ゴーストワールド (まや子)
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1. ドリームオークション(1)

好きなものを全部一緒くたに楽しもうという主に作者自身のための試みです。
美術・骨董、『可愛いイレーヌ』、『HUNTER×HUNTER』、『クローディアの秘密』、そしてこれらと出会った少女時代のよき思い出に。


 1995年9月2日、ヨークシンシティ。

 わたしはタクシーを探して人込みを押し分けつつ駅に近づいた。世界最大の大競り市ヨークシンドリームオークションが開催される月初めからの10日間にわたって、ヴィクトリア駅前広場は様々な露店の並ぶ市場になる。値札競売市の一番大きな会場の最寄り駅だからだ。連なるテントの数々、飾り帯や幟のゆれる露店、アイスクリームや果実の濃く甘い匂いに満たされ、紙吹雪が散って歓声があふれる。大道芸、音楽、籤売りの声。広場や道を行き交う人々の波濤。

(前が……よく見えない……)

 こんなざわめきにはまったく慣れていなかった。うんざりしながら人の流れに任せて広場を抜け、大通りへ出た。そこでやっとタクシーを拾って乗り込み、ほっと息をついた。

「ホーガンズのオークションハウスへ行って」

 

 ホーガンズにはヴェルサーチ――じゃなくて、シャルルサーチの服を着てまばゆいダイヤモンドのネックレスをしたブロンドの受付係がいて、彼女に名を名乗った。すらっとした体の、モデルのような美女。天は二物も三物も……、とついひがんでしまうわたしを世の9割の人間は責めないと思う。彼女はたぐいまれな美貌のほかに、名門の家柄と相当の財産をも持っているのだから。

 彼女に限らず上流階級のご令嬢たちは誰もがヨークシンのオークションハウスで働きたがっている。ここで働いていることそのものがステータスだから。美術品のことなんて何も知らなくたって構わない、ただそこにいるだけで十分の若い女性たち。

 わたしのやや不躾な視線に美女は小首を傾げた。

「何か?」

「いえ、なんでも……」

 はにかんで微笑むと美女もにっこり微笑み返してくれた。

 わたしだって捨てたものじゃない。父譲りの上品な顔立ちと、母譲りのふわふわの赤褐色の髪と青灰色の目。まだ9歳だから将来はわからないと留保しつつ、思いきっていうけれど、わたしは美少女だった。わたしだけがそう言うんじゃない。ご近所や親せきのおばさまたちはわたしを見て、なんて可愛らしいの、と言うし、おじさまたちは、将来はすごい美人になるぞ、と言ってくれる。前世ではせいぜい、いい子ね、としか言われなかったのに。

 

 83番の札をもらってオークションルームに入り、オークションがはじまるまでの時間を、カタログを眺めてつぶす。先日のレセプションではそれぞれの美術品の最終落札者(ファイナリスト)候補の間を泳いで、あの手この手で探りを入れながら一夕を過ごした。その結果、ありがたいことに競り負けることはなさそうだとわかって安心していた。

 今年のドリームオークションには世紀の名画といわれる作品が出品されるという話題で何カ月ももちきりだった。その名画はミラーの『藁を集める少女』。この絵はその美しさと数奇な来歴で美術界のみならず一般にも広く知られるようになっていた。今年のドリームオークションの目玉として、わたしも何度もテレビや雑誌で特集を組まれているのを見た。入札する気なんてなかったけれど――だってそれ以上に落札できるお金がないから――記念に入札してみるのも馬鹿らしいし――、父について下見会にも行ったから直接目にする機会があった。彼女に初めて対面した時の感動はうまく言葉にできない。粗末な身なりが示す生活の苦しさ。対照的に愛らしい顔に浮かぶ清らかさと信仰。その姿に心が震えるような崇高さを感じた。

 絵の競売権はサザンピースが獲得した。あの素朴な少女が競売にかけられるのが今日。ということは、世界中の美術館の館長、キュレーター、富裕な個人収集家はサザンピースに集まっていて、ホーガンズには強力な競争相手となる者はほぼいないということになる。幸運に感謝だ。

 

 正午ちょうどにはじまったオークションは半ば予想されていた通りに展開していた。オークションルームは満員にはならず、席を埋める面々もみんなどこかそわそわした表情をしていた。競りは過熱せず、実際の競り落とし金額も見積もり額になんとか届くあたりで推移している。たまに跳ね上がったと思っても、せいぜい見積もり額の20から25パーセント増くらいの額に落ち着く。ミラーの少女と同日同時間帯にやるオークションはまあこうなるわよね、むしろこれなら上出来なほうよ、などとわたしはホーガンズに気楽な同情を寄せて見ていた。

 そしてついにわたしのお目当ての作品の番になった。

「ロット番号112番は12世紀後期の馬と戦士のヴール塑像です。入札は200万ジェニーから開始し、10万ジェニー刻みで値を競り上げていきます。それでは競りをはじめます」

 オークショニアは静かに宣言した。すぐさま何枚か札が掲げられるけれど、2分もすると中年の夫婦と代理人っぽい男だけが残った。しばらく二者が競り合うに任せ、割って入るタイミングをうかがった。早すぎてはいけない、値段が高騰してしまうから。価格は320万ジェニーにまで上がっていた。

 像は良い出来で、破損は少なくほぼ完全な形をしていた。なんでもパドキア国立美術館の『新規購入のための売却(ディアセッショニング)』で放出されたものをディーラーが買い取って持ち込んだものらしい。

 パドキア国立美術館のオールドマスターズのコレクションはなかなかのものだけれど、ヨルビアン大陸のほどではない。彼らが持つほんとうの至宝とはヴール山脈やデントラ地方に住んでいた民族の美術品と工芸品だというのがわたしの意見だ。特にヴール山脈で見つかった墳墓は凍結により中身が完全な形で保存されていた。この彫刻はそうした墳墓のひとつから発見されたものということだった。そうしたもののなかには紀元前のものすらある。でも残念、これは12世紀のものらしかった。

 わたしは頭の中のそろばんを素早くはじいていた。ヴール美術は市場でそんなに人気がない。遺憾ながら、プリミティヴな美術ってそういうことが多い。美術館よりも博物館に似つかわしいと思う人がたくさんいるのだ。売るときには最高でも5割増し、場合によっては3割増しの値段しかつかないだろう。これが400万で落ちたとしたら、ホーガンズが20パーセントの手数料をつけ、それにディーラーの50パーセントの利幅と税金が上乗せされる。とすると実際に払うのは700万ジェニーくらい。ならばそろそろ上限だろう、と見た。もう十分値段は上がった。これ以上は高すぎる。

 このくらいの計算は誰にでもできるから、案の定値段はそこで上げ止まった。二者とも獲得にそこまで熱意があるわけではないらしい。

 中年夫婦の320万ジェニーに対抗して、わたしは悠然と札を上げた。

 オークショニアはわたしを見て不安そうな顔をした。わたしが子どもだから、ちゃんとわかって入札したのかどうなのか疑っているのだろう。

「……83番のお嬢様に330万ジェニー」

 そして彼は救いを求めるように中年夫婦に視線を向けた。夫婦は札を逆さまにして首を振った。

「最終です。ロット番号112、12世紀後期の馬と戦士のヴール塑像に330万ジェニーがつきました。ほかに入札する方は?」

 オークショニアの目が最後にもう一度中年夫婦と代理人の男に向けられた。反応なし。

「終了です。札番号83番の方に」

 帳簿にわたしの番号を書きとめたオークショニアに、わたしは番号札を揺らしてにっこり微笑んだ。もちろんわたしは自分のしていることをしっかりわかっているし、支払能力もちゃんとある。

 

 翌日、わたしは昨日よりもずっとラフな格好で、さっそく手に入れた彫刻を抱えて値札競売市に出かけた。そして掘り出し物はないか店先の品々を物色しながらぶらぶら歩いた。ドリームオークションの値札競売市も週末のガレージセールと似たようなもので、並ぶ品々の大半がガラクタだけれど、たまに本物の骨董品がある。野の山に入って美しい花を探したり、たくさんの砂粒の中から砂金を見つけだしたりするのと一緒。大変だけれど、それを見つけたときの喜びは大きい。宝探しゲームみたいな気分でついつい熱中してしまう。

 寒い日で、空は銀色をしていた。南半球にあるヨークシンは初春のころ。はじめ原作を読んだときはそうとは考えもしなくて、幻影旅団の団長が出てくるたびに、真夏にファーコートはないんじゃないの、と思っていたけれど、今になればおかしかったのはタンクトップを着ていたキルアだったとわかる。まあキルアを前にそんなことに突っ込むのは、ちょっと突っ込みどころを間違えている感じだけれど。

 

 気ままに歩き回り、疲れてきたところであったかいカフェラテを買って公園のベンチに座った。

 わたしは像を膝に乗せ、あらためてまじまじと眺めた。馬とその馬にかけられた馬勒と轡をもつ男の姿がかたどられている。荒削りだった。でも空港で売っているようなわざとらしい感じはまったくない。どこかしら気品があった。

 

「嬢ちゃん」

 わたしははっとして顔を上げた。すぐそばから若い男の声がした。

 顔を向けると、筆で描いたような眉毛が特徴的な男がわたしを見下ろしていた。

「嬢ちゃん、ひとりか? パパとママは?」

 男はいかにも怪しげな風体だった。よれたシャツにぞんざいな口調。街のチンピラといった感じ。

 わたしは像を胸元にぎゅっと引き寄せて、目を合わせないように顔をそむけた。

「お、おい。いや……オレはゼパイルっていうんだ。怪しい者じゃねえ。ちょっとその像を見せてほしいんだよ」

 わたしは彼のほうへ顔を戻した。彼の大きくて迫力のある三白眼をみつめる。

 ゼパイル。

 わたしはとなりの空いたところを示した。

「座ったら?」

 

 ゼパイルはわたしの横で落ちつかなげに足を揺すった。

「それで像なんだが……」

「やめて」

「あ?」

「足を揺するの」

「ああ……」

 像を渡すと、ゼパイルは食い入るような目つきで像を調べだした。指で輪郭をなぞったり、光に透かしてみたり、コンコンと叩いて音や感触を確かめてみたりしている彼を放っといて、わたしは温くなってしまったカフェラテをちびちび飲んだ。

 一通り確認し終わって、ゼパイルはわたしに向きなおった。像を渡しながら言う。

「思ったよりいいものじゃなかったな。お前のか?」

「やっぱり? そうよ。わたしのお小遣いで買ったの」

「へー。まあ大した価値はねェが、インテリアとしてなら、うーん、アリかもな」

「インテリアねえ。わたしの家には合わなそうだわ」

「ふーん。なら、オレにその像を売らねーか?」

 わたしの肋骨の内側で心臓が跳ねた。

「え?」

「いや、オレそういう像をちょうど探してたんだよ。イメージ通りなんだ。その像ならオレの部屋にピッタリ合うと思ってさ」

「……悪いけど……」

 わたしは警戒もあらわに体をずらして距離を取った。

「ダメか?」

「うん……わたしもう行くね」

「待ってくれ!」

 腰を浮かせたわたしの腕をゼパイルの大きな手がつかんで強く引いた。彼はわたしが大声を出す前にはっとした様子でその手を放した。そしてもごもごと謝罪の言葉をつぶやいてから、今度は嘆願を始めた。

「その像を売ってほしいんだ!」

「無理よ」

「この通り! 頼む!」

 ゼパイルはバッと頭を下げた。

 わたしは困惑して眉を寄せた。

(この人、こんなに交渉が下手だった? 原作ではもっと……)

 こんなに一生懸命お願いするなんて、足元を見てくださいと言っているようなものだ。原作登場時より5歳も若いせいだろうか? それともわたしが舐められているのだろうか? ゼパイルを見ていると、自分がしようとしていることに急に自信がなくなってきた。

「……ねえ、さっき言った理由、嘘よね。どうしてこれがそんなに欲しいの?」

 わたしは手元の像をぺちぺちと叩いた。

「それは……」

 彼の迷いが目に見えるようだった。贋作だからと言えば、なぜそんなものを欲しがるのかと訝しがられる。ほんとうは本物なのに、騙し取ろうとしてそう言っていると疑われる。価値あるものだからと言えば、わたしが手放さない。何と言って説明しようか困っている。というより、どう上手いことを言って目の前のガキから像を取り上げようかをまだ考えているのかもしれない。

 やがてゼパイルは言いづらそうに口を開いた。

「……実は、その像、贋作なんだよ。贋作ってわかるか? 偽物って意味だ。オレが作ったもんなんだよ。その時代の材料を使って古色をつけてそれっぽく見えるようにしてるが、実際のところ価値なんてねェんだ。信じられねーならちゃんと鑑定してもらってから決めていい」

 彼は再び頭を下げた。

「だから頼むよ。お前みてえなガキを騙したくねェし、そんなもんを出回らせときたくねェんだ!」

(……さっきわたしを騙そうとしたわよね、こいつ。なんか、オレの部屋に合うとか言って……)

 わたしはしばらく冷めた目でゼパイルを見ていたけれど、女の子に必死に頭を下げてお願いする男という図に周囲の人々の好奇の視線が集まりだしたのを感じて言った。

「やめて。頭を上げて」

 そう言って、わたしは彼の伏せられた目が上がったのを見た。鋭くて、理知的な目。

(あ、これ茶番だったんだ)

 この業界の人間なら、ゼパイルの言い分は通じない。誰も信じない。でも一般人ならどうだろう。それも子どもなら。ごく普通の人は美術品の鑑定なんてできない。本物と言われても確信なんか持てないし、偽物と言われたら疑念は大きくなる。鑑定できないということは価値がわからないということ。彼の話を信じないまでも、提示してくる金額次第では譲ってもいいと考えるかもしれない。それにさっきゼパイルは気軽に鑑定家に見せてからでもいいと言ったけれど、鑑定料だって馬鹿にならないし、ガラクタ市とも言われるこの値札競売市で手に入れたものをわざわざ鑑定家に見せるやつなんていないに等しい。そもそもゼパイルは鑑定家に見せようが見せまいがどうでもいいのだ。どちらにせよ彼は贋作としての値段で買うだけだ。

(とんでもないわよね! わたしはブライスの『美術史入門』、それも1902年の本人の手書き献辞入り初版本!も、緑茶を飲むための1880年代ジャポンの野葡萄柄湯呑も、自室に貼りかえるつもりだった藤と白い蝶のアンティークの壁紙も、このために全部涙をのんで諦めたっていうのに!)

 そして彼はわたしがさっさと折れるように公衆の面前で大げさに頭を下げたのだろう。

(やっぱりこの人、それなりに頭が回るんだ)

 わたしはおもしろいような、おもしろくないような気分で言った。

「買うって、ほんとうに?」

「ああ」

 ふうん、とわたしは首をかしげた。

「払えるの? 700万ジェニーなんだけど」

 ゼパイルの目が点になった。

「……は?」

 彼は半笑いを口元に浮かべて、馬鹿馬鹿しい、と首を振った。

「おいおい、ふっかけてきたな。これにそんな価値あるわけねえだろ? 贋作なんだからよ」

「せいぜい数千ジェニー。それですむ。そう思ってた?」

 わたしはつめたく微笑んだ。

「この塑像、わたしが昨日ホーガンズで手に入れたの。端数はまけてあげる。700万ジェニーよ」

 ゼパイルの顔からどんどん血の気がなくなっていって、青白く見えた。

「嘘だろ……」

「払えないなら、警察へ行くわ」

「はあ!?」

 わたしは、当然でしょ、と肩をすくめた。

「ディーラーとつるんで贋作をつくり、それを売った。そういうことよね。きっとあなたは話に乗っただけだろうけど」

 ゼパイルは無言で、少しも動けないでいた。体は強張って、かすかに震えていた。

 少しこけた頬、くたびれたシャツとズボン、ジャケットひとつも羽織っていない寒そうな装い――あるいは装いの欠如。彼の格好はどう見てもお金がありそうではなかった。ディーラーに搾取されていたのだろうと思う。

「否定したって信じないし、これ一回きりだって言われても信じない。

 この像ね、パドキア国立美術館のディアセッショニングで放出されたものよ。つまり、何年も前にあなたはこれを作り、美術館の汚職キュレーターに見せ、買い取らせた。検査があっても結果を捏造した。ばれないうちに放出され、昨日、ホーガンズでオークションにかけられたのよ。少なくとも共犯は2人。ディーラーとキュレーターね。あなたはたぶん、こういう流れには関わってないんでしょう。でもあなたがしたことは美術品詐欺よ。まあ刑務所に2、3年ってところかしら」

 彼はやっと事態が呑みこめたらしい。見開かれていた目が細くなって、鋭くわたしを睨みつけた。わたしは少しもたじろがなかった。そういった目つきには見覚えがあった。それどころか、前世を含めて何度も見て、見慣れてさえいた。困惑と怒りが入り混じった、弱い人間だけが持っているあの独特な目の光。

「……何が言いたいんだ?」

「簡単な話よ。あなたは、美術品詐欺で逮捕されてこの業界での信用をすべて失うか、わたしの頼みごとを聞いてその報酬とこの像を得るか、どちらかを選べるの」

 彼は長いことわたしを睨みつけたまま黙っていた。

 待ちくたびれたわたしはスプリングコートのポケットから携帯電話を取り出して911をプッシュした。スピーカーから緊急通報の情報センターの応答が聞こえてくる。ゼパイルにはそれで十分だった。

 ゼパイルはわたしを睨みつけたまま吐き捨てた。

「くそったれ」



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2. ドリームオークション(2)

リムジンを降りて、冷たい春雨の中でわたしは震えていた。グレーのユニフォームに真っ白な手袋をしたお抱え運転手(ショーファー)が傘をさしかけてポーチとの短い隙間を埋めてくれたけれど、寒さはしんしんとわたしの肌ににじんだ。すでに約束の時間の12時を10分以上回っていた。

「ありがとう」

 あなたもランチにして、と運転手に1万ジェニーをそっと握らせ、わたしは『トレメイン』に入った。

 

 トレメインはビストロ風の料理を出してくれる、若いアッパークラスの芸術家や俳優などトレンディーな人々が多く出入りするレストランとして知られていた。控え目な照明とシックなインテリアが床の鮮やかなテラコッタとグリーンのタイル装飾を引きたてていて、その趣味の良さにわたしは毎度のごとく感心させられた。

 わたしの顔を見るとすぐにウェイターが近づいてきて、どうぞこちらです、と最奥近くの落ち着いたテーブルに案内してくれた。そのテーブルにはわたしの連れがすでに座って待っていた。

 

「この店は好みじゃなかった?」

「べつに」

「どのワインを飲んでるの?」

「ソムリエに聞けよ」

 あなたがワインリストから選んだんでしょ、と指摘することはやめておいた。替わりにわたしはフォークでサラダをかき混ぜて気分を紛らわせようとした。

 テーブルを包んでいるのは外気にも負けない冷え冷えと強張った空気だった。ゼパイルの顔つきや視線、気づまりで不自然な会話、緊張と怒りの気配などからすると、許しとか恭順とかいう考えは、彼の胸に熱く燃える考えではないらしい。

 昨日の今日だから仕方がないと思いつつも、怒るのをやめてくれないかな、とわたしはため息をついた。なんだか面倒くさかった。ゼパイルが怒りや不満や不安を抱いていることくらいわかっている。でも、そんなことでこちらの態度を変えるくらいなら、初めからあんなやり方は選ばなかった。

 ゼパイルはわたしのため息を当てつけだと感じたのか、眉を寄せて睨んできた。わたしはもうこれ以上彼の不機嫌に取り合う気はなかった。

「あなたは、今の生活に満足してるの?」

「お前に関係ねェだろ」

「そうなの。あなたの問題よ、よーく考えてね。わたしは仕事と報酬を提示しようとしてる。うまくいけば、あなたはひと財産を得て仕事を終えることができるわ。自棄になっていい加減なことをしないほうがいいと思うけど」

 ゼパイルは落ちつかなげに身じろぎをしたものの、すぐに無関心な態度となって肩をすくめた。

「オレに選択権はねェよ」

 

 会話のないまま食事は進んでいた。ウェイターたちも気を遣ってかあまり近寄らない。沈黙の時間が過ぎ、とうとうゼパイルは口を開いた。

「……仕事って何すればいいんだ?」

 フォークとナイフで鴨のグリルをつつきながらの、よそよそしい調子の質問だった。

 わたしは無視して質問した。

「家族はいるの?」

 少し待ってからまた訊いた。

「友だちや恋人は?」

 ゼパイルも無視で返した。

「あら、そう。まともな関係がないのね。それか、あなたにまともに人の話に傾ける耳がないんだわ」

 ゼパイルは懸命に平静を保とうとしているようだった。

「そうじゃなきゃ、あんなつまらない詐欺に手を出したりはしないわよね」

「お前はどうなんだ?」

 思いがけず鋭い声だった。

「何が?」

「なんでお前みたいなガキが学校も行かず大人を脅してんだよ? パパとママはどうした?」

 少し考えて口を開いた。

「一言で答えられると思うわ。わたし、自立しようと思ってるの」

 それをゼパイルは鼻で笑い飛ばした。

「これが?」

 わたしは皮肉たっぷりに微笑んだ。

「あら、何かやり方を間違ってた?」

 

 わたしは黄金色のバターが泡を立てる鱒のムニエルにフォークを入れながら切り出した。

「やってほしいことがあるの」

 わたしが仕事を説明するのをゼパイルは苦々しい顔で聞いていた。まだまだ計画の初段階だから不確定の部分が大きすぎてはっきりとはしゃべれなくて、それでそういった表情をしているのだと思っていた。そうしたら話を聞き終わった彼はこう言った。

「狂ってる。お前、頭がおかしいぜ」

「忌憚のない意見をどうもありがとう」

「絶対にうまくいかねーよ、そんなの」

「どうかしらね」

 その可能性のためにあんたがいるのよ、とは言わなかった。ゼパイルには矢面に立ってもらってわたしを危険から隠す役割をも期待している。でもこの男が原作のヨークシン編である2000年までは元気いっぱいなのは確定しているのだから、きっとわたしの計画はうまくいき、この男も死ぬような目には合わないと思う。そう考えれば自信が湧いてくるし、断然罪悪感も消えていった。

 

「あ、そうそう。忘れるところだった」

 わたしはトートバッグから封筒を取り出してゼパイルに渡した。

「何だ?」

「開けてみて。確かめて」

 ゼパイルは封筒を開け、折りたたまれた紙片を何枚か取り出した。さっと彼の視線が紙の上を動いたけれど、いくらも読み進めないうちに鼻にしわが寄ったのを見て、これは助けが必要かなと悟った。

「手元に書類は3枚あるわね? 最初のものは銀行の貸金庫の契約書のコピーよ。ウルズブラザーズ銀行の本店が発行してるの。今はその細かい文字は読まなくても結構よ。

 次はわたしが預けたものの確認書。――わかった? あの像よ。わたしはどんなものでも美術品というものを金庫の中に隠しておくのには断固として反対だけれど、この場合は仕方ないわよね。だけどまさか、わたしが、冬ごもりを始める前のクマがせっせと寝床に食べ物を集めておくみたいなことをするとはね。絵は飾ってこそだし、花器は花を生けてこそだと思うのよ。まあ、愛でかたなんて人それぞれだとは思うけど……。べつにわたしは愛でるために貸し金庫に入れておくわけじゃないんだから、これは勘定に入れなくていいのかしら――ごめんなさい、話がそれたわ。

 3番目の書類、それは同意書よ。要約するとね、以後その貸金庫は、わたしとあなたが一緒でないと開けてもらえないのよ。どちらかひとりだけではだめなの。これを聞いて少しは安心した? わたしにはあなたが生きていなければあの像に価値なんかないし、あなたはわたしがあなたの知らないところであの像を売ったり隠したりされる心配がなくなる。そうそう、わたしが死んだら金庫はあなた一人でも開けられるようになるわ。でもだからって早まらないでね。殺された場合、あるいは疑いが残る死の場合、その権利はうちの顧問弁護士のものになるから」

 このように若干ゼパイルに不利な内容となっているけれど、まだフェアのうちだろう。フェアが今さら何なのか、というもっともな疑問はあるけれど、それでも多少は相手を尊重しなければ何もうまくいきっこない。二度目の人生でだって人間関係には苦労するのだ。

 ゼパイルには、このことを頭に入れて一度すみずみまで読んでおきなさいよ、とすごくためになるアドヴァイスをしてあげて、わたしはトートバッグにふたたび手を突っ込んだ。

 

 引っ張り出したのは今朝の『ヨークシンデイリーガゼット』。ショーファーが読んでいたのをもらったのだ。

 わたしはうきうきしながら一面に目を落とした。昨日の『藁を集める少女』がどうなったのか知りたかった。落札金額はいくらか? 誰が落札したのか? 正確に言えば少しは知っていた。今朝歯みがきをしながらテレビで見たから。でもテレビなんかに詳しい情報を期待するのは間違いだ。

(3分で何がわかるというの?)

 しかし、わたしの期待に反して、新聞にもとくに目新しい情報はなかった。午後3時からサザンピースで始まったオークションではオークションルームから報道陣は締め出され、午後7時を回ってやっと公式のインタヴューができたらしい。記事は、サザンピースの会長が慇懃に全世界が注目しているすばらしい絵を扱えたことを光栄に思っていると述べ、オークション担当部長が自分のキャリアの中で最高の経験だったと控え目に微笑み、オークション参加者は興奮して『少女』の美しさをほめちぎっていたことを伝えていた。

 落札金額は253億ジェニー。サザンピースの会長は内心狂喜乱舞だろうし、ライバルの競売会社は歯ぎしりして悔しがっているだろう。グリードアイランドのせいでこの馬鹿げた金額が霞んじゃいそうになるけれど。

 わたしにはインフレがすごい、としか言えない。狂気の沙汰だと思う。前世では、かつてはどんなにすばらしい美術品でも10万ドル止まりだった時代があった。メトロポリタン美術館が破るまでは、100万ドル以上の価格で購入しないことを定めた館長同士の紳士協定が実効性を持っていた時代もあった。それが胡散霧消してからも、一枚の絵にこれだけの値がついたことはなかった。

 落札者についてはまだ特定されていなかった。でもそれは時間の問題だといえた。2、3日もすれば絶対にどこからか漏れてくる。だいたい、落札金額でいくらか想像はできる。だって253億ジェニーだ、ただの個人蒐集家が出せる金額じゃない。バッテラのように桁違いの大富豪か、ごく一部のハンターか、まあ2、3人くらい。一番ありそうなのは、一流とされる美術館のいずれか――それも国会で絵を買うための特別の予算が可決された3つの国のいずれかだ。やっぱり国のお金が動くとなると強い。

 記事は最後に、高すぎる落札金額について得意げに批判をかまして終わっていた。国民の税金の一部を費やすだけの価値が、国家的な美術館の財政を傾けかねないほどの購入代金の価値が、その絵一枚にあったのか疑問の声が出ている、となんとも恣意的な書き方をしている。この部分を見れば、国会で絵を買うための特別の予算が可決された3つの国のひとつがこの国だということは明らかだった。でもほんとうにそんな声を聞いたのか、だとすれば誰の声なのか、記事は絶対に明らかにはしない。

 第一、そんなことを心配するのは早すぎると思った。誰が落としたのかすらまだわかってないのに。早すぎるだけじゃなくて自信過剰だ。落としたのはこの国の美術館だと半ば確信しているんじゃないだろうか。ちょっと慎みに欠ける態度。国民性。みなさんおなじみの。

 でもたとえ落札出来ていたとしても、絵には国境の問題がある。絵はフランシュ人のものだった。フランシュ人以外の者が落札していたとしたら、フランシュ政府は国家的宝の流出の危機として面子にかけても待ったをかけるのではないだろうか? それを思えば、『少女』がすでに現実の国境を越えてこの地にあるのは落札者にとって幸いだっただろう。

 

 わたしは落札者の推測を諦めて新聞を閉じた。顔を上げると、ゼパイルはとっくに書類を封筒にしまってわたしをじろじろ見ていた。

 わたしは挑戦的に眉をつり上げ、一度閉じた新聞をまた開いた。そして目についた記事を見るとはなしに見る。

 ゼパイルはため息をついた。

「何苛ついてんだ?」

「好きなだけわたしを見ていていいのよ」

「……何かおもしろいことでも書いてあんのか?」

 わたしは新聞紙をバサバサいわせた。ゼパイルは眉をしかめた。

 こういう態度はよくない。これがわたしの悪いところだとはわかっている。でも折れようと決めるまでにいくらか時間がかかった。

「……おもしろい記事ね。そうね、あったわ」

 紙面の端っこの中くらいの大きさの記事を示す。

 ヨークシン市警は8日、空を飛べる方法を教えると嘘をつき、信者から約2300万ジェニーをだまし取ったとして、詐欺容疑で宗教法人白き翼の教祖ネル容疑者(67)を逮捕した。逮捕容疑は詐欺で、1994年7月~1997年6月、法人が空を飛べる方法を教える、と市内に住む男性信者(35)をだまし、計12回にわたり約2300万ジェニーをネル容疑者の銀行口座に振り込ませたとしている。今年5月に被害者が告訴した。同署によるとネル容疑者は容疑を否認している。また、別の男性信者もネル容疑者から960万ジェニーをだまし取られたと告訴しており、同署が調べている。とかなんとか。

「なんだこりゃ? 空飛んでどうすんだ?」

「さあねえ。1000万2000万払ってまでやりたいことだったのかしらねぇ」

「ふん、野球を俯瞰で観戦したかったとか?」

「タダで、より望ましいアングルからってこと? それに野球観戦だなんていかにも男の人の考えそうなことね」

「じゃあ女は何を考えるんだ?」

「そうね、靴を擦り減らさず街を歩けると思うわね。それから体重を測るときちょっと浮いていられるわ」

「馬鹿らしい」

「お互いさまでしょ」

 まあこんなところだ。ゼパイルにはまだわからないだろうけれど、もし念能力者ならもっと違う考えかたをする。

 

 話が終わったかに思えた沈黙のあとで、ゼパイルはぶっきらぼうに尋ねた。

「なんでオレだったんだ?」

「なんでって……」

 わたしは食後の紅茶が入ったカップをソーサーに戻した。

 理由はいくつかある。わたしに贋作師の知り合いはいなかったから。犯罪に関わっていた人間なら抵抗感も薄いだろうと思ったから。そういう人間なら犯罪に巻き込んでも大して良心が痛まないから――いくらわたしでも罪のない人間を脅して悦に入るほど悪党ではない。それに、原作を見て一方的に彼を知っていたから。そう、いろいろあるけれど、まとめれば、

「ちょうど、都合がよかったからよ」

 犯罪の片棒を担ぐ相手として目をつけられた理由なんてこんなものだろう。でもわたしは気を遣ってもう少し付け足した。

「それに、あなたには才能がある。あと必要なのは運くらいね」

 それからこれはついでだけれど、ゼパイルにあってわたしにないものって何なのか、知りたいと思った。念もろくに使えないその日暮らしのちんけな贋作師と、前世の記憶があって原作情報持っている特別なはずのわたし。でも原作で活躍するという『特別』をあたえられたのはこの男だった。

 なぜ、と思う。じゃあなぜわたしはこの記憶や情報を持って生まれてきたのか? 何かやるべきことがあるのではないか? わたしにも『特別』になれるチャンスがあるのではないか? こうした思いは、考えまいとしていても、ふとしたときに頭をかすめた。そしてわたしの背を押し、とうとうわたしに踏み切らせてしまったのではないかという気がした。

 

 食後の紅茶を飲みながらゼパイルが手洗いに立つ機会を待っていたけれど、空気が読めないゼパイルは座ったままで、とうとう勘定書(ビル)がゼパイルの横につけられたのをわたしは気まずい思いで見ていた。だって、彼に払えっこない。

「今日のランチは仕事の話をするためだったから、経費で落とすわ。勘定書をこちらに回して」

 そうしてウェイターを呼んで勘定をして、冷めた紅茶を飲みほしていたとき、ゼパイルがため息とともに呟いた。

「……この店には、オレが自分で来ようと思ってたんだ」

 ゼパイルが来たいだろうと思って選んだのだけれど、余計なことをしてしまったらしい。わたしは慰めるように言った。

「次はそうなるわよ、きれいな女の人を連れてね」

「リムジンに乗って?」

「あなたがそうしたいなら」

「ごめんだな」

「そうね。あなたがやるとスノッブにしか見えないわね」

 わたしの優しい気持ちは長続きしなかった。

 そして席を立つ前にずっと気に入らなかったお前呼ばわりに文句を言おうとしたとき、あまりにも今さらなことに、それこそ今さら気がついた。

「あー、名前……その、クローディアよ。えーと、契約も成立したことだし教えるわ」

「……なんでいきなりへどもどしてんだよ」

「は? え、は? 何言ってるの?」

「いやいや」

「何? 何なの?」

「名乗るの忘れてたんだろ」

「何を言うの。簡単に名前とか教えるわけがないわよね。ほら、個人情報よ。あんまり知らない人に自分のこととか喋っちゃいけないって親からも言われてるし」

「お前自立したいって言ってたじゃねェか。なんでそこだけ親の言いつけ守ってんだよ」

「関係ないわよね! それとこれとは関係ないわよね」

「気づいてないのか? さっき見た書類にお前の名前書いてあったぞ」

「あっ」

「お前、一体何なんだ?」

 はっとした。

「ただのガキかと思いきや平気で人を脅すし、こんなレストランに連れてきて金持ちのお嬢様かと思えばいろいろやばいこともやってるみたいだし、完全にイカレちまってるように見えてガキっぽいところもあるし……なあ? 頭がいい、行動力がある、度胸もある。普通のガキにはない。だからお前が普通じゃないってのは確かなんだが」

 『普通じゃない』――これは『特別』とは全然違う。

(わたしに何て言えっての? 幽霊? 異世界人? わたしが何者かなんて誰にも、わたしにだってわからないわよ)

 そう思ってかすかに怒りがわいたけれど、沈黙は金、雄弁は銀。わたしはこれ以上余計なことは何も言わないことにした。

 



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3. ドリームオークション(3)

 ゼパイルと別れてから再びリムジンに乗り、宝探しの続きをするためにヴィクトリア駅前で降ろしてもらった。値札競売市の周辺は歩行者天国になっているし、車での来場は禁止、あるいは遠慮が促されているから。わたしはまあまあ良き市民なのだ。

 雨はほんの小降りになっていた。それでも雨だれは灰色のビルを伝い落ち、人々の輪郭を溶かして霞ませていた。

(だから前が……よく見えないんだってば……)

 相変わらずの結構な混雑についひるんでしまうけれど、わたしは意を決して、ラグビー選手がスクラムにぶつかっていくように人の群れに突っ込んだ。

 

 ぱっと視界が開けて、わたしはよろめいて2、3歩踏み出した。射的屋の香具師と目があった。

「5発で300ジェニーだよ」

「え? いや……」

「真ん中に命中すれば100点。外に向かって80点、50点、30点、10点だ」

「80点? そこは70点じゃないの?」

「400点取れれば何でも好きなおもちゃを持って行っていい」

「あーなるほど」

(サービスか)

「やるのか?」

「――やるわ」

 わたしは300ジェニーをカウンターに置き、カービン銃を受けとって持ち上げた。

 狙いをつけて引き金を引く。パン、パン、パンパンパン。軽い反動。カービン銃を撃ったのは初めてだったけれど、前世ではイタリアの知人に招待されてイノシシ狩りで散弾銃やライフル銃を撃ったことがあった。だから自信はあったのだ。

 香具師はわたしにボール紙の的を手渡した。穴は2つ。その2つも中心から大きく外れていた。

 わたしは500ジェニー硬貨をカウンターに叩きつけた。

 カービン銃を持ち上げる。息を吸って、吐いて、吸って、吐いて――中心だけが赤い白黒の的に意識を集中する。

(わたしはできる子、わたしはできる子)

 今度は立てつづけに5回引き金を引いた。

 香具師はボール紙を手渡した。それをわたしは目を皿のようにして眺めた。

「――もう一回よ」

「まいど」

 穴が3つ空いたボール紙を放り捨てて、わたしは財布の中の小銭をすべてぶちまけた。

 

 口の中で転がしていたアメを噛み砕いて飲み込んだ。もう3個目。

「この銃、おかしいんじゃないの? もっといいやつに変えてよ」

 香具師はわたしの文句を、肩をすくめていなした。

 正確なところはよく覚えていないけれど、すでに5000ジェニー以上使ったのは明らかだった。それに雨にぬれて寒かった。でも、ここでやめては負けだという謎の熱い思いに突き動かされていた。自分がしつこいのもわかっていた。だとしても、負けを受け入れる気はなかった。

 気がつけばわたしのチャレンジをからかい半分に応援する人垣ができていた。弾のカス当たりで景品としてもらったアメ玉がわたしのポケットをパンパンにしていて、そのことにも腹が立ったから、アメは見物人に気前よく振舞った。するとアメ目当ての子どもたちやその保護者でさらに見物人が増えた。そいつら暇人たちが、もっとアメを取ってくれだの、この調子ならあと100万あれば十分だだの、勝手なことを言いながら眺めている。

 ポケットからまたアメを出して何味かも確認せずに口の中に押し込んだ。

「甘ったるいのよ。今度はミントガムにして」

「てことはまた50点を狙うつもりかい?」

「誰よ! 茶々入れてんじゃないわよ! もちろん満点を取るつもりに決まってるでしょ!」

「ほ~」

 アメを食べながらもごもご喋るのもかっこ悪い。人垣のどこからか聞こえてくるヤジはもう無視することにして、いいかげんだるくなった腕でカービン銃をしっかり持ちあげ――。

「そんなんじゃダメだね」

 わたしは銃を下ろした。

「――何って?」

「そんなんじゃ何回やったってダメだよ、お嬢ちゃん」

 どこのどいつが露店の射的ごときでプロ面して偉そうにわたしにアドヴァイスなんかしてくれちゃっているのか確かめようと、わたしは振り返って群衆をぐるりと見た。

 その男のことはすぐにわかった。周りの人がいきなりダメ出しを始めたその男をじろじろ見ていたし、何というか、雰囲気がほかの人間とは違っていたから。彼は腕を組んで、まるで親戚の子どもがちょっと羽目をはずしているのを見ているかのような目を向けてくる。軽い侮りとちょっとした親愛感と無関心が奇妙に同居した笑み。

(何こいつ。うさんくさい)

 男は念能力者だった。わたしの警戒レベルは急上昇した。

(……ベレー帽……?)

 既視感に目を眇めるけれど、わたしにはこの手の知り合いはいない。釈然としない気持ちのまま男に向かってくいっとあごを持ち上げた。

「何よ、あなた。じゃあどうすればいいって言うのよ」

「貸してみな」

 わたしはどうしようか迷った。でもわたしが決断する前に香具師の声が割り込んできた。

「ダメだよ、あんた、その銃はそこの女の子に貸してんだ。あんたもやりたいなら300ジェニー払うんだな」

「いいじゃん。堅いこと言うなよ」

「ダメだ」

「ケチ」

「何とでも言え」

 わたしは事の成り行きを眺める群衆の立場から立ち帰った。決めるのはわたしだ。わたしがそう決めた。それに相手にされないのは大嫌いなのだ。

「――あなたに任せるわ、おじさん」

「ほら、こいつもこう言ってる」

「おい、お嬢ちゃん、そりゃダメだって。言ってるだろ」

「わたしがそのおじさんを雇うわ。それならいいでしょ」

「だとよ」

「そう言われてもねえ」

 香具師は渋っていたけれど、べつにいいじゃねえか、その女の子がそうしたいって言ってるんだぞ、などと口々に訴える外野の声に押されて、ため息をついてうなずいた。

 わたしは男に銃を渡した。

「あの一番大きいクマのぬいぐるみがほしい」

「あいよ」

 やけに気軽な声に不安になりながらポケットに手を突っ込み、ありったけのアメを出して男の服のポケットに押し込んだ。

「ん?」

「報酬よ。わたし、あなたを雇ったのよ」

 男は吹き出した。

 くっくっくっと笑いながら、機嫌良さそうにベレー帽を手に取り、胸に当てた。

「お任せください、お嬢様」

 

 男はカービン銃を構えて、ほとんど間をおかず、パン、パン、パン、パン、パン、とリズミカルに弾を発射した。

 打ち終わるや否やわたしはカウンターに飛びついて的を凝視した。そのわたしの頭に男は気安く左手を乗せて無造作に撫でてくる。妙に得意げに。

「嘘でしょ――全弾命中してるの?」

「すっごいだろ?390点」

「うん。すっごい」

 それを認めるにやぶさかではなかった。人垣から口笛や拍手の音も沸き起こった。香具師は己が目にしているものが信じられないかのように何度もボール紙を確認して点数を数えている。でも何度見たって同じだ。50点、80点、80点、80点、100点。香具師は首を振りながらそれを手渡した。

「ほらよ。1回目でこんな点数を出されたのは初めてだ。でも残念だったな、あっちの大きいぬいぐるみがほしいなら400点は取らなきゃな。小さいぬいぐるみなら好きなのを持って行けよ」

「おーおー言うじゃない。400点を取るくらい簡単よ。ほら、やっちゃえ、おじさん。それとわたし、そのペンギンのぬいぐるみがいいわ」

 

 それから男は口笛を吹きながら何度か銃身を気にするように矯めつ眇めつし、さっと構えてほとんど予備動作なしに5発すべてを撃ち切った。

 わたしは詰めていた息をゆっくり吐き出しつつ的にあいた穴を数えた。ひとつ、ふたつ、みっつ。80点にひとつ、80点と100点の境目にひとつ、真ん中の赤いところ――100点にひとつ。

「ああ~」

 いかにもがっかりしたような声が出た。ほんとうにわたしはがっかりしていた。

 男は心外そうに垂れ眉をつり上げた。

「おいおい。まさかオレが外したなんて思ってんじゃないの?」

「いや、だって……」

「100点に3発。よく見てみな」

「えっ」

 香具師を催促してボール紙をひったくるように手に取り、日に透かして穴の輪郭をじっと観察した。わたしは自分の目が信じられない気持ちだった。

「――ほんとだ」

 周りにいた見物人がじれったそうにオレにも見せてくれと叫ぶので、わたしは快く見せびらかした。

 証拠を見てみんな口々に賞賛の声を上げたけれど、香具師だけは違った。2発外れていると言い張った。かたくなに認めようとはしなかった。

「ちゃんと見ればわかるでしょ。5発全部当たってるわ。460点、そうでしょ。何の文句があるというの」

「当たってない。外れてる」

「ちょっとふざけないでよ。的外れなのはあんたの方よ」

「160点だ」

「あんたねえ――」

 憤然と言いつのるわたしの肩にぽんと大きな手が乗せられた。見上げると、男がわたしにウィンクして、香具師に歩き寄った。

「な、なんだよ……」

「まあまあ」

 そして香具師の腕をさりげなくつかむと、引っ張ってカウンターの陰に入りこんだ。

 しばらくして、わたしは男に持ち上げられて、乱雑にビニール袋に入れられて屋台にぶら下がっていたクマのぬいぐるみを手に入れた。

 

「ドリームオークションはね、まさに掘り出し物を見つける場所なのよ」

 わたしは茶色いもふもふが詰まったビニール袋をぽんぽんと叩きながら、男の目を熱心に見詰めて語った。今や彼の正体の見当がついていた。頬が興奮でほてった。

「そうなの?」

「今日証明されたわ」

「ふーん……それ、ビニール袋から出さないの?」

「クリーニングに出してからね」

「あ、そう」

 この男は気にしないのかもしれないけれど、わたしは気にするのだ。長年のうちにぬいぐるみについた埃っぽさを。それと、ほとんど霧みたいな雨なのでたいしてダメージは受けないだろうとはいえ、せっかく取ってもらったぬいぐるみを濡らしてしまうのを。ちなみにペンギンはコートの大きなポケットの中に避難させている。

 そっちとは反対側のポケットに残っていた最後のアメを口の中に放りこんだ。

(あ、これおいしい)

 青い包装フィルムを見ると、『ブリザードキャンディS』と書かれていた。

 

 ぬいぐるみを取ってしまったら、もう値札競売市はどうでもよくなっていた。混雑を避けて人のいないほうへ歩き出すと、男もわたしの横をぶらぶらとついて来た。

「コツを教えてよ。次はもっとうまくやりたいの」

「銃の?」

「うん」

「難しいことなんかないじゃん。視差が狂ってたらちょっと調整すればいいんだよ。銃身が曲がってたのわかっただろ?」

 何を言っているのかよくわからなかった。とりあえず、帰ったら『しさ』なる言葉を辞書で引いておこうと思った。

(しさ、しさ、しさね。よし覚えた)

 わたしはあいまいに相槌を打ってごまかした。たぶんこの男にとっては、わざわざ説明することもないくらい、銃を扱いなれているのだろう。

「あなた、銃を使うのね」

 ナイフだけかと思っていた。

「オレもああいうオモチャ持ってるんでね」

 そう言って男は彼のバッグから大きな銃を取り出した。わたしが息を飲んで後ずさると、笑いながらグリップから銃身に持ち替えた。

「特別製だけどな」

 それでもわたしが警戒を解かないのを見て、銃弾が一発も込められていないところを見せた。

(あれ、この銃……)

「怯えることないじゃん、普段は平気な顔して街を歩いてるくせに。この国には4億丁以上の拳銃が存在してるんだぜ?」

 わたしの戸惑いも非難のまなざしも柳に風といった感じだった。

「教えてあげようか?」

「え?」

「お嬢ちゃん、見込みあるよ」

 わたしは男の真意を測って、すぐには返事をしなかった。

 男はうふふと笑った。

「……何の?」

「あんたさ、まだ小っこいけど、念、使えるんだろ?」

 さりげない調子のこの言葉はわたしを死ぬほど驚かせた。

(え? え? なんで? なんでばれたの?)

 わたしは念能力者として振舞ったことなんて一度だってなかった。“纏”もせず、精孔が開いていないように見せるためにオーラはちょろちょろしか出していないし、“発”なんかないし、当然そのへんの人にペラペラ念のことを喋りもしない。

 どぱっと嫌な汗が出た。

 抜け目ない視線が観察しているのがわかった。

(どうしようどうしよう。認める? でもこいつは殺人中毒者よ? ヤりあおうぜとか言われたらどうするの? でも否定もできない……見抜いたってことは根拠があるはずだもの……。なんとかごまかせれば――そうだ!)

 女は度胸だ。

「何? 今、念って言った?」

「そうだよ」

「――ははん、そういうことね。あなた、わたしに宗教勧誘してるのね」

「は?」

 わたしはトートバッグの中に入れていた『ヨークシンデイリーガゼット』を出して広げて、当該記事を指し示した。

「ここに書いてあるわ。教祖ネルの話じゃ、世界は念なるもので満たされているんですってね。入信して修行すれば空を飛べるようになるらしいわね。でも残念ながら、何人かの信者は信仰心が足りないのか飛べなかったようだけど?

 わたしについてきたのはそういうわけだったのね。恩を売ったと思ってるんでしょ。あなたの射撃の腕も念とかいう世界の力のお陰だとでも言うつもりなの? でもお生憎様、わたし、そんなの信じる気はないし、信教を変える気もないわよ」

 馬鹿にするように、挑むように男を見ると、男は肩の力を抜いて微苦笑した。

「あんた、おもしろいねえ」

「否定するの? それから、あんたもお嬢ちゃんもやめてよ、おじさん。クローディアよ」

「ベアクローって呼んでくれ。それから宗教の話をするつもりはないぜ。ただの気まぐれだよ、クローディア」

「わたしがあなたの気まぐれを光栄に思うなんて期待しないでね、ベアクロー」

 ないと思っていた。あるわけないって。だって普通に考えたらそれって当たり前のことだ。この世界だって、前の世界と同じくらいの人口を持っている。具体的に言えば約65億人。

(信じられない)

 わたしはクマのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめてコートの中のペンギンをつぶした。その信じられない奇跡が、今、わたしの腕の中にあった。わたしはベアクローを知っていて、そのことに確信を持っていた。

(ヨークシン編でマフィアに雇われた殺し屋のひとりだ。殺人中毒者。クロロ=ルシルフルになす術なく殺された人)

 65億人の中から原作登場人物に偶然会うなんて、いったいどれくらいの確率だろう? もちろんヨークシンはその可能性のもっとも高い場所だろう。それもお祭りの会場なら。逆にアイジエン大陸の僻地なら人間に会う可能性すら低そうだ。でもやっぱりそんなこと、実際にはありそうもない。

(すごい。わたし、原作登場人物みたいだわ)

 もちろんそうじゃないことは自分がよく知っている。でも、このお祭りの日にわざわざ現実に戻る必要なんてあるだろうか? 惜しむらくは、せっかく偶然会えた原作登場人物が、クロロの戦闘力描写に使われただけの雑魚ってところだ。いや、贅沢は言うまい。

 わたしは舞い降りてきた奇跡を逃すまいとベアクローのジャケットの裾をつかんだ。

「宗教勧誘じゃないって言うなら、ベアクロー、その念の話、聞いてあげてもいいわ」

 彼の青い目が瞬いた。

 きれいな色だと気づいた。空の色でも海の色でもない。父の目の色に似ているとも思ったけれど、やっぱりちょっと違う。花の色。ワスレナグサの青だ。

 



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4. 家族

 わたしは美術品ディーラーとその妻の娘としてヨークシンの病院で生まれた。名前はクローディア=グレイ。

 

 自我が形成されてきたころ、わたしは自分が前世の記憶らしきものを持っていることに気がついた。他者の記憶であるようには感じられなかったから前世のものかもしれないと仮定したわけだ。ある人生の記憶を持っているからといって、それが自分のものだと感じられるにはいくつか条件があると思う。知識や価値観やそれに基づく判断の仕方が現在の自分のものと大きく違っていたら、その記憶を自分のものだと思うのには無理があるだろう。つまり、その前世のものかもしれない記憶のわたしと今のわたしのパーソナリティーは限りなく同一のものなのだ。これはもう不可解の一言に尽きた。

 わたしはこの件に関する思考をさっさと投げた。不都合があるわけじゃないのだから保留で問題ない。そんなことより、前世の記憶にはもっと重要な情報があった。それは今のわたしの世界が、前世で読んだ漫画の世界と酷似しているということ。

 ハンターという特権的存在やヨークシンをはじめとする地理・地名の一致などから、わたしがいるのはその漫画の世界であると前提してもいいだろうと判断した。となれば、念能力なるものが存在する蓋然性が高かった。

 わたしの記憶の謎も誰かの念能力によるものかと一瞬考えたけれど、これはすぐに否定した。未だ起こってもいないことを、異なった世界観のもとで育ったわたしが漫画で読んだ知識として、今のわたしに記憶として与える――ちょっと意味がわからないし、できそうにもない。

 原因や原理を追究するよりこの原作知識をどう利用するかを考えた方がはるかに建設的に思えた。わたしにはそれができると思えるくらいには自惚れていた。原作知識と大人の自我がわたしに選民意識を植え付けたことは素直に認めようと思う。ほかには誰も知らない知識を持ち、小さいころから大人たちに天才だとほめられ、ろくな知性のない同年代の子どもたちを見てきたら、誰だってこうなるとは思うけれど。そう、原作知識ほど大きなアドバンテージはちょっとない。インサイダー取引をするようなものだ――それも、誰かにばれたり咎められたりするリスクのまったくない。

 だから、そんなわたしにとって、現実に影響を及ぼせる『力』を求めたのは当然のことだった。

 こうして当面の姿勢が定まったわたしがまずしたことは、記憶や能力の維持と念の訓練だった。というより、当時3歳だったわたしにほかにできることもなかった。

 

 戸口にスーツケースを置いて、わたしの頬にキスをする。それからわたしの両手を握りしめると、母のナタリーはわたしの脇を通り抜けて室内に入った。かなりの広さのある、大きな居間。父の趣味が反映されたアンティーク家具が灰色の午後の光に洗われている。窓際の花瓶の傍らで立ち止まったナタリーは、振り返ってわたしに笑いかけた。

「やっと家に帰れたわ」

 その顔は逆光で影ができていたけれど、はっきりやつれているのが見てとれた。

 

 これはわたしが5歳のときの記憶。わたしの平穏な家庭が崩壊し始めたのはこのころだった。あるいはそんなもの端からなかったのかもしれない。彼らにたしかに愛情のようなものを持っているとは思うけれど、発達した自我のせいでわたしは親を親と思うことすらなかなかできないでいたくらいだったから。わたしはこの世界の地理や歴史、美術、ハンターたちの活躍や念を知ることにどっぷりのめりこんでいた。作品の詳細な世界設定を見ているみたいで楽しかった。そういうふうに、原作知識はわたしから家族への意識をそらした。深淵にゆっくりと落ちていく他人を見ているようで、その他人が母や父やわたし自身だということにはまるで関心がなかった。

 

 その、ナタリーがついに退院して家に帰ってきた日の前日、父のジュリアンは家の前に数人の男たちを引き連れ、高級外車に乗って現れた。男たちはベビーベッドやおもちゃを手際よく車に積み込み、また走り去って行った。ジュリアンは木目の美しいウォルナットの椅子に腰をおろして、うんざりしたような悲しげな顔でそれを見ていた。わたしは居心地悪くて、本を見るふりをしながらソファの背もたれの陰で小さくなっていた。仕事に行ったんじゃなかったの、とこっそり眉を寄せていた。

 静かになった家の中で、しばらくジュリアンのつまったように息をする音とセントラルヒーティングの低い音だけが聞こえていた。それからジュリアンは、

「クローディア、ドライブに行こう」

 と言うと、運転手を帰らせて、わたしを連れてふたりだけで家を離れた。

 車は郊外の高級住宅街を抜け、長引く寒波で凍った川沿いを西へ走って行った。ジュリアンはアクセルをがんがん踏み、わたしは雪が薄く覆って白くなっている川面を窓越しに眺めて、ふたりしてずっと黙っていた。

 ジュリアンは北からケリングビーチに入り、海岸線と平行に車を走らせた。それからしばらくしてケリングビーチアヴェニューの駐車禁止の標識の真下に車を止めた。

 ケリングビーチには海岸沿いにボードウォークと呼ばれる遊歩道があった。今ではきれいに整備されているけれど、一昔前はその名の通り厚板を張っただけの道だったらしい。ジュリアンはコートに手を突っ込み、そこを足で踏みつけるようにして歩いた。わたしも冷たい海風にがたがた震えながら黙々とそのうしろをついて行った。

 空には厚く雪雲がかかっていて、日中なのに薄暗かった。海はいかにもつめたそうで、あんまりきれいじゃなくて、海水浴はもちろん、観賞用にもならなそうだった。海に来るとわかっていたらもっとあたたかいコートを選んだのに、と手に息を吐きかけながら膨れていた。

 我慢できなくなってもう帰ろうと言うために横に並んだとき、ジュリアンの青い目から涙がこぼれていることに気がついた。途端にわたしは何も言えなくなって、また数歩下がって歩き続けた。なんとなくばつが悪かった。

 ジュリアンは遊歩道を降りて浜辺へ向かって歩き出した。そして波打ち際でようやく足を止め、湾のさざ波立つ鈍色の水面を見ていた。わたしはそこまでついていかなかった。ジュリアンが海に入っていってしまうとか、そういった心配は全然しなかった。彼は傷ついていたけれど、身の内は激情に燃えていたのだと思う。ちらりと見えた彼の濡れた目は、やり場のない怒りと喪失の悲しみに燃えていたように見えた。

 わたしはボードウォークを少し戻り、海岸に向いて建つカフェに入った。そこで熱いコーヒーと焼きたてのブリオッシュをふたつずつ買って、かじかんだ手をコーヒーで温めながら来た道を戻った。

「お父様」

 ボードウォークの杭垣のところから呼んだけれど反応がなく、焦れてジュリアンを呼びに行った。

「お父様!」

 見上げた顔は乾いていて涙のあとはなかった。そのことにほっとしながらジュリアンの凍ったように冷たい手を引っ張って来て杭垣に座らせ、その両手にコーヒーとブリオッシュを押し付けた。

「あったかいでしょう」

 わたしも隣に座ってコーヒーをちびちび飲んだ。

 

「フェイデ諸島を知ってるか?」

 父がわたしに話しかけてきた。なぜ急にこの話をしだしたのかわからなくて、わたしは戸惑いながら答えた。

「どこにあるかは知らないけど」

「もっと北の方にあるタミラという国だよ。熱帯の、きれいな島だ」

「行ったことあるの?」

「おまえのママと行った。天国みたいな島だ」

 父はまた口をつぐみ、コーヒーとブリオッシュをたいらげた。それからわたしに、外にいるには寒すぎるから車に戻ろうと言った。

 家に帰る道すがら、父はわたしに、私たちがやるべきことはママを元気づけてあげることだ、赤ちゃんのことは口にしてはいけないよ、と言った。

 

 ナタリーは泣きはらした目をして、ブラウスの下のお腹を空っぽにして帰ってきた。もう名前まで決まっていた赤ちゃん。ジェイミー。男の子だった。わたしが何より求めていることはひとりきりでいることよ、とナタリーは言った。それから彼女は自室に引きこもりがちになった。

 わたしは心配して何日もナタリーの部屋のドアに耳をくっつけてすごした。ときには、わたしの子、わたしの子が死んじゃったと、まるで一人しか子供がいなかったかのようにうめいているのが聞こえることもあったけれど、これにはわたしはあまりおもしろくなかった。それに、ジェイミー!とバンシーさながらの嘆き声をあげることもあって、その叫びは死にきれずにいる者たちの世界からジェイミーを呼びもどせるのではないかと思うほど大きかったけれど、そうはならなかった。

 ある日の夜、わたしはジュリアンのわめき声で目を覚ました。ジュリアンは妻のお涙ちょうだい式のめそめそしたくりごとにすっかりうんざりしていた。あれは私の赤ん坊でもあったんだぞ、まったく、頼むからやめろ、もうたくさんだ。それから玄関のドアがバタンと鳴った。ナタリーは一晩中ひんひんとむせび泣いていた。

 

 ジュリアンはナタリーに元気を取り戻させようとあらゆることを試みた。アロマテラピー、ピラティスのレッスン、カウンセリング、チャールトンへの旅行……。でも、ナタリーの心の中の、赤ちゃんの生死にまつわる何かが、はっきりと名指しすることはできないけれど、彼女を変えてしまっていた。そういうことには一緒に住んでいるとどうしても無関係ではいられない。きゃらきゃらという変な笑い声を唐突に上げたかと思うとわっといきなり泣き出してしまうナタリーの情緒不安定さにわたしもジュリアンも振り回され、疲労させられていた。つい恨みごとをもらすことがあると、そんなふうに言うものじゃない、とジュリアンはわたしを叱った。声に力がなくて、おざなりに聞こえた。

 赤ちゃんが死んで一年経ってもナタリーの状態は良くなるどころかより悪化していた。

 

 ナタリーは闘ってみようとしなかったわけではなかった。家じゅうの服やカーテンを洗濯機に入れて何日もがらんがらんと洗濯したり、街に出てあきれるほど買い物をしたり、到底食べきれないほどの料理を作ったりした。日曜礼拝に出かけるようになったし、長続きはしなかったけれど老人ホームや教会の婦人部でのボランティア活動をしてもみた。

 続いたのはひとつだけだった。絵を描くこと。ナタリーは居間でよく絵を描くようになった。血の気のない顔で、瞳はどこか遠くに拡散して、とぎれとぎれに口笛を吹きながら。何のメロディなのかひどく調子が狂っていた。

 

 わたしは、どうしてナタリーは生きているわたしやジュリアンではなくて死んだ赤ちゃんのことばかり心に置いておくのだろうと思った。失くしてしまったものばかり考えてしまう、人間とはそんなものなのかなと悟ったふうなことを思ったりもした。

 

 赤ちゃんが死んで2年経つころにはジュリアンは家にほとんど姿を見せなくなっていた。わたしはそうなるだろうなと思っていた。それがわからないような子どもではなかったし、憤りを感じるほど初心でもなかった。仕方ないと、ただ思った。それなりの愛情を持っていたってこの不幸の連続はなかなか耐えきれるものじゃないだろう。毎月かなりのお金を口座に振り込んでくれるだけジュリアンはむしろ立派だった。ありがたかったのは、これでわたしにうるさく言うような人がいなくなったということ。今さら小学校から教育を受け直すつもりはわたしにはまったくなかったから。

 

 わたしはパドキアへ向かう飛行船の船室の、窓際の革張りの椅子に深くもたれて、真っ暗な窓に映る自分の顔を見ていた。夕食後の倦怠感に浸りながら、そうやって自分の未だ短い二度目の人生を思い返していた。

 

「……クローディア。クローディア=グレイ」

 つぶやいてみたけれど、自分の名前という以上の記憶はなかった。わたしの容姿にも覚えがない。

(まあ、そうよね)

 原作にはチラとも登場しなかった、使い捨てにされる脇役にもなれなかった、描写もされなかった、ただの雑魚。崩壊した家庭の娘。この世界に生まれておいて残念なことに、これが自分、そして現実だった。

(原作が重要人物を網羅しているわけではないとはいえ……。あの取るに足らない詐欺師でさえそこそこ活躍してるのに)

 わたしはヨークシンに置いて来た贋作師の男を思い出した。彼には悪かったかなあという気もすれば、自業自得だよという気もする。悪いことをしていれば、別の悪いことに巻き込まれても仕方ないとも思う。

(物語の世界って、もっと楽しいかと思ってた)

 それとも家族なんて自分の人生においてはたいして重要じゃないと気にもかけないでいられたら、もう少しこの世界を楽しめるのだろうか。

 

 念の習得がなかなか進まないのも面白くなかった。未だに“練”がまともにできなかったし、応用技にいたっては、それを問題にできるのはたぶん10年後くらいだと思われた。

(でも、だから何だというの?)

