アクセル・ワールド -宿望の亡霊- (ウィルキン)
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1章
(1)対戦【Pink Hopper】


2047年06月23日、千代田区で七王会議が行われた数時間後。
その隣の新宿区で、亡霊が暗躍した。
4日前の、6月19日に滅びたはずの亡霊が。

悪名高き最悪のPK集団スーパーノヴァ・レムナントに
公然と秘められていた謎が動き出す。


 

 

寂れたビルディングが立ち並ぶ、赤茶けた空の下。

鉄錆の臭気すら漂わせて、メタリックな人影が対峙していた。

 

片方は目に焼きつくほどに鮮烈な“真っピンク”の人影。

やや小柄で、少女とウサギとまん丸お目目のロボットを足しあわせてデフォルメしたような姿だ。

特に目を引くのは、ウサギのような脚の膝裏や、腕の外側の部分に付いたパーツから漏れるピンク色の燐光だろう。

それはウサギの耳というよりも巨大なリボンの様な、背部に垂れたパーツからも噴出されていた。

時折シュッと光が強まる毎に、勢いよく吹き出した桃色の煙が周囲の瓦礫を吹き散らす。

両手両足と背部にバーニアが付いているのだ。

 

頭上にはHPバーが伸び、ピンク・ホッパー【Pink Hopper】とアバターネームが表示されている。

 

そう、これはゲームだ。

《ブレインバースト2039》。

2039年、僅か100人の小学生一年生に配布された対戦ゲーム。

2047年の今になってもプレイヤー人口の総数は僅かに1000人余りの、知られざるゲーム。

そのプレイ人口は、このゲームを始める手段が極めて限定的である事に起因している。

ゲーム内でレベルを2以上に上げた者に認められるたった一回きりの複製権でしか、インストールを受けられないのだ。

しかもレベルを2に上げる為には様々な事に使われるBP、バーストポイントと呼ばれるポイントを

消費し、そのポイントを一度でも0に全損してしまえば、ブレイン・バーストはアンインストール

されて二度とインストールする事はできない。

その貴重さからブレインバーストをコピーインストールさせた者とした者はお互いを親と子と呼び密接な関係で結ばれるほどだ。

 

レベル4から解放されるコンテンツにはBPを稼ぐ手段も有るが、そこから得られるBPは極僅かで、

基本的にブレイン・バーストのプレイヤー達は対戦によりBPを奪い合い、他のプレイヤーを徐々に全損へと追い込む事でレベルを上げていく。

このようなゲームシステムでは、プレイヤーの数は横這いを続けるのがやっとだろう。

 

このゲームは何処の店でも取り扱われておらず、大人たちはその存在を知りもしない。

もしも知っていたらブレイン・バーストはすぐさまニュースとして取り上げられ、警察はその存在を取り締まっていたかもしれない。

何故ならブレイン・バーストは2047年の都内全域に張り巡らされた防犯の為のソーシャルカメラ

ネットワーク――完璧なセキュリティに守られているはずのそれをクラッキングする事で、

現実と同じ構成の世界を作り出しているからだ。

 

そう、一つの世界を作り出している。

《加速世界》。

ブレイン・バーストのプレイヤー達、バーストリンカー達の精神が一千倍に加速された世界。

それはゲームでありながら、あまりにも大仰な技術の結晶だった。

 

ソーシャルカメラネットワークへの侵入もさる事ながら、

1000倍にも思考を加速するなど、2047年の東京においてもSFの領域だ。

誰が? 何故? 何のためにこんな事を?

バーストリンカー達は幾度と無くその疑問を投げかけ、しかし明確な答えは返らなかった。

 

真実は遥か遠く、今日もバーストリンカー達は恐ろしく精密に作られた世界で対戦を繰り返す。

 

 

現在のフィールドは《黄昏》ステージ。

戦場には鉄錆の臭気さえも漂っていた。

加速世界には光や音のみならず、匂いや味さえも存在する。

バーストリンカーは装着したニューロリンカーを通じて、意識の全てを加速世界に置いている。

五感全てでヴァーチャルリアリティ空間を感じる事ができるのはハードであるニューロリンカーの

機能だが、その機能をここまで使い切った仮想世界を作り出すソフトは他に存在していない。

バーストリンカー達は現実の腕を動かすようにアバターの腕を動かし、現実に見るようにして、

聞くようにして戦場を知覚する。

「いったあ……もうっ。なによ、こんな痛みっ」

当然その声も現実と同様に紡がれる。

《ピンク・ホッパー》の口から漏れたのはいかにも快活そうな少女の声だった。

そのピンクメタルの二の腕には、浅い引っかき傷が走っていた。

ピンク・ホッパーのHPゲージは僅かに減少し、そのダメージを示している。

しかしピンク・ホッパーはHPゲージを何度も確認し、どうにも納得がいかない様子で首を振る。

「ここ、ほんとに《通常対戦フィールド》よね。この痛みはあなたのアビリティって事かしら?」

そうして、目の前の対戦相手に疑問を投げかけた。

 

加速世界において、バーストリンカー達の五感は現実と遜色なく働いている。

ただ一点、痛覚を除いては。

全感覚を没入して楽しむ対戦ゲームという性質上、痛みの感覚はかなり弱く設定されているのだ。

現在対戦しているフィールドとは別の、《無制限中立フィールド》と呼ばれるエリアでは二倍に

設定されるが、それでも現実より幾分か鈍い痛みしか生まないはずだった。

ニューロリンカーで現実と同じ痛みを生み出そうとすれば、ブレインバーストの設定以前に、

ニューロリンカーにデフォルトで搭載されている痛覚遮断機能《ペインアブソーバ》を切り、

その上で痛覚のゲインを目一杯上げる必要が有る。

しかしあろうことかピンク・ホッパーがかすり傷から感じた痛みは、現実にかすり傷を負った時と

同じくらいの痛みだったのだ。

 

その痛みをもたらしたのは当然ながら、現在ピンク・ホッパーと向き合っている対戦相手だ。

メタリックなヘルメット状の頭部が、《黄昏》ステージの美しい夕焼けをぼんやりと映し出す。

夕焼けに染まる元の色は……銀色。

 

いや。

その色は銀というには随分と曇り、くすみを帯びていた。

灰色、というべきだろう。淡く発光する鈍色のフォルムは中性的で、両手の腕だけが僅かに大きく

その爪はギザギザに尖っている。

人影の頭上に表示されているアバターネームは、アセニック・クロー【Arsenic Claw】。

殆どのアバターが金属質な体を持つブレインバーストだが、その中でも名前に色ではなく金属名を冠された分類、《メタルカラー》に属するアバターだった。

メタルカラーは目立った固有武装を持たず、概ね人型の体を持って生まれてくる事が特徴で、

多少アンバランスでは有るが緑系のアバターと同じく防御に秀でたパラメータを持っている。

しかしそれはメタルカラーの全てが基本的な格闘一辺倒である事を意味しない。

もちろん格闘一辺倒の(それ故に強力な)メタルカラーも存在しているが、

貴金属よりのメタルカラーはむしろ特異な性質、アビリティを持っている事が多いのだ。

例えば“加速世界唯一の完全飛行アビリティ”を持つアバター、《シルバー・クロウ》のように。

アセニック・クローは見たところ卑金属寄りに見えるが、これはあくまで傾向だ。

今、目の前に立つアセニック・クローが特殊なアビリティを持っていてもおかしくはない。

恐らくは痛みに関するアビリティだろう。

痛み、というプレイヤーに向けられた能力は対戦ゲームとして異質に思えるが、

加速世界に君臨する七人の王の一人、青の王ブルーナイトなどは《痛覚遮断(ペインキラー)》

アビリティを所持している。

ブレイン・バーストにおける痛みは、大昔の対戦ゲームで言えばヒットバックや気絶値と言われる数値に当たるのだろう。

 

「ゾッとしないわよ。まさか腕を折られたら現実で骨折する位に痛いんじゃないでしょうね」

 

そうは言いつつも、恐らくそれはないと当たりをつけていた。

ニューロリンカーの基本機能で制限されているのだから、痛みの上限まで変わるわけがない。

『小さなダメージを受けた時に大ダメージを受けた時並の痛みを出力する』アビリティだろう。

もちろんそれでも、ブレインバーストのもたらす最大激痛はかなりのものだ。

ピンク・ホッパーはその痛みを想像するだけでうんざりとした気持ちになった。

それでも負ける気はしない。

 

「ま、そんなダメージ受けてやるつもりはないんだけど」

 

何故ならピンク・ホッパーはその愛らしい名前とは裏腹にレベル7という高レベルにあるからだ。

それに対してアセニック・クローはレベル4でしかない。

レベル差の補正により、ピンク・ホッパーが勝利しても殆どポイントを得られず、

逆に敗北すると大量のポイントを奪われるイヤな試合ではあったが、

それだけのレベル補正が設定されるのには、それだけの有利不利の差が有るからに他ならない。

《同レベル同ポテンシャルの原則》。

バーストリンカーのアバターは、同レベルにおいて、総合的には同じ性能を持つという経験則。

これを逆に言えば、レベル差が開けば総合力に差が生まれ、相当のプレイヤースキルや有利な相性が無ければ埋まらない事を意味する。

 

しかし言うまでもなく、プレイヤースキルはプレイ時間を重ねる事によって上達する。

そしてブレインバーストで高レベルに到達するのには膨大なプレイ時間を必要とする。

殆どの場合、デュエルアバターのレベルはプレイヤースキルにも比例しているのだ。

少し前に受けたダメージもレベル差の余裕から小手調べに苦手な格闘戦に乗ったからにすぎない。

ピンク・ホッパーの得意とする戦い方に切り替えれば、アセニック・クローの攻撃機会はあと一回しかないだろう。

 

それに初手で放たれたアセニック・クローの斬撃は予想以上に鋭く速い物だったが、

受けたダメージ自体は予想の範疇でしかなかった。

幾らアセニック・クローの攻撃がダメージに数倍する痛みを与える物だったとしても、

倍近いレベルを持つピンク・ホッパーの装甲を貫いて与えられるダメージは小さく、出力される

痛みもそれ相応に収まる。

仮に次の攻撃を腕でガードし損ねて胴体や首に喰らったとしても、高レベルに至るほど百戦錬磨で

同レベルやそれ以上の攻撃を何度も受けた事のあるピンク・ホッパーの集中力を致命的に乱すほど

のヒットバックが発生する事は無いと断言できる。

 

「それにしてもあんた、アセニックってメタルカラー……よね?

 アセニックってどういう金属だったかしら?」

 

そこまで自分の優位を確信しながらも、ピンク・ホッパーは不快感を滲ませていた。

幾ら正当な能力だとしても、相手に激痛を与えるアビリティが不快な事に変わりはない。

初撃の鋭さからすれば、ピンク・ホッパーが自分の得意な戦い方に切り替える隙にもう一撃程度は受けるかもしれない。

これからもう一度、かなり痛い目に遭わされるかもしれない相手を好きになれるはずがない。

 

「なんとか言いなさいよ。別にお茶会を始めようってわけじゃないのよ」

 

しかもこのアバターと来たら、こうして睨み合っていてもうんともすんとも言わないのだ。

こういう無口なバーストリンカーは時々見かける。

ここまでだんまりな相手は珍しいが、対戦に集中して軽口に乗らないプレイヤーは少なくない。

ただ、ピンク・ホッパーはそういうノリの悪い奴が嫌いだった。

そして何より。

 

「……そっちから対戦を申し込んでおいて何よ。もうっ」

 

この対戦が向こうから仕掛けられた物だ、というのが気持ち悪かった。

対戦を申し込む時に相手のレベルは見えるのだ。

3レベルも差が有る相手に仕掛けてきたのだから、よっぽどチャレンジ精神旺盛な奴に違いない。

それなのにこの寡黙さ。嫌らしいがレベル差が大きいと効果を半減するアビリティ。

ひどく不気味だった。

だから不安を振り払おうと、声を張り上げて宣言した。

 

「いいわ、あたしの声を聞けるのはここまでよ。ピンク・ホッパーの名の理由を見せてあげる!」

 

両腕、両足、頭部から垂れる背部の二点。

計六箇所に及ぶバーニアを噴射した瞬間、予想通りアセニック・クローは距離を詰めてきた。

「――――シッ!」

鋭い呼気と共に鋭利な爪を束ねた貫手が、槍のように放たれる。

その剣先はピンク・ホッパーのガードを掻い潜り脇腹に突き刺さり。

 

そこからは全て、ピンク・ホッパーの予想通りだった。

脇腹に受けた傷からは激痛が走ったものの、それでもバーニアを正しい向きで噴射し、

アセニック・クローをジェットで焼きながら斜め上方へと跳躍した。

迫る後方のビルの壁。そこに脚を叩きつけて横向きに着地し、更に跳躍する。

その際に足のバーニアから噴出するジェットがビルの壁面を破壊する。

そうして右に左に縦横無尽に跳躍し、瞬く間に、現実なら雑居ビルの屋上にまで到達した。

 

ピンク・ホッパーの特性は短距離の跳躍だ。

短距離といってもそれはある長距離跳躍アバターと比較した物で、ひとっ飛び十数mは軽く飛ぶ。

それを連続で繰り返す事で障害物の多い空間を立体的に制する事ができるのだ。

ブレインバーストの戦場は対戦が開始された時の現実世界の空間構造をモデルにして作られる。

バーストリンカー達は都内で生活する小学生から中学生の子供であるから、

自然と対戦を申し込まれるのは市街地であり、ステージの殆どは立体的な物になる。

《壁面走行》を始めとする立体的移動スキルはどれも有用な物として認識されていた。

 

しかもピンク・ホッパーの連続した跳躍は小刻みかつ不規則、急激に進行方向を変える。

これは鋭角の方向転換が落下の危険を伴う《壁面走行》アビリティには無い強みだった。

高所に上がる事は遠距離攻撃の貧弱な近接攻撃系アバターに対して圧倒的優位になる反面、

《遠隔の赤》を中心とする《遠隔攻撃系アバター》に対して格好の標的になる事が普通だ。

だがピンク・ホッパーの動きは縦横無尽で一跳躍毎に軌道を変える。

遠隔の赤でもピンク・ホッパーの動きを捉えられるアバターはごく僅かだった。

その上に。

ピンク・ホッパーの強みは、更にその上にある。

 

「これで、終わりよ! 《メルヘンチック・エクスプロージョン》!!」

 

雑居ビルの屋上縁からアセニック・クローを見下ろして、高らかに必殺技名をコールした。

頭上に輝いていた必殺技ゲージが一瞬で消費される。

 

ブレインバーストの必殺技ゲージは自分がダメージを受けるか、あるいは何かを壊す事でチャージされていく。

アセニック・クローに二度の攻撃を受けはしたがそれによりチャージされたゲージは僅かな物だ。

痛覚を増幅するアビリティにより痛みこそ大きかったがゲーム内のダメージは小さな物だからだ。

それならどうしてピンク・ホッパーは必殺技を発動できるのか?

ピンク・ホッパーの半身である基本強化外装《ボムバーニア》の強みはそこにもある。

屋上まで上昇する為に壁を蹴るようにして噴射をぶつけたビルの側面は、蹴りとバーニアの噴射によりボロボロに破壊されていた。

ピンク・ホッパーのバーニアはジェット噴射による攻撃判定を併せ持つ攻移一体の武器なのだ。

そこから放たれるジェット噴射はボム、爆弾の名の通り、強烈な爆風。

連続跳躍の時は推進力を最大に得るため蹴りを重ねて至近距離にぶつけているが、本来は面制圧用の遠隔攻撃武器である。

 

そう、遠隔攻撃。

ピンク。彩度こそ淡いが、それ以外には全く混じりけの無い《赤系》のカラー。

ピンク・ホッパーは純度の高い《遠隔の赤》のデュエルアバターでありその必殺技は遠隔攻撃だ。

 

六基の《ボムバーニア》が角度を変え、アセニック・クローの居る路上に向けて爆風を噴射した。

吹き荒れる爆風は瞬く間に路上を埋め尽くす嵐となり見る見るうちにアセニック・クローのHPバーを溶かしていく。

すぐにライフは0になりピンク・ホッパーの眼前に【YOU WIN!!】メッセージがポップアップした。

 

遠隔攻撃ですら捉えらずらい立体機動により高所を確保し、

それに伴いチャージした必殺技ゲージを使った逃げ場の無い遠隔必殺攻撃で対戦相手を封殺する。

これこそピンク・ホッパーが高レベルに至る過程で完成させ、

彼女の勝率を跳ね上げた勝ちパターンである。

 

          * * *

 

「い……たあ……っ」

ピンク・ホッパー、夕園美珈は対戦を終えて現実に戻っても残る痛みに、思わず脇腹を押さえた。

ブレインバーストの対戦後にはたまに有ることだ。

手足の一本や二本吹き飛ばされて敗北した時、ブレインバーストは結構な痛みを発生させる。

現実より弱いとはいえ、痛みが通常の二倍の無制限中立フィールドで死んだ時の激痛はしばらく

対戦を躊躇した程だ。それに比べればアビリティにより増幅されているとはいえ、今回の痛みは

大した物ではなかった。傷を受けたのが対戦が終わる直前だったせいで尾を引いているだけだ。

なにせ脇腹を刺されてからビルを駆け上り必殺技でアセニック・クローを焼きつくすまで、三十秒と掛からなかったのだ。

「もう。イヤな特性だけど虚仮威しもいいとこね」

アセニック・クローは《メタルカラー》だった。

メタルカラーは元となった金属により性質が違うが、大抵の場合、切断・貫通・炎熱・毒攻撃に対する耐性を持つ。

反面腐食攻撃に弱い事が多く、特に対戦格闘ゲームとして打撃耐性が低いのは大きな弱点となる。

ピンク・ホッパーの《ボムバーニア》から噴出されるジェット気流は言うまでもなく《炎熱攻撃》であり、《衝撃属性》も持つ。他に収縮させて《切断属性》にする必殺技も有るが、先ほど使った必殺技は基本となる《炎熱攻撃》だった。

一撃で倒せなくても良い、必殺技ゲージを貯めながら畳み込もうと思ったのだ。

面制圧火力の高い必殺技は、地形ごと敵を攻撃する事により必殺技ゲージをループさせられる強みを持っている。

ところが3レベルというレベル差の為か、それともアセニックの金属性質が熱に強くなかったのか、

倒しきれないだろうと思った攻撃であっさりとHPを削りきってしまった。

肩透かしもいいところだ。

(そういえば、結局アセニックってどんな金属なのかしら?)

ふと興味を抱き、対戦中は使えない通常のアプリを起動して検索に掛ける。

すぐに検索結果が出た。

「……半金属? へえ、こんなのもメタルに含まれるんだ」

アセニックとは砒素。

卑金属と非金属の中間特性を持つ、半金属に分類される元素だった。

融点よりも沸点が低く、常圧では600℃程で融解する前に昇華する。

これより融けやすい金属も幾つか有るが、炎熱耐性はメタルカラーの中で低い部類に入るだろう。

アセニック・クローはこの性質とレベル差が原因で蒸発したに違いない。

美珈はそう納得すると、ううんと伸びをした。

 

6月23日、午後のショッピングに足を伸ばした日曜日。

ブレインバーストの世界には幾つも不穏な事件が起こっていたが、

それでも夕園美珈は、世界が終わる事なんて無いと思っていた。

今日も明日も、現実世界も加速世界も、日常も戦いも終わる事無く過ぎていくのだと思っていた。

 

「ねえ、そこの君」

 

涼やかな声。

振り返るとそこに立っていたのは中性的な少年だった。

「これ、落としたよ」

「え? ……あっ、ほんとだ。ありがと」

差し出されたのはお気に入りのハンカチだ。

手提げかばんの上の方に入れてはいたけれど、落とすとはうっかりしたものだ。

拾ってもらったハンカチをありがたく手に取る。

「この前に出たベッツィの新しいのだよね。可愛いな」

「あれ、分かるの?」

女子中学生にとって新しい服は高いし、そもそも学校では制服以外は校則違反になってしまうから小物でオシャレする。

最近の流行りはブランド物のハンカチで、これならお小遣いでも気軽に手が届く。

夕園美珈が落としたのは女子の間では隠れた人気の、ちょっぴり大人っぽいハンカチだ。

でも男の子にそういうのがわかるとは思えないのだけれど。

いやこんな美少年ならオシャレにも気を使っているのだろうか。よく見ると小物は繊細で……。

少年はくすっと笑って言った。

「うん、わかるよ。ボクはこういう男の子みたいな服しか似合わないけどね」

あっと思った。

「わかった?」

「うそ、女の子なの!? そんなにかっこいいのに」

「お褒めの言葉光栄です、お姫様。なんてね」

大仰な仕草でお辞儀をしてみせる。

その動作は芝居がかっていたけれど洗練されていて嫌味がない。

「折角だしお茶でもいかが? もちろん時間があればだけど」

「何よ、ナンパ?」

「イヤかな?」

「良いわ、乗ってあげるわ、王子サマ」

楽しげに笑って、手を取った。

 

女の子同士の姦しいおしゃべりだ。

良い気晴らしになると思っていた。

 

だけど、訪れたのは。

 

 

 

 

 

 

まどろみ。

 

 

 

白い、霧のような意識の向こうでなにかが音を鳴らしている。

電子音が声高に叫んでいる。

夕園美珈にはわからなかった。今が何で、何処で、どうなっているのか。

薄ぼんやりとした意識の向こうで声がする。

聞き慣れた声。いや、音だ。何が?

システムの音だ。

ブレインバーストのシステムメッセージが表示される時の効果音。

電子的に合成された、意味を伝えるだけの無機質な叫び。

【…………!!】

【…………!!】

うるさいなあという思いの後に。

意識が警告を鳴らした。

【……LOSE!!】

ロス。

負け。

敗北。

この目に映るフォントは、なんだ?

【HERE COMES A NEW CHALLENGER!!】

ついさっき表示された文字は?

