すずかお嬢様の下半身事情 (酒呑)
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すずかお嬢様の下半身事情
梅雨も半ばに差し掛かった六月の中旬。しとしとと雨の降る中、私は放課後の余暇を楽しむ為に傘を差しながら学校から海鳴市の商店街へと歩いていた。学生鞄(主にその中に入れてあるレンタル図書)と足元を雨に濡らさない様に気を付けながら、さりとて取り立てて急ぐことも無く傘から手に伝わる衝撃や雨音等を楽しみながらゆるりと足を進める。
そのまましばらく歩いて目的の場所へと辿り着くと、入口の前で傘を閉じて水滴を落とす。ある程度傘の水分を払えた所で、傘を留めながら目的地……喫茶店の入口を開けると、聞き慣れた呼鈴の音がちりんちりんと鳴った。その音を聞いた男性の店員さんが私の近くまでやって来たので、一人である事とカウンター席で良い旨を伝えるとお冷を取りにバックヤードへと戻って行った。見知った店員さんの後姿を少しだけ見送って、私はいつものカウンター席へと向かう。
――いつものカウンター席。
小さい頃から通い慣れた、私の親友の家族が経営する喫茶店。その喫茶店のカウンター席の、入り口側から見て一番奥のカウンター席の、一つ手前の席。
元々私の中で特別な意味など無い席だったし、今も絶対に此処じゃないと嫌だと言う様な強い気持ちも、これと言った大きな拘りも無い席なのだけれど。
「ふふっ」
店内を歩きながらカウンター席の方を見て、思わず微笑が漏れてしまった。
一番奥のカウンター席に見慣れた姿が見えたから。
自分の気分が高揚している事に気が付いた。
『彼』の横顔が見えたから。
今日は難しそうな顔で、この喫茶店の特製ブレンド珈琲と軽食を傍らに置きながら参考書を眺めつつシャープペンシルを動かしている『彼』。その横顔が、格好良かった。
胸の鼓動が少しだけ、ほんの少しだけ、どきどきと普段よりも早くなった。
――彼の隣に座れるのだから、やっぱりこの席に座るのも悪くは無いかなぁ。
そんなことを考えながら、自分の顔に進行形で浮かんでいるであろう微笑を隠す気にもならなかった私はそのまま彼の隣のカウンター席に座り、彼に何を言うでもなく学校の図書室から借りてきた小説を取り出す。
栞を挟んだページを開き、さて続きを読もうと栞を抜いた所で店員さんがお冷を運んできてくれたので、紅茶と本日のデザートを注文してからやっと本に目を落とす。そこで隣の彼も私に気が付いたのか、少しだけ私の方を見る視線を感じたけれど彼の方も特に何かを言う事は無いまま視線が外れる。視線を感じなくなったのでちらりと目を見やると、先程まで難しそうな顔をしていた彼の雰囲気が若干だけれど、軟化している様に見えた。それが少し嬉しい。
お互いに殆ど声はかけない。ただ何も言わずに喫茶店で隣に座るだけ。私も彼も好きに勉強をしたり本を読んだりする、ただそれだけの関係。
だが、そんな彼との関係が――
――私は、月村すずかは、嫌いではない。
……『彼』の方がどう思っているかは、分からないけれど。
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すずかお嬢様の下半身事情
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見上げていると心地良さすらも感じる程にからりと晴れた快晴の下、私立聖祥大付属女子中学校棟の屋上で私の親友たち(アリサちゃん、なのはちゃん、フェイトちゃん、はやてちゃんと私の五人)とお昼ご飯を食べていた時の出来事である。
「そういやすずか、あんた
「ゲヴァフッ」
「おぎゃぁぁぁぁぁ! いちごミルクが目にぃぃ!」
親友からもたらされたその衝撃的且つ唐突な質問を受け、そのせいで飲んでいたいちごミルクが気管支に入り鼻と口から噴き出してしまった。はやてちゃんごめん。
――それはまさに青天の霹靂であった。
あまりにも唐突なその質問は、幼馴染兼親友が魔砲少女だったり(誤字に非ず)、六年来の親友がガチレズだったり(マジモンだった)、同じく六年来の親友が実は私オジコンやねんと言ったり(これはそうでもないかも)した時と同じレベルの衝撃だった。
「オオアッ、ガフッガフッア゛ア゛ア゛ッ」
「あんたそれ大概乙女が口から出して良い音じゃないからね。男には絶対に見せない様にしなさいよ」
今日は乙女としての月村すずかでは無く皆の幼馴染としての月村すずかだからいいのだ。良いと言う事にする。良いと言ったらいいのだ。だから大丈夫、とても殿方に見せられない醜態であったとしてもこの面子ならば今更だ。なに、気にすることは無い。
ごっふごっふと咳き込みながらウェットティッシュで口元と鼻の周りを拭く。今の惨状を引き起こし、私にそんな音を口から出させている元凶が何を言うか、と思いながら涙が浮かびつつあるジト目でアリサちゃんを見た。
アリサちゃん当人は飄々としながら此方を眺めていた。その横ではいちごミルクがかかったはやてちゃんが顔に手を当てながらごろんごろんとのた打ち回り、更にその横ではガチレズが魔砲少女かっこ笑いかっこ閉じるに腕を絡ませて猛烈にセックスアピールをしている。そんななのはちゃんはドン引きでは無い物の割と本気でフェイトちゃんの顔面を掴んで体から引き離そうと努力しながらこちらを眺めていた。フェイトちゃんもそんななのはちゃんのおっぱいに手を伸ばしつつ(全て魔法と思われる桃色の球体に弾かれているが)此方を眺めていた。
うん、実にいつも通りだった。誰かはやてちゃんの心配してあげなよ。
「……ふぅ。アリサちゃんいきなりどうしたの?」
「いや、だからあんたがヴァージンもう捨てたのかなって気になっただけよ。彼氏いるし」
「えっ?」
「えっ?」
アリサちゃんの発言を聞いて私は首を傾げた。彼氏なんていない筈なのだが、私の知らない間に私の彼氏が出来ていたのだろうか。謎である。
アリサちゃんもアリサちゃんで愕然とした表情でこちらを見ている。なのはちゃんとフェイトちゃんも私に彼氏がいる発言に対し驚いた顔で私の事を見ていた。はやてちゃんはまだごろごろしていた。
「アリサちゃん、私、彼氏いないよ?」
小首をかしげ、胸の前で両手の指先を合わせながらそう言う。我ながらあざといなと思うがそれはまぁ良いだろう。アリサちゃんの目にもコイツまたあざといわねって書いてある気がするが気のせいだ。きっと。私の幼馴染がこんなに優しくない筈がない。
「じゃあいっつも翠屋であんたとラブラブ時空生み出してるあの人は何なのよ。学年中で噂になってるわよ?」
「あ、わたしも見た事あるよ。何時もうちの一番奥のカウンター席にいる男の子だよね?」
「すずか、男の人より女の子の方が良いと思う。やわらかいし、かわいいし、いい匂いするし……」
「ホォォォォォォォ!」
「うん、ちょっとフェイトちゃんとはやてちゃんは黙ってよっか」
「まってなのは砲撃はちょっとヤバ――」
あぁ、座っていた筈の二人と転がっている一人が目の前からいなくなった。魔法の事は良く分からないけれど、昔私達が巻き込まれた時の様な結界とやらを張って、今頃その内部でなのはちゃんが活き活きとした笑顔を浮かべながらはやてちゃんとフェイトちゃんにあの極太ピンクビームを撃っているのだろう。あ、心なしかつやつやした笑顔のなのはちゃんと黒こげになって伸びているフェイトちゃんとはやてちゃんが帰って来た。両方とも意識が無いのか横になったまま起き上がらない。はやてちゃんがとばっちり過ぎて不憫である。だがまぁそんな事はどうでもいい。
カウンターの一番奥の彼。定位置の男の人。私の隣に座る男の子。
彼との付き合い(付き合いと言っても良いのか不安になるが)は、今思えば今年でもう六年と少しになるのか。遊んだことはないが、話した事はある。近くも無く遠くも無い関係。お姉ちゃんの恋人である恭也さんを除いたら、恐らく一番仲がいいと思う。
そういえば、少しとは言え話をした事はあるのにお互いにまだ自己紹介すらした事無いし、名前すら知らないんだなぁ。
そう考えると、少し面白くて、思わず微笑してしまった。
「そーやって意味深に笑ったりするから気になるんじゃないの……。おらー! 最初から最後まで徹底的に吐きなさい!」
「あ、ちょっとアリサちゃんやめて! いちごミルクまだ残ってるから! きゃっ!?」
そんな私の態度に焦れたのか、据わった目付きに変わったアリサちゃんに両肩を掴まれて前後に揺すられる。近くに置いておいたいちごミルクが倒れ、再びはやてちゃんの頭にかかった。いちごミルクが顔面に吹きかけられたり黒こげになったりいちごミルクが頭にかかったりと踏んだり蹴ったりである。あるいは、泣きっ面に蜂か。南無三。
前後に頭をかこんかこんと揺られ続け、若干気持ち悪くなりつつも思考を巡らせる。別に隠す事でもないけど話して面白い内容でもないんだよなぁ、なんて考えつつ、まぁアリサちゃんとなのはちゃんが聞かせろって言うならいいかとも思ったし、少し彼との出来事を振り返って、話そうと思う。
――でも、その前に。
両肩を掴んでるアリサちゃんの腕を私もがっちりとホールドし、やるべき事をやろうと思う。
「今日はテスト明けで午後から授業ないし、翠屋に場所を変えよっか。あとアリサちゃんごめんお昼ご飯食べたばっかりなのに揺られ過ぎて気持ち悪くてゲロがこんにちはしちゃいそう。あ、出る出る。来ちゃう来ちゃう」
「きゃー!? 馬鹿ちん! やめなさい! 我慢しなさい! 乙女でしょ! あと揺すって悪かったから手を放して! ホント! お願い!」
「ウフフ」
「なのは助けて!」
「わたしはほら、はやてちゃんとフェイトちゃんを運ばないといけないから……」
「アリサちゃん、乙女として死ぬ時も一緒だよ?」
「ギャーーーーーーーー!?」
そして、私の口からはテレビだったらきらきらと光るシャワーが流れだした。期せずしてアリサちゃんのシャワーシーンである。何と言うサービスカットだろう。これで読者も喜んでくれる事間違いなしである。ほら、喜べよ。ところで、読者って一体なんだろう。
余談ではあるけれど、涙目になったアリサちゃんが呼び出した鮫島さんの圧倒的な執事パワーのお蔭で私とアリサちゃんの制服はその場で新品になり、屋上も綺麗に掃除され、アルコールによる消毒と消臭まで行われた。私のメイドであるファリンにも鮫島さんレベルの使用人スキルを身に着けてもらいたいと強く思ったのであった。
□ □ □ □
さて、アリサちゃんの貴重なシャワーシーンを終えて、場所は聖祥大付属女子中学校棟の屋上からなのはちゃんのご両親が経営している喫茶店「翠屋」へ。私とアリサちゃんとなのはちゃんをリムジンのシートに案内してくれた後、黒こげになって伸びているフェイトちゃんとはやてちゃんをさらりとトランクに詰め込んで何事も無かったかの様に発進・運転する鮫島さんのこの後姿を私はきっと忘れないと思う。
