ルドガー。俺も行こう」

 「え? ユリウスも?」

 既にドアから出ようとしていたルドガーは、驚いて足を止めた。

 ユリウスがトップエージェントとなって以降は、ルドガーがユリウスの身内と知られぬよう、トリグラフで共に出歩くことは控えてきた。

 精々、マンション前の公園で、友人を装って話すくらい。連れ立って出かけるのは本当に珍しい――というか、初めてのことといっていいだろう。

 「……彼女とは、仕事で面識があるからな」

 「え、そうだったのか? なんだ、なら言ってくれれば良かったのに」

 「一応、機密扱いの仕事だからな」

 「大変なんだな、エージェントっていうのも」

 「そうだな」

 労うようなルドガーの言葉に小さな笑みを返して、ユリウスはルドガーと肩を並べて歩き出した。

 

 



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かけがえないスープ

 ユリウスとルドガーが公園に出たところで、坂道を登ってくるミラの姿が見えた。

 「…………ミラ?」

 「……ルドガー……ユリウス、貴方も一緒なのね」

 ミラは、ルドガーとユリウスの前で足を止めると、弱々しい声で言った。

 いつものミラらしくない。

 戸惑うルドガーに代わって、ユリウスが尋ねた。

 「何か問題があったのか?」

 「…………エルが、食事をとろうとしないの」

 「エルが? 何か、あったのか?」

 「…………エルのパパが……亡くなったの」

 「っ」

 ずっと探していた父親が死んだ。そのことを聞かされたルドガーは、まるで我がことのようにショックを受けた。思わず数拍言葉を失ったが、心配なのはエルだ。

 「……それで、エルは……?」

 「……部屋に、引きこもっちゃって……スープを作ったんだけど……」

 そこでミラは言葉を止めた。

 宿屋の部屋に引きこもってしまったエルを何とか食堂に呼び、ミラが作ったスープを食べさせようとしたのだが、「こんなのパパのスープじゃない!」とひっくり返されてしまった。

 ミラもショックだったが、エルもまた表情を強張らせ――そして再び部屋に引きこもってしまったのだ。

 それでもめげずに傍にいようとしたのだが、エルにも余裕はない。「会いたくない、話したくない、どっか行って!」と追い払われてしまった。

 それに動揺したミラはふらふらと宿屋を出て、気がつけばトリグラフ行きの列車に乗っていて――そうして無自覚のまま、ルドガーのところに来ていたのだ。

 「――ミラ。大丈夫だよ」

 「……ルドガー……」

 優しい声と共に肩にそっと手が置かれ、ミラは俯けていた顔を上げた。

 ルドガーが、優しい微笑をミラにむけていた。

 「今は、ジュードたちが一緒なんだろう? 一人じゃないなら――大丈夫。きっと、乗り越えられる。俺も、そうだったから」

 そういって、ルドガーはユリウスを見た。

 「ルドガー……」

 ユリウスは胸が詰まった。

 ルドガーは、自分の母親の死を、一人じゃなかったから――ユリウスが傍に居たから乗り越えられたと、そういってくれているのだ。

 その気持ちが嬉しいと同時に――ユリウスの罪悪感が刺激される。

 ルドガーの母親が亡くなった頃は、まだユリウスは自分のことで手一杯で、己の不甲斐なさに自暴自棄になっていた頃でもある。ルドガーに感謝してもらえるほどルドガーの面倒を見ていたとは、どうしても思えないのだ。

 むしろ、ユリウスのほうこそ、その時ルドガーから貰った優しさで救ってもらったのだ。

 どこまでも優しいルドガーは、ユリウスに微笑みかけてから、再びミラに向き直った。

 「だからミラは、またスープを作ってあげるといい。食べなかったのを後悔するくらい、とびっきり美味しいスープをさ」

 そして茶目っ気を見せて片目を瞑って見せれば、ミラもつられるように微笑んだ。

 「……ええ。そうね」

 頷いて――そこでミラは、ふと考えた。

 エルの父親であるヴィクトルは、十年後のルドガーである。ならば、ルドガーも十年すればヴィクトル並みの腕前にはなるはずで……現時点でも、ヴィクトルのスープに一番近いのではないかと。

 「――……ねえ、ルドガー、あなたが……」

 「――いや、それはやめておいたほうがいいんじゃないか」

 ミラの言葉を、ユリウスが遮った。

 「それは、酷かもしれない」

 「……そう、ね。……そうかもしれないわ」

 ミラも頷いた。ヴィクトルのスープに近いことが、エルを喜ばせるのか、悲しませるのか、予測が出来ない。

 「……? 二人とも、何分かり合ってるんだ?」

 ユリウスとミラの以心伝心ぶりに、ルドガーは蚊帳の外の気分で少しばかり不貞腐れた。

 「……ふふ、秘密」

 存外子供っぽいルドガーの反応に、ミラは笑みをもらした。

 そして――ようやく、気持ちの切り替えが出来そうに思えてきた。

 腰に手をあて、胸を張る。

 「――いいわ。私が、一番のスープを作ってみせるんだから!」

 ミラの決意表明に、ルドガーが拍手を送った。

 「おう、その意気だミラ。何か必要なものがあるなら、俺も協力する」

 「あら、頼もしいじゃない。……そうねえ、それじゃあ、熊がどこにいるか知らない?」

 「は? 熊? 熊って、もこもこの?」

 「もこもこって……まあ、そうね。その熊よ。熊の手って、高級食材で、いい出汁が取れるのよ。貴方だってコックなんだから、聞いたことくらいあるでしょ?」

 「確かに、聞いたことはあるけど……実際どんなものかは……」

 「なら、いい機会じゃない。ちゃんとおすそ分けしてあげるから、とっとと答えなさい。知ってるの? 知らないの?」

 「ええー……ユリウス?」

 ミラに詰め寄られたルドガーは、困ってユリウスをみた。

 ルドガーのSOSを受けたユリウスが、GHSを操作してさくさくっと情報を集める。

 「……どうやら、街道に目撃情報があるらしいが」

 「街道ね? よっし、それじゃあ行くわよ!」

 「……行くって、俺も?」

 「当然でしょ。今、協力するっていったばかりじゃない」

 「いや、そうだけど……」

 何だか釈然としないルドガーが、どうしてこうなった? と首を傾げれば、ユリウスが口を挟んだ。

 「熊狩りくらい、一人で出来るだろう」

 「出来るわよ。でも、移動時間が退屈じゃない。折角だから料理の情報交換でもしたほうが有意義でしょ?」

 「…………はあ、わかったよ」

 抗弁は無意味だと悟ったルドガーは、溜息と共に頷いた。

 「じゃあユリウス、俺ちょっと行って」

 「――まて、ルドガー。俺も一緒に行こう」

 行ってくる、と言い切る前に同行を申し出られて、ルドガーは目を瞬いた。

 ミラ探しの同行といい、熊狩りの同行といい、今日は珍しいことが続く日だ。

 「ユリウスも? なんで? ……熊の手食べたいのか?」

 働かざるもの喰うべからずの精神かと、ずれたことを言い出すルドガーに、ユリウスは苦笑した。

 「お前が作る料理なら、何でも食べたいが……一応ギガントモンスターの情報だからな」

 弟の身を案じる優しい兄の言葉は、しかしミラの癇に障ったようだ。

 「……何よ。私が一人で行く分には構わなくて、ルドガーが加わった途端不安なの?」

 「ああ。君一人ではルドガーを守りきれないんじゃないかとね」

 喧嘩腰に睨み上げてくるミラに、ユリウスはノータイムで返した。

 「……言ってくれるじゃない」

 その言葉を侮辱と受け止めたミラの声が低まる。

 「いや、ユリウス、そもそも俺がミラに守られるって……」

 両者の間に火花を感じたルドガーは、場の雰囲気を変えられないかと、とりあえず突っ込みをしてみた。

 「守れるわよ! 連れに怪我させるほど素人じゃないわ!」

 「って、守る気満々!?」

 「戦場に絶対は無い。一人で出来るというのなら、一人でやればいい。俺はルドガーを守るだけだ」

 「~~っいいわよ。なら好きにすればいいじゃない! ついて来たけりゃ来なさいよ!」

 「ああ。そうさせてもらう」

 腕組みをしてぷい、と顔を背けるミラに、淡々と頷くユリウス。

 「……このブラコン」

 「たった一人の弟を大事に思って何が悪い」

 悔し紛れの言葉にも大真面目に返されては、お手上げだ。

 ミラはもう、ユリウスには構わず、ルドガーを見遣った。

 「……ったく。……大事にされててよかったわね」

 「……守られるのは確定なのか……俺、腕にはそこそこ自信があるのに……」

 「? 何ぶつぶつ言ってるのよ? ――さあ、行くわよ、熊狩り!」

 何故だか暗い影を背負った感じのルドガーを急きたてて、ミラは街道目指して歩き出した。

 

 



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反抗のリドウ

 

 ミラの特製スープと仲間の思いやりが功を奏したのか、元通りというわけにはいかなかったが、エルも食事は取るようになった。

 今までは、パパを助けるためにカナンの地へ行くのだと頑張っていた。その目的がいきなりなくなってしまったわけだが――旅の間に、世界の危機を知った。

 世界を救うためには、やはりカナンの地へ行かなければならない。

 幼いながらもそのことは理解しているのだろう。

 エルは、ビズリーの呼び出しに応じてマクスバードに向かい、カナンの地を出現させた。

 その直後にクロノスの襲撃を受けたが、ビズリーが手配していた携帯版のクルスニクの槍によって撃退に成功。いざ、乗り込もうとしたのだが――そちらの準備がまだ整っていないのだと、ヴェルから連絡が入ってしまった。

 カナンの地が空に出現したことで、色々と混乱も起きている。ガイアスやローエンは各方面へ指示する必要があるだろうし、エルにはまだ心身ともに疲労が残っている。

 なのでビズリーは一時解散を提案し、自身はユリウスを伴ってクランスピア社に戻ると告げた。

 それに同行を申し出たのはジュードである。また、ミラも、精霊ミラから四大を預かり、マクスウェル代行のような立場になっている今、カナンの地について、そしてそこへ行く方法も知っておく必要がある。エルのことは気になるものの、レイアたちに背中を押される形で、ジュードと共にクランスピア社に向かうことにした。

 一同がクランスピアの社長室に落ち着いたところで、ビズリーは口を開いた。

 「まずは、皆、ご苦労だった」

 「これで、カナンの地にいけるんですね?」

 ビズリーの労いの言葉を流して、ジュードが確認する。

 「…………」

 ユリウスは警戒心を抱きながら、ビズリーを見据えていた。

 「ああ。だがその前に、しておかねばならないことがある。ユリウス」

 「…………はい」

 「本日ただ今を持って、ユリウス・ウィル・クルスニクを、クランスピア社副社長に任じる」

 「!」

 予想外の辞令に、ユリウスは言葉を失った。

 「ユリウスさんが、副社長!」

 「……また、いきなりな話ね」

 「そうでもあるまい。ユリウスはもともとクラウン・エージェントだ。更に、公には出来ないがカナンの道標を揃えるという多大な功績をたてた。これくらいはあってしかるべき褒賞だ」

 驚くジュードとミラに、ビズリーはそう説明して見せた。

 「…………まだ、終わってはいない」

 ユリウスは、警戒を解かぬままにビズリーを見据えていた。

 カナンの地への鍵は揃ったが、実際に乗り込むまでにはもう一つ――ユリウスにとって何よりも重要な選択が残されている。

 ユリウスが副社長とされた今、ビズリーは他の人間を使うつもりなのだろう。恐らくはリドウを。だが――まだ、確定ではない。

 「無論、その通りだ。私は準備が出来次第、カナンの地へ向かう。ユリウス、お前には副社長就任の手続きといくつかの仕事がある。カナンの地に同行するには及ばない。――リドウはまだか」

