二つのホルン (煉音)
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中学1年生
4月7日その1 二人の少女の朝


日常的な思いを書こうと思います。
うまくかけないかもしれませんが、どうかほのぼの系だと思って見てください。

タイトルに軽く修正をいれました。


 窓からの太陽の光が顔全体を覆う。

 

(眩しい・・・

 

 そんないつも通りな思いを残し体を起こす。

 

 もちろんなんてことはないいつも通りだ。

 

 ただ違うのは・・・隣にピッタリとくっつけたベッドで寝ている無防備な寝顔を浮かべている少女のほうだ。

 

 いつもなら自分より速く起きて、飛び乗ってくるくせに今日はなぜかまだ寝ている。

 

 それもそのはず、昨日は自分と一緒に夜遅くまで譜面を見ていたのだ。

 

「ふん・・・」

 

 軽くため息をつき、その無防備になっている頬を人差し指で軽くつつく。

 

 すると餅のような感触を覚えて、すこしクセになりそうだ。

 

 そんな無防備な顔の少女は、身長こそ高くないもの、若干大人っぽさがあるその顔は無邪気に笑えばきっと10人中15人振り返るくらい可愛いものだろう。

 

 そのうえ、自分と正反対な性格を持っているためか、友達作りはとても上手な子だ。

 

 きっと中学校では、たくさん友達を作るだろう。

 

 そんな、少し羨ましく思うその少女の名はヤクという。

 

 ヤクと自分は幼少期から同じ施設で暮らした間だ。

 

 今は二人仲よく養子として取られ現在に至る。

 

 そんなヤクの頬から人差し指を離し、今度は親指と人差し指で、無防備な寝顔の鼻をつまんでみた。

 

 「ん・・・ん・・・」

 

 何かから逃れようとする動きは見ていて可愛らしいものだ。

 

 三回くらいそんな動きをした後にその瞼は開かれた。

 

 綺麗な漆黒に染まった目は日本人独特のものだ。

 

「おはよう」

 

 笑顔を作って言ってやった。

 

「おはよ・・」

 

 まだ眠気のとれない目をしながら、呟くように言った。

 

 最近は起こされてばかりだったため、こんな顔を見るのは久しぶりだ。

 

 ヤクは眠気の残った目をこすりながら、体をおこした。

 

「ほら、そんなねぼすけじゃ、またじい様につつかれるよ」

 

 そんな事を言いながら自分はベッドから降りて、着替えの服をクローゼットから引っ張り出した。

 

「・・・ん・・・そーだね・・・ヨウコみたいな常なねぼすけじゃ、つつかれちゃうね」

 

 ヨウコとは自分の名だ。

 

 ヨウコはそんな返しを無視して、着替えの服を来た。

 

 緩い半袖のシャツと動きやすいズボンだ。

 

 鏡で見るとまだまだ子供な顔と目が合う。

 

「似合ってるよー・・・」

 

 後ろからはいつもの調子を取り戻した陽気な声が聞こえる。

 

「でもちょっと派手じゃない?」

 

 鏡越しにヤクの反応を伺う。

 

 声の調子はいつも通りだけど、どこかボーっとしてるヤクは、トロンとした瞳で私を見つめて言った。

 

「そのくらいがいいのだよ・・・ヨウコは可愛いからね・・・」

 

「そうかなぁ・・・」

 

 小さく呟いて、ヤクの下に歩み寄る

 

 小首をかしげているヤクはわかったわかったと言った顔付きになって、ようやくベッドから降りた。

 

「早く着替えなさい。またじい様のお手伝いに遅れちゃうわ」

 

 じい様というのは、自分とヤクを養子として迎い入れてくれた人のことだ。

 

 年齢はすでに78歳で、下の階のカフェでマスターをしている。

 

 そのカフェはもう開業以来50年になると言っていた。

 

 じい様は婚約者とかの事とかはなぜか教えてくれないけど、私たちを養子としてとってくれた大切な方だと思っている。

 

「ね、ヨウコー これなんてどう?」

 

 ヤクに目を向けると白いワンピースに身を包んでいた。

 

 綺麗な艶と細く細かで腰当たりまであるその髪に白いワンピースというのは似合うものなのだと、ヨウコは思った。

 

「うん、似合ってるきっとカフェの常連さんもメロメロだよ」

 

「えへへー そう?」

 

 ヤクは嬉しそうにニコニコしながら小首をかしげている。

 

「うん、きっとそうだよ」

 

 ヤクの顔はいっそう笑顔にあふれてこぼれそうだ。

 

 こんな会話だけでこんな笑顔ばかり見せられたらすぐお腹いっぱいになるだろう。

 

「さ、カフェに行こう」

 

 ヨウコは会話を切り廊下に続く扉に歩み寄った。

 

 年代を感じさせる扉はノブを掴んだだけで、少し音がなる。

 

 グッと力を入れればキィーと音を立てあいた。

 

「今日はどんなお客さんがくるかなー楽しみだね」

 

 ヤクは独り言のように言っているがきっとヨウコに向けて言ってるのだろう。

 

「そうだね」

 

 軽く相槌をうち廊下から続く階段を二人は降りたのだった。

 




一場面に対して、とても長くかいてしまいがちになりますね。

今回は夜中に書いているので、ここで区切らせていただこうと考えています。

続きのどうか期待よろしくお願いします。


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4月7日その2 カフェの仕事

前話から時間があまり経っておりませんが、投稿させていただきます。

下手な文ですが、気楽に見てもらえたら嬉しく思います。

オリジナルな地名が存在しますが、お気になさらず。


 軋む音は年代を思わせる証拠だ。

 

 築50年以上になるこの家の階段は人生全うするには最適な場所なのだろう。

 

 ゆったりとした作りの階段は腰が曲がってもしっかり歩けそうだ。

 

「おはよう、二人共」

 

 そんなまだまだ元気な張りのある少し高くなった声はまだ若い者には負けんと言わんばかりだ。

 

 そんな声の主に、ヨウコとヤクは声を合わせて大きく返事を返した。

 

「おはようございます おじい様!」

 

 どこぞの軍隊のようなやりとりだが、朝の挨拶ほど接客業と人に見せる姿にふさわしいものはないだろう。

 

 そんな元気な張りのある声を出した人物は、ヨウコとヤクがおじい様と呼ぶその人のことだ。

 

 その人は、名は佐々木 一郎と言う。

 

 ヨウコとヤクが8歳の時に施設から養子として迎い入れた張本人で、現在は小さなカフェのマスターをしている。

 

 一郎は二人の元気そうな声を聞いて、少し微笑みながら言った。

 

「朝食は作っておくから洗面所で顔を洗ってきなさい」

 

 カウンター越しにそう言うと一郎は後ろを向いて、また作業を始めた。

 

 ヨウコとヤクは「ハーイ」と返事をしてから、カウンターの奥のすだれを潜って居間を経由して洗面所へ行った。

 

 洗面所は大して広くもないが、狭くもない。

 

 ヨウコとヤクが二人並んで立てばピッタリと収まる程度の広さだ。

 

 二人は自分の歯ブラシに歯磨き粉をたっぷりとつけシャコシャコと磨いていて良い音を出していた。

 

 鏡に映った自分の長くもない髪を見つめながらクセ毛が立っていないかをヨウコは気にしていた。

 

 そんな念入りな視線を鏡に向けているせいかヤクが気づいたように顔を向けてきて、ヨウコの後頭部を目だけで笑いながら指差してきた。

 

 いつものこと、ヨウコは後頭部正面からでは気づかないところに綺麗にピンッと髪の毛が跳ね上がるクセがある。

 

 ヨウコはため息をつく素振りをしながらそろそろかと思い、口に水を含んだ。

 

 二三回水を捨てると口のなかはスッキリとして歯磨き粉の影響か、息を吸うととてもひんやりとくる感覚を覚えた。

 

「ヤク後ろ髪直してくれない?」

 

 言いながらヤクを見るとまだ水を捨てていた。

 

 どうやらうまくスッキリしないらしい。

 

 もちろんいつものことだ。

 

 ヤクは手で待てとばかりに手のひろを向けて水を何度も捨てている。

 

 七回目だろうか、ようやくスッキリとしたらしく手をおろした。

 

「どれどれ?」

 

 ヨウコはヤクに背中を向け応対を待った。

 

 すぐに、髪の一部分が触られる感覚を覚える。

 

 今回はいつもよりひどいらしい。

 

「今日はひどいね」

 

 鏡に映るヤクは苦笑いしている。

 

 ヤクは丁寧にヨウコの髪に櫛を通すと、はねている部分に水を含ませてさらに櫛を入れてほぐしてくれた。

 

 ヨウコはこれを自分でやると半日悪戦苦闘するかもしれない。

 

「できたよぉー」

 

 髪が長いとこういうことには慣れっこなのかもしれない。

 

 少し考えてる間にそんな朝の災難を退けてくれた。

 

「ありがと」

 

 素直に感謝するときっとヤクは笑顔でいてくれるだろう。

 

「えへー」

 

 振り向いた瞬間に大人っぽい顔を子供のそれに変化させるのだから、ある意味で男性からしたら敵かもしれない。

 

 そんな笑顔を軽くなぜるとより一層深くなるかもしれない。

 

 そんなやってみたい思いを我慢して、ヤクの髪の毛を上から下に見ると、なぜかクセ毛どころか跳ね一本見つからない。

 

 なにをどうしたらこんな状態になるのかヨウコは不思議で仕方がなかった。

 

「どしたの?」

 

 小首をかしげてさっきまでの子供の笑顔はどこにいったと言いたくなるキョトンとした顔付きになっていた。

 

「なんでもないよ」

 

 洗面台に向き直り冷たい水を両手いっぱいにすくって顔にあてがった。

 

 とても冷たいけど朝の目覚ましにはこれが一番効くかもしれない。

 

 二三度顔に水を当てれば、眠気などもうどこにもないシャキッとした顔が見えた。

 

 タオルで顔を拭うとヤクもタオルが必要になったのか端っこをつまんできていた。

 

 そのまま手を離すと持ち直して顔を拭い始めた。

 

「ふー」

 

 ため息なのかよくわからない息を吐きだして、ヤクはタオルを掛けた。

 

「さ、おじい様を手伝いましょう!」

 

 ヤクは言って、ヨウコを押しながら洗面所を後にしたのだった。

 

 「その前に食事ね」

 

 途中そんなことをつぶやいたのだった。

 

 

 

 カフェのカウンターに行くとすでに、出勤前のサラリーマンの男性らが数人テーブル席とカウンター席についてた。

 

 一郎は相変わらず、カウンターの向こう側の同じ位置でグラスを磨いたり、珈琲を淹れたりしている。

 

「おじい様済ませてきました!」

 

 子供っぽく笑顔で大きな声で、ヨウコとヤクは合わせて言った。

 

 すると、数人のサラリーマンは少し新聞の向こう側で微笑んだ気がした。

 

 なるほど、子供っぽさはここで使えるなと思えなくもない。

 

「では、朝食を済ませない。カウンター席の奥にサンドイッチと紅茶を淹れておいた」

 

 言われて、ヤクと同じタイミングでそちらを見ると、スクランブルにした卵と薄く切ったハムにキャベツと一緒に薄い耳のないパンに挟んだものが、二つずつ皿の上に乗っている。

 

 あとは、その横に二つのカップがあってまだ湯気がもうもうとたっていた。

 

「はーい」と語尾をわざと長くしながら、ヤクと一緒にカウンター席に着くとカップからダージリンの強い香りが漂っていた。

 

 ヨウコは基本紅茶は香りは楽しむ派で合って、砂糖などで甘くして飲むことがとても少ない。

 

 逆にヤクはストレートで飲むことが希にしかないほど、甘党で毎回砂糖をたくさんいれて飲む。

 

 小さなスプーンに山のようにすくった砂糖を二杯も入れたヤクは、ちょっと嬉しそうな笑顔を浮かべながらカップをかき混ぜていた。

 

「ふむ・・・」

 

 そんなヤクの行為を少し不満気な目で見つめていると、ヤクはそれにすぐ気づいたらしい。

 

 顔はそのままに、目で見つめ返された。

 

 なんでもないというふうに、目を逸らすとヤクはカップの中身をまだ湯気が立っているにもかかわらず、一気に飲み干し二つのサンドイッチをもそもそと食べ始めた。

 

 ヨウコはちびちびと紅茶を飲みながら、サンドイッチも片手に一口ずつ味わって食べる。

 

 ヤクはもそもそと食べる割には口の動きが早く飲み込むまでそんなに時間がかからないうえ、美味しそうな笑顔まで浮かべているのだから、本当にかなわない。

 

 ヤクはおそらく無意識にやっているのだろうが、一番入口に近いカウンター席に着く男性サラリーマンが、少し微笑んでいるのが横目で見えて苦笑いものだ。

 

「お仕事ですね」

 

 ヤクは食事も切り替えも早いのが取り柄だ。

 

 ヨウコはまだ一つ残ったサンドイッチを片手に食べているのに、ヤクはすでにカップと皿の上を空けている。

 

 そんなヨウコをよそにヤクはカウンターの内側へ回り込んで、おじい様から仕事を受けている。

 

 小さな小切手の切れ端を一枚大切に持って、こちらへ戻ってきてしまった。

 

 どうやら、お使いのようだ。

 

「夕紅島量販店にコスタリカ産の珈琲豆とダージリンの葉っぱを仕入れてもらったんだって、契約は済んでるから現物と引換えてきてくれだって」

 

 定期的に頼まれるお使いというのは、店が朝の喫茶のかわりにもなるために、絶対必要不可欠なものだ。

 

 飲み物は朝の調子を整えるのにはとても役に立つ。

 

 しかもそれが珈琲や紅茶と言った朝の調子に拍車をかけるものならなお一層だ。

 

 お使いの内容を確かめるように、一口のサンドイッチを口に放り込み、冷めかかったぬるい紅茶をグッと流し込み朝の朝食を済ませた。

 

 まだ、足の届かない固定椅子から降りると早速一つ目のお仕事をしに店から出た。

 

 もちろん出る際に「行ってきます!」は忘れない。

 

 サラリーマン達がまた笑顔で頑張れと手を振ってくれた。

 

 

 

 日差しが暖かくなって来たとは言えまだまだ、半袖とワンピースというのはなかなかに目立つものだ。

 

 朝の7時頃は間断なく人が歩いていて、ヤクの手を取っていないとはぐれそうで少し不安になる。

 

 そんなヤクはしっかり預かった小切手を小さな肩掛けバッグに入れて、大事そうにその蓋を片手で抑えて歩いてた。

 

 その小切手にはカフェの当座預金からお金を引き出す力があるのだ。

 

 周りが全員敵に見えて仕方がなくなるかもしれないと、ヨウコは少し同情の念を抱えていた。もちろんヨウコにだってそれはとても重要なことだ。

 

 カフェから量販店までの道のりはさして遠くはない。

 

 道路を何枚か挟んだ向こう側にあるのだから歩いても10分程度で着いてしまう。

 

 しかし、今日は人が多いせいかそんな近い道のりもちょっと遠く感じてしまっていた。

 

「む・・・」

 

 何度か人にぶつかりながらもなんとか前に進んで、歩を進めた。

 

 気づけばその量販店は視界に入った。

 

 スーパーのような大きな店構えに立派な看板が乗っている。

 

 夕紅島量販店はこの夕紅島市が出来る寸前からある有名な量販店だ。

 

 入口も最新のドアが取り付けられていて、扉が自動でパァっと開くようになっている。

 

 まだ自動ドアなんて最近発表されたばかりで、小さな店ではその機能を買うだけでも破産しそうなものだ。

 

 中は綺麗で、米や野菜、お菓子に小麦粉、インスタント食品までもがずらりと並んでいる。

 

 スーパーのようなとは言ったが、スーパーを兼ねてると言っても過言ではない。

 

 夕紅島量販店は消費者に対しての小売も行っていて、その扱う商品はスーパーの比ではない。

 

 そんな広々とした立派な量販店の中を歩き暇そうにしている店員にヨウコは声をかけた。

 

「あのー夕凪カフェから商品の引き取りにきたのですが・・・」

 

 店員は身長は高くスラリとした体型に綺麗に整えた髪をした大学生風の男性だった。

 

 その店員はヨウコの要件を聞くと、ここで少し待つようにと小さく言って、店の奥に小走りに引っ込んでしまった。

 

 言われたとおりにヨウコは近くのアイスバーを覗き込みながらヤクと待つことにした。

 

 ヤクは少しソワソワしているけどいつものことで、あんまり来る予定の無い所に来ると、周りを観察したい好奇心とかで少し迷っているのだろう。

 

 そんな迷いがあるのはきっとヨウコの左手を掴んでいるせいかもしれない。

 

 ヨウコはアイスバーから自分の興味を引く品物を見つけては手にとって、裏を眺めていた。

 

 そんなことをして少し時間を潰していると、またさっきの男性店員が小走りに戻ってきて、「お待たせしました」と言った。

 

 広い店内はきっと歩いていたら、ヤクと二人だけじゃ迷ってしまうだろう。

 

 男性店員はこの広い店内を完全に把握したかのように、スイスイと品物の間をくぐり抜けて職員用の扉を開けて中へ入るようにと促してくれる。

 

 きっとここでは自分達は子供じゃなく一人の商人なのだっと小さく頭の四隅でヨウコは思いながら、その暗く狭い道を先に先にと進んだ。

 

 やがて、突き当たりの扉に入るように男性店員に言われ会議室のような、白が目立つ四角い部屋に入れられしばらく待っていると、先ほどヨウコ達が入ってきた扉から、オーナーの名札を提げた顎に少しヒゲをはやした男性が入ってきた。

 

「いやーこれはどうも、夕凪カフェから商品の引き取りに来たと聞いたから、一郎様が来られるものばかりと思っていましたよ。まさかこんな可愛らしい娘さんお二人が来られるとは、はたまたどのような風の吹き回しでしょうか?」

 

 さすがに、地域に転々としてある店舗とはいえ、そこを任されるオーナーだ。

 

 よく口が周り、ほとんど息継ぎなしで喋りかけてくるのは、子供にとっては雨に打たれるように言葉を遮りにくい。

 

「一郎じい様は今年78になられます。自らの足で赴くには少し負担が大きいと言っておられました。ですので、まだ元気な足がある私達が赴くことにしました。それだけのことです」

 

 もちろん最後はちゃんと愛想笑いも入れておく。

 

「なるほど、さすが一郎様ですね。全く表情の裏に何を持っているか分からない娘様をお育てになられたものです。立派なことです。良き商人になるでしょう」

 

 オーナーの男性は微笑みながら何度もうなずいた。

 

「では、商品の引き取りをしたいのですが、契約書と現物を用意していただけますか?」

 

「ええ、しかしながら商品の引き取りとは言えども、二人の娘様ではどうにかなる商品の山ではありません。私どもは今後とも夕凪カフェとの関係は良好なものでありたいと考えていますので、今日は私の意向でトラックをお一つお貸しします。この旨をどうか一郎様にお伝えくださいませ」

 

 商品の山は少し思っていたが、まさかトラック一台貸してもらえるとなると、十分な黒字な気がする。

 

 信用と親交でここまでサービスを受けられるとなると、なるほど・・・経済も面白くないこともないかもしれないとヨウコは思った。

 

「ええ、夕凪カフェはまだまだ存続の道にあります。ぜひ今後とも夕紅島量販店様とは良き関係でいたいと思っております」

 

 これは店自体を取り仕切るものの言葉だが、自分は店を代表してこの場にいると思うと、少しそんな言葉を言いたくもなるものだ。

 

「では、契約書にサインをしていただけますか?」

 

「あ、その前に・・・トラックドライバーも貸していただけますよね?」

 

 オーナーの男性は目が点になっていた。

 

「あ、ああ、もちろんですよ」

 

 オーナーの男性はまた微笑みに表情を変えて言った。

 

 ヨウコはおそらく単純な言葉の理解をしていたらしい。

 

 隣に座っているヤクが小さく吹き出して笑っていた。

 

「し、失礼・・・ではサインですね」

 

 ヨウコは夕凪カフェの印鑑を押して、自分の名前を書き込んだ。

 

「契約成立です。娘様方はトラックの助手席にお乗りください」

 

 ヨウコとヤクは席をたちオーナーの男性と軽く握手し、オーナーの男性に先導してもらい荷上場へ向かった。

 

 荷上場には5台ほど夕紅島量販店の名をデカデカと掲げたトラックが入っていた。

 

 ヨウコが背伸びしても、トラックの背丈には届くはずもなく逆に見上げるような形になってしまっている。

 

 そんなトラックの助手席に乗ると思うと、少し面白そうで興奮してしまっていた。

 

「では、こちらのトラックにお乗りください」

 

 案内されたトラックもやはり大きいものだ。

 

 意外と夕紅島量販店が夕凪カフェと良好関係にありたいのは、結構本気かもしれない。

 

 そんなヨウコの胸中を見透かしたのか、オーナーの男性が口を開いた。

 

「我々夕紅島量販店では、近年珈琲豆や茶葉の食品業界で劣勢にあるのです。売れずに余ってしまうと、商品の価値はどんどん下がるもので、少し高い値段でもお買いしていただけるお店とは少しでも良い関係のないと利益がありませんのです」

 

 ヨウコはオーナーの男性の言葉を聞き入っていた。

 

「おっと、失礼こんなことを言ってはいけませんね」

 

 ヨウコは首を振って言った。

 

「いいえ、私もまだまだ勉強と修行中の身にありますゆえ、今のお言葉大変な勉強に預からせていただいきました。逆に感謝の気持ちで溢れてしまいそうです」

 

 オーナーは笑顔になって、「ありがとうございます」と言った。

 

 ヨウコは後ろにいるヤクに小切手を出すように促し渡してもらった。

 

「えっと25万円ですね」

 

「ええ、コスタリカ産の珈琲豆が17万分と茶葉8万分ですね」

 

「では、これで・・・」

 

 ヨウコは紙にサインと金額を書き込みそれをオーナーに渡した。

 

「ん・・・確かに頂きました」

 

 オーナーはにっこりと微笑んで、後ろで待機していたドライバーに一声かけ、ヨウコらにトラックに乗るように言った。

 

 ヨウコとヤクが登りにくそうにしていると、身長の高いドライバーはひょいと運転席から引っ張りあげてくれた。

 

「では、夕凪カフェに商運あれ。またのご来店お待ちしております」

 

「夕紅島量販店様とはこれからも良き関係でありますよう、お祈りさせていただきます。ではまた、その日まで」

 

 オーナーと周りにいた数人の職員は深々と頭を下げた。

 

 ヨウコらを乗せたトラックはそんな職員達のいる夕紅島量販店を後に道に出た。

 

 トラックから見上げる道路はとても高く、少し怖く感じたが楽しさもそれなりに感じられた。

 

 トラックは5分と経たない内に夕凪カフェの前に到着し、先ほどのドライバーはせっせと荷物運びに移っている。

 

 たくさんあった荷物も10分程度のうちに完全にカフェの店内に移動し、ドライバーはニッコリと笑って「またのご利用お待ちしております」と言っていた。

 

 なるほど・・・よい店は態度が良い店なのかと納得してしまった。

 

「おつかれさん、二人共」

 

 そんないつもの声を聞いた途端にヨウコはドッと疲れが出たような気持ちになった。

 

「オーナー様がおじい様によろしくと言っておりました」

 

 報告は大体ヤクがこなしてくれる。

 

「そうか・・・二人共頑張ったな。しばらく休憩していていいぞ」

 

 ヨウコは疲れた頭を休めるために、テーブルの小さなかごにあった角砂糖の袋を開けて口に放り込み、一番奥のテーブル席に腰掛けたのだった。

 



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4月7日その3 ホルンのレッスン

「ふわぁぁ・・・」

 

 大きな欠伸をし、硬い木の椅子の上で伸びをして目を覚ました。

 

 まだ若干角砂糖の甘味が口に残っている。

 

 どうやら、頭を休めるために軽く目をつぶったまま眠ってしまったらしい。

 

 カウンターの内側でヤクがせっせと接客に勤しんでる姿が目にうつった。

 

「あ、ヨウコ、おはよー」

 

 また陽気なその声は、昼前だからだろうか元気そうだ。

 

 いや、いつものことだろう。

 

 ヨウコはそんなヤクに軽く手をあげて返事として返しといた。

 

 目を擦れば30分程度の睡眠の眠気など消えるだろう。と思い擦っておいた。

 

 ヨウコは硬い椅子から立ち上がりカウンターの内側へ行った。

 

 一郎はせっせと珈琲を淹れる準備を慣れた手つきで行っている。

 

「おじい様、なにかやれることはないでしょうか?」

 

 一郎は視線だけ向けて言った。

 

「では、2番のテーブルと3番のカウンターの注文を聞いてくれないか?」

 

 仕事をもらいすぐに、取り掛かろうと伝票版とペンを持って、カウンターより出た。

 

 まずは、テーブル席に注文を聞きに行く。

 

「ご注文はお決まりでしょうか?」

 

 早めのお昼を軽く取りに来ているのか、中年の男性だ。

 

「サンドイッチセットを一つ 飲み物はスペシャルブレンドで」

 

 夕凪カフェのセットメニューは基本的に、食べ物+飲み物のセットとなっていて、お手柄に食べて、飲んで、ゆっくりすることができる。さらに、お値段は500円で原価計算すると、ちょっとばかし高い気もするが一郎おじい様の腕の良さのおかげで、頼んでくれる人がたくさんいる。

 

「かしこまりました」

 

 丁寧に言葉を並べ愛想笑いの一つでもすればカフェでの接客は万点だと聞いた。

 

 しっかり、中年男性の顔に満面の笑顔を貼り付けさせることに成功した達成感を胸にカウンター席に注文を取りに行った。

 

「ご注文はお決まりでしょうか?」

 

 そこにはなにやら、教材に使う資料のようなものを並べた女性が座っていて、ヨウコの声を聞くとぼんやりした声で答えた。

 

「夕凪セットを一つ ダージリンの紅茶でいいわ」

 

 夕凪セットは夕凪カフェで作れるサンドイッチやサンドの詰め合わせのものだ。

 

 値段は変わらないものの、一つの皿の上で、全てのお料理を楽しめるセットの一つ。

 

「かしこまりました。紅茶はホットかアイスどちでしょうか?」

 

「ホットでいいわ」

 

「かしこまりました。失礼ですが、ミルクはお付けしましょうか?」

 

「いいえ、ストレートでかまわないわ」

 

「かしこまりました」

 

 飲み物が紅茶の時ほど何回もしつこく聞かないといけないことはない。

 

 ミルクかレモンかとか、ホットかアイスかとか、たくさん聞かなければならない。

 

 少しそんな不満を心に宿しながらヨウコは、カウンターの内側に回ったのだった。

 

「おじい様、ご注文承ってまいりました」

 

 一郎は少し忙しそうに紅茶のポットに葉を詰めながら言った。

 

「では、ヨウコは2番テーブルのお客様のお料理をお作りしなさい」

 

 次の指示を聞きヨウコはすぐに作業に取り掛かった。

 

 サンドイッチサンドはとても手軽に作りやすい料理だ。

 

 薄くスライスした食パンの耳を丁寧に落とし、それにチーズとキャベツとハムとスクランブルした卵を少し挟んで長方形に切れば出来上がるのだからだ。

 

 そんな決まったレシピを頭の隅から引っ張りだして、作業にかかりサンドイッチは作り終えた。

 

「おじい様、スペシャルブレンドはどのようにすれば・・・?」

 

 一郎はスペシャルブレンドは日替わりに変えてしまうのだから、ヨウコやヤクにはそのブレンド方法はわからない。

 

 一郎は手元にある豆挽きに、それぞれ違う袋からとった豆を数粒ずつ入れて、ゴリゴリと豆挽きを回した。

 

 挽かれて出てきた粉を下のカップに受け取ると、手早くコーヒーカップの上へ載せて、お湯を回しながら流し込んだ。

 

 型にはまったその手際はとても見ていて清々しいものだと思った。

 

 気づけば一郎はヨウコの目の前にスペシャルブレンドの淹れられたコーヒーカップを置いていて、すでに違う作業を実行している。

 

 ヨウコは遅れて出てきた「ありがとうございます」の言葉を呟いて、サンドイッチと共にコーヒーカップをお盆に載せて、2番のテーブル席に運んだのだった。

 

「お待たせしました。サンドイッチセットのスペシャルブレンドでございます」

 

 接客業では、食事を運んだ時ほど笑顔を見せる場面はないだろう。

 

 料理を並べた後にお盆を両手で抱え笑顔と共に深々と頭を下げて、下がれば十分な成果を得られるはずだ。

 

「ん・・・ありがと」

 

 中年男性は短い返事をあとにコーヒーカップに口をつけて、目を見開いていた。

 

 相当美味しいものだったのかもしれない。

 

 そして、そんなほのぼのしたカフェのお仕事は3時間ほど続いた。

 

 

 休日のカフェは午後2時頃に閉めることになっている。

 

「ありがとうございました!」

 

 最後まで残ったお客様が出て行く時には、しっかりと出入り口までお迎えし、満面の笑顔と大きな返事で送り出すのが流儀だ。

 

 また来るよ。とばかりに、最後に出て行ったサラリーマン風の男性に深々と頭を下げていた頭を上げた頃には、眩しい日差しはカフェの中を照らしていた。

 

「おじい様、今日のお仕事はこれで終わりでしょうか?」

 

 ヨウコとヤクは入口に入り、カウンター越しに一郎に聞いてみた。

 

 一郎は残った洗い物を手に視線だけヨウコらに向けて言った。

 

「ああ、今日の仕事はこれでお終い、夕飯の買い出しは昨日の分で足りるから、お前達の勉強に付き合ってあげよう」

 

 勉強といっても小学生達がするような勉強とは違って、一郎がヨウコらに対して言う勉強はホルンのレッスンのことだ。

 

「では、楽器を出してきます、今日はどこで教えていただけるのですか」

 

 一郎は視線を目の前に戻し、洗った皿をタオルで拭きながらヨウコらに言った。

 

「今日はそうだな。ここでしよう」

 

 いつもならヨウコらの部屋でレッスンはやるのだが、今日はとても気分が良いのかカフェのなかでやることになった。

 

「わかりました。では行ってきます」

 

 ヨウコはヤクの手を取って自室に足を進めた。

 

 年代を感じる階段を上り扉を開けると、いつもの質素さを匂わせる四角い、隅にベッドが二つ並んだ部屋に入る。

 

 窓は大きく、ベッドに面していて窓側のベッドは朝には日差しの的になって眩しくなる。

 

 そんないつもの光景を無視し、ヨウコとヤクはそれぞれのベッドの下に手を突っ込み、四角い箱を取り出す。楽器ケースだ。

 

 ホルンと言われれば想像するのは、あのカタツムリのようにグルグル巻いた菅に、トランペットの二倍はあるだろう開いた向日葵のようなベルが特徴で、箱はユニークな形になってしまうのではないかと思うだろう。しかし、ヨウコらが所有するそのホルンは、大きく開いたベルの部分を取り外せるようになっていてとてもコンパクトに収まるものだ。

 

 そんな四角い箱を開けると巨大なベルの下に、丸く収まった本体に長く使われたことを印象づけるくすみにくすんだその金色の楽器は姿を見せた。

 

 おじい様が若い頃に吹いていたというそれは、もう60年以上も前から存在しているものだ。くすんでいるが金色のボディはヘコみが少なく、垢がついた跡もほとんどなくおじい様が大切に扱っていたのが伺える品物だった。

 

「デタッチャブルを慎重に締めてね」

 

デタッチャブルはホルンのベルと本体を繋いでいる部分、ベルをデタッチャブルに差込グルグルと回すことでネジがナットに入るようにそれは締まり、響きを繋ぐ場所になる。

 

 そんな場所はとても重要で、ベルの端っこを持って回すと力のバランス的にデタッチャブルを破損したり、うまくはまらなかったりする。おじい様に教えてもらったとおりにベルの内側に手を入れ真っ直ぐ回せば素人でも綺麗にハマる。最後に注意するべきは締めすぎないこと、ある程度締めてガタガタと音を出さなければ十分な状態だ。

 

 そんな過去の3年以上前の復習をしながらヨウコとヤクはゆっくりと慎重に丁寧に大切にそれを行った。

 

「できた?」

 

 そんな言葉をヤクに投げかけるとふんふんと頷いている。

 

 ヤクは習い始めた頃ホルンのデタッチャブルがうまくはまらなくイライラしたことがあり、ヨウコによくお姉さん面で締め方を何度も教えてもらっていた。

 