車内ではアリサちゃんが靴を脱いでシートの上でどんよりとした空気を醸し出しながら体育座りしていた。先程から小声で「私は親友のゲロを浴びたゲロインとして今後も生きていくんだわ……」とかそういった旨の発言を繰り返している。なのはちゃんは最初こそ何とか励まそうとしていたけれど、ある程度の所で切り上げて今は愛機であるレイジングハートさんと会話をしている様である。友情とは一体。
まぁなのはちゃんの我が道を往く魔王化が進んできている事はその辺に投げ捨てておくとして。
実際の所、ゲロを吐いた私の方が(いや、確かにゲロを浴びたのも相当アレだけれども)多分に乙女パワーを消失してるし泣いていいと思う。別に気にしてないけど。と言うか、そもそもの原因はお昼ご飯を食べた直後に相当な速さでシェイクして来たアリサちゃんが悪い。私は悪くない。
なんて考え事をしながら本を読みつつ車に揺られる事少々。信号にも特に引っ掛からずスムーズに翠屋へと着いた。平日の昼と言う事もあってか、お客さんは少ない様に見える。それでも店内の七割程が埋まっている事を考えると翠屋がどれだけ人気なのかが窺えると言うものだ。
リムジンを路肩に寄せ、鮫島さんが恭しい動きでドアを開けてエスコートしてくれた。その僅かな所作にも洗練された物を感じる辺り、本当にこの人は有能だと思う。体育座りしてどんよりしている雇い主のお嬢様を荷物の様に小脇に抱えてなければもっと尊敬していたと思うけれど。
鮫島さんの手を取りながら何時もありがとうございます、と微笑みながら伝えると鮫島さんも微笑みながらどういたしまして、と返してくれた。やだこの執事さん私の家にも欲しい。
ちなみになのはちゃんは今までにも何回もエスコートしてもらっているはずなのにまだ慣れていないのか、にゃははと照れ笑いしながらエスコートしてもらっていた。魔法さえなければこんなにもかわいいんだけどなぁ。
□ □ □ □
「此処に来る度に思うんだけど、士郎さんのブレンドはやっぱり美味しいわね。うちで雇いたいくらいだわ」
シャワーシーン後のテンション駄々下がり状態からなんとか復帰したアリサちゃんが顔の前でマグカップを揺らしながら珈琲の香りを楽しみつつそう言った。私は珈琲に関してはそこまで深い知識は無いけれど、アリサちゃんのその所作は非常に様になっており、やはりあの執事にしてこの主ありと言った所か、と私は一人で納得しながら注文したケニアのストレートティーが入ったティーカップを口元へ運んだ。
桃子さんか士郎さんかは分からないけれども、優れた職人さんの手によって抽出された液体は澄みながらも鮮やかで濃い紅色に染まり、ふわりと優しい、けれども新鮮な甘い香りを放っている。
ティーカップを口元へ運ぶと、紅茶を口に含むよりも早くその香りを鼻で感じる。実に良い香りだった。しかしあまり長く香りを楽しんだせいで美味しさを損ねてしまうのも淹れてくれた人に申し訳がないので、香りを楽しむのもそこそこにして私は紅茶を口に含んだ。……うん、とても美味しい。こんなに美味しい紅茶や珈琲(に加えてデザートも)を自宅で楽しめるなのはちゃんは幸せだと思う。
「ふわぁ……すずかちゃんもアリサちゃんもすっごく似合ってて凄いなぁ」
そんな事を考えながら飲み物を楽しんでいると、なのはちゃんがそう言った。
なのはちゃんも桃子さんの特製キャラメルミルクの入ったマグカップ(熊さんのプリントがワンポイントだ)を両手で持ち、ふーふーと息を吹きかけて冷ましながら飲んでいるその姿はリスやハムスターなどの小動物を思い起こさせ、非常にかわいらしくて凄いと思うんだけどなぁ。中身は魔王って最近管理局の皆さんに言われてるみたいだけど。
「そーお? そこで紅茶片手に相変わらず意味深な微笑みを浮かべてるすずかはともかく、あたしは普通に飲んでるだけよ?」
意味深とは失礼な。今私の口角が上がってるのは紅茶が美味しいからなのに。
「うん、そうだよ。アリサちゃんはかっこいいし、すずかちゃんは何かお姫様っぽいっていうか……」
「なによ、あたしにはお姫様っぽさは無いって言うの?」
「そういうことじゃないけど、アリサちゃんはかっこいいの方が先に来ちゃうかなぁ」
「いやー私はさっきまで寝とって全然覚えてへんけど、そもそもさっきゲロかかってた言うしなー。ゲロ浴びる様なお姫様はそうはおらへんやろ。あっはははは」
「アンタまたいちごミルク顔面にぶっかけるわよ」
「ええでええで。ゲロよりなんぼかマシやもーん」
内心でツッコミを入れつつも紅茶を味わいながらのんびりと皆の会話を聞いて楽しむ。未だに顔や制服のあちこちが煤で黒くなっているはやてちゃんがやーいやーいアリサちゃんゲロイン、とアリサちゃんの事を煽っているがそのゲロを吐いた私が此処にいる事を忘れないで欲しい。やめてくれはやてちゃん、その煽りは私にも効く。やめてくれ。
あ、アリサちゃんが呆れた顔で熱々のマグカップをはやてちゃんのほっぺたに押し付けた。あっづぁ! という短い悲鳴の後にまたはやてちゃんのホォォォォー! という叫び声が響き渡る。
どうして私の読書友達はこういう扱い(身体を張る芸人の様な)になってしまったのだろう。昔は車椅子だったり家族とお別れしたりリハビリ生活であったりと、色々あったからもっと丁重に扱われてた気がするんだけどなぁ。関西の血と魂のせいだろうか。とりあえず周囲のお客さん(華の女子高生、女子大生、妙齢のおば様達)に迷惑だし、親友として恥ずかしいからやめて欲しい。
「なのは、なのは。おっぱい揉ませて。お願いだから揉ませて。ちょっとだけだから」
「あーもう……! フェイト、アンタはもう少し隠しなさい!」
そしてこちらはこちらでまたしてもフェイトちゃんがなのはちゃんのおっぱいに手を伸ばし続けていた。案の定フェイトちゃんの手が全て桃色の球体に弾かれている光景が見えたけれど、大丈夫なんだろうか。魔法って隠さないといけないってリンディさんが昔言ってた気がするんだけどなぁ。
そしてその光景を見て頭が痛いと言わんばかりに片手でこめかみを抑えたアリサちゃんが、まだ所々が黒く煤けているフェイトちゃんの手を掴んで止めにかかったが――
――フェイトちゃんの愛機であるバルディッシュさんからの僅かな発光と、流暢な英語(正確にはミッド語と言うらしい)が響き、加速したフェイトちゃんの腕がアリサちゃんの手を華麗に躱した。
ティーカップを置いて本日のデザートを(今日はザッハトルテらしい。美味しい。しあわせ)フォークで切り分けて頬張りながらフェイトちゃんを見ると、普段のぽわぽわしつつどこか頼りない顔と比べ若干凛々しい顔である。アリサちゃんはアリサちゃんで、またこいつはアホみたいな事に魔法使ってるなぁと目に書いてあり呆れの様な表情を浮かべていた。
そのまま何度かアリサちゃんが手を伸ばすがフェイトちゃんはその全てを尋常じゃない速さの腕の動きで回避する。偶々隣のテーブルに軽食を配膳していた恭也さんが中々の速さだな、と小声で呟いたのが聞こえたけど、腕がぶれる様な速さを中々と評す辺りやはりなのはちゃんの家族なんだなと思いました。
そうこうしている内にアリサちゃんが諦めたのか、珈琲を一口飲んで溜息を吐いた。その様子を見たフェイトちゃんが若干申し訳なさそうな、それでいてやはり普段よりも凛々しい顔をしながら口を開く。
「ごめんねアリサ。私の処女はなのはにって決めてるから」
フェイトちゃんはキメ顔でそう言った。
「そ、そう……」
アリサちゃんは引きながらそう言った。
「そろそろストーカーで被害届出しても良いよね?」
なのはちゃんは満面の笑顔でレイジングハートさんと共に証拠を固めながらそう言った。
これでいいのだろうかバルディッシュさん。
……嫌な『慣れ』だなぁ。
□ □ □ □
「……まさかリンディさん達も娘がガチレズで、しかもストーカーで通報されるとは思ってなかったでしょうね……」
「せやろなぁ……。クロノ君の表情見とった? 凄い複雑そうな顔しとったでアレ」
アリサちゃんとはやてちゃんがしみじみと言葉を発した。
そう、今しがたなのはちゃんが本当に被害届を提出してしまった為に一悶着があったのだ。
「ちゃんと証拠保全しておいてくれてありがとね、レイジングハート」
「うん、そうする。ありがとね」
「色々と思う所はあるけど……ま、いいわ。よし、じゃあすずか。詳しい事を話して貰いましょうか」
翠屋に到着してからの親友達の奇行によって大いに逸れていた話題だが、先程フェイトちゃんが慙愧の涙を流しながらお仕事をするクロノ君とげんなりした表情のリンディさん、その二人について来てお仕事のお手伝いなのかと思ったら一人でデザートを購入していたエイミィさんの三名にストーカーの容疑でしょっ引かれた事によって話が途切れ、本来の話題に回帰した。
あのまま自然にお流れになってくれても良かったんだけどなぁ。
「うーん……詳しい事をって言っても、どこから話せばいいのかな?」
「そりゃーもう最初っからよ。最初っから。出会いから今日まで」
「そうそう。見た目清楚なお嬢様、その本性はビッチギャルで夜な夜な男の子を買い漁る月村すずかの爛れた関係について詳しく説明してもらうで! そのテクニックと超絶ヤリま――」
「あ、ごめんはやてちゃん顔に虫が」
「んぼぁっ!?」
公共の場での発言はきちんと考えましょう。発言を止める為についビンタが出ちゃった(ちょっと力を入れ過ぎたかも知れない)けどはやてちゃんだからきっと大丈夫。空中でクアドラプルアクセル(四回転半の実に美しいジャンプだ)からの顔面着地を決めていたけど多分大丈夫。私たちの親友は頑丈なのだ。白目を剥いてびくんびくん震えているけど問題ない。ちなみに咄嗟の出来事だったから力加減を誤っただけで別にさっき煽られたからとかそういう私情は全く関係ない。無いったら無いのだ。
なおビンタによる四回転半ジャンプの際に落ちそうになったグラスやらお皿やらはそれこそフェイトちゃんがかわいく見える様な速さで走って来た美由紀さんと恭也さんが全て回収していた。キッチンで珈琲をドリップしながらこちらの様子を眺めていた士郎さんがこの二人の動きをしてまだまだ遅い、修行不足だな、なんて呟いているのが聞こえたんだけれどこのなのはちゃんの家は本当にどうなっているんだろう。日本人に酷似した戦闘民族とかなんだろうか。然もありなん。
閑話休題。そんな事はさて置いて。
「初めてあの人と会ったのは……確か小学校二年生か三年生の頃だったかなぁ。丁度なのはちゃんのあの事件が起こるちょっと前くらいだったと思う」
「ほほーう。って事はあたし達よりは短くてフェイトとはやてよりは微妙に付き合いが長いって事?」
「そうだね。一緒にいる時間って言う意味ではフェイトちゃんとはやてちゃんの方が長いけど、初めて会った時から考えると彼の方が付き合いがちょっとだけ長いかなぁ」