そう、たしか【YOU LOSE!!】。

あなたは負けました。

 

「!?」

【FIGHT!!】の文字が表示されるのとほぼ全く同時に。

咄嗟に、ボムバーニアを噴かせた。

 

体が宙に跳ね上がる。

加速感に続けて浮遊感が訪れる。

後ろに向けて、跳んでいる? 長年の条件反射で咄嗟に左手を伸ばした。

がこんっと腕からとんでもない衝撃が走る。記憶が閃光のように突き抜ける。

黄色系と対戦し、煙幕で視界を封じられた中で跳躍して腕から壁に着地した瞬間の事を。

夕園美珈は、いや、ピンク・ホッパーは文字通り本物の手足の機能であるように左手のバーニアを噴かした。

そのまま勢いを横に逃し、目の前に迫る窓枠の縁に右足を掛けて上に跳ぼうとして。

空振りした。

「んなっ!?」

現実世界なら雑居ビルの三階、窓ガラスが有った場所を突き抜けてピンク・ホッパーはビル内に

転がり込む。

咄嗟に受け身を取って衝撃を吸収し、立ち上がろうとしてまた転ぶ。

「なん、でよっ」

まるで床に穴でも空いたようだ。

頭上に向いた視線には無機質なライフバーが映る。

ピンク・ホッパーのHPゲージは、半分にまで減っていた。

おかしい。

全身が壁にぶつかる衝撃を左手で受け止めたとはいっても、こんなにダメージを負うわけがない。

 

そこまで考えてようやく、右足が無くなっている事に気がついた。

 

「…………!?」

 

跳躍する前に攻撃を受けたんだ。そう考えてすぐに有り得ないと思う。

今、ピンク・ホッパーは【FIGHT!!】の文字とほぼ同時に跳躍した。

どんな対戦相手だろうと開始直後にこんなダメージを与える事なんてできない。

それは遠隔攻撃を得意とする赤系でも例外ではない。

 

何故ならブレインバーストの対戦開始直後には僅かな無敵時間が存在するからだ。

それは対戦開始と同時に、対処をする間も与えず遠隔攻撃で相手を封殺できないようにする為だ。

【FIGHT!!】の文字が消えてから数秒間、ほんの僅かな間だけ、デュエルアバターのHPバーは保護されている。

通常の対戦はお互いに数十~数百mも離れて始まるものだから、気づく事など滅多にない仕様だ。ピンク・ホッパーもお互いにリアルを知る《親》とXSBコードで繋いだ直結対戦をした時に、冗談交じりに奇襲を掛けた時に偶然知った仕様だ。

 

だが現実にピンク・ホッパーの右足は対戦開始の無敵時間中に失われ、大ダメージを受けていた。

一体どこのアバターならこんな事ができるのか。

対戦相手の名前を確認したピンク・ホッパーは思わず絶句した。

《アセニック・クロー》。

ついさっき対戦した謎のデュエルアバターの名がそこにあった。

 

これも通常なら有り得ない事だ。ブレインバーストでは、一日に一回しか同じ相手に乱入する事はできないのだ。

例外は一つだけしかない。

《直結対戦》。

現実に装着しているニューロリンカー同士をXSBケーブルで直結した状態でのみ可能な対戦方法。

対戦モードは自動的にクローズドになり、対戦中のアバターを観戦登録しているバーストリンカーにも見られない。

これを使うのは主に親と子の練習試合、あるいは。

 

「《物理攻撃者(フィジカルノッカー)》……!?」

現実のプレイヤーを拘束し、直結対戦を強要し、不利な条件で連続敗北を重ねさせポイント全損に追い込む犯罪者の手口。

自分はそれに襲われてしまったのだ。

夕園美珈/ピンク・ホッパーは慌ててインストメニューを開き、アバター情報から所持ポイント量を確認する。

すぐに、これまでで最大の驚愕と恐怖に襲われた。

「な、なによこれ! ウソでしょう!?」

 

バーストポイント、残り13ポイント。

 

同レベル対戦でならギリギリで残る。

しかし1レベル低い相手に敗北すれば、それだけで全損してしまうポイント量。

そんなはずはないと叫びたかった。

ついさっきまで、ポイントは1000近くも温存してあったのだ。

確かに直結対戦では加速状態のまま乱入操作が可能なため、現実では僅かな時間で連続対戦を行う事ができる。

しかし一体何度連続で敗北すればこんな事になるのか。

ブレインバーストの対戦は、ダメージの際に苦痛が伴うのだ。

何度も何度もライフを0にされるまでの間、全く目覚めないなんてことあり得るわけがない。

痛みもなく何度も敗北するなんて、そんな、こと。

 

気づいた。失われた右足の断面に手をやった。

そこは恐ろしく鋭利な刃物で切り裂かれたように滑らかで、ぱらぱらと銀色の粉が付着していて。

部位を欠損するほどの大ダメージを受けているにも関わらず、全く痛みが出力されていなかった。

 

「どうして!? どうしてよ!!」

「どうして、だろうね」

 

ハッと振り向くと、窓の外にアセニック・クローが立っていた。

その無機質な眼差しには、露骨なほどに深い悲しみが滲んでいる。

「あんた……!!」

「外の世界では、十秒足らずさ」

ピンク・ホッパーの恐怖と怒りの視線を受けながら、アセニック・クローは淡々と言葉を紡ぐ。

その声は果たして、ついさっき街頭で出会った“王子サマ”。

初見では美少年にも見えた、男装の麗人の声に違いなかった。

「効能は短いけれど、その分、少しの間だけ深く意識が飛ぶお薬を振る舞ったんだ。

 みんな一分間だけ夢うつつ。その間に全て終わらせよう。

 毒りんごをかじった白雪姫に、王子のキスが届く前に終わらせよう。

 どれだけ意識が加速されても、体が眠っていれば起きる時間なんて有りはしない。

 そのはずなのにね」

裏切られた。

騙された。

最初から狙って近づいた。

それなのに声は今でも優しくて。

甘くて。

おぞましいまでの労りに満ちていた。

「それでも時々、君みたいに目を覚ますんだ。

 終わっても肉体は眠ったままなのに、デュエルアバターとしての精神だけが目を覚ます。

 やっぱり、デュエルアバターの精神は肉体とは別のところに有るんだろうな」

「何を……言ってるのよ……」

ピンク・ホッパーはカラカラに乾いた喉で息を飲み込んだ。

アセニック・クローは、空に立っていた。三階の窓の外の空中に完全に静止していた。

そんな真似が出来るのは唯一無二の《飛行》アビリティを持つアバターだけだと思っていたのに。

全身を淡い光に包まれているだけで、翼も無く、バーニアも無く、平然と。

静かに。

アセニック・クローが、空中で歩を進めてくる。

「ごめんね。そんなに恐がらせるつもりはなかったんだ」

その歩みは自然で、よく注意していないと見落としてしまいそうだった。

それなのに凝視していると距離を見失ってしまいそうだった。

「痛みも恐怖も与えないつもりだったんだ」

アセニック・クローを包む淡い光は柔らかに明滅し、距離感を喪わせていた。

ピンク・ホッパーは必死に目を凝らし。

五歩。

四歩。

三歩。

二歩……いや、一歩……!

「ほんとうに、ごめんね」

「《ロマンチック・フォトンソード》!!」

ピンク・ホッパーは叫んだ。

右足を失う程の大ダメージによりチャージされていた必殺技ゲージが消費される。

右手のバーニアの噴出口が細く狭まり桃色の光が噴き出し光の剣となる。

そして同時に右手に猛烈な推進力を与え、目前数メートルを薙ぎ払った。

必殺技発声から、文字通りの一瞬。

高レベルの遠隔の赤であるピンク・ホッパーが接近された時の奥の手。

射程はピンク・ホッパーの攻撃手段としては短いが、その分、威力も速度も相当な物だ。

属性は切断及び高熱とどちらもメタルカラーが耐性を持つ属性だったが、より威力の弱い

《メルヘンチック・エクスプロージョン》で蒸発したアセニック・クローが耐えられる筈は無い。

消費するゲージ量とレベル差は特性を捩じ伏せHPゲージを霧散させる筈だった。

その筈だった。

なのに。

 

「…………え?」

 

アセニウムクローのHPゲージは、1ミリも減っていなかった。

鉤爪の光るアセニウムクローの腕が突き出され。

そこから伸びた光るモヤのような物が、ピンク・ホッパーの胴体中央を貫いた。

 

痛みは無かった。

だけどHPゲージは物凄い勢いで減り、考える間もなく空っぽになった。

 

「まさか……これが、ISSキット……」

「違うよ。……ううん、そうだね。同じものだよ」

 

つい最近流通し始めた怪しい装備の名前。

その否定と肯定の意味を理解する余裕なんてなかった。

ただ、思考が、真っ白になっていた。

 

視界が光に包まれる。

全てがピンク色の光の粒子に溶けていく。

 

「あんた……なにもの……」

 

声が、途切れて。

 

「《処刑人》……スーパーノヴァ・レムナント」

 

音だけが、返って来て。

 

(うそ……それは今週に壊滅した…………)

 

思考が。

 

全部。

 

閃光。

 

消えて。

 

………………。

 

 

     * * *

 

夕園美珈は、喫茶店で舟をこいでいる自分に気づいた。

目の前には食べ終えたケーキの皿とミルクコーヒーの空きカップ。

ミルクコーヒーには多めに砂糖を入れた気がするけれど、綺麗に溶けてカップの底が見えている。

肩を揺さぶっていた綺麗な少年はにこりと微笑み、お題は払っておくねと言って去っていった。

(ううん、少年じゃなくて少女だっけ)

そういえば連絡先も聞いていない。

名前もミサキさんという愛称だけだ。

割と楽しくおしゃべりできたから少し勿体無い気がする。

(まあいいや、次に見かけたらこっちから話しかけようっと)

ううんと伸びをする。

 

ショッピングはできたし、楽しいおしゃべりもできたし、充実した午後の一時だった。

そろそろ家に帰るとしよう。

 

夕園美珈は弾む足取りで家路についた。

 

ピンク・ホッパーは帰らない。

もう、どこにも居ないから。

 

 

 

その後ろ姿を見届けて、アセニック・クローことミサキは密やかに安堵の息を吐いた。

今回も完璧にやり遂げた。

その達成感と寂寥感を知るものは彼女自身しか居はしない。

彼女の仲間、というには語弊のある関係だったが、レギオンはつい数日前に壊滅してしまった。

だから彼女は今、一人だった。

本来多人数で安全に行うはずの行為も、一人で行えば様々なリスクに神経を擦り減らす。

それを一人で成し遂げた事に胸を撫で下ろし、仕留めた標的に背を向けて歩き出したその矢先に。

 

バシイイイ!!

 

彼女には慣れ親しんだ、加速世界への突入音が鳴り響いた。

乱入だ。

表示される対戦者のアバターネームを見て、アセニック・クローは薄く笑みを浮かべる。

 

シアン・パイル。

つい先日、レギオンメンバー達が襲撃して返り討ちにされた、標的の名前。

 

【FIGHT!!】の文字が青く染まる視界に踊った。

 

 

 

 

 

 

 

――シアン・パイルは問いかける。

 

「君たちは一体何のために存在しているんだ!?」

 

――アセニック・クローは問い返す。

 

「金のため。その答えに疑問でも有るのかい?」

 

シアン・パイルの放つ疑問が、最悪のPK集団スーパーノヴァ・レムナントの欺瞞を穿つ。

 

 

 

 

 





・ワンポイント

>「それでも時々、君みたいに目を覚ますんだ。
 終わっても肉体は眠ったままなのに、デュエルアバターとしての精神だけが目を覚ます。
 やっぱり、デュエルアバターの精神は肉体とは別のところに有るんだろうな」

原作一巻のあの場面で、あの人物が丁度あの瞬間に目を覚ましたのは、
現実世界の眠れる脳が1.8秒間で奇跡的に回復したのではなく、
加速世界の精神が戦いを観戦し加速していた為なのでしょう。


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(2)対戦【Cyan Pile】

>修正点:2015/06/23/20時頃
・タクムは七王会議に同席していないのでその点を修正
・原作六巻で語られていた労働基準法改正絡みを加筆・修正。
・原作十八巻の戦区図を参考に微修正(新宿第三戦区)



 

黒のレギオン、ネガ・ネビュラス所属。

黛拓武ことタクム。デュエルアバターは強化外装・杭打ち機を持つシアン・パイル。

 

タクムは四日前、六月十九日の水曜日に加速世界最悪のPK集団《スーパーノヴァ・レムナント》の襲撃を受けた。

原因は未だはっきりしていない。

同じネガ・ネビュラスのメンバーにして親友であるシルバー・クロウ/有田春雪が狙われている、という話は耳にしていた。

シアン・パイルがネガ・ネビュラスの前に所属していたレギオン《レオニーズ》の一部の者達が、

シルバー・クロウを現在流通している加速世界を揺るがす禍々しい強化外装、ISSキットの製造元であると疑い、《粛清》を叫びPK集団への依頼をしようとしているという噂話だ。

その実態を掴もうとしてタクムは《レオニーズ》に居た頃の信頼できる人物に接触した。

正しくは信頼できると思っていた相手に接触した。

 

しかしタクムは裏切られ、スーパーノヴァ・レムナントの《物理攻撃》を受ける事となった。

ナイフをちらつかせる少年達にアミューズメントセンターのダイブブースに押し込まれ、一対四の圧倒的不利な戦いを余儀なくされた。

言うまでもなく、勝ち目など無いはずだった。

シアン・パイルは未だ中堅であるレベル5であり、ブレイン・バースト究極の秘技である心意技も未熟だった。それに対してスーパーノヴァ・レムナントの四人組は全員が高レベルであり、強力な負の心意技まで会得していたのだ。

一対一ですら勝ち目が有るか怪しく、四人がかりでは一片の勝機すらない。

一方的に叩きのめされてポイント全損に追い込まれるはずだった。

 

しかしシアン・パイルはレムナントの四人を返り討ちにした。

 

それはタクムが調査のために入手していた、ISSキットの力によるものだ。

ISSキットは装着した者にダークブロウとダークショットという二種類の負の心意技を与える。

更にある特性を持つデュエルアバターにはより深く結合し、本来のアバターの特性と融合増幅した強大な負の力を与えるのだ。

シアン・パイルのデュエルアバターは偶然にもその特性を備えていた。

現実世界における暴力と脅迫をも厭わない負の心意の使い手達を蹂躙したのは、

加速世界を汚染する負の心意の結晶体から引き出された破壊の力だったのだ。

 

そうしてレムナントのメンバーを叩きのめしたタクムは痛覚が通常の二倍に設定される無制限中立フィールドの戦いであった事を利用し、噴き上がる憎悪のままに痛めつけ、苦しめ、拷問に掛け、レムナントの持つPKの情報を引きずりだした。

負の心意に呑まれるままに、いや自ら流されて荒れ狂った暴虐の嵐は、他の誰かに言わせれば至極当然の正当防衛で、やられたPK達は相応の報いを受けただけということになるのだろう。

しかし紆余曲折の末に落ち着きを取り戻したタクムにとっては、誰が赦そうとも己自身が赦せない悍ましい記憶だった。

それでも、憎悪に流されながらも尋問という選択をしていたのは彼が彼である所以と言える。

そしてタクムは知ることとなる。

レムナントのリーダーのアバター名、アセニック・クロー《Arsenic Claw》を。

 

友人の有田春雪には、近くに居た通りすがりのエネミー狩りグループの前で全て自供させたと話していたが、実を言うとここには一つ話さないでいた事実があった。

憎悪に流されながらも一筋の理性で、直前に吐かせたリーダーの名を伏せさせたのだ。

レムナントのリーダーであるアセニック・クローを泳がせる危険は分かっていたが、それでも確認しておかなければならない疑問が有ったからだ。

その疑問は六月二十三日の日曜日、午後二時から行われた七王会議の話を聞いて確信に変わった。

アセニック・クローには何か秘密が残っているのだと。

 

その数時間後、千代田区の隣の新宿区でアセニック・クローを発見できたのは引きずり出した情報によるものだ。正確な日程は不明だがそこに現れるかもしれない、というだけの情報だ。

その情報を頼りに新宿区を訪れ、何度も加速して、週末の対戦のメッカである事から数十と並んだ対戦者リストを確認した。何度か野良対戦を申し込まれもした。

その末に何度目かの加速でアセニック・クローの名を見つけたのだ。

恐らく、こまめに接続を切っていたのだろう。対戦者リストに乗る相手はその瞬間に加速しているわけではない。そのエリアのグローバルネットに接続しているバーストリンカー全ての名が載る。

逆に言えば、対戦を仕掛ける時だけグローバルネットに接続するようにすれば、相手から対戦を仕掛けられる事は格段に減る事になる。

もちろん対戦相手や観戦していたギャラリーは対戦直後も加速状態に有るわけなので、接続を切る間も無く雪辱戦を申し込まれる事も有るわけだが、減る事は間違いない。

そうして安全な時間を確保しなければ、バーストリンカーは自転車等に乗れなくなってしまう。

 

しかしニューロリンカーは日常ふとした場面でもグローバルネットに接続する必要がある。

お店で買物をするだけなら店のローカルネットと繋ぐだけで良いかもしれない。

だが例えば、ニューロリンカーにチャージした電子マネーの金額が足りなくなって、口座から引き落としてチャージしようと思った時。

そんな何気ない間隙に、グローバルネットへ繋ぐ事があるのだ。

その瞬間、あるいは繋いだままのその直後、デュエルアバターの名は対戦者リストに曝される。

 

 

タクムはすぐさまその名前、アセニック・クローに対戦を申し込んだ。

そして対戦ステージに降り立つやいなや、インストメニューから追加のコマンドを打ち込んだ。

《クローズド対戦モード》。

タクムがISSキットを入手する際にも使用した、観戦プレイヤーを遮断する対戦形式だ。

相手も分かっているのだろう。すぐに承諾が返り、出現しかかっていた観客たちを遮断した。

 

対戦相手リストに名前を見つけた、といってもすぐ目の前に居たわけではない。

加速世界における新宿区は更に第一~第三戦域に区切られているが、アセニック・クローを見つけた《新宿第ニ戦域》は十平方km近い面積が有る。

その同じ戦域に居たのだ。対戦を開始した時点での距離は一km余りといったところだろう。

対戦相手の方向を示すガイドカーソルはゆっくりと動き、街の角から、そのアバターは現れる。

アバター名はアセニック・クロー。

加速世界最悪のPK集団スーパーノヴァ・レムナントの生き残りにして、リーダーだ。

タクムは、その銀にも似た灰色のメタルカラーとクローという名に一瞬友人のアバターを想起し、

連想してしまったというそんな些細な事にすら僅かに罪悪感を覚えた。

 

「熱烈なお誘いだね。ボクに何か用かな、ネガ・ネビュラスの参謀役」

「しらばっくれるな。僕は君の正体を知っている」

開口一番切り込んだ。

タクムは既にレムナントのメンバーから、目の前のアバターがリーダーであると聞いているのだ。

おためごかしなど通用しない。

「スーパーノヴァ・レムナント。《処刑人》を気取る加速世界最悪のPK集団。

 加速世界で忌み嫌われる《物理攻撃者(フィジカルノッカー)》達の中で唯一グループ名を

 公表し、バーストポイントではなく現実世界の日本円で依頼を請け負うのが君達レムナントだ。

 ブレイン・バーストを単に金を稼ぐ道具として使う犯罪者集団だと恐れられている。

 アセニック・クロー。

 君もレムナントのメンバーに、レギオンマスターではなくリーダーと呼ばれていた。

 君達にはバーストリンカーであろうとする意識すらないんだろう。だけどそれなら」

主導権を握ろうと続けざまに言葉を叩きつける。

断定的な言葉にも反論は無い。

そしてタクムは以前から気になっていた、最大の疑問を射出した。

 

「君たちは一体何のために存在しているんだ!?」

 

その疑問は正しく杭だった。

シアン・パイルから放たれる鉄杭の様に、アセニック・クローに向けて放たれた。

 

「金のため。その答えに疑問でも有るのかい?」

アセニック・クローからは当然とも言える答えが返ってくる。

タクムが今語った通り、スーパーノヴァ・レムナントは金儲け目的の集団だと考えられている。

日本円の振込により依頼を受けて、バーストリンカーをリアルで拘束し全損させる犯罪者集団。

しかし以前から考えていたのだ。

それは本当に、金目当てで成り立つ行為なのか。

その商売には、前提として致命的な部分が欠けてはいないか。

「僕を全損させる為に受け取った依頼料は幾らだ」

果たしてアセニック・クローは、何処か楽しげに、くすりと笑った。

「レベル4以上レベル8未満のアバターは一律一万円さ。良いお小遣いだろう?」

 

一万円。

それは大人が聞けば耳を疑う金額だっただろう。

正にお小遣いと言う程度の額でしかない。現実に法を犯す行為の依頼料としては破格と言える。

しかしバーストリンカーにとっては、違うのだ。

「その額でどの位に依頼が来るんだ」

「企業秘密……と言いたいところだけれど教えてあげるよ。平均すると一月に一回も無いね」

 

一万円が、安くないのだ。

つい数時間前の事だ。この新宿区に隣接する千代田区で、加速世界の趨勢に関わる七王会議が行われた。タクムはその場には居なかったが、レギオンマスターと親友から詳しい話は聞いている。

それはタクムの親友であるハルユキに寄生していた加速世界最悪の呪いが消滅した事を証明する場であり、また、加速世界を汚染しているISSキットの本体を破壊する為の作戦会議でもあった。

このままISSキットの拡散に手をこまねいていれば、ブレイン・バーストというゲーム自体が破綻しかねない。それは加速世界に生きる者達にとって認められない未来だ。

 

ISSキットの本体は、現実世界では《東京ミッドタウンタワー》の上層階に相当する座標に有ると

目されていた。加速世界側ではタワーにとてつもなく強力な門番が配置されており、攻略の目処が立つかもわからない段階だ。

だから現実世界でタワー内に入りそこからダイブして攻略する、という作戦も提案されたらしい。

しかしタワー上層階であるホテルへの入場料……宿泊料金が最低でも三万円いう事が語られると、皆一様に呻いたという。

バーストリンカーにとって、三万円というのは個人では用意する事さえ難しい金額なのだ。

一度目は偵察になるせいもあるが、加速世界の命運を掛けた正義の戦いの手段であっても、二の足を踏むほどに。

その会議に集まっていたのは七大レギオンの王や幹部たちであったから、カンパを募れば用意できただろうが、結局はバーストリンカーの誇りが提唱され、現金を利用した攻略法は廃案となった。

あくまで間接的なものでも、リアルマネーに頼る解決法はバーストリンカーにとって邪道である。

 

ブレイン・バーストは生まれた直後からニューロリンカーを装着していた者しかプレイできない。

ニューロリンカーが一般に販売されてからまだ十六年と二ヶ月しか経っていない。

その為バーストリンカーは小学生から中学生、年長でもせいぜい高校一年生でしかないのだ。

 

七~八年前、普通自動車免許の取得資格は十六歳に引き下げられ、労働基準法も改正されて十六歳からフルタイムの社員として雇用が可能になった。

だがそれでも多くの児童は高校へ進学するし、小学校はもちろんのこと、中学校でもアルバイトを許可している学校は多くない。

そもそも最年長のバーストリンカーが中学を卒業し始めてからまだ二ヶ月程度。半年前には高校生のバーストリンカーすら一人も居ない。

殆どの中学生にとって、現金収入なんてお年玉や親からのお小遣い程度。

交通費などは親から貰えても、自由にできる金額は極々僅か。

だから、たったの万札一枚さえも軽い気持ちでは動かせない大金となる。

 

加えて言うならバーストリンカーにとって現実世界の時間はとてもゆっくりと流れる物だ。

現実世界で一週間の間に加速世界で一月以上を過ごしていた、という事もままある。

そうなれば一月のお小遣いがもらえるのは感覚的に数ヶ月に一度、重みは何倍にもなる。

 

何よりもPKに依頼するならば、その一万円を自分一人で用立てなければならない。

加速世界内のルールに反するPK集団への依頼なのだ、誰の協力も得られない。

皆に協力を募りカンパで現金を集める事などできるわけがない。

 

それでも、分母が何万と居れば該当者は多かっただろう。

新生児にニューロリンカーを取り付けて育児に利用する親は、愛情の代替品として裕福な暮らしを与える事がある。現実世界で大金を自由にできるバーストリンカーは確かに存在する。

だがバーストリンカーの総数は東京都内の千人程度しか居ない。

その中で加速世界で忌み嫌われるPK集団に、更に忌み嫌われる現金支払で依頼しようと考える者はどのくらい居るのだろうか?