 念が使えなくたってバッテラは大富豪だし、コムギは軍儀の世界チャンピオンになれた。それにわたしが念をよく使えないのも当然といえば当然だった。わたしは努力家だけれど汗をかいたり汚れたりするのは大嫌いだったし、実のところ念を使うこと自体にたいして興味もなかった。

(――あれ? なら念を習得する必要なんてあった?)

(…………えっと…………)

(………………)

 わたしはそのことについて考えるのをやめた。使えないよりは使えたほうがいいに決まっている。でも別にそんなにうまく使える必要もない。わたしは荒っぽいことには向いていないのだ。どうしてそんな必要があるだろう? わたしは10歳の女の子で、お嬢様なのであって、チャック=ノリスではないし、ジャッキー=チェーンに憧れているわけですらないのだ。

 

 就寝の時間までにはまだ何時間かあった。本でも読んでいようかとコーヒーテーブルの上に見開いて置いていた本を手に取ったけれど、気分が乗らなくて結局本はひざに落とした。

 廊下のほうからはしゃぎまわる子どもの高い声と、それを叱る母親らしき人の声が聞こえた。苛々して手のひらで顔をこすった。靴を脱いで足を抱え、そこに顔を突っ伏すと、少しましな気分になった。

 そのままぼんやりしていると、ふと、聖書の一節とそれを教えてくれた人のことを思い出した。

 

『こうして、自分の家族の者が敵となる』

 

 また家族のことを考えているといつの間にか、うつらうつら、体は半分夢の中に浸っていた。そういう晩はときどきあの美しかった母が現れて、ほの暗い部屋を歩き回っていることがあった。わたしに向かって微笑みかけてくれることさえあった。

 



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5. パドキア氷河鉄道

 ――なつかしい夢を見た。前世のつまらない記憶だ。昨日緊張してよく眠れなかったから、こんなうたた寝をしてしまった。

 わたしはぐぅっと伸びをして、ゆっくり息を吐いた。口から漏れた白いもやが冷たくて鋭い温度に溶けて消え、体の中を澄んだ早朝の空気がめぐっていく。

 12月。北半球にあるここパドキアでは、身を切るように寒い、冬だ。

 ターミナルから人がまばらにこのプラットフォームへ流れ込んで来た。

 ネックレス型の懐中時計をひっぱりだし、確認してうなずく。列車はもうそろそろ来るだろう。この国を縦断する長距離旅客用列車が。

 

 コンパートメントを開けると、黒髪の美青年がひとりで本を読んでいた。

「こんにちは。入ってもいい?」

 無視。彼は視線もよこさなかった。本に集中して気がついていないふりをされた。なるほど、どうしてこのコンパートメントにほかの人がいないのかよく理解できた。

 わたしは構わず彼の向かいに座った。そして目の前の彼をこっそりうかがった。

(きれい)

 ――クロロ=ルシルフル。

 彼は、とても美しい青年だった。すっきりとした輪郭、薄い色の唇、今はおろされている艶やかな黒髪。一等美しいのは、二粒の神秘的なオニキスの瞳。額の十字は隠されているけれど、本人で間違いないだろう。今は20歳。幻影旅団結成4年目といったあたりだろうか。絶対に朝の光が似合うような人ではないと勝手に想像していたけれど、案外と、冷たく透明な空気と濃い影をつくる一日のはじめの強い輝きに彼は似つかわしかった。

 わたしは初めての原作の主要な――この形容詞はゼパイルやベアクローにはつかない――登場人物との接触や彼の予想以上の美青年ぶりにうっとりして、景色を眺めているふりをして窓に映る彼の姿を見ては感慨にふけっていた。

 

 やがてわたしは窓外の景色に飽きたかのように装って、持ちこんだ本を膝の上に乗せた。青に近い紫の箱に入ったでぜいたくな装丁の本で、タイトルが銀色に輝いている。

(無視したいならやってみればいいわよ)

 案の定、彼の意識がいくらかこちらに向けられた。

 興味をひかれたかのような視線を感じ、内心勝ち誇りながら本を箱から出して、ゆっくりとめくっていく。読むのではなく、挿絵を楽しむだけ。彼が文章を目で追っているのに感づいてからは意地悪してときどきページを大きくとばしてやった。ぱらぱら。

 視線が露骨になってきたのでアピールと無視された意趣返しを終えることにした。

「何? どうかした?」

 わたしは顔をあげ、首をかしげた。

 彼は少しも悪びれることなく微笑んだ。

「いや、気に障ったならすまない。君の見ている本が気になったんだ」

「そう」

(そうでしょうとも)

 そのためにわざわざわたしが厳選してきたのだ。

「きれいな本でしょ。読んだことある?」

「ない。君は読んだの?」

 もちろん読んだ。十分に吟味もした。

「まあね」

「へえ」

 彼は感想までは訊いてこない。わたしの子どもらしさを疑っていないとみていいと判断。

「オレも読んでみたいんだけど、よかったら貸してくれない?」

 かかった。わたしは内心ほくそ笑んだ。それを外には出さず、困惑げに首を振った。

「パパに渡すものだから、知らない人には貸せないわ」

「これから知り合うんじゃだめか?」

 彼は爽やかに押してきた。

「オレはクロロ。君は?」

「……クローディア」

 彼が本名を名乗ってくるとは予想外で、わたしはちょっと驚いた。わたしが名乗ったようなよくある名前ならともかく、彼の名前はこちらの世界でも大量生産とはほど遠い。何というか、流星街の人っぽい名前。男性みたいな響きの名前や国籍不明のエキゾチックな名前、あるいはニックネームが多い。クロロという名前もこの類の響きがする。流星街出身でそもそも足がつきにくいとはいえ、もうちょっと用心してもいいのではないだろうか。

「……名乗り合ったら、もう知り合い?」

「少し雑談でもする?」

「いい。貸すわよ」

 本を渡すと、クロロは目を見開いて輝かせた。うっかり可愛いと思いかけた。

 

「クローディア、君はどこまで行くんだ?」

 クロロは本を一時的に借りるという手前か一応訊いてきた。

 もう降りる、と言って意地悪をしたかったけれど堪えた。長距離列車に乗って近距離ですぐに降りる意味がわからないし、じゃあ殺して奪おうなどと考えられると大変にまずい。遠すぎる駅名を言うのもよくないだろう。いちばん安全なのは目的地が同じである場合なのだ。いつでも奪える状況ならば、殺したり奪ったりする算段をすぐにつけ始めることはないだろうから。

 わたしは、クロロが降りるだろう駅は読んでいた。

「アルヒープで降りるわ。ほんとはヴラースのほうがよかったんだけど、おばさまの家を出ようとしたら、ヴラース国際空港が爆弾テロ騒ぎだっていうじゃない。おかげで大迷惑よ! 予定がめちゃくちゃ」

 

 我ながら白々しいけれど、爆弾テロ騒ぎはわたしが起こした。

 とはいっても本気で爆弾テロを仕掛けたわけじゃない。使い捨てのギャング崩れのチンピラに犯行予告を出させ、どこかの航空会社の閉まっているカウンターを脅し程度に軽く吹き飛ばして、金をつかませた空港の警備担当主任に現場を撹乱させているだけ。わたしにできることってせいぜいそのくらい。とはいえこの騒ぎでヴラース国際空港を離発着する飛行船は全便運航見合わせ。今日中に事態が収束することはないだろう。

 情報屋がクロロがよく使う他人の名義を見つけ出し、飛行船のチケットを購入したことが割れたからぎりぎりできた計画なのだ。この情報はなかなか高くついた。

 

「アルヒープに知り合いでもいるの?」

「いないわ。いちばん近くの国際便の多い空港っていったらアルヒープだから、そこから飛行船にのりなさいって、おば様が。近いっていってもあと――2時間はかかるのよね」

 懐中時計を見ながらため息をつく。

 

 犯行予告を出させたのはクロロが乗る予定だった飛行船の搭乗開始時間間際だった。クロロが確実に空港にいる時間。空港の利用者や職員はただちに出口に誘導され、空港は立ち入り禁止になった。クロロならただちに事態を認識できたはずだ――犯行予告があり、爆弾の捜査には人手と時間がかかり、危険で、運航再開の見通しも立ちにくいと。しかも空港にいた全員の手荷物や身体を捜査され、それがすむまで長時間足止めされるだろうことも。

 彼の目的地がヨルビアンの小国リッツの首都ルツィンデであることは飛行船の予約からわかっていた。ルツィンデ行の便がある、ヴラースにもっとも近い空港はパドキアの自治区アルヒープだ。犯行予告を出したチンピラはアルヒープの独立を目指す過激派というありがちな設定にしたから、アルヒープが空港を閉鎖する理由はない。ならば彼はその場からさっさと逃げ出し、アルヒープ直通の長距離列車がとまる東駅へ向かうだろう、というのがわたしの読みだった。クロロが渡航を延ばすことを選んでいた可能性もあったわけだけれど、これはないも同然の可能性だと思う。優秀な情報屋がいれば滞在先を探すことなんてわけないし、そんなことはクロロもわかっている。何にせよクロロは移動を選ぶしかない。

 だろう、とか、はずだ、とかが多すぎる不確実な計略だったけれど、情報屋に東駅で確かめさせれば成功率はそう低いものにもならないと判断して採用したのだった。急だったし。ちなみにこのくらいのことはパドキアでは日常茶飯事的に起きている。この世界の政情不安の国ってそんなものだ。政府のパフォーマンスが低いのも納得。だからゾルディック家がのうのうとしていられるのだろうけれど。

 

「家の人はついて来ないの? 危なくない?」

(すごく危ないわよね……特にあなたが前の座席に座っているときは)

 不審に思われることはわかっていた。しかし今回は急すぎて母親役のあてがなかったのだ。親戚の家に呼ばれていてこれから帰るところなのだ、というのがぎりぎり納得できる説明だろう。

「子ども扱いしないで。ひとりで乗り物に乗るくらいできるし、家にだって帰れるわ」

 子どもっぽい台詞を吐いてふくれっ面をしてやったら、クロロは、そのようだね、と微笑んで軽く流した。

 

「クロロはどこで降りるの?」

 わたしは確認程度に尋ねた。君と同じ、という答えが返ってきてすこし安心する。

「荷物が少ないけど、旅慣れているんだ?」

 クロロは他意なさげに訊いてきた。

 わたしの荷物といえば、肩から下げたポシェットとクロロが持っている本だけだ。荷物が少ないどころじゃない。クロロの荷物はといえば、網棚の上に載っている。

「わたしが重い荷物を持つ必要ないでしょ。別便で送ってるのよ」

 何言ってんの、と言わんばかりに目を見開いてみせた。襟つきの白い繊細なブラウスにスカーフのリボン、上品なスカート、磨きあげられたブーツ、そしてオーダーメイドの懐中時計――。高級品でかためた格好を見れば、わたしが自分で荷物を持つ人間かそうでないかくらいはわかるはずだ。

 クロロはなるほど、と呟いたけれど、わたしにはこれが不審を抱かれて放たれたジャブなのか、世間知らずからくる疑問なのか、それともただの天然なのか判断がつきかねた。

 

 突然の爆破テロ騒ぎ、急遽立て直した移動計画――事件は準備され、行動を読まれていたと彼が考えるのは難しいだろう。わたしは途中の駅から乗車したから、正体を知られて尾行されたという線はなくなり、警戒心も緩む。なにより子供と爆破テロ騒ぎと彼自身との三者を結びつけるのは普通無理がある。彼が原作で描写されているような有名なA級賞金首だというならひょっとしたら疑う余地があるのかもしれないけれど。でも彼はまだ一部でだけ名が知られているというのがせいぜいの、数多存在するB級賞金首のひとつにすぎないのだ。

 

 クロロはもう会話は終わりとばかりに手元の本に視線を落とした。

 わたしはクロロを視界に入れながら車窓からの景色を再び眺める体勢をとった。

 

 抜けるような青色が窓の上部をおおって、空を突きあげるように峻厳な山が連なっている。山を白くしている雪が日に照らされてきらきらとまぶしく光っている。

 パドキアはポストカードそのままに美しかった。

 

 景色のなかに人工のものが増えて、もうそろそろアルヒープに着くというころになって、わたしは静かに切り出した。

「その本、気に入った?」

「ああ」

「なら、あげるわ」

 クロロはようやく顔をあげた。

「いいのか?」

 わたしはうなずいた。まだ読み終わってないみたいな理由で殺されてはたまらないし、べつに本なんかいらないし、はじめからそのつもりだった。

「出会いを大切にしなさいって、パパはよく言うの」

 どこかの誰かのパパの話だ。

「その本、このあいだたまたま古書店でみつけたのよ。すごくめずらしいの。で、今こうやって本好きのあなたとたまたま列車に乗りあわせた。これって出会いよね」

 まあ、わたしは自作自演と呼ぶけれど。

 クロロは特に感銘を受けたようすもなく紙をもてあそんでいる。

「すごくめずらしいって?」

 やはりわたしのいいかげんな運命論には欠片も関心がないらしい。

「非売品でそもそも数が少ないのよ。それに当然だけどマニアの蒐集の対象になってるから、なかなか出回ることはないの」

 フェルラン社がクリスマスに社友やお得意様のみに配っている贈呈本がそれだった。毎年テキストを選び、これと定めた画家に挿絵を頼み、紙もレイアウトも装丁もとびきり凝ってつくりあげられる。クロロにあげた本は1917年――戦争のあった年のもので、多くが戦火によって失われている。入手難度は高く、質、価値ともに、本棚にいれるだけの魅力を十分にもった本であることは間違いない。ビブリオマニアなB級賞金首の盗賊団団長にはぴったりの一品だろう。

「詳しいんだね」

 家業なのよ、とわたしはにっこりした。

「美術品や骨董品を扱ってるディーラーなの。本はまたちょっと価値の評価の仕方が違うんだけど、まあまあ詳しいからときどき掘り出し物を手に入れられることもあるの。あなたがこういう本を好きならきっとまたどこかで会えるわ」

 

 列車が大きく減速するのを感じる。窓を横切る景色は街のもの。

(ここまでね。今日のところは、ここまで)

「ねえクロロ、あなたこれからどうするの?」

 わたしはコートをはおりながら、ついでのように訊いた。

「どうするかな」

 ほんとう、この慎重さには恐れ入る。クロロは結局、どこから来たのかもどこへ行くのかも言わなかった。テロの話をしたときそれにのってもこなかったし、空港の話をしたとき同調しもしなかった。用心深い。彼はわたしに行くところを知られたくないと考えているし、これ以上一緒にいるのは嫌だと思っている。自分も空港に行くと言えば、目的地を悟られかねないし、空港までのタクシーも同乗することになるからだ。

 わたしも同じ気持ちなので、助け船を出してやった。

「アルヒープに住んでるの? わたしこれから食事でもとろうかと思うんだけど、いい店知らない?」

「悪いが、ここの住人じゃなくてね、知らないんだ。今日は仲間に会いに来ただけなんだよ」

「そう。適当に決めるしかなさそうね。あなたもどう?」

「誘いは嬉しいけど、遠慮させて。急ぐんだ」

「まあ。でもそうよね、この列車1時間も遅れてるもの」

 ひとりで理由を推測して納得する演技。

「飛行船の時間は大丈夫か?」

「たぶんね」

 

 列車は軋みながら駅にすべりこんだ。

「ここでお別れね。じゃ、さようなら」

(ああ、すごく清々する)

 わたしは悠然と立ち上がり、走りだしたくなるのをおさえてコンパートメントを進み、通路に出ようとした。

 手がドアの取っ手にかかり、それを引こうとした瞬間、

「さようなら、クローディア。小さな演出家さん」

 からかいを含んだ声がわたしの動きをとめた。

(ブラフだ)

 わたしは瞬時にそう判断をくだしたけれど、背中にどっと冷や汗が噴きだした。なぜクロロはわたしにはったりなどかけてくるのか? どこに疑われる要素があったというのか? そんなことより、この場を早くどうにかしなければ。

 わたしはクロロに半身向けて、首をかしげた。

「あなたってやっぱり不思議な人。変わってるって言われたことない? なんでわたしが演出家なの?」

 くすりと面白がっているふうに笑う。内心は面白がるどころではなかった。

「君のほうが変わってるよ」

「変な人」

 わたしは口の端にかすかに笑みをのせたクロロを一瞥して、今度こそコンパートメントを脱出した。

 

 



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6. クロロ=ルシルフル

 駅から出るやいなやすぐにタクシーを拾い、街でいちばんの高級ホテルの名を告げた。

 “凝”――不本意ながら、みたいなもの、と付け足さねばならないだろう――でどこかに何か念をつけられていないか調べ、車のミラーや目視で尾行がないかをよく確認しつつ、気を落ち着かせる。手のひらや額にじんわりと嫌な汗がにじんでいた。

 

 先ほどは危なかった。なんとか『おかしいのはわたしじゃなくてあなた』論法を押し通して逃げることに成功したけれど、下手をすればあそこで死んでいたかもしれない。

 クロロがわたしを逃がしたのは彼に確信がなかったからじゃないだろうか。だとするとやっぱりあれはブラフだったのだ。ということは、わたしがぼろを出したわけではないのか。

(どういうことなの?)

 ではどこで彼は疑念を得たのか?

 勘だろうか? でも彼は自分の直感に頼るタイプとは思えない。実際のところはわからないけれど、原作では彼はそのときもっている情報を分析して判断をくだすタイプに見えた。クロロ=ルシルフルはきわめて怜悧な人間だ。それは知っていたけれど、あらためてよくわかった。彼は自分の勘より思考を信頼している、というより思考で足りるのだ。

 念のため鎌をかけてみたという説はどうだろうか。自分に接近してくる見ず知らずの人間に試して反応をうかがうだけで、たいした意味はなく、わたしが特別というわけでもない――。これもなさそう。慎重な彼ならあるいは、とも思うけれど、そういう無駄の多いことはしないだろう。用心なら彼がずっとしていたように、無視か余計なことをしゃべらないかで十分なのだ。

 やはりクロロは疑念をもつに足る情報を得ていたと考えるほかない。

 そんな情報の出所の心当たりはひとつだけだった。

 

 ホテルに着くとわたしはラウンジで軽食をとった。到底何かを食べたい気分にはなれなかったけれど、何かを胃につめこんでおいたほうがいいと思って。ちゃんと落ち着かなければ、まともな考えなんて出てこない。でも落ち着きを取り戻せたとは言い難かった。

 時間がたってもまだ動悸がすごかった。化粧室に入って鏡を見ると顔が真っ青だった。いつまでもトイレにこもって震えていても仕方ないから、そこをを出て昨日今日と予約を入れてチェックインしてあった部屋に入った。

(くそ――くそ――くそ!)

 緊張と怒りで震える手で、置いておいた旅行用バッグを開いて携帯電話をとりだした。ポシェットに入っている、形だけのプリペイド式携帯電話のような代物じゃない。ロックを突破されれば一発でわたしの身元から人間関係までがまるわかりになってしまう、持ち歩くには危険すぎる携帯電話だ。

 片づけておかねばならない用事が出来た。

 

 数度の呼び出し音のあとに30代くらいの男の声が応じた。ベロテルという名の、今回の作戦で使った情報屋だ。

 情報屋とはいってもさまざまあるけれど、こいつは普段月々定額でヨークシンの闇社会に関する情報を仕入れて流してくれるほか、頼めば調べ物もしてくれていた。情報網は広いらしく、特に人探しがうまい。なかなかに使い勝手のいい情報屋だった。

「リリーよ。あなた、わたしのターゲットに情報を売ったわね」

 こいつしかありえなかった。

 この作戦の全貌はわたし以外知るはずがなく、わたしがぺらぺら関係ない人間に喋るはずがない。残る可能性は、情報屋がわたしに売った情報のことをクロロに流した、それだけ。

「待てよ、何のことだ?」

「とぼけないでよ、もう調べは上がってるの。売った情報を本人に流すなんてどういうことなのよ」

「……何でそう思ったのか知らねえが、そいつは誤解だ」

「何がどう誤解だというの。あなたは売った情報をリークした。事実でしょ」

 自分のやったことがわかっているのだろうか?

 ほんとうは感嘆符をありったけつけながら怒鳴りたいけれど、そういうのは小物臭がするし、わたしのキャラではないので我慢する。

(ああ、これだから中小事業主はつらい)

 十分な捜査能力をもつ人物なり組織なりをつくり、運用するノウハウも体力もないのだ。だからこんな愚劣なまぬけを雇うしかない。念能力者でプロハンターかつ旅団の情報担当たるシャルナークレベルの人材がほしいなどと贅沢は言わない。ただもう少しまともな探索用の情報担当がほしい。

「ふざけたまねをしてくれたわね。どう落とし前をつけるつもりなの」

「証拠でもあるのか?」

「そんなものが必要だと本気で思ってるの?」

「………………」

 沈黙。

 わたしはあてつけがましいため息をついた。

「とりあえず確認するわ。あなたがリークした内容は?」

「………………」

「直接訊きに行ってもいいんだけど?」

「……依頼があって、お前がよく使っている他人の名義のデータを売った、と」

「依頼人の情報は?」

「それも」

 わたしは眩暈をおぼえた。最悪だ。

「……悪かった。でも、義理があったんだ」

「はあ?」

「あとでわかったんだが、オレの同胞らしいんだよ。あいつの情報をオレが売ったのはまずかったんだ」

(同胞?)

 こいつも流星街出身だということか。だからこいつは闇社会の住人になったわけか。おおかた、こいつの広い情報網もその伝手だろう。

 ようやく理解が及んで、わたしは自分の頭の悪さに苛立った。

 流星街の人間は仲間意識が強い。彼らは仲間を売らないし、売ったことがばれれば報復が待っている。でもそうかといって顧客情報を売るようなことをするとは。

「知らないわよ。それはあなたの事情でしょ。どうしてあなたの調査不足のつけをわたしに払わせるのよ」

「……すまない」

「あなた何年この業界にいるのよ? 筋の通し方も知らないの?」

「………………」

 また沈黙。

 うんざりした。こいつはわたしの忍耐がどこまで可能か試してでもいるのだろうか? 女の子をいじめて喜ぶ性癖でもあるのかもしれないけれど、時と状況と相手はもっと差し障りのない範囲で選んでほしい。

「……もういいわ。許すのは今回限りよ。これは貸しだからね。次はない、わかってるわね」

 安堵の色濃い返事を聞いて、わたしは電話を切った。

 ほんとうは殺してやりたいところだ。わたしは命を賭けている。それをこんな馬鹿のせいで支払わされるなんて冗談じゃなかった。でもわたしにはそうすることができない。倫理の問題じゃなくて、わたし自身の実力の問題で。ここからヨークシンは離れすぎているし、ベロテルの正確な居場所もわからないし、殺し屋の知り合いも今どこにいるのかもわからないベアクロー以外ではいなかったから。貸しにして利用することにしたのは、わたしに力がないからそうせざるを得なかっただけのことだ。

 

 当初の予定が大幅に狂った。

 わたしは奇声を上げながら絨毯の上を転げ回りたい気分だったけれどがんばって抑えた。震える手でバッグが乱されていないかチェックし、携帯電話を所定の位置にしまう。内容物は一定のパターンで、そうとはわからないように配置している。こうしていれば荷物が勝手に探られてもそうと知ることができる。

 口の中にブリザードキャンディーSを放りこんで転がした。

(大丈夫、大丈夫。……うん、ちっとも大丈夫な気がしてこないけど、荷物の整理がてら、ちょっと状況を整理してみよう。光明が見えるかもしれない)

 

 クロロが情報屋から得た情報は、リリーと名乗る者が、クロロがよく使う他人の身分データの情報を買った、というもの。ここからわかることは、リリーがクロロを探っているということ。おそらくはクロロ=ルシルフルが幻影旅団の団長であるとつかんでいる、あるいは相当の疑いをもっているということ。でなければ調べる理由がない。となれば、リリーは幻影旅団に関心を持っているということ。ここまでは確定。

 当然に導きだされる推測としては、リリーにクロロの身元はもう割れているということ。情報屋から買った情報がクロロがよく使う他人の身分だったということは、前提としてクロロの存在と何者かというところまで調べられていると考えるのが妥当。ならばクロロほど慎重じゃないほかのメンバーのほとんども割れている可能性が高いということ。そしてそこまで調査するからには調査が目的というわけではないということ。

 朝の時点でクロロにはこれだけの情報があった。

 そして乗るはずだった飛行船が、空港の爆破テロ騒ぎで欠航――。

 

 飛行船のシステムは誰がいつどこへ行くのかが少しの操作で簡単にわかる。わたしなら、ばれているとわかった名義でした予約をどうするだろうか? 乗らないのは間違いない。予定を取り消すか、別の場所を経由しながら目的地に行くかするだろう。

 クロロはどうしただろうか? 彼も罠を恐れただろうか? 親しくもないわたしにはさっぱりわからないけれど、彼は乗ろうとしたんだと思う。彼は念能力なしですら強いし、リリーが彼を消したいだけならそこまで綿密な調査は必要ないという事情を勘案すれば、それほど不思議じゃない。面倒を避けたいなら乗らないだろうし、気にしないか出方をうかがうかなら乗ろうとする……わたしなら絶対しないけれど彼はそうしたんだろう。

 そこでテロ騒ぎだ。クロロを狙うなら犯行予告を出すのは愚の骨頂だ。アピールしたいなら問答無用で爆破してから犯行声明を出せばいい。もっというなら離陸した飛行船を爆破したほうが効率的だし効果的だ。しかし偶然の遭遇にしてはタイミングが良すぎる。犯行予告を出して混乱させたいなら早朝という時間帯は普通狙わない。別の目的・意図があると簡単に知れたことだろう。すぐに思い浮かぶのは陽動か足止めだ。彼はすぐに空港を離脱して列車に乗った。こちらの誘導に気づいていたのだろうか?

 

 そしてクロロはわたしに会ったのだ。

 身なりの良い子ども。パドキアのおばの家に滞在していて、帰国するところだという。稀覯本をもっていて、こましゃくれているくせに、人のことを詮索したり自分のことを必要以上にしゃべったりしない――今更気づいたけれど、これは怪しすぎる。

 リリーとはもちろんわたしの偽名だ。後ろ暗いことをするときに本名は使わない。でもクロロはわたしのことをリリーだと疑っただろう。稀覯本をもってコンパートメントに入った時点で。幻影旅団が古書や稀覯本をしばしば狙っていることは、調べればわからないことじゃない。クローディアがリリーだと仮定すると、爆弾テロ騒ぎはリリーが起こしたもので、自分の行動を読んで仕掛けてきたのだと考えられる。だから目的を探るためにクロロは話しかけてきたのだ――本名を出して。

 わたしが違和感をおぼえたのはこれだったというわけだ。クロロがあまりにも簡単に本名を名乗ったこと。べつに訊かれていないのだから彼は言わなくてもよかった。

 でもそこまでしてもわたしは自分の正体を明かさなかった。何の取引も持ちかけなかったし、どういう種類の脅迫もしなかった。むしろ本をあげた。となれば、残された可能性はせいぜい2つだ。1、一連の事柄には何の関連性もない、2、自分を探っていた者が値踏みしに来た、この2つ。

 前者なら問題はない。でも後者ならどうだろう。B級賞金首をただ値踏みするためにここまで手間をかけてこちらの存在を悟らせないように気を遣うというのは、ちょっとただごとではない。値踏みをする前から高く見積もっているも同然だ。実際わたしは旅団をそれだけ恐れているのだけれど、それは原作知識があるからであり、クロロはそうと知りようがない。だからクロロは判断に迷って、最後にあのブラフをかましてきたのだ。

 

『小さな演出家さん』

 

 実に、まったくもって、嫌になるほどクロロという人間は傑物だ。

 鎌かけとしては慣れていないのかやる気がないのか、見え透いていた。いや、あれはわたしをほんとうにからかっていたのかもしれない。それはおいても、彼は、値踏みが目的であるとするならば品定めをする人間が下っ端であるはずはないと気づいたのだ。わたしのこの姿にかかわらず。なら爆弾テロ騒ぎにもわたしが噛んでいると当たりをつけた。だから演出家などという言葉を使った。

 

 クロロにはわたしが家業を明かしてしまったことで目的と意図は知れてしまったことだろう。つまり、美術品の窃盗と密売という素敵なお仕事を一緒にやりませんか、というお誘いだ。今日はまさに共犯者の下見会のつもりで接触した。

 わたしは考えた。彼はどうするだろうか? 前向きに考えてくれるだろうか?

 

 クロロは頭がきれ、際限なく融通がきくタイプで、こまごました情報をひとつにまとめて完成図をつくりあげるのがうまい。正面からまともにやりあえば、戦闘力はおろか知力ですらわたしが敵うような相手ではない。でもそれも、正面からまともにやりあえば、だ。わたしはこっそりと不意打ちでやる。

 

 わたしはコートのなかから懐中時計をひっぱりだし、首からはずした。これには小型カメラが仕込まれている。いわゆるカモフラージュカメラだ。これには幻影旅団団長の顔という値千金の情報が収まっている。

 警戒心の強いクロロを盗撮するのは骨が折れた。まずあえてはじめから見えるようにぶらさげておく。いきなり取りだすと注意をひくから。スカーフのリボンで目立たないようにした。見慣れて意識が向かなくなったところで、自然に時間を確認する流れで盗撮。会話中なら話に注意が向いている。タイミングだけが重要だった。

 情報屋がクロロに情報を流した唯一と言っていい恩恵がその瞬間にあった。クロロはわたしの正体や目的を探るために、わたしの話に常よりも気をとられていただろう。そして、わたしが仮にリリーだとするとピンポイントで接触してきたことからしてもうすでに顔も割れている、と考えていた。だからクロロは隠しカメラの有無に注意を払わなかった。

 しかし実際のところ、わたしも顔貌まではつかめていなかった。わたしは額の十字と美形という原作情報を手掛かりに本人を特定できたのだけれど、当然ながらクロロの顔など漫画でしか見たことがなかった。似顔絵レベルでしかない。とはいえ曲がりなりにも顔やひととなりについて知っているのはわたしだけだったので、ほかの誰かにやらすこともできず、しぶしぶ出張ったというわけだった。

 

 わたしは懐中時計をケースに入れ、バッグ底の外付け隠しポケットに慎重にしまった。

 わたしのことを知られてしまったのだから、もう彼らに共犯になってもらうしかない。というかどちらにせよはじめからそのつもりだった。ほんとうはもっと劇的な感じで、装飾を山ほどつけた演出であっと言わせて優位に立ちつつ協力関係を得るつもりだったけれど、仕方がない。彼らは相当扱いづらそうだけれど、利用できないほどじゃない。もし拒否されたら彼らの情報とともにこの写真を売ってやる。それで得られたはずの財物や利益の補填とする。まずはSNSのわたしのページに写真を掲載するところから。どうせ相手はわたしのことを調べるだろう。それで相手の連絡を待つ。

 荷物の整理は終わり。状況の把握および整理も終わった。

 策を弄しすぎたのがまずかったと反省。怪しさが増してしまった。日常の一部、次の日には忘れているくらいの、もっと何気ない出会いを演出すべきだった。

(どんまい、どんまい)

 

 わたしはバッグをそのままそこにおいて部屋を出た。わたしが持ち歩くよりもホテルのコンシェルジュに家まで届けさせたほうがいいだろう。わたしはこのまま何食わぬ顔でホテルを出て空港へ向かえばいい。ヨークシンまで8日の旅、空の上でわたしはゆっくり眠れるだろう。幸いなことに、クリスマスまでには家に帰れる。今年こそナタリーは自室から出てきてくれるだろうか?

(何かプレゼントを買って帰ろうかしら)

 そう思ったけれど、ナタリーが喜びそうなものなんか、ひとつも思いつかないのだった。

 



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7. モーナンカス

 モーナンカス王国――ヨークシンから飛行船で北へ2日。アラキバ湾の宝石と称され、風光明媚で知られるこの小国には、実際にその宝石を身につけた君主がいる。モーナンカスは王冠に輝く宝石なのだ。多少傷はついているにしても価値はまだまだ衰えるところを知らず、多くの人間と富を引き寄せる。ここはずっと以前からハイソサエティの定着する地だった。公然たる富と快楽――1億も2億もするヨット、高級車、おとぎ話に出てくるお城のような邸宅や別荘、退位したよその国の国王とその王妃たち、肩書きないし称号で商売をしているプリンスやプリンセス、そして世界でもっとも名の通ったカジノ――世俗的な欲望が勝手気ままにふるまう別天地なのだった。

 

 赤道と南回帰線の中間あたりに位置するモーナンカスは熱帯の真っただ中。1月のこの時期はスコールが多いけれど、海は穏やかで透明度も高い。

 わたしは探していた海岸通りのカフェを見つけた。洒落た日よけといかにも南国らしい緑濃い植物がつくる陰に、テーブルと籐の椅子がならべられている。昼下がりの、一日でいちばん暑い時間。強い陽光でなにもかもがくっきりと輪郭をとっている。

 わたしが空いている席に座ると、ウェイターが奥から注文をとりにきた。やがてグラスを盆にのせて戻ってくると、それをわたしの前に見栄えよく置いた。レモネード。芸のある選択ではないけれど、やっぱりこれに限る。レモン果汁に砂糖とソーダ水だけのシンプルな飲み物だけれど、暑さと時が止まったような閑暇の中では最高においしい。有無を言わせぬ力がある。ヨークシンのエアコンのきいたオフィス――最近では仕事ばかりか寝食もそこでしている――ではただのシュワシュワする甘苦い水でしかないのに。

 わたしはおおいにリゾート気分を楽しみながら、もってきていた本を広げた。その本『アラキバ湾紀行』からモーナンカスの歴史に関するくだりを読む。この世界は前の世界とは大きく違うところも多いけれど、類似点も多い。記憶と引き比べながら読むとついついのめりこんでしまうほどおもしろかった。

 

 しばらくしてふと顔を上げると、広場の向こうに見覚えのある青年の姿があった。わたしが見間違えるはずもない。ついぎょっとしてしまったのはご愛嬌だ。

 わたしは本を閉じてテーブルに置いた。胸に下げた時計をみると、約束の時間ぴったり。ちょうど本が佳境だったからもっと待たせてくれてもよかった。

 彼の近くには知ったような顔がいた。会ったことはなかったけれど、ひと眼見てすぐに誰だかわかって、わたしは小さくため息をついた。

(なんでこいつまでいるのよ)

 ふたりはシャツにコットンパンツという幾分カジュアルな装いだった。よく似合っているだけでなく――素直な気持ちになれば、すごくかっこいいと言えた。

 彼は悠々と近づいてきて向かいの椅子に座り、ウェイターにアーモンドとミントで香りづけしたこの地方特産のお酒を持って来させた。

 わたしは作り笑いを浮かべた。

「ひさしぶりね、クロロ」

 それからつんとあごを持ち上げた。

「あちらの方、お仲間よね。連れてくるとは聞いてなかったけど」

「ああ、やっぱり知ってたんだ。じゃあ紹介しようか。――シャル、来てくれ」

 クロロはわたしの非難がましい目つきや口調をまったく意に介さず、シャルナークを呼び寄せた。

「この子?」

 軽い足取りで歩み寄ってきた金髪碧眼の好青年風のシャルナークが尋ねた。クロロは、ああ、と小さくうなずいた。わたしは仕方なくウェイターに合図して椅子を足し、シャルナークの飲み物を頼むついでに自分のおかわりも注文した。

  

 会話をリードしたのは、シャルって呼んで、とにこにこ愛想よく笑うシャルナークだった。彼はかなり話術が巧みで、おいしいと評判のレストランやヨット――彼はもうすでに旅団の移動担当なのだろうか――の話などで盛り上げていた。初対面の人間が親しくなるうえで普通明かすようなこと、略歴のようなものは語られなかった。わたしたちはしばらくの間、互いに真の胸の内をさらしたくないときの常で、さしさわりのない半ば世間話のような話ばかりしていた。その会話が一段落ついて沈黙が落ち、わたしはなんとなく雰囲気が変わったのに気づいた。

 ふたりを用心しいしい見つめる。

 こういうときも会話の進行役となるのはシャルナークらしい。あのさ、と彼は用件を切り出した。

「オレたち、エミール会に行きたいんだよね」

(そうきたか)

 

 エミール会というのは、前の世界でいう交換会みたいなものだ。

 交換会とはオークションとはまたちがった美術市場で、日本特有のシステムだったと記憶している。

 オークションの場合、オークション会社が売り手と買い手との間に入り、競売で売買が成立すると双方からオークション会社に手数料が支払われる。たとえばある絵画が5000万ジェニーで落札されたとする。料率は10パーセント。買い手はオークション会社に5500万ジェニーを入金し、その後に売り手に4500万ジェニーがオークション会社から支払われるというシステムになっている。

 交換会の場合、買い手からの入金を待たず、競売が成立すれば即刻――とはいっても原則は翌日だけれど――売り手はその代金を受けとることができる。

 買い手からの入金がないのに支払いができるのはどうしてか? それは金融機能が働いているからなのだ。つまり交換会は、会員から預かっている出資金と交換会の信用により銀行から融資を受けて資金を調達し、売り手に代金を支払うのだ。売り手にとって買い手の入金を待つ必要がなくすぐに代金を受け取れるのは大きなメリットだ。そして買い手には競売成立後の支払い猶予期間が与えられていて、こちらも大きなメリットになる。交換会は買い手に信用を付与しているわけだ。したがって、会員になるためには審査と承認というハードルが用意されている。

 エミール会が交換会に似て異なるのはこの部分。つまり、交換会に参加できるのは会を主宰する協同組合に審査され承認された同業者会員であるけれど、エミール会には同時に、会を主宰する協同組合(エミールアートコーポレイティヴ)に審査され承認された信用のある客たちも参加できるのだ。そしてその信用のある客というのがお金持ちたちというわけだ。近年では明らかに彼らのほうがメインとなっていて、会の性格も変わってきた。もうほとんど社交場と言っても差し支えないと思う。

 オークションと交換会およびエミール会の違いは参加者や代金の入金と支払およびその原資だけではない。たとえば、売買手数料は、オークションの場合10~20パーセントだけれど、交換会やエミール会の場合5パーセントとかなり安い。そしてたぶんここからが今回のポイントなのだけれど、オークションは競りを公開するのに対して交換会・エミール会は非公開であり、オークションには下見やカタログがあるけれど交換会・エミール会にはないのだ。

 

 察するところ、わたしの目の前の面々は、次なる獲物としてモーナンカスの美術品競売会に目をつけた。ところがどうやっても参加資格を手に入れられない。美術商を装うにも組合に入れない。そこで適当な身分と金のある会員に自分たちの活動を手伝ってもらおうと考えた、という事情なのだろう。

 シャルナークがいる理由がばっちりわかった。会員名簿を手に入れるためだ。そしていざとなったら参加会員――つまりわたし――にアンテナを刺して操るためだ。

(読めてきたぞ)

 わたしは慎重に答えた。

「あなたたちには難しいんじゃない?」

 このモーナンカスに呼び出し、この話を振ってきたということは、わたしが――正確にはグレイ家が――会員だと知っているということだ。間違いなく調べられている。

「うん。だから、なんとかならないかなーと思って。いい方法ない?」

 ある。ただ、彼らがしでかすだろうことを想像すると、その方法はとりたくない。わたしの信用が傷つきかねないから。とりたくはないのだけれど――。

「なくはないけど……」

 ほかにどう答えられる?

 わたしは渋々彼らが期待しているような説明をした。

「基本は会員を含むペアでしか参加できないのよ」

「それで?」

「だから、つまりわたしのパートナーとしてならエミール会に参加できるわ」

 彼らは試してきているのだ。わたしが利用できる人間かどうかを。

 利用されている感がものすごく嫌だったけれど、わたしは嫌々ながらに彼らに助力を申し出た。

「もしよかったら、そうしてさしあげましょうか? エミール会に参加できるよう取り計らってさしあげましょうか? シャルがパートナーならいいわよ」

「オレ?」

「プロハンターだもの」

 こちらにだって体面というものがある。危険度ではもうどちらも閾値を軽く突破していて選ぶ意味もないけれど、社会的ステータスではふたりには大きな隔たりがある。表の世界ではシャルナークはハンターという世界中どこでも神通力を発揮する偉大な資格の保有者だけれど、クロロなど身も蓋もない言い方をすれば正業に就いていない顔がいいだけの男にすぎないのだ。

「ふーん、オレがハンターだって知ってたんだ。でも、ほんとにいいの?」

「ええ」

 なにが、いいの?だ。そうさせておいて。面の皮が厚すぎる。

 

 わたしは一方的に協力させられるつもりはなかった。彼らからまだ何の確約も取り付けていない。これからが本題だ。

「それで、手に入れたお宝の処分はどうやってるの?」

 クロロは話題にはさして関心を見せようとせず、肩をすくめただけだった。

 わたしは、苛々しないで、落ち着いて、と自分に言い聞かせながらふたりの表情や仕草をいっそう注意深く観察していた。事の成り行きが思い描いていたようには進みそうにないな、とわたしは半ば危ぶみながらまた口を開いた。

「眺めて楽しんで、それから? 換金は?」

 クロロの眉がすっと上がった。

「君はオレたちが盗んだものをどう扱うか知ってるの?」

 このとき、たぶんわたしは、笑ってしまったんだと思う。クロロの口角がちょっと下がったのを見てあわてて顔を引き締めた。シャルナークはもっとポーカーフェイスがうまいのかこうした機微にはあまり聡くないのか、何も気づいた様子はなかった。

 こんな交渉の場でにやついたわたしは馬鹿だった。でもしょうがないわよね、とも思う。だって、強者であるはずのクロロが傲慢で率直な態度を脇に置いておいて、警戒しいしい探りをかけてくるものだから。そうしたせいで、彼はわたしがどれだけ幻影旅団について知っているのかわからず多少不安がっているということをわたしに知らせてしまったのだ。

 なんだかんだ言ってもクロロもたった20歳の若造にすぎないんだなあ、と気を軽くしながらわたしは記憶をさらいはじめた。

「このあいだ、知り合いのホームパーティーに招待されたの。でね、行ってみると、なんと1年半前にポストンの旧家ジョーンズ家である強盗団に盗まれたはずのオーデュポンパターンの銀食器が出てきたのよ。わたしの勘違いなんかじゃないわ。だってね、持ち手の裏に模様に紛れるように、でもちゃーんとイニシャルが入っていたの。AVJってね。アントニア・ヴィリー=ジョーンズ――まだアルファベットが一般的だった時代の、ジョーンズ家の先祖の名前よ。

 どうしてこんなものが?とわたしは訝ったわ。素直に聞いてみたの。そうしたら、最近手に入れたものだって言うじゃない。まったく無邪気な様子だったわ。たぶん彼らは盗品だと知らずに買ったのね」

「簡潔に話してくれない?」

「あー、うん、ごめんなさい。こういう話にはつい力が入ってしまって……。えーと、こういうパターンってあんまりないのよ。普通、こういった組織だった美術品犯罪は、どれそれを盗ってきてほしいとあらかじめ依頼主から注文があってから標的が盗まれるものなの。そうしたものは1年半近くも経ってから買い手の手に渡るなんてことはないの。計画的だし、専門的な犯罪類型なのよ。だから気づいたわけ。あなたたちはこの業界の人間ではないし、この業界にまともなコネも持ってないって。

 なんでそういう人間が美術品を狙うのかよくわからないけど――だってそうよね、トラックで宝物を盗むこととその御利益にあずかることはまったく別の話よ。現金ならたいした疑いももたれることなく使ってしまえるけど、美術品はそうはいかないわ。どこかで換金しないといけない。かといって美術品そのものが目的でもないわね、いずれ闇に流れているようだから。考えられるのは何? せいぜい、美術品を一時的にせよ鑑賞しているのか、伝統や格式に対する攻撃という意味もあるのか、というくらいね。ね、あなたたちが盗んだものをどう扱うかなんて、簡単に推測できるでしょう? まあそれはどうだっていいの、興味ないわ。

 つまり、そう、あなたたちはこの美術業界にもう少し人脈があってもいいんじゃないかしら、ということが言いたかったの。――どう? これでクロロ、あなたの質問に答えて、わたしの用件が明らかになった?」

 クロロは意図の判然としないため息をついた。

「そうだな」

 シャルナークは皮肉っぽく言った。

「賢いんだね、クローディア」

 意外だった。もっと違う態度を示すと思っていた。わたしはふたりの反応のなさに気をもんだ。

(あのため息はいったい何?)

 今した説明はすべて後付けだった。原作知識に適合的な事実を沿わせただけ。そんな事実が都合よく転がっているはずもなく、必死に探してこれだけしか見つけることができなかった。ちょっと無理があるかもしれない、でもこれでごまかされてくれればいいと思っていたけれど、そうなるには彼らの頭が良すぎたかもしれない。

「何がピンとこないの?」

 わたしは暑さのためか緊張のためかよくわからない汗をぬぐいながら尋ねてみた。尋ねながら、そんなのいっぱいありすぎるくらいだとわかっていた。まずわたしには実績がない。それからちゃんと仕事をする能力があるかどうかも不明瞭。加えて、幼すぎて誰にもまともに相手にしてもらえない可能性がある。おまけに怪しい。ほかにも色々。それら諸々の理由を一言にまとめて、クロロは切って捨てた。

「君を信用できない」

 わたしはそれを一笑に付した。

「あなた、宇宙人っていると信じてる? 妖精はどう? 探したことある?」

「……つまり、信用できる故買商なんているわけがない、だから信用できないという言い訳はナンセンスだ――こう言いたいんだな」

「その通りよ」

 わたしだって、自分に足りないものがたくさんあるのはわかっているし、ちょっと山師っぽいところがあるのも自覚している。でもそんなのはお互いさまだろう。

「信用できないっていうのは能力面でのことだ」

「そう。なら証明する機会をまずくれないとね」

「オレが? はじめからその能力があるとわかっている相手と取引したいな」

「コストの問題? 安全性の問題? もっともだけど、違うところに目を向けなさいよ。そういう業者は取引相手に苦労してないの。あなた、絶対買いたたかれてるわよ」

「それでもそういう業者に客がつくのはどういうわけか、君ももう少し考えれば?」

「後進を育てるくらいの気概を持ちなさいよ」

「悪いが、それはオレの仕事じゃない」

 クロロは、話は終わり、とばかりに背もたれに寄り掛かって手を振った。

「君の頭は回るし、空港を爆弾でふっ飛ばすくらいのことができるのは知ってるけど、だからって君を使おうとは思わない。わかるだろ」

 こういうふうに時間がたって、軽くあしらわれれば、強気な気持ちも小さくなった。グラスの底に残っていた溶けた氷で薄まったレモネードを下品な音が出るぎりぎりまで吸いこみながら、失敗したかなあ、と急に気持ちがしぼんでいくのを感じていた。もっと適当に盗賊運営しているのだと思っていた。

(こういうときのためのゼパイルなのに)

 交渉事はわたしの得意とすることじゃなかった。ゼパイルならもっとうまくやれただろうと思うと、なおさら情報屋の裏切りが悔しかった。クロロにわたしを指名されなければゼパイルにやらせることができたのだ。命が惜しいから幻影旅団と対面するのも怖かった。こういう苦労も恐怖も危険もすべてゼパイルに押しつける気でいたのに。

 わたしは気力を振り絞ってなおも言いつのった。

「それでもあなたは断らない。そうじゃなかったらここへ来ないし、わたしに頼みごともしない」

「頼みごとに聞こえたか? なら悪いが、そうじゃない。ここへは君を利用しに来たんだ」

 凄みのある笑みでそう言われれば、もう黙るしかなかった。

(若造? たった20歳の若造? こいつが? ……わたしったらなんて馬鹿なの)

 何というか、格が違った。敗北感で胸がいっぱいだった。

「頭がよくて、やる気がある。将来、いい故買商になれるよ」

(あなたがそれを言うの?)

 わたしの顔にかすかに苦笑いが浮かんだ。

「ねえ、あなたたち、この道に入ったときに一回でもいい、誰かに言われたことある? まだ若すぎると?」

 わたしは穏やかな黒い目と悪気なさそうな碧い眼を覗きこむようにみつめた。

(そんなこと言ってくれる大人なんていなかったわよね)

「ないな」

「ない」

「それで、わたしの何が問題なわけ?」

 クロロはテーブルに肘をついて手を組んで何事かをしばらく考えていたけれど、やがてわたしの目を見て言った。

「いいだろう」

 

 彼らはウェイターを呼んで勘定を払い、席を立った。

「ちょっと待ちなさいよ。まだ話は終わってないでしょ」

「いや、終わりだよ。――次はもう少し別の話をしよう」

 わたしは口元を曲げたけれど誰も気にしてくれなかった。自分の意見を押し通せるだけの力もないから渋々身を引くしかなかった。

 クロロはそのあいだもテーブルの上の本をじっと見ていた。ずっと気になっていたようだった。

「『アラキバ湾紀行』か」

「いい本よ」

 彼はうなずいた。

「君が選んだのならそうなんだろう」

 わたしは微笑んだ。クロロも微笑んだ。

 まったく、これだけの関係でいられればどれだけ素敵だろう。でもそれは、わたしの望むわたしたちのありようではないのだ。

 



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8. 隣人

「あれ、クローディアだよな、お隣の」

「あ、フェンリさん」

 店を出たところの道で、タイミングの悪いことに車に乗ったお隣さんに出会った。

「他人行儀な。イーランって呼べよ、クローディア。ひさしぶりだな、こっちに来てたのか。大きくなったなー」

 まぶしい笑み。

(おー。本日3人目のイケメン)

「……どうも」

 ませた子どもにとって、大人の言う、大きくなったな、はたいていあんまり嬉しくない。わたしは子どもじゃないんだからなおさらだ。それに今は親しげに話しかけてほしくなかった。

「家に帰るんだったら送るけど、どう、乗っていくか?」

 わたしは背後を気にしながら、どうしようかとすばやく考えた。断るのは不自然かもしれない。それにクロロやシャルナークのような危険人物とこれ以上一緒にいたくなかった。返事は引き延ばせない。

「いいの? ありがとう」

 乗りこむ前にちょっと振り返る。

「じゃ、さようなら、おふたりさん」

 

 この日は潮風が強かった。左手には青く輝く海。イーランの運転は昔から静かでうまい。全開にした窓から風がごうごうと入ってきて髪を乱した。イーランのちょっとゆるくウェーブのかかった長めの金髪がきらきら踊っている。

 助手席に深く腰掛けて、わたしは流れるカーラジオになんとはなしに耳を傾けていた。

 

「彼らは?」

 イーランはサングラスを外して、はっとするような印象的な目を向けてきた。アラキバ湾の海を凝縮したような、二粒のパライバトルマリン。

「ちょっと話をしたの。前に別のところで会ったことがあるってだけよ。なぜ?」

「君の友だちには見えなかったからさ」

「どうしてわかるの?」

 警戒しつつ尋ねる。

「年が離れてるってのもあるし、うーん、オレたちと同じ感じがしなかったんだよな」

「同じ感じ?」

「まだ肌が生っ白かっただろ? ここじゃ肌の色が濃いほど幅がきくから、みんなよく肌を焼く。白いのは来たばかりの証拠。君みたいにな、クローディア。それに、ここには真昼間から靴下をはいてるやつなんかいない。靴下をはかないと入れないような店に行くのは日が落ちて涼しくなってからだ。だから空港から直に来たか――手ぶらに近かったからそれはないだろう――、来たのが初めてでまだなじめてないか、どっちかだ。君に、というかグレイ家に、そんな、モーナンカスに観光で来た、みたいな友人はいないだろ? みんなそれなりにここでの振舞い方を知っている上流階級の人間ばかりだ」

 わたしは半分あきれて言った。

「あなた、明日から探偵になれそうね」

「当たり?」

「ええ、たぶんね」

 わたしが半ばあきれたのはなにも彼の推理能力に対してだけではない。端々から感じられる、階級の壁に対してもだ。前世の日本のような国で暮らしているとクラスシステムには疎くなるけれど、ヨーロッパと同じように、ここヨルビアンでもクラスシステムというのは歴然と存在している。同じ階級の人々が、出身校、職業、財産、住んでいるところなどの要素を基準に閉鎖された輪をつくって、非常に強い仲間意識を持ってつきあっていくのが普通なのだ。

「大学生かな? 夏休みで旅行に来たとか?」

 わたしは笑って首を振った。

「違うわ。最近ちょくちょく話題になってる賞金首の強盗団よ」

 いや、盗賊だったか。まあ似たようなものだろう。

 イーランは真意を探るように何度かわたしの表情をうかがった。

「はは、冗談だろ?」

「ほんとよ。幻影旅団っていうの」

 イーランは少し考えるようにあごをさすった。

「知らないな」

「うん。でも、美術業界じゃけっこう噂話もあって、まあまあ知られてるわ」

「じゃあ結構やるわけだ」

「かなりね」

 イーランはハンドルを切って車を大通りから住宅街に入れた。

「意外だな。若いし頭は良さそうだったのに、強盗団か。テロリストならまだわかるけど」

 わたしはその言い草に笑ってしまった。たしかに強盗団とはちょっと馬鹿っぽい。普通はすぐ足がついて捕まる。とくに彼らのように見境がないと。でも彼らは原作でも捕まらないばかりかほとんど敵なし状態だった。それは裏方を含めすべてが念能力者で、かつ弱いやつがいないこと、情報処理担当がかなり優秀で団員の個人特定を許さないことが主な理由だろう。

(ほんとうにほしいシャルナーク)

「で、なんでそんなやつらと知り合いなんだ?」

 訊かれたくないことを訊かれた。

「知り合いっていうか……このあいだパドキアの列車に偶然乗り合わせたのよ。それで話をしているうちに、なんとなく、そうじゃないかなっていう気がして。噂とよく似ていたものだから。思い切って訊いてみたら、よくわかったねって」

 わたしの嘘にイーランは目を剥いて眉をあげた。

「うわー、それほんとに? かなり危ない橋渡ったんじゃないのか? 下手したら殺されてたかもしれないだろ」

「そうね。馬鹿だったわ」

 

 いつの間にか周りに立ち並ぶ住宅はどれも大きくて立派なものになっていた。うちの国の大統領の別荘があるあたり。もう家は遠くない。

 わたしはため息をついた。

「彼らはわたしを利用しようとしてるみたい」

 気遣わしげな視線が向けられる。

「まずいことになってるのか? お父さんに知らせる?」

「まさか。必要ないわ。エミール会に行きたいだけみたいだから」

「それはそれは……」

「平気よ。どっちにしろ彼らの利害とうちの利害はぶつからないわ。というよりむしろ親和性があるわね。敵対するよりは手を組む可能性のほうが高い相手よ」

「それならいいんだけどね。それにしても、利害に親和性か……」

「何?」

「いやはや、10歳のボキャブラリーだとは思えないね。グレイ家始まって以来の神童との呼び名は飾りじゃないな。お父さんも誇りに思ってるだろうね」

 こういうことを言われるたびにいたたまれない気分になる。

「そんなことない、やめてよ。二十歳をすぎればただの人っていうでしょう」

 イーランはまるで冗談を聞いたみたいに笑った。

 頭の良さをほめられると気分がよかった。わたしは注目を避けて陰に隠れるタイプじゃない。むしろつねに人より一歩前に出ているタイプで、こういう性分は前世からのものだった。でもいつかはわたしへの賞賛が失望へと変わるだろうとわかっている場合はこの限りじゃない。ほんとうに残念だけれど、そうなってしまうことはわたしが一番よくわかっていた。あと数年のうちにわたしの発達の度合いにみんなの発達が追いついて、原作で語られた箇所が終わってしまったら。そうしたらわたしは、つまらない、ただの普通の人になってしまう。みんなはこうした事情を知らないから、わたしの否定を謙遜と受け取ってしまうのだ。

 

 イーランはあくびをした。そして手で髪をかきあげると、わたしに向かってにっこり微笑んだ。

「で、オレにはどうしてほしい?」

 彼の輝く笑みに思わず頬が熱くなった。わたしだって女だから美男子は嫌いじゃない。わたしが年頃だったら、ひょっとしたらこの人を好きになってたかもしれないなと思った。

 わたしはちょっと考えて答えた。

「まだジュリアンには知らせないでほしい。あと、危険なやつらだから注意してほしい。それから彼らの仲間にパクノダっていう女がいるんだけど、彼女に触られないようにも気をつけてほしい。本物のサイコメトラーだっていう話なの」

「なんだそれ?」

「触るだけで記憶や考えを読みとれるらしいわ。ちょっと信じられない話だけど、ほんとうらしいのよ。ときどきいる、超能力者の類なんでしょうね」

 こちらの世界には、そう知られる人たちが何人かいた。どこにも触れずに何かを動かすことができたり、知ることができないはずのことを知ることができたりする人たちが。警察に協力している人もいるし、テレビに出たりショーを開いたりして芸能活動を行っている人もいる。わたしは彼らを念能力者と呼ぶけれど、普通の人は超能力者だの霊媒師だの何だのと呼んでいるというだけのことだ。

「美人?」

「え? さあ、どうかしら……不細工ではないと思うけど。スタイル抜群だし」

「なら残念だな。下心もすぐに見抜かれるわけだ」

(そういう冗談を10歳の女児に言うセンスってどうなの?)