「今日はうまくいったよー」

 

 そんないつものやり取りにいつもの返事をしてヤクは綺麗にはまったそれを掲げて見せている。

 

 ヤクの掲げるそれもおじい様が使っていたお下がりだ。ヨウコの物とは品種も製造元も細かいところも全く同じで、ヨウコの物ほど古くはない。しかしそのレバーには長い事使われていた跡が残っている。

 

「うん、今日はうまくいったね。じゃあ練習の譜面とチューナーを持って行きましょう」

 

 練習の譜面は音階と指使いが書いてある。チューナーは四角い音を測る機械で、おじい様が行きつけだった楽器店から特殊に仕入れたもので、ピアノの88鍵全てを測ることができる代物だ。もちろん値段なんてそんな怖い話を聞いたことなんて一度もない。

 

「譜面台も忘れちゃだめだよ~」

 

 陽気な声はいつも通り楽しそうだ。もちろんホルン自体を二人とも大好きだから、毎日午後におじい様がしてくれるレッスンは日課で楽しみにしている。

 

 ホルンは深みのある音色に優しいぬくもりを秘めている。それでいて曲の盛り上がる場面の瞬間にはグリッサンドと言った技法でテンションを最大限にまで高める楽器だ。

 

 さらに言えば、ある曲には悲しさや陽気な感情までも表現するらしい。非常に感情豊かでカッコイイ楽器だ。

 

 しかも、ホルンは楽器の中でも歴史が非常に濃いのだ。発展元が角笛だと聞いた時は、かなりビックリしたものだ。かつて狩りに使い獲物の場所を知らせるために使われたそれが、こんな感情豊かで深みのある音色を奏でる楽器になったと思うと世の中何があるかわからないものだ。としみじみヨウコは思っていた。

 

 そんな思いをよそにヤクは小さい譜面台を片手に早く行こうとばかりに、ヨウコの背中を軽く押すように当たってきている。

 

 わかったわかったばかりにヤクを肩ごしにチラ見してヨウコは空いてる右手でドアを引いたのだった。

 

 

 

 カフェに行くと既にカウンター作業を終えてテーブル席に着いていた一郎が、珈琲を片手に新しい譜面なのか紙を並べて読んでいた。

 

「おじい様準備ができました」

 

 ヨウコはヤクから譜面台を受け取り、座った時の目線に合わせて足を伸ばしながら言った。

 

 幸いヨウコとヤクは慎重がほぼ同じなので使うときにいちいち合わせなおす必要がない。

 

「よし、じゃあまずは唇でもほぐしていなさい。飲み物は何がいい?」

 

 いつものやり取りだ。レッスン中はおじい様が飲み物を用意してくれる。

 

「あたしはオレンジジュースがいいなぁー」

 

 子供っぽく陽気な声をわざとらしくだしてヤクは言った。

 

「私もヤクと同じでおねがいます」

 

 ヨウコは別になにかというものはないので、ヤクに便乗して場をやりすごした。

 

 そんなやり取りのあとにヨウコらはおじい様に言われたとおり唇をほぐす運動を始めた。基本的には保育園児がブルルルとお風呂場でやっているような動きだが、これが楽器を扱う上でとても良い運動になる。

 

 ホルンの発音はマウスピースと呼ばれる。金管楽器の中では最小の鉄の塊のカップを使って行うもので、唇に軽く当ててそれに息を吹き込むとカップのなかで唇が細かく振動して音となり、菅を伝って音が出る仕組みとなっている。

 

 唇の振動の音自体はそんなに大きくないかもしれないけど、いわゆるメガホンのようなものだと思えばわからなくもない。小さな口から音を入れると大きな口のほうから増音して放出されるようなものなのだ。

 

 おじい様が言うに、音が出にくいなどと言う人は大抵唇が硬い人か、振動についての理解が浅い人だっと言っていた。しかし、これを理解して子供っぽいけどこの唇をブルルとする運動を毎日すれば、なるほど・・・悩みは解決してしまうかもしれない。

 

 そんなことを言っていたおじい様は今でも綺麗で深みのある音をホルンから出せる人間だ。もしかしたら自分自身が良い例だと表してるようにも見えなくもない。

 

 そんな昔に考えていた思いを思い直しながらヨウコはヤクと一緒に子供っぽくブルブル唇を震わせてほぐしていた。

 

「そろそろいいですか。お二方?」

 

 30秒程度の運動だが、1分なくても十分なくらいの運動だ。

 

 ヤクと一緒にうなずいてからヨウコは、軽く自分の唇を撫でて再度頷いたのだった。

 

 一郎はヨウコとヤクの前に一杯のオレンジジュースを置き、ヨウコらとは反対側の席に着き言った。

 

「よし二人共、明日は入学式だったよな?」

 

 そう、ヨウコとヤクは明日8日に夕紅島中学校に入学予定なのだ。

 

 もちろん、公立の学校だから制服と指定カバンだ。

 

 そんなもろもろのものは既に購入済みでしっかりと部屋の片隅に掛けて置いてある。

 

「はい、おかげさまで私達も明日から晴れて中学生になります。おじい様には感謝の気持ちでいっぱいです」

 

 ヨウコはニッコリと笑顔で言って一郎の顔を見ながら言った。

 

 ヤクも隣でニッコリしている。

 

「お前達が来てもう4年だな。中学校でのクラブは吹奏楽をやっぱり志望するんだな?」

 

「うん、おじい様が教えてくれるホルンは大好きだから、しっかり小さな場所からその教えを生かしていこうと思うのです!」

 

 ヤクはいつもの調子で元気良く言ってくれた。

 

 一郎は微笑みかけて「そうか」と言って、一枚の紙をヨウコとヤクに差し出して来た。

 

 ヨウコらはそれを受け取って目を通してみると、さして難しもない構成でタイトルのまだ書かれていない曲の序章の一部の譜面だった。

 

「おじい様これは・・・?」

 

 一郎は珈琲を一口含んでから、ゆっくりと飲み干してから言った。

 

「ホルン2重奏だ。二人のために私が書いたのだ。お前達は私のレッスンに4年間もついてきてくれている。しかも、二人は私の大切な娘だ。特別なもので二人を飾りたいと思うのだよ。それに・・・」

 

 一郎は一旦言葉切ってから続けた。

 

「二人が小学校を卒業して中学校に入学するという記念だ。せっかく新品で二人のためだけのホルンを用意したんだ。新しい曲を一番最初に自分の楽器で吹きたいだろう?」

 

 ヨウコとヤクは目を合わせて二人仲良く?の文字を浮かべていた。

 

「おじい様・・・それってどういう・・・」

 

 意味?と言う前に一郎はテーブルの上に二つの四角い箱を置いた。

 

 トランペットを2本以上しまえるくらいのその箱はヨウコとヤクの名前がそれぞれローマ字で綴って縫い合わせてあった。

 

「え・・・?おじい様・・・?これって・・・」

 

 ヤクは目を点にして固まってしまっている始末で、ヨウコは状況の整理がつかなくなってしまって迷っていた。

 

 それもそのはずだ。サプライズにしてはドが過ぎるレベルのサプライズだ。

 

「ああ、そうだ。二人のためにホルンを用意したんだ。二人が音楽を学ぶ上でホルンを愛してくれると言ってくれたから、今私は本当に嬉しくて仕方がないのだ」

 

 一郎は笑顔になって、ふーっとため息のような安堵の息を吐いて、また珈琲に口をつけはじめた。

 

 ヨウコは少しずつ思考が追いついてきて、ヤクの方に視線を向けると、ヤクは点になった目がちょっとずついつもの目に戻ってきて、戻ったかと思うと、その綺麗な黒色の瞳の下にはちょっとずつ涙が溜まってきていた。

 

 ヨウコは状況の整理がついた瞬間に涙が溢れ出して、幾筋も顔に涙伝った。おそらくヤクはヨウコよりも頭が回るようだ。ちょっとずつ溜まる涙の訳は泣くのを我慢していたからかもしれない。

 

 少しずつ溜まっていた涙はいつか溢れ出しヤクの顔にも何筋か涙が伝った。

 

「おじい様・・・ありがと・・・エグっ・・・ございます・・・」

 

 えずきながらヨウコは感謝の言葉を述べていた。

 

 ヤクは少しずつの涙が故障中の蛇口のようになってしまったのか、言葉すらままにならないくらいに涙をぬぐい続けて俯いてしまっている。

 

 ヨウコとヤクはホルンをテーブルの上に置いて一郎に抱きついてた。

 

 二人共に嬉しさのあまりそんな行動に意識などなかった。

 

「二人の可愛い娘だ。この先重要な事などない余生だ。お前達二人の成長を見るのが私のわずかながらの楽しみなのだ。どうかここは笑ってくれないか?」

 

 ヨウコとヤクは無理やり涙を拭って一郎を見上げる形で、無理やり笑顔を作って一郎の顔を仰いだ。しかしそんな笑顔も瞬く間に涙で濡れて、その顔はまた崩れてしまった。

 

 一郎はそんな二人を軽く抱きしめてから言った。

 

「二人の笑顔はいつ見ても元気になるな。ありがと。ところで楽器を吹いてみてくれないか?」

 

 ヨウコとヤクは流れる涙を乱暴にまた拭って一郎のホルンをカウンターの上に置いて、さっそくその分厚い四角い箱を軽く持ち上げて、横に倒す。その時感じた重量は一郎のホルンよりも重たいものだった。

 

 ヨウコとヤクはどんなものが出るのか期待に溢れんばかりの胸を抑えながら、蓋を開けた。

 

 中に見えたのは眩いばかりの金色を放つベルと本体とマウスピースが入っていた。

 

 ベルは一郎のものより少し大きく、本体は4重に菅が連なっている。

 

 ヨウコとヤクは、最高で3重のトリプルホルンしか見たことがなくその箱の中にある4重のそれを何度も目をこすって見た。

 

 確かにその箱の中には4重の本体をが入っていし、マウスピースもまた変わった形をしている。形状自体は変わらないのに、唇をあてがうその部分は本体のボディのように輝く金色でできている。

 

 しかも、ヨウコとヤクの本体を交互に見れば左右対称になっていた。

 

 ヨウコのは右利きでヤクは左利きだ。

 

「二人の体の利き手と唇の形にも合わせてもらったからきっと二人のお気に召すはず」

 

 と一郎は珈琲を片手に言っている。

 

 ホルンはデタッチャブルでバルブが6つもついていて、レバーももちろん6つあって5本の指で操れるように、小指の来るところに2つ分のレバーがついている。

 

 しかもベルには遠目に見るとわかるくらいの、綺麗な夕凪カフェのマークが半分装飾されていて、おそらくヤクのベルと鏡合わせに合わせたときに、その形が完成するように装飾されている。文字通り2つで1つのホルンのようだ。

 

 そんな感嘆の気持ちを胸いっぱいに溢れんばかりに浮かべながら、ヨウコとヤクはベルと本体を丁寧にくっつけて、マウスピースをはめた。

 

 そのホルンは一郎のホルンの1.5倍くらい重くて、立って吹くにはあまりにも重すぎるそんなホルンを抱えてヨウコとヤクは椅子に座り、マウスピースに口をつけた。

 

 まずはウォーミングアップから、Fの音階を一郎の小さなメトロノームに合わせて吹く。

 

 一音ずつしっかり、真っ直ぐに2拍ごとに上がっていく練習だ。

 

「じゃ、まずは100のテンポで始めようか」

 

 カチっカチっとメトロノームは揺れ始める4拍目が開始の合図だ。

 

 フォーンと聞こえるその音はトランペットと比べると高く聞こえガチだ。

 

 FからはじまりGAB♭CDEに来てFで終わるワンフレーズこれを吹かないと始まらないものだ。

 

 新しいマウスピースは初めてのわりにはうまく口に馴染んでとても吹きやすく感じた。本体のボディのような金色の吹口はいつものマウスピースより暗い音が出るらしい、ヨウコが好むダーク色の音が出ていた。

 

 1フレーズ吹き終わると一郎は珈琲をまた一口飲み言った。

 

「うん、二人共だいぶ音に対して集中できるようになったな。1年前まで音を合わせることすらかなわなかったのにな・・・とても良い成長だ。ヤクはCの音が少し高くなるようだな少しだけ1番菅を抜いておくといい」

 

 そう、1フレーズ吹く事の重要なポイントは、音を合わせるのではなく現在の揺れの無い真っ直ぐな息で吹いて音がずれてないかを確かめるもの。

 

 いちいち合わせているような状態では絶対音感を身につけるまで吹けたようなものではない。

 

 だから一度や二度何度も吹いては調節を繰り返して万全な状態にしなければならない。

 

「よし、では今日は二人の初見力を見てみたい。さっき渡した譜面を二人で話し合って、パートを決めて吹いてくれるか?」

 

 さっきの譜面を見てみると、片方のパートはヘ音記号でもう片方はト音記号という形だ。メロディーを吹くのはもちろんト音記号の方で、難しくないフレーズが続いてる。かといってヘ音記号のフレーズは難しいと言われればそうでもなく、息継ぎの場所が少ないだけだ。

 

「じゃあ、ヤクはメロディー吹いて?私はダークな音だし、支える役にピッタリだよ!」

 

 ヨウコはヤクに提案してみた。

 

「分かった。うまく表現してみるよ!」

 

 パート分けは決まった。

 

「では、おじい様合図をください」

 

 一郎は頷いてメトロノームを合わせて4拍目からっと言ってくれた。

 

 吹き始めは下パートのヨウコからだ。

 

 譜面にはピアノの記号とメッゾ・フォルテに続くクレッシェンドの記号が見える。

 

 小さな音でブルルと低い音で、吹き始めだんだんと音を大きしていき、メッゾ・フォルテのフレーズに入るとヨウコがすかさずフォーンとホルンらしい深みのある音を入れてくれる。

 

 一瞬のばしたかと思うフレーズの次は短く区切られたフレーズはとても陽気で、2重奏にしては面白いフレーズだ。ヨウコのほうは音が低いから少し暗い曲かと思ったが、ヤクの吹くフレーズはそんなヨウコの思いを裏切るように、小刻みよくテンポの良いフレーズを刻んだ。

 

 序章の短いフレーズしかないその曲は一瞬の内に終わってしまって、ヨウコとヤクは曲の続きが早く吹きたくてたまらなかった。

 

 吹き終わって唇から楽器を離すと一郎は口を開いた。

 

「うん、とても良かった。二人共今日はありがと」

 

 一郎は満足したように言って、今日のレッスンの終わり言った。

 

「おじい様、この曲続きが気になるのですが・・・」

 

「すまないなヨウコ本当はまだそれだけしかできてないんだ。もう少し待ってくれるか?」

 

 ヨウコとヤクは少し残念そうな顔を浮かべてから、すぐに笑顔に戻して、楽器のことと譜面についての感謝の言葉を述べたのだった。

 

「おじい様ありがとうござます」

 

 今はまだ、午後4時を回ったばかりだが、ヨウコとヤクは疲れてしまい。

 

 楽器を手早く解体して片付けて自分の部屋に戻ると、ベッドで二人仲良くそのまま倒れて寝込んでしまったのだった。

 

 



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4月8日その1 4重ホルンの秘密

 目をつぶっているのに視界は白一色だ。

 

 おそらくもう朝なのだろう。心地よい温かみが顔全体を覆っている。

 

 目を開けるといつものように窓の外からチュンチュンと泣く鳥の声と、陶器同士がぶつかり合う朝の支度をする音が聞こえる。

 

 鬱陶しい太陽の光を手で払いのけるように薄いレースのカーテンを閉めて、光を少し遮れば昼寝にちょうどよい光加減となった。しかし自分は今しがた目を覚ましたばかりで、そんな気分ではない。

 

 そんなことを思いながら、隣の小さな寝息をたてている無防備な顔の少女を見れば、その餅のような頬をつつきたくなる衝動に駆られた。

 

 そんな無防備な顔をしている少女はヤクという。ヤクは私よりも誤差に低い身長で、髪の毛が腰まであり、大人っぽさを帯びたその顔つきと綺麗な漆黒の瞳を持っていて、ひとたび無邪気な笑顔を浮かべればおそらく10人中15人は振り返る魅力を秘めているだろう。

 

 だけど残念なことに、その笑顔ですら自分の武器として表情を転々とさせるヤクは、ある意味で言うと結構タチの悪い娘なわけだ。

 

 そんなヤクの頬をヨウコは人差し指で昨夜より強くつついた。

 

 少し強くしすぎたのかヤクは半分だけ目を開けてしまった。

 

「んふぁ・・・」

 

 変な声を漏らしたと思うと大欠伸をしだした。

 

 ヤクの小さな口のなかには小悪魔のように鋭い犬歯が上下に二本ずつある。

 

 初めてヤクを見た時の第一に目に付いた特徴だ。

 

 ごくまれにその犬歯はなぜか口からはみ出ていて、そんなときに浮かべる無邪気な笑顔はどうも魅惑的で、ほんのすこしドキッとするものだ。

 

 大きく開いてた口を閉じるとヤクは、「おはよ~」と小さく呟いた。

 

 もちろんヨウコも返さない理由なんてない猫が軽く戯れるようにヨウコはヤクの鼻を軽くつまんで言った。

 

「おはよ、ヤク」

 

 ヤクは鼻をつままれても嫌がる素振りは見せず、その綺麗な黒い瞳でキョトンとして見つめてくる。ベッドを横にくっつけてはいるものの、ヤクはなぜかヨウコ側のベッドにとても身を寄せていて、日々近くに寄ってきているような気がしなくもない。

 

 そんなことを思いながらヨウコはヤクのキョトンとした視線から逃れるように、ヤクの鼻を開放すると、ベッドから降りて、クローゼットを開けるとカッターシャツを引っ張りだした。

 

 ヨウコはその襟が硬くしっかりとしたシャツに着替え、公立中学校には珍しい赤いリボンを襟に通して目の前でしっかり結んだ。それから寝巻きのズボンを脱いで机の上に置いて、鏡を見ながらスカートのチャックを下ろした。

 

「ふふ・・・この視線だとヨウコの秘密が見れそう」

 

 ヤクを鏡越しに見れば、三角座りをしながら薄い毛布を足に巻きつけ、膝の上に顔をチョコンと乗せて少し上目遣いにこちらをじっと見ている。

 

「私のセリフだと思うな」

 

 正直なセリフを述べるとヤクはつまらなさそうな顔に戻ってベッドから降りた。

 

 ヨウコはそんな鏡に映るヤクを横目に黒に灰色のラインが幾筋も縦に入ったスカートを履き腰にあるチャックをあげて、腰にある留め具を引っ掛けた。

 

 鏡を見ればブレザーを着ていない中学生の少女を目があった。

 

「ヨウコーどっちがいいかなー?」

 

 ヤクもいつの間にか既に制服に身を包んで、前髪を止めるピンを選んでいた。

 

 ヤクの手を見ると赤色と青色のピンを握っていた。

 

「今日はせっかくの入学式だしピンよりリボンで髪をまとめたらどう?」

 

 ヨウコの提案にヤクは「そうかなぁー」と言って、結局ヨウコの提案通りに黄色いリボンで、その腰まで伸びる艶のある綺麗な髪を後ろで結んだ。

 

 ヤクはそんな自分の髪の毛を一撫でして、隣に掛けている真っ黒なブレザーを着て、詰めればたくさん入るだろう指定カバンに筆記用具とメモ帳を荒くいれるとチャックを閉めた。

 

 ヨウコもブレザーを着てカバンのチャックを開けてメモ帳と筆記用具をいれてチャックを閉めた。

 

 他に必要な物がないか机の上の資料を見ると、楽器の持参を書いてあった。

 

 ヨウコらが入学予定の夕紅島中学校は、入学式の時に対面式と重ねて部活動紹介と体験入部が連続で行われる学校だ。おそらく周辺地域の学校の中ではクラブへの参加が一番早いだろう。

 

 ヨウコは昨夜もらった4重のホルンの入った箱をベッドの下から引っ張りだすと、あれが夢でなかったのを確認するように蓋を開けて中身を眺めた。

 

 日光が当たっていなくても、眩い金色のボディはイエローブラスのような黄色い金色ではなく、ゴールドブラスという響き良い深みのある黄金色だ。

 

 この材質の違いで値段が何万かは変わるらしい。

 

 そんな確認をしていると、箱の下の方に収納箱のようなものが見えた。

 

 色が完全に同化してるせいで気づかなかったらしい。

 

 紐のような取っ手を引っ張り開けると・・・中には抜き差し菅の一部らしい少し湾曲な5センチ程度のものが入っていて、半分ほど差し込む側の菅に見られるように、菅がむき出しになっていた。

 

 ヨウコはどこの菅だろうかとその小さな抜き差し菅をつまみ上げ、ホルンの本体に重ねてみるが、本の少しの湾曲した直線の菅などU字型のホルンの抜き差し菅には、どことも合うことなく候補が全て潰れてしまった。

 

「ねぇヤク、この短い抜き差し菅どこの菅だろう?」

 

 ヤクは振り返るとまじまじとヨウコのつまんだそれを見た。

 

 しかしヤクにもよくわからないらしい。眉根に少しシワをよせて静かになってしまった。

 

 ヨウコはその菅を側に置くとホルンの本体を箱から取り出した。

 

 まずは吹口を辿ってF菅の抜き差し菅から一つ一つ目視で確認することになった。

 

 4重になっためんどくさい構造の本体のどこにも、軽く湾曲な菅を差し替えできるような抜き差し菅はどこにも無く、もういいかなっと思い始めた頃ヤクがヨウコのホルンのロータリーバルブの付け根を指差した。

 

「この小さい取っ手はなに?」

 

 言われてみると妙な位置に小さな取っ手があった。見る限り、ベル側にひねることができるようだ。ヨウコは早速小さな取っ手を掴みゆっくりと引いた。

 

 すると取っ手はカコンッと音を立ててベル側にズレた。その瞬間にロータリーバルブのある4重の塊は緩み横に倒れ始めた。

 

 ヨウコは咄嗟のことに反射的に4重の塊を支えて間一髪ホルンの落下を防いだ。

 

 ヤクを肩ごしに見ると目を丸くして固まっている。思った通りの反応だ。

 

 ヨウコは手元の二つに分かれたホルンの残骸を見て、一瞬壊れたんじゃないかって焦ったがそうではなく、4重のロータリー部分を見れば別々の菅から続いているが、若干の湾曲のある菅と状態が似てないこともない形になった。

 

「これってもしかして・・・」

 

 そのまさかだ。初期のホルンにはロータリーなどのような、菅の長さを調節するものは無く、唇のみで変えられる自然倍音のみ出すことが可能なホルンだったという。

 

 現代ではそんな初期のホルンの名前をナチョラルホルンと言うらしい。

 

 見たことのあるナチョラルホルンはとても大きく、肩に掛けて持つような代物で大きな音を出すにはとても出しやすそうな形状だった。

 

 しかし目の前にあるホルンはどうだ? コンパクトに収まったそれは真ん中だけ破損した現代ホルンに見えなくもない。

 

 そんなことを考えながらヨウコは、4重の塊を脇に置いて例の湾曲した直管を適当な位置にはめて、小さな取っ手を引いた。

 

 小さなナチョラルホルンが出来上がってしまったのだ。

 

 ちゃんと自然倍音で音が出るのか吹きたい気持ちになったが、歯磨きも顔洗いもしてないのでは、楽器を清潔に大切に扱うという自身のプライドに傷がつくと思い、そんな好奇心を押さえ込んで、直管を外してまた4重の塊を取り付けて元の状態に戻した。

 

「ビックリだね・・・おじい様こんなホルンを注文してくれたなんて・・・思いもよらなかったな・・・」

 

 ヤクは感嘆の声でそんなことを言いながら自分のホルンの箱を開けて同じ物が入ってるのを確認していた。

 

「昨日なんで気づかなかったのだろう・・・まぁ、でももしかしたらまだ何かあるかもしれないわ。続きは帰宅してからにしよう?そろそろ一階に降りないとまずいわ」

 

 ヨウコの言葉にヤクは頷いて箱を閉めて、カバンと一緒に両手に持っていつものゆったりとした階段を二人で慎重に降りたのだった。



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4月8日その2 学校

今回は学校の話を書きます。

 途中で名前をカタカナから漢字に変更しますがお気になさらずお楽しみください。

 これからは漢字で統一します。




 ゆったりとした階段を降りると、すぐ目の前には丸いテーブル席が4つと奥に長いカウンターを備えたカフェが見える。

 

 そのカフェは開業50年以上になる店舗で名前は夕凪カフェという。

 

 そんなカフェの隅に備え付けたガラスを見て身だしなみを整えている一郎は、この夕凪カフェのオーナーでありマスターだ。しかも今年78になるその顔はまたシワが増えたなと感じさせる。

 

「おはようございます!おじい様」

 

 朝の挨拶は接客業と人間関係を良好にする上では、最も大切な行いの一つだ。そんな過去の一郎の教えを頭の中で反復させながら、ヨウコとヤクは一郎に笑顔と共に言った。

 

「ん?おお、二人共・・・実によく似合ってるよこれで晴れて中学生の一員だな」

 

「入学式が終わるまで私とヤクは中学生風の少女でしかありませんよ」

 

 そんな切り返しをヨウコはすると、一郎は「そうだな」と笑ってくれた。

 

「ヨウコー顔を洗いにいこうー?」

 

 そんな陽気に伸ばす語尾も、中学校に入学する興奮を秘めているようにいつもより、ヤクの声は微妙に高い。

 

 ヨウコはそれに頷き洗面所に行こうとすると、一郎が思い出したかのように言った。

 

「二人共、顔を洗ったら昨日渡し忘れたものを渡すからリビングに来てくれ」

 

 ヨウコとヤクはその言葉に「はーい」と返事をして、二人仲良く洗面所へ急いだ。

 

 いつもの洗面所では、いつも以上に歯を丁寧に磨き、顔を洗い、ヨウコはヤクに、もはや日常的になりかけている寝癖の処理をしてもらっていた。

 

「ヨウコォー、入学式とかの式典じゃ男子のお母さんは「あんな子と付き合いなさい」と言って、女子のお母さんは「あんな子に負けちゃだめよ」って言える対象の子供を探すものだよ。ヨウコは可愛いからしっかり容姿には気をつけなきゃだめだよー」

 

 そう言いながらヤクはヨウコの跳ねまくりな髪を丁寧にほぐして櫛ですいていた。

 

「そうなの?ヤクにしか視線が行かなさそうだけどね・・・」

 

「どう言う意味ー?」

 

 分かりきった言葉の意味をわざと嬉しそうな笑顔でとぼけだしだ。

 

「分かってるくせに・・・」

 

 素直な解答をするとヤクは決まってつまらなさそうな顔を浮かべるのだが、今日はテンションが高いのか逆に笑顔を浮かべて小首をかしげた。

 

「えへへー」

 

 まったくヤクの思考はよくわからないものだ。

 

「じゃあそんな羨望やよくわからない視線をおすそ分け出来るように、あたしがヨウコをコーディネートしてあげよーか?」

 

 そんな変な視線をおすそ分けなんかされたら緊張と微妙な雰囲気に潰れてしまうかもしれない。それはヨウコの望むところでは無い。

 

「遠慮しておくよ。私には荷が重いわ。その役はヤクに譲るよー」

 

「あらそう?じゃあ私が責任持って果たしておこう」

 

 そんな変な会話をしてる間に、ヤクはヨウコの髪を整えたらしく、ヨウコの頭を軽く撫ぜてから「終わったよ」と小さく呟いたのだった。

 

 そんなヤクの髪を見ればやっぱり不思議なくらい綺麗で艶があって、ヨウコよりもはるかに寝相がコロコロ変わるくせにヤクの髪は跳ねもクセも無い。

 

 そんな羨ましさを心に残しながらヨウコはリビングへの廊下を歩いた。もちろん後ろにヤクがピッタリついて来る。

 

 リビングは洗面所との間に一部屋挟んだ向こう側にある部屋だ。

 

 リビングには四角いテーブルと小さいテレビがあって、そこでは普段夕食と団欒になるときだけにしか使わない。

 

 そんなリビングにつくと机の上に五角形の軽そうシャイニーケースが見えた。それはデタッチャブルのついたホルンのシャイニーケースで四角いハードケースと比べると非常に軽い。

 

「おじい様これはシャイニーケースですね!」

 

 何かを悟ったようにヤクはニコニコして言った。

 

「ああそうだ。二人のホルンは特別品だからな。普通のシャイニーじゃたぶんちょっと小さいと思ってな。中身の設計から素材選びまで全てオーダーメイドだから・・・大切に扱ってくれな?」

 

 一郎は机の上に二つのカップを置いて言った。

 

「おじい様、ありがとうございます。もう感謝の気持ちばっかりです!」

 

 ヨウコは嬉しくなって、またいつも通りの感謝の言葉を並べて笑顔を作った。

 

「では二人共・・・早くホルンを入れ替えて、朝食をとりなさい」

 

 ヨウコとヤクはその言葉に頷いて、二人の名前が刺繍されたシャイニーケースをそれぞれ手に持って、カフェに置き去りにしたホルンを入れ替えに行った。

 

 シャイニーケースは開けると五角形の蓋の後ろにベルの収納箱があって、本体をしまう場所は綺麗な円形のくぼみがあって固定するためのマジックテープのついたひらひらがある。ケースの端っこには小さな穴があいていて、マウスピースの収納の穴だというのがすぐにわかった。少し視線を下に逸らすとそこには小さな取っ手が合って、それは少し力を入れないと開かない蓋で、ハードケースの下部にある小さな紐付きの蓋と同じで、小物を入れるには最適な部分だった。

 

 さらにシャイニーの右側には長方形なくぼみがあって、そこにはチューナーと清掃用具をいくつかいれられそうだった。

 

 ヨウコとヤクはそんな五角形に真ん中が若干山のようになっているユニークな形のシャイニーにホルンを入れ替えた。

 

 パタンッと蓋を閉じてチャックを閉めた二人はそれをカバンの隣に並べて置いて、リビングへ戻った。

 

 一郎は机に二人分のサンドイッチとカップに紅茶を淹れたあとのポットを置いて言った。

 

「さぁ二人共・・・しっかり食べなさい」

 

 ヨウコとヤクは席につくなりカップに手をつけて中身を口に含んだ。

 

 温かいそれはスッキリとした甘さを含んでいて飲みやすい。きっと一郎が程よい甘さ加減に砂糖を入れたのだろう。

 

 ヨウコはサンドイッチをひと切れ掴んで一口食べた。一郎の作るサンドイッチはいつも美味しい。しかし今日のサンドイッチは少し具が多い。一郎の若干の奮発が目に映る。

 

 そんなサンドイッチはいつもより一層おいしく感じられた。

 

 ヤクを横目にチラ見すれば、口をモグモグと動かしながらとびきりの笑顔を浮かべている。同じ女の自分の目で見てもその笑顔は可愛らしいものだ。おそらく無意識にしてるのだろう・・・作る笑顔もできる笑顔も魅力的じゃ、本当にヤクにはかなわない。

 

 そんなことを思いながら、ヨウコは口の中でモグモグとしていたサンドイッチを紅茶で流し込むようにカップの紅茶を飲んだ。

 

「ヨウコー、バスの時間は20分後だよー」

 

 さっきまで幸せな笑顔を浮かべていたヤクはいつの間にかバスの時間表だろう小さな紙を見ていた。

 

「わかったわ。おじい様も一緒に行きますよね?」

 

 手を机の上にあったフキンで軽く拭いながら、一郎に視線を送った。

 

 一郎は新聞を机の上にたたんで置いてから、ゆっくりと頷いた。

 

 学校の入学式にはもちろん親も出席することになる。それとは別にある対面式や部活動の体験入部までもを参観することができる。夕紅島中学校はかなり親の介入が深い学校のようだ。

 

「じゃ、二人ともそろそろ靴を履いて出る準備をしなさい」

 

 ヨウコとヤクはまだ足の届かない木の椅子から降りると、カフェに置きっぱなしにしているカバンとホルンの入ったシャイニーケースをとりにいった。

 

 カフェはヨウコらの入学式のために今日は営業しておらず、いつもならついている灯りはついてなく、外からの光を明るく取り入れていた。ガラス張りの入口では間断なく車が行き交っていて、歩道には黒や白の綺麗な式典姿をした大人達が時たまその人の山からチラチラ見えていた。

 

 シャイニーケースを背中に背負い、カバンを肩に掛けるとちょうどよい姿勢になった。ヤクも同じようにカバンとシャイニーを持った。ヨウコとはカバンの掛ける肩が逆だが、それはヤクが左利きだからだ。

