ラブライブ! ―夢を追って― (北屋)
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第一話 職なし金なし根無し草

空を見上げる。

墨を流したような真っ暗な夜空には数え切れない星が輝いていた。寄せては引く波が立てる規則的な音に混じって聞こえるのは、船の汽笛だろうか。

生まれ育った街では決して知ることの出来なかった光景ではあるがそれを見る彼の目にはさしたる感慨も浮かんでいなかった。

春とは言え、夜の潮風の吹く海岸線はまだ冷たい。ぶるりと体を震わせて彼は懐から取り出したタバコに火を付ける。

 

 

「あー……」

 

 

ため息ともうめき声ともつかない気の抜けた声を出して堤防の上に横になる。

肺を一度満たした煙を吐き出してぼんやりと夜空を見上げる彼の心中を占めているのは凄まじいまでの後悔であった。

何とかなるだろう、そう考えて来てみた旅先だったが見通しが甘すぎた。瞬く間になくなってしまった金を少しでも取り返そうとなけなしの1万円をパチンコに突っ込んでしまったのは今でも悔やまれる。しかも結果は泣けてくる程の惨敗だったのだから尚更だ。

 

 

「どこで間違えちまったんだかね……」

 

 

誰も周りにいないのをいいことにそんな問いかけを口に出してみる。勿論答えてくれるものはいなかった。

何となくの興味で客船に乗り込んだ時か、それとも家賃滞納でアパートを追い出された時か。

それとも夢を追いかけて家を飛び出したあの時だろうか。

思い返せば若い頃のイタい言動ばかりが呼び起こされて頭が痛くなってくる。

『大きな男になるんだ!』そう宣言して家を飛び出して早数年。当初は持ち合わせていた情熱も希望も今となってはどこにもなく、無駄に年を重ねただけの日々だった。

歳だけとってそこに居たのは、住所不定無職、恋人いない歴=年齢の冴えない大人。

財布の中は空っぽで明日の飯にも困る有様、手元にあるのは辛うじて残った帰りの分の船のチケットと、ボロくなったバイク。それに今自分の隣の置かれた夢の残骸だけだった。

どうしてこんなことになったのか。

再びそう考えたら自然と自嘲の笑みが浮かんできた。

吸い終わったタバコを海に投げ捨てて、暗い水を覗き込む。夜の闇を移した水面は不規則に蠢いていた。

いっそ、ここから身を投げてしまおうか。そうすればこんなしみったれた人生ともおさらば出来る。

そこまで考えて堤防から半歩進んだとき、脚が夢の残骸にぶつかった。弦の揺れる音が聞こえて正気に戻る。

硬く、黒い、柩にも似たケースに収められた中身。

しばらくそれを見つめていたら、またしても自嘲の笑みが浮かんできた。

夢の残骸――そう呼んでしばらく開けてすらいないそれをずっと持ち歩き続けていることの滑稽さ。2年間、死ぬ気でアルバイトを続けてようやく手に入れたそれは、多少傷ついてはいるが売り払えばそれなりにまとまった金になるはずだ。

だが、そんなことを考えるよりも先に命を投げ出そうとする自分に心底嫌気がさす。最早終わってしまった夢にまだ未練があるというのだろうか。

今度は声に出して笑う。

涙が出るほど笑ったら、次にやるべき事が決まった。

明日の船で本土に帰ったら、こいつを売っ払おう。そうすれば当座生きていくだけの金にはなるはずだ。

夢や希望を売り払っても、生きてさえいればどうにかなる。人生に必要なのは妥協だ。

 

 

「あばよ、短い間だったがそれなりに楽しかったぜ。」

 

 

――次はもっと才能のある奴に買われるんだな。

 

ケースの中身にそう声をかけて煙草をもう一本取り出してくわえる。

安タバコの辛く、それでいてどこか安心する味が口になかに広がった。

 

 

「っ!?」

 

 

そんな風に格好つけていた時、不意に携帯が鳴り出した。

ここしばらく聞いていないメロディを不審に思いながらも画面を覗いてみる。そこに記されたのは案の定『実家』の文字だった。

 

 

「…………はい、もしもし。」

 

 

数秒の間とはいえ、さんざん悩みぬいた末、画面上の通話のパネルにタッチ、恐る恐る電話を取る。

 

 

『あぁ、何だ生きてたのかい。』

 

「……いきなりご挨拶だな。」

 

 

電話越しとは言え久しぶりに聞く母親の声。

家を出て以来、久しぶりに聞く散々な悪態にどこか安心感を感じてしまうのは気のせいではなさそうだった。

 

 

『てっきりもう野垂れ死んでるかと思ったよ。』

 

「息子相手に何てこと言いやがる。用がないなら切るぞ。」

 

 

確かに自分は人様に誇れた息子ではないし、半ば勘当同然の形で飛び出した不孝者ではあるが、イタ電に付き合う趣味は無い。例え相手が実の親であったも、だ。

 

 

『あんた、今どこにいる?』

 

「俺の話は無視か?……まぁいいや。今は……伊豆の方だな。」

 

 

人の話をあまり聞かず、自分の話だけを押し付けてくる話し方。昔と変わらないそれに苦笑しか浮かばない。

 

 

『静岡かい?』

 

「いや、諸島の方。……一体何だよ?」

 

 

2年間何の音沙汰もなかったくせに、急に連絡をとってきた事が不思議でならない。

何か裏があるような気がして慎重になってしまう。

まさかとは思うが、今更になって戻ってこいなどというつもりだろうか?

 

 

『それなら明日の夜には帰れるね。一度実家に帰ってきな。』

 

「…………は?」

 

 

そのまさかだった。

あまりに予想外の出来事に、空いた口がふさがらない。

 

 

『じゃ、また。』

 

「いや!ちょっ!?待て待て待て!急に何だよ?ってか、俺は戻らねぇぞ!?」

 

『あー、聞こえない。じゃあね。』

 

 

意見には耳も貸さずに、彼の母親は一方的に電話を切った。

無機質な音だけが残る携帯を耳にあてたまま彼はその場に固まり続けていた。予想だにしなかった事態に思考能力が追いついていないのだった。

 

 

「……戻らねぇぞ」

 

 

繋がっていない携帯電話を持ったままぼそりと呟く。

 

 

「俺はぜってぇ戻らねぇからな!」

 

 

彼の叫び声は波の音にかき消され、夜の中に飲まれて消えた。

 




こんばんは、はじめまして。北屋と申します。
こういった文章を書くのはほとんど初めての試みとなりますので、何分お見苦しいところをお見せしますが、何卒よろしくお願いします。

さぁ、主人公登場となるわけですが、今回名前すら明かされてない……orz


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第二話 新生活と出会いの季節

人生に必要なのは妥協と諦め。

今の状況に落ちぶれてから、彼が常々考えてきたことである。

夢を追いかけて、何もかも投げ出して。何度折れそうになっても耐えて立ち上がって、その先にあったのは越えられない才能の壁だった。

夢に裏切られた末路――いや、それとも彼が夢を裏切っただけかもしれない。それはどちらでも同じことであった。才能の限界にぶち当たり、何もかも失った彼を待っていたのは

その日暮らしの流れ者というどうにもならない現実だけであった。

 

 

「……ふぅ」

 

 

ヘルメットを脱いで短く溜息をつく。

愛用の単車を降りてまずは一服。煙草の数ももう残りわずかとなっていた。

 

 

「結局戻ってきちまった……」

 

 

渋い顔をしながら一人ごちる。

絶対に帰らないと、昨晩そう宣言したばかりであったのに、今彼がいるのは実家の目の前であった。

ここまで走って来る間に目に映った景色。秋葉原の町並みは彼が旅立った時に比べ大分様変わりしているように思えた。だが、その一方で変わらないところは彼が小さかった頃から何も変わってはいなかった。

薄暗くなった夜空に目を向けてみる。モヤのかかった空に星は見えない。それもまた彼が生まれ育った街の景色であった。

吸い終わった煙草を足元に捨てて踏みにじり、覚悟を決めたかのような面持ちで彼は実家の一階部分、店舗スペースに脚を向けた。

今の時間ならこちらにいるはずだ。

 

 

「……うっす。」

 

 

ベーカリー&カフェTSUDA。

そう書かれた木製のドアを開けると、小気味良いドアベルの音が彼を出迎えた。

明るく品の良い証明に照らされた室内に広がる香ばしいパンの懐かしいにおいに思わず目を細める。時間が時間だけに品物の数は少ないものの、陳列された商品はどれもこれも美味しそうだった。

彼は昨日の朝から何も食べていないことに気づいて生唾を飲み込む。

今では喫茶店のようなことも兼業しているが、祖父の代から続く街のパン屋さん――それが彼の実家だった。

 

 

「いらっしゃ……って何だ、あんたか。放蕩息子がようやく帰ってきたようだね。」

 

 

店の奥から顔を出したのは初老の女性――紛うことなき、彼の母親だった。

 

 

「久しぶりだな。」

 

 

少し硬い笑顔でそう告げる。

ほとんど何も言わずに勝手に家を飛び出したことに対して、後悔はあまりしていないが、多少なりとも気まずさは感じているのだった。

しかし対する彼女はそんな彼の様子を鼻で笑うと、

 

 

「大分老け込んだねぇ……あんたももう三十路だっけか。」

 

「ふざけんな!息子の歳くらい把握しとけ!」

 

 

思わず彼も声を荒げてしまう。

確かに出奔時に比べて成長はしたし、過酷な生活で外見が老け込んだ自覚もある。だが、三十路呼ばわりされるほどではない……と思う。

第一彼はまだ20代前半である。

 

 

「まぁそんな些細なことは置いといて」

 

「俺にとっては些細じゃないけどな。」

 

「さ、そんなところでボケっとしてないでお上がりな。どうせ長旅で疲れてるんだろ?ゆっくりと――」

 

「あぁ。じゃ……」

 

 

実際、船に揺られる事5時間、バイクを飛ばすこと1時間、その上ほとんど飲まず食わずで来て、疲れているのは確かだった。

母親の言葉に甘えて、一先ず荷物を降ろし……

 

 

「休む前に仕込み手伝いな。」

 

 

その場でこけた。

 

 

「いや、実際疲れてるから少しくらい休ませてくれよ。」

 

「休むのはいつでも出来るけど、仕込みは今しか出来ないよ。何のためにあんたを呼び戻したと思ってるんだい。」

 

 

何か反論をしたかったが、こうなるのを知っていて戻ってきた手前何も言えない。

昔からこの母には勝てた試しがない。

溜息をついて着替えのためにロッカールームに向かう彼の背中に、ふと思い出したように母が声をかけた。

 

 

「お帰り。京助。」

 

「あぁ。ただいま……でいいのかな?」

 

 

彼――津田 京助は照れくさそうに笑うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……で、だ。」

 

 

翌日、時刻は昼前。

京助は母に連れられて外に出ていた。母が仕事の一環として店の経営だけでなく卸売のようなこともしていることは彼も勿論知っていた。そしてその仕事に付き合わされることも勿論構わない。

構わないのだが……

 

 

「これはどういうことだよ。」

 

 

呆然と見上げる彼の視界一杯に広がるのは、学校の校舎である。

しかもそこはただの学校ではない。彼の記憶が確かならば――

 

 

「ここ……音ノ木坂って女子高じゃねぇか?」

 

 

古くから続く、伝統ある女子高校……そんな記憶が頭の片隅に残っていた。

 

 

「そ。ここの購買でも販売をやってる……って昔話さなかったかい?」

 

「いや、初耳だ。ってか良いのか?俺みたいなのが入って。」

 

 

彼が不安を感じるのも無理はない。

女子高という響きだけで男としては気後れするのに、挙句彼はほんの1日前まで浮浪者同然の事をしていた身の上である。

 

 

「仕事なんだから構うことはないだろう。………くれぐれも生徒に手を出すんじゃないよ?」

 

「小娘に手を出す趣味はねぇし、犯罪に手を染めるつもりもねぇよ!……ってか、それ親が真顔で聞くセリフか?」

 

「まぁあんたに限ってそんな心配はないか。どうせまだ童貞なんだろ?女性恐怖症の気はまだ治らないのかい?」

 

「うるせぇ黙れ!それより実の母親にそれ言われる息子の気持ちを察しろよ!?少しはデリカシーってものを持ちやがれ!」

 

 

くだらない言い合いをしながらもワゴンに積んであったコンテナを片っ端から降ろし、校内の販売スペースに運び、机の上に並べていく。

5分と経たないうちに机は大量のパンに埋め尽くされていた。

 

 

「いいかい京助。よく聞きな。昼の購買は戦場だよ。」

 

「あ?あぁ、まぁ良く聞く話だな。」

 

 

真面目な顔で言う母親を見て、彼は何の気なしにそう答えた。

あいにく京助はまともに高校に通っていなかったため、その辺の知識はドラマや小説でしか見たことがない。

故にこれから起こる戦いに対して危機感を感じていないのだった。

 

 

「分かってないねぇ。いくらここが女の子しかいないからって甘く見たら、あんた……死ぬよ?」

 

「は?」

 

 

京助が怪訝な顔をするのと時を同じくして校舎内にチャイムの音が鳴り響いた。

音が鳴り終わるかならないか、そのタイミングで多くの人間の話し声やドアの開く音が、まるで爆発でもしたかのように今の今まで静かだった校舎に響き出す。

その中で、大勢の足音と話し声が物凄い速度でこちらへ向かってくるのを京助は感じ取った。

 

 

「さぁ、来るよ!」

 

「い、いらっしゃいま……!」

 

 

後に京助は語る。

それはさながら古の合戦場のような光景であったと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「う~……」

 

 

4限が終わった教室にて、机に突っ伏してうめき声を上げる女子生徒の姿があった。

 

 

「穂乃果ちゃん……授業終わっちゃったよ?」

 

 

なおも机に伏したまま動こうとしない少女のとなりに立ち、声をかける少女が一人。灰色がかった髪が印象的なおっとりとした雰囲気の少女であった。

 

 

「うーん……廃校……」

 

「まだ言ってるんですか。さっきも言いましたが、それはまだ先の話です。」

 

 

呆れたように別の方向方声をかけたのは深い蒼みがかった長い髪の少女だった。

 

 

「はっ!」

 

 

急に今までうつむいていた少女ががばっと顔を上げた。

キョトンとした様子で周囲を確認し、

 

 

「いつの間に授業終わってたの!?」

 

 

どうやら英語の授業を受けるうちに寝入ってしまっていたらしい。

そんな彼女を見て、またかと言った風に友人である少女二名はそれぞれ肩をすくめる。

 

 

「全く。たるみすぎです。」

 

「あはは……でも最近暖かくなってきたからお昼寝しちゃう気持ちもわかるかも。」

 

 

そんな友人たちを見て、えへへと苦笑すると穂乃果と呼ばれた少女は大きく伸びをする。

 

 

「んー……!じゃ、ことりちゃん、海未ちゃん。お昼にしようか。穂乃果、ちょっと購買行ってくるね。」

 

 

そう言って席を立とうとしたとき、彼女は教室がいつもと少し様子が違うことに気がついた。

 

 

「何か、いつもよりざわついてない?何かあったの?」

 

「え……?言われてみればそんな気もするけど……」

 

 

見渡してそんな感想を抱いた彼女たちは、今まさに教室に談笑しながら戻ってきた友人達に声をかける。

 

 

「あ、ヒデコ、ミカ!何かあったの?」

 

「あぁ、穂乃果。今その事を話してたんだ。」

 

「そうそう。今日、購買がちょっと変わったんだ。新商品がいくつも出てるんだよ!」

 

 

そう言って彼女は新商品と思われるパンの袋を穂乃果達の方に見せた。

 

 

「新商品……ですか?それにしては妙に……」

 

「行こう!」

 

 

首をかしげる友人はそのままに、穂乃果は席を立ち一気に購買部の方へ走り出していた。

慌ててことりと海未もその背中を追って駆け出す。

 

 

「穂乃果ちゃん!」

 

「ちょっと穂乃果!」

 

 

残された級友達はいつもどおりの彼女たちの様子を笑いながら、

 

 

「あの三人はいつもどおりだね。」

 

「うん。もう、穂乃果は話を最後まで聞かないんだから。」

 

 

何も購買が話題になったのは新商品が入荷されたからだけではない。

それに伴って新たに販売員として働き始めた人間の方に目下生徒たちの注目が集まっているのだった。

 

 

「あの人、結構格好良かったよね?いくつくらいなんだろう?」

 

「えぇ!?あんた、趣味悪くない?どう見てもあれ、いい年したおっさんでしょ?」

 

 

当の本人はその頃くしゃみをこらえながら接客に勤しんでいたという。

 




どうもこんばんは。北屋です。
主人公の名前とあらすじで言っていた実家の稼業が出てきました。
ともかくようやくおっさんも音ノ木坂に潜り込むことが出来ました。次回には一部のメンバーと接点が持てるはず!

……主人公の実年齢はまだ秘密ですw


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第三話 開幕の出会いはひっそりと

――何故だ。

 

心の底からそう思いながらも顔には出さず、努めて笑顔のまま仕事をこなしていく。

どうしてこんな事になってしまったのか。今までの行いを振り返ってみるが、どう考えてもこの失敗は、言われるがままにのこのこ帰ってきてしまった昨夜の自分にある。

 

 

「いらっしゃいませ!――はいこちら2点で170円です。……ごめんなさい、メロンパンはもう終わっちゃったんですよ~」

 

 

屈託のない笑顔。それを意識しながら、次から次に来る学生たち相手に明るく朗らかな接客をしていくが、その一方彼はともすれば流れそうな冷や汗を隠すのに必死だった。

世間一般の男性から見れば、女子高生に囲まれてのこの仕事は羨ましいことこの上ないのかもしれないが、あいにく京助にとっては割と苦痛であった。

女性恐怖症――などという大げさなものではないが、以前ひどい目にあって以来、女性を前にすると当時のトラウマを思い出して身がすくむ。要するに女性が若干苦手なのだった。

緊張と恐怖から胃に痛みを感じながらもどうにかこうにか商品をさばいていくうちに生徒たちの数もまばらになり始め、仕事に終わりが見えてくる。

 

 

「……こんなところか。」

 

 

人がいなくなったと同時に京助は大きく溜息をついて首を回した。慣れない仕事に体力的にも精神的にも疲労がたまっていた。

 

 

「いつもこんな感じなのか?」

 

「いいや?今日は妙に人が多かった気がするね。多分、普段見かけないのがいるから興味本位で来た子もいるんだろうよ。」

 

「見に、ね。俺は珍獣か何かかよ。」

 

 

呟いて、売れ残りのパンを一つのトレーにまとめていく。今日の営業はこの辺で終わりといったところだ。

 

 

「しかしあんた疲れてるねぇ。ここから先一人でやっていけんのか……」

 

「は?」

 

 

聞き捨てならない一言を聞いたような気がして思わず聞き返す。

だが、彼がその答えを聞き出そうとしたその時、こちらに向かってかけてくる数人の人影を視界の端に捉えていた。

 

 

「あー!もしかしてもう終わっちゃった!?」

 

 

一番最初に駆けてきた少女は京助の手元、片付けられた机を見て落胆の声を上げた。

 

 

「いらっしゃいませ。えっと……」

 

「あぁ、穂乃果ちゃん。まだやってるから大丈夫だよ。」

 

 

対応しようとした京助を遮るように母が笑いながら声をかける。

どうやら顔見知りの子らしい。一度は片付けたパンを取り出して机の上に並べていく。

 

 

「大分売り切れちゃったけど、ジャムパンにクリームパン、カレーパンは残ってるよ。後は……」

 

「何これ?」

 

 

穂乃果、と呼ばれた少女が指差す先にあったのは深い緑色をしたよく分からないパンだった。一見して抹茶のように見えるが、どうも違うらしい。

 

 

「あぁ、それは新商品の明日葉クリームパン。いまいち売上が芳しくないんだけどね。」

 

 

そう言って苦笑すると、彼女は横目で京助を見た。

この新商品は京助の作品だった。

 

 

「へ~……じゃ、試しに一つ買ってみようかな!」

 

「いつもありがとう。80円ね。」

 

 

穂乃果の出した100円を受け取って20円を返す。

と、不意に彼女の目線が京助を捉えた。

 

 

「あれ?この人は?」

 

 

目が合う。

なんて真っ直ぐな目をしてるんだ――京助はそう感じた。

きっと明るくて快活な子なんだろうと勝手な想像をしてしまう。

なんとなく自分にはもうない若さを見せつけられた気がして思わず怯んでしまった。初見の人間に出会った際にその人と為りを予測してしまうのは、今までの生活で身に付いた悪い癖だ。

 

 

「?」

 

「こら。何ほうけてるんだい京助!こいつはあたしの不肖の息子でね。今度から購買と店の方の手伝いをしてもらうことになったんだ。」

 

 

思い切り背中を叩かれた。

よろける体を立て直して慌てて名乗る。

 

 

「はい。まぁ……パン屋の津田です。」

 

「はい!高坂 穂乃果です。よろしくお願いします!」

 

 

穂乃果がぺこりと頭を下げる。

彼女の元気な様子につられるようにして、京助も思わず頭を下げていた。

そんな折、ふとこちらに向けられた視線に気がついて視線だけを動かすと、少し離れた所でこちらを伺う二人の姿があることに気がついた。

真面目そうな少女と、おっとりとした少女。穂乃果の友人と思わしき二人はそれぞれ不審気に、不安の混じった目でこちらを見ている。

商売中に何度となく向けられてきたその目に彼は心の中で小さくため息をついた。

 

――まぁ、そりゃそうだわな。

 

購買とはいえ、見慣れない男が現れれば好奇の目にさらされるのは当然の流れだ。

ましてや、ある程度は身だしなみを整えてはいるものの、根無し草の生活で染み付いたロクデナシ臭が自分でも分かるほどに漂う身。エプロンと購買の腕章がなければ不審者扱いされても文句は言えないだろう。

友人がそんな奴と話しているのだから二人がこちらにそんな目を向けるのも得心がいく。

 

 

「いらっしゃいませ。」

 

 

一先ず二人に向けて精一杯の営業スマイルを向けて挨拶をすると、向こうも一瞬驚いたような様子を見せて軽く会釈した。

 

 

「あ、ごめん海未ちゃん、ことりちゃん!……ありがとうございました!」

 

「はい、毎度ありがとうねー。」

 

 

穂乃果はそう言うと友人たちの方へ駆けていき、三人はそのまま教室の方へと歩き去っていった。

 

 

「……あの子は?」

 

 

お客が去ったのを確認して尋ねてみる。

 

 

「あぁ、購買の常連さんだよ。ほら、あんたも『穂むら』さんは知ってるだろ?あそこの娘さん。それにその友達の園田さんと南さん。」

 

「へぇ……」

 

 

『穂むら』といえばこの辺でも結構な老舗の和菓子屋で、その名前くらいは京助も知っていた。

園田、南という名前もどこかで聞いた覚えがある。どちらもこの辺では名のある家だった気がする。

 

 

「さて。こんどこそ店じまいだ。さっさと支度しな。この後行かなきゃならないところがあるんだから。」

 

「おう。……行かなきゃいけないところ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母親と共に校舎の中を進む。時折すれ違う生徒から視線を向けられるが最早慣れたものであまり気にはならなくなっていた。

少し歩いた先でたどり着いたのは『理事長室』と書かれた扉の前だった。

 

 

「新しい販売員なわけだし、一応ご挨拶しとかないとね。無礼のないようにしゃんと……しても見栄えはしないけど、上手くすれば四十路くらいには若く見られるかもしれないし一応ね。」

 

「ふざけんな、そこまで歳くってねぇよ。」

 

 

何度も言うようであるが京助はまだ二十代である。あるのだが、いかんせん覇気がなく若さも足りないため実年齢からかけ離れて老け込んで見えるのも事実であった。

当人もそれを知ってはいるからあまり強くは言えず、仕方なくワイシャツの襟元をただしてなるべくまともな格好を心がける。

 

 

「失礼しました。」

 

 

ノックしようとした扉が開き、中から人が出てくる。どうやら先客がいたらしい。

 

 

「こんにちは。」

 

 

親が挨拶するのと同じく京助もその人物に頭を下げた。

欧州の血が混じっているのか、蒲公英のような明るい髪色をした少女は京助を見てぎょっとしたような顔をしたが、彼の腕に巻かれた購買の腕章を見てさらに驚いたように水色の瞳を見開いた。

 

 

「こんにちは。」

 

 

だが、すぐに彼女は表情をひきしめて丁寧に頭を下げ、そのままどこかへ歩き去っていった。

 

――こりゃまた難儀な

 

ほんの一瞬顔を見ただけであったが、なんとはなしに彼女の纏う雰囲気から、その心情の一端を垣間見てそんな感想を浮かべる。

きっと真面目な子なのだろう。それ故に不器用で気苦労も多そうだ。

正直言って彼からすれば苦手なタイプの人間。もっとも、一介の購買の販売員に過ぎない京助にとって彼女と関わる機会はあろうはずもないため関係のないことではあるのだが。

 

 

「失礼します。」

 

 

気を取り直して理事長室に入室する。

奥の机に座した理事長は思いの外に若々しい女性だった。娘がこの学校に通っているらしく、年齢は京助の母とそう変わらないはずなのだが、そんな風にはとても見えない。

 

 

「こんにちは、理事長先生。」

 

「お久しぶりですね。いつも生徒がお世話になってます。」

 

 

にこやかに挨拶を交わしたかと思うと、京助の母と理事長は親しげに会話を始めてしまった。

やれ最近の天気はどうだ等と言った当たり障りのない内容に弾む会話を聞きながら、京助は反応に困って立ち尽くすしかなかった。

 

 

「それで――そちらの方が」

 

「えぇ、うちの不肖の息子です。これから1年ほど私の代役をまかせるつもりです。」

 

「!?」

 

 

聞いていない。

そんな言葉が口をついて出そうになったが、場所をわきまえて寸での所で飲み込んだ。

代役ということはここの購買での仕事を全て任されるということだろうか?

それに1年という期間のことも全く相談も何もなかった。

理事長は目を白黒させている京助に向き直る。

 

 

「はじめまして。理事長の南です。」

 

「は、はい。はじめまして。津田 京助です。急なことですがよろしくお願いします。」

 

 

一先ず母に話を合わせて出来るだけ丁寧に挨拶を済ませる。

そんな彼の様子を見た理事長は朗らかに笑って、

 

 

「京助さんね。お母様に似て気さくそうな人ですね。」

 

「いやいや、こんなロクデナシが代役になってすみません本当。大分トウの立ったおっさんですが、よろしくお願いします。」

 

 

笑いながらに言う母親に腹が立ったががそれもどうにかこらえて曖昧に微笑んでみせる。状況がよくわからない以上彼にはどうすることも出来なかった。

 

 

「おじさんなんて……聞いていたよりも大分若く見えますね。確か年齢は私の娘とあまり変わらないんでしょう?」

 

「いや、そこまで若くはないですよ?」

 

 

辛うじて正直に言えたのはそれだけだった。




こんばんは、北屋です。
ようやく女の子が書けました!
この後はちゃんと京助とμ'sのからみが増えますので気長に待っていてください!
では、次回も頑張ります!


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第四話 廃校の知らせ

挨拶もそこそこに二人は理事長室を出た。

無言のまま廊下を歩き続け、駐車場に戻り、そして車に乗り込んだところでついに耐え切れなくなった京助が切り出した。

 

 

「おい、聞いてねぇぞ……」

 

「言ってなかったからね。」

 

「―――っ!……いや、待て。どういうことか説明しやがれ!」

 

 

あまりにもさらっと言われてしまい、一瞬言葉を失ったが、事が事だけに追求をやめる訳にはいかなかった。

 

 

「さっき言った通りだよ。購買の仕事はここから先あんたに任せる。」

 

「ふざけんな。こちとら戻ってきたばかりで接客なんざとうの昔に忘れちまってんだぜ?挙句なんでこの俺が女子高の購買のおにーさんなんかやらなきゃならないんだよ!」

 

 

文句を言う京助だったが、母親はそんな事はどこ吹く風で、面倒臭そうに車のエンジンキーを回した。

 

 

「あぁ、ついでに店の方も任せるから。明日から1年私はいないからよろしくね。」

 

「はぁ!?」

 

 

次から次に飛び出す予想の斜め上を行く言葉に、京助は思わず絶句した。

1年お袋が店を明ける?店は?……俺が店を仕切るのか?

意味がわからない。いや、意味ももちろんだがそこに至る過程が全く分からない。

 

 

「お父ちゃんが単身赴任で海外に行ってるのは知ってるだろ?」

 

「あー……そういや姿を見てなかったが……」

 

 

正直大喧嘩の末に家を出たため、気まずすぎて父親のことを一切避けていた。そのため本人の姿がないことにまず安心してしまい、不在の理由まで頭が回らなかった。

 

 

「お父ちゃんも寂しいらしくてねぇ、私も向こうに来るように言われたわけさ。それで海外にいる1年間、うちの店を明けることになっちまったのさ。」

 

「……事情は分かった。だが、いくらなんでも急すぎんだろ。」

 

「だって、あんた。こういうギリギリで逃げ場のない状況にならないとケツまくって逃げ出すだろ?私のいない間に、店潰すんじゃないよ?」

 

「いっそ潰れちまえ。……ったく。何だよ、1年間店を留守にすればいいだけの話だろう?わざわざ俺を呼び戻すまでもねぇだろ。」

 

「それがねぇ……」

 

 

ふと、京助は母親が遠くを見るような、どこか寂しげな目をしていることに気がついた。

 

 

「……んだよ?」

 

「……どうも、音ノ木坂はこの後廃校になるらしいのよ。」

 

 

それが今の話と何の関係があるのか、京助には理解できない。

だが、廃校……その言葉を呟いた彼女の口調が重々しく、深い思いを抱いていることだけは理解できた。

京助も元々はこの地に育ってきたため、音ノ木坂のことは古くからある学校として一応知識として知っている。そして――母がかつて通っていた学校であることも。

 

 

「……はっ。少子化の波ってやつか?まぁよくある話じゃねぇか。」

 

 

重い空気を断つかのように鼻で笑い、京助はタバコをくわえる。

 

 

「私も曲がりなりにもあそこの出身だし……それにうちの店は、昔からあの学校に商売しに行ってたんだ。少し考えるところがあってね……」

 

「……」

 

 

紫煙を吐き出しながら、今度こそ京助は黙り込んでしまった。

傍から見れば彼女が語ったのは断片的で筋の見えない話、しかし京助は母の考えていることが何となく分かってしまう。

きっと、母はこの学校と最後まで関わっていたいのだ。昔から今まで続く商売、しかし廃校が決まってしまっては、それもいつまで続くか分からない。もしかしたら今年を最後に購買の仕事はなくなるかもしれない。それも自分がいない間に。

だからせめて、自分がいなくとも最後の仕事になるその日まで、自分の店で休むことなく購買の仕事を続けていきたいと……そう考えているのだった。

 

 

「ちっ……」

 

 

湿っぽい話を聞いたからだろうか。京助はいつもよりも不味く感じるタバコを吸い切ることなく灰皿に押し込んだ。

両者は黙り込んだまま店につき、いざ車から降りようとしたときになってようやく京助が忌々しげに口を開いた。

 

 

「………仕方ねぇ。やってやるけど潰れても文句はいうんじゃねぇぞ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やってられっかボケェ!」

 

 

思い切り叫んで足元に転がる空き缶を蹴飛ばす。

爽やかな風が吹く、天気の良い春の昼下がり。

しかしそんな中で京助の顔は非常に険しかった。

人気のない体育館裏で一人、子供が見たらまず泣くような凶悪な表情を浮かべて、乱暴な手つきでごそごそとポケットを漁る。

やがて目当ての小箱を見つけた彼は、逆の手で100円ライターをこするが、彼の今の感情を逆なでするかのように火がつかない。一回、二回、三回……ライター相手にブチ切れそうになったところでようやくついた火をタバコに移す。

愛飲する煙を肺いっぱいに満たし、大きく吐き出したところで幾分イライラが収まったのか、彼の凶相が少しだけマシになった。

 

 

「……ったく。何でこの俺が!」

 

 

誰も聞いていない事を知りながら、彼はあえて不満を口にする。

親からほぼ問答無用の形で仕事を受け継いだ翌日、彼は嫌々ながらもそれを顔に出さないように購買の仕事をこなしていた。

溢れかえる生徒達をさばき、笑顔を貼り付け、普段は決して使わない敬語で接客を行う。その行為は予想以上に彼の精神力を大きく削った。

ただでさえ気が短く、自他共に認めるほど口も悪い、およそ接客に向いているとは言えない性分である。それに加えて生徒から向けられる好奇の視線……途中で逃げ出さなかった自分を誇りたい気分だ。

こんな調子で1年もこの仕事を続けられるのか不安で仕方がない。

親には悪いが、いっそ仕事を放り出してまた旅に出てしまおうか……そう考えて彼は微苦笑した。

また逃げてどうなる?

夢を追って走り、敗れて逃げ帰ってきたロクデナシが、これ以上逃げる場所があるというのだろうか。ここから宛のない旅に出たとて、遅かれ早かれその先にあるのは野垂れ死にの未来だけだ。

どうせ無為無策に生きて意味もなく死んでいくだけの人生ならば、わざわざ厳しい道を行く必要はない。多少性格に合わなくても、平穏無事に生きていける方が良いに決まっている。

 

 

「人生に必要なのは妥協と諦め、か。」

 

 

小さくなった煙草を捨てて踏みにじり、新たなタバコに火を点ける。

 

 

「いーけないんだ。」

 

 

誰もいないと思っていた場所で、不意に声をかけられた。

驚いて振り返ると、どこか楽しそうな様子の少女がそこに立っていた。

 

――やべぇ!

 

イラつくあまりに、ここがまだ学校の敷地内であることを完全に忘れていた。購買の男性職員が敷地内で喫煙など、見られたらタダではすまない。一発で間違いなくクビになる。

慌ててとっさに煙草を捨てて足で隠すが、最早手遅れ。

 

――逃げるか!?

 

無理だ。

もうしっかり喫煙の場面も顔もしっかり見られてしまっている。状況は既に詰み、仕事初日にして早くも終わり。

いくらなんでも洒落になっていない。

 

 

「その腕章……購買の人やん。それがこんなところで煙草なんて関心せんよ。」

 

 

意味ありげ笑みを浮かべてこちらに寄ってくる少女を見て、京助の焦りはどんどん増していく。

 

――ならばいっそ、口封じ……!?

 

焦るあまりに物騒な考えに至る。

 

 

「ちょ……別にどうこう言うつもりはないからそんな怖い顔せんで……」

 

 

そんな考えが表情に出たのか、少女が引きつった顔で立ち止まった。

そこで京助も我に返り、知らず知らずの内に握りしめていた拳を開いた。いくらなんでもそれはマズすぎる。

京助が殺気を引っ込めるのを感じて、少女は溜息をついた。

 

 

「ふぅ……怖かった。お兄さん、見かけ以上に物騒なんやね。」

 

「……そんなに怖い見かけしてますか?」

 

 

もはや残された道は一つ、諦めて開き直るのみ。

観念した京助はどうにでもなれとでもいうように問いかける。すると少女は彼に近寄って、その顔を覗き込んだ。

その近さに思わず京助は息を飲み、思考が一瞬停止する。

 

 

「ん~……そうやねぇ。もとは悪くないし、もうちょい自然な風でいたほうが良いんやない?老けて見えるよ。」

 

「うるせぇ!余計なお世話だ!」

 

 

重々承知しているとはいえ、面と向かって言われると流石に答えるものがある。

つい営業用の丁寧語が崩れて地の荒い口調で話してしまった。

それを見た少女は何が面白いのかくすりと笑う。

 

 

「そうそう。そういう風にしてたほうがええよ。」

 

「……」

 

 

――苦手だ……

 

目の前の少女の言動を見てそう感じた。

飄々としていて何を考えているのか、次に何をするのかが読めない。

今も何の目的があってこうして話しかけてきたのか全く理由が分からない。

だが、このままでは埒があかないので、調子を崩されながらも気を取り直して交渉に移る。

 

 

「……全面的にこちらが悪いんですが……すみません、この事は内密にしていただけませんかね?」

 

「別にええよ?」

 

 

あまりにさらりとした態度に、京助は空いた口がふさがらなかった。

惚けている彼の前で、彼女は、す、と一枚のカードをどこからともなく取り出して指で挟んで見せる。

 

 

「そうしたほうが吉、ってカードもいってるんよ。」

 

 

彼女の言動に面食らったものの、どうにか、自分がこのまま即座にクビになることはないという事実だけは理解出来た。

 

 

「すみません……感謝します。」

 

「その代わり」

 

 

礼を述べたとたん、少女がそう切り出す。

 

 

「貸し一つ、ってことで頼みごとしてもええかな?」

 

 

にっこりと、柔らかい微笑みでそう尋ねる。

彼女が告げた内容に、もちろん京助に断るという選択肢は取れるはずもなく、無言で首を縦に振るしかなかった。

 




こんばんは、北屋です。
某コンビニのキャンペーンのために早起きし、無事ににこちゃん達三年生のグッズを手に入れました!
……と、個人的なことは置いておき、今回も無事に、ちゃくちゃくと女の子たちとパン屋さんが知り合っていきます。
次はどの子と出会わせましょうかw


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第五話 仏頂面は仕様です

この頃の執筆中はゲッ○ーとマ○ンカ○ザーがリピートしてます……


「いらっしゃいませー。」

 

 

どうにかこうにかこの仕事にも慣れてきた。

昔、仕事を手伝っていた頃の接客を思い出すことも出来たため、問題なく仕事はこなせている。女の子が苦手なのは相変わらずだが、こうして接するぶんには問題なく仕事を行うことができているし、いい加減生徒も慣れてきたのか好奇の視線を感じることも少なくなった。

この分なら少なくとも1年の間仕事をこなすことは出来そうだ。

次々に売れていくパンを見ながらそんな事を考えていた。

 

 

「さて、と。」

 

 

商品も残りわずかとなり、人もいなくなったのを確認すると、撤退の準備に取り掛かりながら、同時に昨日少女に頼まれた仕事の準備を行う。

矢張り年頃の女の子だし、甘いものが好きだろうか?いや、しかし昼時ということを鑑みて惣菜パンの方が……あまり高額商品ばかりになるのも相手に悪いのでそのへんのことも怠れない。適当に、しかし彼なりに考えを巡らせながらパンをいくつか選びだして運搬用のトレーにのせていく。

 

 

「あー!購買終わりかけてるにゃ!」

 

「り、凛ちゃん!あんまり引っ張らないで!」

 

 

――まだお客さんが残っていたか。

 

 

「いらっしゃいませ。」

 

 

しまいかけていた商品を再び机の上に置き直す。

もう人気商品は随分売れてしまったが、またしても京助の作った新商品は売れ残っていた。

 

 

「うわー!もうあんまり残ってない!」

 

 

並べられたパンを見るなり、駆けてきたショートヘアーの活発そうな子は落胆の声を上げた。

 

 

「すみません。代わりにお安くしときますので」

 

 

なんというか感情豊かな子だ。その様子に、京助も苦笑してついついサービスをしてしまう。

余ったらどうせ自分の昼飯か廃棄になるのだから、それなら多少安くても美味しく食べてもらった方が作った者としては嬉しい。

 

 

「えっと、あの……ほんとに良いんですか?」

 

 

ショートヘアの子に引っ張られるようにして来た子が恐る恐るといった風に尋ねてくる。こちらは対照的に大人しそうな子で、京助を見る目もどこかおっかなびっくりといったようだ。

 

 

「別にこのくらい構いませんよ。……あ、でもあんまりみんなには言わないでくれると嬉しいですかね。」

 

「あ、ありがとうございます。」

 

 

頬をかきながら答えると、小さな声でお礼が返ってきた。

別に脅かすような事はしていないつもりなのだが……それでも少女のどこかおずおずとした様子を見るとなんだか悪いことをしてしまったのではないかと不安がよぎる。

それとも自分の顔はそんなに怖いのだろうか?

 

――この子も少し苦手だな……

 

そんな感想を浮かべるが、この仕事についてから苦手な相手ばかりが増えている気がした。

 

 

「おじさん!これとこれと……あとこれくださいにゃー!」

 

「お、おじ……!?……はい。えっと130円になりますね。」

 

 

少女に言われた心無い一言に傷つきながらも会計を済ませる。

一方でもう一人の少女は商品とにらめっこをしたまままだ悩んでいるようだった。

 

 

「ほら、かよちんも早く選ぶにゃ!」

 

「え!?えっと……」

 

「そんな急がないで、ゆっくり選んでいいですよ。」

 

 

急かされ慌てだした少女に、京助はにっこりと笑って言う。

 

 

「えっと……あの、これ何ですか?」

 

 

彼の自然な笑顔を見て落ち着いたのか、彼女は一つのパンを指差した。

それは京助の新作――売れ行きの芳しくない商品だった。綺麗な三角系に海苔の貼り付けられた、一見してオニギリのようなパンである。

 

 

「あぁ、焼きおにぎりパンですね。中にまるごとおにぎりが入ってるんですよ。」

 

「えぇ!?そんなのアリ!?」

 

 

一人目の少女が驚きの声を上げた。

旅先で実際に京助が目にしてインパクトが強く、なおかつ美味しかったパンなのだが、逆にインパクトが強すぎて、ここでの売れ行きはまだあまり良くない。

しかし、尋ねてきた少女は少し悩んだ後、その商品を二つ掴んで京助に差し出した。

 

 

「これ……ください」

 

「ありがとうございます。えっと……んじゃ、おまけして100円でいいですよ。」

 

 

半額にさらに割引。赤字もいいところだが、これを機会に売れるようになってくれれば問題はないだろう。

 

 

「そんな、悪いですよ」

 

「計算面倒くさいから構いませんよ。別に。」

 

「いいなー、かよちん!……ねぇねぇ、おじさん!」

 

「はいはい。“おにーさん”に何かようですか?」

 

 

おにーさんと言うところをあえて強調するが、少女はあまり気にした様子もなく、

 

 

「もしかしてラーメンパンとか作れたりしないかにゃ?」

 

「ラーメンって、そんな……いや……」

 

 

記憶が蘇る。

どこだったかは忘れたが、それも旅先で見た覚えがある。

 

 

「多分……出来ますよ。」

 

「えぇ!?じゃあ、お願いしてもいい?」

 

「はぁ……まぁ。いいですけど。」

 

 

勢いに流され、二つ返事で受けてしまった。

面白い商品を作るのは結構好きだし、そういうノリは嫌いじゃない。だが、また面倒事を増やしてしまった事に少しだけ後悔が残った。

 

 

「わーい!今度持ってきてね!さ、かよちん行こう!」

 

「うん。ありがとうございましたお兄さん。」

 

 

大人しい方の少女がぺこりと頭を下げると、二人は踵を返して教室の方へ歩き出した。しかし、ふと思いついたかのように活発な方の少女が振り返って声をかける

 

 

「あ、そうだ!おじさん、もうちょっと自然に笑ったほうが若く見えるよ!」

 

「はいはい……」

 

 

――実際若いんだってーの!

 

苦笑しながら二人を見送った後で、ため息を一つ。

自分の頬をちょっと摘んでみる。そんなに自分の表情は硬いだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パンの入ったトレーを持って廊下を歩く。

購買の腕章に加え、生徒会で発行してくれた許可証があるため特に問題はないはずなのだが、それでも時折すれ違う生徒の視線に疲労感が増していく。

 

 

「なんでこの俺が……!」

 

 

何度目になるか分からない呟きを漏らした。

昨日、少女に敷地内での喫煙を黙っていてもらう代わりに課せられた仕事は昼休みのパンの出前だった。通常の業務終了後、昼休み半ば程度にいくつか適当に見繕ったパンを生徒会室まで届けるのだ。

正直、面倒くさくて仕方がない。

 

 

「ここか、っと……」

 

 

生徒会室、と書かれた部屋を見つけ扉を叩く。

間を置かずして中から返事が帰ってきて、戸は開いた。

 

 

「あ、思ったより早かったやん。」

 

 

紫がかった髪を揺らして、少女は京助が見繕ったパンを覗き込む。

 

 

「どうも。適当に見繕いましたが、どうしますか?」

 

「んー。そうやね……んじゃ、これとこれで。てっきり高額商品ばっか押し付けられると思っとったのに、見かけによらず随分良心的やんな?」

 

「見かけによらずって何だ……失礼。なんですか?」

 

 

言葉遣いが崩れた彼を見てくすりと笑うと、

 

 

「あ、領収書もらえる?」

 

「まぁ……宛名はどうします?」

 

「東條 希でお願いします。」

 

「へいへい、っと。これでいいですか?」

 

 

名を書いた領収書を渡すと、彼女――希は少し不満そうな顔をした。

 

 

「な、何だ?」

 

「名前。」

 

「は?あれ、間違って……ましたか?」

 

 

慌てる京助に対し、彼女はふるふると首を横に振る。

 

 

「こっちが名乗ったのに、そっちが名乗らんのは失礼やない?」

 

「は?いや、こっちは仕事なわけだが……」

 

 

少し疑問が残ったが、言われてみれば少女の言うことももっともな気がした。

どちらにしろ減るものではないし、改めて名乗る。

 

 

「カフェ&ベーカリーTSUDAの津田 京助です。よろしくお願い致します。」

 

「はい、よろしくね。……あと、前も言ったけどそんな仏頂面してると老けて見えるよ?」

 

「余計なお世……失礼。善処しますよ……」

 

 

矢張り先日思った通りにこの少女は苦手だ。しかしそれなのに、この少女との付き合いは長くなりそうな気がした。

これから先に面倒事があるような漠然とした予感を感じて、一気に疲れが貯まるのを感じながら、京助は生徒会室を後にした。

 




少し投稿がおくれましたね。
こんばんは、北屋です。
先日、取材を兼ねて神田祭りに行ってきました。やはりコラボの影響か若い人が集まっていてすごい活気でした。
おかげで幾分自分も元気をもらえた気がしますw
この元気のまま執筆が調子よく続けていきたいです!
ではでは


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第六話 叶わなかった夢の残骸

昼休み、学校の廊下。

今時の子は教室内で過ごすことが多いのか、思っていたよりは静かだ。母校でこそないものの、学校自体に来るのは本当に久しぶりだったため、何となく懐かしさや一抹の寂しささえも感じてしまう。

とはいえ、商売の終わった今、そんな感傷に浸っている暇などないし、昼休みの間に帰らなければならない。それに京助自身、早くこの場を離れたいというのも本音であった。

 

 

「……煙草吸いてぇ」

 

 

正直言ってオーバーワークだ。

ただでさえ女の子は苦手だというのに、商売柄、接する機会が多く精神的に宜しくない。この頃一日の煙草消費量も心なしか増えている気がする。

 

――そういえば明後日は休みだったよな?

 

毎週土曜日、パン屋自体は営業しているが購買の仕事はない。それだけで大分気が休まる。

それにその次は日曜日で一日休み。そこで何か息抜きをしたいところだ。

しかし息抜き――何をすれば良いのか?

昔は夢に向かうのが精一杯で、練習自体も楽しくて仕方なかった。夢を諦めてからはただ毎日を生きるので精一杯で、今までこれといった趣味をもってこなかった。

 

 

「仕方ねぇ。パチンコでも行くか」

 

 

――確か新台が入荷したはずだ。

 

ダメ男の典型のようなことを考えて歩いていると、微かに聞こえた旋律が彼の脚を止めた。

オリジナル曲なのか、今まで聞いたことのない曲だった。ピアノの旋律と共に、少女の歌う声も聞こえてくる。

誘われたかのように、いつの間にか京助はふらふらと音楽の聞こえる方へ歩みを進めていた。

 

 

「あ!」

 

「あ……」

 

 

音楽室と表示された教室の前で、京助は見知った顔と出会った。

そう、確か……

 

 

「高坂ちゃん……でしたっけ?」

 

「はい!あれ?でも何でパン屋さんがこんなところに?」

 

「いや、ちょっと野暮用がありまして……ところでこの曲は?」

 

 

尋ねると、彼女はしー、と人差し指を口の前で立てて静かにするようにジェスチャーをすると、部屋の中を指し示した。促されるままに京助も彼女の隣に立ち、室内を覗き込む。

そこには、ピアノに向かう赤い髪の少女がいた。

 

――上手い。

 

素直にそう思う。

京助はいつになく真剣に少女の弾くピアノに聞き入っていた。

美しい旋律。それだけでなく、彼女が楽しく弾いているということが聞いている側にも分かるような、何か心に訴えるものがある。才能や努力だけではこうはいかない。ここまで来るには本当に音楽が好きでないと……

そう考えていたとき、少女がこちらに目線を移動した。

 

 

「う゛ぇ!?」

 

「……やべッ」

 

 

ピアノが吐き出した不協和音に我に返ってみれば、謎の男が女生徒を覗き見していたという犯罪じみた状況がそこにあった。

慌てて踵を返そうとするが、目尻を釣り上げた少女が扉を開いてすぐ目の前まで迫っていた。

 

 

「ちょっと、あなた達!そこで何してたの?」

 

「いや、その、俺……自分はこういうものです」

 

 

苦し紛れに腕章を指差し、次いで抱えたトレーを見せる。少女の京助を見る目が多少は柔らかくなったものの、まだ納得のいってない顔で、

 

 

「購買部?……で、何でパン屋のおじさんが人のこと覗いてるのよ?」

 

「な、てめッ……誰がおじ………!」

 

 

老け顔のことは自覚しているが、結構気にしていたりする。ましてや今日になってそれを指摘されるのは3回目だ。

いい加減に怒鳴りつけたい衝動に駆られたが、どうにかそれをこらえ、咳払いをして誤魔化し、青筋の代わりに営業スマイルを顔に浮かべた。

 

 

「新商品のパンはいかがでしょうか?」

 

「………」

 

 

少女の目が痛い。

少しは和らいだように思えた視線が、急速に凍てついて、不審者をみる目で京助を睨みつけている。

そんな時、嫌な沈黙を打ち破ったのは穂乃果だった。

 

 

「凄い凄い凄い!感動しちゃったよ!」

 

「べ、別に……」

 

 

穂乃果の勢いに、今の今まで眉間に皺を寄せていた少女もたじろいでしまう。

 

 

「歌上手だね!ピアノも上手だね!それに、アイドルみたいに可愛い!!」

 

 

矢継ぎ早に掛けられた賞賛の声に、今度は真っ赤になってしまう。

その様子を見ながら京助は不覚にも笑いそうになり、それをかみ殺すのに必死だった。

肩を震わせる彼をきっ、と睨むと少女は立ち上がりその場を去ろうとする。

 

 

「あのさ!いきなりなんだけど……アイドルやってみない?」

 

「……は?」

 

 

穂乃果のその言葉に、京助の口から疑問符が飛び出した。

問いかけられた少女は眉をよせ、すぐに、

 

 

「何それ?意味わかんない!」

 

「だよね……」

 

 

不機嫌そうに言い放ち、教室を出ていこうとする彼女を見て、穂乃果も笑い出した。

 

 

「……?」

 

 

彼女の表情にはどこか寂しげな表情が浮かんでいるのを、悲しげに溜息をつくのを、京助は運が悪いことに目にしてしまった。

 

――苦手なんだよな……

 

どうも、女の子のこういう表情を見るのはあまり好きではない。自分のことでもないのに、その場にいるのがいたたまれなくなって、どうしたら良いのか分からなくなって、遂には放っておけなくなってしまう。昔から変わらない、彼の悪い癖。

何も言わない穂乃果の横で、為すすべなく立って辺りを見渡し、やがて目の前のピアノが目に付いた。

 

 

「あー……」

 

 

ピアノを前にして、彼の心に小さな悪戯心が湧いた。

あるいはそれは、少女の奏でる演奏を聞いて彼にも何か感じるところがあったからかもしれない。

椅子に座って鍵盤に向かう。京助の思いがけない行動に、さっきとは打って変わって驚いた顔をする穂乃果にほんの少しだけ笑って見せて、

 

 

「キーボードは苦手なんだけどな……」

 

 

苦笑混じりに小さく呟くと鍵盤に指を走らせた。

友達に教わった、彼の弾ける数少ない曲の一つ。

かつて、音楽の楽しさを教えてくれた一番のお気に入りの曲で、誰もが一度は耳にしたことがある有名なバンドの曲だ。

 

 

――僕達の街に、海に出た男が居たんだ

 

 

譜面も英語の歌詞もうろ覚えだが、指は思った以上に動いてくれる。

少女のように、歌いながら演奏するなんて器用なことは出来ないが、曲の明るいテンポに弾いている京助自身も少し楽しさを感じてしまった。

思えば幼い頃から楽器はなんでも、それこそ突き詰めれば音の出るものならなんでも好きだった。だから成長していくにつれて、その道に進みたいとも思うのは当然のことで、気がつけば周りには同じような思いを持つ仲間たちとも出会えた。

あんな事がなければもっとあの仲間たちと夢を追い続けていられたのかもしれない。それこそもしかしたら、今でも夢を捨てずにいられたのかもしれない。

 

 

――友達はみんなここにいて……

 

 

曲の途中で不協和音が響き、そこで曲は終わった。

長らく触れていなかった苦手な楽器でここまでやれたのが奇跡に等しいのに、演奏途中で余計な事を考えたのがいけなかった。

頭をかきながら立ち上がれば、穂乃果も、そして立ち去ろうとしていた少女さえも振り返って、驚きと困惑の混じった顔で彼を見ている。

 

 

「いや、少し音楽をかじっててね。見ての通りこの程度だが……」

 

「凄い凄い!パン屋さん、ピアノ弾けたんだ!?」

 

 

パチパチと拍手をして驚きの声を上げる穂乃果。その大げさな喜びように、京助も少し恥ずかしくなってしまって頭を掻いた。

叶わなかった夢の残骸のような代物でも、役に立つこともあるものだと……そんな風にさえ思えた。

しかし、一方の少女は呆れたような目で京助を一瞥し、

 

 

「下手ね」

 

「ぐ……」

 

 

予想以上に傷つく一言だったが、自分でも納得しているから反論出来ない。

才能があれば、なんて何度考えたことかも分からない。

 

 

「でも、不思議と悪くない演奏……。あなた何者?ただの購買のおじさんじゃないでしょ?」

 

「……ただの購買の”おにーさん”ですよ。」

 

 

誤魔化すために煙草を取り出そうとして、ここが学校であることを思い出しそれを止める。

ここまで煙草が恋しくなったのは初めてだ。

 

 

「さて……。ほいじゃ、ともかく俺……自分はここら辺で。」

 

 

疑惑の眼差しに耐え切れなくなり、立ち上がって足早に踵を返す。

ほんの小さな悪戯のつもりだったが、我に返ってみれば酷く恥ずかしい事をしてしまった。もう二度とは楽器に触れることもないとさえ思っていたのに。

どうも、この学校に来ると――ここの生徒と接すると、調子が狂う気がする。これ以上何かがあったらボロがでそうだった。

 

 

「あ!ちょっと、待ちなさい!」

 

「ベーカリー&カフェTSUDAを今後共ご贔屓に!」

 

 

後ろから聞こえる声にそれだけ返して、早歩きから一気に加速、走るようにしてその場から逃げ出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「散々な目にあった……」

 

 

車を運転しつつ、紫煙を吐き出しながらぼやく。

今日一日だけで疲れることが多すぎて、一気に老け込んだ気がする。このままではストレスでハゲるか胃に穴があくか、ともかく健康にとてつもなく悪い。

しかも、その原因は大体彼にあるのだから、なおさら質が悪く、責任転嫁すら出来やしなかった。

 

 

「もっと機械的に仕事したほうがいいのかね、っと。……んあ?」

 

 

車の窓から見える景色に違和感を覚えた。

秋葉原の街の中、いつも賑わっている場所ではあるが今この時はその賑わいが少し違うように見える。

何やら人が一箇所に集まって何かを見上げているような……

 

 

「っと!」

 

 

信号が変わったのか、前の車が止まり、慌てて自分もブレーキを踏み込む。

ちょうど良いタイミングで止まってくれた。

興味本位で人々が見上げる方に彼も目を向けてみる。

 

 

「なんじゃありゃ?」

 

 

街中に設置された巨大スクリーンに映し出されたのは、アイドルのPVと思わしき映像だった。

三人組のユニットらしいが、彼女たちは京助の知るアイドルと比べて随分と若いように感じる。自分より年下……それこそ高校生くらいなのではないだろうか。

 

 

「すげぇな……」

 

 

煙草を咥えたまま、その姿に見蕩れてしまう。

アイドルに別段興味のない彼からしてみれば、ダンスの善し悪しなどあまりわからないし音楽に関しても畑違いもいいところ。

普通ならさらっと流してしまうところだが、彼女たちの姿には何か惹かれるものがあった。それが何なのか、京助自身にも説明は出来ない。強いて言えば輝きやオーラとでもいうものだろうか?

見ている前でスクリーンの映像が切り替わり、リーダーと思わしき少女が何かを画面から語り始めた。あいにくと車道からではその内容はわからない。

ただ一つ、スクリーンの隅に映った小さな紹介だけが見て取れる。

 

 

「スクールアイドル……A-RISE?」

 

 

そういえば聞いたことがある。

学校の部活動やクラブ活動として結成されたアイドルユニット――通称スクールアイドルが若者たちの間で人気を博しているらしい。

あの少女たちもまたその中の一つなのだろうか。

 

 

「あちッ!」

 

 

燃えつきた煙草の灰がこぼれ落ち、京助のジーンズを焦がした。その熱さに我に返ったところで、更に追い討ちをかけるかのように後方の車がけたたましいクラクションを鳴らしていることに気づく。

いつの間にか信号は青に変わっていたらしい。

慌ててアクセルを踏み込んで車を走らせ、帰路につく。

 

 

「あれで高校生かよ……今時のガキは怖ぇな……」

 

 

なんとはなしにそんな事を呟く。だが、彼にしてみればそれは他人事以外の何者でもなく、現に呟いた次の瞬間には別のことに気持ちがシフトし終えている。

アイドルなんて自分とは関わりのない、遠い世界の出来事。

この時の彼はそんな風にしか思っていなかった。

 




こんばんは。北屋です。
この頃取材兼ねて秋葉原付近にちょくちょく出没してるんですが、矢張り楽しいですね。
行くたびに新しい発見があって、全然飽きませんw
アイデアもどんどん湧いてくるような気さえします。


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第七話 青年の傷、少女たちの夢





体が熱い。

ぬるりとした暖かい液体が染み出して、体を濡らすのが非常に不快だった。照明の外の暗闇にどよめきが走り、悲鳴や怒号が聞こえてくるのが聞こえる。

鉛でも流し込まれたかのように動かない体を動かして、灼熱の中心、自分の腹部に手をやると、そこには人体には有り得ない冷たい何かが突き立っていた。

――!

 

それが引き抜かれる。灼熱が爆ぜて、どうにかなってしまいそうな悪寒が駆け巡る。

直ぐにでも飛びそうな意識の中で目にしたものは、引き抜かれた鈍い輝きを手に持った見知らぬ少女の姿。

彼女は呆けたような顔で見つめてきたかと思うと、すぐさま獣の如きその目を自分の後ろにやった。

真っ赤に染まったそれを、振り上げた瞬間、遂に耐えられなくなったのか視界が真っ白に染まった。

純白の中で感じたのは、何か柔らかい物を殴りつける、ぐにゃりとした嫌な感触と右手を突き抜ける鈍い痛み。

そこから先はあまり覚えていない。

 

 

 

 

 

「あぎッ……ァああッ!」

 

 

汗だくになって飛び起きた。

腹部に走る激痛に顔をしかめる。

 

――落ち着け……!

 

脂汗を流しながらも、深呼吸を繰り返す。5分も経っただろうか、そうしている内に痛みは嘘のように退いて、思考もはっきりとしてきた。

 

 

「ちッ……」

 

 

あの時の事を夢に見るのは本当に久しぶりだった。もう何年も前の出来事でありながら、決して忘れることのできない記憶。時たま悪夢として蘇っては、もう完治したはずの古傷をこうして痛ませる。

ここのところ見ることがなかったので油断しきっていた。

 

――やっぱ疲れてんだな。

 

女性が苦手となった決定的な原因。ここのところの購買の仕事、特に昨日は女子生徒と関わることが多かったため、無意識にそれを思い出してしまったらしい。

つくづく精神衛生上宜しくない仕事だ。

そう思いながら時計を見れば、時刻は午前5時前。いくらなんでも早く起きすぎだった。

だが、もう一度寝なおすには目が冴えすぎているし、何よりそんな気分にはなれそうにない。

汗で湿ったシャツを脱いで洗濯機に放り込んで新しい服に着替え直し、ベランダに出る。

ぼんやりと明るくなった空を見上げて、愛飲するフィルターなしの安タバコに火をつけると幾分心が休まるのを感じた。

刺々しい紫煙を肺いっぱいに味わってから吐き出せば、煙は僅かの間目の前に漂って、直ぐに朝の空気にとけた。

 

 

「……早く、起きすぎちまった。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ふぅ……はぁぁ。」

 

 

石段を登りきったところで大きくため息をつく。

小さな頃は笑いながら駆け回った場所だが、今では登りきるのさえも息切れがする。もう歳だろうか?ふと頭をよぎった考えを全力で否定する。

冗談ではない、まだ20代前半だというのに老いなんてきてたまるものか。

タバコに酒、寝不足、食うや食わずのその日暮し、不摂生な生活を続けた結果に違いない。

生活習慣を改めなければこのままぽっくりなんて事も案外有り得そうだ。

 

 

「ふぅー……っつ!」

 

 

息を整えてから伸びを一つ。朝焼けの空が目に眩しい。

ポケットからタバコを取り出し、咥え、そこで苦笑する。今さっき生活習慣を改めようと思ったのにその矢先にこれである。長年染み付いた習慣をぬぐい去るのは難しいらしい。

煙を吹き上げるタバコを咥えたまま神社の境内を歩く。あまり褒められない……どころか無作法極まりない罰当たりもいいところの行為ではあるがあまりその辺は気にせずに敷地内を見回せば矢張りというべきか、この場所は記憶と違いが感じられずに妙な安心感を覚えた。

ここには小さい頃から良く遊びにきていて、そしてかつて仲間達と共に本番前などにお参りに来たものだ。

考えてみれば大分お世話になった場所である。時間つぶしの散歩とはいえ、こうして訪れた以上お参りをするくらいしなければそれこそバチが当たりそうだ。

チビた煙草を携帯灰皿に突っ込んで始末すると、小銭入れから五円玉を取り出して指で弾いて賽銭箱に放り込む。

二礼二拍手、手を合わせたまま拝もうとするが、そこで彼は困惑を覚えた。

 

――何を願えば良いんだろう?

 

夢をなくして捨て鉢同然となった今、願うべきことが見つからない。

健康を願おうにも、不健康を地でまっしぐらしてる身ではイマイチ不自然だ。ここは大人しく商売繁盛でも祈願しておくべきだろうか?

 

――何か目的を見つけて、それに打ち込めますように

 

手を合わせて目を閉じたまましばし悩んだ末に結局願ったのは、それこそ具体性のない願いだった。神様も困惑しそうな願いではあるが、目下の一番の願いであることに違いはない。

夢も希望もないおまけのような人生でも、何か目的があれば多少はマシになりそうなものだ。

最後に一礼して、その場を去ろうとすると、ついさっき自分が上がってきた石段の方から小気味良いテンポで足音が聞こえてきた。

 

 

「あー……?」

 

 

腕時計を確認するが、時刻はまだ5時半にもなっていない早朝。他人の事を言えないが、人が来るのは少し早すぎる。

ぼんやりと眺めてみると、石段を上がったところには二人の少女の姿があった。誰かを探すように辺りを見渡し、何やら話を始めているのが伺えた。

 

――どっかで見覚えがある……ような?

 

京助はその二人の姿に覚えがあった。しかし、どこで会ったのかまで思い出せない。

記憶の糸をたどるうちに不意に少女の一人と目が合ってしまった。

青みがかった綺麗な黒髪の少女は、こちらを見ると一瞬不審者をみるような訝しげな表情を見せる。

 

――まぁ、当たり前か。

 

商売中ならまだしも、散歩中の彼の格好は人様に見せられたものではない。

ジャージのズボンにヨレヨレのシャツ、寝癖のついた髪。おまけに無精ひげまで生やしていればロクな人間には見えるまい。

しかし相手は元来きっちりした性格なのか、すぐに真面目な表情になってこちらに軽く頭を下げてきた。釣られたように、もう一人のグレーに近い髪色をした少女も頭を下げる。

慌ててこちらも会釈を返し、妙な疑いを生まないためにも踵を返す。

それにしても、今時の子にしては随分育ちが良いように思える二人だ……そう考えた時、何か引っかかるものを感じた。

 

 

「おーい!」

 

 

立ち去ろうとした時、後ろから聞き覚えのある元気な声を聞いて思わず振り返ってしまう。

息を切らしながら石段を駆け上がってくる太陽のような髪色をした少女。

 

 

「遅いです!言い出した本人が初日から遅刻するとは何事ですか!」

 

「ごめん、海未ちゃん、ことりちゃん!寝坊しちゃって……」

 

「穂乃果ちゃんらしいね。」

 

 

一通り会話を終えると、最後の少女が京助の方に視線を向けた。

 

 

「あれ?……あー!」

 

「っ!?」

 

 

京助を見つめたかと思うと、彼女は彼に駆け寄って、

 

 

「パン屋さんだよね!こんな時間にどうしたんですか?」

 

「お、おう……おはよう、高坂ちゃん。俺は、その……散歩で。」

 

 

朝から元気な彼女に押されながらもどうにか答える。

見れば、二人の少女たちも心配そうにこちらに来ていた。

 

 

「穂乃果ちゃん、知ってる人?」

 

「うん!ほら、購買のパン屋さんだよ!」

 

「なるほど、どうりで見覚えがあるわけです。」

 

 

穂乃果の紹介に少女たちは納得がいったというように頷いていた。

 

 

「あー……っと。俺……いや、自分は紹介に預かりました通り、購買で仕事をさせていただいています、ベーカリー&カフェTSUDAの津田 京助です。」

 

「おはようございます。穂乃果の同級生で、園田 海未と申します。」

 

「南 ことりです。よろしくお願いします、京助さん。」

 

 

今度は自己紹介と共に頭を下げる。

名前を聞いて、初日の仕事で見かけた二人だとようやく思い出した。記憶が確かならば、園田性も南性も日舞の家元に学院の理事長と、この辺では結構な名家だったはずである。

良いところのお嬢さんがこんな朝っぱらから何故に神社に来ているのだろうか?

関わるつもりなど毛頭なかったはずなのに、気がついた時には疑問は口をついて出てしまっていた。

 

 

「三人は、こんな時間にどうしたんですか?」

 

「今日はトレーニングに来たんです。実は、私たちアイドルを始めることにしたんです!」

 

 

穂乃果が胸を張って高らかに言ったその言葉に、京助は驚いて目を見開いた。

 

 

「は?え……」

 

「穂乃果ちゃん、説明が足りてないよ……」

 

「端折りすぎです。」

 

「あれ?えへへ……」

 

 

苦笑とため息混じりのツッコミを受けて、穂乃果は照れくさそうに頭を掻いた。

一瞬何を言っているのか分からなかった京助だったが、“アイドル”の単語に昨日の街中でのスクリーン映像を思い出し、なんとなくではあるが合点がいった。

 

 

「えっと……スクールアイドルを始めるってことですか?」

 

「あ、スクールアイドルのこと知ってました?はい、私たちの学校の魅力を少しでも多くの人に知ってもらいたくて……」

 

「あー……」

 

 

彼女たちの学校はもうすぐ廃校となる。

それを止めるために穂乃果達はスクールアイドルという形を選んだらしかった。

 

 

「成程。衣装とか歌とか……曲はどうしてるんですか?」

 

 

興味本位で尋ねてみると、彼女たちは顔を見合わせて困ったような顔をして、

 

 

「衣装は私が作ることになって……」

 

「不本意ながら歌詞は私が作ることになったんですが……」

 

「曲の方が……まだ……」

 

 

どうやら行き当たりばったりらしい。詳しいことを決める前に動き出してしまったようだった。

一見して無謀、しかし京助はそんなやり方は案外嫌いではなかった。

若さ故の恐れ知らずとも言われるかもしれないが、それは逆に言えば恐れを知らないからこそ次の一歩を躊躇なく踏み出せるということだ。

そして、そうやって踏み出した一歩は案外になんとかなってしまうことも京助は経験から知っていた。事実、彼も彼女たちと同じくらいの時はそうだった……

 

 

「?どうか、しましたか?」

 

「いや、何でもない。……上手く、いくといいな。」

 

 

ふっ、と薄く笑う。

それは彼にしては珍しい、優しい自然な顔の微笑みだった。

 

 

「はい!絶対成功せてみせます!」

 

 

そう言い切る穂乃果の様子はさながら太陽のようで、横で力強く頷くことりと海未も同じく輝いて見えた。

 

 

「そっか。……じゃあ、邪魔な野郎は消えると……っと、すみません。自分はここで失礼します。」

 

 

軽く会釈して今度こそ踵を返して歩き出す。

だが、彼も気づかないうちに彼女たちに当てられたのか、普段ならば絶対に言わない言葉を口にしてしまう。

 

 

「何か、困ったことがあったら……相談くらいにはのりますよ。」

 

 

言ってから少しだけ後悔する。

何もない自分が彼女たちの何の相談に乗れるというのか。そもそも、生徒たちと関わるつもりなんこれっぽっちもないというのに。

心の中で自嘲しながら、それでも彼自身不思議なことに……後悔はほんの少しだった。

 

 




こんばんは、北屋です。
なかなかどうして筆の進みが遅くなる今日この頃です。
ようやく主人公とμ’sの面々との絡みが増えてきて楽しくなってきたのですが……
その分、少しでもいい物を書けるように頑張っていきます!


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第八話 彼女たちの名前

「ふぅー……」

 

 

調理場の椅子に腰掛けて深いため息をつく。

購買の仕事は今日も無事完了。続けて店の仕事の方も、昼間の間だけ雇っているパートのおばちゃんの協力もあって、昼食のピークを無事に乗り越えることが出来た。

ここから閉店の19時まではお客さんもまばらで大分気が楽になる。

ほどよく疲れた体が煙を求めるが、残念ながら店内は禁煙のためそれも出来ず、仕方なく棒付きキャンデーを咥えて凌ぐことにした。

飴を口の中に転がしながら、ぼんやりと考えを巡らせる。今日の夕飯はどうするか、冷蔵庫の食材はあっただろうか。来週、購買に持っていくラインアップはどうするか。新作をまた持っていくか。そういえばラーメンのパンを頼まれていたような……

とりとめのない事が頭の中に浮かんでは消えていく中で、ふと今朝の出来事が浮かんできた。

“アイドルになる”そう言った少女たちのこと――

 

 

「――っと。いらっしゃいませー!」

 

 

来客を告げるドアベルの音が店内に響いた。京助は思考をやめて椅子から立ち上がり、カウンターに向かう。

 

 

「ここがことりのおすすめのお店ですか?」

 

「うん。パンも美味しいし、コーヒーも凄く美味しいんだよ」

 

「へぇ~、お洒落なお店だねー!」

 

 

お客さんはどうやら学校帰りらしい、制服姿の女の子達だった。

声を耳にした瞬間、何故か聞き覚えがあるように思ったがあまり考えずにカウンターについて営業スマイルを浮かべる。

 

 

「いらっしゃいま………せ!?」

 

「あ!!」

 

 

三人の姿をはっきりと確認して、京助は固まった。

 

 

「高坂ちゃんに……園田ちゃん、南ちゃん!?何でここに!?」

 

「え、あの……前にお母さんとここに来たことがあって、美味しかったから二人に紹介しようと……」

 

 

何で、も何もあったものではない。同じ町内に住んでいる以上こうして店に学院の生徒が訪れてくるのは当たり前のことである。

 

――それにしたって出来すぎだろうよ……

 

顔見知りの少女達に朝から出会っただけでも珍しいのに、それがこうして店にまで顔を出してくるとなると、最早驚きを通り越して笑うしかない。

 

 

「それよりパン屋さんがなんでここに!?」

 

「穂乃果……パン屋さんがパン屋にいるのは当たり前でしょう。それに良く見ればこのお店、今朝京助さんが言っていた所じゃないですか。」

 

「園田ちゃんの言う通りだな。まぁ、ここが俺……私の店です。タダには出来ませんが、少しくらいサービスしますよ。」

 

 

京助がそう言うと、途端に穂乃果の顔がぱーっ、と輝いた。

 

 

「ホントに!?何かオススメとかありますか?」

 

「そうですね……」

 

 

少し考えて、調理場に引っ込み

 

 

「これなんかどうですかね?新商品の苺サンド。知り合いの農家さんに頼んで仕入れた苺を使ってるから味は保証しますよ。」

 

「あ!じゃあそれお願いします!後、コーヒーも!」

 

「折角なので私も同じものを。ことりはどうします?」

 

「私もそれで。」

 

「分かりました。ほいじゃ、コーヒー淹れたら持ってきますんで席に座って待ってて下さい。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おいしー!この苺の甘酸っぱさが最高!」

 

「コーヒーもなかなか美味しいですね。」

 

 

苺サンドとコーヒーは少女たちになかなか好評だったようだ。

自分の作ったものを褒められるのは矢張り嬉しいらしく、京助もまんざらでもなさそうな顔をしている。

“美味しい”の一言がこんなに嬉しいものだとは思ってもみなかった。

少女達以外に客のいない店内、京助もカウンターの向こうで椅子に腰掛けてコーヒーをすする。

 

――平和だ

 

久しぶりに感じる平穏に、飲みなれたコーヒーも心なしかいつもより美味しく感じる。

 

 

「あ!パン屋さん!」

 

「ッ!……はい、なんでしょう!?」

 

 

急に立ち上がった穂乃果に声をかけられて、思わずコーヒーを吹き出しそうになった。

この頃音ノ木坂の生徒と関わるとロクなことになっていないので、あえて声をかけずにやり過ごそうとしていたのに、そんな彼の思惑は見事に打ち砕かれた。

 

 

「今度、私たち、ライブをやることになったんです!」

 

「ライブっつーと……あぁ、スクールアイドルの。あれ?曲が出来ないって言ってませんでしたっけ?」

 

 

今朝聞いていた話を思い出して京助は首をひねる。すると海未が横からその説明をいれてくれた。

 

 

「えぇ。実は穂乃果にあてがあったらしく……これが届いたんです。」

 

 

そう言って彼女が鞄から取り出したのは一枚の真っ白なCDだった。透明なプラスティックのケースに小さく短い文字が書かれている。

 

 

「そうだ!パン屋さんも聞いてみて下さい!とーってもいい曲だから!」

 

「え?えーっと……それじゃあ。」

 

 

どうせ今は他にお客さんもいない。京助はCDを受け取ると、店内に設置され、半ば置物と化しているプレーヤーの電源を入れる。

正直なところ、どんな曲なのか興味があるのも事実だった。

円盤の回転する心地いい音。

続いて一拍置いて流れ出すピアノの澄んだ音色。前奏が終わると、曲に合わせて少女のハスキーな歌声が流れ出す。

ぞわり、と京助の背中に冷たいものが走った。まるで氷水を浴びせられたような感覚に、京助は言葉を失った。

旋律の美しさ、そして少女の歌声。とても素人のものとは思えない。さらには――

京助は少女達に目を向ける。

海未が作ったという歌詞も素人の域を完全に超えていた。

果たして自分が――自分たちが彼女たちと同年代の頃、ここまでの物を作れていたのかどうか分からない。

“才能”その一言が脳裏をよぎり、知らず知らずの内に目つきが険しくなっていく。

 

 

「きゃっ!」

 

「――ッ!な、何ですか?」

 

 

ことりと海未の声で我に返った。

 

 

「つ、津田さん?どうしたんですか?」

 

 

ことりが恐る恐るという風に尋ねてきた。

 

 

「す、すまん!何でもない。」

 

「ふぅ~。……パン屋さん、今ものすごく怖い顔してたよ。びっくりしちゃった。」

 

 

別にそんなつもりはなかったが、彼女からしたら思い切り睨みつけられたように思えたらしい。

京助は心底申し訳なさそうな顔をしてから、話題を変えるように、

 

 

「……語彙が少なくて、適当な言葉が見つからないんだが――凄いな。園田ちゃん、本当に作詞は初めてなんですか?」

 

「えぇ。こういったことは……」

 

「海未ちゃんは中学生の時にポエムとか作ってたんだよ。だからお願いしちゃった」

 

 

穂乃果がそう言うと、海未は顔を真っ赤にして何か言いたげに口をぱくぱくさせる。

触れてはいけないことなのだと、京助も何となく察しがついて苦笑するよりなかった。誰しも若い頃には通る道だ。

 

 

「それにこの曲……弾き方からしてこの間の赤い髪の子のですよね?取り付く島もないって対応だったのに良く作ってくれましたね」

 

「凄い!やっぱり聞いただけで分かるんだね。差出人は書いてなかったけど、間違いなく西木野さんが作ってくれたんだよ」

 

「に、西木野ぉ!?」

 

 

穂乃果の口から出た少女の名前に、京助の声が裏返った。

この辺で西木野といったら、丘の上にある大病院がまず思い浮かぶ。その性を持つ人物といったらつまりは……

 

 

「もしかして西木野先生の、娘さん……ですか?」

 

「? うん。西木野病院の子らしいよ。」

 

 

急に痛みを感じ、頭を押さえる。

先日、無礼なことをしたばかりか適当に逃げ帰ってしまったばかりだというのに、よりにもよって相手は命の恩人の縁者……

やってしまったという思いが彼の心にのしかかった。

 

 

「……そっか。そういや確かに娘がいるって言ってたな……」

 

「津田さん?」

 

「いや、何でもない……。ライブ、上手くいくといいですね。」

 

 

ともあれ、過ぎたことを考えても仕方がない。

気分を一新するつもりで、無理やり話を下に戻す。

 

 

「うん。パン屋さんもこれどうぞ」

 

 

穂乃果がそう言って鞄の中から取り出した紙切れを京助に手渡す。見ればそれは彼女たちのファーストライブの、宣伝のビラだった。

 

 

「良かったらパン屋さんも見に来てよ!」

 

「ははは……行けたら行きますよ。」

 

 

ビラに書かれた時間を目にして、苦笑混じりに答えをはぐらかす。

開催時刻は放課後、彼が学校に出入り出来るのは昼休みの限られた時間なので到底見に行くことは出来そうにない。

それに、本来彼はアイドルといったものに別段興味などないし普段なら絶対に見に行こうとも思わない。

それなのに――彼女たちのライブを見てみたいと、そう思ってしまう自分がいることが、不思議でたまらなかった。

 

 

「じゃあ、そろそろ行くね。ごちそうさま!」

 

「御馳走様でした。」

 

「サンドイッチ、美味しかったです。」

 

 

少女たちは軽く会釈すると、席を立って歩き出す。

その背中に、京助は問いかけていた。

 

 

「あの!」

 

「何ですか?」

 

「君たちのグループ、何て名前なんですか?」

 

 

少女たちは京助の言葉に立ち止まり、ゆっくりと振り返る。

そして――

 

 

「私たちは、μ’sです!」

 

 

眩しいくらいの笑みを浮かべて、彼女たちはその名を誇らしげに名乗るのだった。

 




こんばんは、北屋です。
更新が遅れて申し訳ない限りです。
リアルが結構デッドヒート、まさにデッド オア アライブの状況でした。
今はようやくひと段落してきたのでどんどん更新していきますよー!


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第九話 First Live

校舎の窓から見える天気は今日も晴れ。流れる雲の目に痛いほどに白い。

休日を挟み、つかの間の平穏を満喫したはずの京助の表情はしかし暗かった。仕事中は努めて笑顔を心がけているものの、それでも今日は時折、素の表情が顔を出してしまい生徒に怯えられることも多々あった。

 

――帰りたい

 

それが今の彼の正直な心境である。

正規の購買の仕事が終わった今、本当ならばもう帰路についている頃だというのに、希からの“頼まれごと”の所為で今も見繕ったパンを持って生徒会室に向かわなければならない。それが彼の憂鬱にさらに拍車をかける。

 

 

「あ、もう来たん?」

 

「あ……どうも。」

 

 

盛大に溜息をついたところで曲がり角を曲がってきた憂鬱の種の本人と出会った。

 

 

「ん~?何だかえらい不機嫌な顔しとるけど、どうしたん?」

 

「別に」

 

 

“頼まれごと”が面倒くさいからとは言えず、憮然とした様子で京助は短く答えた。

ついでに言うならば、不機嫌な本当の理由は昨日息抜きで行ったパチンコで大負けに大負けを重ねた結果であるが、これも流石に花の女子高生相手に言うべきことではない。

喫煙に続きパチンコなど、いくらなんでも世間体が悪すぎる。

 

 

「そう、ならええんやけど……。で、今日はどんなレパートリーなん?津田くん。」

 

「そうですね。今日はこんな――って津田“くん”!?」

 

 

敬称付けや“パン屋さん”呼びはともかく、おじさんとまで様々に呼ばれてきたが、まさか年下の女の子にそんなフレンドリーな呼び方をされるとは思わず、京助は目を見開いて驚きの声を上げた。

 

 

「ん?あんまし歳も離れてないようやしそれでもええやろ?」

 

「あくまで、そんなには、ですがね……」

 

 

にこにこと嬉しそうに笑いながら言う少女を前にして、京助は呆れてため息も出なかった。

まともな大人ならばここで年長者には礼儀を払えと注意すべきところなのだろう。しかし、京助は自身がまともな大人とは微塵も思っていない。いや、むしろロクデナシの自覚があるくらいだ。そんな身の上で礼儀を語るのは滑稽な気がして、あまりそう言ったことは好きではなかった。

 

 

「まぁ、構いませんよ。それはそうと、これなんかどうですか?」

 

 

さらに付け加えれば、目の前の少女に対して下手な反応を取ろうものならば、余計にいじり倒されるのが目に見えている。なので軽く流して仕事に移る。

年下相手に情けないが、この少女はやはり苦手――というより勝てる気がしない。

 

 

「うん。ほな、それにしようかな。教室から購買まで遠いから助かるわー」

 

 

新商品の苺サンドを手に取り、支払いを済ませる。

ともあれ、これで京助の仕事は終了となった。今日は店の方は休業日のため、これで今日の仕事は終わりとなる。

 

――まぁ、やることもないんだが

 

休みといってもやることは何もない。ここは一つ、大人しくパチンコで昨日の負けを取り返すか……

性懲りもなくロクでもない事を考えて、ふと外を見る。

 

 

「んあ?」

 

 

窓から見える中庭、ベンチに腰掛ける見覚えのある顔ぶれに思わず声が出た。

穂乃果、海未、ことりの三人組、しかし三人の表情はどこか固く、穂乃果の笑顔にもいつものような快活さが欠けているように見えた。

 

 

「知っとるん?」

 

 

いつの間にか京助の横に並ぶように立っていた希が、同じように窓の外を見ながら問いかける。

 

 

「あー……まぁ、一応。」

 

 

説明が面倒なので適当に流そうとするが、

 

 

「じゃあ、あの子達がスクールアイドルをやってることも聞いてる?」

 

「まぁ……」

 

 

答えてから不意に思い出したが、先日渡されたチラシに書かれていたファーストライブの日時――それは今日ではなかっただろうか?

初めてのアイドル活動、初めてのライブ。そうなれば緊張するのも当たり前のことだ。

 

 

「今日、彼女たちがライブをやるんやけど……津田くんも、見てみる?」

 

「は!?いや、流石にこんな――風体の悪いロクでもない奴が校内うろついてたらマズイでしょ?」

 

「あ、風体が悪い自覚はあるんやね」

 

「余計なお世話だ。」

 

 

希は口元を隠して楽しそうに笑う。

完全に遊ばれているのが分かってむっとするが、それ以上何も言い返せずに直ぐにため息をついて情けない表情を浮かべてしまう。京助は本当にこの少女が苦手だった。

こういう態度が面白がられる一因なのだが、悲しいかな本人は気がついていない。

 

 

「ともかく、見たいんやったらうちが特別に取り計らってもええよ?こう見えて生徒会の関係者やからね。」

 

「いや……そんな。別に俺……自分は、」

 

「興味があるんは事実やろ?じゃなきゃ、さっき風体うんぬん言うよりも、興味がないの一言ですんでるやん。」

 

「………えぇ。まぁ……ほんの少しばかりだ……ですが、興味はありますね」

 

 

この少女相手には、否定するだけ無駄だと感じたのか京助は素直にその旨を伝える。

幸い今日の仕事はここで終わり、午後は店もない。多少なりとも興味はあるのだから、パチンコで無為に時間を潰すよりかは幾分マシに違いない。

 

 

「どうするん?」

 

 

可愛らしく小首をかしげて希は問いかける。

からかわれているだけか、それとも本当に便宜を図ってくれるのか、まずそこからして怪しいところではあるが、京助は少しだけ悩んで、

 

 

「あー……えっと、本当に取り計らってくれるんですか?」

 

「もちろん。じゃあ、そうと決まれば――そうやね?とりあえず、放課後になったら校門の前で待っとって。そしたら迎えにいくから。」

 

 

どうやらからかって遊んでいただけではなく、本当に便宜を図ってくれるらしい。

 

 

「あ、それから。」

 

「はい?」

 

「もうちょい君は、素直になった方がえぇと思うよ」

 

 

またからかわれているのか……そう思ったが、京助は彼女の表情を一目見てそうではないことに気がつく。

相変わらず微笑を浮かべる彼女だったが、その微笑みのなかには、まるで京助を諭しているかのような意味ありげなものが含まれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……結局来ちまった。」

 

 

音ノ木坂の校門付近に立って小さくぼやく。

希の誘いにのって勢いのままに来てしまったが、今更になって後悔が募っていく。これはどう考えても失敗だった気がしてならない。

下校する生徒の怪訝な視線に耐えるのもそろそろ限界となってきたところで腕時計を確認すれば、授業終了時刻から既に20分は経っている。

 

――帰りてぇ……

 

切にそう思った。

 

 

「ごめん。待った?」

 

 

心が折れる寸前のところで約束していた少女が駆けてきた。

その姿を見て京助は力ない疲れきった微笑を浮かべる。

 

 

「帰ろうかと思いました……不審者で通報されるかと思いました……せめて待ち合わせ場所変えるべきでしたね……」

 

 

しきりに痛みを訴える胃を抑えながら言うと、希も申し訳なさそうに苦笑する。

 

 

「ごめんごめん。ほら、これつけたら行くよ。」

 

 

差し出された生徒会の腕章を付け、希に導かれるままに校内を歩き出す。

途中、何人かの生徒とすれ違う中でふと気になった事を尋ねてみた。

 

 

「そういえば、今の自分の立場ってどうなってるんですか?」

 

 

生徒会の方で何かしらの理由をでっち上げてくれているらしいが、今のうちに聞いておくに越したことはない。万が一他人に何者かと尋ねられた際に答えに詰まっては怪しさが増してしまう。

 

 

「ん?あぁ、工事の下見に来た人、ってことにしてあるで。」

 

「業者さん、ですか」

 

「それともうちの親族ってことにしとくべきだった?」

 

 

京助は首を思い切り横に振って答える。

まぁ、今のこの設定は妥当なところだろう。

 

 

「さ、着いたよ。」

 

 

案内されたのは校内に設置された講堂だった。固く占められた扉の向こう、おそらくそこでライブが行われるのだろう。

扉に手をかけようとして、京助は僅かに違和感を感じた。

 

――人の気配がしない……?

 

いくら防音がなされているとはいえ、所詮は高校の講堂。扉一枚隔てたところで中のざわつきくらいは感じ取れてもいいはずだ。

嫌な予感に、扉にかけた手が止まる。見ないほうがいいのではないだろうか、このまま大人しく帰るべきではないか。胸の奥で何かが警鐘を鳴らす。

 

 

「どうしたん?」

 

 

不思議そうに希が首を傾げた。

 

 

「いや……」

 

 

苦笑して強ばった手に力をいれる。

何を戸惑う必要があるのだろうか。

自分がここにいるのは、所詮はただの暇つぶしに過ぎない。演じる少女達もただの顔見知り、何かを心配してやる義理なんて微塵もない。

良くも悪くも、何を目にしたとしても京助には関わりのないことだ。

 

 

「っ!」

 

 

ゆっくりと音もなく開いた扉の先、そこにあった光景に京助は息を飲んだ。

誰もいない空っぽの客席、静まり返った空気。

舞台に立つ衣装を着た少女たちは呆然とした顔で立ち尽くしていた。

 

 

「穂乃果……」

 

「穂乃果ちゃん……」

 

 

少女たちを見ながら、タバコ代わりに、棒付きキャンデーを取り出して口に咥える。

 

――そりゃ、やっぱりこうなるわな。

 

実績も何もない高校で、素人が始めたばかりのスクールアイドル。心のどこかでこうなるのではないかという漠然とした不安は感じていた。

その不安は今こうして、彼の思った通りの結末を迎えていた。

 

 

「そりゃそうだ!世の中そんなに甘くない!」

 

 

穂乃果の声が静まり返った講堂の中に木霊する。

明るく元気のいい、いつもの彼女の声。しかし、それは無理にそう振舞おうとしているのが見え見えだった。

今にも泣き出しそうに、目元に涙をためる少女の姿を見て、京助は胸が締め付けられるように感じ、そしてその事に戸惑いを覚える。

夢に敗れ、未来を見失った自分。

対して今壇上に経つのは今を精一杯走る少女たち。

失った輝きを、いつの間にか京助は彼女たちに見ていたのかもしれない。

 

 

「ちッ……」

 

 

希望が――夢が。今までの努力が音を立てて全て崩れ去る瞬間。

そんなもの、二度と見たくなかった。

彼女たちにはそんな思いはして欲しくなかった。

 

 

「……あれ?あれ……ライブは?あれ……」

 

 

不意に別の扉が勢いよく開き、誰かが入ってくる。

二人の少女――見ればその姿にはどこかで見覚えがあった。

誰もいない講堂の中を見渡して、不安そうな表情を浮かべる少女。その姿をじっと見つめたかと思うと、穂乃果が表情を引き締めた。

 

 

「やろう!」

 

「え?」

 

「歌おう!全力で!そのために頑張ってきたんだから!」

 

 

京助は見た。

穂乃果の、海未の、ことりの瞳に力が戻るのを。

流れ出す音楽。それに合わせて軽やかに舞う少女たち。

それを見て京助は目を細める。今を輝く彼女たちは、京助には眩しすぎてまともに見ることが出来なかった。

気がつけば、講堂の中にはいつの間にやら先日のショートヘアの女の子や、椅子の影に隠れるようにして見ている女の子の姿があった。

途中までダンスを見て、京助は満足したように、くるり、と踵を返して講堂を出ていく。

 

 

「最後まで見んでえぇの?」

 

講堂の外、廊下で待っていた希が不思議そうに聞いてくる。よく見れば、廊下の曲がり角に隠れる人影の、赤みがかった髪が見えていた。

 

 

「えぇ。今日は本当にありがとうございました。」

 

 

――あの子たちはきっと大丈夫。

 

根拠も何もないが、何故だかそう思えた。

ポケットに両手を突っ込んで、廊下を歩いてい京助の顔には、うっすらとだが彼本来の優しい微笑みが浮かんでいた。

 




こんにちは、北屋です。
ようやくファーストライブの回までたどり着けました。
それにしても希ちゃんの絡みが増えていくw


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第十話 若者 / 年長者

μ’sの初ライブを目にした翌日、京助はいつになく気分のいい朝を迎えていた。

あの少女たちとはさして親しいわけでもないし、あのライブ自体成功とは言えない状況ではあったが、彼女たちの踊る時の一生懸命な姿、折れなかった姿を目にして、京助は胸の内に燻るものを感じていた。

それが何なのかは分からない。

部屋の片隅に置かれたアコースティックギターにちらりと目をやって苦笑する

もしかすると、自分の夢への未練なのかもしれなかった。

それでも良いと、彼は思う。

久しぶりに感じる自分の心の動きに戸惑いはあるものの、それもまた心地良かった。

ベランダに出てライターをこする。

いつもと変わらない銘柄なのに、いつにも増して煙が美味しく感じられた。

 

 

「さて、今日も一日頑張るかね!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いらっしゃいませ!」

 

「こんにちは、パン屋さん!」

 

 

昼の購買部、いつものように現れた穂乃果は同じくいつものように太陽のような笑顔だった。

昨日のことがあって沈んでいるかもしれないと少し不安だったが、そんなこともなく吹っ切れたようで一先ず安心する。

 

 

「昨日のライブ、すごかったですね。」

 

「え!?見に来てくれたの!?」

 

「途中までは、ですけど。後は家に帰って動画投稿サイトにあがってたのを見ました。月並みな表現で悪いんですが……素晴らしいの一言でしたよ。」

 

 

言葉こそ足りないが、お世辞も何もない、混じりっけのない京助の心からの感想であった。

実際に動画サイトでの評価もなかなか好意的な意見が目立っていた。

 

 

「いや~、そんなに褒められると照れますな~」

 

 

照れを隠そうともしない素直な反応に、京助も思わず笑ってしまう。

ここのところストレス続きだが、思えば心から笑える機会も増えてきている気がする。

 

 

「あれ?でも動画?」

 

「え?」

 

 

穂乃果が首をかしげる様子を見て、京助も目を丸くする。

 

 

「あれ、高坂ちゃん達があげたんじゃないんですか?」

 

「ううん。聞いてない。海未ちゃんかことりちゃんかな?でも、それなら何か言ってくれると思うんだけど」

 

「えーっと……」

 

 

微妙な空気が流れる。

困った顔をする京助に気づいたのか穂乃果は話を断ち切るように、

 

 

「またそのうちに、もっとメンバーが集まったら次のライブもやるから、その時はよろしくお願いします!今度は最後まで見ていってね!」

 

「えぇ。行けたらですが、見に行きますよ」

 

 

笑顔で言葉を交わしてその場を別れる。

 

 

「――応援、してるからな。」

 

 

パンを片手に、手を振りながら教室に戻っていく穂乃果に対して京助は聞こえないように小さな声で呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「かーよーちんっ!」

 

「凛ちゃん?」

 

 

放課後の学校。授業も終わり、帰ろうとしていた小泉 花陽のもとに幼馴染の星空 凛が駆けてきた。

 

 

「一緒に帰ろ!」

 

「うん」

 

 

二人は並んで夕暮れどきの道を歩き出す。

積極的に話題を振って、大げさな身振りや手振りを交えて感情豊かに話す凛に対して、花陽はそれに相槌をうったり小さく笑ったり、どちらかというと受身な態度。あまりに対照的な二人だったが、それはいつもの二人のあり方。

小学校から、こうして高校まで長い付き合いの一番の友達。気心の知れた二人にとって、こういう時間が一番楽しくて心地よいものだった。

 

 

「そういえばかよちんは、もう部活決めた?」

 

「え……」

 

 

不意に振られたその話題に、花陽は答えに詰まってしまう。

問いかけに対してすぐに頭に浮かんだのは、先日のμ’sのライブの光景だった。

 

――アイドル部

 

そう答えようとして、でもそれは言葉にはならなかった。

 

 

「ううん、まだ。」

 

 

幼い頃から、アイドルになるのが花陽の夢だった。その思いは今でも彼女の胸の内で燻っている。

自分もステージに立ちたい。あんな可愛い衣装を着てみたい……先輩達のライブを見てからそんな事を何度も考えて、でも、自分にそれが出来るのだろうかと考えてしまうと急に自信がなくなってしまう。

 

 

「そっか。でも早く決めないと、もうみんな部活決めて練習始めてるよ?」

 

「うん……」

 

 

凛の言葉に花陽の顔が陰ってしまう。

きっぱりと決められず、誰かに助けを求めたくなってしまう、そんな自分が好きではなかった。

 

 

「あ、そうだ。かよちんこの後暇?ちょっと気になるお店があるんだよね」

 

「気になるお店?」

 

「お洒落なカフェタイプのパン屋さんなんだけど、凛だけで入るのはちょーっと気がひけちゃって。一緒に行こうよ!」

 

「うん、いいよ。」

 

 

学校終わりで少しお腹も減ってきた時間帯、夕御飯まではまだ時間があるしおやつが欲しいところ。お洒落なお店というのにも興味がある。

花陽は二つ返事で頷いて、凛に手をひかれるままに歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「~♪」

 

 

鼻歌混じりに店内設置のテーブルを磨く。

今日は朝から機嫌がいい上に、売れ行きもそれなりに上々。こんなに安らかな気持ちになったのは本当に久しぶりだ。

まだ店じまいまで時間はあるものの、仕事はひと段落し、今の店内にお客さんはいない。

店内を軽く掃除し終えたところで、片隅に置かれたオーディオ機器が目についた。この間、穂乃果達が来た時にCDを再生してみたが、特に問題もなくクリアな音を出してくれた。

 

 

「ふん……」

 

 

少し思うところが有り、自室のCDラックを漁り、山積みになった中から適当に数枚を抜き出して店内に持ち込む。

店内音楽で趣味の曲をかけるというのも乙なものだろう、そう考えて一枚のCDをオーディオにセットした。

円盤の回転する音に続き、半瞬遅れて軽快でポップな音楽が流れ出す。

伝説的なアーティスト、The Beatlesの一曲で彼が気に入っている曲の一つだった。

 

 

「『HELP!』か。アルバムの邦題は確か、『4人はアイドル』……だっけか?」

 

 

そう呟いたところで、来客を告げるドアベルの音が店内に響いた。

 

 

「いらっしゃいませー」

 

 

挨拶をしながら振り返ると、

 

 

「あれ?」

 

「あ……」

 

 

またしても見知った顔があった。

とは言っても今回は穂乃果達いつもの三人組ではない。いつぞや購買に買いに来た生徒たちで、先日のライブにも顔を出していた……

 

 

「あー!購買のおじさん!?」

 

「誰がおじさんだてめ……!こほん、先日はどうも。」

 

 

怒鳴り散らしそうになるのを寸前で飲み込む。

この頃、素の口調が出てきそうで大分ヒヤヒヤする。

 

 

「こ、こんにちは」

 

「おじさん、ラーメンパン、結構美味しかったよ!」

 

「はい、どうもこんにちは。そうですか、初めての試みでしたから美味しかったなら“おにーさん”も嬉しいです。」

 

 

わざわざ強調して言っているのに少女は気づいた様子がない。いい加減に年齢のことを考えるのが悲しくなってくる。

深い溜息をついてカウンターに戻ると、その少しの後に二人が商品のパンを一つずつ持って会計に来る。

 

 

「おじさん、これとあと、オレンジジュースお願い」

 

「私は紅茶をお願いします……」

 

「はい、ではそちらの席でお待ちください。」

 

 

席に着いた二人が談笑を始める頃に紅茶が出来上がる。漂う良い香りに満足げに頷いてから今度は氷を入れたグラスにオレンジジュースを注ぎ、二人分が揃ったところでトレーにのせる。

 

 

「かよちん、本当は入りたいんでしょ?」

 

「え?」

 

「アイドル部。昔からアイドルになりたかったんでしょ?」

 

「……私には無理だよ」

 

「そんなことないよ!だってかよちん、こんなに可愛いんだから!」

 

 

二人の会話が耳に入ってくる。

どうやら大人しそうな眼鏡の子はアイドル部に入りたいが悩んでいるらしい。

 

 

「お待たせいたしました。」

 

 

飲み物を運んでいくと、ショートヘアの子が振り向いて

 

 

「おじさんもそう思うよね!?」

 

「え゛?」

 

急に振られた話に変な声が出た。

 

 

「かよちん、こんなに可愛いんだもん!絶対アイドルに向いてるよ!ね!?」

 

「え、え……そんなことないよ……」

 

 

二人にそれぞれ見つめられて京助も言葉に詰まってしまう。

何を言おうと、絶対ロクなことにならない気がしてならないが、かと言って黙り込むのもあまりに失礼すぎる。

どうすれば……

嫌な汗が背中を伝ったところで、

 

 

「い、いらっしゃいませ!!」

 

 

タイミングよく鳴ったドアベルに勢いよく反応して、ここぞとばかりに逃げるようにその場を去る。

救世主にも等しいお客さんに営業スマイルを見せたところで、その正体が救世主などとは程遠いものだと気がついて顔が固まった。

 

 

「げ……!」

 

「あ!あなたは……!!」

 

 

この間、音楽室で出会った赤い髪の少女。あの時は無理やりに逃げ帰ってしまったため、こうして再び顔を合わせると非常に気まずい。

少女に鋭い目で睨まれて、京助は額を流れる冷や汗をそっと拭った。

 

 

「西木野さん?」

 

 

かよちん、と呼ばれていた少女が不意に声を上げた。

それに反応して赤い髪の子もそちらに目を向けて驚く。

 

 

「あれ、あなた達……」

 

 

今がチャンスとばかりに、隙のない動きで素早くカウンターの内側に戻る。

今日は良い日だと思っていたがとんでもない。今日ほどの厄日はそうそうない。

 

 

「……コーヒー」

 

 

カウンターの向こうでレジをいじって誤魔化そうとする彼に一瞥を向けると、彼女はそれだけ言って二人の席に向かう。

 

 

「小泉さん、まだ悩んでるの?」

 

「え?」

 

「スクールアイドル。興味があるんでしょ?だったら早く決めちゃえばいいのに」

 

 

そう言われて、少女はまたうつむいてしまう。

 

 

「ちょっと!何で西木野さんがこの話に入ってくるの!?」

 

「別にいいでしょ。この子だって本当はそう思ってるんだから」

 

「かよちんの事は凛が一番よく知ってるんだから構わないで!」

 

 

険悪なムードに非常に悩んだが、職務を全うするために品物を運ぶ。恐る恐る、ゆっくりと気配を消して三人に近づくき、テーブルにコーヒーをおき、一気に逃げ出そうとしたところで、

 

 

「「おじさんはどう思う!?」」

 

 

二人が同じタイミングで京助に問いかけてきた。

今度こそ本当に逃げ場がない。

 

 

「いや、あの……俺に聞くなよ……ってかおじさん、って言い方何とかなりませんかね?」

 

「おじさんはおじさんでしょ?」

 

 

その発言に、彼の額に青筋が浮く。

 

 

「だって、あなたの名前知らないんだもの。」

 

「あぁ、そう言えば名乗ってませんでしたっけ……。ここの店員の津田 京助です。よろしくお願いします。」

 

 

正直あまりよろしくしたくはない。

だが、話題を変えるチャンスだったので丁寧に一礼して名乗る。

 

 

「京助……さんね。西木野 真姫よ」

 

 

名前と敬称の間に何故だか悩むような間があったのが気になるが、赤い髪の子が名乗り返してきた。

 

 

「私は、小泉 花陽です。よろしくお願いします……」

 

「凛は星空 凛だにゃ。よろしく、津田のおじさん!」

 

 

――だから、おじさんじゃねぇっつってんだろ!?

 

そう言い返そうと思ったが、これ以上言っても無駄な気しかしないので京助は溜息をついて諦めた。

二十代前半にしておじさん呼ばわりは流石に答えるものがある。

 

 

「で、京助さんはどう思う?この子、アイドルに向いてると思うわよね?」

 

「そうそう。可愛いと思うよね!?」

 

 

挙句、話題のすり替えにも失敗してしまった。

順当に考えれば素直に“可愛いと思う”と答えてお茶を濁すのがベストなのだろう。

しかし、目を潤ませて困ったようにこちらを見つめてくる花陽を見ていると、面と向かってそういうのも非常に恥ずかしい。

 

 

「私、声も小さいし、どんくさいし……私なんか……」

 

 

どうしたものかと悩んでいる京助の耳に、そんな小さな呟きが聞こえた。

はっとして彼女の顔をまじまじと見る。

本当はやりたいことがあるのに、悪い方向のことばかりが浮かんできている……そんな葛藤を抱えた表情をしていた。

 

――やっぱりこの子は苦手だ……

 

改めてそう思う。

即断即決即行動、彼女とは対照的な考えで今まで生きてきた京助だが、だからといって彼女の気持ちが分からない訳ではない。

悪い癖が、また顔を出し始めてしまう。

 

 

「はぁ~……」

 

 

深く、大きなため息をついて、空になった二人分のカップを回収。その場から早足に去る。

突然の行動に面食らう三人を尻目にカウンターの内側に入り新しく二人分のコーヒーを淹れ、そのついでに商品のカップケーキを更に乗せて三人のもとに戻る。

 

 

「はい。これはおごりです。」

 

「え?ちょっと、何よ急に……意味わかんない。」

 

「いいんですか?」

 

 

急に出されたおごりの品に驚きながらも、三人がそれぞれ少し口を付けるのを見て、再び京助はため息をついた。

 

 

「先に言っとくが、俺は口が悪い。そこは勘弁してくれ」

 

 

接客用の丁寧な口調をやめて、素の口調で話し始める。

お客さんとはお金を払ってくれる人のこと。こちらのおごりでとは言えタダで飲み食いする人間はそうみなさなくても良い。こじつけのような理論だが、それでも理由付けが欲しかった。

お客さんが相手ならば何がなんでも丁寧に接するが、それ以外なら話は別だ。

これでやっと、言いたい事を言える。

 

 

「小泉ちゃん。君、本当はアイドル部に興味があって……入りたくて仕方ないんだろ?それならもう答えは出てるだろうよ。」

 

「え、え……?」

 

 

突然の京助の変貌に流石の凛も真姫も驚いているのか何も言わずに目を丸くしていた。

 

 

「でも、」

 

「でももだってもヘチマもヒョウタンもあるか。小泉ちゃんも、星空ちゃんも西木野ちゃんもまだ若いんだ。やりたいことを我慢して何もしないなんて、面白くねぇぞ?」

 

 

――もっとも、やりたいことだけをやった結果の成れの果てが目の前にいるが。

 

そんなことを考えるが、口には出さない。

思えば京助も彼女達と同じ歳の頃には信じられないような無茶を繰り返してきた。やると決めたらやる、その信念のもとに駆け抜けて来た。

その結果が夢に敗れた今の姿だが……彼は自分の人生に不思議と後悔はしていなかった。

 

 

「さっきもそっちの二人がしきりに言ってたが……実際、小泉ちゃんはスクールアイドルとしても十分やってけると思うぜ。」

 

 

そこまで一息で言ってから、今度は視線を花陽から外して凛と真姫に向け、

 

 

「あんたらもだ。何を迷ってんのか知らねぇけど、あんたらも興味があるならやってみれば良い。」

 

「そんな、凛にアイドルなんて……」

 

「おい、星空ちゃんも小泉ちゃんと言ってること変わんねぇぞ?」

 

 

さらに京助は真姫に目線を向ける。

 

 

「な、何よ?」

 

「西木野ちゃん。ちっとは素直になるのも必要だと思うぜ」

 

 

思い切り睨まれた。

だが、今度はひるむことなく不敵に笑って視線を真っ向から受け止める。

 

 

「……っと、俺から言えるのはこの位ですね。大変失礼を致しました。」

 

 

言いたいことは全て言い切った。

京助は思い切り頭を下げて謝罪の意を示す。

そうしている内に頭に上った血が冷めてきて、代わりに冷や汗が吹き出てきた。

かっとなりやすく、ふとすれば思ったことを全て口に出してしまう、京助のもう一つの悪い癖。この所為でずいぶんといらない苦労を重ねる羽目になってきた。

顔色を伺うようにそっと顔を上げると、三人は驚いたような顔をしていた。だが、直ぐに真姫が口元を押さえて笑い出した。

 

 

「あなた……そっちの性格の方が見かけとあってて良いわね。前から気持ち悪い気がしてた。」

 

「き、気持ち悪い……?」

 

 

一生懸命丁寧を心がけていただけあって、案外にショックだった。

釣られたように凛も笑い出し、しまいには花陽まで吹っ切れたように笑い出してしまった。

 

 

「津田さん、ありがとうございます。」

 

 

お礼まで言われて、京助は逆に困惑してしまう。

彼が語ったのは傍から見れば薄っぺらい一般論に過ぎない。

しかし、彼の乱雑な口調とは裏腹に、真剣な表情で語られた言葉の端々には彼が経験してきた苦労や思いが滲んでいた。

だからこそ彼女たちに響いた。

 

 

「じゃあ、かよちん!そうと決まれば先輩たちのところに行こう!」

 

「今から?」

 

「えぇ。善は急げ、よ!」

 

 

二人に引っ張られるようにして、花陽も立ち上がり、三人は店の出口に向かっていく。彼女たちの表情は晴れ晴れとしていた。

 

 

「おじさん、ありかとうだにゃ!」

 

「いえいえ。次おじさんって言ったら店にいれませんよー」

 

 

少女たちを見送ったところで京助は営業スマイルではない笑みを浮かべた。

食器を片付けたところで、ふと思いついてかけっぱなしになっていたCDを別の物に入れ替える。

流れてきた音楽を聞いて、遂に京助は吹き出した。

 

 

『let it be』(あるがままに)か……」

 

 

京助意外誰もいなくなった店内に、小さな笑い声と優しい音楽だけが流れていた。




こんばんは、北屋です。
少し執筆の速度が上がりました。
ようやく一年生もメンバー加入にこぎつけ、次回は遂に!あの子の登場です!
書くのが楽しみで仕方がないw

PS.京助くんはまだ二十代前半も前半です


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第十一話 襲来 ―パン屋の憂鬱―

音ノ木坂スクールアイドル、μ’sは一年生3人を加えて晴れて6人になり、活気を増した。

これからの活躍に期待が高まり、部外者のはずの京助も態度にこそ出さないものの内心では我が事のように嬉しく感じていた。

それはそれで喜ばしいことである。あるのだが……

 

 

「おじさん、ジュースお代わり~」

 

「あ、私にもアイスコーヒーをお願いします。」

 

 

いつにも増して賑やかな店内を見回して、京助は渋い顔をした。

学校からもほどよい距離にある彼の店は、見事にメンバーの練習後や会議の場として利用されていた。

店の窓から見える空はどんよりと曇っていて、今にも泣き出しそうな天気。まるで今の京助の心情を表しているかのよう。

しかも近頃、梅雨入りした所為もあって雨でロクに練習が出来ないメンバーが毎日のように来るため、さながらたまり場とかしているのであった。

 

 

「はい、ただ今……あと星空ちゃん、次おじさんって言ったら怒りますよ?」

 

 

店としては常連客が増えて嬉しいことではあるのだが、京助としては正直微妙なところだった。

なまじ顔見知りなばかりに、少女たちは彼に対してあまり遠慮がない。大分治ってきたとはいえ女の子が苦手な京助としては、彼女たちとの距離感が結構苦痛に感じることさえもある。

この頃、やること成すこと全て胃痛の種をばらまく結果となっている気がした。

 

 

「お待たせいたしました。こちらお品物になります。」

 

「あれ、何かパン屋さん疲れてない?」

 

 

気の抜けた営業スマイルを浮かべる京助を見て、穂乃果が首を傾げるが、まさかお前らの所為だとは言えず、力なく微笑んで返答代わりとする。

 

 

「何だか顔色も悪いみたいですけど、本当に大丈夫ですか?」

 

「無理は、いけないと思います。」

 

 

ことりと花陽が心配したように覗き込んで来て、余計胃痛に拍車がかかる。その心遣いは嬉しいが、こちらの身を案じてくれるなら頼むから放っておいて欲しかった。

 

 

「前から思ってたけどホントに人相……じゃなくて顔色悪いわよ?一度うちの病院で健康診断でも受けてみれば?」

 

「……顔色が悪いのはもともとなので気にしないでください。……ご注文は以上でよろしいですか?」

 

 

言い直したのが気になるが、あえて聞き流す。

これ以上ここにいると素が出てしまいそうなので、さっさと彼女達から離れたい一心で切り上げようとするが、

 

 

「あ、あの。この間のカップケーキありますか?美味しかったから……」

 

「はいはい。少々お待ちください。」

 

 

花陽から新たな注文を受けて内心げんなりしながらも注文を伝票に書いて踵を返そうとすると、今度は凛が、

 

 

「この間と言えばおじさ「おにーさん!」……おにーさん、今より前の口調の方が、凛は合ってたと思うにゃー」

 

「前の口調……?どういうこと?」

 

 

先日の一件を知らないことりが疑問を口にすると、

 

 

「この前三人でこの店に来たときは地で喋ってたのよ。」

 

「そうなんです。花陽も、前の口調の方が似合ってると思います。」

 

 

――余計な事を

 

そう思った時には、穂乃果が面白そうに目を輝かせ始めていた。

 

 

「パン屋さん、折角だしもっとフレンドリーに話してよ!知らない仲でもないんだし。」

 

「いや、お客様相手にそれはちょっと……」

 

 

前回は無理やりとは言え相手を客とみなさないことにしたから出来た事であって、本来ならば褒められた行為ではない。

それともこれは暗におごりを要求されているのだろうか?

 

 

「え~、だっておじさん、余計に老けて見えるよ?」

 

「うるせぇ!誰がおじさんだ、こちとらまだ二十代前半だ!」

 

 

何度言っても治らない“おじさん”扱いに、遂に京助も頭に来て素の口調が出てしまった。

しまった、そう思って口を塞ぐが既に遅し。初めて京助のそんな様子を見た二年生はキョトンとして、それに加えて何故か一年生もびっくりした表情を浮かべている。

 

 

「おぉ!パン屋さん、結構ワイルドなしゃべり方するんだね!」

 

「あの……失礼ですがその――二十代、前半なんですか?私はてっきり……」

 

「三十ちょっとくらいかと思ってたにゃ……」

 

 

額に青筋が浮かぶのが自分でも分かった。

このままだと怒鳴ってしまいそうなので無言で踵を返して今度こそ調理スペースに引っ込む。

これまでにもずっとからかわれてきていたが、言うにことかいて実年齢から10歳も年上に見られていた事に非常に腹が立った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気分を入れ替えるためにプレーヤーに適当なCDをセットすると、今回は静かなクラシック音楽が店内に響きだした。ムソルグスキーの『展覧会の絵』……ただし、今流れているのはアコースティックギターによる演奏だった。

好きな曲のおかげで少しだけテンションが戻り、『プロムナード』の緩やかな曲調に合わせるようにゆっくりと商品を運んでいく。

 

 

「お待たせ致しました。こちらお品物になります……」

 

「わー!可愛いー!」

 

 

京助の低いテンションとは逆に、品物を見たことりが歓声をあげた。

小さめの生地にふんわりホイップクリームがのせられ、その上にそれぞれフルーツやチョコレート菓子が飾られたお洒落なカップケーキに、他の少女たちも目を丸くしていた。

 

 

「ちょっと待って、これ……あなたが作ったの?」

 

「? はぁ、そうですが?」

 

 

商品を作る店員は基本的に一人しかいないため、京助が作った物以外が店頭に出ることはまずない。そのため喫茶店メニューのカップケーキは一日の数量限定で、何を隠そうもう今日の分はこれで売り切れだった。

 

 

「人は見かけによらないのですね……」

 

「美味しい!パン屋さん、ケーキ作りも上手いんだね!」

 

 

失礼な発言が聞こえた気もするが、穂乃果の素直な感想のおかげであまり気にならずにすんだ。うっすらと笑みを浮かべて一礼すると、彼はそそくさとその場をあとにしようとして……

 

 

「あ……!」

 

「んあ?」

 

 

ことりがケーキをつつくフォークを止めてガラス張りの店の外に目をやっていた。京助もその目線の先を追うが特に何も見つけることは出来なかった。

 

 

「今、お店の外に誰かいたみたい……また今朝の人かな?」

 

 

心配そうな顔をして、ことりは穂乃果と海未の方に目をやった。

釣られてそちらを見て、よく見れば穂乃果の額が少しだけ赤くなっていることに京助は気づいた。

 

 

「今朝、何かあったんですか?」

 

 

余計な詮索は無用――そう知りつつもつい尋ねてしまった。

 

 

「うん。何だか知らない人に『解散しろ』っていわれちゃった……」

 

 

穂乃果は額を掻いて、えへへ、と小さく笑ってみせる。

 

 

「そういえば最近、変な視線を感じることがあるのですが、同じ方でしょうか?」

 

「そういえば、私も……この頃誰かに見られてる気がします。」

 

「まぁ、それだけ凛達が有名になったってことだよね!」

 

 

凛が楽観的に言うが、海未と花陽の顔は晴れない。

やはり、得体のしれない人間に見られているということはあまり気持ちのいいものではない。

 

 

「ッ!やっぱり誰かいるわよ!」

 

 

真姫が店の外に鋭い視線を向ける。今度は京助もガラスの向こう側で何者かが木製の扉の影に隠れる様子を目にすることができた。

 

 

「待て」

 

 

憮然とした様子で立ち上がって扉に向かおうとする真姫を京助が手で制する。

一瞬真姫が彼を睨んだが、いつになく真面目な彼に雰囲気に気圧され、全員が一斉に黙って彼を見つめた。

 

 

「下手に刺激すんな。……妙な手合いを刺激すると何されるか分からねぇ」

 

 

一瞬、脇腹にチクリとした痛みが走るのを感じて、京助は眉を寄せた。

 

 

「でも、このまま見られてたら練習の邪魔に……」

 

 

なおも食い下がる真姫を見て、京助は苦虫を噛み潰したかのような顔をする。

眉間に皺を寄せて何かを考えたかと思うと、彼は盛大に溜息をついて、

 

 

「………はぁぁー。これ、俺がどうにかしなきゃならないのかよ……まぁ、店内トラブだしな……気が乗らねぇ……」

 

 

ブツブツ言いながらも、自然な動きでプレーヤーまで移動し、音楽を変える。曲のスタイルが180°変わって、騒がしいハードロックの音楽が流れ始めた。

一気に騒がしくなり、外から話を聞き取ることは不可能となった店内で、さらに彼は声を潜めて続ける。

 

 

「そこの厨房を抜けると、裏口に出る。一先ずそこから逃げろ。」

 

「え!?……しかし、」

 

「変な手合いに関わるとロクなことにならねぇ……俺を刺したのもそんな感じの奴だったしな」

 

「え!?刺されたってどういう……」

 

 

不用意な発言にツッコミが入りそうになったが、京助は面倒臭そうにしっしっと手を振って、早く行くように急かす。

不安げに、あるいは釈然としない顔をしながらも、全員が外に出て行ったのを確認する。そのまま扉の方を見れば、まだそこには人の気配があった。

 

――さて、と。

 

忍び足で扉に近づく。

幸いにして相手はこちらに気づいた様子はない。

京助は扉の前に立つと、その顔いっぱいに獰猛な笑みを浮かべる。それは、とてもではないが多感な十代の少女たちに見せられた顔ではなかった。

 

 

「――せーのッ!!」

 

 

思い切り、壊れてしまえとばかりにドアを蹴り開ける。

破壊音に近い盛大なドアの開く音に続き、ごつん、と鈍い音がした。かと思うと、勢いよく開いたドアの向こう側に誰かが転がるのが見える。

その姿を確認し、彼は冷たい目を向けた。

 

――あいつらに……お客さんにロクでもない事をするような相手に容赦はしねぇ

 

場合によっては仕置に腕の一本や二本や三本、へし折ってやろうとさえ考え――そこでようやく京助は、自分が思っているよりも自分が感情的になっていることに気づいた。

いつの間にか考え方が、荒れていた若い頃に戻っている。その事を良くないと自覚しながらも、目の前の人物を睨みつけ――

だが、尻餅をついたその人物は京助の想定外すぎて、さしも彼も一瞬思考が停止してしまう。

それは小柄な少女だった。黒い長髪を両サイドでツインテールに結んだ、穂乃果達と同世代位の女の子。

変装のつもりなのか、顔の大半を大きなマスクで覆っていて、彼女の足元には今の衝撃で吹き飛んだと思わしきサングラスが転がっていた。

 

 

「いたた……あんた、何するのよ!?」

 

 

少女がマスクを外して不満の声を上げた。

それを見て、京助の抱いた“まさか”という思いは確信に変わっていく。

京助は監視者が女の子だったから驚いただけではなかった。

 

――この子は……!

 

 

「矢澤、ちゃん……?」

 

「え?……えぇ!?京助先輩!?」

 

 

二人分の驚きの声が静かになった店内に木霊した。

 




こんばんは、北屋です。
ついに、遂に私のお気に入りの子、みんなのアイドルのあの子を出すことが出来ました!
次回は主人公の過去にちょっとだけ触れて、彼女との関わりについて書いていくつもりです!