そう考えるバーストリンカーが大金を自由に出来る家の子供である可能性はどれ程だろうか?

 

その答えが依頼料一万円と、それでも多くないという依頼数なのだ。

 

「最初に話を聞いた時からおかしいと思っていたんだ。

 殆どが小学生や中学生でしかないバーストリンカー達には、日本円の支払い能力が無い。

 バーストリンカーを顧客にしてお金を稼げるはずがない。

 君達の商売は最初から破綻している!」

「言ったじゃないか、良い小遣いだって。その程度の気分なのさ。

 バーストリンカーにとって一万円は中々の大金だよ。ボクにとってもね」

尚も躱そうとするアセニック・クローに、シアン・パイルは追撃の言葉を緩めない。

「四人、君を含めれば五人のグループで? 一人当たり二千円の為にPKをしているというのか」

「そうさ、ボクはそんな奴らなんだ」

逃しはしない。

「《リアル割り》にどれだけの時間を掛け、交通費にどれだけの金額を掛けているんだ?」

 

アセニック・クローの返答が、止まる。

シアン・パイルは尚も追撃する。

 

「君達レムナントのリアルを逆に割ろうという試みは昔から有った。

 それなのに君達のリアルを突き止めた者は誰も居ない。

 レムナントが何処のエリアを根城にしているのかも分からなかったからだ」

「バーストリンカーは都内全域に分散している。

 その誰が標的になろうとも、君達はそのリアルを突き止め、PKを繰り返してきた。

 どんな技術でリアルを突き止めているのかは知らない。

 だけど最後にPKに移る時、必ず現実世界で集合する必要がある。往復の交通費が掛かるんだ」

「一人あたり二千円だって? その端金の大半も交通費で飛ぶだろう。

 君達に始末されたと噂されるデュエルアバターは都内の東にも西にも点在している。

 一月に一度、一人あたり数百円の為に、脅迫罪を犯すなんてまるで筋が通らない。

 幾ら加速でソーシャルカメラネットワークの死角が分かるからってリスクは有る」

「日本円の支払いはただの経費で、本当の目的はバーストポイントを楽に稼ぎ続ける為なのか?

 それとも単にスリルを味わうため? 色々と可能性は考えたさ。

 僕を拘束したレムナントの4人は一見するとそんな理由でも納得できる連中に見えた。

 だけど納得の行く答えは出なかった。何をどう考えてもあいつらが、君達レムナントが」

 

「高レベルプレイヤーにして強力無比な負の心意技の使い手だった事が説明できないからだっ」

 

矢継ぎ早に放たれた追求の杭が、レムナントの欺瞞を穿っていた。

 

 

 

 

 

心意技とは文字通りプレイヤーの心意、精神の力によりゲームデータを上書きする裏技である。

その性質上、習得には心意技を知るプレイヤーの指導と、精神の鍛錬によるイメージの深化……

つまりある種の修行を経なければならない。

その修業は主に《無制限中立フィールド》で行われ、習得まで一月以上掛かる事も珍しくない。

タクムは必要に迫られてそれよりもかなり短い期間で心意技を習得したが、心意技において習得は始まりでしかない。

常に一定の消費で一定の威力を発揮できるアバターの必殺技とは話が違う。

同じ心意技でも実戦を重ね鍛錬を積めば発動は早くなり、威力も上がり続けていく。

 

それがどういう意味か、シアン・パイルはレムナントの四人との戦いで身に沁みていた。

ISSキットを開封するまで、シアン・パイルは自ら会得した心意技で応戦を試みた。

未熟と自認してはいるが、かつて負の心意の使い手とまともに切り結んだ事の有る心意技だ。

その時の相手は掛け値なしに邪悪で、狡猾で、強力な使い手から心意技の手解きも受けていた。

図に乗るつもりは無かったものの、その戦いを経た自分なら少しは戦えると思っていた。

それなのにまるで刃が立たなかった。

レムナントの負の心意技の強さは、掛け値無しの本物だったのだ。

 

レムナントの四人のアバターが高レベルであるだけなら、PKにより全損に追い込んだ標的から

膨大なバーストポイントを奪い取ってきたと考えれば、理解できなくもなかった。

五人のグループで一月に一人以下というのはかなり少ない獲物だが、一定以上のレベルのバーストリンカーが貯めこんだポイントを奪い取るのだ、上手くすれば相当なポイントを奪い取れる。

そうして入手したポイントの大半をレベル上げに使ってしまえば、ポイントを《私用》に使う事も出来なくなり何のためにPKを続けるのか分からなくなってしまうが……不可能ではない。

 

しかし心意技のレベルはそんな温い環境では育たない。

負の心意は正の心意に比べて感情の暴走により急成長しやすい側面があり、正の心意の様に慎重な修行と使用を心がける必要は無いものの、誰でも強くなれるほど甘くはない。

強力な負の心意技を使いこなすには膨大な修練か、あるいは世界を塗り潰す程の激情が必要だ。

 

ナイフをちらつかせながらも本気で刺す度胸が有ったのか疑わしく見えた、まるでチンピラじみたレムナントのメンバー達。

彼らが持っていたのはそのどちらなのか。

タクムには分からなかった。

一体どんな理由でその片方でも手に入れていたのだろう。

 

レムナント達と実際に戦い、その実力を肌に感じながら生き延びた事により、

タクムは加速世界で唯一、レムナントの本質に迫る最大の疑惑を手にしていたのだ。

 

息の詰まるような、間が流れ。

 

カチ、カチ、カチ、カチ。

金属質の掌が打ち合わされて音を立てる。

アセニック・クローは、拍手をしていた。

自らに迫った敵に向けて賞賛の意思を示しているのだ。

 

「みごとだ、シアン・パイル……いや、黛拓武くん。よくそこまでボクの正体に近づいたね」

 

その声音にも素直な敬意が混ざっていた。

まるで恐れの無い声だった。

 

「それならボクの方からも君に向けて推測をさせて貰おうか。

 君が手に入れたボクのアバター名という切り札を公表していないのは、ボクが君の。いや、君達の《リアル情報》開示で対抗する事を警戒しての事だろうね」

タクムはアバターの奥で、緊張に身をこわばらせた。

バーストリンカーにとって《リアル情報》が公開されるのは致命傷になりうる。

やましい身でなかったとしても、レムナントのようなPK集団の標的にされかねないからだ。

最悪のPK集団はスーパーノヴァ・レムナントだが、レムナントだけがPK集団ではないのだ。

 

「ボクは少なくとも君をPKの標的に出来るだけのリアル情報を掴んでいた。

 《サドンデスルール》で対戦中のあの子達なら、何を叫び出そうと止めを刺せばいいだけだ。

 だけど君は、別行動中のボクが何かしでかす前に仕留められるか分からなかった。

 正体を公表されてもカウンターを仕掛けてくるのではないかと警戒していた。

 ボクがそう容易い相手では無いと気づいたからだ」

 

PKに対しては《リアル情報》でなくとも、PKであるという正体を公表するだけで強力な攻撃となりうる。PKとはバーストリンカー達にとって許されざるルール違反だからだ。

もし誰がPKであるかが判明すれば、無数のバーストリンカー達が一斉に対戦を申し込み、

猛烈な対戦の嵐で、瞬く間にバーストポイントを削りきってしまうだろう。

 

しかしそれを逃れる方法も皆無ではなかった。

例えばシアン・パイルの所属するネガ・ネビュラスのレギオンマスター、黒の王は加速世界最大の賞金首なのだ。

最近では自らのレギオンを再興し、その領土によって身を守っているが、

それまでの二年間、賞金首になってからの雌伏の期間は身を隠す事によって生き延びてきた。

ニューロリンカーからグローバルネットワークへの接続を遮断し対戦をシャットアウトしたのだ。

グローバルネットワークへの接続はブレイン・バースト以外の日用アプリにも欠かせない物だが、

ブレイン・バーストがインストールされたニューロリンカー以外の端末、例えばタブレット端末等であれば普通に利用できるから、多少手間は掛かっても生活に不自由をきたすほどでは無い。

 

またニューロリンカーを使うにしても断続的な接続であれば、猛烈な対戦の嵐を生き延びる事も考えられた。レムナントのメンバーは皆高レベルかつ強力な心意技の使い手だった。そのリーダーはどれほどの使い手だろうか。

もちろん加速世界最強のプレイヤーであるレベル9、王達であれば必ず勝利するに違いない。

だが同じ相手に対戦を申し込めるのは一日に一回限りという制限が存在する。

例え一部の者が確実にポイントを奪えても、その一部の者が百回連戦を仕掛ける事はできない。

同レベル百人に狙われたところで、その半数に勝利し続ければポイントは減らないのだ。

 

もちろんそんな日々が続けば、レムナントのリーダーがどれだけ屈強であろうと何時かは果てる。

仕掛ける百人にとっては一日一回の対戦でも仕掛けられる一人にとっては一日百回の対戦だ、体力と集中力が磨り減っていくだろう。

だが、すぐには倒れないかもしれない。

心を読んだかのように、アセニック・クローは言葉を紡ぐ。

「その推測は正しいよ。ボクは心意技についてなかなか自信が有ってね。

 心意技を持たない大半のプレイヤーは対した疲労も無く打ち倒せるし、逆に疲れない《自殺》のテクニックも持っている。

 当然、貯めこんだバーストポイントも莫大だ。毎日百人からの対戦でも凌いで見せるよ」

「そんなもの」

有り得るかもしれないとは思っていた。

それでも幾らなんでもハッタリだ、そう言おうとした。

だけどタクムは言葉を噤む。本当に、嘘偽り無く、有り得るかもしれない。

何せアセニック・クローは、レベルを4から上げていない。対戦を仕掛ける際にレベルを見た時は思わず目を剥いた程だ。レムナントの他のメンバーはおろか、シアン・パイルよりも低い。

これでは高レベルのバーストリンカーが勝利しても大したポイントを奪えない。

 

ブレイン・バーストにおける獲得ポイントにはレベル差の補正が有り、自分より低レベルの相手に勝利しても獲得ポイントは少なく、高レベル相手に勝利すれば多くのポイントを奪えるのだ。

 

心意技は裏技のようなもので、通常の対戦では使用を禁じられている。普通のバーストリンカーは心意技を知り、習得しても、レベル上げを止めたりはしない。

だが、こいつは違うのだ。

恐らく、通常の対戦でこっそり心意技を使う事に何の躊躇いも無いのだろう。

強力な心意技を会得している高レベルのバーストリンカー達との対戦では《自殺》して楽に負け、そうでない相手に心意技を駆使して勝利できるならば、対戦の嵐さえもポイントに変えかねない。

 

(間違いない。こいつは、危険な奴だ)

タクムは確信を抱く。アセニック・クローはただのチンピラ等ではない。

ブレイン・バーストの仕様を知り尽くし、その上で悪用している大敵だ。

現実の肉体なら背筋を冷や汗が伝っていただろう。それほどの怖気を感じていた。

 

 

 

「そしてもちろん、君以外のネガ・ネビュラスのリアル情報も大方割っているよ。

 ブラック・ロータスも、スカイ・レイカーも、シルバー・クロウも、ライム・ベルだってね。」

「それはデマカセだ。だったら何故」

「何故シルバー・クロウでなく君が狙われたのか、かい?」

言葉を先回りされた。

 

タクムが事前に聞いていた噂は『レムナントにシルバー・クロウ抹殺が依頼される』という物だ。

だから襲われた時はそのリアル情報を手に入れる為の踏み台に使われたのだと思った。

レムナントに痛めつけられている最中に尋問が無いの違和感は感じたものの、例えば全損してブレイン・バーストをアンインストールされ、記憶の欠落に混乱する隙に《バックドアプログラム》を仕込まれれば、為す術もなくタクムに事情を聞こうとするネガ・ネビュラス全員のリアルが割られていただろう。タクムはそういう手口を知っていた。

 

しかしアセニック・クローはからかうように言った。

「まさか君は、自分がどれだけ青のレギオンの者に憎まれているのか分かっていないのかい?」

辛辣な糾弾の言葉。だけど答える事はできた。

「そんな事、おまえに言われるまでもないさ。分かっているよ。僕は《レオニーズ》の誇りを傷つけた恥知らずだ」

 

これはかつてタクム/シアン・パイルが青のレギオン、《レオニーズ》に所属していた頃の話だ。

タクムは《バックドアプログラム》に手を出した。

誰か別のニューロリンカーに仕込む事により、そのニューロリンカーを踏み台にしてネットワークにアクセスでき、それにより対戦申し込みリストに名前を載せる事無く、リスク無く一方的に相性の良い相手だけを選んで対戦を申し込む事ができる物だ。

それだけでもバーストリンカー達の間ではマナー違反も甚だしい。

その上バックドアを仕込んだニューロリンカー着用者の視覚情報を四六時中覗く事だってできる、現実の社会でも極めて違法性の高いプログラムだった。

その頃のタクムは加速世界では対戦の戦果が芳しくなく全損の恐怖に怯えていたし、現実世界でもかつての友人たちの間に溝を作りつつあり、何か自らの自信となる力や成果を求めていた。

恐怖と迷いに駆られた末、禁断の果実に手を出してしまったのだ。

しかしどれだけ苦悩していたとしても、この罪は重いものだった。

 

嫉妬と蔑視をぶつけてすらいたかつての友人に打ち破られ、正面から説き伏せられた事によって、タクムは悔い改めた。

そして、その親友である有田春雪/シルバー・クロウと、バックドアを仕掛けていた幼馴染の倉嶋千百合に償いをする為に、シルバー・クロウの属するネガ・ネビュラスへの移籍を決めたのだ。

青のレギオンのレギオンマスター、ブルー・ナイトは一つの試練を与え、シアン・パイルが必死の思いでそれを潜り抜けた事により晴れて移籍は認められた。

 

「それなら分かっているはずさ。バックドアプログラムに手を出しておいて、贖罪を言い訳に処罰を免れた。しかもよりによって加速世界最大の裏切り者である黒の王の下に付いた君がレオニーズの者達にどう思われているか、なんてね」

 

タクムにバックドアプログラムをもたらした彼の親は青の王の側近だった。

青の王はその事に激怒し、その者に裁きを与え、加速世界から退場させている。側近がバックドアプログラムを配っていた何人かのバーストリンカーにも、幾らかのペナルティは課されていた。

しかしシアン・パイルのペナルティは、彼自身が求めた直接被害者への贖罪と、その為の移籍だ。

青の王がそれを認めてくれたのは、シアン・パイルの自供が事態を明るみに晒す鍵であった事と、

直接に迷惑を掛けた者達に償いたいというタクムの言葉を青の王が認めてくれたからだ。

タクムはそれを青の王の容赦、忍耐や寛大さから来る物だと思っていた。

 

「青の王の裁定には敬意を表するよ。

 彼は自らのレギオンの者にとって何が未来へ繋がるかを考えていた。だから君が償う事を許したし、ケジメとして多少の試練を与えた上でネガ・ネビュラスへの移籍も認めた。

 側近である君の親が処罰を受けた事だって罰や他の者に対する見せしめという意味だけでなく、そいつにとってブレイン・バーストが呪いになっているという判断が有ったからに違いないね」

「………………!!」

 

だから、その言葉には打ちのめされてしまった。

タクムはそこまで考えが及んでいなかった。

青の王が、レオニーズにおいて末端の一構成員でしかない自分の事を気遣ってくれていたなんて。

レオニーズの側近の子として育てられていた時は、自らを親衛隊の候補生などと意気がってはいたけれど、本心ではレオニーズの誰も、シアン・パイルに価値を感じていないと思いこんでいた。

レベルが上がり見識が広がれば、《親》の教えが杜撰な内容だった事に気がついた。

やり直しの効かないデュエルアバターのビルドには多大なエラーを含んでしまっていた。

親が自らを含む何人かにバックドアプログラムを試させた理由も期待などであるわけがなく、ただの実験体でしかないと知っていた。

加速世界において一番に絆を繋ぐ《親》がそうだったのだ。

他の誰が自分を想ってくれると信じられるだろう?

友に手を握られるまで、タクム/シアン・パイルはずっとそんな有り様だったのだ。

 

「もっとも、過保護すぎるとも思うけれどね。

 青の王はネガ・ネビュラスへの領土戦においても、経験を積ませるように抑え目のレベルの少数だけで編成させて、古参のプレイヤーや、君に対し憎しみを抱いている者の参加を認めていない。

 もちろんハイランカーを使わないのは勢力バランスを意識するせいもあるだろうね。

 だけど何より、その憎しみの爆発が、必ずしも良い結果には繋がらないと考えているんだ。

 もちろん君の事だけじゃあないさ。彼は黒の王への怒りさえも押し殺している。

 黒の王への怒りが激しすぎる者達も領土戦に出てこれない。

 黒の王が赤の王を騙し討にした日、最も荒れ狂ったのは青の王だったと言われているのにさ。

 あまりにも大きな喪失に打ちのめされた紫の王でも、何を考えているか分からない泰然自若たる緑の王でも、自分の舞台を用意してこそ本領を発揮する黄の王でも。

 もちろんあの日その場には居なかった白の王でもなく。

 青の王こそが黒の王の裏切りに最も早く反撃し、激烈な戦いを繰り広げたと言われている。

 だけど青の王はその怒りを押し殺し、会談の場では笑顔さえ見せると言うじゃないか。

 彼の王が《痛覚遮断(ペインキラー)》アビリティを持つのは必然とさえ言えるだろうね」

 

その情報に、タクムはある可能性に気づいた。

もしかしたら彼の《親》も、黒の王への怒りが激しすぎる一人だったのかもしれない。

タクムがバックドアプログラムによる踏み台で梅郷中学校内ローカルネットワークに接続していた黒の王を発見できたのは単なる偶然ではなく、それこそ彼の親がバックドアプログラムを配布した狙いだったのかもしれない。

グローバルネットワークへの接続を遮断し息を潜めていた黒の王が、仮に何処かのローカルネットワークには気を緩めて接続していたとすれば、バックドアプログラムによるローカルネットワークへの無差別潜入はそれを発見する一つの手段となり得るからだ。

 

他校のローカルネットワークへの潜入は、現実世界ではただの学生でしかないバーストリンカーには荷が重い。校内のローカルネットワークに接続できるのは言うまでもなく学校関係者だけだ。

片っ端から転校でもしなければその権利は得られないし、現実世界で子供であるバーストリンカーにはおいそれと出来る事ではない。

タクムは自らの時間全てを贖罪の為に費やす覚悟で梅郷中学への転校を行ったが、これは例外だ。

むしろそれだけの覚悟があってこそ行える事だと言っても良い。

しかしバックドアプログラムを他校の生徒に仕掛けられれば、その校内のローカルネットワークに繋ぐバーストリンカー全てを把握する事ができるのだ。

 

だがそれは先述の通り、現実世界での犯罪にも繋がる行為だ。

もしも加速世界内の恨みを晴らす為に現実世界の犯罪に手を染めていたとすれば、それは呪い以外の何物でもない。

そしてそれを呪いだと言うならば。

 

 

 

「それをおまえが言うのか。君達レムナントが何を目的にしているかはまだ分からない。

 だけどブレイン・バーストがバーストリンカーを憎しみに染める事が呪いだと言うならば、

 君達レムナントはその呪いを食い物にする外道の所業じゃないか!」

「……そうだね。好きに言えば良いさ」

 

その声に含まれていたのは僅かな躊躇いや落胆だった。

その言葉を聞いただけでは何も分からなかっただろう。

だけどこれまでの会話と合わせて一つの推測を組み上げていたタクムは、確信した。

 

「やっぱりそうか。君達が《処刑人》を自称するのは、君達が確信犯だからなんだ」

「!!」

 

逆だ。

スーパーノヴァ・レムナントは自らの欲望を満たす為に手段としてPKを行っているのではなく、

PK自体に目的を見出している、確信犯の集団なのだ。

 

ゲーム内通貨であるバーストポイントではなく、現実の通貨である現金で依頼を受けて、

加速世界ではなく現実世界で、集団で拘束し圧倒的有利な状況で対戦に持ち込み。

そのままポイントを全て奪い取りブレイン・バーストをアンインストールに持ち込む。

 

この一連の悪逆な行為に、何らかの正しさを確信して行っているのだ。

 

 

 

「本当に驚いたな。そこまでボクを見抜くなんて」

その言葉には賞賛にとどまらない感嘆の響きが有った。

「別に絶対に隠しておきたかったわけじゃないけど、自力でそこに辿り着くとも思わなかった。

 どうやら君と言葉を交わし続けるのは思った以上に危険な行為らしい。

 もっとスッパリと行かせてもらおう。騎士と騎士が決闘するみたいにね」

黛拓武/シアン・パイルはハッと身構えた。

言葉を交わしてはいたが、ゲームシステム上では今も対戦中だ。

お互いの距離は十mほど、少し駆ければ肉弾戦にも持ち込めるだろう。

もちろんそれで勝敗が決したところで幾らかのバーストポイントを奪い合うだけにすぎない。

だが、アセニック・クローはそれに条件を付け足した。

 

「この対戦に賭けをしないか」

「賭けだって?」

「そうさ。ボクが勝てば、ボクの情報をこのまま隠蔽してもらいたい。

 君が勝ったら、例え君がボクの情報を公開してもネガ・ネビュラスの《リアル情報》公開で対抗するのはやめておこう。

 それとどちらが勝っても君を標的とした依頼は取り下げるとしよう。

 なにせあの子達は君に返り討ちにされてしまったんだ、依頼主への義理は立つというものさ」

その条件は載せられたチップで言えばタクムの方が有利に見える。しかし。

「僕が勝っておまえの情報を公開した時、おまえが対抗処置を取らない保証がどこに有るんだ」

「信じてもらうしかないね」

人を騙し物理的な攻撃を仕掛けるPK集団の首魁を信じられるわけがない。

結果として、勝った場合に得られる見返りが存在しない条件だった。

「じゃあこうしよう。

 君が負けても、君は自らのマスター、黒の王にだけはボクの事を話して良い」

「なにを……!?」

「もちろん黒の王がその情報を更に身内に公開するかどうかはチップに含まれない。どうかな?」

付け加えられた条件は更なる謎だ。

それでは事実上レギオン内での情報共有を認めたも同然だ、何の縛りにもならない。

もちろん、アセニック・クローがネガ・ネビュラスの《リアル情報》を握り、ネガ・ネビュラスがアセニック・クローの情報を握り、お互いを牽制しあう構図になるのは変わらないはずだが。

 

(僕以外に秘密を話させず、僕を始末する事で口封じするつもりじゃないのか?)