 「…………」

 最後、ヴェルにむけた言葉を聞いた瞬間、ユリウスは安堵した。

 同行するのはリドウ。ならば、ユリウスが危惧する事態にはならない。

 これで――ユリウスが望む世界が、ほどなくやってくる。

 「――申し訳ありません、社長。リドウ副室長とは連絡が……」

 ヴェルがGHSを操作しながら面目なさそうに告げたとき、ユリウスのGHSがバイブで着信を知らせた。

 「…………」

 表示された名前を見て、ユリウスは目を瞠った。

 ルドガーだ。

 今朝、普通に仕事に行ったはずのルドガー。彼がこんな時間に連絡をしてくることに、ユリウスは俄かに嫌な予感を覚えた。

 短く迷った末に、通話を繋げる。

 「もしもし」

 「よお、お兄ちゃん」

 GHSから聞こえてきたのは、大事な弟ではなく――ユリウスの神経を逆なでする、リドウの声であった。

 「っリドウ……お前……!」

 ユリウスの口から苦々しく漏れた声に、皆の視線が集中した。

 「今、お前の大事な大事な弟は、俺と一緒に居るぜ?」

 「っ」

 「助けたいよなあ? 俺の要求はわかってんだろ? ユリウス副社長」

 リドウの粘りつくような声に――ユリウスは、怒りに震える低い声で問い返す。

 「……今、どこにいるんだ。声を聞かせろ」

 「マクスバード、エレン港だ。……ほらよ」

 GHSが受け渡される気配がして――

 「……ユリウス?」

 「ルドガー! 無事か!?」

 聞こえてきた声に、ユリウスは周りの目も忘れて訊ねていた。

 ルドガーの名前に、ジュードたちが反応した。ミラはユリウスに駆け寄って、GHSに耳を寄せる。

 「俺は平気だけど……俺、ユリウスが事故に巻き込まれたって聞いて……ごめん。もしかしなくても、騙された……んだよな?」

 「……お前が無事ならいい」

 平気だという言葉に、ユリウスは一先ず胸を撫で下ろした。

 リドウは、ルドガーを使ってユリウスを脅迫するつもりなのだ。

 ならば、ルドガーをすぐにどうこうすることはないだろう。

 「すぐに行く。リドウに代わってくれ」

 「はいよ、お兄ちゃん」

 人を嘲るようなリドウの声に、ユリウスは苛立った。

 リドウなどにルドガーの存在を掴ませてしまった己の迂闊さに、怒りがこみ上げる。

 「リドウ。ルドガーに傷一つでも負わせてみろ。……お前を橋にしてやる」

 「おお、怖い怖い。……それじゃ、待ってるぜ」

 ユリウスの恫喝にはおどけた返事をよこして――通話は切られた。

 「……弟、か?」

 会話を漏れ聞いていたビズリーは、ヴェルに視線を向けた。

 「……確認しました。ルドガー・ウィル・クルスニク様は、ユリウス副社長の弟です。……母親は、違うようですが」

 「……っ」

 一番知られてはならない人間に、知られてしまった。

 だが、今最優先すべきなのは、リドウからルドガーを取り戻すことだ。

 ユリウスは勢い良く踵を返し、社長室を飛び出していった。

 「っちょっと、待ちなさいよ!」

 「ユリウスさん! ルドガーを助けに行くなら僕たちも行きます!」

 飛び出したユリウスを追って、ミラ、ジュードも部屋を駆け出る。

 「……ふふふ。面白いことになっているじゃないか」

 低く笑って、ビズリーはヴェルに告げる。

 「予定通り進めろと伝えろ。多少手荒になっても構わんとな」

 「……承知しました」

 ヴェルの答えを背に、ビズリーは悠々と歩き出て――社長室には、何を思うか、目を閉じたヴェルだけが残された。

 

 

 



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橋になる命

 「え!? エルが行方不明!?」

 マクスバードへ向かう途中、ジュードはレイアからの連絡を受けて驚いた。

 レイアとアルヴィン、そしてエリーゼと一緒に、マクスバードのリーゼ港ホテルに残っていたエルが、突然姿をくらましたのだという。エルのGHSにも繋がらない。

 なのでレイアは、GHSに詳しいユリウスに、位置情報を調べて欲しいというのだが――

 「……ごめん、レイア。こっちもちょっと立て込んでるんだ」

 今のユリウスは、エルの位置情報を聞けるような状態ではない。エルも心配だが、ルドガーのほうが、より危険度が高いだろう。

 どういうこと、と問うレイアに簡単に説明すれば、すぐにエレンピオス港に渡ってリドウとルドガーを探しておく、という話になった。見つけ次第、ルドガーを救出して連絡をいれる手筈になったのだが、結局、レイアたちからの連絡が入ることはなかった。

 そして――

 「ルドガー!」

 「ユリウス……!」

 ユリウスがマクスバードに駆けつければ、埠頭の一角に、リドウに拘束されたルドガーを見つけた。手を後ろに縛り上げられたルドガーは、ユリウスたちが姿を見せた時点で膝をつかされる。

 「お早いおつきで、副社長殿」

 リドウが慇懃無礼に一礼してみせる。その言葉も動作も、ユリウスを苛立たせた。

 「リドウ、ルドガーを離せ!」

 「離してもいいが……条件は、わかってるんだろうな?」

 「…………」

 リドウの要求に察しがついているユリウスは、ぎり、と歯噛みした。握った拳が怒りで震える。

 「何が望みなのよ!」

 「おやあ? そちらさんがたはまだ何も聞いてないのか? 暢気なものだねえ」

 「どういうことですか!」

 「カナンの地に行くためには、道標をそろえた後、優秀な骸殻能力者を生贄に、魂の橋をかける必要があるってことさ」

 「っ優秀な、骸殻能力者を生贄……それって……」

 ジュードはユリウスを見た。ジュードが知っているのは、一人だけだった。

 「そう。ちなみに、現在橋になれそうなのは、ビズリー社長とユリウス副社長。そして俺ってとこか。ああ、確認して無いけど、弟君はどうかなあ? あの人の息子だし、資質としては十分そうじゃないか? どう思う? お兄ちゃん」

 リドウは手にしているメスを、これ見よがしにルドガーの頬に当てた。

 「っ止めろリドウ! ……ルドガーでは無理だ」

 「へえ、本当? ま、俺はどっちでもいいんだけど? 駄目だっていうからには、お兄ちゃんが橋になってくれるってことだよな?」

 メスは、ルドガーの頬に傷をつけた後――首筋に動いた。頚動脈でぴたりと止まる。

 「――ああ。俺がなる」

 「ユリウスさん!?」

 「ちょっと、貴方本気なの!?」

 ユリウスの言葉に、ジュードとミラが色めきたった。

 「……ユリウス……」

 しかしユリウスは、傍の二人の声ではなく――ルドガーの囁くような声にのみ、意識をむけていた。

 駄目だ、とメスが据えられているにも関わらず首を振って訴えるルドガーに、ユリウスはこんなときだというのに、穏やかに微笑みかけた。

 「……俺が橋になる。ルドガーを離せ、リドウ」

 ユリウスは、リドウに――いや、ルドガーにむけて、一歩を踏み出した。

 「おっと、近づくなよ。お前が橋になるのが先に決まってるだろう? ちゃんと役目を果たしたら、解放してやるよ」

 「…………っ」

 そんな保証がどこにある、と怒鳴り返したくなったユリウスだが、ルドガーが人質に取られている現状、口答えは賢明ではないと耐えた。

 ユリウスは――己の剣を、首筋に当てた。

 「ユリウス、止めろ! 止めてくれ!!」

 「……ルドガー、目を閉じていろ」

 嫌な光景を見ることはない。

 そう告げて、ユリウスは刃を――

 「っユリウス! ――っ!」

 そこでようやくルドガーは、隠し持っていたナイフで、手を縛るロープの切断に成功した。これは、鳥の羽アクセサリー――以前、友人たちといったドヴォールのバザーで買った――に仕込まれていたものだ。不要と思っていた機能がまさかここで役立つとは、世の中、何が幸いするかわからないものである。

 ルドガーは、両手が自由になるやいなや、すぐ傍にあったリドウの膝を、渾身の力で殴りつけた。

 「ぐ!? お、前……っ!」

 ルドガーはノーマークだったリドウは、完全に不意を衝かれてぐらついた。

 「ルドガー!?」

 「今だ!」

 その隙を、ジュードたちは逃さなかった。

 合流したレイアたちも加わって、体勢を崩したリドウに容赦なく打ちかかり、制圧する。

 「……っくっそおおお、こんな、こんなところで、俺は……!」

 「ルドガー、無事か!? 怪我はないか!」

 リドウの叫びは無視して、ユリウスはルドガーの元に駆け寄った。

 ルドガーはリドウに一撃喰らわせた後、エリーゼとティポの誘導で戦闘範囲から離されていたのだ。

 「ああ。俺は大丈夫……ごめん、ユリウス。迷惑かけて……」

 しゅん、と俯くルドガーの頬には、一筋の血。ユリウスは、それをそっと指で拭った。

 「……いや、お前が無事ならいい……」

 「……ん」

 小さく頷くルドガーの頭に、ユリウスは、ぽん、と優しく手を置いた。

 「……ったく。世話焼かせないでよね」

 「ミラも……ジュードたちも、有難う」

 「ううん。ルドガーが無事でよかったよ」

 申し訳なさそうにお礼を言うルドガーに、ジュードは笑いかけた。

 「……でも、ユリウスさん。橋って……本当に?」

 「――そう。リドウの言うとおり、カナンの地に行くためには、魂の橋が必要だ」

 ジュードの躊躇いがちな質問に答えたのは、ユリウスではなかった。

 「ビズリーさん!」

 「……チッ。もうきたのか……」

 ガイアスらに拘束されているリドウは、ビズリーの姿を見て忌々しげに吐き捨てた。

 「手間をかけさせたな。……ほう、君が、ユリウスの弟か……」

 「……?」

 ビズリーに意味ありげな視線を向けられて、ルドガーは小首を傾げた。

 「君の兄さんには、助けてもらっているよ」

 「あ……いえ、こちらこそ、兄がお世話に……」

 「ルドガー」

 ルドガーの返答を遮って、ユリウスがビズリーとの間に立ち塞がった。ビズリーの視線から、ルドガーを隠すように。

 「……」

 礼儀にはうるさいユリウスが、あからさまに警戒している。いや、敵視しているといってもいい。

 そのことが、ルドガーの警戒心をも呼び起こした。

 「――ふふふ。まあ良い。……さて」

 兄弟の様子に笑みを漏らした後、ビズリーはリドウを見下ろした。

 「……はっ。おい、いいのか? 橋を架けちまって」

 リドウはビズリーにではなく、ジュードたちに向けていった。

 「……良いも何も。かけなきゃカナンの地にいけないじゃない」

 「は。甘っちょろいお前たちのことだ。オリジンに分史世界消滅を願う、なんて建前を信じてるんだろ?」

 「――リドウ」

 「っどういうことですか?」

 ビズリーは黙っていろというようにリドウの名を呼んだが、既にジュードが食いついていた。

 ここぞとばかりに、リドウが暴露する。

 「ビズリーはそんなこと考えちゃいないぜ! こいつが考えているのは、全ての精霊を人間の支配下に置くこと! 精霊を意志のない道具にすることだ!」

 「な……ビズリーさん! それは本当ですか!?」

 「……分史世界の消滅は、精霊どもに命じてさせる。世界の危機は救われる」

 確かに、ビズリーは世界の危機を救うつもりではあるのだ。

 ただ、その方法が、ジュードたちの理想とはかけ離れているだけで。 「だからってそんな……!」

 精霊と人間の共存を願うジュードたちにしてみれば、それは受け入れられない世界だ。

 「――気に食わないわね」

 「ふふふ。ならば止めてみるか?」

 ビズリーは不敵に笑い――身構えた。

 

 



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カナンの地へ

 

 ビズリーの力は圧倒的であった。

 ガイアスを殴り飛ばし、ミュゼを蹴り飛ばし、エリーゼを踏みつける。

 アルヴィンを投げ飛ばしてローエンに叩き付け、突き出された棍を真っ二つに割ってレイアのこめかみを強打し、もう片方はミラの鳩尾に叩き込む。そして、蹴り技を仕掛けてきたジュードの足を掴み取ると、無造作にへし折った。

 「う、ああああっ!?」

 「ミラ! ジュード……!」

 あまりの強さに、ルドガーは割ってはいることを思いつきもしなかった。皆が地に伏したところでようやく我に返り、駆けつけようと足を一歩踏み出して――

 「待て、ルドガー!」

 「ユリウス!? どうしてっ」

 腕を掴まれて制止され、思わず非難がましくユリウスを見た。

 「…………」

 ユリウスは、ルドガーの腕を掴んだまま――ビズリーの動向を険しい顔で窺っている。

 「……ユリウス……?」

 「お前はかかってこないのか? ユリウス。私を止めて見せようとは?」

 「…………」

 ユリウスは答えなかった。

 「――さて」

 ビズリーはユリウスに動きが無いのを見ると、それ以上は頓着せずに、倒れているリドウのもとに向かった。

 「くそ、俺は、こんなところじゃ……っな、に!?」

 逃げ出そうとしたリドウだったが、ビズリーが取り出した装置のスイッチが入れられるなり、身体から力が抜けた。逃げることはおろか、動くことすらままならない。

 「ユ、ユリウスさん……ビズリーさんを……っ」

 足を折られたジュードが、痛みを堪えながらユリウスに懇願するが――

 「……俺は……この茶番が終わるのなら、それで……」

 ユリウスは、己の判断を苦々しく思いつつも、そう告げた。

 「ユリウスさん……っ」

 ショックを隠さないジュードの表情に、ユリウスの胸は痛んだ。だがここでビズリーに楯突けば、ルドガーの身も危険に晒しかねない。分史世界のルドガーを看取り、更に今、リドウによってルドガーを失う恐怖をまざまざと突きつけられたユリウスは、そのリスクを負う気には、どうしてもなれなかった。不甲斐ないとは思うが、ビズリーに勝つ自信が無かった。