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第十二話 襲来 ―少女の苦悩あるいはパン屋の過去―

小さい頃からアイドルになることが夢だった。

キラキラと輝いていていろんな人たちに笑顔を与える素敵なお仕事、それがアイドル。

物心ついた頃からずっと憧れて、そんな風になりたくて、ずっとずっと、いっぱい努力を重ねてきた。

でも、人生ってそんなに上手くはいかないらしい。

空回ったり、失敗したり、思うように進まないことの連続で、何度もくじけて折れそうになる。

そんな時はあの出来事を思い出してみるんだ。

私の夢を真剣に聞いて、励ましてくれたあの人のことを。

あの人も、きっと今もどこかで夢を追いかけているはずだから。

だから私は今日も笑うんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夕暮れが近づく時間。

今にも雨が降りだしそうな薄暗い空模様だった。

 

「……」

 

 

少女は無言のままテーブルの上の書類を見つめていた。

どれほどの時間こうしているのか、もくもくと湯気を上げていたホットココアも冷め切ってしまっている。

呆然と席に座り続けるだけの彼女を見て、店主のおばさんも何度かちょっと様子を見に来ていたが、その問いかけにも彼女はロクに答えられていない。最後に何事かを聴きに来た時にも、大丈夫です、と小さな声で答えるのが精一杯だった。

困った顔でおばさんが席を離れてから、もう一度書類を手にとってそれを読み直し始める。

それは入学願書だった。

まだスクールアイドルがそれほど有名ではなかった時代だったが、その高校が誇るアイドルユニット『A-RISE』が評判を博し始めていて、彼女たちを一目見た時から虜になった。

UTX学院――彼女が心の底から行きたいと、そこで夢を叶えたいと願った学校。

 

 

「……ッ」

 

 

パンフレットをめくる手がある1ページで止まった。

入学金の欄――そこには相変わらずに考えられないような数字が載っていた。

それを初めて見たときはあまりのショックで思わず家を飛び出してしまった。何も考えられないまま走り出して、気がついたらいつもは入らない喫茶店でずっとこうしているのだった。

アイドルになりたいと、小さな頃から願ってきた。そのために何度も努力をして、その度にお金が原因で諦めることを経験して、それでも負けずに頑張って――

またしても、そんな理由で夢が崩れていくのを感じた。

書かれた文字が視界で歪んだ。

悲しくて、辛くて、今にも涙がこぼれ落ちそうだった。

 

――泣いちゃ、ダメ

 

心のどこかでそんな声がする。

今までもどんない辛い事があっても泣かずにきた。泣いたらそこで本当の負けになっちゃうから。

だから今もこぼれ落ちそうな涙をこらえて引っ込むのを待つ――

 

 

「ほい。どーぞ、っと」

 

 

不意に視界の横から手が伸びて、目の前に湯気を上げるココアが置かれた。

驚いてその手の伸びた方向を見つめると、そこには自分よりも年上と思わしき少年が立っていた。

全体的に黒っぽい服を着た、逆立った髪が印象的な男性だった。ガラの悪いその風体に彼女は警戒してしまうが、彼は彼女の顔を見るなり、にっこりと見かけとはかけ離れて人懐っこい笑みを浮かべた。

 

 

「ちょっと相席させてもらうぜ。」

 

 

返事をする間もなく、少年は彼女の前の椅子に勝手に座り込む。

辺りを見回してみるが店内には人影がなく、彼女と少年以外はいない。新手のナンパか何かだろうか。

 

 

「っと、そんなに警戒しないでいいぜ。別に新手のナンパだの宗教勧誘だのじゃねぇから。ただちょいと気になってな。」

 

「……気になった?」

 

 

警戒しながらも問いかけてみる。

 

 

「あぁ、俺の性分でね。たいしたこっちゃねぇんだが……それはそうと、君、矢澤にこちゃんだろ?」

 

「!? 何で知ってるんですか?」

 

 

見知らぬ男性にいきなり名前を言われて彼女――にこはいつでも逃げられるように椅子を引いた。

対する少年はというと、焦ったように両手を目の前で振って否定する。その酷く必死な様子があまりにコミカルで、見ていると途端に毒気が抜けてしまった。

 

 

「いや、その、警戒しなくても……俺も君と同じ中学出身でね。面白い後輩の話は割とよく聞くんだ。っと、そうだ!紹介が遅れた。俺は津田 京助ってんだ。」

 

「津田……先輩ですか?」

 

 

名前を呼んでみてふとひっかかる物を感じた。どこかでこの名前に覚えがある。

確か――

 

 

「もしかして、文化祭のライブで、舞台上で大喧嘩始めた津田さんですか?」

 

 

「っ!?ま、まぁ、そんなこともあったな……ってかそんな話まだ残ってるのかよ」

 

 

生徒の間で半ば伝説じみて語られる話を振ってみると、明らかに動揺した様子で彼はそれを認めた。

 

 

「他にも、気に入らない先生の車に落書きしてまわったとか、好きな子の気を惹こうと3階の窓から飛び降りたとか……」

 

「もうその辺にしてくれ……」

 

 

にこの話を手で制して京助は顔を覆ってうつむいてしまう。

代こそかぶらなかったが、在学中には喧嘩と悪事に明け暮れた人だと聞いていた。当時を知る人は口を揃えて『絶対に関わるな』と言うが――

実際に会ってみて、噂とその実態に大分落差を感じた。

 

 

「で、その津田先輩が何の用ですか?」

 

 

きっ、と睨みつけてそう問いかけると、京助はにやりと不敵な笑みを浮かべ返した。

 

 

「そんなおっかない顔すんなよ。なんつーか、その、あれだ。君――あれだろ?アイドルを目指してるんだって?」

 

 

アイドル

彼の口から飛び出した言葉を聞いて、立ちくらみのような感覚に襲われる。つい先ほどまで彼女を悩ませていた黒雲が再び沸き立ってくる。

雲行きの怪しくなった彼女の顔を知ってか知らずか、京助は徐に彼女の手元から書類をひったくった。

 

 

「あ……!」

 

「うおッ!何だこの値段!?信じらんねぇ!!」

 

 

大げさに驚いてから書類全体を見回して、彼は渋い表情を浮かべた。

 

 

「成程、矢澤ちゃんはここの学校に行きたかったわけか……」

 

 

先ほどまでとは打って変わって、真面目なトーンで言う。

それを耳にして、引っ込みかけていた涙がまた顔を出す。泣いちゃいけない、泣いたら本当の負けになる――

 

 

「気にすんな、とは言えねぇな……ずっと行きたかったんだろ?でもな――」

 

 

一息ついて、彼は真剣な眼差しをにこに向けて問いかける。

 

 

「よく考えてみろ。お前がなりたいのは何だ?ここの生徒か?それとも――No,1アイドルか?」

 

 

何かが、音を立てて崩れたように感じた。

ショックのあまりに忘れていた。自分がなりたいものは一体なんだったのか。

自分がなりたいのは――自分の夢は――

 

 

「別にここに行かなきゃ夢が叶わないってわけじゃないんだろ?なら、前を見ろよ。足元ばっかり見てても面白いことはないぜ?」

 

 

そう言って、彼は自分のコーヒーを口にする。

 

 

「……笑わないんですか?」

 

「あん?」

 

「私の夢――笑わないんですか?」

 

 

途端に京助の眉間に皺がよった。

 

 

「あ゛?人の夢を――それこそ努力を笑う野郎がどこにいるんだよ?」

 

 

怒りを顕にして言い切る。

今まで夢を聞いて、笑わずに、真剣に受け止めてくれた人はにこにとって初めてだった。

 

 

「……津田先輩の夢って何ですか?」

 

 

少し気になって問いかけてみる。

すると彼は、にやり、と笑ってテーブルの横に立てかけられたケースを手で叩く。箱の中からは何か弦が揺れるような低い音が聞こえた。

 

 

「俺の夢はこいつで日本一になることだ。」

 

 

真面目にそう言う彼を見て、にこは思わず吹き出してしまった。

そんな彼女を咎めることなく、京助は笑って

 

 

「そうそう、その笑顔だよ。あんたは笑ってた方がいいぜ。――そうだな、決めた。」

 

「?」

 

「今から俺は……第何号かは知らないが、あんたのファンだ。あんたの夢、ずっと応援してやるよ。」

 

 

真っ直ぐにそう言う彼の目を見ていると、何故だか顔が暑くなってくるのを感じた。多分、店の空調の所為だ。

赤くなった顔をごまかすように今度はこっちから思い切り彼の目を見据えて宣言する。

 

 

「ふん!上等よ!ならこの私の――スーパーアイドルにこにーのファンにふさわしく、あなたも絶対夢を叶えなさいよ!」

 

「おう、そっちこそ上等じゃねぇか。あんたもその夢、絶対叶えろよ!」

 

 

お互いに声を出して笑い出す。

窓から見える空はいつの間にか晴れて、綺麗な夕焼けが浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほい。これは俺のおごりだ。」

 

「……ありがと。」

 

 

京助が出したアイスココアとカップケーキを受け取ると、にこは席についたまま黙り込んでしまった。

お互いに何を話せば良いのか分からずに黙り込んでしまい、気まずい空気が店内に流れていた。

 

 

「……久しぶり、だな。3年ぶりだっけか」

 

「えぇ……」

 

 

沈黙に先に耐え切れなくなったのは京助だった。

 

 

「いきなり見かけなくなるから驚いたわよ……ファンに刺されて死んだとか変な噂も聞こえてくるし。」

 

 

――心配、したんだから。

 

そう小さく付け足されたような気がした。

 

 

「まぁ、あれだ……一応こうして生きてはいるよ。」

 

 

あの頃は色々とごたついていて、周りに気を使う余裕がなかった。

その所為でいらない心配をかけていたのかと思うと、ちくりと胸が痛んだ。

 

 

「まだ――夢は諦めてないんだな?」

 

 

話題を変えるように京助は問いかける。

穂乃果達、μ’sのメンバーにちょっかいをかけているのはつまりそういうことだろう。

 

 

「えぇ。当たり前でしょ……」

 

 

思った通りの答え。

しかし、そこに昔のような元気がないように感じられるのは、きっと気のせいではない。あの後ずっと努力を続けてきたのだろう。そして何度も空回ったり、上手くいかないことにぶち当たったりしてきたのだろう。

 

――まるで俺だ

 

そう思って、しかし京助はその考えを直ぐに否定した。

自分は夢に敗れ、諦めた。

だけどこの子は違う。少なくともまだ夢を諦めてはいない。

 

 

「μ’sの子達と、おんなじ学校なんだな。」

 

「……」

 

 

μ’sの名前を出したとたん、にこの表情が一気に曇った。

何かしら思うところがあるのだろうか。

 

 

「少し聞いたが、どうも解散しろとか言ったらしいな。どういうことだよ?」

 

 

先ほど穂乃果たちがしていた話を聞いてみる

 

 

「あの子たちがやってるのはアイドルへの冒涜なのよ」

 

 

不機嫌さを隠そうともせず、吐き捨てるように彼女は続ける。

 

 

「アイドルのなんたるかも知らない、圧倒的に知識も何もかも足りないのにスクールアイドルなんて……遊び半分でやってるとしか思えない。」

 

 

言うだけ言うと、彼女は飲み物を一口飲んで小さく溜息をついた。

 

 

「いや……俺もそんな見てるわけじゃないが、あの子達は遊び半分なんてわけじゃないだろうよ。いきなり解散しろってのは……」

 

 

彼女の言わんとしている事も、その気持ちも十分に分かるが、一先ずは大人として正論を述べてたしなめてみる。

にこはそんな京助を一瞥すると、

 

 

「そういう津田先輩だって、ただのど素人がいきなり先輩の楽器のことを面白半分に語ったら、」

 

「問答無用で殴り倒す。話はそのあとだ。」

 

 

――話によってはその後も立て続けに蹴飛ばすかもしれない。

 

言ってから後悔に襲われて頭を抱える。状況を想像したら反射的に言葉が口をついて出てしまった。

にこはそんな京助を見て、ほらやっぱりとでも言いたそうな呆れた顔をしていた。

 

 

「と、ともかくだ。」

 

 

咳払いをして続ける。

 

 

「俺が言うのもあれだが、あの子達のこと……ちょっと気にかけてやってくれないか?」

 

「はぁ!?なんで私がそんなこと……」

 

 

にこは目を丸く見開いて反論しようとするが、彼と目があった瞬間黙り込んでしまう。

京助の目は、いつか初めてあった時に、夢を語ったときと同じように真剣そのものだった。

 

 

「……ホントは、矢澤ちゃんも気になってるんだろ?」

 

「……ッ」

 

「知識がないなら学んでいけば良い。足りない物があるならこれから身につけていけば良い。……そのために、アイドルのなんたるかを、教えてやってくれないか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

にこが帰って、誰もいなくなった店内。

清掃を終えて、“close”の看板を外に出すと、本来は禁煙の店内でタバコに火を点けた。

 

 

「……ふぅ」

 

 

苦い紫煙を吐き出して、彼はぼんやりと考えていた。

μ’sに興味があっても、あと一歩踏み出せない。

そんなにこの気持ちが京助には何となく分かる。きっと、その一歩を踏み出すために必要なのは小さな後押しだけ。その小さな後押しを引き受けただけのこと。

それは、いつもなら面倒くさがって絶対にやらないような役割だった。

 

――その夢、絶対叶えろ

 

そう約束した時の京助はもうここにはいない。

だからせめて、彼女には夢を諦めて欲しくなかった。

 

 

「――結局言えなかったな」

 

 

自分が夢を諦め、逃げ帰ってきたことを、結局にこに伝えることが出来なかった。

胸の奥で何かが刺さるような鋭い痛みを感じた。

 




こんばんは、北屋です。
風邪をひいて喉がいたい現状です

さて、先日はスクフェス感謝祭に行ってきましたよ!完全再現の部室には思わず興奮で声が出ました。
ジャージの購入でお財布が火の七日間を迎えていますが後悔はありませんw

次回も更新頑張っていきます!


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第十三話 リーダー

夢を見ていた。

若かりし頃、一番輝いていた時代のことだった。

 

 

 

周りを見れば同じ夢を持った仲間たちがいた。

一癖も二癖もあるメンバー達は衝突をくり返し、時には殴り合いの喧嘩までしながらもそれなりに上手くやってきて、気がつけばノリと勢いで始めた活動がようやく軌道に乗り始めていた。

しかし、そんな折に届いた一通の知らせを目にして、京助は思わず溜息をついた。

 

 

「本当にどうすっかな」

 

 

つぶやいては見たものの反応するものは一人もいない。それぞれ自分の得物の手入れか携帯電話をいじることに夢中で、京助の話を真面目に聞いている様子はなかった。

それを見て京助はさらに深いため息をついて再び手元の紙に目を向ける。

 

“参加申込書”

 

そう書かれた紙にはいくつかの事項があり、その殆どは京助の汚い字で埋められている。

だが、一番肝心なところだけがかけていた。

それはメンバーの氏名記入欄。

一番はじめに名前を書くべき代表者の座についてもめているのだった。

 

 

「ったく……おい、お前名前書けよ。」

 

 

シンバルの音が小さく鳴る。声を掛けられた本人は京助に向き直って両手のスティックで×印を作って見せた。

 

 

「んじゃ……リーダーって言ったらボーカルか?」

 

「あたしはパス~」

 

 

携帯をいじっていた少女は顔すら上げずに拒否する。

続けて他のメンバーの顔を見ると、それぞれ曖昧な笑みを浮かべたり、あからさまに視線を外し始めた。

代表者――すなわちチームのリーダー。

暫定的とは言えそれを決めることは難航していた。だがそれは全員がその地位を巡って争ったわけではなく、逆に誰もやりたがらないのであった。

 

 

「俺もパス。めんどい」

 

「めんどい、じゃねぇよ。誰かがやらなきゃ次のライブ、どうすんだよ!」

 

 

若干キレ気味に京助が言うが、誰も気に求めた風もなくそれぞれの作業を続けていく。

その中で一人、今まで静かにキーボードに向かっていた少年が顔を上げて短く告げた。

 

 

「あのさ、やっぱリーダーは――」

 

 

 

 

 

 

 

 

にこが店に来てから数日が経った。

あの後どういった事があったのか、その経緯について京助は知らないし、特に踏み込んで聞くつもりもない。しかし、結果として見ればにこはμ’sの一人として活動することになったようだ。

口の中で飴玉を転がして、京助はぼんやりと考える。

にこが夢を諦めることなく先に繋ぐことが出来た――その事に京助は安堵のような物を感じていた。

かつて、一瞬とはいえお互いの夢を語った相手。今の自分は夢に敗れてしまったが――諦めてしまったからこそ、にこにはそうなって欲しくなかった。自分の代わりに、などと見苦しいことは考えているわけではないが、彼女には成功して欲しいというのは心からの思いだった。

だから当然、彼女が仲間たちと共に新たな一歩を踏み出したことは彼としては非常に喜ばしいことである。

喜ばしいことではあるのだが――

 

 

「にっこにっこにー!」

 

「「「「「「にっこにっこにー!」」」」」」

 

「てめぇらいい加減にしろよ……」

 

 

店内に響き渡る複数人の声。

これが一度なら苦笑で済むが、何度も店内で練習されてはたまったものではない。耐え兼ねたのか京助も若干のイラつきを見せていた。

μ’sは三年生のにこを加え7人となった。最初は3人から始まった活動も今では倍以上の人数になり活気も勢いも増す一方。

だが、それに伴い京助の店に訪れる頻度も日毎に増して来ている。ここのところほぼ毎日、ひどい時には休日にまで来店する始末である。

メンバーが増えるにつれ、彼にかかる心労も倍になり、今ではひどい胃痛さえ感じる始末であった。

 

 

「あ、おじさん!ジュースお代わり!」

 

「はいはい……次おじさんって言ったら、出禁くらわすぞ。」

 

 

頼まれたジュースの他に、空になっているカップを確認してそれぞれにコーヒーを継ぎ足す。無論京助のおごりである。

そう言った何気ないサービスが、彼女たちがこの店をよく利用する要因の一つになっているのだが、悲いかな京助は気がついてすらいない。

 

 

「それはそうと……」

 

 

8つ目のカップにコーヒーを注ぎながら京助は嫌そうな顔を隠そうともせずに持ち主に視線を向ける。

そんな京助とは対照的に、希は楽しそうに微笑んでいた。

 

 

「何でアンタまでここにいるんですか?」

 

「そんな嫌そうな顔しないで。津田くんとうちの仲やん?」

 

 

希のからかうような口ぶりに、京助の眉間に深い皺が寄る。ただでさえ良くない人相が普段を通り越して極悪人のそれに変わっていた。

本格的にこの少女が苦手らしい。

 

 

「あの、津田さん、希先輩とお知り合いなんですか?」

 

「えぇ、まぁ、一応……」

 

 

花陽に尋ねられて京助は口ごもる。

知り合いと言えばそうだが、知り合った経緯が経緯なだけに説明しづらく返答に困る。

 

 

「二人はどういう仲なのかにゃ?」

 

「ん~、そうやね?未成年には良くない話になるけどいいん?」

 

 

無論、京助の喫煙の事である。

だが、彼女の誤解を招くような発言にツッコミをいれようとして、しかしそこで彼は口を開くのをためらった。

途端に空気が変わるのが肌で感じられた。

7人の視線が一気に集まって、それだけで圧力のような物を感じて京助は思わず一歩退く。

 

 

「ぱ、パン屋……さん?」

 

「あなた……何考えてるの!?」

 

「ちょっ、待て!絶対誤解してる!つーか、てめぇ、東條!ふざけんな!」

 

 

突き刺さる様々な視線に耐え兼ねて京助は両手を振って否定する。しかし希はと言うと、悪戯が上手くいった子供のように嬉しそうに微笑んでいる。

誤解を解くために順を追って説明しようとする京助の腕が、不意に掴まれた。

 

 

「津田先輩?これはどういうことよ!?」

 

「痛ぇ!爪立てんな!だから誤解だって言ってんだろ!?俺はただ弱みを……」

 

 

――握られている

そう言おうとしたが、少女たちの間にどよめきが走り彼の声がかき消される。また余計な誤解が生まれてしまったらしい。

 

 

「不潔です!あなたは最低です!」

 

「だから誤解だって言ってんだろ!?」

 

「ひっ……!」

 

「……」

 

「小泉ちゃん、人の顔見て悲鳴あげんな!そんで南ちゃんはあからさまに軽蔑の視線を送るのをやめろ!」

 

 

ひとしきり身に覚えのない非難にさらされ続け、それに応戦して声を張り上げているうちに、遂に京助がキレた。

 

 

「だぁぁあ!黙れガキ共!つーか俺の店から出てけ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

怒鳴り散らしてから数分後。そこには少女たちから離れた机に突っ伏す京助の姿があった。

事態を見かねたのか、それともひとしきり遊んで満足したのか定かではないが希が悪ふざけでからかっていただけだと白状したため京助の疑いはどうにか晴れた。だが、疑いは消えても彼にかかった心労は消えてはくれなかった。

 

 

「もう来んなよ……大人しくファーストフード店にでも行けよお前ら……」

 

 

よっぽど堪えたのか、京助は店主としてあるまじきことを泣きそうな顔でぶつぶつつぶやき続けていた。

 

 

「ごめんごめん、堪忍してや。で、何でうちがここにいるか、だったよね?」

 

「もう、そんな話もお代も結構だから帰ってくれ……」

 

 

涙目で言う京助に構わず、穂乃果が話を引き継ぐ。

彼女たちは頑としてこの店を離れる気はないらしかった。

 

 

「希先輩は生徒会の方で私たちの紹介用映像を撮ってくれてるんだよ」

 

「紹介用……映像?」

 

「そうです。学校の部活動紹介で取り上げていただけるそうなので」

 

 

気怠げに京助は体を起こし、タバコがわりに棒付きキャンデーを口に咥える。

近頃スクールアイドルが流行っているというし、こういった活動は彼女達μ’sの活動にもプラスになるだろう。それに、廃校を阻止するという目的にも合致している。

だが――

 

 

「で?何で俺――自分のところにまで?」

 

 

学校での撮影なら分かる。本人の家の取材というのも理解は出来る。

だが、何故彼女たちの取材のために自分の店に来ているのかが分からない。

 

 

「ほら彼女達、津田くんの店に入り浸ってるみたいやん?ありのままを撮影するにはもってこいかと思ったんよ」

 

「はぁ……まぁ構いませんが、せめて一声かけて欲しかったですね。」

 

 

言ってくれれば多少なりとも店の宣伝効果はあるだろうし、それに京助自身μ’sの活動の応援はしたいところなので、別に構うつもりはない。

 

 

「ごめんなさい。つい……」

 

「や、別に怒ってはいないから。次から言ってくれれば……」

 

 

しゅんとした態度で謝ることりを見て、京助は慌ててフォローをいれる。どうもこの子が相手だとこっちが悪いことをしているような気分になって居心地が悪くなる。

 

 

「あ、ちなみにさっきの会話も録画してあるんよ?」

 

「前言撤回。怒ってるからその映像を直ぐに消せ。今すぐに!」

 

 

そんなこんなでしばらくわいわい騒いだあと、京助はカウンターの向こうに引っ込んで大きなため息をついていた。見ればその顔には疲弊の色がありありと浮かび上がっている。

だが、今日の業務が終われば明日は休日、ゆっくりと疲労の回復に勤められる。

もっとも、これといってやることもないためまたパチンコにでも行こうかなどと考えながら食器を洗っていると、少女たちの会話が耳に入ってきた。

 

 

「そういえば、振り付けの練習は海未ちゃんがやってるん?」

 

「そうですね、私が仕切っています。」

 

「じゃあ、作詞は?」

 

「それも海未ちゃんが……」

 

「え?じゃあ、作曲は?」

 

「それは真姫が」

 

 

断片的に聞こえてくる会話を聞いていると、若い頃のことを思い出す。

 

――自分が昔つるんでいた連中も才能や芸に秀でる人間ばかりだった

 

作詞や作曲、歌唱力から楽器の扱い、センスに至るまで、京助に勝てるものなどなかった。それでもどうにかやって来れたのは、そんな仲間に負けじと食いつく意地があったからだ。

 

『リーダーは君がやれ』

 

「っ!」

 

 

ふと、友人のある日の言葉が蘇った。

手元が狂って床に落としそうになったグラスを寸でのところでキャッチする。

 

 

「前から、思ってたんやけど……穂乃果ちゃんて、どうしてμ’sのリーダーなん?」

 

「え……?」

 

 

 

 

 

 

 

 

「だいたい私が入った時に考えておくべきだったのよね」

 

 

希が先に帰ってから、にこが真剣な様子でメンバーの顔を見回しながら言う。

 

 

「リーダー、ね」

 

「私は穂乃果ちゃんでいいけど……」

 

「ん?リーダーって高坂ちゃんじゃなかったのか?」

 

 

お代わりのコーヒーを注ぎながら思わず問いかけると、にこが鋭い目で彼を睨んだ。

 

 

「ダメよ。この子はリーダーに向いてない。そもそもリーダーっていうのは、熱い情熱、懐の大きさ、メンバーからの尊敬が必要なのよ!……って津田先輩、どうしたのよ?」

 

「いや……」

 

 

胃のあたりを押さえて渋い顔をする京助を見て、不思議そうににこが尋ねてきた。

 

――どれ一つとして当てはまってなかったな……

 

にこの語る理想のリーダー論は、彼にとっても胃が痛くなる話だった。

あるいは自分がそんな出来た人間だったならば、まだ解散せずに済んだのではないだろうか。そう考えてしまう。

 

 

「そうなると――海未先輩かにゃ?」

 

 

にこがずっこけた。

 

 

「そんな!私には無理です!」

 

「じゃあ、ことり先輩――は副リーダーって感じだね。」

 

「あの、津田さんはどう思いますか?」

 

「え?……そりゃボーカルが……センターがやればいいんじゃねぇか?」

 

 

またしても話題を振られてしまった。とっさのことに反応できずに、適当に考えていたことが口をついてしまう。

彼の発言に呆れたように溜息をついて、

 

 

「だからそのセンターを決めようって話よ……一年生がやるわけにはいかないわよね」

 

「仕方ないわね~」

 

 

妙に嬉しそうな顔でにこが言うが、メンバーの反応は薄い。

 

 

「やっぱり穂乃果ちゃんが良いと思うんだけど……」

 

「仕方ないわね!」

 

「私は海未先輩を説得したほうが良いと思う」

 

「しーかーたないわねー!」

 

「投票がいいんじゃないかな?」

 

「しーかーたーなーいわねー!!」

 

「うるせぇ!!」

 

 

にこがバッグから取り出した拡声器をひったくって取り上げる。店内で、しかも耳元でそんな物を使われたらたまったものではない。

 

 

「で、どうするにゃ?」

 

 

にこを完全にスルーして凛が問いかけた。

 

 

「分かったわよ!歌とダンスで決着をつけようじゃない!」

 

「決着?」

 

「そうよ!津田先輩!明日は確かここ休みよね?」

 

「あ?あぁ、休みだがそれがどうした?」

 

 

まだ痛む耳をいじりながら京助は答えた。

彼は、長年の経験が警告音を鳴らしているのを感じた。何故だか知らないが、このままいくと折角の休日を潰されそうな嫌な予感がする。

 

 

「あいにくだが、明日は予定が――」

 

「明日、誰が真にリーダーにふさわしいか決めるわよ!」

 

 

先手を打とうとしたところ、言い切る前に言葉を遮られてしまう。

 

 

「えっと……まぁ、あれだ。頑張れよ?」

 

「何を人事みたいに言ってんの?」

 

「……え?」

 

 

京助は、すでに心のどこかで諦めの境地に達していた。

 

――この子達はやっぱ苦手だ……

 

遠ざかていく休日を考えて、京助はうんざりといった風に天井を仰いだ。

 




こんばんは、北屋です。
リアルが立て込んでなかなか執筆時間が取れないのがこの頃の悩みです。
希ちゃん誕生日SSも書きたかったのに……

さて、劇場版見に行ってきましたが、やっぱりあれですね。
ネタバレは避けますが、私は思わず映画館ですすり泣きましたよ。えぇ、いい年して情けないですが。
おかげで創作意欲もどんどん湧いてきてくれました。

さぁ、これからも気合入れて書いていきますよ!


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第十四話 欠片が集まって

まず、津田京助という人間について説明しよう。

年齢は20代前半、血液型はAB。身長は170cmくらいのやせ型だが、かと言ってただ細身というわけでもなく適度に鍛えられた体をしている。

趣味はこれといってないが、挙げるとすればパチンコとパチスロ。

好きなものは刺激物で、主にキツイ煙草と酒を愛飲。

苦手なものは――年下の女の子。

誤解の無いように言うが別に女性が嫌いなわけではなく、これまでの人生で深く関わることがなかったためにどう接していいのか分からないというところが大きい。

仲良くなった女性は大体にして彼の仲間に思いを寄せることになるか、さもなければ彼の奇矯な言動に呆れてしまい、どちらにせよあまり深い仲にならないうちに疎遠となるのが常であった。

重ねていうようだが、津田 京助という人間は女の子が苦手である。

 

それなのに……

 

 

「どうしてこうなった……?」

 

 

自分の置かれた状況を確認して頭が痛くなる。

今日は店の定休日。本来ならば昼まで惰眠を貪って、そのままパチンコであわよくば所持金を倍に増やしてやろうと考えていたというのに、何の因果か彼は今、カラオケ店の一室にいた。

辺りを見れば、彼の周囲には7人の少女達――言うまでもなくμ’sのメンバーが席について談笑をしている。改めて自分がいかに場違いな場所にいるか確認して余計頭痛は増していく。

気を紛らわせるためにポケットに手を突っ込んで煙草を取り出そうとするも、周りにいるのは10代の女の子ばかり。こんなところでまさか煙草に火を点けるわけにもいかず仕方なく棒付きキャンデーを口に咥えて急場を過ごす。

昨日散々な目にあったばかりだというのに、何故こうもロクでもない目にばかり会うのだろうか……そう考えて顔をあげると、にこがマイクを持って画面の前に立つところだった。

 

 

「一番歌とダンスが上手い者がセンター!それなら文句ないでしょう?」

 

 

どうやらまずはカラオケの採点で競い合うらしい。うっすらと浮かべた笑みを見るに、よほどにこは自信があるらしい。

 

 

「私、カラオケは……」

 

「私も特に歌う気はしないわ」

 

「それより何で俺はここにいるんだ……」

 

 

飴を咥えながら京助がぼやく。

折角の休日だというのに朝っぱらからチャイムを連打され、強制連行のような形で連れてこられた身としては説明を求めたかった。それはもう切に。

 

 

「なら、リーダーの権利が消失するだけよ!」

 

「あのさ、俺帰ってもいいかな?」

 

「さぁ!始めるわ!」

 

「いや、ガンスルーはやめてくれ。頼むから本当に」

 

 

にこは京助をちらりと一瞥し、

 

 

「津田先輩には記録と審判をお願いするわ。」

 

「審判……?」

 

「そう。もしメンバーで得点が同じだったり僅差だったりした場合、最終的な審判をしてもらう。それは外部の人間である先輩に頼みたいの」

 

「何でこの俺が……」

 

「いいから。とにかくお願いね。」

 

 

有無を言わさずノートとペンを渡された。

これに得点を記入しろということなのだろうか……何の気なしにページをめくると何やら曲名がいくつか羅列されているのが目に付いた。

 

 

「ん……?」

 

「ッ!何勝手に見てんのよ!?」

 

「す、すまん」

 

 

慌ててページを戻してからふと気づく。

一瞬だったために良くはわからなかったが、今の曲はにこの声質によくあった曲ばかりだったように見えた。

 

――この子は……

 

恐らく事前に高得点を取れるような曲をピックアップしていたのだろう。公平な審判などとどの口で言うのか。

だが、彼の口もとに浮かんだのは優しい小さな笑みだった。

 

 

「分かった。それじゃきっちりと公正な審判をさせてもらうよ」

 

 

センターに対する憧れ。それは昔からアイドルを目指してきた彼女にとって人一倍強いものなのだろう。それこそ、ちょっとした小細工を弄してでも勝ち取りたいくらいに。

だが、それでいて彼女は少しの後ろめたさを感じているのかもしれなかった。

最上級生ということを盾に無理やり話を通してもいいはずなのに、素直にリーダーになりたいと言わないところや、こうして勝負に持ち込むところ、そして京助に審判を頼むところ。それはそう言った感情の裏返しのように感じられた。

それは京助の都合の良い錯覚かもしれない。でも彼はそう考えたかった。

 

 

「当たり前でしょ!じゃ、今度こそはじめるわよ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「すげぇ……」

 

 

海未が歌い終わり得点を記入し終わった時、京助は思わず呟いていた。

ノートに記入された点数を見れば全員が90点以上という驚異的な数字をたたき出している。

これがジェネレーションギャップというやつなのだろうか……

 

 

「こいつら化物か……」

 

 

ふと見れば、楽しげに会話するメンバーの中でにこだけがぎょっとした表情で仲間たちのことを見ていた。

 

 

「次、パン屋さんも歌ってよ!」

 

「え……!?俺?……いや。俺はあくまで審判で――」

 

「審判が歌っちゃいけない、ってことはないと思いますよ?」

 

 

ことりが笑顔で差し出してきたマイクを受け取ってしまい、京助は困惑した。

自慢ではないがカラオケに自信は全くない。

かと言って全員の視線が集まっているこの状況で断るのも気がひける……

 

 

「……んじゃ、一曲だけ」

 

 

そう言って曲を検索するものの、何を歌おうか悩んでしまう。

今時の歌を知らないわけではないが歌ったことはなく、ロクな点数を取れる気がしない。この高得点が連続している中で下手に低い点数を取るのはあまりよろしくない。

どうしたものか……

悩んでいる最中に、ある曲が目に付いた。

 

――Ben E King 『Stand by me』……

 

昔、楽器を始めたばかりの頃に練習し続けていた思い出のある曲だった。

これならば全員、サビの部分くらいは知っているだろう。

入力を終えると、画面に曲名が浮かびあがり、特徴的なアコースティックギターのブラッシング音が響き始めた。

 

 

 

 

 

「ふぅ……」

 

 

歌詞もうろ覚えだったがどうにか無事に歌いきることができた。

安堵から額の汗を拭うと、穂乃果が物凄い勢いで拍手をしてきた。

 

 

「おぉ!英語の歌なんて歌えるんだね!」

 

「ちゃんと歌えてるかどうかは別だけどな。」

 

 

正直な話をするならば京助の歌はそれほど上手くはなかった。下手かそうでないかと言われると決して下手ではないのだが、やはり穂乃果達に比べると格段に劣ってしまう。

得点を見ても85点という微妙なラインで、苦笑いしか浮かばない。

 

 

「感情が篭っていて、不思議と心地よい歌でした」

 

 

海未に言われて京助はしかめっ面で顔を背けた。

この男、褒められるのに慣れていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「次はダンスで勝負よ!」

 

 

次に訪れたのはゲームセンターだった。

ダンシングゲームの機の前でにこが宣言する。だが、よく見れば穂乃果たちはそれぞれクレーンゲームの方で勝手に遊び始めていた。

京助も彼女達に習ってにこ達からそっと距離をとることにした。巻き込まれてはたまらない。

そっと喧騒の中を抜け出して、建物の横、路地裏にひっそりと置かれた灰皿のところまで移動する。

尻ポケットからゴールデンバットの緑色の包みを取り出し、ひしゃげて曲がった煙草を口にくわえた。

驚きの1箱210円という日本一安い煙草。通常の煙草よりも短く、フィルターを通さないキツイ煙が口内から肺の中に満ちていく。

明らかに体に悪い味だが、それでも美味いのだからやめられるものではない。最近では面倒事が続いていて、吸う機会が減っているので余計と美味く感じられる。こうして煙を楽しんでいる間は何もかも忘れてゆっくり出来るような気がした。

 

 

「やってられっか……」

 

 

自分の今置かれている状況を考えてみたら、そんな言葉が口をついて出てきた。

そもそもにして、自分が引き受けたのは購買の仕事だけだったはずなのに、何が悲しくて休日返上で小娘共の相手をしなければならないのか。

流されるままにしていたら、いつの間にか店はたまり場にされているし、こうして連れ出されて気がついたらカラオケ代を払わされている始末。挙げ句の果てには彼女たちに遠慮して好物まで制限しなければならないのだから、京助からしてみれば踏んだり蹴ったりも良いところだ。

 

 

「……ん?」

 

 

そこまで来て京助はふと頭の片隅に疑問が浮かんでくるのを感じ――

 

 

「あ!こんなところにいた!」

 

「ッ!?……ゲホッ、コホッ!」

 

 

大きく吸い込んだところで、ひょっこりと路地裏を覗き込んでくる少女と目が合ってしまった。思わず咳き込んで涙ぐみながらもどうにか煙草を灰皿の中に投げ込む。

 

 

「あなたが喫煙者だなんてみんな知ってるんだから、別に慌てることないのに」

 

「違ぇよ、制服に煙草の匂いが付いたらコトだろうが……で、何の用ですか?」

 

 

改めてことりと真姫に向き直る。つくづくこんな薄暗い場所が似合わない二人だった。

 

 

「その……今日はごめんなさい。何だか無理やり連れ出すような形になってしまって」

 

 

――自覚があるなら自重してくれ

 

 

「いや、構いませんよ。こっちも暇だったわけだし」

 

「でも、この頃毎日のように押しかけてるし……」

 

 

――分かってるならやめてくれ

 

 

「こっちも商売ですから。あんま気にしなくていいですよ。」

 

 

言っていて、当の本人が困惑を隠せずにいた。

心に浮かんだ文句が言葉にならない。口から出るのは常日頃の鬱憤とは逆のことばかりだった。

 

 

「そのどっちつかずの口調、気持ち悪いからやめない?」

 

「あ?気持ち悪いって何だよ……」

 

 

真姫に指摘されて彼はようやく気がついた。

この頃の京助は、当初に比べて砕けた話し方をするようになっていた。

決して行儀がいいとは言えない、接客業をするにあたってはどう考えてもNGな言葉遣い。だが、不思議とμ’sの面々と話していると年や立場を忘れてしまうのだった。

困惑の表情を浮かべる京助を見て、ことりがくすりと笑った。

 

 

「そういえば津田さん、この頃雰囲気が変わったよね?ちょうどにこ先輩が入ったくらいから」

 

「そう……か?」

 

 

自覚はなかった。

だが変わったとするならば、それは昔に戻りつつあるということなのだろうか?夢も希望も失ったというのに、何故?

 

 

「そういえばあなたってにこ先輩とどういう関係なの?『先輩』なんて呼ばれてるけど音ノ木の卒業生……」

 

「に見えるか、この俺が?……中学がおんなじだっただけさ。もっとも、代は一つか二つずれてて被らなかったけどな」

 

「えー?でも昔の知り合いって言うにはやけに仲がいいような……」

 

「何を期待しているのかは知らないが、それ以上の関係はねぇよ。」

 

京助と彼女が出会ったのは旅に出る少し前のことで、実際に顔をあわせたことなんて数えるくらいしかなかった。

正直な話をするならば、この間再会した時もまさか彼女が覚えていてくれるなんて思わなかった。

ましてや夢を語ったことなんてもう忘れていると思っていたのに、まだ夢を追い続け、共に歩く仲間と出会っているなんて――

 

 

「あぁ、そうか」

 

 

不意に、頭の中で歯車が噛み合う音がした。

何故、自分はこんなところにいるのか。その答えがなんとはなくだが浮かんできた。

店はたまり場にされるわ休日は潰されるわ、ロクな目にあっていないのに、それでも自分がこんなところにいるのは、きっと彼女たちに昔の自分たちを重ねて見ているからだ。

自分たちが夢を抱いたのは彼女たちと同じくらいの年頃。夢を追って仲間と出会い、悩んだりぶつかったり殴り合ったりを重ねて、更なる高みを目指してきた。

あの時代は泣こうが喚こうが、何をしたって戻ってこない。砕けた夢は、二度と輝くことはない。

どんなに手を伸ばしても二度と届かないからこそ――無意識のうちに彼女たちに自分たちを投影していた。

終わってしまった物語の続きを他人に求め、それを見ることで満足しようとしていた。

 

 

「随分とまぁ、手前勝手な話だな……」

 

「え?」

 

「何でもない。悪いが、頭痛いから俺は帰る。他のみんなによろしくな」

 

 

ノートを一番近くにいた真姫に渡す。そして後ろ手に手を振りながら、次の言葉がかけられないよう足早にその場を去った。

 

――滑稽だ

 

今まで気づかないフリをしていたが、なんのことはない、ただそんな自分が嫌でたまらなかっただけだ。

滑稽を通り越して醜悪ですらある。

紫煙を燻らせるバットを咥えて、京助は自らに向けた嘲笑を浮かべていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

定休日の店内には、当たり前だが京助以外の人間はいない。

いつもパンが並んでいるトレーも今は空っぽで、余計に寂しさを増すばかりだった。

薄暗い店内で一人、京助は何本目か分からないタバコを取り出して火を点ける。中身のなくなったパッケージを握りつぶして丸めてゴミ箱に投げ込んだ。

紫煙を吐き出しながら京助はぼんやりと考えを巡らせていた。

 

――どうしたものか

 

今の生活に不満があるわけでは――いや、たいしたことのない不平不満は掃いて捨てるほどあるが――ともかく、今の生活が死ぬほど嫌な訳ではない。

最初は思わぬ事の連続に戸惑う毎日だったが、元来料理の類は嫌いではないし仕事もこなれて多少なりとも楽しくなってきていた。

放浪生活に比べれば生活水準も十分に上がっているし、自分なんかには勿体無い毎日を過ごしている。

だが――だからこそ考えてしまう。

本当にこれで良いのかと。

 

 

「くそっ……」

 

 

悪態をついてみても現状は変わらない。

悩んだところで答えなどでないことは分かりきっている。

もう一度飛び上がろうにも、その為の翼はとっくにへし折れた。残っているのは僅かばかりの無残な羽根。

翼を失った鳥は、ただ地上で腐るのを待つしかないのだ。

自分もこのまま腐るのを待つしかないのだろうか。

 

 

「あ、やっぱりここにいた!」

 

 

店のドアが唐突に押し開けられた。

こもっていた室内に新鮮な風が吹き込んでくる。

 

 

「ちょっと!審判役が途中でいなくなるってどういうことよ!?」

 

「まぁまぁ……パン屋さん、頭痛いって言ってたけど大丈夫?」

 

「風邪ならこんなところにいないで部屋で休んでなさいよ」

 

 

矢継ぎ早にかけられる声に、思わず京助は苦笑を浮かべて立ち上がる。

鍵こそかけ忘れていたが、店先にはcloseの札がかかっていたはずだ。

それなのにこいつらは――

おちおちと悩んでいることも出来やしない。

 

 

「あぁ、大丈夫だ。疲れただろ?何か飲み物でも出すぜ」

 

「わー!おじさん太っ腹にゃ!」

 

「次おじさんって言ったら、通常料金倍額な」

 

 

いつもの掛け合いを凛と交わして京助は厨房に入っていった。本来今日は休業日だが、特別に貸切ということにしよう。

サイフォン一式をいじって準備をしていると、少女たちの話し声が聞こえてくる。どうやら勝負の結果はうまい具合には出なかったらしい。

 

 

「いいんじゃないかな?なくても」

 

 

コーヒーとジュースを運んでいくと、耳を疑うような発言が飛び込んできた。

 

 

「なくても?」

 

「リーダーなしでも全然平気だと思うよ?みんなそれで練習してきたんだし」

 

「しかし……」

 

「聞いたことないわよ、リーダーなしなんてグループ」

 

「大体、センターはどうするの?」

 

 

真姫が至極真っ当なことをいう。

 

 

「私考えたんだ。みんなで歌うってどうかな?みんなで順番に歌えたら素敵だなって」

 

 

まっすぐな、綺麗な瞳で穂乃果はそう告げた。

思わず京助も手を止めて聞き入ってしまう。

 

 

「できないかな?」

 

「歌はできなくはないですが……」

 

「そういう曲、なくはないわね」

 

「今の七人なら、ダンスも出来るとおもうけど」

 

 

七人の意見が、まとまりつつあった。

全員がセンター、全員が主役。

 

 

「なかなか面白いことを考えつくな」

 

 

飲み物を置きながら、京助が笑みを浮かべた。それは今までに彼が見せたことのない優しい微笑みだった。

 

 

「パン屋さんも賛成してくれるの?」

 

「あぁ……部外者が言うのもあれかも知れないが、高坂ちゃんたちには一番あってるんじゃないか?」

 

 

京助の言葉に穂乃果は照れ笑いを浮かべ、6人はそれぞれ苦笑や納得の表情を浮かべて頷く。

 

 

「よーし!そうと決まれば早速練習!」

 

 

コーヒーを一気に飲み干して、穂乃果は店を飛び出していった。

決めたら揺らがない。その姿はまさに――

 

 

「何にも囚われないで、一番やりたいこと、一番面白そうなことにひるまず向かっていく。それは穂乃果にしかないもの。……やはり穂乃果がリーダーです。」

 

 

コーヒーを美味しそうに一口飲んで海未が呟く。

それは奇しくも、その昔京助が友人に言われた言葉と同じものだった。

 

 

「……」

 

「どうしたの?京助さん?」

 

 

ことりの呼びかけにも反応せずに京助は黙って目を閉じ、考え込む。

胸のうちに燻る何かが、また熱を帯び始めていた。

砕けた夢が彼の心の中で集まりつつあった。例え全て集まったとしても二度とは元に戻るはずのない欠片たち。輝くことのないそれも、集まればひとつの山になる。

こんな残骸でも、誰かの踏み台くらいにはなれないだろうか。

 

 

「すまん。何でもない。」

 

 

そう言って再び目を開いた彼の表情は、今までの疲れきったそれではなかった。

かつての彼とは比べるまでもなく弱々しいが、それでも新しい光を宿していた。

 




こんばんは。
難産でしたがどうにか書き上がりました!
冒頭で少し書きましたが、主人公のプロフィールをここで少々……

        津田 京助
      
      年齢○20代前半(飲食店員)
     血液型○AB型
      身長○172cm
   好きなもの○刺激物(キツイ煙草や度数の高い酒)
   苦手なもの○年下の女の子
      趣味○パチンコ、パチスロ
      特技○料理(特に菓子パンの類)
チャームポイント○困り顔
     昔の夢○非公開
    得意料理○シフォンケーキ


そういえばtwitter始めました。気軽にどうぞ


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第十五話 巻き込まれ体質……?

「……かったるい」

 

 

昼下がりの校舎をだるそうに歩く人影があった。

黒いスラックスに半袖の開襟シャツ、空色のネクタイ。身なりこそはそれなりにきちんとしているがイマイチぱっとしない。本人の容姿が悪いわけでもないのに、態度とにじみ出る雰囲気がそうさせるのだった。

目的の部屋の前に着くと、その威圧感のある扉と手元の書類とを見比べて彼は小さくため息をつく。その扉には『理事長室』と銘打たれていた。

購買の仕事の一環として報告書やその他の書類を届ける事になっていたのだが、やはり偉い人と話すのは緊張するものがあり、面倒くささを感じてしまう。

 

 

「いっちょ行くかね……」

 

 

ともあれこんな所でぼーっとしていても解決するわけでもないので心を決める。面倒事は手早く済ませるにこしたことはない。

扉をノックしようとして――

 

 

「津田さん?」

 

 

振り返って確認してみれば、見知った顔がそこにいた。

 

 

「おう……じゃなかった。こんにちは、μ’sのみなさん。お揃いでどうしたんですか?」

 

 

一瞬、いつも通りに話そうとして言い直す。ただでさえよろしいとは言えないのに、校内でもそんな風に口を聞くわけにはいかない。

最近は絡みが増えたため、お互いにまるで友人同士であるかのような振る舞いが増えてきたが、そもそも京助と彼女たちの関係はパン屋の店主と常連客のそれに過ぎない。それ以上になるのは、恐らくお互いのためにもならないだろう。

それが分かっているからこそ、京助はこうして時折距離を測り直すかのような言動を見せるのだった。……もっともその行為が少女たちに効果をもたらしているのか甚だ疑問ではあるが。

 

 

「ちょっと理事長に話があるの。京助さんは?」

 

「自分も似たようなものです。提出書類がありましてね……なんでしたら先にどうぞ」

 

 

扉の前を開けて彼女たちに譲る。

 

 

「いえ、京助さんの場合はお仕事ですし……」

 

「いやいや。ここは生徒さんを優先しないと」

 

 

正直なところ、好意は半分で残りの半分は何となく誰かに先に行ってもらったほうが気が楽という思考からきていた。

 

 

「おじさん、入りにくいからって人を先に行かせるのはどうかとおもうにゃー」

 

「次におじさんって言ったら二度と店にいれませんよ」

 

「否定はしないんだね……」

 

 

そんな風に無駄話をしているうちに、彼女達の前で理事長室の扉が開いた。

 

 

「あら?お揃いでどうしたん?それに津田く……津田さんも」

 

「わ……生徒会長!?」

 

「げ……」

 

 

出てきたのは希、そして京助が初めてこの学校を訪れた際に見た金色の髪の少女だった。

思いがけずに出会った苦手な人物に思わず京助も一歩退く。

 

 

「何の用ですか?」

 

 

金髪の少女――生徒会長は鋭い目をμ’sのメンバーに向け、そして京助を見て怪訝な顔をする。

 

――怖ぇ……

 

その迫力は京助も思わず冷や汗の流れるのを感じるほどだった。

怯える一方で、京助は彼女を冷静に見つめなおす。彼女の様子に何か引っかかる物を感じていた。

固く強ばった表情、つり上がった眉。それは彼女本来のものではないような――そんな感覚を覚える。

 

――焦ってる……のか?

 

何に、かは分からない。

彼女のそれは、追い詰められてどうしようもならなくなって、それでもどうにかしなければならないという焦りからきているように見えた。

持ち前の責任感と義務感に押しつぶされそうになってあがいている――そんな印象を受けた。

 

 

「……難儀なこった」

 

 

しまった。

そう思ったときには既に遅かった。心中で呟いたはずのそれは本人の意図を外れて口をついて出てしまっていた。

きっ、と少女が京助を睨みつける。

 

 

「そもそもあなたは誰ですか?」

 

「いや、その、俺……自分は……」

 

 

正直に言って本当に怖い。

思わぬ状況に口ごもっていると、みるみる内に少女の目が不審者を見るそれに変わっていく。

これはマズイ。

 

 

「この人は購買の販売員さんや。怪しい人やないで?」

 

 

――な?

 

そう言ってウインクをして見せる希の、思わぬ助け舟を受けて彼は咳払いを一つ、

 

 

「はじめまして、販売員の津田と申します。この度は理事長先生に書類をお届けに参りました次第です。」

 

 

京助の自己紹介を聞いて、少女は納得したようにぺこりと頭を下げた。そして再びμ’sのメンバーに向き直り、

 

 

「……で、あなたたちは何の用?」

 

「理事長にお話があってきました」

 

 

真姫が生徒会長の正面に歩み寄り、真っ向から向き合う形で要件を告げる。

すでにその答えを見越していたのか生徒会長の表情は固いまま少しも変わらない。

 

 

「各部の理事長への申請は、生徒会を通す決まりよ」

 

「っ……申請とは言ってないわ!」

 

 

二人の視線がぶつかり合って一触即発の空気が場に流れた。

不穏な空気に、これは自分が止めるべきなのかと、京助が嫌々ながら身構えたところで、小気味良いノックの音が響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

「へぇ~、ラブライブねぇ」

 

 

理事長が感心したようにパソコンの画面を覗き込む。

穂乃果達2年生の3人ににこ、そして生徒会長と副会長の希が理事長と一堂に会していた。どうやらμ’sの活動に関して何らかの話があるらしい。

それは別にいいのだが……

 

――何で俺も巻き込まれてんだ!?

 

何故か京助も理事長室の中に立っていた。6人が招き入れられた際にもののついでとばかりに一緒に呼ばれたが、流されるままにほいほい入ってきてしまったのが運の尽き。今更になって後悔する。

その件に関して全く何も知らない京助は、当然話に入ることもできず、かと言って自分の要件を切り出すこともできず隅っこの方で息を潜めるしかない。

 

 

「ネットで全国的に中継されることになっています」

 

「もし出場できれば、学校のことをみんなに知ってもらえると思うの!」

 

 

大会か何かだろうか?

京助は断片的な情報から話の大筋を推測する。察するに彼女達アイドル部で何らかの大掛かりな大会にでるために学校の許可が欲しい、そういったところだろうか。

 

 

「私は反対です。理事長は、学校のために学校生活を犠牲にすべきではないとおっしゃいました。であれば……」

 

 

京助はまた何かひっかかりを感じた。

傍から見れば彼女の言っていることは正論そのままであるのに、そこには何か彼女の私情が込められているようだった。それはもしかすると何か彼女の芯にふれるような何かなのかもしれない。なんにせよ、彼女が複雑な思いを抱えていることだけは京助にも見て取れた。

 

――難儀してんなぁ……

 

今度こそ口に出さずに胸中でそっと呟いた。

 

 

「いいんじゃないかしら?エントリーするくらいなら」

 

「本当ですか!?」

 

 

理事長の台詞に穂乃果が真っ先に歓声をあげた。

メンバーたちの顔が目に見えて輝き出すが、

 

 

「ただし、勉強がおろそかになってはいけません。次の期末試験で誰か一人でも赤点をとるようなことがあればエントリーは認めませんよ?」

 

 

途端に崩れ落ちた数人を見て、そのまま視線を滑らせて窓の外を見つめる。

本日も快晴、透き通るような青空を白い雲が流れていた。

 

――難儀、だなぁ……

 

京助はまたしても同じセリフを胸中で呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はい。確かに受け取りました」

 

 

生徒たちがいなくなった部屋で、書類に目を通し終えた理事長が目線をあげて京助に微笑む。

どうやら不備もなかったらしく、京助もようやく仕事が終わって思わず頬が緩んでしまう。

 

 

「では、失礼致しまし……」

 

「ちょっと待って、津田さん」

 

 

踵を返しかけたところで呼び止められる。

書類に何か不備が見つかったのだろうかと考えて恐る恐る振り返る彼だったが、理事長の次の言葉は彼の予想しなかったものだった。

 

 

「あなたから見て、生徒会長――絢瀬 絵里さんはどう見える?」

 

「……え?」

 

 

質問の意図が……というより質問される意味が分からなかった。

そもそも彼女との面識なんてないというのに、何故購買のパン屋に過ぎない自分にそんな質問が飛んできたのか。そんなことを尋ねるならばまずは担任なりに尋ねるべきではなかろうか。

いろいろな疑問とつっこみが浮かんできて目を白黒させる京助に、理事長は小首をかしげて困ったように微笑む。

 

 

「ほら、津田さんって私や他の先生方よりもあの子たちに年齢が近いでしょ?だから参考までにどう見えたか聞いてみたいと思って。」

 

「いや、俺はただの購買のお兄さんですよ?それにこんなロクデナシの意見を聞いてどうするんですか?」

 

「そんなに自分を卑下する必要はないんじゃない?あなたが言うように、あなたが“ただのお兄さん”で“ロクデナシ”だったら私の娘やその友達たちはあんなに親しくしないわよ」

 

 

京助は、背中に冷や汗が伝うのを感じた。

いつもμ’sのメンバー相手には適当な対応しかせず、しかもこの頃ではかなりぞんざいな扱いをしてしまっているが――その内の一人の親がこの学校の理事だということを忘れていた。

 

 

「ことりから聞いてるわ。いつもみんなでお店におしかけてるのに、親切にして貰ってるって。きさくで優しい人だって」

 

「………は?」

 

 

耳を疑った。

思い返してみても、暇さえあれば店に押しかけてくる彼女達相手にそんなに親切な対応をした覚えはない。むしろ帰れと怒鳴った覚えもある。

それにきさくで優しいなど、とても自分のことを指している表現とは思えない。理事長は他の誰かと勘違いしているのではないだろうか。

 

 

「まぁ、それはともかく。年長者から見てどう思う?」

 

「そう……ですね。憶測で物を言いますけど――あの子、何か悩んでますよね?その悩みのせいで自分を押し殺してるような……そんな感じがします」

 

「そうよね……」

 

 

理事長も同じことを考えていたのか、京助の話に頷いて小さく溜息をついた。

 

 

「誰か、第三者が相談に乗ってやれればいいんですけどね。あの位の年頃で抱える悩みなんて、往々にして本人が思っているよりも簡単なもんですから」

 

 

語りながら昔のことを思い出す。

死ぬほど無茶苦茶なことをやってきたし、ノリと勢いと若さで突っ走ってきた青春時代だったが、そんな彼でも人並みには悩みを抱えていた。

後から考えればどうしてそんなくだらないことで悩んでいたのか首をかしげることばかりだが、悩んでいる最中は視野が狭くなって本質が見えずに苦労するものだ。だから、そんな時には全く関係のない外部の誰かに相談にのってもらうだけで大分事態は好転する。

 

 

「まぁ、そんなところですかね」

 

「そう……ありがとう、参考になったわ。呼び止めてしまってごめんなさいね」

 

 

一礼して京助は理事長室を後にする。

扉がしまりきった時にぼそりと理事長が呟いた一言は彼の耳には届かなかった。

 

 

「その第三者が――あなたになりそうな気がするのよね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ふぅー」

 

 

どうして屋外で吸うタバコはこんなに美味しく感じられるのだろうか。特に仕事のあとの一服となれば格別だ。

そんなとりとめもないことを考えながら煙を吐き出す。品物もうまい具合にはけ、運良く少女たちも店に顔を出さなかったため、京助は早めに店を切り上げて買い出しに出ていた。

夕日で真っ赤に染まった公園は、昼間とは違ってなんとも言えない趣を醸し出している。

買い物袋を足元に無造作に転がして、ベンチの背もたれに体を投げ出す。見上げる空の綺麗な夕焼けに目を細めて、大分小さくなったタバコを再び吸い込んだ。

都会の真ん中にぽっかり空いた空、少し目線を動かせば天を突かんばかりのビルが立ち並んでいるのが嫌でも見えてくる。

小さかった頃に比べて空が狭くなったように感じるのは気のせいではないだろう。時代の移り変わりというものだろうか、そんな風に考えて彼はほんの少しだけ寂しいように感じた。

別に変わることが悪いとは言わない。世の中は便利になっていき、その恩恵を受けて生活が潤っていく。

だが、新しいものを優先するあまりに、古いものや伝統がどんどん消えていくのは、少し違う気がする。

『廃校』その一文字がふと京助の脳裏をかすめた。別段彼にとって深い関わりのあった学校ではないが、昔からそこにあって、そこにあることが当然だったものが消えるのは、矢張り感慨深い。

 

 

「……ま、俺には関係ねぇか」

 

 

年を重ねるにつれて、自分に出来ること出来ないことの区別がつくようになってくる。そして出来ないことは見て見ぬふりで考えないようになっていく。それを人は成長と呼ぶのだ。

チビたタバコを備え付けの灰皿に放り込んで、勢いよく立ち上がった。荷物を持ち上げて公園を後にしようとした所で、京助はふと離れたベンチに見覚えのある人影を見つけた。

 

 

「園田ちゃん?」

 

「あぁ、こんばんは京助さん。」

 

 

そんな気はなかったのに思わず声をかけてしまった。どうしてこんなところに、そう考えて目線を移動させると、彼女の横に腰掛ける生徒会長――絵里の姿が目に映った。

見慣れない組み合わせに一瞬面食らったものの、京助と絵里はお互いに軽く会釈を交わし合う。

 

 

「二人共どうしてこんなところに?」

 

「私は少し生徒会長をお話がありまして……そういう京助さんは?」

 

「俺……自分は買い物帰りですよ。……暗くなると危ないですから、気をつけてくださいね」

 

 

二人のあいだの妙な空気を感じ取って退散しようとしたときだった。

 

 

「お待たせしました!」

 

 

中学生くらいだろうか、二人よりも年下と思われる少女が駆けて来て海未に缶入の飲料を手渡した。しかしそれを受け取った彼女は礼を述べた後に固まってしまう。

 

 

「これは……?」

 

「おでん……」

 

 

少女が手渡したのは飲み物などではなくおでん缶だった。思わぬ出来事に京助も思わず帰ろうとしていた足を止めてしまう。

 

 

「ごめんなさい。妹はまだ日本の暮らしに慣れていないところがあるの……亜里沙、それは飲み物じゃないの」

 

 

そう言って彼女が浮かべた小さな微笑みは今までに海未たちが見てきた生徒会長の顔とは全く違っていた。

 

 

「別なの買ってきてくれる?」

 

「はい!」

 

「ちょい待ち」

 

 

元気に返事をして再び自販機に駆けていこうとする少女を、京助が不意に呼び止めた。

不思議そうな顔で見つめる彼女に京助はポケットから出した千円札を渡し、

 

 

「そのおでんは自分が買取りますから、これで買ってくるといいですよ。」

 

「え?」

 

 

ひょい、とおでん缶を一つ受け取って京助は薄く微笑む。

 

 

「生徒会長殿も園田さんも知らない仲ではないですし……ここであったのも何かの縁ってことで」

 

 

京助の顔と手元の千円札、そして姉の顔を見てから亜里沙はぺこりと頭を下げて駆け出した。

 

 

「ごめんなさい、気を使わせてしまって……えっと、」

 

「津田です。カフェ&ベーカリーTSUDAの津田 京助。……では、今度こそ失礼します」

 

 

今度こそ退散しようとした京助だったが、それを海未が引き止めた。

 

 

「これは少しだけ京助さんにも関わりがある話なので……京助さんに教えて貰った私たちのライブの映像ですが……生徒会長だったのですね。あの動画を撮ってネットにアップしてくれたのは。あの映像があったから、私たちは……」

 

 

――なんで今俺を引き止めた……

 

うんざりとした様子を隠そうともせずに彼は胸中で毒づいた。

確かに穂乃果に動画の存在を教えたのは京助だが、それ以上のことは全く関わっていない。無関係も良いところだというのに何故こんな重そうな話に立ち会わなければならないのか。

また気がつけば彼女達の話に巻き込まれている自分がいた。

 

 

「別にあなたたちの為にやったわけじゃない」

 

 

少し嬉しそうな海未に対し、絵里の態度は冷たく固い。

無表情なままで淡々と言葉を紡いでいく。

 

 

「むしろ逆。あなた達の活動がいかに意味がないか、周りの反応を見ればわかると思っただけ」

 

 

 

――こいつ……!

 

京助は無言のまま目を剥いた。

絵里のいう事を信じるのならば、彼女のやったこと、やろうとしたことは必死で頑張っている穂乃果達を晒し者にしようとしたことに他ならない。

京助は久方ぶりに血が熱くなるのを感じた。

ぱん、と軽い炸裂音が響き、絵里と海未が驚きに目を丸くして京助の方に目を向ける。

 

 

「……失礼。開けるのを失敗した」

 

 

京助の腕からおでんの汁が滴っていた。

彼の手の中にはひしゃげて変形した缶がある。開けるのを失敗したとは言っているが、どうみてもそれは力ずくで握りつぶしたようにしか見えなかった。

 

 

「……ともかく、あなたたちのパフォーマンスは人に見せられる段階になっているようには思えない。あなた達に学校の名前を背負って欲しくないの。……話はそれだけ」

 

 

そう言って絵里は荷物を持って踵を返す。その背中に海未が思いをぶつけるように声を投げかけた。

 

 

「もし私たちが、人を惹きつけることができるようになったら……認めてくれますか?」

 

 

しかし、その問いかけに対する絵里の答えは相変わらず冷たいものだった。

 

 

「無理よ。……私にとってスクールアイドルは素人にしか見えない。……A-RISEでさえもね」

 

 

「あなたに……あなたに私たちのこと、そんな風に……」

 

 

言いかけて海未はそこで言葉を止めて、横に立つ京助に目を向ける。

京助は今までに見せたことのない、異様なまでに重苦しい気配をまとっていた。

 

 

「おい、てめぇ」

 

 

底冷えするように低く、それでいてよく通る声。

怒鳴っているわけではない。ほんの短い言葉なのに、彼の心情がそのまま伝わってくる声色だった。

 

 

「何様のつもりだ?」

 

 

町の喧騒や風のざわめき、そういった雑音が一瞬消えたように感じられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっちまった……」

 

 

公園のベンチに座って盛大に凹んでいる男の姿があった。

 

 

「あれはねぇよ……いくらなんでも学校の生徒、しかも生徒会長をてめぇ呼ばわりとか、何様呼ばわりとか……やばいやばいやばい。下手すりゃPTAに叩かれる……仕事がなくなる……」

 

 

ぶつぶつと情けないことを呟きながら落ち込む二十代男性の図は、見ていてとても見苦しかった。

それを見かねた海未が呆れたように、

 

 

「全く……何をあそこまで怒ってるんですか?」

 

「いや……生徒会長殿は、お前らの頑張りを知らないから仕方ないのかもしれないけどさ……いくら何でも『無理』はねぇだろ……って考えたらつい頭に血が上って……」

 

 

頭に血が登りやすい、短気な性格は昔から変わらない京助の一番悪い癖だった。

その為に今まで何度ロクでもない目にあってきたか分かったものではない。最近ではいくらか落ち着いてきたように思っていたのに、さっきの言動に自分でも呆れてしまう。

京助の話を聞いていた海未は深いため息を一つ、そして微苦笑を浮かべて、

 

 

「もっと落ち着いてください。いい年なんですから」

 

「い、いい年……?」

 

 

おじさん呼ばわりよりも地味にくる物があり、余計にブルーな気分に拍車がかかる。

 

 

「でも……私たちの為に怒ってくれたことには、少しだけ――ほんの少しだけ感謝します。」

 

「……違ぇよ。お前たちのためじゃない。俺が気に食わなかっただけだ」

 

 

――素直じゃない

 

背もたれに体を投げ出してぼんやりと空に視線をさまよわせる彼を見て、海未は口にこそださないがそんな風に思っていた。

 

 

「あの……!」

 

「ん?」

 

 

亜里沙が缶を二つ抱えて二人の前に立っていた。

 

 

「これ、どうぞ」

 

 

差し出された缶を受け取り、海未はまた少しだけ驚いた様子を見せた。

その横で京助はにっこりと笑って渡された汁粉を一口飲む

 

 

「ありがとうな。」

 

「あの……お姉ちゃんのこと、嫌いにならないであげてください。お姉ちゃん、何でも抱え込んで、そのせいで本当のことを言えないところがあって……」

 

「素直になれない、か」

 

 

――あなたが言うか

 

そう思ったが海未はやはり口には出さなかった。

 

 

「あと、私、応援してます!μ’sのこと、大好きです!」

 

 

そう言って彼女はこちらが何かを言う暇もなく公園を走り去っていった。

その後ろ姿を見つめながら、京助はぼそりと呟く。

 

 

「難儀なこった……」

 

 

見上げる空は大分夜の青が強くなっていた。

 




こんばんは、北屋です。
今回も難産でした。
絵里と京助はどうしても相性が悪くなってしまい、上手く話が進んでくれない……

そしてどんどん柄が悪くなっていく主人公が目下の悩みです。

では、次回は出来るだけ早い内に更新します!


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第十六話 感情と理性、気持ちと立場

 

「はぁ……」

 

 

休業日の昼下がり。

薄暗い店内で物憂げな表情を浮かべて煙を吐き出す。

彼の心の内を占めるものは先日の出来事だった。

何故、無関係なはずの自分があんなことをしてしまったのか。何度目になるか分からない自問を繰り返す。

ただ一つ明らかなのは、あの時の生徒会長へ抱いた怒りが、紛れもなく本心からのものであったということだけだった。

 

 

「『無理』、か……」

 

 

あの時の絵里の言葉と冷たい態度を思い出すと、胸のうちが熱くなるのを感じる。

知り合いの少女たちの努力を、たった一言で切り捨てられたことに対する怒り――それが一番近い。

だが、その考えを京助は否定する。否定せざるを得ない。

μ’sのメンバーと自分はあくまでただの購買部員と生徒、さもなくば店主と客以上の関係はない。そんな自分が彼女たちの事で感情を顕にするなど……

 

 

「難儀なこった……」

 

 

チビたタバコを灰皿に押し付け、新しい煙草に火を点ける。

自分がただのガキであったならそんな怒りも認められよう。だが、今の自分は子供でいるには成長しすぎてしまっている。

理性の伴わない感情など、大人が見せるべきものではない。

 

 

「はぁ……」

 

 

何度目になるか分からない溜息をついたとき、不意に来客を告げるドアベルの音が響いた。

また鍵を締め忘れてしまったらしい、今日は休業日の旨を伝えようとして顔を上げたところで、彼は凍りついたように動きを止めた。

 

 

「邪魔するで、津田くん」

 

「うわ……煙草臭ッ!ちょっとここ空気悪いわよ!?」

 

 

京助が口を開く前ににこが勝手に窓を開けて、強制的に換気を始める。

吹き込む涼しげな風に、こもって澱んだ空気が流されていくのが肌で感じられた。

 

 

「おいこら。外の札が見えなかったか?今日は休業日だ」

 

 

二人の少女相手に、彼は一応正論を述べてみるが口調の端にはどこか諦めたような節が見受けられた。

ここのところ休日が見事に潰されている気がする。

 

 

「まぁまぁ、そんな些細なことは気にせんで。今日は津田くんにお願いがあってきたんよ」

 

「何だ……いや、良い。聞きたくない。帰れ」

 

 

聞いたら最後、気がついたら流されて丸め込まれそうな気がする。精一杯の抵抗とばかりに京助はしっしっと手を振って追い払う仕草をするが、あいにくそんなことで怯む希ではない。

 

 

「そんな邪険に扱っていいん?校内喫煙のこと、絵里ちに言うたらどないなるかな~」

 

「……ッ!分かった、話だけは聞いてやる。聞いてやるから終わったら帰れ」

 

 

痛いところをつかれ、渋面で応じてしまった。ただでさえ先日の一件で面倒事になりそうなのに、バラされたら確実に終わる。

 

 

「テストで赤点取ったらμ’sのラブライブ参加はなし、って聞いとるやろ?でな、今みんなでテスト対策しとるんよ」

 

「へぇ……そりゃご苦労なこった」

 

「一年生は真姫ちゃんと花陽ちゃんが凛ちゃんの、二年生はことりちゃんと海未ちゃんが穂乃果ちゃんの勉強を見る、そんで三年生はうちがにこっちの勉強を見ることになったんよ」

 

「ふん!このスーパーアイドルにこちゃんに限って赤点の心配ないのに、希が勝手に言い出したのよ!大体……」

 

 

希と京助の話に横から割り込んで無い胸を張るにこだったが、一瞬で希が彼女の背後に回り込みその胸を両手で鷲掴んだ。

 

 

「ひゃっ!!……ご、ごめんなさい……」

 

 

見る人が見れば眼福な光景なのかもしれないが、残念ながら京助にはそんな光景に目を輝かせるにはスレ過ぎているし余裕もない。それに目下のお願いとやらの方が重要であった。

焦るにこと邪悪な微笑みを浮かべている希を冷めた目で一瞥し、

 

 

「どうでも良いが、野郎の前でお前ら…………まぁいいや。で?」

 

 

先を促すものの、嫌な予感しかしない。

具体的に何が起こるか予想出来ないが、少なくとも喜ばしい自体には転ばないことは分かる。

 

 

「勉強のために今日一日、ここを使わせて欲しいんやけど……お願いでけへん?」

 

「断る」

 

 

即答だった。

当たり前である。

 

 

「何が悲しくて休日返上で店を開けなきゃならねぇんだ……」

 

「そこはほら、可愛い後輩のためってことで……なぁ、にこっち?」

 

「ひっ……そうそう!だからお願い、津田先輩!」

 

 

胸に添えられた希の手がぴくりと動くと、にこが慌てて京助に頼み始める。

 

 

「嫌なものは嫌だ。俺の休日は俺のもんだ」

 

「休日って言ったって、何もしてへんのに?」

 

「人を暇人みたいに言うな」

 

 

実際そうである。

 

 

「ね!にこにーを助けると思って!お・ね・が・い♡」

 

 

妙に甘ったるい声でにこが頼んできた。

彼女を見る彼の目が一瞬にして険しいものとなる。

 

 

「……女の子相手じゃなきゃ今殴ってたわ。つーか矢澤ちゃんじゃなければ今店から蹴り出してたわ」

 

 

一瞬湧き上がった苛立ちを寸でのところで押さえ込んだ。

相手は女の子で仮にも後輩。流石に手を上げるのは人間としてかなり問題がある。

 

 

「ここはうちらと津田くんの仲やん。なぁ?」

 

「そうそう!にこの可愛さに免じて」

 

「前言撤回。殴られたくなかったら即刻店から出ていけ小娘共」

 

 

気がついたら、またしても感情的になっている自分がいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「えっと、ここはこの式を代入して……」

 

「そう、それで?」

 

 

日も傾きかけてきた頃。赤い西日が窓から差し込む中、机に参考書を広げて向かい合う二人の少女があった。

 

 

「えっと……に、にっこにっこにー!」

 

 

やけくそ気味でお得意のポーズを取るにこに対し、希は満面の笑みを浮かべて腰を浮かせ、

 

 

「次、ふざけたらどうなるか言うたよな?」

 

「ひぃっ!?そんな、ちょっと!」

 

「わしわしする言うたよな~?」

 

「うるせぇ、人の店で暴れんじゃねぇ!」

 

 

テーブルに二人分の小皿を置きながら軽く叱りつけて黙らせる。

結局あの後、二人に押し切られる形で店を一時的に勉強スペースとして貸し出すことになってしまっていた。

流石の京助もいい加減に自分の意思の弱さにうんざりする今日この頃だった。

 

 

「ったく、何だってこの俺がこんな目に……」

 

 

コーヒーのお代わりを注ぎながらぼやく

 

 

「しかし津田くん、どんどん口が悪うなっとるね。」

 

「……うるせぇ」

 

 

品物をテーブルに並べ終えると、彼は不機嫌な雰囲気をまとって店の奥に引っ込んでしまった。

 

 

「希、少し休憩しない?ほら、コーヒーが冷めちゃう」

 

「そうやね。折角津田くんがうちらにご馳走してくれたわけやし」

 

 

にこの提案に乗って参考書の類を一先ずテーブルの脇にまとめ、コーヒーに口を付ける。違う豆を使っているのか、いつもよりも格段に美味しい。

 

 

「あ、このケーキ美味しー!」

 

 

見ればにこは一足先に小皿に乗ったシフォンケーキにフォークを入れている。

コーヒーもケーキも別に彼女たちが注文したものではなかった。

 

 

「あの人も、面倒くさい人やね」

 

 

口と態度はすこぶる悪く、見かけもくたびれていて無愛想。

その割りに面倒見が良いところがあり、妙に親しみを感じてしまう。パッと見ではロクな大人に見えないのに……大人に見えないからこそ、まるで同年代のような感覚で接することが出来る。

希の独り言に、にこがフォークを止めて小さく答えた。

 

 

「そうよね。……きっとすごく不器用で、お人好しなのよ。あの人は」

 

 

μ’sのメンバー達がこの店に来るのは、きっとそういうこと。

彼の不器用で、どこか寂しげな優しさにみんな安心や親近感を感じている。

希はそんな風に考えていた。でも彼に聞かれたら怒られそうなので言わなかった。

 

 

「どこかの誰かに似てるなぁ……」

 

 

そう呟いてくすりと微笑み、彼女もケーキを切ってひと切れ口に放り込む。

柔らかくて優しい甘さが口の中で溶けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ったく、あのガキ共は……」

 

 

食器を洗いながら京助は不平を漏らした。

折角の休日がこの頃音ノ木の生徒たちによって丸々潰されている。彼女たちがどういうつもりでこんなロクでもない奴にちょっかいを出してくるのか不思議で仕方がない。

むしろそんなに暇なのか?

 

 

「ちっ……」

 

 

不機嫌に舌打ちを一つ。しかし彼はそこで自分の口角が不自然に吊りあがっていることに気がついた。

そう、それはまるで――微笑みを浮かべるかのように。

 

 

「難儀なのは俺も同じか」

 

 

洗い物の手を止めてため息を一つ。

彼女達と接するのが案外嫌いではない自分に気がついてしまった。

先日の考えをふと思い出して、自らの左手を眺めてみる。昔は分厚く、硬くなっていた指の皮も今では見る影もなく柔らかく戻ってしまっている。

何の意味もなさなくなった夢の残骸、でもそれを誰かの夢の踏み台にでもすることが出来るなら――

彼女達の手助けをしたいと告げる声が、心の片隅で聞こえていた。

廃校を阻止したいという純粋な思い、アイドルになりたいという心からの願い。それを何とかして叶える手伝いがしたい。

だが、そのやり方が分からない。どうすればこんな自分が彼女達の助けになれるのか。そもそもこんなロクデナシの助けなんて誰も求めていないんじゃないのか。

悶々とする思いだけが積もっていく。

もし自分が彼女達と同じ年頃だったならば。

それならば大手を振って彼女たちに力を貸すことも、夢の後押しをすることも出来たのかもしれない。

現実は成人を迎え社会人として鬱々と働く成年と、片や学校生活で青春まっただ中を進む高校生。

あくまで町のパン屋とお客の学生。その考えが干渉したくなる気持ちを押さえつけている。

大人と子供の隔たりは思っていたよりも大きかった。

 

 

「……せめて」

 

 

せめて今の自分にかつての勢いがあったのなら。

今この状況でも、自分の思うがままに動けていたのかも知れない。だが、へし折れてしまった今はもう、昔なら小さく思えた壁を乗り越える気力すら湧いてこない

考えれば考える程、こんな自分が誰かの助けになれるなんて思えなくなっていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ともかく。テストって確か明日だろう?大丈夫なのか?」

 

 

西日で赤くなってきた店内、食器を下げながら何の気なしに問いかけてみた。

二人の会話を聞いていて、勉強の状況は大分はかどっていたように思える。

 

 

「うーん、まぁどうにかなるんやない?押さえるべきところは押さえた、って感じやし」

 

「それなら良いが……矢澤ちゃん、明日は頑張れよ。赤点で活動休止、なんて笑えないぜ」

 

「当たり前でしょ!……そういう先輩だってそんなに成績良かったわけじゃないんでしょ?」

 

 

冗談めかして言うと、むすっとした顔で逆に問いかけられた。

 

 

「悪いが俺は赤点なんかとったことはねぇよ」

 

「へ、へぇ……まぁにこだって本気を出せばテストくらい簡単なものよ」

 

「ほー、津田くんって案外頭良かったん?」

 

「いや。そもそも高校でまともにテストを受けたことがない。サボりまくってた」

 

と、いうより学校に行くこと自体が稀であったように思える。

聞いていた二人が彼の前で、がくりと脱力した。

 

 

「それ以前の問題やん。やっぱり頭悪かったんやね……」

 

「やっぱりってなんだよ?ってか人をバカみたいに言うんじゃねぇ」

 

「バカみたい、じゃなくてバカそのものだって言ってんのよ」

 

 

三人でなんやかんやと言い合っているうちに、時間は徐々に過ぎていく――

 




こんばんは、北屋です。
若いのになかなかどうして先に進めない京助です。
まぁ、彼は成人してますから、下手な絡み方をしてお縄につくのを恐れている節もあるのですがw
そろそろ気持ちに正直になってもらいたいな……


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第十七話 何が出来るのか

ただがむしゃらに駆けてきた。

何でもかんでも力ずく、無理を通せば道理は引っ込む。

無理、無茶、無謀はやったモン勝ち、悩んだらとにかく全力疾走、気に入らないことがあったら殴って壊す。

そんな無茶苦茶な人生を歩んできた。だからこそ、その先がどうにもならなくなった時、へし折れてしまったのは当たり前のことなのかも知れない……

 

 

 

 

 

「……」

 

 

希とにこがテスト勉強に訪れてからおよそ一週間、彼は自分の気持ちに整理をつけようとしてきた。

思い悩んだ末に出てきた答えは『あの子達の手助けがしたい』、いつもその思いに帰結する。

だけど自分に何が出来るのか分からない。どうすれば良いのかも分からない。

 

 

「ちっ……」

 

 

舌打ちを一つ、自室の隅に立てかけてあったアコースティックギターを手にとってみる。その昔、共に夢を追った仲間でありギターの師でもある友人から借り受けて、遂に返せずそのままになってしまった物である。

じゃらり、と弦を撫でてみた。

痛みきった弦が鳴らす音は想像をはるかに超えて歪なものだった。まるで今の自分を表しているようで、何故だか腹が立った。

ムキになってかき鳴らしてみても、音を重ねれば重ねるだけ余計に歪んで、まるで整合が取れなくなっていく。

 

 

「痛っ……」

 

 

ぴん、と鋭い音がした。

手入れもロクにしていなかったのに適当にかき鳴らしたものだから、遂に弦に限界が来たらしい。6弦がはじけて京助の右手に朱線が走る。

掌から流れる赤を見ながら、京助は考える。

自分はこのギターと同じだ。

使えなくなったものを無理に使っても思うようには行くはずがない。そして最後には周りを傷つけて壊れてしまう――

 

 

「っと!こんな時間かよ!!」

 

 

時計を確認すれば、そろそろ学院に向かわなければならない時間。

京助は気持ちを切り替えて急いで準備を始めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こんにちは、パン屋さん!」

 

 

昼の購買、いつものようにパンを買いに現れた穂乃果は、いつにも増して明るい笑顔を浮かべていた。

 

 

「いらっしゃい、高坂ちゃん。その様子だと、テストの方は……」

 

「うん!ホントはもっと良い点欲しかったけど……それでも赤点はまぬがれたよ!他のみんなも全員合格、これでラブライブを目指せる!」

 

 

満面に太陽のような笑みを浮かべる彼女は本当に、心の底から嬉しそうで――思わず京助も釣られて微笑みを浮かべてしまっていた。

しかしすぐに彼は真顔に戻って何かを思案し、辺りをそっと伺って他に生徒がいないのを確認し、

 

 

「持ってけ。お祝いってことで、みんなでおやつにでもするといい」

 

「さすがパン屋さん!太っ腹!」

 

 

渡されたラスクの詰め合わせを手に、穂乃果は喜びの声を上げる、しかし、間髪いれずに横から伸びた手が彼女の手元から袋を奪い去った。

 

 

「ダメです。この頃ただでさえ間食が増えているんですから少しは気を使ってください」

 

「え~!その位いいじゃん!」

 

 

穂乃果から菓子を奪い去ったのは海未だった。取り返そうとする穂乃果の手をと払い除けて、今度は京助に向かい、

 

 

「京助さんもあまり穂乃果を甘やかさないでください。特にむやみに甘いものを与えるのはやめてください」

 

「お、おう……って、何か餌付け禁止みてぇな言い様だな」

 

「似たようなものです。ともかく、これは返します」

 

 

京助の冗談に、ぴしゃりとそう言い切るあたり海未も何気に酷い。

 

 

「海未ちゃんの鬼!折角穂乃果がもらったのに!」

 

「……いや待て。俺はみんなに、って言ったんだが」

 

 

どうやら独り占めする気があったらしい。

 

 

「海未ちゃん、流石にそんな言い方は津田さんに失礼だと思うよ?折角お祝いにってくれたのに」

 

「ことり……しかし、」

 

 

ふと京助は悪戯心が湧き上がってくるのを感じた。

 

 

「いや、別に良いぜ……こんなロクデナシが祝っちゃ迷惑だったよな……すまないな、園田ちゃん」

 

「い!いえ!そんなことは!」

 

 

京助がわざとらしく落ち込んで見せると、いつも冷静な海未が慌てた様子を見せた。なんというか――面白い。

彼の意図に気がついたのか穂乃果とことりが海未を見て笑いを噛み殺していた。

 

 

「そうだよな、園田ちゃんから見たら俺なんておじさんだもんな……こんなおじさん、気持ち悪いとか影で言われてるんだろうな……」

 

「そ、そんな滅相もない!京助さんは確かに年齢以上に老けていますが、決してそんな……」

 

「俺まだ21なんだけどな……」

 

 

何げに、冗談抜きで凹んだ。そんなに自分は老けているのだろうか。

 

 

「ほ、穂乃果!ことりも何か言ってください!」

 

「っ……あはははは!ごめん、もう無理だよ!」

 

「海未ちゃん……ふっ、ふふふ」

 

 

海未に話を振られ、遂に堪えきれなくなったのか二人は笑い出してしまった。ついでに京助も口元を押さえて肩を震わせ始める。

何事も冷静にソツなくこなしているイメージの海未が、こんな分かり易い冗談でここまで取り乱すとは――人は見かけによらない。

三人が笑い出したのを見て一瞬呆気にとられる海未だったが、すぐに自分がからかわれていた事に気がついたのか、今度は真っ赤になってしまった。

 

 

「穂乃果!ことり!……京助さんまで!」

 

「くくくっ……いや、すまん。園田ちゃんが面白くて、つい……いやいや良い物が見れた。」

 

 

気まぐれの悪戯。しばらくぶりに行ったそれは思った以上の成果をあげため、彼もいつになく楽しげに笑っていた。

こんな風に笑ったのはいつ以来なのか、本人にも分からない程に久しぶりにことだった。

しかしてからかわれた方の海未はたまったものではなかったらしく――

 

 

「京助さん?」

 

 

にっこりと、海未はこれぞ大和撫子というような穏やかな笑みを浮かべていた。ただし、京助はその笑顔に隠された凄まじいまでの殺気を感じ取ってしまう。

マズい――そう思ったときには既に遅い。

既に次に起こることを察したのか、気がつけば穂乃果とことりはこそこそと海未から距離を取っている。

彼女はそっと、優しく包み込むように京助の手を取って、

 

 

「ちょっ!?人間の指はそっちに曲がらな……待て待て待て!腕!それ腕折れるから!俺が悪かっ、たぁぁぁぁッ!?」

 

 

昼時の平和な校舎に、汚い苦鳴が響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いってぇ……」

 

 

まだ痛む肘を動かしながら、片手にトレーを持って校舎の中を歩く。

海未をからかうのは面白いが、程々にしなければ……下手にからかって報復で関節技をかけられては身が持たない。

 

 

「しっかし、俺も何やってんだかな」

 

 

ふと口に出してしまった。

最初はただの嫌な仕事に過ぎなかった。穂乃果達もただの常連さんの生徒に過ぎなかった。それが今ではどうだろうか。

こうして彼女たちとの会話を楽しめるような日が来るなんて、思ってもみなかった。

これは果たして成長なのか。これが自身にとって良い事なのか悪い事なのか、それさえも判然としない。

昔の自分だったら今の状況にどう思ったのだろうか。

 

 

「俺は――」

 

 

言いかけた時、不意に前方で扉が勢い良く開くのが見えた。続いてそこから現れたのは生徒会長、その後ろには希がついていた。

 

 

「あれ?京助くんやん」

 

「どうも……」

 

 

気まずい。

先日怒ってしまった相手と顔を合わせるというのは厳しいものがある。直ぐにでも逃げ出したい気持ちを押さえて会釈をすると、何故か絵里もどこか困惑したようにこちらを見ていた。

 

 

「「あの……」」

 

 

意図せずにお互いに同じ言葉を同じタイミングで口に出していた。

 

 

「あ……そちらからどうぞ」

 

「いや、生徒会長殿のほうこそ……」

 

「いえ、あなたから……」

 

 

話がなかなか進まずに平行線になってしまった。そんな気まずい譲り合いを見かねたのか、

 

 

「告白前の男女やあるまいし、ばしっと言えばいいんやない?ほらえりち!」

 

 

とん、と軽く背中を押され、絵里が少しよろける。

 

 

「そうね……先日はお見苦しいところをお見せしてすみませんでした。部外者のあなたを私たちの話に巻き込んでしまって……」

 

 

そう言って絵里は申し訳なさそうに頭を下げた。

 

 

「え、いや、ちょっ、頭を上げてください。悪いのは俺なんすから!その節は誠にすんませんでした!!」

 

 

慌てて京助も頭を下げた。

その勢いに絵里と希が今度は驚く番だった。

 

 

「本当ならば俺はあの場からすぐ去るべきだったんだ。あんたたちの話を聞くべきじゃなかった。横から口出しするなんて――ましてやあんな言い方するなんて考えられないことだ。だから――謝って済むかはわからないけど、申し訳ありませんでした。」

 

 

深く頭を下げて謝罪の言葉を口にする姿に、絵里も目を丸くしていた。

そもそもあの一件のことは、彼女は自身の落ち度と捉えていたため、こうして彼が気にしているなど思わなかった。

それを、見るからに適当そうな彼が、こうしてきちんと――口調こそ荒いが、誠心誠意頭を下げてくるなど考えもしなかった。

 

 

「いえ、そんな……」

 

「いや……」

 

「あー……もうその辺にせぇへん?お互いに相手のことは気にしてないんやから、もうこの話はおしまい、ってことでえぇんやない?」

 

 

このまま言っても謝罪の平行線の未来しか見えない。

不器用な二人は、どこか通ずるものがあるのかもしれない――そう思いながら希は二人に声をかける。

 

 

「そう、ですね……では、お仕事中、時間をとってすみませんでした」

 

「こちらこそ、お忙しいところ時間をとっちまってすんませんでした」

 

 

お互いに最後に一度だけ頭を下げ合って、京助はトレーを持ったまま廊下を歩み始める。

その小さくなっていく背中を、絵里はじっと見続けていた。

 

 

「彼、面白い人やろ?」

 

「面白い、かしら?何だか掴みづらい人ではあるのだけど」

 

「掴みづらい……そやね、でも本質は単純明快やと思うよ。――興味出てきた?」

 

「え?どういう意味よ?」

 

「別にー。そうや、えりち。今日の放課後暇やろ?ちょっと寄り道して帰らへん?」

 

「別にいいけど……」

 

 

希の珍しい提案に、どこへ寄るのかと聞こうとして――そこで絵里たちはこちらに駆け寄ってくる人影に気がついた。

 

 

「生徒会長!お願いがあります!」

 

「あなたたちは……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、品物忘れてた」

 

 

京助が毎度の頼まれごとのことを思い出したのは車に乗り込んでからだった。

 




こんばんは、北屋です。
絵里加入編がものすごく長引いてます。こんなことならもっと早くから接点持たせるべきでした……
次回こそ主人公大暴れしてくれるのでご期待下さい


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【誕生日短編】やさしい時間【矢澤にこ】

一日遅れですが、誕生日記念の短編です。


 

 

「っ……」

 

 

酷い目眩を感じた。

今朝方から感じていた体の不調は治るどころか、むしろ時間を追うごとにひどくなっていく一方だった。

購買の仕事をどうにか終えて帰宅して、そこで限界。重い体を引きずって洗面所に向かい――そこで倒れた。

受身も取らずに全身を強打したというのに不思議と痛みは感じなかった。むしろ床の冷たさが思ったよりも心地よくて、そのまま意識を手放してしまいそうになる。

いつものように苦笑を浮かべる余裕もなく、歯を食いしばってようやく壁伝いに立ち上がる。

 

 

「これは……まずいな」

 

 

鏡に映った顔は酷く青白く、今にも死にそうだった。

旅先での不摂生な生活が祟ったのか、急に一変した生活に体が遂に音をあげたのかも知れない。

そういえば最近ロクに休日も休めていなかったな――

仕方がないから午後の店の仕事のことは諦めよう。ふらつく体に鞭打って店を閉め、自室に引っ込む。普段ならばものの5分とかからない作業だが、終わった時には30分以上も経っていた。着替える余裕もないくらいに、まるで鉛でも詰め込まれたような重い体をベッドに投げ出すと、瞬く間に意識が消え去っていくのが分かった。

 

 

 

 

――っ!

 

意識がぼんやりと戻ってきた。体は全くいう事をきかないし、まぶたさえも重くて開いてはくれない。

誰かが歩く音が聞こえる。

どうやら誰かが部屋に入ってきた気配で目が覚めたらしい。

一人暮らしの家、自分しかいない部屋。誰かがいるなんていくらなんでもおかしい。

家の方の鍵を締め忘れていたことに今更になって気づき、危機感を感じるが、矢張り体は動いてくれなかった。

足音は自分のベッドの横まできて、急に止まった。そこに立ち止まったまま、動く気配も感じられず、何やらこちらを覗き込んでいるのが分かる。

こんな野郎の寝顔除いて何が楽しい?物取りならさっさと取るもの取って帰ればいい。それとも俺に何か恨みがある奴だろうか。思い当たる節は――たくさんありすぎて数え切れない。

どっちにしてもさっさとお引き取り願いたい。このまま俺の体が動くようになったら、即刻息をお引き取り願うのだが……

 

――?

 

不意に何かが額に当てられた。

暖かくて柔らかくて、そして頼りないくらいに小さな感触にはっとした。

俺も大分ヤキが回ったらしい。こんな、どう考えてもマズい状況だというのに、額の感触にどこか安心を感じてしまっているのだから。

その優しさに身を任せているうちに、俺の意識はまたしても暗闇のなかへ落ちていく……

 

 

 

 

 

 

「っ!」

 

 

また目が覚めた。

体のダルさは完全に抜けていないが、倒れる前よりは十分マシだ。ゆっくりと上体を起こすと、膝の上に何かが落ちた。

 

 

「なんだこりゃ?」

 

 

つまみ上げてみれば見覚えのあるタオル。大分ぬるくなってしまっているが、水で湿っているそれは、どうやら俺の額に置かれていたらしい。

でも誰が?

冴えない男一人暮らし、家族も今は遠くにいるし、ましてやこんな風に看病をしてくれる彼女もいない。思い当たる節は――全くない。

寝ぼけて自分でやったのか?

そんな風に無い頭を悩ませていたら、ふと階段を上がってくる音が耳についた。小さな、可愛らしい足音は俺の部屋の前まで続いて、

 

 

「あら?起きたの?」

 

 

ひょっこりと顔をのぞかせた彼女に、俺は言葉を失った。

真っ黒な髪を、特徴的なツインテールに結んだ見覚えのある少女。制服の上にエプロンを着た彼女が手に持ったお盆には、水の入ったグラスと一人用の土鍋が置かれていた。

 

 

「……おやすみなさい」

 

 

うん、きっとこれは夢に違いない。

でなければこんな状況有り得ない。こういう時は夢の中でもう一度寝てしまうに限る。

全く、俺もつくづくヤキが回ったものだ。熱にうなされているとはいえ、こんな小娘に看病される夢を見るなんて。どうせならもっとボンキュッボンのお姉ちゃんに……

 

 

「ちょっと!無視しないでよ!それと今物凄く失礼なこと考えなかった!?」

 

「うるせぇ、病人の耳元で騒ぐんじゃねぇ……」

 

 

ただでさえ痛い頭に声が響いて、いつもの怒声も尻すぼみになってしまう。

ともかく、どうやらこれは夢ではないらしい。

 

 

「……一応聞くけど、矢澤ちゃんだよな?」

 

「何よ?私以外の誰に見えるっていうの?」

 

 

念のため尋ねてみると、怪訝な顔で睨まれた。

 

 

「……何でこんなところにいるんだ?ここ、俺の部屋のはずなんだけど」

 

 

念には念をいれて辺りを見渡してみるが俺の部屋で間違いない。物が少ない、片隅に置かれたアコースティックギターとハードケース以外に特徴のない部屋だ。

本当に何でこんなところにこの子がいるんだろうか。

 

――私だって来たくて来たわけじゃないわよ

 

そう前置いて、

 

「今日、学校で見かけた時にいつにも増して顔色悪かったから……買い物ついでにお店に来てみたら閉まってるし、家の方は鍵どころか家のドアが開けっ放しなんだもん。挙句家の中覗いてみたら荷物は思い切り散らかってるし、何事かと思ったわよ」

 

 

思わず苦笑が浮かんできた。

片付けはきちんとしたつもりだったが、やはり頭が回っていなかったらしい。これで訪ねてきたのが矢澤ちゃんだったから良かったようなものの、本当に物取りだったら――ぞっとしない話だ。

 

 

「それで――寝込んでる俺を見つけたわけか。……ほっといてくれりゃいい物を」

 

「そんなわけにもいかないでしょ?見つけちゃったんだから、もし放っておいて入院とかしたら後味悪いじゃない」

 

――心配、したんだから。

 

 

そんな小さな呟きが聞こえた気がした。

でも、俺の口をついて出たのは、

 

 

「それこそ矢澤ちゃんには関係ないだろうよ。良いからほっとけっての」

 

 

言ってから後悔した。

ついいつもの癖で――いや、こんなみっともない所を見られた照れ隠しなのかもしれないが、心にもないことを言ってしまう。

 

 

「……」

 

 

むすっとした顔で矢澤ちゃんが睨みつけてくる。そんな彼女の様子を見て、後悔が罪悪感に変わって胸を突き刺す。

確かにドアが空いてたからって勝手に人の家に入ってくるのはどうかと思うし、女の子一人で野郎の家を訪れるのは色々と向こう見ず過ぎやしないかとツッコミどころも満載ではあるが――

本当は、そんな厚意が純粋に嬉しくて、素直に礼を言いたかった。

もし俺が、仮に彼女と同じくらいの歳だったら友人として自然に接することも出来たのだろうか?

そう考えて首を振る。仮定の話に意味はなく、実際にここにいるのは冴えない大人。

大人としてのくだらない見栄やちんけなプライド、そんな吹けば飛びそうな自尊心が邪魔をして、素直になれない自分がつくづく嫌になる。

 

 

「あんたも、面倒くさい性格してるわね」

 

 

矢澤ちゃんが呆れたようにで大きく溜息をついた。

どうやら俺の考えは表情に出ていたらしい。葛藤を見透かされたようで、余計に気持ちが落ち込むが、それとは逆に、俺の考えを分かってもらえたようで少し安心している俺がいた。

本当に俺は薄っぺらい人間だ。

 

 

「……それはさておき、すまんな。こんな調子なんで店は開けられないんだ。」

 

「え?」

 

「買い物に来たんだろ?明日以降で問題なければ……礼がわりといっちゃ何だが、好きな品物、特別に半額にしてやるよ」

 

 

そんな提案に、しかし矢澤ちゃんは困ったような顔を見せた。

 

 

「……えぇ。その位当然よ!」

 

 

そう言って彼女は笑ってみせるが……その笑みはどこか寂しげに見えた。

 

 

「……今日じゃなきゃマズイ、とかか?」

 

 

……つくづく俺も面倒くさい性格をしていると思う。そんなこと、気がつかなかったことにして流せばいいものを、ついつい深入りして余計な事に首を突っ込んでいく。

 

 

「べ、別にそんなことないわよ!ただの買い物!」

 

 

彼女の反応を見て確信する。

今日じゃなきゃマズイ……うちの商品でそんな妙な需要があるものがあっただろうか?商品を片っ端から頭の中に浮かべてみるが、なかなか思い浮かばない。

今日じゃなきゃ……ん?

 

 

「もしかして、今日誕生日だったりとかすんのか?」

 

「!」

 

 

なんとなく、根拠もなしに言ったことだったが、どうやら図星だったらしい。

うちはパン屋だが、注文があればちょっとした――それこそ本当に簡単なケーキなんかも作ったりしている。どうやら彼女はそれを求めてうちを尋ねてきたらしい。

 

 

「……すまん。」

 

 

俺に出来ることは、頭を垂れて謝ることだけだった。本当はもっとちゃんと謝りたいけど、頭が悪くて語彙の少ない俺にはこんな短い言葉しか出てこない。

 

 

「ちょっ!?あんたは何も悪くないでしょ?」

 

「いや……年に一度の事で、わざわざうちに頼みにきてくれたのに、俺がこんな体たらくで――」

 

「別にいいわよ。他のお店を当たればいいことだし。それより今はその風邪をさっさと治しなさい。……全く、誕生日に先輩の看病することになるなんて私もついてないわ」

 

 

今度は寂しげではなく、優しく彼女は微笑んだ。

 

 

「……」

 

「あ!話聞いてなかったの!?今は大人しく寝てなさいよ」

 

 

矢澤ちゃんの制止を聞かずに布団から起き上がり、まだ本調子ではない体をおして部屋の隅に置かれたガラス棚に向かう。

確かここに仕舞ってあったはず……あった。

棚の中から見つけた目当ての物、ぶっきらぼうに矢澤ちゃんに差し出す。

 

 

「何これ?」

 

「誕生日プレゼント……っていうには剥き身で色気もなんにもないが、これで勘弁してくれ。」

 

 

俺が差し出したそれを受け取って、彼女は不思議そうに見つめていた。

それはペンダントだった。黒い紐に申し訳程度の銀色の飾り玉が施され、中央にギターピックが付けられた、どこにでもありそうなペンダント。

 

 

「ちょっとしたお守りだと思ってくれ」

 

「お守りって……本当になんなのこれ?」

 

 

彼女は半透明のギターピックを光に透かして覗きこんでいた。大分傷だらけで角が磨り減ったそれは、どこにでもある使い古し。

でも俺にとってそれはどこにでもあるものじゃない。

 

 

「俺が一番最初のライブで使ったピック……記念品みたいなもんだ」

 

 

本当はもっと気が利いた物をあげられればいいのだが、あいにく今はそんなものの手持ちがない。

 

 

「……大切な物なんじゃないの?」

 

「あぁ。だから、矢澤ちゃんにならくれてやっても良い」

 

 

俺にとってそれは夢の始まりになった物。

まだ未来だけしか見えなくて、怖いものなんて何もなかった頃の、輝きの証。

夢に敗れて逃げ帰ってきて、そしてそのことを彼女に告げることさえ出来ない、そんな臆病で矮小な俺にはもう必要ない――持つ資格なんてない。

昔夢を語った彼女に、今も夢を追い続ける彼女になら託せる。どうか彼女が夢を叶えられますようにと、そんな願いをこめて。

気がついたら俺は微笑んでいた。俺に笑顔なんて似合わないが――こんな穏やかな気持ちで笑うのなんていつぶりだろう。

こんなにも優しい気持ちになれる時がくるなんて。

矢澤ちゃんは俺の顔とペンダントを交互に見て、そして何か感じ取ったのかそれを小さな手に握り締めた。

 

 

「じゃあ、ありがたくもらっておくわ。……後で返せって言っても返さないわよ?」

 

「あぁ、もちろん。だが、そんかわし――」

 

――必ず夢を叶えろよ?

 

 

そう言おうとして、ぐらりと体が揺らいだ。踏みとどまれたため倒れこそしなかったが、いい加減限界らしい。

 

 

「だから寝てなさいって言ったでしょ……」

 

 

呆れた顔で矢澤ちゃんは立ち上がると、ごく自然な動きで――そっと俺の肩を支えてくれた。

腕に伝わるぬくもりと柔らかさに一瞬たじろいでしまった。

思っていたよりも俺の風邪は重症らしい。

じゃなければこんなこと有り得ない。この俺が――こんな小娘相手にドキリとしてしまうなんて。

 

 

 

 

 

 

「それじゃ、私はそろそろ帰るわよ?」

 

 

窓から外の様子を見れば、日が傾きかけている。

いつ来てくれたのかも分からないが、帰るには今が頃合と言ったところか。

 

 

「っと、その前に言うことがあったわ!あんた、ちゃんとご飯食べてるの?冷蔵庫の中ほとんど空っぽじゃない」

 

「お前はお袋か。あぁ、心配しねぇでもちゃんと……」

 

「ゴミ箱がカップ麺で溢れかえってたけど?」

 

 

痛いところを疲れて二の句がつげない……

 

 

「パン屋なんてやってるんだし料理くらい出来るでしょうに……」

 

「いや、男の一人暮らしなんてこんなもんだぜ」

 

 

ジャンクフードが好きなわけでも料理が苦手なわけでもないが、それとこれとは話は別だ。

……自分一人の料理にこった物作るのって、時たま寂しくなってくるんだぜ?

 

 

「まったく。そんなんだから体調崩すのよ。これ作ったから食べて休むのよ?いい?」

 

 

そう言って彼女はテーブルの上に置かれた鍋の蓋をあけた。

ちょうど良い位の温度まで下がったおかゆ。湯気にのって美味しそうな香りが立ち上ってくる。

 

 

「なんだったら、にこにーが食べさせてあげようか?」

 

 

悪戯っぽく笑う彼女を見たら、年甲斐もなく俺にも少しだけ悪戯心が湧いてきた。

にやりと笑って、

 

 

「あぁ、それじゃお願いしようかな……」

 

「え!?」

 

「あーん」

 

「えぇ!?」

 

 

笑いをこらえ、大きく口を開いてみせた。

矢澤ちゃんよ。大人をからかうとどうなるか、思い知ったか?

さぁ、どんな反応をしてくれるのか……

 

 

「……っ。……あーん」

 

 

逡巡は一瞬。スプーンですくったお粥をこちらに差し出してきていた。

これは、完全に予想外の反応だった。てっきり揶揄い返してくるものかと思っていた。いや、照れるくらいまでは予想してたが、まさか本当にこんな風に……

 

 

「……何よ、早くしなさいよ」

 

 

固まっている俺を睨みつけ、それでもなおスプーンをこちらにつき出す彼女の顔は、もう信じられないくらいに真っ赤で――

 

 

「……ん」

 

「……美味しい?」

 

「あ、あぁ」

 

 

本当はからかって終わりにするつもりなのに引っ込みがつかなくなってしまい、一口食べさせてもらってしまう。

実際にやってみると、これ物凄く気恥ずかしいんだな……正直なところ味を感じる余裕さえなかった。

 

 

「……もっと食べる?」

 

「いや、後は自分で食べるから大丈夫だ……その、何だ。すまん。」

 

 

顔が熱くてたまらないが、きっとこれも熱のせいだ。

――本当に今回の風邪は質が悪い

 

 

「そう。じゃ、今度こそ帰るわね」

 

「あぁ、今日はすまなかった……いや」

 

 

今度こそ彼女はカバンを持って部屋のドアに向かっていく。その背中に謝罪の言葉をかけて、そこで気がついた。

俺が矢澤ちゃんにかけるべき言葉はこれじゃない。今は……今だけはせめて。

 

 

「ありがとうな。それと――誕生日おめでとう」

 

 

あぁ、ようやく素直にお礼が言えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日も落ちてきてうっすらと影がさした帰り道。

ポケットからペンダントをそっと取り出してみる。

かつて、夢を笑わずに聞いてくれた人。

同じように――ううん。私よりもずっと無謀と言えるような大きな夢を語ってくれたあの人。

私よりも先に実際にその夢に向けて第一歩を踏み出して見せたあの人は凄く輝いていて。

私のファンだと、私の夢をずっと応援してくれると、あの人に言われたことは――そう言わせたことは、何でかは分からないけどいつしか私の支えで、誇りにすらなっていた。

ギターピックを夕日に透かせば、光を受けたそれは夢そのものみたいにキラキラと綺麗に輝いている。

 

 

「……本当に色気も何もないわね。こんなのを女の子にプレゼントするなんて」

 

 

そんな風に愚痴るけど、本当は何より嬉しいプレゼントだった。

あの人からの初めての贈り物。あの人の夢の始まりを、まだまだ小さいこの手に握りしめ――

 

 

私は明日もまた一歩ずつ歩いていくんだ。

 

 




こんばんは、北屋です。
にこちゃん誕生日おめでとう!
今回は趣向を変えて、一人称の視点で物語を進めてみましたが、なかなか難しいものですね。
そして、筆を走らせる中で、何度京助を殴り飛ばしてやりたいと思ったことか……

それはさておき、この話はあったかもしれないしなかったかもしれない、そんなお話。本編に深く関わることは有り得ない、ほんのひとコマでした。

では、次回は普通に本編を進めていきます!


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第十八話 私のやりたいこと / 俺に出来ること

本日も売上は上々、ピークがすぎた店内にはμ’sの姿もなく、今日は静かなままに一日が終わりそうだった。

だが、京助の心中はあまり穏やかではない。店を占めるまで……いや、深夜になって布団に入るまでは完全に安心は出来ない。いつ、どのようなタイミングで、何をしに現れるか全く検討もつかない少女達に対して、京助はいささかナーバスになりつつあった。

 

 

「ふん……」

 

 

警戒をしておくに越したことはないが、かと言って誰もいない店内で扉をにらみ続けるというのもあまり面白くはない。

カウンターを出て、自室に向かう。せっかくなのでまた何か音楽でも流したい気分だった。

それなのにガラス棚の下に備え付けられた引き出しを適当にあさってみても、いまいちピンとくる曲が見つからない。苛立ちを覚えながらも引き出しを次々に開けていき――

 

 

「ッ!」

 

 

一番下の引き出しを開いて、彼は動きを止めた。

そこに収まっていたのは一着のジャケットだった。元の色合いは黒……だったと思われる。酷使しすぎた所為でかすれ、無茶の所為で変色しきっていて定かではない。

しかめっ面を浮かべたままその服を広げてみれば、脇腹には大穴が開いていてその周りはうっすら茶褐色に変色している。当時のことを思い出して、傷跡が熱を帯びるのを感じた。

まるで幾つもの色を無理やり引っ掻き回したかのような酷い痛み方。それなのに、背面に描かれたロゴだけはやけにはっきりと残っていた。

 

 

「こんなもん、まだあったのかよ……」

 

 

そう呟いて、彼はそれを丸めてゴミ箱に放り込んだ。

もう二度と着ない衣装なんてただのゴミだ。今はなきグループのロゴ入りジャケットなど、一体どれほどの価値があるのだろう?

酷く不愉快な気持ちで引き出しを閉めようとして、ふとその中にあった一枚のCDに気がつく。

 

 

「悪くは、ねぇな……」

 

 

曲目を確認して、再び店に戻る。

少し警戒しながら店内を見渡すが、人の影は見当たらない。ほっとして彼はCDをプレーヤーにセットした。

椅子に深く腰掛けてタバコに火を点ける。

流れてくる曲はThe Beetlesの『Blackbird』。

好きな曲を大音量で聞きながらの一服、これほど至福を感じる時間はあるだろうか?長く楽しみために一曲をリピートに設定。

にやけながら深く煙を吸い込んで……

 

 

「邪魔するでー」

 

「ゲホッグァッ……ェッ!!」

 

 

響き渡るドアベルの音、聞き覚えのある声、見覚えのあるシルエット。

油断した瞬間を狙いすましたかのような来訪に京助は思い切りむせた。見ている方は心配になるほどに咳き込んだ後でタバコを捨てると、涙目で来訪者を睨みつけ、

 

 

「……出たな。何しにきやがった」

 

 

彼の口をついて出たのは店員らしからぬ暴言だった。

対する希はキョトンとして、

 

 

「何しにって……普通にお客としてきたんやけど?」

 

「……」

 

 

京助は警戒しきった目を向ける。

今まで生きてきた上での経験が、旅の中で得た勘が、少女たちと関わってからの記憶の数々が、彼の中で派手に警鐘を打ち鳴らしていた。

厄介事は忘れた頃に、少女と共にやってくる――彼の中でそれは一種のジンクスと化しているのだった。

 

 

「そんな警戒せんでも……ほら、余計に老けて見えるで?」

 

「余計に、ってなんだよ。こちとら結構気にしてんだから、いい加減ほっとけ」

 

 

確かに彼女たちに比べれば年上ではあるが、まだ21歳の身の上でおじさん扱いされるのはいい加減堪えるものがある。というかそろそろ京助も泣く寸前であった。

しぶしぶといった表情を浮かべながらもコーヒーの準備をしようとして、彼は希の背後に別の誰かが立っていることに気がついた。

一度見たら忘れることのできない、蒲公英を思わせる金色の髪に凛々しい顔立ち――

 

 

「……何で生徒会長殿がこんなところに?」

 

 

京助の疑問に対し、当の本人も困ったように

 

 

「こんにちは。希につれてこられたんだけど……津田さん、でしたっけ?ここあなたのお店だったんですね」

 

「えぇ、まぁ、一年ほど臨時の店主やってます。……てか東條ちゃんよ、どういうつもりだ?」

 

「どういうつもりも何も、うちが友達つれて喫茶店に来ちゃあかんの?」

 

 

――あんたの場合、裏がありそうなんだよ

 

それだけ返して、京助は注文も聞かずに店の奥に引っ込んでいってしまう。

希の言うことはもっともな言い分ではあるが、逆に京助の警戒は強まっていくばかりだった。

 

 

「ほな、適当な席に行こか?」

 

「え?でも、何か注文しないと」

 

「大丈夫よ。津田くんとは友達やからその辺は、な?」

 

「誰が友達だ、小娘」

 

 

席についた二人の前に、アイスのコーヒーとココア、それに小皿にひとかけずつサマープディングが出される。

 

 

「これは……?」

 

「こちらでははじめまして、ってことでサービスです。」

 

 

営業用の笑顔を浮かべ、京助はそそくさと席を離れる。

君子危うきに近寄らず。最近の彼のモットーであった。

 

 

「希はここによく来るの?」

 

「そうやね。でも、ここに来るようになったのは最近なんよ。」

 

「へぇ……なかなかいいお店じゃない」

 

 

プディングを一口食べて、絵里は小さく口元を綻ばせた。

 

 

「そうやろ?アイドル部のみんなもよくきてるんよ。」

 

 

アイドル部

その単語が出たとき、絵里の表情が目に見えて曇った。

 

 

「今日はあの子達にダンスの練習つけてあげたんやって?あの子達、感謝しとったよ」

 

「……別に、たいした意味はないわ。そんなことを言うためにここに来たの?」

 

 

希は曖昧な微笑みを浮かべてコーヒーに口を付け、

 

 

「そんなつもりやないんよ。ただ、少し聞きたいことがあったんよ」

 

「聞きたいこと?」

 

「うん……えりちが本当にやりたいことは何なの?」

 

 

店内が一気に静まり返ったように感じられた。

希がカップを置く音と、店内に流れるBGMだけがいやに耳につく。

 

 

「やりたいことを我慢してるんやない?えりちだって本当は、あの子達のことを、」

 

「……しょうがないじゃない」

 

 

希の言葉を遮って、呻くように言葉を紡ぐ。

 

 

「あの子達みたいにスクールアイドルをやってみたいんと違うの?」

 

「そんなこと……今更、そんなこと言えるわけないじゃない!」

 

 

絵里が感情を顕に、声を荒げた。

つり上がった眉、きつく結ばれた口元。でも、その表情に隠されたのは単純な怒りではないことが希には見て取れた

今まで見たことのない彼女のそんな顔に、追い詰められた様子に言葉が続かなくなってしまう。

 

 

「好きなことだけやってどうにかなるんなら私だってそうしたいわよ!でもどうにもならないでしょ!?……私だって、」

 

 

彼女が最後に言った言葉は聞き取れなかった。

ただ、足早に店を飛び出していった彼女は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 

 

「……」

 

 

希には去っていく友を追いかけることが出来なかった。追いかけたところでかけるべき言葉がみつからない。

ただ、唇を噛んでうつむくことしか出来ない。

 

 

「ほらよ。おごりだ」

 

「……ありがと」

 

 

いつの間にか京助が彼女の隣に立っていた。騒ぎを聞きつけたのか、それともこっそり話を聞いていたのかは定かではない。

彼がぶっきらぼうに差し出してくれたホットコーヒーを一口飲むと、思わずため息が口から漏れた。空調の利いた部屋の中、適度に温められたそれは優しく体に染み渡っていく。

 

 

「人の店で厄介事起こすなよ、七面倒臭ぇ」

 

「……ごめん」

 

 

悪態に答える彼女の口調には、いつものようにからかう調子がなかった。思っていたのと違う反応に、京助も思わず眉を寄せる。

 

 

「学校だと、どうしても立場的に素直になれないから……ここだったら正直な気持ちを聞けると思ったんやけどね。」

 

 

「……」

 

 

希の話を聞いているのかいないのか、京助は彼女に背を向けてタバコを口に咥えて後ろに向き直った。

彼女の方から青年の顔は見えない。

広い背中だけが、彼女の話を聞いてくれるようで、不思議とそれが居心地良かった。

 

 

「ほんまにごめんな、お店で騒いでしもうて」

 

 

申し訳なさそうに。

寂しげに笑う彼女を横目に見て、京助は聞こえないように舌打ちをしていた。

 

――だから俺は小娘が苦手なんだ

 

うるさくて面倒くさくて、今までロクな目にあってこなかった。

この仕事に就いてから出会った彼女たちに至っては、人の平穏を乱してばかりで心の休まる暇がない。

その挙句、こうして弱々しい姿を見せられては――

 

 

「……気にするな。喫茶店なんてのは、もともとそういう目的に使うところだ。」

 

 

どうして彼女たちは人の平穏を乱さずにいないのだろうか。

悲しそうな顔をされてしまっては……何とかしてあげたいと、思わずにはいられなくなってしまう。

 

 

「難儀なことだよ、まったく。」

 

 

火の点いていないタバコを二指に挟んで、溜息をついてみせた。

何とかしたい。

でも何をすれば良いのか分からない。

 

自分の甘さと、頭の悪さがここまで憎いと思ったのは初めてだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日は休業日。

本来ならばパチンコにでも行こうと思っていたその日ではあるが、京助は朝から部屋にこもったままだった。

ベッドに腰掛け、紫煙を吐き出す。テーブルの上に置かれた灰皿には吸殻がうずたかく積まれている。窓を開けていない部屋の中は煙とアルコールの匂いがこもりきっていた。

 

好きなことだけやってどうにかなるなら……

 

彼を悩ませているのは先日の絵里の言葉。

とりとめもないその言葉が、わだかまりとなっていた。

灰皿と同じくテーブルに置かれたグラスを傾け、琥珀色の液体を一気に煽る。何杯目になるか分からない安酒の、腹のそこから熱くなる感覚が心地よい。

絵里のいうことはもっともだと思う。やりたいことだけやった結果が先日まで自分なのだから、その辺りは断言しても良い。

だが、望むことも出来ない生き方に意味があるのだろうか。そんな学生生活は楽しいのだろうか。

そう考えると、やもやしたものを感じる。

そして一方で同じように胸の奥底で、先日から感じていた燻りが大きくなるのを感じていた。

 

 

「忘れてた。俺は物事を考えられる程頭が良くないんだったな……」

 

 

今度はボトルからウイスキーを煽った。

酔いが回るに連れ、胸の奥のを焼く炎は勢いを増していくのが分かる。アルコールを燃料としたその炎は、やがてもやもやを焼き尽していく。

何をすればいいのか分からない?

そんなの簡単だ、やりたいことをやれば良い。

自分のやりたいことなら分かっている。

思い立ったら即行動、それがこの津田京助という男のやりかただったはずだ。

 

 

「へっ……そんじゃまぁ、ちっとばっかし行ってみるかね」

 

 

一度は捨てたジャケットをゴミ箱から引きずり出して羽織った。最後に袖を通したのは3年前、しかしサイズはぴったりそのまま。

その行動にきっと意味はない。ただの気分の問題だが、不思議と体に力がみなぎるような錯覚さえ覚えてしまう。

右手を自分の胸元に当ててみる。左胸に描かれたのは、グループでの立ち位置を示した数字の“1”の飾り文字。その下で心臓が熱い鼓動を奏でている。

それなら何も問題ない。

心臓が止まるまで、何だってやってみればいい。

ばさり、とジャケットを翻して、津田 京助は夕暮れの近づく街へと踏み出していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

希に連れられ喫茶店に行った翌日。

授業の終わった教室。

誰もいなくなったそこで、絵里は何をするでもなく席に座り続けていた。

今日一日、希ともまともに顔を合わせることができず、生徒会室に顔を出すことすら気が重い。

こんな気分になったのは初めてだった。

 

 

――本当にやりたいことは何?

 

 

昨日の友達の言葉が脳裏をよぎる。

本当にやりたいことは――

その答えは分かっている。でもその選択が正しいのかどうかが分からない。

 

 

「どうしたらいいのよ……」

 

 

たった一人きり俯いて、こぼれそうになる涙を必死でこらえながら絵理は呟いた。

無論それに答えるものはいない。

否、答えるものはいないと、そう思っていた。

 

 

「そんなの簡単だろうよ。やりたいことをやればいいのさ」

 

 

一瞬、何が起きたのか分からなかった。

閉じきっていたはずの窓から吹き込む涼しい風に頬を撫でられて、はっとしたように彼女が窓の方に向き直る。

それは、いた。

夕日に照らされた真っ黒な固まり。開け放たれた窓枠に、こちらに背を向けて座り込むそれは人の形をしていた。

ジーンズにジャケットというラフな服装、その声にも覚えがある。だが、それは本来こんなところにいるはずのない、ある男性のものだった。

 

 

「あなた……!」

 

「おっと。別に怪しいものじゃないから逃げんでも……おい110をプッシュしようとするのをやめろ!」

 

 

彼の必死な制止の声をうけて彼女は携帯を操作する手を止めた。

ばさり、と音を立てて彼の着ていた薄汚れたジャケットが風に翻った。その背中に、“六重奏”を意味する英語が描かれていたのがやけに目に付いた。

その男は、

 

 

「津田……」

 

「違う。俺はただの――通りすがりのアン○ンマンだ」

 

「ア○パンマンって……」

 

「おう。悩める少女にアドバイスをしに来た。……何ならアンパン食うか?」

 

 

懐から本当にアンパンを取り出してみせる。

もちろん絵里はそんなものを受け取ろうとするはずもなく、混乱やら何やらが入り混じった――要は不審者に対峙した面持ちで京助を見つめる

その様子をどう受け取ったのか、酔っぱらいは先を続けていく。

 

 

「まぁ、何だ。悩める少女にアドバイス――何やら小難しいことで悩んでるようだが、もうちょいシンプルに考えればいいんじゃねぇのか?正直言って、そこまで抱え込む問題か?」

 

「……」

 

 

黙り込む絵里の方を見もせず、京助はただ薄い雲に覆われた空を見ていた。

 

 

「ぶっちゃけた話をするなら、今重要なのはあんたが何をやりたいか、じゃねぇのか?」

 

「……そんな簡単な話じゃないわ。私はこの学校を守るために、」

 

 

本来ならば、こんな得体のしれない男とまともな会話をするなんて間違っている。

それが分かっていながら、彼女は何故か応じてしまっていた。

あるいは人を熱くさせる何かを、目の前の男は持っているのかもしれなかった。

 

 

「はっ……!笑わせんじゃねぇ小娘。建前なんざいらねぇ、やりたいことがあるんなら手を出せばいいじゃねぇか。失敗したら学校の恥、とか言ってたみたいだが、それもまた上等だろ。どうせ何もしなきゃ潰れちまう運命なんだ、そんなら何に構うことがあるってんだよ。」

 

「そんなの無茶苦茶よ!他人事だからって勝手言わないで!」

 

「あぁ、他人事だとも。だから言いたいこと言ってやる。やりたいことを我慢して、その結果廃校なんざ死ぬほどつまんねぇな。つーか俺なら死ぬ。そんな風になるんなら、盛大に無茶苦茶やらかして共倒れしたほうが面白ぇに決まってる。」

 

「面白いかどうかで物事を判断しないでよ!!」

 

「はぁ?これだからなまじ頭良い奴は苦手なんだ。……面白いつまらないで判断しないで、あんたは何で自分の人生を決めるんだよ?」

 

 

それは有り得ないくらいの暴言だった。

真っ当な大人なら決して口にしないであろう、不真面目を絵に書いたような台詞。だが、それに絵里は反応出来ない。

彼の言葉はどこまでも間違っていて認められないが――それでも彼女には全てが間違っているとは断言出来なかった。

 

 

「最後にもう一回聞くぜ。“てめぇのやりたいことは何だ?”」

 

 

開け放たれた窓から、涼やかな風が吹き込んできた。

 

 

「私の、やりたいことは……」

 

 

心の片隅にあったもの。

気づかないふりをしてきたものが口をついて出てくるその寸前、教室のドアの開く音がした。

行き詰まった状況を砕くような、力強い音だった。

 

 

「やっと見つけた……」

 

 

にこが疲れたように呟いて、絵里と京助を交互に見ていた。

 

 

「あなた、何考えてるの?急に屋上に現れて『生徒会長を探せ』だなんて。言いたいことだけ言って本人は先に行っちゃうし。」

 

「そもそも、何で放課後にあなたがいるんですか?これって先生方にバレたら問題に……」

 

「あー、はいはい。文句は後でまとめて聞き流してやるよ。それよりお前らは自分のことをやれよ」

 

 

耳をほじりながら適当に話を流す。

まだメンバーは京助に言いたいことがありそうだったが、一様に口をつぐんだ。代わりに、彼女たちの目は絵里のまえに出ていく穂乃果に向けられる。

 

 

「――絵里先輩。お願いがあります」

 

 

彼女が何を言おうとしているのか、絵里には言われる前から何となく分かってしまった。

それはきっと、自分が無視してきた“やりたいこと”。

ついに無視出来なくなったそれが今、彼女の前に少女と共に現れた。

だから、答えも決まっていた。

 

 

「――分かった」

 

「え?」

 

 

穂乃果が本題を切り出す前に答えを口にした。

予想していなかった絵里の反応に、穂乃果は目に見えて慌て始める。そんな様子を見て、絵里は優しく微笑む。

それは、今までに“生徒会長”が見せたことのない笑顔だった。

 

 

「こちらからもお願い。私を、μ’sにいれて」

 

 

一瞬、穂乃果が目を見開いた。

その動揺はメンバーの中に伝わり、やがて歓喜の声に変わっていく。

 

 

「これで8人。やね?」

 

 

穂乃果達の後に、隠れるようにして立っていた希がにっこりと笑っていた。

まるで我が事のように嬉しそうにする彼女を見て――京助は険しい顔を見せる。

 

 

「何言ってやがる。お前もいれて9人だろうが」

 

「え……?」

 

 

キョトンとした表情を浮かべる希に、ことりがにこやかに手を差し伸べた。

恐る恐るその手を取る様を見て、京助はいつもおちょくり倒されている鬱憤が晴れる思いでいた。

これで9人――

いつか調べたが、ミューズと9人の女神の名前。

ついに彼女たちは、本当のスタートラインに立つことが出来た。

 

 

「おう、やってみろ嬢ちゃん達。上手くいったら大したもんだ。――出発の手向けに、良い事教えといてやるよ」

 

 

緩んだ頬を見せないように、おどけた調子でそう言うと、とん、と軽い音を立てて彼は窓枠からベランダに降りた。

 

 

「人間、何したって死ぬときは死ぬし……人生、上手くいくときゃ何したって大成功するんだぜ!」

 

 

ジャケットを黒い翼の如く大きく翻して――9人になったμ’sの前で彼は飛んだ。

柵を乗り越えてからの滞空時間はほんの1秒にも満たない。

彼女達の目の前で、彼の体は重力に抗うことがかなわず、ゆっくりと視界から消えていく。

 

 

「って!ここ三階よ!?」

 

「あの人何考えてるにゃ!?」

 

「と、とにかく救急車!119番って何番でしたっけ!?」

 

急な展開に呆けていたメンバー達が、真姫の声で正気に戻ってベランダに殺到した。

地面に広がっているであろう悲惨な光景を想像して、それでも恐る恐るベランダから真下を覗き込む。

しかし、そこには彼女たちが想像したようなものはなく――

ただ一つ、教室の机の上にアンパンだけが残されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「くっ……ははははは!」

 

 

学校から全力疾走で裏道を駆け抜け逃げながら、思わず笑い声を上げていた。

こんなこと、酒の勢いが入っている今でなければきっと出来なかった。

しばらく走った先でビルの壁にもたれてへたり込む。久しぶりの無茶に、膝が震えている。

 

 

「いってぇ……」

 

 

ひとしきり笑ったら、今まで忘れていた痛みがぶり返してきた。

胸に鈍痛を感じる。受身はきちんととったつもりだったが失敗していたらしい。幸い折れてはいないようだが、この感じは間違いなく罅が走っている。足も少しひねったらしく軋むように痛む。大怪我をしなかったのが幸運としか言えない。

何であんなことをしたのか、自分でも意味は分からない。だが、それは分かる必要なんてない。

ノリと勢いで行ったことに深い意味なんてあるはずがないのだから考えるだけ無駄だ。

体中が痛い、つまりは生きている。それなら何も恐れることはない。

 

 

夢だけ追い続け、そしてその夢をなくした俺には、最早何もないと思っていた。

翼をもがれた鳥は飛べないのかもしれない。

だが、死ぬまであがくことは出来る。その中で、誰かの助けになることが出来るなら、今の自分にも意味はあるんじゃないだろうか。

 

 

――俺にはまだ出来ることがある。

 

 

そう考えたら、また笑いがこみ上げてきた。




こんばんは、北屋です。
晴れてμ'sが揃い、9人になりました。そんでもって京助がブッ壊れましたww
もっとも、今までの京助はかなり凹んでいたので、今回ラストの彼の方が本性に近いのですがw
では、次回も頑張っていきます!!