 

秘密がネガ・ネビュラス全体に共有された時点で、アセニック・クローに情報を口封じする手段は無くなる。誰か一人がPKで潰されれば残り全員がアセニック・クローの正体を外に流すだろう。

例えアセニック・クローがネガ・ネビュラスを《リアル割り》させるとしてもだ。

 

シアン・パイルが敗北してもアセニック・クローはネガ・ネビュラスに手出しできなくなる。

だが勝利しても、何も変わらない。アセニック・クローを信用出来ないネガ・ネビュラスにとって、アセニック・クローの《リアル割り》という脅し札は生きている。

 

タクムは本当に自分以外のメンバーのリアル情報まで割れているのか疑わしいと思っているが……

PKの対象がタクムだったからといってタクム以外のリアル情報も割られている証拠にはならない。

むしろさっきは話を逸らされたと言っても良い。

しかしリアル情報を掴まれていないという根拠にもならない。

万が一の事を考えると、やはりアセニック・クローの正体を公開する手段は危険過ぎる。

別の手段を考える必要が有るだろう。

 

 

結局のところ、勝っても負けても何も変わらない条件なのだ。

タクムとアセニック・クローの間に一切の信頼が存在しない以上、殆どの約束は意味を成さない。

 

 

ただ、勝負を受ける条件の方はそうでもない。

アセニック・クローは勝負を受ければシアン・パイルを狙った依頼を取り下げると言っている。

例えば裏サイトにそういう発表がされれば、その後でシアン・パイルを仕留めても意味が薄い。

もちろんこれも信用できるか分からない話だが、絶対に狙ってくるよりはマシだった。

 

なにより、対戦なのだ。

ネガ・ネビュラスのレギオンマスター、黒の王ブラック・ロータスは言う。

一度対戦の場に降り立ったならば全力でぶつかるべしと。

バーストリンカーにとって、対戦によって物事に決着をつけるのは潔い在り方だった。

 

全てのもやもやした感情を収斂させ、決定に辿り着く。

 

「いいだろう。だけど僕からも条件が有る。僕が勝ったら君達の存在理由を教えてもらう」

「そうこなくては。そして流石だ、これだけ話を逸らしても最初の理由を見失わないか。

 良いよ、でも始める前に言っておこう」

身構えるシアン・パイルに対し、アセニック・クローは構えもせずに棒立ちのまま告げた。

「この対戦、ボクは心意技を使う。君も遠慮なく使うと良い」

(やっぱりか)

タクムにとっても覚悟していた返答だ。

本来、《心意は、心意で攻撃された時以外には使ってはいけない》という掟が存在するが、

負の心意の使い手にはこの掟が存在しない。必要とあらば遠慮無く使用してくる。

むしろ予告無しに平然と使ってこなかったのは意外ですらある。

「もちろん、ISSキットも使ってかまわないよ。

 あの子達を返り討ちにした負の心意の結晶、見せて欲しいな」

「……僕はもうあの力に縋るつもりはない。僕は負の心意から訣別する」

「おや?」

アセニック・クローの首が傾げられた。。

「負の心意だからといって、レムナントのリーダーであるボクに対して使わないだって?

 たった数日の間に、君に何が起きたというんだい?」

「………………」

タクムは、シアン・パイルの全身にぞわりとした怖気を感じた。

生温い風が吹きつけたような怖気だ。

恐らくアセニック・クローはまだ知らないのだ。

シアン・パイルへ寄生したISSキットが、既に浄化されている事に。

「……負の心意の気配が感じられないのはおかしいとは思っていたけれど。

 もしかして君、既にISSキットから解放されているのかい?」

「っ!」

しかし気取られたてはいた。

「さては四元素が一人、劫火の巫女の仕業かな。彼女ならISSキットとて浄化できるだろう」

(そこまで知っているのか!?)

 

アセニック・クローの発言は半分正しく、半分間違っていた。

タクムからISSキットが除去されたのはタクムの親友、ハルユキとチユリの尽力による物だ。

だが劫火の巫女、アーダー・メイデンが負の心意を浄化可能なのもまた、事実だった。

つい二日前も負の心意の名残である寄生型オブジェクトを綺麗に浄化してみせたところだ。

 

アーダー・メイデンは第一期ネガ・ネビュラスにおいてレギオン幹部《四元素》の一人として

名を馳せたバーストリンカーだ。彼女が帰還した後、昨日の土曜日には領土戦も一度有った。

彼女が新生ネガ・ネビュラスに帰還した話は既に広がりつつあるだろう。

しかし彼女の扱う、負の心意までも浄化する儀式は、当然ながら心意の奥義だ。

幾ら名の知れた古参のバーストリンカーだとはいえ、通常対戦では知られない心意技に関する情報まで知っているのは異常と言っていい。

少なくとも七王会議に出席する七大レギオン幹部クラスとのパイプか、あるいは……

 

「いいさ。それならハンデを上げよう。

 ボクは心意技を一種類しか使わない、見事に打ち破ってみるがいい」

流石にこれ以上に考える暇は無かった。

アセニック・クローが、シアン・パイルに向けて歩き出してきたのだ。

薄ぼんやりと輝く中性的な人型のデュエルアバターが近づいてくる。

その歩みはゆっくりとした物だが、十数秒もあれば斬り合いが始まるだろう。

今度こそ対戦の始まりの時だ。

シアン・パイルの左手が、その名の由来である右腕の強化外装から伸びる、鉄杭を掴んだ。

そして決意の叫びを上げた。

「《蒼刃剣(シアンブレード)》!!」

ガシュン、と音を立てて右腕の杭打ち機から鉄杭が発射された瞬間、それを受け止めた左手でなく右腕の杭打ち機が砕け散る。

粉々に砕け散る杭打ち機の残滓を、青白い刃が切り裂いた。

《蒼刃剣》。

シアンという極めて濃い近接の青に属するデュエルアバターでありながら、自らのトラウマと杜撰な指導に引きずられ必殺技にレベルアップボーナスを注ぎ込み続けた結果、遠隔の赤に近い特性を持つに至ったシアン・パイルの方向性を近接に定め直す心意技。

強化外装を蒼い片刃の直刀に変える、《攻撃威力拡張》に属する基本の心意技だった。

タクムが身につけている心意技はこれ一つだけだ。

心意技において未熟な自分が不利な事は承知している。

既に捨て去ったISSキットならばもっと強大な力を振るえただろう。

 

それでもシアン・パイルの進む道を定めたこの心意こそ、タクムが信じるべき心意に他ならない!

 

 

 

「なんだい、それは?」

アセニック・クローの声は戸惑いが滲むものだった。

シアン・パイルは答えず、一息に距離を詰めて刃を振り下ろした。

「チェイアアアアァッ!!」

気合は裂帛、迷いは無し。

何故か分からないが相手が迷っているならば今こそ好機だ。

心意を解放した対戦は既に始まっているのだ、正の心意の使い手とて既に掟の外に居る。

振り放たれた剣戟は雷の如き鋭さだった。

今のシアン・パイルは《完全一致(パーフェクトマッチ)》の状態にある。

現実世界で格闘技の修練を積んでいたとしても、アバターがそれに適応するとは限らない。

タクムもシアン・パイルの杭打ち機では現実で修めた剣道の技を活かす事が出来なかった。

シアン・パイルの《蒼刃剣》はそのズレを補正する。

シアン・パイルが《蒼刃剣》で振るう軌跡は、タクムが剣道家として培った軌跡の延長線だ。

幾年にも渡る修練の結晶だ。

果たしてその剣戟は狙い過たずアセニック・クローの肩口に吸い込まれた。

 

一対一の差し合いでは一瞬の迷いとて致命傷だ。

何故アセニック・クローが躊躇い動きを止めたのかは分からないが、これで勝負は決まった。

タクムは、そう確信していた。

 

「……まさか、それが心意戦で君が頼りにする心意技だっていうのかい?」

「!!」

否応なしに思い出す。

タクムの、シアン・パイルの《蒼刃剣》は、レムナントのメンバーに通じなかったのだ。

しかしあの時は剣の間合いに入る事すら出来ず圧倒的負の心意に制圧されていた。

今は完全に斬撃が入ったはずだ。

この間合で、完璧な斬撃を叩き込んで、それでも通じないなんて事があるものか。

大体アセニック・クローは心意技の発声すらしていなかったではないか。

確かに高度な心意の使い手は発声無く心意技を扱えるというが、大技には発声を伴うはずだ。

だが。

アセニック・クローの体表はぼんやりと、本当に淡く、薄く輝いていた。

それがあまりにも自然で、淡い輝きだったから、デュエルアバターの性質だと思い込んでいた。

タクムは今になってその正体に気づく。

(まさか最初からずっと、心意技を維持していたのか!?)

アセニック・クローの体には傷一つ付いていなかった。

クローの名に違わぬ鋭い鉤爪の伸びる右手の指がゆっくりと揃えられた。貫手の形だ。

「くっ!!」

咄嗟に飛び退るが、左の脇腹から激痛が走った。

見れば左の脇腹にぽっかりと穴が開いていた。

まるで痛覚二倍の《無制限中立フィールド》で戦う時のような激痛が迸る。

蹲りそうになる体を叱咤して、再び《蒼刃剣》を構え直した。

 

しかし最早戦力差は歴然と言う他にない。

頼みの《蒼刃剣》を直撃させても傷一つ与えられない。

圧倒的な力の差だ。

アセニック・クローもまるで警戒する様子の無い棒立ちのままだ。

 

「もう一度、訊くよ。本当にそれが心意戦で君が頼りにする心意技だっていうのかい?」

「ああ、そうさ。未熟なのは分かってる。それでもこの《蒼刃剣》こそ……」

レベルが下でも相手が遥かに格上である事なんて対戦前から分かっていた。

不利も未熟も承知の上だ。

勝負を投げるわけにはいかない。何処か弱い部分を探して斬り込み万に一つの勝機を探そう。

「でもそれは、戦闘用の心意じゃないじゃないか」

「……え?」

思わず、困惑の声が出てしまった。

 

「それはどう贔屓目に見ても修行用の心意技だ。性質そのものが戦闘に向かない。

 もし違うと言うならば……試してみるといい」

アセニック・クローは両の手を横に伸ばした。

まるで十字架のように、誰かを抱擁するかのように。

「君の剣が、ボクの体の何処か一箇所でも傷付けられるかどうかを」

「な……舐めるなっ!!」

 

乗るしか無い挑発だった。

シアン・パイルの振るう《蒼刃剣》の斬撃がアセニック・クローの全身に襲いかかる。

その度に強固な物に刃を振り下ろしたかのような耳障りな摩擦音が響き渡る。

「分からないなら教えてあげよう。君の《蒼刃剣》は戦闘用心意としては失敗作だ」

面、胴、篭手。

袈裟斬り、逆袈裟、左薙、袈裟懸け、唐竹割り。

裂帛の声が延々と響き渡り、棒立ちのアバターに幾度も幾度も斬撃が襲い掛かる。

金属に金属が削られる耳障りな音が絶え間なく響き渡る。

「何故ならそれがシアン・パイルそのものであるパイルを破壊して生まれる刃だからだ。

 それは自らのデュエルアバターの否定に他ならない」

ピシリ、と微かな音がした。

シアン・パイルは更なる気勢を上げて嵐のごとく刃を叩き込む。

「確かに正の心意の第二段階たる《応用心意技》に至るには《心の傷の反転》を要する。

 救済の為に心意技を学ぶならそれもいいだろう。

 だけどそんな心意が戦闘に向く事は稀だ。その心意は戦いを見ていない」

「ゼアアアアアアアアアァッ!!」

呑まれてはならない。

惑わされてはならない。

タクムの声は最早獣の咆哮と化していた。

「同じ心意の強さならば、デュエルアバターの特性を活かした心意技の方が強いに決まっている。

 君は自らが望む近接の青に染まる為にその心意を求めたのかもしれない。

 だけど一度リソースを割り振って遠隔の赤に傾いておきながら青に染まり直す。

 それがどんなに遠回りか考えた事はあるかい? 最初から青だった者に追いつけるとでも?

 最初に逆走してからコースに戻ったランナーが一位になれるとしたら、

 それは《同レベル同ポテンシャルの原則》を完全に無視して超越できる存在だけさ」

それでもどれだけ叫ぼうともアセニック・クローの声が耳へと入ってくる。

ピシ、ピシという音が繋がっていく。

タクムにはもう分かっていた。

この音の発生源が、斬撃に襲われているアセニック・クローではないということに。

「それに正の心意使いは通常対戦で心意技を使わない。

 君はその心意をどれだけ加速世界で鍛え上げた?

 現実世界で黛拓武がどれだけ剣道を修めていても、今の君はシアン・パイルだ。

 現実世界とは体格も筋力も違うだろうその重量級のアバターでどれだけ剣を振るったんだい?

 数えるほどしかない。そうだろう?」

《蒼刃剣》が、崩れていく。

圧倒的硬度の防御心意を打ち破れず、逆にその強固さに押し負けた刃が欠け落ちていく。

鋭利な刃は見る陰もなくボロボロだ。

もう、斬撃では、無理だ。

「シアン・パイルとして対戦経験を積むほどに乖離していく技術。

 そんなものに拘り続けて、君に何が残ったというんだい?

 身の程知らずが物語のナイトに憧れたところで、風車に突撃する事しかできはしない」

シアン・パイルは正中に剣を構え、体を落とした。

視線をはっしとアセニック・クローの胴に向け、全身のバネに力を蓄える。

「シイイイイイイイイィッ!!」

全身を、発射した。

「そして最後には突き技を頼るならば」

その刃の先端が、ピタリと止まっていた。

淡く発光する、アセニック・クローの掌の中央を貫けずに静止していた。

シアン・パイルは尚も絶叫し全体重全筋力を注ぎ込む。

諦めない全力はタクムの掌に僅かに沈み込む手応えを返し、更なる咆哮を上げ。

「キエエエエエエエエエエェッ!!」

「それはもう、最初からパイルを使えばいい。剣にした意味の否定じゃないか」

「っ!!」

ヒビ割れが、蜘蛛の巣のように刀身全体を覆い尽くし。

 

次の瞬間、《蒼刃剣》はガラスのように脆く砕け散っていた。

 

 

 

白く染まる思考の果てをアセニック・クローの呟き声が早送りのように通り過ぎて行く。

 

「しかし君に心意を教えたのは誰だ?

 ブラック・ロータス? 違う、彼女はもっと苛烈に戦いを見つめている。

 スカイ・レイカー? 違う、彼女に教わったならばもっと悪に対して容赦が無い。

 アクア・カレント? 違う、彼女ならデュエルアバターを否定しない。

 アーダー・メイデン? それともレオニーズの誰か? 違う、時期が合わない。

 誰だ、君に道標を与えたのは誰だ、遠すぎる星を示したのは誰だ、一体、誰が君を」

 

その呟きは最早誰かに聞かせる為の言葉ではなくなっていた。

疑念、迷い……そういった感情が溢れただけ。

そんな不純物を垂れ流しながらも心意の鎧は鋼鉄のごとく揺らぐことなく、

ずぶりという音を立て、アセニック・クローの貫手がシアン・パイルの胴体を貫いた。

タクムは、痛みすら感じないまま呆然と、自らのHPバーが見る見るうちに減っていき、あっさりと尽きるのを見た。

 

完敗だった。

確かに現実世界の黛拓武は、アセニック・クローの正体に大きく迫る事に成功した。

しかしデュエルアバターのシアン・パイルは、その根底を打ち砕く完全な敗北を喫したのだ。

 

 

 




・ワンポイント

>「最初に話を聞いた時からおかしいと思っていたんだ。
 小学生や中学生でしかないバーストリンカー達には、日本円の支払い能力が無い。
 バーストリンカーを顧客にしてお金を稼げるはずがない。
 君達の商売は最初から破綻している!」

この物語を思いついた発端。
スーパーノヴァ・レムナントの話が出てきたのは七巻。
七王会議でバーストリンカーの財布の紐の厳しさが触れられたのは十一巻。
意図された設定ではないかと思うのですが、原作で描かれる様子は有りません。
この部分にオリジナル設定を付け足した物がこの物語となります。

謎の資金力、違法性、高レベル、強力な負の心意、一人も正体を割れない秘匿性。
原作裏設定を深読みするなら本来関連付けるべきはアレなのかもしれません。


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(4)回想【I love you】

8月5日:ナンバリング付け忘れを修正


月の光が静かに地面を照らしていた。

街の灯のような微かな音は無く、電流のゆらぎによる秒間百数十回という点滅もない。

星の光のような瞬きも、太陽の光のような苛烈さもない。

静かで柔らかな光が、しかしくっきりとした明かりが加速世界を青白く照らしていた。

 

加速世界において、このフィールドには《月光》という名前が付けられている。

地形の性質を示さない単語。それでも、名前を聞くだけで情景が目蓋に浮かぶ印象的な言葉。

天頂に浮かぶ満月は美しく輝き、光に照らされない月影は漆黒の闇となるモノトーンの世界。

黙していれば逆に耳鳴りが響くほど静謐なこのフィールドで交わした言葉は、ただそれだけで一抹の思い出となるに違いない。

不純物の無い、澄みきった空気が静かに揺れていた。

 

 

その白よりも白い青白い月の光を、美しいピアノブラックの板が照り返していた。

板は、刃だった。

刃は、無数に組み合わさり、人の形を為していた。

 

その姿は鋭く、身の毛もよだつほどに恐ろしく、魂が震えるほどに、美しい。

ブラック・ロータス。

加速世界の頂点に立つ七人の《レベル9》の一人。

ネガ・ネビュラスを統べる黒の王。威風堂々たる戦鬼の如き戦姫。

 

だが今のその姿は、どこか物悲しかった。

地面に座り込み、不貞腐れたように、あるいは見捨てられたかのように止まっている。

そのどちらも、なのだろう。

立ち上がらなければならない事は分かっている。

だけど迷っている。

悩んでいる。

苦しんでいる。

自らが救われていい存在なのかわからなくて悶えている。

 

「良いの? みんな、行ってしまうよ」

 

掛けられた声に、びくりと震えた。

蹲ったままに振り返るその姿は、まるで子犬のようにも見えた。

ブラック・ロータスは、震えてはいない、だけどとても細い声で言う。

「居たのか。ミサキ」

「まだ、ね。とはいえボクはレギオンを抜けた身だ、すぐにお暇するさ」

 

ミサキ/アセニック・クローは、その前で丁重な礼をしてみせた。

畏ばった姿勢のままに言葉を紡ぐ。

 

「もちろん姫様が望むなら、レギオンを抜けた裏切り者を断罪しても構わないのだけれどね」

「……バカなことを言うな」

 

ブラック・ロータスの言葉に震えが混じる。

 

「私と意見を同じくしてくれたのはおまえだけだろう。おまえを断罪しては話が通らない」

「そう。それじゃ……」

 

アセニック・クローの指先が遠くを差す。

ブラック・ロータスが見つめていた、漆黒の影の先、道の先、曲がり角の先。

その遥か果て、絶対不可侵と言われる領域を。

 

「行ってしまった彼らを断罪するのかい? 君の意に沿わぬ進軍をした彼らを」

「………………」

「彼らも言っていたじゃないか。どうしても止めたいならば自分達に《断罪の一撃》を使ってでも止めてみろと。それほどの覚悟の進軍だ」

 

アセニック・クローは知っている。

その曲がり角のすぐ向こう側で、皆が足を止めて待っている事を。

ブラック・ロータスが立ち上がり追いかけてくるのを期待している事を。

今ならまだ間に合う事を知っている。

 

「……あのバカ共が」

ブラック・ロータスの声には無数の表情が煮え滾っていた。

だが憎しみや敵意といった感情は決して混ざっていなかった。

有るのは戸惑いや悲しみ、苛立ちや怒り、喜びと絶望。

途方もなく贅沢な感情のスープ。

 

「そう、彼らは愚か者だ」

自分もバカと言っておきながら、ロータスが一瞬ムッとなるのが分かった。

無機質なデュエルアバターを通してでも、彼女の感情は素直に表に出る。

読み取るのにコツがいるだけで。

「《帝城》の調査はまだ万全じゃない。その中はもちろん、門を護る四神の調査すら不完全だ。

 何度か大規模レギオンが戦いを仕掛けてデータは蓄積されているし、行動パターンや、四体同時に攻めなければ攻略できない事も分かっている。

 だけどそれでも、まだ誰も倒していないんだ。登りつめるまで何があるかわからない山だ。

 だからこそ挑戦する意味が有る、というのも分かる。

 でも挑戦できる機会がもう無くなってしまうから、という理由は危ういよ。

 そんな破れかぶれの状態で挑むのは熱に浮かされた無謀もいいところさ」

 

ブラック・ロータスの、デュエルアバターの目が不安げに明滅した。

その姿はまるで迷子の子供のように、心細い。

そう、確かに子供でもあるのだ。

2044年の夏。

最初に《ブレインバースト2039》を配布された者達でさえ小学校を卒業していない時期。

それでも加速世界の中では五千年以上の月日が流れ……加速していた時間によっては、現実世界で子供でありながらに大人になるだけの猶予が過ぎ去った時期。

ブラック・ロータスはそのどちらでもあった。

子供だけど長年戦い続けてきた歴戦の王で、加速世界で長年を過ごした王でありながらまだどこか幼さを残す少女でもあった。

自分達も同じ小学生だというのに、ネガ・ネビュラスの一同にとって黒の王は尊敬すべき王であると同時に、護らねばならない存在でもあったのだ。

しかしこの日、彼女の率いてきた第一期ネガ・ネビュラスは終焉を迎える。

 

「だからボクは付いて行けないと言って抜けた。

 だけど他の誰一人として、ボクに付いて抜ける事はなかった。

 彼らの理由が、姫様に分かるかい」

「……おまえは、なんだと言うんだ」

アセニック・クローは、答えた。

 

「例えこの進軍の果てに、想像を超えた災厄がネガ・ネビュラスを呑み込んだとしても。

 ネガ・ネビュラスは姫様ただ一人のわがままで滅んだわけじゃないって事さ」

 

ブラック・ロータスはしっかと言葉を受け止め、慄くように震えた。

「それでは……彼らは、死ぬために行くというのか!