 どうにも反応が軽いのが気にかかったから釘をさしておくことにする。

「そういえば、金髪のほう、プロハンターだっていう話よ。ところがグループのリーダーは黒髪のほうらしいわ。一筋縄じゃいきそうにないわよね?」

 絶句の間があった。

「……ハンター?」

「嘆かわしいわよね」

 わたしは肯定した。

 イーランの眉がぎゅっと寄った。それから頭を振って、マジかよ、とうめいた。

「ハンターが一構成員の強盗団? どんな強盗団だよ。……おいおい、じゃあ黒髪のやつってもっとやばいんじゃないのか?」

 思っていたよりも衝撃は大きかったようだった。

 信じがたい気持ちもわかる。世界的に尊敬と信頼を集めるハンターが強盗や殺人を生業としていること、人並み外れた知性と力をもつはずのハンターが一介の構成員でしかない強盗団があること、その彼を従える者がただの青年であろうはずもないこと――。わたしにだって幻影旅団という後のA級首にプロハンターがいるなんて悪趣味な冗談にしか思えない。しかもサイコメトラーも仲間だなんて。まったくもって世も末だ。

「危険だって言ったでしょ」

 わたしの忠告もこれからはもっと真摯に受け止められることだろう。

 

 車はグレイ家の別荘の前に泊まった。

 お礼を言って降りるわたしを、イーランはちょっと待って、と引きとめた。

「その幻影旅団ってのにはあまり関わらないほうがいいんじゃないのか?」

 ありがたいけれど、そんな言葉を聞く気なんかない。

「この話、あなたにしかしてないの。誰かに言ったらすぐにわかるんだからね。他言無用よ」

 バタンとドアを閉めた。

 

 夜になって木立と塀の向こうのお屋敷の灯が落ちて、車のエンジンのかかる音とそれが遠ざかる音を明かりをつけていない部屋の窓からじっと見て聴いていた。これからどこかのクラブに遊びに行くのかな、と考えた。それとも、彼はどこでも引っぱりだこだから、誰かのパーティーに招かれているのかもしれない。

 

 イーラン=フェンリ。彼はモーナンカス社交界で一等輝く星だった。生まれはたいしたことない――彼について話すとき、みんなこういう言い方をした――けれど、ビジネスの才能に恵まれた彼はヨークシンの大学を中退して南アイジエン大陸に渡り、そこで不動産業を始め、やがて大成功をおさめた。

 彼に父親はもういない。事故だか病気だかでとっくの昔に他界したらしい。これは伝え聞く噂だけれど、彼の父親が亡くなった時点で、フェンリ家にはほとんど財産がなくなっていたらしい。なんでもギャンブルで大金を溶かしたんだとか。噂は噂だけれど、これはかなり信憑性のある噂だった。

 悪名高い母親はいた。美しさで有名だった彼女は夫の死後すぐに多くの男性と浮名を流しはじめ、次々と結婚と離婚をくりかえしていった。そして彼女はそのたびに財産を増やしていった。彼女がこういう振る舞いをしたものだから、彼女のあけすけで奔放な性生活とフェンリ家の財政的窮状は世間の耳目を強く引いた。ここにいたっては父親がギャンブル狂いだったという噂はいやがうえにも信憑性を増した。

 こうした家庭や世間の口さがない噂のなかで多感な時期を過ごすということが、聡明な少年にどういう影響を残したのかはわたしにはよくわからない。彼がハイスクール卒業後すぐにこの国を出て行ったのも、もうそろそろ30代後半にさしかかるという今になっても結婚もせずに女遊びを続けているのも、そのせいだとはっきり言えるわけじゃない。でも、彼がサイレント映画のスターを思わせる翳のあるハンサムなのは確かで、そこがまた女性に受けているのも間違いなかった。

 

 大学時代の彼を知るものは少なくない。彼は学業のかたわらモデルのアルバイトをしていたほどかっこよかったし、女性からも人気があって、ヨークシンの社交界に頻繁に出入りしていたから。モーナンカスでそのことを知らなかった人でも、母親ほどの年齢の女優と愛人関係にあると当時の新聞のゴシップ記者に抜かれたことで、彼がどこで何をしているかを知るようになった。

 そのあと彼は大学を自主退学してから南アイジエンのビーアリーカに渡った。そこで成功するまでのことはそれまでと対照的にほとんど知られていない。あの甘ったれたところのある小僧が、と驚いた人もいたらしいけれど、多くは納得している。わたしに対して証明してくれたように彼は聡明だし、強烈な魅力を持っているから。

 

 イーランは、今はここモーナンカスで悠々自適の生活を送りながら、グレイ家、というより父の財政顧問をしている。長い付き合いじゃないけれど、同年代であるせいか父の信頼も厚い。わたしも彼のことは好きだった。わたしが小さなときから、ここのサマーハウスに来るたびに彼はときどき遊び相手になってくれた。グレイ家のごたごたを知っているからか、わたしには同情的で優しかった。姿をほとんど見せなくなった母のナタリーの話をわたしに振ったことは一回だってなかったし、グレイ家に対する聞えよがしの陰口からはいつも遠ざけてくれた。

 わたしは感謝とともにいつしか親近感を感じるようになっていた。お互いの崩壊した家庭に対しての親近感。イーランも同じように感じていたことは薄々気づいていた。イーランも気づかれていたことに気づいた。そのときから、わたしたちは親しい友人みたいになった。

 愚痴も平気で言いあうようになったし、カフェで長い間おしゃべりもした。わたしは彼にあまり隠し事をしなくなっていった。彼もわたしの前で彼の鼻もちならない友人たちをこき下ろした。「くだらないやつらばっかりだ。みんなお上品ぶった馬鹿丸出しの面で、退屈でクソみたいな人生を送っている。お前はああはなるなよ、クローディア」。父のジュリアンの機嫌が悪い日には家に泊めてくれることもあった。そういう日の夜は居間で彼の持っているCDを聞きながら勝手な批評をしあったり飽きもせず噂話をしたりした。電気を消してごしょごしょおしゃべりをしているとふと返事が途切れることがあって、頭を上げて顔を覗きこむと、彼は眠りに落ちてしまっているのだった。

 

 わたしが心のなかで両親をお父様、お母様じゃなくてジュリアン、ナタリーと呼んでいることに最初に気づいたのも、それを反抗期よりもっとずっと根の深い理由からだと理解してくれたのも、イーランだった。彼はわかるよと言った。わたしはわかるはずないと思って、そのときはつい反発してしまった。わたしに例の聖書の一節を教えてくれたのはこのとき。

『こうして、自分の家族の者が敵となる』

 イーランはこれを自分の信条だと言った。彼がそう言ったので、それからはわたしの信条にもなった。

 

 モーナンカスには夏の間しか滞在しないから、イーランに会うのもほぼ一年ぶりだった。彼は記憶のなかの彼と変わったところはどこもなかった。相変わらずのハンサム。ジュリアンと同年代とは思えないくらい若々しくて、20代後半と言っても通じるだろうと思えた。彼はわたしが今までであった人間のなかでもっともハンサム、と言うことはできないかもしれないけれど、ほとんどそれに近かった。輝くような金髪、高く秀でた額、シミも傷もない肌、鼻の形も完璧。わたしが一等好きなのはブルーとグリーンが混ざった宝石のような目だった。その目が彼の顔を繊細に見せていた。感受性の強い少年の目。

(やっぱりそういう目はブルーでなくちゃ)

 それで彼の顔は完璧に見えるのだった。

 



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9. 海岸通り(1)

 次に幻影旅団のふたりと会ったのは3日後のことだった。待ち合わせ場所は前回と同じ、広場の端のカフェ。わたしはまたもやレモネードを頼み、ゆっくり飲んだ。 

 しばらく待っていると、約束の時間より少し遅れて広場の向こうからふたりが悠然と歩み寄ってきた。

「遅かったわね」

「君は早いね、クローディア」

 彼らは爽やかに微笑んだけれど、どいつも遅刻を謝らなかった。

 

 席を立ってふたりを促す。今回の店選びはわたしがした。場所はすぐそこの海岸通りの『海図室(チャートルーム)』。料理はおいしいし、店の主人とは知り合いだし、ウェイトレスはよくしてくれるし、使いやすい良い店なのだ。

 入口には小さな額入りのメニューを出してあるだけ。ドアを押し開けば、地元の客に愛されている類の落ち着いた雰囲気のレストランだとわかる。わたしたちに気付いたウェイトレスが寄ってきて、店内の席は予約でいっぱいだからテラス席でいいかと訊いてきた。否やがあろうはずもない。そう頼んでおいたのはわたしだ。これだから融通がきく店というのは重宝する。

 

 石や貝殻、陶片、色ガラスがはめこまれたモザイクの床に、ランチ用のテーブルが3つだけゆったりと場所をとっておかれていた。そばが遊歩道になっていて、低い石壁が浜辺との境になっていると同時に潮風から守る役目をしている。その石壁の向こうに紺青の海がまばゆい陽光を散らしているのが見えた。

「いい店だな」

 呟くクロロの艶やかな黒髪を風が撫でていく。

「料理もすばらしいのよ」

 ほどほどに人目があって、かつ何か起きても逃げ出しやすいばかりがここを選んだ理由じゃない。わたしはシェフの腕にも太鼓判を捺した。

 そうじゃないとやっていられない。この危険すぎる人たちが言うには、今日は楽しい、打ち解けたお話をするのだから。さいごの食事がファミレスだったではわびしすぎる。良い店というのは、他人には、とくに鉢合わせしたくない人には教えたくないものだけれど、わたしはもう半分あきらめの境地に達していた。

 

 彼らは広口のピッチャーからつがれるキールを、わたしはオレンジジュースをちびちびやりながら短いメニューに目を通していると、ウェイトレスが籠に盛られた焼きたてのパンを運んできた。続いて、バター、ピクルスが入った陶器の壺が出された。

 わたしはロックエビのクリーム煮を、シャルナークはサーモンのムニエルを、クロロはカスレを頼んだ。ところでロックエビなるものをわたしは寡聞にして知らなかった。カスレはインゲン豆と豚肉と自家製のハムの入った煮込み料理で、この地方の伝統料理らしい。前の世界では南仏料理だったのだけれど。この世界の食材や料理はいまだによくわからなくてわたしを悩ませる。

 待っているあいだ、わたしたちはグリーンサラダを分けあった。

 

 それぞれメイン料理を食べ、そこまでは何事も起こらなかった。楽しい食事会はほんとうに楽しい食事会だったのかと、何度も否定しながらもわたしは半分信じはじめていた。

 その楽しい食事会もあとはデザートを残すばかりとなった。わたしはさっぱり冷たいものが食べたかったから自家製シャーベットを選んだけれど、この店はリンゴのタルトが絶品なのでそれをふたりには勧めた。

 シャルナークは銀のフォークをぐさっとタルトに突き立てた。

「理由を訊かなかったね」

「何の?」

「エミール会に参加したいって言った理由だよ」

「ああ、まあ」

 シャルナークは口をとがらせた。どこかおもしろくなさそうな顔をしている。何が不満なのかがわからなかったからクロロを見ると、彼は苦笑気味だった。付き合いの長い彼には原因に心当たりがあるようだった。そしてその原因は苦笑してしまう程度のもの――どうでもいいことなんだろう。

「社交界に顔を売りたいんでしょ?」

「実はそうなんだ」

 適当に建前を口にすれば、クロロがうなずき、シャルナークの口がますますとがった。

 強盗団の活動なんて強盗に決まっているのだから、わざわざ訊く意味なんかない。わたしが彼らを幻影旅団だとつかんでいると確信して接触してきたのだろうに、シャルナークが何をふて腐れているのかわからなくて首をかしげた。

 クロロの目はごく冷静だった。

「悪いねクローディア、シャルは君が何者なのか調べきれなかったことが悔しいんだと思う」

 彼は平然として鋭いナイフのような言葉を押しあてた。わたしとシャルナークの胸に。

 わたしは冷や汗をかきながらも思わずシャルナークに同情した。だってわたしが彼らについて知っているのは漫画で読んだからだと、どうしてシャルナークが知ることができるだろう? さらにわたしが神童扱いされているのは前世の記憶があるおかげだと、何をどう調べたらわかるというのだろう? 彼にわかるはずがない。

 シャルナークは何も言わなかった。たぶん団長のクロロにはっきりばらされたことのほうが悔しいだろう。かわいそうだけれどいい気味だった。

「特に、君にこちらの情報がつかまれているとあっては尚更ね」

 付け足された言葉に、シャルナークの唇がぎゅっと真一文字に結ばれた。情報担当のプライドが相当傷ついているらしかった。

 

 ふいに鳥肌がたって、はっとしてクロロを見れば、彼は右手に“スキルハンター”を広げていた。

(何を……)

 冷水を浴びせられたような気分だった。背筋が冷えた。でもそれを見たわたしの顔がみるみる蒼白になったと言えば、本心を隠すわたしの能力と長年愛されてきたリゾートにふさわしいモーナンカスの日差しとをどちらも過小評価することになる。

 わたしはまだ落着きを失ってはいなかった。

 わたしはずっとオーラを出さないようにして精孔が開いてないように装っていた。今の状態からオーラをまとうよりもクロロの念の発動のほうが早い。もっと言うなら物理的に攻撃されるほうが早い。原作を読んで知っていても信じられないけれど、彼らは弾丸と同じ速さで動けるのだ。勝負にもならない。このまま非能力者を装っていたほうがいいだろうと判断した。

 クロロの右手を見て首をかしげる。

「その本どうしたの?」

 当然だけれどクロロにはまともに答える気がなかった。気にしないで、の一言だけ。

「面倒だから逃げないでよ。大声も出さないで」

 シャルナークが淡々と告げた。

 クロロの目がわたしの目を捉えた。

「今からオレは君の理解が及び、必ず回答を得られるような質問をする。君は嘘をつかず答えてくれ。――わかった?」

「はあ? 何言ってるの?」

 そのとき、ひやりとして、何かがわたしの首に具現化したのを感じた。反射的に手を触れかけたけれど、クロロの視線を感じて、思い直して手をゆっくり下ろした。他人の念に無闇に触るものでもないし。

(具現化系? ……ああ、そういうこと。わからないなら本人に訊けばいいってことね)

 念をかけられたらしい。おそらく今の説明は制約のひとつ。理解したとわたしが認識したことで発動、そんなところだろう。

「何も答えるつもりはないわ」

 わたしはいきなり正体不明の念をかけられたことに、幾分まごつきながら言った。

 シャルナークは目を細め、唐突にナイフを取り出して言った。

「いつになったらわかるのかな、クローディア? これは提案じゃないんだよ」

「じゃあまず1問目。君の名前は?」

「…………」

 あえて沈黙を選んでみた。ガンッとシャルナークがテーブルの脚を蹴った。完全にチンピラのやり方だと思ったけれど、指摘はしなかった。彼にしてみれば蹴ったというより当てたというくらいの力加減だろうけれど。

 わたしの口は不思議と滑らかになった。

「……クローディア=グレイ。ご存知でしょう」

「今何歳?」

「10歳」

 慎重に言葉を選ぶ必要がありそうだった。

 察するに、この念能力の肝は、回答者にどこまで答えるかの任意性が与えられているところ、そしておそらく、質問者は回答者が理解して答えられる範囲の質問をしなければ何らかのペナルティを負うというところにある。もっと言えば、回答者は回答しなくてもいい。嘘さえつかなければ。

 たとえばこの後、まだ隠していることはあるか?と訊かれたら、あると答えるしかないけれど、その隠していることは何だ?と訊かれてもそこから先は嘘以外の任意の回答ができる。『念能力者』だの『異世界人』だの『転生者』だの言うまいと思えば隠せるということだ。

 欠陥ばかりに思えるけれど、二択方式の質問をするには使える能力だと思う。おそらく質問に回数制限もない。つまり、知っているかどうかをまず尋ね、知っていると回答されれば知っていることは何かを訊きだすという手順を踏めばいい。これで回答者が答えられる質問をしなければならないという制約をおおよそクリアできる。

 この念能力はおそらく尋問用の念能力で、フェイタンなんかと組み合わせると実にすばらしい威力を発揮するのだろう。

 

 そこからはひたすら質問と回答の繰り返しだった。君の母の名前を知っているか? その名前は? 定住しているか? 住所を知っているか? その住所はどこだ? ……。

 首を振って答えると、ジェスチャーゲームじゃないんだ、口で答えてくれないか、と注意された。

 

 思うに、これは非念能力者あるいは未熟者を対象に使うのに向いた能力だ。念を知らなければわたしだってここまで素直に答えないし、嘘のひとつもついてみるかもしれない。怖いのは、嘘をつくと何らかのペナルティがあると考えられるけれど、それが何なのかわからないというところだ。試してみる気にはなれなかった。未熟者にも向いているというのは、制約と誓約を理解していなければ最初の説明の言葉のニュアンスにもまったく注意を向けず、拡大解釈してべらべらと喋ることになるからだ。

 クロロとシャルナークのふたりはおそらくわたしを非念能力者だと前提している。念能力者だと疑うならもう少し慎重になるはずだと思うし、シャルナークがわかりやすい脅しの形としてナイフを持ち出したところからそうと推測できる。非念能力者にとっては携帯電話や本よりもナイフのほうがわかりやすいという考えだろう。まあ、10歳の子どもを念能力者だと疑えというほうが無茶というものだろうけれど。

 この能力のもうひとつの欠点は、念を知っているか?と訊けない点だ。回答者が知っているならセーフだけれど、問題は知らなかった場合にある。回答者の知らない概念や観念できないことを聞いてしまった場合、おそらく制約と誓約にひっかかる。オリジナルの使用者が能力を作るときにこのことまでちゃんとわかっていたのかという疑問があるけれど、わたしはわかっていただろうと思う。むしろそれを狙い撃ちにした制約と誓約なのだろうとすら思う。直接そういう制約と誓約をつけなかったのは、対象者に説明する必要があるため、そして問題ない程度に制約と誓約の範囲を拡大して少しでも能力の強化を図るため。

 念を知っている疑いが濃い場合はリスクをとって訊いてみるのもいいかもしれないけれど、わたしのようにほぼ知らないだろうと思われる場合にわざわざ訊いて確認することもない。春先にベアクローに念を使えることを見破られたのは、わたしが射的にむきになりすぎて無意識に“凝”をしたり“周”をしたりしていたかららしい。普段は意識してもできないのに。今回は射的なんかしてないし、わたし自身相当注意していたから、その点は安心していた。

 とはいえすべては推測でしかない。

(外れてたら盛大に爆死ね)

 念能力者は制約と誓約を隠す場合が多い。欺瞞工作をすることも珍しくないらしい。今、わたしがそうされていないとは到底言い切れない。

 

 それはさておき、最大の欠点はといえば、やりとりが非常にくどくなって、双方が疲れて面倒くさくなることだとわたしは強く確信するに至っていた。クロロもわたしも食後のコーヒーをおかわりした。シャルナークにいたってはテーブルに頬づきをして携帯電話をいじりながら聞いている。たぶんわたしたちはみんな、パクノダの能力がどれだけ高性能で有用なものかを実感していたと思う。もう少し簡潔にならないの?と苦情を申し立てたけれど、やっぱり無視された。回答者の質問には答えない、みたいな誓約があるのかもしれない。

 クロロの顔色は変わらないけれど、わたしの顔には飽きがありありと浮かんでいることだろうと思うし、それを責める人はいないだろうとも思う。答えもだんだん短くなって、いくつかの単語を並べるだけになった。

「なぜオレたちに取引を持ちかけた?」

「勝ち馬の尻に乗りたかったからよ」

「美術品の密売をやろうと思った動機は何?」

 わたしはうんざり感あふれるため息をついて、苛立ちのこもった声で理由を述べた。

「決まってるでしょ。お金よ、お・か・ね」

「金持ちだろ?」

「使えば減るのよ、お金って。知らなかった?」

「君自身の財産はある?」

「あるわよ。でも信託預金になっていて成人するまで使えないの」

 そろそろ癇癪を起こそうかと考えていると、わたしは次の質問に突然心臓を冷やされた。

「イーラン=フェンリとはどういう関係?」

「……お隣さんよ」

「それにしては親しいみたいだな。それだけじゃないんだろ?」

(……だからイーランには話しかけてほしくなかったのに)

 なんとかごまかしながら答えようとすると、胸がしめつけられたように痛んだ。口を開きかけて、またつぐむ。頭がぐらぐらして、どっと汗が噴き出したかと思うと、猛烈な吐き気が襲ってきた。

 唐突な体調不良に混乱しながら、それを気取られまいとなんとか言葉をひねり出した。

「そんなことまで訊くの?」

 声がかすれた。

 ふと気がついた。イーランについてこの人たちに多少深く話すことの何が問題なのだろう?と。

(だってイーランはすでに――)

「…………まあ、これは言ってもいいか、今となっては。あのね、イーランはお父様の財政顧問なの。……これがどういう意味かわかる? つまりね、お父様の不正資金の洗浄を手伝ってもらっているのよ。この話、ほかではしないでね、お父様に殺されるから。言葉通りの意味でね」

 痛みや吐き気は嘘みたいに消え去っていた。

「話せば殺される? 沈黙を強制させられていたのか……? 『必ず回答を得られる質問をする』……競合していたのか? 今となっては話せる……思い直したからか?」

 クロロは思考の世界へ旅立った。

「グレーゾーンだったみたいだね」

 シャルナークは笑っていた。よく笑えるものだと思った。これだから他人の念は怖いのだ。それを盗んで使うなんて正気の沙汰とは思えなかった。ぞっとする。

 自分の念ならばこちらの気持ちや考え方を反映して念のほうが変化してくれる。習熟度も高いし、何度も試して穴やグレーゾーンを潰していける。そしてひとつの単語に自分の解釈をあてはめられる。意味はひとつだ。

 他人の念を使うとなるとそうはいかない。盗めば概要はわかる仕様にはなっているのかもしれないけれど、元の能力者が無意識で処理していた問題が出てくる可能性があるし、同じ単語でも元の能力者の解釈と自分の解釈とには大なり小なりずれがある。他者から盗んだ念がどちらの認識で処理されるのかはわたしにはわからないけれど、どちらにしても危険すぎる。

 今回は回避できたし、誓約にひっかかったとしても死ぬようなペナルティを受けるようなものではないだろうからよかったものの、次は地雷の存在にすら気付かないで地雷をしっかり踏み抜くかもしれない。そんな念能力をつくるのは、頭がよくてネジが何本かぶっ飛んでいる人間だけだ。

 

 思考の世界から帰還したクロロは、わたしは資金洗浄についてもっと踏み込んだ質問をした。

 

 不正資金の洗浄、それこそがヨークシンから飛行船で2日かかるここモーナンカスにわざわざ財政顧問をおいておく理由だった。

 タックスへイヴンとしても知られる、あらゆる銀行業務の秘密を守る小国――それがモーナンカスの側面なのだ。それゆえ世界中の富豪から暑苦しいまでの愛情を受けている。でもその愛情もマフィアのそれにはおよばない。自分たちのダーティーマネーを洗浄するのにここほど親切を施してくれる場所もなかなかないのだ。ジュリアンのようにダーティーな富豪については言うまでもない。

 この国の貴顕紳士の多くはマフィアとビジネス上のつながりをもっている。マネーロンダリングに関わるつながりだ。会社を設立するための条件として、会社の発起人としてこの国の住民がひとり名を連ねるだけでよかった。この表向きの企業を通じてマフィアンマネーは浄化される。モーナンカスはいわば中継基地なのだ。ここを通ったマフィアンマネーはより多くの収益を生み出すべく海沿いに南下する。――そこには世界有数の大都市、ヨークシンがあるのだ。

 

 クロロの神秘的な目が静かに光っていた。

「マネーロンダリングの情報は『沈黙の強制』には引っかからないのか」

 検証する科学者のような小さな呟き声。わたしは教えてあげる。

「一般的な知識とすら言えるわ、わたしたちにとってはね。みーんな知ってることよ。ヨークシンに拠点をもつマフィアやギャングもどこも同じことをやってるわ」

 

 それから、クロロはわたしが触れられたくないことに踏み込んできた。

「このあいだ、パドキアの列車でオレと接触したのは、故意か偶然か?」

 こういうのがまさにこの念能力が得意とするだろう二択問題だ。『偶然』の範囲を拡大解釈してもごまかすのは無理だろう。だって選べる答えはふたつのうちひとつで、どちらかといえば明らかに、

「……故意よ」

 こちらだと認識してしまっているのだ。

「その意図をしゃべるのは『沈黙の強制』に触れるか?」

「いいえ。あなたたちについてはわたしの独断でやってることだから」

「なぜオレたちに目をつけた?」

「盗むものの趣味がよかったからかしら。たいした目利きがいるようね。一匹狼的なにおいもしてたし」

 少し考えて答えるとクロロは矛先を変えた。

「オレとシャルが所属しているグループを知っているか?」

 茶化したくなったけれど、命が惜しいのでぐっとこらえた。

「知ってるわ。B級賞金首の幻影旅団でしょ」

「ほかの所属メンバーを知っているか?」

「それも知っているわ。もちろん全員じゃないけど」

「誰を知っている?」

「パクノダ、マチ、ノブナガ、ウボォーギン、フランクリン、フェイタン、フィンクス――といったところかしら。会ったことがあるのはあなたたちだけよ」

 クロロはふうん、と反応しただけ。シャルナークはすごく警戒のこもった目でわたしを見た。

 全員を知っているわけではないと言いつつ、初期メンバー全員の名をあげることができた。これは時間軸のずれを利用した。殺されることになる4番や8番をわたしは知らない。嘘はついていない。だからクリアできた。

 初期メンバーに加えてもうすでに中期のメンバーが加入しているのかどうか、ふたりの反応からヒントを得ようと思ったのだけれど、さすがに彼らは用心深い。ここに旅団の脳筋メンバーのひとりふたりでもいれば、その反応からわかったかもしれないのにと思う。加入者がまだいないならわたしの言葉の矛盾を指摘するだろうから。

 ついでに一応、というくらいの調子で尋ねられる。

「オレたちの使う特別な能力について聞いたことはあるか?」

「特別な能力? どんな錠前でも開けられる技術とか? ないわよ」

 念能力なら知っているけれど、あれは漫画で見たものであって聞いたものではないし。それに今の質問は別の解釈も可能だ。彼らの使う個々の能力について、という意味に捉えることもできる。

 なるほど、と呟きつつクロロは右手の本を閉じた。同時に首のまわりの不快な違和感が消えた。

 わたしは正直、拍子抜けした。旅団について知っていることなどをもっと掘り下げて訊かれると思っていたからだ。どんな攻撃がきても対処できるように十分身構えていた。シャルナークも同感のようで、もういいの?と意外そうに目を丸くしている。

 クロロは肩をすくめて、だるくなった、と返し、ウェイトレスを呼んで勘定を頼んだ。

 だるくなったのは事実だろうけれど、それだけではないだろうと思った。わたしは以前クロロをこう評した――頭がきれ、際限なく融通がきくタイプで、こまごました情報をひとつにまとめて完成図をつくりあげるのがうまい、と。おそらく彼の明晰な頭脳は、彼がある程度納得できるところまで真実に迫っている。

 ――ひどく嫌な予感がした。

 



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10. 海岸通り(2)

 波頭が遠くの沖で白く崩れる。遠浅の海。水面に日光が散乱してまぶしい。浜辺では子どもたちが砂の城をつくるのに熱中している。満ちてくる潮にさらわれる前に仕上げようと懸命だ。

 わたしたちは浜辺沿いの遊歩道をゆっくり歩いていた。食後に少し散歩でもしようとクロロとシャルナークが言いだしたからだった。うまく断る言葉が思いつかなかった。幻影旅団に昼食後の散歩を誘われた際に角を立てずに逃げ出す方法なんて、前世でも今世でも誰も教えてくれなかった。

 ふわふわとわたしの赤褐色の髪が潮風にもてあそばれる。クロロとシャルナークにはさまれて、ストレスで胃が痛い。わたしはブリザードキャンディSを包装フィルムから出して口に入れた。じりじりする痛みが清涼感でまぎれる。

 

 終わりだと思っていた質疑はまだ続いていた。わたしが『沈黙の強制』により話せないと言った範囲について訊かれた。クロロが念を消せば制約と誓約も消えるので、わたしが『答えられない』質問もできるようになるのは条理だ。なぜあれで終わりだなどと考えていたのか、わたしは自分の頭の緩さが嫌になった。

 話せないものは話せないので、わたしは、話せない、と繰り返すしかなく、ふたりに殺気をあてられて終始身をすくませていた。

 クロロが、ふぅとため息をついた。それを受けてシャルナークがいかにもぞんざいな脅しをかけてくる。

「なめてるの? それとも死にたい?」

 顔はしらけきっていた。もういいから殺しちゃおうよ、と言わんばかりだ。小さい子どもに対する思いやりが絶滅している。

 わたしはもごもごと否定し、この場の決定権を握っているクロロに闘争心のかけらもない目をむけ、心の中で訴えた。

(どうか落ち着いて、損得で考えて。今わたしを殺しても得るものはないはず――)

 クロロはわたしの一心の訴えを微風のように受け流し、

「そうだな。殺そうか」

 と、あっさり死刑宣告をだした。

 わたしは信じられない気持ちでクロロを凝視した。そればかりか彼の正気をわざわざ確かめさえした。

「本気で言ってるの……?」

「そうだけど」

 彼の返事で、片足がすでに棺桶につっこまれたことを悟った。

 

 研ぎ澄まされたオーラがびりびりと肌にあたり、わたしは反射的に飛びすさった。クロロが“纏”をほどいてオーラを噴出させ、“練”の状態にしたのだ。

 あたりを見回すけれど、遠くに人影が見えるだけ。近くの建物も午睡の中にあるような静けさ。助けはおろか盾になってくれそうな犠牲者があらわれてくれることも期待できそうにない。逃げなければ――、そう思うのに、体はもうそれ以上動かなかった。のどがひりついて声も出なかった。

 念を使えば少しは楽になるとわかっていたけれど、使う意味なんかちっとも見出せなかった。闘っても敵うはずないし、相手が殺す気になっているなら逃がしてくれるわけないし、わたしが念を知らないふりをしていたことでより心証を悪くするかもしれないし、わたしの下手な念じゃ苦しむ時間が長くなるだけという結果に終わるかもしれなかったからだ。生きのびる可能性を上げるために念を習得したのに――それだけじゃなくて多少のミーハー心があったことは否定しないけれど――、肝心な場面で使えないという実に皮肉な事態に陥っていた。

 わたしはがたがた震えていることしかできなかった。棺桶につっこまれた片足を、もう一方の足が大急ぎで追いかけているみたいだった。

 

「お別れだ」

 “舌”。その瞬間クロロのオーラは禍々しさを増し、一拍後、わたしの胴へ一撃が放たれた――。

 

 ――わたしは弾きとばされ、背中から地面にたたきつけられて転がった。

(生きてる……!)

 一瞬止まった呼吸は、激しい咳きこみにより取り戻された。胃の内容物がせりあがってきたけれど、根性で飲み下した。これ以上の醜態はごめんだった。

 胸の下あたりが痛くて、腕で抱えて丸まった。呼吸はいくらか安定を取り戻したけれど、まだぜいぜいとのどが鳴った。瞬きで涙を払ってにじんだ視界をクリアにする。そのままクロロとシャルナークを確認すると、ふたりは自然体でわたしを観察していた。

「あれ、ほんとうに知らないのかな」

 それがクロロの一言目だった。観察の結果に驚いているような訝しがっているような、そんな調子。まったく悪びれたところがない。わたしは彼を陰険な目つきで睨んだ。

「どうも答え方が素人っぽくなかったから、もしかしたらって思ったんだけど……」

 綻びのない“纏”にオーラを戻したクロロは確かめるようにじっとわたしを見た。

 額に嫌な汗がじっとりにじんだ。あせって念が使えるところを見せなくてよかった、と心底思った。わたしが念を使えるかどうかを見るためのブラフだったらしい。初めから殺すつもりなどなかったのだ。

 クロロは胡散顔で、でも、と続ける。

「いくら圧力かけてたからって一度も嘘をつかないのは変だよね。小さな嘘を混ぜて脅しに抵抗するのが普通なんだけど」

 言われて気づくあたり、わたしは救いようのない間抜けだ。シャルナークもその疑念に同感して、手の中の携帯電話を、これ見て、とクロロに示した。

「オレ語数の統計とってたんだけどさ、ちょっと不自然な傾向が出たんだよね。口数が少なくなったり急に説明的になったりさ。これ、隠し事してるときの典型だよ」

 彼はずっと携帯電話をいじっていた。わたしの答えの裏付けをとっているのだとばかり思っていたけれど、そんなこともしていたらしい。有能すぎる。

 クロロはその情報をピースにして頭の中のパズルにはめているようだった。考えを補完するものであったらしく、どこか満足げだ。そうだよな、と確認するようにうなずいている。そして優雅な足取りで近づき、わたしを見下ろした。

「隠し事があるはずの君は、なぜかひとつの嘘もつかなかった。――質問と回答のルールを完全に理解していたからじゃないのか?」

 平然とした声に、わたしはくちびるをかんでうめいた。

(いい加減にしてよ)

 どうしてこうも的確に真実に迫れるのだろう。クロロは作者のお気に入りであろうと思われるけれど、だからといってここまでご立派な性能をもたせることはないじゃないか? 遵法精神やモラルが大崩壊しているとはいえ、イケメンで強くて賢いのではたっぷりお釣りがくる。シャルナークもシャルナークだ。あの先手必勝の、一撃で相手を無力化できる念能力だけで十分だろう。

 嫌味が服を着て歩いているようなやつらだった。考えれば考えるほど腹が立った――とくにわたし自身に引き比べて考えたときには。

 

 わたしは脂汗をかきながら身を起こした。もんどりうって転がったせいで髪は砂っぽいし、ワンピースは汚れたし、腕やひざはすりむいているし、なにより殴られた腹には無視できない疼痛があるし、それら全部がわたしをみじめな気分にした。プライドが大きく傷ついていた。でも、わたしが芋虫みたいに這いつくばっていて彼らがそれを冷ややかに見下ろしている図というのは、わたしのプライドが許す範囲を超えていた。

 震えそうになる足を踏ん張って、腹をかばっていた腕をおろして、ショックをひた隠しにして、わたしはまるで傷ついてもいないといった顔で彼らに対峙した。

 わたしは過度のストレスにさらされた難民のごとき心境で、しかし精いっぱいに虚勢を張って――彼らを刺激しないように敵対的な態度は抑えて――ごまかしにかかった。

「ルール? ……わたしが知ってるのは尋問を受けたときの答え方よ」

 クロロは興味をひかれたみたいな表情になった。

「わかるでしょ。相手が求めている情報をいくつか与えてやって……」

 ここでむせた。いきなり声を発するには呼吸器の調子が整っていなかった。

「……――そうしないでいて最終的にとられる情報よりも、少ない情報で切り抜けるの」

 幸いだったことに、前世を含めて今まで実践する機会のなかった知識だ。それはそうだろう。普通に生きていて戦争映画ばりの尋問シーンに直面することなんてまずない。でも暗い世界に足を突っ込んでいるとわかることもある。世の中には誰からでも情報を引き出す方法と手段というものがあり、沈黙は必ず守られない。認めざるを得ないことは認め、それ以上の情報は提供しないのが最良の行動方針なのだ。

 ちなみにこれはわたしが嘘をつかなかった理由にはなっていない。与えてやる真実というのは、より大きな真実を隠すための嘘を信じさせるべく与えられるものなのだから。彼らもそれには気づいている。

「それに、あなたたち、本気じゃなかった」

「なんでそう思う?」

 馬鹿馬鹿しい。

「やり方がぬるすぎる。本気でわたしから情報を得るつもりがない」

 本気で正確な情報を得ようと思ったら数カ月はかかるものなのだ。しゃべらせて、かつしゃべったことの真偽を確かめようと思ったら。フェイタンの得意な拷問でもまず目的に沿えない。極度の痛みをあたえられれば誰だって何でも認めるし、逃れられるならと思えばあることないことしゃべる。尋問には専門的な技術が必要だ。少なくともレストランのテラス席ですませるようなお手軽なやり方では無理だ。

 でもこれも、わたしが嘘をつかなかった理由にはなっていない。

 わたしは乾いたくちびるをなめて潤した。次の台詞が重要なのだ。最大限の効果を発揮するように音程と速さを計算しながら、わたしは言った。

「それならわたしが与える情報だけでいいとあなたたちは考えているはず。だからあなたたちに事実を誤認させるつもりでもなければ、わたしに嘘をつく理由はない。そうでしょ」

 

 わたしの言い分を聞き終わったクロロは、ゆっくりと口角をあげて、うっとりするほどきれいな笑みを浮かべた。

「やっぱり君は賢いね、クローディア」

(ほめられてるの? 馬鹿にされてるの?)

「それに度胸もある。……あとクローディア、君、殺されるなんて思ってなかっただろ」

 当然だろう。クロロなら手刀の一閃でわたしの頭を落とせる。手にオーラを集めればいいだけなのに非効率な“練”をしたのには理由があったからだ。もちろん威嚇のためだ。現にわたしに一発入れる瞬間はオーラを移動させて威力をほとんど削いでいた。それにエミール会にもまだ連れて行っていないことだし。

 返事を期待されているふうではなかったからわたしは黙っていた。

 クロロは頭の中を整理して確認しているように何度かうなずきながら、

「そういうことにしておこう。今は君が投げてよこした情報だけでよしとしよう」

 と言って、ようやく追及の終わりを告げたのだった。

 

「じゃあオレたちは行くけど――シャル」

「ほい」

 シャルナークはわたしに携帯電話を差しだした。いたって普通の、折りたたみ式でパールホワイトの携帯電話。

「あげるよ。肌身離さず、電源も切らないで、番号やホームコードを変えるのもなし、こっちからの発信には必ず応えること」

「……発信器とか」

「ついてないって」

 そうして不審がるわたしの手に押し付けた。こんなものを用意されているとは、やはり殺す気はなかったのだ。わたしはため息をついた。

 クロロはわたしの反応に心外そうに肩をすくめた。

「もっと感謝してくれてもいいんじゃないか? ――これで君は救急車なりタクシーなり好きに呼べるんだから。内臓は傷つけないようにしたけど、肋骨は1本折れてるよ。お大事に」

 殺意を抑えたわたしは、今間違いなく世界で一番寛容な人間だろう。

 道理で痛すぎると思った。暴行罪で訴えたかった。でもクロロは流星街出身なのであって、いないことになっている人間を法廷へ連れて行くことはできない。泣き寝入りだ。

 

 クロロの別れの言葉にも人間性は皆無だった。

「エミール会の件はよろしく」

 シャルナークはにこっと笑いかけてきたけれど、それもわたしの癇に障った。

「またね、クローディア」

 そして彼らは肋骨を折られてふらふらのわたしを、外見年齢10歳の女の子のわたしを放置して、そのまま去っていった。

 

 ふたりの姿が完全に見えなくなってさらに10分待ってから、海岸通りまで歩きタクシーを捕まえてサマーハウスに戻った。メイドのカーン夫人がひとり残っていてわたしの格好に眉をひそめたので、砂浜で遊んでたらはしゃぎすぎちゃったの、と言い訳した。

 シャワーを浴びて――そのときに腹の青いあざを直視してまた落ち込んだ――、清潔なペールピンクのワンピースに着替えなおすと気分は少し回復した。お腹がほんとうに痛くてまたちょっと涙が出た。鼻をかんで、とりあえず鎮痛剤を大人の分量超えて飲んだ。

 電話して医師に往診を頼み、カーン夫人にそのことを伝えて、わたしはベッドにもぐりこんだ。くたくただった。

 シーツの中で丸まって目を閉じていると、カーン夫人が掃除機をかけたり物を動かしたりする音が聞こえた。カーン夫人に夕食はいらないと伝えておけばよかったとぼんやりした頭で思った。体のあちこちが痛くて疲れすぎていたから、何も食べる気になれなかった。

 

 薬が効いてきて、うつらうつらまどろみながら、わたしは不思議な気分にたゆたっていた。先ほどまでのことが現実にあったということが信じられない気がした。というより、自分が生きているということがいまだによく飲み込めていなかった。だってわたしは確かに死んだのに。しかしわたしはかつて漫画の世界と認識していた世界で生きている。ここが死者の国なのか? だとするとこの生は本物の生なのか? わからない。あるいはこれは死ぬ前に見る奇妙な夢なんじゃないのか?

 現実感が薄れて、だんだん現実と非現実の境があいまいになっていった。

 

 まるで接地感のない感覚の中で、前世での出来事や感情の記憶が浮かんでは消え浮かんでは消えていった。なかにはわたしが忘れていたようなものもあった。忘れられないもの。父や母の顔、言葉。「あなたはきれいなものが好きなのね」。「これはお前がお嫁に行くときにお前に持たせるつもりだ、×××」。果たされなかった約束。ああ、彼らはまだ生きて元気にやっているだろうか? そして美術がわたしの人生に舞い降りてきた瞬間――。

 ゴッホの『星降る夜』、ピサロの『赤い屋根、冬の効果』、シスレーの『雪のルヴシエンヌ』、カサットの『青い肘掛椅子の少女』。印象派以前では、エル・グレコの『受胎告知』、フェッティの『メランコリー』、ベラスケスの『ロークビーのヴィーナス』。ほかにもたくさん。この世界にはない、あるいは似て非なる名画たちがモザイクのように鮮やかにわたしの意識を染め上げた。わたしが死ぬ前の世界の美術。あまりにも懐かしい。美しくて感動したけれど、その感動は傷だから、うれしさや悲しさが胸に詰まって、息を飲んで身じろぎもできないでいた。

 絢爛たる色の洪水のなかで、前世のわたしと今のわたしが入り混じっていくようだった。どちらがどちらのものなのか、境界がわからなくなる。生きているのかもう死んでいるのか。頭のなかの洗濯機にいろんなものをつめこんで、ぐるんぐるん回しているみたいだった。

 突然、鏡が割れるように世界が砕け、そのひとつひとつに覚えのある光景が映された。

 わたしからわたしが流れ出していく。

 

 そして、霧散していく自己が再び形になり、わたしになった――。

 



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11. 昼下がり(1)

 わたしがようやく目を覚ましたのは、夜明けからだいぶたった時刻だった。太陽の光がカーテンの隙間から射しこんでいた。胸の時計に目をやると、時刻は9時。

 わたしはナイトテーブルの上の携帯電話をとって耳に当てた。

「……はい」

「おいクローディア、なんでさっさと電話をとらないんだ? その声寝起きっぽくない?」

 わたしはふいに学生時代に戻ったような気分がした。授業中に居眠りをしているところを教師に見つかって詰られている感じだ。

「ちょっと手がふさがってただけよ。この携帯、コール音もヴァイブも切ってるんだから、わかってなきゃとれないでしょ」

 わたしが電話をとれたのは偶然だった。ちょうど目がさめたからだ。だからといって素直に認めてやる必要なんてない。どうせ相手からこちらは見えないのだから。失点は隠すに限る。

「……ま、いいけどさ」

 ベアクローの声からは、抵抗の末に、不信と疑いがしぶしぶ納得と許容へと道を譲ったのが感じ取れた。

 事実として、このリリー用の携帯電話はもっぱらかけることに使っていて、着信があるときにはあらかじめその旨の連絡がある。だからコール音とヴァイブは常にオフなのだ。ひとり何役もやるといろいろ配慮が必要になるということだ。『クローディア』をやっているときに『リリー』に連絡が来ると困るどころではなくなるのだ。逆の場合も然り。

 わたしは眠気を追い払うためにブリザードキャンディSを口に放り込んだ。

 

「こっちを発つ目処がついた。3日後だ」

「あら。あなたもヴァカンスだった?」

「仕事だよ。まったく、気軽に呼び付けてくれちゃって、まあ」

 うふふ、とつい笑い声が出た。

「どこにいるの? 何日にこっちに着く?」

 会えると聞いてしまったら、すぐに会いたくなる。

「どことは言えねぇけど、ま、11日はかかるかな」

(エミール会は10日後……うーん、ギリギリ。居場所を教えてくれたらチャーター船でも飛ばすんだけど)

「そんなにかかるの? ワールドワイドな殺し屋なのねえ」

「優秀なのよ」

「うん。知ってる」

 電話を切って、わたしはぐぅっと伸びをしてベッドから出、カーテンを開けた。それからシャワーを浴びて、クローゼットから服を選ぶ。

 わたしのワードローブには明らかな傾向があった。ワンピースが多いのだ。これによってわたしは上下の組み合わせ――配色だとか素材だとかテイストだとか――を考えるという煩わしさから半ば解放されている。

 そういえば前世でもワンピースにはずいぶん助けられた。夏は自宅では下着しか身につけていなかった。ハンガーにさっと着られるワンピースを一着かけて出しておいて、宅配が来た折などはそれを頭からかぶって、あらかじめポケットに入れている印鑑で対応したものだった。

 くだらないことをだらだらと思いだしながら、グレー地に黄と紫のぼかし模様が入ったワンピースを選んで着た。

 居間へ降りてカフェオレでも飲もうかと考えていると、ナイトテーブルの上の携帯電話が鳴りだした。わたしは反射的にうんざりした。ときどき自分が人生の半分を電話に費やしているような気がした。鳴っているのはシャルナークに押しつけられたパールホワイトの携帯電話だった。わたしのうんざりはさらにひどくなった。

 

「……はい」

「あ、クローディア?」

「そうよ、シャル。ごきげんよう」

 わたしの声には極大の皮肉がこめられていた。

「いい朝だね。よく眠れた?」

「ええ」

「このあいだは楽しかったね」

 シャルナークの声は悪気なさそうでいて、しっかり皮肉を返してきていた。

 このあいだ、とは一週間前の食事会のことだ。わたしが肋骨を折られた、あの。わたしは心のなかで、

(抑えて、抑えて、抑えて、抑えて、抑えて……)

 と呪文のように自分に言い聞かせなければならなかった。

「エミール会の手配してくれたらしいね。で、さ。お礼をしようと思って。今日一緒に昼食でもどう?」

 鼻を鳴らして嫌味を言いたい衝動に駆られた。お礼をしたいとは分別らしいけれど、今度の食事会ではどこの骨を折ってくれるつもりなのだと。お礼はいいから骨折の治療費と慰謝料を払ってほしい。謝罪と休養の間の逸失利益の請求はあきらめよう。

 思い出すとさらに腹が立ってきた。

「お礼なんていらないわ」

 半ば強迫を加えてやらせたことに対して礼などとは、まったく面の皮が厚い。この人を小馬鹿にしたような態度にはほんとうに苛々させられる。

「そう? でも昼食は断らないよね?」

「……お誘いはうれしいけど……」

 それを断っているのだけれど。

「よかった。じゃ、どうする? 待ち合わせにする? 迎えに行ってあげようか?」

「………………」

 シャルナークはどうしてもわたしの意を汲みとらない気らしかった。

「……待ち合わせにしましょう。お店はわたしが決めて構わないのよね?」

「うん。実は半分はそれが目的でさー。クローディアの勧めるものにハズレはなかったし」

(当然)

 まあそう言われて悪い気はしないけれど。それよりあとの半分の目的がすごく気になった。だからといって訊くのは怖かった。

「あ、そうだ。人数増えるんだけどいいよね?」

「はい? ……そっちは何人になる予定なの?」

「5人だよ。クロロとオレと、……あとは会ったときに紹介するよ」

 嫌な予想しかできなかった。ここで彼らがわたしをランチに誘い、仲間を紹介する理由なんか――パクノダをわたしに接触させるため以外に思いつかない。わたしが団長だったら絶対に呼び寄せる。そして自分たちを調査している怪しい子どもを探らせる。ほかのふたりについては知らないけれど。

(ちょっと、どうすんのよ……)

 どう考えてもまずい展開になりかけている。

「いきなり言われても困るんだけど。ヴァカンスシーズンのモーナンカスよ? 当日に席を確保するのってすごく大変なんだから」

「クローディアならなんとかできるだろ? よろしくね」

 なんとかできるだろ? この言葉ははたして大の男が小さな女の子に向けた言葉だろうか? それともドラえもんにすがるのび太の言葉だろうか? いや、のび太のそれよりひどかった――無責任さは同じ程度ながら、信頼に基づいたものではなく、むしろジャイアン的ななんとかしろ感を言外にたっぷり含んでいた。

 こんな調子でプロハンター様との会話は終わったのだった。

 

 わたしは履歴をプッシュして再び携帯電話を耳にあてた。

「イーラン! もうわたしだめかもしれない! 心が折れそう!」

 

 ――12時。快い風がどっしりしたプラタナスの葉をざわめかせてゆっくり吹き抜ける。見上げると、青い夏の空の切れ端がちらちらと葉の間に揺れている。足元の石畳はほんのりと温かかった。わたしの真後ろのテーブルからポンとワインのコルクを抜く音が小さく響いて、カメラをもった観光客らしき若いカップルの会話がぱらぱらと聞こえてきた。

 わたしたちは観光客や地元のショッピング客でにぎわう街の中心部の外れ、路地の小さなレストランの、さらに小さな中庭に席をとって座っていた。

 わたしたち――そう、わたしとクロロとシャルナーク、それに新たに加わったフランクリンとフェイタンとパクノダだ。パクノダがわたしの隣に座ったことに対しては作為以外の何物も感じない。

 

 近くの広場で待ち合わせをしたわたしたちは、おそろしく目立っていた。ヴァカンスに訪れた芸能人みたいなクロロとシャルナーク、美しい肢体をセンスの良いサマードレスに包んだパクノダ。……ここまではいい。彼らはたいそう人目を引いていたけれど、モーナンカスでは悪い注目のされ方ではない。問題は、怪しげかつ暑苦しい黒ずくめのフェイタンと、怪物じみた風貌のフランクリンだった。彼らのような格好が許されるのは、無人島か逆にヨークシンのような大都会か、あるいは旅団のアジトか地獄か漫画の中か、そのくらいだろうと思われた。

 彼ら幻影旅団の面々だけでもわけのわからない集団だったけれど、そこに不本意だけれどわたしという少女が入って見る者をさらに混迷させた。

 知り合いには見られたくなかった。見られたらわたしの交友関係に疑問をもたれることは間違いないだろう。彼ら幻影旅団はただわたしの横にいるというだけでわたしの評価を下げさせ、わたしを暗鬱な気分にさせるのだ。

 わたしはこの妙な団体と晴れない心をひきずるようにしてレストランにたどり着いたのだった。

 

 わたしたちはアペリティフとして白とロゼのワインを注文して、初対面の人間同士の儀式に入った。

「とりあえず、自己紹介でもしましょうか。ご存じでしょうけど、わたしはクローディア。よろしく」

 わたしは微笑みをつくろって言った。ところが彼らの中にはできるだけ穏やかな人間関係というものに興味のないやつもいて、わたしの努力を鼻先であしらった。

「ふん」

「フェイタン。……わたしはパクノダよ。よろしくね。彼はフェイタン。今はちょっと機嫌が悪いみたいね」

 フェイタンをたしなめてパクノダが微笑みかけた。威嚇役と懐柔役というわけだろうか。

 彼女の優しげな物腰にもわたしの心は――不愉快な団員による不愉快な仕打ちによって冷たく閉ざされたわたしの心は――少しもゆるまなかった。わたしがいい歳の男だったらパクノダを前にここまで理性的な気持ちでいられたかどうかはわからないけれど。

「オレはフランクリン。……オレを怖がらないんだな」

「まあね」

 隠しているだけだ。内心はすごく怖がっている。でもそれは彼らが幻影旅団だからだ。それに今となっては子どもぶってフランクリンに怯える演技をする意味もない。

 

 メニューが運ばれてきた。ワインリストもそっと置かれた。アイスバケットがふたつに水、ソーセージを軽いパイ皮にくるんで焼いたものをのせた皿、オリーヴ入りのアンチョヴィペーストの入ったボウル、焼きたてのパンも一緒だ。

「あら、おいしい」

「ね? ハズレはないんだよ」

 パクノダのシンプルな称賛の声になぜかシャルナークが胸を張った。

 

 こうして幻影旅団との昼食はなごやかに進んだ。嘘。そんなはずはなかった。

 苛立っていたフェイタンはいきなり殺気をぶつけてきた。

 ぶわっと肌が粟立つ。

「――視線が鬱陶しいね。気づかれないと思たら大間違いよ」

 わたしは冷や汗をかきながら皮肉を言って突っぱねた。

「5対1なんて人数差でやってきた勇敢でお強い皆さんとはちがって、わたしは小心者でか弱いの。こちらで勝手に人数合わせさせてもらったわ」

 彼らと会うと聞いたイーランがボディーガードをつけると言って聞かなかったのだ。わたしは反対したけれど、そうしなければジュリアンに連絡すると脅されては拒みきれなかった。食事の間だけ、と念を押してわたしも了承した。今日無事に帰宅できたら次からは拒みやすくなるだろう。

 クロロは何も言わなかった。どうでもいいと言わんばかりの涼しい顔でワインを飲んでいた。だからフェイタンもそれ以上は言わなかった。けれど不快げな目つき、嘲笑を刻んだ口元は実に雄弁に語っていた。雑魚を増やして安心したか? 雑魚が何かの牽制になるのか?

「大目に見てよ。それとも普通の女の子と普通に食事したかったとでも言うの?」

 それならそういう気分が楽しめるお店を紹介してあげましょうか?と続くはずだった言葉は呑みこんだ。男の自尊心を傷つけるのはよくない。

 わたしはアンチョヴィペーストをたっぷり塗ったパンを口へ運びながら、メニューに注意を移した。

 

「干ダラのブランダードはどう?」

「ブランダードって何?」

「えーと、塩抜きした干ダラをガーリックとオリーヴオイルでペースト状にしたものよ」

 これも前の世界の南仏料理。

「メインコースは何がいいかしらね。――やっぱりせっかくモーナンカスにいるんだから、モーナンカス風羊の薄切り肉を食べたいわよね。ソースは定番のオゼイユソースで」

「魚料理なら?」

「オオカミウオのワッフル包み」

 わたしはメニューをめくり、チーズとコーヒーの間に目をすべらせた。

「あと、そう、デザートはジャムオムレツ以外考えられないわ」

 砂色の髪がさらさらと顔にかかるのをかきあげながら、パクノダは首をかしげた。

「……あなた、ほんとうに10歳なの?」

「正真正銘」

 体は。

 何人かはわたしをうさんくさそうに見た。わたしだって、わたしのような10歳児がいたらどん引きすると思う。

 わたしをじっと見て、パクノダの手があてもなさそうに動いた。握られて、開かれて、小指から順にテーブルに下ろされ、また宙に浮き……。本人は無自覚なのだろうか。指が軽くこすりあわされ、砂色の髪をすき、ピンと伸ばされて、ゆっくり折り曲げられる。

 

 他人の記憶を読む能力だなんて悪趣味な能力を、彼女は何を思ってつくったのだろうか? どうしたらそんな能力をつくれるというのだろう? わたしは彼女の手の動きを視界の端に捉えながら考えた。

 日ごろから他人の顔色をうかがってばかりの生活をしていたのだろうか? 他人の見られたくないものを暴くことに興奮をおぼえるたちなのだろうか? それとも最悪のタイプの覗き趣味のあらわれなのだろうか?

 いずれにしても、彼女とはうまくやっていけないだろうと思われた。隠し事が多い、わたしのような人間では。



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12. 昼下がり(2)

 食事の間、パクノダは何度も親しげに話しかけてきた。わたしはそのたびに失礼にならない程度のそっけなさであしらった。低調な会話にパクノダもいささか困り顔。わたしの心を溶かすためのありふれた世間話も、わたしの気のない返事が続くにつれ、しだいに立ち消えになった。

 しばらくは会話への意欲も失われていたようだけれど、デザートのジャムオムレツが来たのを期に彼女は気を取り直してわたしに微笑みかけ、わたしの手をとろうとした。

「ねえ、わたし、実は手相を見るのが得意なの。ちょっと見せてくれない?」

 わたしは失笑をもらしそうになった。

(そんな、手相だなんて。キャバクラじゃあるまいし)

 でも悪い手でもないのかもしれないと思いなおした。もしバーでいい雰囲気になったときにパクノダにこんなことを言われたら、断れる男はいないだろう。

 だがわたしは断固とした態度で拒否した。

「触らないで」

「何を……――」

 パクノダは息を飲んだ。

「――何を警戒しているのかしら」

 威圧的な低い声。

 全員の視線がこちらに向いた。

 緊張をはらんだ沈黙がびりびりと肌を刺す雷雲のようにその場に垂れこめた。

「そんなことが訊きたいの?」

 気押されてわたしはようよう言った。

 おそらくパクノダの能力は幻影旅団の切り札だ。高性能かつ便利なその能力は旅団の情報収集や情報操作に多大な貢献をしているはず。勝手に情報を引き出せ、消して、相手にそのことを気づかせすらしない。わたしみたいな一般人の地道な情報活動が本気で馬鹿らしくなるほど。ゆえにその能力の存在を知られたら重大な支障をきたす。不審を抱かれないで情報を引き出すという大きな利点が損なわれるからだ。知られてしまえば、無理やりおさえこまない限り、わたしがしているように接触を避け続けられてしまう。隠してこそもっとも使える札なのだ。

 彼らはそれをもう知られているのではないかと危惧している。

 わたしは声を張った。

「なら教えてさしあげるわ。わたしがあなたたちをこれほど警戒する理由はいとも簡単よ。そこの――あなたたちの団長様に折られた肋骨がまだ痛むからよ。信用できないのは当たり前じゃないの。クロロが散歩の途中にわたしの肋骨を折ってみようと思い立ったように、次は誰がわたしをいきなり痛めつけようとするかなんてわかったものじゃないんだから」

 パクノダがちらりとクロロを横目で見ると、クロロは肩をすくめた。

「もし、もし故買商に労働組合があったなら、わたしはあなたたちとの食事会に特別手当を設定するようにかけあうわね」

 わたしは声を落とし、強気かつ陰険な目つきでひとにらみした。

 フェイタンはせせら笑った。

 シャルナークは茶々をいれた。

「直接ボスにかけあえばよくない? パパなんだろ?」

「いい? とにかくわたしに触らないで。不自然な動きも控えることね」

 わたしはごまかしきった。

 

「おもしれぇもんを見せてやろうか?」

 唐突にフランクリンは言った。

 わたしは小首を傾げた。彼はおもしろいことをするようなタイプには見えなかった。ワインと同じくらいによく冷えてしまった空気を気にしたのだろうか。でも、なにも『おもしろいことをする』と宣言してわざわざハードルを上げることはないだろうに。

 わたしの困惑をよそに、フランクリンは水のグラスに花瓶の花から失敬した花びらを一枚浮かべた。

(まさか――)

 心の中で呟きつつ、わたしは彼のすることを黙って見ていた。そんなはずはない、と自分に言い聞かせながら。

 さっとほかの顔をうかがった。クロロ、シャルナーク、パクノダ、フェイタン。彼らは傍観の体勢だった。

 わたしはわたしの早とちりであることを期待した。

(そうよ。するわけがないじゃないの。ほかの面々が制するそぶりさえないんだから。それにフランクリンは意外と思慮深いキャラクターだったはず。だからこんなところで――念を知らないだろう一般人の目の前で――するわけがないわよ、――水見式なんて!)

 

 フランクリンはグラスがよく見えるように空になった皿をテーブルの端へ押しやり、おもむろにわたしに尋ねた。

「オレがこのグラスにオーラをこめると、ある変化が起きる。どんな変化だと思う?」

 何かを言わなければ、と恟々として頭を巡らし、頬を持ち上げて半笑いの表情をつくった。心臓がドキドキ鳴った。

「オーラをこめる、ねえ。手品ってわけ? そうね、グラスがなくなるんじゃないかしら」

 フランクリンは首を振った。

「ハズレだ。何が起こるか、よーく見てろ」

 そう言ってグラスに手をかざす。フランクリンはにやりとした。そして彼はよどみない“纏”からオーラを一気に増やし、“練”をした。

 

 あっと思う間もなく、グラスに劇的な変化が起きた。なかに入っていた水が、ほんのり色づきはじめ、またたく間に赤ワインのような渋みのある濃い赤へと変わったのだ。

 わたしは言葉もなく見つめていた。

(こんなに早くはっきり変化するなんて、なんて完成された“練”なの。これが幻影旅団の水準なのね)

 あまりにも自分の念とは違いすぎた。自分のやっていることは念能力者ごっこにすぎないと感じた。クロロの念の使い方も間近で見たことがあったけれど、あのときはそれどころじゃなかったから、今日、改めてショックを受けていた。わたしの才能のなさにも。

 同時に、彼らをそらおそろしく感じた。

(ほんとうにやりやがった、それも平然と――)

 わたしの心は驚きと動揺に震えていた。

(こいつら、頭がどうかしているわよ)

 

 反応を求める沈黙に、わたしはどうにか声を絞り出した。

「……そういうことね」

 わたしはフランクリンをみつめた。

 フランクリンはわたしをみつめた。

 ほかの4人はそれぞれの顔でわたしの次の言葉を待っていた。

 わたしは忙しく頭を働かせた。何と言ってごまかそうか必死に考えた。最近こんなことばっかりな気がしたけれど、そのことについて考えるのはよした。

「わかったわ、見破ったわよ。……古典的なトリックだわ。そのグラスに入っていたのは水だけじゃなかった。おそらく10パーセント程度の硫酸をこっそり入れていたのね。そうでしょ。だってフランクリン、あなた、ワインしか飲んでいないわ。……そしてオーラを送るなどと言って手をかざしつつ、わたしから見えないように過マンガン酸カリウムをひとつまみグラスに入れたのよ。そうしたら、アーラ不思議、グラスの中の液体が赤く染まったというわけ!」

 テーブルに奇妙な沈黙が落ちた。

 

 最初にその沈黙を破ったのはシャルナークだった。ぷっと吹き出して身を震わせたのだ。

「クローディアってほんとうに頭がいいよねー」

 その言い方に頬が熱くなった。

「な、なによ。そりゃ手品の種明かしをするなんて無粋だったかもしれないけど……!」

 シャルナークは容赦なく笑い声を上げた。フランクリンも笑いだした。なんとなく傷ついてパクノダを見ると、目があったパクノダは下唇をかみしめた。とても強く。フェイタンはうすら笑いを浮かべていた。助けを求めてクロロを見ると、彼も忍び笑いをもらしていた。

 思っていた感じとは違った。こんなふうに笑われるとは予想していなかった。こんな、わたしが何か馬鹿げたことを言ったみたいに。

(わたしだって、わたしだって……!)