あまり多くも無い彼との出来事について思い返しながら、私は話を始めるのであった。
「最初はそれこそ偶然隣の席に座っただけだったんだけどね。その時は挨拶も会話も無かったと思う。私もちょっとお茶しに来ただけだったと思うし。そこから暫くは何にもなかったかなぁ。ただ、此処に来て見かける度に『あ、良く見かける人だな』って思ったり、時々一人で翠屋に来た時に偶然カウンター席で空いているのがあそこだけって事が何回かあるまではそんな感じ」
「うち、高校生の女の人とかがグループで来るもんねー、一人だと確かにカウンター席になっちゃうかも」
「そうなんだよね。まぁ、それで何度か彼の隣に座る事があって、その時に偶然同じ本を読んでいた事があったんだ。それがきっかけでその日にちょっとだけお話をして、それからはちょっとずつ他に空いてる席があっても彼の隣に座る様になったかな。それが多分小学校三年生の終りの頃……かな?」
「ふぅん……そこからアンタ達のラブラブ時空が始まったわけね」
「ラブラブって……」
それからはなのはちゃんとアリサちゃんにあれこれと根掘り葉掘り聞かれたけれど、笑って誤魔化したり実際に起きた事を程好いくらいに隠蔽したり適宜話したりしてる内に周囲のマダム達や女子高生、女子大生のお姉さん方が集まって私の話を聞いていた。
やはり女の子と言う物は何歳になっても恋愛話が好きなんだろう。カウンター席で手が偶々重なった時にちょっと繋いでみたりした時の話や、過去に偶々傘を持っていなかった彼と二人で私の傘に入って歩いて帰った時の話なんかでは皆キャーキャーと盛り上がっていたし。
デートとかしないの!? とか押し倒しちゃいなさいよ! とか女子大生のお姉さんに言われたけれど、そういう事はしっかりと彼氏彼女の関係になってからかある程度仲良くなってからと決めているので無視する事にする。
□ □ □ □
その後、なのはちゃんとはやてちゃんが用事でいなくなり(きっと魔法関係のお仕事だと思う。フェイトちゃん関係で無い事を祈ってる)、アリサちゃんが習い事で翠屋をあとにし、マダム達や女子高生、女子大生の皆さんが偶々全員捌けてスタッフの皆さんが休憩になった後に『彼』がふらりと翠屋に現れ。
いつものカウンター席に座った彼の隣へと席を移した私は、何だかんだで先程までの所謂『恋バナ』をしていた熱に浮かされていたのだろう。
自分でも気づかない内に『いつも』よりも彼に近付いて、珍しく私の方から少しだけ彼へとアピールをしていた事は、カウンターの奥で彼の注文である珈琲を静かに淹れながら微笑んでいる士郎さんしか知らないのであった。
ふっと湧いて出たネタを書いていたらある程度の分量になってしまったので投稿。
元は前半の3000文字くらいだったけど楽しかったから書いてしまったのです。はやてちゃんが不憫な目にあってるけど別に嫌いって言うわけじゃないです。偶々です。たまたま。
随分久々に書いたので批評、感想で改善点などを強烈にツッコんでくださる皆様を大募集しております。改善点を大募集しております。(大事な事なので二回)ビシビシ叩いて行ってください。喜びます。
元々一万文字を目途に書いていたため、文字数の問題でほんの少ししか触れられなかったすずかお嬢様の恋愛模様ですが、感想如何ではもしかしたらちょっとだけ続きが書かれたりするかもしれないです(チラッ
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すずかお嬢様の下半身事情 そのに
そこは仄暗い部屋だった。しかし、その部屋に設えられた白熱電球が出している橙色の柔らかな灯りが、仄暗さと相まり何処か淫靡なムード作り上げている。
部屋の中央には通常のサイズよりもやや大きなサイズのダブルベッドが鎮座しており、サイドチェストには避妊具やその他の様々な道具――所謂大人の玩具と言う奴だ――が所狭しと並べられていた。
部屋に備え付けられた有線のジュークボックスからは、ラテンジャズだろうか……何処か哀しげな、それでいて情熱的なミュージックが控えめな音量で室内に響いており、耳に心地良い。
そんな部屋に、二人の少年と少女がいた。
恐らく、雨にでも降られたのだろう。少年と少女の制服は上から下まで全身余す所無く濡れており、両者とも髪から水滴がぽたぽたと足元へ向かって滴っていた。少年の方が髪を掻き上げながら部屋の内部を見渡すと、部屋に備えられたタオルを見つけたのか、それを取りに歩いて行く。少女の方は赤面した表情を少年に悟られない様にする為にか、顔を下に向けて未だ濡れるその美しい紫紺の長髪で表情を隠しながらベッドサイドまでおずおずと歩いて行った。
少年も、少女も。
この近辺の学生の中では非常に賢く、同時に非常に大人びた感性を持っていた。だが、今に限って言えばそれが仇となったのだろう。少年と少女はこの部屋が『そういった』目的で使用される部屋だと言う事に気が付いていた。年の頃十五歳……そういった知識に興味を持つには十分過ぎる年齢だったというのもあるだろうが。
少女がベッドサイドで顔を赤らめたまま悶々としていると、少年がタオルを片手に戻ってきた。少年の方は少女の名前を呼びかけていたが、年頃のそういった性的な事に対するあれこれを考えて悶々としている少女にはその呼びかけが中々届かない。
少年が気付いてもらう為には仕方ないと言わんばかりの、それでいて少女の身体に触れる多少の申し訳なさが窺える表情で少女の肩に触れると、あれやこれやでぐるぐると抜け出せない思考に陥っていた少女がびくりと身体を震わせる。
その時だった。足元が大理石のフローリングだった為に、髪の毛や身体から垂れた水滴が作り上げた小さな水たまりに少女は脚を取られてしまったのだ。濡れて踏ん張りの効きづらくなった靴を履いていた少女はなすすべもなくバランスを崩してしまい、少年の方へ振り向きながら後ろに倒れ始めた。
少年は咄嗟の出来事だったがタオルを投げ捨て、少女の身体を支える為に腕を伸ばして少女の腕を掴む。掴めた事に一瞬だけ安堵したのは良い物の、少女と同じく濡れた靴を履いていた少年も運が悪く――いや、この場合は運が良いのだろうか――そのままバランスを崩して少女と共に倒れ込んでしまった。
先程少女を支える為に掴んだ筈の少年の手は、少女の腕を上からベッドに抑えつける形となり。
倒れ込む際に少しでも少女にぶつけない様に、体重を掛けない様に、と動かした少年の脚は少女の両足の間に膝を着いていた。
少女が下で。
少年が上に。
期せずして少女を押し倒す少年の構図が出来上がってしまった。
少年と少女の視線が合い、互いに何が起きたのかを理解しないままに見つめ合う。
ほんの僅かな静寂が、二人の間に流れる。
見ていると吸い込まれてしまいそうな程の深い色合いが神秘的な蒼黒の瞳と、顔に張り付く幾条かの髪の束、顔だちの美しさに魅入られ、少年の脳裏と心にこのまま少女を犯してしまいたいと言う衝動が襲い来る。
欲望のままに犯してしまいたい。服を脱がせて少女の柔肌を堪能したい。少女の身も心も自分に屈服させてしまいたい。そう、強く思った。
――だが、少年は奥歯を噛み締め、理性を総動員し、その衝動に堪え切る。
少女の名を呼び、すみません、と絞り出すかの様に呟いた少年が急いで少女の腕を離し、四肢に力を入れて少女から離れる為に立ち上がろうとする。
……立ち上がろうとしたのだが、外部の要因でまた体勢を崩す事になった。抑えられていた腕が自由になった少女が、少年の首元に優しく腕を回していたのだ。
押し倒していた体勢から更に体勢を崩した彼は、少女の胸元に顔を埋めてしまう事になった。雨に濡れて冷たい制服。その奥からじんわりと感じる、火照った少女の熱。どくどく、どくどくと早鐘を打つ少女の心音。それらを顔で感じる事になった少年は頭の中で再び理性と欲望とが綯交ぜになり、先程何とか堪えた衝動とまた相対する事になる。
少女の心音が聞こえる度に、少年の我慢の限界は近づいていた。それでもなお、少年が理性を振り絞って堪えていると、不意に首に回されていた少女の腕が離され、少年は少女の胸元から顔を上げる事が出来た。
自然と交わる少年と少女の瞳。
少年の困惑しつつも様々な物を堪え我慢している瞳と、少女の熱を感じる潤んだ淫らな瞳が交差する。
再び訪れる沈黙。僅か数瞬の間ではあったが、少年と少女はその瞬間を今まで生きてきた中で最も長い時間に感じていた。
そして、少女は艶やかな微笑みを湛えながら口を開き――
「――
――少年の返答を聞く前に、口付で少年の唇を封じた。
室内に、僅かに響く水音。唇を交わし合う少年と少女にしか聞こえない程度の小さな音ではあったが、淫靡な音が確かに二人の耳に届く。
――そして。そこが、少年の理性の限界だった。
どちらからともなくキスを止めて顔を離すと、唇と唇の間で唾液が糸を引く。その光景を見て、少年は更に興奮して行った。尤も、今の少年には目の前の少女に関わる物なら全てにおいて興奮するのだろうが。
最後の最後に、本当にいいのかと少年が問うと少女は自分からもう一度軽くキスを交わす事で返事とした。辛抱出来なくなった少年が右手を少女の制服のスカートへ伸ばす。その様子を見て、少女が再び微笑みながら口を開き。
「うん、いいよ……。きて……」
少年と少女の身体が完全に重なり、そして――
「ひゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
――少女は起床した。
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すずかお嬢様の下半身事情
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ぜぇ、はぁと乱れた呼吸を整えながら、私は自室のベッドの上で自然と胸に手を合わせて心臓の動きを確認していた。掌から伝わってくる心臓の鼓動は自分でも驚くほど早く、まるで全力で激しい動きをした後の様なビートを刻んでいる。そのまま左胸を抑え二度三度と大きく深呼吸をし、少しだけ脈拍が落ち着いて来た頃にやっと周囲へと目を向ける。
周囲を見る事が出来る余裕が生まれると、自分のベッドの乱れ方が目に付いた。普段はそうでもないのに、今日に限って何故か(彼とえっちな事をする夢を見たからじゃないと信じたい)特別布団が乱れている。
……先程まで見ていた『夢』の事もあり、夢とこの布団の乱れ方をなんとなくいやらしく感じ、軽い自己嫌悪に陥った。
いや、今は自己嫌悪に陥っている場合ではない。そう思った私は頭を振ることでなんとか思考を自己嫌悪のループから振り払い、もう一度深く息を吸い込んで心の底から大きな溜息を一つ零す。先程から何度も深呼吸を繰り返す事によって随分と落ち着いて来た。狼狽えるんじゃあない、月村すずか。そう、お嬢様は狼狽えないっ!