 私が加速世界全てを敵に回した、そのせいで滅びる前に、自分から死にに行くと!?」

「そこまで後ろ向きじゃないはずだよ。彼らの計画は成功の見込みも、安全策も練られていた。

 だけどね、姫様」

アセニック・クローはブラック・ロータスに、歩み寄らない。

二人の距離は、近づかない。

「自分達の知らない所で姫様が悩み、惑い、激痛に悶え苦しんだ末に、怒りのままに下した決断で居場所が無くなるだなんて、みんな絶対にイヤだよ。

 そんな事になって《ネガ・ネビュラス》を失った悲しみの矛先を姫様のせいだなんて思う日々を過ごしてみたらと思うと、ゾッとする。

 例えこの挑戦で破滅したとしても、何もせず訪れる離別よりマシというものさ」

「だ、だから私はこの状況を招いた独断専行をおまえ達に詫びようと……」

「そしてみんな大激怒だ」

「うっ」

 

ブラック・ロータスが会談の場で講和を訴えるレッド・ライダーを斬り捨て、他の王達と加速世界の全てを敵に回したのはつい昨日の事だ。

そして今日、ブラック・ロータスは《ネガ・ネビュラス》の皆の前で謝ったのだ。

 

私は加速世界の全てを敵に回した。

相談もせずに勝手な行動をしてすまない。

謝罪として貯めこんだポイントをアイテムに替えてきた、受け取って欲しい。

レギオンリーダーの座は譲り、私は加速世界を隠遁する云々……。

 

ミサキは、《ネガ・ネビュラス》一同があそこまで声を揃えてプッツンした瞬間を初めて見た。

 

「だ、だが《ネガ・ネビュラス》が滅びない道は有った! 全てを敵に回したのは私だけだ!

 だからレギオンリーダーの座を譲って私がレギオンを抜ければ良いじゃないか!」

「その為に、誰にも言わずに黙って実行に移したんだね。姫様はみんなを怒らせる天才だよ」

「だから、皆を裏切ったのだから私が居なくなれば」

「わかってるの、姫様? 姫様が居なくなるのも裏切った事にするのも別れるのもイヤだ。

 勝手に手を払って去って行くなんて許さない。

 それがみんなの出した結論なんだよ」

「うぐっ」

 

掛け合う中で、徹底的にやり込められながらも。

ブラック・ロータスの声には生気が戻りつつあった。

 

「それでもね。ボクは姫様の選択を肯定するよ」

「……なに?」

「例えどんな選択であろうとそれが姫様の決断であるならば、ボクはそれを肯定する。

 ボクはレッド・ライダーを切り捨てた姫様の怒りも、独断も否定しない。だってそれは姫様が、何らかの痛みに苦しみ、悩んだ末に出した選択だったのだろうから。

 例え後になって姫様がそれを間違った選択だと考えたとしても、ボクは姫様の選択を肯定する。

 痛みから出た選択が正しいとは限らない。追い詰められて視野狭窄に陥っているかもしれない。

 それでも価値があると信じてる。例えそれがどんな選択であったとしても」

「ミサキ……」

「だから本当は、さらってしまおうかと考えていたんだ」

「……は?」

素っ頓狂な声。

 

「姫様が皆にポイントを譲り渡して隠遁すると言った時にね。

 皆に迷惑を掛けない事が姫様の望みなら、ボクがさらってしまえば良いと思ったのさ。

 これならみんなの前から姫様が居なくなるのは姫様のせいじゃないし、姫様もみんなに迷惑を掛けなくて済むし、ボクは姫様を独り占めだ。

 ほら、そんなに悪い選択じゃないだろう?」

「いきなり何を言っているんだおまえは!?」

動揺するブラック・ロータスを前にくすくすと笑う。

可愛い。

その想いを。

「愛してるよ、姫様」

さらりと吐き出した。

 

「な、な、な」

ブラック・ロータスの声が言葉にならない。

漆黒のはずの装甲板が、赤く染まったように見えた。

それは気のせいのはずだ。だけどこの世界は強い意思を汲み取り事象に変える。

もしかすると、本当だったのかもしれない。

「ふ、ふ、ふ」

「ふ?」

聞き返すように顔を近づけると、鼻先を刃が通り過ぎた。

すぐさまぶるぶると震えるもう片手の刃先が突き付けられる。危なっかしいことこの上ない。

「ふざけすぎだっ! わ、私が落ち込んでるのをいいことにおちょくるのはいい加減にしろ!」

「ふざけてなんかいないさ。ほらそんなに怒らないで」

空にピンと伸ばした指先の遥か果て。

天上に輝く、月光フィールドの大きな満月を指し示す。

「あんなにも月が綺麗だよ」

「だから話を逸らす……ん?」

きょとん、と一拍間が空いて。

もしかして、と頭に付けるようにおずおずと。

「……夏目漱石か?」

「美しい翻訳だよね、あれ」

お札の顔にもなっている文豪・夏目漱石が英語教師をしていた時、生徒が“I love you”を「私は君を愛している」と訳したのに対し、彼はこう訂正したという。

日本人はそういう時は奥ゆかしく『月が綺麗ですね』とでも言うんだ、それで通じる、と。

 

今度こそ刃が振りぬかれた。分かっていたから軽やかなバク転で身を躱した。

いくらレベル9とはいえ呼吸を知っている相手の動揺しか詰まっていない斬撃だ、容易いものだ。

と、油断していたら痛みと共にライフが少し削れた。普段以上に鋭い斬撃だったのだ。

 

「ひどいな、姫様。痛いじゃないか」

「乙女の純情をからかうからだ! だ、大体おまえも女だろうが!」

「そうさ。それがどうしたっていうんだい?」

「大問題だろうが!」

慌てるブラック・ロータスを見ていると面白くなってきて。

くすくすっと、ついに堪え切れず笑い出してしまった。

「こら、ミサキ! いい加減に私を笑いものにするのは」

「だってね、姫様。夏目漱石の翻訳は、恋愛の告白じゃないって言われてるの、知ってる?」

「……なんだって?」

知識をひけらかすようだけれど、からかいすぎて嫌われるのも本意ではない。

ミサキは楽しげに解説を付け足した。

「英語の“I love you”は確かに私はあなたを愛しているって意味だけど、毎朝の出勤前だとか、自分の親や子にも頻繁に言う言葉なのさ。日本語とは言葉の重みが違いすぎるだろう?」

「それは……向こうの国が開放的という事ではないのか?」

「じゃあ日本は? 日本の文豪がそれで通じるから『月が綺麗ですね』と翻訳したんだよ。

 綺麗な言葉だけれど、幾ら遠回しでもこれを愛の告白と理解できる場面なんて思いつくかい?」

「む……」

ブラック・ロータスが黙りこむ。

しばらくして、口を聞いた。

「おまえは、何だと言うんだ」

アセニック・クローは答えた。

「ボクは姫様を愛してる。

 未来に結ばれたいのではなく、ただここに在る時間を想って。恋人ではなく大きな家族の一員として、あるいは長く仕えてきた従者として。

 その想いを祈りにして、願うのさ」

アバターの眼差しが、真っ直ぐブラック・ロータスと結び合う。

 

 

 

「この美しい月と共に、君の想い出に残りたい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おまえは、ほんっっっとうにキザったらしい奴だな」

ぽつりと吐かれた言葉は、静かな落ち着きを取り戻していた。

大量の呆れに、その他様々な感情をブレンドした声だった。

「それにわからない奴だ。そう想ってさらいたいとまで考えて、どうしてそうしなかったんだ。

 いや、加速世界で誰かを恒常的にさらう事などできるはずは無いのだろうが」

 

 

「……え、そこわからないの? 本気で言ってるの?」

「なんだ素っ頓狂な声を上げて」

アセニック・クローは、思わず深々とため息を吐いていた。

そして最初の言葉をもう一度、告げる。

 

「姫様。良いの? みんな、行ってしまうよ」

 

ブラック・ロータスがガタッと振り返る。

見つめるのは月光ステージの漆黒のビル陰の曲がり角、レギオンの皆が歩いていった先だ。

今、彼らを追いかけなければそれが加速世界今生の別れになってしまってもおかしくない。

彼らはそんな進軍を始めてしまった。

「生憎、ボクが姫様の手を摘んで逃げるより、姫様が彼らに手を伸ばした方が姫様の為になりそうだからね。ボクは大人しく身を引くよ。

 やっぱりボクは本物の王子様にはなれないらしい」

「だ、だが、どの面を下げて会いに行けと言うのだ!?

 例え《ネガ・ネビュラス》を滅ぼすのが私の選択ではなかったとしても、あいつらを追い込んでしまったのが私である事に変わりはないじゃないか!」

「そんなの決まってるじゃないか。追いかけて言えばいいんだよ」

アセニック・クローの指先が、再び天頂の満月を指し示す。

 

 

「《I love you(月が綺麗ですね)》」

「そんな恥ずかしい事が言えるか!!」

 

 

ぜえぜえと荒い息が響く。

気持ちが塞ぎこんだ状態から癇癪を起こしたしてすっかり疲れ果ててしまったらしい。

すぅ、すぅと息を整える音が続く。

唐突に、切り返しが来た。

 

「……おまえこそどうするんだ。無謀だから付き合えないと言うのはただの方便なのだろう?」

「どうしてそう思うんだい?」

「おまえはさっき言ったじゃないか。痛みから出る選択は、追い詰められて視野狭窄に陥っているとしても価値のある選択のはずだと。

 無謀だと言いながらも、ミサキは窮地に陥る《ネガ・ネビュラス》の最期を賭けた彼らの進軍は価値のある物だと思っているのだろう?

 言ったじゃないか。おまえは私の選択を肯定すると。

 おまえがレギオンを抜けたのは、私が加速世界から隠遁するという選択を肯定してのこと。

 いや、あるいは……何が起こるかわからない危険な作戦に、流されて参加してしまう者が出ないように、自らがレギオン脱退の口火を切ってみせたのではないのか?」

 

ミサキは、少しだけ口を噤んだ。

沈黙は僅かな時間のはずだった。だけど静寂に満ちた月光ステージでは、ほんの僅かな沈黙さえも永遠のような静謐さを作り出す。

ブラック・ロータスが息を整えた今では尚更の事だった。

 

「考え過ぎさ、姫様。ボクは無謀な作戦に付き合いたくなかっただけだよ。

 確かに、これが姫様の主導なら違う選択をしていたかもしれないけれどね」

《帝城攻略作戦》は隠遁を宣言したレギオンマスターであるブラック・ロータスではなく、幹部である《四元素》達からの発案だった。

ブレイン・バーストというゲームにおいて目指すべきクリア条件は、二つ有るのではないか。

《レベル9》同士のサドンデスルールに血塗られたバトルロワイアルを制して《レベル10》へと至るのとは別に、加速世界中央の絶対不可侵領域《帝城》を攻略する事もそうなのではないか。

「それなら、私が彼らに付いていくという選択をすればおまえは」

「行かないよ。既に選択はなされたんだ。ボクは姫様ではなく、姫様の下した選択を肯定する」

 

それは軽やかに紡がれた、謎めいた、しかし明確な否定だった。

ブラック・ロータスの手から零れ落ちたアセニック・クローは、もうその掌に戻らない。

ブラック・ロータスの選択を肯定すると言いながらも、その存在は否定するかの如く。

 

「それにやる事ができてね。準備も必要だ。だから《四元素》達の無謀に付き合えない」

「……ミサキ、おまえは」

少しの逡巡。

「おまえは皆が進軍した理由を自分達が関わらない選択のせいにしない為だと言った。だとしたらおまえは……四元素や皆の作戦を蹴ったおまえは……」

「姫様」

その先は言わせなかった。

皆のせいで《ネガ・ネビュラス》が滅びたと恨んでしまうのではないのか。

それには答えなかった。

ただ、告げた。

 

「ボクはいつか、姫様の敵として現れるよ。ちゃんと覚悟しておいてね」

 

 

 

 

 

そうしてアセニック・クローはブラック・ロータスの前から姿を消した。

2044年の夏、第一期ネガ・ネビュラス時代にブラック・ロータスと交わした言葉はそれが最期だ。

その直後もう一度、帝城攻略作戦の第一関門、四方門の攻略に失敗して壊滅状態に陥っている所に駆けつけて顔を合わせる事は有ったが、とても言葉を交わす猶予はなかった。

 

 

それが、今からざっと三年前の事だった。

 

 

       * * *

 

「静岡。静岡。次は静岡に停まります。お降りのお客様はお忘れ物無きようお気をつけて――」

車内アナウンスが緩やかにミサキの意識を浮上させてくる。

眠っていたわけではない。電車の穏やかな振動の中で回想に耽っていただけだ。

今、ミサキは東海道本線に乗り東京都の西隣の静岡県を訪れていた。

それはブレイン・バーストや《スーパーノヴァ・レムナント》に関わる物だったが、それを知ったバーストリンカーが居れば一様に困惑していただろう。

バーストリンカーはほぼ全てが東京都内にしか居ない。

東京都を除いた四十六都道府県は、加速世界において無人の荒野なのだ。

極稀に親の都合などで引っ越ししてしまう可能性は有るが、もしそうなってしまえば加速世界から退場してしまうも同然である。

バーストリンカーがどんな目的で行動を起こすにしても、事を行うのは東京都内限定。

それが鉄則のはずだった。

 

2047年の六月二十四日、日曜日の夕方。

夏休みにはまだ早い日。

レムナントのリーダーは静岡の地に降り立った。

人混みを避け、もう癖になっているソーシャルカメラ・ネットが手薄になりやすい道を歩き出す。

バーストリンクを使用してこの駅や周辺のカメラ配置を確認したのは数ヶ月前で、もう配置は変わっているが、都内に居る時に日頃から頻繁にソーシャルカメラ・ネットの配置を確認しているせいで、最近はわざわざ確認しなくともカメラの配置されやすい場所が殆ど把握できる。

だからといってわざわざ避ける必要の無い時まで避けてしまうのは、見られたくないという感情が有るせいだろうか。

 

「依頼が来てしまった」

 

呟く。

 

「そう、依頼が来てしまったんだ。だから、仕方がない」

 

自分に言い聞かせるように呟く。

脳裏をよぎるのは最近来たばかりの依頼のメールだ。

普段送られてくるスーパーノヴァ・レムナントへの依頼と殆ど同じ形式だった。

ただし目標となるデュエルアバターの欄に書かれた文字列と、マネーコードの金額が違う。

本来デュエルアバターの名前が書かれるべき場所には、レギオンの名前が記されていた。

そしてマネーコードの金額は、日本円にして10万円。

 

普段の特定のバーストリンカーを処刑する依頼ではなく、一つのレギオンを潰す形式の依頼だ。

その依頼料はかなり吹っ掛けた高額に設定していた。

いたずらではなく、確かに換金できる正式なマネーコードである事は確認済みだ。

しかし現実的には有りえないはずの依頼だった。

黛拓武とのやり取りでもあった通り、バーストリンカーには日本円の支払い能力が殆ど無い。

この金額を用立てるには極一部の裕福な家の子供か、そうでなければ大規模なカンパをしなければならないはずだ。

その上に、アングラの片隅に時折記載するレムナントのメニューにはこのコースを載せていない。

第二期ネガ・ネビュラスの復活と共にひっそりと記載をやめた裏メニューだ。

確かにこの依頼をもう引き受けないなどと言ってはいないが、知る者がどれだけ居るのだろう。

 

何よりスーパーノヴァ・レムナントはもう壊滅したと思われているはずだ。

先日のシアン・パイルに返り討ちにされた事件により構成メンバーは全滅したとされている。

その後にシアン・パイルの処刑依頼を失敗したと表明した事で、逆説的にレムナントの生き残りが残っている事は知られただろうが、依頼遂行能力は無くなったと思われたはずだ。

そんな壊滅状態のはずのレムナントに、誰がこのような依頼をしたのか?

仮に生き残りがレムナントの心臓部であるアセニック・クローである事に気づいたとしても、この金額のマネーコードを持ち逃げするとは思わなかったのか?

 

心当たりは有った。個人的には好きではない人物だ。

だが、それでも依頼は依頼だ。無視するという選択肢は無かった。

 

そしてこの依頼を実行する為には必要な物が有った。

手勢だ。

 

 

 

アセニック・クローは、とても単体でのPKには向かないデュエルアバターだった。

アバターの特性ではなく、アバターの来歴に問題がある。

アセニック・クローは無名ではない。

アセニック・クローは最古参から存在するデュエルアバターであり、《一日達成者》など幾つかの二つ名まで所持している。

更に七大レギオンの一つであった第一期ネガ・ネビュラスで幹部候補と言われた時期まで有った。

当時のアセニック・クローは後に《四元素》と呼ばれる事となる4人の中では若干レベルが遅れていたアーダー・メイデンよりも高レベルで、対戦成績も良かった。

あのまま何もしなければ四元素は別の名前で、5人か、あるいはアーダー・メイデンが数えられていない未来も在り得ただろう。

 

(そういえば巫女ちゃん……アーダー・メイデンもレギオンに帰ったんだっけ)

 

しかしアーダー・メイデンは個人戦よりも領土戦等の集団戦で実力を発揮する特性のアバターだ。特にネガ・ネビュラス影の番長だなどと揶揄される事もあるスカイ・レイカーとの連携で生み出すシナジーは凄まじく、二人で集団戦闘の戦局を変えてしまう。

間違っても彼女を押しのけて幹部格になってしまうわけにはいかなかった。

加えてアセニック・クローには幹部として不適切な理由がいくつもあった。

 

一つ。《四元素》の中でも近接戦を得意とするグラファイト・エッジは黒の王の剣の師匠であり、四元素達の中でも頭ひとつ抜けていた。

《ネガ・ネビュラスを代表する近接戦闘のエキスパート》の座は既に埋まっていたのだ。

二つ。アセニック・クローはネガ・ネビュラスに隣接するライバルの七大レギオン、レオニーズの青の王、最前線の仮想敵であるブルー・ナイトに一度たりとも勝てていなかった。

三つ。ミサキの得意としていた《盤外戦術》ははっきり言ってネガ・ネビュラスの風土に合わず、対戦を仕掛けられるのを敬遠させた時点で対戦の頻度自体は控え気味にしていた。

 

単に総合戦績が良いだけではレギオンの幹部として適切とは言えない。

そう考えたミサキは幹部になるなら同じメタルカラーであるグラファイト・エッジから奪うなどと言って、その末に正面から華々しく競り負け、狙い通り幹部候補から抜け落ちたのだ。

 

 

 

しかし対戦も少なめだったとはいえ、七大レギオンの上位に居た名前というのはなかなか忘れてもらえないものだ。

これはPKを行うには大きな弱点だ。アセニック・クローについて知っている者が多すぎる。

普段は思い出せなくとも名前を見れば思い出す程度には皆の記憶に残ってしまっている。

だからスーパーノヴァ・レムナントには四人の配下が居たのだ。基本的にPKの実行犯はミサキが色々と教えこんだ彼らに任せていた。

先日ミサキがピンク・ホッパーに直接物理攻撃を行った……行う事ができたのは、彼女が三年前を詳しく知らないほどに若いデュエルアバターだったからだ。

そうでなければ幾ら配下を失ったからといって自分一人でのPKは断念したかもしれない。

 

(副長も一番に帰っている。水の……カレントも、もう帰る条件は整っているはずだ。

 黒騎士はもうあそこには帰らないはずだけれど、四元素はほぼ復活したと言って良い。

 そして新たに銀の翼が、理知と杭の戦士が、時計の魔女が加わった)

 

「銀の王子のキスで眠り姫は目を覚まし、王国は蘇ろうとしている」

そう嘯き、流石に気恥ずかしくなって顔を赤く染めた。

誰かに格好を付けるのは良いけれど、誰にも見られないで気取るのは逆に少し恥ずかしい。格好を付けた振る舞いを心がけていたせいで、一人でいる時までつい口をついてしまう。

それでも続けた。

「今その王子と姫を引き裂かねばならないなんて、ボクには悪い魔女の役しかできないらしい」

 

 

メールに記載されていた処刑対象レギオンの名は、《ネガ・ネビュラス》。

 

 

かつてアセニック・クローが所属していた、黒の王のレギオン。

先日戦った、シアン・パイルの属しているレギオンでもある。

シアン・パイルには騙したようで悪いが、シアン・パイルの処刑依頼は確かに取り下げた。その後で別の依頼が来たのだからこれは別の話だった。

個人的に思う所は色々有ったが、それでもミサキの思想はこの依頼を肯定するのだ。

 