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第十九話 才能と経験

初夏の日差しが降り注ぐ正午。

設置を終えた購買スペースにて、授業の終了を待つ男の顔は暗い。

 

 

「やっちまった……」

 

 

昨日のことを思い出して彼は後悔を口にした。

校舎に勝手に侵入し、教室に乱入し、生徒会長相手にお説教、言いたいことだけ言って窓から逃亡。挙句にアバラには罅が入るわ、捻った足はまだ痛みを訴え続けているわ、得るものも何もない。

傍から見れば正直言って正常な人間のやることではない。

主観的に見ても正気の沙汰とは思えない。

通報されなかっただけでも御の字、この後μ’sのメンバーと顔を合わせるのが怖くて仕方がない。いや、もしかするとこの後通報されるパターンではないだろうか。

いっそこのまま授業が終わらないで欲しい。

 

 

「どうしよう」

 

 

彼にしては珍しく、不安をそのまま言葉にしていた。

口にしても答えるものは誰もいないし、問題は何も解決しない。

無情にも時計の針は進んでいく。チャイムの音が鳴り終わると同時に、購買に殺到してくる生徒たちを見て京助はいつになく力ない営業スマイルを浮かべるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おはよー!」

 

「あぁ、おはよう……って時間でもねぇな。こんにちは、高坂ちゃん」

 

 

いつもどおり、ピークを過ぎた頃にやってきた穂乃果と海未に苦笑しながら応じる。既にツッコミに対する受け答えは考えついてある。

 

 

「パン屋さん、昨日大丈夫だった?3階から飛ぶんだもん、びっくりしちゃったよ」

 

 

「ん?ナンノコトカナ?」

 

 

シラを切り通すことにした。

先程まで散々考え続けた結果、導き出した最適解がそれだった。

 

 

「あの時間に学校にいること自体が問題なのに、何てことをするのですかあなたは」

 

「何の話でしょうか?そうそう、これ新商品でオススメなんですが、お一ついかがですか?」

 

「あ、美味しそう!じゃ、それとこれとこれと……」

 

「穂乃果!いくらなんでも買いすぎです!少しはカロリーを控えてください。……それに京助さんもちゃんと話を聞きなさい!」

 

 

あからさまに話題を逸らしてみたが、流石に海未は簡単には追求をやめてはくれそうになかった。

 

 

「いや、まぁ、あれですよ。物の弾みって奴」

 

「なるほど、あなたは物の弾みで女子高に潜り込んで三階から飛び降りるんですか。……そんな人がいてたまりますか!」

 

「海未ちゃん、ナイスノリツッコミ!」

 

「穂乃果は黙っていてください!ともかく!あなたは大人として恥ずかしくないんですか?」

 

 

だんだん海未の声のトーンが大きくなっていく。京助は誰かに聞かれたらマズイと怯えながら、その一方でこんな風に人に怒られるなんて久しぶりだ、などと見当違いの事を考えていた。

 

 

「聞いてるんですか!?」

 

「っ!申し訳ございません!」

 

 

怒声を聞いて反射的に頭を下げてしまう。

女子高生に頭ごなしに叱られて萎縮する大人は、なかなかどうして惨めな図だった。

彼のそんな様子に溜飲が下がったのかそれとも憐憫の情を抱いたのか、海未は深く息を吐き出すと、つり上がっていた眉尻を戻し、

 

 

「全く……人に見られなかったから良かったようなものの。それで、体の方は大丈夫だったんですか?」

 

「あぁ……特に怪我もなく問題はありませんよ」

 

 

半分嘘だが、半分本当だった。

確かに怪我はしているが、この程度は慣れているため怪我にカウントしていない。問題がないのは少なくとも彼にとっては真実だった。

 

 

「いい年なんですから無茶苦茶なことはやめてください」

 

「誰がいい年だ」

 

 

――こちとらまだ20代前半だ

 

いい加減にいい飽きてきたセリフを口の中でもごもごと呟いた。

 

 

「で、話が変わるようですまないんだが……あの後、どうなりましたか?」

 

 

個人的な興味から聞いてみる。

あれだけやってあの後何も変わらないのでは正直骨折り損もいいところだ。それこそ文字通りに。

 

 

「そうそう!今日はそのことを言いに来たんだよ!あの後、絵里先輩と希先輩も正式に入ることが決まって本格的にレッスンをしてもらえることになって!今朝も一緒に朝練が出来て本当に夢みたい」

 

 

目をキラキラと輝かせて言う彼女は本当に楽しそうで、京助も、不覚にも自分の口元が緩むのを感じた。

 

 

「そりゃ良かった。まぁ、これから大変だとは思うけど、頑張ってな」

 

 

ぶっきらぼうで在り来りな返答。そんな言い方しか出来ない自分が少し嫌だったが、それは京助の本心からのものだった。

 

 

「うん!パン屋さんのおかげだよ」

 

「俺の?まさか。前にも言ったが、人生上手くいくときは何したって大成功するもんだ。俺なんかがいなくたって、お前らはきっとこうなってたさ」

 

「それでもありがとう、パン屋さん」

 

 

にっこりと、まるで春の太陽のように微笑む彼女を見ていたら、京助は少し照れくさくなって顔を背けてしまった。

 

 

「もしかして照れてる?」

 

「まさか。小娘相手にこの俺が……」

 

 

動揺を隠せず目を宙に彷徨わせていると、視界の隅に見覚えのある影が映って京助が固まった。

目に見えて挙動がおかしくなった彼を見て、不審そうに穂乃果達二人が彼の視線を追う。

 

 

「あ、絵里先輩に希先輩!」

 

 

向こうも穂乃果と海未に気がついたのか、手を振りながら近づいてきた。

彼女達との距離が近づくにつれ、反比例して京助の顔が曇っていく。

 

 

「……げ」

 

「ちょっと、その反応は酷いんと違う?」

 

 

小さな呟きを耳ざとく聞きつけて、希が早速絡み出す。対する京助は心の底から嫌そうな顔を隠そうともしなかった。

 

 

「こんにちは、穂乃果、海未」

 

 

二人に優しく笑いかける絵里を見て、京助はほぅ、と目を丸くする。

つい昨日まであんなに固い表情をしていた彼女がこんな顔を浮かべるようになるとは、京助も思ってもみなかった。

 

 

「それに、購買の……」

 

 

不意に声をかけられて、京助は反射的に体ごと彼女から顔を背けた。

 

 

「流石にその反応はどうかと思いますよ?」

 

 

海未の呆れた声を聞いて、恐る恐るといった風に絵里の方に顔を向ける。

正直な話をするならば昨日のことで何を言われるのか怖くて仕方がなかった。

 

 

「津田、京助さんでしたっけ?」

 

「……いえ、違います。名も無き購買のおっさんで……痛ッ!」

 

 

適当な事を言ってごまかそうとしたら、海未に背中を小突かれた。

 

 

「……はい、津田です。昨日は本当に申し訳ありませんでした」

 

 

諦めて素直に頭を下げる。

最早恥も外聞もなかった。事情が事情だけに、職がなくなるどころか両手に縄がかかりかねないため京助も必死である。

 

 

「何か謝罪が板についとるなぁ」

 

 

――好きで謝っているわけではない

 

そう言いたかったがぐっとこらえて頭を下げ続ける。この光景こそ人に見られたら楽しい事態になりそうな絵柄なのだが、この際そんなことに構っている暇はなかった。

 

 

「あ、あの……」

 

「お願いですから警察だけは!警察だけは勘弁を!前科がないのが自慢なんです!」

 

 

必死なあまりにあらぬことを口走ってしまった。

周りがドン引きしているが京助は相変わらず気がつかない。

 

 

「叩けばホコリがでそうやな……ともかく、顔上げて。別に絵里ちもうちらも怒ったりしてないから」

 

 

そっと、疑うように京助が顔をあげると絵里は、

 

 

「確かにあなたのやったことは本来許せることではないけど……でも多めに見てあげます」

 

「……いいんですか?」

 

「幸い、目撃者もいませんでしたし、私たちが黙っていれば特に問題はありませんから。それに、今回のことは私も少し……感謝してますから」

 

 

そう言って彼女は困ったように笑ってみせた。

 

 

「……感謝されるような筋合いは全くないんですけどね」

 

 

何故彼女たちが自分に感謝の言葉を投げるのか、京助はイマイチ分からなかった。

自分がやったことはただの後押しに過ぎないし、そんなことをしなくてもいずれ彼女たちはなるようになっていたことだろう。

だから感謝される謂れはないし、正直な所こそばゆい。

そんな悶々とした思いを抱えながらも、京助は一先ず昨日の一件が許された事に安堵の溜息をつくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

購買の仕事も終わり、店の仕事に戻って数時間後、いつもと変わらない人の減った時間帯。

2、3人の一般のお客さんに混じってμ’sのメンバーがいて、そんな光景がこの頃では日常に変わりつつあった。

最初は抵抗があった彼女たちの来訪も、この頃では自然な流れとして受け止めることができるようになっているのだから慣れとは恐ろしい。

だが、今日に限ってその風景は少しだけいつもとは違っていた。

今現在店内にいるのは真姫と海未の二人だけ。時折小難しい顔を浮かべて小さくため息や唸り声を発しているくらいで、μ’sメンバーが来ている割には珍しく静かだった。

穂乃果やにこのようなやたら絡んでくる少女達もいなければ、凛や希のような人の神経を逆撫でしてくるような少女達もいない。それはそれで精神衛生上大変よろしいのだが、この状況をいまいち活気にかけると思ってしまう自分がいて、毒されているようで何となく恐ろしい。

 

 

「お疲れ様」

 

 

コーヒーのお代わりを注ぎながらなんとはなしに声をかけてみると、海未が机に広げられた神から顔を上げて、

 

 

「ありがとうございます。いつもすみません」

 

「なに、気にすんな」

 

 

ひらひらと手を振って京助は口元を僅かに釣り上げた。

この頃では半ば習慣として行っていることではあるが、こうして礼を言われると嬉しいものがあった。

 

 

「しっかし珍しいな。今日は二人だけか」

 

「えぇ。作詞の作業は静かに行いたかったので」

 

「あぁ、なるほど」

 

 

テーブルに広げられたノートをちらりと見て、京助は合点が行ったというふうに頷くと、

 

 

「んで、西木野ちゃんは作曲か?」

 

 

話を振ってみたが返事はない。いや、返事はおろかこちらに気づいている様子すらなく、ただひたすらPC画面を睨みつけ、時折悩ましげな溜息をついている。

少しだけ興味がわいて画面を横から覗き込んでみるが、余程集中しているのかそれさえも気づかれはしなかった。

なので、少し近い距離で、なおかつ先ほどよりも声量をあげてみる。

 

 

「西木野ちゃんや」

 

「うぇっ!?」

 

「ぶッ!?」

 

 

真姫が反射的に振った手の甲が、京助の鼻っ柱を直撃した。

 

 

「急に話しかけないで!びっくりするじゃない!」

 

「お、おう、でも鼻はいくないぞ……」

 

 

涙目で鼻をさする京助に、真姫も少し気がとがめたのか目を逸らして、

 

 

「勝手に覗いてるそっちが悪いんでしょ?……叩いたのは悪かったけど」

 

「まぁそりゃそうなんだが。で、どうしたんだ?難しい顔して。金のこと以外なら相談にのるぞ」

 

 

茶化すような京助を冷たく一瞥すると、無言で再びPCに向き直る。

無駄に絡まれるのはキツイが、無視されるとこれはこれでくるものがある。

 

 

「真姫。大分煮詰まっているようでしたが、大丈夫ですか?」

 

「……大丈夫よ。少し、上手くいかないところがあっただけ」

 

「聞かせてもらってもよろしいですか?」

 

 

真姫から受け取ったイヤホンを耳につけ、海未は目を閉じて曲に集中する。

 

 

「確かにいまいちぱっとしないところがありますね。これは……」

 

「ふむ……ちょっと失礼」

 

「ちょっ……何すんのよ?」

 

 

しばし無言で眺めていたかと思うと、京助はおもむろに真姫の横からPCを操作し始めた。

イヤホンを引き抜いてスピーカーで音を出したかと思うと、すぐに曲を止めてソフトの操作を始める。

彼の行動に怒りが浮かびかけたが、PCと彼の顔を見比べて真姫ははっとした。画面に浮かぶ譜面を見つめる彼は真摯ささえ感じさせる、真剣な面持ちをしていた。

 

 

「んで、こうすれば……っと。これでどうだ?」

 

 

馴れた手つきでソフトを操作し、

半信半疑でイヤホンを挿し直し、彼が弄った曲を聞いてみる。どうせ素人の仕事だ――あまり期待せずに聞いていくうちに、彼女の期待はいい意味で裏切られた。

 

 

「良くなってる……!?」

 

 

驚きを隠せずに目を丸くした彼女を見て、京助は鬼の首でも取ったかのような満面の笑みを浮かべていた。

 

 

「そりゃ良かった。俺の好みで弄っちまったから、後は西木野ちゃんがおんなじ手順で弄れば割かし上手くいくと思うぜ」

 

「今何したの?」

 

「聞くな。経験で弄っただけだから詳しい説明は知らん……それから園田ちゃん」

 

「は、はい……?」

 

 

急に話を振られた海未が慌てて若干裏返ったような返事の声を上げた。

 

 

「その歌詞の2番か?……の3段目のところ、もう少しソフトな言い回しにした方がいいかもしれない。今のままだと全体の雰囲気に対して少し固いし、それだと発音しずらいだろ」

 

「え?あ、確かに……」

 

「具体的には――いや、辞めた。少し考え直してみろ」

 

 

言い換える言葉はいくつか頭に浮かんだが思いとどまって口に出すのを辞めた。

この曲は彼女たちのもの。故に彼女たちが考えて、自分の手で作らなければ意味がない。

自分がしてもいいのは、ちょっとした手助けだけなのだと、自分に言い聞かせた。

 

 

「あなた、何者なの?」

 

「前にも言っただろ?購買のお兄さんだ」

 

 

飄々と、からかうような調子で返す。

だがそれだけで追求をやめてはくれなかった。

 

 

「それはもう聞き飽きた」

 

「なら、ただのロクデナシだ」

 

「真面目に聞いてるの!」

 

 

思い切り睨みつけられた。

元が美人なだけに、こうして怒った表情を浮かべられると迫力がある。京助も一瞬だけひるんで、諦めたように

 

 

「……昔、音楽をかじってただけだ」

 

「それにしては多芸すぎない?ピアノ……は下手だったけど一応弾けて、音楽編集ソフトを扱えて、おまけに作詞にも口を出せるなんて」

 

 

もっともな真姫の意見に、京助は苦笑いを浮かべた。しかしその笑みは、真姫には何故か自嘲するように見えた。

 

 

「あいにく俺には才能のかけらもなくて、それでも何か出来ないかって関係のあることならなんでもやってきただけだ」

 

「なんでも?」

 

「あぁ。学校も遊びも全部捨てて、そのために全力を費やせば誰でも出来るさ。それに……昔は仲間がいたからどうにでもなったが、一人で放浪してる間は作詞も作曲も個人でやらなきゃならなかった。だから少しばかり覚えがあるって、ただそれだけの話だ」

 

 

そう言って京助はポケットをあさり、タバコ――の代わりに棒付きキャンデーを取り出して口に咥えた。

 

 

「ま、それだけやっても俺の技術は三流以上二流以下止まりのゴミばっかなんだから笑い話にもなりゃしない。ロクデナシはどこまでいってもロクデナシ、ってこったな」

 

 

何もかもを捨てて打ち込んできた――

京助は何気ない事のように言って笑うが、真姫も海未も笑う気にはなれなかった

後先を一切考えず、好きなことだけをやる生き方。一歩も引くことの出来ない、引いたら何も残らない歩みに彼は恐怖を感じなかったのだろうか。

ましてやその努力が全て徒労であったのだと、自分の限界に気がついてしまった時の彼の絶望はいかほどのものだったのだろう。

努力の末に身につけた技術をゴミと言い切り、嘲笑えるようになるまでにどれほどのことがあったのか。

彼女達はそんな事を考えて、黙り込んでしまった。

 

 

「ま、そんなんでも良ければ相談くらいはのってやるよ」

 

 

それだけ言って彼はトレー片手にカウンターに戻ると、再び作業を始めた。

食器の手入れを行いながら、京助は厳しい顔で考え事をしていた。

今回はアドバイスを送ることが出来たが、すぐに技術的なものでは抜かれる自信がある。歌詞を書き始めたばかりの海未や、クラシックをメインに聞いてきた真姫に比べれば僅かに京助の方がまだ実力はあるが、その差もあと一月保つかどうか怪しい。

それほどまでに彼女たちの伸びは凄まじかった。

天才――その一言以外を彼は思いつかない。

 

 

「……危ねぇな」

 

 

ぼそり、と呟く。

今までに才のある人間は何人も見てきた。何をやっても上手くこなし、失敗も挫折も経験せずに突き進み――

本当に小さな出来事で、呆気なく潰れていった奴ら。

胸の奥で、小さな警告音が響いていた。

 

 

「へっ……」

 

 

京助は不敵に笑う。

きっと、自分に出来ることはそれだ。

自分にはあいにく才能はかけらもなかった。

その代わりに誰にも負けないものを一つだけ手に入れることが出来た。

幾十の挫折を、幾百の失敗をくり返し、それを乗り越えて培ってきた経験だ。

最早、夢に敗れた自分には無用の長物となったそれだが、いつかきっと彼女達の役に立つことがあるのではと――

そんな漠然とした予感が彼の中にあった。

 




こんばんは、北屋です。
リアルの都合で執筆が遅れて申し訳ありあせん……
感想の返信は明日にでも行いますのでご容赦ください……


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第二十話 不器用

狭苦しい部屋。

開け放った窓から聞こえてくるのは遠く離れた車の音だけだった。

草を枕に聞く風の音はいいものだが、落ち着いて柔らかな布団の上で聞く都会の音と言うのもタマには風情があっていい。

両腕を枕に寝っころがり、膝を組んだまま天井を見上げて薄く笑って――

 

 

「だぁぁぁぁあああ!!寝れねぇ!!」

 

 

叫んだ。

初夏の陽気の弊害か、部屋の中はいつもよりも気温が高く、じめっとした空気にシャツが汗ばんで気分が悪い。

エアコンを付けるにも中途半端なこの空気の所為で、全く寝付けなかった。

 

 

「ちっ……!!」

 

 

盛大に舌打ちをして寝返りをうってみるものの、何が好転するわけでもない。

余計にイラつきを増すだけだ。

上体をおこしてなんとは無しに辺りを見渡してみても、目に入るのは物の少ない殺風景な部屋だけだった。

どうしようもなく独りきりの、寂しい部屋。

 

―― 一人が嫌いなわけじゃない

 

むしろ周りに人がいたことの方が稀だった。

生まれ持っての荒っぽい性格が災いして、寄ってきた人はすぐに離れていく。そんな中でも最後まで一緒にいてくれた5人の仲間たちも、もういない。彼らのことは自分から切って捨てた。旅の途中で、少しのあいだだけ横にいた人ももういない。

いつも結局は自分一人だけになる。

だから、そんな自分の有り様は慣れたものだった。そんな自分の道に後悔は何もないはずだった。

津田京助という男の行動理念は単純だ。ただ、“後悔だけはしたくない”の一心だけが彼の指針であり、矜持である。

 

――それなのに、

 

こうして眠れない夜は考えてしまう。

いくら後悔のないように心がけてきても、所詮は人間のやること。どうしたってあの時あぁすれば良かったと、そう思ってしまう。

 

 

「……考えるのは苦手なんだよ」

 

 

一人呟いて京助は布団から立ち上がった。

寝付けない夜は苦手だ。どうしても昔のことを悶々と考え込んで、憂鬱な気分になってしまう。

元より物事を考えられるような頭はもっていない。それなのに考えを巡らしても意味はない。考えるよりも動いている方が自分の性分には似合っている。

ポケットにはタバコとライター、薄汚れたジャケットを羽織って、彼は夜の街へと繰り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜の街、喧騒から少し離れた場所。

頼りない街灯の光で薄ぼんやりと照らされた石段を駆け登る足音があった。

小気味良い、乱れのないテンポ。

やがて足音の主の少女は石段を登りきり、そのまま大きく息をついて呼吸を整えた。

 

 

「ふぅ……今日はこんなとこ、かな?」

 

 

汗ばんだ額をタオルでぬぐい、今上って来たばかりの石段を見下ろしてみる。最初の頃は一気に駆け上がるのさえ困難だったのに、今では往復を何度か繰り返せるくらいまでには体力がついてきていた。

彼女は一番最後に入ったメンバーで、なおかつ海未や凛のように下地となる体力もなければ親友のようにダンスの経験があるわけでもない。それを自覚しているからこそ、せめて足を引っ張ることの内容にこうして、時たま夜も一人で練習に出ているのだった。

軽く柔軟運動をして、帰り支度を整え切った時、ふと何か覚えのある焦げた匂いを感じた。

 

 

「お嬢ちゃん、こんな夜中に一人とは危ないぜー」

 

「!」

 

 

不意に掛けられた声に、思わず小さな悲鳴がこぼれそうになった。とっさに振り返って暗がりに目を凝らせば、そこにぼんやりと浮かぶのはオレンジ色の、蛍にも似た小さな灯火。街灯の頼りない光に照らされて揺らめく紫煙。

気だるげに歩いてこちらに近づいてくる人影の正体を悟って、彼女はほっとした顔で彼の名を呼んだ。

 

 

「こんな夜更けにどうしたん?津田くん」

 

 

ぱさり、と。薄汚れたジャケットを翻し、お互いの顔が見える位の距離までくると京助は立ち止まってタバコを携帯灰皿に放り込み、

 

 

「別に。蒸し暑くて寝付けねぇから、ちっと夜の散歩と洒落こんでみただけだ」

 

 

いつも通りの疲れたような仏頂面で、ぶっきらぼうに彼はそう言った。

 

 

「そういう東條ちゃんは……練習か」

 

「まぁ、そんなところやね」

 

「朝練に放課後の練習、その上で夜までときたら流石に辛ぇだろうよ。おまけに若くて綺麗な女の子が夜更けに一人、なんていくら街ん中でも関心しねぇな」

 

 

眉を寄せて言う彼を見て、希は何だか少しだけ可笑しくなってしまう。

いつもμ’sのメンバーを前にすると嫌そうに――それこそ何故か自分といるときは特に嫌そうにしているのに、時折見せる彼の反応はその真逆で、面倒見の良さを感じさせる。

 

 

「ん?心配してくれてるん?……津田くんがまともな大人らしいこと言うの初めて聞いたわ」

 

「別にそんなんじゃ……あるけどよ。ってか茶化すな」

 

 

そんな彼の不器用な様子を見ていると、何故だか揶揄いたくなる。

おまけに反応もいちいち面白くて余計に拍車がかかってしまう。

明らかに年上なのに、どこか同年代を相手にしているような親しみやすさがあって、希は割と彼のことを気に入っていた。

 

 

「まぁ、周りに迷惑かけたくない、って気持ちは分かるがな」

 

 

ふと、何の気なしに彼がくちにした言葉に、一瞬固まってしまった。

 

 

「……見かけによらず鋭いなぁ」

 

 

いつもは昼行灯の如くぼんやりとしているくせに、時折妙な鋭さを見せてくる。

一年生の加入時や絵里の件の時も横合いから後押しをしてみせたそれはただの一般論を述べただけのことだったが、よく考えてみれば見事に核心を付いていた。

当事者でない彼だからこそ出来る岡目八目と言ってしまえばそうなのかもしれないが、それだけにはとどまらない何かがあるようで、そこが希にも不思議だった。

なんと言っていいのかは分からない。だが、言葉の節々に血が通っているかのように、彼のアドバイスには耳を傾けてしまうような何があった。

 

 

「さてと。お前の家はどっち方面だっけか」

 

「え?」

 

「こんなロクデナシの野郎が一緒じゃ嫌だろうが――家の近くまで送ってやる」

 

 

そう言って京助は不機嫌そうな顔でそっぽを向いた。

思わぬ申し出に、希もきょとんとして、

 

 

「新手の送り狼?」

 

「阿呆、小娘に手を出す趣味はねぇよ。……お前を心配してやる義理なんざ一片たりともないが、こうして会っちまった以上、何かあったら寝覚めが悪そうだ。これ以上俺の安眠を妨害されてたまるか」

 

 

不機嫌を通り越し、怒っているのかと思うくらいの険しい表情で京助は希の前に出て、歩き出す。

その広い背中を見つめているうちに、彼女は何だか可笑しくなって笑ってしまった。

口が悪くて態度も習慣も悪い。一見すると人生の悪いお手本みたいな青年なのに、不思議と親しみの湧いてくるその訳がようやく分かってきた。

斜に構えているだけで、その本質はどこまでも不器用なお人好し。

 

 

「何笑ってんだ?ほれ、これ以上遅くならないうちに帰るぞ」

 

「津田くん、うちの家そっちやないよ?」

 

 

目の前で京助がずっこけた。

 

 

 

 

 

 

 

しばらく夜の街を歩いていた。

京助が希の斜め後に微妙な距離を置いて立つ形で、二人共終始無言。話題もなく、どちらも何か話しかけることはない。

 

 

「ここから家まで近いのか?」

 

「うん、もう見えてきた」

 

 

希が指差す先にあるマンションを確認して京助はそこで立ち止まる。

 

 

「んじゃ、俺はここらで失礼するぜ」

 

「うん。ありがとな」

 

「別に礼を言われる筋合いはねぇよ」

 

 

ぶっきらぼうに言って、彼は踵を返す。

それは彼なりの照れ隠し。

分かってしまえばそんな彼の様子も気にならない。

 

 

「そういえば、今度オープンキャンパスでライブやるんやけど、」

 

「行かない」

 

 

即答だった。

 

 

「女子高のオープンキャンパスに野郎が行くのはマズイ……ってかキツイ。つーか勧めてくるなよ」

 

「えー?でも前に穂乃果ちゃん達のライブ見に来とったやん。あの時みたいにうちが手引きすればええやろ」

 

「あれはあれで滅茶苦茶キツかったんだ。もう二度と同じ間違いはしねぇよ……じゃあな」

 

 

踵を返して、彼は歩き出す。

そして、ふと思い出したように片手を上げ――後ろ手に小さく手を振った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「パン屋さん!」

 

「こんにちは高坂ちゃん、南ちゃん、園田ちゃん」

 

 

昼時の購買、いつもの顔ぶれ。

もはや恒例と化した彼女達とのつかの間の会話。

 

 

「あのね!今度9人でライブやることになったの!」

 

 

開口一番、聞かされた報告に京助は苦笑を浮かべ、

 

 

「あー、東條ちゃんかも聞いてるよ。オープンキャンパスだっけ?」

 

「うん。今度の休日なんだけどパン屋さんも見に来てよ」

 

「昨日もおんなじこと言ったんだが……流石に女子高のオープンキャンパスに来るのはキツイ。悪いが遠慮しとくよ」

 

「その学校に乱入した人がよく言いますね」

 

「……引きずるなぁ、園田ちゃん。まぁ、ともかく応援はしてるよ。困ったことが……」

 

 

そこまで言って言いよどんでしまった。

 

 

「え?」

 

「いや、なんでもねぇ」

 

 

――困ったことがあったら、力を貸す

 

その一言が、どうしても言えなかった。

力になりたい、出来る事をしたい、そう思ってもまだ卑屈な心が邪魔をする。

自分なんかが関わったら彼女たちに迷惑ではなかろうか。自分の力なんかは何の足しにもならないんじゃないだろうか。

次々と浮かんでくる悪い考えに、表情が曇ってしまう。

 

 

「はい!何かあったら相談にのってくださいね」

 

 

京助は、はっとしてことりを見つめる。

心情を察してくれてのことなのか、京介には分からなかったが、小首を傾げた彼女の可愛らしい笑みを見たら、一気に肩の力が抜けるのを感じた。

 

 

「あぁ。相談だけなら――貸せる力ならいくらでも貸すよ」

 

 

今度こそ、言いたいことがちゃんと言えた。

穂乃果も海未も一瞬きょとんとしたが、すぐに、

 

 

「うん!」

 

「また、作詞の事をお聞きしてもいいですか?」

 

 

――何だ、簡単なことじゃないか

 

 

二人の返事を聞いて、心に浮かんだ曇りが消えた。

『やりたいことをやってみればいい』

そう語ったのは誰だったのか。

 

 

「……おう」

 

 

努めて表情を動かさず、なるべくぶっきらぼうに言い放つ。きっと今の自分は苦虫を噛み潰したかのような顔をしているのだろう。

だが、そうでもしなければ似合いもしない顔がでてしまいそうだった。

 

 

「どうしたのおじさん?そんな嬉しそうな顔して」

 

「あれ?凛ちゃんに花陽ちゃん」

 

 

ひょっこりと廊下を曲がって顔を出した凛が顔を見るなり怪訝そうに尋ねてきた。

 

 

「出会い頭に誰がおじさんだ小娘。……俺が嬉しそうに見えるか?」

 

「うん。そんな変に固い顔してる時って大体照れ隠しでしょ?希先輩が言ってたにゃ」

 

「……」

 

 

――東條ちゃん、余計な事を……

 

心の中で悪態をつくも、当たっているので反論することも出来ずに頭が痛くなる思いだった。

 

 

「こ、こんにちは、津田さん」

 

「こんにちは、小泉ちゃん」

 

 

挨拶を返す。

相変わらずどこかおどおどとした花陽の様子に、京助は眉をひそめた

 

 

「どうしましたか?」

 

「いや……何か怖がられてるのかと思ってな」

 

 

初めてあった時に比べれば幾分か態度が軟化してきたような気もするが、花陽は未だに京助と話す時に遠慮しているというか、おっかなびっくりという様があった。

遠慮してくれるのは構わないが、こうも怖がられるような態度を取られると、流石の京助としても若干堪えるものがある。

 

 

「そんなつもりじゃないんですけど……」

 

「おじさんがいつも怖い顔してるからだと思うにゃ」

 

「てめぇはいい加減おじさん呼びを改めろ。そんなに怖い顔してますか、俺?」

 

 

場に居合わせた全員に同時に頷かれてしまった。

自分で自分の頬をつねりあげてみる。

人相が宜しくないことは自覚しているが、少しだけ凹んだ。

 

 

「パン屋さんはもう少し明るい表情したほうがいいと思うよ!」

 

「営業スマイルも固いにゃ」

 

「……そうか?」

 

 

――これでも少しはマシになったんだぜ?

 

聞こえないようにそう呟いて、京助は表情には出さずに微笑んだ。

夢にへし折れてからというもの、灰色の毎日を送ってきた。代わり映えしない、楽しくもなんともない日々が最近では少しだけ――ほんの少しだけ楽しくなってきた。

灰色の荒野に派手な9色の色をつけてくれたのは誰なのか……そんなのは分かりきっている。

 

 

「何だか、無理に怒った顔をしてるみたいで……楽しい時は楽しんでもいいんですよ?お兄さん」

 

「……あぁ、ありがとな。……ってお兄さん?」

 

「え?あ、すみません。何て呼べばいいのかわからなくて、その」

 

「い、いや。別に構わねぇよ」

 

 

むしろ少し嬉しかった。ようやく実年齢っぽい呼び方をされて、頬が思わず緩んでしまう。

“お兄さん”……悪くない響きだった。

 

 

「あー!おじさん照れてるにゃ」

 

「う、うるせぇ猫娘!首根っこ掴んで放り捨てんぞ!!」

 

 

慌てて口元を隠すが最早遅し。

ばっちりと見られてしまっていた。

 

 

「たまにはそんな顔してもいいんですよ?京助さんも見かけよりは若いんですから」

 

「そうですね。今は確かに年相応に見えましたよ」

 

「おじさんが今お兄さんっぽかったにゃ!」

 

 

心をえぐってるく少女たちの言葉を聞いて、京助の額に青筋が浮かんだ。

少し気を許すとこれである。

 

 

「もう教室に帰れよガキ共……!」

 

 

昼休みも終わりに近づいた時分、一人の青年の悲痛な声が廊下に響いた。

 




こんばんは、北屋です。
リアルが落ち着いてきて、楽しく執筆が出来る余裕が生まれてきましたよ。
まだまだ一期相当の話は続いていきますので、のんびり気長に待っていてください。
ではではー


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【短編】あの日の背中【高坂穂乃果】

夢を、見ていた。

夕暮れの街、赤く染まった空。

今とは少しだけ違う町並み。俺がまだ小学生くらいのガキだった頃のこと。

殴られた頬が、擦り傷だらけの体が痛む、やけにリアルな夢だった。

 

 

「また喧嘩したの?」

 

 

隣を歩く少女がそう問いかけてくる。この頃から綺麗な声をしていて、歌の上手い彼女は、小学校に入ってからの付き合いで、18になるまで腐れ縁の続いた友達だった。

あんなことがなければ、今も一緒に夢を追い続けていたかもしれない、大切な友達だった。

彼女に答えずに俺は足を早める。

 

 

「いつも喧嘩ばっかりして。他にやることないの?」

 

「……うるさい」

 

 

「まぁ、あんたがどうなろうと知ったことじゃないんだけどね」

 

 

いつも彼女はそうやって言葉は終わらせる。

このやり取りも年中行事で、もう慣れたことだった。

彼女の言う通り、当時の俺は毎日喧嘩に明け暮れていた。同級生はもちろん、下級生に中学生、男女すら問わず、誰でも構わずに喧嘩を買って、自分からもふっかけて――そんな毎日を過ごしていた。

 

むかつくから殴った。殴ったら殴り返された。だからもっと殴った。

 

そうやっていつも怪我だらけになって、傷だらけにして――生まれついて乱暴な性格だったのだろう、それでも喧嘩は一番楽しかった。

頭も顔も良くない、運動だって人並み以下にしか出来ない、何も自慢できるもののない自分にとっては暴力だけが唯一の自分を表現する手段だったのかもしれない。

 

我ながら嫌なガキだったと思う。

 

 

「……」

 

「どうしたの?急に立ち止まって」

 

 

ふと視界の端に写ったものに興味を惹かれて、脚が止まってしまった。

小さい頃はよく友達と遊んでいた、街中にある小さな公園。そこに三人の小さな女の子がいた。

オレンジ色の髪をした快活そうな子と、それを見守る大人しそうなグレーの髪の子、木の陰から二人をこっそり覗いている青みがかった髪の子。

小学校に上がるか上がらないか位の幼い子供だった。別に誰が公園で遊んでいようと何か感慨があるわけでもなかったが、その日その時は不思議と彼女たちの様子が目にとまった。

 

 

「下級生?私達とは違う学校の子かな」

 

 

つられるように友達も彼女たちの方に目を向ける。

俺たち二人が見ている前で、快活そうな女の子が駆け出した。

彼女の進む先にあるのは大きな水たまり。

その手前まで駆け寄った彼女は思い切り飛び上がり――飛び越えかけたところで正ぢに転んでびしょ濡れになってしまった。

どうやらあの子は水たまりを飛び越えようとしているらしかった。

 

 

 

「何してんのかしら?」

 

「さぁな」

 

 

きっと彼女なりの理由があっての行動なのだろう。でも、見ている側からしてみればひどくくだらないことをしているようにしか見えない。

 

 

「小さい頃ってなんでも楽しかったわよね……」

 

 

感慨深げに友達が呟いた。

それに答えず、俺は女の子を見続ける。

その子はめげずに水たまりから距離を取り直して、また駆け出していた。

 

――今度こそ

 

遠目からでも分かる。彼女の瞳にはそんな思いが込められていた。

くだらない、と思う。

だが、そんなくだらないことでも必死になれるあの子が何だか羨ましかった。

 

なぜだろうか、彼女のしていることにいつの間にか見入っている自分がいた。

 

走っている途中で彼女は目をつぶり、そしてその顔に小さな微笑みを浮かべたように見えた。

そして、水たまりの直前で跳び上がる。

今度の彼女はさっきよりも軽やかに、それこそ羽が生えたかのように飛び上がって――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝練を終えた帰り道、もう8時をとっくに回っているのに日曜の朝の通りはいつもよりもずっと静かだった。

少し前までの私だったらまだこの時間までゆっくり寝てたんだろうな、なんて軽くジョギングをしながらふと思った。

 

廃校。

 

その発表を聞いたときは本当にびっくりした。

当たり前のことが急に当たり前じゃなくなるって分かって、凄く焦って目の前が真っ白になっちゃったことを覚えてる。

 

何とかしなきゃ!

 

そう思ったけど、何をどうすればいいのか分からなくて、海未ちゃんやことりちゃんに相談してみたけど、結局いい案は思いつかなくて。

そんな時に偶然街角でA-RISEのライブ映像を見たとき、これしかないって思った。

私たちもスクールアイドルをやってみようって。

ただの思いつきで始めたことで、当然反対されたり失敗もしたりしたけど、みんなでどうにかこうにかやってきてここまで来れた。

メンバーも9人に増えて、曲もどんどん増えて、そして今はラブライブっていう目指すべき目標も出来た。

まさに順風満帆……であってるのかな?とにかく、このチャンスを逃す手はない。

出来ることがあるのに、何もしないで後悔はしたくない。

 

 

「あれ?」

 

 

人通りも少ない道を、向こうからゆっくりと歩いてくる人影。

よれよれの開襟シャツに色の抜けたジーンズなんてどこかパッとしない格好。まだ朝だっていうのに疲れたようなその顔に見覚えがあった。

 

 

「パン屋さんだ!おっはよー!」

 

「ん?あぁ高坂ちゃんか。おはようさん、今日も練習か?」

 

 

私が駆け寄るとパン屋さんは困ったような顔をして挨拶を返してくれた。

 

 

「うん!今日も朝からへとへとだよー」

 

「そっか。お疲れさん」

 

 

愛想も何もない、ぶっきらぼうで適当な調子。学校にいる時とはまるで別人みたいだけど、こっちのほうがどこか気軽な感じがして話しやすい。

不機嫌そうな仏頂面と口調は、知り合って最初の頃は怒っているみたいで少し怖かったけど、それが違うって気づくまではそんなにかからなかった。

パン屋さんは何だか眉間に皺を寄せたかと思うと、目を逸らしながら小さな声で、

 

 

「頑張るのはいいが……怪我には気をつけてな」

 

 

本当のこの人は照れ屋さんで不器用なだけ。

そうわかってしまうと、何だか可愛く思えてしまうから不思議。今の言葉だって恥ずかしそうに言ってるみたいで、何だか笑えてくる。

 

 

「パン屋さんは何してたの?」

 

「いや、俺は新台……じゃない、ちょっと用事でな」

 

 

何かを言いかけて慌てた様子で取り消すと、パン屋さんは腕時計を眺めて、

 

 

「と、ともかく!お疲れ様。帰ってゆっくり休めよ」

 

「ありがとう!」

 

 

手を振って駆け出す。

パン屋さんの言う通りゆっくりと二度寝でもしたいところなんだけど、残念ながらこの後はお店番をする約束になっているんだっけ。

どうにか雪穂を説得して代わってもらえないかな?

そんな風に考えていたら、

 

 

「あ、」

 

 

足元の小さな段差に躓いた。

そのまま体が宙にういて、地面が目の前に迫ってきて――

 

 

「高坂!!」

 

 

パン屋さんが声を荒げて駆け寄ってきた。

 

 

「おい、大丈夫か!?」

 

「うん、ちょっと転んじゃっただけだから」

 

 

この人がこんなに慌ててるところ、初めて見た。いつもは不健康そうな目を丸く見開いて、心配層にこっちを覗き込んでくる。

ちょっと転んじゃっただけなのに、大げさだなぁ

いつも今みたいに素直な表情を見せればいいのに。

 

 

「いたた……」

 

 

立ち上がろうとしたら、足首に鈍い痛みが走って思わず声がでちゃった。

 

 

「おい、どうした?」

 

「ちょっと足首ひねっちゃったみたい……」

 

 

足をかばいながら立ち上がる。

やっぱり痛い。走るのはきついけど、流石に立って歩くくらいはどうにかなりそう。

 

 

「ちッ……」

 

 

そんな私の方を眉間に皺をありありと浮かべてパン屋さんが睨みつけていた。

怒られる――

一瞬そう思ったけど、この表情は違う。この人がこんな顔をするときは……

苛立たしげにパン屋さんは舌打ちをしたかと思うと、私に背中を向けてしゃがみこんだ。

それはまるで――

 

 

「……ライブ近いんだろ?その足で無理に歩かない方がいい」

 

「え?」

 

「確か穂むらだったよな?ここからは結構近いし……七面倒くさいが背中貸してやる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「パン屋さん、思ったより背中広いんだね」

 

「……まぁな」

 

 

結局、私はパン屋さんにおぶってもらっていた。

この年になっておんぶなんてちょっと恥ずかしいけど、それよりも普段とは違う新鮮さが優っていた。

 

 

「おい、高坂ちゃん。……あんまりくっつくな」

 

「えー?でもちゃんとしがみついてないと落ちちゃうよ」

 

「しかしだな……」

 

 

余計にぎゅっとしがみつくと、パン屋さんは表情をこわばらせて、お経でも唱えるみたいに何かぶつぶつ呟きだした。

 

――ガキは守備範囲外、ガキは守備範囲外、ガキは守備範囲外……

 

言ってる意味は分からなかったけど、自分がガキ呼ばわりされてるのだけは分かって、頬を膨らませる。

 

 

「穂乃果、ガキじゃないもん!」

 

「う、うるせぇ饅頭娘!!耳元で騒ぐな、このままぶん投げて帰んぞ!!」

 

「ひどい!私お饅頭みたいじゃないもん!!」

 

「うるせぇ黙れ!」

 

 

乱暴に脅かしてくるけど、その割には何だか声が上ずっていてあんまり怖くない。

むしろ何だかちょっと面白くなってきちゃって、余計に強くしがみついてみる。

 

 

「このガキ……!」

 

 

パン屋さんが何か言ってるけど気にしない。

背中に顔を押し付けると、煙草の匂いに混じって美味しそうなパンの香りがした。

ふんわりバターにこんがり香ばしいほかほかのパン。想像しただけで練習終わりでぺこぺこのお腹がなりそうになってくる。

 

――じゅるり

 

 

「おい、人の背中で涎たらすんじゃねぇぞ!?」

 

「そんなことしないよ!」

 

 

背中で揺られて道を行く。いつもと変わらない景色なのに、パン屋さんの背中からみると少し違って見えて少し不思議な気分。

なんだか前にもこんなことがあったような……

 

 

「ねぇ、パン屋さん。私とパン屋さんって前にもどこかで……」

 

 

伝わってくる背中の暖かさが心地いい。

広い背中に安心したら、あれ、何だか眠くなってきちゃった。

 

 

「お前ん家見えてきたぜ。っと、何か言ったか?……高坂ちゃん?おい、高坂ちゃん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ちっ……」

 

 

小さく舌打ちを漏らす。

今日は新台の入荷日、朝から並んでゆっくり日がな一日パチンコを楽しもうと思っていたのに、思わぬ出来事で予定が潰れてしまった。

 

――こいつらと関わるとロクなことがない

 

背中で眠りこけてている少女のことを考えて、心中で毒づいた。

朝っぱらから出会ってしまったのが運の尽き、俺には似合わない仏心なんか出した所為で、こんな状況になってしまった。

いくら人通りの少ない朝の道とはいえ、女の子を背負って歩くのはキツいものがある。人に見つかったら下手をすれば通報されかねないし、それになにより恥ずかしい。

こっちがこんな思いをしているのに、当の本人は背負って3分もしないうちに熟睡してしまっているのだから尚更ムカつく。

本当に、甘い顔なんて見せるものじゃない。

 

 

「っと、ここであってる……よな?」

 

 

地元の老舗饅頭屋、『穂むら』の店舗の前にたどり着くと、まだ開店時間になっていないのか暖簾もかかっていない扉に手をかける。

幸いというかなんというか、扉は軽くに開いてくれた。

 

 

「あ、すみません。まだお店まだ始まってなくて――ってお姉ちゃん!?」

 

 

店の中には一人の女の子がいた。

高坂ちゃんよりも一つか二つ年下位で、彼女に似ている。高坂ちゃんの妹だろうか?

女の子は俺の背中の高坂ちゃんを見て目を丸くして驚きの声を上げた。

説明が面倒くさいな……

 

 

「あー……ちょっとそこで怪我しちゃったみたいで。ここまで送ってきたんだが……」

 

 

――眠っちゃったみたいだ

 

言っていてなんだか少し笑えてきた。

こんな冴えない野郎におんぶされてて、寝るかね、普通?

 

 

「え!?怪我って」

 

「いや、大したことはない。足を捻ったくらいだ……ほら、起きろ高坂ちゃん。家についたぞー」

 

「んあー?家―?」

 

 

声をかけて、そっと背中から彼女を下ろすが、当の本人は寝ぼけたような声を出すものの依然まぶたはとじたままだ。全くこの子は……

 

 

「もう、お姉ちゃん……すみません、姉がご迷惑おかけしました!」

 

 

思い切り申し訳なさそうに頭を下げると、彼女は肩を貸すようにして高坂ちゃんを受け取る。

口ぶりからして何だか高坂ちゃんには苦労しているみたいだ。難儀、してんだなぁ

 

 

「どうしたの雪穂……ってあら?」

 

 

騒ぎを聞きつけたのか、店の奥から高坂ちゃん達姉妹の母親と思わしき女性が出てきた。

目の前の光景に驚く顔が、妹ちゃんにそっくりだった。

また説明しなきゃなんないのか?面倒だな……

 

 

「えっと、」

 

「何だかお姉ちゃん、怪我しちゃったみたいでこの人が送ってくれたんだって」

 

 

俺が何かを言う前に、妹ちゃんが母親に説明をしてくれた。

ナイス、妹ちゃん。

 

 

「すみません、娘がご迷惑をおかけしたようで」

 

「いや、別にたいしたことはしてませんので」

 

 

――では

 

軽く会釈をして踵を返す。

時計をちょっと見てみるが、もうパチ屋は開店時間になっていて新台には間に合いそうにない。

まぁ、なんだか興も剃れたし、今日は諦めて帰って二度寝と洒落込むことにしよう。

 

 

「あれ?」

 

「はい?」

 

 

高坂母の驚いたような声に反応して振り返る。

 

 

「あなた、きょーちゃんじゃない?」

 

「え?」

 

「やっぱり!津田さんのところのきょーちゃん。しばらく見ないうちに大きくなったわねぇ」

 

「え?えぇ?」

 

 

向こうはどうやら俺のことを知っているらしいが、こっちにはあいにく覚えがない。

もっとも、適当さには定評のある俺のことだから忘れているだけかもしれないが。

 

 

「お母さん、この人知ってるの?」

 

「えぇ、ほらパン屋の津田さんあるじゃない?あそこの息子さん」

 

 

恐るべし、ご近所ネットワーク。同じく地元に店を構える人同士、どうやらうちのことを知っていたらしい。

そういえばうちのお袋もよく穂むらの饅頭を買ってきてたっけか。

 

 

「ほら、雪穂。ご挨拶」

 

「あ、すみません。高坂穂乃果の妹の、高坂雪穂です」

 

「え、えぇ。カフェ&ベーカリーTSUDAの津田京助です」

 

 

何分突然のことで挨拶がぎこちなくなってしまった。

どうやら妹ちゃんは雪穂というらしいことは分かった。

 

 

「折角だし、お茶でも飲んでいってください。雪穂、穂乃果を部屋まで運んであげて」

 

「はーい……全く、お姉ちゃんまた重くなった?……ゆっくりしていってくださいね」

 

「いや、お気遣い無く。俺はもう帰りますから……」

 

 

気を使っていただくのはいいが、さすがの俺でもこの状況でゆっくりお茶なんてキツいものがある。

やんわり断ると、高坂母は懐かしそうに目を細めて、

 

 

「そういえば、前もそう言って帰っちゃったのよね。昔から照れ屋さんなところはかわらいのねぇ」

 

「昔?」

 

 

俺が照れ屋だとかとんでもないことを言い出したが、そこは置いといて。

 

 

「そうそう。あの時も、びしょ濡れになった穂乃果を今日みたいにおんぶしてくれて……覚えてない?」

 

「……すみませんが、人違いでは?」

 

 

全くもって覚えがない。自分で言うのもアレだが、昔の俺は今よりももっと荒れて尖っていて、とてもそんなことを人にしてやるような人間ではなかったはずだ。今だってお世辞にもまともな人間とはいえないが……

 

 

「では俺はこれで。高坂ちゃん……穂乃果さんに、お大事にと伝えてください」

 

 

それだけ言って俺は店を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夢を、見ていた。

 

 

夕暮れの街、赤く染まった空。

夕焼け小焼けの音楽が遠くに聞きながら、あぁもう帰らなきゃいけないんだってぼーっと考えてた。

夢の中の私はまだとても小さくて、見える町並みも今とは随分違ってた。もうなくなっちゃった駄菓子屋さんやおもちゃ屋さん、引っ越してしまった友達の家とか、懐かしいものがいっぱい。

 

そんな道を、私は誰かにおんぶされてゆっくりと進んでる。

 

いつもと同じ見慣れた光景だけど、私よりも大きなその人の背中の、いつもよりちょっとだけ高いところから見るのはいつもと違って見えた。

 

私をおぶってくれるその人も、今の私からしたらまだ小さな男の子で、何だか危なっかしい足取りだったけど、小さな私は怖いとは少しも思わなかった。

 

彼の背中はとっても広くて暖かくて……安心したらなんだか眠くなってきちゃった

 

 

 

 

 

「はっ!」

 

 

がばっと布団から飛び起きて時計を見る。

時刻は既に九時を過ぎていた。

大変だ、練習寝坊しちゃった!また海未ちゃんに怒られる……

慌てて布団を飛び出したら、寝ぼけてた頭が冴えてきて今朝のことを思い出した。

そうだ、今日はもう練習は終わったんだっけ。

でもいつ帰ってきて布団に入ったんだろう?

確か練習が終わって、家の手伝いをするために帰る途中で……

 

 

「お姉ちゃん、やっと起きた!今日はお姉ちゃんがお店番する約束でしょ!」

 

 

部屋に入ってくるなり妹の雪穂が

 

 

「ごめん。そうだった」

 

 

部屋を出ようとしたら、足首がずきんと痛んだ。

それでやっと思い出す。

今朝、パン屋さんにあったんだっけ。転んじゃった私をパン屋さんはおぶってくれて、それで――

あれ?そこからの記憶がない。

 

 

「雪穂、私どうやって家に帰ってきたっけ?」

 

「もう!津田さんって人がお姉ちゃんをおんぶしてここまで送ってくれたんだよ。私びっくりしちゃった」

 

「あはは……そっか、私寝ちゃってたんだ」

 

「涎まで垂らして、恥ずかしかったんだから」

 

 

そんなに強く言われなくてもいいのに……

私だって恥ずかしいんだから

 

 

「とにかく、起きたなら着替えて早くお店番!」

 

「はーい」

 

 

雪穂が出て行った部屋で大きく伸びをする。

本日二度目の目覚めは案外に快適。

夢見も悪くなかったし――夢?

 

 

「あれは、夢だったのかな?」

 

 

目を閉じれば思い出せる。

それはパン屋さんなのか、それとも夢に出てきた男の子なのか分からないけど――広い背中の温もりを。

 

 

「ううん。ま、いっか」

 

 

考えるのはひとまずやめにして、朝から気合をいれていく。

ちょっと遅くなっちゃったけど、今日もこれから始まっていくんだ。立ち止まってなんかいられない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

安タバコを咥えて道をゆく。

歩きタバコはマナー違反、そんなことは分かっているが、癖になっちまったことは今更なかなかやめられない。

ぼんやりと取り留めのも生産性もないことを考えながら帰路につく。見慣れた街の風景だが、俺が子供の頃に比べるといくらか様変わりしてるようだ。

駄菓子屋やらおもちゃ屋、ダチ公の住んでたアパート……時代の流れって奴だろうか。

チビたタバコを足元に吐き捨て、踏みにじって火を消した。

感傷にひたるのは俺のキャラじゃない。さっさと帰って二度寝なりなんなり自堕落に過ごそう。

そう思って顔をあげるとふと目に付くものがある。

 

 

「あれは……」

 

 

小さい頃に何度か遊んだことのある公園だった。

何か感じるものがあって近寄ってみれば、昔に比べて遊具が減った敷地の中に大きな水溜りが出来ていた。

 

 

「……なるほど」

 

 

疑問にようやく合点がいった。

新しいタバコを取り出して口にくわえ火を点ける。時の流れとは早いものだ。

 

 

「あん時のガキが……随分大きくなったもんだ」

 

 

呟いてから、紫煙を漂わせながら歩き始める。

その足取りはいつになく軽やかだった。

 




こんばんは、北屋です。
突然の穂乃果短編……本当なら誕生日編を書くはずだったのですが、どうにもこうにもならなかったのでこのような形の短編にすることになりました。

やっぱり穂乃果ちゃん可愛い!書いててかなり楽しめましたw
今回の話はあまり本編とは関係ないですが、完全にIFというわけでもないのです。のちのち関わってくることが……あるといいのですがw

さて、次の短編はことりちゃん回。無事に誕生日に間に合えば良いのですが……
次回は普通に本編を進めていきます。
ではでは!


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第二十一話 アイドルショップ / 予兆

※暴力描写を一部含みます


『みなさんこんにちは、音ノ木坂学院スクールアイドル、μ’sです!』

 

 

自室、椅子に腰掛けてパソコンの画面に目を向ける。

小さな画面に映し出されるのは見覚えのある風景に、見覚えのある少女達だった。

ステージ衣装に身を包んだ彼女たちは、いつもよりも可愛らしく、凛々しく、そして輝いて見えた。

 

 

『これからやる曲は、私たちが9人になって初めて出来た曲です』

 

 

センターの穂乃果の宣言に続いて始まった音楽に合わせて踊る少女達。

以前見たときよりも格段に上手くなっているのが素人目にも分かった。

先日、音ノ木坂で行われたオープンキャンパス――その中でのμ’sのライブ映像である。何度か見に来るようにとメンバーに声をかけられたものの、結局京助はこうしてネット配信された録画映像を見ているのだった。

いくらなんでも女子高のオープンスクールに行くなど、冗談ごとではすまない。彼にだって少し位は体面があるのだ。

 

 

「若いっていいな……」

 

 

ふとそんなことを呟いてしまい、京助は思わず苦笑いを浮かべた。自分だってまだ20歳少しの癖に何を言っているのか。

自分だって少し前までは、彼女たちほどではないにしろ輝きを持っている時代はあったというのに。

やがてライブが終わると、彼は目を閉じて背もたれにだらしなく体を預けた。

 

――この頃、おかしい

 

そう思う。

ふとした拍子に身の内で燻るものがある。

それは二度と燃え上がることのない、例え燃え上がったとて何かを成すことなど到底できない、夢への未練であった。

火の粉一つ残さずに捨てさったと思っていたのにμ’sの面々と知り合ううちに、まるで呼応するかの如く日に日に熱さが増していくのを感じていた。

 

 

「ちッ……」

 

 

気がつけば京助は部屋の片隅に置かれたアコースティックギターを手にしていた。彼にギターを教えた友人から借り、今に至るまで返せていない代物である。

チューニングを手早く済ませてピックを握る。久しぶりだというのに、ネックを握った瞬間に心が一気に落ち着くのが不思議だった。

指慣らしに練習用の旋律をひとしきり奏でると、μ’sのライブをもう一度再生して、今度は目を閉じて音楽に全神経を集中した。

本来耳コピは得意ではないし、アコースティックへのアレンジなど無茶も良いところなのだが、何故だか今は無性にやってみたい気持ちが抑えられなかった。

確かめるように一つずつ音を出していき、やがて連続したひとつの旋律へと形作っていく。

拙くボロボロで、人に聴かせることなどとても出来ないが、それでもこうして曲を弾くのは楽しかった。

 

――俺がなりたかったのは……

 

自分の夢を思い出しかけたその時、手の動きが乱れた。

 

 

「いっつ……」

 

 

久しく弦に触れなかった左手の指先もじんじんと痛むのを感じた。。

何を今更。

一度失った夢は二度と取り戻すことは出来ない。こんなことをしても何も得ることは出来ない。

まるで無意味だ。

ギターを元に戻し、残り少ないタバコに手を伸ばす。14の時から吸い始めて、ほぼ毎日欠かさなかったそれは彼にとっては癒しでもある。口に咥えた両切りタバコの先端に火を点けようとライターをこするが、こんな時に限って一向に火が灯ることはなかった。

 

 

「……ガス欠かよ」

 

 

100円ライターをゴミ箱に乱暴に放り込んで、舌打ちをしながら彼は立ち上がった。

タバコはあれども火がなくては話にならない。ボロボロのジャケットを羽織って近場のコンビニまで繰り出すつもりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……こうして見ると、結構様変わりしてんな」

 

 

ちょっと近場のコンビニまで――そのつもりだったがふと興がのって、京助は秋葉原の電気街にまで足を向けていた。

特に街に用があるわけでもない、ただの散歩である。

放浪に出る前とは幾分変わってしまった街を見るのは思ったよりも面白く、なかなか飽きない。

たまにはパチンコ以外でのんびりと一日を過ごすのも良いかもしれないと、そう思った。

 

 

「ん?」

 

 

今まで見たことのない店が視界に飛び込んできて、ふと足が止まった。

きらびやかで可愛らしい装飾、飾られたステージ衣装や女の子の写真、グッズ、その他もろもろ……

 

 

「アイドルショップ、ねぇ?」

 

 

話には聞いたことがあったが、別段興味もなく、用事もない。自分には縁のないところと、その前を通り過ぎようとして、

 

 

「あ、」

 

 

店頭に飾られたグッズの中に見覚えのある顔ぶれがあった。

というか、いつも見ている顔だった。

急に興味がわいて、柄にもなく店の中に入ってみれば、店の入口付近、目立つところに作られた特設コーナーにμ’sのメンバーのグッズが所狭しと並べられていた。

”人気急上昇中!”のポップがたてられ、実際いくつかのグッズは売り切れている。

身近な人間がこうして有名になってきるのはなかなか不思議な気分だ。

ギャラだのなんだのはどうなってるのだろうか……などとぼんやり考えながら、京助は店内を物色する。

 

 

「おいおい、これ肖像権大丈夫なのかよ……」

 

 

思わず苦笑を浮かべる彼の視線の先にあったのは、三人組スクールアイドルの写真だった。本人たちの目線が明らかにおかしな方向に向いており、ひと目で許可なく取られたものだと分かる。

A-RISE……以前、京助が広告塔で目にした有名なスクールアイドルだった。

人気が出るということは、それだけ面倒事も増えるということなのだろう。

全く難儀なことだと、もう一度写真を眺めて……ふと京助は何か違和感を感じた。

写真の隅っこに映った、男性と思わしき人影。通りすがりの一般人なのだろう、ぼやけてしまって顔が分からないが、しかし、京助は彼をどこかで見たような覚えがあった。

 

 

「……?」

 

 

なんとも言い表しづらい、不思議な感覚だった。

一種の懐かしさのようであり胃が締め付けられるような不快感でもある。

じっと写真を覗き込むうちに、その正体が朧げながら頭に浮かんできたところで、京助は考えるのをやめた。

あまり深く考えてはいけない気がした。

どうせ自分には関係のないことと、そう言い聞かせて彼は再び適当に店内をふらつき、結局μ’sのコーナーに戻ってしまう。

 

――まぁ、知らない仲じゃないしな

 

陳列された商品を眺めているうちに、何となくグッズの一つでも買ってみるかという気分になっていた。

ストラップやポスター等の商品の中から、棚の端っこの方に置かれたそれに手を伸ばす。それはオイルライターだった。どこにでもあるような安物のオイルライターに、絵柄のプリントされたシールを貼り付けただけのいかにも雑な作り。

もともとライターを探して家を出てきた彼にしてみれば丁度良かった。

足早に会計を終えて店を出る。

今日はもう家に帰ろうかと、そう思った矢先に、

 

 

「京助先輩?」

 

「……げっ!」

 

 

音ノ木坂学院アイドル研究部、スクールアイドルμ’s。

今一番会いたくない集団に出くわしてしまった。

 

 

「その反応はひどいんと違う……ってこれ何回目やろ?」

 

「い、いや……」

 

 

今にして思う。

彼女たちのグッズを買ってしまったのはどう考えても間違いではなかっただろうか?

彼女たちにバレたら、どんびかれるか、さもなければこの後散々いじり倒されるか、どちらにせよ明るい未来が見えない。会計をしたさきほどの自分を殴りたい。

 

 

「京助先輩、今アイドルショップから出てこなかった?」

 

「い、いや。まさかこの俺が……」

 

「えぇ!?お兄さんもやっぱりアイドルに興味があったんですね!!」

 

 

急に目を輝かせた花陽がいつになく積極的に向かってきて、思わず京助も後ずさってしまう。その際に慌てて手元の袋を尻ポケットに突っ込んで……

 

 

「あ!今おじさん何か隠したにゃ!」

 

「な、なんでもねぇ!ただのタバコだタバコ!」

 

「んー?隠すところが怪しいなぁ?」

 

「いや、なんでもねぇっての!……ちょっ、寄るなエセ関西娘!」

 

 

京助の背中を冷たい汗が流れた。

何とかして窮地を脱せねば。

中身のない頭を必死で回転させて、無い知恵を振り絞った末にようやく出てきた答えは……

 

 

「あ!逃げた!」

 

 

踵を返して全力でダッシュ、近くの路地裏に逃げ込み、ゴミ箱やら何やらを蹴倒しながら奥へ奥へと進んでいく。昔取った杵柄で、裏道ならば彼女たちよりも熟知している自信があった。

最早、なりふりに一切構わない必死の逃走だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ひでぇ目にあった……」

 

 

公園のベンチに腰掛け、いつにも増して疲れた顔で呟く。

なんというか、タイミングが悪すぎる。やはりあの少女たちとはどこか相性が悪いのかもしれない。

全力疾走で乱れた呼吸をただして、尻ポケットから買ったばかりのライターを取り出すと、やはりそのへんで買ってきた安物のオイルを注入。

一、 二度こするとぼんやりと赤い火が灯った。

 

「ふぅー」

 

 

思えば今日初めての一本目。毎日の日課、これがなくては一日が始まった気がしない

紫煙をあげるタバコをくわえたまま、京助はぼんやりと手元のライターを見つめて困惑の表情を浮かべてしまう。

ノリと勢いで買ってしまったが、割と始末に困る。

普段遣いにはいくらかキツイものがある。アイドルグッズなんて自分には似合いもしないし、そもそも描かれている本人がこれを見たらどう思うのか。

一瞬その辺に放り捨てようとして――もったいないのでやめた。

 

――帰るか

 

煙を舌で転がしながら今日の予定を考える。朝からケチがついてしまって、正直今日一日何もする気が起きない。特にこのまま屋外でなにかをしようものなら、それこそ取り返しのつかないことになりそうな予感さえもする。

今日はもう帰って、自分の部屋でごろごろぐだぐだ、自堕落生活を送るのが一番良いのかもしれない。

半分程になったタバコを二指につまんで煙を吐き出す。このタバコを吸い終わったら帰路につくつもりだった。

ベンチに腰掛けたまま、公園の外を見やる。楽しげに、鬱々と、皆が皆、それぞれの動きを見せながら歩く姿は、案外に見ていて飽きないものがあった。

 

 

「んあ?」

 

 

思わず妙な声が出た。

通りを行く人の中、人ごみをかき分けるようにして走る女の子の姿が目にとまった。

メイド喫茶か何かの店員だろう、この街ではよく見かける格好ではあるが、客引きをするわけでもなく街中を走っているという光景は物珍しかった。

全力疾走――である。

王道的な、ふわふわのメイド服を翻して走る姿は一種異様ともいえた。

あんな格好でよく走れるものだとか、人にぶつかりそうで危ないな、などと目で追いながらぼんやりと考えていたら、

 

 

『きゃっ!』

 

 

案の定、人にぶつかった。

ぶつかられた方は少しよろけた程度だったが、ぶつかった本人ははじかれて尻餅をついてしまっていた。

京助の見ている前で、少女は立ち上がると必死な様子で頭を下げて謝り出す。普通ならそれで終わりそうなものだが、いかんせん相手が悪そうだった。

二人組の、いかにもイマドキといった感じのチャラそうな若い男である。

謝り続ける少女に何事かを言ったかと思うと、彼女は困ったような顔を浮かべていた。

遠目に見ても、何かしらの因縁を付けられているのは明白だった。

 

――ちっ

 

舌打ちを一つ。

こういう所は見ていて面白いものではない。折角のタバコが不味くなる気がして、京助はその場を去るべく腰を上げた。

女の子には気の毒だが、ある意味自業自得の結果だ。自分には助ける義理もなければそんな人情もない。

 

――運がなかったと諦めろ

 

さり際にもう一度彼らの方を見て……彼はその疲れきった目を丸く見開いた。

三人の中に、見知った顔を見つけたのだ。

 

 

「義を見てせざるは勇なきなり、ってか?」

 

 

先ほどとは意見をまるっきり反転させて、足早に少女の方に歩を進めていく。

彼の顔には、ひどく獰猛な笑みが浮かんでいた。

 

 

 

 

 

公園を出て、三人のもとへと早足に向かう。

一人がなにやら言いながら少女の肩に手をかけた。

よく見ればかなり可愛らしい少女だ。

文句ついでにナンパ紛いのことをしているようで、男たちはいやらしいニヤケ面をしていた。

 

――良かった

 

京助はそう思う。

こんな不快な奴相手なら、加減をする必要もない。右の拳を軽く握り締め、

 

 

「おーう、ちょっと兄ちゃん」

 

「!?」

 

 

とん、と。

少女の肩に手をかけていた男の肩を、今度は京助がかるく叩いた。

迷惑そうな顔で振り返った男、その顔の真ん中に京助の拳が突き立った。

男は何も言わずに顔を押さえて崩れ落ちる。指の隙間からこぼれた血が、アスファルトの地面に赤いシミを広げていく。

うずくまる男の脇腹を、今度は容赦なくつま先で蹴りつけた。

 

 

「てめぇ!」

 

 

一瞬あっけにとられていたもう一人が正気に戻って京助に食ってかかった。

鼻息も荒く、胸ぐらを掴む。

だが、逆にその手首を京助に掴まれ、手の甲に、まだ煙を上げ続けるタバコが押し当てられた。

肉の焦げる音がした。

 

「ッ――!」

 

 

苦鳴をあげようとしたところで頬を張って黙らせる。

突然の襲撃からの一連の流れ――明らかに手馴れた動きであった。

 

 

「よう、久しぶりだな」

 

 

声を掛けられた男は、訝しげな顔で京助の顔を見て――この世のものではないものをみたとでも言わんばかりに凍りついた。

 

 

「てめっ、喧嘩屋!?」

 

 

言い切る前に男の鳩尾に肘をいれて黙らせる。

前のめりにうつむいて荒い息を吐く男をみながら、

 

 

「ちげぇよ。今の俺はパン屋さんだ……それよかてめぇ、こんなとこで会うとは面白いめぐり合わせだな。え?」

 

「お前、女に刺されて死んだんじゃ……」

 

「何でそんな噂が広がってんだよ……まぁいいや、ともかく」

 

 

京助の掌が、男の顔を鷲掴みにした。

両手をもってして引き離そうと抵抗するが、指先一つ動く気配がない。

まるで鋼のようだった。万力のごとき力が、指の一本ずつにかかっていた。

 

 

「いつぞやも言ったよな?次に俺の前で面白くねぇ真似したら……その顔引っぺがすってよ?」

 

 

京助の顔に、獰猛な獣を思わせる笑みが深く刻まれた。

右腕の筋肉が、シャツの袖を破らんばかりに膨れ上がる。

男は自分の頭蓋から上がる歪な音にかつてない恐ろしさを感じていた。指先が顔に食い込み、肉をえぐるところを想像して、一気に血の気が引いていく。

指の間から見える京助の顔いっぱいの笑みの凄惨さ。

喜悦に満ちた顔をしていた。

最早悲鳴さえも上げられない程に、全身を恐怖が貫いた。

 

 

「冗談だ、真にうけてんじゃねぇよ」

 

 

す、と京助が手を離した。

さっきまでが嘘であったかのように、京助の顔からは凶相が完全に消え去っていた。

男は青ざめ、恐怖に引きつった顔のまま2、3歩あとずさったかと思うと、そのまま踵を返して全力で駆け出していた。

 

 

「おーい、友達おいてくんじゃねぇよ、っと、こっちももう逃げ出してたか」

 

 

気がつけば最初にノした男の姿も見えない。どうやら京助が見ていないうちに一足先に逃げ出したらしかった。

 

 

「さてと、と。気をつけな、嬢ちゃん。世の中いい人ばかりじゃ……」

 

 

振り向きながら言ってみるが、彼の後ろには先ほどのメイド服の少女もいなかった。

揃いも揃って実に鮮やかな逃走である。

呆れるやらなにやらを通り越して、感心してしまう。

 

 

「……やべ」

 

 

気がついてみたら、道行く人の視線がこっちに集まっていた。

白昼堂々、通りで喧嘩なんて始めたらこうなるのが当然である。まもなくすれば警察がきてもおかしくはない。

深い溜息を一つ。

 

 

 

京助は先ほどの三人に見習って、全力でその場を後にした。

 




こんばんは、北屋です。
いやいや、忙しい日々で更新に時間がかかりました。
もうちょいペースを上げたいところです……

先日、作家仲間の方々とオフ会してきました。
有意義で楽しい一日となり、自分も物書きとしてもっと頑張っていこうと思えました。

ではでは、次回も頑張っていきますよー!


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第二十二話 自信の在り処 / 有りし日

「ふぅ……ここまでくれば大丈夫か?」

 

 

乱れた息を正して、京助は額に浮かんだ汗を拭った。

久方ぶりの全力疾走に体が悲鳴をあげていた。

放浪中やその前は、官憲の追跡を撒くためによくやったものである。昔取った杵柄で、今回も特に問題はないようだった。

ビルの壁に背中を預け、安心ついでにタバコを咥えようとして、

 

 

「あ、先輩!」

 

「げぇっ!?矢澤!?」

 

 

道を駆けてきた少女の一団、そのうちの一人が目ざとく気づいて急ブレーキ。進路を変えて京助に突進してきた。

驚きのあまり、口元からぽろりとタバコが地面に落ちる。

反射的に逃走に移ろうとするが時すでに遅し。瞬く間に6人の少女たちに囲い込まれて逃げ場を失ってしまった。

 

 

「何よその反応!」

 

「す、すまん、つい……」

 

 

思わず謝罪の言葉が口をついて出るが、今はそんな場合ではなかった。

元はといえば彼女たちから逃げていたというのに、先ほどの一件で完全に失念していた。

頭の中で警鐘が鳴り響き、どうにかこうにか言い逃れる術を模索するが、いかんせん京助の足りない頭では即座に考え出せない

観念するしかないのだろうかと、冷や汗を浮かべるが、次に続いた少女たちの言葉は彼の予想と大きく違っていた。

 

 

「パン屋さん!ことりちゃん見なかった?」

 

「こっちの方に来たはずなんだけど」

 

「こと……南ちゃん?いや、特に見てないぜ?」

 

 

どうやら現在の彼女たちの追跡対象は京助からことりへと移ったらしかった。

内心でほっと胸をなで下ろしながら、京助は逆に尋ねる。

 

 

「俺も今さっきここら辺に来たばっかりだが……何かあったのか?」

 

 

彼の問いかけに、少女たちは困ったように顔を見合わせた。

 

 

「ん?……あぁ、無理に聞く気はねぇから、言いたくなければ言わなくていいぜ」

 

 

気にならない、と言えば嘘になる。だが、あくまで部外者という立場上、京助はあまり踏み込んだ真似はしたくなかった。

そんな様子をどうとったのか、海未はことさら困ったように、

 

 

「いえ、別にそういうわけではないのですが、説明が難しいというか……」

 

「どこから説明すればいいのかな……?」

 

 

彼女たちの様子を見て首を傾げるが、はっ、としたように京助は冷静になって警戒を強めた。

この流れはまずい――

脳内で警報が鳴り響く。この流れは間違いなく厄介なことになる前触れだと、経験が声高に語っていた。

 

 

「……いや良い、分かった。これ以上何も言うな。頼むから俺を、」

 

「みんな、見つけたわよ」

 

 

時はすでに遅かった。

 

――巻き込まないでくれ

 

そう言ことすら出来ないまま、前に遅れてやってきた絵里が見事に京助の予想通り、厄介事を持ってきていた。

 

 

「ことりちゃん!」

 

「…………げっ!?」

 

「あ、あははは……」

 

 

満足気な笑みを浮かべた希に連れられて現れたのは、先ほど絡まれていたメイドさん――改め、メイド服を着たことりだった。

 

 

「……難儀な」

 

 

額に浮かぶ冷たい汗を拭って、京助はかろうじてそれだけをつぶやくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何でこの俺がこんなところにいるんだ……」

 

 

半ば諦観にも似た思いを胸に、それでも京助はそう呟かずにはいられなかった。

 

 

『お帰りなさいませ、ご主人様♡』

 

 

聞こえてくる甘い声に胃が痛くなるのを感じて、思わず両手で顔を覆って、テーブルに顔を伏せてしまう。

京助が今いるのは、何を隠そうメイドカフェだった。

フリフリのメイド服をきた可愛らしい女の子たちが、メイドになりきってこれまた愛くるしい仕草で接客をしてくれる――のだが、京助にとっては苦痛でしかない。

どうもこういう場所は彼の肌には合わない。

加えて、ただでさえむさい男が仏頂面を浮かべて、なおかつ女子高生と一緒にいるのだから、周りの好奇の目にさらされるのは明白で、その視線が余計に彼のストレスを加速させていく。

 

「あのさ、俺、もう帰って良い?」

 

「ことり先輩が伝説のメイド、ミナリンスキーさんだったんですか!?」

 

 

花陽が興奮気味に問いかける。

対することりは申し訳なさそうに、

 

 

「そうです……」

 

「俺、帰りたいんだけど」

 

「何で言ってくれなかったの!?」

 

「頼むから。少しは俺の話を聞いてくれ」

 

 

疲れきった顔で言う京助だったが、誰も相手にしてくれない。彼にしてみれば、成行きとはいえ、何で自分が彼女たちに付き合わされているのか分からなかった。

助けを求めるように、にこに目線を送るが、不自然に目をそらされてしまう。何だか、無性に泣きたくなってきた。

 

 

「言ってくれれば遊びに来て、ジュースとかご馳走になったのに!」

 

「そういう所が言いたくない理由じゃねぇのか……?」

 

 

彼は行儀悪く背もたれに寄りかかってひどく正論を呟いた。

最早逃げることはかなわぬと見て、開き直って会話に参加するつもりらしい。

 

 

「だって、幼馴染なんだよ!?」

 

「幼馴染に奢らせるのか、お前は。つーか、うちでタカってなおも友達にタカるか……」

 

 

しみじみと呟く。

今までに彼女たちにサービスで出してきた品物の数々と金額を思い出して、京助はさらなる頭痛を感じ、やめた。

精神衛生上、非常に宜しくないことだった。

 

 

「あははは……ごめんなさい」

 

「俺に謝るなよ……」

 

 

京介と穂乃果のやりとりをしりめに、海未がことりに向き直って、

 

 

「でも、何故アルバイトを?」

 

「……私には、何もないから。穂乃果ちゃんや海未ちゃんみたいに、何か、誇れるものを持ってるわけじゃないから……」

 

「何も、ない?」

 

「そんなことないよ、歌だってダンスだって、うまいのに」

 

「衣装もことりが作ってくれてるじゃない」

 

 

メンバーから寄せられる意見の数々に、彼女は悲しげに首を振る。

 

 

「私は、みんなについていってるだけ」

 

 

「――っ!」

 

 

彼女の姿が、京助の中でかつての自分と重なって見えた。

仲間との才能の差に歯噛みをして、打ちのめされて。それでもなお、何か出来ることはないかと迷走をくり返し、何度だって立ち上がって追いすがろうとしたかつての自分。

 

 

「……そう、卑下するもんじゃねぇよ」

 

 

思わず、口を挟まずにはいられなかった。

 

 

「南ちゃん自身が気づいてないだけで、お前にしか出来ないことは腐る程あるんだ。ましてや、お前はまだ俺と違って若いんだ。――自分に見切りをつけるようなこと、言うもんじゃない」

 

 

全員の視線が京助に向いた。

全員が思わず言葉を失うほどに、彼の言葉には重いものが込もっていた。

 

 

「津田くんも、何か経験があるん?」

 

「20年も生きてりゃ、それ相応にはな。俺だって昔は――」

 

 

言ってしまってから、京助はしまった、と思う。

だが、彼の次の言葉を待つように見つめてくる彼女たちを見れば、とても黙っていられる雰囲気ではなかった。

深くため息をついて、京助は観念したように自分の経験を口にしようとする。思えば、京助が彼女たちに自分のことを語るのは始めてかもしれなかった。

これから自分のことを語るならば、話さずにはいられまい。いかなる道を通ってここまできたのか。そして――自分が挫折し、夢を諦めたことを。

ちらりと、彼の視線がにこの方を向く。

自分のことを先輩と呼び、同じく大きな夢を追う者として認めてくれた少女。彼女に、自分が夢を諦めたことを面と向かって言うのは、初めてだった。

こんな自分を、彼女は何と言うのだろうか。

 

 

「俺は――」

 

 

意を決して、重い口を開く。

いつまでも、隠せるものではない。下手に隠しごとを続けるならば、それは後になって大きな解れを生むことになると、それは彼が一番よく分かっていることだった。

 

 

「あれ?もしかして――津田京助君?」

 

 

不意に、通路を歩いていた店員に声をかけられた。

メガネをかけた、京助と同じくらいの年齢の女性だった。メンバーが驚いたように彼女と京助を見比べる。

 

 

「津田さんの、お知り合いですか?」

 

「いや、まさか……ん?待てよ?」

 

 

否定しかけて、記憶の片隅に引っかかるものがある。

メイド服もどこかで見た覚えがあった。

確か、自分がμ’sのメンバーと同じくらいの年の頃……高校の時に見た覚えがある。

 

 

「もしかして――高校ん時の先輩か?」

 

 

中身のない頭をフル回転させて、ようやくそれだけを思い出した。

悲しいかな、どこで会ったのか、名前がなんだったのかまでは思い出せない。

 

 

「そうそう!なんだ、やっぱり津田君だ!久しぶり!」

 

「え?先輩、津田さんのこと知ってるんですか?」

 

嬉しそうに笑みを浮かべる店員に、ことりが困惑気味に尋ねると、

 

 

「こう見えて、彼、結構有名人だったから」

 

 

先輩店員はにこやかに答える。

 

 

「え?パン屋さん、昔何かやってたの?」

 

「あら?知らないの?3、4年くらい前だったかしら、いろんな意味で有名人だったのよ?」

 

 

昔のことを思い出して、京助は渋い顔を浮かべた。

当時のことはあまり思い出したくはない。

だが、そんな京助の思いとは逆に、メンバーたちは興味深そうな目で話の続きを期待していた。

 

 

「ギタリストやってて、一時はメジャーデビュー寸前!ってまで言われたバンドの実質的なリーダーだったのよ」

 

「え!?津田さんが!?」

 

「おじさん、実は凄い人!?」

 

「ちょっと!何でそんなこと黙ってるのよ?」

 

 

京助は無言でテーブルに突っ伏した。これ以上、何かを聞かれたくなかったし話したくなかった。

 

 

「全く、みんなして情報に疎いんだから」

 

 

8人が驚きの様相を見せる中で、にこだけがやれやれといった風に腕を組んでふんぞり返る。

 

 

「え?にこ先輩はお兄さんのこと、知ってたんですか?」

 

「当たり前でしょ。一枚だけだけど、CDだって持ってるわよ」

 

 

そう言って胸をはる彼女の姿はどこか誇らしげで。

京助は胸が締め付けられるのを感じた。

この場から離れたくなって、逃げ出したくて仕方がなかった。

 

 

「それはそうと、津田君に会えて良かった!あの時のお礼、言いそびれちゃったんだもの」

 

「礼?……そんなことされる覚えはないんですがね……」

 

 

話題が変わってくれたのを好機とばかりに、京助は顔を上げる。

だが、記憶の糸を再びたぐっても、人に礼を言われるようなエピソードは思い浮かばなかった。

人に恨まれるようなことは死ぬほどしてきたが、感謝されるようなことは終ぞしたことがない。

だからこそのロクデナシ――それが彼の、自分への評価である。

 

 

「覚えてないの?ほら、文化祭の時」

 

「……あ」

 

 

思い出した。

割と思い出したくない部類に入る出来事だったが、思い出してしまった。

 

 

「あの時助けてもらったのに、何も言えないままいつのまにか学校辞めて、行方不明になっちゃうんだもの」

 

「助けてもらった?あの、どういうことなんですか?」

 

 

――もう限界だ

 

絵里が尋ねるのを聞いて、徐に京助は席を立ち上がった。

 

 

「すまん、用事を思い出した!俺は帰る!」

 

 

伝票をひっつかんで、早足に出口に向かう。

一刻も早く、それこそ1秒でも早く店を離れたかった。

 

 

 

 

 

 

 

京助が去った後。

彼の見事なまでの逃走に呆気にとられている

 

 

 

「えっと……」

 

 

続きが気になるのか、おずおずと穂乃果が切り出すと、先輩店員はうっすらと微笑んで、

 

 

「えぇ、本人がいないところで言うのもあれなんだけどね」

 

 

そう前置きして彼女は話を続ける。

 

 

「高校の文化祭で私のクラスはメイド喫茶をやってたの。でも、その日は運が悪くてね。」

 

 

文化祭二日目。

彼女のクラスはなかなか盛況で、多忙を極めていた。それが災いして、彼女が些細なミスを犯してしまったのがことの発端だった。

注文の順番を間違え、商品までも間違えて届けてしまうという、学生ならばあっても仕方がないような些細な間違い。しかし、相手が悪かった。

相手は、地元でも札付きとして有名な他校の生徒。

返金と謝罪、それだけでなく、慰謝料と称して売上の一部まで要求してきた。

怒鳴り散らし、椅子を蹴飛ばして今にも暴れそうな様相を見せる相手に、男子は震えるばかりで宛にはならず、女子も皆、怖がって近づこうとはしなかったという。

 

 

「それで、みんなして困ってたら、隅っこの方で席に座ってた津田君が立ち上がってね」

 

 

――俺の見えるところで、面白くないことしてんじゃねぇ

 

たったの一言。

彼が口にしたのはそれだけだった。

ドスの聞いた低い声に、刃物のように鋭い眼光。

京助と不良の目線がぶつかり合い、一触即発の様相を見せたのは一瞬のことだった。

相手は忌々しげに京介を睨みつけると、興が覚めたらしく、舌打ち一つして店を出て行ったらしい。

 

 

「あのおじさんが、そんな格好いいところ想像できないにゃ……」

 

 

感心したように凛が呟く。概ねその意見には同意だったようで、メンバーの誰もが困惑の色を見せていた。

店員は苦笑しながら、

 

「今でこそあんなに老けてるけど、昔はもっと――なんていえばいいんだろ?……ともかく、素行は悪かったけど、面倒見のいい人ってことで有名だったのよ。何かあった時は助けてくれる、って」

 

 

――あなたたちも、覚えがあるんじゃない?

 

 

そう締めくくると同時に、新たな来客を告げるドアベルの音が鳴り、彼女は少女たちのテーブルをいそいそと離れていった。

残された彼女たちは、思い当たるフシがあるのか、顔を見合わせてくすりと小さく笑い合うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「畜生……」

 

 

レシート片手に、忌々しげに呟く。

慌てて店を飛び出したはいいものの、適当に伝票を掴んでしまったのは不味かった。

支払いの時は急いでいて、やけに高いなー、くらいのことしか思わなかったが、こうしてレシートを見てみるとそこに記されていたのは、全員分の注文だった。

今更、彼女たちに支払いを求めるわけにもいかず、京助は随分と軽くなった財布をポケットに、安タバコに火をつけた。

 

 

「しっかし、難儀なもんだな」

 

 

先ほどの思わぬ再会を思い出して、彼はたまらずに苦笑を浮かべた。

文化祭の一件は、京助にとって手ひどい失敗の歴史の一つだった。

ただの喫茶店だと思って3年生のクラスに入ってしまったのが運のつき、メイド喫茶などという自分とは縁遠いものの中、たった一人でいたたまれない思いをしていた時のことである。

そんな丁度虫の居所の悪い時に、見るからにタチの悪い他校の生徒と3年生の女生徒が揉めている声が耳に入ってきてしまったのは、最早不運としか言えない。

あの場は相手が引いてくれたから良かったものの、問題はその後だった。

案の定、廊下で囲みを受けてしまい、売り言葉に買い言葉、喧嘩を買っていしまったのが運のつき。

昔から、喧嘩速かった。気にらないものを見つけたら徹底的に叩きのめしたくなるのは、最早生まれついての性分としか言えない。

廊下で大乱闘を起こした挙句、後に残ったのは、退学という無情な通知だけだった。

 

 

「ちっ……今日は厄日か」

 

 

いらないことを思い出した上に、いらない事を彼女たちに知られてしまった。

しかも、話そうと思っていた事をロクに話すことも出来ないままに。

鬱々とした気分のまま、燃えさしを足元に落として踏みつける。

 

――まぁ、後で機会があれば言おう……

 

 

そんな風に思って、両手をポケットに突っ込んだまま歩き出す。

 

 

 

 

だが、今日、この時、話しておかなかったことを彼は後になって悔やむことになる。

いずれ彼と彼女たちの関係に大きな亀裂を与えると、この時の彼は思っていなかった

 




こんばんは、北屋です。
随分と日が空いてしまい、申し訳ありませんでした!!
リアルが立て込んだり、筆に疑問が生じたりしてなかなか書く事ができませんでした。
とにもかくにも、復活しましたのでまたお付き合い願えれば幸いです。


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第二十三話 過ぎし日、友の名

「五本指ソックス……気持ち良い……」

 

 

日も傾き始めた時分の店内、客もまばらな中でブツブツと呟きながらノートと睨めっこをしていることりの姿があった。

 

 

「あー……何、してんだ?」

 

 

いつもは複数人で来ているはずの彼女たちが、今日に限ってことり一人だけというのが珍しく、コーヒーのお代わり片手に、なんとはなしに尋ねてみる。

すると、ことりは泣きそうな顔で京助を見つめ、

 

 

「新曲の作詞を頼まれちゃって……上手くできないんです……」

 

「作詞って……園田ちゃんの仕事じゃなかったっけか?」

 

「今回、アキバでライブをすることになって……一番詳しいだろうからって私が任されたんですけど……」

 

 

ちらり、と京助がノートの中を見てみれば、そこに並べられたのはまとまりのない言葉の群れだった。

書いては消し、消しては書き、相当な苦心の痕が見受けられる。

 

 

「そりゃまた難儀な……」

 

 

かける言葉が見つからなかった。

バンドをやっていた頃は作詞担当者に丸投げしていたものだが――旅の最中はそういうわけにもいかず、自力で作詞作曲をしていたため、彼女の苦労は痛いほど分かる。

何の予備知識もないまま、言葉を紡いでいくことの難しさ。

 

 

「穂乃果ちゃん、海未ちゃん、助けてー……」

 

 

ここにいない親友二人の名前を出して助けを求める彼女を見て、京助は思わず苦笑を浮かべる。

いくらその気持ちがわかるとはいえ、完全に他人事であれば、見ている分には愉しいのだ。

 

 

「まぁ、頑張れよ。応援くらいはしてやるから」

 

「そういえば、津田さんも作詞とかの経験あるんですよね?」

 

 

くるりと踵を返してカウンターに戻ろうとする京助の背中に、問が投げかけられた。

 

 

「ん?あぁ、まぁ、な」

 

 

嫌な予感がした。

 

 

「お願いします!手を貸してください!!」

 

「……は!?」

 

 

一瞬、何かの冗談かと思った。

だが、すぐにそうではないことに気がつく。上目遣いで見つめる少女は真剣そのものであった。

 

 

「待て待て待て!俺は作詞なんざ出来ねぇって!」

 

「でも経験あるんですよね?」

 

「あるったって、それとこれは話が別だ!」

 

「津田さん……おねがい!」

 

 

キラキラとした、潤んだ瞳。上目遣いで縋るように言うその仕草。

思わず、喜んで!と答えそうになって、京助ははっとしたようにカブリを振る。

 

 

「その手には乗らん!他をあたってくれ!」

 

「そんなぁ……前に力を貸すって言ってくれましたよね?」

 

「ぐっ……そりゃ言ったけど、流石に無理なもんは無理だって!だいたいよ、それはお前らの歌だろ?こんなロクデナシが関わったらロクなもんにならねぇっての」

 

 

一瞬、言いよどんでしまったが意地でも拒否の姿勢を崩さなかった。

 

 

「うー……」

 

 

流石に諦めたのか、彼女は泣きそうな顔でノートに向き直ってみる。しかし、一向にアイデアは浮かんでは来ないようである。

 

 

「あー……なんだ、その、頑張れよ」

 

 

京助ができたことは、そんな在り来りな励ましの言葉を送ることだけだった。

 

 

「頑張れ、って言われても……」

 

「あー……ちっ」

 

 

頭を掻いて、舌打ちを一つ。

落ち込み気味の彼女を見ていたら、どうにもこうにも、口を出さずにはいられなくなってしまった。

 

 

「深く考えんな」

 

「え?」

 

「あんまし悩んでも面白いもんは浮かばねぇし、言葉をこねくり回したところでどうにかなるもんでもない。まずはリラックスしてみな。目を閉じて深呼吸」

 

「リラックス……」

 

 

京助に言われた通り、ことりはペンを置いて目を閉じ、ゆっくりと深い呼吸を重ねていく。

 

 

「そんで、思い浮かべてみろよ。自分がバイト先にいるときのこと、どんな気分であのバイトを始めたのか」

 

「どんな……」

 

「それを、そのまま歌詞にすれば良い。あんまり悩むな、自然でいけ」

 

 

それだけ言って、京助はそっとその場を離れたかと思うと、目を閉じたままの彼女の前に小さなカップケーキを置く。

 

 

「……頑張れよ」

 

 

小さく、それこそ彼女には決して聞こえないような声。

そこには普段の彼からは想像もつかないような優しい調子が含まれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いつにも増して気落ちした風にことりが出て行った店内。

ほかのお客さんもポツリポツリといなくなり、ガランとした店内で、京助は淹れたばかりのコーヒーをすすった。

 

――平和だ……

 

煩わしい少女達もいないひと時は、彼にとって癒しの時間だった。

だが――

 

 

「なんか、しっくりこねぇな……」

 

 

言ってしまってから口を塞ぐ。

まさか、そんな事が口をついて出るとは思わなかった。

望んでいた平穏のひと時であったはずなのに、最近ではその時間が素直に楽しめないようになってきていた。

その理由には思い当たる節がある。大変不本意だが、それはきっとあの少女達のことだ。

 

――あのガキ共のせいか……

 

煩わしくて喧しくて、面倒くさくて仕方ない彼女達のこと。

中年扱いされるは振り回されるは、ロクな目にあった試しがない。

それなのに何故か放っておけないのは、彼女達の個性によるところだろうか?

向こう見ずなリーダーを筆頭に、堅物に世間知らず、生真面目、不思議、見栄っ張り、天邪鬼に天然、お馬鹿……

本当に見ていて危なっかしい。思わず手を差し伸べたくなるほどに。

 

 

「ちっ……」

 

 

そんな彼女達との関わりが、不思議と楽しく思える自分がいて、何となく舌打ちを一つ。あるいはそれは彼なりの照れ隠しなのかもしれなかった。

 

――からん

 

「っと」

 

 

不意に来客を告げるドアベルの音が響いた。

目線だけをそちらに向けると、そこにいたのは――

 

 

「津田さん、いる?」

 

「ぶっ!げほっ……!」

 

 

タイミングが良すぎる来客に、思わずコーヒーを吹いた。

入ってきたのは、今さっきまで考えていたμ’sの内の一人。赤い髪が特徴的な天邪鬼の……

 

 

「……ッ、よう、西木野ちゃん。いるも何も、店が空いてりゃ俺がいないわけねぇだろ?」

 

 

いつもどおりのからかうような軽口に、いつものように冷たい視線が返ってきた。

このやり取りも慣れてきて、少し楽しい。

 

 

「珍しいな、一人で来るなんて。饅頭娘達は今日見てないし――ひよこ娘もさっき帰ったばっかだぜ?」

 

 

真姫は答えなかった。

いつもなら適当に冷たいことを言って席に着くのに、今日の彼女はどこか妙だった。悩ましげに髪をくるくると弄り、何事かを思案していたかと思うと、カウンターに近づき、意を決したように、

 

 

「津田さん」

 

「んだよ?」

 

「今日はお願いがあって来たの」

 

「あ゛?」

 

 

彼女が素直に彼に何か頼み事をするところなんて想像出来なかった。

ゆえに、嫌な予感しかしない。

思わず聞き返す口調が濁ってしまう。

 

 

「にこ先輩に、昔のCD聞かせて貰ったわ」

 

「……良い。それ以上言うな。ってか、俺を巻き込むのをやめろ」

 

 

昔のCD――

現役で活動していたころのことはあまり触れて欲しくなかった。眉間にしわを寄せて嫌そうな顔をする彼に、残念ながら真姫は気がついてはいなかった。

 

 

「ギターは二人でやってたみたいね。……多分だけど、エフェクターも何も使ってない、大雑把で力強い方があなたでしょ?」

 

「……あぁ、そうだよ。悪いかよ」

 

 

大雑把で力づく。これといった特徴もない音が彼のギターだった。

技量も何もかも今一つで、せめて仲間に負けないように我武者羅に弾くしか脳のない弾き方。ただ弾くので精一杯で、技法や技術まで手が回らない。

今となっては、当時の音源を聞くたびに自分の無才を見せ付けられるようで気分が滅入ってくるばかりだった。

真姫は首を振り、

 

 

「ううん悪くない。むしろ、なんていうのかしら?音に血が通ってる感じがする」

 

「血、ね……ただ無茶苦茶やってただけだ」

 

 

才能の欠片もないのに無理をして無茶をして、無謀を重ねて……その結果何も手の中には残っていない。

所詮、無才がいくら努力を重ねたところで、ひと握りの天才に勝てる道理もないと知っただけで、彼女の言うことは下手な慰めにしか聞こえなかった。

 

 

「本当に音楽が好きで、何か目標があって、だから努力をして、本気で取り組んで――そうやって弾いてるのが聴いてる方にも伝わってくる。まるで――」

 

 

――私達みたい

 

そう言いかけて真姫は口をつぐんだ。

 

 

「よせ」

 

 

京助は力なく、彼女を制する。

これ以上、古傷をえぐられたくはなかった。

 

 

「……ギター演奏をお願いしたいの」

 

 

彼女は、少し言いよどんで、単刀直入に告げた。

それは京助にとって死刑宣告のように重いものに聞こえた。

 

 

「……」

 

「どうしても、私の技術だけじゃ曲を作るのに限りがある。ピアノならともかく、ギターなんて私には専門外すぎる」

 

「……なるほど。餅は餅屋、ってわけか」

 

「えぇ。以前に、手を貸すって言ってたの思い出して……だから、」

 

「断る」

 

 

果たして、京助の口をついて出たのは短く、そして揺るがぬ思いを込めた拒絶の言葉だった。

 

 

「……理由を聞いてもいい?」

 

 

京助は黙り込んだ。

時計の秒針の刻む音だけが、店内に木霊する。

渋い顔をしたまま、彼はコーヒーを一口すすって、重い口を開いた。

 

 

「達人ってのは、そうそう技を安売りしねぇもんだ」

 

「え?」

 

「俺とお前らの間には、そんだけの差があんだよ」

 

「ッ!」

 

 

京助のあまりの言い草に、真姫は唇を噛み締める。しかし、反論することはしなかった。

 

 

「こちとら、腐っても元はトップレベルまでいったバンドのギタリストだ。A-RISEクラスならともかく、ぱっと出のガキ共にはもったいなさすぎる」

 

 

真姫だって分かっていた。こんな不躾で急な頼みが通るはずがないと。

ましてや、相手は相当な実力者なのだから、断られることも十分頭では理解していた。

それでもこうして頼んだのは、そして断られたことにわずかながらショックを覚えてしまうのは、どこか彼女の中に彼に対する甘えがあったからかもしれない。

 

――手を貸す

 

そう言ってくれた、この青年に対して。

京助はそんな彼女の様子を無表情にながめて――やがて、にやり、と不敵に笑った。

それは、彼が始めて彼女に見せる優しい笑みだった。

 

 

「この俺に演奏して欲しいんだったら、それ相応の腕をつけてから来い」

 

 

彼の言葉の意味を逡巡して、真姫は驚いたように顔を上げる。

そこに秘められた意味は、つまり……

 

 

「それって……」

 

「そうさな。そんな実力を――それこそ、A-RISEなんかと真っ向勝負出来るくらいの実力をつけてきたなら――喜んで引き受けてやるよ」

 

 

京助はそう言って、彼女に背を向けた。

 

 

「俺に頼むな。俺が頼むからやらせてくれっていうようなチームを目指してみせろ」

 

 

コーヒーを淹れに、バックヤードに向かいながら彼は小さな、しかしはっきりとした声で言うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「クソがッ!!」

 

 

閉店後のガランとした店内。

京助は壁を思い切り殴りつけて毒づいた。

血の滴る、割れた拳を見つめて、彼は笑みを浮かべた。それは先ほど真姫に見せた笑みとは打って変わって、哀愁の漂うものだった。

悲痛な、壊れた笑みだった

 

――俺は何をしてるんだろう

 

拳を握りしめて、京助は自分に問う。

やりたいことをすれば良いと、散々説教を垂れておいて、今の自分のザマは何なのだろうか。

本心を言うならば、ことりに助けを求められた時、真姫に曲作りの手伝いを頼まれた時、嬉しくて仕方がなかった。

夢を失い、何もなくなったこんな自分にも、まだ出来ることがあるのだと、新たに夢を追いかける彼女たちの踏み台くらいにはなれるのだと、そう思うだけで灰色の景色が色づいて見える気さえした。

だが、それはただの幻想に過ぎない。

 

 

「……差が、ありすぎんだよ」

 

 

悲しげに、呟く。

その言葉通り、京助は自分とμ’sとの間に差があることを見抜いていた。ただし、それは彼の方が優れているということではない。

優れているのは――

 

 

「お前らにしてやれることなんて、俺にはねぇんだよ……」

 

 

真姫に対してあぁ言ったのは、泣けなしのプライドを守るための醜くてどうしようもない嘘でしかない。

9人となってからのμ’sのパフォーマンスは正直、凄まじいものがあった。アイドルといった分野に興味がない京助でも――否、そういった方面に疎い京助だからこそ、その実力がよく分かってしまった。

ダンスの技量、音楽の完成度、歌唱力の高さ、そして、人を魅了する力。どれをとっても彼女達の成長ぶりには目を見張るものがある。

特に音楽分野に関しては、とっくに京助が口出しできるレベルを超えてしまっていた。

才能の差。

一言で言ってしまえば軽いが、その壁の厚さを京助は誰よりも知っている。

あるいは、まだ彼女達と同じくらいだった頃の京助ならば、そんな壁を死に物狂いの努力で乗り越えて見せたのかもしれない。だが、現実を知り、確かな才の差をいうものを知ってしまった彼には、足掻いてみせる気力も立ち向かう精神力も僅かすら残っていなかった。

 

 

「畜生が……」

 

 

静かに、もう一度噛み締めるように呟く。

全て理解しながら、それでも必死で体裁を繕おうとする自分が、ひどく醜く思えて、消えてなくなってしまいたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「っくそ、間に合わなかったか」

 

 

ひと段落したのをいい機会とばかりに、京助は早めに店を閉じ、秋葉原の街の中へ駆けつけた。

ことりが作詞したという曲を聴くため、そして彼女たちの秋葉原ライブを見るためであったが、少し遅かったらしい。

ライブのことを語りながら帰る人だけがちらほらと見受けられる。誰もみな晴れやかで楽しそうな顔をしているところを見ると、どうやら彼女達は上手くやったらしい。

 

 

「今回も、ちゃんと見れなかったか……」

 

 

ファーストライブは途中で切り上げたし、その他のライブも画面上でしか彼女たちの勇姿を見ておらず、今回こそはと思ったものの宛が外れて少しだけ、もったいないような気がしていた。

タバコを口にくわえ、仕方なく歩き出す。

行き先は神田明神。

自分には何も出来ないからこそ、せめて彼女たちの今後の成功を祈ることだけでもしてやりたかった。京助にしては珍しい考えだった。

神社の裏門、男坂の急な石段を一歩ずつ登っていいく。夕暮れの、紫色の空は目に染みるほどに美しい。

紫煙を漂わせながらゆっくりと段を登るうちに、京助の耳に誰かの話し声が聞こえてきた。

 

 

「私達、いつまで一緒にいられるのかな?」

 

「どうしたの、急に?」

 

 

聞き覚えのある声だった。

 

 

「だって、あと二年で学校も終わっちゃうでしょ?」

 

「大丈夫だ。心配するな」

 

 

切なげに言うことりに、京助は思わずそう声をかけていた。

 

 

「え……津田さん?」

 

 

石段を登ってきた彼に今気づいたのか、きょとんとした顔を見せる穂乃果、海未、ことりの三人に、京助はひどく優しく微笑みかけていた。

 

 

「大丈夫。縁ってのは……友達ってのは、さ。そうそう簡単に離れたりするもんじゃない。俺が保証してやるよ。お前たちは……きっと大丈夫」

 

 

夕日に照らされた彼の笑みに見とれるかのように、彼女たちは京助を上段から見下ろしていた。

ことりが何かを言いかけた時、穂乃果が急に彼女に抱きつく。

 

 

「そうそう!大丈夫だよ!ずっと一緒!ことりちゃんと海未ちゃんとずっと一緒にいたいもん」

 

「穂乃果ちゃん……うん!ずっと、一緒にいようね」

 

「えぇ!」

 

 

手をつなぐ彼女達を見ているうちに、照れくさくなったのか京助はそっと石段を降り始めていた。

 

 

「津田さん!!」

 

 

その彼の背中にことりの声が投げかけられる。

 

 

「ありがとうございました。作詞のことも……この間のことも」

 

 

彼は振り返らない。ただ、片手を軽く後ろ手にふって……ゆっくりと帰路につくばかりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……我ながら、臭いこと言っちまったな」

 

 

チビたタバコを携帯灰皿に押し込みながら、京助は呟く。

自分にはあんなことを言う資格なんてないと、わかっているのに。友達を裏切った自分が、友達のことを話すなんて、今考えると笑えてきた。

 

 

「いい加減、逃げられないか……」

 

 

仲間達から逃げ出して、夢から逃げ出して、そうして結局はこの街に帰ってきた。

いまさら、逃げ場所なんてどこにもなかった。

 

 

「難儀な……ッ!?」

 

 

自重のセリフを言いかけ、京助は勢いよく振り返る。

彼は背筋を走る、悪寒のようなものを感じ取っていた。誰かに見られているような、そんな感覚。

鋭くつり上がった目で辺りを見渡すが、周囲には誰もいない。京助の動きに驚いた猫が目を丸くして見つめているだけだった。

 

 

「気のせい、か?」

 

 

――まぁ、いいや

 

首をひねりながらも、京助は気を改めて携帯を取り出して操作する。ディスプレイに表示された番号は、かつての仲間の――彼の幼馴染のものだった。

 

 

「……あ!もしもし?俺だけど……」

 

 

携帯の向こうから聞こえてくるのは驚きと怒りの混じった大声。

今まで何をしていたのか、何で連絡をよこさなかったのか……そんな質問の連続。しかしそれも、しばらくすると、懐かしさの混じった、懐かしい調子に変わっていった。

 

 

「あぁ……ただいま」

 

 

彼の声が、夕暮れの涼しい空気の中に溶けていった――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふふ……」

 

 

夕暮れの街、小さく微笑む青年が一人。

電信柱によりかかり、携帯のディスプレイを操作する顔は、愉悦と好奇、そしてほんの少しばかりの懐かしさを浮かべている。

ひどく、優しい笑みだった。

そして――どこまでも、酷薄な笑みだった。

 

 

「まさか、こんなことになってるとはね」

 

 

画面に映し出されるのは、μ’sのメンバーの写真。先ほどのライブの風景だった。

スライドして次々に画像をめくる指先が不意に止まる。

そこに映し出されたのは、ある一人の青年の、疲れた横顔だった。

 

 

「やっと、見つけたよ」

 

 

そう言った時、不意に携帯が振動を始めランプが光りだす。

着信――画面に映し出された相手を確認してから彼は電話をとる。

 

 

「やぁ、どうしたの?え、僕は今秋葉原にいるけど……あ、練習今日だっけ。ごめんごめん。――それはそうと、さっき面白いもの見たよ」

 

 

形態の向こう側から聞こえる不機嫌そうな声を軽く流しながら、彼は楽しげに告げる。

 

 

「μ’sってスクールアイドルなんだけど……あ、なんだ知ってた?そっか――でも、これは知らないんじゃないかな?うん、じゃあ、後で話すよ。じゃあね――ツバサちゃん」

 

 

相手が通話をきるのを確認して、彼は携帯電話をポケットにしまいなおすと、彼はそっと目を閉じた。

まぶたの後ろ、闇の中に浮かんでくるのは先ほど見たライブの風景、そして……

 

 

「腐れ縁ってこういうことなのかな?これはまた、面白くなりそうだね。……ねぇ、京助?」

 

 

誰に対していう訳でもなく、彼は心底嬉しそうにかつての友の名を口にするのだった。

 




こんばんは、北屋です。
さて、新キャラ登場です!
……とはいうものの、最後に出てきた彼はしばらく出番ありませんがw
次回は別の、京助の電話相手が出る予定です。

では、次回も頑張っていきます!!


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第二十四話 合宿・海・再会

今回は後半、京助のみのパートとなります。


「暑い~」

 

「夏だからな」

 

 

毎度のこととなった、練習終わりのカフェでのひと時。

いつでも元気がトレードマークの穂乃果だが、流石に堪えているのか机に突っ伏して、今にもとろけそうな様相を見せていた。

季節は巡り、新緑の季節。

耳を澄ませばどこからともなく蝉の声が聞こえてくる頃。大分日も伸びて、放課後である今の時刻も太陽は燦々と輝いている。

初夏の時分、とはいえ今年の夏は例年に比べて幾分か暑くなるらしい。そっけない態度で答える京助も、ダルそうに手で顔を扇いでいた。

 

 

「先輩~、冷房とかかけないの?」

 

「初夏からそんな無駄遣いしてたら破産するっての……ほらよ、これで我慢しやがれ」

 

 

キンキンに冷えた飲み物の上に、特別にアイスクリームをたっぷり乗せたフロートを9人分。

暑さに閉口していたメンバー達も、目を輝かせる。

いつもならば制止にかかる海未も、この時ばかりは暑さに負けたのか、何も言わずに口をつけ始める。

 

 

「おじさん、太っ腹にゃ!」

 

「俺が中年太りって言われたように聞こえるんだが、気のせいか?」

 

 

眉をひそめて彼もまたカウンターの向こう、自分の椅子に腰掛ける。

無糖ブラック、ホットコーヒー派の彼も、今日はアイスコーヒーに宗旨変え。冷たい苦味を舌の上で転がして、ほっと小さなため息をつく。

 

 

「しっかし、お前らもこんな暑いなか練習大変だな……熱中症には注意しろよ?」

 

「うん?津田くんがうちらの心配なんて珍しいやん?明日は雪でも降るんかな?」

 

「けっ……言ってろ」

 

 

希にからかわれて、京助は手元の新聞に視線を戻す。

天気欄にはこれから一週間、ずっと晴れマークが続いていた。

 

 

「そうよ!こんな暑さの中、練習なんて干からびるわよ!?」

 

「そんなこと言ってても仕方ないでしょ?日々の積み重ねが重要なんだから」

 

 

にこの苦情に、絵里が語尾を強める。彼女もこの温度の所為で少しイラついているらしかった。

敏感にそれを察したのか、一年生の花陽が怯えたようにびくりと肩をすくめる。同じ部活のメンバーとはいえ上級生、まだ馴染みきれていないところがあるらしい。

 

 

「あ……花陽、これからは先輩も後輩もないんだから……ね?」

 

「は、はい!」

 

 

彼女たちのやりとりを横目にちらりと見て、京助は新聞に隠れて微笑を浮かべた。

堅物で融通のきかなそうだった絵里が、こうして少しずつではあるが歩み寄っている。人は変われば変わるもの――いや、もともとの性格を素直に出せるようになってきたのだろうか。

 

 

「悪く、ねぇな……」

 

 

小さく、呟く。

巻き込まれたり、ツッコミをいれたり、たまに心配をしてみたり。そんな煩わしい日々も、この頃ではそう思えるようになってきた。

案外、妹を持つというのはこういう気分なのかもしれない。

 

 

「え?津田さん、何か言いましたか?」

 

「いや、何でもねぇ……っと?」

 

 

不意に、ポケットにいれていた携帯電話が震えだした。

一瞬とろうかとるまいか悩んだが、店内にいるのが彼女達のみなのを確認して、バックスペースへと移動する。

 

 

「おっす。ん?あぁ、大丈夫……」

 

 

先日、久方ぶりに連絡をとったばかりの旧友からの電話だった。

久しぶりに会って話がしたいこと、遊びに行きたいという誘いである。

京助にしてみても渡りに船、かつてのことを詫びるためにも……逃げ出した過去に決着をつけるためにも、彼らに会う必要があった。

 

 

「……オッケ。じゃ、その日にな」

 

 

約束を取り付けて、電話を切る。

実に三年ぶりの、友との約束。懐かしさが勝る反面、不安が心をよぎった。

 

 

「そうだ!合宿行こうよ!」

 

 

京助が店に戻ると、唐突に穂乃果が声を張り上げた。

席を外していた間の会話は分からないが、多方暑さを避けて練習がしたいとかその辺りのことを話していたのだろう。

新聞を広げ直して、BGM代わりに彼女たちの会話に耳を傾けながらコーヒーを口に含む。

 

 

「合宿って……でも、どこに?」

 

「海だよ!」

 

「でも合宿費はどうするんですか?」

 

 

海未のツッコミを受けて一瞬ひるんだかと思うと、

 

 

「ことりちゃん、バイト代っていつ入るの?」

 

「えぇ!?」

 

「ぶっ、けホッ……お前、友達のバイト代にたかるなよ」

 

 

突拍子もないことを耳にして、コーヒーでむせた。

 

 

「えぇ~ちょっと借りるだけだよ?……そうだ、パン屋さん、」

 

「貸せる金はねぇし、バイトも募集してねぇからな?」

 

「むぅ……」

 

 

先手を打って少女を黙らせる。

最近になってようやく扱いが分かってきたのか、涼しい顔でコーヒーを口にする。

今日の豆は少し酸味が強い。

 

 

「それじゃ、真姫ちゃん、別荘とかあったりしない?」

 

「えぇ!?……あるけど……」

 

「ホントに!?真姫ちゃん、お願い!」

 

「ちょっ、そんな急に……」

 

 

潤んだ目で見つめる穂乃果に、期待の目で見つめるメンバー達、計16の瞳に見つめられて、さしもの真姫も言葉を失う。

やがて、観念したのか

 

 

「仕方ないわね……相談してみるわ」

 

「やったー!!!」

 

 

頷いた彼女を見て、8人はそれぞれ、今にも小躍りを始めそうな勢いで喜び始めていた。

冷静な海未やことり、絵里までも傍から見て嬉しそうな様子が分かって、何だか少し面白い。

 

 

「……難儀な、ことだ」

 

 

煩わしそうに、京助は浮かれる少女たちから新聞の釣りの欄に目を移した。

今の時期はいい形のキスが上がっているらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京駅構内、休日の朝とはいえ、日本の中心だけあってほどほどの混み具合となっている。

そんな中で、片隅に集まる少女の一団――言うまでもなくμ’sのメンバーである。

 

 

「うーん……やっぱりなかなか慣れないね……」

 

「そう?意識するからよ。すぐに慣れるわ」

 

 

荷物を抱えて改札をくぐっていく少女たち――お互いにかけあう声がいつにも増して硬いように思えるのは気のせいではないだろう

なぜなら、彼女たちは先輩後輩にかかわらず敬語や敬称を使うことをやめたのだ。

活動を続けていく中で、上下関係といったくくりは邪魔になると、そう思っての絵里と希からの提案だった。その試みに全員が賛成し、今日から実施となったのは良いものの、いかんせんまだ不慣れなところがある。

それでも少しずつ慣れていけばいいと――絵里はそう思っていた。

 

 

「おっと、君」

 

 

改札を最後に通ろうとした凛に、不意に声が掛けられた。

振り向いた先にいるのは一人の若い男。

釣りでもする気なのか、一本の竿ケースを肩からかけている。

年の頃は10代後半から20代前半、京助の実年齢とおよそ同じくらいだろうか。身長は170cm弱、何かスポーツでもやっていたのか、やたら分厚くガタイの良い体が印象的な男である。

そんな体に反して、幼さのようなものを残した、どこか人好きのする顔をしていた。

 

 

「え……?凛?」

 

 

恐る恐るといった風に凛が立ち止まり、改札の向こうに立つ花陽達に一瞬視線を走らせる。

だが、男は不安げな彼女達に気づいていない風に早足で凛に近づき、その手を差し出した。

ごつくて大きな手である。だがそこに収まっていたモノに彼女は見覚えがあった。

 

 

「あ、凛の財布!!」

 

「これ、君のだろ?さっき落としたぜ」

 

 

猫があしらわれた可愛らしい財布を男から受け取って、彼の顔を恐る恐る見上げる。

 

 

「あ、あの……ありがとうございます!」

 

「いいっていいって。まぁ、気をつけな」

 

 

男はその顔をくしゃりと崩して優しく豪快な微笑みを浮かべると、後ろでに手を振って券売機の方に歩いていく。

男の羽織ったジャケット、その背中が何故か妙に目に残った。数字を飾った何かのロゴ、それはどこかで見覚えがあるものだったが、それが何なのか思い出せない。

 

 

「……あれ?」

 

「ちょっと凛!何やってんのよ!?」

 

「あっ、ごめんごめん!すぐ行くにゃ」

 

 

にこに声をかけられて改札を通った時には、そんな小さなひっかかりなど頭の片隅からも消え去っていた。

 

 

 

 

 

「すまん、遅れた」

 

「遅ぇよ……まぁ、いつもどおりっちゃいつもどおりか」

 

 

券売機前の柱によりかかる男に、京助は申し訳なさそうに声をかけた。

男は柱に預けていた背を離して、呆れたように言うと、男は京助の格好を頭の天辺からつま先までしげしげと眺めた。

 

 

「しっかし、えらいガチ装備だな」

 

「遊びってのは、本気でやってなんぼだろ?」

 

 

作業ズボンにTシャツ、ジャケットを羽織ったどこか薄汚れた服装。およそ都会の駅には似合わない姿ではあるが、彼の纏う疲れきった雰囲気のおかげであまり違和感がない。

加えて片手にはクーラーボックス、背中にはリュックサックと長い竿ケースという、明らかなアウトドアスタイルのおかげで、むしろ格好が様になっている。

しかし、その背中に竿ケースと交差するようにして背負われたギターケースがそんな調和を何もかもぶち壊しにしていた。

青年は、溜息を一つついて、諦めたように目を伏せる。

 

 

「そんじゃ、行こうぜ。電車の時間は大丈夫なのか?」

 

「お前が遅れたおかげで次の電車までまだ30分はある。お前のそういうだらし無いところは変わらないな」

 

「あいにく生まれついてのもんでね。齢20を越えちまったら直しようもないってもんさ」

 

 

男の皮肉に、京助はカラカラと快活に笑って答える。

粗暴でともすれば暗くも映る、いつもの彼とは打って変わって、別人のようであった。かつての友との再会で出てきたこちらこそが、あるいは彼の本質なのかもしれない。

 

 

「ま、仕方ないし、ホームまで行ってゆっくり待とうや。急ぐ旅でもないわけだし」

 

「遅れてきた奴が言うセリフか」

 

「気にすんなって。行こうぜ、歩」

 

 

歩――野間歩。

それが、津田京助の幼馴染にして、彼と共に同じ夢を追いかけて、その果てに挫折を共にした、かつての仲間の名だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あちぃ!!」

 

「夏だからな」

 

 

太陽が燦々と照りつける青空の下、電車を降りて歩くこと15分。目的地にたどり着いた二人は強すぎる日差しに目を細めた。

気温は高いが、湿度は低め、からっとした気持ちの良い天気である。コンクリートの堤防の上、照り返しで余計暑く感じるのは気のせいではないだろう。

 

 

「ほいじゃ、始めますかね……」

 

 

京助は竿ケースから一本の釣竿を取り出し、同じくバッグから取り出したリールを取り付ける。長さ4mはあろうかという遠投用の竿に、大型のリール。

慣れた手つきでジェット天秤と出来合いの仕掛けをつなげ、3つの針にそれぞれ虫餌をかけていく。

 

 

「投げで、キス狙いか?」

 

「あぁ。欲を言えばカレイとかかかれば嬉しいんだが。そういうお前は根魚か」

 

 

よっこらせ、と仕掛けのついた竿を持ち上げながら、京助は歩の仕掛けをちらりと見やる。リールから伸びる糸の先には真っ赤な重りとそれにくっついた針が見えた。

 

 

「ロックフィッシュって言えよ。いちいち爺むさい言い方しないでさ」

 

「そんなん好みの問題だろうが、よ……っとぉ!!」

 

 

思い切り振りかぶった竿を真正面に打ち下ろす。

竿のしなる勢いをそのままにジェット天秤の重さに乗せて、丁度いい位置で糸にかけた指を離すと、しばし仕掛けは宙を舞った後に京助の狙い通りの場所まで飛んで着水した。距離にして30m、水深はよくわからないが、一先ず着水から10カウントをとってガイドを倒し、リールを巻いてたるんでいた糸をピンと張る。

投げ釣りは基本“待ち”の釣り。こうして一度投げてしまえばアタリが来るまでは暇となってしまう。

京助はさらにケースから別の竿を取り出して、サビキの仕掛けを付け始めた。

 

 

「投げだけかと思ったらサビキもやるのか」

 

「この時期は小アジが美味いからな」

 

 

そう言って彼は新しい仕掛けを海に落としこむ。

そこからは二人共無言であった。

時折仕掛けを上下させるのみで、京助も歩も、何も語らない。アタリすらもなく、ただ時間だけが流れていく。

そんな中で、最初にしびれを切らしたのは京助の方だった。

 

 

「……おい」

 

「んだよ?」

 

「聞かねぇのか?」

 

「何をだ?」

 

 

何を――とは言わない。言わずとも、言いたいことは分かっていた。

分かっていてなお、彼はシラをきる。

しかし、口ごもる京助を見て、彼は呆れたように溜息を一つ、

 

 

「聞いても肝心な所は答えないんだろ?」

 

「む……」

 

「お前は昔からそういう奴だ。身勝手で独善的、周りのことなんてこれっぽっちも考えようとしない。……そんな奴に、何かを尋ねてどうする?」

 

 

あまりの言い草である。

しかし、京助は唇を噛み締めるばかりで何も言い返さない。言い返すべき言葉が見つからない。

なぜなら。彼らを裏切り、その夢をぶち壊したのは自分なのだから……反論をする資格など、これっぽっちも持ち合わせてはいなかった。

いかなる悪口雑言や罵詈罵倒も、甘んじて受け入れるより、手立てがなかった。

 

 

「……意外だな?」

 

 

しかして、歩は驚いた風に京助に目を向ける。

先までの罵りの言葉とは裏腹に、その目には不思議と怒りや嫌味は含まれておらず、逆に京助が面食らってしまう。

 

 

「ここまで言われたら逆ギレしてくると思ったのに――変わったな、お前。何か、あったのか?」

 

「さて、な……」

 

 

一拍置いて、京助はタバコに火を点けると、おもむろにクーラーボックスから二本、缶を取り出した。

 

 

「お!なかなか気が利くもん持ってきたな」

 

「炎天下の釣りとくればこれだろうよ」

 

 

ちょうどいい具合に冷えたビールである。歩に一本を投げて渡すと、京助はそのタブに爪をかける。

ぷしゅ、という小気味良い音に続いて、吹き出した泡を慌てて啜る。

冷たいそれを一口飲めば、火照った体に染み渡る。今ばかりは、この燦々と照りつける太陽に感謝しても良い気分だった。

 




こんばんは、北屋です。
ずいぶん更新に日が空いてしまい申し訳ありません。
今年一年ももうすぐ終わり。
それまでには責めて一期分は終わらせたいものです。


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第二十五話 在りし日の……

またしてもμ'sの出番が少ないです。


「さて、と」

 

 

ひょい、と竿を上げてみる。

昼を過ぎたあたりから丁度群れと当たったのか、サビキの仕掛けに小アジやヒイラギが数匹ずつ食いつくようになってきた。釣り上げた魚から器用に針を外し、馴れた手つきでクーラーボックスの中に魚を放り込んでいく。

 

 

「……最近は、どんな調子だ?いや、最近というか――」

 

 

京助はそこで口ごもる。

問いかけてはみたものの、考えてみれば京助は彼と連絡をとるのも顔を合わせるのも3年ぶり。友が今何をしているのか、それさえも分からないのだった。

 

――あるいはもう、友達ではないのかもな

 

逃げ出した自分が、友を名乗る資格などあるのだろうか?