 

 そんなことを思いながらヨウコはリビングを経由して玄関に足を向けた。肩ごしに後ろを見れば、早く行こ!っと言わんばかりに背中に当たってくるヤクが見えた。

 

 玄関につくと二人分の靴が置いてあって、ヨウコの靴は黒と白のもので、ヤクの靴は黒と桃色のものだ。二人共に一郎の勧めで運動靴だ。硬いサッカーボールや長時間のランニングにだって耐性のあるその靴は質の割に値段は安めだったらしい。

 

 二人は仲良く玄関に腰を下ろしてその靴に足を通して解けないようにしっかり紐を結んだ。

 

 玄関は小柄な少女であっても、並んで腰を下ろすと綺麗にその小さな段差の隙間は埋まってしまって、通れなくしてしまっていた。

 

 ヨウコが先に靴の紐を縛り終え玄関の鍵を開けて外に出た。

 

 玄関のドアを押し開くと眩しく差し込む太陽の光に顔をしかめたヨウコは、外の新鮮な空気を体いっぱいに吸い込み口から「ふぅー」と肩を回しながら吐いた。

 

 鼻から肺いっぱいに空気を吸い込んで軽く肩を回しながら息を吐ききる運動は呼吸を整えたり、息の扱い方を鍛えたりできるらしい。一郎が言っていたのだ。

 

 そんな過去の教えを頭の中で反復しながら、もう一度鼻から肺いっぱいに息を吸って口から息を吐きだした。

 

 ガチャンと音がして振り向けばヤクがドアを閉めた音だった。

 

 ヤクはニッコリと笑って「どうしたの?」と言ってきた。

 

 ヨウコは「なんでもない」と返した。

 

 ヤクはヨウコの左側に立ってヨウコと同じように、肺いっぱいに息を吸って吐きだした。

 

 そんなヤクを横目に見ていると、またガチャンとドアが閉まる音がして、カチンと鍵が閉まる音がした。後ろを向けば一郎が鍵を閉めた音だった。

 

 そんな一郎は黒い500mlの黒い水筒を持っていた。その水筒をヤクに押し付けて渡した。

 

「二人共すまん。お茶をそれだけしか作ってなかった。節約して飲んでくれ」

 

 ヨウコとヤクは基本的に食事時と楽器を吹いてる時にしか飲まない。しかし今日はお昼頃には帰れる予定だからきっと十分足りるだろう。

 

「「ハーイ」」

 

 二人同時に子供っぽく返事をして、玄関沿いの歩道をそんなに遠くもない見えているバス停に向かって歩き出した。

 

 バス停に着くと何人か綺麗な式典の服を来た親らしき人々と夕紅島中学校の制服を来た新入生らしき子供達が数人会話をしてバスの到着を待っていた。

 

 ヨウコらはそんな待機列の一番後ろに並ぶと、ヨウコらの前にいるヨウコらと変わらない身長にヤクほどではないが長髪の女の子が振り向いて、ニッコリと微笑んで言った。

 

「おはようございます」

 

 そんな言葉を全く知らない。ただ入学予定が同じ学校の人なだけの赤の他人に対して迷うことなく言えるのだ。きっととても良い指導を受けてるに違いない。

 

 しかしそんな指導もカフェに来てからずっと接客業を教えてもらっていたヨウコらにとっては普通のことだ。そんな女の子の笑顔に負けない笑顔でヤクと揃って返してやった。

 

「「おはようございます」」

 

 女の子は良い顔立ちで普通に子供の視点で言うと美人な子だ。

 

「あなたたちも夕紅島中学校に?」

 

 聞かなくても制服を見れば分かるとは思うが、ヨウコらはそんな細かいところを指摘したりしない「そうだよ」っと返す。

 

「私の名前は瀬笈 水菜(せおい みずな)と言います。あなたたちは?」

 

 瀬笈とはまた変わった名を持っているなとヨウコは思いながら返した。

 

「私は佐々木 葉子(ささき ようこ)です。葉子と呼んでください水菜さん」

 

「あたしは佐々木 灼(ささき やく)だよー。あたしは灼って呼んでね」

 

 本来、葉子と灼は自分の名を持っているが、一郎が扶養者であるため苗字は佐々木で名乗っていかなければならない。

 

「葉子さんと灼さんね。よろしくね」

 

 灼はニッコリしながら自分の疑問を水菜に言った。

 

「水菜ちゃんは部活動何に入るのぉー?」

 

 灼のニッコリした笑顔に見とれて一瞬水菜の反応が遅れた。

 

「え?、あ、ああ、私は吹奏楽部を希望しようと考えています」

 

 水菜は雰囲気と性格的にはもっと静かな文化系の部活に入るような感じだったが、意外とこんな人ほど音楽を好むのかもしれない。

 

「おお、そうなんだ。私達も吹奏楽部を希望するんだよー」

 

 そんな陽気な灼の言葉を聞いた水菜は一瞬のうちにパァァっと笑顔が明るくなって、「そうなんですか!?」とキラキラした視線を送ってきた。

 

「そ、そ、それでお二人はどんな楽器を考えているのですか!?」

 

 意外と道が同じ人には結構面白い性格を見せるんだなっと葉子は思いながら、灼を横に向けてその背中の物を指差した。

 

「これだよ」

 

「そ、それは・・・?」

 

 楽器について少しでも調べ物をしていたのかと思っていた葉子と灼はそんな水菜の反応に面食らったものの丁寧に説明してあげた。

 

「ホルンっていってね。こうやって抱えて吹く楽器だよ。とってもカッコよくて素敵な音が出るんだよ」

 

 葉子の説明の隣で灼はホルンの吹き真似をしてくれた。

 

 灼の吹き真似を見ていた水菜は「へぇー・・・」と感嘆の声をあげている。

 

 自分の娘が違う娘と話している事に気づいたらしい、水菜の母らしい人物が葉子らと視線を合わせるために、腰を下ろして口を開いた。

 

「葉子ちゃんと灼ちゃん、どうかこれからうちの娘をよろしくね」

 

 水菜の母はキリッとした目つきに、仕事一筋っという言葉が似合う顔立ちをしている。どこかの会社の女性社長にいそうなイメージが脳裏をよぎる。

 

 そんな真面目風な雰囲気を漂よわせる水菜の母は、葉子らに言葉を投げかけるときにニッコリと微笑んだ。その顔はとても美人で、これが大人の女性の美しさかと葉子は思った。

 

 いまだにホルンを吹く真似をしていた灼は水菜の母の顔を見た瞬間、目を見開いて葉子に顔を向けて小さく葉子に聞こえるように言った。

 

「あたし・・・・勝てないよぉ・・・」

 

 ちょっとだけ泣きそうな顔を作ってそんなことを灼は言ってきた。

 

 そんな灼をスルーするようにバスが到着した。

 

 夕紅島中学校にはバス停がある。夕紅島市ができた当初は、唯一の学校が夕紅島中学校しかなく無駄に教育費が有り余ったがために、費やしに費やされた結果・・・多すぎる敷地は市の100分の1に相当して、その一部は完全に舗装されてバス亭ができたうえに、市のほとんどをカバーできる台数のバスを保有している、どこの県を探してもおそらくそんな学校はここだけかもしれない。さらに、校舎は大きく三棟もありその階数は4階建てで、その大きさは中高一貫の学校を思わせる。

 

 そんな学校はもちろん生徒の数も多く1学年に600人いると聞いた。過去最高の学年人数は1300と聞いたがやっぱりビックリするものばかりだ。

 

 そんな学校調べの資料を頭の隅で思い出しながら葉子はバスの外の景色を眺めていた。葉子の家の最寄りのバス停から学校ヘは30分程度で到着する予定だったが、広い敷地の学校には広い駐車場までもがあるようで、式典のスーツを来た男性や綺麗な外出用の服を来た女性が運転する車がバスを追い越していくせいで、バスは少し渋滞のようになった道を進んでいた。そのせいか予定より遅れている。

 

 しかし元々余裕を持って行く葉子らの計画ではちょっとの遅れなど誤差にすぎない。

 

 何故か一番後ろの座席に座れた葉子と灼は、先ほど知り合ったばかりの水菜と並んで座っていた。そのひとつ前の席では水菜の母と一郎が珈琲の話で花を咲かせている。

 

「水菜ちゃんはどうして吹奏楽を考えてるの?」

 

 灼は疑問に思う事をたくさん水菜に聞いていた。

 

 水菜もそんな灼の言葉に真剣に返事をしていた。

 

「私は音楽が好きだからです。歌も曲もなんでも大好きなので、ちょっとでも音楽への興味を深めるために吹奏楽を考えたのです!」

 

「そうなんだ。水菜ちゃんはどんな曲を聞くの?」

 

 水菜は目を上に泳がせて考える姿勢を一瞬作った。きっとたくさんの音楽の記憶を思い出しているのだろう。

 

「そうですね。パッヘルベルのカノンとか四季とかいろいろ聞きます」

 

 パッヘルベルのカノンはおもしろい音楽技法を使った曲で、ハープを伴奏にヴァイオリン3つが面白い旋律を奏でるものだ。

 

 一番目のヴァイオリンが奏でた2小節を二番目のヴァイオリンが奏でて、その二番目のヴァイオリンが奏でた2小節を三番目のヴァイオリンが奏でるといったもので、この曲のすごいところは和音がぐちゃぐちゃにならずに音楽が成り立っているところだ。

 

 生まれてこの方あの曲の最初の2小節を忘れたことなど一度もない。一音ずつ下がってくるその旋律はとても和むものだ。

 

 そんなことを灼の隣、具体的には窓際の一番後ろの席で葉子は考えながら、隣の少女達の会話を聞いていた。

 

「カノンは良い曲だね!私はあの旋律が大好きだよー!」

 

 灼はニコニコして返事を返している。

 

 葉子は少し眠くなった目をこすり、窓の外に目をやった。

 

 学校の壁は学校をぐるっと取り囲むようになっていて、巨大な敷地を持つ学校は遠くからでもそれは見えるらしい。窓の外には学校の壁とおぼしき白い石を積み立てた壁が見えていた。

 

 ”次はー夕紅島中学校・・・夕紅島中学校・・・お降りの方はお忘れ物のないようにご降車くださいませ”

 

 そんな運転手のクセのある喋り方はどこで聞いても面白いものだ。

 

 白い壁が間近に迫り、途中で途切れているそこからバスは校庭内へと侵入し、学校の職員らしき名札を提げた白髪の男性が立つバス停へと到着した。

 

 葉子らはバスの一番後ろにいるため強制的に最後まで待つことになるが、入学式の行われる日は学校に目的のある人だけ無賃乗車をさせてもらえるらしい。バスからは数秒で降りることができた。

 

 バスを降りると目の前には立派な校門があって夕紅島中学校の名前が入った石碑が隣に置いてある。

 

 職員の男性は親の方は直接体育館に向かうことと、生徒の方は学校の玄関にそれぞれの名前と教室が書いてある紙を見て教室へ向かってくれという言葉を告げてくれた。

 

 一郎と水菜の母はいまだに珈琲の話で盛り上がってるために、葉子らに一声かけて行ってしまった。

 

 葉子と灼は少し戸惑う水菜の手を引いて玄関に向かった。

 

 玄関には巨大な木が一本生い茂りその木は玄関の上を全て包み込んでいて、雨の日は玄関の前でも準備ができそうなくらいに葉は濃かった。

 

 玄関の扉は全てガラス張りで外からでも中が伺えるくらいに大きく、中にはたくさんの男女問わない新入生らしい人の山でごった返していた。

 

 できるだけ混雑してしまわないように葉子らはカバンから上靴を取り出し、すぐに履けるようにむき出しにしておいた。

 

 中に入ると一言で言うと・・・暑い・・・小さな紙に小さな字で自分の名前を探しているらしい大量の人は俺が先私が先と前に前に詰めてくるのだ。嫌でも前に前に押されて紙の前に辿りついた葉子は、自慢の情報処理能力で小さな字を一気に上からザーっと見て三人の名前を見つけ出し暗記した。

 

 人々の波を横に避けて二人のもとに葉子は戻り成果を告げた。

 

「私達三人同じクラスだよー。4組だった」

 

「おーやったね水菜ちゃん!一緒のクラスだよ!これからつるめるね!」

 

 灼の最後の言葉に苦笑いした水菜だが、一緒のクラスだということに対しては嬉しそうだった。「やったー!」とガッツポーズを見せてくれた。

 

 人ごみで込んだ下駄箱に4組の字を発見し靴を入れ、上靴を履いた。

 

 少し大きい上靴は歩くたびに脱げそうな感覚を覚えたが気にせずに歩いた。

 

「確か1階の奥だったね」

 

 4階建ての1棟の校舎には1年生だけが入ることになっていて、12組あるそのクラスは1階につき4組ずつ入り、4階は部活動の部屋で埋められている。

 

 三人はそんな奥にある4組の教室に入り、まだ4人程度しかいない教室の教卓にある席番号表を見た。

 

「水菜ちゃんは19番だったよ。私が21番で、灼が20番だよ」

 

「三人並べたね。嬉しいや!」

 

 灼の言葉に水菜は頷いて、自分の席に座った。

 

 水菜は前から4番目の席で、灼がその後ろで、葉子がその後ろだ。クラスは42人で横に6列縦に7列並んでいる。

 

 そんな簡単な情報整理を葉子はしてから自分の机の横にホルンを置いて、時計に目をやるとまだまだ時間がある。

 

 葉子は朝にトイレに行き損ねて少しずつ感じていた尿意を晴らすためにトイレに行こうと席を立つと、「私トイレ行ってくる」と灼達に一声かけた。すると水菜が「私も」とついてきた。そんな中灼は最近読み始めた本を読みはじめていた。

 

 葉子と水菜は長い廊下の途中にあるトイレのドアを引いた。

 

 中は真っ白だっと言ってもいい程綺麗で光沢ばかり目立っていた。

 

 上靴を備え付けの草履に履き替えて個室に入り用を足そうと下着をおろし洋式の便器に座ると、隣の個室に入った水菜が声をかけてきた。

 

「葉子さん、ホルンはどのくらい吹いてらっしゃるのですか?」

 

 そんな疑問も考えたくなるだろう。小学生のうちから楽器などというものを持っているような子はとても少なく気になるのも当然だ。

 

「私も灼も4年間やってるよ」

 

「楽しい・・・ですか?」

 

 そんな返事を返す水菜の言葉はまだ吹奏楽部で音楽をやることに対して不安があるような声だった。

 

「うん、自分の思い通りに音楽を奏でられるのはとても楽しいよ」

 

 水菜は「そうですかぁ・・・」と返事をして、トイレを流した。

 

 葉子もトレイを流し個室から出ると、水菜は手を洗っていた。

 

 となりの蛇口を葉子がひねって水を出すと、水菜は葉子のほうに顔を向けて言った。

 

「きっとうまくいきますよね」

 

 その言葉はさっきの会話を傍から聞いてる人じゃわからないかもれしれない。しかし葉子にはその意味が分かる。

 

 葉子は水菜の不安を少しでも和らげるように、優しく笑って水菜の目を見つめて言ってあげた。

 

「自信を持って行動すればきっとうまくいくよ」

 

 そんな葉子の返事に水菜は「そう・・・かな?、ありがとう葉子さん」と言った。

 

 水菜は葉子に安心したように笑いながら、上靴を履き直した。

 

 葉子もホルンの模様が入ったハンカチで手を拭き上靴を履いて、トイレをあとにした。

 

 葉子と水菜がクラスに戻ると、部屋にいる生徒は、さっきより10人程度増えていた。

 

 そんな真ん中の後ろの方の席に座っている灼は一人の男子と話をしていた。多分一人目の犠牲者だ・・・と葉子が冗談半分に頭の隅で思った瞬間に灼と目があった。

 

 「えへー」と笑顔になった。

 

「灼ちゃんは普段なにしてるの?」

 

 灼に話しかけている男子はサッカーをやっているような体型で、女子の目で見る限り普通にイケメンだ。

 

 そんな男子に灼は葉子らから顔を向き直して、愛想笑いを浮かべて言った。

 

「普段はね。小ちゃなカフェでお仕事してるよ」

 

「お、お仕事?どんなことをしてるの?」

 

 基本的に自由気ままに遊んでその1年を過ごす小学生だった子が仕事をしているなんてかなり珍しいものだ。

 

「注文を聞いたり、お料理を作ったり、お料理を運んだり、お客様を見送ったり、色々やるよー」

 

「そ、そうなんだ。すごいなぁ・・・」

 

 そんな話をしている二人を見ながら、葉子と水菜が灼の席の近くに来ると、灼が「二人共おかえりー」と、近くにいるにもかかわらず手を振ってきた。

 

 そんな周りに女子しかいない環境に若干の恥ずかしさを覚えたのか、灼と話をしていた男子は灼に「じゃ、じゃあ僕行くね」と言って足早に自分の席に戻っていった。

 

「楽しそうだったね」

 

 葉子は自分の席に座りながら言った。

 

 灼は口元に両手を添えて「えへー」という笑顔をまた作っているのだから、灼の考えていることはやっぱりよくわからない。

 

 それからまた葉子らは数分楽しい会話をしていると、時間が来た。

 

 担任を務める先生は女性で名を白石 裕子(しらいし ゆうこ)というメガネをかけたまだ新任の教師で、担当科目は数学らしい。

 

 白石先生の容姿はショートヘアーの黒髪に星の型をつけたヘアピンを留めていて、灼があれ可愛いなとさっき評価していた。

 

「では皆さん、これから体育館の方に行きますので、廊下に出て二列に並びましょう。このクラスは42人いるので1番の方と22番の方が先頭に来るように並びましょう」

 

 まだ周りが知らない顔ばかりらしいこの4組は隣のクラスより静かに順番に並んで、廊下を行進して歩いた。

 

 これから式典を行う体育館は3棟からしか入れないため、1棟から2棟へ2棟から3棟へ行き体育館へと向かうことになった。

 

 他学年のクラスを横切るとき中を覗くとカバンはあるものの人影がひとつもない。おそらく式典の会場となる体育館に集合してるのだろう。

 

 そんなことを考えていると前を歩く灼が肩ごしにこちらを見ていた。

 

「どんな先輩様がいるかなー?」

 

 楽しそうに灼はそういってきた。

 

 葉子はそれに「さあねー?」と返事をしておいた。

 

 体育館も校舎に負けず大きいもので、校舎の半分はあるだろうその大きな建築物は100枚じゃ絶対足りない窓が多いものだった。

 

 そんな体育館の入口まで来ると先行していたクラスが横に並んで待機していた。

 

 現在どのクラスも2列に並んでいて、1組が中に入るか入らないかのところで半分ほど人数を減らしていた。どうやら1クラス2列ずつ中に行進していくらしい。中からは吹奏楽部の演奏だろうトランペットの甲高い音ともに、中の人数を思わせる大きく多い拍手が聞こえている。

 

 しばらく待っているといよいよとばかりに4組の先頭列が動いて、1組のいた位置につき、さっそく1列目が入っていった。真っ直ぐ行って90度にキュッと曲がって、ステージ前まで歩いていくらしい。

 

 しかも意外とペースも早いようで、1列目が入って間もない内に2列目がスタートしている。またしばらくすると、水菜の番が来て入っていった。水菜の母は身長が高いのでよく見えた。そのとなりには一郎もいた。

 

 次は灼の番だ。

 

 そう思い灼を見ると、肩ごしにこちらを横目で見ていて目が合った瞬間に、灼は横顔だけでもわかるくらいの無邪気な笑顔を作り出して、前に向き直した。

 

 隣の41番の男子の視界に入ったらしいボスッと音がしそうなくらいに顔が赤くなって、まったくあらぬ方向をプイッと向いてしまった。

 

 後ろから男子を気の毒に見ながら、朝、灼が生徒の母はどうとかということがどのようになるか見ていようと思った。

 

 灼はいつものように元気な女の子の歩き方とは違う。清楚で上品な娘を演じるように、足を閉じて姿勢よく歩き出した。もちろん、無邪気な可愛らしい子供のその笑顔を浮かべて・・・。

 

 空気が動いたような気がした。吹奏楽部のクラリネットの音がピィィーッと外れたせいか、それともチューバとコントラバスの担当者のテンポと音がズレたせいかはわからないが、新入生の行進道が目の前にある上級生と入場してくる子を伺っていた子供の親達の顔が一点に止まって同じスピードで、誰ひとり瞬きすることなく動いた。

 

 いつも葉子が灼のことを10人中15人振り返ると言う理由はこれだ。

 

 葉子と灼が9歳の時、一郎の友人の息子の結婚式で知人や周辺近所に該当する少女がいなく、急遽フラワーガールをやってくれと頼まれたときに、花嫁よりもその招待人の視線と興味を引いた。葉子はそれを目の当たりにし勝手に存在する言葉をもじって灼をそんな人だと呼んでいた。

 

 しかし残念なことにそんな灼を表す言葉もまた人数を増やして呼ばなければならないらしい。

 

 葉子が入場する番になっても親や上級生の目線は灼を離れず、灼が人影で見えなくなるまで、親や上級生は見とれてしまっていた。

 

 式典の始まるまで暇を持て余してる生徒達は、全員が来るまでじっとしていることなどできないらしい、普通に会話をしていてザワザワとしている。そんな中でも灼は列に着いてもしばらくは楚々とした振る舞いは忘れない。

 

 葉子がそんな灼の後ろに列を成したとき、灼はさっきと同じ無邪気な、しかし嬉しそうで達成感に溢れた笑顔を向けて言ってきた。

 

「皆な面白くて素直な人ばっかりだったよ!」

 

「そのようだね」

 

 葉子もそんな灼の笑顔を見て笑顔が溢れてしまい。そんな笑顔を作らせる灼の左頬を軽くつまんで憂さ晴らしをしたのだった。



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4月8日その3 部活動

今日は部活動の話です。

まだ少し8日の分が続きますが、どうかよろしくお願いします。

あと新キャラがまたたくさん出てきますので、近いうちにキャラ紹介ようのページを作ります。


 体育館の中は非常にザワザワしている。暇を持て余した生徒達が話をしたりしてるせいである。意外と同じ小学校からの持ち越しが多いようだ。

 

 そんなことを葉子は思っていると、灼も暇を持て余してるのか振り返ってきた。

 

 黒の長髪はゆうに腰まで届き首の後ろで黄色いリボンを結んでまとめてある。そんな灼の瞳は黒色の綺麗な瞳で、肩ごしに葉子を見据えて「暇だよぉ~」と訴えかけている。

 

 そんな灼の前には今朝知り合ったばかりの身長がさほど変わらない女の子がいる。名は瀬笈 水菜という。その子の髪もまた長髪で灼よりも短く、髪を耳の方にまとめてピンクのピンで止めている。そんな水菜は母に似ていて、まだ顎のラインは緩やかだが将来は尖って仕事真面目な顔立ちになるだろうと思わせる。しかも、子供の視点で見るにとても美人だ。

 

 そんな水菜は真面目で喧騒とした体育館のなかでも沈黙を守っている。

 

「葉子ぉ~暇だよー」

 

 さっきまで目で訴えていた灼だったが我慢できなくなったらしく、いつの間にかこちらに向き直って話しかけてきていた。

 

「あと2クラスだよ。我慢我慢」

 

 そう返したが灼は普通に葉子と喋りたいだけらしく、また軽く微笑みながら口を開き始めた。

 

「どうせ周りも喋ってるんだしいいでしょ~?それに葉子も暇そうな顔してるし」

 

 既に周りの状態については諦めているらしい。

 

 自分も正直なところ暇なことには変わりない。

 

「ねぇ葉子、体験入部ね。あたし初心者を装って行こうと思うんだけど、どう?」

 

 どうやら「あー可愛い初心者だ。俺(私)が教えてあげよう!」って近づいてきた先輩に、「あーどうしましょ!私できないわ!」と嘆いてる可哀想な子を演じて、「吹いてごらん」と言った瞬間の先輩の顔を見るらしい。

 

 しかしそんな灼の野望には問題点がある。もちろんそれは持ってきているホルンのことだ。ホルンを持っている=少し以上は吹ける と思わせてしまう。

 

 だけどそんなこと灼もわかっているはずだ。その解決策を葉子は聞いてみたくなった。

 

「だけどホルンがあるよ?どうするつもり?」

 

 灼はニィーと歯を見せて笑顔を作ると、葉子の耳元までその綺麗に整った大人びた顔を寄せてヒソヒソと言葉を紡いだ。

 

 その方法を聞いた葉子はそのダメなところを指摘した。

 

「でも困るんじゃないの?」

 

 灼は首を振って言った。

 

「ちゃんと了承のうえだよ?大丈夫うまくやってみせるから」

 

 そう言って灼は葉子の元から離れて元の位置に戻った。

 

「このあとがとても楽しみだよ」

 

 また肩ごしに笑顔でそんなことを言ってきた。

 

「そうだね」

 

 葉子も笑いかけて言った。

 

 それからまた数分たつと、マイクの音がキィーンと響いて、多数の生徒とその親御達の拍手は一瞬にして止み、喧騒が静寂に早変わりだ。

 

 そんな体育館のステージには髪の少なくなった白髪の老年の男性が立っていて、小さな封筒のような白い紙から折りたたんだ紙を取り出していた。おそらく校長で式辞でも読むのだろう。

 

 世の学校では恒例とも言える長い話は眠気を誘うもので、ついさっきまで喧騒の中で沈黙を守っていた水菜がすでにダウンしている。中学校の入学式で居眠りしてしまった事実はもしかしたら真面目な彼女の心を後々蝕むかもしれない。

 

 そんな水菜の後ろにいる灼といえば、水菜の頭が落ちかけてカクンとなるたびに小さく微笑みながらそんな水菜の背中をツンツンしている。

 

 水菜は突かれるたびにビクッと背筋が伸びるのにまたすぐ折れて同じ姿勢に戻ってしまって、見てる葉子でさえも少し笑ってしまう。

 

 そんな長く眠気ばかり誘われる校長の言葉も終わり、在校生や新入生の言葉に続き、それが終わると次のプログラムを喋るための紙を持った在校生らしいスラッとした女生徒が、控えのマイクを持って隅っこに現れアナウンサーのような落ち着いた口調で喋り始めた。

 

「えー続きまして、部活動紹介を行うので、各部の部長はステージにお上がりください」

 

 部活動は全てで60も種類があって、そのうちの10が文化系の部活動だ。

 

 夕紅島中学校の運動系部活動は全国大会への出場が常日頃で、私が知っている知識では、運動部のとくに野球部とサッカー部、ホッケー部にバスケ部と有名なスポーツの部活動がとくに強いと記憶している。

 

 しかし残念なことに吹奏楽部の大会出場などは一度も聞いたことがなく、どのような特徴があるのかなどは全く持って皆無だ。だから唯一の情報源は、今日この時間に行われるこの部活動紹介だけだ。

 

 葉子はそんな夕紅島中学校のクラブ情報を思い出しながら吹奏楽部の紹介のときは真剣に聞こうと思った。

 

 そんなことを思っているとクラブの部長と数人の部員を連れた小団体が10隊ほど並んだ。どうやら数部に分けて一気に進めるらしい。

 

 静寂を保っていた体育館はまた喧騒を取り戻し少しザワザワとしだした。

 

 カクンカクンと首を上下させていた水菜の両の脇腹を、灼がここぞとばかりに両手で後ろからガッシリと掴んだ。

 

 脇腹はなぜか他人に触られるとこそばゆいもので、葉子もいつも灼につつかれたり、軽く触られて、くすぐられたものだ。しかも灼はそれを楽しんでしてくるうえに不意にそれをしてきて、振り向けば心底楽しそうに無邪気な笑顔を浮かべてくる。

 

 案の定水菜もよく感じるようで「ひゃっ」と声を上げ身をよじった。

 

 振り返った水菜の顔は少し困り顔だったが、おそらく無邪気に笑ってる灼を見たのだろうそんな水菜の顔も釣られてか顔がほころんだ。

 

 そんな微笑ましい光景に葉子もつい微笑んでしまった。

 

 水菜はそんな葉子に気づいたようでほころんだ顔を少し微笑ませた。

 

 そんなやりとりをしているうちに部活動紹介は始まった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 さすがに50もある運動部の紹介を聞いていると、葉子もウトウトし始めていつしか目を閉じて俯いていた。

 

 葉子がすぅすぅと小さな寝息を立てている間に、司会者が文化系部活動の紹介プログラムを読み上げ始めたときだった。

 

 そんな葉子に灼は気づき振り向いてどうしてやろうかと考えていた。

 

 葉子が式典やなんらかの催しで眠ってしまうことは珍しく、灼はあんまりそんな葉子をいじったことがなかった。

 

 吹奏楽部の紹介は間もなく始まるはずだ。

 

「よーし」

 

 灼は小さく呟いて葉子の鼻を軽くつまんでみた。

 

「んぁ・・・」

 

 変な声を小さく漏らすと葉子は目を開けて灼を見つめてきた。

 

 そんな葉子に灼は笑顔を返して「もうすぐ始まるよ」と言ってあげた。

 

 葉子はすぐに「あ」という顔になって前を向いてステージに目線を送りはじめた。

 

 吹奏楽部は2番目ですぐに始まった。

 

「私達、吹奏楽部は日々明るく楽しくをモットーに活動しています。近年著しい進歩は遂げられておらず、現在は吹奏楽コンクールでの入賞を目標としています。3年生の先輩や顧問の先生、副顧問をしている先生も皆優しくて、初めての人でも高校生前にはとても上手になります。後ろで演奏されている部員は皆2年生で1年生の時は音を出すことさせ難でしたが、現在はあのように自在に演奏ができるくらいに成長しました。初めてでとっても不安な方もいるかもしれませんが、吹奏楽部の人はとても優しくて素敵なので、不安を打ち切って体験入部などに来てください。以上で吹奏楽部の紹介を終了します」

 

 そんな紹介を終えると現部長らしい3年生の女生徒は一歩後ろに下がった。

 

 それを聞き終わった葉子を見れば「ふぅーん」と小さく言って、次の部活動の話を暇そうに聞く姿勢になった。

 

 そんな葉子を肩ごしに灼はチラ見してすぐ前に向き直ると水菜がこちらを肩ごしに見ていた。その目はなにかにとても不安なものがあるような目で、「なぁに?」と軽く小首をかしげてやると水菜は軽くこちらに体を向けて言った。

 

「灼さん、私もうまく楽器を扱えるようになる・・・かな?」

 

 それは1時間半程度前に葉子が灼に耳打ちした「水菜さんが楽器の事に対して不安そうだよ」という言葉を思い出させるのに十分だった。それは灼や葉子も同じように、初めて一郎からホルンをやってみないか?と言われた時、音楽なんてものを自分で吹いて表現できるか?とか、もしかしたら途中で投げ出してやめてしまうんじゃないか?とか、とても不安に駆られた。しかし悩む事はあってもちゃんとできるようになったし、それは楽しくて、出来ている身からすれば推して勧めてあげたいくらいだった。だけどそんな不安は応援や励ましじゃどうにもできないことで、その解決は灼や葉子のようにできるようになることで自然と解消される。

 

 ギターやドラムとかを成人してから始める人は多いけど、金管楽器や木管楽器のような唇を使う楽器は、唇の柔らかい子供のうちが吹きやすくやりやすいらしい。だけど吹奏楽とかで音楽を挫折する子供は、今水菜が悩むような不安に駆られて精神的苦痛を帯びていつか諦めてしまうらしい。一郎が言っていたのだ。

 

 だから水菜がおそらく求める答えを灼の口から言うことは、ある意味では水菜に対して嘘をつくことになる。だから灼の返事は未来にいる彼女の状態などではなく、それに対して水菜がどのくらいやれるかだ。

 

 きっと優しい葉子なら「もちろん」とでも言ってしまうだろう。

 

 そんな葉子は灼とホルンを習っていた時、数回やめようか迷っていたことがあるくらいだ。おかげで少し後ろ向きな音が特徴となってしまっていて、それは彼女の一部の性格の現れだ。このかた葉子と全く違うと言った行動をとった事がない自分だ。葉子のことは端から端まで知っていると自負している。

 

 だから本気で音楽をやりたいと考えていた自分の思いを持って、水菜に自分の意見を述べてあげた。

 

「あなたはどのくらい必死になれる?」

 

 ザワザワとした喧騒のなか灼は水菜に真剣な目つきで言う。

 

 その瞬間水菜は「え?」と困惑の表情を浮かべた。

 

 灼はもう一度そんな水菜に同じ言葉をかけた。

 

「あなたはどのくらい必死になれる?」

 