 

 

 

 

 

 

(シアン・パイル。あれも悪いアバターじゃないんだけどな)

 

シアン・パイルについては、個人的に気になっているアバターではあった。

あの後、彼が使ったというISSキットの所有者を捜して対戦を仕掛け、その性能を確認してみた。

しかし明らかに……弱かったのだ。

厳密には性能自体は低くなかったが、使用者の精神が侵食されている為、他人の心意技である二種の心意技を単調に連射するばかりで、ミサキが一蹴した蒼刃剣にも劣る強さでしかなかった。

強力な負の心意技を会得させていたレムナントの四人に打ち勝てる強さは決して無かった。

ISSキットを装着したシアン・パイルがレムナントの四人を一蹴したという話と噛み合わない。

 

(狩りPTの前に現れたシアン・パイルのパイルにはレムナントの生き残りが串刺しになっていて、アバター本体ではなくパイルの本体部分に不気味な眼球が脈動していた、だったか)

 

ISSキットを持つ他のアバターが胸の中央に眼球を出現させていたのとは位置が違う。

ミサキは推測する。

ISSキットは強化外装と相性が良く、強化外装を経由した方が効率的な強化を行えるのだろう。

 

ミサキは心意技を研究する過程で、心意システムにより強化外装の《融合》を行える可能性に気づいていた。

《融合》を起こした強化外装はお互いの欠点を埋め合い、性能を無駄なく引き出す事ができる。

ISSキットはこの原理により強化外装を持つアバターに装着された時に性能を跳ね上げるのだろう。

 

だがそれだけではまだ不足している。

《融合》を起こした強化外装は隙の無い性能を持つ筈だが、それだけで両方を足しあわせた以上の性能は発揮できない。

《融合》した事により、シアン・パイルは自らのパイルを操作するようにISSキットを使いこなしたのだ。ISSキットが与える負の心意技を、借り物でなく自らの心意技として使いこなした。

黛拓武自身とシアン・パイルには、以前から負の心意技への適正が有ったのだろう。

というより負の心意技でなければ、秘めているポテンシャルを引き出せない状態に有るのだ。

 

(彼はあのデュエルアバターを否定したがっている。恐らく過去のトラウマというだけではなく、現在の絆か、あるいは未来の夢か、そういう物を否定しかねない心の傷から生まれたのだろう。

 それを肯定する事は今持っている温かな場所を否定することに思えてしまう、そんな傷から。

 肯定するには負の心意技を選ぶしかないならば否定する気持ちも分かる。

 だけど引き返すにはあまりにもあのアバターを育てすぎた。

 レベルアップボーナスを何レベル分も集中させた必殺技特化型デュエルアバター。そのデュエルアバターの本質を最も色濃く表す、アバターカラーが名前に付いた必殺技まで習得している。

 彼自身隠そうとしていないから青のレギオンから聞く事が出来たけれど……彼は自らに発現している《穿孔》という強化外装を使う為のアビリティの稀少性にも気づいていないんじゃないか)

 

ブレイン・バーストにおいて、最初から強化外装を持っているアバターでもそれにアビリティまで付属している事は殆ど無い。

装備している強化外装を使用する為に特別なアビリティなど必要無いのだ。

にもかかわらず、シアン・パイルはパイルドライバー専用としか思えない《穿孔》のアビリティを習得しているという。

このアビリティが何のために存在しているのか。

ミサキは同じ種類のアビリティに心当たりが有った。

 

《終決之剣(ターミネート・ソード)》。

 

加速世界最強の近接攻撃力を持つアバター、黒の王ブラック・ロータスの持つアビリティ。

レベルアップボーナスをひたすら攻撃に注ぎ込んだ結果行き着いたそのアビリティは、破壊不可能と言われていた加速世界の地面さえも切り裂く絶対的攻撃力を誇る。

ブラック・ロータスの全身はこのアビリティを得る以前から剣の塊だったが、このアビリティへと至る事でその切れ味が絶対的な物へと強化されたのだ。

 

《穿孔(パーフォレーション)》はそれと同種の、当然ながらかなり下位のアビリティ……《刺突攻撃全般の貫通性能を上げる》効果が有るのではないかとミサキは見ていた。

つまり《蒼刃剣》でも、刺突攻撃は《穿孔》により威力が強化されるのではないか。

 

(それに《蒼刃剣》でパイルの形状の変化……つまり心意システムによる強化を修練し、更にISSキットの寄生をパイルに受けた影響が残っていないとも思えない。

 彼のパイルは、いつでも心意を載せられる段階にまで成長しているはずだ)

 

ミサキ/アセニック・クローはシアン・パイルの《蒼刃剣》を一蹴したが、それは戦闘用の心意技として否定したにすぎない。

修行用の心意技としてであれば、《蒼刃剣》には可能性があると感じていた。

それはつまりパイルであった強化外装を心意システムによって強化するトレーニングだ。

パイルでなく刀という形状にすれば心意システムによる強化も肯定的に行える。

それを繰り返せばパイルドライバーに心意技を載せる事も自然に行えるようになるだろう。

 

その結果。

(だから最後の瞬間、《蒼刃剣》の先端はボクの掌に突き刺さったんだ)

心意技において圧倒的な実力差が有ったアセニック・クローに、ほんの一矢だが報いていたのだ。

心が乱れ自己崩壊を起こしていた心意技で、小さな小さな傷を付けていたのだ。

 

 

 

「あの杭を磨いてみたかったな」

 

もしも何の立場も無い環境でタクム/シアン・パイルと出会っていたら、きっとミサキは彼の力を鍛えて引き出してやりたいと思っただろう。

通常対戦の戦績では彼が相棒を組む加速世界唯一の完全飛行型アバター、シルバー・クロウと遜色のない成果を出している。

だが彼のアバターならではの仕事は、今の《ネガ・ネビュラス》には存在しないだろう。

 

ただ強いだけなら近距離でも中距離でも第一期の頃から所属していたメンバーの方が優っている。

当たり前だ。黒の王と帰還しつつある幹部達は加速世界で上から数えた方が早い実力者集団だ。

他にも第二期《ネガ・ネビュラス》の新顔達、シルバー・クロウやライム・ベル等は非常に特殊な一芸を持っており、ただ強いだけでは出来ない仕事を果たせる。

だがシアン・パイルには、そこまでの特異性は無い。個人戦の戦績では劣らないだけで。

 

その境遇に少し同情と共感を覚えなくもないのだ。

例え最初から仮の止まり木だったとしても、《ネガ・ネビュラス》に居た時に自らの立場の無さを自覚していた頃の自らを思い出すから。

ミサキが《ネガ・ネビュラス》に所属したのは純粋な理由では無かったが、それでも所属し続ける事に、あの場所に喜びを感じていなかったわけではない。

だから彼になら。

 

「彼なら、鍛え続ければ負の心意ならば極められるかもしれないのに」

 

力を与えたいと思ったのだ。だけど。

 

 

「本当に、残念だ」

 

 

処刑人、《スーパーノヴァ・レムナント》は私情も慈悲も挟まない。

 

 

 

 

「姫様……ううん。ブラック・ロータス。ボクは君のレギオンの敵になる」

 

 

 

東京から少し離れた静岡の地。

他に誰一人バーストリンカーが居ないはずの場所で、レムナントは新たなる暗躍を開始する。

 

 

 

 




・ワンポイント、多め

>ISSキットと融合について
ISSキットが強化外装を持ったデュエルアバターに装着された時、より深く寄生する事は原作13巻で説明がありました。
この原理について魂の無い強化外装は抵抗無く寄生できる為ではないかと推測されていましたが、
もう一つ、初代クロム・ディザスターが出現した時に起きた現象にも注目したい所です。
ISSキットはあの現象を再現する為に作られた強化外装でした。その伏線として強化外装への強い寄生が描かれていたのではないでしょうか。


>デュエルアバターの本質を最も色濃く表す、アバターカラーが名前に付いた必殺技
ブラッド・レパードのLv5必殺技ブラッドシェッド・カノンなど。
赤系なのに近接特化にしか見えないというあの人は間違いなくシアン・パイルの対比であり成功例だと思うのですが、原作で余り絡みません。タクムの心意の師匠の腹心なのに。

ライトニング・シアン・スパイクはシアンを抜いても問題なく意味が通るのにわざわざ付けられている辺り、特別なものを感じています。



>《蒼刃剣》でパイルの形状の変化……つまり心意システムによる強化を修練し、
>更にISSキットの寄生をパイルに受けた影響が残っていないとも思えない。
>彼のパイルは、いつでも心意を載せられる段階にまで成長しているはずだ

この数日後、原作15巻の事ですが、シアン・パイルは技名も無く絶叫だけでパイルを心意システムによって強化し、七大レギオン幹部級でも手こずる《拒絶》の防御心意にヒビを入れています。
もちろん心意を篭めた某必殺技の相性が非常に良く無駄なく全エネルギーを集中できた為ですが、心意技に対して通常のパラメータは殆ど無効化されてしまうという設定があります。
(正確には『心意技は心意技でしか防御できない』という内容ですが、攻撃と防御を入れ替えても概ね同じになると推測しています)
つまりあの防御心意にヒビを入れた分の攻撃力はほぼタクムの心意から生み出されたわけです。
少なくともそれほどの心意にパイルをぶつけてもパイルが砕けない強度を生み出しています。

その一週間前に《蒼刃剣》がレムナントの四人組の負の心意にボロ負けした事と比べ、次元の違う性能を発揮しているように思えてなりません。
そこから生まれたのが作中の考察となります。


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2章
(1)バトル・ロワイアル【RomanesqueGlass】


 

山下智彰(やましたともあき)は夜の河川敷が好きだった。

煩わしい物を置き捨てて、街の灯火を遠くに見つめて、ただ夜道を歩くのが好きだった。

そしてそれを好きで居られる事が、自分に残った僅かな縁だと自覚していた。

 

あの眩い光の中に行きたいわけではないけれど、それでもあの光にまだ憧れを持って居られる。

光に近寄りたくはないけれど、光の有る場所の温かみを忘れたわけでもない。

「………………」

言葉は無い。話す相手が居ないのだから。

智彰はその位に病的な状態にある少年だった。

 

智彰は引きこもりだった。

原因はよくあるイジメだ。学校に行きたくない。

言葉で表せばたったそれだけの理由。

原因もそれこそありきたりで、中学最初に出来る友人グループのどれにも入りそこねただけの事。

少し珍しい所が有るとすれば、加害者がやりすぎた事によりイジメが露呈して教師の叱責を受け、謝罪し、そして智彰は知る由もないが、加害者達も本当にやり過ぎたと反省している事だろう。

イジメといっても時期の短さで考えれば陰湿さは薄い、子供の悪ふざけが行き過ぎたような物だ。

中学に入ったといってもまだ無邪気で、残酷で、行為の重さを理解できない子供の悪ふざけだ。

 

子供達は愚か大人達でさえ未だに甘く見る、時には命さえ奪いかねない悪ふざけ。

僅かな期間の行き過ぎ、もう終わった事にされる陰で、少年の心身には深い爪痕が残っていた。

 

ライトを、眼に当てられたのだ。

殴る暴力よりもお手軽で、後が残らない暴力だった。だがやりすぎれば視力が低下する。

智彰の視力は低下し、それ以上に光が怖くなった。

強い光に対する恐怖症を患ってしまったのだ。

 

 

 

「………………」

視力の低下は、ニューロリンカーによる視覚補正で殆どお金も掛からず対処できた。

だけど今でも、真昼の陽の光が怖くてたまらない。

最後は太陽の光でやられたからだ。

眩い光の有る場所に行けない。行きたくない。

怖い。

 

家庭学習でもなんとか中学の勉強に付いて行けているが、せめて学年が二年に上がったら登校するように言われていた。

二年では、加害者達と同じクラスにならないようにしてはくれるらしい。

確かにあれは酷い事だったが彼らも謝った、体もどうにかなった、そろそろ立ち直って良い頃だ。

一ヶ月も経てばそう言われるようになり、二ヶ月も経てば励ましは強い言葉になり。

三ヶ月も経てばまるで智彰に問題が有るように言われるようになった。

 

(でもまだ、あいつらは学校に居るんじゃないか)

傷の痛みが全く鈍っていないわけじゃない。

だけど恐怖はまるで癒えていない。

時間は有っても智彰には立ち直るだけのキッカケが、無かった。

 

 

 

そんな中学一年、2047年の春の夜の事だ。

智彰は夜道で、声をかけられた。

 

「もしもしそこの君、ちょっと良いかな」

 

お巡りさんか、あるいは何かの見回りの人かと思った。

怖いという感情と、それよりも面倒くさいという感情が噴出した。

夜の散歩をしている内に、そういう人間に掛けられる質問への受け答えだけは学んだのだ。

昼間に話される話題はとても入れなくて何もかもが怖くなってしまったけれど、夜間、極稀に話しかけられる時、どんな用事で話しかけられるのかは大体察しが付いていた。

不審者と疑われるのか、あるいはプチ家出とでも思われ家に帰りなさいと諭されるかだろう。

「なんですか」

無言で逃げでもしたらそれこそ面倒くさい反応をされる。最悪不審人物として通報だ。

答えて振り向き、少しギョッとなった。相手が自分とそう変わらない少年だったからだ。

それも少し年上だろうか。

街灯の照らす光の中に、パーカーを着てフードを被った少年が立っていた。

智彰には大人より同年代の人間の方が怖かった。自分をイジメた輩と同じかもしれないから。

実益で動く事が多い大人の犯罪者よりも、理屈の無い不良に絡まれる方がずっとずっと怖い。

フードから覗く顔はアイドルみたいに端正な物だったけれど、そんな別世界に住んでいそうな人は特に怖いと感じる。これは偏見だと分かっているのだけど、怖いものは怖い。

 

「不躾ですまないけど、二つだけ訊いて構わないかな?」

「……なんですか?」

「君、幼少時からニューロリンカーを装着して育ってはいないかい?」

 

一瞬ビクッとなった。

確かにその通りだ。だけどそんなに珍しくはないはずだ。

生まれた直後からニューロリンカーを着ける理由は幾つかある。バイタルチェック目的と早期学習の為が多い。後は育児の補助とかだ。

ただ、質問の意図が分からなかった。そんな事を訊いてどうするというのだろう?

 

「それを訊いてどうするつもりなんですか」

「ノーじゃなさそうだね。それならもう一つ」

 

――新しい世界、新しい体に興味は有るかい?

 

 

       * * *

 

 

あの時は、宗教の勧誘かと思った。

だけどその少年……いや、彼女から受け取ったBBプログラムは本当に世界を変えた。

アセニック・クロー。

彼女が何を目的としているのかは分からない。

それでも彼女に尽くそう。彼女の期待に答えよう。

彼女に導かれて訪れたこの加速世界で、智彰は幾つもの救いを得たのだから。

憧れにも似た想いを糧に、自分の物ではない自分の脚を走らせる。

地を蹴る脚は、光沢の有る半透明な深紫色をしていた。

 

アバターネームは《RomanesqueGlass(ロマネスク・グラス)》。

ロマネスクは深紫の色であると同時に、中世ヨーロッパの建築様式を示す単語でもある。

特にその時代で代表的な、ステンドグラスをモチーフとしたデュエルアバターだ。

 

 

紫はブレイン・バーストのデュエルアバターを分類するカラーサークルにおいて、中距離攻撃型の傾向を持つ。

またアセニック・クローが教授してくれた経験則によれば紫は《初見殺し》が多いのだという。

遠距離攻撃ならば不可視の衝撃波だったり、実体武器でも変幻自在な動きが可能だったり、近距離攻撃でも実際のライフではなく必殺技ゲージなど他の数値を削ったり。

あるいは攻撃力が平凡でもスキャンアビリティにより相手の能力を丸裸にしたり。

加速世界において最強攻撃力を争う赤と青の二色間に有る紫は、単純な攻撃力では若干劣るもののハマればそれ以上の強さを見せるのだと教えてくれた。

 

ロマネスク・グラスは彩度こそ低めだが正しくその通りの特性を持っていた。

このデュエルアバターが持つ特性は鮮やかな色彩のガラス塊を生み出す必殺技《ブラストグラス・ヒューズ》に集約されている。

この必殺技に生み出された有色のガラス塊は床や壁面などに設置され、砕けるまでかなり長い時間フィールドに残留し続ける。

そして強い衝撃を受けた瞬間に激しく砕け散り、周辺に無数の鋭いガラス片を飛散させるのだ。

大昔の格ゲーで言えば《設置キャラ》に当たるだろう。

 

 

加速世界に降り立った直後の智彰は、この眩いばかりのアバターに恐怖を抱いたものだ。

智彰の心の傷を濾し取ったというだけあって、ロマネスク・グラスは光を反射して強く輝く。特に太陽の光が差すフィールドでは反射光で周囲一体を照らし出し、日陰が何処にあるのか分からなくなる事さえ有った。

 

しかしそれが、光への慣れを生み出した。

 

ブレイン・バーストのデュエルアバターはバーストリンカーの心の傷を濾し取って形作られるが、それがどういう風に表現されるかは様々だ。

自らが最も恐れる存在を体現される事もあれば、自らが望んでも手の届かない憧憬を形作られる事もある。例外も多々有るが、後者は自らのアバターを肯定しやすいだろう。

智彰にとってロマネスク・グラスはその両方の側面を持っていた。智彰はその事に助けられ、苦しみながらも、徐々に光を克服する方向に向かっていけたのだ。

 

だから。

智彰は、アセニック・クローに対して返しきれない恩を感じずにはいられないのだ。

 

その恩義を力にして走る。

走る。

走る。

 

原始林ステージに形成された洞穴の物陰に、無数のガラス塊を設置して、走る。

ロマネスク・グラスの特性は設置技で、先に場所を確保して戦う事で圧倒的優位を得られる。特に狭い場所に仕掛ける事が重要だ。

設置タイプのキャラクターは格闘ゲームのジャンルが2Dの狭い空間から3Dの広大なフィールドに移行した時に一気に廃れた。狙ったポイントに誘導する事が困難になったからだ。

ましてブレイン・バーストは通常対戦フィールドですら数平方km、今ダイブしている無制限中立フィールドに至っては文字通り無限の広がりを持っている。

 

(重要な事は三つだ。設置した範囲外から遠距離射撃されない見通しの効かない閉所であること。移動経路の限られた場所であること。遮蔽物ごと破壊する事が困難な場所であること)

 

見通しが効かないだけなら原始林ステージは屋外の密林でも良い。視界の悪さはかなりの物だ。

しかし移動経路の限られた場所となると一気に絞られる。

現実世界に有った道路沿いの建造物を模造した岩山や大樹は除外した。確かに岩山の登りやすい道は限られるし、大樹も同じだが、岩山は空が開けていて赤系の遠距離爆撃を防ぎきれないし、大樹に至っては十分な火力さえあれば切り倒せる。

特に高い火力と射程を合わせ持つ赤系を相手にするとこの両方をやってくる危険がある。

この、現実世界のアーケードを元に形成され、アレンジを加えられ曲がりくねった形状に変化した洞穴こそ最適ポイントだ。ここなら丘を壊す程の超火力でもなければ外から破壊されない。

洞穴の中に生成された鍾乳石を砕き必殺技ゲージをチャージし、それを即座に設置ガラスに変えていく。

そうして洞穴を走り抜けた時、彼は戦うべき敵を視認した。

 

ロマネスク・グラスはひたすら勝ちに行くつもりだった。

アセニック・クローからの期待に答える為に。

 

 

        * * *

 

 

「バトル・ロワイアルだ」

 

アセニック・クローは、目の前に居る何人ものアバターの前で演説をしていた。

いや、解説、と言うべきか。

 

「君達にはこれからバトル・ロワイアルをしてもらう。

 といっても最後の一人になるまでとは言わないよ。

 四人だ。君達は四人になるまで戦い、削り合い、生き残ってもらう」

 

その前に立つアバターの数は、十人。

色とりどりのデュエルアバターが、彼女の話を聞かされていた。

 

 

「先ほど君達のポイントはサドンデス用のカードに充填して貰ったから、無視してフィールドから脱出してもポイント全損の判定がされ、ブレイン・バーストはアンインストールされる。

 最も君達が無制限中立フィールドにダイブするのは初めてなのだから、ボクが見張るここ以外のポータルは見つけられないと思うけれどね。

 それにエリア外に出るのはお勧めできないよ。さっき解説した通り、この無制限中立フィールドにはエネミーが居る。一番弱い《小獣(レッサー)》級でも成り立てのレベル7並の奴らさ。

 原始林ステージには通常対戦フィールドでも恐竜が居るけど、縄張り内に近寄るだけで攻撃してくるほど攻撃性が高まっているし、同列には考えない方が良い。

 この周辺からは掃除してあるけれど、エリアの外には幾つか群生地も存在する。

 無理に逃げようとして無慈悲なエネミーにやられて無様に退場、なんて事は避けて欲しいな。

 残り四人になればカードは設定通り、充填したポイントを勝者達に配分する。商品としてボクが充填しておいたポイントも配分される。要するに生き残れば良いんだよ。

 そうすれば君達にはこの世界に居続ける手段を与えてあげる。ボクが使っている、君達の攻撃を完全に無効化する技の習得方法も教えてあげよう。

 代わりに少々協力してもらう事は有るけれど、その後は自由を約束しようじゃないか」

 

それは酷く残酷で、身勝手な言い分だった。

それでもアバター達は黙って、真剣に彼女の話を聞いていた。

 

 

「さあ、質問は有るかな。無ければ戦場に散って、戦いを始めてもらおう」

 

 

山下智彰/ロマネスク・グラスは何も聞かなかった。

 

何も聞く勇気が持てなかった。

 

 

       * * *

 

 

(僕は期待されているはずなんだ!)