 だから――ユリウスは傍観を選択した。

 ユリウスにとって何より大事なのはルドガーだ。

 言ってしまえば、ルドガーさえ無事ならば、人と精霊の共存でも、あるいは人間による精霊の支配でも、どちらでもよいのだ。

 「ははははは!」

 ユリウスの選択に、ビズリーは高らかに笑った。

 「いいだろう。ユリウス、望むのなら、お前も共にくるがいい。全てを見届けにな」

 そう言ってビズリーは、抵抗出来ないリドウの首を掴んで持ち上げた。

 リドウの身体を軽々と持ち上げ――そして、その首の骨を容易くへし折る。

 「……がっ……」

 「っ」

 ルドガーは思わず目を背けた。

 ルドガーを始め、皆が少なからず衝撃を受けている間に、ビズリーは軽く片手を上げて合図をする。

 すると、近くの物陰から一人のエージェントが現れた。

 「! エル!?」

 そのエージェントは、ぐったりしているエルを抱えていた。

 エージェントからエルを受け取ったビズリーは、魂の橋が架かるやいなや、一歩を踏み出した。

 「エル……! ちょっとユリウス! 貴方ねえ……っ」

 未だ立ち上がれないミラが、動こうとしないユリウスを非難する。

 だがユリウスは、ミラの声には応じなかった。

 「……ルドガー。お前はここで待っていろ」

 「でもユリウス、」

 「いいな」

 ルドガーは、ビズリーに連れ去られたエルを追いたそうにしていたが、ユリウスが腕を掴む手に力を込めて念を押せば、黙り込んだ。

 「……いい子だ」

 ユリウスは、ルドガーの頭を優しく一撫ですると、ビズリーを追って橋に乗った。

 「…………っ」

 ルドガーは、少しの間それを見送ってから――吹っ切るように背を向けて、倒れているミラたちに駆け寄る。

 以前から、有事に備えてユリウスに持たされていた各種グミがある。それをまず、手近に居たミラに食べさせた。

 「あ、ありがと……」

 比較的軽傷だったらしいミラは、グミ一つで十分な回復を見せた。

 「っいかん、橋が……!」

 「橋が、消える……!?」

 ガイアスたちの声に橋を振り返れば、確かに橋の接岸部分が今にも消えそうになっていた。

 「ルドガー、お願い! ビズリーさんを止めて!」

 「え?」

 「精霊を支配するなんて、間違ってる!」

 「……俺、さっきから、話が見えてないんだが……」

 ジュードに懇願されるも、今がどんな事態なのかよくわかっていないルドガーは戸惑うばかりだ。

 加えて、ルドガーはユリウスに来るなといわれている。人質になってしまったばかりで、この上、下手に動いてユリウスの足を引っ張ることはしたくなかった。

 「っいいから、来なさい!」

 「うわ、ちょ!?」

 反応の鈍いルドガーの腕を、業を煮やしたミラが引っ掴んで、二人は橋を駆け上がった。

 

 走るそばから消えていく橋に追い立てられるようにして、それでも二人は何とかカナンの地にたどり着いた。

 カナンの地に着いたはいいが、そこはクロノスによって次元がゆがめられていた。目に見えている道が本物とは限らない。これに惑わされぬようにするには、四大の力で対抗するしかない。仮にここに全員で来ていても、先に進むことが出来るのは精々四人であったことだろう。

 「――なるほど。皆、大変なことに関っていたんだな」

 四大の加護を受けつつ進む間に一通りの説明を受けたルドガーは、そうコメントした。

 どこか暢気なルドガーに、ミラは肩を竦める。

 「……何他人事みたいにいってるのよ。最後の最後だけど、あなたもきっちり当事者なのよ」

 「……まあ、そうみたいだけど……けど、なんで俺が一緒に行く必要があるんだ?」

 「あなたの兄さんを止めるために決まってるじゃない」

 ビズリーを止めて、とジュードがいっていたが、別にそれはルドガーの戦闘力を買ってではない。ミラは熊狩りでルドガーがそれなりに戦えることを知っていたが、ジュードはそうではないからだ。ジュードが望みをかけているのは、ルドガーの願いを聞きいれたユリウスがビズリーを止める可能性だ。

 「……そこがよく分からないんだけど……ユリウスは、人間が精霊を支配するを支持派なのか? 一応、どっちでも良さそうなことを言ってた気がするんだが……」

 「……そうね。どっちでもいい派なんでしょうね」

 ミラは、ユリウスの心を的確に見抜いていた。

 「彼はきっと、あなたが無事ならどんな世界でもいいのよ。愛されてるわね、弟くん」

 「……そうだな」

 冷やかしのつもりだったのに、ルドガーは苦笑した。

 満更でもなさそうなその反応に、ミラは呆れるやら、ちょっとムカつくやらだ。

 「――何よ。あなたも、お兄ちゃんが無事なら、どっちでもいい派?」

 「……と言い切るには、俺、ミラたちのこと好きだしな」

 「な、ななな、なによ、好きって!?」 さらりと告げられた結構な爆弾発言に、ミラは非常に分かりやすく動揺した。

 しかし、言った本人は自覚無しだった。

 「? だって、皆いいやつじゃないか。ユリウスとは勝負にならないけど、ビズリーとミラたちだったら、俺は間違いなくミラたちの味方をする」

 ルドガーは断言した。

 ユリウスにとっての一番はルドガーで、ルドガーにとっての一番も、ユリウスだ。

 十数年、大事に大事にされてきたのだ。余程のことでもない限り――いや、余程のことであっても、その思いは揺るがない。

 堂々たるブラコン宣言に、ミラは突っ込む気力も失った。

 「……そ、そう。なら精々お兄さんの説得を頑張んなさい」

 「まあ、やるだけやってみる」

 あまり積極的ではない感じで、ルドガーは頷いた。

 

 



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骸殻の目覚め

 

 ルドガーとミラがカナンの地の最奥に到達したとき、そこでは激闘が繰り広げられていた。

 槍を持ったビズリーと、骸殻変身したユリウスが、クロノスと戦っている。

 「……っエル!」

 ミラは、少し離れた場所で蹲っているエルを見つけて声を上げた。

 「!? っルドガー! 何故来た……がっ!?」

 ルドガーを認めたユリウスが、その隙をつかれてクロノスに弾き飛ばされた。

 「っユリウス!」

 「来るな!」

 「っ」

 駆けつけようとしたルドガーは、ユリウスに鋭く制止されて身体を強張らせた。

 何とか身を捻って着地したユリウスに、クロノスが襲い掛かる。

 「……くっ」

 体勢が崩れたままのユリウスは、それ以上逃げることは出来なかった。

 一撃喰らうのを覚悟したその時、クロノス目掛けて、横手から槍が突き出された。

 「くっ」

 今度呻いたのは、クロノスだった。

 突き出された槍は、クルスニクの槍。無の精霊オリジンの力を宿す、クロノスにも致命傷を与えうる槍である。

 クロノスはユリウスへの追撃を諦めてビズリーと対峙した。

 ビズリーとクロノスがしのぎを削る間に、ルドガーがユリウスに駆け寄る。

 「ユリウス……!」

 「ルドガー! 来るなといっただろう!」

 「っごめん……」

 ユリウスに叱責されて、ルドガーは俯いた。

 そこへ、エルを抱えたミラが割って入る。

 「私が連れてきたのよ! ほら、じっとして!」

 ミラは、ユリウスとエルに治癒術を施した。

 が、ユリウスの怪我は治っていくのに、エルには効果がないようだった。

 「どうして……」

 「……怪我ではなく、タイムファクター化だからだ。精霊術では治らない」

 「っ」

 ユリウスの言葉を聞いても、ミラは諦め切れなかった。

 更に力を込めて治癒術を発動させるが――やはり、効果はみられない。

 「そんな……エル……!」

 駄目なのかと肩を落とした、その時。

 「っミラ、危ない!」

 ルドガーが剣――ミラの予備を借りていた――を構えて、ミラの背を庇うように立ちはだかった。

 「ルドガー!? きゃあっ」

 きん、と何かを弾く音がしたかと思えば、ミラのすぐ前を、ビットがすり抜けていった。

 クロノスは今もビズリーと対峙しているが、クロノスの操るビットが、ルドガーたちを狙ったのだ。

 「っルドガー! まだだ!」

 続けて飛来するビットを、今度はユリウスが叩き落す。

 だが、次々と押し寄せるビットは縦横無尽に動き回り、ユリウス一人では全方向に対応できない。ルドガーとミラも善戦はしたが、ルドガーは戦い慣れしていないし、ミラは純粋に腕力不足で押し負ける。

 一度崩れれば、あとはなし崩しだった。 ビットの一撃がルドガーたちの中心――横たわるエルの傍に着弾し、皆は爆風で吹き飛ばされた。

 「く……っ」

 「う、うう……」

 ユリウスとミラの呻き声を聞きながら、ルドガーは身体を起こし――そして、目の前に転がるエルを見つけた。

 「っエル?!」

 ルドガーはエルを抱き上げた。

 首筋はおろか、顔面にも、黒い侵食が始まっている。

 これが、タイムファクター化。

 ミラから聞いたその言葉を思い出して、ルドガーはぞっとした。

 「……!」

 ふと、ルドガーは、エルのすぐ傍に金色の懐中時計が落ちていることに気がついた。

 「これは、ユリウスの……」

 「っ駄目だ、ルドガー! お前はそれに触れるな!」

 「え?」

 ユリウスの制止は遅かった。

 既にルドガーは時計を掴み上げ――

 「っ!? う、あああああっ!?」

 全身が作り直されるかのような衝撃が、体中を駆け巡った。

 奥底から、力が湧き上がる。

 「何!?」

 攻防を繰り広げていたビズリーとクロノスも、ルドガーの異変に気がついた。

 そして――

 「っいきなり……ハーフ骸殻……!」

 有り得ない光景を目にして、ユリウスは呆然と呟いた。

 まさか、初めての骸殻変身で、初期段階をすっ飛ばし、二段階目に到達するとは……予想もしていなかった。

 「おおおおおっ!」

 当のルドガーは、周囲の反応には構っていられなかった。

 あふれ出す力が、制御できない。

 このままでは、この暴走する力にユリウスたちを巻き込むのではと不安を抱いたルドガーは、ユリウスたちから離れ――ビズリーとクロノスに向かって力を解放した。

 ビズリーとクロノス目掛けて、一条の閃光が迸る。

 「むっ!?」

 「くっ!」

 ビズリーとクロノスは飛び退ってそれを避けた。

 「おおおおおっ!」

 だがルドガーの力の暴走はそれでは終わらなかった。

 駆けるルドガーは、瞬時にしてクロノスの前に到達。すぐにも身を引こうとしたクロノスの腕をわし掴むと、その鳩尾を抉る一撃を叩き込んだ。

 「かは……っ!?」

 「あああああっ!」

 身体をくの字に折ったクロノスに、ルドガーの追撃が迫り――

 「ルドガー! 避けて!」

 ミラの悲鳴とほぼ同時に、ルドガーはこめかみに衝撃を受けた。

 破壊を免れていたビットの攻撃だ。

 ルドガーの意識がそちらに逸れた瞬間に、クロノスはルドガーの手を打ち払い、飛び退った。

 クロノスの前面に、歯車のような文様が浮かび上がる。

 「っまずい、時間を戻すつもりだ!」

 クロノスは時空を操る大精霊だ。時を戻し、その身に負った怪我を無かったことに出来る。

 「――させん」

 だが、時を戻すには術の発動が必要であり――そこに、隙は生まれる。

 「!?」

 クロノスの胸中央を、漆黒の槍が貫いた。

 クルスニクの槍。クロノスの力をも無効化する槍だ。

 「……くっ。我はまだ……っ」

 胸を貫かれても、やはり大精霊である。クロノスにはまだ若干の余力があった。

 「…………」

 その様子にビズリーは目を眇めると、無言のまま、クロノスの胸に刺さっている槍を、更に捻りいれた。

 「――――っ!!」

 声なき悲鳴がクロノスの喉から迸る。

 そして――クロノスは倒れ伏した。

 「……っ」

 「……ルドガー……!」

 同じ頃、ルドガーも力を消耗し、骸殻変身が解除された。前のめりに倒れようとするルドガーにユリウスが駆け寄り、その身体を抱きとめた。

 

 



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最強の骸殻能力者

 