 

 笑いをおさめたシャルナークは、実はさ、と快活に話しだした。

「オレたち、借家に住んでるんだよね。でもまともな料理つくれるのってオレかクロロくらいでさー、レパートリーもそんなにあるわけじゃないし。外食するにも店や料理に詳しくないし。その点、クローディアがいると解決だろ?」

 わたしはこいつのグルメガイドじゃない。

 苛ついたけれど顔に出さず、にっこりしてつめたく返した。

「地元の女の子でもひっかけたら? いい店につれてってくれるわよ」

「それは別のお楽しみだよ。こういうランチとは別のね」

 顔のいい男は言うことが違う。わたしはますます苛ついた。パクノダはちょっとつめたい目でシャルナークを見た。フェイタンが鼻を鳴らしたから、ついフェイタンに好意を持ちそうになった。ほかの男たちももっとシャルナークに苛ついてもいいと思う。

 それに、借家暮らしとは、少々がっかりさせられた。やっぱり彼らには廃墟を活動の拠点にしてほしかった。モーナンカスに幻影旅団のアジトにふさわしい廃墟があるかどうかは疑わしいし、借家は快適で干渉のない、長期滞在に向いた良い選択だとは思うけれど。

 シャルナークは輝く青い目を笑みの形にし、気取りなく言った。

「オレたち、ここでクローディアに会えてよかったって思ってるんだ」

 怒りが顔に出そうになって、それを隠そうとうつむいた。

「……それは、どうも」

 そういう余裕ぶった言葉がおもしろかろうはずがなかった。言ってろ、とわたしは心の中で吐き捨てた。

 彼らにとってわたしとの出会いはまさに天恵だっただろう。わたしを手札に加え、エミール会に参加でき、わたしに一撃を入れて骨折させることで凶暴性を満たし、良いレストランと料理を知ることができた。

 一方のわたしはといえば、今のところ前回と今回の都合2度食事をおごってもらえたというくらい。マイナスのほうは挙げればきりがない。

 わたしはコーヒーカップを乾してソーサーにカチャンと置いた。胸には決意が燃えていた。

(見てなさいよ、なんとしても収支を合わせてやるわ)

 

 食事を終えたわたしたちは前回と同じように散歩をしようということになった。木陰から日向に足を踏み出すと、日光の強さについひるんだ。

(このクソ暑いのに)

 それでも浜辺をそぞろ歩くと楽しいような気がした。

 何人かが水を掛け合ってふざけるのを、服がぬれるじゃない、とパクノダがぶつぶつ言って距離を取った。いつのまにかフェイタンとシャルナークが浅瀬に足を突っこんで水しぶきを派手に散らせながら組み手をしていて、まったく目で追えないそれを、わたしはかき氷を食べながらぼんやり観戦した。

「楽しいか?」

 となりで本を読んでいたクロロが尋ねた。そんなに真剣に見入っているように見えたのだろうか。

「目の前で何が起きてるのかもわからないのに?」

 クロロから暴れているふたりに目を向けた。3人になっていた。フランクリンもいつの間にか加わっている。やっぱり動きがすごすぎてわたしの目にはよく捉えられない。

「そうね。楽しいのかしらね」

 よく考えたら、わたしはこの人生でまともに誰かと遊んだことがなかった。それも当然の話で、わたしには友だちがいなかった。周囲に同年代の子は少なくなかったけれど、精神年齢が違いすぎておままごとにつきあわされているような気がしたし、あちらも雰囲気を察してわたしには近づいてこなかった。今までそれに問題を感じていなかったけれど、はたと気がついた。

(この幼少時代は、黒歴史になる……?)

 すかして、まともに友だちもできず、大人には神童と持ち上げられ、いい気になって、大人になって知能がほかの子に追いつかれると、早熟だっただけで天才気取りと笑われる、そんな予感。

(やばい……!)

 これからはもっと頻繁に、もっと快活に、同年代の子と遊ぼうと固く心に誓っていたそのとき、バシャンと水が跳ねる音がしてわたしは頭から水をかぶった。

 わたしは塩水に浸食されたかき氷を見てしばし呆然とした。

(わたしの……ブルーハワイ……)

 だんだん涙と怒りが込み上げてきた。

(なんてことを……!)

「なんてことをしてくれたんだ……!」

「え?」

 ぱっと横を見た。鬼がいた。違った。鬼の形相のクロロがいた。

 クロロは額の包帯をとり、びしょぬれの髪をかきあげてオールバックにした。

「オレの本に水をかけるとは……きつい仕置きが必要らしいな」

 クロロはゆらりと立ち上がってばさっと本を砂に落とした。ぱっと見にも本はスープのなかのクルトンみたいにぐしょぐしょだった。ちょっと手にとって見ると、完全に文字がにじんでいるのがわかった。全体的にべこべこにたわんでいるし、海水でページ同士がくっついていた。専門家でも完全に修復することは不可能に思われた。

「あーあ、これはだめだわ」

 ため息とともに所見を述べると、クロロの怒りのオーラが爆発的に膨れ上がった。シャルナークとフェイタンとフランクリンは青い顔をさらに青ざめさせてわたしにモールス信号ばりの目配せをしてきた。火に油を注ぐようなことを言ってんじゃねーよ、その本なんとかできないの、なんとかしろよ、クロロを抑えてよ、といったところだろうか。

「残念ながら、手の施しようがないわ」

 わたしはつらい事実を打ち明けるしかなかった。3人の顔が絶望に染まった。

 クロロは足を一歩二歩と進めた。

「もう覚悟はできたか?」

 顔は見えなかったけれど、声は穏やかで、優しげにすら聞こえた。なのに3人は震えだした。

 これが団長モードか、団長モードになるとほんとうに口調も雰囲気も変わるんだなあとわたしが胸を高鳴らせていると、スカートの端っこをちょんちょんと誰かに引っ張られた。パクノダだった。パクノダはひざを折ってわたしと目線の高さを合わせた。

「シャワールームへ行きましょう。あなたがシャワーを浴びているあいだに着替えとタオルを買ってきてあげるわ」

(よく気がつくいい女じゃないの)

 感心した。つんけんした態度は少し改めようと思った。

 わたしたちは、はた迷惑な叫び声と天地創造第一日目とでもいったような大土木工事並みの音を背中に、少し離れ気味にふたり並んで砂浜をゆっくり歩いた。

 



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13. ヴァカンス

 グレイ家のサマーハウスの庭は美しい。手入れの行き届いた緑の芝の中に木々が背を競いあい、熱帯草花が咲き乱れている。遠くに刷毛で描いたような巻雲が見える以外、空は真っ青に晴れ渡っている。少し歩いて坂道を下ったところに水にぬれてきらきら光る砂浜があるのが見える。その夢みたいな世界にテラスが張り出されていて、わたしたちはそこで優雅で気だるい午後を過ごしていた。

 わたしたち――そう、わたしは一人ではなかった。一緒にいるのは父や母ではない。兄弟でもないし、通いで来てくれているメイドのカーン夫人ですらなかった。

「酒持ってくるね」

 わたしは紅茶に口をつけて、手元の本をぱらりとめくった。そのわたしにすごくガンを飛ばしてくる小男。

「お前――」

 ことさらゆっくりともう一口。それからようやく顔を上げて首をかしげた。

「あら、わたしに言ってたの。そうとは思わなかった。自分がこれからすることをわざわざ報告してるんだと思ってたわ。コミュニケーションって難しいわね」

 潮風で軽く乱された髪を手ぐしで梳いて耳にかける。

「真昼間からお酒ってどうなの? まあそれはいいとしても、お酒って一口に言ってもいろいろあるけど、何が飲みたいの? ビール? ワイン? シャンパン? それとも何かの蒸留酒? 何でもいいの? ひょっとして紅茶が好きじゃないからお酒って言ったの? ダージーリングが気に入らないのならほかの銘柄もあるわよ? そうじゃなくてほんとうにお酒が飲みたいの? あなたお酒好き? ならなぜ持って来なかったの? ちょっと気がつけばわかるでしょ、10歳の子どもしかいない家にお酒なんか置いてないって」

 小男はわたしを殺したそうに睨んだ。

 

 この態度の言い訳をさせてもらえば、この日わたしはあまり機嫌が良くなかった。――ヴァカンスに来ていることをすっかり忘れて、夢のなかでヨークシンの家に帰っていた。だから目覚めは最高だった。目を覚ましたとき、わたしは耳がどうかしたのかと思った。街の一切の物音が途絶えてしまっていた。マンションの側を通る清掃車の機械音も聞こえなかったし、空気をつんざくサイレンの音も聞こえなかった。

 わたしは毎朝、7区のマンションの一室で、都市が動き出す音とともに、セットしてあるアラームで目を覚ますのが常だった。

 今朝はなにかと勝手が違っていた。カーテンの隙間からは柔らかな黄色い光が漏れていた。がらんとした虚ろな空間を半ば恐れ、半ば楽しみながら、わたしはじっと横たわっていた。

 再びまぶたを閉じたけれど、今度はあれこれ浮かんで眠りには戻れず、結局ベッドから起き上がって窓のカーテンを開けた。

「そっか。ヨークシンじゃなかったっけ」

 わたしはいつも首にかけている懐中時計を開いた。すでにお昼時。こんなに遅くまで眠ったのはいつぶりだろうと思った。

 部屋付属のバスルームで顔を洗って、クローゼットにかかっている服の中から水彩画風に花が描かれたブルーのワンピースを選んだ。

 最近では、骨を折られて、その回復のために“絶”を心がけていなければならなかった。骨はかなりくっついてきていて、紫や緑のあざは薄くなっていた。10日も必要に迫られてやっているとなんだかんだで上達して、体調がとてもよかった。

 軽い足取りで階段を下りて居間へ向かうとそこにはカーン夫人がいて、目をしばたたかせながら、おはようございますと挨拶してくれた。

「おはよう。寝不足?」

「ええ、少し」

 彼女は肩をすくめて、わたしに背もたれに絹のショールがかかっている安楽椅子をすすめた。

「お花、すごく素敵だった」

「お気に召されましたか? わたしの庭で育てたんですよ」

「毎朝あの香りのなかで目覚めたいくらいよ」

 この邸宅にも寝室はいくつかある。なかでもわたしが使っている、薄いグリーンの壁に白い繊細なレースとリネンで飾られた部屋は可憐そのもの。緑の葉に囲まれた白い花の中で寝起きする気分だった。行き届いた掃除や、産地直送レタスみたいにパリッとしたシーツや、部屋の雰囲気を壊さないように飾られたブルーとホワイトの生花は疑いなく彼女の手柄だ。

「何かお召し上がりになりますか?」

 キッチンへ入っていったカーン夫人が、こげ茶色の目を優しく細めながら尋ねた。いたれりつくせりだ。思いついたのはコーヒーを飲むことだった。悪くない。いい朝にはやっぱりコーヒーが不可欠だ。とはいっても女児がブラックコーヒーをうまそうに飲むのも変なので、

「カフェオレをちょうだい」

 こういう選択になる。

 そうやって熱いカフェオレボウルを両手にもち、人生の幸せというべきものに感じ入っているときに、わが家の固定電話が鳴ったのだ。

 

 わたしはうちのテラスで思い思いにくつろいでいる面々をじろじろ見遣った。そして強く確信した――今朝の電話、あれはやっぱり不幸の電話だったなと。

 そもそも殴って骨を折った相手に快い対応を期待するのが間違いというものだろう。世の中をなめきっているとしか思えない。でも強気を貫けないのが、悲しいかな、わたしなのだ。

 テーブルの上のポットを取って椅子を降り、床に座り込んでチェスに興じているフェイタンの空いたカップに紅茶を注いだ。そのわたしの首を今にも落としそうなフェイタンとわたしを、向かいからあきれたように見る巨大な図体のフランクリン。彼の体重にどの椅子が耐えきれるかなど試したくないので床に座ってもらっているのだけれど、ちょっと悪い気がして、彼のカップにも紅茶を注ぎたすサービスをした。その横でクロロは本を読みながらデッキチェアに身をもたせかけ、こんなのは日常茶飯事とでも言いたげな主人顔をしていた。少し離れたところではパクノダがテラスの手すりに寄り掛かって、こちらのちょっとした諍いをまるで無視して双眼鏡で海のほうを眺めていた。

(自分ちでくつろぎなさいよ)

 フェイタンにはああ言ったけれど、この家にお酒がないわけがなかった。だってこのサマーハウスはわたし一人のサマーハウスではなくて、グレイ家の所有財産なのだから。当然父も来るし、親戚や友人が招待されることもある。ご近所さんを呼んでパーティーをすることだってある。ただ動くのが面倒だったし、わたしは彼のメイドではないし、招待していないのだからホステスでもないというわけで、ちょっとした嫌がらせをしただけだったのだ。

 わたしがこうした態度をとっても許されているのはエミール会までは殺すつもりがないからだろうし、たぶんこれくらいの距離感で正しいからだ。怯えすぎたり卑屈すぎたりする人間を彼らは好まないだろう。それに、人質をとって立てこもった誘拐犯には人質が物ではなく人格を持った人間だということを忘れさせないようにすべしと言うではないか。保身を考えれば彼らに従順すぎるのはよくない。

 

「あ、こけた」

 落ち着き払ったパクノダの声に、海のほうを見た。港内に何十艘と言うヨットが優雅にマストを伸ばし、三角帆に風をはらませている。どうやらそのうちの一つを見ていたらしいけれど、ここから肉眼では何が何だかよくわからなかった。でもパクノダが誰のことを言っているのかはわかった。

「……大丈夫なの?」

「さあ。でも操縦の仕方は調べたからわかってるって言ってたわよ」

「はあ?」

(それってわかってるって言えるの?)

 急に不安になったけれど、今さらもう遅いので努めて気にしないことにした。

 海風がパクノダの砂色の髪をふわりと持ち上げた。

「あなたの家、クルーザーも持ってるなんてね」

「あのヨットはクルーザーじゃないわ。ディンギーよ。シーホッパー、あーいや、オーシャンホッパーだったかしら」

「何が違うの?」

「クルーザーはもっと大きいわ」

 実際のところ、知るわけないでしょ、というのが正直な答えだった。

 ヨットは父の趣味だった。オーシャンホッパー以外にもいくつかヨットを持っていて、名門ヨットクラブの会員証も持っている。お金持ちの趣味だと思うけれど、それが父の趣味だということなら、わたしの中ではスノビッシュな趣味ということになる。

 オーシャンホッパーは一人乗りのヨットで、父に言わせればスポーツというよりは水遊び用らしかった。シャルナークが乗れるというから貸したのだ。それが、調べたから乗れる? 自信過剰ではないだろうか、とは思うけれど、わたしにはほかにとくに感想もない。どうせ港内の海難事故程度ではシャルナークは死なないのだし、父は腹を立てるだろうけれどわたしにはヨットだってどうでもいいのだから。

 

 わたしはもう一度、テラスのようすを眺めた。信じられないようなことが最近は次から次へと起きていた。実のところこんなふうにシャルナーク以外の幻影旅団のメンバーと会わせてもらえるとは思っていなかった。パクノダについてはそこから除外するけれど。

 人生が変わりはじめているような気がして嬉しかった。

 

 そんな浮かれた気分をぶち壊しにするようなこともあった。

 その日の夜、父からひさしぶりに電話があった。

「どうかしたの?」

「何もなければ娘に電話もかけてはいけないのか? お前はどうしているだろうと思ったんだよ、クローディア。ヴァカンスは楽しんでいるか?」

 嘘くさい明るい声だった。

「ええ。ここを使わせてくれてありがとう」

「構わないさ。それより大丈夫か? 何か不自由はないか?」

「何もないわ。順調よ」

「私が頼んだことは?」

「ええ、探ってるわ。そちらも今のところ順調よ」

「どう思う?」

「ずいぶん羽振りがいいみたい。それに興味深い交際関係もあるようよ。毎晩出かけていることだしね。どこへ行ってるやら……。でも決定的な証拠に欠けるから、あぶり出しでもしてみるわ」

「そうか……」

 わたしはとにかく早く電話を切りたかった。

「私がいなくて寂しかったりはしないか?」

「やだわ、そんなのいつものことじゃない」

 大丈夫、ということを強調したくて、あまり考えないで前向きな言葉をひねり出していたら、ついそんな言葉がぽろっと口を衝いて出た。

 気づまりな沈黙だった。フォローの言葉なんて何も思い浮かばなかった。

 しばらくして父が言った。

「……私を責めているのか、クローディア?」

「そんなつもりじゃなかったの。でも、だって、ほんとのことでしょ?」

 少し声が震えてしまって、気づかれなかったことを祈りながら、何度かこっそり深呼吸をした。

「……お前のママは、ナタリーはどうしている?」

「変わりないわ」

「変わりないか」

「何も」

「じゃあお前はそこでひとりなんだな? ヴァカンスをナタリーと一緒にはすごさないんだな? どうして?」

(馬鹿なこと言わないで)

 わたしは苛立った。

「お母様が部屋から出てこないからよ。引きずって連れてくればよかったの? それにひとりじゃないわ。友だちができたの」

 あれを友だちと呼びたくはないけれど背に腹は代えられない。

 父はわたしの苛立ちをほとんど無視して、というよりむしろ勇気づけられたように急きこんで言った。

「あの家を出たくはないか?」

 わたしはその言葉にぎょっとして、思わず息を呑んだ。

「5番街の4ブロック北にペントハウスを買ったんだ。週末にでも泊まりに来ないか? その晩は芝居を見に行くのはどうだ? それともオペラのほうが好きか? はねたらリゾットでも食べに行こう。いいレストランがあるんだ。ここでの暮らしが気に入ったならそのまま住めばいい。お前のためのベッドルームもとってある。内装はお前の好きなようにしてもいい、クローディア、お前は私に似て趣味がいいからな」

 全身が震えるのをこらえられなかった。

「クラリッサは? クラリッサはわたしがいるの好きじゃないわ」

「彼女は一緒には住んでいない。もしお前がそれを気にしているのならな。それに私はお前とクラリッサに仲良くしてほしいと思っているんだ。もちろんイーニアスとジェイミーともな」

「そうできるとは思えないわ」

「やってみなければわからないだろう。環境が変われば感じ方も変わるさ」

「……お母様はどうなるの?」

 父の声が忍耐を失った。

「お前が私のことを良く思っていないことはわかっている。お前から見れば私がナタリーを捨てたように見えるんだろう。だがな、クローディア、物事には必ず違う面があるんだ。ナタリーは私のことでお前にうらみつらみをこぼしているかもしれないが――私はそうじゃない。クローディア、もうこの話はやめよう」

 深いため息。

「そのうち会って話そう。いいね?」

「……いいわ」

 こうして心温まる親子の会話は終わった。

 電話を切るなり、わたしはソファに倒れこんだ。クッションをつかんで力任せにあたりに叩きつけ、それから顔を押し付けた。じっとして、うんざりするやりとりが頭から出て行ってくれるのを待った。家族のことは全部ヨークシンに置いて来たと思っていたのに。ああいったことはすべて煩わしかった。冒険フィクション漫画の世界に生まれたと思っていたら家庭メロドラマに役を割り振られたみたいな感じだった。

(もうわたしに構わないでよ。要らないのよ、こんなの)

 

 そんなわたしの鬱屈とは関係なく、その日以来、クロロたちはわたしの生活にずかずかと入りこんできてそのまま居座ってしまった。わたしたちは一日を一緒に過ごすようになった。彼らがわたしの家に泊まったこともあれば、わたしが彼らの家に泊まったこともあった。

 幻影旅団の滞在場所は、海岸通りに面した夏だけの小さな借家だった。借家独特の雰囲気がなんとなく寂しくて落ち着かないけれど、それがまた仮の住まいの気ままさを増長させた。

 彼らは意外にも優しかった。グレイ家の溺れてしまいそうになるくらい大きな時代物のベッドとは全然違う、スプリングがギコギコ軋む簡易ベッドにわたしがおっかなびっくり横たわるのを、パクノダはおかしそうに眺めた。目が覚めて、台所でめいめいがコーヒーをつくって飲み、朝食にはテーブルの上の大きい缶から好きなだけビスケットを出して食べるという彼らのルールを知らないわたしに、シャルナークがからかいながらも教えてくれた。

 それから、海水浴。といっても、わたしやクロロは海辺に出たところで泳ぐわけでなし、砂のうえに寝そべって本を読んでいるだけ。パクノダはわたしたちをあきれたように見て、もっとよく日光に当たって本の虫を追っ払いなさいよ、と言う。シャルナークは一人で沖に出ていて、ここにいる間にオーシャンホッパーをマスターするつもりでいる。フェイタンやフランクリンは砂浜でうつらうつらしたり、それに飽きたら沖の島まで泳いで往復して無意味に疲れたりしていた。

 お昼になると家に戻ってシャワーを浴びて、器用なシャルナークかクロロが台所に立つ。だいたいいつも山のようなパスタとサラダ。お昼ご飯を食べたあとは、うっすらと汗をかいて目が覚める長い午睡。フェイタンとフランクリンが楽しそうに殴り合っているのがふわふわする意識の端っこでわかるときがある。構わず目を閉じると、図太いね、と誰かの失礼な言葉が聞こえてくる。

 夕食にはみんなそろってどこかへ出かける。たいていはなぜかうちのサマーハウスへ。カーン夫人の少し手が込んでいておいしい料理を食べたあとは、ゆらりゆらり海岸通りを散歩する。このときはみんな他愛のない会話に興じる。夕食のときに父が大切にしていたお酒をわたしがどんどん出すものだから、みんなほのかに酔っていて機嫌がいい。シャルナークが落ちている貝殻や生き物を拾ってはそれについて近くにいる犠牲者にぺらぺらと説明する。犠牲者たるわたしはポケットを貝殻でいっぱいにして話のほとんどを聞き流しながら、ラヴェンダー色に輝く空の色を楽しむ。少し先ではほかのみんなが足を止めて、シャルナークが貝を拾うたびにちょっとずつ遅れたわたしたちを待っている。

 

 悪くない生活だった。正直に言えば、わたしはそんな暮らしを気に入っていた。彼らがどういうつもりなのかはわからなかったけれど、彼らの側にいるのは快かった。肋骨を折られた恨みも忘れそうだった。距離感を狂わされて、パクノダに触れられることを許しそうな自分が怖くもあった。一方で、こんな生活が長くは続かないことはわかっていた。これはヴァカンスであって日常生活ではないのだから。

 海に行ったら、しばらくは家のことも忘れられるだろうと思っていた。波の音に揺られてゆっくり休めば、明るい気持ちを取り戻せるだろうと期待していた。でもこんなのは望んでいなかった。利用し尽くすつもりだったのに、その相手に、少しでも好意なんてものを持ちたくなんかなかった。



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14. エミール会

 シャルナークは、19時をまわったころに玄関に現れた。一見して仕立てがよいとわかる服装で、爽やかで明るく澄んだ目をもつ彼が着ると、まるで本物の上流階級の子息のように見えた。

「わあ、とっても似合ってるよ、そのドレス。今日もかわいいね、クローディア」

 わたしの姿を見てシャルナークは気軽くほめてくれた。わたしはこういうときのほめ言葉に誠意やひねりを求めないたちなので、ありがたくその言葉を受けとった。

 実際、わたしはかわいいし、ドレスは素敵だった。ウエストできゅっとしぼってふんわりとふくらませたスカートがシルエットを人形のようにみせていたし、胸から腕につながる毛脚の短いファー素材が華奢な体をごまかしてくれた。すっきりと肩を出したディテールやグレーの色調、シックな柄が大人っぽい。これ一着で一般市民なら腰を抜かさんばかりの値段がする。購入代金はジュリアンの口座から落としたので、わたしは腰を抜かさずにすんだ。

 

 会場となるホテルのある地区まで車で30分。憂鬱な気分でシャルナークが運転する車の助手席に座ったわたしは、発進するや否や、見えないブレーキを探して足を床に突っ張らせることになった。

 停車線を無視するわ、『先行権に注意』の標識を無視するわ、果ては信号を無視するわ――交通法規に従うことで得られる安全性というものに、彼は無謀にもまったく関心を払うつもりがないようだった。そればかりか、まるで滑走路であるかのように飛ばすわ――後部座席が重かったら空を飛んでいたと思う――、ぎりぎりの危険を冒すわと、交通法規を無視するだけでなく、それに挑戦しているかのような態度で終始車を扱うのだった。

 

 わたしは真っ青だった。

 シャルナークが平気なのはわかる。彼がちょっと運転操作を誤ったり、彼に近づく危険性を理解できなかったぼーっとした運転手が車をぶつけてきたりしたとしても、シャルナークはあっさり逃げることができる。ヨークシン編の“ファンファンクロス”のシーンが証明している。むしろ逃げずともシャルナークならばトラックにぶつかろうがダンプカーにひかれようが事ともしないでいられるだろう。

 でもわたしはちがう。わたしも念能力者のはしくれなのでよほどの大事故でもない限り致命傷には至らないといえばその通りなのだけれど、一般人に毛が生えた程度の身体能力しかないので回避は不可能だし、怪我もする。

 今回はハンター証をもっているシャルナークが運転手なので警察に捕まる心配はない。適当な理由をつければ刑事責任は免責されるだろう。けれどそんなことは今たいした問題ではなかった。

 

 追い越し車線を走るシャルナークは法定速度の80キロで走っていた前の車にあっという間に追いつき、邪魔だと言わんばかりのパッシングライトを浴びせた。けれど前の車の運転手はあわてず動じず相変わらずの速度で左車線を走り続けている。それの意味するところはこうだ。最高80キロっていうんだから80キロで走るもんなんだよ! 後ろのお前もだよ! おっ死んじまえ、この馬鹿野郎! 幻影旅団の団員相手の態度としては豪胆極まりないけれど、なにもそこまで生き急がなくてもいいと思う。

 シャルナークは気にしたようすもなく、右側から追い越しをかけながら、ほがらかにわたしに話しかけてきた。

「途中で抜けるかもしれないけど、全部すっきり終わったら帰りもちゃんと送ってあげるからね」

 わたしはいろいろな意味で不安になるのだった。

 

「もうそろそろだよ」

 そう言うとともに、シャルナークは先の見えないカーブを前に命知らずにもアクセルを踏み込んで前の車を抜き、向かいからやってきたバイカーをはね殺しそうになり、通りにはみ出すように並べられていたカフェのテーブルをかすめてから、車は今夜の競売会の会場となるホテル――アミバラズテントの前にとまった。すぐさま車から降りたかったけれど、ドアマンが挨拶に近寄ってくるのを我慢して待った。キーがシャルナークの手からガレージ係の手に移ったときはほっとした。心臓に負担をかけっぱなしにするという不健康な体験をしたわたしは、自分の足で歩くという健康的な行為が再びできるようになったことを喜んだ。

 

 シャルナークの無謀運転によって時間を無駄に短縮することに成功して、時刻は20時過ぎ。あと1時間もすれば子どもはもう寝る時間だけれど、日が長く日中が暑すぎる夏のモーナンカスでは太陽の沈んだこれからが社交の時間なのだ。

 

 アミバラズテントは外国の貴族によって建てられた豪奢な別荘を改築したホテルだった。アミバラとは中東の君主を意味する語であり、砂漠のオアシスに設けられた彼の艶麗なテントがイメージモチーフとなっている。西洋貴族のアラビアンナイト的オリエンタリズムへのあこがれが形となった代物だ。シンボルである異国情緒を醸しだすミナレットがライトで照らされて美しい。

 この建物は、一度は主を失ってさびれたものの、すぐに目先の利く実業家があらわれて買い取られ、相当な金をかけて改築された。そして贅を尽くしたホテルに生まれ変わったという経緯があるらしい。シャルナーク情報だ。

 今夜はここにモーナンカス中の富豪が集まるにちがいなかった。

 

 わたしたちはポーターに招待状を見せ、アーチをくぐって中央の中庭に入っていった。一歩足を踏み入れた途端、通りの喧騒は、水のせせらぎと葉ずれの音、さざめくような談笑の声でかき消された。中央には大理石の噴水があり、そこから流れ出た水が睡蓮を浮かべ、鯉のいる池へと注ぎこんでいる。いろいろなテイストが混ざっている気はしたけれど、オリエンタルな雰囲気は伝わってきた。

 すでにレセプションは終わっていて、数十名の男女がシャンパンを片手にその広い庭やテラスに出ておしゃべりを楽しんでいる。わたしたちと同じようにかったるいパーティーは飛ばしてオークションから参加する何人かがアーチから合流してくる。それらの顔ぶれを観察しながら、わたしたちは今夜ここから無事に帰れるのだろうかと考えた。

 

 わたしとシャルナークは庭の端でエミール会の開始を待っていた。

「あそこにいるのが市長よ」

「ひげのほう?」

「そう。彼と話してるのがイエリ海運の社長」

 シャルナークの、知ってる顔を教えて、というお願いを――わたしが素直に聞き入れることを期待している声で発せられたお願いを――受けて、わたしは頭のなかの人物録を検索しながらシャルナークの前に次々と顔を並べた。シャルナークもおそらく頭のなかの名簿と示される顔を照らし合わせているのだろう。

「ブーゲンビリアの下にいる女の人――ああ、やっぱりきれいね。女優のエンリ=ルクローサよ。パートナーは夫かしらね」

「ふーん、知らないな。おばさんだね」

 おおよそ遠慮のない感想だ。

「今アーチから入ってきたのが、……あら、有名なギャングスターよ。ヴィネッタファミリーの支部長マンタル=デルベ。やっぱり現れたのね。彼ってマフィア映画に出演したこともあるのよ、知ってる? タイトルはたしか『男たちの挽歌』。あそこのファミリーは今調子いいのよね」

「知らないよ。おもしろくなさそう」

(まあそうなんだけど……)

「……あとは、そうね――まあ」

「何、どうかした?」

「ええ、あそこ」

 わたしはグラスをちょっと傾けてテラスの奥を指した。

(どうして気付かなかったんだろう)

「今夜一番の人気でしょうね。デューラーさんがいらっしゃるわ」

 ちらりと見えたのは、ヨークシン社交界の中心、ガレード=デューラー。今、世界の文壇を若手の筆頭に立って牽引している、もっとも才能ある作家だった。彼の処女作は累計350万部の大ベストセラーになった。純文学でこの数字は驚異的だ。2作目もそこそこの評価を得ている。近いうちに3作目が出版されるらしいことは、最近テレビのインタビューを見て知った。

 彼は私生活も華やかだった。才能だけではなくて、すてきな容姿をも持っているせいだと思う。有名な女優や上流階級の令嬢たちを、舞台の初日へ、派手なチャリティーパーティーへ、違法薬物の所持および使用の公判へとエスコートし、毎週毎週何らかのゴシップ欄やタブロイド紙をにぎわわせていた。

(彼が来ているということは、当然パパラッチもそのへんにいるわよね……)

 そうそうたる面々を見ていると、どうするんだろう、とわたしは次第にはらはらしてきた。ヨークシン編のアウトローな人たちとはちがって、今夜集まっているのはほとんどが本物のセレブリティーだ。彼らにわざと危害を加えるような馬鹿なまねはしないとは思うけれど、混乱の中でうっかりということはありうる。旅団の脳筋メンバーは何も考えていないかもしれない。もし彼らセレブリティーが巻き込まれるようなことがあれば、大変なニュースになって全世界を駆け巡る。エミール会にも、その出席者にも徹底した捜査の手が入りかねない。

 わたしはシャルナークを盗み見た。そうだろうなとは思っていたけれど、彼に恐れ入ったようすはみじんもない。むしろその淡く青い目は冷ややかですらあった。

 

 開場となり、わたしたちはホールへ誘導された。そこで改めて顔ぶれを見回すと、何割か毛色のちがう人間がいて一群をつくっていた。おそらく組合の美術商だろう。セレブリティーたちと顔をつなぐこの機会を無駄にしまいと鳶のように会場をぐるぐるしている者も多い。

 オークショニアの挨拶ののちに21時にはじまった競りは、ホールに熱気を生んでいた。書画や彫刻が持ちこまれては、競られ、持ち去られた。シャルナークはまだわたしの隣から動かない。彼の仕事はまだ終わっていないということだ。彼は新たな品がもちこまれるたびに、さっと“凝”をして値踏みしていた。

 わたしは番号札をもてあそびながら、今夜の幻影旅団の獲物は何だろうと考えていた。

 

 ――交換会や競売会がなぜ金融機能をもつにいたったのか。それは、当初の美術商の多くが零細業者で、したがって自己資金が少なく、銀行からの資金調達が困難だったという点に事の起こりがある。そこで同業者が集まり、出資金を出して、協同組合をつくり、協同組合の信用で銀行と取引するようになったのだ。

 ゆえに協同組合は、本質的にその組合員が平均的、同質的であることが望ましい。したがってここで扱われる美術品も比較的同じ傾向をもっている。

 そして、なぜこの地の富豪たちは審査を受け、年会費を払ってまでエミール会の会員となっているのか。これは奇妙に思える。彼らほどの財産があるなら、呼べば画商は喜んでどこへでも参ずるだろうに。    

 わたしが見るに、3カ月に一度催されるこのエミール会が社交の場になっているということがひとつの理由だ。何人かはホールにすら入らなかった。競売自体に興味がないのだろうと思う。

 でも一番の理由は、エミール会がオークションよりはずっと閉鎖されていて、ここでしか出回らないような品も多いからなのだ。

 

 高まる熱気の中で、オークショニアが声を張った。

「さあ、次はロット番号58、ミハイル・イワノヴィチ=レーピンの『反物市』。1884年の画。アーゼル王国の前国王、アルバイネン2世の蒐集品でしたが、国王が替わり、売りに出されたものであります。5千万ジェニーから!」

 

(――盗品だ)

 わたしは直感した。

 美術品の流通に関わる者としての知識はこの世界で何年も勉強していれば身についた。そのひとつがこれ。アーゼル王国はヨルビアン大陸の中央よりやや北寄りにある、内戦状態にあってかなり治安の悪い国だ。数年前にクーデターにより軍部が政権を奪取した以前も以後も変わらぬ貧しさ。そんなアーゼル王国のテロリストたちの主たる資金源は麻薬の密造および密売、そしてもうひとつ、美術品犯罪なのだ。彼らは前国王が蒐集した美術品や国宝を盗み、あるいは偽造し、たたき売ることで破壊活動の資金を調達している。内紛もあり政情不安で汚職の激しいアーゼルなら難しいことではないはずだ。おそらくモーナンカスにいたるまでにマフィアが間に入って出所をたどれないように何度も転売されている。そういうものを売るには、売り手も買い手も閉鎖的なエミール会はまさにうってつけというわけだ。

 今夜の客もそのことには気づいている。気づいていない人もいるかもしれないけれど。違法な金や物の流れに甘く、マフィアと上流社会とのつながりが深いこの国らしいと言えなくもない。

 

 とにかく、幻影旅団がどういったものを狙ってモーナンカスにあらわれ、なぜエミール会に来たがったのかはこれで説明がついた。おそらくこの答えで正解だろう。

 

 23時を回ったころ、わたしが手洗いに立ったときにシャルナークも電話をかけると言って席を立ち、バルコニーのほうへ歩いていった。

 わたしはトイレに行くふりをして別のアーチをくぐり、ラウンジへ出た。真夜中ということもあってか光度が落とされ、間接照明のやわらかいオレンジの明かりが落ち着いた雰囲気を醸しだしている。その中で何人もの男女がめいめいソファに腰掛け、ゆったりと歓談している。突き当たりにはレセプションデスクがあり、金髪をオールバックにしてホテルのイニシャルが入った黒いブレザーを着た男が控えていた。

「ねえ、あなたも大変ね。夜勤なんでしょ?」

 わたしは近づいて話しかけた。

「何かご用でしょうか、お嬢様」

「わたし、もううんざりしてるの。わかるでしょ。こんなにつまらないとは思わなかったわよ。でもパートナーがまだ帰るって言わないの。何て言えば帰る気になってくれるかしら?」

 男は暇を持て余した子どもが話し相手を欲しがっていると受け取ったようだった。

「あと1時間ほどで終わるはずですよ。……何かジュースをもって来させましょうか? こちらでお待ちになられてはどうでしょう?」

「それで、またわたしに黙って座っていろというわけね? 結構よ」

「では庭を散歩されては? 当ホテル自慢の庭です」

「それは始まるのを待ってるあいだに散々したわよ。それに生憎、散歩を楽しいと思えるほど年をとってないの」

「甘いものはいかがですか? 厨房にパティスリーが余っていないか確かめてまいりましょう」

 彼の口調に捨て鉢なところはみじんもなかった。わたしは感銘を受けた。

「いいの、いらないわ。少しの間お話し相手になってほしかっただけよ。迷惑かしら?」

「いえ、お嬢様、喜んで」

 彼の口調に歓迎しているようすはそれほどなかった。わたしは全然気にしなかった。

「ねえ、今晩は宿泊客っているの? こんなににぎやかなんじゃ眠れないんじゃない?」

「いらっしゃいますよ。……ただ、そのお客さまも、今夜はホールのほうへいらっしゃいますが」

「あら! じゃあその人、はじめから帰る気がなかったというわけね。遊び人か横着者かのどちらかよね。ねえ、じゃあ一般の客はいないのね?」

「はい。今夜はさすがにみなさまをお迎えするだけで精一杯です」

「長期滞在客はいるんでしょ?」

「ええ、数名」

 宿泊客として旅団が入り込んでいるということはないだろうか。

(なんとかして確かめたいわ)

「明日はどうなの? 美術品の搬出があるんじゃないの? 忙しくない?」

「たしかに忙しいです。でも搬出にはお客様とは別の出入り口を使いますし、業者の方がやりますから大丈夫ですよ」

 業者を装うという可能性はあるだろうか?

 わたしは適当に会話を切り上げ、ホールに戻るそぶりをみせた。同時にデスクの下でわたしの指が素早く動いて携帯電話の試験鳴動ボタンをはじいた。人をぎょっとさせる音をしばらくさせたあと、わたしは音を止めて電話に出るふりをした。

「はい? ……え、嘘、ほんとに? ……うん……かわいそう。待ってて、すぐにホテルの人にお願いするわ」

 独り言を終えたわたしは、何事かと心配げな顔をしているホテルマンに向きなおった。

「ねえ、大変なの。わたしのパートナーが――シャルナークって名前よ――、酔って東階段から滑り落ちたらしいのよ。本人はたいしたことないって言ってるわ。でも、悪いんだけど、ちょっと行って手を貸してあげてくれないかしら」

 ホテルマンは顔色を変えて、ただいま、と飛んで行った。職業意識に付け込んで無駄足を踏ませて、なんだかとっても悪い気がしたし、良心が痛んだ。プロハンターが酔って階段から転げ落ちただなんて不名誉な嘘もついてしまったけれど、不思議なことにこれにはちっとも罪悪感を覚えなかった。良心も沈黙していた。

 わたしはデスクにこっそり入りこみ、コンピューターをいじって宿泊者に関する記録を盗み見た。

(……ふーん……)

 旅団メンバーの名前はなし。偽名を使っているかもしれないと思いついたけれど、わたしには確かめようがなかった。それより監視カメラで見られているかもしれない。勝手にいじったのがばれないうちにさっさと逃げたほうがよさそうだった。

 

 ホールに戻ると、シャルナークはすでに電話を終えていたらしく、わたしにひらひら手を振った。ぎくっとしたけれど平然を装って彼の隣に腰を下ろした。

 シャルナークがわたしに声をかけた。

「遅かったね」

 これだけ。

 案に相違して、その夜、アミバラズテントで酔っ払いの小突きあい以上の騒ぎが起こることはなかった。

 



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15. 訪問客

 エミール会の日から2日後の昼、めったに鳴らされることがないドアノッカーが鳴って、カーン夫人が応対してくれるのを待っていたけれど、そういえば今日はお休みの日だったなと思いだして、小走りに玄関へ走っていって自分で開けた。

「よう、ひさしぶりだな、クローディア」

「ベアクロー!」

 最近過ごした日々があんまり気だるくてのんびりしたものだったから、その顔を見るまでベアクローのことはすっかり忘れていた。

 ベアクローは変わりなかった。ジャケットに頑丈そうなブーツ、トレードマークのベレー帽のいつもの格好。高い鼻、白い頬、とがった顎、太くて八の字の眉毛、食えない笑み。

 わたしは馬鹿みたいに開けていた口を閉じて、笑顔を取り繕った。

「何よ、連絡くらいしてくれたらよかったのに。そうしたら駅でも空港でも迎えに行けたのに。元気? あんまり日に焼けてないのね、寒いところにいたの?」

「まあね」

 ベアクローはわたしの髪をかき混ぜるようにして撫でた。

「立派なお屋敷じゃないの」

「パパが聞いたら喜ぶわ。毎年の税務監査を乗り切って維持してるかいがあるって」

 わたしは焦っていた。ここ2、3日ほどクロロたちはここに勝手にくつろぎに来ていた。もしこんなところで幻影旅団とベアクローが鉢合わせなんかしちゃったら、その立派なお屋敷が殺人現場になってしまう。

(あ、でも大丈夫か)

 ベアクローは2000年まで元気に現役生活を続けていたし、クロロともセメタリービルのシーンが初対面だった。ということはなんとかなるのだろう。

 そう思うそばからポケットに入れていたパールホワイトの携帯電話が鳴った。

「あ、クローディア? オレ、シャルナークだけどさ」

「うん?」

「今日ちょっとオレたち用があってクローディアとは遊べないから」

「うん」

「だからカーンさんにも夕ごはんはいらないって伝えといてくれる?」

「わかった」

(ほら、なんとかなった)

「主よ、みわざに心より感謝いたします」

 電話を切って、わたしは呟いた。もちろん冨樫神に。ベアクローは突然敬虔な言葉を口にしたわたしを面食らったように見た。

「あなたに会えてうれしいってことよ。ついでに、邪魔な知り合いに用事ができて来られなくなって嬉しいってこと」

 わたしは微笑んでベアクローを家に招き入れた。

 

 居間の初期ヴィクトリア朝のソファに座ってコーヒーを飲んだベアクローは、ここに泊まらない?というわたしの誘いに首を振った。

「こんなところじゃ気が休まらないもん」

「そういうのかっこいいわね。プロって感じ」

「茶化してるの?」

「まさか!」

 わたしはシャルナークではない。そういう意地悪さとは縁がないのがわたしなのだ。

 ベアクローはソファの背もたれに片肘ついてわたしのほうに体を向けた。

「で、どう? ちょっとは念うまくなった?」

「え?」

「練習してたんだろ?」

 月に1、2度、ベアクローに会ったときに練習成果を見てもらうことがわたしの習いになっていた。ベアクローが念を教えてくれるわけじゃない。彼は忙しい人だし、念を教えるなんて何かの片手間にできるようなことじゃないことくらいわたしにもわかっていた。だから彼はただ評価して方向性を示してくれるだけ。それでも彼の言葉はベテランらしく的確で、勉強になることも多かった。

 しかし実際のところ、最近は練習なんて全然してなかった。遊び呆けていた。でも念は修行に普通ものすごく時間と労力を傾けて、それでやっとものになるかならないかというくらいに厳しい道だし、真剣にやっている人でも停滞するのは当たり前だから、やってなくたってばれやしない。だからといって練習したと言うのはわたしの良心にもとった。

「うん……“絶”の練習をね……」

 嘘つき、という良心の声が聞こえるような気がした。嘘じゃないわ、とわたしは反論した。肋骨を折られたせいで“絶”をしていたのはほんとうなのだから。

「見せてみな」

 わたしはうなずいて目をつむり、体をリラックスさせた。“点”で体の隅々にオーラが行き渡っていることを、オーラの流れを知覚する。吸って、吐いて、吸って、吐いて、呼吸は一定に。水道の蛇口を閉めて水を止めるみたいなイメージで、ゆっくり精孔から漏れ出るオーラを絞って止める。もうオーラはあふれない。わたしの内側の、オーラがたまったつめたい湖が、鏡みたいに静かに輝いた。

 わたしはベアクローの反応をうかがった。

 ベアクローはさっと手を振った。

「ぜーんぜんダメ」

「え、嘘。これかなり上手になってるんだけど」

「時間がかかりすぎだし、しゃべるたびにちょっとオーラ漏れてるし、ああほら」

 自分の体を見下ろすと、精孔からオーラが見え隠れしていた。むっと眉が寄った。

「まあ、上出来だよ。前から無意識でちょっと使えてたとはいえ、4カ月でここまでできるようになったんだからさ」

 慰めの言葉にもちっとも気は晴れなかった。晴れるわけがなかった。ベアクローにはそんなふうに説明したけれど、実際にわたしが精孔を開いたのは5歳のとき。“点”をはじめて2年目のころ。それから今まで6年間、ほとんど成長がなかったわけなのだから。精孔が開いたときにはもっとトントン拍子に事は運ぶのだと思っていた。

 ベアクローは外を指した。

「ついでに護身術やっとく?」

 

 庭に出たわたしたちは向かい合って立った。わたしは長い髪を邪魔にならないようにみつあみにしたけれど、なんだか赤毛のアンっぽくなったからほどいてポニーテールに直した。

「念は好きに使っていいよ。武器なし、急所攻撃あり」

「うん」

「はじめ」

 その瞬間わたしは足にオーラを集めて急接近し、右手をベアクローの顔に突き出すと同時にオーラをまとったままの右足で蹴りを放った。ベアクローは軽々蹴りを受けとめると、左手でわたしのおとりの右手のひじを巻き込み動きを止めさせ、そのすきに右手は手刀になってわたしののどに当てられていた。この間1秒足らず。

「え、終わり?」

 ベアクローがびっくりしたみたいに言った。

 わたしはカチンときた。けれどどうしようもなかった。負けは明らかだった。

「……そうみたいね」

 ベアクローの下がり眉がもっと下がった。寸止めしていた右手を下ろし、左手をわたしの体からはずした。

「………………」

「………………」

「……あのさ、どこが悪かったかわかる?」

 わたしはベアクローを困惑させるほど弱かった理由をベアクローに述べなければいけないらしい。

「……体がすごく鈍ってた。それからオーラ移動が下手で何をしようとしているのかベアクローに丸わかりだった。それくらいだったら均等にオーラを振り分けとくべきだった。突き出した右手はオーラ不足で、受けとめられていたら粉々になるところだった。弱いんだから足を削ろうなんて考えずに急所を攻撃するべきだった。そもそも最初から何の見通しも持ってなかった。場当たり的だった」

 言葉にすればするほど自分が間抜けに思えた。恥ずかしくて顔を上げられなかった。何を浮かれてたんだろうと思った。盗賊団と一緒になって遊び呆けて、休みボケしていたとしか思えない。急に夢から覚めていく心地だった。

「おおかたその認識でいいけど……どうしちゃったの?」

「………………」

 わたしは何も言えなかった。

(死にたい。恥ずかしい。何やってたんだろ)

「遊びすぎちゃった?」

「うん……」

 緊張感が完全に欠落していた。

「まあ、お嬢様なんだから強くなくたって全然いいけどさ」

「ごめんなさい。わざわざ相手してくれてるのに……」

 歯を食いしばって嗚咽をこらえていないと泣き出してしまいそうなくらい我が身が情けなかった。

 

 ベアクローはため息をついた。それから、今からは講義の時間ね、と言った。

 わたしは鼻をすすって顔を上げた。

「いいか? オレはあんたの右手を受けとめなかったけど、それは親切心からだけじゃない。こういうふうに――」

 ベアクローはまた左腕をわたしの右腕に巻き付けた。

「絡め取ったら、オレはこのまま腕を上に跳ねあげる。するとあんたの右肘の靭帯が断裂する。パーンとね」

 わたしは急いで右腕を抜き取った。

 ベアクローは苦笑して自身の左腕を前に出し、右手の指で指し示しながら説明した。

「人間の肘から手首までの間には骨が2本ある――尺骨と橈骨だ。この骨は肘で何本もの靭帯によって固定されている。肘関節は蝶番関節とも言われていて一方向にしか曲げ伸ばしができない。で、そのいっぱいある靭帯のひとつ、関節が横方向に曲がらないように関節の外側と内側にあって、横方向のブレを制限している靭帯が側副靭帯だ。狙うのはこいつ。ストレスをかけて勢いよく肘を外側に曲げてやると、肘内側の尺側側副靭帯がはじけ飛んで、その腕をいかれさせることができる――質問は?」

 わたしは顔を青くさせながらおそるおそる尋ねた。

「治るの?」

「治る……うーん、治療はできる。でも靭帯ってのは一度断裂しちゃったら二度と元には戻らない。ほかには?」

 首を横に振ると、ベアクローはうなずいて右手を手刀の形にした。

「じゃあ次。クローディア、左手はぶらさげとくもんじゃない。オレの右手があんたののどを狙ってたのわかったろ?」

 わたしは正直に言った。

「……のどに当てられてはじめて気がついた」

「……攻撃に使わないときは、腕は頭やのど、腹のあたりをちゃんとガードしようぜ」

「……はい」

 ベアクローは咳払いをした。

「のどには輪状軟骨っていう部位がある。息を吸い込むときの陰圧によって気管が閉塞してしまうことがないようにこいつが広げていてくれるわけだ。オレが狙ったのはそこだ」

 ここ、とわたしののどを触って示した。

「軟骨っていうくらいだから骨よりは硬くない。輪状軟骨は人体の軟骨のなかでも弱いほうで、あんたでも親指で強く押せばへこむし、オーラをまとった手刀ならもっと簡単だ。こいつをなかにへこませて気道をふさげば、まあ5、6分で蘇生の見込みはなくなり、15分くらいで完全にそいつを殺せる」

 わたしはごくりとつばを飲み込んだ。

 

 ベアクローの講義は効率のよい人体破壊のための講義だった。もし子ども権利センターがこのことを知ったら道徳を損なう恐れがあるとしてわたしを保護しに飛んでくるだろう内容。

「なんでベアクローはそんなこと知ってるの?」

「知ってたらどこを攻撃すればいいか、どこを防御すればいいかわかるだろ。あんただって相手の狙いや人体の仕組みがわかれば初撃をかわせるかもしれないし、ひょっとしたら反撃できるだろう」

 まったく、この人がクロロには傷一つつけることもできずに敗北するというのだから、クロロ=ルシルフルのでたらめさもわかろうというものだ。

「もっとよく考えな。そんで動きを思い出せば、もうちょっとましに戦えるさ。もう一回やるか?」

「はい」

 再びわたしたちは向かい合った。

 

 わたしが汗みずくになってはあはあしながらベアクローにあしらわれていると、門から隣のイーランがひょっこり顔をのぞかせた。彼はベルベットみたいなきれいな芝生のじゅうたんを横切って近寄り、わたしたちを見て訝しそうにした。

「なんか庭からクローディアの声がしたから心配して来てみたら……何してるんだ?」

 わたしは答えに窮した。でも頭も鈍っているとはいえ、ここでベアクローと目配せを交わすほど馬鹿じゃなかった。息を整えるふりをして時間を稼ぎつつ何と答えようか考える。ごまかさなくてはいけないことにすっかり慣れてしまっていたから、言い訳はじきに苦労もなく出てきた。

「えーと、わからない? エクササイズのレッスンよ。彼はコーチでベアクローっていうの」

 わたしは以前肌の色についてイーランが言っていたことを思い出してつけ加えた。

「ヨークシンから呼んだばかりなの」

「その格好で?」

 わたしは自分がワンピースを着ていたことをようやく思い出した。

「まあ、うん。最初は導入部分だけのつもりだったんだけど」

「コーチ?」

 わたしはベアクローを見上げた。

「……コーチのベアクローだ」

「お隣のイーラン=フェンリです」

 イーランは軽く会釈をし、手を差し出してベアクローと握手を交わした。

(自信ありげに! もっと設定に乗って!)

 心のなかで叱咤したのは、観察力の鋭いイーランに嘘を見抜かれるんじゃないかと怯えたからだ。ベアクローは強くて飄々としているタイプだけれど、そういう態度はイーランのようなタイプの人の前では弱い。どんなふうに振舞ったって、ちょっとしたヒントからその人の性格や感情を見通されてしまう。ただのぼんぼんのイケメンに見えて、イーランは聡明で人の心の動きを読むことに対してはたぐいまれな才能を持っているのだ。でもベアクローはそのことを知らない。

 わたしははらはらしながら見守った。

 イーランはにっこり笑った。

「どちらの軍隊にいらっしゃったんですか?」

 ベアクローの表情はちょっと強張った。

 質問を遮ろうかと一瞬思ったけれど、イーランはごまかされてくれるような相手じゃない。ここでかばえば設定を怪しまれかねない。わたしはあえてかぶせて尋ねた。

「あら、それ、わたしも知りたいわ。ほかの生徒さん方も知りたいと思ってるんじゃないかしら。軍隊式のエクササイズだっていうところをもっと押すべきだと思うわ」

 言った後で不安が胸をよぎった。

(イーランは確信ありげだったけど……ベアクローってほんとに軍人だったの? わたし、追いこんでないわよね?)

 心配は無用だった。ベアクローは幾分鼻白んで答えた。

「『揺るぎなき忠誠』」

 それから舌打ち。

「なんで本物の軍人だったとわかった?」

 イーランは、たいしたことじゃないんです、と肩をすくめた。

「その立派な体格と筋肉。それにあなたは姿勢がよすぎる。加えて挨拶のときにもその帽子を取らなかった。軍隊ならそれでいいんです。でも一般的な常識じゃない。あなたに一般常識がないようには見えない。ということは、あなたはたぶん除隊した軍人だ」

 ほんとう、イーランには驚かされる。彼を見ていると自分がシャーロック=ホームズを見るワトソンであるかのような気分にさせられる。頭の足りない人間みたいな。

(それにしても、ふーん、ベアクローが海兵隊員だったとはね)

 

 イーランはわたしのほうを向いた。からかうような笑みを浮かべている。

「どこをシェイプアップする必要があるんだ、クローディア?」

 わたしはぴょんぴょん飛び跳ね、鳥みたいに腕をぱたぱたさせて、はにかんで答えた。

「ただの運動不足解消のためよ。最近食っちゃ寝生活だったから、太ってきたのは確かだけど」

「運動は悪いことじゃないけど、暑いんだから無理はするなよ」

 と言って、イーランはわたしのこめかみのおくれ毛をそっと耳にかけてくれた。

 それから、そういえばさ、と首をかしげた。

「このごろよく一緒にいるやつらは?」

「ああ、何か今日用事があるんですって」

「ふーん……オレ、朝、カフェの帰りに見かけたけど」

 引っかかりを感じているような表情。

「用事ねえ」

 わたしの胸は猛烈に騒いだ。

「……見かけたって?」

「海岸通りで。変な5人組だからな、見間違えはないよ。どこかのカフェで朝食でもとってたのかねえ?」

 わたしは震えが抑えられなかった。

(カフェで朝食?)

「――そんなはずない!」

 イーランとベアクローのふたりは顔を見合わせた。

 頭が真っ白になった。

「ちょ、クローディア? どうした?」

「落ち着けよ」

「そんなはずないのよ、そんなはず……!」

 頭の中をモーナンカスでの今までの記憶が駆け巡った。彼らは朝起きて、どうするんだった? 覚えている。シャルナークに教えてもらったのだ。彼らはめいめいコーヒーを作って飲み、ビスケットを缶から出して食べるのだ。例外もあった。パクノダは近くのカフェまでモーニングセットを食べに行くことがあったし、クロロがミルクプリンをつついているところを見たこともあった。けれど、起きる時間もばらばらな彼らが朝に連れだって出かけているところは、一度だって見たことがなかった。

「クローディア!」

 肩に強く手がかかった。

 わたしはその手を払って逆につかんだ。

「イーラン! ちょっと来て!」

 そのまま引っぱって門のところに連れて行った。そうとう力が強かったと思うけれど、イーランは文句も言わなかった。

 門柱の陰まで来て、わたしは声を押し殺して叫んだ。

「幻影旅団! あいつらが動き出したのよ!」

 それしか考えられなかった。エミール会が終わり、動くとしたらそろそろだろうと思っていた。思っていたはずだった。

 めまいがした。

「なにをぼやぼやしてたんだろ! わたし、ほんとにどうかしてたのね!」

「大丈夫か?」

 塀に頭をぶつけ始めかねないわたしにまごついたようすで、イーランはわたしの頬を指の背で撫でた。

 わたし自身びっくりするくらい急に明晰に働きだした頭は、いくつかの予想とそれに基づく決定をはじき出した。それを咀嚼しながら、わたしはイーランに向かってうなずいた。

「ええ。あなたは家のなかにいて、じっとしててね。明日の朝まで動いちゃだめよ」

 行って、とイーランを押したけれど、イーランは動かなかった。

「君はどうするんだ?」

「わかるでしょ。それにベアクローも一緒にいるわ」

 わたしたちはしばらく見つめあった。

「だめだ。危ないだろう」

 イーランの繊細な少年の面影が残った顔を見ていると、どうしようもなく切なくなる。でも、もうここでお別れだ。

「大丈夫よ。ね、お願い……」

「でも――」

「わたし、自分のすることがもうわかってるの。説得なんて無駄よ。あなたは家にいて」

 今度こそイーランを家に帰すと、走って玄関に飛び込んだ。ベアクローもいる。そうだ、彼を呼び寄せたのはこのためなのだった。

「ベアクロー、あなた、どうやってこの家まで来た? 車はもってる?」

 ベアクローは手のひらのなかの鍵を見せた。

「垣根の陰に隠してる」

 わたしはうなずいて、髪のゴムを取った。

「荷物はまとめてあるの。すぐにこの家を出るわ」

 



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16. アミバラズテント(1)

 がたがた震えがおさまらないわたしをベアクローはしらけた目で見ていた。

「いったいどうしたんだ?」

 わたしはベアクローを睨んだ。わたしのまわりには子どもに対する思いやりを欠いている大人が多すぎる。けれどわたしにぬいぐるみを取ってくれたベアクローは、これでまだましなほうなのだ。みんなイーランを見習うべきだと思った。

 わたしは海を見た。右手のほうに広がる海。日没にあわせてエメラルドから紺青へと刻々と色を変えていて、息をのむほどきれい。カーステレオからはノリのいい曲が流れている。でも到底ドライブを楽しめる気分じゃなかった。

 ベアクローは曲に合わせて口笛を吹きだした。

(くっそ、こいつ、クロロにあっさり殺されたくせに)

 何余裕ぶっこいてるんだ、とかっかしていたけれど、だんだん落ち着いてくればそれが合理的な態度のように思えた。

(ベアクローは2000年まで幻影旅団には遭わず生きていた。ならベアクローと一緒にいるあいだはかなりの確率で大丈夫……?)