とりあえず、何時までもこうしてベッドの上に座っているわけにも行かない。寝汗で肌に張り付いたネグリジェが不快なので早く着替えてしまいたい。いっそシャワーでも浴びようか……等と考えながらベッドから降りようと両足を動かした時に、気付きたくなかった出来事に私は気が付いてしまった。何という事だ。死にたくなってくる。いや、もう死のう。そうだ、死んだ方がいい。
……どういうわけか、ショーツが、寝汗では到底すませないくらいの湿り気と、若干の粘性を帯びている。
というか、どう考えてもこれは所謂、その、ええと。女性が性的に興奮した際に起こるとされている『濡れる』と言う現象……だった。
夢の中に出てくる程に彼の事を思ってこうなってしまったのだろう、という結論に至った時、部屋に置いてある姿見に映った私の顔は火でも噴いているのではないかと錯覚する程真っ赤に染まり、自然と湧き上がってきた涙を湛えながらもう暫く羞恥やら乙女心やら、諸々の事情でぷるぷると震える事になったのはまた別の話である。
――お父様、お母様。私、月村すずかは自分で思っているよりもえっちな女の子だった様です。
□ □ □
その日の昼休み(正確には朝からずっとだが)は、何故か私の教室内は良く分からないが困惑で満たされていた。女子校なのに何処か顎が尖っていそうなざわ‥ざわ‥と言う喧騒が聞こえてくる。少しだけ気になったのでよくよく耳を澄ませてみると、月村さんどうしたのかしら、とかもしかして例の彼に振られたのかしら、とかあぁん私の聖女様がぁ! とか聞こえてくる。とりあえず一番最後の人は近寄ってこないで欲しいな、などと上半身をぐったりと机に突っ伏しながらぼんやりとそう思った。
「……で? これどうなってんのよ。アンタ達何か知ってる?」
「知らへん知らへん」
「ふーん。なのはは?」
「んー……、今日のすずかちゃんは朝からずっとこうだから分かんないかなぁ」
「そっか。なのはが分かんないなら仕方ないわね。とりあえず何があったのかさっさと聞くわよ」
「あの……実は何かしらのリアクションかツッコミ待ちやねんけど……」
「ふーん」
「あの……」
「何であたしがアンタの漫才に付き合わないといけないのよ。フェイトとでもやってなさい」
「フェイトちゃんは捕まったやろ! ええ加減にしろ!」
ばんばんと両手で机を叩きながらはやてちゃんが何か騒いでいる様だが、まるで頭に入ってこない。これも多分、自分の気持ちが落ち込んでいるからだろう。……あ、いや、はやてちゃんの発言に関してはいつも通りかもしれない。まぁそんな事はどうでもいいが。
机に突っ伏し、頬を天板に押し付けたまま溜息を一つ零す。
今朝から何度も気持ちを切り替えようとしたが、ふとした拍子に今朝の諸々の出来事を思い出してしまい、自己嫌悪に陥ってしまう。そう、自己嫌悪から抜け出せないのだ。今まで自分を乙女だ乙女だと称してきたが、いざそうなってみると自分でもコントロールが効かず、侭ならない物だった。乙女心とは実に複雑である。
「はぁ……。私って、本当にはやてちゃんが言ってた通りのビッチなのかな……」
「は?」
「にゃ?」
「ほ?」
ざわり、と周囲のどよめきが大きくなった。何かあったのだろうか。
周囲のどよめきに、一瞬だけ気を逸らす事が出来たが次の瞬間には再び思考がぐるぐると巡り始める。
朝から何度も何度も繰り返した思考だったが、抜け出せない物はどうしようも無かった。
他のクラスメイトや親友たちがどうなのかは分からないが(そもそも聞く機会も必要も今まで無かったのだが)、恐らく付き合う前からこんなえっちな事を考えている様な子はいないんじゃないだろうか。いや、いたとしてももっと興味や好奇心と言った感情が大きいのだろう。きっと、私みたいに身体が反応してしまうと言う事は無い筈だ。やはり私ははやてちゃんの言う通りの清楚ビッチなんだろうか……そんな考えだけが、ずっと脳内を駆け巡り、自己嫌悪の度合いが深まって行く。分かっていても考える事を止められなかった。
もう何度目になるのか分からないが、また一つ溜息を吐こうとした所で誰かに両肩を掴まれる。この握力と手の感じは、アリサちゃんかな。今はテンションが低いし、自己嫌悪に伴って気分も悪いのでまたシェイクされて乙女パワーを口から出しちゃったら申し訳ないなぁ、等と考えながらなんとか頑張って顔を上げると、そこには何処か焦っている様な、それでいて困惑した様な表情のアリサちゃんが私の肩を掴んでいた。
そして、どこか緊張した様子でアリサちゃんは口を開く。
「すずか、あんたまさか……」
一体どうしたと言うのだろう。出来れば今は放っておいて欲しいのだが。
返事をする気力も無いので、そのままアリサちゃんの言葉を待つ。すると、数秒の間は迷っていた様だったが、意を決したのかアリサちゃんは言葉を続けた。
「今度こそ、本当に
その発言の意図を理解するまでに僅かに時間が掛かったが、一度その意図を理解してしまったが為に、脳内の自己嫌悪のループが今朝の夢の内容へとシフトする。
脳裏に思い浮かぶ彼の表情と、私の痴態。私の顔は一瞬で真っ赤に染まり、沸騰したかの様に熱くなる。羞恥心に耐えられなくなった私は、少しでも周囲の目から隠れようと顔を再び机に押し付け、頭を両腕で抑えて亀の様に身を縮めた。
そんな反応を示してしまった私を、年頃の女の子たちが見逃すはずが無かった。
次の瞬間、教室中に年頃の女の子たちの黄色い声が響き渡る事になるのであった。
□ □ □ □
海鳴臨海公園の鉄柵に身体を凭れさせ一人黄昏ていると、毛先を柔らかく弄ぶかの様な風が僅かに感じる磯の香りと共に爽やかに吹き抜けていく。昨日と同様、梅雨時だと言うのに見上げる空は雲一つなく晴れ渡り見事な蒼穹の様相を見せていた。きっと、こういう空模様を昔の人達は天の原と呼んだのだろう。偶々近くを飛んでいた海鳥たちも心なしか気持ち良さそうに空を飛んでいる様に見える。
まぁ、尤も、今の私の心情は生憎とこの蒼天とは正反対の曇り模様を見せているのだが。
昼休みのあの騒動の後(未だにどうしてアリサちゃんが再び私の処女の事を聞いて来たのかが分からない。気が付かないうちに何か悟られる様な事でもしたのだろうか)、親友たちやクラスメイトの女の子たちの好奇心から来る怒涛の質問攻めに無言を貫く事で解答として放課後まで耐え、授業を終えるや否や鞄を引っ掴んで全力で教室から逃走。案の定クラスメイトの何割かが追いかけて来たが、自慢の健脚で瞬時に振り切った。偶然すれ違った恭也さんがやはり強者……と呟いて笑んでいたのは聞かなかった事に、見なかった事にしたい。
翠屋にはなのはちゃんがいるし、市の図書館に潜んでもきっとはやてちゃんに見つかるだろう。だからと言って学校に残っていてはクラスメイト達が襲ってくるし、習い事をしている場所はきっとアリサちゃんがいる。自宅には(と言うよりも自室にだけれど)まだ帰りたくない。どうしても思い出してしまう。
こんな状態で親友や級友たちに捕まって根掘り葉掘りと聞かれるのは今の私の複雑な乙女心が許容しないのだが、かと言って逃げる場所も落ち着ける場所もすぐには思い浮かばない。全力で逃走しながら、しかしあてどなく海鳴市を走り続け、辿り着いたのが此処だった。
身体を全力で動かした事が良い方向に働いたのか、気分はともかく思考の方は学校にいた時と比べ随分と落ち着いている事が自分でも分かる。今なら、なんとかこの気持ちとも折り合いがつけられそうだった。
海と陸を隔てる鉄柵に身を預け、海をぼうっと眺めたまま、思索に耽る。考えるのは、彼の事だった。
ふと、昨日から彼の事を考えてばかりいる自分に気が付き、またしても微笑が漏れる。尤も、今回の微笑にはやや自嘲的な物が混ざっていたが。
思い返すのは、今までの事。六年と少し前から続く、少し不思議な彼との関係と、思い出。
一つめは、休日の混み合った翠屋で偶々隣に座った事だった。
沢山のお客さんで混み合う中、一人で訪れた為にカウンター席で一つだけ空いていた彼の隣の席に案内された。あの時は、きっとこうして思い出して懐かしむ事になるなんて、思ってもみなかっただろう。店員さん達の奮闘とお客さん達の話し声による喧騒の中、初めて彼の隣で本を読んだ。
二つめは、偶然同じ本を手に取り、同じ喫茶店で読んでいた事。
紅茶をちびりちびりと飲みながら、とある文豪の少し古い小説を読んでいた時だった。ふと視界の端にに入った彼が隣席で同じ本を読んでいた。マイナーな本だったし、まさか隣に座った男の子が同じ本を読んでいる等とは思わなかった為、少し興奮してつい話しかけてしまった。
確か、凄い偶然ですね。本、お好きなんですか? と話しかけた筈だ。彼の方は少し驚いた様子で私を見ながら少々固まった後(ほんの数秒だった気がする)、表紙に目を落としながら嫌いでは無いですね、と返事をくれた。そこから、私たちはほんの少しだけれど会話をする様になった。
三つめは、私と彼の手が重なってしまい、彼が手を引くも私の方から手を握ってみた事。
私と彼が並んで座りながら、その日は二人とも勉強している時だった。彼がアイス珈琲を、私が紅茶を飲もうとし、偶々タイミングが重なった。
私は右利きで、自分の右側に置いておいた紅茶へと手を伸ばした。一方で、彼は左利き。彼の左側に置いてあったアイス珈琲へと手を伸ばす。お互いに参考書の問題を解きながらだったと言うのもあったのだろう。問題から目を離さずに何となくこの辺りにある筈だ、と手を伸ばした先で、私と彼の手が少しだけ触れた。