 

「《ブレイクナイフ》!!」

 

必殺技発声と共に両手の甲から有色ガラスの刃が三本伸びる。

刃は鋭く、十分な重さも持っており、強化ガラス製なのか見た目よりは耐える。

だがそれでも折れたナイフという名の通り、全力で斬りつければあっという間に折れる。

そこを補ってくれるのが両手に三本ずつ合計六本という刃の数、そして。

 

「シュート!」

 

手を振ると共に発した掛け声に応じて、右手の刃が一つ弾けた。

ガラスの刃は鋭く飛んで相手のアバターへと襲いかかる。

銃声が響いた。

 

ダダダダダダッという強烈な騒音が、ガラスの砕け散る音さえも完全に呑み込んだ。

投げたガラスの刃は正確無比な銃撃に粉砕され、寸前に身を守る様にかざしたナイフまでもが尽く砕け散っていた。破片が体を掠め普段の二倍の痛みが走る。

細胞が凍りつく様な緊張感に襲われながら、はっきりと敵の姿を視認した。

鮮やかな朱色。がっしりとした体格と、背中に付いた背丈ほどもあるコンテナが印象的だ。そしてその手には装甲色と同色のアサルトライフル(突撃銃)が握られている。

直接対戦するのは初めてだったがその対戦は何度も観戦し、轟く噂を耳にしていた。

「ヴァーミリオン……!」

このバトルロワイアルに参加している二人の赤は、両方とも凄腕だと。

 

たった一本だけ残ったナイフを発射しながら、踵を返す。

再び銃声が鳴り響く。一発、びしりと左肩に命中した。

「ぐあっ」

無様な悲鳴を上げながら体力を確認。もう二割ほども削れていた。

ロマネスク・グラスのデュエルアバターは、斬撃や電撃を除く殆どの攻撃に弱い。

攻撃力に定評の有る色濃い赤の攻撃に晒されたらあっという間にゲージが尽きる。

急いで暗闇の洞穴の中に走りこんだ。

 

騒音が追いかけてくる。

騒音が。

凄まじい不協和音が。

洞窟の狭い空間を詰め込む程に満たしてくる……!

 

(くそっ、やかましすぎるだろ!!)

足音が聞こえない。背後から追ってくる筈の相手の足音は愚か、自分の足音さえも。

こんな怖ろしい騒音耳にした事がなかった。工事現場のすぐ横だってこれに比べれば静かだ。

まるで爆発系の攻撃を受け続けているみたいだ。

猛烈な銃声しか耳に入らない。今本当に走っているのかさえわからなくなる。

「うあっ」

一度走った道の足元を見失い躓いた。慌てて立ち上がる。

撃たれていない。まだ距離があるのだ。

それなのに、他の何も聞こえないほどに喧しい! 音圧で耳が痛くなるほどだ。

 

さっきの被弾で必殺技ゲージが少し溜まっているのを確認して、背後に指を向けて叫ぶ。

「《レゾナンスブラスター》!」

ロマネスク・グラスの必殺技はどれもその性質の為か消費ゲージ量が少ないが、この技は特にそうだ。単体では殆どダメージを発生させないせいだろう。

伸ばした指先をカチンと合わせると、その先に向けてキィンと小さな音が響いた。

轟々と鳴り響く銃声すらも掻き分けて、小さな音が空間を突き進んだ。

 

次の瞬間。続けざまに破裂音が鳴り響いた。

 

何千ものガラスコップが並ぶ売り場を大地震が襲ったらこんな音になるだろうか。

その騒音の中で悲鳴のような、悪態のような声が混じって聞こえた。

(やったか……?)

そう考え、すぐにその楽観的思考を否定する。

相手の足音も分からない状況で放ったのだ、とても決定打になったとは思えない。

最悪、驚いただけで無傷だった可能性もある。

 

《レゾナンスブラスター》はオブジェクト破壊性能の高い指向性の超音波を放つ必殺技だ。

相手が壊れやすい建造物の中に居る時でもなければダメージを与えられないが、真価は言うまでもなく《ブラストグラス・ヒューズ》の起爆にある。

発動時の音の鳴らし方によってその広がり方や方向を細かく制御することもできる。

これにより曲がりくねった道の先に居るヴァーミリオンの周囲に設置してある《ブラストグラス・ヒューズ》を起爆して攻撃したのだ。

 

(どうする?)

普段の通常対戦フィールドなら対戦相手の体力ゲージが表示されるからそれを見て考えられる。

だけどこの無制限中立フィールドでは相手の名前も何も表示されない。相手のカラーネームだって事前に知っていたから思い出せたのだ、情報が少なすぎる。

(せめてガイドカーソルが表示されれば位置が予測できるのに)

通常対戦フィールドでは心強い情報源だったガイドカーソルの消滅が恨めしい。

一定のダメージを負ったと信じて追いかけて攻撃するか。いや、そんなリスクは冒せない。

ロマネスク・グラスは再び立ち上がり、甲高い足音を立てて逃げ出した。

予想通り足音が追ってくる。

つまり追いかけてくる気になれる程度のダメージしか受けていないのだ。

 

「ここで決着をつけてやるっ」

聞こえても良い。自らを勇気づける為の叫びを上げて洞穴の中間にある大空洞に転がり込んだ。

すぐさま物陰の一つに隠れて相手を待つ。

この大空洞は壁に生えている苔が緑色に発光しており、明るさには支障ない。光苔の明かりをあちらこちらに設置したブラストグラスが反射して、幻想的な光景を作り出していた。

この中での戦いになればどう動こうと逃げ場なんて無い。ロマネスク・グラスが隠れている物陰に辿り着くルートは全て無数の罠が潜んでいる。

怖気づいて引き返されなければ、四方八方から起爆して撃破する。そしてもし引き下がったなら、それはそれで構わない。

残り四人までの潰し合いだ、追い払うだけでも勝ったような物だ。最後の四人に残れれば良い。

 

やがてカツ、カツとデュエルアバターの堅い足音と共に、敵が姿を見せた。

ヴァーミリオン……とにかくやたら長いアバター名だった事は覚えている。

その手には、先ほどとは違う銃火器が握られていた。

サブマシンガンと、ショットガンだ。

(そうだ、確かこいつは背中のコンテナに様々な銃が格納されているんだ)

状況に応じてそれを使い分けられるのがこいつの強みだと理解していた。

 

ロマネスク・グラスに敗因が有るとすれば、最大の要因はその理解だった。使い分ける応用性ではなく、強力な一点突破を警戒しなければならなかった。

何より智彰はこの瞬間、自らのアバターが何故赤を警戒すべきなのかを失念していた。

 

「《バレットカルテット》」

 

大空洞を見回したヴァーミリオンは、入口から踏み入らずに必殺技名をコールした。

 

背中のコンテナから巨大な第三腕が出現する。その腕に握られていたのは、ガトリング砲。

そしてヴァーミリオン本人も、右手左手を背後のコンテナに突っ込み、やはり同じくガトリング砲を取り出していた。生身ではとても持ち続けられない長大なガトリング砲を、がっしりとした腕が重たげに、しかししっかりと片腕で保持している。合計三つのガトリング砲。

その三つが、耳をつんざく轟音を爆発させた。

 

騒音。轟音。不協和音。

そう、不協和音。

(ヴァーミリオン・ディスハーモナイザー)

それが目の前の敵のフルネームだとようやく思い出した。アバターネームがやたらと長い事で目を引き、次にその喧しさで耳を引くアバターだった。

大空洞中を弾丸が跳ねまわる。岩壁に跳弾し、物陰のブラストヒューズを次々と起爆していく。

物陰が見えるほど近づけば射程内だった。だが赤の遠距離攻撃はその範囲外から飛来する。

次々にブラストグラスが砕け散りガラスの刃がそこら中に発射される。

それはこの空洞を攻略する最善手であり、同時に恐ろしく度胸の居る戦法だった。

鋭く尖ったガラス刃が、乱反射する弾幕が、互いにぶつかり合う程の密度で空間を埋め尽くす。

 

視界が白くなるほどの音の爆発。

ガラスと金属の乱気流。

思わず頭を抑えて縮こまる。背後の壁を見つめて。

その目の前の壁にまで、無数のヒビが走っていた。

 

「あっ」

 

その事に気づいた時には、もう手遅れだった。

岩壁に食い込む銃弾とガラス片が大空洞中に無数のヒビを走らせていた。

上を仰ぎ見たロマネスク・グラスが見たのは、破砕された天井が無数の岩となって降り注いでくる光景だったのだ。

 

       * * *

 

「コピーインストール権?」

「そうさ。レベル2以上になれば一度だけ、他の誰かにブレイン・バーストをコピーインストールする事ができるんだ。万が一失敗しない為の適正チェッカーも付いているだろう?」

「でも一回きりなんですね。一人しか増やせない。なんて貴重なんだろう」

「その分、有り難みも増すというものじゃないか。だからブレイン・バーストを与えた者と与えられた者の関係は《親》と《子》と呼ばれ、この世界最初の絆になるんだよ」

 

その話を聞いた時、自分は特別な存在なのだと確信した。

一回きりの《子》として自分を選んでくれたのだ。なんて光栄な事だろう。

それから少し、好奇心が湧いた。

 

「アセニック・クローさんの《親》はどういう人なんですか?」

「……いや、ボクの《親》は、ちょっと事情が有ってね」

 

やがて彼女が言葉を濁した理由を知った時、ロマネスク・グラスは心の軸を失った。

 

(そうだ、あの人はずっとずっと遠くに居たんだ。僕が辿りつけないほど遥か遠くに。

 あの人は僕に何も期待なんてしていなかったんだ。

 誰にも期待なんてしていなかったんだ。

 だってそうでもないと……)

 

「そうそう、これから加速世界で何かを掴むかもしれない君にボクから一つ忠告を贈ろう。

 何時か現実に帰る時が来たら、《この世界からは何一つ持ち帰れない》。

 あまり多くの支えを求め過ぎないことだ」

 

こんな、残酷な忠告をする筈が無いのだから。

 

       * * *

 

智彰は、アミューズメントセンターのダイブブースに居る自分に気づいた。

何故こんなところに居るのか分からず、首を傾げながらブースから外にでる。

一つ一つが狭い個室になっているから誰が入っているのかは分からないが、並ぶどの部屋も誰かが入っているらしい。こんな盛況は珍しい。

10人以上も用意されている部屋は何かイベントでも無いと埋まりきらない。皆でグローバルネットに接続する……オフ会でオンで出会ってでもいるのだろうか?

なにもこんなキラキラとした場所……で……。

「あ……」

 

明るい。眩いほどに。

見ればフロアの端にある窓からも初夏の日差しが差し込んでいる。

 

明るい、という事を脳が認識した瞬間、ゾッと言葉に出来ない恐怖が背筋を襲った。

「あ、あ……うあああああっ」

蛙が潰れたみたいな情けない悲鳴を上げて、逃げ出した。

 

何故こんな場所に居るのか分からない。一体何故こんなに怖いのかも。

いや、どうしてこれまで怖くなかったのかが分からない。

どうして。どうして?

(わからない、わからない、わからないっ)

 

どうやってかこの恐怖を一度は克服していたような気がする。

だけどきっと気のせいだったのだ。

何故そんな風に思えていたのか今ではもうわからない。

 

 

 

かつて幸せな夢を見ていた事さえ、今はもうわからない。

 

 

 

 

 

何処をどう走ったのかもわからない。

 

玄関を開けて家に飛び込み、自室の中に引きこもる。

 

かつて光を克服した精神は、山下智彰の中から失われていた。

 

 

 

 

 

 

 





・ワンポイント

>かつて光を克服した精神は、山下智彰の中から失われていた。

原作九巻におけるアッシュ・ローラーとの会話では、加速世界の記憶が自分の脳以外の場所に保存されている事が示唆されています。これがブレイン・バーストをアンインストールされた者の記憶が消える原因なのは間違いありません。
正確には消去ではなく、保存されている記憶にアクセス出来なくなると見るべきでしょう。

しかしその記憶とはただのデータバンクでしょうか。
そうではない事は、アッシュ・ローラーになっている時のあの人の人格が豹変している事からも、また更に後の巻で《赤の王》や《みーくん》の人格が出現した事からも伺えます。
既に強化外装しか残っていないあの災禍の鎧の二人の人格が残っていた事も注目すべきでしょう。
記憶というよりも人格、擬似的な魂といっても過言ではない情報です。なにせ生身の人間を失っても人格として成立する程の情報量なのですから。

時間制限が無いのを良いことに無制限中立フィールドに長期間ダイブすれば人が変わってしまう、という話もあります。
長い長い時間を加速世界で過ごした者の人格は、最早元の人格ではありません。
普段は一体化していて認識されていませんが、バーストリンカーは加速世界で過ごす内にもう一人の自分を育てているのです(※)。
バーストリンカーにとってデュエルアバターは文字通り半身と化しているのです。

※:一体化しているのにもう一人とは語弊が有りそうですが、この表現が近いと考えました。
  余談ですが、幼児期からニューロリンカーを装着していたという条件はこの辺りと関係しているのではないかと考えています。蓄積されたキャッシュデータとかそういうの。

これほど大きな部分を引き剥がされて失ってしまえば多大な影響が残るのは明白でしょう。
初めて記憶喪失が描かれたあの元悪逆な能美征二が、まるっきり人が変わっていたように。

あの少年についてはもう一つ、興味深い逸話があります。
といっても筆者はプレイした事がなく、原作者の監修もどの程度入っていたのか知らない作品なのですが……ゲーム版アクセル・ワールド、銀翼の覚醒において。
あるエンディングで、加速を失った能美征二が剣道の腕も素人に戻っている描写が有るそうです。
お話としてはそこからタクムが再び今度は清く正しい剣道に導く流れで終わっているそうですが、これは更に怖ろしい可能性を示唆しています。
原作でハルユキが覗き見た練習の場面では、能美征二は加速無しでも抜きん出た実力を見せているのです。
それは彼が現実世界でも相応の修練を積んで手にした実力だったはずです。

加速世界で養った勝負勘や呼吸を失った時、現実世界の技術を維持できるでしょうか。
加速世界で得た知識が抜け落ちれば、現実世界の知識も歯抜けてしまうのではないでしょうか。
そして言うまでもなく、加速世界の体験により成長した精神は、どうなってしまうのでしょうか。
それらを土台に構築されていた物はどうなるのでしょうか。

ここで原作五巻より、あの敵役の憎悪に塗れた言葉を振り返っておきます。

「認識しろ。ブレイン・バーストは、ただの薄汚れたライフハック・ツールだ」



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(2)バトル・ロワイアル【CeruleanFall】

中学二年、2047年の春の夜。

七丈隼土(しちじょうはやと)は塾の帰り道を歩いていた。

ニューロリンカーを通じた教育ソフトがどれだけ効果的でも上手い教育者の対応力には敵わない。

少なくとも今の親の世代にはまだそう認識されている。

だから教育熱心な家の子供は学校の後に塾へも通わされるし、その帰りが遅くなるのも珍しい事ではなかった。七丈隼土が歩く帰り道、路面は街灯に照らされても空はすっかり暗くなっていた。

 

隼土は勉強を煩わしく思っていたし、ひどく疲れた気持ちにもなっていた。

だけどそれに反抗しようなどとは思いもしなかった。

現実問題、自分が子供で、親の庇護下にあるのは理解していた。

将来の為に勉強をしなさいという論理も、自分の中で合理的な理屈を付けて、受け入れる。

社会の論理に逆らうのではなく、社会の論理を自分の信じる正しさにして同調する。

彼はそういう事が出来る、従順で大人しい、利口な子供だったのだ。

 

 

その帰り道で、友人と出会った。

 

「よう、ハヤト」

「……なんだ、カツか」

 

工藤勝弘(くどうかつひろ)。

もう何年も一緒に遊んでいない友人で、バスケ部に入っている。

今日も居残って練習していた帰りなのだろう。

 

「今日も練習か。精が出るな」

「まあな。今年は三年に上がる俺が引っ張っていかないといけないからな」

「部活は良いけど三年は受験もだろう。おまえ成績良くなかったんじゃないのか」

「スポーツ推薦取るから良いんだよ」

「バカ言え、うちのバスケ部、全中は愚か地方大会取った事も無いだろうが。

 おまえが幾ら頑張ったところで目に止まらないぞ」

「だから根を詰めなきゃいけないんだろ」

 

はっきり言って無謀だと思った。

愚かで、無意味で、馬鹿げてると思った。

それが社会の論理を自分の正しさとしたハヤトの感想だ。

非現実的なスポーツ推薦を目指して受験に失敗し将来を台無しにするなんて間違いだ。

 

「受験でバスケが強い高校目指せば良いだろうに」

「偏差値、全然足りねえんだよ。どうせ難しいなら得意なもので目指すさ」

 

だからってバスケは潰しが効かない。

しかもチームスポーツだ、自分だけ上手くなっても目的には届かない。

諌めるべきだ、説教すべきだ。

だけど、ハヤトはそこまで偉そうな大人にはなれなかった。

 

「……そうか。ならせいぜい上手くやるんだな」

「ああ、やってみせるさ。てめえもがんばれよ」

「ああ」

 

少し溜息を吐く。

そんなに自信の有る人間にはなれなかった。

ハヤトも今の成績なら問題無いとはいえ、油断すれば落ちる目標校なのだ。

そして好きなバスケットで勝負するカツと違い、ハヤトの勉強は気が滅入る。

幾らずっと近く平坦な道だとはいえ、急な坂を上り続けているような気持ちだった。

 

 

「君たち、時間が欲しいんじゃないかい?」

 

 

彼女は、そんな時に現れた。

 

 

「安心していい、ボクは黒づくめの時間泥棒じゃあない、本当に時間をあげられる者さ。

 ただ、何ヶ月か後に一度試験をしてボクの目的に協力して貰うけれどね。

 それまではボクが上げる時間は気晴らし以外に使わない方が良い。

 ああ、何を言っているんだと思っているのかい?

 良いよ、見せてあげよう。ボクがあげられる時間の力を」

 

そして彼女は見世物のようにそれを見せた。

バーストリンクと、フィジカルブーストの力を。

 

 

 

       * * *

 

かくして七丈隼土は旧友と共に加速世界に降り立ち、《セルリアン・フォール(CeruleanFall)》の名を授かった。

小学生の頃、図画工作の時間に絵の具で見たセルリアン・ブルーという美しい色。

ラテン語の空色を語源とする美しい青の装甲色を持つデュエルアバターだ。

その特性は青系らしい近接格闘系だが、ある特殊な性質を持っていた。

まるで鋭利な三角定規を組み合わせて回転させたように、手や足の先が尖った形状を持つのだ。

 

(カツの奴もこの何処かに居るわけか)

 

友人の工藤勝弘も《ヴァーミリオン・ディスハーモナイザー(VermillionDisharmoniser)》等というとんでもなく長いアバターネームを得て、様々な銃を両手+1で撃ちまくり不協和音を鳴らし立てながら勝ち星を稼ぎ、今日まで生き残っていた。

今日はバトルロワイアルの対戦者の一人となるわけだが、出来れば出会いたくはなかった。

今日の戦いは普段に輪を掛けて過酷な、負ければ加速世界から追放されるサドンデス形式のバトルロワイアルだ。疎遠とはいえ顔見知りと潰し合うのは避けたいし、共闘を申し込むのだってリスクが有る。

それになにより。

 

「勝ちは俺自身の手で掴むのが筋というものだ」

 

加速世界に降り立つ度に、心が開放される。

現実世界では捨て去ろうとしているはずの稚気がむくむくと湧き上がってくる。自分自身の全てをぶつけて筋の通った成果を掴みとる純粋な対戦に何度心を癒やされた事だろう。

対戦で疲労困憊するはずなのに、勉強の合間に疲れた後の対戦が、何故か疲労を吹き飛ばす。

バーストリンクにより《足りない時間を手に入れる》事が主目的だったはずなのに、いつの間にかハヤトは《無いはずの時間で楽しむ》為にブレイン・バーストを続けていた。

 

バトルロイヤルの開幕と同時、ハヤトは緑に呑まれながらも廃墟の様に朧気に残っている町並みの先、高層ビルをアレンジされて生み出された大樹の群生地を目指して疾走した。

その鋭利な足先は柔らかい地面に突き刺さる事無く、ホバーの様に僅かに宙に浮いている。

アセニック・クロー曰く、アビリティにはならない基本的な特性の範囲だが、地形の影響が薄い、優秀な移動タイプだという。

なんでも彼女の知る近接最強二人の内、一人はこの特性を持っているのだとか。

 

だがセルリアン・フォールにはそれとは別にもう一つ、アビリティとして設定されている移動能力を所有していた。

勢いを緩めることなくまっすぐ大樹に突進すると、その右足を上げ、まるで飛び蹴りの様に足先から衝突した。その足先が大樹に突き刺さる。

次に左足をそれより上に突き刺す。

そして右足を引き抜いて、左足より上に。

 

《壁面走行》アビリティ。

まるで壁に向けて重力が発生するように、垂直な面を駆け上がる事ができるアビリティだ。

細かい部分はデュエルアバターによって差異が生じるらしいが、セルリアン・フォールの物は足先を突き刺してオブジェクトにダメージを与えながら駆け上がるという過激な物だった。

とても破壊不可能な強度の壁で有ってもちゃんと引っかかって駆け上がれる辺り、本質はあくまで変わらず、副次効果として壁に穴を開けてしまうらしい。

そうして大樹を駆け登り、辺り一帯を見渡せる枝葉の上に辿り着く。

 

「……さて。初手はこれで良しか」

原始林ステージの空は蒼穹とはいかず、奇っ怪な薄紫色に染まっている。

同じ森林系なら世界樹ステージの方が好きだったが、そんなレアな贅沢は言えないだろう。

原始林ステージの大樹は世界樹ステージに比べれば現実的なサイズで切り倒される危険も有るが、セルリアン・フォールにとってそれはさしたる問題ではなかった。

とにかく高所を取る事が肝要なのだ、このアバターは。

 

ガサガサと、地上から下生えをかき分けて歩く音がした。

 

       * * *

 

「さあ、質問は有るかな。無ければ戦場に散って、戦いを始めてもらおう」

 

その言葉にセルリアン・フォールは真っ先に挙手をした。

 

「君は、セルリアン・フォールだったね。何が訊きたいのかな?」

「無制限コピーインストール権の入手法について教えてもらいたい」

小さなざわめきが有った。

アセニック・クローはふむと呟き、気取った様子で問い返してきた。

「一回こっきりのインストール権じゃご不満かな?」

「不満も不満、これではどう考えても俺達のポイントは絶えてしまうじゃないか」

ハヤトはセルリアン・フォールの手をオーバーに振って訴えた。

 