 こうなったら現金なもので、ベアクローがわたしの命の保証のように思えてくるのだった。

 

 わたしはベアクローの袖をつんつんと引っぱった。

「うちには泊まらないって言ってたけど、どこかに当てがあったのよね?」

「いいや?」

 やっぱこいつ使えないじゃないの、とわたしが一足とびに結論を出そうとしていたとき、ベアクローは軽く言った。

「家にいられないならホテル使ったら? 偽名で部屋取ればいいじゃん」

「冗談でしょ。ホテルなんて真っ先に調べられるし、女の子と中年男のふたり組みなんてすぐ――」

 天啓が下ったようにある考えがひらめいたのはこのときだった。

「この車、レンタカーよね?」

「そう。目立つかもな。どうする?」

「乗り捨てるに決まってるじゃないの」

 ベアクローは後部座席とキャリアーに積まれた大量の荷物をちらと見遣った。

「あれどうすんの?」

「心配ご無用だわ」

 わたしは先のレストランに車を入れるように指示した。

 

 時刻はちょうど夕食時で、そろそろレストランは混みあうかというころだった。徐行で進む車のなかから、立ち働いている赤いブレザーのガレージ係のうちからひとりを呼びとめた。

「ねえ、あなた」

「はい」

「車を預かっててほしいの」

「かしこまりました。では――」

「レストランで食事をしているあいだだけじゃなくって」

「――おそれいりますが……」

「またあなたがここで働いてるときに取りに来るわ。ね? 置いとくだけだし、面倒をみる車が一台多くなるくらい構わないでしょう?」

 わたしはにっこりした。

「チップもはずむわ」

 

 わたしたちはレストランの前に横付けされていたタクシーに乗り込んだ。

「アミバラズテントに行ってちょうだい」

 ベアクローは横でわたしをうさんくさそうに見ていた。

「クローディア、あんた、なかに小さい大人が入ってんじゃないかと疑っちゃうんだけど」

「よく言われるわ」

 わたしは涼しい顔だった。

「なかなかとっさには思い浮かばないぜ、ああいうのは。」

「わたし、レストランには詳しいのよ。シャルにグルメガイドとして当てにされるくらいにはね」

「シャル?」

 誰だよ、と興味もなさそうに呟いたベアクローは、わたしのひざに載っている大ぶりのバッグに目を止めた。

「ほかの荷物はよかったのか?」

「うん。べつに必要ってわけじゃなかったの。ただ、もうお金じゃ買えないものなのよ。だからわがまま言って持って来ちゃったの、ごめんなさい。でもあれでよかったのかどうかはわからないわ。わたしがあのガレージ係ならそのまま車を運転して持ち去るわね。換金すればチップどころの金額じゃなくなるんだから」

 彼は興味を引かれたようだった。

「あのお屋敷の宝か?」

「まあ、そうね」

 わたしはお尻を前にずらして背もたれにどさっと寄り掛かった。

「あんなのほんの一部よ。家具や食器はほとんど置いてきちゃったわ。ベッドカバーや壁紙やじゅうたんを引っぺがして持ってくる暇もなかったしねえ」

 

 タクシーがアミバラズテントの正面玄関ポーチに着くと、わたしはタクシーの支払いをしてバッグをベアクローのひざにぽんと載せた。

「どうしろって?」

「お嬢様とボディーガード。これでいきましょう」

「まんまじゃん」

「しょうがないでしょ。父娘というにはあなたの服装が、ちょっとね」

「はいはい、仰せの通りに、お嬢様」

 

 わたしはこつこつと大理石の床を踏む音も高らかに、レセプションデスクには見向きもせずに通り過ぎて、アーチをくぐって宿泊用の部屋がある建物に入った。デスクにいた男はちょっと顔を上げたけれど、わたしたちが通り過ぎるのを気にしたふうもなかった。

「どの部屋にする?」

「空室は避けたほうがいいわ」

「どうやったら区別がつくんだ?」

 皮肉っぽいその言葉を無視してエレベーターに入り、最上階のボタンを押した。

 ベアクローは何かを言いたそうにしていたけれど、わたしに迷いがないのを見てとったのかため息をついてエレベーターに乗り込んできた。

 最上階はじゅうたんからして違った。少し彩度を落とされた、毛脚の長いターコイズブルーのじゅうたん。車椅子に乗っている祖母のアデールがどこかのホテルのスイートルームに泊まったらじゅうたんに車輪が埋もれて立ち往生した、という馬鹿馬鹿しい話を思い出した。それくらいふかふかだった。ここでフットボールの試合をしたって下の階のひとは気づかないと思う。

(5005……5004……5003。あった)

 わたしは部屋を指してささやいた。

「ここにしましょう」

「いいけど、なんで?」

「このあいだ、エミール会の日に、レセプションデスクのコンピューターを見たの。ここのスイートルーム、長期滞在者がいるのよ。ほとんど外出してないみたい。しかも支払いはすべてコメックスのゴールドカード。うってつけでしょ」

 いつどの情報や経験が役に立つかわからないものだ。

 わたしは得意になっていたけれど、ベアクローはつめたいものだった。あんた、ホテルに行くたびにそんなことやってんの?と言わんばかりの表情。

「いいご趣味で」

「どういたしまして。下がってて」

 ベアクローはドアの蝶番側の壁にぴたりと体を寄せた。

 軽く咳払いして、わたしはドアフォンを押した。

「あのう、すみません……どなたかいらっしゃいませんか……?」

 渾身の子どもらしい甘ったるい声。

「…………な、何?」

 しばらくして応答があった。

 20代後半の男性の声。ここで間違いない。

「ここ、オートロックでしょ? お部屋の鍵を閉じ込めちゃったんです」

「そ、そうなんだ……どうしたらいいんだろう……」

(しっかりしなさいよ、大人なんだったら)

 ついそう思ってしまうくらい頼りなさそうな調子だった。

「部屋のお電話を貸してください。スペアを持ってきてもらいますので」

「あ、そっか。いいよ、待ってて」

 何か家具を蹴り飛ばしたようなガンッという音と悪態が聞こえてきて、そのわりにドアはそっと開いた。

 その瞬間、

「邪魔するぜ」

「うわあ――」

 ベアクローが部屋に押し入ってうしろから男の口をふさぎ、彼の体を拘束した。鮮やかなお手並み。そのすきにわたしも身を滑り込ませてドアを閉め、施錠されたこと確認してチェーンをおろした。

 振り返って、混乱と恐怖が前面に押し出された男の目をみつめる。念能力者じゃない。一般人だ。

「大きな声を出さないで。ごめんなさい、あなたを傷つけるつもりはないの、言うとおりにしてくれたらね。ちょっとここにいさせてほしいのよ」

 わたしは男の目に理解が浮かぶのを待った。首をかしげると彼は何度かうなずき、ようやくベアクローは男を放した。

「――な、なんなんだよ、あんたら!」

「ごめんなさいったら。ね?」

「ね?じゃないよ。て、て、ていうか、あんた、こんな小さい子に何やらせてんだよ!」

 ベアクローは、惜しいね、とにやついた。

「このお嬢ちゃんが主犯だ」

「あら、ご冗談を。わたしが何をしたっていうの?」

「じゅ、じゅ、充分やっただろ、脅迫とか」

「ベアクロー、怖がらせようが足りなかったんじゃない?」

 男はベアクローが、そう?とナイフを取り出したのを見て急に黙った。

 

 部屋はカキン料理の匂いがした。居間のテーブルには炒飯やナッツと鶏肉らしきものを炒めたものやトマトとエビを煮込んだものが半分ほど手をつけられて置かれていた。

「夕食中だったのね。続けててもいいわよ」

「……それどころじゃないだろ」

 わたしはぐるりと部屋を見回した。

「あなたひとり?」

「悪いかよ」

「いいえ。でも、それならなぜ寝室がふたつも必要だったの?」

 男を見る。この国ではちょっと珍しい黒い癖毛、鳶色の虹彩、一重の目。

「ねえ、ユタカ=キヌカワさん?」

 

 突然男はわたしに飛びかかってきた。一瞬何が何だかわからなかった。でも何が何だかわからないなりにわたしの体は動いていた。わたしにつかみかかってきていた男の右腕をつかみながら引っぱって男の体勢を崩した。そのころにはわたしの右足は男の後頭部めがけて全速力で進んでいた。

 このときまでわたしは自分が何をしているかよくわかっていなかった。途中で、あれ、これまずくない?と気づけたのは幸運だった。オーラをまとって攻撃力を高めた足で頭を蹴飛ばせば、頭はスイカみたいに弾けるだろうことはなんとなく想像がついた。そこまでいかなくても延髄を損傷させて障害を残すくらいはしてしまうだろう。だいたいわたしは素人で力加減がわからないのだ。

 そこでわたしは右足に泣きつき、拝み倒して、なんとか軌道を上方に修正してもらった。右足は髪の毛をかすめて空を蹴った。

 わたしにとられた右腕を残して、男の残りの四肢は床についた。その無防備な横っ腹にベアクローが足をめり込ませた。

 

「う、げえぇ、けほっ」

 もだえ、げえげえ嘔吐している男の頭をベアクローのブーツが床に押し付けている。男の髪や顔が吐き戻したもので汚れて、すっぱい匂いも漂いだした。わたしはそれを見てほっとした。

(あーよかった。生きてる。吐血も喀血もしてないみたい)

「ありがとう、ベアクロー」

 今度からベアクローの前に『頼れる男』とつけて呼んでもいいような気分だった。

 ベアクローはわたしの感謝の言葉を正確に受け取った。

「いや、いいさ。殺したくなかったんだろ?」

「うん」

 ほっとした。勝手に巻きこんだ関係ない人を殺さずにすんで。とはいってもわたし自身がそのことを気にしているわけじゃあんまりない。怖いと言いたいところだけれど、実際はそうじゃない。とってもスリリングだった。興味深いとも思う。そう、気にするのはわたしじゃなくて、わたしの良心なのだ。わたしが薄情で残酷なところがある人間なのは仕方がない。だからわたしは、わたしの良心を『クローディア』にアウトソーシングしているのだ。わたしがいなかったら、自分の人生を自分のものとして生きられたかもしれない、可愛いクローディアに。

 

 わたしは男に近寄って彼の体を足でつんつんした。

「ねえ、なんでいきなりわたしを襲ったの?」

「――何が目的なんだよ」

 わたしは目をぱちくりさせた。それから男が襲ってくる直前の会話を思い出す。

(……寝室!)

 わたしはぱっと走り出した。男は大声を出したけれど、ベアクローが何かしたのか途中からもごもごになった。

 手近なドアを開けるとバスルーム。その隣は普通の寝室。衣服や小物が散乱していて、使っている人のずぼらさは疑いようがない。居間を横切って反対側のドアを開けると、そこもやっぱり寝室だった――少なくとも過去形ではそう言えるし、今だってまったくそういう用途で使えないわけじゃない。その部屋には寝室にはそぐわない紙や書籍が雑然と積まれていた。でも最初に目についたのはかなりの数と大きさの、コンピューターとかそういう機器類だった。

 

「え、なにこれ?」

「勝手に触るなよ!」

 噛みつくような男の声。

「ねえ、これどういうこと、キヌカワさん?」

 わたしは振り向いて床に寝ている男に尋ねた。答えようか答えまいか迷っているような沈黙。あんまり賢くない沈黙。案の定ベアクローに、早く答えろよ、と顔を反吐のなかで転がされる。

「アマチュアのハッカーハンターなんだよ!」

 自棄気味に吐き捨てた。

「アマチュアなのは見たらわかるけど……」

「馬鹿にしてんのかよ!」

 つい余計なことを言ったわたしに噛みついた男は、またベアクローに、叫ぶなよ、と顔を反吐に押し付けられた。

 

 わたしはなんだか男に興味が湧いていた。1メートルくらいの距離まで近づいて言った。

「ベアクロー、放してあげて」

「また暴れるかもしれないよ?」

「うん。でも、この人、寝っ転がってわたしのスカートのなかをのぞくの」

 ベアクローは軽蔑しきった目で男の顔を反吐に押し付け、ブーツでぐりぐり念入りに踏みにじった。

 起きた男の頭は汚物のかたまりみたいだった。

「ユタカ=キヌカワは本名?」

「……そうだよ」

「ユタカって呼んでもいい?」

「……好きにすれば」

 敵意むき出しでとげとげしい調子。

「ジャポン人よね?」

 男は苦々しそうな顔になった。

「……ああ」

 

 わたしはユタカをお風呂に入らせてあげることにした。反吐まみれの彼は同じ部屋に一緒にいるにはすごく不愉快な人物だったから。

 ベアクローがバスルームの電話の子機を壊してユタカをお風呂に蹴り入れた。それからわたしとベアクローはユタカが変なことをしないように、洗面台に寄り掛かってスモークガラスの向こうの動きを見張っていた。そこの仕切りも開けて監視しようと言ったのに、ユタカもベアクローも反対したのだ。わたしは痴女だと思われたくないからそれ以上強く言わなかった。

 ベアクローは腕組みしてわたしを見下ろした。

「あんた、さっきイーランとかいう男みたいだったぜ。なんであいつがジャポン人だとわかったんだ?」

「外見も名前もジャポン人だったから。それにジャポン語の本があったの。漢字、片仮名、平仮名に、アルファベットやハンター文字も交じることがあるあの言語で専門書を読める外国人は、あんまり多くないわ」

「じゃあ名前まで知ってたのはなんで? あれでぶちギレたんだと思うけど」

「あら、ベアクローには言ったでしょ。レセプションデスクのコンピューターを見たって」

 ベアクローは頭をそらして呆れ交じりのため息をついた。

 

 わたしたちはすごく親密な友だちみたいに身を寄せ合って小さな声で話していたから、ユタカのほうに声が届くころにはシャワーの音が会話をかき消していた。

 ベアクローはわたしを小突いた。

「で、いいかげん、説明してくれるんだよな?」

「ん?」

「オレを呼んだ理由だよ。やばいことに関わってるみたいじゃん。なんであんなにあわてて震えながら家を出なくちゃいけなかったんだ?」

 わたしは何を訊かれたのかとっさにわからなかった。

「あれ、わたし何も言ってなかった?」

「言ってない」

 思っていたよりもわたしの混乱と取り乱しようはひどかったようだ。

 わたしはベアクローをまじまじと見た。

「あなた、事情もわからずよくわたしについてこれたわねえ」

「ボディーガードだからな」

 ベアクローはウィンクした。ウィンクらしいウィンク。わたしは思わず笑顔になった。

 



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17. アミバラズテント(2)

 ベアクローはお風呂から出てきたばかりのユタカの両手両足をわたしのシルクのスカーフで縛り、床に転がした。シルクは湿気があると織りかたのせいでじきに縮む。まだ水気が完全に飛ばないユタカを拘束するのにこれほどうってつけの素材もない。

 続いて入念な所持品検査が行われた。ベアクローは、財布、携帯電話、車のキーをテーブルに投げていった。それからふたつの寝室に姿を消すと、拳銃を2丁と弾倉と手榴弾、あと何か黒いものを手に帰ってきて、それもテーブルの上に置いた。

「何なの、これ?」

 わたしが尋ねると、ベアクローは頭をひねった。

「爆弾じゃないの?」

 わたしはさっと身を引いた。

 ベアクローは没収した銃をひとつずつ手にとり、弾倉を外し、薬室から弾を抜いていった。弾をポケットから取り出した袋に入れ、拳銃はテーブルに置いた。今度は携帯電話を手にとって、バッテリーを抜いてそれも袋に入れると、またテーブルに戻した。わたしはそのあいだにカキン料理の皿をワゴンに入れて廊下に出しておいた。

 ベアクローはユタカをあごでしゃくって指した。

「目と口と耳を塞いどく? オレの荷物のなかにダクトテープ入ってるけど」

 なんでそんなものを持ち歩いているのだろう? わたしは首を横に振った。

「いいわ。それより協力してもらいましょう。ハッカーハンターらしいし」

「えー。すぐ侵入されて捕まっちゃうようなやつだぜ? 使えるか?」

 ユタカはベアクローをすごく睨んだ。

 ベアクローの疑問ももっともだと思う。こいつ大丈夫か?とはわたしも思っている。それにちゃんと協力してもらおうというのなら脅すべきじゃなかった。本気でやってくれるはずがない。

「えーと、でも、そんなこと言ってる場合じゃなくなりそうなの」

 うろうろしていてもしょうがないから窓寄りにあるソファに座って、ベアクローにも手振りで着席を促した。ベアクローは床に寝ているユタカを蹴って転がしてソファの近くに持って行き、向かいのソファにどさりと座った。

 わたしはどう言って彼らを利用しようかちょっと悩んだ。ユタカはまあ見た感じ流されやすそうだから、案外利用しやすいのかもしれないと思う。問題はベアクローだ。

 考え考え口を開いた。

「たぶん今夜、すごく大騒ぎになる――人がいっぱい死んじゃうようなね」

 

「ヴィネッタファミリーは知ってるわね?」

 とわたしは切り出した。ユタカに目を向けると、ユタカはおずおずとうなずいた。

「……ちょっとは。最近勢いのあるマフィアだろ?」

「ええそうよ。カキン系マフィアが勢力を伸ばす昨今にあって、例外的にヴィネッタファミリーは伸びてるわね。なぜなら、その彼らがこの国での美術品の流通を抑えてきてるからなの」

 こうやって話し合いに参加させて協力に誘導する。基本技術だ。

「芸術作品の盗み、偽造、詐欺は昔から組織犯罪の主たるビジネスのひとつなの。平均すると、どこの国でも毎日10分おきに美術品が闇に消えている計算になるらしいわ。ヨルビアン大陸を横切る盗難ルートにそって運ばれる本物のアンティークやとくに名画は、1点につき10点以上の贋作が存在すると言われてるの」

 このあたりの事情は前世の世界とそう変わりない。

 ここでまたユタカに目を向ける。

「ひどいね」

 ユタカの合いの手にうなずいた。

「そうなのよ。で、それら盗難美術品の集積地のひとつがここモーナンカスなの」

 わたしはちょこんと首を傾げた。

「エミール会っていう独特の競売会があるのは知ってるかしら?」

 ベアクローは首を横に振り、ユタカは、あるってことだけ知ってる、と言った。まあ一般的な認知度なんてこんなものだ。

「要するにエミールアートコーポレイティヴっていう協同組合が主催する、組合員の画商や富豪たちだけが参加できるオークションみたいなものなんだけど、ここで競られる美術品の多くがこうした犯罪にあった美術品なの。もちろんこのエミール会の裏にはヴィネッタファミリーがいるわ」

「な、なんでそんなこと知ってるんだよ?」

 わたしは肩をすくめた。

「もともとそういう噂はあったの。それに、ここはマフィアとのつながりの深いモーナンカスよ? クリーンだと考えるほうが馬鹿よ」

「それで?」

 ユタカは興味ありげに話を促した。自分から参加するとはいい兆候だ。

「こうした盗難美術品を狙っているらしい窃盗グループがモーナンカスに入って来てるの――幻影旅団とかいうね」

「聞いたことある」

「そうかもね。手口が乱暴というか大胆というか、とにかく彼らの犯行はよくメディアに取り上げられるもの。

 でも彼らがどこの誰で、どういった基盤を持つ集団なのかは知られてないの。どこかのテログループが資金調達のために組織した一部門だとかどこかのマフィアの美術品窃盗担当のグループだとか言われてるわ。わたしは後者の可能性が高いと思う。それもヴィネッタファミリーと盗難美術品市場で競合するマフィアの傘下か協力組織なんじゃないかしら。だとするなら、死者なしにはすまない派手な手口で知られる彼らはきっと、美術品を奪うついでにライバルの妨害を兼ねてひどく荒らしていくわよ。これで盗難美術品の集積地としてのモーナンカスは終わりになるでしょうね」

 何の根拠もないし、わたしの知見とも異にしている話だったけれど、とにかく自信ありげに言った。どうせ彼らにはわたしの話を否定できる材料なんてない。ここでどんな嘘をつこうと、それは違うだろうとは言えないのだ。初めから彼らには、わたしの話を信じるか信じないかしか選択肢はないのだ。

 ここで初めてベアクローが口を開いた。

「なんでそれがこれから起こると思うんだ?」

「彼ら、朝からカフェに行ったことなんてないわ。9時とか10時とかになってようやく借家から出てくるの。しかもみんなそろってだなんて……。仲良しグループじゃあるまいし、そんなところほとんど見たことない。時期はエミール会が終わったばかり。そういう彼らが今、朝から活動する理由なんて、いよいよ犯行をはじめる以外にある?」

「本人たちを特定できていたのか?」

 わたしはイーランにしたパドキア氷河鉄道での話とまったく同じ説明をした。

 ベアクローは小さくうなったあと、顔のしわがやわらぎ、くちびるの端をつり上げた。

「あんたはそれで、どうするつもりなんだ?」

 わたしは当惑したふりをした。

「……逃げてきたんだとは思わないの? どうしてわたしが何かするって思うの? そんなこと言った?」

「わかるさ。あんたは普通のガキじゃないもん。それにそんな話をするってことは、そうなんだろ?」

 わたしの無邪気さっていうのはなかなか信じてもらえない。不思議なことに。

「……うん。あのね、混乱に乗じようと思うの」

 わたしはため息とともに認めた。

「ヴィネッタファミリーの美術品犯罪を担当してるのがここの支部長マンタル=デルベ。つい10日前のエミール会にもVIP面して現れたわ。このことからもエミール会の背後にヴィネッタファミリーがいるとわかるわね。ねえユタカ、わかってるわよね? その会場がこの高級リゾートホテルだったのよ」

 ユタカはあいまいに微笑んだ。こういう反応の仕方が日本人だなぁってちょっと嬉しくなる。実際にはちょっと違うんだけれど。

「マンタル=デルベはマフィアとしての美術品犯罪だけでなくて、個人的なお小遣い稼ぎもしていたの。ちゃちな詐欺――デルベはエミール会で贋作を売っていたのよ。

 手口はこんな感じ――まず自分のところに流れてきた美術品の贋作をつくる。それから名の通った鑑定家に依頼して鑑定書を書いてもらう。それぞれの業者にさげてエミール会で競りにかける。落とされたら贋作のほうをぼんくらなお金持ちに引き渡す。手元に残った真作のほうは別のところで売ったり、自分のものにしたり、上役への貢物にする。

 さぞかし簡単だったでしょうよ。名士と言われるような人たちはたとえ騙されてたことに気づいても何も言わないでしょうから。仲間内で見る目がないと笑われるくらいならわたしだって沈黙を選ぶわ。でも人を馬鹿にしてるわよ。……まあそんなことはいいの。盗品だとわかって買うなら自業自得だもの。それはそれとして、これはこれよ。わたし、幻影旅団がせっかくここの盗難美術品市場を壊してくれるんだから、デルベの悪事ももう終わりにしてさしあげようと思うの」

「……いいんじゃないかな」

 ユタカはうなずきながら言った。

「おもしろそう」

 とりあえずわたしは罪悪感を刺激しない、冒険仕立てのストーリーをつくりあげることに成功したらしい。大義名分があれば、人はいくらでも自分に言い訳できる。

「わたし、誰が何をしてたってかまやしないわ。でも美術品を愛する者として美術品犯罪は許せない。美術品を盗むってことはそれだけの意味じゃないの。その作品の歴史やアイデンティティを盗むってことよ」

 ベアクローは簡単には縦にも横にも首を振らない。

「あんたの思いはわかった。でも具体的にどうするつもりなんだ?」

「それは……これから考えようかなって……。急だったし……」

「ふーん」

「まあ何か考えるわ。もうちょっと時間もありそうだし」

 

 わたしは立ちあがって窓に近寄り、カーテンをそっと手で分けて外を見た。日が出ているうちなら海が見えて眺望絶佳というところだろうけれど、今は夜のかけらが空から落ちてきていた。音が聞こえるように窓を少し開ける。

「当然だけど、海側なのよね。街は見えないわね」

 ため息をつくと、おずおずとユタカが口を挟んできた。

「警察の交通監視カメラの映像なら見れるけど……」

「……ほんとに?」

「それくらいできなくてハッカーハンターは名乗れないよ」

「プロは名乗れなくても?」

「うるさいな! ハッカーハンターはアマチュアが多いんだよ! サバイバルだの殴りあいだのはマッチョどもがやってればいいんだ!」

「ごもっとも」

 取り立てて言うべき能力もないわたしがからかうとわが身に返ってくる。

「やってくれる?」

「いいけど、手はほどいてくれよ。くそ、血が止まってしびれてる」

「うん。そうしなきゃ反吐の片付けもできないしね」

 ユタカは小さく笑ったあと、大きなため息をついた。

 

 居間のソファに座っていると隣の寝室でかたかたとキーボードをたたいているユタカの姿が開けたドアから見えた。そのうしろ、ベアクローはドアの框に背を持たせかけてユタカの作業のようすを眺めていた。正確に言うなら、ユタカの挙動を監視していた。

 ベアクローはユタカにコンピュータを触らせることに難色を示した。電脳ネットに入らせるべきじゃない、何をやられてもオレにはわからない、そう言って。それでもいいわよ、とわたしは言った。だって彼に何ができるというのだろう、死なばもろともの覚悟なしに? それでもベアクローは彼を見張るという労をとってくれているのだ。どんなに隠そうとしても態度に出るちょっとした違和感をオレなら見逃さないからと。

 わたしはまた良心のクローディアがわたしの胸元を引っつかむのを感じていた。

(だってしょうがないじゃない。わたしのことをこんなに心に懸けてくれるとは思わなかったもの。誰が原作のあんな描写でわかるっていうのよ。ベアクロー、名前さえなかったこの男に、優しさなんて平凡なものがあるなんて)

 違うことを考えようと思っても、どうしても思考はそこへ戻ってきてしまうのだった。

 

 誰も何も言わないから、部屋はキーボードがたたかれる音と空調の音だけがして、静かだった。

 手持無沙汰で3人分のコーヒーをつくっているとき、ベアクローがユタカに何事かをささやいているのが見えた。ユタカは2、3言返し、キーボードを操作しディスプレイを指した。わたしがコーヒーを持って行くころにはふたりはまた黙っていた。

 

 変化は突然だった。

 ディスプレイを見ていたユタカがあっと声を上げた。それに反応してわたしがソファから立ち上がったとき、ホテルの外からかすかに何かが弾けるような音が聞こえた。窓が開いているとはいえ防音性のいいスイートルームで聞こえたのだから、実際は結構な大きさだったのではないだろうか。

「何なの? どうしたの?」

 ユタカの背に飛びつくようにしてディスプレイを見ると、分割された画面のいくつかが暗くなっていた。

「エ、エウリア付近の監視システムがダウンしてる……。こ、壊されたのか、あっちのテク担当がやったのか……あー、どっちみちシステムがあることを知ってたんだな」

「エウリアってどこ?」

「ルリチビーチ近くの高級別荘街だよ」

「どこ!?」

 ユタカは横のディスプレイに地図を出して示した。それを見れば、このホテルから車で10分くらいのところだとわかった。

「――ということでごめん。た、たいして力になれそうにないね」

 ベアクローはわたしに向かって意味深長に眉を上げてみせた。たぶん、あんまり信用できないって言いたいんだと思う。たしかにわたしたちは、ユタカがそれをやったんだとしてもそうとはわからない。腹いせのために妨害したのかもしれない。

「いいのよ。変な音もしたし、少なくとも何かが起きたんだってわかったわ」

 そうしているうちにディスプレイはすべて真っ暗になった。

「あ、あー、ダメだね。市内全域、全部落ちてる」

「直せないのか?」

 ベアクローの問いにユタカは首を振った。

「わ、悪いけど、オレには無理。オレがしてたのって、つまり、勝手に映像を見てただけなんだよ」

 これを聞いてちょっとがっかりしたけれど、仕方ない。踏み込んだ先にスーパーハッカーがいたなんてことは、かなり望みすぎだろう。そんなにすごそうじゃないハッカーにどこまで協力する気か知れない態度。これくらいが現実というものだろう。

「テレビ! MBCつけて!」

 やっぱりこういうときはテレビで情報収集をするに限る。

 でもディスプレイのひとつに映したテレビにもとくに動きはなかった。

「まだ緊急ニュースとはいかないみたいだね。一報を受けて、取材班を組んで、駆けつけて、機材の準備をして、取材して、番組としての体裁を整えてってしてたら、ふん、こんな短い時間じゃ無理だよ」

(こいつ、今、鼻で……! 言ってることが正しいのも腹立つ……!)

 ユタカの肩にのせたわたしの手にギリギリ力がこもった。

「いたっ、ちょ、痛い!」

 じゃれるわたしたちを制してベアクローが言った。

「また音が聞こえたな」

 しばらく耳をすまして、それからベアクローはベレー帽をかぶりなおした。

「ちょっと行ってくるわ」

 トイレに行ってくる、みたいな調子でベアクローは言った。

「え、待って、どこへ?」

「しばらくしたら帰るから、そいつちゃんと見張ってろよ」

 ベアクローは答えず、わたしの頭をぽんぽんと撫でた。そして身を返してさっさと居間を横切っていった。わたしは急いで追いすがって、なんとかベアクローが部屋を出る前に彼の腕をとることができた。

 わたしはベアクローのワスレナグサ色の目を一生懸命のぞきこんだ。何をしようとしているのか、真意を確かめるために。そして確信を得た。

「待ってよ! ベアクロー! わたし……!」

「勘違いしてない? 遊びに行くだけだぜ。せっかく楽しそうなことになってるのに、はぶられるなんてさみしいじゃん。それに飛行船移動が長くてさ、ちょっと体も動かしたかったし、趣味みたいなもんだし」

 ベアクローの目つきや楽しげに歪んだ口元からは香気のように危険な鋭さが立ち上っている。

「でも――」

「オレは好きなことをするだけだ」

 殺人中毒者がこんなときにのんびりしていられるわけないとはわかっていた。

「ベアクロー」

 ベアクローは頭をかいて天井を仰いだ。それから飄々とした笑みを浮かべると、ポケットに手を入れて、出したものを見せた。ビニールのセロファンに包まれた小さな丸い玉。

(……アメ?)

「ほら、この前の報酬もまだ残ってるから、ついでにお前の望みもかなえてきてやるよ」

 そして背を向けて歩き出す。

「ベアクロー!」

 わたしのしつこく呼び止める声に、ベアクローは煩わしそうに振りむいた。

「……何?」

「前に見せてくれた、あの特別製の銃を使うといいわ。後のことはわたしに任せて」

 止めはしない。わたしはわたしにできることをやって、望みをかなえるだけだ。

 ベアクローは片手を挙げて応えた。わたしはそのままベアクローを見送った。



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18. カラミティナイト(1)

「あんたとあの男、どういう関係か、聞いてもいい?」

 寝室に戻ったわたしをユタカは好奇の目で見た。

「……わかんない」

 そんなのわたしにだってわからない。なんでベアクローがわたしに構ってくれるのか、なんでわたしに与するのか、見当もつかない。ベアクローはいったいどういうつもりなのだろう?

「大切にされてるみたいだね」

「わかんない」

 まだ殺されていないということをもって大切にされているというのなら大切にされているのだろう。わたしには測りようがない。

 わたしの顔を見てユタカはちらっと笑んだ。

「気づいてた? あいつ、あんたの名前一度も呼んでない。オレに名前を知られるのを心配したんだろうな」

 わたしは目を丸くした。

「なのにあんたはガンガン呼ぶんだもんな」

 ユタカはくっくっと意地悪そうに笑った。せっかく楽しそうなところがっかりさせるのは忍びないけれど、わたしは残念な事実を教えてあげた。

「わたしはいいのよ。ベアクローって名前はどうせ本名じゃない、ニックネームだもの」

「……あーそう」

 ユタカは頭をがしがしかいた。

「オレが聞きたかったのはさ、あんたらが何者なのかってことなんだ」

「あら、教えてあげると思ったの?」

「まあ、だよね」

「殺し屋とお嬢様よ」

「教えるのかよ!」

「おーツッコミ。すばらしい」

 こういうノリって懐かしい。

 ユタカはがっくりと肩を落とした。

「あんたなぁ……」

「わたしはクローディア。クローディア=グレイ。可愛くておしゃまな11歳。ベアクローは殺し屋で、それ以外のことは知らない。ヨークシンで出会ってからまだ何回も会ってないの。ほんとうよ」

 わたしはベアクローの気遣いをさっぱり無視して名前を教えた。ヨルビアンの上流社会じゃよく知られた顔と名前だから、ユタカなら苦もなくわたしを特定してしまえるだろう。隠すだけ無駄なのだ。

「まあたしかにあんたはませてるね。ふーん、あいつ、殺し屋ねえ……ん? じゃああいつがあんたの望みをかなえるとか言って出て行ったのって……」

 わたしは眉を曇らせた。

「うん、デルベを殺しに行ったんだと思う……」

 とわたしが言うや否や、ユタカは顔色を変えて立ち上がった。

「オレ、あいつにデルベの自宅の場所教えちまったぞ!」

「え?」

「あんたがコーヒーいれてるとき! あのときあいつに訊かれて教えたんだ!」

 わたしが言った、え?は、それの何が問題なの?のえ?だ。ユタカが何を言ったのか確認したかったわけじゃない。

 ユタカは部屋をうろうろ歩きまわりはじめた。

「ああもう、今さら遅いよな……てかなんであんたももっとちゃんとあいつを引きとめないんだよ!」

「ねえ、ちょっと、いい? ――ベアクローがデルベを殺すの、いやなの?」

「いやっていうか……あんたは気にしないのか? あんたのために人を殺すのに?」

「そうね、死んだほうが社会のためだって人間がいて、そのひとりがデルベだっていうのには肯定するけど、だからって殺したいとは思わないし、死んでほしいとも思わない」

 死んでも気にしないだけだ。

「ろ、論点をずらすなよ。デルベが死ぬことの正否じゃなくて、自分のために人に殺させることの正否が問題なんだろ」

「あの人は普段、人を殺すのに理由なんか考えない人よ。少なくとも今回は、ベアクローには理由と大義があるわ。それを提供したことにばつの悪い思いがないとは言わないけど……」

 わたしはユタカを探り見た。

「そうじゃなくて、あなたが気にするとは思わなかったの。あなた、情報屋でしょ? こんなスイートルームで生活できるってことはそれなりの情報屋のはずよ。だとしたら売ったことあるでしょ、これから殺されるだろう人の情報を、これから殺すだろう人に」

 みごとにユタカの痛いところを衝いたらしかった。一瞬、ユタカが激怒したように見えた。それからぶすっとした顔に変わり、怒りが再燃し、果ては困惑げな、苦しそうな表情になった。

「違うんだ……いや違わないけど、そうじゃなくて……」

 ユタカはもごもごと言った。

「仕事とプライベートは違うだろ」

 ユタカにもいろいろと葛藤があるらしかった。けれどそれは出会ったばかりのわたしには知りようもないことだ。

「一般人とマフィアも違うわよ」

「……いいから連絡してみろよ」

「ベアクローは、仕事中はつながらないわ」

 それに電話して何を話せというのだろう? お願いだからデルベを殺さないでくださいとでも? そんなことを言えばベアクローはもうわたしに二度と会ってくれないだろう。しかしそう言ってもユタカが納得するだろうか?

「いいわ。わかった、こうしましょう。――わたしもデルベのところへ行くわ。ベアクローひとりで行かせるべきじゃなかった。わたしの問題だもの。運が良ければ間に合うし、間に合わなかったとしても責めはベアクローひとりには負わせないわ」

 部屋を出て行きかけたわたしの腕をユタカはつかんだ。

「ちょっ、待てよ! 何の解決になってるんだよ、それ! だいたいあんたはここに居ろって言われてただろ! そもそも子どもにそんな危ないところに行かせられるわけないだろ! あとオレはどうすんだよ!」

(何言ってるの、こいつ?)

 侵入者が出て行くと言っているのを喜ばないどころか、引きとめるとは。わたしにはもはや理解不能だった。

(罠でもしかけてるの?)

 それならばいっそう早く出て行くべきだ。

「……あなたには、ちょっとここにいさせてほしいだけだってはじめに言ったと思うけど」

「巻き込んどいてそれはないだろ!」

「迷惑だったでしょ?」

「そうだけど! ああもうなんでわかんないかな」

「わかんない。何なの?」

「だから! ……じょ、情が移った? んだよ」

「情が移ったってそんな、犬猫を拾ったみたいに。しかも疑問形だし」

「途中まで見たドラマを打ち切られた気分って言ってもいい。とにかく、いまさらハブにするなんてひどすぎる」

 わたしは鼻にしわを寄せた。こいつには危機感とか、頭のネジとか、脳みそとか、何かちょっと足りてないんじゃないかと思った。これがこの世界でもなぜかストックホルム症候群として知られているあの精神状態なのだろうか? それとも現代っ子らしく映画かゲーム感覚でいるのかもしれない。それならわたしにはよくわかる話だ。わたしもこの人生がフィクションであるような感覚が物心ついてからずっとしていた。

 外でけたたましいサイレンの音が遠く聞こえてきた。

「とにかくわたしは行くわ。生きてたら一週間以内に連絡するから、連絡先のメモでもちょうだい。それからあなたがもし何かしてくれるっていうなら、イーラン=フェンリについて詳しく探ってくれない? 経歴や出納を水も漏らさないようにね。じゃあまた、ヨークシンで」

 そして、部屋を出て行きかけたとき、ある考えが頭をかすめた。

「……ねえ、ちょっと訊きたいんだけど、ベロテルっていう情報屋を知らない?」

 ユタカの顔にあまり似合わない嘲笑じみた表情が浮かんだ。

「知ってる」

 

 わたしはホテルを出ると高級住宅街へ向かって駆け出した。そちらのほうの空は赤く染まっていて、緊急車両のサイレンがいたるところから聞こえていた。いつものモーナンカスの静かで瀟洒な夜はどこにもなかった。

 不謹慎かもしれないけれど、わたしはわくわくしていた。今夜の非日常感に対する淡い期待。台風が来て、風がごうごう鳴って、雨がざぱざぱ降って、空がぴかぴかしているのを見ているようなすてきな気持ち。わたしの足はほとんど飛び跳ねていて、まるで羽が生えているみたいだった。

 

 この騒ぎに人が起きだしてきていて、普段なら人通りなんて見込めない真夜中の道で何人もの人の姿を見た。ガウンを着て不安そうに近所の人と顔を見合わせたり話をしたりしている。そんな人たちに呼びとめられることもあったけれど無視して走った。構っている暇がない。自分の足に頼るしかなかった。車が使えないし、営業中のタクシーだって見当たらなかったから。

 わたしは念能力者になっておいた過去の自分の判断をほめたたえた。オーラの流れを制御できる念能力者というのは常人よりはるかに身体能力が優れるから、ちょっとやそっとでは疲労困憊はしない。へなちょこ念能力者で肉体的能力にも劣るわたしですらフルマラソンを完走するくらいのことはできる。疲れるからやらないけれど。利益が習得する労力や時間に引きあわないと当時のわたしが気づいてなくてよかった、と心から思った。

 海岸通りを西に入り牧師館のあるロタミ通りに差し掛かったところで、『ザ・ソプラノイズ~哀愁のマフィア~』の街のちんぴら役を熱演しているかのような男たちに出会った。声を張り上げ、銃で威嚇し、勝手な検問をしいている彼らはもちろん俳優ではなく本職のマフィア構成員たちだった。

 彼らは飛び出してきたわたしに一様に戸惑った顔をした。

「なんだ、このガキ?」

「通して! この先におばあちゃんのお家があるの! おばあちゃん、怖がってるわ。心臓が悪いの」

 わたしは臆面もなく嘘をついた。

 男たちはすんなり通した。子どもひとり、警戒にも当たらないということなのだろう。

 そこから先は出歩いている人はほとんどいなかった。それぞれの家で事態の鎮静を待っているのだろう。それでも何人か黒服の男がいて、わたしはときどき止められて、そのたびに同じ嘘をついた。

 

「クローディア!?」

 びっくりしてわたしは急ブレーキをかけた。すごく聞き覚えのある声。ぱっと振り向けば、美丈夫のお隣さんが目を丸くしていた。

「イーラン!?」

 彼は黒髪をポニーテールにした黒スーツの男と一緒にいた。並みレベルの男と並ぶと、横の男が気の毒になるほどイーランのかっこよさが光って見えることに、わたしはこんなときでも感心した。

「どうしてこんなところにいるの……そこの人と何か話してたの?」

(家にこもってろって言ったじゃないの! ……でも会えるなんてラッキー。電話しようと思ってたのに)

 あがる息を抑えつつ訊くと、イーランはあいまいに笑った。

「ああ、ちょっと情報収集をな」

 それからわたしに近寄ってきた。

「街は今どうなってるの?」

「はっきりとはわからない。かなり情報が錯綜してるみたいだ。でも女優のルクローサの屋敷が襲われたのはたしからしい。それから最初に火の手が上がったのはエウリアのあたりとは聞いた。何がどうなっているやら……」

(決まってるじゃない!)

「幻影旅団よ!」

 イーランは眉を上げた。

「……この騒ぎを見るに、ほんとうのことらしいね」

「彼らの借家へ行ってみようと思うの。いなかったら当たりでしょ?」

「それはこっちでやるよ。危ないからお前はどこか――」

「幻影旅団を探すわ。借家にはもういないと思うからそこは譲ってもいいけど」

 わたしは彼らの借家の場所をメモした紙を渡した。イーランはそれをちょっと見てポケットに突っ込んだ。

「この先は行かないほうがいい」

「どうして?」

「もういないからだ。やつらは引きあげて行った。いつまでも現場近くをうろちょろしてはいないだろう。――この先の家がやつらの襲撃にあって、何人か死んでるんだ。マフィアは激怒している。ここはマフィアの前庭みたいなものだからな。君みたいなかわいこちゃんは絡まれるかもしれない」

 わたしはこういう物言いにはうんざりだった。

(かわいこちゃんですって! まったくもう)

 前世では一回も言われたことがない。親からすら言われたことがない。そこに思うところはあるけれど、それはまあ問題じゃない。わたしの目的地はまさに襲撃に遭ったというこの先の家なのだ。

 まなじりをつり上げてふんと鼻を鳴らすわたしをイーランは困ったような目で見た。

 

「幻影旅団の居場所、心当たりないかな」

 イーランはたいして期待してなさそうに尋ねた。

「そうねえ……」

 幻影旅団はどこにいるのか? 彼らは具体的に何を狙っていて、どういう手順で襲い、持ち出して、去るつもりなのか? モーナンカスがマネーロンダリングの中心地でマフィアの庭だということは彼らもわかっていたはずだ。警備は厳重でここを何事もなく出て行くのは難しい。原作のヨークシン編では2000人のマフィアと陰獣を相手にしたくらいだからものの数ではないだろうけれど。

「とにかく、クローディア、避難したほうが――クローディア?」

「――わたしの家」

 わからないなら教えてあげてもいい。

「わたしの家、グレイ家のサマーハウスじゃないかしら、彼らが来るのは」

 見上げると、イーランは小首をかしげて話を促した。

「盗ったものをどうするんだろうって考えてたの。モーナンカスに民間の空港や飛行場はないし、空港では厳重な荷物検査がある。この時間だから電車も走ってないし、列車内に手荷物として持ち込むにも限度がある。国外に出る道は検問がしかれていてトラックは見逃さないし、荷台は必ずチェックされる。突破はできるだろうけど、そうすれば必ずそうと知られる。すぐさまこれらの選択肢をとらず目立たないやり方で持ち出すならどこかに一時保管しておかなくちゃならない。

 意表を衝いてヨットクラブという可能性もあるとは思ったんだけど、せいぜい今夜の間しか隠せない。少しでも頭があるなら借家はもう使わない。残る可能性はそんなに多くないわね。ほかに隠し場所を用意していたとかね。でもきっとそうじゃない。もっと安全な場所があるわ。わたしの家よ!

 彼らはうちのサマーハウスに何度か来たことがある。勝手は知っているでしょう。家には普段たった11歳の女の子ひとりしかいないことも知ってる。しかもその子とは知り合い同士。というより、彼らはこの国にほかに友人も知人もいないの。サマーハウスは広くて車を隠すのも盗品を隠すのも、自分たちの身を隠すのも容易だわ。あとはその子の友情を盾にとって言わないように迫るか、実力で言えないようにさせるか、どっちにしても難しいことじゃない。――そうじゃない?」

 そうでなければ彼らがわたしと距離を詰めた理由がない。

 イーランはあごに手を添えてわたしの考えを検討していた。それを見て、わたしは謙虚ぶって付け足した。

「わたしをどこまで信用できるかというところが一番大きな問題でしょうね。11歳の観察力や知能にはそこまで説得力がないわ」

「いや――思ってもないことを言うのはやめろよ、クローディア。君の賢さをオレは疑ってない」

「……ありがとう」

 わたしはときどき自分の低能さに絶望するんだけれど。少なくともこんなところで時間を浪費するのは賢いことじゃない。

 わたしは後ずさって距離をとった。

「じゃあ、わたしもう行くわ」

 身をひるがえそうとしたわたしの腕をイーランがつかんだ。ユタカにつかまれたのと同じところ。今日はこのパターンが多すぎる。

「クローディア、だめだ。君の手に負えるようなことじゃない。頼むから、――サマーハウスはだめだから、どこかホテルにでもいてくれ」

「わたしの家に行くことの何が悪いの?」

「だめだ。危ないんだ、わかるだろ。……ベアクローはどうした?」

「騒ぎが起きはじめたとたんどっか行っちゃったわよ。どこにいるのかしら。どこかで怪我でもしてないといいんだけど」

「くそ、あいつ、女の子をひとりで放っとくなんて何考えてるんだ?」

 イーランは苛立たしげに髪をかきあげた。それからわたしを見てもう一度、頼むから、と言った。わたしは首を振って突っぱねた。

 イーランは腕時計を見て小さく舌打ちすると、ため息をついた。妥協することに決めたらしかった。

「じゃあこうしよう。ホテルはなしだ。そのかわり家のあたりには近づくな。離れたところから野次馬するなりベアクローを探すなりしてろよ。友だちの家に行くのもいい。携帯は持ってるな? 何かあったら電話しろ。わかったな?」

(ああしろこうしろと)

 気に入らなかったけれど、せっかく解放されそうなのにここでごねるほどわたしも馬鹿じゃない。わたしは不満げな顔を意識しながらうなずいた。



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19. カラミティナイト(2)

 わたしは人目を忍んで勝手によそ様の家の敷地に入りこみ、屋敷の裏手にあった大きな樫の木に登った。べつに見晴らしがそんなにいいわけじゃないけれど、用をたすには十分な高さがある。

 持ってきていたバッグのなかに手を突っこみ、突起がついた楕円形の物体を取り出す。映画ではよく見るけれど、自分では使ったことのない物体。手榴弾。ユタカがなぜか持っていたやつを勝手に拝借してきたのだ。

 わたしは目を凝らして向かいの家のほうを眺めた。

「いける……かなあ?」

 こちらの屋敷、前庭、正面が向かい合う道路、向かいの家の前庭を飛び越えたところが目標地点。その距離約100メートルといったところだろうか。かよわいわたしが不安定な足場から投げるとしたらギリギリだろう。

 わたしは荷物の手近な枝に引っ掛けてがっしりした枝に足をかけた。そのまましばらく“纏”と“点”。オーラの流れを隈なく知覚することが扱いを容易にする。

 認めるのは悔しいけれど、ここで幻影旅団に接してから、洗練された念というもののイメージがはっきりできるようになった。“纏”すらも比較すると見劣りがしていて、以前見たフランクリンの“練”に比べてわたしの“練”はお粗末そのものだと言えた。たとえるなら花火とマッチ。お寒い限りだった。クロロがわたしに一撃入れたときのオーラ移動の早さと滑らかさといったら。わたしと比べるなんて失笑ものだと思う。もちろん失笑されるのはわたしだ。

 勝てない。はっきりわかった。この認識も収穫だろうと思う。わたしの、もしかしたら、という淡い期待を完全に打ち砕いてくれた。身体能力、体術、人を傷つけたり殺したりすることをためらわない、いかれた神経。念の強烈な才能、その習熟度。戦闘力。個々の能力や才能では、あの中の誰にも、何ひとつとして敵わない。あれでまだ伸びる余地があるとは恐れ入る。たしか3年後にはゾルディック家と事を構えるはず。そしてその3年後にはクロロひとりでゼノとシルバふたりと渡り合ってしまえるのだ。頭抜けているクロロは置いておいても、彼ら幻影旅団は控えめに言っても一流と言えた。一流の悪党なんて社会の害悪以上のものではないし、腐ったミカンであることは間違いないけれど、見習うべき点がないわけじゃない。それも念くらいだと確信しているけれど。

 わたしはゆっくりオーラを腕に集めた。投げるという動きはひねったり伸ばしたり踏ん張ったりする体全体を使う運動だから、“硬”はむしろ効率が悪い。腕にオーラを7~8割、体全体に残りの2~3割を振り分ける。

 手榴弾の安全ピンを抜き、投げる体勢を整えて、息を吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸う。次の吐くタイミングで全身に力を入れ、

「ふん!」

 思いっきり投げた。

 手榴弾は葉っぱのあいだを突き抜けていって、すぐに見えなくなった。わたしは偏執的な上官の命令を待つ新兵さながらに目を見開いて次に何が起こるかを待った。その5秒後くらいにカッと光が閃き、爆発が起こった。

「うー。うー。目、痛い……」

 わたしは目を押さえてうずくまった。涙がぱたぱた落ちた。暗い所でいきなり強い明かりを見たものだからすごく目が痛かった。ちょっと考えればわかりそうなものなのに。

 爆風と目の痛みがおさまってからようやく顔を上げて周囲のようすを確かめた。デルベの屋敷は窓がすべて割れ、屋根と3階がひどく損傷していた。屋根のすぐ上で爆発したらしかった。屋敷のまわりにちょろちょろしていた黒スーツの男たちは伏せっていたり物陰に隠れたりしている。次の攻撃に警戒しているようだった。わたしは期待にこたえてもう一発放った。そしてそれの確認はせずに、樫の木からジャンプして裏の塀を越えて飛び降りた。

 庭の端っこを抜けて道路に面した正面の生垣の隙間から這い出れば、デルベの屋敷前の道と平行にはしる人気のない道に出られた。

「やった。すごい。わたし偉い!」

 服をぱんぱんはたいて葉っぱや土を落としながら、お屋敷を手榴弾で吹き飛ばしたことのある11歳はわたしだけじゃないかな、と考えた。惜しむらくはこのことをみんなに自慢して回れないところだ。良心のクローディアはマフィアの屋敷を吹き飛ばしたときは何も言わなかったけれど、わたしが警察につかまってしまって家族を嘆かせるのは気にするだろうから。

「さて、まだお家に帰るには早いかしら。今日くらいそんなにいい子にならなくったっていいわよね」

 手持ちのバッグの中をがさごそかき回しながらこの後の予定を考えた。

(手榴弾あとひとつか……どうしよっかな)

「あれ、クローディア、あんた門限ないの?」

 すぐ後ろからいきなり男の声。ぎょっとして振り向きながら飛びすさった。“凝”。

「……ベアクロー、脅かさないでよ」

 わたしは安堵のため息をつきながらオーラを戻した。

「何やってんの?」

「……そっちこそ」

 きまりが悪くて、問いは聞かなかったことにしてごまかしてしまうことにした。

(まったく、なんでこんなところにいるのよ)

「わたし、家出中よ。門限なんか守らなくってもいいの」

「ふーん、そう? オレと同じで夜遊びってわけ?」

 ベアクローはいつもの飄々とした笑みを浮かべた。

「オレ、遊び相手を探して来たんだけどさ、さっきの爆発ってクローディアがやったんだよな?」

(遊び相手を探して?)

 それでここに現れたらしい。

 なんとなく危険な香りをかぎつけて、わたしは突発性の健忘症を患った。

「わたしが? まさか! わたしはまだ11歳よ。11歳の子どもがそんなことすると思うの?」

「違った?」

「ええ。でも仮に、仮によ、わたしがさっきの爆発に関係していたとして、子どもが爆竹みたいなもので遊ぶのなんかよくあることでしょ」

「そうだな」

 納得してくれたようでわたしはとてもうれしい。これでベアクローもわたしを今夜の遊び相手にしようと考えることはないだろう。考えないでほしい。

「じゃあもうわたしは行くから。ベアクロー、あなたもほら、さっさと遊び相手を探しに行きなさいよ」

 この殺し屋モードになっている危険人物を早いところ追い払いたくて言ったけれど、当の本人はまったく動こうとするようすを見せなかった。

「えー? うーん、なんかもう気が削がれちゃったんだよな」

「は? なんで?」

「張り合いがなくってさ。弱っちいんだもん。仮にもマフィアなんだったらさ、もっと、なあ? やだねー、こんな国に長くいるとやっぱり腑抜けちゃうのかね」

 首を振りながらぐだぐだと愚痴を言い、ベアクローは塀に身をもたせかけた。

(動く気なさすぎでしょ)

「じゃあもうホテルに戻ってれば? ユタカによろしくね」

 そう言って別れて行こうとすると、ベアクローもついてくるそぶりを見せた。

「……来なくていいわよ?」

「冷たいこと言うなよ。暇なんだもん。あの男とふたりでホテルにいるのも嫌だし……もっと退屈しそうじゃん」

「だからってわたしと来ても――」

「何やってるんだ、お前ら!」

 通りにどすの利いた大声が響き、わたしのベアクローに遠慮を願う言葉は遮られた。パッと“凝”をして大声を発したらしき人影を確かめた。人影は遠かったけれど付近には明かりがあり、見えた風体からまっとうな勤め人でないことを察するのは容易だった。

(能力者じゃない。でも……)

 男はまっすぐ前に両手を突き出していた。

(銃を持ってる!)

 わたしは銃口を向けられた恐怖で凍りつきそうになりながらなんとかオーラを噴出させ、固めて身を守ろうとした。

「下手っぴ。ぜーんぜんダメ」

 泰然自若としたベアクローがわたしを横目で見て空気を読まないコメントをくれた。

(うっさいわね!)

 頭にきたけれど言い返せるほどの余裕がなかった。

(ベアクローに任せていいの? 逃げる? 弾当たらない?)

 銃で撃たれかねない状況というのはまったく初めてのことだった。焦りと恐怖で目の前の男から目を離せなくなっていた。

 わたしたちが返答しないことで相手も警戒を強めたらしく、ピリピリとした緊張が空気に混ざりはじめた。

 ピクッと相手の引き金にかかる指が震え、あっと思って息を呑んだ瞬間、横で何かが射出されたような聞きなれない音がした。そして目を見開いて見つめるわたしの前で男がぞっとするような声をもらしながら倒れ伏した。その体からオーラが大きく乱れ、徐々に絶えていくのを、信じられないような気持ちで身じろぎもできずに見ていた。

「銃よりも念能力者のほうを怖がるべきだと思うけど? そういうところ、あんたも素人だよな」

 ベアクローは銃を下ろしながらのんびり言った。

 わたしは感情を表に出さないように努めたけれど、できなかった。ベアクローに引きつった顔を見せてしまった。

「……どうしろっての?」

「あんたが軍人時代のオレの部下だったら、ああいう場面ではためらわず殺しに行けって教えるところだけどな。倫理の崖っぷちに立たされたら、疑問符なんかかなぐり捨てろ、世界一鈍感な人間になれって。ま、あんたにはそんな必要もないな」

 銃声に反応して夜道をかけるいくつもの足音と男たちの声が聞こえてきた。

「……とりあえず逃げましょ」

 ベアクローの腕を引っぱりその場を離れた。できるだけ早く違うところへ行きたかった。今が夜で、周囲にろくに明かりもないことがありがたかった。死体も見えないし、わたしの表情もベアクローに見えないから。

「そういえばさ、クローディア、どうしてあんたこの銃が念を弾代わりにこめて撃つものだってわかったんだ?」

 ベアクローは苛立たしいほどに余裕のある態度で尋ねた。わたしは冷静を装って答えた。

「雷管がないでしょ、それ。発火させる必要がない銃なんておもちゃか念を使うかよ。撃鉄もないしね。初めてヨークシンで会った日、見せてもらったときに変だなって感じたの。あなたは特別製のおもちゃだって言ったわよね」

「よく見てるな。その通りだよ。たいしたもんだ」

「どうも」

 褒められはしたもののうれしい気分にはならなかった。自分の声がはるか遠くから聞こえてくるような感じがしていた。先ほどの出来事が何度も頭の中で再演されていた。脳みそがふわふわしていて、吐きたくなるような胸のむかつきがなければこのまま卒倒してしまいそうだった。

 ベアクローは腕からわたしの指を外し、大きな手でわたしの頭をぽんと撫でた。

「なにカッカしてるんだ?」

「してないわよ!」

「してるだろ」

「じゃあしてるわよ!」

「何か気に入らないことでもあった?」

 ベアクローは首をかしげた。

「……」

「おーい」

 わたしの頭の中でまた人影が倒れ、オーラが消えていった。死ぬ間際の苦痛の声が耳にこびりついて離れない。吐き気はひどくなる一方だったし、自分でもよくわからないけれどわたしは何かに腹を立てていた。

(なんなの? なんなの? なんなの?)

 落ち着け、と自分に言い聞かせた。しかしすぐにあきらめた。無理に落ち着く必要なんてないじゃないか?

「いいわよ! こうなりゃもう自棄っぱちよ! ハシゴするわよ!」

「ん? 飲みに行くのか?」

「なんでよ! 銃をぶっ放しに行くに決まってるじゃない! ついでに手榴弾も放りこむわよ!」

「いいねえ。楽しくなってきた」

 ベアクローは破顔してまたわたしの頭を撫でた。

 

 グレイ家のサマーハウスは海が見下ろせる高台にあった。今夜はその一帯はとてもにぎやかだった。黒塗りの高級車が詰めかけ、黒服の男たちが我が物顔に闊歩し、クラクションが断続的に鳴らされ、怒鳴り合う声が聞こえていた。もう一遊び終えてきたわたしとベアクローはそのようすを真っ暗で人気のない浜辺から見上げていた。

「おー、やってるやってる」

「盛り上がってるな」

 ベアクローはビンを傾けてビールを飲んだ。わたしも缶入りの安っぽい味のするオレンジジュースを口に運んだ。わたしたちは昼間の熱がだいぶ冷めた砂にお尻をのせて、波が打ち寄せる音と物騒なざわめきとを静かに聞いていた。前世でお祭りの夜に家の縁側で祭囃子に耳をすませながら買って帰ったかき氷を食べていたことをふと思い出した。そういう楽しさと寂しさがあった。

「こういうのが粋ってやつなのかしら?」

「さあねえ」

 ベアクローはビンを砂に突き刺し、手を頭の後ろで組んでそのまま仰向けに横たわった。そして大きなあくびをひとつ。

「眠いの?」

「んー? いや、まだ大丈夫」

 わたしも真似して寝転がろうかと思ったけれど、長い髪に砂がついて頭がじゃりじゃりになりそうでやめておいた。

「そういや、なんでマフィアの連中がここに集まるのがわかったんだ?」

「ああ、うん」

「最初っからわかってただろ? じゃなきゃあんな大荷物をあらかじめ準備しといて逃げ出せるはずないしな」

「……そうね、たぶんこういうことになるってわかってたわ」

 オレンジジュースをまた一口。おいしくない。

(レモネードがよかったな)

 カフェで飲んだレモネードの味を思い出した。もう当分、あの店には行けないだろう。そろそろヨークシンでの暮らしに戻らなければならない。

「マフィアは何しにここまで来たんだ? 今夜のことにあんたの関与が疑われてるのか?」

 いくつもの銃声が夜空に広がっていった。ホッチキスを留めるような音のものもあれば、一週間餌を与えられなかった猛獣の吼え声のようなものもあった。何発銃が撃たれたのかもよくわからず、空が何度か赤く染まったのを見た。それから悲鳴や叫び声が聞こえた。

「今夜は騒がしかったからみんなはしゃいでるのね、きっと。 小人閑居して不善をなすって感じなんじゃないの?」

「おい、真面目に答えろよ」

「わたしにどうしてマフィアの考えがわかるのよ?」

 木々や車が非現実的なまでのものすごい勢いで吹っ飛んでいった。

「なんでこんな住宅街で抗争なんかやるんだ? 繁華街とか商業地区とかでやるのが普通じゃないか?」

 闇を切り裂くようにいくつもの閃光が走り、衝撃音や破壊音がして爆発が起こった。

(あれは“ダブルマシンガン”? すごい)

 今ので何人死んだだろう、と考えた。それから、世界一無神経な人間はそんなこと気にしないはずだと考えた。

「ほんと、不思議よね」

 大破し、真っ赤に炎上している車が見えた。銃声と悲鳴と怒鳴り声は一向にやまない。

「じゃあ、今マフィア連中を殺して回ってんのはどいつらだ?」

 高級車に乗ってその場を逃げ出そうとするちんぴらたちで高台は混乱の坩堝と化していた。しかしいくらも走らないうちに片端から大破させられていた。

「相当だぜ、そいつら。かなりの念の使い手だ」

「あら、決まってるでしょ」

 わたしは寝転んでいるベアクローを見下ろした。高台で何カ所も上がる火の手のおかげで、顔がはっきり見えるくらいには明るくなっていた。

「幻影旅団よ」

 ベアクローの目はひどく興味を引かれていることを如実に語っていた。

「逃げ出したのはそいつらからか? 行ってきてもいい?」

「だめよ」

 ハルマゲドンが起こったかと思うような耳を聾する爆音が聞こえた。顔を上げるとグレイ家のサマーハウスが、その残骸すらなく吹き飛ばされ、消え失せていた。

「その機会は遠からずあるわ。だから今はそばにいて。わたしが流れ弾で死んじゃったらどうするの?」

 わたしのヴァカンスはとうとう終わった。

 



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20. 友だち

 がちゃがちゃ、たん!

 がちゃたん、がちゃたたん!

「…………」

「……待って、待って……コマンドどうだったっけ……?」

「…………」

「……あ、やだ。……」

「…………」

「………………え? 何今の」

「…………」

「あー! ……体力どう? もうだめ?」

 がちゃ、たん、たん、だん!