そう考えて、彼は心の中を冷たい風が吹くような気分に陥った。ここまで成り果ててもなお、寂しいなどという人の情が残っていたことに、我が事ながら少しだけ驚いた。

 

 

「それはこっちのセリフだ。いきなり何も言わずにトンズラかましやがって。あの後、どんだけ大変だったことか……」

 

「それは――すまなかった」

 

「堀は無茶苦茶荒れるし、橘川もブチ切れるわ、危うく友情崩壊するとこだったぜ……挙句、お前、入院中にいきなり飛び出しただろ?西木野病院の院長先生、スゲェ心配して、おれ達にまで連絡してきたんだからな」

 

「それは……」

 

 

――また、難儀な

 

言ってみて、京助は思わず苦笑してしまう。

思えば入院していた一週間、散々馬鹿なことをしたものだった。ついには冷静で温厚で通っていた西木野先生までブチ切れさせて、ひと悶着起こしたのは、少なくとも彼にとってはいい思い出……なのかもしれなかった。

18になってまで、あんな重い拳骨をもらうなど思ってもみないことだった。

 

 

「で、お前は今どうしてんだ?風の噂に、実家のパン屋継いだとか聞いたけど?」

 

「あぁ、それであってる。今じゃ冴えないパン屋の店長さ」

 

「へぇ――変われば変わるもんだな」

 

 

驚いたという顔をした後に、歩は少しだけ悲しむような目で京助を見た。

かつて共に夢を目指した仲間の現状に、思うところがあるらしい。

 

 

「で?そっちは?」

 

「おれと堀は普通に進学して、今は大学生。橘川は浪人して、同じく大学生やってるよ」

 

「……他の二人は?」

 

 

とたんに、歩の表情が曇った。

 

 

「二人共、ここしばらく連絡が取れてない。楡はあの時のショックで真っ先に音楽を辞めたんだが……噂だと、その後で復帰して一人で活動してるらしい。風の噂だと、今はアメリカでシンガーやってるとか聞いたぜ」

 

「それはまた、すごいな……」

 

 

素直に感嘆の思いが口をついて出た。

今にして思えば、一番夢に貪欲であったのはあの少女だったのかもしれない。自分が逃げ出したことで彼女の夢を奪ってしまっていたら――そう考えると恐ろしくて仕方がなかった。

だが、自分がいなくとも世界は勝手に回るらしい。

こんな無才な時分と違って、彼女はまだ自らの夢を追いかけている。それが知れただけでも嬉しかった。

願わくば、彼女の夢が大成しますように――

そう祈って、ビールの最後の一口を飲み干した。

 

 

「伴瀬はどうした?あの完璧超人のことだ、有名大学の医学部とかでも行ってんだろ?」

 

 

京助の問いかけに、またしても歩は渋い顔を浮かべる。

 

 

「いや……どうも、音楽系に進んだらしい。なんつったっけな、割と最近できた学校で、横文字の……U、U――UD……?」

 

 

よくよく見れば、歩の顔は酒の影響か紅潮していた。どうやら思ったよりも酒に弱いらしい。

呂律の回らない舌で、ある学校の名前を口にしようと奮闘するが、諦めたのか咳払いを一つ、

 

 

「ともかく、おれ達の予想を見事に裏切ってくれたよ、あいつは」

 

「だなぁ……」

 

「っとぉ!?」

 

 

会話の途中で、歩は頓狂な叫び声と共に竿を上に鋭く持ち上げた。

しなる竿をコントロールしながらリールを巻き上げていくと、その先にはなかなか良いサイズのカサゴが食いついていた。

 

 

「負けちゃいられねぇ」

 

 

つられて京助も投げっぱなしにしておいた仕掛けを回収にかかる。特に竿先に反応があったわけではなかったが、リールが妙に重い。

小さなキスか何かがかかっているのかもしれなかった。

 

 

「こいつは……来てるな!」

 

「お!そのままバラすなよ!」

 

 

急いでハンドルを回すが、遠くに投げすぎたのか一向に仕掛けは手元に戻ってこない。

からからとリールが音をたてているのを聞いているうちに、京助はふと今まで胸にしまっていたある質問を口に出していた。

 

 

「なぁ……」

 

「ん?どうした?」

 

「お前……いや、お前らは、俺を恨んでるか?」

 

 

それは、3年前からずっと彼の心に刺さったままのトゲだった。

突然の事に動転して、遂には何も告げずに逃げ出した苦い思い出。それが後で、仲間たちにどんな思いをさせるのかも考えなかった、手ひどい失敗。

答えを聞くのが怖くてたまらず、ずっと先延ばしにしていたその問いかけ。だが、もう逃げられなくなった。

 

 

「当たり前だ馬鹿」

 

「……」

 

 

当然といえば当然なその言葉に、京助は黙り込むしかない。

自分がしたのは恨まれて当然のこと。今更許してもらえるとは思っていないし、許しを請うつもりなどなかった。

それでも、彼が言える言葉は一つしかない。

 

 

「……すまない。俺がもっと上手く立ち回ってれば」

 

 

あの時のことは今でも夢に出てくる。

突然の事に、足がすくんでしまった自分がいた。あそこでもっと動けていれば、こんなことにはならなかったはずだ。

普段、大口をたたいておいて、急場で使い物にならないなど――とんだ道化も良いところだ。

 

 

「はぁ!?お前、そっちじゃねぇよ」

 

「え……?」

 

「あんなもん、とっさにどうにか出来るやつの方がどうかしてる。おれが頭にきてんのは!あいつらをかばってお前が刺されたことでも、逃げたことでもねぇ!にっちもさっちもいかなくなる前に、相談も何もしてくれなかったことだ!」

 

「っ!」

 

 

怒りも顕に、彼は京助に噛み付かんばかりの勢いでまくし立てた。

彼と付き合いは長いが、それでもここまで感情を爆発させる様を見るのは初めてのことだった。

 

 

「昔からお前は自分勝手すぎんだよ!あの一件に関して、お前に落ち度はなんにもなかった。それをさも自分の責任みてぇによ……」

 

「だが……俺が、あんなことにならなければ、俺たちは……お前たちは夢を叶えられたかもしれない」

 

 

歩は勝手に京助のクーラーボックスを漁ると、新しいビールを取り出して断りもなく飲み始めた。

 

 

「馬鹿。あのくらいでふいになるようなチャンス、こっちから願い下げだ。」

 

 

数回、喉を鳴らしたかと思うと、彼は長いため息を一つついて、

 

 

「おれだって、お前と同じことをしたら、怖くて逃げたくもなるわな、そりゃ。だがな……逃げるなら逃げるで、俺たちに一言あってもいいだろ?」

 

 

京助は黙り込む。

自分がしたことを改めて見つめ直し、またしても落ち込む一方で――心に刺さっていたトゲが少しだけ抜けるような思いがした。

 

 

「それを一言もなく、お前は……全治3ヶ月のところ、2週間で病院飛び出して消えるなんて、さすがに心配にもなるっての」

 

 

しみじみと、彼がそう言った時だった。

丁度良いタイミングで、仕掛けが手元に戻ってきたのは。

 

 

「……って、うおぉぉ!?」

 

「ん?……ぶっ!ちょっ、おま!!外道もいいとこじゃねぇか」

 

 

針の先に食らいついていたのは、魚でもなんでもなくヒトデだった。

 

 

「う、うるせぇ!」

 

「何が『来た』だよ!マジでうける……痛っ、ヒトデ投げつけんな!」

 

 

湿っぽい空気から一転。

気がつけば二人共腹を抱えて笑いあっていた。

ここまでバカ笑いをしたのは、京助にとって久しぶりのことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ひたすら馬鹿な話をつづけていた。

京助が去ってからの歩や仲間たちの話。あるいは京助の旅先での話。

3年の空きを埋めるかのようにひたすら笑って騒ぎ続けた。

時刻は夕暮れ、日が西に傾き始め頃合。

 

 

「俺はともかく、堀やら橘川にあったらお前、半殺しは覚悟しといたほうがいいぞ」

 

 

冗談めかしたセリフに、京助は薄ら寒いものを感じて苦笑を浮かべた。

 

 

「それは――怖いな」

 

 

正直、会いたくないと思ってしまう。

だが、そういうわけにもいかないのだろう。今回のように、直接会って話さなければ、きっと自分は前には進めない。

立ち止まり続けることには、もう飽きた。

 

 

「それよりも一番気をつけなきゃいけないのは、伴瀬だな」

 

「あ?」

 

 

歩の顔がすっ、と真面目なものに変わっていた。

 

 

「あいつはあの時、おれや堀達と違って騒がなかったが……多分、一番腹に据えかねてるのはあいつだ」

 

「そんな馬鹿な。奴とも付き合いは長いが――あいつがキレるところなんて見たことないぜ?」

 

「だから怖ぇんだよ。普段おとなしい奴ほど、何するか分からない」

 

 

京助は視線を外して、ぼんやりと水面を見つめた。

寄せては引く並に揺られる仕掛けをちらりと見て、瞼の裏に、かつての友人の姿を思い浮かべた。

整った顔立ちに、いつも笑顔を浮かべた少年。

どこまでも優しい、頼りになる笑顔だった。

だが、どこまでも酷薄で、背筋が寒くなるような笑顔でもあった。

 

 

「そりゃまた難儀な……」

 

「難儀、なんてもんじゃねぇぞ。……多分、あいつはお前のことを下手すりゃ憎んでさえいるぜ」

 

「は!?」

 

「人一倍プライドが高いからな、あいつは。友達が自分を庇って大怪我、そして行方不明。挙句は夢を諦めて帰ってくたびれてるなんて……許せることじゃないだろう。ましてやそれが、お前ならな……今度会ったら、ただじゃすまないだろうな」

 

「けっ……上等だ。正面切って受けて立ってやる」

 

 

チビたタバコを、空になった缶に詰め込んで、新たな一本に火を点ける。

紫煙をひと吐き、二指にタバコを挟んで京助は堤防のコンクリートに横になる。青と赤の混じった空が、いつにも増して綺麗に思えた。

 

 

「さて……いい頃合だな。おれは帰るけど、どうする?」

 

「……俺はもう少し残る。つーか、飲みすぎて動けない。このまま夜釣りと洒落込むとするぜ」

 

「だらしねぇな。ま、そういうところも変わらないか」

 

 

横たわる京助の耳に、歩の笑い声が届いた。

 

 

「じゃあな、京助」

 

「おう。“またな”……ダチ公」

 

 

横になったまま軽く手を上げる。遠ざかっていく足音を聞きながら、京助は上げた手を空に伸ばした。

夕暮れの空、輝きはじめる気の早い星々。数えてみればその数は9つだった。

手を伸ばせば届きそうで、決して届かない光を目にして、彼はまぶしそうに目を細めた。

しばらくそうしていたかと思うと、京助は勢いをつけて上半身を起こした。

 

 

「さて、と」

 

 

釣具とは別に持ってきていたものケースから引きずり出す。

こんなものを釣りに持ってくるなんて、普通はありえない。歩もギョッとした顔をしたっきりで何も突っ込まなかったそれを構え、ネックの部分を握ると、昼間の熱気を受けてか、心地良い熱を持っているのが感じられた。

じゃらり、と弦をひとなでして鳴らしてみる。

海から吹き付けるひんやりとした潮風が、今は心地良かった。

うろ覚えのコード。うろ覚えの歌詞。

 

――夜が来る……

 

その歌いだしで始まる、懐かしい思い出を歌った一曲。

 

stand by me(そばにいて)

 

友人と久しぶりに会って話した今、一番聞きたい曲だった。

昔のことを思い出して、ほろりとする一方で、いつぞや、μ’sのメンバーとカラオケに行った時のことも思い出して、少し笑えた。

 

 

 

 

「ふぅ……」

 

演奏を終えて、小さくため息をつく。

すると、後ろからパチパチと拍手の音が聞こえてきた。

 

 

「いい曲やんな」

 

「な!?東條に西木野!?何でここに……!?」

 

 

振り向いた先に希と真姫の姿。

いるはずのない二人に思わず目を疑う。

 

 

「それはこっちのセリフよ。合宿でわざわざこんな遠くまで来てるのに、なんであなたがここにいるのよ?」

 

「いや、俺は友達と釣りに……」

 

 

地元、秋葉原から遠く離れたこんなところで出会うなど、思ってもみなかった。

つくづく、彼女たちとは不可思議な縁があるらしい。

何だか呆れを通り越して笑えてきた。

 

 

「津田くんがギター弾いてるところ始めてみるけど、思ってたよりずっと上手いやん。在り来りな感想だけど、感動したよ?」

 

「……お世辞はやめてくれ。本気にしちまう」

 

 

彼女たちから目を背ける。だが、二人は彼の顔がほんのり赤くなっているのを見逃さなかった。

夕焼けのせいでそう見えただけなのか、それとも他に原因があるのかは分からなかった。

 

 

「ねぇ……その、もう一曲聞かせてよ」

 

「は?」

 

「途中からしか聞けなかったから……ちゃんと最初から聞かせて」

 

 

いつになく素直な真姫に驚く。彼女の横で、希がニヤニヤしているところを見ると、何かあったらしい。

 

 

「ちっ……」

 

 

嫌そうに舌打ちを一つ。

しかし、彼の左手は既に次の曲の最初のコードを押さえていた。

Eの音から始まる、先ほどよりもテンポの早い一曲。

特にその選曲に意味があるわけではない。ただ、何となく弾きたくなっただけだ。

 

to be with you(そばにいるよ)

 

波の音だけが聞こえる海辺、響く彼の歌声に、二人の少女はいつの間にか目を閉じて聞き入っていた。

 

 

 

 

 

「さて、と。お前ら、買い物帰りかなんかだろ?暗くなってきたし、そろそろ帰れ」

 

 

演奏も終わり、余韻に浸る間もなく、京助はしっしっと手を振って二人を追い払うような仕草をしてみせた。

 

 

「そういう津田くんはどうするの?」

 

「俺は、もう寝る」

 

「寝るって……こんなところで?」

 

「野宿は慣れてる」

 

 

言うが早いか、彼はそのまま仰向けにゴロンと寝転がって目を閉じてしまった。

あまりにそっけ無さ過ぎると自分でも思ったのか、目を閉じたまま彼はこう付け足す。

 

 

「……少なくとも、朝まではここにいるから、何かあったら遠慮なく連絡しろ」

 

「連絡って言っても、うちら、津田くんの連絡先知らないんやけど」

 

「……ちっ」

 

 

舌打ちをして、めんどくさそうに起き上がると、京助は携帯電話を取り出し、QRコードを表示する。

 

 

「メールはあんまり見ないから、緊急の時は電話してくれ」

 

「うん。えっと、うちのは……」

 

「こっちから連絡取ることはねぇだろうから、別に教えてくれなくていい。俺はもう寝るからさっさと帰れ。夜の海は危ねぇから、気をつけろ。火の元の確認と戸締りだけは忘れるな」

 

 

言うだけ言って、京助は再び横になる。

 

 

「それじゃ、またな」

 

「うん、お休み、津田くん」

 

「じゃあね」

 

 

遠ざかっていく足音。今度は二人分のそれを聞きながら、京助は小さく手を振って、眠りについた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……翌日、電話でたたき起こされたかと思ったら昼食を作らされたり、今度は9人の前で一曲弾く羽目になったのはまた別の話。

 




友人編、ひとまずの終了です。
京助の立場上、合宿に参加できないため急遽作った話でした。
友との邂逅を通して、彼にも心境の変化が訪れます。
この頃筆のノリもいいですし、一期分を今年中に終わらせたいものです。

優しく、冷たい笑みの彼の出番はまた後ほどに


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第二十六話 羊駱駝は安らかに草を食み

夢を、見ていた。

夢の中の自分は、まだ幼い子供。小学生くらいの、目つきの悪いガキだった。

 

それは、京助がまだ幼かった頃の記憶。

運動も勉強も人並み以下。何のとりえもない子供だった。

その代わりとでも言うように、毎日くだらないことで喧嘩にあけくれて、傷だらけになる日々を送っていた。

喧嘩だってそんなに強いわけじゃない。一方的に殴られることのほうが多くて、でもどんなに怪我をしても、絶対に人前で痛がったり、涙は見せなかった。

弱いところを、誰かに見られるのが嫌だった。

 

 

「!」

 

 

痛みをこらえて廊下を歩いていると、どこからともなく聞こえて来る音がある。

それは澄んだピアノの音だった。

音楽に何の興味もなく、感動も覚えたことのない彼だったが、それでもその音には何か惹かれるものがあった。

気がつけば、足は勝手にその音の方に歩き出している。何かにとりつかれたようだと、幼心にそう思ったのを今でも覚えている。

 

 

「……」

 

 

たどり着いたのは、音楽室だった。

精一杯背伸びして、教室の扉、その窓から中を覗き込む。

夕焼けで真っ赤にそまった部屋の中、誰かピアノの鍵を叩いているのが見えた。

 

『羊は安らかに草を食み』

 

その曲のタイトルを知ったのは随分後になってのことだった。

音楽とは、こんなに楽しいものなのか。こんなに切ないものなのか。こんなにも――心を打つものなのか。

初めてそう思った。

そして、たった一人で、わき目もふらず一心不乱に曲を弾き続ける彼のその姿が、輝いて見えた。

自分も、あんな風になりたいと、そう思った。

 

 

 

「!?」

 

 

演奏を終えた彼と、目があった。

自分と同じ年の少年。どこかで見たことのある顔だった。

一瞬、このまま逃げてしまおうかと思って、しかしすぐに諦めて教室に入り、彼に声をかける。

 

 

「……上手いね」

 

「ありがとう」

 

 

うっすらと、優しく微笑むその顔が、何故か京助には寂しそうに見えて仕方がなかった。

だから、京助は言葉を続けた。

 

 

「もう一曲、きかせてよ」

 

「……いいよ」

 

 

驚いたように目を丸くして、すぐに少年はまた笑顔を作る。そこに先ほどの寂しさは感じられなかった。

 

 

 

 

これは津田京助と、ある少年の出会い。

そして、彼が夢を持つきっかけとなった、ある日の記憶。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かちん、と小気味の良い音を立てて、オイルライターの蓋が開く。

オレンジ色の火を口元のタバコに灯せば途端に辛い煙が口を通って肺の中まで満ちてきた。

朝一番の一本。朝食やコーヒーよりも先に一服入れるのは彼の習慣であり、ささやかな楽しみであった。

 

 

「ふぅ……」

 

 

紫煙を吐き出して空を見上げる。まだ上ったばかりの太陽が、起き抜けの目に眩しい。今日も一日暑くなりそうだった。

 

――ここ最近、いろいろなことがあった……

 

煙を楽しみながら、寝ぼけた頭でぼーっと考える。

高校に乱入してみたり、柄にもなくアイドルショップに行ってみたり、メイド喫茶に連れ込まれたり、作曲の手伝いを頼まれたり。

ほんの数日前のことともなれば、遊びに行った先が、件の少女達の合宿先とかぶっていたのは、最早笑うしかない偶然だった。

何故か昼食を振舞うことになったかと思えば、折角の魚料理を、凛にダメだしされてより凝った料理を作る羽目になったのは、今思い出してもため息しか出てこない。

そして何より――

 

 

「あいつ、元気にしてたな……」

 

 

旧友と再会出来たことが何より彼の気分を高揚させていた。

あの一件で京助が消えてから、友人は自分の道を進んでいた。

かつての仲間は誰も皆、それぞれの道を見つけて歩み続けているらしいことを知って、わだかまりが少しだけ消えたような気がした。

対して自分はどうなのか?

歩みを止め、倦怠の中に身を沈めるこんな自分は、友人の目にどう映ったのだろう。

自分がひどく情けなかった。こんな自分を変えたいと、切に思った。

しかし、このやり場のない思いを、どこに向ければいいのか。

 

 

「ちっ……」

 

 

吸い終わったタバコを灰皿に押し付けて、舌打ちを一つ。気を落ち着かせるためにもう一本、火を付けようとライターを取り出して……

 

――すごい!

 

その一言が、脳裏にフラッシュバックした。

彼女たちの前で、成り行きとはいえ一曲演奏した際に言われた言葉。それは今でも彼の耳に残っている。

向けられた9人分の拍手と、キラキラした笑顔。

己の無才を知り、打ちのめされる日々の中で、ついぞ忘れてしまった大事なことを、京助は思い出しかけていた。

 

 

「難儀、だなぁ……」

 

 

吸おうと思ったタバコをしまい直して、京助は室内にもどる。立ち上げておいたパソコンで、ある文字を検索する。

 

『Love Live』

 

全国のスクールアイドルの祭典にして、μ’sの彼女たちが目指す大舞台。

もちろん誰でも参加可能、というわけにはいかない。ランキング上位20組までが参加できるシステムであり、A-RISEをはじめとした人気チームの影響もあってスクールアイドルというジャンルの注目度が高い現状で、その縛りはなかなかどうして厳しいものであった。

先日、ちらっと見たμ’sの順位は50位。参加可能な領域には程遠い。

あれからさほど時間がたった訳ではない。

だが、あるいは彼女たちなら――

根拠は何もないが、彼には確信があった。

 

 

「っ……!マジかよ」

 

 

確信はあったが、直に目にしてみると驚きの言葉がこぼれた。

画面に表示されていた順位は19位。

彼女達はラブライブ参加への条件を満たしていた。

驚き半分、嬉しさ半分。そして――心に燻るものが、小さな火に変わるのを感じた。

 

――作曲の手伝いを頼みたいの

 

不意に、先日の真姫の言葉を思い出す。

本当は、分かっていた。

自分が何をしたいのか。本当にしたいことは何なのか。

だが、それは果たして正しいことなのか。

こんな才覚に劣る自分が、彼女達にしてやれることがまだあるのか。

 

 

「難儀な……」

 

 

ちらり、と部屋の隅に置かれたギターケースを見やる。固く閉ざされた蓋を開いたことは、帰ってきてから一度もない。

音楽を始めてから、その夢に敗れるまで、ずっと使い続けて来たギター。

京助がこれまでに繰り返してきた血のにじむような努力を、一番間近で共にしてきた相棒ともいえるそれに、恐る恐る手を伸ばす。

 

――俺にも、まだ……

 

この手はまだ動く。この足は前に進める。

一の才はなくとも、それに迫るために続けて来た百の努力と、千の鍛錬を無駄にしたくないと、今更になってそう思えた。

ならば自分にも出来ることは、きっとある――

 

 

「っと!もうこんな時間かよ!?」

 

 

触れかけた手を、はじかれたように戻す。

いつの間にか、店の準備をしなければならない時間へとなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「パン屋さん!パン屋さん!」

 

「はいはい。ラブライブのことなら知ってるぜ、高坂ちゃん」

 

 

昼休み。いの一番に走ってきた穂乃果を見て、京助は苦笑を浮かべる。

 

 

「え~?なんだ、折角驚かせようと思ってたのに」

 

「そりゃ悪いことしたな……ともかくおめでとさん」

 

 

そっけない調子で言って、彼は穂乃果から目をそらした。そうでもしなければ頬が緩むのを隠すことが出来なかった。

彼女たちの成功は、彼にとってもそれほどに嬉しいものだった。

 

 

「ありがとう!……ホントに夢みたいだよ、まさかこんなに上手くいくなんて!」

 

「……努力の賜物、ってやつだろ。ともかく、まだ出場が決定したわけじゃねぇんだ。気を抜くんじゃねぇぞ」

 

「津田さんの言う通りです」

 

 

遅れてやってきた海未が穂乃果にきっぱりとした口調で投げかける。だがそれは、彼女自身が自らに言い聞かせているようにも聞こえた。

海未も嬉しそうに見えるのは、きっと京助の気のせいではない。

 

 

「現在20位以下のチームも必死で追い込みをかけるでしょうし、今の順位ではたちどころに抜かれてもおかしくはないんですから。私たちも何かしらの手立てを考えないと」

 

「19位、だもんな……ちっと、しょっぱいところではあるな」

 

 

呟いて、彼は顔を上げ――怪訝な表情を浮かべた。

 

 

「どうしたんですか、津田さん?」

 

「いや……南ちゃん?どうした、何か悩みでもあるのか?」

 

「え……」

 

 

穂乃果と海未から一歩ひいたところで、にこにこと笑うことりの顔にほんの少しの翳りを見た気がしたのだ。

京助に急に話しかけられた彼女は、一瞬言葉に詰まり、

 

 

「いえ、なんでもないです。ちょっと考え事してただけで……」

 

「そうか?……前にも言ったが、相談だけならのるからな?」

 

 

心のそこから心配そうな表情を見せる京助に、ことりははっとしたような顔を浮かべ、しかしすぐに微笑みを取り戻した。

 

 

「はい!……それより津田さん、私達のこと良く見てくれてますね。順位もちゃんと知ってたし」

 

 

今度は京助が言葉につまる番だった。

 

 

「っ……いや、別に、俺は、」

 

「そうですね。聞けば、花陽達の背中を押したのも津田さんだったのですね」

 

「にこちゃんの時もそうだったよね」

 

「その……そんなわけじゃ、俺は……その、すまん」

 

「えぇ!?なんで謝るの!?」

 

 

急な話に、京助も取り繕う言葉が上手く出てこなかった。

思い返してみれば、いろいろなことがあった。それは成り行きとはいえ、彼女達に対して良かれと思ってやったことではあるが、果たしてそれは本当に正しかったのか、自信がなかった。

自分が何かをしなくても、彼女たちはきっと上手くいっていたはずだ。

むしろ、自分が関わった所為で良くない方向に転んでいるのだとしたら――

 

 

「……その、なんつーか、」

 

「ありがとう、パン屋さん!」

 

 

京助の言葉を遮って、穂乃果が太陽のような笑顔でその一言を告げた。

 

 

「パン屋さんがいなかったら、真姫ちゃんたちももっと長く悩んでたと思う。にこちゃんも、絵里ちゃんの時もそう。パン屋さんのおかげだよ」

 

「っ!」

 

 

その言葉だけで……京助は胸の内に立ち込める灰色の暗雲に切れ間が入るのを感じた。

それはきっと、一時の感傷にすぎないのだろう。それでも――彼の凝り固まった心を動かすのには十分過ぎた。

 

 

「思えば、津田さんには、お世話になりましたね」

 

「うん。本当に感謝してます!」

 

「……おだてても、サービスはしねぇからな」

 

 

ぶっきぼうに、死ぬほど不機嫌そうな調子で京助は呟いて、そっぽを向いてしまう。

 

――礼を言うのはこっちだ

 

心の中で、声がした。

 

 

「……ちっ、小娘共。買うもの買ったらさっさとどっか行きやがれ」

 

「えー、その言い方は少し酷くない?」

 

「こっから購買は混雑するんだ。お前らにかまってる暇はねぇっての」

 

「穂乃果、津田さんもお仕事があるようですし」

 

 

まだ不満そうな顔をして、渋々パンを選び始める穂乃果――だったが、京助は有無を言わさず彼女の視線がとまった先の商品を袋に詰め込んでいく。

 

 

「あ!待ってよ!まだ選んでる途中!」

 

「二度も言わせるな、お前らにかまってる暇はねぇ」

 

 

言いながら、京助は目に付いた惣菜パンや菓子パン、焼き菓子の類を次々に袋に詰め込んでいく。

 

 

「ちょ!そんなに買わないってば!」

 

「知るか!代金はいいから持ってけ。そんでもってメンバーと分けろ!残りの奴らによろしく!」

 

 

一息で言い切って袋を押し付けると、京助はしっしっ、と手をふって追い払うような仕草をとって見せた。

 

 

「え、えぇ!?津田さん、いくらなんでもそれは……」

 

「邪魔になる前に帰れっての!出場圏内おめでとう!じゃあな、小娘ども!頑張るのはいいが根を詰め過ぎるなよ!」

 

 

乱暴な言葉と、お祝いと励ましの言葉を入交えて早口に言う。

それは彼にとって最大の照れ隠しであった。

 

 

「あ、ありがとうございます」

 

 

商品を手に去っていく彼女達の背中を見送りながら、京助は大きくため息をつく。

 

――ありがとな

 

心の中なら何だって自由に言える。

口に出して伝えることが出来れば良いのに、そんな簡単なことさえ出来ない自分は卑怯者だ。

そっと、目を閉じる。

自分は果たして、彼女達に礼を言われるだけのことをしたのだろうか?それだけのことをしてやれたのだろうか?

答えは否であった。

では、彼女達の礼に釣り合うだけのことを――この感謝を伝える術はあるのか?

その問いかけに対して、身の内に答えを見出すことは出来なかった。

 

 

「ちっ……」

 

 

舌打ちを一つ。まぶたを開いて、鋭い目で前を見据える。

内に答えがないのならば、やるべきは一つ。

決意を新たに、京助は購買に迫ってくるお客さんたちに目を向け、営業スマイルをうかべるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

静かな店内。

客の姿もまばらとなった時間。静かなBGMだけが店内を支配する。

 

『羊は安らかに草を食み』

 

一体どんな心境の変化だろうか、店内に流れるのは珍しいことにバッハ作曲のクラシック音楽だった。

店主は新聞を読みながら、コーヒーを一口飲む。音楽の影響もあってか、彼の心中はいつにもまして穏やかであった。

 

 

「ずっとこんな静かな時間が続けば……」

 

 

お客さんに聞こえないように、ちいさくぼやく。

そのささやかな願いをかき消すドアベルは、いつにもよりも控えめに鳴り響いた。

 

 

「いらっしゃい……っと、南ちゃんか。一人とは珍しいな。饅頭娘と堅物娘は一緒じゃねぇのか?」

 

 

冗談めかして言うが、対することりはにこりともしなかった。

ただ、何かを思いつめたような、翳りのある表情を浮かべるばかり。

 

 

「……どうした、ひよこ娘。あいつら二人と何かあったのか?」

 

「ううん。そういうわけじゃ、ないんですけど……」

 

 

彼女は顔を伏せる。

穂乃果と海未の二人のことを口の端に出した時の彼女の変化は、言っていることとはまるで真逆だった。

京助は眉間に深い皺を寄せる。そして、頭を掻きながら、

 

 

「……とりあえず、席に座ってな。もうちょいしたら店もすいてくるから……そしたら少し聞かせてくれ」

 

 

ひとまずことりを席に案内し、京助は飲み物を作り始める。

砂糖多めで甘めに作ったカフェオレに、チーズケーキをひと切れ。この頃ではメンバーの好みも大分分かってきていた。

 

 

「ほらよ。サービスだ」

 

「あ!ありがとうございます」

 

 

にこりと笑う彼女、しかし、その表情の裏には矢張り、思いつめたようなものが見て取れる。

 

――そんな顔すんなよ

 

京助は内心で毒づいて、無表情のまま彼女の下を離れていく。

 

――そんな顔されたら、こっちまで……

 

その続きを、振り払う。

それを思ってしまったら、彼女達との関係がこのままでは済まない気がした。彼女たちと、深く関わることになるのが、怖かった。

 

 

 

 

 

「お待たせ。で、どうした、ひよこ娘」

 

 

他のお客さんが帰った頃を見計らって、ことりの前の席に着く。

 

 

「相談だけなら、のってやるよ。だけなら、な」

 

 

極めて無愛想に言う。

相談だけ、と念押しをしたが、実際のところはそれくらいしか彼に出来ることはなかった。それがなんであれ悩み事を解決に導いてやれるだけの脳は彼にはない。

だが―― 一緒に頭を抱えてやることは出来る。

何度も挫折を味わい、その度に何度も立ち上がってきた、正真正銘の凡人だからこそ出来ることがあると、京助はぼんやりと考えていた。

 

 

「うん……」

 

「あ、いや。言いにくいなら言わなくてもいいぜ?こんなロクデナシ、信用にたる男じゃないからな」

 

 

うつむき気味なことりを見て、京助は慌てる。

だが、その卑下するような彼の言葉を耳にして、ことりは顔を上げた。

 

 

「ロクデナシなんて、そんな……何かあった時は相談にのってくれて――今だって、こうして何とかしようしてくれてる。津田さんのこと、私は――私たちは信用してます」

 

 

今度は京助がうつむく番だった。

彼女のストレートな言葉はヤサグレ気味の彼には少々、刺激が強すぎて、ムズ痒さに襲われた。

 

 

「……そいつぁ……買いかぶりってもんだ。それで――どうしたんだ?」

 

 

思わず胸ポケットのタバコに手をやりかけて、ことりの前だということを思い出して手を止めた。

 

 

「……津田さんは、『夢』を追うことについてどう思いますか?」

 

「ッ!」

 

 

それは京助の心をえぐる一言だった。

夢を追いかけ、夢のために全てを投げ出し、結局は夢に敗れ去った男。

逃げ出して、全てを忘れようとしていたというのに――またしても、その言葉は彼を追い詰めていく。

逃げきれない。どこまで逃げても、追いかけてくる

 

 

「『夢』、か……」

 

「はい……もし、もしなんですけど、夢のために何かを諦めなければならないとしたら――友達を裏切ることになるとしたら、津田さんは、どうします?」

 

 

またしても京助は言葉に詰まってしまった。

それでもどうにか、言葉を紡ぐ。己の思いを、経験を言葉にして誰かに告げるのは初めてのことだった。

 

 

「それは、仕方がないことなんじゃねぇかな」

 

「仕方がない、ことですか」

 

 

真剣に聞き入ることりを見て、京助もまた、真剣な眼差しを向ける。

あるいはそれは、以前の、夢を追う最中の彼の顔だったのかもしれない。力強く、どこまでもまっすぐな、澄んだ黒い瞳。

 

 

「『夢』ってのは、誰にも譲れないもんだ。その思いが強ければ強いほど、な。譲れないものがあるなら、それを貫くのは一つの筋ってもんだ。……譲れないもの、譲っちゃいけないモノを譲ったとき、そいつはそいつじゃなくなる」

 

 

言いながら、京助は考える。

今の自分は、本当に自分と言えるのか。

全てを諦め、自堕落に生きるだけの今に意味があるのか。

様々な疑問が胸の内で渦巻き、知らず知らずのうちに、握り締めた拳に力が込もっていた。

 

 

「譲れないモノ……」

 

 

ことりは自分の胸に手を当て、思案げに呟いた。

彼女から視線を逸らしながら、京助はぼそりと続ける。

 

 

「一つだけ、覚えておくといい。譲れないモノを貫き通すってことは――それ以外を全部捨てるってことだ。障害になるものを、踏みにじって進むってことだ。その覚悟が、お前にはあるか?」

 

 

問いかけに答えはなかった。

京助の言葉を噛み締めるように、小鳥は再び俯いてしまっていた。

 

 

「いやな、俺も……」

 

 

京助が何かを言いかけた時だった。

からり、と音を立ててドアベルの音が鳴り響く。

 

 

「いらっしゃ……なんだ、お前らか」

 

「何だとは何よ?」

 

 

なだれ込むようにして店内に入ってきたのは、案の定μ’sのメンバーだった。

京助は呆れたような溜息をついて、彼女たちに飲み物を出すためにカウンターの向こうへと歩いていく。

 

 

「あ、お兄さん。あの、差し入れ、美味しかったです。ありがとうございました」

 

「そうそう!おじさん、ありがとにゃ!」

 

「……何のことだかな」

 

 

そっけない態度で、花陽と凛に返して背中を見せる。

踵を返す前、優しく微笑んだその顔は、しかし彼女たちの目にしっかりと映っていた。

 

 

「ことりちゃん、一人でパン屋さんと何話してたの?」

 

「えっと、その……」

 

「ちっと、南ちゃんに相談にのってもらってただけだ。な?」

 

 

話を合わせるように目で合図して、京助は穂乃果にそう告げた。

 

「相談ですか?津田さんが、ことりに?」

 

「あぁ。チーズケーキなんぞ焼いてみたんだが、自信がちっとばかしなくてな。アドバイスをもらってた」

 

「へぇ?なら、それ、うちらにもアドバイス求めてみない?」

 

「……存外に、おごれって言ってるのが見え見えなんだがな。いいぜ、ラブライブ出場の前祝いだ」

 

 

途端に少女たちが歓声を上げる。

言葉通りに、人数分の飲み物とチーズケーキを切り分けて、それぞれの前に置いていくと、

 

 

「ごめんなさい、津田さん。いつも、こんな」

 

「……若いもんがあんまし気にするもんじゃないぜ、絢瀬ちゃん。ここは大人にいいカッコさせときゃ良いんだ」

 

「さすがおじさん!やっぱりいい人!」

 

「てめぇはちったぁ気にしろ!誰がおじさんだ」

 

 

凛とのいつもの掛け合いを繰り広げながら、京助は空になったトレーを小脇に抱え、テーブルを離れようとする。

踵を返しかけた彼に、不意に声が掛けられた。

 

 

「そうだ!パン屋さん、今度文化祭でライブやるんだけど、」

 

「行かな……いや、文化祭?」

 

 

毎度のことながら、断ろうとして、言いよどんだ。

これまでのように、一部の、生徒や入学希望者を対象としたライブではさすがの彼も参加しづらいものがあった。しかし、今回は文化祭、ならば――

 

 

「そうよ、文化祭!ここでラブライブに向けて最後の追い込みをかけるんだから!」

 

「うん。そんなわけで、津田くんも来ない?招待チケット、うちがあげてもえぇよ?」

 

 

京助の眉間に深い皺が刻まれた。

正直な話をするならば、行きたい。

何げに、絡みがある割には彼が彼女たちのライブを最初から最後まで見たことはないのだ。彼女たちの勇姿を一度、目に焼けつけておきたかった。

 

 

「どうするの?さっさと決めなさいよ」

 

 

せっつくような真姫に苦笑を浮かべて、京助は答えを出した。

自分がしたいことをすればいい。したいことは決まっている。

 

 

「OK、見にいかせてもらうよ」

 

 

少女達の間に小さな感嘆の声があがった。

京助は苦笑を深くするばかり。

 

――ようやく、一歩踏み出せた

 

何故だか、そんな風に思えた。

 

 

「そういえば、先輩。私達のライブ見に来てくれるのは嬉しいけど、今度先輩達のライブにも誘ってよ」

 

「……!」

 

 

息が、止まった。

それは、京助にとって急所とでも言える言葉だった。

己の実力を知り、打ちのめされて逃げ帰ってきたこと。

最早夢を諦めてしまったこと。

この少女に、それをまだ伝えていなかった。

 

 

「ライブ?津田さんも、何かやってらっしゃるんですか?」

 

「えぇ、バンドでギターをやってるんだったわよね?私も1、2回しか行ったことないんだけど」

 

 

――言え!

 

声が聞こえる。

 

――今言わずにいつ言うんだ

 

 

このまま彼女を騙し続けることに意味がないことを、後に禍根を残すことを、彼は分かっていた。

 

――もう、俺は諦めたんだ

 

たったそれだけの言葉。

だが、彼女には、彼女だけにはたったそれだけのことが出来なかった。

かつて、夢を語った二人。未だ、夢を諦めていない彼女を前にして、自分の挫折を告げることが恐ろしくてたまらなかった。

喉がカラカラに乾く。嫌な汗が背中をつたう。

 

 

「先輩?」

 

 

不思議そうに、小首をかしげるにこを前にして、口が彼の意思に反して滑るように動き出していた。

 

 

「……あぁ、次のライブが決まったら、真っ先に声かけるさ」

 

 

言ってしまった。

言えなかった。

こんな嘘はいつか破綻すると、そう知りながら。

 

 

「そっか。楽しみにしてる」

 

 

にっこりと、心から楽しそうに笑う彼女を見て、京助は冷水を浴びせられたような、嫌な寒気が全身を包んでいくような気がした。

自分が、自分でなくなってしまったと、そう感じた。

 




ついに、ここまできましたよ。
ここから先が、一番の山場です。なかなか忙しい今日このごろですが、気合いれて書いていきます!!


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第二十七話 悪魔が来りて鍵を打つ

遠くから、ピアノの旋律が聞こえてくるのが響いていた。

少女は迷いのない足取りで、その音をたどって足を進める。

平日とはいえ、朝も早くのことであり、廊下には彼女以外の人の姿はない。チリ一つない、掃除の行き届いた廊下、いつも見慣れた風景であるのに、こうして見るとうすら寂しさを感じさせる。

やがて少女はある教室の前にたどり着く。

扉一枚を隔てて部屋から聞こえて来るピアノの戦慄。

 

羊は安らかに草を食み――

 

バッハ作曲の音楽であった。

彼女が扉を開いて室内に入り込んでみれば、ピアノに向かうのは一人の青年であった。

年齢は十代後半から二十代前半、すらりとした体格に、整った顔立ちをしていた、

 

 

「……やぁ、おはよう。ツバサちゃん」

 

「おはよう。朝から元気ね」

 

 

彼は演奏をやめて顔を上げ、にっこりと笑みを浮かべてみせた。

人好きのする優しい微笑み、しかし彼の整った顔、目元にはうっすらと隈が浮かんでいるのが見える。

 

 

「もしかして、また徹夜?」

 

「まぁ、ね。さすがにこの頃忙しくなってきたから」

 

 

言いながら、青年は目元を押さえる。

とあるイベントが近づいてきた今、彼女達が忙しいように、彼もまた多忙な日々を送っていた。

しかし、疲れた疲れたと、口ではそう言いながらも、彼には余力が有り余っているように見える。

 

 

「頑張るのは大いに結構だけど、根を詰めすぎないでよ?あなたに倒れられでもしたら、それこそ大変なんだから」

 

「あはは……面目ない。まぁ、大丈夫だよ。自分のことは自分が一番わかっているから」

 

 

頬を掻きながら、彼は困ったように笑う。

どこまでも笑顔を絶やさない青年であった。

 

 

「それに、僕よりも大変なのは君達だろ?七日間連続ライブなんて、なかなかハードなことを考えつくね」

 

「何事にも万全を期して向かいたいのよ、私たちは。それに――」

 

「それに?」

 

「それだけあなたを信頼してるのよ?マネージャーさん?」

 

 

照れたように、今度は頭を掻く。

マネージャー。それが彼の肩書きであった。

もっとも、それは形式的なものに過ぎない。彼がこなすのは、彼女たちのスケジュール管理や雑用だけにとどまらない。

 

 

「そっか、じゃあ、信頼に報いるためにも頑張らなきゃね。それより新曲の方はどう?我ながら悪くない出来だと思ってるんだけど?」

 

 

悪くない、と。

その言葉とは裏腹に、彼の様子には自信が満ち溢れていた。彼女達が満足していると、そう確信しているのだった。

マネージャーとして彼女たちを支える傍ら、作曲をこなす。言葉にすれば簡単ではあるが、それは並々ならぬことである。

およそ常人には不可能に近いそれをそつなくこなしてみせる、それはまさに“天才”の領域か、それにとどまらぬ何かに他ならない。

 

 

「もちろん、文句なんてあるわけがないわ。この曲なら、最高のパフォーマンスが出来る」

 

 

彼女の言葉に満足が言ったのか、頷きながら彼は再びピアノに向かい合う。

 

 

「さて、と」

 

 

ふっ、と短く息を吐いたかと思うと、彼は鍵盤に鋭く指を走らせた。指先の精緻な動きが連続した音が形を作り上げ、一つの曲になっていく。

 

 

『メフィスト・ワルツ』(悪魔のワルツ)

 

リスト作曲。

悪魔、メフィスト・フェレスと契約したファウストの物語よりインスピレーションを受けて作られた一曲――その第一番、『村の居酒屋での踊り』

 

――悪魔の奏でる音楽に惹きこまれた彼は

 

物語の一節が彼の脳裏をよぎる。

機械のような正確さで鍵盤を叩きながら、彼は頭の片隅である人物のことを思い出していた。

かつて、自分を友と呼び、共に過ごした仲間のことを。

 

 

――踊り子の少女の手をとって、森の中へと姿を消すのだった

 

 

演奏を終わると同時に、拍手の音が聞こえた。傍らの少女が、満足気に手を叩いていた。

礼の代わりに片手をあげて、彼はゆっくりと腰を持ち上げる

 

 

「それじゃ、僕は少し散歩でもしてこようかな」

 

「散歩?」

 

「うん。気分転換をかねてね。少し、面白いことになりそうだから」

 

 

怪訝な顔をする彼女をしりめに、彼は足を進めていく。

こつり、と。

シューズの靴音が、静まり返った部屋の中で不気味に響いた。

少女に背を向けて青年は口元を釣り上げる。

 

それは優しい笑みだった。

ひどく楽しそうな笑みだった。

どこまでも酷薄な笑みだった。

 

悪魔(メフィスト)――

 

その言葉を連想させずには置かない、悪意に満ちた顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ……」

 

 

凝った肩を何回か回して、それでもなお取れぬ披露を拭うように自分で揉みながら廊下を歩く。

月に一度の書類提出、必要なこととは分かっていても理事長室まで向かうのはイマイチ気が乗らない。

かつて、呼び出しを受けては雷を落とされてきた学生生活の頃の名残だろうか、どうも校長や理事長といった単語を聞くと気が滅入ってくる。

気晴らしにタバコを一本、そう思っても悲しいかなここは校内である。さしもの京助も、そんな無茶苦茶をやれるほどに常識は捨てきっていなかった。

 

 

「しっかし、すげぇな……どこもかしこも文化祭準備。祭り一色、って感じか」

 

 

廊下に施された未完成の飾り付けを見ながら、京助は独りごちた。

夏も終わりに近づいた時分、学生生活の一大イベントとも言える文化祭が始まろうとしていた。

彼にとっては最早遠い世界の事――とはいえ、気にならないといえば嘘になる。

ちらりと壁に張られた宣伝のポスターに目を向ければ、彼の目下の関心の対象であるそれが目に飛び込んできた。

 

μ’sのライブ――

 

どうやら屋上で行われるらしい。聞いた話では、にこが場所決めの抽選を外して、屋上で行われることになったらしい。

ならば、校舎全体に聞こえるように、精一杯の力で歌おうと、穂乃果が意気込んでいたのを思い出して、京助は知らず知らずのうちに微笑を浮かべていた。

 

 

「きゃっ!」

 

「うおっ!?」

 

 

曲がり角、急に飛び出して来た生徒と肩がぶつかった。

 

 

「あ、すみません!」

 

「いや、こっちこそ」

 

 

互いに頭を下げていると、またしても角を曲がって二人の少女が姿を現した。

 

 

「ちょっと、ヒデコ、気をつけなさいよ……」

 

「すみません……あれ?」

 

 

少女の一人が、京助の顔を見て小首をかしげた。

 

 

「え?」

 

「あー!購買のお兄さん!」

 

「本当だ、津田さんだ」

 

「はい、購買のお兄さんこと、津田ですが――ってなんで自分の名前を?」

 

 

購買のお兄さん、というところまでは分かるが、名乗ったわけでも名札をつけているわけでもないのに、自分の名前を彼女たちが知っていることが不思議だった。

 

 

「私達、穂乃果や海未とクラスメートなんですよ!だからたまに津田さんの名前は聞いてるんです」

 

「あぁ、なるほど……んじゃ、改めまして。津田京助です」

 

 

そういえば、穂乃果や海未から、三人組の友達がいると、ちらりと聞いた覚えがあった。それがこの子達かと、一人納得をしてみる。

 

 

「ヒデコです」

 

「フミコです!」

 

「ミカです。よろしくお願いします!」

 

「よろしくお願いします、っと……まぁ、購買もそうですが、店の方も良かったら遊びにでも来てください」

 

 

板についた営業スマイルを浮かべて、京助は軽く一礼。少女達は釣られたように頭を下げて、じゃあ、と小さく言って踵を返した。

彼女たちも文化祭の準備で忙しいのだろう。歩き出しながらも、何事か相談を始めている。

 

 

「どうする?会場設営」

 

「そうだよね……私たちだけじゃ少し人手不足よね」

 

「でも、他のみんなも自分のクラスで忙しいみたいだよ?」

 

 

ちらりと聞こえて来る少女たちの会話。

いつもの京助なら、間違いなくスルーして歩き出していただろう。しかし、彼女たちの会話の中に現れた一つの単語が彼の足を止めた。

 

 

「μ’sのライブの準備、どうしよう」

 

 

μ’s――

 

音ノ木坂スクールアイドルのグループ名。

それは彼の足を止めるのに十分すぎる名前だった。そして、今の今まで止まっていた足を、動かすのに足りる名前だった。

彼女たちのために、何かをしてやりたい、と。

彼の矮小な願いが、形を伴い始める。

 

 

「えーっと……」

 

「はい?」

 

 

京助が何かを言いかけると、途端に少女達は一斉に京助に向き直った。

 

 

「その……会場設営、手伝おうか?男手があった方が楽だろうし」

 

 

頭を掻きながら言うそれは、尻すぼみに声がどんどん小さくなっていった。

手伝いたいのは事実ではあるが、いらないお節介なのではないか、分を超えすぎた行為なのではないかと、不安だけがどんどん膨らんでいく。

答えを聞く前から、早くも京助は言ったことを後悔し始めていた。

動き出した足が、また止まりそうになる。

 

 

「お願いします!」

 

「ッ!」

 

 

刹那の迷いもなく、ミカが言った一言。

それは、彼女にとって、彼女たちにとって人手が欲しいというだけの、深い意味などない言葉。

だが、その言葉は、京助の動き出した足を前に踏み出させる一言になっていた。

 

 

「ちょ、ミカ!」

 

「さすがに津田さんに悪いって……」

 

「いや……俺――自分のことは気にしないで良いですよ。自分も、あの子たちのことは応援してて……出来ることがあるなら手伝ってやりたいと思ってましたから」

 

 

営業スマイルではない微笑みを浮かべて、京助は心中の思いを口に出した。

μ’sのメンバー相手では言えないことも、こうして他のところでは素直に言える。

意地や面目、そんなつまらない事に未だしがみつく自分は、あまりに卑怯だと、そう思う。

京助は温まりかけた心に冷たい風が吹くのを感じた。

 

 

「うーん……じゃ、申し訳ないですけど、文化祭当日、お手伝いをお願いしてもいいですか?」

 

「もちろんです。むしろ、こちらからお願いさせていただきたいところですよ」

 

 

彼の返事に、少女達は色めき立つ。

 

――なんだ、簡単なことじゃないか

 

思わぬ増援に、嬉しそうな彼女達を見てそう思った。

その場にとどまり続け、動こうとしない日々を送る内に、どうやら動き方を忘れてしまっていたらしい。

動くことは、何かをすることは、難しいことではない――

 

 

「でも、外部の人に手伝ってもらうのって大丈夫なのかな?」

 

「そりゃ……」

 

「大丈夫ではないわね」

 

 

不意に後ろから掛けられた声に、京助は飛び上がらんばかりに驚いた。

少女達も彼の後ろに立つ人影を見て、目を丸くし、慌ててかしこまった態度をとっている。

慌てて振り返って見れば、そこに立つのは紛れもなく……

 

 

「理事長先生……」

 

 

呆れたような顔で溜息をつく彼女――音ノ木坂学院高校、南理事長の姿を見て、知らず知らずの内に京助も体が固まるのを感じていた。

 

 

「津田さん。いくら購買の人間とは言っても、外部の人間が文化祭を手伝うなんて、少し勝手が過ぎませんか?」

 

「……はい、すみません」

 

「あの子たちが気になるのは分かりますが、その辺は守っていただかないと。あなたも大人なんですから、生徒に示しがつきませんよ?」

 

「おっしゃる通りです……」

 

 

先程までの思いはどこにやら、京助はコメツキバッタのようにペコペコと頭を下げ続けるよりほかに出来ることがなかった。

雇われ者の悲しいサガである。

 

 

「そういうことは、きちんと私に許可をとってからにしてください」

 

「はい……え?」

 

 

理事長の言葉に耳を疑い、思わず聞き返してしまう。

それはつまり……

 

 

「今回は許可を出しますけど、次回からは私を通してくださいね?」

 

 

悪戯っぽく笑う理事長は、どこか少女のようで。

とても京助の母親と同年代とは思えなかった。

 

 

 

 

 

「うん……問題はないようね。確かにこれは受け取りました」

 

 

京助の持ってきた書類に一通り目を通して、理事長は満足そうに頷いた。

 

 

「うっす……ところで理事長先生。先程はありがとうございました」

 

「別にお礼を言われることではないわ」

 

「しかし、自分で言い出してあれなんですが……いいんですか?俺なんかを生徒の手伝いとして校内に入れて」

 

 

なおも不安そうに尋ねる京助を、理事長はまっすぐに前から見つめた。

 

 

「勤務態度は真面目、教員からの受けは良く、生徒からの評判も悪くない……そんなあなたなら特に問題はないでしょう。それに――」

 

「それに?」

 

「これは私情が入ってしまうから、学校のトップとしては言いたくないんだけど、ことりやあの子達から色々と聞いてるわ。これだけの条件が揃っているのだから、断る理由はありません」

 

 

彼女の言葉を、心の中で反芻する。

彼女の言う、真面目で教員、生徒からの評価も悪くない人物というのが、どうも自分のことだとは思えなかった。

外面だけはしっかりしていて良かったと、今、心から思う。

 

 

「あの子達も大分あなたにアドバイスをもらったり、背中を押してもらったりして感謝しているようよ。この間も、ことりに何かしらのアドバイスをしてくれたみたいじゃない?」

 

「それは――まぁ、それとなく」

 

 

京助は言葉尻を濁した。

正直、あれがアドバイスと言えるのかは非常に微妙なところではある。

 

 

「あの後、あの子も少し吹っ切れたような顔をしていたわ。親として、あなたには感謝しなきゃね」

 

「それは――」

 

 

――難儀な

 

なんと返していいのか分からず、思わず口癖となりつつある言葉を発しかけて慌てて飲み込んだ。

何はともあれ、自分のかけた言葉のおかげで彼女が悩みを解決するのに一役買えたなら、それは嬉しいことではある。もう、あんな辛そうな顔を見ずに済むのなら、それに越したことはない。

 

 

「それじゃ、文化祭の件、よろしくお願いしますね」

 

「……はい」

 

 

小さく、しかし力強く頷く。

今度こそ、今度ばかりは自分から、彼女たちの為に力を貸したいと、素直にそう思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ……」

 

 

呼吸を整えて、目の前を見据える。

彼女の前にあるのは、神田明神の裏門、男坂と呼ばれる急な石段である。μ’sの定番の練習場所となっているそこに、彼女――矢澤にこはいた。

いつもは一緒にいるメンバーの姿も今は見えず、今は彼女一人……メンバーには内緒で行っている自主トレーニングの最中であった。

意識の違いから一人、また一人と仲間が離れ、たっと一人残されたのはかつての出来事。目標を同じくする仲間たちと出会い、念願のラブライブ出場まであと僅かとなった今だからこそ、より一層力を入れなければならないと、そんな思いから始めたことである。

新たに入った仲間たちに負けないように、アイドル部の部長として示しをつけるために、そして何より自身の夢の為に。少しでも自分の力を伸ばしていきたいと、彼女は考えていた。

 

――それにしても

 

ふと、思う。

少し前までは夢を諦めかけ、心が擦り切れそうな日々を送っていたというのに、人生というものはいつどこで転機が訪れるのか分からないものだ。

新しい仲間との出会いが、こうも短時間で状況を変えるものなのか。

 

 

「それだけじゃ、ないわね……」

 

 

首にかけたネックレスをぎゅっと握って、彼女は小さく呟いた。

それは以前、ある人から送られたもの。目指すところは違えども、同じように見果てぬ夢を追いかける先輩のことを思い出す。

彼との再会もきっと、今のこの状況に強い意味を持っているのだと、そう思うと少し笑えてきた。

 

――あの人も頑張っているのだから

 

ネックレスを離して、スタートダッシュを切るために身構える。

夢への一歩を踏み出すためにも、自分も頑張らなければと、そう言い聞かせて、彼女は一気に駆け出した。

急な坂道を全力疾走。以前は息を切らし、登りきるだけでも精一杯だったというのに、今ならこうして易々と登りきることが出来る。

最後の一段を力強く踏みしめて――

 

 

「うわっ!?」

 

「きゃっ!?」

 

 

突然目の前に現れた人とぶつかり、はじかれて尻餅をついてしまう。

石段を降りようとしていたのだろうか、見ればその青年も同じように尻餅をついていた。ぶつかった衝撃でバッグが飛んだのか、その中身の書類が何枚か、周りに飛び出している。

 

 

「すみません!大丈夫ですか?」

 

「あぁ、うん。大丈夫」

 

 

幸いにして彼女も青年も怪我はしなかったようだ。

にこは散らばった書類を一枚ずつ集めて、彼に手渡す。その時に、ふとその書面を見てしまい――彼女は目を丸くした。

そこに記されたのは、何かの音楽の譜面だった。何分、一瞬のこと、ぱっと見では何の曲かまでは分からない。だが、その音符の並びに、彼女は何か既視感のようなものを覚えたのだった。

 

 

「ありがとう、拾ってくれて」

 

 

にこやかな笑顔でにこから書類の束を受け取る青年。

端正な顔立ちをした青年だった。年齢は20代前半といったところだろうか。優しそうな雰囲気に、人好きのする笑顔。その風貌のおかげか、180cmを超えるかと思われる長身であるのに、まったく威圧感を与えない。

 

 

「すみませんでした……」

 

 

にこが素直に頭を下げて誤ると、青年は慌てて手を振って、

 

 

「いや、こっちこそ、少し考え事をしていて、不注意だったよ。ごめんね、怪我はなかった?……あれ?」

 

「え?」

 

 

きょとんとした顔で、青年はにこの顔を見つめ、

 

 

「もしかして、μ’sの矢澤にこちゃん?」

 

「え?何で……」

 

 

言いかけて、彼女は自分が何者であるのかを思い出した。

今の自分は、ランキング上位に食い込むスクールアイドルμ’sの一員なのだから、こうして地元の誰かが顔を知っていてもおかしくはない。

遂に自分も有名になってきたのかと、うっとりしていると、

 

 

「あいつが言っていた通りの子だね……」

 

 

しみじみとした調子の彼の言葉を聞いて、一気に肩から力がぬけるのを感じた。どうやら、彼の知人がにこのことを知っているらしかった。

 

 

「あいつ?」

 

「あぁ、僕の友達。津田京助、って分かるだろ?」

 

「え!津田先輩とお知り合いなんですか?」

 

「うん。知り合いも何も、小学校からの長い付き合いさ。彼が一時期、君のことを話していたからね。僕たちと同じように、大きな夢を持って、努力している後輩がいる、負けられない、って」

 

「……!」

 

 

またしても、驚きに目を丸くする。

自分が彼に対して感じていたことと同じことを、彼もまた自分に対して思っていたこと。それは少し恥ずかしくもあり、誇らしいことでもあった。

夢を諦めずにいて良かったと、素直にそう思えて、心の中が暖かくなるのを感じた。

だが――

青年の次の言葉が、その心を凍りつかせる。

 

 

「まぁ、そんなことを言ってた彼も、今じゃ夢を諦めて、逃げ帰ってきてるんだから世話ないけどね。とんだ口だけ野郎だよ、彼は」

 

「……え?」

 

 

彼の言葉に、耳を疑った。

 

――夢を、諦めた?

 

彼が何を言っているのか、理解が追いつかなかった。理解してしまえば、今まで信じていたことが崩れてしまいそうで怖かった。

それでも、彼女は聞かずにはいられない。

 

 

「それってどういう……?」

 

 

青年は、困ったように微笑む。

それは優しい笑みだった。

同時に、どこか嗜虐的な、悪魔の如き微笑みだった。

 

 

「あいつはね……」

 

 

青年の言葉は、容赦なく京助の嘘を暴いていく。

全てを知った彼女は、声もなくそこに立ち尽くすより他なかった。

 




こんばんは、北屋です。
ついに物語が大きく動き始めました。
京助にいい意味でも悪い意味でも転機が訪れます。
そして、暗躍を始める不穏な影……

次回も頑張って年内に更新します!


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第二十八話 雨に祈れば(上)

※後半に戦闘描写が入ります。読まなくてもあまり支障はないので、苦手なかたはスルーしてください。


「よいしょ、と」

 

「ちょっと、お姉ちゃん!こんな夜にどこ行くの!?」

 

「あ……えへへ、ちょっとだけ走りに」

 

 

居間から驚いた顔を覗かせる妹に、穂乃果は短く答えて、靴紐をきつく結んだ。

時刻は八時をまわったあたり、いかに夏場とはいえども外は既に真っ暗になっている。それを承知した上でのことだった。

ラブライブへの出場が現実味を帯びてきてからというもの、毎日欠かさずに行ってきた夜のランニング。今日は文化祭前日で、友人の海未からはゆっくり休むように言われているが、とてもじっとなんてしていられなかった。

玄関から一歩踏み出してみれば、顔を冷たい雫が打つ。

雨――しかも、それなりにまとまった雨だった。

けれども躊躇は一瞬のことだった。上着のフードをすっぽりとかぶって、いつものルートを走り出す。

こんなところで止まっていられないと、その思いだけが彼女を突き動かしていた。

 

 

 

 

 

神田明神、裏門に位置する男坂と呼ばれる石段の前に、彼女は一人立っていた。

降りしきる雨は冷たく、止む気配は微塵もない。

少女はそんなことは問題でもないとでも言うかのように、念入りにストレッチをして、石段を見上げる。

アイドルをやると決めた日、海未からこの階段を使ったトレーニングを課せられた時は正直ちゃんとメニューをこなせるのか不安だった。

でも、今となってはそれも日課となって、苦もなくこなすことができるようになった。

 

――よーい、どん!

 

心の中でスタートの合図を出し、合わせてスタートダッシュを切る。

息を切らすこともなく、石段の中腹まで走りきりながら、自分の成長を感じて少し可笑しく思った。

何の取り柄もないただの女子高生だった自分が、今では大きな目標を目の前にしている。頑張って頑張って、ようやくここまで来ることが出来た。

この姿を、かつての自分が見たらどんな風に映るのだろう。

 

 

「あ……」

 

 

別のことを考えたのがいけなかった。

雨で濡れて足場が悪くなっていた石段、足を滑らせたと気づいた時には既に踏みとどまることも出来ない程に体が傾いていた。

スローモーションで景色が流れ、真っ暗な空が目の前に広がってくる。

 

 

「てめぇッ!!」

 

 

穂乃果の後ろで、だん、と地面を蹴る凄い音が響いた。

続いて傾いた体が、倒れこむ寸前で誰かに支えられて止まった。

 

 

「大丈夫か、高坂?」

 

 

穂乃果はきょとんとした表情を浮かべてしまう。

なんで彼がこんなところにいるのか、助けてくれてありがとう、いろいろな言葉が頭の中で渦巻く。しかし、心配そうに覗き込んでくる京助の顔を見たら、何を言っていいのかわからなくなってしまった。

初めて間近で見る京助の顔――見慣れたはずの彼が、不意に別の人物に見えた。

 

 

「高坂ちゃん?」

 

「わ、わわわ!パン屋さん、顔近いよ!」

 

「げ!?す、すまん」

 

 

京助は慌てて、それでも優しく穂乃果を起こしてから手を離した。

きまりが悪そうに頬を掻き、彼は、

 

 

「ヒフミ……じゃねぇ、ヒデコちゃんら三人からちらっと聞いてな。何だか、高坂ちゃんがこの頃夜も練習してるらしいって。流石に文化祭前日、こんな雨の中走る馬鹿はいねぇと思ったが――予想を裏切ってくれたな、小娘」

 

「いや、だって……」

 

 

こつり、と。

京助の握った拳が、言い訳をしようとした穂乃果の頭を叩いていた。

決して強くはない、弱々しい拳。しかし、口ではどれだけ乱暴なことを言っても、決して実行しようとはしなかった彼が、初めて上げた手に、驚いて言葉が出なかった。

 

 

「だっても明後日もあるかボケ!てめぇのドタマには味噌じゃなくてアンコが詰まってんのか、この饅頭娘!」

 

 

いつにも増して辛辣な暴言を、京助は火を吹かんばかりの勢いで穂乃果に叩きつけていた。

 

 

「酷い!そんなに言わなくてもいいでしょ!?」

 

「戯け!今日に限って俺が言ってるのは正論だ!こんな無茶しやがって、何かあったらどうすんだよ!」

 

「パン屋さんにそんなこと言われる筋合いはないよ!」

 

 

売り言葉に買い言葉。彼がこんなに怒っているのも、自分のことを、自分たちμ’sの事を、本気で心配してくれているからだと、頭では分かっていても、つい反論してしまう。

その言葉を言ってから、穂乃果は“しまった”と思った。

今までの勢いはどこに行ったのか、京助は口をつぐみ、渋い表情で穂乃果を見つめる。

彼は、初めて彼女たちと出会った時と同じ目をしていた。

眩しそうに、または遠くを見るかのように、彼女たちを心配そうに見ながらも、決して彼女たちを同じ時間、同じ場所から見ようとしなかった目だった。

 

 

「それは――」

 

 

目を伏せて、言いよどむ。しかし、青年は、意を決したようにすぐに真っ直ぐに少女と目を合わせて、

 

 

「……違うぜ、高坂のガキよ。俺には言う筋合いがあるんだ」

 

「え?」

 

「俺は――――μ’sの一ファンだ。ファンが、お前らアイドルのことを心配して何が悪い」

 

 

言いながら、京助はゆっくりと石段を降りて、麓に投げ出された傘を拾いあげる。先ほど、穂乃果に駆け寄る際に放り投げたらしかった。

 

 

「ステージで頑張るのはお前らだ。ファンに出来ることなんざ、ほとんどねぇ……せいぜいが応援してやることと、心配してやることだけだ。それくらい、俺にもさせてくれ」

 

 

そう言って、彼は掴んだ傘を穂乃果に差し出す。

自分が濡れるのも構わず、彼女だけを覆うように傘を支える。

 

 

「パン屋さん……」

 

「……無茶も無謀も、努力の内だ。そこを頭ごなしに責めるつもりなんざ毛ほどもねぇけど、今のお前はちっと頑張りすぎだぜ。それで体壊したら元も子もない」

 

 

寂しそうな、苦笑。

だが、彼女を見つめる彼の瞳は、いつかとは……先ほどとは違う輝きを湛えて、真っ直ぐに目の前を見据えていた。

 

――いつからだろう。この人がこんな目をするようになったのは

 

出会って初めての頃、京助は、穂乃果からはいつも不機嫌そうに、怖い顔ばかりをしているように見えていた。

彼が怖い人なんかではなく、むしろお人好しの部類であると気がつくのに時間はかからなかったが――

時折どこか遠くを見つめる彼の瞳は、けれども何かをちゃんと映しているようには見えなくかった。この世界が全部灰色に見えているのではないかと、彼女が心配になるような顔ばかりをしていた。

それが、今ではこうして遠くではなく、ちゃんと今を見るようになったのはなぜなのか?

彼女には残念ながらそれは分からないし、聞いたところで京助は絶対に教えてはくれないだろうと、そんな確信があった。

穂乃果が黙って傘を受け取ると、京助は踵を返して、石段を降り始めた。

 

 

「高坂ちゃん。今日はもう帰ってゆっくり休みな。明日のライブ――楽しみにしてるぜ」

 

「……うん」

 

 

小さく、穂乃果が頷くのを見届けて、京助は満足したのかゆっくりと歩を進めていく。その物悲しい背中を見て、穂乃果は彼から渡された傘の柄を強く握り締めた。

彼女は気づいていた。

 

俺は――

 

京助がそう言って黙った後、彼が続けようとしたのは別の事だったと。

もちろん、さっき彼が言ったことが嘘ではない。あれもまた彼の本当の心なのだろう。しかし……

 

 

「何て、言おうとしたんだろう?」

 

 

それはきっと、彼が今までにたどってきた道に関係があるのだろうと、漠然とした予想があった。

苦労を刻み込み、癒えぬ疲れから歳とは不相応に老け込んで見える顔。

それは、百の努力をくり返し、千の挫折を乗り越えてきた証明。

 

 

「ッ!?」

 

 

先ほど間近で見た彼の顔が脳裏にフラッシュバックする。

いつもは気にもしていなかったが、改めて見ると彼は割と整った顔立ちをしていた。決して凛々しいとか、優しそうとかそういった特徴があるわけではない。ただ、自分をまっすぐに見つめる姿は、何故か――

 

 

「わー!!」

 

 

大声をあげて、首を左右に思い切り振って、気持ちを入れ替える。何故だかわからないが、これ以上考えてはいけない気がした。

 

 

「……うん。今日はもう、帰ろうかな」

 

 

そうつぶやくと、彼女はびしょ濡れになった上着を脱いで、傘を差しなおす。

 

――風邪、ひいちゃったのかな?

 

何だか無性に顔が熱い気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

穂乃果に傘を渡してしまったことを微かに後悔しながら、京助は雨の帰り道を急いでいた。体に気をつけろと言った本人が、風邪などひいた日には良い笑いものである。

少しでも自宅までの時間を短縮しようと、近道の路地裏に入る。ビルとビルに挟まれた狭い道、ただでさえ昼間から薄暗くてかび臭いというのに、日も暮れたあとの土砂降りの中ともなれば不快感はいつもの倍増しだった。

 

 

「ちっ」

 

 

舌打ちを一つ、ポケットを漁る。

既に浸水が始まっていたらしく湿ってヨレヨレになった一本を忌々しげに咥え、今度はライターを探す。

湿った衣服がぴったりと体に張り付いてきて、目当てのものはなかなか見つからなかった。仕方なしに京助は足を止めて、両手でポケットをあさり始める……

 

 

「……?」

 

 

ふと、京助は道の先に目を凝らした。

人が通るには十分すぎるが、車が通るには狭すぎる一本道。そのど真ん中にぼう、と立つ人影があった。

ゆったりとしたレインコートをフードまですっぽりとかぶった男――それ以上の情報は見て取れない。

ただの通行人かと考えて、しかしただでさえ人通りのないこの道を、こんな時間に通るもの好きが自分の他にいるのかと、彼は首をかしげた。

 

 

「ッ!ちぃッ!」

 

 

京助が瞬きをした僅かな間。

それを狙ったとしか思えぬ動きでレインコートの男が動いた。

獣の如き反射神経を持って反応し得たのは、京助にとって僥倖としか言えない。

後ろに跳びずさった彼は、咥えていたタバコを吐き捨てて、男を睨みつけていた。

目と目の間を、ジリジリとした痛みが焼いている。

一息で距離を詰めてきた男が地面と水平に薙いだ手刀の、その爪の先が、京助の目前をかすめたのだった。わずかでも回避が遅れていれば、両目を抉られていたかもしれない。

そう考えて、京助は背中を冷たいものが走るのを感じた。

 

 

「てめぇ、どこのモンだ!?」

 

 

尋ねてはみるものの、案の定返事はない。

突然の襲撃者と対峙し、しかし京助の思考は冷えていた。

常人ならば理解が追いつかぬ事態ではあるが、あいにくと彼はこのような状況に追い込まれるのも別に初めてのことではない。

学生時代は悪いことを死ぬほどしてきた。旅の間も、およそ人には言えない汚いことを、それこそ殺されても文句がいえないくらいにしてきた。当時の恨みを未だ持ち続けるものがいたとておかしくはない。

ゆえに、この状況は想定の範囲ではあった。

 

 

「まったく、難儀なことだな。明日は外せない用事があるってのによ」

 

 

面倒臭そうに言いながら、彼は脳内で考えを巡らせ続けていた。

 

――逃げるか?

 

まず真っ先に逃走を考えた。相手の実力も、目的さえも分からぬ以上、ここで敵対するのはあまり良い手とは思えない。

だが――すぐに逃走の案を取りやめる。今さっきの動き、下手に背中を見せればどうなるか分からない。

相手は、それほどの手練であると、本能的に分かっていた。

 

――ならば、立ち向かうか?

 

決断は早かった。

体勢を立て直し、ゆっくりと腰を落とす。

気息を整えていく内に、全身の感覚が戦いのためのものに置き換わっていくのが分かった。

 

じりり、と。

 

アスファルトの上を靴底が擦り上げる音が響いた。それはどこか、雷の前触れの音に聞こえた。

 

 

「ひゅっ――」

 

 

笛の音ノように鋭い呼気を吐き出して、京助と男は同時に踏み込んだ。

両者の間合いが詰まった。

京助の右脚が跳ね上がり、男の顎を狙う。軸足と蹴り脚が一直線に、地面に対して垂直に伸びた。

凄まじいまでのバネと柔軟性がなくては出来ない蹴りだった。

 

――ぬぅッ!?

 

京助の脚は、けれども何の手応えも伝えてはこなかった。

つま先が直撃する寸前、男が急制動をかけてその場にとどまったのだった。目測が外れた脚は虚しく空を切り、大きな隙を相手に与えることになる。

その瞬間を見逃す相手ではなかった。

構えた右手の五指を全てぴんと伸ばし、手刀を形作る。抜き手で京助の腹を突くつもりらしかった。

対して――

にぃ、と。

京助は獰猛な獣の笑みを、顔いっぱいに浮かべた。

 

 

「――ッ!」

 

 

最大限に伸びきった脚が、空中で止まった。その間は僅か半瞬にも満たない。頂点から逆に、跳ね上がった軌跡をなぞるようにして振り下ろされるそれは、天より下る雷の閃に似ていた。

襲撃者の頭を砕くかと思えた見事な踵落とし。

男は間髪いれずに十字に組んだ腕でその脚を受け止める。京助の脚と男の腕がぶつかってその場で停止した。

 

 

「しゃぁッ!!」

 

 

吠えた。

獣の咆哮とともに、京助の脚に全体重がかかる。

骨の、血肉の軋む音に続いて、力の拮抗はついに崩れ、互いに大きな隙が生まれた。

勝負は一瞬……恐らく、両者は同じことを考えていた。京助の右足が地面につくのと、男が構えなおすのはほぼ同じタイミングであった。

再び地面を蹴って跳ね上がった脚、コメカミを狙った上段回し蹴りを、男は立てた左腕で防御してみせた。

みしり、と嫌な音を立てながら、それでも男は止まらない。空いた左手の二指を立て、突き込む。

二本抜き手が京助の鳩尾に吸い込まれたその瞬間――男の体が横に、不自然に吹き飛んだ。

京助の脚はガードの腕の上で弾けて、二段目の蹴りをがら空きとなっていた男の左のアバラに叩き込んでいた。

 

 

「かっ……げほっ……」

 

 

その場で崩れ落ち、京助は膝をついたまま胃を押さえて咳き込む。

男の二本抜き手は正確無比に彼の鳩尾を捉えていた。蹴りが届くのが刹那でも遅れていれば、胃壁を破られていたかもしれなかった。

内から沸き起こってくる吐き気をこらえてようやく顔を上げる。

目線の先に襲撃者の姿はなく、どうやら既に逃げ去った後のようだった。

京助の脚が直撃する寸前、男はあらかじめ力の方向に合わせて跳び、その威力を殺していた。アバラを軒並みへし折ってやるつもりだったが、これでは骨の一本も折れたかどうかさえ怪しいところだった。

男の回避の動きがなければ、決着はついていたかもしれない――が、あるいは両者共に重傷で共倒れとなっていたかもしれない。

男の行動は明らかに共倒れを避けてのことだった。

 

――恐ろしいな

 

心の底からそう思った。

技の冴えはもちろんのこと、見事な去り際の見極め。今回は何事もなく済んだが、次はどうなるか、自信がなかった。

震える手でライターを取り出して、新たなタバコを口に咥える。湿りきったタバコは、一口吸い込むだけで火が消えてしまった。

 




こんばんは、北屋です。
これが年内最後の更新となります。
いつか言ったように、本当なら、一期分を今年中に終わらせるつもりだったのですが、書ききれませんでした。私の不徳の致すところで、非常に申し訳のない限りです。

では、読者の皆様、良いお年を。


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第二十九話 雨に祈れば(下)

昔から、何をやっても上手くいかないことばかりだった。

小さい頃は背も低く、運動も苦手。成績だって下から数えた方が早いくらい。

遊んでみても、外では常に鬼役ばかりやらされて、ゲームでは勝てた試しが一度としてない。

才能という才能に見放されて生まれてきたのだと、小学校も半ばにして悟ってしまうくらいに何も出来ない子供だった。

物心着く頃には、ただ一つだけ人より優っている喧嘩を重ねる毎日を送っていた。殴ったり殴られたり、そんな日々は決して楽しくないわけではなかった。

今にして思えば、自分に許された唯一の自己表現手段がそれしかなかったからそう感じていたのだろう。

ともかく、喧嘩に興じる毎日は別段楽しくないわけではなく、しかし、何かが足りないような、どこかが違うような、漠然とした不安を抱えての鬱々とした日々だった。

 

彼と出会ったのはそんな日々の、何気ない一日のことだった。

ある日の放課後、音楽室から聞こえてきたピアノの音。幼い時分のことだというのに、自分はその音色に魅入っていた。

 

人生には転機が訪れるというが、自分にとっての転機はまさにこれしかないと、そう思った。

 

最初は少ない小遣いをやりくりして、中古のCDを買うところから始め、気がついた時には音楽漬けの毎日。

中学生になった頃には、貯めに貯めたお年玉を使って、これもまた中古でギターを買った。

もちろん、音楽の才能も自分にはなかった。同じ頃に音楽を始めた友人たちはどんどん先に進んでいくのに、自分だけは初歩の初歩でつまづいて、ようやく乗り越えたと思ったらすぐにまたつまずく。そんなくり返し。

それでも、ただ諦めることはしなかった。

何度だって、全力で食らいついて立ち上がってきた。才能は0でも、百の練習と千の努力を重ねてきた。

 

――それが今やどうだ?

 

自分自身に問いかけてみる。

夢を諦め、倦怠に身を任せる日々は、自分が望んだものなのか。

断じてそんなことはない。

だが、それが分かっていながらも、これ以上抗う力が残されていない。

最早、疲れきったこの心と体では、もう一度夢に向かって羽ばたくことなど出来ようはずもない。

 

だが――出来ることが何もないわけではない。

 

破れた翼でも、小さなそよ風くらいは起こしてみせる。

潰えた夢の、哀れな残骸でも、誰かの後押しをすることができるのならば――それはきっと意味のあることなのではないだろうか。

 

出来ないことがあっても良い。

だが、出来ることがあるのに何もしないのは違う。

こんな自分にも、まだ意味があるのなら、それは――

 

久しぶりに思い切り手を伸ばす。

ほとんど何もつかめずに終わった手だった。

空っぽの掌だった。

 

それでも、伸ばした指先が何かに触れる。

 

壊れて崩れて、それでも最後に自分に残された残骸を、もう一度だけ強く握り締めた。

 

冷え切っていたそれは、やがて微かなぬくもりを手の中に伝えてくるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「せぇ……の!」

 

 

威勢の良い声と共に、屋上にテントが立ち上がる。

天気はあいにくの雨、しかも予報ではこのまま強くなるとのことだった。

濡れた目元を拭って、京助は空を見上げる。天気予報というのはどうしてこうも外れて欲しい時に限って当たってしまうのかと、理不尽な感想を思いながらため息をついた。

すっかり湿ってしまった靴とスラックスの裾が地味に不愉快である。

 

 

「津田さん、ありがとうございます!やっぱり力仕事は男の人がいると早いですね」

 

「おーう……他にやることはあるかい?」

 

「あ、じゃあ、機材の運び込みお願いします!」

 

「あいよ」

 

 

来る音ノ木坂学院文化祭当日、時刻は8時。一般入場の始まるおよそ1時間前に、京助は既に学校を訪れていた。

先日の約束通り、文化祭の……μ’sのライブステージの準備を手伝いである。

 

 

「思ったより力が強いんですね」

 

「まぁ、このくらいしか取り柄はないからな」

 

「そんなこと……そういえば、津田さんっておいくつなんですか?」

 

「俺か?……21だが」

 

「え!?」

 

「なんだ、その反応は……」

 

「いえ……別に」

 

「ほらやっぱり!津田さん津田さん!津田さんって彼女いるんですか!?」

 

「いや……ってか、そんなん聞いてどうする」

 

 

とりとめのない話をしながら作業を進めていく。

彼女たちも京助も慣れたもので、1時間とかからないうちに作業は一通りの落ち着きを見せていた。

 

 

「今できるのはこのくらいですね」

 

「津田さん、ありがとうございました!」

 

「いや、礼には及ばんさ。……さて、と。ちょいとその辺歩いてくるが、何かあったら呼んでくれ」

 

 

後ろ手に手を振って、京助は屋上の片隅の、雨に当たらない場所に置いてあったギターケースを担ぎ上げる。

行き先は決まっていた。

薄汚れた革靴の音も軽やかに校舎の中を歩む。以前ならば怖くて仕方がなかったすれ違う女の子たちの視線も最近では気にならなくなってきた。

それが良い事なのか悪いことなのかはともかくとしても、一歩だけでも踏み出せた、その事実が嬉しかった。

やがてたどり着いた一室の前で立ち止まる。

アイドル研究部、そう書かれた表札をちらりと確認して、ノックのために拳を軽く握る。さすがに着替え中に入ってしまっては、笑い話にもなりやしない。

今から為す事を考えると、喉がカラカラに乾いていく。動悸が早くなり、どうしても足がすくんでしまう。

 

“逃げたい”

 

そんな言葉が心に浮かんできて、はっとした。

 

――逃げる?この俺が?

 

かつての自分が今の自分を見たらどう思うのか。

挽回のしようのない負けを経験した身である。逃げに逃げ続けて、最早これ以上どこに逃げようというのか。

 

 

「難儀な、こったな……けほっ」

 

 

後ろのない身なら迷う必要はない。動きたいなら、前に一歩踏み出すより他にはないのだ。

口癖を呟いて、小さな咳を一つ。

京助は静かに扉を叩いた。

 

 

「はーい……あれ?おじさん?」

 

「邪魔するぜ、小娘共」

 

 

きょとんとして出迎える凛に苦笑を見せて、京助は教室の中に一歩踏み込む。

 

 

「津田くん?来てくれたんやな」

 

「まぁ、一応な。これ、差し入れだ」

 

「え!?すみません……」

 

 

各種お菓子の詰まった箱を机の上に置く。

 

 

「さて、と……どうだ、調子は?」

 

「はい、おかげさまで絶好調です」

 

「まぁ、悪くはないわね」

 

 

絵里と真姫の返答を聞いて、京助は優しく微笑み、そしてすぐに首をかしげた。

 

 

「ん?高坂ちゃんはどうした?」

 

「それが、まだ――」

 

「お待たせ!」

 

 

海未が答えようとしたところで、扉が勢い良く開いて当の本人が顔を覗かせた。

 

 

「穂乃果!こんな時まで寝坊ですか!?」

 

「あはは……ごめんなさい。あれ?パン屋さんが何でここにいるの?」

 

 

京助は苦笑を浮かべて、

 

 

「なに、たまには年長者らしく、励ましとアドバイスを、なんて思ってな……けほっけほ」

 

 

口元を押さえて咳き込む。どうやら昨晩の雨の所為で風邪をひいてしまったらしい。

間の悪さに苦笑いをして、京助は担いでいたケースを床におろした。

 

 

「アドバイス……ですか?」

 

「おう、小泉ちゃん。……とは言っても俺は見ての通り、口下手だ。そんなわけで……」

 

 

ハードケースを開く。

思えば彼女たちにこれを見せるのは初めてのことだった。

Gibson レスポール。オリジナルカスタム。

かつて夢をまだ追い続けていた頃に愛用していた、いわゆる夢の残骸。

黒一色のボディはところどころ傷だらけだが、性能は申し分ない。今朝の内にメンテナンスは終わっている。

問題なのは自分の腕だけだ。

 

 

「かっこいい……これ、おじさんのギター?」

 

「何か、引いてくれるんですか?」

 

「あぁ。……耳の穴カッポジって聞けよ?この俺が、ノーギャラで本気の演奏するなんて滅多にないからな?」

 

 

言いながら、取り出した小型のアンプにシールドケーブルをつないでいく。

じゃらり、と。

京助にとっては久しぶりの音が室内に響いた。

音量の調整をしながら、一音一音確かめるように音を出していく。ずっしりとしたギターの重みが、嫌に懐かしかった。

 

――さて、と

 

何を弾こうかと、少しだけ悩んですぐにお誂え向けの曲が思い浮かんだ。

特徴的な出だしから始まる、The Beetlesの一曲。

 

『I'VE GOT A FEELING』

 

久しぶりに触れるというのに、かつての相棒は昔通りの音色を奏でてくれる。

 

――俺はさすらい続けて来た

 

歌詞の一節が、自分の今までを思い出させる。

迷いに迷って、傷ついて、傷つけて、彷徨うばかりの日々だった。身をすり減らすような日々の中でいつの間にか、見失っていた。

だけど、ようやく思い出せてきた。それはきっと、彼女たちのおかげなのだろう。

ありがとうと、照れくさくて言えやしないが、思いを込めて音を紡ぐことは出来る。

 

――皆、本気で取り組んで、頑張ってきたんだ。

 

終盤の一節に、一層心を込める。

だから、頑張れ、と。

今までの努力は決して無駄にはならないんだからと、彼女たちへの思いと祈りを込めて歌う。

 

 

「ふぅ……」

 

 

最後の一音の余韻を残しながら、京助は深いため息をついた。

額に浮かんだ汗を拭う。久しぶりの本気に体がついていかなかった。

見てくれと精神同様に、体もここ最近で大分老け込んでしまったらしい。

しばらくの間、誰も言葉を発しなかった。いや、発することが出来なかった。

 

 

「すごいよ!パン屋さん!」

 

 

穂乃果の声を皮切りに、一つ、二つと拍手が室内に満ちていく。

自分の演奏が上手かったのかどうか、そんなことは京助にはどうでも良かった。ただ、自分の感謝が、励ましが、彼女たちに届けばいいと、それだけを考えていた。

 

 

「すみません、もうすぐ始まるのでステージの方に来てください」

 

 

生徒会の人間と思われる少女の声が、教室の外から聞こえた。見事なタイミングに、何となく笑えてくる。

 

 

「まぁ、なんだ。頑張れよ。応援してる」

 

「はい!」

 

 

少女たちの力強い声に満足そうに頷くと京助は立ち上り、教室の前で彼女たちを見送る。

 

 

「っと、そうだ。西木野ちゃんや」

 

「え?私に何か用?」

 

 

怪訝そうに立ち止まった彼女に近づくと、京助は小声で、

 

 

「この間、言われた件だが――このライブが成功したなら引き受けさせてくれないか?」

 

「この間のって……作曲のアドバイスのこと?」

 

「あぁ、気が変わった――っていうよりも、お前らの実力も、努力も、よーく分かった。こんなロクデナシでよければ、何か、手伝いをさせてくれ」

 

 

頼む、と。

そう言って京助は軽く頭を下げた。

 

 

「え、えぇ!?それはその、こっちとしては願ったりだけど……いいの?」

 

「あぁ……もっとも、今回のライブが上手くいったら、だけどな」

 

 

頭をあげて、今度は、京助は冗談交じりに笑って見せた。

対する真姫も1テンポ遅れて不敵に笑う。

 

 

「そう。それなら、手伝ってもらうのは確定ね。今日のライブが成功しないわけないもの」

 

「お!言うな、西木野ちゃん」

 

「手伝うも何も、こき使ってあげるから覚悟しときなさいよ」

 

「怖ぇな。ま、せいぜい首を洗って待っとくとするかね」

 

 

肩をすくめてみせると、満足したように鼻を鳴らして踵を返した。

 

 

「ん?矢澤ちゃん?」

 

 

ふと妙な視線を感じて、にこに目を向ける。

彼女は今までに見たことのないような目で京助を睨みつけていた。

不審と、失望、怒り。そんなものが感じられる、冷たい眼をしていた。

 

 

「……どうした、そんな怖い顔して?俺が何か、気に障ることでもしたか?」

 

 

ここ数日のことを思い出してみるが、彼女にそんな目を向けられる心当たりがまるでなかった。

 

 

「あんた……」

 

「?」

 

「……何でもない」

 

 

吐き捨てるようにそう言って、彼女は顔を背けると早足でメンバー達の後を追いかける。

残された京助は首を傾げることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雨の中、安っぽいビニール傘を片手にステージを見つめる。

程なくして、軽快な前奏が響いて、ステージに立つ彼女たちにスポットライトが当てられていく。

いつにも増してキレのいい動き。出だしは好調そのものだった。

だが……

 

――嫌な予感がする

 

漠然とした、形のない不安が胸の内に湧いていた。

それが何なのか、検討もつかない。だからこそ余計に焦燥が募っていく。

この感覚に、京助は覚えがあった。

かつて――3年前に、自分が所属していたバンドをやめる切欠となったあの事件。

思い出して、脇腹を、押さえる。今でもこうして天気が悪い日は時折古傷がうずく。

メンバーの一人に片思いしたファンの凶刃から、仲間を守って受けた傷だった。

あの時、もし自分が万全であったならば。周りを見回す余裕があったならば、あんな無様な事にはならなかっただろうと、今でも後悔は尽きない。

 

――どうか、無事に終わってくれ

 

心からそう願わずにはいられなかった。

不安がただの自分の杞憂であったと、そう思える未来が欲しかった。

 

 

だが――

 

 

悪い予感ほど、見事に的中してしまうのが世の常であった。

 

 

「ッ!?」

 

 

それは丁度曲の一番が終わった時のことであった。

ゆっくりと雨の中崩れ落ちていく少女の体。

 

それを目にした時、京助の行動は早かった。

濡れたコンクリートを蹴り、人ごみを力ずくでかき分けていく。

 

 

「高坂ッ!!」

 

 

一息でステージに飛び上がり穂乃果を助け起こす。

声をかけても、帰ってくるのは弱々しいうめき声だけだった。

酷い熱だった。どうして先ほど気づいてやることが出来なかったのかと、またしても言い知れない後悔が彼の襲った。

 

 

「次の、曲を……」

 

「――――ッバカ野郎!」

 

 

小さく、穂乃果が呟いた一言を聞いて、京助は雷鳴の如き大声で吠えた。

 

 

「すみません、メンバーにアクシデントがありました!少々お待ちください」

 

 

絵里の言葉を遠くに聞きながら、京助は穂乃果を背中に担ぎ上げる。

 

 

「続けられるわよね!?まだ、」

 

「ふざけた事抜かしてんじゃねぇ!今はそんなことより高坂のことだ!……南、保健室まで案内してくれ!園田は高坂の着替えとってこい!あと、誰か親御さんに連絡しろ!」

 

 

怒鳴るようにしてメンバー達に指示を飛ばす。

ことりに導かれながら、保健室までの道を急ぐ。

 

――どうして気づいてやれなかった!

 

背に負った彼女はひどく軽かった。

彼女が自らの背中で苦しそうにしているのを感じながら京助は心中で自問を繰り返す。

 

 

――また、俺は……

 

 

少女は別に、言い知れない後悔が自らの背中にのしかかってくるのを感じた。

 




こんばんは、北屋です。
ついにここまできましたね……一期分の終了も近づいてきました。

今までの伏線が、全て結びつく日は間もなくです。


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第三十話 亀裂の音

「ご心配おかけしました!」

 

 

開口一番、穂乃果が勢い良く頭を下げた。

十分に反省しているのだろうが、謝罪の時までこうして元気いっぱいで一生懸命なところが彼女らしくて何だか可笑しくなってくる。京助は口元に微かな微笑みを浮かべて、しかしすぐに気を取り直していつもの仏頂面を作る。

 

 

「……別に、心配なんざしてねぇよ」

 

「それはそれでひどくない!?」

 

 

穂乃果の元気な声を聞き流して、京助は手元のコーヒーを一口飲む。

今日の一杯はスコッチウイスキーを通常より大分多めに使ったゲーリック・コーヒー。本来ならば仕事中に、それも未成年の前で飲むべきものではないのだが、今日だけはこの味わいを楽しみたい気分だった。

 

 

「へー、そんなこと言っても、一番慌てて心配してたの、津田くんやんな?」

 

「そうそう!お見舞いの時だって、高そうなフルーツの盛り合わせを凛達に持たせたり!」

 

「ぶっ!俺は別に……」

 

 

コーヒーを吹きかけながら、慌てて否定する。

 

 

「え!?あのお見舞い、パン屋さんだったの!?」

 

「……ちッ」

 

 

居心地が悪くなった京助はいつもの如く不機嫌そうな舌打ちを一つ、彼女たちから目をそらした。

 

 

「そんなことより、はじめるならさっさと始めろっての。こっちだってわざわざてめぇらのために店締め切ってんだからよ」

 

「そうね……にこ、お願い」

 

 

絵里が目配せすると、にこがグラスを片手に立ち上がる。

 

 

「みんな、グラスは持った?」

 

 

それぞれがグラスを片手に注視するなか、にこは続ける。

 

 

「では、学校存続が決まったということで!部長のにこにーから一言挨拶させていただきたいと思います!」

 

 

学校存続。

その知らせが届いたのはほん2,3日前のことだった。彼女たちの活躍のおかげで入学希望者が一気に増え、音ノ木坂は廃校の危機を乗り越えることが出来たらしい。

先日の文化祭のライブこそ散々な結果になってしまい、ラブライブ出場も果たせなくなってしまったが、こうして彼女たちが目標を達成できたこと、そして今こうして笑顔で全員揃って祝杯を挙げられることが、京助にも嬉しくて仕方がなかった。……もっとも、そんな様子は間違っても顔にはださないが。

何一つなすことが出来ず、散り散りになってしまった自分たちとは違う道をたどってくれたことに安心を覚えてしまう。確かにラブライブ出場という夢を今一歩で失したことは惜しいが、こうしてお互いに笑い合えるなら問題はないはずだ。

 

『転んでもまた起き上がる意思がある限り、チャンスはいつだって訪れる』

 

京助はかつての自分の矜持を思い出していた。

 

 

「思えばにこが部長になってからどれほどの月日がたったことか、最初は一人だったアイドル研究部も……」

 

『かんぱーい!』

 

「ちょっと、人の話を最後まで聞きなさいよ!」

 

 

にこのはなしの途中でみんなが一斉にグラスを掲げる。

京助もつられてコーヒーカップを掲げ、口元に小さな微笑を浮かべた。

 

 

「さて、と。今日は……まぁ、好きなだけ飲んで食べて騒ぐと良い。どうせ貸切だ、他に客もいねぇしな……って、遠慮ねぇなお前ら」

 

 

京助が何かを言う前に、既に彼女たちはテーブルに並んだ料理に箸を付け始めていた。花陽に至っては勝手に炊飯器を持ち出してご飯まで炊き始めている始末。元気というかなんというか、それもまた彼女達らしいと思って、彼は苦笑を漏らした。

 

 

「津田さん、今回は場所を提供していただいてありがとうございます」

 

「別に気にすんな。それより絢瀬ちゃんもさっさと食わねぇとなくなるぜ?」

 

 

こんな時までどこか固い絵里の様子に、京助は堪えられなくなったのか無表情を崩して笑いかけた。

 

 

「えりち、ほっとしたみたいやね?」

 

「えぇ。ようやく肩の荷がおりた気分」

 

 

希と絵里が揃って他のメンバーに目を向けた。年長者であり、なおかつ生徒会として廃校阻止に誰よりも真面目に勤めていた二人だからこそ、この結果にも感慨が深いのだろう。

彼女たちの様子を肴にコーヒーを飲み干す。ウイスキーが効いてきたのか、体が芯から暖かくなるのを感じた。

 

 

「……ん?」

 

 

ぼんやりと見回す中で、海未とことりが目に付いた。みんなから少し離れ、店の端っこの方で思いつめたような顔をしている。

とても祝いの席に似合う顔ではなかった。

 

 

「おーい、堅物娘にひよこ娘。どうしたよ?」

 

 

浮かれて気が大きくなっていたのだろうか、京助は二人のまとう重苦しい雰囲気に何も気づかずに声をかけた。

からかい混じりの、軽い言葉。だが、帰ってきたのはひどく思いつめた二人の視線だけだった。

 

 

「ごめんなさい。みんなに話があります」

 

 

海未に全員の視線が向けられた。その真剣な様子に何かを感じ取ったのか、今までの騒ぎが嘘のように場が静かになる。

――何かあったのか?

目で希と絵里に問いかけてみるが、二人共何も聞いていないらしく首を傾げるだけだった。

改めて京助はことりと海未に目を向ける。

嫌な予感がした。それもここしばらく感じたことのない、とびきりの嫌な予感だった。

 

 

「突然ですが、ことりが留学することになりました。……2週間後に日本を発ちます」

 

 

それは突然の告白だった。

あまりにも唐突過ぎて、誰も、何も言うことが出来なかった。

 

 

「けほっ……おい、そりゃまた……急な話だな?」

 

 

先日から治らない咳を一つ。努めて冷静さを繕うことで、ようやくそれだけを尋ねることができた。

彼は、暗雲の如くどんどん膨れ上がっていく嫌な空気を感じていた。かつて感じたことのある空気だった。

彼が仲間を失った時に感じたものと非常に似通っていて、焦燥感がこみ上げてくる。

 

――やめろ

 

そう言って、彼女たちの口を塞いでしまえたらどんなに楽なことだろうか。そんな風にさえ思ってしまう。

 

 

「……前から、服飾の勉強をしたいと思っていて、それでお母さんの知り合いの人が、勉強に来てみないかって……それで……」

 

「本当は、もう少し前に言うつもりだったんです。しかし、みんなが文化祭に集中している時に言うべきではないと、判断したんです……」

 

 

ぴしり。

どこからか亀裂が入るような音が聞こえた気がして、京助は店の中に視線を彷徨わせる。だが、音の出処は見当たらなかった。

 

 

「……どうして」

 

 

穂乃果がゆっくりと立ち上がって、ことりの方にふらふらと進む。

 

 

「どうして言ってくれなかったの?」

 

 

穂乃果とことりが何やら話すのが、京助にはどこか遠い世界での出来事のように見えていた。

 

ぴしり、と。

 

今度ははっきりと聞こえた。京助は胸を押さえて荒い息を吐く。音の出処はどこでもない、彼の胸の内だった。

思い出すのはいつかのことりの顔だった。ひどく物憂げで、何かを悩んでいたあの時の顔。

 

――夢のために何かを諦めなければならないとしたら

 

――友達を裏切ることになるとしたら、津田さんは、どうします?

 

その問いに自分は何と答えたのか?

 

『仕方のないこと』

 

そう答えたのはどこの誰だったのだろうか。

 

 

――俺の、所為だ……

 

 

悩み抜いて、ホントは行きたくない気持ちもあって。

それなのに一番大事な友達には相談できなくて。

だから気持ちに区切りを付けるべく、京助に相談をしてみたのだろう。あるいは彼に止めて欲しかったのかもしれない。『友達を裏切るな』と、そう言って欲しかったのかもしれない。

 

それなのに、自分がやったことは何だ?

 

迷う少女の背中を押して、事態を良くない方向に導いた。それなのに何も気づかず満足感を感じて、一人悦に浸る。

なんと滑稽なことか。なんと醜悪なことか。

 

なんと――おぞましいことか。

 

こみ上げてくる吐き気をこらえて、倒れそうな体を無理やりに支える。

 

 

「ッ、ゲホッごほっ!」

 

 

それでも支えきれなくて、胸の奥が痛んだ。

何か彼女たちに声をかけようとして、それなのに、代わりに嫌な咳しか出てこなかった。

 

 

「穂乃果ちゃんは、初めてできた友達だよ!ずっと、そばにいた友達だよ!そんなの、そんなの……!」

 

 

ことりの叫びが、京助の意識を店の中に戻した。

 

 

「ま、待て、みな……ゴホッ、グッ!」

 

 

涙を浮かべて店を飛び出していく、ことりを見て、京助は思わず手を伸ばす。だが、言葉は言葉にならない。これまでに感じたこともないような息苦しさに、それさえも叶わなかった。

扉をくぐる少女の背中が目に焼き付く。

その小さな背中にどれほどの苦悩を、悲しみを背負い込んでいるのだろうか。

そんなたった一人の少女に手を差し伸ばすことさえ出来ない自分が、ひどく嫌だった。

ことりがいなくなり、一気に静まり返った店内に、京助の咳き込む声だけが響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「げほッ……」

 

 

一つ、咳き込む。

あの雨の日からずっと続く嫌な咳は一向に治ることがなく、むしろ日を追うごとに悪化しているようにさえ思えた。

咳止めの代わりとでも言うように、手元のウイスキーを掴んで瓶から直接一気に喉に流し込む。アルコールが傷んだ喉を焼き、こぼれた雫が胸元を濡らす。そんなものはどうでも良かった。

少し足を動かすと、蹴飛ばされた空き瓶が迷惑そうな音を立てる。

ことりが留学に出ると、そう言った日から一日が経った。

μ’sの面々が店を出て行ったその時から一人で酒を飲み始め、気がつけば西日が店内に差し込んでいた。

ぼんやりと、店の中を眺めてからタバコに火を点ける。カートンでまとめて買ってあったそれも気がつけば最後の一本となり、テーブルの上には灰皿からはみ出した吸殻が汚らしく散らばっている。

あれから一日、何もする気が起きなかった。適当な理由をでっち上げて学校での購買の仕事をサボり、ただ気を紛らわせるためにタバコと酒を一日中飲み続けていた。

何かを考えれば、すぐに昨日のことを思い出してしまう。そうすれば、己の仕出かしたことの重さに潰されそうになってしまう。

自分に出来ることも、自分がしたいことさえも、今の彼には分からなかった。

脈打ち続ける自分の心臓の音さえも、今では煩わしいもののように思えてならず、いっそこのまま止まってくれはしないかと、そう願わずにはいられなかった。

 

 

「ふぅ……グッ!?」

 

 

肺を満たした紫煙を吐き出すと、今までにない酷い咳が出た。飛び散った唾に混じって赤いものが見える。ただでさえ喉の調子が良くないのに、無茶をしすぎた所為で遂に喉が裂けたらしかった。

袖口で汚れた口元、そしてテーブルを適当に拭っていると、不意にドアベルの音が耳をついた。

からり、と。聞きなれた澄んだ音のはずなのに、がんがんと頭に響いて思わず額に手をやってしまう。

今日は臨時休業だと、そう告げるのも億劫で、しかし面倒臭そうに顔をあげて京助は冷水を浴びせられたように体の芯が冷たくなるのを感じた。

 

 

「ッ!?」

 

 

目線の先に立つのは、酷くギョッとした様子のにこだった。可愛らしい顔を不快そうに歪めて口元を覆い、京助を見つめる。

紅玉を思わせる彼女の瞳に映るのは、目の下にくっきりと隈を浮かべ、凄まじいまでの倦怠を浮かべた様子の冴えない男の姿。

自身の今の体たらくを思いだし、そしてすぐに店の中に立ち込めたタバコと酒の匂いに気づき、大慌てで窓を開けて換気扇を最大にする。

 

 

「どうした、矢澤ちゃん。すまんが俺は見ての通り疲れててな。相手をしてやる余力が……」

 

 

疲れきった顔で、それでもどうにか取り繕って笑顔を向けるが、彼女から笑顔が帰ってくることはなかった。

彼女が彼に向けるのは、鋭い視線だった。

まるで非難するかのようなその眼に、京助はたじろいでしまう。

 

 

「……今日、穂乃果が言ったの。アイドルを、やめるって」

 

「え……」

 

 

にこの言った事が、一瞬理解できなかった。

穂乃果が、アイドルをやめる……その言葉が頭の中でぐるぐると渦巻いて、ようやく理解できた時には、にこは次のセリフに移っている。

 

 

「学校の存続は決まったから……ことりがいなくなったから。だから、アイドルをやめるんだって」

 

「そんな、」

 

「私は」

 

 

京助が何かをいうのを遮って、彼女は続ける。

 

 

「私は、あの子が本気だと思ったから、本気でアイドルをやりたいんだって思ったから、賭けてみたいって思った。これが最後のチャンスだって思った。それなのに……

 

「矢澤ちゃん……」

 

 

その名を口に出してみるが、後の言葉が続かなかった。

彼女にかけてやれる言葉が見つからなかった。

夢を追い求め、挫折を繰り返してきて、ようやく掴んだチャンス。彼女の胸の内が京助には痛いほどに良く分かっていた。だからこそ、なんとしても彼女には上手くいって欲しかった。

視界が揺らぐ。今の今まで気づかなかった吐き気と悪寒がじわじわと体を蝕んでくるのを感じた。

 

 

「先輩」

 

「……なんだ?」

 

 

嫌な、予感がした。

止せばいいのに、それでも反射的に聞き返してしまって軽く後悔を覚える。

 

 

「この前、聞いたの」

 

 

にこが次に発する言葉が、怖くて仕方がなかった。

先ほどの彼女の非難するような眼が目に焼きついて離れない。

 

――何も言わないでくれ!

 

そう願わずにはいられなかった。もしここで何かを言われたら、もう二度とは立ち上がれないと、そんな気がした。目をつぶって、痛いほどに歯を食いしばって、一秒先の現実から目を背け用としてみる。

だが、京助のそんな抵抗は無意味だった。彼の不安は現実のモノとなり、彼に死刑宣告にも似たあの事実を突きつける。

 

 

「先輩が夢を諦めたって。夢を諦めて、逃げ帰ってきたって」

 

 

何かが、崩れ落ちる音がした。

膝から力が抜けて、慌ててそばにあったテーブルで体を支える。

 

 

「嘘、よね?ねぇ、先輩はまだ、夢を諦めてないわよね?」

 

 

それは確認というよりも懇願に近かった。

事実を知りながらそれを認めたくないと、嘘でも良いから否定して欲しいと、そう願う者の言葉だった。

 

 

「……矢澤、ちゃん。俺は――」

 

 

違う、と。

そう言ってやりたかった。だが、その一言が、小さな嘘がどうしても口に出せなかった。

 

 

「本当、なのね?」

 

 

背中を嫌な汗が伝う。喉がカラカラに乾く。

言い表しようのない不快感をこらえて、そして京助がどうにか出来たのは、首を縦に振ることだけだった。

 

 

「信じてたのに!先輩は、まだ夢を追ってるんだって、信じてたのに!だから、私も頑張らなきゃって、そう思ってたのに!!」

 

 

身を切るような、切実な言葉だった。

いつかこうなることが分からないほど京助は愚かではない。分かっていてなお、その言葉は彼の心を深く抉った。

少女は今にも泣き出しそうな顔をしていた。

それを見るだけで胸がどうにかなりそうなくらいに締め付けられる気分だった。

 

 

「違う、俺は……!」

 

 

そんな言い訳が口をついて出てくる。

何も、違うことはないというのに。

 

俺は――

 

その後に何を続けようというのか。そこから先に、何か意味があるのだろうか。

 

 

「あんたなんか、大嫌い!!」

 

 

その一言を残して、にこは店を出ていってしまった。

ドアの締まる重苦しい音が店内に響くのと同時に、京助は床に崩れ落ちた。

視界が歪み、溢れた雫が床を濡らす。

 

 

「うっ……ぐぅっ……」

 

 

うつ伏せに倒れたまま、嗚咽を殺してタイルを拳で叩く。

 

惨めだった。

 

見苦しくてたまらなかった。

 

このまま、消えてなくなってしまいたかった。

 




こんばんは、北屋です。
忙しさにかまけて、長らく更新出来ず申し訳ございませんでした。
重ねて申し訳ないのですが、しばらく更新が遅延しそうです……

流石に暗い話は書いてて気が滅入りますね。早く明るい話が書けるように、一層の精進をせねば!

そんな訳で、少し遅れるかもしれませんが、次回もなるべく早くに更新できるよう、執筆を頑張らせていただきます!


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第三十一話 闇よ、我が手を……

ギターケース担ぎ上げる。

ケースの紐を肩から掛けて部屋を出ようとすると、よろけた拍子に壁にぶつかって仲のギターが悲鳴のような嫌な音を立てた。

だが、そんな事はもうどうでも良かった。ふらつく足取りのせいか、何度も壁や柱やらその辺にぶつけて、しばらくしたら相棒は悲鳴を上げるのをやめた。

店を出て、鍵を締める。短い間だったが、それなりにこの平穏――とは一概に言い切れない生活は楽しかった。恐らくこんな日々は二度とはないだろう。

今際の際でこの数ヶ月を思い出せば、きっと自分の人生にもそれなりの満足を得られるだろうと、そう思いながら彼は己の実家に背を向けた。

愛車にまたがり、キーを差し込む。しかし一向にかからないエンジンに怪訝そうな顔をして、彼は燃料が空になっていることに気がついて苦笑を浮かべた。

どこまで行っても決まらない。

だが、そんな最後も自分らしくて良い。ギターを担いだままに、彼は歩き出す。

燃料の調達ついでに背中のゴミを処分して、見納めに街をふらつくつもりだった。

 

 

「津田さん?」

 

 

正面から誰かに声をかけられ、立ち止まる。

焦点のいまいち定まらない目で見つめ、それが誰なのかようやく気づいた時には、彼女は京助のすぐそばまで来ていた。

 

 

「……園田ちゃんか」

 

 

疲れきった溜息を一つ、少女の名を口に出す。

今、彼が一番会いたくない相手だった。

 

 

「今ちょうど、あなたに会いに行こうと思っていたところだったんです」

 

「……」

 

 

黙りこくる彼を無視して、彼女は困惑の表情で言葉を続ける。

 

 

「穂乃果がスクールアイドルをやめると言い出して、にこが怒ってしまって……ことりが、留学することになって……すみません、少し落ち着いて話します」

 

 

自分でも何を言っているのか分からなくなったのか、そう言って海未は小さな笑みを浮かべる。

だが、その目は全く笑っていなかった。悲しみと不安に今にも押しつぶされそうで、誰かに助けて欲しいと、そんな目をしていた。

助けを求めるその瞳に映るのは、一人の青年の姿。

 

 

「……大体の、事情は聞いてるよ」

 

 

表情を崩さずに、京助は小さな声で呟いた。

酷くしわがれ、錆びた声だった。どうやら深酒とタバコで喉が焼けてしまったらしい。

 

 

「……さっき、矢澤ちゃんが来て、事の次第を話してくれた」

 

 

それだけ言って、京助はもう一度黙り込むと、二人の間に沈んだような沈黙が訪れる。

季節はずれの冷たい風が頬を撫でた。

 

 

「そう、ですか……」

 

 

5秒にも満たない、しかし永遠とも思える静けさを破って先に口を開いたのは海未だった。

 

 

「……もう、私にはどうしたら良いのか分からないんです。ことりや穂乃果と、ずっと一緒にいたのに……変な話――情けない話ですよね」

 

「……」

 

 

京助は、何も語らない。ただ口をよこ一文字に結んで、疲れきった顔をうつむかせるだけだった。

 

 

「だから、その、津田さんに相談しようかと」

 

「俺に、相談?」

 

「はい……」

 

 

海未はどこかで期待していた。

かつて、一年生達三人の背中を押してくれたように。

以前、にこの手を取るようにして導いてくれた時のように。

そして、絵里の閉ざした心を力ずくでこじ開けてくれた時のように。

また今度も彼が力になってくれると彼女は思っていた。

だが――

 

 

「……無理だ」

 

 

京助は短く、ため息混じりにそう答えた

 

 

「もうこうなっちまったら、何も出来ることはねぇ。……相談なんざ持ち込まれても、俺には何も出来ないぜ」

 

 

その答えを聞きながらも、海未はまだ希望を捨ててはいなかった。

いつも口では嫌だと言いながらも結局は力を貸してくれる、だから今回も――そう思って彼の顔を正面から見つめ、淡い期待が崩れ去るのを感じた。

いつにも増して疲れきった彼には、一切の気力が感じられなかった。諦観と絶望をありありと浮かべる彼の雰囲気が、その言葉が嘘偽りのない本心からのものだとそう言っていた。

 

 

「悪いが俺は、てめぇの事で精一杯なんだ。……とても小娘共の相手なんかしてる暇はねぇ」

 

 

その言葉を最後に、彼は止めていた足をゆっくりと動かし始める。

よろよろとしたおぼつかない足取りで海未の横を通り過ぎ、

 

 

「あばよ。達者でな」

 

 

振り向きもせずに別れを思わせる一言を残し去っていく。

海未はどんどん離れていく彼の後ろ姿を見ながら、立ち止まったまま何も声をかけることが出来なかった。

夕闇に溶けるように小さくなっていく彼の背中は、酷く儚くて、何かの拍子に消えてなくなってしまいそうだった。

このまま二度と会えなくなるのではないかと、そんな不吉な予感が彼女の胸のうちで生じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ごほッ」

 

 

咳を一つ。

震える手でタバコを摘んで口に咥える。

安物のオイルライターの小さな火をその先端に移して、辛い煙を肺一杯に吸いこんだ。

すでに日は沈み、夜の帳が街に降りている。

腕時計も携帯電話も忘れてきてしまい、時間を確かめる術はない。もしそれらを身につけていたとしても、時刻を確かめようなどという気力自体が今の彼にはなかった。

ただガソリンスタンドに行こうとしただけだというのに、あれからどれほど彷徨ったのか、足がまるで棒のようだった。活気に満ちた街の喧騒はどこか遠くへ消え去って、車や電車の走る音だけが遠くに聞こえている。

今までに感じたことのない倦怠感を抱えて、彼はビルの壁にそっとその背中を預けた。

ビルとビルに挟まれて、昼までさえも日が差さないような暗い路地裏。この場所にくると昔から何だか無性に気分が落ち着いた。

タバコを咥えたまま、背中に担いだままのギターケースを乱暴に地面に下ろす。かつては夢そのものとさえ思えたそれが、今はただひたすらに重くて、自分を縛る忌々しいモノに思えた。

 

 

「……ヘッ」

 

 

おもむろにケースを開いて中身を取り出すと、京助は鼻で笑う。

それはどこまでも暗くジメジメとした笑いだった。

もうとっくに潰えた夢。その残骸を惨めったらしく大事に抱えるのが馬鹿らしかった。

こんなものがあるから、期待をしてしまう。まだ自分には何か出来ることがあるのではないかと、今までの自分の努力と苦労は無駄ではなかったと、そんな幻想を抱いてしまうのだと、そう考えたら自然と笑えてきた。

実際に自分に出来ることは何もなかった。何かが出来ると思い込んで、結局やったのは少女たちに、無用な混乱を与えることだけだった。

結局、努力も苦労も、夢さえも、何もかも無駄でしかなかった。

乱暴にギターのネックを持って、ケースから引きずり出す。いい加減に全てを捨てる覚悟は出来ていた。

疲れた体に鞭打って、かつての相棒を頭上に持ち上げる

 

 

――あばよ、相棒

 

 

心の中で呟いて、力の限りに両手を振り下ろした。

耳を覆いたくなるような破壊音。だが、京助は手を休めずに何度も何度もギターをアスファルトの地面に叩きつける。

どれほどの時間が経っただろうか。京助が見下ろす先に転がるのは、かつての夢の、文字どおりの残骸だった。

粉々に砕け散り、もう二度とは元に戻らないそれを満足げに見下ろして、いつのまにか火の消えてしまったタバコを吐き捨てると、疲れが一気に体を襲ってきた。

崩れ落ちるようにしてその場に座り込む。もうこのまま泥のように眠り込んでしまかった。出来ることならば二度と目覚めることのない静かな眠りを、心身が欲していた。

徐々に重くなっていく瞼に抵抗する気などもとよりなくて、望んでいた静かな闇が目の前を覆い始める。

やがて聴覚も触覚も、五感の全てが意味をなさなくなっていき、そして――

 

 

「ッ!?」

 

 

真っ白な閃光が闇を裂いた。遅れてやってきた凄まじい衝撃が体を突き抜け、飛びかけていた意識が無理矢理に呼び戻される。

何が起きたのか分からずに目を開いてみれば、いつの間にか自分の周りを数人の人影が取り囲んでいるのが分かった。

意識がはっきりしてくるに連れ、頭に感じる酷い痛みが自己主張をしてくる。人影の一人が手にしている金属バットが目に移り、それで殴られたのだと理解が及ぶのにそれほどの時間はかからなかった。

 

 

「何だ、てめぇら……」

 

 

痛みをこらえながら、ゆっくりと体を動かそうとする。だが、体はまるで錆び付いたように動いてくれなかった。それどころか、この状況が危険であると分かっているにもかかわらず、何とかしようという気さえも湧いてこなかった。

ひどくだるい。何もかもがどうでも良い。

そんな気さえしてきて、立ち上がることさえも億劫だった。

 

 

「ぐぅッ!?」

 

 

二度目の衝撃が肩口を襲った。不思議と痛みは感じない。だがその衝撃で地面を転がって、アスファルトの冷たさを全身で感じることになった。

今度こそゆっくりと立ち上がり、襲撃者達に目を向ける。人数は5人程で、いずれもどこかで見たことのある顔をしていた。

 

 

「何だ、お前ら……」

 

「何だじゃねぇんだよ!」

 

 

先頭の若者のつま先が鳩尾に食い込んだ。普段なら難なく避けられる不格好な蹴りだったが、その気が起きなかった。

前かがみに崩れ落ちると、体の中からこみ上げてくる不快感に耐え切れず胃液を吐き出してしまう。

 

――そういえば、昨日から何も食べていなかった

 

そんな風に、場違いな事を考えていた。

 

 

「津田ぁ!この間は世話になったな」

 

「この間……?あぁ、あの時のチンピラか……ッ」

 

 

金属バットが容赦なく胸板を叩いた。

みしり、と。嫌な音が体の中から響いた。どうやらアバラが折れたらしかった。

 

 

「てめぇが街に帰って来たって言ったら、是非ともいつかの借りを返したいって奴らが集まってくれたんだぜ?」

 

 

地面に倒れたままの京助の体を、二人の男が強引に引っ張って立たせた。

 

 

「へっ……人気者は辛いぜ。雑魚がよってたかってこんなロクデナシに挨拶とはな。よっぽど暇なのか?」

 

 

軽口を叩きながら、京助はようやく状況が理解出来てきていた。

ここにいるのは、かつて京助が若い頃に叩きのめしたことのある相手ばかりだった。もう二度と立ち向かう気など起きないくらいに潰したつもりだったが、一部はまだ恨みをもったままだったらしい。かつての自分の甘さがつくづく笑えてくる。

だが、この状況はある意味では幸運といえなくもなかった。

動きを封じられたままに何度も殴られ、打ちのめされながら、京助はまたしても場違いな事を考えていた。

それはこの街に戻ってきてから知り合ったあの少女たちのこと。

今まで死ぬほど、殺される程に悪いことをしてきた。だからこうしてそのツケを払うことになるのは半ば覚悟していたことだ。しかし、そのツケを払うのは自分一人でなければならない。もし、この連中に彼女達と一緒にいるところを見られていたら――そう思うと言い知れない恐怖が体の芯を凍りつかせる。

 

 

「ぅッ!」

 

 

金属バットが京助の横っ面を叩いた。

飛び散る血に白いものが混じっていた。どうやら歯が何本か折れたらしい。

下品な笑い声に混じって、彼らが何かを言っているのが聞こえるが残念ながらそれを理解する気にはなれなかった。

 

――もうどうにでもなれ

 

何度も打ち据えられ、殴られ、蹴られ、傷つく中で京助は反撃さえせずにそんな心持ちでいた。最早痛みなど感じない。

何もかも失った身である。もう何かを考えることも億劫になってきていた。ここで死んでも構わないとさえ思っていた。

全身余すところなく叩きのめされて、指一本動かす気力がなくなった頃、京助はようやく暴力の嵐から解放された。

何かを囁きながら男たちの足音が遠ざかっていくのが聞こえる。

まだ、京助にはそれを捉えるだけの感覚が残されていた。

 

――まだ、死ねないのか

 

人の体というのは、自分が思っているよりは頑丈に出来ている。

ましてや昔から頑丈だけが売りの自分の体。死のうと思ってもそう簡単には死ねないらしく、こんな時ばかりは嫌になってくる。

京助は密かに、今この場で自身が終わる事を期待していた。

生まれてこのかた何事も上手くいかず、失敗続きの毎日。ようやく見つけた夢も果たすことが出来ず、守りたいと思ったモノさえ手の中から滑り落ちていく。

そんな己の人生がたまらなくなって、今度こそ消えてなくなりたいと思っていた。

 

――素人め

 

急に激しい怒りが胸のうちに燃え上がってくるのが感じられた。

ここで全て終われると思った。

だから無抵抗で受け入れたというのに、それも無意味だった。

先に進むことも、ここで終わることも出来ない。そんな状況に腹が立って仕方がなかった。だから、これから自分がすることはただの八つ当たりであると、薄々は気づいていた。

 

――もう、どうにでもなれ

 

自分の中に、唸り声を上げる獣がいる。

ともすれば自身を食い殺しかねない、忌むべきはずのそれに京助はそっと、自分の身を差し出した。

全てが、どうでも良かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

男の一人――先日京助に脅されて逃げ帰った男が何気なく振り返った。

それはあるいは異様な気配を本能的に感じてのことだったのかも知れない。

 

 

「!」

 

 

男の視線の先。そこにあるのは傷だらけで転がる京助の姿ではなかった。

今にも倒れそうではあるが、そのくせにしっかりと二本の足で立つ青年。あれほど打ちのめされたすぐ後のことである。それは異常なことであった。

 

 

「まだ立てんのかよ……!」

 

 

無造作に、金属バットを持って彼は京助に近づいていく。その顔には暴力に酔う嗜虐的な表情が浮かんでいた。

だが、彼は数歩進んだところで己の間違いに気がついた。

 

全身の毛が逆立つような殺気を放つ、京助の幽鬼のごとき有り様に。

 

一瞬、時間にすれば刹那にも満たない程の時間。その僅かな隙に京助の右腕が跳ね上がって一閃した。

 

 

「があぁぁぁぁッ!?」

 

 

男の汚い悲鳴が路地裏に反響する。先ほどの京助と立場が逆転して、地面の上をのたうつ男の口元の片方が耳元まで裂けていた。一瞬にして、京助の指先が男の唇を引っ掛けて力ずくで引き裂いたのだった。

悲鳴に気づいた残りの男たちが踵を返し、そして戦慄する。

にぃ、と。京助の顔に浮かぶ獣じみた獰猛な笑みの凄惨さ。

 

 

そこから始まったのは暴力と呼ぶには惨すぎる、蹂躙だった。

 

 

運が良かった者は一撃で顎を蹴り砕かれてそのまま昏倒した。

両腕をへし折られて泣き叫ぶ者、血泡を吹いて痙攣するだけの者、片耳をちぎられて悲鳴を上げる者……意識を失うことさえ出来ず、苦痛にのたうつその様は、地獄の一区画をこの世に再現したかのようだった。

 

 

「ちっ……」

 

 

舌打ちを一つ。

暴れるだけ暴れて、しかし京助は満たされないものを感じていた。

 

――こんな事がしたかったわけじゃない

 

先に進むことも、死ぬことも出来ず、自分がどうすれば良いのか分からなかった。

戯れに暴力の限りを尽くしてみても答えは見つからない。自分のやりたいことさえもわからなかった。

 

 

「   」

 

 

吠えた。

言葉に表せぬ咆哮は、夜の闇の中に飲み込まれ、誰かに届くこともなく虚しく消えていく。

獣の遠吠えの如く、何度も声にならない声をあげ、やがて枯れた喉からこみ上げる鉄の匂いにむせ返る。

 

 

「……ぃッ!」

 

 

不意に背中側に衝撃を感じた。

何事かと思案を巡らせれば、皮膚の下に冷たい異物の感触を感じる。

ゆっくりと、だるい体を動かして後ろを振り向けば、最初にノした男が血の滴るナイフを持って震えていた。

がちがちと、歯を鳴らす男の顔から感情は読み取れなかった。今にも泣き出しそうな目元に、裂けてつり上がった口元――悲と喜が同時に存在する、狂気の顔だった。

 

 

「てめぇ……」

 

「ひっ!」

 

 

濡れたシャツが体に張り付いて気持ちが悪かった。服の生ぬるいシミが広がるに連れ、逆に体から熱が抜けていくような気がした。

 

 

「半端なことすんじゃねぇ……この位で……」

 

 

――人は死なない

 

一歩、逃げるかのように後ずさった男の顔を思い切り掴んだ。そのまま力任せに引きずって、男の後頭部をビルの壁に叩きつける。

何度も、何度も、何度も。

男が抵抗を辞め、やがて鈍い音に湿った音が混じり始めた頃、飽きたとでも言うように京助は手を離した。

 

 

「ちっ……」

 

 

転がって喚き続ける彼らに一瞥もくれることなく、京助は重い体を引きずって歩き出す。路地の更に奥に進む彼は、まるで光から逃げているかのようだった。

夏だというのにひどく寒い。

一歩進むごとに体の奥から大事なものがごっそりと削られていく気がした。やがて自分が歩いているのか止まっているのかさえも分からなくなっていく。

京助は気がつけば震える手を無意識に伸ばしていた。

何かを求めるように、誰かに手をとって貰おうとするかのように。

しかし、彼の手が何かを掴むことはなかった。

 

 

 

深い闇だけが、冷たくなっていく彼の体を包み込んでいた。

 




こんばんは、北屋です。
……なんというか、間違った方向に力を入れすぎてしまった感が拭えませんorz
この後、加筆修正するかもしれません。
さておき、これにてこのサイトにおける第一部は完了となりました。
これまでがうだうだといい大人が悩みまくる話でしたが、この後は……

次回からは短編を何本か投稿した上で、本編の続きという形になります。次回も早いうちに更新できるように頑張っていきます!