 困惑な表情のままの水菜はどうにか固まった思考を動かし言葉を紡いだ。

 

「わ、私は・・・えっと・・・その・・・音楽が・・・その好き・・です」

 

 小さく深呼吸を入れて水菜はまた言葉を紡ぐ。

 

「だから私は音楽をできるようになるためならどんなことでも、何時間でもやってみせます。例えそれが中学生のうちにできなくても私には高校生があります。絶対に音楽をマスターするまで諦めません」

 

 深呼吸を入れて灼に向き直った水菜の目はとても真剣で、確かなやる気と意思を、灼は感じ、言ってあげた。

 

「そう、約束だよ?私忘れないからね?もしできなかったら言うこと聞いてね?」

 

 灼はマシンガンのように水菜に問いかけて、その細く白い手を掴んで無理やり小指を自分の小指と絡ませた。指切りだ。

 

「は、はい・・・」

 

 水菜もやられるがままに灼と指切りを切った。

 

 切れた瞬間に灼は意地悪な笑顔を作って軽い放心状態の水菜を見た。

 

 水菜は灼が思っていたよりも自立心が強いらしく、灼の想像を遥かに超える返事をしてくれた。一番の決めてはさっきの返事に「~したいです」と自分の望み的に言葉を紡がなかったことだ。大抵の子供は「お前はどうする?」と言われた時、「~したい」と返事をすることが多く、具体的にどんな状態にするかまでは答えない。それは曖昧な返事でしかなく、聞き手が求める答えではない。

 

 そして水菜は灼に対してその求める答えをくれた。しかしその答えは灼の想像にはなかった。だから軽い照れ隠しに、マシンガンのように言葉を紡いで無理やり水菜に指を切らせた。

 

 そんな灼と水菜の沈黙に対して空気を読むかのように、「教室に戻って先生の指示をあおぐように」と司会者が言った。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 教室に戻るとさっそくホームルーム(HR)が始まった。

 

 30分程度で終わるようで、プリントが数枚配られた。

 

 プリントはこの後さっそくある体験入部のことが書かれた紙で軽く説明を受けた。他にもいつから授業があるとか体育時の注意点、最終下校時刻、スクールバスの利用についてなど、学校生活に必要な情報が丁寧に説明された。

 

 それからはもう放課後として扱われるらしく、この時間からは体験入部への生徒と下校への生徒に別れる。もちろん葉子と灼と水菜は吹奏楽部の体験入部へ行く。

 

 葉子の予想していた部活動の部屋当てというのは大きく外れて、吹奏楽部の活動部屋は3棟全てが対象となっていた。人数が多いので1パートにほぼ1部屋の割合で割り当てられていてとても贅沢だ。しかも3棟の4階の部屋のうち2部屋は繋がっていて、合奏時に使うらしい指揮台とたくさんの椅子が積み上げられている。さらにそのとなりに楽器庫があるようで、盗みとられたりしないように厳重な鍵がかけてある。もちろん外から中は覗けないように黒い紙などが窓に詰められている。

 

 そして今葉子らは紹介時に省いた説明を合奏部屋で受けていた。

 

 体験入部にはざっと見てもわかるくらい大人数で、数えると45人程だ。

 

「さぁ、ではさっき言った通りこれからそれぞれの担当したいパートに分かれてもらいます」

 

 新入生に話をしていた女生徒・・・部長の赤坂 見登(あかさか みのり)は、そう言って手をパンと叩いて行動の合図をとった。

 

 そのあとザワザワと新入生達は分かれて、それぞれ希望のパートの部屋へと歩いて行った。そんな中葉子らも3階の部屋・・・具体的には11組の部屋に到着した。今回水菜はホルンを体験してみたいらしく、葉子らと一緒に来ている。

 

 葉子が部屋の前で二人に振り返ると後ろには後4人くらい同じ気持ちの生徒がいた。そんな水菜の肩にはホルンが背負われていて、静かそうな雰囲気をまとった水菜がホルンを吹いている姿はなんとも不思議な上品な気品を帯びたものだろう。と想像させた。

 

 それを確認して葉子が前を向きドアを引いた。

 

 中には10人の先輩らしき生徒がいて、皆手には、見た目的にイエローブラスの金色のホルンを持っている。その中の一人は銀色で、Fの菅とB♭の菅が少し離れるように設計されたホルンを持っている。

 

 その銀色のホルンを持つ女性が立ち、「ホルンパートへいらっしゃい!新入生の諸君歓迎するよ!」と言って、自分の周りにいる部員に椅子を用意するように指示した。

 

 椅子が用意され新入生のとなりに在校生が入る形で円を作って座り、自己紹介などをすることになった。

 

「じゃ、まずは私からだね」

 

 そう最初の切り出しをしたのは銀色のホルンを持った女生徒だ。彼女は一息置いて自己紹介を始めた。

 

「ホルンパートのパートリーダー兼譜面保管係長の夕弦 愛海(ゆづる あみ)だ。今年から3年生で受験生だから新入生の諸君とは短い付き合いになるが、よろしくな。ちなみにあたしはホルンを小学5年からやってるぜ。新入生の先輩の中では一番長いからなんでも聞いてくれな。じゃ、右回りに行こうか」

 

 そんな風に話を進める中、後ろの扉がおもむろに開き一郎と水菜母が入ってきた。

 

 水菜がちょっと視線を送れば水菜母は水菜に対して小さく手を振った。

 

 愛海の隣には水菜が座っていて、そんな水菜に愛海は「じゃ、君だな?行けるか?」と優しく言っている。水菜はそれに頷き前を向いて喋り始めた。

 

「夕紅島南第4小学校出身の瀬笈 水菜です。ホルンは始めて半年になります。まだまだ音を鳴らすことでさえままなりませんが、どうかよろしくお願いします」

 

 水菜は意外と人前で何かを喋ることに対してそんなに抵抗がないらしく、噛んだりすることもなく丁寧に話した。

 

 しかし、そんな水菜の言葉に水菜母は目を少し見開いていた。そんな水菜母に一郎は鋭い勘と灼のチラチラ見る視線を見て事態を察し水菜母に耳打ちして教えた。葉子はその様子を灼の反対側の席で見て少し楽しそうだと思ったのだった。

 

 そう、灼が初心者を演じる上での問題解決方法は、水菜が灼のホルンを持って経験者を装い後で種明かしをするというものだ。

 

 水菜の自己紹介に拍手と「ほー」という声があがった次は男子生徒で、落ち着いた雰囲気に丸い目は優しそうな感じを思わせる。

 

 「あーえっとなんだっけ・・・?あ、そうそう、僕は海道 弘樹(かいどう ひろき)です。愛海と同じで今年から3年生だから、新入生とは短い付き合いになるけどよろしくね」

 

 優しそうな雰囲気はあった・・・しかしなんというか無理やり作ったキャラを演じてる違和感を葉子は感じた。

 

 上級生に拍手はなく、隣の1年生に番が移る。

 

 次は葉子より小柄な体型で茶髪のショートカットな女生徒だ。葉子の脳内にある男子生徒を模した思考で言うと、いかにも”守ってやりたい”か弱そうな子で、見た目そのまんまな性格と声で喋り始めた。

 

「わ、私は東 由紀(あずま ゆき)です。え、えと・・・あ、夕紅島中央小学校出身です。ど、どうか・・・あの・・・よろしく・・お願いします」

 

 拍手が終わると、次は少し太めのしっかりした顔つきの男子生徒だ。

 

 その男子生徒が喋ろうと口を開けた瞬間、また扉が開いた。

 

 扉から顔を覗かせたのは、メガネをかけた綺麗な顔つきに、男性のように短い髪で茶色っぽく見える瞳を持った女生徒だった。

 

 その女生徒は何でも任せられそうな声で言った。

 

「え~2年生は至急合奏部屋に集合しなさい。あーそれと1年生の事はパートリーダーに任せます。顧問と部長、副部長と2年生はこれから華実小学校での演奏練習を体育館にて行います。ではあとはよろしくたのみますね」

 

 女生徒はそう言うと顔を引っ込めた。すると2年生らしい男女の生徒がため息を軽くつきながら6人ほど立ち上がり、ホルンを片手に小走りで女生徒を追っていった。

 

 2年生が去ると部屋には3年生4人と新入生7人が残った。人数的に新入生と在校生のワンツーマンのペアは作れなくなったが、部長が自分を指差して3本指を立てて、葉子の隣の女生徒と無言の会話をしている。葉子の隣の女生徒は2本指を立てて見せたあとに自分を指差し親指を立てて了承の意を表した。

 

 いなくなった2年生の椅子を軽くどけてさらに小さな円を作ると、さっき言葉を遮られた男子生徒が口を開いた。

 

「えーと、俺は斎藤 悠(さいとう ゆう)だ。わかると思うが俺も3年で1年生の君たちとは短い付き合いになるが、よろしくな」

 

 頼りになりそうな声で悠は喋り右隣の灼のほうに視線を送る。次は君の番ということだ。

 

 灼は待ってましたとばかりに軽く笑顔を作った。

 

 悠はその笑顔を間近で見てしまったようだ。一瞬のうちに目を奪われて心ここにあらずという状態になる。

 

 そんな悠に気づかないフリをして灼は話始めた。

 

「あたしは佐々木 灼だよ。小学校は行ってません。まだわからないことばかりですがよろしくお願いします」

 

 そう、葉子と灼は小学校には行っていない。夕紅島市の教育委員会は変わった制度を設けていて、家庭勉学制という家での勉強を塾などの施設の講師から学ぶものだ。しかも小学校レベルの勉学修了の証明さえとれたら、小学校での勉学を省略して良いというものだ。欠点は、めんどくさい中学手続きなどを家庭でやらないといけないことくらいで、夕紅島市にはこの制度の利用者はそんなに少なくもない。

 

 灼の紹介はが終わると拍手は一拍遅れて起こった。悠は「ハッ」と我に帰って何もなかったように拍手を遅れてした。

 

 灼の次は2年生のはずだが、残念なことに先ほどお呼び出しされたためおらず新入生だ。

 

 灼の次は男子生徒で黒色の髪に丸い顔の普通の生徒だ。

 

「僕は果奈実小学校出身の柳根 宏太(やなせ こうた)です。僕は小学校の時金管バンドでコルネットを1年だけ吹いていました。ホルンについては全く初心者ですが、よろしくお願いします」

 

 果奈実小学校は夕紅島~第~小学校とは違う独立の小学校で、そのほとんどは私立だ。

 

 そんな宏太のささやかな拍手の後に喋り始めたのは女の子で、本の少し銀色がかった髪が特徴な外国人っぽい気品を持つ子だ。

 

「私は宮本 友理奈(みやもと ゆりな)です。私も灼さんと同じように小学校には行ってません。ピアノを7歳からやっています。金管楽器はやったことがなくてわからないですが、どうかよろしくお願いします」

 

 友理奈はそう言うと椅子に座りながらも頭を下げた。

 

 友理奈が顔を上げるとともに友理奈の隣に番が回る。

 

 次の生徒も1年生で短く切った髪はサッカーをやっていた感じを思わせる顔つきをした男子でそれなりにカッコイイと葉子は思った。

 

「あーえっと・・・田沼 皆斗(たぬま みなと)です。小学校では外のクラブでサッカーをしていました。音楽は始めてで素人ですがよろしくお願いします」

 

 そう皆斗は丁寧に言うと友理奈と同じく頭を軽く下げた。

 

 番は次に回って葉子の隣まで来た。

 

 次は先ほどパートリーダーの愛海と目線と手で会話していた女生徒だ。クセのある短い髪は勉強より運動の方が好きだと想像させるに十分で、尖った細い線のある顔と華奢だけど腕には確かに筋肉の筋が少し見えるのがそれをさらに強調していた。

 

「私の名前は天名 美津(あまな みつ)だ。ホルンパートの副リーダーで基本吹奏楽のパンフレット作り担当だ。短い付き合いだけどわからないことがあったらなんでも聞くんだな」

 

 葉子も何度かパンフレットを見たことあるがとても見やすいもので、紹介の欄やパート一覧など見やすく区分してあって、とても知りたい情報だけを取り出しやすかった。

 

 葉子が頭の片隅にパンフレットの絵柄を思い出していると美津は葉子をチラッと見て、「君の番だ」と言った。

 

 葉子は小さく咳払いをしてカフェで身につけた愛想笑いを浮かべて口を開いた。

 

「私は佐々木 葉子と言います。小学校は行ってません。私は今年、ホルン5年目になります。まだうまくできませんがよろしくお願いします」

 

 そういうと愛海は「おぉーっと私より先輩な子が登場しちゃったねー」と灼のような陽気な声で呟いた。そんな愛海に弘樹は「愛海ちゃんもそろそろ潮時だねー」っと冗談っぽく言っている。

 

 そんなやりとりに葉子は軽く笑っておいた。

 

 葉子への拍手も終わり愛海が一回だけ手をパンっと合わせると、椅子から立ち上がって言った。

 

「じゃあ1時間しかないけどペアを作って行動にあたろうか。できるだけ楽器経験者の子は私と美津が見るから、全くの未経験者の子をワンツーマンで見てあげてね」

 

 愛海はそう言って弘樹と悠の顔を交互に見た。それに二人は小さく頷いた。

 

「じゃ、葉子ちゃんと水菜ちゃんと友理奈ちゃんは私がみよう!美津は宏太くんと皆斗くんを頼むよ。灼ちゃんと由紀ちゃんはそこの先輩を選んでいいからね」

 

 愛海は素早く決めて話を進め、両手で水菜と葉子の肩に触れ友理奈に目線を送った。

 

 水菜と葉子と友理奈は小さく頷いて愛海と一緒に教団前の席に移動した。それと同時に美津も立ち上がり宏太と皆斗に「来い」と手招きして、教室後方に移動した。

 

 そんな中灼と由紀はどっちにするかを決めていた。

 

「由紀ちんはどっちがいい?」

 

 灼は由紀に勝手にあだ名をつけて話をふった。

 

「えーと・・・灼さんが勝手に決めてもらっていいですか?」

 

「いいよぉー」

 

 陽気に答える灼だがどっちにしろ強制的に仕切るだろう。

 

 頭の片隅にそんな灼の性格を思い出しながら葉子は横目でそれを見ていた。

 

「じゃあ私は悠先輩とやりたい!由紀ちん、弘樹先輩でもいい?」

 

 由紀にいい?と聞くのは灼の小さな気遣いだ。そんな由紀はフンフンと頷いた。

 

「じゃあ悠先輩!お願いしまーす!」

 

 灼はまた笑顔を作って悠に言った。おそらくテンションが高いのは灼だけだ。

 

 悠はそんな灼の笑顔を見て、目が一瞬違う方向を向いた。

 

 そんなやりとりに愛海達3年生が静かに微笑んだ。

 

「じゃ3人ともまずは音を鳴らしてみようか。マウスピースをたくさん持ってきたから選んでね。自分のやつがあるならそれ使ってもいいよー」

 

 愛海は葉子達に言って机の上に綺麗に並べられたマウスピースの箱を置いた。

 

 さすが夕紅島市唯一の中学校だ。楽器の数も楽器のための道具も豊富みたいだ。

 

 葉子は自分のマウスピースを使うためケースを開いて、その吹口が純金の小さなマウスピースを取り出した。

 

 水菜は灼にホルンを渡されているが、さすがに灼のマウスピースを使う気にはなれないらしく、友理奈と一緒にどれを使おうか悩んでいる。

 

 そんな様子を愛海は見て言った。

 

「自分の口で確かめてみるといいよ。初心者用のマウスピースなんて存在しないんだ。だから自由に口につけて、自分にあったものを選ぶといい」

 

 それを友理奈達は聞くと、おそるおそる手にひとつ持って唇につけてみた。

 

 だがしかし・・・よくわからないらしい。二人ともに首をかしげている。

 

「まぁ、そうなるね。じゃあこっちを使うといい」

 

 そう言って二人に6Cと刻まれたマウスピースを渡した。

 

「じゃ、やってみようか。君たちは多少でも音楽に関心があるけど、初心者的に扱わせてもらうよ」

 

 葉子達はそれに頷くと、愛海は自分のホルンからマウスピースを抜き取り口に軽くつけて吹いてみせた。

 

 ホルンのマウスピースの音は、ホルンの音から深みを少し取り除いたような音で「ブゥー」というふうに聞こえる。

 

 愛海はやってみせたあとに、「やってみなさい」というふうに手で伝えた。

 

 葉子達もマウスピースに口をつけて「フゥー」と息を吹き込む。

 

 もちろん葉子は鳴ったが、水菜と友理奈は鳴らずに「スー」という音だけが響いた。

 

「ふふふ、まぁホルン初心者はそんなもんだな。じゃ、愛海のホルンレッスンだ。今日のレッスンはマウスピースとホルン本体の軽い練習だ」

 

 葉子も一応向き直って聞く姿勢を作る。

 

「マウスピースは音を作る部分で、ホルン本体と体を繋ぐ場所でもあるのだ。音を作るということがどういうことか分かるか?友理奈ちゃん」

 

 愛海はたびたび質問を投げかけて答えさせるらしい。

 

 友理奈は微妙に首をかしげたあとおそるおそる答えた。

 

「唇によって音がなるから音の扱いは自分次第ということですか?私の例えだと、ピアノの鍵盤に対する力加減みたいな・・・」

 

 愛海は一度頷くと話を続けた。

 

「そう、マウスピースで鳴る音は直接楽器に繋がる音だ。それは調節によって音が固定されるピアノとは違って、唇の振動によって音の高さが決まるということ。つまり音の発声も音の高低も唇次第・・・自分次第ということだ。学校で練習する意味はそれの扱いをマスターするということ、だから音の発声と高低・・・それの扱い速度の技術と譜面さえ読んで表現ができたらホルンはマスターしたと言っても過言じゃない」

 

 「だが・・・」と愛海は続けて言う。

 

「ホルンは世界一難しい楽器というふうに世間に知れるくらい難しい楽器だ。どれだけ長いことこの楽器を扱う人でも音を外しやすい楽器なのだ。しかも難しさを挙げるならば・・・マウスピースが丸くなく直接通じるように真っ直ぐな穴で、つまり唇の振動・・・音が直接響く楽器ということだ。しかも出せる音の広さが半端じゃないくらい広い・・・これはあやつる音が多いということだ。だからとても難しいと言われるんだが、まぁこれもホルンらしさと言えばそうだからな。外れないホルンはホルンじゃないと言っていいくらいだし気にしなくていい。ま、難しいけど私らがしっかり教えるから安心しな」

 

 葉子は一郎が言っていた似たようなことを思い出しながら横目に二人を見ると、友理奈と水菜は軽く目を見開いていた。まぁ無理もないだろう。

 

 そんな説明を終えると愛海は「じゃ、マウスピースの音鳴らしについて教えるよ」と言った。

 

「じゃまずはこうやって唇をほぐすことから始めようか」

 

 そう言いながら愛海は葉子と灼がカフェでやっていたみたいに、幼児の子供がお風呂場でやるみたいに「ブルブル」と唇だけふるわしてみせた。

 

 友理奈と水菜も真似してやってみようとするが、二人は唾が飛ぶことに抵抗があるらしい。少し控えめにしかしなかった。

 

「ほらほら、二人とも恥ずかしがってたり、控えめだと始まらないよ。ちゃんとやってみて」

 

 そんな二人を愛海は見て言った。

 

 友理奈と水菜はお互いに視線を絡めてしぶしぶやってみた。

 

 葉子もその間同じようにやっていた。

 

「葉子ちゃんみたいに大きく息を吹いて大きく唇を動かしてみてね。しっかりほぐさないとうまく吹けないことがあるからね」

 

 愛海がそう言うと水菜と友理奈の視線が葉子に向けられる。ちょっと恥ずかしい・・・。

 

 5分程たったか・・・愛海は手で「注目!」という合図を出すと口を開いた。

 

「じゃ、マウスピースを鳴らしてみようか。唇に軽く押し当てて小さなこの穴に直接「フゥー」と吹き込むだけでいい。マウスピースのこの縁部分リムって言うんだけど、ここが唇を固定して唇のわずかな部分だけが振動するようにしてくれる。じゃ、やってみよう」

 

 友理奈と水菜は言われた通りに唇にマウスピースを当てて「フゥー」と吹き込むように吹いてみた。

 

 「ブゥー」と途切れ途切れだが音が鳴った。二人ともにだ。

 

「おー、できたできた!じゃ、今の感覚はしっかり覚えといてね!10分程練習してみよう!」

 

 愛海は小さく拍手しながら感嘆の声を上げている。

 

 水菜と友理奈は笑顔で葉子に向いて、事の報せをしてきた。

 

 それに葉子も軽く笑顔で「できたね!」と返しておいた。

 

 そんなことでマウスピースでの音出し練習が始まった。

 

 そんななか葉子は灼に視線を送った。

 

 灼と悠は向かい合って練習していて、灼はわざと途切れ途切れの音をマウスピースから出していた。そんな灼に悠は「しっかり息を真っ直ぐに同じスピードで出すことを意識して!」と教えている。

 

「灼ちゃん、ほら深呼吸してお腹いっぱいに息を吸って吹いてみて、灼ちゃんはとても音が出るまでのタイミングが早いからうまくできるはずだよ!」

 

 経験者に何言ってんだと葉子は思っていると、悠が少し目線を違うところに向けた瞬間に灼と目があった。

 

 葉子に灼は「えへー」と笑いかけてきた。

 

 そんな灼に悠が視線を戻すとそこには、うまくできない初心者顔の灼がいる。本当にとんでもない少女だ。と葉子は心に思ったのだった。

 

 部活動時間残り30分程度になった時だった。愛海が声をかけてきた。

 

「葉子ちゃんと水菜ちゃんは自分の楽器を使う?学校の楽器を使う?」

 

「私は自分の物を使います!」「私はできたら学校のを使いたいです」

 

 葉子と水菜が口々に言うと愛海は頷いて立つと、教室の隅に置いてあるフレンチホルン・・・ベル部分が完全に接合されているホルンのユニークな形をした箱を取りに行った。

 

 愛海が戻ってくると、その両手には新品どうようの黄色い金色のホルンが握られている。体験にはF管のみのホルンを使うらしい。軽そうな本体には3つのレバーと1つの音程用の管しかついていない。

 

 それを水菜と友理奈の隣の机にレバーをした向けに置き、自分の椅子に座り言った。

 

「じゃ、愛海のホルンレッスンパート2だ。ホルンを鳴らしてみようか。今日はこれで終わってしまうけど、明日の体験入部も来てくれたら続きを施してあげよう」

 

 葉子達は頷いてホルンに手を伸ばした。葉子だけホルンを出す作業に入ると、愛海は思い出したかのように「あ」と言って、水菜と友理奈に持ち方の説明を始めた。

 

「ホルンは左手の人差し指、中指、薬指をレバーに置いて、親指はレバーの下の支えみたいなくぼみに掛ける。小指はレバーの隣にある小さい掛け金に掛けるんだ。そして右手はホルンのここ・・・ベルというんだが、ここに手を入れて支えるんだ」

 

 そう言って愛海はホルンのベルに手を差し込んで持って見せた。

 

 水菜と友理奈はマウスピースをはめて、愛海を見ながら真似して持ってみた。

 

 愛海はそれを見て「そうそう」と言うと、椅子に深くこしかけて葉子を待った。

 

 葉子もデタッチャブルにベルを入れて持つと、「準備完了」の視線を送った。しかし葉子のホルンの違和感に気づいたらしい愛海は疑問が先に口から出た。

 

「葉子ちゃん・・・そのホルンなんかすごいね。4つも管ある上に小指のレバー2つもある・・・」

 

 水菜と友理奈もこちらを見て「なんじゃそりゃ・・・」と目を見開いている。もう見慣れた光景だ。

 

「ま、まぁ・・・とりあえずやろうか・・・時間もないし」

 

 そう言って愛海は調子を戻して口を開き始めた。

 

「じゃあまずは・・・そうだな。音を出してみようか。なんでもいい適当に吹いて音を鳴らしてみよう」

 

 言い終えると愛海はホルンを構えて「フォーン」と音を鳴らした。愛海の音は綺麗で落ち着いた音だ。

 

 水菜と友理奈も真似するように吹いた。二人とも少し息の流れる「スー」という音が混ざっているがしっかり音は鳴った。

 

 葉子も一緒に「フォーン」と吹くと愛海はやっぱり口を開いてきた。

 

「私より音綺麗じゃないか。さすがは私のホルン的先輩だ」

 

「そ、そうですか?ありがとうございます」

 

 葉子も照れるように笑って返すと愛海も笑ってくれた。

 

「じゃ、音階練習を残り10分前にするから、それまで自由練習だ」

 

 そういうと愛海は一人で勝手に吹き始め、水菜達もそれに釣られて吹き始めた。

 

 そんな中葉子は灼に視線を送ると、灼も葉子を見て「にぱー」と笑ってきてる。

 

 そんな顔を灼がしていると、Fシングルフレンチホルンを持った悠が隣に座り「どうぞ」と渡した。

 

 灼は悠からホルンを手渡されると、さっそくマウスピースをはめて勝手に吹き出した。

 

 どうやらそろそろ種明かしをするらしい。

 

 悠はとっさの新入生の判断についていけず反応が遅れて、「ちょっ」と言葉を漏らす。

 

 そんな悠の言葉さえ無視すると灼は宇宙戦艦ヤマトのトランペットの譜面を勝手にホルンの譜面に変えた部分を吹き始めた。

 

 トランペットのように明るく盛り付けを行う旋律は、灼の明るく元気なホルンの音によって完全に塗り替えられ表現された。

 

 灼が吹いたのはそんな曲の一番トランペットが目立つ部分・・・本当に最初の旋律だけだったが、それは熟練者を思わせるのには十分でホルンパートの3年生全員を振り向かせるには、大きすぎる影響だった。

 

「えへへへー、悠先輩ごめんなさい。私実は今年5年目なんです。本当の初心者は愛海先輩のところにいる水菜ちゃんです。驚いた顔をいただきました。ごちそうさまです」

 

 そう言って悠の顔を見つめたあと、立って大きめの声で再度自己紹介の文句を告げた。

 

「改めて自己紹介させていただきます。私は佐々木 灼・・・家庭勉学制度により小学校には行ってませんが、ホルンは今年5年目です」

 

 言い終わると水菜の下に置いてあるホルンのケースを取り、それからホルンを取り出して見せた。

 

 そんな灼の行動に愛海は大きく笑って言った。

 

「面白い子が出てきたね。悠はまんまと引っかかったわけだ。灼ちゃんとっても面白いんだね!悠の間抜けな顔が見れたよ」

 

 そう苦しそうに言うと愛海はまたお腹を抱えて「ククク」と漏らし始めた。

 

「おいおい、まじかよ。こりゃ一杯やられたわ」

 

 悠も起きた事態を理解すると、笑ってそう言った。

 

 灼は悠の下に戻って「ごめんなさい」と言うと、悠もわらって「いいよ」と言っている。

 

 そんな光景を見ながら愛海が「じゃあもしかして・・・水菜ちゃん初心者?」と言いながら、水菜に視線を送った。

 

 水菜は申し訳なさそうにしながら、「すみません・・・そうです・・・」と言った。

 

「そうかいそうかい、まぁわかるよ。どうせ灼ちゃんに詰められたんでしょ?あなたが私でも絶対乗っちゃうよー。ハハハ」

 

 愛海はそう言って水菜を励ましたのだった。

 

 灼と水菜の茶番があってから15分程度たったころだった。

 

 愛海が葉子達に音階の練習をすると言った。

 

「愛海先輩、私と水菜ちゃん指使いわからないのですが・・・」

 

「心配しないで、私の見て真似すればいいからさ」

 

 愛海はそう言いながら、黄色い細い山のような形をしたメトロノームの針を100に合わせた。

 

「よし、じゃあまずはFの音・・・ホルンで言うドの音ね」

 

 フォーンっと愛海は音を出して、どんな音かを葉子達に伝えた。

 

「じゃ、やってみようか」

 

 そう言うとメトロノームの針をズラして動かしはじめた。

 

 カチッカチッと鳴り始めたとき、愛海は「私の合図から四回目で吹いてね。一つの音につき四回ずつ吹くから、ついてきてね」と言った。

 

 メトロノームのカチッの音と同時に手で合図した。

 

 友理奈と水菜は数回音が出なくなったり、途切れたりしながらもついてきて一回目をどうにか通した。

 

 葉子はもう何回目かもわからないので普通に通した。

 

「二人とも全然上手にできるじゃん!始めての時の私より上手だよ!」

 

 愛海は感嘆の声を上げていった。

 

 それからは同じ音階を何度も何度も練習して、部活動の時間に終わりがきた。

 

「よーし!全員集合!もちろんホルンは片付けてね!」

 

 愛海はパートリーダーらしい声で大きくそう言った。

 

 水菜と友理奈がホルンの片付けに戸惑っていると、「マウスピースを洗ってきてね」と愛海は言って二人のホルンの唾抜きと片付けをした。

 

 愛海はできるだけ初心者に手間をかけさせないらしい。見てて思うのはとても優しい先輩だということだけだ。

 

 葉子と灼が自分のホルンを分解して片付け終わったくらいに、二人は戻ってきて洗ったばかりのマウスピースを小さな箱に片付けた。

 

 そんなこんなを終えて全員集合すると、愛海は最後にパートリーダーとして口を開いた。

 

「今日はお昼で部活動は終了しちゃうけど、また明日も体験入部はあるからね。また吹奏楽部のこのホルンパートの体験に来てくれると嬉しいな。それに今日見てる限りだと、皆音はちゃんと鳴ってるし、初めてにしては上手だったからね。その他の楽器でも上手になれると思うし新入生のみんなは自信持ってまた来てね!」

 

 言い終わると、「今日は解散!」と言って、手をパンパンと叩いた。

 

 葉子達新入生はそれぞれが担当してくれた先輩に「ありがとうございました」と言って教室をあとにしたのだった。

 

 そんなやり取りをしたあと、一郎と水菜の母に合流しバスに揺られていた。

 

「水菜ちゃん。ホルンはどうだった?」

 

 水菜は緊張が解けて眠たくなったのだろう。目をこすりながら灼の言葉に返事をした。

 

「うん、とてもカッコよかった!でも私は他の楽器も体験してみたいかな」

 

 灼はそんな水菜の言葉に笑いながら言った。

 

「ふふ、自分の大好きになった楽器をやるといいよ」

 

「だよね。灼ちゃんと葉子ちゃん今日はありがと」

 

 葉子は横で話を聞いていただけだったが、名前を呼ばれて「どういたしまして」とつぶやいておいた。

 

 そう言ったあと灼と水菜は何か話をしていたが、葉子の意識は朝から感じていた眠気によって遮られたのだった。

 

 



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4月8日その4 お出かけ

「母さん・・・」

 

 そんな言葉が聞こえた気がする。

 

 目を覚ますと隣に発声主がいた。

 

 その発声主は耳が隠れる程度に短い茶色がかった髪に、形が整った綺麗な顔つきは近くで見なくてもとても美人でさりげなく人の気を引く魅力があるかもしれない。

 

 そんな顔付きの少女は佐々木 葉子という。葉子は自分と知り合って既に10年目となる。

 

 しかしそんな葉子の顔は幾筋もの涙で濡れている。もうこんな寝顔を見たのも何回目か・・・。

 

「母さん・・・・・・どこ・・・」

 

 葉子は自分と一緒にかつては施設で暮らしていた。

 

 なぜ施設に入っていたのかというと、親がいないからで、施設とは国が設置している保育施設だ。そんな施設で葉子と一緒に過ごしていたとき、一度だけどうして施設に来たのかを聞いたことがある。

 

 それは葉子が5歳の時の話だ。葉子はいつものように家族と一緒に過ごしていたと言っていた。急に外からサイレンの音が近づいてきたかと思うと、見知らぬ男が家の玄関を破って侵入してきたらしい。最初に葉子の父が身を張り、刺されたそうだ。そんな中葉子の母も葉子のために身を張って、少しつかみ合いに持っていったそうだが刺され、その瞬間に警察が部屋に流れ込んできたと聞いた。しかし葉子の両親は病院で出血死し、祖父母も早々と亡くしてしまっていた葉子は仕方なく施設に来たと言っていた。

 

 とても悲しくて怖くてひどい話だ。

 

 いきなり入ってきた男に刺されて両親を殺されたうえに、その男は今も死刑が施行されるのを待って牢獄の中で生きているらしい。灼にとっても絶対に許せない話だ。

 