「負けた!」

 わたしは耳につけていたノイズキャンセラーを放り投げて、じゅうたんの敷かれた床に勢いよく仰向けに寝っ転がった。

「もーなんで勝てないの!? あーやだ! もう疲れた!」

「……休憩する?」

「する」

 上からユタカがわたしの顔をのぞきこんで、手を差し出した。その手につかまって立ち上がり、放す前にその手首をきゅっと外側にねじってやった。

「ちょ、い、痛い! 何すんだよ!」

「得意げな顔してるからよ」

「そういう腹いせやめろよ! 勝てないからって!」

「大人げなく勝ちに来てるんじゃないわよ。ちょっとくらいわたしにも花を持たせなさいよ」

 つーんとそっぽを向くと、ガキだなぁと文句を言われた。格闘ゲーム初心者に一度も勝ちを譲ろうとしない20代後半の男にそんなことを言われるのは業腹だったけれど、これ以上突っかかるとほんとうに負け犬っぽいから、頑張って耐えた。

 

 首を回し肩を回し腰を叩きながらキチネットへ向かい、ヤカンの中のぬるま湯を水に交換してコンロの火を入れた。ティーボックスをのぞくと案の定紅茶。

「緑茶はないの?」

「ない。紅茶だけ」

「なーによ、ジャポン人のくせに」

「……次からは用意しとくよ」

 そう言うユタカはサイドボードからケーキ皿やフォークを出している。わたしの手土産のおやつが部屋備え付けの小型冷蔵庫で冷やされているのだ。

「あ、そうそう、3人分出しといて」

「え、なんで」

「ベアクローが来るの」

「はあ!?」

 ユタカは手を止めてわたしに向きなおった。

「なんで?」

「呼んだからよ。今ヨークシンにいるんですって。ちょうどいいじゃない」

「一言オレに断るくらいしろよ……。ここオレの部屋なんだけど……」

 不満らしい渋面に厚かましかったかと気づいた。

「そうよね、ごめんなさい。わたしを入れてくれるくらいだから構わないかと思ったの」

 わたしとベアクローは共犯だったんだから、わたしはよくてベアクローはだめということはないだろうと思ったのだ。でもまあよく考えたら、わたしが決めていいことじゃなかった。

「今だったらキャンセルできるけど」

「いいよ、そこまでしなくて……」

「ごめん」

 ユタカは落ちつかなげに顔をこすった。

「いいけどさ。それより――あんた、あいつのことどこまで知ってる?」

「え?」

「ベアクロー。ベアクローと名乗ってるあいつのことだよ」

 ユタカは手を伸ばしてまだ沸いていないヤカンにかかっている火を落とすと、返事を待たずに寝室に入っていき、A4サイズの封筒を手に戻ってきた。

「海兵隊の情報部に知り合いがいるんだ。調べてもらったよ。あいつの本名も社会保障番号も軍歴も市民コードもわかる」

 封筒はわたしの手に押し付けられた。

「ユタカ」

「その後の経歴も調べてるけど、そっちはまだほとんどわかってない。闇の中だ。でも、けっこう名の通った殺し屋なのは間違いないよ」

 気遣いと努力を無下にするのは少し心苦しかったけれど、わたしは首を振って封筒を押し返した。

「――見る気ないわ」

「見たほうがいい」

「なぜ?」

 ユタカは困ったように視線をそらした。困っているのはわたしもだった。

(余計なことは知りたくないの)

 明らかに堅気じゃない人の身元や仕事は知りたくない。取扱いに困るような情報は煩わしい。わたしがユタカに頼んでベアクローのことを探らせたとベアクローに疑われたくない。それに、こいつはわたしを試している可能性がある。自分を利用するために近づいたのではないかとか、自分のことを調べるつもりではないかとか。だからここは適当な理由をつけて断るのが正解の反応だ。

「ユタカ、わたしはベアクローがどんな人間でも構わない」

 いかれた殺し屋だということはすでに確定しており、今更それ以上に重要な情報などありはしない。

 急にユタカは表情を歪めた。

「…………実はあんたのことも調べた」

「気が咎めるの? わたしは別にだめとは言ってないし、そうされると思ってたけど」

「ごめん。勝手にそんなことして」

「いいのよ。隠してないもの」

 念も使えない情報屋が探れる程度のわたしに関する情報なんてどうでもいい。

「それより、どうしてわたしにベアクローの情報をやろうと思ったの?」

「あいつは危険だ」

 ユタカの答えは素早く、目は真剣だった。

「わかってる――」

「わかってない。あいつは快楽殺人鬼だ」

「わかってるわ」

「わかってない。あんたには甘い顔してるかもしれないけど、あいつはもうわかってるだけで300人以上も殺してる軍人崩れの濡れ仕事屋だ。背後から近寄ってナイフで首を切り裂いたり心臓に突き立てたりするまで3秒とかからない男なんだ。なぶり殺しにするからあいつの死体は遊び傷も多いって。それでベアクローなんてあだ名がつけられたんだ。あんたはあいつがどれだけ危ないか、ちゃんとわかってない。いつ、何がきっかけでこ、殺されたっておかしくないんだぞ」

「わかってるってば!」

「わかってるんだったらどうして……!」

 それきり、言い合いになりそうな気配を感じてわたしとユタカは黙りこんだ。お互いの苛立ちを含んだ無言に堪えかねて、わたしは背を向けてヤカンを火にかけ直した。シューという古びたヤカンの音。お湯が沸くまでの時間を持て余して、わたしは背を向けたままなんとか和解への第一歩を踏み出した。

「……なんで、そこまでわたしに構うの」

「あんたがまだ子どもだからだろ」

(まだ子どもだから……かあ)

 わたしにそんな言葉をくれた人は久しくいなかった。子どもらしくあることや、子どもだという理由だけで保護されることを、わたしに望んでくれる大人が周りにいたこともなかった。わたしが望まれるのはいつでもたいてい、天才少女であることだけだ。

 ユタカはいいやつなのだろう。優しく、かなり常識的な感覚を持っている。気遣いには感謝でもって報いるべきだ。いらない世話だとはねつけるべきじゃない。

「あんたが普通の子どもじゃないって知ってるけど……でもまだ子どもだろ。あんたは警察の犯罪者データベースにもまだ記録がない、これからいくらでも真っ当に生きていけるはずの子どもだ」

「……わかってるわ。わかってる、わかってる」

 でもそんな人生など望んじゃいないのだ。

「……今は、あなたの言うことを心に留めておくってことじゃいけない? すぐに、はいそうですか、とはできないわ」

 わたしは譲歩するべきだ。それでもわたしには彼の言わんとすることを受け入れるつもりにはなれなかった。

「えー、うーん。……いい、よ。今は」

 そのうち、などと言うやつの言葉はわたしだってまったく信用できない。でもユタカは不満げながらもうなずいた。そろそろベアクロー本人が来そうだし、ここらが妥協点なのだった。

 

「これ――」

 ユタカは違う封筒を差し出した。

「イーラン=フェンリの調査報告書……頼まれてたやつ」

 こちらは受け取って、封を手で切った。けっこうな分量があった。どうしてわざわざプリントアウトしたのか訊いてみたら、パソコン上のデータは消去したとしても上級者には簡単に復元されてしまうからと返ってきた。

 ありがたいことに目次まで付いていて、ざっと目を通すと、イーランの生い立ちや周囲の人の評価、彼の持っていた各種証明書の真贋など、多岐にわたって事細かに調査されていた。

「ビーアリーカまで行ったよ。オレの中で1、2を争うくらい大変だった。……直接的なつながりはつかみ切れなかったけど、これ、この手の込みようはプロの仕事だよ」

「ありがとう。助かるわ」

 だいたいわたしが考えていたような感じだった。でも裏付けが得られたのは大きい。

「お代は?」

「いいよ、いらない」

「だめよ」

「ベアクローだって何も受け取ってないのに、オレだけ請求するわけにはいかないだろ」

「なによその対抗意識。骨を折ってくれたんでしょ、もらっておきなさいな。わたし、これからも頼むつもりだもの。お金とらないとそのうち負担になるわよ」

 そうこうしているうちにお湯が沸いて、この件はうやむやになってしまった。

 

 カチャカチャとお皿を並べて、温めて茶葉を入れたポットにお湯を注ぎ、ティーコジーをかぶせたちょうどそのときを見計らったかのように部屋のドアがノックされた。

「……ほんと、小憎たらしいタイミングで来るな」

 ユタカの呟きに苦笑を返しながらドアを開くと、現れたベアクローがいつものようにわたしの頭を撫でまわして、元気そうだな、と片頬を上げた。

 

 ユタカとベアクローのあいだにあまり親密な空気がないことに気づいたのは、テーブルについてそうも経たないころだった。

 会話というものがなかった。ティーストレーナーで茶葉をこしながら紅茶をいれているのをわたしの横から見たユタカが、

「その網、そうやって使うものなんだ……」

 とどうでもいいことを言ったほかは、どちらかが何かを言うことはなかった。

 

 紅茶を飲みながらはじめは心を解きほぐそうと適当に雑談をしていたけれど、じきにわたしは話を振り続けるのに疲れた。わたしがベアクローと話しているとユタカは入ってこない。ユタカと話しているとベアクローは自分とは関係ないみたいな顔をしている。

(もう、なんなの?)

 次第にいらついてきた。

(なんでこいつら、わたしにこんなに気を遣わせるの?)

 わたしたち3人は天秤みたいな関係だった。わたしが支点で、ユタカとベアクローが左右にいる。わたしがどちらか片方を構えば、もう片方の存在はどんどん軽くなっていってしまう。関係の中心にいられることは嬉しく、ほっとするけれど、こういうのはすごく面倒くさかった。

「あなたたち、どうしたの? 眠いの?」

 苛々しながら苦情を申し立てると、ユタカはなぜかムスッとして手洗いに立って行ってしまった。

「なんなの?」

「さあねえ」

 ベアクローはいつもの無関心と無責任が腹立つ感じにブレンドされた態度でのんびり首をかしげた。

 

「クローディア」

 呼ばれてティーカップから顔を上げて正面を見ると、ベアクローは手の中からテーブルにカタッとに小さなスティックを落とした。USBフラッシュメモリーだった。

「何?」

「ユタカ=キヌカワを調べた」

 わたしはさすがに呆れを隠せなかった。

(こいつらは、まったく、ふたりして同じことを……)

「迷惑だったかねえ」

「そうじゃないの。ありがたいわ、わたしは調べないつもりだったから」

「あいつに気を遣いすぎなんじゃないの?」

「気くらい遣うわよ」

 戦闘能力を持たない、情報を扱う後方担当のユタカが自分のことを調べられたくないだろうこと、自分が調べられた形跡をすぐに発見できるだろうことは、考えるまでもない。ユタカと友好的になりきらず、周りの人々をあまり気にしないベアクローだからこそユタカを調べることができた。わたしがそんなことをしたら変に潔癖そうな彼の心証を害するだろうし、わたしはそれを恐れていた。

 複雑なバックグラウンドを持っている、自分より有能な人間たちと付き合うことの難しさにため息をついて、わたしはスティックを取り上げた。

「ありがとう、これ、ベアクローも気を遣ってくれたのよね」

「見る気あるのか?」

「うん。ユタカに構わないか訊いてみてからね」

「気を遣いすぎ」

「うん」

 もちろんこんなのはただのポーズだった。あなたの個人情報やプライヴァシーも断りもなく暴きませんよ、というベアクロー向けのアピールにすぎない。人には他人に知られたくないことがひとつやふたつ、あるいはそれ以上にあるものなのだ。そしてユタカは自分がわたしのことを調べた手前、わたしがこれを見ることをもう拒めやしないだろう。

 

 ユタカは携帯電話を操作しながら戻ってきた。

「クローディア」

「何?」

「今、頼まれてたやつの追加の情報が入ってきた」

「え?」

 うながすと、ベアクローがいるのを気にするようにちらちらうかがいながらも教えてくれた。

「……先日から、ここ、ヨークシンにいる」

「わかった。ありがとう」

 

 おそらく高年収、優しい、しかもハッカー。これだけのイケてる要素を持ちながらユタカがどこかダサく見えるのは、ひどく内気な態度のせいだった。特にベアクローといると、おどおど、と容赦ない擬態語をつけてしまいたくなるくらいひどかった。わからないでもない。ベアクローはいわゆる凶悪犯罪者だ。

「オレが来るまで何してたんだ?」

「…………」

「……ユタカと格ゲーしてたの。ユタカって強いのよ」

 ユタカに答えさせてベアクローと会話させようというわたしの試みは本人の黙りの前にあえなく潰え、仕方なく明るい調子でユタカを持ちあげつつ答えると、なぜか当のユタカから横目で睨まれた。頬がほんのり赤くなっている。わけがわからず睨み返せば、携帯電話で横腹を小突かれた。画面を見ると、

『格闘のプロに何言ってんだよ! オレが2Dでだけ強くて得意がってると思われるだろ!』

 と書かれていた。

(……自分の口で言いなさいよ)

 しかし言えないのがユタカなのだ。

「格ゲーって、格闘ゲームだろ? テレビの画面のやつがそう?」

「ええ」

 ベアクローが指差した先にはテレビとそれにつながるジョイステーションがあった。画面はキャラクター選択画面で止まっている。

「『バックストリートファイターズⅣ』。人気のゲームなんですって」

 ダメージを負った度合いに比例してキャラクターのビジュアルも損壊していく。負けは死と同義であり、死して屍を拾うものなしを地でいく修羅のゲームだった。

「ふーん」

 顔には、くだらない、と書いてあった。

「テレビをなんで床に下ろしてんの? 床に座ってやってたわけ?」

「ええ、まあ……」

 そこに触れられると歯切れが悪くなるわたし。これ以上行儀の悪さに突っ込まれまいと苦しまぎれに床に置かれていたものを指した。

「ね、コントローラー見てみてよ。スティックなの。ゲームセンターにいるみたいじゃない?」

 付け足しは小声だった。

「――行ったことないけど」

「スティックじゃないのもあるのか?」

「そう。普通の、パッドがね。スティックは格闘ゲーム用のコントローラーなのよ」

「へえ」

 ここでまた脇腹を小突かれた。視線を落とすと、

『もうこの話題変えよう! 変えて! なんか、いたたまれないというか、聞いてられない』

 と携帯電話に打ち込まれていた。

『なんで?』

 と返すと、

『だってあいつあからさまに興味なさそうだろ! あんたがオレに合わせてくれてんのがわかって申し訳ないし』

 と、女子高生並みの速度で打ち込まれた文章が返ってきた。そう思うなら自分から何か話題を振ってくれればいいのに。みんなして黙っているよりはましだというわたしの的確な判断がわからないのだろうか?

 

 この携帯電話を介したやりとりをしていて思い出したことがあった。

「ねえ、そういえばわたし、まだユタカとメアド交換してないわ」

 モーナンカスで別れたときに走り書きの電話番号のメモをもらっただけだった。

「え? あ、ああ……」

「とっくに調べてるからメアド交換なんか必要ないって顔ね。だめよ。現代っ子の人間関係の儀式はここからなのよ」

「……わかった」

 完全に他人事の空気を出しつつ、人間関係の儀式ねえ、と片肘ついて眉を上げて眺めていたベアクローももちろん輪に加わらせた。ベアクローはすごく嫌そうな顔をしていた。

 

 その後ベアクローはさっさと帰っていき、残ったふたりで格闘ゲームで10本先取をやった。案の定ユタカは勝ちを譲らず、わたしは全敗した。

「帰る?」

「うん」

「じゃあ――」

「うん。あ、そうだ。友だち、もうひとり増やしたいの。いい?」

「え、ええと……」

「いい人よ。きっと気に入るわ」

「なら、うん……」

 大丈夫。わたしには確信がある。絶対うまくいく、まあ、今よりは。などと、わたしは力強い言葉をかけつつ立ち上がった。

(わたしがこれから先もこのふたりに挟まれてやっていくんじゃつらいし)

 ここでも面倒なことはゼパイルに丸投げするという基本方針は適用される。

「じゃあね」

 ひらりと手を振ったときだった。

「――また遊びに来たら。今度は友だちとしてさ」

 うつむきがちにぼそぼそと発された声を間違いなく聞いた。

 思いがけずもらった言葉。示された好意。

「ありがとう」

(友だち?)

 前に友だちがいたのはもう10年は昔のころで、彼らは前世の記憶の中でのみ存在している。環境も自分自身も大きく変わってしまってもう今のわたしにはそのような関係がうまく思い描けなかったけれど、友だちはほしいと思っていたところなので、とりあえず便宜的にこの関係をそう呼んでおくことにした。



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21. グレイギャラリー

 トントンとノックをする。

 ドアの向こうで書類を慌ただしくかきまわす音がした。

「入れ!」

 ややあって、ジュリアンの忌々しげな声がした。

 ノブに手をかけて回し、ドアを開くまでに、これは娘として扱われる状況なのだろうか、それとも駒として扱われる状況なのだろうかと考えた。声から察するに、明らかに後者のようだったけれど。

「失礼しまーす」

 入ってすぐに、今日はどれだけ待っても椅子をすすめられることはないとわかった。

 ジュリアンはデスク――正確にはデスクではなくパートナーズビューローというアンティークの家具――の向こう側で皮の肘掛椅子に体を沈め、わたしをぎらぎらと鋭い目で睨みつけていた。くっきりと青い目。その目を最後に見たのは半年ほども前のことだったと思いだした。ジュリアンは半年ぶりのわたしとの再会を特別な感慨で迎えたようだった。

「なぜ呼ばれたかわかるか?」

 ジュリアンの表情は硬かった。自分が今から言わねばならないことへの不満と腹立ちを隠そうとしていない。

 わたしは言葉に詰まった。

「報告が少し滞ったから、お父様?」

 ジュリアンは前のめりになって、おそろしげに目を見開いた。一瞬戸惑って、しかしこぶしをデスクに振りおろした。おまえが子どもでなかったら、女でなかったら――娘でなかったら、おまえを殴っていた。そう言わんばかりの動作だった。しかるのち、うなり声のようなものをあげた。ジュリアンはひとしきり深呼吸して、またうなった。

「クローディア。おまえはモーナンカスで何をしていた?」

「もちろんヴァカンスを過ごしてたわ、お父様」

 ジュリアンは口をすぼめ、鼻の穴を広げた。破裂寸前に見えた。

「ああ、そうだろうとも――それで? 私がおまえに与えた仕事はどうなった?」

「メールで報告した通りよ。――つまり、終わったわ」

「そうだな。おまえが優秀で嬉しいよ、クローディア。その仕事についてちょっと振り返ってみよう。わたしは1カ月前、電話でおまえに、夏のうちにモーナンカスでうちのファームの資金の流れを調査して来いといったな。そしておまえはモーナンカスへ発った。そうだな? 不思議なのは、その次の日におまえがなぜか肋骨を折るという大けがをしていることなんだが――」

「ちょっと厄介事に巻き込まれて……」

「そうか! なるほどな! ……それで、まだ不可解なことがあるんだが、資金の流れを調査するのに、どうしておまえはうちのサマーハウスをぶち壊す必要があったんだ?」

 ジュリアンの目は血走っていた。

「わたしが壊したわけじゃないわ」

「おまえが幻影旅団と頻繁に会っていたと聞いているんだがな?」

(イーラン! あの口の軽いキザ男!)

 怒りがぱっと胸の内で燃え上がったけれど、それをひた隠して、わたしは弁解がましく説明を試みた。

「実は、わたしの骨を折ったのも幻影旅団なの」

「それで? ……そういえばこのあいだヨークシンの家に泥棒まで入られたらしいな。お前の危機管理はどうなっているんだ、クローディア?」

 失望もあらわといった様子だった。ジュリアンの中でわたしの株は下がり続けている。わたしはあせった。このままでは取引停止、悪くすれば上場廃止になりそうな気配だった。幻影旅団を利用しようと彼らにこちらから故意に接触し、にもかかわらず取引関係を築くことに失敗したのみならず一方的に利用され、ほうほうの体でヨークシンに逃げ帰ってきたことはなんとしてもジュリアンから隠さなければならない。わたしは苦し紛れに嘘をついた。

「泥棒に入られたのは警備会社の責任よ、お父様。それに彼らとは初日に、ほんとうに偶然に出会ったの。そのことは報告書に記載の通りよ。でも団長のクロロ=ルシルフルはわたしの顔を見覚えていたの。彼はこの偶然の出会いを最初は偶然とは考えなかったわ。それでわたしを殴って尋問しようとしたの」

「――つまり、こういうことか? おまえは彼ら幻影旅団に偶然見つかって、ファームの秘密をしゃべらされそうになった。でもしゃべらなかった。その後誤解も解け、幻影旅団とつるむようになった。にもかかわらず幻影旅団は彼らの仕事の終わりに行きがけの駄賃としてサマーハウスを襲い、破壊していった」

「その通りよ、お父様」

 長い沈黙が続いた。

「……この説明に説得力があると思っているのか?」

 わたしは何も言わなかった。

 ジュリアンは深いため息をつき、顔をうつむけてデスクについた腕で額を支えた。

「ああそうだ。ほんとうの話なのだろう。おまえが私を裏切ったはずがない」

「わかってくれてうれしいわ」

 ジュリアンはムラサキガイのような青く冷たい目でわたしの目をみつめた。

「あの家にはグレイ家の歴史とアイデンティティが蓄積された多くの芸術品があった。あの家そのものもそうだ。180年の歴史、わたしのかわいい子どもたちだ」

(……人を馬鹿にするのもいい加減にしてよ)

 凍ったような青い目。わたしはそれをじっと見すえた。感情を出さないようにするのに苦心していた。

(わたしのかわいい子どもたちですって。じゃあわたしは何なの?)

「モーナンカスのサマーハウスは全壊だ。跡形もない。クローディア、おまえはたしかに資金の流れを調査し、重大な不正をみつけもした。だがな、肝心の資産が失われてしまって、おまえがしたことがいったい何になるというのだ?」

 わたしは答えに窮した。そしてそういうときにいつもするように、沈黙を選択した。この判断が正しかったことはすぐに証明された。彼は返答を待たなかった。

「うちだけではない。ほかにも何軒か襲われたし、ヴィネッタファミリーの支部も壊滅させられている。あそこは皆殺しだ。映画のような最期を迎えられて支部長のデルベも本望だろう。あいつは自己顕示欲の強い男だったからな」

 ほとんど投げやりな言い方だった。

「……なあクローディア、あの晩、いったいモーナンカスで何が起こったのだ?」

 

 今度の静寂は前より長かった。

 ジュリアンは納得したがっていると感じた。わたしは頭の中ですばやく話すべき情報を選別した。どこから話すか、どこまで話すか、どの程度嘘をつくか。答えは出た。

「幻影旅団はわたしに接触してきたの、お父様、エミール会の件で。参加させてほしいって。その便宜さえはかってくれたら、もう詮索はしないと、彼らはそう誓ったの」

「悪いがクローディア、それが何か関係あるのか?」

「あるわ、お父様。すべてはここからだもの。当然、わたしは彼らの言葉を信用しなかったわ。強請りをやる人間というのは際限なく強請ってくるものよ。そしてお父様のファームの仕事について知られてしまうのはそれ以上に問題だと思ったわ」

 ジュリアンは煩わしげに手を振ってさえぎった。

「その話はいい」

 わたしは鼻白んだ。裏の仕事を手伝わせることもあるくせに、わたしが言及しようとするとそうやって嫌がる。矛盾しているし、自分がしていることを恥じているならやめればいいのに。でも今はそんなことを議論している場合じゃないから文句は呑みこんだ。

「とにかく、わたしは彼ら幻影旅団をどうにかする必要があると判断したの。全員いるわけじゃなかったけど、団長とブレーンがそろっていたみたいだったから、彼らがいなくなれば自壊すると思ったのよ。

 それでわたしは、幻影旅団とヴィネッタファミリーとをつぶし合わせることにしたの。幻影旅団の仕業に見せかけて幹部の自宅でも攻撃すれば、それで彼らには十分だと思ったわ。

 そして決行の日を、幻影旅団が動く日と決めたの。いつどこに強盗に入る気かはわからなかったけど、アジトの場所を突き止めてたから、市中の混乱に乗じて、一仕事終えてアジトで気を抜いているところをヴィネッタファミリーに襲撃させるというのがおおまかな計画だったわ」

 わたしは一息ついて、ジュリアンが完全に理解するのを待った。

「いつどこに強盗に入るかわからないと今言ったけど、ある程度の予測はついてたわ。そう、彼らはエミール会に関心を示してた。エミール会に行きたがったのも品定めのためでしょうね。彼らの仕事は必ずエミール会のあとに行われると確信があったわ」

 わたしはボスの疑問を先回りして言った。

「そして案の定、幻影旅団はエミール会のあと、動き出したわ」

 ジュリアンは両手の指先を合わせて小さな尖塔の形をつくった。

「ここからは時系列順に話すわ。

 彼らはまずジョイス――ホテルのオーナーなんだけど――彼の邸宅へ入ったみたい。本人、家族、使用人、すべて皆殺し。ジョイスは競売会にいたから、競り落としたものを狙われたんだと思うわ。調べが進めばわかることよね。ほかにも盗られたものがあるのかもしれないけど、それはちょっとわからないわ。

 そして2件目が女優のエンリ=ルクローサの夏の別荘。彼女は外出中で無事。パーティー狂いが命を救ったのね。使用人も帰宅していて人的被害はゼロ。でも別荘はあとかたもなく壊されてるわ。……おそらくだけど、やつあたりじゃないかしら。彼女はエミール会で競り落とした宝石をつけてパーティーにあらわれたそうだから。」

 ジュリアンは憂鬱そうな顔をした。

「幻影旅団が次に向かったのはヴィネッタファミリーの支部長、マンタル=デルベの邸宅。彼は妻子ともども殺されたわ。警備をしていた部下も。デルベもエミール会で見かけたわ。というわけでわたしが幻影旅団に何かする必要もなくなったの。自分たちで報復の標的になってくれたわけだもの。

 それから、えーと、4件目はカジノの支配人、モンダドーリの自宅ね。彼はその時刻は職場にいて無事だったみたい。職場はエトルーズ、最近カキン系マフィアの清安和に買収されたカジノよ」

「ああ、それは知っている。モンダドーリの自宅に警察の捜査の手が入って、マネーロンダリングの証拠が出てきたそうだな。エトルーズは閉鎖になるだろう。数少ない心温まるニュースだな」

「そうよね。今となっては自分だけが不幸というわけじゃないって事実だけが慰めよね」

 私の相槌にジュリアンはカッと目を見開いた。信じがたいという感情を最大限に表現した顔つきだった。今にも飛びかかってきそうに思えた。わたしはあわてて話を続けた。

「5件目はちょっと距離が離れてるわ。あと、手口からみても犯行時刻から考えても、彼らはひとりかふたりで行動していたことは間違いないでしょうね。ヴィアジョア地区、コトリカ人退役将校フルンゼの自宅よ。本人と家族が殺されたわ。この家も同様に荒らされてるけど、何を盗られたのかは不明ね。

 ……そして最後なんだけど――」

 そこで息をつまらせた。

「グレイ家のサマーハウスが襲われたわ。たぶん、彼らの顔を知っているわたしを殺していこうと思ったんじゃないかしら」

 ジュリアンは死者に黙祷をささげるように目を閉じた。

 数秒して目を開け、わたしに労わるような、がっかりしたようなまなざしを投げた。

「……おまえが生きているだけでもよかったと考えるべきなのか」

(もちろん、そう考えてよ。普通の親ならそう考えるわよ)

 わたしは胸にさげた懐中時計に触れた。彫られたダリアの意匠の凹凸をゆっくり指でなぞった。

 

 息を大きく吸って吐き、気分を入れ替えようと試みた。ブリザードキャンディSの助けがほしかった。

「わたしはちょうど外出してたわ。幻影旅団のアジトを襲わせるタイミングをはかるために。家が大変なことになっているのも気づかなかった。あの夜はどこもかしこも大騒ぎだったもの。

 おかしいと感じたのはしばらくしてからだったわ。家のほうで何度も銃声が聞こえたの。それから急いで取って返して、支部長のデルベを襲われたヴィネッタファミリーが集めた部下を引き連れて、幻影旅団を追ってうちのサマーハウスで彼らと鉢合わせしたことを知ったの」

 わたしは言葉をつづけた。

「銃声と怒号は絶え間なく続いてたわ。ヴィネッタと同盟関係にあるエルゲン=ヴィダや子ファミリーのマシュークファミリーの車もどんどん集まってきてた。付近には何十人もの男があふれてたわ。

 わたしは距離を置いてずっと様子をうかがってたの。事態に収拾がつくのも時間の問題だろうと思ってたわ。数が違いすぎたもの。――たしかに、それからたった数十分で決着はついたの。勝敗の予測は外れたけどね」

 ジュリアンはうめいた。

 しばし間が空いたのち、ジュリアンはあきらめ顔で言った。

「……それほどか」

 彼は背もたれに寄り掛かり、天井をみつめた。そして深くため息をついて目を閉じ、迷いを振り切るように目を開けた。

 ジュリアンはわたしを直視した。

「やつらはおそらく念使いだ」

 わたしは返事に困った。あいまいな、うー、とうめく以上のリアクションが求められていることはわかったけれど、もっと適切なリアクションといっても思い浮かばなかった。

 困ったあげく、わたしはあいまいさに理解の色を混ぜて言った。

「……そう。そうじゃないかとわたしも思ってたわ」

 ジュリアンは驚愕した。

「念を知っていたのか! おまえなら不思議ではないような気もするが……いや、もしかして私が冗談を言っているのだとは思っていないか? 私をからかっているのか?」

「いいえ、お父様。詳しくは知らないけど、そういう存在は気づいてたわ。ときどき、絵や彫刻や家具なんかからもやもやしたものが見えるような気がしてたの。そういうものはたいてい手が込んでいて出来のいい工芸品だったわ。幻影旅団のひとりにそのことを言ったら、それは念だって」

 ジュリアンは感じ入ったようにうなずいた。

「ああ。おまえは考えが実に柔軟だ……子どもだからだろうか。しかもおまえも多少念を使えるとはな。そう。念という力を使う連中が世界には何人もいるのだ。だがしかしその数は多くない。正しく使える者ともなるとせいぜい一握りだ。

 念は物に宿るだけではない。肉体を強化し、道具に性能を付け加え、オーラを実体化させることもできる。念使いを相手にすることは普通の人間には難しい。オーラすら見えないのでは、まさしく何をされているかわからぬうちにやられてしまう。

 おまえも覚えておくといい。マフィアはこの念使いを奪いあっている――マフィアだけではないが。強い念使いはそのままファミリーの強さにつながるらしいな。念使いの質と量の差がファミリーの実力の決定的な差となる――まあ、直系組ですら集めかねているのが現状のようだがな。犬ころのようにそこらへんにいるわけではないのだ、これが」

 ジュリアンにしゃべらせていたらどこまでも脱線してしまうので、割り込んで言った。

「幻影旅団は、その念使いの集団だとみていいのね? あいつらは10人程度しか構成員がいないわ。それは、念使いの数の少なさと、それでも十分なほどの強力さが理由だと、そう考えていいのよね?」

「そうだ、クローディア。こうなってはそうとしか考えられない」

(まったく、ありがたいお話をどうもありがとう)

 わたしはため息をついた。

「ここまでがあの日の夜起こったことで、わたしが知ってることの全部よ。いい? これを前提に聞いてね。……わたし、幻影旅団の話はイーランにしかしてないの。わたしとイーラン以外、あの国にいたほかの誰も、国内に幻影旅団が入ってきているとは知らなかったのよ。なのに、どうしてヴィネッタファミリーは自分たちに仇なす者としてあの夜即座に幻影旅団の首に多額の報奨金をかけることができたの?」

 わたしはトートバッグの中から書類をばさっとパートナーズビューローの上に出した。ユタカが作成したイーランの素性調査書だ。

「お父様は本物の目利きだったみたいね。イーラン=フェンリは贋作だった。わたし、お父様の財政顧問を解任することを勧めるわ」

 



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22. 喧騒の館(1)

 南半球にあるヨークシンの2月は夏の終わり。それにしてはおどろくほど涼しい夜だった。今朝のテレビでも天気予報のコーナーで夜は気温がぐんと下がると告げていた。あとはどこかの動物園で白クマの赤ちゃんが生まれただとか、ヨークシンで連続強盗事件が起きているだとか、橋の入札で談合があっただとか、そういったよくあるいつものニュース。

 わたしは地下鉄をサン=マルセルでおり、10区の通りをぶらぶら歩いた。ブッシュストリートからレーネンスパークを横切り、ビエッチアレーへ出る。そのあたりは治安の悪い地区だった。 

 すえた臭いのするカキン人の食料品店、ゲイバー、ポルノショップ、半ダースものアングラ劇場、数え切れないほどのクラブ。水兵、若いカップル、ヤク中にアル中、ニーハイブーツの娼婦。おまけに週末だけやってくる、身なりのいい倒錯者や変質者まで集まっている。ビエッチアレーは活気づいていた。

 わたしは投げかけられるからかいにすべてジェスチャーで答えながら、グラントストリートの角を折れ、目的の場所にたどり着いた。

 『ハードキャンディー』。倉庫を改装した建物で、流行を追う若者たちがダンスしたりナンパしたり、なにかそういうデカダンス的な気分に浸りに来るクラブだった。

 

 舗道を占領している高級スポーツカーの脇を通り過ぎ、わたしを見て怪訝そうな顔をする入口の毛むくじゃらの巨漢に偽造IDをふりかざして皮の房飾りをつけたドアを開けさせ、中に入った。

 0時。まだ人はそれほどいなかった。でも十分乱痴気騒ぎと表現できるのではないかと思えた。

明滅する光。煙草とアルコールのよどんだにおい。叫び声。理解に苦しむヘアスタイル。光を反射している用途不明のチェーン。

 わたしはオレンジジュースを飲みながらきんきんする頭を揺らした。なにが面白おかしいのがまったくわからなかったし、やかましいだけに思えた。こういう場所を楽しむにはアルコールが足りなかったし、コカインでハイになってもいなかった。あるいはわたしの精神は老けすぎていたのかもしれないし、体が幼すぎたのかもしれない。

 べつに批判する気はない。彼らにしてみればこの馬鹿騒ぎも精力剤であり、媚薬であり、退屈な日常からの逃避なのだろうと思う。彼らはここで、恋人と出会い、麻薬に酔い、踊り明かして悩みを忘れ、もてあまし気味のエネルギーを発散させるのだ。

 いつのまにか次のDJのプレイがはじまっていた。

 

「ひさしぶりね、イーラン」

 そう声を掛けながら彼の横に座っていた女を押しのけた。

「――クローディア?」

 きいきいわめく女を尻目にオレンジジュースの入ったグラスをテーブルに置き、壁に並んだハイスツールに腰掛けて微笑みかけると、イーランはぎょっとした顔をした。

「こんなところで君に会うとは思わなかったな」

「わたしも。モーナンカス以外で会うのは初めてね」

「そういう意味じゃなくてさ」

「わかってるわ。わたし、クラブに来るのって初めて」

「どうしてここに?」

「あなたに会うためよ、もちろん。どうしてるかしらと思って」

 そうやってわたしたちが公園で出会った2匹の犬みたいに相手のようすをうかがいあっているところにひとりの女がやってきて、イーランに何事かをささやいた。イーランは困惑したようなはにかんだような表情を浮かべ、ささやき返した。女は残念そうに離れて行った。

 わたしが不審を隠さないでいると、イーランはただのナンパ、とさらりと明かした。そうだろうとは思ったけれど、信じられる理由も義理もないので内心警戒は崩さない。でもそれを期に、わたしの警戒も追いつかなくなるくらいイーランは女に声を掛けられていた。ショートカットの金髪のかわいい子、赤毛のゴージャスな美人、OL風のブルネットのきれいな女……。嫉妬のこもった男からの視線も多数突き刺さっていた。

「ねえ、ちょっと。なに目立ってるのよ」

 わたしは我慢できずに言った。

「オレのせいか?」

 イーランは笑って言った。

 わたしの耳には、オレがもてるのはオレのせいじゃないし、そのオレが君のような子どもと一緒にいるから退屈しているんじゃないかと声をかけられるんだよ、と言っているように聞こえた。まず間違ってはいないと思う。

「ちょっと行って踊ってくるくらいいいわよ」

 わたしは気にしないことにした。実際のところ、イーランくらい顔がよくて、賢くて、お金があって、自信のある人間に、調子に乗るなというのが無茶な要求なのだ。しかしイーランはわたしの気遣いを、そんな気分じゃないから、と断った。

 

 照明の色が変わった。

 わたしの知らない曲だったけれど、フロアがどっと沸きたち、隣のテーブルにいた男が仲間とともに吼えながらフロアへ走り出して行った。有名な曲なのか、DJのセンスが良かったのか、わたしにはわからない。

 イーランは誰もいなくなったとなりのテーブルから今日のフライヤーを勝手に取って眺めていた。視線を落とした彼の顔には陰影がくっきりとできていて、彫りの深さが際立っていた。その日に焼けたなめらかな頬に照明の青や赤が映りこんでは消えていった。

 

 手洗いに立ったついでに飲み物をとって戻ってくると、イーランはまた女に話しかけられていた。ため息をついてテーブルにグラスを置くと、イーランは女に向かって言った。

「じゃあそういうことだから。ごめんね」

 褐色の肌の女はなぜかわたしをものすごく睨みつけてから去っていった。わたしはいわれのない敵意に面食らってその後ろ姿を目で追った。そこにイーランの忍び笑いが聞こえた。

「……なに笑ってるの」

「いや……クローディア、君のことを訊かれた。彼女なのかって」

 わたしは、ふん、と鼻を鳴らした。

(くっだらない)

 女の質問も、イーランのからかいも。

「オレがどう答えたのか訊かなくていいのか?」

「興味がないわ」

 自意識過剰すぎる、と思った。雌犬相手にやっていればいいのだ、そういう遊びは。イーランがロリコンと思われようがどう思われようがどうでもよかったし、イーランがわたしについて何と言ったかもどうでもよかった。わたしが気にするのは、イーランがわたしをほんとうはどう思っているか、わたしがイーランをどう思っているかなのだ。

 

「君はほんとうに神出鬼没だね、クローディア」

「あなたの普段の行動範囲や交際範囲を外れる場所で会うからそういう気がするのよ、イーラン。まあもっとも、お上品なパーティーじゃなくてこういうクラブこそがあなたの本来の場所なのかもしれないけどね」

 イーランは口元をひきつらせた。

「おいおい、怖いな、クローディア。君はどこまで知ってるんだ?」

 わたしはくちびるを噛みしめた。

「あんまり知らないわ。わたしが知ってるのは、わたしが知ってると思ってたあなたが紛い物だったってことくらいよ。そうでしょ、イーラン=フェンリ! ビーアリーカの不動産王だなんて嘘ばっかり! わたしが訊きたいくらいよ、ほんとうのあなたのことをね」

 わたしはイーランをぎりぎり睨みつけた。でもイーランははじめこそ目を見開いていたけれど、すぐに茶目っぽく肩をすくめ、それからわたしににっこり微笑んだ。それはかすかなはにかみを内に秘めた、意外なくらい優しさと親しみのこもった微笑みだった。

 わたしは心を奪われると同時にかっとなった。だましていた相手に向ける笑顔じゃない。もはやこちらは相手が誰ともわからなくなっていて、親しみなんてほとんどなくしてしまっているというのに。

「あなたのこと調べたわ。大学在学中からよくない付き合いがあったみたいね。博打とドラッグのやり方は常軌を逸してたそうじゃない。そこでヴィネッタファミリーとも付き合うようになったんでしょ。ビーアリーカで不動産ディベロッパーをやってたってくだりはほとんど嘘。あなたがやってたのはマフィアの運び屋よ。モデルとしても活動してたから、出入国が多くてもそう不自然じゃないところを買われたのね」

 わたしはジュリアンに渡したものと同じ内容の書類をトートバッグから出してめくった。ユタカがほぼ1カ月かけて、ビーアリーカに行きさえして調べてくれたものだった。ユタカは情報屋として一番きついたぐいの仕事だった、と言った。

 

 イーランはモーナンカスのアッパークラスの生まれで、本物の出生証明書をもっていた。そしてモーナンカスの学校にハイスクールまで通っていた。在籍証明書もある。その後ヨークシン州立大学に進んだけれど中退し、ヴィネッタファミリーとの付き合いで現金の運び屋をやっていた。阿呆なことに博打で身を持ち崩したのだ。

 彼については中退以降の経歴を書き換えればよかった。彼は商機を求めて経済成長に沸く南アイジエン大陸のビーアリーカに渡り、ひと旗あげたことにした。文無しとなって大学を中退した彼は、三等船客としてビーアリーカに渡航し、まず地元の不動産会社の事務員となった。そして数年の勤務を経て、彼は不動産ディベロッパーの会社を設立した。苦労は大いに報われ、彼は何年かのうちに蓄財を果たした、という具合だ。

 にせの経歴は証拠書類以上のがっちりした事実で補強されなければならない。イーランは実際に運び屋としてビーアリーカへ何度も行ったことがあり、世情に通じていた。彼は習慣も流行も知っていたし、バーやクラブでの顔見知りもそれなりにいた。ちょっとやそっと探りを入れられたくらいではボロは出ない。肝心の不動産ディベロッパーについてはファミリーが用意した。資金洗浄に使うあてがあったのだ。適当なシェルカンパニーを買って、そのシェルカンパニーをイーランの会社だということにした。イーランにはそこで1年働かせ、仕事の知識と経験をあたえた。

 かくしてビーアリーカで成功したモーナンカス人のイーラン=フェンリのできあがりだ。あとはファミリーがこの偽装を維持するのに必要な資金を準備してやればよかった。

 イーランはそれ以来セレブリティとして、ヴィネッタファミリーのマネーロンダリングを担当したり、国の要人に近づいたり、官僚のコネを得たり、どこかの名士の弱みを握ったり、その他自分の立場を利用してヴィネッタファミリーのために働いてきていたのだった。

 

 イーランは楽しそうに笑った。

「ジュリアン=グレイの懐刀として今日からでもやっていけるよ、君。それとももうすでにそうなのかな? オレが財政顧問を解任されたのは君の入れ知恵だったようだな」

「あなたがジュリアンのファームのお金を横領してなければもうしばらく気づかなかったわよ。ジュリアンは馬鹿でも無能でもないわ。あなたの浪費放蕩癖も自分の会社の資金の流れもちゃんと把握してるの。もうずっと前から内偵が入ってた。わたしがしたのはモーナンカスでの別の用事のついでにその裏付けをとったくらいよ」

「たしかに有能なやつだよ、あいつは」

「今は何してるの?」

「見てのとおりだよ。休暇中。モーナンカスでのオレの仕事はお終い。もうあそこには5年いたからな、ちょうど潮時だったんだ」

「そのうちまたどこかで似たようなことをやるの?」

「そうだよ。君やジュリアンが、オレがスパイだって暴露しなけりゃこの仕事も続けてられる」

 まるでわたしたちがそうしないと確信しているような口ぶりだった。あるいはどちらでもいいと思っているかのような。破滅的な身の処し方に思えた。わたしにはイーランが無事スパイとして定年を迎えているところなんてまったく想像できなかった。

「スパイの仕事が好きなの?」

「向いてるんだ。好き嫌いじゃない」

 たしかに彼はスパイに向いているのだろう。観察力が鋭くて、魅力があって、社交的で。わたしがそう言うと、イーランは声をたてて笑った。

「基本的に情報部員はふたつのタイプにわかれるんだ。圧倒的に多いのが、誰の注意もひかない、特徴もない凡人タイプ。物静かで、落ち着いていて、けっしてでしゃばらない。普段の生活も地味なら服装も地味、人間関係も地味。会ってから5分も経てば忘れられてしまうような男女だ。

 もうひとつのタイプは、目立つ人で、脚光を浴びていなければ落ち着かないといった外交的性格の持ち主。良いコネと高い地位や要職についている人を友人にもっている。社交界でももっともきらびやかな人士の間に出入りしていて、それを大いに見せびらかす。こういう人間を自慢屋の馬鹿と考えるやつはいても、スパイじゃないかと考えるやつはまずいない。オレはこっちのタイプ。女と酒とヨットに詳しくて気が利いたから、うちのファミリーでうだつのあがらないチンピラをやっていたのを引き抜かれたんだ」

「楽しいの?」

「まさか! だったら好きだって言うよ。楽しいのははじめだけ。実を言うと、べつに好きな仕事じゃないな。でもこの世の中に好きな仕事をしてるやつがどれだけいる?」

 イーランは気だるげに目を伏せてグラスの水滴を指でなぞった。

 わたしは酒の片鱗もないレモネード割を飲みながら、クラブの騒音の中からイーランのなめらかな声だけを耳に入れていた。

「ヴィネッタファミリーのいろいろな部門の中で、もっとも地味なのがオレたちの仕事なんだ。金を生むわけでなし、派手に暴れるわけでもなし。やっていることといったら、幹部連中を監視したり、政治家や司法関係者の弱みを握ったり、ほかのファミリーに浸透工作をかけて動向をつかんだり……。ときどきは地下破壊活動やちょっとした誘拐もやるらしいけど、オレにそんな仕事が回ってきたことはないな」

「わたしはそれ楽しそうだと思うけど」

「きっとそのうちしんどくなる。スパイに非番はないんだからな。で、ほとんどの場合、通常の社交の機会もない。工作員同士の横のつながりは断たれている。受け持ちの工作員たちの交通手段から必要経費まで面倒を見たり、指示を伝えたり、連絡役をこなしたりする仮名でしか知らされない監督役の上司がひとりつくだけだ。組織内のほかの部員との接触は疫病のように避けられる。任務行動中はほとんどの人間を信用できなくなる。周囲の人間の多くは敵側の人間だし、接近してくる人は敵の回し者かもしれない。友人にしろ恋人にしろ深い関係になった人間が、オレのスパイという本業を知って、自分の支払い能力を高めようとオレを敵側に売らないとは限らない。あるいは本人にそのつもりがまったくなくてもオレについての重要な情報を知らずに漏らしてしまうかもしれない。その代償を払うのは自分で、それは自由や体の一部や命だったりする。な? 情報部ってのは過酷で孤独な職場なんだ」

「ふうん」

 わたしは怒りも忘れて話に聞き入っていた。現役スパイの話なんてめったに聞く機会があるとも思えない。スパイだなんて、もし現実にいるならお目にかかってみたい職業トップ3に入るんじゃないだろうか。もしそんなランキングがあるならだけれど。

 イーランは長い人差し指でグラスの縁の塩を少しだけ掬い取り、その指をなめた。イーランは何をしても絵になる美丈夫だった。

「なあ、なんでオレが部外者にぺらぺらこんな話をしてると思う?」

 話の展開的に、なんだか嫌なことになりそうだった。

 わたしは無邪気そうな声で言った。

「さあ。わからないわ」

「思ってもないことを言うのはよせって言っただろ? 君の賢さを疑ってないって。わかってるはずだ、クローディア。君もうちに来ないか?」

 イーランのパライバトルマリンのような美しい目がわたしを捉えた。



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23. 喧騒の館(2)

 かかっている曲の終わりのコードと同じコードで次の曲がはじまった。ピッチが合い、イントロが終わってギターにほかのパートが乱入する。フロアから男の絶叫といくつもの大笑いが聞こえた。気をそらされてそちらを見ると、真ん中で茶髪の男が踊り狂っていた。周りの男や女は彼を避け、空いたスペースで彼はさらに、なんというか、暴れまわっていた。呆れ顔に迷惑顔。ノリのいい男たちが加わって一緒になって踊りはじめた。わたしはバッカスの祭りに紛れこんだような気分になった。

 

「……どうにも話をする気が削がれるな」

「ごめんなさい」

 暗に気を散らせていたことをとがめられて、わたしはすぐに謝った。どうしよう、と考えながらレモネード割にちょっと口をつける。

「さっきのうちに来ないかっていうのは、何のお誘いなの? ヴィネッタファミリーに来ないかってこと? スパイにならないかってこと? それとも嫁に来ないかっていうプロポーズ? それなら悪いんだけど、わたしまだ結婚できる年齢に達してないから……」

「おいこら、君は茶化さないと気がすまないのか? ごまかされるつもりはないからな」

 イーランはゆるく握ったこぶしでわたしの頭を軽く小突いた。

「スパイにならないかっていう誘いだよ。ということは必然的にヴィネッタファミリーに来ないかって誘いにもなるわけだが」

 わたしはあいまいに笑った。

(冗談じゃないわよ。何が悲しくてお嬢様のわたしが反社会的組織に入らなきゃいけないのよ)

「わたしには無理なんじゃないかしら。だって、普通マフィアに入るときって人を殺して、変な儀式やったりして、承認されて入るものでしょ?」

 正直、どのハードルも越えたくない。

 イーランは眉を上げた。

「よく知ってるな。だがそんな必要はないよ。正確にはマフィアの一構成員になるんじゃなくて、マフィアの下部組織に入るんだからな」

「でもわたしには学業が……」

「必要ないだろ。オレが調べてないとでも思ったのか? 学校に通ってもないじゃないか」

「わたしなんかがみなさんのお役に立てるかどうか……」

「それだけ賢くて行動力があれば充分。並みの大人よりよっぽど優秀だ」

 言葉をくるむためのわたしのオブラートは品薄状態だった。

(空気を読みなさいよ! 断ってんのよ、こっちは!)

 イーランはわたしを咎めるように見た。

「楽しそうって言ってたじゃないか」

「あなたはそのうちしんどくなるって言ってたわよね」

 いらいらしてきて眉を寄せた。

「わたしにジュリアンを捨てろっていうの?」

「つまらないことを言うなよ。どうせ好きでもないくせに」

 わたしは横目でイーランを見た。彼はわたしの答えを待っていた。答えるしかないだろう。

「やりたくない」

「そうだろうと思ったよ」

 気にしたようすもなくイーランはグラスを乾した。

「子どものスパイって、親子の偽装をするときとかけっこう便利なんだけどさ、見つけてくるのが大変なんだよな。だいたいは自分の子どもを使うんだ。君ならうってつけだと思ったんだがな。それにせっかく仲良くなったんだから、ここでお別れも寂しいだろ?」

 わたしは何て言えばいいのかわからなかった。

「べつにそうでもないって顔だな」

 イーランは鼻を鳴らした。

「仲良くなれたと思ってたんだけどな。結局は一方通行ってことか。信用されてなかったわけだもんな」

「あなただってわたしを騙してたじゃない」

「仕事だよ。それに全部が全部嘘だったわけじゃない。大学中退までの経歴はほんとうだし、オレが上流社会ってものを嫌ってたのもほんとう。君に感じていた好意もほんとう」

(好意?)

「どうも……」

「ああこれだよ! あーもー嫌になるね! わかってたはずなんだけどなあ、かわいい女の子は本気で誰かを好きになったりしないって」

 イーランは金色のウェーブした髪をがしがしかき乱し、すねたようにくちびるをとがらせた。

 

 生気とやる気に欠けた黒髪の店員が灰皿の中を空にしに来た。イーランはひらひらと手をふって追い払うと、邪魔、と灰皿を隣のテーブルに移した。

「オレはモーナンカスの典型的な家庭で育ったんだ――誰もお互いに愛し合ってないようなよくある家庭だ。あそこもおかしな街だよな。小さくて、安全で、保護されてて――幻影旅団がいないときにはな。息がつまりそうだったよ。狭くて閉ざされてて、みんながみんなを知っている。そしてみんな、裕福で、育ちがよくて、白人だ。現実世界の風には当たらないようにして、くだらない骨董品だのガーデンパーティーだのにうつつを抜かして生きている。わかるだろ、そういうの?」

「骨董品はくだらなくなんかない」

「まあそういう意見もあるかもな。でもオレはうんざりしてた。家族にもな。

 フェンリ家は曽祖父の代に土地で財産を築いたんだ。ビーアリーカの不動産王になるってアイディアはここから得たんだ。その後土地を売ってつくった金を株式投資に向けるようになったんだが、大恐慌にぶつかってしまって大損。これがフェンリ家最初の危機。残った土地をほとんど売って現金をつくってまた性懲りもなく投資をはじめたけど、今度はうまくいった。じいさんが死んだときは30億くらい資産があったらしい。その30億は父親と兄弟の3人で仲良く3等分して長男だった親父が家を継いだ。

 父親の記憶はあまりないな。オレは父親が冗談を言ってるところを見たこともなかったし、父親とまとまった会話をしたこともなかった。交わす言葉といったら、調子はどうだ、まあなんとかやってるよ、みたいな道で知り合いに出会ったときするようなやつくらい。ちょっと気まずい空気まで似てるよ。父親は誰に対してもそんな感じだったから、死んだときも愁嘆場ひとつなかったな。

 愁嘆場はそのあとに来た。母親はオレを自室に呼んで――あの女はそこをオールドフランシュ流にブドワールと呼んでたな、鼻につく女だろ? ――あなたの父親はまったく財産を残さなかったと言った。軽率な使い方をしたのだとな。ギャンブルですったわけだが、母親はそんな言い方は絶対にしなかった。父親が死んだのは病気ということになってるが、実際には自殺だった。そのことを言うときも、軽率なことをした、という言い方をした。弁護士の前で、裏切られた妻を演じて涙ぐみながらな。オレが13歳のときだ」

「なぜお父様は自殺なんかされたの?」

「さあな。でもスパイとしてモーナンカスに戻ってからおもしろいことを聞いたぜ。父親は裁判所の判事だったんだけどな、マフィアから賄賂を受け取っていたとかで検察が調査に乗り出していたらしい。政府の聴聞会も予定されてたそうだ。ギャンブルで出た損失を賄賂で補填してたんだろう。そして代わりに幾度となくマフィアに便宜を図ってきた。それが明るみに出ることを恐れて自殺したんだろうな」

 わたしは何度か瞬きをする間に今の話を消化した。彼の人生の骨格が見えてきたような気がした。

「あなたの生き方って矛盾ばかりね、イーラン」

「正直に思ったことを言ってくれてもいいんだぜ。カエルの子はカエルとかな」

「お母様は今どうされてるの?」

「絶縁してここ数年会ってないが、ニアミントンの金持ちと結婚してそいつの家で暮らしてるはずだ」

「絶縁?」

「せっかく大学にまで入れてやったのに中退するなんてって怒り心頭だったよ。モーナンカスからヨークシンにいる息子をコントロールなんかできるわけないとなかなか気づいてくれなくてさ、まいったよ」

「それで?」

「それからはひとりぼっちだよ、まさしくな」

 わたしはレモネード割をちょっとすすった。舌がぴりぴりした。やっぱりこんなところで飲むレモネードは最低の味だった。わたしはまずいレモネードっぽい味の何かから目を離してイーランを見た。

「いつもそうやって狙った女の子の同情を買うの?」

 イーランの繊細めいた皮肉な笑みが崩れた。

「そうさ。大切なのは真実のなかに嘘を混ぜることなんだ。そうしないと嘘をかぎつけられる。とくに女には」

 イーランの声はわたしに負けず劣らず冷ややかだった。

 

 わたしはスツールを蹴って立ち上がった。

「行くのか?」

「ええ。頃合いでしょう?」

 イーランは目を上げた。そこにはもう瞳を満たしていた輝きはなかった。ただ暗い空洞が広がっているだけ。心の傷がにじんでいるのが見えるだけだった。

「あなた、きっとこれからもひとりぼっちで、あなたのことを知る人がいないままどこかで死んでいくんでしょうね」

「……ひどいな」

「わたし、あなたのこと好きだったわ」

 イーランは虚をつかれた顔をした。それから辟易とした表情で目をそらした。瞬間、うんざり感と失望と怒りが胸を満たしたけれど、わたしは身をひるがえして、さよならも言わずに歩き去った。もう会うことはないだろうなと思った。というより、もう会いたくなかった。

 途中で一度だけ振り返って見た。イーランの目はもうこちらを見ていなかった。視線はぼんやりと遠くへ、何を見るともなしに投げられていた。

 

 ハードキャンディーを出て、わたしはとくに当てもなくぶらぶらと歩きはじめた。そしてとりとめもなくイーラン=フェンリのことを思った。彼にどんなに嘘を吐かれてきたか、どんなに偽られてきたか、そうやってどんなに馬鹿にされてきたか。それなのになぜ、少しも彼のことを憎む気持ちになれないのか。同じように自分のことを偽っているわたしがそんなことを思うのはフェアじゃないとはわかっているけれど。

 きっと今までに何人もの女性が彼を愛し、彼を救いたいと思ったに違いないと思う。イーランは美男子だし、支えてあげなきゃという気分にもさせられるから。彼の不安定さ、危なっかしさ、傷つきやすさ、繊細さは愛する理由にもなっただろうし、不安の種にもなっただろう。ひどい人間不信に思春期の子どものような周囲への怒り。彼自身も含めてすべての人間はクズだという見解。秘密主義。女性たちは自己破滅的な男につきあう不安を抱えながら、それでも自分にできることなら何でもやろうとしただろう。伸ばされた手をどれも受け入れられなかったのはイーランだ。人を遠ざけてひとりぼっちでいるのは彼自身の問題なのだ。彼は優雅でうわべだけの世界を嫌ったわけだけど、結局のところ、優雅ではないにしてもうわべだけの世界の外へは出ていけなかったということに気づいているのだろうか。気づいているのだろう。だから彼はああも冷笑的で斜に構え、わずかに疲れたような顔をしているのだ。

 

(本音と真実の世界に生きられたらどんなにいいかしら)

 そうは思ったけれど、わたしにはあまりにも現実的じゃないような気がした。それにわたしは世界がこのようであることに居心地良さも感じているのだった。

 

 わたしはモーナンカスで過ごした日々を思い返した。ろくな記憶がなかった。でも少なくともあの国には美しい海とまばゆい太陽、おいしいレモネードがあった。ヨークシン――この孤独で謎めいた、灰色の大都会――に帰ってくると、夢だったような気すらした。

 夜更かしがつらくてあくびが出た。涙をぬぐおうと皮膚のうすいまぶたをなでると、日焼けでひりひりした。ビーチ焼けだ、と思い至った。

(ああ、会いたいなあ)

 とたんに幻影旅団と過ごした日々を思い出して懐かしくなった。本音と真実の世界に生きている人たち――少なくともわたしにはそう見えている人たち。間違っても優雅でうわべだけの世界には生きていそうにない人たち。無性に彼らが恋しかった。彼らの交わす言葉を聞きたかったし、彼らの思想に触れたかった。

(電話してみようかしら)

 しばらく悩んだけれど、ついにしなかった。この気持ちには感傷が多分に混ざっていたし、わたしは用もないのに電話をかけるようなタイプじゃないし、彼らとのあいだの問題はひとつも解決していなかったから。何より、ヴァカンスはもう終わったのだから。

 夏の日のざわめきを日焼けした皮膚にとどめただけで、わたしはまた日常に戻ることにした。

 



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24. 教会(1)

 夢も見ない眠りから覚めて、わたしは水差しからグラスに水をついで飲んだ。ぬるい水がのどを通って食道を抜けて胃に落ちる感じを、ベッドの上で目を閉じて追いかけた。

 灰色の朝の光がカーテンの隙間から押し入り、一日を彩る騒音の最初の鋭い響きが伝わってきていた。バスのエンジン音、配送トラックのドアが勢いよくしまる音、聖アントニウス教会の7時の鐘の音。

(あー。朝か)

 わたしの寝起きはたいていいつもいい。目を開けるとすぐに頭が働きだした。

 ベッドから降りてバスルームに入り、顔を洗いながら、そろそろ家に戻らないとな、と考えた。最近7区の自宅へは週に1日か2日しか帰っていなかった。あとの大部分はこの仕事場で生活していた。つまりわたしはジュリアンと同じようなことをしているのだ。頻繁に帰ってはいるし、よそに別の家族を持ってはいないけれど。

(これくらい許されるわよね。だってそろそろ反抗期だもの、わたし。ちょっとした家出みたいなものよ)

 クローゼットから白い襟付きのネイビーのドット柄ワンピースを選んで着て、ブラシでふわふわの髪を梳きながら部屋を横切ってカーテンをさっと開けた。下の歩道をカーラーに髪を巻き付けたポラス人のおばさんが掃いている。その横を、キャリーバッグをゴロゴロ引っぱって若い女性が通り過ぎた。高級住宅街じゃないところに住むのならこの騒音とも付き合わなければならない。そのうち慣れるとは思っているけれど、今のところただ気障りなだけだった。

 身支度を終えて、わたしは解凍して温めたごはんと昨夜の残りのお揚げと小松菜の煮びたしで朝ごはんにした。お味噌汁もほしかったけれどわざわざ作ってまで飲みたいわけじゃなかったから我慢した。しみしみのお揚げを食べるとほっこりした。ヨークシンじゃ売られてないしお豆腐もなくて作ることもできないから、冷凍お揚げをジャポンから空輸したのだ。そのかいがあった。やっぱり朝食はほかほかの白米とおだしのきいたおかずに限る。パンやシリアルやビスケットなんてお呼びじゃないのだ。白米が炊き立てだったらもっとうれしかったけれどひとり暮らしだから妥協するしかなかった。毎回半合ずつ炊くなんて馬鹿馬鹿しすぎる。

 この世界で暮らすとなると、正直に言って、ジャポン料理をマイナー料理として設定した冨樫神に怒りがわいた。でも今は、少なくともジャポンという国が存在しているということに感謝できるようになった。

 

 朝食の後片付けや衣類の洗濯を終えて街に出た。すごく日差しが強くて、気温もぐんぐん上がっていきそうな、夏が戻ってきたような日だった。せっかく背中のあせもが落ち着いてきたのに、とちょっとムッとしたけれど、責めるべき相手もいなくてぶつぶつ不平を言いながら歩いた。

 日射しはまぶしくて、肌がチリチリした。プラタナスが街路樹に植えられていて、紅葉に似た手のひら形の葉っぱのあいだから光いっぱいの空が切れ切れに見えた。地面に目を落とすとそこかしこに秋が散らばっていた。乾いた音を立てる落葉に覆われた石畳の上を感触を楽しみながら歩いていると、いかにも創造主に祝福されたという感じで、豊かさがふっくらと伝わってきた。

 コーヒーと食べ物の匂いがカフェから流れ出していて、しみひとつない青い医療用作業衣と黒色のプラスティックサンダルを身につけた近くの病院職員がコーヒーを手にきびきび通り過ぎていった。バス停にはスカーフをかぶったでっぷり太ったおばあさんが起きているのか眠っているのか――生きているのか死んでいるのか――目を閉じて座っていた。通りにはTシャツとジーンズにバックパックというお決まりのいでたちの旅行者や小汚い格好の浮浪者もいた。そんなありふれたヨークシンの街角。誰のもとにもこの美しい日は訪れているのだった。

「『ソル・ルセント・オムニブス』――まさに『太陽は万人の上に輝く』だわ。教会日和ね」

 

 わたしは目的地に向かってベティスパークを突っ切って東に進み、チェイニーストリートを3ブロック南下して十字路のところでぐるりと周りを見渡した。目を凝らしてうっとうしい電線をすかして見上げると、ごちゃごちゃした建物の上から針の先みたいな尖塔のてっぺんがのぞいていた。それを目指して歩くにつれ、塔の形がはっきりしてきた。たどりついたのは古書店が並ぶ狭い通路の奥の教会だった。