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fragment 1 一欠片のチョコレート

ここからしばらく短編(という名の過去編)が続きます。


風が通りを吹き抜ける。

その冷たさに思わず体を縮こまらせて、身にまとったコートを正す。

かつてはこの程度の寒さなど、いくらでも我慢できたというのに……否応なく体の衰えを突きつけられるようで、なんとも言えない気分になった。

そんな弱気を振り払うために軽く頭を振って顔を上げれば、もう目当ての場所は目と鼻の先だった。

 

ガラス張りの扉に手をかけるが、扉は思ったよりも重くて、軽く押しただけでは開いてくれなかった。

油を切らしているのかと思ったが、何のことはない、自分の力が衰えただけのことだった。

 

からり、と。

ドアベルの音が物悲しい音を立てる。

 

 

「いらっしゃ……あら、お義父さん」

 

 

カウンターの向こう側の女性が驚いたように目を丸くする。そういえばこの店を訪れたのはいつぶりだっただろう。

息子の嫁が店を継いでから訪れるのはこれで2,3回目のはずだ。先代の頃――自分の若い頃を思い出すと懐かしさが溢れてくる。

 

 

「コーヒーを一つ」

 

 

そう告げて、店の片隅に置かれたテーブル席につく。

椅子に深く腰掛けると、今までの閉塞感が嘘のようにずっと腰が楽になった。家からここまでの道はさして距離があるわけではない。だが、その大したことのない距離でさえも、今の私には苦痛だった。

テーブルの上においた手を見つめる。ひび割れて、深いシワに覆われた両手だった。

物心ついた頃から若さに任せてやりたい放題をやってきた。随分と危ない橋も渡ってきたし、人には言えないようなこともしてきた。それだけならまだしも、いい年になってもなお無理と無茶を続け、その無理が祟ってこの体たらく。

最早笑うしかないと――そう言って、若い頃の私なら笑うのかもしれないが、そんな元気も今の私にはなかった。

隠居生活の中で老いて枯れて、いつか人知れず終わりの時を迎えるのみと、そう思っていた。

 

 

「お義父さん、急にどうしたんですか?」

 

「いやね……昔の知人から連絡があってね」

 

 

コーヒーを持ってきた息子の嫁に尋ねられて、淡く笑いながらそう返す。

最近、出不精になった私がこうしてこの店を訪れるのはある人から声をかけられてのことだった。

最後に彼女と会ったのは30年も前のことだろうか。彼女と初めて知り合った時のことは今でも目を閉じれば思い出すことができる。

白磁のような透き通った肌に、タンポポを思わせる優しい金色の髪。彼女の周りだけが、自分の知っている世界とは違って見えた。

 

からり、と。

再びドアベルの音がして、そちらに目を向ける。

開いた扉の隙間から流れ込む冷たい風が、彼女の長い髪の毛を揺らしていた。銀色の混じった、しかしいつかと同じタンポポ色の髪。

 

 

「やぁ、久しぶり」

 

 

キョロキョロと店の中を見回す彼女に声をかける。大きな声を出したつもりなのに、嗄れてくぐもったこの声は、この小さな店内でも思ったように響いてはくれなかった。

それでも彼女は気づいてくれたのか、私の方を見て明るい表情を浮かべた

 

 

「お久しぶりです」

 

 

一礼してから私の前の席に座るその丁寧な様子は、最後にあった時のままで、なんだか安心してしまう。

彼女の顔を見たら、昔のことが走馬灯のように頭の中を駆け巡った。

決して楽しいだけの毎日ではなかった。いろいろな汗をかいて、時には涙を流して、駆け抜けるように過ごしてきた若き日のこと。もう二度とは戻ることのできない、自分が障害で一番輝いていた日々だった。

 

 

「どうしたんですか?そんな泣きそうな顔をして」

 

「いや……最近、涙もろくなりましてね。昔の事を思い出したら、ついね」

 

 

矢張り私は老いてしまったらしい。最近、涙腺がゆるくて仕方がない。

そんな私が面白かったのか、彼女はクスクスと少女のように可愛らしく笑って、

 

 

「そうね。色々なことがあったわよね……」

 

 

彼女もまた遠い目でここではないどこかを見つめていた。恐らくそれは私が見ているものと同じだろう。

それでも何となく尋ねてみたくなった。

 

 

「……何を、考えているんですか?」

 

「そう、ですね。初めて私たちが会った時のことを。あなたは、覚えてますか?」

 

「さぁ――」

 

 

彼女が運ばれてきたコーヒーに口をつけるのを見て、私も自分のコーヒーを一口すする。

あれはもう……40年以上前になる。

 

 

「留学なんて珍しい時代のことでしたから……散々からかわれて、いつも泣いてた私に、そっと手を差し出してくれた日のこと、今でも覚えていますよ」

 

「手を、ね……そりゃ、あいつ――あんたの旦那さんでしょうに。俺はただ、喧嘩をしてただけですよ」

 

 

照れくさくなって鼻の頭を掻く。

今でもあの時のことは思い出せる。

あの頃――それは時代が時代だっただけに仕方がないことだったのだが――荒みきって自分の事で精一杯だった。明日のことも分からず、ただ我武者羅に今を生きるだけの毎日は、目に映るもの全てが灰色に見えていた。

そんな時に私を変えてくれたのは、あの日の出会いだった。

春を思わせる、野に咲くタンポポのような明るい色。初めて私の見る世界に色をつけてくれたのは、あの少女だった。

その子はいつ見ても泣いていて……その姿を見るたびに何故だか胸が締め付けられる思いがした。だから、いつしか、その涙を止めてあげようと思うようになった。

思えばそれは、初めて自分以外のために何かをしようと思った瞬間だった。

だが、悲しいかな生まれつき口よりも先に手が出る性分、彼女を泣かせた相手を叩きのめすことくらいしかその当時の私にはしてやれなかった。

私が暴れまわるその後ろで、余計に泣く彼女の声に、初めて私は暴力で人を笑顔にすることは出来ないと悟ったのだ。

結局、私にいろいろなことを教えてくれた少女に、私は何も返してあげることが出来ず……代わりにあいつがいつも彼女の涙を止めようとしていたものだ。

 

 

「そういや、あいつ――あなたの旦那さんは今どうしてます?日本に帰ってきてるんですか?」

 

「いえ、それが」

 

 

私が尋ねると、彼女は複雑そうな顔を浮かべた。

 

 

「あいつに、何かあったんですか?」

 

 

嫌な、予感がした。

体が思うように動かなくなって、それなのに勘だけが無性に冴えてくる。年をとってロクなことは何もないとつくづくそう思う。

 

 

「いえ、あなたが予想しているようなことでは――その、本当は私と一緒に日本に来るはずだったんですが、出発当日の朝に荷物を持ち上げようとして」

 

 

――腰を、ね

 

彼女が笑いそうなのをこらえながらいうのを見て、申し訳ないが私は思わず吹き出してしまった。

それに釣られたのか、彼女もこらえきれずに声をあげて笑い出す。

何が、嫌な予感だ。少し前の自分が恥ずかしくてたまらなかった。

 

 

「ぎっくり腰ですか……いや、あいつにしては珍しい。こういう肝心な時にしくじるなんて」

 

「そんなことないですよ?あの人はいつもそう。新婚旅行の時だって――」

 

 

そう言って彼女は彼との思い出を語り始める。私の親友の、私の知らない側面を。

 

――あいつがこの人の隣で、本当に良かった……

 

幸せそうに笑う彼女を見ていて、心の底からそう思えた。

 

 

「おばーさま!!」

 

「あらあら、どうしたの?」

 

 

不意に小さな子供が店の扉をあけて、勢いよく彼女のところに駆けてきた。

彼女と同じ、タンポポ色の髪をした、若い頃の彼女にとてもよく似た子供だった。

 

 

「よくここにいるって分かったわね?」

 

「お母様が言ってたの!きっとここにいるって!」

 

 

誇らしげに言う少女を見て、彼女はにっこりと優しく微笑んだ。

 

 

「そう……エリーチカは賢いわね」

 

 

彼女に頭を撫でられて、心地よさそうにする少女を見ていたら、なんだかこちらまでほっこりとしてきた。

 

 

「おや、その子がお孫さんですか?」

 

「えぇ。孫の絵里……私はエリーチカ、なんて呼んでますけどね」

 

「そうですか……こんにちは、絵里ちゃん」

 

 

私が微笑みかけると、少女は怯えてように彼女の椅子の後ろ側に隠れてしまう。

 

 

「こら。ちゃんとご挨拶しなさい」

 

「おばーさま、このひと、だぁれ?」

 

 

彼女の影からこっそり覗かせるその顔は、目元があいつによく似ていた。

 

 

「この人は、私の友達。私にとってのヒーローだった人」

 

「ひーろー?」

 

 

きょとんとした顔で私を見つめる可愛らしい視線が、何だかくすぐったい。

私は困ってしまって頭を掻きながら、

 

 

「そりゃ言いすぎでしょうに……」

 

「あら?あなたが助けてくれたとき、私はいつもそう思っていたのよ?」

 

 

クスクスと笑いながらからかうように言う彼女を見て、天井を仰ぎ見る。

昔からこの人には敵わない。

 

 

「こ、こんにちは……」

 

「やぁ、こんにちは。おじちゃんは一馬っていうんだ。君のお名前は?」

 

「あやせ、えりです」

 

「そっか。よろしくね、絵里ちゃん」

 

 

おずおずと自己紹介をする彼女の可愛らしい姿に、つい自分の孫を比較してしまう。

あの小憎たらしい孫にも、この子の半分――いや、せめて4分の1でも可愛げがあったらいいのにと。

 

 

「うちのバカ孫とは比べ物になりませんな」

 

「誰がバカだ、じいちゃん」

 

 

からん、と。

今度は乱暴な音を立ててドアが開いた。

入ってくるなりの不機嫌そうな声は、どうやら今の話を聞いていたらしい。耳ざとい孫め。

ボロっちいランドセルを背負ったまま、これまた不機嫌そうな顔で私のところにやってくる孫の姿を見たら、思わず深い溜息が出てきてしまった。

また喧嘩でもしたか、顔に擦り傷とあざを作って、ただでさえつり目がちな目元を余計につりあげるその仕草は、一体誰に似たのだろう。

 

 

「あら?こちらが、あなたのお孫さん?」

 

「えぇ。――この人は俺の古い友達でな。ほら、小僧、挨拶せんか」

 

「友達……?じいちゃん、そんなのいたのか――いてっ」

 

 

余計な事を言う孫の頭に軽くげんこつをくれてやると、むくれたようにこちらを睨んで渋々彼女の方に向き直る。

 

 

「……こんにちは」

 

「こんにちは。おじいさんに良く似てるわねぇ……」

 

「俺――私とこいつが?」

 

「えぇ。目元なんか、特にそっくり」

 

 

……どうやら、こいつの顔は私に似ていたらしい。特にこのつり目は私の遺伝か。

 

 

 

「ん?」

 

 

小さな少女に気づいたのか、孫が怪訝そうな声を出す。

ただでさえ怖い顔をしてるんだから、そんな風に睨むんじゃない。可哀想に、絵里ちゃんも怯えているではないか。

 

 

「おにいさん……だれ?」

 

「あ?」

 

 

子供相手に凄む孫の頭に再び拳骨をくれてやる。

全く、こいつは誰に似たんだか……あぁ、私か。

 

 

「痛ッ……何すんだよ?」

 

「小さい子を怯えさせるんじゃない。ちゃんと挨拶くらい出来んのか」

 

「いきなりぶつことないだろ?……おい」

 

 

完全に怯えてしまったのか、今にも泣きそうな顔でまた彼女の後ろに隠れる絵里ちゃんを見て、小僧は困ったような顔をしていた。

そのまま何かを考えていたかと思うと、ポケットをあさって何かを取り出して、彼は膝を床について絵里ちゃんと自分の目線を合わせる。

 

 

「……?」

 

「ごめん、おどかして。これ、あげる」

 

 

しどろもどろにそう言って、差し出す手の中に乗っているのは小さな包み紙だった。子供の小遣いで変える、駄菓子の小さなチョコレート。

最初は怯えていた絵里ちゃんも、そっと顔を覗かせて、そっとその包みを手に取る。

 

 

「ありがと……おにいちゃん、おなまえ、なんていうの?」

 

「……京助」

 

 

――ほぅ……

 

今度は呆れではなくて、感心の溜息が溢れた。

自分以外に関心を持たなかった孫が、こうして自ら誰かに何かを与えるなど、初めて見る光景だった。

野生の獣が女の子に懐いた瞬間のようにさえ見えて、我が孫のことながら何だか少し可笑しかった。

 

 

「きょーすけ?」

 

「……うん」

 

 

ぶっきらぼうに、唸るように頷く。

だがその横顔が照れたようだったのを私は見逃さなかった。

 

 

「きょーすけ!」

 

「う、うん……!?」

 

 

差し出したままの手を握られて、京助は目を丸くする。

 

 

「わたし、えり!あそびましょ、きょーすけ!」

 

「え、う、うん」

 

 

子供というのは単純なもの。

先ほどまでは怖がっていたというのに、五分もしないうちに打ち解けてしまった。

 

 

「あらあら……もうお友達になったみたいね?」

 

「そのようですな……」

 

 

楽しそうな笑顔の絵里ちゃんと違って、困ったような悲しそうな顔で彼女を背中に乗せて馬になっている京助。

……絵里ちゃん、将来は優秀な猛獣使いになれそうだ。

 

 

「……京助と言う名前は、私がつけたんです」

 

「へぇ……」

 

 

コーヒーを一口すすって、自分に言い聞かせるように呟くと彼女は面白そうに次の私の言葉を待った。

 

 

「『京』の字は『都』……転じて、多くの人の中心の意味。それに『助』の一字は……」

 

「いろいろな人々を助けられるような人……ですか?」

 

 

彼女の言葉に答えずに、私は残っていたコーヒーを飲み干した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あら、もうこんな時間」

 

 

彼女は腕にまいていた時計を見て呟いた。

私も店の時計に目をやれば、もう彼女とあってから2時間以上が経過していた。

この頃、時間が経つのがいやに早い気がする。これはきっと、自分が老いたからなのだろう――

 

 

「友達と話す時間というのは、どうしてこうもあっという間なんでしょうね」

 

「――さぁ」

 

 

彼女に言われて、考えを改める。今は――今だけはそういう事にしておきたかった。

 

 

「エリーチカ。もう帰る時間よ」

 

「えー?わたし、まだきょーすけとあそびたい」

 

「ダメよ。あんまり長居してはお店に迷惑だし、お母さんとお父さんが心配するわ」

 

 

絵里ちゃんは少し不満そうだったが、流石に賢い。

納得したように頷いて、

 

 

「ばいばい、きょーすけ!」

 

 

ぽんぽん、と。しゃがんだ京助の頭を撫でて別れの言葉を告げた。

 

 

「うん」

 

「またあそぼーね!」

 

「……うん。またね」

 

 

そういう京助はどこか寂しそうだった――それはもしかすると私の勘違いかもしれないが。

 

 

「では、また――」

 

「えぇ。次はあいつも一緒に話したいものですね」

 

 

微笑みあって別れを告げる。

願わくば、次の再会を祈って。

聞きなれたはずのドアベルの音が、今だけはとても寂しい音色に聞こえた。

 

 

 

 

 

 

人のいなくなった店内、気がつくと京助は扉を見つめてぼさっとつっ立ったままだった。

 

 

「どうした、小僧」

 

「……なんでもない」

 

「ふむ」

 

 

本当に珍しいこともあるものだと思う。

他人に興味など持とうとしなかったこいつが、こうして他人との別れを惜しむような素振りを見せるとは。

珍しさついでにちょっとした遊び心が湧いてきた。

 

 

「京助、さてはお前、あの子に惚れたか」

 

「は!?じいちゃん、何言ってんだよ」

 

「ふーむ、そうか。確かにあの子は可愛らしいからの……年はお前よりも三つばかり下だったようだが、まぁ、大人になれば問題ない範囲だろう」

 

「だから、何いって……」

 

「何なら今から彼女やあいつに連絡をしてもって、許嫁にでも――」

 

 

じりり、と。雷の前触れのような音がしたかと思うと、京助が私の脇腹めがけて蹴りを入れてきた。

 

 

「こら!おじいちゃんに蹴りをくれるとは何事か」

 

「うるせぇ、はなせ!」

 

 

その脚を軽く掴んで止めて、お説教を一つ。

私譲りで喧嘩の才能は十分なようだが、まだまだ修行が足りないと見える。

溜息を一つ。ふざけた態度を改めて、

 

 

「京助。よく聞け」

 

「なんだよ?」

 

 

私の真剣な顔に何かを感じ取ったのか、京助もまたいつになく真剣な顔を浮かべる。

 

 

「今はまだそうやって好きなように暴れるのは構わん。だが、いつか大切な人が出来た時にそれではいかんぞ」

 

「は?」

 

 

私の突然の言葉を理解できなかったのか、京助は目を白黒させる。

今はまだ、それでいい。

 

 

「さて……私も帰るとするか」

 

 

京助の足を離して、ゆっくりと立ち上がる。

 

 

「待て、じいちゃん!どういうことだよ?」

 

「いずれ分かる」

 

 

それだけ言い残して、扉に手をかける。

入るときはあれほど重く感じたそれは、今ではとても軽かった。

 

 

「いつかあの子を――誰かを守ってやれよ」

 

 

 

最後の言葉が京助に届いたかどうか確かめず、私は振り返ることもなく店からの帰路についた。

 

この日の邂逅にきっと意味はあると――いつか京助とあの子がまた出会う日がくると、何故か心の中で確信があった。

 

その先がどうなるのかは分からない。

だがその時にはきっと、彼らはまた友達として出会うだろう。

まぶたをとじたら、目に映る光景がある。

大きくなって綺麗になった絵里ちゃんと、その隣に立つ京助。

悲しそうな顔をする彼女に、そっと手を差し出す姿。

それはただの幻に過ぎないと、そう分かっていても考えるだけで心が踊る。

そしていつか本当にそれを見ることができるかもしれないと――そう思うだけで、先の事に思いを馳せるのが楽しかった。

 




こんばんは、北屋です。

本編は一度置いておいて、短編の投稿がしばらく続きます。
今回は京助と絵里の出会い。彼らの因縁(?)は祖父と祖母の代から始まっていました。
ショタ京助とロリーチカ!……可愛く書ききれなかったのが無念ですorz

次回は恐らく希の話になるかと思います!

ではでは、更新頑張っていきます。


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fragment 2 いつかの約束

一枚の写真を手にとって眺めてみる。

今ではすっかり見る機会も減った、フィルムを現像した写真。これだけ見れば何の変哲もないただの写真。でもこれを見るたびにあの時の事がありありと思い出せる。

神社の一風景を切り取った写真の中央に収まる学生服を来た少年の後ろ姿。良い事や悪いこと、何かがあった時には思い出す。

彼の言葉を……あの時交わした約束を。

 

あれから何年経つのだろうか……

 

 

 

 

 

神社の境内、その中でも奥まった場所にある祠の前。薄暗いここが、今の私の居場所だった。

小さい頃から神社やお寺さん、そういったスピリチュアルな場所が好きだった。一人になれるということにも加えて、そういうところにはいつも何かしらの気配が感じられたから。

人には見えないもの、感じられないものが見える――そんな自分の特技はこういう時ほど役に立つ。

 

 

「……」

 

 

親の転勤に伴う転校につぐ転校――一つのところに留まっていた覚えがなかった。その度に友達も一新されて、新しい場所で新しい人間関係を作ってのくり返し。

もうそんな生活にも慣れたもので、別に学校で孤立するようなこともない。友達はちゃんといるし、一緒に遊ぶ相手だっている。

でも、そこまで深い仲になろうという気はしなかった。

仲が良くなればそれだけ別れは辛いものになる。いずれ、そう遠くないうちに別れが見えているのに、それをあえて辛いものする必要はないから。

 

だから、本当に友達といえる人は私の周りにはいなかった。

 

小さい頃はそれでもよかった。でも、大きくなっていろんなことを考えるようになってくると、どうしても考えずにいられない。

自分の居場所はどこにあるのか――と。

そう考えるとどうしようもなく胸がざわつく。言い知れない不安に押しつぶされそうになって、いてもたってもいられなくなる。

一人は嫌なのに、無性に一人になりたくなってきて、気がつくとこうして近所の神社にきてしまう。

 

 

「……あれ?」

 

 

ぱたり、と。

地面を一滴の雫が濡らした。雨でも降ってきたのかと、驚いて空を見上げてもそこに広がるのは雲一つない青空だった。

 

 

「お狐さんの嫁入りやろか?」

 

 

頬を伝う暖かさには気づかないフリをして、無理に笑ってみる。でも落ち込んだ気分は全然晴れなかった。

そんな心を忘れるために辺りを見渡してみる。

神社特有の澄み切った空気。小さい頃から慣れ親しんだそれは私にとって心地良いものだった。

神社を囲む森の緑に、吹き抜ける風の冷たさ。

それらは私の小さな体を包み込んでくれるようで、何とも言えない安心感が全身を満たしてくれる。

それはとても幸せなように感じられて――どこまでも恐ろしかった。

 

ざぁっ、と。

一際強い風が吹いた。ざわざわと周りの空気が一変して、目には見えないナニモノかが私を呼んでいるような気配がする。

 

――こっちに来い

 

と。

いつもは跳ね除けるそんなこの世ならざるモノの声がとても愛おしく感じられた。その呼び声に導かれるようにして、一歩踏み出して……

 

 

「きゃっ!?」

 

 

ぱぁん、と何かが破裂するような鋭い音が聞こえて思わず飛び上がってしまった。

神社の隅から隅まで届いたんじゃないかというくらいの大音量、皮膚がビリビリするほどの威力。

近くに雷でも落ちたのではないかと思うほどの轟音だった。

 

 

「失せろ」

 

 

小さく、唸るような声。

まるで獣が唸っているようなそれに驚いて振り返って見れば、いつからそこにいるのだろう、学生服を着た一人の少年が立っていた。

 

 

「この子はまだ彼岸(そっち)のモンじゃねぇ。失せろ」

 

 

今度ははっきりとそう言うのが聞こえた。

年齢は私よりも2つか3つ年上――中学生。両方の掌まるで拝むかのように合わせているのを見て、さっきの音は彼が柏手を思い切り打った音なのだと気がついた。

虚空を見つめていた彼の視線が私に移る。

彼と目が合って、今の今までぼんやりとしていた意識が一気にはっきりとした。

 

――なんて目をしているのだろう

 

野生の獣を思わせる鋭い目。纏う空気は刃物のようで、近づいたら斬れそうな気さえする。

さっきの気配と同じで、目の前の少年も人間ではないと直感的にそう思った。

獣の瞳、雷鳴みたいな轟音。

雷の獣……”雷獣”。

その妖怪の名前が頭の中に浮かんできた。

 

 

「大丈夫か、お嬢ちゃん」

 

 

気配が消えてなくなると、雷獣が私にそんな風に声をかけてきた。

鋭い目、でもそこからは考えられない優しい声音をしていて、思わず目を丸くする。

よく見れば雷獣はただの、どこにでもいそうな少年だった。

 

 

「おい、どうした?大丈夫か?」

 

「……うん。大丈夫」

 

 

はぁ、と一息ついて返事を返すと少年は同じように小さく溜息をつく。

表情は相変わらず険しくて、顔からは判断がつかないけれど――どうやら安心しているらしかった。

 

 

「気をつけろ。女の子がこんなところに一人なんて――ちと危ないぜ」

 

「……うん」

 

 

小さく頷いてみせると、彼は踵を返そうとして……私の顔を見て足を止めた。

 

 

「あ……」

 

 

慌てて頬を拭うけど少し遅かった。

眉間にシワを浮かべて、心底面倒くさそうに頭を掻いて、彼は私の方にゆっくりと近づいてくる。

 

 

「どうした、何か悩み事でもあるのか?」

 

「……あなたには関係ないやろ」

 

 

ぶっきらぼうそう言うと、彼はまた頭を掻きながら、

 

 

「おう。関係ない。見知らぬガキが何を考えていようが、訳分からんモンに連れてかれようが俺の知ったこっちゃない。だけどよ――気に入らない事を見過ごすのは寝覚めが悪いんだ」

 

 

何だかよく分からない人だった。

私が頼んだわけでもないのにこうして話を聞いてきて、そのくせ凄く不機嫌そうに今すぐ帰りたいという雰囲気を出している――それは何だか自分自身にイラついているようで、どこかちぐはぐな人だった。

 

 

「あなた、誰ですか?」

 

「名乗ってなかったか……俺は京助、津田 京助。修学旅行に来てた、ただの中学生――なんだが、どうも集団行動は性に合わなくてな。サボって単独行動の真っ最中ってわけさ」

 

 

私が警戒心むき出しで睨みながら聞いてみても、彼は動じた様子もなく、逆にその辺にあった切り株にどっかりと腰を下ろしてポケットから小箱を取り出し始めた。

中学生と今さっき言ったばかりの口で彼は美味しそうにタバコを吸ってみせた。

 

 

「ここで会ったのも何かの縁だ、少し話を聞かせてみろ。話せば気が楽になるかもしれないし――俺の暇つぶしになるかもしれん」

 

 

彼は顔を上げて、吐き出した煙で輪っかを作って空に吐き出す。雲一つない青空に、紫煙は揺らめいて溶けていった。

 

 

「……あなたも、見えるの?」

 

 

彼に最初に尋ねたことは、悩みのことでもなんでもなくて、ただ純粋な疑問だった。ともすれば突拍子もない質問だったのに、彼は苦笑いを一つ、

 

 

「いーや?見えないし何も聞こえない。だが、なんつーか勘だけは人一倍良い方でな。何かヤバそうなのはわかるんだ」

 

「野生の勘?」

 

 

思わず口をついて出た言葉に、一瞬彼は目を丸くして、すぐに声を出して笑い始めた。豪快で屈託のない、笑い声。

そういえば私があんな風に笑ったのは、一体いつが最後なのだろうと――なんだか少し寂しくなってくる。

 

 

「いや、違いない。まぁ、俺はお嬢ちゃんみたいに繊細な質じゃないからな――んで、お嬢ちゃんや。悩みはそのことじゃねぇんだろ?」

 

「……」

 

 

私の目を覗き込んできた。

心の奥底まで切り込んできそうな鋭い瞳。怖い――なのに、不思議と恐ろしくはなかった。矛盾しているようだけど、それが正直な感想。

生まれつきらしきそのつり目はともかく、彼の瞳の奥に見え隠れする優しさ、そして寂しさは、何だか私の思いに似ている気がした。

 

気がついたら、私は自分のことをぽつりぽつりと話始めていた。

 

会ったばかりの人に話すようなことじゃないのに、何故か彼に聞いてもらうことは当たり前のような気がして、一度堰を切った言葉は止まるところを知らなかった。

 

数え切れない転校の不満や、両親の転勤への文句とか――

その度に新しく友達を作る大変さ、どれだけ自分が努力をしているか――

 

決して口に出したことのない、心の底に封じ込めて、見て見ぬフリをしてきた愚痴の数々。

途切れ途切れで声も小さくて、聞き取りづらい上に、聞いていて楽しいはずのない話。

 

それでも彼は、真剣な顔で最後まで聞いてくれた。

 

 

「ガキも大変だな……」

 

 

私が話に一区切りをつけると、彼はしみじみとそう言った。

何気ない一言なのに、何故か彼の言葉は私の耳に心地良かった。

 

 

「あいにくと、俺は頭が良い方じゃなくて……相談なんて乗ってやれる出来た人間じゃない……」

 

 

そう前置きして彼は新しいタバコを咥えなおす。

空を見上げる彼の横顔は相変わらずの仏頂面。でも、何だかとっても申し訳なさそうだった。

他人のことなのに、何でこんなにこの人は――

 

 

「在り来りな言葉で悪いが……いつかは良い事があるさ」

 

 

本当に在り来たりで、誰もが言いそうな薄っぺらい言葉。

それなのに彼が言うとこんなに心に染み入るのはなぜだろうと考えて、彼の寂しそうな様子に気がついた。

あぁ、彼も自分と同じなんだ――

生まれも境遇も全く違う、けれどもきっと彼も私と同じ思いをしてるのだろうと、何となく悟ってしまった。

そんな彼が自分に言い聞かせるように、信じ込ませるように言った言葉だから、同じ気持ちの私にも同じように感じられるのだ。

 

 

「はぁ……」

 

 

 

不意に、彼はつま先で何度か地面をたたいて、リズムを取り始めた。かと思うと、目を閉じて何かを小さく歌を口ずさむ。

 

The Beatles『Nowhere man』

 

その曲のタイトルと意味を知ったのはずっと後になってのことだった。

ただ、意味はわからなくても彼の錆を含んだ声で紡がれるその歌は心地よくて、何だか暖かい気持ちになれた。

いつのまにか、沈んでいた気持ちはどこかに消え去って、肩の荷が下りたような気分だった。

 

 

 

 

 

 

「さて、と」

 

 

歌い終えると彼は腕時計を確認して大きく伸びを一つ。

 

 

「そろそろ帰らないと面倒くさいことになりそうだ。……まぁ、せいぜい頑張れよ」

 

 

それだけ言って踵を返そうとする彼を私は慌てて引き止める。

一つだけ、言いたいことがあったから。

 

 

「あの……津田くん?」

 

「津田……くん?……まぁいいや。何だ、嬢ちゃん」

 

「私と、友達になってくれる?」

 

 

勇気を振り絞って言ってみた。

言ってから恥ずかしくなって顔をうつむけていると、しかしいくら待っても返事は帰ってこなかった。

そっと、伺うように目線を上げてみると、津田くんは困ったような顔をしてタバコの煙で輪っかを作っていた。

 

 

「あー……」

 

 

心の底から困ったように彼は空を仰ぐ。

やっぱりそんな反応だろう。知り合ってすぐの子供にそんな事を言われたらそれが正しい反応なのだろう。

でも彼は、

 

 

「そうだな……別にお前が俺をどう呼ぼうと勝手だが……こんなロクでもない奴意外にも友達は出来るだろうよ?」

 

「……」

 

 

思わず黙り込んでしまう。そんな私を見ながら、彼は優しく――本当に惚れ惚れするような暖かい微笑みを浮かべ、

 

 

「信じろ。いつかきっと、お前の周りにはそりゃ凄い仲間がいるってな。こんな奴じゃなくて、誇れるような友達がきっと出来る」

 

「ホントに?」

 

「あぁ、本当だ。さっきの歌にもあっただろ?『世界は君の思うがままに』ってな。ようは気のもちようさ」

 

 

そう言うと、彼は今度こそ踵を返して私に背中を向けた。

 

 

「まぁ――こっから先、お前と会うことはないだろうけどよ」

 

「?」

 

 

振り返りもしなければ、こっちに顔さえ向けずに彼は言う。

 

 

「また何かの拍子に会うことがあれば……そんな縁があったなら、その時は好きに呼んでくれて構わない」

 

「え?」

 

「“友達”――ってな」

 

 

――あばよ、嬢ちゃん

 

 

そう言って後ろ手に手を振って遠ざかっていく彼の姿。

ぱしゃり。カメラでその背中を切り取って写し取る。

パパからもらったカメラは一人で遊ぶのにいい趣味だった。でも、写真を撮るのはきっとこれが最後になるのだろう。

 

縁があったら――

 

彼はそう言ったけれど、いつかまた彼とは出会う予感がしていた。だからその時に、約束を忘れないように、そっとその背中を切り取ったカメラを撫でた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして月日は流れる。

 

 

 

 

 

普段から賑わいを見せる昼時の購買部。

でもその日に限ってその賑わい方はいつもと違った。聞いた話では店員さんに若い男の人が来ているらしい。

少しだけ興味がわいて向かってみたが、残念ながら私が着いた時には店は終わってしまっていた。

 

 

「あれ?」

 

 

諦めて教室に戻ろうと振り返った廊下の先に、ちらりと見えた男性の後ろ姿。

一瞬の出来事だったが、それは見覚えがあるものだった。

 

気がついた時には駆け出していた。

 

いろいろな場所を見て回って、やがてたどり着いたのは体育館の裏手。何でこんなところに来てしまったのか、自分でも分からない。

強いて言うなら、勘……だろうか。

 

 

『やってられっか!!』

 

 

不機嫌そうな声が聞こえた。

昔よりも低く、錆びた声。でも間違いなかった。

漂ってくる紫煙の匂い。それがまた懐かしい。

きっと彼は私のことなんて覚えていないだろう。でもそれでも良い。あの日のことは私がちゃんと覚えている。

私の初めての“友達”のこと。

 

 

「いーけないんだ」

 

 

そう言って私は彼の前に姿を見せて――

 




こんばんは、北屋です。

はい、今回は希と京助の出会いの話でした。
本編中で希が京助を”津田くん”、”友達”と呼ぶのはこういう事が昔あったからで……
もっとも、京助自身はそのことをちゃんと覚えていない&昔あった女の子が希と気付いていないという情けない状態なんですがorz

次回は1年生の誰かの短編になると思います。

ではでは


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fragment 3 猫と嘘

小学校からの帰り道。

今日は珍しいことに、幼馴染のかよちんと一緒じゃない。

今日は用事があったみたいで、一足先に帰っちゃって、いつも二人で帰る道がちょっぴり寂しいような……

 

そんな風に思いながら、公園の中を通り抜ける。

二人の時はめったに使わない家までの近道。かよちんと話すのが楽しくて、早く家に着いちゃうのがもったいないからだけど、一人だけの今日は別。

 

足音も軽やかに、走ってみれば頬を撫でる風が気持ち良い。

たまには――たまーになら、こんなのも悪くはない、かな?

 

 

「あれ?」

 

 

ふと道の横に置かれたダンボール箱が目にとまった。

何か白い紙が貼ってある、小さなダンボール箱。

 

何だろう?

 

気になって近づいてみると、ごそごそと小さく箱が動いた。

好奇心には勝てなくて、おっかなびっくり蓋をあけてみて……びっくり!

 

 

「あ!」

 

 

ダンボールの中から、小さくて可愛らしい顔が飛び出した。

驚いたように目を丸くしてこちらを見つめてくる子猫。

 

にゃあ

 

 

「にゃー!」

 

 

小さな鳴き声に思わず返してしまう。

か、可愛い!!

そっと頭を撫でて上げると、目を細めてゴロゴロと喉を鳴らして、凛の手をペロペロと舐めてきた。

くすぐったくて、自然と笑みがこぼれ落ちてくる。

 

ふと、猫ちゃんから視線を外すと、ダンボール箱に書かれた文字が目に入ってきた。

 

『ひろってください』

 

テレビとかでよく見るフレーズだけど、実際にこうして見るのは初めてだった。

どうやらこの子は捨て猫らしい。

 

にゃー

 

そういって見上げてくる猫ちゃんと目があった。

 

うちに連れて行ってあげる!

 

思わずそう言ってしまいそうになったところで、くしゅん!

はながムズムズしだしてくしゃみがでちゃった。

 

猫アレルギー……

 

こんなに猫ちゃんが大好きでたまらないのに、あんまり長く触れていられないのがもどかしい。

これくらい我慢――できなくはないけど、きっと家に連れて帰ったらお母さんに反対されるに決まってる。

 

どうしよう?

 

猫ちゃんの目が何かを期待しているように見えて心が痛むけど、凛に出来るのは……

 

 

「また、明日も来てあげる!」

 

 

ダンボール箱ごと猫ちゃんを木陰に移してそう言うことだけだった。

 

にゃー……

 

凛の言葉に納得したように聞こえたのは、きっと気のせい。

凛が来たところで何がどうなるってわけでもないけど……そうだ、明日はかよちんと一緒に来よう。

二人で考えれば何かいい方法が思いつくかもしれない!

 

 

 

 

 

「かーよーちーん!こっちこっち!はやくはやくー!」

 

「ま、待ってよ凛ちゃん!」

 

 

猫を見つけた翌日。

約束どおり、凛は今日も猫ちゃんのところにやってきた。昨日会ったばっかりだけど、あの子が元気にしているか、今日一日不安で仕方なくてそわそわしてた。

今日はかよちんと一緒だったけど、公園の入り口についたらいてもたってもいられなくなって、かよちんを置いて駆け出しちゃった。

 

 

「えっと、あの子は……」

 

 

きょろきょろと、辺りを見る。昨日、どこに動かしたんだっけ?

ここでもない、あそこでもないとひとしきり見渡して――あった!

 

……けど、あれ?

 

木の下にぽつんと置かれたダンボール箱、その中にちょこんと可愛らしくお座りをしている猫ちゃん。

そして、ダンボール箱の前に座り込む、見知らぬ人影。

真っ黒な服を着込んだ、男の人。ここから見える横顔は――なんだかとっても怖かった。

その人と猫ちゃんは微動だにせずにじっと目を合わせたまま。まるで睨み合いでもしているようだった。

 

と、急に男の人が手を動かした。ゆっくりと、猫ちゃんに右手を近づけていって……

 

 

「こらぁっ!!猫ちゃんをいじめるな!!」

 

 

思わずそう怒鳴って、気付いた時には凛は駆け出していた。

昔から考えるよりも先に体が動いちゃうのは良くない癖。

でも、そんなことより今は猫ちゃんのことだ。あんなに可愛いのに、苛めるなんて許せない!

そう思ってその人のところに駆け寄っていく。

 

 

「え?」

 

 

振り返った男の人と目があった。

よく見れば、近所の高校の制服を着た、凛よりもずっと年上の男の子だった。つり上がった目で真っ直ぐに見つめられたら体中からへなへなって力が抜けてしまうような気がした。

まさに蛇に睨まれた蛙……

 

でも、今は怖がってる場合じゃ、ない……猫ちゃんのためにも頑張らなきゃ!そう自分を勇気づけて、もう一度、

 

 

「猫ちゃんをいじめるな!!」

 

 

やっぱりその男の子は怖くて、目を閉じながら大きな声をだす。

きっと怒鳴られるんだろうな――そう思って身構えるけれど、いつまでたっても男の子は何もしてこなかった。

恐る恐る薄目を開けてみると、男の子は凛を見たまま、きょとんとした顔をしていた。

 

 

「えっと……」

 

 

にゃー

ごろごろ

 

差し出した手に、猫ちゃんが頭をこすりつけて、幸せそうに鳴いている。

その人はその様子と凛を見比べながら、困ったように微笑んだ。

 

 

 

 

 

「ごめんなさい!」

 

 

思い切り頭を下げて謝る。

どうやら凛ってば勘違いしてたみたい。はぁ……

しょんぼりする凛に、男の子は笑いながら、

 

 

「いや、いいよ。俺もこんな見た目だしな……」

 

 

つり目を気にしているのか、おどけるように自分のほっぺたをつねって、もう片方の空いた手で子猫の喉を撫でる。

最初に見たときは子猫を苛める悪い人だと思ったけど、そんなことはなくて――どこにでもいそうな普通のお兄さんだった。

 

 

「えっと……しかし、こんなところに可愛いらしい子が一人、何してんだ?」

 

「え?」

 

 

突然の言葉にびっくり。

可愛らしい……

今まであんまり言われたことのない言葉だった。

むしろ女の子っぽくないとか、男の子みたいって言われることが多くて、それはあまりにも新鮮だった。――っていうより、誰でも急にそんなこと言われたらびっくりするよね?

何て返していいのかわからなくて一人で固まっていたら、

 

 

「……あぁ、捨て猫か。可愛らしいやつめ」

 

 

ぼそりと呟いて、お兄さんは猫ちゃんをわしゃわしゃと撫で付ける。

あぁ、何だ、凛のことじゃなくて猫ちゃんのことか。

何だかちょっと――ちょっとだけ寂しいような不思議な気分。

 

 

「んで、お嬢ちゃんはどうしたよ?」

 

 

首をかしげながらお兄さんが凛に聞いてくる。

 

 

「え?あ、凛は昨日その子を見つけて――それで気になったんで、今日も来ようかと思って」

 

「そうか……お嬢ちゃんはこいつの友達ってわけか」

 

 

にゃ!

 

お兄さんの呟きに反応するみたいに猫ちゃんが短く鳴いた。

 

 

「ん?あぁ、なるほどな……」

 

にゃー!

 

 

「あー……」

 

 

にゃ

 

ぷっ!

お兄さんが声を出すと猫ちゃんが反応して、それがまるでお話をしているみたいで何だか可笑しくて、思わず吹き出しちゃった。

 

 

「……んで、お嬢ちゃんや。この子どうするんだ?」

 

 

思い出したようにお兄さんがひょいと顔をあげて尋ねてきた。

 

 

「さすがにずっとここに置いといてやるのも可愛そうだが……あいにく俺の家は飲食店でな。動物はちと……」

 

 

はぁ、って。心の底から残念そうにお兄さんはため息をついた。

 

 

「凛のうちも、ちょっと……」

 

 

気持ち的には今すぐにでも連れて帰りたいくらいなんだけど、そういうわけにも行かなくて。

本当にどうしよう?

お兄さんの言う通り、こんなところじゃ流石にかわいそう。

 

 

「うーん……仕方がない。ちっと飼ってくれそうな奴探してみるか」

 

「本当に!?」

 

「あぁ。だが嬢ちゃんや。悪いんだが嬢ちゃんの方でも友達を通じて探してみてくれないか?俺だけじゃ、ちっとばかしキツいし――早く見つかるに越したことはないから」

 

「うん!」

 

 

予想外の展開に、大きく頷く。

正直な話、凛とかよちんだけでどうにか出来るかちょっと不安だったんだけど、高校生のお兄さんが一緒っていうだけで、何だか上手くいくような気がしてきた。

 

 

「ありがとう、お――くしゅん、おじさん!」

 

 

あ……

急にはながムズムズしてきて出てきたくしゃみ。そのせいで噛んじゃった……

 

 

「お、おじさん!?」

 

 

しかもしっかり聞こえちゃったみたいで、お兄さんがショックを受けたように目を白黒してる。

や、やっちゃった!

 

 

「ち、違うの!ほら、あの、大人っぽいから、その!!」

 

 

慌ててフォローしようとするんだけど、慌てすぎちゃって本当のことが言えない。あぁ、どうしよう……

 

 

「……それは、俺が老けてるってことか?」

 

「うん!」

 

 

あー!!

違うの!そんな事言いたいわけじゃなくて!

でも時すでに遅し。

凛が思い切りうなずいたのを見るやいなや、お兄さんはがっくりとうなだれてしまった。なんだか見ているこっちの気が重くなってくるような落ち込み方――もしかして気にしてたのかな?

悪いことしちゃった……

 

 

「……ともかく、だ。それじゃ俺の方でも動いてみるけど、お嬢ちゃんも友達当たってみてくれよ?」

 

 

お兄さんは軽く咳払いすると、そう言って猫ちゃんの頭をもう一度軽く撫でる。

その仕草はとても優しくて、最初に見た時の怖さが嘘みたいだった。

 

 

『凛ちゃーん!どこにいるのー!?』

 

 

遠くからかよちんの声が聞こえてきてはっとする。

そういえば、この子をどうしようか相談しようと思ってかよちんを連れてきたんだった!

 

 

「ごめん、かよちん!こっちだよ!!」

 

 

大きく手を振ると、気がついたかよちんがこっちにかけてくるのが見える。

 

 

「ごめんね!!凛ってば、猫ちゃんのことで夢中になってた!」

 

「ううん、大丈夫だよ。……この子がその猫ちゃん?」

 

 

ダンボール箱から顔を出した猫ちゃんを見て、かよちんが目を輝かせる。

猫ちゃんもかよちんのことを気に入ったみたいで、差し出された指先をぺろりと舐めた。

 

 

「あ、おじさん!紹介するね、この子は……」

 

 

かよちんのことを紹介しようと後ろを振り向く。

でもそこに、さっきまで確かにいたはずのお兄さんの姿はなかった。

 

 

「あれ?」

 

「どうしたの、凛ちゃん?」

 

 

かよちんが首をかしげながら見上げてくる。

おかしいな、さっきまでここにいたはずなのに……

まさか幻だったのかな?

そう思った時、かさかさと木の葉っぱが音を立てる。公園の中を吹いた小さなそよ風は何だかタバコ臭いような気がして――でも、それが別に嫌でもなくて、変な気分だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俺がその日、公園に行ったのはただの偶然。

学校で嫌なことがあって、むしゃくしゃしながらの帰り道。無性にタバコが吸いたくなって喫煙所を探して入りこんだだけだった。

あいにくとその公園に喫煙所はなくて、適当にその辺で吸おうにも、ガキがやたら多くてそういうわけにもいきやしない。

仕方がないから煙の届かないところまで行こうと思って小道をそれたところまで。

 

 

「ん?」

 

 

hi-lightを取り出そうとポケットをあさっていたら、足元に転がるダンボール箱が目に付いた。

『ひろってください』

何だか見たことのあるような文字列だった。

これはまさかとは思うが……

 

 

「!」

 

 

予感的中。

目の前でゴソゴソと箱が動いたかと思うと、中から顔を出したのは一匹の子猫だった。

丸い目を見開いてじっと見つめてくるその姿が無性に可愛らしい。

 

 

「……」

 

 

にゃー

 

 

俺の顔を見つめながら、猫が小さく鳴いた。

何を訴えているのか分からないが、こうしてじっと見つめられていると――勘弁してくれ。

 

心の中で悪態を付きながらもそっと子猫の頭に手を伸ばす。

 

――昔から猫は大好きなんだ。

 

真ん丸な瞳に、何だか偉そうな表情。しなやかな動き。どれをとってもこれほどまでに愛くるしくて完璧な獣なんて、この世界広しといえど猫以外にいやしまい。

特に子猫ともなれば別格だ。

 

 

「こらぁっ!!猫ちゃんをいじめるな!!」

 

 

子猫に手を伸ばした途端、急に後ろから声を掛けられた。

 

 

「え?」

 

 

振り返ってみると、そこには女の子が一人。

俺よりも大分年下――小学生くらいか?目尻を釣り上げてこっちを睨みつけているが……

俺、何かしたか?

いや、猫をいじめるな……?

 

 

「猫ちゃんをいじめるな!!」

 

 

女の子は目をつぶってもう一度大きな声でそう言った。

あぁ、ようやく合点がいった――けど、いや、ちょっと待てよ……

 

 

「えっと……」

 

 

にゃー

ごろごろ

 

空気を読んだのか読んでないのか、差し出した俺の手に猫が頭をこすりつけて、幸せそうに鳴いている。

気まずい沈黙。なんつーか、笑うしかなかった。

 

 

 

 

 

「ごめんなさい!」

 

 

思い切り頭を下げて謝られた。

どうやら勘違いされてたみたいだが、誤解が解けて良かった。

っていうか、そんなに頭下げんでくれ。ガキをいじめてるみたいで座りがわるいじゃねぇか。

 

 

「いや、いいよ。俺もこんな見た目だしな……」

 

 

おどけるついでに自分の頬を引っ張る。祖父さん譲りのつり目の所為で良く女子供に怖がられちまう。別にそんなつもりはないんだが……

なおしょんぼりした様子が抜けない女の子を見ていたら、気まずくなってきて、仕方がないから話しかけて――みようとするんだが、あいにく生まれついての口下手。

何を言えば良いのか、会話の糸口が分からない。

こまったな……

 

 

「えっと……しかし、こんなところに可愛いらしい子が一人、何してんだ?」

 

 

何も思いつかないから、むしろ逆に思った通りのことを言ってみた。

でもすぐに失敗に気がつく。

いくらガキ相手でも、女の子にこんなこと言うのはやっぱり小っ恥ずかしい。

 

 

「え?」

 

 

ほらみろ、びっくりしてんじゃねぇか……

心の中で舌打ちを一つ、子猫の頭を撫でながら、

 

 

「……あぁ、捨て猫か。可愛らしいやつめ」

 

 

さっきのセリフは猫に宛てたもの。無理矢理に言葉を続けて前の言葉を濁す。

すまん、猫。後で煮干やるから許せ。

 

 

「んで、お嬢ちゃんはどうしたよ?」

 

 

今度は言葉をちゃんと選んで尋ねてみる。

この子もどうやらこの猫が目当てできたみたいだが……やっぱちっと気になるな

 

 

「え?あ、凛は昨日その子を見つけて――それで気になったんで、今日も来ようかと思って」

 

「そうか……お嬢ちゃんはこいつの友達ってわけか」

 

 

にゃ!

 

俺がつぶやくと、猫が返事をした。

 

 

「ん?あぁ、なるほどな……」

 

にゃー!

 

 

「あー……」

 

 

にゃ

 

 

うん。何言ってんのか分からねぇ。

さすがの俺でも猫の言葉は理解できないが、その可愛さだけは死ぬほど理解出来る。

今すぐ持ち帰って俺の家族に迎えたい気分になるが、そうもいかねぇんだよな……うち、飲食店だし。

なかなかに難儀なもんだ。

 

 

「……んで、お嬢ちゃんや。この子どうするんだ?」

 

 

自分にできないことを他人に求めるのは好きじゃないが――それでももしかしたらって願いをこめて尋ねてみる。

 

 

「さすがにずっとここに置いといてやるのも可愛そうだが……あいにく俺の家は飲食店でな。動物はちと……」

 

 

「凛のうちも、ちょっと……」

 

 

まぁ、そうだよな。世の中そんなに簡単にいくわきゃない。

何かを成したいなら――俺みたいなのが何かを願うなら相応に汗をかかにゃならんってわけか。

 

 

「うーん……仕方がない。ちっと飼ってくれそうな奴探してみるか」

 

「本当に!?」

 

「あぁ。だが嬢ちゃんや。悪いんだが嬢ちゃんの方でも友達を通じて探してみてくれないか?俺だけじゃ、ちっとばかしキツいし――早く見つかるに越したことはないから」

 

「うん!」

 

 

見ず知らずにガキ相手であんまり期待しているわけでもないが、文字通り今は猫の手でも借りたいところ。何かの足しにはなるだろうし、俺の負担が減るなら越したことはない。

なんて、そんな思惑があったんだがこの子の嬉しそうな顔を見たら――何故だか頑張らなきゃって気分になった。

ったく、俺らしくもねぇ。

 

 

「ありがとう、お――くしゅん、おじさん!」

 

 

感謝の言葉ってのは慣れないとやっぱ照れくさいもんだ。こう、背中のあたりがもぞもぞしてこそばゆい……

って、ん?

今なんつったよ?

 

 

「お、おじさん!?」

 

「ち、違うの!ほら、あの、大人っぽいから、その!!」

 

 

慌ててフォローしようとしてんのは分かるんだが、いや、それフォローになってないから……

 

 

「……それは、俺が老けてるってことか?」

 

「うん!」

 

 

がくり、と。

体から一気に力が抜ける。

……なんつーか、怒る気も起きなかった。そりゃ、そんな元気よく言い切られちゃね……

 

気を取り直して、

 

 

「……ともかく、だ。それじゃ俺の方でも動いてみるけど、お嬢ちゃんも友達当たってみてくれよ?」

 

 

女の子が頷いて何かを言おうとしたら、そのタイミングでどこからか別の女の子の声が聞こえた。

あぁ、どうやらこの子の友達らしい。

どれ、邪魔者は退散するかね。

そっと、何も言わずに踵を返して歩き出す。ちょっと歩いたところで何をしに道をはずれたのかを思い出して、タバコに火を点けた。

 

どれ、里親探しか……忙しくなりそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子猫とおじさん……じゃなかった、お兄さんと出会ってから1週間が過ぎた。

毎日のように猫ちゃんのところに通ってるけれど、あのお兄さんとはあれ以来会っていない。

でも凛が来るといつも必ず煮干とかキャットフードの袋、ミルクが入ったお皿が置いてあったりするから、お兄さんも暇を見つけてちょくちょく見には来てるみたい。

どうやら入れ違いになってるみたい。

困ったなぁ、猫ちゃんを拾ってくれる人見つかったかどうか聞きたいのに。

凛の方でも友達みんなに聞いて回ってみたけど、答えはやっぱりノーだった。思ったよりも難しいなぁ……

 

昨日もダメで、今日もダメ。一昨日もそのまた前もやっぱり誰に聞いてみてもダメ。

 

その度に猫ちゃんのところに報告にきて、今日もだめだったよって言うと、猫ちゃんはそんな事知らないから凛の手をペロペロって舐めるんだ。

大丈夫。心配しないで。

何だかそう言われてるみたいで心があったかくなってくる。

 

あーあ。今日も猫ちゃんに慰められるのか……いい加減、嬉しい報告をしてあげたいのに。

そんなことを思いながら、公園の小道をそれていく。

今日はお土産に給食の焼き魚をこっそり持ってきたんだ。

喜んでくれるかな?

 

いつもの木の下まで一直線にかけていくと、あれ?

見覚えのある人影――お兄さんが立っていた。だけどなんでだろう?あるはずのダンボール箱が見当たらなかった。

 

 

「おじさん!」

 

「……お嬢ちゃんか」

 

 

振り返ってこっちを向いたお兄さんは何だか元気がないように見えた。

“おじさん”からかうつもりでそう呼んだのにまるっきり反応がない。

 

 

「おじさん、猫ちゃんどうしたの?」

 

 

そう聞いてみたら、お兄さんははっと息を飲んで寂しそうな表情を浮かべた。

まさか――

 

 

「あの子なら……」

 

 

嫌な予感がする。

その先の言葉を聞きたくなかった。でもお兄さんは凛の考えなんてわからないから、その先をゆっくりと続けていく。

 

 

「あの子なら、飼ってくれるって人が見つかったんだ。急な話だったから、お嬢ちゃんには言う暇がなくて……本当にごめん」

 

 

がくり。

思わず転びそうになった。

何だ、もしかして猫ちゃんに悪いことがあったんじゃないかって心配しちゃったよ……

お兄さんもそんなもったいぶった言い方しなくていいのに。

 

でも、良かった。

新しい飼い主さん、いい人だといいな……ほんとうに、ほんとうに良かった

 

 

「お、おい、お嬢ちゃん?」

 

 

お兄さんが慌てたような声を出す。

 

あれれ?

何で目の前がかすむんだろう。

嬉しくて、良い事があったはずなのに、なんで涙がでてくるんだろう。おかしいな……なんで、こんなに寂しいんだろう?

おかしいって分かってるのに、涙が止まらない

 

 

「……お嬢ちゃん」

 

 

お兄さんが凛に視線を合わせるようにしゃがみこむ。

そして、ぽん。

お兄さんの手が凛の頭の上に乗せられた。大きくて、柔らかくて、とっても暖かい掌の感触が心地いい。

 

 

「ごめんな……寂しくなっちまったな……」

 

 

それだけ言って、お兄さんは凛の頭をそっと撫でた。

お兄さんの手の感触は暖かくて、優しくて――気がついたら凛の涙は止まってた。

 

 

「おじさん……」

 

「なんだ?」

 

「猫ちゃん、可愛がってもらえるかな?」

 

 

そう聞いたら、お兄さんもすごく寂しそうな顔を見せた。

何だか今にも泣きそうなのに、それを押し殺してるみたいな辛そうな顔。でもそれも一瞬のこと。

お兄さんは優しく微笑んで、

 

 

「あぁ。きっと幸せに暮らしてるよ」

 

 

その言葉だけで。

それだけで凛は何故だか安心できて、安心したらまた泣けてきちゃった。

結局お兄さんは凛が泣き止むまでずっと、ずっとそばにいてくれた。

 

 

 

 

 

結局、あのお兄さんにはあの時以来会うことはなくて、そのまま凛は今、高校生。

でも今でもあの時のことはふとした拍子に思い出すことがある。

猫ちゃんを見ると、あの時の子を思い出したり……当たり前だけど、あの子とはずっとあっていない。幸せで、元気でいてくれるかな?

 

そうそう、思い出すって言えばあの優しいお兄さんのこととかもこの頃思い出す機会が多くなった。……そう――例えば、

 

 

「おじさん!ジュースお代わり!!」

 

「誰がおじさんだ小娘!」

 

 

不機嫌そうなおじさんの横顔が、たまに何だか懐かしく感じることがある。

もしかして――

 

 

きっと、違うよね?

 

 

「どうした、嬢ちゃん。俺の顔に何かついてるのか?」

 

「え?ううん!なんでもないにゃ!」

 

 

そうだよね、きっと――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あの子猫に、そしてあの元気のいい女の子に出会ってから一週間が過ぎた。

時間を見つけては――ってか、時間を作っては毎日のように猫の顔を見にきてるが、どうやら入れ違いになっているようで、あの女の子とは出会っていない。

ちと弱ったな、この子の里親、見つかったかどうか聞きたいんだけど……

里親探しと張り切ってみたものの、今日の今日まで名乗りをあげてくれる奇特な奴はいなかった。

いつも訪れる度に悪い報告ばかりで、その度に猫には何故だかタイミングよく溜息をつかれる。

まぁ、次は頑張れよ。

そう言われているみたいで、何だか妙な気分になってくるが――

まぁ、やると言った手前、頑張らなきゃ俺じゃねぇな。

 

とはいえ、今日も今日とて悪い報告。最後の頼みの綱だった、クラスメートの小泉に頭を下げてみたんだが答えはノー。思ったより難儀なもんだ……

 

また今日もため息をつかれると思うと気が重い……そろそろいい報告をしてやりたいもんなんだがな。申し訳ないが、今日は奮発して買ってきた高級煮干でご機嫌伺いといくか。

 

 

 

公園の道をそれ、いつもの木の下に向かう。

 

 

「んあ?」

 

 

見慣れたダンボール箱、でもいつもと何かが違うような気がした。

何だ、この違和感……首をかしげたら、その正体に気がついた。いつもなら俺が近寄れば顔を出してくるあいつが、今日はいやに静かだった。

まさか……嫌な予感がする。

焦って震える手で、そっと箱の蓋を開ける。

 

しかし、そこにはあいつの姿はなかった。

予想した最悪の事態にはなってなくて少しだけ安心したが、すぐに不安が湧いてくる。

 

 

「マジかよ……おい、猫!」

 

 

こんなことなら名前をつけておけばよかった。

猫だのにゃーだのみーだの、適当なことを――しかし俺自身は必死で言いながらあいつの姿を探す。

公園の中を隅から隅までくまなく、何時間も探し続けて……結局あいつの姿は見つからなかった。

あんな小さな体でどこに行ったんだ……不安だけが募っていく。もしかしたら、誰か優しい人が拾ってくれたんじゃないかって――そんな都合の良い事を考えてみたりしたけれど、不安はなくなってはくれなかった。

 

一人呆然と立ち尽くしていると、遠くから誰かの足音が聞こえてきた。ぱたぱたと、慌ただしくてどこか可愛らしい駆け足の音。

それが誰のものか分かった時には、俺はそれが当然のことでもあるかのようにダンボール箱をたたんで見えないところに隠していた。

 

 

「おじさん!」

 

「……お嬢ちゃんか」

 

 

振り返ってみれば予想通り。

“おじさん”……からかうような調子だったが、あいにくと反応してやれる気分じゃなかった。

 

 

「おじさん、猫ちゃんどうしたの?」

 

 

何か気がついたのか――恐る恐るという風に女の子が尋ねた。

こういう時、何で子供はこんなに勘が良いのかねぇ……

 

 

「あの子なら……」

 

 

正直に見たままを話そうか――

そう思ったが、女の子の顔を見たらそんなことは出来なくなった。何かあの子にあったんじゃないかって、不安そうな顔。

 

 

「あの子なら、飼ってくれるって人が見つかったんだ。急な話だったから、お嬢ちゃんには言う暇がなくて……本当にごめん」

 

 

嘘を、ついた。

本当のことを言ったらこの子はきっと心配して悲しむだろう。

 

例えほんの一時でも安心させてやれるなら……このくらい、なんてことない。こんな小さな嘘、いくらだってついてやる。

 

 

「お、おい、お嬢ちゃん?」

 

 

なんて、一人格好つけていたら俺の目の前で女の子は泣き出してしまった。

弱ったな、泣かせるつもりなんてなかったのに……

 

 

「……お嬢ちゃん」

 

 

あいにく、小さな女の子を泣き止ませる方法なんて俺には分からない。

どうすれば良いのか分からず、一先ずしゃがみこんで目線を合わせ――気がついたら俺は彼女の頭に手のひらを置いていた。

 

 

「ごめんな……寂しくなっちまったな……」

 

 

それだけ言って、頭をそっと撫でる。

俺がもっと頭のいい奴だったら、もっと気の利いた嘘をついてやることもできたのかな?

つくづく不器用で、頭の悪い自分が嫌になってくる。

 

 

「おじさん……」

 

「なんだ?」

 

「猫ちゃん、可愛がってもらえるかな?」

 

 

その一言が、俺の胸を抉った。

 

 

「あぁ。きっと幸せに暮らしてるよ」

 

 

きっと――

 

きっと大丈夫。それは自分に言い聞かせるための一言だった。

 

ごめんな……

 

胸の中で小さく呟いた。

 




こんばんは、北屋です。
思いのほか凛ちゃんの描き方に難航しました……

まぁ、皆さまお気づきでしょうが、この短編シリーズはμ'sメンバーと主人公の過去の出会いを描いていくものです。かつてあったはずの絆の物語……なんてちょっとクサいですがw

次回は花陽ちゃんの短編です!
早めに更新しますので乞うご期待!


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fragment 4 兄の思い

「ただいまー」

 

 

家に帰ってくると、自然と言ってしまう一言。

お母さんもお父さんもまだお仕事に行っていて、誰もいないはずの家の中から返事は帰ってこない。そう分かっていてもつい言っちゃうのはなんでだろう。

 

 

「おーう、お帰り」

 

 

でも、今日は違った。

低くてどこか気怠げな声が一つ。ちょっとびっくりしながらも、聞きなれたその声と足元に乱暴に脱ぎ捨てられたボロボロのスニーカーを見て、お客さんが来ていることに気づいた。

自分の靴とお兄ちゃんの靴、それにお客さんの靴を揃えてリビングに向かうと、思った通りの人がソファーに座ってこっちを見ていた。

 

 

「こんにちは、妹ちゃん。邪魔してるぜー」

 

「こ、こんにちは……」

 

 

にかっと笑って手を振ってくるその人に、今日こそはちゃんと挨拶をしようと思うのだけど、やっぱり目の前にしてみると上手くいかない。

失礼だって分かってるのに、緊張して声が尻すぼみになって、最後の頃にはもごもご言ってるようにしか聞こえない。

そんな私の様子にも慣れたのか、その人は優しく微笑んで、

 

 

「ごめんな、いつも押しかけて」

 

「いえ、そんな……」

 

「すまないと思ってるなら、人の家に入り浸るのやめろよな」

 

 

キッチンとリビングの間の扉が開いて、お兄ちゃんが迷惑そうに呟きながら出てくる。

でも、それは本心からじゃないみたい。

迷惑そうなのにどこか嬉しそうにお兄ちゃんは麦茶の入ったグラスを差し出す。

 

 

「あぁ、サンキュ……まぁ、そう言うなって小泉よ。俺とお前の仲だろうに」

 

 

楽しそうにグラスを受け取って、きょーさんは一気に半分の麦茶を飲み干した。

 

 

「きょーさん、今日も来てるんだ」

 

 

きょーさん。

お兄ちゃんが高校に入ってから出来た友達。

最初に会った時は、目があった途端に泣きそうになったのを覚えてる。何か言ったら怒られるんじゃないかってくらいに機嫌が悪そうなつり上がった目。怖い人だと、そう思った。

でも、本当はそんなことなくて……話してみたら優しいお兄さんだった。

 

お兄ちゃんときょーさん。

私のお兄ちゃんはどっちかって言うと私と同じで少し地味で気弱な感じで、どっちかっていうとインドア派だけど、きょーさんはその正反対。

バンドでギターをやっていたり、休みの日になると家を飛び出してどこかに遊びに出て行ったり。

そんな二人なのに、こうしてよくきょーさんはお兄ちゃんと遊びにうちにくる。これもお兄ちゃんに聞いた話なんだけど、やっぱりお兄ちゃんに最初に話しかけて来てくれたのはきょーさん。

入学式の日、一人でいたお兄ちゃんに話しかけてきてくれたのが縁で、よく話をするようになって、気がついたら仲良くなっていたらしい。

性格も何もかも正反対なのに、不思議と馬があったんだって。

何だか私と凛ちゃんみたい。

 

 

「ってか、そのきょー“さん”なんて畏まらなくていいぜ。呼び捨てでも俺は構わないしな」

 

 

そう言ってきょーさんは麦茶を飲みながら私に笑いかけてくる。

こうしてたまに見せてくれるこの人の笑顔はとっても暖かくて――なんだか落ち着くのはなんだろう?

突然話を振られて反応できないでいる私に、きょーさんはにこにこと、期待したような目を向けてくる。

えっと、それじゃ……

 

 

「えっと……それじゃ、……きょーお兄さん?」

 

 

きょーさんがむせた。

 

 

「げほっ……っ、そう来たか……げほっけほっ」

 

「だ、大丈夫ですか?」

 

 

おろおろとする私に掌を向けて、大丈夫とジェスチャーをすると、きょーさんは呼吸を落ち着けて、

 

 

「いや、不意打ちでそれは反則だろ……」

 

「あ……ごめんなさい」

 

 

やっぱりこんな呼び方は失礼だったのかな?

 

でも、しゅんとする私を見て、きょーさんは慌てて手を振りながら、

 

 

「いや、謝らなくていい……てかその呼び方気に入った」

 

「え?」

 

「“お兄さん”か。悪くないな、いや、むしろ是非積極的にそう呼んでくれ」

 

「お兄さん?」

 

 

戸惑い勝ちに口にすると、きょーさん改めお兄さんは嬉しそうに無言のままこっちが見ていて恥ずかしくなるくらいのガッツポーズを決めていた。

……こんな嬉しそうなきょーさん、初めて見た。

 

 

「……おい」

 

「っ!いや、俺一人っ子だからさ、なんつーかこういう呼び方新鮮で……」

 

「ほーう……?」

 

 

何だかお兄ちゃんが睨むようにお兄さんを見ている。

どうしたんだろう?

 

 

「べ、別に他意はないって!」

 

「おれはまだ何もいってないんだが……?」

 

 

いつも不思議なんだけど、たまーにこうやって二人でよく分からない話題で喧嘩みたいになる。

お兄ちゃんに後で聞いてみても言葉を濁されてばっかりで、よく分からない。

 

 

「ま、まぁともかく。妹ちゃんや、久しぶりに三人でゲームでもするか?」

 

 

話題を変えるみたいにお兄さんがコントローラーを掲げて見せてきた。正直お兄ちゃんやお兄さんと一緒にゲームをするのは楽しいけれど、でも……

 

 

「ごめんなさい。来週テストで、勉強しなくちゃならなくて……」

 

「あー……それなら仕方ないな」

 

「あぁ、もうそんな時期か……」

 

 

しみじみと、残念そうに呟く二人だけど、お兄ちゃん達の高校も確か来週からテスト週間じゃなかったっけ?

……うん、きっと気のせいだよね。気のせいだよね?

 

 

「じゃあ、失礼します。……ゆっくりして言ってくださいね、お兄さん」

 

 

そう言って軽く会釈をして部屋を出る。

 

 

「妹ちゃん、やっぱ可愛いよな……」

 

「な!?てめ、やっぱり――!!妹は渡さんぞ!!?」

 

「だから違ッ……危ねっバカ、やめろ!!」

 

 

閉めた扉の向こうから何だか暴れるような音が聞こえてきたけど、これもきっと気のせい……なのかな?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中学生の頃のお兄ちゃんは今からは想像できないくらいに暗かった。

学校から帰ってくると、何も言わずに自分の部屋に入ったままで、私と話すことも少なかった。

部活にも入らず、友達と遊ぶこともなければ友達を家に呼ぶこともない。いつも辛そうな顔をして学校に行って、たまに擦り傷やあざをつけて、泣きそうな顔で帰ってくるばかり。

私やお母さん、お父さんが聞いても何も言わない。

 

何となく気づいてた。

 

お兄ちゃんが学校でクラスの人と馴染めていないこと。

苛め……なんていうほど大げさなものじゃなかったみたいだけど、毎日が楽しくなさそうで、まるで目の前が全部灰色に見えているんじゃないかってくらいにひどい目をしてた。

 

そんなお兄ちゃんを見ているのはとっても辛くて、何とかしてあげたいのに、私にはなんにも出来なかった。

何か言ってあげることもできなくて、そんな自分が余計に辛くて――

 

お兄ちゃんが中学校を卒業した時はすごくほっとしたのを覚えてる。

でも、私の安心とは違って、お兄ちゃんは全然楽しそうな顔をしていなかった。

 

違うよ、お兄ちゃん。

新しく始まる高校での生活はきっと今までとは違うんだって、きっといろんな友達が出来て、きっと楽しい日々になるんだって、そう言ってあげたかった。

 

入学式から数えて、楽しくなさそうな顔で学校に行って帰ってくる日が何日経った頃だろう。

あの人が初めてうちに来た時のことは今でも覚えてる。

 

私が学校から帰ったら、知らない男の子がリビングのソファーにふんぞり返って漫画を読んでて、凄くびっくりした。

 

つり上がった目の、怖い顔をした男の子。

 

すごく失礼なんだけど、怖くてどうしたら良いのか分からずに固まってた私に、最初に話しかけてくれたのはきょーさんが先だった。

逃げ出したい気分でいっぱいだった私に、きょーさんは目尻をこれでもかってくらいに下げて、

 

 

「こんにちは。お邪魔してます」

 

 

短い挨拶。

なのにその声はどこまでも優しくて、それを聞いただけなのに不思議と体から緊張が取れるように感じて不思議だった。

後からお兄ちゃんに聞いたんだけど、きょーさんも私にびっくりしてたみたいで、どうしたら良いのか分からなくて怖かったんだって。それを聞いたら何だか笑えてきちゃった。

 

それからきょーさんはうちによく遊びにくるようになった。お兄ちゃんと一緒にずっと漫画を読んでいたり、二人でゲームをやってたり、たまに私も一緒にテレビゲームに熱中したり。

 

静かに漫画を読んでたと思ったら、いきなり大笑いしだしたり無言で涙を流したりするきょーさんには本当に驚いた。

ゲームでお兄ちゃん――だけじゃなくて私にも負けて、本気で悔しがってるきょーさんには思わず笑っちゃった。

きょーさんがしてくれる、嘘かホントか分からない話は面白くて、いつもワクワクしながら聞かせてもらった。

 

いつの間にかお兄ちゃんも辛そうな顔をしなくなってた。

 

きっとそれはきょーさんのおかげ……なのかな?

私よりも5つも年上。見かけは――今でもちょっと怖いけど、とっても優しくて、どこかかわいいようなところがあるお兄さんが、恋とかそういう意味じゃないけど、私は好きだった。

お兄ちゃんとお兄さん。兄弟が増えたみたいでなんだか嬉しい。

 

これからもずっと、お兄ちゃんときょーさんは仲の良い友達。

 

そう思ってた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それはある日の放課後。

学校が5時限で終わって、友達と遊ぶ予定もなかったから、お母さんに頼まれて、私はお買い物。

今日の晩御飯はハンバーグ。

今日もきょーさんが来るのなら、せっかくだから晩御飯を食べてってもらおうか、なんて。私が家を出るとき、お母さんは笑いながら言ってた。

 

ひき肉に卵、小麦粉に野菜。いつもより重い買い物袋を持って帰り道を急ぐ。

今日の晩御飯は私も手伝うつもり。お兄さんは美味しいって言ってくれるかな?

まだお兄さんがうちに来るって決まったわけでもないのに、そんな勝手なことを考えてたら、自然と足取りも軽くなってくる。私が家に帰る頃にはお兄ちゃん達も帰ってきてるはず。

 

家まで後もう少し――

 

あと5分もしないうちに家に着くってところで、遠くにいくつかの人影が見えた。

あれは……お兄ちゃん?

 

兄妹だからかな?遠目でもお兄ちゃんの姿がはっきり分かった。

でもその横にいるのは、お兄さんじゃない。

何だ、今日はお兄さん来ないんだ……ちょっとがっかりしながらお兄ちゃんに駆け寄ろうとして、気がついた。

 

何だか様子がおかしかった。

二人の男の子が何かを問い詰めるかのようにお兄ちゃんを塀の方に追いやって……いきなり殴った。

 

 

「お兄ちゃん!」

 

 

殴られた衝撃で倒れたお兄ちゃんに駆け寄ると、男の子たちが私の方に目を向ける。

お兄ちゃんが来るな、って顔をしてたけどもう遅い。

二人は私とお兄ちゃんを見比べて、にやりと笑った。

とっても――怖くて嫌な笑い方。

それだけで足がすくむ。

逃げたいのに足さえ動いてくれない……

 

 

「さがってろ!」

 

 

いきなり、私の横を強い風が吹き抜けた。

私をかばうように飛び出した、大きな背中。

 

 

そこから先のことはあんまり覚えてない。

ただ、暴れるお兄さんの顔が、心の底から楽しそうで――

私の知ってるお兄さんと、そこにいる人が別人みたいで……お兄さんが別人になっちゃったみたいで、怖くて、怖くてたまらなかった。

 

 

「大丈夫か?」

 

 

まだうずくまったままのお兄ちゃんに、お兄さんが手を差し出す。

 

 

「あぁ……」

 

 

お兄さんの手を借りて立ち上がって、お兄ちゃんはふと私の方を見た。

その時の私は驚きと不安が混じった顔をしてた――つもりだった。でも、本当は……心のそこではちょっとだけ、こんなお兄ちゃんがカッコ悪いって思ってた。

お兄ちゃんにはそれが分かっちゃったみたい。

 

――情けないところを見られた

 

そんな風に思ってたんだと思う。

 

――違うの!

 

そう言おうとして、でもまた言葉が詰まって言えなくて。

 

そんな私たちを、お兄さんははっとしたような顔で見比べた。

 

 

「違っ……」

 

 

私が言う前に、お兄さんが動いていた。

 

 

「ちっ!」

 

 

いきなり、何かを決めたような顔でお兄ちゃんを殴りつけた。

 

 

「っ……何すんだよ!?」

 

「はっ……情けねぇ野郎だ。妹の前でも情けねぇ格好しやがって。見下げ果てたぜ」

 

 

何が起きたのかわからないでいるお兄ちゃんを、一方的に殴りつける。

いつものつり目をこれ以上ないくらいにつり上げて、まるで漫画の鬼みたいな顔で。

 

 

「やめろっ!京助!」

 

「前々から、俺は!お前の!そういうとこが気に食わなかったんだよ!」

 

 

鈍い音。

思わず目をつぶってしまう。

こんなお兄さん、始めて見た。なんであのお兄さんがこんなことをするのかわからなくて、優しいお兄さんがどこか遠くに行ってしまったみたい。

 

 

「やり返して見ろよ、タマ無し野郎!」

 

「何で……!」

 

「やめて!」

 

 

たまらなくなって、二人の間に割って入る。

いつもの二人に――優しいお兄さんに戻って欲しかった。

 

 

「どけ、小娘!」

 

 

どん、と。

お兄さんが私を突き飛ばした。

尻餅をついた私は、何が起こったのか分からなかった。とっさについた手が痛くて、それよりも何であのお兄さんがって思ったら心が痛くて、

 

 

「お前っ!」

 

 

思えば、お兄ちゃんが本気で怒るところを見たのはそれが初めてだった。

 

 

「お兄ちゃん!やめて!」

 

 

殴り飛ばされて派手に転んだきょーさんと、荒い息を吐きながら睨みつけるお兄ちゃん。

本当に何でこんなことになっちゃったんだろう?

友達のはずの二人なのに、仲が良かったはずの二人なのに。そう思うと、涙が自然と溢れてくる。

 

 

「覚えてろ、小泉ッ!!」

 

 

それだけ言って、きょーさんは駆け出した。

さっきまであんなに広かった背中が、ひどく小さくしぼんで見えた。

 

その背中を見送りながら呆然としていると、ふと気づいたようにお兄ちゃんが私の涙をぬぐってくれた。

 

 

「帰ろうか……」

 

 

小さく、お兄ちゃんがそう呟いた。

 

 

 

 

 

 

あの日を境に、私もお兄ちゃんも、きょーさんに会うことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

それからずっと後でお兄ちゃんに聞いた話。

 

あの時、お兄ちゃんに絡んでいたのは中学生の時の同級生で、これまでも何度かちょっかいをかけられていて、その度にきょーさんが追い払ってくれていたって。

 

そしてあの時、きょーさんは退学の通知を受けていたんだって――

 

それをお兄ちゃんが知ったのは、あれからしばらくしてのことだったらしい。お別れの挨拶を言う暇もなく、きょーさんは学校をやめて、街を飛び出した。

 

 

だからあの時のことは、きょーさんなりのお別れだった。

 

多分、自分がいなくなっても、お兄ちゃんがしっかりやれるように自信をつけようとしたんだと思う。

 

そして――

 

お兄ちゃんを、私にとって『情けないお兄ちゃん』にしないために。

お兄ちゃんと私が、きょーさんとのお別れが悲しくならないように。

 

そんな思いできょーさんは……お兄さんはあんなことをして、嫌な奴になりきろうとしたんだって。

 

 

「それなのにこうやって、俺にバレてるんだから、世話ないよな……」

 

 

お兄ちゃんはそう言って寂しそうに笑った。

 

 

お兄さん。

乱暴で、不器用で、優しいお兄さん。

 

あなたは今、どこで何をしていますか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あれから何年も経って、私は高校生。

今日は、大学に通うために家を出て一人暮らしをしてる兄ちゃんが久しぶりに帰ってくるんだって。

友達の凛ちゃんのこととか、学校の先輩達の話、それに私がスクールアイドルを始めたこと。

話したいことがいっぱいある。

会ったら最初は何から話そうかな?

 

 

チャイムの音が聞こえた。

思ってたより早かったみたい。

 

 

「お帰りなさい――」

 

 

玄関に立つのは二人。

お兄ちゃんと、最近になって知り合ったある人。

 

 

 

 

 

もうおぼろげになっていた記憶がだんだんと鮮明になってくる。

 

そうだ、何で忘れてたんだろう。

 

あのお兄さんの名前は、きょー……

 




こんばんは、北屋です。

過去シリーズ、今回は花陽ちゃん編、今回はちょっと趣向を変えてみました。

実は絵里ちゃん編から始まって、その度に主人公が年をくっていくこと、気づいてる人はどれくらいいるんでしょうかw

次回は西木野編――ですが、恐らく真姫ちゃんはほとんどでません……

では、次回も頑張っていきます!


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fragment 5 紫煙にのせて

昼休み。

午前中の仕事から解放されてほっと一息をつき、コーヒーを淹れる。

立ち上る香ばしい香りが心地よくて、思わず溜息が出てしまった。

至福のひと時。

僅かの気の緩みも許されない、大切な仕事だからこそ、休める時にはゆっくりと休むべき……そう考えながら、彼はコーヒーに口をつけ、

 

 

「先生!大変です!」

 

「ぶっ!」

 

 

いきなりの自分を呼ぶ声にコーヒーを吹いてしまった。

羽織っている白衣に飛沫が飛んでいないことを確認して振り返れば、大分慌てた様子の看護師の姿が彼の目に飛び込んできた。

 

 

「どうしたんです?」

 

「302号室の患者さんが――!」

 

 

――まさか容態が急変したのか!?

 

……しかし、その考えに微かな引っ掛かりを覚えた。

 

302号室の患者――

 

さっきとは別の意味で嫌な予感が脳裏をちらつく。

 

 

「患者さんが、いないんです!」

 

「津田ぁぁぁぁあああ!!」

 

 

思わず患者の名前を叫んでいた。

何度目になるのか分からない報告にうんざりしながらも、彼――西木野医師は白衣を翻して部屋を飛び出す……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぱちり、と。

小気味良い音が病室に響いた。

 

 

「8一龍!どうだ!?」

 

「7八龍……必死じゃな」

 

「な!!待て待て、待ってくれ!」

 

「ダメ。待った無し」

 

 

清潔なベッドの上、老人と向かい合って将棋を指すのは一人の少年だった。

不健康そうな青白い顔色をさらに青くし両手を合わせて拝むも、その甲斐なく彼の頼みは却下されてしまう。

 

 

「ほい。詰み」

 

「あぁぁぁぁああ!!」

 

 

少年の悲鳴が室内に響いた。

そんな様子にもなれているのか、老人はにっこり笑う。

 

 

「これで儂の12連勝か。いい暇つぶしになったよ」

 

「うぎぎぎぎ……何で勝てないんだ……」

 

「中飛車で速攻をしかけるその戦い方は面白いがのぅ……いくらなんでも後先考えなさすぎじゃろうて。真っ直ぐ過ぎるわい」

 

 

まだまだ若いの。

そう言って老人はからからと声を上げて笑い、対して少年はむすっとした顔で、

 

 

「次は勝つ!」

 

「……そのセリフ、何度目だ?」

 

 

呆れたようにため息を一つ。

そのタイミングを見計らったかのように、急に病室のドアが勢いよく開いた。

 

 

「津田ぁぁぁああああ!!」

 

「げっ!?院長センセイ!!?」

 

 

およそ医療従事者にあるまじき形相を浮かべて、西木野医師は少年の方に向かうと、徐に彼の手をねじり上げた。

 

 

「あだだだだ!ちょっ!何すんだよ!?」

 

「何するんだはこっちのセリフだ!この不良患者、これで何度目だ!?勝手に病室を抜け出すなと、何回言ったら分かるんだ!?」

 

「いや、まだ……何回目だっけか?センセイ?」

 

「知るか!いい加減にしろ、津田京助!!」

 

 

ごつん、と。

いい音を立てて少年――津田京助の脳天に拳骨が落とされた。

 

 

「いてぇっ!」

 

「さっさと自分のベッドに戻れ!まったく点滴まではずして、君は……」

 

 

その騒ぎを見ながら、病室にいた患者たちが皆一様にクスクスと笑っていた。

何度目になるか分からない、西木野医師とこの少年の掛け合いは最早この病院の名物と貸しているのだった。

 

 

「分かった!分かったから!せめて部屋に戻る前に一服させてくれって!」

 

「院内禁煙だ!それに君はまだ未成年だろうが!!」

 

 

もう一度拳骨が京助の頭を直撃した。

頭を押さえて悶える京助を見て、すっきりしたように西木野医師は、ふん、と鼻を鳴らす。

普段は理知的で温厚、威厳のある院長として通っている西木野医師であるが、この時の彼はおよそそう言った評判からは程遠い有様であった。

 

 

「まぁまぁ、先生。そんなに怒んないでやってくださいよ」

 

 

先ほどまで京助と将棋を指していた老人に声をかけられて、西木野医師はバツが悪そうにメガネを直し、こほん、と咳払いを一つ。

 

 

「いや、キツく言わないと彼は聞きませんよ。……それにあなたがたも、彼が病室を抜け出してたらナースコールで教えてくださいよ……」

 

 

からからと老人が笑うのを見て、西木野医師は溜息を一つ。不良患者の襟首を掴んで無理やりお辞儀をさせ、

 

 

「では、お騒がせして申し訳ありませんでした」

 

 

同じく自分も病室の人々に向かって一礼し、少年を引っ張って彼を自分の病室まで運んでいく。

これもこの少年が入院してからというもの何回繰り返されたか分からない光景だった。

 

 

「なぁセンセイ、他の患者さんと俺とで扱い大分違わないか?」

 

「うるさい!元はと言えば君のせいだろうが!」

 

 

よほど不満が溜まっていたのか、声を荒げる。驚いて振り向いた看護師に、慌てて取り繕うような笑みを見せて、本日何度目か分からないため息をついた。

思えばこの少年が運び込まれて以来、気が休まる日がなかった。横目で見てみれば、心労の種である少年はどこ吹く風、口笛など吹いていて余計にイライラが募ってくる。

 

津田京助

 

ある日、急患で運ばれてきた少年。

喧嘩か何かの末に刺され、西木野医師が自ら緊急手術を行った患者だった。

全治3ヶ月の絶対安静にしていなければならない大怪我で、通常なら歩くことはおろか立ち上がることさえ辛いはずだというのに――だというのに、彼は勝手に部屋を抜け出しては勝手に帰ろうとしたり、今日のように他の病室に遊び行ってみたりと問題行動ばかり起こしているのだ。

いくらなんでもデタラメすぎる。

 

最初は他の患者と接するように丁寧な対応を心がけていた西木野医師だったが、脱走が3回を越したあたりで、遂に堪忍袋の緒が切れて現在に至る。

 

 

「ほら。もう抜け出すんじゃないぞ?こんなことばかりしていても退院時期が伸びるだけだ」

 

 

京助を布団に押し込んで、点滴針を刺しながら言ってみたが、言ったところでこの無茶苦茶な少年にどれほどの効果があるのかは分からなかった。

 

 

「へいへい。しばらくは――そうだな、寝て起きるくらいまではそうさせてもらうぜ」

 

 

面白い事を言ってやったとでも言うような彼のドヤ顔を見たら、無性に腹が立った。医師として、大人として、いや人としてどうかと思ったが、そんな理性のブレーキが働くよりも早く、

 

 

「づぁっ!」

 

 

またしても拳骨が落ちた。

会心の一撃。効果は抜群。

くらった本人は頭を押さえてプルプルしながら苦悶の呻きを漏らす。

 

 

「おい、あんた、それでも医者かよ……重傷の患者になんてことしやがる」

 

「重傷なら重傷らしくおとなしくしてろ」

 

言いながら、ふと、こんなことをしていいのか……と、自分の今までのこの少年への仕打ちを思い出して不安がよぎるが、すぐにそんな迷いはどこかへ飛んでいった。

気にしたら負けだ。

 

 

「とにかく安静にしていたまえ。まだ若いんだから、退院したらやりたいことだってたくさんあるだろう?」

 

 

大分落ち着いてきたのか、平静の調子を取り戻した西木野医師は、ちょっとした世間話のつもりでそう尋ねてみる。

 

 

「   」

 

「え?」

 

 

てっきりまたしても頭の悪い軽口が返ってくるとばかり思っていた。

ぼそり、と。

京助が呟いたセリフはよく聞き取れなかった。

 

ただ、ちらりと見えた横顔が――

 

 

「いや、なんでもない。まぁ、そうだな……いつまでもこんなとこで寝てても仕方ないし、ちっとは脱走回数減らすよ」

 

「待て、減らすんじゃなくてもうするなと私は言っているんだ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「津田ぁぁああああ!!」

 

「げッ!?えぇい、逃げるが勝ちだ!!」

 

「待て!!院内を走るな!!」

 

 

今日も今日とて西木野病院は騒がしい。

日課のごとく不良患者の襟首を掴んで病室に連れ戻して院長室に戻ると、西木野医師は盛大なため息をついた。

この日々に慣れてしまった自分が何とも情けなくて、さらにため息をつきたくなってくる。

娘が出来てからはきっぱり辞めたはずのタバコが何故だか無性に欲しくなった。

 

 

「お疲れ様。……大分疲れてるようね」

 

 

そんな声と共に部屋に入って来た彼女――自分の妻に目を向けて、彼は力なく微笑んだ。

 

 

「どうぞ」

 

「あぁ、ありがとう」

 

 

そっとデスクの上に置かれたカップを手にとってコーヒーに口をつける。疲れた体に優しい苦さが染み渡るような気がして心地良かった。

 

 

「大変ね、津田くん――だったかしら?面白い子みたいじゃない」

 

「何が面白いものか。あんな問題児、当院始まって以来だ。おかげで私がどれほど苦労していることか!」

 

 

間髪いれずに飛び出した夫の苦言に彼女は目を丸くして、そしてすぐにクスクスと笑い出す。

 

 

「どうした?」

 

「いえ……だって、そんなに楽しそうなあなた、久しぶりに見るんですもの」

 

 

妻の言葉に、彼は耳を疑った。

コーヒーを片手に怪訝な顔で、

 

 

「楽しそう?私が?」

 

「えぇ。最近忙しかったせいかしら?仏頂面ばっかりしてたのに、津田くんが入院してから大分表情が柔らかくなったの、気づいてる?」

 

「そんなまさか――」

 

「最近パパの表情が明るくなった、何かあったの?……って真姫ちゃんも言ってたわよ?」

 

「……」

 

 

話に上った娘のことを考えて、彼は眉間に深い皺を浮かべた。

そういえば、最近娘ときちんと話したのはいつ以来だっただろうか?忙しい日々を贈る中で、それさえも思い出せなくなっていた。

 

 

「大変なのは分かるけど、たまには息抜きも必要なんじゃない?」

 

 

そう言って部屋を出ていく彼女の背中を無言で見送って、西木野医師はぼそりと、

 

 

「……そんなに暗い顔をしていたか?」

 

 

眉間の皺を深めてそう呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

津田京助の手術が終わって丁度一週間が経った頃。西木野医師が彼の二十数度目の脱走を未遂に押さえた日のことだった。

 

 

「はい。では退院おめでとうございます」

 

 

いつぞや京助と将棋に興じていた老人は、西木野医師にそう告げられて心底嬉しそうな笑顔を浮かべた。

それを見て、彼も顔を綻ばせる。

患者のこの表情を見る時こそが、自分のしていることにやりがいを感じる瞬間だった。

 

 

「ありがとうございました、先生。何とお礼を申していいか……」

 

「いえいえ、これが仕事ですからお気になさらず」

 

 

老人と握手を交わして、西木野医師はここのところの疲れが吹き飛ぶのを感じた。

今日は平和だ……そう思ったとき、不意に老人が、

 

 

「ところで先生。津田の小僧はいつごろ退院するんですかね?」

 

「え?津田……さんですか」

 

 

老人の口から、胃痛の種の名前が出てきて驚いてしまう。

せっかくの穏やかな気分が一気に冷めていくのを感じてしまう。

 

 

「……そうですね、まだ大分かかりそうですよ」

 

「そうですか……」

 

 

老人は少しだけ寂しそうな顔をして、

 

 

「いや、あの少年のおかげで退屈せずに済みました。私も、他の皆も久々に楽しい日々でしたよ」

 

 

そう言って、彼はからからと気持ちの良い笑い声をあげた。

 

西木野医師はそれを聞いて、顔を抑えながら――渋い顔で頷いた。

 

彼も気づいていた。あの少年が、他の患者たちにどんな影響を与えていたか。

ある時は長期入院中の子供を笑わせるために無茶をやり。

またある時は見舞いの少ない患者と談笑をし。

 

彼のやっていることは決して褒められたことではないというのに、憎めないのはなぜなのか。

 

 

「先生もそうでしょう?」

 

 

認めたくはなかったし、認めてはいけないことだったが――正直なところ西木野医師も彼が嫌いではなかった。

 

 

「では、先生。津田の小僧をよろしくお願い致します。退院したら将棋をする約束なんですよ」

 

 

そう言って、老人は楽しそうな笑みを浮かべて診察室を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……今、何て言った?」

 

 

それは津田京助の病室の前を通りかかった時のことだった。

ふと聞こえた声が気になって、覗いてみれば彼のベッドの横には4人の少年の姿がある。

面会謝絶も無事に解けた今日、見舞いに友人が来たのかと思ったがいささか様子がおかしかった。

小柄な少年が親の敵でも見るような目で彼を睨みつけていた。

 

 

「……今何て言ったかって聞いてんだよ!」

 

「よせ、堀!」

 

 

京助に掴みかかろうとする少年を、二人が抑える。

明らかに剣呑な雰囲気だった。

 

 

「なんつったてめぇ!!あ?何がやめたいだよ!?」

 

「よせって!」

 

 

取り押さえられてもなお少年は京助を問い詰める。

だが、京助はそれに答えずうつむいたままで――今までの彼からは考えられないような思いつめた顔をしていた。

 

 

「――そこまでにしよう。ほら、病院の人も困ってる」

 

 

壁に背中を預けて今まで黙っていた長身の少年がそう言って、西木野医師の方にちらりと視線を送った。

 

 

「さすがの京助も、大分こたえてるみたいだね……らしくもない。まぁ、疲れてるみたいだし、少しそっとしてあげよう」

 

 

彼がそう言うと、渋々掴みかかろうとしていた少年は体から力を抜いた。だが、まだ納得はしていないのか、京助に対して憎しみを込めた目を向けていた。

その肩にぽん、と手を置いて、

 

 

「さ。帰ろう。……お騒がせしました」

 

 

長身の少年は爽やかな笑みとともに西木野医師に一礼すると、彼の横をすり抜けていく。

それに続いて少年たち病室を去っていき、最後には京助だけが残されていた。

 

 

「……」

 

 

何があったのかと問いかけたかった。

だが、京助の様子がそれを許してはくれなかった。

何も出来ず、居た堪れなくなった西木野医師はゆっくりと白衣を翻して……その場を逃げるように後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ……」

 

 

書類整理が終わって顔を上げてみれば、時刻は夜8時をゆうに回っていた。

今日は早めに帰って、久々に娘と話すつもりだったのに、どうしてこうも上手くいかないものかと苦笑を浮かべる。

 

 

 

「はい?」

 

 

荷物をカバンに詰め込んだ時、不意にドアをノックする音が聞こえた。

当直の看護師だろうか?まさか、何かあったのか?

 

 

「おっす」

 

「津田!?」

 

 

しかし、扉を開いて出てきたのは一人の少年だった。

今までに何度も問題行動を起こしてきた彼だが、こうして彼が自分のところを訪ねてきたのは初めてのことで、呆気にとられてしまう。

 

 

「いや、急だけど退院しようと思ってな。今まで世話になったから、西木野先生にはちゃんと挨拶しようと思ってさ」

 

 

どこか捨鉢な笑顔で彼は言う。

穏やかな声音で、まるで友達の家から帰る時のように自然な調子だった。

 

 

「じゃ、お世話になりました」

 

 

ぺこり、と。

深くお辞儀をして部屋を後にする少年を見送って――

 

 

「って!待て、津田!!」

 

 

すぐさま正気に戻り、彼の後を追ってドアを開く。

だが既にそこに少年の姿はなかった。遠くから聞こえる駆け足の音を便りに、西木野医師も駆け出していた。

 

――何かが違う

 

彼が脱走することは今までに数え切れないほどあった。そのたびに追いかけて、拳骨をくれてやっては病室に連れ戻して……

だが、今回ばかりはいつもと違う気がした。

 

先ほどの少年の顔が脳裏をちらつく。

疲れきった微笑み。いつもの小憎たらしい顔ではなかった。

 

このままでは取り返しのつかないことになる――そんな予感がした。

 

階段を駆け下り、正面玄関に急ぐ。裏口や職員用出入り口はあっても、彼が行くとしたらそこしかない。

短い付き合いだが確証があった。

 

 

「おい!」

 

 

玄関付近で京助はうずくまっていた。

苦悶の表情で脇腹を――傷を抑えてうずくまる少年の姿に背筋が冷える思いがした。

 

彼の傷は冗談では済まないくらいに深い。

 

 

「君、やっぱり無理してたんだな!?」

 

 

京助の横に片膝をついて問いかける。

本当ならば立っていることすら信じられないような重傷。こうして出歩こうものならば文字通り死ぬほどの激痛に苛まれることは想像に難くない。

 

 

「何であんなことばかり……待ってろ、今他に誰か呼んでくる」

 

 

彼を運ぶための応援を呼ぼうと立ち上がった西木野医師の白衣の裾を、京助の手が握り締めて止めた。

震える手に、しかし確かな力をいれて、彼は呟く。

 

 

「……らさ」

 

「何?」

 

「おとなしく、部屋に戻るからさ。頼むから、一服だけさせてくれ。……後生だ、先生」

 

 

思えば彼がこうして人に何かを頼む姿を見るのは初めてだったかもしれない。

そのあまりにも弱々しい姿に、西木野医師は息を飲んだ。

普段の言動の所為で勘違いしていた。

彼は――彼はどこにでもいる普通の、ただ心と体に深い傷を負った少年なのだ。

 

 

 

 

 

 

「ふぅ……あぁー!生き返った!やっぱシャバの空気は違うぜ」

 

 

西木野総合病院――の外。

玄関から少し離れたところに作られた申し訳程度の喫煙所に彼らはいた。

 

本当ならばこんなことは許されない。そう知っていても、先ほどの彼を見てほうってはおけなかった。

 

 

「いいか?特別だぞ。その一本を吸いきったら病室に戻れ」

 

「わかってるって、センセイ。流石の俺でも、命の恩人の言うことを無下にはしねぇよ」

 

「……どの口がそれを言う?」

 

 

京助は声を上げて笑いながら、ゴールデンバッドの灰を灰皿に落とした。

呆れながら空を仰ぐ。もうすっかり暗くなっているというのに、東京の夜空に星は見えなかった。

街頭の光にぼんやりと照らされた紫煙だけが空に溶けていくのが見えるばかりだった。

 

 

「……」

 

「ん?何ですか、センセイ?」

 

「一本くれ」

 

 

むすっとした顔のまま差し出された手を見て、京助は目を丸くし、おずおずとポケットからタバコとライターを取り出して彼に手渡した。

 

 

「驚いたな……センセイも吸うんで?」

 

「……たまには良いだろう」

 

 

ライターを返して煙を深く吸い込む。

久しぶりだというのにそんなことをしたものだから、ゴールデンバッドの重い煙にむせそうになってしまった。

 

 

「渋いのを吸ってるな」

 

「えぇ、まぁ……こいつが一番安いですからね」

 

 

そう言って、京助は美味そうに煙を吸い込む。

西木野医師も京助もこれといっていう事もなく、二人の間に沈黙が流れた。

タバコがみるみるうちに小さくなり、漂う煙だけが増えていく。

 

 

「センセイよ。こんな俺がいうのもあれだが――ちっと仕事熱心すぎやしませんかい?」

 

「……何?」

 

 

急に、しかも思っても見なかった相手に言われた一言に驚きを隠せなかった。

 

 

「誰に対しても優しく丁寧、なのに時たま見せる顔がすげぇ疲れて見えて、さ。特にこんなロクデナシまで気にかけて……大変な仕事なのは分かりますけど、少しは息抜きも必要なんじゃないですか?……なんてガラにもなく思った次第です」

 

「……考えておこう」

 

 

妻にも言われたばかりの言葉。それをこんな短い付き合いの、ふた回り近く年の離れた少年に言われるとは思ってもみなくて、苦笑を浮かべてしまう。

生意気なことを、と思わないでもなかったが、今はそれよりももっと気になることがあった。

 

 

「津田。何があった?」

 

 

今度は西木野医師が問いかける番だった。

 

痛みを押し殺してまで続ける無意味な行動。昼間の来客。ガラにもない言葉。そして、さっき見せた疲れた顔。

 

その意味を問いかけずにはいられなかった。否、聞かなければならない気がした。

 

 

「いや、答えたくないなら答えなくて良い。これは個人的な興味だ。」

 

 

そう続ける西木野医師だったが、京助困ったような顔を見せて空を見上げると、ぼそぼそと、倦怠を隠そうともせずに彼は話し始める。

それは、むしろ聞いて欲しいようでもあった。

 

 

「なぁ、センセイ。人は何かを成すために生まれてきたって言うけどよ……何も持って生まれてこなかった奴はどうしたら良いと思う?」

 

 

それは一見して西木野医師に問いかけるようではあったが……

きっと彼は答えなど望んでいない――そう感じ取って、西木野医師は何も言わずに京助の話に黙って耳を傾ける。

 

 

「勉強も、運動もダメ。人付き合いも苦手。唯一の取り柄が喧嘩だけ――てんで箸にも棒にもかからない、ロクデナシ。でもよ、そんな奴にも夢が出来たんだ」

 

 

紫煙を、吐き出す。

京助の手元のタバコはもう吸えない程に小さくなっていた。

 

 

「もちろん、夢を叶えるための才能はなかったさ。だけどよ、悔しくて、諦めきれなくて何とかしたくて……努力して、泥水すすって、ようやくスタート地点に立てたんだ。それなのに、こんなの、あんまりだぜ」

 

「……夢を追うのが嫌になったのか?」

 

「いいや。そんなことなないさ。夢は俺の全てだ。何があってもそれだけは譲れない。譲ったら、俺は俺でなくなる」

 

 

火のついたままの吸殻を灰皿に投げ込んで、京助は西木野医師に向き直った。

街頭の光で逆光になっていて、彼から京助の表情は上手く読み取れない。

 

 

「だけど、さ。今、こんな体たらくになって、ふと思っちまったんだ。俺の選択に、今まで何人が巻き込まれてきたんだろうって」

 

「……」

 

「てめぇで選んだ道なら、その先が地獄でも悔いはないさ。……だけど、その選択に人様を巻き込んだ挙句、一緒に地獄なんてのは――いくら俺でも笑えない。……情けねぇよな。そんなこと考えたら怖くなっちまって、おかげでロクに眠れもしねぇ。じっとしてたらそのまま腐っちまいそうで、怖くてたまらねぇんだ」

 

 

気がつけば、少年は小刻みに震えていた。

相変わらず顔は見えず、何を考えているのかなど分からなかったが――目の前の少年は泣いているように思えてならなかった。

 

 

「っと、いけねぇいけねぇ。ガラにもないこと言っちまいましたね」

 

 

くるり、と。京助は西木野医師の前で踵を返す。

 

 

「おい、どこに行く?」

 

「いや、どこにも何も……病室に戻るだけっすよ。約束だからな。……くだらねぇ話に付き合わせちまって、すみませんでした」

 

 

そう言って、彼は一人で歩きだす。

真っ黒なシルエットとして浮かぶ彼の背中が、何故か小さくしぼんで見えた。

 

 

「おい、津田……」

 

 

何か声をかけなければと、そう思って呼び止める。が、その先が続かなかった。

何をいえば良いのか。何と言ってやれば良いのか、彼にも分からなかった。

 

 

ぼそり、と。少年が去り際に呟いたように聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「先生、大変です!」

 

 

翌朝、妙な胸騒ぎから早めに病院についた彼を出迎えたのは当直の看護師のそんな一言だった。

 

 

「津田さんが、またいなくなってて……あちこち探したんですけど、どこにもいなくて……それで、ベッドの上にこれが」

 

 

看護師が差し出してきたのは、二つ折にされた一枚の紙切れだった。

五線譜が描かれたノートの切れ端に、開いてみればそこに書かれているのは大きく乱暴な文字。

 

 

『お世話になりました』

 

 

「津田……」

 

 

ため息混じりに呟く。

何となく、昨晩の時点でこうなるような予感はしていた。

病室に戻る、と……その約束だけは果たしていて、それを思うと呆れを通り越して何も言うことが出来ない。

 

 

「今、親御さんに連絡をとっているのですが――」

 

「分かった。私の方からも少し心当たりをあたってみる」

 

 

恐らくそれも無駄に終わるだろう。

 

あの時の彼の様子を思い出すと、どうしてあそこで何か言ってやれなかったのかと悔やんでも悔やみきれない。

 

 

 

――俺はどうすればいいんだろう?

 

 

 

最後の彼の呟きに、自分は何と答えてやれば良かったのだろうか?

 




こんばんは。北屋です。
津田京助18歳、仲間との決別の日のお話でした。

話のなかであんな調子でしたが、あれでも京助は西木野医師に対して凄い感謝していたり……

まぁそんなことはともかく、次回は園田さん編。
後2,3話をもって、そろそろ本編に戻ります。


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fragment 6 雷獣

私が初めて彼を見たのは、確か――数年前の春のことだった。

 

その日は、ちょっとした用事で外に出ていて、その帰り道。

 

 

「む……」

 

 

ぽつり、と。

冷たい雫を感じて空を見上げれば、快晴だった先ほどとは打って変わって黒い雲が流れている。

耳を澄ませてみれば遠くから微かに、獣の唸り声にも似た低い音が聞こえて来るのが分かった。

 

春雷。

春の訪れを告げる雷の音。

この調子ではもう間もなく一雨きそうなので、足を早める。あいにく今日は傘の手持ちがない。

 

思った通り、ぽつりぽつりと肌に感じる雫の量が増えてきた頃だった。

 

それは偶然か、必然か。

 

ふと近所の公園に佇む人影が目の端に写りこんだ。

 

そんな三人に囲まれるようにして立つ、一人の少年。こちらは彼らとは逆に、至って普通の少年だった。

 

――止めるか

 

剣呑な空気を感じ取り、彼は少年たちの方へ一歩足を踏み出す。

あまり関わりたくはないが、かと言って見過ごすわけにもいくまいと――

 

 

「っ」

 

 

遠雷。

曇り空を引き裂く稲妻が見えた。

 

それを合図にしたかのように、囲まれていた少年の脚が跳ね上がった。それはまるで今さっき落ちた稲妻が、天に帰らんとするかの如き様だった。

 

雷光に遅れて雷鳴が響いたときには、既に全てが終わっていた。

わずか数秒にも満たぬ間に少年の蹴りが、続けざまに三人を捉えて地に伏せさせていた。

目にも止まらぬ業だった。

まだまだ荒削りながら、それこそ類稀な才がなくして使うことの出来ない、見事な冴えだった。

そして何よりも驚いたのは一人で佇む少年の凄惨な顔……

まだ幼ささえ残すその顔に溢れる、獰猛な笑み。

いつの間にか本格的に降り出した雨に打たれて、彼は静かに笑っているのだった。

 

――雷獣

 

それは昔話にしか存在しない存在。

雷とともに天より落ちくる異形の獣。

目の前の少年の纏う空気は、人ならざるもののそれだった。

 

 

「!!」

 

 

雷獣がこちらを向いた。

にやりと笑みを浮かべる姿を見た瞬間、自然と足が体に染み付いた動きをとっていた。

だが、そんな私に対して少年が取ったのは、笑みを浮かべただけだった。

先ほどまでの邪悪さが嘘のような、年相応の微笑みだった。

 

思わぬことに拍子抜けして私を尻目に、少年は会釈をして、そのまま何も言わずに踵を返す。

 

 

一言も交わすことはなかった。

だが、いずれ彼とは再び出会う日が来ると――そんな確かな予感だけがあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから2年がたった。

 

あの時と同じような春の日。

庭木の手入れにひと段落をつけて額の汗を拭う。冬も過ぎ去りすっかり暖かくなったこの頃ではこうして外で少し体を動かすだけで汗が滲んでくる。

 

 

 

 

 

夕暮れが近づくにつれ晴れ渡っていた空の片隅に黒い雲が湧き、遠くから低い唸りが聞こえて来る。

 

 

「春雷……もうそんな時期になるのか」

 

 

春の訪れを告げる雷の音、それもまた風情があって良い。

そんな風に思いながらも、雨が来る前に家の中に引っ込むと、ちょうど見計らったかのようなタイミングで雨が降り始めた。

瞬く間に雨足は強くなり、やがて雷の音が近づいてくるのが分かる。

 

 

「ただいま帰りました」

 

 

ふと、玄関口から娘の声が聞こえた。

先日中学生になったばかりの娘の声である。

 

 

「おかえり。雨は大丈夫だったか?」

 

 

確か彼女は傘を持って出なかったはず。学校からの道中で雨に降られてしまってびしょ濡れになっているのではと、タオルを持って玄関まで向かう。

だが、彼の予想とは逆に、娘――海未はほとんど雨に濡れてはいなかった。

そして予想外がもう一つ。彼女の横に立つ、一人の男の姿――

 

 

「はい。こちらの方が傘にいれてくれまして――どうやらお父様に用があるそうなのですが」

 

 

海未の横に立つ男――少年がぺこりと頭を下げた。

娘とは逆に彼はほとんど全身がびしょ濡れだった。唯一濡れていないのは右手から肩まで――どうやら、家までずっと娘の上に傘をさし続けていたらしい。

少年は思った以上に若い。十代後半といったところだろうか、しかしその体に纏う雰囲気は不自然な程に重苦しかった。

倦怠と自暴自棄をごちゃ混ぜにしたよう荒んだ目をした――危ない様子の少年だった。

 

――はて?

 

少年を見ながら首を傾げる。

この男、どこかで見覚えがある気がする。

自分を訪ねてきたということは何かしらの縁があったということなのだろうが、なかなか思い出せない。

 

 

「娘がお世話になったようですね……あの、私に御用とは一体……?」

 

 

尋ねる、しかし少年は何も答えなかった。

無言のまま、口元を歪める。それはひどく獰猛な、獣の笑みだった。

 

その時だった。ひときわ強い雷光が外で閃き、続いて轟音が鳴り響いたのは。

 

 

「君は、あの時の……」

 

 

雷獣――それは雷にのって落ちくる魔物。

見間違えようがなかった。彼はまさしく、いつか出会ったあの少年だった。

 

 

「俺は、津田京助ってもんだ」

 

 

少年――京助が口を開く。

軽い言葉使いとは裏腹に、その口調は思いつめたようで、

 

 

「園田さん。一手ご指南いただきたい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

家の離れにある道場。

普段は園田氏とその娘が武道の鍛錬に使っているそこに、二人は対峙するようにして立っていた。

 

 

「道場破りのつもりか?また古風なことだ」

 

「そう思ってもらって構わない」

 

 

京助は短く言って、ただでさえつり上がった目をさらに釣り上げた。

言葉の少ない少年だった。

 

 

「得物は何を?」

 

「そうだな――これで良い」

 

 

問いかけると、彼は壁にかかっていた木製の長棒を手に取る。対する園田も愛用の木刀を手にとった。

試合とは、竹刀をもってきちんとした装備をつけた上で行うものであり、武道経験者が素人相手に防具もなしに、ましてや木刀で相手をするなど正気の沙汰ではない。あまり知られていないことではあるが、木刀の殺傷能力は本物の刀とさほどの差がなく、下手をすれば人死が出てもおかしくはないのだ。

 

 

「ふぅ……」

 

 

互いに距離を取って向かい直すと、園田はそっと気息を整え始めた。

 

本来ならばこのような試合はやらない。そもそもにして彼は既に現役の武道家を退いて大分日が経っている。

だが、この挑戦者を断る事が彼には出来なかった。

 

 

音もなく、京助が踏み込んだ。

始めの合図も待たない、不意打ちにも似た攻撃。およそ正々堂々などとはかけ離れた精神性。

 

――これだ

 

木刀を隙なく構え、園田は考える。

彼が京助との戦いを拒まなかった理由、それは単純に目の前の少年が恐ろしいまでに危うかったからだ。

拒んだとて、このように不意打ちを仕掛けてきたことだろう。

いや、もしかするとそれだけでは済まなかったかもしれない。

 

少年の瞳の奥に宿る獣性は、暴力を欲していた。

 

この少年は、自分と戦う……ただそれだけの理由のために、娘にまで危害を与えかねないと――一瞬でそう判断した。

 

 

「じゃっ!!」

 

 

獣の鳴き声のような声を上げて、少年は躍りかかる。

二人の距離は一息で詰まり、棒の横凪ぎが園田の脇腹を狙う。対して園田は自分の剣先で棒が最高速度の乗る直前を切り払う。

それを見越していたと言わんばかりに、京助は棒を旋回、遠心力を乗せた逆端を逆側の脇腹めがけて叩き込んだ。

鈍い音がした。

園田が戻した木刀と棒がぶつかって弾ける。

 

 

「ひゅっ――」

 

 

園田の口から笛の音にも似た呼気がほとばしり、真っ向からの面打ちが繰り出される。

再び鈍い音が響いた。

京助がとっさにかざした棒がギリギリのところで木刀を受け止めていた。

 

――思ったより、出来る……

 

つばぜり合いを演じながら、園田にはまだそう考える余裕があった。

いつぞや見せた彼の動きの中で、その巧みな間合いの取り方から、彼が何かしらの得物を扱う武術――恐らく棒術を扱うことは予想していた。

そして実際に打ち合って見ての素直な感想であった。

これだけの腕に、若さがあれば自分の腕に酔っても仕方がないと、そう思う。事実、彼の攻撃は速く、力強い。

だが、決定的に鋭さに欠けていた。それはどこか、不意打ちに対して迷いがあるようにも思えた。

園田は柄を持つ両手に一気に力を込める。

剣道のつばぜり合いの基本であったが、それを知らぬ京助は押し寄せた斥力に押し負ける形で後方に吹き飛んだ。

否……

 

――違う!

 

今の一瞬、握った木刀は大した手応えを伝えてはこなかった。

吹き飛ばされるほんの少し前に、彼はその力に逆らわず自ら跳んだのだ。

その証左とでも言うように、もといた位置に危なげもなく着地し、棒を構え直している。

思っていた以上に油断ならない相手だった。

 

 

「しゃぁあッ!」

 

 

京助が獣じみた雄叫びをあげる。

先ほどと同じく真正面からの攻撃。速度も込められた力も先とは比較にならない――が、それを受け止めるのは園田にとって造作もないことだった。

彼の技は正直すぎるのだ。

不意打ちまがいのことをしながらも正面から正攻法、太刀筋も直線的で力づく。受けきるだけなら何の問題もない。

 

 

「ッ!?」

 

 

彼の棒を弾いたと同時に、肩口に鈍い痛みが走った。

一瞬、何が起きたのか理解が出来なかった。気づけば京助は棒を片手持ちに切り替えていた。

そして、空いた手で拳打を仕掛けてきていたのだった。

突然の事に反応が遅れた園田に対して、京助は拳を戻して棒を一閃させる。

 

 

「その技――どこで覚えた?」

 

京助の攻撃を躱し、距離を取り直したところで園田が尋ねた。

彼には、京助の技をどこかで見た覚えがあった。

 

 

「さぁな、大分我流だが……強いて言うなら基礎は祖父の技から学んだ」

 

「祖父?」

 

 

ふと、ある人物の名が園田の頭をよぎる。

かつてまだ自分が若き日にその姿を見たことがある。型に囚われぬ棒術を自在に操る男。

彼の名は――

 

 

「須田無道流、須田一馬……!」

 

「しゃぁぁッ!!」

 

 

叫ぶと同時に、京助が持っていた得物を投擲した。緩やかに回転しながら迫る棒を切り払い、そして園田は気づく

 

――見誤った!

 

彼の本質は棒術ではない。

あくまで棒術は学んだだけのこと。剣術を学ぶ者が間合いを学ぶために棒術を学ぶという例があるように、彼にとっても武器を用いた技はその程度のものなのだ。

彼の本質は、あくまでその獣性。

いつか見せた技を、何故自分は忘れていたのか……

 

 

「じゃっ!!」

 

 

投擲は目くらまし。

京助が求めたのは一瞬の隙だった。

右脚が跳ね上がる。

それはあの日見せた、雷光を思わせる蹴り。

 

――なんという才か……!!

 

その技は以前にも増して凄まじいキレだった。あれからどれほどの実戦を経験したのか。否、経験だけでは説明が出来ない。

彼の内なる獣と才能の凄まじさは、背中を冷たいものが伝うほどだった。

 

 

「ちぃ!!」

 

 

寸でのところで顔を傾ければ、そのつま先が顔の前をかすめていく。

避け切った――そう思った。

 

だが、京助の技はそれで終わりではなかった。

一度跳ね上がった蹴りが、その軌道をなぞるように打ち下ろされる。それは雷光に続く雷鳴に似ていた。

 

 

「ぐ……!」

 

 

今度は躱しきれなかった。だが、運良く頭への直撃は避けられた。

肩に走る痛みに耐えながら、一歩退く。

すでに京助は次の一撃への準備に移っていた。

右脚が再び跳ね上がる。

顳かみへの上段回し蹴り――今までに見せた技の中で最も鋭い一撃だった。

紫電の如きそれを躱す術はないと、次の動きに移る前に気づいてしまった。

 

 

「ぬぅッ!!」

 

 

横薙ぎの一閃を見舞う。それは苦し紛れだった。

剣よりも京助の脚のほうが速いことは明らかで、決して当たるはずのない、また、当たったところで意味のない一撃。しかし――

 

 

「っ……!」

 

 

跳ね上がった脚が最高速にのる前にいきなり失速した。その結果、京助の蹴りが入るよりも早く、園田の木刀が彼の脇腹に打ち込まれる。

 

決着は一瞬だった。

 

 

「……」

 

「ぐぅ……!」

 

 

脇腹を押さえてうずくまる京助を見る園田の顔には困惑が広がっていた。

先の一撃に、ここまでの威力はないはず――避けようと思えば避けられたはずの一撃。さらに何故さきほど彼の技が途中で勢いを失ったのか?

 

その理由はすぐに分かった。

 

 

「君、その怪我は……!」

 

 

京助が押さえる手の下、白いシャツに赤いシミが広がっていた。

今の胴薙でついたものではない。それよりもずっと前に穿たれた傷だった。

またしても園田の背中を戦慄が走った。

この少年は、これだけの怪我を負いながら、先ほどの動きを見せていたというのか……

少年の才が恐ろしかった。

そして――

惜しくてたまらなかった。

 

 

「おい、大丈夫か?」

 

「あぁ……問題、ねぇ」

 

 

額に油汗をにじませながらも、京助は立ち上がる。

問題がないようにはとても見えなかったが、それでも彼は無理矢理に笑顔を作る。

 

 

「俺の、負けだ……」

 

 

自分に言い聞かせるように京助は呟く。

てっきり勝敗に関して何か苦言を呈すると思っていたのに、その潔さはいささか予想外だった。

 

 

「こんなカスリ傷関係ない。全く、ちとは強くなったかと思ったが、まだまだだったか」

 

 

それは憑き物が落ちたような顔だった。

先ほどまでの、獣の笑みではなく、むしろ爽やかな微笑み。あるいはこちらこそが彼の本質なのかもしれないと――そう思えた。

 

 

「それはそうと、君は須田一馬さんの……」

 

「あぁ、孫だ」

 

 

あっけらかんと京助は認めた。

須田 一馬。

園田が出会ったときには鳴りを潜めていたが、かつては数え切れぬ程の道場破りを繰り返した、喧嘩屋。

ついぞ試合うことのなかった相手だったが、一度だけ見たあの動きは到底忘れられるものではない。

 

 

「今日、園田さんを訪ねたのは――急に失礼だとは思ったが、祖父さんの遺言でな」

 

「遺言?」

 

「あぁ。いつか俺が強くなれたと思ったら――あんたを訪ねてみろって」

 

「それは――」

 

 

なんというはた迷惑な話だろうか。

そんなことを言う祖父も祖父だが、それをバカ正直に間に受けて、こうして事情も説明せずに訪ねてくる孫も孫だ。

 

 

「まぁ、断られたら帰るつもりだったんだが――こんなガキに付き合ってもらって、ありがとうございました」

 

 

ぺこり、と。京助は丁寧に頭を下げる。

園田にしてみれば拍子抜けした気分だった。無駄に警戒していた自分がバカらしくなってきて、怒ることも出来やしない。

 

 

「さて、と。それじゃ、俺はこれで帰るかな」

 

「む?折角だし、茶の一杯でも飲んでいかないか?」

 

 

その誘いを、しかし京助はやんわり断って、

 

 

「世話になりました」

 

 

そう言って、道場の戸を開けるとそのまま外に飛び出していく。

いつの間にか雨は止んでいた。

 

 

「また、いつでもかかってこい」

 

 

その背中に声をかける。

返事はなかった。

 

――雷獣……それは雷とともに地に落ちて、雷にのって天に帰る魔物――

 

 

「ふぅ……」

 

 

残された彼は木刀を杖代わりに膝立ちとなって、深いため息をつく。

凄まじいまでの疲れが一気に肩にのしかかってきていた。

 

あの少年――津田 京助に最初に出会った時のあの気配は未だに忘れることは出来ない。あの禍々しい殺気。

 

“戦いを受けねばどうなるか分からない”――あの判断は、間違っていたとは思っていない。

対峙しても分かった。

彼の本質は獣――それも血に飢えた獰猛な獣だ。

 

 

「失礼します……お父様?」

 

「……どうした、海未?」

 

 

眉間に皺を浮かべていた所を、急に道場に入って来た娘に見られてしまった。

 

 

「あの、お客さんは……?」

 

「あぁ……さっき帰ったよ」

 

 

そう言うと、彼女は困ったような表情を浮かべた。

 

 

「どうした?」

 

「いえ……傘のお礼を言い忘れてしまいました」

 

「……そうか」

 

 

今日、彼が訪れた時のことを思い出して、さらにため息が出てきた。

 

自分が濡れるのも構わずに、あの少年は――

 

その優しさと、あの獰猛性。一見して相反する二面。

 

 

「つくづく、惜しい……」

 

 

あるいは彼が非情な男であったならば獣として生きることもできたのやもしれない。

また、彼があの才を正しく使えていれば――もし自分が彼を導くことができたならば。

後悔は尽きない。

 

 

「惜しい……」

 

 

去りゆく彼の顔がまだ目に焼きついている。

何かを思いつめ、すさみ切ったあの瞳。

 

――強くなったと思ったら

 

その遺言したがった意味はなんだったのだろうか。何ゆえにあの少年は強さを求めたのか。

 

これから先、彼にどんな運命が待っているのか。

 

彼の未来が明るいものであることを願わずにはいられなかった。

 




園田父VS津田京助でした。

これが彼が家出をする直前のお話で、時系列的には前回の話のすぐ後です。

次回の短編を最後にして本編に戻ります。


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()長い、夢を見ていた――

 

 

 

 

 

「……ちゃん。……ょーちゃん!」

 

「ん?」

 

「きょーちゃん!起きてよ!」

 

 

けたたましい声によって、夢から引き戻される。

何事かと思って薄目を開ければ、俺の顔の真ん前、めちゃくちゃ近い距離に可愛らしい女の子の顔があった。

 

 

「っ!!うるせぇぞ、穂乃果……」

 

「痛っ!」

 

 

せっかく人がいい気分で眠っていたのに、よくもまぁ起こしてくれやがって……

腹いせにデコピンを一つ。

机から上体を起こして――あぁ、俺は居眠りしてたのか。まさか学校で夢まで見ながら眠りこけるとは思わなかった。

 

 

「んー!ふわぁ……おはよう、俺に何か用か?」

 

 

伸びを一つすると、背中のあたりから軋むような音がした。

最近疲れてたからなぁ……正直まだ眠り足りない気がする。

 

 

「おはようじゃないよ!もう放課後だよ!」

 

「……マジかよ」

 

 

時計を見れば確かにもう授業はとっくに終わっている時間だった。

いや、いくらなんでも寝すぎだろ。

周りを見渡してみれば、教室にいるのは俺と、目の前で頬を膨らませてる穂乃果。

それに――

 

 

「京助!あなたは何をしているのですか……穂乃果じゃあるまいし」

 

「海未ちゃんひどい!私、こんなに寝てないもん!」

 

「どの口がそれを言いますか。あなたもさっき、ことりに起こしてもらっていたでしょう?」

 

 

穂乃果に海未にことり。小さい頃からの幼馴染共。

……どうでも良いが、いつ見ても騒がしいな、お前ら。

勘弁してくれ、起き抜けに騒がれたら頭が痛くなってくる。

 

 

「まぁまぁ……京助くん、もうそろそろ練習始まるよ?」

 

「っと、そうだったな。ちっと待ってろ……」

 

 

ことりに言われて思い出した。今日は彼女たちの練習に付き合う約束をしていたんだっけな。

もう一度大きく伸びをして、荷物を手に立ち上がる。俺の性格をそのまま現したような軽いカバンに、ロッカーの上に寝せておいたギターケース。

こいつらの練習が終わったら、俺も練習に行かなきゃならないってんだからそりゃもう疲れて眠くもなるってもんだ。

 

 

「きょーくん!早く早く!」

 

「分かった分かった……っておい!引っ張るな!」

 

 

穂乃果に片手を引っ張られて走り出す。

逸る気持ちは分かるが、ちっとは落ち着けよ……

 

 

 

 

 

「遅いじゃない」

 

 

屋上にたどり着くと、一年生の真姫が一言。まぁ遅れたのは謝るが、何で俺だけ見て言うのかね

 

 

「ごめんね真姫ちゃん。京助くんを起こしてたら遅くなっちゃった」

 

「いや、それ言わなくていいから」

 

 

ほら見ろ。周囲の目が俺に集まってんじゃん。

そんな冷たい目で見んなよ……しまいにゃ泣くぜ?

