ツンと鼻をつく血の匂いが、幾度目かの吐き気を催した。
ここは地獄。 現世では血の池地獄と呼ばれる、グツグツと煮立った血の池で、青年は一人ぷかーっと浮かびながら宙を睨んでいた。
当初…最初の100年ほどであっただろうか…ぐらいに感じていた、全身を包み込む激痛には慣れてしまって、余裕のできた今は、煮立った血の匂いに耐えていた。
それももう30年ほどになるだろうか。
彼はこの地獄の中では新参者の方で、閻魔に下された判決の刑期はまだ十分の一程度しか経っていないだろう。
彼 は生前殺人鬼であった。
誰彼構わず殺し、奪い、そうやって日々の食をつないできた。
狙うのは大抵女、子供。 人質にとって身代金をふんだくったこともある。
彼 の死因は、勿論断罪である。
死刑台に登らされ、絞首刑。
それが、彼の悪徳非道に満ちた障害の全てであった。
そして、今日も苦痛に耐えながら中を睨む。
彼はもう、自分が犯した罪のことしか頭になかった。
何故…こんな事になったのだろう。
悪いことをしたら地獄に堕ちる…
当たり前の事。
だが、彼は生きる為にソレを行ったのだ。
幼少期から孤児であった彼には、ソレしか選択の余地はなかったのだ。
街は綺麗に清掃され、ゴミはキチンと回収されていく。
もしゴミを漁っているのがバレれば、それで終わり。
警察に連れて行かれて、こっ酷く痛めつけられて、服以外のあるもの(元々無い同然ではあったが)をふんだくれ、冷たい街の地面に弾き出されるのだ。
待っているのは、飢えによる死だけ。
そんな状況下で、幼い子供が生きていく方法など、高が知れている。
隙を見て、街をいく小さな子供をさらう。
そんな生活だった。
極楽浄土にいる釈迦は、ふと地獄の様子の見える池を見た。
彼…いや、彼女 でも厳密にはあっているのだが、今は彼にしておこう。
彼、は、ここがあまり好きではなかった。
元々、彼は人間が好きではなかった。
ある世界では互いに殺し合い、ある世界では膨張して自分たちの世界を壊し、
またある世界では、一人の欲望に振り回され、そのまま消えていった世界もあった。
人間は絶えず争い、絶えず欲し、絶えず数を増やす。
なまじ知性を持っているから、さらにタチが悪い。
そんな人間達の 穢れ と、罪人達が渦巻いているのが、眼下に広がるこの血の池地獄だ。
そう、この地獄を創り出したのは、自分達ではない、沢山の人間の思念が創り上げたのだ。そして、閻魔もまた。
元々ここには、釈迦のいる極楽浄土しかなかったのだから、自分たちの世界だけではなく、ここにまで手を伸ばしてくる人間を好ましく思わないのは当然であろう。
気まぐれに、釈迦は手鏡を覗いた。
此れには、かざした人間の人生が見えるのだ。
見たのは、偶然にも目があった(向こうには見えていない) 若い男であった。
見た途端に、釈迦は苦笑いをして見せた。
成る程、人間が考えそうなことだ。
この罪人は、生きる為にヒトを"喰っていた"だけではないか。
何故、それが罪になる? 釈迦にはそれがわからなかった。
普通に善行を重ねてきた人間とて、普通に豚や、牛、鶏、大勢の命を積んで生きているのだ。
ややぁ、釈迦は合点がいって踏ん反り返る。
そうか、人間は、自分達の命と他の生物の命に"優劣"をつけて生きているのだな。
では、対してこの罪人はどうだろうか…
雪の降る街の中、少年は拾ってきた薄い布に包まって、裏路地にて震えていた。
今日は一段と寒かった。
「…寒い。」
こんなことには慣れているはずなのに、あいもかわらず口に出してしまう。
そんな事をしても、自分が惨めになるだけであるのに。
すると、カサカサと少年の腰付近から何かが入ってきた。