 

 聖フランシスコ教会は50人くらいが定員だろう小さな教会だった。18世紀のバロック風のファサードが特徴的といえる程度の、観光名所にもなっているような街の大聖堂とは似ても似つかない教区教会。外の明るさが嘘のように厳かで、取り残されたような寂しい気配があった。会衆席に座っているのは10人もいない。わたしが入っていったときにはミサはすでに始まっていたけれど、頭を垂れて司祭が唱える厳かな言葉に聞き入っている信者は5、6人にすぎなかった。

 彼らは聖体拝領の儀式を執り行うところのようだった。司祭は聖餐杯(チャリス)をささげて聖別の言葉を唱え、そのうしろには聖体(ホスチア)のパンが載っている銀盆を持った助祭が立っていた。司祭が聖体拝領台に近づくと、数少ない会衆たちは聖体を拝領するため席を立った。

 わたしは儀式の邪魔をしないように静かに進んだ。ひんやりとした空気を揺らさないように。目が暗がりに慣れてくると、天井の鮮やかな絵画と装飾に気づいた。

「『聖母被昇天』ね……」

「そう。1786年の、ミセーノの絵画だ」

 顔を左下に落とすと、黒髪の青年が微笑した。礼拝堂のなかで、青年の目が二粒の神秘的なオニキスのように輝いていた。

「クロロ」

「クローディア、隣に座れよ」

 わたしは大人しく従い、そっと会衆席に腰掛けて天井を仰ぎ見た。

 聖母は天上の光に包まれた背景と天使たちを伴って、法悦の表情を浮かべていた。慈愛の赤に気高い精神性の青の伝統的な衣服がたなびいていて、その独特の明瞭感のある色遣いはたしかにミセーノっぽかった。その下では弟子たちが聖母の棺を囲み、昇天していく聖母を見上げていた。ドラマティックな構図、それもミセーノっぽいかもしれない。

「すてきね」

 わたしは画家が誰かはじめからわかっていたふうに言った。

「そうだろ」

 ちらっと横を見たわたしは、自分をつねって悪魔のようなやつの隣に座っていることを忘れないようにしなければならなかった――クロロが、あんまりにもひたむきに、敬虔そうな顔をして天を見上げていたものだから。

(『悪魔はいつも近くにいる』)

 わたしはこの言葉を何回も胸の内で唱えた。敬虔なクリスチャンの10年分くらい。ここでは、何度もナタリーと通った教会の教えの、少なくとも一部の正しさが証明されていた。

「あなたが教会に来るとは思わなかったわ」

 わたしは正直に言った。

「そう? けっこうよく来るけど……まあ、祈りに来るわけじゃないな」

 じゃあ何しに来るんだろう、と再び天井画を見上げて、ああ、とうなずいた。

「天下の大盗賊、A級賞金首の幻影旅団様といえども、建物に描かれた絵までは盗めないものね」

 クロロは、よく言う、と呟いた。

 ミセーノは絵を大量に描いている。でもその大半が教会や聖堂の天井や壁に描かれている。クロロがミセーノの絵を手元で愛でたいと思ったら教会を解体するしかないのだ。

「A級にしてくれって言った覚えはないんだけどな」

「あれだけのことをやれば、そりゃA級首になるわよ」

 わたしは笑った。

「今や世界一有名な強盗団よ、あなたたち。なんといってもモーナンカスのカラミティナイトの立役者ですものね。一晩で6件に押し入り、マフィアとの戦闘をやらかし、皆殺しにした。死者124名だったかしら。ご立派な数字よね。モーナンカス史に残るわよ」

 盗賊団、とどうでもいい訂正をして、クロロは黙りこみ、それから言った。

「君が申請してくれたようなものだろ、クローディア」

「何のことかわからない」

「君は隠し事が多いタイプだけど嘘つきじゃない。必要な嘘なら罪悪感があるけどつけるってくらいだ。それもそんなにうまくない」

 ついムッとしかけた。わたしはいかなる能力についても――たとえそれがほめられる種類のものではないとしても――低く見られるのは嫌だった。

「じゃあ、その報復のつもりだったとでもいうの? まあ、よくもやってくれたわよね。――ねえ、『ヨークシンの大怪盗』さん?」

 わたしは恨みがましいまなざしを投げつけた。

 クロロは微笑みすら浮かべていた。

「気を遣ったんだよ。それにクローディアならすぐにわかってくれると思ったんだけど」

 

 この一カ月、ヨークシンで強盗事件が頻発していた。人がほとんど殺されず、盗みだけは毎回成功させていた。警察も犯人を捕まえられないでいた。狙われるのは金持ちの美術品ばかりであるところ、積極的に殺しをしないところ、一度も盗みを仕損じたことがないところ、警察とのどたばた劇――そういうところが大衆に受けて、犯人は『ヨークシンの大怪盗』などと呼ばれていた。

 イーランと会った日もそうだったけれど、テレビは連日この事件を報道し、新聞では今や事件が起こるたびに一面で扱っていた。評論家が出てきて犯行状況を説明したり、警察の対応を批判したり、犯行現場からレポーターが中継したり、ご丁寧にも被害総額を算出してくれたりと、報道は過熱する一方なのだった。

 そうやってマスコミに踊らされる大衆とは別に、一部の人間は『ヨークシンの大怪盗』がほんとうは何を狙って犯行を繰り返しているのか察しがついていた。

 

「どうしてくれるのよ。パパのファームの経営がめちゃくちゃになっちゃうところよ」

 こいつらはグレイギャラリーが扱った美術品ばかりを狙いやがったのだ。

 クロロは肩をすくめた。知ったことじゃない、の仕種だ。

「実害はないと思うけど」

「ふざけないで。保険会社がファームで扱う美術品の保険料を上げたり保険をかけてくれなくなったりしたらどうするのよ」

「今ごろ警察が盗んだものを見つけてるはずだよ。ちゃんと返すんだから感謝してほしいな。これで保険会社も保険金払わなくてすんだだろ。まあ高額すぎて払えたはずもないとは思うけど」

「冗談じゃないわよ。わたしたちは顧客としてマフィアのネームバリューに余計な金を払ってるの。マフィアの名が守ってくれると思えばこそよ。お金返してよ」

 商会(ファーム)――画商の持つギャラリーはこう呼ばれる。なかには創立100年を超えるような歴史を持つファームもある。大雑把には会社や店と同じではあるけれど、格式を大切にする画商という人種は自らのギャラリーを会社だの店だのと呼ぶことは決してない。画商たちの多くはこうしたファームを通じて美術品を売買する。他の画商やオークション、旧家などから作品を仕入れ、他国のギャラリーや自らの個人顧客へと作品を転売するのだ。美術品は高額な商品であるので、輸送時の事故や保管時の災害・盗難のリスクを見越して安くはない保険が当然かけられている。グレイギャラリーが扱う美術品はよく盗難の被害に遭うと知った保険会社が、今までどおりの保険料で納得してくれることなどあるはずもない。

 ちなみにジュリアンのファームがよく利用する保険会社はマーヴェルファミリーというヨークシン系のマフィアが経営する保険会社なのだった。この保険会社はヨークシンの大怪盗によって盗まれた多数の美術品の保険金を払いきることができず、倒産の危機に立っている。付け足すとここのファミリーの警備会社にもお世話になっていて、グレイギャラリーは安全保障面でマーヴェルファミリーに依存している状態だった。

「グレイギャラリーで扱う商品だけが狙われるとなったら顧客だっていなくなるわ」

「お父さんの会社が倒産しないですんでよかったと思いなよ。こっちだって君をあぶりだすのに手間暇かけさせられたんだ。相殺しようよ」

「結局そっちの都合じゃないの」

 わたしは苛立ったけれど、クロロに謝罪やら反省やらを求めることの無意味さに気づいて、それ以上言葉を重ねることはしなかった。

「そもそもこんな手段に出ざるを得なかった状況を斟酌してほしいな。なぜか君がいきなり雲隠れしたからだよ。言わなかった? 携帯は常に連絡をとれるようにしておいてって」

 ほかにもいろいろと手段はあるだろうと思った。もっとましな手段が。

 わたしも負けじと肩をすくめ返した。

「あなたたちはこう言ったの。肌身離さず、番号やホームコードも変えてはだめで、そちらからの発信には必ず応えること、とね。わたしはその通りにしたわ。ただ、そうね、電波遮断器を一緒にもってはいたかしらね。禁止されてないはずだけど」

「とんち?」

 クロロはあきれたような、困ったような顔をした。

 

 ゆっくり息を吸うと、かすかな香のにおいがした。数百年もの間に建物に染みついた信仰の香り。わたしはふと、こんなところで何を話しているんだろう、と思った。教会で、クロロと、盗むだの殺すだのと。だめなんじゃないかなと思った。クロロはさっぱり気にしていないようだけれど、わたしはなんとなく居心地悪かった。でも、不敬な分スリリングな気もした。

「それで? わたしが、何をしたと思ってるの?」

 少女らしい高くて甘い声が響かないように気をつけながら言った。

「事件の概要が、オレの記憶とはだいぶ違うんだ」

 クロロは長い脚を組んで、考えを巡らすようにゆっくり瞬きした。

「オレたちはまずジョイスの自宅を襲った。あの男が競売会で競り落としたジャン=ジャヌレの絵画が目的だったんだ。簡単な仕事だったよ。一家と使用人を殺して、絵を探して、もらっただけ」

「そうでしょうね」

「それから女優の――誰だったかな、そうそう、ルクローサ。彼女の別荘に行った。近かったしね。……残念ながら目当てのものがなくて不首尾に終わったけど」

「派手にやったところよね」

「フェイタンとフランクリンだよ。あいつらは気に入らなかったみたいでね。次があるからさっさと片付けようと思ってたんだけど、警察も来るし、騒ぎも大きくなるし、まったく困ったやつらだよ」

 親しみのこもった愉快そうな、困ったやつらだよ、だった。

(そういえばクロロは団員の暴れ方には基本的に注文はつけないんだったかしら)

 わたしは原作情報を思い出した。

「別のところで銃声がしてたり火があがってたりしてたけど、そんなに気にはしなかったんだ。オレたちには関係なかったし、ままあることなんだよ。騒ぎや不安や混乱が伝播していって、そういうのに当てられた誰かが銃をぶっ放したとかね。で、さらに拡大して手に負えなくなる」

 一般論ではなくて経験として話せるのがすごい。すごいけれど、わたしには、へえ、そう、以外に言葉がない。

「それからフルンゼの自宅を襲った。彼はさすが元軍人らしかったな。外の様子に気づいて起きだしてたし、明かりをつけたりしなかったし、妻子を隠してたし、武装してたし。まあ簡単な仕事だったことに違いはないけど」

 彼は簡単だったと事もなげに繰り返した。わたしも5人も人数はいらなかったろうと思う。たぶんクロロは美術品を探す手がほしかっただけだ。殺したり壊したりは、美術品を探す際の、ただの片手仕事だったのだ。

「最後に君の別荘に行った」

 クロロは頭をひねった。

「それだけのはずなんだ」

「それだけ、ね。十分だと思うけど」

 わたしは皮肉な口調で言った。

「それで、なんでそれを告解室で話さずわたしに話すの?」

 クロロはわたしの言葉を黙殺した。

 彼の表情は静かだった。とてもとても静かだった。

「あの夜、君はどこで何をしていた? クローディア」

 



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25. 教会(2)

 わたしは何度か瞬きをして、そのあいだに頭を働かせた。

「わたしがどこで何をしてたか?」

「そう」

 今度もすぐにいい加減なごまかしが出てきた。ありがたや。

「VIP席で観戦よ。決まってるでしょ」

「君自身はプレイヤーとして参加しなかった?」

「そう聞こえなかった?」

「訊いてるんだけど」

「ならこう答えるわ。言いがかりよ」

 クロロはため息をついて話を続けた。

「君の家に行ったけど、君はどこにもいなかった。すぐさまそこへマフィアらしき男たちが来て、ようやくオレは嵌められたことに気づいた。誰かが差し向けてきたとしか思えないタイミングだった。そいつらは支部長の家がどうのこうの、ファミリーの面子がどうのこうのと口々にわめきたてて向かってきたから、面倒だったけど殺した」

 数十人の筋者たちを相手どって、ひとり残らず殺して、その感想が『面倒だった』とは。恐ろしい話だった。こんなやつらを野放しにしておくのはやはり危険すぎる。原作でクラピカは彼らを『冥府に繋いでおかねばならないような連中』と表現していたけれど、なかなかもっともな意見じゃないか?

「何人かにちょっと訊いてみたら、デルベの家が襲われて、その犯人がオレたちだっていうじゃないか。オレは驚いたよ。オレたちの首に報奨金も約束されてたらしいね」

 わたしは目を見開いてみせた。

「まあ。でも、当然だと思うわ。マフィアっていうのは体面が大切だもの」

 そういう商売なのだ。なめられたら立ち行かなくなる。顔を汚されたら、拭って、もう二度と馬鹿が馬鹿なことをやらないように、汚した馬鹿をしっかり殴ってほかの馬鹿を教え諭さねばならない。

「ふうん? ま、とにかくオレたちにはデルベ家を襲った記憶なんかない。誤解があったらしいとわかった。でもそこで困ったんだ。誤解を解こうにも皆死んでて聞いてないし。クローディアなら何か事情を知ってるんじゃないかと思って携帯に電話したけどつながらないし」

 クロロはお手上げ、というように手のひらを天井に向けた。

 わたしは今さらぞっとしていた。人を傷つけることに――人を殺すことに――まったく抵抗がないこの男に。幻影旅団に。

 あの夜、B級映画みたいな安っぽさでどんどん人が殺された。なのに、やっている本人たちにとってはB級映画じゃなくて日常系映画なのだ。

(それってすっごくグロテスク)

 わたしは湧き上がる嫌悪感を隠そうと顔をうつむけた。

(今さらじゃないの。こういう世界で、こういう人たちだって、わかってたはずよ。それにこいつらだってわたしに嫌悪されるのは心外だって言うでしょうよ)

 そう自分に言い聞かせるのはそんなにうまくいかなかった。そんなことわたしだってはじめからわかっていて、それでも虫唾が走るのだから。だから作戦変更した。

(好き嫌いとは切り離して考えましょう。とりあえず犠牲になったのはどこかの誰かで、わたしじゃないわ。今のところ話も通じてる。問題ないわ)

 この考え方はうまくいった。名前も顔も知らない誰かが犠牲になっているうちは、気の毒ね、ですむ。そういう危険に自分が直面するとなったら、そのときに考えればいい――自分でも思考停止だとはわかっていた。でもわたしはこの気持ちをこれ以上掘り下げる気はなかった。彼らはこれから商売したい相手、それなりに好意を抱いている相手なのだ。

 

「――おかしなことに、この一連の事件は、夜が明けたら話が変わっていた」

 クロロは足を組み換えた。

「なぜかオレたちが襲った家が2軒――いや、グレイ家のサマーハウスを含めて3軒かな、増えていた。デルベとモンダドーリだ。……この3件の事件、君が関わっているんじゃないの?」

「わたしが? なぜそんなことをしなきゃならないの?」

「興味深いことに、どちらもマフィアの要人だ。それもグレイギャラリーが肩入れしてるマーヴェルファミリーの商売敵のファミリーの。

 モンダドーリのほうは、結果だけみてみると、警察による現場の捜索でカキン系マフィアである清安和のマネーロンダリングの証拠が出てきて、エトルーズカジノは閉鎖された。そして清安和はカジノという資金浄化装置とヨルビアン大陸における大きな足場を失った。

 デルベの自宅を襲った件については、うーん、ヴィネッタファミリーのモーナンカス支部とオレたちとをつぶし合わせるつもりだったんじゃないのかな」

 わたしは鼻で笑った。

「モーナンカスに支部を構えているマフィアなんてたくさんあるし、マフィアの関係者はもっと多いわ。被害を受けたのが彼らだったとして何の不思議があるの? それに仮にあなたの言うとおりだとして、それをわたしがやったという根拠でもあるの? そのふたつと競合しているマフィアはマーヴェルだけじゃないわよ」

 わたしの挑発的な態度にもクロロはまったく心を動かされていないようだった。憎たらしいほど落ち着いていた。

「そうだろうね。でも君しかありえない」

 どことなく面倒くさそうな表情。茶番に無理に付き合わされることになって大儀だといった感じ。

「オレたちは『幻影旅団』と名札をつけて活動をしているわけじゃない。犯行予告も犯行声明も出さない。顔も名前もつかまれていない。にもかかわらず、一連の事件がなぜ幻影旅団の犯行として知られている?」

「そうね、実は警察や対テロ機関やマフィアに存在や顔がつかまれたんじゃないかしら。だって現にわたしにはつかまれてたじゃない。わたしを唯一の例外と考えるのは不合理よ」

 わたしはぬけぬけと言った。

 クロロは首を振った。

「そうだとしよう。でも不可解なのはデルベ家が襲われた直後にはもう犯人を幻影旅団だと名指ししていたことだよ。犯人が自分で幻影旅団だと名乗ったか、そう誰かに吹き込まれたかのどちらかだろう」

「彼らもあなたたちを知っていたのかもしれないわ。彼らにあなたたちは1件目の現場近くで偶然目撃されていた、それで同一犯だと考えた、とか。まあ今となってはみんな死んじゃってて確かめるすべもないけど」

「ああ。このあたりは推測するしかない」

 わたしと違ってクロロは答えを持ってないし、これから持つこともおそらくない。隣人のイーラン=フェンリがヴィネッタファミリーの人間で、わたしがそうと知っていて彼らを誤認させる情報を流しただなんて、知りようがない。

「わたしじゃないわ。自分が言ったことをよく思い出してみて。わたしがマーヴェル側の人間だとして、わたしが幻影旅団の犯行とヴィネッタに吹き込むには、同時にヴィネッタとも相当通じてなきゃいけないわ。あなたはこのことに無理のない説明ができる? 推測するなら、きっとわたしじゃないわね」

 クロロは無視して続けた。

「今回の被害者たちには共通点がある。そうだよね。全員エミール会に参加していた」

「競り落としたものが狙われたというわけね」

 わたしは相槌を打ってあげた。

「これがデルベとモンダドーリを選んだ理由なんじゃないの?」

「なんですって?」

 まだ推測は続いていたらしい。

「ひとりだけ、今回の事件の予測を立てられた人物がいる。君だ、クローディア。君はオレたちを知っていた。オレたちの狙いがエミール会にあることも知っていた。どの会員がエミール会に出席していたかも知っていた。オレたちがエミール会の参加者を狙うなら、オレたちの行動に前後してほかの参加者を狙えばオレたちに罪をかぶせることができる――そう考えたんじゃないの?」

 わたしは笑い声を立てた。そして違う可能性を指摘した。

「参加者くらい、名簿を見ることができる人ならすぐに知ることができるわ。それに社交シーズンのモーナンカスよ、たいていの会員が参加するわ。

 だいたい共通点と言ってもね。5件程度じゃ母集団が少なすぎるんじゃないかしら。さっきも言った通り、1月のエミール会は参加率がすごく高いの。モーナンカスの上流社会の多くが会員になっていて、その多くがエミール会に参加していたのよ。被害者がその参加者たちだったからって、狙いがエミール会参加者だったと言うのはちょっとこじつけがましくない?

 となれば、デルベとモンダドーリの2件は単にほかのギャングが暴発して金持ちを狙って起こした事件かもしれないでしょ。あなたが言ったばかりね、そういうことはままあると」

 クロロは、そうなんだ、とうなずいた。

「なのに、なぜオレたちに関係のない2件までオレたちの犯行とされているのか。これはますます疑問だよね。錯綜していた当時ならともかく、もう警察の現場検証も終わっている今、なぜまだ誤解は解かれていないのか。

 似たような事件が同時期に起きたから同一犯の仕業だ――そういう予断をもって捜査されているのかもしれない。でもそれだけじゃないかもしれない。オレが当事者でなかったなら、オレも君の言うとおり6件をエミール会という共通項でくくってエミール会の参加者が狙われたと言うのは牽強付会ではないかと思う。母集団が少なければ共通点も簡単に見つかる。警察もこの共通点を挙げるときの危険性くらいはわかっているはずだ。

 それでもなお同一犯によるものだと考えているとすれば――警察も完全に無能というわけじゃない――それ以外にこの説を裏付けるものをつかんでいるからじゃないのか」

 クロロはいったん言葉を切った。そして小さな吐息。倦んでいるようだった。彼はあまり言葉が多いほうじゃないから。

「そのひとつはたぶん、もっと絞りこまれた共通点だ。彼らは全員何かを落札している。その何かに共通点がある。――彼らが落札した美術品は、アーゼル王国から流れてきた品だという共通点だ。

 エミール会にはほかにもマフィア関係者がいた。その中からデルベとモンダドーリが選ばれたのは、彼らがこの共通点をもっていたからだ。君は気づいてたんだろ、クローディア。エミール会にどんなものが流れてくるのか、オレたちの狙いがどういうものか。突発的に便乗するようなギャングがこの共通点に気づけるはずはないし、ここまで精密に目標を選べるはずもない。

 彼らが狙われたのはたまたまだった。君はマーヴェルファミリーに与している。マーヴェルファミリーの商売敵なら誰でもよかった。べつにこのふたりでなくてもよかったんだ」

 熱を帯びない指摘だった。

「偶然だわ」

 わたしは肩をすくめて微笑んだけれど、内心不安でいっぱいだった。クロロの口角がかすかに上がっていたのだ。

「それともうひとつ、警察の同一犯説を裏付けているものがある」

 わたしは小首を傾げた。

「――クローディア、君、念能力者だろ」

 吐き気がしてきた。

「警察は犯行現場の共通点も見つけたんだ。――貫通痕はあるのに、銃声らしい銃声がなかったり、薬莢が落ちていなかったり、火薬が検出されなかったり、射創管も銃のものにしては不自然だったり、そればかりか弾丸も発見されなかったりね。――念弾の特徴だよね、これ。

 こういった特徴的な形跡がすべての現場から発見された。これはシャルナークが手に入れた情報だけど。ここまでそろえば、警察が同一犯の犯行とみるのはまあ仕方ないことだろうね。

 一方の君だけど、ここまで状況証拠をそろえられるのは君くらいだよ。君はフランクリンを知っていた。フランクリンの念系統もその目で確かめた。どういう能力かも見当がついていたはずだ。放出系で、指先が切り落とされているという外見的特徴からね。

 それで、君自身が同様の念能力を使うか…それっぽくないから、君の仲間が念弾を使う能力者か……とにかく似たような現場をつくりだした。ひょっとしたらフランクリンの念能力まで最初から知っていたのかもしれないな。だから同類の念能力者を用意できた。念弾は珍しい能力じゃないしね」

 のどがからからだった。かなり真実に迫ってくるだろうとは思っていたけれど、ここまでとは思っていなかった。でもまだ想定範囲内。

「どう?」

「まあまあかしらね」

「認めるの?」

「ええ」

 わたしは首から下げた懐中時計のチェーンを、無意識のうちにロザリオを繰るように手でいじっていた。

「大方はあなたの言う通りよ、クロロ。話を書き換えたのはわたし。ちょっと演出過剰だったかしら。思えばこれで、あなたとの最初の出会いにも失敗したのよね」

 苦い失敗だった。そのせいで方針変更を迫られた。

「大方ってことは、違うところがあったんだよね。訂正したい?」

 お義理で一応訊くけど、という言葉が前についていてもおかしくない響きだった。興味の薄さが透けて見えていた。

 少し考えてうなずいた。

「そうね、させてもらうわ。でもその前にいいかしら……どうしてあなたたちは、フルンゼを襲った後サマーハウスへ行ったの? 何をするつもりだったの?」

 クロロは内陣障壁の上に立つ像に似た含みありげな穏やかな表情で沈黙を守った。

「言わないわよね。そうでしょうね。いいの、わかってるから。……クロロ、あなた、わたしを殺しに行ったのよね」

 クロロはやっぱり何も言わなかった。

 実に不愉快だった。不愉快だけれど、理解はできた。わたしだってこの世界でもう11年生きていて、ルールも承知していた。この世界の人権意識ときたら、チンギス=ハンがシンデレラに見えるほどなのだ。強者と弱者との差が前の世界よりはるかに大きい。強者が弱者を顧みることはない。弱肉強食の世界なのだった。

「もう用無しだったから。利用だけして、それでゴミみたいに捨てるつもりだった。いいのよ、怒ってない。失望もしてないわ」

 そう、怒りはなかった。胸糞悪さを感じないでもないけれど、これは無視できた。わたしが踏みつけられる対象になったことに対する胸糞悪さだし、結局のところわたしも彼らと同じ穴のむじなだからだ。

「あなたたちなら、そうするだろうなと思っていたのよ」

 わたしは彼らの顔や名前を知ってしまっていたから、協力関係を得ることができなければ殺されるくらいはするだろうとわかっていた。生かしていても益はないし、殺しておけば憂いは減るから。

「そう、訂正というか付け足しなんだけど。デルベの自宅を襲った件」

 うっかり忘れるところだった。

「あなたはヴィネッタの支部と幻影旅団をつぶし合わせるためじゃないかって推測したけど、主目的はちょっと違うわ。――意趣返しだったの。わたしを殺しに来るだろう、あなたたちへの」

 そうと知られないのはちょっとさびしい。

 クロロは苦笑いした。

 



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26. 教会(3)

 礼拝式は終わり、司祭が聖具室へ消えると、信者たちもひそやかに雑談をしながらはけていった。わたしとクロロはしばらくのあいだ口を閉じていた。わたしはその機会に教会堂のなかをこっそりと観察した。幻影旅団が盗みに来るかもしれないとちょっと考えたからだ。クロロを前に物珍しげにきょろきょろするなんてプライドが許さなかったから、あくまでこっそりと、泰然とした態度を装った。

 中央祭壇では4本の銀の燭台がゆらめく光を放っていた。内陣障壁は傷みが気になったし、像もくすんでいた。ぐるっと頭をめぐらせて側面や後方も見たかったけれど、それは我慢した。どうせたいしたものはなさそうだった。正面を一見しただけでそんなに市場価値があるものはないとわかった。信者数が少なくて修繕費にも事欠いているだろうこともわかった。泥棒の食指が動きそうなものは天井画くらいのものだ。暗くてよく見えないけれど、それもこの分ではちゃんと保存されていそうではなかった。

 

 わたしは髪をいじりながら尋ねた。

「なぜはじめから人を割いてサマーハウスに来させなかったの?」

 仲良しグループじゃないのだからそのくらいできたはずだ。動き出すまでにわたしを殺さなかった理由は想像がついた。もしそうすれば、大目的である美術品の収奪の前に、自分たちのことをどこまで知られているかもわからない相手と衝突せねばならなくなる。だとするなら変じゃないか? 彼らは市中に異変かが起きればわたしがその場を動くかもしれないと考えなかったのだろうか? 普通は家にこもっているのが正しい対応なのだろうけれど、わたしが一般市民として行動することをどこまで期待できるだろう? わたしはさっさとあの別荘を離脱していたけれど、そうとは知らないのだったら、犯行開始と同時に不意打ちで来るべきじゃなかったのだろうか。

「ただのついでだったから」

(なるほど)

 またわたしの自意識過剰だった。

(それなら――)

「あの日、なんでわざわざわたしに電話なんかしたの? どうしてわたしに準備させる時間なんて与えたの? 知らん顔してればよかったじゃない」

「君は少し誤解してる」

「何を?」

「オレは君を殺そうとは考えてなかった。殺すことになるかもしれないとは思ってたけど、殺してやるとか殺したいとか積極的な気持ちがあったわけじゃない」

「それはどうも」

 わたしの声は冷えていた。当然だろう。それを聞いてわたしが喜ぶとでも思っていたのだろうか? なんて寛大なんだろうと見直すことは絶対にないし、いいところあるのねと感心することも絶対にない。だって、結局、殺してもいいやと思っていたのだ、こいつは。

 クロロは思案気な間をおいて言った。

「正直、君を測りかねていた」

 わたしはこの手の戸惑いを持たれることには慣れていた。子どもの容姿に大人の頭という不整合は会う人会う人当惑させる。わたしはそういう反応を心から楽しんでもいた。

「ただのいかれた馬鹿なのか、それとも評判通りの神童なのか。君が何を求めているのか、どうもよくわからない。だからああいう場面でどう行動するのか見たかった」

(……ん?)

 なんだか聞き逃せない言葉が聞こえた。

「いかれた馬鹿?」

 言いぶりから察するに、クロロが抱懐している意見はこっちのようだった。わたしにはなんでそう思ったのか理解できなかったし、そんな評価は心外だった。

 クロロはため息をついた。

「気づいてた? 君のオーラの動きは念を知らない人間のものにしてはちょっと不自然なんだよ。敵意を見せれば顕在オーラは増えるし、警戒すればオーラが君にまとわりつく。まるで、そう、精孔がすでに開いているかのように」

 この指摘にはぎょっとさせられた。

「天才少女ならそういうこともあるかと思った。オレだって念なんて完璧に理解できるものじゃないし、君は念を使うことにおいても天才なのかもしれないし、逆説的だけど、オーラをオレたちの想像しないような何らかの形で行使している人間が天才と呼ばれるようになるのかもしれないとね」

 わたしはもっと真剣に念の修練をしていればよかったと激しく後悔していた。

「君が念能力者だとするなら話はもっと簡単になる。オーラの不自然な動きは精孔が開いていないことを装っているが装いきれていないためと考えられるからね。それよりオレがずっと腑に落ちなかったのは、レストランで君に尋問したときの君の態度だった。念をよく知っている者の態度、これは実際その通りなんだろう。それはいい。ただ、君が妙な反応を見せた場面があったよね。そう、イーラン=フェンリのことを訊かれたとき。オーラも乱れてたし、君の様子はどうもおかしかった。オレの質問がグレーゾーンだったから君もその影響を受けたのかとも思った。でもあれはこちらの誓約であって、君が顔色を変える理由にはならない。

 次に考えたのは、父親の言いつけによって君が話せないことを訊かれたことによる精神的圧迫のせい――これもないよね。『イーラン=フェンリとはどういう関係か?』程度の質問は君だって想定していただろうし、普通なら答えたからって問題のある質問でもない。

 それでひとつの想定が浮かんだ。君の答え方は精通した念能力者っぽい。君の念の制約か誓約にかすったんじゃないかと」

 体が震えだしそうだった。脈拍がどくどくと早くなる。

「これならいろいろと説明がつく。それで散歩しながら君を“凝”でずっと観察していた。そうしたら見つけた。それ――」

 クロロはわたしの胸元を指した。

 わたしはついぱっと手で覆って隠してしまった。

「その懐中時計。かなり巧妙に“陰”で念が隠してある。それにそんなに体に密着させていたら、体から漏れ出るオーラに紛れて並みの念能力者じゃ気づけない。オレが気づけたのだって、その懐中時計にかけられた念が君のオーラとちょっと違う他人の念だったからだ」

 力の差をひしひしと感じていた。わたしでは一生かかったって気づけない。

「その懐中時計には他者の念がかけられている。君は父親の言いつけ、沈黙の強制の有効範囲についてすごく慎重かつ緻密に測って答えていた。君はその懐中時計を常に首にかけている。これだけの材料があれば推測できることもある。

 君は念能力者だ。そして誰かに念をかけられた物をもつことに同意している。その誰かとはまず間違いなく君の父親だ。その念がどういった念であるかも理解している。その念は君に沈黙を強制させることに関する念である可能性が高い。イーラン=フェンリについての質問で君の顔色が変わったのは、それに答えようとすることが君にとってもグレーゾーンだったからだ。違うかな」

 わたしはだんまりを決め込んだ。

(……違わないのが腹立つ。なんでここまで正確に、その程度のヒントで……)

 ここにきて嫌な可能性に気づいた。

(ということは、なんだ、砂辺の遊歩道でも市街地のレストランでもこいつらはわたしを念能力者と知りながら知らないふりをし、鎌をかけてはわたしが必死にとぼけるのを見ていたということ? 自説をちょこっと補強するために、あるいはおちょくるために? なにそれ。最低だ。悪趣味すぎる。性格が悪いどころの話じゃないわよ。肋骨だって折られ損じゃないの)

 冷や汗がむかつきで引いていく。

「周囲からは神童と呼ばれ、それにふさわしいだけの高い知能を持ち、実家は貴族の流れをくむ名家で、一般的な家とはけた外れの資産を持っている。念能力者としては未熟だけど、このままいけば形にはなるだろう。君という人間がわからないな。これ以上何をどうしたいんだ? 十分じゃないのか? 何もかも約束されているじゃないか。わざわざ不法なことに手を出さなくても富も名声もすでに持っているだろ」

 わたしは眉をひそめた。

「十分じゃないのよ」

「だから君がリスキーに思えるんだ。どうなれば満足なのかわからない」

(なんでわからないのよ)

 一応言うまいとはしたけれど、どうにも堪え性がなくてだめだった。

「なんでわからないのよ。あなた頭いいんでしょ。それに、あなただってわたし以上の神童だったはずよ」

 それなら理解してほしいけれど、無理なんだろうなと思う。

「わたしはあなたとは違うの。十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人よ。わたしはもう11歳なの。時間の猶予なんかないに等しいわ」

 それに未来情報は原作が進んだ範囲しか持っていない。だから実質あと5年程度しかないのだ。すごい焦燥感。

「わかる? わたし、ただの人になんかなりたくないのよ。この人生がそれだけのものだなんて思いたくない。せっかく特別な存在として生まれたのに、だらだら生きてこの特別をすりつぶすなんて考えられない。平凡や平和なんてお呼びじゃないの。わたしがこうやって生まれてきたことには何か特別な意味があったんだって、偶然や家庭のメロドラマのためじゃないって、信じたいのよ!」

 焦慮に駆られるわたしとは対照的に、クロロはどんどん醒めた顔つきになっていった。

「それがここまで話を書き換えた理由? 君が戦争ごっこを好むタイプとは思わなかったけど。ほんとうに君にここまでするほどの利があったのか?」

 わかってもらえるとは思っていなかった。クロロは原作でも特別の地位をあたえられたかっこいい悪役なのだ。美青年で、カリスマがあって、怜悧な頭脳を持っていて、強い人だ。わたしこそクロロに訊きたい。それ以上なにがほしいの?と。お互いに理解は遠い彼方だ。

「もちろん――」

 わたしは一瞬生じたためらいのために言葉を飲みこんだ。でもここまできたらひと思いに突き進むしかない。

「もちろんよ。わたしをあぶりだすために窃盗を繰り返すというあなたたちにしては穏健なやり方、今日ここに来たこと、こうやってわたしたちが言わなくてもいいことまでべらべらしゃべっていること、ついでにあなたがわたしを理解しようとしているということ、それがもう答えでしょ?」

 お互いにもう了解していることだ。

「わたしたち、お互いをプレイヤーとして認めたわよね。ならば対等な関係を築きましょうよ。利益だけを積み上げていきましょうよ。難しく考えないでいいじゃない。あなたたちはわたしに盗品を売る。わたしはそれに対してお金を払う。それだけだわ」

 それだけの関係を得るために、わたしは今日、こうして再びクロロと向かい合ったのだ。

「あまりメリットが感じられないんだよな」

 クロロが言う。それも仕方がないと思う。彼らはあまりにも才長けている。自分たちだけでうまくやっていけるのだから他力を頼む必要がない。でもそれではわたしが困るのだ。

「一方がうぬぼれつつ、一方が気兼ねしつつの関係はうまくいかないわ。今回のわたしとのことでそれはわかってくれたと思ったんだけど」

 わたしの嫌味の鋭い一撃にクロロがわずかに顔をしかめた。それを見てとても胸がすいた。この一発は肋骨を折ってくれた分。でも感謝してほしい。過剰な自意識は早めに折っておいたほうが彼自身のためなのだから。

「あなたたちはとても強いわ。それに馬鹿じゃない。だから、このままだと、遅かれ早かれわたしみたいなやつに利用されておしまいよ。どうせそうなる。わたし程度にすら隙をみせるくらいだもの。もっと賢いやつならわたしがやったよりももっとうまくやる。あなたたちを御することはできなくても利用することはできるし、あなたたちにはその価値がある」

 クロロは当然知らないことだけれど、原作にはそんな描写はなかった。でもそれも描写されなかった範囲で起きていたか、そうでなければ彼らのすぐれた情報操作力と慎重さのほかに、運が相当よかったせいだとわたしは思っていた。クロロもここでありうることだと考えないほど思いあがってはいないだろう。わたしという例もあることだし。

「それを教えてくれたというわけか」

「悪く取らないでね。誰にだって、どの組織にだって弱点はあるというだけの話よ。あなただって盗賊団を運営しているんだからそれくらいわかってるでしょ? あなたはわたしに情報で圧倒的に負けていた。あなたたちの弱さのひとつは情報収集力が限定的だという点よ。

 たとえばね、あなたが使った情報屋、ベロテルね。なかなかいい選択だったと思うわ。彼って優秀よね。で、なぜ彼が優秀なのか。それは彼がヨークシン市警の人間だからよ。知ってたわよね。警察の情報収集能力と捜査能力に及ぶ情報屋なんていやしないわ。だからいい選択だと言ったの。あなたたちにない組織力をもっているから」

 これももちろん、ユタカからもらった情報だった。ベロテルは同業者に居場所や正体までつかまれている程度の情報屋であり、だからこそユタカはベロテルのことを語るときに軽蔑的な表情を浮かべたのだ。

 わたしはこれらのことを端から知っていたと言わんばかりの顔をして滔々としゃべった。

「でもわたしの情報は通り一遍しか出てこなかったと言ったわね。それは当然なの。わたしは警察のお世話になったことなんてないし、表に出るようなことはしないから。記録されないことは調べられない。ハンターサイトの情報については何とも言えないけどね、優秀な情報系念能力者を抱えているようだから」

 ここでわたしは抱いていた疑念を口にした。

「……あなた、マフィアとの直接的なつながりを避けてない? 敵対的な関係になることもあるから? 普通、マフィアとつながってる情報屋を使うでしょ? 数も多いし、組織力もあるもの。並みの情報屋やハンターサイトでも得られないような情報でもマフィアなら得られるものもあるわ。警察に情報提供をしても1ジェニーにもならないけど、マフィアは金を払うし、徴募した密告者もそこら中にいるもの。どうでもいいんだけど、それならわたしをあいだに噛ませればいいわ、今度からね」

 ほかにもいろいろな恩恵をあたえてやれる。ちょっとした隠れ家だって用意してやれるし、伝手のある限りで人も紹介してやれる。急な金融的要望にも応えることができるし、資金洗浄も手伝える。望むなら引退後の転身を斡旋してやってもいい。企業の役員のポストのひとつふたつすぐ用意できる。素晴らしきかな、名門大富豪。

「あなたたちは強いし、へたに有能な情報・処理担当がいるから、ろくに闇社会に人脈がない。あなたたちにはもっと組織的で後ろ暗い支援が必要だわ。なら、わたしを利用すればいいじゃない。ね? どうせ誰かに利用されるなら、わたしに利用されなさいよ。そのかわり、あなたたちはわたしを利用すればいいわ」

「そうだな」

 相変わらず反応が鈍い。でもわたしはクロロをうなずかせるための彼ら流の言い回しを知っている。

「慈善事業みたいなものだと思ってくれてもいいわ。あなたたちは盗賊団だけど、だからって何も収奪しかしちゃいけないってわけはないでしょ。あなたたちはわたしから奪う。そして慈善も施す。それでいいんじゃないの」

「――君はオレたちのことを何でも知ってるみたいに振舞うね」

(もしそうだったらこんなに苦労してないわよ)

 彼の馬鹿らしい言いようをわたしは肩をすくめていなした。

「……そろそろ、新しい取引相手が必要だとは思っていたんだ。買い取り価格を聞かされるたびに殺したいような気持ちにさせられない取引相手が。まあ価格なんて二の次ではあるけどね。ただ、君と一蓮托生する気はないよ」

 わかりやすい共通言語に翻訳すると『条件次第かな』。

「こちらも盗賊団と一蓮托生する気なんかないの。気軽な関係にしましょう」

 わたしとしてもこいつらのせいでマフィアンコミュニティを敵に回すなど冗談じゃなかった。そんなことになれば商売あがったりだ。それにこいつらもどうせ長生きできはしないだろう。相応の死に方をするにちがいない。適当なところで切り捨てなければならないのだ。

「わたしがあなたたち幻影旅団の活動費を出すわ。必要なだけね。交換条件としてわたしに独自の査定額に基づいた先買権を与えなさい」

 存外にクロロはあっさりうなずいた。

「ま、妥当だろうね。……その前にいいかな。はっきりしてほしい、君はどの立場からものを言っているの? グレイギャラリーの代表として? それとも、クローディア=グレイ個人として?」

「わたし個人として」

「なら、幻影旅団の団長であるオレと、君との内約という形にしよう。悪いけど、ほかの人間とまで馴れ合うつもりはないんだ」

 それは願ったり叶ったりだ。了承して、会衆席から立ち上がった。話は終わった。時間を確認すると正午前。どこかで昼食を食べて、ナタリーの顔でも見てから帰ろうかなと簡単に予定を立てる。

 

「クローディア」

 別れの言葉もなく行こうとしたわたしをクロロは呼びとめた。

「君のことは割合に気に入ってるんだよ。人を駒くらいにしか思っていない身勝手さも、他人を平気で犠牲にできる冷酷さも、その小賢しさも含めてね」

「…………」

 わたしは無言で身をひるがえした。

 この男にここまで言われる筋合いは原子ひとつ分ほどもないけれど、その言葉に気まずさのひとつも感じないほど鈍感ではなかった。

 



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27. ナタリー

 ナタリー=グレイは美しい女だった。しみひとつないピンクの肌、つややかな暗赤色の髪、グレーの目。女ざかりのころははっとするほどの美人だったに違いないと思う。加えて家柄もよく、莫大な財産を持っていたから彼女と結婚したがる男は引きも切らず現れた。でも彼女は地元の男などてんで相手にしなかった。ナタリーはヨーク近郊のバンナムハウスというお城みたいな大邸宅で生まれ育ったけれど、そこで死ぬつもりまではなかった。ヨークの有閑階級の婦人たちが社交よりも社会奉仕に熱心なのも、若かった彼女にはつまらなく感じただろう。ナタリーほどの美貌とすてきな宝石のコレクションを持っていたら、見せびらかす場所がないのでは欲求不満の連続だったかもしれない。そして彼女は家を飛び出てヨークシンの大学に入学し、ヨークシンの社交界の一員となり、そこでもっともきらびやかな存在になった。

 華やかな交際、観劇、パーティー、コンサート、旅行、冬中ぶっ通しのオペラ……。田舎とは言わないけれど歴史ある陰気な小都市で鬱屈を抱えていたナタリーは、ヨークシンで心のまま生きることができるようになったのを喜んだ。わたしにはよく理解できないけれど、人に囲まれているときにもっとも輝く人がいる。ナタリーもそのタイプだった。雑誌『モード』に丸々1ページ与えられた彼女の写真が載り、それが評判になったこともあった。ナタリー=グレイは最輝星だった。

 ナタリーとジュリアンの出会いはよく知られている。ソーホーの美術展覧会で彼らは出会った。ジュリアンはそのころハルヴァルド大学の大学院で美術史を学んでいる学生だった。一方ナタリーがそんなところへ行った理由は簡単で、そこにカメラマンが来ていたからだった。彼女は、ブロードウェイの初日やチャリティーパーティーや、その他メディアが集まるときには必ず顔を出す類の有名人で、その日も例外じゃなかった。

 彼らはお互いに一目で恋に落ちたらしい。わたしはたいがい怪しいものだと思っているけれど、とにかくそういうことになっている。当時の『デイリーニューズ』の社交欄とか『セレブリティーシーン』とかはこぞってこのカップルについて書きたてた。写真を見る限り、お似合いのカップルと言えた。ジュリアンもハンサムだったから美男美女カップルと言っても差し支えなかった。インテリと美女というカップルの典型の一種にも見えた。

 ナタリーとジュリアンは出会ってわずか半年で、お互いの家族友人知人の反対を押し切って結婚した。すぐ破綻するとの一部の予想に反して彼らの結婚は今に至るまで続いている。ほとんど有名無実だけれど。まあ今はこうでも昔はこうじゃなかった。ちゃんと親密だった時代があった。結婚してもしばらくは子どもができなかったけれど、仲睦まじくやっていたようだ。その彼らに子どもが生まれた。それがわたし、クローディア=グレイ。

 

 朝、日課の念の基礎練習を終えたわたしは母に会いに行くことに決めた。

 念の練習を日課にしたのはつい最近のことだからまだ何の成果も出ていなかった。熱血とか汗とかに縁がなく、できるなら避けて通りたいと思っているわたしにも、最近のことを反省して思うところがあったのだ。とはいえやっぱり向いていないし気が進まないから体が重かった。

 チャーチレーンと12丁目の交差点にある地下鉄駅の階段を上って3月の陽気の中に踏み出したとき、わたしは足がいっそう重くなった気がした。ラッシュアワーのため通勤通学者で混みあうコーヒーショップでラテを買ってちびちび飲みながらヨークシンでもっとも高級感あふれる地域へ向かった。堂々たる屋敷や華麗に改造されたヴィクトリアンハウスやアールデコの高級アパートが並んでいる、その一角にナタリー=グレイの屋敷があった。

 

 警備員――マーヴェルファミリー系列の警備会社の――に挨拶をして門扉を開けてもらい、玄関のドアを開けたところで、ガチャンと何かがぶつけられて壊れる音がした。わたしは急いでドアを閉めて階段を駆け上がった。そこの廊下には住みこみメイドのオリーヴがいた。

「どうかしたの? 今大きい音が聞こえたようだけど……」

 オリーヴはぐっとこらえるような顔をしたかと思うと、わたしの手をつかんで近くの部屋へ引っ張りこんだ。

「わたしが悪かったんです、お嬢様。ついうっかり電話を鳴らしてしまって」

「ああ……」

 それで暴れているのか。わたしはため息をつきそうになった。

 それにしても、わたしが悪かったんです、とはいかにも偽悪的な言い方だ。わたしは悪くないんですと言うのとほとんど同じじゃないか? 否定してほしい、慰めてほしいという意図が見える気がする。携帯電話はマナーモードにしておけと何度も言っておいたのに。

 オリーヴはうつむいていた。疲れているようだった。責める必要はないし、これ以上追い詰めたくもなかった。

「気をつけてね」

「はい。申し訳ございません」

 落ち着かせるように、なだめるように、しばらくオリーヴの肩や手をさすった。

「ママの様子を聞かせてちょうだい」

 わたしは優しく言った。

「いつもと変わりません……その、つまりわたしがお世話させていただくようになってからと」

「お医者様は何とおっしゃってる?」

「それもいつもと同じです。薬を忘れず飲むように、何かに興味をもたせるように、家に閉じこもりきりにならないように、それからできるだけ奥様に周囲が合わせてゆっくりと、と」

 ご家族の協力が必要です、もあっただろう。オリーヴは言わないけれど。罪悪感がちくちく胸を刺した。

「いつもあんなふうに物を投げるの? あなたに当てたりしない?」

「気分が乱れるとああやって物に当たられることは多いです。でも人に物をぶつけたりはなさいません」

「そう」

「ただ……」

 オリーヴは言いづらげに視線を落とした。

「ご実家へ戻りたいと何度もおっしゃって……」

「……申し訳ないんだけど」

「いえ! わたしが不満を持っているわけではないんです! 奥様もわかってくださっていると思います!」

「だといいんだけど」

 わたしはあいまいな微笑みを浮かべて内心で舌打ちをした。

 ナタリーは実家を捨てるように飛び出してジュリアンと結婚した。そしてこの華やかなヨークシンへ来た。今さらひとりでこんな状態で戻ったって、もっとつらい思いをするだけだ。とはいっても今の彼女にもっと考えて物を言えとは言えない。自分が何を言っているかわかっているのかも怪しい。

「あなたには苦労をかけるわ。こんなこと言いたくはないけど……やめたくなったらやめてもいいのよ。そのときは言ってね?」

「いいえ、お嬢様! やめようと思ったことは一度もありません! ですから……!」

「もちろん、わたしはあなたにずっといてもらいたいと思ってるわ。あなたが不安に思うことなんてないのよ」

 わたしは温かく優しいまなざしで見つめながら言った。

 オリーヴならそう言ってくれると思っていた。

 

 オリーヴは流星街出身だった。

 原作で、流星街出身者は社会的に存在しないことになっているから犯罪に利用するにはうってつけ、マフィアと流星街は蜜月関係だという記述があった。たしかにそれはそうなのかもしれない。でもそんな北斗の拳的世界の流星街だって、完全に見捨てられているというわけではなかった。緊急人道援助のために5つの国連組織と約40のNGOが流星街の辺縁部に入って活動していたはずだ。あまりにも見捨てられた土地というイメージが強すぎて全然知られていないけれど。

 かくいうわたしの叔母もNGOで今は理事として、もっと若いころはスタッフとして図書館活動をやっていた。オリーヴはそういうつながりで、流星街の職業訓練センターを卒業したあとメイドとして斡旋されてきたのだった。

 もしわたしがここでオリーヴを放り出したとしたら、オリーヴは街娼でもやるしかない。外の暮らしを知ったオリーヴが流星街にまた戻れるとは思わない。わたしはオリーヴの代わりなどいくらでも見つけられる。でもオリーヴはここを捨てられるわけがない。清潔できれいなものに囲まれて、給料をちゃんと払ってもらえる暮らしを。

 

 わたしは母の部屋のドアをそっとノックした。

「お母様? 入るわよ?」

 ドアの向こうでまたガシャッと壊れる音がして、何か叫び声が聞こえた。わたしは家中を防音にしておいてよかったと思った。

 ドアを押し開くと、部屋がさんざんに乱れているのがわかった。閉め切られたカーテン。引き出しが抜き取られて、中のものが床にぶちまけられたチェスト。転がっている酒の空き瓶。そんなもののなかにナタリーはいた。鏡台の前で、背を丸めて、髪の毛をつかんで。

「お母様?」

「何よ!」

 わたしはドアの前で粉々になっているティーカップをまたいで少し近寄った。

「大丈夫? 気分がすぐれないようだけど」

「あんたなんかに何がわかるのよ!」

 わたしは歯を食いしばって微笑んだ。

「外はいいお天気よ。ねえ、カーテンを開けない? 日光を浴びれば少しはましな気分になるわよ」

「余計なことをするんじゃないわよ!」

 ナタリーは大声でわめきたてた。

「お願いよ、叫ばないで。ご近所に迷惑だわ」

 ナタリーはわたしを睨みつけた。あんたなんかに指図を受けるいわれはない、を意味する目つき。それから彼女はわたしの思いやりのなさについてさんざん非難し、聞くにたえない言葉でののしった。

「あんたの顔なんか見たくないのよ! わたしの家から出ていって!」

「そんなこと言わないで。お母様に会いに来たのよ」

「頼んじゃないわよ! 勝手に出て行ったくせに!」

 会話が成立していた。これはいい兆候だ。

 わたしはほっとため息をついて、ナタリーがいくらか落ち着くのを待った。

 

「モーナンカスに行ったそうね」

 ナタリーは呟いた。またかと思った。もう2カ月も前のことだ。この話題は何度も繰り返されている。

「ええ。いいところだったわよ。今度はお母様と一緒に行きたいわ」

「なのにあんたは絵葉書一枚送ってよこしただけ!」

 ナタリーはいきなり金切り声を出した。

「モーナンカスには絵葉書が一種類しかなかったのよ」

「またあんたはそうやってわたしを馬鹿にして!」

 わたしの弁解じみた冗談は気に入られなかった。ナタリーは腕を振り回すようにして鏡台にしまってあった化粧品類を投げはじめた。

「いつも勝手なことをして!」

 床に落ちたファンデーションが粉々になった。

「わたしのこともほったらかしで!」

 化粧水の瓶が割れて壁に大きなしみができた。

「わたしだって!」

 口紅がわたしの足もとに落ちて転がってきた。

「わたしだって……!」

 急に立ち上がるから椅子が倒れて床のワインの瓶を割った。

 わたしはナタリーに近づき、その場にいまにも崩れ落ちそうな彼女を支えて移動し、ベッドに座らせた。

 ナタリーの冷たく弱々しい手を撫でさすりながら、なぜこんなことになったんだろうと思わずにはいられなかった。ナタリーの態度を見ていると、まるで彼女の不幸の原因の大部分がわたしにあるみたいだった。

 一方のわたしもナタリーを重荷に感じていた。彼女の存在は降り積もった借金のようにわたしにのしかかり、どうしようもなく疲労させた。ナタリーにどうしてあげればいいのかわからなかった。毎度暴言にさらされるのもつらかったし、偽らざる本音ではナタリーがうとましかった。

 気づけばナタリーはすすり泣いていた。

「あの人は……ジュリアンはどうして来ないの」

 びしゃびしゃとからまるような口調だった。

「お仕事よ。忙しいんですって」

 ナタリーがこうなってから余計に彼の足は遠のいた。ここ数年誰も彼をナタリーの屋敷で見かけたことがない。おそらくこれからもないだろう。

「電話が鳴るとね、頭の奥がキーンとするの。あの音は耳に障るのよ」

「気の毒なお母様。オリーヴにはわたしがよく言ってきかせておいたわ」

「オリーヴ? 誰のこと?」

「メイドよ。ずっとママの世話をさせてるメイドじゃないの」

「わからないわ」

 また嗚咽が漏れだした。

 こういうとき、わたしはふっと両手をさしのべて、青筋の浮いたナタリーのか細い首をきゅっとひねりつぶしたいような凶暴な欲望にかられた。この世界で生きるには彼女はあまりにも弱くて哀れな存在だった。そうできたらわたしもナタリーもどんなに楽になるだろうと、ついそう思ってしまうのだった。

「大丈夫よ、お母様、わたしがいるわ」

 ふいにそんな言葉が口を衝いて出た。あまり本気ではなかった。その言葉の不誠実さに、言ってしまったあとでわたしはたじろいだ。

 ナタリーはくぐもった声で、

「あんたなんか」

 と言っただけだった。

 

 やがてナタリーはぐったりと萎えた腕でわたしを押しやった。

「出ていって」

「お母様」

 泣きぬれて真っ赤になったきつい目でナタリーは睨みつけた。

「早く出ていって! もう二度と来ないで!」

「お母様」

 わたしはなだめようとした。でも無駄だった。ナタリーはベッドカバーの下にもぐりこんで、ベッドの隅に這っていってしまった。

 わたしはその場に馬鹿みたいに立ち尽くしていた。

「あんたなんか死ねばいいのよ」

「そうね、お母様」

「あんたなんか産まなきゃよかった」

「そうね……」

「あんたなんか……」

(そう、わたしなんか)

 皮肉っぽく口角がつりあがった。

 わたしがクローディアをやっているのも、わたしがナタリーのもとに生まれてきたのも、わたしのせいじゃない。お気の毒、残念、とは思うけれど、悪いとは思わない。だってわたしのせいじゃないのだから。

 ナタリーにとっての不幸のひとつは、わたしみたいなのが娘だってことだろう。せめてもう少し可愛げのある女の子だったら、困難の多い彼女の人生をもっと支えてあげられたのかもしれない。でもそんな娘はいないからわたしが支えてあげなくてはならない。わかっているのにできなかった。わたしがナタリーに投げやりとしか言えない程度でも関心を示せるのも、良心を彼女の本来の娘であったはずの『クローディア』にアウトソーシングしているからにすぎないのだ。

 彼女のうらみつらみに反論するつもりはなかった。精神のバランスを崩している人に向かっていちいちその考えは間違っていますよと指摘するのが正しい接し方とは思えなかったし、無駄だろうし、幾分かは真実を含んでもいたから。

 

 わたしはナタリーのすすり泣く声を聞きながら憂鬱の部屋のドアを閉め、そこをあとにした。

 



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28. ハッピーイースター

 クラリッサは優雅な微笑みでわたしに声をかけた。

「クローディア、あなたはエッグハントに加わらないの?」

 わたしはひきつりそうな笑顔で首を振った。

「わたしはいいの……」

 冗談じゃなかった。そんなお子様向けのお遊戯なんて心底ご免こうむりたい。きゃいきゃい黄色い声を上げて馬鹿げたカラフルな卵の殻を探しまわる子どもたちを見るとうんざりした。空気を冷ましたいわけではないけれど、自分もやろうとはちょっと思えない。

(ノリが……違うのよ……)

 あまりのテンションの違いに連想的に前世の職場を思い出していた。やあ、みんなおはよう!今日も最高の一日にしよう!式の職場を。

(自営業万歳だわ)

 そういうわけでわたしは隅っこで目立たないように“絶”をしていたのだった。なのになぜ見つけてわざわざ声をかけてくるのだろうか。

「退屈してるんじゃない?」

「まさか。そんなんじゃないわ」

 居心地悪い思いをしているだけだ。わかっているだろうに。彼女はまったく意地の悪い女だった。

「そう? あなたには子どもっぽすぎたかと心配していたの。でも寂しいイースターを過ごすのもつまらないじゃない?」

 にゃーお! クラリッサは鋭い鉤爪でわたしをいたぶりにかかった。

(いらない世話だわ)

 わたしがひとりでこの祝日をすごすしかなかったような言いようだった。ほんとうに意地の悪い女。

「ええ、あなたの言うとおりだわ、クラリッサ。バンナムハウスに戻ろうかと思っていたけど、ご招待を受けてよかったと思ってるわ」

 どれだけ厚顔だったらこんなことができるのだろう? 不倫関係にある男の娘をホームパーティーに招くなんて。

(上等じゃないの)

 招待状をもらったときから火がついていたわたしの闘志は新たな燃料を得てまばゆく燃え盛った。絶対に引いたりしない。こういうときに一歩前に出てあごを突き出すのは、前世からのわたしの習い性だったしグレイ家の女の常でもあった。

 負けじと微笑みを返した。

「そういえばしばらくあなたのお顔を見なかったわね、クラリッサ。お変わりはない?」

「ええ、別にないわ」

「最近はヴァイオリンの教師をなさってるんですってね」

「そうなの。ジュビリーアードに招かれたのよ。教師として第二の人生というところかしらね。実際のところ、悪くない生活よ」

「お父様から聞いたわ。夏期講座は定員いっぱいの大人気だったとか。教師の職は、向いてたみたいね」

 わたしは、クラリッサがヴァイオリニストとしては落ち目でここ数年コンサートを開けていなかったこと、なのでパーティーなどの華やかな場に出てくる機会が少なくなっていたことを、疑いの余地なく当てこすった。

 クラリッサの目が冷たく冷たくとがった。

「気にかけてくれていてありがとう。ところで、あなたのお母様はどうしているかしら?」

(あなたの知ったことじゃないわよ)

 クラリッサは一秒も無駄にせず丁寧にやり返してきた。嫌になることに、彼女はほんとうにわたしの弱点をよく知っていた。母親のことを持ち出されてカッとしそうになったけれど、体の内側で荒れる怒りを抑えて抑えて、なんとか余裕を示す微笑みを浮かべた。

「あら、お父様から聞いてないの?」

「ええ。でもあまり具合がよろしくないんじゃないかしら。心配だわ」

「お気遣いありがとう。でも、お父様があなたに話さないならわたしが話すわけにはいかないわ。グレイ家の、身内のことだものね」

 わたしは狙い過たずがつんと一撃をくれてやった。ただの愛人にすぎないあなたには関係のないことよ、自分の立場わかってるの?と。クラリッサの弱みはわたしの父親との不道徳かつ不安定な関係なのだ。その点では正妻との子であるわたしのほうが、立場が強い。クラリッサに何を遠慮する必要があるだろう?