 

 

「まったく、授業中に居眠りなんて。京助、あなたちゃんと寝てるの?」

 

「ん?あぁ、問題ない」

 

 

にこに問われて曖昧に答える。

お察しの通りあんまし寝てない、なんて言おうものなら何言われるかわかったもんじゃない。

 

 

「それにご飯も食べてる?顔色悪いわよ?」

 

「大丈夫だっての……お前は俺のおかんか」

 

「どうせあんたのことだからカップ麺ばっかの食生活なんでしょ?ライブ近いのに体調管理怠ってどうするのよ」

 

 

何も言い返せなくなって頬を掻く。

なんでもかんでもお見通しかよ。

 

 

「分かったよ。ちゃんとするって」

 

 

無理無茶無謀が俺のポリシー。夢のためなら何を犠牲にしても良いって思ってるけど……

こうやって心配してくれてるって思うと、流石に無下には出来なくてつい頷いてしまう。

同じく夢を追いかける彼女相手だと、特にな。

 

 

「今日はおじさんも来てるのかにゃー?」

 

「うるせぇ、誰がおじさんだ」

 

 

結構気にしてんだからそういうことを言わないで欲しい。

っていうか、おじさん扱いされるほど年離れてねぇだろ。

全く、真姫といい凛といい、何で一年生はこう小生意気な小娘ばかりなんだよ。思わずため息をついちまう。

 

 

「お兄さん、何か疲れてますか?」

 

 

その点、同じ一年でも花陽だけは違う。

心配そうに俺の顔を覗き込む姿はまさに天使のそれだった。

 

 

「ん?あぁ、大丈夫大丈夫。それよりそっちこそ忙しいだろ?無理はすんなよ?」

 

 

軽く微笑みかけてそう言うと、花陽は嬉しそうに頷いた。

あー……やっぱこの笑顔、癒される。

なんて言うとこいつの兄貴――俺の同級生に何故か怒られるからあんまし言えないんだけど。

そんなことを考えてたら、意味ありげに笑いながら希が話しかけてくる。

 

 

「京くん、花陽ちゃんには妙に優しいんやな?」

 

「別に。ただ、俺は相手に合わせた対応してるだけだ」

 

「ふーん?その割にはにこっちにも素直やん?」

 

「それは……あれだよあれ」

 

 

口ごもる俺をにやにやと見て、希は、

 

 

「え~?そんならうちにも優しくしてくれてもいいんとちゃう?」

 

「断る」

 

 

今度はきっぱりと断った。

この姉ちゃんに少しでも弱いとこ見せたら後でどれだけいじられるか分かったもんじゃない。

大分ひどいことを言った気もするが、俺の考えてることをちゃんと見透かしてるのか、希はまだ笑いながら、

 

 

「ひどいなー。えりちー、京くんがいじめるー」

 

「はいはい。だめじゃない京助、女の子には優しくしなきゃ。それに希も京助をからかわないの」

 

 

慣れたもので、希に話を振られた絵里が呆れながらそう言って俺と希をたしなめる。

 

 

「はいはい。わかったよ」

 

「もう、『はい』は一回!」

 

 

頬をふくらませて怒る絵里を見たら、自然とため息が出てきた。

俺は昔からこの人には勝てない。

絵里とは祖父さんの代から付き合いがあるおかげで、こうして今でも頭が上がらない。

 

 

「はーい」

 

 

気だるい声で答えると、満足したのか絵里はにこにことタンポポの花みたいな綺麗な笑顔を浮かべる。

 

思わず天を仰げば本日も晴天。

むかつくくらいに雲一つない青空に、お天道様が俺を指差して笑ってた。

 

 

 

こんな騒がしい9人の女の子達と過ごす毎日が、俺の日常。

 

 

 

μ’s

 

それが彼女達の名前。

生徒数不足から廃校になりかけたこの学校を救うために、今流行りのスクールアイドルを始めようっていう、穂乃果の立案から始まった

 

最初に聞いたとき、俺はそりゃもう笑わせてもらったよ。

だってそうだろ?

たかだか十代そこらのガキが集まって、廃校阻止しようなんてさ。しかも、何の知識も経験もない奴らがだぜ?

あまりにも荒唐無稽で、馬鹿げてて……こんなに面白いことはないって思った。

こんなのが、成功すりゃそれはもう、なんつーか……とんでもなく素敵なことじゃないか。ってさ。

 

どうやら物好きは俺だけじゃなかったらしい。

穂乃果に海未、ことり。続いて花陽、真姫、凛。そしてにこ、希、絵里。どんどん人が増えるにつれて、目標が現実に近づいてきた。それぞれがそれぞれの思いを胸に、一生懸命、精一杯。

そんで、俺はというと、小さい時の縁が重なって、こいつらに誘われたから渋々手伝いに回ったって訳で……なんてな。

 

本当は、俺からやらせてくれって頼んだんだ。

 

俺もこいつらと同じ。でっかい目標があってそれに向かって我武者羅に突っ走って。

でもこいつらと違うのは、俺は本当は怖かったってとこだ。

本当に夢を叶えられるのか、失敗したらどうなっちまうのかって、そんな気持ちに押しつぶされそうな自分を、無理やり勢いつけて無茶苦茶やってただけなんだ。

 

それなのにこいつらときたら……

 

全く、どいつもこいつも難儀なことだぜ。おちおち凹んでもいれやしねぇ。ここで頑張んなきゃ、俺の沽券に関わるってもんだ。

そう気づかせてくれたこいつらには、感謝してもしきれない。

だから、俺に出来ることならこいつらのために何かしてやりたいって思えたんだ。

まぁ、こんな事、絶対言ってやらないけどな。

 

 

「それより京助。頼んでたものは出来たの?」

 

「あぁ。その辺ぬかりはねぇよ」

 

 

ポケットからCDを取り出して真姫に手渡す。

この前真姫に頼まれてた編曲とギターサウンド。個人的には会心の出来だったと思ってる。

本当は俺よりも俺のバンド仲間に頼んだほうが遥かに良い物が出来るんだけど、意地があんだよ、男の子には。

 

 

「さて、それじゃ練習始めるわよ?京助も何か気づいたところあったらどんどん言ってね」

 

「おーう、任せとけ」

 

 

彼女たちに混じって準備体操を行い、続いてダンスレッスンを見てやる。

俺にはダンスの知識なんざないが、逆に素人から見てどうなのかがいい意見になるそうだ。

俺に出来るのはせいぜいがこのくらい。

ギターの腕はまだまだ三流以下、アイドルとやらの知識は皆無、人間性はまぁまぁ低劣。およそ箸にも棒にもかからない、ロクでもない人間。

でもさ、こんな俺でもこうして何かの役にたてるなら――それは素晴らしいことなんじゃねぇかな?

 

そんなことを、思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「っと、もうこんな時間か」

 

 

彼女達の練習に付き合っていたら、時計の針が有り得ない程の早さで進んでいた。

いや、いくらなんでも早すぎだろ。体感五分くらいだった気がするぜ?

 

 

「ごめん、みんな。俺はここであがるわ」

 

 

立ち上がって、ケツをたたいて埃を払う。

今日はこの後、“俺”の練習があるんだ。

 

 

「あ、もうそんな時間なの?」

 

「おじさんも大変だにゃー。これからバンドの練習だっけ?」

 

 

おじさん呼びには苦笑せざるを得ないが、小さく頷く。

ギターの腕はまだまだ三流。

でも俺は三流のまま終わるつもりはねぇんだ。

 

 

「ごめんなさい、京助だって大変なのに練習につきあわせちゃって」

 

「いやいや、気にすんなって。俺が好きでやってんだから」

 

 

自分で決めて、自分の好きなようにやらせてもらってんだ。

そこに文句なんかない。

 

 

「頑張るのはえぇけど、頑張りすぎなんやない?」

 

「それは――まぁ、大丈夫、手ぇ抜くところは抜いてるから」

 

 

そう冗談混じりに言い返すと、希が呆れたように笑い返してきた。

本当は手を抜いてるつもりなんてサラサラないが、休むべき時は心得てるから大丈夫、授業中とか。

こうして心配してくれる奴がいるのに下手に無茶かますわけにはいかないからな……

 

 

「今度のライブ、ちゃんと呼びなさいよ?」

 

「分かってるって。ほらよ、チケット」

 

 

あぶねー、忘れるとこだった。

にこに言われて、ポケットからチケットを取り出してわたす。

今までに何回か機会があったのに誘いそびれてきたから、今回こそは、って思ってたのにな。

 

 

「あー!にこちゃんずるい!きょーちゃん、穂乃果の分は!?」

 

「ことりも欲しいな……京助くん、おねがい」

 

「分かってるって。ほらよ、全員分あるから、気が向いたら見に来いよ」

 

 

全員分のチケットをにこに押し付けて、ギターケースを持ち上げる。

時計を見れば集合時刻の10分前。走れば間に合うか?

 

 

「そういえば京助。パパ……お父さんが、今度ちゃんと健康診断に来いって言ってたわよ。またサボったんでしょ?」

 

「いけね、忘れてた!気が向いたら行くって言っといてくれ!」

 

「お兄さん、お兄ちゃんがたまには遊びに来いって言ってたよ?」

 

「オッケー!ライブ終わったら行くって伝えといて」

 

「そういえば京助、お父様が今度鍛え直してやるから道場に来るようにと……」

 

「分かった!今度こそ勝つって言っとけ!!」

 

 

何で帰り際にこんなに色々言ってくるんだよ!もっと早く言えよ!

適当にあしらって、屋上の扉を開く。

これは遅刻確定だな。

俺の仲間達は――俺を待っててくれるかな?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

再び場面が変わる。

俺は眩しいくらいのライトに照らされたステージ上に立っていた。

相棒の肩にかかる重みと、掌へのぬくもりがやけにはっきりと感じられた。

ライブハウスいっぱいの観客に見守られる中で、自分の鼓動がやけにうるさい。

どうやら俺としたことが緊張しているらしい。

ピックを持つ手が震える。

 

――怖い。怖くてたまらない。

 

失敗したらどうしよう。

そう考えると逃げ出してしまいたくなる。

 

 

『きょーちゃーん!』

 

 

ふと。

客席の方から、自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。

ついに幻聴でも聞こえたのか?

 

 

『京助ーっ!!』

 

 

いや、違う。確かに聞こえた。

俯けていた顔を上げてみれば――いた。

遠く離れた席に、9人の少女の姿。こんなに離れているのに、こうしてちゃんと見つけられるなんて思わなかった。

 

 

『きょーちゃん!ファイトだよー!』

 

 

穂乃果の楽しそうな大声が確かに聞こえた。

まったく、お前は恥ずかしいってことを知れねぇのかよ……

思わず苦笑が溢れてくる。

そしたらどんどん可笑しくなって――いつの間にか震えが止まってた。

 

 

「ったく、情けねぇ顔なんざ見せられるか、っての」

 

 

小さく呟いて、顔をちゃんとあげる。

 

ちらりと横を見れば、そこには確かに仲間たちがいた。

すまし顔のボーカルに、俺と同じように緊張した様子のドラム。いつもどおりの無表情のギターに、楽しそうなベース。

やけに落ち着いた顔をして、キーボードに向かうあいつと目があった。

俺に気づいた長身のあいつは、どこまでも優しい、ムカつくくらいの笑顔を向けてきやがった。

 

――びびってんの?

 

そう聞かれたような気がした。

だから俺も獰猛に笑い返す。

 

――冗談じゃねぇ!!

 

前を見れば9人(女神たち)が。

横を見れば5人(仲間たち)が。

何も、怖いことなんかあるもんか。

 

 

 

そして――

 

俺たちの演奏が始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ライブは滞りなく進んでいく。

仲間たちはもちろん、俺の演奏もこれまでにないくらいに会心の出来で、ギャラリーの盛り上がりも上々。それこそあんなにド緊張してた自分がアホらしい。

 

そして――ライブは佳境を迎える。

最後の曲は、今までのオリジナル曲じゃなくて、カバー曲。

俺が無理言って選ばせてもらった一曲。

 

 

THE BEATLES『With a Little Help From My Friend』

 

 

無理ついでに、今回だけは俺がメインボーカルを歌わせてもらう。後で仲間たちに何かおごるって約束を考えるとちと財布が心配だが――

 

With a Little Help From My Friend……みんなの力を借りて。

 

つくづく俺にぴったりの曲だと思う。

ただでさえギターも歌もそこまで上手くないのに、無茶したもんだと自分でも思うけど……

今だけは、そんなことは考えないで、全力で弾いて歌う。

 

 

 

しっかりしてるくせに、どっか抜けてて無理しがちな絵里。

お前の加入の時は大変だったよな。俺もムキになっちまって、悪かったと思ってる。でもさ……あのおかげで俺もお前らのために何かをしてやるんだって、決心できたんだ。

 

人一倍繊細で、人一倍周りのことを気にかけてくれる希。

俺がそのフレンドリーな態度にどれだけ救われたことか……これでも、感謝してんだぜ?

面と向かってじゃ言えやしないけど、お前は大切な友達だよ。

 

自分の夢に対して努力を続けるにこ。

走っては空回って、それでもお前は絶対くじけないよな。お前が夢を諦めないから、俺も頑張れるんだ。そんなお前を尊敬してるし、同時にライバルだと思ってる。

それから、俺はお前のこと――

 

元気いっぱい、ムードメーカーの凛

お前との掛け合い、実は結構楽しいんだぜ?なんて素直に言えなくてごめんな。何の遠慮もなく思ったことを言ってくれる奴、お前くらいのもんだ。かけがえのない、最高の後輩だぜ。

 

いつも精一杯に頑張ってる花陽。

悩んで、くよくよして、でもそれはそれで良いと思う。ちゃんと考えてる証だもんな。

考えて考えて、それでもどうにもならなくなったら遠慮なく言えよ。俺は出来ることはなんでもしてやるからな。

 

真面目でちょっぴり天邪鬼な真姫。

弱いところを決して見せようとしない誇り高さ、ホントに凄いと思ってる。

だけどさ、弱さを隠し続けるのは、必ずしも強さじゃないんだぜ?辛い時は辛いって、ちゃんと言うのも一つの強さなんだから、さ。

 

真面目でお堅くて、そんでもって格好いい海未。

ちっとは気を抜けよ、って言いたいとこだけど、お前がそうやって締めるところ締めてくれるから、メンバーの暴走も少なくてすんでるんだよな。お前がいるおかげで俺はバカでいられるってもんだ。

 

メンバーで一番優しいことり。

その優しさと愛らしさに何度俺が助けられたことか……。

引っ込み思案なようでいて、一番芯が強いのは実はお前なんじゃないか?でもさ――何かあったんなら周りを頼ろうぜ?俺でよければ、いつだって相談にのってやるからさ。

 

全てのきっかけ、穂乃果。

前々から思ってた。お前、つくづく俺に似てるよなーって。後先考えないとことか、突拍子もないとことか。周りを散々振り回して、とんでもないことをさらりと始めたり。

でもお前は俺なんかよりずっとすげぇ奴だよな。俺が保証する。お前の夢は、絶対叶うってさ。

だから、その輝きを、ずっと忘れないでくれ。

 

 

曲が最後のパートに入った。

ひときわ声を張り上げて、全身全霊で歌う。

 

 

お前らと会えて、本当に良かった。

俺はお前らのこと、尊敬してるし、とても大事だと思ってる。

 

 

 

本当に、ありがとう。

 

 

 

そんな思いをこめて、精一杯にギターをかき鳴らす。

 

口では小っ恥ずかしくて言えない。

こんな不器用な俺だから、こうして音楽にのせてみる。

今じゃなくても良い。いつかこの思いが伝わってくれれば、それで……

 

 

みんなの力を借りれば、上手くいくよ――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そう、歌いきろうとした時だった

 

 

 

 

 

不意に――

 

 

 

 

 

目の前が真っ暗になった。

それはまるで照明が落ちたみたいな、本当の闇だった。

 

 

やがて目の前に広がるのは灰色の光に照らされただだっ広い舞台。

台上に立つのは俺一人。

共演者もいなければ、観客もいない。台本すらない無間の闇。

 

 

――あぁ、気づいてるさ

 

 

こんなのは俺の都合の良い夢だ。

現実の俺は、夢の中みたいに上手くやれてない。おっかなびっくり手を差し出しては、少し触れただけで逃げ出す臆病者。

夢を追うことを諦めて、代わりにそれを誰かに投影して満足しようとしてる卑怯者。

 

 

もっと早くにこいつらに会ってたら、違ったんじゃないかって。

俺がもしもこいつらと同じくらいのガキだったらって、何度考えたか分からない。

 

 

だから、これは叶わない夢の形。

 

 

俺は夢を諦めたくなかったって、あいつらに会ってようやく気づいたんだ。

だから、夢を追っている彼女たちの助けになってやりたかった。

 

もっと早く会えれば、もっと俺が強ければ、もっと俺が――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(お前たち)は、お前たち()になんて出会わなければ良かったよ(良かったのに)




こんばんは、北屋です。

Fragment シリーズはこれで終わりです。
次回より本編に戻ります。

少し次回の更新までに時間がかかるかもですが気長にお待ちください。


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第三十二話 I'll be back

夢を、見ていた。

それは今までに見た中でも最も優しい夢で、そして最もおぞましい悪夢だった。

 

 

「っあ!!……ゲホッゲホッ!!おえぇッ!!」

 

 

深いところにあった意識が一気に戻ってきた。

どれほど寝ていたのだろうか、口の中がカラカラで空気を吸いこんだ瞬間にむせ返ってしまう。

その拍子に身体を起こしたら、背中に鈍い痛みが走って声もなく悶絶する。

過去最悪クラスの酷い目覚めだった。

 

 

「ちぃッ……んあ、ここは?」

 

 

どうにか乱れた息を整え、痛みが引いてきたところで周りを見渡す。ぼやけていた視界が半分ほど元に戻ってきて、自分の置かれている状況が不鮮明ながらようやく頭に入って来た。

清潔なシーツに無機質なベッド、これ以上ないくらいにシンプルな部屋、ほのかに感じる消毒液の匂い。少なくとも自分の部屋でも屋外でもない。

おぼろげな記憶ではあるが、大乱闘をした挙句に大怪我を負ったところまでは覚えている。そのまま倒れて、それから――

 

 

「……起きて早々、騒がしい奴」

 

 

不意に意識の外から掛けられた声に驚いてそちらに目線を動かす。

ベッドの横、椅子に腰掛けて小説を読む者が一人。襟足が隠れるくらいに長い黒髪、不健康なまでに白い肌という、一見して性別の分からない出で立ち。

気難しそうな顔に明らかに迷惑そうな表情を浮かべて、彼は手元の本から顔を上げた。

 

 

「……生きてたか」

 

「ごあいにく様、この俺がそうそう簡単にくたばるかっての……ってか、お前、堀か!?」

 

 

隣にいる人物が誰なのかようやく気がついて、京助はぎょっとして飛び上がり、そしてまた激痛に見舞われた。

堀 智之。

かつて京助と同じくギターを担当していた仲間の一人で、京助にとっては15年来の友人になる男――なのだが、京助が街を飛び出して時以来こうして顔を合わせるのは久しぶりのことだった。

 

 

「……それ以外に誰に見える?ついに気が狂ったのか?死ぬのか」

 

「久しぶりだってのに随分とご挨拶だな、おい」

 

「……チッ。死なないのか」

 

「おい、何だその凄ぇ残念そうなのは!?」

 

 

冗談の一切感じられない彼の挙動にイラっとして声を荒げるが、逆に睨みつけられて何も言えなくなってしまう。

幼少時に植えつけられたトラウマはなかなか消えてはくれないらしかった。

 

 

「ま、まぁともかく、久しぶりだな、堀」

 

「……」

 

 

答えず、代わりに青年――堀はパタンとわざと大きな音を立てて本を閉じた。

無言のまま二人の視線がぶつかり合う。

誤魔化すような半笑いを浮かべた京助と、何の感情もない目を向け続ける堀。やがて耐えられなくなって目をそらしたのは京助だった。

嫌な脂汗が背中を伝ってきて非常に不快だったがそれどころではない。傍目には何の感情も浮かべていない堀ではあるが――何分、長い付き合いである。京助には彼の今の顔が般若以外のナニモノにも見えなかった。

京助が逃げ出す少し前、病院でひと悶着を起こした時のことを嫌でも思い出してしまう。思えばあの時、バンドを抜けると言った京助に一番怒りを顕にしたのは彼で、気まずさと申し訳なさで胃が痛くなってくる。

 

 

「いや、あの……」

 

 

弁明の言葉を探そうとするが、相変わらず堀は何も言わない。無言のプレッシャーに心が折れそうになる。

冗談ではない。これ以上、折れるわけにはいかないと、真っ直ぐに見つめて――

 

 

「すみませんでした!」

 

 

すぐに折れた。

実に器用に、点滴が刺さったままベッドの上に正座をしたかと思うと、そのまま土下座の姿勢に移る。

最早恥も外聞もない姿だった。

 

 

「……」

 

「あの……?」

 

 

相変わらずの無反応に耐え兼ねてそっと顔をあげて伺うと、堀はゴミを見るような目で一瞥を送って、吐き捨てるように

 

 

「……死ね。刺されて野垂れ死ね」

 

「いや、今の今まで死にかけてたんだが!?」

 

 

縁起でもなかった。

昔から事あるごとに投げかけられてきた彼の毒舌のレパートリーではあるが、今この場においては割と洒落になっていなかった。

 

 

「……いきなり行方不明になったかと思ったら、何の連絡もなく帰ってきやがって」

 

「あぁ、すまん」

 

「……かと思ったら、前触れもなく血まみれで人んちに転がり込んできやがって」

 

「あ?あー……え!?マジで?」

 

 

大喧嘩の後、病院で目が覚めるまでの記憶がない。

あんな人目につかないような路地裏で、よくもまぁ発見されたものだと、不思議には思っていたが……

 

 

「……誰が救急車を読んでやったと思ってる?霊柩車を呼ぶべきだった」

 

「いや、マジですまない。ってかありがとよ」

 

 

素直に礼を述べる京助だったが、対する堀はあいも変わらず不機嫌そうな無表情。

 

 

「しっかし、久しぶりにぐっすり寝たな。どれくらい寝てたんだ、俺は」

 

「……今日で五日目。一昨日の夜、高熱出して、ついに死んだと思った。てかおとなしく死ね」

 

「随分寝てたな……つーか、どんだけ俺を殺したいんだお前は?俺に何か恨みでもあるのか?」

 

「……逆に聞くけど、恨みがないとでも?」

 

 

――う゛ッ

 

京助は言葉に詰まってしまう。

やはり目の前の友人は自分のことを許してはくれていないらしかった。

それはそうだ。そうなって当然のことをしたのだからと――京助はうつむいてベッドのシーツを固く握り締めた。

もう、どの面を下げて彼の友人を名乗ることが出来るというのだろうか。

そうして黙りこくった京介を、堀は忌々しげに睨みつける。

 

 

「……変わったな、お前」

 

「え?」

 

「……変わり果ててる。興ざめだ。もとからクズだったのに、こんなクズの絞りカスみたいな奴、オレはもう知らん」

 

 

それだけ言うと、堀は他には何も言おうともせずに立ち上がり、出口へと向かって歩いていく。

 

 

「お、おい?」

 

「……地獄に堕ちろ」

 

 

振り向きもせずにいったその一言。

それを最後に、堀は振り向きもせずに京助の前から姿を消した。

残された青年は一人、静かになった病室の天井を仰ぐ。

 

――ざまぁねぇな

 

裏切って逃げ出して、そして夢を諦めて。

その未練にすがった挙句がこの様だ。さらには自分で捨てたかつての仲間に何かを期待して……

もう、滑稽や惨めを通り越して、自分をなんと表現していいのか分からなかった。

 

 

「タバコ、吸いてぇ……」

 

 

病み上がりの体が煙を欲していた。

紫煙とともに、何もかもを吐き出したかった。

変わり果てたと、かつての友は言う。自分はそんなにも変わってしまったのだろうか?

では、彼の言うかつての自分ならこんな時どうしたのだろう?

そう考えても思考は堂々巡りを繰り返すばかり。もとよりオガ屑が詰まっているようなこの頭では何を考えるにも適していないと、誰よりも知っているはずなのに。

 

 

「……考えるのは、苦手だ」

 

 

ぱん、と音を立てて自分の両頬を平手でひっぱたく。

にごりきっていた頭の中がほんの少しだけクリアになったような気がした。

もとより物事を考えられるほど頭は良くない。気になったことがあるのなら、それを解決する手立ては一つ。

自分以外の、頭のいい奴に聞くしかない。

幸いにして、その相手はまだ近くにいるのだから。

 

 

「ほいじゃ、いっちょいきますかね」

 

 

考えるよりも行動。

頭も顔も人並み以下だが、幸いにして行動力だけは人並みにはある。加えて失うものは、もう、何もない。

なら、出来ることはいくらでもある。

痛みをこらえてベッドを抜け出し、点滴の針を引っこ抜く。そして堀が持ってきてくれたのか、ベッドの下に置かれていた服に着替える。

ボロボロのスラックスにヨレヨレの開襟シャツ。

かつて仲間たちでデザインした上着が着替えに紛れ込んでいるのを見つけて、少し悩んだが袖を通した。

と、その時だった。

 

「津田ぁあああああ!!」

 

「げッ!?」

 

 

聞き覚えのある声、というか怒号。

振り返って見れば出入り口に立つ一人の男性――以前に入院していた際にも世話になった西木野院長の姿があった。

 

 

「貴様、また!」

 

 

般若の形相でずんずんとこちらに迫ってくる西木野医師の姿を見て、京助は知らず知らずのうちに冷や汗を流していた。

以前、何度も自主退院をしようとしてその度に怒られた記憶が蘇ってきて懐かしいやら申し訳ないやら、複雑な気持ちになる。

 

 

「いや、その……お久しぶりですね」

 

 

あの頃は若かった……そうしみじみ考える。あの時は若さゆえの反骨精神と暇つぶしで大分迷惑をかけたが、もう自分は良い大人。さすがにあんな真似は二度としてはならないと――思っていたが、そういうわけにもいかない。

今動かなければ後で後悔する。それこそ死んでも死にきれないような特大の後悔を。

そんな予感がした。

西木野医師にはあの時のことを一度きちんと詫びたいと思っていた。あの頃とは違って落ち着いた自分を見せるつもりだったが、それは次回以降になりそうだ。

 

 

「あの時は世話になりました。というか、申し訳ないことを……」

 

 

口では謝りながら、京助は周囲を伺っていた。

病室への唯一の出入り口は西木野医師によって塞がれている。

だが、何も逃げ道はそこだけではない……

 

 

「待て、何を!?」

 

「西木野先生、世話になりました!」

 

 

そう言って、窓を開け、間髪いれずに身を投げ出す。

半ばヤケクソだった。

ここが何階なのかも分からないままに、京助は窓から身を躍らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いてて……」

 

 

着地に失敗し、腰を強かに打ってしまった。

怪我にも響いて体中が余すところなく痛くて、泣き喚きたいくらいの気分だったが、それをどうにか意地でこらえて頭上を見上げると、何やら怒鳴り散らしている西木野医師と目があった。

半ば賭けだったが、どうやら自分が飛び降りたのは二階だったらしい。これが四階や五階だったらどうなっていたのかと、考えるだけで恐ろしい。

 

 

「男には、命の賭け時ってもんがあるんだよ!」

 

 

吐き捨てるように呟いて立ち上がると、よろよろと歩き出した。

あんまりのんびりしていると、いつ追っ手がかかるかも分からない。

そして、門のところまできたところで、

 

 

「……え゛?」

 

 

背後からやってきたバイクにまたがった男が京助に気づいて素っ頓狂な声を上げた。

彼はじっと京助のことを見つめていたかと思うと、ヘルメットのバイザーを上げて素顔を顕にする。

それを見て、京助はにんまりと笑顔を浮かべた。

 

 

「よう、また会ったな堀」

 

「……待て。何でお前がここにいる?さっきまで病室にいたよな?」

 

「あー、っと。話すと長くなるんだが……」

 

「待て、津田!そこの人、その薄らバカを捕まえてくれ!」

 

「やべっ」

 

背後から迫る西木野医師の声を聞いて、京助は真顔に戻ると徐に堀のバイクの後ろにまたがった。

 

 

「……おい!何すんだ!?」

 

「行ってくれ!特急で頼む!」

 

「……は?はぁ!?」

 

「いいからさっさとしやがれ!!」

 

 

京助にすぐすぐ後ろから怒鳴られて、堀は反射的にアクセルをふかした。

バイクは急発進し、彼らの背後10mに迫っていた西木野医師からどんどん離れていく。

 

 

「あばよ、先生。達者でな!!」

 

「待て、この……クソガキ!!」

 

 

西木野医師の口汚く罵る声を背に受けて、京助は大声で笑い出していた。

はたから見たらとんでもなく頭の悪い行動。しかし、久しぶりにやる常軌を逸した無茶苦茶は、とんでもなく気持ちよかった。

 

 

「……何がそんなに可笑しいんだよ?」

 

 

ハンドルを握る堀が、呆れと若干の怯えを含んだ声で京助に問いかける。

 

 

「いや、だってあの西木野先生が“クソガキ!”だぜ?いや、あんなの滅多に見れねぇって!……ッはははは!ダメだ、思い出すだけで笑えてきた!」

 

「…………お前は今度、頭の病院にいけ」

 

 

心底忌々しそうに呟く堀だったが、言われた方はあっけらかんとして笑い続けていた。

そんな昔の仲間の様子に、堀はため息をつく。

昔からこの頭のおかしい友人はこうだった。誰も思ってもみないような馬鹿なことをして、一人で散々空回って、その挙句には誰かを巻き込んで被害を拡大させる。

本当にどうしようもないとんでもない奴。

それでも堀が友人を続けてきたのは――

そこまで考えて、彼はその続きを考えるのをやめた。

ちらりとミラーに写ったかつての友は、しかし以前の彼とは明らかに違って見えた。

何かが吹っ切れたようにバカ笑いを続けるの、以前から見慣れていた様子。しかし今の彼は何かを吹っ切ろうと精一杯に虚勢を張っているように見えた。

昔に戻ろうと、無理をしているようで見ていて気分が悪くなってくる。

 

 

「……で、どこに行けばいい?お前の家か?」

 

「そうだな……」

 

堀が尋ねると、京助は笑うのをやめて何かを考えるかのように間を置いた。

やがて京助は閃いた、とでも言うように、

 

 

「とりあえず腹減った。どっか飯行こうぜ!」

 

 

ミラーに写った彼はバカみたいな笑みを浮かべていた。

 




こんばんは、北屋です。
本編再開となります。


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第三十三話 All You Need Is ……

「……あ!おねーさん、チョコレートパフェとバナナパフェ、それからイチゴサンデー追加で!」

 

 

大盛りのスパゲティを半分ほど平らげたところで京助はウェイトレスに次の注文をしていた。

かつての友人と二人きり、久しぶりに顔を突き合わせたというのに、ファミレスに着いてからというもの二人の間に会話らしい会話は存在しなかった。

もちろん、堀がもとより言葉数の多い質ではないのも原因の一つではあるのだが、現状を作り出しているのはどう考えてもそれだけが原因とは言えなかった。

 

 

「……お前な」

 

「んあ?」

 

 

ゲンナリとした表情で堀は京助の前にうずたかく積まれた食器の数々に目をやる。

タラコスパゲティにハンバーグセット、ミートドリアにシーザーサラダ。大盛りのフライドポテトふた皿、そして今現在手をつけているスパゲティナポリタン。

これらは全て京助がファミレスに着くなり注文して、たった一人で平らげてきた料理の数々だった。

 

 

「悪ぃ、話ならちょっと待ってくれ。流石に五日も六日も飯食ってないと血が足りねぇや。……ドリンクバー行くけど何かとってくるか?」

 

「……いや、いい」

 

 

手元のコーヒーと食べかけのグラタンを見て、堀は深いため息をついた。京助の異常な食べっぷりに押されて、彼はすっかり食欲をなくしてしまっていたのだった。

 

 

 

 

 

「ふぅ……ようやく落ち着いたぜ」

 

 

パフェの類を片付け、本日五杯目となるメロンソーダを飲み干したところで京助は晴れ晴れとした様子で一息をついた。

対する堀はこの世のモノではないモノをみるようにドン引きして、

 

 

「……お前、大丈夫か?満腹中枢イカれてんじゃないのか?」

 

「いやいや、さっきも言ったが五日ぶりの飯だぜ?合計15食、おやつなんかも含めればそれ以上食いそびれてんだ。誰だってこうなるって……おねーさん、カツ丼お願いします!」

 

「……まだ食うのか!?」

 

 

最早デザートがデザートではなくなっていた。

 

 

「いや、落ち着いたから話は出来るさ。その……なんつーか、さ」

 

 

本日三杯目となるコーヒーに口をつけながら申し訳なさそうに切り出す。

だが、彼の口調に以前――彼がまだ夢をおっていた頃の勢いはなく、その態度が余計に堀をイラつかせていた。

うじうじと言いづらそうにしていると、見計らったかのようなタイミングで、

 

 

「あ、きたきた。……ふぉのことのにかんひては、ふぉれも……ひゃふふぁにわるふぁったと、」

 

「……食いながら話すな!食うか喋るか死ぬかどれかにしろ」

 

「んぐっ……その選択肢、何か一つ違うの混じってるよな?まぁいいや、ちっと待て」

 

 

届いたカツ丼をかき込んで水を飲み、大きく一息。

ようやく落ち着いたのか、京助はゆっくりと重い口を開いた。

 

 

「あの……なんていうか、あの時は、その……」

 

「……言っとくけど、あの時のことを許すつもりはない」

 

 

間髪いれずに発せられたその言葉。

短いそれに、京助は再び口をつぐんでしまう。

それは京助の心をえぐるのに十分な一言だった。以前の野間との再会で得た許しを、もしかしたら彼にも――彼ら全員に期待していたのかもしれない。

この世にそんな都合の良い話などないと、一番よく知っているはずの身だというのに。

 

 

「……お前は、俺達を裏切った」

 

「……」

 

「……俺達の夢を始めたのは、お前だった」

 

 

唐突に、堀が語りだす。

 

 

「……お前がバンドをやろうなんて言い出した時はびっくりした。音楽の才能なんて一切ない、死ぬほど不器用なお前がそんな事言うなんて、誰も思わなかった」

 

 

当時のことは、正直京助はあまりしっかりと覚えていない。

やりたいと思った、だから実行に移した。ただそれだけだったのに、その道は思ったよりも険しくて、常に必死で無我夢中だった。

 

 

「……実際、俺は、最初はのる気はなかったよ。野間も、橘川もそうだ。それをお前は、力づくで引っ張って、無理矢理巻き込みやがって……そのくせ、いざ始めてみたら一番下手くそなのはお前なんだから始末に負えない」

 

 

手始めに仲の良かった友達を夢に巻き込んだ。

当時からギターを得意としていた堀を始め、長年の腐れ縁で巻き込んだ野間と橘川。

全てはそこから始まった。

やがてピアノが上手い伴瀬が面白がって参入して、そして最期に、歌に夢を見出していた彼女が加入……

6人で過ごす日々は忙しくも楽しかった。

 

 

「…………あれはあれで楽しかったよ。お前の夢に引っ張られるうちに、お前の夢は俺達の夢になったんだ。それを、お前は……」

 

 

恨みのこもった目で堀は京助を睨みつける。

 

 

「……お前は、俺達の夢を途中で投げ出した。許されると、思うなよ?」

 

 

今度は、京助も目をそらさなかった。

言い訳もしない。許しを乞うこともしない。ただ、己の罪を認めること――それだけが京助に出来るただ一つのこと。

 

 

「……で?お前が俺と話したかったことは何だ?もし、本当に俺に許して欲しいって、それだけなら――今度こそお前とは絶交だ」

 

「っ」

 

京助は思わず息を飲んだ。

今度こそ絶交……それはまだ、彼は自分を友達として見ていてくれているということだろうか?

ただの言葉のあやだったのかもしれないが、それでも京助はほんの少しだけ心が軽くなるのを感じた。

 

 

「別に許しを乞おうなんてつもりはねぇよ」

 

 

目を閉じて、呟く。

 

――そうだ。

 

許されるなんて、思っていない。ならば許しを乞うつもりはない。

自分がしたかったのは……言いたかったのは、

 

 

「だけど……すまなかった」

 

 

ただ一言。

一言だけ、彼らに謝りたかった。

それはただの自己満足なのかもしれないが、それでも言わずにはいられない。

京助は、先日の店での一件を思い出していた。

大切なことを抱え込んで、一番の友達に相談できなかった彼女のこと。

認めるのが怖くて、嘘をつき続けた自分のこと。

その結果がどうなったのか、身にしみて分かっている。言いたい事、言わなくてはならない事を先延ばしにし続けて――その先には何もなくなった。

恐らく、ことりと穂乃果達は今までのような親友には戻れないだろう。

そして自分は、にこに合わせる顔がない。

一度タイミングを逃しただけで、そこで終わり。二度と取り繕うことは出来なくなってしまう。二十年も生きてきて、ようやく気がついた自分は愚か者だ。

 

 

「……気色悪い」

 

 

冷たい目で堀が言う。

 

 

「……お前がそんな風に畏まったり、真面目ぶると寒気がする」

 

「おい」

 

「…………謝罪は受け取っておく。さっきも言ったように許す気はないけどな」

 

「あぁ、それで良い」

 

 

最初から今までずっと仏頂面だった堀。その口元に、うっすらと――小さな微笑が見えたような気がした。

だからなのか、京助も僅かに微笑む。それは長年背負い込んできた肩の荷が、ほんの少しだけ下りたかのようだった。

そして、京助はポケットを漁りはじめる。

残り少なくなったタバコを取り出してみれば、潰れてひしゃげてひどい有様だった。げんなりしながらもそれを咥えてライターをこすって、ともった火を先端に移す。

ひと呼吸。口腔から肺にかけて満ちていくラムの香りが、何故か懐かしい。

――俺は、生きている

まさかタバコでそんなことを実感するとは思わなくて、我がことながら苦笑しか浮かばない。

 

 

「……それはそうと、お前いい加減に俺のアコギを返せ。ついでに代わりに俺の家に置いて言ったエレキをさっさと引き取れ」

 

「え?……あ!すまん、忘れてた!」

 

 

堀に言われてようやく思い出す。

部屋の片隅におかれ、今でもちょくちょく弾いたりしてるアコースティックギターは、目の前にいる青年から借りたもの――すっかり忘れてそのまま私物化してしまっていた。

 

 

「あ、あぁ。すぐに返す。……なんつーか、すま……っ!」

 

 

京助は決まりが悪そうに煙をもう一度思い切り吸い込んで、

 

 

「……!おい、どうした?」

 

「ッ!グッ、ゲホッゲッ……!」

 

 

久しぶりのタバコにむせたのか、こらえきれずに咳き込む。

息ができなくなるほど、ひとしきりむせた所で、京助は涙目で顔をあげて、

 

「いや、何でもない。ちょっと最近風邪気味でな……」

 

「……いや、今の咳、風邪にしては……」

 

 

堀は何か言いたそうに眉間に皺を寄せる。しかし、彼のつぶやきの後半は京助の耳には届かなかった。

 

 

「さて、と……腹もいっぱいになったし、そろそろ帰るかね――眠くなってきちまった」

 

「……勝手なやつだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……これから、どうするんだ?」

 

 

店を出ると同時に、徐に堀は尋ねた。

対する京助は一瞬きょとんとしたような顔をしたかと思うと、何かを考え始め、やがて険しい顔でうなり声を上げ始めてしまう。

 

 

「あー……本当は、しばらく街に居座るつもりだったんだが――」

 

「……だが?」

 

「ちと、面倒な事になっちまってな」

 

「……いつも通りだな。どうせまた、いらんことに首つっこんで引っかき回したんだろ?死ね」

 

「ナチュラルに罵倒を混ぜるな。サブリミナルでも狙ってんのかお前は……まぁ、大体あってるよ。そんな訳で、また―――流れてみようかと思ってる」

 

 

今の今まで忘れていたが――忘れたフリをしていたが、そんなものではごまかせるモノではなかった。

つい先日、それこそ一週間も経っていないあの日のこと。

友達に相談することも出来ずにいた少女に、間違ったアドバイスを与えてしまったのは誰だったのか。

助けを求める少女の手を、振り払って逃げたのはどこの誰か。

隠し事と嘘、その末に少女の夢にケチをつけたのはどいつなのか。

 

――全部、自分のことだ。

 

こんなことになるのならば関わらなければ良かったと、心の底から思う。

今更、どのツラ下げて彼女たちに会うことが出来るのものか。

 

 

「……ふん。また逃げるのか」

 

 

京助の心中など知らず、堀は何の感情もこもらない声音で告げる。

彼はそれに頷くことも、首を横に振ることもしなかった。

 

――本当に、このままでいいのか?

 

自分の心が、そう問いかけてくるのが聞こえた。

 

 

「さぁ、な……あばよ、堀。会えて良かった」

 

 

疑問を振り払うかのように、京助は友人に背を向ける。

そして、二度と振り返ることはなく、彼はゆっくりと歩き出す

 

 

「……おい、クズ野郎!」

 

 

さり際に、背中に声がかけられた。

 

 

「……お前はバカなんだから、考えても無駄だ。何か悩みがあるなら、いつも通り、思ったように行動しろ」

 

「ッ」

 

「……ただし、俺達を巻き込むな。じゃあな」

 

 

バイクの音が遠ざかっていくのが聞こえた。

 

――そういえば……

 

ふと思い出す。

仲間たちのもとを逃げ出したあの時、ロクな別れの挨拶もできなかったことを。

何も言わず、何も言えずに一人で飛び出して――それが結局この体たらく。

もう、何もかも通り越して笑えもしない。

 

……と。

 

――本当に、これでいいのか?

 

 

「ちっ……」

 

 

またしても問いかけが聞こえた気がした。

その答えを考えたくなくて、京助は何も考えないようにしながら足を早める。

自分がどこに行こうとしているのか、それさえも分からずに、がむしゃらに足を動かしていく。

そして、

 

 

「おい、マジかよ……」

 

 

気がつけば、石段を上っている自分がいた。

地元で一番大きく有名な神社、そこはμ’sの彼女たちが練習に使ったこともある場所。

逃げ出そうとしているのに、何故自分はこんなところに足を運んでしまったのか。

あるいはまだ彼女達のことを気にしているのかと――そう思って余計に自分が惨めになった。

 

 

「ちっ……最後くらい、挨拶してやるか」

 

 

ポケットから取り出した五円玉を握り締め、賽銭箱の前に立つ。

時刻は夕暮れ間近、周りに時分以外の人影は見えない。

 

 

「……結局、俺は何も出来ねぇのかよ」

 

 

彼にとって、今のこの神社の静寂はむしろありがたかった。

拝殿に向かって、しかしうつむいたままで彼は呟く。

それは懺悔にも似ていた。

 

 

「才能がないことは知ってたさ。それでも人並み以上の努力をすればどうにかなるって、そう信じてたよ」

 

 

目を閉じて、過去を振り返ってみる。

散々走って、転んでは立ち上がってを繰り返す、せわしない日々だった。目標を見つけてからは、夢を追いかけてそんな毎日を繰り返すのが楽しかった。

 

 

「だけど、無理だった。何も出来ないまま、逃げて逃げて、挙句の果てには一回逃げ出した地元にまで逃げ帰ってきて……ホント、情けねぇよな」

 

 

いつからだろう。

夢を追う事が苦しいと感じるようになったのは。

傷ついて倒れて、へし折れそうな心を無理矢理支えてまた起き上がる。そのくり返しで前に進むことのできない日々は、確実に京助を蝕んでいく。それは、彼の魂を錆びつかせるには十分過ぎた。

 

 

「……でも、最近はそんな生活もちっとはマシに思えてたんだ」

 

 

今度思い浮かぶのは、逃げ帰ってきてからのことだった。

勝手に押し付けられた面倒事に辟易する毎日だった。

ようやくそんな毎日に納得し始めた頃に出会ったあの子達。

最初は面倒くさくて仕方がなかった。頼むから放って置いて欲しいと、何度願ったことか。

拒絶するのも面倒くさくて、適当に口出しをしたのが運の尽きで、気がついたら彼女達に振り回されてばかりの日常だった。

倦怠の中、灰色にそまった視界に、無理矢理色をつけられた気分――だがそれは案外に悪くはなかった。

 

 

「あの、無茶で無謀で、危なっかしくて見てられない小娘共を見てたら、俺にもまだ出来ることはあるんじゃないかって、そんな風に思っちまったよ。……俺の夢は終わったけど、この夢の残骸でも、あいつらの踏み台代わりに使えるなら意味はあったんじゃないかって……」

 

 

それも結局失敗だった。

結局自分に出来る事など何もなくて、全部が全部無駄だったと、そう痛感しただけだった。

今までの努力も、何もかも無駄だった。所詮夢を叶えることなんて自分には無理だった。

もう、思い残すことは何もない。

 

 

「……そうだ」

 

 

否。

一つだけ、

 

 

「もし神様とやらが本当にいるのなら――後生だ。ちょっとで良いから、あの子達のことを見守っててやってくれ」

 

 

最後にそれだけ言って、京助は握り締めた五円玉を賽銭箱に放り込んだ。

金色の硬貨は嫌にゆっくりと弧を描き、そして、

 

 

「……チッ」

 

 

舌打ちを一つ。

京助の投げ入れた五円玉は賽銭箱の端に当たって弾かれてしまう。しばらく地面の上をはねていたかと思えば、やがてころころと転がって彼の踵にぶつかって動きを止めた。

 

――お祈りさえ拒否されるか……

 

運にも天にも見捨てられた。最早笑えもしない。

放っておくのも気が引けて、しかしかと言って一度出した賽銭を引っ込めるのも癪に障る。一応拾い直してはみたものの、どうすればいいのかと五円玉を見つめていると、ふと彼の耳に聞こえて来る声がある。

先程まで誰もいないと思っていた境内、だが間違いない。なぜならそれは今、京助が聞きたくない人間の声だったのだから。

 

 

「かよちん、遅いにゃー」

 

「ごめん……久しぶりだと体がなまっちゃうね」

 

 

聞き覚えのある声。

もう二度と関わるまいと、そう思っていたはずなのに、体は彼の思いとは逆に動き始める。そっと祭務所の建物の影から覗いてみれば、そこには思った通りの二人がいた。

星空 凛と小泉 花陽。

練習着を着て息を切らしている姿から見て、彼女たちがスクールアイドルの練習を続けていることが見て取れた。

 

――だが、何故?

 

μ’sの活動は休止、解散さえ危ぶまれていると聞いている。それなのに、何故彼女たちは練習を続けているのか。

彼女たちに問いかけてみたかった。

 

 

「あれ?穂乃果ちゃん?」

 

 

凛のセリフに驚いて、もう少しだけ顔を出してみると、丁度穂乃果が石段を登りきるところだった。

思えば彼女の姿を見るのは店での一件以来となる。久しぶりに見る彼女は、彼の知らない顔をしていた。持ち前の明るさはどこへ行ったのか、悩みを抱えた浮かない顔だった。

京助は耐えられずに俯いてしまう。

彼女のそんな顔なんて、見たくなかった。

 

 

「練習、続けてたんだ?もうμ’sは……」

 

 

目を背けてみても、声だけは彼の耳に届いてくる。

穂乃果の言ったそれは、京助が聞きたかったことでもあった。

何故、まだ続けるのか。

だが、その問いかけに答えるのは凛でも花陽でもなかった。

 

 

「当たり前でしょ?」

 

 

更に別の少女の声が聞こえて、京助は思わず顔を上げる。

彼の目線の先に立つ、小さな少女の姿。

 

 

「……ッ」

 

 

一瞬、息が止まりかけた。

今、一番会いたくない人物が――合わせる顔のない人物が間近にいるのだから。

 

 

「?」

 

 

「どうしたの、にこちゃん?」

 

「……何でもない。それよりも穂乃果」

 

 

にこが振り返る刹那、京助は再びその体を建物の後ろに引っ込めて隠れていた。にこはまだ何か気になっているようではあったが、穂乃果に向き直って、先ほどのセリフの続きを話し始める。

京助はその場を立ち去ろうと思いながらも、動けずにいた。にこが、穂乃果の問いかけにどのように答えるのか、それが知りたかった。

盗み聞きなど悪趣味もいいところと、自嘲気味に、しかし耳をそばだてて京助はにこの言葉を待つ。

 

 

「好きだからよ」

 

 

――っ!

 

にこの言葉に京助は息を飲む。

 

 

「にこはアイドルが好きなの!みんなの前で歌って踊って、そしてみんなを笑顔に出来る。そんなアイドルが好きなの!だから私は諦めない、私は絶対……!」

 

 

それは穂乃果への返答であると同時に、宣言でもあり、そして穂乃果への問いかけでもあった。

自分は、何があっても夢を追い続ける。では、お前はどうするのか。

そう問いかけているように聞こえたのは錯覚だろうか?

さらに、にこは続ける。

 

「あんたやあの人みたいな、いい加減な好きとは違うの!」

 

「違う、私だって……!」

 

――違う、俺は……!

 

 

穂乃果のセリフと京助の心の声が一致する。しかし、その続きを言葉にすることは穂乃果にも京助にも出来なかった。

 

 

「何が違うのよ。やめたのも諦めたのもあなたでしょ?」

 

 

祭務所の外壁に背中を預け、やがて京助は力なくその場にしゃがみこむ。

彼女のセリフは別に京助に宛てた物ではないが、その言い分に、言い返す事も、言い訳を考えることも出来なかった。

一言一言が胸に突き刺さって、本当に血が出るのではないかというほどに痛む。

この場から一刻も早く逃げ出したい。だが、体が言うことを聞いてはくれなかった。

 

 

「……にこちゃんの言う通りだね。邪魔しちゃって、ごめんね」

 

 

寂しげに、そう言って穂乃果は踵を返す。

彼女たちの会話が丁度よく終わってくれたのにほっとして、京助はゆっくりと立ち上がる。これ以上この場にいたら本当にどうにかなってしまいそうだった。

これが最後。

そう思って京助はそっと気づかれないように物陰から彼女達を覗き見る。すると、去りゆく穂乃果の背中に花陽が駆け寄って声を駆けるのが見えた。

 

 

「穂乃果ちゃん。今度、私たちだけでライブやるんだけど、よかったら……」

 

「穂乃果ちゃんが来てくれたら盛り上がるにゃー!」

 

「え……?」

 

 

困惑する穂乃果を見かねたのか、にこが、しかし穂乃果の方を見ずに、

 

 

「絶対来なさいよ。あんたが始めたんだから」

 

「……うん」

 

 

小さく頷いて、今度こそ彼女は石段を下り始める。

それを見届けて、京助も顔を引っ込める。

もうこれ以上、この場所に留まり続けるのは心が限界だった。

彼女達に気づかれないように、こっそりと神社を脇道から抜けて出ていく。

彼の手の中には、まだ五円玉が握られたままだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そうだ!今度のライブ、おじさんも呼ぼうよ!この間、海未ちゃんがμ’sの活動停止の事伝えたら物凄く落ち込んでたって言うし、ここは凛達が励ましてあげなきゃ!」

 

「それいいね!きっと喜んでくれるよ!……でも、どうしよう?この前からお兄さん、学校にも来ないし、お店もしまったままだよ?」

 

「うーん……希ちゃんも電話とかメールしてるみたいなんだけど、繋がらないんだって。にこちゃん、何か聞いてない?」

 

 

凛の問いかけに、にこは答えない。

答えないまま、黙って微かに顔を俯ける。

 

 

「にこちゃん?」

 

「……別に。何も聞いてないわよ」

 

「?」

 

 

不思議そうに首をひねる凛の前で、にこはぎゅっと唇を噛み締めていた。

その表情は、どこか寂しそうで、辛そうで――

 

 

「……にこちゃん、もしかしてお兄さんと喧嘩したの?」

 

「え!?な!そんなわけないでしょ」

 

 

何かを感じ取ったのか、花陽が尋ねると、にこは否定こそすれどまさに図星とでも言うように慌てふためき、そしてすぐに落ち着きを取り戻すと、

 

 

「そんなんじゃ、ないわよ」

 

「にこちゃん、おじさんと何かあったんだ?」

 

 

凛の問いかけに、今度はいくら待っても彼女は答えなかった。

花陽も今度は何も言わない。

誰も何も言わないまま時が経ち、ついに根負けしたのかにこがイライラした様子を隠そうともせずに語り始めた。

 

「喧嘩、ではないわよ。あの人、私達が何言っても本気で怒ったことないじゃない。喧嘩になんてなるもんですか」

 

「じゃあ、どうしたの?」

 

「……別に。ただちょっと――ちょっとだけ、ひどい事言っちゃったかなって。あの人にも何か事情があったかもしれないのに、ぞれを考えもしないで……私もまだまだガキね」

 

 

小さなため息とともにそう締めくくる。

 

――悪いこと、しちゃったな

 

にこが最後に呟いたその小さな一言を凛と花陽だけが聞いていた。

だが、それは肝心な人物の耳には届くことがなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

帰り道。

彼女達のことをぼんやりと思う。

にこはまだ夢を諦めずに進んでいる。これからもきっと彼女はそうするのだろう。

凛と花陽もそうだ。新たな道を見据えて、まだ進むことを諦めてはいない。

 

 

――本当に、これでいいのか?

 

 

またしても声が聞こえた。

 

穂乃果もそうだ。

にこや凛、花陽との短い会話の中で、彼女の空気が変わるのを感じた。にこの言葉に返しかけた『否』の一言。

そこにはまだ進もうとする思いが感じられた。まだ先に、もっと先に、立ち止まらずに進んでいきたいという思い。

だが、まだそれは決断には至れていない。

踏み出すには後一歩、小さなきっかけとプラスαが必要だと、そう思った。

 

 

――本当に、これでいいのか?

 

 

最後に、もう一度。

 

 

「良いわけ……ねぇだろ!」

 

 

五円玉を握ったままの右手を強く握りしめて、力の限りに電柱を殴りつける。

拳が割れて、滴る血がやがて地面を濡らしていく。

赤く、朱く――燃える炎の色。またしても灰色に染まりかけた世界に、色が戻ってくる。

 

 

「落とし前もつけずに、逃げられるかってんだよ!」

 

 

人知れず、京助は吠えた。

心の片隅でくすぶっていた何かが、最後の輝きを灯すのを感じた。それはやがて心のみならず、魂までも燃え上がらせていくようだった。

 

穂乃果の決断のための小さな切欠。それはもちろん自分の役目ではないことは知っている。

最後に彼女の背中を押すものは、こんなロクデナシではなくてもっと相応しい人間が――頼れる仲間達がいるのだから。

ならば自分に出来ることは何か?

 

そんな物は分からない。

 

だが、自分がやりたい事は分かった。

友が言ったように、考えるだけ無駄、思ったように行動するだけだ。

そこに理由なんていらない。

だが、強いて何か理由をつけるならば、それはきっと、あの少女の言葉が全ての答えなのだろうと、京助はそう思った。

 

夕焼けにふちどられた孤影をつれて、青年は歩き出す。

その歩みに、今までのような迷いはわずかも感じられなかった。

 




こんばんは、北屋です。

大分遅くなりましたが、どうにかこうにか更新できました。
ともあれ、ようやく主人公復活の流れです。

次回、
少女の思いが届く時、灰衣の勇者は再び立ち上がる!

……はい、すみません。ふざけすぎました。

では、次回もお付き合い頂ければ幸いです。


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第三十四話 Revolution

「とは言ったものの……」

 

 

帰ってきた自室の中、先ほどまでの勢いはどこにいったのやら、困ったような表情を浮かべてだらしなく椅子に腰掛ける。

あの少女たちのために何かをしてあげたい――その思いはまだ胸の中に確かにある。だが、具体的に何をすれば良いのかを考える段になって、京助は冷静を取り戻した。気持ちばかりが逸ってしまって危うくまたしても学校に突撃をかますところだった。

一先ず気を落ち着けようと、愛飲するタバコに火を点けて、キッチンからとってきたグラスにたっぷりとウイスキーを注ぐ。

酒はロックと決めていたが、今は常温ストレートで一杯やりたい気分だった。

 

 

「さて、と」

 

 

酒を舌の上で転がしながら、京助は久しぶりに携帯を開いてみた。

案の定大量のメールや着信履歴があり、連絡なしでしばらく仕事を休んでいた事実に胃が痛くなる。

最早申し開きが利くとは思えない。下手をすれば購買の仕事がなくなるかもしれないと、そう思いながら着信履歴をさかのぼっていき……

 

 

「……これは」

 

 

思わず絶句した。

学校からと思われる着信の他に、その履歴を埋めるのはある見慣れた名前。恐る恐るメールの受信フォルダを開いてみれば、案の定そちらにも数え切れないほどの同じ名前からの連絡が入っていた。

電話なりなんなりをこちらからするべきか――そう考えると、余計に胃が痛くなってくる。そろそろ胃に穴が空きそうな気さえした。

無意味に唸ってみたり頭を抱えてみたり悩みに悩むこと数十分、ようやく決心がつきかけてその人物に電話をかけようと、画面にタップしようとして、

 

 

「うおぉっ!?」

 

 

不意に着信の音楽が鳴り始めて思わず携帯を放り投げた。

ディスプレイに表示されるのは見知った名前。入院中に何件も連絡をいれてきていたある少女のものだった。

彼一人しかいない静かな部屋の中に鳴り響く『ワルキューレの騎行』……不穏極まりない着信音が相まって電話に出るのを躊躇ってしまう。

このままやり過ごそうかと、一瞬そんな考えが頭をよぎったが、諦めて携帯を拾い上げる。

これ以上逃げるのは癪だった。

 

 

「……はい、津田です」

 

『あー!!津田くん、ようやく繋がった!!』

 

 

大声に思わず携帯を耳元から遠ざけてしまう。思えばこの少女がこんな大声を出すところに遭遇するのは初めてかもしれなかった。

 

 

「よう、元気にしてたか、エセ関西娘?」

 

『それはウチのセリフ!!何べん電話してもでぇへんから心配したやん!』

 

「それは……すまなかったな」

 

 

普段通りの軽い対応。しかし自分はちゃんとそれを演じきれているだろうか。

どれだけ取り繕ってみたところで中身は変わらない。奮い立たせてみても一度怖気づいた心は相変わらずで、ことここに及んでまだ逃げ出したい思いが残っている。

それでもなお希と……μ’sの一員と話していられるのは、京助に残された最後の意地のおかげだった。

 

 

『連絡はつかないし、最後に見た時はえらい落ち込んでたし、海未ちゃんが会ったときも憔悴仕切ってたって言うし……大丈夫なん?』

 

「あぁ。大丈夫だ、問題ない」

 

 

場にはそぐわないとわかっていながら、京助はうっすらと苦笑を浮かべていた。

大丈夫かと――そう問いたいのは彼の方だった。

彼女が本当に心配すべきは、μ’sのことで、友達のことで、彼女自身のことのはずなのに、どうしてこんなロクでもない人間のことを心配してくれるのか。

 

 

『それならえぇけど……今まで何しとったん?』

 

「別に何も。タバコと酒かっ食らって自棄起こして喧嘩して怪我して、寝込んで飯食って、またタバコと酒かっ食らってただけだ」

 

『――』

 

 

電話口の向こうで希が絶句するのが分かった。

自分で言っておいて、あまりにもアレな返答だとは思うが事実なのだから仕方がない。

 

 

『まぁ、良いや……ともかく元気そうで良かった』

 

「俺が元気でお前が喜ぶ道理はねぇんだがな……それで、何の用だ?」

 

『別に用ってわけじゃないんやけど……心配になったから連絡しただけ』

 

「……それだけ?」

 

 

京助は拍子抜けしたような声をあげた。

てっきり、μ’sの現状について何か相談でもされるのかと身構えていた。

 

 

『うん、それだけ。うちが友達の心配しちゃ悪いん?』

 

「誰が……いや。そっか」

 

 

誰が友達だと、そう言い返そうとしてやめた。

彼女がそう思っているなら、あえて拒絶する意味もない。

 

 

『うん。安否も確認出来たし、要件はこれだけなんやけど……本当に大丈夫?』

 

「あぁ、俺は大丈夫だ。それよりそっちこそ大変なんじゃないか?その……」

 

 

μ’sのこと。

それを聞こうとして、言葉が喉に詰まった。

聞いてどうするのか、聞いて何が出来るのか。まだ悩みは残っている。

 

 

『うちらなら大丈夫やよ』

 

 

京助の心配を見越したかのように希は短く告げた。

 

 

『きっと、大丈夫。カードだってそう告げとるからね。それより津田くんは自分の心配せなあかんよ』

 

「……そっか」

 

『要件は、それだけ。忙しいところごめんな?ほな、また』

 

「謝るくらいなら電話すんなっての。また……いや、ちょっと待て」

 

『え?』

 

「ちっと聞きたいんだが……」

 

 

聞いて何ができるのかは知らないが、それでも聞かなければならないことがあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

通話の終わった携帯を机の上に放り投げて、京助はぼんやりと手元にあったコンポのリモコンを操作した。流れてくるのは彼が一番好きなバンドの音楽。

聞こえて来るギターの旋律に耳を傾けながら、京助は両手で顔を覆った。

人のことより自分の心配をしろと、そう言いたかったのに逆に彼女に言われてしまって少々自己嫌悪に陥る。

 

 

「大人が子供に心配されてどうすんだよ……」

 

 

子供の心配をするのは大人の仕事。

だというのに子供に逆に心配されてしまっては京助の立つ瀬がなかった。

自分は思っている以上に子供なのかもしれない。

いや、散々迷いに迷って逃げ出して、それでもなお惨めったらしくもがき続ける身で大人を名乗るのは些か無理があったのかもしれない。

 

 

「あいつら、助けてとは言ってないんだよな……」

 

 

タバコに火を点けて、京助は呟く。

今までそう長くはない間ではあるが、彼女たちを間近で見てきた。時にはアドバイスじみたことをしてみたり、何か差し入れをしてみたり。景気づけに一曲弾き語ってみたこともあった。

助けてと頼まれたからでもない。別に感謝されたくてしてわけではない。

何でそんなことをしてきたのか、それは突き詰めれば自分のためだったのだろう。

今まで夢の為に色々な物を投げ出してきた。才能はなかったが、そんなもので自分の価値を決められたくなくて、いつか努力は才能を超えられなくとも、並ぶことは出来ると、そう照明したかった。

結局それはただの徒労に終わってしまったが……

でも、それをただの無駄だと切り捨てるのが怖かった。今までの努力が無駄だとするならば、自分の生きてきた人生はなんだったのか。

怖くてたまらなくて、せめてそれがただの無駄ではなかったというちっぽけな言い訳が欲しかった。

彼女達の成長や成功の為に、踏み台替わりにでもなるのであれば、自分の努力はその為のものだったのだと納得出来ると思ったから――

 

 

「……違うな」

 

 

紫煙を吐き出して、ぼそりと否定する。

自分の為、ちんけな言い訳のため。それも嘘ではないけれど、それだけではなかった。

彼女たちに自分を投影していたのも認めるが、だからといって彼女達の成功で、自分の成し得なかった夢に満足しようなんて思える程、京助は落ちぶれてはいなかった。

京助が彼女達に肩入れするのはもっと単純でもっとみみっちい理由。

かつて自分がしてしまった失敗を、夢を成し遂げられなかった無念を、彼女達には経験して欲しくなかっただけだ。

彼女達とのことを思い返してみる。

最初に会った時はただひたすらに面倒で仕方がなかった。まとわりつかれるのは正直いって迷惑だったし、頼むから放っておいて欲しいとさえ思った。だけど彼女たちが大きな目標を持っていることを知って、興味を惹かれてしまった。その姿がどこか自分の過去と重なって、柄にもなく何かしてあげたいと思った。

そして気がつけば身近にいるのが当たり前になっていて、放っておくことができなくなった。

放っておけないくらい、大切になっていた。

例えるならばそう、まるで手のかかる妹がいっぺんに9人も出来たような気分。

 

 

「……あの子達の事が、好きなんだ」

 

 

絶対に人前では言えないセリフだった。

穂乃果個人ではない。海未でもことりでもない。真姫でも凛でも花陽でもなければ、にこや絵里、希でもない。

彼女達全員を含めたμ’sのことが好きなのだ。

 

――何だ、結局俺もガキなんじゃないか

 

そう考えて京助は口元を歪めた。

やがてそれは微苦笑にとどまらず、京助の口から大きな笑い声となって溢れ出す。

ひとしきり腹を抱えて笑い倒して、彼は涙を拭ってゆっくりと椅子から立ち上がった。

ようやく、ようやくやっと踏ん切りがついた。

 

 

「さてと……それじゃ、ちょいとばかし、この俺様が一肌脱ぐとするかね」

 

 

さっき最後に希から聞いた答えで、次に何をするのかは決まっていた。

やりたいことは分かった。その理由も分かった。ならばもう悩むことはない……悩みに逃げている暇はない。

小憎たらしくて、それ以上に愛しくてたまらない妹分達のために――青年は今一度、立ち上がる。

 

――大丈夫、大丈夫

 

そんなフレーズがコンポから聞こえてきた。

 

The Beatlesの『Revolution』

 

まるで今の京助を励ましてくれているような一節に、自然と京助は笑みをこぼしていた。

 

今こそ、変わる時だ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ……」

 

 

単車から下りて、京助はタバコに火を点けた。今日何本目になるのか分からないタバコ。

煙を漂わせながら、彼は目の前にある建物を見上げた。

 

『国立音ノ木坂学院』

 

全てはここから始まったのだと考えると感慨深いものがある。

短い間ではあったが、色々なことがあった。

どれもこれも忘れられないことばかりなのに、一つ一つの出来事の衝撃が強すぎて思い出すのも一苦労。

これほど密度が高い時間はこれまでの人生の中でもそんなにはなかったのだろうと、そう思った。

そしてそれはこれからも変わらない。そうそう簡単に、変わるものじゃない。

 

 

「来た来た……やっとお出ましか」

 

 

学校の出入口を抜けて、京助の立つ校門まで駆けてくる少女の姿。

サイドテールを揺らして、どこか楽しそうに走る彼女を見たら、今まで悩んできた自分がバカらしくなってきた。

 

 

「え?パン屋さん?」

 

 

高坂穂乃果。

希に、ことりが日本を立つ日は聞いていた。ならばその当日、彼女なら何かをするのではないかと思ってこうして学校まで来たのだが、その予感は見事に的中したようだった。

彼女は何故京助がここにいるのか不思議そうに彼の顔を覗き、しかしすぐに気がついたように、

 

 

「あの後どうしてたの!?急に学校の購買も休んじゃうし、お店もしまったままだし!何かあったんじゃないかって、みんな心配してたんだよ!?」

 

 

走ってきたばかりだというのに大声で息もつかずに京助に詰め寄って、穂乃果は軽く息切れを起こす。

なんというかこの忙しなくて一々大げさなリアクションを見るのも久しぶりな気がした。

 

 

「まぁ、色々あったんだ。……それより時間は良いのかい?このままだと飛行機に間に合わないぜ?」

 

 

またしても心配されてしまったことに苦笑しながら、京助は逆に尋ねる。

心配されるのは心苦しくて、それでもどこか少し嬉しい気がしないでもないが、今は優先事項を間違えないで欲しい。

 

 

「え?あぁ!!そうだった!」

 

「まぁ、待ちな」

 

 

慌てて走り去ろうとする穂乃果を呼び止め、振り向いた彼女の胸元に、ヘルメットを放った。

彼女がそれをキャッチしたのを見届けてから、京助は愛車にまたがって、

 

 

「ここで会ったのも何かの縁だ。空港まで行くんだろ?送ってくぜ」

 

 

京助がそう言ってカワサキ・マッハのタンデムシートをばしばしと叩いて乗るように合図すると、穂乃果はきょとんとして手元のヘルメットと青年の顔を見比べ、そしてすぐに、

 

 

「うん!」

 

 

力強く頷いて、彼女は京助のバイクの後部にまたがると、おっかなびっくり彼の肩に手をかけた。

京助はそれを確認すると、ハンドルを強く握りしめて、思い切りアクセルをひねる。

時間はぎりぎりだが、飛ばせば間に合うだろう。

……否。

間に合わせてみせる。

何がどうあっても間に合わせなければならなかった。それが今京助に出来る唯一の――

 

 

「飛ばすぜ!しっかり掴まれ、高坂!振り落とされるなよ!!」

 

 

二人を乗せたマシンは唸りを上げて、やがて一陣の風になっていった。

 




長らくお待たせして申し訳ありません。

次回、一期最終回です


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第三十五話 Music Re:Start!

「ぱぱぱぱ!パン屋さん!!」

 

「あぁ!?何か言ったか?すまんが聞こえない!!」

 

 

風を切って走るバイク。

それを駆るのはスラックスに開襟シャツ姿の成人男性。しかし彼が後ろに乗せるのは制服姿の女子高生。

一歩間違えばあらぬ疑いをかけられそうな姿であった。

 

 

「ちょっと!飛ばしすぎだって!怖い怖い怖い!!」

 

「だから聞こえないっての!もうちょい大きな声で喋れや!」

 

 

京助が怒鳴りつけると同時に目の前の信号が赤に変わった。

それを目で確認すると忌々しそうに溜息を一つ、京助は思い切り急ブレーキをかける。

突然の急制動で起きた反動で、穂乃果の体は京助の背中に思い切り押し付けられた。

 

 

「むぎゅぅ……」

 

「ちょっ!くっつくな小娘!」

 

 

不可抗力とはいえ背中に押し付けられた柔らかな二つの温もりに、京助は顔を赤くしながらも慌てて怒鳴りつける。

そうでもしなければ平静を保ち続けられる自信がなかった。普段から年下は守備範囲外と言い張り続ける京助だが、しかし彼も健全な男性であるわけで。しかも21年に渡る彼女なしの筋金入りの純情青年である。

これしきのことだというのに心臓の鼓動がおかしくなっている。

 

 

「くっつかなかったら危ないよ!ここまだ一般道だよ!?何で100キロも出すの!!」

 

 

信号のおかげで停車したのをいいことに、穂乃果は京助の耳元で、大声で叫んでいた。

始めて乗るバイク、青年の広い背中の安心感。興奮と安心感に支えられて先ほど学校を意気揚々と出発した穂乃果だったが、その思いは数秒と立たない内に脆くも崩れ去った。

この男、無駄に運転が荒い。

黄色信号の交差点への急加速&突入は序の口。車と車の間を縫っての無茶な追い抜きも朝飯前。挙句車道がすいてきたと見るやいなや、アクセル全開で軽く100キロを超えたスピードで走り出す。

いつも元気が売りの穂乃果も、この時ばかりは心なしか青ざめていた。

 

 

「しょうがねぇだろ!時間がねぇんだから!」

 

「それは分かるけど!せめて交通ルールは守ろうよ!」

 

「うるせぇ!そんなもん犬にでも食わしとけ!……ほれ、密着しない程度にしっかりしがみついてろ!」

 

 

信号が青に変わったのを確認するや否や、京助は再びアクセルを全開までひねった。

無茶苦茶な操作にエンジンが悲鳴にも似た轟きを上げて車体が一気に加速していく。

 

 

穂乃果(・・・)!」

 

 

京助が怒鳴った。

それは叩きつける風の音にも負けないくらいにしっかりしていて、しがみつくのに精一杯の少女の耳にもちゃんと入ってくる。

穂乃果――

初めて京助が彼女の名前を呼んだ。

 

 

「よく聞けよ。今から最高にダサいこと言うからな!」

 

 

そう前置いて、京助は大きく息を吸い込み、

 

 

俺みたいになるんじゃねぇ(・・・・・・・・・・・)!!」

 

 

喉が張り裂けんばかりに、京助は声高に宣言した。

 

 

「俺だって、こう見えても昔は――お前たちと同じ位の年の時は色々やったんだぜ?夢があって、仲間がいて、目指すものがあって……今でこそこんな冴えない男だけど、昔はお前らに負けないくらい輝こうとしてたんだ」

 

 

思い出すのは青春の日々。

まだ京助が、今の穂乃果達と同じ位の年齢だったころ。周りには仲間がいて、それだけで何でも出来る気がしていた。

夢を追いかけてさえいれば嫌なことも辛いことも全部忘れられて、毎日が輝いていた。

 

 

「それが今じゃ、嫌なことがあって、友達捨てて逃げ出して、そんでもって夢さえ諦めて、そのクセ今でも残骸にしがみついてウジウジしてるんだぜ!?笑えるだろ!?夢の末路がこれだ!」

 

 

半ばヤケクソで、京助自身何を言っているのか分かっていなかった。

伝えたいことは山ほどあるのに、それを伝えられる言葉が見つからずに思ったことをそのまま口にするしかなかった。

 

 

「だけど、お前達は違う!俺みたいな思い、お前らはしなくて良い!」

 

 

逃げても良いと、そう思う。挫けても良いと思う。

負けても良いと、そう思う。

その結果、夢を諦めるのもまた仕方がないことだとは思う。

だけど、

 

 

「後悔だけはするな!」

 

 

最近になってようやく分かった。

自分が何に後悔して悩んできたのか。夢を諦めてしまったこと、友人から逃げ出してしまったこと。

それももちろんそうだが、それだけじゃなかった。それらを全部ひっくるめて、後悔の残る道をたどってきてしまったこと。

それが京助にとってどうしようもなく心残りで仕様がなかった。

だから、

 

 

「絶対、間に合わせるから!絶対、南に会わせてやるから!」

 

 

彼女たちに後悔だけはさせたくなかった。

その一心で彼は叫び、走る。

 

 

「空港までは責任もって、命に変えてもお前を送ってやるが、そっから先はお前の仕事だぜ!」

 

「うん!……それより今は命かけなくて良いから安全運転を心がけて!」

 

「俺が何か言っても、南ちゃんを説得するのは無理だ。力ずくってわけにもいかないしな。小娘一人ハイエース、じゃなかった、掻っ攫……拉致るのは朝飯前だがそんなことしても意味はねぇ」

 

「物凄く不穏だよ!言い直してもあんまり意味変わってないからね!?」

 

「無理くりヤっても仕方がない。こういうのは相手の合意がねぇとな。筋は通さねぇと……型にハメねぇとな!」

 

「発言が怖いよ!っていうかこれ私どこに連れてかれちゃうの!?大丈夫なんだよね!?」

 

 

そんな漫才じみたやり取りを怒鳴り声で続ける内に、やがて二人を乗せたバイクは高速道路への料金所に差し掛かる。

 

 

「お前が、お前自身の言葉でちゃんと話してこい!どうして欲しいのか!どうしたいのか!」

 

「……うん!」

 

 

短く、しかし力強く、穂乃果が答えるが聞こえた。

しがみつく彼女の体から伝わる鼓動が、熱が、彼女の決意裏付けるようだった。それは燃え上がり始めていた京助の心を更に奮い立たせていく。

もう、今の京助に迷いなど微塵も残っていなかった。

彼女達のために、自分の出来ることをなんとしてもしてやりたいと、心のそこから強く願った。

 

 

「それじゃ、もうちょいスピード上げてくぜ!」

 

「え?えぇぇぇ!?ちょっと、これ以上何をどうする気なの!?」

 

 

今の今まで、高速道路に乗る前だというのに京助は既に凄まじいまでのスピードを出していた。それこそもうこれ以上はマシンが耐えられないのではないかというほどに。

それなのに、彼はこれ以上、上があると言うのだろうか。

またしても青くなる穂乃果をちらりと振り返って、京助はヘルメット越しに不敵に笑う。

そして、ハンドル付近に付けられた、見るからにヤバそうなボタンに指をかけて、

 

 

「ニトロブースト!GO!!!」

 

 

ノリの良いセリフと同時にボタンが押された。それによりエンジン付近に施されていたギミックが発動する。

 

NOSシステム――

 

タンクから解き放たれた亜酸化窒素ガスがエンジン内部に吹きつけられてガソリンの燃焼を補助し、その結果、マシンに爆発的な加速を与える。

急加速に耐え切れず、一瞬前輪が浮かび上がった。

 

 

「え、ちょッ、いやああぁぁぁぁぁああああ!!?」

 

 

最早京助とその愛車の暴走を止められるものはどこにもいなかった。

穂乃果の叫び声だけが、巻き起こる風の彼方に木霊していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「着いたぜ、穂乃果ちゃん」

 

 

空港前にバイクを止めて後ろにしがみついている穂乃果に声をかけるが返事がない。

不思議に思いながらバイクを降りると、京助に続いてよろよろと彼女も地面に足を下ろして、震える手でヘルメットを脱いだ。

真っ青に血の気が引いた顔に恐怖の相をありありと浮かべ、自身を落ち着かせようとしているかのように二度三度と深呼吸を繰り返す。

 

 

「し、しししし、死んじゃうかと思った……」

 

「んな大げさな……」

 

「大げさ!?メーター振り切ってたの見てなかったの!?本当に死ぬかと思ったんだからね!」

 

 

京助は申し訳なさそうに頬を掻く。何分急いでいたもので飛ばすことしか頭になかった。もちろん本人的には安全に細心の注意を払っていたつもりだったが、いかんせん京助の感性は万人とは大分異なっている。

ぷりぷりと怒る穂乃果だったが、そのおかげで幾らか元気が戻ってきたのか気がつけば震えが止まっていた。

 

 

「こうして空港にたどり着けた訳だし、結果オーライってことで。……まぁあれだ、死にそうな思いして、怖かっただろ?」

 

「怖いに決まってるでしょ!?」

 

 

穂乃果の噛み付くような返答に、京助は満足したかのような微笑みを浮かべて軽く頷く。

その微笑みはいつになく優しいものだった。

 

 

「そうだろ?それで良いんだ。これ以上怖いことなんて無いんだからな。安心して行ってこい」

 

 

ぽん、と彼女の肩を叩く。

時計を確認すればフライトまでは15分以上の時間がある。これなら間に合うはずだった。

 

 

「う~……うん、まだ言いたい事はいっぱいあるけど、行ってくるね!」

 

「言いたいことは俺じゃなくて友達に言えっての……頑張ってこいよ」

 

 

穂乃果はまだ何か言いたそうだったが、表情を一変させて京助に笑いかけた。

だから京助も笑い返してみせる。

笑顔で見つめあったのは一瞬のこと、その次の瞬間には少女は空港のロビーへと駆け出していた。

駆けていく後ろ姿を眩しそうに見つめ、青年は目を細める。瞬く間に見えなくなっていく少女の背中に、一瞬羽根が見えたような気がした――

 

 

「パン屋さん――京ちゃん(・・・・)!」

 

「あ?……って、え!?俺のことか?」

 

 

不意に穂乃果が振り返って京助の方に大声をあげた。

聞きなれない呼び方に一瞬戸惑う彼に、彼女は続ける。

 

 

「今度また、ことりちゃんとお店に行くからね!美味しいパンとコーヒー準備して待ってて!」

 

 

ことりを連れて――

その言葉だけで十分だった。胸の内に熱いものがこみ上げてくるのを感じながら、京助もまた大声で返す。

 

 

「おう、任しとけ!!」

 

 

再び走り出した少女が振り返ることは二度となかった。

人ごみの中に消えていく少女の姿を見つめ続け、京助は今までに感じたことのない満ち足りた気分を感じていた。

 

――きっと、大丈夫

 

確信なんてものはどこにもないが、それでも何故かそう思えた。

 

 

「さて、と……」

 

 

ここから先は彼の領分ではない。

囚われのお姫様を救うのは王子様、なんて言うけれど、あいにくと京助はそんな格好の良い者じゃないし、第一この物語にそんな存在は必要ない。

少女を連れ戻すのはその親友の役割だ。

場違いなお節介焼きはすべからく去るに限る。

そう思って一服いれようとしたものの、タバコもライターも家に忘れてしまったようでどれだけポケットを漁ろうとも出てくることはなかった。

代わりに……

 

 

「んあ?」

 

 

指先が固くて小さな物に触れた。

何かと思ってつまみ出して見ると、それは一枚の五円硬貨だった。

 

 

「こいつはあの時の……」

 

 

数日前に神社の賽銭箱に投げ入れて、しかし跳ね返された五円玉。

あの時願ったのは確か、『彼女達を見守ってやってほしい』という想い。

 

 

「他人に頼まず、その位てめぇがやれってことか……」

 

 

今ならそんな風に思えてきた。

五円玉を空にかざし、目を凝らして穴を覗いてみる。小さな穴から見える空は、気持ち良いくらいの青空だった。

 

 

「頑張れよ……」

 

 

そう呟いて目線を僅かに横にずらす。

腕時計に記された時刻は丁度フライトの15分前を指している。これなら十分間に合うはず――

 

――ん?

 

何か、嫌な予感がした。

フライトの15分前……

 

 

「……おい、まさか。嘘だろ、おい?」

 

 

記憶が確かならフライト15分前には保安所を通って搭乗口付近までいかねければならないはず。

もしそうなら、チケットを持っていない穂乃果はことりに会うことが……

 

 

「くそがッ!」

 

 

気がついた時には京助は走り出していた。

 

ここまで来たというのに、こんな幕引きは冗談ではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ことりちゃん!ことりちゃーん!」

 

 

周囲の目もはばからずに声を上げて探して回る。

しかし、いくら探せど、穂乃果は親友の姿を見つける事が出来ずにいた。

小さな頃からの親友の姿なら、何があっても見つけられる自信があったのに……もう、飛行機に乗ってしまったのだろうか?

ここまで来たのに、そんな終わり方――

 

――穂乃果!

 

へこたれそうになった時、不意に自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。

μ’sの誰かの声ではない。

もっと低くて錆び付いた男性の声。いつも不機嫌そうな声色なのに、何故か安心してしまう、不思議な声。

 

――後悔だけはするな!!

 

続いてそんなセリフが聞こえてくる。

それはきっと幻聴なのだろう。なぜならそれは、さっき彼に言われた言葉なのだから。

後悔だけはするなと、そう叫ぶ彼はどこまでも悲しそうだった。まるで身を切っているかのような痛みのこもった一言だった。

あの人にも昔何かあったのだろうか?

穂乃果はふと考える。

京助は自分のことをあまり語らない。

だけど、今度聞いてみたいと思った。

ことりと、μ’sのみんなと一緒に、あの人の焼いてくれたパンを食べながら。からかうように笑う自分たちと、少しむくれたように、でも小さく笑うあの人の顔が思い浮かぶ。

あの人はいつか教えてくれるのだろうか?

いつか、きっと……

そのいつかを、掴むために。

 

 

「ことりちゃーん!!」

 

 

叫ぶ。

驚いた周りの人たちが何事かと目を向けるが、もうなりふりなんてかまっていられなかった。

必死で周りを見渡す。絶対に後悔なんてしたくなかった。諦めたくなんて、なかった――いた!

グレーがかった長い髪、その華奢なシルエット。

見間違うはずがなかった。

その人は、今まさに保安所を抜けようとしていて……

 

 

「ことりちゃん!」

 

 

気がついた時には走り出していた。

間に合え!

心の底からそう願う。

一歩、また一歩。どんどんことりとの距離が縮まっていく。

あと少し、あとちょっと!

 

 

腕をこれでもかと伸ばして友達の名を叫びながら走る。

 

 

まだ足りない。

あと少し、ほんのちょっとで良い!

届け!

 

 

「世話の焼ける小娘共め……」

 

 

不意に、後ろからそんな声がかけられた。

錆び付いて掠れた声……でも今度は幻聴じゃなかった。

思わず振り向こうとするよりも早く、穂乃果の横をすり抜けていく一陣の風――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「世話の焼ける小娘共め……」

 

 

一言だけ呟いて、穂乃果を追い越して駆け抜ける。

 

 

――ふざけるな!

 

 

心の底からそう思った。

こんな形でも幕引き、誰も望んでやいやしない。

昔から、何をやっても肝心なところで失敗してばかりの人生で、幾分そんな生き方に諦めはついている。

だけど今だけは諦めるわけにはいかなかった。

自分のことなら何だって耐えてみせる。だが、自分のくだらない人生のどうしようもない不運に少女達を巻き込むわけにはいかなかった。

だから、必死で足を動かす。全力で走る。

それでもまだ足りない。

運動不足と不摂生が祟って心臓が破けそうな程に脈を打つ。息が切れて声すらあげられない。

涙が出てくる。

千切れんばかりに思い切り手を伸ばす。

それでも足りない。差し出したこの手は、まだ少女には届かない。

まだ足りない。

だから、だけど、それでも!

 

 

――ふ、っざけんな!!

 

 

心の中で吠えて、伸ばした手を、今度は逆に握り締めた。

この手は元より、誰かに差し伸べる為の手ではない。誰かの手を取る為の掌なんかじゃない。

この手は殴って壊すことしかしらない、野蛮で不器用で、どうしようもない手だ。

壁を打ち砕き無理を通す、その為にある手だ。

 

 

――いっ、けぇぇぇぇぇ!!

 

 

指先で思い切り手の中の物を弾いた。

それは先ほどポケットの中から見つけた一枚の五円玉。

りん、と。鈴のような音を上げながら硬貨は空気を切って放物線を描く。

瞬く間に足りなかった距離を稼いでいく。

京助の見ている前で、一枚の小銭はことりの背中に追いついて、そして、

 

 

 

 

 

彼女を追い越して飛んでいった。

 

 

 

 

 

 

背中でも荷物でもどこでも良い。当たってさえくれれば彼女がふり帰ってくれる可能性は十分にあった。

だが、かすりもしなかったそれに少女は気づかない。

一瞬にして、これまでにない脱力感と疲労感、絶望がのしかかってくる。だが、それは一瞬のことに過ぎない。

次の刹那には京助の瞳には強い輝きが宿っていた。

 

 

――まだだ!

 

 

例え何があろうとも諦めないこと。何度挫かれてもすぐに立ち直ること。それが京助の強さだった。

諦めさえしなければ、立ち向かう勇気があれば、きっと奇跡は起こる。

例え何万分の一の確率でも構わない。そんな小難しいことは他の頭のいい奴に考えさせておけば良い。

京助はただ強く願う。

 

奇跡よ、起これ!

 

 

「え?」

 

 

保安所に、ブザーの音が響いた。

京助の弾き飛ばした硬貨が、彼の無心の想いを乗せたちっぽけなたった一枚の小銭が、ことりの一人前で金属探知機を作動させたのだった。

ほんの僅かな間ではあるが、検査待ちの列が止まった。

その、僅かな一瞬で良かった。それだけで、奇跡は十分だった。

全身から力が抜け落ちて、京助はその場に崩れ落ちるようにうずくまる。

もう一歩も動けなかった。

早鐘のようにせわしなく脈打つ心臓、あがりきった息。

立ち上がろうと思っても全身がだるくて体が言うことを聞いてくれない。

ここまできて――そんな思いがない訳ではなかった。

だが、もうどうでも良い。

最初から、これより先の事は自分の役割ではないと分かっているのだから。

 

崩れ落ちたままの京助の横を、穂乃果が追い越していく。

もう、彼女が振り返ることはなかった。

 

 

「いけ……穂乃果……!」

 

 

息も絶え絶えに呟く。

その目の前で、穂乃果が目一杯伸ばした手が遂にことりの手を取って……

 

 

 

 

 

「行かないで、ことりちゃん!」

 

 

 

 

 

遂に、物語はクライマックスを迎える。

 

 

 

 

 

 

 

「けっ……ざまぁ見ろってんだ」

 

 

誰にともなく呟いて、京助は買ったばかりのタバコに火を点けた。

乱れた呼吸はまだ治らないし、吹き出す汗もとどまるところを知らない。心臓は相変わらず忙しい。

震える手でタバコを吸って、紫煙を思い切り吐き出す。

瞼を閉じればイヤが応でも先程の穂乃果とことりの姿が蘇ってくる。

涙を流して抱きしめ合う、二人の少女の姿。

 

……正直な話しをするならば、京助自身ここまで綺麗に話が終わるとは思っていなかった。穂乃果かことり、どちらかが――あるいは二人共が傷つく未来さえ考えていた。

でも、現実はそうならなかった。

結局、自分は彼女達を信じきれていなかったのか――そう考えるとヘコんでしまう。

 

 

「京ちゃん!」

 

「ゲホッ!っ、何だ?」

 

 

喫煙所の扉を勢いよく開けて飛び込んでくる二人の姿を見て、京助は思わず吸いかけのタバコを灰皿の中に投げ捨てていた。

満面の笑みに、涙の痕を残したままに、少女達は京助のもとに駆け寄ってくる。

 

 

「ありがとう!京ちゃん!京ちゃんのおかげで……」

 

「俺は何もしてねぇよ」

 

 

ぷい、とそっぽを向いてぞんざいに短く答える。

正面から彼女達を見ることが出来なかった。

もしそうしてしまえば、きっと自分は笑顔が浮かぶのを我慢できなくなってしまいそうだ思ったから。そんなだらし無い、優しい顔を人に見せるのは恥ずかしかった。

 

 

「もう、そんなこと言って!本当にありがとう!おかげで……」

 

「えぇい、触るな饅頭娘!それより時間は良いのか?これから学校でライブだろ?」

 

 

笑顔のまま手を握ってくる穂乃果を振りほどいて、京助は問いかける。

これもまた希から聞いた話。

ライブまでの時間は――それほど残っているわけでもないが、今から急げば間に合うだろう。

 

 

「あ!そうだった!」

 

「悪いが帰りは乗せないからな」

 

 

流石に三人はバイクに乗せられない――

ここから先は二人で行かなければならない。二人で帰って、そして九人と。

そこに京助は必要ない。

 

 

「分かってるよ!ことりちゃん、行こう!」

 

「あ、穂乃果ちゃん……!」

 

 

穂乃果に促されて喫煙所を出ていくことりと、一瞬目があった。

彼女は真っ直ぐに京助を見つめる。

そこにどんな思いがあるのか、京助には測りかねない。だが、それでも彼は同じように真っ向からことりを見つめ返した。

時間にすれば一瞬のこと。

 

 

「何してるのことりちゃん!早く!あ、そうだ!京ちゃんも良かったらライブ……」

 

「気が向いたらな」

 

 

素っ気なく言ってひらひらと手を振る。

そんな彼をもう一度見つめて、ことりは深々とお辞儀をすると、しびれを切らした穂乃果に手を引かれてて転びそうになりながら駆け出していく。

 

 

「ようやく巣立ったって感じか……」

 

 

走り去っていく二人の少女の背中を見て、京助は思ったことを口に出していた。

まだ、飛び方を覚えたばかりで頼りない翼。しかしそれはやがて大空を飛ぶための大きな力に変わっていく。

京助は大きく伸びを一つ、

 

 

「それじゃ、俺も行きますか……」

 

 

呟くと、京助は両手をスラックスのポケットに突っ込んでよろよろと歩き出す。

ようやくひと仕事終わったというのにまだ京助に休む暇はなかった。

 

 

彼女たちにパンとコーヒーをご馳走する仕事が、まだ残っているのだから

 




ついに一期完結です。

思えば長かった……
まさかここまで時間がかかるとは思いませんでした。
就職活動があったり卒論があったり、仕事が始まったりでなんだかんだありましたが、一区切りつけられてようやく一安心です。

……とはいえ、あまりおちおちもしてられません。
二期の話も書かなくてはだし、劇場版も書かなければ。


ここまで書いてこられたのは読者の方がいてのことです。読んでくれている方々には本当に感謝しています。
これからも物語にお付き合い頂ければ幸いです。


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閑話 理事長と一夜の間違い(上) ~livin la vida loca~

※この話はifの物語です。本編には全く、微塵も関係しません。
時系列的には文化祭の前~から当日くらいの位置に当たります。
大分ネタ成分の多いお話ですが、ちょっとした暇つぶしにでもなれば幸いです。


かろん……

 

ドアベルの音が響く。

どうでも良いがこの店のベルはもう大分へたれてるのか、間の抜けた音しかしない。

扉の先に見えるのは、薄暗くてどこかカビ臭いいつも通りのバーだった。お客は俺以外に二、三人、そんなに大きな店ではないから多くもなく少なくもなくってところか。

 

「マスター、いつもの」

 

定位置のカウンター席にどっかりと腰を下ろしてそう言うと、マスターは無言で頷いて棚から酒を下ろし始める。

いつもの事ながら無愛想だが、こんなんで客商売やってられてんのが不思議だ。俺としてはこの位静かな方が落ち着いて良いんだが……

そんな取り留めもないことを考えながら、愛飲する両切りタバコに火を点ける。濃い煙を一度吐き出すと、そのタイミングで頼んだ酒と灰皿が目の前に置かれた。

グラスに満たされたフォアローゼズ。うっすらとラム酒の香りのするゴールデンバット。

お気に入りのバーでそれをやるのが俺のささやかな楽しみだ。別にハードボイルドを気取るわけじゃないが、安酒と安タバコで過ごす静かな一時が一番落ち着く。

夢を諦め、地元に逃げ帰ってきてこの職についてからそれなりに時間が経ってきた。

静かな余生を過ごそうなんて甘い考えを持っていたが、矢張りというかなんというか、俺の人生は思っている以上に苦くて渋いらしい。

グラスを手に取って一口。からり、と氷が涼しげな音を立てる。

昼の喧騒を思い出すと、それだけで頭が痛くなってくる。高校の購買のお兄さんなんぞをする羽目になったのが運の尽き、何をどう間違ったのか知らないがそこの女子生徒9人に無駄に懐かれ--いや、遊ばれてるだけか?

とにかく忙しい日々を送っている。

それは俺が求めていた静かな生活とは真逆のものだった。

そして質が悪いことにその生活が最近では楽しくなってきて……

 

「ちっ……」

 

舌打ちを一つ、酒を一気に飲み干す。

折角こうして静かな一時を過ごしているというのに、どうしてあの小娘どもの事を考えなければならないのだろう。そう思って今この時だけでも昼間の事を無理矢理忘れることにした。

 

「マスター、同じのをもう一杯」

 

吸いきったタバコを灰皿に押しつけ、短くそう告げると、俺の注文が分かり切っていたかのように新しいグラスが目の前に置かれた。

さすがマスター、客の事が良く分かってらっしゃる。

何だか良い気分で、ウイスキーを一口……

 

「ん?おい、これ注文と違うぜ?」

 

余り酒の味が分かる方ではないが、この強い樽の香り、それにこの度数……少なくとも俺の好きなバーボンではない。

サービスだろうか?一瞬そう考えるが、いくら何でも好みに合うか分からない酒を出すとも考えづらい。

 

「あちらの方から」

 

そう言ってマスターは俺の右奥の方の席を指し示した。

 

「へぇ……そいつぁなかなか粋なこったな」

 

こうした飲み屋は昔から好きで来ているし、こういうのに憧れたこともあったが、実際に見るのは初めてだ。

なかなか洒落たことをする人もいるもんだ。

礼の代わりに薄く笑って杯を掲げ、送り主殿の方に体ごと向く。

 

「…………は?」

 

息が、止まった。

奥のカウンター席に座している人物は一人の女性だった。ビジネスウーマンと言った感じでびしっとスーツを着こなした、グレーの髪が印象的な、綺麗な人。

その女の人はにこやかに俺の方に手を振っていた。

……いや、凄ぇ見覚えがあるんだけど、あの人。

 

「こんばんは、津田さん」

 

そう言って女性は俺の横まで歩いてきて、席を俺の右隣に移動した。

 

「ど、どうも……その節はお世話になっております。……理事長先生」

 

理事長先生。

俺が購買で仕事をしてる学校……音ノ木坂学院の理事長で、俺の頭痛の種になっている小娘一味の一人、南ことりの母親だった。

 

「いいえ、そんな。ずいぶんお仕事忙しそうね。お疲れ様」

 

「いえ、あの……」

 

何でこんな所でこんな人と会うのか……社交辞令の笑みを浮かべて驚きを隠すが、心中穏やかではいられなかった。

折角昼の喧騒から逃げ切ってここにいるというのに、何故こうして昼の忙しさを思い出させる人と会わなければならないのか。というか、何が悲しくてプライベートの時間に上司みたいな人に会わなきゃならないんだ。

 

「その、お酒ありがとうございます……えっと、これ美味しいですね」

 

不測の事態にどうして良いか分からず、ひとまず酒を口にする。

……結構キツいな、この酒。

 

「そう?ワイルドターキー……私の好きなお酒なの」

 

「そりゃまたキツいのを……」

 

50度を越える、国内ではトップクラスに度数の高いウイスキー。俺は基本的に気に入ってる一つの銘柄しか飲まないから味わうのは初めてだが、これはこれで悪くない。

ワイルドターキー(野生の七面鳥)ね……

 

「先生は良くこういうところ来るんですか?」

 

「そうでもないわね。偶に気が向いた時だけかしら。そういう津田さんは?」

 

「俺……自分はそこそこですかね。ゆっくり一人酒ってのが好きでして」

 

「あら意外。てっきり夜な夜な若い女の子と遊んでるのかと思ってたわ」

 

「残念ながら浮いた話とは無縁でね。このご面相と見てくれのおかげってとこですかね」

 

「そう?もう少ししゃんとすれば結構素材は良いと思うけど……あ、でもうちの生徒に手は出さないでね?最近仲が良いみたいだけと、ちょっと心配ね」

 

「げほっ……冗談!なんでこの俺があの小娘どもに!」

 

咽せた。

理事長先生に言われて一瞬あの9人の顔が思い浮かび……ぞっとした。

マジで冗談じゃない。

ガキとの色恋沙汰はなんざ笑えない……というより、もう懲りた。

 

「あの?私は別に誰とは言ったつもりはないのだけど、覚えがあるのかしら?」

 

「ッ!滅相もねぇ!」

 

眉を潜めてそう問いかけてくる理事長先生。いや、マジで勘弁してくれ。

 

「ふーん……」

 

「あからさまな疑いの目線やめてくれませんかね?……ぶっちゃけると、昔色々あって色恋沙汰やらなにやらって苦手なんですよ」

 

人並みに恋はしてきた。誰かを好きになったことだってあるし、モテたいと思ったことだってそりゃある。

だけど、俺の恋愛は大体ロクなことにならなかった。

もう、あんな思いをするのは真っ平で、だからもう恋愛感情なんざ枯れ果てた。

一瞬。

一瞬、脳裏にフラッシュバックする。力なく横たわる華奢な肢体。どれだけ強く握りしめようと握り返してくることのない冷たい掌。……思い出したくもない事を思い出して沈むのは酔った時の悪い癖だ。

タバコを思い切り肺の深くまで吸い込んで、そのまま静止。苦しくなったところで一気に吐き出した。

こうすると目の前がチカチカして、嫌なことも楽しい事も、何もかも忘れて気分をリセット出来る。

 

「何があったのか知らないけど、大変だったのね……すみません、この人にもう一杯」

 

俺の顔の翳りを見て察したのか、理事長はさらに一杯ウイスキーを注文する。

深く尋ねてこない辺り、さすがに大人だと思う。これがあの小うるさい小娘どもだったらどうなっていたことか……

新しいグラスを傾けながら、ちらりと隣の理事長に目を向ける。

アルコールの影響か、首もとに見え隠れする白い肌に朱が差して、なんと言うか艶っぽい。

とても高校生の娘がいるとは思えない色香だった。

 

「ん?どうしたの?」

 

俺の目線に気が付いたのか、理事長は悪戯っぽくにやりと笑って俺の顔を見つめた。

慌てて俺は視線を外し、手元のグラスに浮かぶ氷を見つめた。

大人の色気に少女のような仕草。

 

ーー反則だろ

 

心の内でそっとつぶやく。

 

「……俺の事は置いといて、理事長も大変そうですね。その、学校のこととか」

 

学校のこと……そう切り出すと、理事長先生は黙ってしまった。

どうやら地雷を踏んだらしい。さすがにピンポイントで一番の悩みに触れるのは些か無神経過ぎたのかもしれない。

沈黙に気まずくなって、それを紛らわすために新しいタバコを取り出すと、

 

「……一本、頂いてもいいかしら?」

 

理事長は俺の質問に答えず、代わりに俺のタバコを指さしてそう尋ねてきた。

 

「え?かまいませんが、お吸いになるんですか?」

 

「偶には、ね。随分と久しぶりだけど」

 

そう言って彼女はタバコを一本咥え、俺はそっとライターを擦って火を点ける。

 

「ふぅ……けほっ、これ、相当辛いわね」

 

あー……

久しぶりでゴールデンバットなんて吸えばそうなるよな。

涙目で軽く咳き込んだ彼女の、普段とはかけ離れた様子に思わず笑みがこぼれてしまう。

俺はタバコを咥え、それを美味そうに吸ってみせた。

 

「結構キツめのタバコですからね……慣れないとそうなりますよ」

 

「若い内からこんなの吸ってたら体壊すわよ?」

 

「体壊すも何も、14の時からこんなん吸ってんですからもう手遅れですよ」

 

そう言って笑うと、彼女も釣られたように、くすくすと呆れ混じりの笑い声をあげた。

 

「そうね……学校の事はやっぱり大変よ。廃校のことも精一杯の事はしたんだけどね……」

 

「あー……心中お察しします」

 

小娘どもからちらりと聞いた話では、理事長は廃校に関してあっけらかんとしていたと言うが、そんな筈はないだろうと、そう思っていた通りだった。

自分の学校が、ましてや娘の通う学校がなくなるというのだ。ここに至るまでに大変な苦労を重ねた事は想像に難くない。

そして、それを娘や生徒達に気づかれないようにすること……

親であり責任者であるってのは二重の意味で大変だろう。

 

「でもね、あの娘達が頑張ってるの見ると、私ももっと頑張らなきゃって思えてくるのよ。疲れてる暇なんてないわ」

 

「あの小娘……失礼、μ'sの子達ですか」

 

瞼を閉じれば浮かんでくる。スクールアイドルを目指す9人の少女達。やたら騒がしくて七面倒くさい、はた迷惑な小娘共。

そんな彼女たちの頑張る様子、目標に向かう真摯な姿勢。 

大変不本意ながら、あの娘達のそんな様子に影響を受けているのは俺も同じだから、彼女の言う事が良く分かった。

……まぁ、もっとも俺は今更頑張ったところで何者にもなれないところまで来ちまってるから、良い迷惑ではあるんだが。

あのやかましくて向こう見ずな、愛すべきガキ共のおかげで、錯覚してしまう。こんな俺でもまだ何かになれるのではないかと。

 

「そう。最初にスクールアイドルで廃校をなくそう!なんて聞いた時にはびっくりしちゃったけど」

 

「俺もですよ」

 

最初に聞いたとき、その時俺はあの小娘達の事を何も知らなかったから特に感慨は抱かなかった。本当にライブをやると言い出した時には本気なのかと疑った。

 

「若いうちってのは怖いもの知らずですからね」

 

「それ、あなたが言うの?」

 

へっ、と自嘲気味に笑う。

小娘共にはおっさん扱いされてるが、この人から見たら俺なんてまだまだガキなんだろうな……

 

「あなたも随分あの子達の面倒見てあげてるみたいじゃない?ことりから聞いてるわ」

 

「面倒?うーん……」

 

正直、面倒を見てやってるかと言われるとそんな事はない気がする。

俺なんかがいなくても、あの子達なら普通に丸く収まるところに収まるだろうとは思う。そもそも、俺は別にそんな大したことをしてやったつもりはない。

とは言え、危なっかしくて目を離せないでいるのも事実で……

 

「……まぁ、ほっとけませんからね」

 

グラスを軽く振って、融けた氷と酒が混ざる様子を見ながら呟く。

ほっとけない。

それが一番近い気持ちかもしれない。

 

「……あいつらが頑張ってるところを見てると、なんかこう、何かしてやりたくなるんですよ」

 

確かにあの子達は赤の他人で、俺がわざわざ何かしてやる義理はないわけで。失敗して泣きを見ようが、成功して浮かれようが、俺には一文の得にはなりゃしないってのに。

なんでか知らないけど、放っておけない。

 

「子供が頑張ってるなら、それを応援してやるのが大人の仕事……いいえ、そう思うのが親心ってところね」

 

「親心……ね」

 

理事長先生としてはあの子達は自分の娘のようなものなのだろう。いや、実際に実の娘がメンバーにいるわけだし。

なら俺にとってあの子達はなんなのだろう、なんて柄にもなく考えてみれば、なるほど、もしかすると俺の気持ちも理事長先生の気持ちとだいたい同じようなものなのかもしれない。

親心、ならぬ兄心。

もちろん俺に弟妹はいないが、もしいたら、あの子達みたいだったのかもしれない。

……こんな事、こっ恥ずかしくてあいつらには絶対言えないけどな

 

「もっとも、何かしてやりたいとは思っても何も出来やしない、何をすれば良いのか分からない、ってのが目下の悩みではあるんですが。所詮購買のお兄さんですから」

 

「それを言ったら私だって同じようなものよ。理事長なんて言っても、彼女たちに図ってあげられる便宜なんてたかがしれてるもの。何をしてあげれば本当に子供のためになるのかなんて、私にも分からないわ」

 

それっきり二人とも黙ってしまう。

立場は違えど思いは同じ、ってところか。

大人になれば悩むことなんてなくなるもんだと思ってたけれど、そんな事はないんだよな。俺なんかはロクでもない男だから仕方ないのかも知れないけれど、はるかにちゃんとした大人の理事長先生でもこうして分からないことはある。

それでも良いんだと、何故かそんな気がした。

 

「お互い、大変ね」

 

「えぇ……マスター、この人に一杯。俺の奢りで」

 

マスターは小さく頷いて、理事長の前に俺が最初に飲んでいたのと同じウイスキーを出した。

フォアローゼズ(四輪の薔薇)、俺の一番好きなバーボン。この酒には何やら随分ロマンチックな逸話があったような気がするが、あいにくと俺の頭はそんな小洒落た話を覚えておくだけのキャパがない。

忘れちまったよ、そんな話は。

 

「今日はとことん飲みましょう。飲んで愚痴ればまた明日も頑張れますよ」

 

「あら、良いこと言うわね。折角だし、お付き合いさせて頂こうかしら?」

 

こつり、と軽い音をたててグラスを一度ぶつけ合う。

君の瞳に乾杯、なんて気障ったらしいことは言わないぜ?そうだな、それでも格好つけさせて貰うなら……

 

--9人の女神共に乾杯

 

夜はまだ長い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「んあ?」

 

目が覚めた。

頭がガンガンする。部屋に差し込む日の光がやたらめったら眩しくて適わない。

 

「くっそ……二日酔いかよ」

 

ふらつきながらもどうにかベッドから抜け出して立ち上がり、伸びを一つ。

体中がぎしぎしと軋む音をたて、朝からあまり気分が優れない。

と、そこで気づいた。

 

「……何で俺、裸なんだ?」

 

目線を下げれば目に映るのは見慣れた自分の肉体。なぜか一糸纏わぬ姿のまま、俺はベッドに潜り込んでいたらしい。

酒の所為かと思い、こうなった経緯を思い出そうとする。

 

「えっと……昨日は確かバーで飲んでて……そうだ、理事長先生と会ってそのまま一緒に……」

 

ぶつぶつと呟きながら思い出すのと平行して、部屋に脱ぎ散らかされた衣服を纏めていく。

くたびれたスラックス、色あせたネクタイ、よれよれの開襟シャツ……

ふと、シャツをつかんだ所で手が止まった。

白一色のシャツの肩口あたりについた赤いシミ。これは……

 

「おい、待て……」

 

低く唸るように呟く。

正直思い出したくなかったが、それなのにこのポンコツの頭は動くのをやめてくれない。

そうだ、昨晩は理事長先生と飲んで、ベロベロに酔っぱらって、それから……

 

「おい、待て。落ち着け」

 

そうだ、素数を数えるんだ。

どこぞの神父様も言ってたはずた。素数は勇気をくれる数字。

いや、素数ってそもそもなんだっけ?

ってか俺誰だっけ?

などと、現実逃避をしてみても意味はなく、時間の経過とともに記憶がより鮮明になっていく。それと共に自分の顔からみるみるうちに血の気が引いていくのが分かった。

そうだ、確か酔った勢いで……

 

「や、やっちまったぁぁぁぁあああ!!」

 

絶叫が室内に木霊する。

男、津田京助21歳。

ただいまかつてないピンチです。

 




続きます


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閑話 理事長と一夜の間違い(中) ~Maria~

前回の続きです。
ギャグ成分がどんどん濃度高くなっていきます。


今日も今日とて店内にはBGMが流れる。

選曲は完全に俺の趣味。好きな曲に囲まれて仕事が出来るなんてかなり贅沢なんじゃないかと、今では1日の音楽を選ぶのがささやかな楽しみになっている。

今日の一曲はRicky Martínの『Maria』

いつもとは趣向を変えてみたが……うん、今の気分にはかなり不向きかもしれない。

 

「あー……」

 

呻き声ともため息とも、何ともいえない声を出してタバコを一口。

愛飲するゴールデンバットの、変わらない味だけが今の慰め。……なんて格好つけてみても状況は変わらない。

あの夜の事を思い出しては胃がきりきりと痛む。過去に戻れるなら、あの日あの時に戻りたい。そんでもって浮かれた--イかれた?俺自身を殴り殺したい。いやマジで死ね、あの時の俺。

今日、学校で書類提出がてら理事長先生にも会ってきたが、顔を合わせたら意味深な笑みを向けられた。夢オチ、なんて事も考えたがそんな甘い事は起きてはくれない。

畜生が。マジでもう、どうしよう……

 

「パン屋さん!パン屋さんってば!」

 

近くで俺を呼ぶ声がしてふと我に返った。

 

「ぬおっ!?近い近い近い!」

 

俺の顔の前、目と鼻の先に、頬を膨らませた見慣れた少女の顔があって、驚きのあまり椅子ごと後ろに倒れる。

痛ぇ……

 

「何だ、饅頭娘か……脅かすんじゃねぇよ。何か用か?ってか来てたのか?」

 

しっかしこの娘、パーソナルスペース狭すぎやしないか?俺は大分広い方だからとやかく言えないが、野郎相手によくそんなにくっつく程の距離まで接近出来るな。俺だから良いけど、他のーー例えば同年代の多感な男子にそれだといらん誤解を生むぞ。

その辺どう考えて……あぁ、そっか。俺、男と認識されてねぇのか。

 

「来てたのかって……もう随分前からお店にいるよ?注文してるのに全然聞いてくれないんだもん」

 

「え?あ、悪ぃ……」

 

はっとして見渡せば、高坂ちゃん率いるμ's一味が店の片隅で心配そうに俺の方を見ていた。

俺とした事が、天敵の来店にも気が付かないとは大分ヤキが回ったみたいだ。つーか、小娘共に心配されるようじゃお終いだな……

なんて苦笑を浮かべながら灰皿を探す。いくら何でも子供の前で堂々とタバコなんてのはあまりよろしいことじゃない。

あれ?さっきまで吸ってたタバコどこいった?

 

「悪いな。考え事してて気が付かなかった」

 

「考え事?それより大丈夫なん?」

 

東條ちゃんが心底心配そうに俺を見て尋ねる。

珍しいな、いつも人のことおちょくってくるこの娘が心配なんて。明日は雪でも降るのかね?

 

「いや、大したこっちゃない。大人の話だ」

 

軽くふざけてそう返してやるが、内心冗談事じゃなかった。

……ん?なんか焦げくさいな。落としたタバコがどこかで燃えてんのか?

 

「いえ、そうでなくて……その、津田さん、頭大丈夫なんですか?」

 

「は?」

 

園田ちゃんにそう言われて、怒るよりも先に驚きの感情が沸いた。

いや、頭が悪いのは認めるがいきなりその言い方は酷すぎる……しかも、それを言ったのが猫娘ならともかく、真面目で礼儀正しい園田ちゃんだから驚きだ。

こりゃ、もう天気雨くらい降ってんじゃねえか?

 

「あの、頭……髪の毛……」

 

恐る恐るといった感じで小泉ちゃんが俺--の頭の上を指さす。

髪の毛、だと?寝癖でもついて……

 

「あっちぃぃいい!?」

 

あちっ、あちち!燃えてんのか!?

急いで流しに頭をつっこみ、蛇口を思い切りひねる。

どうやらさっき転んだ勢いでタバコが頭に乗ったらしい。幸いにしてまだくすぶってるだけだったようで大惨事になる前に消えてくれたが……びしょびしょじゃねぇか。

 

「くそっ……ひでぇ目にあった」

 

「おじさん大丈夫?うわ、びしょびしょ……」

 

「大丈夫だ。水も滴るいい男って言うだろ」

 

タオルで髪を拭きながらヤケクソ気味にそう言い放つ。 畜生、髪先も少しチリチリになっちまった。

自分で言っといてなんだが笑えやしない。何がいい男だ。気色悪い、豆腐の角に後頭部強打してそのまま死ね、俺。

 

「何だか相当キてるみたいね……」

 

「うん。あんなにぼんやりしてるなんて、変にゃ……」

 

西木野ちゃん、星空ちゃん。心配してくれんのは良いが憐れみの目を向けるのやめろ。

泣きてぇ……

 

「京助さん、悩みがあるなら聞くわよ?」

 

「そうよ。たまには頼りなさいよ」

 

絢瀬ちゃんに矢澤ちゃんまで、やっぱり心配そうに言ってきやがった。

何だかんだでこいつら、面倒見良いんだよな。ホント良い奴らだよな……じゃなくて。何でこの俺様が小娘共に心配されてんだ。ふざけろよ?

 

「何でもない。ちと考え事してただけだ、お前らが気にする事はねぇよ」

 

「気にするよ!」

 

投げやりな俺の返しに、間髪いれずに高坂ちゃんが食いついてきた。

 

「パン屋さんだって、私たちが何か悩んでたら気にするでしょ?」

 

「しない。したこともない」

 

つーか、したくないから気にさせるような事すんな。

これ以上胃痛のタネを増やされてたまるか。いい加減胃に穴あくぞ。これまでに消費した胃薬代金だって馬鹿にならないんだからな。

 

「面倒な人」

 

「うっせぇ」

 

西木野ちゃんにだけは言われたくない。

 

「先輩、少しは素直になったら?」

 

「俺はいつでも素直だ」

 

真顔でそう返してやったら、矢澤ちゃんはやれやれとばかりに肩をすくめた。

 

「いつものお返しです。力になれるかは分かりませんが、何か悩みがあるなら聞きますよ」

 

にっこりと微笑んで、園田ちゃんはそう言う。

だけどさ……冗談じゃないぜ。

ガキに心配なんかされたら俺の立つ瀬がない。お前らは心配なんかする必要ないんだ。ガキを心配するのは俺みたいな大人の役割なんだからよ。

だから俺は鼻で笑ってやった。

 

「……けっ。余計なお世話だ。お前らはこんなロクでなしに構ってないでてめぇのことだけ考えてろ」

 

小うるさくて七面倒で、迷惑極まりない小娘共。なのに、なんでお前らはそんなに良い奴なんだよ。

彼女たちに背を向けて、人数分のグラスと飲み物を用意する。この頃彼女たちの好みも分かってきてしまって何か複雑な気分だ。

 

「さっきも言ったが、大人の話だ。子供が気にすることじゃないから安心しろ」

 

なるべく感情を出さないようにぶっきらぼうに言ってグラスを配る。

今日も今日とて俺の奢り。何はともあれ心配してくれてありがとよ……じゃなくて。全く、毎回奢りなんてたまったもんじゃねぇぜ。仕方のない奴らだな。

 

「大人の話って……」

 

「大人の話だ。詳細は聞くな……んで、何か食いもんも注文するか?」

 

釘を刺してから注文を聞いて、話題を無理矢理反らす。

どうも俺は人に物事を相談するってのが苦手なんだ。まぁ、もっとも、こいつらに相談出来るような内容じゃないんだが。

……あ、ヤバい頭も痛くなってきた。頭痛薬も追加しとくか。

 

「あ、じゃあチーズケーキをお願いします」

 

「おう。丁度練習がてら作ったレアチーズケーキがあるから試食してみるか?」

 

「はい!」

 

そういえばチーズケーキは南ちゃんの好物だっけか。

そう思って彼女の方をちらりと見る。

さすがに親子だけあって似てる。嬉しそうにしている彼女の顔が昨晩の理事長先生と重なった。

 

「?」

 

「あ、いや……何でもない」

 

俺の視線に気づいたのか小首を傾げる南ちゃんに、慌てて言って厨房に戻ることにした。

 

 

 

 

「マジでどうするかな……」

 

ケーキを切り分けていてもつい口に出てしまう。

本当に困った事になった……なんて言うのも今日だけで何度目だ?

大抵の事なら一人でどうにかしてのける自信はあるし、その位の能力はあるつもりだ。

だが、これはちと難し過ぎる。完全にキャパオーバーだろ……

元々頭は良い方ではない。荒事ならどんと来いだが、力尽くでどうにか出来る話でもない。

逃げ出して放浪の旅に出たいところだがそういう訳にもいかない。流石にそれは無責任過ぎる。

そして何より一番辛いのはこれを相談出来る相手がいない事だ。

昔の仲間に頼る?

考えないでもないが、今更合わせる顔がない。よしんば会えたとしてもぶん殴られるか死ぬほど笑われるかのどっちかで、根本的な解決になるとは思えない。

本当にどうすりゃ良いんだ……

 

「お待ちどうさん。チーズケーキとコーヒー、紅茶のセット、ミルクと砂糖はお好みでどーぞ」

 

考えながらでも作業は進む。

馬鹿でかいお盆の上に乗せた、切り分けたケーキとコーヒーをそれぞれの前に置いていく。

今回のケーキはレアチーズケーキ。クッキーを砕いた生地に冷やし固めたクリームチーズ。香り付けにレモン汁を少々。

ひんやり爽やかな一品は、暖かい飲み物にあう事間違いなし。

言っちゃなんだが、結構自信作だ。

 

「毎回思うんだけど、パン屋さん、何でも出来るよね……」

 

「このお店に来る前は何やってたのよ……?」

 

そりゃまぁ、色々やってきたが、笑ってごまかすしかない。

夢費えて流れ者してましたとか、パチスロで生計立てようとして失敗しましたとか、用心棒紛いのことして糊口を凌いでたとか……

多感な十代の、ましてや女の子の前で言える内容ではない。

口が裂けても、な。

 

「まぁ、色々あるんだよ。男の子には」

 

「男の子って年齢じゃないと思うにゃ」

 

……おい、星空ちゃん。

そりゃ確かにちょっと、ちょーっと老けて見えるのは認めるけどな。

ぼそっと何気ないように言うのはやめろ。さすがに凹むぞ。

 

「んー!美味しい!」

 

と、話の流れをぶった切って南ちゃんが歓声を上げた。

どっちかって言うと物静かな方な彼女だが、それでも所詮は小娘一味の一人。

うるせぇ

 

「程良く甘くて、チーズの味もしっかりしてるのにクドくない!口の中でほろほろって溶けて……はぁ~最高!」

 

にこにこしながらケーキを突っつく南ちゃん。

絶賛して貰えるのは冗談一切抜きで嬉しいが……そこまで喜ぶとは思わなかった。お兄さんもびっくり。

 

「お、おう。気に入ってくれたみたいで嬉しいぜ」

 

「はい!これ、正式にメニューにのるんですか?」

 

「あ?うーん……ちっとな、微妙な所だ。何分材料がなぁ……」

 

良い食材を作ったからって美味しい料理が出来る訳ではない。重要なのは作り手のスキルだ。

だが、ある程度の腕があるなら、良い食材を使った方が美味しい物が出来るのは事実な訳で。

今回のケーキに使ったのは知人の伝手で牧場から送って貰ったちょっとばかり値の張るチーズ。ついでに生クリームも。

原価に近い値段で仕入れたけれど、それでもいつものチーズケーキにくらべて単価が高くなるのはどうしようもない。

名のあるケーキ屋で売るならともかく、パン屋が道楽で作って売るには値段が高すぎる。

かといって値段を下げると儲けが出ないし……

 

「作ってみたは良いものの……こいつは今回ばかりの特別限定だな」

 

「そんな……」

 

心底落ち込んだ顔で南ちゃん、瞳まで潤ませてる。

そっか、そんなに残念だったか……何かちょっと悪いこと言っちゃったみたいで心が痛い。

 

「限定品!?……わ!これ凄く美味しい!」

 

一口食べて、顔を輝かせたかと思ったら高坂ちゃん、物凄い勢いでフォークを進め始めやがった。

……ホントに味分かってんのか?

 

「これは……爽やかで品のあるお味ですね」

 

一方で上品にケーキを食べて感想を述べる園田ちゃん。

こいつら何時見ても対照的だな。良く友達やってられんなー、なんて余計なお世話か。

 

「お代わり!」

 

「ねぇよ!」

 

綺麗になった皿を尽きだして高坂ちゃんがお代わりを要求してきやがった。

残念だが、お代わりの用意はない。……ってか試食品で限定品だってさっき言ったよな、俺?

 

「んー………」

 

限定品と聞いた時から、南ちゃんの手の進みが明らかに遅くなっていた。

大層このケーキを気に入ってくれてるみたいだから、食べきるのが勿体ないんだろうな。

なんだろう、ホント心が痛んでくる……いやいや待て待て待て!

そんな憂いを含んだ目で俺を見るな!上目遣いもなしだ!

ええい、その手には乗らんぞ、俺は!

 

「正式にメニューにのせれば?こんなに美味しいんだし、絶対売れるわよ」

 

「ん、……しかしな。1ホールだと値段設定この位になるぜ?」

 

西木野ちゃんまで美味しいって言うんだから、そりゃま確かに味の方は悪くないんだろうな。

だが……

携帯電話の電卓を起動して、数字を打ち込む。うろ覚えなところもあるから大体の値段だが……安く見積もって、と

 

「ぶっ!」

 

「うわってめっ!」

 

数字を見せた途端、矢澤ちゃんがコーヒー吹きやがった。

跳んだ飛沫がシャツにシミを作る。

 

「これは、さすがに……」

 

「だろ?」

 

ついでに言うと今矢澤ちゃんが汚したシャツ、この数字の五倍の値段するんだけどな。

後で覚えてろよ。

 

「あぁ。女子高生の財布には辛いだろ?ってか、一般向けにしても常に売れるもんじゃないぜ」

 

いや、多少は売れるかもだが。売れ残ったら大赤字も良いところだ。

 

「うーん……」

 

まだ煮え切らないのか、南ちゃんが悩ましげな声をあげる。

……弱ったな。

 

「……そうだな。メニューにのせるのは無理だが、そこまで言うなら考えはある」

 

ふと思いついた事を口にしてみる。

情に絆されるようじゃ、仕事は出来ない。

とは言え、小娘が俺の目の前で困った顔してるのは妙に気分が悪い。

寝覚めが悪いじゃねぇか。

これ以上俺の安眠を邪魔されてたまるか。今度は睡眠薬の世話になる羽目に陥るのか?冗談じゃない。薬代で破産する。

 

「一ヶ月前の完全予約制、受注生産……なんてどうだ?」

 

最大限の譲歩。

何だかんだ言ってうち、パン屋だしな。あんまりパン以外に力入れる訳にもいかないんだが、この位ならどうにか。

俺の提案を聞いて、南ちゃんの表情がぱぁっと明るくなる。

……まぁ、この笑顔が見れた訳だし良しとするか。

 

「ホントに良いんですか!じゃあ、来月の分今から予約します!」

 

「急な話だな……」

 

別に構いやしないが……仕入れ間に合うかな?