ソレ、は少年の襟から頭をヒョコッと出した。
「…ゲ」
蜘蛛だった。しかも猛毒を持った。
だが、目があっただけで、その蜘蛛はまたカサカサと少年の服の中に戻って行ってしまった。
どうも、暖を取りに来ただけの様である。
こんな生活をしていると、少年はいつの間にか、他の生き物の気持ちがなんとなくわかるようになっていた。
彼等はたまに、少年に生きるための知識を教えてくれる。
この街の野良、害虫達が少年の親だった。
「…そうだね。僕も、少し寝よ…」
少年は、蜘蛛を殺さずに、静かに目を閉じた。
フゥム。
釈迦は顎のひげをさすった。
白く長いひげがピョンと弾かれると、釈迦の指からは、一本の蜘蛛の糸が垂れて行った。
それは、地獄を写す、その池に吸い込まれていく。
白い蜘蛛の糸は、真っ直ぐに青年の元へと降りていった。
青年は突然現れた蜘蛛の糸を登っていた。
上はまだ遠く、見てもまだ地獄の赤黒い天蓋しか無い。
だが、話に聞いた極楽浄土に行けるかもしれない。
そんな微かな希望が、青年の身体を百数年ぶりに動かしていた。
血が滑って気持ち悪い。
だが、それもすぐに終わった。
糸に異変を感じた。
下を見ると、他の罪人たちも登ってきているではないか。
まぁ、当たり前か、彼等がこれに気付くまでが勝負だったのだが、生憎とこの糸は一人用なのだ。
2人以上が握れば、すぐに切れてしまうだろう。
こうなった時、彼は心に決めていた。
そして、彼は覚悟し、大きく息を吸って…
その手を、離した。
釈迦は目を見張った。
青年は突然落ちた。
力尽きたのではない、自ら落ちていったのだ。
なんだ、
なんだあの人間は。
確かに、自己犠牲をする類の人間は、極楽浄土にごまんと居る。
だが、誰も彼も、あの地獄での苦しみを知らないからわからないかもしれないが、自ら行こうとは思わない…言い換えれば、どんな善人でも、自己犠牲によって自ら堕ちようなどとはできないのだ。
一度知って仕舞えば尚更、しかも相手は見ず知らずの、罪人ではないか。
面白い。
釈迦はそう思った。
今すぐにでもここにまで引っ張り上げ、話をしたいところだがそうはいかない。
閻魔が蜘蛛の糸に気づきさっさと切ってしまった。
恐らく、もう同じ手は通用しないだろう。
だが、直接極楽浄土に引っ張り上げれずともまだ手はある…
釈迦は、その青年とどうしても話がしたかったのだ。
気がつくと、青年は血の池にはいなかった。
アレ…?
不思議に思うとそこは、一面の花畑であった。
目の前には白く長いひげを生やした老人…釈迦がたっていた。
「時間がないのでの…簡潔に言うわい。
お主には、輪廻転生をしてもらう」
「…はぁ…」
青年は首をかしげた。
輪廻転生とはなんだろう? という、純粋な疑問であった。
青年の不思議そうな表情に気づいた釈迦は、慌てて付け加えた。
そうであった、青年はロクな教養を受けていないのであった。
「生き返るってことじゃよ…お主は生き返って、善行…"いいこと"をして、誰かの役にたって、誰かに感謝されるような生き方をしなさい。」
「…?…」
「ええい時間がない。 さすれば、儂が閻魔に掛け合って、お主を極楽浄土に連れてやる。いいか、忘れるなよ。」
すると釈迦は、右の人差し指で、青年の額を突いた。
そうして、彼の人生は幕を開けた。
彼の人生もまた、苦難に満ちた道のりではあったが、釈迦はその様子を見るのも楽しみで仕方がなかった。
続…かない。多分。勉強の息抜き程度で書いたものです。気が向いたら更新します。
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