「ルドガー……」

「ユリ、ウス……」

ユリウスの呼びかけに、疲労の滲む声ながらも、返答があった。

ユリウスはほっと胸を撫で下ろした。

「――見事だったぞ、ルドガー」

だが、かけられた声に、ユリウスはすぐに気を引き締めた。

ユリウスはルドガーを守るように抱え込みながら、こちらを見下ろしているビズリーを睨み上げる。

「これで邪魔者は居なくなった。我が一族の悲願も――」

「……まだ終わってないわよ」

感慨深げなビズリーの言葉を遮ったのは、ミラだ。

剣を構えたミラが、ビズリーを見据えている。

「――元マクスウェル。お前も、精霊と人の共存という甘い戯言に乗るのか」

「…………さあね。私だって、そこまで人を信用しているわけじゃないわ」

「……ミラ?」

皮肉げに肩を竦めて見せるミラを、ルドガーが戸惑い見る。

そんなルドガーに、ミラは淡い笑みを向けた後――ビズリーへ、決然と言い放つ。

「でもね。精霊を道具にしようって言う考えには、虫唾が走るのよ!」

ビズリー目掛けて突進するミラ。だがそのミラの気迫も、突撃も、ビズリーを止めるには及ばなかった。

渾身の一撃は、より速いビズリーの体捌きによって受け流された。

カウンターの一撃が、ミラの左頬を捉える。

「きゃあっ!?」

ビズリーの豪腕によって、軽いミラの身体は容易く吹き飛んだ。

「ミラ! くっ!」

「っルドガー!?」

宙を飛ぶミラを見た瞬間、ルドガーは骸殻変身をしていた。

ユリウスの腕から飛び出し、ミラを受け止めに走る。

ミラの身体は、この場の床を跳び越し、何処とも知れぬ場所へ落ちようとし――

「おおおおおっ!」

そこで、ルドガーの力が増した。

「……スリークォーター骸殻……!」

顔の半分ほども骸殻で覆われた、第三段変身。

早すぎる進歩に、ユリウスは目を疑った。

が、ルドガーの速度と身体能力が格段に上がったのは確かだ。

力強く一歩を踏み切れば、届きそうにもなかったミラの身体に、手が届いた。

そのままでは床の外、異空間へと落ちそうになるところを、身を捻り、その勢いで持って方向転換に成功すると、危なげなく着地した。

「あ……ルドガー……」

「…………」

驚くミラの無事を確認したルドガーは、ふ、と笑みを漏らした後――ビズリーを睨み据えた。

「ふふふふふ。素晴らしいぞ、ルドガー。だが、才はあっても、初めての骸殻能力で、この私を止められるか!?」

ビズリーは、骸殻変身していないにも関らず、目にも留まらぬスピードでルドガーの前に至っていた。

「っ!?」

「甘い!」

驚愕するルドガーの腹に、拳が埋まる。

「が……っ」

「ビズリー!」

ルドガーに追撃をかけようとするビズリーへ、ユリウスが斬りかかった。

繰り出される双剣を、ビズリーは最小限の動きでかわし切る。

「――ふ。そんなものか? ユリウス」

ビズリーは余裕の笑みを浮かべ――

「っむ!?」

ハッとして頭上を振り仰いだ。

見上げたそこには――槍の切っ先。

「っルドガーか……!」

ビズリーの視界外で跳躍したルドガーが、頭上まで迫っていたのだ。

ビズリーは大きく飛び退った。だが、大きく飛びのいても、ルドガーの槍が突き刺さったのは、拳一つ分も離れていない場所であった。

「シッ!」

槍を支えに、ルドガーが蹴りを放った。

ビズリーはそれを両手で受け止める。そしてそのままルドガーの足を掴もうとしたところで――

「はっ!」

「!」

回り込んだユリウスの双剣が、ビズリーの足を捉えた。

「ぐ……っ」

流石のビズリーもこれには呻いた。

加えて、その隙にバク転で間合いを取ったルドガーが、再び槍を手に駆ける。

ユリウスはその位置をビズリーの横手側に変え、斬りつけ、ビズリーの体勢を崩すことに専念している。捌きながらでは、ルドガーの一撃から逃れられない。

「――――ふふふ……ははははは!」

ビズリーは、高く笑い――そして、骸殻を纏った。

「っ」

「うあ!?」

骸殻を纏ったビズリーから迸る力の余波によって、ルドガーとユリウスは弾き飛ばされた。

空中で体勢を整え、二人は油断なく着地する。

そして――全身を骸殻で覆った、フル骸殻のビズリーを見据えた。

「その力に敬意を表し、全力で相手をしよう! この世界、最強の骸殻能力者の力、お前たちに超えられるか!?」

ビズリーの豪腕が、唸りを上げてユリウスに迫った。

「く……っ」

咄嗟に双剣を構えてガードするが、その力は防ぎきれるものではなかった。

拳はガードもものともせずにユリウスを捉え、床に叩きつけた。

「ユリウス!」

ルドガーが駆ける。

繰り出した槍は、しかし柄を掴み取られ、逆にルドガーが投げ飛ばされた。

床に激突しそうなところで辛うじて手をつき、二回のバク転で体勢を立て直す。

視線をビズリーに戻し――しかし、そこには既にビズリーはいなかった。

「ルドガー、伏せて!」

ミラの警告の声に、反射的に従った。直後、ルドガーの頭上を、衝撃波を纏った拳が過ぎった。

「っ」

ルドガーはすぐに身を転がし、踏み出される足を、拳を、どうにか避ける。

が、そうそう続けられるものではない。ついに、ビズリーの足がルドガーを捉え――

「む!?」

唐突に、ビズリーの身体が硬直した。

「ルドガー、今よ!」

いつのまにか傍まで来ていたミラが、バインドでビズリーを拘束したのだ。

「――ふん!」

だが、ビズリー相手に、それは何秒とは持たなかった。気合一つでビズリーは拘束を脱し、ミラに拳を叩き込む。

「きゃあっ」

ミラの身体は強かに打ち付けられ、二度、三度と跳ねて転がり、ようやく止まった。

「ミラ!」

「待て、ルドガー! 油断するな!」

「っ!?」

気付いたときには、ユリウスの背中が目の前にあった。

いつかのように、ルドガーを守る広い背中。

「ぐ……っ」

だが今回、その背中は――呻き声と共に、小刻みに、震えていた。

ユリウスの身体越しに、フル骸殻のビズリーが間近に迫っているのに気付いた。

そして――足元にぽたり、ぽたりと滴り落ちる、赤い雫。

「ユ、リ、ウス……?」

ルドガーは呆然と……視線を動かして。

ビズリーの手に何かが握られていること。

それが、柄――槍の柄であること。その切っ先がユリウスに向いていることを、知った。

そして――赤い雫が、ユリウスの血であることに、思い至って。

「――――あ……う、……っおおおおおおっ!!」

ルドガーの中で、力が、爆ぜた。

 

 



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審判のとき

 

 「おおおおおおお!!」

 獣の咆哮を思わせるその叫びと共に、ルドガーの顔全体が、骸殻で覆われる。

 ――フル骸殻だ。

 「よもや……これほどとは……!」

 その進化の早さ、伝わる強さに、ビズリーですら驚愕した。

 「ああああああっ!」

 ルドガーは、目にも見えぬ速さで跳躍してユリウスの身体を越えると、反応し切れないビズリーの顔面に蹴りを叩き込んだ。

 ビズリーの身体が吹き飛ぶ。

 追撃は容易で、効果的であったことだろう。

 だがルドガーは、ビズリーに追い討ちをかけるのではなく、ユリウスを振り返ることを優先した。

 「……ルドガー……お前……」

 「ユリウス、俺の、せいで……っ」

 「……はは、俺は大丈夫だ。ルドガー」

 ユリウスは、血に染まった両手を見せて微笑んだ。

 確かにユリウスは槍で怪我を負ったが、それは突き出された槍の刃を両手で掴んだゆえのものである。槍は、ユリウスの骸殻に触れてはいたが、身体を貫いてはいないのだ。

 「…………良かった……」

 その事実を知って、ルドガーは心の底から安堵した。

 ユリウスの言葉を無視してここまで来て、その上、自分のせいでユリウスを失うことになったとしたら、正気でいられる自信等、ルドガーにはなかった。

 「ルドガー……」

 俯き、縋ってくるルドガーを見て――ユリウスは、分史世界のルドガー、ヴィクトルの言葉を思い出していた。

 ユリウスがいない世界は耐えられない。

 その言葉の重みを、今まさに、痛感している。

 ユリウスは、ルドガーを守るためならば命など惜しくはないと思ってきたが――違うのだ。

 ルドガーを本当に守るつもりならば、ルドガーは勿論だが、ユリウス自身も、無事で居なくてはならないのだ。

 「……ルドガー」

 「何?」

 ユリウスの囁きに、ルドガーは顔を上げて問い返した。

 ユリウスは、ビズリーの動向に注目しながら告げる。

 「……時間を稼ぐんだ。ビズリーに、骸殻の力を使わせ続けろ」

 ビズリーは今、ふらつきながらも立ち上がったところだった。余程ルドガーの一撃が効いているらしい。

 「わかった」

 ルドガーは、何故、とも問わずに頷いた。

 そっとユリウスの身体から離れて――少し躊躇った末に、ユリウスの血がついた槍を拾い、構える。

 「――ふっ!」

 そして、ビズリー目掛けて駆けた。

 まずは飛び込み突き。かわされたら横になぎ払い。ビズリーの足元目掛けて斬りおろし、斬りあげる。

 突き出された拳は柄で受け、逸らし、再び突く。

 フル骸殻同士の戦いは、一進一退の攻防を続けていた。もう、ミラはもとより、ユリウスにも下手な手出しは出来ない。

 一体、どれほどに槍と拳が打ち合わされたか。まるで演舞のようにすら思えたそのやりとりに、いつからか変化がおき始めた。

 一突きごとに鋭さ、力強さを増していくルドガーに対し、ビズリーのほうにブレが見られた。

 一撃が大振りになる。反応が半瞬遅れる。些細な変化ではあっても、この二人の高次の戦いではそれは大きな差となって現れ始め――

 「ぐ、おおっ!?」

 ついに、ビズリーは呻いて膝をついた。

 「え……?」

 驚いたのはルドガーである。これが一撃を食らわせてのことならば問題ないのだが、今のはそうではなかった。

 ビズリーは、ルドガーの槍の一撃をかわしたあと、何故かいきなり苦しみだしたのだ。

 「あ、あれは……!」

 ビズリーの身体から噴出す黒い靄を見て、ミラはその原因に思い至った。

 あれは、分史世界でみた現象。

 「タイムファクター化……やはり、進行していたか」

 そしてこれこそが、ユリウスの狙いであった。

 「……ふ、ははは」

 どこか力ない笑いと共に、ビズリーの骸殻が解けた。

 「気付いていたか。ユリウス」

 侵食は、ビズリーの顎に至っていた。

 「……ああ。二十年前のクロノスとの戦い以来、一度も変身していない。……近いと思っていた」

 「ははははは。流石だな。ユリウス。……早く、審判を受けるがいい」

 「ビズリー……?」

 ユリウスは眉を顰めた。

 ビズリーは頭の切れる男だ。油断はならない。

 そんなユリウスの警戒を察しつつ――ビズリーは、999999の数で止まっているカウンターを見上げた。

 それは、タイムファクター化したものたちの数。

 あと一人で、1000000。タイムファクターの上限値になる。

 「……ふふ、私がタイムファクター化すれば、オリジンの審判は失敗に終わる……それは、我が一族の犠牲を無にする行為だ……」

 それだけは、ビズリーは避けなければならない。

 これまでの一族の犠牲を、無意味なものには絶対にさせない。

 「ビズリー……」

 一族の期待を背負い、悲願の成就を目標としてきたのはユリウスも同じだ。

 だから、ビズリーの気持ちは――ユリウスにも理解できた。

 「さあ、私が……踏みとどまっているうちに、分史世界を消滅させるがいい……」

 タイムファクター化に伴う苦痛に耐えながら、ビズリーは腕組みをし――これ以上の邪魔はしないと態度で示した。

 ユリウスは、その真偽を判断しかねた。

 確かにユリウスは、ビズリーはタイムファクター化寸前まで行けば、負けを認めるだろうとは思っていた。上手くすれば、ビズリーを、最後のタイムファクターに出来るだろうと。

 ――が、これは潔すぎるようにも思えた。

 だが今は、悩んでいる暇は無いのだ。ここにはタイムファクター化しかかっている人間が三人もいる。ビズリー、エル、ユリウスだ。そしてここではない分史世界で、今にもタイムファクター化が発生するかもしれない。