ってか、気づいたら南ちゃんのペース乗せられてねぇか?この俺が不覚を取るとは……この小娘、末恐ろしいな。

しかし、タダで願い事を聞くってのもあんまり面白くないな。

何より、こうやって甘い顔なんて見せるとつけあがりかねない……あ、もう手遅れ?

ともかく、だ。

何か条件つけるかね、っとそうだ……いや、

 

「構わないが少し頼みたいことが……あー、いや」

 

「?」

 

いや、いやいやいや。

さすがにこれは……うん。人選ミスな気がする。

いや、人選自体はこれ以上ないくらいに的確な筈だけど、しかし……

第一この俺様が何で小娘に相談持ちかけなきゃならないんだ……いや、しかし、でも……

 

「どうしたんですか?」

 

「うん……」

 

南ちゃん、小首傾げて不思議がってんじゃねぇか。可愛いなおい。

その仕草も親譲りってか?

まぁ良いや。ここまでいったらもうチンケな意地とか全部どっかにぶん投げよう。

 

「いや、ちっとさ。理事長先生のこと、詳しく教えてくれないか?」

 

もう後には引けないな、これ。

俺、もう知ーらね。

どうにでもなりやがれ。




まだ続きます


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閑話 理事長と一夜の間違い(中) ~secret love song~

重ねて言いますがifストーリーです。
酔っ払った作者の悪ふざけだと思って下さい……






 

「津田さんがおかしい!」

 

一日の授業が終わり、部室にそろったミューズの面々。練習前の穏やかな午後の空気を、ことりのそんな台詞がぶち壊した。

 

「おじさんが可笑しいのはいつものことだと思うにゃ」

 

「知らなかったの?先輩、だいぶーー相当、かなり頭おかしいわよ?」

 

何の気なしといった風な凛とにこの台詞だが、本人が聞いたら間違いなく怒るか泣くかするレベルで酷い。

 

「それは知ってるけど、おかしいのベクトルが違うの!おかしいの!」

 

「おかしいとは……何かあったのですか?」

 

海未が眉をひそめながら尋ねた。

日頃の言動には慣れたものの、それに輪をかけておかしいともなればそれは大事なのかもしれない。

 

「ちょっと詳しく話を聞かせなさい。先輩がどうかしたの?」

 

にこも改めて詳細を尋ねる。

まさかとは思うが、ただでさえ不健康そうな彼のこと、万が一もありえると、ほんの一抹の不安がよぎっての台詞だった。

しかし……

 

「この頃、お母さんの事ばかり聞いてくるの!最初は別に何も思わなかったけど、もうそれが一週間近くだよ!?」

 

ことりのどこか悲痛な叫び。

しかし、その内容が内容なだけに場は水を打ったかのように静まりかえった。

 

「は?」

 

「いや……別に何もおかしい事はないのでは?」

 

忘れられがちだが、京助は購買の職員も兼任している。それ故に職員室や理事長室に顔を出すこともあり、教職員と話している姿も割とよく見る光景ではある。特に理事長とはμ'sの事もあり、話す機会は多い。

ことりの今の話を聞く限りでは何もおかしいところは無いように思えた。

 

「お兄さん、一応購買の職員さんだし……何も変じゃないんじゃない?」

 

「ううん!だってお母さんに聞きたい事があるなら直接聞けば良いでしょ?……それに、お母さんの趣味とか好きなものとか、仕事とは全然関係ないことばっか聞いてくるんだもん!おかしいよ!」

 

「それは、確かに変ね……」

 

「そういえば津田さん、この間から少し様子がおかしいわよね?何か関係があるんじゃない?」

 

先日の京助の様子を思い出してメンバーは顔を見合わせた。

いつもどこか可笑しい京助だったが、この頃の彼は輪をかけて酷い。見ている彼女達が心配になるほどに。

 

「あの人がおかしい理由に心当たりなんてある?」

 

「うーん……」

 

真姫が髪を弄りながら尋ねると、何人かが神妙な顔で考えを巡らせ始めた。

どうやら心当たりがあるらしい。

 

「もしかしたら、あれかな?」

 

「凛ちゃん、何か覚えがあるの?」

 

「うん……この間お店に行った時、おじさんが大事にしてるマグカップ割っちゃって……」

 

「えぇ!?怒られなかったの?」

 

「うん……怒られるの嫌だったからかよちんにおにぎりのご飯粒貰ってくっつけておいたの」

 

「あなたは何をやってるんですか……」

 

海未が呆れたように凛を睨む。そういえば確かにこの間、京助の持つマグカップが不自然に割れたのを覚えている。

……本人、泣きそうな顔をしていた。

 

「いや、さすがにマグカップは関係ないでしょ?」

 

「うーん……じゃあ、あれかな?」

 

「穂乃果も何か覚えがあるのですか?」

 

「うん……実は、パン屋さんのガレージにあったバイク、かっこいいから近くで眺めてたんだけど……触った拍子にミラーがとれちゃって」

 

「ちょっと穂乃果!」

 

「うん……どうして良いか分からなくて、つい持って来ちゃった。それがこれです……」

 

部室の引き出しから穂乃果がミラーを取り出した。

無惨にも根本からぽっきり折れていて、もはや修復のしようはなさそうだ。

しかし、穂乃果。何故それをこんな所まで持ってくるのか。

 

「穂乃果!あなたと言う人は!!」

 

「うわー!海未ちゃんストップ!凛ちゃんの時と反応違くない!?」

 

穂乃果のそばまで近寄っていって怒り出す海未。いつもと変わらない光景だった。

いつもと違うのはテーブルの上に置かれたバイクのミラー。

 

「……これ、どうするの?」

 

「……放っておいた方がいいかも」

 

何気に酷い。

というか、みんなしてやっている事が酷い。このまま話し合えば余罪はいくらでも出てきそうだった。

 

「でも、それも津田さんがお母さんの事聞きたがるのに関係ないよね?一体どうしたんだろう……」

 

他のメンバーげ繰り広げる漫才をしりめに、ことりが頭を抱えてしまう。彼女にとっては実の親のことでもあるし、他の面々とは違って非常に深刻な問題なのだろう。

 

「うーん……あ!じゃあ、パン屋さん、恋してるとか?」

 

「恋?」

 

穂乃果の唐突な一言に風向きが変わった。

恋という単語と、あの無愛想な青年がどうしても結びつかず、全員が全員、思考がフリーズしてしまう。

やはり彼は、彼女達に男性として見られていないのかも知れなかった。

 

「おじさんが恋?……ぷっ!あり得ないにゃ!濃いのはおじさんの無精ひげだけで十分にゃ」

 

「凛ちゃん、それはさすがにお兄さんに失礼だよ……」

 

「せ、先輩が恋?そんな事あるわけないじゃない!ないない!絶対ない!」

 

「何でにこがむきになってるのよ?まぁ、あの人だってまだ自称21なんだし、恋くらい……ふふっ」

 

言ったそばから絵里も堪えられずに笑い出してしまった。

メンバー全員の総意として、あの男が誰かに熱を上げるところがどうしても想像出来ないらしい。

 

「こ、恋……ハレンチです!」

 

「いや、恋くらい普通でしょ……でも、もし仮に恋だったとしてお相手は?」

 

「話の流れからして……理事長先生とか?」

 

何気なく、冗談のつもりで花陽が口にした一言。

しかし、この場にはその理事長先生の娘がいるわけで。

当の本人は真っ青になっていた。

 

「津田さんが、お母さんと……?」

 

「ご、ごめん、ことりちゃん。今のは冗談で……」

 

「そういえばこの間、お母さんが夜中に酔っ払って帰ってきて……津田さんと飲んでたって……」

 

再び、場が凍り付いた。

 

「いや、まさかそんな……あの人に限って」

 

「でも……!」

 

「……」

 

「どうしたの希?さっきから黙り込んで」

 

先ほどから会話に一切入らずに一貫して黙秘を決めていた希に、絵里が声をかけた。それは危ない方向に進んでいく話を切る目的もあったのだろう。

いつもなら希がここで茶化して何か納得のいく提案をして終わる。しかし……

 

「言おうか迷っとったんやけどね」

 

重い、口を開く。

 

「昨日、見てしまったんよ。津田くんが、理事長室に入ってくところ」

 

「え?いや、そんなの今までだって何回も見てるでしょ?」

 

「うん……でもいつも、すぐに仕事の話して出てきとるやろ?だから今回もそうやろ思って、出てきた所をからかおうと思ったんやけど……いくら待っても部屋から出てこないんよ」

 

「え、それって……」

 

「さすがにおかしいな思って、ドアに耳当てて中の様子を伺ってみたら……」

 

「いや、ちょっと何してんのよ?」

 

つっこみをスルーして、希は神妙な顔で続ける。

 

「中の様子は良く分からなかったんやけど、何だか激しく動き回るような音がして、それが収まったと思ったらしばらくしてから津田くんが部屋から出てきたんや」

 

そこまで言って、彼女は顔を伏せ、すぐ意を決したように、

 

「汗だくで、服も乱れてて……何やろ、ただごとではない様子だったよ」

 

「……」

 

全員、言葉を失った。

何を言えば良いのか分からなかった。ことりに至っては顔色が蒼を通り越して真っ白になっている。もとより色白な彼女なだけに、それは病的なまでの白さで、今にも倒れてしまいそうな具合。

 

「……パン屋さんに直接聞いた方がいいかもね」

 

ゆっくりと、かみしめるように穂乃果が呟く。それは今にもパニックを起こしそうになっている自分を落ち着かせようとしているかのようだった。

 

「でも、聞いてみて意味はあるの?もし、その……」

 

真姫が言いよどんで、横目でことりをちらりと見やる。

その先を口に出すのははばかられた。

そんな折りに、ばん、と机を叩く大きな音がして、皆が一斉にその音の発生源に目を向ける。

 

「意味ならあります」

 

きわめて静かに、海未が言い放つ。

言葉こそ静かで見た目には落ち着いて見えるものの、その目を見た瞬間、μ'sのメンバーは察した。

……完全に、目が据わっている。

 

「あの男に罪を認めさせるのです。その上でお白州に引き出して市中引き回しの上打ち首獄門に処すのです!」

 

「う、海未ちゃん……怖いよ?」

 

「あの破廉恥漢を許してはなりません!さぁ、行きますよ!」

 

「ちょ、待ってよ海未ちゃん!?」

 

幼なじみのあまりの剣幕に軽く退いている穂乃果とことりを後目に、彼女は自分のロッカーをごそごそと漁ったかと思うとやがて身の丈程もある細長い包みを取り出した。

弓、である。

 

「って!何弓なんか持ち出してんの!?よしなさい!」

 

「海未ちゃん、早まっちゃダメにゃー!!」

 

「にこ、凛!止めないで下さい!」

 

思えばあまり色事に耐性のない、初心な海未である。この一件は既に彼女の処理能力を遙かに越えてしまっていたのかもしれなかった。

暴走気味の海未を止めようとメンバー総出で大騒ぎしていると、そんな喧噪を知ってか知らずか不意にノックの音が部室に響く。

本当に間が良いのか悪いのか、ノックから少し遅れて顔を出したのは、

 

「よー、小娘ども。すまんが、ちょっと良いか?南ちゃんにちょいと聞きたいことが……」

 

「確保ッ!!」

 

「は!?なッ!!ちょっ!!?」

 

部長、にこの号令の元、誰からともなく全員が京助に飛びかかっていった。

暴漢なら何人来ようとまとめて返り討ちにしてみせる京助だが、如何せん女の子に突然襲いかかられては反応出来なかった。

為すすべなくあれよあれよという間に押し倒されて組み伏せられてしまう。

 

「な、何故だぁぁ……むぐっ!?」

 

叫びさえ上げる暇もなく、口まで塞がれて、哀れ津田京助、完全に無力化されてしまうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

……はい。

男、津田京助21歳、本日またしてもピンチを迎えております。

 

「…もごっ、むぐぐ」

 

不満の声を上げようとしてもそれは言葉にならなかった。

いや、それどころかまともに身動き一つとれやしない。

購買の仕事の帰りがけ、南ちゃんに用があって、小娘どもの部室に顔を出したら何故か急に9人がかりで押さえつけられて縛りあげられた。

で、今俺は椅子に縛り付けられて、ご丁寧に口にはギャグポールなんかを嵌められて拘束さらてる状況にあるわけだ。

……何だよこの状況。

俺を取り囲んでる小娘どもの目線もやけに刺々しい。不安や困惑、それだけなら分かるが明らかな敵意に、何だその汚い物を見るような目は。

俺が何かしたか?つーか何でギャグポールなんか部室にあるんだよ?今時の女子高生はそんなもん持ち歩いてんの?怖ぇよ!

それよかこんなムサイ野郎縛り上げて何が楽しいんだよ!俺、この後どうなっちゃうの?いや、せめて何か言ってくれよ。無言で睨むのやめてくれませんか?

え?何?俺死ぬの?

 

「津田さん……何でこんな事になってるか、分かってますよね?」

 

綾瀬ちゃんがようやく口を開いたかと思えば、良く分からない事を言われた。

いや、ごめん。本気で分からないんだが。

 

「むごごごご!」

 

くそっ、言い返そうにも口が塞がってて声にならねぇ。

俺がロクに喋れない事に気づいたのか、ギャグポールが外された。

 

「っ……てめぇら!一体全体どういう了見だ!?俺が何かしたか……むごっ!?」

 

開口一番に吠えたてたら、矢澤ちゃんが俺の口を思い切り塞いできやがった。

口から頬にかけてを覆う、小さな手。柔らかくて暖かいその感触に、一瞬だけ動悸が早ま……ってる場合か!

 

「騒がないで。……ううん、騒いでも良いけど良いの?おじさん、こんな酷い格好の所他の人に見られても良いのかにゃ?」

 

「む……」

 

いや、そんな台詞どこで覚えたよ?

つーか、それ立場が逆だろ。少なくとも成人男性とっつかまえて言う台詞じゃねえよ!

それと、矢澤ちゃん!

分かった。黙るからいい加減手を離せ。口だけじゃなくて鼻も塞いでるから。息出来ないから。

ホント、マジで死ぬから!

 

「……で、だ。何で俺がこんな目にあっててお前らがこんな凶行に走ったのか、詳しい説明が欲しいんだが」

 

やっとこさ自由に話せるようになったんで、努めて冷静に尋ねてみる。

本当はブチ切れて怒鳴り散らしてやりたい所だが、そんな事をしたら次に何をされるか分かったもんじゃない。

それに……こいつらが理由もなくこんなバカな事をするとも思えないしな。

 

「パン屋さん、酷い!」

「おじさん、何てことしてるにゃ!!」

「あなた、何を考えてるの?」

「お母さんを取らないで!」

「お兄さん……見損ないました!」

「このロクデナシ!」

「近寄らないで汚らわしい!」

「一遍、地獄見た方がええんとちゃう?」

 

「てめぇら落ち着けよ……」

 

一斉に言われても分からねぇから。

何だか知らないがこれ以上ないくらいに罵られてることは分かったけど、マジで俺何かしたっけ?

いや、悪いこといっぱいしてきたし、人には言えない事も、殺されても文句言えないような事も数え切れない程抱えてはいるが……流石にこの子達に恨まれるような事をした覚えはない。

それに何だ?台詞の中にちらっと混じってた『お母さんを取らないで』とか何とか……

 

「津田、京助さん?」

 

「ぐえっ!?」

 

首をひねって考え事してたら、物理的に首を捻られた。

園田ちゃんが俺の襟元掴んですげぇ形相で睨みつけてくる。

 

「そ、園田ちゃん?……いや近い近い近い!」

 

いつぞやの高坂ちゃんみたいにこの子もめっちゃ顔近づけてくる。それこそ吐息が顔を撫でそうな距離で、ホントならドキドキわくわくのシチュエーションなのかもしれないが、まったくそんな気にならない。

俺が小娘に興味がないってのも大きな理由だが、般若の形相に迫られてそんな甘ったるい展開期待出来る奴がいるとしたらそいつは筋金入りのバカ野郎だ。

ドキドキわくわくどころかこちとら恐怖で心臓バクバクだわ。

 

「津田さん……何か申し開きはありますか?」

 

「あ?えー……いや、状況分からないから、まず一から説明を願いたいんですが」

 

とりあえず素直に状況説明を願ったら、襟首掴む手に力が入って首が締まった。

この小娘、動けねぇからって好き勝手しやがって。後で覚えてろ、今度店に来たらこっそり飲み物炭酸に変えてやる……

 

「だから!マジで何の話か分からないんだって!頼むから説明してくれ!俺が悪いならそれ相応の償いはするから!」

 

ともかくこれ以上うだうだしてても話が進まない。

いい加減縛られっぱなしってのも気分が悪いぜ。俺は縛るのも縛られるのも好きじゃないんだ。

 

「ふむ……本当に覚えはないと?」

 

「おう」

 

少なくとも女子高生に縛り上げられて囲まれる羽目になるような覚えは全くない。

全くない以上、身の潔白を主張し続けるより仕方がない。

 

「本当にやましい事はないと?」

 

「お前らに関わる事でやましいことなんざ一つもない」

 

「そうですか……ことり」

 

まだ納得はいっていないようだったが、園田ちゃんは俺を離して代わりに南ちゃんを俺の前に立たせる。

 

「………」

 

「何で目を逸らすの!?」

 

あ、いかん。

つい反射的に目を逸らしちまった。

前言撤回。やましい事あったわ。

 

「津田さん!」

 

「いや……何だ、その、な。あれだよあれあれがあぁしてこれがこれで、うん。まぁ、そういう事だ」

 

「どういうこと!?」

 

「えーっと、えーっと……あ、そうだ、誰か俺の胸ポケットからタバコ取ってくれない?ちょっと一服……」

 

すっとぼけて誤魔化そうとしたが、言い切る前に園田ちゃんが発する異様な殺気に怯んで冷や汗が滲んだ。

あ、下手なこと言ったら殺られるわ。

ごめんなさい冗談です。

うん、これ以上は無理かもしれない。いい加減ボロが出る。

かと言って……

 

「津田さんは、お母さんとどういう関係なの!?」

 

「……………は?」

 

叫ぶような南ちゃんの一言。

思わず自分の耳を疑った。

気がついたら口をぽかんと開けていて、端から見れば俺はアホそのものだっただろう。

 

「は?え?」

 

いや。

いやいやいや。

何かすげぇ勘違いされてないか、俺?

何?俺が?

理事長先生と?

つまり……そういう?

 

「え?」

 

俺の反応が予想外だったのか、南ちゃんが目をまん丸にして驚きの表情を浮かべる。

いや、驚いてんのは俺の方なんだけど。どゆことこれ?

 

「あー……まぁ、何だ。何か誤解があるみたいだな」

 

何か、一気に全身から力が抜けてく気がした。

こいつら本当に俺を何だと思ってんだ?

 

「え?じゃあ、やたらお母さんの事聞いてきたりしたのは何でなの?」

 

「んー……」

 

唸ってから、俺を取り囲む九人を見渡す。

そう聞かれると返答に困ってしまう。理事長先生には口止めされてるからあんまし吹聴出来ないし、何より俺個人としてもあんまし言いたくないし……かと言ってここで黙秘を貫くってのも余計ロクでもない目に合う気がするし……

まぁ、南ちゃんには安心させてやるって意味でも言っても大丈夫かな?口は固そうだし。

 

「ちょっと大きな声では言えないんだが……悪い、南ちゃんと二人にしてくれねぇか?五分……いや、三分で良いからさ」

 

「私と?」

 

驚いたように目をぱちくりさせて、南ちゃんは困ったようにメンバーに目を向ける。

いや、本当に申し訳ないんだがこっちにも事情があるんだ。

 

「……津田さん、ことりと二人っきりになって一体何をなされるおつもりですか?」

 

「てめぇらは俺を何だと思ってる?」

 

なるほど、良く分かった。

俺のことを男とは思ってないが、ケダモノか何かだとは思ってるってわけか。

悪いが俺はガキになんてこれっぽっちも興味ねぇっんだよ。俺が好きなのはぼんきゅっぼんの年上のおねーちゃんだ。

俺より年食ってから出直せバーカ。

 

「海未ちゃん、大丈夫。ほら、津田さん縛られてるし」

 

「そうだな。どうでも良いけどお前らいい加減ほどけや」

 

ことりに言われてしぶしぶと言った感じで海未が従い、それに習ってメンバーが部屋を出ていく。もちろん誰も俺を椅子から解放してはくれない。ホント良い性格してんなお前ら。

 

「さて、と」

 

全員が出て行ったのを確認して口を開く。

あいつらの事だから扉に耳当てるくらいはしてるかとも思ったが、そんな気配はない。たまに妙に行儀いいな、あの娘達。案外何だかんだ言って俺の事をある程度は信用してくれてるらしい。

 

「……」

 

「いや、南ちゃんや。怯えんな。一歩退くな!汚い物を見るような目で見るな!別に取って食いやしねぇっての……どこから話すかね」

 

埒があかないので構わず話を始める。

最初は恐る恐る、半信半疑で聞き始めた南ちゃんだったがやがて目を丸くして、俺の話に頷き始めて……

 

 

 

 

 

 

「三分たったよ!」

 

「お前はどこの大佐だ」

 

ご丁寧に三分きっかりで部屋に戻ってくる小娘ども。まぁ、こっちの話は終わったから別に良いんだか。

 

「ことりちゃん、話ってなんだったの?」

 

「俺の前で聞くのかよ……わざわざ内緒話にした意味考えてくれよ」

 

入って来るなりいの一番で南ちゃんに問いかける高坂ちゃんだが、対する南ちゃんはにっこり微笑んで、

 

「ひみつかな」

 

流石にその辺り心得てくれてお兄さん嬉しいぜ。

誤解も解けたようだし何よりだ。誤解ついでに縄も解いてくれるとなお嬉しいんだが。

 

「秘密って……」

 

「まぁ、南ちゃんだけに話すのもちと不公平だしな……そうだな、文化祭当日になったら全部分かるってだけ言っとくよ」

 

「文化祭になったら?」

 

顔を見合せて困惑を始めるメンバーを見て、少しだけ面白いような気がした。いつも振り回されっぱなしだし、偶には俺が驚かしてやってもバチは当たらないよな?

 

「ま、せいぜい当日楽しみにしてな。つーか、そっちもそっちで文化祭ライブの練習頑張れよ」

 

それだけ言って、もぞもぞと体を動かす。

ちょっとした気まぐれでつき合ってやったが、やっぱりじっとしてんのは性に合わないな。

 

「じゃ、またな」

 

はらり、と。

俺が立ち上がると同時に縄が輪っかのまま床に落ちた。

 

「って、おじさん今何したの!?」

 

だからお兄さんだって言ってんだろ、猫娘。

こちとらどれだけ修羅場くぐってると思ってんだ。トーシローに縛られたくらいで抜け出せない訳あるか。

 

「じゃあな!」

 

窓を思い切り開けてそこから飛び出る。

幸いにしてここは一階だ。そう毎回毎回飛び降りに命かけてられるかってんだ。

まぁ、見てろよ。

大人の男の本気ってのを見せてやるぜ。




本当は上中下の3部作だったのですが、長くなりました。
後一話だけ続きます。


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閑話 理事長と一夜の間違い(下) ~gold finger~

悪ふざけはここで一端終わりです。


そして来る文化祭……その前日。

講堂の奥、控え室の薄闇の中に立つ人影が二つ。

 

「この格好はさすがに……」

 

「いいじゃない、たまには」

 

理事長の手が、京助の襟元に伸びる。

シャツの襟を正したその指先が京助の胸元に触れた。

京助の着る薄手の白いシャツ、その下は何も纏っていなかった。

 

「今更なんすけど、本当に良いんですか?今ならまだ退けますよ?」

 

「本当に今更ね。残念だけど、もう私もあなたも退けないわ」

 

くすり、と理事長は薄く微笑んだ。

 

 

「さ、それじゃ始めましょうか」

 

「はい……」

 

乗り気な理事長に、どこか気が乗らない様子の京助。

 

『--では、これにて音ノ木坂学院高校、前夜祭を終了します』

 

アナウンスの音が響いた。

扉一枚隔てた向こうは前夜祭の会場。滅多にない状況に緊張の糸が張り詰めていた。

ましてや、多感な女子生徒達の前である。

 

「本当に良いんですか?酔った乗りと勢いでこんな事になっちまいましたけど、さすがに問題になりますよ?」

 

「大丈夫よ。みんなそういうのが好きなお年頃なんだから」

 

理事長に言われてもなお不安そうな京助だったが、そんな彼の事など関係なくスケジュール通りに時間は進む。

 

「津田さん!時間です!」

 

扉を開いて入ってきたのはヒデコ、フミコ、ミカの二年生の三人組。

彼女たちも今回の一件について詳細を知っていた。

いつもμ'sの手伝いをしている彼女たちの腕を見込んで理事長と京助、それにことりからも内々にサポートを頼み込んでいたのだ。

 

「って、津田さんその格好……」

 

「何か、その……セクシーというか……」

 

「何も言うな。好きでやってるんじゃないんだ……」

 

顔を赤らめる三人を見て、京助は困ったように顔を背けた。

本当ならもう既に逃げ出してしまいたかった。

 

「さ、頑張ってきてね!」

 

ぽん、と理事長に肩を叩かれて、彼は意を決したように一歩踏み出す。

半ばヤケクソだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

『 これにて音ノ木坂学院高校、前夜祭を終了します 』

 

演目が全て終わり、前夜祭終了のアナウンスが響くと、講堂の中は一気に騒がしくなっていく。

演し物の感想を語り合うもの、明日の文化祭本番への期待を高めていくもの、それはアイドル研究会のメンバー達も同様であった。

 

「演劇部の寸劇、面白かったね!」

 

「えぇ。落語研究会の演し物も素晴らしかったです」

 

「うん!」

 

生徒達はそれぞれに話ながら、やがて腰を上げて講堂を出て行こうとする。

 

「あ、ちょっと待って!」

 

「どうしたの、ことりちゃん?」

 

他の生徒達と同様に席を立とうとするメンバー達を、不意にことりが引き留めた。

 

「そろそろ、かな?」

 

「え?」

 

ことりの発言に怪訝な顔をするメンバー達。

しかし、彼女の発言のすぐ後に、今まで黙っていたスピーカーが軽快な音楽をけたたましくならし始めた。

講堂を出て行こうとする生徒達も急な事に思わず足を止め、誰もいなくなった舞台に目を向ける。

 

『はい!今回は最後に理事長先生からサプライズが用意してあります!最後の最後まで前夜祭をお楽しみ下さい!』

 

「サプライズ?」

 

「えぇ!?ってあれ?」

 

音楽に乗せて、舞台袖かれステージに登っていく人影が一つ。

その人物がステージ中央に立った瞬間、眩いばかりのスポッとライトが彼を照らしだした。

 

「せ、先輩!?」

 

「パン屋さん!?」

 

「何でおじさんがあんなとこにいるの!?」

 

舞台上に立つのは津田京助その人だった。

だが、いつもの彼とは大分印象が違う。それこそ一番関わりのある筈のμ'sメンバーが一瞬目を疑う程に。

ボロボロよれよれの服装はどこに行ったのか、ストライプの入ったスラックスに、薄手のドレスシャツを第二ボタンまで開けて胸元を大きくはだけさせている。

野暮ったい髪をかきあげると、彼はいつになく鋭い面もちでギャラリーを見回した。

講堂中にどよめきが走る。

 

-あの人って……

-ほら、あの購買のカッコいいお兄さんじゃない?

-え?あの冴えないオジサン?

 

ひそひそと話し声がする中で、京助は大きく息を吸い込む。そして、スタンドマイクに向かって声をたたきつけた。

 

「嘘……」

 

「上手いにゃ……」

 

Ricky Martin 『livin la vida loca』

日本では郷ひろみがリメイクして歌ったことで有名な一曲。

身振りを加えながら、錆を含んだ低い声でひたすらに歌詞を紡いでいく。いつぞや皆でカラオケに行った時からは想像も出来ない程に、その歌声は人の心に響いた。

曲の一番が終わると同時に、京助はステージ上から不敵に笑って見せる。

最前列で見ていた生徒達から黄色い歓声があがる中、二番の歌詞に突入する……かに思えた。

 

「あれ、日本語の歌詞?」

 

郷ひろみによるリメイク、『Goldfinger 99』、今度はダンスを交えながらの歌い続けていく。

普段の気怠そうな言動が嘘のように、キレッキレの動きである。

 

「come on!」

 

サビに入る直前、京助が吠えた。

最初は面食らっていた生徒達も、この頃にはもう既にノリノリで、μ'sのメンバー達も一緒になってサビを歌い始める。

 

間奏に入ると共に、京助が舞台上で一回転。どこからともなく取り出した一輪の白いバラを手に取ったかと思うと、それを職員席に--理事長に投げた。

驚きながらも理事長が受け取るのを確認すると、京助はウインクを一つ、再び歌って踊り始める。

 

「come on!!」

 

二度目のサビに入る。

 

『A chi chi A chi!!』

 

今度は全員が一緒になっての大熱唱であった。

京助を中心に、生徒も職員も、講堂の中の人々は今この時一つになっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あー…………死にてぇ………!」

 

前夜祭が無事終わった後、舞台裏の控え室で俯いてつぶやく男が一人。ってか俺だ。

滝のごとく流れる汗も、乱れた服装もそのままにパイプ椅子に腰掛けて、そこから一歩も動く事ができないでいる。体力的にも精神的にも限界だ。

 

「パン屋さん!」

 

「あ?冷たっ!」

 

扉を開けて誰かが近づいてくる気配を感じ、かすかに顔を上げると、首筋に冷たいペットボトルが押しつけられた。

 

「小娘共……ありがとよ」

 

涸れて嗄れた声で礼を一つ、素直に高坂ちゃんが差し出したスポーツドリンクを受け取って一気に半分程飲み干した。

乾いた体に染み渡って、生き返る心地だ……

 

「こういう事だったんですね」

 

「絵里ちゃん達は知ってたの?」

 

「いいえ、前夜祭のラストで理事長が何かサプライズをするとは聞いてたんだけど」

 

「うちも知らんかったよ。おかげで津田くんには驚かされたわ」

 

「黙ってたからな……」

 

こんなこっ恥ずかしいこと言えるか。

どうせ言ったら言ったで厄介事が増えるのは目に見えてたし……折角なら驚かしてやろうって気持ちもちっとはあった。

 

「ことりは知ってたの?」

 

「うん、この間津田さんとお母さんに教えて貰ってた」

 

いらん誤解の所為で南ちゃんには事前に説明する羽目になっちまったが、まぁそれは仕方ないだろ。それよりも……

 

「はぁ……帰りてぇ……」

 

もう何でも良いから一刻も早くこの場から離れたくて仕方がない。ホント、冗談抜きで。

 

「ちょっと、何でそんな落ち込んでんのよ?」

 

「だってよ!いくら何でもこんなん恥ずかしすぎんだろ!?俺、教職員じゃねぇんだぞ!?あー、あぁもう!俺、どんな顔して購買の仕事すりゃ良いんだよ……」

 

「いやいや……みんな楽しんでたんやしええんやない?人気でるよ?」

 

「ガキからの人気なんていらん……好奇の視線はもっといらん……帰りたい。布団にくるまって三日くらい部屋から出たくない……」

 

「あはは……でも、何でお兄さんがステージに何て立ったの?」

 

「そりゃ……話せば長くなるんだが」

 

本来俺は外部の人間。こんなとこにいちゃいけないはずの人間なのに、それが何であんな事をしなきゃならなかったのか。

話せば長くなるが、簡単にまとめるといつぞや理事長と飲んだのが事の発端だった。

お互い溜まったストレスを発散する相手もいない者同士、さんざん飲んで愚痴ってまた飲んで、そりゃもうべろんべろんになって前後不覚、挙げ句は自分がなに言ってんのか分かんなくなる始末。

……いや、もしかするとそんなになってたのは俺だけだったのかも知れないが。

ともかく、訳分かんなくなって上機嫌だったのは覚えてる。

 

『文化祭とかもねぇ……本当なら生徒達の要望通りに有名人とか呼んであげたいのよー』

 

『へぇ……そいつぁいいや!小娘共も喜ぶぜー』

 

『そーなのよー。でもねー。今廃校騒ぎとかで余裕もないでしょー?代わりに何かサプライズを用意してあげたいんだけど、どうしよーかしら~~って』

 

『う~ん……よっしゃ分かった!この俺様が一肌脱ごうじゃねぇか!』

 

『あら、何かやってくれるの?』

 

『おうよー!大事な妹分達の為だー!歌でも踊りでも何でもやっちゃるぜー!』

 

『本当に?』

 

『こちとら江戸っ子でぇ!男に二言はねぇ!どれ、景気づけに裸踊りでぇーー!』

 

……そこから先の記憶はない。

いや、正確に言えばマスターに止められて死ぬほど怒られたところまでは覚えてる。

本当、あの時の俺を殺したい。

 

「そんな次第でな……」

 

「うわ……」

 

「バカにゃ、本物のバカを見たにゃ」

 

「うん。分かってる分かってるからなにも言わんでくれ」

 

そんなこんなで良く分からないまま引き受けたのが運の尽き。しかも質の悪い事にちゃんと理事長先生はその事を覚えてるんだから始末に追えない。

男に二言はない、とまで言っちまった以上引き受けない訳にはいかないし、下手にここで断れば俺の沽券……はともかく、売り上げに関わりかねない。

 

「でも何で歌とダンスなんて選んだの?そりゃまぁ上手かったけど、あなた……」

 

「そうよ先輩。何でギター弾かなかったの?」

 

「いや、そりゃ……なぁ」

 

西木野ちゃんと矢澤ちゃんに言われて頬を掻く。

俺はそもそも夢に破れてこんなとこに帰ってきた身の上。こう見えて落ち込んでるんだぜ?

……まぁ、最近はちょっと、ちょっとは立ち直りかけてるけどさ。

それでも、まだ人前で演奏する気にはなれねぇよ。

それに、さ。

お前らにちょっと張り合ってみたなんて言ったら……どうする?

歌って踊って、皆を笑顔にするーーもちろん俺はアイドルなんてガラじゃないけど、さ。

 

「……まぁ、興が乗ったってとこだ」

 

曖昧に言って誤魔化した。

小娘共に張り合ってみた、なんて格好悪すぎて口が裂けても言えねぇや。

 

「ふーん……」

 

「べ、別に良いだろ?」

 

何か言いたそうな東條ちゃんを見て、あわてて目を背ける。何だか心を見透かされてるようで居心地が悪かった。

 

「でもパン屋さん、すごく素敵だったよ!」

 

「えぇ。大盛り上がりでした」

 

「そいつぁ……良かった。一発芸でも楽しんでもらえたんなら」

 

良かった。

何でだか知らないけれど、心からそう思える。

この娘らの笑顔を見れたのなら、それだけでも十分やって良かったような気がする。

俺らしくないけど、たまにはこういうのも良いかも知れないな。

もう、二度とはやらないけど。

 

「ありがとな」

 

「え?今何か言いましたか?」

 

小さく、聞こえないように。

ふと思い浮かんだ言葉を口にする。

この期に及んでまだ俺のチンケなプライドが邪魔をする。子供相手にすら、妹みたいな奴らにすら素直になれないなんて、最低だな。

 

「何でもねぇよ」

 

いつか、素直に、この子達に面と向かって礼を言える日がくるのだろうか。

その日はきっと、一緒に笑って、泣いてやれる日なのかもしれない。

 

「何でもない……俺もちっと休んだら帰るから、お前らもさっさと帰れ」

 

しっしっ、と手を振ってぞんざいに彼女たちを追い返す。

すると、彼女たちと入れ違いにまた一人、控え室に入ってくるのが分かった。

 

「津田さん、今日はありがとうございました」

 

「いや……どういたしまして」

 

力なく微笑んで返す。

というか疲れすぎていてそれくらいしか出来なかった。

 

「ごめんなさい、こんなことを頼んでしまって」

 

「いえいえ、困った時はなんとやら、って事で」

 

最初は嫌でたまらなかったけど、途中からは俺も割と乗ってたし……案外楽しかったし。

いい気分転換にもなれたから結果オーライってとこだ。

 

「それにしても多芸なのね」

 

「多芸……ってほどじゃないですよ。あんなんはタダの一発芸です」

 

何でも在る程度はやってみせるけど、何でも一定水準以下しかできない、人呼んで器用貧乏。

今日のだって、ノリと勢いで通しただけで、見る人が見ればガッタガタのカスみたいなステージだった訳だし。

 

「それと、ライブ途中にお花ありがとう。私がバラの花が好きなんてよく分かったわね?」

 

「あー……まぁ、サプライズってことで」

 

折角こんな舞台を貰った訳だし、ちょっと驚かせてみようかな、なんて。

ホントに俺らしくもない遊び心。観客を沸かせられたし、理事長先生もまんざらでもなさそうだから、これもまた結果オーライってことで勘弁して欲しい。

理事長先生はにこにことしながら一輪のバラを手に、俺の後ろに回った。

 

「……ところで、白バラの花言葉って知ってる?」

 

「?さぁ?」

 

あいにくと、花言葉なんて高尚なものをこの俺が知っているはずがない。

あれか?なんか変な意味でもあって失礼なことしちゃったか?

 

「え?」

 

ぱさり、と。

俺の肩口にかかる軽いもの……理事長先生の髪。

って!

え!?え?どういう状況だ?

俺の顔の横、息がかかる距離。女性特有の、優しく甘い香りに包まれる中、耳元で先生が呟く。

 

「『私は貴方に相応しい』……なかなか情熱的なアプローチね」

 

「え……?」

 

頬に感じる柔らかで、湿った感触。

今のって……いや、まさか、え?

ちっぽけな脳みそはキャパを完全オーバー。今起きた事を理解出来ない。

え?

え?えええぇぇぇ!?

 

「今日はありがとう」

 

少女のようにはにかみながら、理事長先生は控え室の扉を開いて外に出て行く。

その去り際、

 

「この間の晩は楽しかったわ。まさかあんなに激しい夜になるなんて、ね」

 

意味深な微笑みを残して、彼女は部屋を出て行った。

残された俺は呆けたまま、頬を撫でる。

……いや、ちょっと待て。

この前って飲んだ時の事か?

正直な話、あの時の事はあまり記憶がない。酔ってバーを出て、それから……

 

「いや、待て。待て待て待て」

 

激しいって……

いや、嘘だろ!?いや、理事長先生の冗談だよな?

おい!!誰か嘘だと言ってくれ!!

 

「な、難儀な……」

 

半ば口癖になりつつある言葉を呟いて、タバコを一本。しかし、校内で火を点ける訳にもいかず、口に咥えて窓の方を見る。

窓に写るのは、真っ青通りこして真っ白な顔色の表情の冴えないおっさん。っていうか俺の顔だった。

 

「どうすんだよ……!」

 

呟いてみても答える人もなし。

どうやら俺の苦労の日々はまだ終わらないらしい。

今だけは誰かに--この際、小娘どもでも良いから話し相手が欲しかった。




悪ふざけに付き合っていただきありがとうございました。

次回からは本編に戻ります。


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第三十六話 In My Life

お待たせしました。
二期スタートです!





 

からん、と。爽やかにドアベルの音が響いた。

パンの焼ける良い匂いと、コーヒーの優しい香り。店主の趣味を反映してか、店内には

The Beatlesの『In My Life 』が流れている。

静かな昼下がり、今日もベーカリー&カフェTSUDAは平和だった。

 

「いやー!今日もパンが美味い!」

 

いつもの喫茶店にお決まりの声が響く。 その声は、普段に比べてやや大きめに、まるで今この時が現実であるかを確かめ、噛み締めているかのようで、

 

「うるせぇ……」

 

呆れたような店主の台詞もまた同じ。

彼の声も面倒くさそうな調子の中にいくらか楽しそうな様子さえ伺える。

 

「いや、だって最近京ちゃんのパン食べてなかったし。久しぶりに食べるとやっぱり美味しいんだもん!」

 

「……おだてても何もでねぇからな」

 

ぷい、とそっぽを向く京助だったがその口元に嬉しそうな微笑が浮かんでいのはばっちりこの場にいる全員に見られていた。

先日の一件以来、バラバラになりかけていた彼女たちが再びこうして一堂に会していることが、彼にとっても嬉しくてたまらないのだろう。 それを裏付けるように、誰も何も言っていないのに菓子パンやケーキの類を皿に取り分け、新たに全員分の飲み物のお代わりまで用意し始めている。

 

「おじさん、顔がにやけてるよ?」

 

「別ににやけてなんて……って誰がおじさんだ猫娘。店からつまみ出されたいか?」

 

この掛け合いもずいぶんと久しぶりなような気がした。

いつも通りの、いつもと変わらない日常が戻ってきた。もちろん、何もかもが元通りという訳にはいかない。にことはあの一件以来お互いに口もきいていなければ目すら合わせられてはいないし、ことりに対しても顔を正面から見る事が出来ずにいる。 問題は山積みで、考えるだけで胃が痛くなりそうな状況に変わりはない。

それでもこうしてこの店に、誰一人欠けることなく集まることが出来たのは一つの進展で、きっと全ては時間が解決してくれることだろうと、そんな風にも思えてくる。

 

「元の鞘に収まったってとこかしら?」

 

「そうやね。……ううん、少し違うかもしれへんよ?」

 

絵里に対して一度は肯定して、しかし希は悪戯っぽく笑って否定してみせた。

 

「少し違う?」

 

「そ。変わらないもの何て世の中には何一つないちゅーとこやな」

 

希の発言に首を傾げながら絵里は店内を見渡し、いつもの面子を見回し、最後に京助の顔を伺って、得心がいったように頷いた。

 

「ん?俺の顔になんかついてるか?」

 

不思議そうに首を傾げる京助。

最初に出会った時からは考えられない程に険が取れて別人のような表情をしている。

疲れてふてくされたような顔はそのままに、しかし少女達を見る目は誰よりも優しく、

 

「少し、若返った?」

 

「……喧嘩売ってんのか?」

 

一瞬にして不機嫌そのものに変わった。

おじさん扱いされる事が多いとはいえ、京助はまだ21である。確かに身だしなみはだらしないし、いつも気怠げで疲れてしょぼくれたような様子だが、まだ若い。

そして何より老けて見られる事を嫌っているのだ。

 

「そうね。何か最近印象変わったんじゃない?出会った頃に比べて、大分ましな顔するようになったわ」

 

「西木野ちゃんまで……別に、俺は変わっちゃいねぇよ」

 

決まりが悪そうに京助はタバコを取り出そうとして、しかし彼女たちの前であることを思い出してやめた。

そうは言うものの、事実、京助も最近色々なことが変わり始めていることをなんとなくだが感じてはいた。

それは周りなのか、彼女たちが言うように自分がなのか。あるいはその両方なのかもしれない。世の中は移り変わる。不変のものなどどこにもない。

そうやって前に進んでいくのだ。

そして、最近変わったものの代表といえば、

 

「そういや、穂乃果。次の生徒会長になったんだってな。おめでとさん」

 

この間始まった新学期から、穂乃果は音ノ木坂の新生徒会長を就任したのだ。

その知らせを聞いた時、京助は飲んでいたコーヒーを思い切り吹き出してこれでもかというくらいに咽せていた。

だが、冷静に考えてみるとなるほどとも思う。

穂乃果の持つ求心力は確かに凄まじい。土壇場での爆発力もある。

 

「カードによれば……穂乃果ちゃん、生徒会長になってから大分苦労するみたいやなー」

 

「ちょ、希ちゃん!脅かさないでよー!」

 

「津田くんの事も占ってあるんよ?津田くんのは……」

 

「要らん。占いは苦手なんだ……それよか、まぁ、気楽に無理のない範囲で頑張れよ」

 

「ありがとう、京ちゃん!」

 

そして何よりも変わったのがこれである。

 

「……どうでも良いが、その呼び方やめねぇか?」

 

京助にしてみればこっ恥ずかしくてたまらない。

その呼び方は彼が幼少の頃にご近所でつけられた愛称であり、未だに当時を知る方からはそう呼ばれ続けているのだった。

おそらく穂乃果は彼女の父母からその呼び方を聞いたのだろう。

 

「いつまでもパン屋さん、って呼ぶのは何か他人みたいだし、この際いいかなー、って」

 

「良くねぇよ。そもそも俺とお前らは……」

 

ーー他人だろ

 

そう言いかけて、しかしそれを口に出すことは出来なかった。

最初は購買店員と生徒という関係だった。

彼女たちが店に来るようになって街のパン屋と常連の関係になった。

彼女たちの事を知るようになって、柄にもなく相談にのったりアドバイスなんてことをしてみた。

いつしか彼女たちの事を放っておけなくなった。赤の他人ではいられなくなった。

そして、先日のことりの件……ついに傍観者ではいられなくなった。

ならば今の関係性はなんなのだろうか?

 

「……」

 

「お兄さん、また難しいこと考えてる」

 

「え?いや、そんな事は……」

 

花陽に指摘されて否定するが、

 

「顔を見れば分かります。考え事をする時、険しい顔をするの、悪い癖ですよ?」

 

「……そんな酷い顔してたか?」

 

自分でも気が付いていない癖だった。

そういえば浮かない顔だの怖い顔だの、色々と言われてはきたが、そんなに自分の顔は酷いのかと、頬をつねってみた。

 

「してるにゃ!おじさん急に黙って機嫌悪そうな顔するんだもん!今はもう何か考えてるんだなー、って分かるけど!」

 

「そうそう!最初の頃は怒らせちゃったのかって不安だったんだからね!」

 

「……たぶん、それはだいたい怒ってる時だと思うぞ」

 

会った当初は面倒くさがっていたのは事実なわけで。

それはともかくとして、こうして彼女たちが、京助が何を言わずともその考えている事が分かるようになってきているのも、余計とその関係性について考えさせられる事だった。

他人ではない。ただの知り合いと言うには付き合いが深いし、友達というのはちょっと違う。

他人ではないが、決して友達ではない不思議な関係。だがそれは不思議なことに心地良かったりする。

 

「難儀なことだ」

 

小さく呟いた。

口癖になりつつあるその言葉以外に、今の状況を現す良い言葉が見つからなかった。

 

「あ!その決め台詞久しぶりに聞いた気がする!」

 

「き、決め台詞?」

 

「そうね。ようやく日常が戻ってきた気がするわ」

 

少女たちは顔を見合わせて微笑んだ。一方、京助は釈然としない様子で、しかし彼女たちに釣られて笑い出す。

何もかもが平和だった。

こんな時間が長く続いてほしいと、そう思った。

 

 

 

 

 

 

「いらっしゃいませー」

 

いつも通りの昼下がりの購買。

昼休みも終わりに近づいたこの時間、購買スペースに立ち寄る生徒はいなくなり、京助の気の抜けた声だけが廊下に響く。

最後の一声にも反応はなし。これを合図として京助は今日も店仕舞いを始めるのだった。

 

「はぁ……」

 

本日も売れ行きはまぁまぁ上々。文句はなしで黒字の域。疲れて凝り固まった首を軽く回せば、ごきり、と嫌な音がして最近の運動不足を思い知らされた。

後は早く帰って一服いれて、店の方に専念するのみと、そう考えていた。

 

「お兄さん!」

 

「うおっ!?どうした、小泉ちゃん?そんな目の色変えて」

 

慌てた様子の花陽に面くらいながら尋ねてみるが、求めた答えが返ってくることはなく、

 

「穂乃果ちゃん見なかった!?」

 

「え?あぁ、饅頭娘ならさっきイチゴジャムサンド買って教室の方に……」

 

「ありがとうございます!」

 

足早に去っていく花陽の後ろ姿をぼんやりと眺めるしかなかった。

何があったのかは知らないが、また面倒なことになったのだろう。

近々また難儀なことになりそうな予感がした。

 

「あんたも来るのよ!」

 

「は?ちょっ、ま!」

 

前言撤回。近々ではなく、それは今すぐの間違いだったらしい。

ぼんやりと考えていたところを、にこにネクタイを捕まれて、

 

「てめ、ネクタイ引っ張るな!千切れるから!って、首!首締まってる!ぐえっ!」

 

ネクタイを握りしめたまま走り出すにこと、それに引きずられて走り出す京助。

日常が戻ってきたのはうれしいが、この無茶苦茶だけはあまり嬉しくないと思う今日この頃だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「穂乃果見なかった!?」

 

「矢澤先輩、あれ?それに購買のお兄さんまで。穂乃果ならさっき外に行きましたよ?」

 

「ありがと!」

 

「矢澤!良いからネクタイを離せ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「穂乃果ちゃん見なかった!?」

 

「メェ?」

 

「いや、アルパカに聞いてどうすんのよ!?」

 

「あぁ、サンキュ……中庭の方にいるってさ」

 

「!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやー、今日もパンが美味い!」

 

「穂乃果ぁあ!」

 

散々走り回り、京助を連れ回した結果、中庭でイチゴジャムサンドを頬張る穂乃果の姿を見つけた時にはもう既ににこや花陽達はヘトヘトになっていた。

 

「あんた、ちょっとはじっとしてなさいよ……」

 

「げほっげほっ……てめぇは、まず俺に、どういう了見か説明しやがれ……げほっぐぇっ、おぇッ」

 

思い切りネクタイを引っ張られ連れ回された所為で、後ろの方でしゃがみ込んで激しくせき込んでいる男が一名。

さすがに今回ばかりは気の毒に思ったのか、真姫と花陽がその背中をさすっていた。

面倒臭そうに振り返ったにこと京助の目があった。しかしすぐに、どちらからともなくそっぽを向くように目を背けてしまう。

前の一件以来、二人は未だにまともに口をきくことすら出来ずに気まずい関係が続いているのだった。それでも時折、そんな事を忘れて以前のように振る舞っては余計と気まずくなってしまっているのだから余計と質が悪い。

 

「穂乃果!もう一度あるわよ!」

 

「え?」

 

「もう一度、『ラブライブ』があるんです!」

 

「……何だと?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その夜京助は一人、自宅のベランダで背中を手すりに預けて空を見上げていた。

東京の空はやはり狭い。こうもガスがかかっていては星もくもってしまう。

 

「……ふぅ」

 

タバコの煙で肺をいっぱいに満たして、彼は困ったように携帯を取り出した。

 

-もう一度、ラブライブ

 

昼間の出来事。

その知らせを聞いたときは本当に驚いた。そして、本当に嬉しかった。

彼女たちにはまだチャンスがあるのだ。

そのチャンスを、何としてでも掴んでほしいとそう思った。

彼女たちはきっとまた歩き出すのだろう。

 

「俺も……」

 

言いかけて、口ごもる。

彼女たちと違ってチャンスなんて転がってきやしない。

それでも、前に進みたい。だから、

 

「?」

 

通話ボタンをタッチしようとしたタイミングで、不意に携帯電話が鳴りだした。

響く音楽はH II Hの『feels like HEAVEN』

大ヒットホラー映画のテーマとして有名な曲。

 

「うおわっ!?」

 

思わず携帯を投げ捨てた。

自分で設定しておいてあれだが、夜中にこの音楽は心臓に悪い。聞いていけば音楽自体は明るい曲なのだが、映画のイメージのが先行してしまうのだ。

慌てて、しかし恐る恐る携帯電話を拾い上げると幸いにして携帯に傷などはなかった。だが、ディスプレイには浮かぶμ'sの文字に、京助は思わず表情を険しくする。

このままスルーした方が良いのかと数秒悩み、しかし意を決したように結局着信ボタンにタッチする。

 

「……もしもし?」

 

『あ、津田くんも繋がったみたいやね』

 

『やっほー、おじさん!』

 

「イタ電なら切るぞ」

 

少女達にダウンロードさせられた連絡用アプリでの全体通話らしく、聞き覚えのある声がいくつも耳に入ってくる。

 

『もう、津田くんはせっかちやな……話くらい聞いてくれてもええやろ?』

 

「……用件は何だ?用がないなら切るぞ」

 

タバコを咥えたまま、京助が不機嫌そう

な声で尋ねると、

 

『津田さん。前々から思ってたけど、その斜に構えたような態度、どうにかしたほうが良いわよ』

 

絵里に怒られて、京助は電話ごしに頭をぽりぽりと掻いた。これが他のメンバーならば適当な事を言うところだが、どうにも彼は絵里に怒られると妙に座りが悪くて誤魔化しきれない。

それに、京助本人も自分の物言いが大分ひねくれている自覚はあるから言い返しようがないのだった。

 

『そうです。いらない誤解を招くだけですよ?』

 

「あー、それは、なんつーかすまん。……じゃねぇよ、今は俺の事じゃなくて」

 

今度は海未にまで怒られて、たまらず京助は話題を逸らした。

 

「一体全体、何の集まりだこれは?見たところ……穂乃果がグループに入ってないみたいだが」

 

ディスプレイに浮かんだメンバーを見てみても、穂乃果の名前だけがそこにはない。

彼女に黙って内緒話だろうか?

しかし、そこに自分が呼ばれた理由がまだ判然としない。

 

『そうね。まずは一端話を整理しましょう。今から話し合うのは次のラブライブの事よ』

 

「あぁ、なるほ……ん?」

 

ラブライブ!第2回大会

今日になって開催が明かされたそれは、この場の全員の話題の中心……おそらく、全国のスクールアイドルの話題の中心だろう。

その相談と聞いて一瞬納得しかけた京助だったが、すぐに違和感に気が付いた。

 

「ちょい待ち。なら何でリーダー殿をハブにして、よりによって俺を通話に追加した?」

 

『……それが』

 

「うん?」

 

ことりが言いよどむ。

続きの言葉を待ちながら、京助はタバコの煙を肺いっぱいに吸い込んで、

 

『穂乃果ちゃんが、出なくてもいいんじゃないかって言い出したの』

 

「げほっ!?」

 

思い切りむせた。




長らくお待たせしました。
二期開始です。

一期とは違って成長した面々をご覧下さい!


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第三十七話 Here Comes The Sun

大変お待たせしました。
ようやくの更新です。




その翌日の昼休み。

いつものように生徒でごった返す購買で手慣れた様子でパンを捌きながら、京助はある少女が訪れるのを待っていた。

とは言っても彼女は毎日来る訳ではなく、来る時間帯もまちまちで、今日購買に来るかどうかも半々といったところなのだが。

 

 

「こんにちは、パン屋さん!今日のおすすめは?」

 

「……来やがったな」

 

 

満面の笑みを浮かべて駆けてくる穂乃果を視界に捉えて、京助は眉間に深い皺を刻み込んだ。

 

 

「良く来たな饅頭娘。今日のおすすめはこのデスソースを思い切り使った殺人カレーパンだ」

 

「え……何その物騒なカレーパン」

 

「お前にやろうと思って丹誠込めて作ったんだ。喜べ。一口で救急車沙汰間違いなしだ」

 

「そんなのいらないよ!」

 

 

穂乃果の全力の否定を聞いて、京助は舌打ちを一つ、新たにイチゴサンドを手に取って、

 

 

「たっぷりのイチゴとホイップクリームのサンドイッチ。どっちも知り合いの農家さんから直接買い付けた一級の素材で作ってある。試作だが味は保証する」

 

「うん!じゃあそれにする!」

 

 

お代を受け取り、サンドイッチを手渡すと、穂乃果は笑顔で手を振って教室の方へと戻っていく。その姿を眩しそうに眺めながら、京助は舌打ちを一つするばかり。

穂乃果を待っていたと、そう言った割には何事もないように思えるひとコマだったが……

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ……」

 

日当たりの悪い体育館裏、かび臭いじめっとした空気を肌に感じながら、京助はタバコに火を点けた。

肺に満ちる煤けた臭いは心地良く、嫌な事を一時だけでも忘れさせてくれる癒しだった。

体育館の外壁に背を預けて煙を味わうこと数分。タバコがもはや手に持てない程に小さくなった頃に、彼女は現れた。

 

「京ちゃん?」

 

「おう」

 

穂乃果の声を聞いて、京助はタバコを地面に吐き捨てると踵で念入りにその火を消して、

 

「俺が、高校生の頃は……」

 

「?」

 

「昼休みに体育館裏なんか行くと、隠れてタバコ吸ってる奴が一人か二人はいたもんだがな。これも時代の移り変わりって奴か?いや、女子高ってのもあるし、ここの生徒がやたらお行儀が良いってこともある。一概には言えねぇか」

 

京助はそう言ってケラケラと笑う。

その笑顔は悪ガキのそれだった。

 

「京ちゃん、話って何?」

 

このままでは埒があかないと思ったのかおもむろに穂乃果はポケットから紙切れを取り出して尋ねた。

その紙切れは京助から買ったパンの包装に張り付けられていたもので、そこには昼食後に体育館裏に来るようにと京助の字で記してあったのだ。

 

「ん。そうだな、どっから話したもんか……」

 

歯切れが悪そうに京助は口ごもり、すぐに意を決したかのように語り始めた。

 

「まぁ、知っての通り、俺はあんまし口が達者な方じゃないし、口も悪い。悪気なく人の不興を買うのも日常茶飯事だ」

 

「うん、知ってる」

 

別に穂乃果は京助と長いつきあいではない。

お互いがお互いの事を良く知っている訳ではないが、それでもそんな事はとっくに知っていた。

だが、逆に言えばそれ位しか知らなかった。

京助は穂乃果達に必要以上の事を聞こうとしない。そして自分の事を全くと言って良いほど話さない。

だから今から京助が語るのは、全てが始めてのことだった。

 

「えーっと、それでだ。今からちょいと長い話をするんだが……聞きにくかったり、不快だったりするかもしれないが、別に悪気はないんだ。そこだけ先に謝っとく。……俺が昔、バンドでギターやってたって話は知ってるよな?」

 

「うん。にこちゃんからも聞いてるよ」

 

「それじゃ、俺が夢を諦めて逃げ帰ってきたことも知ってるよな?」

 

「……」

 

穂乃果は何も答えなかった。首を縦にも横にも振らず、ただ目を伏せる。

前々から、何となく彼女も気が付いていた。京助が何かから逃げてこの街に来たことに。

そして先日、バイクに乗せてもらったとき、京助が自らそれを口にしたのを今でも覚えている。

かちり、と音を立てて京助がオイルライターを開いた。タバコに火を点けるでもなく、灯ったオレンジ色の火を見つめながら京助は、

 

「……俺のバンドも当時結構良い線はいってたんだぜ?俺はともかく、俺の仲間はみんな凄かったから。俺は俺で大分一人で突っ走っては無茶して無理して、それでも何だかんだ言いながら仲間たちはそれに付き合ってくれてさ。その先にようやく、夢の端っこに手が届くっていうチャンスも巡ってきた……それなのに、大事なイベント前に俺が大ポカやらかしちまってさ。情けなくも大怪我&不祥事。結果、大事なイベントはポシャっちまった」

 

あっけらかんとした様子で、京助は語る。それは吹っ切れたというよりもむしろ、他人事のような語りだった。

他人事だとでも思わなければ、思い出すのも辛いことなのだろう。それを裏付けるかのように、彼は話しながらも決して穂乃果と目を合わせようとはしない。

 

「そんでもって、次に俺が何をしたかって言うと……逃げ出したんだ。文字通り」

 

その言葉に、穂乃果は目を丸くして息を呑んだ。

 

「仲間にも何も言わず勝手にバンド抜けてさ。その時分かれた仲間たちとは未だまともに仲直りすら出来てねぇ。それから生まれた街まで捨てて着の身着のままで飛び出しちまった。今でもこの時の事は後悔してる……おっと、勘違いしないでくれよ?別に夢をそこで諦めたわけじゃない。諦めたのはそれからもうちょい後だ。……仲間がいなくても、ここじゃなくても、俺一人でも何とかなるって呪文みたいに言い聞かせて。一人で夢を叶えようと足掻いてもがいて、這いつくばって泥啜って、さ。路上ライブなんかもやったし、営業なんかもかけてみた。それでも終ぞ俺に才能なんてもんが開花する日は来なくて、全部失敗して。何回も何十回も、失敗して失敗して、失敗した。そのうちに心も体も擦り切れていって、そんで、気がついたら夢なんて見失ってた。そっから先は――流石にお前らにも言えないし、言いたくない」

 

京助は先ほどと同じように、何気なく語る……つもりだったのだろう。

だが、彼の顔にはありありと、無念と怒りをごった煮にしたような感情が浮かび上がっていた。

 

 

「……で、紆余曲折の末に今に至る。情けねぇ話さ」

 

 

かちん、と。

話を締めくくるようにライターを閉じる音が響いた。

 

 

「……自分語りってのはあんまし好きじゃねえや。あまりに格好悪すぎるし、どうやったって言い訳が混じる。そんな訳で俺の昔話はここまでだ。本題に入るぜ?」

 

「本題?」

 

青年は、今までもたれ掛かっていた壁から背中を離して、穂乃果の方に歩み寄る。

 

「穂乃果よ。俺はさ、お前のこと……」

 

照れくさそうに、言いづらそうに、だが真っ直ぐに彼女の目を見ながら。

いつになく真剣な京助に、穂乃果も思わず身構えてしまう。

そんな彼女の様子を知ってか知らずか、京助は穂乃果に近づいていき、そっと手を伸ばした。

そう、それはまるで……

 

 

 

 

 

 

「お前のこと、つくづく昔の俺に似てるなって思ったわけだ」

 

「あ、痛っ」

 

 

ため息を一つ、ついでにデコピンを一つ。

非常に残念そうな顔をしながら京助はそう呟いた。

 

 

「向こう見ずで一直線。こうと決めたら梃子でも動かない。俺が歩いてきた道だ。だから、お前が何を思って躊躇ってるのかはなんとなーく分かっちまうって訳だ。そして、その先に何があるのかも」

 

 

前から、それこそ出会ったはじめの頃から薄々は感じていた。だが、この娘と同類と言うのはなんとなく認めたくなくて、気がして気がつかない振りをしていたが、もうそういうわけにもいかなくなった。

認めなければ、次の一歩は踏み出せない。

 

 

「一遍思い出してみてくれ。俺がこの間、お前になんて言ったのか」

 

「『……後悔だけは、するな』」

 

 

京助に弾かれたのがまだ痛いのか、片手で額を押さえて、涙目で穂乃果は思い出した事を口にする。

それは先日、京助が語ってくれた話の中で、一番心に響いたセリフだった。

 

 

「そうだぜ。どこの誰が何を選択しようと知ったこっちゃねぇし、俺は人を諭して導くような真似が出来た身分じゃねぇが」

 

 

にやりと小物臭く笑ってみせて、京助は今度こそタバコに火を点けた。

彼女たちの前では極力喫煙を控えていた彼にしては珍しいことだった。

 

「お前の前に立ってる最低なロクデナシを良く見てみろ……後悔の先にあるのは、まさにこれだぜ?」

 

凡そ人の手本になるような生き方をしてこなかったが、それが逆に今は悪い見本として活きているのは何という皮肉だろうか。

自嘲を通り越して自虐、それすらも通り越してただの捨て鉢。格好悪いことこの上ない。

何者にもなれず、過去を悔やみ続けるロクデナシの姿を、その人生を晒してみせたのは偏に、彼女には……彼女たちには自分と同じ道を歩んで欲しくないからだった。

 

「俺が伝えたかったのはこれだけ。悪かったなくだらない話で昼休み潰しちまって。……あばよ」

 

京助は最後にそれだけ言って踵を返した。

 

 

「後悔……」

 

 

京助に言われたその一言を、穂乃果は噛み締めるように呟いた。

そして、まだ迷いを浮かべた顔を上げて、小さくなっていく京助の背中に声を投げる。

 

 

「京ちゃんは……今の京ちゃんは、最低でも、ロクデナシでもないよ」

 

 

京助は足を止めて、そっと穂乃果の方を振り返る。

 

 

「……ありがとな」

 

 

囁くように小さくて、風の音にも消えてしまいそうだった。

それでも確かに穂乃果は彼のその言葉を受け取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これから二人でこの石段をダッシュで競争よ!私が勝ったらラブライブに出る。穂乃果が勝ったらラブライブに出ない!」

 

 

にこが高らかに勝負の啖呵を切った。

 

京助に年長者の助言とも痴れ者の戯言ともつかない話をされたその日の放課後、穂乃果はにこに神田明神の裏手、男坂の石段下に呼び出されたのだった。

話があると、にこはそれだけしか言わなかった。だが、それだけで分かっていた。

矢澤にこという少女が、何を言おうとしているのか。

そして、こうなるであろうことも。

 

 

「うん、いいよ」

 

 

だから穂乃果はにこの申し出に応じた。

否。

応じざるを得なかった。

誰よりも真剣に夢を追い続けてきた彼女の見せた、その真剣な眼差しを見てしまったから。

 

 

「行くわよ……よーいどん!」

 

「え?わ!?」

 

 

不意打ちだった。

早口で号令を言うなり駆け出したにこ彼女を穂乃果は一拍置いて追いかけた。

 

 

「っ……!」

 

 

穂乃果が思った以上に、にこの足は早い。

それは当たり前のことなのだろう。

今の今まで、穂乃果やμ’sの面々が活動を休止している間も彼女は一日として練習を欠かさなかったのだ。

 

――否。

 

それだけのはずがない。

彼女には譲れない思いがあるのだから。

だから、

 

 

「きゃっ!?」

 

 

気張って焦りすぎたのがいけなかったのだろう。

石段の中間あたりでつまずいてしまった。

受身をとる暇もなく、宙に舞う一瞬の間、しかし彼女の頭にあったのは、穂乃果に負けたくないという一心だった。

絶対に、負けられない――

 

 

「おっとぉ!」

 

 

彼女があわや転ぶ寸前、石段を目にも止まらぬ速さで駆け下りて現れた人影が抱きとめるようにして彼女の小さな体を支えた。

優しく彼女を守った暖かい腕。その正体は顔を見るまでもなく分かった。

分かってしまった。

背に負った大きなギターのハードケース、仄かに香るパンとタバコの匂い――

 

 

「いつも思うんだが……お前らちょいと落ち着いた方がいいんじゃねぇか?」

 

 

にこを離して数歩後ろに退くと、彼は――京助は呆れたように呟いた。

 

 

「怪我はねぇか?矢澤ちゃんよ」

 

「……」

 

 

京助の問いかけには答えず、彼女は京助から目をそらすようにそっぽを向いた。

まだ彼に対する心の整理がついていないのだった。

 

 

「……俺も、嫌われたもんだ」

 

 

小さく、自分に言い聞かせるように呟いた。

それだけの事を自分はしでかした。最早、何を言ったところでその事実は消し様がない。

だから余計にやるせない。

 

 

「にこちゃん、大丈夫!?あ、京ちゃんが助けてくれたの?」

 

 

駆け寄ってきた穂乃果と、遅れて物陰から飛び出してくる7人を目の端に捉えて、すぐにその視線を所在なさげに空へと移した。

 

 

「にこちゃん、ズルなんかするから……」

 

「ズルでもなんでも良い!ラブライブに出れさえすればそれで……私は夢を諦めたくないの!」

 

「っ……」

 

 

息を、飲んだ。

彼女の言う“夢”は、いつか彼が抱いたものと同じだったから。

同じだったはずの夢はどこで違ってしまったのだろう。

 

 

「……雨、降ってきやがったな」

 

 

心に湧いてくる痛みを隠し、京助は雨粒に濡れた額を拭った。

ぽつりぽつりと石畳を濡らし始めた雨は間もなく土砂降りへと変わり、遠くからは雷の音までも聞こえてきていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神田明神の門の下、雨宿りをする少女達と青年。

十人いればもう少し話も弾みそうなものだが、そこにいつもの喧騒はなく、厚く空を覆う雲と同じでどんよりとした空気が立ち込めていた。

誰も口を開かない。話を切り出すタイミングがつかめずにいるのだった。

 

 

「ちっ……」

 

 

暗い雰囲気に耐え兼ねた京助が忌々しげに舌打ちを一つ打って、タバコを口に咥えるが、少女たちの手前、それに火をつけるわけにもいかずに余計にイライラを募らせた。

湿っぽい空気はもともと好きな性質ではない。

どうしたものかと考えながら、未だ止む気配のない雨と分厚い雨雲を見上げる京助の視界の片隅に、遥か彼方で一条の稲妻が光るのが映った。

それを合図とばかりに、こらえきれなくなった彼は遂に話を切り出した。

 

 

「……結局、お前らはどうしたいんだよ?」

 

 

不機嫌な顔をして門に背中を預ける京助に、九人の視線が一斉に集まった。

 

 

「本当なら、俺がとやかく言う話じゃないのは分かってる。分かっちゃいるんだが……こうもうだうだと、知り合いに悩まれると気分が悪いんだ」

 

 

どんなに親しくなったところで、どれだけ手助けを行ったところで、京助は彼女達の選択にまで口を出したくないと思っていた。

助言を求められては曖昧にヒントを与え、答えを求められても“お前達はどうしたい?”と、逆に問いかけるだけだった。

最早終わってしまった男が、今まさに輝こうとしている若者に何かを言えるはずがないと、そう思って今までやってきた。

だが……

 

 

「……絵里ちゃん達は、後半年で、」

 

 

穂乃果は最後まで言わなかったが、その続きは考えるまでもないことだった

スクールアイドルを続けられるのは、在学中だけ。絵里、希、にこの三人に残された時間は後半年だけなのだ。

今が楽しくて、今輝くことに必死で、見えないふりをしてきたが、それは避けられないことなのだ。

 

 

「本当は私もずっと続けていきたい。卒業後もプロを目指す人たちだっているけど、この9人で輝けるのは後少しの間だけなの」

 

 

絵里の寂しそうな微笑みを見て、京助は一人静かに拳を握り締める。

メンバー全員も、京助と同じ気持ちだった。

 

 

「例え、一回戦で負けちゃったとしても、みんなで何かをやり遂げたって、そんな証を残したい。それは私たちも同じだよ?」

 

「凛もそう思うにゃ!」

 

「やってみても、いいんじゃない?」

 

 

まず始めに、一年生が心の内を打ち明けた。

 

 

「私は、穂乃果ちゃんが選ぶ道ならばどこまででも」

 

 

黙ったままの穂乃果に、ことりがそう言って笑いかける。

 

 

「……また、自分の所為で周りに迷惑をかけたくない、なんて思ってるんでしょ?」

 

 

海未もまた、呆れたように穂乃果に問いかける。

二人の幼馴染の言葉を受けて、彼女は困ったように、

 

 

「全部、バレバレだね。この間、京ちゃんにもお説教されちゃった」

 

「……さてな」

 

 

最後に話を振られた京助は短くつぶやいて空を見上げた。

雨はまだ止みそうにもなく、遠くの空には稲妻が走るのが見えた。

 

 

「最初は、何も考えずに出来たのに、今は何をやるべきか、何をしなくちゃならないのか、分からなくなる時がある、でも……!」

 

 

その先に続く一言を、京助はずっと待っていた。

かつて自分が諦めてしまった場面の再現で、そして彼が見ることの出来なかった明日への一歩。

あの時どうすれば良かったのか、その答えが今まさに出ようとしていた。

 

 

「一度夢見た舞台だもん!私だって、本当はすごく出たい!」

 

 

その一言だけで、十分だった。

彼女たちは、夢に敗れたかの青年とは違う。彼には至れなかった場所に、遂に彼女たちは一歩足を踏み出そうとしていた。

道のりは険しくて、その先がどうなるのかなんて誰にも分からない。

それでも――!

 

 

「それがお前たちの選択か」

 

 

空を見上げたまま、京助は呟いた。

雨雲に覆われた空に目を凝らせば、一箇所だけひび割れたように明るい場所が見えてくる。

と、

 

 

「え!?穂乃果!?」

 

「ちょ、何やってんだお前!?」

 

 

まだ降りしきる雨の中、穂乃果が傘もささずに飛び出していく。

皆が突飛な行動に目を丸くする中、彼女は、

 

 

「雨、やめー!!」

 

 

大きな声で叫んだ。

 

 

「な……」

 

 

京助の口からタバコがぽとりと地面に落ちた。

彼女の宣言通り、雲の切れ間はみるみるうちに大きくなって、やがてそこから太陽が顔を覗かせた。

 

 

「人間その気になればなんだって出来る!京ちゃんの言ってた通りだね!せっかくラブライブに出場するのにもったいない!この9人で……ううん!京ちゃんもいれて10人で、優勝を目指そう!」

 

 

その場の全員にどよめきが走った。

しかしてそれはすぐにみんなの笑顔に変わっていく。

 

 

「随分とまぁ……難儀なことだぜ、まったくよ」

 

 

勝手に仲間の一人に数え上げられて、面倒臭そうに言いながら、それでもなお京助も優しい笑顔を浮かべていた。

今までは、彼女たちに何もしなかった。何もしてやらなかった。

何もしてやれなかった。

 

 

だけど、そんな日々はもう終わりだ。

 

 

何かをしてやりたい、ではない。

これからは自分に出来ることをやるのだ。

 

心の折れた青年も――心の折れていた青年もまた決意を新たに一歩踏み出す。

 

 

「やるだけ全力でやってみろ!無理だなんて考えるな!」

 

 

京助は新たな決意に満ちた彼女達を見ながら、京助は心に浮かんだ事をそのまま口にだす。

 

 

「面倒くさいことやら、何やら、俺に出来る範囲なら力になってやるからよ!」

 

 

言い切って、京助は勢いよく体を寄りかかっていた門から離した。

その瞬間、ケースの中の楽器が揺れて、微かに弦の音が鳴る。

それは彼にとって随分と懐かしい音だった。

背負うのは今まで苦楽を共にしてきた相棒――ではない。

かつて夢を志した時、一番最初に手にし、そして今の今まで友人に預けたままにしていた

楽器……言わば夢の始まり。

 

夢の残骸はもういらない。灰色の光景ももう見飽きた。

必要なのは新たに立ち向かう意思一つだけ。

そう、それは今彼女達を照らす太陽の輝きのような……

 

 

それの重みを確かめるように、彼はそのケースを背負い直す。

"サンバースト(燃え上がる太陽)"に色づけられた新たな決意を胸に。

 




第三十七話、いかがでしたでしょうか?

穂乃果達の決意と同じように、京助もまた何かを決意した次第。
1期が夢を目指す少女たちと夢に敗れた青年のふれあいの物語だとしたら、2期は夢を目指す少女達と夢をもう一度追う青年の共闘の物語です。

さぁ、どんどんギアを上げていきますよ!!


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第三十八話 Magical Mystery Tour

お待たせして申し訳ないです……




薄暗い部屋の中、オレンジ色の小さな光がともった。その明滅に合わせて紫煙がくすぶり狭い室内を満たしていく。

 

 

「ふぅ……けほっ」

 

 

肺を満たした煙を吐き出して、軽く咳き込むと彼は慣れた手つきでチビたタバコを机の上の灰皿に押し付けて火を消した。

タバコの余韻に浸りながら、ぼんやりとする頭で彼は先日のことを思い出す。

ラブライブという舞台がもう一度幕を開けること。

彼女たちがもう一度立ち上がったこと。

今度は――今度こそは彼女たちの為にこの身を使おうと決めたこと。

どうすれば、それが出来るのか……そう悩んでいた彼はもうここにはいない。

悩むよりも動くのみ。

行動してから悩む。

そしてまた動き続ける。

それが津田京助という男の核となるものなのだから。

 

部屋の片隅に置かれたギターに一瞥を送る。

それはかつて彼が夢を目指した時に手にした、初めての楽器だった。

 

――俺も、もう一度……

 

そんな思いが胸の奥で燃え上がっている。

もう燻らせておくのは限界だった。

 

だが、それでも京助はその溢れんばかりの思いをもう一度胸の奥にしまい直して、足元に置かれたバッグに手を伸ばす。

今やるべきことはこれじゃない。情熱を燃やすのはまだ今じゃない。

ひとまずは目先の事を片付けなければ。

彼は荷物の最終確認を兼ねてバッグをあさり、その中から徐に一本のナイフを取り出した。

洋物の諸刃作りの刃は手入れが行き届いていて、鞘から引き抜いた刀身は部屋に差し込む僅かな日の光を受けて鈍色に輝いていた。

 

 

「ほいじゃ、そろそろ行きますかね……」

 

 

鞘に収め直したナイフを放り込むと、その大きなバッグを背負って彼は立ち上がる。

キーホルダーに指をかけてクルクルと回しながら部屋をあとにする彼は、いつになく楽しそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「大変です!今度のラブライブで使える曲は未発表のものに限られるそうです!」

 

 

放課後の屋上、いつものように集まったメンバーを前に、花陽が深刻な顔でそう切り出した。

 

 

「それって今までの曲は使えないってこと?」

 

「なんで急に!?」

 

「参加希望チームが予想以上に多く……今のうちに篩にかけようということかと」

 

 

A-RISEが優勝を飾った第一回ラブライブは運営の予想を上回る大盛況を見せ、その余熱は未だ冷めない。恐らく同じ年度内に第二回ラブライブの開催を決定したのは、この熱が冷めぬうちにラブライブという舞台を確固としたものにする意味があってのことなのだろう。

余熱が冷めない、どころか更に燃え上がらんばかりの勢いは日本全国に広がり、今や各地のチームがこぞって第二回大会にエントリーをはじめているのだった。

 

 

「こうなったら仕方ない!こんな事もあろうかと、この前私が作詞した『ニコニーにこちゃん♡』という詩に曲をつけて……」

 

「実際のところどうするんや!?」

 

 

毎度の決まりごとの如く、むしろ清々しいまでににこをスルーして話の先を促す。

 

 

「どうするも何も……作るしかないわね……津田さんにも協力してもらえないかしら?」

 

「そうだね!この間きょーちゃんも、協力してくれるって堂々と言ってくれたし!」

 

「ちょっと!なんでここでアイツの話が出てくるのよ!」

 

 

京助の名前が出た瞬間、にこが不機嫌を隠そうともせずに食ってかかった。

 

 

「にこちゃん、どうしたの?いつもなら真っ先に賛成しそうなのに」

 

「別に……何だっていいでしょ?」

 

「にこちゃん、もしかしてまだおじさんと仲直り出来てないの?」

 

 

凛が不安げに尋ねると、にこは答えずにあからさまに目をそらした。

 

 

「にこっち……」

 

「ほっといてよ……それに、別に私は反対してるわけじゃないんだから好きにしなさいよ」

 

 

μ’sはこの前の苦難を乗り越えて、もう一度立ち上がると決めた。

京助もまた、完全ではなくとも迷いを振り切って、もう一度立ち上がろうとしてくれた。

だが、全てが元に戻ったわけではない。

にこと京助の間に生まれた溝は、まだ埋まりきってはいないのだ。

にこの事を心配そうに見ながら、希は電話帳に登録されたあの青年の番号にそっと触れる。

 

 

「……だめやね。電話にでぇへん。昼休みは購買にいたんやけど」

 

 

しかし、いつまでたっても電話口から聞こえてくるのは無機質な呼び出し音だけだった。

 

 

「そういえば、今日の午後から木金土日はお店も購買もパートさんに任せて休むって言ってたよ?もしかして旅行とかかな?」

 

「……いつも思いますが、経営は大丈夫なんでしょうか?」

 

 

海未の心配ももっともである。

気分で店を閉め、挙げ句の果てにはいつも何だかんだ言って彼女たちに何かを気前よくおごったりと、彼女でなくてもいろいろと大丈夫なのかと心配になってくるのだが、当の本人はあまり気にしている様子もない。それが余計に不安を掻き立てる。

 

 

「旅行……そうだわ!真姫!」

 

「え?……まさか」

 

 

旅行、というフレーズから何かを思いついたのか、絵里は目を輝かせて真姫に声をかける。一方の真姫は急に振られたことに一瞬だけ驚いたものの、絵里の顔を見て全てを察してしまった。

 

 

「合宿よ!」

 

 

絵里の突然の宣言に驚きこそすれ、反対の声は不思議な事に一つも上がらなかった。

 

 

「いいね!合宿!夏以来だね!」

 

「うん!でもどこに行くの?また海?」

 

「そんな訳ないでしょ。この時期だと……山かしら?パパ……お父さんにちょっと聞いてみる」

 

 

そんなわけで合宿の予定はともかく、その開催は最早決定したも同然のことのようだった。

 

 

「山ですか……いいですね!静かな秋の自然の中なら良い歌詞も思いつきそうです」

 

「きっと衣装作りにも良いアイデアが浮かぶかも!」

 

 

海未とことりも乗り気で、そして何より真姫も、

 

 

「そうね……絶対良い曲を作って見せるわ」

 

「真姫ちゃん、いつになく乗り気だね?」

 

 

さらっとこともなげに、しかし瞳に強い意思を込めて言う真姫に花陽が驚いたように問いかけると、彼女は目を背けて髪をいじりながら、

 

 

「別に……ただ、ちょっと引っかかってることがあるだけよ」

 

「引っかかること?」

 

「カシみたいなものよ。結局有耶無耶になっちゃったんだけど……今度こそギャフンと言わせて見せるんだから」

 

 

それはきっと、あの時のこと。

だが、その時のやり取りを、約束を知る者はここにはいない。

 

 

「津田さんの手を煩わせずに、私たちだけで頑張りましょう」

 

「そうね……にこもその方がいいでしょ?」

 

「だから何であいつの名前が出てくるのよ!」

 

 

絵里は心配しているようだったが、にこはうんざりしたように切り返す。もうこの話題には触れて欲しくないようだった。

それを見て苦笑しながらも希は、

 

 

「そうやね……でも案外また意外なところで会ったりするかもしれんよ?」

 

「そんなまさかー。いくら希ちゃんの占いでもそれはありえないにゃ」

 

 

希のふとした呟きを凛が軽く笑い飛ばすが、しかし彼女は妙に神妙な顔で愛用のタロットカードを一枚、指に挟んで目の前に掲げてみせる。

それは彼女の占いで、例の青年の有り様を、これからを暗示するカード。だがその図柄は希以外のメンバーには見えなかった。

 

 

「カードがそう告げとるんや……けど、さすがにそれはないわな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

急斜面を登る脚にこれが最後とばかりに力を込める。

一歩を踏み込んだところで、すでに歩き通しでクタクタになっていた脚は悲鳴を上げてもう一歩も動いてなるものかと態度で示し始めた。

 

 

「ふぅ……」

 

 

脚の主もそれには苦笑して、手近な切り株に腰を下ろすと、背負った大きな登山用ザックを地面に下ろした。

額を濡らす汗を乱暴に袖で拭うと、彼は―津田 京助は胸ポケットから取り出したタバコに火を点ける。

木々の間から漏れる午後の日差しに目を細めながら、全身で味わう山の空気は格別だと、柄にもなくそんなことを考えていた。

そう、京助は現在深い山の中にいた。

紫煙をくゆらせながら、先日の宣言の事を思い出す。

あの時、彼女たちはもう一度立ち向かうと決めた。

あの時、彼は今度こそ力を貸すと宣言した。

 

そしてあの時、人知れず彼は誓ったのだ。

 

 

「我ながら、馬鹿なことしてるな……」

 

 

周りに誰もいないのをいい事に大きな声で独り言を呟く。

今こうして彼が山にいるのは再起に向けたトレーニングためだった。古来より武芸者は修行のために山にこもるというが、京助もまた同じ心持ちである……なんて格好つけてはいるが、実際のところはただの気分転換である。

もとより体を動かすことは好きであったし、たまに一人で自然の中に身をおくのも気分が良い。その点、山を散策するのはなかなかに彼の趣味にあっていた。

特に今の時期の山の様子は良い。

街の喧騒を離れ、一人になって始めて見えてくるものがある。

目を閉じて視界を封じれば、今まで眠っていた五感が鋭く尖って、見えないものが見えてくる。

体を撫でる秋の風は、標高が高いこともあって冷たく、火照った体に心地良い。鼻腔をくすぐるのは土の匂いだろうか。かつて幼い頃、泥だらけで遊んだ事を思い出して懐かしい気持ちになってくる。

近くを河が流れているのだろうか。耳をすませばせせらぎの音が……

 

 

「ん?」

 

 

一人で格好つけていたら、ふとどこからか聞き覚えのある声が聞こえた気がした。

怪訝な顔をして左右を確認するが、何もおかしなものは見えはしない。空耳だろうかと、首をひねる。

 

 

『いやぁぁぁぁぁぁああああ!?』

 

『誰か止めてぇぇぇぇぇええ!!」

 

 

「いやいやいや!」

 

 

絶対に空耳ではない。

確かに聞き覚えのある声だった。しかも割とよく聞く、今は出来れば聞きたくない声。

慌てて立ち上がり、左右を確認するがやはり何も見えない。

否――

 

 

「上!?」

 

 

斜面の上を振り返って見れば、木々の合間を縫うようにして物凄い勢いで走ってくる二つの影――いや、それは走っているというよりも斜面を滑り落ちているといった方が表現としては正しいのかもしれなかった。

しかも、その人影には見覚えがあった。

 

 

「てめえらッ!?」

 

 

二人が横をすり抜けていく瞬間、考えるよりも先に体が動く。

とっさに左右の手にそれぞれ彼女たちの片腕を握りしめ、二人を止めるべく急制動をかける――が、間に合わない。

相手が女の子であるとはいっても片手で人一人、合計二人分の体重を支えるのは流石の京助といえども無理である。

ましてや相手は斜面を滑り落ちてきた勢いもあるわけで。

 

 

「のぉおおおお!?」

 

 

どうにかこうにか踏みとどまろうとは試みてみるものの、足場の悪い山の斜面のこと、京助もまた二人に引きずられるる形で、しかも後ろ向きのまま斜面を滑り落ちていくのだった。

 

 

「って、おじさん!?」

 

「先輩!?なんで、」

 

 

左右から掛けられた疑問の声に、相手が顔見知り……どころかほぼ毎日のように顔を合わせている人間だと確信する。

右手ににこ、左手に凛。字面だけ見ればまさに両手に花――なんて事を考えるくらいには京助も混乱していた。

それでもどうにかこうにか落ち着こうと、首だけを回して後ろを見れば、

 

 

「げぇッ!?」

 

 

そこに控えているのは崖である。

どうにかしようと考えるが一瞬ではいい案も思いつかず、思いついたところでどうにもならない。

瞬く間に崖から三人仲良く宙に舞い、

 

 

「こ、んちくしょうがぁぁぁぁぁぁああああああ!!」

 

 

京助が吠えた。

気合一閃、それに応じるかのように全身の筋肉という筋肉が悲鳴を上げ、なまりきった体がきしむ。

それでも京助は両腕を思い切り、力の限りに振り抜いた。

 

 

「きゃっ!」

 

「にゃッ!」

 

 

結果、二人はギリギリのところで、崖の上に無理やりぶん投げられて不時着、事なきを得る。

滞空状態から人を、それも二人も投げ飛ばすなど最早人間の技ではなかった。むしろギャグマンガの域である。

勿論、そんな無茶を決行した京助が無事なわけもなく、

 

 

「何でお前らがここにいるんだぁぁぁ……あばばばば!!!!!????」

 

 

断末魔のような大声、そして盛大な水しぶきの音が山中の静寂を切り裂いた。

 

 

「……」

 

「……」

 

 

数秒間の沈黙のうち、恐る恐る二人が崖下を覗き込んでいれば、下に広がる沢の水面に、大きな波紋と泡が浮かんでいるのだけが見えたという。

 



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第三十九話  Don't Let Me Down

「ぶえっくしょい!!」

 

 

μ’sの面々には似合わないおっさんくさいくしゃみの音が響く。無論それは少女たちのものではない。

 

 

「ハックショイ……げほッ、ゲホッ!うぇ……」

 

 

くしゃみに続いて見るからに苦しそうな咳き込み方をして、彼は荒い呼吸を繰り返す。

 

 

「風邪、まだ治らんの?」

 

「あー……誰かさんのおかげでな。……ったく、ひでぇ目にあった」

 

 

京助は毛布をかぶって暖炉の前で震えながらながら悪態をついた。びしょ濡れになった登山用の服からいつも通りの開襟シャツとスラックスに着替えてはいたものの、寒いものは寒い。

にこと凛を庇って崖から転がり落ちた彼だったが、命からがら淵から這い上がったところを助けにきた面々に発見され、一先ず彼女たちの拠点で介抱されることとなったのだった。

 

 

「ごめん……」

 

 

さすがに申し訳ないと思ったのか、しゅんとした様子の凛に一瞥をくれると、舌打ちを一つ、京助は

 

 

「ちっとは落ち着けってこの間も言ったよな?」

 

「うん……」

 

「ったく……怪我してからじゃ遅ぇからな?今回は偶然運良く助かったから良かったが……」

 

「うん……」

 

「ごめんなさい……」

 

 

本気で怒っている様子の京助に、凛も、そしてにこもさらに小さくなる。

いや、そればかりではなく部屋の中にいる他のメンバーも、まるで自分が怒られているかのように黙り込んでしまい、重苦しい沈黙が続く。

 

 

「まぁともかくだ。お前らに怪我がなかったんならそれで良いけどよ……あんまし心配かけんな」

 

 

最初にそんな空気に耐えられなくなるのは、いつも決まって京助だった。

元来、説教をされるのは嫌いなのは彼も一緒。だから人に説教を垂れるのも長い話も好きではない。

丁度そんな折に、お茶をお盆に乗せた花陽が部屋に入ってきて、

 

 

「みんな、お茶淹れたよ?お兄さんもどうぞ」

 

「あ、あぁ。ありがとな」

 

 

花陽が入ってきたのを救いとばかりに、京助は受け取ったお茶を一口飲む。

緑茶の優しい香りと暖かさが冷え切った体を芯から温めてくれるようで気持ちがよくて、先ほどまでの険しい表情はどこへやら、つい口元が緩んでしまう。

 

 

「それはともかくとしてだ。何でお前ら、こんな山奥にいるんだよ?」

 

 

花陽のおかげで空気が和らいだのが話を変える良い機会になったのか、京助はこの別荘に招かれてから不思議に思っていた事を聞いてみる。

 

「それはこっちのセリフよ。津田さんこそ何でこんなところにいるの?」

 

「こうも偶然が重なると何か出来すぎやと思うんやけど。……もしかして津田くん、うちらのストーカー?」

 

「アホ抜かせ。寝言は寝て言えエセ関西娘。俺はもう3日前から入山してるし、お前らが来るのなんざ今始めて知ったわ。むしろお前らが俺のストカーなんじゃねぇかと疑い始めてんだがな」

 

 

いつも会うのは職業柄当たり前のことではある。休日まで外で出会うのは狭い街のことだからとまだ納得が出来る。それにしても夏の合宿といい今回といい、学校から遠く離れた場所でこうして出会ってしまうのはいくらなんでも出来すぎだ。

偶然というにはあまりに不自然で、しかしそれ以外に言い表せるものがない。強いて言うのならば、女神の悪戯だろうか?

そこまで考えて、京助は深いため息をついた。

腐れ縁とはこういう事をいうのだろうか?

 

 

「京ちゃんは山の中で何してたの?しかも3日間も」

 

「あー……それはその、なんつーか、な」

 

 

今度は逆に穂乃果に問いかけられて、京助は口ごもる。

 

 

「?」

 

「山に入った当初は良かったんだが……その後で、ちょっとな、その」

 

 

そこまで言って不自然に言いよどむ。

なんとなくオチは見えていた。

 

「まさか、遭難したとかいうんじゃないでしょうね?」

 

「…………」

 

「え?お兄さん、まさか……」

 

 

いやな沈黙。

 

 

「そーなんだ!」

 

「笑えねぇよ!」

 

 

場を和ませようとした洒落なのか、それとも単純に事実を述べただけなのかは分からないが、穂乃果の一言に京助はテーブルを叩いた。

 

 

「おじさん、人の事いえないにゃ……」

 

「うるせぇ、俺はいいんだよ、俺は。お前ら小娘と違って自己責任で済むから。……それと、次おじさんって言ったら川に投げ込むからな」

 

 

自分の失敗談は幾つになっても恥ずかしい。居心地が悪くなったのか、話題を変えようと彼は部屋の中をぐるっと見回して、

 

 

「しっかし、さすが西木野先生の別荘だな。今時暖炉なんて見かけねぇぜ……って、ん?何だ、これ?」

 

 

彼が不審そうに見つめるのは暖炉の中であった。

煌々と燃える炎の奥、レンガ造りの暖炉の内側に何か絵とも文字ともつかないものが揺れる火に照らされているのが目にとまったのだ。

その正体を見極めようと彼は暖炉に一歩近づいて目を凝らすが、以前として不明のままだった。

 

 

「サンタさんが来てくれた証拠、なんやって」

 

「は?」

 

 

目を丸くして、希と暖炉を交互に見比べる。

言われてみれば確かに暖炉の壁には雪だるまとサンタクロースの絵、それに“Thank you!”の文字。

 

 

「真姫がそう言ってたの」

 

「素敵な話だよね」

 

「……待て。あの西木野ちゃんが?」

 

 

話の流れから察して京助は驚いたように聞き返す。対して絵里と花陽は唇に人差し指を当てて、それ以上は口に出さないようにとジェスチャーを送って見せた。

いつも冷静で時折頑固、どちらかといえば現実主義者の真姫がそんな事を言ったのかと思うと、何だか少し微笑ましく思えてくる。

 

 

「ふふっ……」

 

 

思わず笑い声をこぼしてしまい、慌てて口元を抑える。

別に馬鹿にするつもりがあったわけではない。あの真姫がそんな無邪気な一面を見せたのを想像したら、可愛らしくてつい頬が緩んでしまったのだった。

 

 

「サンタさん、ねぇ……」

 

「もう!おじさんまで!笑っちゃ真姫ちゃんがかわいそうだよ!」

 

「いや……そんなつもりじゃねぇって。しかしサンタさんか……ついぞ俺は縁がなかったな」

 

 

慌てて笑顔を引っ込めると、京助は感慨深そうに腕を組んでため息をつく。

 

 

「京ちゃん?」

 

「いや……こちとら昔から悪ガキの日本代表みたいなもんだったからな。ついぞサンタさんには会ったことはないし、勿論友達にもいねぇな……まぁ、色々悪いことはしてるからサタンさんにはいつか会うとは思うが」

 

「友達って……」

 

「ん?津田くんもサンタさんを信じてるん?」

 

 

京助の冗談に絵里は苦笑を浮かべ、希はからかうように問いかける。

 

 

「ん?あぁ、サンタさんにもサタンさんにも友達はいないが、悪魔(メフィストフェレス)なら友達にいる――いたからな。あんなのがいるんだから、サンタさんくらいいても良いだろ……ってか、いてくれた方が面白いのは間違いないな」

 

「ふふっ……お兄さんもたまには冗談なんていうんだね」

 

 

花陽が楽しそうに笑うと、釣られて他の面々も笑い出す。

しかし、当の本人は――京助は笑ってなどいなかった。

 

――悪魔

 

自分で言ったその言葉を噛み締めるように、何とも言えない表情で黙りこくる。それは、かつて共に歩み、そして決別した友の事を思いだしてのことだった。

 

 

「……そういや、他の三人の姿が見えないが、どうしたんだ?」

 

 

暗い考えを振り払うかのように、あるいは過去を振り払うかのように、京助は話題を今の現実へとシフトさせる。

先ほど彼女達と合流してから今に至るまで海未、ことり、真姫の三人にはまだ出会っていない事が、今更ではあるが気にかかった。

 

 

「海未ちゃん達なら二回で作曲とか衣装の事を考えてるよ。……そうだ、海未ちゃん達にもお茶持っていってあげなきゃ!私行ってくる!」

 

「そんなら俺も付き合おう。まだ家主殿に挨拶もろくすっぽしてないしな」

 

 

よっこらせ、と爺むさい事を言いながら京助はソファから腰を上げると、花陽からお茶の乗ったお盆を受け取る。

 

 

「ほいじゃ、ちょいと行きますかね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「真姫ちゃん、入るよ?」

 

「おっす、西木野ちゃん。突然ですまないが邪魔して、る……ぜ?」

 

 

真姫の部屋のドアの前、ノックをして声をかけるも反応はなく、仕方なく穂乃果は扉を開けて室内に入る。京助も彼女の後に続いて入っていって、目を丸くした。

 

 

「あれ?いない……?」

 

「もしかしたら他の二人のところに行ってんじゃねぇか?」

 

「あ、なるほど。じゃあ海未ちゃんの部屋に行ってみようよ」

 

 

真姫の部屋をあとにして、二人は隣の海未の部屋に向かう。しかしそちらもノックに対して返事はなく、

 

 

「海未ちゃん……?」

 

「おっす、園田ちゃん。色々あって邪魔して……」

 

 

部屋に入ってみるもそこは真姫の部屋と同様に蛻の空だった。

海未の姿はどこにもなく、机の上にも……

 

 

「って何じゃこりゃ!?」

 

「え?……うわああああああああ!?」

 

 

京助が驚きの声をあげ、続いて穂乃果も叫び声をあげた。

机の上に置かれていたのは一枚の和紙。そこにはご丁寧にも筆で書かれた綺麗な字で、

 

『探さないでください 海未』

 

 

「ちょ!ことりちゃん!」

 

「あ、待て穂乃果!」

 

 

慌ててことりの部屋に向かう穂乃果と、それを追って走り出す京助。

 

 

「ことりちゃ……わぁぁぁぁぁ!?」

 

「おっす、南ちゃん、色々あって……うおッ!?」

 

 

ノックもせずに扉を開くなり、穂乃果は悲鳴をあげていた。一歩遅れて入った京助の目にまず飛び込んできたのは、壁に掛けられた絵画――の上にマスキングテープでデカデカと貼られた『タスケテ』の文字。

そして、肝心のことりの姿は部屋の中にはなかった。

 

 

「大変だ……あれ?」

 

「……おい」

 

 

冷や汗を一筋流して、二人は部屋の中を改めて見回し、すぐにその中にあった異質なものに気がついた。

布、である。

おそらく、いや間違いなく衣装作成のためのものなので、衣装担当等のことりの部屋にあっても別におかしいことはない。

問題はその状態だ。

 

 

「何、これ?」

 

「何って……」

 

 

ロールから伸ばされたその布はご丁寧に途中途中でいくつもの結び目が作られ、一端は部屋の中の柱にくくりつけられていた。

それこそよくドラマや漫画で見る、布切れを使ったロープのように。

 

 

「……」

 

 

正直、触れたくなかった。

このまま踵を返して部屋を出て行ってしまいたかったが、そういうわけにもいかず、京助は渋々布が垂らされた窓の下を覗き込む。

 

 

「……よぉ」

 

「……あはは」

 

 

目があった。

 

 

「何してんだ、ひよこ娘」

 

 

眉間にこれでもかというほどの皺を刻んで、京助は問いかける。

窓の下で布に吊り下がったままの少女は困ったように笑いながら、

 

 

「これは、その、えっと……え!?何で津田さんがここにいるの!?」

 

「それは……まぁ何というか、俺も上手く説明出来ないんだが……説明は後だ、さっさと地面に降りるかこっちに登り直すかさっさとしろ。無駄に危ない」

 

「あ、は、はい!あ……!」

 

「バカ!慌てるな!」

 

 

京助に言われて焦ったのか、ことりがバランスを崩しロープが大きく揺れる。

いくら束ねたといっても所詮は布、人一人の体重を支えて、なおかつ垂直降下を行うなど用法用量が完全に間違っている。おまけにそれをやっているのは知識も経験もない女の子である。

 

 

「ことりちゃん!落ち着いて!……京ちゃん、GO!」

 

「おう!」

 

 

穂乃果のGOサインを受けて、何の事か聞き返すこともせずに彼は動き出していた。

窓枠を乗り越え、二階から飛び降りる。

着地の衝撃で脚が震えていたところに、ことりがついにロープを手放して降ってきた。

 

 

「ぬッ……うっがあああ!」

 

 

地面に落ちる寸前で、彼女の体を受け止める。

自分の落下の衝撃から立ち直っていないところに更に次の衝撃を受けて、京助はたまらず苦悶の声を上げた。

 

 

「っ……また無茶なことを……怪我はねぇだろうな?」

 

 

抱え込んだままのことりに、京助は眉間に皺を寄せたまま問いかける。

本当はもっと悪態をつきたいところだったが、両脚がしびれてそれどころではなかった。

 

 

「つ、津田さん……」

 

「あのな……南ちゃん。お前はまだ、比較的、他の面々に比べれば、多少は落ち着いてる――ように見えるから今まで何も言わなかったがな……お前も他の小娘どもの例に漏れず、ちったぁ落ち着けっての」

 

「あの……」

 

「大体だな。こんな無茶なことが許されるのは漫画の中だけだ。落ちたら痛いじゃすまねぇぞ?」

 

「その……」

 

「さっきは矢澤ちゃんに猫娘、続いて今度はひよこ娘。次は誰だ?ふざけんな。心配の種を増やすのやめろ、しまいにゃ胃に穴あくわボケ」

 

「えーっと……」

 

「聞いてんのかコラ?……ん?」

 

 

一人で柄にもなく説教をたれていたが、ここでふとことりの反応に不審を覚えて彼女の顔を覗き込む。

彼女は京助から目を背け、心なしか頬を桃色に染めていた。

 

 

「その……顔が近い、です。あと、降ろしてください……」

 

「って、うおっ!?」

 

 

ことりに指摘されて初めて気づいたが、今の格好は傍から見ればお姫様だっこそのもの。ましてやこうして彼女の顔を間近で覗き込む様子はまるで……

そこまで考えたところで京助は大慌てで彼女を放り投げかけて、しかし既のところで考え直して彼女をそっと地面に下ろした。

 

 

「す、すまん!悪い!」

 

「い、いえ……」

 

 

何だか妙に気まずくて、それ以上会話が続かない。

4つも年下の子供相手に何をドギマギしているのかと、自分で自分が情けなくなってくる。

 

 

「京ちゃん、ナイス!ことりちゃんも大丈夫?」

 

「あ、穂乃果ちゃん……うん、津田さんのおかげで!」

 

 

二人とは違ってちゃんと階段を使って降りてきたのだろう、穂乃果が別荘のドアを開けて二人のところに駆け寄ってくる。この時ばかりは彼女の存在がありがたかった。

 

 

「その、津田さん、ありがとうございました!」

 

「……別に。それよか気をつけろよ?いつでも誰かが助けると思ったら大間違いだからな?」

 

 

何はともあれ穂乃果のおかげで気まずさはどこかに行ってしまったようだった。

彼女からのお礼を聞いて、しかし京助はいつもの如くそっぽを向いてしまう。大人のくせに、こんな時に気の利いた返しの一つも言えない自分がアホらしくて、京助は一人また新たな気まずさに苛まれてしまう。

 

 

「とか何とか言っても、誰かじゃなくて京ちゃんが助けてくれるんだよね」

 

「うん!だって津田さんは……」

 

 

憮然とした表情を浮かべて目をそらしたままの京助を見ながら、少女たちはこそこそと話しては笑う。

 

 

「そこ、聞こえてるぞ。ったく……それよか、南ちゃんよ。一体全体何だってあんなことをしたんだ?」

 

 

眉間の皺を深くして、京助は問い詰めるようにことりに言うが、

 

 

「えっと……その……あはは」

 

「あはは、じゃなくてな。そんな風に笑って誤魔化せるのは多感な男子だけだ。いい大人に通じると思うなよ?……それに西木野ちゃんや園田ちゃんはどうしたよ?三人まとめて何か変だぞ?」

 

「あー……京ちゃん?二人なら……」

 

 

穂乃果に肩を叩かれて振り向いた先、そこに彼の口に登った二人の少女の姿があった。

 

 

「はぁ……」

 

「ふぅ……」

 

「…………何してんだ小娘共!?」

 

 

木陰にうずくまって、これでもかと言うほど溜息を真姫と海未の二人のどんよりとした姿を見て、京助は思わず目を丸くした。

 



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第四十話 Strawberry Fields Forever

|「スランプ!?」

 

「そりゃまた……難儀なことだ」

 

 

申し訳なさそうにうなだれる海未、真姫、ことりの三人を前にして、残りのメンバープラス1名は驚きの声を上げた。

 

 

「今までよりも強いプレッシャーがかかっている、ってことかしら?」

 

「はい……気にしないようにはしているのですが」

 

 

絵里に尋ねられて、海未はますます申し訳なさそうにしながら小さな声で返す。

それを受けてことりも、

 

 

「上手くいかなくて予選敗退になっちゃったらって思うと……」

 

「……なるほど」

 

 

京助はどこか納得したかのように頷いてみせた。

今まで彼女たちはごく短時間で、それこそ京助からしてみれば信じられない位の速さで曲を、歌詞を、そして衣装までを作り上げてきた。だが、今まではこんな逼迫した状況ではなかったからこそ出来た事。

ただでさえ難しいことだというのに、こんな悪条件ともなればそれは困難を通り越して無謀の域に等しい。

 

 

「確かに……三人に任せっきりっていうのも良くないのかも」

 

「そうね。三人だけだとかかる責任も大きくなるし」

 

「そいじゃ、九人で話し合いながらやってみりゃどうだ?」

 

 

京助はなんの気なしに火の点いていないタバコを口に咥えて呟く。

しかし、

 

 

「でも、この顔ぶれだと余計な話しちゃって進まんかもしれんなぁ」

 

「む……」

 

 

今までの店での彼女たちのやり取りを思い出して、京助は眉間に皺を寄せた。

希の言うことに、思い当たる節がありすぎる。

三人だけに任せるわけにもいかず、かといって全員で話しても埓があかないとなると果たしてどうしたものか……

そんな折に、絵里が彼の横で彼と同じように首をひねっていたかと思うと、

 

 

「んー……そうだ!津田さん、ちょっと手伝って」

 

「ん?お、おう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数分後、庭先に9人の少女と1人の青年が立っていた。

 

 

 

「それじゃあ、みんな引いたかしら?」

 

 

全員が割り箸を持ったのを見ながら絵里が確認をとる。

それは先ほどまで京助がまとめて持っていたところから彼女たちが一本ずつひいていったものである。

 

 

「それじゃ、お箸の先に書いてあるマークごとに集まって。まず、ことりを中心に衣装を決める班」

 

「あ、私、ことりちゃんと一緒だ!」

 

「私も。穂乃果ちゃん、ことりちゃん、よろしくね」

 

 

三人だけに責任を任せるわけにはいかない、しかし九人では話し合うには大勢すぎる。それを踏まえて絵里が提案したのはくじ引きで三人ずつのチームに分かれてそれぞれ話し合うことだった。

まず、衣装作りの班はことり、穂乃果、花陽の三人に決まったらしい。

幼馴染の穂乃果ならことりの事は分かっているだろうし、アイドルに詳しい花陽なら良いアイディアも出せるだろう。

 

 

「私のところは……希と凛ですか」

 

「そうみたいやね。まぁ、気楽に頑張ってこ?」

 

「海未ちゃんと希ちゃんと一緒にゃ!」

 

 

作詞の班は海未と希、凛。

根を詰める嫌いのある海未に対してこの二人の組み合わせは良い具合に気分転換が出来そうだ。

 

 

「そして、真姫の班は私とにこね」

 

「絵里が一緒なら心強いわ」

 

「ちょっと、私はどうなのよ?」

 

 

そして作曲は真姫を中心に絵里とにこの三人。

何だかんだ言ってしっかり者の、姉気質のある二人が一緒なら真姫のサポートも万全に違いない。

くじ引きとはいえ、どの班もなかなかどうして良くバランスが取れているようだった。

 

 

「こりゃまた……悪くないんじゃないか?難儀しなくてすみそうだ」

 

「そういえば京ちゃんはどの班なの?」

 

 

穂乃果に興味津々といった風に尋ねられて、京助は一瞬きょとんとした後で苦笑を浮かべる。

 

 

「俺か?俺は……帰宅班だ」

 

「え!?帰っちゃうの?」

 

「そりゃ、なぁ……そもそも俺はお前らの合宿に付いてきた訳じゃねぇし」

 

 

そう言って、京助は片隅に置いてあったザックを持ち上げる。

もともと偶然会っただけに過ぎないのだから、これ以上ここに長居する道理はない。それに、女子高生9人のところに成人男性1人で泊まるなど、いくらなんでも気まずすぎるし一歩間違えば事案だ。

 

 

「何言っとるん?津田くんには全員の相談役をやってもらおうと思ってたんよ?」

 

「…………は?」

 

 

ぽとり、と。

驚きのあまり京助の口元からタバコが落ちた。

 

 

「いや、何故この俺が」

 

「前に言ってたやろ?“俺に出来る範囲なら力になってやる”って。今がその時なんやない?」

 

「それはそうだが……いやいやいや、そうじゃなくてだな。いや、まぁ言ったには言ったが……」

 

 

勢いとはいえ確かに言った。

今の自分は前とは違う。彼女達が悩むのならば一緒に悩む、助けを求めるならば手を貸すことも惜しみはしない。

だが、それとこれとは話が違う。

 

 

「ここで会ったのも何かの縁。折角やし、な?」

 

 

――マズイ

 

京助は、無意識下で警鐘が鳴り響くのを感じていた。

今までの経験からして、このままだと巻き込まれる。まず間違いない。そんな確信があった。

 

 

「京ちゃんがいるなら心強いね!」

 

「えぇ。聞けば昔、音楽活動をされていたようですし……何かアドバイスなどいただければ」

 

「いや、待て待て待て!俺みたいなロクデナシがいてもうざったいだけで邪魔だろ?ここはほら、メンバーだけでゆっくりと」

 

「お兄さんはロクデナシなんかじゃないですし、いて邪魔だったことなんてないですよ?」

 

 

京助の、自分を卑下するかのようなことを言うのを聞いて、花陽がどこかむっとしたように言い返す。

 

 

「それに、メンバーっていうならあなたも半ば似たようなものじゃない?」

 

「西木野ちゃんまで……!」

 

「おじさんがいるなら安心できるにゃ!山の中だから、ちょっぴり夜とか不安だったんだよね!」

 

「誰がおじさんだ猫娘」

 

 

おじさん呼びはムカつくが、しかし不安だと言われてしまうと少し心が揺らぐ。いくら人数が多いとは言え、人里離れた山の中のこと。何かあったらと思うと、心配なのも確かである。

そういう所がつけ込まれるのだが、本人は気づいていない。

 

 

「それにほら、俺男だから!」

 

「そうね……男の人がいると心強いかも」

 

「そういう意味じゃねぇよ!絢瀬ちゃんまで何言い出すんだよ……」

 

 

すがるように、にこの方に目線を向ける。

しかし彼女は京助と目が合うとすぐにぷい、と目をそらしてしまう。

 

 

「自分の言ったことには責任もたんとね?」

 

「ッ……!」

 

 

ぎりぎりと、歯を軋ませる。

どうにかこうにかこの場を乗り切ろうと、必死で言い訳を考えるがいかんせん元より頭が良くない身、咄嗟に良い案は出てこない。

それに何より、子供相手に必死で言い訳を考えている自分がたまらなく惨めになってくる。

 

 

「だぁぁぁああ!分かった!相談だかなんだか知らんが、乗ってやる。その代わり、俺の出来る範囲だけだからな?お前らの求めてる答えを言えるとは限らんからな!?」

 

 

結果、京助は考えるのを放棄した。

最近、巻き込まれるのも流されるのも恒例行事のようになってきていて、どこか慣れてしまっている自分が嫌になってくる。

ザックを投げ捨てると、京助は両手をポケットに突っ込んで彼女たちに背を向けて歩きだした。

 

 

「京ちゃん、どこ行くの?」

 

「その辺ぶらついてくる。用があったら声かけろ」

 

 

新しいタバコに火をつけて、京助は乱暴な足取りでその場をあとにするのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

川辺の石に腰掛けて、川のよどみに糸を垂らす。

さらさらと流れる川の音、吹き抜ける涼やかな風。どれをとっても穏やかな様子だったが、それとは逆に心中穏やかではない男が一人。

 

 

「難儀なこったな……」

 

 

咥えたタバコから煙をもくもくと漂わせて、京助は半ば口癖となったセリフを口に出した。

もちろん、力を貸すのはやぶさかではない。彼女たちの役に立ちたいのも本心からだ。

しかし、こう、なんというかいくらなんでも唐突すぎる。

とてもではないが心の準備が追いつかない。

 

 

「あれ?お兄さん?」

 

「うおっ!?」

 

 

考え事の最中に後ろから声をかけられて、京助は飛び上がらんばかりに驚き、あわや川にダイブする寸前でどうにか体勢を持ち直す。

 

 

「あぁ、なんだ、小泉ちゃんか。脅かすな」

 

「べ、別に脅かしたつもりはないんですけど……お兄さん、釣りしてるの?」

 

 

少し困ったような花陽の様子を見て、京助はタバコの火を消すと咳払いを一つ、

 

 

「まぁな。で、どうした?小泉ちゃんは確か……饅頭娘達と衣装のアイディア出しじゃなかったか?」

 

「はい。ちょっと山の中をお散歩したら良い案も浮かぶかなって思って」

 

「あぁ、なるほどな。それで、その……」

 

 

納得がいったように頷いて、京助は花陽が抱えた籠に目をやった。

その中には今摘んできたばかりであろう、白い小さな花が収められていた。

 

 

「可愛いでしょ?白くて小さくて、同じ花なのにそれぞれに個性があって」

 

「まるでお前らみたい、ってか?」

 

 

京助はなんの気なしにそう続けてみる。

それはほとんど無意識に出た言葉だった。言ってみてから京助は自分の口にした事の意味を考えて、口をつぐむ。これではまるで彼女たちのことを可愛いと褒めたようで、何だか照れくさかった。

 

 

「え?」

 

「いや、何でもない。忘れろ」

 

 

ひらひらと手を振って、失言を取り消そうとする。

しかし遅れて気がついた花陽は一瞬キョトンとして、しかしすぐに満面の笑顔で、

 

 

「ありがとう、お兄さん」

 

「知らん。いいから忘れろ」

 

 

眉間に皺を寄せて、怒った風な顔を作って見せるが、花陽はそれを見ても依然としてにこにこしたままだった。

 

 

「……ちッ」

 

「ふふ……」

 

 

ふてくされたように舌打ちを一つ。竿先に視線を移す京助と、その様子を微笑みながら見つめる花陽。

意地っ張りの兄に優しい妹。傍から見ればそんな兄妹のような二人だった。

 

 

「……ノコンギク」

 

「え?」

 

 

京助は横目でちらりと花陽のかかえる花を見て、小さく呟く。

 

 

「その花の名前だ。丁度今が花の時期か。白から紫、ピンクくらいまで花の色にばらつきがあるらしい」

 

「へぇ……お兄さん、花にも詳しいの?」

 

「いいや。昔、爺さんにつれられて山菜採りに来たとき、教えてもらったのをたまたま覚えてただけさ」

 

 

いつもなら花の名前なんて一度聞いたくらいじゃ覚えられるはずもない。

それでも、あやふやではあるがその花のことを覚えていたのは、祖父が似合いもしないことを言っていたから。

 

 

「爺さんから聞い話だが……確か、花言葉は『忘れられない想い』、だったかな?他にも何かあった気がするが……忘れちまった。東條ちゃんに聞けばわかるかもな」

 

 

花言葉。

花に込められた意味を聞いて、花陽はその白い花を見つめた。

きっと、それは今この時のことだと、花陽はふと考える。

μ’sに入ってからこれまでのこと。そして、これから先に待つラブライブのこと。

みんなで過ごした日々は全部忘れられないものになるだろうと。

そんな風に感じた。

 

 

「忘れられない想い……」

 

 

教わったばかりの花言葉をもう一度つぶやいて――彼女は京助の顔をまじまじと見つめた。

“忘れられない想い”

彼女にとって、それはもう一つある。

昔、まだ中学校にも上がっていなかった頃のこと。

学校から家に帰ると、まず靴を確認したのを覚えている。たまに早く帰ってきている兄の靴と、それからもう一つのボロボロの靴。

そんな日はドキドキしながらリビングの扉を開けていた。

テレビゲームに夢中になっている兄と、それから……

 

 

「お兄さん、あの……覚えてますか?」

 

 

意を決して尋ねてみた。

けれど、彼から返ってきたのはきょとんとして首を傾げる仕草のみ。

 

 

「ん?何の話しだ?」

 

「……あの、その」

 

 

尋ねてみたことをちょっとだけ後悔した。

こんな答えが返ってくるのは分かっていたはずなのに。自分が覚えているから相手も覚えていてくれるなんて、そんな都合のいい事あるはずないのに。

でも、何故か、胸の奥がちくりと痛んだような気がして、

 

 

「……何でも、ないです」

 

 

知りたいならちゃんと聞けば良い。ちゃんと話して思い出してもらえば良い。

それなのに、それだけの事も出来なかった。

本当に、忘れられていたら。

悲しくて、怖かった。

 

 

「よく分からんが……まぁいいや」

 

 

京助は花陽の様子に気がついた風もない。

あくびを一つ、京助は視線を川面を漂う浮きへと戻して、勢いよく竿を振り上げた。

 

 

「ちッ。逃がしたか」

 

 

綺麗に餌のなくなった針を手に、なんとも惜しそうに溜息をつく。

 

 

「まぁ、ともかく。今回の曲の、ヒントになるといいな?」

 

「うん!」

 

 

京助に言われて、花陽は嬉しそうに頷いてみせる。

彼女のそんな様子をどこか眩しそうに見て、京助も軽く微笑んだ。

 

 

「あ、そうだ。ちょっと良いですか?」

 

「ん?って、何だ?」

 

 

問いかけると同時に花陽はそっと京助の傍まで近寄って、首元に手を伸ばす。

思いのほかに顔と顔の距離が近づいて、柄にもなく京助はどぎまぎしてしまう。

 

 

「はい、出来ました!」

 

「あ?……なんじゃこりゃ?」

 

楽しそうに笑う花陽と、襟元を見比べて京助は眉をひそめる。

彼のシャツの襟先、だらしなく外されたままになっていた襟ボタンの穴に、一輪の花が挿されていた。

 

 

「おすそ分けです」

 

「おすそ分けって……」

 

 

困ったようにつぶやいて、指先で襟の花に触れてみる。小さくて、ちょっと力を入れただけで潰れてしまいそうな花。

 

 

「それじゃあ、私、そろそろことりちゃん達のところに戻ります」

 

「おう。まぁ、頑張れよ」

 

 

小さく手を振って歩き出した花陽が視界から外れるのを確認してから、彼はまた襟元の花に指を伸ばし、その茎をつまんでみる。

外してしまおうかと思って、しかしそれも何だか妙に寂しい気がして、京助は結局花をそのままにしておくことにした。

自分の柄ではないことは分かっているが、たまにはこういうのも悪くはないと、何だかそう思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おーい、どうだ、少しは作業も進んでるか?」

 

 

花陽と分かれてしばらく経った頃、釣りを一旦やめにした京助は、少女たちのテントを訪ねた。

別段、何か用向きがあったわけではない。

強いて言うならば好奇心というやつだろう。

しかし、声をかけてみても返事は一向に返ってはこなかった。

 

 

「おーい、どうした?」

 

 

気配はあるのに返事がないことを不思議に思って、京助はテントに更に近づいていく。

入口は開いたままで、彼の意思とは関係なく中の様子が伺い知れた。

 

 

「って、おいおい……」

 

 

テントを覗いてみて、京助は思わず苦笑を浮かべた。

開け放たれた入り口から差し込む暖かな陽光に照らされて、川の字で安らかな寝息を立てる三人の姿がそこにはあった。

 

 

「……寝顔は天使、か」

 

 

彼のつぶやきはせせらぎの音にかき消されて誰にも届かない。

京助は眠り続ける三人に気を使ってか、音を立てないようにゆっくりと踵を返した。

 

 

 

 

 

 

 

「ま、せいぜい良い案が出るように祈っててやるよ。南ちゃん、穂乃果――妹ちゃん(・・・・)

 

 

 

 

 

 

 

 

さり際に呟いたその一言も、やはり誰の耳にも届かずに、山の空気の中に消えていった。

 




こんばんは、北屋です。
合宿編はなかなか長い話になりそうです。

今回の話は、珍しく外伝が絡む話になっています。fragment 4 の話を見ていただければ花陽が京助を『お兄さん』と呼ぶ理由、そして今回の最後に京助が花陽を『妹ちゃん』と呼んだ訳もわかるかと。

次回はリリホワのメンバーとのお話になるかと思います!