 そんな葉子は施設や養子に取られてからも、たびたびベッドや灼と行動をしている隣で思い出して涙を流していた。最近では少なくなって少し安心していたが、まだまだ油断できない。

 

 葉子は寝言は無くなったものの、涙がさっきよりも増えて伝う量が増えていた。

 

「葉子・・・」

 

 灼は小さく呟いて葉子の頬の涙を自分の袖で構わず拭ってあげ、そのまま葉子の頭を軽く右手で寄せ、両手で抱きしめてあげた。

 

「ん・・・む・・・ん?」

 

 葉子は異変に気がついたらしい。半分だけ目を開けて灼を上目遣いに見てきた。

 

「灼?・・・私・・・また?」

 

 どうやら夢ですらうまく覚えてないらしい。少し困惑の色が顔にかかっている。

 

 そんな葉子の言葉に灼は軽く首を上下に動かして返事をした。

 

 葉子はその反応を見てすぐ離れようと身を動かしたが、灼は逆に葉子を抱きしめる力を強めて離さなかった。

 

「や、灼?ダメだよ。服濡れちゃうから・・・」

 

「葉子が安心するまでダメ」

 

 灼の性格を知っている葉子だ。

 

 灼の言葉を聞くと諦めて抵抗をやめた。すると逆に灼の胸に顔をうずめてきた。

 

 それに答えるように灼ももう少し力を入れてギューとしてあげた。

 

「灼?ちょっと苦しいな」

 

 葉子が文句を言ってくるが、そんなこと聞いてやらない。葉子が泣いてる時は私がしっかり支えてあげると決めているんだ。

 

 数分経ったか・・・葉子はまたすぅすぅと小さな寝息をたて始めた。

 

「落ち着いたかな?」

 

 灼は小さく呟いてその茶色がかった髪を優しく撫でつけ目を閉じたのだった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 日が茜色の光を照らし始めた頃・・・既に閉店準備をしているカフェに一人の来客が来た。

 

 茜色の日差しを背に受けて佇んでいるのは、灼よりも短めの長髪をピンク色のヘアピンで止めた水菜だ。

 

 こんな夕方に水菜が葉子らを訪ねたのは灼の約束のせいだ。

 

 午前中、体験入部のために部活動に行った帰り、灼と水菜は葉子に無断で夕方から出かける約束を結んだらしい。

 

「葉子さん、灼さん、お出かけしましょう」

 

 そんな水菜の私服は可愛らしいフリルがついた。どちらかというとドレスっぽい服で、灼のように服+スカートの形ではなく、完全にそれ一着だ。

 

「わぁ!水菜ちゃん可愛い!その服とっても似合ってるよ!」

 

 さっきまで常連のサラリーマンに閉店を知らせていた灼は水菜の姿を見るやいなや仕事をほっぽり出して、そんなことを言いに行ってしまった。

 

 葉子はそんな灼に構わず一郎に出発していいかを訪ねた。

 

「おじい様、お先に上がってよろしいですか?」

 

 一郎は笑って頷くと「行ってきなさい」と言った。

 

 その言葉を聞いて葉子は「では」と告げて、カウンターの上に置いておいた葉子と灼の小さなカバンを持って、二人の下に歩いた。

 

「じゃ、二人とも行こうか」

 

 水菜は笑顔で葉子に視線を送り「ええ」と言ったのだった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 夕方の夕紅島市の町並みはとても綺麗で、三人いてもどこに行こうかと迷うくらいだった。そんな中三人は大きなデパートの衣服店にいた。

 

「葉子!葉子!これなんて似合うんじゃない?」

 

 そう言って灼は真っ黒な会社のロゴが入ったシャツと、ポケットが2重になったデニムのショートパンツと、なぜかそんなに濃くないサングラスを持って角から現れた。

 

 とてもスリムな肌の焼けたアメリカ人が来てそうな服だ。

 

 灼よりも太めの自分が来ている姿なんて想像できないし、逆に灼が着たほうが絶対似合ってそうだ。

 

「私より灼の方が似合いそうだよ」

 

 灼は「そんなことないよ!」っと言って、服を私に重ねてきた。

 

「うん、似合ってる!ほらほら試着してみて!」

 

 灼は久しぶりの買い物でテンションが上がっているらしい。私の言い分など無視して、試着室に引っ張っていこうとする。

 

「葉子さん・・・これも着てみてくれませんか?」

 

 どうやら私が試着することは確定しているらしい。

 

 そんな水菜は正面から来た。その手には白い大きめのシャツと大人っぽいレースの茶色っぽいスカート、さらにシャツに少し隠れて見えなかったが、羽織用に見える茶色の薄着も持っている。

 

 もはや中学生よりも大人っぽさを強調しているとしか見えない。

 

 そんな二人に捕まり仕方なく葉子は着せ替え人形にさせられてしまったのだった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「あー楽しかった!葉子は似合う服が多いからどれにするか迷ってしまうよ!」

 

 結局葉子は二人に2時間も着せ替えをさせられた上に結局買ったのは葉子の服2着だけだ。

 

 灼は感嘆の声を上げながら「また行こうね」と付け加えて、水菜の顔を見た。

 

 水菜も満足そうな笑顔を浮かべて「はい!」と言った。

 

 そんな二人を横目に葉子は左手の腕時計を見ると、既に8時を回っている。

 

「もう8時だよー。これからどうする?」

 

「ご飯食べに行こう?あと銭湯にお風呂入りに行こ?」

 

 食事については賛成だったが、銭湯については全く謎だ。

 

「でも、私着替えとかタオル持ってませんよ?」

 

 灼はニィーと歯を見せて笑うと「心配しなくていいよ」と言って、自分の背負っている平たいバッグを開いてみせた。

 

 中には葉子の衣類と灼の衣類2着分が入っていて、どうやったらそんなに圧縮出来たんだと思うような状態になっていた。

 

「着替えはちゃんとあるし、タオルは銭湯のおっちゃんが貸してくれるから心配はないよ!じゃ、食事のあとは銭湯に行くことに決定だね。ね?」

 

 葉子と水菜は灼の提案におそるおそる頷き食事処を探すことになった。

 

 夕紅島市第1通りにはたくさんの店が並んでいて、寿司屋や焼肉屋、和食屋に洋食屋、バイキングもあれば、ファミリーレストランまでもある。

 

 そんな中で三人はラーメン屋に入る事にした。

 

 葉子らが入ったラーメン屋は、チャーシューが半端じゃないくらい大きい、こってりしたラーメンが売りの店で、灼の行きつけの店でもあった。

 

「おっちゃん!今日は友達連れてきたよ!」

 

 灼は奥にいる麺打ちをしている男性に手を挙げて声をかけた。

 

 すると麺打ちをしていた男性は麺を打ちながら灼の言葉に返事をした。

 

「よぉ!灼ちゃん!また来たのかい!」

 

 大きな声は店の奥から奥まで響かすのには十分すぎる。

 

 三人はテーブル席に空きがないため、カウンター席に腰掛けた。

 

「どうぞ」

 

 店の店員はとても応対が早く、席について間もないのに水を三杯置いて言ってくれた。

 

「ご注文お決まりになられましたら、呼んでください。すぐ応対させていただきます」

 

 そう言って去ろうとする店員は、葉子達より身長が少し高めの高校生風の男性だった。

 

 葉子達はさっそく手に手にメニューをとってどれにするか悩み始めた。

 

「灼、どれがおすすめ?」

 

 葉子は行きつけの灼に聞いてみた。

 

「私はチャーハン定食をオススメするよ。あーでも、チャーシューラーメンにオリジナルメニューで角煮と背脂の追加したものも好きだなー」

 

 葉子はそれを少し想像して腹の下が少しムズムズするのを感じた。そんなものを食べたらどれだけ体重が増えるかわからない。

 

「何よー葉子、どうせ体重がどうたらと考えてるんでしょ。運動するために食べたらそんなもの気にしなくてもいいんだよ?」

 

 見破られていた。顔に出てしまったかと思い少し自分の顔を撫でると、灼は「くふふ」と笑った。どうやらカマかけだったようだ。

 

「私の勝ちだね。で、どれにするの?」

 

 灼は勝ち誇った顔を浮かべながらそう言った。

 

「では私はこのラーメン定食をラーメン大とネギ多めの変更で注文しようかと」

 

 灼は水菜を見て「お?水菜ちゃんも結構いけるほう?」とか言ってる。

 

 それを横目に葉子も注文を決めて、店員を呼んだのだった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 食事を終えるとお腹は満腹で、しばらく休憩しないと動けそうにない状態になってしまった。

 

 灼は自分の膨れた腹を優しく柔らかい服の上から撫でながら横目で葉子と水菜を見た。

 

 水菜は既に食べ終えて「ふぅー」と一息ついている。

 

 その中葉子は、灼と水菜に意地を張って頼んだラーメン特大をチビチビと食べていた。

 

「もぉー、強がるからそうなるんだよ」

 

「べ、別に強がってなんかない・・・もん」

 

 そう言いながら葉子は語尾を濁した。

 

 葉子のラーメンの器にはまだ麺が4分の1程度残っていて、分厚いチャーシューもおまけ程度に半分半残っている。おそらく葉子が頑張って食べたのだろう。

 

 灼がそんな葉子を見ていると、ラーメンの器を覗いて箸を進めないまま、葉子が今にも泣きそうな顔でこっちを見てきた。

 

「もう、わかったよ。食べてあげるからそんな顔しないで?」

 

 灼はお腹が膨れているけど意外とまだその胃袋には空きがある。

 

 灼が水菜と席を変わって葉子の隣に来ると、葉子は自分の器を灼の前に滑らせた。

 

 葉子の使っていた箸を使って灼は葉子の残したラーメンを食べ始めた。

 

 少し冷めて伸びていたが、味は濃いままで対して違和感なく食べれた。

 

 灼はラーメンを秒速で片付けて「ごちそうさま」と手を合わせた。すると麺打ちのおじさんが気を利かせてか温かいお茶を用意してくれた。

 

「灼ちゃんやっぱりよく食べるねー。チャーハン定食のラーメン大、背脂多めチャーシュー追加を食べたあとに、残り物とはいえラーメン大をさらに食べるとは・・・今までで見た君の中で一番の食いっぷりだったよ」

 

「ふふ、ここのラーメンは好きだから何杯でもいける気がするわ」

 

 灼が言うと麺打ちのおじさんは大笑いして「ありがとな」と言った。

 

「じゃ、二人とも少し休憩したらお風呂行こう!」

 

 灼がそう言うと葉子と水菜は頷いて机に軽く突っ伏したのだった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 ラーメン屋を出ると既に人通りが少なくなった道を進んで、隅っこにポツンとたつ銭湯に入った。

 

 その銭湯は名前を夕紅島銭湯と言い、90年以上も営業されている立派な銭湯だ。

 

 銭湯に入ると男と女の簾がかかった場所に出る。真ん中の小さい円形のステージには白髪が目立ち始めたおばあちゃんが座っている。

 

 葉子達はそのおばあちゃんに300円ずつ渡して中に入った。

 

 着替え場は結構広く着替えをいれる棚は60以上も並んでいる。

 

 しかしそんな着替え場も9時半にはもうすっからかんで、今日は葉子達の貸切のようになっていた。

 

 灼は自分のお腹周りを締めていた紐を解き、スルスルと服を脱いでいった。

 

 自分の裸体はもう見慣れた。自分でも自負できるくらい運動できる体だが、服の下にあった白い体は日の下で走り回るよりも、家のなかで本を読んでいるっというほうがイメージが強い。

 

 そう思いながら、灼は葉子と水菜をチラ見してみた。

 

 葉子はまだ脱いでいる途中だが、既に露出した肌は灼よりもほのかに焼けている。灼よりも未発達な胸は、もしかしたら葉子の一番の特徴かもしれない。

 

 水菜は既に服を脱ぎ肩にさっき渡してもらったばかりのタオルを体に巻きつけようとしていた。見えた体つきは、灼と葉子よりも豊かで健康そうだ。しかも水菜の胸はほのかにふっくらとした感じが見て取れて、灼は小さな劣等感を水菜に持ったのだった。

 

 その気持ちを心の奥にしまって、灼は手拭いタオルを持って風呂のドアを引いた。

 

 浴場は意外と広く、電気風呂や水風呂もあって昔らしさが損なわれておらず、とても不思議な気持ちで一杯になった。

 

 そんな気持ちを持ちながら、桶に一杯湯を汲んで体に浴びせて、大きめの四角いお風呂に浸かった。灼が肩まで湯に浸かると、隣に水菜と葉子が入ってきて一緒に浸かることになった。

 

「気持ちいいねー」

 

 灼は二人に対して感嘆の言葉を漏らした。

 

「うん、お腹もいっぱいだし。今日はとても幸せだね」

 

 葉子も感嘆の声をあげた。

 

「はい、お二人のおかげで久しぶりに充実した日になりました」

 

 水菜は二人に感謝の言葉を述べてきた。

 

 そんな水菜に灼は少し歯を見せて意地悪な顔を作って言った。

 

「どういたしまして、ところで水菜ちゃん、私呼び捨てしていいかな?なんか水菜ちゃんって少し私の性格だと違和感を思っちゃってね。いい?」

 

 水菜は笑って言った。

 

「どうぞ、いいですよ」

 

 灼は「ありがと」と言って、言葉を続けた。

 

「水菜は・・・その私達よりもいい体付きをしてるけど、普段どんな生活をしているの?」

 

 水菜は一瞬「へ?」と声を漏らして、灼の視線に気がついたらしい。少しずつ赤くなって返答した。

 

「や、灼さん・・・そんな、あんまり見ないでください・・・別に特別な物を食べてるとか、そんなわけじゃないですよ?至って普通の食事をしていますし、ちゃんと8時間以上ぐっすり睡眠もとっているだけの健康的なって母が言う生活ですよ?」

 

 灼は「そう」と言って、わざとらしく葉子の胸と交互に見合わせて言った。

 

「葉子も話聞いてみたら?」

 

 葉子は一瞬のうちに赤くなって「余計なお世話です!」と言って、プイッとそっぽを向いてしまった。

 

 灼は望み通りの反応をしてくれた葉子に満足して、葉子の横顔に「ごめんごめん」と笑いながら誤った。

 

 そんな灼達はもう一度深く湯に浸かり直したのだった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 浴場から上がり、灼の服に身を包んで、暑くなった体を冷ますように水菜は椅子に腰掛けていた。

 

 あれから灼に少し胸をつつかれたりしたが、彼女的な甘え方なんだろうと水菜は思い気にしないことにしていた。

 

 扇風機がたびたびこちら側に向くたびに、暑くなった体に心地いい風が来る。

 

 そんな心地よさに身を任せて軽く目を閉じていると、頬に急に冷たい物を感じ「ヒュッ」と自分でもよくわからない声が出た。

 

 そちらを向くと、入口付近にあった自販機で売っていたコーヒー牛乳を灼が持って、「ニヒヒー」と笑いかけていた。どうやらそれを押し当てていたらしい。

 

「水菜やっぱり不意にやられるのは弱いんだね」

 

 そう灼は言って「はい」っと私に右手に持っていたフルーツ牛乳を渡してきた。コーヒー牛乳を目の前に晒しておきながら、フルーツ牛乳を渡すという何とも言えない小さないじめに思えて仕方ない。

 

「灼さんありがとうございます」

 

 灼は「えへ」という笑顔に作り替えて言ってきた。

 

「堅苦しいねぇ。友達なんだからもっと親しみを持ってくれていいんだよ?そうだ!これからは私のことは呼び捨てで呼ぼうか?」

 

 灼さんの提案はいつも変わっていて急だ。おそらくそんなことできないとわかっていて私に言ってるのだろう。

 

「む、無理です・・・私はもう誰かをさん付けで呼ぶのがクセなんで・・・」

 

 そう、私の性格と教育上誰かを呼び捨てなどで呼ぶことなんてできやしないのだ。

 

「よし、じゃあこれから私の事を「灼さん」って呼んだら、私に一回その豊かな胸に触らせる権利をよこしなさい。これくらいの条件なら守れるでしょー?」

 

 そんな約束をしたら私は絶対破れなくなってしまう。

 

「そ、そんな!そんな約束ダメですよ!」

 

「ふふ、ダーメ、私の言うこと聞かないと無断で触っちゃうよ?学校生活3年間を背後に気をつけながら過ごすなんていやでしょ?」

 

 それもそれで嫌だ。

 

 水菜は仕方なく灼の意見を飲むことにした。

 

「わかりました。」

 

「じゃあ、呼んでみようか。私の事「灼」って」

 

 灼は水菜の真似をするような口ぶりで言ってみせる。

 

「や、灼・・・やっぱり違和感しかないですよ・・・」

 

 灼は満足そうに笑顔を浮かべたあと、「よくできました」と言って私を意地悪そうな目で見てきた。

 

「ところで・・・私の服はどう?」

 

 灼が貸してくれた服は黒い大きめのシャツに、灰色のショートスカートだ。そんな灼の服だが、水菜の肩には少し大きすぎたようで、右肩と左肩の露出が少し広い。ちょっと色っぽい女性ってこんな感じなのかと思わせる格好になってしまっていた。

 

「ちょっと大きいかな」

 

「ふふ、でも似合っているよ。水菜も十分着せ替え人形には向いてそうだし、今度からショッピングで私が服を選んであげるよ」

 

 もう葉子さんは完全に着せ替え人形だったらしい。水菜も楽しんで着せ替えていたが、そんな思いは微塵もなかったつもりだ。

 

「あ、ありがと・・・灼」

 

 そんな中葉子の長風呂タイムも終わり、浴場の扉が開かれて、葉子が上がってきた。

 

「二人ともおまたせー」

 

 そんな葉子の返事に灼が反応する。

 

「葉子、今日は1分長いよ」

 

 どうやらいつもより長風呂をしていたらしい。

 

「ごめんごめん」

 

 そういう葉子の顔は笑っていた。

 

 そんな葉子の着替えと休憩が終わるまで、水菜は灼の買ってくれたフルーツ牛乳をちびちびと飲むのだった。

 

4月8日 end



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4月12日その1 熱

毎日毎日の事を書くと時間がないので、少し日をおきながらの彼女たちの成長物語とします。 というわけで今回は休日の彼女たちについて書きます。


 目が覚めると既に日は高く昇っていて、外からは走り回る子供の声とダムッダムッとバスケットボールをつく音が響いていた。

 

 机の上の時計の短針は既に11の数字を指していて、長く眠りすぎたことを伝えている。

 

 灼はそんな確認をしてもう一度天井を見て瞼を閉じると、さっきまでは聞こえなかったが、隣から「はぁはぁ」と荒い息遣いが聞こえてきた。

 

 隣に目を向けると、私には背中を向けていて表情は見えないが、発声主がそこにいた。

 

 茶色がかった黒色の髪は肩にかかる程度で、華奢な体つきは抱きしめたら、きっと腕の内にすっぽり収まってしまうだろう。

 

 そんな少女の名前は葉子という。

 

 葉子は背中を見せているためどんな様子なのかはわからないが、その息遣いは少し苦しそうで、いつもの葉子なら「すぅすぅ」と規則的に健康な寝息を静かにたてるはずなのだが、今日は体調が悪いらしい。

 

「葉子?」

 

 灼は小さく呟いて呼んだが、まだ彼女は寝ているらしい。反応をしなかった。

 

 葉子が困っている時は私が全力で支える。

 

 それはもう何年も前に葉子が家族を失った話を灼にしていたとき、勝手に灼が決めたルールだ。

 

 葉子の体に異常があるのはわかったが、顔色をうかがって対処しなければならない。

 

 そう思って灼はベッドから降り、窓側の葉子の前まで移動した。

 

 覗き込んだ葉子の頬は桃色に染め上がっており、苦しそうに口で呼吸している。

 

 そんな葉子の目の前に腰を下ろして頭を撫でてあげると、その瞼が少し開いてその黒い瞳が灼を見据えてきた。

 

「・・・灼?・・・なんだか、頭がボーっとして・・・」

 

 葉子はしんどそうな声でそう言い終わる前に、灼が葉子の口に人差し指を当てて「喋らなくていいよ」と言った。

 

「たぶん昨日のせいだね。今日はゆっくり休んでていいよ。おじい様のお手伝いもちゃんとやっておくから、ね」

 

 最後の「ね」はしっかり笑顔もつけて言ってあげた。

 

「灼・・・ありがと・・・ふぅ・・・ん・・・」

 

 葉子は少し安心したように無理やり笑顔を作ってそう言った。

 

 そんな葉子の前髪を灼は右手でまとめて上げ、葉子の額を晒した。灼も左手で自分の前髪をどけて額を晒すと、そのまま近づけて接触させようとした。

 

「ん」

 

 葉子は変な声を漏らしたが灼の応対に抵抗はせず、受け入れる体制を作った。

 

 ピトッと触れてみると葉子の額はやっぱり少し熱く、おそらく熱だ。たぶん昨日二人で出かけた時に、雨にうたれながら帰ってきたせいだろう。ちゃんと休養を取れば治るはずだ。

 

 葉子から離れようと、立ち上がった時だった。

 

 灼は葉子の右手に袖を申し訳程度に掴まれて行かせてもらえなかった。

 

 葉子を振り向けば、少し寂しそうな顔をしていた。

 

「どうしたの?」

 

 おそらく体調不良の影響で精神的に弱っているのだろう。灼にだってこのくらい経験したことがある。熱や風邪で寝込んでいる時はとても寂しさと孤独感に駆られてしまうのだ。

 

「ちょっと・・・だけでいいから・・・いてほしいの・・・」

 

 葉子の目はとても弱っている感じを思わせるのには十分だった。

 

「いいよ。私はどこにもいかないから安心して」

 

 灼はそう言って、葉子の右手の指に自分の右手の指を絡めて握ってあげ、もう一度横に座ってあげた。もちろん左手で頭も撫ぜてあげる。

 

 数分たったか。

 

 葉子は「すぅ・・・すぅ・・・」とさっきより落ち着いたらしく、いつもより長めに息を吸い込んで吐き出し始めた。

 

「落ち着いたかな?」

 

 灼はそう呟いてベッドから離れようとした。

 

 しかし葉子の右手がさっきよりも強く握られていて、振りほどくのは無理そうだった。

 

 仕方なく葉子の隣で突っ伏する形で、灼も上半身だけ添い寝することになってしまったのだった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 目が覚めたとき、目の前には葉子の安心した寝顔があった。

 

 体を起こして机の上の時計を見れば13時15分で、お腹が鳴り始める頃合だ。

 

 ゆっくりと握られた手を引いてみると、既に意識を失って力が抜けているのか楽にほどけた。

 

 灼は葉子に布団を深くかけなおし、部屋をあとにした。

 

 今日は日曜日でカフェは休業日だ。

 

 だから一階のカフェには人はいないわけで、一郎がグラスを磨いて暇つぶしをしているはずなんだが、灼達が寝ている間に出かけてしまったらしい。カフェにもリビングにもおらず、小さい字で書置きだけがおいてあった。

 

 書置きには”今日は少し遅くなるから、昼はあるもので、夜はこれで済ませてくれ”と書いてあって、紙の重りのしたには千円札が2枚一緒に挟んであった。

 

「病人食なら何がいいかな」

 

 独り言をこぼしつつ自分の記憶内にある病人食のレシピを思い出す。

 

 ご飯と卵のお粥にチーズを乗せたもの、りんごをすりつぶしてココアと一緒に並べるもの、さっきのメニューのお粥に梅干を乗せたもの、みかんやグレープフルーツの果実類を中心としたしたビタミン系のメニューのもの、たくさん出てくるのはそうだが、なかなか選ぶに選べない。

 

 仕方ないのでリビングと繋がったキッチンの冷蔵庫をパカッと開いてみた。

 

 パッと見た感じゴチャゴチャしていることもないのは、一郎がちゃんと整えているからだろう。そんな中でも目に付いたのはりんごの数とチーズの量だ。

 

 一応カフェ用の大きな保冷庫というものは存在していて、日常用の食品類とは別に保管しているため、通常の家庭で言うと結構な量がそこにはあった。

 

「どうせなら・・・」

 

 たくさんあるのなら使っても構わないだろう。そう思って灼は冷蔵庫からりんご3個とチーズ2枚と梅干も1個取り出し、キッチン前についた。

 

 さっそく使い慣れた薄いピンク色のエプロンを掛けて調理を始めた。

 

 葉子につくるのは、お粥とりんごのすりつぶしだ。

 

 まずつくるのはお粥だ。今回はご飯がまだいっぱい余ってるので、ご飯を使って作ることにした。

 

 お粥は蒸らす際にチーズを入れて溶かし、食べる前に梅干を盛り付ける形で作るつもりだ。

 

 まずはご飯と水を1対2の割合で鍋に入れて、軽くまぜてほぐし蓋をして火にかけた。次は沸騰するまで待ち、沸騰したら弱火で吹きこぼれに注意しながら20分程度炊き、最後に5分程度蒸らすのだがその時にチーズを入れる。

 

 そんなレシピを反復しながら、りんごの皮をやり慣れた手付きで包丁を使って皮を剥いていった。皮が剥かれたりんごは綺麗な色で、一部に不規則な形をした模様がたくさんついていた。とても良いりんごだ。これはりんごの果汁が集中している証でもあって、これにかぶりつけばとっても甘いだろうと思わせる。

 

 3つのりんごを剥き終わると、鍋の中が「グツグツ」と沸騰する音が聞こえてきたので、火を弱火に設定し、すぐ下の棚からおろし器を引っ張りだした。おろし器は白い陶器のもので、ギザギザとしたすりおろし部分は意外と結構尖っていて、軽く指を押し付けるだけでも痛い。

 

 そんなおろし器を一度水で洗い、さっき剥いたばかりのりんごを灼はすり始めた。

 

 キッチンにはズリズリという音が響き、自分以外誰もいないことを思わせるように、音が跳ね返ってきていて少し寂しさが見え隠れしていた。

 

 ホルンを4年も吹き続けているためか、腕は全然疲れた感じがしない上に、あと10個はすりおろしをできるかもしれない。

 

 そんなことを思いながら灼は最後のすりおろしたりんごの末路をガラスの器に流し込み、お盆の上に乗せ、熱でやけどをしてしまわないように木のスプーンを添えて置いた。

 

 りんごのすりおろしは出来上がったので、次はお粥に目をやると少し吹き出しかけていた。少し火を緩めて時計を見る。弱火にかけてから21分程度になっていた。時間的には十分のはずだ。

 

 そう思って火を止め、鍋の蓋を開けてみた。いい感じの色合いと柔らかそうなご飯はとても美味しそうだ。そう思いながらも、お粥に塩を少しふってチーズを乗せて蓋を閉じた。

 

 あと5分程度だ。

 

 少し待つのもよかったが早く葉子の食べている顔がみたいためじっとしていられず、また冷蔵庫を開いた。そういえば飲み物と言えるメニューがなかったのを思いだし、牛乳と純度の高い蜂蜜を手にとった。

 

 牛乳は商品と一緒に直接牧場から仕入れた物で、日が置かれずに届いているため新鮮な物だ。純度の高い蜂蜜は一郎のカフェの常連さんの知り合いを仲介して、カナダから仕入れた高価なものだ。

 

 そんな贅沢なものを使って作る飲み物は、牛乳に蜂蜜を溶かした温かい飲み物だ。牛乳をマグカップに入れ、電子レンジに入れた。すぐにチンッと音がして、取り出すと少し膜が張っていたが、近くにあった爪楊枝ですくい上げ捨てた。次に蜂蜜を滅菌用の入れ物に入ったスプーンで一杯取り出し、牛乳にそのままポチャンとつけてかき混ぜた。すぐに牛乳内で広がる感じが見て取れて、甘さが分散されるのがわかった。

 

 そんな蜂蜜牛乳をお盆に乗せ、お粥の蓋を開けてみた。良い感じに溶けたチーズが食欲を掻き立てるので良い出来だろう。と思いながら蓋をシンクに乗せ、タオルで鍋を包み下敷き代わりにタオルもそのままお盆に乗せ、葉子のための病人食が完成した。

 

「うん、いい感じだ」

 

 そんな一言が漏れたが、きっと達成感の表れだろう。

 

 そう思いながらお盆を持ち上げると、少し重たく感じたがきっと葉子は食べてくれるはずだ。

 

 お盆を持ってキッチンを出てカフェを経由して二階へ上がった。エプロンをつけたままだが別にいいだろう。

 

 部屋に入ると葉子は仰向けで眠っていて、現在は落ち着いている様子だった。

 

「葉子?起きてる?」

 

 灼の問いかけに葉子は顔だけこっちに向けて反応してくれた。黒い瞳が灼を見つめてきている。

 

「ご飯作ったからね。食べれる?」

 

 葉子が断っても最終的には理由をつけて無理やり食べさせるが、葉子はお腹がすいているらしく自分から上半身だけ起こして、頷いてくれた。

 

 そんな葉子のとなりに長方形の小さい物置用の机を置いて、葉子の前に灼は座った。灼から見れば、目の前に葉子がいて隣にお盆を置いた机がある状態だ。

 

「灼?大丈夫だよ。自分で食べれるよ?」

 

 葉子は笑って言ってくるが、朝私に「いてほしい」と言ったくらいだ。葉子が嫌がろうとも今日は葉子には病人でいてもらう。

 

「ダメ、今日は葉子は病人でベッドの上でじっとしているの」

 

 葉子は微妙な笑顔に変わってしまったが、それでも全然構わない。葉子がちゃんと体調を取り戻すまでは、絶対に決して隣を離れないつもりだ。

 

「ほら葉子、あーん」

 

 そう言って葉子の口元にお粥を運ぶ、葉子もそれを嫌がらずに軽く目を閉じて口を開けてくれた。そんな葉子の口にはお粥を運ばずに、冷蔵庫からつまんできた赤い塩気に満ちた実を放り込んであげた。

 

 口の中に入ってきた物が全く違う物だったため、葉子は灼を軽くにらみながらしょっぱさを我慢して、それを食べてくれた。そんな葉子の視線を受けながら灼はお粥を軽く混ぜてチーズをほぐし、スプーンで一口掬って「フーフー」してあげた。

 

 赤い種をティッシュに丸め、お盆の上に葉子は置いて、灼が目の前に押し付けてくるスプーンを口を開けて待った。

 

 そんな葉子の口に今度こそお粥を運びいれ、灼は反応をうかがってみた。

 

 葉子は口にお粥が入るとすぐに、美味しそうな顔を浮かべてくれた。

 

「どう?今日はチーズを入れたんだけど・・・」

 

 葉子はお粥を飲み込んで、口を開いた。

 

「うん、とっても美味しい。灼が作るお料理はいつもすごく美味しいよ」

 

 嬉しそうに葉子はそう言ってくれた。それは灼にとってとても嬉しいことだった。

 

「よかった。今日は少し柔らかめに作ったからちょっと心配だったの」

 

 灼の言葉に葉子は「そうなんだ」と笑ってくれた。

 

「ところで灼、そのマグカップはなに?」

 

 お盆のマグカップを指差して言ってきた。

 

「牛乳だよ。冷蔵庫にこの間おじい様が買ってくれたのがあったから使ったの」

 

 葉子は無言で「飲ませて」っと手を差した。

 

 灼はそれを了承し「はい」とマグカップを渡した。

 

 マグカップは葉子の名前が入った物で、両手に包んでも火傷しないような設計になっている。

 

 葉子は中の牛乳を口に含み、ゆっくり味わうように飲んで言った。

 

「蜂蜜の味?とってもスッキリしていて甘いわ」

 

 また笑顔を作って言った。灼もそれに「それはよかった」と言っておいた。

 

 すると、葉子は急に笑顔を消したと思ったらこんな疑問を投げかけてきた。

 

「灼?灼はご飯食べないの?」

 

 そんなこと葉子のご飯について考えていたから忘れていた。葉子のためなら別に抜いても全然大丈夫だろう。

 

「作ってないよ?どうせお腹空いてないし、気にしなくていいよ」

 

 灼にとってはさほど問題でもないため、気にしなくても全然問題ないのだが、葉子にとってはあまり気に召さないらしい。灼にマグカップを押し付けて言った。

 

「それ飲んで、りんご半分食べなさい。私の事病人扱いするのはそのあとだよ」

 

 葉子の目は真剣だ。自分が体調不良なのに灼を気遣ってくれているらしい。

 

 葉子が真剣な目をしているときは、灼のようにワガママになることを灼は知っているため、葉子の意見は聞かざるおえない。

 

 仕方なく葉子のマグカップに口をつけて、一口中身を含むと、ほんのりとした甘さが上品に口のなかに広がった。自分で混ぜたものだがそれは確かに美味しい。

 