 ユリウスは、決断した。

 「……ルドガー、頼む」

 「え? 俺が?」

 骸殻解除して成り行きを見守っていたルドガーは、突然の指名に驚いた。

 驚くルドガーに、ユリウスははっきりと頷く。

 「ああ」

 「……わかった」

 ルドガーが、999999のカウンターに近づいていく。

 ユリウスは、そのルドガーの後姿と――そしてビズリーとを視界に入れた。

 あからさまな警戒をむけられても、ビズリーは気を悪くした素振りも見せなかった。

 「……ふふ。そう睨むな。何も企んではいない」

 「……」

 だがそんな言葉を鵜呑みにするほど、ユリウスはビズリーに信用をおいていない。

 緩まぬ視線にビズリーは小さな苦笑をもらし――ルドガーの背を、見つめた。

 「今更甘言を弄しても、お前の弟は、お前を裏切るまい」

 そして、ユリウスを見返す。

 「――大事に、育てたのだな」

 それは、どこか暖かい視線で――満足げな声音であった。

 ビズリーが、このような表情で、このようなことをいうとは、ユリウスは思いもしなかった。

 だが、それを嫌とは思わなかった。

 ――嬉しかった。

 「――ああ。当然だろう」

 だから、ユリウスが返した声も、穏やかで誇らしげなものになった。

 閉じられていた空間が開かれ、瘴気の中からオリジンが滑り出てくる。

 子供のような姿と声の彼は、クロノスを治療した後、ルドガーに問うた。

 「さあ、君は何を望むの?」

 「…………」

 ルドガーは、ユリウスを見た。

 ユリウスは微笑みながら頷く。

 次にルドガーは、ミラを見た。

 ミラはまっすぐに、ルドガーを見返す。

 「…………」

 ルドガーはミラに一つ頷くと、オリジンに向き直って告げた。

 「――分史世界の、消滅を」

 「わかった。君の願いをかなえよう」

 オリジンを中心として、光が生まれた。

 光は力を伴って空間を渡る。

 世界に広がった光は、緩やかに明度を落とし、そして消えた。

 これで――オリジンの審判は終わった。

 「……ふふふ、ははははは」

 ユリウスたちの感慨を打ち破ったのは、ビズリーの笑い声であった。それとともに、ビズリーの全身から黒い靄が噴出す。

 どうやら、ビズリーの気力もここまでのようだ。

 一気に、タイムファクター化が進行していく。

 「……ビズリー」

 「ふはははは、これでは何も終わらん。……争いは……我らクルスニク一族の呪いは、続いていく」

 ビズリーの悲願はかなわず、クルスニク一族は呪いから逃れられない。

 いずれまた、一族間、親子兄弟間にも醜い争いが引き起こされることだろう。

 そんな予想が、どれほど容易くても。

 「……だが――……不思議と、悪くない気分だ」

 それでも今は、ユリウスとルドガーの二人が残る。

 それを思えば、ビズリーの口元には笑みが浮かんだ。

 「ビズリー……」

 ビズリーの声に、偽りは感じられなかった。

 ルドガーと己に向けられる穏やかな眼差しに、ユリウスは言葉に詰まった。

 ビズリーは、一族の犠牲を無駄にしないために、ユリウスたちに審判を譲ったのだ。

 それは間違いない。

 だが――それだけではないのだと、ユリウスには感じられた。

 タイムファクターが上限値に達した時点で、他で進行しているタイムファクター化はリセットされる。

 つまり、ユリウスとエルのタイムファクター化は消去されるのだ。

 ビズリーが最後のタイムファクターとなることで、ユリウスとエルが救われる。

 それも確かに、ビズリーが望んだ結果なのだろう、と。

 「…………」

 皆が見守る中――ついに、ビズリーは消滅した。

 誰も、何も言わず、動かない静寂の中――不意に、ルドガーの身体がふらついた。

 「っルドガー!?」

 「やだ、どうしたのよ!?」

 慌ててユリウスが抱きとめ、状況がわからないながらも、ミラが治癒術を発動する。

 ミラの治癒術を受けながら、ユリウスの肩に頭を預けたルドガーが呟いた。

 「……はは……力が抜けた……っていうか、物凄く……疲れた……」

 その言葉に、ユリウスとミラの気が抜けた。

 「……っ何よ、驚かせないでよね! ったく」

 ミラは腰に手を当ててそっぽを向き、ユリウスは笑いながら、ルドガーの頭をそっと撫でる。

 「ははは。無理もない。何しろいきなりフル骸殻まで使ってしまったんだ。意識があるだけ大したものだぞ」

 「……うう……なんか、眠い……」

 ルドガーの瞼は、もう落ちかかっていた。

 優しく髪がすかれる。ユリウスが喋る際に伝わる微かな振動が、何故だかとても眠気を誘う。

 「……いいぞ、ルドガー。ゆっくり休め」

 そっと囁かれ、背に回されている手に、ぽんぽんとあやされる。

 全身全霊で守られている。

 それを疑う理由なんて、どこにもなかった。

 この人の腕の中以上に暖かくて安心する場所なんて、ない。

 それは、ルドガーが小さい頃、寝付けなかった夜にあやしてもらって以来変わらない、絶対の真実だ。

 加えて、あの子守唄。ユリウスの優しいハミングが聞こえて――

 「……ん……」

 ルドガーの瞼は落ち、何の憂いもない眠りへと旅立った。

 

 そして――

 

 



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歌声は青空に

 

 「っやば! 遅刻っ!」

 ドアが開ききるのももどかしく、ルドガーは部屋を飛び出た。

 「待てルドガー!」

 「っ」

 すでに廊下を走り出していたルドガーを、ユリウスが鋭く止めた。

 遅刻寸前だが、ユリウスの声を無視はしない。足を止めてルドガーが振り返れば、ユリウスがルドガーの首元に手を伸ばした。そして、曲がっていたルドガーのネクタイを直す。

 「身だしなみには気を使えと、何度言った?」

 「……堅苦しいの、苦手なんだって」

 ネクタイを直され、他の身だしなみチェックの視線も大人しく受け止めつつも、ルドガーはぼやいた。

 「まったく。お前はいつまでたっても……よし、いいだろう」

 「ん、じゃあ、行って来ます!」

 ユリウスの許可が出るなり、ルドガーは走り出した。

 エレベーターに駆け込む前に、思い出したように振り返って叫ぶ。

 「あ、今日の夕飯は、トマトソースパスタにするからさ!」

 「……ったく。あれで機嫌を取ったつもりなんだからな」

 呆れたようにいいつつも――ユリウスの声には笑みが滲んでいた。

 結局ルドガーは、ユリウスの機嫌を取ることに成功していたのだった。

 

 ルドガーがマンションのエントランスを飛び出したところで、公園にエルとミラの姿を見つけた。

 「あ、ルドガー!」

 「エル、ミラ、お早う! 悪いけど、俺急いでるから!」

 元気一杯の笑顔を見せたエルの横を通り抜けざま、ルドガーは詫びた。

 「……随分慌ててるのね」

 「遅刻寸前なんだ、悪い!」

 驚くミラを振り返ってもう一度詫び、ルドガーは走り去る。

 その慌しさに、エルは大人ぶって溜息をついてみせた。

 「……まったく。しょうがないなあ、ルドガーは」

 「……そうね。案外、だらしないとこあるわよね」

 オリジンの審判から一ヶ月が経とうとしている。

 エルとミラは、今はヘリオボーグに住み込んでいるバランの部屋を借りて、トリグラフで生活していた。ルドガーの家とも近いので何かと行き来をしているのだが、そうなると日常のルドガーというものも見えてくる。

 「きっと、眼鏡のおじさんが甘やかしてるからだよ」

 「そうね。べったべたに甘いものね」

 「だからさ、やっぱりエルとミラがしっかりしなきゃなんだよ!」

 「――そ、そうね。そうよね」

 笑って見上げてくるエルの言葉に――ミラはちょっと頬を染めつつも、満更でもなさそうに細かく頷いた。

 「うん! ねえミラ、お金貯まった? あとどれくらい?」

 「そうね……物件にもよるけど、頭金くらいは稼げてるわ」

 ミラは今、クランスピア社のクエストをこなして金を稼いでいる。特にモンスター狩りは実入りがいい。日々の生活費を引いても、十分な金額が手元に残っていた。

 「すごー! ミラ早い! じゃあ、エルたちがルドガーと暮らせる日も近いね!」

 「え、え、ええ。そ、そそう……」

 改めてはっきりいわれると、その光景を思い描いて無性に照れて、ミラはあからさまに挙動不審になった。

 「――なんだか興味深い話をしているじゃないか?」

 「うえ!?」

 だが、そんな浮ついた気持ちは、背後からかけられた声によって冷やされた。

 「あ、眼鏡のおじさん!」

 「ルドガーと暮らすって? 詳しい話を是非聞かせてもらいたいな」

 顔は笑っている。笑っているが――眼鏡がきらりと光っていて、ミラたちの位置からでは、その目が笑っているのかまでは確認できなかった。

 いや、ちょっとした冷気が漂ってきている感じからして、推して知るべし、である。

 戦闘の気配に敏感なミラは思わず戦慄したが――子供と鈍感さは強い。

 エルは両手をぶんぶんと振りながら無自覚に暴露した。

 「駄目! ミラが一軒家を買って、エルとミラとルドガーとルルで暮らす計画は内緒なんだから! 喋っちゃ駄目なの!」

 「ちょっとエル、あなたしっかり纏めちゃってるじゃない!」

 「あっ」

 しまった、とエルが両手で口を塞ぐが、もう遅い。

 「ほう……ミラがねえ……」

 「……な、なによ……」

 含むもののある視線と声。ミラは動揺する気持ちを押し隠した。

 そんな虚勢はユリウスにはお見通しだろうが――不意に、視線も敵意もゆるんだ。

 「――いや、構わないんじゃないか? それよりも俺の名前が省かれていたのは、勢いか? わざとか?」

 「…………来るなっていっても、来るんでしょ」

 ミラはそっぽを向いて、不貞腐れたように言い返した。

 「まあ、その通りなんだが。――よし、それじゃあ俺も良さそうな物件を探してみよう」

 「……っていうか、なら、眼鏡のおじさんがお家買ってよ。しゃちょーさんなんでしょ? お金、いーっぱい持ってるんでしょ?」

 協力的な姿勢を見せたユリウスを、エルが半眼で見上げた。

 ユリウスは、ビズリー亡き後、クランスピア社の社長に就任している。エレンピオス一の大企業だ。ユリウスが動かせる金は、その気になれば国家予算並みである。

 「それは勿論、家を買うくらい簡単だが――しかし俺は、自力で一軒家を買えないような甲斐性無しに、ルドガーを嫁にやるつもりはないぞ。いや、家だけではない。他にも364個の試験を受けて、全て合格したものにしかルドガーは任せられない!」

 腕組みをし、胸を張る。ガイアスっぽいその姿勢には威厳すら感じられたが――ぶっちゃけ、言っていることは娘大事の父親のそれだ。

 「嫁……どうしよう、突っ込むべきだとわかってるのに、すごく納得しちゃったわ……」

 「そっかー。じゃあ、ミラ、頑張んないと!」

 「え? わ、私は、その、別に……」

 ミラは頬を染めて口ごもった。これに肯定で応じるのは、つまりミラがルドガーを嫁に欲しいと暴露しているも同然である。いや、欲しくないわけではない。ないのだが、それを認められるほど、ミラは素直ではない。

 「――ふ。怖気づくのなら、それでも俺は構わない」

 が、ユリウスのその発言に、ミラはかちんと来た。

 「っべ、別に怖気づいてなんていないわよ! 見てなさい! すぐにお金を貯めて、立派な自宅兼店舗を構えてみせるんだから!!」

 「ミラー、頑張れー!」

 「任せなさい! ――さあ、行くわよ、ギガント狩り!!」

 エルからのエールを受けたミラは、腕まくりしつつ力強く踏み出した。その周りを飛び跳ねるような足取りで、エルも続く。

 「ははは」

 賑やかな二人の背を、ユリウスは見送った。

 そのユリウスの足に、遅れてマンションから出てきたルルが身体を摺り寄せた。

 「ナァー」

 「……そうだな、ルル。楽しみだな」

 笑みを零したユリウスは片膝ついて、ルルを撫でた。

 そうしながら、一転、真剣な口調で今後の検討を始める。

 「――だが、そう簡単にルドガーは渡さないぞ。まずは、一等地を選んで見積もりも高く出して……そう、試験も考えないとな。とびっきり難しいやつを」

 「ナァー」

 もっと、と甘えるルルを撫でていると、GHSがバイブして時間を告げた。

 もう行かないと、ルドガーの遅刻に意見する資格がなくなってしまう。

 「……夕食はトマトソースパスタだしな。さっさと仕事を切り上げて、帰るとするか」

 「ナァー」

 「ルルにも、今日は特別にロイヤル猫缶をあけような」

 「ナァー♪」

 ユリウスは、最後にルルの頭を一撫でしてから、立ち上がった。

 「――ああ、今日もいい日になりそうだ」

 空は高く、翳り一つなく晴れ渡っている。

 吹き抜ける風は清々しい。

 ルルがいて、エルやミラも顔を見せて賑やかで。

 そして、ルドガーと共に笑いあえる世界。

 これ以上、望むものなんてない。

 「――♪」

 幸福を噛み締めながら、ユリウスは歩き出した。

 ハミングを、優しく響かせながら。

 

 End

 



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Elle EPISODE
ドヴォールの初任務


 

 手ごろな分史世界が見つかったと連絡を受け、エルたちはドヴォールへと向かった。

 分史世界へ移動すると、正史世界からは人が消えたように見える。そうなって騒がれるのは面倒だということで、エルたちは、人通りの少ない、ドヴォールの裏路地の一角から分史世界へと侵入した。