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第四十一話 Get back

「よっ……と」

 

 

火の点いていないタバコを咥えたまま、岩を乗り越える。

運動不足気味の体に山登りはいくらか堪えるものがあるが、それもまた良し。額に浮かんだ汗を拭って、京助は小さく溜息を吐きだした。

 

 

「ったく……何のために俺を引き止めたんだか」

 

 

呟いて、タバコに火を点ける。

相談にのって欲しいと、そう言われて引き止められたというたのにまだその肝心の相談事とやらをしにくる者はおらず、そうこうしている内に日が暮れてしまっていた。

ことり班は三人まとめて昼寝を始めてしまうし、真姫の班は……にこの一件があるため気まずくて声をかけづらい。

そんな訳で海未の班の様子でも見てみようかと思って山を登ってはみたものの、あいにく日頃からトレーニングを積んでいる健康的な彼女たちと、日頃から酒にタバコに溺れているダメな青年では体力に開きがありすぎて、一向に追いつける気配がなかった。

このままでは今日一日ただぼーっとしていただけである。それはそれで良い気分転換にはなるのだが、彼としてはあまり釈然としないものがあるのだった。

 

 

「しっかし……園田ちゃん、やけに張り切ってたが、星空ちゃんは大丈夫なのか?」

 

 

他のメンバーと違って本格的な登山用ザックにトレッキングシューズ、挙句は杖まで持参しているときた。山に入っていくのをちらりと見かけたが、明らかに海未と凛では温度差が見て取れて、妙に心配になってくる。

 

 

「東條ちゃんがいるし大丈夫か」

 

 

いつも人のことをおちょくって遊んではいるが、あれでも希は三年生。それに何だかんだ言っても周りのことをちゃんと見ているのは京助もよく知っている。

彼女がいれば滅多なことにはならないだろう。

 

 

「……やっぱ俺、いらなくないか?」

 

 

ふと、そんな風に思った。

彼女たちは9人がそれぞれ違った味を持っている。誰かが失敗すれば誰かがそれをフォローして、そうやって確実に前に進んでいく。これまでもそうだったように、きっとこれからもそうなのだろう。

そこに果たして自分は必要なのだろうか――

そこまで考えて、くぅ、と腹の虫が鳴く音で彼は我に帰った。

 

 

「……腹、減ったな。それに何だってこんな独り言ばっか言ってんだ、俺は」

 

 

独りの時間が増えると人は独り言が増えるという。だが、地元に逃げ帰ってくるまでの旅の間はここまで一人で騒がしかった覚えはない。

きっと独りに慣れてしまっていたからだろう。

そして今は逆に小うるさい小娘達といることに慣れてしまったから……

またしても溜息をついて、京助は背負っていたザックを下ろして食事の準備に取り掛かる。

手頃な細枝を着火剤代わりにしてライターで火を点け、それをもっとしっかりした薪に移す。

瞬く間に大きくなっていく火を見ながら、今度はザックから取り出した鍋とケトルに汲んでおいた湧水を注いで火にかける。

後は同じく昼間のうちに集めておいた食材を愛用のナイフで切って鍋に放り込んでいくだけだ。

 

 

「ふむ……」

 

 

今回の収穫物を確認。

ザックの中に無理やり押し込んでおいた小型のクーラーボックスの中には、ウワバミソウにイワタバコ、それにキノコが数種類。それから小ぶりではあるがヤマメが3匹程。

それから尻ポケットにはウイスキーがまだ半分ほど入ったスキットル。

調味料も魚の醤油挿しが何本か残っている。

簡単に鍋にでもしようかと考えていたら口の中に唾が湧き出して、もう一度腹の虫が鳴き出した。

苦笑しながらその辺に生えていた楓の枝を切って来て串を作り、魚を刺して火にかける。

そうこうしている内にゆだってきた鍋の中に山菜を次々に放り込んでいく。

ものの数分と経たずにいい匂いが立ってきて、思わず笑みが浮かんで来るのを隠しきれなかった。

あと少し……鍋の完成を待ちながらフォア・ローゼスの入ったスキットルを傾けて、

 

 

「何やらいい匂いが……」

 

「ぶッ!?」

 

 

思わず吹き出した。

 

 

「園田ちゃんか……脅かすな。てっきり頂上近辺で夜を明かすのかと思ったぜ」

 

「あれ、津田さん……?別に驚かせたつもりはないのですが……」

 

 

つい数時間前にも聞いたようなやりとりだった。

 

 

「それより津田さんは何でこんなところに?」

 

「そりゃ、お前らが……」

 

 

そこまで言ってから、京助はしまったとばかりに眉間に皺を寄せて口をつぐむ。

その様子に海未は小首をかしげて不思議そうに、

 

 

「私達が、何ですか?」

 

「いや、その……」

 

 

言葉に詰まって口ごもる。

思っていることをちゃんと言葉にするのあまり得意ではない。それに今は思った事をそのまま口にすれば……

 

 

「うちらがちゃんと作詞出来てるのか心配で、見に来てくれんたんよな?津田くん」

 

「あ、おじさん!いい匂いがすると思ったら料理なんかしてたの?」

 

 

海未に気を取られていて二人の接近に気がつかなかった。

不覚をとった代償は大きく、言いたくなくて心に留めたばかりの事を代弁されてしまう。

 

 

「だ、黙れエセ関西娘。俺は、その……お前らに飯の邪魔されるのが嫌で山の上まで逃げてきただけだ!」

 

 

図星だった。だがそれを認めるのは恥ずかしくて慌てて言い繕うが、そんな彼の態度も彼女たちにとっては見慣れたもので、希はどこか優しい目線を京助に送り、

 

 

「ふーん?あ、もしかして、誰からも相談がなくて寂しいとか?」

 

「っ……お前、俺に喧嘩売ってんのか?」

 

 

すごんでは見せるものの、これもまた図星だった。

 

 

「あぁ、なるほど……ありがとうございます、津田さん。おかげさまでどうにか、」

 

「うん……まだ進み方は順調とはいえないにゃ」

 

「ちょっ、凛!?」

 

 

海未が言うのを途中で遮って、凛がため息混じりに答える。海未としてはあまりその事を人に言っては欲しくなかったようで、しどろもどろに、

 

 

「いや、その……インスピレーションが沸かないというか、何と言いますか」

 

「そうか。そりゃまた……難儀なことだ」

 

 

京助はそれだけ言うと紙コップを三つ取り出して、インスタントコーヒーを淹れ始める。それは考えての行動ではなく、最早体に染み付いた動きだった。

彼がとやかく言う事ではないし、せっついたところでいい歌詞ができるわけでもない。それが分かっているからこそ京助は何も語らない。

こんな時にしてやれるのはコーヒーでも淹れてやることだけだ。

 

 

「ほらよ。安物のインスタントだが勘弁してくれ」

 

「お!ありがとな、津田くん」

 

 

早速受け取ったコーヒーを一口飲んで、希はほっと一息。安心しきった表情で、

 

 

「ふぅ……やっぱ山で飲むコーヒーは最高やんな。それも津田くんが淹れてくれたのやから格別や」

 

「……そういうもんか?」

 

 

京助もコーヒーに口をつける。

なるほど、山の中で飲む一杯というのも悪くはないと思えた。

所詮は安物のインスタントなのだが。

 

 

「……さてと。どうする?」

 

「どうする、とは?」

 

 

京助に問いかけられて、三人は顔を見合わせる。その様子を見て、彼は薄く微笑んで、

 

 

「どうせ飯もまだなんだろう?折角だから食ってくか?」

 

「え!いいの?」

 

「たいした料理ではないけどな。鍋だけで米だの麺だのはないし、それで良いのなら」

 

「あぁ、それなら乾麺持っとるから、ラーメン鍋なんてどうやろ」

 

「のった。……人も増えたことだし、少し具を足すか。少々もったいない気もするが、奮発すっかね」

 

 

クーラーボックスをあさり、中からいくつかの茸を取り出したかと思うと、彼はそれを鍋の丁度真上あたりに放り投げた。

突飛な彼の行動に呆気にとられた三人の目は、後に続く銀の一閃を目の当たりにした。

それが目にも止まらぬ速さで振るわれたナイフの軌跡だと気づいた時には、既に茸たちは丁度いい感じに両断されて鍋の中に飲み込まれていた。

 

 

「雲南茸鍋……中国あたりの鍋料理、だったっけな。美味い茸をしこたま鍋に放り込んで煮込むことで旨味が複雑に絡み合う、なんてな」

 

 

楽しそうに調味料を足しては鍋をかき回し、お玉で少しすくっては小皿にいれて味見をくり返して味を整えていく。

無言でそんな事を何回か繰り返す内に納得がいく出来になったのか、京助は満足そうに頷いて全員に紙製の器を渡していく。

 

 

「山の中じゃたいした料理も出来やしないが、まぁ悪くないと思うぞ」

 

「また謙遜して。こんないい匂いしてるのに美味しくないわけないやろ」

 

 

さっそく希がおたまを受け取って全員に鍋をよそっていく。

料理が4人に行き渡り、後は箸をつけるだけという段になって、

 

 

「その、津田さん?これは、本当に食べられる茸なんですか?」

 

 

海未は毒々しいまでに赤色の茸を恐る恐る箸でつまんで京助に問いかける。

彼女が躊躇うのも無理はない。元より茸は種類が多く、その中には非常に強力な毒を持つものも少なくない。素人が生半可な知識で採った茸を食べて中毒するなんてニュースも毎年のようにあるのだ。

 

 

「あぁ。試しに食ってみろ。多分大丈夫だから」

 

「……多分?今、多分って言いませんでしたか?」

 

 

不安げに京助に問いかける海未と、にやにやと笑うばかりの希を見比べていた凛だが、やがて空腹に負けたのか、その毒々しい茸を一口、

 

 

「凛……?」

 

 

もぐもぐとよく噛んで味わい、口にしたひとかけらを飲み込んで、凛はほっと一息をつくと、

 

 

「……にゃ」

 

「え?」

 

「にゃははははは!」

 

 

心底楽しそうに笑い出した。

 

 

「津田さん!?やっぱり食べたらいけないものだったんじゃないんですか!?」

 

「ちょっ!?てめっ、シャツの襟掴むな!破れる!いくらすると思ってんだ!?」

 

 

海未に襟首を掴まれた京助が悲鳴に似た声をあげる。無理やり引き剥がすわけにもいかず、かと言ってされるがままにされてはシャツが破けるし、何より首がしまって危ない。

京助と海未が攻防を繰り広げてるのをしりめに希は至って冷静に、

 

 

「凛ちゃん?どうしたん?」

 

「うん、これ凄く美味しい!希ちゃんも海未ちゃんも食べてみてよ!」

 

「え……しかし、」

 

 

凛に言われて、海未も恐る恐ると言った風に鍋に箸をつける。そしてもぐもぐときのこを味わうように噛み締めると、一瞬大きく目を見開いてその次には笑顔になった。

 

 

「美味しいです……!」

 

「これ、タマゴタケ?よく見つけられたね?」

 

「まぁな。時期と環境が分かってればそこまで珍しいものでもねぇ。……ってか紛らわしい反応すんなよ、猫娘……おかげで一張羅をダメにされるところだった」

 

 

ぼやきながら乱れた襟を正すと、ふとそこから地面に落ちるものがある。

それは昼間に花陽からもらったノコンギクの花だった。

 

 

「おっと……」

 

 

地に落ちたそれを拾い上げる。もう摘んでから時間が経ったためか幾分萎れてはいるが、それでも京助はそれを襟元に付け直した。

 

 

「津田くん?オシャレさんやね。どうしたのそれ?」

 

「別に。小泉ちゃんにやられただけだ」

 

 

ひどくぶっきらぼうに言い放つが、それでも捨てずに今までずっと身に付け続け、さらには落ちても拾う当たりこの男の人となりが現れているようだった。

もしくは純粋にその花飾りが気に入っただけかもしれない。

 

 

「ノコンギク、かな?」

 

「良く知ってるな」

 

 

驚いたように希を見つめる。しかし、いろいろと底の知れない彼女の事だから、彼が知っている程度のことは知っていて当然なのだろう。

 

 

「うん。ちなみに花言葉は知ってる?」

 

「『忘れられない想い』だったか?」

 

 

昼間に花陽に教えたばかりのそれを、京助は答えた。しかし、希はそっと首を振り、

 

 

「うん、そうやけどそれだけじゃないよ。もう一つのほう」

 

「ん?いや、知らん」

 

 

もう一つ――

花言葉は一つの花に一つではない。確かにこの花にも別の何か意味があったはずなのだが、さして興味もなかったため忘れてしまっていた。そもそもにして一つだけでも覚えていたことが奇跡に等しいくらいなのだ。

希は何故かひとしきり納得したように頷くと、

 

 

「ふふ……出来すぎやね。いや、津田くんらしいのかな?」

 

「勿体ぶんなよ……別段知りたいわけでもないけどな」

 

 

 

「んー……そうやな。前に津田くんの事占ってみたって話はしたよね?」

 

「あ?あぁ、そう言われてみれば確かに……だが、」

 

 

それとこれとに何の関係があるのかと、問おうとすると彼女はそっとポケットから取り出した一枚のタロットカードを彼の目の前にかざしてみせた。

カードの図柄に描かれるのは一人の若い男だった。一本の剣を握り締め、馬にまたがる姿から彼が騎士だということが分かる。その男の目は鋭く、真っ直ぐに前を見据えている。何者も恐れず、立ちふさがる物を切り伏せんとする力強さの感じられるカードだった。

 

 

「え?見覚えのないカードなのですが、そんなカードありましたっけ?」

 

 

海未が首をひねりながら尋ねると、希は困ったように笑って、

 

 

「んー……本当はこれ、いつも使ってる大アルカナには入ってないカードなんよ」

 

「あぁ、小アルカナのカードですか」

 

 

海未が納得がいったように頷く傍ら、今度は京助が首をひねる番だった。

 

 

「小アルカナ?」

 

「えぇ。普通タロットカードと言えば大アルカナ……一般的に知られている22枚の絵柄のカードを指すのですが、それとは別に56枚のカードがあるんですよ。杖、聖杯、金貨、そして剣の4組に分かれるトランプの原型となったカードです。」

 

 

京助は彼女の説明に関心したように頷いた。そんなカードがあった事はもちろんだが、海未がこんなことを知っていた事も驚きである。どちらかというとお堅いイメージの彼女もまた女の子なのだと、ふとそんな風に思った。

 

 

「そうそう。うちも普段は大アルカナを占いに使ってるんやけどね。でも、いざ津田くんの事を占ってみたら、何故か混じってたんよね。一枚だけ」

 

 

感慨深げに希は呟いて、騎士のカードを掲げて見入る。

 

 

「希ちゃん、そのカードの意味って何なの?」

 

 

凛に尋ねられて、希は真面目な顔で

 

 

「勇気、決断、大きな流れ。積極的な意味のカードやね。……まさに今の津田くんにぴったりやないかな」

 

 

京助を見つめて、希はそう告げる。

対する彼は何かを考えるかの如く、じっと自分の手元を見つめる。

決断。

逃げることはもう出来ない。だが、進むべき道はまだ見えている。悩む時はもう終わっている。今更占いなんかで言われなくても、やるべきことは分かっている。

あとは勇気だけだ。占いを信じるつもりなんぞさらさらないが。

 

 

「へっ、まぁ参考程度には覚えとくぜ。……さ、飯も出来たんだ。暖かいうちに食おうぜ」

 

 

今考えたところで仕方がない、そう思って京助は流れを断ち切るかのように箸を手にとった。それに釣られるように少女たちも慌てて鍋に手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ……美味しかった」

 

「おじさん、料理上手だね」

 

 

締めのラーメンを平らげ、京助が新たに淹れたコーヒーを飲みながら、少女たちは一息をついた。

 

 

「よもや山の中でこんなに美味しいご飯を食べられるとは思いませんでした。ありがとうございます」

 

「……褒めても何にもでねぇぞ」

 

 

同じくコーヒーを一口飲んで、京助はつぶやくと、

 

 

「さてと、満腹になったことだし、俺はそろそろ別荘の方に戻るが……園田ちゃん達はどうするよ?」

 

「そうですね。私たちもそろそろテントの方に戻りますか」

 

「えー?おじさん戻っちゃうの?つまんないにゃ」

 

「おじさんじゃねぇってんだろ小娘……まぁな。寝袋やら何やら向こうに置いてきちまったし……流石に夜は冷える。お前らも風邪ひかねぇように気をつけろよ」

 

「そうやね。それじゃ、また明日」

 

「おう」

 

 

三人が立ち上がるを見ながら、京助はひらひらと手を振った。

ふと希が思いついたように振り返り、

 

 

「そうだ、さっき言ってたことやけど」

 

「さっき?どの話だ?」

 

「ん。その花の事」

 

 

希は京助に近づくと、ちょん、と彼の胸元のノコンギクの花を指先で突いた。

 

 

「花言葉は、『忘れられない想い』……それから『守護』」

 

 

そう言って彼女はくすりと笑う。

 

 

「お似合いの花やと思うよ?μ’sの『騎士』さん?」

 

「あ?誰が、」

 

 

眉間に皺を寄せて反論する彼を遮るように、

 

 

「誰かが失敗したら誰かが助ける。これからも、これからもそうやって進んでいく。でも、それでも時には挫けそうになる時もあるんよ。そんな時、うちらを支えてくれるのは、いつも見守ってくれている人やんな。……本人は特別な事をしているつもりはないのかもしれないけれど、あなたは私たちにとってとっても特別で重要な人。だから、もっと自信をもって?」

 

 

呆気にとられる京助を残して、希は彼に背を向けて歩き出す。少し先で希と京助を見つめていた海未と凛に合流して帰っていく後ろ姿を見ながら、彼は胸元の花にそっと触れてみた。

 

 

「何が、ぴったりだっての……」

 

 

『騎士』なんて似合うわけがない。ましてや『守護』……守り護るなんて柄じゃない。

だが、彼女達を見ていると胸にこみあげてくる思いがある。

 

 

「ちっ」

 

 

舌打ちを一つ、京助も立ち上がって火の始末をすると踵を返して元きた道を戻る。

似合わなくとも柄じゃなくとも、彼女たちが望むのなら仕方がない……なんて考えることこそ自分らしくはない。

いつにも増して悶々としながら京助は薄闇に包まれた山道を歩いていくのだった。

 



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第四十二話 Smoke on the water

遅くなりました


 

「ふっ……」

 

 

溜息を一つ。呼吸を整えてから足先を湯につける。

熱い、というよりも痛い。

時期は秋口、夜ともなれば体が凍えるのは当然の事で、冷えきたった体は急に湯に浸かることを拒んでいるのだった。

それでも我慢してゆっくりと足先から徐々に湯船の中に体を沈めていく。肩まで浸かる頃には痛みは消えて、優しい温もりが強ばっていた体をほぐしていくのが分かる。

 

 

「はぁー……」

 

 

再びため息。体の中で固まっていたものが溶けて口から出ていくようだった。

長いことシャワーばかりで過ごしていたが、やはり湯船に浸かるのとではわけが違う。

体中の古傷に湯がしみて痺れるような感覚がするが、逆にそれが、体に溜まっていた疲れが一気に溶けていくようでむしろ心地良い。

希達と分かれてから、京助は一人別荘付近に戻ろうと山を下った。しかし、その途中で温泉の表記を見つけ、興味を惹かれてふらりと足を運んだのがここにきたきっかけだった。

たどりついたのは天然温泉――湯船や衝立、脱衣所などは完備されてはいるものの、温泉は露天風呂のみという簡素な造りなのもまさに京助の好みだった。

しかも無人で入湯料も無料という願ったり叶ったりのシチュエーションに、彼は柄にもなく喜び勇んでその湯を楽しもうと思い至ったのである。

 

 

「たまにはこういうのも悪くないな」

 

 

ぼそりと呟いて、空を見上げる。露天風呂に浸かりながら夜空を見上げるというのもなかなか乙なもので、風呂の電灯の光は些か心もとなく、それが返って夜空に瞬く星も光を見やすくしてくれている。湯船から立ち上る煙もまた風情があって気持ちが良い。

これで日本酒でもあれば最高なんだが、などとふと思うがあいにくと手持ちにそんなものはないし、スキットルでウイスキーというのも少し場違いな気がして諦めることにした。

ぱしゃり、と。湯を手に掬って顔を洗う。

山の中で遭難しかけたかと思えば何故かμ’sに出会い、毎度の如くあれよあれよという間に巻き込まれ、なんだかんだと忙しい一日だった。

そんな一日で溜まった疲労は、しかし決して嫌なものではないと感じているのが少しばかり悔しい。あの子達と過ごす日々が、当たり前でかけがえのないものになっているようで、何とも言えない複雑な気持ちになるのだ。

 

――あとどれだけ、あの子達といられるのだろう

 

最近、気を抜くとそんな考えが心の中に湧いてくる。

あの子達の事が好きなのだと、そう認めた時からつきまとう考えだった。

 

 

「ちっ……」

 

 

舌打ちを一つ。そんな思いを振り払う。

こんな事でおセンチな気分になるなんて、昔の自分からは考えられないことだった。

 

――俺は、弱くなったのか?

 

時折、そう思う。

仲間と別れ、一人でずっとやってきた時も、こんな気分になる事はなかった。それなのに今更になってこんな感情を浮かべるなんて、信じられない。

だが――

だが、しかし。それは果たして彼が言うように弱くなったということなのだろうか?

本当に、一人で全てに耐える事が強さなのだろうか?

誰かを愛しいと思い、その為に何かを為そうとすることは弱さなのだろうか?

 

ぱしゃり。

 

再び、湯で顔を洗って、彼は気持ちをリセットした。

考えるのは昔から苦手だ。特に考えても仕方のないことなど、どうすることもできないのだ。

今は無駄な事は考えずに、ただこの夜空と湯を楽しもうと、そう思った。

 

 

「……ん?」

 

 

ふと、何かが聞こえたような気がした。

耳を澄ます。それは決して気の所為などではなかった。

人の、それも複数人の話し声と気配。夜空に見とれて気がそぞろになっていて、今の今まで気がつかなかった。

 

 

「いやー、今日も疲れたねー」

 

「うん。でも、一日中寝てただけのような気もするけどね……」

 

 

聞き覚えのある、声だった。

 

 

「……いや、待て。待て待て待て」

 

 

ここは風呂である。そこまではまだ良い。

問題は、ここが簡素な作りで、特に男女で分かれているわけでもないところにある。

しかも出入り口はたった一つ。どう頑張ったところで鉢合わせする。

フリーズしかけた思考を無理矢理に加速させる。

このままでは詰みだ。否、下手をすると罪に問われかねない。

考えろ。

答えはすぐに出た。

声を張り上げて自分の存在をアピール。彼女たちがこちらに入ってくる前に一旦脱衣所から出てもらうのだ。

そう、そのためにはすぐにでも行動に移る必要が……

 

 

「それじゃ、私がいっちばーん!」

 

 

忘れていた。

行動力において、京助と同等かあるいはそれ以上のものをもつ少女が今日この地に来ていることを。

京助が湯船から出るよりも早く、脱衣所の扉が勢いよく開く。

 

 

「待ってよ穂乃果ちゃん!」

 

「おいてかないでよー」

 

 

走るように脱衣所を飛び出す穂乃果、それに釣られて、慌てて追いすがることりと花陽……

 

 

「って、やめろぉぉぉぉ!馬鹿野郎おおおッ!!」

 

 

必死に声を張り上げて存在をアピールするが、時すでに遅し。

叫ぶと同時にタオルを腰に巻きつける。その間わずか0.1秒。

 

 

「あ」

 

「へっ」

 

「ぴゃ……」

 

「ぎ、」

 

 

湯船から立ち上がった京助と、三人の少女達の目が合った。

お互いに凍りついたかの如く硬直し、誰もその場から動くことは出来なかった。動いたが最後、何が起こるか分からない。

不幸中の幸いだったのは、三人が三人ともきちんとバスタオルを体に巻いていたことだろう。

 

 

「ぎゃあああああああああ!!」

 

 

静寂を破ったのは、京助の叫び声だった。

少女たちが悲鳴を上げるよりも先に、青年の野太い声が静かだった山々に木霊する。

 

 

「ちょ、なんで京ちゃんがここにいるの!?」

 

「それはこっちのセリフじゃボケナス!脱衣所ちゃんと見やがれ!俺の服あっただろうが!!」

 

「つ、津田さん!服、服着て!」

 

「お、おう悪……じゃなくてだな!風呂でどうやって服着ろってんだよ!?いいからそこどけ!俺を脱衣所に通しやがれ!」

 

「わ、わわわわ!ごめんなさいぃぃぃ!」

 

「待て!バスタオル離すんじゃねぇ!てめッ」

 

 

阿鼻叫喚、とはこのことだった。

京助も含め、この場に居合わせた者達は混乱するばかりで、タオルを抑えたままぎゃーぎゃーと意味のない会話を叫ぶように続けるばかり。

 

 

「分かった!一回お前ら脱衣所戻れ!そんで着替えて外出てろ!その間に俺が着替えて外出るから!!」

 

 

しかしさすが年長者というべきか、修羅場をくぐってきたというべきか、混乱から立ち直るのが早かったのも京助だった。

くるりと身を翻して彼女達を見ないように背中を見せて、彼女たちに出て行くように促す。

 

 

「は、はい!」

 

 

背後で少女たちが忙しなく動き、脱衣所に引っ込んでいくのを音で感じながら、京助は再び湯船にそっと体を浸からせる。だが、先程まで感じていたような体の芯まで温まるような感覚はついぞ感じられなかった。

肝が冷えた。まだ心臓がばくばくしている。この年になってこんな漫画でよくあるような展開に遭遇するなどとは思ってもみなかった。

 

 

「……それにしたって、男女が逆だろうがよ」

 

 

またしてもお湯を手に掬って顔を洗う。

彼にしてみれば、こんなどっきり嬉しくも何ともない。

それは京助も男である。シチュエーション自体には思うところがないわけではない。だが、相手が見知った、しかも年下の未成年ともなれば話は別だ。小娘に興味はないし、一歩間違えば事案だ。

しかし……

先ほど、時間にして数秒とは言え見てしまった彼女たちの姿を思い出してしまう。バスタオルで体を隠してはいたものの、普段着よりも露出が多いのは事実。それにボディラインがはっきりとしていて、こう、なんというかグッとくるものが、

 

 

「ふざけんな!」

 

 

自分の横っ面を思い切りぶん殴って雑念を振り払う。

なんというか、それ以上は考えてはいけない気がした。年下、それも5つも6つも離れた相手など守備範囲外もいいところだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……すごいところ、出くわしちゃったね」

 

 

温泉……の外。

壁に寄りかかり、彼女には似合わない疲れた表情を浮かべて穂乃果が切り出した。

先ほどの風呂場での鉢合わせから、すでに5分程が経っているが、今彼女が口を開くまで三人の間に会話はなかった。それほどまでにショックな出来事だった。

幸いにしてお互いにタオルを巻いていたため大惨事だけはギリギリで回避出来た。しかし、それでもである。

 

 

「見られた……お兄さんに見られた……」

 

 

花陽に至っては真っ赤になってうつむき、ブツブツとそう繰り返すばかり。

 

 

「お父さん以外の男の人の裸、初めて見ちゃった」

 

 

さすがのことりも恥ずかしそうに頬を赤らめる。

 

 

「で、でも京ちゃん、凄い筋肉だったね!びっくりしちゃった」

 

 

話の流れを変えようとしたのか穂乃果が慌てて言うが、残念な事に話の流れは全く変わらない。花陽はさらに顔を赤らめ、うつむいてしまう。

むしろ状況はさらに悪化したかに見えた。

 

 

「うん。結構、スタイル良かったね。いつもの、ほら、あの格好だと分からないけど」

 

 

ことりがぎこちなく穂乃果に話を合わせる。確かに先ほど間近で見た京助は見慣れたものとは違って見えた。

ヨレヨレボロボロの普段着のおかげで今の今まで気がつかなかったが、ことりの言うとおり意外にも素は悪くない。

ほどよく引き締まった体、思いのほかがっちりした胸板。太く力強い両腕。そして、最後に彼女たちに見せた広い背中。

背中にどれだけ勇気付けられてきたことか。そう思うと、少し感慨深いものがあった。

 

 

「でも普段のあの格好はないよね……」

 

「うん。せめてもう少しオシャレにも気を使って欲しいかな……」

 

「余計なお世話だ三馬鹿共」

 

 

がらりと、扉が開いたかと思うと、これ以上ないくらいに不機嫌な顔をした京助がのっそりと姿を現した。

急いで着替えたのか、シャツの襟は折れ曲がり、髪はまだ濡れたままだ。

 

 

「あ、京ちゃん!もう、いるならいるって言ってよ!びっくりしたでしょ!?あ痛っ」

 

「驚いたのはこっちの方だ饅頭娘。脱衣所見れば人がいるくらい分かるだろうが」

 

 

いつにも増して強烈なデコピンを穂乃果にくれて、京助はそれ以上悪態をつくでもなくむっとした様子で黙り込む。

あんな事があった手前、どんな反応をしていいのか困っているのだった。

 

 

「それはそうだけど……あれ、京ちゃん顔赤くない?」

 

「ッ!湯上りだからな」

 

 

穂乃果に指摘され、京助は慌てた様子で顔を背ける。が、こんな時だけ目ざとく穂乃果が、

 

 

「あ、ちょっと戸惑った!」

 

「もしかして……照れてる、とか?」

 

 

穂乃果に私的され、ことりがそれにのっかる形で話に入ってくる。

無論、恥ずかしい思いをしたのはお互い様。どうやら、それをごまかす為に京助をからかおうという目論見らしい。

 

 

「ふーん……そうだよねー。京ちゃんも男の子だもんねー」

 

「や、やめろ。そんな目で見んな!ってかそもそも、俺はお前らみたいなガキに興味ねぇって何回言ったら分かるんだよ!?」

 

 

これほどまでに彼が焦り慌てふためくのは珍しい。場数を踏んできている彼でも、こんな状況は初めてのことで、反応に困るのだ。

加えて、心なしか潤んだ瞳でこちらを見ながら花陽が一言、

 

 

「お兄さん……えっち」

 

「な――!?」

 

 

ここ最近で一番衝撃的な一言だった。

穂乃果とことりとは違って、からかっている様子などが見られないのが余計に心を抉ってくる。

 

 

「う、うるせぇガキ共!てめぇらの貧相な体見ても何も感じねぇんだよ!バーカ、バーカ!!」

 

 

最早、年長者の吐くセリフではなかった。

 

 

「ひ、貧相!?ひどくない!?」

 

「うっせぇ、ばーか!」

 

「バカっていう方がバカなんだよ!京ちゃんのばーか!」

 

「だ……ダサい服!」

 

「って、南てめぇ、どさくさにまぎれて何言ってやがる!?こんのとさか頭!」

 

 

何というか、傍から見ていても非常にアレな現場だった。低レベルな口喧嘩、それも一人はいい大人なのだから余計に見苦しい。

花陽が見守る中、三人はそのまま罵詈雑言の応酬を重ね、

 

 

「ったく、てめぇらのおかげでゆっくり風呂にも入ってられやしねぇ!覚えてろガキ共!」

 

 

負けて踵を返したのは京助の方だった。

使い古された捨て台詞を口にするが早いか、振り返りもせず、ずんずんと歩いていく京助を見て穂乃果とことりは満足げに頷いた。

 

 

「さて、それじゃお風呂入ろっか!今のでちょっと汗かいちゃった」

 

「そうだね!きっと気持ち良いよ」

 

 

京助とのじゃれあいをひとしきり堪能して伸びを一つ。今度こそと言った風に、三人は建家の中に入っていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、扉をくぐって建屋に入る最中、ことりはふと後ろを振り返った。

 

 

「津田さん……傷だらけだった」

 

 

心配そうに呟く。

事実、彼女の言うとおり、先ほどの風呂で見えた京助の体は大小、新旧様々な傷だらけ。今までどれほどの苦労をし、どれだけの無茶をしてきたのか。青年があまり語ろうとはしないそれらの痕跡が、体には如実に刻み込められていた。

だからこそ、彼女は心配になってしまう。そんな無理を、彼はこれからも続けていくのかと。

彼女の見つめる視線の先に広がる闇の中、すでに京助の姿は溶け込んで見えなくなっていた。

 



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第四十三話 Black Night

私はまだ生きています


夜。一通りの騒動を終え、いい加減に静かになった頃。

静寂と夜に満たされた森の中、焚き火の灯りと細枝が爆ぜる音。

煌々と燃える火の前で丸太に腰掛ける男が一人。

両の掌を膝の上で組み合わせ、目は半分閉じて項垂れている。

しばらくの間そうしていたが、彼はふと目を開き、

 

「……いるんだろ?何でこそこそしてんだ?」

 

森の中の一角に鋭い視線を投げかけると、

 

「……寝てるのかと思った」

 

火に照らされて出来た木の陰から、真姫が顔を覗かせる。

 

「半分寝てた。こんな夜中に何のようだ?寝ぼけてきた……ってわけじゃなさそうだな」

 

「まぁね……それより津田さんは何してるの?」

 

「俺か?俺は……なかなか寝付けなくて難儀してたところだ」

 

「私もそんなとこ。隣、座ってもいい?」

 

そう言って、真姫は京助の返事も聞かず、横に腰掛けた。

ぱちぱちと火の音だけが響く。

座ってから、真姫は何も言わない。だから京助も何も尋ねなかった。

彼女がこうして訪ねてくるなんて、何か用事があっての事だろう。そう分かっているから、彼女が言いたくなるまで、いくらでも待つつもりだった。

 

「ねぇ」

 

「ん?」

 

「津田さんが音楽を始めたのっていつからなの?」

 

「随分唐突だな。俺の事に興味なんてないと思ってたぜ」

 

からかうように返すと、真姫は京助を軽く睨んで、

 

「良いから答えて」

 

「はいはい。そうだな、ありゃ確か13の頃だっけな?うん、中学に上がってすぐだった気がする」

 

「へぇ……てっきりもっと前からやってたんだと思ってた」

 

「あいにく、習い事やら何やらとは無縁でね。音楽の授業も嫌いだったから、基礎知識も何もなくてすげぇ苦労したよ」

 

基本的な技術も、何もかもが足りていなかった。

だから、人一倍努力して、それでも足りなくて。

そもそも才能が足りない事に気付くのは、割とすぐの事だった。

 

「それなのに、音楽を始めたの?きっかけは?」

 

「きっかけ……ねぇ?そうだな」

 

契機となった出来事は今でもきちんと覚えている。

だが、それを口に出すのはなんだか少し照れくさい。

 

「……友達が、ピアノ弾いてるのを見てな」

 

もの凄くしょうもないきっかけ。

人に語るような事ではない。それなのに

 

「それがまた格好良くてさ。思わず見入って、聞き入ってた」

 

かつての友人たちにすらも言った事のないそれを、彼は何の躊躇いもなく口にしていた。

 

「俺もあぁなりたいな、なんて思ったのが始まりだよ」

 

この先、誰にも言う事はないと思っていたそれを真姫に語って聞かせたのは、いい加減そろそろ誰かに聞いて欲しくなったからなのかもしれない。

一歩、また進みだす為に。

 

「じゃあなんでギターを始めたの?」

 

「そりゃあ……」

 

苦笑してしまう。

 

「俺は根っからの偏屈者だからさ。おんなじ事をするってのは気が乗らなかったってだけさ」

 

「ふーん?」

 

「そんで、いざ音楽を始めてようやく気づいた。あいつが格好良かったの、楽器弾いてるからじゃなくて……」

 

「元々が格好良かった?」

 

「ははは!そうそう!」

 

けらけらと、子供のように京助は笑い出す。

釣られて真姫もこらえきれずに笑い出してしまった。ここにきてやっと見せた笑顔だった。

 

「それじゃ、俺からも一つ聞いていいか?」

 

「何?」

 

「西木野ちゃんはいつからピアノ始めたんだ?」

 

答えはすぐ返ってこなかった。

ぱちぱちと、火の粉の爆ぜる音だけが響く。

京助はそれ以上問いかける事はしなかった。言いたくないことならば聞く気はないし、言いたくなったら言ってくれればそれでいい。

まだ、夜は長い。眠くなるまではいくらでも付き合ってやれる。

 

「お前も飲むか?」

 

焚き火にかけていたケトルから、マグカップに湯を注ぐ。

インスタントコーヒーの安っぽい香りが湯気と共に二人の間に満ちた。

 

「うん」

 

京助からコーヒーを受け取ると、そっと口をつける。

まだ熱いそれをほんの僅かだけ口にして、彼女は小さくため息をついた。

 

「私がピアノを始めたのは、幼稚園の頃だったかしら」

 

「うん?」

 

「何で始めたか、なんて実はあんまり覚えてない。ただ、習い事としてパ……お父さんに勧められただけだったのかもしれない」

 

「なるほどな」

 

京助は頷いて自分のコーヒーを口にする。

粉を入れすぎたのか、飲みなれたはずのインスタントコーヒーがいささか苦かった。

 

「あなたみたいに、何かきっかけがあったとかそういうわけじゃ、」

 

「やっぱ、そんなもんだよな」

 

「え?」

 

しみじみと、京助は一人頷いた。

 

「始まりなんて、そんなもんだ」

 

きょとんとする真姫の顔も見ず、京助は続ける。

 

「俺のきっかけだって、しょーもない事だった。始まりに理由なんて必要はないんだろうな」

 

「……そうかしら」

 

「そうだろうよ」

 

呟いて、京助はポケットからタバコを取り出した。

 

「難航してるみたいだな。曲作り」

 

「うん……まぁね」

 

焚き火から燃える薪を一本取り出すと、青年はその火を使ってタバコに火を点けた。

 

「三年生のために、とか考えてるのか」

 

「え?」

 

「その反応は図星みたいだな」

 

京助は薄く、呆れたような笑みを顔に浮かべた。

 

「人ってのは案外器用に出来てないんだ。一つ所を見つめると、それ以外が見えなくなってくる。そんで変なところに迷い込んだが最期、抜け出せなくて堂々巡りの台無しさ。そうなっちまったら――」

 

「そうなったら?」

 

紫煙を吐き出して、京助はその先を続ける。

その横顔を、真姫は真剣な顔で見つめていた。

 

「いっぺん深呼吸して周りを見渡してみる事さ。案外道はすぐそばにあったりするし、壁だと思ってたもんがただの障子紙だった、なんて事もある」

 

手元のタバコから上がる煙を見つめながら、

 

「何が言いたいかって言うとだが……あんまり気負いすぎるなよ。きっと、矢澤ちゃんも、絢瀬ちゃんも、東條ちゃんも、きっと、そんなのは望んでないから」

 

京助は真姫の方に向き直る。

二人の目があった。

京助はいつになく真剣で、優しい目をしていた。

 

「ふふ……」

 

「何だ、急に笑い出したりして」

 

「さっき、にこちゃんにも言われたの。同じような事をね」

 

「それは……」

 

困ったような表情を浮かべて、京助は口ごもった。

その様子を真姫は見逃さない。

 

「喧嘩したの?にこちゃんと」

 

「は?俺が?まさか、」

 

「嘘。二人共、なんだか態度が余所余所しい。前まで仲良さそうだったじゃない」

 

気づいているのは真姫だけではない。

メンバーの全員が二人の間に漂う妙な違和感に気がついていた。

それでも誰も表立って指摘しないのは、その問題がひどく彼らにとって繊細なものだとなんとはなしに気がついているからなのだろう。

知らぬは当人達のみの事だった。

 

「そう見えるか……」

 

「うん。何が原因なのかは知らないけど、早く仲直りしなさいよ?」

 

「仲直り、ったってな。どうすれば良いのかよく分からないんだ」

 

元より人付き合いは余り得意な方ではないのに、こうなってしまっては最早京助にはどうすれば良いのか分からなかった。

 

「そんなの簡単でしょ?自分が悪いならちゃんと謝って許してもらえば良いし、にこちゃんが悪いなら、ちゃんと説明して理解してもらえばいいじゃない」

 

「西木野ちゃんに人間関係の事で怒られるとはな」

 

「茶化さないで」

 

真姫に怒られて、京助は肩をすくめてみせた。

そして吸わないうちに小さくなったタバコを咥えると、

 

「謝ってすむような事でもないんだ……いや、俺が悪いんだけどな。でもな、」

 

「煮え切らないわね。何があったのか教えてみなさいよ。相談に乗ってあげる」

 

「え?」

 

思わずタバコを取り落として、目を瞬かせた。

 

「相談に乗ってあげるっていってるの。二人がこんなんじゃ、見てて何だか調子が出ないのよ。……教えなさいよ、京助だってもう、私たちのメンバーみたいなもんでしょ」

 

「お前……」

 

ぱちぱちと、何度も瞬きを繰り返す。

まさか、彼女からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。目の前で起きていることなのに信じられず、頬をつまんでみると鋭い痛みがある。

どうやら夢ではなさそうだった。

 

「……立場が逆だろうが」

 

何とも自分が情けなかった。

本来ならば彼がこの地に残ったのは彼女たちの相談に乗るためだ。

彼女達の手助けをしようと、そう決めたばかりだというのに、こうして逆に真姫に心配をされてしまっている。

 

「そう、だな……」

 

この場から消え去ってしまいたい位、自分の事が嫌になる。

だが、それでも京助は重い口を無理に開く。

今、まさに彼女に言ったばかりの事が自分に跳ね返ってきていた。袋小路に迷い込んだ考えを、今の自分ではどうする事もできずにいる。

ならば、うだうだと一人考え続けて周りに心配をかけ続けるより、この場で彼女に話だけでも聞いてもらう方が良い。

 

「どこから、話すかな……」

 

そう、前おいて京助はぽつり、ぽつりと事のあらましを語り始める。

大人のメンツなど、そこにはもう残ってはいなかった。僅かなプライドさえも捨てて語る、京助のみっともない話を、しかし真姫は嘲ることも呆れる事もなく、ただ真剣に聞いていた。

 




更新が滞おってしまってもうしわけありません。
今回は短めですが、今後も地道に続けていきます……


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第四十四話 HELP!

復活


「そんな事があったんだ」

 

「あぁ……」

 

 

話を聴き終えた時、しみじみと真姫は頷いてみせた。

 

 

「喧嘩ってわけじゃないだろ?これはどっちかって言うと、俺が」

 

「喧嘩ではないわね。でも、あなたが一方的に悪い訳でもない」

 

 

俺が悪いと、そう言おうとした京助を真姫は遮る。

 

 

「どっちが良いとか悪いとかの話じゃない」

 

「どっちも悪くない、ってか?そんな灰色の答え、俺は望んじゃいない」

 

 

輝きを求めて失敗し、さりとて泥の中に埋もる事さえ出来なかった。

京助は自分の生きてきた道をそう思っている。

だが、せめて。

せめて、彼女たちに対してだけは、どっちつかずの灰色でいたくなかった。

けれど、

 

 

「白を黒、黒を白なんて言うくらいなら灰色のが万倍マシよ。何で、全部自分が悪い事にしようとするの?」

 

 

彼の心の内を見透かしたかのように真姫はばっさりと切って捨てた。

 

 

「何でも何も、」

 

「何でにこちゃんや私たちが無条件でよくて、あなたが悪者なの?」

 

 

言い返そうとして、言葉が続かなかった。

全部人の所為にしてしまえば気が楽なのと同じ。

全部自分が悪い事にしてしまえば、何も考えなくて良いのだから。

 

 

「俺は、大人だから」

 

 

かろうじて、振り絞れた答えはそれだった。

言っておいて、自分でもみじめで情けなくなるような答えだった。

 

 

「呆れた。まるっきり子供の答えじゃない」

 

「小娘に子供呼ばわりされるとは、俺も焼きが回ったかね」

 

 

足元に落ちた煙草を拾いなおして、自嘲気味に笑う。

焚火の中に放り込むと、もう火の消えたそれは再び燃え上がって、やがて燃え尽きた。

 

 

「あなたが夢を、その、諦めた事はみんな何となく気づいてた。何か事情があることくらいは」

 

「そりゃまぁそうだろな」

 

 

苦笑を一つ。

京助の言動を見れば、今の仕事が彼の本当にやりたかった事ではないと、子供だって分かる。

 

 

「にこちゃんだって気づいてたはずだわ。なのに、」

 

「それは、あの子の優しさだろう」

 

 

真姫の言葉を遮った。

きっと……いや、間違いなく彼女だって気づいていたはずだ。それなのに気付かぬ振りを続けてくれていたのは、彼女が京助の事を考えてくれていたからに他ならない。

彼女は信じてくれていた。それを裏切ったのは自分だ。

 

 

「違うわよ」

 

 

再び自責の念に苛まれる京助だったが、その思いを、真姫が一言でばっさり切り捨てた。

 

 

京助(・・)

 

 

真姫が京助の目を真っすぐに見て、彼の名を呼ぶ。

普段ならバツが悪くなって目を逸らすはずなのに、今日、今回だけはそれが出来なかった。

いつに増しても真剣な彼女の面持ちに、気おされてしまう。

 

 

「あなたもにこちゃんも、二人してどうしょうもない人ね。どっちもどっちで、相手の事を誤解してる。……いいえ、神聖視?お互いに夢を見すぎなのよ」

 

「神聖視って」

 

「あなたとにこちゃんがどんな関係なのかは知らないけど」

 

 

そう前置いて、

 

 

「にこちゃんは、まだ夢を追い続けているあなたを信じたかったから信じた。あなたは、そんなにこちゃんを無条件に良い子だって信じた。それじゃどこまで行っても平行線よね」

 

「それは……」

 

 

言葉に、詰まる。

彼女が今言った事はまさしくその通りだった。

先輩、後輩。

にこと京助はそんな関係で、数年前からそれなりに付き合いがあって、でもよくよく考えてみれば二人は互いの事をそれ以上に詳しく知らない。

矢澤にこと言う少女は、アイドルが大好きで、アイドルにあこがれて、どこまでも直向きで、誰よりも……

それしか、知らない。

きっと、彼女もそうだ。

彼女が知る津田京助という男は、自分が思っている自分とは違うのだ。

それにどうして気が付くことが出来なかった?

 

 

「そういう事、なのかねぇ……それにしても西木野ちゃんや。今日はえらく饒舌だが、どうしたよ?」

 

揶揄うような調子で、今度は京助が真姫に問いかけた。

 

 

「私は真面目な話をしてるんだけど」

 

「ははっ」

 

 

京助は笑いながら、その場にごろりと横になり、目を閉じた。

態度こそ余裕ではあるが、彼の心中はとてもではないが穏やかではなかった。

色々な考えが、頭の中を、心の中を、ぐるぐるとかき混ぜる。

今まで自分は何をしてきたのか。何もしてこなかった。

彼女の事を知ろうともしなかった。

自分の事を知ってもらおうともしなかった。

彼女に幻想を押し付けた。

彼女に押し付けられた幻想を正そうとしなかった。

一度だってちゃんと、自分がどうしてこんなところにいるのか、彼女たちに話したことがあっただろうか?

年長者としての見栄がそんな事をさせたのか?

なら、そんな役に立たない見栄なんて、自分を傷つけるだけの見栄なんて。ましてや、女の子を傷つけたままにする見栄なんて。

そんなもの、刻んでカラスの餌にでもした方が万倍役に立つ。

 

 

「いっぺん、矢澤ちゃんと話し会ってみるよ」

 

 

自分の腕を枕に、そうはっきりと言う。

それは真姫に対する答えであり、そして、自分自身に対する一種の宣言でもあった。

真姫は何も言い返さなかった。

ただただ、静まり返ってしまった中で、火の爆ぜる音だけが心地よく響いていた。

 

 

「……そ。あんたがそうしたいって思ったんなら、そうすれば良いんじゃない」

 

 

どれほどの時間がたった頃だろうか。

真姫はそう言って立ち上がる。

ことん、と。

軽い音が聞こえた。真姫がコップを丸太の上に置いた音だった。

 

 

「コーヒー、ごちそうさま。私はテントに戻るけど……」

 

「俺はこのまま寝る」

 

 

ひらひらと手をふる京助に、真姫はちょっとだけ考えてから、小さく、控えめに手を振って見せた。

 

 

「おやすみ、京助」

 

「おやすみ、真姫(・・)ちゃん。ありがとう、助かった……」

 

 

彼女の気配が遠ざかり、再び静かな夜がやってくる。

目を開いた。

見上げる空には星が瞬いている。都会では見えなかった、気づけなかった天上の光。

そこに向けて手を伸ばしてみる。

決してこの手は届かない事は知っている。

だが、それでも……

 

この手は、今度こそ何かを掴めるような、そんな気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれ、京ちゃん?」

 

「おう、おはよう」

 

 

翌朝。

まだ日も上りきらない頃。

匂いにつられてか、穂乃果が別荘のキッチンに顔を出した。

 

 

「早いな。良く寝れなかったか?」

 

「ううん、もうぐっすり……って、何してるの?」

 

「寝ぼけてんのか?見りゃ分かるだろう」

 

 

フライパンを振りながら、京助が穂乃果の方に振り返る。

彼女の後ろには、花陽と絵里。続いてにこと希、凛が顔を出す。

 

 

「少し待ってろ」

 

 

丁度良く、炊飯器の炊き上がりのアラームが鳴り響く。

ふわりと香る出汁の匂いはみそ汁だろう。

今しがた京助が振るっていたフライパンの中には焦げ目の綺麗な卵焼きがのっている。

今朝の朝食は京助が腕によりをかけているらしい。

 

 

「わぁ!美味しそう……じゃなかった!あの、ことりちゃん達見なかった?」

 

「……おっと」

 

 

京助は人差し指を自分の唇に当てて、

 

 

「南ちゃんに園田ちゃん、真姫ちゃんは向こうで寝てる。明け方まで頑張ってたみたいだな」

 

 

卵焼き切りながら、小さな声で彼は言う。

その横顔には安心したような微笑みが見て取れた。

 

 

「今は、ゆっくり寝させてやれよ。ほれ」

 

 

淹れたてのコーヒーを彼女たちに手渡す。

それはどれも、ミルクや砂糖の量が彼女達一人一人の好みに合わせられたものだった。

 

 

「そうね」

 

 

京助の言葉に絵里が頷いた。

他のメンバーも顔を見合わせて微笑み合う。

 

 

「さて、と。飲み終わったらでいいから、みんな少し手伝ってもらってもいいか?もう何品か作りたいんだが」

 

「はい!お兄さん」

 

「凛も凛も!」

 

「そんなに料理得意じゃないんやけど、それでもええんなら」

 

「まったく。で、何作るの?」

 

 

いの一番に花陽が手を挙げるとそれに続いて、他のメンバーも続々と彼女に倣う。

今日の朝食は、豪華なものになりそうだった。

 



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第四十五話 Mephisto-Walzer

本日も快晴、青く澄み渡った空には薄い雲が浮かび、ゆっくりと流れていく。

天辺に上った太陽を見上げ、眩しそうに目を細めると、京助は口元を軽く吊り上げた。

 

 

「さて、と。今日も今日とてお兄さんは仕事といきますかね、っと」

 

 

などと独り言ちて、搬入用の軽ワゴンから商品の詰まったトレーを下ろしていく。

μ’sの合宿から数日、入れ替わり立ち代わり、あるいは全員揃って来訪するメンバーからの報告によると、曲も衣装も全て順調に進んでいるらしい。

あれほど悩んでいたのが嘘のようだ。

 

 

「まったく、あいつらは……」

 

 

独り言を続ける京助だったが、その口ぶりとは逆に、表情はいつにも増して明るい。

最近、彼女たちが上手くやっていると聞くと、我が事のように嬉しいのだった。……否、もっと正確に言うならば、それは最近の事に限らない。

彼女たちが立ち上がったその時からである。

当初は照れくさくて、すでに夢破れた自分がそんな風に思う事が醜く思えて、認める事は出来なかったのだ。

だが、もう、京助は違うのだ。

何もかも認め、受け入れる事はまだ出来ていない。けれども、その為の決意は出来た。

彼女たちの為に一歩、足を踏み出す覚悟は出来ている。

と、

 

『イェーイ!!』

 

「づァ!?」

 

 

考え事をしながら校舎に入った瞬間、京助は耳を抑えてその場にうずくまってしまった。

それがスピーカーから聞こえてきた爆音の所為だと気づくのは次の言葉が続いてからだった。

 

『みなさん、μ’sをよろしく!!』

 

「ッ……饅頭、娘め……ッ!!

 

 

耳を抑えながら、よろよろと立ち上がる。

今の放送は、どうやら彼の良く知る彼女によるものらしかった。

折角良かった気分が台無しだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

放課後。

カフェ&ベーカリーTSUDAは今日も彼女たちの会合場所になっていた。

 

 

「で、どういう事だ?」

 

 

コーヒーと菓子を配膳しながら、仏頂面の京助はメンバーに尋ねる。

今日のお茶うけはドライフルーツとクルミのたっぷり入ったパウンドケーキ。傍には真っ白なホイップクリームが添えられている。

金縁の小皿も相まって、上品で小洒落た一品であった。

 

 

「何が?」

 

 

絵里が小首を傾げると、京助は不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、

 

 

「昼間の放送テロだ。おかげでまだ耳がおかしいし、気分も悪いんだが」

 

「あー……」

 

 

片耳を叩きながら京助は顔をさらにしかめた。

 

 

「あの、もうすぐラブライブ予選だから、校内のみんなに宣伝しようと思ったんだけど……」

 

「なるほど。それで穂乃果がまたやらかした、と」

 

 

ことりが苦笑交じりに言うと、京助は深いため息をつき、しかし彼ははもうそれ以上深く追及はしなかった。

本格的に気分がよろしくないのか、あるいはもう彼女たちの暴挙には慣れたのか。

無言のまま、彼は配膳を終えると、そのままカウンターの向こうに引っ込んで、新聞を広げてしまう。

残された少女たちは菓子をつつきながら、再び相談を開始した。

 

 

「ライブの場所、どうしよう?」

 

「学校の屋上も多目的ホールも、使えるところは全部使っちゃったよね……」

 

「そのほかで、私たちが緊張せずにいられる場所となると……」

 

 

海未の発言を最後に、一同が黙り込む。

思いつく限りの場所はもう配信に使ってしまい、残ってはいなかった。

 

 

「こことか?」

 

「おい、無茶言うな」

 

希が冗談交じりに言うと、新聞から目を離した京助が反論する。

 

 

「何だ、話聞いてりゃ。ライブやる場所探してるのか?」

 

「はい。ラブライブ予選は公式の会場以外でも、自分たちで場所を選べるんです」

 

 

花陽が答えると、続いてにこが、

 

 

「全国配信されるから、私たちが画面の中で目立たなきゃならないの。だからインパクトのある場所が欲しいわね」

 

「なるほどな……」

 

 

頷いて、京助は煙草をポケットから取り出し、すぐにまたポケットの中にしまいなおす。

 

 

「この街のどっか……」

 

「という訳にもいかないのよ」

 

 

絵里が困ったように京助の言葉を否定した。

 

 

「この街は、A-RISEのお膝元やろ? 下手なことは避けた方がえぇやん」

 

「それで喧嘩売ってるように思われるのも、ね」

 

「あぁ、なるほど」

 

 

説明を受けて、京助は合点がいったと首を縦に振った。

 

 

「京助、どこか良いところ閃かない?」

 

「そう言われてもな……」

 

 

真姫に尋ねられるが、彼女たちが考えて思いつかないような事をそんなにすぐに考え付くはずがなかった。

新聞を下ろし、腕を組んで、

 

 

「あ、」

 

「京ちゃん、何か思いついたの?」

 

 

しかし京助は再び眉間に皺を寄せて唸りだしてしまう。

確かに考えがなくはない。だが、実現可能かと言われたらかなり無理がある。

やってみる価値はあるかもしれないが……

 

 

「いや、何でもない。忘れてくれ」

 

「そんな事言われたら余計気になるにゃ!けちけちしないで教えてよ、おじさん!」

 

「おいこら猫娘。次、おじさんって言ったらお前の飲み物にタバスコぶち込むぞ」

 

 

いつも通りの掛け合いをしながらも、京助は頭の中で密かに考えを巡らせていた。

 

 

「さて、それじゃ場所探し、続けましょうか」

 

 

にこがコーヒーを飲み干して立ち上がる。

ふと、彼女と京助の目が合った。

だが次の瞬間にはにこが目をそらしてしまう。京助もつられてあからさまに目をそらしてしまい、すぐに後悔に苛まれた。

人知れず拳を小さく握りしめる。ついこの間、真姫に相談に乗ってもらい、きちんと話し合うと言ったばかりなのに。

まだ、二人の間の溝は埋まってはいない。

 

「そうですね。津田さん、お勘定を」

 

「……あいよ」

 

 

 

 

ドアベルの音が響いて、店内に静寂が戻ってくる。

客の居なくなった店内でコーヒーを一口含んで、煙草に火を点けた。

 

 

「けほッ……」

 

 

まだ風邪は治らないらしい。

何でもないと、さっきはそう言ったが、確かに面白い考えは浮かんだ。だが、出来るかどうかが分からない以上、下手に口にして彼女たちにいらない希望を持たせるのも忍びないと考えて、黙ったのだ。

紫煙を吐き出して、先ほど頭に浮かんできた考えをまとめていく。

穂むらほどではないにせよ、京助の実家であるこの店の歴史はそれなりにある。そのおかげで京助自身はともかく、店の名前のおかげで秋葉原の街の商工会や寄り合いにはそれなりに顔が利く。

その伝手を頼ればあるいは……

 

 

「まぁ、さすがに準備は間に合わねぇよな」

 

 

足りない頭で考えて、彼は呟く。

我ながら、あまりにも突拍子もない考えだ。

だが、彼好みのやり方だし、それはきっとμ’sにとっても悪い話ではないだろう。

だが、本当にやるとしたら、事前準備はとてもじゃないが大掛かりなものになるだろう。色々な筋に協力や根回しをする必要もあるだろう。

今回は勿論のこと、時間がいくらあっても足りない。

きっと、これが実現する事はないのだろう。

 

 

「秋葉原の大通りで、ライブなんて、な」

 

 

コーヒーを飲み干して、マグカップ片手に立ち上がる。

そろそろ次の客が入ってきてもおかしくない頃だ。

そんな風に考えていた、丁度その時だった。

からん、と。

来客を告げるドアベルの音が響き渡る。

 

 

「はい、いらっしゃいませー」

 

 

営業用の笑みを浮かべて振り返った彼の目に映ったのは、二人の少女。

逆光の所為で、一瞬、μ’sの誰かが戻ってきたのかと思った。

誰に、という訳ではない。だが、二人はどこか、京助の良く知る9人の少女たちによく似ていた。

だが、違うと気が付くのはすぐだ。

純白の制服に身を包む彼女達の立ち居姿。

自信とプライド、それから彼女たちのような年頃の少女には似合わないもの、μ’sにはないものを身にまとっているようで、京助は思わず怯んでしまう。

 

 

「こんにちは」

 

 

にっこりと。

一人が京助に優しく微笑みかけた。

思わず見とれてしまいそうな笑みだった。

 

 

「突然すまない。津田、京助さんであっているか?」

 

 

もう一人の少女が凛とした声で尋ねてきた。

別に強い調子で言ったわけでもないのに、彼女の言葉には有無を言わせぬ迫力のようなものがあった。

二人とも、京助が思わず息を飲んでしまう程に美しい少女だった。

 

 

「そんなに身構えなくてもいいのよ?」

 

 

最初の少女が困ったように微笑みかける。

京助は知らず知らずのうちに腰を落として身構えていたのだった。

信じられない事に、彼はいくつも年の離れた彼女たちに圧倒されていたのだ。

 

 

「少し、付き合ってほしいんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼女たちが通されたのは、洒落たレストランの一室のような場所だった。

よく掃除と手入れが行き届いているのか、どこもかしこもピカピカに輝いて見えて、チリ一つ見当たらない。

ガラスの向こうには秋葉原の街並みが一望でき、壁には大型の液晶画面までがはめ込まれている。

μ’sの皆がよく通う、京助のパン屋兼喫茶店とは比べ物にならないような施設であるが、真に驚くべきはそれが、学校のカフェスペースであるという事だった。

 

 

「一度、挨拶したいと思っていたの」

 

 

そう言って、彼女は微笑む。

それは力強さと好奇心に満ち溢れた笑みだった。

 

 

「高坂、穂乃果さん」

 

 

心の底から嬉しそうに、歌うように彼女は穂乃果の名を呼んだ。

綺羅 ツバサ。

それが彼女の名である。

そして、彼女こそ、前回のラブライブにて優勝したスクールアイドル、即ち日本一のスクールアイドル、A-RISEを率いるリーダーその人だった。

 

 

「え、私たちの事を、」

 

 

きょとんとする穂乃果だったが、ツバサは当たり前の事のように、

 

 

「勿論。だって、私達、あなたたちの事をずっと注目していたのだから」

 

 

驚きのあまりに言葉を失ったμ’sの9人を見ながら、ツバサの横に並んだ二人、優木あんじゅと統堂英玲奈が先を続ける。

 

 

「前のラブライブでも、あなたたちが一番のライバルになるんじゃないかって思っていたのよ?」

 

「そ、そんな」

 

照れて頬を染めながら、絵里が何かを言おうとすると、彼女たちはそれを遮って、

 

「絢瀬絵里。ロシアでは名のあるバレーダンサーだったと。そして西木野真姫の作曲才能は……」

 

 

次々と、μ’sの一人一人の情報を読み上げるように諳んじていく。

彼女たちが言うように、ライバルのように思っていたというのはお世辞でも何でもなく、本心からの言葉のようだった。

 

 

「そして……」

 

一通り言い終わった後で、ツバサが意味深に言葉を切って、目線を一番端の席に向けた。

釣られたように全員の視線が、さっきから不自然なまでに黙りこくったままの人物の元に注がれた。

 

 

「……何で、京ちゃんがいるの?」

 

「知るか」

 

 

穂乃果に不思議そうな目を向けられて、京助は吐き捨てるようにそう答えた。

音ノ木坂のメンバーと同じくらいに、いや、むしろそれ以上に困り切っているのは京助の方だった。

不機嫌やらなにやら、様々な感情の入り混じった良く分からない表情のまま、京助は憮然とした様子で腕を組む。彼自身、何故自分がこんなところにいるのか分からず、しかし逆に状況が分からな過ぎて何も出来ずにいるのだった。

そんな彼の心境を知ってか知らずか、ツバサは話を続ける。

 

 

「津田京助。いくつものコンテストで好成績をおさめ、メジャーデビュー秒読みとまで言われた伝説的な高校生バンドの元ギター担当。そして現在、μ’sのマネージャー」

 

「誰がマネージャーだ」

 

 

むっとした様子で京助が反論すると、ツバサが目を見開いた。その答えは予想していなかったとでも言うような反応で、しかし気を取り直し、京助に何事かを言おうとするが、

 

 

「え、京ちゃん、マネージャーだったの?」

 

「マネジメント……なんてしてもらった覚えがないのですが」

 

「あー、うん。色々助けてもらってはいるよね?」

 

「ん?んー……でもそうするとおじさんと凛達の関係ってなんだっけ?」

 

「……そういえば、京助って元々は購買のおじさんだったわよね?」

 

「で、でも!お兄さんはなくてもならない存在だよ!」

 

「それは勿論よ!だけど、改めて言われると確かに津田さんと私たちの関係……」

 

「いや、津田くんはうちらの友達やろ?なぁ、津田くん?」

 

 

不機嫌丸出しの京助と、そのすぐ横で首を傾げながら話し合い始めてしまうμ’sの面々を見て、今までの自信に満ち溢れた態度はどこに行ったのか、恐る恐る、

 

 

「え……違うの?」

 

「人違い、か?」

 

 

な十人の反応を見て不安になったのか、A-RISEの三人も困惑したように顔を見合わせる。

場は混沌を極めていた。

 

 

「いや、あってるよ」

 

 

こつり、と。

固い靴音が聞こえた。

カフェテリアの中にいるのは彼女達だけではなく、他の生徒も数多くいて、静まり返っているとは言い難い。

その中に合って、その音はやけに耳に響いた。

 

 

「てめぇは!」

 

 

彼らの席に一直線に近づいてくる人物を視界に入れて、京助は思わず座席から跳び上がるように立ち上がった。

固い足音がどんどん近づいてくる。

 

 

「津田京助、21歳。努力、根性、気合だけが取り柄の僕らの元リーダーにしてギタリスト。当時の牽引力は今の穂乃果ちゃんと同じくらいだったんじゃないかな?」

 

 

靴音が止まった。

同時に、A-RISEとμ’s、その全員が会話をやめて彼を見つめる。

それは一人の、長身の青年だった。

線が細く、柔和な顔立ちは人並み以上に整っている。

服装こそ白いシャツと黒のスラックスと飾り気はないが、清潔感のあるその恰好がよく似合っていた。

性別こそ違うがA-RISEのメンバーの横にいても違和感がないくらいに容姿と立ち居振る舞いが美しい青年だった

その顔には微笑みが浮かんでいる。

どこまでも優しい微笑みだった。どこまでも酷薄な笑みだった。

 

 

悪魔(メフィストフェレス)

 

 

彼こそ、かつて京助がそう呼んだ男だった。

 

 

「こんにちは、μ’sのみなさん。初めまして……じゃない人もいるかな?」

 

 

冗談めかして軽く一礼。

その姿さえも様になっていた。

 

 

「あなた! あの時の!」

 

 

にこが思わず立ち上がって指さした。

彼は、先日、にこが神田明神で出会い、そして津田京助の挫折を教えた青年だった。

青年は嬉しそうに笑みを深くすると

 

 

「やぁ、この間はどうも。矢澤にこちゃん」

 

「おい」

 

 

まるで、にこと青年の間に割り込むように、京助が一歩身を乗り出した。

 

 

「久しぶりだね、京助」

 

「……久しぶりだな。伴瀬、」

 

 

鋭い音が響いた。

続いて鈍く重い音。

何が起きたのか、分からなかった。

思いきり頬をひっぱたかれて、その場に倒れたのだと、そう気づいたのは痛みが遅れてやってきてからの事だった。

 

 

「貴仁。伴瀬 貴仁。A-RISEのマネージャーと作曲を担当してます。今後ともよろしくね」

 

 

京助を殴り飛ばした直後だというのに、表情一つ変えず、優しい微笑みを浮かべたままに彼は名乗りを上げた。

 

 

「よ、よろしくおねがいします……じゃなかった!京ちゃん!」

 

 

伴瀬と名乗った青年が握手を求めるべく差し出した手を取りかけて、穂乃果ははっとした様子で京助の名を呼ぶ。

あまりに自然な彼の立ち居振る舞いに、飲まれかけていた。

 

 

「いきなり何しやがる!」

 

 

怒りに目を吊りあげて、京助は起き上がると伴瀬の胸元に手を伸ばした。

胸倉をつかもうとするその手をやんわりと払いのけて、

 

 

「良いの? 君の大好きなμ’sの前で暴力なんか振るって?」

 

「っ!」

 

 

伴瀬がささやく。それだけで、京助の手から一瞬力が抜けた。

その瞬間を見計らったかのように、伴瀬が京助の手をとり、そのまま握りしめる。

 

 

「本当に久しぶり。元気にしてた?」

 

 

傍から見れば、仲の良い友人が再開の握手を交わすようである。

だが、京助は手を取られたままその場に膝をついてしまった。

 

 

「て、めっ……」

 

 

ただ手を握られているだけだというのに、いかなる術理が働いているのか、京助はその場から立ち上がる事はおろか身動き一つとる事は出来なかった。

彼の額にはうっすらと脂汗が滲みんでいる。完全に極められ、無力化されてしまっていた。

 

 

「あれ、どうしたの京助。ほら、しっかりして。一旦、席に戻ってもらえると嬉しいんだけど」

 

 

わざとらしく言って、伴瀬が放す。

だが、解放されたというのに京助はやり返す事はおろか、普段の口調でまくしたてる事もしない。

否、出来ないのだ。

それだけの理由が、彼らの間にはある。

 

 

「さてと。それじゃ、僕らの感動の再会はまた後にするとして……ツバサちゃん?」

 

 

京助が椅子に座り直すのを確認すると、伴瀬はA-RISEの三人のすぐ横の席に腰を下ろし、ツバサに話を続けるようにと促した。

 

 

「こほん。それじゃ気を取り直して……何故、私たちがあなたたちの事をそんなに知っているのか不思議、という顔をしているわね?」

 

「え、えぇ……」

 

 

絵里が頷く。

 

 

「これほどまでに素晴らしい資質をもったメンバーをそろえたチームなんて、そうそうあるものじゃないから」

 

「だから注目も応援してたの」

 

 

長い栗色の毛をいじりながら、あんじゅがツバサの言葉を引き継ぐ。

 

 

「待ってください。あなたたちは優勝者で」

 

「それは過去の話。私たちは、今この時、一番お客さんに喜んでもらえる存在でありたい。それだけだ」

 

 

今度は英玲奈が先を続ける。

それを聞き、μ’sの面々も、そして京助も黙り込んでしまう。

その台詞には、単純な字面以上の迫力がこもっていて、彼女が、彼女たちが言っていることが心からのものであると分かってしまった。

すさまじいまでのプロ意識。気高く、ストイックな勝利への渇望。

それはまさに王者の風格に他ならない。

 

 

「つまり、何が言いたい……?」

 

 

からからに乾いた喉で、それでもどうにか京助が絞り出すように問いかける。

京助でさえも、彼女たちを前にして気圧されていた。

 

 

「μ’sのみなさん。それから津田京助さん。お互いに頑張りましょう。私たちは負けません」

 

 

不敵な表情で、ツバサが穂乃果たちを見まわしてそう宣言する。

それは明らかな、好敵手への宣戦布告だった。

 

 

「言いたい事は、それだけ。僕と、A-RISEは絶対に勝つ。もう一度、優勝をつかみ取る為に」

 

 

伴瀬もツバサに続いてそう宣言する。

彼の目は、京助を真っすぐにとらえていた。

 

 

「上等だ……」

 

「京助」

 

 

京助が言いかけるのをやんわりと制して、伴瀬は静かに笑いかけた。

 

 

「君とは付き合い長いけど、君が僕に……そうだね。何の分野でもいいけど勝てた事、あったっけ?」

 

「……ッ」

 

 

京助がたちまち言葉に詰まってしまう。

伴瀬 貴仁と津田 京助。二人の付き合いは長く、そして深い。だからこそ京助は彼が言わんとしている事を瞬時に理解してしまう。

すなわち、京助では伴瀬には勝てないと。

それは怒るべきところだった。憤るべきところだった。

それでもと、言い返すべきはずのところだった。

だが、京助は何も口にすることが出来なかった。

長きにわたる挫折の繰り返しの中で傷つき錆び付いた心には、情けないほどん敗北が染みついていた。

 

 

「A-RISEのみなさん!」

 

 

歯を食いしばり、苦悶の表情を浮かべる京助。

そのすぐ横で穂乃果が立ち上がった。

続いて、ことりが、海未が。花陽が、凛が、真姫が。絵里、希、そしてにこが立ち上がる。

座ったまま驚きの表情でそれを見上げるしかない京助を、ちらりと、にこが見やって、しかしすぐに視線をA-RISEのメンバーの方に向ける。その視線の意味が、すぐには分からなかった。

 

 

「私達と京ちゃんも、絶対に負けません」

 

 

静かに、穂乃果はそう言い切る。

彼女たちの眼差しは真っすぐで、真剣そのものだった。

短い、たった一言であるというのに、ツバサが、あんじゅが、英玲奈が息を飲む。

伴瀬でさえも目を丸くして成り行きを見守るばかりだった。

 

 

「……ふふっ」

 

 

最初に耐え切れなくなったのはツバサだった。

これまでと違い、年相応の少女のような朗らかに笑いだす。すると、一拍置いて、伴瀬も初めて声に出して笑い出した。

 

 

「はははっ! 穂乃果ちゃん、君、本当に面白いね。うちの元リーダーにも見習ってもらいたい」

 

心の底から楽しそうに笑う彼の目がもう一度京助を捉えた。

それだけで京助は背筋を冷たいものが走るのを感じた。

分かってしまったのだ。

彼が笑っているのは穂乃果の発言が面白かったからだけではないと。

京助の体たらくを見て、ほくそ笑んでいるのだと。

言い返す事も出来ず黙り込み、挙句の果てはいくつも年の離れた少女に助けられてしまった彼を。

それはまさに悪魔の笑みだった。

拳を、ただただ強く握りしめる。それしか出来る事がなかった。

先ほどの、にこの視線の意味が分かって、胸の奥が痛んだ。

彼女の目は、何故言い返さないのかと、そう問いかけていた。

みじめだった。消えてなくなってしまいたかった。

 

 

「うん。ツバサちゃん、あの話、どうだろう?」

 

 

そんな京助に満足そうな一瞥を与えると、それっきり興味を失ったのか、二度と彼に目を向ける事無く話を進めていく。

 

 

「そうね。やっぱり穂乃果さん達は私たちが見込んだ通り。……ねぇ、次のライブだけど場所は決まった?」

 

「え?いえ、まだ」

 

「そう。なら、うちの学校でやらない? 屋上でライブステージを作る予定なんだけど、よかったら是非」

 

 

不意に別の話題を振られてきょとんとする穂乃果にツバサはそう提案した。

逡巡は一瞬の事。

穂乃果の答えは決まり切っていた。

 



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第四十六話 Der Tanz in der Dorfschenke

伴瀬 貴仁。年齢、21歳。

UTX学院大学3年。

名実ともに国内No.1のスクールアイドル、A-RISEのマネージャーにして作曲担当。

マネジメント、サポート、作曲。それだけでなく、自ら行う楽器の演奏においてもそれぞれのプロ顔負けの能力を発揮し、A-RISEの勝利に決して少なくない貢献をしてきた青年。

そして何より津田 京助に敗北と挫折の概念を刻み込んだ男。

彼らの因縁は、二人がまだ少年と言える頃から続くものだった。

 

小学生の時分、放課後の音楽室。

当時から喧嘩に明け暮れていた、何も持たない、夢も見られない粗暴な一人の子供

楽し気に、寂し気に、鍵盤を叩き続ける一人の子供。

物語は、そこから始まった。

 

「いつか、お前に勝つ」

 

一人の少年は完膚なきまでに叩きのめされ、その衝撃は彼にささやかな夢と大きな目標を与えた。

 

「楽しみにしてるよ」

 

一人の少年はこれまでに感じた事のなかった驚きを得て、その邂逅は彼に未来への希望と、初めて自ら進みたいと思える道を示した。

 

ともあれ二人の少年は親友(ライバル)宿敵(とも)を同時に得たのだ。

 

敗北に次ぐ敗北、挫折に次ぐ挫折。その度にもう一度立ち上がり、次こそはと拳を握りしめる少年の我武者羅な姿に、ある者は呆れ、あたある者は心配し、あるいは根負けする形となって、彼の夢に共感し、共に歩む者が増えていった。

夢はやがて群像となり、現実へと変わっていった。

ささやかな夢は形となり、されど決して大きな目標には手が届かないまま。

けれどいずれその手は星に届くと、愚直なまでに自分に言い聞かせて拳を突き上げる日々。

けれどその満ち足りた日々は、唐突に終わりを迎えた。

京助自らが終わらせた。

たった一つの目標、友への勝利も果たせぬままに。

巻き込んだ仲間を捨てる形で。

 

「考えてみると最低な野郎だな、俺」

 

客のいなくなった店内、差し込む西日に目を細めながら京助は独り言ちる。

友との予期せぬ再会は、彼の心に暗い影を落とすのに十分すぎる出来事だった。

思い返してみれば彼の今までにあったのは敗北と挫折の歴史。屈辱と恥に満ちた生き様。

今でも時折夢に見ては彼の心を苛み続けるそれは、これからも決して彼を解放することはないのだろう。

久方ぶりに出会ったかつての友は、京助の知らないところで、知らない内に新たな輝きを手にしていた。

比べて自分はどうなのか。

あの決別から数年、多くのモノを失った。自信も信念も打ち砕かれて、夢は錆びて朽ち果てた。

もう一度、今度こそ。最後に一回だけで良い。

そんな覚悟で再び立ち上がろうとしたその矢先にこの邂逅は、なかなか厳しいものがある。

またしても心が折れそうだった。逃げ出したくてたまらない。

そう思う自分がどこまでも情けない。

 

「難儀なことだ」

 

火のついてない煙草を咥え、手元に置いたプラケースを弄ぶ。

掌に収まりきらないくらいのサイズの平たいそれは、本当の重さよりもずっと重く感じられてならない。

約束の為、そして彼女たちの為に、先日から精魂込めて仕上げたそれは、けれども今となっては彼女たちの足かせ、余計な物に思えてならなかった。

なら、このまま両手に少し力をいれてやれば良い。

今回、これを用意したのも京助の気まぐれ。彼女たちはまだこれの存在を知りはしない。

所詮は口約束だ。破ったからと言って何がある訳でも……

 

「邪魔するわよ、京助」

 

「おじさん、いつもの!」

 

「うおっ!?」

 

ドアベルの音が響き、店内に入ってくる気配が三つ。

一人黄昏れて悦に浸っていた京助は頓狂な声を上げてしまった。

 

 

「こんにちは、お兄さん。……もしかしてお取込み中でしたか?」

 

「いや、そんな事はない……席で待ってな。すぐに用意するから」

 

 

手元のそれをカウンターに置いたまま席を立つ。

店を訪れたのは真姫と凛、それに花陽。一年生の三人だった。

 

 

「はいよ。それからこれはサービスだ」

 

 

それぞれの前に彼女たちがいつも頼む飲み物を置き、ついでに小皿に切り分けた菓子を配る。

今日の菓子はカステラプリンケーキ。スポンジ生地の上にプリン層とカラメルが乗った、甘めのケーキだ。

京助もこうして作るのは初めてで、まだ売り物として店頭に並べるには自信がないが、試食品として彼女達に出す分には問題ない。

 

 

「また新作? あなた、私たちの事毒見にしてないかしら?」

 

「さてな?」

 

 

真姫のちょっとからかうような問いに、京助は微かに笑って答えてみせる。

つい先日までは仏頂面で適当にあしらうことしか出来なかったのに、我ながら大した進歩だと、そう思う。

配膳を終えて、再びカウンターの向こう側へ戻ろうとした彼だったが、その手首を少女の手が掴んで止めた。

 

 

「……何か用か?」

 

「聞きたい事があるんだけど」

 

「あん?」

 

 

笑みも引っ込み不機嫌そうに呟いて、それでも京助は別のテーブルから引っ張ってきた椅子に腰かけて彼女達に向かい合った。

 

 

「聞きたい事? 何だ?」

 

 

もしや、いつぞやの約束の事かと、視線がカウンターの方へ行きかけるのを堪えて、首を傾げる。だが、真姫が切り出してきた話題は彼が予想していたものとは違うものだった。

 

 

「UTXの……A-RISEの所にいたあの人、一体何者なの? 京助の知り合いみたいだったけど」

 

「それを聞くか?」

 

ため息を一つ、適当に流すか、正直に話すかを戸惑うのは一瞬の事だった。

もう、京助と彼女たちは無関係ではない以上、これは話しておくべきことなのだろう。

ましてや、あの男の事ならばなおさらだ。

A- RISEと手を組んだ、かつての仲間の事を。

 

 

「あのフザけた野郎は、伴瀬 貴仁。俺の古い馴染みでな。……いいや、違うか」

 

 

つい以前の癖で、当たり障りのない事を言って終わらせようとしたが、京助はすぐに考え直し、

 

 

「昔の、仲間だ」

 

「え? それって、」

 

「一緒に、バンドやってたメンバーだ」

 

言ってから京助は立ち上がると、間もなく持って帰ってきた自分の分のコーヒーを一口、

 

「あいつは化物……悪魔そのものだ。担当はキーボードと作曲……の癖に、歌わせても叩かせても、一級品。ギターに関しちゃ、担当だった俺よりよっぽど上手い」

 

「そんな」

 

「おまけに、頭も信じられないくらいに良いし、運動神経も抜群、お前らも見たように顔もスタイルも申し分ない。ガキの頃から何やっても勝てなかったよ」

 

 

茶化すような言いざまとは違い、彼の顔には不機嫌を煮詰めきったような表情が浮かんでいて、さすがの三人と言えども何も言えなくなってしまう。

彼女達は想像がしてしまった。

彼のいう事が本当だとして、そんな才能の塊が傍らにいたらどうなるのか。

彼の言い方からして、何度も、何十回も、ひょっとすると何百回も彼はそんな友人に張り合おうとして負け続けて来たのではないだろうか。

京助が夢を諦めたというのならば、その原因とまではいかずとも、遠因はあの青年なのではなかろうかと。

しかしそれを察したのか京助は、

 

 

「何考えてるのかは想像つくが、俺がへし折れたのは奴の所為じゃないからな」

 

 

それは別件だ、と。

呻くように呟く。

 

「その、おじさんの友達が何でA-RISEと一緒にいるにゃ?」

 

「さてな……俺も奴と会うのは3年ぶりだ。その間に何があったのかは知らねぇ」

 

 

いつもなら耳聡く聞きつけるはずのおじさん呼びをスルーして、京助は項垂れ気味に話を続けた。

 

 

「でも、あれは……何で、あの人、お兄さんの事をいきなり」

 

「それは、その……俺が、何だ。一人旅に出るにあたって、えーと、」

 

「何となく察しがついた。あなた、解散の時に何か揉め事起こしたのね」

 

 

しどろもどろになった京助を見かねて、真姫が言うと返答は思いがけないところから帰って来た。

 

 

「ご名答」

 

 

4人の視線が一斉にレジカウンターの方へ向いた。

つい先ほどまで京助が腰かけていた椅子には、いつからそうしていたのか、一人の青年が悠然と腰を下ろしていた。

朗らかな、人のよさそうな笑みを浮かべるその男こそ、今まさに京助と彼女達の話題に上っていた人物その人だった。

 

 

「こんにちは、μ’sの一年生さん達。それに京助」

 

「てめぇ、いつからそこに」

 

 

弾かれたように京助は席を立ち、真姫や凛達を背に貴仁と対峙する。

 

 

「あのさ、京助? この間もそうだけど、何でその子たちと僕の間に立つのかな? もしかして僕がその子達に何かすると思ってる?」

 

「さてな。だが、お前は子供の教育には悪そうだ」

 

「君ほどじゃないと思うけど」

 

 

こつり、と。

固い靴音が響く。貴仁が立ち上がり、京助たちの方へ歩み始めた。

 

 

「この間は碌に挨拶も出来なかったから、久しぶりにちゃんとお話ししようと思ったんだけど。今取り込み中?」

 

「……いいや」

 

「それは良かった」

 

 

真姫たちの隣のテーブルにつき、メニューを見つめ始める貴仁の横顔は、なんと言うか様になっていた。

思わず三人の少女も、そして京助でさえも見とれてしまう程に。

 

 

「悪い。真姫、星空ちゃん、小泉ちゃん。今日はもう閉店だ」

 

「え~? まだケーキ食べてないにゃー」

 

「すまん。包んで持たせてやるから勘弁してくれ」

 

「でも、」

 

なおも食い下がる凛に、京助は申し訳なさそうに頭を下げる。

いつもの彼からは想像も出来ないようなしおらしい様子だった。

勿論、凛とて気づいていないわけではない。分かった上での我儘だ。

このまま京助と貴仁を二人きりにしてしまったら、何か大変な事が起こるんじゃないか。京助がまた傷つく事になるんじゃないかと、心のどこかでそう感じていたのだった。

 

 

「分かりました。それじゃあ、また今度お邪魔しますね。……さ、凛ちゃん、行こう?」

 

 

花陽が一瞬、決意したような顔を見せ、しかしすぐにいつもの様子で凛の説得にかかる。

本当は、彼女の心中も凛と同じだった。

彼を心配しているのは、きっと真姫も同じだ。

けれど、ここで止めるのは違う気がした。

彼が取り戻しつつある強さと輝きを信じてみたかった。

 

 

「行きましょ、凛」

 

「……うん」

 

 

渋々といった風に頷いて、凛も先を立つ。

間もなく京助が小分けにラッピングしたケーキを持って店を出る三人。

心配そうにちらちらと京助を伺う様子は、けれど、彼にとっては少し苦いものだった。

去り行く彼女達、その背中にふと声がかかる。

 

 

「ごめん、真姫ちゃん。これ!」

 

 

ひょい、と。

貴仁が投げてよこしたものを真姫が慌ててキャッチする。

 

 

「お前、それは!?」

 

 

薄いプラスティックのケースに入ったそれは、先ほど京助が一人、弄んでいた一枚のCDだった。

真姫に託すべく作り、しかしいざ作り終えた後で渡すのを躊躇していた音源だった。

そんな事など知っているはずがないと言うのに、貴仁は当然とでも言うようにそれを真姫に手渡してみせた。

 

 

「京助が君たちに、って。ほら、こいつこう見えてシャイだからさ」

 

 

悪魔の微笑みを浮かべたまま貴仁は言う。

京助の意思など一切無視して、しかし彼がしたかった事をこともなげに成し遂げてみせる。

まるで全て自分の掌の上の事だと言うように。

まるで全ては無駄だと突きつけるように。

真姫は京助と貴仁を見比べて、そして手元のCDを見つめなおす。

 

 

「京助、これ、使わせてもらうから」

 

「……あぁ」

 

 

有無を言わせぬ強い調子の真姫の宣言に、京助は頷く事しか出来なかった。

少女は頷き返し、そのまま足早に店を出ていく。彼女が振り返る事はもうなかった。

二人きりになった店内、少女たちが出ていった扉を見つめ、京助は歯を食いしばる。

その両の拳が真っ白になるくらいに握り締められていた。

そこにあるのは先に進む決意なのか。それともまた進むことを躊躇した自分への怒りなのか。

さもなければ、屈辱なのか。

それは京助自身にも分からなかった。

ただ、そんな青年を見つめる貴仁だけは、訳知り顔に小さく頷く。

彼の心中に渦巻くそれの正体を正確に見定め、悪魔はなおも笑みを深くする。

 



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第四十七話 Born to lose

「良かったね、京助。音源、使ってくれるってさ」

 

京助が淹れたばかりのコーヒーの香りを嗅いで、貴仁は幸せそうに頬を緩めた。

強めだがすっきりした香りは彼好みのものだった。

 

「ちッ……」

 

舌打ちを一つ。

顔をこれ以上ないくらいに歪めながら京助も自分のマグカップを手に貴仁の前の席に着く。

二人の青年はテーブルと、それから茶菓子を挟んで対峙する形になった。

 

「余計な真似を」

 

「余計? 感謝してほしいところなんだけど」

 

貴仁はコーヒーを飲んで、またしても幸せそうに息を吐く。

 

「君、あの音源作るのに苦労したんじゃない? それなのに渡さないなんて勿体ない」

 

「うるせぇ」

 

余裕を崩さない貴仁に対し、京助に余裕なんてものは全くと言っていい程なかった。

歯を食いしばりながら呻く。そうしなければ、弱音が口から洩れてしまいかねなかった。

それほどまでに、今の京助にとってこの青年は恐るべき存在だった。

 

「3年、か」

 

「あぁ」

 

「僕らが袂をわかってから3年……君も色々やってたみたいだけど、成果はどうだい?」

 

にこやかに。

久しぶりに出会う友人との会話を楽しむかのように、何気なく貴仁は尋ねる。

だがそれは優しい刃物に他ならない。

京助がどうしてこの町に戻ってきたのか、察しがつかない彼ではない。分かっていて言っているのだ。

 

「しばらくお休みしてたみたいだから、多少のブランクはありそうだけど……でも、少しは腕が上がったみたいだね」

 

「……さぁな」

 

ぎりぎりと。

軋む音が聞こえた気がした。それは京助の胸の奥、深いところが上げる悲鳴だった。

 

「そういうそっちはどうなんだ? お前がマネージャー……小娘のお守りに転職とはな。案外天職なんじゃないか?」

 

「なかなか良い仕事だよ? 今まで見えなかったものが見えるようになったし、業界にも多少、顔が売れたし」

 

何とかして京助が口にしたなけなしの皮肉を貴仁はこともなげに払いのける。その上、重い反撃も忘れない。

 

「それに、僕がやってるのはマネさんの仕事だけじゃないからね。彼女たちの曲、僕が手掛けてるんだ。君も似たような事しようとしてるでしょ?」

 

無駄な事を、と。

彼の微笑みの中にそんな嘲りが含まれているような気がしてしまい、京助は顔を伏せてしまう。

一言、一呼吸。貴仁が一挙手一投足を行う度にそれだけで京助は自分が削られていくような気がしてならなかった。

京助が貴仁や仲間たちをほっぽり出して逃げ出してから3年。それなり以上の努力は積み重ね、苦労も経験も積んだつもりだった。

もっと強く、もっと遠くへ。一歩でも前へ。

そうすれば、きっと……

そんな願いをこめて歩んだ道は、けれども間もなくへし折れて粉々になった。孤独に耐え、報われぬ日々を過ごす毎日は、少年の心を砕くのには十分過ぎた。

 

「僕も、いや、僕たちも君がいなくなってから何もしなかったわけじゃない。やれる事はやってたさ」

 

貴仁の刃がまた京助の心を抉った。

京助が地べたを這いつくばる続ける間にも、貴仁は靴音も高らかに階段を上っていく。

そして夢に破れ、泥に沈んでいる間にも、彼はさらに高みへと進んでいく。

京助が僅かでも彼に近づけた瞬間など、この3年の間で刹那もありはしなかっただろう。

そして今やその差は天と地ほどに隔たってしまっているに違いなかった。

それが、たまらなく悔しかった。

勝てない。

どうやっても勝てない。

まるで全てが元から決まったシナリオ通りに進んでしまっているようだ。

気分が悪い。自分の足が本当に地面についているのかさえも不安になる。

自分が信じて進んできた道は何だったのか。ここまでに残したと思った足跡は一つも残らず消えてなくなったのか。

自分は何のために生まれてきたのか。

 

「それはそうと」

 

顔色が悪いを通り越して、土気色、死人の顔をした京助を見て、貴仁は話題を変えた。

だがそれは決して友を思いやっての事ではなさそうだった。

その証拠に、彼の目はどこまでも楽しそうに笑っていた。

 

「μ’sの子達、やっぱり可愛いね。生で見るとなおさら良く分かる」

 

「……そうかよ。あいにく俺は小娘には興味がないんだ」

 

急な話題転換を訝しがりながらも、京助は吐き捨てるように答えた。

 

「その辺、君とは趣味があわないな……まぁいいや。もし、だよ?」

 

「あ?」

 

「もし僕が、彼女たちに手を出したら、君は怒るかな?」

 

思いきり眉間に皺を寄せる京助の顔を覗き込んで、貴仁は悪戯っぽく微笑んだ。

 

「なに?」

 

「例えば矢澤ちゃんとか? 精いっぱい頑張ってるところとか可愛いよね。是非ともお近づきになりたいな。京助、個人的に紹介してくれないかな?」

 

「別に、構わん。……紹介するなら、矢澤ちゃんにも確認とってからだがな」

 

その発言は貴仁が京助を揶揄い、あるいは挑発する目的だったのだろう。

しかし、京助はそっけなく即答してみせた。

 

「俺はあいつらの親でもなければ教師でもない。誰と誰が付き合おうと、どんな関係になろうと、それは当事者同士の問題だ。好きにすれば良い」

 

「あれ?」

 

目論見が外れたのか、貴仁は目をぱちくりと瞬かせた。

 

「だが」

 

貴仁の様子にはお構いなしに京助が続ける。

彼は胸ポケットからゴールデンバットのパッケージを取り出して一本を口に咥えると、

 

「もしお前があいつらの誰かとそんな関係になったとして、だ」

 

大して美味くもなさそうに紫煙を吐き出して、京助は気怠そうな目を貴仁に向けた。

 

「あの子達の髪の毛一本傷つけてみろ。涙の一滴流させてみろ。……その時は、」

 

その続きを、京助は口にしなかった。

語気を荒げたり、強めたりする事は無い。もちろん、冗談めかす風もない。

ただ友人と取り留めない会話をするような調子だった。

続きを口にしない代わりに、煙を思いきり顔に吹きかけてやった。

 

「……冗談だよ、冗談。いや、こんな怖い保護者がいちゃおいそれ手出しできないや」

 

初めて貴仁の顔から余裕の笑みが消えた。

その額を冷たい汗が伝っている。京助の様子に底知れないものを感じ、気圧されたのだった。

 

「しかし、あれだね」

 

「なんだ?」

 

煙たそうに目の前を手でパタパタさせながら、貴仁は言う。

 

「結構、酷い事言ってやっても怒らないのに、あの子たちが関わると反応が違うね。面白い」

 

「うるえぇ……あ? てめぇ、非道ぇこと言ってる自覚あったのか。よし、戦争だ」

 

「そうやって話を変えようとするあたり、本気っぽいね。やっぱり肝はここにあるわけか……」

 

不機嫌ここに極まれりの表情で椅子から腰をあげる青年を冷静に分析してのけ、挙句には最後に何か不穏な言葉を付け加えた。

その意味は京助には察せ用はずもない。

だが、何もかもが読まれている気がしてならなかった。心の中を、ひょっとすれば未来とその結末までもこの男は知っているのではないかと、そんな考えが脳裏をよぎってゾッとする。

もし、そうやって足掻き苦しむ京助を見て笑っているのならば、

 

「悪魔め」

 

「ははは。なら悪魔らしいことの一つでもしてみようか?」

 

思わず口をついて出た悪態を冗談の類と受け取ったのか、彼は楽しそうに、

 

「『さぁ、私と賭けをしよう』」

 

「お断りだ。『もしおまえが甘い言葉を囁いて騙し、おまえが快楽によって私を欺くことができたとするのなら、それが私にとっての終わりの日だ』……悪魔との契約なんざ、ロクなことにならん」

 

妙に芝居がかった貴仁の言い回しに対し、京助は面倒くさそうに言ってのけた。

 

「あれ? 知ってたのかい」

 

「ファウスト」

 

詩人、ゲーテによる古い戯曲の名を事も無げに答えると、彼は少し眉を寄せ、

 

「それにしたって台詞が違うだろう。お前のそれはファウスト博士のそれだ」

 

「ご名答。なら言い換えよう。『約束したぞ?』」

 

「待て。何をだ」

 

その問いには答えずに、貴仁はいつの間にか空になったカップを残して立ち上がる。

テーブルの上には過不足なくぴったりの料金が置かれていた。

 

「さて、今度は楽しませてくれよ? 京助」

 

では、と。

恭しく一礼をして見せて、白衣の青年は店を後にした。

残された男は席に座ったまま、しばらく微動だにすることも出来なかった。

秒針の刻む音だけが、やけに響いてうるさかった。

 



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第四十八話 Live to win

空を夜が染める頃。

彼女達のステージは幕を下ろす。

UTX学院の屋上に作られた特設ステージの周りは未だ冷めやらぬ熱気と歓声に包まれていた。

その中にあって、舞台袖に立つ少女達の表情は周囲とはまるで真逆のものだった、

驚愕、感心、怖れ、不安。色々な感情や思惑が混ざり、どうにも処理しきれていないのだ。

それほどまでに、A-RISEのステージは衝撃的だった。

同じスクールアイドルとして、仮にも同じ側から彼女達を見るμ’sには3人の持つ圧倒的なまでの能力がどれほどのものか分かってしまった。

そして、自分たちは未だそこに辿り着けてはいないことにも気づいてしまった。

 

「無理だよ……」

 

誰かがそんな泣き言を口にした。

 

「悔しいですが、私達では」

 

同調する声が続く。

沈んでいく空気の中、それでも一人だけ声を張り上げる。

 

「そんなことない!」

 

穂乃果だった。

仲間たちに語り掛けるように、

 

「確かにA-RISEはすごい! でもそんなのは当たり前だよ!だから、この折角のチャンスを逃さないように私達も続こう!」

 

台詞は短く、飾り気もない。言っているのは内容は当然の事。

けれど彼女が言うこの場合に限りそれは何十小節の言葉よりも彼女達を勇気づけるものだった。

穂乃果の一声はどこまでも等身大で、血が通っていて、だからこそ皆を引っ張っていける。

 

カリスマ

 

そう呼ばれるものがある。トップが持つべき、一つの才能。

心折れかけた少女達の目に再び光が宿った。

 

「自分たちも思いきりやろう! μ’s、ミュージック、」

 

「こんばんは、音ノ木坂のみんな」

 

奮い立ち、いざ自身のステージに向かわんとする彼女達の前に一人の青年が姿を現した。

染み一つない白いシャツと、それを際立たせるスラックス。固い革靴の音だけを響かせて、何の前触れもなく。

タイミングだけは完ぺきに、白衣の青年は彼女達の前に姿を現した。

無論、それは良い意味などでは断じてない。

 

「あ、ごめん。邪魔しちゃったかな?」

 

「あ、いえ。……どうしたんですか?」

 

「A-RISEのステージはどうだったかな?」

 

「あ、はい! 最高でした!」

 

にこやかな問いに穂乃果は間髪入れずに答えた。

それは反射的なものであるが故に、心からの本音だった。

 

「だよね。彼女達は積み上げてきた物が違うから」

 

満足そうに頷いて、彼はμ’sの面々の顔を見回すと、

 

「ツバサちゃんに英玲奈ちゃん、あんじゅちゃんもそれぞれ凄い才能の持ち主だよ。それこそ僕がいなくても、個人で成功できるような器。そんな子達がアイドル活動のために全部投げ出すような覚悟でいるんだから、そりゃ凄いに決まってるよ」

 

「全部……」

 

「そう。青春……って言うのかな? 学生生活であったかもしれないちょっとしたひと時。友達とわいわいしながら放課後にゲームセンターに行ったり、こ洒落たカフェに行ってみたり、ファストフード店で軽食をつまんだりとか? 懐かしいな、僕もやったよ……そういうのを投げ出す覚悟。なかなか出来るもんじゃないと思うよ」

 

青年は微笑む。

その笑みは穂乃果に、μ’sのメンバー全員に問いかけているようだった。

 

お前たちにそこまでの覚悟はあるのか?

 

ここまでやっている相手に、勝算はどれだけあると思うのか?

 

もちろん、貴仁はそんな言葉は一言も口には出していない。

それなのに、メンバーは誰しも同じことを感じ、考え、思い、口をつぐんでしまった。

立ち直りかけていた心が、またしても―

 

「そこまでにしとけ」

 

横合いから声がかかった。

錆びを含み、掠れたよう。決して耳触りはよくないけれど、聞き慣れて安心できる声.

 

「あ、」

 

今回も来てくれないと、そう思っていたのに。

何の遠慮をしているのか、いつもみんなとは距離をおいて。

むこうからは関わってこないくせに、何かがあれば全部放り出してでも駆けつけてくれる。

喧騒から少し離れたところで不機嫌そうに顔をしかめ、でもこっそり優しく寂しく、照れくさそうに微笑んでいる。

 

まったく、どうしてこういつもタイミングが良いのだろうか。

思わず、泣きそうになってしまった。

 

「薔薇の花を撒かれる前に失せろ、悪魔め」

 

そんな穂乃果の様子には気づかないのか、京助は億劫そうに足をすすめ、μ’sと貴仁の間に割り込んで立つ。

貴仁に立ち向かうかのように。あるいは彼女達を背に守る様に。

よれよれのシャツ、くたびれたスラックス、ボロボロのネクタイ……凡そ、対峙する二人の青年の格好自体は似通っているのに、どうしてこうも差が出るのか。

京助が立ち止まった時、微かに匂いがした。

バターと煙草の入り混じった、彼と彼のパン屋の匂い。

 

―私達の場所

 

UTX学院。A-RISEの本拠地でのライブ。

彼女達のステージに気圧され、固くなっていた心が解れていく。

白衣の青年によって凍り付きかけていた心が融けていく。

 

「あれ? 何で京助がこんなところに?」

 

「あ?」

 

「関係者以外立ち入り禁止なんだけど」

 

「あぁ、エラく厳重なセキュリティで入るのに骨が折れたぜ」

 

貴仁が絶句したのを見て、彼は面白そうに鼻で笑って後ろを親指で指し示した。

 

「冗談だ。あの子らに話したら快く入れて貰えた」

 

彼が指さす方を穂乃果たちは振り返ってみる。

そこには、彼女達に対して手を振る、同じ音ノ木坂の生徒たちの姿があった。

だれもが嬉しそうに、誇らしそうに笑っている。

貴仁のうすら寒いそれとは違う、温かな表情で。

 

「なるほど。正攻法か。安心したよ。それで?」

 

ため息を一つ。笑みをひっこめて白衣の青年は京助に向き直る。

 

「あ? それでってな何だよ?」

 

「君はこんなところに何をしに来たのかと思ってさ」

 

今度は貴仁が鼻で笑う番だった。

 

「別に。ただ、てめぇがこの子らに興味持ってるみたいだったから妙なちょっかいださないように身に来てみれば案の定ってだけだ。てめぇはガキの教育に悪い、もっぺん言うがさっさと失せな」

 

「ふーん。応援に来たわけではないんだ?」

 

「何?」

 

「それもそうか。君みたいなのが応援にきたところで、迷惑以外の何物でもないからね」

 

京助が何かを言おうとして、言葉を呑んだ。

ムカつく台詞で、言いがかりも甚だしいと思ったが、けれど彼の言う通りなのではないかと思う自分が、心の中にいた。

昔から彼のアドバイスは正確で、言う事は全て正しかった。

 

「ガサツで乱暴。ぶっきらぼうで不愛想。昔からロクでもない事件ばかり起こす問題児。夢に破れて地元に帰ってきて、今度は一丁前に子供の指導の真似?」

 

「そんなことした覚えは、」

 

「君がそう思ってなくても周りからはそう見えてるよ。あの悪ガキが、子供相手になにしてるんだろう、ってね」

 

「ッ、てめぇ」

 

「うん、ちょっと言いすぎたか。嘘嘘、冗談……それは置いといて、それで? 今回はついに彼女達の活動にも本格的に参入しようってわけか。いや、別に悪い事じゃないよ? 仮にも僕たちまとめてて、音楽はそこそこ齧ってたわけだし」

 

「何が言いたい?」

 

「だけど、君の実力じゃその子達相手に指導なんて出来ないだろう。よしんば出来ても、ねぇ?」

 

「だから、何が……!」

 

「他の有象無象が相手ならともかく、相手は僕と、僕のA-RISEだよ? μ’sのみんなはともかく、君はどうなんだろうね?」

 

言葉が出てこなかった。

μ’sとA-rRISE。

個々のメンバーの才能だって決して劣る物ではなく、彼女達の努力もトレーニングも十分に足りている。

現状では実力はA-RISEの方がまだ上を行くが、μ’sの成長速度と瞬間的な爆発力を以てすれば、贔屓目なしに見ても将来的には勝ちの目だって十分にある。

 

だが、それはμ’sとA-RISEに限っての話だ。

 

相手に、この青年がつくというのならば話は変わって来る。

条件が同じならば、そこに加えられるプラスアルファが持つ意味はとてつもなく大きい。

 

「前も聞いたけど、君が僕に何かで勝てたことあったっけ?」

 

拳を、握りしめる。

京助が彼女達に何か指導をした覚えなんてない。音楽やトレーニングでアドバイスを送った事もほとんどない。

楽曲への介入も今回が初めてだ。

とはいえ、彼の存在がμ’sへのプラスアルファになってしまっていたことには変わりない。

ならば、その差は如実に結果に結びついてくるのではないか。

 

「どう? これから先、僕に何かで勝てそうかい?」

 

悪魔がまたしても笑みを浮かべる。

どこまでも優しく、どこまでも酷薄。限りなく無邪気で、限りなく無慈悲。

口が、からからに乾いていた。

足元が覚束ない。吐き気までしてくる。

言い返す言葉が見つからなかった。

友の言葉は正しく京助が心のどこかで考えていた事に似ていて、そして客観的に見ても主観的に見てもどうしようもなく事実だ。

 

―昔なら

 

まだ若く、気力に満ちていた頃。自分がμ’sのみんなと同じくらいの頃なら反射的に勢いで言い返せていただろう。

だが、今の京助にはそれすら出来ない。

無駄に年を重ねるうちに知りたくもない現実を知ってしまったから。

それに、彼に対しては負い目や引け目があるのも大きい。

気力だけで相手取るには些か分が悪すぎた

 

「京ちゃん……」

 

握りしめた拳から力が失われていくのを感じたその時だった。

不意に彼の耳に届く声がある。

とっさに振り向いた先、京助をみつめる少女達と目が合った。

穂乃果が、ことりが、海未が。凛に花陽、真姫が。絵里、希が、それに、にこが。

彼女達が京助を見つめていた。

助けを求めるような、目では決してない。

そこにあるのは、確かな信頼と、

 

「あ……」

 

ばっちりと、にこと目があった。

今回は、彼女は京助から目を背けることはなかった。何も言う事もない。

ただ、目で問いかけられているような気がして、だから、

 

「反論する言葉も持ってないのなら失せるのは君の」

「オラァッ!」

 

いきなりだった。

いきなり京助が咆哮と共に固く握り直した拳で貴仁の顔面を殴りつけた。

さすがに予想もしていなかったのだろう。哀れ、貴仁は軽薄な笑みを浮かべたそのまま殴り飛ばされてしまう。

 

「うううう、うるせぇ! がたがた抜かしてんじゃねぇ、この馬鹿!」

 

震える声で、どころか、膝をがくがくと震わせながら彼は言う。

かなり無理をしていた。

まだ、かつての友と対峙するには勇気が足りない。立っているのもやっとだったが、それでも彼女達に後ろを見せるわけにはいかなかった。

間もなく、最初の対決が控えているこんなところで、彼女達に情けない姿を見せるわけにはいかなかった。

 

「お、お前……」

 

立ち上がりながら貴仁が信じられないものを見るような目で京助を見た。

驚くべきことに、そこには怯えさえ浮かんでいた。

 

「言葉で言い返せないからって、いきなり殴るか、普通……?」

 

「あ? 言い返して欲しいならいくらでも言ってやるよ、この馬鹿。馬鹿、馬鹿、バーカ、ヴァアアアーーーカッ! 満足かよ?この馬鹿!」

 

「ガキか、お前は……っ!」

 

なおも困惑する貴仁を睨みつけて、京助は吠える。

 

「うるせぇんだよ! 今まで俺はてめぇに勝てた事なんざ一回もないし、今だって勝てる未来なんざ一つも見えねぇ! だが、だからどうした!? これから先の長い人生、何かの間違いでどうにかなる事だってあるかもしれねぇだろ!?」

 

「お前、」

 

「才能がなんぼのもんだ! そんなモン、持って生まれなかったからなんだ! 俺はいつか勝ち取るために生きてんだ!」

 

つかつかと、貴仁の近くまで歩み寄ると徐に彼の襟首をつかんで無理やり立ち上がらせた。

 

「大体、嬢ちゃん達の話に、俺とてめぇの話を持ち込むのが気にくわねぇ! 俺がてめぇに敵わねぇって話と、μ’sとA-RISEの話に何の関係がある!? あ!?」

 

唾がかかりそうなほどの距離で大音量で怒鳴り散らされて、さしもの貴仁も堪えたのか、顔をしかめた。

彼が劣勢になったのはここしばらくで初めてのことだった。

 

「おい、穂乃果!」

 

「は、はい!」

 

京助の突然の暴挙に唖然としていた穂乃果だったが、不意にかけられた声で我に返る。

それは他のメンバーも同じだった。

 

「勝ち負けなんざ気に掛けんな! お前らはお前らの全力でやる、それだけを考えろ!」

 

青年は力強く吠える。

 

「お前らがあいつらと決着つけるのはこんなチンケな舞台じゃない!」

 

「っ……うん!」

 

だから、穂乃果も力強く頷いて見せた。

 

「さぁ、行け! もうすぐお前らの番だろ? このバカタレは俺が引き受ける!」

 

貴仁の首を締め上げてがくがく揺らしながら、京助は言う。

別に彼はμ’sの足止めをするつもりなんて一切ないのだが。

 

 

「あ、ありがとう、京ちゃん……?」

 

勢いに負けて礼を言いながら、彼女達は彼の横を通り過ぎて舞台に向かっていく。

開演の時間はもうすぐだった。

結局、傍から見れば京助がした事はただ頭にきて蛮行に及んだだけなのだが、その突拍子もなさが逆に緊張や萎縮を解くには適解だった。

そんなところもどうしようもなく彼らしかった。

 



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第四十九話 WILD CHALLENGER

ライブも終わり、熱冷めやらぬ中、

 

「お疲れ様」

 

「ツバサさん!」

 

息も整え切らず、吹きだす汗をぬぐう穂乃果のところへゆっくりと近づいてくる少女が一人。

 

「さすがね。最高のパフォーマンスだったわ」

 

「え、えぇ!? ありがとうございます!」

 

穂乃果が勢いよく頭を下げると、ツバサはそんな彼女の様子がおかしかったのか、口元を抑えた。

 

「馬鹿、そのまま捉えるんじゃないわよ」

 

「あら? お世辞なんてとんでもないわ」

 

呆れたようににこが呟くと、それを耳ざとく聞いたあんじゅが否定する。

彼女達から見てもμ’sのライブは素晴らしいものだった。

以前から注目していたのは嘘ではない。いずれ自分たちと並び、スクールアイドルをけん引できるような存在になると思ったのも本当だ。

だけどそれはまだずっと先の話だと思っていた。

彼女達が今日、この場所でここまでの物を見せてくるとは思ってもみなかった。だからこそ、その衝撃は、凄まじかった

 

「それと、さっきはうちのマネージャーがごめんなさい。何だか失礼なことをしてしまったみたいで」

 

あんじゅが申し訳なさそうに頭を下げる。

どうやら彼女達としても貴仁の行動は不本意なものだったらしい。

 

「いえ、そんな! あ、それを言うなら私たちの……私たちの? うん、津田さんもその、大変無礼な事を」

 

「ううん。貴仁……マネージャーが、どうせやられて当然の事をしたんでしょ。だから気にしてないわ。気にはしてないんだけど……」

 

ツバサは困ったように頬を掻いて、横目でステージ裏を見る。

きょとんとしながら穂乃果がそちらに目を向けると、そこにはちょっとした人だかりが出来ていた。

耳を澄ませば怒号とも悲鳴ともつかない声が聞こえてくる。

 

「ちょっと、止めるのを手伝ってもらえないかしら?」

 

 

 

 

ツバサとあんじゅに導かれる形で人込みを割って入った先では、二人の男が掴み合いを繰り広げていた。

 

「津田さん、やめてください! ほら、ここ他の学校ですよ!?」

 

「やめないか伴瀬! ほら、むこうの生徒さんも困っている!」

 

ヒデコたち三人が何とか京助を止めようとする一方で、英玲奈も貴仁を止めるべく声をかけ続けているが、当の本人たちは知ったこっちゃないと言わんばかりに至近距離でにらみ合いを続けている。

すでにドンパチを繰り広げた後なのか、顔の痣や服の汚損が生々しい。

 

「てめぇ……ドタマかち割って……!」

 

「貴様……耳の穴から手ぇ突っ込んで……!」

 

京助と貴仁がお互いの襟首を締め上げながら、逆の空いた手でお互いにアイアインクロ―をかまし合っていた。

どちらも全力全開の力をこめているのか、手が真っ白になり筋肉が震えている。

 

「脳みそチューチューしてやる!」

 

「奥歯ガタガタ言わせてやる!」

 

二人同時に物騒な事を吠えて、より一層力を込めようとしたところで、にこと穂乃果、ツバサとあんじゅが二人の間に割って入った。

 

「やめなさい、恥ずかしい!」

 

「京ちゃん、ストップ、ストーップ!」

 

「貴仁、めッ!ほら、めッ、よ!」

 

「落ち着いてってば! ね?」

 

それぞれ二人に羽交い絞めにされる形で引っ張られ、拘束されるがどれでもにらみ合いは続けている。

 

「シャアアアアアアアア!」

 

「グルルルルルルルル!」

 

「こら! 人間の言葉で話しなさい!」

 

余程興奮しているのか、人間の出せる音域を遥かに超えた声で威嚇を繰り広げ始める始末。

そこまで行っても、それぞれのチームのメンバーに怪我をさせないよう乱暴な真似は抑える辺りさすがとしか言いようがない。

かと思えば、

 

「バーカ、バーカ」

 

「馬鹿って言った方が馬鹿なんですー! 小学校の頃、宇野先生に倣ったのわすれちゃったんですかー? このバーカ」

 

「バーカ、アホ、間抜け」

 

「オタンコナス、ドテカボチャ」

 

「お前のかーちゃんでーべそ」

 

「親は関係ねぇだろ!?」

 

「ごめん、言い過ぎた!」

 

なおも唾を飛ばし合い、聞くに堪えない罵り合いを繰り広げる成人男性達。

そんな二人に対し、ラチが空かないと踏んだのか最初に行動に移ったのはにこだった。

無言のまま容赦なく足を蹴り上げる。

そのつま先は、的確に京助の急所、すなわち股間に食い込んだ。

 

「あ」

 

予想外に小さな、呻くような悲鳴とともに京助は蹲って沈黙した。

そんな様子を指さして笑おうとした貴仁だったが、彼も彼で大口を開けた瞬間その中にあんじゅの手によって丸めたハンカチを詰め込まれてしまう。

 

「あんたらいい加減にしなさいよ」

 

「良い大人なんだから……」

 

なおも隙あらば食いつかんばかりの二人を、それぞれのチームの少女たちが力づくで引っ張って連れていく。

 

「もごもご、も!ブモモ、モゴもごご!」

 

「覚えとけ! 今度俺の可愛い妹分達にちょっかいだしたら、前髪全部むしりとってやる!」

 

「うるさい」

 

「静かにしなさい。近所迷惑でしょ」

 

それぞれの扱いは完全にいう事を聞かない犬猫に対するそれと同じであった。

ついでに京助はもう一度股間を蹴飛ばされた。

 

「あの!」

 

「うん?」

 

去り際に、穂乃果がツバサの背中に向かって声をかける。

彼女達の目がまっすぐに合った。

 

「ありがとうございました。また、やりましょう!」

 

「えぇ。次の舞台で待っているわ」

 

一瞬きょとんとした表情を浮かべ、ツバサは穂乃果に手を振った。

 

また、次の舞台―

 

お互いにそれがある事を確信していた。

 

 

 

 

 

「ぷはッ! あー、酷い目にあった」

 

A-RISEの控室にて、ようやく戒めから解放され、口の異物を吐き出した彼は深呼吸の

後にそんな事を口にした。

三人掛けのソファに一人で陣取り思いきり体を背もたれに投げ出す。その姿はまるで彼の友のそれとそっくりだった。

 

「身から出た錆だろう。ほら」

 

英玲奈がばっさりと切って捨て、良く絞ったタオルを手渡してやる

 

「本当に。でもあなたらしくないわね」

 

「あはは……」

 

渡されたタオルで顔を拭いて、傷に染みたのか小さなうめき声を上げた。

 

「いって……くそっ、あいつ本気で殴りやがった」

 

「だから身から出た錆だろう。まったく、相手のチームを挑発しに言って逆鱗に触れ、返り討ち……全くもって愚か者のやることだが」

 

「面目ない……いや、待って? 返り討ちには合ってないよ? むしろ優勢だったと思うんだけど」

 

申し訳なさそうにしたかと思えば、急にムキになって反論を始める。どうやらその一点だけは譲れないらしい。

 

「そこは問題じゃないわ。あのね、貴仁。あなたは私たちのマネージャーなんだけど、自覚はあるかしら? あなたが変な事をすると私達の評判にも響くのだけど」

 

「その辺は……本当にごめん。つい、ものの弾みで」

 

「ものの弾み? あなたは、ものの弾みで他の学校の生徒に喧嘩売りにいくの?」

 

あんじゅからじっとりとした視線を向けられて、思わず目を逸らした。

 

「いや、僕としては喧嘩を売りに行ったわけじゃなくて、ちょっと揶揄いにいっただけで」

 

「言い訳をするな。それを喧嘩を売りに行くと言うんだ」

 

「あなたのは悪質なのよ。悪ふざけのつもりで核心や痛いとこつついて遊ぶのはやめなさいっていつも言ってるでしょ」

 

女子高生によってたかって正論で怒られる21歳大学生の姿がそこにあった。

これではどっちがマネージャーの立場なのか分かったものではない。

どこかで見た光景であった。

 

「善処はしてるんだけどね……まぁ、今回は結果オーライってことで」

 

ぱん、と。両手を打ち鳴らして話をまとめにかかる貴仁だったが、そんな事で納得のできるメンバーではない。

じっとりした視線は三人分に増えていた。

 

「で、何であんな真似をしたのか、そろそろ理由を聞かせてもらってもいいかしら?」

 

ツバサが貴仁の陣取るソファの、テーブルを挟んで前の椅子に腰かけた。

まっすぐに彼の目を見て問いかけてくる。

対する貴仁はいつもの曖昧な笑みで誤魔化そうとするが、ツバサの後ろに控えるように立つ二人の視線もあってそれも出来なかった。

 

「いや……これは私情なんだけどね。そろそろ奴がまた遊んでくれるかな、って。まさか殴られるとは思わなかったんだけど」

 

彼の笑みが変わった。

表情はそのままに、中身の質が。期待や憧憬、喜びや郷愁が混じった人間らしい笑い。

ほんの一瞬だったが、血が通っていた。

 

「奴……あなたのお友達のこと?」

 

「うん。昔からよく僕に突っかかってくる奴でね。うっとうしくて面倒くさくて、その分面白かったんだけど、3年前に色々あってつまんなくなっちゃってね」

 

彼が友人を語る様は、まるでお気に入りの玩具の事を自慢するようでもあった。

 

「もう遊べないかなー、次はどうしようかって思ってたら、こんな形で再開してさ。正直驚いたんだけど。それでもまだ故障中なのは変わりなかったからちょっと叩いたら治るかと思ったら、大当たり。おかげでまた楽しめそうだ」

 

まぁ、代償は高くついたんだけどね。

そう言って彼は顔に当てていたタオルを離した。彼の目元には見事な青たんが出来ていた。

 

「ふふ、タヌキみたい」

 

「言わないでくれよ。結構痛いんだから」

 

あんじゅに笑われて。貴仁はまたしてもタオルで目元を隠した。

 

「随分と歪んだ友情だな」

 

「それは重々承知。僕がそう言う人間だってことは君たちも知ってるでしょ?」

 

英玲奈とツバサが顔を見合わせて、苦笑を浮かべた。

彼の言う通り、短くない付き合いの中でお互いの人と形は理解しあってる。

その上で彼女達の関係は成り立っているのだ。

 

「面白さ優先、だったわね」

 

「そうそう」

 

ツバサに言われ、貴仁はさも当然と言うように頷いた。

彼の行動原理はつまるところその一点に尽きる。

 

「あなたの言う“面白さ”と私たちの目的が合致する限り手を組む……そういう約束だったわね」

 

「その通り。単純明快でいいだろう。僕の興味、面白さと君たちの目的。どっちも言い換えれば夢だ。夢を追う限り、お互いに全力を尽くす……そういう約束」

 

約束。あるいは契約。

ビジネスライクで打算的な関係だが、それは彼にとっても彼女達にとっても都合のいいものだった。

単純で分かり易く、揺るがない。

絆と呼ぶには無機質ではあるが、それが彼ら彼女らにとっては一番のあり方だった。

μ’sと京助のあり方とは違う、信頼と信用の形。

 

「さて。それじゃ僕はこの辺で」

 

ゆっくりと立ち上がると、いつの間に用意したのか英玲奈が氷嚢を貴仁に手渡した。

これで傷を冷やせということなのだろう。

黙って受け取って傷に当て、顔をしかめた。

 

「頼りにしてるわよ、マネージャーさん」

 

「こちらこそ、お嬢様」

 

冗談めかして言うツバサに、気障ったらしい動きで応じる貴仁。

いつもなら絵になるそれは、片目を晴らしてボロボロの状態ではむしろコミカルでしかなかった。

 

「あいつとも同じ約束をしてるんだけどね。……いつになったら履行してくれるやら」

 

去り際に小さく、貴仁は呟いた。

だがそれは誰の耳にも届く事はなかった。

特に、一番届いて欲しい相手には

 

 

 

 

 

夜の街、UDX学院からの帰り道。

夜でも明るいこの町の光に照らされて浮かびあがる十人分の影。

激しく咳き込む声が響く。

 

「くそ……痛ぇ。あいつマジで殴りやがった」

 

ことりから渡された濡れタオルで顔を抑えながら、京助が悪態をついた。

 

「いや、先に手を出したのはあんたでしょ」

 

たまらずにこがツッコミを入れると、京助はバツが悪そうに目を背けた。

 

「仕方ないだろう。ムカついたし……なんていうか物の弾みだ」

 

「前にも似たような事を言った気がしますが、あなたは物の弾みで人を殴りつけるんですか?」

 

「失礼だな。道行く人誰かれ構わず殴ってるわけじゃない」

 

「当たり前です!」

 

そんな事をしていたらそれは通り魔や辻斬り、あるいは何かの病気の類である。

 

「なんつーか、まぁ挨拶みたいなもんだ。あいつとはこんな関係で、付き合いも長い。分かってくれるさ」

 

「どんな関係や……」

 

希までもが若干引いたような目を向けると、さすがにやりすぎたと思ったのかこれ以上ないくらいに眉間に皺を寄せうめき声をあげた。

よくよく考えてみればいくらなんでも良い大人がやる行動ではないと思うが、かと言ってあの場であれ以上に適切な行動は思いつかなかった。

なるようになったとしか言いようがない。

 

「まぁ仕方ない。これが大人のやり方だ」

 

「いや、あれが大人のやることなの?」

 

今度は絵里にツッコミをいれられてしまった。

またしても口をつぐむ京助。今日の彼はいつにもましてしまらない。

 

「で、でも。お兄さんは私たちのために怒ってくれたってことなんだよね?」

 

ついには見かねた花陽が助け船を出すも、彼がその救いの手を取る前に、

 

「いやー、おじさんは絶対暴れたかっただけにゃ」

 

「そうよ。あまり京助を甘やかすもんじゃないわ」

 

凛と真姫は取り付く島もない。

 

「誰がおじさんか、猫娘……それより真姫よ、ずいぶん辛辣だな」

 

「だって、すっきりしたでしょ?」

 

苦言を呈すると逆に真姫に問われてしまった。

よせば良いのに京助も京助で馬鹿正直に、

 

「む……まぁ、な」

 

拳を軽く握りながら頷く。

この町に帰ってきてから、かつての仲間たちに会うのが怖かった。

案の定、一番会いたくなかった奴とは最悪の再会をする羽目になるし、挙句はずっとやりこめられっぱなしでフラストレーションがたまり切りだった。

そもそもの原因は京助にあるので強く出る事は出来ないでいたが……それにしたって限度がある。

特に、彼女達の事を引き合いに出されてしまっては、我慢の限界だった。

 

引け目もある。負い目もある。

問題は山積みで、償いも禊も必要なのかもしれない。

だが、それとこれとは違う気がした。

 

そんな事を考えて拳を見つめていた京助だったが、すぐにはっとした様子で周りを見る。

もう遅い。

面々から向けられる目が痛かった。

 

「だぁああああ、くそ。けったくそ悪ぃ!」

 

舌打ちとともに足元の石ころを蹴りあげると、彼は冷たい目線を振り払うかのように早足で歩きだした。

 

「ちょ、京ちゃんどこ行くの?」

 

「あのバカの相手したら腹減った。飯食って帰る」

 

そう言い放ち、一人夜の街に消えようとして、ふと思いついたように、

 

「……なんならくるか? 奢ってやる」

 

口元を微かに歪めてそんな事を言ってみた。

彼がそんな気分になるのは、本当に珍しいことだった。

 

「え! いいの!? なら凛、ラーメンが良い!」

 

「さすが京ちゃん、太っ腹!」

 

「気前えぇし、気が利くやん?」

 

提案に最初に食いついてきたのは案の定この三人。

凛と穂乃果が喜び、希が悪戯っぽく笑う。

続いて、絵里と花陽、海未が申し訳なさそうに、

 

「もう……いつもごめんなさい、津田さん」

 

「本当に良いんですか?」

 

「その、私が言うのもなんですが、少し私達に甘すぎるのでは?」

 

「気にすんな」

 

そっぽを向いたまま、吐き捨てるようにに京助は言う。

いつも通りぶっきらぼうで不愛想、不機嫌を通り越して怒っているようにさえとられかねない態度。

だが、誰もそんな事気にする様子はない。

慣れていたというのもある。でも、それだけでは決してない。

 

彼ら彼女らの間にも確かにあるのだ。

A- RISEと貴仁のあり方とは似て非なる、信頼と信用の形。

 

「美味しい物じゃなかったら承知しないわよ」

 

「そうそう。頑張った私達に相応しいものにしてよね」

 

「……けっ」

 

真姫とにこの声を背中に受けながら、京助は見えないように薄く微笑んで、煙草を一本口に咥える。

彼女達とのこんな関係がいつしか当たり前のものになっていた。

当たり前で、だからこそかけがえのないものに。

 

「あの、さ」

 

「うん?」

 

声をかけられた気がして、京助が振り返る。

 

「先輩、その……」

 

にこが、京助の顔を見ながら何かを言おうとしているようだった。

 

「あの、津田さん!」

 

と、その時だった。

不意に駆け寄って来たことりが京助に声をかける。

 

「ど、どうした? 何かあったのか?」

 

京助の目から見ても彼女の様子は些か妙だった。

心配そうな京助と、それから近くで見ていたにこと真姫を他所に、彼女は数度深呼吸を繰りかえして、

 

「津田さん!」

 

「え? あぁ、津田ですが……」

 

思わずなんとも間抜けな受け答えをしてしまった。

 

「今度のお休みの日、わ、私と二人でお出かけしてくれませんか?」

 

意を決したように、彼女は真っ赤になってそんな事を口走った。

 

「…………は?」

 

先ほどまでの喧騒が嘘のようだ。その場だけ世界が凍り付いたかのようにそれぞれが行動はおろか何か言葉を発するのさえやめてしまう。

たっぷり5秒ほど間をおいて、やっと京助が言えたのはこれ以上ないくらいに間の抜けた疑問符だけだった。

 

「それって、デート、ってこと?」

 

穂乃果が言ったそれが最後のダメ押しだった。

 

「ええええええ!?」

 

近くで聞き耳を立てていた面々の口から、一瞬遅れて驚愕の悲鳴が上がる。

言った当人は赤い顔で目を閉じ、祈る様に手を組んだまま。

言われた当人は魂が抜け落ちたかのようにぽかんと立ちつくすのみ。

 

ぽとり、と。

火の点いていない煙草が彼の口元から落ちてアスファルトの上を転がった。

 

彼の受難はまだ当分終わりそうになかった。

 



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