 灼は葉子の笑顔に見られながら、りんごのすりおろしを少しかきこむのだった。



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4月12日その2 一人で練習

「ごちそうさまでした」

 

 葉子はそう言って手を合わせた。

 

「お粗末様でした」

 

 灼はそれに笑顔で返してあげ、お盆を持って一階へ降りた。

 

 ゆったりした階段を降り、カフェを経由してキッチンへ行き、銀色の艶があるシンクにお椀とガラスの器を置いた。今洗ってもいいが、少々面倒なため夜の食事後にすることにした。

 

 そんな判断をしながら灼はキッチンを出て、またカフェを経由して部屋に戻った。

 

 葉子は既に仰向けに寝転んでいて、優しくその満たされたお腹を服の上から撫でていた。きっとお腹いっぱいだということを伝えているのだろう。

 

「灼、私少し眠くなってきた」

 

 再度葉子の隣に座りなおすと、灼にそんな言葉を向けてきた。このあと、毎週一緒にやっているホルンの練習をするんだが、あいにく彼女はこんな状態だ。無理に付き合わせて悪化させるのもダメなので、今日は一人で川辺でやることになるだろう。

 

「寝てていいよ。今日、葉子は病人だからしっかり休んでいてね」

 

 そう言って、葉子の茶色がかった黒髪を撫でてあげた。とてもふわふわしてるが、いつも通りというか・・・クセ毛と跳ねがたくさんある。また直してあげないといけないようだ。

 

「灼、ありがと。ホルンの練習するんだよね?」

 

「するけど・・・どうかしたの?」

 

 葉子は少し迷ったような素振りを見せて、「えっとね」と言葉を続けた。

 

「ちょっとだけでいいの・・・もう一回同じこと言うけど、ちょっとだけでいいからいてほしいの・・・」

 

 今回の熱は意外としつこいらしい。葉子はかなり弱気で寂しいようだ。

 

 そんなことを葉子は言いながら、灼の事を軽く上目遣いに見てきていた。

 

 葉子が逆にそういうことを言うのに断るなんてことを、灼は絶対にしない。葉子が満足するまでちゃんと隣にいてあげるつもりだ。

 

「いいよ。葉子が眠るまでちゃんと横にいてあげるから、安心して」

 

 そう言って灼は葉子の手を右手で握ってあげ、左手で譜面の模様がついた布団を葉子の肩まで引っ張ってあげた。そのまま左手は葉子の頭を優しく撫でてあげる。

 

 右手だけでも分かる葉子の体温は少し高く、寒気を覚えているのかわずかに震えているのが感じ取れた。

 

 そんな葉子はギュッと私の存在を確かめるように握ってくる。どうやら今回の熱はかなり彼女の精神に来ているらしい。しっかり休んで元気になってもらいたいものだ。

 

「灼、いつも優しいね。私、本当に灼と一緒にいれて嬉しい。毎日がね・・・そう、幸せなの。楽しくていつも輝いてる気がするの、私が泣いてる時とか困ってる時とか、灼がいつも支えてくれてね。灼が困ってる時に私は力になれないのに、灼は私にいつも力になろうと必死になってくれる。どこかのお嬢様になった気分になるんだけど、そんな自分は嫌でどうにかして灼の力になりたいとは思ってるの・・・でもどうしていいかわからなくて灼の力になり損ねてしまうの・・・そんな私でも灼は文句も言わないで支えてくれて本当に嬉しくて、感謝しても感謝しきれないの・・・本当にありがとう、灼」

 

 葉子の言葉は支離滅裂で伝えたい事が途切れ途切れだったりするけど、言いたいことはなんとなく分かる。きっといつも私のなんらかの力になれず、私に嫌われてしまうのではないかと不安になっていたのかもしれない。これは私の思いだから彼女の真実の思想はわからない。だけどそんな気が私はする。

 

「ふふ、葉子はやっぱり素直だね。私、葉子のそういうところ大好きだよ。それに葉子は私の力に十分なってくれてるよ。私の隣でいつも笑顔でいてくれるだけで、それで私は十分に幸せで嬉しいのだから、私の力になり損ねてるなんて思わないで、葉子は葉子のできることをやってくれればそれでいいよ」

 

 葉子は少し安心したような顔になって、軽く目を閉じた。手はさっきよりも強く握ってきていて、葉子の感情や気持ちがそのまま流れてきそうだ。私もそれにこたえるようにしっかり握ってあげる。私の一人の家族だ。大切にしなければ・・・。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 外は快晴で、雲一つ無い。少し傾いた太陽が眩しく私を照らしていた。

 

 大きめで緩く動きやすい真っ白なワンピースと、麦わら帽子を被れば真夏の海辺の少女が出来上がる。現在はまだほんの少し寒さが残る頃合だが、別段飛び抜けて異様な姿でもないはずだ。きっと社会的には受け入れられるだろう。

 

 背中に真っ黒で、真っ白な「YAKU」の刺繍のあるホルンを入れたシャイニーケースを背負って向かうは、大きな橋が現在建設中の川辺で、緑色の斜面が華川という夕紅島市を直線に突き抜ける大きい川を沿って続いている。

 

 そんな華川は家から10分の場所にある。自転車で行くのもいいが、あいにく灼と葉子は基本歩く事が移動手段なので、所持していない。

 

 まだまだ日差しも照らし続ける街中は人が間断なく行き交うので、非常に暑く、何筋か頬に汗が垂れ始めていた。

 

 川辺に行くのは水分と栄養ゼリーか栄養ドリンクを調達してからで、日中練習に没頭して熱中症になっては元も子もない。

 

 だから、まず行くのはドラッグストアかスーパーだ。近辺には、ドラッグストアは存在せず、5日前に商品の仕入れのために訪れた夕紅島量販店が、最寄りにあった。夕紅島量販店は意外と薬や石鹸類の業界にも手を出していることは知っている。だからもちろんドラッグストアにあるものはあるわけで、栄養食品も多数ある。

 

 さっそく夕紅島量販店に入店し、栄養食品類のコーナーを探す。広い店内は人が結構入っており、夕飯の買い物を先に済ませんとする主婦達が、野菜などのコーナーにむながっている。夕紅島量販店の野菜などはとても新鮮で、その仕入れ高もかなり安かったと記憶している覚えがある。確かわざわざ外国の広大な土地を買い、少しの人材と最新の農作業機械で栽培し、店に運んでいるという話だ。輸入には時間がかかるかもしれないが、かかるお金がたぶん違うのだろう。

 

 そんな主婦達を横目に暇そうな店員を見つけ、栄養食品の場所を聞いた。店の角の一番奥だそうだ。

 

 言われた場所に行くと、職員用出入り口の目の前にそれはあった。たくさんの種類の栄養剤がある。ゼリーに飲み物に食べ物にサプリメントなど形も豊富だ。

 

 灼はりんご味のゼリー状の飲み物300mlのモノを2本と塩分と糖分を同時にとれるスポーツドリンク500mlのものを1本手に持ち、レジに並んだ。

 

 レジには主婦達が手に手に抱えるように野菜やら醤油やらなんやらを持ち並んでいる。非常に長いように思えたが、レジ打ちが早いためすぐ来た。

 

「あ、夕凪カフェ様のお嬢さんではございませんか」

 

 唐突だった。レジ打ちをしていた男性は顎ヒゲが印象的な店長の名札を提げた人だった。がめつい少し太った商人の姿が思い浮かぶその声はオーナーとしては少し不適切な感じを思わせる。

 

「ご無沙汰しております。夕紅島量販店オーナー様」

 

 場所によってはしっかり敬語などをわきまえなければならない。自分の行動一つが自分の背負う店の印象を左右させるのだから、しっかり外ではうまく振舞わなければならない。

 

「こんな日曜日に何処かへお出かけになさるんですか?あ、運動ですか。お背中に背負われているのはホルンではございませんか。きっと将来とてもお上手になること間違いないでしょう」

 

 そう言いながらも、店長の手は止まらずパパッと商品の会計を終えてくれた。

 

「ありがとうございます」

 

 灼がそう言うと店長は「980円でございます」と言ってくれた。

 

 使い古した音符模様があしらわれた折りたたみの財布を取り出し、中から1000円札一枚をつまみ出し渡した。

 

 店長はそれをもらうと一瞬のうちに20円に替えて渡してくれた。しかもいつの間にか商品も袋の中だ。

 

「またのご来店お待ちしております」

 

 そんな決まり文句に軽く頭を下げて店を後にしたのだった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 華川は夕紅島量販店についてしまえば、もうついたも同然だ。

 

 夕紅島量販店の裏手に回って少し歩けば街の途切れが見えてくる。その途切れに面するようにある高い階段を登れば、華川が拝める。巨大なその川は200mも川幅があるうえに、しっかり水も流れている。最近では逆に水かさが増したとニュースになったくらいだ。

 

「ふぅ」

 

 高い階段を上ると、サイクリングロードが目の前に入り、そこから先は緑色の坂と巨大な川だ。しかも向こう側の岸には夕紅島市を支える巨大な発電所が並んでいる。実は今建設中の橋は発電所との行き交いを効率よくするために、夕紅島市が直々に設置予定を作ったものだ。その橋はまだ柱が数本たったばかりの進行具合だが、その柱の太さと大きさはもしかしたら戦車2台並ぶかもしれない。

 

 そんな思いを頭の四隅に置き、さっそく緑色のゆったりした斜面に身を置いて、シャイニーを開けた。

 

 眩いばかりのホルンのベルが顔を出し、本体もすぐに顔を出してきた。手入れは毎朝葉子が起きる2時間前に一度起きてやっているため、とても綺麗な状態だ。もしも学校で我こそはホルンを愛する者だと言い張るのなら、絶対にその称号は取れる気がする。

 

 そんなことを考えながら、ホルンのベルに左手を通し指で固定して持ち上げた。右手でホルンの本体を持ち、デタッチャブルにベルをはめ、ネジの芯を直接回すようにグルグルと回す。数回回すとキュッと音と共に固定されたことがわかった。これ以上回して固定すると、回せなくなったり、デタッチャブルを破損するおそれがあるためこれ以上は回さない。

 

 そんなホルンを右手で支えながら膝の上に置き、左手でマウスピースをとった。いつもならこれの前に軽く体中の筋肉をほぐしてからやるのだが、今回は少し歩いたから省略してもいいだろう。

 

 しかし、最低でも唇の運動だけはやっておいたほうがいいかな。

 

 と思いながらまたブルブルと震わせる。どうせ周りには誰もいないし唾がとぼうなんて気にしない。自分のやりたいようにやるまでだ。しっかりと納得いくまで・・・。

 

 唇が少し熱くなるのを感じ、もういいやとマウスピースを軽く当てて息を吸った。

 

「ブゥー」と真っ直ぐな息、乱れのない同じ音を長く伸ばし、自分の呼吸がちゃんと一定かを確かめる。葉子とやるときは、片方がチューナーで音を確認しながら、揺れてないか、音の大小が不安定じゃないかなど色々見るのだが、今日は一人だから細かいところまではわからなさそうだ。

 

 自分の息の限界まで吹き、しっかり伸ばせたことを確認して音を止めた。吹いた音はFの音でホルンの基準となっている音だが、十分良好な気がする。

 

 次は自分の音感がちゃんとあっているかを確かめるために、チューナーの上下を指し示すランプだけを見ながら吹く。

 

 足を三角に立ててホルンを膝の上に置き、右手でシャイニーからチューナーを取り出した。上の方に三つランプが並んでいて、そのしたにメモリが付いているチューナーだ。もちろんおじい様に買ってもらったもので、その内蔵の測定音程幅は88鍵のピアノだって測れる代物だ。

 

 さっそく右手でチューナーを目の前に構え、マウスピースを口に当てる。「ブゥー」とまたさっきと同じFの音を出し、目の前のランプに目をやる。右の赤いランプが光っている。真ん中の緑色のランプも弱い光で軽く点滅してるから、ちょっと高いのだろう。

 

 一旦止めマウスピースをホルンにはめて、両手でチューナーの設定をいじり、内蔵の音声データを流すボタンを押す。「プー」という電子音でFの音が出る。揺れも大小も存在しない一定の音・・・もちろんそこに感情も雰囲気も存在しない。でもこれは正しい音なのだからしっかり聞かなくてはならない。

 

 鳴らして意識を集中してみれば「ワワワワワ」と擬音するのがよいのだろうか、私の中のFの波長を捉える音感と、チューナーから発せられるFの波長がズレて、違う音を捉えようとする音が聞こえる。どうやらほんの少し私の中のFはズレている。ほうっておくといつか困るかもしれない。今のうちに矯正しなくては・・・。

 

 意識的だがぶつかり合う音を消し、チューナーの音をストップして、ホルンからまたマウスピースを抜き取った。次は外さない。

 

 ゆっくり息を吸いまたマウスピースから「ブゥー」という音を発した。チューナーは真ん中に針を指し、緑色のランプを輝かせている。どうやら正しいようだ。しかしこれで終わっては意味がない。このFの音から7音上・・・1オクターブ上のFの音を吹いてちゃんと定着したかをもう一度確かめる。

 

 「ブゥー」さっきより高くなった音は同じ質を持っているのだからとても不思議なものだ。チューナーは同じFの文字を映し、針は真ん中を指している。今現在の状態だと矯正できたようだ。でも毎日続けてちゃんと定着させなければならない。

 

 音程のチェックは終わりだ。次はホルンでロングトーンと軽くタンギング練習をして、Fの音階から一音ずつ上げていく音階をして終了する。

 

 メトロノームは基本平面に置いて動かすものだが、今は斜面にいるため使えない。だからチューナーの内蔵式の電子メトロノームを使う。シャイニーの上にチューナーを立てかけ、100のテンポでメトロノームを動かした。

 

 ポチッポチッと一定の間隔で音が響きテンポが取られる。

 

 ロングトーンはFの音階を行ったり来たりする。一音8拍ずつ吹いて、ちゃんと真っ直ぐ音を一定に保てるかを確認するのがここのポイントだ。ここで音が揺れてしまっては曲じゃ使いものにならない。それと音程がちゃんと合ってるかも確認しなければならない。吹く音は自然と体の中にも響くから、脳が気づけばズレた音を覚えてしまうことがあるからとても重要だ。

 

 「フォー」と吹き始める。ホルンの音は深みのある音だ。でも高くなるにつれて、だんだんと苦しそうな音に聞こえなくもないから、たまにちょっと心配になる。

 

 音と音の間に瞬間ブレスというものをする。拍と拍の間で次の音のための息を吸うのだ。

 

 最後のFの音を「フォーン」と綺麗に締めくくり、自分のできはどうかを考える。今日は比較的落ち着いているから、一定の音を出せてるし、音の大小も別にひどくズレてることもない。点数的に言うと85点くらいか。

 

 そんなことを思いながら次はタンギングの練習をしようかと思う。タンギングはロングトーンのように、全音符ではなく、4分音符と8分音符と3連符と16分音符で、舌を上の歯の裏に軽くつき音を区切って連続して出すことだ。擬音で言うところの「ターター」とか「タタタ」などだ。スピードをつけなければならない場面では、「トゥクトゥク」とか発音してタンギングの感じを覚えるらしい。

 

 さっそく4分音符でのタンギングを練習しようとホルンを構え、電子メトロノームの音に合わせた。「フォーフォーフォーフォーン」と吹いた。本来ならこれを一音ずつ上げながら行うが、今回は一音につき4分、8分、3連、16分というふうに続け、16分が終わってから一音上げて、再度4分から始める方法でやる。

 

 「フォフォフォフォフォフォフォフォーン」擬音してもよくわからない状態になってきた。「フォフォフォ.フォフォフォ.フォフォフォ.フォフォフォーン」3連はドラムで強弱弱強弱弱強弱弱というふうに最初に強の音を入れ、あとは弱で流す感じに吹いた。16分は8分をさらに細かいスピードで吹く。擬音なんてもう無理だ。

 

 そんな考えを思い浮かべながら、もう慣れた練習を行った。葉子がいればもう少し遅れただろうが、きっともっと楽しかったかもしれない。やっぱり葉子とやりたいと感じる。

 

 そんなことを思いながら、灼は音階を登る練習に移った。

 

 日はまだ少し傾いたばかりで、背中はとっても暑い。でもきっとこんな日ほど練習に良い日もないだろう。と灼は思うのだった。



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4月12日その3 お寿司屋と姐さん

 日が傾いてさっきまで緑色だった斜面は真っ赤に染め上がっている。もう夕方だ。あいにく時計は持ってきていないから時間はサッパリで、大体の時刻しかわからない。5時くらいだろうか。

 

 もう3時間ほど吹き続けたホルンをグルグルと回して溜まった唾を抜きやすい位置に移動させ、ウォーターキイを押し息を吹き込んだ。おじい様が買ってくれたホルンはかなり長いこと使ってもつば抜きなしに吹ける代物だった。そのせいかウォーターキイから出たつばの量はかなりのものだった。この調子じゃきっと抜き差し菅のほうのつばもかなり多いだろう。

 

 そう思いながら、ホルンを縦向けにして抜き差し菅が下になるようにした。その状態を保ったまま二つ並んだ抜き差し菅を引っ張り抜き、つばを抜く。手入れの時にも引き抜くのだがその時よりはるかに重たい。かなり溜まってるらしい。中に水を少し流し込んだ時のようにつばが流れ落ちた。このホルンの構造と製作中の場面を知りたいものだ。

 

 手前の抜き差し菅を再度入れ直し、次に真ん中の抜き差し菅を引き抜き、つばを流し捨てた。やっぱりかなり溜まっている。引き抜いたあとの口からもポタポタと少し滴っていた。帰ったら手入れをするときにしっかり拭いておかなくては、ヘタをすれば跡がついて見た目が悪くなったり、サビがつくことがあるから気をつけなければならない。これを初心者や素人が見たら中は大丈夫なのか?というかもしれない。中は外よりもサビや水分に対する耐性が高いから心配はない。しかし塩水をかけたりするのは絶対やめたほうがいい。サビが進行しやすくなってしまうからだ。

 

 中の耐性が強いならつば抜きはなんなのだ?と思うかもしれない。1つは息と音の通り道と振動場の確保だ。水が溜まった状態では水に振動が響いて、直接菅が振動しなかったり、つばが溜まることによって人間が振動を作るために流している空気が途中でひっかかり水を押し出そうとして「ボッボッ」と変な音を立ててしまう。2つは中の耐性が強いと言ってもさすがにたくさんたくさん溜まっていれば、そこに雑菌が溜まったりもするし、なにより耐性を早くに削り取られてしまう。意味がわからないと思うが、要は中の構造も最終的には水分と触れる時間は短い方が良いということだ。だが、つばを抜けば完全に水分と遮断できたことにはならない。嫌でも何%かは残るし、さっきのとおりホルンの抜き差し菅を支える口からもいまだにつばが滴っている。だからこれ自体は仕方がないのだ。まぁ、もう少し工夫しようとするなら、抜き差し菅を抜いた状態で息を一気に吹き込めば大体は外に出てくる。

 

 灼らのホルンはナチョラルホルンに変わるとおり、周りをぐるっと菅が囲い、その円の中に1~4番の抜き差し菅・・・全部で12本の抜き差し菅とその一番下から、主管の円形の囲いから突き出るように2本の主管調節菅が伸びている。なぜ2本もあるかはわからないが、そのうちの1本は伸びる箇所がたくさんある。変わった形だ。おそらく何段階にもおよんで調節ができるようにとなっているのかもしれない。しかも主管のつばを抜くときに一番たまりやすい部分にウォーターキイもついている。

 

 一番ベルに近い部分の抜き差し菅を抜きつばを捨て、差し込んだ。そのまま主管抜き差し菅のウォーターキイを押し息を吹き込んだ。最初に押したウォーターキイはベルに続く主管の途中についているもので、主管抜き差し菅のウォーターキイとは別物だ。

 

 とりあえずつば抜きは終わった。少し時間がかかったがいつも通りだ。あとはベルから少々たれているつばを拭き分解して葉子の下に帰るまでだ。今日は何の食事をつくろうか、もし葉子が元気そうだったら近くのお寿司屋さんにでも行こうか。どちらにしろおじい様は今日は遅くなるようだし大丈夫だろう。

 

 そう思いながらデタッチャブルにはまったベルを左手でまた固定し、力を入れてグルグル回した。「ズリズリ」という音は最初聞いたときは大丈夫か?これ・・・と不安になったが、もう慣れた。「カポン」と変な音を立ててベルが外れた。先に本体をシャイニーに入れ、シャイニーの蓋の裏側の取っ手を引いた。平たい支えの下にはシャイニーを山のような形にさせるくぼみがある。そこにベルをいい感じに入れ、取っ手のマジックテープと蓋の裏側のマジックテープにつなぎ合わせた。最後に本体をマジックテープで固定し、チューナーと使った譜面模様のクロスを入れ、シャイニーケースを閉じた。

 

 赤い色に塗変わった斜面の上に立ち、昼に買った栄養ドリンクとスポーツドリンクの残骸を袋に入れた。そしてシャイニーケースを持ち上げ帰路についたのだった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 目が覚めるとカーテンからの赤い光が眩しかった。もう夕方だ。目をつぶるまで手にあった感触をまだちゃんと左手は覚えてる。灼はどこにいったのだろうか。

 

 朝まであった苦しさと気持ち悪さは今はほとんどない。灼が作ってくれた食事のおかげだろうか。できたら今すぐにでも灼の顔が見たい。なぜか一人じゃ不安と孤独感にさらされてしまって、とても怖い。

 

 まだ微妙に寒気が残る体をどうにか起こし、ベッドを降りた。半日以上眠り続けたせいで足取りがおぼつかず、そのまままたベッドに腰を下ろしてしまった。

 

 もう一度どうにか立ち上がり、カフェへのドアを開けた。階段はゆったりしているけど、手すりに掴まっていないと転げ落ちてしまいそうだ。

 

 「トッ・・・トッ・・・・」と家に自分しかいないように、足音が反響し少し不安になる。まだ熱の影響が残っているのか。

 

 カフェに降りると、誰もいない。いつもならおじい様がグラスを磨いているはずなのだが、お出かけに行ってしまっているのか。そのまま簾を潜ってリビングへ行った。小さな机の上に書置きと千円札が2枚置いてある。どうやら今日は遅くなるのだろう。といことは今この家には自分一人だけということだ。灼は、ホルンが置いてなかったから私に気を使って外で練習しているのだろう。早く帰ってきてくれないかな。

 

「ケホッケホッ・・・ふぅ」

 

 まだ少し跡残りがあるように咳が出た。もう少し寝ていたほうがよかったかな。

 

 そう思いながら薄暗くなった部屋の電気をつけた。真っ白な光が一瞬で部屋のなかを照らす。その瞬間だった。

 

 「ガチャ」と家の玄関の鍵が開く音がした。誰か帰ってきたようだ。

 

 おぼつかぬ足取りはそのままに玄関への廊下に出て、帰宅者の姿を伺った。

 

 「カパァ」とドアが開き姿を見せたのは、白いワンピースと麦わらの帽子を被って、黒いケースを背負った髪の長い少女。灼だ。

 

 灼は私の姿を見た瞬間ニッコリと笑って「ただいま」と言った。私もちゃんと「おかえり」と言う。普通のやり取りだ。私は灼に駆け寄ろうと歩き出したが、途中で足が絡まって倒れそうになった。

 

 灼がいつそこにいたのかというスピードで私の体を支えてくれる。不意に鼻をつく甘い匂いがそこに灼がいると分からしめてくれる。無意識のうちに少し嬉しさを感じてしまう。

 

「ふふ、葉子、寝すぎだね。足がちゃんと動いてないよ。でも元気になったみたいで良かったよ」

 

 灼は私の体を正面から支えながらそう言ってくる。そういう私はまた灼の胸に顔を埋める感じの体制になってしまっている。

 

「灼のおかげだよ。本当にありがと・・・ケホッ・・・」

 

 灼を支えにしながら立ち直してそう返した。

 

「葉子、元気そうだしお寿司屋さん行かない?もし私のご飯が食べたいなら作ってあげるけどどうする?」

 

 灼が大抵こうやって選択しを出すときは前者が正解だ。

 

「どうせ私が元気ならお寿司屋さんに連れて行こうって思ってたんでしょ?灼の気持ちの赴くままでいいよ」

 

 灼は笑顔になって言った。

 

「ふふ、バレちゃった?じゃ、お寿司屋さん行こう!ほら、早く着替えて!」

 

 そう言って灼は私の手を引っ張って二階に戻ろうとした。またしても私はよろめき前に倒れそうになったが灼は咄嗟に振り返り、私の上半身を左手で押し、右手を足下に回してきた。まさかと思って抵抗したが、寝起きなため力が入らずなすがままにされて、抱えられてしまった。

 

「葉子軽ーい」

 

 右に灼のニコニコした顔がある。シャイニーを背負ってるのに重たいなんていう感情は全く顔にない。そんなに私は軽いのか・・・。しかしこの体制はとても恥ずかしい。灼の肩に手を置いて少しの支えとしながら、ちょっとだけ言葉で抵抗してみる。

 

「や、灼恥ずかしいから下ろしてよ・・・」

 

「どうせこの家には私と葉子しかいないよ?恥ずかしがる必要なんてない。ふふ、でも葉子やっぱり軽すぎない?比率に合わない発泡スチロールみたい」

 

 適当に返しながら灼は勝手に歩き始めてカフェから階段を登り始めた。私が降りてくる時よりも軽快に上がる様は本当に少女なのかと思わせる。

 

 昔からそうだ。始めて会った時から四六時中走り回っても疲れた顔は病気の時にしか見たことがない。私とは全く逆の体質と性格だ。いつも陽気で自信があって、自己中でそれなのに他人想いのお人好し・・・まだ普及したばかりのコンピュータを使って調べたことがある男性が求める女性像というものに当てはまる性格だ。ただ違うのは陽気の中にしっかりとした道徳と彼女自身の善悪判断能力があるところか。まだ私と同じ中学1年生なのに考えられない思考を持っていると私自身思う。

 

「葉子?どうしたの?またボーッとしてる。あ、もしかしてまだしんどい?」

 

 気づけば部屋の入口にいて、私はただ灼の顔に見とれてしまっていた。そんな私に灼はそんな言葉を投げかけていた。

 

「え?ああ・・・なんでもないよ」

 

「そう?じゃあ早く行こう!」

 

 灼は私の体を下ろすと、背負っていたシャイニーケースもおろして、ベッドの下からハードケースを引っ張りだした。ホルンの入れ替えだけしてしまうのだろう。

 

 私は着ているパジャマを脱いで、クローゼットからお気に入りのシャツと大きめのスカートを取り出した。シャツは黒く両肩から白いラインが下に降りている。スカートは黒いロングスカートで灼達がこの間選んでくれたものだ。

 

 そして掛けてある薄着を上から羽織る感じに着れば、少し大人っぽい女の子ができる・・・気がする。大人っぽいっていう表現が灼と水菜のものだから私は確信できない。でも灼がそういうのだからきっとそうなのだろう。

 

「葉子、用意できた?」

 

「うん」

 

「よし、行こう!早く行こう!」

 

 灼は相当行きたかったらしい。さっきから何度も急かされている気がする。

 

 すでにホルンは片付けたらしい、右肩に可愛らしいいつものハートと音符模様の肩掛けカバンを持って私の手を取り引いてきた。やっぱり行きたかったらしい、手のひらから少し高めの体温を感じ取れたのだった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 寿司屋はわりと近所にあるお店で、もう60年以上も営業をしているところだ。ちなみに夕紅島市に引っ越してきた時に、初めて言った外食店でもある。それからは時折二人で食べに行ってたから、まぁ行きつけの店だ。

 

 ”すし”ののれんを潜れば、カウンター席がキッチンをグルッと囲むようになっていて、店の中心・・・キッチンの中に巨大な水槽がある。中にはまだ生き生きと泳ぐたくさんの魚が見える。残念なことに私は魚には詳しくない。マグロとかシャケ程度しかわからない。

 

「お、最近見なかったお嬢様二名のご入店だな」

 

 店の入口から真正面に見えるキッチンに、寿司屋のエプロン?格好をした女性がそう言った。綺麗な長い銀髪と透き通るようなエメラルドのような瞳は外国人の遺伝の証、すらりとした体型はまさにモデルのようだが、あいにく彼女は魚を触って捌く人間だ。

 

「優姐さん、久しぶりだね!今日はおじい様がいないから来てあげたよ!」

 

 灼がそう言って手を振ると、優は「そうかい」と言って手元の細長い包丁を持ってニコッとしてみせた。葉子も軽く頭を下げて挨拶だけはしておいた。

 

「で?今日は何を食べていってくれるんだい?ちょうどあげた魚が今ないから、あげたてのピチピチの魚をさばいてやれるぞ?」

 

 灼と葉子が席に着くのを見ながら優は言って、一旦包丁をシンクに置いて水槽から魚を出すための網を持った。網は小さいながらもしっかりしていて、もう何年も前から使ってるのを見ているが、ほつれはどこにも見当たらない。

 

「葉子、何するぅー?」

 

 灼は手にメニューの紙を持って体を寄せてきた。この寿司屋のメニューは基本1000円あればお腹いっぱいになるメニューで、お昼と晩御飯はここで済ます人が多い。人気メニューもあるらしいが、私の好みのセットじゃない。

 

「灼は何にするの?」

 

 私はサーモンが好きだから、サーモンのネタが多いメニューを頼むのだが、灼は決まって好きなメニューを決めることもなく適当な物を頼むから、たまには私も灼に便乗してみたい。

 

 灼は少し考える素振りをして、すぐに決めたらしく顔をこっちに向けた。

 

「あたしはこの詰め合わせセットにする」

 

 それは刺身を調理する人がオススメで揃えてくれるメニューで、寿司屋に来たけど何を食べていいかわからないとか、たまには知らないメニューが出てきたのを食べてみてもいいかなっと思う人のためにこの寿司屋が出したメニューだ。

 

 好きではないネタを出されるのはあまり嬉しくないが、たまにはいいだろう。灼に便乗することにした。

 

「じゃあ私もそれー」

 

「お?葉子ちゃん珍しいな。いつもなら好きなサーモン系のメニューしか頼まないくせに、もしかしてもう大人になっちゃったのか?年が経つのは早いねぇ。お姐さん悲しくなっちゃうよ」

 

 優は笑いながら言って、「ご注文は決まったね」と言い、小さい台座に足を乗せて水槽に網を入れた。結構大きい魚を器用にすくいあげ、魚をキッチンの上に置いて調理を始めた。

 

 少し気になったが、生きた生き物に包丁を入れる瞬間は見たくないので、灼とお話して待つことにした。

 

「灼、今日はどうだった?ホルンの練習」

 

「ん?ああ、今日はね。ホルンの練習自体は全然好調だったんだけど、少しあたしの音感がズレていたみたい。Fの音が少し高かったよ」

 

 音感がズレていると、もしパートのトップになったときなどにとても困ってしまう。だから、ズレてないのが良いのだがまだ始めて4年で簡単に身につくような正確な音感などない。ゆっくりとパソコンのプログラムのような微調整を加えながら確立する必要がある。ちなみに天才は別だ。

 

「そうか。帰ったらちょっと音の聞き取りだけ練習する?」

 

 私よりも音楽という文学の面で優れている灼だ。こんな事言わなくても勝手に一人でやってしまうだろう。灼のように必死になれる性格はとても私にとって羨ましい。だから、私はたまに練習などの話をふって自分も一緒に便乗するようにして、少しでも練習できるようにしている。一人だとなんというかやる気が出ないからだ。

 

「うん、やるぅー」

 

 ぶりっ子ぶるように言うと、なにか気づいたように「あ」と言って言葉を続けた。

 

「葉子、お風呂どうする?一人で入れる?」

 

 おそらく私が熱で寝込んでいたために、のぼせてしまわないかという心配をしてくれているのだろう。大丈夫と言いたいところだが、”ダーメ”と言って結局は一緒に入ることになるだろう。素直に言ってみるか。

 

「一緒に入って・・・くれる?」

 

 わざと少し上目遣いに見て、少し戸惑うように言ってやった。

 

 灼は一瞬固まった瞬間に「わ、わかった」と言って、目をそらしてしまった。こんな返し方をしたのは初めてで、まさかこんな反応をしてくれるとは思わなかった。

 

「葉子ちゃん、どこでそんな返し方覚えてきたんだい?お姐さんさらに悲しくなってきたよ。去年まで言葉遣いもアマちゃんだった子が、一年でこんなに変わってしまって」

 