「レベル1の初期ポイントが100。レベル2に上がる為のポイントが300。そこでパイを増やしても新たなデュエルアバターの初期ポイントは100。合計のポイントは200も減っているのだぞ。

 レベル2のアバターを全損させてもその300ポイント分は誰も獲得できず消え去るのだからな。

 仮に10人でどれだけ効率よく回して増えても、レベル2が4人とレベル1が10人になった所で、集団全体の合計BPは100を切り誰もレベルアップできずレベル2のコピー権限も使用済みになる。

 しかもこれは対戦を仕掛ける時の1ポイントの加速を含めていない。レベル2になる4人が全勝し続けていたとしても、単純計算で80ポイントも必要になるな。実際は勝ったり負けたりで無駄に誰の物にもならずに消費されていくんだからもっと要る。

 挙句、対戦を仕掛ける時以外のバーストリンクや……フィジカルブーストの消費も有る。

 時期を早めたとはいえ、この十人の中にもおまえが目標として掲げていたレベル4到達がならず今日のポイント補充でどうにか追いついた奴も居る程じゃないか。

 おまえは俺達に機能を制限したアカウントを配布したんじゃないのか?」

 

この期に及んで初めてその数字に気づいた者も居たのだろう。10人しか居ないバーストリンカー達の間からざわめきが沸き立った。

ハヤトは内心で呆れた。将来を考えればすぐ気づく事だろうに。

 

「これを覆せるのはおまえの持っている無制限コピーインストール権しか在り得ないだろう」

 

そう、ここに居る者達は全て、アセニック・クローの《子》やその子孫に当たるのだ。

2047年の春、今から三ヶ月ほど前、アセニック・クローはこの静岡に現れるとブレイン・バーストプログラムを辺り構わずばら撒いた。

その総数は五十以上、あるいは百近くにもなるだろう。

 

だがこの六月末にアセニック・クローが再来した時、彼女が提示したレベル4に到達できていた者は僅か数人しか居なかった。

生き残りの総数でさえ、十人。

アセニック・クローはその足りなかった者も生き残った事を讃え、自らのポイントを与えてやってレベル4に押し上げ、この無制限中立フィールドへの一斉ダイブを行ったのだ。

 

 

しかしアセニック・クローは、セルリアン・フォールの質問を否定した。

「残念だけれどね。ボクの無制限コピーインストール権は一種のバグで残っているようなもので、新しく手に入れる手段は存在しないよ。奇跡の果実なのさ。

 もちろん代替の手段は存在するけれどね。

 言っただろう、この世界に居続ける手段を与えてあげるって。バーストポイントを奪わずに増やし続ける手段は存在する。

 生き残った者にはその手段を教えて、出来るようになるまで訓練もしてあげるよ。

 その前に協力してもらう事は有るけれど、勝者はこの世界に立ち続けられる事を保証しよう」

 

後にも質問は続いたが、セルリアン・フォールが気になったのはただこの一点だけだった。

この加速世界に生き続ける手段は、確かに存在するのだと。

 

       * * *

 

セルリアン・フォールは樹下を歩いていたデュエルアバターを目にして、愕然となった。

そのデュエルアバターも真っ直ぐに上を見えて、セルリアン・フォールと目を合わせていた。

 

「ネイビー……!」

「セルリアン……」

 

このバトルロワイアルで潰しあいたくなかった相手は二人居た。

一人は友人のカツことヴァーミリオン・ディスハーモナイザー。

そしてもう一人が彼女だった。ネイビー・トライデント。

いや、出会いたくないという意味ではヴァーミリオンよりこちらの方が遥かに上だった。

なにせ彼女は――

 

「まさか最初に出会うのがあなただとは思いませんでした。ですが」

「待て、俺はおまえとは」

「出会ってしまったからには仕方がありません

 

――勝負事に一切手を抜かない。

そういう性格なのだとよく知っていた。

例え敗北者がブレイン・バーストプログラムを失う重すぎる戦いであったとしても、相手が親しい者だったとしても、彼女は普段と何も変わらない調子で正面から全力を出し切るだろう。

それが勝負事に対する最上位の礼儀だと心の底から信じているのだ。理屈では同じ答えに至れてもポイント全損寸前で命乞いをしだした相手にキッチリトドメを刺すのを見た時は流石に引いた。

そのあんまりすぎる潔さが彼女の美点であり怖ろしい点でもある。

 

一閃。

鋭い斬撃が、直径にして五m以上もある大樹の幹を切り裂いていた。

その手にあるのは水で出来た三叉槍だ。常に泡だっているが半透明で若干視認しづらく、素材が水で出来ているため壊れても即座に再生する。槍であるため、若干リーチが長い。刺突も斬撃も打撃もこなせる。

以上。

多少見えにくくて壊れにくい武器を持っているだけだ。

それはつまり、ポテンシャルの大半が基本性能に振り分けられている事を意味していた。

青系のカラーの場合、それは近接戦闘力に他ならない。

ネイビーは色を255色に分類した時、赤や緑が全く混ざらない暗い青色に付けられる名なのだ。

その純粋な近接戦闘能力はある偏りを持っているセルリアン・フォールを上回っている。

 

「くそっ、いいだろうやってやる!」

ハヤトは観念して、傾き始めた大樹の枝から飛び降りた。尖った足先の延長線にはネイビー・トライデントが居る。重力がセルリアン・フォールの体をみるみる内に加速させる。

普通のアバターならこれは愚行だ。落下中はまともに動けないし、着地した瞬間は完全に無防備になってしまう。

だから着地狩りを狙おうとしてくる対戦相手も多かった。それで決着した事さえも。

 

(《落下制御(フォーリングコントロール)》!)

腹筋から胸筋に力を入れるような感覚で、アビリティの発動を制御する。

《落下制御》。これこそセルリアン・フォールが最初から持っていた最重要アビリティだ。

落下速度を半分から二倍の範囲で制御、更に落下方向も四五度までの範囲で操作する。落ちる事は変わらないが、落ち方が全く変わる。

セルリアン・フォールが最大の機動力を発揮するのは高所から落下するその瞬間なのだ。この落下をただの自由落下だと甘く見た者は須く痛撃をその身に叩きこまれてきた。

 

だが、ネイビー・トライデントはその特性を熟知していた。

その上で最もシンプルで度胸の居る選択をした。通常の二倍速で落下するセルリアン・フォールに向けて、正面から跳躍したのだ。

放たれたトライデントの一刺しとセルリアンブルーの鋭利な脚が交差した。

 

「おまえはっ、こんな時でもまた出鱈目をっ!」

「色々考えましたが、これが最善手だと自負しています」

 

セルリアン・フォールの蹴りは真っ向から突っ込んできたネイビーの顔面を抉っていた。ハヤトは端正だと感じる秀麗なネイビーのフェイスが無残にひび割れている。

手足への被弾と違い機能への障害こそないだろうが、ダメージは相当な物のはずだ。

この無制限中立フィールドでは普段の二倍痛いはずなのだ、想像するだけでゾッとする。

しかも顔面中央に直撃すれば一撃KOさえありえた。そうなればサドンデスカードにポイントを預けている今、即座にポイント全損、ブレイン・バーストプログラムを永遠に失ってしまっていた。

トライデントの矛先でセルリアン・フォールの足先を逸らすのに失敗すれば、それだけで。

 

それなのにネイビーは平然と立っている。

そんな事、これっぽっちも怖くないというかのように。

 

「つくづくおまえの正気が疑わしくなる」

「何度も言ったはずです。こんな世界、怖くなんてない」

 

姿勢を低くしたネイビーが地を這うように突進する。セルリアン・フォールは歯噛みしバックステップを繰り返しながら小刻みに牽制の蹴撃を打ち下ろす。

足先を矛が受け止め、逆に切り裂いてくる。それだけで痛みが走り心が萎えそうになる。

怯む心を必死に抑えこんで、迫るネイビーを薙ぎ払わんとばかりに回し蹴りを放った。

だか、空振る。這うような姿勢を更に倒し両手とトライデントを地面に掛けてギリギリでブレーキを掛けたのだ。セルリアン・フォールの足先がネイビー・トライデントの鼻先を通過する。

そして止めた勢いを溜めにして、地面から打ち上げる様にトライデントの突きが発射され。

 

「舐めるなっ」

 

セルリアン・フォールの足先がその突きの先端を受け止めた。

 

「俺もおまえの事は分かっているんだよ!」

 

それでも押し切ろうとした瞬間、ネイビーは失策に気づいた。

セルリアン・フォールはその勢いを利用して、軽やかに背後に跳躍したのだ。先ほどとは別の樹が生えている。その幹に脚が刺さり、続けざまに二歩三歩と駆け上がり。

更に跳躍した。

 

セルリアン・フォールが再び上を取った。

しかもネイビー・トライデントが突きを放ち全身を伸ばしきったその直後に。

 

「《シャンデリアフォール》ッ!!」」

 

セルリアン・フォールの手が、脚が、無数の刃となって下方に伸びる。下方向しか攻撃できない、その分だけ強力な刃の空がネイビーの視界を覆った。

 

       * * *

 

七丈隼土が加速世界に降り立ち戦い始めてしばらく経ち、ようやくレベル2になった頃の事だ。

ハヤトは自らのアバター、セルリアン・フォールの由来が何なのか今頃になって考えてみた。

原因はすぐに思い当たった。落下……というよりも低下。

成績が下がる事への恐れに間違いないだろう。

 

そこまで勉強に緊張感を持っていない者には分からないだろうが、努力してようやく優秀な成績を維持している程々の優等生であるハヤトにとって、これこそが最も現実味の有る恐怖だった。

以前ほんの少しだけ勉強をサボって成績が落ちた時、両親の視線の温度が明らかに冷たくなった。もちろん叱られもした。遊んでいるからこんな事になるのだと。

 

それは教育熱心な家庭では当然の範囲の大して厳しくもない叱責だったのだが、ハヤトにとっては両親が初めて見せた攻撃性だった。

ハヤトが普段叱られない手のかからない《良い子》だから、軽い叱責さえもが重く感じたのだ。

 

これまで無条件に自分を味方してくれていると思っていた存在が、単に自分が現状を維持し続けているから手の平を返さないでいてくれているにすぎない。

 

そう思った瞬間、ハヤトはまだ幼い人生最大の恐怖に襲われた。

だからもう絶対に《下がりたくない》と思うようになったのだ。

 

その感情をブレイン・バーストプログラムが濾し取り、デュエルアバターに作り変え。

 

加速世界においては、落下に特化したデュエルアバターとして表現されたというわけだ。

滑稽に思えるかもしれないが、合格発表を待つ受験生の前では落ちるだの滑るだのが禁句になるのと似たようなものだろう。

 

この話をカツにしたら、カツからは

「ははっ、結構深刻じゃねーか。俺なんざ音痴な事ぐらいしか心当たり無いんだぞ」

と笑われた。

深刻だと言っておきながら笑うとは非道い奴だと思う。

 

 

 

(だけど……やっぱり小さいよな、俺は)

当人にとっては深刻な悩みでも、やはり成績の低下が怖いなんて矮小な悩みに思える。今日みたいな晴れ渡った天気の日は特にそうだ。

蒼穹の空。

セルリアンは元々ラテン語で空の色を表すらしい。良い色を引けたと密かに気に入っていた。

だが自分はその美しさに見合えているだろうか?

客観的に見れば他愛の無い、惨めな存在に映っていないだろうか?

青い空を観る度にそんな想いが幾度となく湧き出してくるのだ。

 

(……いや、学生なんてこんな物だろう。俺達はまだ未熟な存在なんだから)

そう小賢しい理屈で無理矢理に納得させた。中学生の特権だ。

自らの小ささを思い知り、理屈を捏ねて辻褄を合わせる。幾度と無く繰り返した自問自答。

その日もただそれだけの、一分足らずの物思いに過ぎなかった。

 

その時、塩素の混じった水の匂いを感じた。

 

どうやら考え事をしている内に普段来ない屋内プールの近くまで来ていたらしい。開いている窓の向こうに、熱心に泳いでいる水泳部員達の姿があった。

まだ新学期早々、四月も半ばだ。水泳部は肌寒い季節から泳ぎ始めるというが、流石にこの時期から練習を始められるのは屋内プール有ってこそと言えるだろう。

それも五年程前に新しく建造された、50mの長水路プールだ。どうやら学校は今、水泳関連に力を入れているらしい。ハヤトは進学一筋で、自分の学校にどんな部活が有るのかもよく知らないが、平凡な功績のバスケ部と違って水泳部には強い選手が居ると話題になっていた気がする。

 

(あの子かな)

一人の少女が飛び込み台に上がった。

いつの間にか他の部員達がプールサイドに上がり、固唾を呑んで見守っている。タイムを測るのだろうが幾らなんでも仰々しすぎる。

水泳部でも特別な存在。噂のエースに違いない。

ハヤトは足を止めて少し見物してみることにした。

といっても水泳の事など分からない、見た所で良し悪しが分かるとは思えないが……。

 

ピッという準備ホイッスルに合わせて、少女が飛び込みの体勢を取った。

その瞬間から、何か違う物を感じた。

 

(なんだ!?)

空気が、違う。

他の水泳部員達と違い、完全に洗練されたプロの所作を感じたのだ。それが気のせいでなかったのは次のホイッスルの飛び込みで確信できた。

かつてテレビ中継で見た、トップクラスの選手達の飛び込みだったのだ。

比較対象となる他の中学生水泳部員のレベルは知らなかったが、ただ飛び込んだだけで見守る部員達から歓声が上がっている事からも明らかだろう。

そして少女はすぐに浮き上がって……

 

こない。

 

「……え?」

 

今、飛び込んだはずだ。だが浮かんでこない。

どういう事だろう。部員達もなにやらざわついているように思える。

まさか溺れた? いやそんなはずは。

 

ザバッと、視界の外から音が聞こえた。

慌ててそっちを見るとプールの半分以上を過ぎた地点に少女が浮上していた。そのまま水面を跳ねるように軽やかなバタフライで泳ぎ始める。

「コラァッ! 洲崎ぃ! 幾ら練習だからって規定以上潜るなっ!」

水泳部のコーチと思しき教師が叱責の声を上げる。やがて少女はコースの端まで到達すると鮮やかにターンして。

次も、プールの中程の位置で浮上した。

 

プールサイドに上がった少女が謝りながら試してみたかっただとか、コーチが危ないからやめろだとか喧しく声が響いていたが、もうハヤトの耳には入らなかった。

 

今、あの少女は50mプールの半分以上を潜水したまま泳いだのだ。

 

 

 

 

後で調べてみたところ、そういう潜水泳法を得意とする選手は居るらしい。

しかしかつてそれを得意とする選手が30mもの潜水泳法を駆使して世界大会で成績を残した直後、以前からその泳法の危険性が問題視されていた事もあり、距離に制限が掛けられた。

現在公式大会では、制限が緩い種目でも飛び込みやターン毎に15mまでとなっている。

 

しかし体力の消費が激しい事から、この距離を使いきれる選手も多くないのだという。況して最初の飛び込みの時だけならまだしも、ターンの度に15m潜水泳法など体が持たない。

 

 

そして洲崎水花(すざきみずか)と言う水泳少女が、かつて潜水泳法で記録を残した選手の再来と呼ばれている事も知った。

急激にタイムを伸ばし続けている為、まだ注目が追いついていないが、既に全国レベルだとも。

あるいはそれ以上だとも。

 

矮小でもちっぽけでもない、未熟でない存在はすぐ近くに居たのだ。

それを知った時、ハヤトの心は急激に彼女へと惹きつけられた。

 

 

       * * *

 

 

「どうして、ですか」

 

ネイビー・トライデントは。

洲崎水花は、七丈隼土に問いかけていた。

 

「どうして、攻撃を逸らしたのですか」

 

まるで刃がびっしり生えた吊り天井が落ちる様な必殺の落下攻撃。

回避も防御も出来ない。完全な詰み。ネイビー・トライデントの敗北は確定していた。

だがその攻撃が当たる事はなかった。

セルリアン・フォールは直前で《落下制御》アビリティを駆使してその攻撃を逸らしてしまった。その次の瞬間、完全に詰んでいた筈の刃の天井の下でそれでも抗おうと振り上げられた三叉槍が、セルリアン・フォールの胴体をものの見事に貫いたのだ。

苦痛から出そうになる呻きを押し殺して、吐き出すように。

 

「おまえが、潔すぎるんだよ」

 

どうしようもなく呆れた声が出た。

それから、少し迷ってから、付け加えてみた。

 

「仮初じゃなく本物の関係になりたいと言ったらおまえは受け入れてくれていたか?」

「えっ」

 

思いもしなかったという、素直な驚き。

それだけで、ハヤトは諦めがついた。その程度の関係にしかなれなかったのだ。

 

「悪いな。急に変な事を言った。おまえに全力をぶつけきる事も出来なかった。すまない」

 

これはハヤトの勝手な感情だ。

相手からすれば困惑する話だろう。ハヤトはどうすれば異性に好意が伝わるか思いつかなかった。

だからハヤトから彼女に与える事ができたのは、たった一つしかなくて。

 

「……ブレイン・バーストプログラムの、《親》になってくれた事は感謝しています」

 

それだけが二人を結んだ物だった。

 

「ですがあなたは、私をメダルとして飾りたいだけだと思っていました」

「………………」

 

そしてきっと、それ以上の物になれなかったのだ。

 

「私に付き合って欲しいと言った時も、ただ私の成果を共有したいだけなのだろう、と。あなたが興味を持っていたのは私の成果だったように思えましたから」

 

違う、と言いたかった。だけど何が違うというのだろう。

ハヤトが彼女に抱いた憧れは、彼女の偉大さに対する物に違いなかったのだから。

 

告白だってしていた。断られかけたのを仮初でもいいからと押し切って付き合いもした。

《親》と《子》の絆までも有った。

その上で、ここまでの関係にしかなれなかったのだ。

 

 

つくづく、泣けてくる。

 

 

「私はあなたの恋人にはなれません」

「……そう、か」

 

意識が遠のく。セルリアンブルーの輝きが視界を埋め尽くす。

蒼穹の色。

空の色。

それがとても優しい物に感じられた。

こんな無様な敗北と失恋の記憶、早く振り切ってしまいたかった。

アセニック・クローは言っていた。何度か顔見知りが全損して知っていた。

ブレイン・バーストプログラムを失えば、この痛みは。

 

「……私は……想いを返せません……だから、あなたのメダルになら……」

 

 

そしてセルリアン・フォールの意識は、消滅した。

 

 

       * * *

 

 

七丈隼土は、長い夢を見ていたような気分だった。

何故か分からないが少し泣いていたらしい。恥ずかしい。

ハンカチで顔を拭いてから、ダイブブースを出た。何の用でここを使っていたのだったか。

 

「……ああ、それよりももうこんな時間じゃないか」

塾に行く時間だ。移動時間を差し引くと十分しか時間が残っていない。

一瞬、十分も、と浮かんだ思考を叱咤する。そんなにゆとりの有る時間ではない。

 

七丈隼土は早足でアミューズメントセンターを後にした。

 

 




・ワンポイント
>「不満も不満、これではどう考えても俺達のポイントは絶えてしまうじゃないか」
どうやったってバーストリンカーはポイント切れで絶滅してるでしょ、という謎について。

まず前提として、これは回数制限のコピーインストール権もレベル2が必要という設定の上に成り立っています。
実はレベル1で子を作れる事にする、と解釈すればこの問題は一応解決するのです。
原作七巻によれば少なくとも最初の一年は無制限コピーインストール権が存在し、それを行使できるのがレベル2からだと語られていましたが、一回限定のコピーインストール権についてのレベル制限が語られた事はありません。
レベル1でコピーインストール権が存在するなら、最初のポイントを失う前に一人でも増やせば、全体としては若干ながらポイントが増えていく事になります。

ですがこの場合、《親》になる前にレベル2に上がる暇などありません。レベル1の何一つ《子》に教える事を知らないド新人がぽこぽこ子を作っては全損を繰り返しているのは、原作のイメージから大きく乖離してしまいます。
その為、本作では《一回制限コピーインストール権もレベル2になってから》と設定しました。

その上で話を続けさせて頂きます。
何故、バーストリンカー達は絶滅していないのでしょうか?


原作では《緑の王》グリーン・グランデの人知れぬ敢闘が語られました。
無制限中立フィールドにダイブするレベル4以上のバーストリンカーは皆、緑の王に救われていたのです。

ですがそれだけでは無制限中立フィールドにダイブできない低レベルリンカーが助かりません。
レベル1~2のバーストリンカーには別の救世主が存在していました。
ネガ・ネビュラスの四元素が一人、《ザ・ワン》ことアクア・カレントです。
全損の危機に陥った者を、無制限中立フィールドでポイントの安定を得たレベル4さえも打ち倒す
タッグマッチ戦により護り、そのポイントを回復していたわけです。
これによりレベル4以上のポイントも、少なからずレベル3以下に配分されていた事になります。

更にレギオンに所属するメリットが語られた時、ポイントの安定についても触れられていました。
これはつまり大レギオンにはポイントを融通して危機に陥った者を回復させる福祉システムが有るのでしょう。かつてサフラン・ブロッサムが提唱した互助システムを思い起こさせます。
また、レギオンではなく親と子の関係にもその縮図を期待できます。4レベル以上になって無制限中立フィールドでポイントを稼げる親であれば、子にポイントを融通する余裕も生まれます。


ブレイン・バーストのゲームシステムは存在し続けるだけで困難なバランスで設計されています。
何せポイントを移動する対戦にも加速が必要な上に、勝ったり負けたりでは消耗していくばかり。その上に無制限中立フィールドに行けばポイントを稼げると思いきやエネミー狩りはかなり辛く、ポイントを消費するショップまで存在するのですから容赦がありません。
もしかすると無制限コピーインストール権が回数制限コピーインストール権に変わった時、製作者は半ば以上、現在の加速世界を見捨ててしまったのかもしれません。

それでもブレイン・バーストが維持されているのは、そのプレイヤー達の努力に拠るものです。



それは原作では憎き敵役である者達でさえ例外ではありません。



ホワイト・コスモスは融和と闘争のバランスを語り、加速世界の存続を願っている様に思えます。
ISSキットを拡散させていたマゼンダ・シザーも弱い者が生きる権利の為に戦っていました。

加速世界はその存続を願う者達の努力により辛うじて護られている世界だと言えるでしょう。


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