 「ええと……まず、どうすればいいんですか?」

 世界を渡る独特の感覚が収まってから、ジュードはユリウスに訊ねた。

 「……正史世界と異なっている点を探す。俺が近づけば、異変が目に見える」

 ユリウスは、ジュードと、そのジュードの背に隠れるエルを一瞥してから答えた。

 「成程……」

 「それじゃあ、早速街に出てみよっか」

 考え込むよりまず行動! と早速レイアが街へ飛び出した。

 

 聞き込みに出たところ、裏路地に白髪鬼が出て人を狩るという噂を拾ったので早速調査をしたが、それらしき事件には遭遇しなかった。

 一通り裏路地を歩いてみても何も見つけられず、疲れたエルは、しゃがみこんでルルに話しかけた。

 「いないね、鬼」

 「ナァー」

 「僕たちは聞いたことない噂だったけど、向こうでもある噂だったのかも」

 「となると……これからどうしよっか? もう一度、噂を集めてみる?」

 「……ユリウスさん、何か、手がかりとか、ないんですか?」

 レイアと話したジュードが、ユリウスに質問した。

 分史世界は、ユリウスの専門だ。何か、手がかりの手がかりがあるかもしれないと思ってのことだ。

 「偏差が目安にはなるが、それだけだ。今はここの偏差が高い。この辺りのはずだ」

 「そう、ですか……」

 どこか突き放すような声音のユリウスに、ジュードは少々たじろいだ。

 仕事中だからなのか、ユリウスの言動は厳しい感じがする。

 まるで、仲良くするつもりはない、と言われているようで――それがエルにも伝わっているのだろう。エルは、ユリウスが居るときは、人の背に隠れようとすることが多かった。そのエルは今、ジュードではなく、レイアの背後でルルを構っている。

 「――よお、あんたら。こんなところで何してるんだ?」

 「え?」

 「動くな」

 横手から話しかけられて、そちらを向いたジュードは――背後から歩み寄って来た何者かに武器を突きつけられ、身体を硬直させた。

 「!」

 「っジュード!?」

 「――何の真似だ」

 驚くレイアに続いて、ユリウスが、短く問いただす。

 そのユリウスを見て、襲撃者は目を瞠った。

 「お前は……クラン社の!? は! 異界炉計画が失敗に終わった途端、リーゼ・マクシアに尻尾振った犬が!」

 ジュードの横手の襲撃者二人が、ユリウスに武器を向けた。

 「…………」

 ユリウスは無言で目を眇めると――素早く引き抜いた双銃を撃ち放った!

 「ぐあ!?」

 「っ!」

 撃たれた二人がその場に倒れこむ。

 「きゃー!?」

 「エル……!」

 目の前で人が撃たれたのを見たエルが悲鳴をあげ、そのエルを庇うように、レイアが抱きしめた。

 「な……!」

 ジュードを捕らえていた男は、仲間を撃たれて動揺した。

 その隙をついてジュードが男の腕を捻り上げ、逆に拘束する。

 「ゆ、ユリウスさん……」

 男を拘束しながらも、ジュードは困惑していた。

 ジュードの位置からは、二人がどこを撃たれたのか、その生死も判別出来ない。

 「……うう……っ」

 「! あ、ま、まだ生きてる……!」

 男の呻き声を聞き取ったレイアが、急いで治療をしようと駆け寄ろうとして――

 「――レイアさん、下がってください」

 「え……!?」

 聞き覚えのある声に、思わず足を止めた。

 直後、倒れている男二人を囲うように、ナイフが数本、降って来る。

 突き立ったナイフは精霊術を発動させ、男二人の身体を焼き尽くした。

 「な……この術は……まさか……!」

 「う、うわあああ、た、た、助けてくれ……!」

 見覚えのあるナイフと術に、ジュードは驚いた。

 驚いたジュードが拘束を緩めてしまったその隙に、怯えた男が、ジュードの手を振り払って逃げ出した。

 「――逃がしません」

 再びナイフが飛来し、男の額に突き刺さる。

 「っもう、やーだー!」

 あまりの光景に、エルは目を閉じてルルをぎゅっと抱きしめた。

 「……何者だ」

 ユリウスは銃から剣に持ち替えた。姿を見せた老人相手に、使い慣れない銃では分が悪いと思えたからだ。

 「……お久しぶりですね、ジュードさん、レイアさん」

 ユリウスの誰何には答えず、白髪の老人は、ジュードとレイアに語りかけた。

 「ローエン、どうして……」

 一年ぶりの再会であったが、しかし、目の前で繰り広げられた光景があまりに衝撃的で、ジュードは素直に喜ぶことは出来なかった。

 「……知れたこと。ドロッセルお嬢様、エリーゼさん、ガイアスさんの仇。シェルを消してしまった償いをしなければ」

 淡々と語るローエンの身体に、黒い靄のようなものが纏わりついて見えた。

 「ローエン、まさか……ユリウスさん……!?」

 「――タイムファクターだ」

 ジュードの問いにユリウスは頷いて――腕だけを変身させると、槍を手に、駆けた。

 

 ユリウスの槍が、ローエン――タイムファクターを貫き、そして世界は壊れた。

 「……これが……分史世界……」

 「こんなのって……」

 それぞれショックを受けるジュードとレイアを一瞥し――そしてユリウスは、エルを見下ろした。

 「――カナンの地にいくということは、こういう世界を一つ一つ潰していくということだ。それだけの覚悟が君にあるのか?」

 「……あ、あるよっ」

 ユリウスの冷たい視線と厳しい声に気圧されたエルだったが、ルルをぎゅっと抱きしめてから、強がって反発した。

 「だ、だってそうしなきゃ、カナンの地にいって、パパを助けられないんでしょ? 分史世界を壊さなきゃ、世界は滅んじゃうんでしょ? なら、しょうがないことだし」

 間違ったことはしてないし、とエルは言い切った。

 エルの言葉に、ユリウスは眉を顰め――

 「…………その覚悟を、貫き通せればいいがな」

 突き放すようにそういうと、身を翻して裏路地を出て行った。

 「……やな感じ! べーだ!」

 エルはユリウスの背中に向けて舌をだした。

 同じ頃、ユリウスが去った道とは違うほうから、分史世界で倒したばかりのローエンが姿を見せた。

 「――おや、ジュードさんにレイアさんではありませんか」

 「! ローエン!?」

 「えっと……本物、だよね……? ここ、正史世界、だもんね?」

 混乱するジュードとレイアに、ローエンが穏やかに語りかける。

 「……はて? 本物? 正史世界とは、一体なんのお話ですかな?」

 「……ええと、実は――」

 ジュードとレイアはローエンに経緯を説明し、ローエンが新たに仲間に加わった。

 

 



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不器用な二人

 

 浜辺で貝殻を拾っていたエルの前に、突如、魔物が現れた。

 「っ下がれ! エル!」

 ユリウスは咄嗟に骸殻変身をすると、エルと魔物の間に割り込んだ。

 突き出した槍は魔物の身体を貫いたが、触手の一本が、ユリウスの右腕に巻きつく。

 「ぐ……っ!」

 みしり、と骨が軋む音を聞いた。

 魔物のほかの触手が、更にユリウスに迫る。

 「ユリウス!」

 その触手を、ミラが打ち払う。

 「気をつけて! 術が発動しかけているわ!」

 「ティポ!」

 ミュゼの警告に続いてエリーゼの声が響き、巨大化したティポが、魔物の身体を押しつぶした。

 「っ」

 右腕の触手が緩んだ隙に、ユリウスは身体を引いた。

 魔物から間合いを取ったところで、ユリウスの視界に、驚き硬直しているエルの姿が入ってきた。

 あの場所では戦闘に巻き込まれる。

 そう判断したユリウスは、エルに駆け寄ると、その身体を抱きかかえた。

 「っちょ、はーなーしーてー!」

 我に返ったエルが叫ぶ。

 ユリウスはエルの抗議を無視して跳躍。ある程度距離を取った場所に降り立つと、エルを放し、すぐさま戦闘へ駆け戻った。

 タイムファクターでもあった魔物を槍で貫き、ユリウスたちは正史世界へと戻る。

 そして――ユリウスは険しい顔で、エルの前に立ちはだかった。

 「――勝手に一人で動くなといっておいただろう!」

 「っ」

 開口一番の叱声に、エルは身を縮めた。

 が、負けん気の強いエルは、すぐに言い返した。

 「ひ、一人じゃないもん! ルルも一緒だし!」

 「そういうの、屁理屈っていうのよ。ルルは猫だから一匹」

 ユリウスが何かを怒鳴り返そうとするのより先に、ミラが言葉を滑り込ませた。

 先手を取られて思わず言葉を飲み込んだユリウスに、エリーゼが歩み寄る。

 「――ユリウスさん、怪我、見せてください」

 「……ああ、すまない」

 ここ最近は、当たりが柔らかくなってきたユリウスは、素直にエリーゼの手当てを受け入れた。

 「もう大丈夫だ、有難う」

 「いいえ」

 ユリウスが問題なく右腕を動かすのを見て、エリーゼは、ほっと笑った。

 そして――少し離れたところで、ちらちらと様子を窺っているエルを見る。

 「――エル。ユリウスさんに、助けてもらったお礼をいいましょう?」

 「……た、助けてくれなんて、頼んでないし」

 エリーゼが優しく促すのに、しかしエルはそっぽを向いてそういった。

 「そ、それに、眼鏡のおじさんは、そもそもエルのごえーなんでしょ! エルを守って当たり前……」

 「エル、それ、本気で言ってますか?」

 「…………」

 非難の篭ったエリーゼの問いに、エルは顔を俯けた。

 エルとて、お礼を言うべきだということは分かっているのだ。

 だが、叱られて、反発してしまった手前、そうそう素直にはなれなくて。

 そんなエルの気持ちを察したエリーゼが、柔らかく話しかける。

 「……素直になれない、嘘をつく悪い子のところには、バーニッシュは来てくれませんよ?」

 「でも、ちゃんと謝れる子のところにはー、きっと来てくれるよー」

 エリーゼとティポの言葉に、エルは、ちらりとユリウスを見てから――思い切って、顔を上げた。

 「…………ごめんなさい。……助けてくれて、ありがとう」

 小さめの声ながらも、謝罪と感謝の言葉は、しっかりとユリウスまで届いた。

 「…………無事なら、いい」

 ユリウスはそうとだけいって――踵を返した。

 遠ざかるユリウスの背中を見て、ミュゼが笑う。

 「……ふふ。なんだか良く似た二人ね。意地っ張りで、素直になれないところなんて、そっくり」

 「えー、エル、眼鏡のおじさんに似てなんかないもん」

 ユリウスと一緒にされたのが不満で、エルは唇を尖らせて文句を言った。

 「あら、似てるわよ~。ずっとあなたのこと気にかけているのに、素直に心配なんだって言えないところとか」

 「嘘だー。眼鏡のおじさん、エルのこと嫌いだもん。気にかけてるはずないし」

 ユリウスに優しくされた覚えのないエルは、ミュゼの言葉を信じない。

 が、そんなエルに、エリーゼとティポも言葉を重ねた。

 「そんなことないですよ、エル。確かに、ユリウスさんはちょっと、エルに厳しいかもしれませんけど……」

 「でも、エルが疲れてないかとか、危ないところにいってないかとかー、ちゃーんと見てるんだよー?」

 「え……? それ、本当……?」

 「……それこそ、エルの護衛だからじゃないの?」

 戸惑うエルに代わって問うミラに、ミュゼは微笑んだ。

 「ううん。きっと違うわ。だって、そういう視線じゃないもの」

 「……どうしてわかるの?」

 「うふふ、わかっちゃうのよ。私、お姉ちゃんだから。あれはね、お兄ちゃんの視線よ」

 「……兄弟って言うより、親子って歳の差だと思うけど」

 もうすっかり遠ざかっているユリウスの背中を見ながら、ミラは呟いた。

 ニ・アケリアで口論していた二人をみたとき、ミラは二人が親子だと思ったものだ。

 「ああ~、そうかもしれないわね」

 ミラの言葉に、ミュゼは手を打ち合わせて笑う。

 が、笑えないのはエルだ。

 「……エルのパパは……眼鏡のおじさんみたいに、怖くなんかないもん……」

 エルのパパは、料理上手で、優しくて、暖かくて、強くて、エルのことを大好きで――とにかく、ユリウスとは、全然違うのだ。

 だが――

 「……でも、パパは……パパの、剣は……」

 ユリウスの扱う双剣。その構えは――エルのパパに、似てなくも無い。

 いや、むしろそっくりといっても良くて――

 「……ううん、違う。エル、信じないもん……」

 けれどエルは、頭を振って、その思いを振り払った。

 

 



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彷徨う小さな手

 