思わず顔を上げると、彼と目があった。少し慌てた様子でスイマセン、と謝りながら彼は手を引いたが、あの時の私は何を思ってその行動を取ったのか。離れていく彼の手を掴み、彼が唖然としている内に指を絡ませる。自分よりも一回り程大きくて、私達女の子よりも硬い手だったが、何処か安心感を憶える。そんな手だった事と、顔がとても熱かった事、胸の鼓動が凄く早くなっていた事を憶えている。凄くどうでも良い事だが、偶々ホールで働いていたお姉ちゃんに目撃されて暫く弄られた事も思い出した。無論、そのあと然るべき報復――恭也さんの盗撮写真を元データごと全て燃やし尽くした――は行ったが。
四つめは、突然雨に振られて困っていた彼の手を取り、翠屋から二人で歩いて帰った事。
天候が不安定な秋口での事だった。何をするでもなくただ彼の隣でぼんやりとしながら翠屋で紅茶を楽しんでいると、いつの間にか雨が降っていた。私自身がぼんやりとしていた事と、雨が静かにしっとりと外の路面や窓ガラスを濡らしていた為に、雨が降っている事に気が付かなかったのだろう。傘は一応持っているけれど、激しくなる様ならお姉ちゃんかファリン(ノエルはスピード狂だから除外)に迎えに来て貰おうかなぁ、なんて本日のデザート(この日は確か、ハロウィンが近いからかぼちゃを使った試作のスイーツだったかな。控えめな甘さが丁度良かった憶えがある。またたべたい)を咀嚼しながらのほほんとしていると、彼が勉強道具を片付けて立ち上がる。
洗濯物が拙いかも、と溢している事から若干心配している事が窺えた。雨の様子を見て、彼が何かを決意した様に首を一つ縦に振ると、お会計を済ませて傘を差さずに(というか、傘を持っていなかった)歩いて行こうとしていた。時分は時折り冷たい風が吹く秋口だ、風邪でも引いたら事だろう……それになにより、彼が風邪を引いたら暫く右隣が寂しくなりそうだ。
そう思った私は、カウンターの奥にいる士郎さんに目配せをして席を立つ。士郎さんも微笑みながら行っておいでと送り出してくれた。本当に。出来た人だと思う。
今にも出て行こうとする彼の背を小走りで追い、後ろから声をかけながら傘をさした。
風邪、引いちゃいますよ――そう言いながら彼の左隣に寄り添って、彼の手に傘を渡す。彼は少し照れくさそうにしながら、それではお邪魔しますとだけ言って、歩きだす。傘が私の方に寄っていたのは、きっと彼の優しさだったのだろう。
五つめは、気分を変えようと髪型を弄ってポニーテールにしていたら、翠屋へ入って来た彼が呆けた様子で小さくかわいいと呟いたのを聞いてしまった事。
あの時ほどちょっと特殊な私の体質に感謝した事は無かった。彼が入店した事に気が付いたのは偶然だったが、気が付いていなければ彼がこちらを見ながら小声でそう漏らした事に気が付かなかっただろう。とても嬉しかった。その後、男性のスタッフさんに声をかけられるまで彼は私の方を見ていたと思う。断定できないのは、この時の私は気付いていないふりをしながら横目でちらりと眺めていたからだ。
何時もの様にカウンター席へ案内された彼が隣の席へと座る。気が付いていないふりをしながら、この髪型について聞いてみようかと思ったけれど、やめておいた。嬉しさを隠しながら本を読んでいると、士郎さんが紅茶を私の前に置きながら良い笑顔だね、何か良い事でもあったのかい? と聞いて来たが、この人は本当に鋭いと思う。この出来事があった翌日から、私は髪型を今の様なポニーテールにするようになった。
六つめは――
「好き、なんだろうなぁ」
とめどなく溢れてくる彼との思い出を、一つ一つゆっくりと振り返りながら、一人、海へと呟く。
元々、少しずつ気が付いてはいたのだ。私が彼の事を異性として好きなんだろうと言う事には。
思えば、もう何年も前から私自身が気が付かない内に翠屋へ行く目的が変わっていたと思う。美味しい紅茶とデザートを楽しみに行くのでは無くて、僅かな時間だけでも彼と一緒の時間を過ごす為に翠屋へと赴く。彼の隣と言う場所で、心が暖かくなる時間を得る為に翠屋へ行く。……そう、翠屋へ行くのは彼に会うのが目的になっていた。今となっては翠屋へ入ると自然と彼の姿を探す癖すらもついてしまっている。
彼の姿を見ただけで自然に漏れてしまう微笑も、彼の傍にいるだけでどきどきと高鳴る鼓動も、彼の横顔を格好いいなと思う事も、今日の様に彼が出る夢を見る事も。
偶々触れた彼の手をつい握ってしまうのも、話さなくてもただ隣に座っているだけで幸せな気分になるのも。全て、私が彼の事を男の子として好きだからなのだと思えば、すとんと胸に落ちた。
「……うん、きっと、私は好きなんだ。彼の事が」
自覚して、この気持ちを受け入れる。
今日一日付き合ってきた鬱屈した心情が、晴れていく
これが恋か。これが、私の初恋か。……うん、これが私の初恋だ。私は、月村すずかは、恋をした。
昨日までの少し不思議な関係は終わらせよう。お互いに名前を知らない、あくまでも知人であるからこその優しい空間は、穏やかな時間は、終わらせるには少々名残惜しくはあるがこのままでは先に進めない。
まずは、そうだなぁ。自己紹介をしよう。私は月村すずか、あなたの事が好きな女の子です、と。
彼は一体どういう反応をしてくれるだろうか。喜んでくれるかな。
今の私は、そんな事を考えるだけでも幸せだった。
そういえば、随分昔に翠屋へ行った時、彼の姿が見つからなかった日に一人で何時もの席に座っていたら士郎さんが昔を懐かしんでいるかの様な優しげな眼差しを浮かべながら、しょんぼりしているね、どうしたんだい? と声をかけて来た事もあったっけ。
……そっか、あれは士郎さんが自身の青春時代を懐かしみながら私の事を見ていたのか。結構前(三年かそこらは前だと思う)の出来事だった筈なのだが、もしかして士郎さんはその頃から気付いていたのだろうか。いや、あの人ならば気付いていてもおかしくは無いか。
というか、その頃から『彼が翠屋にいなくてしょんぼりする』って、もしかして私は今こうして自分で思っている以上に彼の事が大好きなのではないだろうか。
あれ? もしかして私、彼の事好きすぎる? いや勿論彼の事は大好きなんだけれども。
□ □ □ □
自分の恋心を受け入れ、気の向くままに彼の事を考えている内に、いつの間にか太陽が沈みかけていた。男の子の事を考えている内に時間がこんなに過ぎているなんて、初めての事だった。やはり、私は自分の思っている以上に彼の事が大好きらしい。
そろそろ帰ろうか。いや、翠屋へ行って彼を探すのもいいかな。
そう思い、鉄柵に預けていた身体を起こして振り返る。足元に置いておいた学生鞄を拾って歩き出すと、ぽつぽつと上から肌を叩く感触が伝わってきた。空を仰いでみるとさっきまで(と言っても時間を確認したら二時間以上も経っていたが)あれだけ晴れていた青空はどんよりと曇っていた。梅雨時の不安定な天候だし、仕方ないのかもしれない。
「雨、か」
生憎と、今日は傘は持ってきていなかった。連日晴れが続いていたから今日も大丈夫だろうと思って傘を持たずに出て来たのだが、どうやら裏目に出た様だ。
幸いなことに、学校から逃亡する際にそのまま引っ掴んだ鞄の中は濡れても問題ない程度の物しか入っていない。それに、気分もいいからこのまま歩いて帰ろうと思う。気温の高い時期だし、大丈夫だろう。
雨に振られながら、海鳴臨海公園を出る。公園の入り口で少し立ち止まり、帰路を考えた。
何も考えずに出てきたが、たしか此処からは家に帰るにしても翠屋へ行くにしても、反対側の出口に出た方が近かった気がする。
恋の熱にでも浮かされたのだろう。何をやっているんだと笑いながら踵を返し、うろ覚えの記憶を頼りに、再び歩き出そうとした時だった。
私の肌や髪を叩く雨粒が途切れた。不思議に思い、上を向いてみればシックな色合いの傘が雨を防いでくれている。一体誰が、と後ろへと振り向いて見ると――
――心配そうに私を見る、『彼』がいた。
風邪、引いちゃいますよ? と何時か私が彼にした様に、まるで図ったかの様に、あの時と同じ台詞を言いながら彼は自然に私の右隣に並ぶ。私の方も、あの時の彼と同じようにお邪魔しますとだけ言って、どちらからともなく歩き始めた。
隣に立って傘を持っている彼の左腕に(今回も少しだけ傘が私の方に寄っている)、抱き着いてみたいなぁ、という思いが生まれる。いや、これはきっと天がくれたアピールタイムなのだ。今ならば、彼の腕に抱きついても濡れない為に密着したという言い訳が出来る。寧ろ今しかないまである。
覚悟を決めた私は、歩きながらそっと彼に近づき(と言っても一歩二歩近寄るだけだが)、何も言わずにぎゅっと彼の左腕に抱き着いた。彼が顔を真っ赤にして焦りながら何かを言おうとしているが、結局口を閉じて受け入れてくれたので気にしない事にする。と言うよりも、拒否されなかった事に嬉しさを憶え、それどころではなかった。きっと、今の私の顔も照れやら嬉しさやら
顔を互いに真っ赤に染めた私達は、そのままゆっくりと歩いて行った。私も彼も何も言わなかったが、足は自然と二人とも翠屋へと向かっている。
そういえば、あの時は会話は無かったな、と思いながら私は意を決して彼に話しかけた。
「『はじめまして』、私、月村すずかって言います。良かったら、私が恋してる、大好きなあなたのお名前、教えてくれませんか?」
たっぷりと何秒もその場で固まった彼は、意味を理解したのかただでさえ真っ赤だった顔を更に赤く染め、空いている右手で顔を覆いながらあー、と唸っていた。