 クラリッサはそれでも持ちこたえた。

「そうかもしれないけれど、昔のナタリーを知ってる人ならみんな心配してるのよ。少しでいいからようすを教えてほしいの」

「……あまり私的なことについて深く尋ねないほうがいいわ、クラリッサ。困ってしまうでしょ。……わたし失礼なこと言ってるかしら?」

 わたしは迷惑をにじませた口調で、クラリッサの親切ごかしを粉砕し、彼女のきれいな顔を張り飛ばす言葉を放った。クラリッサの顔色はお化粧に隠れてよくわからなかったけれど、結いあげた髪の下から見える耳が赤くなっていて彼女の内面の一端をうかがうことができた。

(ふん。いい気味だわ)

 たった11歳の、しかも正妻の子にマナーの欠如を指摘され、たしなめられることを、クラリッサが屈辱に思うとわかっていてわざと言ったのだった。こんな、不穏な空気に好奇の視線が集まっている、衆人環視の中で。

 わたしは勝利に微笑み、しかし戦いの興奮はすぐに醒めた。

(何やってるんだろ……。やりこめて気分いいけど、人を笑いものにして喜ぶなんてわたしの趣味じゃないのに。あーあ、これじゃまたゴシップの的だわ)

 あとに残るのは億劫でしらけた気持ちだけ。

(いいや。逃げよう)

「……失礼、付き人が呼んでるわ。お父様からメールでも来たのかしら」

 誰に言うともなしに言ってその場を離れると、出入り口付近で所在なげに立っていたゼパイルのそばに避難した。

 ゼパイルは皮肉げに眉を上げると、わたしの健闘をたたえるでもなくからかいの言葉を口にした。

「なかなか面白い見物だったぜ。シャンパン片手に見るにはな」

 ゼパイルは背後関係を知らなくて皮肉や嫌みの内容の大半は理解できなかっただろうけれど、それが皮肉や嫌みだとは理解できていたらしい。

「やめてよ。馬鹿なことをしたって後悔してるところなの」

「半年も放置しやがって忘れられたのかと思っていたら、こんな楽しいパーティーに連れてきてもらえるなんてな。まじでお前何がしたいんだ?」

 この男にもモーナンカスからポストカードを送ったはずだけれど。

「あなたの頭の冷却期間よ。それに準備に時間がかかったの。でも、もうそろそろ仕事をしてもらうわ」

 ゼパイルは、そうかよ、と言ってシャンパンをあおった。

「あの女とどういう関係なんだ?」

「ここにいる大人の中で知らないのはあなたひとりね、ゼパイル。わたしの父親の愛人よ、彼女は」

「じゃあなんで後悔する必要があるんだ? もっと言ってやればよかっただろ」

「何を言えっていうの? くだらない。娘が父親の不貞やその相手を必ず嫌うと思ってるなら間違いよ。非難に値するとは思うけどね。でもそれだけだわ。別にそんなことに対して意見なんてないの」

 不倫なんてひとりじゃできないんだからクラリッサひとりを責めても仕方がない。そして父親の結婚生活は破綻している。クラリッサにしてみれば、不倫で家族関係を壊したわけじゃないし、夫婦関係は破綻しているんだから完全な不倫じゃないという意識でいるのかもしれない。それに、わたし自身、許せないと思っているわけじゃなかった。ジュリアンがどこの誰と付き合おうがどうでもよかった。あの人の女性関係に口を出したいなんて思ったこともなかった。にもかかわらず無関係でいられないことが、ただただ煩わしかった。

 ゼパイルはそれ以上触れようとせず、ヒヨコが踊っているイースター仕様の紙ナプキンにサンドウィッチをはさんで、食えば、と渡してくれた。

 

 サンドウィッチをもぎゅもぎゅ食べていると、家中駆け回ってエッグハントに興じていた子どもたちが笑い声を立てながら居間に戻ってきた。全部見つけられたのだろう。クラリッサは子どもたちの頭を撫で、全部見つけられたご褒美だと言ってキッチンからケーキを出して来た。テーブルにかじりつくように集まった子どもたちに囲まれながらクラリッサはケーキを切り、小皿に取り分けた。そのうちのひとつをわたしも見知った金髪の男の子が持ってきてくれた。

(まさか手作りじゃないでしょうね……)

 クラリッサが料理をまったくしないことを知っているわたしは心許無がりながらケーキを受けとった。

「ありがとう、ジェイミー」

 お礼を言うとぱっと輝く笑顔。

(可愛い)

 ジェイミーは気恥かしげに彼の兄のもとに小走りに戻っていった。兄から頭を撫でられて嬉しそうにしている。

「いい子だわ」

「そうなんだろうな」

「あなたの考えてることわかるわ、ゼパイル。わたしにもあんなころがあったのかってことでしょ?」

「どうなんだよ?」

「ないわ、全然。物心ついたときからこうだったわ」

「可愛げのねェガキ」

 ふん、と鼻を鳴らしてわたしはケーキにとりかかった。見た目から察するに、ありがたいことにケーキ屋に頼んだものみたいだったから味にも問題はなさそうだった。ただひとつの問題――ケーキに載っている黄色くコーティングされた――合衆国クオリティの蛍光色の――チョコエッグを食べようかどうしようか迷っていると、ゼパイルがちょんちょんと物言いたげにつついてきた。

「おい」

「わかってる。わたしだって気づいてるわよ」

「どうすんだよ?」

「放っとけばいいでしょ」

 わたしはため息をつきつつどぎついチョコエッグをゼパイルのケーキ皿に移した。

「いらねーよ」

「わたしだっていらないの」

 ゼパイルはシルバーのフォークを押し付けてパキッと卵を割った。

「放っとけって言うけどよ、お前、すげー睨まれてるだろ」

 ぐさぐさと突き刺さる視線。気づかないでいられるわけがない。その発信元はわたしも知った人物だった。

 わたしは手を一払いして態度を示した。

「わたしにはどうしようもないわ。わたしが睨んでるわけじゃないんだもの。わたしの問題じゃないわ」

「……お前のそういう考え方がまた怒りを煽るんじゃねェのか?」

「それだってわたしの問題じゃないわよ」

 端っこを切り取って口に入れた。普通のフルーツケーキだった。

「わたしが悪くて怒らせたのならごめんなさいって言うわ。でもね、それですむ話じゃないのよ、たぶんね。どうせあいつはわたしが何したって気に入らないんだろうし」

「知ってるやつか」

「当たり前でしょ。ホームパーティーなんて身内の集まりだもの」

 引き立たない気分を抱えてフォークでケーキを弄り回した。

「はっきり聞けばいいでしょ、誰なんだって。察しなさいよ。わかるでしょ。さっきの女、父親の愛人のクラリッサ、彼女の息子よ。加えてさっきケーキを持ってきてくれた男の子の兄ね。まったく親子そろって嫌んなるわ」

「苛々すんなよ」

 ゼパイルは鬱陶しそうに言って、横にずれて距離をとった。

「なーんで睨んでくるのかしら。わたしが何したっていうの」

「心当たりねェのか?」

 ゼパイルの言いようは、どうせお前が何かしたんだろ、と言わんばかりだった。ほんとうに頭にくる。わたしは耐えかねて皿を置いた。

「……ちょっとお手洗いに行ってくるわ」

 わたしはゼパイルの隣からも逃げ出した。

 

 なぜかゼパイルに裏切られたように感じて、それがさらに苛々させた。周りを知らない人に囲まれればゼパイルもわたし側についてくれると思っていたのに。そうやって仲間意識を植えつけるつもりでもあったけれど、当てが外れたのかもしれない。

(なんでわたしの気持ちをわかってくれないのよ)

 と思うし、

(誰にもわかりっこないんだわ)

 とも思う。さらに言うなら、ほんとうには誰にも理解してほしくないのだった。自分でもそれはわかっているから、気持ちは自分で整理するしかない。こういうときはひとりになるのが一番だった。だって、世界中の誰がわたしの不機嫌なんかに構いたいだろう? ゼパイルにもそっけなくされたばかりだ。

 

 廊下に出て壁に背を預け、深呼吸をして気を落ち着かせようと試みていると、居間のドアが開いた。出てきた人物を見てすぐに無関心そうに眼をそらした。もちろん傷つけるためだった。とても愛想よくしたいような相手でも気分でもなかった。

「クローディア」

 相手はわたしの心中に気づくこともなく呼びかけてきた。

 わたしは舌打ちをこらえながらちらっと見遣って、無視してやりたい衝動と戦いながらなんとか笑みらしきものをつくった。

「何?」

 タイミングからいってわたしを追って出てきたのはわかっていた。迷惑だったけれど、12歳の男の子を邪険にあしらうのは分別ある態度とは言えない。でもわたしは、今気づいたけれど、自分で思っていたよりも性格が悪かったらしい。

「……えっと……」

 彼をみつめながら、顔は見覚えているけれど記憶の引き出しから名前を引っ張りだせないというように困惑の表情を浮かべて見せた。

「イーニアスだ」

 案の定イーニアスの声には怒りがにじんだ。

「ああ、そうだわ、イーニアス。ごめんなさい。イーニアスだかアドニスだか何だか、そんな感じの名前だったような気はしてたのよ」

 彼の口角はむっつりと下がった。

 わたしがこの名前を忘れるわけがない。イーニアス。ご立派な名前じゃないか? なんたってギリシャ神話に登場する勇者の名前だ。その勇者は美の女神アフロディテと人間とのあいだに生まれた。まったく、クラリッサはどういうつもりで自分の息子にイーニアスと名付けたのだろう? わたしは勇者としての名前にあやかったわけじゃないと思う。フェアな見方じゃないと言われたらそれまでだけれど、自分を美の女神に見立てていたから息子をそう名付けたのではないかと本気で疑っていた。

「……1月に会ったばっかりだろ」

「ごめんなさいってば」

 責められてさも心外そうに謝罪を口にした。

「ジェイミーのことは覚えてたくせに」

「ええ。顔を見たら名前がすっと出てきたの」

 イーニアスと弟のジェイミーとはたしかに先々月の初めに会い、新年を同じところで過ごした。わたしの実家でもあるバンナムハウスで。とはいってもバンナムハウスは広くて四六時中一緒にいたというわけじゃなかったし、わたしも積極的に仲良くしようと努力したことは一度もなく、それはイーニアスも同様だった。だから覚えていなかったことを詰られても困る。というか、してやったりという感じ。イーニアスはおもしろいと思っていないようだけれど、わたしはこのささやかな意趣返しを存分に楽しんでいた。

「ねえ、さっきからわたしのことをずっと見てなかった?」

 わたしをずっと睨みつけていたのを咎めて言った。

 イーニアスは仏頂面のままうつむいた。

「クローディアを今日ここに呼ぶように言ったのは僕なんだ」

「ああそう。ご親切にどうも」

(なんなのこいつ)

 わたしをホームパーティーでさらしものにしようとたくらんだのは自分だと聞かされて、わたしは何と言うべきなのだろうか? よくも馬鹿にしてくれたな? 絶対に許さん? どれも負け犬っぽい台詞だ。わたしにできるのはあごを上げて、全然平気、みたいな顔をしてそれを死守することだけだった。

「用があったんじゃないの?」

「お前に?」

「ないならもう行くけど」

「待てよ」

(なんなのこいつ、ほんとに)

 遠慮を脇へ置いて率直に面倒くさそうな顔をすると、イーニアスは顔をゆがめた。

「お前はほんとうにむかつくな、クローディア」

「は? あっそ」

「お前が母さんを気に入らないのはわかるけどな、さっきのあれはないだろ」

「何のことよ」

「人前で母さんを馬鹿にしただろ」

 わたしは眉をひそめた。

「わたしだけを責めるつもり?」

「お前があんなことをするってわかってたら呼ばなかった」

「わたしが呼んでくれって頼んだ? それとも招待してくれたことをわたしがありがたがってるとでも思ってるの?」

 イーニアスはぐっと詰まった。追加でもっとしっかり嘲っておこうとしたけれど、わたしを睨みつける深い緑色の目が傷ついているように見えて、なんとなく哀れっぽくて、躊躇ってしまった。

(何なのよ、なんでそんな顔するの。わたしが悪いみたいじゃない)

 こういう沈黙は苦手だった。だって、わたしがほんとうに相手をぐっさり傷つけたみたいじゃないか。

(あー馬鹿)

 そうしているうちに胸の内でおなじみの自己嫌悪が広がってきた。

(イーニアスは12歳なんだってば……。母親を大切に思うのは当然じゃないの)

 11歳の可憐な少女であるわたしをいじめるなんて虐待だと思う。どう考えてもクラリッサが悪い。でもわたしとクラリッサが繰り広げたキャットファイトは、イーニアスからしてみればわたしが母親を無下に扱ったのも同じなのだ。正妻の子という立場から居丈高に。子どもからしたら母親の肩を持つしかないし、あんな場面は見ていられなかっただろう。

 もっと嫌なことにも気がついた。

(イーニアスが招待してくれたってことは、あの場で一番気まずかったのはイーニアスなんじゃないの。そりゃそうよ、自分の招待客と女主人である母親とが一触即発の空気になるなんて最悪の展開じゃない。わたしのせいで母親とぎこちなくなっちゃったわけよね)

 よく考えたら、しわを寄せられ貧乏くじを引かされたのは、わたしの目の前に立つこのイーニアスなのだった。

(まったく馬鹿だわ。わたしってほんと気遣いってものがないんだから。――待って、あの場にジェイミーはいなかったでしょうね……)

 納得しきれていないにしても自分に非がないとは言えそうになかった。

「……言いすぎた。ごめんなさい」

「いいよ、別に」

「クラリッサにもあんなこと言うつもりじゃなかったの」

「わかってる」

「あなたたちのパーティーの雰囲気を悪くするつもりもなかった」

「ああ」

「……わたし、来るべきじゃなかったわね」

 今さらすぎた。それにパーティーの雰囲気を悪くするつもりはなかったとは言ったけれど、実際のところ、とくに意識してなかったにしても、わたしが出席することで微妙な空気になることはわかっていたと思う。クラリッサだってまさかほんとうにわたしが来るとは思っていなかっただろう。お義理で、あるいはからかいの気持ちで招待状を出したのだろうと、冷静になった今なら推察できた。

「……僕がお前を呼ぶように言ったんだ」

「じゃああなたにも悪かったわね。……帰るわ」

 当然だけれど、引きとめる言葉はなかった。イーニアスとすれ違うとき、最高に気まずかった。わたしが通り過ぎるまでお互い目を伏せて、物も言わなかった。

 

 ちょっぴり落ち込んでいた。わたしが嫌われているのも無理はないと思った。初めて自分が完全に客観的に見れた気がした。そしてやっと、あのときどういうふうにゼパイルがわたしを見ていたかということに気づいた。この日わたしがしたことは、わざわざ歓迎されていないところに来て、楽しいイースターのパーティーをぶち壊したということだけだった。

 ドアの前に来てもなかなか顔が上げられずに爪先ばかり見ていた。とにかく早く帰りたい気分だった。でもその前にゼパイルやクラリッサと言葉を交わさなければならない。

(あーあ、なんでこんなに難しいんだろ……)

 わたしはため息をつきつつのろのろドアを開けた。きっと何度目だって、誰になったって、人生ってままならないのだろうと、わたしはようよう悟った。

 



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29. 価値

「全部でいくら?」

 パクノダはそう言いながら、手に持って眺めていた素描を丁寧に足元に置いた。19世紀初めごろに描かれたイングレスの『ミレーユ=グレグワールの肖像』だ。『丁寧に』『足元に置』くなんて同じ一文の中で同時に使うことができる言葉だとは思わなかったけれど、この場所ではほかにやりようもないのだから仕方がない。

 わたしとパクノダはビルの中の広々としたスタジオで何点もの絵画に囲まれていた。足元はフローリングで、壁の一面には何枚も大きな鏡が張られている。違う面の壁には『あいさつ!』とか『常に、自分がなぜそこにいるか、意味を考えなさい』とか書いた紙が貼られていた。貸画廊ならいくらでもあっただろうになぜこんなダンススタジオを借りたのかわからなかったけれど、空調もないほこりだらけの倉庫に置いておかれるよりずっとましと言えたから文句はつけなかった。

 わたしは拡大鏡から目を離して床に伏せったまま頭の中でそろばんをはじいた。

「うーん……んん、4億ジェニーくらいかなあ」

「そんなものなの、ふうん。なんだか中途半端ね。5億にはならないの?」

「ならないわよ。さりげなく1億ジェニーも値段をつり上げないでね」

 1億足して切りよくしようなんて、パクノダの金銭感覚も大概狂っていた。

「あっそう。わかったわ。……ちなみに内訳は?」

 パクノダは言ってみただけだったらしくあっさりと引き下がってくれたけれど、会話を続けてわたしの集中を削いだ。手持無沙汰で飽きてきているようだった。

 ぶらぶらしないように服の内側に入れておいた懐中時計を開けてみてみると、鑑定を始めてから4時間は経っていた。相手は凶悪犯罪者だということを考え合わせれば、よく忍耐強く大人しくしていたとほめることができるだろう。

 酷使して痛んでいる目頭をもみほぐしながらざっと評価額を告げた。

「マティッセは2億ちょっと。モローの小品がそれぞれ5千万と3千万。スーティンを選んだのは誰? いいセンスしてるわ。筋のいい作品よ。1億ジェニーね。残りの19世紀絵画はたいしたことないの。で、全部で4億ジェニー」

 パクノダはわかったようなわかってないような顔をして聞いていたけれど、聞き終わると腑に落ちていないらしく眉間にしわを寄せた。

「素描は? 査定してくれないのかしら?」

 わたしが見落としたと言わんばかりの口ぶりだった。

 だから正直に、評価の、思ったところを告げた。

「ゴミね」

「……何って言った?」

「ゴミだわ」

「そんな……」

 言われたことが理解できないみたいな表情のパクノダに、残酷だけれどどうしようもない真実というものを説明した。

「この目で確かめたんじゃなきゃ信じられなかったけど、これ素描じゃない、印刷なのよ」

 パクノダは疑いの眼だった。

「……どういうことなのかしら?」

「つまり、美術館はこういった盗難の危険に備えてたんでしょ。劣化した紙には保管室のほうがいいでしょうしね。これだけ精巧なら、距離をとって明かりを調節して本物だと前提させておけば専門家の眼だってわけなくごまかせるでしょうよ。油絵とは違うもの。ただ、ほんとうにそうする美術館があるとは思わなかったけどね」

 呆れるしかない所業だった。

「そんな、阿呆らしいわ」

「もちろん、阿呆らしいわ。でもこんな複製画を盗ってきた馬鹿ほどじゃない」

 わたしは苦々しい思いで吐き捨てた。

「そもそもどうしてこの素描をチョイスしたのか理解に苦しむわ。オーラも出てないじゃないの。美術がわからないならわからないなりに“凝”をして選べばいいじゃない。あるいはカタログでも見て見当をつけてから行きなさいよ。誰なのよ、こんなゴミを握らされたとんまな馬鹿は?」

「………………………それ――」

「信じられない。天下の大盗賊がこんな失敗する? 不名誉というか不面目というか……クロロが知ったら何て言うかしらね。ふざけていたとしか思えないわ」

「……団長に……」

「目に浮かぶようだわ、素描画部門のキュレーターたちがあなたたちを嘲って馬鹿笑いしてるところが。同情もできないわよ。“凝”を怠るな、は念能力者の心得でしょ? 今まで何人の念能力者が“凝”をいい加減にしたばっかりに取り返しのつかないことになったことか。肝心なところで“凝”ができないなんて無能よ、無能」

「……無能……」

「あなただってそう思うわよね? そのトンチキはよく幻影旅団なんて入れたものだわ。ほかでも足引っ張ってるんじゃないの? しょうもないミスをしては誰かに尻を拭かせてそう。その他のメンバーにはお気の毒さまだわ。こっそり仲間はずれにされてても仕方ないというか、気づいてもなさそう」

「……仲間はずれ……」

「間違いなく言えることは、そいつには美術品泥棒なんてまったく向いていないってことね。それどころか悪党に向いてるとも思わないわ。ケチな詐欺でもやって警察に捕まっているのがせいぜいの低能よ」

 頭痛を催させる救い難いぼんくらにため息をついて頭を振りつつ、わたしはパクノダを同情あふれる目で見た。

「それで、誰なのよ、その馬鹿は?」

 うるうる。

(……ん?)

 パクノダの眼は涙でいっぱいだった。

(な、何事なの……)

 わたしは面食らって何度も瞬きした。

「パ、パクノダ……?」

 名前を呼ぶと、彼女のスミレ色の――エリザベス=テイラー以来の、めったにない美しい紫色の――目からぶわっと涙がこぼれた。わたしは心底ぎょっとして硬直した。

「うう~~」

 ハンカチに顔を突っ込んだパクノダを、わたしは呆然と見つめた。

(い、いやー、まさかね……まさかまさか、そんなはずは……)

 否定しながらも、ほぼ確信していた。

(まさかそんな……こんなくだらないポカをやらかした幻影旅団の抜け作がパクノダだなんて……)

(……どうしよう)

 パクノダがこんなに景気よく泣いてるんじゃなければごまかし笑いでもして知らんぷりしておくのだけれど。

「パ、パクノダ……」

 ほんとうは嫌だったけれど、心から恐れていたけれど、こんな姿を見せられては放っておくことはできそうにない。クローディアならどうするだろう、とわたしは考え、クローディアならするだろうことをした。こんなタイミングで記憶を読んではこないだろうとの楽観的な希望的観測でパクノダの震える肩に手をそっとかけ、おずおずと撫でた。

「ま、まあ、ミスすることなんて誰しもあるわ」

「う、う、ひっく……で、でもわたし……」

「わたしもなにも触れ回ろうなんて思ってないし。ね?」

「うえ、……わたしなんか、ぐすっ……」

「大丈夫! お金払うときには微妙な19世紀絵画と書類上まとめといてあげるから! まさか美術館だって複製画を並べてたとは言えないし、こちらが言わなきゃばれないわよ」

「ばれない……?」

「ええ、もちろん」

(事実は消えないけどね)

 最後の言葉は心にしまって、わたしは元気づけるように、安心させるようににっこり微笑んだ。腫瘍は良性です、と患者に伝える医者のような気分で。

 

 美術品について無知すぎる、というか無頓着すぎる、と感じたわたしは、まずは美術品という商品の特性からわかってもらおうと、生徒ひとりに向けて簡単な研修を受けてもらうことにした。そのたったひとりの生徒はメモ帳とペンを手に、化粧室でお化粧をきれいに直してきた顔を真摯に向けてきている。やる気十分のようだ。

「あのね、美術品っていうのは特別な商品なの」

 わたしは左手を前に出して順に指を立てていった。

「第一に、希少性と非代替性があるわ。真作はこの世に一点しかないし、大量生産もできない。欲しがる人が多ければ、当然値段は天井知らずに上がっていくわ。

 第二に、メンテナンスが必要だという点ね。いかに有名な画家の手による作品といえどもボロボロだと値段はがくんと落ちるわ。もちろん美術品は消費財じゃなくて耐久財だわ。より耐久してもらうためには扱いに注意が必要よ。たとえば――」

 ポケットから拡大鏡を取り出してパクノダに渡し、手招きして壁に立てかけた絵の前にかがませた。横から指で見てほしい箇所を示す。

「わかるかしら? 1センチくらいだけど、亀裂が起きてるの。たぶん持ち運ぶときにキャンバスに体か何かが当たったのね。こういうのがとってもまずいの。こういう傷は時間が経つにつれて広がっていくわ。傷ができると絵の具の強度が弱まるから、温湿度の変化でキャンバスが伸び縮みして、どんどん裂けていくのよ。さらにそういう傷から空気が入って、傷の部分から乾燥が激しくなる。反り返っていって、ついには剥落しちゃうというわけ。 

 わたしは修復家じゃないから如何ともしがたいけど、この絵を手に入れた人が早く専門家に見せてくれることを切に願うわ」

 パクノダは、なるほど、と呟いている。

「そういうわけだから、浮き上がりのある作品を盗むのはやめてね。ちょっとした圧力や振動にも耐えきれないし、素人に輸送なんて無理だもの。ほんと、絵の具が落ちてバラバラになっちゃったら取り返しがつかないから」

「そうね。気をつけたほうがよさそうだわね」

 同意を得られてわたしは気を良くした。人間、素直が一番の財産だ。パクノダはこんな子どもからでも素直に教えを受けられる。彼女の美点のひとつだろう。

「で、第三なんだけど、価値に普遍性を欠いているところね。人によってその美術品に見出される価値は、というか使用価値は、大きく違うわ。これはあなたにも実感としてわかるでしょ。フェイタンが気に入ってる絵があったとして、あなたはそれを自分の部屋に飾りたいとは思わない、そういうことってあるでしょう」

 パクノダは大きくうなずいた。

「ええ、よくわかるわ」

「評価が高くっても、一般に人気のないたぐいの作品だと高値はつかない。仕事に自分の趣味を反映させるのは結構だけど、この点は覚えておいてね」

 パクノダの白魚のような手が忙しく動かされ、メモが追いつくのを待ってから、残りの特性をゆっくり説明した。

「第四は、市場流通価値の変動よ。美術品っていうものは普通優に数百年は持つわ。そのあいだに値段は大きく上下する。そのときの評価や人気でね。美術品自体の美しさ、その絶対的な価値が変化するわけじゃないの。

 そして最後の特別さっていうのは、見極めの難しさなの。まず本物か偽物かを判断することが難しいわ。専門家でも間違いはしょっちゅうやらかすわね。本物でも、どの程度素晴らしいのか見当がつかないこともある。さらに言うと、盗品かもしれないし、担保品かもしれない。美術館に説明付きでかかっているからって必ず本物ということはないわ。怪しい作品はいくらでもある。いくつもの目にさらされて、なんとなく本物っぽくないなと評価されるようになったりもする。情報収集を怠らないことね。とにかく、わからないものなのよ。わたしも何度も授業料を払わされてきたわ」

「あなたも?」

 意外そうな疑問。

「もちろんよ。一度も失敗せずにすむような人間なんていないわ、とくにこの業界じゃあね」

 随所でフォローを忘れないわたし。パクノダの表情がちょっと明るくなった。

 おおよその値段のつき方は教えた。これを機に自分で勉強するようになって、美術品や美術市場への理解を深めていってほしい。盗むという目的や行動は唾棄すべきことではあるけれど、美術品に関心を持ってもらったり愛するようになったりすれば、わたしも少しはうれしい。

「ま、そういうわけだから――」

 わたしは床に置かれていたイングレスの『ミレーユ=グレグワールの肖像』の複製画を取り上げ、ちょっと口元がひきつっているパクノダの手に――なんとしても受け取りたくないと強情に動かされなかった手に――ちょっとした揉み合いの末無理やり押し付けた。

「あげるわ。部屋にでも飾っておきなさい、今回の教訓を忘れないように。安心して。額縁は本物の19世紀初めごろのものよ」

「何を安心しろと言うの……?」

「少なくとも額縁分の価値はあるわ。つまりゼロではないってことね」

 励ますように微笑みを浮かべたけれど、パクノダは陰鬱な表情で力をなくしたかのようにがくんとひざをついた。

 

 パクノダだって馬鹿じゃない。複製の素描画を盗んで帰ってしまったのにも勘案すべき理由があるのだろうと思う。幻影旅団を馬鹿にできるチャンスについつい飛びついてしまったけれど、“凝”をしたかどうかとか、そんな簡単な話じゃなかったのだ。

 油絵に比べたら地味というか、影に隠れてしまっている素描画だけれど、重要な作品も多くある。また油絵に比べて高値がつきにくいのは否定できないけれど、それも条件次第だ。たとえばおもしろい来歴があったり連作物がそろっていたりすると値段もぐんと高くなる。評価の仕方というのはパクノダに説明した通り、複雑なものなのだ。当然パクノダも盗賊稼業でそれを実感してきたことだろう。オーラが出ているから高値がつくだろうと思ったらそうでもなかったり、逆に何でこれが?というようなものに高値がついたり。オーラの有無はひとつの目安でしかない。それにパクノダには『ミレーユ=グレグワールの肖像』をちょっと気に入っていた節もあった。まあだから手にかけたんだろうと思う。別に、パクノダが馬鹿だったわけじゃ、ほんとうにないのだ。ただ、これからもからかう機会があれば絶対に逃すまいと思う。

 

 パクノダの帰ったスタジオでフローリングに寝転がって、天井で大きな羽がぐるぐる回って空気をかき回しているのをぼんやり眺めた。ぐるぐる、わたしが設定した絵にとっての適温適湿――摂氏15度湿度55パーセント――をひたすらひっかきまわし、かすかに空気が動く音をさせて回っていた。

(4億。4億かぁ。どこからひねり出せばいいの?)

 寝返りを打ってうつぶせになり、頭を抱えた。

「う~」

(やっばい! 4億よ? 見たこともないわよ、そんな額のお金!)

 いくら実家が金持ちだといっても、到底わたしがひねり出せる金額ではない。

「どうしよ、どうしよ、ほんと、どうしよう」

 すごい大金だ。それだけ持っていればどこの国でも遊んで暮らせるくらいの。

 だいたいそのわたしが出した4億ジェニーという評価額だって全然定かじゃなかった。まったく自信がない。そんなの当然だ。だって、世界のどこに美術品の闇市場の相場に詳しい11歳がいるというのだろう? わたしも例外じゃなかった。前世でもこんな不法で危険な取引など当然したことがなかった。

 もちろんわたしだって、何もわからずこの場に臨んだわけじゃなかった。

 強盗が入ったように見せかけてナタリーの住んでいる家の美術品を故買商にいくつも売り飛ばしてやった。そうやって相場を測った。ジュリアンは家に来ることもないし、ナタリーはそんなこと気にかけもしないだろうから簡単なものだった。わたしにしたって、趣味じゃないものを不可抗力に見せかけて処分でき、故買商から売ったお金を手にでき、さらに保険会社から保険金を受け取ることができてハッピー。まさに一石四鳥だったわけだ。

 でもそれくらいですべてを測れるような容易い市場じゃないのも確かだった。美術市場の動向を測るのはとても難しい。具体的に示す公式資料は貿易統計を除いては存在しない上に、闇市場ではそれすら存在しない。サザンピースなどのオークションの落札価格、出来高が指標となりうるけれど、闇市場に関しては別のロジックが強く働いているのは明白だった。たとえばわたしが2億の値をつけた絵、あれは通常の市場に出てくれば最終買い取り価格は20億近くつくくらいの絵だった。とすれば、税金や手数料や仲介料など諸々を差っ引いて、売り手は16億くらいは受け取れるのではないだろうか。でも闇で取引されればそうはいかない。表に出すわけにはいかず売れる相手が少ないのだから、足元を見られて買いたたかれるものだ。2億は相当良心的な値段だろうと思う。相手によっては半額以下の値段を提示されただろう。でも幻影旅団相手にそんななめきった額を提示するのは躊躇われた。わたしはお金よりも命のほうが惜しいのだ。

(ま、まあ、買った額より高く売れれば問題ないのよ……。それに4億も持ってる必要なんて当然ないんだわ。決算するときまでに何とかすればいいのよ)

 自分でもいい加減でどんぶり勘定だなとは思うけれど、実際のところこんなもので構わないのだった。この商売は細々したものを日々売ってちょっとずつ利益を上げるような商売じゃない。ヨークシン5番街に画廊を構えているような画商たちは、3カ月に1枚絵を売ればそれで生活が成り立つ。わたしがしようとしているのも似たようなものだ。それに、買ってくれるだろう相手にも心当たりがないわけじゃないのだった。

 



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30. ショッピング

 地下鉄をサン=マルセルで降り、階段を上って4月の長引く秋雨のなかに踏み出しながら、わたしはイーラン=フェンリと再会し、永遠に別れた夜のことを思いだしていた。たった2か月前のことだなんて信じられない気がした。そんなことを唐突に思い出したのはここがわたしの生活行動範囲にもかすらない10区だからであり、あのときと同じ道をたどっているということに気づいたからだった。あのときの暑い夜気とは違って今日は陰気な秋の霖雨で肌寒かった。

 深緑のストールに口まで埋め、ニットコートに片手を突っこんで傘に隠れるように早足で歩いた。路地はせまくて、すすけた灰色のビルの壁が迫ってきているような感じがした。15分も歩くと繁華街からはちょっと離れて商店の数は減り、人家の切れ間が目立つようになった。ビルとビルとのあいだに小さく公園が切り取られていて、蔦を這わせたあずまや風の屋根の下にはどう見ても失業者か浮浪人の男たちが無気力な顔で座ったり寝そべったりしていた。そのあたりでゼパイルに会った。

「お前なあ」

 なぜだか出会って早々、渋い顔をされた。

「ひさしぶり、ゼパイル。変わりはない?」

「ねーよ。お前もなさそうだな。それはいいんだけどよ、こんな場所で、お前、もうちょっと、その格好……」

「はあ?」

 要領を得ない話しぶりだ。何が言いたいのかわからない。

「……あー、いいからもう行こうぜ」

「何なの?」

 ゼパイルは返事もせずわたしの手をとってぐいぐい歩き出した。

 わたしは、足は止めなかったけれど手はすぐに振り払った。保護者が引率する児童の登下校じゃないのだ。

「ねえ、もしかして迎えに来てくれたの?」

 訊くと、ゼパイルはあーともうーともつかない声を出した。

「家、ちょっと込み入ったところにあるからな」

「ふうん、ありがとう」

 ゼパイルはわたしの言葉を耳に入れた途端耳を疑うと言いたげに目を見開いてみせて、わたしの顔をまじまじとみつめた。そして失礼の重ね塗りをした。

「……素直だな。お前が礼を言えるとは思わなかった」

 わたしを何だと思っているのだろうか? ここまで社会性を疑われるようなことをわたしがしたことがあっただろうか?

(あったかな、うん。したわね)

 仕方ないから許してやろう。

「ありがとうとごめんなさいは人間関係の基本よ。だてに歳を重ねちゃいないわ」

「まだガキだろ……ていうか人間関係の基本って。お前に言われると違和感と疑問がすごいんだが」

 反省する気分になっているときに余計なことを言われると変に意固地になってしまう時がある。軽く足を振り抜いたらバシッといい音がした。

「いってえ!」

 ゼパイルはふくらはぎを押さえてしゃがみこみ、何すんだと涙目で睨んだ。

「ごめんなさい。つい……」

「つい!?」

 わたしはすぐさま謝って人間関係の基本を実践したけれど、ゼパイルはそんなところに構ってはくれなかった。

「つい、何て言うか、気に食わなくて。ほら、あなたに失礼なこと言われるとなぜかすごく不当な目にあった気がするのよ」

 まったく不思議なことに。

「オレの扱いのほうが不当だろうが!」

 ゼパイルは詮ないことを叫んだ。

 

 ゼパイルの家は細い路地の行き止まり、2階建てアパートの一角にあった。錆びた鉄製の裏階段を上り、2階部分も過ぎた屋根裏部屋がそうだった。鍵はひとつしかついていなかった。ドアを開けると台所で、簡素なテーブルの上にはシリアルの箱が落ちそうに載っていた。

 実のところ、わたしはそこを台所と表現するかどうか迷った。普通台所にないものが多数あったからだった。テーブルにはシリアルのほかにいろいろなものが散乱していた。ペンキやブラシやヘラやスプレー缶が投げだされていて、粘土の塊のようなものが山と積まれていた。床にはペンキがそこいら中に飛び散っていたし、まだ使われていなかったり描きかけだったりするキャンバスが何枚か壁に立てかけられていて、壁面を丸々一面占領していた。明らかにそこはゼパイルのアトリエだった。

 じろじろ眺めていたらゼパイルの落ちつかなげな咳払いをもらって、わたしたちは隣の寝室へ移動した。

 

 わたしは断りもなしにクローゼットを開けた。予想していた通りだったけれど、期待していた通りではなかった。

「スーツの1着も持ってないの? 慶弔の行事にはどうするの?」

「誰がオレにそんな案内を送ってくるっていうんだよ」

「知らないわよ」

 かろうじてハンガーにシャツがひっかかっているくらいだった。これから寒くなるっていうのに暖かそうなコートもない。着古されたウィンドブレーカーがあったから、それで寒さをしのいでいるのだろう。

「風邪引きそう」

「金がねーんだよ。見りゃわかるだろ」

 ゼパイルがだんだん不機嫌そうになってきた。別に責めているわけでも馬鹿にしているわけでもないのに。原作でも欠食状態みたいだったから、そういうキャラなんだなと改めて思っただけだ。

 わたしはクローゼットを閉めて部屋を見回した。

「パソコンはないの?」

「あると思うのか?」

 むっとしているのがゼパイルの顔に出ていた。

 わたしはようよう失礼だったかなと悟りはじめていた。貧乏な人のところへ行ってあれがないこれがないと繰り返してその人にお金がないからだと言わせるのが趣味のいい行為だとはとても言えないだろう。わたしはまま自分の頭の悪さに気づいて心底自己嫌悪するけれど、今度もそんな気分になった。気が利かないというか、頭が足らないというか。

(気がついただけ良しとしましょう。自覚が大切なの。無知の知よ……)

 わたしの悪いところはこうやってすぐに自己弁護に走るところだと思う。

(とはいえ――)

 わたしはニットコートのポケットのなかで握りしめていたUSBフラッシュメモリーを放した。

(無駄になっちゃった)

 大まかな流れや指示や資料は全部その中に入っていた。だって、誰が今どきヨークシンにパソコンも持っていない人がいると思うだろう? 明日プリントアウトしてくるとして、今日のところは予定変更で前倒しするしかなさそうだった。

「来て早々悪いんだけど、出かけましょう」

「あ? どこへ?」

「お買いものよ」

 

 タクシーでクライダーストリートに行って、一軒の店を訪れた。そこは高級ブティックとして知られている店で、ブラウンと植物のグリーンでまとめられた店内はまるで見知らぬ誰かのウォークインクローゼットの中のようだった。

「ここは?」

「服を買うのよ。あなたにはこれから働いてもらうんだから必要になるでしょ」

 ゼパイルは棚の上に畳んでおかれたシャツを見て小さな悲鳴を上げた。

「値札がついてない!」

 わたしは眉をしかめて振り返った。

「わたしのあとをついて歩かないでよ! 前を歩きなさい、前を! あなたの服を買いに来てるのよ。それに値札がどうだっていうのよ」

「買える金なんて持ってねーよ! 値段わかんねェけど!」

「そういうこと言うのやめてよ! 支払能力を疑われるじゃないの」

 ゼパイルの懐に余裕がないことくらい十分にわかっている。言質がほしいなら与えてやろうじゃないか。

「あなたに払わせはしないわよ。これも経費だわ。支給品と思ってもらって結構よ」

 わたしが出してあげるとは言えない。男ってほんとうに面倒くさい。だからといってプライドをなくした男がいいかといえば、そういうわけではないのだ。女も面倒くさい。

 騒ぐわたしたちを店員が遠巻きに見ていた。

 

 マネキンからジャケットを外し、ゼパイルの胸に当てた。男物の買い物なんかに興味はないけれど、見ているうちに気分が乗ってきた。

「何てブランドなんだ?」

 ゼパイルはスーツに袖を通しながら尋ねた。

「イーズ=メルヴィル」

「誰だよ。わかんねー」

 わたしにだってわからない。でも仕様がないではないか? この世界には『アルフレッド=ダンヒル』やら『ブルックス・ブラザーズ』やらはないのだから。

「そういえばお前、有名どころのブランド物持ってねェよな。見たことねェ」

「まあ、うーん、あんまり好みに合わないというか」

 名前が似ているものだから模造品に思えてくるのだ。『ヴェルサーチ』でなく『シャルルサーチ』。『シャネル』でなく『チャネール』。本物なのに、身につけていて納得できない。騙されているような気になる。だからわたしは有名高級ブランドのものを持つことをあきらめた。この世界にしかないものから探そうというわけだ。そしてそこでも壁にぶち当たった。『フックー』だの『キール=モノ』だのといったくだらない駄洒落のようなブランドに戸惑わされ、苦笑させられ、挫折感を味わわされた。そうやって選り好みをしていたらクローゼットの中にはデザイナーの一点物の洋服が多くなってしまった。この苦労と苦悩をわかってくれる人はいない。『イーズ=メルヴィル』はそういうわたしにとって数少ない抵抗なく所持できるブランドなのだ。紳士用品店なのが惜しい。

「サイドベンツでいい?」

「何について訊かれてるかもわからん。お前がいいと思うならいいぜ、もう」

 丸投げされてもなあと思う。男物のスーツにそんなに詳しいわけじゃない。

「色はいいか……。形もきれいだし。あとは靴かしら」

 

 異性を自分好みに仕立て上げることを好む人々が男女問わずいる。かつてはナタリーもそうだったらしい。彼女はジュリアンをまさに自分好みのイメージ通りにつくり変えた。ジュリアンはナタリーを捨ててもナタリーが仕立てたスタイルまでは捨てることができなかった。高度に文明化された白人支配者の一家が緑の芝生の美しい広大なご領地でペットの猟犬を従えクロッケーのスティックを持ってくつろいでいる、みたいなスタイルだ。わたしは一度ジュリアンにそれを植民地の白人スタイルだと言ってやったことがあるけれど、そのときは張り飛ばされそうになった。

(あー、いやになるわね)

 ほんとうにうんざりするのは、わたしの認識に関わらず、彼らふたりの子どもであると気づかされたことだ。ゼパイルを飾り立てるのは楽しかった。そうして仕上がった彼の装いは、どこかジュリアンに似ていた。

 

 わたしとゼパイルはタクシーで5番街に向かっていた。

 ゼパイルはひざの上の紙袋を怖々のぞいた。

「一体いくらかかったんだよ、これ……」

「70万か80万か90万……くらい、かな」

「雑なんだよ! 30万も幅があるじゃねーか! 雑にしていい金額じゃねーだろ!」

 そうは言われても値札がついていなかったし、ジュリアンのカード決済だったからそんなに気にしていなかった。

「いいのか? 不安になってきた……。スーツや靴はまだしも、シャツやネクタイなんてそのへんの投げ売りので充分だろ……。なんでシャツが2万ジェニーもするんだよ……」

「シルクだからよ。もうガタガタ言うのやめてよ。買っちゃったんだから」

「いやいや、でもよ、帽子はいらなかっただろ」

「それは展示用の非売品だったの。いっぱい買ったからくれたのよ。似合ってたと思うけど」

「でも――」

 ここらへんが我慢の限界だった。

「うるさいわね! わたしに700万の贋作の像を買わせたくせに、100万足らずの額で大騒ぎしないでよ」

 ゼパイルは鼻白んだようすでようやく黙った。

 何をピーピー言うことがあるのか理解できなかった。もちろん100万ジェニーといったらそれなりの大金だけれど、どうせわたしのお金だし、美術というわたしたちの専門の世界ではざらに扱っている額だ。きっと服にそんなにお金をかけたことがなくてちょっとした躁状態になっていたのだろう。

 

 5番街の『クロノス』ではゼパイルは完全に気後れしていた。

「ここで何買うんだよ……」

「あなたの腕時計よ」

 『クロノス』といえば5番街の高級時計店として有名なのだから、ここで買うものならそれは時計に決まっている。

「いやいや、いいって!」

「あなたが遠慮することじゃないの。早く入って」

「いらねェよ。オレ腕時計はつけねェんだから」

 わたしは呆れた。どうしてゼパイルはこうもわたしに面倒をかけるのだろう?

「あなたがどうだろうと知ったことじゃないの。嫌でもつけてもらうわよ。美術商なら高級時計のひとつくらいつけてなきゃおかしいんだから」

 わたしはゼパイルを店内に蹴り入れた。雨が降っているというのに屋根もない店先でこれ以上押し問答をするなんて馬鹿らしい。

 相手にされないだろう少女のわたしの前に立って闇取引する美術商を演じてもらうためにゼパイルにここまでバカスカお金を使ってきたのだ。そうじゃなかったら誰が貯金の1千万ジェニーのうち900万ジェニーまでをこの男に使うというのだろう。

 

「どういうのがいいかしらね」

 ショーケースの中できらきら光っている腕時計を見ながらわくわくゼパイルに声をかけたけれど、ゼパイルは視線を向けてもいなかった。

「いやもうオレ……」

「ちょっと! しゃんとしてなさいよ」

「いーんだって、いーんだって。なんでここも値札ねェんだよ……」

 ゼパイルの弱り切った呟きにわたしはだんだんいらついてきた。腕時計ひとつ買うのにここまで気後れしていて、ほんとうにこの男はわたしの代わりが務まるのだろうか? 原作ではゴンとキルアの木造蔵を引き受けて丁々発止のやり取りを繰り広げていたというのに。

「いい!? あなたのためじゃないの。安物のスーツや時計を身につけてたら高額な取引ができないから、怪しまれるから、こうやって整えてるのよ。あなたを憐れんでるわけでも歓心を買いたいわけでもないわ。

 一方でこれはあなたのためにもなるのよ。わたしとあなたの関係が終わったらわたしじゃ使えないんだから全部あなたにあげるわ。下取りにでも出せば10万20万にはなるでしょ。そういうつもりで選びなさい」

 ゼパイルはまじまじとわたしを見つめて、神妙な顔でうなずいた。まったく世話の焼ける男だ。

 

 やがてゼパイルはひとつの腕時計を手にとった。シルバーのかっこいい腕時計。

「すてきね」

 ゼパイルはうなずいた。目は腕時計から離れない。わたしにはおなじみの目、美術収集家の目に似ていた。腕時計に熱を上げるなんてゼパイルも男だったということだ。

「あのスーツにも合いそう」

「ああ」

「気分がいいでしょう。これまでとは違う感じがしない?」

 わたしはにっこりと微笑みかけた。

 ゼパイルにはもっと欲深くなってもらわなければ。利害で結びついた関係は強い。それに100万200万でびびっているようじゃだめなのだ。

「そうだな」

「より男らしく、セクシーにね。あなたならそうなれるわ、ゼパイル。女もそういう男が好きよ」

「……ガキの言うことかよ」

 



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31. ゼパイル、はじめてのお仕事

 部屋に入り、後ろ手で静かにドアを閉めた。そこはスイートルームの広い居間だった。

 中央のテーブルにはイヤフォンを耳につけたユタカがひとりでいて、パソコンの画面から目を離さないまでも手を上げてあいさつしてくれた。

「どう? ユタカ、ゼパイルは?」

「あー、うん、順調。今のところは」

 わたしはユタカのとなりに椅子を引っ張っていって並んで座った。ユタカの右耳からイヤフォンを引き抜いて自分の耳に差し込み、3台並んでいるうちの正面のパソコンの画面を見た。画面いっぱいにビデオが映っていた。わたしが、おお、と感嘆の声をもらすと、ユタカは得意そうに笑った。

「これくらいなら難しくない」

「すごいわね」

 わたしはほんとうに感動していた。そして現代の技術革新が念能力作成に与えた影響を考えた。

 つくられる念能力にも時代によって流行り廃りがある。ベアクローによれば、昔は技術レベルも低くて機械はあまりスマートじゃなかったから情報系の念能力者は今よりもずっと重宝されていたらしい。カメラに監視カメラ的な機能を持たせる念能力とか位置情報を受発信する念能力とかもあったらしい。現代では機械のほうがずっとうまくやる分野だ。今その念能力者たちはどうしているだろうと考えると、笑っちゃうと同時に気の毒になってくる。

 ゼパイルに持たせているのはネクタイピン型の小型カメラとカフスボタンを模した集音マイクだった。ユタカ謹製の。ユタカのことをそんなにたいしたことない間抜けハッカーと思っていたけれど、この分だと評価を上向きに修正しなければならないだろう。

「これ」

「え?」

 ユタカはパソコンのUSBポートに差し込まれたケーブルをつついた。

「これが中継ケーブルで、それが信号増幅器。カメラが発信する周波数を拾うんだ」

 そう言ってチョコバーくらいの長方形の箱を指した。

「それで――」

(……ああ、そういうこと。やめてよ)

 ユタカはわたしに技術講習をしようとしているらしかった。悪いけれどわたしは適当に相槌だけ打ってほとんどを聞き流した。

 

「着いたみたいね」

 ゼパイルはあちらさんの接触者――リグズと名乗った男――とともに車を降りた。

ユタカのもうひとつのパソコンに地図が展開していて、経路が赤い線で示されていた。そこに小さく住所がポップして表示された。

「場所情報把握。長かったけどぐるぐる回ってただけだったね」

「そうね。どう見てもアッパーイーストサイドだわ」

 その地域の家々は広く、手入れが行き届いていた。車が停まった前の家も高く白い塀を持つ豪邸だった。

 わたしとユタカは息をつめて見守った。

 門にいた男のひとりが厳しく表情のない顔つきで近づき、ゼパイルの体を上からたたいて身体検査した。

「やっぱりこういうのあったわね。あなたがタイピンとカフスボタンに偽装してくれて助かったわ。ねえ、それにしても、映画みたいでちょっと馬鹿げてる感じしない?」

「……オレもあんたの殺し屋にボディーチェックされたことあるけど」

 男はゼパイルが持っていたスーツケースにも手を伸ばして調べようとしたけれど、これはリグズが制止した。もうすでにその男によって調べられていたからだ。

 検査が終わると、門にいたもう一人の男がゼパイルとリグズが通れるだけの広さに門を開けた。塀の内側にはよく手入れされた庭に囲まれてブラウンストーンのヴィクトリア朝様式っぽく見える屋敷が建っていて、いくつかの窓は明るく照っていた。

 ふたりが屋敷に近づくと正面玄関の扉が開いた。中からは一昔前の野球選手みたいな金鎖をつけた大柄の男が出てきてふたりを迎え入れて、玄関ホールのすぐ左のドアを開けた先、応接間に案内した。

 

 わたしは中のようすをパソコンの鮮明な画面越しに観察した。よそ様の家に行ったらいつもついしてしまうように。それなりの鑑定家なら誰しもそうであるように、わたしは家をしばらく観察するだけで、その人がどういう人なのかをかなりのところ知ることができた。お金持ちなのかそうでないのか、昔ながらのお金持ちか成金か、旅行やパーティーによく行くのか行かないのか、交際関係が広いか狭いか、高学歴者か否か、趣味やセンス、教養のあるなしも。

 診断結果が出た。

「ひどいセンスだわ……。わたしなら絶対にこんな家に住みたくない」

「え、そう? まあたしかにゴテゴテしてるよね」

 そういう話じゃない。外観はヴィクトリア朝様式っぽいのに市松模様の床と重苦しい装飾の壁はジェームズ王朝様式、にもかかわらず天井はほとんど装飾のないクリーム色一色、というちぐはぐ感が問題なのだ。それだけじゃない。絵の飾り方もひどい。わたしの見間違いでなければ、エッジの効いた直線と鋭角的なフォルムが特徴のバフェットの静物画のとなりにピッザロの明るい牧歌的なグワッシュの作品がかけられている。

 わたしはショックを受けて呟いた。

「ただの成金……いいえ、センスも教養もない最低の成金だわ。いいえ、まさかこんなことがあるはずがない、きっとふざけてるんだわ。でも、どう努力したらこんなひどい家ができあがるというの……? まさに欠陥住宅。何が欠陥かって、オーナーの美意識が欠陥よ。できの悪いオカマ、それも学園祭で浮かれた大学生のノリをトッピングした産物を見る気分だわ。これは、そう、産業廃棄物に似てるわ。公害問題じゃないの? 政府は税金を余分にむしり取るべきよ。わたしはこの家の様式を悲惨様式と名付けるわ」

「そこまで言う!?」

 

 ゼパイルとリグズが待たされて10分ほどしてから、応接間に50代後半くらいの男とそのボディーガードらしき男のふたりが入ってきた。ボディーガードはドアとソファの中間あたりに立った。年輩の方の男は、頭は半分ほど禿げてはいるけれど高そうなクラシコイタリア風のスーツを着ていて、それがよく様になっていた。男は立ち上がったゼパイルとリグズに手振りで着席を促し、自分も彼らの正面に座った。

「フリアだ」

 男は自己紹介し、一呼吸置いた。

「さて。話をはじめようか」

 

 わたしはユタカをちらりと見た。ユタカは得たりとうなずいた。

「いる。マーヴェルファミリーの金融部門の幹部がそんな名前だ。でも本物かどうか調べるのにはもう少し時間がかかるよ」

「いいわ。お願いね」

 

 フリアは微笑んだ。

「まずは君の正体を明らかにしてくれないか?」

「バウカーだ」

 ゼパイルは用意してきた偽名と用件を告げた。

「あんたたちと取引がしたい」

「どうやってリグズを見つけた?」

「難しくなかった。すべてに栓をすることはできないんだからな」

 もちろんわたしが教えた。リグズがジュリアンのオフィスを何度も訪ねていることくらい簡単にわかった。防犯カメラ、受付嬢、来訪者記録、秘書、そしてわたし。開いている栓はたぶんフリアが考えているよりも多くて、怪しい人物を抽出してユタカにマーヴェルファミリー構成員との照合を頼めば一発だった。

「そうなんだろうね。そして私までたどり着いたわけだ、おめでとう。まあよく堂々と乗り込んで来たものだ。どうだ、緊張はしてないかね?」

 ゼパイルは無言だった。フリアは笑った。

「リラックスしてくれよ。世間話でもして緊張をほぐしてやるのもいいが、生憎多忙で時間がなくてね」

「無駄話をしに来たんじゃない」

 その言葉はわたしにすら虚勢に聞こえた。フリアの背後に立っているボディーガードはあからさまににやついた。フリアはあえて気づいたふうを見せなかった。

「そうか。じゃあ本題に入ろう。君も察しているだろうが、この業界もなかなか微妙なものでね。並大抵の苦労じゃなかったがそれでもなんとか何年もやってこれた。それを君のような何物とも知れない男にめちゃくちゃにされてはかなわない。それで君の目的をはっきり聞かせてもらいたいんだ。私が気にしているのはそれだけだ」

「言っただろう、取引がしたいんだと」

「その君がしたいという取引とはなんだ?」

「金を貸してほしい」

 フリアはまた上品に微笑んだ。

 

 ユタカは目を点にして、初めて画面から目を離してわたしをうかがうように見つめた。

「ど、どういうこと? 借金を頼むためにここまでしたってこと? はあ?」

「落ち着きなさいよ」

「額が大きいから? それともこれは何かの交渉術?」

「いいから。ほら、見守りましょう。そのうちわかるわ」

 

「いくら必要なのかな?」

「2億。とりあえずそれだけあればいい」

「なるほど。かなりの大金だな。しかし私が出せない額ではない。問題は君が返せる額かどうかということだ」

「返せなさそうか?」

 ゼパイルは両腕を広げて自分を相手に見せた。袖からのぞく銀の時計。趣味のいい高価なスーツ。フリアもそれを認めた。

「悪くないな。自分で選んだのかね?」

「女と。それがどうかしたか?」

「いやなに、君自身のテイストではないと感じたものでね」

 

(たしかにわたしも女だけど)

 わたしが苦笑したからユタカにも女が誰を指すのかわかったらしかった。

「あんた何してんの? 服くらいひとりで選ばせなよ」

 そう言うユタカは変な英字――Flapper――がプリントされただぶついたパーカーとジーンズ姿だった。

(ハエたたき? それともガリバー?)

 ゼパイルだってユタカには何も言われたくないに違いない。

 

「オレが返せる額かどうかは問題じゃない。フリア、あんただってそれはわかっているだろう」

「ふむ、そうだな。――それは?」

 フリアはゼパイルが持ってきたスーツケースに目を留めた。ゼパイルはその意を受けてスーツケースをテーブルに載せ、鍵を開けて開いて見せた。フリアは、ほう、と興味深そうな声を上げた。

 中に入っていたのは花器だった。ダウムの『竜胆文花器』。高さはちょうど30センチメートルで、被せガラスの技法が使われている。乳白色の背景にすっと伸びた笹に似た葉と紫色のうつむいた花がエッチングで描かれている。ダウムのサインもちゃんと側面に入っている。市場価格は150万ジェニー前後といったところだ。

「利子として受け取ってくれて構わない」

 ゼパイルはスーツケースをそっとフリアのほうに押した。

 フリアは梱包材の中から慎重に花器を取り出してよくよく眺めた。胸ポケットから拡大鏡を取り出して細かいところまで。

「なるほど」

 うなずいて、フリアは文花器をテーブルにおいた。

「2億ジェニーと言ったかね?」

「ああ」

「悪いが、金を貸すにも無条件でというわけにはいかない」

「わかっている」

 手ごたえをつかんだのか、このころにはゼパイルの声色から不安や恐れといったものが消え、余裕と自信すら感じられるようになっていた。ゼパイルのことだから演技がうまいだけだろうけれど。

「もちろん担保は用意している。すべて美術品でだが、問題あるか?」

「ないとも」

「それらはすべてしかるべき場所に保管している。美術品は繊細だ、わかってもらえるだろうが。そちらから目利きを寄こしてもらえればありがたい」

 フリアはうなずいて受け入れた。

「リグズ」

 リグズは頭を下げ、軽く目を伏せて拝命賜った。

「鑑定家としてリグズを遣わそう。有能な男だ。鑑定と引き渡しがすんだら君の指定の口座に金を振りこもう。これは君の要求の2億ジェニーを保証するものではないが――鑑定結果が出ないことには何とも言えんからね――初回サービスとして多少色をつけるつもりだ。継続的な関係になると期待してもいいんだろう?」

「こちらとしてもそれを願っている」

 ゼパイルは落ち着いて答えた。

 

「え、だからどういうこと?」

 話がついてひとまずほっとしていたわたしは、ユタカの得心のいっていない呟きに一瞬耳を疑った。

「は?」

「いや、オレよく呑み込めてないんだけど……。結局フリアから金を借りることになったってことでいいんだよな?」

(冗談でしょ?)

 わたしは目をぱちくりした。

「えっと、まあそういう体ではあるわね」

「実体は違うってこと?」

「もちろんよ」

 お互いに眉を寄せて首をひねった。そしてわたしはほんとうにわかっていないらしいユタカにどこから説明したものかと頭を悩ませた。

 やっぱりはじめから丁寧にやるしかないだろう。

「ヨークシンドリームオークションって知ってるわよね?」

「ああ、9月にやってるやつ。行ったことないけど」

「その通り。疑いなく世界最大の大規模なオークションフェスティバルよ。日程は10日間で、公式のオークションだけで数十兆ものお金が動くと言われているわ。まあ業者市とか値札競売市とか実行委員会と州に届が出されているものはとにかくすべて含まれてるみたいだからね、正確に把握することはできないし、わたしは景気よく数字を盛ってると思うけど」

「大金が動くことは間違いないわけだ」

「そう。そして期間中は多数の闇オークションも催されるわ」

 ユタカは不穏な単語に少したじろいだ。

「こんなに大規模に人やお金や美術品が動く機会をマフィアが見逃すはずはない、そうでしょう?」

 ジャポン人のユタカの感覚じゃ理解できないかもしれないけれど、ここは世界最大の犯罪都市ヨークシンなのだ。

「マフィアは各種の闇オークションを取り仕切ってるわ。バックについてるだけのものもあれば、どこかのマフィアが単独でオークションを開催することもある。マーヴェルファミリーのオークションはなかなか質が高いって聞くわね。でも一番規模が大きくて有名なのはマフィアンコミュニティーが主催するオークションなの。

 これが変わっててね、身内向けのオークションなのよ。客はコミュニティーに参加しているファミリーの幹部やボスでね、そんなやつらが価値なんてちゃんとわかるはずないし、自分たちのファミリーの経済力を示すために競り落とすなんて美術品がかわいそうすぎるんだけど、大物ばかりが集まるのよ。できるならわたしも参加したいわ。芸術に理解のない人の手に渡って倉庫で死蔵されるなんて、美術品に対する冒涜だもの。それくらいならわたしが手元で可愛がってあげたい――」

「あのさ、さえぎって悪いんだけど、話それてない?」

「――ちょっとくらいいいじゃない。細かいわね。じゃあ、えーと、こういうところで競られる美術品ってどこから来ると思う?」

 ユタカは嫌そうな顔をした。

「あー、わかってきた。つまりやつらの普段の活動からだろ? 窃盗団から買ったり、上納されたものだったり、貸金業で担保として得たものだったり」

 わたしはにっこり笑って合格点を出した。

「そういうこと。フリアはマーヴェルファミリーの貸金業を統括する幹部なのよ。彼は己の職権の範囲内でこのビジネスをやってるの。だから貸し借りの形をとってるだけで、実体は売買だわ。借りるほうも貸すほうも、お金は返らず担保は流れること前提で取引するのよ」

「まじかよ……なんであんたがそんなこと知ってんだよ」

「美術販売業界の応用知識よ」

 こういう予備知識を知らなくても彼らの話の流れから察してほしいところではあった。

 わたしはパソコンの画面に目を戻した。ゼパイルがタクシーに乗り込むところだった。説明に気を取られていて具体的な話をろくに聞いていなかった。あとから録画を見返さなくちゃならない。でもとりあえず取引はうまくいったようだった。こういうことを盗品が全部さばけるまであと何カ所かで繰り返せばいい。美術品を右から左へ転がすだけの簡単なお仕事だ。簡単ではあるけれど、誰にでもできるわけじゃない。素人がやったって百戦錬磨の専門家のカモにされるだけだ。

(そうよ、なめられたら終わりなのよ)

 美術品を現金に換える方法はほかにもいくつかある。マフィアへの転売が失敗すれば、それを勉強料と思ってゼパイルの冥福を祈りつつ別のやり方を試してみるつもりだった。でもゼパイルはなんとかうまくやってくれた。そのことにほっとした。

「それで、担保にする2億分もの美術品の当てはあるのかよ?」

「ええ、まあ」

「それ、どこから持ってくるんだよ?」

 わたしは意味ありげに微笑んだ。

「そのうち教えてあげるわ」

「ちょ、なんだよそれ!」

(でもどうせ――)

「あなたなら教えられなくてもわかると思うけど」

「わかんないよ!」

「わかるわよ」

 事実、しばらく後に、わたしの言った通りになった。

 




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