 熊狩り後、ルドガーの家で調理したミラは、保温容器に移したスープを持って、ユリウスと共にディールへ戻った。

 「ミラ! ユリウス! 戻ってきたか!」

 宿屋に入ると、待ち構えていたらしいアルヴィンが二人を出迎えた。

 「アルヴィン。……エルの様子は、どう?」

 「……駄目だ。部屋に篭りっきり。レイアやエリーゼが声かけてっけど……」

 階段下から見上げれば、レイアとエリーゼが途方にくれて立っている様子が窺えた。

 「食事は……?」

 「……何も喰ってねえよ」

 「……そう。すぐ支度するわ」

 「ミラ……いいのか? もしかしたら、また……」

 ミラのスープがひっくりされたことを、アルヴィンも知っていた。それを心配して言葉を濁したのだが、ミラは動じずに頷く。

 「いいの、それでも」

 「……そっか。んじゃ、頼むわ」

 エルに拒絶されてショックを受けていたミラだったが、どうやら随分とタフになって戻ってきたようだ。

 何があったのかは知らないが、とても頼もしく思えて、アルヴィンはスープを温めなおしに調理場に行くミラを見送り――

 「……って、ユリウス、手に持ってるそれはなんだ? 兎……いや、熊か?」

 ユリウスが持つには不似合いな、熊だか兎だかのぬいぐるみを見て目を丸くした。

 「……良い子には、ご褒美が必要だろう?」

 「?」

 ぬいぐるみを軽く掲げて笑うユリウスに、アルヴィンは首を傾げる。そこへ、ユリウスたちが戻ったことを知ったエリーゼが降りてきた。

 「あ、ユリウスさん……! もしかして、それ……!」

 「バーニッシュだー!?」

 ティポがすっ飛んできて、ユリウスの周りをくるくる回った。

 「すごい、見つけられたんですか!?」

 ぬいぐるみを受け取ってあちこち見ても、それは間違いなく、バーニッシュだった。いつだったかのスピードクエストでつかまされた偽物ではない。

 「ああ。色々伝手を辿ってね」

 エリーゼに協力要請されたときから色々と手を回した結果が、ようやく出たのである。

 「流石、トップエージェントです……!」

 「これで、エルも元気が出るといいけどー」

 ティポの声に、盛り上がっていた空気が再び重くなる。

 ユリウスは、エルの部屋を見上げて訊ねた。

 「……部屋に鍵は?」

 「……かかってます……」

 「呼びかけに返事は?」

 「……ありません……」

 「――開けるか」

 考えた末、ユリウスは呟いた。

 エルは一日以上、部屋に篭っていることになる。

 一人になりたいというのも尊重してやりたいが、様子が見られないまま、というのはいただけなかった。

 「開けるって、鍵をか?」

 「ああ。マスターキーを借りてこよう」

 宿の主人に事情を説明して鍵を借りたユリウスは、ノックをしてから、しかし返事は待たずにドアを開けた。

 「エル、入るぞ」

 部屋はカーテンが締め切られ、明かりのひとつもついていない。

 その暗さゆえ、すぐには部屋内部を見渡せなかったが、廊下側の光も頼りに様子を窺い――そして、床に座り、ベッドに突っ伏したエルを見つけた。

 「…………エル? ……これは……」

 「ユリウス? どうだ?」

 ドア口からアルヴィンが訊ねてくる。

 ユリウスは、ぴくりとも動かないエルを抱え上げた。

 「アルヴィン、水とタオルの用意を頼む。熱が出ている」

 「! わかった!」

 弾かれたようにアルヴィンが走り出した。

 「エル……!」

 エルに駆け寄るエリーゼの顔は青白い。

 「……大丈夫、いろいろあって身体が参ったんだろう。休めば治る。エリーゼも疲れているだろう。少し、休んできなさい」

 エルをベッドに入れながら、ユリウスはエリーゼに言った。

 「でも……!」

 「後で、看病を代わってもらうこともあるだろう。それまでは、休んでなさい」

 「…………はい、わかりました」

 穏やかながらも、有無を言わせない口調で重ねて言われ――エリーゼは頷いた。

 

 ヴィクトルが死んだ。

 ヴィクトルは十年後のルドガーで、正史世界でエルと二人で生まれ変わるために、エルを正史世界に送り込んで――そして、エルが連れ帰ったユリウスに、貫かれて死んだ。

 ヴィクトルは、カナンの道標の、最後の一つだった。

 ヴィクトルが死ななければ、ユリウスたちは、正史世界へ帰れない。

 そもそも、カナンの道標を手に入れるためにやってきたのだし、道標を手に入れなければ、正史世界は滅亡する。

 ――それはしょうがないよ。

 しょうがない。分史世界は消滅するべきなのだ。

 そう思って――エルは、今まで分史世界の破壊を肯定してきた。

 そのしょうがない、の言葉が、今、エルには酷く痛かった。

 今まで、深く考えずに使ってきた、分史世界が消滅するのはしょうがない、の言葉。

 それに従えば、ヴィクトルが死んだのも、ユリウスがヴィクトルを貫いたのも――しょうがないのだ。

 だが、今――エルはどうしても、そんな言葉では納得できなかった。

 どうしてパパが死ななくちゃいけなかったのか。

 「どうして……っ……パパ……っ」

 出口の見えない、光も見えない暗闇の中、エルは必死に呼びかけ――手を、伸ばしていた。

 

 「……パパ……パパ……」

 熱で顔を真っ赤にしたエルが、ぽろぽろと涙を零しながら、手を彷徨わせている。

 「…………」

 辛い夢を見ているのだろう。

 本当に――クルスニク一族の呪いは、ろくでもない、とユリウスは歯軋りした。

 こんな小さな子に、こんな過酷な運命を突きつける。

 「……いや、俺が言えることではないな……」

 ユリウスは自嘲した。

 ユリウスとて、エルに過酷な運命を突きつけている一人なのだ。

 カナンの道標のためにヴィクトルの命を奪った。

 そして――エルに代償を押し付けて、骸殻変身をしている。

 出来る限り、必要最低限の変身にしてきたつもりだが、それでも――すでに、エルの身体にはタイムファクター化の兆候が現れている。

 その上、まだクロノスとの決戦も控えている。エルには、更なる負担が強いられるだろう。

 「パパ……パパぁ……」

 エルの手が、彷徨っている。

 昔――ルドガーもまた、熱を出したときに、手を求めていた。

 「…………」

 その手を取りかけてユリウスは、握ってもいいものかと、迷った。

 ユリウスの手は、ヴィクトルの命を奪った手だ。

 エルにとっては仇の手。

 ――その責めは負うと、ユリウスは決めていた。

 どんな怒りも、罵声も、受け止めよう。

 それだけが、エルに対して、してやれることだと思うから。

 「パパ……」

 「…………」

 エルは、嫌がるかもしれない。

 だがユリウスは、ぬくもりを求めているその手を、見過ごすことは出来なかった。

 「…………」

 エルの手を、そっと握り締める。

 「……パ、パ……?」

 力なく握り返してくる、小さな手。

 「…………」

 安心したのか、エルの呼吸も落ち着いてきた。

 そのことに、ユリウスは胸を撫で下ろし――そっと、囁くように、ハミングする。

 昔、ルドガーが熱を出したとき、このハミングを聞かせていた。

 ヴィクトルがルドガーならば……もしかしたら、エルにも聞かせていたかもしれない。

 このハミングが、せめてもの安らぎになれば――そう、願って。

 

 



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握り締めた大きな手

 

 カーテンの隙間から差し込む光が、エルの目覚めを促した。

 「――目が覚めたか」

 静かな声は枕元から聞こえてきて、エルはそちらを見た。

 「……王様……?」

 「体調はどうだ」

 「…………なんだか、頭が、ぼーっとする……」

 「ふむ……まだ熱があるようだな」

 ガイアスの手がエルの額に触れた。少し冷たい手が、気持ちよかった。

 「……もしかして、王様が、看病してくれてたの……?」

 「俺だけではない。皆で、交代でな」

 「……そっか……。……ありがとう、王様」

 「いや」

 短く応じたガイアスの手が、エルの視界に入る。

 「…………ねえ、王様。……手を握ってくれたの……王様?」

 誰かが手を握ってくれていたのを覚えている。

 大きくて、ちょっとごつごつした手。

 その感触が、まだ残っているように思えて、エルは自分の手を見下ろした。

 「……いや。俺ではない。だが、熱を出しているお前を見つけて、大半の看病をしていたのは――ユリウスだ」

 「! 眼鏡のおじさんが……?」

 「そうだ」

 「…………」

 ちょっと信じられなかったが、王様が嘘をつくとは思えなくて、エルは黙って俯いた。

 その沈黙を、ガイアスはどう受け取ったのか――静かに、問うた。

 「――奴が、憎いか?」

 「……え……?」

 「お前にとっては、親の仇だろう」

 「…………かたき……」

 確かにユリウスは、エルのパパを、ヴィクトルを――殺した、のだろう。

 だが――

 「……ねえ、王様。エルね、今まで、分史世界を壊すのはしょうがないって、思ってきたの」

 「しょうがない、か?」

 「うん。だって、分史世界って偽物……だし。壊さないと、本物の正史世界が、なくなっちゃうっていうから……本物と偽物だったら、偽物が消えるべきでしょ?」

 「……そうとも、言い切れぬがな」

 思っていた答えが返ってこなかったので、エルは首を傾げた。

 「……そうなの……? ……でもエル、難しいことわからないし……。……前ね、眼鏡のおじさんに、いわれたことがあるの。分史世界を壊す覚悟はあるかって。その時、やっぱりエル、しょうがないって、いったの」

 その時に向けられた目を、今も覚えている。

 冷たく強い瞳が、ふっと悲しそうに揺れたのを、覚えている。

 あの時はわからなかったが――今は、わかる。

 ユリウスは、きっとわかっていたのだ。

 エルの「しょうがない」の言葉が、エル自身に手酷く跳ね返ることを。

 「……だから、眼鏡のおじさんがパパを……エルの世界を壊したのは、しょうがないって……」

 「……しょうがない、で納得する必要は無い」

 「え……?」

 しょうがないと必死に自分に言い聞かせようとしていたのに、それを否定され、エルは戸惑ってガイアスを見上げた。

 ガイアスは、いつも通り、揺るがない視線でエルを見つめ返していた。

 「お前が今感じている悲しみも、怒りも、それは全て紛れもなく、本物だ」

 「……でも、エル、偽物だし……」

 「……分史世界は、可能性の世界だ。正史世界とは確かに違う世界だが、だからといって、そこに住む生命が偽物だということにはならん。皆、それぞれの世界で、精一杯、一度きりの生を生きている。それを偽物とはいわない」

 「……でも、そうしたら、エルは……」

 ガイアスの言葉を理解しようと努めながら、エルは、漠然と嫌な予感を抱きつつあった。

 偽物だからしょうがない。エルが壊しているのは、本物の命じゃない。

 その思い込みが――崩されつつあった。

 「――そう。俺たちは、代わり等無い、たった一つの命を、世界を、破壊してきたのだ」

 「っ」

 直視したくなかった事実を突きつけられて、エルは息を呑んだ。

 聞きたくない、と頭を振って耳を塞ぐ。

 だが、ガイアスはエルに逃げることを許さなかった。

 ガイアスの静かな声は、耳を塞ぐ手を滑りぬけてエルに届く。

 「お前には酷な話だろう。だが――人が生きている限り、そういった生存競争は、珍しいことではない。規模こそ違えど、かつてリーゼ・マクシアでは、俺とジュードたちが。ラ・シュガルとア・ジュールが。そしてシェルの無くなった今は、リーゼ・マクシアとエレンピオスで行われていることと同じだ」

 「…………」

 「勝ったほうも負けたほうも、どちらが本物でどちらが偽物であったわけではない。ただ、己の信念を奉じ、貫き――その結果、勝敗が出ただけだ」

 「……よく……わかんない……」

 耳を覆う手を下ろし、エルはぽつりと呟いた。

 「……そうだな。誰しも、迷う。己の正しいと思うことを信じ、その時その時の最善を選ぶしかない」

 「…………」

 「奴も……ユリウスも。譲れない願いのために、お前の世界を破壊したのだ。それに対して怒りを抱いたのなら、それをぶつけることを躊躇うことはない。お前の怒りから逃げるほど、奴は器の小さな男ではない」

 「……でも、エル……わかんない」

 エルは、ユリウスの手を握った、自分の手を見つめた。

 暖かくて――優しい手だったことを、覚えている。

 「……パパね、パパのお兄ちゃんのこと、大好きだったの。パパのお兄ちゃんのこと話すパパは、とっても楽しそうで……でも、悲しそうで……あんまりたくさんは聞けなかったんだけど、でも、覚えてるよ。パパは、パパのお兄ちゃんが大好きで、だから死んじゃったときは悲しくて辛くて、もし、エルがいなかったら、パパ……死んじゃってたかもしれないくらい……ええと……ぜつぼー? ……したって」