そして、そこから更に待つ事数十秒。彼は顔を覆っていた右手を下ろし、私としっかり視線を合わせて口を開いた。
「――――――――――」
こうして、私と彼の互いに名前を知らない不思議な関係は終わりを告げ、新たな関係が始まったのである。
ちなみに、私が『はじめまして』を使った理由に彼はなんとなくであったが、気が付いていたとの事だった。
友人のなのは勢が当作品を指してこの小説面白いよってお勧めして来た所、それ書いたの私って言ったら「お前の様なゲスの極みみたいな奴が書ける内容じゃないだろ! いい加減にしろ!」って言われたからどついてしまった。私は悪くない。
思ったより評判が良かったので言っていた通り(私の考える)ラブ要素を突っ込んでみました。これが多分限界です(吐血
批評、感想で改善点などを強烈にツッコんでくださる皆様を大募集しております。改善点を大募集しております。(大事な事なので二回)ビシビシ叩いて行ってください。喜びます。
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すずかお嬢様の下半身事情 おわり
「うん、それじゃあ、また明日。おやすみ――君」
直に今日と明日との境界線を跨ぎ、世界が新たな朝へと向かい始める様な夜半の時間の中私は日課となった彼との電話(直接会えないのは残念だけど話せないのはもっと嫌だ)をなんとか終えてベッドに背中から倒れ込む。
ぽふりと柔らかく身体を受け止めてくれた寝具達に埋もれながら手を空中へと伸ばし、先程まで彼と私を繋げてくれていた携帯電話を天井のライトに翳す。逆光になった状態で先程の通話履歴が表示されている画面をぼんやりと眺めた。
そこに表示されている文字は『未来の旦那様』。彼にも(というか誰にも)見せられないけれど、溢れんばかりの私の恋心と乙女力が暴走した結果の登録名だった。
登録した当時の事を思い返すと自分でも軽く引いてしまう程にやけていた事と、その後冷静になって電話帳を眺めた時に照れと羞恥とほんのちょっとだけ(本当にちょっとだけだ、今現在も旦那様と登録してある事から察して欲しい)の後悔に襲われて自室に置いてある巨大な猫人形に抱きしめて顔を埋め、マットレスの上でじたばたと足を振りながら暫く悶絶していた事を思い出す。これが俗に言う黒歴史という奴だろうか。そんな事はどうでもいいか。
最新の通話履歴に記録されている通話時間は一時間と少し。私も彼も、通話を終わらせようとする度に名残惜しさを感じてしまい、お互いに通話を切る事が出来ずに話を延ばし続けている内にこんなにも長い間電話をしてしまった。
最終的に長電話になる事は特に珍しい事では無かった。もう何年も続いている事で、こうして夜に電話する様になってから比較的早い段階でそうなっていたし、私も彼の声が聴けて嬉しいから全く問題はない。
お肌の大敵である睡眠時間はその他のケアでしっかりカバーしているから大丈夫だ。多分。きっと。恐らく。メイビー。
ライトに翳していた腕を下げ、携帯電話を枕元に置いて軽く目を閉じる。若干の微睡みが緩やかに襲い来る中、脳裏に浮かんできたのは彼との関係が変わったあの日の事だった。
私から一歩踏み込んで今までの関係を終わらせたあの日。雨の降る中、同じ傘の下で顔を真っ赤に染めた私と彼は、気恥ずかしさから何も話す事が出来ずにただゆっくりと(しかし私が抱き着いた腕は離さないまま)翠屋へ歩いて行った。翠屋に着いてからも恥ずかしさでまともに顔を合わせられない様な状態だったが、なんとか彼と電話番号とメールアドレスを交換して別れた。最後の最後までお互いに顔が真っ赤だったと思う。
彼が傘を広げて、心底嬉しそうな顔を浮かべながらもどこか焦った様な早歩きで去って行く。そんな彼の後姿を見えなくなるまで見つめていると、不意にカウンターの奥から士郎さんがいつもの人好きのする笑顔を浮かべながら声をかけて来た。
おめでとう、でいいのかい? そう言いながら士郎さんは店内のショーケースから二つシュークリームを取り出し、今時珍しいレバーピストン型の完全手動式エスプレッソマシンを用いて抽出していたエスプレッソを小さな二つの珈琲カップに注いだ。カウンター内からでも私まで届く、通常のドリップ珈琲よりも遥かに豊かな香りを放つそれらとシュークリームをトレイに乗せて士郎さんはカウンター内から出る。エプロンを外し、軽く畳んでレジの近くへと置くと私の方へと歩いて来て私の左隣(此処で自然に右隣に座らない士郎さんは格好いい人だと思う。彼の方が格好いいと思うけど)の席に座る。士郎さんは自分で淹れた珈琲の香りを一度確かめて一つ頷くと、珈琲を一口飲んでゆっくりと味を確認してまた一つ頷く。どうやら納得の行く味だった様だ。
士郎さんは常連さんへのサービスさ、と短く言って私の方へと珈琲とシュークリームを差し出す。先の質問に答える意味でも、そんなところですと嬉しさと恥ずかしさを堪えながら小声で答え、それを隠す為に続けざまにありがとうございますと言いながらそれらを受け取り、顔を逸らす。
そんな私の様子を見てなのか、それとも先程の答えがしっかりと聞こえたのか、それともその両方か(絶対最後だろうなとは思うけれど)、士郎さんが楽しげに笑う声が聞こえた。少しだけ士郎さんの事を恨めしく思った。
からかわれた事に対して小さく溜息を吐き、私は珈琲カップに手を伸ばす。普段はあまり飲まない珈琲だが、冷ましてしまうのも忍びない。美味しい内に頂いた方が吉だろう。
エスプレッソ珈琲を少しだけ口に含み、口内に訪れる強烈な苦味と旨味、鼻に抜ける濃厚な香りを味わう。こくり、と飲みこむと実に心地良い余韻が長く残り、士郎さんのマスターとしての技術を垣間見る事が出来た。とても、美味しい珈琲だった。
ほっと一息つくと、先程まで熱くて熱くて堪らなかった顔から熱が引いていくのが分かった。そうして、落ち着いた状態で私はデザートの甘さを堪能しようと片手でシュークリームを持って口元へ運び――
「ところで、結婚は何時するんだい?」
「ふぇあっ!?」
――想定外の質問に驚いてシュークリームを握りつぶしてしまい、顔がクリームまみれになった。
―――――――――――――――
すずかお嬢様の下半身事情
―――――――――――――――
夢の中で自分の顔面がクリームにまみれた所で目が覚めた。
上半身を起こし、あくびを漏らしながら軽く伸びをする。眠っている間に凝り固まった身体の節々が解れていくこの行動は、毎朝やっている事だが中々に気持ち良くて好きなのだ。
寝起きのぼんやりとした頭で顔をぺたぺたと触りつつ、姿見に視線を巡らせて自分の顔の状態を確認する。そこにはネグリジェ姿で寝惚け眼を浮かべながら間抜けそうに自分で自分の頬をむにゅむにゅと触っている私が映っているだけだった。クリームにまみれてしまった顔面は夢の中だけだった様で一安心である。
着替えを済ませ、自室に備えられたバルコニーに出る。思いの外起きるのが早かった様で、外はまだ薄暗い水色の空と赤色の陽光が射している。近隣と比べて活気のある海鳴市も、流石の朝5時では眠りに就いているかの様に静まり返っていた。
六月朝方の冷たく、それでいて澄んだ空気(もしかしたら空気が澄んでいるのは家の庭の森林の影響かもしれないが)を深く吸い込み、雲間から柔らかく差し込む赤色の日差しを身に浴びて目を覚ます。朝の空気の涼しさと日差しの暖かさが合わさり最強に見える。良い朝だなぁ。
暫くの間バルコニーで景色を眺めていると、程好く冷たく心地の良い風が緩やかに吹きこみ、私のスカートの裾をふわりと捲り上げた。野性味溢れるグリズリーが金糸で刺繍された私のパンツが(こんな物をドイツから送って来たお姉ちゃんの気が知れない)全開になった気がするが、まぁこんな時間に、それも月村家を覗いている人などいないだろう。大丈夫、くまさんじゃないから恥ずかしくないもん。グリズリーだもん。
さてさて、パンツなどどうでも良い。
こんなにも良い朝なのだ。ふと、偶にはアーリー・モーニングティーも良いなと思い立った私は上着のポケットから無駄に凝った意匠が施されている鈴を取り出して二度程ちりんちりんと振り鳴らし、従者が私の下へ訪れるのを待つのであった。
□ □ □ □
ファリンが用意した簡素な木製のテーブルと椅子に座り、それなりに上等なルフナ茶葉で淹れられた紅茶に多めのミルクを注ぎ込んで静かに一混ぜする。ミルクを均一に馴染ませ、出来上がったルフナのミルクティーが入れられているティーカップを傾けながら考えていたのは、今日見た夢の事だった。
随分と懐かしく、それでいて私と彼の関係が変わる事になった『あの日』の夢。
どうしてこうも唐突に夢に見たのか、それが気になった。
なんでだろうなぁ、と思い昨日の夜に彼と話した会話の内容を思い返してみたり、最近友達に聞かれた事はあったかな、と携帯を開きメールを眺めてみるも、特にあの日の事を思い出す様な話題は何もなかった。敢えて言うならアリサちゃんが私の性生活に関して聞いて来ているメールが唯一掠っている気がしないでもないという程度だ。というか、アリサちゃんは人の下半身事情に突っ込んで来過ぎだと思う。
メールにはなんて返信したかな、と思い送信済みメールを確認すると昨日の私は『アリサちゃんはまだ処女なの?』という内容のメールを送っていた。流石は親友と言う事なのだろう、実にどっちもどっちである。ちなみに返信は無かった。怒ってるか呆れてるかしてる気がする。コワイ!