 優は泣き真似をしながら、できた下駄のような皿?を二つ私達の前においてくれた。上にはたくさんの種類の寿司が乗っている。マグロにサーモンにエビに穴子に卵にはまちにと多い。私は見てるだけでお腹いっぱいになるが、灼と優姐さんとお話しながらならきっと食べれるだろう。

 

「今日はお姐さんからのおまけもちょっとあるから、しっかり食べておくれよ。あいにくまだ夜のお客様は来てらっしゃらないから、私はお嬢さん方の前にいるし、何かあったら言ってくれよな。あ、ちなみに最近の彼氏情報とかはなしだ。私は最近去ってきたから新しい人を探して必死なんだ」

 

 聞いてもいないことをペラペラと話すのは優姐さんの性格で、とっても明るくて怒ってるときも怒ってるのかわからないくらいだ。通い始めたときから、彼氏とか最近のニュースとか色々なことを話してくれる。彼氏については今回で3回目だ。付き合いは長いけどしっかり行くとこまで行った話は一度も聞いたことがない。意外ととても慎重なのだ。

 

「またぁ?優姐さんこのお寿司屋さん継いで何年になるのぉ?早く良い人見つけないとこれから大変だよぉー?」

 

 冗談めかして言う灼だが、意外とその心の下では心配しているのだろう。

 

「ふふ、私はこう見えても意外とモテるんだぞ?大丈夫さ、すぐに良い人が見つかるはずだ。ところで、お二人方は彼氏に良さそうな子は見つかったのかい?」

 

 灼はさっそくマグロに手をつけながらその言葉に返事をする。

 

「いいえ、こんなあたしをリードできそうな男子は見なかったよー」

 

「むしろ、手中に収めそうな勢いでリードされそうな男子ばっかりだったしね・・・まぁ・・・私は見つかりそうですね」

 

 優は大笑いして言った。

 

「まぁそうだな。灼ちゃんの横顔を見ながらリードできるような男性がいたら教えてほしいもんだ。葉子ちゃんはかよわい女の子だからね。きっと上手にリードしてくれる男性に会えると思うよ」

 

 優姐さんの話を聞きながら私もマグロを口にいれた。さっき捌かれたばかりだからか、とても冷たいけどおいしい。口の中で溶けるような感覚がとてもたまらない。

 

「ふふ、中学生になったお嬢様方に私から良い男性の選び方を教えてあげよう」

 

 さっきから何回も呼び方を変えられるのは、優お姐さんのクセだ。あと、恋路の話になればちょっとテンションが上がって、いつも男性の選び方を教えてくる。断って違う話題にさせるのもアレなので、私達はいつも通り聞く態度をとっておく。

 

「中学生の男の子はな。大体は異性と付き合うことにしか興味がないやつばっかりだ。もう成人した私の口から言うにバカばっかりだよ。今日はこの私が真剣な恋の方法についても教えてあげよう。まず一つ。恋とは何かだ。灼ちゃんなんだと思う?」

 

 灼は卵ののりをはがして口に運びながら、優を見据えて言う。

 

「私にとっては、異性を好きになってしまうことだと思うけど?」

 

 優は小さく頷き「そう」と言って言葉を続けた。

 

「恋は簡単に言えば、好きになることだ。じゃあ付き合うってなんだ?葉子ちゃん」

 

 付き合ったこともない中学生なりたての雛に言ってどうするって話だ。だけど私だって恋についての知識くらいある。私なりの答えを出した。

 

「互いを知るための状態?みたいな?だと思う」

 

 優は急に目を丸くして私を見てきた。

 

「葉子ちゃん・・・頭でも打ったのかい?なんで君はそんな答えが出せるんだい?賢いよ!」

 

 どうやらかなり下に見られていたようだ。反論しようとしたが相手にしたら負けだ。

 

「まぁ、そういうことだな。葉子ちゃんの言ってくれたとおりだ。まぁこれは私の考えとも一致してるからいいとしよう。まぁ、このあと結婚するかは自由意思になるのだがな。じゃ、付き合うときに良い男性・・・とはどう言う意味か。それはだな。世の中色々あってな。女性を簡単に捨てたり、浮気出来たりする奴がいるのさ。そんな中で自分だけを見てくれる必死になってくれる男性はどんな人なのかを見分ける一つのポイントとするといい。たまに例外もあるが、まぁ聞いてくれな」

 

 優は一息いれて話始めた。大体こういうタイミングの場合相槌などは入れなくてもいいから、私達はただ食事をしながら聞くだけだ。

 

「真剣になってくれる男性は本当に女性のことばかり思うことだろう。毎晩毎晩一人の女性ばかり考えて眠れない男性はとっても真剣になってくれる人だ。そんなプライバシー分かるわけないだろって思うだろ?必死になってくれる人は告白のときの言葉がとっても長くて支離滅裂だったりするし、付き合い始めてから「どこが好き?」って質問には答えを出さないのがお決まりだ。付き合いのうちで、どことなく小さいことにでも気づいてくれたり、そんなことまで・・・って思うようなめんどくさい作業までをも、熱心にこなして女性に尽くす人はとっても優しくて一途な人だ。だからこういう男性は女性に踊らされやすい。ようは騙されやすいということだな。だから良い男性というのは、私のどこを見て、どこまでして、どこまで思ってくれるかだ。こんな男性は珍しいが、きっとこの世の中一人はいる。だから、お嬢さん方は変なやつに振り回されちゃダメだぞ?カッコイイからとか親切だからとかでホイホイついて行ったら痛い目に会うから気をつけなきゃだめだぞぉー?わかったな?」

 

 この手の話は半端じゃなく真剣に言う優だ。かなり真剣だと思わせるめつきが葉子らに向けられて、少し怖い。

 

「「はーい」」

 

 しかしもう何回受けたかわからない。慣れた。

 

 話されている最中に食べ終えた灼はお茶をすすって一服してる。それを横目に私は最後のサーモンの一口をパクっとしておく。やっぱりいつ食べても好きだ。いい感じに脂肪がついていてとっても美味しい。サーモンだけならあと何皿でもいける気がする。

 

「おっと、話してる間に食べ終わったのか。そろそろ夜のお客様が来られる頃合になるな。そうだ二人とも、もし銭湯行くなら無料券2枚あるのだがいるか?私はまだ仕事があるうえに、3枚もくじ引きで当ててしまって余分なんだ。もし9時頃まで待ってくれるなら、一緒に行ってあげてもいいが・・・」

 

 優は懐から3枚のチケットを取り出し見せた。

 

 灼に顔を向けると目があった。今日は行く予定がなかったが、せっかくの誘いを断るのもアレなので、行くことにするらしい。灼は目で”行こう”って訴えてくる。優お姐さんよりも断るのが難しい灼の提案だ。仕方ないから頷いた。

 

「行く!9時だね?着替え取りに帰るけどいい?」

 

 優はにっこり微笑んで返した。

 

「おう!、仕事が終わったら迎えに行くから家で待っててくれ」

 

 夜は遅くなるが、一郎と優お姐さんは知り合いだ。きっと説明すれば許してくれるだろう。

 

「「はーい」」

 

 と言った。

 

 それと同時に後ろの引き戸がガララと音を立てて開いた。新しいお客様だ。

 

 長い事居座るのもアレなので、もう店はたつことにした。勘定は1980円程度でやっぱりいつみても良いお値段だ。

 

「じゃあ、姐さんまた後でね!」

 

 そう言って灼と葉子は優に手を振って店をあとにしたのだった。



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4月12日その4 お風呂とお姉さん

家に帰ってしばらく灼と二人でお茶していると、優が迎えに来た。

 

 優は涼しそうな半袖にデニムのショートパンツの姿だ。外国人のような気品を帯びた日本人の顔に、銀色の長髪をなびかせている姿はまるで、楽観的な思想に街を歩き回るお姉さんそのものだ。

 

「は~い、お嬢さん二人方~お迎えに参りましたよぉ~っと」

 

 寿司屋では見れない優の性格・・・初めて一緒に遊びに行ったときは苦手だったが、今思えばこの性格はとっても絡みやすく、好きだ。

 

 さっそく灼らは自分達の着替えを入れた手提げカバンを持って、優と一緒に出発した。

 

 優は基本的に仕入れ以外は移動することもないので、車などは所持していなく徒歩だった。カフェから銭湯まで大体徒歩で15分程だ。

 

「優姉さん、今日はとってもカッコイイ服だね!いつもなら可愛らしいワンピースとか着てるのに、今日はどうしたの?」

 

 灼は優に自分の感想を言う。正直な感想だ。優はいつも私よりもファッションセンスがあってとても羨ましい。いつも葉子のファッションとか着飾りに口を出す自分だが、優のファッションに文句はどうしても言えないのがいつも悔しい

 

「ふふ、今日は久しぶりのお出かけだからね。たまにはこう言う格好もいいかなってね。灼ちゃんのワンピースもとっても可愛いよ。もちろん葉子ちゃんもね」

 

 優は微笑みながらそう言って、急に意地悪な笑顔に変えて言葉を続けた。

 

「灼ちゃんと葉子ちゃんもそういえば中学生だったね・・・もう少し小さかった時にお風呂行ったきり行ってなかったから、二人の成長した体が見れるね。どう?ちょっとはおっきくなった?」

 

 意地悪な笑顔の視線は私と葉子の胸元に行っている。小学生も中学1年生の体も言うて変わらないのだが、優はわざと意地悪しているらしい。

 

「あんまり変わってませんよ?そう言う優お姉さんはどうなんですか?前会ったときは大学3回生でしたけど、少しは大きくなってCくらいは行ったんでしょうね?」

 

 そう葉子は返す。実は優はモデルのような体に外国人の気品のある顔付きをしていて寿司屋の店主としては考えられない容姿だが、そのバストはまだほのかにしかふっくらとしかしていない。それも彼女の昔からの特徴だ。

 

「あら葉子ちゃん、いつからそんな事を言えるようになったのかしら、お姉さんまた悲しくなってきたわ。ねぇ?灼ちゃん」

 

 優はそんな葉子の言葉を避けてまた葉子のことを子供のように扱い言いながら、葉子の茶色がかった黒色の髪の毛を撫で始めた。やっぱり結構気にしているのか、葉子の撫でる手の力が強い気がする。

 

 そんな葉子に便乗するように追い討ちをかけるのは私の仕事だ。

 

「葉子の言うとおりだよぉ。優姉さんのバスト2年前から全然変わってないよぉ~」

 

 優にそう言ってやると意地悪な顔はだんだんと崩れて泣き顔になった。意外と外見とか性格によらず可愛いところがあるみたいだ。

 

「ふぇ、ひどいなぁ二人ともぉ~、いつからそんなにいじめるようになったんだい。お姉さんもっと悲しくなってきちゃったよぉ~」

 

 もちろん優の泣き顔は演技で、私達に対しての返事にも少し笑いが混じっている。基本的に灼らは行きつけの店や知り合いの店員、カフェへの常連客とはとても仲が良く、ちょっとした罵りや罵倒、いじりは許される間だ。

 

「いっそその泣き顔も見てみたいものだわ」

 

 たまにはちょっと多めにいじめるのも面白いかもしれない。

 

 優は嘘泣き顔からまた意地悪な顔をして私の顔を覗き込んできた。

 

「ふふ、じゃあ逆に灼ちゃんの泣き顔を作ってみようかな」

 

「あら?あたしは泣き虫な葉子と違って、とっても強い子だよ?簡単には泣きませんよ」

 

 葉子はよく泣くけど逆に私はそれを支えるために、泣くための感情は可能なかぎり捨ててきたつもりだ。だから簡単に涙を浮かべるような気持ちはない。

 

「そう?じゃあその気持ちがどこで曲がるか後で試してあげよう」

 

 何を考えているのか。優は意地悪な顔を一層意地悪くして言う。こんな優はよくわからないから相手してるとこちらが萎えてくるため、もう話は適当に切ることにした。

 

「はいはい分かりましたよー」

 

 適当に手を上げて話を切る合図をしたのだった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 銭湯に着いて、無料券を出して中に入った。

 

 今日は貸し切りだ。この間来たときも貸し切りだった。この時間は基本的に貸し切りとなるらしい。ガラッとした棚と多めに並べられた椅子はシンとして置かれている。

 

 さっそく真ん中らへんの棚を引っ張りだして、来ているワンピースの帯をほどいた。スルスルと真っ白い帯をほどいて、ワンピースを脱いだ。白いワンピースを着ていても透けて見えたりしないように今日は白いブラジャーとパンツをはいている。

 

 まだまだ子供らしい体は小さく、優と見比べても比率には合わない。早く大人になってもっと自分らしさを出したいと思うものだ。

 

「灼ちゃん、もうそんなもの身につけて!まだ子供なのに早いねぇ~。そういえば葉子ちゃんはつけてないのね」

 

 葉子に視線を向ける優の目は意地悪そうだ。葉子のバストは完全な絶壁と言ってもいいくらいで、ほんのりふくらんだ印象が持てる私と違って、葉子のそれには角度はない。なぜここまで育ってないのか私にもわからない。

 

「み、見ないでください」

 

 一糸まとわぬ葉子は私達に背中を向けてしまう。そんなしぐさが少し可愛く見える。

 

 ブラとパンツをとってかごに放り込んで、手拭いを持って風呂のドアを引いた。

 

 この間来たときとなにも変わらないお風呂だ。電気風呂、ブクブクと空気をふく風呂もある。サウナがないのは銭湯だからだろう。

 

 さっそくかかり湯を浴びて、一番面積を占める四角い風呂に浸かった。

 

 体には少し熱めの湯を肩まで浸かって温まる。葉子は電気風呂に浸かりに行ってしまって隣には優が、道沿いで浮かべていた意地悪な顔を作って座っていた。少し嫌な予感がする。

 

 予感は的中か。優はその白い細い手をこちらに向かって伸ばしてきた。

 

 咄嗟にその手を払い除けて抵抗しようと左手をあげた。しかし、優は私の左手を左手で掴んで、右手を私の背中越しに右の脇腹に軽く爪を立てて脇腹を握ってきた。

 

 その瞬間に何とも言えないこそばゆさが電撃のように体に走ってきた。一瞬のうちに私は身をよじって優に背中を向けた。

 

「ふっふーん、灼ちゃ~んさっきのお返しだよぉ~、さぁ泣き顔拝ませてもらいますよぉ~っと」

 

 優の意地悪な少し高くなった声が背中越しに聞こえる。背中を向けたのは間違いだったようだ。左手首を握られて思うように抵抗ができず、そのままグッと引っ張られ優の肌が背中に密着する感触を覚えた。

 

 また右脇腹からこそばゆさが走ってきて、「ヒュッ」っと変な声が漏れた。

 

「や、やめ!ふぇっ・・・はははははっく」

 

 隙あらば葉子のことをつついていた私がまさか逆につつかれることになるとは思いもよらなかった。左手をそのまま頭の横まで持ち上げられ抑えられながら、右手でつついてくる。しかも背中越しに・・・抵抗しにくいすぎる。

 

 どうにか自慢の関節の柔らかさを利用して、右手で優の右手首を捕まえて抵抗した。

 

「ふふ、無駄な抵抗はやめなさい?さっき罵ってくれた分全部しっかり返してあ・げ・る」

 

 優はこれ以上に無いくらい意地悪な声で言いながら、右手の力を強めて私の抵抗を無視する。右の脇腹からさっきよりも強い刺激が伝わってくる。

 

「くふぁ、やめ、やめて!、くははははっうっくはははは」

 

 反射的に体が暴れるように抵抗して優の腕の中でもがいた。抵抗とは言っても所詮、私は子供で、大人の力にはかなうはずがなく、体を動かしても優の手の内からは逃れられない。

 

「灼ちゃんは最近口がとっても悪くなったらしいからね。しっかりお仕置きもかねていじめてあげるから、ほら早く泣いてみなさい?」

 

 どうにか優の攻めに耐えながら再度抵抗をする。

 

「くふぇ、はぁ、うぇ・・・よ、葉子!たすけ、はふ!?、助けて!!」

 

 お風呂には私達以外だれもいないから力の限り叫んで、葉子に救いを求めてみた。葉子ならきっと助けてくれるはずだ。

 

 視界の端で葉子の姿が見えた。ゆっくりとしたあしどりでこっちに向かってきている。

 

「あら葉子ちゃん、もしかして邪魔するの?あなたも同じ目にあっちゃうよ?」

 

「いいえ?最近よくいじめられたから、私もこの際だからいじめようかなぁ~って?」

 

 葉子はそう言いながら私の前に腰おろしてきた。しかもその笑顔はどこか黒色の感情を持ってるように見える。

 

 優は私の葉子に対する物言いを許すように一旦手を止めてくれる。もちろん抑えつけは解かないで。

 

「よ、葉子?嘘だよね?助けてくれるよね?ね?」

 

 これ以上刺激を与えられたら、泣き笑いか過呼吸でつらくなってしまう。どうにかして抑えなければならない。

 

「ん?灼?助けるわけないじゃん。最近私にしてきたこと覚えてないの?だから私もしっかり灼に復讐させてもらうよ?」

 

 最悪だ。最近してきた私の葉子に対する軽い意地悪の積み重ねのせいだ。もう逃れることができないような気がしてならない。

 

「ゆ、許して!お願い助けて!何でもするから!ねぇ?お願いだからね?ね?」

 

 なにかまずいことを言った気がする。葉子はいつもの顔からじゃ想像もできない意地悪な顔を浮かべて、「そうなんだ」と言って言葉を続けてきた。

 

「ふふ、じゃあ泣き顔を見せてくれる?何でもいいよ?笑い泣きでもガチ泣きでもいいよ。どう?言われて泣ける?」

 

 泣けるはずがない。葉子の支えのために自分は泣かないように、何にでも耐えられる精神作りをしてきた自分だ。ちょっとした痛みや精神打撃なんかじゃ泣かない。映画やゲーム的な感動シーンでも泣かないくらい、変に無慈悲になってるのだ。そんなこと無理だ。

 

「む、無理だよ・・・。助けて・・・くれないの?」

 

「泣いてくれないのに助けるわけないでしょ?無理やりでも泣かせてあげるよ?」

 

 そう言い終えて葉子は両手を私の方に伸ばしてきた。優の右手首から右手を離して葉子に対して抵抗を試みようとしたが、優に右手を掴まれて完全に拘束されてしまった。

 

「や、やめ!?ひゃう!?、くふっはははははは」

 

 葉子の白い細い指が私の両の脇腹をつつきまわしてきて、電撃のような刺激が大量に体を伝わってきた。

 

「灼って私とかには結構するから、意外と灼自身は効かないような気がしてたのに、灼意外とすっごく敏感なんだね。ほれほれ、もっと笑ってはやく泣きなさい」

 

 もはや後半いつもの葉子からは考えられない口調になっている。そんなに楽しいか。

 

「はははは、やめ、やめて!くふぁ、はははは、も、もうやめて!」

 

 笑いすぎて涙が目頭に溜まってきた。もうこれ以上されたら本当に倒れてしまうかもしれない。

 

 そんな考えが脳裏をよぎった瞬間だった。急に葉子はその手を引いて、私の顎をつまんで顔をクイッと上げた。目の前にはにんまりとした意地悪な葉子の笑顔が見える。

 

「ふふ、やっと泣いた。ほら、もっとその泣き笑いの顔を見せて?」

 

「グスッ・・・意地悪」

 

 後ろからは優が「ふふふ」と隠し笑いする声が漏れていたのだった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 風呂から上がって、最近買ったばかりの大きめの服と、夏用の余裕のあるズボンを腰パンぎみに着て、椅子に腰掛けて優に買ってもらったコーヒー牛乳を飲んでいた。

 

 葉子は前と同じように長風呂していて、私と優姉さんはそれを待っているのだ。そんな優はフルーツ牛乳を飲みながらマッサージ機に座っている。

 

「ふぅー、風呂のあとはこれに限るねぇ~。最近はずっと働き詰めで、なかなかこういう娯楽の楽しみ方はしてなかったから、良い気分転換になったよ」

 

 優は満足げにそんなことを言ってる。

 

「ふっもう良い歳したおばさんみたいなこと言ってる。まだ23なんだからもっと元気にその歳らしいこと言いなさいよ」

 

 優の言葉にそう言ってやると、またさっきの意地悪な顔が背もたれごしにこちらを覗いてきた。

 

「ふふ、まだこりないようね。この悪小娘は」

 

 そう言う優はもう動くのもだるいように、またその顔を引っ込めて背もたれに深く腰掛けた。

 

 急に訪れた沈黙を破るように葉子がお風呂から上がってきた。熱だった葉子を一人で浸からせるのには気が引けたが、一緒に長風呂するのは好きじゃない。どちらにしろ元気そうだから大丈夫と判断したのだ。

 

「おまたせ~」

 

 絞った手拭いで軽く水気を拭き取り、バスタオルを棚から取り出して再度拭き始めた。

 

「葉子ちゃんは何かいるかい?」

 

 優は葉子にそう言って、マッサージ機から身を乗り出していた。

 

「え?いいんですか?じゃあコーヒー牛乳をお願いします」

 

 葉子は基本的に甘い飲み物はあまり飲まないのだが、コーヒー牛乳は別らしい。どこに行っても甘い飲み物はコーヒー牛乳しか飲まない。しかも商品陳列棚にコーヒー牛乳がないときは甘い物は飲まず、結局コーヒーなどを飲む。よくわからないこだわりようだ。

 

「オッケー」

 

 優は親指を立てて返事を返すと、マッサージ機から立ち上がり、入口の方に歩いて行った。

 

「灼、髪梳いてくれない?なんか最近うまくできなくて、ボサボサになっちゃうの」

 

 相当不器用らしい。朝いつも跳ねとクセができるのはそのせいか、仕方ないのですいてあげることにした。

 

 椅子から立ち、葉子の後ろに回る。既に服を着替えてチョコンと座る葉子の茶色がかった黒色のセミロングの髪に、私の両親が唯一私に残しておいてくれた真っ黒で綺麗な光沢のある純鉱石でできた櫛を通してあげた。

 

「葉子?全然髪の水分が取れてないよ?」

 

 葉子の髪はまだ水分をたくさん含んでいて、髪を梳くにはまだダメな状態だ。だから乾いたタオルを取り葉子の髪を拭ってあげた。丁寧に優しく拭いた。

 

「ん、ありがとう灼」

 

 葉子のセミロングの髪をぬぐい終わり、タオルを置いて櫛で梳き始めた。短めのその髪はスッキリした感じに綺麗にほどけ、いつもの艶が戻ってくるように、サラサラとした感触を感じるようになった。

 

「いつまでも不器用だね。葉子。もう少し自分でできるようにならないと、いつまでも私と暮らすことになるよ?」

 

 そう言いながら葉子の後頭部に軽く口づけをしてあげた。母親が子供をあやすようになぜか急にしたくなったのだ。

 

「灼どうしたの?ちょっとくすぐったい。ふふ、とゆうか、私は灼の家族だよ?ずっといつまでも一緒だよ?」

 

 葉子は鏡越しに私を見据えて言ってくる。まだまだその考えは中学生らしい。というより子供らしい考え方だ。最終的な結果は嫌でも逆になるのだが、ここで衝突するのもなんかあれなので、それに便乗しておく。

 

「そうだね。葉子は家族だもん。ずっと一緒だよね」

 

 そう言って葉子の事を見つめると、急に大人っぽい微笑みを浮かべて「うん」と言ってくれた。

 

 そんな私と葉子のあいだに入るように、コーヒー牛乳のパックが葉子の頭の上に置かれた。優が来たのだ。

 

「どうしたんだい?二人してさっそく思春期的なお話かい?」

 

 この姉さんの思考の方がよっぽど思春期っぽい気がしてならない。

 

「違いますよ?私と灼は現在プライベートな家族会話中ですよ。勝手に聞かないでくださいよー」

 

 優は急につまらなさそうな顔をして葉子の頬にコーヒー牛乳を押し付けて「そうかい」と言って、またマッサージ機に座りに行ってしまった。

 

 何を想像していたのか、やっぱりよくわからない人だ。

 

「灼、最近何か心の内を話してくれなかったから、私嬉しい」

 

 葉子は急にそんなことを言ってきた。最近学校のことをあまり話してくれないとかいう母親みたいななのとなんら変わらない。

 

「なにその母親みたいなこと言って、葉子どこか打った?」

 

 葉子は「そう?」とか言って首をかしげてる。本当にどこか打ったのか?浴場で足でも滑らせたかな。

 

 そんなことを思いながら葉子の頭を軽く撫ぜる。やっぱりいつもどおりサラサラした髪だ。

 

「ふむ。よくわからない灼だ。今日はどうしたの?」

 

「よくわからないのはこっちのセリフだ。変な会話やめない?」

 

 笑いまじりに返すと「そうだね」と笑ってくれた。本当にどうしたものか。

 

 そんなことを頭の片隅に思いながら、葉子の後頭部にもう一度軽く口づけをしたのだった。



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4月12日その5 泣き虫葉子

 帰る道の途中で優お姉さんとはすでにさよならをした。

 

 現在は灼と二人で帰路についている途中だ。街灯の多い夕紅島の道を灼と並んで歩いている。中学校に入る前は二人でこうやって夜の道を歩くことも少なかった。これからはもっとこんな二人だけのやりとりが増えるかもしれない。

 

「良いお湯だったねぇ~。葉子、長風呂しちゃったけど体調は大丈夫?」

 

 やっぱり熱だったことをまだ気にしてくれているらしい。灼の私を見る目は心配の色を帯びている。灼はなぜかは知らないが、私が体調不良のときはいつもひどく心配をしてくれる。もちろんそんな灼の気遣いは、私にとっては嬉しいものだ。

 

「うん、大丈夫だよ。お昼まであった胸苦しさもないし、頭痛もないから大丈夫。灼の看病のおかげだよ。ありがとね」

 

 灼に笑顔と一緒にそう返した。灼は「良かった」と言って逆に笑顔を返してきた。こんな何気ないやりとりこそが家族なのだっと思わせる。私は2年間家族との記憶があるけど、灼は家族との記憶を持っていないらしい。灼が私に施設前の事を聞いてきたときに、逆に聞き返したことがある。

 

 ”あたしは家族の顔を知らない。気づいたときにはもうここにいて、初めて見て覚えたのは施設長さんの泣き顔だよぉ”と灼は言っていた。灼は捨てられた子だったのかはわからない。家族の顔を覚えてる私よりもかわいそうだと思った。

 

 少し思いふけっていると目頭が熱い。灼がキョトンとした目をしながら、覗き込んできている。

 

「葉子?また泣いてる。本当に大丈夫?」

 

 目頭に涙が溜まって熱いのか。もう何回目かわからないこのやりとり。また灼に迷惑かけるのも嫌だ。どうにかごまかさないと。

 

「あ、これ?ほら、もう夜も遅いでしょ?欠伸したせいだよきっと」

 

「嘘ついた。あたしをごまかすなんてできないよ」

 

 すぐ見破られてしまった。図星で顔が微妙にひきつるのが分かる。どうしてバレたのか。

 

 灼はそう言って私の手を引いて、足を止めさせた。反動で私は灼に向き直ってしまう。いつもふざけた顔をしていて、真剣なんてどこに置き忘れてきたのかわからない雰囲気で喋る灼の顔は、真剣なときはありえないほど鋭いもので、私のこれまでの灼との生活ではその真剣な目で見つめられるとなにも言えなくなってしまう。

 

「今日は何があったの?また思い出しちゃった?正直に言って?」

 

 ギュッと握られる左手首が少し痛い。灼は左手の親指で私の右の目元の涙を払い除けてくれた。こんな灼にさらに嘘をつくと、何をされるかわからない。正直に言ったほうがいいか。

 

「ちょっと施設の時のことをね。灼・・・家族のこと・・・・知らないって・・・だからちょっと・・・ね?」

 

「ふふ、さっきの会話のどこに家族の話なんてあったの。バーカ、私は気にしてなんかいないからそんなこと考えなくていいの。それにさ、あたしは家族のことは知ってるよ?」

 

 灼は笑いながらそう言う。家族のことを知ってる?よくわからない。

 

「え?家族のことを知ってるって?どういうこと?」

 

 灼は「葉子の考えてることハズレてるよ」と言って、左手のひらで私の頬をなでるように触りながら言葉を続けた。

 

「あなたという家族をあたしは知ってる。今はそれだけで十分だよ。だから私のことでもう何か悩まないで?自分の事で悩むなら何度だってその涙拭ってあげるから、もう一人で悩もうとなんて思わないで?嘘はつかないで?どんな思いでも聞いて、真剣に一緒に考えてあげるから、なんだって相談してね」

 

 私とは血は繋がっていなく、本当に家族というには言いにくい存在の私のことを家族と言ってくれる。灼はきっと家族は誰?と言われたきっとこう答えてくれる。私は答えられなかったかもしれない。本当に情けない私のことを思ってくれる灼は本当に好きだ。

 

 泣きたくもないのに、大粒の涙が大量に目から流れるのがわかる。無意識に拭おうとする両手でもぬぐいきれない。本当に何が原因かもわからなくなってしまう。灼の言葉のどこに泣ける要素があるか、本当に私は情けない。

 

 おどけた笑顔で灼はそう言って、私のことを急に抱きしめてきた。毎日こんな状態じゃもう灼に強がることなんてできやしない。ああ、本当に情けない。

 

「ほら、あたしの服汚していいから、しっかり泣きなさい」

 

 身長も歳も変わらない灼が姉妹のお姉さんのように思える。涙があふれるせいで、呼吸が荒くなって、普通に立ったまま両手で顔を覆ってるだけじゃしんどくなってきて、自然と灼の胸に顔をうずめる形になってしまう。

 

「ひっく・・・うぇ・・・ぐすっ・・・あり・・・がと・・・うぅ・・・」

 

 そんな私に合わせるように灼は抱きしめる力を強めてくれる。自然と安心感とやすらぎが心にあふれてきた。感謝の言葉も無意識に漏れた。もう昔のことは忘れよう。今の私には灼という家族がいる。

 

 今はただ、それだけでいい。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「お休み。葉子」

 

 葉子の茶色がかった黒色の髪を撫でつけ、すぅすぅと小さな寝息をたてる葉子に布団をかけた。銭湯から帰る途中に泣き出してしまった葉子をあやしていたら、いつのまにか葉子は寝てしまい。だから背負って帰ってきたところだ。

 

 お寿司屋で一緒に練習しようという約束はしたが、残念ながら葉子は寝てしまっている。一人で練習するのもいいが、一人で練習するのはちょっと気が引ける。それにどちらにしろ、自分の磨き直さなければならないところは把握済みだ。また今度にしてもいいだろう。

 

 時計を見ると10時だ。少し勉強してから寝てもいいかな。そう考えながら部屋の端にある自分の机に座る。部屋の電気はさっき消した。自分の机のデスクランプをつけて数学の教科書を開いた。中学1年生1学期でやる範囲は正の数、負の数、一次方程式だ。

 

 計算の基本はちゃんと葉子と一緒におじい様からテキストで教わった。しっかりおさえたから数学の教科書の大体は理解できる。正の数、負の数は”+と-”の意味をちゃんと理解しておけばそれでいい。でも残念ながら理屈は知らん。”-と+を”かけると答えは”-”になる理由なんて私は知らん。学ぶなら大学に行ったほうがいいだろう。一次方程式は式と式の間に”=”があるもので、しかもその式の各部にはxやyなどといった文字まで存在する。まぁ、最終的にxやyといったものが存在する理由は、そのxやyにあてはまる数字を求めるためだ。

 

 教科書のページをひらひらとめくって適当に問題を抜粋して、ノートに書き込んだ。3+x=4なんていう式と5×(-6)という式など、色々書き込んだ。まぁ言うて難しくはない。3+x=4はx=4-3になる。これの理屈は式と式を=で結んでいる。これはどういうことかというと、3+xと4は最終的に答えが同じということだ。まぁ、同じとはどういうことかというと左項と右項は4だということだ。よって左項をxのみにしようとすれば、左項に対して-3という計算をする。すると右項は左項と同じ=の存在だから、右項にも-3をする。そしてこれを式として表すと、-3+3+x=4-3という感じだ。-3と+3は計算すると0なので消滅するよって左項はxのみとなって、さっきのようなx=4-3という式になるのだ。最終的にこれを計算するとx=1だ。これが答えだ。これで終わり。

 

 5×(-6)の理屈は知らない。だから計算してもう-30という答えを出しておく。まぁ、理屈とは言えないが考え方を言うとするなら、-6が5個あると思えばいい。それを足し算すると-30という形になる。