 「――そうか」

 「……眼鏡のおじさんは……パパが大好きな、パパのお兄ちゃん……なんだよね……」

 「――そうだ」

 「…………エルの手を握っててくれたのも眼鏡のおじさんで……子守唄を、歌ってくれたのも……」

 「子守唄、か……?」

 「……うん。エルのパパが歌ってくれてた子守唄……」

 湖の遺跡でユリウスが歌ったとき、パパのと同じ子守唄だ、と思った。

 パパの子守唄がとられた、と思ったものだが――けれど違うのだ。エルのパパが、ユリウスと同じ子守唄を歌っていたのだ。

 エルのパパが大好きだった子守唄を――ユリウスが、エルのために、歌ってくれていた。

 ユリウスはやはり、エルのパパが大好きだった、エルのパパのお兄ちゃん、なのだ。

 「会ってみたかったな」と言ったエルに、「きっと、エルのこと大好きになってくれたよ」とエルのパパが笑って言ってくれた――優しくて、ちょっと口うるさいという、エルのパパのお兄ちゃん。

 「……っ」

 パパのことを思い出して、また涙が出そうになってきて、エルが唇を噛んで堪えようとしたとき――こんこん、と控えめにノックの音が響いた。

 無言で立ち上がったガイアスが、ドアを開けにいく。

 「エルは……?」

 「今、目を覚ましたところだ」

 「エル……」

 ガイアスに促されて入ってきたのは、ミラだった。入れ替わるように、ガイアスが部屋を出て行く。

 「ミラ……」

 ミラに会うのは手酷く追い払ってしまって以来で、エルは気まずくなって目を逸らした。

 「……エル、……その、お腹、すいてない?」

 「…………」

 いつも強気なミラが、恐る恐る、といったように訊ねてくる。

 そんな風にさせたのは自分なのだと、エルは、ミラに八つ当たりしたことを後悔した。

 「……スープを作ってあるの。食べられそうなら……ちょっとでもいいから、食べてみない?」

 酷いことをいったのに、ミラはまた、こうして歩み寄りを見せてくれている。

 だからエルは、自分の気まずさなんかには蓋をすることにした。

 「……うん。……食べる」

 「! じゃあ、すぐに持ってくるわ」

 ぱっと、ミラが笑顔になって、エルも少しほっとした。

 早速ミラが作ったというスープが運び込まれ、湯気を立て、おいしそうな匂いのするスープを飲む前に――エルは、ミラを見上げた。

 「……ミラ……」

 「何?」

 「……ごめんなさい」

 「……いいの。……私も、エルが辛いときに鬱陶しくしちゃって、悪かったわ」

 「ミラは悪くないよ! ミラは、エルのことを心配してくれただけだし! あれは、エルが……」

 「……子供がそんな気を使わなくていいの。――さあ、食べなさい」

 ミラにスプーンを突きつけられて、エルはそれ以上の言葉を飲み込んだ。

 「…………頂きます……」

 一口、スープを飲む。

 「…………どう?」

 ミラが、固唾を呑んで感想を待っている。

 だからエルは、素直に答えた。

 「……うん。美味しい……すごく……美味しいよ、ミラ……」

 「……そう。ま、まあ、自信作なんだから、当然だけどね」

 ほっとしたように笑った後、ミラは少し得意げに胸を張った。

 「……うん。……ちょっと……パパの味に、似てる……」

 「! そ、それは……」

 ぽろりと落ちた、言わずにいおうと思った言葉に、ミラの表情が強張った。

 エルの手から、スプーンが落ちる。

 「…………っ」

 ぽつり、ぽつりと――スープに、エルの涙が落ちていく。

 声を殺して泣くエルの頭を、ミラが抱きこんだ。

 「エル……いいの、我慢しなくていいの」

 「……っう、あああああ! わああああっ」

 ミラの泣きそうな声に、誘われるようにして。

 エルの慟哭が、部屋に満ちた――

 

 



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エルの伯父さん

 

 エルの体調が回復するのを待って、一同はマクスバードへ向かった。

 五つの鍵を組み合わせてカナンの地を出現させたが、乗り込むにはまだ準備が整っていないということで、エルはリーゼ港ホテルで待機するよう言われた。

 言われるがままホテルに入ったエルを、エリーゼが訪ねた。

 「エル、エルにプレゼントがあるんですよ」

 「……プレゼント……何?」

 「はい」

 「バーニッシュだよー!」

 「あ……! 本当に……?」

 差し出されたぬいぐるみを見て、エルは思わず目を瞠り――手を伸ばす。

 「はい、本当に、本物のバーニッシュです」

 バーニッシュを抱きしめたエルを見て、エリーゼとティポは笑顔になった。

 「どうして……」

 「遅くなってごめんなさい。ちょっと、バーニッシュ、迷子になってたみたいです」

 「僕たち、あちこち移動してるからねー」

 「迷子になってたこの子を、ユリウスさんが連れてきてくれたんですよ」

 「……眼鏡の、おじさんが……」

 エルは、ヴィクトルが死んで以降、まだユリウスとまともに会話を出来ていなかった。

 話さなければ、とは思うのだが、何を言えばいいのかわからなくて、結局口を噤んでしまうのだ。

 ユリウスからの歩みよりも特別はなく――いや、一度だけ、初めて顔を合わせたときにあったのだが、その時はまだエルのほうが心の準備が出来ていなくて、逃げてしまった。それ以降ユリウスは、むしろエルに近寄らないようにしているようだった。

 「え、ええと、エル、喉かわきませんか? 何か、飲み物もって来ましょうか?」

 バーニッシュを抱えて黙り込んでしまったエルに、エリーゼが躊躇いがちに声をかけた。

 「……うん」

 「じゃあ、少し待っててくださいね」

 「……エリーゼ」

 立ち上がったエリーゼを、小さな声で呼び止める。

 「……その……バーニッシュ、ありがとう……」

 「どうしたしまして。エル、……ユリウスさんにも、お礼、言ってあげてくださいね?」

 「……うん……」

 頷いたエルを残して、エリーゼは部屋を出て行った。

 バーニッシュを抱いたまま、エルは考え込む。

 「……眼鏡のおじさん……」

 ちょっと怖いけど――でも、優しい、人。

 エルのパパの、お兄ちゃん。

 エルの、伯父さん。

 エルはGHSを取り出して画面を見つめた。

 今すぐ電話をして御礼を言うべきだろうか。

 今かけないと、またきっかけをつかめずに、ずるずると引き延ばしてしまいそうで――思い切ってかけようと手を伸ばしたその時、GHSのほうが先に鳴った。

 「っも、もしもし……?」

 眼鏡のおじさんかも、と思ってどきどきしたエルだったが、聞こえてきた声は聞き覚えのない男性の声だった。

 「クランスピア社の、分史対策室です。エル様に、ビズリー社長より内密の指令がおりました。お一人で、宿を出てきていただきたいのですが」

 「…………うん。わかった……」

 通話を切ったエルは、抱えていたバーニッシュをベッドの上に置くと、そっと部屋を出た。

 「エル、ナップルジュースを……エル?」

 エリーゼがジュースを持って戻ってきたときには、既にエルの姿は消えていた――

 

 エージェントに会ったところで意識が途切れたエル。次に気付いたときは、誰かの背に負ぶわれていた。

 「……う……」

 「エル、気がついたか」

 「……眼鏡の、おじさん……? エル、どうして……っ」

 ユリウスに背負われていると知ったエルは身じろいで――右半分に痛みを感じて呻いた。

 「……痛むのか……」

 「うん……少し……」

 「すまないが、今しばらく辛抱してもらうよ、お嬢さん」

 前を歩いていたビズリーが、エルを振り返ってそういった。

 「ビズリー……貴様!」

 ユリウスが苛立った声を出したが、ビズリーは唇をゆがめて笑った。

 「ふふふ。お前が私を責められるのか? お前とて、お嬢さんを利用しているだろう」

 「…………っ」

 ユリウスが悔しげに呻くのを聞いて、エルは少しだけ嬉しくなった。

 ユリウスは、エルを利用することを、すまないと思ってくれているのだと知れて。

 「……平気だし。エル……は……っ」

 「……無理はするな」

 痛みで言葉を止めたエルを、ユリウスが気遣う。

 エルは、ユリウスの広い背中に身体を預けた。

 「…………ねえ、眼鏡のおじさん」

 「……何だ」

 「……バーニッシュ、連れてきてくれて、ありがと……」

 「……ああ」

 少し前までなら、短いユリウスの言葉を、怒ってるとか不機嫌だとか思っただろう。

 だが、今のエルは――色々な思いを抱えているせいで、ユリウスは多くをいえないのだろうと、思えた。

 ユリウスは、パパの大好きなパパのお兄ちゃんなんだ、と思えば――それだけで、ユリウスの印象は変わる。

 ユリウスの背に揺られながら、エルは、思い切って聞いてみることにした。

 「……ねえ、眼鏡のおじさん……ルドガーは……偽物のエルのこと、どう、思うかな……?」

 「……あいつに、本物や偽物の区別は無いよ。分史のミラも、精霊のミラも、優劣など無い、等価の命だ。あいつは、目の前の人間を、そのまま受け止める」

 小さく笑った後、ユリウスは静かな……優しさを含んだ声で答えた。

 いつだったか聞いた、ルドガーへ向けられた、優しい声。

 あの時は気持ち悪い、なんていってしまったが――あれは嘘だ。

 ちょっとパパを思い出して……あんなことを言ってしまっただけ。

 「……エルのことも……?」

 「勿論だ」

 「……ルドガーは、エルのこと、嫌いじゃ、ない?」

 「嫌ってなんかないさ」

 保証されて、エルはほっとした。

 気を抜いたところで、また痛みがぶり返す。

 その痛みをなんとか噛み殺しながら、エルは、囁くように訊いた。

 「……じゃあ……眼鏡の、おじさんは……?」

 「!」

 ユリウスの歩みが、一瞬、止まった。だが、すぐに同じリズムで歩き出して――

 「…………嫌ってなど、いない」

 小さな、けれど確かな答えは、気を失う寸前のエルの耳に滑り込んだ。

 「エル……?」

 気遣うようなユリウスの呼びかけを最後に、エルの意識は落ちた。

 

 そして――

 

 全てが終わって、いくらか落ち着いたある日。

 エルたちは、お弁当を持ってピクニックに来ていた。

 「あ、トマト! 眼鏡のおじさん、あげる」

 エルは、サンドイッチに入っていたトマトを見つけると、隣に座っていたユリウスに差し出した。

 「ん、そうか? それじゃあ……」

 「ちょっとユリウス! そうやってエルを甘やかさないで!」

 トマトをつまんで口に運んだユリウスを見てミラが怒ったが、しかしユリウスは一向に悪びれない。

 「まあ、いいじゃないか。トマトだって、美味しく食べてもらったほうが嬉しいだろう」

 「そうだよ、ミラ。残すよりは、眼鏡のおじさんが食べてくれるほうがいいでしょ?」

 ユリウスとエルは、ねー、と共犯者の笑みを浮かべあう。

 トマトを食べたいユリウスと、トマトを食べたくないエル。二人の利害は完全に一致していた。

 「……だから、残さないでエルが食べなさいっていってるの。好き嫌いしてると、大きくなれないわよ」

 「なれるもん。エルが苦手なのはトマトだけだから、ええと、他の食材で、十分なえいよーそ、はとってるし」

 「……もう、ルドガー、貴方もなんとかいいなさいよ」

 口の達者なエルに、ミラがお手上げ、というように空を仰いでルドガーを引っ張り込んだ。

 「え、俺? ……でも、エルも、絶対食べられないってわけじゃないしな……トマト・ア・ラ・モードは好きだろ? ほら、これ」

 ルドガーが取り出したデザートに、エルは目を輝かせた。

 「あ、あの美味しかったやつだ! え? 嘘だー、これがトマトだなんて、エル、信じないし!」

 それは、エルが美味しいと思ったデザートだ。トマトが美味しいはずがないので、これはトマトではない、とエルは主張する。

 「残念でした。これはトマトよ」

 「うーそー」

 「嘘じゃないわよ。ねえ、ユリウス?」

 「ああ。だから、エルの分は俺がもらおう」

 「! え、じゃあ、本当にトマトなんだ!?」

 エルのトマトは俺のもの、なユリウスが手を差し出したことで、エルはようやくそれをトマトと信じた。

 「……判断基準はそこなのか……」

 ユリウスが食べたがるからトマトだと納得したエルに、ルドガーは苦笑するしかない。

 「だからそういってるじゃない。でも、エルはトマトは食べないのよねー?」

 「う~、そ、それだけは別!」

 「おいおい、それは契約違反じゃないか? エル」

 「れ、例外! それはエルが食べるのー!」

 「まったく、この二人は……」

 トマト同盟に亀裂が入ってデザートを奪い合う二人を、ミラが呆れて眺める。

 「…………」

 そんな三人を眺めながらルドガーは、さて、いつトマトシュークリームを出してユリウスを止めようかと考えて――まだ少し放っておくことに決めると、微笑みながら、膝で丸くなっているルルを優しく撫でた。

 

 End



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