過去のメールを調べる事をやめ、メール画面からホーム画面へと戻す。
画面は一秒にも満たない時間で切り替わり、私の自慢のホーム画面を表示していた。そのホーム画面(正確には背景に設定してある写真をだが)を見て、少し気分が良くなった。
ホーム画面の背景に設定している画像は、数年前の春に撮影した写真だ。満開の桜の木の下で満面の笑みを浮かべながら彼に抱き着いている私と、耳まで赤く染めながらも嬉しそうな顔で微笑みながら私を抱き止めてくれている彼のツーショット。眺めているだけで幸せになってくるが、それと同時に過去の自分に嫉妬する。とりあえず、今日彼に会ったら抱き着こうと思う。
そういえば、この写真を撮ってくれと頼んだアリサちゃん(当時独り身)が般若の様な顔で私達を撮影していた事を憶えている。あの時から今現在に至るまでにアリサちゃんに彼氏が出来た気配を感じた事がないが本格的に大丈夫なのだろうか。年齢と彼氏いない歴が同じなのだろうか。メールに返事が無かったけれど、やはり処女なのだろうか。
そんなとりとめのない思考を巡らせながら、残り僅かとなったミルクティーを煽り中身を空ける。思考が本筋から外れているなぁとも思ったけれど、まぁ一人でのんびりとモーニングティーを楽しんでいればこんなものだろう。
今まで手を付けていなかったワッフルを食べようと思い、持っていた携帯をテーブルの上に置いてナイフとフォークを手に取る。ワッフルにメープルシロップを少しだけかけて一口サイズに切り、シロップが垂れない様に気を付けながら口元へ運ぶ。優しい甘さが口内へと広がるが、ワッフルが容赦なく口から水分を奪っていく為ちゃんとミルクティーと共に楽しむべきだったと少し後悔した。
そんな具合でしばしの間喉のパサつきと戦いながらワッフルを食べていると、ふと携帯が震えた。バイブレーションの回数からメールなのだが、こんな時間に一体誰からだろうと思いつつ携帯電話を手に取り、電源ボタンを押して画面を点ける。その際に、携帯電話のロック画面に表示されているカレンダーが目に入った。
その時、
そうか、そうか。これなら確かにふと夢にも見るだろう。
事前の準備を何の問題も無くスムーズに進めていたからすっかり忘れていた。
「来週の私の結婚式……『あの日』だ」
□ □ □ □
アーリー・モーニングティーを楽しんだ日から何事も無く一週間が過ぎ、体調を崩す事も怪我をする事もなく結婚式の当日を迎えた。
私と彼の……旦那様のご家族と親友を数人ずつと、仲人をしてくれた士郎さんたち高町家の方とを集めた規模の小さい結婚式だったからか、終始和やかに(両家の父親と士郎さんのおじ様三人やなのはちゃん等の小数は感極まって号泣していたが)式は進行し、今はスケジュールを順調に消化して披露宴へと入っている。
参加者の方々がおじ様達のバンドである『Nice Middle's』が号泣しながら歌を披露する余興を楽しんでいる中、私は自分の左手の薬指に嵌められたエンゲージリングを見つめながら感慨に浸っていた。
小学三年生の頃に知り合って、長い時間をかけて少しずつ少しずつ仲を深めて行って中学三年生の時に彼氏彼女の関係になり。高校生活はお互いが大人へと成長する過程の姿に目を取られながらも、あらゆる意味で忙しくなったせいで中々会えなくなった日々に若干の文句を漏らしつつ日々を送り。大学生活は彼が内緒で聖祥大の試験を突破して入学して来てくれた為に四年間二人で幸せな日々を送った。ちなみにアリサちゃんは大学生活の四年間独り身だった。
そして今日。
正式に結婚式を迎え、契りを交わし、私と彼は夫婦となった。
出会ってから十年を超える時間は長かった様で、それでいて短かった様で。
『これから』はその何倍にもなる時間を今まで以上に近くで、彼の伴侶として送るという事に、内心でほんの僅かな不安を抱いた。
彼と幸せな家庭を築いて行けるのだろうか。
彼との間に子を授かることが出来るのだろうか。
彼と喧嘩してしまい嫌いになってしまうことがあるのではないだろうか。
そんな漠然とした不安に駆られ、エンゲージリングから目を逸らしてしまう。左手も、いつの間にか机の下へ隠す様に降ろしていた。
ダメだなぁ、私。
折角のハレの日なのに、きっと不安そうな表情をしてる。とにかく、顔を上げよう。笑って、幸せそうにしていよう。そうしなきゃ、参加してくれた皆さんに申し訳がない。
大丈夫、今はきっと、自分の結婚式の影響でセンチメンタルになっているだけだ。過ぎた幸せを得ると失った時の事を考えてしまう、幸せ恐怖症の様な物だろう。時間が解決してくれる筈だ。そう思い、顔を上げて笑顔を浮かべようとした時だった。
不意に、私の左手が暖かい何かに包まれた。
――彼が無言で私の左手に自分の手を重ねていたのだ。
……ずるいと、思う。本当に、ずるい。
こんな不安になっている時に、何も言わないで私の手を包んでくれるなんて。
そんなことされたら、ときめきを隠す事が出来るわけないじゃないか。
早鐘を打つ鼓動と、急速に高まる頬の熱を感じながら、ゆっくりと彼の方を見る。
彼は既に私のことだけを見つめていたらしく、自然に目と目が合った。
一秒、二秒と視線を合わせたまま沈黙が流れる。この僅かな時間が、私にはとても長い時間に感じた。そのまま見つめ合っていたが、ときめいたことで生まれた羞恥心と、先程まで考えていた短時間とは言え彼を信じれなかった自分への嫌悪感に苛まれ、つい顔を逸らしてしまった。
もう少しだけ、待ってほしい。そうしたら、いつもの私に戻れるから。そうしたら……。
と、心の内で自分を責めていると彼の左手が伸びて来て、私の顎先にそっと触れた。
一体、何を――
「――ッ!?」
逸らしていた顔の向きを強引に変えられ、熱く、そして柔らかい彼の唇の感触が私の唇を襲った。そのキスは、普段の彼からは考えられない程に強引で激しいキスだったが、それと同時に強い誠実さや安心感を与えてくれる優しい口付けだった。
数秒間か、はたまた十数秒か。彼の方から唇を離すと、彼は未だに号泣しながら演奏を続けているナイスミドル達のステージの方へと向き直った。
羞恥と困惑とが綯交ぜになった気持ちを抱え、恐らく真っ赤に染まっているであろう顔をなんとか誤魔化そうとしながら私もステージの方へ顔を向ける。幸いなことに、無駄にハイレベルなおじ様たちの余興に参加者たちは気を取られていたらしく、私達のキスを見ていた人はいない様だった。
誰にも見られていなかったことに胸をなで下ろした所で、彼がステージの方を向いたまま口を開く。
「そんなに不安そうな表情を浮かべなくても大丈夫ですよ。貴女は、私が必ず幸せにしますから」
彼の強い意志が込められた、あまりにも真っ直ぐなその言葉を聞き届けた私は自分でも分からない内に涙を一筋零しながら笑っていた。
幸せだ。
彼と出会えたことが私の人生において最も幸せなことだ。自信を持って言える。誰にも否定はさせない。
私は、月村すずかは。彼と出会えて、彼と恋人になれて、彼と結婚出来て、これ以上に無い程に、幸せだ。
涙に気付いたのか、彼が先程の顔よりもずっと綺麗になりましたね、と言いながら指先で私の目元を拭ってくれる。その声音も、その動作も、何もかもが素敵で、私の心はまたしても激しく揺さぶられた。
全く、さっきから彼にしてやられてばかりだ。そろそろ一つくらい意趣返しをしても良いだろう。
そうだ、こういう考え方がいつもの私だ。調子が戻ってきた。うんうん、と内心で納得しながら意趣返しのタイミングを図る。私の目元を拭き終えた彼がステージへと向き直るくらいのタイミングで丁度良いだろう。
私の両目の目元を拭い、彼は再びステージの方へと向き直る。ステージの上ではどうやらクライマックスが近い様で士郎さんがマイクを握っていたが、私にとってのクライマックスはこの直後だ。気にしている暇はない。
とんとん、と私は彼の肩をつつき――
「大好きだよ、――君」
――振り向く彼の顔を両手で抑え、無理矢理に彼の唇を奪った。
キスを続けながら彼の表情を窺うと、驚愕の表情を浮かべながら顔を真っ赤にしている私の最愛の旦那様の姿があり、それを見た私は意趣返しの成功を確信するのであった。
□ □ □ □
式も終盤に差し掛かり、彼が両親と話をしてくると言って離れたあと、私も親友の皆と話をしようと思い式場を移動する。両家の仲も非常に良く、その上で双方の身内しかいないという、そこまでマナーを求められる空気の結婚式ではない事が作用して問題なく動く事が出来るのだ。
さてさて、まずはアリサちゃんかなぁなんて思いながら彼女の姿を探しつつ歩いていると、少し離れた所からなのはちゃんが声をかけながら走って来た。
「すずがぢゃぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ん!」
「ぐげふっ」
前言撤回である。なのはちゃんが号泣しながら跳んで来た。鳩尾になのはちゃんの頭がクリティカルヒットである。急所に当たったが効果は抜群ではなかった。
何時かの日が再来する予感が一瞬脳裏を掠めたが、若干込み上げてきた吐き気を気合と意地と乙女パワーで御し切って抑え込んだ。突っ込んできたのがアリサちゃんだったら抑えなかったかもしれない。
なのはちゃんは本当に昔と比べてパワフルになったと思う。魔法関係とは言え軍隊の様な物に所属してるから当然と言えば当然なのだろうが。
オフトレ(なのはちゃんの身内でやるフィジカルトレーニング会らしい)でこんなの取れたよ! はやてちゃんが料理してくれるって! という短い本文とそれにふんだんに使われたかわいい絵文字と共に魔法世界の熊と思われる生物を殴殺して返り血を顔に浴びながら満面の笑顔を浮かべている写真が添付されたメールが届いた時(去年の出来事だ)は目を疑ったものだ。
日頃メールしていても激務と分かる様な労働の中こうして目の下に隈を作りながらも式に来てくれた私の親友を(パワーアップしていると分かっていても)どうして避けることが出来ようか。
……と思ってなのはちゃんを抱き止めたのだが今は比較的後悔している。そのまま巴投げで投げ捨てれば良かったかなぁ。
などと鳩尾の辺りをさすりながら思っていると、多少落ち着いたのかなのはちゃんが改めて私の方を向いて話をしてきた。
「すずかちゃん結婚おめでとう!」
「ありがと、なのはちゃん。メールじゃ結構忙しそうだったけど、お仕事は大丈夫だったの? ヴィヴィオちゃんも大丈夫?」
「ぎりぎりまで渋ってたけど有給くれなきゃ管理局辞めますって辞表出しながら言ったら割とすぐお休みくれたよ。ヴィヴィオも来たがってたみたいだけど、わたしに気を使ってスバルのお家に泊まりに行っちゃったから全然大丈夫」