 

 理屈と考え方はおさえた。これをしっかり頭にたたきこんでおけば授業は復習も同然だ。あとは葉子が”わからないー!”と求めてくるのを待つだけ、しっかりサポートして良いお姉さんきどるだけだ。

 

 ノートを閉じてデスクランプを消した。窓から差し込む月明かりを頼りにベッドに寝転ぶ。今日は満月で、意外と時間的に遅くなるまで出なかったらしい。明るい光が開け放たれたカーテンからまんべんなく入ってきている。月明かりに照らされた葉子の横顔は白く、茶色がかった黒色の髪がもう少し黒かったら京都の舞妓さんが想像できるかもしれない。でもやっぱりその顔は月明かりを反射している。まだ泣いてるのか。

 

「ふぅぅ・・・・い・・・ぅ・・・ゃ・・・ぅ・・・」

 

 そんな葉子の隣に座るとなにか呟いているらしい。声が聞こえる。また寝言かな。ちゃんと聞いて対処してやらないと。

 

「すぅ・・・・ゃ・・・ぅ・・・や・・・・くぅ・・・・やく・・・・あ・・・り・・がと」

 

 葉子は私の名前を呼んでくれている。いつもなら”お母さん”と言ってるのに・・・なぜ今日は私の名前なんだろうか?でもきっとこの間よりはましになったかな。

 

 葉子のベッドに侵入するのも無視して、葉子の真横に横になった。今日は熱だったり急に泣き出したりと、葉子は非常に心が不安定だ。意識はないかもしれないが、しっかり私のもとにつなぎとめて、ちゃんと安心してもらいたい。

 

 私は葉子のことを軽く後ろから抱きしめてあげた。昔から何も変わらない。私よりも幅の狭い小さな肩幅に華奢な体は小さいけど、ちゃんとドクッドクッと生きている音を出している。それに暖かい。こんな自分となにも変わらない少女を、葉子を守っていけるか不安だけど、私は葉子のことを幸せにしたい。

 

 彼女との施設経験を知っている。過去も性格も思想も体も心も、本当の家族のように知っている。二度と葉子には精神的な傷は負わせない。絶対に幸せにしてみせよう。

 

 葉子の細く白い手を後ろから伸ばした手で握り、目を閉じた。葉子の手は赤ちゃんが無意識に何かを握るように、私の手を握り返してくれる。きっと良い夢を見てくれているだろう。さっきよりも安心したような息遣いが聞こえる。

 

 まだ子供だけど、ちゃんと幸せにしてみせる。私の大切な愛しい家族だ。

 

 



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4月20日その1 いつもの朝

 朝は眠いもの。と隣で寝るクセ毛だらけの少女はよく言う。私は違う。毎日しっかり起きる努力と日課を守ればそんなこと造作もない。むしろ早起きは何か行動をする時間が増えてよいものだ。

 

 まだカーテンから差す光は青く薄い。直接差す日光とは違い山の向こう側で光り、雲を通じて反射される光だ。そんな状態が作られる時間というのは、朝早くから品出しや営業準備をする店の人達が起きる時間だ。

 

 顔を横に向けて机を見れば、カチッカチッと小さなを音をたてながら時を刻むちっちゃな時計がある。そんな時計の短針は現在5の数字を指し示している。もうこんな時間に起きるのも何回目か、こちらに引っ越してきてからこの時間に起きなかった時はないくらいだ。

 

 体を起こし、ベッドを降りた。今日の体の調子も悪くない。走っても全然大丈夫そうだ。上にしっかり伸びをして体をほぐす。筋肉が伸びる感覚はとっても気持ちがいいものだ。

 

 さっそくクローゼットを引っ張り出して、中からランニング用の短いズボンと通気性抜群の100%ポリエステルでできたシャツを取り出した。もうこの服装をするのも何回目だろうか。

 

 これから朝の運動をしに行くのだ。できたら葉子も連れて行ってあげたいのだが、葉子は朝が苦手な上に絶対にこの時間は起きない。だから軽くいたずらをしても大丈夫なのだ。

 

「よし」

 

 姿見に映った長髪のランニング姿の少女はなんともシュールな格好だ。普通に髪は短めなほうがいいだろうが、あいにくと私は長髪が特徴だ。これは頑固切らない。葉子の要望によっては切るかもしれないが。

 

 髪が顔の前に垂れてこないように、髪を後ろで一纏めして、おっきなポニーテールをつくった。結ぶリボン?紐は白色だ。

 

 さっそく出発し、ドアを開けて廊下から階段を降りた。廊下には窓はなく、とっても暗い。もちろんこんな時間だから部屋も薄暗かったし、目は慣れてる。なんなく階段を降りてカフェからリビングへ移動した。

 

 冷蔵庫から水が入ったペットボトルを取り出して、グラスに一杯だけそそいだ。ペットボトルを戻して、グラスの水を飲み干し、さっきクローゼットから一緒に出したお気に入りのタオルを持って玄関に行き、自分の靴を持ってきた。

 

 玄関から出るのもいいが、表口を開けっ放しにするような危険なマネはしない。家の裏口から出発するのが私の基本だ。

 

 タオルを持ちながら走るのもいいが、できたら手ぶらで真剣に走りたいから、裏口の近くの棚の上にタオルを置いて裏口から外に出た。

 

 裏口から出た外は路地で、家の裏口がすぐ見える場所だ。洗濯機を設置した家、物干し竿がたくさん掛けられた家などいっぱいある。

 

 さっそくまだ薄暗い路地の真ん中に立つ。いきなりゆっくり走り出してもいいが、準備運動くらいしっかりしておきたい。全身の筋肉をしっかり伸ばすストレッチを数回する。片方の足を後ろに引いて、もう片方の足を前に出し、体重を前にかけ後ろに引いた足の筋肉を伸ばすストレッチを左右と、肩甲骨を後ろでくっつける感じに動かし、背中でコリコリと鳴らしほぐした。

 

 他にもいくつかしたが、まぁすぐに終わらした。

 

 走る前にその場で数回ジャンプをして、走ってる時の反動に備える動きをする。これをしておくと走り続けても脇腹が痛くならないとかなんとからしい。まぁそんな感じだ。

 

 さっそく走り出した。最初と最後までのスピードは全て同じにしたい。私は短距離より長距離派だ。しっかり最後まで走れる体を作りをしておきたいのだ。しかも楽器を吹く上で背筋とか呼吸をうまくさせる筋肉は付ける必要がある。それなら長い呼吸を必要とする長距離でしっかり呼吸のマスターをするべきだ。

 

 ちなみに私の身体能力は、中学校最初の体力テストで測ったとき意外と高かった。詳細を言うと・・・握力は25程度で男子の平均値で、上体起こしは30で男子の平均値を5も上回った。長座体前屈は普段、ランニングの後とお風呂後にストレッチをしてるから47もいった。反復横とびは60だ。そして夕紅島中学校は男子も女子も同じ持久走をするということ。つまり1500m走るのだ。他の学校だと1000mらしい。その代わり女子のほうが少しタイムのレベルが緩くなっている。そんな私のタイムは3分47秒で、男子の最高を裏切るタイムだ。50mは少し遅く6秒30だ。そして極めつけはシャトルランで、145だ。体育の先生と男子生徒のムンクの叫びのような顔が脳裏に焼きついている。そんな私だが、立ち幅跳びは1m30で、ハンドボールは15mなのだ。

 

 体力測定後の運動部系顧問の先生からの熱烈な入部誘いが鬱陶しかったが面白かった。もう少し平均的な身体能力だったらなと少し思うものだ。そんな私と違って葉子は平均より遥かに下の記録保持者で、残念ながら私と遊んだら30分もたない。

 

 自分の身体能力の高さは自負できるくらいのものだ。でも残念ながらそんな記録に見合う体は持っていなく、体は白いし、小柄だし、筋肉もまだ腕ばっかりで足には目立つ筋肉はない。陸上部と比べると遥かにこの足の筋肉は少ない。

 

 まぁ、私は吹奏楽部だ。そんな足より自分の独創性と音楽性を磨けた方が私の理想となるのだ。これからも音楽のためにこうやって毎日の日課を守っていこうと思う。

 

 日が顔を出し始めた。今は5時半だろう。あと1時間ほどだ。しっかり走って体を鍛えよう!

 

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 急に体に何かがのしかかる感覚を覚えた。最近は感じなかったから気にしていなかったが、急にくるとやっぱり重いと感じるものだ。

 

 こうやって他人の上に乗りかかってくるようなことができるのは、いつもなら隣で寝てる長髪の無防備な顔を浮かべてるやつなのだが、朝自分が先に起きると決まって上にのってくる。

 

「お~き~ろ~朝だぞぉ~」

 

 まぁこんな感じに決まり文句を言ってくる。私は眠たいからそんなもの無視して、眠り続けるのだが、その発声主は許してくれないらしい。布団の上から強めにつつき始めた。

 

 布団の上から突かれるのに、その突きは全て的確に私のくすぐったい急所に入ってくる。脇腹やお腹、二の腕にといろんなところを突かれる。

 

「うふぇ、ははははは、やめてやめて、くすぐったい」

 

 布団を持ち上げて突きをガードする感じに、目を覚ました。マウントを取る形で私の上にいる少女は、無邪気な笑顔を作って私を見ている。怒る気も失せた。本当にその笑顔はズルいものだ。

 

「おはよう~、ほら早く着替えて学校行くぞ!」

 

 そう言いながらも、布団を片手で抑えながら、もう片方の手で私を攻撃してくる。やはり面白がってこれをしているらしい。

 

「わかったわかった!起きるからやめて灼!」

 

 灼は「わかったぁー」と言って私の上から降りてくれた。朝からいきなりこれはちょっと疲れる。

 

 とりあえずベッドから降り、クローゼットを開けた。ボタンの多いカッターシャツを取り出し、譜面模様のあしらわれたパジャマを脱いで着替えた。もちろん赤いリボンもしっかり結ぶ。学校の丈夫なスカートをはいて、ブレザーを着ればもうどこにでもいる女子中学生だ。

 

 ちなみに灼は私を起こす時点で、もう着替え終わっている。休日は私よりものんびりしてるくせに平日はこんなに早いのだ。

 

「今日の予定は~っと、お、今日は本入部とパート決定日だね!誰がホルンパートになってくれるかなぁ~」

 

 灼はひらひらと一ヶ月分の予定を写した紙をつまんで言う。今日の予定に楽しさを感じているらしい。とっても笑顔だ。

 

「さぁね。まぁ、誰が来ても私はホルンを吹くだけだけどね」

 

「いやいや、パートに入部してくれる男子とは仲良くなりたいでしょ?葉子は彼氏ができるかもだからしっかり仲良くなっても損しないような、男子が来てくれることを楽しみに思わないと、でしょ?あ、もしかして年上好き?ごっめ~ん、葉子ちゃん意外と早めに見つけてたの?言ってくれないとかひどぉ~い」

 

 全て冗談めかして言っているんだろうが、これがもし普通の同級生だったら鬱陶しくて仕方がないだろう。そんな灼の性格も家族だからこそ嫌いではなく好きだ。

 

「冗談言わないの。私だって好きな人くらいちゃんと考えて作るよ。だけど部活動内で作るとなんか音楽にしっかり集中できなさそうだから考えたくないの」

 

 まぁこれが理由ならちゃんと私の意見だって通るはずだ。

 

「ま、そうだね」

 

 そう言うと灼はカバンとホルンを持って先に降りようとする。私も着替え終わったから灼について、一緒に下に降りたのだった。

 

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 いつも通りのバスを待っていると、いつもの二人が来た。

 

 片方は肩にかかる程度の茶色っぽい黒髪の子で、その子よりも誤差程度に小さい身長の黒い髪が膝まである子だ。二人は家族らしい。でも、顔の形も髪の毛の色にも似通った部分が一つもないから、双子ってわけではないだろう。

 

 そんな二人は葉子と灼という。いつも仲が良く、知り合ってまだ二週間程度だが、二人で一人みたいな状態をもう何回も見た。よっぽど親密な関係らしい。

 

「あ、おはよう!水菜!」「おはようございます水菜さん」

 

 呼び捨てな灼さんとは違い葉子さんは丁寧に言ってくる。ここが二人の主な違い点だろう。もう少しわかりやすくいうと性格?というか気質が真逆なのだ。

 

「おはようございます。葉子さんと灼さん」

 

 言い終わった瞬間とんでもない間違いをおかした気がした。灼さんの顔は一瞬のうちに意地悪な顔になって言ってきた。

 

「さん付けしちゃったね」

 

 しまった・・・この間のお出かけの時にさん付けは禁止されていたんだった。反射的に口に両手を当てて塞いでしまった。

 

「一回目だけは許してあげよう。次からはジュース1本ね。その次は例のアレだよ」

 

 とりあえず許してもらえた。良かった。安心だ。

 

「水菜ちゃん久しぶりだねー元気だった?」

 

 葉子さんは横から笑顔で聞いてくる。そんな葉子さんには「はい」とだけ返しておいた。

 

「さぁ、今日は本入部だが、水菜ちゃんは楽器を決めたかい?」

 

 そうだ。今日は本入部だ。しかもその時に楽器も決める。最終的に自分の候補に行くとは限らないが、候補を出して希望を出すことはできる。ほぼ二週間近く体験入部があって、色々と楽器を試したが私が最終的に選んだ楽器はトランペットだ。

 

 とっても明るい音色と音が目立つポピュラーな楽器で、その音色は吹奏楽の花と言われるほどだ。裏方で支える葉子さん達にはちょっとアレだけど、私だって思いっきり人前で目立つ音を出してみたい。だからトランペットを選ぶことにした。

 

「トランペットを候補にすることにしました」

 

「おぉー!トランペットか!とってもカッコイイじゃん。水菜が吹いてるところ一回くらい見てみたいね。とっても目立つからミスがあんまり許されないけど、水菜のやる気と意思ならきっと上手になれるはずだ。難しいこともあるだろうけど、ちゃんと相談してね。しっかりサポートしてあげるから」

 

 葉子さんは「おぉー!」と感嘆な声を上げている横で、灼はそんなことを一息に言ってくる。やっぱり楽しい二人だ。

 

「ありがとうございます」

 

 そんな感謝の言葉を述べると、私達のやり取りに終止符を打つためか、いい感じのタイミングでバスが来た。さぁ、今日の学校生活もここから始まる。音楽もアレだが、しっかり教育を受けて、いい成績を残さなくてはならない。しっかり頑張ろう!



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4月20日その2 授業と運動と心配

 お昼頃の授業はお腹が空いて、集中力が欠けてくるものだ。お腹が小さく「グゥー」と鳴るのが、聞こえた。周りには聞こえてないのを横目で確認し、また空腹に意識を戻した。

 

 そんなことをもう2回も繰り返している。おそらく後ろにいる葉子にはすでにバレてるかもしれない。どちらにしろこの数学の授業が終われば、お昼の時間だ。今日はじい様が作ってくれたサンドイッチがお昼なのだ。とても楽しみで仕方がない。

 

 正面に意識を戻せば、先生は熱心に+と-の積の関係を説いていた。私にとってはすでに頭に入っているから、次の話をしてほしいと思うものだ。

 

 周りの生徒は皆熱心に勉強している子ばっかりだ。まぁそれもそのはず、この学校で成績の悪い人ほど目立つ人はいないからだ。さすが、巨大校舎の進学校なだけある。この学校ほど大きな予算が割り振られた公立校はないだろう。

 

 そんな退屈な考えをしているうちに、チャイムの音が鳴ってしまった。「キーンコーンカーンコーン」という誰でも想像つく伝統的な音。鐘の音に混じって、太い弦の音、コントラバスっぽいのが聞こえるやつだ。

 

「Oh、鳴ってしまったか。じゃあ今日の授業はこのへんで終わりだ。起立!」

 

 先生の合図で全員立ち上がり、「礼!」の合図で頭を下げた。このあとの挨拶はない。顔を上げたら先生は立ち去ってしまうというもの。

 

 まぁそんなことはどうでもいい。待ちに待ったお昼がついに来たのだ。さっそく席にい座りなおすなり、たくさんの具材の入ったサンドイッチケースを取り出す。夕凪カフェのマークが入ったケースは特製品で、サンドイッチ20個は入る代物だ。

 

 ちなみに、保管がめんどくさいということで、私と葉子のサンドイッチは同じところに入っているのだ。まぁさすがに運動質な私と言えども、一人で20個はきついが。

 

「灼?今日はサンドイッチなんだ。自分で作ったの?」

 

 前にいる水菜が椅子を後ろに回転させて、そう聞いてきた。基本は水菜と葉子で一つの席を囲って食べるから、必然的に真ん中に座ってる私は同じ状態になる。葉子は私から見て左側にやってくるのだ。これはもう皆定位置となってしまっている。

 

「違うよー。じい様が作ってくれたの。とっても美味しいんだよ?食べてみてー」

 

 そう陽気に言って、水菜に卵とハムのサンドイッチを渡してやった。そんな水菜のお弁当はきっちりしたもので、バランス的には5:5といったところの良いものだった。

 

 水菜はさっそくとばかりに、一口パクッと食べると、「ホントだ・・・」と目を見開いてサンドイッチに見入ってしまった。初めて来たお客さんも同じ顔をして、数分後にじい様に感謝の言葉をこぼして帰るくらいだから、相当なものなのだろう。

 

 夕凪カフェのサンドイッチはわざとほんの少し焼いてあるのだ。薄く切ったパンを焦げ目が若干見えるくらいに焼き、トーストのようなサクサク感をほんの少しだけいれる状態にしている。あとは具の方なのだが、これといって変わったことはしていない。だから私が作った時に同じ反応をされなかったから、きっとじい様の技術的な問題なのだと思う。

 

 そんな中、葉子は横から手を伸ばして、サンドイッチを一個持って行った。水菜に「でしょ?」と声をかけながら。

 

 そんな和やかな雰囲気の中、右の方から声が聞こえた。

 

「楽しそうだね。三人方」

 

 灼が右に目を向けると、いつからそこにいたんだと思わせるように、頬杖をついて丸い目が特徴のショートカットの女の子と髪が完全な茶色の身長の小さい子だった。ちなみに手前の頬杖の子は見た目的には身長は私より高いと見て取れる。

 

 その二人には見覚えがしっかりとある。吹奏楽部の体験入部で一度だけ喋った子達だ。頬杖の子の名前は、鮒夏希(ふな なつき)と言い、高めのテンションを維持出来る子で、話が尽きなかったりと面白い子だ。もう片方の茶色の子は、広有 雪奈(ひろあり ゆきな)と言って、彼女の性格は基本は静かで、ふざけたりすることはないが、非常に友達思いな子だ。

 

「あら?なつきん、どうかしたの?」

 

 わざと変な言葉を使って夏希に聞く。

 

「いやぁー。ちょっと前に灼と話した時から、面白いなーっと思って探してたんだよ。短い休み時間を全部削って隅々まで探して、ようやくこの教室だって見つけたから、今日は遊びにきたのさ」

 

 夏希は照れるように声を出して笑いながら、小さな弁当箱を机の上に置いた。気づけば、椅子に座っているようだった。後ろにある二つの席から椅子だけなくなっている。

 

「あ、思い出した。コントラバスの子とパーカッションの子だ」

 

 葉子がハッとした顔でそう言った。水菜もつられる感じで思い出したようだ。ふたり揃って同じ反応をするとは、なかなか面白いところを見れた気がする。

 

 夏希もそんなふたりの顔を見て、「やっと気づいた。葉子ちゃんに水菜ちゃん」もちろん二人にはちゃんとちゃん付けだ。まぁ私が強制したからそうなんだけど。

 

 夏希はそう言いながら、弁当の蓋をとると、おもむろにこんなことを聞いてきた。

 

「ねぇ灼、これからも私達ここに来ていい?いつも雪奈と囲んでたら、だんだん寂しくなっちゃってさ。周り大勢のグループばかりで、負けそうなんだよ。それに世間話はよくわからないから、一番話できるのここかなって思ってね。ダメかな?」

 

 別にそんな理由がなくても、彼女達を避けたりはしない。もちろん賛成だ。

 

「いいよ。二人ともいいよね?」

 

 一応聞いておくのも忘れない。まぁ答えは分かってるが。

 

 二人共「うん」と頷き笑顔を見せてくれている。OKのサインだ。まぁどちらにしろ、必然的に彼女達とは関わることになるだろう。仲良くしてて問題はないはずだ。

 

「やたー、じゃあ今日からよろしくね。葉子ちゃん、水菜ちゃん、それと灼。あ、雪奈もよろしくしてね」

 

 その呼びかけに雪奈は軽くぺこりと目をつむって、頭を下げた。初めて夏希と喋ったときも雪奈は隣で問いかけに対して、一言二言しか言わない無口な子らしい。

 

 雪奈が顔をあげたとき、軽く微笑んでいるのが分かった。無口なわりに可愛い顔ができるなと内心思ったのは私だけではないはずだ。

 

 横を見れば、物言いたげな葉子の目線とぶつかった。やっぱり同じことを思っているらしい。二人で頷いてその確認だけしておいた。

 

 新しいメンバーが二人増えた。これからも長く付き合っていくだろう。

 

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「はーい、1組から4組はこっちねー」

 

 保健体育の先生が呼びかけ、160名程の人数がそわそわと動く。この中学校の体育は4クラス同時の授業で、それぞれのクラスの人数に選択科目が割り当てられる。男子はサッカー、バスケ、野球、バレー、卓球、マット運動、ダンス、剣道、柔道、数は豊富だ。一方女子も負けずに、サッカー、バスケ、バレー、卓球、マット運動、新体操、ダンス、柔道がある。

 

 一人3科目も選択できるのは嬉しい。まだ未体験な科目もしっかり体験できるから、今のうちに体験しとこうという気持ちが湧くものだ。そういう私はすでに選択は決めた。バスケとダンスと柔道だ。バスケはかっこいいと思ったのと、ダンスは音楽を聞いていると自然とやってみたくなったからだ。柔道はただたんに怪我の予防にでもなればいいかと考えているが、日本の伝統ある武道の一つなら、体験してみて嫌になることはないはずだ。とは言いつつ、私は養子にもらわれてすぐに弓道の経験がある。たった1年だったけど、集中力と礼儀はたくさん習得できた気がするのだ。

 

「灼、もう科目決めた?」

 

 後ろから葉子がそう声をかけてきた。すっかり自分の世界に入ってしまっていたが、葉子の希望にそって科目選択するのも悪くないかもしれない。だから、今は嘘をつくことにした。

 

「まだだよ。葉子は決めたの?」

 

 葉子を振り向けば、若干困った顔をしていた。元々運動の苦手な葉子にとっては、どの科目も苦手分野に入るのかもしれない。

 

「どうしたらいいかわからなくてさ。灼の選ぶ競技ならいいかなって思ってね」

 

 葉子は目線をそらしながら、そんなことを言った。私の選択に合わせて、葉子が付いてこれなくなるのはいやだが、私がサポートできるならそれのほうがいいかもしれない。

 

「決めた。バスケとダンスと柔道だよ」

 

「わかった。じゃあ私もそれにする」

 

 即決らしい。葉子らしいと言えばそうだが、もう少し自分でしっかり情報収集し、自分のレベルに合わせていかなければならないとも思う。

 

 葉子と相談をしていると、前の子、水菜から小さい紙が回ってきた。女子用の科目選択用紙だ。葉子に紙を回し、すぐに記入した。

 

「灼ー、鉛筆貸してー」

 

 葉子はまたしても筆記用具を忘れたようだ。どことなく抜けているのは昔からだ。もう少ししっかりしてほしいものだが、おそらく私がいることに安心しきっているのかもしれない。自信過剰かもしれないけど、葉子の助けになれればそれで良い。

 

「はい」

 

 後ろ手に葉子に鉛筆を渡し、用紙回収を待った。

 

 用紙が回収されたあとは、自由選択で科目に別れる。ちなみに今回はマット運動へ行くつもりだ。簡単な柔軟とマット上での技の練習をするのだ。大体の技は、前転、後転、開脚前転、開脚後転、伸しつ前転、伸しつ後転、後転倒立、逆立ち、側転、最後にマット一枚逆立ち歩きだ。バランスには自信があるが、さて、うまくいくか。

 

 さっそく体育館に向かった。男子と女子は共同でやるのだが、さすがにペアまではありえない。先生は3人だ。大きめの体育館にはマットが20枚くらい並んで置いてある。今回のマット運動参加人数は35人だ。そんなに多くもないので、マットを13枚片付けた。

 

 今日の体育は水菜と葉子、私の三人一緒に参加しようってことで、三人揃ってマットだ。参加者の割合は男子が14名、女子が21名だ。マット1枚にそれぞれ5名ずつで、女子が一人、男子のほうにいく形だ。

 

 誰が行くのかと思っていると、先生と目があった。熱烈に運動系部活動に勧誘してきた先生だ。その先生は私と目があった瞬間、他の先生に耳打ちしはじめた。

 

「佐々木 灼さん、行ってくれますか?」

 

 予想はついていたが、葉子の隣にいれないのは残念だ。さっさと終わらせて、待ってる間に葉子の補助に回ろうか。

 

 先生がそう言った瞬間、男子の方でざわざわと言った感じの音が聞こえて来た。まぁそんなことはどうだっていい、早く授業に入りたいのだ。

 

「はーい」

 

 軽く返事をし、4人グループの男子の最後尾にトテトテと歩いて、座った。前の子には「よろしく」と笑顔で言っておいた。小声でうまく聞こえなかったけど、「うん」と聞こえた。

 

「よし、グループに分かれたところで、柔軟体操から始めましょう。灼さんは私が担当するので、それぞれ2名のペアに別れて、指示通りに行いなさい」

 

 先生は私のもとまで来ると、「まずは、片方が足を投げ出して座り、左足のほうに体を倒しなさい。

 

 私は体をストンと腰おろし、足を開いて、先生が後ろに立つのを待った。長い髪を左側にまとまるように結び直し、某紅茶館の某吸血鬼の妹の髪型っぽくした。これなら逆立ち中でも手で髪を巻き込むことはなくなるだろう。髪の一番先っちょに球を作って、広がらないようにした。一見見ると、毛糸の途中で球が出来てしまってる状態に見えなくもない。

 

 そんな準備を一瞬で終わらせ、先生が押してくれるのを待つと、先生の手にはあまり力が入っておらず、自然なままでは全然柔軟にならなかった。だから自主的に体を動かすと、先生は「灼さん、すごいですね」と驚いてくれた。私の体は、普段の柔軟で元々柔らかいのだ。基本体は全倒しで、口は膝につくし、手はさきっちょを介した上で、かかとに届く。無理をして、痛みを我慢してるのか?って言われても、痛みもかゆみもない。むしろに普段座ってる時となんら変わりない感覚だ。

 

 それからは察するとおりの状態だ。先生はもはや手伝わなくてもいいと思ったらしい。まぁそうなのだが、指示と指摘だけに行ってしまった。

 

 そんなこんなあって、ようやくマット運動だ。休み時間から授業は始まっているから、まだあと40分も授業が残っている。真面目な子ばかり揃う学校がこんななのかと感じるものだ。

 

 前転は難なくクリア、後転も難なくクリア、続いても難なくクリア。終わってからは葉子の指摘に移っていた。葉子は後転があやふやで、横にこけてしまう。手の位置と首の位置がおかしいのだ。首が少し曲がっていて危ないうえに、手の位置がしっかり固定できてない。簡単に手ほどきすると、意外と対応は早く、形だけでもできるようになった。

 

 逆立ちが来た。ちょっと不安だったが、やってみると、少しフラフラはしたものの、二回目でコツを掴んだ。もう歩けそうだ。逆立ちの種目中だったことも忘れ、トテトテと歩いていくと、先生が「灼さん、早いですね。あなたのような生徒は珍しいですよ」と言われた。確かにそうかもしれない。そんな先生の言葉にちょっとだけお遊び心がついた。片手でやってみよう。

 

 三回目の番の時、逆立ち中にわざとフラつく振りをし、右手だけに重心を預けた。フラフラはしたが、なんとか持ちこたえた。右手への重心をどうにか保つと、自然と集中力がそこに行った。顔が次第に熱くなるのがわかる。きっと今日一番集中してるのだろう。10秒程度で体感したところで、そのまま片手の側転に移り、周りを見ると、先生の目が点になっていた。みんなもなぜかこっちを見ている。葉子に至っては「またか」と言った顔つきだ。水菜が小さく手をたたいている。拍手らしい。

 

 そんな皆の反応を無視して、何食わぬ顔で列に戻った。また時間はゆっくりとだが動き出した。みんなの変な顔を見れたのは「ごちそうさま」というべきだったか、集中していてそんなこと考えていなかった。

 

 マット運動成果報告カードを、そんなことを考えながら書いていると、ドン!と誰かが倒れた音が聞こえた。目をやると、葉子がマットから外れて、床に倒れていた。水菜が近くにいるが、葉子はうずくまっている。その光景にいてもたってもいられず、用紙を投げ出して向かった。

 

「葉子!」

 

 無意識に発した言葉の確認もしないままに、水菜を軽くどけて葉子の肩を抱いて起こした。倒れ方を見るに、どうやら逆立ちの途中で横にこけたのだろう。左手で右の肩をギュッと抑えていて、私が触れた一瞬だけ「ッ・・・」と小さく洩らした。こけたときに強打したのだろう。

 

 葉子が何も言えずにギュッと目を閉じているのに気づいた途端、先生の指示なんか待つべきじゃないと本能で考え、葉子の右手があまり動かないように、右手で軽く支えながら、背中に右手を回し、左手を足の下にまわした。葉子の体重は私とあまり変わらないが、私にとって葉子の重さは楽器に等しいくらいだ。逆立ちをしていたせいで、力がうまくはいらなかったが、無理やり力をいれて、葉子を抱え上げると、無我夢中で保健室のあるほうに走ったのだった。体育館シューズを履いていることも忘れて。

 

 気づけば体操服のままで葉子が横になる長いソファの横に丸椅子を置いて座っていた。体育館シューズを脱ぎ、靴下だけの状態だが、そんなのどうでもいいことだ。葉子は肩を強く打っただけで、体への影響はないから、湿布とか貼っとけば治るらしい。大事に至らずに良かった。

 

 先ほど体育の先生が来た。勝手な行動はしないようにと注意されたが、その行動力は大事にしろと褒められた。

 

「ぅ・・・やく・・・?」

 

 葉子の弱々しい細い声が聞こえた。どうやら大丈夫なようだ。

 

「葉子・・・良かった無事で」

 

 葉子は薄めを開けて、私のことを見ている。今にも泣きそうな表情だが、そんな表情される筋合いはない。

 

「灼・・・ごめんね。心配ばかりかけて、私いつも灼に迷惑ばかりかけて困らせてるよね?」

 

 正直葉子のこうやって自虐的な性格に迷惑しているのが正解なのだ。だからもう一度しっかり言ってやろうと思った。

 

「葉子」

 

 葉子は急に名前を呼ばれたことにか、いつもなら優しく慰めてくれるはずの声じゃなかったことにか、とても驚いた顔をした。それもそうだ。いつもなら自虐すればそうじゃないと否定してくれる存在がいたのだから。

 

「私が迷惑だと思っているなら、こんなことまでして自分の時間を削ったりしないし、私はここにはいないと思う。もう、自虐的になるのはやめて、次そんなこと言ったら本当にそうなるように捨てるからね」

 

 そう言うと、葉子は目に涙ためて私を見つめていた。その葉子の目を本気だぞって真剣な目で睨み返した。

 

 葉子は私の目から逃れるように、目をそらすし、「ごめん・・・」と言った。

 

 体を起こした葉子の右側に座り直し、ポケットからハンカチを取り出し、涙を拭いてあげた。そうして拭ってあげたあと、左手で葉子の首元に手を回し、逃げられないようにすると、そのままほっぺたにチューしてあげた。

 

 葉子は目を丸くして今起こったことを理解できずにいた。何をしたのか疑問そうに訴える目に返事をしてあげた。

 

「家族だもん。チューくらい変じゃないでしょ?」

 

 そう笑顔で言うと、葉子は一瞬ためらったが「うん」と言った。だけどいきなりのことにビックリしたのか恥ずかしくしていた。保健室の先生は私の後ろにいるから、一部始終を他人に見られたことが恥ずかしかったのかもしれない。

 

「葉子、立てる?次の授業は国語だよ。肩痛めてるから無理しないでね」

 

 葉子に手を貸して、立つのをサポートしてあげ、保健室の先生に事情を説明して、更衣室へと向かったのだった。

 

 



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