「そっか。じゃあ改めて……忙しい中私の結婚式に来てくれてありがとね、なのはちゃん」
「ううん。わたしの親友の結婚式だもん、何があっても絶対に参加するつもりだったよ。大規模なテロがあってもこっちを優先するかな」
「うん、流石にそれはどうかと思うよ」
私のツッコミに対してにゃはは、と昔と変わらない笑い方で笑顔を浮かべるなのはちゃんを見て安心する。大分逞しくなって、大勢の人から畏怖される様になっていたみたいだが、根本的な所が変わっていない様で良かった。
「あー! すずかおば様こんな所にいたー!」
相変わらずくるくると表情を変えるなのはちゃんと雑談をしていると、離れた所にいる小さな影が声を上げながら全力で(文字通りの全力で)走って来た。
周囲の音を置き去りにする程の速度で走ってくるその小さな影の正体は、私の姉夫婦の子供である。私の姉である月村忍と、今会話していたなのはちゃんの兄であり私の義兄でもある旧姓高町、現月村恭也の間に授かった色んな意味で人類としてヤバい強さを持つハイブリッドお子様。恭也さんから受け継いだ黒髪を一つに括って後ろに流しているこの子は、月村雫と言う。
なのはちゃんが雫ちゃんの反応速度に反応出来ていないことを横目で確認すると、巻き込んでも仕方が無いので私はなのはちゃんの前に移動して右手を構え、タイミングを合わせて雫ちゃんの頭をがっちりと掴む。身長差で空中にぷらりぷらりと持ち上げられている雫ちゃんの姿は結婚式場では非常にシュールな物に感じられた。
「あうち」
「雫ちゃん、神速で他人に突っ込んだら危ないって前にも言ったよね?」
恭也さんから仕込まれたのであろう神速を駆使しながら跳び込んできた雫ちゃんの頭をがっしりと右手で掴んだまま、そのまま元々居た方向へと投げ返した。義兄さんならちゃんとキャッチしてくれるだろう、という信頼の下の行動である。別におばさんって言われたから怒ってるわけではないのだ。そう、私は義兄さんを信頼しているだけである。
「きゃー!? おば様の馬鹿ー!」
「……何をやっているんだ、雫」
「あっ、おとーさんナイスキャッチ! おば様の所に投げ返して!」
「ん? まぁ、あまり騒ぐなよ……そらっ」
それでいいんですか義兄さん。そんな軽い感じで自分の娘をぶん投げて大丈夫なんですか。なんでジャイロ回転してるんですか。それはダメですってちょっと。
背後にはなのはちゃんがまだいるし、人間砲弾の雫ちゃんは多分片手では(指輪のある左手は使いたくないのだ)抑えられないし、諦めるしかないらしい。
「おっふぅ」
「わーい! おば様捕まえたー!」
そして本日二度目のロケット頭突きである。鳩尾へまたクリティカルヒットした。高町の一族は私に恨みでもあるのだろうか。
強くなってきた吐き気を再び意地と気合と乙女パワーで捻じ伏せながら、私の背中へと手を回してしっかりくっ付いている雫ちゃんを引っぺがす。ぶーぶーと実際に口に出しながら抵抗していたが、問答無用で引き離した。
「すずかちゃん大丈夫? ごめんね、お兄ちゃん雫ちゃんには甘々だから……」
「雫ちゃんは軽い方だからまだ大丈夫。うん。まだ慌てる様な吐き気じゃない……」
「それ大分やばそうだけど本当に大丈夫なの!?」
大丈夫と言ったら大丈夫なのだ。なのはちゃんは心配性だなぁ。
そんなやり取りをしていると、ドレスをくいくいと引っ張られる感覚が訪れた。雫ちゃんが引っ張っているのだろう。雫ちゃんと顔の高さを合わせる為にしゃがみ込むと、元気よく雫ちゃんは私を祝福する言葉を言った。
「すずかおば様結婚おめでとー!」
姉の面影を感じる花の様な笑顔を見せながら言う雫ちゃん。頭を撫でながらありがとう、と伝えるとえへへーと笑いながら恭也さんの下へと戻って行った。そのとてつもないかわいさに、私も娘が欲しいなと思うのであった。
その後、アリサちゃんを探して式場を歩いている間にファリンとはやてちゃんからも鳩尾へのロケット頭突きを喰らった。皆感極まっていたり祝福してくれているのは分かるのだが、何かこう、恨みでもあるんだろうかと勘繰ってしまう程頭突きを喰らう。これと言って何かをした覚えはないんだけどなぁ。お蔭で私の吐き気はそろそろ限界を迎えそうである。アリサちゃんは何もないと信じたい。
フェイトちゃんに関しては私に抱き着こうとした所までは良かったが手付きがいやらしかったり露骨に私の胸元を見ていたリしたので周りの皆みたいに跳びついて来た時に交差法で撃墜しておいた。割とヤバそうな音でけぱっとか口から漏れてたけど多分大丈夫。
□ □ □ □
式場の中を探し回ったが、アリサちゃんの姿は見えなかった。途中まではいたから、どこかにいる筈なんだけどなぁ。
もしかしたら外にいるのかもしれない。そう思った私は会場の人と彼に伝え、少し外の空気を吸いたいと言う理由で外へ出る。
案の定、そこにアリサちゃんはいた。
会場の入り口のすぐ横で、ただぼうっと空を見上げて立ち竦んでいる。
何も言わずにアリサちゃんの横に並び、私も空を見上げた。綺麗な青空だった。
「――結婚、おめでと」
その声は、少し震えていた。アリサちゃんにも何か感じる物があるのだろう。
「うん。ありがとう、アリサちゃん」
私はお礼以外には何も言わずに、端的にそう言って言葉を切る。
何かを言うのは、野暮だと感じたからだ。
さわさわと柔らかな風が吹く音だけが流れたまま、何分か過ぎた。アリサちゃんは何かに決着をつけたかの様に深く息を吐くと、空を見上げたまま口を開く。
「アンタってさぁ……。ほんっとに、無駄に良い女よね」
「無駄にって……酷いなぁ、もう」
今だって何にも言わないで傍にいてくれたし、流石あたしの一番の親友ね、と続けながらアリサちゃんは踵を返して入口の方へと歩いて行く。
私に背中を向けたまま何歩か進んだアリサちゃんは、一度立ち止まると先程とは全く別物の凛とした声で振り向くこと無く私に告げた。
「幸せに、なりなさいよ」
「……うん」
□ □ □ □
「あ、それはそれとして」
空を見上げながら親友にかけられた言葉のことを考えていると、あろうことか格好良く立ち去って行ったと思われたアリサちゃんが戻ってきた。
どうしたんだろう。普段の彼女なら絶対にこんな無粋なことはしない筈なんだけどなぁ、とアリサちゃんの不自然な行動に首を傾げながら振り向くと、そこには先程までの何かを思い詰めていた様な表情とは打って変わって何時ものお怒り気味の表情を浮かべたアリサちゃんが立っていた。一体何を怒っているんだろうか。と言うかこの流れで何か怒らせる事をしたのだろうか。
何かにお怒りのアリサちゃんはそっと私の両肩をホールドする。何かこう、非常に既視感のある光景だった。具体的には中学三年生のとある夏の日の昼下がりの時に見た様な光景だった。
と、過去を思い出している内に私はアリサちゃんに前後に揺すられ始めた。うん、やっぱりか。それにしても激しい揺すり方だ。さっきまで減少傾向になっていた私の吐き気がハッスルしながら上がってくるのを感じる。
「どーせアンタと違って私はまだ処女よ! 悪かったわね!! 彼氏いない歴と年齢が等しい二十二歳の喪女で悪かったわね!! リアルツンデレはちょっととか言われて敬遠されるわよ!! 性分なんだから仕方ないじゃない!! いっそ殺しなさいよ!! ぶっ飛ばすわよアンタ!!!」
「ア、リサ、ちゃん、ちょ、っと、待って、欲し、いんだけ、ど」
「大体何よ! アンタ分かっててメール送って来てるでしょ!! 私が男日照りで彼氏いないって分かってるでしょ!! 大学時代に散々いちゃこら見せつけて来た恨みはまだ忘れてないわよ!! どうせ今日もこの後初夜だからって言いながら朝までウェディングドレスで旦那と子作りセックスするんでしょ!! エロ同人みたいに!! エロ同人みたいに!!!」
ふむ、どうやら十年という歳月は当時少女だった私達を立派な成人へと成長させた様だ。泣きながらキレるアリサちゃんの力と速さはあの夏の日よりも強くなっており、前後に揺さぶる激しさが増している。
というか、うん。この前のメールはやはり地雷だったらしい。何となく分かってはいたけど。それとなく分かってはいたけど。その地雷を敢えて踏み抜いた先週の私は一体何を考えていたのだろうか。いや、多分何も考えてなかったんだろうな。
しかし何故アリサちゃんみたいな綺麗な容姿で彼氏が出来ないんだろう。あまりに美人だから周囲が手を出しあぐねているのだろうか。高嶺の花という奴だろうか。リアルツンデレと言う事を除いても心根だって面倒見が良くて何だかんだで優しいしで超優良物件だと思うのだけどなぁ。
「さっさと幸せな家庭を築いて爆発しなさ――」
とりあえず、今まさに全力で私を揺さぶっているアリサちゃんの腰と背中に手を回して彼女を抱き寄せる。
この光景を見ている人は周囲にはいないが、会場内の誰かが見ていたら親友同士が抱き合っている美しい光景に見えた筈だ。情熱的な赤いドレスに身を包んだ美女とウェディングドレスを着た女性が親友同士で抱きあっているのだ。アリサちゃんが泣いているから余計にそう見えると思う。実に感動的なシーンだ。サービスカットである。なんなら写真に収めても良い。
「――え? ちょ、ちょっと待ちなさい、アンタもしかして……」
さて、何故こんなに冷静に考えているかと言うと。
体の奥底から湧き上がるこの熱い
ウェディングドレス着てるけどまぁどうしようもないものはどうしようもないよねと開き直って諦めたからであり。
死なば諸共と覚悟を決めたからであり。
まぁ、要するに――
「アリサちゃんアリサちゃん。ごめん、ゲロ出そう。ううん、出そうじゃなくてこれもう出る。出る出る、絶対ゲロ出る。私の中の熱いパッションがもうそこまで来てる来てる」
「きゃー!? 馬鹿ちん! やめなさい! 我慢しなさい! アンタ今日から人妻でしょ! 耐えなさい! 何とか堪えなさい! 揺すって悪かったから手を放して! ホント! お願いだから!」
「ウフフ、中学生の時も同じ様な事言ってたよねアリサちゃん。変わらないなぁ」
「い……いやっ……! いやぁっ……!」
――
「死なば諸共。アリサちゃん、一緒にまたゲロインになろ? あ、うん、もう無理出る」
「ぎゃーーーーーーーーーーーーーーー!?」
なお、作者は未婚ですので結婚式についておかしい所があるかもしれませんがご了承ください。
また、当作品では紅茶や珈琲の描写が出てきますが作者は両方ほとんど飲みません。ココア派です。
批評、感想で改善点などを強烈にツッコんでくださる方を大募集しております。
ビシビシ叩いて行ってください。喜びます。
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